三銃士2
アレクサンドル・デュマ作/江口清訳
目 次
二十二 舞踏メルレーゾン
二十三 逢いびき
二十四 離れ家
二十五 ポルトス
二十六 アラミスの論文
二十七 アトスの妻
二十八 帰還
二十九 出陣の身支度
三十 ミラディー
三十一 イギリス人とフランス人
三十二 代訴人宅の昼食
三十三 侍女と女主人
三十四 アラミスとポルトスの身支度
三十五 あやめもわからぬ夜の闇
三十六 復讐の夢
三十七 ミラディーの秘密
三十八 いかにしてアトスが居ながらにして身支度をととのえたか
三十九 幻影
四十 枢機卿
四十一 ラ・ロシェルの攻囲戦
四十二 アンジュー産のぶどう酒
四十三 コロンビエ=ルージュ旅館
四十四 暖炉の煙突の効用
四十五 夫婦が演じる活劇
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主要登場人物
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ダルタニャン……この小説の主人公。ガスコーニュの貴族。三銃士とかたい友情を結ぶ。
アトス……三銃士中の最年長者。剛勇で思慮ぶかく、賭事《かけごと》が好きだが、女性には近づかない。
ポルトス……三銃士の中で一番の大男。腕っぷしは強く、また虚栄心も強く、女にもてる。
アラミス……三銃士中の、最年少者、聖職者を志望しているが、ひそかに高貴な夫人と恋におちいっている。
トレヴィール殿……ルイ十三世の忠臣で、銃士隊長。
プランシェ……ダルタニャンの従者。
グリモー……アトスの従者。
ムクストン……ポルトスの従者。
バザン……アラミスの従者。
ルイ十三世……小心で神経質な平凡な国王。
王妃アンヌ・ドートリッシュ……美しい気位の高い王妃。リシュリュー枢機卿にふかくうらまれている。
バッキンガム公爵……イギリス国王チャールズ一世の宰相。なかなかのやり手で、王妃アンヌの恋人。
リシュリュー枢機卿……フランス国王の主席顧問官、事実上の宰相で当時の最高権力者。
ロシュフォール伯爵……枢機卿の腹心。マンの町でダルタニャンとはじめて出会う。
ミラディー……イギリス生まれの絶世の美女。枢機卿のために尽くす影の女。
ボナシュー……ダルタニャンの家主で小間物屋。枢機卿にまるめられてその手先となる。
ボナシュー夫人……王妃の忠実な侍女。ダルタニャンの初恋の女性。
ウァルド伯爵……枢機卿の腹心で、カレーでダルタニャンに刺されたが、奇跡的に一命をとりとめる。
ウィンター卿……イギリスの伯爵でミラディーの義弟。バッキンガム公の友人で、決闘後ダルタニャンと親しくなる。
フェルトン……清教徒の狂信者。ミラディーにそそのかされてバッキンガム公爵を刺殺する。
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二十二 舞踏メルレーゾン
翌日はパリ中どこへ行っても、市庁が両陛下のために催す舞踏会のことでもちきりだった。しかもその集まりでは、国王陛下が特に好まれる舞踏メルレーゾンを両陛下がお踊りになるというので、なおのこと湧《わ》き返るような評判だった。
じじつ一週間前から、この壮麗な夜会のために市庁では諸事万端準備が進められていた。市の建設課では招待される貴婦人方のために桟敷《さじき》を作り、用度課は広間に白いろうそくの燭台を二百個備えつけた。これは当時として、前代未聞のぜいたくであった。ヴァイオリンの演奏者は二十人集められ、その報酬は平常の二倍払われることになった。夜どおし演奏することになっていたからだった。
午前十時に、近衛《このえ》旗手のラ・コスト殿が二人の衛士と数人の射手とを従えて、市庁のクレマン書記のところへ来て、市庁舎の各門、各部屋、各机の鍵《かぎ》という鍵をすべて受けとった。鍵にはそれぞれ使用個所をしるした札《ふだ》がついていて、それを受けとったときからラ・コスト殿が市庁の各門及びすべての通路の警備に当たるわけである。
十一時には、こんどは近衛隊長のデュアリエ殿が、五十人の射手をひきいてやってきて、すぐに市庁舎の中の指定された戸口を固めた。
三時には、二隊の親衛隊が到着した。フランス部隊とスイス部隊とである。フランス人の部隊は、デュアリエ殿の隊員と、エサール殿の隊員半々で構成されていた。
夕刻六時には、そろそろ招待客がはいりはじめた。それらの人々は大広間の準備された桟敷《さじき》に案内された。
九時にはパリ市会議長の夫人が到着した。この宴席では王妃についで重要な人物ゆえに、市庁の高官たちの出迎えを受け、王妃の席の正面の桟敷に通された。
十時になると、サン=ジャン寺院側の小部屋で、国王にさしあげる軽食として果物の砂糖煮の調理が、銀製の食器棚の前で、四人の射手の警護のもとに行なわれた。
午前零時に、さかんな拍手と歓声が聞こえた。王はいよいよルーヴル宮をお出ましになって、色とりどりの提灯《ちょうちん》でまばゆいばかりの道を市庁舎へと向かわれたのである。
ただちに式服を着た市の高官たちは、燭台を手にした六人の役人を先導として、正面玄関の階段のところまで王の出迎えに現われた。市長がうやうやしく歓迎の辞を述べると、王は遅刻したことをわび、政務のことで十一時まで枢機卿にひきとめられていたせいだと言いわけを述べた。
正装の王の後には、王弟殿下、ソワッソン伯爵、大修道院長、ロングヴィル公爵、デルブーフ公爵、ダルクール伯爵、ラ・ロシュギュイヨン伯爵、リアンクール殿、バラダス殿、グラマイユ伯爵、スーヴレイ騎士が従っていた。
だれの眼にも、国王の顔色がすぐれず、何か考えあぐねているらしいのが察せられた。
王のためと王弟殿下のためには、それぞれ小部屋が当てられてあって、そこには仮装の衣裳が支度されてあった。王妃と市会議長夫人のためにも、同じような準備がしてあった。お供の貴族や貴夫人たちは、二人一室宛で、そこで着替えをすることになっていた。部屋にはいる前に国王は、枢機卿が見えたらすぐに知らせるようにと命じた。 それから三十分ほどすると、また歓呼の声が響きわたった。王妃の到着である。市庁の高官たちは、先刻の国王のときと同じようにして出迎えに立った。
王妃は広間にしずしずとはいって行った。やはりその顔には、先刻王の顔に漂ったと同じような憂《うれ》わしげな、疲れた様子が見えた。
王妃がはいってきたちょうどそのときに、今までしまっていた小さな壇のところのカーテンが開いて、スペイン騎士の装いをした枢機卿の青白い顔が現われた。その目はじっと王妃の上にそそがれていたが、その唇にまもなく恐ろしい微笑が浮かんだ。王妃はダイヤモンドの飾りをつけていなかったからである。
王妃はしばらくそのままで、市の高官たちの挨拶を受け、貴夫人たちの会釈《えしゃく》にこたえていた。
とつぜん国王が枢機卿とともに、広間の入口のひとつに姿を現わした。枢機卿は低声で何事かを王にささやいていた。国王の顔は蒼白になっていた。
王は人波をかきわけると、仮面《かめん》もつけず、胴着のひももしどけなく解けかかった姿のままで、王妃のかたわらにつかつかと近寄り、いつもとはちがった声で、
「あなたはどうして、あのダイヤの飾りを着けていないのですか? わたしがあれほど見たいといっていたのに」
王妃はあたりを見まわすと、王のうしろに、悪魔のような微笑を浮かべている枢機卿の姿が目にとまった。
「このような人ごみの中で紛失《ふんしつ》してはとぞんじましたので」といった王妃の声も震えていた。
「それはいけない。あれはあなたに身につけてもらいたいと思ってあげたのだから。ともかくも、それはいけませんよ」
王の声は怒りに震えていたので、人びとは耳を澄ませて、ことのしだいはわからぬながらも、ただ驚きの眼で眺めていた。
「それでは、これからルーヴル宮へ取りにやらせましょう。そうすれば陛下のお気もすむことでしょうから」と、王妃はいった。
「そうなさい。できるだけ早くな。もう一時間もすると、舞踏会ははじまるよ」
王妃は承知したというしるしに会釈をして、貴婦人を従え、当てがわれた控えの間にはいって行った。
国王も自分の居間へもどった。
一瞬、広間には動揺が起こり、人垣がざわめいた。
王と王妃とのあいだに何事かが起こったと、人びとは気づいた。しかし低声で話されたし、遠慮してみんなそばから離れていたので、だれ一人として話の内容を聞き知った者はいなかった。
国王が真っ先に、控えの間から出てきた。いかにも優雅な狩猟の服装である。王弟もその他の貴族たちも同じ扮装《ふんそう》である。国王はこの服装が一番よく似合った。このようないでたちだと、国王はまさに王国第一の貴公子に見えた。
枢機卿が王のそばに行って、小箱を一つ手渡した。あけてみたら、ダイヤの粒が二個はいっていた。
「これは何かな?」と、王が枢機卿にたずねた。
「なんでもございません」と、枢機卿は答えた。「ただ王妃さまが飾りひもをおつけになったら、わたくしはおつけになるまいとぞんじますが、どうかダイヤの数をおかぞえになりますように。そしてもし十個しかございませんでしたら、そこにあるはずの二個を盗んだ者はだれかと、おたずねくださいますように」
国王は枢機卿の顔を見て何事かをたずねようとしたが、言葉をかけるひまがなかった。称賛の叫びが、なみいる人たちの唇からもれたからである。もし王がこの国きっての貴公子だとすれば、王妃はまさしくフランス随一の美女として、人々の注目をひいたからだった。まったく王妃の狩猟姿は、じつに見事に似合っていた。青い羽のついたフェルト帽、ダイヤの留め金をつけた濃い真珠色のビロードの外套《がいとう》、銀糸の刺繍《ししゅう》をした青いサテンのスカート。左肩には、羽やスカートと同じ色の結びひもでとめられたダイヤモンドの飾りが、きらきらと輝いていた。
国王はうれしさのあまりに身を震わせ、枢機卿は怒りでわなないていた。だが二人とも王妃から離れていたので、宝石の数をかぞえることはできなかった。とにかく王妃はそれを身につけていた。ただそれが十個であるか、十二個であるか?
そのときヴァイオリンが、舞踏の開始をしらせる合図として演奏しはじめた。王は舞踏の相手の議長夫人のほうに歩み寄り、王弟殿下は王妃のほうに進まれた。一同もみな位置につき、いよいよ舞踏がはじまった。
王の踊っているのは、ちょうど王妃のまんまえなので、王妃のそばを通る度ごとに、その眼はたえず飾りひもにそそがれたが、宝石の数はわからなかった。枢機卿の額に、冷や汗がにじみ出ていた。
舞踏は一時間つづいた。十六回の場面があった。
満場の拍手のうちに舞踏は終わった。男たちはめいめい相手の婦人をその席まで連れて行った。国王はそういうことをしないでもすむ身分であるのをいいことに、相手をその場に残して、つかつかと王妃のそばに歩み寄った。
「わたしの希望をかなえてくれてありがとう。だが、あなたの飾りひもには石が二つ足りないと思うが、ここに持ってきてあげたよ」
そういって、さっき枢機卿から渡された二個のダイヤを王妃の前にさしだした。
「なんでございましょう、陛下」と、驚きをよそおって王妃はいった。「まだこのうえに二つくださいますの。それではみんなで、十四になってしまいますわ」
じじつ国王が数えてみると、十二個のダイヤが、王妃の肩に輝いていた。
王は枢機卿を呼び寄せた。
「いったいこれは、どういわけかね、枢機卿」と、きびしい口調で問いかけた。
「じつは陛下」と、枢機卿は答えた。「王妃さまにこの二個の宝石をさしあげたいとぞんじたのでございますが、わたしの手からさしあげるのは失礼だとぞんじましたので、こんな方法をとったのでございます」
「それでは、枢機卿さまにはよほどお礼を申しあげねばなりませんわね」と、アンヌ・ドートリッシュは微笑をもって答えたが、その微笑には、そんな手のこんだお世辞にはごまかされないぞという気持ちがありありと見えていた。「この二個の石を手にお入れになるには、陛下がくださった十二個の宝石と同じくらいの高価なものだったでしょうからね」
そういって王と枢機卿に会釈をすると、さっさと着替えの居間に立ち去ってしまった。
さて、この章のはじめから、この場面に現われる高貴の人びとの話ばかりになってしまったので、ここにアンヌ・ドートリッシュが枢機卿からかち得た、まれにみる勝利をもたらした男のことをちょっと忘れていたようだった。
ところでその当人は、戸口のところで押し合っている人波にそっとまぎれて、そこからただ四人の人物、すなわち国王と王妃と枢機卿と、それから当の本人だけが理解できるこの場の光景を、じっと見守っていたのである。
王妃が部屋にはいってしまわれたので、ダルタニャンもそこを去ろうとしていると、だれかがそっと肩に手を触れるのを感じた。振り向くと、若い女がついて来るようにと合図をしている。その若い女は黒ビロードの狼《おおかみ》の仮面で顔を隠していたが、そのような用心は彼に対するよりも他の人たちに対する用心といってよく、彼にはそれがいつもの案内人、敏捷《びんしょう》で気転のきくボナシュー夫人にほかならないと、すぐにわかった。
前日ダルタニャンは、例の門衛のジェルマンのところで、彼女を呼びだして会ってはいたが、それはほんのわずかの間だった。若い女は使者が無事に使命を果たして帰ってきたという吉報を王妃にもたらすのに急いだあまり、恋人同志がかわした言葉は、ごくわずかだった。それゆえダルタニャンはボナシュー夫人のあとから、恋しさと好奇心の二重の気持ちでわくわくしながらついていった。
途中の廊下で人通りが絶えると、彼は女を抱き寄せて、せめてひと目でもその顔を眺めたいと思うのだが、その度に彼女は小鳥のように身をひるがえして、青年の手からすり抜けてしまうのだった。言葉をかけようとすれば、すぐに指先を口元へ持っていって、じつにかわいらしい身ぶりで制するので、ただもう盲目的に従わざるを得ない、どんなわずかな不平も許されないと、ある大きな力によって自分が左右されていることを彼は改めて知らされるばかりだった。
一分か二分、曲がりくねった廊下を通ったのち、ボナシュー夫人は一つの扉をあけて、青年を真っ暗な小部屋に入れた。そこで彼女は改めてだまっているようにと合図をすると、壁布で隠された第二の扉をあけて、そこからとつぜんさっと明るい光がさした中へ、自分は姿を隠した。
ダルタニャンは一瞬そこにじっとしたままで残されて、いったいここはどこなのかと思った。だがすぐに、向こうの部屋からもれてくる光や、自分のところまで漂ってくる暖かくてかぐわしい香気や、二、三人の女が丁重で上品な言葉づかいで高貴な人にしか使わない尊称を交えながら話しているようすで、自分のいるのが王妃の部屋の次の間だということがわかった。
青年は暗がりの中で、じいっと待っていた。
王妃がいかにもうれしそうに陽気なので、いつもほとんど憂《うれ》わしげな顔しか見ていなかったお側の人たちは、ひどくそれがふしぎでならなかった。王妃はそのようなうれしい気持ちを、夜会が美しく、舞踏が楽しかったせいにした。彼女が笑おうが泣こうが、お側の者はそれに逆らうことができないのだから、みんなは口ぐちに、パリ市庁の高官たちの歓待ぶりを賞《ほ》めそやした。ダルタニャンはまだ王妃に拝謁《はいえつ》の栄に浴していなかったが、王妃の声には軽い外国なまりがあるし、自然にそなわっている威厳とで、ほかの声とは区別ができた。彼はその声が、この開かれている扉のところへ近づいたり遠のいたりするのを聞いた。二、三度は、そのからだの影が光をさえぎるのさえも見た。
とつぜん、白くて美しい腕《かいな》が、扉の垂れ幕のあいだから差し出された。
ダルタニャンはこれが王妃の褒美《ほうび》だとすぐにわかったので、その場にひざまずいてその手を取り、うやうやしく唇をつけた。するとその手は、彼の手の中に何かを残して引っこめられた。指輪であることがわかった。すぐに扉がしまり、彼はまた元の闇の中に残された。ダルタニャンはその指輪をはめて、なお待っていた。これですべて終わったのではないことは明らかだった。忠誠の褒美のあとには、恋の褒美が来るはずだった。それに、舞踏はすんだけれども、夜会はまだはじまったばかりだ。三時には夜食も出る。サン=ジャン寺院の大時計は、もう少し前に二時四十五分を告げたところだった。
はたして隣室の話し声はだんだんと小さくなり、やがて遠ざかってゆく気配が感じられた。するとダルタニャンがいる小部屋の垂れ幕が開かれて、ボナシュー夫人が飛びこんできた。
「やっと、あなただ!」とダルタニャンは叫び声をあげた。
「しっ!」と、若い女は青年の唇に手を当てた。「だまって! もとの道からお帰りになって」
「こんどはどこで、いつお会いできるのでしょう?」と、彼はたずねた。
「お帰りになれば手紙がまいっていますから。さあ、早くお出になって!」
こういうと彼女は廊下へ通じる扉をあけて、ダルタニャンを押し出した。ダルタニャンは子どものようにおとなしく、逆らいもしなければ苦情も言わなかった。それは本気で恋をしている、なによりの証拠だった。
二十三 逢いびき
ダルタニャンは、走りつづけて家に戻った。もう三時をすぎていたし、パリでもっとも物騒な界隈《かいわい》を通ってきたのだが、あぶないめには会わずにすんだ。酔っぱらいと恋をしている人間には守り神がついているというが、どうもほんとうらしい。
小道に面している戸が半開きにしてあったので、彼はそこから階段をあがって、従者と打ち合わせてあるやり方で、そっとドアをたたいた。市庁舎から二時間前に帰らしておいたプランシェが、しばらくお待ちをといって、ドアをあけてくれた。
「誰かが、わたしに手紙を持って来なかったかね?」と、ダルタニャンは急《せ》きこんでたずねた。
「だれも持っては来ませんでしたが、一人でにやってきた手紙が一通ありまして」
「なにをいってるんだ、このばかめ!」
「じつはわたしが帰ってまいりますと、鍵はちゃんとポケットにはいっておりますし、けっしてこの鍵を手放したことはないっていうのに、寝室のテーブルの緑色のテーブル掛けの上に、一通の手紙が乗っていたんです」
「で、その手紙は?」
「そのまま置いてあります。手紙が、こんなふうにはいって来るのはふつうじゃありませんな。窓でも開いているならまだしもですが、風のはいって来る透き間もなかったし、半開きでもなかったのです。お気をつけになってくださいよ、きっと魔法かなにかが、かかっているにちがいありませんから」
そのあいだに青年は部屋に飛びこんで、その手紙を開いた。それはボナシュー夫人からの手紙で、このようにしたためてあった。
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申しあげたいお礼がたくさんありますの。今夜十時、サン=クルーのデストレ邸の角にある離れ家の前に来てくださいまし。 C・B
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この手紙を読みながらダルタニャンは、恋する者の心を苦しめたり愛撫するあのおだやかな痙攣《けいれん》で、自分の心がひろがったり締めつけられたりするのを感じていた。これは、彼が受けとった最初の恋文であり、彼に与えられた最初の逢いびきであった。彼の心は酔いしれるような歓喜にふくれあがり、人が恋と呼ぶこの地上の楽園の敷居で、いまにも気が遠くなるような気持ちを味わっていた。
「どうです」と、プランシェは主人が青くなったり赤くなったりするのを見ていった。「わたしの見抜いたとおり、なにか悪いことなんでしょう?」
「おまえさんのまちがいだ、プランシェ。その証拠に、ここに銀貨があるから、おれの健康のために一杯やってきてもらおう」
「銀貨はありがたくちょうだいして、おさしずどおりにいたしますが、しまっている家に手紙が舞いこんで来るのは、どうも尋常じゃありませんな」
「空から降ってきたんだよ、はっはっ、空から降ってきたのさ」
「じゃあ、だんなさまはご満足なので?」と、プランシェはたずねた。
「そうだよ、プランシェ、おれはこの世で一番幸福な男さ!」
「では、だんなさまのご幸福なのをさいわいに、寝かせていただきましょうか?」
「ああ、いいとも」
「天のお恵みが、どうかだんなさまの上に降ってまいりますように。ですけれども、この手紙はやはり変ですな……」
こう言いながらプランシェは、ダルタニャンが気前よく振るまったぐらいのことでは疑いは晴れないといったふうに、頭をふりふり出て行った。
一人になるとダルタニャンは、繰り返して手紙を読み直した。そして美しい恋人の手によって書かれた数行に、なんどもなんども接吻した。
彼は朝七時に起きて、プランシェを呼んだ。二度目の声ではいってきたプランシェの顔には、まだ昨夜の不安の痕《あと》が消えていなかった。
「プランシェ」と、ダルタニャンは従者にいった。「たぶんおれは、昼間はずっと外出しているだろうよ。だから、晩の七時まで、おまえは自由だ。だが七時までには、馬を二頭、いつでも出られるように用意しといてくれ」
「おやおや! じゃ、またからだじゅうに生傷《なまきず》ができますな」
「鉄砲と短銃とを用意しておけ」
「ほら! 言わないこっちゃない! てっきりそうだと思いましたよ。あのいまいましい手紙が!」
「そうじゃないさ、ばかめ。ただ遊びに行くだけだ」
「なるほど! いつかの旅行と同じわけですな。あのときは弾丸《たま》の雨が降って、あちこちに待ち伏せがありましたっけ」
「プランシェ、おまえさんがそんなにこわがるなら、おれ一人で行くよ。そんなにびくびくしている者を連れて行くよりゃ、一人で行くほうがよっぽどましだ」
「ひどいことをおっしゃいますね。わっしの働きぶりは、じゅうぶんごらんになったと思いますが」
「うん、見たよ。だがおまえは、あのとき一回かぎりで、おまえのもっている勇気を根こそぎ使い果たしてしまったんだろう」
「なあに、機会がありさえすれば、まだまだ勇気が残っているってことを、お見せしますよ。ただ、だんなさまにお願いしたいのは、いつまでもわっしの手許にそいつを残しておきたいというんでしたら、あんまりむだ使いなさらんようにしていただきたいんで」
「今夜いくらか使うぐらいはあるだろうな?」
「たいてい大丈夫でしょう」
「よし、それじゃ当てにするぞ」
「おっしゃった時間までに用意しときます。ただ、詰所の馬小屋には、だんなさまの馬は一頭しかいないと思いますが」
「今はたぶん一頭しかないだろうが、今夜、それが四頭になるんだ」
「このあいだの旅行は馬の買い入れのようですな?」
「まさに、そのとおり」と、ダルタニャンは答えた。そして彼は、頼むぞと身ぶりで示して、外へ出た。
すると戸口に、ボナシュー氏が立っていた。
ダルタニャンは小間物屋に話しかける気はなく、そのまま行ってしまうつもりだったが、あまりこの男が愛想のいい丁寧な挨拶をするので、借家人として挨拶を返さないわけにはいかず、言葉さえかわさなければならなくなった。
それに今晩、サン=クルーのデストレ邸の離れ家で逢いびきの約束をしてくれた女の亭主であってみれば、どうして多少の寛容の徳を示さない法があろうか! ダルタニャンはできるだけ愛想のよい顔をして、近づいた。
話は当然のことながら、この気のどくな男の投獄のことに落ちていった。自分とマンの男との会話をダルタニャンが聞いていたとは露《つゆ》知らぬボナシュー氏は、あの人非人《ひとでなし》のラフマから受けた拷問《ごうもん》のことを語り、この男を枢機卿の手先だとののしり、バスティーユ牢獄の閂《かんぬき》のことや覗《のぞ》き窓のこと、さらに換気窓、鉄格子、責め道具のことなどを長々と説明した。
ダルタニャンは感心するほど親切に聞いてやっていたが、やがて話が終わると、
「ところで、奥さんはだれに誘拐《ゆうかい》されたのかごぞんじですか?」と、たずねた。「あなたとお近づきになれたのも、あのいまいましい事件がきっかけだったということが忘れられませんのでね」
「ああ、あのことは! あの連中はどうしてもいってくれないのです。家内は家内で、どうしてもわからないと言い張りますし。ところであなたさまのほうも」と、ボナシュー氏はいかにも人のよさそうな口調でつづけた。「この数日間どうかなさいましたかな? あなたさまも、お友だちのみなさんもお見かけしませんでしたが。それに、昨日プランシェさんが掃除をしていたあなたさまの長靴の埃《ほこり》を見ますと、どうもパリの町の埃のようではなかったようで」
「おっしゃるとおりです、ボナシューさん。わたしも友だちも、ちょっと旅行をしていましてな」
「遠くにですかな?」
「いや、なに、ここから百六十キロばかりのところへでしてね。アトスをフォルジュの鉱泉へ連れて行きましたもんで、みんなはまだ向こうにいます」
「それで、あなただけお帰りになったというわけですな?」と、ボナシュー氏はいかにもずるそうな表情を浮かべて聞き返した。
「あなたのような美男子は、恋人のほうでそういつまでも手放しておきませんものな。パリではさだめし、じりじりしながら待っていたことでしょうな?」
「まったく」と、青年は笑いながら、「あなたに隠したってだめだから白状しちまいますが、図星《ずぼし》ですよ。そのとおり、わたしは待たれていた身で、それも待ちこがれていましてな」
ボナシューの額《ひたい》にさっと暗い影がさしたが、彼はそれに気がつかなかった。
「大急ぎで帰って来たんだから、大いにかわいがってもらうんですな」
そう言う小間物屋の声が少しいつもとは違っていたが、ダルタニャンはいましがた顔に暗い影がさしたのに気づかなかったのと同様に、この変わりように少しも気づかなかった。
「なかなか良いことをおっしゃいますな!」そういってダルタニャンは笑った。
「いや、わたしがそういったのは、今晩あなたのお帰りがおそいかどうか、それが知りたかったものですから」
「なぜ、そんなことを聞くんです? わたしの帰りを待っていてくださるおつもりですか?」
「いやこのあいだじゅうから、この家でわたしが逮捕されたり、どろぼうにやられたりしたもんで、戸が開く音を聞くたびにぞっとしましてね。ことに夜などはなおさらでして。仕方がありませんや! わたしは武器を持ってる人間じゃありませんからな」
「なるほど! ですが、わたしが一時に帰っても、二時に帰っても、あるいは三時に帰っても、いや、ぜんぜん帰らなくっても、こわがらないでくださいよ」
こんどはボナシューがまっ青になったが、これにはダルタニャンも気がついて、どうしたのかとたずねた。
「いや、なんでもありません。なんでもないんです。どうもあんな目に会ってから、とつぜん気持ちがわるくなったり、急に寒気《さむけ》がしたりしましてな。どうか、お気になさらないでください。あなたはご自分の仕合わせであることだけを考えていればいいので」
「ところで、わたしは用事がありましてな。ですから忙しいんで」
「まだでしょう、もう少しいいじゃありませんか、あなたは今晩とおっしゃったでしょう」
「いや、その今夜がすぐにやって来ますからな、おかげさまで。あなただって、たぶんわたしと同じように、晩が来るのが待ち遠しいんでしょう。今夜はおそらく、奥さんのお宿下がりじゃないんですかな」
「今夜は家内は閑《ひま》がもらえませんでして。宮中に御用のために引き止められましてな」
「それは、お気のどくなことで、まったく。わたしは自分が仕合わせだと、だれもかれもそうなって欲しいと思う性《たち》なもんで。だが、そううまくはいかないもんですな」
そして青年は、こう自分だけにわかる冗談をいって、からから笑いながら立ち去った。
「せいぜいお楽しみを」ボナシューは、ぞっとするような声でそういった。
しかしダルタニャンは、それが耳にはいらないほど遠ざかっていた。仮《かり》に聞こえたとしても、今の彼の気持ちでは、そういうことに気を止めるはずはなかった。
青年はまっすぐにトレヴィール殿の屋敷に向かった。昨夜の訪問があのように短かかったので、じゅうぶんに話せなかったのを思いだしたからだった。
トレヴィール殿はすこぶる上機嫌《じょうきげん》だった。王にも王妃にも舞踏会で、たいそうおぼえめでたかったからだ。いっぽう枢機卿は、たしかに不機嫌だった。
朝の一時には、枢機卿は気分が勝《すぐ》れないといって帰ってしまった。両陛下のほうは、六時になって、ようやくルーヴル宮へご帰還になったほどだった。
「さあ」とトレヴィール殿は、部屋の隅ずみまでを見渡して二人きりだとわかると、声を低めていった。
「こんどは一つ、おまえのことを話そう。貴公が無事に帰ってきたことと、王陛下の喜びよう、王妃殿下の勝ち誇ったごようす、枢機卿の面目《めんもく》を失ったようす、これらには何か関係があるな。要するに、これからおまえは行動をつつしめということだ」
「わたくしは自分が両陛下のご愛顧《あいこ》をこうむっているとすれば、何を恐れる必要がありましょうか?」と、ダルタニャンは答えた。
「何もかも恐れる必要がある。いいかね、枢機卿という人は、自分をだました相手に返報するまでは、そのことを忘れるような人ではない。そのだました相手というのが、こんどの場合、どうもわたしの知っているガスコーニュの男らしいんでね」
「枢機卿は閣下と同じくらいこんどのことを知っておられて、ロンドンにわたしが行ったのをごぞんじなのでしょうか?」
「そうだ! きみはロンドンに行ったんだっけ。そうすると、その指に光っている美しい指輪は、ロンドンから持ち帰ったのかな? 用心したほうがいいよ、敵の贈り物というものは、いいものじゃないからな。なんでも、そういうことをいったラテン語の文句があったな……ええと……」
「さよう、たしかありましたな」と、ダルタニャンは相づちを打ったが、文法の最初の規則も頭に入れることができなくて、教師を絶望に落とし入れた過去をもつ彼のこととて、「さよう、たしかに一つ、そういうものがありましたな」といったきりだった。
「たしかに、あるんだ」と、いくらか学《がく》のあるトレヴィール殿は、「いつか、ベンスラード殿が引用して聞かせてくれた奴《やつ》だが……さてと……そう、そう…… Timeo Danaos et dona ferentes つまり、[贈り物をする敵に用心せよ]といった意味の言葉だよ」
「このダイヤは、敵からもらったのではありませんよ。王妃さまからいただいたものでして」
「王妃さまからだって。どれ、どれ」
トレヴィール殿は、それを手にとって見た。「たしかにこれは、王室御用の宝石だ。千ピストールはするな。王妃はこれを、だれの手を経てお渡しになった?」
「お手ずからいただきました」
「どこでだね?」
「あのお衣装を着替えられたお部屋の次の間でです」
「どういうふうにして?」
「お手に接吻をお許しになって」
「貴公が王妃殿下のお手に接吻をしたのか?」トレヴィール殿は、ダルタニャンをまじまじと見て叫んだ。
「王妃さまは、とくにそのような名誉をくださったのです」
「ほかの人のいる前でか? 困るな、そのような軽率な振るまいをなさって」
「いや、ご安心ください。だれも見ておりませんでしたから」と、ダルタニャンは答え、トレヴィール殿に、どうしてこのような事態になったかを物語った。
「ああ、女というものは! 女というものは!」と、古武士は歎いた。「いつも小説みたいなことを考えるものだ。なにか神秘的なことに魅力を感じるのだ。だから、おまえは腕にお目にかかったというわけだよ。それだけの話さ。貴公が王妃殿下にお目にかかっても、それだとはわかりはしまい。先方だって、貴公をおわかりにならんだろう」
「でも、このダイヤがあれば……」と、青年は抗議した。
「まあ、聞きたまえ!」とトレヴィール殿はいった。「ひとつ忠告を与えよう、友人として有益な忠告をな」
「お聞かせください、ぜひどうか」と、ダルタニャンは答えた。
「いいかい! どこでもいいから宝石商へ行って、そのダイヤを向こうの言い値で売り払ってしまうんだ。どんなに欲張りの商人でも、八百ピストールは出すだろう。金貨には名前がないが、いいかい、その指輪には恐ろしい名前がある。その名前が、はめている人間を裏切るんだ」
「この指輪を売るんですって! 王妃からいただいたこの指輪を! それはできません」
「では、宝石のほうを内側にしておくがいい。ガスコーニュ出の若僧が、そんな宝石を母親の宝石箱から探しだせるものではないってことは、だれでも知っていることだからね」
「なにかわたしの身辺があぶないとでもお考えなのですか?」と、ダルタニャンはたずねた。
「つまりだな、導火線に火のついた地雷の上に寝ている男でも、おまえに比べるとずっと安全だと思っていいな」
「へえ!」トレヴィール殿の確信ありげな口調に、ダルタニャンは心配になってきた。「いったい、どうしたらよろしいのでしょう?」
「いつも用心を忘れぬことだ。枢機卿は記憶が良く、どんなことでもできる人だ。なにか仕かけてくる」
「どんなことでしょうか?」
「そんなこと、わしが知るものか! いつだって悪魔のような奸計《かんけい》を用いているではないか? まず一番手軽なことは、おまえを逮捕することだな」
「なんですって! 国王陛下に仕える者を、勝手に逮捕できるのですか?」
「やるとも! アトスのときだって、遠慮したかね。とにかく、三十年も宮廷に出入りしている男の言葉を信じたらいい。枕を高くして眠っていたらおしまいだ。それどころか、よく念を押しておくが、至るところ敵だと思うんだな。けんかを吹きかけられたら、相手が十歳の子どもでも避けるがよい。昼でも夜でも攻撃されたら、恥を忘れて逃げるがいい。橋を渡るときは、一枚一枚橋板を確かめることだ。建築中の家の前を通るときは上をよく見て、石が上から落ちて来やしないかと注意する。夜遅く帰るときは従僕を連れて来るようにし、その男が信用できたら武装させることだ。とにかく、だれにも心を許してはいけない。友だちでも、兄弟でも、女でも。とくに女は気をつけたがいい」
ダルタニャンは顔を赤くした。
「女にね」と、彼は機械的に繰り返していった。「なぜ、とくに女に気をつけねばいけないのですか?」
「女は、とくに枢機卿の好んで使う手だからな。これがいちばん手っとり早い方法なんだ。女というものは、十ピストールの金できみを売るよ。デリラ(恋人のサムソンが眠っているあいだに、彼の力が宿っているその髪を切って敵に引き渡した女で、裏切る女の意味に使われる)がいい例だ。聖書の話なら知ってるだろう」
ダルタニャンは、今夜することになっているボナシュー夫人との逢いびきのことを考えた。しかし、これはわが主人公を賞《ほ》める意味でいっておかねばならないことだが、彼はそんなにトレヴィール殿が女性を酷評するのを聞いても、自分の美しい恋人を疑う気持ちはさらさら持たなかったことである。
「それはそうと、貴公の三人の仲間はどうしたね?」
「じつは、隊長殿がなにか知っておいでではないかとぞんじまして、まいったのですが」
「いや、なにも聞いておらぬ」
「そうですか! わたしはあの連中を途中でおいてきたのです。ポルトスはシャンティイで決闘をしているときに。アラミスはクレーブクールで、肩に銃創《じゅうそう》を受けたので。アトスはアミヤンで、贋金《にせがね》使いだと難癖《なんくせ》をつけられたので大勢の者の掌中に」
「そうれ、見ろ!」と、トレヴィール殿はいった。「どうしておまえは、うまく逃げられたのかね?」
「まったく奇跡だと申さねばなりません。胸をひと突きやられましたが、ウァルド伯爵という男をカレー国道の裏道で、蝶《ちょう》を壁紙に刺すように突き刺してきました」
「だから危険だというんだ! ウァルドといえば枢機卿の一味で、ロシュフォールの従弟《いとこ》なんだよ。うん、いい考えがある」
「おっしゃってください」
「わたしがおまえだったら、こうするな」
「どんなことでしょう?」
「枢機卿がパリ中をさがしまわっているあいだに、わたしならこっそりとピカルディ街道を行って三人の仲間の消息をたずねてやるな。どうだい! このくらいのことは友だちとしてやってもいいことじゃないか」
「ごもっともなご忠告で。さっそく、明日出発しましょう」
「明日だって? どうして今晩じゃいけないのかい?」
「今晩は、どうしても用事があってパリにいなければなりませんので」
「ああ! 若い者は! それだから! どんな色ごとかね? 気をつけるんだね。繰り返して言うが、われわれ男を破滅させるものは、そしてこれから先も男を破滅させるものは、女なのだよ。いいから、今夜すぐに発《た》ちたまえ」
「できません」
「約束をしたのかね?」
「はい」
「それでは、話は別だ。しかし今夜殺されずにすんだら、明日は必ず出発すると、わたしに約束してくれるように」
「お約束いたします」
「金はいらぬか?」
「まだ五十ピストール残っています。これだけあればじゅうぶんでしょう」
「仲間たちは?」
「まだ失《な》くしてはいないでしょう。パリを出るとき、めいめい七十五ピストールずつ持たしてありましたから」
「出発前にもう一度会えるかね」
「たぶん、できないでしょう。なにか変わったことでも起これば別ですが」
「では、元気で行きたまえ」
「ありがとうございます」
ダルタニャンは、トレヴィール殿の銃士たちに抱いている慈父のような配慮に今さらながら心打たれて、暇を告げた。
彼はアトス、ポルトス、アラミスの家を次々に訪れてみたが、だれも帰ってはいなかった。もちろん従者たちも帰っていないので、消息はどれもこれもわからなかった。
情人のところでも行ってみれば、彼らの消息がわかるかもしれなかったが、彼はポルトスの恋人もアラミスの恋人も知らなかった。アトスに至っては、そういうのはまったくなかった。
親衛隊の詰所の前を通るとき、馬小屋をちらっと見たら、四頭のうち三頭がすでに着いていた。プランシェがびっくりした顔をして手入れをしているところで、その中の二頭はもうすんでいた。
「ああ、だんなさま、早くお目にかかりたくて」と、プランシェはダルタニャンの姿を見るなりいった。
「どうしてだい?」
「だんなさまは、あのボナシューという家主を信用しておいでですか?」
「おれがかい? とんでもない」
「ああ! それならよろしいんです」
「だが、なぜまたそんなことを聞いたのだ?」
「だんなさまがあの男と話していらっしゃるとき、わたしはじいっと見ていましたが、あの男の顔が二、三度変わったものですから」
「そんなこと!」
「いいえ、あなたさまは受けとったばかりの手紙のことばかり気にしていらっしゃったから、そのことに気がつかれなかったのです。でもわたしはあの手紙の舞いこみ方が気になっていたので、よく注意していました。ですから、あの男の顔の表情のちょっとした動きも見のがしませんでした」
「それで、どう思ったんだい?」
「信用できませんな」
「そうかな!」
「それに、だんなさまがあのボナシューと別れて、町の角を曲がってしまうと、あの男は帽子をとって入口をしめ、あわてて反対側のほうへ駆けだして行きました」
「なるほど、おまえの怪しむのももっともだ。どうも気になることばかりだが、まあ心配するな。そういう怪しい挙動がはっきりするまでは家賃を払ってやらんから」
「冗談をいっていられるが、いまにわかりますよ」
「しようがないじゃないか、プランシェ。なるようにしかならんよ!」
「それでも、今夜の散歩はおやめにならないのですか?」
「やめるどころじゃない。あのボナシューが不愉快な奴なら、なおさらおまえが心配しているあの手紙の行けという場所へ行かにゃならんのだよ」
「では、だんなさまのご決心はどうあっても……」
「断じて動かぬ。九時に用意して、この詰所にいてくれ。おれがここへ来るからな」
プランシェは主人の計画を断念させる望みのまったくないのを見て、大きくため息をついた。そして三頭目の馬の手入れをはじめた。
ダルタニャンとしても、根《ね》は慎重な青年のことだから、自分の家へは帰らないで、いつか四人の仲間が窮乏に落ち入っていたときにチョコレートの朝食をおごってくれた、例のガスコーニュ出身の司祭のところへ行って夕食をとった。
二十四 離れ家
九時にダルタニャンは、親衛隊の詰所に行った。プランシェは武装をととのえていた。四頭目の馬が届いていた。
プランシェは、鉄砲と短銃で身を固めていた。
ダルタニャンは剣のほかに、腰に短銃を二|挺《ちょう》ぶちこんだ。それから二人とも馬に乗って、こっそり出て行った。もうすっかり夜になっていたから、人目にはつかなかった。ブランシェは主人の後から、十歩ほどおくれて従った。
ダルタニャンは河岸を横切り、コンフェランス市門を出ると、今日《こんにち》よりはるかにりっぱだったサン=クルーへと通じる道をとった。
町中を通っているあいだは、プランシェは命ぜられた間隔をちゃんと守っていたが、人通りが少なくなり、あたりが暗くなって来ると、そっと近づいた。そしてブーローニュの森にはいったときは自然と主従が並んで馬を進めていた。じじつ、揺れ動く大木の影や、暗い茂みにさす月の光が、彼をはげしい不安に追いやったのである。ダルタニャンは、この男の中に、いつにない異常なものを感じとった。
「おい、どうした、プランシェ殿! どうかしたかね?」と、彼はたずねた。
「森っていうものは、まるで教会みたいですな」
「どうしてだい、プランシェ?」
「どちらもその中にはいると、大きな声で話ができませんからな」
「どうして大きな声が出せないんだい? こわいからかい?」
「聞かれるとこわいですから」
「聞かれるとこわいって! だが、われわれの話は、なんらやましいところはないんだから、だれからも文句をつけられることはない」
「でも、だんなさま!」と、プランシェは根づよく彼につきまとっている考えが離れないらしく、「あのボナシューの眉の動かし方や、唇のうす気味のわるい笑い方が、どうも気になるんで」
「なぜまた、ボナシューのことなんか考えるんだい?」
「考えたくなくても考えてしまうようなことがあるもんですよ、だんなさま」
「おまえが臆病だからだよ、プランシェ」
「用心ぶかいのと臆病とをいっしょになすっちゃ困りますよ。用心ぶかいってのは、いいことでさあ」
「では、おまえは有徳の士《し》っていうわけだ」
「だんなさま、あそこにぴかぴか光ってるのは鉄砲の筒先じゃございませんかね、頭を下げましょうか?」
「まったく、こいつの言うことを聞いてると、こっちまで気味がわるくなって来るわい」と、ダルタニャンはトレヴィール殿の忠告を思いだして、こうつぶやいた。そして彼は馬の足を早めた。
プランシェも影の形に従うように、ぴったりその後についてきた。
「こうやって一晩じゅう歩くんですかね?」
「いや、プランシェ、おまえはもう着いたんだよ」
「へえ! わたしはここまででよろしいんですか? で、だんなはどうなさるんで?」
「おれは、もう少し先まで行く」
「では、わたしは一人でここにいるんですか?」
「こわいのか、プランシェ?」
「そうじゃありませんが、ただ夜がこんなに冷えこみますし、冷えるとリューマチにわるいものですから。リューマチにかかった家来なんて役に立ちませんからね。ことに、だんなさまのように活発なご主人さまにとってはね」
「では、寒くなったら、プランシェ、あそこに見える居酒屋にはいったらいい。そして明日の朝六時に、入口で待っていろ」
「ところがだんなさま、けさいただいた銀貨でありがたくご馳走になってしまったもんですから、寒くなってきてももう一文もございませんようなわけでして」
「よし、半ピストールやる。じゃ、明日の朝だ」
ダルタニャンは馬を降りて、手綱《たづな》をプランシェの腕に投げかけると、外套《がいとう》に身を包んで急いで遠ざかった。
「ああ、なんて寒いんだ!」
主人の姿が見えなくなるとプランシェはそうつぶやいて、一刻も早くからだを温めようと大急ぎで、いかにも場末の居酒屋らしい一軒の家の戸口をたたいた。
そのあいだにダルタニャンは、狭い近道をとって歩きつづけ、サン=クルーに着いていた。大通りには出ずに、城のうしろ側をまわって奥ふかくひっこんだ路地のようなところを行くと、まもなく問題の離れ家の前に出た。そこは、まったく人気のないところだった。大きな土塀《どべい》の一角にその離れ家はあって、土塀の一方は小道に面し、もう一方は生垣《いけがき》で小さい庭を道からかこい、その庭の奥にみすぼらしい小屋が一軒あった。
約束の場所に来たものの、来たということを知らせる合図をしろとは言われていなかったので、彼はただ待っていた。
物音ひとつしなかった。まるでパリから四百キロも離れたところに来たようだった。ダルタニャンは背後をちらっと見たあと、生垣にもたれかかっていた。はるか彼方の、この生垣や、庭や小屋の向こうには、暗い靄《もや》のひだに包まれて、パリが眠っている巨大な空間がひろがっていた。そのだだっぴろい底なしの広がりの中には、いくつかの小さな光の点が、地獄の不吉な星のようにきらめいていた。
しかしダルタニャンにとっては、目に見えるものすべてが幸福を形どっているように見え、考えることすべてが微笑をおび、すべての闇が明るく感じられた。
じじつ、まもなくして、サン=クルーの鐘楼《しょうろう》から低くうなるように十時を知らせる音が流れてきた。
夜の闇の中に消えてゆく青銅の鐘の音には、なにかしら物悲しい響きがあった。
しかし青年の心には、待ちかねた時刻を告げる響きの一つ一つとして、気持ちよく聞こえた。
彼の眼はじっと、土塀《どべい》の一角にある小さな離れ家に吸いつけられていた。窓は鎧戸《よろいど》で閉ざされていたが、二階の一つだけが開いていた。その窓からやわらかな光がもれて、庭の外に立っている二、三本の菩提樹《ぼだいじゅ》のそよぐ葉の茂みを銀色にいろどっていた。明らかにこのうつくしく照らしだされた小さな窓のうしろに、あの美人のボナシュー夫人が待っているのだ。
このような楽しい思いに浸《ひた》りながら、ダルタニャンはべつに待ち遠しいとも感じないで三十分ほど待っていた。この美しい小さな住居をじっと見ているダルタニャンの眼には、金色の玉縁《たまぶち》のついた天井が見えて、それだけでその部屋の優雅さがしのばれた。
サン=クルーの鐘楼《しょうろう》が、十時半を告げた。
こんどはダルタニャンは、なぜかわからないが、からだがぞくぞくっとするのを覚えた。おそらく夜気の冷たさを身にしみて感じたので、まったく肉体的な感覚を精神的なものと感じとったのであろう。
それから彼は、手紙を読みちがえて、約束が十一時ではなかったかと思った。
そこで窓のほうに近づいて、明るいところで手紙をポケットから取りだして読んでみた。だが、間違ってはいなかった。会う時間は十時だった。彼はまた元の場所に帰ったが、沈黙と静寂さのために、だいぶ不安になってきた。
十一時が鳴った。ダルタニャンは、ボナシュー夫人になにか間違いが起こったのではないかと、本気になって心配しはじめた。彼はよく恋人たちが合図に使うように、手拍子を三つ打ってみた。だれも答えない。こだまさえも答えなかった。ひょっとすると、彼女は待ちながら眠りこんでしまったのではなかろうかと、いささか怨《うら》めしい気持ちになった。
彼は土塀に近づいて、よじ登ってみようとした。ところが新しく塗り直したばかりらしく、爪ひとつかかる手がかりがなかった。
そのとき彼は、光で葉の茂みを銀色に染めだしている木立に気がついた。その一本は道端に突き出ているから、枝の中ほどまで登れば、離れ家の内部が見えるかもしれないと考えた。
木に登るのは、なんでもなかった。なにしろ彼はまだ二十歳そこそこなので、子供の頃の木のぼりのこつを忘れてはいなかった。たちまち彼は、枝の中ほどまで登った。そして窓ガラス越しに部屋の中をのぞきこんだ。
そのあまりに不可解な光景に彼は、思わず髪《かみ》のつけ根から足の先までがぶるぶる震えるのを覚えた。あのやわらかな光、あの静かな明りが照らしだして見せたものは、恐ろしい狼藉《ろうぜき》のあとだった。窓ガラスの一枚は割れ、部屋のドアは内側にめりこんで半ばこわれ、蝶番《ちょうつがい》にぶらさがっていた。たぶん上品な夜食が乗っていたにちがいないテーブルは横倒しになり、瓶《びん》のかけらや踏みつぶされたくだものが床に散らばっていた。部屋の中ではげしい乱闘のあったことは明らかだった。ダルタニャンはこの不可解な狼藉のあとに、衣服の切れはしや、食卓布や壁掛についている血痕《けっこん》までも見たような気がした。
彼はおそろしく胸をどきどきさせながら、急いで道に飛び降りた。道にもなにか狼籍のあとが残っていはしないか見たいと思ったからである。
やわらかな光線はなお、夜のしじまの中を照らしつづけていた。そのときダルタニャンは、いままでは調べる気がなかったので気がつかなかったが、地面のあちこちに人馬の足跡が入り乱れてついているのを見つけた。そればかりではない、パリの方角から来たらしい馬車の轍《わだち》の跡までが、やわらかい地面にふかく跡をしるしていた。それも、ちょうどこの離れ家の前で止まっていて、また元来た道に引き返していた。
最後に、なおもダルタニャンが根気よく調べると、土塀のそばに、裂けた女の手袋が一つ見つかった。まだ土足にかかっていず、真新しい手袋だった。恋する男がよく女の美しい手から奪いたがる、あのかおりをふくんだ手袋だった。
ダルタニャンは調べつづけているうちに、その額には冷たい汗がにじんできて、胸は不安で締めつけられ、息がはずんできた。それでも彼は自分の気持ちをしずめようとして、この離れ家はボナシュー夫人とは関係ない、それに逢いびきはこの家の前で行なわれるはずで家の中ではない、それで彼女は亭主の嫉妬《しっと》のためか、あるいは仕事のためでパリを離れることができなかったのだ、とそう考えてみた。
しかしこういう理屈は、われわれの全身をとらえ、われわれの心に大きな不幸が迫りつつあることを教えてくれる内心の苦悩の感情を前にしては、まったく力がなく、こなごなに砕かれてしまったのだった。
そこでダルタニャンはほとんど気違いのようになって大通りを突っ走ると、元来た道をとって渡し場まで行って、船頭にたずねた。
夕方の七時ごろ、黒い外套に身を包んだ一人の女を渡した、とのことだった。ひどく人目を避けているようなそのようすに、かえって気をひかれ、見ると若くて美しい人だったと渡し守はいった。
そのころも今日《こんにち》と同じように、若くて美しい女の人がサン=クルーにはたくさんやって来たし、それも人目を避けてやって来るのがふつうだった。けれどもダルタニャンは、渡し守が見た女は、てっきりボナシュー夫人にちがいないと思った。
彼は渡し守の灯火をたよりに、もう一度ボナシュー夫人の手紙を読み直してみたが、約束の場所はまさしくサン=クルーで、デストレ邸の離れ家の前であることは確かだった。
なにもかもダルタニャンの眼に狂いはなく、大きな不幸がおとずれていることを示していた。彼はまた、城への道を駆けもどった。いないあいだに何か変わったことが起こって、それで事情がわかるのではないかと思ったからである。小道は相変わらず人気がなく、窓からはさっきと同じようなやわらかな光を投げかけていた。
ダルタニャンはそのとき、あのひっそり門とした小屋のことを思いついた。その小屋の主が、あるいは何かを見たかもしれないし、何か教えてくれるかもしれない。
生垣《いけがき》の戸はしまっていたが、彼はその生垣を飛び越えて、鎖《くさり》につながれて吠えている犬などいっこうに平気で、その小屋に近づいた。二、三度入口の戸をたたいてみたが、なんの返事もなかった。離れ家と同じように、この小屋も死人のようにしずまり返っていた。しかし、この小屋が最後の頼みの綱《つな》だとばかりに、彼はしつっこくたたきつづけた。
まもなく、かすかな物音が内部でしているように思われた。それは人に聞かれはしまいかと恐れているような、おずおずした物音だった。そこでダルタニャンはたたくのをやめると、どんな臆病者でも安心するような、やさしくおどおどした声で、頼みこむようにして声をかけた。
やっと、虫食いだらけの古ぼけた鎧戸《よろいど》が開いた、というよりそっと半開きになったのだが、小屋の隅にあるうす暗いランプの光に、ダルタニャンの剣の吊り帯と剣の柄《つか》と短銃の先とが照らしだされたと見るまに、戸はまたしまってしまった。
しかし、そのわずかなあいだに、ダルタニャンは老人の顔をちらりと見ることができた。
「お願いだ! おれの言うことを聞いてくれ。おれは人を待ってるんだが、その人が来ないんで心配でならないんだ。この近所で何か変わったことでも起こらなかったかい? 話してはくれまいか」
窓はまたゆっくりと開いて、同じ顔がまた現われた。ただその顔は、前のときよりもいっそう青ざめていた。
ダルタニャンは名前こそ言わなかったが、卒直に事のしだいを語った。ある若い女とあの離れ家の前で会うことになっていたのだが、相手が来ないので菩提樹にのぼって中をのぞいて見たら、ランプに照らしだされた部屋の中は取り乱して乱雑になっていたと。
老人は注意ぶかく聞いていたが、もっともだというふうにうなずいてみせた。それからダルタニャンが言いおわると、何も言いたくないといったふうに、頭をふって見せた。
「なにか話してはくれまいか? 後生だ! 知ってることがあったら言ってくれ」と、ダルタニャンは叫んだ。
「ああ、だんなさま! なんにも聞かないでくださいまし。わたしが見たことをお話ししますと、あとでろくなことはありませんからな」と、老人は答えた。
「じゃ、やっぱり何か見たんだな? どうか、頼む」
そういって彼は、ピストール金貨を一枚なげだした。「話してくれ、おまえが見たことを言ってくれ。貴族の名に誓って、おまえから聞いことは口外せんから」
老人はダルタニャンの嘘《うそ》いつわりのないようすと、苦悩の色とをその表情から読みとると、それではとばかりに、低声で話しだした。
「九時近くのことでした。通りで物音がしましたので何事が起こったかと戸口のほうへ行きかけますと、だれかがはいって来ようとするのです。こんな貧乏ぐらしですし、盗まれるものもありませんから、戸をあけようとしました。見ると、少し離れて三人の男がおり、闇の中に馬をつけた馬車が一台、乗馬が数頭いて、その乗馬はたしかに、騎士の服装をしたその三人の男のものに違いありません。
[これは、だんなさま方、なんの御用で?]と、わたしはききました。
[はしごを持ってるだろうな?]と、おもだった男がいいました。
[ええ、くだものを取るときに使うのならありますが]
[それを出して、おまえは家の中にひっこんでいろ。そら、これが騒がせたしるしだ。なお言っておくが、これから見たり聞いたりすることを、というのはな、いくら見るな聞くなとおどしたところで、どうせだめだろうからな……いいか、ひと言でもしゃべったら、おまえの首は飛ぶぞ]
そういうと、その男は銀貨を一枚投げだして、はしごを持って行きました。わたしは彼らの出て行ったあと、生垣の戸をしめると、家の中にはいるふりをしてこっそりとすぐに裏口から外に出ました。そして闇にまぎれて、あのニワトコの木の茂みまで行き、その中に潜《ひそ》んだのです。そこからなら、相手には見られずに、みんな見ることができますからね。
三人の男は馬車を音のしないように動かして、中から黒っぽい色のみすぼらしいなりをした、ごま塩頭のずんぐりした小男を引っぱりだしました。その男は用心しながらはしごを登って部屋の中をそっとうかがうと、しずかに降りてきて、ささやきました。
[あいつですよ!]
すぐに、さっきわたしに話しかけた男が離れ家の入口に近づき、持っていた鍵で戸をあけると、その中に姿を消しました。同時に、ほかの二人ははしごを登りました。例の小男は馬車の入口のところにいたままで、御者は馬車の馬を押さえ、一人の従僕が乗馬の番をしていました。
とつぜん大きな叫び声が離れ家の中から聞こえてきて、一人の女が窓際に走り寄りました。窓をあけて逃げようとしたんですね。ところが二人の男が来るのを見たので、また奥に引き返しました。二人の男は女のあとを追って、窓から中へ飛びこみました。
もうそれからは何も見えません。ただ、家具のこわれる音がしました。女が叫んで、助けを求めています。だがまもなく、その叫び声も押えつけられたようすで、三人の男が女を抱えて窓のところに姿を現わしました。そのうちの二人がはしごを降りて、女を馬車の中に運びこみます。小男のおやじがそのあとから馬車にはいりました。離れ家に残っていた男は窓をしめてからすぐに元の入口から出て来ると、女が馬車にはいったのを確かめて、二人の男は馬上で待っているので自分も馬に飛び乗りました。従僕も御者のそばに坐り、馬車は三人の騎士に守られて、早駆けで走り去りました。それでおしまいで、それから先は、わたしにはなんにもわかりません」
ダルタニャンはあまりひどい話なので言葉もなくじっと立ちつくしていたが、心の中は怒りと嫉妬《しっと》とで煮えくり返るようだった。
「でも、だんなさま」と、老人は、その言葉もなくだまりこんでいるようすに、泣いたり叫んだりするのを見るよりもよけい心を動かされたようすで、「まあ、そうお嘆きなさいますな。べつに殺されたっていうわけじゃありませんから。なによりも、そこんとこが大事ですからな」
「そのひどいことをやってのけたおもだった男について、何か心あたりはあるか?」と、ダルタニャンはたずねた。
「さあ、いっこうにぞんじませんが」
「でも話しかけられたんだから、顔は見たろう?」
「ああ、その男の人相のことでございますか?」
「そうだ」
「やせた背の高い男で、日焼けした顔をして、黒い口ひげと黒い目の、貴族らしい人です」
「そうだ、あいつだ!」と、ダルタニャンは叫んだ。「また、あいつだ! いつも、あいつだ! あいつは、おれの悪魔なんだ! ところで、もう一人は?」
「と申すと?」
「小男のことだ」
「ああ、あの男でしたら、どう見ても貴族ではありませんな。それに剣はさげていませんでしたし、ほかの連中から軽く扱われていましたからな」
「下男というところか!」と、ダルタニャンはつぶやいた。「ああ、かわいそうに! どんな目にあってるだろう、あの女《ひと》は?」
「だまっているというお約束でしたな?」と、老人はいった。
「もう一度約束する。安心してくれ。おれは貴族だよ。貴族は約束をたがえぬものだ。おれは誓ったんだからな」
ダルタニャンは沈痛な思いで、渡船場のほうへもどった。その女がボナシュー夫人だとは信じられず、明日にでもルーヴル宮へ行けば会えるような気がしたり、いや彼女に自分以外の男がいて、嫉妬ぶかいその男がそれを嗅《か》ぎつけ誘拐させたのではなかろうかと、そんなことを考えたりした。
このようにあれやこれやと思い悩み、はては絶望におちいるのだった。
「ああ! あの連中がいてくれたら!」と、彼は思わず叫んだ。「少しはあの人を見つける望みも持てるんだが。ところが、あの連中はいったいどうなっていることやら!」
もう真夜中だった。まだプランシェを捜す仕事が残っていた。ダルタニャンは少しでも明りがもれている居酒屋があると、次々と戸をあけてみたが、どこにもプランシェの姿は見えなかった。
六軒目で彼は、これはいささか早まったなと覚《さと》りはじめた。ダルタニャンは朝の六時に従者に会うといっておいたのだから、それまではどこにいようと、プランシェの勝手だったのである。それに事件の起こった場所の近くにいれば、おそらくこの不可解な一件のなんらかの手がかりを得られるかもしれないという考えが青年に起こったのである。
そこで彼は、その六軒目の居酒屋にはいると、上等のぶどう酒をひと瓶《びん》注文し、薄暗い隅に陣どって、夜明けまで待つことにした。しかしこんどもまた、彼の期待は裏切られた。いっしょにいた職人や下男や荷車ひきなどの入り乱れたわめき声や笑い話に耳をそば立ててみたが、かどわかされた哀れな女についての糸口は何ひとつ引きだせなかった。
そこで彼は閑《ひま》つぶしと疑いの眼で見られたくないためにひと瓶あけてしまうと、できるだけ楽な姿勢をとって、そのまま眠りこんでしまった。ダルタニャンは二十歳だった。この年ごろでは、どんなに絶望におちいっていようとも、睡魔《すいま》は容赦《ようしゃ》なく襲ってくるものである。
朝の六時ごろ、ダルタニャンは目を覚ました。不愉快なことのあった一夜を明かしたあとなので、寝覚めは悪かった。洗面もあわただしく、彼は眠っているあいだに盗まれたものはないかと、からだじゅうを調べてみた。が、指にはダイヤはあるし、ポケットには財布が、吊り帯には短銃が、ちゃんとあった。彼は立ちあがって酒代を払い、こんどこそは従者を見つけだせるだろうと思って外へ出た。
はたして、しめっぽい灰色の霧の中に、忠実なプランシェの姿が目にはいった。昨夜ダルタニャンがまるで気がつかずに通りすぎた一軒の小さなみすぼらしい居酒屋の前で、彼は二頭の馬をひいて突っ立っていた。
二十五 ポルトス
まっすぐに家に帰らずにダルタニャンは、トレヴィール殿の屋敷の前で馬を降りると、階段をあたふたと駆け上がって行った。こんどこそは、事のしだいを包まずに語る決心だった。たぶんこんどの事件について有益な忠告がしてもらえそうだし、それに、トレヴィール殿はほとんど毎日のように王妃に会っているのだから、おそらく忠誠の犠牲のためにひどいめにあっているはずのあの哀れな女のことを、王妃の口から聞きだしてもらえるかもしれないと思ったからだった。
トレヴィール殿は、熱心に青年の話を聞いた。彼はこの事件を単なる色ごとではないと考えているようだった。ダルタニャンが言いおわると、
「ふうん、どうも枢機卿がうしろにいるような気がするな」と、いった。
「それにしても、どうしたらよろしいでございましょう?」と、ダルタニャンがたずねた。
「さあね、どうにもしようがないな。さしずめ、前にもいったように、できるだけ早くパリを離れることだ。わたしは王妃にお目にかかって、あの女の失踪《しっそう》のことをお話し申そう。おそらくこの話は、まだごぞんじあるまい。くわしく申し上げればお妃《きさき》のお役にも立つだろうし、その反面わたしのほうも、貴公に知らせるよい情報が得られるかもしれない。まあ、このわたしに任せておくがいい」
ダルタニャンは、トレヴィール殿がガスコーニュの生まれだけれど、めったに人と約束をする人ではなく、たまたま約束したとなると、その約束をとことんまで守る人だということを知っていた。そこで彼は今までのこと、それから今後のことについて大いに感謝の意をこめて、おじぎをした。隊長のほうも、この勇敢で決断力のある青年に対して強い関心を寄せていたので、親しくその手を握ると、旅の安全を祈ってやった。
ダルタニャンはトレヴィール殿の忠告をすぐに実行に移すことにして、旅装をととのえるためにフォソワイユール通りへと急いだ。
家のそばまで来ると、起きたままの服装をしたボナシュー氏が入口の敷居《しきい》のところに立っているのが目にはいった。前日プランシェがこの家主の陰険な性格について語った言葉を思いだした彼は、いつになく注意してこの男を見やった。たしかに、胆汁《たんじゅう》が血液にまじっていることを示す病的なくすんだ黄色っぽい顔色に、さらに顔面に寄せる皺《しわ》に、なんともいえない信用のおけない腹黒いものがあるのを見てとった。悪党は善人と同じ笑い方をしないし、偽善者は誠実な人間と同じような涙の流し方はしないものだ。すべて虚偽というものは一つの仮面であり、仮面はどんなにそれが巧みにつけられていようとも、少し注意してみれば、必ずやそれを見破られるものである。
で、ダルタニャンの眼に映ったボナシューも、そういう仮面をつけている人間だった。しかも、それが最も不愉快な感じの仮面だった。
そこでダルタニャンはこの男がすっかりいやになったので、話しかけずに行き過ぎようとすると、昨日と同じようにボナシューのほうから声をかけた。
「おや! 昨夜はよっぽどお楽しみのように見えますな。もう朝の七時ですよ。どうもあなたは世間さまの習慣とは逆のようで、みんなが出かけるときにお帰りになる」
「あんたには、そんなことはありますまいな、ボナシューさん」と、青年は答えた。「まったくあんたは堅物《かたぶつ》のお手本ですからな。もっとも、あんなに若くてきれいな奥さんを持っていられれば、よそに楽しみを求めて出歩く必要はありますまい。幸福が求めずして来ているわけなんだから。そうでしょう、ボナシューさん?」
ボナシューは死人のようにまっさおな顔になったが、むりに笑顔を見せていった。
「あっはっは! いや、おもしろいことをおっしゃる。ところで、昨夜はどっちの方向へお出かけになりましたのかな。裏道のほうは、だいぶ道がわるかったと見えますな」
そう言われてダルタニャンは、自分の泥まみれの靴《くつ》に目を落とした。と同時に、そのまま視線を小間物屋の短靴と靴下の上に移すと、これもまた同じような、ぬかるみに飛び込んだとしか思われない、同じような汚れ方だった。
瞬間ダルタニャンは、はっと思った。そうだ、昨夜のごま塩頭のずんぐりした小男とは、ほかの騎士たちからぞんざいに扱われていたという黒い服を着た従僕ふうの男とは、まさしくこのボナシューだったのだ。亭主が女房の誘拐《ゆうかい》に、ひと役買っていたのだ。
ダルタニャンはこの小間物屋に飛びかかって、ひと思いに締め殺してやろうかという、はげしい気持ちに襲われた。だが彼は、なんども言うように慎重な青年だった。で、じっとこらえた。それでも顔には憤怒《ふんぬ》の色がありありと見えたから、それを見たボナシューは恐ろしくなって、思わず一歩退こうとした。だが、そこはちょうど入口の扉の前だったので、退くこともできず、その場に立ちすくんだままだった。
「いや、あんたもなかなかおもしろいことをおっしゃる」と、ダルタニャンはいった。「わたしの長靴も掃除しなけりゃなるまいが、あんたの靴下や短靴もブラシをかける必要があるようですな。あんたもどこかをほっつき歩いたのですかな。ボナシューさん、あんたのようなお年で、それはいけませんよ。まして、あんなに若くてきれいな奥さんをお持ちなんですから」
「ああ、とんでもないことをおっしゃる! きのうは、どうしても女中が必要なので、その話でサン=マンデのほうへ出かけたのです。ところが、いやはやひどい道でしたな、それでこの始末で。なにしろまだ掃除をするひまもなかったものですから」
ボナシューが行ったという場所が、かえってダルタニャンの疑いをふかめた。ボナシューはサン=マンデといったが、そこはまさにサン=クルーとは正反対の方角だったからだ。
まずこれで間違いないと思うと、ダルタニャンは気が休まった。ボナシューがその細君の居所を知っているとすれば、なんとか方法をこうじてその口を割らせ、泥を吐かせることもできるわけだったからだ。問題は事をはっきりさせて、尻尾《しっぽ》をつかむことだった。
「ボナシューさん、どうも勝手をいってすまないが、眠らなかった朝ほど喉《のど》がかわくことはないもので、お宅で水を一杯いただきたいのだが。近所同士のよしみで、お許しくだされい」
こういうと相手の返事も待たずにダルタニャンは、つかつかと家の中にはいって、急いで寝台をちらりと見た。寝台の上はきちんと片づいている。ボナシューは、ここで寝なかったのだ。一、二時間前に、ここにもどって来たのだろう。細君が連れて行かれた場所まで同行したか、少なくとも最初の宿駅までは行ったにちがいない。
「ありがとう、ボナシューさん」
ぐっとコップの水を飲みほしてダルタニャンはいった。「これで用事もすみました。あとは部屋に帰って、プランシェに靴でもみがかせますか。わたしの靴がすんだら、あんたの靴も掃除させましょうね」
そういって彼は、この奇妙な挨拶にびっくりしている小間物屋から離れて行った。これは少し言い過ぎたかなとも思いながら。
階段の上ではプランシェが、おろおろしながら突っ立っていた。
「ああ、だんなさま」と、主人の姿を見るなり、プランシェは叫んだ。「また変なことがありまして。お帰りをお待ちしていたんです」
「どうしたっていうんだい?」
「お留守に人がたずねて来られたのですが、だれだか当てたら、たいしたものです」
「いつのことだね?」
「三十分ばかり前で、ちょうどあなたさまがトレヴィールさまのところへおいでになっているあいだです」
「だれが来たんだね、早く言ってしまえ」
「カヴォワさまなんで」
「カヴォワ殿だと?」
「ご自身です」
「枢機卿の親衛隊長がかい?」
「はい、さようで」
「おれを逮捕しにきたのか?」
「わたしもそう思いました。ところが愛想《あいそ》がいいので」
「愛想がよかったと?」
「まったく、くすぐったくなるみたいで」
「ほんとうか?」
「枢機卿閣下が、ぜひだんなさまにお会いしたいそうで、それを申しにまいった。パレー=ロワイヤルのお屋敷までご同道願いたいと、そう申されていました」
「で、おまえはなんと答えた?」
「ごらんのとおり主人は留守なので、それは出来かねますと」
「で、先方はなんと申した?」
「今日じゅうに、ぜひともお越し願いたいと。それから声を低くして、こう申しました。[台下はお宅のご主人にたいそう好意をよせていられるのじゃ。ご主人のご運はこの謁見《えっけん》によって開けることになるだろうよ、そうお伝えしといてくれ]ですって」
「枢機卿としてはまずい罠《わな》だな」と、青年は笑いながらいった。
「わたしもてっきり罠だとにらんだので、主人が帰りましたらさぞかし残念がるでございましょうと、いっておきました。[どこへ行かれたんだ]と、カヴォワさまがきかれたので、[シャンパーニュのトロワでございます]と答えますと、[いつお発《た》ちになったのかな?]ときき返します。で、[昨晩でございます]と返事しておきました」
「プランシェ、おまえはまったく重宝な男だな」
「それで、もしだんなさまがカヴォワさまにお会いになりたけりゃ、このわたしが嘘をついたんで、だんなさまはお出かけにならなかったんだとおっしゃればいいわけで。わたしは嘘をいったことになりますが、なあに、こっちは貴族じゃないんですから、嘘をついたところでいっこう平気ですよ」
「安心しな、プランシェ、おまえが正直者だという評判をぶちこわすようなことはせんからな。さあ、あと十五分ほどしたら出かけるぞ」
「わたしもそうなさるように、お勧《すす》めしたかったんです。で、どこへおいでになるんですか、お聞きしてもよろしければ」
「うん、さっきおまえがいった方角とは正反対さ。それにおまえだって、おれがアトスやポルトス、アラミスがどうなったか知りたいのと同じように、グリモーやムスクトンやバザンの消息を知りたいだろうが」
「ええ、そりゃあもう」と、プランシェはいった。「いつでもお供して出かけますとも。このごろのようでは、田舎《いなか》の空気のほうが、パリのなんかよりもだいぶよろしいようですから。では……」
「さっそく、支度をしろ。出かけるんだ。おれは手ぶらでひと足先きに出て行くから、おまえは詰所に来てくれ。ところでプランシェ、おまえがいっていたとおり、あの家主はたしかにひどい奴だな」
「はあ! わたしが何かいったら信用なさってくださいよ。わたしは人相見なんですからね、どんなもんです!」
打ち合わせたとおり、ダルタニャンが先に出て行った。それからあとで残念がってもいかんと思ったので、最後にもう一度、三人の友だちの住居に足を向けた。まだ彼らからはなんの便りもきていなかった。ただ、アラミスのところには、うつくしい筆跡のかおりをこめた手紙が一通きていた。ダルタニャンはそれをことづかった。十分後には、プランシェが詰所にやってきた。ダルタニャンは時間がもったいないので、自分で馬に鞍をつけておいた。プランシェが旅の荷物を馬につけおわったのを見て、ダルタニャンはいった。
「これでよし。あと、ほかの三頭にも鞍をつけたら出発だ」
「へえ、一人で二頭の馬に乗ったほうがずっと早く行けるっていうわけですか?」プランシェはからかうような様子を見せていった。
「冗談いうなよ。四頭ひいて行って、あの三人を連れて来ようっていうんだ。もっともみんなが元気でいればだが」
「それが肝心《かんじん》ですね。とにかく、神さまのお慈悲をあきらめてはいけません」
「アーメン」と、ダルタニャンは馬にまたがりながら祈った。
二人は詰所を出ると、少し行ってから別れた。一人はヴィレットの門から、もう一人はモンマルトルの門からパリを出て、サン=ドニの向こうで落ち合う約束だった。この策略は正確に実行に移され、満足すべき結果を得た。ダルタニャンとプランシェは、同時にピエールフィットに着いたのである。
言っておくが、プランシェは、夜よりも昼のほうが元気があった。しかしながら持ち前の慎重さは、一瞬たりとも捨てなかった。この前の旅行のことが頭にあるので、道で会う人間がみんな敵に見えた。そのために絶えず帽子をとって会釈《えしゃく》をするので、そんなにばか丁寧な挨拶ばかりしていては、主人のおれまでがつまらぬ男に思われるといって、きびしく叱責《しっせき》したくらいだった。
そうこうしているうちに、通行人がプランシェの慇懃《いんぎん》ぶりに感心したためか、それともこんどは青年の行く手を阻《はば》もうとする者がいなかったためか、とにかく二人は無事にシャンティイに着いて、グラン・サン・マルタン旅館にはいった。この前の旅行のとき足をとめた旅館である。
宿の亭主は、従僕と二頭の空《から》馬を従えた青年を見ると、いそいそと出迎えた。ところでダルタニャンのほうは、すでに四十四キロも旅をして来たこととて、ポルトスがいようがいまいが、この宿で休むのが適当だと考えていた。それに、いきなりあの銃士はどうしたかとたずねるのはまずいと、彼は考えた。
考えたあげく彼は何も聞かずに馬から降りると、馬を従僕にあずけて、控えの間を通り、極上のぶどう酒と最上の食事を注文した。これで宿屋の亭主が最初彼を見たときの好印象をさらに深める結果となった。
そこで食事は、驚くほどの迅速《じんそく》さでダルタニャンの前に運ばれた。親衛隊員は王国の第一級の貴族の中から募《つの》られるもので、しかもダルタニャンは従僕をつれ、りっぱな馬を四頭も連れていたから、制服は質素なものではあったが、相手を驚かせるにはじゅうぶんだった。宿の主人は、自分で給仕をしたいようすだった。それを察してダルタニャンは、コップを二つ持って来させ、次のように切りだした。
「いいかな、ご主人」彼は二つのコップになみなみとぶどう酒を注いで、「極上のぶどう酒を頼んだのだから、もしわたしをだましたりすると、それ相応の罰を覚悟せにゃならんぞ。ところで、わたしは一人で飲むのはきらいだから、ひとつ付き合ってくれ。さあ、コップを取りたまえ、飲もう。ときに、だれのさしさわりにもならないことを祝して飲むとしたら、どんなことがいいかな? そうだ、お宅の繁昌《はんじょう》のために乾盃《かんぱい》するとしよう」
「ありがたき仕合わせでございます! 厚く御礼申しあげます」と、主人はいった。
「いや、誤解しては困る。この乾盃には、おまえさんの気がつかないこっちの思惑《おもわく》があるんでな。つまり、繁昌する宿屋は客あつかいがよく、つぶれかかった家は、何もかもひどくてお話にならん。客は旅館の主人の金詰りの犠牲というわけだ。ところでわたしはよく旅行をするし、とくにこの道をよく通るものだから、どの宿屋も繁昌してもらわんと困るのさ」
「なるほど、そういえばだんなさまをお見かけしたのは、はじめてではございませんようですな」
「冗談じゃない、シャンティイには十日は来ている。十回のうち少なくとも三、四回はこの家に泊まっている。そうだ、十日ほど前にも友人の銃士たちを案内してやってきたが、その一人が見知らぬ男からけんかを売られてな、なんで言いがかりをつけられたかわからんが」
「それでは、あのときの!」と、亭主はいった。「すっかり思いだしました。あなたさまがおっしゃるのは、ポルトスさまのことでございましょう?」
「そうだ、まさしくそれがわたしの旅の連れの名だ。それで、ご主人、その男に何か悪いことでも生じたのかな?」
「旅をおつづけになれなかったのは、そちらさまもごぞんじと思いますが」
「うん、あとから追いついて来る約束だったが、それっきり会えなくってな」
「じつはこちらにご滞在になっていられまして」
「なんだって! ここに滞在しているのか?」
「さようでございます、この家に。それで心配いたしておりますしだいでして」
「なにをだ」
「お支払いのことでございます」
「なんだ! 使った費用なら、あの男は払うよ」
「いや、それで安心しました! だいぶ前借りがかさんでしまいまして、けさも医者が申しますには、もしポルトスさまが払ってくださらなかったら、呼んだのはわたくしなもんですから、代わって払うんだぞと言われましてな」
「では、ポルトスはけがをしたんだな?」
「それは、わたくしの口からは申せません」
「なぜあんたは言えないんだ。あんたがだれよりもよく事情を知ってるはずじゃないか」
「そりゃそうですが、わたしのような身分の者ですと、知っていることを何もかも申すわけにはいきません。とくに、うっかりしゃべると首が危いぞと言われているんでは」
「では! ポルトスに会えるだろうな?」
「よろしゅうございます。二階でございます、階段をおあがりくださいまし。そして一番の部屋をノックしてください。ただ、そのときに、あなたさまだと言うことをお忘れないように」
「なぜだね! どうしておれだと断わるんだね?」
「はい、でないと、おからだに間違いがあるかもしれませんので」
「どんな間違いが起こるというんだね?」
「ポルトスさまが宿の者だと勘違いするといけないからです。そうなったら怒りに任せて、あなたさまを剣で突き刺すか、短銃で頭をぶち抜くかわかりませんからね」
「いったいあなたたちは、あの男にどういうことをしたんだね?」
「お勘定を請求したばかりでして」
「なるほど! それでわかった。ポルトスっていう男は、ふところが寂しいときにそいつをやられると、ひどく機嫌を悪くするのでな。しかし、金は持っているはずだが」
「わたしどもも、そう思っておりました。手前どもはきちんきちんとするほうでして、勘定は毎週いたします。それで八日目に勘定書を差しあげましたところが、ご機嫌のわるいところだったとみえまして、ひとことお話を切りだしたとたんに、えらい剣幕《けんまく》で追っ払われてしまいました。もっとも、前の日に賭けをなさいましたがね」
「なに、前の日に賭けをしたって! 誰とだね?」
「いや、どなたとですか、そんなこと手前どもにわかるもんですか? 通りかかった貴族の方にですが、その方にカルタをやろうともちかけなすったんで」
「それだよ、それですっからかんになったんだ」
「馬までもでございますよ。その相手の方が出発なさろうというときに、ご家来がポルトスさまの馬に鞍をつけようとしているのを見ましたので、ご注意申しましたところが、よけいなことを言うな、これは当方のものなのだというご返事で。そこでさっそくポルトスさまに申し上げたところが、貴族の言葉を疑うか、下司野郎《げすやろう》、先方が自分のものだといっている以上、それに違いはないじゃないかと、そういうわけなんで」
「あの男らしいな」と、ダルタニャンはつぶやいた。
「そこで」と、亭主はなおつづけた。「お支払のことでお話し合いがつきませんようでしたら、同業の金鷲館《かねわしかん》のほうへお移りくださるようにと申しましたところが、ポルトスさまはこの宿が気に入ったから、当分ここに逗留《とうりゅう》するとおっしゃるので。こういううれしいご返事をいただいては、しいて出て行けとは申せませんわけでして。ではせめて当館で最上のお部屋をお返し願って、四階のこじんまりしたさっぱりしたお部屋のほうへお移りいただきたいと、そう申し上げたのでございます。ところがポルトスさまの言うには、恋人である身分の高い貴婦人が近日中にたずねて来るはずだから、そうなればこの部屋でもまだもの足りないくらいだとのことでして。なるほどおっしゃることがほんとうだとはよくわかるのですが、こっちだってがんばらなけりゃと考えました。
ところが話し合ってくださるどころか、いきなり短銃を取りだしてテーブルの上にどすんとお置きになり、外へでも家の中へででも引越せなどと言う者があったら、そのでしゃばりめの頭にこれをぶっ放すぞと、そうどなりつけられたものですから、そんなわけでそれ以後は、従者の方のほかは、だれもあの部屋へは行かなくなったのでございます」
「すると、ムスクトンもいるんだな」
「はい、出て行ってから五日目に、ひどく不機嫌な顔をして帰ってきまして、旅先でよっぽどいやな目に会ったんでございましょう。困ったことには、あの人はご主人よりも達者でして、ご主人のためなら何がどうなってもかまわないというわけで、ご注文をお断りしたって、必要なものならおかまいなしになんでも持って行ってしまうんですから」
「ムスクトンっていう男は、そういうふうに忠実でたいへん気のきく男なんだ」
「そうかもしれません。でも、あんなに主人思いで利口な方が年に四回も来られますと、わたくしどもは破産してしまいますよ」
「そんなことはない。いずれポルトスが金を払うよ」
「さあね」と、亭主は信じられないといったようすでいった。
「その彼をひいきにしている貴婦人が、そんなに困っているあの男を、そのまま見捨ててはおくまいと思うな」
「そのことで、ちょっと考えていることがございまして」
「考えているっていうと?」
「というよりも、わたしが知っていることと申しましょうか」
「何を知っているんだね?」
「しかも確かなことなので」
「何が確かなんだ、さあ?」
「じつはその貴婦人をわたしは知っておりますので」
「あんたがかい?」
「はい、わたくしがです」
「どうしてその人を知ってるんだ?」
「それが! あなたさまがだれにもだまっているとおっしゃれば……」
「いってごらん、だいじょうぶだ、貴族の名において誓うから」
「いいですか、だんなさま! 人って心配ですといろいろなことをやらかすものでして」
「どんなことを、あんたはしたんだ?」
「なあに、ただちょっと債権者の権利を使っただけなのです」
「というと?」
「ポルトスさまがその公爵夫人宛の手紙をポストに入れてくれとおっしゃいました。ご家来はまだ帰って来ませんでしたし、ご自分は部屋から出ることができませんでしたので、手前どもがその使いをしなければなりませんでした」
「それで、どうした?」
「ポストへ入れるということは確かな方法ではございませんので、ちょうど幸い手前どもの者がパリへ行く用事もございましたし、直接に公爵夫人のお手許に届けさせることにいたしました。そのほうが、ぜひとも届けてもらいたいというポルトスさまのお気持ちにも叶《かな》うことではございませんか?」
「まあ、そうだな」
「ところで、その貴婦人がどんなお方か、ごぞんじでいらっしゃいますか?」
「知らんね、ポルトスの話で聞いているだけだ」
「その公爵夫人がどんな女だかごぞんじないので?」
「知らんといったら、おれは」
「じつはその方はコクナール夫人といって、シャトレの代訴人の奥さんでして、もう五十歳は越していますのにたいへんな焼き餅《もち》やきでして。それに、おかしな話じゃありませんか、公爵夫人ともあろう方がウルス通りに住んでいることが」
「どうしてそんなことがあんたにわかったのかね?」
「その持って行った手紙を見ますと、まっかになっておこり、ポルトスは浮気者《うわきもの》だ、剣で突かれたなんていったって、どうせまた女出入りが原因なんだろうって、そう申したんですよ」
「それじゃあ、ポルトスは刀傷を受けたのかい?」
「おや、おや! わたしがそんなことを申したでしょうか?」
「ポルトスが剣で突かれたと、申したではないか」
「そうなんですが、あんなに言ってはならぬと口止めされておりましたもんで」
「どうして口止めなど?」
「そりゃまあ! というのは、ポルトスさまは、あなたさまがけんかの最中に見捨てておいでになったその相手を突きまくってやったとご自慢してはおいでですが、ほんとうはまるで逆でして、相手にねじ伏せられてしまったんです。ところがポルトスさまは虚栄心の強いお方ですから、負けたとはだれにもおっしゃりたくないのでございます。ただ公爵夫人には話したらしいので、というのは、それによって夫人の同情をひこうとお考えになったのでしょうね」
「その傷のために、まだ床についているわけだな?」
「それも大けがでございまして。まったくあなたさまのお友だちは不死身のおからだですな」
「あんたはその場にいたのか?」
「じつは好奇心のあまり、お二人のあとをつけたんで、こっそり見物しました」
「どんなぐあいだった?」
「まあ! あっけなく片づきました。まず互いに構えまして、相手は誘いの手を見せると、さっと切りつけました。そのすばやいことといったら、ポルトスさまは体をかわそうとする間もなく、胴を三か所も突かれて、うしろへのけぞってしまいました。相手はすぐに喉元《のどもと》に切っ先を突きつける。ポルトスさまももはやこれまでと、まいったと申されました。すると相手は名を名乗れと言いますので、ポルトスさまが名前をおっしゃると、その男はダルタニャンという名でないのを知ったので、ポルトスさまに腕をかして抱き起こし、宿に運びこんでおいて、さっさと馬に乗って姿を消してしまいました」
「すると、その男が求めていたのは、ダルタニャンという男なんだね」
「そうらしいですね」
「それで、その後その男はどうなったか、あんたは知っているかね?」
「いいえ、ぞんじません。そのときはじめて見た顔で、その後は見かけませんでしたので」
「よし、わかった。これでわたしが知りたいと思ったことはわかった。ところで、ポルトスの部屋は、二階の一号といったな」
「はい、手前どもの最上の部屋でございまして、もう十|遍《ぺん》も借り手があったのでございますが」
「まあ、安心しろ!」と、ダルタニャンは笑いながら、「ポルトスがコクナール公爵夫人の金で支払いをしてくれるよ」
「そりゃ、だんなさま! 代訴人の奥さんだろうと公爵夫人だろうと、財布のひもをゆるめてくださる分なら文句はありません。ところが奥さんは、ポルトスさまの無心や不実にはもうこりごりした、一文だって渡すものかと、はっきりとそう申されたので」
「その返事をあの男に伝えたのかね?」
「そんなことはしませんとも。手紙を直接持って行ったことがばれてしまいますからね」
「ではあの男は、相変わらず金の来るのを待っているわけだね?」
「ええ、そうなんでございますよ! 昨日もまた、お手紙をお書きになりました。でも、こんどは従者の方がポストへお出しになりましたが」
「ところで、その代訴人の細君は、年寄りでみっともない女だと申したな!」
「少なくとも五十にはなっておりましょう。パトーの申すには、ちっともきれいな人ではないそうでして」
「うん、そんなら心配はいらんよ。そのうちに女は折れてくるだろうからな。第一、ポルトスの借金だって、たいした額ではあるまい」
「なんとおっしゃいます、たいしたものじゃあるまいですって。医者代は別にして、かれこれ二十ピストールになるんですよ。あの方はけちけちしないほうでして、よほどせいたくな生活になれておいでのようですな」
「まあいいさ、女が見捨てたら、友だちが払ってくれるよ。わたしが受けあうよ。だからご亭主、心配せずにあの男の言うとおりにめんどうをみてやってくれ」
「代訴人の奥さんのことも、おけがのことも、だまっていてくださいますね」
「わかってるよ。約束したではないか」
「わたしは殺されてしまいますからね!」
「びくびくするな。見かけほどこわい男じゃないよ」
そういってダルタニャンは、階段を上がって行った。宿の亭主は気にしていた二つのこと、貸した金と命について、いささか安心できてほっとしていた。
階段の上の廊下の一番目立つドアに、墨《すみ》黒ぐろと大きく[一号室]と書いてあった。ダルタニャンはノックをし、中から答えがあったのではいった。
ポルトスは横になって、腕前を落とさないようにと、ムスクトンを相手にカルタをやっていた。暖炉《だんろ》の火の前には、しゃこの肉が金串《かなぐし》に突き刺してかかっており、暖炉の両端の突き出たところには鍋《なべ》が二つ乗っていて、肉と魚の煮込みの匂《にお》いが鼻をくすぐった。なお、机や用たんすの上には、ぶどう酒の空瓶《あきびん》が林立していた。
友人の姿を見ると、ポルトスは歓声をあげて迎えた。ムスクトンはうやうやしく立ち上がって席を譲り、自分の係りである鍋のようすを見に行った。
「ああ、きみか!」と、ポルトスはダルタニャンに向かって、「よく来てくれたな。迎えに行かないですまなかった」とそういって、彼はダルタニャンの顔を気がかりそうにうかがった。
「おれのことを何か聞いたかね?」
「いや、なにも」
「宿の亭主が何も言わなかったかい?」
「貴公がいると聞いたので、そのままあがって来たのでね」
ポルトスは安心したようすだった。
「貴公はどうかしたのか、ポルトス?」と、ダルタニャンはたずねた。
「いや、あのとき相手に打ってかかって、三太刀《みたち》あびせてね、四度目にとどめをさしてやろうと右足を踏みこんだときに、石につまずいてひざをくじいてしまったんだ」
「ほんとかい?」
「そうなんだ。運のいい奴さ。さもなければそれで、お陀仏《だぶつ》だったんだからな」
「相手はどうした?」
「知らんね。そのまま逃げてしまったよ。ところで、貴公のほうはどうだったね?」
「それで」と、ダルタニャンは問いに答えずに、「そのときの捻挫《ねんざ》で寝ているというわけか?」
「そういうわけさ。なあに、あと四、五日すれば起きられるよ」
「では、なぜパリへ帰らなかったんだい? こんなところにいたら退屈しただろうに」
「おれもそう思った。だがね、実はわけがあるんだ」
「なんだね、それは?」
「いや、貴公の言うとおり退屈しちまってね、ちょうど懐中には分けてもらった七十五ピストールがあったろう。閑《ひま》つぶしに、通りがかりの貴族の男を部屋に呼んで、サイコロを振らんかと誘ったんだ。その男は応じた。そして七十五ピストールがおれのポケットからそっくり奴のポケットに納まっちまったんだ。おまけに、馬までさ。ダルタニャン、貴公のほうはどうだったんだね?」
「仕方がないよ、ポルトス、何から何までいいことってないよ」と、ダルタニャンはいった。「[恋に良ければ、賭けにわるし]って、ことわざにあるだろう。貴公は色恋沙汰でうまくいってるから、勝負運がないっていうわけさ。なあに、それくらいの損で、くよくよすることもあるまい! なあ、色男、あんたには公爵夫人がついてるじゃないか? きっと助けにきてくれるよ」
「そうなんだ! ダルタニャン」と、いかにも気楽なようすで、ポルトスは答えた。「賭けで負けたもんだから、五十ルイ送ってくれるようにあの女に手紙を書いたんだ。目下のところ、そのぐらいの金はどうしても必要だからね」
「そうしたら?」
「それがさ、返事が来ないところをみると、あの女は領地へ行っているにちがいないな」
「ほんとうかね?」
「そうなんだ。そこで昨日、前よりもせっついた手紙を出したんだ。まあいい、こうやって貴公が現われたんだから、そっちの話をしようじゃないか。じつは拙者も、貴公のことは心配しておったのでな」
「ところで、この宿の亭主は、貴公にはなかなかよくすると見えるね」と、ダルタニャンは、煮物の鍋《なべ》と空瓶とを指さしていった。
「それが、なかなかさ!」と、ポルトスが答えた。「三、四日前に、あの無礼者め、勘定書を突きつけて来やがった。そこで、勘定書もろとも追い出してやったよ。そんなわけで、いわば征服者っていう格好で、ここを占領しているようなもんだ。だからごらんのとおり、いつまた押し寄せてくるかわからんので、軍備おさおさ怠りなしといったわけさ」
「でも」と、ダルタニャンは笑いながら、「ときどきは外出するんだろう」
そういってダルタニャンは、空瓶と鍋とを指さした。
「それが出来んのだよ、残念ながら!」と、ポルトスは答えた。「捻挫《ねんざ》のおかげで、おれは寝台に寝たっきりさ。ムスクトンが駆けまわって、食糧を集めて来るんだ。おい、ムスクトン! 援軍が来たんだから、食糧の補給をせにゃならんぞ」
「ムスクトン」と、ダルタニャンが呼んだ。「ちょっと頼みたいことがあるんだが」
「なんでございますか?」
「おまえのやり方を、プランシェに伝授《でんじゅ》してくれ。こんどおれが包囲されたときに、おまえがやってるようなご利益《りやく》にあずからしてもらいたいからな」
「なあに、伝授も何もないので」と、ムスクトンは謙遜したようすを見せて、「ただちょっと器用にやればよろしいので、それだけのことでございます。わたしは田舎《いなか》育ちでございまして、おやじは閑《ひま》なときには、密猟などを少々やっておりました」
「そのほかのときは何をやってたんだい?」
「いつもわたしがうまいことをやりおるわいと思っているような仕事をしておりました」
「どんな仕事だね?」
「ちょうど新旧の宗教戦争の最中でして、旧教徒が新教徒を殺したり、新教徒が旧教徒を殺したり、それらがみんな宗教の名においてなされていましたので、信仰もごっちゃになってしまって、おやじはあるときは旧教徒になったり、あるときは新教徒になっていました。いつも小銃を肩にしてはぶらついていて、道のほとりの垣根の陰に隠れているのです。そこで旧教徒の人間がたった一人でやって来るのを見ますと、おやじはたちまち新教徒の血を湧き立たせます。銃をその旅人のほうへ向けて、相手が十歩ほどのところまで来ると声をかけるのです。
ほとんどたいていの場合、旅人は命が惜しくなって財布をなげだします。もちろん新教徒がやって来るのを見ると、おやじは十五分前のことはけろりと忘れて熱心な旧教徒となり、これこそわが宗教だとの確信に燃えて来るのです。そこで、だんなさま、わたしは父親の主義によって旧教徒となり、兄は新教徒になったしだいでございます」
「で、その[えらい]おやじさんはどうした?」
「はい、それがまことに不幸な結果となりました。ある日、窪地《くぼち》で、新教徒と旧教徒にはさみ討ちになってしまったんで。運わるく、それが前に相手にした男ときたもんです。二人はすぐにおやじを見破ってしまって、新旧両徒、力を合わせると、おやじを立木に吊し首にしてしまいました。ところでその二人が最初の村で自慢話をしていましたところ、そこでわたしたち兄弟が飲んでいたわけです」
「で、どうした?」
「奴らに言いたいことだけを言わせておいて」と、ムスクトンはつづけた。「さて二人が居酒屋を出て、それぞれ反対の道に分かれて行くのを見とどけますと、兄は旧教徒のほうへ、わたしは新教徒のほうへと、手分けして待ち伏せに出かけました。二時間ばかりで片がつきましたが、そのときわたしは、二人の子供を別の宗旨《しゅうし》に分けて育てるなんて、じつにおやじは先見の明があるなと感心しました」
「まったく、そのとおりだ、ムスクトン、おまえのおやじは、えらく利口な男だったにちがいない。ところで、閑なときは密猟をやっていたといったな?」
「さようで。罠《わな》を作ったり、投げ釣りをすることを教えてくれたのは、おやじでした。そこで、ここの亭主が土地の者の口には合っても、わたしどものか弱い胃袋はとうてい受けつけないようなものを食わせるのを見まして、昔の身につけたことを思いだしたようなわけでして。わたしは王子さまの森の中を歩いているうちに獲物《えもの》の通り道に罠をかけたり、池の端に這《は》いつくばって、釣糸を投げこんだりするのです。そんなわけで、いまではごらんのように、うずらや兎《うさぎ》や鯉《こい》や鰻《うなぎ》と、病人向きの軽い栄養のある食事には不自由いたしません」
「だが、酒は? 酒はどうやって手に入れるんだ。亭主がくれるのかい?」
「そうでもあり、そうでもなしというわけでして」
「それは、どういうわけだね?」
「亭主からもらってるわけですが、自分ではそうしているとは知らないんですから」
「説明してもらおう、ムスクトン、おまえの話はなかなか有益だからね」
「こういうわけでございます。わたしがぶらぶら歩きまわっていた頃、偶然出会ったスペイン人がありまして、この男はじつにいろいろな国を渡り歩いた男で、アメリカ大陸まで足を伸ばしたそうでして」
「机やたんすの上に並んでいる瓶《びん》と新大陸と、なんの関係があるのかね?」
「まあ待ってください、ものには順序がございますから」
「その通りだ、ムスクトン、よし、だまって聞くよ」
「そのスペイン人は下男を連れていまして、メキシコに渡ったときもその男を連れて行ったのです。この下男がわたしと同郷の生まれで、おまけに性格もたいへん似ていたもんですから、すぐに仲良くなってしまいました。わたしたちは二人とも猟がなによりも好きでして、その男はわたしに、メキシコの大草原で土人が虎や牛を捕えるのには簡単な輪差《わさ》結びを作って、それを恐ろしい動物の首に投げかけるんだと話してくれました。最初のうちはわたしも、そんな二、三十歩も離れたところから縄の端を、そんなにうまく投げることができるとは思いませんでしたが、その証拠を見せられると、その話がほんとうであることを認めないわけにいかなくなりました。その男は、三十歩ばかりのところに酒瓶を立てて投げ縄を投げると、なんどでも輪差結びがちゃんと瓶の首っ玉にひっかかるのです。わたしもやってみましたところが、もともと素質があったからでしょうか、今ではだれにも負けないくらい投げ縄がうまくなりました。
さて! これでおわかりになったでしょう? 宿の亭主は一杯酒を詰めこんだ酒蔵《さかぐら》を持っておりますが、その鍵を手離しません。ところがその酒蔵には空気穴が一つありましてね。つまり、その穴から輪差結びを投げるんです。いまでは、どこにいいのがあるかわかったもんですから、そいつを狙《ねら》うんです。これで新大陸と酒の瓶と関係のあるのが、おわかりでしょう。では、ひとつ味見をしていただいて、ご意見をうかがいたいとぞんじます」
「せっかくだが、食事をしてきたばかりなのでね」
「そうか!」と、ポルトスがいった。「ムスクトン、食事の用意をしたらいい。われわれは食事をしながら、ダルタニャンの身に起こった十日間のようすを聞くことにしよう」
「よかろう」と、ダルタニャンはいった。ポルトスとムスクトンが、あの回復期の病人らしい食欲と、不幸にある人間たちを近づけ合う、あの親密さを見せて食事をしているあいだに、ダルタニャンはアラミスがけがをしてクレーヴクールに残ったこと、アトスともアミヤンで、贋金《にせがね》づくりだと言われたために四人の男と剣を抜き放ったときに別れてしまったこと、そして彼自身は、ウァルド伯という男からひと太刀受けたが、やっとイギリスに渡ることができたことなどを話した。
しかしダルタニャンは、話をそこまでに止めておいた。ただ英国から帰るときにすばらしい乗馬を四頭連れてきたので、その一頭は自分の乗馬にし、あとの三頭はそれぞれ友人へ進呈するつもりだということ、そしてポルトスへ贈った馬は、すでにこの宿の馬小屋にはいっていることだけを知らせてやった。
ちょうどそのときプランシェがはいってきて、馬はもうじゅうぶん休息をとったから、今夜じゅうにクレルモンまで行くことができると伝えた。
ダルタニャンは、ポルトスについてはまあ安心したので、ほかの二人の消息を知りに急いで行かなければならないからといって、病人に手をさしだし、これから仲間を捜しに出かけるつもりだといった。それに七、八日後には同じ道を帰って来るつもりだから、ポルトスがなおこのグラン・サン・マルタン旅館に滞在しているなら、通りがかりに寄ってみるといった。
ポルトスは、たぶん捻挫《ねんざ》はそれまでに治らないだろうから、ここから出てはゆけまいと答えた。それに、公爵夫人の返事を待つためには、シャンティイに滞在していなければならなかった。
ダルタニャンは色よい返事が早く来るようにと祈り、ムスクトンにポルトスの世話を改めて頼み、宿の勘定をすませてから馬を一頭残して、プランシェとともに出発した。
二十六 アラミスの論文
ダルタニャンは、けがのことも代訴人の細君のことも、ポルトスには何も言わなかった。このベアルン生まれの青年は若いのに似合わず、たいへん賢明であった。彼は秘密をあばくことは、とくにその秘密が相手の自尊心にかかわりのある場合は、友情までも失うものであると信じていたので、このうぬぼれの強い銃士が語ったことはすべて信じているふりをしていた。それに相手の生活を見抜いていることは、精神的な優越感といったものを覚えるものだった。
ところでダルタニャンは、将来の計画において、三人の仲間を自分の立身の道具にしようという気持ちがあったので、彼らをあやつる助けとなる目に見えない糸をあらかじめ掌中に収めておくこともわるくはないと考えていた。
それにしても、道中ずっと、彼の心は深い悲しみに締めつけられる思いだった。自分の献身的な働きに対して褒美《ほうび》を与えてくれるはずだった、あの若くて美しいボナシュー夫人のことを考えつづけていたのだ。この悲しみは、しかし青年の心の中にあっては、彼自身の幸福が失われたことに対する心残りというよりも、あのかわいそうな女に不幸なことが起こりはしまいかという心配からきたものだった。彼女が枢機卿の復讐《ふくしゅう》の犠牲になったこと、これは疑いのないことだった。だれでもが知っているとおり、枢機卿の復讐は恐るべきものだった。それなのに自分だけは枢機卿からお目こぼしにあずかっているのはどういうわけなのだろうか、ふしぎだった。きっと、あのカヴォワ殿が来たときに家にいたならば、そのわけが聞けたかもしれないと思った。
あれやこれやと考えこんでいるときほど、時間の経つのが早く、道程《みちのり》を短かく感じさせることはない。そのようなときは、外の生活は眠っているようなもので、考えが夢のように過ぎてゆく。そのために時間には区切りがなく、空間はもはや距離をもたない。出発点があって、到着点がある、ということだけだ。途上の記憶としては、漠《ばく》とした霧ばかりで、その中に樹木や山や風景の眺めが溶けこんでしまっていた。シャンティイからクレーヴクールまでの二十五、六キロのあいだ、ダルタニャンはこのような幻覚におちいって、馬の歩くがままにたどって来たのであって、クレーヴクールの村に着いたときは、途中で見聞きした記憶は何ひとつ残っていなかった。
そこに着いたときやっと記憶がよみがえってきた彼は、頭をゆすって目の前にアラミスを残しておいた宿屋を認めると、馬の足を早めてその戸口に乗りつけた。
出迎えたのは、宿の亭主ではなくて、細君だった。ダルタニャンは観想家だったから、どこにでもあるようなその細君の陽気そうなまるまるした顔をちらっと見てとると、こんな明るい顔つきの女にわるい奴はいないから、べつに隠しだてをする必要はあるまいと思った。そしていきなりたずねた。
「おかみさん、十日ばかり前に、やむを得ずここへ残して行った友人があったが、その後どうしているだろうね?」
「二十三、四の、おだやかな、感じのいい、りっぱな方でしょう?」
「それに、肩に傷を受けている」
「そのとおりです!」
「それだよ」
「その方なら、ずっとご滞在です」
「よかったよ、おかみさん!」そう言ってダルタニャンは馬から降りると、手綱《たづな》をプランシェに投げかけて、「おかげで、助かった。どこにいるんだね、アラミスは? とにかく、早く会いたいんだがね」
「それが、だんなさま、いまいらっしゃっても、お会いになれますかどうか」
「どうしてなんだい? 女でも来ているのかい?」
「まあ、とんでもない! なにをおっしゃいます! あの方にかぎって、そんなこと! 女の人なんかといっしょじゃありませんよ」
「じゃ、だれといっしょなんだね?」
「モンディディエの司祭さまと、アミヤンのイエズス会の僧院長さまがおいででして」
「それは、たいへんだ!」と、ダルタニャンは叫んだ。「容態がわるくなったのか?」
「いいえ、そうじゃございませんよ、おけがのほうは、おなおりになったので。で、そのあと神さまのお加護で、坊さんにおなりになる決心をなさったんです」
「なるほど、そうか。あの男の銃士は仮《かり》の身分だということを、すっかり忘れていた」
「やっぱり、どうしてもお会いになりますか?」
「もちろん、そうさ」
「それでは、中庭の右手の階段をおあがりになって、三階の五番でございます」
ダルタニャンは言われた方角に飛びだすと、いまでも古い宿屋の中庭でよく見かける外階段が、そこにあった。だが、未来の神父のいる部屋には、そうかんたんに行かれなかった。アラミスの部屋に通じる狭い廊下は、まるでアルミダの庭園(タッソーの「エルサレムの解放」の作中人物で、そのふしぎな魅力のある庭が、騎士ルノーをひきつけ、十字軍参加をはばんだ)さながらに、厳重に守られていたからだ。従者のバザンが廊下に陣どっていて、頑《がん》として行く手をさえぎるのだった。バザンにしても、長年の願望が叶えられるのだから、懸命にならざるを得ないわけだろう。
たしかにバザンの夢は、聖職者に仕えるということだった。アラミスが銃士の服を僧服に着替える日の来るのを、今か今かと待ちこがれていたのである。青年によって、いずれ近いうちにそうなると毎日のように言われているので、彼もやっと銃士のそばに仕えていたが、彼に言わせると、このままこうやっていると、そのうちにきっと魂を失うことになると思っていた。
だからバザンは、いまはうれしくてならなかった。こんどこそは、主人も決心をくつがえすことはあるまい。精神上の苦悩に肉体の苦しみが重なって、待ち望んだ結果が到来したのだ。心身ともに傷ついたアラミスは、ついに宗教に心をこめて打ちこんだのだ。恋人の失踪と肩の負傷という二重の出来ごとを、神の啓示として受けとったからだ。
こういうときにダルタニャンがやってきたことは、バザンにとってはどれほど不愉快なことであるかは、だれにも容易に察せられるだろう。そのために主人が、あんなに長いあいだ苦しめられた俗界の渦《うず》の中に、またもや巻きこまれるおそれがあったからだ。そこで彼は、なんとしても頑として扉を守ろうと決意した。宿のかみさんが口をすべらしたからには、いまさらアラミスが留守《るす》だとは言えないから、朝から信仰上の討論をしている主人の邪魔をするのは不謹慎《ふきんしん》きわまることだと、説得これ大いにつとめた。そして、この討論はけさからはじまっているのだが、とても晩までには終わりそうもないというのが、バザンの言いぐさだった。
しかしダルタニャンは、バザン師のお説教などは問題にしなかったし、友人の従僕と言い争ってもはじまらないから、片手であっさりと彼を押しのけると、もう一方の手で五番の部屋のドアのハンドルをまわした。
ドアがあいたので、彼は部屋にはいった。
アラミスは黒い服を着て、頭にはまるくて平らな、まるで僧帽のようなものをかぶって、巻き物や、二折り判の大きな書物を積みあげた、楕円形《だえんけい》のテーブルの前に坐っていた。右手にはイエズス会の僧院長が、左手にはモンディディエの司祭がひかえていた。窓のカーテンは半ばひかれ、神秘的な光に包まれていて、宗教的な雰囲気《ふんいき》が漂っていた。若い男の部屋にはいったとき、とくにその男が銃士であるような場合にはすぐに目につくはずの俗界の品々は、まるで魔法にかかったように姿を消していた。おそらく、そうしたものを見ると、主人がまた俗念に引きもどされはしないかと心配して、バザンが、剣や短銃や、羽のついた帽子や、その他あらゆる刺繍やレースの類を取り払ってしまったからであろう。
その代わりに隅の暗いところに、自らを律するための鞭《むち》らしいものが、壁の釘《くぎ》にかかっているのを、ダルタニャンは見たような気がした。
ダルタニャンがはいってきた物音に、アラミスは頭をあげて、そこに友の姿を認めた。が驚いたことには、彼の姿を認めても、この銃士は、それほど感銘を受けたようすを見せなかった。それほど彼の心は、俗事からは遠ざかっていたのである。
「これは、ダルタニャン」と、アラミスはいった。「きみに会えて、うれしいよ」
「わたしもだ」と、ダルタニャンは答えた。「ただ、ここにいるのがアラミスだとは、まだどうしても信じられんがね」
「まちがいなく、わたしだよ。だが、どうしてまた、そんなにへんな気がするんだね?」
「部屋をまちがえたかと思ったくらいだ。てっきり、どこかの坊主の部屋へはいったかなと思ったよ。それからこんどは、この方たちがおられるんで、また思いちがいをしたんだ、貴公の容態がいよいよ悪いとな」
二人の黒衣の男は、ダルタニャンの考えを見抜いて、まるでおびやかすような目つきをした。が、彼は、いっこうに、そのようなことを気にしなかった。
「おじゃまだったようだな、アラミス。このようすでは、貴公はこの方たちに懺悔《ざんげ》を聞いてもらっているところらしいな」
アラミスは、ちょっと顔をあからめた。
「わたしのじゃまをしたって? まったく、ちがうよ、とんでもないこった。それが証拠に、ほら、このとおり、きみが無事なのを見て、こんなによろこんでるじゃないか」
[ああ! やっと、話がはこんできたぞ。うまいぐあいだ]と、ダルタニャンは思った。
「と申しますのは、この男はわたくしの友人でございますが、たいへんな危険を切り抜けてまいったものですから」と、アラミスは殊勝《しゅしょう》な顔をして、ダルタニャンを二人の聖職者に紹介した。
「神をお讃《たた》えなさい」
二人はいっしょに身をかがめて、答えた。
「もちろん、いたしましたとも、神父さま」と青年は会釈を返しながら、そう答えた。
「いいところへきた、ダルタニャン、貴公もぜひ討論に加わって、意見を述べてもらいたい。アミヤンの僧院長さまと、モンディディエの司祭さま、それにわたしの三人で、かねてから問題になっている神学上の事柄について、いろいろと論じていたところだったのだ。貴公の意見が聞かれれば、ありがたいのだが」
「武人の意見なんて権威はないさ」と、ダルタニャンは答えたが、その場の空気に、いらいらしはじめていた。「ここにおられる方々の学識で、もうじゅうぶんだと思うがね」
黒衣の二人は、頭をさげた。
「そうじゃないんだ」と、アラミスが、ふたたび口をひらいた。「貴公の意見が、大いに貴重なんだ。問題は、つまりこうなんだ。いいかね、僧院長さまは、わたしの論文は、まず教義論で、しかも教訓的でなければならぬ、とおっしゃるのだがね」
「へえ、論文だって! では、貴公は論文を書くのかね?」
「もちろんです」と、僧院長が口をはさんだ。「叙品式(品級の秘蹟を授け、司祭の資格を与えるカトリック教会の儀式で、司教によって行なわれる。品級には下級四段と上級三段の七級がある)をうける前の試問には、必ず論文を必要とするのです」
「叙品式だって!」
宿のかみさんやバザンの言うことを本気にして聞いていなかったダルタニャンは、「へえ、叙品式!」と叫んで、目の前にいる三人を、さもあきれたというふうに順ぐりに見まわした。
「さて」と、アラミスは、婦人の居間にいるときのように肱掛椅子《ひじかけいす》の上で気どった姿勢をとりながら、女の手のようにぼってりした白い手を満足そうに眺めやって、その手を血をさげるために宙にかざした。「ダルタニャン、いま話したように、僧院長さまは、わたしの論文は教義中心であることを希望されるのだが、わたし自身としては、観念的であるほうがいいと思うのだよ。それだからこそ僧院長さまは、まだだれも扱ったことのない主題をわたしにくださったわけなのだから。この主題には、大いに論議を進むべき材料がたくさんあるのでな。Utraque manus in benedicendo clericis inferioribus necessaria est.」
ダルタニャンの博識はすでにわれわれも知っているように、彼はこの引用文を聞いても、この前トレヴィール殿がバッキンガム公からの贈りものと思って引用した句を聞いたとき同様に、眉ひとつ動かさなかった。
「つまり、こういう意味だ」と、アラミスは、わかりやすいように説明した。
「[下位の司祭が祝福を与えんとするときには、二本の手を必要とする]ということだよ」
「すばらしい主題です!」と、僧院長がいった。
「すばらしいし、また教義的です」と、司祭が、繰り返していった。ラテン語の力ではダルタニャンといい勝負のこの男は、調子を合わせようと僧院長のようすをうかがっていたが、まるで山彦《やまびこ》のように、僧院長の口まねをしたのだった。ダルタニャンはといえば、いくら二人の黒衣の男が感激しようが、いっこうそれに乗って来なかった。
「そう、すばらしい! prorsus admirabile!(まさに、すばらしい!)と、アラミスはつづけた。「しかし、教父たちや聖書のことを、よほどふかく研究する必要がある。ところが、この方たちには告白をしたが、隊の勤務や陛下へのご奉公のために、お恥ずかしいしだいだが、つい研究をおこたっていたのでね。それで、自分の選んだ主題のほうが、気楽に、facilius natans にやれるんだ。それは、こういうむずかしい神学上の問題に比べれば、哲学でいえば形而上学《けいじじょうがく》に対する道徳論のようなものだからね」
ダルタニャンは、すっかり退屈していた。司祭も同じだった。
「りっぱな序説です」と、僧院長が大声でいった。
「Exordium(序説)ですね」何か言わねばならぬので、司祭が繰り返した。
「Quemadmodum inter coelorum immensitatem」〔神学が提出する大きな主題をほのめかして、「広大な宇宙のただなかにおけるがごとく」とか、「宇宙の広大無辺におけるがごとく」の意〕と、これは僧院長。
アラミスがダルタニャンのほうへ目を走らせると、彼はあごがはずれるほどの大あくびをしていた。
「フランス語で話しましょう」と、彼は僧院長にいった。「ダルタニャン君には、そのほうがはっきりしてよろしいでしょうから」
「うん、長旅で疲れているので、ラテン語がよく耳にはいらないものですから」とダルタニャンはいった。
「よろしい」と、イエズス僧のほうはいささか残念そうだったが、司祭のほうはほっとしたようすで、ダルタニャンに感謝の視線を送った。
「それでは! この注釈をどう解したらよいか、これを考えてみるとしましょう」と、僧院長はつづけた。「モーゼ、神の下僕《しもべ》であるモーゼが……いいですか、たんなる神の下僕ですよ。そのモーゼが、両手をあげて祝福をなさったのです。彼はヘブライ人が敵とたたかっているあいだ、その両腕をさしのべています。つまり彼は両手で祝福をしたのです。第一、福音書には、なんと書かれてありますか? Imponite manus とあって、 manum とは書いてない。[両手を置け]で、[片手で]ではない」
「両手を置け」と、司祭は身ぶりといっしょに、繰り返していった。
「ところが、法王たちがその後継者となった、聖ペテロはちがます」と、僧院長は、なおもつづけた。「Porrige digitos, つまり、指をさしだせ、といっています。おわかりですかな?」
「わかります」と、アラミスはうれしそうに答えた。「でも、なかなか微妙な問題ですな」
「指ですよ!」と、僧院長は、ふたたびいった。「聖ペテロは、指でもって祝福をされたんです。そこで法王も、指でなされるのです。では、何本の指でなされるのでしょうか? 三本の指です。父と子と聖霊のためにです」
みんなは、十字を切った。ダルタニャンも、その例にならわなければなるまいと思った。
「法王は聖ペテロの後継者ですから、三つの神権を代表します。それ以外の聖職者、Ordines inferiores(下位の聖職者)は、天使長たちや天使たちの名において、祝福をします。助祭や聖器係りのような最下級の者たちは、祝福する無数の指をかたどった灌水器《ブラシ》によってするのです。主題を簡単にすると、こうなるわけです。Argumentum omni denudatum ornamento わたしならこれで、これくらいの大きさの本を二冊書きますよ」と、僧院長は、なおつづけていった。
こういって、熱中した彼は、重さでテーブルもたわむばかりの二折り判の本を、ぽんとたたいた。
ダルタニャンは、身ぶるいした。
「たしかに」と、アラミスはいった。「この主題のりっぱなことは認めますが、同時に、それは、わたしには重荷のように思われますね。なあ、ダルタニャン、わたしはこの主題を選んだのだが、貴公の考えはどうかね。[Non inutile est desiderium in oblatione]
つまり、[主への捧げ物の中にも、いささかの悔恨《かいこん》はゆるされてもよし]というのだが」
「お待ちなさい!」と、僧院長が叫んだ。「どうもその主題は、異教徒の匂いがしますな。あの邪教の主唱者ジャンセニウスの[アウグスチヌス]の中に、それとほとんど同じような主張がある。いずれにしてもこんな本は役人の手で焼かるべき運命にありますがね。とにかく、お気をつけになるがいい! あなたは誤った教義に近づいておられる。身をほろぼしまするぞ!」
「身をほろぼしますぞ」と、司祭は、いたましそうに頭をふって、また繰り返した。
「あなたの考えは、あの致命的な危険思想である、あのとんでもない自由意志の考えに近い。あなたは、ペラージュ派、もしくは半ばペラージュ派の原罪否定説に近づいておられる」
「しかし、僧院長さま」と、アラミスは、身にふりかかる非難の雨にいささか狼狽《ろうばい》して、さえぎった。だが僧院長は、アラミスに口をきかせる余裕を与えずに、つづけた。
「神に身を捧げるにあたって、俗界に悔《くい》を残すにちがいないということを、どうしてあなたは立証できますか? このジレンマはどうします、[神は神、俗界は悪魔]ということです。俗界を惜しむということは、悪魔を惜しむということですぞ。これが、わたしの結論です」
「わたしの結論も同じことです」と、司祭もいった。
「だが、どうか、わたしの言うことを!」と、アラミスがいった。
「Desideras diabolum(悪魔を惜しまれるとは)不幸なお人だ!」と、僧院長は叫んだ。
「悪魔を惜しまれるとは! ああ、お若い方」と、司祭は悲痛な声をふりしぼって、「悪魔を惜しまれることは、おやめください、わたしからもお願いします」
ダルタニャンは、茫然自失《ぼうぜんじしつ》の体《てい》だった。まるで狂人の家にいる気がしてきて、自分も眼前の狂人になってしまうように思われてきた。ただ、目の前で話されている言葉がまるで理解できないのでだまっているよりほかに仕方がなかった。
「しかし、わたしの言うこともお聞きください」と言うアラミスの言葉は丁寧だったが、いささかいらいらしてきたようすだった。「わたしはなにも、惜しむなどとはいっておりません。いや、けっして教理にもとるようなことは、口にはしていないつもりです……」
僧院長は、両腕をあげた。司祭も、それにならった。「とにかく、自分にもまったく不愉快なことを主に捧げるということは、少なくとも主に対して失礼だとは思いませんかね。どうです、ダルタニャン、そうじゃないかな?」
「まったく、そのとおりだ!」と、ダルタニャンは大声で、それに応じた。
司祭と僧院長は椅子の上で飛びあがった。
「わたしの考えの出発点は、こうです。三段論法ですが、俗界には魅力がないわけではない。わたしは俗界を離れる。それゆえ、わたしは犠牲を行なうわけである。ところで、聖書にも、はっきりこう書いてあります。[主のために犠牲をなせ]と」
「それはそうだ」と、論敵たちもうなずいた。
「それで」と、アラミスは、手を振って白く見せようとするのと同じく、耳を赤くしようとしてつねりながら、「それでわたしは、そのことを短詩《ロンドー》につくって、昨年ヴォアテュール氏に見せたところ、あの大詩人がたいへん賞めてくれましてな」
「ロンドーか!」と僧院長は、さも軽蔑《けいべつ》するようにいった。
「ロンドーですと!」と、機械的に司祭もいう。
「聞かせたまえ。気分が変わってよかろう」と、ダルタニャンは叫んだ。
「いや、宗教的なものだから。いわば、韻文《いんぶん》の神学というものだから」と、アラミスが答えた。
「なんだ!」と、ダルタニャンがうそぶく。
「こういうものですが」と、アラミスは、ちょっと謙虚のようすを見せていったが、そこには偽善の色を隠しおおせなかった。
[#ここから1字下げ]
なんじ、たのしき過去に涙ながし、
不幸な日々を送れども、
なんじの不幸はすべて終わらん、
その涙をひたすらに、
神のみまえに捧げる日に。
[#ここで字下げ終わり]
ダルタニャンと司祭とは、興味をおぼえたらしかった。しかし僧院長は、自説を固執《こしつ》した。
「神学を取り扱う文章に、俗界の趣味を入れないようにしていただきたい。事実、聖アウグスチヌスは、なんと言いましたかな。Severus sit clericorum sermo.」
「さよう。説教は明瞭《めいりょう》であれ、とな」と、司祭が口をはさんだ。
「とにかく」と、脇の坊主がまちがったのをいったので、あわてて僧院長はさえぎった。「まあ、あなたの主題は、ご婦人方の気にいるかもしれんが、それだけのことです。かのパトリュ先生(当時の有名な弁護士で、作家でもあった)の弁論ぐらいの評判は得られるでしょうがね」
「それは、ありがたい!」と、アラミスは夢中になって叫んだ。
「それ、そのとおり」と、僧院長は叫んだ。「あなたの耳には、まだ俗界の声が声高らかに、つまり、altissima voce に聞こえている。あなたは、まだ俗界を追っていられる。そんなふうでは、神の恩寵《おんちょう》もあらたかではありませんぞ」
「ご安心ください、僧院長さま。その点は、だいじょうぶです」
「俗界の虚栄心が!」
「わたしは、自分というものを知っております。わたしの気持ちはゆらぎません」
「では、なんとしても、その主題でお書きになるつもりですか?」
「どうも、それを書くのがいいような気がします。それ以外にはないようですな。ですから、それをつづけて行くことにしましょう。あなたのご意見を容れて訂正し、明日はもう少し満足していただけるものにしたいものだと、念じております」
「ごゆっくり勉強なさってください」と、司祭はいった。「これであなたも、考えやすくなったでしょう」
「さよう。大地には種はじゅうぶんまかれている」と、僧院長がいった。「種の一部分が石の上に落ち、一部分が往来に散って、そのほかは、空の鳥がきてついばんでしまう、 Aves coeli comederuntillam というような心配はないわけだ」
「ラテン語なんか、くたばってしまえ!」と、ついにがまんしきれなくなって、ダルタニャンが叫んだ。
「では、失礼するとしよう。明日また」と、司祭がいった。
「では明日、お若い方」と、僧院長。「あなたは、教会の光のひとつになろうとしておられるのじゃ。どうかその光が、灼《や》きつくすような烈しい火になりませんように」
いらいらしながら爪を噛んで一時間も待たされたダルタニャンは、いよいよ座にいたたまれなくなっていた。黒衣の二人は立ち上がると、アラミスとダルタニャンとに挨拶をして戸口のほうへ向かって行った。立ったまま、敬虔《けいけん》な喜びをもって、信仰上の議論を聞いていたバザンは、二人のほうへ飛んで行って、司祭の手からは聖務日課書を、僧院長の手からは祈祷書《きとうしょ》を受け取ると、うやうやしく二人の先頭に立って案内した。
アラミスも階段の下まで送って行ったが、もどって来ると、まだぼんやり考えこんでいるダルタニャンのそばにやってきた。
二人きりになると、どちらもまず、なんとなくばつのわるい思いで、だまりこんだままだった。だが、どちらかが先に切りださねばならず、ダルタニャンが相手にそれをゆずろうとしている気配《けはい》を示して、アラミスがまず口を開いた。
「ごらんのとおり、これでわたしも、本来の理想にもどったことがわかるだろう」
「なるほど。さっきの坊さんがいったように、恩寵があらたかというわけだな」
「ああ! この俗界を去ろうという気持ちは、かなり久しい前からのことだからな。このことはずいぶん聞かされたことだろう?」
「そりゃそうだが、わたしは、貴公がじょうだんをいっているものとばかり思ってたよ」
「こうした事柄に、じょうだんがいえると思うかい、ダルタニャン!」
「いや、死についてだって、じょうだんは言えるからな」
「そりゃ、ちがってるよ、ダルタニャン。なぜならば死とは、永罰か救霊かのいずれかへ導く門戸なのだからな」
「よろしい。だが、お願いだから、神学の話はよそうよ、アラミス。あれだけやったんだから、今日のところは、もうじゅうぶんだろう。こちらときちゃ、もともと覚えていなかったラテン語を、すっかり忘れているもんでね。それに、正直のところ、けさの十時からなんにも食べていないんで、腹がすいて死にそうなんだ」
「すぐに食事にするとしよう。ただ、きょうは金曜日だということは考えといてくれ。この日は肉は見ても食べても、いけないんだ。もしわたしの食事でがまんしてくれるなら、テトラゴーヌの煮たのと果物《くだもの》だけだよ」
「そのテトラゴーヌってのは、なんだね?」と、心配になってきたので、ダルタニャンはたずねた。
「ほうれん草のことさ」と、アラミスは答えた。「しかし、きみには卵をつけるとしよう。本来なら卵はひな鳥を生むので肉にはいるんだから、大きな違反なのだが」
「うまそうな食事じゃないが、まあ、よかろう。貴公といっしょにすごすためには、それもやむ得まい」
「辛抱《しんぼう》してくれて、ありがとう」と、アラミスはいった。「でも、からだのためにはならなくとも、きっと心の糧《かて》にはなるよ」
「それでは、アラミス、貴公はどうしても宗門にはいると、きめたんだね。友だちがなんと言おうが、トレヴィール殿がなんと言おうが、かまわないんだね? きみは脱走者にされてしまうな、きっと」
「宗門にはいるんじゃなくて、わたしはそこにもどるんだよ。教会を捨てて、俗界にはいったのだからね。きみも知ってのとおり、銃士の制服を着るのも、やっとの思いでしたんだ」
「いや、わたしは、その話は知らんな」
「わたしがどうして神学校を去ったか、その話、知らないのか?」
「ぜんぜん知らんね」
「じつは、こうなんだ、ダルタニャン、聖書も[なんじら、互いに告白せよ]といっているくらいだから、わたしも告白するよ」
「では、こっちも話を聞く前に、免罪を申し渡しておくとしよう。どうだい、親切な男だろう」
「神聖な話に、じょうだんをいってはいかんな」
「では、話したまえ。聞くとしよう」
「わたしは九歳のときに神学校へはいったのだが、あと三日で二十歳になろうとしたとき、そうなればいよいよ神父になれることになっていたんだ。その晩、例によって、それまでちょいちょい遊びに行っていたある家に出かけた。なにしろ若かったし、仕方がないやね! 人間って弱いもんさ。わたしがその家の女主人に聖者伝を読んで聞かせているのを、嫉妬の目で見ていた一人の士官が、とつぜん案内もこわずにはいってきた。ちょうどその晩は、ジュディット(旧約聖書中のジュディット書)の挿話を訳して、その詩句を聞かせてやっていたのだが、女はなかなかうまいといって賞《ほ》めてくれて、わたしの肩に寄り添い、いっしょに読み返す始末だった。たしかにその姿勢はいささかふしだらだったが、それが、その士官の気にさわったんだね。その男は、その場ではなんにも言わなかったが、わたしがその家を出ると、あとからついてきて、
[神父さん、あんたは、杖で打たれることがお好きかな?]と、きくんだ。
[お答えできませんな。だれからも、そういうことをされたことがないんで]と、わたしは答えてやった。
[では、いいかな、神父さん! あんたが、今晩わたしと出会った家へまた行くようなことがあると、このわたしが、あんたをそういう目にあわせてやろう]
わたしは、こわかったんだね。ひどくまっさおになって足がわなわなふるえ、返事をしようとしても声が出なかった。士官はわたしの返事を待っていたが、わたしがだまっているのを見ると、声をあげて笑いだし、くるりと背を向けると、その家へもどって行った。わたしは神学校へ帰った。
わたしはれっきとした貴族だし、また気性が烈しいことは、ダルタニャン、きみもよく知ってるだろう。それは、ひどい侮辱《ぶじょく》だった。それはだれにも知られてはいないことだったが、わたしはその侮辱が心の底でうずき、わたしをはげしくゆさぶるのを感じたのだ。わたしは院長に、まだ叙品の資格がじゅうぶんでないように思うからと申し出て、その式を一年延期してもらった。
わたしはパリで一級の剣術の師範を見つけ、毎日稽古をつけてもらうことにして、一年間毎日通った。そして侮辱を受けたちょうど一周年めの記念すべき日に、わたしは僧衣を脱いで騎士の服装を着こみ、わたしの知り合いの某婦人の催した舞踏会へ行った。あの男がその席に出ていることを知っていたのでね。ラ・フォルス監獄《かんごく》のすぐそばの、フラン=ブルジョワ街だった。
はたして、例の士官はきていた。彼がやさしい目つきで一人の女を見ながら、恋の小詩をうたっているところへ近づいて行って、ちょうど第二節のあたりで声をかけた。
[あなたはいまでも、わたしがパイエンヌ街のあの家へ出かけると、お気にさわりますかな。もしわたしがあなたに逆らってそこへ出かけたとしたら、やはり杖でわたしをおぶちになりますかね?]
男はびっくりしてわたしを見ていたが、
[なんのことでしょうか? わたしはあなたをぞんじあげないが]
[わたしは聖者伝を読み、ジュディットを韻文に訳していた神父の卵ですが]
[ああ! 思いだした]そういって士官は、こんどは愚弄《ぐろう》するように、[それで、なんのご用かな?]
[ちょっとそこいらを、ごいっしょに散歩願いたいのですが]
[もしよろしかったら明朝にしていただきたい。たのしみにして待っていますよ]
[いや、明朝では困る。すぐにしてもらいたい]
[たってと言われるなら……]
[もちろん、そうしていただきたい]
[では、出かけよう。ご婦人方は、どうかそのままで。なあに、この若いのをちょっと片づけて、またもどってきて詩をつづけますから]
わたしたちは外へ出た。わたしは一年前のちょうどこの時刻に、その男から挨拶を受けたパイエンヌ街のあの場所に連れて行った。すばらしい月夜だった。二人は剣を抜きはなった。わたしは最初のひと突きで、相手を倒した」
「いいぞ!」と、ダルタニャンが言い放った。
「ところで」と、アラミスはつづけた。「婦人たちは歌い手が帰って来ないので、さがさせにやったところ、男はパイエンヌ街で胸を突き抜かれて死んでおり、下手人《げしゅにん》はいっしょに出て行ったわたしだということになって、たいへんな話題になってしまった。そんなわけでわたしは、しばらくのあいだは聖職につくことをあきらめなければならなくなった。そのとき、ちょうどその頃知り合いになったアトスと、わたしに剣術や、そのほかのいろいろわるいことを教えてくれたポルトスの二人に銃士になることをすすめられた。わたしの父はアラスの攻城で命を落としたので、国王陛下の寵を受けていたこととて、わたしの採用はすぐさまきまった。これだけ話せば、いまのわたしが聖職にもどる絶好の機会にあることぐらいは、きみにもわかってもらえるだろう」
「ところで、どうして昨日や明日ではなくて、今日でなければいけないのだ? そんな、とんでもない考えを起こしたのは、いったいどういうわけなんだ?」
「この傷を受けたことが、ダルタニャン、これがわたしには天のお告げになったのさ」
「傷だって! なんだね、もう、ほとんどなおっているじゃないか。貴公がいま悩んでいるのは、そんな傷ではないにきまっている」
「では、なんだっていうんだい?」アラミスは、赤くなって聞いた。
「アラミス、あんたは、心の傷を負っているんだよ。ひどく烈しい、血まみれの傷さ、女のためにできた傷だよ」
アラミスの眼が、ひとりでにきらりと光った。
「いや」と、わざと無関心を装って感動を隠しながら、彼はいった。「そんな話は、もうよそう。わたしが、そんなことを考えるなんて! 心の傷なんて! そんなものは、[空《くう》の空なのだよ]いまさらわたしが、そんなものに頭を悩ますとでも思っているのかい? いったい、だれのためにだね? どこかの町の女にかい、それともどこかの小間使いにかい? そんなこと、じょうだんじゃないよ」
「いや、いや、アラミス、貴公の的は、もっと上のほうにあったと思うが」
「もっと上のほうだって? このわたしに、そんな野心が持てるかっていうんだ。たかが一介《いっかい》の名もない銃士だよ。お世辞を言うのがきらいで、社交界では肩身の狭い思いをしているこのわたしだよ」
「おい、アラミス、アラミス!」と、ダルタニャンは、信用できないといった顔をして友の顔を見ながら叫んだ。
「いや、いや、すべては塵芥《ちりあくた》だ。わたしはその塵芥の中に帰るのだ。この世は屈辱と苦悩にみちている」と、彼は苦悩に顔を曇らせながら言いつづけた。「人生を幸福に導いている糸はどんな糸でも、もしそれが黄金の糸ならばなおのこと、握っている手の中でつぎつぎに切れていく。いいか、ダルタニャン」
その声をそっと苦悩に沈ませてアラミスは、「悩みがあったら、そっとそれを隠しておくことだ。沈黙は、不幸の唯一の喜びっていうわけさ。自分の苦悩のあとを、だれにも見せないようにするってことだよ。おせっかいな他人さまは、傷ついた鹿にたかって血を吸う蝿《はえ》のように、貴公の涙を吸いあげてしまうからね」
「ああ、アラミス」と、こんどはダルタニャンが、深いため息をついた。「そう言われてみると、それはわたし自身の身の上そっくりだ」
「なんだって?」
「そうだとも。わたしが愛し、焦《こ》がれている女がね、力ずくで誘拐されてしまったんだよ。どこにいるのか、どこに連れ去られたのか、それがまったくわからないんだ。たぶん監禁されているのだろう。あるいは死んでいるのかもしれない」
「しかし、その人が自分から貴公を捨てて行ったのではないから、その点はせめてもの慰めになる。消息が知れないからといったって、それは先方から出したくたって出せないのだからね。ところが、こっちときたら……」
「だから、どうした……」
「いや、なんでもない」と、アラミスは、すぐに打ち消した。
「それで貴公は、永久に俗界を捨てるわけだね。そうと、決心をしたんだね、覚悟をきめたんだね」
「今後永久にだ。今日は、貴公はわたしの友だ。だが明日ともなれば、貴公はわたしにとってただの影にしかすぎなくなる。というよりも、もう貴公の存在はないんだ。この世は、墓場以外の何物でもない」
「おや、おや、情けないことになったな」
「仕方があるまい! わたしの天職がそう命じ、そう言わせるんだから」
ダルタニャンは微笑を浮かべて、ひと言も答えない。アラミスは、なおもつづけた。
「だが、この俗界にいるうちに、貴公や仲間たちのことを、貴公とじっくり話したかったんだ」
「拙者もだ」と、ダルタニャンは答えた。「貴公のことについて大いに話したかったのだが、どうやら貴公はもうすっかり俗界を離れたようだからな。恋なんかには目もくれないし、友人は影にすぎんと言うし、この世は墓場だとおっしゃる」
「いずれ貴公も、そう思うようになるさ」
「では、もうこの話はよそう」と、ダルタニャンはいった。「この手紙は焼き捨てるとしよう。きっとまた、あの町の娘か小間使いの不実なたよりにちがいないからな」
「どんな手紙だい?」と、アラミスはせきこんでたずねた。
「貴公の留守中に家にきていたのを、ことづかってきたんだよ」
「だれからだろうね」
「なあに、どこかの泣きべそをかいてる侍女か、悲嘆にくれてる町の娘だろうよ。あるいは、シュヴルーズ夫人の小間使いかもしれんな。ご主人といっしょにツールへ帰らねばならなかったので、気をきかして香入りの紙を使い、侯爵夫人の紋章を拝借して封印をしたんだろう」
「それは、どういうことだい?」
「おや、なくしてしまったかな!」
青年は意地わるく、わざと捜すようなふりをしてみせた。「でも幸いなことに、この世は墓場で、人間は影だと貴公はいっているんだから、もちろん女も影というわけだし、色恋なんか貴公にはどうだっていいということだろうからな」
「おい、おい、ダルタニャン、なんでそんなに拙者を苦しめるんだ」と、アラミスは叫んだ。
「あったぞ、やっと見つかった」と、ダルタニャンは、ポケットから手紙を取りだした。
アラミスは飛びあがってその手紙をひったくると、むさぼるように読みくだした。とたんに、その顔は明るくなった。
「侍女は、なかなか文章が達者だと見えるな」と、使者はのんきそうに言っている。
「ありがとう、ダルタニャン!」アラミスはまるで我を忘れて叫んだ。「あの人はやむを得ずツールに帰ったんだ。拙者を裏切ったわけじゃない、やっぱりずっとわたしを愛していてくれてるんだ。ありがとう、きみ。もう幸福で、息がつまりそうだよ」
二人の友は、あらたかな聖文集のまわりをまわって踊りはじめ、床にころげ落ちた論文のページを思いきり踏みにじった。
このとき、バザンがほうれん草と卵とを持ってはいってきた。
「あっちへ行け、とんまめ」と、アラミスは僧帽を脱いで投げつけた。「そんないやらしい野菜や料理は持っていって、もとのねぐらにひっこんでろ。そしてベーコンをつめた兎《うさぎ》と、こってりした鶏肉と、にんにく入りの羊と、上等のブルゴーニュぶどう酒を四本、大いそぎで注文してくるんだ」
バザンはじっと主人の顔を見つめていたが、その変わりようの理由がはっきりつかめないので、すっかりふさぎこんで、卵をほうれん草の皿へ、そしてほうれん草を床の上へ、だらしなくこぼした。
「さあ、貴公、いよいよ主に捧げるときが来たようだな。もっとも、まだその気があればだが。 Non inutile desiderium in oblatione (主への捧げものの中にも、いささかの悔恨《かいこん》は許されてあるべし)だからだが」と、ダルタニャン。
「ラテン語なんか、くそくらえだ! さあ、ダルタニャン、大いに飲もう。思いっきり飲もう。そして仲間のようすを、少しばかり聞かせてくれよ」
二十七 アトスの妻
「あとに残った仕事は、アトスの消息をたずねることだ」とダルタニャンは、すっかり元気を取りもどしたアラミスに向かっていった。彼は友に、二人が別れてからのパリでの出来ごとをすっかり語りおわり、すばらしいご馳走が、一人には論文のことを、もう一人には道中の疲労を忘れさせたときだった。
「あの男がへまをやるとは思われんな。アトスは冷静で勇敢で、あれほど巧みな剣の使い手なんだから」
「たしかに、そのとおり。アトスの勇気と腕前は、このおれが一番よく知っている。だがおれだって、剣の相手としては、棒でかかってこられるよりは、槍で向かってこられるほうがいいからね。アトスが、あの下男どもにやられてはいないかと、いささか心配なのさ。なにしろ奴らときたら、ただめったやたらになぐりかかってきて、潮《しお》どきというものを知らんのだから。だから、できるだけ早く、ここを出て行きたいんだ」
「ぜひ一緒について行きたいのだが」とアラミスはいった。「まだとても馬には乗れそうもない。きのう、あの壁にかかっている鞭《むち》を振ってみたのだが、痛くてそういう信仰の修行さえつづけられなかったのでね」
「鞭をふって鉄砲傷をなおそうなんて話は、聞いたこともないな。とにかく貴公は病人なんだ。病人というものは、とかく頭が変になるものだ。まあ、大目に見ておこう」
「で、いつ出発する?」
「明朝早々に。今晩はゆっくり休みたまえ。明日になって、もし出来たら、いっしょに出発するとしよう」
「では、明日」と、アラミスはいった。「いかに不死身のからだでも、貴公も休まなきゃいかんからな」
翌日、ダルタニャンがアラミスの部屋に行ってみると、彼は窓のところにいた。
「何を見てるんだい?」とダルタニャンはたずねた。
「いや、別当がくつわをとっている三頭の馬に見とれているのさ。ああいった馬で旅をするのは、まさに王侯の楽しみだな」
「では、アラミス、その楽しみを貴公も味わったらいい」
「ええ、なんだって! どの馬をとったらいいんだい?」
「三頭のうち、どれだっていいよ。おれは、どれだっていいんだから」
「馬にかかっているみごとな馬飾りもか?」
「もちろん、そうさ」
「じょうだんだろう、ダルタニャン」
「貴公がフランス語で話すようになってから、じょうだんなんか言いやしないよ」
「あの金ばりの鞍袋《くらぶくろ》も、ビロードの鞍敷も、銀の留金の鞍も、みんないっしょにか」
「そりゃ、そうだよ。みんな、きみのものさ。いま棒立ちになった馬、あれはおれのもので、跳《は》ねまわっているやつ、あれはアトスのものだ」
「ううん、まったくすばらしい馬だな、あの三頭は」
「貴公の気にいったとは、うれしいかぎりだよ」
「陛下からくだされたものかね?」
「枢機卿からの贈りものでないことだけはたしかだ。しかし、どこからの贈りものであろうと、心配はいらんよ。ただ、その中の一頭が貴公のものだということだけを考えておけばいい」
「あの赤毛の下男がひいている、あいつをもらうとしよう」
「いいとも!」
「こいつは、すばらしい!」と、アラミスは声を張りあげた。「おかげで傷の痛みがすっとんでしまったよ。からだに三十発|弾丸《たま》がはいっていようが、あいつを乗りまわしてやるぞ。なんてすばらしい鐙《あぶみ》なんだ!おいバザン、こっちへ来い、すぐにだ」
バザンが元気のない、打ちしおれたようすで、入口の敷居に現われた。
「剣を磨いて、帽子の型をなおし、外套にブラシをかけて、短銃には弾丸をつめておけ」と、アラミスは命じた。
「最後の命令はいらんよ」と、ダルタニャンがさえぎった。「貴公の鞍袋には、弾丸をこめた短銃が、ちゃんとはいっている」
バザンは、ため息をついた。
「まあ、バザン先生、心配することはないよ」と、ダルタニャンがいった。「どんな境遇にあったって、神の国へは行けるんだからな」
「うちのだんなさまは、もうれっきとした神学者でござらっしゃったのに!」と、バザンは泣きださんばかりだった。「司祭さまにも、いや枢機卿さまにもおなりになれたというのに」
「だがな、バザン! まあ、考えてみるがいい。聖職についたって、なんのいいことがあるかね。聖職者だからといったって、戦争に行かないですむというわけにはいかない。現に枢機卿だって、かぶとをかぶり、手に槍を持って、戦場に向かわれるじゃないか。ノガレ・ド・ラ・ヴァレット殿を見るがいい。あの方も枢機卿だ。あの方の従者に、なんべんご主人の傷の手当をしたか、聞いてごらん」
「ああ」と、バザンはため息をついた。「よく知っております。まったく今の世の中は、物事が逆《さか》さまでございます」
こんなことを言いながら、二人の青年と哀れな従僕とは階下へ降りて行った。
「鐙《あぶみ》をおさえてくれ、バザン」
アラミスはそういって、いつものようにあざやかに、かるがると鞍にまたがった。だが馬が少し烈しい動きをすると、乗り手は傷の痛みに堪えかねてまっさおになり、よろめいた。ダルタニャンはこうなることを予想していたので少しも目を離さなかったが、すぐに飛びだして彼のからだを抱えると部屋まで連れて行った。
「いいから、アラミス、ゆっくり養生してくれ。アトスは、おれ一人でさがしに行ってくるからな」
「まったく貴公は、鋼鉄のようなからだだ」
「いや、運がついているだけの話さ。ところで貴公は、どうやって待っているかね。もう論文でもあるまいし、指や祈祷《きとう》の講釈はしまいからね、なあ、そうだろう?」
「詩でも作っていよう」と、アラミスは微笑した。
「よかろう。シュヴルーズ夫人の侍女の手紙の、かおりをこめた詩でも作るさ。バザンにも、詩の作り方の手ほどきでもしてやりたまえ。そうすりゃ、少しは気が休まるだろうからな。馬のほうは、毎日少しづつ乗ってみることだな、だんだんなれるだろうから」
「いや、そのほうは安心してくれ」と、アラミスはいった。「いっしょに帰れるようなからだになっているからね」
二人は別れの挨拶をかわし、ダルタニャンはバザンと宿のかみさんに友人の世話をたのんで、アミヤンに向かって馬を走らせていた。
どうやってアトスを見つけるつもりだろうか、はたして見つけることができるだろうか?
アトスを残してきたときの状況は、危険きわまりないものだった。やられてしまっているかもしれなかった。こう考えると、ダルタニャンの額は曇り、ため息が出てきて、復讐の誓いがひくく口をついて出るのだった。友人たちの中ではアトスがいちばん年長だったから、趣味や気持ちの点では、この男と彼とはいちばん遠くへだたっているように見えた。
ところが彼は、この貴族をとくに好いていた。アトスの上品で人目をひく風貌、自分から進んで閉じこもっている暗い陰から折りにふれて流れだすあの明るいひらめき、だれにも親しみやすい感じを抱かせるむらのない気分、それから辛辣《しんらつ》なところのある、むりに作った陽気さ、一見無分別に見えるが、そのじつ驚くべき冷静さの結果である剛勇ぶり、こうした多くの特質が、単なる尊敬以上のもの、友情以上のものをダルタニャンに感じさせ、彼をして心から敬服せしめていたのである。
たしかに、あの優雅で気品のあるトレヴィール殿と比べてみても、きげんのいい日のアトスは、けっして見劣りするようなことはなかった。中背だが、がっしりした均整のよくとれたからだで、ポルトスと組み打ちをしたときなども、この腕力では隊内でだれ一人として知らぬ者もない巨人を打ち負かしさえしたくらいだ。射るような目つき、まっすぐな鼻、ブルータスのようなあごを持った顔には、なんとも形容しがたいような威厳とやさしさがあふれている。その手はべつに大事にしているわけでもないのに、アーモンドの捏物《こねもの》や香油をふんだんに使って手入れを怠らないあのアラミスをくやしがらせるほどだった。その声がまた、響きがよくて、じつによく通る声だった。
それに、いつも自分を控えめにめだたないようにしているアトスの、あのなんともいえない持ち味は、身についている微妙な社交術や、上流社会の慣習や、良家のしきたりなどが、それとなく、ちょとした動作の中に現われ出たものにほかならない。
さて酒宴でも開くとなると、彼はその客人をその先祖による地位や本人自身の地位に応じて席につけ、どんな社交界の達人よりも手ぎわよく席を取りもつことを知っている。こと紋章の話ともなれば、フランスじゅうの貴族の家を知っていて、その系図、姻戚関係、紋章、その紋章のいわれまでも心得ているのだから、まことに恐れ入る。礼儀作法で知らぬことはなく、地所の権利はどういうことかということも知っているし、狩猟や鷹狩のこともくわしく、鷹狩については、あるときなど、この道にかけては大家であるルイ十三世を驚かせたほどだった。
当時の諸侯たちと同じく、馬術や武芸一般に秀でていた。しかもその上に、教養にかけても欠けることなく、当時の貴族にはおろそかにされがちだったラテン語にも通じていた。アラミスがラテン語の引用句を口にし、それをまたポルトスがわかったような顔をしてみせると、彼はにやにやして聞いていた。アラミスが初歩的な間違いを言ったときには、動詞の時制をなおしてやったり、名詞の格を正してやったりして、友人たちを大いに驚かしたことも二度や三度ではなかった。
それに当時にあっては、武人は信仰や良心にもとるようなことを平気でやってのけ、恋する者は今日のようなきびしい心づかいを意に介さず、貧しい者は神の第七戒をおろそかにしていた時代であったから、アトスの誠実さは、まったく非の打ちどころのないものだった。つまりアトスという男は、まれに見る人物だったのである。
ところがこのすぐれた性格なり美しい精神といったものが、自分ではそれとわからぬうちに、卑俗な生活のほうに傾いていった。ちょうど老人が無意識のうちに心身の衰退化をたどるように、こういう無気力な状態、じつはこういうことがちょいちょいあったのだが、そういうときにはアトスの明るい一面、その輝かしい一面は影をひそめて、まるで深い闇の中へ沈んでゆくように、すっかり消え失せてしまうのだった。
そうなると、いままでの神にも近い存在は消え失せて、人間として止まっていることもやっとというわけだった。首はうなだれ、眼は光を失い、言葉は重たく苦しそうになって、アトスはいつまでも酒の瓶《びん》や盃《さかずき》や、従者のグリモーの顔を眺めているだけになってしまう。グリモーは合図だけで命令に従うように仕こまれているものだから、主人のその無表情な目つきの中に、どんな要求でも読みとって、すぐにそれを満たしてやる。
こういうときに四人が集まったとすると、よほどの努力をした上でやっとひと言、口からもれただけで、それ以上はアトスの口からは聞きだすことはできない。その代わり、酒は一人で四人分も飲む。そして、ちょっと眉をしかめるとか、さらに沈痛な顔になるほかは、べつに変わった表情も見せないのだ。
何事にも好奇心をもちたがるダルタニャンのことだから、もちろんこれらのことには気がついていたのだが、いまだに彼の憂鬱《ゆううつ》になる原因や事情をはっきりとつかむことはできなかった。アトスは一度も手紙を受けとったことはなかったし、彼は友人に知られぬような行動をしたことはなかったからだ。
彼のこの憂鬱は酒からきたものだとは、いえなかった。なぜならば、その反対に、彼は憂欝を吹きとばすために飲むわけだからだ。だがこの治療法は、前述したように、ますます彼を憂欝にしたのだった。といって、この不機嫌は、勝負ごとのためだともいえなかった。なぜならば、運がついたり離れたりするたびごとに、歌をうたったり呪《のろ》いの言葉を吐いたりするポルトスとは違って、アトスは勝っても負けても顔色ひとつ変えないからだ。
ある晩、銃士の集まりで、三千ピストール勝ち、そのあと式典用の金の刺繍をした革帯まで奪われたことがあった。それを取り返し、なおその上に百ルイもうけたところで、その美しい黒い眉は動かなかったであろうし、その手の白い艶《つや》は失われなかったろうし、その夜の静かで気持ちよさそうな話しぶりに変わりはなかったであろう。
といって、彼の顔を曇らせるものは、われらの隣人のイギリス人たちのように、大気現象の影響からでもなかった。なぜならば彼の憂欝は、概して一年のうちで最も気候のよいときになるからである。六月と七月が、アトスにとっては、もっとも悪い月だった。
現在のところ、彼は心配ごとはなかった。ただ人が将来について語ると、肩をすくめて見せるのである。そこで彼の心の秘密は過去にあるのだと、ダルタニャンはだれかからそれとなく言われたことがある。
だが、彼の全身にただようこのような神秘的な色調は、いっそうその人間を興味あるものにしていた。たとえ[へべれけ]に酔っぱらっているときでも、目からも口からも何ひとつとしてもらしたことがないだけに、なおさらだった。
「ところで、あのかわいそうなアトスは、いまごろは死んでいるかもしれんな」と、ダルタニャンは考えながらいった。「死んだとすれば、おれのせいだ。原因も結果もわからずじまいで、おまけになんの利益にもならなかったこの事件にひっぱりこんだのは、おれなんだからな」
「それに、あの方は、わたくしどもの命の恩人ということになるかもしれません」と、プランシェがいった。「あの方が、[逃げろ、ダルタニャン、おれはつかまったぞ]と叫ばれたのを覚えていらっしゃるでしょう。そして短銃を二発ぶっぱなしてから、恐ろしいほどの剣の響きをおたてになって! まるで二十人もの男が、いや二十人もの悪魔が怒り狂ったような!」
これらの言葉に、ダルタニャンの気持ちはいよいよあおられ、馬に拍車を入れた。馬は急《せ》きたてられるまでもなく、全速力で乗り手を運んだ。
十一時ごろに、アミヤンの町が見えた。十一時半には、例の呪《のろ》われた宿屋の前に着いた。
ダルタニャンは道々、あの裏切り者の宿屋の亭主に、思っただけでも胸がすっとするようなすばらしい復讐《ふくしゅう》をしてやろうと、なんども考えていたのだ。そこで彼は、帽子をぐっと目深《まぶか》にかぶり、左手を剣の柄頭《つかがしら》にかけて、右手で鞭《むち》を鳴らしながら、その宿屋にはいって行った。
「おれの顔がわかるか?」いそいそと迎えに出てきた亭主にいった。
「いいえ、手前どもは、まだお殿さまにはお目にかからぬとぞんじますが」と、ダルタニャンのはでな供まわりに目を見はって、亭主は答えた。
「ふん! おれを知らぬというのか!」
「はい、お殿さま」
「よし! ひと言こういえば、思いだせるだろう。二週間ほど前に、おまえが贋金《にせがね》使いだと因縁《いんねん》をつけおった、あの貴族はどうしておる?」
亭主はまっさおになった。なにしろダルタニャンの態度がたいへん威嚇的《いかくてき》だったし、プランシェまでが主人に見ならって身がまえていたからである。
「ああ、もうそのお話は、ご勘弁のほどを!」亭主は涙声で叫んだ。「いやはや、おかげでたっぷり手ひどいめに会いました! ああ、なんという情けないことやら!」
「あの貴族はどうしたか、といっているんだぞ?」
「まあ、まあ、お聞きになってくださいまし、お殿さま。そんな、こわい顔をなさらんで、どうか、まあおかけくださって!」
ダルタニャンは、怒りと心配のあまり押しだまって、まるで裁判官のような顔をして腰をおろした。
「じつは、こういうしだいでして」亭主は震えながら口をきった。「いま、やっとお殿さまのお顔を思いだしました。わたくしがあの方とごたごたを起こしましたときに、出て行っておしまいになった方でいらっしゃいますね」
「さよう、それが拙者だ。だから、ほんとうのことを申さんと、ただではすまんぞ」
「どうか何もかも申しあげますから、お聞きくださいまし」
「よし、聞こう」
「じつは前もってお役所のほうから、有名な贋金使いが仲間といっしょに、銃士や親衛隊士に変装して、手前どもにやって来るというお達しがあったのでございます。馬や従者の方たちや、皆さまのお顔かたちいっさいが、すっかり知らされてあったのでございます」
「それで、それからどうした?」
そういう手配がそんなに手まわしよくなされたのはどこから出されたのか、ダルタニャンはよくわかっていたが、あとをうながした。
「そこで、お上《かみ》から六人も加勢が見えていることですし、わたくしはおさしずに従って、まずはその贋金使いの風体《ふうてい》をたしかめて見ようと手だてを講じまして」
「またしても贋金使いなどと申す!」ダルタニャンには、この言葉が耳ざわりでならないのだ。
「お許しくださいまし、こんなことを申しあげまして。なにしろ、お上はおそろしいものでして。こういう稼業《かぎょう》は、役所とうまくやっておりませんことには」
「ところで、もう一度聞くが、その貴族はどこにいるんだ? どうなったのだ? 死んだのか? それとも生きてるのか?」
「まあ、お待ちくださって。いま申しますから。それで、ご承知のように、あなたさまは急いでお立ちになって、それで無事におさまるかと思っておりましたが」と、亭主はいかにもずるそうにそう付け加えたが、ダルタニャンはそれを見のがさなかった。「ところがお友だちの貴族のほうは死にもの狂いになって抵抗なさいます。ご家来も思いがけないちょっとしたことで、馬屋番に変装していたお役人とけんかをおっぱじめまして……」
「ああ、こいつめが! おまえたちはしめし合わせていたんだな。どうしておれは、おまえたちの息の根をとめなかったのか、自分でもわからんぞ!」
「滅相《めっそう》もない! わたしたちがぐるになってたなんて、とんでもありません。いまにわかっていただきます。で、お友だちの方は……ごりっぱなお名前がおありのこととぞんじますが、わたしはぞんじあげませんので、ご勘弁くださいまし……あの方は、短銃を二発打って、二人倒しておしまいになると、こんどは剣で防ぎながらあとへ退いて行かれました。その剣で、うちの者が一人片輪にされ、わたしも峰打《みねう》ちをくって目をまわしてしまいました」
「もう、話はいい。アトスはどうした、どうしたんだ?」
「いまも申しあげたように、闘いながらあとへさがって行かれましたが、ちょうどうしろに酒倉の階段がありましてな、その戸が開いていましたんで、その中へおはいりになると、中から鍵をかけておしまいになりました。中にいられることは確かなんですから、そのままにしておきました」
「そうか、では、あの男を殺してしまう気はまったくなかったんだな。ただ閉じこめておくつもりだったのか」
「とんでもない! 閉じこめておくなんて? ご自分で閉じこもっておしまいになったんですよ、ほんとうです。とにかく、手ひどく暴れなさいました。一人は即死、二人は重傷なんですから。死者と重傷者は、仲間の方がかついで行かれましたが、その後どうなったかは、どちらについてもうかがっておりません。
わたしも正気に返ると、さっそくお代官のところへ参りまして、一部始終をお話し、つかまっている人をどうしたらよいかたずねました。ところがお代官はさっぱりわけがわからんといった顔をして、なんの話やらさっぱりわからん、そんな命令をだしたおぼえはない、もし万一そんな暴挙にこのわしが関係しているようなことを吹聴《ふいちょう》したら、おまえを縛り首にするぞと、まあ、そんなふうなんで。どうやらわたしが勘違いをしたらしく、別の方と間違えたんですな。つかまえなくてはならんほうの人は、逃げてしまったんで」
「で、アトスはどうした?」
役人がほったらかしにしておいたと聞いて、いよいよ気になってきたダルタニャンは叫んだ。
「わたしは間違いをおわびしなくてはと思って、大急ぎで酒倉へ行ってあの方を出してさしあげようとしました。ところかなんと! あの方は人間じゃない、悪魔でございます。出てくださいとお願いしますと、こんな罠《わな》にかけたのだから、出るについてはこっちにも言い分があると、まあこうなんでございます。わたしも、近衛《このえ》の銃士ともあろう方に乱暴をはたらいたのはこっちの落度《おちど》でございますから、はい、うけたまわりましょうと申しあげました。するとあの方は、[まず、おれの従者に武器を持たせて、ここへよこせ]と、おっしゃいます。
さっそく、お言いつけどおりにいたしました。なんでもお友だちのおっしゃるとおりにいたすつもりでおりましたからな。グリモーさま……この方はあまりお話しになりませんでしたが、お名前だけはおっしゃいました……そのグリモーさまはけがをなさっていましたが、酒倉へ降りて来られました。するとご主人はグリモーさまを中へ入れると、また戸に錠をかけて、わたしたちに店へもどっていろと、こうおっしゃるので」
「けっきょくアトスは、どこにいるんだ? えい、どこにいるんだ?」
「酒倉の中でございます」
「なんだって、こいつめ。あれからずっと今まで、あの男を酒倉に閉じこめていたのか?」
「とんでもないことで! いいえ、だんなさま、わたくしどもがそんなことをするなんて! だんなさまは、あの方が酒倉の中でどんなことをしているか、ごぞんじないからなんで! ああ、もしあそこからあの方を出していただけましたら、一生ご恩にきますとも、守り神としておがませていただきます」
「では、酒倉にいるんだな。そこへ行けば会えるんだな?」
「もちろんでございます。どうしてもあそこからお出にならないんで。毎日、パンを熊手《くまで》の先にのせて、風抜き窓から入れてさしあげます。肉をご注文のときもございます。いや、肉やパンぐらいなら、たいしたことはありません。一度、うちの若い者を二人連れて降りて行こうとしましたところが、いやたいへんな剣幕でして、短銃に弾丸《たま》をこめるやら、ご家来に弾丸こめをお命じになるやら、えらい物音がするじゃありませんか、どういうおつもりですかと、こっちから声をかけますとご主人の答えられるには、弾丸は二人で四十発あるから、おまえらが一人でも酒倉にはいってみろ、最後の一発までぶっぱなしてやるぞ、こうなんでございますよ。そこでまたお代官に訴え出ましたら、お役人の言うには、それはおまえが悪いんだから仕方がない、お泊まりいただいた高貴な方に無礼をはたらいたんだからなって」
「それで、そのときから?」ダルタニャンは亭主のなさけないといった顔を見て、思わず笑ってしまった。
「それで、そのときから」と、亭主はそのあとをつづけて、「[こちとら]は、まったく目もあてられない毎日でして。なにしろ、手前どもの食料品は全部、あの酒倉にあるのでございます。瓶詰《びんづめ》の酒、樽詰の酒、ビール、油、香辛料《こうしんりょう》、ベーコンに腸詰、みんなあそこにありまして、それがあそこへは降りて行けないのですからね。お着きになるお客さまに、飲みものも食べものもお出しできないわけでございます。ですから宿はさびれてゆく一方でして、あの方がもう一週間もあの酒倉にいられるようですと、手前どもは身代限りとなります」
「それも天罰だな。われわれの顔を見れば、われわれがりっぱな貴族で、贋金《にせがね》使いなんかじゃないことがわかるはずではないか」
「まったく、ごもっともなお言葉でして」と、亭主は答えた。「ほら、ほら、またあのようにご立腹《りっぷく》で」
「たぶん、またよけいなまねをしたからだろう」と、ダルタニャンはいった。
「でも、どうも仕方がございませんので。英国の貴族の方が二人見えまして」
「で、どうしたんだ?」
「それで、ご承知のように、英国の方はぶどう酒がお好きですから極上のをご注文になりました。そこで家内があの方たちのご満足のゆくようにと、酒倉へはいらせていただくようにアトスさまにお願いしたのでございます。ところが例によって、きっぱりとお断わりになって……ああ、なんてことだ! 騒ぎがいよいよひどくなった!」
じじつダルタニャンの耳にも、酒倉のほうから大きな物音が聞こえてきた。彼は立ちあがると、もみ手をしている亭主を先に立て、銃をかまえたプランシェを従えて、騒ぎの場所のほうに近づいた。
二人の貴族は、かんかんにいきり立っていた。長旅をしてきたので、飢えと渇《かわ》きで死にそうなのだった。
「まったく乱暴にもほどがある!」いくらか外国なまりはあるが、上手なフランス語でどなっていた。「この家の者たちに酒を自由にさせないとは、まるで気ちがいざただ。よし、あの入口の戸をたたき割ってやる。もしあんまり騒ぐようだったら、よかろう、ばらしてやろう」
「まあ、お静かに!」ダルタニャンはそういって短銃を帯から引き抜いた。「どうか、人殺しはやめていただきたい」
「さあ、さあ、そこの強がりども、ちょっとでもはいってみろ。目にもの見せてくれるぞ」
戸のうしろから、アトスの落ちついた声が聞こえた。
威勢のいいように見えた二人のイギリス貴族も、ためらって顔を見合わせた。この酒倉の中には伝説にある飢えた食人鬼でもいて、うかつにはいって行けないとでもいいたげだった。
ちょっと沈黙が流れた。が、ついに二人のイギリス人はいまさら尻ごみするのは恥だと思ったのか、二人のうちの気の短そうな男が、階段を五、六段降りて行くと、壁も割れよとばかりに入口の戸を足で蹴《け》った。
「プランシェ、おれは上のほうのやつを引き受ける。おまえは降りて行ったやつをねらえ」
ダルタニャンは銃をかまえていった。「あいや、おのおの方、たってのお望みとあらば、こちらがお相手申しまずぞ」
「おや、ダルタニャンの声ではないか」と、アトスの低い声がした。
「そのとおり」と、一段とダルタニャンは声を張りあげた。「そうだよ、おれだよ」
「ようし、それなら」と、アトスは呼ばわった。「このばか者どもをやっつけることにするか」
二人の貴族は、剣を抜き放った。だが、挟《はさ》み打ちになっているのを知ると、ちょっとためらった。しかしまた、さっきと同じように自尊心にかられて、もう一度、入口の戸を蹴った。戸は縦に割れた。
「脇《わき》に寄れ、ダルタニャン」と、アトスが叫んだ。「討つから、脇に寄れ!」
「おのおの方」と、まだ反省力を失わないダルタニャンは、二人に呼びかけた。「まあ、少し考えていただきたい。それからアトス、貴公もちょっと待て。ところでお二人、つまらぬことにかかり合いになりましたな。このままでは蜂《はち》の巣になりますぞ。こちらからは従僕と拙者が、もし酒倉へ踏みこまれたら、三発お見舞いいたそう。それにまた、われわれには剣もある。友人も拙者も、相当に使いこなしますぞ。この場はひとつ、わたしにお任せ願えませんか。すぐに飲みものはお届け申す。うそいつわりはございません」
「まだ残っておればのことだ」と、アトスのあざけるような声がとどいた。
それを聞いて、宿の亭主の背筋に冷たい汗が流れた。
「なんですって! 残っていればですって!」と、亭主はつぶやいた。
「だいじょうぶだよ! 残っているさ」と、ダルタニャンが引きとっていった。「二人でいくら飲んだって、酒倉全部を飲みほせるものかい。では、おのおの方、どうか剣をお収め願いたい」
「よろしい。そちらも短銃をしまってもらいましょう」
「よろしい」
ダルタニャンは短銃をしまっておろした。そして、プランシェのほうを向いて、銃をおろすように命じた。
イギリス人たちも承知して、ぶつぶつ言いながら剣を鞘《さや》におさめた。そこでダルタニャンは、アトスが閉じこめられた事情を話して聞かせた。相手もりっぱな貴族だったので、それは亭主がわるいということになった。
「では、みなさん、部屋へお引き取りください。十分もしたら、お望みの品をお届けいたさせますから」
イギリス貴族たちは挨拶をして出て行った。
「さあ、アトス、おれ一人になったから、戸をあけてくれ」
「いま、あけるよ」アトスが中から答えた。
薪《たきぎ》のぶつかり合う音や、梁《はり》のきしむ音が聞こえた。アトスがとりでの囲みを、自分でこわしているのだ。
しばらくして戸ががたりとゆれると、アトスの青白い顔があらわれて、すばやくあたりを見まわした。
ダルタニャンはその首にとびつくと、心をこめて接吻をした。そして、このじめじめした穴倉から外へ連れだそうとした。すると、アトスがよろめいたのに気がついた。
「けがをしているのか?」と、彼はたずねた。
「おれがかい? いや、どこもしておらん。ただ、ひどく酔っぱらっている。それだけさ。これだけ精だして酔っぱらったやつはおるまいな。おい、亭主、よかったぞ! おれだけで、百五十本は飲んだにちがいない」
「ああ、情けない!」と亭主は叫んだ。「これでご家来がその半分も飲んでいたら、いよいよ身代限りだ」
「グリモーは、たしなみのいい従僕だ。あいつは主人と同じものには、けっして手をつけん。樽《たる》からじかに飲んでいた。おや、あいつ、栓《せん》をしめ忘れたらしいぞ。聞こえるだろう? 酒が流れだしている」
ダルタニャンは、声をあげて笑った。それを聞いて亭主は、身ぶるいどころか熱をだしてしまった。
そのときグリモーが、銃を肩にかつぎ、まるでルーベンスの絵にある酔っぱらった半獣神といったふうに、頭をふらつかせて出てきた。見れば、からだの前後に、てかてかに油を塗りたくっている。亭主の目には、それが一番上等のオリーブ油であることがわかった。
一同は大広間を通り抜けると、ダルタニャンが勝手に占領していた宿の最高級の部屋へはいってしまった。
そのあいだに、宿の亭主とおかみとは、いそいでランプを手にすると、長いことはいることを許されなかった酒倉の中へとびこんだ。そこには、見るも無残な光景が彼らを待ち受けていた。アトスが突破口をつくって出てきた要塞《ようさい》は、薪《たきぎ》や板切れや樽《たる》が築城前の規則にかなって積みかさねられてあり、その奥には、油と酒の洪水の中に、食べちらかしたハムの残骸《ざんがい》がころがっていた。左手の隅には、われた空き瓶の山があり、樽は栓があけっぱなしになっていて、その口から最後の一滴がたらたら流れていた。昔の詩人なら[荒廃と死の姿]と歌うところだが、さながら戦場のあとそのものだった。梁《はり》にさがっていたソーセージ五十本のうち、残るはわずかに十本だった。
亭主とおかみのわめき声が、酒倉の天井をとおして聞こえてきたので、さすがにダルタニャンはいささかかわいそうになった。だがアトスは、振り向きもしなかった。ところで、悲しみは怒りに変じた。
亭主は焼串《やきぐし》を手にすると、やけになって、二人が仲よくひきこもっている部屋の中に、とびこんできた。
「酒だ!」亭主の顔を見るなり、アトスはいった。
「なに、酒ですって!」どぎもを抜かれて亭主は叫んだ。「酒ですって! あんたは百ピストール以上も飲んじまった。こっちは、すっからかんで、破産しちまったんだ」
「うるさい! こっちは相変わらず、喉がかわいているんだ」
「せめて飲むだけでしたらなんですが、瓶を一本残らず割っておしまいになる」
「おまえたちが無理に瓶の山の上を歩かせるから、それでくずれたんだ。おまえがわるいんだ」
「油もみんな使ってしまって」
「油は傷によくきくからな。おまえのおかげでけがをしたかわいそうなグリモーの傷に、あれが必要だったのさ」
「ソーセージもすっかり食い荒されて」
「あの酒倉には、えらく鼠《ねずみ》がいるからな」
「みんな弁償してもらいますからな」
「大ばか野郎!」アトスは一喝《いっかつ》して立ちあがろうとしたが、すぐにまた腰をおろしてしまった。これが、この男の力の限界のようだった。ダルタニャンが鞭《むち》をふりあげて、加勢した。
亭主は一歩さがって、おいおい泣きだした。
「これで、神さまがおよこしになったお客は大切に扱うべきだということがわかったろう」と、ダルタニャンがいった。
「神さまだって! 悪魔だわい」
「おい、いつまでもそんな泣きごとをいってわれわれの耳を悩ますんだったら、われわれ四人がもう一度酒倉へ閉じこもって、おまえの言う損害がどれほどひどいか調べてやるが、どうだね」と、ダルタニャンはいった。
「いや、たしかにわたしが悪うございました」と、亭主はいった。「でも、どんな罪にも、お慈悲というものはあるものです。それにあなた方はりっぱなお殿さまで、わたくしは、しがない宿屋|風情《ふぜい》でございます。どうか、このわたしを憐《あわ》れとおぼしめして」
「いや、そういうふうに言われると、こっちも胸がはりさけそうになる」と、アトスがいった。「おまえの樽から酒が流れ出るように、おれの目からも涙がこぼれるわい。見かけほど恐ろしい人間じゃないんだからな。まあこっちへ来なさい。話し合おうじゃないか」
亭主は、おずおず近づいた。
「もっと近くへ寄れ。なにもこわがることはない」と、アトスはつづけた。「あのとき、おれは勘定を払おうとして、テーブルの上に財布をおいたな」
「はい、さようで」
「あの財布には六十ピストールあったが、あれはどこにある?」
「お役人にお渡ししました。贋金《にせがね》だというものですから」
「そうか! あの財布を返してもらえ。六十ピストールはそっくりやろう」
「でも、ごぞんじのとおり、役人というものはいったん手に入れたものを、もどしてはくれませんでしてね。あれが贋金でしたら、まだしも望みはございますが、あいにくと、ほんものですからね」
「それを、おまえがうまくかけ合うんだ。どっちにしたって、おれの手には一文も残らんのだから」
「そうだ、アトスの古い馬はどこにある?」と、ダルタニャンが口をだした。
「馬小屋におりますが」
「あれはどのくらいになるかな?」
「せいぜい、五十ピストールでございましょう」
「いや、八十ピストールにはなる。あれをやる。それで、けりをつけよう」
「なんだと! 貴公はおれの馬を売る気かい? あのバジャゼを売るのかい? では、おれは戦場には何に乗って行くんだ? グリモーにでも乗って行くか?」
「きみには、別の馬をひっぱってきた」
「べつの馬だって?」
「すばらしい馬でございますよ」と、亭主が脇からいった。
「そんなりっぱな馬があるなら、古いほうはくれてやろう。よし、酒だ!」
「どれにいたしましますか?」亭主はすっかり落ちつきを取りもどして、たずねた。
「奥のほうの貫板《ぬきいた》のそばのやつだ。まだ二十五本は残っている。ほかのはみんな、おれがころんだときに割ってしまった。そいつを六本持ってこい」
「まったく、酒樽みたいな人間だわい」と、亭主はそっとつぶやいた。「二週間もここにいて、飲んだだけを払ってくれりゃ、損害は取りもどせるんだがな」
「おい、忘れるなよ、おなじものを四本、イギリスのお二人におとどけするんだぞ」と、ダルタニャンが声をかけた。
「さあ、ダルタニャン、酒が来るまでのあいだ、ほかの連中のようすを聞かせてくれないか?」と、アトスがきいた。
ダルタニャンは、ポルトスがねんざして床《とこ》についていること、アラミスが二人の神学者と同席したとき会ったことなどを語った。話し終わったところへ亭主が、注文の酒と、幸い酒倉へ入れてなかったハムを添えて持ってきた。
「これでよし」と、アトスは自分のコップとダルタニャンとのに酒をそそいでから、「さあ、ポルトスとアラミスのために乾杯《かんぱい》だ。ところで貴公だが、どうかしたのかな、何か変わったことでもあったのかな? どうもさえない顔をしているようだが」
「いや、まったく! おれは、みんなの中で一番不幸なんだよ」
「きみが不幸だって! ダルタニャン、どうして不幸なんだい? さあ、わけを話してくれ」
「いずれあとで話す」と、ダルタニャンはいった。
「なに、あとだと! どうしていまじゃいけないんだ? おれが酔っぱらっているからかい? よくおぼえておいてくれよ。おれは酔っぱらっているときのほうが、頭がはっきりしているんだからな。さあ、話せよ。耳をほじくって、よく聞くからな」
ダルタニャンは、ボナシュー夫人との一件を話した。
アトスは眉《まゆ》ひとつ動かさずに聞いた。そして語りおえたとき、「くだらん、じつにくだらんことだ」と、吐き捨てるようにいった。
これは、アトスの口癖だった。
「きみはいつもくだらんと言う! アトス、女を愛したことのないきみが、そんなことを言うのは当を得ていない」
アトスの死んだような眼が、急に輝きを見せた。しかしそれは一瞬の輝きで、すぐにまた元のように、どんよりと曇ってしまった。
「それもそうだな」と、彼はしずかにいった。「おれは一度も恋をしたことがないんだから」
「そうだろう。貴公のように石みたいな心の持ち主が、われわれのようなやさしい心をもっている者をきびしい目で見るのは、まちがいだよ」
「やさしい心が、穴だらけの心さ」と、アトスはつぶやいた。
「それは、どういうことだ?」
「恋というものは、富くじみたいなものってことよ。当たりをとった奴は、死を引き当てたってことよ! きみははずれて、ほんとうによかったんだよ、ダルタニャン。もしおれが貴公に忠告をするとすれば、いつもはずれろと言いたいね」
「あの女は、ほんとうにわたしを愛しているようだったが!」
「そう見えただけさ」
「いや、おれを愛していた」
「子どもだな! 情婦から愛されていないと思っていない男なんか、ありゃしないよ。そのくせ、女にだまされていない男なんてありゃしないんだ」
「きみは例外だな、アトス、女をもったことが一度もないんだから」
アトスは、しばらくだまっていたが、「そのとおりだ。おれは女をもったことがないからな。まあ、いい、飲もうや!」
「だが、貴公は知恵者だから、いろいろと教えてもらいたいんだよ。力になってくれ。おれは知らなきゃならんし、慰めてもらいたいんだ」と、ダルタニャンはいった。
「何を慰めてもらいたいんだね?」
「わたしの不幸をだ」
「きみの不幸だって、笑わせるよ」アトスは肩をすくめてみせた。「もしおれが恋の物語をして聞かせたら、きみがなんと言うか知りたいもんだね」
「貴公にそんなことがあったのか?」
「おれの友だちの一人にあったことだとしてもいい、どっちでも同じだ!」
「話してくれ、アトス聞こう」
「まず飲もう、そのほうがいい」
「飲んで、そして話してくれ」
「なるほど、それもよかろう」とアトスはコップをぐっと飲みほすと、またそれを満たして、「酒と恋、こいつはうまく合うからな」
「聞こう」と、ダルタニャンはうながした。
アトスは、じっと考えこんだ。考えこんで行くにつれて、彼の顔が青ざめてゆくのが、ダルタニャンにわかった。ふつうの酔っぱらいだと、酔いつぶれて眠りこんでしまう状態だったのだが、彼は眠りこまずに、なにか夢を見ているようだった。この酔いから来る夢遊病者といった状態は、妙に恐ろしい感じを与えた。
「どうしても聞きたいというのかね?」と、彼はたずねた。
「ぜひお願いしたい」と、ダルタニャンが答えた。
「お望みとあらば、話そう。おれの友だちの一人、いいか、おれの友人で、おれではないんだぞ」アトスは気味のわるい微笑を浮かべて念を押した。
「この男は、おれの郷里、つまりベリーの伯爵で、つまりダンドロ家とかモンモランシー家とかいった家柄だったが、この男が二十五のときに、十六になる娘に恋をしたんだ。目がさめるくらい美しい娘で、その年ごろの無邪気さの中に、はげしい気性、女の心というよりも詩人の心が感じられた。
この娘が好きになったというより、酔わされてしまったんだね。娘は、司祭である兄とともに、小さな町に住んでいた。二人はよそからその町に移ってきたのだが、どこから来たのだか、だれも知らなかった。なにしろ女は美しく、また兄は信仰に厚い男だったので、どこから来たのか問いただそうとする者もなかった。それに、相当な家の生まれだということだったのでね。おれの友人はその地方の領主だったから、娘を誘惑しようが、腕づくで自分のものにしようが出来たわけだ。そんな見も知らぬ他国者を、だれがかばってやるかね。ところが友人は不幸にして誠実な男だったのでその女と結婚したんだ。ばかにもほどがある、大まぬけよ!」
「そんなことがあるものか、愛していたんだろう?」と、ダルタニャンが問いただした。
「まあ、待て」と、アトスはいった。「友人はその女を館《やかた》に引き入れて、その地方で第一流の貴婦人に仕立ててやった。彼はまちがってはいなかった。女はりっぱにその地位を保ったのだからな」
「それで?」と、ダルタニャンがたずねた。
「ところで、ある日、女は夫といっしょに狩りに出かけた」アトスは低音になり、ひどく早口で話をつづけた。「ところが女が馬から落ちて、気絶してしまったんだ。伯爵は駆け寄ったが、女が服のために苦しそうだったので、持っていた短刀で切り裂いて、肩をはだけてやった。その肩に何があったと思う、ダルタニャン?」アトスは、からからと笑っていった。
「そんなこと聞いてもいいのかな?」と、ダルタニャンがたずねた。
「ゆりの花の印だよ。前科者の烙印《らくいん》さ」
そういってアトスは、手にしていたコップをぐっと飲みほした。
「おそろしいことだ!」ダルタニャンは叫んだ。「なんという話なんだ?」
「ほんとうなんだ。天使は悪魔だったんだよ。あわれな娘は、盗みをはたらいたんだよ」
「それで、伯爵はどうした?」
「伯爵は大貴族だった。自分の領地内では大小にかかわらず、自由に裁くことができた。で彼は、妻の着ていたものを引き裂いた上、うしろ手に縛って、木に吊してやったよ」
「ひどい、アトス、人殺しじゃないか!」
「そう、人殺しだ、まったくそのとおり」アトスの顔は、死人のように青ざめていた。「どうやら酒が足りんようだな」
アトスは最後の瓶《びん》の首をつかむと、そのまま口に持ってゆき、まるでコップをあけるようにぐっとひと息に飲みほした。それから彼は、両手で頭を抱えこんだ。ダルタニャンは恐怖のあまり、身動きもできなかった。
「これでおれは、もう美しい女も、詩的な女も、恋をする女も、たくさんになった」
そういってアトスは立ちあがったが、もう伯爵のたとえ話をつづけようとはしなかった。「きみも早くそうなることだ! まあ、飲もう!」
「で、女は死んだのか?」ダルタニャンは口ごもりながらたずねた。
「そうさ!」と、アトスはいって、「そんなことよりコップを持て。おい亭主、ハムを持ってこい。酒もないぞ!」と、どなった。
「で、その兄は?」と、おずおずとダルタニャンはたずねた。
「兄とは?」
「そうだよ、司祭だとかいう?」
「うん、そいつも絞り首にしてやろうと捜したんだが、先手を打って前の日に逃げてしまっていた」
「その後どうなったかぐらいはわかったろう?」
「たぶん、そいつが女の最初の情夫で、女とぐるだったんだな。おそらく司祭になりすまして、女を玉の輿《こし》に乗せてやろうと親切心を起こしたんだろう。八つ裂きにしてやればよかったんだ」
「ああ、ひどい話だ!」ダルタニャンはこの恐ろしい話に茫然自失《ぼうぜんじしつ》の態だった。
「まあ、このハムを食べてみたまえ、ダルタニャン、うまいぞ」アトスはひときれ切って、青年の皿にのせてやった。「こんなうまい奴が、あの酒倉に四本しかなかったのは残念だな。もっとあったら、まだ五十本は飲めたのに」
ダルタニャンは頭が変になりそうで、もう話をつづける気にはなれなかった。で、両手で頭をかかえて居眠りをしているふりをした。
「若い奴《やつ》は、どうも弱いな。こんなうまい酒なのに」
アトスは憐《あわ》れむようにダルタニャンを見やって、つぶやいた。
二十八 帰還
ダルタニャンは、アトスから聞いた恐ろしい話に茫然《ぼうぜん》としていた。ところが、この告白めいた話の中には、まだはっきりしない点がたくさんあるような気がした。まず、泥酔《でいすい》した人間が、半ば酔っぱらっている男にした話ということだ。しかし、ブルゴーニュ酒二、三本で頭がぼんやりしていたとはいえ、翌朝目を覚ましたときには、ダルタニャンはその言葉をはっきりとおぼえていた。怪しく思えば思うほど、なんとかしてもっと納得のいかないところをはっきりさせたいものだと、彼は友人に昨夜の話のつづきをさせようと思って、その部屋におもむいた。
ところがアトスは、いつもの落ちつきを取りもどしてしまっていた。つまり最も細心な、心の奥底をけっしてのぞかせない男になっていたのである。
しかも銃士は、青年と握手をかわすと、相手の心を見抜いて先手に出てきた。
「きのうは、すっかり酔っぱらったよ、ダルタニャン。けさになっても舌が厚ぼったく感じられるし、脈がまだひどく乱れているので、きのうの泥酔ぶりがよくわかったよ。ずいぶんつまらんことをしゃべったろうな」
こう言いながら彼は友人の顔をじいっと見つめたので、相手はうろたえた。
「いや、そんなことはないよ」と、ダルタニャンは答えた。「覚えていることでは、きみはごくあたりまえのことしか言わなかったよ」
「いや、そんなはずはない! ひどく哀れっぽい話をしたと思うが」
彼は相手の青年の心の底までも読みとろうとするとでもいったふうに、じっと見つめた。
「いや、どうして! わたしのほうが貴公よりも酔っぱらっていたらしい。なにしろ、なんにも覚えていないんだからな」
アトスはこの返事ではまだ気がすまぬらしく、なお言いつづけた。「貴公も気づいていることだと思うが、人の酔い方には陽気なのや陰気なのや、いろいろあってな。わたしのは、陰気な酔い方なのだ。酔っぱらうと、子どものころに愚かな乳母《うば》から教えこまれた陰気な話をあれこれ話す癖《くせ》がある。これがわたしの悪い癖で、自分でも承知している。でも、これを除けば、まあ、いい酔っぱらいだがね」
アトスの言い方がごく自然なので、ダルタニャンの確言がぐらついた。
「そう、あの話も、そうだったんだね、きっと」青年はなんとかして真相をつかみたいものだと、「縛り首の話をしたのを、まるで夢の中で見たようにおぼえているのだが、それはやはりそうだったんだね」
「ああ、そうなんだよ」と、アトスは顔色を変えながらも、むりに笑おうとして、「縛り首の話はわたしの頭から離れたことのない悪夢なんだからね」
「そう、そう、だんだん思いだしてきたよ。そう、あれは……まてよ…そう、女の話だったな」
「それさ、それがよくやるやつなんだ」アトスは、もうまっさおになっている。「金髪の女というのは、わたしの得意とする話で、そいつが出るときには、もう[へべれけ]になっているんだ」
「そうそう、金髪の女の話だった。背が高くて美人で、青い目でね」
「そうだ、そして縛り首になってね」
「夫にだろう、きみの知り合いのある領主の手にかかってね」と、ダルタニャンはアトスの目をじっと見ながらいった。
「なるほどな! だが、自分で何をいっているかわからないくらい酔っぱらうと、他人に迷惑をかけるもんだな」と、アトスは、ほとほと自分が情けなくなったというふうに、肩をすくめてみせた。「もう、けっして酔っぱらわないよ、ダルタニャン、まったく悪い習慣だからね」
ダルタニャンは、だまっていた。それからアトスは、急に話題を変えた。
「それはそうと、きみが連れてきた馬、どうもありがとう」
「気に入ったかね?」と、ダルタニャンはたずねた。
「だが、あまり乱暴には使えん馬だな」
「そんなことはないよ。おれはあれに乗って、一時間半もかからぬうちに、四十キロも飛ばしたからな。それでいて、サン=シュルピスの広場を一周したぐらいの疲れしか見せないからね」
「そうか! そいつは惜しいことをしたな」
「惜しいことっていうと?」
「そうなんだ、手放してしまったんでね」
「どうしてなんだ?」
「じつは、こういうわけなんで。けさは六時に目が覚めたんだ。貴公はぐっすり寝こんでいる。さて、どうしていいかわからない。二日酔いで頭はぼうっとしているしな。で、大広間へ降りてみると、きのうのイギリス人の一人が博労《ばくろう》を相手に馬を値切っていた。自分の馬が昨夜卒中を起こして死んでしまったものでね。そばに行ってみると、濃い栗毛の馬に百ピストールも出そうとしているから、それならわたしにも売りたい馬がありますから、と、いってやったんだ。
[あのりっぱな馬ですか。きのうお友だちの従者がひいているのを見ました]と、あの男はいう。
[百ピストールの値打ちものだとは思いませんか?]
[思いますとも。その値段で、お譲りいただけないでしょうか?]
[いや、あの馬でひと勝負したいのです]
[わたしと賭《か》けをしたいと言われるのですか?]
[そうなんです]
[なんで勝負するんです?]
[さいころで]
つまり、こういうことになったんだ。そしておれは、馬をとられてしまったんだ。だがね、いいかい、馬飾りはまた取り返したよ」
ダルタニャンは、いやな顔をした。
「気にさわったかね?」と、アトスがきいた。
「そりゃ、そうさ。あの馬は、戦場で、われわれの目じるしとして役立つしろものだったのだ。あれは愛のしるしでもあり、思い出でもあったのだ。アトス、貴公のやったことはよくないぞ」
「だがね、きみ! おれの身にもなってくれよ。おれは退屈で死にそうだったのだ。それに、おれはイギリス産の馬は好かないのだ。まあ、目じるしだけだったら、鞍だけでじゅうぶんだよ。なかなかりっぱな鞍だからな。馬のほうは、なくした理由はなんとでもつく。かまわんよ! 馬だって生き物だからな。おれのは、鼻疽病《びそびょう》か皮疽《ひそ》病にやられたことにしとけばいい」
ダルタニャンの顔は、まだ晴れない。
「困ったな」と、アトスがつづけた。「そんなにあの馬を貴公が惜しがっているとすると、じつは、まだ話に先があるんだが」
「その上に、まだ何かやったのか?」
「おれの馬を取られたのは、十対九、惜しいところだったので、こんどはひとつ、貴公の馬を賭けてみようという気になったのだ」
「ただ、そういう気になっただけだろうね?」
「いや、さっそく実行に移した」
「そんな、ばかな!」心配のあまり、ダルタニャンは叫んだ。
「賭けた、そして負けた」
「おれの馬を?」
「貴公の馬をさ。八対七でさ。一点の差だ……貴公は、あの有名なことわざ(「一点の負けで、マルタンは自分のろばをなくした」)を知ってるだろう?」
「アトス、きみはまだ正気になっていないな」
「それは、きのうの話だ。あんなばかなことをきみに話したときは、たしかにそうだったが、けさはちゃんと正気だったよ。それで、馬も馬具もすっかりとられてしまったんだ」
「なんというひどいことをする!」
「まあ、待て。まだ話が残っている。これで潮時にきりをつければ、おれもうまい勝負師なんだが、ところがおれは夢中になってしまってね、飲むときもそうだろう。けさも、つい、はめをはずしちまって……」
「だが、賭けるものは、もう何もないじゃないか?」
「あるさ、あるとも、きみの指に光っているダイヤがあるじゃないか。きのう、ちゃんと見ておいたんだ」
「ダイヤだって!」と、ダルタニャンは叫んで、指輪に手をやった。
「なにしろおれは目ききでね、自分でも幾つか持っているくらいだから。たしかにそいつは千ピストールはするとふんだよ」
「まさかきみは」恐ろしさに半ば死にそうになってダルタニャンは、真顔になってたずねた。
「このダイヤのことを言いださなかったろうね」
「ところが、言ってしまったんだ。それが、われわれの最後の財源になったんだからね。そいつで、馬も馬飾りも取りもどし、おまけに帰りの旅費までかせげるはずだったんだからな」
「アトス、おれは身震いがする」
「そこでダイヤのことを相手に話すと、先方もちゃんと知っていてね。だめだよ、そんな空の星みたいにきらきら光るやつを指にはめていて、それで人に気がつかれたら困るなんていったって、そいつはむりだよ」
「早くいってくれ! 終わりまで話してしまってくれ。そんなに落ちついていられると息がつまりそうだ」
「われわれはそのダイヤを十に割って、ひとつを百ピストールということにしたんだ」
「貴公はじょうだんをいって、おれをからかう気だな?」ダルタニャンは怒髪天《どはつてん》をつかんばかり、さながら[イーリアス]の中のアキレウスそのものだった。
「いや、おれはじょうだんなどいっちゃいないよ。まあ、おれの身にもなってくれ! なにしろ二週間も人間の顔をおがまずに、酒瓶と鼻を突き合わせていたんだからな」
「だが、それはおれのダイヤを賭《か》けたりする理由にはならんよ!」ダルタニャンは手を握りしめて、わなわなと震わせていた。
「まあ、話の最後を聞いてくれ。百ピストールずつ十に割って、十回勝負をやったんだ。十三回目に、すっかりとられてしまった。十三回目にだ! 十三って数は、やっぱり悪いな。七月十三日には、あの……」
「畜生め!」ダルタニャンは叫んで、テーブルから立ちあがった。この話で、昨日の話は忘れてしまった。
「まあ、落ちつけ。こっちにも考えがあったんだ。あのイギリス人は変わった男でね。その朝グリモーと話をしているところを見たんだが、グリモーの言うには、自分に仕える気はないかと誘ったそうだ。おれはグリモーを賭けたよ、あの無口のグリモーをな、こいつも十に割ってね」
「へえ! グリモーまでもか!」ダルタニャンは思わず笑った。
「そうなんだよ、あのグリモーを十に割ってね。全部だって、銀貨一枚にもならん男だがね。それで、ダイヤを取りもどしたんだ。どうだい、忍耐は美徳ではなかろうか」
「まったく、おかしな話だ!」安心したダルタニャンはそう叫ぶと腹をかかえて笑った。「勝運がついたと思ったので、おれはすぐにまたダイヤで勝負をした」
「なんだって、また!」ダルタニャンの顔が、また曇った。
「それで貴公の馬具を取りもどした。それから貴公の馬を、そしておれの馬と馬具とを。そこでまた負けた。結果的には、きみの馬具とおれのとを取りもどしたわけだ。これが現状というわけだ。すばらしい勝負だったな。だから、その辺で止めることにした」
ダルタニャンは、胸の上からこの宿屋全体を取り払ってもらったように、ほっと大きく息をした。それから、おそるおそるたずねた。
「それで、結局、ダイヤはおれの手に残ったわけだね?」
「無事にな。それに貴公のビュセハール(アレクサンダー大帝の乗馬で、名馬といわれた)の馬具と、拙者の馬具も残った」
「だが、馬がなくて馬具だけじゃ、どうしようもないな」
「いい考えがある」
「アトス、またおどかす気か」
「まあ聞けよ。ダルタニャン、貴公はずいぶん長いあいだ賭け勝負をやらんだろう?」
「おれは、賭けなんかしたくないな」
「そうあっさり言うもんじゃない。長いこと勝負をしなかったんだから、運がついているにきまっている」
「それで、どうしろっていうんだ?」
「いいかい! あのイギリス人たちは、まだ宿にいる。あの二人は、馬具を非常に惜しがっているのを知っている。きみはきみで、また馬が惜しくてならないようだ。おれがきみなら、馬具と馬とで勝負をするな」
「だが向こうじゃ馬具一つではいやだと言うだろう」
「おれのと合わせて、二つ賭ければいい! なあに、おれは貴公のように利己主義じゃないからな」
「そうしてくれるかい?」
まだはっきりとダルタニャンの気持ちはきまっていなかったが、アトスの確信ある言葉に、いつのまにか動かされていたのである。
「ああ、いいとも。一度に賭けてしまえばいい」
「しかし、こうして馬をなくしてみると、馬具だけでもなんとかして残しておきたいな」
「では、そのダイヤを賭けたらいい」
「いや、こいつは別だ。絶対に、こいつはだめだ」
「ちえっ!」と、アトスはいった。「なんならプランシェを賭けろと言いたいところだが、この手はさっき使ったから、先方はもう乗ってこないだろう」
「どうしてもおれは、危険なまねはしたくないな」と、ダルタニャンはいった。
「そいつは残念だな」アトスは冷やかにいった。「イギリス人は、あんなに金をもっているんだし。どうだい、ひと勝負だけやってみないか? 一回だけでいいから」
「もし負けたら?」
「きみが勝つよ」
「でも、もし負けたら」
「そうしたら馬具をやればいい」
「よし、一回だけだよ」
アトスは、イギリス人をさがしに行った。ちょうど馬小屋で、馬具をもの欲しそうな目つきで見ているところだった。いい機会である。すぐに話をもちかけた。こちらの馬具二組に対して、先方は馬一頭、または百ピストールかどちらかという条件だった。
イギリス人はすぐに計算した。馬具二組で三百ピストールはするなと。彼は承知した。
ダルタニャンは、震える手で、さいころを振った。目は、三と出た。青年の顔がまっさおになったので、アトスも言葉をひかえた。
「これは悪い目だな。そちらさんの馬に、馬具がつきますな」
イギリス人は、もう勝ったような気になって、さいころをろくに振りもせず、見もしないでテーブルの上に投げだした。もう勝ったものと思いこんでいたからである。ダルタニャンは、不機嫌な顔を見せまいとして、横を向いた。
「おや、おや、これは」と、アトスがしずかな声でいった。「これは、めずらしい目だ。こんなのは、いままでに四度しか見たことがない。二つの目とは!」
イギリス人は見てびっくりし、ダルタニャンはよろこんだ。アトスは言葉をつづけた。
「そう、四回きりだ。一度はクレキー殿のところで。もう一度は田舎の自分の屋敷で……その頃は城をもっていた。三度目は、トレヴィール殿の屋敷で、みんな驚いたものだった。最後の四度目は居酒屋だった。これはおれの振った目で、百ルイと食事とをせしめられたが」
「では、馬をお取りになりますな」と、イギリス人がいった。
「そのとおり」と、ダルタニャンは答えた。
「では、復讐戦といきますかな?」
「お約束はこうでしたな。[復讐はしっこしない]と。おぼえておられるでしょう?」
「なるほど。では、馬は従僕の方にお返ししときましょう」
「ちょっとお待ちを」アトスが横合いからいった。「友人に、ちと申したいことがございますのでお許しいただきたい」
「どうぞ」
アトスはダルタニャンを、わきへ連れて行った。
「なんだ! まだ何か言うことがあるのかい?」と、ダルタニャンはいった。「もっとおれにやれって言うんだろう?」
「そうじゃない、よく考えろと言うんだ」
「何をだね?」
「きみは馬を取りもどすつもりだろう?」
「もちろんだ」
「それはつまらん。おれなら百ピストールもらうな。馬具を賭けて、馬か百ピストールかどちらかを選ぶという約束だったな」
「そうだ」
「おれなら百ピストールのほうを取るよ」
「いや、おれは馬だ」
「同じことを言うようだが、それはつまらん。一頭の馬で、われわれ二人じゃ、どうしたらいいんだ。まさか、おれが尻に乗るわけにはいかんからな。それじゃまるで、弟をなくしたエイモン兄弟(「武勲詩」の中でエイモン・ド・ドルトンヌの四人のむすこが一頭の馬に乗って戦ったと伝えられる)のようになる。貴公だって、おれ一人を歩かせて、自分一人がりっぱな馬の上でふんぞり返ってもいられまい。おれなら躊躇《ちゅうちょ》せずに、百ピストールをとるよ。パリへ帰るのに、金もいるからな」
「おれはなんとしても馬だ、アトス」
「それはまちがいだ。馬というやつは、跳ねたりつまづいたりして、すぐ足にけがをする。鼻疽病《びそびょう》にはかかる。そうなれば馬一頭の損、いやむしろ百ピストール分まで損をすることになる。馬は飼い主が養わなければならぬ。ところが百ピストールは、持ち主を養ってくれるからな」
「では、どうやって帰るんだ?」
「従僕どもの馬に乗ればいいさ。われわれの風采《ふうさい》を見れば、身分のある者だぐらいはすぐわかるよ」
「あんな駄馬に乗って、風采もくそもあるものかい。アラミスやポルトスが自分たちの馬を堂々と乗りまわすというのになあ」
「アラミスやポルトスか!」そういってアトスは、笑いだした。
「どうしたんだ?」友人の爆笑の意味がわからないので、ダルタニャンはたずねた。
「いや、いや、なんでもない。話をつづけよう」と、アトスはいった。
「で、貴公の意見は?」
「百ピストール取るさ。ダルタニャン、それだけあれば、月末までたっぷりご馳走にありつける。お互いにさんざん苦労したんだからな、少しは休養したほうがいいよ」
「おれが休養するって! とんでもないよ、アトス。パリに着いたら、さっそくあの女を捜さにゃならんのだから」
「さて、そのためには金貨よりも馬のほうが役に立つと思っているのかい? いいから、百ピストールを取っておけよ。百ピストールをだよ」
ダルタニャンは、なにか理由が一つでもあれば、譲歩してもいいと思った。ところで、この理由がよかろうと思った。それに、いつまでもこだわっていると、アトスに利己主義だと思われる心配があった。そこで彼は、百ピストールを受けとることにきめた。イギリス人は即座にそれを支払った。
あとは、出発するばかりだった。宿屋の主人とは話し合いがついて、アトスの老馬のほかに、六ピストール払うことにきまった。ダルタニャンとアトスとは、それぞれプランシェとグリモーの馬に乗り、二人の従僕は馬具をかついで徒歩で従った。
二人の友は乗りごこちはわるかったが、まもなく従者を引き離して、クレーヴクールについた。
遠くから、アラミスが憂うつな顔で窓に寄りかかって、まるで[アンヌ姉さん]〔ペローの「青ひげ」の中で、彼の七番目の妻の姉アンヌが塔上で、救いの兄弟が現われるのを望見しているのを、階下で青ひげの妻は「アンヌ、アンヌ姉さん、来るのが何も見えませんか?」と問いたずねる〕といった格好で、地平線に土煙があがるのを眺めていた。
「おうい、アラミス、そんなところで何をしているんだ?」二人の友は叫んだ。
「ああ、ダルタニャンか、それからアトスか! おれは、この世の財宝なんかは、あっというまに消え去るものだと、つくづく嘆じているところなんだ。おれのあのイギリス産の名馬が、ああやって土煙をあげて行ってしまうのを見ると、わたしはつくづくとこの世のはかなさが身にしみて感じられるのだ。まさに人生は、Erat, est, fuit(過去、現在、未来)、この三語につきるな」
「けっきょく、それはどういう意味なんだ?」彼の言葉に真実性はないと思いはじめたダルタニャンが、たずねた。
「つまり、わたしがうまうまとひっかかったというわけさ。あの走りぐあいを見ると、一時間に二十キロは走れるはずのあの馬を、六十ルイで取られちまったんだからな」
ダルタニャンとアトスとは声をあげて大笑いをした。
「ダルタニャン、まあ悪く思わんでくれ。なあ、頼むよ。必要の前には法律はなし、だからな。わたしが真っ先に罰せられたんだから。あの不届きな博労は、少なくとも五十ルイはごまかしたんだ。ああ、貴公たちは、じつに細かいところに気を配るな。自分たちは従者の馬に乗って、あのりっぱな馬はあいつらにひかせて、あとからゆっくりと歩かせてくるとは」
ちょうどそのとき、しばらく前からアミヤン街道に姿を見せていた一台の荷車が、とまった。中から鞍《くら》をかついだグリモーとプランシェが現われた。二人の従僕は、ちょうどこちらへ来る車をつかまえ、荷車ひきに酒手をはずんで、運搬《うんぱん》させたのだった。
「これは、どうしたことだ? 鞍だけじゃないか?」
その場のようすにびっくりして、アラミスがたずねた。
「これで、わかったろう?」と、アトスがいった。
「貴公らも、このわたしと、まさに同じなんだな。わたしも直観で、馬具だけは残しておいたよ、おうい、バザン! わしの新しい鞍を持ってきて、ここへ並べてくれ」
「ところで、あの坊さんたちはどうした?」と、ダルタニャンがたずねた。
「じつはあの翌日、晩餐《ばんさん》に招待してやったのだが。ついでに言うが、この店には、うまい酒があってね。二人をすっかり酔わしてやった。すると司祭は、わたしに銃士隊を離れるなと言い、僧院長は、自分を銃士隊に入れてくれと言いだす始末だ」
「論文なしでかい!」と、ダルタニャンは叫んだ。「論文なしでか! それならおれも、論文免除ということにしてもらいたいもんだな」
「それ以来、わたしは愉快な毎日を送ったよ」と、アラミスはつづけた。「一行一音節の詩を書きはじめている。かなりむずかしい仕事だが、なんによらずむずかしい仕事ほど功績はあるからな。題材は色っぽいもので、第一節を読んであげよう。四百行あるのだが、一分間しかかからんな」
「まったくだよ、アラミス」ラテン語とほとんど同じく詩のきらいなダルタニャンは、「むずかしいという功績の上に、簡潔という美点を加えれば、少なくとも貴公の詩は二つの長所をもつこと疑いなしだね」
「それに」とアラミスはつづけた。「わたしの詩には、誠実な情熱というものがあるのがわかるよ。それで、なにかい! いよいよわれわれは、パリに帰るのかい? ありがたい、こっちはもう用意はできている。ポルトスにも、また会えるというわけだね。うれしいよ。ふしぎに思うだろうが、あの間抜けがいないと寂しくてね。まさかあの男は、馬を売りゃしないだろうな。たとえ、王国と引き換えるといわれたって。あの男が、あの馬の鞍にまたがっている姿が見えるようだよ。まさに、蒙古《もうこ》王といったふうだろうね」
馬にひと息入れさせるために、一時間ほど休んだ。アラミスが勘定を払い、バザンをその仲間といっしょに荷車に乗せると、一同はポルトスに会いに出発した。
ポルトスは起きていて、前にダルタニャンがたずねたときよりも顔の色はよく、テーブルの前に坐っていた。一人のはずなのに、四人分の食事が出ている。手のこんだ肉の皿、選《え》りすぐったぶどう酒、みごとな果実がならんでいる。彼は立ちあがって言った。
「これは、ちょうどいいところへきた。いま、ちょうどポタージュをやっているところだ。いっしょに食事をしよう」
「おやおや! これはムスクトンが投げ縄《なわ》で取ってきた酒じゃないな」と、ダルタニャンはいった。「それに、これはシチューだし、こっちはひれ肉だし」
「体力をつけてるんだよ。なにしろ捻挫《ねんざ》ほどからだを弱らせるものはないからな。アトス、貴公は捻挫をやったことがあるかい?」
「ないな。ただ、いま思いだしてみると、あのフェルー街の乱闘のときに剣でやられたあとが、二週間とちょっとたってから捻挫とまるで同じような結果になったことはあるがね」
「ところで、この食事はきみ一人のではないだろう、ポルトス」と、アラミスがたずねた。
「そうなんだ。近所の貴族たちが数人来ることになっていたんだが、来られなくなってしまってね。貴公たちがその代わりというわけだ。貴公たちのおかげで損をしなくてすんだよ。おうい! ムスクトン、椅子だ、それから酒を追加だ」
「いま、われわれが食っているのはなんだか知っているかね?」
十分ほどしてから、アトスがたずねた。
「知ってるとも! おれの食ってるのは、小えびをあしらった子牛だ」と、ダルタニャン。
「おれのは、子羊のヒレ」と、ポルトス。
「わたしのは、鶏《とり》の白味だな」と、アラミス。
「みんなちがってるよ、諸君。馬を食ってるんだぜ」と、アトスはいった。
「じょうだんじゃない!」と、ダルタニャン。
「馬か!」
きゅうに食欲を失ったように、アラミスは顔をしかめた。ポルトスはべつに何も言わなかった。
「そう、馬だ。そうだろう、ポルトス? われわれは馬を食べてるんだろう? たぶん、馬具もいっしょにな!」
「いや、いや、馬具だけは残しておいた」と、ポルトスはいった。
「おやおや、われわれは優劣なしだ。まるで、申し合わせたみたいだな」と、アラミスがいった。
「仕方があるまい」と、ポルトスはいった。「あんまりあの馬がりっぱなので、おれのところへ来る客が、みんな卑下《ひげ》してしまうんでな。おれは、他人を卑下させるのは好まんよ」
「それに、きみの公爵夫人が、ずっと温泉に行きっきりだからだろう、どうだい、ポルトス?」と、ダルタニャンがいった。
「あいかわらず、そうなんだ」とポルトスは答えた。「ところで、じつはこの土地の役人で、きょう食事に来ることになっていた貴族の一人が、あの馬をたいへん欲しがっていたもんだから、くれてやったのさ」
「くれてやったと!」ダルタニャンは叫んだ。
「そうさ、くれたと同然さ。あの馬はどうみたって百五十ルイはするのに、あの男はけちで、八十ルイしか出さないんだからな」
「鞍なしでか?」と、アラミスがきいた。
「そう、鞍なしでだ」
「おい、みんな、けっきょく、われわれの中で一番うまい取引をしたのは、やっぱりポルトスだよ」
そこで三人がわっと声をあげて言ったのでポルトスはびっくりしたが、すぐにその哄笑《こうしょう》のいわれを聞くと、彼もいっしょになって、いつもの大声で笑いだした。
「それじゃ、みんな金は持ってるわけだな」と、ダルタニャンがきいた。
「いや、おれはそうじゃない」と、アトスがいった。「アラミスのところのスペインぶどう酒があまりうまかったので、六十本ばかり荷車に積ませてしまった。従ってふところは軽くなった」
「おれもだよ」と、アラミスがいった。「モンディディエの教会と、アミヤンの耶蘇《ヤソ》会に一文残らず寄付してしまったんでね。自分や貴公たちのためにミサをあげてくれるように、とくに頼んでおいたよ。きっとご利益《りやく》があること疑いなしだ」
「おれもだよ」と、こんどはポルトス。「おれの捻挫《ねんざ》だって、ただですんだと思うかい? それに、ムスクトンのけがもあったしな。そのために外科医を、日に二回も来させなければならなかったよ。外科医のやつ、ムスクトンがふつうなら薬屋にこっそり見せるような場所にけがをしているといってな、治療費を二倍も取りやがった。おれは、あのばか者に、今後そんなところにけがなんかするなと、よく注意してはおいたがね」
「まあ、まあ、いいよ」アトスは、ダルタニャンとアラミスと微笑をかわしながら、「かわいそうな若者をよくめんどうみてやった。りっぱなご主人さまだ」
「けっきょく、払いをすませたら、三十エキュくらいしか残るまいな」と、ポルトスはつけ加えていった。
「おれは、十ピストールほどだ」と、アラミス。
「さあ、さあ、どうやらおれたちは、文明社会のクロイソス(最後のリディア王、その富によって知られる)といった大金持ちだってわけだな」と、アトスがいった。「ダルタニャン、貴公のところには、どのくらい残っている?」
「おれの百ピストールか? まず最初に五十ピストールきみにやったな」
「そうだったかな?」
「そうだよ!」
「ああ、そうだ、思いだしたよ」
「それから、宿の亭主に六ピストール、やった」
「なんてひどい奴だ、あいつは! なぜ、六ピストールもやったんだい?」
「やれといったのは、きみじゃないか」
「なるほど、どうもおれは気が良すぎるわい。それで、けっきょく残りは?」
「二十五ピストールだ」と、ダルタニャンは答えた。
「おれはな」アトスはポケットから小銭《こぜに》を取りだしたが、「さてと……」
「きみは、なしだよ」
「まったく、こんなはした金じゃあ、たしまえにもなるまい」
「さあ、全部でいくらになるか、勘定してみよう」
「ポルトスは?」
「三十エキュ」
「アラミスは?」
「十ピストール」
「ダルタニャンは、どうなんだ?」
「二十五ピストール」
「みんなでいくらだ?」とアトスがいうと、
「四百七十五リーブルだ」アルキメデスのように計算の早いダルタニャンが答えた。
「パリに着いても、まだ四百リーブルは残るな。それに馬具もあるし」と、ポルトスがいった。
「しかし、隊でのわれわれの乗馬はどうする?」と、アラミスがたずねた。
「いいか、従僕どもの馬四頭のうち二頭を主人用にし、それをくじできめる。四百リーブルで、乗れない一人の半頭分にはなる。それからみんなの小銭をかき集めて、ダルタニャンにやるのだ。彼はいま勝運がついているから最初に出くわした賭博場へ行って勝負をするんだ。まあ、こんなふうにやる」
「とにかく、飯を食おう、冷《さ》めちまう」と、ポルトスが注意した。
こうして将来のことに心配がなくなったので、四人は食事をすませ、残りは四人の従者たちにまわした。
パリに帰ると、ダルタニャンのところへ、トレヴィール殿から手紙がきていた。それは願いによって、彼が近衛《このえ》銃士隊にはいることを国王が許可されたという通知だった。
ボナシュー夫人をさがしだすという望みを別とすれば、これこそダルタニャンのこの世で最大の願いであったから、彼は大喜びで、三十分ばかり前にわかれた友人たちのところへ、また駆けつけた。すると、みんなはひどく憂鬱《ゆううつ》そうな、心配そうなようすをしていた。アトスの家に集まって話し合っていたのだが、これはいつも重大な問題があると、きまってこうするのが例だった。
トレヴィール殿から、陛下はいよいよ五月一日に開戦のご決意をなさったから、ただちに出陣の用意をするようにと、達しがあったからである。
四人の楽天家はただ呆然《ぼうぜん》と、顔を見合わせるばかりだった。トレヴィール殿は、軍律についてはきびしい人である。
「で、支度《したく》には、どのくらいかかるかな?」と、ダルタニャンがいった。
「まあ、たしかなところ」と、アラミスがいった。「スパルタ人流の内輪な計算をしてみたんだが、一人千五百リーブルだね」
「四人で六千リーブルか?」と、アトス。
「おれの考えだと、一人千リーブルでなんとかなると思うな」と、ダルタニャンがいった。「もっともおれのは、スパルタ式じゃなくて、会計係の考えだがね……」
会計係《プロキユルール》という言葉を聞いて、代訴人《プロキユルール》を思いだし、ポルトスは、はっとなった。そして、
「おい、おれにいい考えがある」といった。
「そいつはたいしたものだ。おれには考えなんか、まるで浮かばないよ」と、アトスは冷やかにいった。「ところでダルタニャンは、わが銃士隊にはいれたと言うので、頭が変になったんじゃないかね、千リーブルだなんて。おれ一人だって二千リーブルはかかるよ」
「二千の四倍だと、八千リーブルか」と、アラミスがいった。「それが、われわれの支度金として必要なんだな。もっとも鞍《くら》はあるがね」
ダルタニャンがトレヴィール殿にお礼|言上《ごんじょう》のために出ていったあと、アトスがこういった。
「それに、あいつの指にはダイヤが光っている。あいつは中指に国王の身代金《みのしろきん》といってもいいあんなものをはめていて、友だちを捨てておくようなまねはしないよ」
二十九 出陣の身支度
四人のうちで、もっともやきもきしていたのは、じつはダルタニャンだった。彼の身分はいまのところまだ親衛隊士だったから、殿さま格である銃士隊の連中よりは身支度もはるかに手軽にすむはずだった。
しかしこのガスコーニュ生まれの青年は、諸君もごぞんじのとおり……もし反対意見があればおうかがいしたいが……目先がきいていて、金銭のことでも細かい神経を使う上に、ポルトスにも劣らぬほど虚栄心が強かった。それに現在では、この虚栄心の気苦労に加えて、それほど利己的でない心配があった。それは、ボナシュー夫人の消息をあちらこちらへ問い合わせたのだが、一向に手がかりが得られなかったことであった。トレヴィール殿もこの事件を王妃に話してくれたのだが、王妃にも小間物屋の細君の居場所はわからず、きっと捜させると約束してくれたというのだが、ダルタニャンを安心させるには至らなかったのである。
アトスは、自分の部屋から一歩も出なかった。出陣の準備のために、あてもなく飛びまわるようなことはしまいと、心にきめていたからである。
「まだ二週間ある」と、彼は友だちにいっていた。「それで、もし二週間たっても何も方策が見つからなかったら、というよりも何かいい方策がこっちへ舞いこんで来なかったら、おれはカトリック教徒で、ピストルで頭をぶち抜くわけにもいかんから、枢機卿の親衛隊士四人か、またはイギリス人を八人ぐらいみつけてけんかを吹きかけてやる。それだけの人数のうちには、おれを殺してくれる奴《やつ》が一人ぐらいはいるだろう。そうなれば、おれは陛下のために一命を捧げたことになる。つまり、出陣の支度なんかしないで、ご奉公ができるっていうわけだ」
ポルトスは腕をうしろに組んで、首を上下にふりながら、こういって歩きまわっていた。
「おれはうまい手をみつけるぞ」
アラミスは、乱れた髪のまま考えこんで、ひと言もしゃべらなかった。このようにおもしろくないようすによっても、いかにこの仲間全体に非痛な空気がみなぎっていたかはわかるであろう。
従者らはまた彼らなりに、かのヒポリタス(ラシーヌの『フェードル』中の主人公)の軍馬のように、主人の苦痛をともに分かちもっていた。ムスクトンは食糧集めをしていたし、あい変わらず信心ぶかいバザンは、教会に入りびたっていた。プランシェは蝿《はえ》が飛ぶのをただ見ていたし、グリモーはこんな窮境《きゅうきょう》に立ちいたっても、主人からしつけられた無口の習慣が治らず、木石を感動させんばかりの深いため息をもらしていた。
三人の友は、というのは、すでにご承知のとおり、アトスは一歩も動かぬ決心をしていたから残る三人は、朝早くから夜おそくまで外を歩きまわっていた。彼らは町をうろついて、前を歩いて行った人がもしかして財布を落としはしまいかと、敷石の上を見てまわっていた。まるで獲物のあとを嗅《か》いでまわっているようで、どこへ行っても鼻をくんくん鳴らしていたのである。途中でばったり仲間に出会うと、[何か見つけたかい]といったふうに、悲痛な視線をかわすのだった。
そのうちに、最初に思いつきがあるといったポルトスは、あくまでもその考えを捨てなかったので、いよいよ真っ先に実行にとりかかった。まったく、このポルトスという男は、実践家だった。
ある日、ダルタニャンは、この男がサン=ルーの教会のほうへ行くのを見つけた。そこで、なにげなしに、そのあとをつけた。見ると、教会にはいる前に、彼は口ひげをひねりあげ、あごひげをなでつけていた。これはいつもこの男が、女をたらしこむ気があるときに、きまってする癖だった。ダルタニャンは用心してうまく身を隠していたから、ポルトスはだれにも見られなかったと思いこんでいた。ダルタニャンは、あとからつづいてはいった。ポルトスは柱のところへ行って、そこで背をもたせかけた。ダルタニャンは気づかれぬように、別の柱によりかかった。
ちょうど説教があったので、教会はいっぱいだった。ポルトスはその人ごみを利用して、女たちのようすをうかがった。ムスクトンの世話が行きとどいているので、外見はりっぱで、懐中が窮迫しているなどとは、どうしても見えなかった。帽子はいささかすり切れ、羽飾りもかなり色あせ、刺繍はうすよごれ、レースもややいたんでいたが、あたりが薄暗いので、このくらいのことは目立たなかった。つまりポルトスは、やはり美男子のポルトスだった。
ダルタニャンは、ポルトスが背をもたれている柱のすぐ近くの椅子に、少し顔色が黄色っぽくてやせてはいたが、一人の年増の女が黒いベールをかぶって、おつにすまして腰かけているのに気づいた。ポルトスの視線は、この婦人の上にこっそり向けられたと思うと、こんどは本堂の脇間のほうに遠く走った。
女のほうは、ときどき顔を赤らめては、稲妻《いなずま》のようなすばやい視線を、この浮気なポルトスの上に注いでいた。するとポルトスは、すぐにむっとして、視線を遠くに走らせてしまった。明らかにこれは、この黒ベールの婦人を刺激するための策だった。女は唇をかみしめ、鼻の先をかき、腰掛の上でいらいらしていた。
このようすを見るとポルトスは、またもや口ひげをひねりあげ、あごひげをなでつけた。そして合唱席のそばにいる一人の美しい女にむかって、目くばせを送りはじめた。相手は美人であるばかりでなく、おそらく身分の高い貴婦人であるらしく、いま坐っているふとんを持ってきた黒人の侍童と、いま読んでいる祈祷書をしまうための紋章入りの袋を持っている侍女とが、そのうしろに控えているからだった。
黒ベールの女は、ポルトスの視線の流れを追って、やっとそれが侍女と黒人の侍童とを従えて、ビロードの座布団《ざぶとん》に坐っている貴婦人にとまったことを知った。
そのあいだにもポルトスは、演技を手がたくはこんでいた。目くばせしたり、手を唇に当てたり、悩ましい微笑を送ったりするのである。その微笑には、まさに無視された女を悩殺《のうさつ》する力があった。
そこでその女は、さながら自分の罪をくやむかのように「ううん」とばかり、ため息をもらした。かなり強い声だったので、まわりの人びと、赤い座布団の貴婦人までが振り向いた。ポルトスはじっとこらえていた。気がついていたのだが、聞こえぬふりをしていた。
赤い座布団の婦人は、黒いベールの女に大きな効果を及ぼした。貴婦人があまり美しいので、彼女は恐るべき恋敵だと見てとったのである。ポルトスの上にも、大きな効果を与えた。黒いベールの女とは比べものにならぬくらいの美人だったからである。
ダルタニャンも、その顔を見て、はっと驚いた。それはマンで会い、カレーで会い、ドーヴァでも会った、あの傷のあるうるさい男がミラディーと呼んでいた女だったからである。
ダルタニャンは、その赤い座布団の女から目を離さないようにしながら、おもしろいので、ポルトスのやり口をなお眺めていた。黒いベールの女は、例のウルス通りに住んでいる代訴人の細君にちがいないと思った。このサン=ルーの教会は、その通りからそれほど遠くなかったからである。そこで彼は、この代訴人の細君ががっちりと財布のひもをゆるめなかったためにシャンティイで敗退した復讐を、いまポルトスは試みているのだと思った。
しかし、ダルタニャンが気をつけて見ると、ポルトスの秋波にこたえている顔は、一つとして堂内には見あたらなかった。まったく相手なしの、夢か幻が相手のしぐさであった。ところがほんとうに恋している者、本気で嫉妬している者にとっては、その夢や幻も現実のものに思われるのだ。
説教が終わったので、代訴人の細君は聖水盤のほうに近づいて行った。ポルトスは彼女よりも先に行って、指だけでなく手をそのまま水盤の中に入れた。女はポルトスが自分のためにそうしてくれたのだと思って、にっこりした。だが、その期待は、無残にもはずれてしまった。彼女があと三歩ほどの距離に近づいたとき、彼はくるりと顔をそむけて、赤い座布団の貴婦人にじっと眼をそそいだからである。貴婦人は席を立つと、侍女と黒人の侍童とを従えて、こちらへ近づいてきたのである。
その貴婦人がそばへ来ると、ポルトスは水のしたたる手を聖水盤から抜きだした。美しい信者はそのほっそりした手をポルトスの大きな手に触れて、ほほえみながら十字を切って外へ出た。
代訴人の細君にとっては、これはあまりにひどすぎた。あの貴婦人とポルトスとはいい仲であると、彼女はもはや信じて疑わなかった。もしも彼女が身分の高い貴婦人だったら、卒倒もしかねないだろう。だが彼女は代訴人の細君にすぎなかったから、銃士に向かって、怒りをこめた声でこういっただけであった。
「まあ、ポルトスさま、お手の聖水にはさわらせていただけませんの?」
ポルトスはその声を聞くとまるで百年の眠りから覚めたとでもいったふうに、はっとした顔をして叫んだ。
「ああ、奥さん、あなたでしたか。ご主人のコクナールさんはお元気ですか? あい変わらず欲のふかいことをおっしゃっていますか? でも、二時間の説教のあいだに、どうしてあなたに気づかなかったのでしょうかね?」
「あなたのすぐおそばにおりましたのに。でもあなたは、さっき聖水をおあげになったあの美しい方ばかりを見ておいでになったから、あたしにはお目がとまらなかったのですわ」
ポルトスは、困ったという顔をした。
「おや、気がついていたのですか?」
「あれに気がつかなければ、めくらですわ」
「なるほど」と、ポルトスは無関心をよそおって、「あの人は友人の一人の公爵夫人ですが、だんなさんがやきもちをやくので困っているのです。きょうも、ただわたしに会いたいばかりに、こんな場末のみすぼらしい寺へ、わざわざやって来ると知らせがあったものですから」
「ポルトスさま、五分間ほどあたくしに腕を貸してはくださいませんか。ちとお話したいことがあるのですけれども」
「いいですとも、奥さま」
ポルトスは、相手にいっぱいくわしたとほくそえんでいる賭博師《とばくし》のように、眼をぱちくりした。
このとき、ミラディーのあとを追って外へ出ようとそこを通りかかったダルタニャンは、ポルトスのほうを見やったとき、その得意そうなまばたきに気がついた。[さあ、これで一人は期限までに身支度ができそうだ]と、好色の風潮のさかんな当時の放縦な人生観によって、青年はこう推論をくだした。
ポルトスは、まるで小舟が舵《かじ》を取られたように、代訴人の細君の腕に押されて、サン=マグロワールの僧院のところまできた。回転木戸で両端をとめられた、あまり人の来ない場所である。昼間は、乞食《こじき》が食事をしたり、子どもが遊んだりしているだけだった。
そういういつもの常連以外には、顔を見られたり話を聞かれたりしては困るような人影が見えないことを確かめてから、代訴人の細君は切りだした。
「ねえ、ポルトスさま、お見受けしましたところ、あなたはその道にかけては、たいした腕ですわね」
「わたしがですか! それはどうしてなのです?」そり身になってポルトスはいった。
「さっきのいろいろな合図や、あの聖水のことは、なんですの? きっと、あの侍童や侍女を連れた婦人は、少なくともどこかの王女さまでしょうね!」
「ちがいますよ。あれは、まさしく公爵夫人ですよ」
「では門のところで待っていた従者や、制服を着て坐席で待ち受けていた御者や、あのりっぱな馬車は?」
ポルトスは、そのような従者や馬車には気がついていなかった。しかし嫉妬に燃える眼で、コクナール夫人は、なにひとつ見のがさなかったのである。
ポルトスは、あの赤い座布団の女を、どこかの王女だとしておけばよかったと後悔した。
「ああ、あなたっていう人は、美しいご婦人にかわいがられる方なのね、ポルトスさま」と、代訴人の細君はため息をついた。
「ごらんのとおり、生まれつきこういう風采《ふうさい》なので、まあ情事《いろごと》には事欠きませんな」とポルトスは、こともなげに答えた。
「まあ、男の方って、どうしてそんなに早く忘れることがおできになるんでしょうね?」と、代訴人の細君は、空を仰いで嘆息した。
「女の人ほど早くはないようですな」と、ポルトスは答えた。「なにしろわたしは、あなたからそういう目にあわされたんですからな。けがをして死にかけて、医者からも見放されたときにね。名門の末裔《まつえい》ともあろうこのわたしが、あなたのご好意をあてにしたばかりに、まず傷のために苦しみ、次には飢えのために、シャンティイの安宿で、もう少しで死ぬところでした。しかもあなたは、わたしの書き送った真情のこもった手紙に、ただの一度も返事をくださらなかったのです」
「でも、それは、ポルトスさま」と、彼女はつぶやいた。当時の貴婦人の行動から押しはかって、自分のしたことが間違っていたと判断したのだ。
「このわたしはあなたのために、プナフロール伯爵夫人を犠牲にしたのに……」
「それは、わかっております」
「それから、男爵夫人の……」
「ポルトスさま、あたくしを苦しめないで」
「それに、公爵夫人の……」
「ポルトスさま、もう、そんなにおっしゃらないで」
「そうですね、もうよしましょう」
「でも、うちの主人が、お金を貸す話をするのをいやがるものですから」
「コクナールの奥さん」と、ポルトスはいった。「あなたが最初にくださった手紙のことを思いだしてください。わたしは今でもちゃんとおぼえていますよ」
代訴人の細君は、苦しそうな声をだしていった。
「でも、あなたが貸してくれとおっしゃった額が、あまりにも大きすぎたんですもの」
「コクナールの奥さん、わたしはあなたなればこそ、とくにお願いしたのでした。わたしはあの公爵夫人に手紙を書けばよかったのです。その人の名前は申しあげたくありませんがね。わたしは婦人の名誉を傷つけたくはありませんので。しかし、その人に手紙を書きさえすれば千五百ぐらいのお金は送ってくれたのです」
代訴人の細君は、涙を流しはじめた。
「ポルトスさま、あなたはもうじゅうぶんにわたしをお罰しになりましたわ。もしまた今後、そのようなお困りのときがありましたら、どうかあたくしにひと言おっしゃってくださいませ」
「よしましょう、もうお金の話は!」と、怒ったようにポルトスはいった。「自分をいやしめるばかりだ」
「では、あなたは、もうあたくしを愛してはくださらないのね!」と、女はゆっくりと悲しそうにいった。
ポルトスは断固として、押しだまっていた。
「それが、あなたのご返事なのね? ああ、よくわかりましたわ」
「あなたが、どんなにわたしに痛手を負わせたことか。ほら、まだここがこんなに」そういってポルトスは、手を胸にあてて、ぎゅっと押えつけた。
「あたくしが、おなおし申しあげますわ、ポルトスさま!」
「それに、わたしが何をお願いしたというのです?」と、ポルトスはいかにも善良そうなようすで肩をすくめてみせてから、「拝借したいと、ただそれだけいっただけです。わたしだって、わけのわからん男ではないつもりです。わたしは、コクナールの奥さん、あなたがお金持ちでないことは知っていますよ。あなたのご主人は、わずかなはした金を得るために、あわれな訴訟依頼人から膏血《こうけつ》をしぼっているんだっていうこともね。いや、あなたが伯爵夫人か侯爵夫人か、それとも公爵夫人だというなら、また話は別で、それなら許してはおけませんがね」
代訴人の細君は、大いに気持ちを傷つけられた。
「いいですか、ポルトスさま、あたしの金庫は、どうせ代訴人ふぜいの女房の金庫ですけれども、たぶんあなたの様子ぶったご婦人方の金庫よりは、どっしりと重いかもしれませんよ」
ポルトスは自分の腕を、女の脇の下からはぎとるように離して、「それでは、二重の侮辱だ。だってそうでしょう、コクナールの奥さん、あなたがそんなお金持ちだったら、お断わりになるのは、理由が立たんでしょうが」
彼女は少し言いすぎたと後悔しながら、「お金持ちだといっても、その言葉を額面どおりに取っては困りますわ。正確に申せば金持ちというのではなくて、ただ暮らしに困らないという程度ですわ」
「ねえ、奥さん、この話はもうやめましょうよ。あなたはわたしという人間を見そこなったんだし、もうお互いのあいだには、気持ちのかようものは何もないのだから」
「あなたって、薄情な方ね!」
「なんなら訴えたらどうです!」と、ポルトスは言い放った。
「お美しい公爵夫人のところへ行ったらいいわ! おひきとめしませんからね」
「ええ、あの人は、あなたのようにつれないまねはしないでしょうよ!」
「ねえ、ポルトスさま、これが最後よ、もう一度申しますが、まだあたしを愛していてくださる?」
「ああ!」とポルトスは、できるだけ憂鬱な口調でいった。「これから戦場へ行くんですが、はたして今度は生きて帰れるものやら……」
「まあ、そんなことをおっしゃらないで!」と、彼女はすすり泣きながらいった。
「どうも、そういう気がしてならない」と、ポルトスは、さらにいっそう憂わしげなようすを見せた。
「いっそ、新しい恋人ができたと、おっしゃってください」
「そんなものはありませんよ、卒直に申して。それよりも、わたしの心の奥で、あなたに話しかけようとしている何かがあることを感じているのです。でも、ごぞんじかもしれませんが、二週間もすると、あのいやな戦争がはじまるのです。わたしは出陣の身支度のことが、なんとしても気になるのです。で、わたしは、ブルターニュの奥にある故郷に帰って、出陣に必要な金だけは調達して来なければならないのです」
ポルトスは恋と吝嗇《けち》とのあいだで最後の闘《たたか》いが行なわれているのを、はっきりと見た。
「それで」と、彼はなお言いつづけた。「さっきあなたがごらんになったあの公爵夫人の領地がわたしの家の近くなので、いっしょに旅行をしようと思っているのです。道づれがあると、旅もそれほど長く感じられないものですからね」
「では、あなたはパリにはお友だちはございませんの、ポルトスさま」と、彼女はいった。
「あると思ったのですが、それが間違いだったことを知りました」と、ポルトスは沈んだ顔でいった。
「いいえ、おありですわ、ポルトスさま」と、代訴人の細君は自分でもびっくりしたほど興奮していった。「明日、あたくしのところへいらっしゃってくださいましな。あたしの叔母のむすこ、つまりあたくしの従弟ということにして。ピカルディのノワイオンから訴訟のことでパリへ出てきたのだが、代訴人が見つからないのでと、こうおっしゃるのよ。ね、おわかりになって?」
「よくわかりました」
「夕食のときにいらっしゃいね」
「けっこうですね」
「でも、主人の前では気をつけてくださいね。七十六にもなるのに、なかなかしっかりしていますからね」
「七十六歳! へえ! いいお年ですな!」
「もう爺《じい》さまですわ、ポルトスさま。ですから、そのうちにあたしは寡婦《かふ》になるでしょうよ」と、彼女はポルトスに意味ありげな眼《まな》ざしを送った。「でも幸い、結婚したときの約束で、生き残ったほうに何もかもそっくりいくことになっていますから」
「そっくりですか?」と、ポルトスは聞き返した。
「ええ」
「用心ぶかい方ですね、あなたっていう人は」と、ポルトスは代訴人の細君の手をやさしく握りしめていった。
「これで仲直りってわけね、ポルトスさま」と、彼女はしなをつくっていった。
「ええ、死ぬまで」と、ポルトスも同じように様子ぶっていう。
「では、さようなら、あたしのずるい人!」
「さようなら、忘れっぽい人!」
「では、あしたね、あたしの天使!」
「明日、わたしの命の炎!」
三十 ミラディー
ダルタニャンは見られないように、こっそりとミラディーのあとをつけた。彼女は待っていた馬車に乗ると、御者にサン=ジェルマンへ行くようにと命じているのが聞こえた。
二頭の威勢のいい馬がひいて行く馬車のあとから、徒歩で追いかけたってむだな話である。そこでダルタニャンは、フェルー街にもどることにした。
セーヌ街の菓子屋の店先で、いかにもうまそうな形に焼けたブリオーシュをうっとりして眺めているプランシェに出会った。ダルタニャンは彼に、トレヴィール殿の馬屋へ行って自分たちの乗馬を二頭用意し、すんだらアトスの家へ迎えに来るようにと命じた。ダルタニャンはトレヴィール殿から、いざというときには馬屋の使用を許されていたのである。
プランシェはコロンビエ街へと向かい、ダルタニャンはフェルー街へ行きついた。アトスは家にいて、例のピカルディから持ち帰ったスペインぶどう酒の瓶《びん》を、浮かぬ顔をしながら飲んでいた。彼はグリモーに、ダルタニャンのコップを持って来るようにと合図をすると、従者はいつものとおり、黙々として従った。
ダルタニャンはアトスに、教会でポルトスと代訴人の細君とのあいだに起こった一部始終を話してやり、いまごろは彼も身支度をととのえつつあるだろうといった。
「おれはな」と、アトスは話を聞き終わると、それに答えて、「おれはじっとしてるよ。女なんかに馬具の用意はしてもらいたくないからな」
「だがアトス、貴公のようにりっぱで礼儀正しく美貌の大貴族なら、どんな王女だって王妃だって、きみの魅力からはのがれっこないと思うがな」
「ダルタニャンの言うことは若いな!」と、アトスは肩をすくめていった。そしてグリモーに、もうひと瓶持ってくるようにと命じた。
そのとき、半開きになっていたドアからプランシェが顔をそっとのぞかせて、二頭の馬の用意ができたことを主人に告げた。
「なんの馬だ?」と、アトスがたずねた。「トレヴィール殿が遠乗りのために二頭貸してくださったのだ。それに乗って、おれはサン=ジェルマンまでひと走り行ってくる」
「サン=ジェルマンへ何をしに行くんだ?」と、またもやアトスはたずねた。
そこでダルタニャンは教会で再会した女のことを語り、その女は黒マントを着てこめかみに傷のある貴族とともに、彼の永久の敵であることを話した。
「つまり貴公は、その女にほれているのさ、ちょうどボナシュー夫人にほれていたようにね」とアトスはいかにも人間の弱さをあわれむように、肩をすくめた。
「断じて、そうじゃない!」と、ダルタニャンは叫んだ。「ただおれは、あの女の関係している謎《なぞ》がときたくてならないからだ。あの女はおれのことを知らないし、おれもあの女を知らないのだが、なぜかしらあの女がおれの一生にかかわりがあるような気がしてならないんだよ」
「たしかに、貴公の言うとおりだ」と、アトスはいった。「姿を消した女なんか、わざわざ見つけだそうとして苦労をすることはないよ。ボナシュー夫人はいなくなった。かわいそうだが仕方ないさ! そのうち自分で姿を見せるよ!」
「いや、アトス、きみは誤解しておる。おれはあのコンスタンスを、以前にもまして愛しているよ。居場所さえわかれば、おれは地の果てまでも出かけて行って、敵の手から救いだしてやる。ところがどんなにさがしても、居場所がわからないんだ。仕方がない、気をまぎらさんことには」
「それじゃ、そのミラディーを相手に気ばらしをやるがいいさ。それで貴公が楽しめるなら、本気でそうすることをすすめるよ」
「なあ、アトス」と、ダルタニャンはいった。「そんな禁足を命じられたみたいに閉じこもってばかりいないで、ひとつ馬にでも乗って、おれといっしょにサン=ジェルマンへ散歩に行かないか?」
「もし自分の馬だったら乗るが、無いときはこの足で歩くよ」
「そうか!」ダルタニャンはアトスの人ぎらいに微笑したが、もしこれがほかの男だったら、きっと腹を立てたことだろう。「おれは貴公のように気位が高くないから、ありさえすればどんな馬にでも乗るよ。じゃ、また、アトス」
「さようなら」と銃士は言いながら、グリモーに向かって、持ってきた瓶の栓《せん》をあけるようにと命じた。
ダルタニャンとプランシェとは、馬にまたがると、サン=ジェルマンに向かって出発した。
道々青年は、ボナシュー夫人のことについてアトスがいった言葉を思いだしていた。元来がダルタニャンはたいして感傷的な男ではなかったが、美しい小間物屋の細君には本気でほれこんでいるので、さっきもいったように、彼女を捜すためなら地の果てまでも行くつもりだった。といっても地球はまるいので地の果てがいくつもあるわけだから、行こうにもどっちへ行ったらいいかわからなかったのである。
さしあたって、あのミラディーなる女は何者か、その正体を突きとめてみようと思ったのである。ミラディーは、あの黒い外套の男と話していたのだから、あの男を知っているはずだ。ところでダルタニャンは、ボナシュー夫人を二度までも誘拐《ゆうかい》したのはあの黒外套の男だと思っていたのだ。
だから、ミラディーの捜索をはじめることは同時にコンスタンスを捜しだすことにもなるというのは、ダルタニャンは半分真実をいっているわけで、まるっきりうそをついているのではなかった。
こんなことを考えながら、ときどき馬に拍車を入れて、やがてダルタニャンはサン=ジェルマンに着いた。十年後にはルイ十四世がここで生まれることになる離宮に沿って、彼は馬を進めていた。もしかしてあの美しいイギリス女の姿が見えやしないかと左右に気を配りながらひとけのない道を進んでいくうちに、当時の習慣で通りに面しては窓をもたない一軒のしゃれた家の前で、見おぼえのある人間をみつけた。その男は、花の植えられてあるテラスのようなところを歩きまわっていた。まずプランシェが、はっと気づいた。
「だんなさま、あそこでぼんやり空を見あげている男に、見おぼえはありませんか?」
「いや、べつに」と、ダルタニャンは答えた。「しかしそういわれてみると、はじめて見る顔ではないようだな」
「そうですとも、あれはたしかにリュバンですよ。ひと月ほど前にカレーで、あの港湾の役人の別荘へ行く途中で、だんなさまがこっぴどい目にあわせた、あのウァルド伯爵の従者の」
「ああ、そうだ、思いだしたよ。やつは、おまえの顔をおぼえているかな?」
「いや、あのときはずいぶんうろたえていましたから、はっきりとはおぼえていないでしょう」
「よし。では、あの男のところへ行って話しかけてみるんだ。そして主人は死んだかどうか、聞きだしてこい」
プランシェは馬から降りると、つかつかとその男のほうへ近づいて行った。はたして先方はおぼえていないので、二人の従僕はすっかり意気投合して、話をはじめた。そのあいだにダルタニャンは二頭の馬を路地の中に引き入れ、家をひとまわりして来ると、ハシバミの木の生垣《いけがき》ごしに、二人の会話に耳をかたむけた。
生垣のうしろで見守っていると、まもなくして馬車の音が聞こえ、目の前でミラディーの車がとまった。まちがいなく、ミラディーは車の中にいた。ダルタニャンは、馬の首にぴったり身を寄せて、気づかれないように、ようすをうかがった。
彼女はその金髪の美しい顔を扉《とびら》から出すと、小間使いに何か命じた。
小間使いは二十歳か、二十二歳そこそこの美しい娘で、動作がきびきびしていて、いかにも身分ある貴婦人の侍女にふさわしかった。その頃の風習で昇降段に腰かけていたが、命令を聞くと、すぐに飛び降りて、ダルタニャンがさっきリュバンを見たテラスのほうへ急ぎ足で行った。
ダルタニャンはその姿を目で追って、テラスへ行くのを見とどけた。ところが、たまたまリュバンは家の中から呼ばれてそこにいなかったので、プランシェがただ一人、ダルタニャンがどこへ行ってしまったかと、あたりを見まわしていた。
小間使いは、リュバンと思いちがいをしてプランシェのそばへ来ると、小さな手紙を彼に手渡した。
「これをご主人さまに」と、彼女はいった。
「わたしの主人にですか?」と、びっくりしてプランシェは聞き返した。
「はい、たいへん急いておりますので、どうか早くこれを」
そう言うと彼女は、もと来た道のほうへ向き直って待ち受けていた馬車のところへ、急いで走って行った。彼女が昇降段に飛び乗ると、馬車はすぐに出発した。
プランシェは手紙をなんどもひっくり返して見ていたが、やがて、命令はだまって実行に移す習慣に従って、テラスを飛び降りると、路地を二十歩ほど行って、ちょうどようすを見にやってきたダルタニャンと、ぱったり出会った。
「これをだんなさまに」そういって手紙を青年にさしだした。
「おれにか? まちがいないな?」と、ダルタニャンはきいた。
「まちがいございませんとも。小間使いが、[ご主人さまへ]といったんですから。わたしのご主人はあなたさま以外にはありませんからね。それにしても……あの小間使いは、かわいらしい娘でしたな」
ダルタニャンは封を切って読んだ。
[#ここから1字下げ]
あなたにたいへん好意を寄せている者が、あなたがいつになったら森へ散歩にお出になれるか知りたがっております。明日、シャン・デュ・ドラ・ドールの館にて、赤と黒の仕着せを着た従僕が、ご返事をお待ちしております。
[#ここで字下げ終わり]
「おや、おや、」と、ダルタニャンはひとり言をいった。「これはいさかおどろいた。ミラディーとおれとは、どうやら同じ人間の容態を心配しているらしいな。それで、プランシェ、あのお人よしのウァルド殿の容態はどうだった? 死んじゃいないのかい?」
「ええ、四太刀も受けながら、まだ生きておりますんで。べつに非難するわけではございませんが、あの人に四太刀もくわしたのは、だんなさまですからな。ただ、すっかり貧血してしまって、まだからだが弱っているそうです。リュバンのやつは、わたしが申しあげたように、わたしの顔をおぼえていませんでしたので、あのときのことをすっかり話してくれました」
「よし、プランシェ。そのほうは、まったく従者の王さまだ。さあ、馬に乗れ、あの馬車に追いつくんだ」
それは、たいして長くはかからなかった。五分後には、道端に馬車がとまっているのが見えた。りっぱな装いの騎士が、馬車の扉に身をよせていた。
ミラディーとその騎士とはひどく興奮して話していたので、ダルタニャンが馬車の向こう側に立ったことには気がつかなかった。ダルタニャンの存在に気がついていたのは、例の美しい侍女だけだった。
会話は英語だったので、英語はダルタニャンにはわからなかった。しかしその語調から察して、美しいイギリス女がひどく怒っていることは、察せられた。女が会話を打ち切ったときのしぐさで、いよいよそうにちがいないことがわかった。手にしていた扇子《せんす》をはげしくたたいたので、そのために女の小道具がばらばらにこわれてしまったからである。
騎士がからからと笑ったので、それがまたミラディーをおこらせたようであった。
ダルタニャンは、いまが仲裁の機会だと考えた。で、反対側の扉に近づき、うやうやしく帽子を脱ぐと、
「失礼ですが奥さま、なにかお役に立つようでしたらなんなりと。お見受けするところ、この騎士の方にお腹立ちのごようすですが。ひと言お命じになれば、わたくしがこの人の無礼をこらしめてみせますが」
言葉をかけられたとたんにミラディーは振り向いて、びっくりして青年の顔を見ていたが、彼が言いおわると、ちゃんとしたフランス語でいった。
「この人がわたくしの身内でないならば、喜んでお力を拝借するところですが」
「ああ、これは失礼いたしました。そうとは知らなかったものですから」
「なにをよけいな口だしをしているんですか、うかつ者は」と、ミラディーが身内だといった騎士は、窓のところまでかがみこんでいった。「なぜ、さっさと行ってしまわないんだろう?」
「うかつ者とは、そっちのことだ」と、ダルタニャンは馬の首のところまで頭をさげると、窓ごしに答えた。「ここにとどまっていたいから行かないまでだ」
騎士は英語でなにか婦人に言いかけた。
「わたしはフランス語で話している」と、ダルタニャンはいった。「だから、どうかそちらもフランス語でお答えいただきたい。貴殿はこのご婦人の弟御であるそうだが、幸い拙者《せっしゃ》の弟ではない」
読者は、ミラディーがふつうの女性のようにこわがって、口論がもっとひどいものにならないようにと取りなすだろうと思うだろうが、それどころか彼女はずっと馬車の奥に身をひくと、冷やかな口調で御者に呼びかけたのである。
「屋敷へ!」
例の美しい侍女が、ダルタニャンのほうへ心配そうな視線を投げかけた。青年の容姿が彼女の心を動かしたのだった。馬車は立ち去り、二人の男は向き合ったまま残された。もはや二人のあいだには、なんの邪魔もなかった。
騎士は馬車を追おうとして動きかけた。が、ダルタニャンの先刻からむずむずしていた怒りは、この男がアミヤンで自分の馬を取りあげ、アトスを相手に自分のダイヤまで召しあげようとしたあのイギリス人であることに気づいたので、いよいよもって沸騰《ふっとう》した。彼は手綱《たづな》に飛びかかって、押しとどめた。
「いよいよもって貴殿のほうが拙者よりもうかつ者らしい。われわれのあいだには、ちょっとしたいざこざがあったことを、どうやら貴殿は忘れておられるようにお見受けするが」
「そうそう、あなたでしたか! では、またひと勝負せにゃならんと申されるのかな?」
「さよう。そういうわけで、仇討《あだう》ちさせていただこう。サイコロと同じように、剣の腕前がおありかどうか、とくと拝見したいものだ」
「ごらんのとおり、今ここには剣を持っておらぬ」と、イギリス人は答えた。「武器を持たぬ者に挑《いど》んで来られるおつもりかな?」
「お宅にはお持ちのことと思うが」と、ダルタニャンはやり返した。「ともあれ、わたしは二本持っておるから、よろしければお使いくださるよう」
「それには及ばぬ。そういう道具はいくらでも持っておる」
「よろしい。では、一番良いのをお選びの上、今夕、見せにきていただこう」
「どこにいたすかな?」
「リュクサンブール宮の裏手がいい。こういう種類の散歩をするには格好の場所ですからな」
「よろしい。そこへうかがうことにしよう」
「時間は?」
「六時」
「ときに、友人の一人や二人はおありでしょうな?」
「尊敬すべき友人が三人おって、拙者同様に使い手じゃ」
「三人とは! すばらしい。偶然の一致ですな」と、ダルタニャンはいった。「わたしのほうも、ちょうどその人数がよろしい」
「ところで、貴公のお名前は?」
「ガスコーニュの貴族ダルタニャン、エサール殿の親衛隊士です。貴殿は?」
「シェフィールド男爵、ウィンター卿です」
「けっこうですな、男爵殿」と、ダルタニャンは答えた。「なかなかおぼえにくい名前だが」
こう言いおわるとダルタニャンは馬に拍車を入れて、パリへ引き返した。こういうときのいつもの習慣で、彼はまっすぐにアトスの家へ向かった。
アトスは大きな長椅子によこたわっていたが、自分でもいっていたとおり、こういう出陣の身支度が向こうからやって来るのを待っていたのだ。
ダルタニャンはアトスに、ウァルド伯の手紙のことは除いて、いっさいのいきさつを語った。アトスはイギリス人と闘えると知って、大いに喜んだ。前述したように、これがこの男の夢だったのである。
すぐにポルトスとアラミスのもとに従者をやり、ことのしだいを伝えた。
ポルトスは鞘《さや》をはらうと、ときには飛びさがったり、舞踊でもするように膝《ひざ》をまげたりした。アラミスはあい変わらず詩作に余念がなく、アトスの書斎に閉じこもって、剣を抜くときまではそっとしておいてくれといった。アトスはグリモーに、酒の用意をするようにと合図をした。
ダルタニャンは一人で、ちょっとした計画を立てていた。これはいずれ実行に移されて、そのうちにわれわれにもわかるだろうが、これがなにか楽しい冒険を彼に約束しているらしいことは、考えこんでいる彼の顔の上にも、ふと微笑が浮かぶのを見れば、よくわかるのであった。
三十一 イギリス人とフランス人
時刻になったので、四人はそれぞれ従者を従えて、リュクサンブールの裏手の、山羊《やぎ》を放し飼いにしている囲い地の中にはいった。アトスは番人に金をやって、追っぱらった。四人の従者が見張り役を引き受けた。
まもなく黙々とした一隊が近づくと、やはりこの囲いの中にはいってきて、銃士たちといっしょになった。それから海のかなたの習慣に従って、各自の紹介がおこなわれた。
イギリス人たちはいずれも名門の貴族だったので、相手方の奇妙な名前を聞くと、驚いたばかりでなく心配になってきた。で、三銃士が名のりをすますと、ウィンター卿がこういった。
「これでは、あなたの方がどういう方《かた》がただかわかりませんな。そういうお名前の方がたとは戦うわけにはまいらん。まるで羊飼い同様の名前ですからな」
「いかにも、お察しのとおり、これらは仮の名でござる」と、アトスが答えた。
「それならばなおさらのこと、ご本名を承りたいの」
「あなたがたは、このまえはわれわれの名前を聞かずに賭《か》けをなされた。しかも、ちゃんとわれわれの二頭の馬をお取りになったではないか?」と、アトスが言い返した。
「さよう。しかしあれは単なる金銭の賭けごと、こんどは命を賭けた果たし合いです。賭勝負ならだれとでもするが、果たし合いとなれば身分のちがう者は相手にできぬ」
「なるほど、仰せごもっとも」
そういってアトスは、四人のイギリス人のうちで自分の相手にすべき男をわきに連れて行って、そっと自分の名前を告げた。
ポルトスとアラミスも、それにならった。
「これでよろしかろう。剣をまじえる相手として、身分に不足はないはず」と、アトスはいった。
「けっこう」と、そのイギリス人は会釈《えしゃく》をした。
「では、ちょっと申しあげたいことがあるが」と、アトスが落ちついた声でいった。
「なんでござるかな」
「貴殿は、拙者《せっしゃ》の名など聞かなかったほうがよかったということです」
「どうして?」
「というのは、じつは拙者は死んだことになっているので。生きていると思われたくない理由があるのです。この拙者の秘密を守るためには、どうしてもあなたに死んでいただかねばならない」
イギリス人はアトスが冗談をいっていると思って、じっとアトスの顔を見つめた。だが、アトスはまじめな顔をしている。
「では、よろしいかな、諸君」と、アトスは相手と一同に声をかけた。
「よし」と、イギリス人とフランス人はいっせいに答えた。
「では、かまえて」と、アトスは呼ばわった。
たちまち八本の剣が沈みゆく夕日を受けてきらめき、二度まで敵となった人たちにふさわしい、はげしい戦いが開始された。
アトスは、まるで道場で手合わせをしているときのように落ちつき払って正しい剣のさばきを見せていた。
ポルトスは、このあいだシャンティイで、自信をもちすぎて失敗したのにこりたのか、じゅうぶんに慎重に、うまい戦いをしていた。
アラミスは、詩の第三節を完成しなければならないので、ひどくことを急いでいた。
アトスが最初に敵を倒した。ただのひと突きだが、これは予告したとおり致命傷で心臓をつらぬいていた。
つづいてポルトスが、相手を草の上にたおした。腿《もも》を突きとおしたのである。するとイギリス人は、これ以上立ち向かおうとはしないで剣を投げ捨てたので、ポルトスは相手をかかえあげて、馬車の中に運んでやった。
アラミスは猛然と敵に突っかかったので、相手はたじたじと五十歩ほど退いたが、ついに一目散《いちもくさん》に逃げだし、従僕たちの嘲罵《ちょうば》を浴びながら姿を消した。
ダルタニャンは、わざと防御《ぼうぎょ》の戦法をとっていたが、相手が疲れてきたと見ると、はげしく胴に突きを入れて、相手の剣をはね飛ばしてしまった。武器をなくした男爵は二、三歩さがったが、その拍子に足をすべらせて、あおむきにひっくりかえった。ダルタニャンはひと飛びで馬乗りになると相手の喉《のど》に剣をつきつけた。
「あなたを殺すのはぞうさないが」と、彼はイギリス人にいった。「ごきょうだいのために、おたすけ申そう」
ダルタニャンは得意の絶頂だった。かねてより考えていた計画が実現したからだった。さきほど彼が見せた微笑は、このことを思っていたからなのである。
このような寛大な敵を相手にしたことを心から喜んだイギリス人は、両腕でダルタニャンを抱擁《ほうよう》し、三人の銃士たちにもいろいろとお世辞をいった。ポルトスの相手はすでに馬車の中にいたし、残るは死んだ男だけである。
ポルトスとアラミスとが、あるいは傷は致命傷ではないかもしれないと、男の服を脱がせていると、帯のあいだから大きな財布が落ちた。ダルタニャンはそれを拾って、ウィンター卿にさしだした。
「これをどうしろとおっしゃるのです?」と、イギリス人はいった。
「この人のご遺族にお返しいただきたい」
「遺族は、このような些細《ささい》なものは気にしません。年金が一万五千ルイもはいる身なのです。この財布は、従僕の方にでもあげてください」
ダルダニャンは、財布をポケットにおさめた。
「では、お若い友よ、こう呼ぶのをお許しくだされるものと思って」と、ウィンター卿はいった。
「もし今夜でもおさしつかえなかったら、姉のクラリック夫人をご紹介いたしましょう。姉にも、あなたに好意をもってもらいたいと思いますのでね。あれも宮廷ではなかなか力がありますので、きっと今後なにかのお役に立つかもしれませんぞ」
ダルタニャンはうれしさのあまり顔をあからめ、うなずいて承諾の意を示した。
そのあいだにアトスはダルタニャンのそばに近よった。「その財布をどうするつもりだ?」と、彼はダルタニャンの耳もとでこっそりいった。
「貴公にわたすつもりさ、アトス」
「おれにかい? なぜだ?」
「なにいってるんだい、貴公がこの男を倒したんだから、きみの戦利品じゃないか」
「おれが敵のものを受けるって! おれを見そこなうな」と、アトスは叫んだ。
「これは戦場のならわしなんだが」と、ダルタニャンはいった。「それを決闘の場に適用したっていいだろう」
「戦場でも、おれはそんなことをしたことはないよ」
ポルトスはそれを聞いて、肩をすくめて口元を動かして、同感の意を示した。
「では、この金は従僕たちにやろう、ウィンター卿がいったようにね」と、ダルタニャンはいった。
「それがいい。だが、われわれの従僕ではなくて、イギリス人たちのにだ」
アトスは財布をつかむと、御者の手に投げ与えた。「おまえや、おまえの仲間たちにだ」
金に困っている男がこのようなおうような態度をとったのには、さすがのポルトスも感動した。このフランス人の寛大さは、ウィンター卿とその友人の口からつたえられて、いたるところで評判になった。もっともグリモー、ムスクトン、プランシェ、バザンの四人はべつだが。
ウィンター卿は別れぎわに、彼の姉の住所をダルタニャンにしらせた。当時一流の住宅地域であるロワイヤル広場の、六番地であった。卿はそのうえ、迎えにきてくれると約束した。
ダルタニャンは八時にアトスの家で待つことにした。
ミラディーに紹介されることで、わがガスコーニュ青年の頭はいっぱいだった。この女がこれまで自分の運命の中にどのようにしてはいりこんできたか、思いだしてみるとまことにふしぎだった。彼女が枢機卿の手先であることは確信していたが、自分にも理解しがたいある感情によって、彼女のほうに心がひかれてゆくのをどうしようもなかった。
ただひとつ気がかりなことは、ミラディーが自分をマンやドーヴァーで会った男だと見抜きはしまいかということだった。そうだとすればこちらがトレヴィール殿の親しい者であり、従って身も心も国王に捧げている男であることが彼女にはわかっているわけだから、こちらの有利な立場が割引されるわけだ。こちらがミラディーの何者であるかを知っているのと同じく、先方もこちらを知っているとすれば、五分と五分との戦いとなるわけである。
だが彼女とウァルド伯爵とのあいだに起こりかけている情事については、伯爵が若くて美貌で金持ちで、しかも枢機卿の信頼もあつい人物であったにもかかわらず、思いあがっているこの青年は、ほとんど気にもしなかった。二十《はたち》という若さは、やはりたいしたものである。ことにガスコーニュの生まれときては。
ダルタニャンは自宅で念入りに身支度したうえ、アトスの家に出かけて、いつものように一部始終を話した。アトスは彼の計画を聞くと、首をふって、さもにがにがしげに、慎重にやるようにといった。
「なんだね、貴公はあんなに親切で美人でよい女だといっていたその女がいなくなると、もうほかの女を追い駆けるのか?」
ダルタニャンは、この非難はあたっていると思った。そこで彼はこういった。
「ボナシュー夫人は心で愛していたんだ。こんどのミラディーは頭の中で愛している。あの女のところへ行くのは、まずあの女が宮廷ではたしている役割を調べあげるためなのさ」
「あの女の役割だって! そのくらいのことは、貴公の話でだいたいわかるよ。枢機卿の密偵さ。女のかける罠《わな》に、ばか正直に貴公がそれにはまりこみに行くってわけさ」
「ばかな! アトス、きみはなんでも物事をわるく取るようだね」
「おれは、女が信用できないんだ。仕方がないよ、女にひどい目にあったんだからな。とくに金髪の女にはね。ミラディーは金髪だといったな」
「あんな美しい金髪は、めったにあるまい」
「ああ、あぶないな、ダルタニャン」
「ただ、おれは調べてみたいんだ。知りたいことがわかったら、すぐに離れるよ」
「まあ、やってみるんだね」と、アトスは冷静な口調でいった。
約束の時間にウィンター卿はやってきた。アトスは時刻を見はからって次の間《ま》にうつっていたから、ウィンター卿が会ったのはダルタニャンだけだった。もう八時に近かったから、卿はすぐに青年を連れだした。
しゃれた馬車が下で待っていた。二頭のすばらしい馬だったので、またたくまにロワイヤル広場に着いた。
ミラディー・クラリックは、愛想《あいそ》よくダルタニャンを迎えた。屋敷は、おどろくほど贅《ぜい》をつくしたものだった。大部分のイギリス人が戦争に追われてパリを去ったか、または去ろうとしているときだというのに、ミラディーは自分の屋敷に最近なお、新たに金をかけていた。これでみると、イギリス人たちを本国へ送り返すという一般的な事情も、彼女には関係がないことがわかった。
「この方はね」と、ウィンター卿はダルタニャンを彼女に紹介していった。「わたしの命を掌中に握りながらも、その有利な立場を乱用しようとなさらなかった、りっぱな貴族でいらっしゃる。わたしはこの方を侮辱《ぶじょく》した男で、しかもイギリス人なのだから、ほんとうならわたしたちは二重の仇敵《きゅうてき》同志だったのにね。あなたがわたしに好意をもっていてくれるなら、この方によくお礼を申しあげてください」
ミラディーは、ちょっと眉をひそめた。ほとんどわからぬような暗い影が額にさし、不可解な微笑が唇《くちびる》に浮かんだ。青年はこの三つの点に気づいて、思わずぞっとした。
ウィンター卿のほうは、なにも気がつかなかった。ミラディーのかわいがっていた猿《さる》が彼の胴着をひっぱったので、振り向いていたからである。
「よくいらっしゃいました」ミラディーはいまダルダニャンが見た不機嫌《ふきげん》な表情とはまるでちがう、ふしぎなほどやさしい声で、「今日のことでは、いつまでもご恩に着なければなりませんわ」といった。
そこでイギリス人は抜り向くと、決闘のようすを細大もらさず語った。ミラディーは注意ぶかく、話に耳を傾けていた。顔に出る表情を隠そうとしていたが、その話をこころよく思っていないことは、容易に察せられた。顔に血がのぼっていたし、服の下で小さな足が、じれったそうに動いていた。
ウィンター卿は、なにも気がつかなかった。話が終わると彼は、スペインぶどう酒の瓶《びん》とグラスとをのせた盆のおいてあるテーブルのほうに近づいた。彼は二つのグラスを満たすと、ダルタニャンに飲むようにと誘った。
ダルタニャンは、イギリス人に対して乾盃《かんぱい》を断わるのは、相手に不愉快を与えることだということを知っていた。で、彼はテーブルに近づいて、残る盃《さかずき》を手にした。が、そのあいだにも、ミラディーからは少しも目を離さなかった。
彼は鏡の中に現われた女の変化を、すぐに気づいた。もう見られてはいないと思った彼女は、なにか残忍さに似た感情を顔に浮かべ、美しい歯がきりっとハンカチを噛《か》んでいた。
そのとき、見おぼえのある例のきれいな侍女がはいってきた。彼女が英語でなにかウィンター卿にいうと、卿はさっそくダルタニャンに向かって、急用ができたので失礼すると言い、彼女に失礼のわびをいってくれるようにと頼んだ。
ダルタニャンはウィンター卿と握手をかわしてから、またミラディーのそばへもどった。彼女の表情はおどろくほど変化が早く、またもとの愛想のいい顔になっていた。ただ、ハンカチに点々と赤い斑点《はんてん》がついているので、彼女はそれを血がにじみ出るほど噛みしめていたことがわかった。
その唇は、まるで珊瑚《さんご》のように美しかった。
会話は明るい口調になった。ミラディーは、すっかり落ちつきを取りもどしたらしかった。そして、ウィンター卿は義弟にしかすぎず、ほんとうの弟ではなくて自分はその家の次男にとついだのだが、子どもを一人残して先立たれたのだと語った。もしウィンター卿が結婚しなければ、その子どもが卿の唯一の相続人になるとのことだった。
話を聞いてダルタニャンは、なにかを包んでいるベールのようなものを見る思いがしたが、そのベールに隠されてあるものはまだわからなかった。とにかく三十分ほど話したあとで、ダルタニャンは、ミラディーはフランス人だという確信をもつにいたった。純粋なきれいなフランス語からいっても、その点は疑いのないところだった。
ダルダニャンは想《おも》いをこめた言葉や、献身の誓いといったことを、思いっきり述べたてた。ガスコーニュ青年の口をついて出る[らち]もない話を、彼女は愛想よく、微笑を浮かべて聞いていた。やがて、引きあげる時間がきた。ダルタニャンはミラディーに暇《いとま》を告げると、すっかり満足した気持ちで客間を出た。
階段のところで、また例の美しい侍女と出会った。通りすがるときにちょっとからだに触れたので、彼女はまっかになって、からだがさわったことをわびた。その声がなんともいえないやさしい声だったので、彼はその場でわびを受け入れてやらないわけにはいかぬほどだった。
ダルタニャンは、翌日もまた出かけて行った。前日よりもなお愛想よく迎えられた。ウィンター卿が不在だったので、こんどはミラディーが一人でもてなしてくれた。彼にたいへん関心をよせているらしく、どこに住んでいるのか、友人にはどんな人がいるか、枢機卿閣下のために働こうといままで考えたことはなかったか、というようなことをたずねた。
ダルタニャンはご承知のように、二十歳の青年としてはひどく慎重な男だったから、このときミラディーに抱いていた疑惑を改めて思った。そこで彼は枢機卿を大いにほめあげ、もし自分がトレヴィール殿ではなくてカヴォワ殿と知り合いだったら、きっと近衛《このえ》にははいらずに、枢機卿の親衛隊にはいったにちがいないといった。
ミラディーはごく自然に話題を変えると、いかにもさりげなく、あなたはイギリスに行ったことはないかと、ダルタニャンにたずねた。
ダルタニャンは、トレヴィール殿の言いつけで軍馬の買い入れの交渉に行ったことがあり、見本として四頭の馬を連れて帰ってきたことがあるといった。
その話を聞きながら、ミラディーは二、三度唇を噛みしめた。このガスコーニュの男は、なかなかしたたか者だと思ったからである。
前日と同じ時刻に、ダルタニャンは暇《いとま》を告げた。廊下で、またもやケティーに出合った。これが例の侍女の名前である。この女はだれが見てもまちがいっこないほど好意にあふれた表情でダルタニャンを見つめていたのだが、彼のほうは女主人のことばかり考えつめていたので、これに少しも気がつかなかった。
ダルタニャンはその翌日も、その翌々日も、ミラディーのところへ出かけて行った。いつも彼女は、彼をじゅうぶんにもてなした。
そしてそのたびごとに、次の間か、廊下か、階段かで、きまってあの美しい侍女に出会った。しかし前にもいったように、彼はかわいそうなケティーのこの根気づよさに注意を払わなかった。
三十二 代訴人宅の昼食
決闘ではポルトスもみごとな腕前を見せたのだが、だからといって、代訴人夫人から呼ばれた昼食のことを忘れてはいなかった。翌日一時になると、彼はムスクトンにもう一度ブラシをかけさせて、二重の幸福をつかんだ男の足どりも軽く、ウルス街のほうへ歩いて行った。
彼の心はときめいていたが、これはダルタニャンのような、若いそわそわした恋心ではなかった。もっと物質的な利害が、その血をかき立てていたのである。ついに彼は、この神秘につつまれた家の敷居をまたぎ、コクナール先生が古い銀貨を集めて一つ一つ積みあげた未知の階段を、これから登って行こうというのだ。
彼はいままでになんども夢みたあの金櫃《かねびつ》、留め金で締め、地面にはめこんで、錠《じょう》がかけられてある長くて深い金櫃を、いま、現実にこの目で見に行こうとしているのだ。
この金櫃のことはなんども話に聞いてはいるが、それを代訴人の細君が、いくらかはやせているが、まだ美しさを失わないその手で、驚きの目を見張っている彼の前に開いて見せてくれるのだ。
それに彼のように財産もなければ家族もなく、地上をほっつき歩いている男、宿屋や料理屋や居酒屋に通いなれている武人、ほとんどいつも出来合いの料理でがまんしなければならなかった食通、そういった彼が、これから家庭の手料理を口にし、なごやかな家庭の気分を味わい、昔の武士がいったように、[無骨者であればあるほど身にしみて感じられる]といった、こまやかな世話をやいてもらえるのだ。
従弟という資格で、毎日やってきて食卓につき、老代訴人の黄色くなった額のしわをのばしてやったり、若い学生どもにサイコロやトランプの賭《か》けごとを教えてやっていくらかまきあげたり、あるいは一時間いくらとして教授料の形で毎月の小遣《こづか》いの中からせしめてやってもいいなどと、そんなことを考えてポルトスは、すっかりご満悦《まんえつ》だった。
銃士は、当時あちこちで噂にのぼっていた代訴人というものに対する悪評、しみったれで、爪《つめ》に火をともすように食うものもろくすっぽ食わない、しがない暮らしを思い浮かべなくはなかった。この代訴人の細君にしても、ときには発作的《ほっさてき》に倹約家になってポルトスをうんざりさせることもあったが、まあ代訴人の細君としては気前のいいほうであったから、きっと居心地のいい家庭だろうと期待していた。
ところが家の入口まで来ると、銃士はいささか疑惑が生じた。どうも人をこころよく迎えるようなところではなかった。臭気のこもった暗い路地、格子のあいだからやっと隣家の中庭の薄暗い明りがさしている暗い階段、二階にあがると、裁判所の門のように、低い扉に大きな釘《くぎ》が打ちつけてあった。
ポルトスは指先で、扉をたたいた。もじゃもじゃの髪をした、青白い顔の背の高い書生が戸をあけてくれ、彼の力のありそうな大きなからだと、身分を示す軍服、さらに暮らしぶりを示す血色のよい顔を見ては、尊敬せざるを得ないといったようすで、挨拶をした。
そのうしろにはもっと背の低い書生、またそのうしろには背の高い書生、そのうしろには十二歳ぐらいの小僧がひかえていた。
総計、書生が三人と半人前、これによると、当時としては相当に繁盛している事務所なのである。
銃士は一時に来るという約束だったのに、代訴人の細君は正午だというのにそわそわと落ちつかず、恋人が時間より早く来ることを、その心と、おそらくはその胃袋とに期待していた。
それゆえ客が階段の戸口からはいって来るのとほとんど同時に、コクナール夫人が部屋の扉を押して出てきたので、客はその姿を見て、ほっとした。書生たちは好奇の目でじろじろ見ていたし、彼のほうでは高低とりまぜた顔に向かってなんといってよいかわからず、口もきけずにいたところだった。
「この人は、あたしの従弟《いとこ》なんですよ」と、代訴人の細君はいった。「さあ、さあ、ポルトスさん、どうぞおはいりになって」
ポルトスという名前を聞くと、書生たちは笑いだした。しかしポルトスがふりむくと、また元のまじめくさった顔になった。
書生たちがいまいる次の間《ま》と、本来彼らがいるはずの事務室を通って、代訴人の書斎にはいった。事務室は書類がいっぱいおいてある暗い部屋だった。事務室を出たところが応接間で、右手が台所になっていた。
このように各部屋がみんなつづいていることは、あまり感心できなかった。あけたドアから、話がつつ抜けになるからだった。それに通りがかりに台所をちらっと見たところでは、これは細君にとっては恥ずかしいことであり、彼自身としてはたいへん失望を禁じ得ないことだが、ご馳走があればふつうなら食通の聖堂ともいうべき台所にただよっている、あの熱気や活気といったものが、少しも見られないことだった。
代訴人は、おそらくこの訪問を前もって知らされていたらしく、ポルトスの顔を見ても驚いたようすは見せなかった。ポルトスは気さくなようすで近より、丁重に挨拶をした。
「お互いにいとこ同志ということになるらしいですな、ポルトスさん」と、代訴人は両腕に力をこめて、籐《とう》の肱掛椅子《ひじかけいす》の上に身を起こしながらいった。
大きな黒い胴着にひょろひょろしたからだをすっぽり入れた老人は、顔色がわるくしなびていた。ざくろ石のように光った小さい灰色の眼と、へしまがった口元だけに、生気らしいものが残っているだけだった。不幸なことに、両足がこの骨っぽいからだを乗せることに堪えきれなくなりかかっているので、五、六か月前から衰えを身にしみて感じていた代訴人は、もうほとんど細君の言いなりになっていた。
この従弟の訪問を承知したのも、仕方なくてあきらめてしまったのだった。足腰が達者なら、コクナール先生は、ポルトス氏との親戚関係などは、いっさい認めなかったであろう。
「そうです、われわれはいとこ同志なわけですな」と、少しもどぎまぎしないで答えた。もともとこのご亭主から熱狂的な歓迎を受けようなどとは思ってもいなかったからである。
「女のことでかな?」と、代訴人は、からかっていった。
ポルトスにはこの冗談がわからず、その言葉を真《ま》にうけて、濃い口ひげを動かして笑った。コクナール夫人は、卒直な代訴人などというものは、この種族ではごくまれにしかあり得ないということを知っていたので、ちょっと微笑したが、たいそう顔を赤らめた。
コクナール氏はポルトスが来るなり、かしの木の事務机の正面にある大きなたんすの上に不安そうな視線を投げていた。ポルトスは、夢で見たものとは形がちがうが、これこそあの幸福な金櫃《かねびつ》にちがいないと、夢よりも現実のこのほうが二メートル近くも大きいのを見て、すっかりうれしくなってしまった。
コクナール氏は、家系のことはこれ以上深入りするのをやめて、たんすを見ていた心配そうな視線をポルトスにもどすと、
「戦争に出かける前に、一度ごいっしょにゆっくり食事でもしたいものですな、ねえ、きみ」
これを聞いてポルトスは胃袋に一発打撃を受け、その意味をさとった。コクナール夫人にもその意味はわかったらしく、いそいで付けたした。
「この従弟《いとこ》はもてなしがわるいと、もう来てはくれませんよ。でも、そうでなかったら、パリにいる日もそうないんだし、うちに来てもらえるときも少ないのですから、出発まで都合がつくかぎり、いつでも来てくださいね」
「ああ、わしの足め、この足さえよければ! いったい、ここをどこだと思うんだね」と、コクナール氏は口の中でつぶやいてから、むりに微笑しようとした。
ご馳走の期待があやうくはずれそうになったちょうどそのときに、うまく助け舟をだしてくれたので、ポルトスは代訴人の細君に大いに感謝した。
まもなく、食事の時間になった。台所の向かいにある暗くてだだっぴろい食堂にうつった。
書生たちは家の中に嗅《か》ぎなれない匂いを嗅ぎつけたらしく、まるで兵隊のような几帳面《きちょうめん》さで、めいめい自分の丸椅子に手をかけ、いつでも坐れる構えであった。見れば、ぶざまな格好で、もうあごを動かしていた。
[こいつらめ! もしおれがここの主人だったら、こんな食いしんぼうはくびにしちまうんだが。まったく、六週間も食っていない遭難者じゃないか]と、ポルトスは三人のがつがつしている男たちを見ながら思った。もう一人の小僧は、このりっぱな食卓にすわる名誉を与えられていなかったのである。
コクナール先生が、車のついた肱掛椅子《ひじかけいす》を夫人に押させてはいってきた。ポルトスは夫人に手を貸して、ご亭主を食卓のところまで押してやった。
部屋にはいるなり、コクナール先生は書生たちにならって、鼻とあごとをぴくぴくさせていた。
「ほっ、ほっ! このポタージュはうまそうだな!」
[このポタージュのどこに、そんないいところがあるんだい]と、量こそたっぷりあるが中身はなんにもなく、わずかにパンの皮が群島の島々のように点々と浮かんでいるだけの色の薄い汁を見て、ポルトスはつぶやいた。
コクナール夫人が微笑すると、それが合図で、一同は大急ぎで席についた。
まずコクナール氏に、次にポルトスに給仕してから、夫人は自分の分をとって、汁ぬきのパンのきれだけを、待ちかねている書記たちに分配してやった。
そのとき、食堂のドアがきしみながら、ひとりでに開いた。ポルトスは、その半びらきのドアのすきまから、例の食卓につけない小僧が、食堂と台所の両方からただよって来る匂いをおかずにパンをかじっているのを見た。
ポタージュのあと、女中が鶏《とり》の蒸《む》し焼をはこんできた。あまりに豪勢なご馳走なので、会食者一同は、まなじりも裂けんばかりに目を見開いた。
「あんたは身内をだいじにするんだな。まったく自分の従弟《いとこ》となると、こうまで大切にするんだからな」と、代訴人は、悲しそうにほほえんでいった。
雌鳥《めんどり》はあわれにやせていて、骨がどうしても外に突き出ないほど、こわい毛のはえた厚ぼったい皮でおおわれていた。とまり木の隅にとまって老衰で死ぬのを待っていたこの鶏をさがすには、ずいぶん時間がかかったにちがいない。
[これはひどい!]と、ポルトスは思った。[おれは老人には敬意を表わすが、蒸したり焼いたりしたのは感心しないな]
そこで彼はみんなも同意見であろうと一座をぐるりと見まわしたところが、とんでもないことで、彼には軽蔑《けいべつ》の的《まと》であったこの鶏を、みんなはいかにもすばらしいご馳走だとばかりに、いまからもうむさぼり食うように、目をらんらんと輝かせていた。
コクナール夫人は皿をひきよせると、二本の黒い大きな足を器用にはがして、夫の皿の上にのせた。首をはなすと、頭といっしょに自分の分にとり、脇腹の肉をポルトスのためにそぎとると、ほとんと手つかずのままに、残りを女中にさげさせてしまった。それは、失望した書生たちがするさまざまの表情をポルトスが観察する閑《ひま》もないくらいだった。
鶏に代わって、そら豆の皿が出てきた。大きな皿に盛った豆の中には、羊の骨がいくつか、さも肉はかくれていますといわんばかりに顔をだしていた。
しかし書生たちはこんなことにはだまされないから、その悲しげな顔は、すっかりあきらめの表情に変わっていた。
コクナール夫人は、世帯もちのよい主婦らしくそれを適当に若い者たちに分配してやった。
ぶどう酒の出る番になった。コクナール氏はごく小さな陶器の瓶《びん》から、若い者たちのコップへそれぞれ三分の一ほどついでやると、自分のにもほとんどそれと同じくらいつぎ、すぐに瓶をポルトスとコクナール夫人のほうへまわした。
若者たちは、三分の一のぶどう酒に水を割って一杯にし、それを半分飲むと、また水をたして満たすというふうに何度でも繰り返すので、食事の終わりごろにはルビー色からトパーズの黄玉色に変わってしまった。
ポルトスはおずおずと雌鳥《めんどり》の脇肉を食べていたが、テーブルの下で、代訴人の細君の膝《ひざ》が自分の膝にさわるのを感じると、思わずぞっとした。彼もこのひどくだいじにされたぶどう酒をコップに半分ほど飲んでみたが、それは洗練された舌には恐怖の的《まと》であるモンルイユ産の安酒だとわかった。
コクナール氏は、彼がこのぶどう酒を生《き》のままでぐいぐい飲むのを見て、ため息をついた。
「ポルトスさん、このそら豆をいかがですか?」と、コクナール夫人はいったが、その口調には[おあがりにならないでね]という意味がこめられていた。
「こんなもの食えるもんか」とポルトスはこっそりとつぶやいたが、こんどは大きな声で「ありがとう、奥さん、でももうお腹《なか》がいっぱいなもので」といった。
みんなはだまりこんでしまった。ポルトスも、どう取りつくろっていいかわからなかった。代訴人は、なんどもこのようなことをいっていた。
「いや、奥さん、たいした腕前だね。これじゃ、まるで宴会みたいだ、ああ、食った、食った!」
コクナール氏はポタージュと、雌鳥の黒い足二本と、一本だけ少し肉のついていた鶏の骨を食べたのだった。
ポルトスはかつがれているのだと思ったので、口ひげをひねりあげ、眉をしかめはじめた。ところがコクナール夫人の膝がそっと押してきて、しんぼうするようにと注意した。
この沈黙と食事の中断、ポルトスにはそのわけがわからなかったが、書生たちにとっては、じつにこれが恐るべき意味をもっていたのだ。代訴人がちょっと目くばせをし、夫人が微笑すると、彼らはゆっくりと食卓を立って、さらにゆっくりとナプキンをたたみ、そして挨拶をして出て行った。
「さあ、若い者は、仕事をして腹ごなしをするんだ」と、代訴人はまじめな顔をしていった。
書生たちが出て行くと、コクナール夫人は立ちあがって戸棚からチーズのひとかたまりと、マルメロの実のジャムと、巴旦杏《はたんきょう》と蜂蜜で作ったお手製の菓子をとりだした。コクナール氏は眉をしかめた。あまり食べものをだしすぎるからである。ポルトスは唇をかんだ。あまり食べものがなさすぎると思ったからであった。
ポルトスは、そら豆がまだ残っているかと思って見やったが、皿はもう姿を消していた。
「まったく、たいしたご馳走だった」と、コクナール氏は椅子の上でからだをゆすりながら叫んだ。「まさに、あのリュクリュスが彼の屋敷で催した epulae epularum(大饗宴)だよ」
ポルトスはそばにある酒の瓶に目をやった。ぶどう酒とパンとチーズとで、食い直しをしようと思ったのである。ところが、瓶は空《から》だった。コクナール夫妻は、それに気がつかないふりをしていた。
[よし、これで腹のうちが読めたぞ]と、ポルトスは心の中で思った。彼は小さじ一杯のジャムをなめ、コクナール夫人お手製のねとねとした捏《ね》り菓子を歯にねばつかせて食べた。
[さあ、これでおつとめもすんだ]と彼は心の中で思った。[まったく、コクナールの細君といっしょに亭主の金櫃《かねびつ》をのぞくという望みがなかったとしたら!]
コクナール氏は、自分でもご馳走だったといった食事をすましたので、こんどは昼寝がしたくなった。ポルトスは、それならこの部屋で、このまま眠ってくれればいいと思った。ところが呪《のろ》われた代訴人は、なんといっても承知しない。どうしても自分の部屋へ連れて行けといって、しかもどうしてもたんすの前まで行くといってわめき、そこまで行くと、なお用心のために、たんすの縁《ふち》に両足をかけてしまった。
代訴人の細君はポルトスを隣の部屋へ連れて行って、そこで仲直りの打ち合わせをはじめた。
「週に三度は、食事にいらっしゃってかまいませんのよ」と、コクナール夫人がいった。
「ありがとう」と、ポルトスは答えた。「でもご好意に甘えたくないし、それに出陣の身支度のことも考えなくてはなりませんのでね」
「ほんとに困りましたわね、その身支度には」と、代訴人の細君は身もだえしていった。
「ええ、まったくです。あのことが……」と、ポルトスはいった。
「で、その身支度と申しますと、どういうものがいるんですの、ポルトスさま?」
「いや、いろいろなものがいりましてね。銃士隊といえば、ごぞんじでしょうが、選《え》り抜きの者ばかりですからね、親衛隊やスイスの傭兵《ようへい》などには必要でない品までも、たくさんいるのです」
「とにかく、もう少しくわしくお聞かせくださいませんか」
「だいたい総額で……」ポルトスはこまごましたことを言うよりも、総額できめたかった。
代訴人の細君は、びくびくしながら待ち受けた。
「おいくらぐらいなのでしょうか? あんまり多いと……」あとは、ちょっと言葉につまった。
「なあに、せいぜい二千五百リーヴルぐらいのところです。切りつめれば、二千リーヴルでなんとかなるでしょう」
「まあ、二千リーヴルですって?」と、彼女は大声をあげた。「ひと財産ですわ」
ポルトスがたいへん意味ぶかいしかめっ面《つら》をしてみせたので、コクナール夫人にもその意味がわかった。
「こと細かにお話しくださいといったのは、親戚や訴訟依頼人の中に商売をやっている人たちがおりますので、ものを買うのにあなたがお求めになるよりもずっと安く買えると思いましたので」
「ああ、そういうつもりでおっしゃったのですか!」
「そうですわ、ポルトスさま。それで、まず第一に馬が必要なのではありませんか?」
「さよう、馬が一頭」
「それなら、あたしはうまくつごうつきますわ」
「ありがたい!」ポルトスは顔を輝かして、「これで、わたしの馬のことはすんだとして、次に馬具がひと揃《そろ》い必要なんです。これには銃士だけしか買えない品物も含まれていますが、まあ三百リーヴル以上はかからんでしょう」
「三百リーヴル。では、それは、まあ三百リーヴルとして」と、夫人はため息をついた。
ポルトスの顔に微笑が浮かんだ。バッキンガム公から拝領した例の鞍があることを思いだしてもらいたい。つまり彼は三百リーヴルを、そのままそっくりそっとポケットに入れるつもりだったのだ。
「それから」と、彼はつづけた。「従僕の馬と鞄《かばん》がいりますね。武器のことはご心配に及びません。持っていますから」
「従僕用の馬ですって?」口ごもりながら代訴人の細君はいった。「でも、それじゃ、まるでたいしたお殿さまですわ」
「なんですって、奥さん!」と、ポルトスは傲然《ごうぜん》としていった。「わたしを、そんなつまらない男だとお思いなのですか?」
「いいえ、そういう意味ではありませんわ。ただわたしが申しあげようとしたのは、きれいな騾馬《らば》なら、ちゃんとした馬のように見えるものもありますから、ムスクトンさんには騾馬を手に入れてあげようと思って……」
「では、きれいな騾馬《らば》にしてください。なるほどあなたの言うとおりで、スペインの大諸侯方の供まわりが、みんな騾馬に乗っていたのを見たことがあります。でも、コクナールの奥さん、騾馬には、ちゃんと羽飾りや鈴をつけてやってくださいね」
「ご安心ください」と、夫人はいった。
「あとは鞄だが」
「ご心配はいりません。主人が五つ六つ持っていますから、その中で一番いいのをお選びください。中でも一つ、主人がいつも旅行に出るときに持っていくのは、世界中がはいってしまうほど大きいんですよ」
「で、その鞄は空《から》なんですか?」ポルトスは何気《なにげ》ない顔をしてたずねた。
「もちろん空ですわ」これも何気なく答えた。
「いや、じつはわたしが欲しいのは、中身がぎっしりつまったやつでしてね」
コクナール夫人は、もう一度ため息をついた。
モリエールがまだ『守銭奴《しゅせんど》』を書いていないころだから、コクナール夫人はアルパゴンの先駆をなすわけである。
その他の身支度についても、同じようなやり方で討議が行なわれた。その結果、代訴人夫人は亭主から現金八百リーヴルを借りだし、なお、ポルトスとムスクトンを乗せる馬と騾馬とを調達するということにきまった。
こうして、利息と返済の期限をきめて契約がまとまると、ポルトスはコクナール夫人のもとを辞去した。
夫人は色目を使ってなお引きとめようとしたが、ポルトスは勤務があるからとしきりに言うので、けっきょく代訴人夫人は国王のために譲歩しなければならなかった。銃士は、ひどく不愉快なひもじさを抱いて、家へもどった。
三十三 侍女と女主人
いっぽうダルタニャンは、良心の声やアトスの分別ある忠告にもかかわらず、刻一刻とミラディーに対する思慕の情をつのらせていった。それゆえ、毎日かかさずにたずねていった。いかにも冒険好きなガスコーニュの青年らしく、彼はいまにおそかれ早かれ、彼女がこちらの思いにこたえてくれると、確信していたのである。
ある晩、彼は昂然《こうぜん》と胸を張って、黄金の雨を待ち受けている人のようにいそいそとやって来ると、車寄せのところで、例の侍女に出会った。ところがこんどは美しいケティーは、すれちがいざまにほほえみかけるだけでは満足せずに、そっと彼の手を握った。
[よしきた! 女主人からのことづけがあるんだな。あの女は自分からは言えないので、こうして逢いびきの約束を伝えようっていうんだろう]と、彼は思った。
で、できるだけ得意そうな顔をして、この美しい娘の顔を見つめた。
「ちと、お話がございますので、あの……」と、彼女は口ごもった。
「なんだね、いってごらん、さあ、聞こう」
「ここではだめでございますわ。お話は長いですし、それに人さまに聞かれては困りますので」
「では、どうしたらいいかな?」
「あたくしについてきてくだされば」と、ケティーは、おずおずといった。
「どこへでも行くよ」
「では、どうぞこちらへ」
ケティーはダルタニャンの手を握ったままで、薄暗い小さな螺旋《らせん》階段につれて行き、十五階段ほどあがったところで、ドアをあけた。
「どうぞおはいりください。ここなら二人だけですから、お話できますわ」
「ここは、なんの部屋なんだね」と、ダルタニャンはたずねた。
「あたくしの部屋ですの。あのドアで奥さまの寝室に通じておりますけれども、でもご安心くださいませ、こちらの話は聞こえませんし、それに奥さまは真夜中にならなければおやすみになりませんから」
ダルタニャンは、あたりを見まわした。小部屋だが、しゃれた小ざっぱりした部屋である。だが、思わず彼の視線は、いまケティーがミラディーの部屋に通じているといったドアのほうへ吸いつけられた。
ケティーは、ダルタニャンの心の中を読みとって、ため息をついた。
「うちの奥さまに、ほんとうに恋をなさっていらっしゃるのですね」
「ああ、口では言えないくらいだよ! 気も狂いそうだ!」
ケティーは、もう一度ため息をついた。
「まあ! それはお気の毒に」と、彼女はいった。
「なにがお気の毒なんだ?」と、ダルタニャンは聞き返した。
「だって、うちの奥さまは、あなたさまをちっとも愛してはいらっしゃいませんもの」
「へえ! 奥さまが、わたしにそう言えといったのかね」
「いいえ、そうではございません。ただあたくしが、あなたさまのためを思って、このことを申しあげようと決心したのですわ」
「ありがとう、ケティー。でも、お礼を言うのは、その気持ちに対してだけだよ。だって話そのものは、あんたにもわかるだろうが、こっちにとっては、ちっとも愉快なことじゃないからね」
「では、あたくしの申しあげたことは、お信じになりませんのね」
「わたしにかぎらず誰だって、自尊心からしても、そういうことは信じたくないものさ」
「だからあなたさまも、あたくしの言うことをお信じになれないというのですね?」
「あんたの言うことの証拠をなにか見せてもらうまではね」
「これを、どうお思いになりまして?」そういって彼女は、胸元から小さな手紙を取りだした。
「わたしに宛てたのかい?」
「いいえ、ほかの方にですわ」
「ほかの人だって?」
「ええ」
「だれだ? その名前は?」
「宛名をごらんくださいまし」
「ウァルド伯爵さま……」
サンジェルマンでの光景が、すぐにこの思いあがったガスコーニュ青年の頭に浮かんだ。考えよりも手のほうが早く、ケティーが叫ぶのも意に介しないで、封を切ってしまった。
「まあ、なにをなさいます?」
「なに、かまうことはない」そういって、ダルタニャンは読みくだした。
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この前の手紙には、ご返事がいただけませんでした。おからだがお悪いのでしょうか、それとも、ギュイーズ夫人の舞踏会であたくしをどんな目でごらんになったか、お忘れになったのでしょうか。伯爵さま、もう一度機会をさしあげます。この機会をおのがしにならないように。
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ダルタニャンの顔色はさっとかわった。自尊心を傷つけられたからだ。彼は恋情を傷つけられたと感じた。
「お気の毒なダルタニャンさま!」ケティーは同情をこめた声で、また青年の手を握りしめた。
「同情してくれるんだね、やさしい娘だ!」彼はそういった。
「ええ、ええ、心底から! だって、あたくしも、恋とはどんなものか知っておりますもの」
「恋がどんなものだか、おまえが知っているって?」ダルタニャンははじめて、いくらか注意して娘の顔を見た。
「ええ、知っていますとも」
「そうか! だったらただ同情してくれるだけでなしに、奥さんに仕返しする手伝いをして欲しいのだが」
「どんな仕返しをしようと思っていらっしゃいますの?」
「奥さんを手に入れて、恋敵《こいがたき》を出し抜いてやるのだ」
「そういうことでしたら、あたくし、けっしてお手伝いなんかしません」ケティーはきっぱりと断わった。
「なぜだね?」と、ダルタニャンがたずねた。
「二つの理由で」
「どういう?」
「一つは、うちの奥さまは、けっしてあなたをお好きにはなりませんから」
「どうして、それがわかるんだね?」
「あなたは、奥さまの心を傷つけられましたから」
「わたしがかい? どうしてわたしが、あの人を傷つけたりできるのだ。はじめて会ってから、ずっとまるで奴隷《どれい》のようにあの人に仕えているではないか。さあ、そのわけをいってくれ、お願いだ」
「それは、このあたくしの心の底まで読みとってくれる人でなければ……言えませんわ」
ダルタニャンは、あらためてケティーの顔を見た。その娘の容姿には、多くの公爵夫人がその冠を引き替えにあがないたいと願うほどの美しさとみずみずしさがあふれていた。
「ケティー、よかったらわたしがいつでもあんたの心の奥底を読んであげるよ。それなら、いいだろう」
こういって彼が接吻すると、娘はさくらんぼうのように赤くなった。
「いいえ、だめです」と、彼女は叫んだ。「あなたは、あたくしを愛してはいらっしゃいません。あなたが愛していらっしゃるのは、うちの奥さまです。いまもご自分でそうおっしゃったでしょう」
「それなら、第二の理由を教えてくれ」
「第二の理由は」と、ケティーは青年の接吻と、その眼の表情に力を得て、思いきって言ってのけた。「恋をすれば、だれに遠慮がいるものか、ということですわ」
こう言われてはじめてダルタニャンは、ケティーの悩ましげな目つきや、控えの間や階段や廊下で出会ったことや、その度に手が触れ合い、切なげなため息がもれたことを思いだした。だが、奥方の気に入られようと、そればかり考えていた彼は、侍女のことなど問題にしていなかったのだ。鷲《わし》を追う者は、小雀《こすずめ》などには目もくれないの例《たとえ》である。
だが、こんどはわがガスコーニュ青年も、このあまりにも卒直に、しかも大胆に告白したケティーの恋心をじゅうぶんに利用できると、ひと目で見てとったのである。ウァルド伯に宛てた手紙を横取りすること、そして女主人の寝室に通じているケティーの部屋から好きなときにはいって行って、その場で関係できる。ごらんのとおり、この不実な男は頭の中で、ぜひとも無理じいしてもミラディーを手に入れるために、早くもこの哀れな娘を犠牲《ぎせい》にしているのだ。
「いいとも」と、彼は娘にいった。「ケティー、おまえが疑っているわたしの恋の証拠を見せてあげよう」
「どういう恋なのでしょう?」と、娘はたずねた。
「わたしがおまえにだんだん抱きそうになっている恋心さ」
「で、その証拠というと?」
「今夜、ふつうなら奥さんのところですごす時間を、おまえのところですごすとしたら?」
「まあ! ほんとう?」ケティーは手を打って喜んだ。「ええ、よくってよ」
「よし、そうしょう」と、ダルタニャンは肱掛椅子にどっかと腰をおろして、「さあ、おいで、おまえはわたしがいままで見た奥女中の中で一番きれいだといえるね!」
こう彼がじつにじょうずにいったので、元より何よりもそう思いこみたい娘心のこととて、彼女はそう思いこんでしまった……ところが、ダルタニャンが驚いたことには、このかわいいケティーは、断固として身をこばむのである。
攻防のうちに、時間はまたたくまに過ぎてしまった。
十二時が鳴った。とほとんど同時に、ミラディーの部屋で呼鈴《よびりん》が鳴った。
「あらっ!」と、ケティーは叫んだ。「奥さまが呼んでるわ。さあ、お帰りになって、早く!」
ダルタニャンは立ちあがると、いかにも出て行くように帽子を手にしたが、階段へ通じるドアを開く代わりに、すばやく大たんすの扉をひらいて、ミラディーの衣裳たんすの中にもぐりこんでしまった。
「なにをなさいますの?」と、ケティーが大声でいった。
ダルタニャンは、まえもって鍵を取りあげておいたので、だまって中からしめてしまった。
「どうしたの?」と、ミラディーがはげしい声で呼んだ。「呼んでも来ないなんて、居眠りしてるの?」
つづいてダルタニャンは、次の間とのドアがはげしく開く音を聞いた。
「ただいま、ただいままいります」と言いながら、ケティーは大いそぎで、女主人のほうへ飛んで行った。
かくて二人とも寝窒へはいったが、境のドアが開いたままだったので、なおしばらくのあいだダルタニャンは、ミラディーの小間使いを叱っている声が耳にはいった。やっと腹立ちがおさまると、こんどは身のまわりの世話をしているケティーを相手に話していたが、それがなんと彼のことなのである。
「ねえ、今夜は、あのガスコーニュの青年は来なかったのかい?」と、ミラディーがきいた。
「まあ、おいでになりませんでしたの? 想《おも》いがとどかぬうちに、もう気が変わったのでしょうか?」
「いいえ、そうじゃないでしょう。きっと、トレヴィール殿か、エサール殿の御用で、出られないのよ。あたしにはわかっているわ、ケティー、あの人はあたしの思いのままよ」
「どうなさいますの、奥さま?」
「あたしの思いのままに……心配しなくてもいいのよ、ケティー。あの人とあたしのあいだは、あの人の知らないことがあるのだから……あたしは、あの人のおかげで、もう少しのところで枢機卿《すうききょう》さまの信用を失うところだったのよ。きっと復讐《ふくしゅう》してやるから」
「奥さまは、あの人がお好きなのだとばかり思っておりましたが」
「あたしがあの人を好きだって! あたしは、あんな人大きらい! 大ばかよ、あの人。ウィンター卿の命を握っておきながら殺さなかったなんて……おかげであたし、三百リーヴルの年金をふいにしちまったわ」
「そうでございますわね。お坊っちゃまはあの方のただお一人のご相続人ですから、ご成年までは奥さまがご財産を自由におできになったのに」
ダルタニャンは骨の心《しん》まで凍る思いだった。あのようにやさしい女が、ふだんの会話ではむりに隠しているあんな金切声で、あんなにも彼女に好意を示してくれた男を殺さなかったといって、この自分を非難しているのだった。
「だから」と、ミラディーは言いつづけた。「どうしてだか知らないけれども、枢機卿さまがあの人を手加減しておけとおっしゃるので仕方がないのだが、さもなければあたし、とっくの昔にあの人に復讐していたわ」
「そうでございましょうね。でも奥さまは、あの人が愛しているあの女には、手加減をなさいませんでしたわね」
「ああ、あのフォソワイユール通りの小間物屋のおかみさんのことね。あんな女のこと、あの人はとっくの昔に忘れてしまったんじゃないかしら。ほんとに、つまらない復讐だったわ」
ダルタニャンの額には、冷たい汗が流れていた。まさしく、この女は悪魔だ。
彼はまた耳をすましたが、残念ながら着替えはもうすんでしまった。
「いいわよ」と、ミラディーはいった。「部屋へお帰り。あしたはなんとかして、あの手紙の返事をもらうようにしてちょうだいよ」
「ウァルドさまのお手紙でございますね?」
「そうよ、ウァルドさまのよ」
「あの方は、ちょうどお気のどくなダルタニャンさまとは逆の、幸運な方でいらっしゃいますわね」
「出ておいで」と、ミラディーはいった。「よけいなおしゃべりは聞きたくないよ」
ダルタニャンはドアがしまる音と、ミラディーが中から錠《じょう》をおろすのを聞いた。ケティーもこちらから出来るだけ静かに鍵をかけた。そこでダルタニャンは大たんすの扉を開いた。
「まあ! どうなさいましたの、お顔がまっ青だわ」
「まったく、ひどい女だ」と、彼はつぶやいた。
「しっ! 静かに! そっと出て行ってください。奥さまのお部屋とは仕切り壁だけなんですから、話し声がすっかり聞こえてしまいます」
「だからこそ、出ていかないのさ」
「どうしてですの?」と、ケティーは赤くなった。
「出ていくにしても、もっとあとで」
そういって青年は、ケティーを引きよせた。こんどは抵抗することができなかった。音が聞こえるからである。ケティーは身をまかせた。
これは、ミラディーに対する復讐の一つの現われだった。ダルタニャンは、復讐は神々の快楽なりという言葉はもっともだと思った。それゆえ彼にもう少し暖い心があったら、この新しい勝利だけで満足したであろうが、彼には野心とうぬぼれしかなかったのである。
しかしながら、ここで彼のために弁解するならば、彼がケティーを利用しようとした最初の考えは、ボナシュー夫人の消息を聞きだすためであったのである。ところが彼女は、女主人は秘密の半分ももらさないから自分は何にも知らないと彼に誓ったのだ。ただ、あの人が死んでいないことだけは確かだと思うといった。
彼のためにミラディーが枢機卿の信用を失いかけたことの理由については、なおさらケティーは知らなかったが、じつはこのほうは、ダルタニャンのほうがよく知っていた。イギリスを離れようとしたとき、出航停止にあった船の上でミラディーの姿を見かけたのだから、それはダイヤモンドの飾りの件なのだろうと思った。
しかし、そうしたことの中で一番はっきりしていることは、ミラディーの根づよい深い憎悪《ぞうお》のほんとうの理由は、彼が義弟を殺さなかったことにあったのだ。
ダルタニャンは翌日、またミラディーのところへ出かけた。彼女はひどく機嫌がわるかった。彼女がこんなにいらいらしているのは、ウァルド伯から返事がないからだと思った。ケティーがはいってきた。が、ミラディーは、じつに冷たい態度をとっていた。ケティーはダルタニャンに、[あなたのために、あたしはこんなつらいめにあっているんですよ]と言いたげな視線を投げ与えた。
それでも夜がふけたころには、美しい牝獅子《めじし》の気もしずまって、ダルタニャンの甘い言葉を微笑しながら聞いていた。ついには、手に接吻することさえ許した。
ダルタニャンは、どう考えていいかわからぬままに外へ出た。しかし、そうめったなことで思慮を失うような男ではなかったから、ミラディーに言い寄りながらも、頭の中ではちょっとした計画を立てていた。
入口でケティーに会った。きのうと同じように、情報を聞くために彼女の部屋にあがった。彼女は仕事をなおざりにしたというので、ひどく叱られたのだった。ミラディーは、ウァルド伯が返事をくれないのが、ふしぎでならなかったのだ。そこで彼女に、明朝九時に三通目の手紙を書くから、それを取りに部屋へ来るようにということだった。
ダルタニャンはケティーに、あすの朝、その手紙を自分のところへ持って来るようにと約束させた。かわいそうに娘は、恋する男の言うことならなんでも承知した。もう、夢中なのだ。
すべては、昨夜と同じようにはこんだ。ダルタニャンは彼女の衣裳たんすの中に隠れた。ミラディーがケティーを呼んで着替えをし、すむとケティーを帰してドアをしめた。彼はきのう同様、朝の五時に自宅へもどった。
十一時に、ケティーがやってきた。手に、ミラディーの新しい手紙を持っていた。こんどは彼女は、もう手紙のことでいさかいはしなかった。彼のするようにさせていた。彼女は身も心も、この美貌の青年に捧げているのだ。
ダルタニャンは手紙を開封して、読んだ。
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あなたに恋を打ち明ける手紙を書くのは、これで三度目です。四度目に、あなたを大嫌いと書くことのないように、ご注意あそばすように。
もし、あたくしに対しておとりになった態度を後悔なさったら、この手紙をお渡しする娘が、紳士たるものはどのようにして謝罪したらいいかをお教えするでしょうよ。
[#ここで字下げ終わり]
ダルタニャンは手紙を読みながら、なんども赤くなったり青くなったりした。
「ああ、あなたはやっぱり、奥さまを愛していらっしゃるのね」と、青年の顔から一瞬も目を離さなかったケティーがいった。
「ちがうよ、ケティー、それはおまえの思いちがいだよ。もうあんな女なんか愛しちゃいないさ。ただ軽蔑された仕返しがしたいだけさ」
「ええ、その仕返しのことは知っています、ご自分でそう言ったんですものね」
「かまわないじゃないかね、ケティー! わたしが愛しているのはおまえだけということを、よく自分で知ってるんだものね」
「どうして、それを知ることができるのでしょう?」
「いまにわたしが、あの女をうんと軽蔑してやるからね」
ケティーはため息をついた。ダルタニャンはペンをとると、次のように書いた。
[#ここから1字下げ]
奥さま、あなたからの二通のお手紙は、はたしてわたしに宛てられたものかどうか、今日まで信じられなかったのです。わたしには、このような栄誉を受ける資格などないものと思いこんでいたのです。それに、からだもまだ回復しておりませんので、それもあってご返事を出しそびれていたのです。でも今日は、いよいよこのうえないあなたのご厚情を信じなければならなくなりました。あなたのお手紙ばかりでなく、あなたの侍女までが、あなたから愛されているこの身の幸福を保証してくれたのですから。
紳士たるものの謝罪の仕方など、侍女の口から聞く必要はありません。今夜十一時に、わたしが自分でおわびを申しあげにうかがいます。今となっては、一日おくれることは、それだけ無礼を重ねることだと思われますので。
あなたのおかげで、この世で一番幸福になった男より。 ウァルド伯爵
[#ここで字下げ終わり]
この手紙はまず偽《にせ》ものであり、こんなことは不正直な行為である。現在のわれわれの道徳から見れば、恥ずべき行為である。だが当時においては、今日ほど、行ないを慎《つつ》しまなかったのである。しかもダルタニャンは、ミラディー自身の口から、もっとも重要なことで彼女には裏切りの罪があることを知っていたから、彼女に対してはほんのわずかな敬意しか持ち合わせてはいなかった。しかし、敬意はもっていないのに、身を焼くほどの無分別な恋情を感じていた。軽蔑に酔った恋情、それは恋といえるし、渇《かわ》きといってもいいだろう。
ダルタニャンが考えていたのは、簡単であった。ケティーの部屋から、女主人の部屋にはいりこむ。最初の瞬間の驚きと恥ずかしさと恐れとにつけ入って、彼女を征服してしまおうというのだ。あるいは失敗するかもしれないが、運にまかせてやってみよう。もう一週間もすれば戦争がはじまり、出発しなければならない。ダルタニャンには、恋をゆっくりとしているひまなどなかったのだ。
「さあ」と、青年はちゃんと封をした手紙をケティーに渡した。「この手紙を奥さんに渡すんだ。ウァルド伯からの返事なんだよ」
かわいそうにケティーは、死人のようにまっ青になった。手紙に書いてあることが嘘《うそ》だと察したからだ。
「いいかい」と、ダルタニャンはいった。「どっちみち、このままではすまないってことは、おまえもわかってるだろう。おまえが最初の手紙を伯爵の従僕に渡さずに、わたしの従者に渡したことや、ウァルド伯が開封するはずのその後の手紙をわたしが開封してしまったことを、奥さんは感づくにきまっている。そうなれば、おまえは追いだされる。いや、知ってのとおりの気性だから、それだけではすまないだろうね」
「ああ! だれのために、あたしはこんな危険な目にあうのでしょう?」
「わたしのためさ。それはよく知っている」と青年は答えた。「だから、ほんとうに感謝しているんだよ」
「それで、この手紙にはどういうことが書いてありますの?」
「ミラディーが言うだろうよ」
「ああ、あなたはあたしを愛してはいないんだわ!」と、ケティーは呼んだ。
「ほんとうに、あたしって、不幸な女だわ!」
こういう非難に対しては、女がいつもだまされてしまう返事というものがある。ダルタニャンは、ケティーが大きな誤りにおちいるような返事をしてやった。
それでも彼女は、この手紙をミラディーに手渡す決心をするまでは、ずいぶん涙を流した。しかし結局は、彼女は決心をした。ダルタニャンの思うとおりになったのである。
それに彼は、今夜は早目に主人の部屋を切りあげて娘の部屋に行くと約束してやった。この約束で、かわいそうなケティーの気持ちはようやくしずまった。
三十四 アラミスとポルトスの身支度
四人の友がそれぞれ出陣の身支度にかかってからは、いままでのようにきまって集まるということはなくなった。だれかがいなくても、居合わせた場所で、というよりもどこでも食べられるところで食事をとった。それに、勤務のほうにも貴重な時間がとられるので、またたくまに時がたっていった。それでも週に一度、アトスのところで一時ごろに会おうという約束はしてあった。アトスは誓ったとおり、一歩も外に出なかったからだ。
ケティーがダルタニャンの家に会いに行った日は、ちょうどその集まりの日だった。ケティーが帰るとすぐにダルダニャンは、フェール街へと急いだ。
アトスとアラミスとが議論をしているところだった。アラミスには、まだ聖職にもどる気持ちがなんとなくあった。アトスはいつもの癖で、それをとめもしなければ、すすめもしなかった。アトスは、各人の自由意志にまかせるという主義だった。彼は求められなければ、けっして他人に忠告を与えたことはなかった。それも、二度は頼まなければ、だめなのだった。
「たいていの場合、人が意見を求めるのは、それに従うためではないよ。もし従ったとしても、それは、その意見のせいだとして非難させる人間をつくっておこうとするためさ」と、彼はいっていた。
ダルタニャンのすぐあとから、ポルトスがやってきた。そこで、四人の友が顔をそろえたのである。
四つの顔は、それぞれ異なった感情を現わしていた。ポルトスのは平静、ダルタニャンのは希望、アラミスのは不安、アトスのは無関心である。
会話がはじまってまもなく、ポルトスがある身分の高い婦人が彼を苦境から救ってくれることになった話をそれとなくほのめかしていたそのとき、ムスクトンがはいってきた。彼はポルトスに、至急な用事があるので家に帰って欲しいと、言いにきたのだった。たいへん情けないようすでそういった。
「おれの支度のことかね?」とポルトスがたずねた。
「そうでもありますし、そうでもないようで」と、ムスクトンが答えた。
「というと、どういうことなんだね?」
「とにかく、お帰りになってください」
ポルトスは立ちあがって、友人たちに挨拶をすますと、ムスクトンのあとにつづいた。
すこしすると、こんどはバザンが入り口に現われた。
「わたしに、どういう用だね?」と、アラミスがやさしい口調でいった。いつも頭が教会のほうに向いているときに、きまって彼が使う口のきき方である。
「男の人が、家でだんなさまを待っておりますが」と、バザンは答える。
「男だって! どんな男だ?」
「乞食《こじき》でございます」
「恵んでやりなさいバザン。そして、あわれな罪びとのために祈ってくれるようにと、頼んでおきなさい」
「その乞食が、どうしてもだんなさまにお話がしたいのだそうでして、会えばお喜びになると、そう申してきかないものですから」
「わたしについて、何か特別なことでも言わなかったかね?」
「申しました。アラミスさまがお会いくださるのを躊躇《ちゅうちょ》なさるようでしたら、ツールから来た者だとお伝えくださいと」
「なに、ツールからだって!」と、アラミスは叫んだ。「貴公たち、失礼する。きっとその男は、わたしが待っていた知らせを持ってきた男にちがいない」
そういって立ちあがると、大急ぎで出て行った。
残るは、アトスとダルタニャンである。
「あの連中は、どうやら支度の目鼻がついたようだが、どう思う、ダルタニャン?」
「ポルトスがうまく進めていることは知っている。アラミスのほうは、ほんとうを言うと、はじめっから本気で心配する必要はないと思っていた。ところで、アトス、きみは当然きみのものだったのに、あのイギリス人の金を、あんなに気前よくやってしまって、きみこそどうするつもりなんだ?」
「おれは相手の男を殺したことで、じゅうぶん満足してるんだ。イギリス人をやっつけるなんて、まったくいい気味だからね。それなのに奴の金までポケットに入れたとあっては、それこそ悔恨でやりきれないだろうよ」
「まったく、アトスって男は! とんでもないことを考える男だ」
「まあ、それはいいとして。じつは昨日、トレヴィール殿がここへ寄ってくださったのだが、そのときに枢機卿がうしろだてをしている怪しげなイギリス人のところへ貴公が出入りしているといっておられたが、ありゃどういうわけだね?」
「つまり、いつかきみに話したイギリス人の女の家をたずねていることだよ」
「ああ、そうか、いつかおれが貴公に忠告してやった金髪の女だな。もちろんおれの忠告にきみは従わなかったわけだな」
「おれは、その理由を説明しておいたはずだが」
「うん。たしかきみの言ったところでは、それで身支度をととのえようと考えたわけだね」
「ちがうよ。あの女がボナシュー夫人のかどわかしになにか関係があるという証拠を、おれはつかんだからさ」
「そうか、わかった。女をみつけるために、べつの女をくどくっていうわけだな。一番のまわり道だが、なかなかおもしろい手だよ」
ダルタニャンはもう少しで、なにもかもアトスに話してしまおうかと思った。しかしある点で、彼にそうさせないものがあった。アトスは徳義の点で、なかなか厳格な男であったからだ。わが恋する男がミラディーに対して立てた計画の中には、この潔癖な男の同意をどうしても得られぬ何ものかがあったのだ。それゆえダルタニャンは、だまっておくことにした。アトスも、およそ好奇心などとは縁のない男だったから、ダルタニャンの打ち明け話はそのままになってしまった。
ところで、この二人はもう重要な話はしないから、われわれはここで、アラミスのあとを追うとしよう。
話したいといった男がツールから来たのだということを聞いて、この青年がバザンに従うというよりもむしろ先に立って道を急いだということは、先刻ご承知のとおりである。そこで彼はひと飛びで、フェルー街からヴォジラール街へ着いた。家へはいると、はたして一人の男が待っていた。背の低い、利口《りこう》そうな目つきの男だが、ぼろを身にまとっていた。
「わたしに用があるというのは、あんたかな?」と、銃士はきいた。
「アラミスさまにお会いしたいのですが、あなたがそのアラミスさまで?」
「わたしがそうだが、なにかわたしに手渡すものでも持ってきたのかな?」
「はい。ですが、刺繍《ししゅう》をしたハンカチを見せていただかないことには」
「ここにある」アラミスは首にかけていた鍵を取りだして、螺鈿《らでん》をはめこんだ黒檀《こくたん》の小箱を開くと、「さあ、これだ」
「けっこうです」と、その乞食はいった。「従僕の方にお引きとり願いましょう」
じじつバザンは、この乞食が主人にどんな用事があるかを知りたくてたまらなかったので、主人と歩調を合わせて、ほとんど主人と同時に帰り着いていたのだった。しかしこうして急いだことは、あまり役立たなかった。乞食の要請で、主人から引きさがるようにと合図されて、それに従わねばならなかったからである。
バザンが出て行くと、乞食はあたりを急いで見まわし、だれも見たり聞いたりしていないのを確かめると、皮帯でだらりと締めてあったぼろの上着をあけて、胴着の上のところをほどきはじめ、そこから一通の手紙を取りだした。
アラミスはその封印を見ると、喜びの叫びをあげて、その筆跡に接吻した。そして礼拝でもするようなうやうやしい態度で、手紙の封を切った。
[#ここから1字下げ]
愛するあなたに。わたくしたちは、まだしばらく別れていなければならない運命ですね。でも、青春の美しい日々は、永久に失われたわけではありません。戦場ではどうか、じゅうぶんに義務をお果たしくださいますよう。わたくしは別のところで、わたくしの義務を果たしますから。使者に託《たく》したもの、どうぞお受けとりくださいますように。そしてりっぱな栄ある貴族としてご出陣くださいますように。またあなたの黒い目にやさしく接吻をするこのわたくしのことをお考えくださいますように。さようなら、というより、ではまたお会いできる日まで。
[#ここで字下げ終わり]
乞食はなおも縫い目をほどいて、汚れた上着から二ピストールのスペイン金貨を一枚一枚取りだすと、それを百五十枚テーブルの上にならべた。そして入口のドアをあけ、会釈《えしゃく》をして出て行ってしまった。あっけにとられた青年は、言葉ひとつかける間がなかった。
そこでアラミスはもう一度手紙を読んでみると、追伸がついていた。
[#ここから1字下げ]
追伸……この使者はスペインの伯爵さまですから、おもてなしくださっても一向にさしつかえございません。
[#ここで字下げ終わり]
「黄金の夢だ! ああ、うるわしきかな、人生! そうとも、われわれはまだ若いのだ。まだまだ、われわれには幸福な日々があるのだ。おお、あなたに、わたしの恋も、わたしの血潮も、わたしの生命も、すべてを捧げよう、すべてを、わたしの美しい人に」と、アラミスは絶叫した。
そして彼は熱情をこめて手紙に接吻をし、テーブルの上に輝いている金貨には目もくれなかった。
バザンがそっとドアをたたいた。もう遠ざけておく必要はなかったから、入れてやった。
バザンは金貨を見るとびっくり仰天して、ダルタニャンの来訪を告げに来たことを忘れてしまった。ダルタニャンは乞食のことが知りたかったので、アトスの家を出ると、まっすぐにやってきたのだった。
ところで彼は、アラミスとは遠慮のない仲だから、バザンが取次ぐのを忘れたのを見て、さっさとはいってきた。
「こりゃ、おどろいたな、アラミス!」と、ダルタニャンはいった。「もしこれが、ツーロンから送られてきた乾李《ほしもも》だったなら、つくった栽培人に、おれからもよろしく伝えてくれよ」
「ちがうよ」と、あい変わらず慎重なアラミスは、「いつか書きはじめた例の一音節の詩の稿料を、本屋がとどけてくれたのさ」
「へえ! ほんとうかね? 貴公の本屋は金払いがいいな、アラミス。そうとより言いようがない」
「なんですって、だんなさま!」と、バザンが叫んだ。「詩が、そんなに高く売れるもんですかね! わからんもんですな! さあ、だんなさま、これからはお好きなことをなさってくださいまし。ボワテュールさまや、バンスラードさまと肩をならべることがおできになりますよ。わっしは、それだっていいと思いますよ。詩人と言やあ、司祭さまもまあ、おんなじことですからな。そうですよ、アラミスさま、どうぞ、詩人になってくださいまし」
「バザンや」と、アラミスがいった。「おまえ、よけいな口だしをしているようだな」
バザンはわるかったと気づいて、一礼すると出て行った。ダルタニャンは微笑して、
「貴公は作品を高価に売ることができて、いいな。だが注意するんだね、ほら、服から手紙が落ちかかっているが、なくしてしまうぞ。それも、きっと貴公の本屋から来たものだろうが」
アラミスはまっかになって手紙を押しこみ、胴着のボタンをかけ直した。
「おい、ダルタニャン。よかったら、みんなのところへ行かないか。おれはこのとおり金がはいったから、今日は久しぶりで、いっしょに飯を食おうと思うが、どうだい。きみたちも、いずれ金がはいるだろうが」
「いいね! ずいぶん長いあいだ、飯らしい飯を食わなかったからね。それに今夜、おれは少々冒険をやらねばならんから、古いブルゴーニュ酒を一杯やって元気をつけるのもわるくないな」
「古いブルゴーニュ酒はいいな。おれもきらいじゃない」とアラミスもいった。金貨を見たので、隠遁《いんとん》の気持ちはすっかりなくなってしまった。
そこで三、四枚の金貨をさしあたりの小遣いとしてポケットに入れると、残りはそっくり、例の護符《ごふ》の役目をしているハンカチのはいっている、螺鈿《らでん》を象眼《ぞうがん》した黒檀《こくたん》の小箱にしまった。
二人の友は、まずアトスの家へ行った。アトスは一歩も外出しないという誓いを守るというので、食事を取り寄せることにし、その注文をアトスにまかせた。料理にかけてはなかなかの食通だったから、ダルタニャンもアラミスも、安心してこの重要な役をアトスにまかせられた。
二人はこんどはポルトスの家へ向かったが、バック街のはずれのところで、ムスクトンが情けない顔をして、馬と馬とを追いながらやってくるのに出会った。
ダルタニャンはびっくりして大声をあげたが、それには喜びの気持ちがあったのは隠せなかった。
「おや! おれの黄色い馬だ! アラミス、あの馬を見てくれ」
「へえ! これは、ひどい馬だな」
「いいかい、アラミス! おれはこいつに乗って、パリへ出てきたんだ」
「なんですって、あなたさまは、この馬をごぞんじなんで?」と、ムスクトンがたずねた。
「変わった毛色をしているな。こんなのははじめてだ」と、アラミスはいった。
「おれもそう思うよ。だから、三エキュで売れたんだ」と、ダルタニャンは答えた。「この毛色のせいさ。だって皮をはいだら、十八リーヴルにも売れんだろう。それにしてもムスクトン、どうしてこの馬が手にはいったんだい?」
「ああ、そのことはおっしゃらないでくださいまし。例の公爵夫人のご主人に一杯ひっかけられたんで」
「そりゃまた、どうしてだい、ムスクトン?」
「はい、じつはある身分の高いご婦人で、公爵夫人ですが、くわしくはご主人から口どめされておりますので。その方がうちのだんなさまに好意をお寄せになっていられるのですが、こんどもぜひ餞別《せんべつ》にと、みごとなスペイン産の馬と、アンダルシアの騾馬《らば》とをくださると申されたのです。ところがご主人がそれを知って、その二頭を途中で横どりして、その代わりにこんな情けない代物《しろもの》を寄こしたんでございます」
「で、返しに行くところか」と、ダルタニャンはきいた。
「さようでございます。約束のものとは似ても似つかぬこんな馬をもらうわけにはいきませんからな」
「なるほど。おれはポルトスが、おれのブートン=ドールに乗った姿が見たかったがね。そうすれば、おれがはじめてパリへ乗りこんできた姿をもう一度見られるわけだからな。だが、おまえを引きとめちゃわるい。さあ、ムスクトン、早く行きなさい。ところで、主人は在宅かな?」
「はい、でも、たいへんご機嫌がわるくて」
こういうと従者は、グラン=ゾーギュスタン河岸のほうへ立ち去った。いっぽう二人の友は、不運なポルトスのドアをたたきに行った。ポルトスは二人が前庭を横切って来るのを見たのだが、ドアをあけようとはしなかった。二人がいくら呼鈴《よびりん》を鳴らしても、むだだった。
さてムスクトンは道をつづけて、ボン=ヌフ橋を渡ると、あい変わらず二頭の駄馬《だば》を追い立てながらウルス街に着いた。そして代訴人宅へ着くと、主人の言いつけどおりに、馬と騾馬とを入口の叩き槌《つち》の環《かん》につないだ。そうしておいて、あとはかわまずにポルトスのところへもどると、役目を果たしたことを報告した。
しばらくすると、朝からなにも食っていない二頭の馬は、叩き槌をゆすって大きな音を立てた。おどろいた代訴人は、この馬と騾馬はだれのものか近所に問い合わせるよう、書生に言いつけた。
コクナール夫人は、それが自分の贈りものだとすぐにわかったが、最初はなぜ送り返されたのかわからなかった。が、まもなくポルトスがやって来たので、話がわかった。銃士の眼の中にきらめいている怒りは、どんなに抑えようとしても、感じやすい恋人を恐怖におとしいれた。じじつムスクトンが途上でダルタニャンとアラミスとに出会ったこと、この黄色い馬はダルタニャンがパリに出てきたときに乗ってきた馬で、三エキュで売り払ったものであることをポルトスに報告していたのだった。
ポルトスは代訴人夫人と、サン=マグロワール僧院で会う約束をして出て行った。代訴人はポルトスが帰ろうとするのを見て、食事に誘ったが、銃士は威厳を大いに見せて、これを断わった。
コクナール夫人は、ひどくびくびくしながら、サン=マグロワール僧院へ出かけて行った。叱責《しっせき》が待っていることが、わかっていたからだ。だが彼女は、ポルトスの堂々たる風采《ふうさい》にぞっこんほれこんでいたのだ。
およそ自尊心を傷つけられた男が女に向かって浴びせ得られるかぎりの罵《ののし》り、叱責の言葉を、彼はこの代訴人夫人のうなだれた顔に投げつけた。
「でも、まあ! あたし、できるだけのことをしたんですよ。うちへ来る依頼人に博労《ばくろう》がいて、うちの事務所に借金があるのになかなか返してくれないんです。で、あの馬と騾馬とを借金のかたに取ったのです。二頭ともりっぱな馬だって、あの人が約束してくれたもんですからね」
「いいですか、奥さん!」と、ポルトスはいった。「あんたの貸し金が五エキュ以上だったら、その博労は泥棒《どろぼう》ですよ」
「なるべく安いものを見つけようとすることは、そんなに悪いことではないと思いますわ、ポルトスさま」と、代訴人の細君は、弁解がましくいった。
「そりゃ、そうです。でも、安物を見つけようなどという根性の人は、他人がもっと気前のいい友人を捜そうとするのを許すべきですな」
こう言いすてて、ポルトスはくるりとうしろを向くと、帰りかけた。
「ポルトスさま! ポルトスさま!」と、夫人は叫んだ。「あたしが悪うございました。よくわかりましたわ。あなたのようなりっぱな騎士のお支度をととのえるのに、安物を買おうとしたりして」
ポルトスは返事もしないで、帰りかけた。
代訴人夫人は、ポルトスが輝く雲の中で、公爵夫人や伯爵夫人にかこまれながら、その人たちからもらった金貨の袋を足もとに並べている姿を、目の前に見るような気がした。
「後生ですからお待ちになって、ポルトスさま」と、彼女は叫んだ。「まあお待ちください、お話がありますので」
「あなたと話をすると、不幸になるばかりだ」と、ポルトスは言ってのけた。
「でも、おっしゃってください。なにをあなたは欲しいんです?」
「なんにも。欲しいといったところで、むだですからね」
夫人はポルトスの腕にしがみついて、悲嘆のあまり叫び声をあげた。
「ポルトスさま、あたし、こういうことはなんにも知らないのです。馬というものがどういうものか、あたしなどにわかりまして? 馬具といったって、それがどんなものだか?」
「だから、わたしにまかせなさいといったのに、わたしはよく知っているんですから。それなのにあなたは節約なさろうとなさった、つまり、高利で貸そうとしたわけです」
「たしかにまちがいでしたわ、ポルトスさま。きっと、つぐないをしてみせますわ」
「どういうふうにです?」と、銃士はたずねた。
「じつは、今夜うちの主人はショーヌ伯爵さまに呼ばれて、お宅にまいります。ご相談は、少なくとも二時間はかかるでしょう。ですから、いらっしゃってくださいませんか、二人だけですから、よく見積もりを立ててみましょう」
「そいつはいい! それでこそ、話がわかるというもんですよ、あなた!」
「許してくださいますの?」
「まあ、あとで」ポルトスはもったいぶっていった。
そして二人は、[では、今夜]と挨拶をかわして別れた。
[やれやれ! どうやらこれで、コクナール先生の金櫃《かねびつ》に近づくことができそうだわい]と、遠ざかりながら、ポルトスは思った。
三十五 あやめもわからぬ夜の闇
ポルトスにもダルタニャンにも、待ちに待ったその夜が、ついにやってきた。
ダルタニャンは九時ごろ、いつものようにミラディーの屋敷におもむいた。彼女は上機嫌で、いままでにない歓待ぶりだった。ガスコーニュ青年はひと目で、例の返事が手渡されたので、それでその効果があったのだと見抜いた。
ケティーが、氷菓子《ソルベ》を持ってはいってきた。女主人は彼女にまで愛想《あいそ》よく、やさしい微笑を見せていた。ところが娘のほうはすっかり沈んでいて、ミラディーの愛想のよさにも気づかないほどだった。
ダルタニャンは二人の女を見比べながら、どうしても自然がこの二人をつくるときに間違いをおかしたのだとしか思われなかった。自然は身分の高い婦人のほうに、利欲にいやしい下劣な魂を与え、かえって小間使いのほうに、公爵夫人の魂を与えたのだと。
十時になると、ミラディーは、急にそわそわしはじめた。ダルタニャンには、そのわけがよくわかっていた。時計を見て、立ったり坐ったり、ダルタニャンに、[あなたはたいそういい方だけれど、もしいま出て行ってくだされば、なおいい方だわよ]と言いたげな風情《ふぜい》を見せていた。
ダルタニャンは立ちあがって、帽子を手にとった。ミラディーは接吻をさせるために手をさし伸べたが、その手にぎゅっと力がはいったのを感じた。それは媚態《びたい》というよりも、帰るということに対する礼のつもりだということが、青年にはわかった。
「えらく、あの男にほれこんだものだな」そうつぶやいて、彼は外に出た。
今夜はケティーは、控えの間にも、廊下にも、車寄せのところにも、どこにもいなかった。ダルタニャンは一人で階段をあがり、彼女の部屋に行かねばならなかった。
ケティーは顔を両手で隠して、坐って泣いていた。
彼女はダルタニャンがはいってくる足音を聞いたが、顔をあげようとはしなかった。青年がそばに寄って両手をとると、わっとばかりに泣きだした。
ダルタニャンの察したとおり、ミラディーはあの手紙を手にすると、うれしさのあまり我を忘れて、なにもかも侍女にしゃべってしまった。そして、こんどこそ使いを果たした褒美《ほうび》にと、財布をくれた。
ケティーは部屋に帰ると、いきなりその財布を投げ捨てた。財布は口をあけたままで、中からこぼれた金貨が三、四枚、床の上に散らばっていた。
ダルタニャンに声をかけられて、娘は顔をあげた。その顔のいたいたしい変わり方に、さすがの彼も感動した。娘はだまって、懇願《こんがん》するかのように、両手を合わせて握りしめていた。いくらダルタニャンが非情であっても、こういう無言の悲しみを見ては、さすがに感動した。しかし彼は、自分がいったん立てた計画はなかなか捨てないような気性だし、とくに今夜の計画を変更する気はさらさらなかった。そこで彼はケティーに、どうしても考えなおす気持ちはないことを告げ、ただ自分のやろうとしていることは、単なる復讐ではないのだといって聞かせた。
ところでこの復讐は、おそらくミラディーが羞恥《しゅうち》から赤くなったその顔を恋人に見せたくなかったからだろう、自分の部屋はもとよりケティーの部屋の灯《あか》りまでもすっかり消させることにしたので、いっそう容易になった。ウァルド伯爵は夜が明ける前には帰るのだから、すべては闇の中で行なわれるわけだった。
まもなく、ミラディーが寝室にもどった音がした。ダルタニャンは、さっそく、衣裳だんすに飛びこんだ。もぐりこむと同時に、呼鈴《よびりん》が鳴った。
ケティーは主人の部屋にはいった。ドアはあけたままではなかったのだが、仕切り壁がうすいので、二人の女の話は、ほとんどそっくり聞こえた。
ミラディーは、喜びに酔いしれているようすだった。ウァルド伯との偽りの会った模様を、詳細にわたって繰り返して語らせていた。どういうふうにして手紙を受けとったとか、なんて答えたとか、そのときの彼の表情はどうだったとか、ほんとうに恋をしていたように見えたかとか。そういう質問に対して、かわいそうに平静をよそおわねばならないケティーは、消え入るような声で答えていた。
だが女主人のほうは、その悲しそうな声音《こわね》には気がつかないのだから、まったく幸福というものは、勝手きわまるものである。
とうとう、伯爵と話し合えるときが近づいてきたので、ミラディーは部屋の灯りをすっかり消させ、ケティーに部屋にさがって、ウァルド伯が見えたらすぐに案内するようにと命じた。
ケティーが待つ間もなかった。たんすの鍵穴《かぎあな》から部屋がすっかり暗くなったのを見すますと、ケティーが仕切りのドアをしめようとした瞬間、ダルタニャンは隠れ場所から飛びだした。
「あれはなんの音?」と、ミラディーがたずねた。
「わたしです」と、ダルタニャンは声を低めて、「わたしですよ、ウァルド伯爵です」
「まあ、なんてことなのだろう! 自分で約束した時間まで待てないなんて」と、ケティーがつぶやいた。
「まあ!」と、ミラディーは震え声で、「なぜ、おはいりになりませんの、伯爵さま。あたくしがお待ちしていることはごぞんじのくせに」
この呼び声に、ダルタニャンはそっとケティーを押しのけて、寝室へはいった。
もしも怒りと悲しみとが人の心を苦しめるとすれば、自分の名でない別の名によって、幸福な恋敵に向けられる恋の誓いをかわって受けるときの立場であろう。
ダルタニャンは、思いがけない苦しい気持ちを味わわされていた。嫉妬《しっと》で胸はかきむしられ、ちょうどいま、隣りの部屋で泣きくずれているケティーと同じような苦痛に責めさいなまれていたのだ。
「ねえ、伯爵さま」とミラディーは、いかにもやさしい声で、そっとその手で相手の手を握りしめながら、「お会いするたびに、あなたがあんなにやさしい眼であたくしをごらんになり、あんなにもやさしい言葉をかけてくださるので、あたくし、どんなにうれしかったことでしょう。あたくしだって、あなたをお慕いしているのですよ。あすは、あすはきっと、あたくしのことを思っていてくださる証拠の品をくださいませね。お忘れになるといけないから、さあ、これをさしあげましょう」
そういって彼女は指輪をはずすと、ダルタニャンの指にはめた。
彼はミラディーが、その指輪をはめているのを見たことがあった。切子《きりこ》に切ったダイヤに取りかこまれた、みごとなサファイヤである。
ダルタニャンは最初、それを返そうとしたが、ミラディーはなおも言いつづけた。
「いいえ、いけませんわ。あたしの恋のしるしに、この指輪をお持ちくださいますように」
そして、なおいっそう感動をこめて、「それに、そうしてくださることが、あなたがお考えになる以上に、あたくしのためになるのです」
[この女は、どこまでも謎に包まれている]と、彼は心の中でつぶやいた。このとき彼は、もう少しで、すべてをはっきりさせてやろうかと思った。自分がだれであるか、どういう復讐の目的でここへ来たか、ミラディーに言うために口をひらきかけた。だが、そのとき彼女は、言葉をつづけたのだ。
「お気の毒に! あのガスコーニュの人でなしが、もう少しのところであなたを亡《な》き者にしようとしたのですわ」
その人でなしとは、彼のことなのだ。
「ねえ、それで、傷はまだ痛みますの?」
「ええ、とても」と、どう答えていいかわからないので、ダルタニャンはこういった。
「ご安心なさいませ」と、彼女はささやいた。「あたしが復讐してさしあげますわ、思い切ってひどく!」
[おやおや、まだ打ち明ける時期ではないな]と、ダルタニャンは思った。
ダルタニャンがこの会話から立ち直って自分を取りもどすには、しばらく時間がかかった。ところで、いままで彼が抱いていた復讐の思いは、すっかり消えてしまったのである。この女は、信じられない力を、彼の上に及ぼしたのである。彼はミラディーを憎むと同時に熱愛していた。このような相反する感情が一つの心の中に巣くうとは、そしてこの二つの感情が一つになって、ふしぎな一種の悪魔的な恋情を作りあげるとは、まったく思いもよらぬことであった。
そうこうするうちに一時が鳴ってしまった。別れねばならなかった。これでミラディーと別れるとなると、ダルタニャンの心にはいよいよ別れのはげしい未練がつのり、お互いにかわす心のこもった別れの言葉の中に、来週また会う約束が取りきめられた。ケティーは、ダルタニャンが自分の部屋に立ち寄るだろうから、そのときに言葉をかけることもできるだろうと、心待ちに待っていた。ところがミラディーは彼を暗がりの中で自分で送りだし、階段の上でやっと別れたのだ。
翌朝ダルタニャンは、アトスの家に駆けつけた。じつに奇妙な出来ごとにかかわりあったので、アトスの意見が聞いてみたかったからである。彼はいっさいを語った。アトスは聞きながら、なんども眉をひそめた。
「どうもそのミラディーという女は、いやな女のようだな。それにしても、貴公がその女をだましたのは悪いよ。どっちみちこれで、きみは恐るべき敵をもったわけだ」
話をしながらアトスは、ダルタニャンの指にあるダイヤでかこまれたサファイヤの指輪をじっと見ていた。王妃からもらった指輪はだいじに宝石箱にしまって、その代わりにはめていたのである。
「この指輪を見ているんだね」と、ガスコーニュの青年は、こんな美しい贈りものを友人たちの前にひけらかすのが、得意なのだ。
「そうだ。おれはこれを見ていて、家宝の宝石のことを思いだしたのだ」
「どうだ、きれいだろう」
「すばらしい!」とアトスが答えた。「こんなに美しい光沢《こうたく》のあるサファイヤがこの世に二つもあるなんて、思ってもみなかったな。あのダイヤモンドと交換したのかい?」
「そうじゃない」と、ダルタニャンは答えた。「これは例のイギリスの女、というよりもフランス人だな、あの女の贈りものなんだ。べつに聞いてみたわけではないが、フランス生まれであることは確かだよ」
「この指輪は、ミラディーからもらったのかい?」とアトスは叫んだが、その声音《こわね》には、ただならぬ興奮が感じられた。
「そうだ、昨夜、あの人がおれにくれたんだ」
「ちょっと見せてくれ」
「そら」ダルタニャンは指からはずした。
それを見ているうちに、アトスの顔はまっさおになった。それから指輪を左手のくすり指にはめてみると、まるであつらえて作らせたもののように、ぴったりとはまった。怒りと復讐のきざしが、ふだん物静かなこの貴族の額にさした。
「まさか、あの女のと同じものではあるまい。だがどうしてこの指輪がミラディー・クラリック夫人の手にあったのだろうか? だが、こんなに似た宝石が二つあるということは、考えられないな」
「この指輪を知ってるのかい?」と、ダルタニャンがたずねた。
「見おぼえのあるような気がしたんだが、きっと、おれの思いちがいだろう」
そういって彼は指輪をダルタニャンに返したが、その眼はあい変わらず宝石から離れようとはしなかった。
「いいか、ダルタニャン」しばらくしてから彼はいった。「その指輪をはずすか、でなければ、石のほうを指の裏にまわしておいてくれ。そいつがおれに、ひどい残酷《ざんこく》な思い出を呼びおこすので、おれは貴公と話をする気力もなくなってしまうからな。ところで貴公は、なにかおれに相談しに来たんじゃなかったかな。なにかこれからしなければならんことで困っている、そういう話じゃなかったかな……だが、ちょっと待った……そのサファイヤをもう一度見せてくれ。おれが考えていたサファイヤには、ある事故で、面の一つに擦《す》り傷があるはずなんだ」
ダルタニャンはもう一度指輪を抜いて、アトスに渡した。アトスは、身ぶるいした。
「ほら見たまえ、ふしぎじゃないか?」
そういって彼は、そこについていた擦り傷を、ダルタニャンに見せた。
「だが、アトス、どうしてこのサファイヤは、貴公のものだったのだ?」
「母親からもらったのだ。母は祖母から受けついだのだ。だからさっきもいったように、これは古い宝石で……おれの家から他人の手に渡るものじゃないんだ」
「では貴公は……これを売ったのかな?」とダルタニャンは、ためらいながらたずねた。
「いや」と、アトスは奇妙な微笑を浮かべて答えた。「ある恋の一夜に、これをやってしまったんだ、ちょうど貴公がこれを手に入れたようにな」
こんどはダルタニャンが考えこんだ。ミラディーという女の心の中に、暗い底知れぬ深淵《しんえん》をのぞき見るような気がしたものだから。
彼は指輪を手にはめずにポケットにしまった。
「いいか、ダルタニャン」と、アトスは彼の手をとった。「おれがきみを好きなのはきみが知ってるとおりだ。おれにむすこがあったとしても、きみほどかわいくはあるまい。なあ、おれを信じて、あの女を思い切ってくれ。おれは会ったことはないが、直感で、そやつは救いがたい、なにか不吉なものを持っている女にちがいないな」
「きみの言うとおりだ」と、ダルタニャンはうなずいた。「だから、おれは手を切るよ。じつはあの女が、おれにも恐ろしくなってきた」
「その勇気があるかね?」
「勇気をだすよ、今からすぐにね」と、ダルタニャンは答えた。
「そうだ! それがいい」と、アトスはまるで父親のような愛情をこめて、ガスコーニュ青年の手を握りしめながら、「きみの一生に足を踏みこみかけたあの女が、いまわしい足跡を残さないことを祈るよ」と言うと、アトスはダルタニャンに会釈をした。しばらく一人で考えさせてくれ、といっているようだった。
ダルタニャンは家にもどると、ケティーが待っていた。眠らずに一夜を明かした苦悩のために、まるでひと月も高熱がつづいたあとのような変わり方だった。
彼女は主人から、にせのウァルド伯のもとへ使いにやらされたのだった。彼女の主人は恋に狂い、喜びに酔いしれて、伯爵が次に会う日をいつときめてくれるか、それが知りたかったのだ。
あわれなケティーはまっさおになって震えながら、ダルタニャンの返事を待っていた。
アトスは青年の上に、大きな影響力をもっていた。その友の忠告と、自分自身の心の叫びとによって、いまや彼は自尊心も傷つかず、復讐も果たされたとして、もう二度とミラディーとは会うまいと決心していたのである。彼は返事をするために筆をとると、次のように書いた。
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この次におめにかかることは、あてになさらないでください。健康を回復してからというもの、この種の用事に忙殺されていまして、なんとかして整理をいたさねばならなくなりました。あなたの番がまわって来たら、またおしらせいたしましょう。
いずれ拝眉《はいび》の上。
ウァルド伯爵
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サファイヤのことには、ひと言も触れなかった。ミラディーに対する武器として、それを取っておきたかったのだろうか? それとも、ざっくばらんにいって、身支度のための最後の財源として、それを残しておこうとしたのだろうか?
とにかく、ある時代の行為を、べつの時代の考え方で判断することは、まちがいであろう。今日なら紳士としては恥ずべき行為であると見なされることも、当時にあっては、ごく単純なあたりまえのことであって、良家の次男三男どもは恋人に養われるのが、ふつうだったのである。
ダルタニャンは手紙を開いたままで、ケティーに渡した。最初読んだとき、彼女はよく意味がわからなかったが、二度目に読んだあと、気も狂わんばかりに喜んだ。
ケティーは、この幸福が信じられなかった。で、ダルタニャンは、手紙に書いてあることを確かにそうだと、改めて口でいってやらねばならなかった。なにはともあれ、激しやすいミラディーのことだから、このような手紙を持っていくことは危険な目にあうのを覚悟せねばならないのに、娘は足どりも軽く、ロワイヤル広場へともどっていった。
もっとも気立てのいい女でも、こと恋敵の苦しみに対しては無慈悲なものである。
ミラディーもまた、持ってきたケティー同様にいそいそと、手紙の封を切った。が、最初のひと言を読んだだけで、顔色が変わった。そして手紙をもみくちゃにすると、目をぎらぎらさせてケティーのほうを見た。
「この手紙はなんです?」
「奥さまのお手紙の返事でございますが」身を震わせて、ケティーは答えた。
「まさか!」と、ミラディーは声をあらげた。「紳士ともあろうものが、婦人にこんな手紙を書くなんて考えられません」
それから、とつぜんぎくりとして、
「もしかして、あの人に知れたのでは……」そう言いかけて、口をつぐんだ。
歯ぎしりをしているその顔は、灰色になっていた。外の空気を吸おうとして窓のほうへ一歩踏みだしたが、手だけが前へ伸びて、足がそれについて行かず、そのまま椅子《いす》に倒れてしまった。
ケティーは気分がわるくなったのだと思って、駆けよって彼女の胸元を開いてやろうとした。ところが、ミラディーは勢いよく起きあがると、
「なにをするの? どうしてあたしのからだに触れるの?」と、なじった。
「奥さまがご気分がわるいのだと思いましたので、お手を貸そうと思ったものですから」と、侍女は主人の恐ろしい形相《ぎょうそう》にすっかりおびえながら答えた。
「気分がわるいって、このあたしが? そんな弱い女だと思わないでおくれ。人に侮辱されたって、気分などわるくなりゃしないよ、復讐してやるだけさ、おわかりかい!」
そしてケティーに手をふって出て行けと合図をした。
三十六 復讐の夢
その夜ミラディーは、ダルタニャンがいつものように来たら、すぐ通すようにと言いつけた。ところが、彼は来なかった。
翌日ケティーはまた青年の家にきて、前日の出来ごとをすっかり話した。ダルタニャンは、にっこり笑った。ミラディーの嫉妬《しっと》に狂った怒りこそ、彼の復讐だったのだ。夜になると、ミラディーは前夜にもましていらいらし、ガスコーニュの青年のことで、また同じ命令を繰り返した。だが前夜と同じように、彼女は待っていたがその甲斐《かい》はなかった。
その翌日、ケティーはダルタニャンのところへやってきたが、前の二日のようなうれしそうな元気な顔は見せず、それどころか、すっかりしおれきっていた。ダルタニャンはどうかしたのかと、かわいそうな娘にたずねた。娘は返事の代わりに懐中から一通の手紙を取りだして、それを彼に手渡した。
この手紙もミラディーの筆蹟だったが、こんどのは宛名がダルタニャンになっていて、ウァルド伯爵宛ではなかった。彼は封を切って、読みくだした。
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ダルタニャンさま。このようにお友だちをほったらかしておくのは、いけないことでございますわよ。それも、もうじき長いお別れになるというときにはね。義弟もあたくしも、昨日一昨日とお待ちしておりましたのに、おいでがなくて。今夜もまた同じことになるのでしょうか?
あなたのクラリック
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「ごくあたりまえのことさ」と、ダルタニャンはいった。「この手紙を待っていたんだ。ウァルド伯爵の信用が落ちると、こっちの信用がつくってものよ」
「あなたは、いらっしゃいますの?」と、ケティーがたずねた。
「いいかい、ケティー」と、ガスコーニュの青年は、アトスとした約束を破ることを、自分自身に対して弁解しようとして、こういった。「こんなにはっきりと招待されてるのに行かないのは、得策ではない。行かなければミラディーはなにかあるだろうと疑うだろうし、そうなるとあんな性質の女だから、どこまで復讐してくるかわからんからね」
「まあ、あなたってば!」と、ケティーは声をはりあげた。「いつでもなんとか理屈をつけておしまいになるのね。でも、やはり奥さまのご機嫌をとりにいらっしゃるのだわ。もしそうやってご自分のお名前で、ご自分のお顔で奥さまのお気に入ってしまうとすれば、いままでよりももっと悪いことになりそうですわ」
娘はなにか起こりそうだと、本能的に察したらしい。
ダルタニャンは彼女を安心させようとできるだけのことをして、ミラディーの誘惑には乗らないと約束した。彼はミラディーに、ご厚意を心から感謝し、お言葉どおりにいたしますと、口頭で返事をさせることにした。ミラディーのような目ききには、筆蹟をいつわることはとてもできそうもないと思ったので、手紙で返事を書く気にはなれなかった。
九時が鳴ったとき、彼はロワイヤル広場に着いた。控えの間で待っていた従僕が、話を知らされていたことは明らかだった。ダルタニャンが姿を見せて、奥さまにお会いできるかと聞くより早く、一人が取次ぎに走り去ったからである。
「お通しして」
ミラディーのその声は短かかったが、そのきんきんした声は、控えの間にいるダルタニャンの耳にまでとどいた。彼は案内された。
「どなたにもお会いしないから」と、ミラディーはいった。「どなたにもだよ、わかったね」
従僕は出て行った。
ダルタニャンは、好奇心の眼をミラディーに注いだ。青い顔をして、泣いたせいか不眠のためか、疲れきった目をしていた。灯火の数がわざといつもよりも減らしてあったが、それでもこの二日間にさいなまれた苦しみの跡を、この若い女は隠しきれなかったのだ。
彼はいつものような慇懃《いんぎん》な態度で近づいて行った。ミラディーはそれを迎えるのに精一杯の努力をしていたが、いくら愛想《あいそ》のいい笑顔をつくってみても、とり乱した表情を隠すことはできなかった。
ダルダニャンが気分はどうかとたずねると、「よくありませんの。たいへん悪いのです」と、答えた。
「では、こんな夜分にお邪魔するのはいけませんでしたね。おやすみにならなければならなかったのに。これで失礼いたしましょう」
「いいえ、いいんですよ。いらっしゃってくださいまし、ダルタニャンさま。いらっしゃってくださったほうが、気がまぎれますもの」
[ほっ、ほおう! この女がこんなに愛想《あいそ》がよかったのははじめてだ。うっかり気は許せんぞ]と、彼は考えた。
ミラディーはありったけの情のこもったようすを見せて、話を浮き立たせようとした。それにつれて、いっとき彼女から離れていた活気がもどり、その眼が輝きを増し、その頬が色づき、その唇が染まってきた。ダルタニャンは、またもや魔女シルセの姿を、彼女の中に見た。彼はすでに、その魔力に捉《とら》われていたのだ。消えたと思っていた恋情は、ただまどろんでいただけで、いままたその心の中によみがえったのだ。
ミラディーは、にっこり笑っていた。ダルタニャンはその微笑のために、地獄に落ちてもいいような気になった。一瞬彼は、自分の彼女に対してとった態度について、後悔に似たものを感じた。
ミラディーは、だんだんと打ちとけた態度になった。彼女はダルタニャンに向かって、恋人があるかどうかとたずねた。
「これはまた、なんとひどいことをおたずねになるのでしょう」と、できるだけ感傷的な表情で、「よくもそんな残酷な質問がおできになりますね。あなたにお会いしてからというもの、生きるのも苦しく、ただあなたによってのみ、あなたのためにのみ、生きながらえているというのに」
ミラディーは、あやしい微笑を浮かべた。
「では、そんなにあたしがお好きなの?」
「それを口にだして言わなければならないのでしょうか? あなたはそれに気づかないのでしょうか?」
「わかっています。でも、気位の高い心ほど、手に入れることはむずかしいものですわ」
「いいえ、むずかしいぐらいでは恐れませんよ。不可能だというなら、やむを得ませんが」
「ほんとうの恋なら、不可能ということはありませんわ」
「ありませんかね?」
「ありませんとも」と、ミラディーは答えた。
[おや、おや!]とダルタニャンは、ひそかに思った。[こりゃ、ようすが少し変わってきたぞ。浮気な女だな。ひょっとしたらこのおれに惚《ほ》れてきたのかな。ウァルド伯にまちがえてくれたあのサファイヤと同じやつを、もう一度このおれにくれる気かな?]と。
彼は、ぐっと椅子をミラディーのほうに近づけた。
「では、あなたのおっしゃる恋の証拠に、あなたはどんなことをしてくださいますの?」と、ミラディーはいった。
「しろとおっしゃれば、なんでもおっしゃることをいたします」
「なんでも?」
「ええ、なんでも」と、ダルタニャンは叫んだ。こういう約束なら、たいした危険を冒すことはあるまいと、あらかじめわかっていたからである。
「では、ちょっとご相談したいことがございますの」と、こんどはミラディーが、ダルタニャンのほうに自分の肱掛椅子《ひじかけいす》を近づけた。
「うかがいましょう、奥さま」
彼女はなおしばらくのあいだためらっていたが、やがて決心がついたものとみえて、こう切りだした。
「あたし、敵がありますの」
「へえ、あなたに!」と、さも驚いたというふうで、ダルタニャンは叫んだ。「まさか、そんなことが! あなたのようにきれいで、やさしい方に!」
「いくら憎んでもあきたりない敵ですもの」
「ほんとうですか?」
「あたしをとても恥ずかしめた男ですから、命をかけても戦わなければなりませんわ。あなたのお力添えを当てにしてもよくって?」
ダルタニャンは、この執念ぶかい女の相手がだれであるか、すぐにわかった。
「かまいませんとも」そして大げさな口ぶりで、「わたしの腕も、いや、わたしの命も、わたしの恋同様に、あなたのものです」
「では」と、ミラディーはいった。「あなたは愛情も勇気もおありなのだから、それでは……」といって、彼女は、言葉を切った。
「それでは」と、ダルタニャンはうながした。
「では」と、ちょっと沈黙したのち、彼女は言いつづけた。「もう今日からは、不可能などとはおっしゃらないで」
「そんなにわたしをうれしがらせないでください」と叫んで、ダルタニャンは急いでひざまずき、さしのべられた手に接吻の雨をそそいだ。
[あの憎らしいウァルド伯に復讐してちょうだい]と、ミラディーは口の中でつぶやいた。そしてさらにそっと、[それがすんだら、あんたを始末してやるわ。人一倍の愚か者め、剣として使うだけの男さ]
[おれをさんざん愚弄《ぐろう》したあとで、こんどはそっちからおれの腕の中に飛びこんで来るがいい、この猫っかぶりの恐ろしい女め! いずれあとで、おれの手で殺させようとした男といっしょに思うぞんぶん笑ってやろう]と、ダルタニャンのほうでも、心の中でつぶやいていた。ダルタニャンは顔をあげた。
「さあ、なんでもお言いつけになってください」
「あたしの言うことがおわかりになりまして、ダルタニャンさま」と、ミラディーがたずねた。
「あなたの目を見ただけで、わかるつもりです」
「では、あたしのために、噂《うわさ》に高いあなたの腕を使ってくださいまし」
「ええ、すぐにでも」
「でも、あたし、そんなことをお願いして、どうやったらお礼ができるかしら。恋をしている人ってどういうものか、あたし知っていますわ。ただでは、なんにもしてくれないんじゃないかしら」
「わたしが望むただ一つの返事は、あなたもごぞんじのはずです。あなたにも、そしてわたしにもふさわしい唯一のものです」
そういってダルタニャンは、ミラディーのからだをそっと引きよせた。
彼女は、ほとんど逆らおうとしなかった。
「まあ、抜けめのない人ね」と、ミラディーは笑いながらいった。
「ああ」と、ダルタニャンは声をあげた。女がうまく火をつけた情熱の焔《ほのお》で、彼は燃え立った。
「この幸福がまるで夢のようで、今にも消えてなくなりはしまいかとそれが心配なので、ですから早く現実のものにしたいと、それでこんなに気がせくのです」
「それほど幸福だとお思いなら、それに値《あた》いするだけのことをしてちょうだい!」
「なんでもおっしゃるままに」
「ほんとうかしら?」最後にもう一度、彼女は疑ってみせた。
「あなたの美しい眼に涙を流させた、その憎むべき男の名をいってください」
「あたしが泣いたなんて、だれが言いました?」
「でも、そうみえましたので……」
「あたしのような女は、涙など流しませんよ」と、ミラディーは、きっぱりといった。
「それは結構です! さあ、その男の名は?」
「その名前はあたしの秘密なんですけれども」
「でも、その名前を知らないことには」
「それはそうだわね。あたしがどんなにあなたを信用しているかがわかるわ」
「わたしは、喜びで一杯です。なんていう名前なんです?」
「あなたはごぞんじよ」
「ほんとうですか?」
「ええ」
「わたしの友だちの一人じゃないでしょうね」
ダルタニャンは、知らないと相手に思わせるために躊躇《ちゅうちょ》するようなふりをしてみせた。
「もしあなたのお友だちだったら、躊躇なさるの?」
そういったミラディーの眼にさっと威嚇《いかく》するような光が走った。
「とんでもない、たとえ兄弟であっても」と、ダルタニャンは熱に浮かされたように口走った。
わがガスコーニュ青年は、たとえ言いすぎても危険はなかった。なにしろ、行きつく先は知っていたからだった。
「あたし、あなたのそうやってあたしのために尽くしてくださるお気持ちが好きですわ」
「なんだ! わたしのその気持ちだけしか好《す》いてはくださらないのですか?」
「いいえ、あなたを、あなたご自身が好きです」そういって彼女は、彼の手をとった。
ぎゅっと締めつけられて、ダルタニャンはぞっとした。まるでミラディーの身を焼いている熱気がその接触により、そのまま彼につたわってくるようだった。
「わたしを愛してくださる、あなたが!」と、彼は叫んだ。「ああ、もしそれがほんとうなら、わたしは気が狂ってしまうかもしれない」
こう言うと、彼は両腕で彼女を抱きかかえた。彼女は彼の口づけを避けようとはしなかったが、自分のほうから返そうともしなかった。
彼女の唇《くちびる》は冷たかった。ダルタニャンは、まるで立像を抱いているような気がした。
それでもやはり、彼は恋に感動し、歓喜に酔いしれた。そしてミラディーの愛情を、ほんとうに信じているような気持ちになった。まるでウァルド伯がほんとうに罪ぶかい人間であると思いこんでいた。今もし伯爵が彼の掌中にあったら、あるいは殺してしまうかもしれなかった。
ミラディーは、頃はよしとばかり、
「その人の名は……」と、こんどは自分のほうから言いかけた。
「知っています、ウァルド伯!」と、ダルタニャンは叫んだ。
「どうしてごぞんじなのです?」と、ミラディーは彼の両手をつかんで、その心の底までも読みとろうとした。ダルタニャンは、つい夢中になりすぎて、失敗したことに気づいた。
「どうして、ねえ、おっしゃって! どうしてごぞんじなの?」彼女はしつこく問いつめた。
「どうしてですって?」
「そうよ」
「じつは昨日、あるサロンでウァルド伯が、あなたからもらったという指輪を見せてくれましたのでね」
「憎らしいやつ!」と、ミラディーは叫んだ。
この罵声《ばせい》はダルタニャンの心の底まで響きわたった。
「それで」と、彼女は、なおも追求した。
「それで、その憎らしい男に、わたしが復讐してやりましょう」と、彼はドン・ジャフェ・ダルメニー(スカロン作の同名の喜劇中の人物)に自分をなぞらえて、こう言ってのけた。
「ありがとう、あなたは勇敢だわ! それで、いつ復讐してくださるの?」
「あなたがお望みなら、さっそく明日にも」
ミラディーは[今すぐに]と叫びそうになったが、こんなに急いではダルタニャンの目にあまりにはしたなく見られるだろうと思いなおした。
それに彼女には、いろいろと考えておかねばならぬ心の準備があった。この男が介添人《かいぞえにん》の前で伯爵に弁明を求めたりなどしないように、いろいろと注意を与えておかねばならなかったのである。ところが、それもダルタニャンのひと言できまってしまった。
「明日にします。あなたの恥辱をそそぐことができるか、わたしが死ぬかです」
「いいえ! あなたは復讐してくださるわ。死ぬなんてことはありませんとも。相手は臆病者ですもの」
「婦人を相手では臆病な男かもしれませんが、男が相手だと、なかなかどうして。わたしも、あの男のことは、いくらか知っています」
「でも、あなたがあの男と戦われたときには、あなたは勝負運が強かったのではなくて?」
「勝負運なんて、娼婦みたいなものです。昨日はよくっても、明日は裏切られますからね」
「それは、いまになってあなたは尻ごみなさるっていう意味?」
「いや、尻ごみなんかしませんよ、けっして。でも、死んでしまうかもわからない者には、単に希望だけではなくて、せめて少しでもましなものを与えてくださってもいいのではないでしょうか?」
ミラディーは、[なんだ、それだけのこと?]といった意味のまなざしを送ったが、それにつづいて、そのまなざしにはっきりした説明を与えた。
「おっしゃるとおりだわ」と、やさしくいった。
「ああ、あなたはやさしいお方だ!」と、青年はいった。
「では、これで話はきまりましたわね」
「わたしのお願いを除いては」
「でも、あたしの愛情を信頼してくださいと申しあげてるでしょう?」
「明日を待てない身なんですよ」
「静かに。弟の足音ですわ。あなたがここにいるのはまずいですわ」
彼女は呼鈴を鳴らした。ケティーが現われた。
「こちらから出ていらっしゃい」と、彼女は小さな忍び戸をあけて、「十一時に、もう一度おいでくださいな。お話をきめてしまいましょう。ケティーがご案内しますから」
この言葉を聞いて、あわれな娘は、その場であおむけに倒れてしまいそうな気がした。
「おや、どうしたのそんなところで? 像のようにじっとしたままで。さあ、この方をお送りしなさい。それから、今夜、十一時って、わかってるわね!」
[彼女の逢いびきは十一時ときまっているんだな、慣例になっているんだな]と、ダルタニャンは思った。ミラディーが手をさしだした。その手に彼はやさしく接吻をした。
[さあ、ぼんやりしてはおられんぞ。たしかにあの女は一筋縄《ひとすじなわ》ではゆかぬ悪党だ。気をつけにゃいかん]
ケティーのうらみ言葉は上《うわ》の空で聞き流して、彼はこう自分に言いきかせながら引きあげて行った。
三十七 ミラディーの秘密
ダルタニャンはケティーの懇望をふりきって、すぐに彼女の部屋には行かずに屋敷を出た。これには、二つの理由があった。一つは、こうすれば彼女の愚痴や非難や嘆願を聞かないですんだし、もう一つの理由は、すこし自分の気持ちを考えてみたかったし、できればあの女の考えも読みとってやろうと思ったからである。
なによりもはっきりしていることは、ダルタニャンが気も狂わんばかりにミラディーに恋情を示しているのに、ミラディーのほうはさっぱり彼を愛していないということだった。ダルタニャンはふと、一番いいことはこのまま家に帰ってしまい、ミラディーに手紙で、自分とウァルド伯は同一人であるから、ウァルド伯を殺すことは自分を殺すことなので、引き受けるわけにはいかないと書いてやることだと思った。しかし彼自身も烈しい復讐の欲望に駆られており、こんどは自分の名を正々堂々と名のって、あの女を手に入れたいものだと思った。この復讐にはなにか楽しみがあって、彼はこれを断念したくなかったのだ。
彼は鎧戸《よろいど》をとおして見えるミラディーの部屋の灯りを十歩ごとに振り返って見ながら、ロワイヤル広場を五、六回まわった。あきらかに彼女は、この前ほど寝室にもどるのを急いではいないようだった。
ついに、その灯りも消えた。
灯りが消えるとともに、ダルタニャンの心の中の最後のためらいも消えた。最初の夜の記憶を思い浮かべると、彼は胸が鼓動し、頭がかっかと燃えて、そのまま屋敷にもどり、ケティーの部屋に飛びこんだ。
若い娘はまっ青になり、手足をぶるぶる震わせて、恋する男を引きとめようとした。が、聞き耳をたてていたミラディーがダルタニャンのはいってきた物音を聞きつけて、自分でドアを開くと、声をかけた。
「おはいりなさいな」
その信じられないほどの慎しみのなさ、奇怪なほどの大胆さに、ダルタニャンは見たり聞いたりするものがそのまま信じられないほどだった。まるで夢の中でおこなわれているような幻想的な事件に、ひきずりこまれていくような思いだった。
彼は磁石《じしゃく》に吸いつけられる鉄片のように、ミラディーのほうへ歩いていった。
ドアが、彼のうしろでぱたりとしまった。
ケティーはその入口に走り寄った。嫉妬《しっと》、怒り、傷つけられた誇り、恋する女性の心を乱すあらゆる感情に駆り立てられて、彼女はなにもかもしゃべってしまおうかと思った。だが、こんな悪だくみに自分が手を貸したことが判明すれば、身の破滅だった。それよりも、そんなことをしたら、ダルタニャンの身があやうかった。この恋人を思う心が、またしても彼女に最後の犠牲をしいたのだった。
ダルタニャンのほうは、これでいよいよすべての思いが叶《かな》ったわけだ。相手の女が愛しているのはもはや自分の恋敵ではなくて、彼女が愛しているそぶりを見せているのは、まさしくこの自分なのだった。もっとも秘められた一つの声が彼の心の奥底で、彼はあの男を殺すまで愛撫を受けている一つの復讐の道具にすぎないのだとささやいてはいた。だが自尊心が、うぬぼれ心が、逆上した考えが、その声を押しつぶし、そのささやきを押さえつけていた。それにわがガスコーニュ青年は、例の持ちまえの自信から、自分をウァルド伯と比較してみて、結局のところ、自分だって愛されないということはないはずだと、考えていたのだ。
そこで彼は、瞬間の官能の喜びに、すっかり身をゆだねてしまった。ミラディーはもはや、あれほど彼に恐怖を与えた恐ろしい意図をもった女ではなく、彼女自身もその恋にすべてを打ちこんでいる烈しい情熱をもった女のように思われた。
こうして、約二時間がすぎた。そのうちに、二人の恋人同志の興奮はおさまった。われを忘れるにしても、ミラディーはダルタニャンとは動機そのものがちがうから、先に現実にもどった。そして青年にあすウァルド伯に出会うための方策は立っているのかとたずねた。
ところがダルタニャンは、考えがまるで別のほうに向かっていたから、つい我を忘れて、もう決闘のことなどを考える時間ではないと答えてしまった。
自分の心を占めている唯一の関心事をこうも冷淡に扱われたので、ミラディーはびっくりして、ますます急に問いつめてきた。
ダルタニャンは、どうせ出来もしない決闘のことなどは本気になって考えていなかったのだから、なんとかして話題をそらそうとしたが、なかなかそうはいかなかった。ミラディーはあらかじめその執拗《しつよう》な気力とその鉄のような意志とによって輪郭《りんかく》をきめておいた話の範囲内に彼を閉じこめて、自由に話させないのだ。
ダルタニャンは彼女に、ウァルド伯を許してやり、そんな残酷な計画はやめたほうがいいと勧《すす》めることが、たいへん気のきいたことだと思った。
ところが、そのことを言いはじめると、若い女は身を震わせて、からだをひいた。
「あなたは、こわくなったの?」彼女の鋭いあざけりの声が、闇《やみ》の中であやしく響いた。
「まさか!」と、ダルタニャンは答えた。「でも、もしウァルド伯に、あなたの考えているほどの罪がなかったとしたら?」
「とにかく、あの人はあたしを裏切ったのです。あたしを裏切ったからには、死ぬのが当然です」と、ミラディーは、おごそかな声でいった。
「では、生かしてはおきますまい、あなたがそうおっしゃるからには」と、ダルタニャンが断固とした口調でいったので、彼女の目には、それがあくまでも献身を示した証拠に見えた。
すると彼女は、彼に寄り添った。
その夜の時間がミラディーにとってどのように過ぎ去ったか、それはわからない。ただダルタニャンがまだ二時間ほどたったかと思ったときには、すでに鎧戸《よろいど》の透き間から日の光がさしはじめ、やがて部屋の中が明るくなった。
ダルタニャンが帰ろうとするのを見ると、ミラディーはウァルド伯に対する復讐の約束を、改めて念を押した。
「覚悟しています。でも、その前に、たしかめておきたいことがあるのですが」とダルタニャンはいった。
「どういうことですの?」と、彼女はたずねた。
「あなたがわたしを愛しているということです」
「その証拠は、もうお見せしたはずじゃありませんか?」
「そうです。ですからわたしは、身も心もあなたに捧げようというんです」
「ありがとう、たのもしいわ、あなたっていう方は! でも、こうしてあたしが愛の証拠を示したからには、こんどはあなたのほうがその証拠を見せてくださる番ですわね」
「もちろんそうです。でも、もしあなたがわたしを愛してくださるのでしたら」と、彼はいった。「わたしのことを少しは心配してくださってもいいと思うのですが」
「なにを心配することがありますの?」
「わたしだって、ひどい怪我《けが》をするかもしれないし、いや、殺されるかもしれないんですよ」
「そんなことがあるものですか。あなたは勇ましい方で、あれほどの剣の使い手でいらっしゃるのに」
「決闘なんかしなくても、それと同じような復讐ができる方法があるのに、あなたはそれを執《と》ろうとはなさらない」と、ダルタニャンは言葉をつづけた。
彼女はだまって、恋人の顔を見つめた。朝のほの白い光の中で、彼女の澄んだ瞳《ひとみ》が、ふしぎに不吉な表情をもっていた。
「やっぱりそうなのね」と、彼女はいった。「いまになってあなたは躊躇《ちゅうちょ》しているのね」
「いや、躊躇なんかはしていませんよ。ただ、あなたがあのウァルド伯をもう愛していないとすれば、わたしはあの人がほんとうにかわいそうになってくるのです。あなたの愛を失ったことで、あの男はじゅうぶんに罰を受けたんですから、これ以上にほかの罰を受ける必要はないように思われるのです」
「わたしがあの人を愛したなどと、だれが言いまして?」と、ミラディーはたずねた。
「うぬぼれて言うのではありませんが、少なくとも今のあなたは、ほかの男を愛していると思ってもいいのでしょう」と、青年は情のこもった口調で、「ですから、なんども言うようですが、わたしは伯爵に同情するのです」
「あなたが?」と、ミラディーはきいた。
「そうですよ、わたしがです」
「なぜ、あなたが同情するの?」
「なぜなら、わたしだけが知ってるので……」
「なにをです?」
「つまり、あの人はあなたに対して、そう思われているほど罪を犯してはいない、いや、罪を犯したことはないといったほうがいいでしょう」
「ほんとうなの?」と、ミラディーは気がかりなようすでたずねた。「くわしく話してちょうだい。あなたのおっしゃることが、あたしにはよくわかりませんもの」
そういって彼女はダルタニャンに抱かれたままで彼の顔をじっと見つめたが、その眼はしだいに熱をおびてきた。
「そうだ、わたしだって紳士だ、わたしだって!」
ダルタニャンは、けりをつけようと決心して、「あなたの愛はわたしのものなのだから、わたしのものだということは確かなのだから……ねえ、そう考えてもいいのでしょう?……」
「ええ、すっかりよ、それで?」
「では、いいですか! わたしはもう夢中なんです。ただ一つだけ告白しなければならないことがあるので、それが苦しくて」
「告白ですって?」
「もしあなたの愛を疑っていれば、こんな告白はできないでしょう。でも、あなたはわたしを愛してくださるんだから、ねえ、そうですね、愛してくださるんですね?」
「もちろんですよ」
「では、あなたを恋するあまりに、もしわたしがあなたに対して罪を犯したとしても、許してくださいますね」
「たぶんね!」
ダルタニャンはできるかぎりの微笑をたたえて、その唇をミラディーの唇に近づけようとした。だが彼女は、それを遠ざけた。
「その告白って、どんなことです?」と、青くなって彼女はいった。
「あなたは先週の木曜日に、この部屋でウァルド伯とお会いになりましたね、そうでしょう?」
「あたしがですって、いいえ! そんなことありません」
そう答えるミラディーの声もしっかりしていたし、表情も変わらなかったので、もし彼があれほどはっきりした確証をつかんでいないとしたら、そんなことはなかったのだと思ったにちがいなかった。
「嘘をいってはいけません。そんなことをしたって無駄なんですから」と、ダルタニャンは微笑しながらいった。
「なんですって? いってください! 心配で息がとまりそうですわ!」
「いや、ご安心ください。あなたはわたしに対して少しも悪いことをしていないのだから。それに、わたしはすでにあなたを許しているのだから!」
「それで、それからあとは?」
「ウァルド伯は、なにもうぬぼれることはないんですよ」
「なぜですの? あなたご自身がおっしゃったではありませんか、あの指輪が……」
「あの指輪を持っているのは、じつはわたしなのです。木曜日のウァルド伯と、きょうのこのダルタニャンとは、同じ人間なのですよ」
うかつにも彼は、羞恥心《しゅうちしん》のまじった驚きや、いずれは涙でおさまってしまう軽い腹立ちとで、ことがすむものと思っていた。ところが、それは彼のまちがいだった。しかもそのまちがいは、すぐにわかった。
まっ青なすさまじい形相《ぎょうそう》をして、ミラディーは立ちあがった。そしてはげしくダルタニャンの胸をつくと、寝台から飛びだした。
もう、ほとんど夜は明けていた。
ダルタニャンは許しをこうつもりで、彼女の薄いインド更紗《さらさ》の部屋着をつかんだ。が、彼女は思いきり力をだして逃げようとした瞬間、更紗が裂けて、彼女の肩があらわに出た。なんと、そのまるみをおびた白い美しい肩の上に、ダルタニャンはゆりの花の形をした、刑吏の手で焼きつけられた、あの永久に消えることのない刻印《こくいん》を見たのだった。
「これは!」と思わず叫んで、部屋着を手離した。
彼は口もきけず、凍《こお》りついたように、寝台の上にじっとしたままだった。が、ミラディーは、ダルタニャンの恐怖のさまを見て、これでことが露見《ろけん》したと覚《さと》った。たしかに、この男は、すっかり見てしまったのだ。いまこそこの青年は、彼以外にはだれも知らない恐ろしい秘密を知ったのだ。
彼女はふりむいた。その顔は、もはや怒った女のようではなくて、傷ついた牝豹《めひょう》そのものだった。
「ああ! こいつめ! 卑怯《ひきょう》にもわたしを裏切ったうえに、わたしの秘密までも知った。生かしてはおけない!」
そして彼女は、鏡台の上におかれた寄木細工《よせぎざいく》の小箱のところに駆けよると、怒りに震える手でそれを開き、金の柄の鋭い薄刃の短剣をつかんで、半裸体のダルタニャンに向かって飛びかかってきた。
いかに勇猛果敢な青年であるとはいえ、ぐっと見開いた瞳孔《どうこう》、青ざめた頬《ほお》、血のにじんだ唇をした狂乱の姿を目のあたりに見ては、鳥肌《とりはだ》の立つ思いだった。まるで蛇《へび》にでも追われたように壁ぎわまでたじたじと退くと、汗ばんだ手で剣をつかみ、さっと鞘《さや》を抜きはらった。しかしミラディーは、剣など恐れるようすもみせず、寝台によじのぼって、短剣を振りかざして斬《き》りつけようとした。そして相手の剣先が喉元《のどもと》に迫るまでは、その手をとめなかった。
するとこんどは、剣を手でつかもうとした。ダルタニャンはその手をかわし、剣先を目や喉元のあたりへちらつかせながら寝台からすべり降りると、ケティーの部屋に通じるドアに逃げる場を求めようとした。
ミラディーはそのあいだも、恐ろしい呻《うめ》き声をあげながら、夢中になって飛びかかってきた。
そのうちに格好が決闘のようになったので、ダルタニャンは少しずつ立ち直ってきた。
「さあ、さあ、美しい奥さま! お願いだから、気をしずめてください。さもないと、もう一方の肩に、またゆりの花をつけてあげますぞ」
「この恥知らず! 悪党め」と、ミラディーはわめきたてた。
しかしながらダルタニャンは、あい変わらずドアのほうをうかがいながら、防御の姿勢をとっていた。
彼女は相手に迫ろうとして家具をひっくり返し、彼のほうは身を守ろうとして家具を盾《たて》にとる、この物音を聞きつけて、ケティーがドアをあけた。彼はドアに近づくように絶えずそこを狙っていたので、このときはもう三歩ばかりのところまで来ていた。
そこで彼はひと飛びでミラディーの部屋から侍女の部屋へ飛びこみ、すばやくドアをしめると、からだごともたれかかった。そのあいだにケティーが、挿《さ》し錠《じょう》をおろした。
するとミラディーは、女と思われないほどの力で、向こう側から戸枠《とわく》を破ろうと押した。だが、それがだめだと知ると、短剣でドアの板を滅茶滅茶に突きはじめ、ときどきその切っ先が板を突き通すのが見えるほどだった。
突き刺すたびに、おそろしい呪いの言葉が聞こえた。
「さあ、早く、早く、ケティー」と、ダルタニャンは、錠がかかると低声でうながした。「わたしを早く、この屋敷から出してくれ。あの女は下男に命じて、わたしを殺させるだろうからな」
「でも、その格好では、外に出られませんわ。まるで裸同然ですもの」
「なるほど」と、彼ははじめて自分の姿に気がついた。「まったくだ。なんでもいいから着せてくれ。大急ぎだ。なにしろ死ぬか生きるか、命がけなんだからね、わかるだろう?」
ケティーは、わかりすぎるほどわかっていた。すぐに花模様の服を着せ、大きな帽子をかぶせ、短いマントをかけてやった。それから素足に上靴をはかせると、その手を引いて階段を降りた。
やっと間に合った。すでにミラディーは呼鈴《よびりん》を鳴らして、屋敷じゅうの者を起こしてしまっていた。ケティーの声で門番が開門のためのひもをひっぱった。まさにそのとき、ミラディーがしどけない姿を窓からだして叫んだ。
「あけてはいけない!」
三十八 いかにしてアトスが居ながらにして身支度をととのえたか
ミラディーがなおもはげしい身ぶりでおどかしているのを尻目に、青年は逃げ去った。彼の姿が見えなくなると、彼女は部屋の中で、気を失って倒れた。
ダルタニャンは気が転倒していたので、ケティーがどうなったかを忘れて、パリの半分ほどを駆け抜けると、アトスの家の前に来て、やっととまった。錯乱した頭、いよいよつのる恐怖感、追いかけて来る警備隊の叫び声、こんなに早い時刻にもう仕事に出かける通行人の嘲罵《ちょうば》、そういったものが、いっそう彼の足を早めさせたのだった。
彼は中庭を突っきり、三階のアトスの部屋まで駆けあがると、入口の戸を割れんばかりに叩《たた》いた。グリモーが、寝ぼけ眼《まなこ》で戸をあけた。ダルタニャンが勢いよく飛びこんだので、あやうく彼はひっくり返るところだった。ふだん無口のこの男が、このときばかりは先に声をかけた。
「こりゃ、こりゃ、どうしたんだ、あばずれ女《め》? いったい、なんの用で、そんな格好で?」
ダルタニャンは帽子をずりあげ、マントの下から両手をだした。口ひげと抜身の剣を見て、従僕は相手が男だとわかった。
すると、こんどは暗殺者ではないかと思った。
「助けてくれ! 人殺しだ! 助けてくれ」と、彼はわめき立てた。
「だまらんか、こいつ! おれはダルタニャンだ。わからんか? 主人はどこにいる?」
「あなたがダルタニャンさまですって! まさか」びっくりしてグリモーは叫んだ。
そこへ、部屋者のままで、アトスが現われた。
「グリモー、おまえ、しゃべっていたようだな」
「ああ、だんなさま! これ、このとおり……」
「だまっていろ!」
そこでグリモーは、指でダルタニャンをさし示した。
アトスは、それが友人だとはわかったが、さすがに冷静な彼も、この奇妙な仮装《かそう》ぶりを見ては、声をあげて笑いだした。帽子は横っちょに、スカートはだらりと靴の上までずり落ちているし、そして腕をまくりあげ、興奮のあまり口ひげをぴんと立てている。
「笑うなよ」とダルタニャンは叫んだ。「どうか笑わんでくれ。まったく、笑うどころの話じゃないんだ」
その言い方があまりに真《しん》に迫っていて、恐怖の色がありありと出ているので、アトスはすぐにその手をつかんで、
「けがでもしたのか、顔がまっさおだぞ!」と叫んだ。
「そうじゃない。だが、恐ろしい目に会ったんだ。きみは一人かい、アトス?」
「もちろんそうさ。こんな時刻にだれが来ると思うかい?」
「ああ、そうだな」
ダルタニャンは、すぐにアトスの部屋に飛びこんだ。
「さあ、話した!」アトスはドアをしめて、だれもこないように鍵《かぎ》をかけた。「陛下でもなくなられたのか、それとも枢機卿でもやっつけたのか? えらく取り乱しているな。さあ、早く話してくれ。こっちが心配で死にそうだよ」
「いいかい、アトス」と、ダルタニャンは女ものの服をぬいで、下着一枚になると、「これから聞かせる話はじつに奇怪な、信じられないような話なんだから、そのつもりで聞いてもらいたい」
「とにかく、おれの部屋着を着てくれ」と、銃士は友にいった。
ダルタニャンは部屋着の袖《そで》を左右まちがえるほど、まだあわてていた。
「それで、どうした?」と、アトスがうながした。
「じつは」と、ダルタニャンはアトスの耳元にかがみこみ、声を低めて、「ミラディーの肩には、ゆりの花の刻印があったのだ」
「ああ!」と銃士は胸に銃弾を受けたように叫んだ。
「おい!」と、ダルタニャンはきいた。「そのもう一人の女は、たしかに死んだのかね?」
「もう一人だって?」と、アトスの声は、聞きとれないほど低かった。
「そうさ、きみがいつかアミヤンで話した女だよ」
アトスは呻《うめ》くような声をあげると、頭を両手で抱えこんでしまった。
「こっちの女は、年は二十六がらみから、八だが」
「金髪だといったね?」
「そうだ」
「目は澄んで、めずらしいほど透きとおった青い目で、眉もまつ毛も黒いかな?」
「そうだ」
「背が高くて、すらりとしていて、そして左の犬歯のそばの歯が一本抜けている」
「そうだ」
「ゆりの花の刻印は小さくて焦《こ》げ茶色で、粉を塗りつけているので消えかかってはいるが」
「そのとおり」
「だが、貴公の女は、イギリス人だというではないか!」
「ミラディーという名だが、フランス人かもしれない。それにウィンター卿といったって、義理の弟にすぎないし」
「会ってみたいな、ダルタニャン」
「気をつけたほうがいいぞ、アトス。きみはあの女を殺そうとしたんだ。お返しはちゃんとする女だぜ。容赦《ようしゃ》するような女じゃない」
「あの女には、なにも言うことはできないはずだよ。そんなことをすれば、自分の秘密を白状するようなものだからね」
「いや、どんなことだってやりかねない女だよ。あの女が、怒り狂ったところを見たことがあるかい?」
「ないね」
「まるで虎《とら》だ。いや、牝豹《めひょう》だ。あの女の復讐をわれわれ二人の上に招きよせたかと思うと、恐ろしくて!」
ダルタニャンは、ミラディーが気ちがいのように怒って、殺すといって脅迫したことなどをそっくり話して聞かせた。
「なるほど。おれだって、気まぐれな愛情のために、命をかけることだってあろうね。さいわい、われわれは明後日にはパリを発つ。たぶん、ラ・ロシェルに行くのだろう。とにかく、行ってしまえばね……」
「あの女は、きみだと知ったら、ただではおかないぞ、だから、あの女に憎まれるのは、このおれ一人でたくさんだ」
「おい、おれはあの女に殺されたって、かまやしないんだ。おれが命をおしんでいると、まさか貴公は思うまいな」
「これには、なにか恐ろしい秘密が隠されているんだよ。アトス、あの女は枢機卿の間諜《スパイ》なんだ。たしかにそうだよ」
「だとすれば、きみも用心しなければいけない。もし枢機卿がロンドンの件で、きみのやったことに感服していないとすれば、きっと、おそろしく憎んでいるにちがいない。といって、きみを公然と罰するわけにはいかん。だが、やはり怨みは晴らさねばならぬ。そういうわけで相手が枢機卿とあらば、よほど用心する必要がある。外出するのも、一人じゃあぶない。物を食うのも、注意が肝心。とにかく、あらゆるものに、自分の影にも気をつけなければ」
「さいわい、その用心は明後日まででいいんだ。ひとたび戦場へおもむけば、もう敵は男ばかりなんだからな」
「まずさしあたり」と、アトスはいった。「おれは誓いを立てた蟄居《ちっきょ》生活を破って、どこへでも貴公について行くことにしよう。きみはフォソワイユール街に帰らねばなるまい。それなら、おれが送ってゆく」
「いくら近いところでも、この姿ではまさか帰れないが」
「そりゃ、そうだ」と、アトスは呼鈴《よびりん》を鳴らした。
グリモーがはいってきた。
アトスは手ぶりで、ダルタニャンの家まで行って、衣服を持ってこいと命じた。
グリモーはわかったという合図をして、出て行った。
「これでは、われわれは一向に身支度のほうははかどらんな」とアトスがいった。「貴公は身につけるものはすべてミラディーのところへおいて来たんたろう。あのミラディーが送り返してくれるはずはないからな。まあ、さいわい、貴公にはそのサファイヤがあるが」
「サファイヤは貴公のものだよ、アトス。あれは貴公の家に代々つたわる指輪だっていったじゃないか?」
「そうだ、父の言うところによると、二千エキュで買ったのだそうだ。そして婚礼のときに母に贈られたものだということだ。たいしたものだよ。わたしは、母からもらった。それを愚かにもわたしは、形身としてだいじにしまっておく代わりに、あの憎むべき女にやってしまったのだ」
「だから、この指輪は、きみに返すよ。きみがだいじにしとくものだからね」
「おれにその指輪を返すと! 一度あの恥ずべき女の手にはめたものをか! とんでもないことだ。この指輪はもう汚れているんだよ、ダルタニャン」
「そんなら、売ってしまえばいい」
「母の形見の指輪を売るなんて! それこそ冒涜《ぼうとく》というものだ」
「それじゃ質に入れるんだな。千エキュにはなるよ。それだけあれば、今のきみにはじゅうぶんだろう。こんど金がはいったら、すぐに受けだせばいい。そうすれば、とにかく一度質屋の手を経《へ》たわけだから、汚れはきよめられたことになるしね」
アトスは微笑した。
「まったく、きみはいい友だよ、ダルタニャン。いつも変わらぬ快活さで、ふかい悲しみに落ちいっている人間を奮い立たせてくれる。よし、この指輪は質に入れよう。ただし一つ条件がある」
「どういう?」
「五百エキュは貴公のもので、あとの五百エキュはおれのものと、そうしてくれ」
「どうしてそんなことを考えるんだね、アトス? おれのようにまだ親衛隊士の身分の者には、その四分の一もいらんさ。鞍《くら》を売ったって、じゅうぶん間に合うんだ。必要なものといえばプランシェの馬くらいのものだ。それに、きみは忘れているが、おれだって指輪を持ってるんだ」
「おれの見るところでは、そいつは貴公にとっては大切なものらしい。おれにとってこの指輪が大切な以上にな」
「それはそうだ。いざというときにわれわれを困窮《こんきゅう》から救ってくれるばかりではなく、われわれを危険から守ってくれるものだからね。貴重な宝石というばかりではなく、魔法のかかっている護符《ごふ》のようなものだからね」
「どういう意味なのかおれにはよくわからんが、まあ貴公の言うことを信じよう。ところでおれの、というより貴公のものだが、これで手にはいる金の半分を貴公がとってくれないなら、こんなものはセーヌ河に投げこんでしまうぞ。ポリクラテス(紀元前六世紀のサモスの暴君。ネメシスを征服するにあたり、彼は印璽に使っていた大きな指輪を海中に投げたところ、数日後一人の漁夫が献じた魚の腹の中に、その指輪があったという)の指輪のように、魚が親切にまたわれわれに返してくれるかどうかは疑問だがね」
「よろしい、では、もらうことにする!」と、ダルタニャンはいった。
このとき、グリモーがプランシェと連れだって帰ってきた。主人の身を心配し、何ごとが起こったかとプランシェは、ちょうどよい機会だと、自分で衣類をとどけにきたのである。
ダルタニャンはさっそく着替えた。アトスも身支度をした。いざ二人が出かけようとしたとき、アトスはグリモーに[狙《ねら》い筒《つつ》]の構えをしてみせた。するとすぐにグリモーは銃を台からはずして、供の用意をした。
アトスとダルタニャンは従者たちを従えて、途中なにごともなく、フォソワイユール街に着いた。すると戸口のところにボナシューがいて、ダルタニャンの姿を見つけると、ひやかすような目つきをして、
「もしもし、うちの借家人さん! 早く行っておあげなさいよ。若いきれいな娘さんがお宅で待っていますぜ。ご承知でしょうが、女というものは待たされるのをいやがるものですからな」
「ケティーだ!」と叫んで、ダルタニャンは路地に飛びこんだ。
はたして哀れな娘は、身を震わせながら部屋の入口のところでうずくまっていたが、彼の姿を見ると、
「ああ、あなたはあたくしを救ってくださると約束してくださいましたわね。あたくしを奥さまの怒りから守ってやるとね。あたくしをこんなにしてしまったのはあなたなのですから、それをお忘れにならないで」
「だいじょうぶ、安心しなさい、ケティー。ところで、わたしが逃げだしたあとは、どうだったい?」
「あたくしに、どうしてわかりましょう? 奥さまの叫び声で、従僕たちが駆けつけてきましたわ。奥さまはもう気が狂ったようで、ありとあらゆる罵《ののし》りの言葉を、あなたに向かって投げつけていました。それであたくしは、あなたがこの前あたくしの部屋から奥さまの寝室へはいられたことを奥さまがお気づきになり、あたくしも[ぐる]になっているとお思いになるかもしれないと考えたので、わずかな所持金と大切な衣類だけを持って、逃げてきましたの」
「気の毒なことをしたね。だが、おまえをどうしてあげたらいいかな? 明後日は出発せにゃならんしな」
「どうなりと、いいようになさってくださいまし。とにかく、このパリから、できればフランスから連れだしてください」
「といって、おまえをラ・ロシェルの戦いに連れて行くわけにはいかんしな」と、ダルタニャンはいった。
「そりゃそうです。でも、どこか田舎《いなか》の、たとえばあなたのご郷里の、だれかお知り合いの貴婦人のお宅にでもお世話願えれば」
「ところが、わたしの郷里には、小間使いをおくような貴婦人などはいないんだよ。が、ちょっと侍ってくれ、考えがあるからな。おい、プランシェ、アラミスのところへ行って、すぐ来て欲しいといってくれ。大事な話があるからといってな」
「なるほど」と、脇からアトスが口をだした。「だが、どうしてポルトスじゃいけないんだ? 例の侯爵夫人がいるだろうが……」
「ポルトスの侯爵夫人はご亭主の書生たちに着替えを手つだわせているんだ」と、ダルタニャンは笑った。「それにケティーだって、ウルス街なんかには住みたくはないだろう。ねえ、ケティー?」
「あたくしはどこだっていいんです。居所が知られずに、隠れて生活できさえすれば」
「ところでケティー、これでいよいよわたしたちは別れることになったのだから、もうおまえもわたしのことで焼きもちなんか焼かずにすむね……」
「ダルタニャンさま、あたくしは近くにいようが遠くにいようがいつでもあなたのことを思っていますわ」
[女にそんないつも変わらぬ心なんて期待できるかね]と、アトスはそっと心の中でつぶやいた。
「わたしだって、いつもおまえを愛しているよ、心配しないでくれ。ところで、ちょっと聞きたいことがあるんだが、この話はわたしにとってたいへん重大なことなんでね。いままでにあの家で、ある晩かどわかされた若い女の話を聞いたことはなかったかね?」
「お待ちになって……まあ、それじゃあ、やっぱり、あなたはあの方を愛していらっしゃるのね?」
「そうじゃない。じつは、わたしの友人の一人が、あの婦人を恋しているんだよ。そうなんだ、ほら、ここにいるアトスがそうなんだよ」
「おれがかい!」と、アトスは、もう少しで青大将を踏みつけようとしたときのような叫び声をだすところだった。
「そうさ、きみじゃないか!」そういってダルタニャンは、アトスの手をぎゅっと握りしめた。
「とにかく、われわれは、あの気の毒なボナシューの細君のことでは、みんな心配しているんだ。なあに、ケティーは、けっしてだれにもしゃべりゃしないよ、ねえ、そうだろう、ケティー?」
そういって、ダルタニャンはなお言いつづけた。「ほら、ここに来るとき入口に立っていた男がいたろう、あの男の細君さ」
「まあ」と、ケティーは叫んだ。「そのお話を聞いて、あたし心配になりましたわ。あの人に、あたしだということが見破られやしなかったかしら?」
「なに、見破られるって! それじゃ、おまえ、あの男に会ったことがあるのかい?」
「お屋敷に、二度ばかり来ましたもの」
「そうか。いつごろのことだね?」
「およそ半月前ぐらいでしょうか」
「なるほどね」
「それに、昨夜もきましたわ」
「なに、きのうの晩もかい?」
「ええ、あなたがいらっしゃるちょっと前でした」
「どうだ、アトス、われわれはまわし者の網に包まれているようなものじゃないか。で、ケティー、おまえはあの男に見破られたと思うかい?」
「あたし、あの人を見たとき、すぐに頭巾《ずきん》をさげましたけれども、あるいはおそかったかもしれませんわ」
「アトス、貴公のほうが、まだおれよりも怪しまれておらんから、降りて行って、まだ奴《やつ》が戸口にいるかどうか見てきてくれんか」
アトスは降りて行ったが、すぐにもどってきた。
「いないぞ。そして入口は閉まっている」
「あいつ、報告に行ったにちがいない。鳩はみんな小屋に帰っているとね」
「よし、それなら飛び出るとしよう。プランシェだけを残しておいて、ようすを知らせてもらうことにしよう」
「ちょっと待ってくれ! いまアラミスを呼びにやったのだから」
「そうだった、アラミスを待とう」
ちょうどそこへ、アラミスがはいってきた。
そこで事情を話して、さしあたってケティーをどこか知り合いの貴婦人のところに世話することが問題なのだと頼みこんだ。アラミスはちょっと考えていたが、顔をあからめていった。
「ダルタニャン、このことは貴公にとって、そんなにお役に立つことなのかね?」
「一生恩に着るとも」
「じつは、ボワ=トラシー夫人から、あの人の友人で田舎に住んでいる貴婦人のために、身元《みもと》の確かな小間使いがあったら世話してくれと頼まれているんだ。ダルタニャン、きみがこの娘さんを保証してくれるなら……」
「ええ、もうあたくしは、一生懸命にご奉公いたしますわ。どなたでも、あたくしをパリから離れるようにしてくださったら」と、ケティーが叫んだ。
「では、ちょうどおあつらえむきだ」
アラミスはそういって、テーブルの上で短い手紙を書くと、指輪で封印をして、それをケティーに渡した。
「では、ケティー」と、ダルタニャンはいった。「ここにいては、お互いによくないからね。別れるとしよう。いい時節になれば、また会えるからね」
「いつまた、どこであろうとも、お会いすることがあったら、きょうと同じように、あたくしはあなたを愛しておりますわ」
「あてにならん誓いだな」ダルタニャンがケティーを送って階段のほうへ行くと、アトスはそっとつぶやいた。
すぐに三人の青年は、四時にまたアトスの家で再会することを約して、プランシェに留守番をさせ、別々に出て行った。
アラミスは家に帰ったが、アトスとダルタニャンとは、サファイヤの質入れを考えることにした。
わがガスコーニュ青年が予想したとおり、指輪はすぐに三百ピストールになった。先方のユダヤ人は、もしこれを売ってくれれば、これでりっぱな耳輪ができるから、五百ピストールまで出そうといった。
アトスとダルタニャンとは、武人らしい機敏さと鑑識眼とをもって、三時間もかからずに銃士の装具をすっかり買いととのえた。アトスはおっとりとしていて、爪の先まで大貴族であった。気に入った品物があると、値切ったりなどしないで、言い値でどんどん買ってしまう。ダルタニャンが注意をすると、アトスは微笑しながら、彼の肩に手をおくのだった。そこでダルタニャンは、商人を相手に値切ったりするのは、自分のようなガスコーニュの小貴族ならかまわないが、王侯のような風采の彼のような男にはふさわしくないことだと、さとったのである。
銃士は、アンダルシア産のみごとな馬をみつけた。漆黒《しっこく》で、火を吐《は》かんばかりの鼻孔《びこう》をもち、足はすらりとして美しく、六歳駒だった。よく調べてみたが、欠点はない。値段は千リーヴルだった。おそらくもう少し安く買えたかもしれないが、ダルタニャンが博労《ばくろう》と値段をかけあっているうちに、アトスが百ピストール金貸を、テーブルの上に並べてしまったのである。
グリモーも、ピカール産のずんぐりした強そうな馬を三百リーヴルで買ってもらった。ところが、この馬の鞍とグリモーの武器とを買ってしまうと、アトスの分け前の百五十ピストールは、すっかりなくなってしまった。ダルタニャンは、あとで返してもらうことにして、自分の分にも手をつけてくれといった。しかしアトスは、返事の代わりに肩をすくめてみせた。
「あのユダヤ人はサファイヤを譲《ゆず》り渡してしまえば、いくら出すといったかね?」と、アトスがたずねた。
「五百ピストールだ」
「すると、あと二百ピストールもらえるな。百ピストールは貴公に、残りの百ピストールはおれの分と。こりゃ、ひと財産だ。きみ、もう一度ユダヤ人のところへ行ってくれ」
「なんだって! きみはまさか……」
「あの指輪は、はっきりいって、おれにつらい思いを起こさせるんでな。それに受けだすのに三百ピストールなんていう金を出す気はないよ。だとすれば、みすみす二百ピストール損することになる。行ってくれ、ダルタニャン、行って、指輪を売り払うことにして、二百ピスールもらってきてくれ」
「よく考えてみたらどうだ、アトス」
「この際、現金が必要だからね。犠牲《ぎせい》を払うのはやむを得ないさ。さあ、行ってくれ、ダルタニャン、グリモーに鉄砲を持ってついて行かせるから」
三十分後にダルタニャンは、途中何事もなくて二千リーヴルを手にしてもどってきた。
このようにしてアトスは、居ながらにして予期しなかった軍資金を手に入れたわけである。
三十九 幻影
四時に、四人の友は、アトスの家に集まっていた。身支度の心配はこれですっかりなくなったわけだから、まだみんなの顔に気がかりな表情が残っているとすれば、それは各人のそれぞれの心に秘められた不安からきたものだ。とかく、現在の幸福のうしろには、やがて来るべき憂慮《ゆうりょ》が潜んでいるものである。
とつぜんプランシェが、ダルタニャンに宛てた二通の手紙を持って、はいってきた。
一通は、縦にきれいに折った小さい手紙で、緑色の封蝋《ふうろう》の上に、小枝をくわえた鳩《はと》の姿が押してあった。
もう一通は、四角な大きい封筒で、その上に枢隣卿|閣下《かっか》のおそろしい紋章が押してあった。
小さい手紙を見て、ダルタニャンの心はおどった。筆跡に見覚えがあったからだ。ただ一度見ただけなのだが、その記憶はしっかりと、心の底に刻みつけられていたのである。彼はその手紙をとって、急いで封を切った。
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次の水曜日、夕刻の六時から七時のあいだにシャイヨ通りをお歩きになって、通る四輪馬車の中をよく気をつけて見てくださいませ。しかし、あなたのお命と、あなたを愛している人たちの命を大切とおぼし召したら、ひと言も口をおききになってはいけません。また、あらゆる危険をおかしてまで、ひと目なりともあなたのお姿を見ようとする女を、あなたは見たという素ぶりをけっしてなさらないように
[#ここで字下げ終わり]
署名はなかった。
「罠《わな》だよ、ダルタニャン、行くな」と、アトスがいった。
「だが、筆跡には見覚えがあるんだ」と、ダルタニャンはいった。
「たぶん偽筆《ぎひつ》だろう」と、アトスはなおいった。「このごろの六時や七時といえば、シャイヨ通りはまったく人通りはない。ボンディーの森の中へ行くのとかわらんよ」
「じゃ、みんなで行くことにしたらどうだ?」と、ダルタニャンがいった。
「四人がそろって食い殺されることはあるまい。それに、従僕四人と、馬と、武器がある」
「それに、出陣の身支度をおひろめする機会にもなるな」と、ポルトスがいった。
「だが、手紙を書いたのが女だとして」と、アラミスがいった。「その女が人に見られたくないというのであってみれば、いいかい、ダルタニャン、貴公はその女をあやうくすることになるんだぞ。それは、貴族として取るべき態度ではないな」
「われわれはうしろに隠れているさ。ダルタニャンだけ、前に出ればいい」と、ポルトスがいった。
「それはそうだが、走っている馬車からだって、短銃は発射できるからな」
「なあに、当たりゃしないさ」と、ダルタニャンはいった。「そうなれば、みんなで馬車を追いかけて、中にいる奴らをみな殺しにしてやるさ。そうすれば、一人でも多く敵が減るわけだからな」
「彼の言うとおりだ。一戦やろう。それに新調の武器は、いずれためす必要があるからな」と、ポルトス。
「そうだな! 一つ楽しんでみるか」とアラミスは例のおだやかな、どうでもいいといった態度でいった。
「貴公らのするとおりにするよ」と、アトス。
「ところで、いまちょうど四時半だから、六時にシャイヨ通りへ行くには、ぎりぎりの時間しかない」
「それに、あまりおそく出ると、人から見てもらえないから、損だな。さあ、支度をしよう、諸君」と、ポルトスがいった。
「だが、もう一つ手紙があるのを忘れてはいかんな」と、アトスが注意した。
「この封印を見ると、ぜひ開封してみる値打ちがあるようだね。おれに言わせると、ダルタニャン、貴公が大切そうに胸のところにしのばせた小さいほうの手紙よりも、こっちのほうが気にかかるな」
ダルタニャンは、あかくなった。
「よし。では枢機卿殿がおれにどんな用事があるか、あけてみることにしよう」
そういって彼は封を切ると、読みあげた。
[#ここから1字下げ]
エサール殿所属の親衛隊士ダルタニャン殿には、今夕八時に枢機卿邸にご出頭相成りたし。
親衛隊中隊長ラ・ウディニエール
[#ここで字下げ終わり]
「おやおや! これはまたさっきのとは違うが、やはり心配になる呼び出しだな」と、アトスがいった。
「あっちをすませてから、こっちへ行こう。むこうは七時でこっちは八時だから、じゅうぶん間《ま》に合う」
「いや、わたしなら行かないな」と、アラミスがいった。「礼儀を重んずる騎士なら、婦人から呼び出しを受けたとき、これにそむくわけにいかん。だが慎重な貴族が枢機卿邸に出頭せずとも、言いわけは立つ。しかも賞《ほ》められるべき筋合いがないとしたら、なおさらのことだよ」
「おれもアラミスと同感だな」とポルトスもいった。
「まあ、みんな」と、ダルタニャンは答えた。「おれは前にも一度、カヴォワ殿を通じて、枢機卿から同じような呼び出しを受けたことがあるんだ。おれはすっぽかしたんだよ。そうしたらその翌日に、あんな不幸なことが起こってしまったんだ。コンスタンスが姿を消したというわけだな。だからこんどは、どうあっても行こうと思うんだ」
「そう決心がついているなら、行くがいいさ」と、アトスはいった。
「だが、バスティーユ行きかもしれんぞ」と、アラミスが気づかった。
「なあに! きみたちが救いだしてくれるさ」と、ダルタニャンは答えた。
「そりゃ、もちろんだ」と、アラミスとポルトスは落ちつきはらって、いかにも容易なことだといわんばかりに、「もちろん、われわれが救いだしてやる。だが明後日われわれは出発するのだから、牢獄入りの危険はおかさないほうがいいな」
「では、こうしよう」と、アトスがいった。「みんな今夜は、この男からずっと離れないことにする。それぞれ二人ずつ銃士を連れて、枢機卿邸の入口で番をするんだ。そしてもし扉をしめた怪しい馬車が出てきたら襲いかかるんだ。だいぶ長いあいだ枢機卿方の親衛隊と事をおこさないから、トレヴィール殿も、おれたちが死んだとでも思っておられるかもしれんよ」
「まったく、アトス、貴公は一軍を率いる将軍の器《うつわ》だな」と、アラミスがいった。「どう思う、諸君、この計画を?」
「すばらしい」と、青年たちはいっせいに答えた。
「よし」と、ポルトスがいった。「おれは詰所《つめしょ》へ駆けつけて、仲間に八時までに準備しておくようにといっておく。集合場所は、枢機卿邸前の広場でいいな。そのあいだに貴公たちは、従者に馬の用意をさせておきたまえ」
「ところで、おれは馬がないんだ」と、ダルタニャンはいった。「トレヴィール殿のところへ行って、一頭拝借してくることにしよう」
「その必要はないよ」と、アラミスがとめた。「わたしのを一頭使ったらいい」
「いったい貴公は、何頭もってるんだい?」
「三頭」と、アラミスは微笑しながら答えた。
「おい、アラミス」と、アトスはからかった。「フランス、ナヴァール両国を通じて、貴公ほど馬持ちの詩人はないぞ」
「だが、アラミス。そんなに三頭も馬を持って、どうする気なんだい? どうして三頭も馬を買ったのか、おれにはわからんな」
「いや、買ったのは、二頭だけなんだ」と、アラミスが答えた。
「三頭目は、空から落ちてきたのかい?」
「じつは三頭目のは、今朝どこかの従者がわたしのところへ引っぱってきたのだ。制服は着ていないし、どこの者だとも言いたがらないんだ。だが、まちがいなく主人の命令を受けてきたんだというんでね」
「女主人の命令だろう」と、ダルタニャンがひやかした。
「どっちでもいい」といって、アラミスはあかくなった。「とにかく女主人から、どこからとは言わずに、わたしの馬小屋へ入れておくようにと言いつかってきたのだというんだ」
「そういうめにあうのは、詩人だけだよ」と、アトスが本気になっていった。
「そうか! それでは、こうしよう」と、ダルタニャンが提議した。「で、貴公は、どっちのに乗る? 自分で買ったほうか、それとももらったほうか?」
「もちろん、もらったほうさ。わかるだろう、ダルタニャン、わたしはそんな不義理な真似はせんよ」
「名前も知らぬ贈り主に対してね」と、ダルタニャンが言い返した。
「神秘にみちた贈り主の女性に対してね」と、アトスがつづけた。
「すると、貴公が買ったほうの馬は不用になったわけだね?」
「まあね」
「そいつは、貴公が自分で選んだ馬かい?」
「念入りに調べたよ。騎士の安否を左右するのは乗馬だからな」
「よし。ではその馬を買った値段で、おれに譲ってくれ」
「わたしは貴公にあげるつもりでいたんだよ、ダルタニャン。いつでも貴公のつごうのいいときに返してくれればいいということでね」
「でも、いくらしたんだい?」
「八百リーヴルだ」
「では、ここに二ピストール金貨が四十枚ある」と、ダルタニャンは金貨をポケットから取りだした。「貴公が詩の稿料としてもらったやつと同じ金貨だよ」
「おや、おや、金持ちなんだな」とアラミスがひやかした。
「金持ちだとも、大金持ちさ」
そして彼は、ポケットの中の残りの金貨を鳴らしてみせた。
「貴公の鞍を銃士隊詰所へとどけておきたまえ。われわれの馬といっしょに、貴公のもここへ連れてこさせるから」
「よしきた。だが、もう間もなく五時だから、急がにゃならん」
十五分後に、ポルトスがりっぱなスペイン産の馬に乗って、フェルー街の一角に姿を見せた。ムスクトンは、小さいががっちりしたオーヴェルニュ産の馬に乗って従っていた。ポルトスは得意満面である。
同時に通りの反対側から、イギリス産の駿馬《しゅんめ》にまたがったアラミスが、さっそうと姿を現わし、従者バザンは葦毛《あしげ》の馬に乗って、もう一頭たくましいムクレンブルグ産の馬をひいていた。これが、ダルタニャンの乗馬だった。
二人の銃士は、入口のところでいっしょになった。アトスとダルタニャンとは、窓からそれを見ていた。
「おい、ポルトス、すばらしい馬じゃないか」と、アラミスがいった。
「うん、最初からこれをもらうことになってたんだが、亭主の悪ふざけのために、あんなひどい馬とすりかえられてしまったんだ。亭主はあとで、さんざんひどいめにあったよ。けっきょく、おれの思いどおりになったってわけよ」
そこへ、こんどはプランシェとグリモーが現われた。ダルタニャンとアトスはすぐに階下へ降りて、友人たちと並んで馬上の人となり、四人そろって出発した。アトスは自分の妻であった女のおかげで手に入れた馬、アラミスは恋人から贈られた馬、ポルトスは代訴人夫人からもらった馬、そしてダルタニャンは、幸運という最もよき恋人から得た馬に、それぞれまたがったのである。
ポルトスの予想にたがわず、この騎馬行列はじつに壮観《そうかん》だったから、もしコクナール夫人がこの場に居合わせて、スペイン産のみごとな馬にまたがったポルトスの堂々たる風采を見たら、亭主の金櫃《かねびつ》から金をしぼりあげたことを、けっして後悔はしなかったであろう。
ルーヴル宮のそばで四人は、サン=ジェルマンからもどって来るトレヴィール殿に出会った。隊長は一同を引きとめて、そのりっぱないでたちを賞《ほ》めそやした。そのために、たちまち彼らのまわりに、野次馬《やじうま》が集まった。
ダルタニャンはこの機会を利用して、枢機卿の赤い大きな封印のある手紙のことを話した。もちろん、もう一つの手紙のことは、ひと言ももらさなかった。
トレヴィール殿は、青年が呼び出しに応ずる決意をしたことに賛成してくれた。そして、もし明日になって彼の姿が見えなかったときは、手を尽くしてきっと捜しだしてやると約束した。
このとき、サマリチーヌの大時計が六時を打った。四人の友は約束があるからといって、トレヴイール殿と別れた。
しばらく早駆けをつづけて、一行はシャイヨ通りに着いた。日が沈みかけていた。馬車は幾台も、つづいて通った。数歩離れた友人たちに見守られながらダルタニャンは、馬車が通るたびに視線をこらして馬車の奥まで注意してのぞきこむのだが、一度も知った顔に出会わなかった。
ついに、待つこと十五分にして、ようやくあたりが薄暗くなったころ、一台の馬車がセーヴル街道から早駆けでやってきた。それを見るなりダルタニャンの心は、自分を呼びだした女はたしかにあの馬車に乗っているという予感がして、われながら驚くほど烈しく波打った。するとほとんど同時に、馬車の扉のところに女の顔が現われ、だまっていろとでもいうつもりか、または接吻を投げようとしたためか、二本の指を口元にあてた。ダルタニャンは、思わず喜びの声を口からもらした。その女、というよりも幻のように走り去った馬車の窓にちらっと見た幻影は、まさしくボナシュー夫人の姿であった。
止められていたにもかかわらず、無意識の衝動にかられて、ダルタニャンは馬を飛ばしてその馬車に追いついた。だが扉のガラスはぴったり閉ざされていて、あの幻影は消え失せていた。
そのとき彼は、あの注意を思いだした。[あなたのお命と、あなたを愛している人たちの命を大切とおぼし召したら、ひと言も口をおききにならぬよう、なに一つ見たという素ぶりはなさらぬようにして、じっとしていること]というのである。
彼は立ちどまった。自分の身を心配したからではなく、危険をおかしてまでして自分に会おうとしてくれたあわれな女の身を思ったからである。
馬車はそのまま全速力で走り去り、パリ市内に飛びこんで姿を消した。ダルタニャンはその場に、呆然《ぼうぜん》とたたずんでいた。もしあれがボナシュー夫人であって、こうしてパリへもどってきたのなら、どうしてこんな、ただ目を見かわすだけの、むなしい接吻を送るだけの、束《つか》の間の逢いびきなどをすることがあろう? もしまたあれが彼女でないとしたら、夕闇《ゆうやみ》の薄明かりでまちがうこともあり得るから、もし彼女でないとしたら、自分が彼女に恋をしているということを知ってのうえで、彼女を囮《おとり》にした自分への陰謀がはじめられたのではあるまいか?
三人の仲間が近づいてきた。三人ともちゃんと、扉に現われた女の顔を見ていた。だが、アトス以外の者は、ボナシュー夫人の顔を知らなかった。アトスは、たしかに彼女だったといった。しかし彼は、ダルタニャンのように女の顔ばかりに気をとられていたわけではないから、馬車の奥に、もう一つ男の顔があったようだといった。
「もしそうだとすると」と、ダルタニャンはいった。「たぶん彼女は牢《ろう》から牢へ移されたんだ。だが、いったい、あのかわいそうな女をどうするつもりなんだろう? どうしたら彼女を見つけられるだろうかな?」
「いいかい」と、アトスはまじめな顔をしていった。「この世で再会できないとはっきり言えるのは、死人だけだよ。そのことは、貴公だって思いあたることがあるだろう? ところで、もしきみの恋人が死んでいないのなら、そして今われわれが見たのが彼女であったとしたら、いつかきっと会えるさ。たぶん」と、ここで持ち前の厭世的《えんせいてき》な口調になって、「きみが待ち望んでいるよりも、もっと早く会えるかもしれんよ」
七時半が鳴った。馬車は約束の時間よりも、二十分ほどおくれたのである。友人たちはダルタニャンに、もう一つ行くところがあることを思いださせたが、もしやめるならまだ間《ま》に合うという忠告もした。
しかしダルタニャンは頑固《がんこ》な男だし、好奇心も強かった。ぜひ枢機卿邸へ出かけて、先方がどんなことを言うか知りたいと決心していた。それゆえ、なんと言われても、その決心を変えなかった。
一同は、サン=トノレ街に着いた。枢機卿邸前の広場には、来いといっておいた十二人の銃士が行きつもどりつしながら、一行の到着を待っていた。
そこで、はじめて彼らに、事情を話した。
ダルタニャンは近衛銃士隊の間では、いずれ近いうちに入隊する人間だとして知られていた。それゆえ、もう今から仲間扱いをされていた。そこでみんなは、ここへ召集された用件を聞くと、こころよく引き受けてくれた。それに、どうやら枢機卿やその配下の者にちょっと悪ふざけができるとあっては、こういう遠征なら、これら青年貴族たちは、いつでも喜んで応じたのである。
アトスは一同を三隊に分け、自《みずか》らその一隊の指揮にあたり、あとの二隊をアラミスとポルトスにまかせ、各隊はそれぞれの出口の正面に待ち伏せに出向いた。
いっぽうダルタニャンは、正面の門から堂々とはいっていった。
力づよい援軍があったとはいえ、さすがの青年も大階段を一段一段と昇ってゆくときには、不安を感じないわけにはいかなかった。彼がミラディーに対してとった行動は、なんといっても裏切り行為であるし、この女と枢機卿とのあいだに政治上の関係があることもうすうす知っていた。それに、彼がひどい目にあわせたウァルド伯爵は、台下の腹心であった。そして彼は、枢機卿が敵には苛酷《かこく》であるが味方に対してはひどく目をかけるということも、よく知っていたのである。
[もしもウァルド伯が自分との経緯《けいい》をすべて枢機卿に話していたら……これはあり得ることだ……そして伯爵が自分に見覚えがあれば……これもどうやらありそうなことだ……そうだとしたら、おれはまず罪人扱いにされると思わねばならないだろう]と、彼は頭をふりふり考えていた。[だが、そうだとしたら、なぜ枢機卿は今日まで待ったのだろう? いや、これは簡単な話だ。きっとミラディーがおれのことを枢機卿に訴えたのだ。あの見せかけの苦悩を訴えて同情をひき、それで台下もこんどは堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》が切れたというのだろう]
[しかし幸いにして、友人たちが下で待っていてくれる]と、彼はなおも考えつづけた。[そうやすやすと、おれを連れては行かすまい。だが、トレヴィール殿の銃士隊だけでは、あの枢機卿を向こうにまわして戦うことはできやしない。あの人はフランスじゅうの兵力を自由にできる人だし、この人を相手にしては王妃も逆らう力はなく、陛下だって思うようにはならないのだ。おい、ダルタニャン、おまえは勇敢だし、なかなかいい点もあるのだが、どうやらこんどは女でしくじったぞ!]
このような悲観的な結論に達したとき、彼は控えの間にきていた。彼が取次ぎの男に手紙を渡すと、男は彼を待合室に入れて、自分は奥にはいって行った。
待合室には枢機卿付きの親衛隊士が五、六人いたが、ダルタニャンの顔を知っていたし、彼がジュサックをやっつけたことも知っていたので、意味ありげな微笑を浮かべて、彼のほうを見ていた。
この微笑がダルタニャンには、なにか不吉な前兆のように思われた。だが、わがガスコーニュの青年は容易におじけづかないし、ことにそのお国生まれの自尊心からしても、心の中に起こったことを外にあらわすようなことはなかなかしないから、これらの親衛隊士を前にして、傲然《ごうぜん》と腰に手を当てて待ちかまえていた。
取次ぎの男がもどってきて、ついて来るようにと合図をした。青年は親衛隊士たちが、自分の後ろ姿を見ながらなにかささやいているのを感じた。
廊下を通り、大広間を抜けて、書斎にはいった。正面の机を前にして、一人の男が書きものをしていた。
取次ぎの男は彼を案内すると、だまって引きさがった。ダルタニャンは立ったままでその男をじっと見た。
最初、その男は書類を調べている裁判官だという気がしたが、よく見ると、その机に向かっている男は指で韻《いん》を数えながら、長短不ぞろいの文字の行を書いたり直したりしているのだった。つまり、詩を書いていたのだ。しばらくすると、詩人は草稿を閉じ、表紙に[ミラーム、五幕悲劇]と書くと、静かに顔をあげた。ダルタニャンはそれが枢機卿その人であるのを知った。
四十 枢機卿
枢機卿は草稿の上に片ひじをつき、頬に手をあてて、ちらっと青年の顔を見た。リシュリュー枢機卿の眼ほど鋭くて、刺すような力をもった目はなかった。ダルタニャンも、その視線が彼の体内を、熱気のように走るのを感じた。
しかし彼は帽子を片手に平然として、台下の御意やいかにと、待ち受けていた。それほど傲慢《ごうまん》のそぶりも見せず、さればといって卑屈《ひくつ》な態度はまるでなかった。
「きみが、ベアルン出身のダルタニャンだね?」
「はい、台下」と、青年は答えた。
「タルブとか、あの近辺には、ダルタニャン姓を名のる家が多いが、きみはどこの一族かな?」
「わたくしは、今上陛下《きんじょうへいか》の父君、先王アンリ陛下に従って、宗教戦争に参加した者の息子《むすこ》でございます」
「やはりそうか。今からおよそ七、八か月前に、立身の道を求めて郷里からこのパリへ出てきたという若者は、きみだったのか?」
「はい、さようでございます」
「マンを通ってきたようだが、その地でなにか起こったね、よくは知らぬが、とにかくなにかあったね」
「台下、じつは、こういうことでして……」
「いや、話を聞く必要はない」と、枢機卿は、話そうとした本人同様に事件を先刻承知だといわんばかりに微笑して、「トレヴィール殿宛の紹介状をもっていたんだね?」
「はい。ところがマンで起こったいまわしい事故のために……」
「手紙を紛失したというのだろう、知っているよ。しかしトレヴィール殿はひと目で人物を見抜く具眼《ぐがん》の士だから、きみを義弟のエサール殿の隊に入れ、いずれは銃士隊に編入すると約束をしてくれたんだね」
「台下には、なにもかもごぞんじでございます」
「それ以後、いろいろなことがあったな。ある日は、そのような場所へ行かずともいいものを、シャルトルー僧院のうしろをうろついた。それから友人たちといっしょに、フォルジュの鉱泉へ旅行をした。友人たちは途中でとまったが、きみはそのまま旅をつづけた。あっさりいってしまえば、きみはイギリスに用があったからさ」
「台下、わたくしが行きましたのは……」ダルタニャンは、どぎまぎしてしまった。
「狩猟にかい、ウィンザーの森にね。いや、ほかかも知れぬ、そんなことはどうでもいいことだ。わたしは知ってるよ。なんでも知るということが、わたしの仕事だからね。きみは帰って来ると、さる高貴な方のお招きを受けた。そのときいただいた記念の品を、それそのとおり、大切に持っておる」
ダルタニャンは王妃からもらったダイヤに手をやって、あわてて宝石を内側にまわしたが、もう間に合わなかった。
「その翌日、きみはカヴォワの訪問を受けた」と、枢機卿はなおつづけた。「この屋敷へ来るようにと伝えに行ったのだが、きみは来なかった。あれは、よくなかったな」
「じつは、台下のご不興をこうむったものと、それを恐れましたものですから」
「おや! どうして、そんなことを思うのかな? 上長の命令に、だれもがなし得ぬような勇敢さと利発さをもって尽くしたのだから、賞賛されこそすれ、わたしの不興をこうむるなどとはあり得ぬことだ。わしが罰するのは、命令に従わない人間だよ。きみのようによく従う……従いすぎるかもしれんが、そういう人たちではない。その証拠に、きみにわたしのところへ来るようにと伝えた、あの日のことを思いだして見たまえ。あの日の晩にどんなことが起きたか、考えて見るんだね」
ボナシュー夫人の誘拐が行われたのは、まさしくあの晩だった。ダルタニャンはぞっとした。なお今から三十分前に、あの女は自分のすぐそばを通って、たぶん彼女を誘拐したときの権力と同じ権力によって、またどこかへ連れて行かれたのだ。
「とにかく」と、枢機卿はつづけた。「ここしばらくきみの噂を聞かなかったので、きみがどんなことをしているか知りたかったのだ。それに、少しはわしに礼をいってもいいと思ったのでね。きみも気づいていると思うが、きみにはずいぶん手心をくわえているつもりだがね」
ダルタニャンは、うやうやしく頭をさげた。
「これは、たんに公正を重んじる気持ちからだけではないので、じつはきみに対して、わたしのほうに計画があるのでね」
ダルタニャンは、いよいよ意外の感に打たれた。
「この前きみを呼んだときに、この計画を打ち明けるつもりだったのだが、きみは来てくれなかった。が、幸い今からでもおそくはないので、これから話すことにしよう。まあ、そこへ掛けたまえ、ダルタニャン君。貴公はりっぱな貴族なのだから、立って話を聞くこともあるまい」
こういって枢機卿は、指で椅子をさし示したが、青年はすっかり驚いていたので、二度目に合図されるまでは、それに気づかなかった。
「ダルタニャン君、きみは勇敢な青年だ」と枢機卿は言葉をつづけた。
「それに、きみは慎重だ。このことは、なによりもいい。わしは思慮があり、誠意のある人間が好きだ。そう、こわがらんでもいいよ」
そういって、枢機卿は微笑しながら、「誠意があるためには、勇気を必要とする。しかしきみはまだ若くて、やっとこの世間にもまれたばかりなのに、手ごわい相手をつくっている。よほど気をつけないと、身を滅ぼすことになるぞ」
「ああ、台下」と、青年は答えた。「わたくしなどは、なんのたわいもないものでございます。なにしろ相手は強力な上に、うしろだてをもっておりますが、こちらはわたくし一人なので」
「なるほど、そうだ。だが、きみは一人でいながら、ずいぶん今までにいろいろなことをやった。これからも、まだまだやるだろう。わたしは、そう信じる。しかし、きみのそういう冒険的な生活にも、なんらかの指針が必要だと思うが。わたしの思いちがいでなければ、きみはこのパリに立身出世の野心を抱いて出てきたのではないのかな」
「なんといってもわたくしは若くて、無謀な望みをもつ年齢でございますので」と、ダルタニャはいった。
「無謀な望みというのは、愚《おろ》か者の言葉だよ。きみはなかなかどうして聡明な人間だよ。どうだね、わたしの親衛隊の旗手という役目は? いずれ戦争がすんだら中隊長に任ずるが」
「ああ、台下」
「承諾してくれるだろうね」
「台下」と、当惑した顔をして、ダルタニャンは重ねて叫んだ。
「なんだ、断わるつもりか?」と、枢機卿は意外なといった面持ちでいった。
「わたくしは近衛《このえ》の隊にぞくしております者で、今の身分になんの不満もございませんので」
「しかし、わたしの親衛隊といっても、それは陛下の親衛隊も同じことだ。フランスの軍隊でご奉公するかぎりは、陛下にお仕えすることになると思うが」
「台下は、わたくしの言葉をお取りちがいになっておられます」
「なるほど、口実がいるというのだね? わかった。よろしい! その口実なら、用意してある。昇進だな。近いうちに戦争があるから、わたしが機会をつくってあげよう。表向きはこれでよい。いいかね、ダルタニャン、きみには確実な保護が必要なのだ。じつは、きみに対する重大な訴えが、わたしの手許にきているのでね。きみは国王陛下のために、必ずしも日夜精励していたわけでもないようだな」
ダルタニャンはあかくなった。
「ここに」といって枢機卿は書類の束に手をおいたが、「こうしてきみの件で書類がきているのだ。わたしは、これを読むまえに、きみと話し合いたかったのだ。わしは、きみが決断力に富んでいることを知っている。将来、きみの勤務ぶりも、指導よろしきを得れば、きみにとって大いに良い結果となるだろうよ。まあ、よく考えて、きめてくれたまえ」
「ご厚意のほどは、まことにありがたくぞんじます」と、ダルタニャンは答えた。「台下のご寛大なお心を知ると、わが身の虫けらのような存在がいよいよ情けなくぞんじますが、しかし卒直に申しあげることをお許しあれば……」
ダルタニャンは、ここで言葉を切った。
「よろしい、言って見たまえ」
「では申しあげますが、じつは、わたくしの友人たちは銃士隊、または近衛《このえ》の親衛隊にぞくする者たちばかりでございまして、敵方と申しますと、どういう宿命なのでございましょうか、みな台下のご配下の方々なのでございます。したがいまして、わたくしが台下の仰せをお受けいたしますと、あちらでも憎まれ、こちらでも憎まれということになりかねませんので」
「わたしの申し出たことで、まだ役不足だというのかね」と、枢機卿は軽蔑《けいべつ》するような微笑を浮かべていった。
「いいえ。むしろわたくしは、台下の過分のご厚意にただただ恐縮するばかりで、そのようなご厚意に値いするだけの働きを、なに一ついたしたおぼえがないからなのでございます。まもなくラ・ロシェルの攻囲戦もはじまるとのこと、幸いにしてこの戦いで台下のお目にとまるような働きをいたしますれば、その勲功で台下のお庇護《ひご》をこうむる名目も立つかとぞんじます。なにごとにも、しかるべき時機というものがあるかとぞんじます。されば、将来あるいはご膝下《しっか》に馳《は》せ参じる名分が生まれることもございましょうが、ただ今のところは、いかにも節を売ると見られるようでして」
「つまり、このわたしに仕えるのを断わると申すのだな」と、枢機卿はいかにもくやしそうにいったが、そこには一種の敬意も感じられた。「よろしい、では自由にするがいい。きみの憎しみも、きみの好意も、そのまま持っていたらいい」
「台下……」
「いや、よろしい。わたしは別にきみをわるく思ってはいないよ。だが、わかっているだろうが、味方ならじゅうぶんに報いてやるし、身を守ってもやれるが、敵に対しては何の義務もないからな。それから、きみにひとつ忠告を与えておこう。よく覚えておくことだね、ダルタニャン君。わたしが一度きみから手をひいたら、もうびた一文だってきみの命は買わないからね」
「覚えておくつもりでございます、台下」と、わがガスコーニュ青年は、けなげな自信のほどを示して答えた。
「将来いつか、きみに不幸なことが起きたら思いだしてもらいたい」と、枢機卿は意味ありげにいった。「わたしのほうからきみを求めたこと、その不幸が来ないようにわたしはできるだけのことをしたのだということをね」
「どんなことが起きましょうとも」と、ダルタニャンは胸に手をあてて、頭をさげながら、「ただいま台下がお与えくださいましたご厚意のほどは、一生忘れぬつもりでおります」
「よろしい。では、きみがいったように、戦争が終わったら、また会うことにしよう。貴公の働きはよく見ておくことにする。わたしも行くのだからね」と、枢機卿は自分が着て行くりっぱな甲冑《かっちゅう》をダルタニャンに示しながらいった。
「では帰ってきたとき、はっきりすることにしよう」
「ああ、台下」と、ダルタニャンは叫んだ。「どうかご不興を買った罪をお許しくださるように。わたしのとりました態度に誠実さをお認めくださいまして、何とぞご寛容のほどを」
「お若い人」と、リシュリューはいった。「今日のことをもう一度言う機会があったら、必ず言うことを約束してあげよう」
リシュリューのこの最後の言葉は、なにか恐るべき疑念を抱かせた。ダルタニャンは、脅迫されたというよりも、その言葉にびっくりしたのである。なぜなら、それは一つの警告だったからだ。つまり枢機卿は、青年に起ころうとしている不幸のようなものから、彼の身を守ってやろうとしたのだ。彼は答えようとして、口を開いた。だがそのとき枢機卿は尊大な身ぶりで、さがれという合図をした。
ダルタニャンは外に出た。だが入口のところでもはや気力がつき果て、もう少しのところで引き返そうとした。そのとき、アトスのきびしいまじめな顔が、目に浮かんだ。もし枢機卿の申し出を受けたら、アトスはもう彼に手をさしだしてはくれまい、もう友人とは思ってくれないだろう。
この心配が彼を引きとめた。まことに偉大な性格が周囲に及ぼす影響は、大きいものである。
ダルタニャンがはいってきた階段を降りて行くと、その入口の前に、アトスと四人の銃士がいた。彼らは彼の出てくるのを待ち受けながら、心配しはじめていた。ダルタニャンは手短かに話してみんなを安心させた。そこでプランシェがほかの持場を駆けまわって、主人が無事に退出したからもう待つことはないと触れまわった。
アトスの家へもどると、アラミスとポルトスが、こんどのおかしな呼び出しの理由をたずねた。ダルタニャンはただ、リシュリュー公から旗手として親衛隊にはいるように勧められたが断わったということだけを語った。
「当然そうあるべきだよ」と、ポルトスとアラミスはいっせいに叫んだ。
アトスは考えこんでいて、なんとも言わなかったが、あとでダルタニャンと二人きりになると、「きみはなすべきことをしたわけだが、しかしダルタニャン、おそらくそれは、まちがっていたかもしれんぞ」
ダルタニャンはため息をついた。この友の声は、彼の心の奥ふかくで、大きな不幸が待ち受けているかもしれないというひそかな声と、通じるものがあったからである。
その翌日の昼は、出発の準備でくれた。ダルタニャンはトレヴィール殿のもとへ、暇《いとま》ごいに出かけた。そのときはまだ、銃士隊と親衛隊との別れは、一時的なものと思われていた。陛下はその日のうちに会議を開かれ、その翌日に出発されることになっていたからだ。そこでトレヴィール殿はダルタニャンに何か頼みたいことがあるかとたずねただけで、彼も得意げに、すべてはととのっておりますと答えたのだった。
その夜は、親しい間柄であるエサール殿所属の親衛隊士と、トレヴィール殿所属の銃士隊士が集まって酒宴をひらいた。お互いにしばしの別れを惜しんだ。もちろん乱痴気《らんちき》さわぎの一夜だったことは申すまでもあるまい。このような場合、心にかかる不安を追い払うためには、気散《きさん》じのばか騒ぎ以外に手はないのである。
翌朝、一番らっぱとともに、一同は散会した。銃士隊はトレヴィール殿の屋敷へ、親衛隊はエサール殿の屋敷へ、駆けつけた。各隊長は隊士を引き連れて、ただちにルーヴル宮へ向かった。国王の閲兵《えっぺい》が行なわれるのである。
国王は沈んだ顔で、からだがわるいらしく、そのためにいつもの尊大なようすが幾分なくなっていた。じじつ昨日の会議中に、王座にあった国王は、発熱したのであった。それでも出陣は、今日の夕刻ということにきまった。国王は側近の者が注意したのを押して、元気を出して病気など追っぱらってしまえとばかりに、閲兵をすることにした。
閲兵がすむと、親衛隊だけが先に出発した。銃士隊は陛下に従って行くわけだから、それゆえポルトスはそのりっぱな身支度で、ウルス街をひとまわりしてくることができた。
代訴人夫人は、彼が新しい制服で、うつくしい馬に乗って通る姿を見た。彼女は、恋する男をこのままで行かせてしまうことができず、馬を降りてそばへ来てくれるようにと合図をした。まったくポレトスの姿はりっぱだった。拍車はひびき、甲冑《かっちゅう》はかがやき、長剣は雄々しく足を打っていた。さすがにこんどは書生たちも、笑うどころではなかった。
銃士は、コクテール氏のそばへ案内された。代訴人の小さな灰色の眼は、新装ではなばなしい従弟《いとこ》の姿を見て、怒りに燃えた。しかし、ある一つのことで、心中ひそかに慰められていた。それは、こんどの戦争は激戦であるという噂が、あちこちでたっていたからであった。それゆえ彼は、ポルトスが戦死でもすればいいがと、ひそかに願っていたのだ。
ポルトスはコクナール氏に挨拶をして、別れを告げた。コクナール氏も彼の武運を祈った。夫人のほうは、もう涙をおさえることができなかった。しかし彼女の悲しみを、変なふうに取る者はいなかった。彼女がたいへんな身内思いで、そのために始終ご亭主と言い争いをしていたことを、みなが知っていたからである。
ところで、ほんとうの別れはコクナール夫人の居間でおこなわれたのであって、これはまさに悲痛きわまりないものだった。
代訴人夫人は、恋人の姿が見えなくなるまで、窓から身を乗りだしてハンカチを振っていた。ポルトスはこうした愁嘆場《しゅうたんば》にはいかにもなれているといったふうに、愛情のしるしを受け流していたが、それでも町角をまがるときには、帽子をかかげて、別れのしるしに打ち振った。
一方アラミスは、長い手紙を書いていた。だれに宛ててか? それはだれにもわからなかった。隣室では、その晩ツールに出発することになっていたケティーが、その不可解な手紙が書き終わるのを待っていた。
アトスは、スペインぶどう酒の最後の瓶《びん》を、ちびりちびり飲んでいた。
そのあいだにダルタニャンは、隊の者といっしょに行進していた。
サン=タントワーヌ地区にきたとき、彼は振り返って、さも愉快そうにバスティーユの牢獄《ろうごく》を見た。が、彼が見たのはバスティーユの建物だけであって、河原毛の馬に乗っているミラディーの姿は目にはいらなかった。彼女は人相のわるい二人の男に、ダルタニャンを指で示した。男たちはすぐに隊列に近づいて、彼の顔をたしかめた。男たちが目で問い返すと、彼女はうなずいてそれに答えた。
それから、自分の命令が確実におこなわれると安心した彼女は、馬を飛ばして走り去った。一人の男は隊のあとからついてきて、サン=タントワーヌ地区のはずれで、そこで手綱《たづな》をもって待ち受けていた一人の従僕の用意していた二頭の馬にまたがった。
四十一 ラ・ロシェルの攻囲戦
ラ・ロシェルの攻囲戦は、ルイ十三世治下の最も大きな政治上の事件であり、枢機卿の企てた大きな軍事作戦の一つである。そこでこの事件について若干《じゃっかん》説明をしておくことは、興味があるというよりも、むしろ必要なことなのである。それに、この攻囲戦にまつわる幾つかの話は、われわれのしているこの物語と重大な関係があるので、だまって見すごしてしまうわけにはいかない。
この攻囲戦を計画したときの枢機卿の政治上の意図は、大きなものであった。まず最初に、それを説明しよう。そして次に、おそらく枢機卿の気持ちを動かした点では政治上の意図に劣らない、その個人的な意図について語ることにする。
アンリ四世が新教徒たちに安全な場所として与えた重要な町の中で、残っているのはラ・ロシェルだけであった。そこで絶えず内憂外患《ないゆうがいかん》の種をつくっている危険きわまりない根拠地、カルヴァン主義の最後の城塞《じょうさい》を破壊することが問題になった。
スペイン人、イギリス人、イタリア人など、あらゆる国の不平不満の輩《やから》や冒険を試みんとする連中が、新教徒がひとたび旗をあげると、それに応じて馳《は》せさんじ、大きな組織を作りあげてしまい、しだいにその枝を全ヨーロッパのすみずみにまでひろげていた。
そこで、他の新教徒の町が亡ぼされると、このラ・ロシェルはいよいよ重要性を増してきて、紛争と野心の火床《ひどこ》となった。それに加えて、この町の港は、イギリス人たちに開かれたフランス王国における最後の港であった。その港を、フランスの永遠の敵であるイギリス人に対し閉鎖したのだから、枢機卿はジャンヌ・ダルクやギーズ公にも比すべき功績をなしとげたといっていい。
それゆえ、新教徒であると同時に旧教徒であったバッソンピエール、この人は信仰上は新教徒であったが、サン=テスプリ章受勲者という点で旧教徒であり、生まれはドイツ人だが心はフランス人であった彼は、ラ・ロシェルの攻囲にあたって特異な指揮をとった人であるが、自分と同じような新教徒であった諸侯の先頭に立って攻撃したとき、彼らに向かってこういったそうである。
[諸君、ラ・ロシェルを取るのはいかに愚かなことかということが、いまにわかるぞ]と。
このバッソンピエールの考えは、正しかった。つまりレ島の砲撃は、後年のセヴァンヌのドラゴナードの迫害〔ルイ十四世治下に、南仏地方で行なわれた烈しい新教徒の迫害で、竜騎兵《ドラゴン》によってなされたがゆえに、このように呼ばれた〕を予告するものであったし、ラ・ロシェルの攻略はナントの勅令廃止(ルイ十四世は旧教を擁護し、一六八五年に先にアンリ四世が信仰の自由を与えたナントの勅令を廃止し、そのために多くの新教徒は亡命した)の序文であったのだ。
しかし前述したように、歴史にとどめられているこの画一《かくいつ》統一主義の宰相の意図とは別に、年代史家たるものは、嫉妬に燃えた恋する男の小さな考えも考慮に入れなければならないのである。
リシュリューはだれでもが知っているように、王妃を恋していた。その恋が、たんなる政治上の目的から生じたものか、それともアンヌ・ドートリッシュがよく周囲の者に抱かせたあの深い恋心のあらわれであったか、それはわれわれにはわからない。だが、いずれにしても、この物語のこれまでのところでも見たように、バッキンガム公が彼に勝ち、二度か三度、とくにダイヤモンドの飾りひもの件では、バッキンガム公は三人の銃士の忠誠とダルタニャンの勇気のおかげで、枢機卿を煙にまいて面目まるつぶれにしたのである。
だからリシュリューにとっては、たんにフランスから一人の敵を追い払うことが問題ではなくて、恋敵《こいがたき》に復讐する目的もあったのだ。しかも、その復讐は大きく、またはなばなしく、王国の全武力を掌中におさめている人間にふさわしいものでなければならなかった。
リシュリューは、イギリスと戦うことはバッキンガムと戦うことであり、イギリスに勝つことはバッキンガムに勝つことであり、さらに全ヨーロッパの前でイギリスに屈辱を与えることは、王妃の目の前でバッキンガムをはずかしめることであるということを知っていた。
バッキンガムのほうでも、イギリスの名誉を先頭にかざしながら、じつは枢機卿とまったく同じ利害関係によって動いていた。バッキンガムもまた、個人的な復讐を考えていた。かつて大使としてフランスに渡ることがどうしても果たせなかった彼は、こんどは征服者としてフランスに渡るつもりだった。
つまり二人の恋する男の意のままに戦っている二大王国の勝負の賭金は、アンヌ・ドートリッシュの単なるまなざしなのである。
最初優勢だったのは、バッキンガム公であった。彼は九十隻の船に約二万の兵を乗せ、不意にレ島の近くに至り、島にあって仏軍を指揮していたトアラス伯爵を襲撃した上、激闘のあげく全軍を上陸させた。
ついでにいっておくと、この戦闘でシャンタル男爵が死んだが、男爵は生後十八か月の女児を孤児として残した。この幼女が、のちのセヴィニエ夫人(十七世紀の閨秀作家で、娘宛に書き送った書簡集で有名)である。
トアラス伯爵は守衛隊とともにサン=マルタン城砦《じょうさい》にしりぞき、ラ・プレという小さな砦《とりで》に百人ばかりの兵士を投じた。
このような情況が、枢機卿の決意を早めた。彼は国王ともどもラ・ロシェル攻囲戦の指揮をとるまで、さしあたり王弟殿下を第一作戦を展開さすべく出発させ、彼の手で動かし得るかぎりの全部隊を繰り出した。
わがダルタニャンが参加したのは、この前線へ送られた分遣隊《ぶんけんたい》である。
前述したとおり国王は、会議が終わりしだい出発されることになっていたのだが、六月二十八日の会議の席上で発熱した。それでも熱を押して出発することにしたのだが、病勢が悪化して、ヴィルロワに止《とど》まらざるを得なくなった。
国王が止まられた以上、銃士隊たちも止まった。したがってダルタニャンはただの親衛隊に属していたので、少なくとも一時的ではあったが、アトス、ポルトス、アラミスの三人の友人と別れることになった。
この別離は彼にはちょっとした不満にすぎなかったのだが、もし彼に自分がどんな未知の危険に取りかこまれているかを予知することができたならば、おそらく大きな不安を与えたことだろう。
それでも、一六二七年九月十日のころ、ラ・ロシェルを前にして設けられた陣地に到着するまでなにごともなかった。
戦況は、同じ状態だった。バッキンガム公とそのイギリス軍はレ島を占拠して、サン=マルタンとラ・プレの砦を攻撃しつづけていたが、まだ陥落させるに至らなかった。ラ・ロシェルの戦いは、アングレーム公が町の近くに構築した砦をめぐって二、三日前から開始されていた。
エサール殿の指揮下にあった親衛隊は、ミニームに宿舎をとった。
ところでダルタニャンは日ごろ銃士隊に移ることばかり考えていたから、同じ親衛隊の仲間とは親しくしていないので、彼は一人離れて自分だけの考えに耽《ふけ》りがちだった。彼の想いは、楽しいものではなかった。パリに出てきて一年このかた、公《おおやけ》の仕事にのみ忙しくて、自分のことに関しては、恋愛にしても立身出世にしても、いっこうに進捗《しんちょく》してはいない。
恋愛については、彼の愛していた唯一の女性であるボナシュー夫人は失踪《しっそう》してしまい、いまだにどうなっているか、見つけだすことができない。
立身については、低い身分でありながら、国王をはじめとしてフランスじゅうの高官がその前に出れば恐れおののくという枢機卿を敵にまわしてしまった。
この人にかかっては、彼などはひとたまりもなく押しつぶされてしまうはずなのに、この人はあえて手をくだそうとはしなかった。ダルタニャンほどの洞察力のある人間なら、このような寛大な処置は将来の良き日を約束しているとわかったであろうが。
なおその上に、彼から見れば枢機卿ほどは恐ろしくなかったが、やはりなんとなく油断ならない敵、ミラディーがいた。
しかしこれらすべての代償として王妃の庇護《ひご》と厚意とを得た。が、当時にあっては、王妃の厚意はかえって迫害の種であり、その庇護の力といってもたいしたことはない。それは、シャレーやボナシュー夫人の例を見れば、よくわかることだ。
こうしてみると、彼の得た利益で最も確かなものといえば、彼の指に光っている五、六千リーヴルの値打ちのあるダイヤモンドだけということになる。しかしこれとても、青年が将来、王妃の感謝のしるしとして、なにか立身の手段にでもと思って残しておく気だとすれば当分手離せないのだから、さしあたっては足で踏みつけている小石にも等しいものだった。
足で踏みつけている小石といったが、じつはダルタニャンはいま、宿舎からアングータンの村に通じている美しい小道を一人で散歩しながら、こんな物思いに耽《ふけ》っていたのであった。物思いは際限なくつづき、いつのまにか、かなり遠くまで来てしまった。もう日は、落ちかけていた。
ふとそのとき、沈みゆく夕日を受けて、生垣《いけがき》のうしろに、銃身らしいものがきらりと光ったように思った。
するどい眼と、すばやい判断力とを持っているダルタニャンのことだから、鉄砲が一人で歩いて、そんなところへ来るわけもないし、その鉄砲の持ち主が親愛の気持ちを抱いて生垣のうしろに身をひそめているはずもないと、すぐにそう思った。そこで、逃げだそうと決意した。ところが、こんどは道の反対側の岩陰に、もう一つ鉄砲の先がのぞいているのに気づいた。
明らかに、待ち伏せである。
青年は第一の銃を、ちらっと見やった。そして銃口が狙《ねら》いをつけてぴたりととまった瞬間、ぱったりと身を伏せた。と同時に轟音《ごうおん》がひびき、頭上を銃弾がかすめて飛んだ。
ぐずぐずしてはいられない。ダルタニャンは跳《は》ね起きた。するとそのとき、もう一つの銃口から発射された弾丸が、ちょうど今、彼が身を伏せていたその場所の小石を吹き飛ばした。
ダルタニャンは一歩もあとに退《ひ》かぬ勇敢な男だと言われるために徒《いたずら》に死を急ぐような蛮勇をてらう男ではなかった。それに待ち伏せのわなに落ちたのだから、ここで勇気などを問題にすべきでなかった。
[三発目が来たら、やられるぞ!]と、彼は思った。
すぐに彼は宿舎のほうに向かって、ひた走りに走った。お国柄で敏捷《びんしょう》で足が早い。しかし最初に撃った男は、弾丸をこめるひまがあったから、二発目を撃ってきた。こんどのはじつに狙いが正確で、彼の帽子を射抜き、十歩ほどのところまで吹き飛ばした。
だが彼にとってはだいじな帽子であったから、走りながらそれを拾うと、顔色をかえ、息せき切って宿舎に飛びこんだ。そしてそのまま坐りこむと、だれにもこのことは話さずに、一人で考えんだ。
この事件には、三つの理由が考えられた。
まず最も自然に考えられるのは、ラ・ロシェルの住民たちの待ち伏せだということである。彼らにしてみれば、国王方の親衛隊の人間を一人でも殺したいにちがいない。そうすれば敵が減ることだし、その男が財布にたんまり持っているかもしれないのである。
ダルタニャンは帽子を手にとって、銃弾の痕《あと》をしらべてみたが、首を横にふった。ふつうの小銃の弾ではなくて、火縄銃《ひなわじゅう》の弾である。あのときの正確な狙いからみて、特殊な武器だとは思ったが、銃の口径がちがうのだから、敵の待ち伏せではなかった。
枢機卿からの贈りものであるかもしれなかった。さきほど、ありがたい太陽の光線のおかげで銃が光るのに気づいたときには、彼は自分に対する枢機卿の辛抱《しんぼう》づよさに内心驚いていたのであった。
しかしダルタニャンは、首をふった。ただちょっと手を伸ばせば片づくような人間に対して、枢機卿ともあろうものが、こんな手を使うとは考えられなかった。
とすると、これはミラディーの復讐であるかもしれなかった。
このほうは、たしかにあり得ることだった。
彼は暗殺者の人相や服装を思いだそうとしたが、これは無理だった。なにしろ大急ぎで逃げてきたので、気がつくひまがなかったからである。
[ああ、貴公たち! きみたちはどこにいるんだ?おれは、寂しいよ]と、彼はそっとつぶやいた。
ダルタニャンは寝苦しい一夜をすごした。だれかが寝首をかくために寝台へ近づいて来るような気がして、三度も四度もはね起きた。だが夜のうちはなにごとも起こらずに、夜が明けた。
しかしダルタニャンは、事が延びただけで、これでこの事件が片がついたとは思っていなかった。そこで彼は、一日じゅう宿舎に残っていた。天気がわるいからという口実を自分でみつけて。
翌々日の九時に、召集の太鼓《たいこ》が鳴った。オルレアン公の巡視である。部隊は武装した。ダルタニャンも隊列にはいった。
王弟殿下が前線部隊を視察された。上級士官たちがその前に出て挨拶をした。親衛隊長エサール殿も、もちろんそうした。
しばらくすると、ダルタニャンは、エサール殿がそばへ来るようにと合図をしているような気がした。思いちがいかもしれないと思って二度目の合図を待っていると、たしかにまた合図があったので、彼は隊列を離れて、命令を受けるために近づいた。
「殿下はある危険な、しかし名誉ある任務を遂行するために、数人の志願者を求めておられる。前もって心構えをしておくように伝えておく」
「ありがたきしあわせにぞんじます、隊長殿」と、彼は答えた。国王代理殿下の目にとまることは、願ってもない仕合わせである。
ラ・ロシェル方が夜襲をかけてきて、二日前に国王軍が占領した砦《とりで》を奪い返したのだった。その砦の守備を偵察に行くことが、目下の急務だった。
はたしてしばらくすると、王弟殿下が声高らかにいわれた。
「この任務のためには、しっかりした指揮官と、三、四人の兵が欲しい」
「信頼にたる指揮者でしたら、わたくしの隊におります」と、エサール殿がダルタニャンをさし示しながら進み出た。「四、五人の志願兵でしたら、殿下がその旨《むね》をおっしゃれば、立ちどころに集まるでしょう」
ダルタニャンは、剣をかかげて叫んだ。
「わたしといっしょに死を覚悟の志願者四人!」
すぐに親衛隊から二人の仲間が飛びだし、兵士が二人、それに加わった。必要な人数はこれでじゅうぶんなので、ダルタニャンは優先者の意志を尊重して、他の志願者は断わることにした。
ラ・ロシェル方は砦《とりで》を占領したのち、守備兵を残しているか、あるいは撤退《てったい》したか、それがわからなかった。それで、できるだけ近づいて、ようすを探る必要があったのである。
ダルタニャンは四人とともに出発し、塹壕《ざんごう》の中を進んだ。親衛隊十二人は彼とならんで進み、兵二人はあとからついてきた。
こうして塹壕の中に隠れて、砦から百歩のところまで来た。そこまで来て、ダルタニャンが振り返ると、二人の兵の姿が見えなかった。
こわくなってあとに残ったのだと思い、なお前進をつづけた。
塹壕《ざんごう》の外岸の曲り角まで来ると、砦まではあと六十歩ほどである。
人影は見えない。砦は放棄されているらしかった。
死を決した三人の若者は、進むべきかどうかと相談した。そのとき、とつぜん前方の大きな石垣の上に白煙が立ちのぼり、一ダースほどの弾丸が、ダルタニャンたちのまわりに飛んできた。
これで、知りたいことはわかったのである。砦には、守備兵がいたからだ。このような危険な場所に長居《ながい》は無用なので、ダルタニャンたちはくるりと向き直って、退却しはじめた。防御の役をしてくれる濠《ほり》の角まできたとき、親衛隊士の一人が倒れた。弾丸で胸を撃ち抜かれていた。もう一人のほうは無事だったので、そのまま走りつづけた。
ダルタニャンは仲間をおいて行きたくなかったので、抱き起こして連れ帰ろうと身をかがめたとき、その瞬間に二発の銃声が聞こえた。一弾は、すでに傷ついた親衛隊士の頭をうち抜き、もう一弾はダルタニャンのからだをかすめて、岩にあたった。
青年はすぐに振り向いた。この攻撃は、砦からではなかった。なぜならそこは濠の角で、敵からは見えないのだ。途中で姿を消した二人の兵士のことが頭に浮かぶとともに、一昨日の暗殺者のことを思いだした。そこで彼は、こんどこそ正体を突きとめてやろうと、仲間のからだの上に身を伏せて、死んだふりをしてみせた。
するとすぐに、そこから三十歩ほどのところにある打ち捨てられたままになっていた防御物の上から、二つの頭がのぞいた。はたして、さっきの兵士である。ダルタニャンの考えたとおりだった。二人は彼を殺す目的でついてきたので、殺しておいて敵のせいにするつもりだったのだ。
しかし、怪我《けが》をしただけかもしれず、そうなると自分らの罪がばれると思ったので、二人は止《とど》めを刺すつもりで近づいてきた。しかもありがたいことに、彼らはダルタニャンの計略にひっかかって、銃に弾をこめるのを怠《おこた》っていた。
彼らが十歩ばかりのところまで近づくと、倒れたときに用心をして剣を手放さなかったダルタニャンは、がばとばかりに立ちあがって二人のそばに走り寄った。
暗殺者どもは、相手を殺さずに味方の陣営に逃げ帰ったら罪をあばかれると思い、まず敵方のほうへ逃げることを思いついた。
そのうちの一人が銃身を握って棍棒《こんぼう》がわりに、はげしくダルタニャンに撲《なぐ》りかかった。ダルタニャンが脇へ飛びのいてそれをかわしたので、道ができたのをさいわいに、男はさっそく、砦のほうへ逃げだした。だが、ラ・ロシェル側にしてみれば、なんの目的でこの男が自分たちの砦のほうへ走ってくるかわからないので、一斉射撃をあびせかけた。
男は肩を撃たれて、倒れた。
そのあいだにダルタニャンは剣をふるって、もう一人の男に飛びかかった。たいして手間はかからなかった。相手は弾のはいっていない銃だけが武器である。剣は役に立たぬ銃身をかいくぐって、男の腿《もも》を突いた。ダルタニャンはすかさず男の喉元に剣先を突きつけた。
「ああ! どうか命ばかりはお助けください! お願いです、その代わり、なんでも申しあげますから」
「命を助けてやるほどの、そんな秘密を貴様は持っているのか?」
青年は男の腕を押えながら聞き返した。
「あなたさまのようにやっと二十二歳ぐらいの前途ある、若くて勇敢な方でしたら、人の命が大切なことをお思いになって」
「こいつめ! さあ、早く言え、だれに頼まれて、おれを殺そうとしたんだ?」
「わたしは知りませんが、ミラディーとかいう女だそうで」
「女を知らないで、よくその名前を知ってるな?」
「仲間がその女を知っていて、そう呼んでいたもんですから。頼まれたのもあいつで、このわたしではありません。それに、あの男のポケットには、あの女の手紙がはいっていますよ。なんでものあの男の話では、その手紙はあなたに重大な関係があるようですが」
「だが、なぜ貴様は、この待ち伏せの片棒をかついだんだね?」
「あいつがいっしょにやらないかというんで、引き受けたんでさ」
「で、この仕事に、いくらもらったんだい?」
「百ルイでさあ」
「そうかい! まあ、よかろう」といって、青年は大笑いした。「あの女は、おれのからだにいくらか値打ちを認めたっていうことか、百ルイね! 貴様ら二人にとっては大金だな。貴様が引き受けたのももっともだ。よし、命は助けてやる。ただし、条件が一つあるぞ」
「どういうことです?」男は話がまだすまないと知って、不安になりながら聞いた。
「貴様の仲間のポケットにはいっている手紙を取って来るんだ」
「でも、それじゃあ、わたしを殺すのと同じじゃないですか。鉄砲玉が飛んでくる中を、手紙を取りに行くなんて!」
「覚悟をきめて取りに行くんだ。さもなければ、おれが殺してやる」
「お願いです。勘弁《かんべん》してくださいまし。あなたさまのあの若い女の人は、死んでるとお思いになってられるかもしれないが、ちゃんと生きているんですぞ。その女の人のためを思って、後生ですらご勘弁を!」と叫んで男はひざをつき、彼の手にすがった。出血のために力がなくなりかけていたのだ。
「おれの愛している女が生きているって! その女をおれが死んだと思っているなんて、どこから貴様、そんなことを聞いたんだ?」と、ダルタニャンは気色《けしき》ばんでたずねた。
「仲間の持っているあの手紙に書いてあったんです」
「そういう手紙なら、おれにはどうしても必要なことがわかるだろう。このうえ、ぐずぐずしてることはならん。さもないと、貴様らのような悪人の血で二度までもおれの剣を汚すことはけがらわしいが、やむをえん、断じて貴様の命は……」
こういってダルタニャンがおどしつけると、怪我《けが》人はあわてふためいて立ちあがった。
「まあ、お待ちになって、お待ちになって」
恐ろしさのあまり、勇気をふるい立たせて、「行きます、行きます」
ダルタニャンは男の持っている火縄銃《ひなわじゅう》を取りあげると、男を先に立てて、剣の先で腰を突っつきながら、倒れている仲間のほうへ押しやった。
血の痕《あと》をたらしながら、間近《まじか》に迫る死の影に色青ざめて、二十歩ほどのところによこたわっている仲間のそばまで、敵に見られないようにして這《は》って行くその姿は、まったく見るに堪えなかった。
冷汗をたらしているその顔にあらわれた恐怖のさまを見て、ダルタニャンも憐《あわ》れをもよおし、さも軽蔑するように呼びかけた。
「よし、勇気のある者と卑怯者との違いを、このおれが見せてやる。じっとしていろ、おれが行って来るから」
こう言うとダルタニャンは、敏捷《びんしょう》な足どりで、敵の動きを見守りながら、地形を利用して、倒れている男のそばまでたどり着いた。
その場で男のからだを探るか、または男のからだを楯にしながら塹壕《ざんごう》までもどって、そこで探るか、方法は二つあった。
ダルタニャンは、あとのほうを選んだ。そこで男を肩にかついだ。と同時に、敵が火ぶたをきった。
軽い動揺と、肉に突き刺さる三発のにぶい銃弾の音と、末期のうめき声と身もだえで、ダルタニャンは、自分を殺そうとした男が身代わりになって、自分の命を助けてくれたことを知った。
彼は塹壕へもどると、死んだようにまっ青になっている怪我人のそばへ、その死体をおろした。
さっそく彼は、その男の所持品を調べはじめた。皮の紙入れと、男が受けとった報酬の一部と思われる金のはいっている財布とサイコロとサイコロ筒《づつ》、これが死人の全財産だった。
落ちたサイコロとサイコロ筒はそのままにして、財布は怪我人に投げてやり、急いで紙入れを開いた。
何枚かのつまらない紙片のあいだに、手紙がはいっていた。これこそまさに、彼が生命を賭けて取りに行った手紙なのである。
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女の行方を見失ったからには、もっともその女は、いまは修道院に安全にかくまわれていて手のつけようもないのだから、せめて男のほうは手抜かりなくやってちょうだい。さもないと、あたしの力は知ってのとおりだから、あの百ルイを高く支払わせることになるよ。
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署名はなかったが、明らかにミラディーの手紙であった。で彼は、手紙を証拠品として取っておき、壕《ごう》の角の安全なところで、負傷者の尋問にかかった。男は、いま殺された仲間と組んで、ラ・ヴィレットの市門を通ってパリを出るはずの若い女を奪い取ることを引き受けたのだが、居酒屋で飲んでいるうちに、十分ほどおくれてしまったことを白状した。
「で、女をどうするつもりだったんだ?」と、苦しそうにダルタニャンはたずねた。
「ロワイヤル広場のお屋敷へ連れて行くことになっていました」
「そう、そう、そこがミラディーの住居だ」と、ダルタニャンはうなった。
改めて青年は、あの女の恐ろしい復讐の執念が自分を亡きものにしようとしていること、いかに彼女が宮廷の事情に通じているかということを知って、身の毛のよだつ思いだった。たしかに彼女は、枢機卿から情報を得ているにちがいなかった。
が、こうした中でも、ボナシュー夫人がその忠誠ゆえに監禁されていた牢獄を王妃が発見して、そこから彼女を救いだしてくれたのを知って、彼は心の底からうれしく思った。これで彼は、彼女からもらった手紙のことや、シャイヨ通りを通過したことや、影のように行き過ぎたあの幻のような思いも、すべてがはっきりした。こうなれば、アトスが予言したとおり、ボナシュー夫人との再会も可能であった。修道院なら、方法がないわけでもない。
こう考えると、彼の心は明るくなった。彼は心配そうに彼の顔色をうかがっている負傷者のほうに向きなおると、その腕をつかんだ。
「さあ、おれはおまえを見捨てはせん。おれにつかまりな、陣地へ帰ろう」
「はい」と、男はいったが、あまりにも寛大な相手の言葉が信じられなくて、「でも、縛《しば》り首にでもされるのでは」と、いった。
「おれが保証する。もう一度貴様の命を助けてやる」
怪我人はひざまずいたままで、改めて命の恩人の足に接吻をしたが、ダルタニャンはこれ以上敵の近くにぐずぐずしている必要もないので、この感謝のしるしは、自分のほうから打ち切った。
ラ・ロシェル側の最初の攻撃のときに逃げ帰った親衛隊の一人は、四人の仲間が戦死したと報告した。そこで青年が無事に帰ってきたのを見て、部隊では驚くと同時に、たいへんな喜びようだった。
ダルタニャンは連れてきた男の刀傷については、逃げ帰るときに怪我をしたというふうに、うまく取りつくろっておいた。そして、もう一人の兵の戦死と危険をおかしたことだけを報告した。
この話で、彼の名声は高まった。全軍が一日じゅう、この偵察の話でもちきりだった。王弟殿下からもお賞《ほ》めの言葉をちょうだいした。
そのうえ、すべてりっぱな行為には報《むく》いがあるもので、ダルタニャンはこの日の働きの結果として、失われていた心の落ちつきを取りもどすことができた。二人の敵が、一人は殺され、一人は心服させるに至ったので、たしかに彼は平静な気持ちを取りもどしたわけだ。この心の落ちつきは、あることを示していた。それは彼が、まだミラディーという女をよく知っていなかったということである。
四十二 アンジュー産のぶどう酒
国王が重態だという話につづいて、こんどは回復に向かわれたという噂が、全軍に流れた。そして一日も早くご自身自ら攻囲戦に望まれることを欲していられるので、馬に乗れるようになりさえすれば、すぐに出発なさるということだった。
王弟殿下は、いずれは全軍の指揮権が、それを狙っているアングレーム公か、バッソンピエールか、ショーンベルクかの手に移されると思っていたので、あまり動こうとはせず、偵察ですませて、レ島のイギリス軍を追いだす作戦などには手を出そうとはしなかった。
フランス軍がラ・ロシェルを包囲しているあいだに、レ島のイギリス軍はひきつづいてサン=マルタン城砦《じょうさい》やラ・プレの砦を攻撃していたのである。
前述したようにダルタニャンは、心の落ちつきを取りもどしていた。それは危険が通りすぎた、危険がなくなったという気持ちであった。気にかかることといえば、友人たちから少しも消息がなかったことである。
ところが、十一月の初めのある朝、ヴィルロワ発信の手紙がきたので、すっかりようすがわかった。
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ダルタニャンさま。
アトス、ポルトス、アラミスのお三方が当館にて酒宴を催され、あまり破目《はめ》をはずしておさわぎになりましたので、きわめて厳格な当地の司令官殿より、数日間の禁足を申し渡されました。さてその節ご愛用いただきましたアンジュー産のぶどう酒一ダースを、ご三方のお申し付けによりお手許までお送りいたします。このご愛用のぶどう酒でご三方の健康を祝してご乾盃くださるようにとのことでございます。
近衛銃士隊御指定旅館主人、ゴドー
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「うれしいな」と、ダルタニャンは叫んだ。「こっちが困っていたときにあの連中のことを考えたように、先方も楽しんでいるときにおれのことを考えていてくれたんだ。よろしい、貴公たちの健康を祝して痛飲することにしよう。だが、一人ではうまくないな」
そこで彼は、隊の中でも比較的親しくしている親衛隊士二人のところに駆けつけて、ヴィルロワからアンジュー産のぶどう酒がとどいたから一杯やろうと誘った。一人はその晩よそに招かれていたし、もう一人のほうは翌日約束があったので、会食は翌々日ということになった。
ダルタニャンはもどって来ると、一ダースのぶどう酒を酒保《しゅほ》にとどけさせ、大切に保管してくれるように頼んだ。そして酒宴の当日には、時刻を正午と定めてあったので、九時にプランシェを準備のためにやった。
給仕頭《きゅうじがしら》という大役を命じられたプランシェは得意になって、万事手抜かりなく準備をととのえようと考え、そのために会食者の一人の従者でフーローという男と、ダルタニャンを殺そうとした例の男とを助手に頼んだ。この男はどの隊にも属さない偽兵士であったが、ダルタニャンに命を助けられてからは彼の召使い、というよりもプランシェの下働きとして仕えていたのだった。
宴会の時刻に二人の客がやってきて食卓につくと、料理が並べられた。プランシェがナフキンを腕にかけて給仕をし、フーローがぶどう酒の栓を抜き、ブリズモン、この男が例の暗殺者の名前だが、彼がぶどう酒をガラス瓶に移しかえた。道で揺られたためか、ぶどう酒の滓《かす》が沈澱《ちんでん》しているようだった。ブリズモンは、最初のぶどう酒の瓶の底のほうが少し濁っていたので、その滓をコップにあけた。ダルタニャンは、ブリズモンがまだ体力を回復していなかったので、それを飲んでもいいといった。
会食者たちがポタージュをすませて、さて最初の盃《さかずき》に口をつけようとしたとき、とつぜんルイ堡塁《ほるい》とヌフ堡塁に、砲声がとどろいた。城砦《じょうさい》内の敵かイギリス軍か、とにかく敵の奇襲にちがいないと思って親衛隊士たちは剣に飛びついた。ダルタニャンもおくれじと、それにならった。三人は、それぞれの部署につくために走った。
ところが酒保を出たとたんに、砲声の理由がわかった。[国王万歳!][枢機卿万歳!]という叫びがあちこちで起こり、太鼓の音があたり一面にひびきわたっていたからである。
じじつ、前述したように気のせかれていた国王陛下は途中二つの宿営地をとばして、王一門と増援隊一万とを率い、ちょうど今到着されたのだった。銃士隊が、前後をかためていた。ダルタニャンは自分の隊列にはいると、まっさきに彼を見つけたトレヴィール殿と、彼に目礼を送った三銃士に、身ぶりで挨拶を送った。
歓迎の式がすむと、さっそく四人の友は抱き合った。
「まったく、貴公らはいいときに来たな」と、ダルタニャンがいった。「まだ料理は冷めてはいまい。ねえ、だいじょうぶだね」そう彼は二人の親衛隊士に声をかけて、彼らを友人たちに紹介した。
「おや、おや! 宴会らしいな?」と、ポルトスがいった。
「その食事に、女はいないだろうな?」とアラミス。
「こんなところに飲める酒があるのかね」とアトス。
「へえ、なんだって! きみたちが送ってくれた酒じゃないか」と、ダルタニャンは答えた。
「なに、おれたちの酒だと?」アトスのびっくりした声。
「そうさ、きみたちが送ってくれた酒だよ」
「おれたちが酒を送ったって?」
「なんだね、知ってるくせに、アンジューの丘でできる飛びきりのぶどう酒さ」
「うん、そういう酒のことは知ってるがね」
「きみが好きなやつだよ」
「たしかに、シャンパンもシャンベルタンもないときにはな」
「そうかい! シャンパンやシャンベルタンがないから、それでがまんしてくれよ」
「それで、アンジュー産のぶどう酒を取りよせたっていうわけだね、われわれ酒にうるさい連中のためにか?」と、ポルトスがたずねた。
「ちがうよ、きみたちが送ってくれた酒だよ」
「おれたちがだって?」三人の銃士が口をそろえていった。
「アラミス、きみが送ったのかい?」と、アトスが聞いた。
「いや、ちがう。きみか、ポルトス?」
「ちがうね、じゃ、アトスか?」
「いいや」
「きみたちでないとすると、宿の亭主だ」と、ダルタニャンがいった。
「宿の亭主だというと?」
「そう、貴公らの宿の、銃士隊指定旅館のゴドーっていう」
「どこから来たっていいじゃないか、ちょっと味を見て、よかったら飲もうや」と、ポルトス。
それをアトスが、「いかん、出どころのわからん酒は飲めん」と制した。
「そのとおりだ、アトス」と、ダルタニャンはいった。「きみたちはだれも、亭主のゴドーに、ぶどう酒を送ってくれるようには頼まなかったんだね?」
「頼まないな。それなのに、われわれからだといって送ってきたのかい?」
「これが手紙だ!」
そういって彼は、友人たちに手紙を見せた。
「あの男の筆蹟じゃない!」と、アトスが叫んだ。「おれは出発するとき、みんなの勘定を払ったから、よく知ってるんだ」
「偽手紙だ。おれたちは禁足なんか食らやあせんよ」と、ポルトスもいった。
「ダルタニャン、わたしたちがばか騒ぎをしたなんて、どうしてそんなことを信じたんだい?……」と、アラミスは、なじるような口調でいった。
ダルタニャンはまっさおになって、わなわなと手足をふるわせた。
「心配させるじゃないか、貴様、どうしたんだ?」よほど重大なときでないかぎりは貴様呼ばわりをしないアトスが大声をだした。
「急ごう、急いでくれ、みんな」と、ダルタニャンは叫んだ。「気がかりなことがあるんだ! これも、またあの女の復讐かもしれん」
こんどは、アトスが青くなった。
ダルタニャンは、酒保に向かって走った。三人の銃士と二人の隊士も、それにつづいた。
食堂に飛びこんだダルタニャンの眼に最初にはいったのは、床に倒れてひどい痙攣《けいれん》でのたうちまわっているブリズモンの姿だった。
プランシェとフーローが顔色を変えて介抱していたが、もうそれもむだなことは目に見えていた。断末魔《だんまつま》の苦悶で、顔がひきつれていた。それでもダルタニャンの顔を見ると、ブリズモンは、「ああ! ひどい! 助けると見せかけて、毒を盛るとは!」
「このおれがかい! なんてことを言うんだ!」と、ダルタニャンは叫んだ。
「このぶどう酒をくれたのは、あんただ、飲めといったのは、あんたじゃないですか! あんたはわたしに復讐しようとしたんだ、あんまり、ひどすぎるよ!」
「そんなふうに思ってはいかんよ、ブリズモン! 誓って言うが、断じておれは……」
「いや、神さまが見ていらっしゃる! 神さまが罰せられるだろう、あんたを! ああ、苦しい! この苦しみをいつかあんたに!」
「福音書にかけて誓う」と、ダルタニャンは急いで瀕死《ひんし》の男に近よると、
「この酒に毒がはいってたことは知らなかったんだよ、ほんとうに、そうなんだ、おれもこれを飲もうとしたんだから」
「嘘だ!」
そう言うと男は苦しそうにのた打ちまわって死んだ。
「おそろしい! おそろしいこった!」と、アトスがつぶやいた。そのあいだにポルトスはぶどう酒の瓶をたたき割り、アラミスはいささかおそまきながら、聴罪司祭を呼んでくるようにと命じた。
「ああ、貴公たちのおかげで、また命拾いをしたよ。おればかりじゃない、こちらの諸君もだ」といってからダルタニャンは、親衛隊士に向かい、
「諸君、この件については、いっさい他言しないようにお願いしたい。これには身分のある人が関係しているかもしれないし、そのためにまた災《わざわい》がわれわれに及ぶかもしれんので」
「ああ、だんなさま!」と、プランシェが、まるで生きた心持ちもないといった顔をして口ごもった。「ほんとに、命拾いをしました」
「なんだ、こいつ! おまえもこの酒を飲もうとしたのか?」
「もしフーローがお呼びだといってくれなかったら、陛下のご健康を祝して、一杯飲むところでした」
「じつは!」と、フーローも恐ろしさに歯をがたがたさせながら、「一人でこっそりやるために、この人を追っぱらうつもりだったのです」
「ごらんのようなわけで」と、ダルタニャンは二人の隊士に向かっていった。
「このようなことがあったあとでは宴会も気がめいるばかりですから、申しわけないがまた後日ということにしていただきたい」
二人の親衛隊士はこころよくダルタニャンの言葉をいれ、四人の仲間だけで話もあるだろうと察して、引きとった。
青年と三銃士だけになると、いよいよ事は重大になってきたとばかりに、互いに顔を見合わせた。
「とにかく、ここを出よう」と、アトスがいった。「死人と、しかも非業《ひごう》の死をとげた男といっしょにいるのは、かなわんからな」
「プランシェ、こいつの死骸《しがい》を片づけてくれ。墓地に葬ってやるがいい。罪を犯したにはちがいないが、悔い改めていたんだからな」とダルタニャンは命じた。
四人の友は、プランシェとフーローにブリズモンの死体の始末を任せて、その部屋を出た。
酒保《しゅほ》のおやじが別室をとってくれたので、四人は半熟卵と水で食事をした。水はアトスが、自分で泉まで汲みに行った。ポルトスとアラミスには、簡単にいままでの事情を説明した。そしてダルタニャンは、アトスにいった。
「まったく! 貴公も同感だろうが、こいつは命がけの戦いだ」
アトスは、首をふった。
「うん、そいつはそうだ。だが、たしかにあの女かね?」
「おれはそう思う」
「だが正直のところ、おれはまだ疑っているんだ」
「だが、あの肩のゆりの花は?」
「フランスでなにか悪事をはたらいたイギリスの女で、やはりその罪で肩に烙印《らくいん》を押されたんだろう」
「アトス、あれは貴公のものだった女だよ。どこからどこまで、特徴がぴったり合ってるとは思わないかね?」
「だが、もう一人のは、たしかに死んだんだがな、ちゃんとわたしが縛り首にしたんだから」
こんどは、ダルタニャンが首をふった。
「では結局、どうしたらいいんだ?」と、青年はたずねた。
「いつまでも頭の上に剣をかざされたままではいられまい。なんとかしてこの状況から脱しなくては」と、アトスがいった。
「だが、どうやって?」
「いいか、なんとかしてあの女を見つけだして、話し合うんだ。こういってやればいい。和睦か決戦か、とな。貴族の名にかけてもあんたのことは人に言わぬし、あんたに対して危害を加えぬ。その代わりあんたのほうも、わたしに対して中立を守ってもらいたい。さもなければわたしは枢機卿にも会い、国王陛下にも会い、刑吏にも会いに行く。宮廷じゅうをけしかけてあんたに立ち向かわせ、あんたが烙印のある前科者だということをあばいて、裁判にかけよう。もしもあんたが無罪になったそのときは、貴族として誓うが、どこかの町角で、狂犬でも殺すように、かならずあんたを殺してみせるとね」
「そのやり方は気にいった」と、ダルタニャンはいった。「だが、どうやってあの女に会うかな?」
「時だよ、きみ。時が来れば、かならず機会ができる。機会というものは賭博《とばく》の倍賭けと同じで、賭ければ賭けるほど、待つということを知っている者には、もうけは大きいものさ」
「それはそうだが、暗殺者や毒殺者に取りかこまれながら、待つというんではね……」
「なあに!」と、アトスはいった。「いままでだって神さまがお守りくださった。これからだってお守りくださるだろうよ」
「なるほど、おれたちはな。おれたちはなんといっても、命を張るのが商売なんだから。だが、あの女はどうする!」と、彼は低い声で言いだした。
「あの女って、だれだ?」と、アトスがたずねた。
「コンスタンスだ」
「ボナシュー夫人か! ああ、そうだったな、気のどくに! おれは貴公が恋をしているのを、すっかり忘れてたよ」
「いいかい」とアラミスがいった。「その死んだ奴から取りあげた手紙に、夫人が修道院にはいったとあったじゃないか? 修道院なら大丈夫だよ。ラ・ロシェルの攻囲戦が終わったら、このわたしがきっと……」
「そうだ、そうだ」と、アトスがいった。「そうだったな、アラミス、貴公は宗教界にはいる望みがあったな」
「銃士というのは臨時だから」と、アラミスは控えめにいった。
「この男は、だいぶ長いあいだ女から消息がないらしいんだ」と、アトスは低声でいった。「だが、気にするな。気持ちはよくわかっているからな」
「ところで、ことは簡単なように思えるがな」と、ポルトスがいった。
「どういう?」
「修道院にいるといったな?」
「そうだ」
「よし、攻囲戦が終わったら、その修道院から連れだしてきちまえばいい」
「だが、どの修道院だかがわからねば」
「そりゃ、そうだな」
「そう、そう、ダルタニャン、その修道院を選んだのは王妃だといったな?」と、アトスがたずねた。
「うん、おれはそう思うんだが」
「それなら、ポルトスが手を貸してくれるだろう」
「そりゃまた、どういうことだね?」
「きみの侯爵夫人だか、伯爵夫人がいるじゃないか。そういう人なら力があるだろう?」
「しっ」と、ポルトスは唇《くちびる》に手をあてた。「あの人は枢機卿側だと思うよ。だから、なんにも知っちゃいないだろう」
「では、おれが消息を聞きだす役を引き受けよう」と、アラミスがいった。
「アラミス、貴公がかい? どうやって!」と、三人は叫んだ。
「王妃付の宮中司祭とごく懇意《こんい》にしているから……」と、アラミスは顔を赤くしていった。
この言葉に安心して四人は、つつましい食事をすますと、その夜また会う約束をして別れた。ダルタニャンはミニームにもどり、三人の銃士は、自分たちの宿舎の用意をさせるために、国王の本陣へと向かった。
四十三 コロンビエ=ルージュ旅館
一刻も早く戦場に臨みたいと念じていた国王は、バッキンガム公に対する怨みは枢機卿におさおさ劣らぬから、陣地に着く早々に全軍を配置して、まずレ島のイギリス軍を追いはらい、ラ・ロシェルに攻撃をかけようと思った。ところが、バッソンピエールとショーンベルグの二将軍と、アングレーム公とのあいだに生じた不和のために、心ならずも国王の計画はおくれることとなった。
バッソンピエールとショーンベルグはフランスの元帥《げんすい》であるから、国王の大命の下に全軍を指揮する権利を主張した。ところがバッソンピエールは心底は新教徒なのだから、同じ宗派のイギリス軍やラ・ロシェル方を攻めるのに手心を加えはしまいかとの心配から、枢機卿はアングレーム公を推挙した。国王は枢機卿にそそのかされて、すでにアングレーム公を中将に任命していたのである。その結果、このままではバッソンピエールもショーンベルグも陣営を引き払いかねないので、それぞれ別個の指揮権を与えねばならなくなった。そこでバッソンピエールは町の北方、ラ・ルーからドンピエールにかけて、アングレーム公は東方、ドンピエールからペリニにかけて、ショーンベルグは南方、ペリニからアングータンにかけて、それぞれ陣をかまえたのである。
王弟殿下の宿舎は、ドンピエールにあった。
国王の本陣は、ときにはエトレに、ときにはラ・ジャリに移動していた。
枢機卿の宿舎はラ・ピエール橋近くの砂丘の上にあって、防御《ぼうぎょ》施設のない普通の民家であった。こうして王弟殿下はバッソンピエールを、国王はアングレーム公を、枢機卿はショーンベルグをそれぞれ監視しているわけである。この布陣ができあがると、ただちにレ島のイギリス軍の掃討《そうとう》にかかった。
状況はフランスに有利だった。なによりもまず良き兵士には良き食糧をというイギリス軍が、塩漬肉とビスケットしか食べていないのだから、数多くの病兵をだしていた。それに一年じゅうでちょうどこの季節はもっとも海上が荒れていて、毎日小舟が難破しない日はなかった。エギヨン岬から塹壕《ざんごう》のあたりにかけての海岸に、潮の打ち寄せる度ごとに、たくさんの舟の破片が打ちあげられた。それゆえ、国王方が陣営に引きこもっていたにしても、バッキンガム方は意地ずくでレ島にがんばっているだけだから、いずれいつかは撤退しなければならないことは明らかだった。
しかしながら、敵側も新たな攻撃の準備をしているというトアラス伯の報告があったので、国王は決戦すべきだと判断し、攻撃命令をくだした。
さて作者の目的は、ここで攻囲戦記を書くわけではなく、もっぱらこの物語に関係のある出来ごとを記すことにあるのだから、ここでは国王方の作戦が大成功をおさめ、枢機卿に栄ある名誉を与えたことのみを記すにとどめよう。
イギリス軍は一歩一歩後退し、戦うたびごとに破れ、ロワ島へ移る途中で粉砕されて、大佐五人、中佐三人、大尉二百五十人、貴族二十名を含む二千の兵と、砲四門、軍旗六十とを戦場に残したままで、乗船しなければならなかった。これらの砲と軍旗は、クロード・サン=シモンによってパリに持ち帰られ、ノートル・ダム寺院の円天井に戦利品として飾られた。
謝恩讃歌《デ・テウム》が陣営でとなえられ、戦勝はフランスじゅうにひろまった。
かくして枢機卿は、少なくとも一時的にはイギリス軍のことは心配しないで、攻囲戦のほうに全力を集中することができた。しかし、いまもいったように、ひと息つけたのは一時的のことだった。
バッキンガム公の使者モンテギューが捕えられて、ドイツ、スペイン、イギリス、ロレーヌの各国間に盟約のあることがわかったからである。
この同盟は、フランスに対するものだった。
そのうえ、思っていたよりも早く撤退《てったい》を余儀なくされたバッキンガム公の陣営からも、この同盟を証拠だてる書類がみつかった。枢機卿の覚え書きによれば、この書類はまた、シュヴルーズ夫人の、したがってまた王妃の罪をも明らかにするものであったといわれる。
すべての責任は、枢機卿の肩にかかっていた。絶対権力をもつ宰相であってみれば、責任もそれだけに大きいわけだ。そこで彼はその偉大なる天分を昼夜の別なく伸ばして、ヨーロッパの大国内で起こる、ごくわずかな動きをも聞きもらさぬように努めた。
枢機卿はバッキンガム公の活動力、とくに自分に対する憎しみをよく知っていた。フランスをおびやかす同盟がもし成功したならば、彼の権威は失われるであろう。今はまだルーヴル宮においては、スペインやオーストリアの政策の同調者だけしかいないが、そうなればそれらの国の代弁者を持つようになり、フランスの宰相、一国のすぐれた宰相である彼リシュリューは失墜してしまうだう。国王は子どものように彼の言うことを聞いてはいるが、やはり子どもが教師を憎むように彼を憎んでいるから、彼を王弟殿下や王妃の憎悪の復讐にまかせてしまうだろう。そうなれば、いよいよ破滅はまぬがれない。そしてフランスも、おそらく彼とともに亡びるであろう。なんとしても、これは避けねばならなかった。
そこで枢機卿が宿舎ときめたラ・ピエール橋の小宅には日夜使者が相つぎ、その数は増すいっぽうだった。
僧服がびったりしない、いかにも戦闘的な教会にぞくする修道僧がいたり、小姓の服を窮屈そうに着て、たっぷりしたズボンでもなお太った腰を隠しきれない女がいたり、なるほど手は黒いが足がほっそりしていて、どう見てもそこらで見かける貴族としか見えぬ百姓がいたりした。
さらにまた、はなはだ好ましからぬ訪問者もあった。というのは、二度か三度、枢機卿があやうく暗殺されそうになったという噂《うわさ》が立ったからだ。
枢機卿の敵側の言うには、このような[へま]な刺客の勝手な活動をゆるしたのは、じつは枢機卿自身の考えによるもので、まさかのときに逆に利用してやろうというのだが、宰相側の言うことも、その敵側の言うことも、どちらもそのまま鵜《う》のみに信じるべきではない。
とにかく、どんなにひどく枢機卿を中傷する者でも、この人の剛勇ぶりは認めずにはいられぬわけで、それほど彼はよく夜間に出歩いた。その目的は、あるときはアングレーム公に重大な命令をつたえるためであり、あるときは国王と打ち合わせをするためであり、ときには宿合の中では会いたくない密使と話し合うためであった。
いっぽう銃士たちは、攻囲戦にはたいした用事もなく、きびしく規律に縛られていなかったから、愉快な日々を送っていた。ことにわが三銃士はトレヴィール殿と親しかったので、特別な許可を得て、門限におくれて帰営したり、時間外に陣地に居残ったり、勝手にふるまうことができた。
ある夜のこと、ダルタニャンは塹壕《ざんごう》にはいっていたので同伴できなかったが、アトス、ポルトス、アラミスの三人は、二日前にアトスがラ・ジャリ街道で見つけておいたコロンビエ=ルージュという飲屋兼業の旅館から、外套に身を包んで軍馬にまたがり、片手を拳銃にあてながらもどってきた。警戒を怠らなかったのは前述したように、待ち伏せを恐れていたからである。
一キロほど行ったボアノー村まで来たとき、向こうからやって来る馬の足音がしたような気がした。そこで三人はすぐに立ちどまって、身を寄せ合い、道のまんなかで待ち受けた。まもなくして、ちょうど月が雲間から出るように、道のまがり角に、二人の騎士がぽっかり姿を現わした。先方もこちらの姿に気がつくと、馬をとめて進むべきか退くべきかと相談しているらしかった。この躊躇《ちゅうちょ》のようすが、三人に疑いを起こさせた。そこでアトスは二、三歩前へ出ると、しっかりした声で叫んだ。
「何者だ?」
「そちらこそ何者だ?」と、二人の中の一人の騎士が答えた。
「答える必要はない! 何者だ、返答せよ。さもないと、かかるぞ」
「諸君、そのような真似はせんほうがいい!」そのよく通る声は、指揮するのに馴《な》れた声のようである。
「夜の巡視をなされている高官らしいな。なんの用事で通られるのだ?」と、アトスは呼ばわった。
「そちらは何者だ? 答えないと、命令違反になりかねないぞ」同じ声が、同じように命令する口調でいった。
「近衛《このえ》銃士」アトスは問いただしている声がしかるべき人物であると、だんだんとわかってきた。
「隊は?」
「トレヴィール殿所属」
「前へ。このような時間に、ここで何をしていたか報告するように」
三人の銃士は前へ出た。自分たちよりも上級なものだとわかった彼らは、いささか悄然《しょうぜん》としていた。とにかく返答はアトスに任せることにした。
二度目に口をきいたほうの騎士は、連れから十歩ほど先に出ている。アトスは、ポルトスとアラミスにさがっていろと合図をして、自分だけ前へ進み出た。
「失礼いたしました」と、アトスはいった。「そちらがどなたさまか、われわれにはわかりませんもので、おゆるしください。ごらんのとおり、わたしたちは警備にあたっているのでして」
「貴公の名前は?」顔の一部を外套で隠しているその士官はいった。
「そちらは?」と、あくまでも尋問するような口調にいささかむっとして、アトスは言い返した。
「どうか、わたくしを尋問する権利をお持ちの証拠をお示し願いたい」
「貴公の名は?」相手はもう一度繰り返して言いながら、外套をずらして顔を見せた。
「あっ、枢機卿殿!」びっくりして銃士は叫んだ。
「名前は?」枢機卿の問いは三度目である。
「アトス」と、銃士は答えた。
枢機卿が合図をすると、従者が近づいた。
「この三人の銃士がついてきてくれるだろう」と、低声でいった。「宿舎を出たことを、だれにも知られたくないでのう。この連中はついてきてくれても、他言はしないだろうよ」
「台下、われわれは貴族でございます。他言するなど約束しろとおっしゃれば、それでもうご心配はいりません。われわれは、秘密を守るすべを、よく心得ております」と、アトスが横合いからいった。
枢機卿は、この差し出口をきいた男を、鋭い眼で見すえた。
「いい耳をしているな、アトス君。ついてきてもらおうというのは、きみたちを疑わしく思っているからではない。わたしを護衛してもらうためだ。あとの二人は、ポルトスとアラミスだね」
「さようでございます」とアラミスが答える間もなく、うしろにいた二人は、帽子を片手に進み出た。
「諸君のことは、よく知っておる」と、枢機卿はいった。「きみたちが残念ながら、すっかりわたしの味方でないこともね。だが、きみたちが勇敢で誠実な貴族で、信頼すべき人物だということは知っている。アトス君、きみの二人の友人といっしょに、わたしについてきてくれたまえ。こういう護衛を連れているところを、もし陛下がごらんになったら、きっとおうらやましくお思いだろうよ」
三人の銃士は、馬の首のあたりまで深く頭をさげた。
「はい、名誉にかけまして」と、アトスがいった。「台下がわれわれをお連れになるのは、よろしいこととぞんじます。じつは、ここへ来る途上で人相のよくない男たちに出会いましたし、コロンビエ=ルージュ旅館でも、そういう連中四人とひと喧嘩《けんか》やってきたところでございます」
「喧嘩だと! どういう理由からかな?」と、枢機卿はいった。「わしが喧嘩を好まぬことは、きみたちも知っていようが」
「であればこそ、あそこで起こったことを進んでこちらから台下のお耳に入れたのでございます。と申しますのは、台下がもし他の者の口からお聞きになって、その者のあやまった報告によって、われわれの側に非があるとおぼし召しになられては困りますから」
「その争いの結果は、いかがいたしたかな」と、枢被卿は眉をしかめてたずねた。
「ここにおりますアラミスが、剣でちょっと腕をやられました。と申しましても、明日台下が攻撃命令を出されたその節は、ただちに出陣いたす覚悟はできております」
「だが、太刀《たち》傷を受けて、そのまま引きさがるようなきみたちではないはずだ。正直に言いたまえ、ちゃんと仕返しはしたのだろう。白状したまえ、知ってのとおり、わしは赦免《しゃめん》を申しわたすことができるのだからな」
「わたしは、台下」と、アトスがいった。「剣は手にいたしませんでした。ただ相手が組みついてきましたので、窓から投げだしてやりました。でも、どうやら落ちたときに」と、ちょっとためらってから、「腿《もも》の骨を折ったようでしたか」
「なるほど、で、ポルトス、きみは?」
「わたしは、決闘の禁令は承知しておりますので、椅子《いす》を手にして、相手の一人をなぐりつけてやりました。肩の骨をくだいたようでございます」
「なるほど、で、アラミス、きみはどうした?」
「わたくしは元来、争いは好まぬほうでございますし、それに台下はごぞんじないと思いますが、近く僧職にもどるつもりの男でございますから、仲間を引き離そうといたしました。すると相手の一人が、その隙《すき》に乗じて、わたしの左腕を剣で突き刺したのでございます。こうなっては我慢《がまん》できず、わたしも剣を抜きました。相手はまたも打ちかかってきましたが、飛びついてきた拍子に、自分からこちらの剣に突き刺さったような、そんな手応《てごた》えがいたしました。相手が倒れたことは知っております。ほかの二人といっしょに、仲間が連れて行ったようです」
「なんということだ!」と、枢機卿はいった。「居酒屋の喧嘩で三人の男を打ちのめしてしまうとは、きみたちにかかってはたまらんな。ところで、その喧嘩の原因はなんだね?」
「連中は酔っぱらっておりまして」とアトスは答えた。「その晩宿に一人の女が泊まっていたことを知って、その女の部屋へ押し入ろうとしたのでございます」
「なぜまた、そんなことを」と、枢機卿がたずねた。
「乱暴でもはたらこうとしたのでございましょうか。重ねて申しあげますが、その男たちは酔っぱらっていたのでございます」
「で、その女は、若くてきれいな女であったかな?」と、枢機卿はなにか心配そうなようすを見せていった。
「われわれは、その女の人を見ませんものでしたので」と、アトスが答えた。
「きみたちは見なかったのか。そうだったのか!」と、枢機卿は急《せ》きこんで、「よし、よし、よくも婦人の名誉を救ってやったな。じつは、わたしがこれから行くのもそのコロンビエ=ルージュ館だから、きみたちの言ったことがほんとうかどうかが、すぐにわかる」
「台下」と、アトスが傲然《ごうぜん》と言い放った。「いやしくもわれわれは貴族です。嘘いつわりを申すようなことはいたしませんぞ」
「いや、わしはきみたちの言うことを疑ったりはしておらん。けっして疑ってはいないよ。だがな」と、話題を変えようとして「その婦人は一人だったかな?」といった。
「部屋の中に騎士が一人いましたが、あの騒ぎを聞きつけて姿を見せなかったところを見ると、よほどの臆病者にちがいありません」
「軽がるしく判断するなかれと、福音書は教えているよ」と、枢機卿は答えた。
アトスは、うやうやしく頭をさげた。
「では諸君」と、枢機卿はつづけていった。「これでよく話はわかった。わしについてきてもらおう」
三人の銃士がうしろへまわると、枢機卿はまた外套で顔を包んで、四人よりも十歩ばかり前に立って馬を進めた。
まもなく一行は旅館に着いた。宿はひっそり閑《かん》としずまり返っていた。おそらく宿屋の亭主は、人の訪問があることを知っていて、邪魔な者を追いだしてしまったのにちがいない。
戸口まであと十歩というところで、枢機卿は従者と三人の銃士に停止の合図をした。窓の風よけに、鞍《くら》をおいた一頭の馬がつないであった。枢機卿はなにか意味ありげに、入口の戸を三つたたいた。
すぐに、外套に身を包んだ男が飛びだしてきて、急いで枢機卿となにやら言葉をかわすと、馬に乗って、シュルジェールのほうへ、つまりパリの方角めざして走った。
「諸君、来たまえ」と、枢機卿はいった。「きみたちの言ったことはほんとうだった。だが、今夜きみたちと出会ったことで、きみたちになにか事が起こったとしても、それはわたしとは無関係だと思ってくれよ。とにかく、ついて来たまえ」
枢機卿が馬を降りたので、三人の銃士もそれにならった。枢機卿は従者に手綱《たづな》を渡し、三銃士は自分らの馬を窓の風よけにつないだ。
宿の主人が戸口に立っていた。彼から見れば、枢機卿は一婦人に会いにきた一士官といったところだった。
「この人たちに待っていてもらうのだが、暖かい部屋が階下にあるかね?」
亭主はだだっぴろい部屋のドアをあけた。古くなったストーブを、大きなりっぱな暖炉とかえたばかりの部屋である。
「ここでございますが」
「結構」と枢機卿はいった。「さあみんな、ここでわたしを待っていてくれ。三十分とはかからんからな」
三銃士がその部屋にはいるあいだに、枢機卿は勝手知ったる者らしく、案内も乞わずに階段をあがって行った。
四十四 暖炉の煙突の効用
べつになんの気もなく、ただ持ち前の義侠心と冒険心にかられて、わが三人の友は、枢機卿が特別に保護している人物のために尽くしたことは、明らかだった。
さて、その人物はだれなのだろうか?
最初に三人の銃士が考えたことは、この疑問であった。だが、どうしても納得のゆくような解答が得られなかったので、ポルトスは亭主を呼ぶと、サイコロを貸してくれと頼んだ。
ポルトスとアラミスとは、テーブルについて勝負をはじめた。アトスは考えこんで、歩きまわっていた。
アトスは考えこみながら、こわれかかった暖炉の煙突の前を行ったり来たりしていたが、その煙突の先は二階の部屋につながっているので、前を通るたびに、アトスの耳にかすかに話し声がはいって来るのに気づいた。アトスはそばに近よったところ、そのとき耳にはいった二言三言《ふたことみこと》がなにか重大なことのような気がしたのだろう、仲間たちにだまっていろと合図をして、煙突の穴のところにかがみこみ、耳をすました。
枢機卿の声がした。
「いいか、ミラディー、これは重大な話だぞ。まあ、そこへ腰かけて、話すとしよう」
「ミラディーだ」と、アトスがつぶやいた。
「台下のお話は、よく注意して聞いております」そう答える女の声を聞いて、銃士は身ぶるいした。
「イギリス人の乗組員の乗った小さな船が、ラ・ポアン砦近くのシャラントの河口であなたを待っている。船長は、わたしの腹心の者だ。明朝、出帆の予定だ」
「では、今夜のうちに行かねばなりませんわね?」
「これからわしのさしずを聞いたら、すぐにだ。戸口に待っている二人の男が、あなたがここを出たら、あなたの護衛にあたる。わたしが先に出るから、あなたはその三十分後に出るように」
「かしこまりました、台下。では、あたくしのいたします役目をお聞かせになってくださいませ。台下のご信頼には、あくまでもお応《こた》えいたす覚悟でございますから、どうぞお言葉をはっきりと正確にお命じくださいますよう。まちがうといけませんから」
しばらく二人のあいだに、ふかい沈黙が流れた。明らかに枢機卿は、これから話そうとする言葉を考えていたし、ミラディーはまた、これから聞く話をしっかり頭に刻みこんでおくために、精神を集中させていたのである。
アトスはこの閑《ひま》を利用して、二人の友に部屋の戸を内から鍵をかけるように言い、そばに来ていっしょに聞くようにと合図した。
二人の銃士はらくに聞けるように、三人分の椅子をはこんできた。そこで三人は腰かけて、頭を寄せ合い、聞き耳を立てた。
枢機卿は、言葉をつづけた。
「あなたはロンドンへ行って、バッキンガムに会うのだ」
「ご承知でございましょうが」と、ミラディーは答えた。「例のダイヤの飾りひもの事件以来、公爵はあたくしを警戒しております。あたくしを疑っておられるので」
「まあこんどは相手の信頼などどうでもいいのだ。正面きって、堂々と談判に行くのだから」
「正面きって堂々とですか」とミラディーは、いかにも腹黒そうな口調でいった。
「そうだ、正面きって堂々とだ」と、枢機卿は同じような口調でいった。「この談判は、公然とやらなければいけないのだ」
「台下のおさしずどおり、まちがいなくいたしますから、どうぞ、おっしゃってくださいませ」
「わたしの使者だといってバッキンガムに会い、こう言うのだ、そちらの計画は、すべてこっちにわかっている、だが少しもこわくはない、最初の動きが見えたら、王妃の命はないものと思えとな」
「台下には、そのような脅《おど》しが成功するとお考えですか?」
「もちろんさ。わたしは確証を握っているのだからな」
「その確証を先方に匂わせてやる必要がありますね」
「そうだな。では、こういってやりたまえ。元帥夫人が仮装舞踏会を催された晩、公が王妃と会ったことについてのボワ=ロベールとボートリュ侯爵夫人の報告を公表するとね。もっとはっきりさせるためには、その夜、公は、ギュイーズ騎士爵《ナイト》が着ることになっていたムガール皇帝の扮装を、三千ピストールで求めて、それを着て現われたと言ってやるんだな」
「かしこまりました」
「公爵がイタリアの占者の服装で、ルーヴル宮に忍びこんだ夜のことも、すっかりわかっているんだ。わたしの得た情報を疑うようだったら、こういってやるんだ。公は外套の下に、黒い数珠《じゅず》模様に骸骨《がいこつ》を描いた白い婦人服を着ていた、とね。これは、もし人に見つかったときに、いつもなにか大事件が起こるとルーヴル宮に現われるという白衣の婦人の亡霊に見せかけるつもりだったのだとね」
「それで全部でございますか?」
「アミヤンの事件も、詳細にわたって知っておると、いってやったらいい。じつはわたしは、あの庭園を舞台に、あの夜の主要な登場人物を用いて、ちょっと気のきいた小説を書こうと思っているくらいだ」
「そう申しましょう」
「それからまた、こういってやってくれ。モンテーギュを捕えたとな。あの男は、バスティーユに入れてある。なるほど、あの男のからだからは何もみつけ出せなかったが、拷問《ごうもん》によって知っていることを言わせたとね、いや……あの男の知っていないことまで言わせたとな」
「それは、よろしゅうございましたわね」
「最後に、これも言ってやるんだ。公はレ島から逃げるときに、あんまりあわてていたので、陣中にシュヴルーズ夫人の手紙を置き忘れてしまったんだ。その手紙は、王妃の運命をあやうくするものなんだ。王妃が国王の敵を愛しているということばかりでなく、王妃がフランスの敵と密謀しているということを、その手紙は証明しているからなんだ。どうだい、わしの言ったことを、みんな覚えたかな?」
「元帥夫人邸の舞踏会のこと、ルーヴル宮の一夜のこと、アミヤンの夜のこと、モンテーギュの逮捕のこと、それにシュヴルーズ夫人の手紙のこと、それだけでございましたね?」
「そう、そのとおり、ミラディー、あなたは、たしかに記憶がいい」
「でも」と、枢機卿におだてられたミラディーはいった。「それだけ言われても公爵が折れようとせず、なおフランスをおびやかそうとしたら?」
「公爵は恋ゆえに狂っている、いや恋ゆえに頭がばかになっているのだ」と、リシュリューは、いかにもにがにがしげにいった。「まるで昔の遍歴騎士のように、恋する女の視線を自分のものにしたいだけで、この戦争をはじめたのだ。それゆえ、この戦争が意中の夫人の名誉を、おそらくはその自由をも失わせる結果になると知ったら、考え直すにきまっている」
「でも」とミラディーは、自分の負《お》わされた使命を先の先まで見通しておきたいらしく、あくまでも執拗《しつよう》に食いさがった。「それでもなお、あくまでも公ががんばりましたら?」
「そんなことはないよ」
「あるかもしれませんわ」と、ミラディー。
「もしあくまでも抗戦するなら……」そして枢機卿は、ちょっと間をおいてからつづけた。「よかろう! わたしは諸国家間の形勢を転換させるような事件が起こることを期待しよう」
「もし台下が、そういう事件の幾つかを歴史上の例からご引用くだされば、これからのあたくしの仕事にも役立つと思いますが」
「いいかね、たとえばだよ」と、リシェリューはいった。「一六一〇年にアンリ四世が、現在のバッキンガム公爵とほとんど同じような動機から、オーストリアを両面からたたくために、フランドルとイタリアに同時に侵入したことがあった。そのとき、あることが起きて、オーストリアを救ったではないか? それと同じ幸運が、今日のフランス王に生じてどうしていけないのだろうか?」
「フェロヌリー街の暗殺(アンリ四世はフェロヌリー街で、狂信徒ラヴァイヤックに暗殺された)のことをお話になっていられるのですね?」
「そのとおり」と、枢機卿はうなずいた。
「あの刺客ラヴァイヤックが受けた刑罰の恐ろしさを考えれば、ほんの瞬間でも、あのようなことを真似しようと考える者はいないと思いますが」
「いかなる時代でも、またいかなる国でも、とくにその国が宗教上の分裂で苦しんでいるような場合には、殉教者たらんと志す狂信者がいるものだよ。そうだ、いま思いだしたのだが、新教徒たちは公爵に対して憤慨していて、その説教師たちは公爵のことをキリストの敵とまで呼んでいるくらいだからね」
「それで」と、ミラディーが聞いた。
「それでな」と、枢機卿はさりげない調子でつづけた。「さしあたっては、例えば若くてきれいで抜けめのない女で、公爵に怨みをもつ女をさがしたらいいんだ。そういう女に、きっとぶつかるよ。公爵は名うての色ごのみだから、永久に変わらぬ心とか約束をして、あちこちに色恋の種をまいていれば、その不実を怨んでいる女もそれだけに多いわけだ」
「たしかに、そういう女がいるにちがいありません」と、ミラディーは冷やかにいった。
「そうだよ! そういう女が、ジャック・クレマン(ドミニカン派の僧で、一五八九年にアンリ三世を暗殺した)やラヴァイヤックが使ったような短刀を狂信者の手に渡してくれさえすれば、フランスは救われるだろうね」
「さようでございます。でも、その女は暗殺の共謀に問われることでございましょう」
「ラヴァイヤックやジャック・クレマンの共犯者がだれだか、わかったかね?」
「いいえ、そういう人たちはあまり高い地位にいるので、調べることができない人たちだったのでしょう。そうでなければ、裁判所を焼き払うようなことはなかったと思いますが」
「ではあなたは、裁判所の火事(パリの裁判所は一六一八年の大火で焼けて、そのときゴシック建築の古代の大広間も焼失した)は偶然ではなくて、ほかになにか理由があったと思うのかね?」と、リシュリューはたずねたが、べつにそのことを問題にしているようには見えなかった。
「あたくしは思っているのではございません。ただ事実を申しあげているだけでございます。あたくしがモンパンシエ嬢(モンパンシエ公爵、ルイ・ド・ブルモンの二度目の夫人で。狂信的な神聖同盟員で、アンリ三世の暗殺を企てたと疑われた)だとか、マリ・ド・メディシス王妃(アンリ四世の王妃。王の暗殺後、摂政となったが失政が多く、ルイ十三世親政後はブロアに追放さる。後リシュリューの取りなしで宮廷に帰ったのに枢機卿の追放を図り、かえって失敗し、自ら亡命した)であるならば、こんな用心はいたしませんが、あたくしはただのクラリック夫人にすぎないのですから」
「なるほどね。ではどうしてほしいというのかね?」
「フランスのもっとも大きな利益のためにあたくしがしなければならないことを、前もって承認しているという、そういう指令書がほしゅうございます」
「しかし、まず今わたしが申したような、公爵に怨みを持っている女をさがすことが第一であろうが」
「それは、ちゃんとおります」と、ミラディーがいった。
「それから、神の裁きの役目をする狂信者も必要だね」
「それも見つかりましょう」
「よろしい。では、あなたが今いった指令書は、そのときでも間にあうだろうが」
「台下のおおせのとおりでございます。あたくしはただ、お与えになった使命だけを遂行すればよろしいので、よけいなことを申し出ましたのは、あたくしのまちがいでございました。
あたくしの使命は、つまり台下のお言葉として公爵にお伝えすることは、元帥夫人邸で催された夜会のときに、公爵がいろいろな変装で王妃に近づいたことを台下がよく知っておられること、ルーヴル宮で王妃がイタリアの占者、じつはバッキンガム公爵に会われた確証があること、アミヤンの出来ごとを、あの夜の舞台と人物とを使って、台下が小説になさるお考えのあること、モンテーギュがバスティーユに捕われていて、責められて心にあることないことを白状したこと、最後に、公爵の陣営に残っていたシュヴルーズ夫人の手紙を台下が持っていられて、その手紙は、その筆者ばかりでなく、そこに名前を書かれているお方の一身をもあやうくするものであること、そうでございますね。そして、それでもなお公爵が考えを捨てないとしても、あたくしの役目はただ、以上の事柄を伝えることだけなのですから、あたくしはフランスをお救いくださるように神に奇蹟の起こることをお祈りするより仕方ない、こういうことでございますね、台下。そのほかに何かございましょうか?」
「それでよろしい」と、枢機卿は、そっけない口調でいった。
「では」とミラディーは、自分に対する枢機卿の口調が変わったことに気づかぬふりをして、「こうして台下の敵についてのおさしずはちょうだいいたしましたから、こんどはあたくしの敵のことをお耳に入れておきたいのですが」
「あんたに敵があるのかね?」と、リシュリューはたずねた。
「はい、ございます。その敵については、あなたさまがあたくしをお助けくださるものと信じております。どれもこれも、あたくしが台下のお役目を果たすために作ってしまった敵なのですから」
「何者だね?」と、彼は問い返した。
「まず、ボナシュー夫人という小うるさい女でございます」
「あれは今、マントの牢獄にはいっている」
「おっしゃるとおりだったのですが、王妃が陛下の命令書をおもらいになって、ただいまは、修道院に移されております」
「修道院にか?」
「はい、さようでございます」
「どこかね?」
「ぞんじません。秘密がよく守られておりますので」
「調べさせよう、わたしが」
「わかりましたら、あの女がどの修道院にいるか、お聞かせ願えましょうか?」
「べつにあんたに知らせても差しつかえはあるまい」と、枢機卿はいった。
「ありがとうございます。なおもう一人、ボナシュー夫人のほかに、あたくしにとっては恐るべき敵がいるのです」
「だれかね?」
「あの女の恋人でございます」
「なんという名だ?」
「その男は、枢機卿さまもよくごぞんじでして」と、ミラディーは怒りにかられて叫んだ。「台下にとりましても、あたくしにとりましても悪魔のような男でございます。枢機卿さまの親衛隊との出会いの節は近衛銃士に味方して勝たせた男、台下のご使者ウァルド伯に三太刀も切りつけて、ダイヤの件を失敗させた男、そのうえ、ボナシュー夫人をかどわかしたのはあたしだと知って、このあたしを殺すと誓っている男でございます」
「ああ、そうか、そうか! あんたがだれのことをいっているか、わたしにもわかっている」
「あのダルタニャンのことでございます」
「あれは、勇敢な男だよ」と、枢機卿はいった。
「まさに勇敢な男であればこそ、ますますもって手ごわい相手でして」
「バッキンガムと内通している証拠でもあればね」
「証拠ですって!」と、ミラディーは叫んだ。「証拠なら、いくらでも手に入れておめにかけます」
「よろしい。それなら、事は簡単だ。その証拠を持っておいで。あの男をバスティーユへ送りこんでやるから」
「ありがとうございます! で、それからあとは?」
「バスティーユにはいってしまえば、もうそれからあとなどの必要はない」と枢機卿はにぶい声でいった。
「ああ、あなたの敵をかたづけるように、わたしの敵もたやすく片づけられたらいいのだがね。あなたがわしに要求するそういった人間に対しては、無罪にするのも容易なのだがな……」
「台下、れっきとした物と物との交換ですわ、命と命、男と男とをですわ。あの男をあたくしにくだされば、もう一人の男をお渡ししましょう」
「あなたの言う意味がわしにはわからんが、またべつにわかろうとも思わんが。とにかく、あんたのいいようにしてあげよう。そんなに悪い人間なら、あんたの望みどおりにしてやっても一向に差し支《つか》えないわけだ。あのダルタニャンがそんなに不品行で、決闘ずきで、危険な男だとすればね」
「それはそれは、ひどい破廉恥《はれんち》な男でございます」
「では、紙とインクとペンをよこしたまえ」と、枢機卿はいった。
「では、これを」
ちょっと沈黙が流れた。枢機卿が書くべき文句を考えているのか、あるいは書きかけているのにちがいなかった。
いままでの会話を一語もらさず聞きとったアトスは、二人の友人をひっぱって、部屋の片隅に連れて行った。
「どうしたんだ! なぜ話の最後まで聞かないんだ?」と、ポルトスがいった。
「しっ」と制して、アトスは声を低め、「こちらで聞きたいことはみんな聞いてしまったんだからな。もちろん、きみたちが聞きたかったら、聞いたらいい。だが、おれは出かけなきゃならん」
「出かけるんだって! だが、枢機卿が貴公のことをたずねたら、なんて答えるんだい?」と、ポルトスがきいた。
「たずねられるのを待たずに、こっちから先手を打って、こう言うんだ。宿の亭主の言うには途中が安全でないというので、おれが斥候《せっこう》として先発したとな。枢機卿の従者には、おれがひと言そういっておく。あとはおれにまかせてくれ、心配することはない」
「用心しろよ、アトス」と、アラミスがいった。
「安心したまえ」と、アトスは答えた。「知ってのとおり、いつだっておれは落ちついているんだから」
ポルトスとアラミスとは、また煙突のところへ席をしめた。
アトスは少しも怪しまれずに外へ出ると、窓の戸の枠止木《わくとめぎ》につないであった馬をはなし、帰途の安全のために斥候として先発する必要があることを手短かに従者に納得させて、わざと拳銃の弾薬をしらべたり、剣を抜き放つと、決死の意気ごみを見せて、陣営へと向かう道を進んで行った。
四十五 夫婦が演じる活劇
アトスの予想どおり、それから間もなくして、枢機卿が降りてきた。彼が銃士たちのいる部屋のドアをあけると、ポルトスがアラミスを相手に、夢中になってサイコロを戦わせているところだった。彼はひと目で、人数が一人たりないのに気づいた。
「アトスはどうしたのかね?」
「台下」と、ポルトスが答えた。「宿の主人の話で、帰り道が安心できないと聞いたので、斥候の役をするために先発いたしました」
「で、ポルトス、貴公は何をしていたんだ?」
「アラミスから五ピストールまきあげました」
「では、これからわたしといっしょに来てもらえるだろうね?」
「なんなりと、おさしずどおりにいたします」
「では、さっそく馬に。だいぶ夜もふけた」
従者が入口で、枢機卿の馬をひいて待っていた。少し離れて、二人の男と三頭の馬が、闇をとおして見えた。この二人の男がミラディーをラ・ポアントの砦《とりで》まで送って、彼女の乗船を見とどけることになっているのだ。
従者が枢機卿に、二人の銃士がアトスのことでさきほど述べた言葉を立証した。枢機卿はわかったという合図をすると、来たときと同じように用心をしながら、道を進んだ。
で、枢機卿は従者と二人の銃士に守られて帰途に向かわせることにして、アトスのことに話をもどすとしよう。
アトスは出てから百歩ぐらいは同じ歩調をとっていたが、だれにも見られないところまで来ると、馬を右手へ向けて間道《かんどう》にはいり、二十歩ほどもどると茂みに隠れて、一行が来るのを待ち受けた。そして友人たちの縁《ふち》どりのある帽子と、枢機卿の外套の金色の房が目にはいると、一行が道の角をまがって見えなくなるのを待って、急いで旅館にとって返した。旅館では、すぐに戸をあけてくれた。
宿の亭主は、顔をおぼえていた。
「わたしの指揮者が二階のご婦人に大事なことを言い忘れたので、わたしが命令でそれを伝えにまいった」
「おあがりくださいまし。まだお部屋にいらっしゃいますから」と、主人はいった。
アトスは許しが出たのをいいことに、足音を忍ばせて階段をのぼり、踊り場まで行った。半びらきのドアからは、ミラディーが帽子をかぶっているのが見えた。
彼は部屋にはいると、うしろ手でドアをしめた。
彼が錠《じょう》をおろした音を聞いて、ミラディーはふりむいた。アトスは外套に身を包み、目の上にまで帽子を引きさげて、ドアの前に突っ立っていた。ミラディーは、立像のように無言のままでじっとしているその姿に、恐怖をおぼえた。
「どなたです? なんのご用です?」と、彼女は叫んだ。
[そうだ、たしかにあの女だ!]と、アトスは心の中でつぶやいた。そして彼は外套を脱ぎ、帽子のつばをあげると、つかつかと彼女のほうへ近づいた。
「わたしをおぼえているかね?」と、いった。
ミラディーは一歩前へ出た。が、蛇《へび》に見こまれたように、あとずさりした。
「そうか、よろしい。わたしを覚えているようだな」
「ラ・フェール伯爵!」ミラディーはそうつぶやくと、まっさおな顔をして、壁際までさがった。
「そうだ、ミラディー。ラ・フェール伯爵があんたに会うために、わざわざ別の世界からやってきたのだ。まあ坐って話をしよう、枢機卿殿が言われたようにな」
ミラディーは言いようのない恐怖に押しつけられて、ひと言も口がきけず、腰をおろした。
「あんたという女は、この世に送りこまれた悪魔だな。悪魔の力は大きい。それはわたしも知っている。だが、人間は神の加護によって、もっとも恐るべき悪魔にもしばしば打ち勝っていることは、あんたも知ってるだろう。あんたはすでにわたしの前に現われたことがあるが、わたしはあんたを打ち倒したものとばかり思っていた。だが、それはわたしの思いちがいだったのか、それとも地獄があんたを蘇生《そせい》させたのか」
ミラディーは、恐ろしい記憶をよみがえらしたこれらの言葉を聞くと、首をうなだれて苦しそうに呻《うめ》き声をあげた。
「そうだ、地獄があんたを蘇生させたんだ。地獄があんたを富裕にし、別の名前を与え、顔までもほとんど別人のようにした。だが、あんたの魂の汚れや、肉体の烙印《らくいん》までは消すことができなかった」
ミラディーは、はじかれたように立ちあがった。その眼からは、稲妻《いなづま》のような光が走った。アトスは、坐ったままである。
「あんたは、わたしを死んだと思っていたんだろう、ねえ、そうなんだろう、ちょうど、わたしがあんたを死んだと思ったようにな。だが、アトスという名が、ラ・フェール伯爵を隠していたのだ、クラリック夫人という名が、アレヌ・ド・ブルイユを隠しているようにね。あんたの兄貴が、あんたをわたしと結婚させたときは、あんたはそういう名前ではなかったかな? お互いに二人の立場は、まったく奇妙なものだな」と、なおアトスは笑いながら言いつづけた。「われわれが今まで生きて来られたのは、お互いに相手が死んだものと思いこんでいたなればこそだ。思い出というものは、ときには堪えがたい苦痛を与えるものだが、生きた人間ほどには人を苦しめないものだね!」
「それにしても」と、ミラディーは押しつけられたような声でいった。「あなたはいったいだれに頼まれてここへ? あたしになんの用がおありですの?」
「じつは、あんたの目から見えないところにいても、わたしのほうはあんたから目を離したことはなかったのだ」
「あたしがどういうことをしたか、ごぞんじですの?」
「あんたが枢機卿に仕えるようになってからのことは、一日だって欠かさずに言えるよ」
まさかそんなことは信じられないという微笑が、ミラディーの青ざめた唇に浮かんだ。
「まあ聞けよ。バッキンガム公爵の肩から、ダイヤの飾りを二つ切りとったのはあんただ。ボナシュー夫人を誘拐《ゆうかい》させたのもあんただ。ウァルド伯に想《おも》いをかけ、いっしょに一夜をすごすつもりで、ダルタニャンを部屋に入れてしまった。そしてウァルド伯から裏切られたと知ると、その恋敵の手で伯爵を殺させようとした。その恋敵に自分のいまわしい秘密を握られると、こんどは二人の刺客を使って、彼を殺そうとした。銃で撃ちそこねたと知ると、仲間が送ったように見せかけた手紙を添えて、毒薬入りのぶどう酒を送ってよこした。みんな、あんたの仕業《しわざ》だ。それからまた、この部屋で、いまわたしが坐っているこの椅子に腰かけて、リシュリュー枢機卿にバッキンガム公を暗殺させる約束を、それと引き換えに、ダルタニャンを殺させる約束をさせた、これもあんたがやったんだよ」
ミラディーの顔から血の気がうせた。
「あなたは、まるで悪魔の化身《けしん》だわ」
「そうかもしれない」と、アトスは言ってのけた。「だがどっちにしても、これだけは聞いてもらおう。バッキンガム公を暗殺しようがしまいが、そんなことは一向にかまわないんだ。わたしの知ってる人間じゃないし、相手はイギリス人だからな。だが、ダルタニャンには、指一本だってふれさせはしないぞ。あれはわたしの愛している親友で、わたしが守ってやっている男だ。もしあの男に変な真似をしたら、誓って、あんたの罪業《ざいごう》もこれが最後だと思うがいい」
「ダルタニャンは、このあたしにひどい侮辱《ぶじょく》を与えたんです」と、ミラディーはにぶい声でいった。「あの男は、生かしてはおけない」
「あんたに侮辱を与える、そんなことがあり得ることかね?」アトスは笑った。「あの男があんたを侮辱したから、生かしてはおけないのか?」
「生かしておけない、まず女を、それからあの男を!」
アトスは、めまいのようなものを感じた。女性らしい点が少しもないこの女を見ていると、恐ろしい記憶がよみがえって来るのだ。今ほど危険ではなかったあのときの状況にあっても、自分は名誉を保つためにこの女を殺そうとしたんだ、と彼は考えた。彼の心に、殺してしまおうという気持ちがまた燃えあがってきて、はげしい熱のように全身にひろがった。彼は立ちあがると、腰の皮帯に手をやり、拳銃を引き抜いて構えた。
ミラディーは死人のように青ざめ、叫ぼうとするのだが舌がひきつって、人声と思われない野獣の咆哮《ほうこう》に似たしゃがれ声しか出なかった。くすんだ壁布に身を寄せ、髪ふり乱した彼女の姿は、まさに恐怖そのものの恐ろしい形相《ぎょうそう》だった。
アトスは静かに拳銃をあげると、腕をのばして、ミラディーの額《ひたい》にほとんど触れんばかりに突きつけた。そして落ちついているだけに、それだけ恐ろしい声で、
「枢機卿が署名した書類をすぐ渡せ。さもないと、頭をぶち抜くぞ」
これが別の男なら、ミラディーもまさかと思っただろうが、彼女はアトスがどんな男だか知っていた。それでもなお、彼女は動こうとしなかった。
「さあ、あと一秒で決心をつけるんだ」
そういった彼の顔がひきつったのを見て、彼女は弾丸が発射されると感じた。彼女はいそいで胸に手をやると、一枚の紙を抜きとって、彼に手渡した。
「さあ、これを。あなたを呪ってやる」
アトスは書類を受けとると、拳銃を皮帯におさめ、それが本物であるかどうか確かめるために、ランプのそばに寄って、ひろげて見た。
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この書面持参の者のなしたることは、予《よ》の命令により、国家の利益のためになしたるものなり。
一六二七年十二月三日 リシュリュー
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「さあ」と、アトスは外套を着て帽子をかぶり直し、「これで、まむしの毒牙《どくが》を抜いてやった。噛《か》むなら噛むがいい」
こう言い捨てると、彼はあとをも見ずに部屋を出た。
戸口には二人の男が、馬をひいて待っていた。
「諸君は枢機卿の命令をごぞんじだろうが、あの婦人をこれからすぐにラ・ポアントの砦《とりで》まで送りとどけ、乗船するまでそばを離れないように」
この言葉は、彼らが受けた命令とまったく同じものだから、二人はわかったというしるしにうなずいてみせた。
アトスは、ひらりと馬にまたがると、疾駆《しっく》した。ただ街道を行かずに近道をとり、はげしく馬に拍車を入れ、ときどき立ちどまっては聞き耳を立てた。
こうして立ちどまったとき、彼は街道のほうに幾つもの馬の足音を聞いた。枢機卿とその護衛たちであるにちがいないと、彼は思った。そこで、あらたにひとつ拍車を入れると、茂みの中に馬を乗り入れ、陣営から二百歩ばかりのところで街道に出た。
「だれか?」騎士たちの姿を見ると、彼は遠くから声をかけた。
「そちらは、先発の銃士であろう」と、枢機卿がいった。
「さようでございます」と、アトスは答えた。
「警戒に出てくれて、ご苦労だった。さあ、これで着いた。左手の門からはいったらいい。合言葉は、[ロワ・エ・レ]だ」
こう言うと枢機卿は三人に会釈して、従者を従えて右手のほうへ行った。その夜彼は、陣営で泊まることになっていたのだ。
枢機卿の声がとどかないところへ行くと、ポルトスとアラミスが声をそろえていった。
「おい、枢機卿は、あの女に言われて、書類に署名したぞ」
「知っている」と、アトスは落ちつき払って答えた。「だいじょうぶだ、おれがここに持っているからな」
それからは三人とも、自分たちの宿舎に帰るまでは、歩哨《ほしょう》に合言葉をかけた以外、ひと言も口をきかなかった。ただムスクトンをプランシェのところへやって、彼の主人が陣地執務からもどって来たら、銃士隊の宿舎に来るようにと伝えさせた。
いっぽうミラディーは、アトスが予想したとおり、戸口に待っていた男に、だまってついていった。よほど枢機卿のところへ連れて行ってもらって話そうかと、ちょっと考えたのだが、自分が話せばアトスもすべてを話すことになるだろうし、アトスが自分を縛り首にしたことを言えば、アトスは烙印のことを言うであろうと思った。そこでこの際だまって出発し、持ち前の辣腕《らつわん》をふるって使命をはたしてから、枢機卿の満足を得た上で、あらためて復讐を願い出たほうがいいと考えたのだった。
そこで夜どおし旅をつづけ、朝の七時にラ・ポアントの砦に着くと、八時に乗船した。九時に、枢機卿の私掠《しりゃく》許可証(戦時にあって捕獲した敵国の船舶に対して行なうもの)を持ったこの船は、表向きはバイヨンヌ行きとなっていたが、イギリスへ向けて出帆したのである。(つづく)