三銃士3
アレクサンドル・デュマ作/江口清訳
目 次
四十六 サン=ジェルヴェの稜堡《りょうほう》
四十七 銃士たちの密談
四十八 家庭の事情
四十九 宿命
五十 義弟と姉の懇談
五十一 士官
五十二 囚われの一日目
五十三 囚われの二日目
五十四 囚われの三日目
五十五 囚われの四日目
五十六 囚われの五日目
五十七 古典悲劇の手段
五十八 脱走
五十九 一六二八年八月二十三日、ポーツマスで起こったこと
六十 フランスでは
六十一 ベテューヌのカルメル派修道院
六十二 二種類の悪魔
六十三 一滴の水
六十四 赤外套の男
六十五 審判
六十六 処刑
六十七 結末
むすび
解説
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主要登場人物
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ダルタニャン……この小説の主人公。ガスコーニュの貴族。三銃士とかたい友情を結ぶ。
アトス……三銃士中の最年長者。剛勇で思慮ぶかく、賭事《かけごと》が好きだが、女性には近づかない。
ポルトス……三銃士の中で一番の大男。腕っぷしは強く、また虚栄心も強く、女にもてる。
アラミス……三銃士中の、最年少者、聖職者を志望しているが、ひそかに高貴な夫人と恋におちいっている。
トレヴィール殿……ルイ十三世の忠臣で、銃士隊長。
プランシェ……ダルタニャンの従者。
グリモー……アトスの従者。
ムクストン……ポルトスの従者。
バザン……アラミスの従者。
ルイ十三世……小心で神経質な平凡な国王。
王妃アンヌ・ドートリッシュ……美しい気位の高い王妃。リシュリュー枢機卿にふかくうらまれている。
バッキンガム公爵……イギリス国王チャールズ一世の宰相。なかなかのやり手で、王妃アンヌの恋人。
リシュリュー枢機卿……フランス国王の主席顧問官、事実上の宰相で当時の最高権力者。
ロシュフォール伯爵……枢機卿の腹心。マンの町でダルタニャンとはじめて出会う。
ミラディー……イギリス生まれの絶世の美女。枢機卿のために尽くす影の女。
ボナシュー……ダルタニャンの家主で小間物屋。枢機卿にまるめられてその手先となる。
ボナシュー夫人……王妃の忠実な侍女。ダルタニャンの初恋の女性。
ウァルド伯爵……枢機卿の腹心で、カレーでダルタニャンに刺されたが、奇跡的に一命をとりとめる。
ウィンター卿……イギリスの伯爵でミラディーの義弟。バッキンガム公の友人で、決闘後ダルタニャンと親しくなる。
フェルトン……清教徒の狂信者。ミラディーにそそのかされてバッキンガム公爵を刺殺する。
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四十六 サン=ジェルヴェの稜堡《りょうほう》
ダルタニャンが二人の友のところへ行ってみると、みんな一つ部屋に集まっていて、アトスは考えこみ、ポルトスは口ひげの手入れをし、アラミスは青いビロードで製本した、小さいきれいな祈祷書《きとうしょ》を読んでいた。
「やあ、諸君」と、彼はいった。「よっぽど重大な話があるんだろうな、稜堡《りょうほう》を攻撃して、こいつを取るのにひと晩かかってさ、ゆっくり休もうとしていたところだったんだから、それを呼びつけたとあっては、ただではすまさないぞ。まったく、どうして貴公らは来なかったんだい? はげしかったぞ!」
「われわれは、ほかへ行ってたんだ。こっちも、けっして楽じゃなかったぞ」と、口ひげに彼独特の癖をつけながら、ポルトスが答えた。
「しっ」と、アトスが制した。
「ああ、そうか!」
ダルタニャンはアトスが眉をしかめたのを見て、察すると、「なにか変わったことがあったと見えるね」
「アラミス」とアトスが声をかけた。「貴公は一昨日、パルパイヨ亭へ飯を食いに行ったんだっけな?」
「ああ、行ったよ」
「どんなふうだった?」
「まあ、おれにとっては、たいへんありがたくなかったな。あの日はちょうど精進日《しょうじんび》だったというのに、肉ばかりだったからな」
「へえ! 海のそばにいながら、魚がないのかい?」と、アトス。
「なんでも枢機卿が防波堤の工事を起こされたので、魚がみんな沖へ逃げてしまったそうだ」そういってアラミスは、また祈祷書に目を落とした。
「おれの聞きたいのは、そういうことじゃないんだよ、アラミス。あそこでは、だれの邪魔もはいらず、のんびりしていられたかどうか、それを知りたかったのだよ」と、アトスはいった。
「たいして邪魔者なんか、いなかったようだな。まあ、そういう意味なら、あのパルパイヨ亭でもわるくはなかろう」
「では、あそこへ行くことにしよう。なにしろここの壁は紙みたいに薄いんだから」とアトスがいった。
ダルタニャンは、この友のやり方に馴れていて、そのひと言、ひと動作で、事の重大さがよくわかったから、だまってアトスの腕をとって外へ出た。ポルトスもアラミスと雑談をしながら、そのあとにつづいた。
途中でグリモーに出会ったので、アトスはいっしょに来るようにと合図をした。グリモーはいつものように、だまってついてきた。まったくこの男は、口をきくことを忘れてしまったもののようである。
一同は一杯飲み屋のパルパイヨに着いた。朝の七時で、ようやく明るくなりかけたところだ。三人の友は朝食をあつらえておいて座敷へ通った。亭主の言うところによると、だれにも邪魔されないとのことだった。
ところが、秘密の話をするには、時間がわるかった。起床の太鼓が鳴ったばかりのところで、みんなは朝の湿った空気を追っぱらい、眠気をさますために、一杯ひっかけにこの店へ来るのだった。竜騎兵、スイス人|傭兵《ようへい》、親衛隊士、銃士、軽騎兵などが、あとからあとからやってきた。これは亭主にはたいへんありがたいことだが、四人にとっては迷惑なことだった。それゆえ彼らは、顔見知りの連中の挨拶や乾盃や冗談にも、ひどく無愛想《ぶあいそう》な応待をしていた。
「まったくこれでは」とアトスがいった。「喧嘩でもしかねないな。だがわれわれは今のところそんなことをしているひまはない。ダルタニャン、きのうの夜の話でもしないか。そのあとでこっちの話もするから」
そこへ一人の軽騎兵が、ブランデーの盃《さかずき》を手に持って、ちびりちびりやりながら、からだをふりふりやってきた。
「あんた方は昨晩、塹壕《ざんごう》へ行かれたんでしたな。ラ・ロシェル側とひと合戦やられたようだが」
ダルタニャンは、話に割りこんできたこの邪魔者に返事をしたものかどうかと、アトスの顔をうかがった。
「おい、ビュジニー殿が言葉をかけているのが聞こえないのかい?」と、アトスが注意した。「きのうの晩のことを話したまえ。この人たちも聞きたがっているんだから」
「とりて(砦)取らなかったんですか?」ビールのコップでラム酒を飲んでいたスイス人|傭兵《ようへい》も聞いた。
「取りましたよ」と、ダルタニャンは会釈をして答えた。「もう話は聞かれたかもしれませんが、われわれはその一角に火薬の樽《たる》を押しこんで爆発させ、すごい大きな穴をあけてやりました。あの稜堡《りょうほう》は昨日今日《きのうきょう》で出来たものではないので、それでほかの個所も、すっかりぐらぐらになりました」
「それはどこの稜堡ですかな?」鵞鳥《がちょう》を焼こうとして、剣の先で突き刺して持っていた竜騎兵がたずねた。
「サン=ジェルヴェの稜堡です」と、ダルタニャンは答えた。「あそこの敵が、わが軍の工兵を悩ましていたんです」
「激戦でしたか?」
「いや、ひどかったです。味方は五人やられ、敵も八人か十人はやられたでしょう」
「じきしょう(畜生)め!」と、スイス人はいった。ドイツ語ならいくらでも罵《ののし》りの言葉を知っているくせに、もうフランス語で罵る習慣がついてしまっていた。
「だが敵は」と、軽騎兵はいった。「おそらくその稜堡を修理させるために、工兵をくり出すだろうな」
「そうかもしれない」と、ダルタニャンがいった。
「どうだ諸君、ひとつ賭をしてみたら?」と、アトスが言いだした。
「そうだ、賭ね!」と、スイス人がいった。
「どういう賭だね?」と、軽騎兵がたずねる。
「待ってくれ」と竜騎兵は、焼き串《ぐし》がわりの剣を暖炉の二本の大きな鉄枠《てつわく》の上におきながら、「おれも賭けるからな。おい亭主、受け皿を大急ぎだ。このすばらしい鳥の脂《あぶら》は、一滴だってむだにはできんからな」
「もっともだ」と、スイス人はいった。「あひるの脂は、ジャムをつけると、うまいことあるね」
「さあ、賭けよう」と、竜騎兵がのりだした。「アトス殿に説明してもらおう」
「よし、おれも賭けた!」と、軽騎兵。
「よし、ビュジニー殿、わたしは貴公を相手に賭けよう」と、アトスがいった。「つまり、ここにいるポルトス、アラミス、ダルタニャンの三人とわたしとで、サン=ジェルヴェの稜堡の中にはいって食事をしてくる。どんなに敵がわれわれを追っぱらおうとかかってきても、時計を見ながらきっちり一時間は、あそこでがんばって来る」
ポルトスとアラミスとは顔を見合わせた。話がどうやらわかりかけて来たようだ。
「だが」と、ダルタニャンは、アトスの耳に口をよせた。「それじゃ、みすみすわれわれは死にに行くことじゃないかね」
「いや、行かなければ、もっと大きな危険が待っている」
「なるほど!」と、ポルトスは口ひげをひねりながら、椅子にのけぞり返った。「諸君、すばらしい賭じゃないか」
「よろしい、やろう」と、ビュジニーがいった。「ところで、賭けるものはどうする?」
「諸君は四人、われわれも四人だから、八人分の食い放題の晩飯はどうかな?」
「おもしろい」と、ビュジニーが応じた。
「けっこうです」と、竜騎兵。
「いいです」と、スイス兵もいった。
四人目の男は、会話のあいだじゅうずっと押しだまっていたが、これも承諾のしるしにうなずいてみせた。
「みなさんのお食事ができましたが」と、亭主が知らせにきた。
「よし、持ってきてくれ」と、アトスがいった。
亭主は、言われたとおりにした。アトスはグリモーに、部屋の隅においてあった太きな篭《かご》を指さし、はこばれた肉類をナプキンに包めと命じた。
グリモーはすぐに草っぱらで食事をするのだと察して、篭を手に取り、肉を包んで入れると、ぶどう酒の瓶《びん》も入れて、腕にぶらさげた。
「どこで召しあがるのですか?」と亭主がたずねた。
「どこだっていいだろう、金さえ払えば」アトスはおおようにピストール金貨を二枚、テーブル上に投げだした。
「おつりは?」
「いらない。ただ、それでシャンパンを二本追加してくれ。残りはナプキン代になるだろう」
亭主は最初に思ったほどのうまい話にはならなかったが、シャンパン酒の代わりにアンジュー酒二本で埋め合わせをつけた。
「ビュジニー殿、貴公の時計を拙者のに合わせておくか、それとも拙者のを貴公のに合わせておこう」と、アトスがいった。
「よかろう」と、軽騎兵はポケットから、ダイヤで縁《ふち》どったりっぱな時計を取り出した。「七時半ですな」
「拙者のは七時三十五分だ」と、アトスはいった。「わたしのは五分進んでいることを覚えておけばいいわけだ」
四人の青年は、あきれ返ったという顔を見せている一座の人たちに会釈すると、サン=ジェルヴェ稜堡への道をとった。あとからグリモーが篭をぶらさげてついてきた。どこへ行くのか知らないわけだが、この男はアトスに対してはいつもこうなので、べつに行く先を聞こうともしなかった。
陣地の囲いの中を通っているあいだは、四人ともひと言も口をきかなかった。それにはまた、賭の話を聞きつけて、彼らがどうやってこれを切り抜けるか見ようという野次馬が、あとをつけてきたせいもあった。
だが塹壕線《ざんごうせん》を越えて、ひろびろとした野原へ出ると、話がさっぱりわからなかったダルタニャンは、もうここらで説明を求めてもよかろうと考えた。
「さあ、アトス、いったいどこへ行くのか、ここらで友だち甲斐《がい》に教えてくれんかね?」
「ごらんのとおり、稜堡へ行くのさ」
「だが、あそこへなにをしに行くんだい?」
「知ってるじゃないか、飯を食いに行くのさ」
「飯なら、なぜパルパイヨ亭で食べないんだい?」
「おれたちは非常に大切な話をしなけりゃならんからさ。あそこでは話しかけたり挨拶したりするうるさい奴がやってきて、五分と話ができんじゃないか」
そういってアトスは稜堡を指さすと、「あそこなら、少なくともだれにも邪魔されることはあるまい」
「海岸の砂丘へ行けば、どこか人目のつかぬ場所もあると思うが」とダルタニャンは、その並みはずれた勇敢さと甚《はなは》だうまく結びついている慎重さで、こういった。
「四人がいっしょになって話し合っているところをだれかに見られてみろ。十五分後には、そのことが枢機卿の耳にはいってしまう」
「そうさ。アトスの言うとおりだ。砂漠にも耳あり(Animadvertuntur in desertis)だからな」と、アラミスがいった。
「砂漠だってわるかあなかろうが、それを見つけることが問題だからな」と、ポルトス。
「砂漠だって、頭の上を鳥が飛ばないわけはないし、水から魚がはねあがり、穴から兎《うさぎ》が飛びださないともかぎらん。鳥だって、魚だって、兎だって、枢機卿の密偵になっておらんともかぎらんからな。だから、この計画を進めるにこしたことはない。それに、いまさらあとへは引けんしな。おれたちは賭をしたんだ、予想のまったくつかない賭をな。これならこの賭のほんとうの動機は、だれにもわかりっこないと、おれは保証するよ。おれたちは、賭に勝つために、一時間がんばるんだ。攻撃されるかもしれないし、されないかもしれない。もし攻撃を受けなかったら、おれたちはそのあいだ、だれにも聞かれる心配なしに、ゆっくり話し合うことができる。もし攻撃されたとしても、防戦しながらだって、やっぱり話はできる。おまけに手柄も立てられるというわけだ。どうだい、うまいことずくめじゃないか」
「うん、だが、弾丸の一発ぐらいは食らうだろうな」と、ダルタニャンがいった。
「なんだい! きみも知ってのとおり、もっとも恐るべき弾丸は、敵の弾丸じゃないさ」と、アトスが言い返した。
「しかし、こんな遠征をやるなら、少なくとも銃ぐらいは持って来るべきだったな」
「ばかだな、ポルトス。そんなむだな荷物をなぜ持って来る必要があるんだ?」
「敵を目の前にひかえて、いい銃と、一ダースの弾薬筒、火薬入れ一個ぐらいは持って行くことが、むだだとは思わんね」
「そうかい! きみはダルタニャンの話を聞かなかったのかね?」と、アトスがいった。
「ダルタニャンがなんといったんだい?」
「昨晩の攻撃で、味方が八人ないし十人ほど、敵側もそのくらい死んだといったじゃないか」
「それで?」
「持ち物を取って行くひまはなかったはずだ、そうだろう? そんなときは、急いでしなければならない仕事があるものな」
「で、どういうことになる?」
「だからさ、奴らの銃や、火薬や、弾丸があるってわけよ。四人分の銃や一ダースの弾薬筒どころか、十五人分の銃や百発もの弾丸があるってわけよ」
ポルトスは、同意のしるしに頭をさげた。
ダルタニャンだけは、どうやら納得のいかないようすだった。
グリモーもおそらく青年と同じ気持ちであるにちがいなかった。そのときまではまさかこんなことになるとは思っていなかったので、一行がなおも稜堡へと向かって進んで行くのを見ると、主人の袖《そで》をひっぱった。
「どこへ行くのでしょうか」と、彼は身ぶりでたずねた。アトスは稜堡を指さした。
[それじゃ、みすみす死にに行くようなもんだ]とばかりに、だんまり屋のグリモーは、やはり身ぶりで、自分の考えを語った。
アトスは眼を見あげ、指で空を示した。グリモーは篭を地面におくと、頭を振って坐りこんだ。
アトスは皮帯から拳銃を抜きとり、弾丸がはいっているかどうかを調べてから、グリモーの耳に銃身を突きつけた。グリモーはばね仕掛けのように飛びあがった。で、アトスは、篭を持って先に歩けと合図をした。
グリモーは従った。
この男が、ごくわずかの無言劇で得たものは、しんがりから先頭に移ったというだけであった。
稜堡に着くと、四人の友は、ふり返って見た。味方の陣地の入口に、三百人以上の武装した兵士が集まっていた。少し離れて、ビュジニーと竜騎兵とスイス人傭兵と、もう一人の賭をした男が固まって見えた。
アトスは帽子を脱ぎ、それを剣の先につけて、空高く振った。観衆がその挨拶に答えて喚声をあげているのが、ここまで聞こえた。
そのあと四人は、グリモーが先にはいっていた稜堡の中に姿を消した。
四十七 銃士たちの密談
アトスの予想したとおり、稜堡の中には、敵味方合わせて十二ほどの死体があるだけだった。
この遠征の指揮者となったアトスは、グリモーが食事の支度をしているあいだに、一同に向かっていった。
「さあ、まず銃と弾薬とを集めることにしよう。それをやりながらだって、話をすることはできるからな」
そして死体を指さしながら、「これらの諸君には聞こえやしないんだから」
「でも、やはり死体は壕《ごう》の中へ投げこんでおくほうがいい。もちろん、ポケットに何も残っていないかどうか調べてからだが」と、ポルトスがいった。
「そうだ、そいつはグリモーの仕事だ」とアラミス。
「では、グリモーに調べさせて、城壁の上から投げさせよう」と、ダルタニャンもいった。
「死体は置いておいたほうがいい」とアトスがとめた。「そいつが役に立つことがあるかもしれんからな」
「これらの死体が役に立つって? へえ! 気でも狂ったのかい?」
「軽がるしく断ずるなかれ……これは福音書《ふくいんしょ》にもあるし、枢機卿もそういったではないか」と、アトスが応じた。「諸君、銃はいくつある?」
「十二だ」と、アラミスが答えた。
「弾丸は?」
「百発ばかり」
「それだけあればじゅうぶんだ。弾《たま》をこめておこう」
四人は、その仕事にかかった。最後の銃に弾をこめおわったとき、グリモーが食事の支度ができたと知らせた。アトスはあい変わらず身ぶりで、よしと答え、物見やぐらのような格好をしてみせたので、グリモーは歩哨に立つことだなとさとった。ただ見張りの退屈をまぎらわしてやるために、パンと骨つき肉とぶどう酒一本とを持ってゆくことを許してやった。
「さあ、食事だ」と、アトスがいった。
四人は地面に腰をおろし、トルコ人や石工のように、あぐらをかいた。
「さあ、これでだれかに聞かれる心配はなくなったのだから、アトス、きみの秘密の話ってのを聞かしてもらおうじゃないか」と、ダルタニャンはいった。
「これで貴公らに、楽しみと手柄とを一度に得させられたらいいね」と、アトスがいった。「気持ちのいい散歩はさせたし、ここにはたっぷりご馳走がある。あそこには、銃眼から見ればわかるように、五百人もの人間が、おれたちを気ちがいか英雄かと思って見ていてくれる。もともとこの二つは、たいへんよく似ているくだらんものだが」
「で、話は?」と、ダルタニャンがたずねた。
「話というのはな」と、アトスは答えた。「じつは昨晩、おれはミラディーに会ったんだよ」
ダルタニャンはコップを口元へもって行くところだったが、ミラディーという名を聞くと手がぶるぶる震えてきて、こぼしそうになったので、コップを下においた。
「会ったのか、きみの細君……」
「しっ」と、アトスはさえぎった。「この連中には、まだ家庭の事情を知らせてないことを貴公は忘れたのか、おれはミラディーという女に会ったんだ」
「どこでだ?」と、ダルタニャンがたずねた。
「ここから約八キロのところ、コロンビエ=ルージュ旅館でだ」
「それじゃ、おれはもうだめだ」と、ダルタニャンはいった。
「いや、まだだいじょうぶだ。あの女は今頃、フランスの海岸を離れているからな」
ダルタニャンは、ほっと息をついた。
「だが、つまるところ、そのミラディーという女は何者だね?」と、ポルトスがきいた。
「きれいな女さ」といって、アトスは泡《あわ》だつぶどう酒に口をつけたが、「ちくしょう、あの亭主の奴め」と叫んだ。「よくもシャンパン酒の代わりにアンジュー産のぶどう酒をよこしやがったな。こんなもので、おれたちをたぶらかせると思いやがって!」
そして、さらにつづけて、「そう、そのきれいな女がダルタニャンに好意を示したのだが、ダルタニャンがなんだか知らんがその女に悪いことをしたので、女は復讐しようとしてるんだ。ひと月前にはこの男を銃砲で殺させようとしたし、一週間前には毒殺しようとした。昨日は、枢機卿にこの男の首をくれろとねだったわけだ」
「なに! おれの首を枢機卿にねだったって?」ダルタニャンは恐怖のあまりまっさおになって叫んだ。
「そうだよ、偽《いつわ》りなくほんとうにそうなんだ」と、ポルトスがいった。「おれが、この耳でちゃんと聞いたんだからな」
「わたしもだ」とアラミスもいった。
ダルタニャンは落胆《らくたん》のあまり、両手をだらりとさげて、「では、これ以上戦ってもむだだな。こうなりゃ、いっそ頭に一発ぶちこんで、すべてを終わらせたほうがいい!」
「それは愚の骨頂《こっちょう》さ」と、アトスがいった。「それでは、もう策の施《ほどこ》しようがなくなる」
「だが、おれはもう絶対に逃げられないんだ、ああいう手合いが敵ではな。まず第一は、マンの男、次は三太刀くれてやったウァルド伯、それからおれが秘密をあばいたミラディー、最後はおれが復讐の邪魔をしてやった枢機卿」
「いいじゃないか」とアトスはいった。「全部で四人しかいない。こっちも四人だ。一対一だよ。おや!グリモーが合図をしているところを見ると、相当な人数の敵がやって来たらしいぞ。どうした、グリモー?場合が場合だから、しゃべってもいいぞ。ただし、簡単にたのむ。なにが見えるんだ?」
「敵の一隊」
「人数は?」
「二十人」
「どんな奴らだ?」
「工兵十六人と兵士四人」
「どのへんだ?」
「五百歩ほどのところ」
「では、まだこの鶏《にわとり》をたいらげて、きみの健康を祝して一杯やるだけの時間はあるぞ、ダルタニャン」
「きみの健康のために」と、ポルトスとアラミスが、それに和した。
「では、乾盃! せっかく貴公らがおれの健康のために祈ってくれても、たいして役立ちそうもないが」
「なにを言うか!」と、アトスはいった。「マホメット教の信者が言うように、神は偉大なりだ。未来は神の御手の中にあるんだよ」
そしてコップを飲みほすと、アトスはむぞうさに立ちあがって、そこにあった銃をつかむと銃眼のほうに近づいた。
ポルトス、アラミス、ダルタニャンの三人も、それにならった。グリモーは四人のうしろにあって、弾《たま》ごめをすることを命じられた。
まもなく、敵の一隊は現われた。稜堡と町とをつなぐ交通壕のようなところをやってきた。
「いやはや」と、アトスはいった。「つるはしやスコップをかついだ、たかだか二十人ばかりの奴らのために、食事を邪魔されるとはやりきれんな! グリモーが帰れと合図をすればよかったんだ。そうすれば、きっとわれわれの邪魔はしなかったろうよ」
「どうだかな」と、ダルタニャンが注意をうながした。「なにしろ、あのとおり決然としたようすで、こっちへ向かって来るぞ。それに、工兵のほかに、れっきとした銃をもった兵士が四人と隊長がいる」
「おれたちの姿が見えなかったからだろう」と、アトスが言い返した。
「まったく! あんな町人どもを撃つなんていやだね」と、アラミスがいった。
「異教従をあわれむとは、けしからん司祭さまだ」と、ポルトスがいった。
「たしかに、アラミスの言うとおりだ。おれが奴らに注意してやろう」とアトスは、いった。
「なにをするんだ? 撃たれるぞ!」と、ダルタニャンは叫んだ。
だがアトスはその忠告を無視して、片手に鉄砲、片手に帽子を持って、城壁の割れ目のところへ登った。
「そこの諸君」と、彼の姿を見てびっくりして稜堡《りょうほう》から五十歩ばかりのところで足をとめた兵士や工兵に向かって声をかけた。「われわれ数人の者は、今この稜堡で食事をしているところだ。きみらも知ってるだろうが、食事中に邪魔されることほど不愉快なものはない。そこでお願いがあるのだが、どうしてもここにご用があるならば、われわれの食事がすむまで待ってくださるか、それとも後ほど出直すかしてもらいたい。諸君が叛軍《はんぐん》のもとを去って、われわれとともにフランス国王の健康のために祝盃をあげてくれるなら別だが」
「気をつけろ、アトス」と、ダルタニャンは叫んだ。「奴らが狙っているのがわからんのか?」
「わかってるよ。だが相手は鉄砲の撃ち方もろくすっぽ知らん町方の衆だ。あてる気なんかまるでないさ」
じじつそのとき、四発の銃声がして、アトスのまわりではね返ったが、一発もからだにはあたらなかった。
それとほとんど同時に、こちらからも四発の弾丸が飛びだした。これは攻め手よりも狙いが正確だったので三人の兵士がばったり倒れ、工兵の一人が負傷した。
「グリモー、銃をかえろ」と、アトスはあい変わらず割れ目のところに立ったままで叫んだ。
グリモーは、すぐに言われたとおりにした。三人の仲間も、銃の弾丸を変えていた。二度目の射撃がおこなわれた。隊長と工兵二人が即死、残りは逃げだした。
「さあ、みんな出撃だ」と、アトスがいった。
グリモーは、すぐに従った。三人の仲間も銃を変えていた。そして一同は、敵が倒れた地点まで走り、銃を四つと、隊長の短槍とを集めて、敗走した残敵が町まで走り去るのを見とどけた上、戦利品をかついで稜堡へ引き返した。
「グリモー、弾をつめかえておけ」と命じてから、アトスはみんなに向かって、「さて、食事をしながら、話をするとしよう。さて、どこまで話したかな?」
「おれは、ちゃんとおぼえているよ」と、ダルタニャンはいった。彼は、ミラディーのその後の行動が、ひどく心配だったからである。
「あの女はイギリスに向かった」とアトスはいった。
「どういう目的で?」
「バッキンガム公を自分で暗殺するか、だれかにそうさせるかが目的だ」
ダルタニャンは驚きと怒りで、思わず叫んだ。
「ひどいことをする!」
「いや、そのことは、じつをいうと、おれはたいして気にかけてはいない」と、アトスはいった。
「ところで、グリモー、その指揮者の短槍の先にナプキンを結びつけて、稜堡のてっぺんに立てろ。叛軍の奴らに、陛下の忠良にして勇敢な相手と戦っていることをわからせてやるためにな」
グリモーはだまって、言われたとおりにした。すぐと四人の頭上に、白い旗がはためいた。それを見て、万雷のような歓声が起きた。陣地の柵のところに、半数以上の味方の者がひしめきあっていたのである。
「どうして」と、ダルタニャンはふたたびいった。「バッキンガム公が暗殺されることが気にかからないんだ。公爵はおれたちに好意をよせている人なんだよ」
「公爵はイギリス人だ、おれたちは、あの男と戦っているんだよ。あの女が公爵をどうしようと、おれには空瓶《あきびん》と同じことで、どうでもいいことさ」
こういうとアトスは、最後の一滴まで注いでしまった空瓶を、十五歩ほど遠くに投げ捨てた。
「まあ、ちょっと待ってくれ」と、ダルタニャンはいった。「おれはバッキンガム公を、そう簡単に捨てられないのだ。りっぱな馬をおれたちにくれたしな」
「それに、りっぱな鞍《くら》もな」そういったポルトスは、ちょうどそのとき、外套にその鞍の飾りひもをつけていた。
「それに」と、アラミスもいった。「神は罪人の改宗を求めるが、死を求めはしない」
「アーメン」とアトスはいった。「もしこういう話がしたかったら、あとでまたしたらいい。さしあたっておれが最も気にかかっていたことは、ダルタニャン、きみも同感だろうが、あの女が枢機卿にむりやりに書かした署名入りの書類を奪いとることだった。あの書類があればあの女は貴公を、いやおそらくわれわれみんなを、ぞうさなく片づけることができるんだからな」
「まったく、あの女は、悪魔みたいな奴だな!」とポルトスは、鶏《にわとり》を切っていたアラミスに皿《さら》をさしだしながらいった。「で、その署名入りの書きつけは、まだ女の手にあるんだね」
「いや、おれの手に渡っている。苦労しないで手に入れたとは言わないよ。そう言えば嘘をついたことになるからな」
「ありがとう、アトス、きみにはなんど命を助けてもらったことか」と、ダルタニャンはいった。
「では、あのときわれわれと別れたのはあの女のところへ行くためだったんだね」とアラミスがたずねた。
「そうだ」
「それで、きみはその枢機卿の書類を持っているんだね?」と、ダルタニャンがまたいった。
「これだよ」アトスは外套のポケットから、大切な書類を取りだした。
ダルタニャンは片手でそれをひろげると、その手が震えるのを隠そうともせずに読んだ。
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この書面持参の者のなしたることは、予の命令により、国家の利益のためになしたるものなり。
一六二七年十二月三日 リシュリュー
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「なるほど、これなら全能の赦免状《しゃめんじょう》だ」と、アラミスがいった。
「こんな紙きれは破いてしまわなければ!」と、自分の死刑の宣告文を読むような思いだったダルタニャンは、こう叫んだ。
「とんでもない」と、アトスはいった。「大切に保存しておかにゃいかん。金貨を山と積まれても、おれは渡さんぞ」
「で、あの女は、これからどうするつもりだろう?」
「おそらくあの女は」と、アトスはどうともなれと言わんばかりに、「枢機卿に手紙を出して、アトスという悪い銃士に例の通行証を奪われたと報告するだろう。同時にその手紙で、ポルトスとアラミスという二人の友人もいっしょに片づけてしまったほうがいいと忠告するだろうな。すると枢機卿は、これらの連中といつか道で出会ったことを思いだす。そこで、ある日、ダルタニャンを逮捕させ、一人だと退屈だろうというわけで、おれたちもいっしょにバスティーユへ送りこむっていうわけだな」
「そんなばかなことが!」と、ポルトスがいった。「きみはつまらないことをいって、おれたちをからかう気だな」
「からかっているんじゃないよ」とアトスは答えた。
「そのミラディーという悪い女の首をしめるほうが、あの新教徒たちの首をしめあげるよりも罪が軽いな。あいつらの罪といったって、われわれがラテン語で歌う讃美歌を、フランス語で歌うということだけだからな」と、ポルトスがいった。
「神父さまのご意見は?」と、アトスが落ちつきはらってたずねた。
「わたしも、ポルトスと同じ意見だね」と、アラミスは答えた。
「おれもだ」と、ダルタニャンもいった。
「幸い、あの女が遠くにいるんで助かるが、この辺にいられたら迷惑至極《めいわくしごく》だ」とポルトスがいった。
「どこにいようが、あの女には困るよ」と、アトスはいった。
「つかまえておきながら、なんだって水に投げこむとか首をしめるとか、してしまわなかったんだい? 死んでしまえば、二度と現われることはなかろうに」と、ポルトスがいった。
「ほんとうにそう思うかね、ポルトス?」と、アトスは、ダルタニャンだけしかわからない暗い微笑を浮かべた。
「いい考えがある」と、ダルタニャンがいった。
「というと……」と、三人が口をそろえてきいた。
「敵だ!」と、グリモーが叫んだ。
青年たちはぱっと立ちあがると、銃に飛びついた。
こんどは、二十名ないし二十五名の一隊であった。工兵隊ではなくて、れっきとした戦闘員である。
「陣地へ引きあげたらどうだ? 対等の敵ではなさそうだからな」と、ポルトスがいった。
「三つの理由で、そういうわけにはいかない」と、アトスが答えた。「第一、われわれはまだ食事をすませていない。第二には、まだ大事な相談が残っている。第三は、約束の時間にまだ十分たりないからな」
「では、ともかく作戦計画を立てる必要があるな」と、アラミス。
「そいつは簡単さ」と、アトスが答えた。「敵が着弾距離にはいったら、すぐに発砲する。なお進んで来たら、また撃つ。弾丸がつづくかぎり撃つんだ。それでもなお、残りの敵が攻撃して来たら、壕の中まではいって来るのを待って、やっと立っているだけの、このぐらぐらしている城壁の石を、奴らの頭の上に突き落としてやればいい」
「うまいぞ、アトス」と、ポルトスが叫んだ。「まったく貴公は、将軍に生まれついた人間だな。大戦略家をもって任じている枢機卿だって、きみの足もとにもよれない」
「いいか、むだ弾は撃つなよ。ちゃんと相手をきめて狙うんだ」
「おれは、あいつを狙《ねら》う」と、ダルタニャン。
「おれはあいつだ」と、ポルトス。
「おれも、きまった」と、アラミス。
「よし、撃て!」と、アトスが呼ばわった。
四つの銃が、一斉に発射した。四人の男が倒れた。
たちまち太鼓が鳴って、敵の小隊は突撃してきた。
そこで、立てつづけに乱射したが、狙いは正確だった。だが敵は、こちらの小人数なのを知っていると見えて、なお走り寄ってきた。
三発で、二人が倒れた。だが生き残った連中の歩調は、ゆるまない。稜堡の下まで寄せてきたときは、敵はまだ十二人ないし十五人ぐらいいた。最後の一斉射撃をかけたが、敵はひるまない。壕《ごう》の中に飛びこんで、城壁の割れ目をよじ登ろうとした。
「さあ、いいか、射撃はやめて、石壁だ!」と、アトスが叫んだ。
四人にグリモーも手伝って、大きな城壁の一角を、銃身で押しはじめた。その一角は風で押されるように傾くと土台から離れて、すさまじい音響とともに壕の中にくずれ落ちた。つづいて大きな叫喚《きょうかん》が聞こえ、土煙が高く舞いあがった。
「一人残らず押しつぶしたかな?」と、アトスがたずねた。
「どうやら、そのようだな」と、ダルタニャンがうなずいた。
「いや、あれを見ろ。あそこにびっこひきひき逃げて行くのが二、三人いる」と、ポルトスがいった。
なるほど、泥と血にまみれた三、四人の男が窪地をつたわって、町のほうへ逃げて行った。これが、生き残った者の全部だった。アトスは、時計を見た。
「諸君、これで一時間ここにいたことになる。これで賭《かけ》には勝ったわけだ。しかし、文句のない勝ち方をしなけりゃならんし、それに、ダルタニャンの考えというのも、まだ聞いてないからな」
こういうと銃士はいつもの落ちついた態度で、食事を残したところへすわりこんだ。
「おれの考えだって?」と、ダルタニャンがいった。
「そうさ。さっき、考えがあると、いったじゃないか」と、アトスが言い返した。
「ああ、そうか! それはな、おれがもう一度イギリスへ渡って、バッキンガム公に会い、あの人の命を狙っている策謀を告げてやろうと思うんだが」
「そんなことは、よしたほうがいい、ダルタニャン」と、アトスはひややかにいった。
「なぜだい? 前におれは行ったじゃないか?」
「うん。だが、あのときは戦時じゃない。バッキンガム公は味方であって、敵ではなかった。きみがしようとしていることは、裏切りのそしりを免れまい」
ダルタニャンもその説の正しいのを認めて、だまってしまった。
「ところで、おれにもちょっと考えがあるのだが」と、ポルトスがいった。
「謹聴《きんちょう》、ポルトスの考えを聞こう」と、アラミスがいった。
「おれがトレヴィール殿に休暇を願い出る。口実は、きみたちが考えてくれ。どうもおれはそういうことはへただからな。ミラディーはおれの顔を知らないから、おれが近づいても平気だろう。つかまえたら、おれが首をしめる」
「なるほど!」と、アトスはいった。「おれはポルトスの考えにそれほど反対じゃない」
「なに、女を殺す! それはいかん」と、アラミスがいった。「まあ、聞いてくれ、わたしにもいい考えがあるから」
「貴公の考えを聞こう、アラミス」アトスはこの青年銃士を大いに尊敬していた。
「王妃にお知らせするんだ」
「うん、なるほど。それがいい」と、ポルトスとダルタニャンが、いっしょに相づちを打った。
「王妃にお知らせするって! どうやってだね?」とアトスがいった。「われわれに宮廷の知り合いでもあればいいが? 陣地内の誰にもわからずに、パリまで人をやることができるかね? ここからパリまでは、百五十リーグもある。手紙がアンジューまでも行かんうちに、われわれは牢屋へ入れられちまうだろう」
「王妃のもとへ手紙を確実にとどけることなら」と、アラミスが赤くなりながらいった。「わたしが引き受けるよ。ツールに知り合いの婦人がいるから、その人ならうまく……」
アラミスは、アトスが微笑しているのを見て、口をつぐんだ。
「どうなんだい、アトス、きみはこの方法がだめだというのかい?」と、ダルタニャンがきいた。
「まったく反対だというわけではないが」と、アトスは答えた。「ただアラミスに、われわれは陣地を離れることができないのだということを、注意しておきたいのだ。われわれ以外の者では安心ができないし、それに使者が出て二時間もすれば、枢機卿側の修道士やお巡《まわ》りや裁判官が、みんな手紙の文句を暗記してしまうだろう。そして貴公も、そのうまくやってくれるはずのご婦人も、つかまってしまうだろうよ」
「それに王妃はバッキンガム殿は救うかもしれんが、われわれのほうまでは救ってくださるまいからな」と、ポルトスが反対した。
「ポルトスのいったことは、大いに考えるべきだ」と、ダルタニャンもいった。
「おや、おや! 町のほうで聞こえるあれはなんだね?」と、アトスがいった。
「非常号音を鳴らしてるな」
四人が耳を澄ますと、たしかに太鼓の音が聞こえてきた。
「いよいよ一個連隊そっくり繰りだす気だな」と、アトスはいった。
「まさか、一個連隊そっくりを向こうにまわしてがんばる気はないだろうな?」と、ポルトスがきいた。
「がんばって、どうしてわるい? おれは張りきっているんだぜ。ただし、ぶどう酒がもう一ダースあれば、敵の全軍を向こうにまわしたってがんばるよ」
「たしかに、太鼓の音が近づいて来る」と、ダルタニャンが注意した。
「勝手にさせとくさ」とアトスはいった。「町からここへ来るまで十五分はかかるよ。それだけ時間があれば、われわれの計画を立てるにはじゅうぶんだ。ここを出てしまえば、これほどのいい場所はけっして見つからないだろうよ。そうだ、いい考えが浮かんだぞ」
「なんだね?」
「グリモーにぜひ必要な命令を与えるんで、ちょっと待ってくれ」
アトスは従者に、近く寄れと合図した。
「いいか、グリモー」アトスは稜堡《りょうほう》の中にころがっている死体を指さして、「この連中を集めて城壁へ立てかけるんだ、帽子をかぶせ、手に鉄砲を持たせてな」
「なるほど、たいしたもんだ!」と、ダルタニャンは叫んだ
「わかったのか?」と、ポルトスがきいた。
「グリモー、どうだ、おまえはわかったのか?」と、アラミスがきいた。
グリモーは、わかったと身ぶりで答えた。
「これでよし。では、おれの考えだが」と、アトスがいった。
「だが、おれにはまだよくわからないのだが」と、ポルトスが注意をうながした。
「わからんでもいい」
「そうだ、そうだ、アトスの考えを聞こう」と、ダルタニャンとアラミスが、同時にいった。
「悪魔のようなあのミラディーには、たしか義弟があるといったな、ダルタニャン」
「うん。おれも会ってよく知っている。姉のことは、あんまりよく思ってはいないようだ」
「そいつはいい」と、アトスは答えた。「きらっているとすれば、なおさらつごうがいいわけだ」
「では、こっちには願ったりかなったりだ」
「だがな」と、ポルトスが口をだした。「おれには、グリモーのしていることが、さっぱりわけがわからんのだが」
「ちょっとだまっていてくれ、ポルトス」と、アラミスが制した。
「その義弟の名は」
「ウィンター卿だ」
「いま、どこにいる?」
「戦争の噂を聞くと、すぐにロンドンへ帰ってしまった」
「そうか! そりゃ、こっちにとってはおあつらえむきだ」と、アトスはいった。「義姉がだれかを暗殺しようとしていることを知らせてやり、目を離さないようにしてくれと頼むんだ。ロンドンにだって、マドロネット(倫落生活から足を洗い、改心した女を収容したパリの聖マドレーヌ派の修道院で、一七九三年には牢獄になった)や婦人感化院のようなものはあるだろう。そういったところへ義姉を入れてくれれば、こっちは安心していられる」
「うん、女がそこから出て来るまではね」
「ああ! まったく、ダルタニャン」と、アトスが言い返した。「貴公は欲ばりすぎるよ。おれは、自分の持っているものを全部だしきったんだ。もう、なんにも残っちゃおらんぞ」
「わたしも、それが最良の方法だと思うな」と、アラミスもいった。「王妃とウィンター卿に、同時に知らせるんだな」
「よかろう。だが、ツールとロンドンへ、だれに手紙を持たせてやるかね?」
「バザンなら確かだ」と、アラミスがいった。
「おれなら、プランシェだ」と、ダルタニャン。
「そうだ。おれたちは陣営を留守にはできないが、従僕なら出て行けるわけだ」と、ポルトスがいった。
「たしかにそうだ。今日さっそく手紙を書いて、従僕たちに旅費を渡して出発させよう」
「旅費をやるって?」と、アトスがきいた。「貴公は、金を持ってるのかい?」
四人の友は、顔を見合わせた。ちょっと明るくなった彼らの額《ひたい》に、暗い影がさした。
「気をつけろ」と、ダルタニャンが叫んだ。「黒や赤の点が、あそこに動いている。アトス、きみは一連隊だといったな? とんでもない、大軍だ!」
「なるほど、ほんとうだ、いよいよ来たか」とアトスもいった。「だが、太鼓も鳴らさず、らっぱも吹かず、こそこそとやって来やがったな。おい、グリモー、もうすんだか?」
グリモーはすんだという合図をして、まるで生きているような格好に並べた死体を示した。ある者は銃を手に、ある者は銃で狙い、ある者は剣を手にしていた。
「うまいぞ! おまえの想像力はたいしたものだ」と、アトスがいった。
「どっちにしても、おれにはまだわからん」と、ポルトス。
「とにかく、引き揚げることにしよう。いずれ、あとでわかるさ」と、ダルタニャンがいった。
「まあ、ちょっと待った! グリモーにあと片づけをさせるからな」
「おい! 黒と赤の点がだんだんと大きくなって来るぞ。ダルタニャンの言うとおりにしよう。陣地に帰る時間がなくなるからな」
「もちろんだ。引き揚げるのに反対というわけじゃないさ。賭は一時間だったのに、もう一時間半もいたんだから、もう文句はあるまい。さあ、行こう、諸君、行こう」
グリモーはすでに残りものを篭に入れて、先発していた。四人の友はそのあとを追って、十歩ほど行ったが、アトスが叫んだ。
「ほい、しまった」
「なにか忘れ物でもしたのか?」と、アラミスがたずねた。
「旗だよ! 旗を敵の手に渡すわけにはいかんからな、たとえナプキンの旗であろうともな」
こう言うとアトスは稜堡の中に駆けもどり、台の上に登って、旗を手にした。すでに射程内にはいっていたラ・ロシェル側は、まるでふざけて標的になるように身をさらしたこの男に向かって、はげしい射撃を加えてきた。
しかし彼のからだはまるで魔法がかかっているとでもいったふうに、弾丸は彼のまわりに落ちるばかりで、一発もあたらなかった。
アトスは寄せ手に背を向けて、味方の陣地に旗をふって挨拶を送った。両方の側から叫び声がおこった。一方からは怒りの叫びが、片方からは賛嘆の叫びが。
二度目の一斉射撃がつづき、三発の弾がナプキンに穴をあけて、ほんものの軍旗のようにしてしまった。陣地からは、次のような叫び声も聞こえてきた。
「降りろ! 降りろ!」
アトスは降りた。心配して待っていた仲間は、その姿を見て、ほっとしたようだった。
「さあ行こう、アトス、急ぐんだ」と、ダルタニャンがうながした。「これで、金以外のものは何もかも見つかったのだから、ここで殺されたら、ばかを見る」
ところがアトスは、どんなに仲間が注意しても、いっこうに平気で、悠々と歩いていた。そこでやむを得ず、一同も彼の歩調に合わせることにした。
グリモーは篭《かご》をさげて先発していたから、もう射程外にあった。
まもなく、はげしい射撃の音が聞こえた。
「あれはなんだ?」と、ポルトスがたずねた。「なにに向かって撃っているんだろう? 弾も飛んでは来ないし、人影も見えないが」
「あの死体に向かって撃っているのさ」と、アトスが答えた。
「死体じゃ、応戦もできないだろうが」
「まさにそのとおり。そこで敵は伏兵があると思って偵察をだすだろう。からかわれたと気がついたときは、もうこっちは弾のとどかぬところにいる。なにも急いで走って、肋膜《ろくまく》をわるくする必要もあるまい」
「そうか! これでわかった!」ポルトスはほとほと感心していった。
いっぽう味方の陣地では、四人が歩いてやって来るのを見て、歓声をあげた。
すると、また一斉射撃の音が聞こえた。こんどは、弾が四人のまわりの小石にあたり、耳のあたりを無気味にかすめた。ラ・ロシェル方が、ついに稜堡を奪ったのである。
「ずいぶん撃ち方のまずい連中だな」と、アトスがいった。「ところで、こっちは何人ぐらいやっつけたかな? 十二人?」
「十五人だろう」
「押しつぶしたのは何人だ?」
「八人か、十人か」
「それでこっちはかすり傷ひとつなしか。おや、おや、ダルタニャン、手をどうした? 血じゃないか?」
「なんでもないよ」と、ダルタニャン。
「流れ弾か?」
「いや、そうじゃない」
「じゃ、なんだ?」
すでに述べたように、アトスはダルタニャンをわが子のように愛していた。その陰鬱《いんうつ》で一徹《いってつ》な性格も、この青年に対しては父親のような心遣いを示すのである。
「すりむいたんだよ」とダルタニャンは答えた。「指が石垣と、指輪の石のあいだにはさまってさ、それで皮がすりむけたんだ」
「ダイヤなんか持っているから、そういうことになるんだ」と、アトスはさも軽蔑するようにいった。
「そう、そう、ダイヤがあったな」と、ポルトスが叫んだ。「こういうものがあって、なんで金がないなどとぼやくことがあるかい?」
「なるほど、そうだった」と、アラミス。
「うまいぞ、ポルトス! こんどは貴公も、うまいことを思いついたぞ」
「もちろんだ」アトスに賞《ほ》められて得意になったポルトスは、「ダイヤがあるんだから、そいつを売りゃあいい」
「だが、こいつは王妃からいただいたダイヤだからな」
「だから、なおさら売りゃあいいんだよ」と、アトスが答えた。「王妃が愛されるバッキンガム公をお救いになるためじゃないか、これ以上当然な理由はあるまい。しかも王妃は、これによって味方であるわれわれを救ってくださるわけになる。これ以上道義にかなった理由はあるまい。ダイヤは売ろう。神父の考えはどうだね。ポルトスの意見は、もうわかっているから」
「考えてみれば」と、アラミスは顔を赤らめながら、「その指輪は恋人から贈られたものでもないし、したがって恋のしるしでもないのだから、ダルタニャンは手放したっていいわけだ」
「まったく貴公の話し方は、神学そのものだな。けっきょく、きみの意見はどうなんだ」
「ダイヤは売ったらいい」と、アラミスは答えた。
「よし」と、ダルタニャンは、明るい声でいった。「売ることにしよう。これで、この話は、もうしないことにしよう」
射撃はなおつづいたが、もう一行はすでに射程外に出ていた。敵はもう気休めに撃っているだけだった。
「まったくポルトスは、いいことを思いついてくれた」と、アトスがいった。「さあ、陣地に着いた。いいか、もうこの事件についてはひと言もいいっこなしだよ。みんながこっちを見ている。やって来るな。胴上げにされるな」
じじつ陣地内は、興奮で湧き返るようだった。二千人以上の者が、まるで芝居でも見物する気でこの四人の大言壮語の結果いかにと、集まっていた。そのくせ、こんどのほんとうの動機は、だれも知らなかったのである。聞こえるのは、[近衛隊《このえたい》万歳!][銃士万歳!]の叫び声だけだった。
ビュジニーは真っ先にやってきて、アトスの手を握りしめ、賭に負けたことを卒直に認めた。竜騎兵とスイス人傭兵がそれにつづき、そのあとから隊の全員がぞくぞくと詰めかけた。祝辞や握手や抱擁《ほうよう》が絶えまなくつづき、敵側に対する嘲笑《ちょうしょう》がいつまでもつづいた。あまり騒ぎが大きいので、枢機卿は反乱でも起こったのかと、ラ・ウディニエール大尉を見にだした。
事件は熱狂的な感激をもって使者の耳に伝えられた。
「どうだったか」と、枢機卿は、もどってきたラ・ウディニエールにたずねた。
「それが台下」と、使者は答えた。「三人の銃士と一人の親衛隊士がビュジニー殿と賭をしまして、サン=ジェルヴェの稜堡《りょうほう》へ食事をしに出かけ、食事をしながら二時間ほど敵を相手にがんばって、多数の敵を倒したのでございます」
「その三人の銃士の名は聞かなかったのか?」
「はい、台下」
「なんという名だ?」
「アトス、ポルトス、アラミスでございます」
「また、あの三人か」と、枢機卿はつぶやいた。「して、親衛隊士は?」
「ダルタニャンで」
「あの若者か! なんとしてもあの四人は、こちらに引き入れる必要があるな」
その夜、枢機卿はトレヴィール殿に、陣中至るところで話題となった今朝《けさ》の武勲について話した。トレヴィール殿は当の勇士たちの口から話を聞いていたので、ナプキンの件も忘れずに事《こと》こまかく枢機卿に報告した。
「よかったな、トレヴィール殿。そのナプキンをわたしに渡さないか。それに金でゆりの花を三つ刺繍させて、貴殿の隊の隊旗として進ぜよう」
「台下、それでは親衛隊に対して片手落ちになりましよう。ダルタニャンはわたしの手の者ではなく、エサール殿に属しておる者ですから」
「では! その者はあなたの隊に入れたらいい。もともとあの四人の勇士は仲がよいのだから、同じ隊でご奉公できないというのも、これまた不公平な話だからね」
その夜すぐにトレヴィール殿は、この吉報を三人の銃士とダルタニャンとに知らせ、翌日の昼食に四人を招くことにした。
ダルタニャンは喜びで我を忘れた。知ってのとおり、彼の生涯の夢は、銃士になることだったからだ。
三人の銃士も、大よろこびだった。
「まったく、きみはすばらしいことを思いついたもんだ」と、ダルタニャンはアトスにいった。
「きみのいったように、あのおかげでわれわれは手柄は立てられたし、大事な相談もすることができたんだからね」
「もうこんどは、だれからも怪しまれずに相談ができる。それに、神のお加護により、今後はわれわれは枢機卿側だと人は思ってくれるだろうしな」
その夜ダルタニャンは、エサール殿のもとへ挨拶に行って、昇進のことを話した。ダルタニャンをひいきにしていたエサール殿は、この際なんでも頼みたいことがあれば遠慮なく言うようにといった。隊が変わることは、身支度にいろいろと出費があるからである。
ダルタニャンは固辞したが、ちょうどいい機会だと思ったので、ダイヤモンドをさしだし、これで金をつくりたいから値打ちを鑑定させてほしいと頼んだ。
翌朝八時に、エサール殿の従僕がダルタニャンのところへやってきて七千リーヴルの金貨の袋を手渡した。
これが、王妃のダイヤモンドの価格であった。
四十八 家庭の事情
アトスは[家庭の事情]という言葉を考えだした。家庭の事情なら、枢機卿の取調べを受けることがないからである。これは他人には関係のないことである。家庭の事情ならだれの前に出ても、おおっぴらに問題にできる。
このようにしてアトスは、家庭の事情という言葉を見つけた。アラミスは、従僕の件で、うまい考えを見つけだした。ポルトスは、ダイヤモンドといううまい方法を見つけた。
ダルタニャンだけが、なんにも見つけだすことができなかった。ふだんなら四人の中で一番創意に富んでいる男なのだが、ミラディーという名前を聞いただけで、すっかり萎縮《いしゅく》してしまっているのである。
いや、そういってはまちがいだった。彼だって、ダイヤモンドの買い手を見つけたのだから。
トレヴィール殿の昼食は、まったく楽しいものであった。ダルタニャンは、すでに制服を着こんでいた。彼はアラミスと背丈がほとんど同じなので、アラミスは、いつか例の詩で本屋からたっぷり稿料をもらったときに制服を二着作らせてあったことを思いだし、一着分をそっくり彼に譲ってやったのだった。
これでダルタニャンは、もし地平線に現われる黒雲のようなミラディーの姿が心に浮かばなかったら、これ以上望むことはなかったであろう。食事がすむと四人は、その夜アトスのところに集まって、例の問題を片づけてしまうことにした。ダルタニャンは昼間、陣営の中を歩きまわって、銃士の制服を見せびらかした。
その夜、きめられた時間に、四人の友は集まった。決定すべきことは、三つだけだった。
ミラディーの義弟に宛てて手紙を書くこと。
ツールの例の腕のいい人に手紙を書くこと。
それらの手紙を持参する従僕をだれにするかということ。
みんなはそれぞれ、自分の従者を推挙した。アトスは、自分がその口を縫いつけている糸をほどいてやらないかぎりはしゃべらないからといって、グリモーの慎重さを説いた。ポルトスは、ふつうの男が四人|束《たば》になってかかってきてもなぐり倒すというムスクトンの腕力を誇った。アラミスは、バザンの巧妙さは信頼にあたいするといって、この聖職志願者をえらくほめあげた。最後にダルタニャンはプランシェの勇敢さをすっかり信用して、あのブーローニュの難事件に際し、いかにこの男がりっぱにやってのけたかと、みんなに思い出させた。
これらの四つの長所について、長いあいだその価値が問われ、大いに論議されたのだが、あまり長くなるので、ここでは割愛させてもらうことにする。
「不幸にして、派遣される使者は、これら四つの長所を一人で備えていなければなるまい」と、アトスがいった。
「だが、そんな従僕は、どこにいるかね?」
「ありゃしないさ」と、アトスがいった。「そいつがわかってるから、グリモーにしろ、というんだ」
「ムスクトンがいいよ」
「バザンにしたらいい」
「プランシェにしろよ。プランシェは勇敢で、抜け目がない。四つのうち、二つの長所は備えている」
「いいかね、みんな」と、アラミスがいった。「大事なことは、われわれ四人の従僕の中で、だれが最も慎重か、腕力があるか、抜け目がないか、勇敢かということを知ることではないのであって、問題は、だれが最も金銭を好むかということを知ることだと思うね」
「アラミスの言うことは、道理に合ってるな」と、アトスがいった。「取りあげて論ずるのは彼らの欠点についてであって、長所についてではない。さすがは神父さま、貴公は偉大なる人性探究家《モラリスト》だよ」
「もちろんそうさ」と、アラミスはなおも、「成功するために全力を尽くしてもらうことも必要だが、失敗しないことも必要なのだ。失敗すれば従僕の首が飛ぶばかりじゃない、われわれの首までも……」
「もっと低い声で言えよ、アラミス」と、アトスが注意した。
「たしかに、従僕ではなくて、主人であるわれわれの首が飛ぶのだ」と、アラミスがつづけた。「われわれの従者たちは、主人たちのために命を捨てるほど忠実だろうか? いや、そうではあるまい」
「なあに」と、ダルタニャンがいった。「おれのところのプランシェなら大丈夫だ」
「そうかい! それなら、その持って生まれた忠実さの上に、たっぷり使えるだけの金をやりたまえ。そうすれば、大丈夫が二倍になるな」
「いや、それでも、やっぱりだまされるな」と、アトスは問題が事件のときは楽観的だが、こと人間に関すると悲観的な見方をする。「彼らは金をもらったときは、なんでも約束をするが、途中で恐怖にかられて、だめになってしまうんだ。ひとたび捕えられれば拷問《ごうもん》される。拷問されれば、白状してしまうだろう。いや、まったくだ! 子どもじゃないんだからな! イギリスへ行くには」
ここで、アトスは声を低めて、「枢機卿の手先やスパイがうようよしているフランスを通らなければならないし、船に乗るには乗船許可が必要だ。ロンドンへ行く道をたずねるには、英語も知らなければならない。いいかい、なかなか大変な仕事だよ」
「なあに、それほどでもないさ」と、ダルタニャンは、なんとかしてこのことを実現させたいので、「おれはそれどころか、やさしいことだと思っているよ。もちろん、ウィンター卿に宛てては、家庭的なこと以外は、枢機卿の悪口などはもってのほかだ」
「もっと、声を低くしろ」と、アトス。
「策謀だとか、国家の秘密だとか」ダルタニャンは、言われたとおりに声を低めて、「そんなことを書いたら、もちろんわれわれは生きながら車裂きの刑だ。だが、アトス、きみが自分でも言ったように、家庭の事情のためにウィンター卿に書くのなら。ただ、ミラディーがイギリスに着いたら、われわれに危害を加えることができないようにしてくれと、その目的のために書くのだから。だから、まあこんなふうにして書いてみたらどうかな」
「よかろう」と、アラミスは、もうすでに批評してやるといった顔つきである。
「まず、[ムッスィウ、親しき友よ……]」
「へえ! そうかね、イギリス人に向かって、親しき友よ、かね」と、アトスがさえぎった。「たいした書きだしだよ、ダルタニャン。その言葉を使っただけで、車裂きどころか、八つ裂きにされるぞ」と、アトスがいった。
「なるほど! では、簡単に、ムッスィウとしておくか」
「それとも、[閣下]はどうかね?」礼儀にやかましいアトスが、またいった。
「では、[閣下、リュクサンブールの山羊《やぎ》飼いの用地のことをおぼえておいでですか]」
「よろしい! こんどは、リュクサンブールとおいでなすった! 王太后への当てこすり(王太后マリ・ド・メディシスのために、リュクサンブール宮殿は建築されたのである)だと思われるかもしれんぞ。うまいぞ!」と、アトスが、またまぜかえした。
「よし! それでは、ごくあっさり、こう書くか、[閣下、あなたの命をお助けした、あの空地《あきち》のことをおぼえておいでですか]」
「だからダルタニャン、きみはいつまでたっても、満足に手紙ひとつ書けんのだよ。[あなたの命をお助けした]とは、なんだね! いかんよ、そいつは。紳士に対して、そういうことをしたことを思いださせるなんて、もってのほかだ。ほどこした恩恵を口にするのは、人を傷つけることだよ」
「ああ! まったくうるさい男だ」と、ダルタニャンはいった。「いちいち文句を言われて書かなければならないなら、おれはもうやめだ」
「そのほうがいい。きみは銃と剣をいじくってりゃいいんだ。このふたつにかけちゃ、りっぱなものだ。だが筆をとることは神父さまにまかせることだ、それが、この男の領分だ」
「そう、まったく、そのとおり」と、ポルトスもいった。「ペンをアラミスに渡せよ。なにしろ、ラテン語で論文を書く男だからな」
「よし、そうしよう」とダルタニャンはいった。「じゃ、アラミス、手紙を書いてくれ。だが簡潔に、要領よく頼むよ。でないと、こんどは、おれが文句をつけるからな」
「いいとも」とアラミスは、いかにも詩人らしい自信のほどを見せて、「だが、もう少し事情を話してくれないか。あの女がひどい女だということは知っているし、枢機卿との会話でその確証は得ているんだがね」
「声が高い!」と、アトスが注意した。
「しかし、くわしいことを知らないのでな」と、アラミスはなおもいった。
「おれだって知らんよ」と、ポルトス。
ダルタニャンとアトスは、ちょっとのあいだ、だまって顔を見合わせた。
考えこんでいたアトスは、いつもより青い顔をして、やっと同意するような合図をみせたので、ダルタニャンは、しゃべってもいいのだなと察した。
「では、こんなふうに書いてもらいたい。[閣下、あなたの義理の姉上は悪い女で、あなたの遺産を相続するために、あなたを殺そうとまでしました。しかしこの女は、あなたの兄君とは正式に結婚などできなかったのです。なぜならば、すでにフランスにおいて彼女は結婚していまして、それに……]」
ダルタニャンは、どう言おうかと言葉につまって、アトスの顔を見た。
「[その夫から追われた身だったのです]」と、アトスがあとをつづけた。
「[なぜならば、彼女は前科の烙印《らくいん》をおされていたからで]」と、ダルタニャンがつづけた。
「なんだって!」と、ポルトスが叫んだ。「そんなことが! あの女は義弟を殺そうとしたのか?」
「そうだ」
「で、その夫が、彼女の肩に百合《ゆり》の烙印をおされていたのに気がついたってわけか」と、なおポルトスは叫んだ。
「そうだ」
この[そうだ]というアトスの口からもれた返事は、しだいに陰鬱《いんうつ》な調子になっていた。
「で、その百合の花の烙印を、だれが見たんだね?」と、アラミスはたずねた。
「ダルタニャンとおれだ。いや、時間的に言えば、おれが先で、そのあとでダルタニャンということになる」と、アトスが答えた。
「で、その恐るべき女の亭主は、まだ生きているのかね?」と、アラミスがまたたずねた。
「まだ、生きている」
「たしかに?」
「たしかだ」
瞬間、冷たい沈黙が流れた。各人がそれぞれの印象を受けたのである。
「こんどは」と、アトスが最初に沈黙を破った。「ダルタニャンがすばらしい文句を考えてくれた。まず、そいつを最初に書いたらいい」
「まったく、貴公の言うとおりだ、アトス」と、アラミスがそれを受けて、「だが、書くとなると、なかなかむずかしいな。こんな手紙は司法卿だって手こずるだろうよ。調書なんかだったら器用にまとめるだろうがね。まあいいさ! だまっていてくれ、書いてみるから」
アラミスはペンを握って、しばらく考えていたが、女のような小さなきれいな字で十行ばかり書くと、静かに、ゆっくりと読みあげた。それは、いかにも一字一句ゆるがせにしないといったふうで、次のようなものである。
[#ここから1字下げ]
閣下
このような手紙をさしあげる拙者《せっしゃ》は、かつてアンフェール街の空地において、貴殿と剣をまじえる光栄に浴した者でございます。その後、貴殿より賜わりたる数々の御厚情に対して、あらためて感謝の意をこめ、ここに心からの御忠告をさしあげるしだいでございます。
じつは貴殿は、貴殿の相続人と信じておる近親の婦人により、二度までも危《あや》うく犠牲に供されんとしたのであります。その婦人は、イギリスにおいて結婚する前に、すでにフランスにおいて結婚しておったのでございます。今ここに、その三度目の企てが、貴殿の身に及ぼうとしております。その貴殿の近親者は、昨夜ラ・ロシェルを出て、イギリスへ向かいました。その者は恐るべき計画を持つ者ゆえ、上陸にあたってはじゅうぶんにご監視あるように。なおその婦人の恐るべき人となりを知らんとなさるならば、左の肩をお調べくだされたし。
[#ここで字下げ終わり]
「いいぞ! これでいい」と、アトスがいった。「貴公は陛下の御祐筆《ごゆうひつ》にもなれるな、アラミス。これでウィンター卿も警戒するだろう。もっとも、この手紙がとどけばの話だが。それに、かりにこの手紙なら、これが枢機卿の手に落ちたとしても、われわれには累《るい》を及ぼさないだろう。ところで、使いの従僕が、ロンドンまで行ってきたといって、シャテルローあたりで引き返したりすると困るから、金は手紙を渡すときに半分やっておいて、あとの半分は返事を持って帰ってきたときに渡すことにしよう。で、ダイヤは持ってるだろうな」
「もっといいものを持っている。金だ」
そしてダルタニャンは、テーブルの上に袋を投げだした。金貨の音に、アラミスは眼をあげ、ポルトスは身ぶるいした。アトスだけは感動をべつに示さずに、
「いくらはいっているのかね?」と、きいた。
「十二フラン金貨で、七千リーヴル」
「七千リーヴルだって?」と、ポルトスは叫んだ。「あんなつまらんダイヤが、七千リーヴルにもなったのかい?」
「たぶんそうなんだろう、こうして金が目の前にあるところを見るとな」と、アトスがいった。
「ダルタニャンが自分の金をだしたとは、どうしても思えんからな」
「ところで、みんな」とダルタニャンが呼びかけた。「いままでのところでは、われわれは王妃のことをちっとも考えなかった。少しはバッキンガムのことも考えてやろうや。そのくらいのことはすべきだよ」
「まったくだ」と、アトスが応じた。「だが、これもまたアラミスの領分だな」
「よろしい!」と、アラミスは答えたが、顔を赤らめている。「どうしたらいいかな?」
「なに、簡単さ」と、アトスが言い返した。「そのツールに住んでいるという、万事抜かりなくやってくださる婦人に手紙を書けばいいんだろう」
アラミスはまたペンを手にして、ちょっと考えてから次のように書くと、それを友人らに示して、賛同を求めた。
「[親しき従妹《いとこ》へ]」と、アラミスは読みはじめた。
「なんだ! その抜かりなくやってくれるっていう人は、貴公の親戚だったのかい」とアトスがいった。
「わたしの従妹だよ」
「まあよし、従妹で結構!」
アラミスは、読みつづけた。
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親しい従妹へ
フランスの幸福のために、またフランスの敵を混乱におとし入れんがために、神さまのご守護になるわが枢機卿台下は、ラ・ロシェルの新教徒の反乱軍を、いままさに、鎮圧されんとしておられる。イギリス海軍の援軍も、まだ到着するようすは見えない。バッキンガム公も、よほどの重大な事件のためか、出発できないようにわたしには見受けられる。
枢機卿は、過去、現在、未来を通じて、最も並ぶもののない政治家であらせられる。もし太陽が邪魔なら、その光をもお消しなられる方だ。どうかこのよき知らせを、あなたの姉上に知らせてあげてほしい。わたしは、あの呪われたイギリス人が死んだ夢を見たのだ。刃物でやられたか、毒を盛られたかは、いま思いだせない。とにかく確かなことは、あの人が死んだという夢なのだ。あなたは、わたしの夢がいつも正夢《まさゆめ》だということを知っているね。だから、もうじきあなたにも会えるだろうよ。
[#ここで字下げ終わり]
「うまいぞ!」と、アトスは叫んだ。「まったく貴公は、詩人の王さまだ。まったく、黙示録のように難解で、しかも福音書のように真実を語っているんだからな。さあ、あとは宛名を書けばいいわけだ」
「それは、なんでもない」と、アラミスは答えた。
彼は手紙を、しゃれたふうにたたむと、その上に、[在ツール、裁縫師《さいほうし》マリー・ミション嬢殿]と書いた。
三人の友は、顔を見合わせて笑いだした。みごとに、かつがれたのである。
「さて」と、アラミスはいった。「いいかね、諸君、この手紙をツールに持って行けるのは、バザンだけなんだ。従妹はバザンしか知らないし、バザン以外は信用してないんだ。ほかの者ではうまくいかないだろうね。それにバザンは大望をもっているし、学もあり、歴史にも通じている。シクストス五世が豚《ぶた》飼いから身を起こして法王になったということまで知っているんだ。わたしといっしょに聖職につくつもりでいるから、自分でも末は法王か、せめて枢機卿ぐらいになるつもりだろうよ。こういう大きな目的をもっている男は、めったにへまをやることはないものだ。それに、もしつかまったとしても、白状するくらいなら殉教者の道を選ぶだろうよ」
「よし、よし」と、ダルタニャンがいった。「そのほうは、こころよくバザンにゆずる。そのかわりこっちはプランシェを出させてもらいたい。じつはあの男は、いつかミラディーの家から、こっぴどくたたき出されたことがあるんだ。プランシェは物覚えのいい男だから、復讐ができるとなったら、万難を排してやりとげるだろうね。アラミス、ツールのほうは貴公にまかすが、ロンドンのほうはこっちにまかしてもらいたい。それにあの男は、ロンドンには、すでに一度おれといっしょに行っているし、英語で、[ロンドンへは、どう行きますか?]とか、[わたしの主人ダルタニャン殿]ぐらいは、ちゃんと言えるからね。まあ、安心したまえ。きっと行って、もどって来るよ」
「では」と、アトスがいった。「プランシェには、行きに七百リーヴル、帰ったときに七百リーヴル、バザンには、行きに三百リーヴル、帰ったときに三百リーヴル渡すことにして、あと五千リーヴル残るから、みんなの使う分として、めいめい千リーヴルずつ取ろう。残りの千リーヴルは、不時の出費用として、神父さまにあずかってもらうことにしたらどうかな?」
「アトス、きみはまるで、例のギリシアの賢者、ネストールのようにりっぱに事を処理するな」と、アラミスがいった。
「よし! これで、きまった」と、アトスがいった。「プランシェと、バザンを出発させよう。なんといっても、グリモーはそばに置いておいたほうが、おれにはつごうがいいんだ。おれのやり方に馴《な》れているからな。それに、昨日の働きで、だいぶくたびれているから、いま旅に出したら、まいってしまうかもしれん」
そこでプランシェを呼んで、指示を与えた。前々からダルタニャンに、すでに聞かされていたのだ。のっけから、まず名誉、次に金、そして危険という順序で、話しておいたのである。
「手紙は、服の袖《そで》の折返しの中に、隠しておきましょう。つかまったら、すぐに飲みこんでしまいます」と、プランシェはいった。
「しかし、それでは使いの役目がはたせないではないか」と、ダルタニャンがいった。
「今夜、手紙の写しをお渡しくだされば、明日までには暗記してしまいますから」
ダルタニャンは[どうだ、おれの言ったとおりだろう]といわんばかりに、友人たちの顔を眺めわたした。
「いいか」と、彼はなおプランシェに言いつづけた。「ウィンター卿のところへ行くのに八日間、もどって来るのに八日間、合わせて十六日間だぞ。出発してから十六日目の朝の八時までにここへもどって来なかったら、金はやらん。八時を五分すぎても、だめだ」
「では、だんなさま、時計を買ってくださいまし」
「これをやろう」と、アトスは気前よく自分の時計をやった。「いいか、しっかりやるんだぞ。もしおまえがしゃべったり、むだ口をきいたり、道草をくったりしたら、おまえを信用しておれたちに大きなことをいったおまえのご主人の首が飛ぶんだぞ。もしおまえの落度でダルタニャンがそんなことになったら、おれは草の根を分けてもおまえをさがしだし、おまえの腹を引き裂いてやるから」
「ひどいことをおっしゃる!」疑われたくやしさもあったが、銃士の落ちつきはらったようすが、よほど恐ろしかったにちがいない。
「おれだって」と、ポルトスは大きな目をぎょろつかせて、「生きながら皮をはいでやるぞ」
「ああ、だんなさま!」
「わたしだって」と、アラミスもおだやかな、よく響く声で、「野蛮人のように、おまえのからだを遠火で焼いてやる」
「ああ、もう!」
とうとうプランシェは泣きだした。みんなからおどされてこわくなったためか、それとも四人の友だちの仲のよいのに感動したからか、それはあえて言わないことにしておこう。
ダルタニャンは、彼の手をとって、接吻してやった。
「いいかいプランシェ。みんながおまえにこんなことを言うのはおれに対する友情からなんだよ。ほんとうはみんな、おまえをかわいがってくださってるんだ」
「わかっています、だんなさま」と、プランシェは答えた。「成功するか、この身が八つ裂きになるか!たとえ八つ裂きになろうとも、そのひと切れがしゃべるようなことはしませんから」
プランシェの出発は、翌朝の八時ときまった。彼がいったように、夜のうちに手紙の文句を暗記してしまうためであった。この準備のために、彼はちょうど十二時間もうけたわけだ。十六日目の晩の八時に帰ればよいことになったからだ。
朝になって、プランシェが馬に乗ろうとしたとき、心の底ではバッキンガム公にわずかながらも親しみを感じているダルタニャンは、彼を脇へ呼んで、そっといった。
「いいか、ウィンター卿に手紙を渡して、卿が読んでしまわれたら、こう申しあげてくれ。[バッキンガム公の身辺にお気をつけてくださるように。暗殺の企《たくら》みがございますから]とな。だが、プランシェ、これはあまり重大なことなので、このことをおまえにことづけるのは、仲間には内証にしてあるくらいで、手紙にも書きたくないことなのだと、承知しておいてくれ」
「ご安心くださって」と、プランシェは答えた。「わたしが信用できる男かどうか、そのうちわかりますから」
こう言うとプランシェは、八十キロほど先の宿駅まで乗って行くことになっているりっぱな馬にまたがって、銃士たち三人のおどかしをいささか気にしながらも、まずは絶好の状態で、早駆けで旅立った。
バザンもその翌日、一週間で使命を果たす約束で、ツールに向かった。
この二人の留守のあいだ、当然のことながら四人の友は、いつもよりも目を光らせ、聞き耳を立てて、緊張の毎日を送った。一日中、絶えず人びとの話を盗み聞きし、枢機卿の挙動をうかがい、飛脚《ひきゃく》が着くと注意していた。思いがけないときに呼びだされて、ひどくびっくりしたことも、一度や二度ではなかった。
それに、自分たちの身辺の安全に気をくばらねばならなかった。まったくミラディーという女は、ひとたび姿を現わすと、やすらかに人を眠らせない幽霊のようなものだった。
八日目の朝、パルパイヨ亭で四人が食事をしていると、バザンがいつものように元気よく微笑しながらはいってきた。そして、かねて打ち合わせてあった文句を使って、
「アラミスさま、お従妹《いとこ》さまのお返事でございます」
四人の友は、喜びのまなざしをかわした。これで、仕事の半分がかたづいたのである。もっともこっちのほうは近いし、やさしい仕事ではあったが。
アラミスは思わず赤くなりながら、でたらめ綴《つづ》りの下手《へた》くそな書体の手紙を手にして、笑いながらいった。
「まったく、がっかりしてしまうよ、ミションという娘には。これでは、いつまでたっても、ヴォワテュール氏というわけにはいかないな」
「その[ミジョン]というのは、[たれ]のことですか?」と、手紙がきたとき四人の仲間と雑談をかわしていた例のスイス人が、たずねた。
「なあに、べつになんでもない女ですよ」と、アラミスは答えた。「わたしがほれているかわいい裁縫師でしてね、なにか思い出でも書いて寄こせと、いってやったもんですから」
「おやおや!」と、スイス人はいった。「もしその人が、その字[みだい]にりっぱな貴婦人だったら、あんたも[さそ]色男[たろう]がね」
アラミスは、さっと手紙に目を走らせると、アトスに渡した。
「まあ、読んで見たまえ、アトス」
アトスは手紙をちらっと見てから、まわりの者に疑いをおこされてはいけないと思い、大きな声で読みあげた。
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あなたも、姉も、それにあたしも、みんな夢占いがじょうずですわ。こわいくらいによく当たるわ。でも、あなたのみた夢は、よく人が夢なんて嘘と言う、そういう夢であって欲しいですわね。では、さようなら、お元気で。ときどきお便りをくださいね。
マリ・ミション
[#ここで字下げ終わり]
「夢って、どういう夢なんです?」と、竜騎兵が近づいてきてたずねた。
「そう、その夢、[とんな]夢なんです?」と、スイス人もきいた。
「いや、ちょっと、わたしが見た夢の話をあれに話してやったものだから」と、アラミスは答えた。
「なるほど、夢の話を人にすることはよくあるね。[ても]、わたし、夢を見たことないね」
「あんたは幸福な人だ。わたしも、そんなことが言える身になりたいものだ」アトスは立ちあがりながら、そういった。
アトスのような人から羨《うらや》ましがられて、すっかりいい気になったスイス人は、「いや、いや、けっして、そんなことない[てす]」と、いった。
ダルタニャンはアトスが立ちあがるのを見ると、自分も立って彼の腕をとり、外へ出た。ポルトスとアラミスとは、竜騎兵とスイス兵とのくだらん話の相手をするために、あとに残った。
バザンは、藁《わら》をたばねた山の上に横たわりに行った。彼はスイス兵よりは想像力があったから、アラミスが法王になって、自分の頭に枢機卿の帽子をかぶせてくれている夢を見ていた。
しかし、こうしてバザンが無事に帰ってきてくれたものの、四人の心配は、まだその一部分しか取り除いてはくれなかった。
待つ日は長いもので、とくにダルタニャンにとっては、一日が四十八時間くらいに感じられた。彼は船旅は時間がかかるものだということを忘れ、ただただミラディーという女の力を、過大に考えていた。悪魔のように思われるこの女には、彼女と同じように超自然的な力を持っている手下がいるにちがいないと思った。それゆえ、ちょっとした物音がしても、彼はだれかが自分を逮捕しに来たのだ、自分や友人たちと対決させるためにプランシェが連れて来られたのだと思ったりした。それに加えて、かつてはあのけなげなピカール人に対して抱いていたあれほどまでの信頼感が日に日にうすらいでゆくのが感じられた。
このような不安感はあまりにも強かったので、それはポルトスやアラミスにも伝染していった。いまでは、いつもと同じように、身辺に何の危険も感じないふうに落ちつきはらっているのはアトス一人だけとなった。
十六日目になると、ダルタニャンと二人の友の不安感は目に見えていちじるしく、彼らはじっとしていることができなくて、プランシェが帰って来るはずの道に、まるで幽霊のようにさまよい出る始末だった。
「まったく、きみらは子どもと同じだな」と、アトスがいった。「女一人に、そうびくびくするとは! けっきょく、それがどうしたというんだい? 牢《ろう》にぶちこまれる! いいじゃないか! 牢なら出て来られる。ボナシュー夫人だって、出て来たろう。首をはねられるか? だがおれたちは、毎日|塹壕《ざんごう》の中で、もっとひどい危険に身をさらしているじゃないか。なぜなら弾丸で足をやられるかもしれんし、外科医に腿《もも》を切られるとなりゃ、死刑執行人に首をはねられるよりゃ、もっと苦しいにちがいないと思うが、どうかね。まあ、静かにしていたまえよ。あと二時間か、四時間か、せいぜい六時間すれば、プランシェはここに帰って来るよ。そう、約束したんだからな。ひどく律儀《りちぎ》な男らしいから、おれはあのプランシェという男を大いに信用しているんだがね」
「だが、もし帰って来なかったら」と、ダルタニャンがいった。
「いいじゃないか! 帰って来なかったら、おくれたというだけだ。それだけの話さ。馬から落ちたのかもしれんし、甲板でひっくり返ったのかもしれんし、あんまり急いで走ったので、肺炎になったのかもしれん。まあ、諸君! もう少しようすを見ようじゃないか。人生ってものは、数々の小さな不幸の玉でできた数珠《じゅず》で、賢い人間は、笑いながらその数珠をつまぐるものだ。まあ、このおれのように達観《たっかん》するんだな。さあ、諸君、テーブルについて、一杯やろうじゃないか。シャンベルタンぶどう酒のコップをとおして眺めれば、まさに未来はばら色に見えるではないか」
「はなはだ結構な話だが」と、ダルタニャンは答えた。「新しい酒を飲むときには、それがミラディーの酒倉から出たものではないかとおそるおそる飲まなきゃならないのでは、まったくやりきれんよ」
「扱いにくい男だな」と、アトスはいった。「あんなにきれいな女なのにさ!」
「烙印《らくいん》のある女か!」ポルトスが高笑いをしていった。アトスはぎくりとして、額に手をやって汗をぬぐうと、いらいらして来るのを抑えきれずに席を立った。
こうしているうちに昼間は過ぎ、夜がゆっくりとやってきた。やがて、すっかり夜になった。酒保《しゅほ》は、客で一杯だった。アトスは、ダイヤの分け前でポケットがふくらんでいるので、パルパイヨ亭に入りびたっていた。彼はすばらしいご馳走をしてくれたビュジニーを、いい勝負相手にしていたのだ。
二人がいつものように勝負をやっていると、七時が鳴った。増員のために出て行く足音が聞こえた。七時半に、帰営の太鼓が鳴った。
「もうだめだ」ダルタニャンが、アトスの耳元でささやいた。
「賭に負けたという意味でだろう?」と、アトスは静かに言うと、ポケットから四ピストール取りだして、テーブルの上に投げだした。
「さあ、諸君、帰営の太鼓だ。帰って寝るとしよう」
そういってアトスは、ダルタニャンを連れて、パルパイヨ亭を出た。アラミスはポルトスと腕を組んで、そのあとにつづいた。アラミスは口の中で詩を吟じており、ポルトスは絶望の体《てい》で、ときどき口ひげをかきむしっていた。
ところがそのとき、暗闇の中に、とつぜん人影が現われた。ダルタニャンには、見なれた背格好である。聞きなれた声が、呼びかけてきた。
「だんなさま、外套を持って来ましたよ。今夜は冷えますもので」
「プランシェ!」ダルタニャンは喜びの声をあげた。
「プランシェ!」ポルトスとアラミスが、それにつづいた。
「そうか! プランシェか!」と、アトスがいった。「驚くことなんかあるものか? この男は、八時に帰ると約束したんだ。そしていまちょうど八時が鳴っている。でかしたぞ、プランシェ! おまえは約束に固い男だ。もしもいまの主人からひまをとるようだったら、いつでもおれのところで使ってやるぞ」
「いいえ、とんでもございません」と、プランシェはいった。「わたしは絶対に、ダルタニャンさまのそばを離れませんとも」
ダルタニャンはそのとき、プランシェが一通の手紙をそっと手渡してくれるのに気がついた。彼は出発のときにしたように、いままたプランシェに接吻してやりたいと思った。しかし、道のまんなかで自分の従僕にそんなことをすれば、人から変に思われやしないかと思ったので、彼は思いとどまった。
「返事をもらったよ」と、彼はアトスたちにいった。
「よし、早く帰って、読むとしよう」
ダルタニャンは握っている手紙で、手が焼ける思いだった。彼は足をはやめたかった。だが、アトスが彼の腕をとってかかえているので、彼はやむを得ず友と歩調を合わせねばならなかった。
やっと宿舎に帰ると、ランプをともし、四人はだれからも邪魔されないようにと入口にプランシェを立たせて、ダルタニャンは震える手で封を切り、待ちに待った手紙をひらいた。
文面は半行ほどで、イギリス式の書体の、しっかりした簡潔な英文である。
ありがとう。安心されたし
アトスはダルタニャンの手から手紙を取ると、ランプのそばへもっていって火をつけ、すっかり灰になるまで手にしていた。
それからプランシェを呼び入れて、こういった。「さあ、大いばりで、七千リーヴルを要求したらいい。だが、手紙がこんな簡単なものだとすると、たいして危険な目にもあわなかったとみえるな」
「こいつをしっかりと握って来るには、ずいぶんいろいろと方法を考え抜きましたよ」と、プランシェは言い返した。
「そうだろうとも! 話してごらん」と、ダルタニャン。
「いや! 話すとすれば長くなるので」
「もっともだ、プランシェ」と、アトスがいった。「それに、もう帰営の太鼓が鳴ったんだから、ここだけ灯りをつけているととがめられる」
「そうだ、寝るとしよう」と、ダルタニャンがいった。「プランシェ、おまえもゆっくり寝るがいい」
「まったく、だんなさま! ゆっくり寝られるのは、十六日ぶりでございます」
「おれもだよ」と、ダルタニャンがいった。
「おれもだよ」と、ポルトス。
「わたしもだ」と、アラミス。
「ほんとうだ! 正直いうと、このおれも、そうなんだ」と、アトスもいった。
四十九 宿命
こうしているあいだにミラディーは、船の甲板の上で怒り狂い、まるで牝獅子《めじし》のようにわめき散らしていた。岸に泳ぎつくために、海に飛びこみたい、そんな思いにかられていた。ダルタニャンには侮辱され、アトスにはおどかされ、それで復讐もしないでフランスの地を離れるとは、彼女としては、とても考えられないことだったのだ。
やがて彼女は、こうした思いにどうにも堪えられなくなり、たとえこの身はどうなってもかまわぬから、自分を近くの海岸に投げ降ろしてくれと船長に頼んだ。ところが船長は、フランスとイギリスの戦艦のあいだにあって、いわば鼠《ねずみ》と鳥のあいだの蝙蝠《こうもり》のような怪しげな立場から早く抜けだして、一刻も早くイギリスに帰りたいと思っていたものだから、たかが女のこのような気まぐれな申し出は、断固として拒絶することにした。ただ枢機卿から特に依頼された船客だからというわけで、もしそのうちに風が凪《な》ぎ、フランス人たちが許可してくれれば、ロリアンかブレストか、とにかくブルターニュの港に降ろしてあげようと約束した。
しかし風は向かい風で、海は荒れ放題、船はジグザグコースをたどりながら、それでも目的地へと難行をつづけた。シャラントを出てから九日目、怒りと苦しみに青ざめたミラディーの眼に、フィニステールの青みがかった海岸がやっと見えてきた。
このフランスの片田舎を通って枢機卿のもとに行くのには、少なくとも三日はかかると、彼女は計算した。上陸のための一日を加えると、四日になった。それに、これまでの九日を合わせると、十三日間をむだにしたわけだ。この十三日間に、ロンドンでは多くの重大な事件が起こるにちがいなかった。
彼女は考えた、自分がこのまま帰れば、枢機卿はきっと腹を立てるだろう、そうなれば枢機卿は、自分の訴えよりも、人が自分を訴える言葉のほうを聞き入れる気持ちになるだろうと。
そこで彼女は、船がロリアンやブレストを通ったときにも、むりに船長に頼まないことにした。船長のほうも、知らん顔をしていた。こういうわけでミラディーはそのまま船旅をつづけ、ちょうどプランシュがポーツマスの港からフランスへ向けて出発したその日に、この枢機卿の女密使は、意気軒昂《いきけんこう》として港にはいった。
町は、異常な活気を呈していた。最近できあがった大きな船が四隻、進水式をしたところだった。黄金で飾り、ダイヤや宝石でいつもながらまばゆいばかりの装いで、肩まで垂れる白い羽根飾りの帽子をかぶったバッキンガム公が、同じようにけばけばしい服装をした幕僚《ばくりょう》たちを従えて立っていた。
その日は、冬のイギリスにも太陽のあることを思いださせるような、珍しく晴れた一日だった。色はうすいが、それでもやはり輝かしい太陽が、空と海とを炎で染めながら、地平線の彼方に沈んでいった。その金色の残光は、町の塔や古い家々にあたって、それらのガラス窓を火事と思われるほどに、あかあかと照らしだしていた。
ミラディーは陸地に近づくにつれて、ますます生き生きと香り高く感じる海の空気を胸一杯に吸いながら、わが手で打ちこわさねばならぬこのような完壁な準備を、わずかな黄金の袋だけを持って女の身ひとつで戦わねばならぬこの強力な軍勢を、眺めながら、ひそかにわが身を、アッシリア軍の陣営ふかく忍びこみ、いずれは自分の手で煙のように消し去らねばならぬ戦車や軍勢の集団を眺めやったときの、かのユダヤの女傑ジュディットに、なぞらえてみたのだった。
船は湾内にはいった。そして錨《いかり》をおろそうとしていると、ものものしく武装した一隻の快速艇が、いかにも監視船といったようすで近づき、ボートを降ろした。 そのボートは、こちらの船の舷側《げんそく》をめざして進んできた。士官が一人、水夫長、それに八人の漕手《こぎて》が乗っていた。士官だけが甲板にあがって来たが、やはり制服のききめはたいしたもので、丁重に迎えられた。
士官は船長としばらく話していたが、持参した書類を見せた。すると船長の命令で、船員も乗客も、全員が甲板に呼びだされた。
みんなが集合すると、士官は大声で、船の出港地、航路、寄港地を問いただした。船長はそれらの質問に対しておとなしく答えた。それがすむと士官は、集まった人員を一人ずつ点検しはじめた。ミラディーの前では立ちどまって、とくに注意ぶかく目をそそいだが、べつに言葉をかけようとはしなかった。それから彼は船長のところへもどって、さらに二言三言《ふたことみこと》話しかけた。
するとこの船は、今後まるでこの士官の言葉に従うことになったとでもいうようすで、船長の命令のもとに乗組員はすぐさま配置についた。船はふたたび進行しはじめた。快速艇は、あい変わらず威嚇《いかく》するように六門の砲を向けながら、船の舷側にぴったり沿ってついてきた。ボートも、大きな塊《かたまり》のそばの一点となって、うしろから追ってきた。
士官から顔をじっと見られたとき、読者も想像するように、ミラディーのほうでも相手の顔を精一杯に見返した。だが、いつもならその燃えるような目で、相手の心の底までも見抜かないではおかないのに、このときばかりは、いくら探ってみてもなんの手ごたえもない、無感動な顔があるばかりだった。
彼女の前に足をとめて、口もきかずにじろじろと彼女を眺めたその士官は、年のころ二十五、六の色白な男で、ややくぼんだその眼は青く澄んでいた。その上品な口もとはくっきりと引きしまり、力づよい線を描いたその顎《あご》は、よくイギリスの一般庶民に見られる単なる強情さ、あの意志の強さを示していた。額は、詩人や情熱家や軍人などによく見かけるようにやや反《そ》りかえっていて、短いまばらの髪の毛で、かろうじて、被《おお》われていた。髪の毛は、あごに生えているひげと同じように、濃い栗色で美しかった。
船が港にはいったときは、すでに夜になっていた。夜露が闇をいっそう深め、突堤に並ぶ角燈のまわりに、雨の前の、月の暈《かさ》のような、光の輪をつくっていた。夜気は湿っぽく冷たく、寂寥感《せきりょうかん》を与えていた。
さすがに気丈なミラディーも、われ知らず身内がぞくぞくするのを感じた。士官はミラディーに荷物を出させて、それをボートに運ばせた。その作業がすむと、彼女も乗りこむようにと、手をさしのべた。ミラディーは男の顔を見て、ためらった。
「あなたは、どなたですの」と、彼女はたずねた。「とくにあたくしに世話をやいてくださいますが」
「わたしの制服を見ればおわかりになるでしょうが、わたしはイギリスの海軍士官です」と、その青年は答えた。
「ですけれどもイギリス海軍の士官がたは、同国人がイギリスの港に着くたびに、いつもこうして親切にしてくださって、わざわざ上陸の世話までなさるのですか?」
「そうです。慣習なのです。これは親切からではなくて用心のためなのです。戦時下にあっては、外国人はみな指定の宿舎に送り届けて、その身元がはっきりするまでは、当局が監視することになっているのです」
これらの言葉は、あくまでも礼儀正しく、あくまでも冷静に言われたのだが、ミラディーを納得させるには至らなかった。
「でも、あたくしは外国人ではありませんわ」とミラディーは完全に純粋なアクセントでいった。ポーツマスからマンチェスターにかけて、これほど純粋な英語は聞かれなかったかもしれない。「あたくしは、クラリック夫人です。それなのに……」
「この処置は、どなたにでもするのですから、おまぬがれになるわけにはいきませんな」
「では、お供いたしますわ」
そして彼女は士官の手を取って、はしごを降りはじめた。下には、ボートが待っていた。船尾には大きな外套がひろげてあって、その上に彼女をすわらせると、自分もそのそばに腰をおろした。
「漕げ!」と、士官は水兵に命じた。
八本のオールが、一つの音を立てて水にはいった。ボートは水面を、飛ぶように進んだ。
五分後には、陸に着いた。士官は波止場に飛びあがると、ミラディーに手をさしのべた。
一台の馬車が待っていた。
「この馬車は、あたくしたちのためですの?」と、彼女はたずねた。
「そうです」と、士官は答える。
「宿は遠いのでしょうか?」
「町の反対側ですから」
「まいりましょう」
ミラディーはこう言うと、思いきって馬車に乗りこんだ。士官は、荷物が馬車のうしろに注意ぶかく縛りつけられるのを見とどけてから、ミラディーのそばに腰をおろして、扉をしめた。
ただちに、なんの命令もなく行先も示されないのに、御者は早駆けで走らせて、町の中にはいった。
このような奇妙な出迎え方をされたことは、ミラディーにいろいろなことを考えさせずにはおかなかった。そこで彼女は、若い士官のほうがまるで会話をかわす気がないのを見てとると、馬車の隅に肱《ひじ》をついて、頭に浮かんで来る仮定を、あれやこれやと考えはじめた。
そのうちに十五分たって、あまり遠いのでふしぎに思った彼女は、どこへ連れていかれるのかと、扉に身をよせて外を見た。もう人家は一軒も見えない。木々が黒いまぼろしのように、次々に現われては消えていった。ミラディーはぞっとした。
「もう町の中ではありませんのね」と彼女はいった。
若い士官は、だまっていた。
「はっきり行先をいってくださらなければ、あたくし、もうこれ以上はまいりません、いいですね!」
そういっても、返事は得られなかった。
「まあ、あんまりだわ! 助けて! だれか来て」と、彼女は叫んだ。
もとより答える声ひとつなく、馬車は全速力で走っていた。士官は、まるで立像のようだった。ミラディーは彼女特有の、相手に食い入るような、例のものすごい形相で、士官をにらみつけた。怒りに燃えたその眼が、闇の中で光っていた。
青年は、眉ひとつ動かさなかった。
ミラディーは、扉をあけて、飛びだそうとした。
「お気をつけなさい。飛びだせば、死にますよ」と、青年はひややかにいった。
ミラディーは、歯ぎしりしてまた腰をおろした。
士官は身をかがめて、こんどは自分のほうから彼女の顔をのぞきこんだが、いままであんなに美しかった女の顔が、怒りのためにむしろ醜いまでに変わったのを見て、びっくりしたようすだった。抜け目のない彼女は、こうして自分の心の中を見すかされては損だということに気がついた。そこで表情をやわらげると、せつなそうな声で「お願いですから、教えてくださいませ。あたくしをこんな手荒な目にあわせるのは、だれなんですの? あなたご自身なのか、あなたの政府なのか、それともあたくしの敵なのでしょうか?」
「手荒なことなどは、少しもしておりません。これは、だれでもイギリスに上陸する人に対して、われわれが取らなければならない処置なので、それであなたもこうなったというだけのことです」
「では、あなたはあたくしをごぞんじありませんの」
「お目にかかるのは、これがはじめてです」
「では、あたくしに対しては、なんの敵意ももってはいらっしゃらないのですね?」
「少しも。お誓いします」
青年の声は明るく落ちついていて、そのうえ優しくもあったので、ミラディーは安心した。
馬車はなお一時間近く走って、やっと鉄格子《てつごうし》の門の前でとまった。門の向こうにはくぼんだ道が、いかめしい形の大きな孤城へと通じていた。こまかい砂利の上を馬車が走って行くとき、咆哮《ほうこう》するような大きな音を聞いて、彼女は、これは断崖に当たってくだける波の音だと思った。
馬車はアーチを二つくぐって、薄暗い四角な前庭にとまった。すぐに扉が開かれると、青年は地面に飛び降りて、手をさしのべた。ミラディーはその手につかまって、かなり落ちついた気持ちで降りた。
「どっちにしても、あたくしは囚《とら》われの身だわ」と、彼女はあたりを見まわしてから、できるかぎり愛想《あいそ》のよい微笑を浮かべて、その目を青年に向けた。
「でも、それもそう長いことではありますまい。あたくしの良心と、あなたのご親切な態度が、そのことを保証してくれますもの」
こうした愛想のいい言葉にも、士官はひと言も答えずに、軍船の水夫長が使うような、小さな銀の呼子《よびこ》を腰から取りだすと、音色をちがえて三度吹いた。
すると数人の男が現われて、荒い息を吐いている馬をはずし、車を車庫のほうへ運んでいった。
それから士官は、あい変わらず礼儀正しい落ちついた態度で、囚われの女に向かって家の中にはいるようにとすすめた。彼女もずっと笑顔をしつづけて、その手を取ると、いっしょに低いアーチ型の門をくぐった。そこは奥のほうだけが明るくなっている丸天井によって、石造りのまわり階段へと導びかれていた。やがて厚い扉の前にとまると、青年は持っている鍵をさしこんだ。すると扉は、重たげな音を立てて開いた。そこが、ミラディーにあてがわれた部屋だった。
囚《とら》われの女は、ひと目で部屋の隅ずみまでを見てとった。室内の調度品は、牢獄としてはきれいだし、自由な人間の住居としてはひどかった。どっちとも言えない部屋だったが、窓には格子がはまり、扉には外から鍵がかかるところを見れば、やはり牢屋といったほうが当たっていた。さすがに気丈なこの女も、一瞬、気抜けの体《てい》で、肱掛椅子《ひじかけいす》にくずれ落ちると、腕を組み、頭を垂れて、尋問をしにやって来る裁判官を、ただ待つばかりだった。
だが、二、三人の水兵がトランクやケースをはこんできて片隅におくと、なにも言わずに出て行ったきりで、ほかにだれも来なかった。
士官は、ミラディーにとってはすでになじみの、あの落ちつき払った態度で、これらの細かい作業を指揮していたが、自分はひと言も口をきかずに、手振りを使うか、呼子《よびこ》を吹くかして、部下を動かしていた。
この男と部下とのあいだには、話し言葉が存在しないか、または不必要なもののようだった。
ミラディーはとうとうがまんができなくなって、沈黙を破った。
「お願いです! いったいこれは、どういうことなのです? 優柔不断《ゆうじゅうふだん》な態度はいやです。前もってわかっていればどんな危険でも、どんな不幸でも、あたくしは耐え抜いてゆけるだけの勇気をもっているつもりです。いまあたくしがいるここはどこですの! あたくしは自由な身なのですか! でしたら、どうして窓に格子がはまっていたり、扉に鍵があったりするのです? あたくしは囚われの身なのでしょうか? でしたら、どういう罪をあたくしは犯したのでしょうか?」
「あなたのためにきめられた部屋に、あなたはおられるのです。わたしはあなたを船まで迎えに行って、この城にお連れするようにと命ぜられました。わたしは軍人としての厳格さと、貴族としての礼節とをもってこの命令を実行したつもりです。少なくとも現在のところ、あなたのそばにあってなすべき仕事はこれまでで、あとのことは、ほかの人がすることになります」
「では、そのほかの人とはだれですの? その名前を教えてはいただけませんか?」と、ミラディーはたずねた。
そのとき、階段のところに、拍車の大きな音が聞こえた。人声がして、また消えた。そして一人だけの足音が、戸口に近づいた。
「その方が見えましたよ」
そういって士官は道をあけ、恭順の態度をみせた。
同時に扉が開き、一人の男が、敷居の上に現われた。その男は帽子もかぶらず、腰に剣をつるし、ハンカチを指で握りしめていた。
ミラディーは、暗闇の中のこの人影に、見おぼえのあるような気がした。彼女は片手を椅子の脇にかけたままで、のりだすようにして顔を前に出した。
その男は、しずしずと近よってきた。彼が足を進めて、ランプの投げる光の輪の中にはいって来るにつれて、ミラディーは我知らず身をしりぞけた。
もう、まちがいはなかった。
「まあ、あなたでしたの?」彼女は驚きの極に達して叫んだ。
「さよう、わたしだ」
半ば皮肉な、半ばいんぎんな挨拶をしながら、ウィンター卿は答えた。
「で、このお城は?」
「わたしのだ」
「この部屋は?」
「あなたの部屋だ」
「あたくしは囚われの身なんですの?」
「まあ、そんなところだな」
「でも、そうでしたら、ひどい暴力の乱用ですわ」
「大げさな物の言い方をするな。まあ、坐りたまえ。姉弟のあいだでするように、静かに話し合うとしよう」
そして、戸口のほうを振りむくと、命令を待っている若い士官を見やって、
「よろしい。ありがとう。二人だけにさせておいてくれたまえ、フェルトン君」
五十 義弟と姉の懇談
ウィンター卿が扉をしめ、鎧戸《よろいど》をおろし、椅子を自分の肱掛椅子のほうに近づけてくるあいだ、ミラディーは夢見るように、こんどの成り行きの心底を見きわめようとしていたが、自分がだれの手に落ちたのかわからないうちは思いもしなかった経緯を、はっきりと読みとることができた。
義弟はひとのいい貴族で、無邪気な狩猟家であり、無鉄砲な賭事好きで、女にも目のない男だが、策謀にかけては自分よりも劣ることを、彼女はよく知っていた。その義弟が、どうして自分の到着を知り、自分を捕えさせることができたのだろうか? どうして自分を監禁しておくのだろう?
アトスから言われた言葉で、自分と枢機卿との会話がだれかの耳にはいったことは確かだが、それにしてもこんなに早く、こんなに思いきった対策が立てられようとは、どう考えてもわからなかった。
それよりも彼女は、前にイギリスでやった仕事がばれたのではないかと、むしろそのほうが心配だった。バッキンガムが、ダイヤの飾りを二つ切りとったのは彼女だと察して、その卑劣な行為に復讐をしているのだと思われなくもなかった。だがバッキンガムという人は、女性に対しては、ことにその女が嫉妬心にかられてやったと思われるときには、ひどい仕打ちはできない人だった。
この推測が、一番あたっているように思われた。過去にしたことに対して復讐しようとしているので、未来のことに対してではないはずだと思われた。だが、いずれにしても彼女は、利口な直接の敵の手中に落ちるよりも、組みしやすい義弟の手に落ちたことを喜んでいた。
「そうね、お話しましょう」と、彼女は快活なようすを見せていった。ウィンター卿は隠そうとするにはちがいなかろうが、それでもその会話の中から、これからの身の振り方をきめる手がかりを引きだせるだろうと、彼女は思ったのである。
「イギリスにもどって来る気になったんだね」と、ウィンター卿は切りだした。
「パリでは、もう二度とイギリスの地は踏まないと、あんなになんども言っていたくせに」
ミラディーはこの質問をはぐらかせて逆にたずねた。
「それよりも、どうしてあなたは、あたくしが来るということばかりでなく、その日や時刻や、また上陸港まで前もって知られるほどまでに、あたくしの行動をきびしく監視なさったのか、それをお聞かせになってくださいな」
ウィンター卿は、相手が使ったのだから同じ手を用いてやれと、
「それよりも、あんた自身が、なんの用事でイギリスに来たのか、それを聞かせて欲しいな」
「あなたにお会いしに来たのですわ」と、ミラディーは答えた。この返事が、ダルタニャンからの手紙で彼がおこした疑惑の念をいっそう深める結果になるとは知らずに、いい加減なことをいって相手の意を迎えようと、彼女は思ったのだった。
「へえ! わたしに会いたいんだって?」と、ウィンター卿は、意味ありげにいった。
「もちろんですわ、あなたにお目にかかりに、なにか、おかしいことでも?」
「では、イギリスに来るについては、わたしに会う以外に、目的はなかったのかい?」
「そうですわ」
「つまり、わざわざ海峡を越えて来たのも、このわたしに会うためだけだったのかな?」
「ええ、あなたにお会いするためだけです」
「驚いたね! なんというやさしい気持ちなんだろう?」
「だって、あたくしは、あなたの一番近い身内じゃありませんか」と、ミラディーは、いかにも打ちとけた口調でいった。
「同時に、わたしの唯一の相続人でもある、そうだったな」
こんどはウィンター卿は、ミラディーの眼をじっと見ていった。
いくら自制心のつよいミラディーといえども、これには身ぶるいせずにいられなかった。ウィンター卿は、この最後の言葉を言い終わるときは義姉の腕に手をかけていたので、この身ぶるいをはっきりと感じとった。
たしかに、この一撃は直接に、深く彼女にひびいた。ミラディーの頭に最初に浮かんだことは、ケティーに心の秘密を見せたからだ、そして彼女が、あのときの不機嫌なようすをうっかり男爵に話したからだということだった。彼女はダルタニャンが義弟の命を助けてくれたときに、不謹慎《ふきんしん》にも露骨に不機嫌な顔を見せたことを思いだした。
「あたくし、よくわかりませんわ」と彼女は時間をかせいで、相手に話させようとした。「どういう意味ですの? お話に、なにか裏の意味がございますの?」
「そんなこと、とんでもない!」と、ウィンター卿は、いかにも人のよさそうな顔をして、「あんたはわたしに会いたいと思って、イギリスに来られたんだろう。わたしもその気持ちを知って、いや、そうではないかと思ってね、夜中の入港はなかなか大変だし、上陸は気苦労も多いと思ったので、それでうちの士官を迎えに出したんだよ。馬車をしたてて、この城まで案内させたんだ。ここはわたしの城だから、わたしは毎日ここへ来られるし、いつでもわたしたちが会えるようにと、この部屋をあんたのために用意させたんだ。わたしの言ったことで、なにか不審な点があるかな?」
「いいえ、ただふしぎなことといえば、あたくしの来ることが、よくあなたにわかったということですわ」
「それは、なんでもないことだよ。あんたの船が湾内にはいったとき、入港許可を得るために、船長が航海日誌と乗船者名簿を持たせて、前もって小舟を出したのを、あなたは見なかったかな? わたしは港湾総督だから、その書類はわたしのところへ来る。で、その中にあんたの名前を見たってわけだ。で、あんたが自分の口からいったこと、つまりどういう目的で、こんな危険な、少なくとも今の季節ではじつにからだが疲れる船旅をしてまで来られたかということが、察しがついたっていうわけさ。そこで、わたしの快速艇を出したんだよ。そのほかのことは、あんたも知っているとおりだ」
ミラディーは、ウィンター卿が嘘をついていることがわかったので、それだけにいっそう恐ろしかった。
「さっき」と、言葉をつづけて、「あたくしが着いたとき、突堤でお見かけしたのは、バッキンガム公爵さまではありませんの?」
「公爵さ。なるほど、あの方の姿を見て驚いたのも、もっともな話だな。あんたは、あの方のことが大いに問題になっている国から来られたんだからな。公爵がフランスに対して軍備をされていることで、あんたの仲よしの枢機卿がずいぶんと心配されていることも、わたしは知ってるよ」
「あたくしの仲よしですって!」
彼女はウィンター卿が、こんなことまでいろいろと知っているので、すべてを知っているのではないかとびっくりして、思わず叫んだ。
「仲よしじゃなかったのかな?」と、男爵はなにげなくいった。「そりゃ、失礼、わたしはそうだと思っていたもんでね。ところで、公爵の話はあとのことにして、お互いの気持ちに触れ合った、さっきの話をつづけるとしよう。あんたは、わたしに会いたくて来られたといったね?」
「ええ」
「よろしい! で、わたしは、あんたの望みどおりにしてあげる、つまり毎日会えるようにしようと、ご返事したわけだ」
「ではあたくしは、ずっとここにいなければなりませんの?」なにか恐怖に似た感じを受けて、ミラディーはたずねた。
「ここでは、居心地《いごこち》がわるいかな? なんでも必要なものは、いってくれたらいい。すぐにとどけさせるから」
「小間使いもいませんし、従僕もおりませんわ」
「みんな用意させますよ。あんたの最初の夫がどういう暮らしをあなたにさせたか、それを言ってくれれば、わたしは義弟でしかないが、それと同じようにしてあげよう」
「あたくしの最初の夫ですって!」ミラディーはぎょっとして、まじまじとウィンター卿を見た。
「そう、あんたのフランス人の夫のことだよ。わたしの兄のことではない。とにかく、あんたがその人を忘れていても、その人はまだ生きているんだから、わたしが手紙を出せば、そのことについては教えてくれるだろうからね」
ミラディーの額に、冷たい汗が流れた。
「冗談をいっていらっしゃる」と、彼女は、よわよわしい声でいった。
「そう見えるかな?」そういって男爵は立ちあがると、一歩しりぞいた。
「それよりも、あたくしを侮辱していらっしゃるんだわ」彼女はわななく手で肱掛椅子の両腕をつかんで、身を起こしながらいった。
「あんたを侮辱するって、このわたしが!」ウィンター卿は、さも軽蔑するように、「じじつ、そんなことが、わたしにできると思うかね?」
「ほんとうに、あなたは酔っているか、気ちがいです。出て行ってください。そして女中を一人よこしてください」
「女は口が軽いもんだよ! わたしが召使いの代わりをしてあげようかね? そうすれば、われわれの秘密は、身内の中だけですむだろうし」
「なんて無礼なことを!」と、ミラディーは叫んだ。そして、まるでばねではじかれたように、男爵に向かって飛びかかった。彼は剣の柄に手をやったが、平然としてミラディーの腕をおさえた。
「そう、そう! あんたは、人殺しの習慣があったな。だが、このわたしは、むざむざ殺されはしないよ。たとえ相手があんただろうと立ち向かうから」
「ああ、そうでしょうとも」と、ミラディーはいった。「見るからにあなたは、女に向かって手をあげるような卑怯者だわ」
「そうかもしれない。でも、こっちにも言わしてもらおう。あんたに手をかけたのは、なにもわたしがはじめてではないと思うが」
そう言うと男爵は、咎《とが》めるようにゆっくりと手で左肩を指さし、今にも触れんばかりにその指を近づけた。
ミラディーは低い呻《うめ》き声を立てて、部屋の隅までさがった。まるで身をちぢめて飛びかかろうとする牝豹《めひょう》のようであった。
「ああ! 好きなだけ吠《ほ》えるがいい」と、ウィンター卿が叫んだ。「だが噛みつくのはやめたほうがいい。いっておくが、そんなことをすれば、あんたのためにならんからな。ここには、遺産相続の手続きを前もってやってくれる代訴人もいないし、囚われの美女を救おうとして、わたしに立ち向かって来る騎士もいないからな。だが、重婚の罪を隠して、[兄の]ウィンター卿のベッドにもぐりこむような破廉恥《はれんち》な女を処分する裁判官たちは用意している。これらの裁判官があんたを刑吏のもとに送って、両方の肩に同じような烙印《らくいん》をつけてくれるだろうよ」
ミラディーの眼が、稲妻《いなづま》のように光った。それを見て男爵は、男の身で、しかも武器を持たぬ女を相手にして自分は武装しているのに、腹の底までもしみ入るような恐怖の戦慄《せんりつ》をおぼえた。それでも彼はいよいよ怒りをつのらせ、言葉をつづけた。
「もちろん、わたしの兄の遺産を相続した上、わたしのも相続すれば、さぞあんたは楽しかろうと、その気持ちはわかる。だが断わっておくが、あんたがわたしを殺そうと、あるいはだれかに殺させようとしたって、わたしはじゅうぶん用心しているからな、一文だって、わたしの持っているものはあんたに渡さんよ。あんたは百万近くも持ってるんだから、それでもういいじゃないかね。たとえ悪をはたらくのがこのうえない楽しみだとしても、神によって定められた道に身を落ちつけることができないのかね?
いいかね、よく聞けよ! もし兄の思い出がわたしにとって神聖なものでないならば、あんたは国の監獄に終身囚として朽ち果てるか、タイバーン(ロンドン近くの処刑場)へ行って、水夫たちのなぶりものになってもらうところだ。わたしはもうなにも言わんが、あんたはおとなしくこの監禁生活をつづけるように。あと十五日か二十日もしたら、わたしは軍隊とともにラ・ロシェルに向かうが、その前日に船がきて、あんたを南方の植民地へ連れて行くことになっている。わたしは、それを見とどけるつもりだ。心配するな。あんたがイギリスや大陸に帰ろうなんて謀反気《むほんき》を起こしたら、すぐさま頭をぶち抜いてくれるお供を一人つけておくからな」
ミラディーは、燃えるような眼をかっと見開いて、気を張りつめて聞いていた。
「そう、さしあたっては」と、ウィンター卿はつづけた。「あんたはこの城にいてもらうことになる」
ウィンター卿は、なおつづけた。
「ここの壁は厚いし、扉は頑丈《がんじょう》、格子もしっかりしている。それに窓の下は断崖で、海につづいているんだ。わたしに生死を捧げている部下たちが、この部屋のまわりの警戒にあたり、中庭に通じる出口を監視している。第一、庭に出たところで、そのさき、まだ鉄柵を三つも抜けなければならない。命令は厳格だから、一挙止、一語たりとも逃亡を思わせることがあれば、弾丸がすぐに飛んでくるぞ。あんたを殺したら、イギリスの司法当局は手間がはぶけたといって、わたしに感謝してくれるだろうよ。おや! 顔が平静を取りもどし、自信ありげな顔つきになってきたな。
[なあに、十五日から二十日あれば、頭のはたらくあたしだもの、いい考えが浮かぶにちがいない。あたしは魔力をもっているから、だれかを犠牲にしてみせる。今から十五日後には、きっとここから出てみせるから]こう考えているんだろう。まあ、いいから、やってみるんだな」
ミラディーは図星をさされたと思ったので、顔に苦痛以外の表情が出るのをかくすために、爪をきゅっと肌に突き立てた。
ウィンター卿はなおもつづけた。
「わたしの留守中にここで指揮をとるのは、あんたも会って知っているあの士官だ。あれが命令を厳格に守る男であることは、あんたも知っているとおりだ。あんたはポーツマスからここへ来るあいだに、なんとかしてあの男に口をきかせようとした。だが、どうでしたかな? 大理石の立像だって、あれ以上無表情に、あれ以上押しだまっていることはできまい。これまでにあんたは多くの男たちに対して誘惑をこころみたが、不幸にしていつもそれが成功した。だが、あの男には、そうはいくまい。もし成功したならば、それこそあんたは、悪魔の生まれかわりだ」
彼は入口のほうへ行って、荒々しく扉を開いた。
「フェルトン君を呼んでくれ」と、彼はいった。「ちょっと待つように。いまあんたをあの男に紹介するから」
二人のあいだに、奇妙な沈黙が流れた。その間、ゆっくりした規則正しい足音が近づいて来るのが聞こえた。やがて廊下の暗闇のところに、人影が現われた。例の若い副官が敷居の上に立って、男爵の命令を待っていた。
「はいりたまえ、ジョン君」と、ウィンター卿がいった。「はいって、扉をしめたまえ」
青年士官は入った。
「さて」と、男爵はいった。「この女の人を見たまえ。若くて美しくて、この世のあらゆる魅力を備えている人だ。ところが、どうだ! この女は二十五歳にして、わがイギリスの法廷記録に一年間しるされる分に匹敵するほどの罪を犯した人非人《ひとでなし》だ。その声は、だれが聞いても感じがいいし、その美しい顔は男を釣る餌《えさ》であり、その肉体は釣りよせた男に満足を与えてくれる。この点は、認めねばならないだろう。
この女はきみを誘惑しようとするだろう。いや、殺そうとするかもしれない。フェルトン、わたしはきみを不幸な境遇から救いあげて、副官に任命した。きみも知ってのとおり、一度は命を救ってあげたこともある。わたしはきみの保護者というだけではなく、友人でもある。きみの恩人であるばかりでなく、父親代わりでもあるわけだ。この女は、わたしの命を狙《ねら》おうとして、イギリスに渡ってきたのだ。わたしはこの毒蛇《どくじゃ》をつかまえた。そこで、きみを呼んだのだが、いいかね、ジョン・フェルトン君、わたしを守ってくれたまえよ。なによりもまずこの女に気をつけることだ。この女がそれ相応の刑を受けるまで、まちがいなくあずかると、きみに誓ってもらいたいんだ。ジョン・フェルトン君、わたしはきみの言葉を信じ、きみの忠誠に期待する」
「閣下」と、若い士官はその澄んだ眼にあらんかぎりの憎悪《ぞうお》をこめて、「お望みどおりにすることを誓います」と、いった。
ミラディーは、その視線を、あきらめきった表情で受けとめた。その美しい顔に浮かんだこのときの表情ほど、従順でやさしい表情は、かつて見られないものだった。ウィンター卿でさえもこの女が、ついいましがた自分が戦おうとした牝虎《めとら》のような女であるとは、ほとんど信じられないくらいだった。
「この女を、この部屋から一歩も出さないように、いいかね、ジョン君」と、男爵は言った。「だれとも通信させてはいかん。許すとすればきみだけだが、それもきみがその気になればのことだ」
「わかりました、閣下、誓ったとおりにいたします」
「さて、あんたは神さまとこれから仲よくやってゆくことだな。なぜならば、人間の裁きはもう受けたのだからね」
ミラディーは、この裁きに打ちのめされた者のように、首をうなだれた。ウィンター卿はフェルトンに合図をして、出て行った。青年もそのあとから出て行くと、扉をしめた。
そのあとすぐに廊下では、手斧《ておの》を腰にし、銃を手に持った見まわりの水兵の重々しい足音が聞こえた。
ミラディーはしばらくのあいだ、同じ姿勢のままでいた。たぶん鍵穴《かぎあな》からのぞかれていると思ったからである。やがて彼女はゆっくりと顔をあげたが、そこには相手を脅迫し、挑《いど》みかかるような恐ろしい表情がもどっていた。彼女は入口に走りよって耳をすまし、窓から外をうかがい、また元の大きな肱掛椅子にもどってそれに身をうずめると、じっと考えこんだ。
五十一 士官
一方、枢機卿は、イギリスからの知らせを待ち受けていたが、くればいやな不吉な知らせばかりで、これという知らせはなにもなかった。
いろいろと手順がよかったために、とくにこの包囲された町に一隻も船を入れないようにと突堤を築いたおかげで、ラ・ロシェルの攻撃はうまく進み、成功は確実と思われたが、それでも包囲は、まだまだ長びくようだった。これは国王軍にとってはたいへん不名誉なことであり、枢機卿としては非常に困ったことであった。枢機卿としては、じじつもはや、ルイ十三世とアンヌ・ドートリッシュを仲たがいさせる仕事はしなくてもすんだが、バッソンピエールとアングレーム公の不和を解消させる仕事がまだ残っていたからである。
王弟陛下は、攻囲戦をはじめただけで、あとの始末は枢機卿の手にゆだねたきりだった。町のほうでは、市長の信じられないような頑強な抵抗にもかかわらず、降服しようする連中が一種の反乱を企てたのだが、市長はこれらの反徒を絞首刑にした。この処刑のために、もっとも過激な連中もしずまって、いまは餓死《がし》の道を選ぶ決心をしていた。餓死するほうが、絞首刑ですぐに殺されるよりも、時が稼《かせ》げるし、もしやという望みもあると思ったからであろう。
攻囲軍のほうでは、ときどきラ・ロシェル方からバッキンガムへ送る密使や、バッキンガムが城内へ送りこんだ間諜《スパイ》を捕えた。どっちの場合も、判決は即座におこなわれた。枢機卿がひと言[絞首刑]というだけでよかった。処刑にあたっては、国王も招かれた。
国王は気の進まぬようすでやってきたが、くれば一番よく見える席についた。これでも多少は気ばらしになるので、最後までしんぼうづよく見ていた。だが、こんなもので退屈がまぎれるものではないので、口癖のようにパリへもどりたいといっていた。それゆえ密使や間諜《スパイ》がつかまらなかったら、どんなに頭のはたらく枢機卿でも、大いに当惑したことであろう。
このようにして時は経過したが、ラ・ロシェル側は降服しない。最近つかまった間諜が持っていた密書は、町の命数がすでに尽き果てんとしていることをバッキンガムに知らせているのだったが、そのあと、[二週間以内に援軍が来なければ降服する]などとは書いてなくて、[二週間以内に援軍がなければ、一人残らず餓死して果てる]と書いてあった。
つまりラ・ロシェル側は、バッキンガム以外に希望はなかった。バッキンガムこそ、彼らの救世主だった。だからバッキンガムに期待することができないと彼らがはっきりと知った日こそ、彼らの戦意が喪失するときであることは明らかだった。
そこで枢機卿は、バッキンガムは来ないという知らせがイギリスからとどくのを、じりじりしながら待っていた。
町を武力で奪取してしまおうという案は、しばしば御前会議で論議されたが、いつもしりぞけられた。まずラ・ロシェルは容易に攻めとれそうもないこと、第二は枢機卿が、なんといってもフランス人同志が血で血を争うようなことは、政治的にみて六十年の後退を意味すると思っていたからだった。
枢機卿は当時にあっては、今日で言うところの進歩的な人間だった。じじつラ・ロシェルの攻略は、三、四千人の新教徒を虐殺することになるわけだから、一五七二年のあのサン=バルテルミーの虐殺(一五七二年八月二十三日の夜半から翌朝にかけて行なわれた新教徒の虐殺で、国王シャルル九世の母、カトリーヌ・ド・メディシスの示唆によるものと言われている。翌二十四日が聖バルテルミーの祭日であるので、こう呼ばれた)を、一六二八年の今日に繰り返すようなものであった。それに加えてこの極端な手段は、カトリックの信者である国王としてはけっしていやでもないことなのだが、[ラ・ロシェルは餓死戦法以外には攻略の手がない]とする将軍たちの意見によって、いつもしりぞけられていたのであった。
枢機卿は、あの恐るべき女密使はどうしたであろうかと、いつも頭から離れなかった。あるときは蛇のような、あるときは獅子のような、あの女のふしぎな性格を枢機卿はよく知っていた。あの女は自分を裏切ったのだろうか? 死んでしまったのだろうか? いずれにしてもあの女のことだから、敵にまわろうと味方であろうと、よほどのことでもないかぎりは、じっとしている女ではないと、よくわかっていた。であればこそ彼は、どうしても消息がないのがわからなかった。
それでも枢機卿は、ミラディーをあてにしていた。あの女には恐ろしい過去があって、自分の緋色《ひいろ》の外套以外にはそれを隠してやることができないのを知っていたし、あの女をおびやかしている危険に対しては自分以外にそれを守ってやる者がないのだから、どんな事情があろうとも、あの女は自分には忠勤をはげむものと思いこんでいたのだから、彼女のはたらきをあてにするのは当然だった。
そこで枢機卿は独力で戦争をすることにし、予期しない成功は偶然のチャンスを期待することだとして、あてにしないことにした。彼は、ラ・ロシェルの町を兵糧《ひょうろう》攻めにする目的で作らせた例の突堤工事をなおもつづけ、そうしながら彼は、多くの悲惨と英雄的な行為とを内蔵しているこの不幸な町に目をそそいでは、彼の政治上の先輩格であるルイ十一世……枢機卿自身はロベスピエールの先輩であったが……の言葉を思いだしながら、[統治するために分割する]といったトリスタンおやじの有名な標語を口ずさんでいた。
アンリ四世はかつてパリを包囲したとき、パンやその他の食糧を城壁の上から投げこませたが、枢機卿は小さなビラを投げこませて、彼らの指揮者の行動がいかに身勝手で不正な、そして野蛮なものであるかをラ・ロシェルの町の人びとに訴えた。
指揮者たちは小麦を豊富に持っていたのに、一般には配給しなかった。彼らは彼らなりの信条があったのだ。つまり、城砦《じょうさい》を守る男たちが元気で強くさえあれば、女子どもや老人はどうなってもかまわないという信条だった。いままでは、忠誠心からか、それとも反抗するだけの力がなかったためか、この信条がまがりなりにも実施されていた。だがビラが効果を示した。ビラは男たちに、餓死するにまかせられている子どもや女や老人が、じつは彼らの妻子であり父母であること、そして同じ立場に追いやられたものが同じ覚悟をするためには苦しみを共にするのが当然であることを思いださせたのであった。
ビラは期待したとおりの効果をあげ、大部分の住民たちは、自分たちで国王軍と和平の交渉をしようと決心させるまでに至った。
ところが枢機卿が、自分の策が効果をあげて実を結びそうなのを喜んでいたとき、ラ・ロシェルの住民の一人が、どうしてやってきたのか神のみぞ知るだが、国王軍の陣地を突破して城内にはいった。枢機卿自らが監視するバッソンピエール、シェーンベルク、アングレーム公の手で厳重に警戒されている中を通り抜け、ポーツマスから来て町にはいったこの男の口から、一週間以内に出港する準備をしている大艦隊をその目で見たという話が伝えられたのである。
そのうえ、バッキンガムから市長に宛てて、ついにフランスに対抗する大同盟が結成されるに至り、王国はイギリス、ドイツ、スペインからの軍隊によって、一斉に侵略されるだろうという知らせがあった。その手紙は、町のあらゆる広場で読みあげられ、またその写しが各辻ごとに貼りだされたので、和平の交渉を開始しようとしていた連中も思いとどまって、はでに予告された援軍を待つことに決心した。
こうした思いがけない事情で、リシュリューの胸にはまた元の心配がよみがえり、その眼はまたしても海の彼方《かなた》に向かわざるを得なくなった。
そのあいだ国王軍の将兵たちは、唯一の事実上の指揮者の憂慮をよそに、愉快な日々を送っていた。食糧は不足なく金も不自由せずに、各部隊はこぞって胆力を競い合い、快活にふるまっていた。間諜《スパイ》をつかまえては絞首刑にしたり、わざわざ突堤や海岸のほうまで遠征したり、突飛《とっぴ》なことを考えだしては平然として実行に移したりして、時間をつぶしていた。
これらの気ばらしのために、彼らにとっては日々が短く感じられたが、飢えと不安に悩んでいるラ・ロシェル方はもとより、それをきびしく包囲させている枢機卿にとっては、一日が長く感じられた。
ときどき枢機卿は、いつも近衛《このえ》の一騎兵の姿で馬に乗り、フランスの各地から集めた技師たちに監督をまかせているのに意のごとくはかどらない工事の模様を心配そうに視察していたが、そういうときにトレヴィール隊の銃士の姿を見かけると、枢機卿はそばに寄ってじっと相手を見つめ、それが、わが四人の銃士の一人でないと知ると、またその洞察するような視線をそらして、ふかい物思いに耽《ふ》けるのだった。
ある日、町との和平の交渉もいよいよ望みがなく、イギリスからの便りもなくて、まったくやりきれない気持ちになった枢機卿は、カユザックとラ・ウディニエールの二人だけを供に連れて、あてもなく外出した。砂浜に馬を進めた彼は、胸に描く理想の広大さを、大洋の広大な眺めに溶けこませながら、馬をしずしずと進ませて、小高い丘の上にあがった。すると垣の向こうの砂の上に、この季節としては珍しい日ざしを浴びて、七人の男が空瓶《あきびん》をまわりに並べて寝そべっているのが見えた。そのうちの四人はわれらが銃士で、その一人がとどいた手紙を読もうとするのを、聞こうとしているところだった。大切な手紙なので、カルタやサイコロは太鼓《たいこ》の上にほうりだしてあった。
ほかの三人は、コリウール酒の特大瓶の栓《せん》を抜いていたが、これは銃士たちの従者どもであった。
前述したとおり、枢機卿は不機嫌《ふきげん》だった。彼は自分がこうした精神状態にあるときは、他人が陽気なのを見ると、いよいよ不機嫌になった。そのうえ、自分の不機嫌が原因で、他人がいっそう陽気になると思いこむ、妙な偏見をもっていた。
彼はラ・ウディニエールとカユザックに合図をすると馬を降りて、笑い声をあげているその男たちのほうへ近づいた。砂地で足音がしないし、垣があるので姿が見えないから、おもしろそうに笑っている不審な男たちの会話を盗み聞きできるだろうと思ったのである。
垣から十歩ほどのところまで来ると、聞きおぼえのあるダルタニャンのガスコーニュなまりが耳にはいった。この連中が銃士であることはすでにわかっていたから、ほかの三人が[切っても切れぬ仲]のアトス、ポルトス、アラミスであることは疑うまでもなかった。
こうとわかったうえには、いよいよ会話を聞いてみたくなったのは当然のことであろう。枢機卿は異様な光に眼を輝かせ、山猫のような足どりで、垣根のほうに近よった。だが、漠然とした意味のつかめない言葉しか耳にはいらなかった。
するとそのとき、ひと声高い声がしたので、枢機卿はびくっとし、銃士たちもその声ではっとなった。
「士官!」と、グリモーが叫んだのである。
「こいつ、しゃべったな!」と、アトスは肱《ひじ》で身を起こすと、目をかっと開いてグリモーをにらみつけた。
そこでグリモーはこれ以上しゃべらずに、ただ人さし指で垣のほうを指さし、そこに枢機卿と護衛がいることを示した。
四人の銃士は飛び起きると、うやうやしく敬礼した。
枢機卿は、怒っているように見えた。
「銃士諸君も、護衛を立てると見えるな」と、彼はいった。「イギリス軍が陸からでも攻めて来ると思っているのかな、それとも銃士諸君は自分たちが上級士官だとでも思っているのかな?」
「台下」と、アトスが答えた。なぜならば、ほかの連中がびくびくしている中で、彼だけはいつもの大貴族らしい悠々迫らざる落ちつきと冷静さを失わなかったからであった。「台下、銃士隊の者は非番ともなれば酒を飲んだり、サイコロをふったりいたします。また従僕から見ますれば、けっこう高官でもございます」
「従僕だと!」と、枢機卿は唸《うな》った。「人が通るといちいち合図をして主人に知らせるような従僕は、それはもう従僕ではなくて、あきらかに歩哨《ほしょう》だ」
「しかし台下もごらんのとおり、そうした用心をしないでおりましたら、台下に対してご挨拶を申さずにすごしたかも知れず、このようにせっかくわれわれに集まる機会をお与えくださった台下に対して、お礼の言葉も申しあげることができなかったかも知れませぬ。おい、ダルタニャン」と、アトスはなおもつづけて、「貴公はさきほど、枢機卿台下にお礼を申し述べる機会を得たいものだといっていたところではないか。ちょうどお見えになったのだから、言上したらいい」
アトスはこれら言葉を、危機に当たっていよいよ発揮する、少しも取り乱したところを見せない冷静さと、ときには王者の生まれかと思わせるような極端な礼儀正しさをもって言ったのである。
ダルタニャンは進み出て、感謝の言葉を口ごもりながら述べかけたが、枢機卿の不気嫌なまなざしを見て、あとの言葉は消えてしまった。
「そんなことはどうでもよろしい」と、アトスの持ちかけた取りなしぐらいでは、枢機卿は最初の考えを変えるような気には少しもならないと見えた。「お礼などはどうでもいいが、単なる兵士の身でありながら、たまたま特権のある隊に属しているからといって大侯のようなふるまいをすることは、わたしの好むところではない。軍律は、なんぴとに対しても等しくあるはずだからな」
アトスは、枢機卿がすっかり言い終わるのを待って、同意のしるしにうやうやしく頭をさげると、こんどはこのように切りだした。
「台下、軍律はいかなることがあろうとも、われわれはけっして忘れてはおりませぬ。わたくしたちは勤務についておりませんので、自由に自分たちの勝手に時間を使ってよろしいと考えたのでございます。もし台下が、ただいま何か特別のご命令をくだされば、ただちにご命令に従うつもりでございます。台下もごらんのとおり、」そういってアトスは眉をひそめた。なぜなら、これではまるで尋問だと、じりじりしはじめたからである。「われわれは急な場合に備えて、これこのとおり、武器をたずさえて外出しております」
こういって彼はカルタやサイコロが乗っている太鼓のそばに叉銃《さじゅう》してある四つの銃を指さした。
「ほんとうに、このようにわずかなお供で来られたのが枢機卿台下だとわかってさえいましたら、すぐにもお迎えにまいるところでございましたのに」と、ダルタニャンもいった。枢機卿は口ひげといっしょに、唇《くちびる》を少しばかり噛んだ。
「こうして武器をたずさえ、従僕を見張りに立てて、いつもいっしょにいる諸君がどう見えるか、わかるかな?」と、彼はいった。「まるで四人の陰謀家の集まりだね」
「ああ、その点は仰せのとおりでございます」と、アトスが答えた。「ただいまも、いつぞやお目にかかりましたときと同じように、陰謀をたくらんでおりましたところでして。ただしこれは、ラ・ロシェル側に対する策なのでございます」
「うん、策略家のきみたちのことだから」と、こんどは枢機卿のほうが眉をしかめた。「もしきみたちの頭の中を読みとることができたら、さぞかしいろいろな秘密が見つかることだろうな。そういえば、きみたちは手紙を読んでいたようだね、わたしの姿を見たら隠してしまったらしいが」
アトスは顔面を紅潮させ、枢機卿に一歩つめ寄った。
「それでは台下、まるでわたくしどもをお疑いで、尋問でもなさっていられるようですな。もしそうだとしたら、どうか理由をご説明願いたい。少なくともこのままでは、どう考えてよいやら、わたしどもにはわかりかねます」
「尋問だとしても、アトス君、ほかの者だったら、わたしの言うことに答えてくれるがね」
「ですから台下、はっきりお尋ねさえくだされば、お答えするつもりでおりますが」
「ではアラミス君に聞くが、きみが読もうとしていて、隠してしまったあの手紙はなんだね?」
「女からの手紙でございます、台下」
「なるほど」と、枢機卿はいった。「そういう手紙は、ひとには見せられないものだ。だが、懺悔聴聞僧《ざんげちょうもんそう》に見せるぶんなら、一向にさし支えあるまい。知ってのとおり、わたしは聖職にある者だからな」
「しかし台下」と、アトスがいった。彼はこの返答に自分の首をかけているので、恐ろしいまでに冷静であった。「なるほどこの手紙は女からの手紙ではございますが、マリオン・ド・ロルム(ルイ十三世当時の美人として有名で、リシュリューに反抗して処刑されたサン=マールと親しかった)からでもなく、エギヨン夫人(リシュリューの姪で公爵夫人)からでもないのですが」
枢機卿の顔は死人のように青ざめ、その眼は、異様な光をおびた。彼はカユザックとラ・ウディニエールになにか命じようとして振りむいた。アトスはこの動きを見てとると叉銃《さじゅう》のほうへ一歩踏みだした。三人の仲間も、そのままじっとしてはいられないようすで、そのほうにじっと眼をそそいでいた。枢機卿のほうは三人、銃士たちのほうは従者を入れると七人だった。アトスたちが実際に何事かを企んでいるとすれば、ますます相手にすることは不利だと、枢機卿は判断した。そこで彼の持ち前の頭の回転の早さで、怒りの表情を微笑の中に溶けこませてしまった。
「いや、いや、きみたちは明るみでは勇猛果敢であり、陰では忠誠を尽くすりっぱな若者だ。他人の身を心配してよく見守ってくれるのだから、自分の身を守るのは、もっともなことだ。わたしは、コロンビエ=ルージュ旅館へ行くとき護衛してくれたあの夜のことを、けっして忘れてはいないよ。今日だって、これからの行先になにか危険でもあるようなら、ぜひいっしょに来てもらうところだが。まあ、そんなこともあるまいから、諸君はここでゆっくりして、酒を飲み勝負を楽しんで、手紙を読むのもよかろう。わたしはこれで失敬する」
こう言うと枢機卿は、カユザックがひいてきた馬にまたがり、手を振って挨拶をすると、立ち去った。
四人の青年はじっと立ったままで、ひと言も口をきかずに、その姿を見送った。
それから彼らは、顔を見合わせた。みんな、うろたえた顔をしていた。なぜならば、さも親しそうに別れの挨拶をしたが、枢機卿が心中大いに怒って立ち去ったことは、はっきりしていたからだった。
アトスだけが、軽蔑《けいべつ》のこもった力づよい微笑を浮かべていた。
枢機卿がこちらの目もとどかぬ、また声も聞こえないところまで行ってしまうと、「グリモーの知らせがおそかったんだ」とポルトスがいった。だれかに当たり散らさなければ、気がすまなかったからだった。
グリモーは言いわけをしようとしたが、アトスが指をあげたので、グリモーはだまってしまった。
「貴公は、手紙を渡すつもりだったのかい、アラミス?」と、ダルタニャンがいった。
「わたしは腹をきめていた」と、アラミスがいつものような澄んだ声で答えた。
「枢機卿が手紙を渡せといったら、片手で手紙をさしだすと同時に、もういっぽうの手で、剣を相手の胴中に突き通していたよ」
「そうだろうと思ったよ」と、アトス。「だからおれは、二人のあいだに割ってはいったんだ。まったくあの人も、ほかの人間に対するようにあんな言い方をするなんて、軽卒だよ。あれじゃまるで、女、子供しか相手にしたことがないような人のようだ」
「まったく、アトス、まったく貴公には感心するよ。だが、けっきょくは、われわれのほうが悪いんだよ」
「なに、われわれが悪いだと!」と、アトスは言い返した。「じゃあ、われわれが吸っているこの空気はだれのものかね? われわれが眺めているこの大洋はだれのものかね? われわれが寝そべっているこの砂浜はだれのものかね? きみの恋人が書いたこの手紙はだれのものかね? みんなこれらは、枢機卿のものだとでも言うのかね? たしかにあの人は、世界は自分のものだと思ってはいるがね。貴公はまたなんだ? 口もろくすっぽきけず、ぼんやりと立ちすくんでしまってさ。まるで目の前にバスティーユ牢獄がそびえているとでもいったふうで、魔女メドゥサの手で石にさせられたとでもいうようだったよ。いいかね、女に惚《ほ》れるということは、陰謀を企むことかい? きみの恋する女を、枢機卿が監禁した。きみはその女を救いだしてやりたい。つまり、枢機卿相手に勝負するわけだ。この手紙は、きみの手札なのだ。自分の手札を相手に見せる奴があるかい。向こうで勝手に当ててみりゃあいいんだ。こっちだって、先方の手札を見抜いてやるからな」
「たしかにアトス、きみの言うことはもっともだ」と、ダルタニャンがいった。
「そうだときまれば、アラミス、すんだことはこれまでとして、枢機卿が読むのを邪魔したその手紙を読んでもらおうか」
アラミスがポケットから手紙を取りだすと、三人の仲間は、そのそばに寄った。三人の従者もまた、ぶどう酒の瓶《びん》のそばに近よった。
「さっきは一行か二行読んだだけだから、もう一度初めから読んでもらおうか」とダルタニャンがいった。
「いいとも」と、アラミスは答えた。
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おなつかしいお従兄《にい》さま。
姉があのかわいい小間使いをカルメル派の修道院に入れましたので、あたくしはその修道女のいるステネーへ向かって旅立つことにしました。あの人はあきらめていました。ほかの場所では、魂の安息が求められないことを、よく知っているからです。でも、あたくしたちのほうの手はずがちゃんとつけば、あの人は地獄に落ちるくらいは覚悟の上で、なつかしい人たちのところへ帰って来るでしょうよ。いつもみんなが自分のことを思っていることを、よく知っていますものね。
いまのところあの人は、そうひどく不仕合わせというわけではありません。ただ、恋人からの手紙を、ただただ待ちこがれているのです。そういうものが修道院の窓口をそう簡単に通るとは、あたくしだって思ってはいません。けれども、これまでになんども証拠をお見せしたとおり、あたくしもそう無器用な女ではありませんから、そのお役目は、あたくしがお引き受けしてもよろしゅうございますわ。
姉からもよろしく申しておりました。一時は姉も、ずいぶん心配いたしましたわ。でも不慮の事故が起こらないようにと、向こうにも使いの者を出しましたから、今はいくらかほっとしています。
ではさようなら。できるだけお便りをくださいませね。確実に届くとわかっているときは、きっとね。
マリ・ミション
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「恩に着るよ、アラミス」と、ダルタニャンは叫んだ。「なつかしい、コンスタンス。やっと、あの人の消息がわかったのだ。あの人は生きているんだ。修道院で、無事にくらしているんだ。ステネーにいるんだ。ところでステネーってどこなんだ、アトス?」
「国境から数キロのところだよ。この攻囲戦がすんだら、いずれはこの方面に行くことになろう」
「それも、そう長いことではあるまい」と、ポルトスがいった。「けさ縛り首にした敵の間諜《スパイ》の言うところによると、ラ・ロシェル方は、とうとう靴の革《かわ》まで食うようになったそうだ。革を食ったら、こんどは靴底ということになる。それがなくなれば、あとは人間同志が食い合うよりほかに、手はないだろうよ」
「ばかな奴らだ!」と、アトスはボルドー産の飛びきり上等のぶどう酒をぐいとやりながらいった。当時のボルドー酒は、今日ほど名は売れていなかったが、それでも酩酒の名にそむかなかった。
「まったく、ばかな奴らだ! 旧教が一番とくで、一番気持ちのいい宗教だということを知らないと見える。だが、とにかく」と、舌打ちをしながら、「勇敢な奴らであるにはちがいない。なんだ、アラミス、その手紙をポケットにしまうのかい?」
「なるほど、アトスの言うとおりだ」とダルタニャンがいった。「そいつは焼いてしまわなければいけない。いや、焼いてしまったって枢機卿のことだ、灰の中から何かを読みとるすべを心得ているかも知れんね」
「たぶん、心得ているね」と、アトスがいった。
「では、この手紙をどうしようというんだ」と、ポルトスがきいた。
「グリモー、ここへ来い」と、アトスが叫んだ。
グリモーは立ちあがると、命令に従った。
「さっき許可もないのに叫び声をあげた罰だ。さあ、この手紙を食ってしまえ。そのかわりに、それがすんだら褒美《ほうび》として、このぶどう酒を一杯飲ませてやろう。さあ、まずこの手紙だ。しっかり噛み砕くんだぞ!」
グリモーは目を細めた。アトスがなみなみとついでやったコップをじっと見すえながら手紙を噛み砕いて、一気に飲みこんでしまった。
「でかしたぞ、グリモー! さあ、こんどはこれを、ぐっとやったらいい! 礼には及ばんよ」と、アトスはいった。
グリモーはだまって、ボルドー酒のコップをあけた。しかし空を見あげたその眼は、こうしてぐっと飲みほしているあいだじゅう、黙々のうちに、口に出して言いたい気持ちを現わしていた。
「さあ、これで」と、アトスはいった。「枢機卿がグリモーの腹を割《さ》こうとでも思いつかぬかぎり、まあわれわれは安心というわけだな」
こうしているあいだに枢機卿は憂鬱《ゆううつ》な散歩をつづけていたが、口の中でこんなことをつぶやいていた。
「なんとしても、あの四人を味方につけねばならん」
五十二 囚われの一日目
フランスの海岸に視線を投げていたので、ちょっとのあいだ打ち捨てていたミラディーに話をもどすとしよう。
彼女は暗い反省にもだえながら、絶望的な立場におかれたままで、かすかな希望をかけているその扉の中で、暗い思いに耽《ふけ》っていた。彼女ははじめて疑うことを知り、はじめて恐れることを知ったのだ。
二度まで彼女は運に見放された。二度も彼女は秘密を見破られ、裏切られた。そして二度とも、おそらく彼女と戦うために神がつかわされたにちがいない魔性《ましょう》の男によってだ。そのダルタニャンが、悪の権化《ごんげ》である不敗の彼女を失敗させ、打ち倒したのだ。彼は愛情において彼女をあざむき、彼女の自尊心を傷つけ、彼女の野心を裏切った。そして今はまた彼女の運勢を失わしめ、彼女の自由を奪い、その生命までもおびやかしている。それどころか彼は、彼女の仮面をはぎ、彼女が身を守る力と頼むその楯《たて》を取り去ったのである。
ダルタニャンは、愛したがゆえに相手を憎むという、そういう彼女が憎みきらっていたバッキンガム公に対し、枢機卿が王妃の身柄を脅迫の種にして、ひと波乱おこそうとしたのを救ってやったのだ。ダルタニャンは、こういう性格の女によく見受ける恋の気まぐれから彼女が選んだウァルド伯になりすまし、彼女としては知られたらその知った相手を生かしてはおけぬ、あの秘密を知ってしまったのだ。
最後に彼女は、この敵に復讐すべくやっと手に入れた白紙委任状もたちまち奪われてしまい、かえって彼女は囚《とら》われの身となり、けっきょくはボタニーリベー(オーストラリアのシドニー近くの湾の名で、一七八七年にイギリス人はふたたびここへ囚人を送りこんで植民地を開拓させた)といった辺地か、どこかタイバーンのようなインド洋の恥ずべき場所へ送りこまれるのも、ダルタニャンのなせる業《わざ》なのであった。
つまり、おそらくすべては、ダルタニャンのせいなのだ。彼以外に、だれがこのような数々の恥辱を次々と送りこむことができるであろうか? 一種の運命のなせる業で、次々にあばいた恐ろしい秘密を、そっくりウィンター卿につたえることができる者は、彼以外にはないはずだ。彼はあの義弟と知り合いだから、手紙で知らせたにちがいない。どのような憎しみにかられて、彼女は胸をかきむしったことか!
ひと気のない部屋の中で、じっと身動きもしないで、燃えるような目を見すえたまま、ときおり深い呼吸とともにもれるその低い呻き声は、傲然《ごうぜん》と黒ぐろとそびえ立つこの城の下方の岩に、永遠の絶望をあらわすかのように打ち寄せては砕けて散る大波の轟《とどろ》きとまじり合った! 憤怒《ふんぬ》が彼女の頭の中で、稲妻《いなずま》のように走り、遠い未来の雲間の中に、ボナシュー夫人、バッキンガム公、とくにダルタニャンに対するはげしい復讐の夢を思い描いていた。
だが、復讐するためには、自由の身になる必要があった。囚われの身が自由になるためには、まず壁をぶち抜くことが、格子を破ることが、床に穴をあけることが必要であった。これらは、忍耐づよく力のある男なら成功するかもしれないが、女のあせる気持ちだけでは、どうなるものでもなかった。しかも、こういうことをしとげるには、何か月も、いや何か年も時間をかけなければならなかった。それなのに彼女には……義弟でもあり恐ろしい獄吏でもあるウィンター卿のいったところでは、彼女には十日か、せいぜい十二日ほどの日数しかないのである。
それでも、もし彼女が男だったら、やって見るだろう。そして、あるいは成功するかもしれない。なぜ神は、男のような強い魂を、このかよわい女の肉体の中に宿すというあやまちを犯したもうたのであろうか!
囚われの身となった最初のうちは、この弱い女の身は、どうにも抑えきれぬ憤怒の痙攣《けいれん》のためにいまにも息絶えんばかりだった。だが、だんだんと彼女は、気ちがいじみた怒りの思いに打ち勝ち、彼女の肉体をおののかせていた神経の興奮もしずまってきた。そして今ではぐったりした蛇《へび》のようになって、反省をしはじめたのである。
[おやおや、あたしともあろうものが、こんなに興奮するなんて愚《おろ》かなことをして!]と、彼女は鏡をのぞきこみながら、そう思った。彼女はそこに映っている燃えるような眼に、自分の胸の中を問いかけていた。
[まず、こんなことをしていては成功しっこない。おそらく女が相手なら、腕づくでもあたしはどの女よりもおそらく強いだろうから勝てるだろうが、相手が男では、男から見ればやはり女にしか過ぎないのだから、女として戦うほかはないわ。女としての弱さの中に、あたしの力があるのだから]
そこで彼女は、その表情の変化をためして見ようとして、ひきつったような怒りの表情から、いかにもやさしい情のこもった、魅力的な微笑を浮かべた笑顔に至るまで、いろいろな表情をつくってみた。それから彼女は、自分の顔をひき立たせるような髪かたちを、巧みな手つきでととのえた。そしてさも満足そうに、こうつぶやいた。
[いいわ、ちっとも変わっていない。あたし、やっぱりきれいだわ]
もう夜の八時近くだった。ミラディーは寝台に気がついた。何時間か休めば、頭や気持ちが落ちつくばかりではなく、顔色もよくなるだろうと思った。
ところが、寝る前に、もっといい考えが頭に浮かんだ。食事のことは、さっき聞いた。もうこの部屋に閉じこめられてから一時間にもなるのだから、まもなく食事がはこばれて来るはずだった。彼女は、時間をむだにしたくなかった。そこで、今夜からさっそく、監視をまかされている人びとの性格をしらべて情勢を判断し、計画をたてはじめようと決心したのである。
扉の下に、光がさしこんだ。これは看守がもどってきたからだ。ミラディーは立ちあがっていたのだが、急いでまた肱掛椅子《ひじかけいす》に坐り直し、頭をもたげて美しい髪をばらばらにほどき、胸元のレースをはだけて、片手を胸に、片手をだらりと垂らした。
掛け金《がね》がひらかれ、扉の蝶番《ちょうつがい》がきしんで、部屋の中に足音がし、それが近づいてきた。
「テーブルをそこに置け」
その声がフェルトンであることを、囚《とら》われの女は知った。命令は、実行された。
「燭台を持ってきて、歩哨《ほしょう》を交替させろ」と、フェルトンはつづけた。
この若い副官の出した二つの命令で、彼女の世話をする男は看視人であり、同時に彼の部下の兵士であることを知った。それに、フェルトンの命令は、急速に無言のうちに実行されたので、彼が軍規をきびしく守る男であるとわかった。
そのときになってやっと、今までミラディーのほうを見なかったフェルトンが、彼女のほうを振り向いた。
「うん、眠っているな。よし、目が覚めたら、食べるだろう」
こういって彼は、部屋を出て行きかけた。
「いいえ、副官殿」と、指揮官ほどには己《おの》れをきびしく仕付けていない一人の部下が、ミラディーのそばに近よってみていった。「この女は眠っておりません」
「なに、眠ってはいないのか? では、どうしたんだ?」
「気絶しているんです。顔色はまっ青ですし、息をしていません」
「なるほどな」と、フェルトンはミラディーに近よろうとはせずに、その場に立ったままで、彼女のようすを見定めてから、「ウィンター卿に、囚人が気絶したと報告をしてくれ。予想しなかったことだから、おれにはどうしていいかわからん」
兵士は命令を受けて、出て行った。
フェルトンはちょうど入口のところにあった椅子に腰かけると、ひと言もいわず、身動きもしないで待っていた。
ミラディーはまぶたを閉じたふりをして睫毛《まつげ》のあいだから盗み見るという、よく女たちがやってのける特技を心待ていた。彼女はフェルトンが自分のほうに背中を向けているのを知ったが、なおそうやって十分ほど見ていたのに、そのあいだじゅうこの監視人は平然として、一度もこっちを見ようとはしなかった。
そこで彼女は、いまにウィンター卿がやって来れば、その顔を見て、またこの監視人は新たに元気を得ることだろう、と考えた。最初の試みは失敗したが、こんどは女のもっている力に頼ってやってみようと、心にきめた。そこで彼女は頭をもたげると、目をあけて、弱々しくため息をついた。ため息が聞こえたので、やっとフェルトンは振り向いた。
「おや! 気がつきましたね。それなら、わたしはもうここには用はない。なにか用があったら呼んでください」
「ああ、ほんとうに、苦しかったわ」と、ミラディーはつぶやいた。その声は古代の魔女の声のように、これと狙った相手の心を魅惑させずにはおかないような、ひびきのいい声であった。そして彼女は、寝ていたときよりももっと心をそそるような、しどけないようすで、椅子の上に起きなおった。
「このように、日に三度、食事は持ってきます。朝は九時、昼は一時、夜は八時です。もしこの時間ではつごうが悪いようだったら、好きな時間をいってください。この点については、そちらの便宜《べんぎ》をはからうつもりです」
「でも、こんな大きなさみしい部屋に、ずっと一人でいることになるんですの」とミラディーはたずねた。
「この近在の女に話がしてありますから、明日は城に来るでしょう。そうすれば、呼べばその女がきて用をたすことになるでしょう」
「どうもお世話さま」
囚われの女は、つつましい声で、そう答えた。
フェルトンは軽く頭をさげて、入口のほうへ向かった。ちょうど彼が出ようとしたときに、ウィンター卿が廊下に姿を現わした。さっきミラディーのことを知らせに行った兵士が、気つけ薬のはいった小瓶《こびん》を持って、あとからついてきた。
「ところで、どうしたい? 何事が起きたのかね?」
女が起きていて、フェルトンが出て行こうとしているのを見ると、彼はからかうような調子でたずねた。
「死人はもう生き返ったのかね? なんだねフェルトン、きみは、うぶな男となめられたのがわからんのか。たぶんその後の発展までずっと楽しませてもらうはずの芝居の、第一幕が演じられたってわけよ」
「それはもちろん考えました、閣下」と、フェルトンは答えた。「しかし、なんと申しましてもこの囚人は女ですから、礼節を知る男が婦人に対して持たねばならぬ敬意、つまりこの女に対してではなく、少なくとも自分自身に対して敬意をはらいたいと、そう思ったものですから」
ミラディーは、身をふるわせた。フェルトンのこの言葉は、氷のように、血管のすみずみまでしみとおったからだった。
「だとすると」と、ウィンター卿は笑いながら、「じつによく考えて振りほどいたこの美しい髪も、この白い肌も、この悩ましげなまなざしも、ついに石のようなきみの心を迷わすことはできなかったんだな」
「はい、閣下」と、このひややかな男は答えた。「お信じください。女の手管《てくだ》や媚態《びたい》ぐらいでは、わたしは断じて迷わされませんから」
「では、この女にもっとほかの手をさがしてもらうことにして、こっちは食事をしに行こう。まあ、安心していたまえ。この女は豊かな想像力を持っているから、まもなくさっきのつづきの第二幕目を見せてくれるよ」
こういってウィンター卿は、フェルトンの腕を取ると、笑いながら連れて行った。
[いまに、おまえさんに向くような手を考えだしてやるから]と、ミラディーは、口の中でつぶやいた。[静かに待っておいで、なりそこないの修道僧め。僧服のほうが似合うのに兵隊なんかになりやがって!]
「それはそうと」と、ウィンター卿は戸口のところで立ちどまると、「こんな失敗をしたからって食欲まではなくしなさんなよ。けっして毒なんかは入れてないからな。その若鶏《わかどり》の肉と魚を食べたらいい。わたしは料理人とは仲よしだし、それにその男はべつにわたしの相続人ではないから、わたしはすっかり信頼しているよ。あんたも安心して食べたらいい。では、またこんど、あんたが気絶したときにな」
これはもうミラディーにはがまんのできる精いっぱいのところだった。肱掛椅子にかけた手はわなわなと震え、歯ぎしりをし、その目は二人がしめて行った扉を見つめていた。が、いよいよ一人となると、彼女はまた新たな絶望の発作《ほっさ》におそわれた。彼女はテーブルに目をやり、ナイフが光っているのに気がつくと、飛びついてそれをつかんだ。が、無残にも期待は裏切られた。刃はまるくて、やわらかい銀製であった。
まだぴったり閉まっていない扉から哄笑《こうしょう》がひびいて、扉がまた開いた。
「あっ、はっ、は!」
ウィンター卿が笑いながら大声でいった。「どうだね、フェルトン君、わたしが言ったとおりだろう。あのナイフはきみを狙ったものだよ。あの女は、きみを殺したろうよ。こうやって、困る相手はなんとかして殺してしまうっていうのが、この女の悪い癖なんだ。きみの言うことを聞いていれば、あのナイフは尖《とが》った鋼鉄製になったはずだ。そうなれば、フェルトン君はこの世にいない。あの女はまずきみの喉《のど》をえぐる。きみの次にみんながやられる。ジョン、あのナイフのじょうずな構えを見てみたまえ」
じじつそのとおり、ミラディーはわなわなと震える手にナイフを握って攻撃する構えを見せていたが、この最後のひどい侮蔑《ぶべつ》の言葉に、手の力も、からだ全体の力も、いや意志まで抜け切ってしまった。
ナイフは、床の上に落ちた。
「おっしゃったとおりでした、閣下」この深い軽蔑のこもったフェルトンの言葉は、ミラディーの心の底までしみとおった。「なるほど、わたしがまちがっていました」
そして二人は、改めて出て行った。だが、こんどはミラディーは、よく耳をすまして、二人の足音が遠ざかり、廊下の向こうに消えてしまうまで待った。
「もうだめだ!」と、彼女はつぶやいた。「青銅か大理石の立像みたいに、爪ひとつかからない人間が相手なんだもの。あいつらはこっちの心を読みとってしまうし、どんな武器を用いたって歯が立たないわ。でも、あいつらがきめたとおりに事がはこぶとばかりはきまらない」
たしかに、この最後の反省と、本能的に希望を求める思いとによって、この奥ぶかい心の中には、不安や弱気は、そういつまでも残っていなかった。
ミラディーは食卓につくと、いく皿かの料理を食べ、スペインのぶどう酒を少し飲んだ。そうしたら、決断力が少しもどってきたような気がした。
寝台につく前に、早くも彼女は、あの獄吏たちのもっているあらゆる面を分析し、彼らの言葉つき、足どり、身ぶり、合図の仕方、だまっているときのようすに至るまで子細《しさい》にわたって検討してみた。そしてこの巧妙な深い研究の結果から、あの二人の迫害者のうちでは、なんといってもフェルトンのほうが攻め落としやすいという結論に達した。
[もしもきみの言うことを聞いていれば]とウィンター卿がフェルトンにいったあの言葉が、とりわけ頭に残っていた。つまりフェルトンの言葉は、彼女のためを思ってのことなのだ。ウィンター卿が、フェルトンの言うことを聞こうとはしなかったのだから。
[弱いか強いか、その程度はわからないが]と、彼女は考えた。[あの男の心にはひと筋の憐《あわ》れみの光がある。あたしはその光を燃えあがらせて、あの男を食いつくしてやろう。もう一人のほうはあたしをよく知っていて、あたしを恐れ、あたしがその手から逃れたらどういうことになるかを知っている。だからこの男になにをしかけてもむだだ。だが、フェルトンのほうはちがう。あの男は、うぶで純情な青年だし、堅物《かたぶつ》らしいから、かえって迷わせる手があるというものだ]
そしてミラディーは床《とこ》にはいると、唇に微笑を浮かべて眠りについた。だれかがその寝顔を見れば、お祭りの日が近いので、頭にかざる花冠の夢でも見ている少女としか考えられなかったであろう。
五十三 囚われの二日目
ミラディーはついにダルタニャンを捕え、その処刑に立ち会っている夢を見ていた。彼女の唇に浮かんだかわいらしい微笑は、首切り役人の手斧《ておの》からしたたり落ちる、憎い男の血を見たからだった。
彼女は、はじめて希望を胸に抱いて眠る囚人として、ゆっくりと眠った。
翌日、人が部屋にはいってきたとき、彼女はまだ床についていた。フェルトンは廊下で待っていた。きのうの話の女を連れてきたのだが、部屋にはその女しかはいって来なかった。女はミラディーの寝台に近づいて、なにか用事はないかとたずねた。
「熱があるのよ」と、彼女はいった。「ひと晩じゅう、ちっとも眠れなかったのよ。ひどく苦しいわ。あなたはきのうの人たちよりもやさしいかしら? あたしのお願いといえば、ただこうして寝かしておいて欲しいということだけよ」
「お医者さまを呼びましょうか?」と、女がいった。
ミラディーは考えた。まわりに人がふえればふえるほど、同情をひきつける相手をそれだけ作らなければならないし、ウィンター卿の監視の目もいよいよきびしくなるだろう。それに、医者がきたら、仮病《けびょう》だということを見やぶってしまうだろう。第一の勝負に失敗したミラディーは、こんどそ負けたくないと思った。そこで、こういった。
「お医者を呼んだって、何の役にも立たないわ。きのうもあの人たちは、あたしの病気をお芝居《しばい》だといったくらいだから、きょうだって、きっとおんなじだわ。いままでに、お医者を呼ぶひまはあったんですものね」
「それなら」と、しびれを切らしてフェルトンが口をだした。「あんたはいったい、どうしてくれとおっしゃるのです?」
「そんなこと、あたしにわかるものですか。ああ!ただあたしは苦しいの。どうにでもなさってください。あたしは、どうなってもかまやしない」
「ウィンター卿を呼んでおいで」際限ない歎きの訴えにうんざりして、フェルトンがいった。
「いやです!」と、ミラディーはいった。「お願いだから、あの人は呼ばないでください。もういいんです。なんにもいりません。ですから、あの人は呼ばないでちょうだい」
その言葉には、ふしぎな烈《はげ》しさと、人をひきつけるような熱がこもっていたので、フェルトンは息わず部屋の中に足を踏み入れた。[この男は、どうやら心を動かしたようだわ]と、ミラディーは考えた。
「しかし」とフェルトンはいった。「もしあなたが、[ほんとうに]苦しいなら、医者を呼びにやりますよ。ほんとうに、あなたにとってはお気のどくだが、とにかくこちらには、なんの手落ちもないわけですからね」
ミラディーは答える代わりに、美しい顔を枕にあてると、涙を流し、声をあげてすすり泣いた。
フェルトンはいつものような無感動な顔で、瞬間彼女のほうをちらっと見たが、やがてその発作がいつまでもつづきそうなのを見ると、部屋を出て行った。召使いの女も、そのあとにつづいた。ウィンター卿は、あらわれなかった。
「だんだん、はっきりとして来るようだわ」
そうつぶやいてミラディーは、あらあらしい喜びをもって、だが、だれにもこの内心の満足は見せまいとして、掛けぶとんの中に身をうずめた。
二時間がすぎた。
「さあ、病気はもうこれまでとして、起きるとしよう」と、彼女は一人ごとをいった。「あと十日しかないもの。今夜で、もう二日たったことになるんだから」
朝食をはこんで来たときには部屋の中にはいってきたのだから、また片づけに来るはずだ、そのときにまたフェルトンに会えるだろう、とミラディーは考えた。
ミラディーの思ったとおり、フェルトンはまた現われた。そして、彼女が食事に手をつけたかどうかは少しも気にしないで、お盆がわりに使うテーブルを、部屋の外にはこび出すようにと合図をした。
フェルトンは、そのまま残った。手に本を一冊持っていた。
ミラディーは暖炉のそばの肱掛椅子に、青白い美しい顔で、いかにもあきらめきったというふうに身をしずめていたが、その姿は、あたかも殉教《じゅんきょう》を待つ処女のようだった。フェルトンは彼女に近づくと、
「あなたと同じ旧教徒のウィンター卿は、お勤めができないのは辛《つら》いことだと思われて、あなたが毎日のミサをあげることをお許しになりましたので、祈祷書《きとうしょ》をここに置いてまいります」
フェルトンがその本を彼女のそばのテーブルに置いたときのようすと、ミサという言葉を口にしたときのその言い方、そのときの軽蔑するような微笑に気がついて、ミラディーはきっと頭をあげて、相手の顔を注意ぶかく眺めた。
彼女は、その男の地味で極端なまでに質素なその服装や、まるで大理石のようになめらかだが、固くてひややかなその額を見て、彼があの陰鬱《いんうつ》な清教徒の一人であることに気づいた。サン=バルテルミーの虐殺という思い出があったにもかかわらず、清教徒たちはときどきフランスやイギリスの宮廷の中にもはいっていたから、彼女はそういった連中に、しばしばそこで出会っていたのである。
彼女は、はっと感じるものがあった。それは、運命や生死を左右する重大な危機にあたって、ただ天才のみが享受することのできる、あの霊感の一つであった。
[あなたのミサ]という二つの言葉と、ちらっと見たフェルトンのようすとで、これからする返事がどんなに重大であるかということを、彼女ははっきりと感じたのである。
だが、身についている頭の回転の早さで、次のような返事がすぐにまとまり、それが唇《くちびる》をついて出た。
「あたくしがですって!」と、彼女は若い士官の声の中から汲《く》みとった軽蔑に調子を合わせて、
「あたくしがミサをですって! あの堕落《だらく》した旧教徒のウィンター卿は、このあたしがべつの宗旨であるのがよくわかっているくせに。きっとあたしを罠《わな》にかけようとしているんだわ!」
「では、あなたのご宗旨はなんですか!」とフェルトンは興奮を隠しきれずに、こうたずねた。ミラディーは、自分も興奮しているふうを装って、声を高めた。
「あたくしが自分の信仰のためにじゅうぶんに苦しみ抜いた日に、そのときに、申しましょう」
この言葉ひとつで、どれほど自分の前途が明るくなったか、ミラディーはそれを、フェルトンのまなざしの中に見てとった。
だが若い士官はだまったままで、じっとしていた。ただ彼のまなざしだけが、ものを言っていた。
「あたくしは、敵の手に捕えられていますの」と、彼女は感激の口調でつづけたが、それが清教徒のあいだによく見受けられる情熱の現われであることを、彼女はよく知っていたのだ。
「いいですか! 神さまがあたくしをお救いくださるか、あたくしが神さまのために身をほろぼすか! あたくしがウィンター卿につたえて欲しい返事は、これだけです。この本のことでしたら!」
まるで触ると手が汚れるとでもといったふうに、指の先で祈祷書《きとうしょ》を示しながら、「お持ち帰りになって、あなたがお使いくださって結構です。あなたもウィンター卿といっしょになって、あたくしを苦しめるのにひと役買っているんだから、きっとあなたもあの人の邪教の信者でしょうからね」
フェルトンはひと言も返答せずにさっきと同じような不快な顔をして本を手にとると、考えこんだようすを見せて出て行った。
夕方の五時ごろにウィンター卿がやってきた。ミラディーはそれまでのあいだに、じゅうぶん今後の方針を立てる時間があったので、もう、少しも引け目を感じない女として彼を迎え入れた。
ミラディーと向かい合って腰をおろすと、ウィンター卿は暖炉《だんろ》のほうにむぞうさに足を投げだし、「どうやらわれわれは宗旨替えをしたようですな」といった。
「それは、どういう意味ですの?」
「この前に会ってから以後、われわれは信仰を変えたということですよ。あんたは、ひょっとすると、新教の相手と三度目の結婚をなさるんですかね?」
「はっきり説明してください」
囚われの女は開き直っていった。「お言葉の意味が、あたくしには、よくわかりませんわ」
「つまり、あんたには全然信仰がないってことなんだ。このほうが、わたしにはありがたいがね」と、ウィンター卿は嘲笑《ちょうしょう》しながらいった。
「それこそ、あなたの主義に合っているんじゃありませんか?」と、ミラディーは、ひややかにいった。
「はっきり申せば、そんなことは、わたしにとってはどうでもいいことなんだよ」
「まあ! なにもわざわざご自分の無信仰を告白なさらなくてもいいでしょう。あなたの不身持ちや、あなたの罪悪を証明するようなものですからね」
「へえ! メサリーヌ夫人(ローマの皇帝クラウディウスの妃で、淫蕩の女として知られる)そのもののあんたが不身持ちなどとおっしゃる。マクベス夫人(シェイクスピアの「マクベス」のヒロイン、夫マクベスの殺人を冷静に手助けする。冷酷で野心家の典型的な女性)も顔負けのあんたが、罪悪を口になさる? これは、わたしの聞きちがいか、それともあんたがよほど思慮分別がないかだ」
「人が聞いていると思って、そんな言い方をなさるんでしょう」とミラディーは、冷やかにいってのけた。「あなたの牢番《ろうばん》や首切り役人に、あたくしのことを悪く思わせようとして、そんなことを言うんでしょう」
「なに、わたしの牢番だって、首切り役人だって! こりゃ、驚いた! なかなか詩的な表現をするね。きのうは喜劇で、きょうは悲劇とおいでなすった。どっちみちあと一週間もすれば、あなたは行くべきところへ行くんだから、そうすればわたしの仕事も片づくというもんだ」
「恥知らずな、神を恐れない仕事です!」と、犠牲者が裁《さば》く者に挑みかかるような興奮を見せて、ミラディーは叫んだ。
「いよいよ、あばずれが頭に来たか!」と、ウィンター卿は立ちあがった。「まあ、まあ、気をしずめなさって、清教徒の奥さん。さもないと、地下牢へ入れてしまうよ。わたしのあげたスペインぶどう酒が頭に来たんだな。でも、安心したらいい、その酔いなら危険はないからな。いまに醒めるよ」
ウィンター卿は、当時の騎士のならわしで、自分の言葉に誓いを立てて、部屋を出て行った。フェルトンは、なるほど扉のうしろに立っていて、二人の会話を一つ残らず聞いた。ミラディーの思ったとおりだった。
「さあ、行った! 行った!」と、彼女は義弟のうしろ姿に向かって投げつけた。「醒《さ》めるどころか、とんでもないことになるから。でもそうとわかったときには、もうどうにも避けようがなくなるよ」
ふたたび静かになって、二時間がすぎた。夜食が運ばれてきたとき、ミラディーは声を出して祈っていた。二番目の夫の老僕が清教徒で、その男から彼女は祈祷の言葉を教わったのである。彼女は忘我の境にあるようで、まわりのことには何も気がつかないように見えた。フェルトンは邪魔しないようにと合図をし、用事がすむと、足音をしのばせて兵士を連れて出て行った。
ミラディーは、外からようすをうかがっているのを知っているものだから、祈りの言葉を最後までつづけた。扉の外で歩哨《ほしょう》に立っている兵士の足音がしないから、聞き耳を立てているにちがいなかった。さしあたって、これくらいでいいと思ったので、彼女は立ちあがって食卓につき、ほんの少し食べ、水を飲んだ。
一時間後に食卓を片づけに来たが、こんどは兵士だけで、フェルトンは来なかった。つまり彼は、あまりたびたび彼女と顔を合わせることを恐れているのだ。
彼女は壁のほうに顔を向けて、微笑した。微笑をあらわに見せれば、自分の勝ちほこった気持ちがわかってしまうと思ったからだ。
彼女はなお三十分ほど待った。そして、古城がしーんとしずまり返り、聞こえるものとては大洋の大きな息づかいのような、果てしない波のうねりの響きばかりになったとき、彼女は震える美声を張りあげて、当時の清教徒が好んでうたった讃美歌の最初の一節を歌いはじめた。
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主よ、われらを見捨てたまうは
われらが強さを験《ため》さんがため
されど主はその清らかな御手《みて》にて
いつかわれらの力を賞《め》でたまわん
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これらの詩句は、すぐれたものではなかった。だが、もちろん、ご承知のように、清教徒たちは詩を自慢にしているわけではない。
歌いながらミラディーは、耳をすましていた。見張りの兵士は戸口のところで、まるで石と化したように足をとめたままだった。彼女は自分の試みが効果をあげたことを知った。そこで彼女は、なおも感情をこめて熱心に歌いつづけた。その歌声は遠く城内の丸天井にまでひびきわたり、牢番たちの心をふしぎな魅力でやわらげたかのようだった。しかし見張りの兵士はおそらく熱心な旧教徒であったのだろう、その魅力を振りはらって、扉の外から声をかけた。
「静かにしてもらいたいな。あんたの歌は哀悼歌《デ・プロフォンディス》みたいにしんみりしてる。ここで立番してるだけでも結構なのに、そのうえそんな歌まで聞かされたんでは、かなわんよ」
そのとき、「だまれ」という、ミラディーが聞きなれているフェルトンの重々しい声がした。
「なんで、よけいな口だしをするんだ。あの女に歌をうたわしてはいけないという命令でも受けているのか? 命令はこの女を監視し、逃げだそうとしたら射殺せよ、そうだったな。よく見張っていろ。逃げたら、撃て。だが、勝手に命令を変更してはいかん」
言うに言われぬ喜びの表情が、ミラディーの顔にさっと浮かんだ。だがその表情は、稲妻《いなずま》のひらめきのように、ぱっと消え去った。彼女は一語たりとも聞きもらさなかった二人の会話をまるで聞かなかった者のごとく、その声にあらんかぎりの魅力をこめ、なおいっそう声を張りあげて歌いつづけた。
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数限りないこの嘆き、この苦しみ
身は遠くの地に、そして鉄鎖に
されどわれに若さと祈りあれば
神はわが悩みをば救いたまわん
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崇高な感銘をたたえた元気な、深い響きのこもったその歌声は、この種の讃美歌に見られる荒けずりな詩句に対して、どんなに熱烈な清教徒といえどもめったに出会ったことのない、ふしぎな魅力を与えていた。それには、聞く者の想像力に訴えてやまない、ふしぎな情感がただよっていた。フェルトンは、かまどの中で焼かれる三人のヘブライ人を慰めた、あの天使の歌声を聞く思いだった。
ミラディーは、なおもつづけた。
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だが救いの日は来るだろう
神は正しく強ければ
よしその望み絶ゆるとも
われらにはなお殉教と死あり
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恐るべき魔女が精魂をこめて歌うこの節に、若い士官の心はかき乱されてしまった。彼はいきなり扉をあけた。顔はいつものように青白かったが、その眼はらんらんと輝き、狂わんばかりに燃えあがっているのを、ミラディーは見てとった。
「なぜそうして、そのような声で歌うのですか?」と、彼はたずねた。
「ごめんなさいね」と、ミラディーはやさしく答えた。「あたくしの歌がこの家に似つかわしくないということを、すっかり忘れていましたわ。きっと、あなたのご信仰を傷つけたことでしょうね。でも、誓ってそんなつもりではなかったのですよ。思わず歌が口を出たのですけれども、やはりいけないことをしましたわ、ほんとうにお許しくださいまし」
このときのミラディーはじつに美しく、宗教上の法悦にひたっている表情がよく出ていたので、フェルトンはすっかり眩惑《げんわく》され、いましがた耳に聞いた天使を目《ま》のあたりに見る思いだった。
「そう、そうです。たしかにあなたは、この城に住む者の心を乱します」と、彼は答えた。かわいそうに頭がどうかしてしまって、彼は自分自身が口にしていることの矛盾に気がつかなかった。
ミラディーはそういう彼の心の底までも見通すような鋭いまなざしを向けた。
「やめましょう」と、ミラディーは視線を伏せ、できるだけ甘い声で、あきらめきった態度を見せながらいった。
「いや、いいんですよ、奥さん。ただ、もっと低い声で歌ってください。とくに夜分は」
こう言うとフェルトンは、この囚人に対してはこれ以上きびしい態度をつづけてゆくことはできないと感じたとみえ、すぐに部屋から飛びだした。
「よく言ってやりましたな、副官殿」と、兵士はいった。「あの歌を聞くと、まったく気持ちが変になります。だが、そのうちには馴《な》れるでしょうがね。なにしろ、いい声ですからね」
五十四 囚われの三日目
フェルトンは近づいてきた。だが、もう一歩というところだ。彼をしっかり握っていなければならない。というよりも、彼を一人にすることが必要なのだ。だがミラディーには、こういう結果をもたらすに必要な手段を、ごく漠然としかわかっていなかった。
まだしなければならないことはある。こちらから話しかけるためには、まず彼のほうから話しかけるように仕向けなければならない。ミラディーは、自分のもっとも大きな魅力は、人間の声はもとより天使の声までも巧みに出せる、広い音域をもったその声にあることを、よく知っていた。
しかしながらこの誘惑によっても、なおミラディーは失敗するかもしれなかった。なにしろフェルトンははじめから用心するようにと言われており、少しぐらいのことでは、動かされそうもなかったからだ。
そこでさっそく彼女は、相手の動作や言葉つきはもとより、ちょっとした目のくばり方や身のこなし、ため息とも取れる息づかいに至るまで、こまかい注意をはらった。そして、手がけたことのない役をはじめて与えられた名優のように、その役割を研究しだした。
ウィンター卿に対する扱い方は、ずっと簡単だった。それゆえこの方は、前夜のうちに腹案はできていた。彼が来たならば、だまったままでいて少しもひるまず、ときどきわざと軽蔑した態度や言葉を使って相手をいらだたせ、脅迫的な言動に出るように相手を仕向けて、こちらのあきらめきったようすを見せてやることだった。フェルトンもそれに気がつくだろう。おそらくそれについては何も言わないだろうが、気がつくことはまちがいあるまい。
朝になると、フェルトンがいつものようにやってきた。だがミラディーは、彼が食事の支度をさしずしているのを見ているだけで、言葉はかけなかった。ところが彼が出て行こうとしたとき、彼女はひとすじの光明を見いだした。というのは、彼のほうから話しかけたがっているようすを見てとったからだった。だが彼の唇は動きを見せたが、声は出なかった。彼は唇から出かかる声を心の中に納めて、出て行った。
昼ごろ、ウィンター卿がはいってきた。その日は、よく晴れた冬の一日だった。イギリスの淡い日の光が、暖めるまでの熱量はないが明るく輝いて、牢屋の鉄格子から差しこんでいた。ミラディーは窓から外を眺めやって、扉を開いた音は聞こえないふりをしていた。
「はっ、はっ!」と、ウィンター卿はいった。「喜劇がすみ、悲劇が終わると、こんどは憂愁の場と来なさったかな」
囚人は答えなかった。「そうか、そうか、よくわかるよ。あんたは自由の身になって、あの海岸に立ちたいんだろう。船に乗って、あのエメラルドのような青い海の上を渡って行こうっていうんだろう。陸地か海でか、それはともかくとして、あんたのお得意の待ち伏せ戦法で、わたしに立ち向かおうというんだろう。しんぼう、しんぼう! あと四日もすれば、海岸だろうと海だろうと、あんたのお望みどおりに、いやそれ以上に、あんたの自由になる。なぜなら、四日たてば、あんたはイギリスからお払い箱になるんだからね」
ミラディーは両手を合わせ、その美しい眼を空のほうに向けながら、「神さま」と、まるで天使のようなやさしい身ぶりと声とで、「どうかこの人を、あたくしが許しますように、お許しくださいませ」
「そうだ、祈るがいい、この悪魔め」と、男爵は叫んだ。「おまえをけっして許すことのない男のために祈るとは、たいした寛大なお気持ちの方だ」
こう言い捨てて、彼は出て行った。彼が出て行くとき、半ば開いた扉のあいだから、鋭い視線がはいってきた。彼女は自分に見られまいとして急いで脇へ飛びのいたフェルトンの姿を見たのだった。
そこで彼女はひざまずくと、祈りはじめた。
「ああ、神さま! あなたはあたくしがなんのために苦しんでいるのか、よくごぞんじでいらっしゃいます。どうかこの苦しみにお力添えくださいますように」
扉が、そっと開いた。祈っていた若い女はそれに気づかないふりをして、涙声でなおもつづけた。
「こらしめをお与えなさる神さま! 慈悲ぶかい神さま! あの男の恐ろしい企みを、あなたはお見逃がしになるのでしょうか!」
それから、はじめてフェルトンの足音に気がついたふりをして急いで立ちあがると、いかにもひざまずいているところを見られたのが恥ずかしいといったふうに、顔をあからめた。
「お祈りのじゃまはしたくございません」と、フェルトンは荘重な声でいった。「どうか、わたしにはおかまいなく、そのままどうか」
「どうしてあたくしがお祈りをしていたのがおわかりなの?」と、涙につまった声で、ミラディーはいった。「ちがいますわ、あたくしはお祈りなどしておりません」
「あなたは」と、同じように荘重な声ではあるが、ずっとやさしい口調になって、「人間が神のみまえにひざまずくのを妨げる権利が、このわたしにあるとでもお考えですか? とんでもないことです。それに、悔《く》い改めることは、罪を犯した者にとってはもっともなことです。たとえどのような罪を犯したにしても、神のみまえにひざまずく者は、このわたしには清らかな者に見えるのです」
「あたくしが罪を犯したですって!」と、ミラディーは、最後の審判に立った天使の心をもやわらげずにおかぬような微笑をたたえて、「あたくしが罪を犯したかどうかは、神さまだけがごぞんじですわ。あなたはあたくしが刑罰を受けていると、おっしゃるのでしょう。殉教者たちをお愛しになる神さまは、ときには罪なき者が罰せられることも、おゆるしになるのです」
「あなたが刑罰を受けていようとも、殉教者であろうとも」と、フェルトンは答えた。「お祈りをすることはますます大切なことです。わたしもまた、あなたのためにお祈りをしましょう」
「ああ! あなたは、心の正しい方です!」そう叫んでミラディーは、彼の足もとに身を伏せた。「あたくしは、もうこれ以上は堪えられないのです。心のたたかいをつづけ、あたくしの信仰の告白をしなければならないときになって、力が尽き果てているのではないかと思って、それを恐れているのです。どうか、絶望に落ち入っている女の願いを聞いてくださいまし。あなたは、だまされていらっしゃるのですよ。でも、今はそんなことはどうでもいいのです。あたくしの願いはただ一つ、それさえ叶《かな》えてくださったら、この世はもとより、あの世にまいりましても、あたくしはあなたを祝福いたします」
「主人にお話になってください、奥さま」と、フェルトンはいった。「ゆるすとか罰するとかいう仕事は、さいわいわたしにはまかせられておりません。神がそのような責任をお与えになったのは、わたしより上の者にでございますから」
「いいえ、あなたに、あなただけにお願いしたいのです。あたくしの破滅に、あたくしの恥辱に力を貸すようなことをなさるよりも、あたくしの言うことをお聞きになってください」
「もしもあなたがそういう恥辱を受けられるのが当然であったとしたら、あなたは神のみまえでその屈辱に堪えてゆかねばならないでしょう」
「なんですって? ああ! あなたはおわかりになってはいないんですわ! あたくしが恥辱だといったのは、牢獄だとか死だとかいう刑罰のことだとお思いになったのね。そんなもの、死とか牢獄とか、そんなものは、このあたくしにはなんでもありませんわ」
「わたしには、いよいよあなたのことがわかりませんね、奥さま」
「あるいは、わからないようなふりをなさっているんだわ」と、女は疑うような微笑を見せて答えた。
「そんなことはありません。兵士の名誉にかけて、キリスト教徒の信仰にかけても」
「まあ! それでは、ウィンター卿がこのあたくしになにをしようとしているか、あなたはごぞんじありませんの?」
「ぞんじません」
「まさか。あの人の腹心であるあなたが」
「わたしは嘘を言いませんよ、奥さま」
「まあ! あの人はあまり隠そうとはしませんから、察しがつくと思いますけれども」
「わたしは、こちらから察するようなことはしませんよ、奥さま。打ち明けられるのを待つだけです。あなたの前で言われたこと以外には、ウィンター卿はわたしにはなにもおっしゃってはいません」
「でも」と、ミラディーは、信じられないほど真実のこもった口調で、「あなたはあの人とぐるではありませんの? あの人が世にも恐ろしい恥辱をあたくしに与えようとしているのを、あなたはごぞんじではありませんの?」
「あなたは、思いちがいをしていらっしゃる」と、フェルトンは顔をあからめながら、「ウィンター卿は、そんな罪悪を犯せる方ではありませんよ」
[しめた]と、ミラディーは心の中で思った。[なんにも知らないと言いながら、そんな罪悪などといっている]それから、声を出して、
「極悪人と親しい人なら、なんだってやれますよ」
「極悪人とは、だれのことですか?」と、フェルトンがたずねた。
「そういう名で呼んでもいい人が、このイギリスに二人といるでしょうか?」
「ジョルジュ・ヴィリエのことでしょうか?」とフェルトンはいったが、その眼は燃えあがるようだった。
「異教徒や信仰のない人たちは、バッキンガムと呼んでいます」と、ミラディーはいった。「あたくしが言おうとしている人間がどんな人間だか、長たらしい説明を必要とする人間がこのイギリスじゅうに一人だっているとは、あたくしには思えませんけれども」
「神の御手《みて》が、その人の上にくだっています。あの男が受けねばならぬ罪は、逃れられますまい」と、フェルトンはいった。フェルトンは、旧教徒たちでさえも強請者《きょうせいしゃ》とか涜職者《とくしょくしゃ》とか放蕩者《ほうとうもの》などと呼び、清教徒たちはただ単に[悪魔]と呼んでいる公爵に対して全イギリス人が抱いている憎悪《ぞうお》の感情を代弁したにすぎなかったのだ。
「ああ、神さま」と、ミラディーは叫んだ。「あの男に、それ相応の刑罰をお与えくださいとお願いするのは、ごぞんじのように、あたくし個人の復讐ではなくて、国民全体が救われるからでございます」
「あなたは、あの人をごぞんじなのですか?」と、フェルトンがたずねた。
[とうとう、この男は、あたしに質問をしてきたわ]とミラディーは、こんなにも早く効果があらわれたことで、すっかりうれしくなった。「ええ、知ってますとも! もちろんですわ! それが、あたくしの不幸だったのです、取り返しのつかない不幸だったのです」
そして彼女は、苦痛の発作《ほっさ》に襲われたように、腕をよじった。フェルトンはおそらく、からだの中の力が抜けていくような気がしたにちがいなかった。彼は扉のほうに二、三歩行きかけたが、それを目で追っていた女は、とびついて引きとめた。
「お待ちになって」と、彼女は叫んだ。「どうかお慈悲ですから、あたくしのお願いを聞いてくださいませ。男爵が用心のためにあたくしから取りあげたあのナイフ、あたくしがどう使うか知っているのでそうしたのですが、まあ、最後まであたくしの申すことをお聞きになってくださいまし。お願いですからあのナイフを、ほんのちょっとのあいだお返しくださいまし! こうあなたの足元に身を投げだして、お願いいたします。ああ、出てお行きにならないで。あたくしが怨《うら》んでいるのは、あなたではありません。ああ、あなたを怨むなんて。あたくしが出会った人の中で一番お心の正しい、善良で思いやりのある方、あるいはあたくしの救い主であるかもしれないあなたを怨むなんて! お願いです、あのナイフを、ほんの一分でいいのです。フェルトンさま、ただの一分でございます。扉ののぞき窓からお返しいたしますから。そうすればあなたさまは、あたくしの名誉を救ってくださることになるのです」
「自殺なさるんですね!」
女の手から自分の手をふりほどくことも忘れて、フェルトンは恐ろしさのあまり叫んだ。「ご自分で!」
「あたしは言ってしまったわ」と、ミラディーは床の上にくずれ落ちて、声を低めてつぶやくように、「あたし、心の秘密を言ってしまった! この人に知られてしまった! もうだめだわ!」
フェルトンは心をきめかねて、じっと立ったままだった。
[まだ、この男は疑っている]と、ミラディーは考えた。[あたしのやり方が、まだほんものでないからなんだわ]
廊下に足音が聞こえた。ミラディーは、それがウィンター卿であると知った。フェルトンもそれと知って、戸口のほうへ歩みよった。
ミラディーは、彼に追いすがった。
「ああ、なにもおっしゃらないで」声をおし殺して、彼女はいった。「あたくしがあなたに申したことを、あの人にはなにもおっしゃらないで。さもないと、あたくしはもうだめですわ。あなたが……」
足音が近づいてきたので、声を聞かれまいとして彼女はだまると、恐怖の身ぶりでその美しい手をフェルトンの口にあてた。フェルトンがそっと彼女を押しもどすと、彼女は長椅子の上に倒れた。
ウィンター卿は足をとめずに、扉の前を通りすぎて行った。足音は遠のいた。
フェルトンは死人のように青ざめて、しばらくのあいだ耳をすましていたが、足音がすっかり聞こえなくなると、夢からさめた者のように息をついて、部屋から飛びだした。
こんどはミラディーがフェルトンの足音に聞き耳を立てていたが、その足音がウィンター卿とは反対のほうに遠ざかって行くのを知ると、[とうとうおまえは、こっちのものだ!]と、心の中で叫んだ。
が、彼女の額は、また曇った。
[あの男がもし男爵にしゃべったら、もうあたしはおしまいだわ。男爵はあたしが自殺などしっこないことをよく知っているから、あの男の目の前で、あたしにナイフを握らせるだろう。そうすればこんな大さわぎはみんなお芝居だってことが、わかってしまう]
彼女は鏡の前に行って、のぞきこんだ。こんなにきれいに見えたことはなかった。
「だいじょうぶ、これならあの男は言わないだろう」と、彼女はほほえみながらつぶやいた。
夜、食事のときに、ウィンター卿がはいってきた。
「あたくしが捕えられているあいだは、こうやってあなたの訪問によって苦しみをつのらせるのを避けるわけにいかないのでしょうか?」とミラディーはいった。「こういうよけいな苦しみは、やり切れませんわ」
「なんだって!」と、ウィンター卿はいった。「今日はそんなひどいことを言うが、その同じ口で、わたしに会いたいばかりに、ただその喜びのために、船酔いも嵐も、こうしてつかまることもいとわずに、あらゆる危険をおかしてこのイギリスへ渡ってきたのだと、そう言ったではなかったかな。だからわたしは、こうやって会いに来るんだよ。喜んでもらいたいものだな。それに、いま来たのは、理由があるんだが」
ミラディーは、からだが震えてきた。フェルトンがしゃべったと思ったからである。おそらくこの女は、強烈な不快な感動をいままでになんども経験したにちがいないが、こんなに烈しく胸が鼓動《こどう》することはなかった。
彼女が腰かけているので、ウィンター卿は椅子をひっぱって行って、彼女のそばに腰をおろした。それからポケットから一枚の紙を取りだすと、ゆっくりとひろげた。
「いいかい。わたしが自分で書いた旅券のようなものをあんたに見せようと思ってな。これは、今後あんたにしてもらう生活について、そのまま指令書として役立つものだ」
そして、ミラディーに向けていた視線を書類に移すと、読みあげた。
「[この者を、……に連行すべし]場所の名はあけてある」と、ウィンター卿は読むのをやめて、「どこか希望の場所があったら、言いなさい。ロンドンから四千キロほど離れたところなら、どこでもいい。では、読みつづけよう。[フランス王国の法廷において烙印《らくいん》の刑を受けたるのち釈放されたるシャルロット・バクソン。この者を……に連行すべし。居住地を十二キロ以上離れてはいけない。逃亡を企てたるときは、死刑に処すべし。なお住居費及び食費として、一日五シリングを給すべし]」
「この書類は、あたくしとは関係ありませんわ」と、ミラディーはひややかに答えた。「そこに書かれてある名前は、あたくしのではありませんから」
「名前だって! あんたに他の名前があるのかね?」
「あなたの兄さんの名前がありますわ」
「それはちがう。兄は、あんたの二度目の夫というだけで、最初の夫の方は、まだちゃんと生きておられる。その名前を言いなさい。シャルロット・バクソンという名前の代わりに、その名前を書いてあげよう。どうする……いやかね……返事がないな……そうか! では、やはりシャルロット・バクソンという名で記入されるんだね」
ミラディーは、だまっていた。こんどばかりはわざとそうしているのではなくて、恐怖のために口がきけなくなったのだ。この命令は、すぐに実行される。ウィンター卿は、出発の日を早めたのだ、今晩すぐにでも、ここを出発させられる、と、彼女はそう思った。一瞬、目の前が真暗になったが、すぐに、この書類には、まだ署名がしてないことに、彼女は気がついた。彼女はこのことに気づいた喜びがあまりにうれしかったので、その気持ちを隠すことができなかった。
「なるほどな」と、彼女の心の中に生じた変化に気づいて、ウィンター卿はいった。「そう、署名をさがしてるんだろう。この書類には署名がないから、まだまだ脈はある。おどかしのために見せているんだと、そう考えているんだろう。ところが、そうはいかないよ。この書類は、明日、バッキンガム公のところに送りとどけられる。公の署名と印がすんで、明後日にはもどって来る。それから二十四時間後には、このわたしが保証するが、公爵は命令が実行に移された報告を受けとるだろう。では、これで失礼、わたしが言いたかったことは、これだけだ」
「そのような職権の乱用にしても、他人名儀で行なわれる追放にしても、ほんとう卑しむべき行為だということが、あたくしのお答えです」
「ミラディー、あんたは、ほんとうの名前で絞首刑にされるほうをお望みかな。知ってるだろうがイギリスの法律は、婚姻《こんいん》に関する違反に対してはきわめて厳格だからね。卒直に気持ちをいったらいい。わたしのほうは、兄の名前が出ようが、わたしの名が出ようが、あなたを追っぱらうことができさえすれば、それくらいの不名誉はかまわないと覚悟しておる」
ミラディーは答えなかったが、その顔は、死人のように青ざめていた。
「ほう、あんたは旅行のほうがお望みとみえる。そのほうがいいよ、奥さま、[旅は若さをつくる]という古いことわざもあるくらいだ。まったく、あんたのいうとおりだ、生きていることは、いいものだ。だからこそわたしも、あんたにこの命を奪われたくないのだよ。まあ、五シリングで、なんとかやってください。わたしも少しばかりけちったかな。だが、番人に賄賂《わいろ》でも使われても困ると思ったもんでな。もっともこっちを使わんでも、あんたにはきれいな顔があるからな。もしフェルトン相手の失敗で懲《こ》りないようだったら、その手を使ってみたらいいんだ」
[フェルトンはしゃべらなかったんだわ。それなら、まだ望みが絶えたわけではない]と彼女はそう思った。
「では、また明日、使いの者が出たことを知らせに来よう」
ウィンター卿は立ちあがると、皮肉な挨拶をして出て行った。
ミラディーはほっと息をついた。あとまだ四日ある。これだけあれば、フェルトンを誘惑するに、じゅうぶんだろう。そのとき、ふと心配なことが頭に浮かんだ。
ウィンター卿はバッキンガム公の署名をもらうのに、フェルトン彼自身をやるかもしれないということだった。そうなるとフェルトンは、こちらの手許《てもと》から離れる。誘惑が成功するためには、それがつづかなければまずかった。
それでも前述したとおり、一つ安心できたことがあった。フェルトンがしゃべらなかったことだ。彼女はウィンター卿の脅迫で心を取り乱したところを見せたくなかったので、テーブルについて食事をした。それから彼女は昨日と同じようにひざまずいて、声高らかにお祈りをした。きのうと同じように見張りの兵は足をとめて、耳を傾けた。
やがて、歩哨《ほしょう》の足音よりも軽やかな足音が、廊下の奥のほうから聞こえ、それが扉の前でとまった。
「あの男だ」
そして彼女は、昨日フェルトンの心をはげしくゆさぶった讃美歌を、また歌いはじめた。しかしそのやさしく美しい歌声が、いかにせつない調子で響きわたっても、ついに扉は開かなかった。
ミラディーが小さなのぞき窓からそっと盗み見たとき、鉄格子ごしに青年の燃えるような視線を見たような気がした。しかし、それは現実であったのか幻であったのか、こんどは青年は自分を抑えることができたのだろう、はいって来なかった。
ただ、しばらくして彼女が歌をやめたとき、ふかいため息を聞いたような気がした。そしてさっきと同じ足音が、思いなしか名残《なご》り惜しげに、ゆっくりと立ち去って行くのが聞こえた。
五十五 囚われの四日目
翌日、フェルトンがミラディーの部屋にはいって来ると、彼女は麻のハンカチをさいてより合わせたひものようなものを手で持って、椅子の上に立っていた。フェルトンが扉をあけた音を聞くと、ミラディーはすばやく床の上に飛び降りて、持っていたひもを背中に隠そうとした。
青年は、いつもよりもずっと顔色が青く、またその赤い眼は、興奮のためにひと晩じゅう眠れなかったことを示していた。だが、その額には、いままでにないきびしい平静さが現われていた。
彼は、坐りこんでいるミラディーのほうへゆっくりと進むと、うっかりしていたからか、たぶんわざとそうしたのだろうが、彼女が垂らしていたままにしてあったひものはしをつかんで、
「これはなんです?」と、ひややかにたずねた。
「なんでもありませんわ」と、彼女はじつに巧みに微笑に痛ましい表情を与えるが、その微笑を浮かべて、「囚われの身には、退屈は死ぬような思いですわ。あんまり退屈だったので、気ばらしに、こういうひもを編んでいましたの」
フェルトンは、いまは腰かけているが、その椅子の上に彼女がさっき立っていた、そのちょうど前方の壁のほうを見やった。すると頭の上のあたりに、金色のしっかりした釘《くぎ》が壁に打ちこんであるのが目にはいった。衣服や武具をかけるために使われるものだった。
彼は思わず身ぶるいをした。女はこの身ぶるいを見逃さなかった。眼は伏せていたのだが、どんなものでも見えるのである。
「椅子の上に立って、なにをしていたんです?」と、彼はたずねた。
「あなたには、関係ないことでしょう」
「でも、わたしは知りたいので」と、彼はなおもたずねた。
「お聞きにならないで」と、彼女はいった。「あなたもごぞんじでしょうが、あたくしたちほんとうのキリスト教徒というものは、嘘をつくことは禁じられておりますものね」
「では、わたしのほうから申しましょう。あなたがしていたこと、いや、あなたがこれからなさろうとしていたことは、心の中で育てていた不吉な考えを実行に移そうということなのです。お考えください、奥さま、わたしたちの神は嘘をつくことも禁じていますが、自殺はさらにいっそうきびしく禁じているんですよ」
「不当な迫害を受け、恥辱か死のあいだに置かれた人間を、もし神さまがごらんになれば」と、ミラディーは、ふかい確信に満ちた口調で答えた。「きっと神さまは、その者に自殺をお許しになります。なぜならばその場合、自殺は殉教と同じだからです」
「お言葉が過ぎたのか、足りないのか、どうか、もう少しはっきりと説明をなさってください」
「あたくしの不幸な身の上話をしたって、あなたは作り話だとお思いになるだけだし、あたくしの計画をいえば、あなたはあたくしの迫害者のところへ言いつけに行くだけでしょう。だから、やめます。それに、不幸な囚人が生きようが死のうが、そんなことはあなたにはどうでもいいことではありませんか? あなたに責任があるのは、このあたくしの肉体だけですものね。あたくしの死骸を見せて、それがあたくしのものだということがはっきりしさえすれば、それ以上はだれもあなたを追求しはしないでしょう。それどころか、たぶんあなたは二倍の褒賞金《ほうしょうきん》がいただけるでしょうよ」
「わたしが、このわたしが」と、フェルトンは大声で叫んだ。「あなたの命と引き換えに褒美をもらうなんて。まさか、奥さま、本気でそんなことをおっしゃるのではないでしょうね」
「とにかく、ほっといてちょうだい、フェルトンさん、ほっといてちょうだい」とミラディーは興奮して叫んだ。「軍人は誰でも、野心をお持ちのはずですわ。あなたはいま中尉でしょう、あたくしの葬式のときには、大尉になって柩《ひつぎ》に付き添ってくださるでしょう」
「わたしがどのようなことをしたからといって、わたしにそのような責任を負わせるのですか?」と、フェルトンは心を動かされていった。「あと幾日かすれば、あなたはここから遠いところへ行ってしまわれる。そうすればあなたの生命は、わたしの監視の目のとどかないところにあるのですよ」
そういって彼は、ため息をついた。「そのときは、お好きなようになさってください」
「ではあなたは」と、ミラディーは、神聖な怒りに抗し切れないといったふうに叫んだ。「あたくしが正しい方だといった信心ぶかいあなたも、たった一つのことしか望んではいらっしゃらないのね。あたくしの死にはなんの関係もなく、なんの心配もしないというわけね!」
「わたしは、あなたの生命を監視しなければならないのですよ、奥さま。ですからわたしは、監視するのです」
「でもあなたは、ご自分の役目が、ちゃんとおわかりかしら? あたくしに罪があるとしても、残酷すぎるようなそのお役目に、なんという名前を与えたらいいんですの? もしあたくしに罪がないとしたら、神さまはどういう裁きを見せるでしょうか?」
「わたしは軍人ですから、与えられた命令を遂行するのみです」
「最後の審判の日に、神さまは盲目の刑吏と不正な裁判官とを区別なさるかしら。あなたは、あたくしが自分の肉体を殺すことはいけないと言いながら、あたくしの魂を殺そうとする人間の手先になっていらっしゃる」
「でも、くり返して言いますが」と、動揺させられたフェルトンは、「なにもあなたは、心配なさることはないのです。わたしと同じようにウィンター卿だって、そのようなことはけっして考えてはおられません。わたしが保証いたします」
「ばかなことを!」と、ミラディーは叫んだ。「いくら賢い人だって、いくら偉い人だって、自分のことすら保証できないのに、よくも他人のことが保証できますわね、気のどくなおばかさん、力があり幸福な人たちの味方になって、弱い不幸な人たちを苦しめているくせに!」
「そんなことはありません、そんなことはありませんとも」と、フェルトンはつぶやいたが、心の底では、そのとおりだと思っていた。「わたしには、囚われのあなたを救ってあげることはできないが、生命あるあなたが、その命を奪おうとなさるのも、させるわけにはいかないのです」
「それはそうでしょう」と、ミラディーは声を高めた。「でもあたくしは、命よりももっとだいじなものを失うのですよ。あたくしは名誉を失うのですわ、フェルトンさん。そして神の御前《みまえ》で、そして多くの人びとの前で、あたくしの恥辱、汚辱《おじょく》の責任は、あなたに引き受けていただかねば」
こんどこそフェルトンは、いかに無感覚な男でも、すでに心を奪われている以上、その秘められた力に逆《さか》らうことはできなかった。無邪気な幻想を見る思いで、白く美しいこの女を見ることは、涙にかきくれているかと思えば威嚇《いかく》するように迫って来るこの女を見ることは、その美しさと悩める姿の影響を同時に受けることは、幻想家である彼にはとても堪えられないことだった。狂信的な信仰から来るはげしい夢想に冒《おか》された頭脳にとっては、また灼《や》けつくような神への愛と貪欲《どんよく》な人間への憎しみとにむしばまれた心にとっては、とても堪えられないことだった。
ミラディーは、彼の心の動揺を見てとった。若い狂信者の血潮の中でたぎっている、互いに矛盾した熱情の炎を、直観的に感じとっていた。そして退却しようとする敵の姿を見ると、勝利の喚声《かんせい》をあげて追い迫る歴戦の将軍のように、彼女はすっくと立ちあがると、古代の巫女《みこ》のように美しく、信仰の厚い処女のような感動をあらわに見せた。彼女は腕を伸ばし、白いうなじを見せ、髪をふり乱して、片手をかき合わせた胸元にあてながら、すでにこの若い清教徒の心をかき乱したあの炎をまなざしにこめて、彼のほうに進みよった。そしてやさしい声をあやしく震わせて、はげしい節まわしにのせて、歌いはじめた。
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異教の神に犠牲《いけにえ》を与えよ
獅子《しし》の群に殉教者を投げよ
神は汝《なれ》を悔《くや》ませたまわん
われ深淵《ふかみ》より神に叫ばん
[#ここで字下げ終わり]
この異様な呼びかけを聞いて、フェルトンは石と化したように、その場に立ちすくんだ。
「あなたは、いったい誰です? どういう方です?」と、彼は両手を組みながら叫んだ。「あなたは神のお使いですか、それとも地獄の使者ですか、天使なのですか、悪魔なのですか、エロア(キリストの涙から生まれた純愛の天使)という名ですか、アスタルテ(月をかたどるフェニキアの女神)なのですか?」
「フェルトンさん、あなたはあたくしのことがおわかりではなかったのですか? あたくしは天使でもなければ、悪魔でもありません。あたくしはこの地上の女で、あなたと信仰を同じくする姉妹ですわ、ただそれだけよ」
「そう、そうなんですね」と、フェルトンはいった。「わたしは疑っていましたが、今ではそうと信じます」
「信じてくださる? でも、やっぱり、ウィンター卿という悪魔の仲間なんだわ。信じると言いながら、あたくしを敵の手に、イギリスの敵、神の敵の手に渡すんだわ。この世を邪教と淫蕩《いんとう》で汚す男の手に渡すんだわ。なにもわからぬ連中がバッキンガム公と呼び、信仰正しき者たちが反キリスト主義者と呼んでいる、あの非道なサルダナープル(アッシリアの王といわれる伝説的な人物)の手に、このあたくしを渡すんだわ」
「わたしが、このわたしが、あなたをバッキンガム公の手に渡すんですって! ああ! なんということをおっしゃる?」
「あの連中は、眼があっても見えず、耳があっても聞こえないのです」
「ああ! そうだ」フェルトンは最後の疑いを払いのけるように、汗ばんだ額に手をやった。「そうだ、この声こそ、夢の中で、わたしに呼びかける声だ。この顔こそ、毎夜わたしの前に現われ、眠れないわたしの魂に、[打て。イギリスを救い、汝自らを救え。しからざれば汝は、神の御心をやわらげ得ずして死すのみ]と呼びかける天使の顔だ。ああ、もっと話してください。今こそわたしは、あなたのおっしゃることがわかる」
おそろしい喜びの光が、あたかも頭で考えるように迅速《じんそく》に、ミラディーの眼の中で輝いた。一瞬であったとはいえ、フェルトンはこの相手を灼き殺すような視線に射《い》すくめられ、女の心の底をのぞいたような気がして、身ぶるいした。
フェルトンはその瞬間、ウィンター卿の注意を思いだした。ミラディーが到着したときに仕掛けてきた最初の誘惑の手を思いだした。彼は一歩しりぞくと、眼を伏せた。しかし眼は、この不可解な女の妖気《ようき》に魅惑されて、どうしてもその視線から離れることはできなかった。
ミラディーは、この躊躇《ちゅうちょ》の意味を取りちがえるような女ではなかった。表面では興奮したようすを見せていたが、あくまでも冷静さは失っていなかった。このままでなお会話をつづけるとすれば、いままでと同じ興奮した調子を取らなければならないと思った彼女は、フェルトンが答えるよりも先に、いかにもいままでの霊感がさめて、女心の弱さに立ちかえったといったふうに、両手をだらりとさげた。
そして、「いいえ、だめです」と、彼女はいった。「あたしはオロフェルヌを殺してベチュニーを救ったジュディット(ユダヤの女丈夫で、ベチュニーの町がオロフェルヌの軍に包囲されたとき、侍女を連れて敵陣に乗りこみ、敵将を悩殺してその首をはねた)のような女にはなれませんわ。神の剣は、あたくしの手には重すぎます。死によって不名誉から逃れることを、殉教者の列の中に逃避することを、お許しください。あたくしはあなたに、罪人がするように自由になることを求めはしません。異教徒の女がするように復讐を求めたりもしません。ただ、あたくしを死なせてください、それだけです。お願いします、これこのとおり、ひざまずいてお願いします。どうかあたくしを死なせてください。そしてあたくしの最期の吐息《といき》で、救い主を祝福することにしましょう」
その嘆願するようなやさしい声、おずおずした打ちしおれた視線を見て、フェルトンは近よった。少しずつこの魔女は、思いのままに身につけたり取り去ることのできる装い、つまり美しさや、やさしさや、涙や、わけても打ち勝ちがたいふしぎな官能の魅力を、また身につけはじめてきたのだった。
「ああ!」と、フェルトンは嘆いた。「わたしにできることはただ一つ、あなたが無実の罪の犠牲者であるとすれば、そういうあなたに同情するだけです。でも、ウィンター卿は、あなたをじつにひどく思われていますね。あなたはキリスト教徒で、宗教上の姉妹です。自分の恩人しか愛したことがなく、この世に裏切者と背徳者しか見たことのないこのわたしも、あなたに惹《ひ》かれていくような気がするのです。だが奥さま、あなたはそんなにおきれいで、そんなにも清純に見えるあなたが、どうしてあんなにもウィンター卿から責められるような、どんな邪悪な罪を犯されたのです?」
「あの人たちは、目があっても見えず、耳があっても聞こえないのです」ミラディーは、なんとも言えない苦しそうな口調で、そういった。
「でしたら、どうか、話してみてください」と、若い士官は叫んだ。
「あなたに、あたくしの恥をお話するんですって!」と、ミラディーは恥ずかしさに頬《ほお》を赤く染めて叫んだ。「ある人の犯した罪が、片方の人には恥辱になることがありますね。あたくしの恥をお話する、男のあなたに、女のこのあたくしが!」と、彼女は美しい眼をはずかしそうに手でかくしながら、「ああ! とてもあたくしにはできませんわ」
「わたしにもですか、信仰上の兄弟であるこのわたしにも」と、フェルトンは叫んだ。
ミラディーはいつまでも、じいっと彼を見つめた。彼はそれを疑いの表情と見てとったが、じつはそれはただ観察しようという、いやそれよりも相手を魅惑しようという魂胆《こんたん》なのだ。こんどはフェルトンが、嘆願するように手を合わせた。
「いいですわ」と、ミラディーはいった。「では、信仰の兄弟として、お話してみますわ」
するとそのとき、ウィンター卿の足音が聞こえた。きのうは扉の前を通り過ぎただけだったが、きょうは足をとめて、歩哨《ほしょう》とちょっと話をしてから、扉を開いてはいってきた。
ウィンター卿が歩哨と話しているあいだに、フェルトンは急いで引きさがっていたので、卿がはいってきたときには、彼は女から数歩離れたところにいた。
男爵はゆっくりとはいって来ると、さぐるような視線を囚《とら》われの女に、そしてそれを青年士官へと移した。
「ずいぶん長いことここにいるようだね、ジョン君」と、男爵はいった。「この女が、自分の犯した罪の話でも、きみにしたのかね。そうだとすると、時間のかかるのも無理はないが」
フェルトンは身ぶるいした。ミラディーは自分がこのうろたえている清教徒に手を貸してやらねば、自分のほうがだめになると感じた。
「そう! あなたは囚人に逃げられやしないかと、心配なんでしょう」と、彼女はいった。「それなら、このりっぱな牢番に、つい今しがたあたしがどんなことをお願いしたか、聞いてごらんになるといいわ」
「なにかを頼んだって?」元来が疑いぶかい男爵はすぐにきいた。
「そうなのです、閣下」と青年は取り乱して答えた。
「どんな頼みだね?」
「ナイフを貸してくれと、一分もしたら小窓から返すと言われて」と、フェルトンは答えた。
「ではここに、このやさしいご婦人が殺したいと思っている人間が隠れてでもいるのかな?」とウィンター卿は、また軽蔑するようなからかいの口調をとった。
「あたくしが、います」と、ミラディーは答えた。
「アメリカかタイバーンか、どちらかを選ぶようにと、いっておいたはずだが。タイバーンで処刑されるのを選んだのか。それなら、短刀よりもひものほうがずっと確実だよ」
フェルトンはまっさおになって、一歩前へ出た。彼はさっきはいって来たとき、ミラディーがひもを手にしていたのを思いだしたからである。
「おっしゃるとおりですわ、あたくしもさっきそのことを考えたのです」ミラディーはこういってから、ぐっと声をおさえて、「これからも、そのことを考えるでしょうよ」
フェルトンは、骨の髄《ずい》まで震えが走る思いがした。おそらくウィンター卿は、そのような心の動揺を感じとったにちがいない。
「気をつけたがいいよ、ジョン君。わたしはきみを信頼してはいるが、用心してくれよ。前にも注意しておいたが、勇気を忘れずにな。もう三日もたてば、この女はわれわれのそばからいなくなる。向こうへ行ってしまえば、この女も、もうだれを傷つけることもあるまい」
「お聞きになりましたか!」と、ミラディーは声高らかにいった。男爵はそれを、彼女が神に向かって訴えたのだと思ったが、フェルトンは、それが自分に向かって言われたのだとわかった。
フェルトンは、うなだれて考えこんだ。
男爵は士官の腕をとると、肩越しにふり向いてミラディーのようすを見ながら、出て行った。
「まだ、まだ」と、扉がしまると、彼女はつぶやいた。「思ったほどうまくはいっていないわ。いつもは馬鹿《ばか》なのに、こんどはウィンター卿が珍しく慎重だもの。復讐の気持ちがあるからなんだわ。ほんとうに復讐心って、人を作りあげるものね。フェルトンのほうは、ためらっている。あの呪われたダルタニャンとは、人間がちがう。清教徒ってものは、処女だけを崇拝するのね、手を合わせておがむもの。銃士は一人前の女を愛するんだわ、しかも腕を組んでね」
それでもミラディーは、首を長くして待っていた。今日のうちに、もう一度フェルトンの顔が見られると思ったのである。
やっと、その後一時間ほどして、戸口に低い話し声がしたかと思うと、やがて扉が開いて、フェルトンが現われた。青年は扉をそのままにして急いではいって来ると、ミラディーにだまっていろと合図をした。ひどく落ちつかないようすだった。
「なんのご用ですの?」と、彼女はいった。
「じつは」と、フェルトンは低い声で答えた。「ここへ来たのが誰にも知られないように、またわたしのお話しすることが誰にも聞かれないようにと、歩哨《ほしょう》を遠ざけました。男爵から、恐ろしい話を聞いたものですから」
ミラディーは覚悟しているといった微笑を浮かべて、頭をふった。フェルトンはつづけた。
「あなたが悪魔なのか、それとも、わたしの父親でもあり、恩人でもある男爵のほうが悪魔なのか。あなたとは四日前からの知り合いですが、男爵とはもう十年も前から、ずっとわたしが愛してきた人です。二人のあいだで、わたしは迷っているのです。わたしが言うのを聞いて、びっくりしないでください。わたしははっきりと、自分の心を納得させたいのです。今夜、真夜中すぎに、わたしはここに来ますから、そのときくわしく話をうかがわせてください」
「いけないわ、フェルトンさん」と、彼女はいった。「いけませんわ、その犠牲はあまりに大きすぎます。あなたに迷惑をかけすぎますわ。どうせ、あたくしはもうだめなのです。そんなあたくしの道づれになって、あなたまでだめになってはいけません。死んだほうが、あたくしの生活をはっきりさせるでしょう。死骸《しがい》の沈黙のほうが、女囚の言葉よりも確かですわ」
「だまってください、奥さま」と、フェルトンは叫んだ。「そういう話し方はしないでください。わたしは、けっして自分の命を傷つけるようなことはしないと、あなたに約束していただこうと思って、こうしてやって来たのですから」
「約束はしたくありませんわ」とミラディーは答えた。「あたくしほど、約束に忠実な人間はないのです。ですから約束をしますと、それに縛られてしまうので」
「では、せめてもう一度わたしがお会いしに来るときまで、ということに。そのときにもまだあなたのお考えが変わらないようだったら、仕方がありません、自由になさってください。お望みのナイフを、わたし自らがお渡ししましょう」
「いいわ! あなたのために、あたくし、お待ちしますわ」と、ミラディーはいった。
「誓ってください」
「神かけて誓います。これでいいでしょう?」
「けっこうです。では、今夜また」
彼は急いで部屋を出ると、扉をしめて、兵士の持っていた短槍を手にすると、いかにも見張りに立っていたという格好で、そのまましばらくそうしていた。
兵士がもどってきたので、フェルトンは武器を渡した。そのときミラディーはのぞき窓に近づき、そこから青年が夢中になって十字を切り、いかにもうれしそうにして廊下を遠ざかって行くのを見たのだった。
彼女は野生的な軽蔑の微笑を唇《くちびる》に浮かべながら元の場所に帰ると、さきほどはその神の名によって習い覚えぬ誓いを立てたのに、今はその神をののしる言葉をあざけるようにくり返していた。
「あたしの神だって! 愚かな狂信者め! あたしの神は、このあたし自身さ。それとあたしの復讐を手つだってくれる人、それがあたしの神だわ」
五十六 囚われの五日目
それでもミラディーは、半ば成功までこぎつけたので、そのために彼女の気力は倍加した。
今まで彼女がやってきたように、すぐに誘惑されるような男や、官廷の色っぽい空気になじんでいて、すぐに罠《わな》にかかるような男なら、これを征服するのは容易だった。ミラディーには、肉体の抵抗に出会わぬだけの美貌と、精神の妨害に打ち勝つだけの手管《てくだ》とがあった。
ところが、こんどの彼女の戦うべき相手は、謹厳《きんげん》のあまり無感覚になって、人ぎらいで容易に打ちとけない性格の男であった。フェルトンという男は信仰と苦行とによって、普通ありきたりの誘惑では動かされない人間になっていた。彼の熱狂した頭の中には、途方もない計画や激烈な考えがうずまいていたので、恋だとか浮気だとか欲望などのはいりこむ透き間がなかった。そこでミラディーは、偽りの美徳によって、自分に対してひどい悪意を植えつけられている男の考え方の中にはいりこみ、またその美貌によって、信心ぶかい純な男の官能の中に切り口をつけた。
かくして彼女は、自然界や宗教界において最も手に負えないとされている研究対象であるこの男に実験をほどこしてみて、自分でも今まで知らなかった能力を発揮し得たのであった。
だが、それにもかかわらず、その夜はなんべんも、運命と自分自身に絶望したものだった。もちろん彼女は神には祈らなかった。だが、悪魔の力は信じていた。人間の生活の隅々までも支配し、アラビヤの物語にあるように、ひと粒《つぶ》のざくろの実をもって失われた世界を再興するという、そういう巨大な力を持った悪霊を信じていた。
ミラディーは、フェルトンを迎える用意はできたので、いよいよ明日の戦闘準備をすることにした。あと二日しかないことも、バッキンガムの手で指令書が署名されれば(書類には偽名が書かれてあるので本人が誰だかわからないだけに、なおさら簡単に、バッキンガムは署名するだろう)、男爵はただちに自分を船に乗せるということも、彼女は知っていた。
それにまた、流刑に処せられた女がいくら誘惑の手を用いても、明るい太陽のもとにその美を輝かせ、社交界にその才気をうたわれ、貴族階級の雰囲気《ふんいき》でその身を飾られた、いわゆる有徳の婦人たちの魅力にはとうてい及びがたいことを、彼女は知っていた。あわれむべき不名誉な刑に処せられても、美しくあることには変わりはないが、ふたたび威力を取りもどすことには、大きな妨げとなった。
真実の能力をもっているすべての人間にふさわしく、ミラディーは自分の性質や自分の能力に適した環境というものを知っていた。貧乏にはとても堪えられないし、卑しい身分では彼女の力の大半は役立たなかった。ミラディーは女王のあいだに伍《ご》して、はじめて女王に成り得た。支配するにも、自尊心を満足させる楽しみが必要であった。彼女にとっては、自分よりも劣った者を支配することは、楽しみというよりもむしろ屈辱なのだった。もちろん、流刑になってももどっては来るだろう、そのことは瞬間たりとも疑いはしなかった。だが、その刑期は、どのくらいつづくのだろうか?
ミラディーのように野心的で活動的な性質の女にとっては、上にあがることを考えないで過ごす日々は、生きがいのない毎日だった。ましてや、下に落ちるという日々に至っては、問題外であった。そのようにして一年、二年、三年を無為に送るということは永遠に等しかった。ダルタニャンやその仲間たちが、それまでの働きによって王妃から恩賞を受け、得々としているときに、やっと帰って来るようになる。そういうことは、ミラディーのような女にとっては、考えるだけでも堪えられないことだった。とにかく彼女の頭の中で荒れ狂っている嵐は、いよいよその力をつよめ、もしもそれと同じくらい体力がつよかったら、彼女はこの牢獄の壁をぶち抜いていたことだろう。
こうしているうちでも彼女がなお気にかかっていることは、枢機卿《すうききょう》のことだった。心配性で疑いぶかい枢機卿が、彼女から音信のないことをどう思うだろうか。なんと言うだろうか。枢機卿こそは、彼女の唯一の支えであり、現在の唯一の保護者であるばかりでなく、彼女の運命の、今後の復讐の有力な道具でもあるのだ。
彼女は枢機卿の人柄を知っていた。彼女がなんの役にも立たずして帰ったならば、牢獄につながれていたことを説明してみたところで、どんなにつらい目にあったことを訴えてみたところで、枢機卿は、力と才気のある懐疑家特有の冷笑をもって、[つかまるべきではなかった!]と、いうだけであろう。
そこでミラディーは、全精力を集めて、投げこまれたこの奈落《ならく》の底までさしこんできた唯一の太陽の光であるフェルトンの名を、心の奥底でつぶやいていた。そして自分自らの力をためしてみようとして、からだを巻いたり伸ばしたりする蛇《へび》のように、すでにもうフェルトンを、その豊かな想像力の無数の襞《ひだ》の中に包んでいた。
そうこうしているうちに時間が刻一刻とたっていった。一時間ごとに打つ青銅の鐘の音は、囚われた女の心につよく響きわたった。
九時になるとウィンター卿が例によって現われ、窓や格子を見まわし、床や壁をたたいて調べたり、暖炉や扉を検査した。この長い綿密な検査のあいだじゅうは、本人はもちろんだが、ミラディーも、ひと言も口をきかなかった。
おそらく二人とも、情勢がひどく重大になってきたので、むだ口をたたいたり、無益な怒りに時間を費すわけにいかないのを知っていたからにちがいなかった。
「まあ、まあ、これで今夜も逃げだせまいな」と捨てぜりふを残して、男爵は出て行った。
十時にフェルトンが、歩哨を立てるためにやってきた。ミラディーは、足音でそれと知った。恋する女が男の足音を心で聞きわけるように、今では彼女にもそれがわかった。といっても、彼女がこの頼りない狂信者を嫌悪《けんお》し、軽蔑していたことは、もちろんであった。
約束の時間ではなかったから、フェルトンははいって来なかった。二時間が過ぎて、真夜中の十二時が打つと、歩哨が交替した。
いよいよ、約束の時間となった。それゆえミラディーは、これからはいらいらしながら待ち受けていた。新規の歩哨が、廊下を歩きはじめた。
十分たつと、フェルトンがやってきた。ミラディーは、耳をすました。
「いいか」と青年は歩哨にいった。「どんなことがあっても、この扉のところを離れてはいかんぞ。おまえも知ってのとおり、昨晩はある兵が勤務場所をちょっとのあいだ離れたために、閣下からお咎《とが》めを受けた。といっても、そのあいだ、かわりにわたしが見張りに立ってはいたんだがね」
「はい、そのことは、よく知っております」と、兵士は答えた。
「とにかく、厳重に見張りをするように、わたしはこの女の部屋をもう一度調べてみる。女に自殺の恐れがあるので、注意するようにと命じられたからな」
「なかなかいいじゃないの」とミラディーはつぶやいた。「きびしい清教徒が、嘘をつくようになったわ」
兵士のほうは、薄笑いを浮かべて、「へえ! 副官殿、そういう仕事はわるくありませんな。ことに閣下から女の寝台まで調べろとご命令があっては」
フェルトンは、真っ赤になった。いつもなら、こんな冗談口をきく兵士は叱りつけたであろうが、いまは良心がとがめて、口をきくこともできなかった。
「呼んだら、すぐに来てくれ。また、だれか来たら、すぐ呼んでくれ」
「承知しました、副官殿」と、兵士は答えた。
フェルトンは、ミラディーの部屋にはいった。彼女は立ちあがって、いった。「いらっしゃったのね」
「わたしは、来るとお約束しました。だから来たのです」と、フェルトンは答えた。
「ほかにも、お約束をしましたわね?」
「なんですって?」と、自制心は失っていなかったが、青年はひざが震え、額に汗がにじみ出るのが感じられた。「ナイフを持って来てくださって、お話がすんだら渡してくださるお約束でしたわ」
「その話は、なさらないでください。どのような場合に立ち至っても、神の造りたもうた人間には、自殺は許されません。わたしはじゅうぶん考えた結果、そういう罪はけっして犯すべきではないと思いました」
「まあ、じゅうぶんにお考えなすったんですって」と、彼女は軽蔑の微笑を浮かべながら、肱掛椅子《ひじかけいす》に腰をおろした。そして、言った。「あたくしだって、ずいぶん考えましたわ」
「なにをですか?」
「約束を守らないような人には、なんにも言う必要はないとね」
「それはあんまりです」とフェルトンはつぶやいた。
「おひきとりください。あたくしは、口をききたくありませんわ」
「ナイフは持っています」と、彼はポケットから取りだした。約束どおり持っては来たのだが、渡そうか渡すまいかと迷っていたのだ。
「見せてください」と、ミラディーはいった。
「どうなさるのです?」
「きっと、すぐにお返ししますわ。テーブルの上に置いてください。そしてあなたは、それとあたくしとのあいだにいらっしゃってください」
フェルトンがナイフを渡すと、ミラディーは刃の固さを注意ぶかく調べ、指の先で切れ味をためしてみた。
「結構です」と、ナイフを青年に返して、彼女はいった。「しっかりした鋼《はがね》ですわ。あなたは誠実な方ね、フェルトンさん」
フェルトンはナイフを受け取ると、言われたとおりにテーブルの上に置いた。
ミラディーはそれを目で追っていたが、さも満足したというようすを見せた。
「では、聞いてくださいましね」と、彼女はいった。そう言われるまでもなく、若い士官は女の前に立って、ひと言も聞きもらすまいと待ちかまえていた。
「フェルトンさん」とミラディーは、憂鬱《ゆううつ》そうな重々しい言い方で、「もしも、あなたと同じ血を分けた姉妹が、こういう話をあなたにしたらどうでしょう。まだ若くてきれいだったのが身の不幸で、あたくしは罠《わな》に落ちたのです。あたくしは抵抗しました。あたくしのまわりには、ますます落とし穴や暴力が加わってきました。あたくしは抵抗しました。あたくしが神や信仰に救いを求めたからといって、その男はあたくしの崇拝する神を、あたくしの信奉《しんぽう》する宗教を冒涜《ぼうとく》したのです。あたくしはなおも抵抗しました。すると、こんどはあたくしにあらゆる侮辱をくわえ、そしてあたくしの魂を亡ぼすことができないと知ると、あたくしのからだを永久にだめなものにしようとかかりました。そしてついに……」
ミラディーは言葉を切った。悲しげな微笑が、その唇の上を走った。
「ついに」と、フェルトンがきいた。「ついに、どうしたのです?」
「ついにある夜、打ち勝つことのできないあたくしの抵抗を麻痺《まひ》させようとしたのです。その夜男は、あたくしの飲み水に、つよい麻薬を入れたのです。食事が終えるとまもなく、あたくしはだんだんとからだがしびれてきました。べつに疑う気持ちはありませんでしたが、なにか漠《ばく》とした不安にかられ、あたくしは眠気と戦おうとしました。あたくしは立ちあがって、窓のところへ行って、助けを求めようとしました。
ところが、足がいうことをきかないのです。天井が落ちかかってきて、いまにもあたくしを押しつぶしてしまいそうです。あたくしは腕をさし伸べて、口をきこうとしましたが、やっと口をついて出るものは、言葉にならない音だけでした。襲って来るからだのしびれに堪えられず、いまにも倒れそうな気がして、肱掛椅子につかまりました。でも、弱っているあたくしの腕ではすぐに力がぬけ、片膝《かたひざ》をつき、次には両膝をついてしまいました。叫ぼうとしましたが、舌が動きません。おそらく神さまも見てはくださらず、聞いてはくださらなかったのでしょう。あたくしは床に倒れると、そのまま死んだように眠りこんでしまったのです。
その眠りがどのくらいつづいたのか、また眠っているあいだにどういうことが起こったのか、何も覚えてはおりません。ただ一つ思いだすことは、あたくしは目がさめたとき、豪華な調度品のおかれた丸い部屋に寝かされていたということです。天窓からは光がさしこんでいましたが、出入口はどこにもないようでした。つまり、豪華な牢獄というようなものです。
あたくしが自分のいる場所を知ったり、今いったこまかいことを知るまでには、かなりの時間がかかりました。どうしてもさめきれない眠りで重苦しい闇のようなものを振り落とそうと、頭の中では考えるのですが、それがどうにもならないのです。どこを通ってきたか、馬車の音を聞いたことや、恐ろしい夢の中で自分の力が尽き果てたことなどは、なんとなく記憶があるのですが、それらはみな暗くてぼやけているので、まるで別の世界の出来ごとが、自分のことと幻のように重なり合っているようでした。
しばらくはそういうふしぎな状態で、夢でも見ているようなふうでした。よろめきながら立ちあがると、そばの椅子の上にあたくしの衣類がありました。服を脱いだことも、横たわったことも、あたくしには思いだせません。すると、少しずつ、顔のあからむようないまわしい事実が思い浮かんできました。
そこは、あたくしの家ではなかったのです。光線の具合で見ると、もう夕暮に近いらしいのです。あたくしが眠りはじめたのは昨日の夕方ですから、まる一日眠りつづけていたわけです。その長い眠りのあいだに、どういうことが起こったのでしょうか? あたくしはできるだけ急いで服を着ました。手足がしびれてなかなかはかどらないのは、まだ麻薬がすっかりさめていない証拠です。その部屋は、婦人用にできていました。どんなおしゃれな女でもこれ以上は望むまい、見まわしただけですっかり満足してしまうだろうと思われるほど、よくできていました。
たしかに、このすばらしい牢獄に閉じこめられた女は、あたくしがはじめてではないのです。でも、フェルトンさん、おわかりいただけると思いますが、牢屋がきれいであればあるほど、あたくしは恐ろしくなりました。そうです、まさに牢屋です。出ようとしても出られなかったのですから。
あたくしは出口を見つけようとして、まわりの壁をたたいてみました。が、どこをたたいても、にぶい虚《うつ》ろな響きが返って来るばかりでした。
どこかに出口がないかと、二十回ぐらい部屋の中をまわったでしょうか。やはり、出口はありません。あたくしは疲れと恐ろしさのあまり、肱掛椅子の中に倒れこんでしまいました。
こうしているうちに、すぐに夜になりました。夜になるとともに、恐ろしさは増すばかりです。このまま腰かけていていいのかどうかもわかりません。わけのわからない危険にまわりを取り巻かれているようで、一歩でも動くと、その危険に落ちこむようでした。昨日からなにも食べていませんでしたが、心配のあまり、空腹を感じないのです。
外から時間を知らせる音などはしないのですから、ただ七時か八時ごろだろうと察するだけです。なぜなら十月で、すっかり暗くなっていましたから。
とつぜん扉のきしむ音がしたので、あたくしは身ぶるいしました。天井のガラス窓の上に発光体が現われ、部屋の中に明るい光を投げかけました。驚いたことに、数歩はなれたところに、男が一人立っているのです。
二人分の夜食ののっているテーブルが、まるで魔法でも使ったように、部屋の真ん中に置かれてありました。この男こそ、この一年間あたくしを追いまわし、あたくしを恥ずかしめようと決意した男なのです。その男の口から出た最初の言葉で、あたくしは、昨夜その男が思いをとげたことを知ったのでした」
「恥知らずめが!」と、フェルトンがつぶやいた。
「ええ、そうです、恥知らずです!」と、ミラディーは叫んだ。青年がこの奇妙な話に興味をそそられて、一語も聞きもらすまいとしているのを見てとると、「ええ、ほんとうに恥知らずな男です。あたくしが眠っているあいだにあたくしを犯しておいて、そのことを言ったらそれですむと思っているんです。それでこの男は、あたくしが自分の恥辱を認めるだろうと思ってやって来たのです。そして、あたくしの愛と引き替えに財産をあげようと言いに来たのです。
あたくしはおよそ女の心が考えられるかぎりの軽蔑と侮辱をこめた言葉を浴びせかけてやりました。でも、おそらく男は、そういう罵《ののし》りの言葉を聞きなれていたのでしょう、平気な顔をして腕を胸の上に組んで、にやにや笑いながら聞いていました。それから、あたくしがもう言い終わったと思ったのでしょう、いきなりあたくしのほうへ進み寄りました。
あたくしはテーブルに走り寄るとナイフをつかみ、自分の胸にあてて、こういってやりました。
[一歩でも近よったら、あたくしを恥ずかしめたばかりか、あたくしを殺す罪までも負うことになりますよ]
おそらく、あたくしの視線や声や身の動きの中には、もっとも邪悪な人間の心をも打つような、真実の声と響きとがあったのでしょう。男は足をとめました。
[死ぬんだって! そいつはいかんよ。こんなかわいい女を、一度だけ味わわせてもらっただけで、死なせてしまうわけにはいかんよ。では、さようなら、またご気分のよいときに来るとしよう]
こう言うと、男は口笛を鳴らしました。そうすると部屋を照らしていた発光装置が上のほうにあがっていって、消えてしまいました。あたくしは、闇の中に取り残されました。さっきと同じように戸が開く音が聞こえ、すぐにしまり、そのあとすぐに灯《あか》りがまた降りてきました。あたくしは一人だけになっていました。
恐ろしい瞬間でした。あたくしはまだ自分の不幸をまさかと疑っておりましたのに、今こそはっきりと、取り返しのつかない現実となったのです。あたくしはただきらいなばかりでなく軽蔑しきっているその男に、どんなことでもやってのける男、現にその致命的な証拠を見せつけたその男の手に落ちたのです」
「だが、その男はだれだったのです?」と、フェルトンはたずねた。
「あたくしは椅子の上で、ちょっとした物音にもおびえながら、夜をすごしました。なぜならちょうど真夜中ごろに灯りが消えて、真の闇になってしまったのですもの。だが、その夜は、何事もなくて過ぎました。夜が明けました。明るくなってみると食卓はなくなっていました。ただあたくしは、手にナイフを握っていました。このナイフがあたくしの希望のすべてでした。
あたくしは疲れで、くたくたでした。眼は不眠のために痛みます。一瞬たりとも眠る気にはなれませんでしたもの。明るくなったのでほっとすると、寝台に身を投げ出しました。頼みとするナイフは、枕の下に隠しました。目をさましますと、新しい食卓の用意ができています。
さすがにこんどばかりは、恐怖と不安にかられながらも、はげしい空腹を感じました。四十八時間ものあいだ、なに一つ口にしなかったんですものね。あたくしはパンと果物を少しばかり食べました。あたくしは麻薬のはいった水を飲まされたことを思いだしたので、食卓の上にあった水には触れずに化粧台の上の、壁にしつらえた大理石の蛇口《じゃぐち》へコップを持って行きました。
これだけ用心したのですが、やはりしばらくのあいだはひどく不安でした。でもこんどは心配だけで、恐れていたことは何も起こらずに、その日は過ぎました。
あたくしは、自分の疑いをさとられないようにと、水さしの水は半分だけあけておきました。夜が来て、また暗くなりました。でも、どんなに暗かろうが、あたくしの目は闇になれてきました。あたくしは暗闇の中で、食卓が床板の中にはまりこんで行くのがわかりました。十五分ほどすると、その食卓が夜食をのせてふたたび現われました。すぐに灯りがついて部屋は明るくなりました。
あたくしは、眠り薬などを入れることのできない食べものだけを取ることにしました。卵ふたつと、果物を少々です。それから安全な例の蛇口からコップに水を汲みました。
ところがひと口飲んでみると、朝のときとは別のようで味がちがうように思われたのです。あやしいと気づいたのですぐにやめましたが、それでもコップの水を半分ほどは、もう飲んでしまいました。
残ったコップの水は捨てましたが、額は冷汗《ひやあせ》で一杯で、まあようすを見ることにしました。
きっとあたくしが化粧台の蛇口の水を飲んだのを、だれかがそっと見ていたにちがいありません。そして、あたくしがこっちの水は信用しているのを利用して、あくまでも冷酷に、いや残酷にも、あたくしを徹底的にやっつけようと計ったのです。
三十分もしないうちに、前と同じ徴候があらわれました。ただ、こんどはコップに半分ほどしか飲まなかったので、かなり長いあいだ薬がきいては来ませんでした。完全に眠りこんでしまわずに半睡状態なので、抵抗したり逃げだしたりする力はありませんでしたが、意識はあるのでまわりに起こることはわかりました。
あたくしは寝台のほうへ這《は》って行って、残された唯一の武器であるナイフを取ろうとしました。けれども枕元まで行くことができなくて、膝に力がなくなってしまい、両手で寝台の脚《あし》にかじりつくのがやっとでした。もうだめだと、あたくしは思いました」
フェルトンは恐ろしいまでにまっさおになり、はげしくからだじゅうを痙攣《けいれん》させていた。
「もっとも恐ろしかったことは」と、今またあのときの苦しみを味わい返すとでもいったふうに、うわずった声で、ミラディーはつづけた。「こんどは自分をおびやかす危険が、はっきりと自分でわかるということでした。つまり、からだは眠っていても、意識ははっきりしているのです。目も見えれば、耳も聞こえるのです。それは、もちろん夢の中のようなものではありましたが、それだけにいっそう恐ろしいものでした。
灯があがっていきました。それにつれて少しずつあたりが暗くなっていくのが、わかりました。それからあの聞きなれた、といってもただの二度だけですが、扉のきしむ音が聞こえてきました。
あたくしは本能的に、だれかが近づいて来るのを感じました。砂漠《さばく》の中で道に迷った哀れな男が、蛇の近寄る気配を感じるといったようなものでしょうか。
あたくしは大いに努力して、声をあげようとしました。想像もできないほど意志の力を奮い立たして、立ちあがろうとしましたが、すぐにまた倒れてしまいました……それがなんと、あたくしが倒れたのは、あたくしを苦しめるその男の腕の中だったのです」
「いったい、その男はだれなのです?」と、若い士官は叫んだ。
ミラディーは、話のそれぞれの区切りごとに力を入れることで、フェルトンの心に苦悩を吹きこんだのを、ひと目で見てとった。だが彼女は、その苦悩をやわらげてやる気はなかった。それどころか、彼の心を痛めつけてやればやるほど、こちらの復讐が確実になるわけだった。そこで彼女は、相手の叫び声が聞こえなかったような、あるいは聞こえてもまだ答える時期ではないといった顔をして、話をつづけた。
「ただこんどは、その破廉恥漢《はれんちかん》が相手にするのは、意識を失った動かない死体のようなものではありませんでした。さっきもいったように、手足の力は完全に取りもどしてはいませんでしたが、身の危険に対する意識はありました。そこであたくしは力のかぎり戦いました。弱ってはいましたが、かなり長いあいだ抵抗したようでした。男がこう言うのが聞こえましたもの。
[清教徒の女はしようがないな! 刑吏たちに手間をかけるとは聞いていたが、男の攻め手には弱いと思っていたのに]
残念なことに! この最後の抵抗は、そう長くはつづきませんでした。あたくしは全身の力が抜けてゆくのを感じました。するとその卑怯な男は、こんどは麻酔の眠りではなくて、あたくしが気絶したのを利用したのでした」
フェルトンは、低い呻き声をもらしながら、じっと聞いていた。ただその大理石のような額には汗が流れ、その手は服の下で胸をかきむしっていた。
「正気にかえって最初に考えたことは、枕の下のナイフを手にすることでした。身を守る役には立たないにしても、自殺するのには使えますものね。
ところが、そのナイフを手にしたとき、フェルトンさん、恐ろしい考えが浮かんできました。あなたにはなんでもお話しようとお約束したんですから申しますわ。たとえこの身の破滅になるようなことでも、ほんとうのことをありのまま申しますわ」
「その男に復讐しようと、お考えになったのでしょう?」と、フェルトンが叫んだ。
「ええ、そうなのです」と、ミラディーは答えた。「クリスチャンであるあたくしが、こういうことを考えてはいけないことはよく知っています。たぶんわれわれの魂の永遠の敵、あたくしたちのまわりで絶えず吠えたてている獅子《しし》が、あたくしの心にそれを吹きこんだのでしょう。それにしてもフェルトンさん、どういうことをあなたに言おうとしているのでしょうね?」と、ミラディーは、罪の意識にさいなまれているといった口調で、「とにかく、そういう考えがあたくしの心に浮かんできて、どうしても離れないのです。今日こうしてあたくしたちが罰を受けているのも、人を殺そうなんていう考えを起こしたせいですわ」
「話をおつづけになってください。早く復讐をとげられるところがお聞きしたいので」と、フェルトンがうながした。
「ええ! あたくしも、できるだけ早く復讐したいものだと思いました。あたくしは、男が次の晩も、きっとやって来ると思っていました。昼のあいだは、恐ろしいことはなにもなかったのです。そこで朝食のときには、できるだけ飲んだり食べておきました。夕食は、手をつけずに食べたふりだけをしておくつもりでした。ですから、朝の食事で、夜の断食《だんじき》にそなえる必要があったのです。でも、水をコップに一杯だけ朝の食卓から節約して残しておきました。まる二日間飲まず食わずにすごしたあとだけあって、喉の渇きはなによりもつらかったのですが。
昼のあいだはなにごともなく過ぎ、あたくしはいよいよ決心を固めるばかりでした。でも、顔には出さないように気をつけました。どこからか見られているにきまっているからです。あたくしはなんども唇に微笑が浮かぶのが自分でもわかりました。フェルトンさん、あたくしがなにを考えて微笑したか、とても申しあげる勇気はありませんわ。きっとあなたは、さぞひどい女だと……」
「どうぞつづけてください、どうぞ」と、フェルトンがうながした。「早く、どうなったか知りたいもんですから」
「夜になりました。いつものようなことが起こりました。例によって、暗闇の中で、夜食が用意されました。それから灯りがついて、あたくしは食卓につきました。あたくしは果物だけを食べました。水さしからついだふりをして、コップに取っておいた水を飲みました。うまくすりかえたので、あたくしのようすをうかがっていた人間がいたとしても、あやしまなかったでしょう。食事がすむと、あたくしは前の日と同じように麻痺状態に落ち入ったふりをしました。でもこんどは、いかにも疲れているような、あるいは危険になれてきたようなようすを見せて、寝台にはいあがると、眠りこんだふりをしました。あたくしは、枕の下のナイフを手にとると、眠ったふりをしながら、震える手でその柄《つか》を握りしめていました。二時間ほどたちましたが、なにごとも起こりません。こんどは、まあ、どうしたわけでしょう! きのうとはちがって、男が来ないことか心配になりました。
約十分たちました。胸の鼓動だけしか聞こえません。あたくしは、男が来るようにと、神に祈りました。やっと、聞きなれた扉の音がして、開いて閉まりました。厚いじゅうたんが敷いてあるのに、床の上を歩く音が聞こえます。暗闇になれたあたくしの眼は、寝台に近づいてくる人影に気づきました」
「それからどうしました?」とフェルトンがいった。「あなたのひと言ひと言が、溶けた鉛《なまり》のように、じりじりとわたしの心を灼きつけるのがわかりませんか!」
「そこで」と、ミラディーはつづけた。「あたくしはありったけの力を集めて、復讐のときが、というよりも裁きのときが来たのだと、自分に言い聞かせました。あたくしは、あのジュディットになった気で、ナイフを握ってからだをちぢめ、男があたくしのそばにきて腕を伸ばしたとき、死にもの狂いの叫び声をあげて、男の胸もとめがけて突きかかりました。
卑劣漢《ひれつかん》め! すっかり見抜いていたのです。刃はとおりませんでした。
[ほっ! ほっ!]と、男はあたくしの腕をつかむと、役立たなかった武器を取りあげました。
[わたしを殺す気だね。だが、それは憎しみではなくて、忘恩というものではないかな。まあ、まあ、気をしずめなさい! わたしは、だいぶ気持ちがやわらいだと思っていたが。わたしは、女を力づくで押さえつけるような暴君ではないからな。あんたはわたしがきらいだね。わたしは男のうぬぼれで、あるいはと思っていたのだが、そうとわかった以上は、あすはおまえを自由にしてあげよう]
あたくしの望みはただひとつ、あの男に殺されることでした。
[気をつけなさい]と、あたくしは男にいってやりました。[あたくしが自由なからだになったら、あなたの恥辱になるでしょう。ええ。ここから出たら、みんなしゃべってやるから。あなたが暴行をはたらいたことも、あたくしを監禁したことも、みんないってやります。この恥ずべき屋敷のことも、あばいてやります。あなたは、高い地位の方でしょうが、安心はできませんよ。あなたの上には国王が、その上には、まだ神がいらっしゃいますからね]
相手は自制していたようでしたが、怒りの感情を隠すことはできませんでした。あたくしには男の顔の表情はわかりませんが、あたくしの手の上におかれたその腕が震えているので、それがわかりました。
[では、ここから出すわけにはいかんな]と、男は言いました。
[いや、いいですよ!]と、あたくしは叫びました。[あたくしの苦しみの場所が、そのまま、あたくしの墓場になるでしょうから。ええ、あたくし、ここで死にましょう。生きている者の言葉よりも、亡霊の責める言葉のほうがどんなに恐ろしいか、あなたにもわかるでしょうよ]
[刃物はけっして渡さんからな]
[絶望した者には、本人がその気になりさえすれば、方法はあるもんです。あたくしは、飢え死にしてみせますよ]
[さあ、どうかね]と、人非人《ひとでなし》は言いました。[こうしていがみ合っているよりも、やはり仲直りしたほうが、よくはないかな。すぐにも自由な身にしてあげるし、あんたが貞節な女であると、イギリスのルクレチア(ローマ皇帝ルキウス・タルキヌスの妃だが、その子セクストゥスに犯されて絶望のあまり死す)とも言うべき人であると言いひろめてあげるがな]
[ではあたくしは、あなたをイギリスのセクストゥスともいうべき男だと、言ってまわりましょう。前にあなたのことを神に訴えたように、こんどは人びとに訴えてやります。もしもあのルクレチアのように血で告訴状に署名しなければならないのでしたら、あたくしはそうします]
[はっ、はっ!]と、男はからかうような口調で言いました。[それでは、話はべつだ。あんたはやはり、ここにいてもらおう。だが、少しも不自由ないようにしてはあげる。だから、飢え死にするようなことがあっても、責任はそっちにあるな]
こういって、男は出て行きました。扉がしまる音が聞こえ、あたくしはまた一人になりました。あたくしは苦しみよりも、復讐を果たせなかった恥ずかしさのほうが大きかったのです。男は約束を守りました。翌日は、昼も夜も姿を見せませんでした。あたくしも、約束を守ってやりました。あたくしは食べものと飲みものを取りませんでした。男にいったとおり飢え死にする決心をしていたのです。
あたくしは昼も夜も、お祈りをして過ごしました。神さまもあたくしの自殺をお許しくださるだろうと、そう思ったからです。
その次の夜、扉が開きました。あたくしは、はめ木の床に横たわって、力が尽きかけていたのです。でも物音を聞くと、あたくしは片手で起き直りました。
[どうだね!]と、聞くさえも恐ろしいあの男の声がしました。[いくらか気持ちが落ちついたかね。だまっているという約束で、自由の身になる気はないかね? いいかい、わたしは善良な殿さまなんだよ。なるほど清教徒はきらいだが、公平に扱うよ。とくにきれいな清教徒の女性に対してはね。さあ、十字架にかけて誓うんだ。それ以上のことは要求しないよ]
[十字架にかけて]と、あたくしは叫ぶと、立ちあがりました。あのいやらしい男の声を聞いたので、あたくしはまた力が出てきたのです。[十字架にかけて、あたくしはどんな約束にも、どんな脅迫にも、どんな責苦にも口を閉じぬことを誓います。十字架にかけて、いたるところであなたのことを人殺しだ、破廉恥漢《はれんちかん》だ、卑怯者だとあばき立てることを誓います。もしここから出ることができたら、あなたに対する復讐を全人類に向かって求めることを、あたくしは誓います]
[気をつけるがいい!]と、いままで聞いたこともなかったような威嚇《いかく》の声をひびかせて、[こっちにも、あんたの口を封じることも、たとえあんたがしゃべっても、だれにもそれを信じさせないようにすることができる、最後の切り札《ふだ》があるんだからな]
あたくしは全身の力をこめて、からからと笑ってやりました。こうなっては、命をかけての戦いだということが、相手にもわかったのでした。
[いいか、もう一日だけ待ってやる]と、彼は言いました。[よく考えてみるんだね。だまっていると約束さえしてくれれば、富も、尊敬も、名誉も、みんなあんたのものになる。だが、どうあってもしゃべるというのなら、汚辱の刑に処してやる]
[あなたがですか!]と、あたくしは叫びました。
[永遠の汚辱《おじょく》、消えることのない汚辱を加えてやる]
[あなたが、そんなことを!]と、あたくしはくり返して言いました。フェルトンさん、ほんとうにあたくしは、この男は気が狂っているのだと思ったのです。
[そうだ、このわたしがだ!]と、男は言い返しました。
[ああ、もうたくさんです。出て行ってください。あなたの目の前で、あたくしが壁に頭をぶつけるのを見るのがいやだったら、出て行ってください]
[よろしい。おまえがそうして欲しいんだから、明日の晩だ!]
[明日の晩]と、あたくしは答えましたが、そのまま倒れて、怒りにまかせて敷物にかじりつきました。
フェルトンは、家具に身を支えていた。これでは話がすまないうちに彼の力が尽き果ててしまうだろうと、ミラディーは悪魔の喜びをもって、そのようすを眺めていた。
五十七 古典悲劇の手段
自分の話に聞き入っている青年の姿をしばらくのあいだ、じっとだまって見守っていたが、彼女はまた話をつづけた。
「あたくしはもう三日近くも飲まず食わずに、むごい責苦を受けていたのです。ときどき頭に雲がかかったようになって、目がくらみました。錯乱状態になったのでした。
夜になりました。あたくしはもうすっかり弱って、たえず気を失いかけていました。でも、その度ごとに、神さまに感謝をしておりました。こうやって、死んで行けるのだと思ったからです。
こうやってなんども気を失いかけているそのとき、扉の開く音を耳にしました。あたくしは恐怖のあまり、われにかえりました。あたくしの迫害者は仮面をつけ、同じように仮面をつけた男を一人従えていました。
でもあたくしには、その男の足音、その声、地獄が人類の不幸としてその男に与えた威圧的な身のこなしで、すぐにその男だとわかったのです。
[どうだね! わたしが要求した誓いを立てる決心がついたかね?]と、男は言いました。
[あなたもおっしゃったとおり、清教徒は二枚舌《にまいじた》は使いません。あたくしの返事は、前に述べたとおりです。あなたに対して、地上では人間の裁きを、天にあっては神の裁きを、あくまでも求めるつもりです]
[あくまでも、そうする気なんだな?]
[あたくしは神の御前《みまえ》でこのように誓います、全世界の人をあなたの罪の証人として立て、あたくしの代わりに復讐をしてくれる人が見つかるまで、神の裁きを求めつづけます、と]
[おまえは娼婦だ]男は雷《かみなり》のような大声で、[娼婦の受けるべき刑を与えてやろう! おまえが訴えるという人びとの眼に、焼きごての跡をさらして、そしておまえが罪もなく気ちがいでもないと、できるものなら証明してみたらいい!]
そして連れてきた男に向かって、[刑吏としてのおまえの役目を果たすように]と、命じました」
「ああ、その男はだれです? 名前をいってください、名前を!」フェルトンが叫んだ。
「あたくしは死よりももっとひどい目にあわされるのだということがわかりかけて来ましたので、叫んだり抵抗したりしましたが、刑吏はあたくしをつかまえ床に押し倒すと、両手であたくしを締めあげました。涙で喉《のど》をつまらせ、ほとんど意識もなくなって、ただいたずらに神の名を呼ぶだけでしたが、とつぜんあたくしは、苦痛と屈辱のあまり、悲鳴をあげてしまいました。まっかに焼けた刑吏の鉄ごてが、あたくしの肩に押しあてられたのです」
フェルトンは、うめき声をあげた。
「いいですか、フェルトンさん」
ミラディーは、女王のような威厳《いげん》をもって、すっくと立ちあがった。「卑劣漢のむごたらしい犠牲となった汚れを知らぬ娘のために、どのような新たな責苦が考えつかれたか、おわかりになるでしょう。あなたも、人間の心がどのようなものか、お考えになることです。そしてこれからは、彼らの不正な復讐の道具に、やすやすと使われないようになさることです」
ミラディーはすばやく服をひろげて、胸をおおっている白麻の下着を引き裂くと、偽りの怒りと見せかけの恥じらいで顔あからめながら、その美しい肩にいつまでも消えずに残っている屈辱の刻印を見せた。
「でも、それは!」と、フェルトンは叫んだ。「ゆりの花の印ではありませんか!」
「だからこそ、ほんとうに卑劣なやり方なのです」と、ミラディーは答えた。「イギリスの烙印《らくいん》だったら、どこの裁判所があたくしにその刑を科したかを証明しなければなりません。あたくしは、国じゅうの裁判所に訴え出るでしょうからね。でも、フランスの烙印なら……これによってあたくしは、あくまでも本物の罪の烙印をつけられた女として通りますものね」
フェルトンにとっては、もはや堪えられないまでになった。
彼はこの恐ろしい告白に心をうちひしがれ、まっさおな顔をして身動きもできず、崇高とも見えるほどあけすけに自分をあばいて見せるこの女の、この世のものとも見えぬ美しさに眩惑《げんわく》されて、ついに彼女の前にひざまずいてしまった。それはまさに、諸国の皇帝たちの迫害によって闘技場に投げこまれ、賎民《せんみん》たちの残忍で淫《みだ》らな目にさらされた殉教の聖女たちの前にひざまずいた初期のキリスト教徒の姿であった。彼の眼には烙印は消え去り、美しさだけが残った。
「ゆるしてください! どうかゆるしてください」と、フェルトンは叫んだ。
ミラディーは彼の眼の中に、恋心を読みとった。
「なにをゆるすのでしょう?」と、彼女はたずねた。
「あなたを苦しめる人たちに手を貸したことをです」
ミラディーは、手をさしだした。
「こんなに美しい、若いあなたを」フェルトンはその手に接吻をあびせながら叫んだ。
ミラディーは一瞥《いちべつ》で奴隷をも王侯にしてしまうあのまなざしで彼を見やった。
フェルトンは、清教徒だった。彼は女の手を放すと、こんどはその足に接吻をした。
彼はもうこの女を愛するというよりも崇拝していた。
その発作がしずまると、ミラディーは、最初から一刻も失ってはいなかった冷静さを、いまやっと取りもどしたといったようすを見せた。フェルトンは、あの恋の宝物が、つつましやかなヴェールの下にまた隠されるのを見たのだった。だがそれは、いっそう相手の欲情をそそろうとするために隠されたのだった。
「ああ! 今はもう、一つのことをあなたにおたずねするだけです!」と彼はいった。「あなたのほんとうの体刑執行人の名前をいってください。一人だけでいいのです。もう一人のほうは、ただの手先ですから」
「なんですって!」と、ミラディーは叫んだ。「このうえなお、名前を言わなければなりませんの? あなたには察しがつかないのですか?」
「では、やはり、あの男……また、あの男!……いつも、あの男だ!……ほんとうの犯人は、やはりあの……」
「そのほんとうの犯人は、イギリスの国を荒らし、真の信者を迫害し、多くの婦人の貞操を奪った卑劣な男で、堕落した心の気まぐれから二つの王国に多くの血を流させようとしている男、今日は新教徒を保護していても、明日は裏切るような男……」
「バッキンガムだ! やっぱりバッキンガムだ!」
ミラディーは、その名が呼び起こした屈辱の思いに堪えられぬといったように、両手で顔を隠した。
「バッキンガムが、この天使のような人を苦しめたのか」と、フェルトンは叫んだ。「それなのに神はその男を打ち倒すことなく、地位と尊敬と、われわれすべてを破滅させる権力とを、あの男にお与えになっていられる!」
「神さまは、自らを見捨てる者を、お見捨てになります」と、ミラディーはいった。
「でも神は、あの男の頭上に、呪《のろ》われた者たちにのみ与えられる懲罰がくだされることをお望みになるでしょう!」と、フェルトンは、ますますもって興奮してきた。「神の裁きの前に、人間の復讐が先立つことをお望みになるでしょう」
「人びとはあの男を恐れ、容赦しているのです」
「いいえ! わたしは」と、フェルトンはいった。「あの男を恐れません。容赦などしませんとも!……」
ミラディーの胸は、残忍な喜びで波打った。
「それにしても、わたしの保護者であり、わたしの父であるウィンター卿が、どうしてこのことに関係しておられるのでしょうか?」
「それはね、こうなんです、フェルトンさん」とミラディーはふたたびいった。「卑劣な軽蔑すべき人間がいる反面に、りっぱな寛大な心の持ち主もいるものですよ。あたくしには、愛し愛されていた婚約者がありました。ちょうどあなたのように、フェルトンさん、あなたのように心のやさしい人でした。あたくしはその人のところへ行って、すっかり話しました。その人はあたくしのことをよくぞんじておりますから、あたくしを疑うようなことは少しもしません。その人はりっぱな貴族で、どこから見てもバッキンガム公と肩を並べられるほどの人でした。彼はなんにも言わずに、ただ剣を腰に、外套に身を包んで、バッキンガム公邸へ向かいました」
「そうでしょう、そうでしょうとも」と、フェルトンがいった。「よくわかります。ただ、そんな男を相手にするには、剣など使う必要はない、短刀でたくさんなのだが」
「ところがバッキンガムはスペイン大使として、前日に出発してしまったのです。国王チャールズ一世、当時はまだ皇太子でしたが、そのお妃としてスペインの王女を迎える交渉のためでした。あたくしの婚約者は帰ってきて、こう申したのです。
[あの男は出かけているから、つまり今のところは、わたしの復讐からは免れておる。ところで、わたしたちは結婚することになっていたのだから、式を挙げよう。それから自分の名誉と妻の名誉を守ることについては、このウィンター卿を信頼して欲しい]、と」
「ウィンター卿ですって!」と、フェルトンはびっくりした。
「ええ、ウィンター卿です。さあ、これで、なにもかもすっかりおわかりになったでしょう? バッキンガムは、一年以上も帰っては来ませんでした。公が帰国する一週間前に、ウィンター卿は、とつぜん死去されました。あたくしを唯一の相続者としてでした。どうしてこういうことになったのか? それは、神さまだけがたぶんごぞんじのはずです。あたくしは、だれも咎《とが》めたくはありませんもの……」
「ああ! なんて奇怪な話なんでしょう!」と、フェルトンが叫んだ。
「ウィンター卿は、弟には何も話さずに死んだのです。恐ろしい秘密は、当人の頭上に雷のように落ちかかるまでは、だれの目にも隠しておかなければならなかったのです。あなたの保護者は、財産の無い娘と彼の兄との結婚は、もともと不服でした。あたくしにしましても、相続の当てがはずれてがっかりしている人は、なんの頼みにもなるまいと思いました。そこであたくしはフランスへ行って、余生を送ろうと決心したのです。ところが、あたくしの財産はみんなイギリスにあるわけですから、戦争で交通がとだえてしまうと、どうにもなりません。そんなわけで、どうしても帰って来なければならなくなって、六日前にポーツマスに上陸したわけなのです」
「それで?」と、フェルトンがうながした。
「それで、たぶんバッキンガムは、あたくしの帰国を知ったのでしょう。で、かねがねあたくしを悪く思っていたウィンター卿にあたくしが娼婦で烙印まで受けた女だと告げたのです。あたくしを弁護してくれる清く正しい夫の声は、もはやこの世にはありません。ウィンター卿は信じるほうが自分にも都合がよかったので、じつにやすやすと、言われたとおりに信じてしまいました。そこであたくしをつかまえ、ここへ連れてきて、あなたの監視のもとに置いたのです。そのほかのことは、あなたもごぞんじのとおりで、明後日、あたくしは船に乗せられて追放されます。あたくしは流刑を受けるのです。恐ろしい人たちのいる中へ、あたくしを追いやろうとしているのです。ああ! ほんとうに、うまく企んだものです。あたくしの名誉もすべては、これでおしまいですわ。これで、フェルトンさん、あたくしが死なねばならぬ理由がおわかりでしょう。さあ、フェルトンさん、そのナイフをお渡しください」
こういうとミラディーは、もう全身の力が尽き果てたとでもいったふうに、若い士官の腕の中に、ぐったりと倒れかかった。恋と義憤《ぎふん》と、はじめて味わう官能の喜びに酔った若者は、夢中で彼女のからだを受けとめると、その胸にしっかりと抱き締めたが、その美しい唇からもれる吐息《といき》に身ぶるいし、波打つ女の胸に触れて気も遠くなるばかりの思いだった。
「いいえ、いけません」と、彼はついにいった。「あなたは名誉を守って、清らかに生きなければ! あなたの敵に打ち勝つために生きなければ!」
ミラディーは、目つきでは相手を引きつけながら、手ではゆっくりと彼を押しはなした。だがフェルトンのほうは、彼女をしっかりとつかんで、まるで彼女を神と見立てて祈らんばかりであった。
「ああ、死を! 死を!」彼女は声をくもらせ、まぶたをうるませていった。「恥よりも死を選びます、フェルトンさん、どうかお願いです」
「いいえ、いけません!」と、フェルトンは叫んだ。「あなたは生きるのです。そうして復讐をするのです」
「フェルトンさん、あたくしっていう女は、あたくしのまわりに来る人をみんな不幸にしてしまうんです。フェルトンさん、放っておいてください。あたくしを死なせてください」
「では、いっしょに死にましょう」と彼は叫んで、女の口に自分の唇を押し当てた。
扉をたたく音が、なんどもした。こんどはミラディーも本気になって相手を突き放した。
「ほら、あたくしたちの話が聞こえてしまったんだわ。人が来ますわ! もう、だめだわ!」
「いいえ、あれは歩哨《ほしょう》が巡察の来たのを知らせてくれているのです」
「じゃあ、あなたが行って、ご自分で扉をあけなければ」
フェルトンは、そのとおりにした。すでに彼の心には、この女のことしかなかったのである。
彼は、巡察隊を指揮する軍曹《ぐんそう》と向かい会った。
「なんだ! どうかしたのか?」と、若い副官はたずねた。歩哨の兵士が答えた。
「大きな声が聞こえたら扉をあけろとおっしゃいましたが、鍵《かぎ》を渡してくださるのをお忘れでした。そのうちに言葉はわかりませんでしたが、中尉殿の大きな声が聞こえたのであけようとしましたが、中から鍵がかかっています。そこで軍曹殿をお呼びしたのであります」
「ですから、わたしがまいりました」と、軍曹がそのあとを受けた。
フェルトンは錯乱状態で、ほとんど気が触れんばかりであって、口もきかずに立っていた。
ミラディーは、この場をつくろうのは自分の役目だとばかりに、食卓に駆け寄ると、フェルトンが置いていった短刀を握って、
「なんの権利があって、あたくしが死のうとするのを止めるのです?」といった。
「あぶない!」彼女の手に光るナイフを見て、フェルトンは叫んだ。
そのとき廊下で、皮肉るような高笑いが起こった。騒ぎを聞いて男爵が、部屋着のままで剣を携《たずさ》え、戸口までやって来たのだ。
「はっ、はっ、は! これで悲劇も終わりというわけだね」と、男爵はいった。「どうだい、フェルトン、お芝居はわたしのいったとおりに運んだろうが。しかし、心配することはないよ。血なんか流れないからな」
ミラディーは今ここで自分の決意のほどをフェルトンに示さなければ、すべては終わりだとさとった。
「それは、あなたのまちがいですわ。血は流れるでしょうよ。そしてその血が、それを流させた者たちの上にかかればいい!」
フェルトンはあっと叫んで、彼女に飛びついた。が、すでにおそく、ミラディーは自分の胸を突いていた。
しかし幸いに、というよりも、うまくやったと言うべきだろうか、刃先は鉄のコルセットに当たってすべった。当時の女性は、これで鎧《よろい》のように胸を守っていたのである。短刀は服を裂いて、肉と肋骨《ろっこつ》のあいだを斜めに刺しただけだった。
それでもミラディーの服はたちまち血潮で染まった。
ミラディーは仰向《あおむ》けに倒れて気を失ったようだった。
フェルトンが、短刀をもぎとった。
「閣下」と、沈痛な面持ちで、彼はいった。「わたくしが監視していながら、この女を殺させてしまいました」
「安心したまえ、フェルトン君」と、ウィンター卿はいった。「この女は死んではいないよ。悪魔はそう簡単に死にゃしないからな。心配せずに、わたしの部屋に行って、待っていたまえ」
「でも、閣下……」
「行きたまえ、命令だ」
上官の命令ゆえに、フェルトンは従った。しかし出て行くとき、彼は短刀を胸の中に入れた。ウィンター卿は、ミラディーの付添いの女を呼んで、ずっと気絶している女の世話を言いつけると、二人を残して出て行った。
しかし、ああはいったものの、案外に傷が深いということもあるかもしれないと思ったので、男爵は馬を走らせて、医者を呼びにやった。
五十八 脱走
ウィンター卿が考えたように、ミラディーの傷は、たいしたことはなかった。だから彼女が男爵が呼んだ女と二人だけになって、女が急いで服を脱がせようとすると、すぐにミラディーは目を開いた。
しかし、衰弱と苦痛をよそおう必要はあった。だが、こんなことは、ミラディーほどの役者ともなれば、朝飯前のことだった。そこで気のどくにも召使いの女はすっかりだまされてしまい、どうしても夜どおし看病するといってきかなかった。
だがこの女がいても、ミラディーはべつに考えごとをする邪魔にはならなかった。もはやまちがいなく、フェルトンは信じこんでしまったのだ。もうフェルトンは、こっちのものだった。たとえ天使が現われて、青年にミラディーの罪を告げようとも、今の彼の精神状態では、それは悪魔の使いだときっと思いこむにきまっていた。
ミラディーは、こう考えて微笑した。フェルトンこそ今後の彼女の唯一の希望であり、救いの手段なのだった。だが、ウィンター卿は、フェルトンを疑ったかもしれなかった。そして今、彼を自《みずか》ら監視しているかもしれなかった。
朝の四時ごろ、医者がやってきた。だが傷は彼女が突いたときにすぐにふさがってしまったので、医者は傷の深さも、その向きも調べる必要はなかった。ただ脈を見ただけだったが、医者にはたいしたことはないということがわかった。
朝になるとミラディーは、昨夜は眠れなかったのでゆっくりからだを休めたいからと付添いの女を帰した。
彼女には一つの希望があった。食事のときにフェルトンが来るだろうということであった。ところが、彼は来なかった。彼女が恐れていたことがとうとうやって来たのか? フェルトンは男爵に疑われて、いよいよというときになって役立たなくなったのだろうか? もう、あと一日しかなかった。ウィンター卿は、二十三日に乗船するのだといったが、もう二十二日の朝なのである。
それでも彼女はよくしんぼうして、夕食まで待った。
朝食を食べなかったのに、夕食はいつもの時間にきちんとはこばれた。そのとき彼女は、監視の兵士の服装が変わったのに気づいて、思わずぞっとした。
で、彼女はなにげなく、フェルトンはどうしたのかとたずねた。彼は一時間前に、馬に乗って出発したという返事だった。
ウィンター卿は城にいるのかとたずねると、いると兵士は答え、もし彼女が話があればすぐに知らせに来るようにと命じられているといった。
ミラディーは、いまはひどく弱っているから、一人でいたいと答えた。
兵士は食事の支度をして、出て行った。
フェルトンは遠ざけられ、兵士も交替した。つまり、フェルトンが疑われているわけだった。囚《とら》われの女にとって、これはとどめの一撃だった。
一人になると、彼女は起きあがった。傷がひどいと思わせようと、用心のために身を横たえていた寝台が、まるで炭火の中にいるように感じられて、じっとしていられなかったのだ。
彼女は扉のほうを見やった。するとのぞき窓に板きれが打ちつけてあった。おそらく男爵は、こんな小窓からでも彼女が魔力を発揮して、監視の兵たちを誘惑しはしまいかと恐れたからであろう。ミラディーは微笑した。こうなれば、どんなに興奮のようすを見せようが、外から見られずにすんだからだった。
彼女は、鉄格子の檻《おり》に入れられた虎か気ちがいのように、無我夢中で、部屋の中を歩きまわった。もし今短刀が手許にあったならば、彼女は自殺などはせずに、こんどは男爵を殺そうと考えたにちがいなかった。
六時に、ウィンター卿がはいってきた。完全武装をしていた。ミラディーは今までこの男をだいぶ[おつむ]のほうが足りない貴族としか見ていなかったが、どうして、申しぶんのない獄吏になっていた。彼は何もかも見抜き、見通しているようだった。
ミラディーをひと目見ただけで、彼にはその心の中がわかった。
「なるほど」と、彼はいった。「だが、今日はわたしを殺すことはできないよ。もう、そっちには武器はないし、わたしのほうは用心しているからね。かわいそうに、あのフェルトンを、あんたは堕落《だらく》させようとしたな。あの男は、あんたの魔力にすでにやられてしまった。だが、わたしは救ってやろうと思っているよ。あの男は、もうあんたに会いには来ない。これで、万事おしまいさ。身のまわりの用意をしとくんだな、明日は出発だからな。二十四日に乗船日をきめておいたが、考えて見れば、早ければ早いほど安全だからな。明日の昼には、バッキンガム公の署名のある追放命令がとどくはずだ。船に乗る前にだれにでもひと言なりと話しかければ、部下の曹長があんたの頭を打ち抜くようにと、命令を出してある。乗船してからも、船長の許可なくしてだれかと口をきいたら、船長があんたを海に投げこむ、そういう手はずになってるんだ。わかったな。じゃ、今日はこれだけだ。明日は、最高の別れを言いに来るつもりだがね」
言い終わって、男爵は出て行った。
ミラディーはこの脅迫がましい長口上を、軽蔑をこめた微笑を浮かべて聞いていたが、心は怒りに狂っていた。
夕食になった。ミラディーは体力をつける必要を感じた。荒模様の今晩じゅうに、どういうことが起こるかわからなかったからだ。空には大きな雲が走り、遠くに稲妻が光って、まもなく嵐になると告げていた。
嵐は十時ごろにやってきた。ミラディーは自分と同じように自然が荒れすさぶのを見て、心を慰めていた。雷鳴《らいめい》は彼女の心中の怒りのように、空中にとどろいていた。樹の枝を折り、葉をむしり取って吹きすさぶ突風は、彼女の額の髪の毛までも乱すように思えた。彼女は、声をかぎりに喚《わめ》き立てた。だがその声は、これも同じように絶望し喚いているような大自然の叫喚《きょうかん》の中にかき消されてしまった。
とつぜん、ガラス窓をたたく音が聞こえた。稲妻の光によって、窓越しに男の顔が見えた。彼女は走り寄って、窓をあけた。
「まあ、フェルトンさん!」と、彼女は叫んだ。「ああ、あたくしは救われるんだわ!」
「そうです」と、フェルトンはいった。「でも、静かに、静かにしてください! 鉄格子を切るのに時間がかかりますからね。ただ、扉の小窓からのぞかれないように注意しないと」
「ああ、やはり神さまがあたくしたちに味方してくれる証拠ですわ、フェルトンさん。小窓は板でふさがれたんです」
「よかった! 神が彼らを愚かにしてくださったのです」
「で、あたくしは、どうすればいいんですの?」
「なんにもしないでいいですよ。ただ、この窓をしめておいてください。そして寝ていてください。服を着たままで寝台にはいっていればいいんです。わたしのほうが片づいたら窓をたたきますから。でも、あなたは、ついて来られますか?」
「だいじょうぶですとも!」
「傷は?」
「痛みますけれども、歩けますわ」
「では、合図をしたら、すぐ出られるようにしといてください」
ミラディーは窓をしめ、ランプを消すと、フェルトンから言われたように寝台の中にもぐった。嵐が吹きすさぶ中に、鉄格子をこするやすりの音が聞こえ、稲妻が光る度ごとに、窓の向こうにフェルトンの影が見えた。
彼女は息を殺し、額に汗をにじませながら一時間をすごした。廊下で動く気配がすると、恐ろしさに胸がしめつけられる思いだった。
一時間が、一年間に思われるときがあるものだ。
一時間たつと、フェルトンがまた窓をたたいた。
ミラディーは寝台を飛び出て、窓をあけに行った。二本格子が取れていて、人間一人が通れるくらいの大きさだ。
「用意は?」と、フェルトンがきいた。
「できています。どうしても必要なものは?」
「お金を。もしお持ちでしたら」
「あります。さいわい、所持品は残しておいてくれたから」
「それはよかった。というのは、小舟を借りるのに、有り金をはたいてしまったもんですから」
「とってください」ミラディーは金貨のはいった袋をフェルトンに手渡した。フェルトンは袋を受けとると、城砦の下に投げ落とした。
「さあ、おいでなさい」と、彼はいった。
「ええ」
ミラディーは肱掛椅子の上にあがると、窓から身を乗りだした。見ると、若い士官のからだは縄梯子《なわばしご》で、深淵《しんえん》の上にぶらさがっていた。
はじめて恐怖感が、彼女もやはり女であることを思いださせた。空間の大きさが、彼女をこわがらせたのである。
「そうだろうとは思っていました」と、フェルトンがいった。
「いいえ、なんでもありませんわ」と、ミラディーは答えた。「あたくし、目をつぶって降りますわ」
「わたしを信頼してくれますか?」と、フェルトンがきいた。
「そんなこと、聞かなくても」
「両手を組んでください。そう、それでよろしい」
フェルトンは彼女の両の手首を、ハンカチでゆわいた。そして、その上に縄をかけた。
「どうなさるの?」と、ミラディーは、びっくりしてたずねた。
「腕をわたしの首にかけてください。心配はいりません」
「それではあたくしの重みで重心がとれず、二人とも落っこちてしまいますわ」
「安心してください。わたしは船乗りですよ」
一刻も猶予《ゆうよ》はできなかった。ミラディーは両腕をフェルトンの首にかけると、窓からすべり出た。
フェルトンは、一歩一歩ゆっくりと梯子《はしご》を降りはじめた。二人分の重さがあるのに、突風は彼らをぶらぶらゆすった。とつぜん、フェルトンが足をとめた。
「どうしたんです?」と、ミラディーがきいた。
「しっ! 足音が聞こえる」
「見つかったんだわ!」
しばらく沈黙がつづいた。
「ちがう。なんでもありません」と、フェルトンがいった。
「でも、あの音は?」
「巡察隊が定まった巡警路を通っているんです」
「巡警路はどこです?」
「ちょうど、この真下ですよ」
「じゃ、見つかるわ」
「いや、稲妻が光りさえしなければ」
「梯子の下のところに来るでしょう」
「さいわい、この梯子は、六尺ほど短かいのです」
「あっ、来たわ!」
「しっ!」
二人は地上六メートルほどのところで、息を殺して、じっとぶらさがっていた。そのあいだに兵士たちが笑い声をあげながら、通って行った。
逃げようとする者にとっては、恐ろしい一瞬であった。巡察隊の足音が遠のき、話し声が小さくなった。
「さあ、これで助かった」と、フェルトンがいった。
ミラディーは、ほっとため息をつくと、気を失ってしまった。
フェルトンは、また降りはじめた。縄梯子《なわばしご》の下まで行って足がかからなくなると、こんどは手だけで降りた。最後は手首の力でぶらさがって足を地面につけた。身をかがめて、落としておいた金貨の袋を拾うと、口にくわえた。
それからミラディーを抱きかかえると、巡察隊が行ったほうとは反対の方に急いで行った。まもなく巡警路から離れて、岩場を降り、海辺に着くと、合図の口笛を吹いた。
同じような合図がそれに答え、五分すると四人の男が乗っている小舟が現われた。
小舟はできるだけ海岸に近づいたが、浅瀬になったので、ぴったりとは着けられなかった。するとフェルトンは、腰まで浸《つか》って海中を、だれにも渡したくない大切な荷物をはこんだ。
さいわい嵐はおさまりかけていたが、海はまだ荒れていた。小舟はまるで胡桃《くるみ》の殻《から》のように、波にもまれておどった。
「本船へ、力いっぱい漕《こ》げ!」と、フェルトンが号令をかけた。
四人の男は漕ぎはじめた。波が高いので、櫂《かい》がうまく水をつかまない。
それでも、城から遠ざかって行った。これが大事なのだ。夜の闇はふかかったので、もうすでに小舟から岸を見わけることは、ほとんどできなかった。まして岸から小舟を見つけることなど、できるはずがなかった。黒点がひとつ、海上で揺れていた。
それが、めざす帆船であった。
小舟が四人の櫂で、本船に向かって力漕しているあいだに、フェルトンはまず縄をとき、それからミラディーの両手をしばっていたハンカチをほどいた。女の両手が自由になると、彼は海水をすくって、女の顔にかけた。ミラディーは軽い息をついて、目をあけた。
「ここはどこですの?」と、彼女はたずねた。
「もう助かりました」と、若い士官は答えた。
「ああ、助かったのね、助かったのね!」と、彼女は叫んだ。「そうなんだわ、空が見える、海も見えるわ。空気だって、自由の身で吸える空気なんだわ。ありがとう、フェルトン、ありがとう!」
青年は、女を胸に抱きしめた。
「でも、この手はどうしたのかしら?」と、ミラディーはたずねた。「まるで万力で、手首をくだかれたみたいですけれども」
ミラディーが腕をあげてみせると、なるほど両腕の手首が傷ついていた。
「気のどくに!」フェルトンは女の手を見て、しずかに首をふった。
「いいえ、なんでもありませんわ、なんでもなくてよ!」と、ミラディーは叫んだが、「ああ、思いだしましたわ」といって、あたりを見まわした。
「そこにありますよ」と、フェルトンは、金貸の袋を足で押しやった。
小舟は帆船に近づいた。当直の水夫が、小舟に呼びかけた。小舟もそれに答えた。
「この船は?」と、ミラディーがたずねた。
「あなたのために借りた船です」
「どこへあたくしをつれて行くんです?」
「あなたの望みのところまで。ただ、わたしをポーツマスで降ろしてさえくれればいいのです」
「ポーツマスでどうなさるの?」と、ミラディーがたずねた。
「ウィンター卿の命令をはたすためですよ」といって、フェルトンは暗い微笑を浮かべた。
「どんな命令です?」
「おわかりにならないのですか?」
「ええ、どうか、お教えください」
「あの人はわたしを疑っておられるので、あなたの見張りは自分ですると言われ、その代わりにわたしをバッキンガムのところへやって、あなたの追放命令の署名をもらって来させることにしたのです」
「でも、あなたを疑っているなら、どうしてそんな命令書をあなたに托《たく》したのでしょうね?」
「わたしがその内容を知っているわけがないでしょう」
「そうですわね。それで、ポーツマスに行らっしゃるってわけね」
「ぐずぐずしちゃいられないんです。なにしろ、あす二十三日に、バッキンガムは艦隊をひきいて出てしまうんですから」
「あす出発するって、どこへです?」
「ラ・ロシェルへ、です」
「行かせてはいけない!」と、いつもの慎重さを忘れて、思わずミラディーは叫んだ。
「ご安心ください。あの人は出発しないでしょうよ」と、フェルトンは答えた。
ミラディーは、喜びに身を震わせた。青年の心の底を読みとったからである。そこには、バッキンガムの死という字が、はっきりと書かれてあった。
「フェルトンさん、あなたはあの、ジュダ・マカベ(ユダヤの名将で、アンティオクスの軍を破る)のようなえらい方ですわ。あなたが死ぬときに、あたくしもいっしょに死にますわ。今あたくしに言えることは、これだけですわ」
「だまって!」と、フェルトンは制した。「着きました」
小舟は帆船に横づけになっていた。
フェルトンは先に梯子《はしご》をあがって、ミラディーに手をさしだした。一方では水夫たちが彼女のからだを支えてやった。それほど、海はまだ荒れていたのである。
まもなく、彼らは甲板にあがった。
「船長」と、フェルトンはいった。「この人があなたにお話ししたご婦人です。フランスまで無事に送りとどけていただきたい」
「千ピストールという約束でしたな」と、船長はいった。
「五百ピストールはお渡ししてあるが」
「たしかに」
「あとの五百は、ここにあります」と、金貨の袋に手をやって、ミラディーがいった。
「いや、いや」と、船長はいった。「わたしは約束に堅い男でな。このお若いのとちゃんと約束したんだから、あとの五百ピストールは、ブーローニュに着いてからちょうだいすればよろしい」
「うまく着けるでしょうか?」
「保証しますよ」と、船長は答えた。「このわたしがジャック・バトラーという名前であることがたしかなようにね」
「では」と、ミラディーがいった。「あなたが約束をはたしてくださったら、五百ではなくて千ピストールあげるわ」
「そいつはありがたいな、奥さん」と船長は叫んだ。「あんたのようなお客さんが、ちょいちょありますようにだ!」
「それはそうと、ポーツマスに着く前に、チチスターの入江に着けてもらいたい」と、フェルトンがいった。「そういう約束のはずだったな」
船長は返事の代わりに、すぐに出帆の準備を命じた。そして朝の七時には、船は指定された入江に投錨《とうびょう》した。
この航海のあいだにフェルトンは、いままでのことをすっかりミラディーに語って聞かせた。ロンドンへは行かずに、この船をやとったこと、どうやってうまく戻って来たか、どうやって壁をよじ登ったか、岩の割れ目に足場のための鋲《びょう》を打ちこんだりして登ったこと、そして鉄格子のところまで行って、縄梯子《なわばしご》をかけたことなどで、その後のことはミラディーも知っていることだった。
彼女の考えでは、まずフェルトンの計画を激励することだった。ところが、ひとこと話してみたら、この狂信者にとっては、むしろなだめることのほうが必要だということがわかった。
ミラディーは十時までフェルトンを待つことにして、もし十時までに帰って来なかったら、彼女は先に出発することにした。
そして彼がもし自由なからだになれたときには、渡仏して、ベテューヌ(パ・ド・カレ県にあって、ベルギーとの国境に近い町)のカルメル派の修道院で落ち合うことにした。
五十九 一六二八年八月二十三日、ポーツマスで起こったこと
フェルトンは、弟が姉の手に接吻してちょっと散歩に出かけて行くといった態度で、ミラディーに別れを告げた。そのようすは、いつもと同じように冷静に見えたが、ただ眼はいつになく熱っぽい光に輝き、額もいつもより青白かった。歯を食いしばり、言葉もぶっきらぼうで、なにか暗い考えに心が乱されていることが、察せられた。
陸地に送りとどける小舟の中では、彼は甲板に立って自分を見送っているミラディーのほうを、じっと見たままだった。二人とも、追手のことでは、まず安心というところだった。九時まではミラディーの部屋にはだれもはいって来なかったし、城からロンドンまでは三時間はかかるのである。
フェルトンは陸地にあがると断崖《だんがい》のてっぺんへ通じている小さな尾根道をよじ登って、もう一度ミラディーに別れの挨拶を送り、それから町に向かった。
百歩ほどで道は下り坂になるので、もう帆船のマストも見えなくなった。すぐに彼は、向かって半マイリばかりのところで、朝もやの中に塔や屋根瓦を浮きださせているポーツマスの町めざして駆けだした。
ポーツマスの彼方の海上は船で一杯で、その船のマストが、冬のポプラの木立のように、風で揺れ動いているのが見えた。
フェルトンは道を急ぎながらも、黙想の苦行十年間と、清教徒のあいだで暮らした長い生活のあいだに聞き知った、ジャック六世とチャールズ一世の寵臣に対する真偽とりどりの非難の声を思いだしていた。
この宰相の公的な罪科、言うなればヨーロッパ全体に与えたはなばなしい罪と、ミラディー一人に与えた知られざる私的な罪とを比べて見たとき、バッキンガムという人間のこの二つの面のうちでより罪深いのは、世間で知らない私的な面のほうであると、フェルトンは考えた。それは、はじめて彼が知ったふしぎな恋の激情が、ウィンター夫人の訴えた恥ずべき架空の罪を、蟻《あり》ほどもない微小物を恐ろしい怪物にもしてしまうあの拡大鏡を通したように、彼の目に映して見せたからであった。
道を急ぐので、いっそう彼の血は湧き立った。それに愛する、というよりも聖女とも崇《あが》めている女を恐るべき復讐の危険にさらしたままであとに残してきたという心配や、興奮の名残りや肉体の疲労や、そういったすべてのものが彼の精神を、人間のもつ感情の限界以上にたかぶらせていた。
朝の八時ごろに、彼はポーツマスにはいった。町の人たちは、もう起きていた。太鼓の音が町にも港にもしていて、乗船する部隊が海のほうへ降りて行った。
フェルトンは汗と埃《ほこり》にまみれて、海軍省の建物に着いた。ふだんなら青白い彼の顔が、今は怒りと暑さとで真っ赤だった。歩哨は、彼を追い返そうとした。だが彼は衛兵所長を呼んでもらい、ポケットから手紙を取り出すと、「ウィンター卿閣下から急ぎの書面です」と、いった。
ウィンター卿が公爵のごく親しい人の一人だということはよく知られていたから、所長はフェルトンを通すようにと命じた。それに、彼もまた海軍士官の制服を着ていたのだ。
フェルトンは、建物の中に飛びこんだ。
彼が玄関にはいったとき、もう一人これも挨まみれの男が、着くなりがっくり膝を折った駅馬を乗り捨てたまま、息せき切って飛びこんできた。
フェルトンとその男とは、公爵の腹心の従者パトリックに、同時に話しかけた。フェルトンは、ウィンター男爵の名前をいった。見知らぬ男は、だれの名も言おうともせず、公爵にじきじきにお目通りがしたいと申し出た。どちらも先に通ろうとして、譲らなかった。パトリック(二十章後半にはパトリスとある。たぶん同一人だと思うが、どちらとも定めがたいし、デュマの粗忽さの現われとしてそのままにしておいた)は、ウィンター卿が公爵とは公私ともに親しい人であることを知っていたので、その名を告げた男のほうを先にした。もう一人のほうは、待たないわけにいかなくなったが、おくれたことを残念がっていることは、だれの眼にもそう見えたろう。
フェルトンは従者にみちびかれて、スービーズ公がつれてきたラ・ロシェルの代表者たちが待っている大広間を抜けると、バッキンガムの書斎に案内された。公爵は風呂からあがって、いつもながら念入りの身じまいを終わろうとしているところだった。
「ウィンター卿の使者、フェルトン中尉でございます」と、パトリックが取り次いだ。
「ウィンター卿の使者か!」と、バッキンガムは聞き返してから、「通すように」といった。
フェルトンは、はいった。バッキンガムはそのとき、金の刺繍《ししゅう》をしたりっぱな部屋着を長椅子の上に脱ぎ捨てて、真珠をちりばめた青いビロードの胴着をつけるところだった。
「どうして男爵は、自分で来られなかったのかな」と、バッキンガムはたずねた。「けさも待っていたのだが」
「お伺いできないのがたいへん残念だと、そうお伝えするようにとのことでした」と、フェルトンは答えた。「城内に監視の仕事がございますので」
「そう、そう、わかっている。女を捕えてあったな」
「その女のことで、閣下にお話を申しあげたいのでございますが」と、フェルトンがいった。
「いいとも、話したまえ」
「じつは、このことは閣下お一人のお耳にお入れしたいので」
「パトリック、さがっていなさい。だが呼鈴のとどくところに。じきに呼ぶつもりだからね」
パトリックは出て行った。
「さあ、これでだれもいない、話したまえ」
「閣下」と、フェルトンはいった。「先日ウィンター卿は閣下にお手紙をさしあげて、シャルロット・バクソンという名の一婦人についての乗船命令書にご署名をいただくよう、お願いいたしましたが」
「そうだ。わたしは、その命令書を持参するか送るかすれば、すぐに署名をしようと返事しておいたよ」
「これでございます」
「どれ」
公爵はそれをフェルトンの手から受け取ると、すばやく目を走らせた。そして、まちがいなく言ってきたものだとわかると、テーブルの上において、ペンを取り、署名しようとした。
「失礼でございますが」とフェルトンがさえぎった。「閣下は、そのシャルロット・バクソンというのは、女の実名ではないことをご承知でございましょうか?」
「ああ、知ってるよ」公爵は、ペンをインク壷《つぼ》に浸《ひた》しながら答えた。
「では、閣下、その本名をごぞんじなので?」と、フェルトンは急《せ》きこんでたずねた。
「知っている」
公爵は、ペンを書類に近づけた。
「本名をごぞんじでありながら、それでもやはり署名をなさいますか?」
「もちろんだ」と、バッキンガムは答えた。「知っているから、なおさらするんだ」
「まさか、閣下が」フェルトンの声は、だんだんとぶっきらぼうになってきた。「ウィンター卿夫人だということをごぞんじだとは、思えませんが!」
「いいや、ちゃんと知ってるんだよ。それよりもわたしは、きみがどうしてそれを知ってるのかふしぎに思うね」
「それで閣下は、心にとがめることもなく、平気で署名なさるおつもりですか?」
バッキンガムは、きっとなって青年を見た。
「なんだね、きみ。そんなおかしな聞き方をしていいのかね。答えることは簡単だが」
「お答えになってください、閣下。事情はおそらく、閣下がお考えになっている以上に重大なんです」
バッキンガムは、この青年はウィンター卿の使者として来たのだから、おそらくウィンター卿の名のもとに話をしているのだと考えて、気持ちをやわらげた。
「なにも心にとがめるところはないよ。男爵もわたしと同じように、ウィンター夫人は大罪人で、流刑ぐらいにとどめるのは、むしろ寛大な処置だと思っておられるはずだ」
公爵は、ペンを紙にあてた。
「命令書に署名をなさってはいけません、閣下!」と、フェルトンは、一歩進み出ていった。
「署名をしてはいかんとは! なぜだ?」と、バッキンガムは聞き返した。
「よくご自身でお考えになって、そのミラディーという婦人に正しい裁きを与えねばならないからです」
「タイバーンへ送るというのは、正しい裁きのように思えるがな。なにしろミラディーという女は、凶悪な女だからな」
「閣下、ミラディーさんは天使のような方です。閣下もごぞんじのはずです。あの人を放免なさなるよう、お願いいたします」
「なんだって! わたしにそんなことを言うとは、気でも狂ったのかな」
「おゆるしください、閣下! これでも自制して、精一杯に申しあげているのです。それにしても閣下、これからなさることを、よくよくお考えなさるように。どうか、あまり度を過ぎたことをなさらないように」
「なんだと……聞き捨てならぬひと言だな」と、バッキンガムは声を荒げた。「貴様、わたしを脅迫する気か!」
「いいえ、閣下、お願いしているのです。ただ、わたしが申しあげたいのは、一滴の水でも口がいっぱいになった瓶《びん》をあふれさせることができるように、ごくわずかな過《あやま》ちでも、多くの罪を重ねた人間には、天罰がくだるものだということなのです」
「フェルトン君、出て行きたまえ。そしてただちに謹慎《きんしん》すること」と、バッキンガム公はいった。
「いいえ、閣下、わたしの言うことを最後までお聞きください。あなたはあの若い女を誘惑し、はずかしめ、汚されたのです。その罪のつぐないのためにも、あの人を自由のからだになさったほうがいいのです。わたくしが要求するのは、それだけです」
「なに、要求するだと!」バッキンガムはびっくりして相手の顔を見つめながら、言われた言葉をくり返した。
「閣下」とフェルトンは話すにつれて、自分の言葉に興奮しながら「ご用心なさるがいい。イギリスじゅうの者が、あなたの不正ぶりに愛想《あいそ》をつかしています。閣下、あなたは王権を乱用なされ、王権を奪い取っているといってもいいでしょう。閣下、あなたは人間の敵、いや神の敵です。いずれは天罰がくだりましょうが、今日その前に、まずわたしが思い知らせましょう」
「なんとひどいことを言うんだ!」そう叫んで、バッキンガムは、戸口のほうへ一歩踏みだした。フェルトンは、その行く手をさえぎった。
「わたしは、ただただお願いするのみです。どうか、ウィンター夫人の赦免状《しゃめんじょう》に署名なさってください。あなたがはずかしめた婦人だということをよくよくお考えになった上で」
「さがれ。さもないと、人を呼んで投獄させるぞ」と、バッキンガムは叫んだ。
「呼ばせませんよ」といってフェルトンは、銀をちりばめた呼鈴の前に立ちはだかった。
「いいですか、閣下、あなたはもう、神の御手《みて》の中にあるのですぞ」
「悪魔の手というがいい」とバッキンガムは、わざと人に聞こえるように一段と声を高めたが、でも直接に人を呼ぼうとはしなかった。
「署名してください。ウィンター夫人の赦免状に署名をしてください」
そういってフェルトンは、一枚の紙を公爵に突きつけた。
「しいる気か! ふざけた真似をするな? おい、パトリックはおらぬか!」
「閣下、ご署名を!」
「いやだ!」
「いやですと!」
「だれかおらぬか!」そう叫ぶと、公爵は剣に飛びついた。
が、フェルトンは、公爵に剣を抜くひまを与えなかった。彼はミラディーが自殺に使った短刀を胴着の下に隠し持っていたので、公爵におどりかかったからであった。このときパトリックが部屋にはいってきて叫んだ。
「閣下、フランスからのお手紙でございます」
「フランスからだと!」バッキンガムは手紙の差出人のことが気にかかって、つい今までのことを忘れた。
フェルトンはこの機会を利用して、柄《つか》も通れとばかりに、公爵の脇腹《わきばら》めがけて短刀を突き刺した。
「あっ! 裏切り者め! おまえはおれを……」
「人殺しだ!」パトリックが、大声で呼ばわった。
フェルトンはあたりを見まわして、逃げ道をさがした。扉があいていたので、そこから隣りの部屋へ飛びこんだ。前述したとおり、ラ・ロシェルの代表者たちが待ち合わせていた部屋である。彼はそこを駆け抜けると、階段のほうへ向かった。が、降り切ったところで、ばったりウィンター卿に出会ったのである。血走った目をし、まっさおな顔をして、手や顔に返り血をあびたその姿を見ると、男爵はその首に飛びついた。
「こんなことだろうと思っていた。手おくれだったか! ああ、わたしには運がなかった」
フェルトンは、少しも抵抗しなかった。ウィンター卿は彼を衛兵の手に渡して、バッキンガム公の書斎に飛びこんだ。フェルトンは、追っての沙汰があるまで、海に面した露台に連行された。
公爵の叫び声と、パトリックの叫び声を聞いて、さっきフェルトンが控えの間で出会った男が、書斎に駆けこんだ。
公爵は長椅子の上によこたわって、けいれんしている手で傷口を押えていた。
「ラ・ポルトか」と公爵は、消え入るような声でいった。「あの方のお使いで来たのか?」
「さようでございます」と、アンヌ・ドートリッシュの忠実な従者は答えた。「でも、たぶん、おそずぎたのでは……」
「しっ! ラ・ポルト。人に聞かれてはまずい。パトリック、だれも入れるな。ああ、あの方のお言葉も聞かれるかどうか! ああ、神よ、死にそうだ!」
そういって公爵は、気を失った。
そのあいだにウィンター卿や、代表者たちや、遠征軍の指揮者たちや、バッキンガム家の待臣たちが、あいついで部屋にはいってきた。いたるところで、絶望の叫びが起こった。邸内をうずめた悲嘆の声は、やがて町じゅうに噂となって流れた。
一発の砲声が、変事の起こったことを告げた。
ウィンター卿は髪の毛をかきむしって、「一分おそかった! ああ、なんたることか」と、叫んだ。
城の窓から縄梯子がさがっているという知らせがあったのは、朝の七時であった。さっそくミラディーの部屋へ駆けつけてみると、もぬけの殻《から》で、窓があけっぱなしで、鉄格子が切られていた。男爵は、ダルタニャンが使者にことづけた言葉を思いだし、公爵の身が気になったので、すぐに馬小屋へ駆けつけると、自分の馬に鞍をおくひまもあらばこそ、居合わせた馬に飛び乗って、拍車を入れ、着くやいなや階段を駆けあがろうとしたとき、先刻のように、フェルトンに出会ったのであった。
しかし公爵は、まだ死んではいなかった。我にかえって、目をあけた。それを見て、まわりの者の顔は明るくなった。
「パトリックとラ・ポルトを残して、みんな下がるよう」と公爵はいったが、「ああ、あなたか! ウィンター! けさはとんでもない気違いをよこして! おかげで、このざまだ」
「ああ、閣下! 悔やんでも悔やみきれません」と男爵は叫んだ。
「いや、そんなことはないよ」と、バッキンガムは男爵に手をさし伸べて、「一生涯他人から惜しまれるような人間はいやしないさ。さあ、お願いだから、さがっていてくれたまえ」
男爵は、すすり泣いて出て行った。傷ついた公爵と、ラ・ポルトと、パトリックだけになった。医者は呼びに行ったのだが、まだ見つからなかった。
「大丈夫でございますとも、公爵、大丈夫でございますとも」と、アンヌ・ドートリッシュの使者は、長椅子の前にひざまずいて、くり返した。
「あの方の手紙にはなんとある?」公爵は血に染まりながらも、はげしい苦痛をおさえても、愛する人のことが知りたいのだ。「なんと書いてあるのだ。さあ、読んでくれ」
「でも、閣下!」と、ラ・ポルトはいった。
「かまわんから、ラ・ポルト。もはやわたしには時間がないのがわからんか?」
ラ・ポルトは封を切ると、公爵の目の前に手紙をひろげて見せた。バッキンガムは読もうとしたが、もう筆蹟が見えなかった。
「読んでくれ、もう見えない。さあ、早く。もうじき耳も聞こえなくなるだろう。あの方の書かれたことも知らずに死ぬのでは!」
ラ・ポルトは、それ以上はこばまず、読みあげた。
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閣下
あなたさまをごぞんじ申しあげてから、あたくしはあなたにより、またあなたのために心を苦しめました。そのようなあたくしの心を休めてくださろうというお気持ちがおありでしたら、お願いでございます、フランスに対するこの度の大がかりな軍備を中止してくださいますように。そして表向きは宗教上の理由と申しますが、じつはあなたさまのあたくしへのお気持ちがその原因だと取り沙汰されておりますこのような戦争を、ぜひともお取り止めくださいますように。
この戦争は、フランスとイギリスの両国に大きな災厄をもたらすばかりではなく、あなたさまご自身の上にも不幸を及ぼすでしょう。そうなっては、あたくしの心も休みません。
くれぐれも御身お大切に、あなたさまを敵とは見ずにすむ日が来れば。あたくしにとってはいよいよ大切なあなたのお命を、あるいはおびやかす者もあるかも知れず、なにとぞご警戒あそばすように。
アンヌ
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バッキンガムは残りの気力をふりしぼって、それを聞いていた。やがて読み終わると、何かにがい失望感を味わったかのように、「ほかに、何かおことづけはなかったのか、ラ・ポルト」と、たずねた。
「ございます。お妃さまは、閣下のお命をねらう者もあるかも知れず、くれぐれもご身辺にお気をつけくださるようにとのお言葉でした」
「それだけか、ほかには何も?」と、バッキンガムは、いらだたしげにいった。
「ございます。お妃さまは、いつも閣下をお慕い申していると、そうお伝えするようにと」
「ああ! 神に祝福あれ」と、バッキンガムは叫んだ。「では、わたしの死を、縁なき者の死とはお考えになるまい……」
ラ・ポルトは涙にむせんだ。
「パトリック」と公爵は呼んだ。「ダイヤの飾りひものはいっている小箱をこれへ」
パトリックが持ってきたのを見ると、ラ・ポルトはそれが、かつての王妃の持ち物であったことを知った。
「それから王妃の頭文字が真珠で入れてある白繻子《しろじゅす》の袋も」
パトリックが、それも持ってきた。
「さあ、ラ・ポルト」と、バッキンガムはいった。「この銀の小箱と二通のお手紙、あの方からお預りした品は、これだけだ。これを王妃にお返ししてくれ。それから、最後の形見として、」と何か大切な物をさがそうと、身のまわりを見まわしていたが、「いっしょに……」
彼はなおもさがしたが、すでに死の迫った眼には、フェルトンの手から落ちて、まだ刃先に血潮がついたままの短刀しか見えなかった。
「その短刀を、その短刀をいっしょに」と、公爵は、ラ・ポルトの手を握りしめていった。
彼はなおも自分の手で、銀の小箱の中に袋をおさめ、短刀もそこへ落としこんだが、もう口はきけないというようすを、ラ・ポルトにしてみせた。やがて最後の痙攣《けいれん》にもはや堪える力もなく、床の上に滑り落ちた。
パトリックが、大きな叫び声をあげた。
バッキンガムは、最後にもう一度微笑しようとしたが、死のために、それは恋の最後の接吻のように、ただ気持ちだけで額に刻まれて残っただけだった。
このとき、侍医があわてふためいてはいってきた。侍医はすでに軍船に乗りこんでいたので、そこまで呼びに行かねばならなかったのである。彼は公爵のところへ行って、手を取ってしばらく握っていたが、それを放した。
「だめです。ご臨終です」と、彼はいった。
「おなくなりになられた!」と、パトリックが呼ばわった。
この叫び声を聞いて、一同が部屋の中になだれこんだ。いたるところに、狼狽《ろうばい》と混乱とが起こった。
ウィンター卿は、バッキンガムが息を引き取るとすぐに、露台で監視されているフェルトンのところへ駆けつけた。
「あきれはてた奴だ!」と、バッキンガムが死んだと知って、持ち前の冷静さと落ちつきを取りもどした青年に向かって、「なんということをしたんだ?」と、いった。
「わたしは復讐をしたのです」
「おまえがかい?」と、男爵はいった。「おまえは、あの呪われた女の手先に使われただけだ。だがおれは誓って、あの女の罪悪を、これを最後にしてみせるぞ」
「どういうことをおっしゃろうとしているのか、わたしにはさっぱりわかりません」と、フェルトンは、落ちつき払っていった。「バッキンガム公爵はあなたを通して、わたしを大尉にすることを二度までも断わられました。ですからわたしは、公爵を殺したのです。わたしは公爵の不正をただした。ただ、それだけです」
ウィンター卿はあきれ返って、フェルトンをおさえている兵士たちの顔を見まわしたが、この男の無感覚さをどう考えたらいいかわからなかった。
しかしながら、フェルトンの取りすました額にも、ときどき一抹《いちまつ》の暗影がかかった。物音が聞こえる度ごとに、この純朴な清教徒は、それが自首して自分といっしょに死のうといったミラディーの足音か、または声かと思うからだった。
とつぜん彼は身ぶるいした。その眼は、ちょうどそこからずっと見渡せる海上の一点に吸いつけられていた。船乗り特有の鷲《わし》のような目で、ふつうの人間なら波間にただようカモメだとしか思われないのに、それがフランスへ向かう帆船だと、はっきり見てとったのである。
彼はまっさおになった。そして早鐘を打っているような心臓に手をやった。彼は、裏切られたことを知ったのだ。
「最後のお慈悲に、閣下!」と、彼は男爵にいった。
「何時でしょうか?」
男爵は時計を出した。
「九時十分前だ」
ミラディーは、出帆を一時間半も進ませたのだ。変事を知らせる砲声を聞くとすぐに、彼女は錨《いかり》をあげる命令を出したのである。
船は海岸から遠く離れて、青空の下を航行していた。
[神の思《おぼ》し召しなのだ]青年は狂信者らしい諦《あきら》めでそう心につぶやいた。がその眼は、じっと帆船を見つめたままだった。おそらくは、命まで捧げようとした女の白い幻《まぼろし》が、甲板の上に見えるような気がしたからであろう。
ウィンター卿は彼の視線を追い、その苦悩を察して、すべてを見ぬいてしまった。
「まず最初に、おまえが一人っきりで罰を受けるがいい」とウィンター卿は、まだ沖のほうを見やったままでいたフェルトンに声をかけた。
「だが、あれほどまで愛していた兄の霊のためにも、誓っておまえの共犯者をこのままではおかないぞ」
フェルトンは、ひとことも言わずに頭を垂れた。
ウィンター卿は急いで階段を降りると、港に向かった。
六十 フランスでは
イギリス国王チャールズ一世が、公爵の死を知ってまず心配したことは、この知らせを聞けばラ・ロシェル軍が落胆するだろうということだった。リシュリューの回想録によれば、国王はできるだけ長くそのことを隠しておこうとして、国内の港を閉鎖し、バッキンガムが編成した軍隊を自分が代わって指揮して、それを出発させるまでは、一船たりとも出港させないように、厳重に警戒をしたのだった。
さらに国王は、その命令を徹底させて、帰国しようとしているデンマーク大使や、オランダ本国に返還させることになっているインド諸島の船舶をフレミング港に回航させる役目をもっていたオランダ大使までも、イギリスに引きとめておくことにした。
しかし国王がこのような命令を考えついたのは、事変があってから五時間もたった午後二時のことであったから、もうすでに出発してしまった船が二隻あった。そのうちの一隻は、もちろんミラディーを乗せた船だった。すでに変事を予想していたミラディーは、旗艦のマストに黒い旗があがるのを見て、これでまちがいないと思ったのであった。
もう一隻のほうは、だれが乗っていたか、どうして出港したのか、それはあとで述べることにしよう。
さて、このようなことが起こっているあいだにも、ラ・ロシェル攻略の陣中には、べつに変わったことも起こらなかった。ただ国王は陣中なので、いつもより一層退屈してしまった。そこでサン=ルイの祭日には、お忍びでサン=ジェルマンへ帰って過ごそうと考え、二十人だけ護衛のための銃士を用意してほしいと、枢機卿に頼んだ。ときには国王の退屈を移されて困っていた枢機卿は、喜んでこの休暇に同意した。国王は、九月十五日ごろまでには帰陣することを約した。
枢機卿から通知をもらったトレヴィール殿は、さっそく旅支度にかかった。例の四人の銃士たちが、理由はわからなかったが、緊急な用事でパリに帰りたがっていることを知っていたので、もちろん彼らを護衛隊員の中に加えた。
四人の青年たちがこの件を知ったのは、トレヴィール殿におくれることわずかに十五分であったから、隊長はまっさきに彼らに話を伝えたわけだ。ダルタニャンはそのとき、自分を銃士隊に編入してくれた枢機卿の推挙をうれしく思った。もしそうでなかったら、仲間が出発しても、自分はやはり陣中にとどまっていなければならなかったであろうから。
いずれ後述するが、どうしても彼がパリへ帰りたいという理由は、ボナシュー夫人が仇敵《きゅうてき》のミラディーとベテューヌの修道院で出会ったりするかも知れぬ場合の危険を思うからだった。そこで前述したように、アラミスは例の話のわかるツールのマリ・ミションに手紙を出して、ボナシュー夫人が修道院を出てロレーヌなりベルギーなりに身を隠すことができるように、王妃に願い出てほしいと言ってやった。
返事は待つほどもなく、十日ほどしてアラミスは、次のような手紙を受けとった。
[#ここから1字下げ]
なつかしいお従兄《にい》さま
あなたが空気がわるいとお考えになっているベテューヌの修道院から、あのかわいい小間使いを出すための姉からの許可状を同封いたします。姉はあの人をたいへんかわいがっていて、これからも役に立つことがあれば、と思っているくらいですもの。
ではまた。マリ・ミション
[#ここで字下げ終わり]
手紙には、次のような許可書が同封してあった。
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ベテューヌ修道院長は、この書状持参の者に、わたしの推挙と保証のもとに入所した見習尼僧をお引渡しくださるよう。
一六二八年八月十日 ルーヴル宮にて アンヌ
[#ここで字下げ終わり]
この王妃を姉と呼ぶ娘とアラミスとの姻戚関係がどんなに青年たちを愉快がらせたかは、申すまでもなかろう。しかしアラミスは、ポルトスが口にしたひどい冗談に二、三度顔をあからめたあとで、もうこのことには触れないでくれと頼み、もしひと言でも口にしたら、今後は従妹を仲介に使うことはお断わりするからといった。
そこで四人の銃士たちのあいだでは、今後マリ・ミションの話題はしないことにきまった。それに、彼らの望んでいたベテューヌのカルメル派の修道院からボナシュー夫人を出すための許可書は入手していたのである。しかしこの許可書も、彼らがラ・ロシェルに、つまりフランスの僻地《へきち》にいるかぎりは、たいして役に立たなかった。そこでダルタニャンが、事の重大なことを卒直に話してトレヴィール殿に休暇を願い出ようとしていたちょうどそのときに、陛下が二十人の銃士を護衛につれてパリに旅立たれるその隊員に加えられたという知らせが、三人の友だちのところへと同時に、彼のもとへもとどいたのであった。
喜びは大きかった。さっそく従僕たちを荷物とともに先発させると、十六日の朝、一同は出発した。
枢機卿は、シュルジェールからモーズに至るまで、国王を見送った。その地で国王と宰相とは、大げさな友情を互いに示し合って別れを告げた。
国王は二十三日にはパリに着きたいというので、大いに道を急いではいたのだが、なにしろ目的は気ばらしであったのだから、ときどき足をとめては、カササギ猟をたのしんだ。この遊びは、かつてリュイーヌ(地方の小貴族だったが、のち公爵となり、若いころのルイ十三世の寵臣となった)から仕込まれたもので、以来国王の大いに好むところとなったものである。二十人の銃士のうち十六人は、この狩猟がはじまると、いい気ばらしだとばかり大喜びだったが、残る四人は気が気でなかった。とくにダルタニャンは、絶えず耳鳴りを訴えるほどだったが、ポルトスがそれを、こう説明した。
「さる貴婦人から聞いたことなのだが、それは、どこかで誰かが貴公の噂《うわさ》をしていることなんだそうだよ」
ついに二十三日の夜、一行はパリに着いた。国王はトレヴィール殿に礼を述べ、みんなの者に四日間の休暇を与えることを許可した。ただし公の場所には出ぬよう、それを犯した場合はバスティーユに送るという条件つきだった。最初に休暇を与えられたのは、いうまでもなくわが四人の友だった。そのうえアトスがとくにトレヴィール殿にお願いして、四日間の休暇を六日間にのばし、さらに二晩よけいに付け加えてもらった。つまり彼らは二十四日の夕方五時に出発したのだが、トレヴィール殿の特別のはからいで、休暇の日付を二十五日の朝としてもらったのである。
「ところで」と、あいかわらず疑うということを知らないダルタニャンは、「おれたちは、ごく簡単なことを、大げさに考えすぎているようだな。二日あれば、そして馬の二、三頭も乗りつぶせば、なあに、金ならあるし、おれはベテューヌへ行って、お妃の手紙を院長に渡し、あの人をロレースやベルギーではなく、このパリへ連れもどして来るよ。枢機卿がラ・ロシェルにいるあいだは、パリのほうが隠れいいからね。そしてここへ帰って来たら、例の従妹の口添えもあることだし、われわれが王妃に尽くした功績からいっても、王妃にいろいろとお願いして取り計らってもらえるだろう。とにかく貴公らはここへ残って、むだな骨折りはしないでくれたまえ。こんな簡単な仕事は、おれとプランシェだけでたくさんだからね」
これを聞いてアトスは、しずかに答えた。
「われわれも金なら持っている。おれはダイヤの金の残りを、まだすっかり飲んではいないからな。ポルトスやアラミスだって、まだすっかり食べてはいないよ。だからわれわれも、四頭ぐらいは乗りつぶすことかできるさ。まあ、考えてみるがいい、ダルタニャン」と、言われた相手は、その声があまりに暗かったので、思わずぞっとした。
「いいかい、ベテューヌというところは、どこへでも必ず不幸の種をまくというあの女に、枢機卿が会う約束をしたところだぞ。きみの相手が四人だというなら、きみ一人で行かせるよ。だが相手があの女では、こっちも四人で行こう。それに従僕四人を合わせて、それでなんとかなればいいがと思うくらいだ」
「おどかすなよ、アトス」とダルタニャンが叫んだ。「いったい、なにをそんなに心配してるんだ?」
「なにもかもだ」と、アトスが答えた。
ダルタニャンはほかの連中の顔を見た。どれもこれもアトスと同じように、ひどくみんな心配そうな顔をしていた。そこで一同は押しだまって、馬を早めた。
二十五日の夕刻、アラスに着いて、一杯酒でも飲もうかと、エルス・ドールという旅館の前でダルタニャンが馬を降りたとき、新しい馬に乗り替えた一人の騎士が中庭から出て来て、パリの方角へ走り去った。ちょうどその男が、道へ出る大門のところを通りすぎたとき、八月だというのに外套を着ていたが、それが風であおられ、帽子が飛びそうになった。男は、ぬげかけた帽子を手でおさえると、いそいで目《ま》ぶかにかぶり直した。この男をじっと見ていたダルタニャンは、まっさおな顔になって、手にしていたコップを落とした。
「どうかなさいましたか、だんなさま?」と、プランシェがいった。「ああ、みなさん、早く来てください。うちのだんなさまが、ご気分がお悪いようで」
三人の友が駆けつけると、ダルタニャンは気分がわるいどころか、自分の馬のほうへ走って行くところだった。戸口のところで、やっと引きとめた。
「おい、どこへ行くんだ?」とアトスが声をかけた。
「あいつだ!」ダルタニャンは怒りでまっ青になり、額に汗を浮かべて叫んだ。「ほら、あいつだよ。おれに追わせてくれ」
「あいつって、だれだ?」と、アトスがたずねた。
「あいつだ、あの男だよ」
「なにをした男なんだい?」
「あの呪《のろ》われた男、おれの疫病神《やくびょうがみ》だ。いつもおれになにか不幸が起こりかけると、きっと現われる男なんだ。あの恐ろしい女にはじめて会ったときも、あの男がいっしょにいた。おれがアトスを怒らせたときに、おれが追っかけていた男だ。ボナシュー夫人がさらわれたとき、おれはあの男を見ている。つまり、マンの男だ。たしかにあの男だ。風で外套があおられたとき、ちゃんとこの目で見たんだ」
「そうか」と、アトスは考えこんだ。
「みんな、馬に乗れ、早く! 追っかけて、つかまえるんだ」
「しかし、きみ」とアラミスがいった。「あの男は、われわれと反対の方向に行ったんだぜ。それに、あの男の馬は替《か》えたばかりの元気のよい馬だが、われわれの馬は、もうくたびれている。追いつけるかどうかもわからないっていうのに、こっちの馬はつぶれちまうよ。ダルタニャン、あの男はほうっておこう、女を救うほうが大事だ」
「おうい、だんなさん!」と大声をあげながら、例の男を追いかけて馬屋番が出てきた。「おうい、帽子から紙きれが落ちましたぜ。おうい、だんなさん」
「おい、その紙きれを半ピストールで買おう」と、ダルタニャンが声をかけた。
「ほんとうですか、ああ、いいですとも!」
馬屋番は、うまいことをしたとばかり大喜びで、中庭のほうへもどって行った。ダルタニャンは、紙をひろげた。
「なんだね?」みんなが彼のまわりを取り巻いた。
「たったひと言だ!」と、ダルタニャン。
「そうだな。だが、その名前は、町か村の名だな」と、アラミスがいった。
「アルマンティエール」と、ポルトスが読んだ。「アルマンティエールなんて、おれは知らんな」
「だが、町にしろ村にしろ、この名はたしかにあいつが書いたものだ」と、アトスが叫んだ。
「とにかく、この紙きれは大事にしまっておこう。無駄金《むだがね》を使ったことにならないかも知れんからな」と、ダルタニャンはいった。「さあ、諸君、出かけよう!」
そして四人の友は、ベテューヌめざして、早駆けで、馬を走らせた。
六十一 ベテューヌのカルメル派修道院
大悪人には一種の悪運ともいうべきものがあって、神の摂理《せつり》でとどめをさされるその日が来るまでは、あらゆる障害を乗り越え、あらゆる危険をうまくくぐり抜けて行くものである。
ミラディーの場合が、まったくそうだった。彼女は、英仏両国の巡洋艦のあいだをうまく通り抜けて、なんらの事故もなく、ブーローニュに到着した。
ポーツマスに上陸したときは、フランスから迫害を受けてラ・ロシェルを追われたイギリス人ということだったが、こんど二日間の航海を終えてブーローニュに上陸したときは、ポーツマスでフランスに敵意を抱くイギリス人たちの憎悪《ぞうお》に耐えかねて逃げだしたフランス人だということだった。
それにミラディーは、もっとも有効なパスポートを持っていた。美貌で風采《ふうさい》がよく、金づかいが荒っぽかった。その手に接吻をしてくれた老港湾総督の愛想《あいそ》のいい微笑と物やわらかな態度により、慣例の手つづきをうまくすませた彼女は、このブーローニュでは、次のような手紙を一通、郵便局に出す時間だけあればよかった。
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ラ・ロシェル攻囲軍陣内
リシュリュー枢機卿台下殿
台下にはご安心くださるよう。バッキンガム公爵はフランスに向かって出発はいたしません。
ブーローニュにて、二十五日夕べ。
ミラディー・ド・××
追伸……台下のお望みどおり、ベテューヌのカルメル派修道院へまいって、そこでおさしずをお待ちしております。
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そのとおり、その夕刻に、ミラディーは出発した。夜になったので一泊し、翌朝五時には宿を発《た》って、三時間後にはベテューヌに着いた。カルメル派修道院を教わって、彼女はすぐにその門をくぐった。
僧院長が出て来たので、ミラディーは枢機卿の指令書を見せた。僧院長は一室をあてがい、食事をだしてくれた。
過去はすべて、この女の眼からは消え去って、眼は未来に向けられ、あの血なまぐさい事件に名もださずして首尾よく役目をはたした以上は、枢機卿が与えてくれるにちがいない高い地位と財産のことしか、彼女の頭にはなかった。いつも新たに次々と彼女の身を焼きこがすその情熱は、彼女の生活に、あるいは紺碧《こんぺき》、あるいは真赤、あるいは嵐の暗黒といった、そのときどきの色をうつして空を飛び、地上にはただ荒廃と死の跡しか残さないあの雲のような影を与えていた。
食事がすむと、僧院長がたずねてきた。僧院というところには気ばらしの種になるようなことがないものだから、この人のよい院長は、この新しい宿泊人と早く知り合いになりたかったのである。
ミラディーは、この尼僧院長の心に取り入りたいと思った。じっさいに勝《すぐ》れた才智の持ち主である彼女にとっては、このようなことは、なんでもないことだった。そこで彼女は、つとめて愛想よくし、おまけに彼女は感じがよかったし、話には変化があるし、身のこなしにも魅力があるので、たちまち院長の気持ちをつかんでしまった。
貴族の娘であった尼僧院長は、ことに宮廷の話が好きだった。そういう話はこんな僻地《へきち》まではめったにはいりこんで来ないし、かりにはいって来たとしても、俗界とへだたっている僧院の壁を通してはいって来ることは、なかなか出来ないことだった。
ところがミラディーのほうは、もう五、六年もその中で生活してきたのだから貴族社会の表裏には、精通していた。
そこで彼女は院長に、フランス宮廷の国王を中心とする社交の慣習から話を切りだし、院長自身がその名をよく知っている貴族や貴婦人の噂《うわさ》話をして聞かせ、王妃とバッキンガム公との恋愛にもちょっと触れて、院長にも少しは話に乗ってくるように仕向けた。
しかし院長はただ聞くだけで、微笑しながら答えようとはしなかった。でもミラディーは、こういう話が相手にひどく興味を与えていることがわかったので、なおも話しつづけたが、ただ、こんどは話題を枢機卿のことに移してみた。
ところで、彼女にとってはたいへん困ったことがあった。というのは、この尼僧院長が国王側なのか、それとも枢機卿側なのかわからないことだった。そこで彼女は慎重に、中立的な立場をとった。ところが院長のほうはもっと慎重で、枢機卿の名前が出る度ごとに、頭を丁寧にさげて敬意を表するのだった。ミラディーは、この院長は修道院の中でひどく退屈しているにちがいないと思いはじめた。そこで、こっちの立場をきめるために、思い切って冒険をしてみようと思った。相手がどこまで慎重に出るのかためしてみようと、枢機卿の悪口を言いはじめた。最初はそれとなく言いはじめたが、だんだんとくわしくなってきて、枢機卿とエギヨン夫人やマリオン・ド・ロルム、その他の浮気な御婦人方との情事を話しはじめた。
院長は、熱心に聞いていた。そしてだんだんと熱中してきて、微笑を浮かべてきた。
[これでいい]と、彼女は思った。[枢機卿側であるとしても、少なくとも熱心な支持者ではないな]
こんどは彼女は、枢機卿が自分の敵にまわった人間に対する手きびしい迫害のことに触れてみた。すると院長は十字を切るだけで、とくに賛成もしなければ、反対もしなかった。
これによってミラディーは、院長が枢機卿側というよりも、むしろ国王側に近いと判断した。ミラディーはだんだんと語気をつよめながら話をつづけた。
「そういう事柄は、あたくしどもにはまるでわからないことではございますが」と、とうとう僧院長が口を開いた。「でも、こうして宮廷から遠ざかり、世俗を離れておりますあたくしどものような者のあいだにも、今お話になった悲しい実例が見られるのでこざいます。この院内にも女の人で、枢機卿さまの復讐と迫害に苦しめられた方が、おられるのでございますよ」
「ここにいられる方で?」と、ミラディーはいった。「まあ、お気の毒なことで。ほんとうにご同情申しあげますわ」
「ほんとうにそうですわ。まったくお気のどくな方で、牢屋に入れられたり、脅迫を受けたり、虐待されたり、それはそれは、苦しい目にお会いになったそうですよ。でも、けっきょくは」と、僧院長はあとをつづけて、「枢機卿さまのほうには、そうするだけのちゃんとした理由がおありだたのかも知れませんね。その方は、まるで天使のような顔をなさっていらっしゃいますが、やはり人というものは、顔や姿で判断してはいけないものですわね」
[よし!]と、ミラディーは心中そう思った。[わからないもんだわ! ここで何かを見つけ出すことができるかもしれない。よかった]
そこで彼女は、つとめて無邪気そうな表情を、顔に浮かべてみせながら、
「ほんとうに、よくそう申しますわね。顔つきだけで判断してはいけないって。でも、神さまがお作りになったそういうりっぱなお仕事がだめだというなら、いったい何を信じたらいいのでしょうね。あたくしなどは、おそらく一生涯だまされてばかりいるでしょうよ。あたくしは、相手の顔を見て気持ちが通じるようだと、やはり信用してしまいますわ」
「ではあなたは、その若い女の人は罪がないとお考えになりますか?」
「枢機卿さまは、罪ばかりをお罰しにはなりませんわ。罪業《ざいごう》よりも、もっときびしく善行をお罰しになることがあります」
「奥さま、あたくし、お話を聞いて、ほんとうに驚いてしまいましたわ」と、僧院長はいった。
「なにがでございます?」と、ミラディーはいかにも卒直に聞ォ返した。
「あなたのお言葉にでございますよ」
「あたくしの言葉のどこがふしぎなのでございましょう」と、ミラディーは微笑を浮かべながらたずねた。
「あなたは枢機卿さまの親しい方で、あの方のお口添えでこちらへ見えたのでしょう。それなのに……」
「それなのに、あの方を悪く言うので」と、彼女は修道院長の言葉を引きとっていった。
「少なくとも、よくはおっしゃらない」
「つまり、あたくしはあの方の親しい者などではないので」と、ミラディーはため息をつきながら、「それどころか、犠牲者なんですもの」
「でも、あたくし宛のお口添えの手紙では……」
「あれはつまり、あたくしを牢《ろう》がわりにこちらへ入れておいて、いずれは手先の者があたくしをどこかへ連れだしに来ますよ」
「では、どうしてあなたはお逃げになりませんの?」
「どこへ逃げられましょう。枢機卿がその気になれば、その手のとどかぬところなどはこの地上にはありませんわ。まああたくしが男ででもあれば、まだしも逃げられるかもしれませんけれども、女の身ではどうしようもないではありませんか。ここにおいでのその若い方も、逃げようとなさったことがございまして?」
「いいえ、そのようなことは。ほんとうにそうですわね。でも、あの方の場合は、恋のために、このフランスに引きとめられているような気がするのですが」
「それなら」と、ミラディーはため息をついて、「もし恋をしていられるなら、その方もまったく不幸というわけではございませんね」
「では」といよいよ気がひかれたようすで、院長はミラディーの顔を見つめながら、「では、また不幸な迫害をお受けになっている方をおあずかりするわけね」
「ええ」と、ミラディーはうなずいた。僧院長は、何か今までとは別な不安が心に浮かんだようすで、心配そうな目つきでミラディーを見つめていたが、
「もしかしてあなたは、あたくしどもの信仰を敵となさる方では?」と、口ごもりながらいった。
「あたくしがですか?」と、ミラディーは叫んだ。「あたくしが新教徒ですって! とんでもございませんわ。誓ってあたくしは、熱心な旧教徒でございます」
「それでは、奥さま」と僧院長は微笑して、「ご安心くださいまし。ここをさびしい牢屋などにはいたしませんから。あなたの居心地のよろしいように、お取りはからいいたしますから。それに、あの若い、なにか宮廷のいざこざのために追われていらっしゃったにちがいない女の方にもお会いになれますわ。しとやかで、いい方ですよ」
「お名前は、なんとおっしゃる方で?」
「たいへん高貴な方からおあずかりした方で、お名前はケティーと申されます。ほかにお名前がおありかもしれませんが、こちらからもおたずねしませんので」
「ケティーですって!」と、ミラディーはびっくりした。「まあ! それ、ほんとうですか?」
「お名前なら、そうですわ。ごぞんじでいらっしゃいますの?」
ミラディーは、もしかしたらその女が、かつての小間使いではないかと思って、ひそかにほくそえんだ。あの娘のことを思うとむかむかしてきて、一瞬|復讐《ふくしゅう》の思いがミラディーの顔付を変えたが、すぐにまた落ちついた愛想《あいそ》のいい顔になった。そして、「いつ、その方にお会いできるでしょうか? あたくし、もうすっかりその方に同情してしまいましたわ」とたずねた。
「今夜にも。いいえ、昼間でもよろしいですが。でもあなたは、四日も旅をおつづけなさったそうではありませんか、ご自身で、そうおっしゃいましたわね。それに今朝《けさ》は五時に起きられたとか。少しお休みにならなければいけませんわ。横になって、おやすみなさいよ。食事の時間になったらお起こししますから」
もともと事を好む性質ではあったが、ミラディーはここのところ、いろいろな刺激を受けて神経が昂《たか》ぶっていたので眠れそうもなかったが、それでも院長の言葉に従うことにした。この十四、五日というもの、彼女はじつにいろいろな感動を受けてきたので、その鉄のような肉体はまだしも堪えられたとしても、精神のほうは休息を必要としていたのだった。
そこで彼女は、僧院長が出て行ったあと、ケティーという名前を聞いてごく自然に生まれた復讐の思いにこころよくゆすぶられながら床についた。もし成功したらなんでもと言ってくれた枢機卿のあの約束の言葉が想起された。自分はそれに成功したのだ。してみれば、ダルタニャンに復讐することもできるわけだ。
ただひとつ、彼女をおびえさせるものがあった。かつての夫、ラ・フェール伯爵のことである。死んだか、少なくとも他国へ行っていると思っていたのに、アトスという名前で、しかもダルタニャンの親友となって現われたのだ。しかし彼がダルタニャンの親友であるとすれば、あの青年が王妃の味方をして枢機卿の計画を失敗させた度々の行動に、なにか手を貸しているにちがいなかった。ダルタニャンの友人であれば、枢機卿の敵なのにきまっている。だとすれば、あの若い銃士の息の根をとめて復讐してやるついでに、こっちのほうもうまく片づけてしまうことができるだろう。
こういう期待は、ミラディーにとっては楽しいものだった。そこで彼女は、そういう考えにこころよくゆすぶられながら、すぐに寝ついてしまった。
寝台の裾《すそ》のほうから聞こえるやさしい声で、彼女は目を開いた。見ると、院長が若い女を連れて立っていた。ブロンドの髪をして、ほんのりと顔を染めていたその女は、好意にあふれた人なつかしそうな目つきで、彼女のほうをじっと見ていた。この若い女の顔には、まったく見覚えがなかった。二人の女はおきまりの挨拶を述べあってから、互いに目でさぐりあった。二人とも美人だったが、その美しさはまったくちがったものだった。それでもミラディーは、貴婦人としての物腰やようすで自分のほうがはるかに勝っていると見て、微笑をもらした。若い女が着ている修道女の服装は、そういう点で見比べるにはたしかに有利ではなかった。
僧院長は二人を引き合わせると、お勤《つと》めのために礼拝堂へ行かなければならないといって、二人の女を残して出て行った。修道女はミラディーがまだ寝台にはいっているので、院長といっしょに出て行こうとしたが、ミラディーはそれを引きとめた。
「せっかくお目にかかったと思ったら、もうおいでになっておしまいになるの? あたくし、ここにいるあいだはお会いできると楽しみにしておりましたのに」
「そういうわけではございませんわ、奥さま」と、修道女は答えた。「ただ、わるいときに来てしまったものだと思いましたので。お疲れでおやすみになっていらっしゃったのでしょう」
「でしたら、眠っている人間が求めるものはなんでしょうか? 気持ちのいい目覚めですわ。それをあなたは、あたくしに与えてくださったのですもの。もうしばらく、あたくしに楽しませてくださいましな」
こう言いながらミラディーは、相手の手をとって、寝台のそばの肱掛椅子《ひじかけいす》に引きよせた。修道女は腰をおろすと、こういった。
「ほんとうに、あたくしって、運がありませんわ! ここに半年間も何ひとつ気のまぎれることもなく暮らしてきて、せっかくあなたのようないいお話相手ができると、もうじきこの修道院を出なければならないなんて」
「まあ、あなたは近いうちにお出になるの?」
「まあそうなればと、思っているのですが」修道女は喜びの表情を別に隠そうともしないで、そういった。
「あなたはなんでも枢機卿さまに苦しめられた方だと聞きましたので、そのことでもあたくしたちは仲よくなれると思っていましたのに」
「さっき院長さまのお話でしたけれども、では、あなたもやっぱり、あの腹黒い枢機卿の犠牲者でいらっしゃいますの?」
「しっ! ここでも、あの人のことをそんなふうにいってはいけませんよ。あたくしがこんな不幸な目にあったのも、今あなたがお言いになったような言い方で、あの人のことをある女の前で口にしたからですわ。あたくしはその女の人を心をゆるした友だちだと思っていたのに、その人に裏切られたのです。あなたも、やっぱりそういう目にお会いになりましたの?」
「いいえ」と、修道女は答えた。「あたくしのは、あたくしがお慕いしていた、命を捧げても惜しくないと思っていた、いいえ、これからだってその気でいるある高貴な方に、忠義立てをしたためですわ」
「で、その方が、あなたを捨てたんでしょう!」
「あたくしもまちがって、そう思っていました。ところが二、三日前に、それと反対の証拠を手に入れたのです。ほんとうに、神さまに感謝しましたわ。あの方があたくしをお忘れになったなどとは、考えるのもつらいことですもの。でも、あなたは」と修道女はなおもつづけて、「あなたは自由なおからだですから逃げようとお思いになれば、おできになれるでしょうに」
「お友だちもなくお金もなく、来たこともないこんな不案内の土地で、どこへ行ったらいいのでしょう?」
「まあ」と、修道女は叫んだ。「お友だちでしたら、どこへ行ってもおできになれますわ。そんなにおきれいで、おやさしいんですもの」
「そんなことをいったって」とミラディーは、笑顔をなおもやわらげて、天使のような表情を見せながら、「あたくしが一人ぼっちで、迫害されている女であることには、変わりありませんわ」
「まあ、お聞きくださいまし。あたくしたちは、天のお加護《かご》に希望を持たなければいけませんわ。ねえ、そうでしょう、なにかよいことをしておけば、きっと神さまの御《み》心にとどくことがありますものね。あたくしなどは、なんの力もないつまらない女ではございますが、そんなあたくしにお会いになったことでも、ひょっとしたらあなたの幸福になるかも知れませんものね。と申しますのは、もしあたくしがここを出ませば、あたくしには力になるお友だちがおりますので、その人たちがあたくしのために尽くしてくれたように、こんどはあなたを助けてくれるかもしれませんし」
「あの、あたくしが一人ぼっちだといったのは」と、ミラディーはこっちが自分のことを話せば、修道女から聞きだせると思って、「あたくしが身分の高い人を知っていないということではありませんのよ。でも、そういう人たちでも、枢機卿の前に出るとびくびくしちまってだめなんです。王妃さまでさえ、あの恐ろしい宰相に対しては、思うこともおっしゃれないくらいですもの。あんなおやさしいお心をもっている王妃さまが、枢機卿台下のご立腹によって、どうにもならず、自分に忠節を尽くしてくれた人たちをお見捨てになったことが一度や二度でないことを、あたくしがこの目で見ていますわ」
「でも、お妃さまは、そういう人たちをお見捨てになったようにおいでになることがありますけれども、見かけだけで、そう考えてはいけませんわ。そういう人たちが苦しめられれば、それだけお妃さまは考えてくださるのです。それに、まったく思いがけないときに、けっして忘れてはいないというしるしを見せてくださることが、よくあるのでございますよ」
「ほんとうに、あたくしもそう思いますわ。王妃さまはいい方ですものね」
「まあ! あのお美しくて気高《けだか》い王妃さまをごぞんじなのですね、そうおっしゃるところを見ると!」と、修道女は感激のあまり叫んだ。
「つまり」と、ミラディーはちょっとつまって、「王妃さまを個人的にはぞんじあげてはいませんけれども、王妃さまのごく親しくなすっていらっしゃる方をたくさん知ってる、という意味ですわ。ピュタンジュさまもそうですし、イギリスではデュジャールさまとお知り合いになりましたし、トレヴィールさまもぞんじあげておりますわ」
「まあ、トレヴィールさまを!」と、修道女は叫んだ。「トレヴィールさまをごぞんじですの?」
「ええ、よく知ってるっていっていいほど」
「近衛《このえ》銃士隊の隊長さまの?」
「ええ、そうですとも」
「まあ、それなら、あたくしたちだって、じきに仲よくなれますわ。トレヴィールさまをごぞんじでしたら、あの方のお屋敷へもいらっしゃったことがおありでしょうね」
「ええ、なんども」と、ミラディーは、嘘《うそ》がうまくいったので、あくまでも押し通す気だ。
「では、銃士の方々にも何人かはお会いになったでしょうね?」
「お出入りをゆるされている方ならみんな」と、いよいよ話がおもしろくなって来たぞと思ったミラディーは答えた。
「ごぞんじの方々のお名前をいってはいただけないでしょうか。あたくしの知っている方が、その中にいらっしゃるかもしれませんので」
「そうね」といって、ミラディーは当惑したが、「ルヴィニさまだとか、クルティヴロンさまだとか、フェリュサックさまだとか」
修道女は、相手がそこで言葉を切ったのを見ると、
「アトスとおっしゃる方を、ごぞんじではありませんか?」と、たずねた。ミラディーの顔は、掛けていた敷布と同じくらいにまっさおになった。自制心を失わなかったものの、さすがにあっと叫んで、相手の手を握りしめると、その顔を見つめた。
「まあ、どうかなさいましたの? なにかお気にさわるようなことでも、申しましたでしょうか?」
「いいえ、ただ、そのお名前を聞いてびっくりしましたの。だって、あたくし、その方をよくぞんじあげてるでしょう、やはり同じようにその方を知っていらっしゃる方にお会いしたので、びっくりしたんですわ」
「ほんとうにあたくし、よくぞんじておりますわ。あの方のお友だちのポルトスさまも、アラミスさまも」
「まあ、あたくしも、その方たちなら知っていますわ」と、ミラディーは、一段と声を高めて応じたが、冷たいものが胸元まで迫る思いだった。
「でしたらあなたは、あの方たちが親切で正しい方たちだということも、ごぞんじなはずですわね。どうしてあの人たちに助けをお求めになりませんの?」
「それはつまり」とミラディーは口ごもったが、「あの方たちとは直接のお付き合いじゃないので、ただ、あの方たちのお友だちのダルタニャンさまの口からお噂を聞いてそれでぞんじあげているだけですのよ」
「まあ、ダルタニャンさまをごぞんじですって!」と修道女は叫んだが、こんどは彼女がミラディーの手をつかんで、まじまじとその顔を見つめた。
そしてミラディーの眼の異様な表情に気がつくと、
「失礼ですが奥さま、どういう関係のお知り合いでいらっしゃいますか?」
「それは」と、ミラディーは当惑して、「お友だちとしてですわ」
「嘘ですわ、奥さま」と、修道女はいった。「あなたは、あの方の恋人でいらっしゃったのだわ」
「あなたこそ、そうだったのね」と、ミラディーが叫んだ。
「あたくしがですって!」
「そうよ、あなたがよ。今こそ、あなたがだれなのか、わかりましたわ。あなたは、ボナシューの奥さんでしょう」
若い女は、驚きと恐れにたじたじとなって、身をひいた。
「そうでしょう! そうだとおっしゃい!」と、ミラディーが追求した。
「ええ、そうですわ、奥さま」と、修道女は答えた。「あたくしは、あの人を愛しています。あたくしたちは、恋敵《こいがたき》なのでしょうか?」
ミラディーの顔が、さっと荒々しい光で輝いた。ふつうだったらおびえて、ボナシュー夫人は逃げだしたであろうが、いまは彼女は嫉妬《しっと》で狂っていた。
「さあ、おっしゃってください、奥さま」とボナシュー夫人は、だれにも想像もできないほどの気力を見せて、「あなたは以前、あの方の恋人だったのでしょうか、それとも、いまでもそうなのでしょうか?」
「いいえ、いいえ、とんでもないことです!」と、ミラディーは、真実を疑う余地を与えないといった強い口調で叫んだ。
「あなたを信じますわ」と、ボナシュー夫人はいった。「でも、それならどうしてあのとき、あんな大きな声をおあげになったのです?」
「まあ、おわかりになりませんの?」ミラディーは、もうすっかり冷静を取りもどしていた。
「どうして、あたくしにわかりましょう! あたくし、なにも知りませんもの」
「ダルタニャンさんはあたくしのお友だちだから、あたくしを打ち明け話の相手としたって、ちっともふしぎではないでしょう」
「ほんとうでしょうか!」
「あたくしがなんでも知ってるっていうことが、あなたはごぞんじないからだわ。あなたがサン=ジェルマンの一軒家からかどわかされたことも、それ以来、あの方やお友だちがいくらさがしてもわからなくて、がっかりなさっていることも、みんなあたくしは知っていますわ。ですから、よくいっしょにお噂していたあなたに、あの方があんなに心から愛していて、あたくしまでお目にかからないうちから好きになってしまったあなたに、こうして思いもかけずにお会いしたんですもの、びっくりして声をあげるのも当たり前ではありませんか? ああ! コンスタンスさん、とうとうお会いできましたのね!」
こう言いながらミラディーは、ボナシュー夫人に手をさしだした。
今聞いた言葉をすっかり信じこんだボナシュー夫人は、さっきは恋敵だと思ったのに、いまでは誠実な友として、この女が思われてきたのである。
「ああ、ごめんなさいね! ほんとうにごめんなさいね!」と叫んで彼女は、相手の肩に身を寄せた。「それほど、あの人のことを想《おも》っているのです!」
二人の女はしばらく抱き合っていた。たしかに、ミラディーの力がその憎しみほど強力だったら、ボナシュー夫人はその抱擁《ほうよう》から生きて逃れることはできなかったであろう。だがミラディーは、腕の中では相手を窒息《ちっそく》させることができないので、ほほえみかけた。
「ああ、かわいい、きれいな方ね! あなたにお会いできて、ほんとうにうれしいわ! もっとよく、あなたを見させてよ」
こう言いながらミラディーは相手の顔をじっと見た。「たしかにあなただわ、あの方がいったとおりのあなただわ、だいじょうぶ、まちがいっこありませんわ」
かわいそうに若い女は、そう言う相手の美しい顔のうしろに、どんな残酷な考えがひそんでいるか、それを察することはできなかった。あやしく輝いているその眼の中にも、ただ好意と同情しか読みとれなかった。
「それでは、あたくしがどんなに苦しんだか、わかってくださいますわね」とボナシュー夫人はいった。「あの方の苦しみをお聞きになったんですものね。でもあたくし、あの方のために苦しむのは、幸福ですわ」
ミラディーは、機械的に相手の言葉を繰り返した。「そう、それが幸福ですわね」
彼女は、べつのことを考えていたのだ。
「それに」と、ボナシュー夫人はつづけた。「あたくしの苦しみももう終わるんです。明日になれば、いいえ今夜のうちだって、あの方にお会いできるかも知れないんだわ。そうなれば、過ぎたことは、もうなかったことと同じですものね」
「今夜か明日ですって?」ミラディーは考えごとから我に返って、「それ、どういうことですの? あの方からの便りでも待っていらっしゃるの?」
「いえ、あの方を、ここで」
「ダルタニャンさん自身が、ここへ?」
「ええ、そうですわ」
「でも、それはできないでしょう! あの方は枢機卿とごいっしょに、ラ・ロシェルの攻囲戦に参加しているはずですもの。町が攻略されないかぎりは、パリへは帰れないでしょう」
「あなたはそうお思いでしょうね。でも、あのお心の気高い誠実なあたくしのダルタニャンさまに、できないということがあるでしょうか!」
「まあ、あたくしには信じられないわ!」
「では、これをお読みになって」と若い女は、誇りと喜びに有頂天《うちょうてん》になって、一通の手紙をミラディーにさしだした。[シュヴルーズ夫人の筆跡《ひっせき》だわ]と、ミラディーは心中そう思った。[やっぱり、思っていたとおり、この件では、あの二人はぐるだったのだわ]
彼女はその手紙を、むさぼるように読んだ。
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あたしのかわいい人。用意をしておいてください。[われわれのお友だち]が、まもなくあなたに会いに行きますからね。あなたが安全なので隠れていた牢屋から、あなたを連れだすためにです。ですから出発の準備をしてね。こちらのことは心配しないでください。
あのガスコーニュの美男子は例によって忠実なりっぱな働きをしてくれました。どうぞあの方に、おとどけいただいたお知らせをどこかで感謝しておりますと、おつたえになってください。
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「なるほど、よくわかりました」と、ミラディーはいった。「その知らせというのはなんでしょうね、あなたごぞんじ?」
「いいえ。でも、たぶん、枢機卿のなにか新しい陰謀でも、王妃さまにおしらせしたのではないでしょうかしら」
「そうね、きっとそうだわ」と言いながら、ミラディーはその手紙をボナシュー夫人に返すと、下を向いて考えこんだ。そのとき、馬の疾駆《しっく》する音が聞こえた。
「ああ!」ボナシュー夫人は窓へ駆け寄って叫んだ。「もう、あの人がいらっしゃったのかしら?」
ミラディーは寝台に横たわったまま、あまりのことに身をかたくしていた。意外なことが次々と降ってわくように突発するので、はじめて彼女は度を失ったのだ。
[あの男が! あの男が! ほんとうにそうだろうか!]と、口の中でつぶやいた。
「あら、ちがったわ」と、ボナシュー夫人がいった。「あたくしの知らない人でしたわ。でも、こちらへ来るようですわ。やっぱり、そうですわ、馬の足をゆるめて、門のところにとまりました。呼鈴を押していますわ」
ミラディーは、寝台から飛びだした。
「ほんとうに、あの人じゃなくって?」と、彼女はいった。
「ええ、たしかにちがいますわ!」
「見ちがえたのではないかしら」
「あの方なら、帽子の羽飾りや外套《がいとう》のはしを見ただけでわかりますわ」
ミラディーは着替えをつづけていた。
「まあ、いいわ! で、その人はここへ来たんですって?」
「ええ、中へはいりました」
「あなたかあたくしに用があるんだわ」
「まあ! なんだか、とてもご心配のようですね」
「そうよ、あたくしはあなたのように安心していられませんものね。枢機卿のことが恐ろしくてならないわ」
「しっ!」と、ボナシュー夫人が制した。「だれか来ますわ!」
はたして扉があいて、修道院長がはいってきた。
「ブーローニュからいらっしゃったのは、あなたでしたでしょうか?」と、院長はミラディーにたずねた。
「はい、あたくしですが」と、ミラディーは答えて、冷静を取りもどそうと努めながら、「だれかがまいりましたのでしょうか?」
「お名前はおっしゃらないのですが、枢機卿さまからだといって、男の方が」
「あたくしに会いたいというのですか?」
「ブーローニュから来られた婦人に会いたいと申されて」
「お通しになってくださいまし」
「ああ、どうしましょう! 心配だわ」と、ボナシュー夫人がいった。「なにか悪いしらせでなければいいが」
「あたくし、こわいわ」
「あたくしはさがっていますけれども、その方がお帰りになったら、またあたくし来ますわ、もしおさしつかえなかったら」
「おさしつかえなんて! どうぞ、そうしてください」
僧院長とボナシュー夫人は出て行った。ミラディーは一人になると、じっと入口に目をそそいだ。まもなく、階段のあたりで拍車の音がして、足音が近づいてきた。それから扉が開いて、一人の男が現われた。
ミラディーはうれしそうな叫びをあげた。男は、枢機卿台下の腹心、ロシュフォール伯爵だったのである。
六十二 二種類の悪魔
「ああ!」と、ロシュフォールとミラディーは、いっしょに叫んだ。「あなたでしたの!」
「さよう、わたしです」
「あなたは、どちらから?」と、ミラディーがたずねた。
「ラ・ロシェルからです、で、あなたは?」
「イギリスから」
「バッキンガムは?」
「死んだか、それとも重傷か。あたくしが何もできないで向こうを出発する間際《まぎわ》に、一人の狂信者が公爵を刺したのです」
「ああ! そいつはまた運がよかった!」とロシュフォールは微笑を浮かべた。「台下も、さぞかしご満足でしょう! そのことはお知らせになりましたか?」
「ブーローニュから手紙を出しておきました。ところで、あなたはどうしてここに?」
「台下がご心配になって、あなたをさがしに、わたしを遣《つか》わされたのです」
「あたくしは、きのうやっと着いたばかりですわ」
「着いてからなにをなさっていたのです?」
「むだに時間をつぶしてはいませんでしたよ」
「そりゃ! もちろんそうでしょうが!」
「ここでだれに会ったとお思いになる?」
「さあね?」
「あててごらんなさいな」
「そんな、むりな……」
「王妃が牢屋《ろうや》から連れだした、あの若い女」
「小せがれダルタニャンの情婦ですか?」
「ええ、ボナシュー夫人よ。枢機卿も、ここに隠れているのは知らないでしょう」
「そりゃ、いい! また僥倖《ぎょうこう》が一つ増えて、これで二つころがりこんだわけですね。まったく枢機卿は運のお強い方だ!」
「あの女と向き合ったときのあたくしの驚きようをご想像になれまして?」
「先方はあなたを知ってるんですか?」
「いいえ」
「じゃ、あなたをまったく知らないよその人だと見ているわけだ」
ミラディーはにっこり笑って、「あたくしは、あの女のもっとも仲のいい友だちになったのよ」
「まったく、伯爵夫人、そんな奇蹟をやってのけるのは、あなた以外にはありませんな」
「じっさい、そうしといてよかったんです」とミラディーはいった。「いったい、どういうことが起こると思って?」
「さあね」
「明日か明後日に、王妃の命令を持って、あの女を連れだしに来る者がいるんですよ」
「ほんとうですか? だれが来るんです?」
「ダルタニャンとその仲間です」
「まったく、そんなことをするなら、奴らをどうしてもバスティーユへおっぽりこまなきゃなるまいな」
「どうして今までにそうしなかったのかしら?」
「仕方がないんですよ。どうも枢機卿台下にはあの連中に対して、なにかわたしの知らないことで弱味がおありのようだな」
「まさか」
「ほんとうですよ」
「それでは、枢機卿さまに、こうお伝えになってくださいまし。いいですか、ロシュフォールさま、まず、コロンビエ=ルージュ旅館でのあたくしたちの話したことは、あの四人に盗み聞きされてしまったこと。枢機卿さまがお出になったあとで、その中の一人があがってきて、あたくしがちょうだいした通行証をむりやりに奪って行ったこと。それでこんども、あのダイヤの飾りのときと同じように、あたくしの役目をもう少しで失敗に終わらせようとしたこと。
でも、あの四人のうちで、ほんとうに恐ろしい男は二人で、ダルタニャンとアトスだけ、三人目のアラミスはシュヴルーズ夫人の恋人で、これは秘密をこっちがつかんでいるから、生かしておけば役に立つし、最後のポルトスは、これはお人よしの大ばかだから問題にする必要はないということ。これだけをお話しくださいましね」
「でもあの四人は、いまラ・ロシェルの陣営にいるはずですがね」
「あたくしもそう思っていたのです。ところが、ボナシュー夫人はシュヴルーズ夫人から手紙をもらっていて、それをうかつにもあたくしに見せてくれたんですけれども、それによると、あの四人は女を連れだすために活動しはじめたらしいんですの」
「そいつは困ったな! どうしよう?」
「枢機卿さまはあたくしのことで、あなたにどうしろとおっしゃったのです?」
「書面なり口頭なりで報告をいただき、すぐに早馬で引き返すよう。その報告によって、あなたには改めておさしずをされるということで」
「では、あたくしはここで待っていなければなりませんの?」と、ミラディーはたずねた。
「ここか、あるいはこの付近で」
「あたくしをごいっしょに連れてってはいただけません?」
「いや、命令は、はっきりしているので。陣営の近くにはあなたを知っている者がいるかもしれない。ですから、あなたがいると、おわかりでしょうが、枢機卿に迷惑がかかるおそれがあるというのです。なにしろ、ああいうことがあった、すぐあとですからね。ですから、あらかじめ、あなたの居場所を教えておいてください。台下からのお知らせを、いつでもおとどけすることができるように」
「いいですか、たぶんあたくしは、ここにじっとしてはいられないでしょうね」
「どうしてです?」
「だって、あたくしの敵が、いつやって来るかわからないじゃありませんか?」
「なるほどな。では、あの女は、枢機卿の手からは、いよいよ逃げだすということになりますな」
「なあに!」とミラディーは、彼女独特の薄笑いを浮かべて、「あたくしが、あの女の親友だってことをお忘れになっては困りますよ」
「ああ、そうでしたっけ! では、枢機卿さまへの報告に、あの女のことについては……」
「ご安心くださるようにと」
「ただ、それだけで?」
「それで、おわかりになりますわ」
「お察しになるわけですな。さてと、わたしはどうしましょうか」
「すぐにお発《た》ちになってください。あなたがお持ち帰りになる報告は、お急ぎになるだけの値打ちがあると思いますわ」
「わたしの馬車は、リリエの町にはいるときに、こわれてしまいましてね」
「それは、よかった!」
「どうして、よかったんです?」
「ええ、あなたの馬車が、あたくし必要なんですもの」と、伯爵夫人はいった。
「では、わたしは、どうやって帰るんです?」
「乗馬でお急ぎになれば」
「勝手なことばかりいって、七百キロもあるんですよ」
「それぐらいのこと、なんです?」
「やって見ましょう。それから、ほかには?」
「それからリリエをお通りになるときに、あなたの従者に、あたくしの用事をなんでもするようにとおっしゃって、馬車といっしょによこしてください」
「いいですよ」
「あなたはたぶん、枢機卿の命令書のようなものをお持ちですね?」
「全権を与えられています」
「それをここの院長にお見せになって、今日か明日にも、あたくしを迎えに来る者があるが、あなたの名前をいって来た者だったら、あたくしを連れて行かせるようにと、そうおっしゃっておいてください」
「いいですとも!」
「あたくしのことを院長に話すときには、あたくしを手荒く扱うことをお忘れないように」
「それはまた、なんのためで?」
「あたくしは枢機卿の犠牲者っていうわけですから。あのボナシューの細君を安心させておく必要がありますものね」
「まったくですな。さて、それでは事件の報告書を作っていただきましょうか」
「でも、あたくし、口でお話したでしょう。あなたはご記憶がいいから、あたくしの言ったとおりに口でお伝えくださいましな。紙だと、なくなるおそれもありますからね」
「ごもっともです。ただ、あなたの居場所だけは、むだ足をしてこの付近をさがしまわるのはたいへんですからな」
「そうですね、ちょっとお待ちになって」
「地図ですか?」
「いいえ! あたくし、この地方は、とてもよく知っておりますのよ」
「あなたがですか? いったい、いつごろこっちへおいでになったのです?」
「あたくし、ここで育ったのですよ」
「ほんとうですか?」
「どこかで育ったところがあると、なにかの役に立つものですね」
「では、どこで待っていてくださいますか?」
「ちょっと考えさせてくださいね。ああ、そうね、アルマンティエールがいいわ」
「アルマンティエールってどこですか?」
「リス川沿いの小さい町ですわ。川ひとつ越せば外国です」
「そりゃいい! でも、危険な場合以外は、川を越えてはいけませんよ」
「もちろん、わかっていますわ」
「で、危険が起こった場合は、どうしてお会いしましょうか?」
「あなたは、従者がなくてもいいのですか?」
「ええ、いいですよ」
「たしかな人間ですか?」
「だいじょうぶです」
「じゃ、あたくしに貸してくださいな。だれもその男を知りませんから、あたくしが発《た》つ場所へ残しておきます。その従者があなたをあたくしのところへ連れて来る、そうしましょう」
「アルマンティエールで待つと、おっしゃいましたね?」
「ええ、アルマンティエールで」と、ミラディーは答えた。
「紙きれにでも、その名前を書いてください。忘れるといけないから。町の名だけなら、べつにあぶないこともないでしょう」
「さあ、どうかしら? まあ、いいわね」
そういってミラディーはその名を書きながら、「あぶないのは、あたくしなんだから」
「これでよし」と、ロシュフォールは、ミラディーからその紙片を受け取ると、それをたたんで帽子の裏に入れた。「それに、安心してください。紙をなくしてもいいように、子どもがよくやるように、道々ずっと名前を繰り返しながら行きましょう。さて、用件はこれですみましたね?」
「だと思いますけれども」
「よくたしかめてみましょう。バッキンガムは死んだか、重傷を負ったかということ。あなたと枢機卿との会話は、四人の銃士に盗み聞きされたということ。あなたのポーツマス行きをウィンター卿が前もって知っていたということ。ダルタニャンとアトスはバスティーユへ入れるべきだということ。アラミスはシュヴルーズ夫人の恋人であること。ポルトスはばか者だということ。ボナシュー夫人が見つかったこと。従僕といっしょに、馬車をできるだけ早くあなたのところへ送ること。院長にはあなたのことを、枢機卿の犠牲者だといっておくこと。アルマンティエールはリス川沿いの町だということ。これだけですね?」
「そのとおりですわ、ほんとうに物覚えがよろしいですわね。それから、もうひとつ……」
「なんです?」
「この修道院の庭つづきに、とてもきれいな森があることを見ておいたのです。その森をあたくしが散歩することを許すようにと、院長に頼んでおいてください。裏門から出なければならないことがあるかもしれませんからね」
「なにからなにまで、よく考えがまわりますな」
「それからひとつ、あなたは言うのをお忘れになっていらっしゃるわ……」
「なんですか?」
「あたくしにお金が必要かどうかって、おききになることですよ」
「まさに、そのとおり、おいくらぐらい必要です?」
「お手持ちの金貨をそっくり」
「五百ピストールぐらいはあるでしょう」
「あたくしもそれくらいなら持っています。千ピストールあれば、どんなことがあっても間にあいますわ。では、ちょうだい」
「どうぞ、伯爵夫人」
「ありがとう、伯爵! すぐお発ちになりますか?」
「一時間後にはね。食事をして、そのあいだに替馬《かえうま》をさがさせましょう」
「それがいいわ。では、これで」
「では、伯爵夫人」
「枢機卿さまによろしく」と、ミラディーはいった。
「悪魔《サタン》によろしくね」と、ロシュフォールが言い返した。
二人は微笑をかわして別れた。
一時間後にロシュフォールは、早駆けで出発した。五時間後には、アラスを通った。
この男がダルタニャンに見つけられたこと、そのために四人の銃士は胸さわぎがして道を急がせることになったということは、読者はすでにご承知のとおり。
六十三 一滴の水
ロシュフォールが出て行くとすぐに、ボナシュー夫人がはいってきた。ミラディーは笑顔で迎えた。
「やっぱり」と若い女はいった。「ご心配になっていたことが起こりましたわね。今夜か明日に、枢機卿の手の者が、あなたをつかまえに来るんですってね?」
「だれが、そんなことを言いまして?」と、ミラディーがたずねた。
「お使いの方がそういってるのを聞きましたわ」
「もっと、あたくしのそばへお坐りになって」と、ミラディーがいった。
「では、これで」
「ちょっと待って、だれかが立ち聞きしていないかどうか見て来ますから」
「どうして、そんなに用心ぶかくなさいますの?」
「いまにわかりますよ」
ミラディーは立ちあがって戸口のところへ行き、ドアをあけて廊下を見まわしてから、ボナシュー夫人のそばへもどって腰をおろした。
「では、あの人、うまく芝居を打ってくれたんだわ」
「あの人って?」
「枢機卿のお使いだといって院長さまに会った人よ」
「では、あれはお芝居でしたの?」
「ええ、そうなの」
「では、あの人は?」
「あの人は」と、ミラディーは声をひそめて、「あたくしの兄ですの」
「あなたのお兄《にい》さま!」とボナシュー夫人は叫んだ。
「いいですか! この秘密を知っているのは、あなただけですよ。もしあなたがだれかにこのことをもらしたら、あたくしはもうおしまいだわ。おそらく、あなたもね」
「まあ、たいへんだわ!」
「よくって。こういうことなんです。兄は、いざとなれば、力づくでもあたくしを連れだそうと、ここへ来てくれたのですが、途中で、これもやはりあたくしのところへ来る枢機卿の密使と出会ったのです。兄は、その男のあとをつけました。そして人通りのない脇道へはいると、兄は剣を手にしてその男に、持っている書類を渡せと迫ったのです。ところが男が抵抗しようとしたので、兄は、その男を殺してしまったのです」
「まあ!」と、ボナシュー夫人は身ぶるいした。
「でも、それ以外に方法がなかったのです。そこで兄は、力づくでやる代わりに策略でいこうと考え、書類を奪いとると枢機卿の密使になりますし、ここへやってきたのです。一時間か二時間しますと、枢機卿方の馬車があたくしをつれに来ることになっていますの」
「わかりましたわ。その車はお兄さまがおよこしになるのでしょう」
「そればかりではありませんわ、あなたがお受けとりになったあの手紙は、あなたはあれはシュヴルーズーズ夫人からだと思っていらっしゃるけれども……」
「それが?」
「あれは、偽《にせ》の手紙なのですよ」
「どうしてですの?」
「たしかに偽手紙ですわ。あなたを連れだしに来たときにあなたに騒がれないようにするための罠《わな》ですわ」
「でも、ダルタニャンさんがいらっしゃるんですよ」
「それはまちがいよ。ダルタニャンさんもそのお友だちも、ラ・ロシェルの攻囲軍に残っていらっしゃるんですもの」
「どうしてそれをごぞんじですの?」
「兄は、枢機卿の密使たちが銃士の制服に変装しているのに出会ったのです。ですから、あなたは呼びだされても親しい人たちが来たと思うでしょう、そこを引っとらえてパリへ連れ帰るという寸法《すんぽう》だわ」
「まあ、どうしましょう! あんまり恐ろしいことばかりなので、頭が変になりますわ」と、ボナシュー夫人は頭に手をやって、「こんなことがもっとつづいたら、あたくし、気がちがってしまいますわ」
「ちょっと……」
「なんですの?」
「馬の足音がするわ。きっと、兄が帰って行くんだわ。お別れをしなくては。さあ、いらっしゃいな」
ミラディーは窓をあけると、ボナシュー夫人に来るようにと合図をした。
若い女はミラディーのそばへ行った。ロシュフォールが早駆けで通った。
「さようなら、お兄さま」と、ミラディーが声をかけた。
騎士は頭をあげて、二人の女を見た。そして駆けながらミラディーに手を振って親しそうな挨拶を送った。
「やさしいジョルジュ!」と窓をしめながらミラディーは、愛情と同時に寂しそうな表情をもって、つぶやいた。彼女は元の席にもどったが、なにか自分のことで深い思いに沈んでいるようすであった。
「あの」と、ボナシュー夫人が口をひらいた。「お邪魔をしてわるいですけれど、いったい、あたくし、どうしたらいいんでしょうね? 困ったわ! あたくしなどよりも経験の深いあなたですもの、なにかいい知恵はないものでしょうか?」
「まず第一に、あたくしがまちがっているかも知れませんものね、ダルタニャンさまとそのお友だちが、ほんとうにあなたを連れだしに来るかも知れませんものね」
「ああ、それだったら、いいんだけれど!」と、ボナシュー夫人は叫んだ。「そんな幸福は、あたくしなんかには望めないことですわ!」
「では、おわかりになったでしょう。これはごく簡単にいえば時間の問題で、どっちが早く来るという駆け比べね。あなたのお味方のほうが早かったら、あなたは救われる。枢機卿の手の者たちのほうが先だったら、あなたはもうだめね」
「ああ! そう、そうですわね、なにもかもだめになりますわね。ほんとうに、どうしよう? どうしたらいいんだろう?」
「ごく簡単で、また自然な方法があるんだけれども……」
「おっしゃって、どんなこと?」
「この近くで隠れて待っているのよ。そして、あなたに会いに来た人たちがどっちだか、たしかめるのよ」
「でも、どこで待ったらいいでしょう?」
「ああ、それでしたら問題はないわ。じつはあたくしも、この近くに身を隠して、兄が来るのを待つことになっていますの。だから、あなたをいっしょに連れてってあげるわ。いっしょに隠れて待ちましょうよ」
「でも、ここからあたくしは出られないでしょう。いわば囚《とら》われの身だから」
「あたくしは枢機卿の命令で出て行くんですから、だれもあなたが好んであたくしについて来るとは思わないでしょう」
「それで?」
「いいこと! 馬車が入口に来たら、あなたはあたくしに別れを告げに、昇降口へ昇って最後のキスのためにあたしを腕で抱く。迎えにきた兄の従僕とは打ち合わせておいて、すぐに御者《ぎょしゃ》に合図を送らせ、そのまま馬車を走らせてしまう。こういう段どりならどう?」
「でもダルタニャンさまが! ダルタニャンさまがもしいらっしゃったら?」
「ちゃんと考えましたわ」
「どうするんです?」
「わけないことだわ。兄の従僕は信用のおける男ですから、このベテュームに帰します。あの男が変装して、この僧院の前の宿屋に泊る。来たのが枢機卿側の密使たちだったら、そのままじっとしていればいいし、もしそれがダルタニャンさまたちだったら、あたくしたちのところへお連れするってわけよ」
「その従僕って人は、あの方たちを知っているのでしょうか?」
「もちろんよ。その人はあたくしの家で、ダルタニャンさまにお会いしていますもの」
「そう、あなたのおっしゃるとおりだわ。そうすれば、なにもかもうまく行きそうね。でもあたくしたち、遠くへは行かないようにしましょうね」
「せいぜい三十キロぐらいの、例えば国境近くがいいわ。なにかあったら、フランスから出ればいいんだから」
「それまでは、どうしていますの?」
「待ちましょう」
「でも、あの方たちがいらっしゃったら」
「兄の馬車のほうが先に来ますよ」
「それが来たときに、あたくしがあなたのおそばにいなかったら。たとえば、お食事でもしているときで」
「こうしたらどう?」
「どうするんですの?」
「できるだけいっしょにいられるように院長さまに、あたくしといっしょにお食事をするようにお願いをして見たらいいわ」
「ゆるしてくださるかしら?」
「べつにつごうが悪いこともないでしょう?」
「そうね! そうすれば、いつもいっしょにいられますものね!」
「さあ! それでは院長さまのところへ行って、そう言ってらっしゃいよ。あたくしはなんだか頭が重たいから、庭をひとまわりして来ますわ」
「どうぞ。どこでお会いしましょうか?」
「ここで、一時間したらね」
「ええ、一時間したら、ここでまた。ほんとうに、おやさしい方だわ、お礼を申しますわ」
「こんなにきれいでお若い方に、どうしてやさしくしないでいられましょう。それにあなたは、あたくしの親しいお友だちのいい人なんですものね!」
「ダルタニャンさまだって、どんなにあなたに感謝するでしょうか!」
「そうなればいいんですけれども。さあ、これで相談はすみましたわね。出ましょう」
「あなたはお庭でしたね?」
「そうよ」
「この廊下を行くと、小さな階段がありますから」
「ありがとう」
二人の女は、にこやかに笑い合って別れた。
ミラディーは、ほんとうに頭が重かった。うまく整理のつかない問題が、頭の中で混沌《こんとん》として入りまじっていたからだった。考えをまとめるには、やはり一人になることが必要だった。未来のことは漠然と見えていたが、いろいろと入り乱れている考えに、きちんとした型と計画性を与えるに、もう少し静けさと一人っきりになる必要があった。
もっとも急を要することは、ボナシュー夫人を連れだして安全な場所におき、もしものときには人質《ひとじち》に使うということであった。ミラディーは、敵もこちらに劣らず執拗《しつよう》に迫って来ることとて、この恐るべき戦いの結末に不安を感じはじめたのである。
しかも彼女は、その結末がいよいよ間近に迫っていること、そしてそれはきっと恐ろしいことになるということを、ちょうど嵐が来るのを予感するように感じとっていたのである。
彼女にとって大事なことは、さっきも言ったように、ボナシュー夫人を手許におさえておくことであった。ボナシュー夫人は、ダルタニャンの生命なのだ。いや、あの男の生命以上のもので、彼が愛している女の生命なのだから。もしもこちらが悪い立場になったらば、交渉の道具として、たしかに絶好の条件となり得た。
ところで、次のことは、すでに定まっていた。すなわち、ボナシュー夫人はなんの疑念も抱かずに、彼女について来るということである。一度いっしょにアルマンティエールに身を隠してしまえば、ダルタニャンはベテューヌに来なかったと思わせることは容易である。二週間もすれば、ロシュフォールがもどって来る。しかもその二週間のあいだに、四人の男たちに復讐《ふくしゅう》する方法を考えればよい。ありがたいことに退屈しないですむ。これは、彼女のような女にとっては願ってもない楽しみで、つまり復讐の計画を練《ね》りあげるというのが仕事だからである。
あれこれ考えながら彼女はあたりに目を注いで、庭の地形を頭の中に入れていた。ミラディーという女はすぐれた将軍と同じように、勝利と敗北を同時に予測し、戦機を見て進退いずれにも備えができたのである。
一時間たつとミラディーは、彼女にやさしく呼びかける声を聞いた。ボナシュー夫人の声だった。院長はもちろん承知してくれたので、まずこれから食事をいっしょにしようというわけである。二人が中庭のところまで来たとき、馬車が門前にとまる音が聞こえた。
「お聞きになって?」と、ミラディーがいった。
「ええ、車の音ですわね」
「兄がよこした馬車ですわ」
「おや、まあ!」
「さあ、元気を出すんですよ」
戸口で呼鈴が鳴った。ミラディーのいったとおりだった。
「あなたの部屋へ行っていてくださいな」と、彼女はボナシュー夫人にいった。「持って行きたい宝石などもあるでしょう」
「あの方の手紙がありますわ」
「では、取ってきて、あたくしの部屋に来てくださいな。大急ぎで食事をしましょう。今夜の旅は相当長いでしょうから、力をつけておかなくてはね」
「どうしましょう!」ボナシュー夫人は胸に手をあてて、「胸が苦しくて、歩けませんわ」
「元気をだして、さあ、元気をだすのよ! 十五分もすれば、あなたは救われているんですよ。あなたがこれからすることは、あの方のためなのよ」
「ああ! そうだわ、みんなあの人のためだわ。そのひと言で、元気が出ました。では、また、あとで」
ミラディーは、急いで自分の部屋にあがった。ロシュフォールの従僕がいたので、彼女はさしずを与えた。
門のところで待っていること。もしかして銃士たちが現われたら、すぐに早駆けで馬車を駆り立て、修道院をひとまわりして、森の向こう側の小さな村でミラディーを待つこと。その場合は、ミラディーは庭を抜けて、歩いて村に行く。前述したように彼女は、この辺の土地にはくわしかった。銃士たちが姿を見せなかったら、予定どおりに事をはこぶ。つまりボナシュー夫人が別れを告げるふりをして馬車に乗るから、そのまま連れ去ってしまえばいい。
ボナシュー夫人がはいってきた。そこでミラディーは、夫人が疑っているといけないと思ったので、その場で従僕に、今のさしずの後のほうの部分を、もう一度繰り返した。
ミラディーは、馬車のことについても二、三たずねた。馬車は三頭立てで、御者は一人、ロシュフォールの従僕が先供《さきとも》として前を行くということだった。
ボナシュー夫人が疑っていやしまいかとミラディーが心配したのは、彼女の考えすぎで、かわいそうにこの若い女はあまりにも純真であって、相手が女の身でこんな大それた企《くわだ》てを抱くなどとは、考ることもできなかったのである。それに、院長が口にしたウィンター伯爵夫人という名前は、彼女ははじめて聞いた名前であるし、この一人の女が自分の一生の不幸に、これほど重大な宿命的な関係を持つに至るとは、夢にも考えられないことだった。
「このとおり、なにもかも用意はできているのですよ」と、ミラディーは従僕が出て行くと、そういった。「院長さまはなんにも気がつかずに、ただ枢機卿からのお迎えだと思っていらっしゃるのよ。あの男が残りの手配をするでしょうから、そのひまにちょっとでも食事をし、少しばかりぶどう酒を飲んで、それから出かけましょう」
「ええ」と、ボナシュー夫人は機械的に返事をして、「ええ、出かけましょう」といった。
ミラディーは自分の前にすわるように合図を送り、スペインぶどう酒を小さなコップについでやって、若鶏《わかどり》の白身《しろみ》をすすめた。
「ねえ、万事つごうよくいったようね」と、ミラディーは話しかけた。「もうじき夜になります。夜明けには、もうあたくしたちは隠れ家へ着いているでしょう。あたくしたちがどこにいるか、だれにもわかりっこありませんよ。さあ、元気をだして、少しあがりなさいな」
ボナシュー夫人は上《うわ》の空で、二口三口《ふたくちみくち》食べてから、唇をコップにつけた。
「さあ、さあ」と、ミラディーは自分もコップを口に当てながら、「こうしてぐっと」
だが、それを口に持って行こうとしたとき、その手が途中でとまった。街道の方に早駆けでやって来る車輪の音らしいものが聞こえたからだ。それとほとんど同時に、馬のいななきも聞こえたような気がした。
嵐の音が美しい夢を破るように、この音はミラディーを喜びから突き落とした。彼女はまっさおになって、窓に駆けよった。
ボナシュー夫人のほうは震えながら立ちあがったが、倒れまいとして椅子によりかかるのがやっとだった。まだなにも見えないが、疾駆する馬の足音は、いよいよ近づいて来る。
「ああ! あの音! なんでしょうね?」とボナシュー夫人がいった。
「敵か味方か?」と、ミラディーは恐ろしいまでの冷静さを見せて、「あなたはそこにじっとしていらっしゃい。あたくしが見てあげます」
ボナシュー夫人は立像のように、青くなってじっと立ちすくんだままである。
疾駆する足音はいっそう高まり、馬はもう百五十歩ほどのところに来ているにちがいなかった。まだ姿が見えないのは、道が曲がっているからであろう。それでも、はっきり聞こえる蹄鉄《ていてつ》の歩《あゆ》みを刻む音で、馬の数まで数えることができた。
ミラディーは、あらん限りの注意力を集めて見つめていた。まだ人影も見分けのつくほど明るかった。
とつぜん、道の曲がり角のところに、飾りひものついた帽子がきらめき、羽飾りがはためくのが見んた。二人、五人、八人と、騎士の数が数えられた。そのうちの一人は、二馬身はなして先頭を切っている。
ミラディーは、息づまるような唸《うな》り声をあげた。先頭を切っている男を、ダルタニャンと見てとったからであった。
「おやまあ!」と、ボナシュー夫人は叫んだ。「まあ、どうなさいましたの! いったい、なにが?」
「枢機卿の親衛隊の制服です。こうしてはいられないわ」と、ミラディーは叫んだ。「さあ、逃げましょう。逃げるのよ!」
「ええ、逃げましょう!」と、ボナシュー夫人も繰り返していったが、恐怖のために足が釘づけになったように、一歩も動くことが出来なかった。
乗馬の男たちが窓の下を通るのが聞こえた。
「いらっしゃいよ、さあ早く」と、ミラディーはせき立てながら、若い女の腕をとって引っぱって行こうとした。「庭のほうから逃げられるわ。鍵《かぎ》もあるし。とにかく急がなければ、五分もすれば、もう間に合わないわ」
ボナシュー夫人は歩こうとするのだが、二歩踏みだすとがっくりと膝《ひざ》をついてしまうのだ。ミラディーは抱きあげて行こうとするが、どうしてもだめだった。
そのとき、銃士たちの姿を見て走りだした馬車の音が聞こえ、つづいて三、四発の銃声がひびいた。
「これが最後よ、どう、いっしょに来るの?」と、ミラディーは叫んだ。
「ああ、とても。このとおり力が抜けてしまって。もう歩けませんわ。お一人で逃げてください」
「一人でですって。あなたをここへ残して? いいえ、だめ、そんなことできませんわ!」と、ミラディーは叫んだ。
とつぜん、彼女の眼に、さっと青白い光が走った。彼女は狂ったように跳《は》ねあがってテーブルに駆けよると、驚くほどのすばやさで指輪の宝石をはずし、中身をボナシュー夫人のコップの中に入れた。
赤い粒は、すぐに溶けてしまった。
すると、しっかりした手つきでコップをつかむと、それを若い女の唇へ持って行って、
「さあ、お飲みなさい。これで元気が出ますから、さあ!」
女は機械的にそれを飲んだ。
[ああ、こういうふうには復讐したくはなかったんだけれども]と、ミラディーは、悪魔のような微笑をたたえながら、コップをテーブルにもどすと、[でも、仕方がないわ。やれるようにしか、やれないんだもの]
そして彼女は部屋を飛びだした。
ボナシュー夫人は目でそれを見送るだけで、あとを追うことはできない。夢の中で追いかけられて、どうしても足が進まない、あの状態だった。
何分かたった。恐ろしい物音が、戸口のほうでした。ボナシュー夫人は、ミラディーが姿を見せるのを、今か今かと待っていたが、とうとう現われなかった。
おそらく恐怖のためだろう、彼女の額になんどか冷たい汗がにじんできた。ついに鉄格子がきしんで開く音が、彼女の耳にはいった。長靴と拍車の音が廊下でひびいた。がやがやいう人声が近づいたが、その中に彼女の名を呼ぶ声を聞いたように思った。
とつぜん彼女は喜びの声をあげてドアのほうへにじりよった。ダルタニャンの声を聞き分けたのであった。
「ダルタニャンさま、ダルタニャンさま。ここです、ここです!」
「コンスタンス! コンスタンス!」と、青年は答えた。「どこにいるんだ? いったい、どこだ!」
それと同時に独房のドアが外から押されて開き、数人の男が飛びこんできた。ボナシュー夫人は身動きひとつできずに、肱掛椅子に倒れていた。
ダルタニャンはまだ硝煙《しょうえん》のたっている短銃を投げ捨てると、恋する女の前にひざまずいた。アトスは短銃を腰に差し、ポルトスとアラミスは手にしていた抜身の剣を鞘《さや》におさめた。
「ああ、ダルタニャンさま! あたくしのダルタニャンさま! とうとういらっしゃってくださったのね。嘘じゃありませんでしたわ、あなただったのだわ!」
「そうだよ、コンスタンス! これで会えたんだ!」
「あの方は、あなたは来ないと言いましたけれども、あたくしは心の中では、きっとおいでになると思っていましたわ。あたくしは逃げる気はありませんでした。それで、よかったのです。あたくしは幸福だわ」
[あの方]という言葉を聞いて、それまで落ちついていたアトスが、すっくり立ちあがった。
「あの方って、だれのことです?」と、ダルタニャンがたずねた。
「あたくしのお友だちですわ。親切心から、あたくしを迫害の手からかばってくれようとした方です。あなた方を枢機卿の親衛隊の人たちとまちがえて、今ここから逃げて行きましたわ」
「あなたの友だちだって」と、ダルタニャンは恋人の白いヴェールのように蒼白《そうはく》になって叫んだ。「友だちって、どういう友だちなんです?」
「門のところにあった馬車の持主で、ダルタニャンさまのお友だちだっていう女の人。あなたが何もかもお打ち明けになった女の方」
「名前は、その女の名前は?」と、ダルタニャンは叫んだ。「ああ! では、名前を知らないのですか?」
「知っています。ひとがいったのを聞いたことがあるのです。ちょっと待って……あれ、変だわ、ああ!どうしたってんでしょう……頭がぼんやりしてきて、ああ、もう目が見えない」
「おい、来てくれ、みんな来てくれ。手が氷のようだぞ」と、ダルタニャンは叫んだ。「気分が悪いらしいな、ああ! 気を失ってるぞ」
ポルトスが声を張りあげて人を呼んでいるあいだに、アラミスはコップの水を持って来ようとしてテーブルに駆け寄った。が、テーブルの前に立っているアトスの恐ろしい形相《ぎょうそう》を見て、彼は足をとめた。アトスは髪の毛を逆立て、目は驚きのあまり無表情で、コップの一つを見つめていた。なにか恐ろしい疑念にとりつかれているようだった。
「ああ! まさか!」と、アトスはつぶやいていた。「いや、そんなことはない。そんな恐ろしいことは、神がおゆるしにならないはずだ」
「水を、水を、早く、水を!」ダルタニャンが叫んでいた。
「ああ、かわいそうに、かわいそうな女だ!」と、アトスが、とぎれとぎれの声でつぶやいた。
ボナシュー夫人はダルタニャンの接吻で目を開いた。
「気がついたぞ! ああ、ありがたい!」と、青年は叫んだ。
「お聞きしたいが」と、アトスがいった。「この空《から》のコップは、あなたのですか?」
「あたくしのです……」若い女は、消え入るような声でいった。
「では、この中にぶどう酒をついだのは?」
「あの方です」
「あの方って、だれです?」
「ああ、思いだしましたわ」と、ボナシュー夫人はいった。「ウィンター伯爵夫人……」
四人の友はいっせいに、あっと叫んだ。中でもアトスの叫びが、ひときわ高かった。
ちょうどそのとき、ボナシュー夫人の顔からは血の気が失せて、苦しみに堪えかねた彼女は、アトスとアラミスの腕の中に、あえぎながら倒れた。
ダルタニャンは、言い尽くせぬ苦悶《くもん》の表情を見せて、アトスの手を握りしめた。
「これは、どういうことなんだ! 貴公の考えでは……」その声は、すすり泣きのうちに消えた。
「おれは、あらゆることを考える」と、アトスは、血が出るほどまで唇を噛みしめていた。
「ダルタニャンさま! ダルタニャンさま」とボナシュー夫人が声をあげた。「どこにいらっしゃるの?あたくしから離れないで。あたくしは、もうじき死にます」
ダルタニャンは、手をけいれんさせて握っていたアトスの手を放すと、彼女のところに駆けつけた。
あんなに美しかった顔も、今はすっかり変わりはて、目もどんよりとして瞳《ひとみ》には光がなく、からだはけいれんで震え、額には冷たい汗が流れていた。
「どうか、アラミス、ポルトス、だれかを呼びにいってくれ、助けを求めてくれ!」
「むだだよ」と、アトスがいった。「だめなんだ、あの女が入れた毒には、解毒剤《げどくざい》がないんだ」
「助けて! 助けを呼んで!」と、ボナシュー夫人がつぶやいた。
それから彼女は最後の力をふりしぼって青年の顔を両手で抱えると、まるで彼女の魂がすっかりその眼にこもってでもいるかのように、じっと男の顔を見つめ、すすり泣きといっしょにその唇を自分の口にあてた。
「コンスタンス、コンスタンス!」と、ダルタニャンは叫んだ。
ボナシュー夫人の口からはふっとため息がもれて、それがダルタニャンの口もとをかすめた。この吐息《といき》こそ、あんなに純潔で愛らしかった女の魂が、天へ昇ってゆくところなのだった。
ダルタニャンがその腕にひしと抱きしめているのは、もはやただの亡骸《なきがら》にすぎなかった。青年はひと声叫ぶと、その恋人と同じようにまっさおになって冷たくなり、その場に倒れた。
ポルトスは泣きだし、アラミスは天に向かって拳《こぶし》をふりあげ、アトスは十字を切った。
このとき、一人の男が戸口に現われた。部屋の中の連中とほとんど同じように青い顔をしてあたりを見まわしていたが、死んでいるボナシュー夫人と、気絶しているダルタニャンの姿に気がついた。大災害のあとの虚脱状態の瞬間に、この男はちょうど来合わせたのだった。
「やっぱり思ったとおりだった」と、男はいった。「これはダルタニャン殿だ。そしてあなた方はその友人の、アトス、ポルトス、アラミスのお三人でしたな」
名前を言われた三人は、びっくりしてその見知らぬ男を見た。そういえば三人とも、その男をどこかで見たような気がしていたが。
「みなさんもわたしと同じように、ある女をさがしているにちがいない。その女は」と、男は冷たい微笑を浮かべて、「こうして、ここに死体があるところを見ると、ここにいたのにちがいない」
三人はだまっていた。顔もそうだがその声を聞いて、たしかに会ったことのある男だとは思ったのだが、さてどこで会った男なのか、どうしても思いだせないのである。
「おそらく二度はあなた方に命を助けていただいた男を、あなた方は思いだしてもくださらないとすると、こちらから名乗らなければなりませんかな。わたしはあの女の義弟のウィンター卿です」
三人はびっくりして、あっと叫んだ。アトスは立ちあがって、手をさしのべた。
「ようこそ、男爵、あなたは、われわれの仲間だ」
「わたしは、あの女に五時間おくれて、ポーツマスを発《た》ちました。ブーローニュに着いたときは、女に三時間おくれていました。サン=トメールでは、あと二十分のところで取り逃がし、とうとうリエで消息を絶ってしまったのです。あっちこっちで聞き歩き、行きあたりばったりに歩いているうちに、あなた方が駆けていらっしゃるのを見かけたのです。ダルタニャン殿に気がつきました。大きな声で呼んだのですが、あなた方は答えてくださらない。あとを追おうと思ったのですが、わたしの馬は疲れきっていたので、とても追いつくどころではなかったのです。しかし、あんなに急いで来られたのに、あなた方もどうやら間にあわれなかったようですな」
「ごらんのとおりです」と、アトスはウィンター卿に、ボナシュー夫人の死体と、ポルトスとアラミスとが正気づけようとしているダルタニャンを示した。
「二人とも死んでいるのですか?」と、ウィンター卿は、冷静にたずねた。
「いや、なあに、ダルタニャンのほうは気絶しただけです」と、アトスが答えた。
「そりゃ、よかった!」
そのとき、ダルタニャンは目をひらいた。
彼は、ポルトスとアラミスの腕をふりはらうと、気ちがいのようになって、恋人の遺体にすがりついた。
アトスは立ちあがると、落ちついた重々しい足どりで若い友のそばに行き、やさしく抱いてやったが、すすり泣きをしているのを見ると、気品のある納得させずにはおかぬといった声で、こういった。
「さあ、男らしくするんだ。死んだ者を歎き悲しむのは、女のすることだよ。男なら、復讐をするね」
「そうだったな。よし」と、ダルタニャンはいった。「復讐するためなら、おれはいつだって、きみについて行くぞ」
アトスは、復讐への期待でこの不幸な友が元気づいたのを見ると、ポルトスとアラミスに院長を呼んで来るようにといった。
二人は、廊下のところで、ばったり院長に出会った。あんまりいろいろな事件が重なったので、院長はすっかりうろたえてしまった。彼女は修道女を何人か呼んだ。こうして彼女たちは修道院の日常の慣習に反して、五人の男たちと向き合ったのである。
「院長さま」と、アトスはダルタニャンの腕をかかえながら、「この不幸な婦人の亡骸《なきがら》の始末は、神さまにお仕えするあなた方におまかせします。この人は、天にのぼって天使となる前から、すでにこの世で天使でした。どうかこの人を、あなた方の姉妹として葬ってあげてください。わたくしたちも、いずれは墓前へ冥福《めいふく》を祈りにまいります」
ダルタニャンは、アトスの胸に顔をうずめて、すすり泣きをはじめた。
「泣くがいい」と、アトスはいった。「恋と若さと生命に満ちた心だものな。ああ、おれだって、きみのように泣けたらと思うよ」
こう言うと彼は、父親のようなやさしさと、司祭のようないたわりと、たくさんの苦しみを重ねた男の落ちつきとを見せて、友を外に連れだした。
それぞれ従者をしたがえた五人の男たちは、馬のくつわを取って、ベテューヌの町のほうへ向かった。もう町はずれなので、最初に目についた旅館の前で、一同は足をとめた。
「あの女を追わないのか?」と、ダルタニャンがいった。
「あとの話だ」と、アトスがいった。「おれには考えがあるよ」
「あの女は逃げてしまうぞ」と、青年はいった。「あの女はきっと逃げてしまう。そうなったら、きみの責任だぞ」
「あの女のことは、おれが引き受けるよ」と、アトスはいった。
ダルタニャンはこの友の言葉を信じていたので、頭をさげると、だまって宿屋の中にはいった。ポルトスとアラミスとは、アトスの自信が納得できず、顔を見合わせた。ウィンター卿は、ダルタニャンの悲しみをまぎらわすつもりでそう言ったのだ、と思っていた。
「さあ、みんな、それぞれの部屋へ引きとることにしよう」とアトスは五人分の部屋が取れたことをたしかめてから、こういった。「ダルタニャンは泣くために、諸君は眠るために、それぞれ、一人になったほうがいい。万事はこのおれが引き受ける。安心したまえ」
「しかし」と、ウィンター卿がいった。「あの伯爵夫人に対して策を考えるんでしたら、わたしにも責任がありますよ。あの女は、わたしの義姉ですからな」
「わたしには」と、アトスはいった。「あれは家内だったのです」
ダルタニャンは身を震わせた。アトスがこのような秘密を明かす以上は、彼は復讐に自信があるのだと思ったからだ。
ポルトスとアラミスは顔を見合わせて、色を変えた。ウィンター卿は、アトスが気が狂ったのではないかと思った。
「さあ、みなさん、部屋へお引きとりください」とアトスがいった。「わたしにまかせてください。わたしは夫ですから、わたしの問題ということになりましょう。ただ、ダルタニャン、まだ持っているなら、例の帽子から落ちた、町の名が書いてあるあの紙を、おれに渡しておいてくれ」
「ああ、わかった」と、ダルタニャンはいった。「あれは、あの女の手で書かれた名前なんだな」
「わかったね」と、アトスがいった。「天には神さまがいらっしゃるということが」
六十四 赤外套の男
アトスの絶望は抑制された一つの苦痛にかわり、その苦痛が、この男の輝かしい才気を、なおいっそう澄み切ったものにした。自分のした約束と、引き受けた責任の重大なことを考えた彼は、一番あとから自室へはいると、宿の主人に頼んでこの地方の地図の上にかがみこんで道筋を調べてみると、ベテューヌからアルマンティエールへは、それぞれべつの四本の道順があることがわかった。そこで彼は従僕たちを呼び集めた。
プランシェ、グリモー、ムスクトン、バザンの四人は集まるとすぐに、アトスから明瞭《めいりょう》にして正確な、重大な使命を受けた。
四人は翌朝早くに出発、それぞれちがった道を、アルマンティエールへと向かった。四人の中で一番頭のよいプランシェは、例のロシュフォールの従僕がついて、銃士たちから銃火をあびせられたあの馬車が消え去った道へと向かった。
アトスがまず従僕たちを繰りだしたというのは、彼らが銃士たちに仕えるようになって以来、それぞれちがった特質があることに気がついたからだった。
それに従僕たちなら、通行人にものを聞いても、主人たちとは違って疑いを受けることもないし、話しかけられた相手だって気やすく思ってくれるからだった。しかもミラディーは、銃士たちを知ってはいたが、従僕たちの顔は知らなかった。ところが、従僕たちのほうは、彼女の顔をはっきり見覚えていた。
四人は、その翌日の十一時に、指定された場所に集まる。ミラディーの隠れ場所を発見したら、二人が見張りに残り、あとの一人はベテューヌにもどってアトスに知らせ、四人の銃士の道案内に立つことになっていた。このような打ち合わせをすますと、従僕たちは出て行った。
そのあとでアトスは椅子《いす》から立ちあがると、剣をつけ、外套に身を包んで宿を出た。十時ごろだった。夜の十時ともなれば、田舎《いなか》のこととて、道にはもう人通りはなかった。アトスはだれかに道をたずねたがっているようすだった。ようやく一人の通行人に出会うと、彼は近づいて言葉をかけた。話しかけられた相手は恐怖の身ぶりであとずさったが、それでも銃士の質問に指をさして答えた。アトスはその男に半ピストールを出して案内を頼んだが、その男は断わった。
アトスは指さされた方角へ、歩いて行った。が、四辻へ出たので、またとまった。あきらかに困っているふうだ。だが四辻なら、それだけ人に出会う機会も多いのだからと、彼はそこで待つことにした。はたして、まもなく夜警の男が通りかかった。アトスはその男にも、さっきの男にしたのと同じ質問をした。するとその夜警も、さっきの男と同じような恐怖の身ぶりを見せて、アトスについて行くことを断わり、ただ手で道を示した。アトスはその方向に向かって、町はずれまできた。彼が仲間たちとこの町にはいってきた方角とは、まさに正反対であった。そこまで来ると、彼はまた心配そうな、そわそわしたようすを見せて立ちどまった。三度目である。
幸い一人の乞食が通りかかって、アトスのそばにやってきて施《ほどこ》しを求めた。アトスは、いっしょにいってくれるなら銀貨をやろうといった。乞食はちょっとためらったが、闇に光る銀貨を見ると決心をし、アトスの先に立って歩きだした。
道の曲がり角へ来ると、乞食は遠くに見える寂しい一軒家を指さした。アトスは近づいて行ったが、そのあいだに、約束の金を手にした乞食は、大急ぎで遠ざかって行った。
赤茶けた色に塗られたその家の入口を見つけるために、アトスはその家をひとまわりした。雨戸の透き間からも灯火ひとつもれるではなく、人の住むような気配はなかった。まるで墓場のように陰気くさく、ひっそりしていた。
三度たたいたが、返事はなかった。だが三度目のとき、中に足音がして、戸口に近づいて来るのが聞こえた。やっと入口の戸が半開きになって、背の高い、青白い顔に黒い髪とひげのある男が顔をだした。
アトスはこの男となにやら言葉をかわしていたが、背の高い男は銃士に、中にはいってもよいと手招きをした。アトスがすぐにはいると、戸口はしまった。
こんな遠方まで苦労してたずねてきた男は、アトスを彼の実験室に入れた。その部屋でこの男は、骸骨《がいこつ》のばらばらになったのを針金でつなぎ合わせる仕事をしていたのだ。からだの部分はもうすっかり出来あがっていたが、頭蓋骨《ずがいこつ》はまだテーブルの上においてあった。部屋のようすから見て、この家の主は自然科学を研究している男だということがわかった。蛇を入れて、その種類をしるした紙が貼《は》ってある瓶。まるでエメラルドを彫刻したように光っている剥製《はくせい》のとかげが、黒い大きな木枠《きわく》の中に幾つもはいっていた。また、おそらく素人《しろうと》にはその効果がわからないのだろうが、芳香のある野草が束《たば》ねて、部屋の隅の天井につるしてあった。
家族もなければ使用人もなく、この背の高い男は、この家に一人で住んでいた。
アトスは、今述べたようないろいろな物を、無関心なひややかな眼で眺めてから、相手の男にすすめられるままに腰をおろした。
それから彼は、たずねてきた目的と依頼の用件を説明した。ところが、その用件を話しだすと、銃士の前に立っていたその男は、恐怖の表情を見せて身をすくめ、はっきりと断わった。するとアトスはポケットから、署名と印を添えて二行の文句が書いてある一枚の小さな紙を取りだすと、はじめからしぶったようすを見せていたその男に、それを見せた。背の高いその男は、この二行の文句を読み、署名を見て、印をたしかめると、これならもう否《いや》も応《おう》もない、いつでも仰《おお》せに従いますというしるしに、うなずいて見せた。
アトスは、もうそれ以上は用はなかった。立ちあがって挨拶をすると外に出て、もと来た道を引き返し、宿にもどると、自分の部屋にはいった。
夜明け方、ダルタニャンが部屋にきて、どうしたらいいだろうかとたずねた。
「待つことだ」と、アトスは答えた。
しばらくすると修道院長から、ボナシュー夫人の葬式は正午に取り行なうという通知があった。加害者についてはまだなんの消息もないが、庭から逃げたことだけはまちがいなく、砂の上に彼女の足跡があって、それが木戸までつづいていた。木戸は閉まっていたが、鍵がなくなっていた。
指定の時刻に、ウィンター卿と銃士たちは修道院に出かけた。礼拝堂が開かれて、鐘が鳴りひびいていた。内陣の中央には、生前の修道女の服装を着せた遺体が安置されてあった。内陣をはさんだ両側、修道院に向かって開いている格子のうしろにはカルメル派の信徒たちが並んで、俗界の人には見られず、また見もしないで、そこでミサを聞き、司祭の聖歌に合唱していた。
礼拝堂の入口にいたダルタニャンは、またもや勇気がうすらいで行くのを感じて、アトスをさがして振り向いたが、その姿は見えなかった。
復讐の誓いを一刻も忘れぬアトスは、庭の中にはいっていたのである。行くところ必ず血なまぐさい跡を残して行くあの女、その女のかすかな足跡をたどって、彼は森につづく木戸のところまで来た。そして木戸をあけてもらうと、こんどは森の中へはいった。
はたして、思ったとおりであった。馬車が姿を消したあの道は、森を一周していた。アトスは地面をにらみながら、しばらくその道を進んだ。馬車に乗って行ったあの男が受けたのか、それとも馬の傷か、血痕《けっこん》がうすく点々として路上についていた。
およそ四キロほど行って、フェステュベールへあと五十歩ほどのところまで来ると、今までよりも大きな血痕があって、地面が馬の足でかき乱されていた。その場所と森のあいだの乱れた地面の少し向こうに、庭にあったのと同じ小さな足跡がいくつかついていた。つまり馬車は、一度ここでとまったのだ。
森から出てきたミラディーは、ここで馬車に乗ったにちがいなかった。
たしかな証拠をつかんだアトスは自分の疑念を確かめたので大いに満足して宿に帰った。そこではプランシェが、いらいらしながら、彼を待っていた。
なにもかも、アトスが考えていたとおりだった。
街道をたどったプランシェも、やはりアトスと同じように血痕に気づき、馬がとまったあの場所を発見したのだった。しかし彼は、アトスよりももっと先まで進み、フェステュベールの村にはいると、一軒の飲み屋にはいり、別にこちらから聞きもしないのに、そこにいた男がこんな話をするのを耳にはさんだ。
前夜の八時半に、馬車で旅する婦人の連れの男が怪我《けが》をしていたので、ここに泊まらなければならなくなったが、怪我は盗賊のために森の中で馬車をとめられ、こんなことになったのだということだった。男は村に残ったが、女は馬車を乗りついで旅をつづけたという話であった。
プランシェはその馬車の御者をたずねて、ついに見つけた。御者《ぎょしゃ》はその婦人をフロメルまで送ったが、女はそこからアルマンティエールへ向かったという。プランシェは近道を通って、朝の七時にはアルマンティエールに着いた。
宿屋は一軒しかなかった。駅馬車の宿舎であった。プランシェは、職のない下男が奉公口をさがしているという触れこみで、その旅館をたずねた。宿の者たちと十分と話さないうちに、一人旅の女が夜の十一時に着いて、部屋を取るとさっそく主人を呼び、しばらくこのあたりに住みたいのだがといった、ということを聞きだした。
プランシェは、もうそれ以上知る必要はなかった。さっそく約束の場所に駆けつけると、ほかの三人もちゃんと来ていた。そこで宿の出入口にみんなをそれぞれ見張りに残し、アトスのところへどってきた。アトスがプランシェの報告をすっかり聞き終わったとき、三人の銃士がもどってきた。
どの顔も、アラミスのやさしい顔までが暗く曇り、いらだっていた。
「どうしたらいいんだ?」と、ダルタニャンがたずねた。
「待つんだよ」と、アトスが答えた。
みんなは、それぞれの部屋に帰った。
夜の八時に、アトスは馬に鞍をおくようにと命じ、ウィンター卿や友人たちに、出発の用意をするようにといった。
すぐに五人とも、用意をととのえた。みんなは武器をあらため、装備した。アトスが先に出てみると、ダルタニャンはもう馬にまたがって、いらいらしていた。
「まあ、落ちつくんだ」と、アトスがいった。「まだ、一人たりないんだ」
四人の馬上の人間は、不審《ふしん》な顔をして、あたりを見まわしたが、どう考えても誰がたりないのか、さっぱり心当たりがなかった。
そこへプランシェが、アトスの馬をひいてきた。銃士はひらりと飛び乗った。
「ちょっと待っていてくれ、すぐに帰って来るから」
そういって彼は、早駆けで出て行った。
十五分すると、なるほど彼は、一人の男を連れてもどってきた。その男は覆面《ふくめん》をつけ、赤外套を着ていた。
ウィンター卿や三人の銃士たちは、互いに問いかけるような視線をかわしたが、答えは得られなかった。その男は何者か、だれも知らなかった。しかし、アトスの考えで事がはこんでいる以上は、これでいいのだろうと考えていた。
九時になると、プランシェの案内で、いよいよ騎馬の一行は、例の馬車が行った道をたどることになった。
六人の男がそれぞれの思いに耽《ふけ》って、ただ黙々と進んで行くありさまは、なんともいえぬ絶望的な、陰欝《いんうつ》そのものの光景だった。
六十五 審判
荒れ模様の暗い夜で、大きな雲が星の光を包んで、空を飛んでいた。真夜中にならなければ、月はあがらなかった。ときどき地平線上に光る稲妻《いなずま》で、白くつづいている寂しい道が照らしだされたが、稲妻が消えると、あたりはまた元の暗闇にもどった。
ともすれば先頭を切って駆けようとするダルタニャンを、アトスは呼びもどしては列に入れるのだが、ダルタニャンはすぐにまた列を離れてしまうのだ。彼の頭には、先に進もうという考えしかなかった。だから、そうして進んで行くのだ。
負傷した従者がとどまっているフェステュベールの村をそっと抜けて、一行はリシュブールの森に沿って進んだ。エルリエまで来ると、案内役のプランシェは、左へ道をとった。
ウィンター卿や、ポルトスや、アラミスは、なんどか赤外套の男に話しかけようとしてみたが、そうするたびに男はただ頭をさげるだけで、返事をしなかった。で、みんなは、この男が沈黙を守っているのには、それなりの理由があるのだと思って、それっきり話しかけるのはやめにした。それに嵐がだんだんひどくなって、稲妻がしきりに走り、雷鳴がとどろきはじめた。暴風の前ぶれの強い風が、騎士たちの羽飾りをはためかせて吹き抜けた。
一行は、馬の足を早めた。
フロメルを少しすぎたところで、とうとう嵐になった。みんなは、外套をひろげた。なお十二キロも行かねばならなかった。一行は滝のような雨をおかして、進んだ。
ダルタニャンは帽子を脱ぎ、外套もつけなかった。焼けるような額《ひたい》や、熱のために震えるからだに、じかに雨を浴びるほうが、こころよかったのである。
ゴスカスを過ぎて、宿駅に着こうとするところで、一人の男が木立の闇からぬっと姿を現わし、道のまん中に出て来ると、指を口にあてた。アトスには、それがグリモーだと、すぐにわかった。
「どうしたんだ?」と、ダルタニャンが声をかけた。「あの女が、アルマンティエールを離れたのか?」
グリモーは、そうだというしるしに、うなずいてみせた。ダルタニャンは、歯ぎしりした。
「だまっていろ、ダルタニャン!」と、アトスが叫んだ。「おれがみんな引き受けているんだ。だから、おれがグリモーにきく」
「どこにいるんだ?」と、アトスはグリモーにたずねた。
グリモーは、リス川の方角を指さした。
「遠いのか?」と、アトスが聞く。
グリモーは主人に、人さし指を曲げてみせた。
「一人かい?」と、アトスはつづけて聞いた。
グリモーは、そうだとうなずいた。
「おい、みんな」と、アトスがいった。「あの女は一人で、ここから二キロのところにいる。川べりだ」
「よし、案内しろ、グリモー」と、ダルタニャンがいった。
グリモーは近道をとって、一行の案内に立った。
五百歩ほど行くと、小川があった。そこを渡った。
稲妻の光で、エルカンエムの村が見えた。
「あそこか?」と、ダルタニャンがきいた。
グリモーはちがうという合図に、首をふって見せた。
「口をきくな!」と、アトスがみんなを制した。
一行は、また道をつづけた。
またひとつ、稲妻が光った。そのとき、グリモーが腕を伸ばした。青白い稲妻の光の中で、渡船場から百歩ほどの川岸に、小さな一軒家が見えた。窓がひとつ、明るくなっていた。
「着いたぞ」と、アトスがいった。
そのとき、溝《みぞ》の中で寝ころんでいた男がむっくり起きあがった。見ると、ムスクトンだ。彼は指で、その窓を示した。そして、「あそこにいます」と、いった。
「バザンはどうしている?」と、アトスがたずねた。
「わっしが窓を見張っているあいだ、やっこさんは戸口のほうを見張っているんです」
「なるほど。おまえたちは、みんな、りっぱな忠僕だ」と、アトスがいった。
アトスは馬から飛び降りると、手綱《たづな》をグリモーに渡し、みんなに入口のほうにまわるように合図して、彼は窓に向かって進んだ。
その家は、一メートルほどの高さの生垣でかこまれていた。アトスは垣根を乗り越えて、窓のところまで行った。鎧戸《よろいど》はなかったが、カーテンが、きちんとしまっていた。
アトスは、カーテン越しにのぞきこもうとして、土台石の上にあがった。ランプの光のもとに、一人の女がくすんだ色の外套に身を包み、消えかかった暖炉《だんろ》のそばの腰かけにすわっていた。粗末なテーブルの上に肱《ひじ》をつき、象牙《ぞうげ》のような白い手で、頭をかかえていた。
顔ははっきりとは見えなかったが、アトスの唇に不気味な笑いが浮かんだところを見ると、もうまちがいない、彼がさがし求めていた女だった。
このとき馬がいなないた。ミラディーは頭をあげた。すると、窓ガラスにぴったり顔をつけているアトスの蒼白な顔が目にはいった。彼女はあっと声をあげた。
アトスは見つかったと思ったので、手と肱《ひじ》で窓を押した。窓ははずれ、ガラスはくだけた。復讐の鬼となったアトスは、すぐに部屋に飛びこんだ。
ミラディーは、入口に駆け寄り、ドアを開いた。が、そこには、アトスよりももっと青い顔をし、もっと恐ろしい形相《ぎょうそう》をしたダルタニャンが立っていた。
ミラディーは、叫び声をあげて、一歩しりぞいた。ダルタニャンは、例によってなにかうまい手を使われて逃げられてしまうのではないかと思い、腰の拳銃《けんじゅう》を引き抜いた。が、アトスが手をあげて、それを制した。
「武器はしまえ、ダルタニャン」と、彼はいった。「問題はこの女を裁くことで、殺すことはそのあとだ。もうしばらく待ちたまえ。いずれ、きみの満足のいくようにするよ。諾君、はいって来たまえ」
ダルタニャンは、その言葉に従った。アトスの荘重な声と、その力づよい態度は、神の手でつかわされた裁判官を思わせた。ダルタニャンのうしろから、ポルトス、アラミス、ウィンター卿、それと赤外套の男とがはいってきた。四人の従僕たちは、戸口と窓の見張りに立った。
ミラディーは椅子に倒れて、この恐ろしい光景をはらいのけようとでもするように、両手を伸ばしていたが、そこに義弟の姿を見ると、あっとばかりに声をあげた。
「あなた方は、なんの用があるのです?」と、ミラディーは叫んだ。
「本名、アンヌ・ド・ブルイユ、はじめにラ・フェール伯爵夫人を名乗り、ついでシェフィールド男爵ウィンター卿夫人となった女に、われわれは用があるのだ」と、アトスが呼ばわった。
「それは、あたし、あたしです!」と、恐怖の絶頂に達して、ミラディーは叫んだ。「あたしを、どうなさるのです?」
「あんたを、あんたの犯した罪によって裁こうというのだ」と、アトスはいった。「自分を弁護することは、あんたの自由だ。もし弁護できるなら、やったらいい。まず、ダルタニャン、貴公からこの女の罪を告発したまえ」
ダルタニャンは前に出た。
「神と人びとの前で、わたしはこの女が、昨夜、コンスタンス・ボナシューを毒殺した罪を訴える」
彼は、ポルトスとアラミスのほうを振り向いた。
「われわれは、そのことを証言する」と、二人の銃士は、口をそろえていった。
「神と人びとの前で、この女が偽手紙を添え、ヴィルロワから送りとどけたぶどう酒によって、このわたしを毒殺しようとした罪を訴える。さいわい、わたしは助かったが、ブリズモンという男が身代わりになって死んだ」
「われわれは、そのことを証言する」と、ポルトスとアラミスの声。
「神と人びとの前で、わたしはこの女がウァルド伯爵をわたしの手で殺害させようとした罪を訴える。この件については、その真実を証言する者がいないから、わたし自身がこれを証言する。わたしの言うことは、これだけだ」
こう言うとダルタニャンは、ポルトスとアラミスとともに、部屋の向こう側に移った。
「男爵殿、どうぞ」と、アトスがいった。
こんどは男爵が前へ進み出た。
「神と人びとの前で、わたしはこの女が、バッキンガム公を暗殺させた罪を訴える」
「バッキンガム公が暗殺されたとな?」と、列席している者は、いっせいに声をあげた。
「そうです、暗殺されたのです。あなた方からご注意の手紙をいただいたので、わたしはこの女を捕えさせ、忠実な部下に監視させておきました。ところが女はその男を誘惑し、短剣を手渡して、公爵を殺害させたのです。たぶん今ごろは、フェルトンというその男は、自分の犯した凶悪な罪のつぐないとして、首をはねられていることでしょう」
まだ知らなかったこの罪状を聞かされて、裁く者一同のあいだに、戦慄《せんりつ》が走った。
「そればかりではない」と、ウィンター卿はふたたびいった。「あんたを相続人ときめたわたしの兄は、からだじゅうに鉛色の斑点《はんてん》を残した奇怪な病気で、たった三時間のうちに死んでしまった。いったいあんたの夫は、どうして死んだのだ?」
「おそろしいことだ」と、ポルトスとアラミスが叫んだ。
「バッキンガム公の暗殺者として、フェルトンを死に至らせた者として、わたしの兄の殺害者として、あんたの裁きを求める。もし他人が手を下さないならば、わたし自身の手で裁こう」
そしてウィンター卿はダルタニャンのそばへ移って、次の告発者のために席を譲った。
ミラディーは両手で額をはさむと、ひどいめまいで混乱した頭を元へもどそうとつとめた。
「こんどは、わたしだ」と、アトスは、蛇を見てからだを震わせる獅子《しし》のように、身をわななかせながら、「わたしは、まだ若かったこの女を、家族の反対にもかかわらず妻にした。わたしはこの女に財産と家名とを与えた。が、ある日わたしは、この女が烙印の刑を受けていることを知った。この女は左の肩に、ゆりの花の烙印を押されているのだ」
「ああ!」と言いながら、ミラディーは立ちあがった。「そんな不名誉な刑をあたしに宣告した裁判所があるなら、見つけてみてください。そのような刑を執行した刑吏がいたら、連れてきてください」
「お静かに」と、ひとつの声がした。「そのことなら、このわたしが答えよう!」
そして、こんどは、赤外套の男が進み出た。
「この人はだれです? 何者です」と、ミラディーは恐怖に息をつまらせて叫んだ。そのとき彼女の髪がほどけて、まるで生きもののように、青白い頭の上で逆立った。
みんなの視線が、その男の上にそそがれた。なぜならば、アトスを除いて、だれもこの男を知らなかったからだ。
いやアトス自身も、ほかの者と同じような驚きの眼を見張って、その男を眺めた。なぜなら彼自身も、いよいよ大詰《おおづめ》にきたこの恐ろしい劇に、この男がどういう関係をもっているか知らなかったからだ。
男は荘重なゆったりした足どりでミラディーに近づくと、テーブルひとつをへだてて彼女と向き合い、顔の覆面《ふくめん》をとった。
ミラディーはしばらくのあいだ、恐怖心をつのらせながら、黒い髪と頬ひげとで縁《ふち》どられたその氷のような冷たい表情を浮かべた蒼白な顔を眺めていたが、とつぜん立ちあがると、壁際まであとずさりしながら、
「いいえ、ちがうわ、ちがうわ! これは幽霊だわ! あの人ではない! ああ、助けて」と、しゃがれ声で叫んで、壁のほうを振り向いた。
「いったい、あなたはだれなのです?」と、その場に居合わせた者が、いっせいに叫んだ。
「この女におたずねください」と、赤外套の男はいった。「ごらんのとおり、この女にはわたしのことがわかったようですから」
「リルの体刑執行人、リルの死刑執行人だわ!」と、狂気じみた恐怖にかられたミラディーは、倒れまいとして壁にしがみついた。
みんなは、脇へ寄った。赤外套の男だけが、部屋のまん中に立っていた。
「ああ! ゆるして、ゆるしてください!」と叫んで、憎むべき女は膝をついた。
見知らぬ男は、まわりが静かになるのを待って、
「わたしが申しあげたとおり、この女はわたしを知っておりました。そうです、わたしはリル町の刑吏です。わたしの話をお聞きください」
みんなはこの男に眼をそそいで、彼が話しだすのを、もどかしげに待っていた。
「この女は、娘だった昔も、今に劣らず美しい女でした。この女は、タンピルマールのベネディクト派修道院の修道女でした。この修道院の教会堂に、信仰あつくすなおな心の若い司祭が勤めていましたが、女はこの司祭を誘惑しようと考え、それに成功したのです。じじつこの女なら、聖者だって誘惑することができたでしょう。彼らが立てた修道の誓いは神聖で冒《おか》すことのできないものでしたから、二人がこのような情交をつづけていけば、いずれは身をほろぼさねばなりませんでした。女は男に国を逃げだすことを承知させましたが、さて国を出て、どこかへ逃げ、そこで安穏に隠れて暮らしていくためには、先立つものは金です。ところが、どちらも金はない。司祭は聖器を盗みだして、金にかえました。
ところが、いよいよ逃げだそうというところで、二人ともつかまってしまったのです。一週間後に、女は牢番の息子を誘惑して、逃亡してしまいました。若い司祭は十年の禁固《きんこ》と、烙印の刑の処罰を受けました。わたしは、今この女がいったように、リルの町の刑吏でした。わたしは罪人に烙印を押さなければなりません。その罪人が、なんとわたしの弟なのです!
そこでわたしは、弟を破滅させたこの女に、共犯者というよりも弟に罪を犯させた教唆《きょうさ》者であるこの女に、せめて刑罰を分け与えてやろうと、心に誓ったのです。女が隠れている場所には心当たりがあったので、あとを追って捕え、縛りあげると、弟にしたと同じような烙印を押してやりました。
わたしがリルの町に帰ったその翌日、こんどは弟が脱走しました。わたしは共謀の罪に問われて、弟が自首して出てくるまで、身代わりとして投獄されました。弟はこの判決のことを知らずに女といっしょにベリーに逃げ、そこで彼は司祭の職を得ました。女は、その妹ということで通しました。
そのうちに、教区の教会のある土地の領主が、この自称妹と称する女を見染めて、ぞっこん惚れこみ、結婚するとまで言いだしたのです。すると女は、自分のために身を破滅させてしまった男を捨てて、いずれはこれも破滅へ導くであろうところの男に乗り替え、ラ・フェール伯爵夫人になったのです……」
みんなの目は、今その本名を言われた当人であるアトスのほうにそそがれた。彼は刑吏のいった言葉に嘘いつわりがないことを示すために、うなずいて見せた。
「さて、あわれな男は」と、刑吏はなおつづけた。「絶望のあまり気も狂わんばかりになって、女のために名誉も幸福もなにもかも奪われたこのような生活から足を洗おうと決意し、リルの町にもどって来ましたところ、わたしが身代わりになって入獄していることを知り、さっそく自首して出ると、その夜のうちに獄の窓で首をつって死んでしまいました。わたしに刑を言い渡した人たちも約束は守ってくれて、死体の検査がすむとすぐに、わたしは放免されたのです。
以上が、わたしが告発するこの女の罪で、この女に烙印を押した理由もこれでおわかりになったでしょう」
「さて、ダルタニャン殿」と、アトスがたずねた。「この女に対して、どのような刑を求められるかな?」
「死刑を」と、ダルタニャンは答えた。
「ウィンター卿」と、アトスはつづけていった。「あなたの求められる処刑は?」
「死刑」と、ウィンター卿も答えた。
「ポルトスとアラミスの意見は」とアトスはなおも、「判事として貴公らは、この女にどのような刑を?」
「死刑を」と、二人の銃士は声をくもらせて答えた。
ミラディーは恐ろしい呻き声をあげると、裁く者へ膝でにじり寄った。
アトスは、その彼女のほうへ手をさし伸べた。
「アンヌ・ド・ブルイユ、またの名ラ・フェール伯爵夫人、もしくはミラディー・ウィンター卿夫人、おまえの罪は、地にあっては人びと、天にあっては神を怒らせたのだ。なにか祈りの言葉でも知っているならば唱えるがいい。刑罰を受けて死んでゆく身だからな」
もはやなんの希望の余地も与えぬこの言葉を耳にすると、ミラディーはすっくと立ちあがって口をきこうとしたが、もはやその力もなかった。容赦しない力づよい手が彼女の髪をつかみ、人間を引きずる運命の手と同じに、ぐいぐい自分を引っぱってゆくのを感じていた。彼女は抵抗する気はもはやなく、その田舎家《いなかや》を出た。ウィンター卿、ダルタニャン、アトス、ポルトス、アラミスが、つづいて出た。従僕たちが、そのあとにつづいた。部屋は窓をこわされ、入口はあけっ放しのまま、テーブルの上にランプがひっそと燃えているだけで、ひと気なしに残された。
六十六 処刑
真夜中に近かった。月の満ち欠けで鋭く研《と》ぎすまされた三日月《みかづき》は、嵐の名残《なごり》を見せて血のような色に染められ、アルマンティエールの小さな町のうしろに登っていた。それは青白い光で、家々のくすんだ影と、透けて見える高い鐘楼《しょうろう》の骨組を浮かびだしていた。
正面にはリス川が、錫《すず》を溶かしたように流れていた。対岸には、真夜中だというのに夕暮れどきを思わせる赤銅《しゃくどう》色の大きな雲を浮かべた荒れ模様の空を背景に、木立の黒い茂みが並んでいた。左手には、打ち捨てられた風車小屋が、翼も止められたままで立っていて、その廃屋《はいおく》の中から、ふくろうの鋭い鳴き声が、ときどき聞えてきた。野原のここかしこ、この不吉な行列がやって来る道の右左に、ずんぐりした背の低い木々の茂みが現われるが、それはまるで、このような不吉な時刻に、うずくまって人間どもを待ち伏せしている醜《みにく》いこびとのようだった。
ときどき大きな稲妻が、地平線いっぱいにきらめき、木立の黒い茂みの上を蛇行《だこう》して、おそろしく切れる新月刀で一刀両断するように、空と水とを二つに分けていた。よどんだ空気の中には、風ひとつなかった。死の静寂が、大自然を押しつぶしていた。雨あがりの地面はしめっていて滑《すべ》りやすく、生き返った草は強い匂いを放っていた。
二人の従僕が、ミラディーの腕を両側から取って引き立てて行った。そのあとから刑吏が、さらにウィンター卿、ダルタニャン、アトス、ポルトス、アラミスが、それにつづいた。
プランシェとバザンが、しんがりを務めた。
二人の従僕は、ミラディーを川のほうへ連れて行った。彼女は口を閉《と》ざしていた。しかし眼は言葉以上に雄弁をもって話しかけ、左右の二人をかわるがわる見すえては、しきりと懇願《こんがん》していた。
みんなから数歩先に来ているのを見すますと、彼女は二人の従僕にいった。
「あたしを逃がしてくれたら、あんたたち一人に千ピストールずつあげるわ。それとも、このままあたしを、あんた方の主人の手に渡すようだったら、あたしが死んだってちゃんと仇《あだ》を討ってくれる者がこの近所にはいくらでもいるんだから、いずれあんた方に思い知らせるだろうよ」
グリモーはためらいを見せ、ムスクトンは手足をぶるぶる震わせていた。
アトスがミラディーの声を聞きつけて、急いでやってきた。ウィンター卿も近よった。
「この二人は取り代えましょう」と、アトスがいった。「女が話しかけたので、安心できませんからな」
プランシェとバザンが呼ばれて、グリモーとムスクトンに取って代わった。
水ぎわに近づくと、刑吏はミラディーの手足を縛《しば》りあげた。すると彼女は、静寂を破って叫んだ。
「あんたたちは卑怯者《ひきょうもの》だわ。いやらしい人殺しだわ。女ひとりを殺すのに、十人もかかるなんて。用心するがいい。たとえ助けが来なくたって、きっと仇は討ってもらえるんだから」
「あんたは女じゃない」と、アトスがひややかにいった。「あんたは人間ではないんだ。地獄から抜けだした魔女なんだ。だから、われわれの手で、そこへ帰してあげるのさ」
「ああ! なんとごりっぱなみなさんたち!」と、ミラディーは、なおも呼ばわった。
「気をつけるがいい、あたしの髪の毛一本にでもさわろうものなら、人殺しの罪に問われるんだから」
「刑吏は罪に問われることなく、人の命を奪うことができますぞ、奥さん」と、赤外套の男は長剣をたたいていった。「つまり、最後の裁判官だからだ。隣国のドイツ人がいう、ナハリヒター(Nachrichter はドイツ語で、じじつ刑吏を意味する)っていう奴さ」
こう言いながら彼がミラディーのからだを縛っていると、彼女は二声三声、荒々しい叫び声をあげた。それは言うに言われぬ陰気なひびきとなって、夜の闇をつらぬき、森の奥ふかくに消え去った。
「もしあたしに罪があるなら、あんたたちが言うような罪をもしあたしが犯したというなら」と、ミラディーはわめいた。「あたしを法廷へ連れてったらいいんだわ。あんたたちは裁判官じゃないだから、あたしを裁くことはできないはずだわ」
「わたしはあんたに、島へ行くようにとすすめた」と、ウィンター卿がいった。「どうしてそれを望まなかったのだ?」
「あたしは死にたくないからです!」と、ミラディーは、からだをよじっていった。「死ぬには、あたしは若すぎるから」
「ベテューヌであんたが毒を盛った女の人は、あんたよりずっと若い人だった。それなのに、人はやっぱり死んだのだ」と、ダルタニャンはいった。
「あたしは修道院にはいって、尼になります」と、ミラディーはいった。
「あんたは修道院にいたのに、わたしの弟を破滅させて、そこを出た」と、刑吏がいった。
ミラディーは恐怖の叫び声をあげて、がっくり膝をついた。刑吏は彼女の腕をかかえて抱き起こし、小舟のほうへ連れて行こうとした。
「ああ、おそろしい!」と、彼女は叫んだ。「おそろしいわ! あたしを川に沈めようとするのね!」
その叫び声は聞く者の胸をかき乱すようで、あれほど最初のうちミラディーを責めるに急だったダルタニャンも、木の切り株に腰をおろし、首うなだれて、掌で両耳をおおった。それでも、おびかすような叫び声は、まだ耳にはいってきた。
ダルタニャンは、みんなの中で一番若かった。それだけに勇気がくじけるのも早かった。
「ああ! こんな恐ろしい光景は、とても見てはいられない! こんなふうにしてこの女を殺すにはしのびない!」
この言葉を耳にはさんだミラディーは、ひと筋の希望の色を取りもどした。
「ダルタニャンさま、ダルタニャンさま」と、彼女は叫んだ。「思いだしてちょうだい。あたしが、どんなにあなたを愛していたかということを!」
青年は立ちあがると、女のほうへ一歩進みよった。するとアトスがいきなり剣を抜き放って、その前に立ちはだかった。
「一歩でも進んでみろ、ダルタニャン、このおれと剣をまじえることになるぞ」
ダルタニャンはひざまずいて、祈った。
「さあ、お役人、役目を果たしていただこうか」と、アトスがいった。
「承知しました。このわたしが正しいカトリック教徒であると同じ確信をもって、この女を処罰することが正当であることを、わたしは信じます」
「よくいった」とアトスはいって、ミラディーのほうに一歩あゆみよった。
「わたしは、あんたがわたしに対してなした悪事はゆるしてあげよう。わたしの将来を踏みにじり、わたしの名誉を傷つけ、わたしの恋を汚し、わたしの魂の救いを絶望によって打ちくだいたことを、ゆるしてあげる。安らかに死ぬように」
次にウィンター卿が進み出た。
「わたしは兄の毒殺も、バッキンガム公の暗殺も、フェルトンを死に至らしめ、さらにわたしに害を加えようとしたことも、ゆるしてあげよう。静かに死になさい」
「わたしは」と、ダルタニャンはいった。「貴族らしからぬ詐欺《さぎ》的行為によって、あなたの怒りを誘ったことに対し、まずあなたにおわびする。その代償として、あなたがわたしの愛する人を殺したことも、このわたしにたいしていろいろと復讐をしたことも、ゆるしてあげよう。わたしは、あなたのことを悲しんであげよう。安らかに死んでください」
「I am lost, I must die!」(もう、だめだわ、死ぬしかないんだわ!)と、ミラディーは英語でつぶやいた。
彼女は自ら立ちあがると、まわりを見まわした。瞳《ひとみ》から炎がほとばしるかと思われるような、らんらんたる眼《まな》ざしだった。が、彼女には、なにも見えなかった。
彼女は耳をそば立てた。が、なにも聞こえなかった。まわりを取り巻いているのは、彼女の敵ばかりだった。
「どこで死ぬのです?」と、彼女はきいた。
「向こう岸で」と、刑吏が答えた。
刑吏が彼女を小舟に乗せて、自分も乗りこもうとしたとき、アトスはその手にいくらかの金をにぎらせた。
「取ってくれ。これは職務執行の手当だ。これで、われわれが裁判官として正しい行動をしたことは、だれも認めてくれるだろう」
「なるほど」と、刑吏はいった。「だが、わたしとしては、職を執行するだけではなくて、自分の義務を遂行《すいこう》するのだということを、この女に認めてもらいましょう」
こういうと彼は、その金を川の中に投じた。
舟は罪人と刑吏とを乗せて、リス川の左岸へと遠ざかって行った。右岸に残った一同の者は、その場にひざまずいた。
舟は渡しの浮標に沿って、ちょうどそのとき水面にただよっている青白い雲の影を受けながら、ゆっくりと進んで行った。
舟が向こう岸に着くのが見えた。人影が、赤味をおびた地平線の上に、くっきりと浮かんで見えた。
ミラディーは舟の中で、縛《しば》られていた足のひもをほどいていた。そして岸に着くや否《いな》や、彼女はひらりと飛び降りて、逃げだした。
が、地面がぬかっていて、土堤の上まで行ったとき、滑って彼女は膝をついてしまった。
おそらく、迷信じみた考えが浮かんだのであろう、天が救いを拒《こば》んだのだと思いこんだ彼女は、そのままの姿勢で頭を垂れ、両手を合わせた。
そのとき対岸からは、刑吏がゆっくりと両腕をふりあげるのが見えた。月の光に大さな刀身がきらりと光って、両の腕《かいな》がふりおろされた。風を切る刃の音と女の叫び声とが聞こえ、頭のない胴体がどっと倒れた。
すると刑吏は、着ていた赤い外套をぬいで地面にひろげると、その上に遺体を寝かせ、首をほうりこんで、四隅でしばった。そしてそれを肩にかついで、舟に乗りこんだ。
リス川の中ほどで彼は舟をとめ、その包みを川面につりさげながら、「神の裁きを受けるがいい!」と、大声で叫んだ。彼が死体を水中ふかく沈めると、水面はまたもとの静けさにかえった。
それから三日して、四人の銃士は、パリにもどった。休暇もちょうど切れるところだったので、その夜ただちに、彼らはトレヴィール殿のもとへ伺候《しこう》した。
「どうだった、みんな」と、好人物の隊長はいった。「旅行をじゅうぶん楽しんだかな?」
「はい、たっぷり」とそう答えてアトスは、唇をぎゅっと噛《か》んだ。
六十七 結末
翌月六日、国王はラ・ロシェルへもどるという枢機卿への約束を守って、いまだにバッキンガム暗殺の報に茫然《ぼうぜん》としているパリを出発した。
王妃は、自分が愛している人の身に危険がつきまとっていることは知っていたが、その人の死を告げられたときには、どうしてもそれを信じる気になれなかった。そして、うっかり、こう叫んだほどだった。
「それは嘘です! お手紙をいただいたばかりですもの」
だがその翌日には、王妃もその悲報を信じないわけにいかなかった。チャールズ一世の命令で、みんなといっしょにイギリスに引きとめられていたラ・ポルトが、バッキンガムが王妃に送った悼《いた》ましい形見の品を持って帰って来たからである。
国王の喜びは、ひとかたならぬものがあった。王はそれを隠そうとはせず、王妃の前でわざとそれを見せるようなことをした。柔弱な心の持主がそうであるように、ルイ十三世も思いやりに欠けるところがあった。
だが、まもなく王は陰気になり、健康もすぐれなかった。もともと王は額《ひたい》に、いつまでも明るい色をたたえていることができない人であった。陣営に帰れば、また束縛の日を送るのだとは知っていたが、やはり王は帰って行った。
枢機卿は国王に対しては、蛇のような睨《にら》んですくませる力をもっていた。国王は小鳥のようなもので、枝から枝へと飛び移るが、枢機卿の手から逃げおおせることはできないのだ。
だからラ・ロシェルへの帰還は、なんとなく陰欝な空気に包まれていた。とりわけわが四銃士のようすが、仲間たちを驚かせた。四人はいっしょに並んで暗い目つきをし、首うなだれて歩いていた。アトスだけが、ときどきその広い額をあげて、目を輝かし、にがい微笑を口元に浮かべたが、すぐにまたみんなと同じように、物思いに沈みこんでしまうのだった。
護衛隊が町に着いて、国王をその宿舎に送りとどければ、四人はすぐに自分たちの宿へ引き上げるか、居酒屋にこもってしまうのだ。といっても、そこで賭《かけ》遊びをするでもなく、酒を飲むわけでもなかった。ただ、あたりに気をくばりながら、ひそひそと語り合うだけだった。
ある日、国王がカササギ狩りのために行列をとめたので、狩りのお供をしない四人の友は例によって街道筋の居酒屋にはいりこんでいると、ラ・ロシェルのほうから全速力で馬を飛ばしてきた一人の男が、一杯やろうとして戸口に馬をとめると、四人の銃士がテーブルについている部屋の中をのぞきこんだ。
「おお! ダルタニャン殿」と、男は声をかけた。「そこにいるのは、ダルタニャン殿ではないか?」
ダルタニャンは顔をあげたが、思わず歓声をあげた。それは彼が彼自身の幽霊だと呼んでいた、マンで出会い、フォソワイユール街で、アラス通りで出会った未知の男なのである。ダルタニャンは剣を抜き放って、戸口のほうへ走った。
だが、こんどは男は逃げようとせず、馬から降りると、ダルタニャンのほうへ歩み寄ってきた。
「ああ! これで、やっと会えた。こんどこそ逃がさんぞ」と、青年は勢いこんでいった。
「こちらには、その気はないな。なにしろ、こんどは、こっちから貴公を捜していたんだから。国王の名において、貴殿を逮捕する。おとなしく剣をお渡し願おう。手向いは無用じゃ。ご注意までに申しておくが、ことは生命に関することですぞ」
「いったい、あなたは何者だ?」と、ダルタニャンは剣をさけてたずねたが、まだ剣を渡そうとはしない。
「シュヴァリエ・ド・ロシュフォールと申す、リシュリュー枢機卿の侍臣です」と、その男は答えた。「貴殿を台下のもとへ連行する命を受けている」
「われわれは、台下のもとへもどるところです」と、アトスが進み出ていった。「ダルタニャンの口から、ラ・ロシェルへまっすぐに向かうという約束を、おとりになればよろしかろう」
「わたしはこの者を親衛隊の手に渡さなければならないのです。その隊士の手で、陣営に送りとどけてもらうことになります」
「われわれがその役を引き受けましょう。貴族として誓言します。だが」と、アトスはまた言いたした。「これもまた貴族として誓うが、ダルタニャンは、われわれとはけっして離れますまい」
ロシュフォールがちらりとうしろを見やると、ポルトスとアラミスとが、入口とのあいだに立ちふさがっている。これでこの四人を相手にしたら、まったく手も足も出ないと見てとった。そこで彼はいった。
「諸君、もしダルタニャン殿が剣を渡すことを承諾なされ、貴殿が申されたとおりにする旨お誓いくだされば、貴殿らがダルタニャン殿を枢機卿台下の陣営までお連れくださるという約束だけで満足いたそう」
「お約束いたす、さあ剣を」と、ダルタニャンはいった。
「じつは、このほうがありがたいので」と、ロシュフォールはつけ加えた。
「わたしはまだ旅をつづけなければならないのでな」
「もしその旅がミラディーにお会いになるためだとすれば」と、アトスがひややかにいってのけた。「むだですな。お会いにはなれますまい」
「あの人が、どうかしましたか?」と、ロシュフォールは、せきこんでたずねた。
「陣営に帰られれば、おわかりになるでしょう」
ロシュフォールはちょっと考えこんだが、枢機卿が国王を出迎えに来ることになっているシュルジェールまでは、ほんの一日行程だったから、彼はアトスの言葉に従って、彼らといっしょに帰ることにした。
それに、こうして帰ることのほうが得策だった。つまり逮捕した男を、自分で監視できるからである。
かくして、ふたたび帰途についた。
翌日の午後三時に、シュルジェールに到着した。
その地で枢機卿が、国王を出迎えにきていた。宰相と国王は親密な挨拶をかわし、ヨーロッパじゅうをけしかけてフランスに刃向かわせようとした執拗《しつよう》な敵から解放されることになった幸運を、ともに喜び合った。それがすむと、ダルタニャンが逮捕されたことをロシュフォールから聞いて、早く会いたいと思っていた枢機卿は、明日、完成した防波堤の工事を見にきていただきたいと申し出て、王のもとを辞去した。
その夜、枢機卿がラ・ピエール橋の陣営にもどって来ると、宿舎の門の前に、丸腰のダルタニャンと、武装した三人の銃士が立っているのが目にとまった。
こんどは備えがあるので枢機卿は、きびしい目つきで彼らを見ると、ダルタニャンについて来るようにと合図をした。ダルタニャンは、そのとおりにした。
「おれたちは、ここで待ってるからな、ダルタニャン」アトスは枢機卿に聞こえよがしに大声でいった。
枢機卿は眉をひそめて、ちょっと立ちどまったが、そのままひと言もいわずに、また歩きだした。
ダルタニャンが枢機卿につづいてはいると、ロシュフォールがそのあとにつづいた。入口には見張りがついていた。
枢機卿は書斎に使っている部屋にはいると、若い銃士をつれて来るようにとロシュフォールに合図をした。
ロシュフォールは、言われたとおりにしてから、引きさがった。
ダルタニャンは、一人枢機卿の前に残された。リシュリューとの会見は、これで二度目だった。彼が後に語ったところによれば、これが最後になると思ったそうである。リシュリューは立ったまま、暖炉棚にもたれていた。ダルタニャンとのあいだには、テーブルがひとつ、おいてあった。
「きみが逮捕されたのは、わしの命令によるんだよ」
「そのように聞きました、台下」
「なぜだか、わかるかね?」
「いいえ、台下。と申しますのは、わたくしが逮捕されるべき唯一の理由は、台下にはまだごぞんじないとぞんじますので」
リシュリューは、青年の顔をじっと見た。
「おや、おや! それは、どういうことなのかな?」
「まず台下が、わたくしに負わせられた罪をお教えくださいますならば、次にわたしが、わたしのいたしましたことを申しあげるといたしましょう」
「きみの負うた罪は、きみよりももっと高位にある人たちの首を落とそうとしたことだよ!」と、枢機卿がいった。
「どういうことでございましょうかな、台下?」と問い返したダルタニャンの落ちついた態度には、枢機卿のほうが驚いてしまった。
「王国の敵と内通した罪、国家の秘密をあばいた罪、軍の統帥者《とうすいしゃ》の計画を挫折《ざせつ》させた罪である」
「だれが、そのような罪を訴えたのでございましょう、台下?」と、そのような訴えはミラディーから来たものだと思っていたダルタニャンは、「国家の裁判によって烙印の刑を受けた女、フランスで一人の男と結婚していながら、イギリスでまた結婚した女、その二番目の夫を毒殺し、なおこのわたしをもまた毒殺しようと試みた女、その女でございましょう」
「なにを申すのだ?」と、びっくりして枢機卿は叫んだ。「どの女のことをいっているのだね?」
「ミラディー・ウィンターのことでございます」と、ダルタニャンは答えた。
「台下があの女をご信任あそばしたときには、おそらく台下はあの女の罪のことはごぞんじなかったのでしょうが」
「だが、もしミラディー・ウィンターが、今きみがいったような罪を犯しているとすれば、罰を与えてやろう」
「罰は受けております、台下」
「だれが罰したのだ?」
「われわれがでございます」
「牢《ろう》にはいっておるのか?」
「死にました」
「なに、死んだと!」枢機卿には自分の耳が信じられず、繰り返していった。「死んだって! きみは今、あの女が死んだといったのではなかったかな?」
「あの女は、わたしを三度も殺そうとしましたが、わたしはゆるしてやりました。ところが、わたしの愛していた女を殺してしまいました。そこで、わたしと、わたしの友人たちの手で、あの女を捕え、裁き、刑罰を与えました」
そしてダルタニャンは、ベテューヌのカルメル派修道院でボナシュー夫人が毒殺されたこと、一軒家の中で彼女を裁いたこと、そしてリス川の川岸で処刑したことなどを話した。
容易なことでは驚かない枢機卿も、からだじゅうが震えて来るのを覚えた。が、とつぜん、ある考えを思いついたとでもいったふうに、今まで暗く沈んでいた枢機卿の表情は、だんだんと明るくなっていって、ついにはすっかり晴れ渡った。
「つまり、きみたちは、人を罰する職責にあらぬ者があえて人を罰することは、殺人の罪を犯すことになるとは考えずに、人を裁いたわけだな」と枢機卿は、言葉のきびしさに似合わぬやさしい声でいった。
「台下、わたしは台下に対して自分の命乞いをするなどとは、一刻たりとも考えたことはございません。ご処刑をつつしんでお受けするつもりでおります。わたしは死を恐れるほど、生命に執着をもってはおりませぬ」
「いや、それはわかっておる。きみは勇気のある男だ」と、その枢機卿の声は、ほとんど情愛のこもった声だと言えそうなものだった。「だからこちらも前もって、いずれきみを裁き、罰を与えるぞと言えるわけだよ」
「ほかの人間ならば、台下の赦免状《しゃめんじょう》を懐中にいたしておりますと申すところでしょうが、このわたしはただ、いかようにもご処置をと、ただそれだけ申しあげることにいたしましょう」
「なに、赦免状だって?」と、びっくりしてリシュリューはいった。
「はい」
「署名はだれのか? 王陛下のか?」
枢機卿はこの言葉を、いかにも軽蔑をこめて言い放った。
「いいえ、枢機卿台下のでございます」
「わたしのだって? 気でも狂ったかな?」
「筆跡をごらんくだされば、おわかりでございましょう」
そういってダルタニャンは枢機卿に、アトスがミラディーから奪いとって、ダルタニャンに護符《ごふ》として与えた貴重な紙片をさしだした。枢機卿はその紙を手にとって、ゆっくりと一語一語を力をいれて読んだ。
[#ここから1字下げ]
この書面持参の者のなしたることは、予の命令により、国家の利益のためになしたるものなり。
一六二七年十二月三日 リシュリュー
[#ここで字下げ終わり]
枢機卿は読み終わると、ふかい瞑想《めいそう》に耽ったが、その紙をダルタニャンに返そうとはしなかった。
[どういう刑で、おれを殺そうと考えているのかな。いいとも、貴族の死に方を、とっくりと見せてやる]
若い銃士は、りっぱに死んで行ける心構えが、すでにできていた。
リシュリューは相変わらず考えこみながら、両手で紙を丸めたり、ひろげたりしていた。が、やっと頭をあげると、わしのような目つきで、誠実で明るく利口そうな青年の顔を見つめていたが、その幾筋かの涙のつたわった顔の上に、このひと月のあいだこらえ抜いてきたあらゆる苦悩のあとを読みとって、この二十一歳の青年がどんなに大きな将来を持っていることか、その活動力と勇気と才知とが、よき主《あるじ》に仕えた場合どれほど役立つかということを、おそらくこれで三度目か四度目だが、リシュリューは改めて感嘆の思いにかられた。
これに反して、ミラディーの罪悪と、その力と、悪魔的な才には、いっさいならず驚かされた。この危険な共謀者と永遠に縁が切れたことは、ひそかな喜びでさえあった。彼はダルタニャンがあっさり手渡した紙片を、ゆっくりと破り捨てた。
[いよいよ、だめだ]と、ダルタニャンは心の中でつぶやいた。
そして彼は枢機卿の前に、ふかく頭をさげた。[主よ、御心《みこころ》のままになしたまえ]と、祈るかのように。
枢機卿はテーブルに近づくと、立ったままで、すでに三分の二ほど書いてある羊皮紙の上に数行書きたすと、それに印璽《いんじ》を押した。
[これが、おれの判決だな。バスティーユの牢獄の退屈も、裁判の長ったらしさも、これではぶいてもらえるのだろうか、そうだとたいへんありがたいが]
「これを」と、枢機卿は青年に向かって、「きみから署名入りの書類をもらったから、べつのを一枚あげよう。名前は入れてないが、きみが自分で書きたまえ」
ダルタニャンは、ためらいながらそれを受けとると、さっと目を通した。
銃士隊副官の辞令であった。
ダルタニャンは、枢機卿の足元に平伏した。
「台下、わたしの一命は台下にお捧げいたします。どのようにでもご処分くださるよう。けれども、このご抜擢《ばってき》は、身分不相応のものでございます。わたくしの三名の友人のほうが、わたしなどよりははるかにふさわしく……」
「きみは、りっぱな青年だ、ダルタニャン」と言葉を切って枢機卿は、親しげにその肩をたたいた。この反抗心の旺盛な男を懐柔《かいじゅう》できたので、うれしくてたまらないのだ。
「この辞令は、きみの、好きなように使いたまえ。ただ、名前は入れないがきみにあげたのだということだけは、忘れないでくれたまえ」
「生涯、けっして忘れはいたしません」と、ダルタニャンは答えた。「ご安心くださいますように」
枢機卿は振り向くと、大きな声で呼ばわった。
「ロシュフォール!」
おそらく扉のうしろにいたのであろう、彼はすぐはいってきた。
「ロシュフォール」と、枢機卿はいった。「ここにいるダルタニャン君を、わたしは今後、自分の親しい人たちの中に加えるつもりだ。さあ、挨拶をかわして、お互いに命が大切だと思うなら、分別《ふんべつ》を忘れぬようにしてくれたまえ」
ロシュフォールとダルタニャンとは唇のはしで接吻し合った。傍《かたわ》らで枢機卿は、鋭い目つきで二人を見守っていた。
二人はいっしょに部屋を出た。
「またお会いしましょうな?」
「いつでも、お望みのときに」と、ダルタニャンは答えた。
「きっと機会がありますよ、そのうちに」と、ロシュフォールがいった。
「なんだね?」と、リシュリューが扉をあけた。
二人の男は微笑をかわして握手をしながら、台下に会釈《えしゃく》した。
「こっちは、じりじりしはじめていたところだ」と、アトスがいった。
「ちゃんと帰ってきたぞ!」と、ダルタニャンは答えた。「無罪放免どころか、恩賞つきだよ」
「話せよ」
「今晩な」
じじつ夜になると、ダルタニャンはアトスの宿へ行った。アトスは、スペイン産のぶどう酒をちびりちびりやっていた。これは毎晩、彼が宗教上のお務めのようにして、きまってやっていることなのである。
ダルタニャンは枢機卿とのあいだに起こったことを話し、ポケットから辞令を取りだした。
「さあ、アトス、当然これは、きみのものだ」
アトスは、いつもの魅力のある、やさしい微笑を浮かべた。
「これは、アトスにとっては過ぎたるものだが、ラ・フェール伯爵にとっては、取るに足らんものだ。この辞令はとっておきたまえ。これはきみのものだよ。ああ、きみは、えらい高価で、これを買ったもんだな」
ダルタニャンはアトスの部屋を出ると、ポルトスの部屋へはいった。
ポルトスは華美な刺繍《ししゅう》で飾り立てたすばらしい服を着こんで、鏡に見入っているところだった。
「おや、きみか! どうだい、この服はおれに似合うかい?」と、ポルトスがきいた。
「すばらしいよ」と、ダルタニャンは答えた。「ところで、じつは、もっと貴公に似合う服をすすめに来たんだが」
「どんな服なんだね?」
「銃士隊副官の制服だよ」
ダルタニャンはポルトスに枢機卿のことを話し、ポケットから辞令を取りだして、
「さあ、ここに貴公の名を書くんだ。そして、おれのいい上官になってくれよな」
ポルトスは辞令をちらっと見てから、意外にもそのままダルタニャンの手に押しもどした。
「うん、たしかにおれにはうれしい話なんだが、おれはこの恩恵をそう長いあいだ受けているわにはいかないんだ。じつは、われわれがベテューヌに遠征しているあいだに、例の侯爵夫人のご亭主がなくなってね。そこで金櫃《かねびつ》が向こうから手を差しのべてくれるものだから、おれはあの後家さんと結婚することになったのさ。いま着ているのが、つまりその花婿《はなむこ》衣装っていうわけさ。辞令は、きみがとっておきたまえ」
青年は、こんどはアラミスの部屋へ行った。
アラミスは祈祷台《きとうだい》の前にひざまずいて、開いた祈祷書に額を押しあてていた。
ダルタニャンは枢機卿との会談の模様を話し、こんどで三度目だが、ポケットから例の辞令を取りだすと、
「ねえ、われわれの光であり、見えざる援護者であった貴公に、ぜひこの辞令を受けとってもらたいのだ。だれよりも貴公は、これを受けるにふさわしい。聡明さという点でも、またいつも良い結果を生む数々の助言からいっても」
「残念ながら、きみ」と、アラミスはいった。「わたしはこんどの事件で、ほとほと武人の生活に愛想《あいそ》がつきたんだ。こんどこそは、この決心は堅いよ。この攻囲戦が終わったら、わたしは聖ラザール派修道院にはいる。ダルタニャン、この辞令は貴公のものだ。きみは軍職が似合っているよ。きっときみは、剛勇で勇敢な隊長になれるぜ」
ダルタニャンは感謝に眼をうるませ、喜びに心をときめかせて、アトスのもとへ帰ってきた。こちらは相変わらずテーブルの前に陣どって、ランプの光にマラガ酒の最後の盃《さかずき》を透かし見ていた。
「あの二人にも断わられたよ」と、ダルタニャンはいった。
「つまり、きみが受けるのか一番いいということさ」
彼はペンを取ると、辞令の上にダルタニャンの名を書いて、手渡した。
「これからは、おれにはもう友だちがいなくなるんだ! ああ! あとはただ、にがい思い出が残るばかりか……」
そう言うと青年は、両手で頭をかかえこんだ。ふた筋《すじ》の涙が、彼の頬をつたわって流れ落ちた。
「きみはまだ若いんだ」と、アトスがそれに答えた。「きみのにがい思い出も、歳月がそれを楽しい思い出に変えてくれるだろうよ」
むすび
ラ・ロシェルは、イギリス艦隊と、バッキンガムが約した軍団の援助が得られなかったので、包囲されること一年にして降服した。一六二八年十月二十八日に、降伏条約が調印された。
国王は、同年十二月二十三日に、パリに帰還した。市民は王を、同じフランス人を討伐《とうばつ》したのではなくて、まるで敵国を討って凱旋《がいせん》してきたかのように、喝采《かっさい》して迎えた。国王は緑のアーチをくぐって、サン=ジャックの町はずれから、パリへはいった。
ダルタニャンは副官の階級に昇進した。ポルトスは軍職をしりぞき、翌年、コクナール夫人と結婚した。待望の金櫃には、八十万リーヴルもはいっていた。
ムスクトンは華美なお仕着せで身を飾り、そのうえなお、一生の夢であった金ぴかの箱馬車のうしろに乗るという望みもかなえられた。
アラミスはロレーヌ地方へ旅行に出たあと、まったく消息を絶ち、友だちにも便りをよこさなくなった。後に、シュヴルーズ夫人が語ったところによると、彼はナンシーの僧院にはいったということである。バザンは平修道士になった。
アトスはダルタニャンの指揮下にあって、一六三三年まで銃士隊にとどまっていたが、その年、トゥーレーヌ地方へ旅行したとき、ルシヨンですこしばかりの遺産がはいったという口実で、軍職をなれた。グリモーは、アトスについて行った。
ダルタニャンはロシュフォールと三度剣をまじえ、三度相手を傷つけた。「四度目には、たぶん貴公を殺すことになりかねない」相手を助け起こそうと手をさしのべながら、彼はこういった。
「あなたにとっても、わたしにとっても、このへんでやめたほうがいいようですな」と、傷ついた相手はいった。「あんたが考えておられるよりも、わたしはあんたに好意を持っているんですよ。はじめて出会ったとき、わたしが枢機卿にひと言いえば、あんたの首をはねることはやさしかったんですから」
二人は、なんの底意もなく、こんどは、はればれとした気持ちで抱き合った。
プランシェはロシュフォールの好意で、親衛隊の軍曹になった。
ボナシュー氏は、細君がどうなったか知らず、また気にもかけないで、平穏無事に暮らしていた。
ある日、彼はかるがるしく枢機卿殿のごきげん伺いにまかり出たが、枢機卿からは、将来、何不自由ないようにはからってやろうという返事があった。
はたして翌日、晩の七時に家を出てルーヴル宮に向かったボナシュー氏はふたたびフォソワイユール街に姿を現わさなかった。消息通の話では、この男は、寛大な枢機卿台下の費用で、どこかの豪壮なお城に住み、そこで食べさせてもらっているということであった。 (完)
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解説
人と文学
〔生い立ち〕
アレクサンドル・デュマ(アレクサンドル・デュマ・ダヴィ・ド・ラ・パイュトリー)は、一八〇二年七月二十四日に、北フランスのエーヌ県にある小さな町ヴィレール=コトレで生まれた。父のトマ=アレクサンドル・デュマは[黒い悪魔]のあだ名をもつほどの勇猛な軍人で、ナポレオンの制覇《せいは》時代には彼を助けて大いに活躍し、陸軍少将までになったが、エジプト遠征中にナポレオンの野望を見抜いて彼と袂《たもと》を分かって帰国し、途上で捕えられ投獄される。二年間の獄中生活ののち釈放されたが、一八〇六年に他界するまで不遇の生活を送った。
母親のマリ=ルイズ=エリザベート・ラブレーはヴィレール=コトレの[白百合館]という旅館の娘で、その近くの森へ狩りにおもむいた国王ルイ十六世夫妻の竜騎兵隊員であるトマ=アレクサンドルに見染められ、大革命後の戦乱時代に大佐に昇進した彼と結婚したのである。この[黒い悪魔]はまた、革命政府が新政体の敵と見なす人たちを簡単な裁判でギロチンによって処刑する狂信的愛国主義に対して勇敢に反対したので、[ユマニテ氏](人道主義者)というあだ名も持っていた。ナポレオンの勘気にふれてからは俸給も恩給も支給されず、そのくせ彼は数頭の馬を飼うという将軍らしい生活を送っていたために、マリ=ルイズは苦しい生活に耐えていかねばならなかった。だが夫婦のあいだにアレクサンドル・デュマが生誕したことにより、夫妻の生活に明るい光がさした。
父親の祖父は、西インド諸島のセント・ドミンゴに移住していたころ、黒人女のマリ・セセットと結婚したので、アレクサンドル・デュマの中には、当然黒人の血が流れている。これは彼の縮れっ毛や容貌を見ればわかるが、奔放自在な性格も、この血の影響なしには考えられまい。彼の誕生については、その著『回想録』その他により、さまざまの伝説が伝えられているので、二、三をしるす。
彼の語るところによれば、「彼は生まれるとすぐ、裸のまま父親のところへ連れてゆかれた。すると勢いよくおしっこをした。それは赤ん坊の頭の高さを越えて、空中高く放出されたのである。『わしは、大の男でも、こんなに遠くまで小便を飛ばすのを見たことはない。こいつはきっと大物になるぞ』と、父親は叫んだ」という。
デュマはまた、こんなことも話している。
「ぼくは幼いころに変わった特徴を持っていた。だが、この特徴は後のぼくの一生を全部暗示していたのだ。生後六か月で、ぼくは立って歩きだした。しかし人とはちがって、爪さきで立って歩くんだ。おふくろはそれを見て異常児じゃあるまいかと心配したが、おやじはほかの子どもとちがう珍しい特徴だと考えた。そしてこの考えは正しかったのだ。
『こいつは一生踊って暮らすのかもしれない』と、おやじは、ぼくのことを励ましてくれた。
同じ町に住む、ギリシア・ローマの神話に通じているコラールという人は、幼児の自分を見て、ジャン・ド・ボーローニュ作の有名なマーキュリーの像にそっくりだといっていたが、(じじつその足は異常なまでに小さく、からだつきは丸みをおびていた)ある晩わが家を訪れた彼は、ぼくを膝の上にのせて、こんなことをいった。
『坊ちゃんの踵《かかと》には、マーキュリーのように羽が生えているんですよ』と。
そしておやじの質問に答えて、マーキュリーの踵の羽は、早さと逃走のシンボルであること、従ってマーキュリーは盗賊の守護神であることを説明した。
『では、うちの子は盗人になる運命なんですか』と、おふくろは叫んだ。
コラール氏は、盗賊というものはすべて罪人であるとはかぎらないこと、スペインはインドの金を盗んだし、プロメシウスは天から火を盗んだし、蜜蜂は蜜を作るために花から蜜を盗んでいると答えた。おやじはこの説に賛成したが、そのとき座にあった人たちのだれもが、後年ぼくが他人の着想を盗んだといって、あんなになんども非難されることになろうとは考えていなかったにちがいない。
コラール氏はおふくろを慰めるつもりで、逃げるということは飛ぶということと結びつくだけではなく、想像力が空を飛ぶというときにも使われるから、踵《かかと》に羽をもつ神さまは、同時に雄弁の神さまでもあると話した。
『マーキュリーはまた商業の神でもあります』と、コラール氏はつづけていった。
『泥坊で、雄弁家で、その次は商人ですか。なんという変な組合わせなんでしょう』と、おふくろはいった。
『そんなに変な組合わせでしょうか』と、コラール氏は答えた。『一人の人間が、ものを取りこむ才能と、雄弁に話す才能とを生まれつき恵まれたときには、商売で成功するのに必要なすべてを持っていることにならないでしょうか』
これ以上は説明する必要はあるまい。ぼくの名が出るたびに、これまで幾度、あいつは文学の商人にすぎないと言われたことだろう。このことは生まれたときにすでに予言されていたんだ。しかし四つのとき、おやじが死ぬと、とつぜんぼくも人並みに踵を地面につけて歩きだしたのに、おふくろは気がついたのだった」
父親の将軍が他界したあとに残ったものは、借金だけだった。将軍の両親もまもなく亡くなったが、遺産はすべて低当にはいっていて、一文の収入にもならなかった。そのうえ、ナポレオンの秘密警察の目は鋭く、皇帝の不興をこうむった男の寡婦《かふ》に救いの手をのべることは危険であった。そのためにデュマ夫人は、ごく近親の人たちから、それもこっそりと救助を仰ぐことしかできなかった。それでも彼女は、なんとかしてわが子らにひもじい思いをさせまいとして努めたが、アレクサンドルはいつも腹を減らしていた。彼の『回想録』には、少年時代に空腹に苦しんだことは語られていないが、作品中には、当然飢えの苦しみが、切実感をもって語られている。
幼いデュマと姉の二児を抱えて彼女の両親の家に身を寄せたマリ=ルイズが、いかに貧乏に苦しんだかは、もうけの少ない国家専売品のたばこと塩の店を出すことを、飛びつくようにして引き受けたことでも察せられる。
アレクサンドルは何年間も、父親の古い軍服を仕立て直したものしか着せてもらえなかった。それゆえ、流行の衣装を着てパリからやって来る人を見ると、彼はうらやましくてたまらなかった。後年、どんな着物でも買えるほどの金持ちになったとき、彼が孔雀《くじゃく》のように身を飾ったのは、けだし当然であろう。
食べものについては、生涯彼は食物に取りつかれていた。まもなく自作の脚本が当たって、はじめて相当の金額を手にしたとき、彼は一番近くのレストランへ駆けつけて、一年分の食事代を払いこんだ。一年間は、食べる心配がないようにというわけである。これは、飢えの苦しみを知らない人間には、けっして理解できない行動であろう。生涯、食べるということが、彼の関心事だった。彼の唯一の趣味は料理だといってよかった。彼の最後の著作は『料理辞典』であって、未完ではあったが、彼にとっては遺書に等しかった。
〔少年時代〕
マリ=ルイズは自分の貧乏を、夫が思いあがって歴史にかかわり合ったために神さまから罰を受けたのだと思っていた。それゆえむすこをバイオリン弾きにして、できるだけ歴史の流れから遠ざけようと固く心に誓った。そこで彼女は爪に火をともすようにして倹約しても、アレクサンドルに毎日バイオリンを教えに来る先生のユロー氏に支払う週三フランの金を捻出《ねんしゅつ》したのだった。そして彼を無理やりに勉強させるためにはあらゆる手段を講じ、ときには彼に折檻《せっかん》を加えたりさえした。練習は二年間つづけられたが、そのあげくユロー氏のほうから、いくら手を尽くしてみてもアレクサンドルに習う気がないのだから、デュマ夫人のなけなしの礼金を受けとるのは良心が許さないからといって断わってきた。
ユロー氏の言うのははなはだもっともで、朝早く起きて、昔の王室領の森の中を駆けまわり、森の中に一日じゅう隠れていて夜になると帰って来る彼を、いくら母親が折檻してもバイオリンの勉強をさせることはできなかった。それに、譜面台《ふめんだい》に立てる二本のろうそく代の負担も彼女には耐えがたかった。だが、しじゅう家を外に遊びまわっているために、彼は寒さや雨や雪に鍛《きた》えられた。その結果、一生涯、彼は病気というものを知らなかった。
こんなふうに小兎《こうさぎ》を罠にかけたり、鳥もちで小鳥を捕えたりして森の中で一日をすごしている少年を、どうしてバイオリニストにすることができるだろうか。
彼は猟場の番人の監視の目の裏をかくことが日ましに上手になったが、ときには自分で仕掛けておいた罠をわざわざ知らせてやるようなことをした。そのために番人たちから正直者だという評判を取り、疑われる代わりに、非常に信用されるようになった。
また彼はほかの密猟者たちに出会うとすぐに友だちになり、たくさんのトリックを教えてもらった。カケスを捕えて、生きたまま羽をむしる方法などもあった。そのときカケスが発する叫び声を聞きつけて、一キロ四方の小鳥たちが集まり、すでに身動きのできなくなったカケスをついばみはじめるので、そのすきに小鳥たちを一網打尽《いちもうだじん》に捕えるという手である。
だが彼は狩猟家ではなく、あくまでも食べるために獲物《えもの》を狙ったのである。小鳥を一ダース焼串に刺すと、すぐそれを火にあぶった。そしてポケットからパンを取りだして、その小さい焼肉から滴《したた》り落ちる油を、ひとしずくもむだにしないように、それにしみこませた。そのような喜びのとき彼を傷つけることは、わが家で昨日のポタージュをあたためなおして夕飯を食べている母の姿だったという。
むすこをバイオリン弾きにすることに失望したデュマ夫人は、こんどは彼を坊さんにしようと決心した。だがこの決意も空しく、坊主になるのがいやさに三日間も森の中に隠れた彼を迎えに、二度と坊さんにはしないからという言伝《ことづ》てを密猟者の一人に持たせてやらねばならなかった。
母親は最後の手段として、彼が九歳のとき、町のグレゴワール司祭の営む学校で、初等教育を受けさせた。だが彼は算術は大きらい、古代の作家たちの書いた物語を読むのは好きだったが、ギリシア語やラテン語の文法は軽蔑していた。ただ点数のいいのは習字だけだった。
十五歳のとき、アレクサンドルは隣村の公証人ムネッソンの三等書記となったが、鉄砲をかついで森の中にはいり、二日間も事務所をあけたので、公証人のところは首になった。
それから一、二年して彼は、ヴィレール=コトレにやってきた軽騎兵隊の青年士官アメデ・ド・ラ・ポンスと知り合い、この教養豊かな男からイタリア語を学んだり、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を読むようにすすめられたりしている。また同じころ、はじめて出てみた町の舞踏会で、手袋を借りたのが縁で、近所のスウェーデン貴族リビング伯爵のむすこアドルフ・リビング・ド・ルーヴァンと親交を結ぶようになり、この文学青年から彼はダンテ、シラー、ゲーテなどの作家に接する機会を与えられたと同時に、パリの芝居通のアドルフ青年から大いに啓発された。ソワッソンの町で、旅役者の一座が『ハムレット』を上演したとき、彼を連れて行ってくれたのもこのアドルフ青年であった。この芝居を観て彼は大いに感激し、将来劇作家になろうと決意した。彼らは合作で一幕物を三つ書き、アドルフがそれをパリへ持って行った。だが脚本はどれも送り返されてきた。
〔パリ上京〕
ある晩アレクサンドルは、行きつけの[金の玉]という宿屋で、亭主を相手に球突きをやって、九十フランもうけた。「これだけあればパリに行くことができる。大劇作家になることができる。シェイクスピアになることができる」と、彼は心の中で叫んだ。彼は翌日の晩に出発する乗合馬車の座席券を求めた。ときにアレクサンドルは二十一歳であった。
むすこの決心を聞かされたとき、デュマ夫人は声をあげて泣いた。だが、むすこの固い決心をひるがえすことはできない。二人は亡き将軍の手紙箱の中から、アレクサンドルがパリで身を立てるに当たって援助を求めることができそうな、将軍の旧友たちの手紙を選びだした。パリに着いた彼は、それらの手紙の差出人の一人であるフォワ将軍の推薦により、能筆を買われてオルレアン公の事務所の見習書記となった。
ポルト=サン=マルタン座に『吸血鬼』を観に行き、その作者であり、ロマン派文学運動の指導者の一人であるシャルル・ノディエと知り合った。ノディエはまもなくアルスナル図書館の館長に任命されるが、その建物の中の豪奢《ごうしゃ》なサロンに、毎週当時の第一流の文学者たちを集めた。デュマもやがて、その会合に招かれるようになった。
翌年、同じアパートの同じ階に住むお針女カトリーヌ・ルベーと情交をむすび、彼女とのあいだに後の『椿姫』の作者であるデュマ・フィスが生まれる。ところがいよいよ子どもが生まれる予定日の少し前に、母親から上京するという手紙を受けとったのだ。寄る年波でこれ以上商売をつづけることができなくなったデュマ夫人は、たばこと塩の店をたたんでその売却金でむすことパリでいっしょに暮らそうというのである。そのために、カトリーヌ・ルベーが男の子を生んだちょうどその日に、アレクサンドルは、新しく母親といっしょに住むことになったフォーブール・サン=ドニ街五十三番地の家に移らねばならなかった。かくてアレクサンドル=デュマ・フィスは、父親が不明の私生児ということになってしまった。
かわいいアレクサンドルが生まれても、デュマはかわいそうな母親のカトリーヌ・ルベーにわが子の養育を任せて、自分は作劇術の勉強に没頭した。幸いオルレアン公の事務所の同僚にラサーニュという文学好きがいて、すでにヴォードヴィル(軽喜劇)の作者でもあるその男のすすめに従って、古くはアイスキュロス、ソフォクレスから、シェイクスピア、ウォールター・スコット、バイロン、フェニモア・クーパーその他回想録の類《たぐい》を、彼はしばしばランプの芯《しん》が燃えつきて煙を出すまで読みふけった。そして、夜が明けるのを待って、ふたたび読みだした。そのあいだには、研究した芝居の台詞《せりふ》を暗記しながら部屋の中を歩きまわったり、またパリの街を歩きまわっているときでも、「神さま、どうかぼくに霊感をお与えください、すばらしい芝居のテーマを教えてください。それさえ見つかれば、てこひとつだけで地球を持ちあげることのできたアルキメデスのように、ぼくはパリの劇場を攻め落とすことができるのです」と、絶えず心の中で叫びつづけていた。
〔劇場へデビューする〕
かくて最初に書かれた作品は、ルーヴァンおよびルッソーとの合作になるヴォードヴィル『狩猟と恋』で、一八二五年にアンビギュ座で上演された。翌年には、ラサーニュとヴュルピアンとの合作で『婚礼と埋葬』が発表された。そのころイギリスの俳優の一行がパリにやってきて、オデオン座、ナヴァル劇場、イタリア劇場などでシェイクスピア、オットウェイ、ハワード・ペインなどの作品を上演したので、デュマもそれらを観て、かなりの影響を受けたにちがいない。
ある日のこと、ふと飛びこんだ美術展で、彼はド・ファヴォー嬢作の『モナルデッシーの暗殺』と題される浮彫絵に心ひかれた。それは女王のような姿をした女の最後の命令を待ちながら、一人の男の手足を押えつけ、まさに殺そうとしている二人のならず者と、彼女の前にひざまずいて男の助命を懇願している一人の僧侶を描いていた。
愛と死……自分の書こうとしている劇のテーマをそこに見た彼はさっそく、モナルデッシーというこの不幸な男をさんざんもてあそんだ末、死刑に処したスウェーデンの女王クリスティーヌの専横で、放埒《ほうらつ》な生涯を調べた。そして彼は日夜仕事に没頭し、五週間かかって五幕の悲劇『クリスティーヌ』を書きあげた。この脚本はしかし、コメディ・フランセーズ劇場の支配人テーラー男爵に認められ、審査委員会で採用がきまったのに、韻文《いんぶん》にやかましいテーラー男爵の黒幕であるピカールの反対に会って、せっかくの劇壇へのデビューの夢をくじかれた。
が、デュマは、なお明けても暮れても脚本のことばかり考えていた。そんなある日、ふとしたことからギュイーズ公がその妃カトリーヌ・ド・クレーヴの不義を糾明《きゅうめい》している文句をみつけ、カトリーヌの不義の相手がほかならぬ国王アンリ三世の寵臣で男色の相手であるサン・メグランであるを知るに及んで、この事件を脚色しようと思い立った。だが事件の真相をもっとくわしく知る必要がある。そこで彼は亡父がナポレオンと取りかわした手紙をもって、当時古文書の収集家として名高いマチュー=ギヨーム・ヴィルナーヴ氏を訪れた。氏から数冊の参考書を借りた上、月曜日の定例研究会にも招待されることになったが、さらに数週間前に途上で顔見知りになったヴィルナーヴの娘ヴァルドール夫人と再会したのである。
彼女はメラニーといい、地方勤務の歩兵将校に嫁したが夫婦仲がうまくいかず、幼い娘を連れて実家に帰っていたのである。やせて小柄で、見るからに神経質らしいメラニーは多感な女性であった。その彼女に対してデュマは大胆にも、恋の詩を送りつけたのである。詩に趣味をもっていた彼女は、返しの詩をくれた。詩が手紙の往復となり、最初は月曜日ごとに手渡していたが、やがてそれが毎日になり、ついには一日に三度も四度も出すようになった。デュマは例によって、自分の恋の烈しさと辛《つら》さを、あらゆる殺し文句を使って訴えた。メラニーのほうはそれほど熱烈ではなく、最初のうちは自分のように心の痛手を負うている人間はそっとしておいてもらいたいと書いていたが、後には今まで日に三度も四度も会ってくれたのに、このごろでは一日に二度しか会ってくれないのは愛情の衰えた証拠ではないかと不満を述べているところを見ると、まんざらではなかったらしい。
じじつこのような恋の冒険にもかかわらず、デュマは片ときも劇作のことを忘れてはいなかった。彼は新作の『アンリ三世とその宮廷』に没頭していた。こんどは前作が韻律でけちをつけられたのに懲《こ》りて、散文で書いた。
この新作は発表しないまえから、古典派とロマン派のあいだの論議の的になってしまった。というのは彼はメラニーに頼んで月曜日の会合に、できるだけ俳優や作家、それに劇場の支配人などを呼んでもらい、そこで読んでしまったからである。のみならずゴシップの好きなパリの新聞は、アンリ三世を主題にした彼の新作が、王室とその制度に対して痛烈な批判を加える目的で書かれたものであるという噂《うわさ》をばらまいた。その結果は政界も二分されてしまった。保守派の政治家は、デュマの新作が男色の国王を主人公にしているのは、ほかのフランスの国王たちにもこのような人物があることをほのめかしているのであって、これは新しい革命の温床となるものだから禁止されたいと、チュイルリー王宮に訴えた。だが共和派の連中は、政治上の配慮から歴史上の真実が犠牲になることは全世界の歴史家を侮辱《ぶじょく》するものナあるといって抗議した。
いたるところで彼の新作は話題となり、デュマの名前は、あらゆる新聞で書き立てられた。オルレアン公の事務所にも、彼に面会を求める俳優や批評家たちが次々と押しかけた。たまりかねた上役は公爵に具申《ぐしん》したのであろう、ある朝デュマは上役に呼ばれ、解雇状を手渡された。理由は、彼が文学の仕事に多忙をきわめているからというのである。だがこの解雇の理由は不当であった。いかに文学の仕事に多忙であったとはいえ、彼は写字の仕事を一日たりとも怠ってはおらず、このことは他の同僚も認めているからである。デュマはこのとつぜんの解雇を宣伝に使うことを思いついた。つまり彼が首になったのは、裏に政治上の理由があるので、こんどの新作はオルレアン公がひそかに抱いている野望を暴露《ばくろ》したものだという噂をばらまいたのである。
というのは、アンリ三世とその王位を奪ったギュイーズとは従弟《いとこ》関係にあったように、オルレアン公ルイ・フィリップも現国王のシャルル十世の従弟に当たっていたからだった。そこで、ひそかに王位をうかがっているオルレアン公が、デュマの新作によりその野心を見破られるのを恐れて、そのために彼を首にしたのだとの推測は、一応考えられた。
この臆測はしだいにひろがり、いよいよデュマの新作の評判は高まった。ついにオルレアン公も従弟のシャルル十世をたずねて、世間で評判になっている噂が事実無根であることを釈明し、デュマを解雇したのは彼が封筒書きの仕事を忘れて始終文学に耽《ふけ》っていたからだと言上しなければならなくなった。
新たに書いた脚本が世論を二分し、雇い主のオルレアン公からは首になり、それがまた国王の耳にまで達したということは、すでに新作が成功したのも同然だった。
コメディ・フランセーズの初日は、一八二九年二月十一日土曜日ときまった。しかし、はたして成功するかどうか不安なデュマは一策を案じ、パレ・ロワイヤルのオルレアン公の館に出向き、公をその夜の客ともども二階の正面席に招待した。扉が開かれ、場内は相反する二派の闘士で、いっぱいになった。片や理性と秩序、良き趣味と良識の擁護《ようご》をもって任ずる地味な服装をした古典派の連中、片や新しい情熱的な方法で自己を表現する権利と、大衆の支持を獲得しようとする、けばけばしい服装をしたロマン派の連中、その中にはユゴー、アルフレッド・ド・ヴィニイ、ゴーティエ、ノデイエ、サント=ブーヴ、ラマルティーヌの姿も見られた。新しい愛人のメラニー・ヴァルドールがいたのはもちろんだが、生活苦を訴えにわが子アレクサンドルを伴って現われたカトリーヌも残っていた二つの席にすわることができた。
幕が進むにつれて、古典派とロマン派の争いは、いよいよ熾烈《しれつ》になった。悪罵《あくば》と口笛と、拍手喝采とが競い合った。見物のわめき声に俳優のせりふは打ち消されて、しばしば演技を中止したり同じ場面をくり返さねばならなかった。しかししだいに、ふつうの観客までが舞台の美しさと迫力に感動して声援を送りはじめたので、古典派の口笛や野次は圧倒されてしまった。終幕近いギュイーズ公のモノローグあたりになってくると拍手喝采の連続で、観客の興奮は絶頂に達した。
大成功だった。翌日の保守派の新聞がいっせいに彼の新作を攻撃したにもかかわらず、劇場の前には座席を予約するための列がえんえんとつらなった。オルレアン公は新たに彼を、司書官補佐に任命した。
『アンリ三世とその宮廷』の成功に勢いを得て、デュマは次々と新しい趣向の喜劇や悲劇や、思いきった筋の運びのメロドラマを書いた。三十年二月二十五日の[エルナニ事件]にも参加して盟友ユゴーのために、ロマン派高揚のために大活躍した。三月三十日には、前作『クリスティーヌ』を改作して、オデオン座で上演した。またヴィニイの愛人であった女優のマリ・ドルヴァールに懇願され、彼女をヒロインとする『アントニー』を書いた。これは冷たい結婚生活よりも情熱的な姦通のほうがはるかに人間的であり美しいことを示した作品で、それがポルト=サン=マルタン劇場で初演されたときには、この作のモティーフを与えたメラニー・ヴァルドールも見物にきていた。だがデュマはその晩はすでに新しい愛人のベル・クレプサメールといっしょに桟敷《さじき》の中にいた。彼女は田舎《いなか》から出てきた女優で、青味がかった黒い髪と紫色の眼をした美人で、そのときはもう妊娠していた。まもなく彼女はマリ・アレクサンドル・デュマを生むことになる。
『アントニー』は大成功で、百三十回も続演したという。彼は多忙の時間を割《さ》いて、その初演のあと二、三日して、カトリーヌ親子を新しく買い求めた郊外の家に伴い行く。彼はけっしてこの最初の女を、そして鍾愛《しょうあい》するむすこアレクサンドルを忘れていたのではなかった。
その後もこの二人をしばしば貧困と苦しみの生活に追いやるが、それは彼の生活があまりにも多忙であり、それにもまして、彼の生活そのものがでたらめでだらしなかったからである。まったく金銭については子ども同然のデュマの生活を見て、カトリーヌ・ルベーがふたたび元の仕立屋の商売をはじめたのも無理からぬことであった。だがデュマはこの哀れな母親の唯一の心の拠《よ》りどころであるむすこを取りあげて寄宿中学校に入れてしまうのである。もっともデュマにしてみれば、わが子に教育をほどこさねばならぬことを痛感したからそうしたまでで、それなりに理由はあったのだが、カトリーヌはまた元の孤独の生活に帰ることになり、むすこはこの寄宿学校で学友からいじめられ、生傷《なまきず》の絶えない苦しい生活を送ることとなった。もちろんデュマは月になんどか、むすこを連れだして、楽しい一日を過ごさせてくれた。だがむすこは、父の名声が高まるにつれて、父に向けられる非難と攻撃とを甘受しなければならなかった。
デュマに向けられる悪質なゴシップの火元はグラニエ・ド・カサニャックであるというのが、大方の意見だった。じじつ彼は[デバ紙]に長文の論文を発表し、上段にはシラーの『ドン・カルロス』の抜枠を、下段にはデュマの『アンリ三世とその宮廷』の一場面を引用し、後者が前者のほとんど敷き写しであることを示したほか、シラーの『エグモント』とデュマの某脚本、ロペ・ド・ヴェガの『恋と名誉』とデュマの別の脚本についても同じことが試みられ、また『クリスティーヌ』の中の譲位の演説は、ユゴーの『エルナニ』の中の王の演説をただ逆にしただけであると指摘した。
「いかにしてデュマは創作するのであろうか。はなはだ簡単である。彼は奪い、盗むのである。彼にはペンは必要ではない。一丁の鋏《はさみ》さえあれば、こと足りるのである」と、カサニャックはきめつけたのである。
このような酷評を読んで怒らぬ者があろうか。だがデュマは、どこへ行ってもこういっていた。
「この論法でゆくと、二、三十の脚本を書いた人間なら、誰でも幾つかの場面を他人から盗んだことが証明されるだろうよ。なぜなら作家はたった一人ではなく、文学の広い世界では、人間行動の面において、過去に前例のないようなものはあり得ないからだ。類似の環境状態におかれると、作中人物は同じやり方で行動し、同じ言葉で自己表現をするのが当然だろう」と。
またカサニャックの引用したシラーの場面と彼の『アンリ三世とその宮廷』の一場面とが一字一句ちがわないではないか、これはぜひ反駁《はんばく》する義務があるといって親切心から彼にすすめた友だちに対しては、「そうかもしれない。しかしあの場面はシラーの芝居の中でよくできた場面なんだぜ。それがぼくの芝居の中に使われたらどうして悪い場面になるんだ。むしろいっそう引き立つぐらいじゃないか。だってぼくの芝居のほうがシラーのものよりずっと巧く書けているからさ」と、ぬけぬけとデュマは答えたという。
こんなに堂々と自己の剽窃《ひょうせつ》を認めたのでは、何をか言わんやである。じじつ彼は、どこへ行っても次のように公言してはばからなかった。
「盗む盗むとひとは言うが、アレクサンドル大帝がギリシアを盗んだとか、イタリアを盗んだとかは、誰も言わないじゃないか。ぼくが他人から取ってくるのは、盗むのではなくて征服したんだ。併合したんだ」と。
デュマの意見によると、ほかの劇の一場面を盗もうが盗むまいが、ひとつの脚本を書くには作劇法が大事なのであって、それゆえ例えばユゴーがその『リュクレース・ボルジア』の中で、彼の『ネールの塔』を模倣したと聞いても、それを是認できたのであろう。
〔歴史小説へ転向する〕
一八三二年五月にポルト=サン・マルタン劇場で上演された『ネールの塔』も大当たりをとった。このように次々と上演した芝居が成功したので、劇作家としてのデュマの地位は確立されたが、スイスに旅行中に、つづいて同劇場で上演された『亡命貴族のむすこ』が不入りだというしらせを聞いて、機を見るのに敏な彼は、歴史小説を書くことを思いたった。これには、ヴィクトル・ユゴーの『ノートル・ダム・ド・パリ』の成功などにも刺激されたからであろう。
かくて三九年にデュマは、歴史小説『アクテ』を発表したが、これはたいして問題にならず、やはり同年四月にコメディ・フランセーズ劇場で上演した喜劇『ベリール嬢』が当たりをとっている。
その翌年彼は、ふとした気まぐれから、女優のイダ・フェリエと正式に結婚した。彼女は初舞台のときは、小柄の金髪の美人であったというが、浮気者だという評判が高く、結婚したころはすっかり太っていた。ミュッセの言によると、彼がフェルディナン・ドルレアン公の催した舞踏会の席上で、公爵にこの女と近いうちに結婚するといってしまったので、のっぴきならぬはめになったというが、どこまで事実か。一説には、イダの愛人の一人である富豪のデュマンジュ氏が、強引に結婚を迫ったイダと手を切るために、デュマの振りだした手形を全部買いとって、彼女を彼に押しつけたというが、このほうがまだしも無軌道な彼の生活ぶりから見て真がおける。
それによるとデュマンジュ氏は買いとった手形をイダに与えたので、彼女はそれを使ってデュマを脅迫し、そのために彼はいやいやながらも五年間もしんぼうしなければならなかったという。四四年十月十五日に、やっとデュマと離婚した彼女は、フィレンツェに引きこもり、デュマが毎年送る六万フランの金で生活したそうである。
小説家として彼がはじめて成功したのは、四四年に発表した『三銃士』であった。歴史上の事実を彼のもつ豊かな想像力によって思うぞんぶんに着色し、登場人物に奇想天外な行動を次々と演じさせ、自由奔放な筆で描いたこの小説は、大衆に大いに受けたのである。勢いを得て彼は、翌四五年には『二十年後』(十巻)『摂政の娘』(四巻)『マルゴ女王』(六巻)を発表し、前年から執筆中の『モンテ・クリスト伯』(十八巻)、『ルイ十四世とその世紀』を完結させ、『女たちの戦い』(八巻中六巻、残りは四九年)童話二編を発表するなど、とうてい人間|業《わざ》とは思えぬ多作ぶりを示している。
また同年二月に、このような彼の多作ぶりを非難して、「小説の製作所、アレクサンドル・デュマ会社」と題するパンフレットを刊行したウジェーヌ・ミルクールを相手どって訴訟を起こし、勝訴となって相手に二週間の禁固と三百フランの罰金を科さしめた。じじつデュマと署名された作品は長短編合わせて二百五十七巻、戯曲二十五巻というのだから、まことに驚嘆に値いする。
なお世評のよかった小説、例えば『三銃士』『摂政の娘』『マルゴ女王』『赤い館の騎士』『モンテ・クリスト伯』『女たちの戦い』などはいずれも脚色して上演しているのだから、まったく恐れ入るしだいである。周知のように、このような多作ぶりを発揮できたのは、オーギュスト・マケや、ジェラール・ド・ネルヴァルのようなすぐれた協力者がいたこともさることながら、その旺盛な筆力には驚嘆を越えて、あきれかえらざるを得ない。
そのうえなお彼は、このような多作ぶりを示すかたわら、スイス、地中海、アルジェリア、スペイン、イタリア、さらにドイツからロシアへまでも旅行し、それらの見聞をまた作品に使ったり旅行記を書いたりしている。
〔王者にして偉大なる浪費家〕
デュマは名声が高まるにつれて、いよいよ書きまくった。四六年には『赤い館の騎士』(六巻)『モンソロー夫人」(八巻)『モーレオンの私生児』(九巻)『二人のディアンヌ』(十巻)そして、この年から四八年にかけて『ある医師の記録ジョゼフ・バルサモ』(九巻)を発表するという有様だった。
これより先、彼はイダ・フェリエと離婚すると同時に、むすこのアレクサンドルをわが家に迎え入れて、むすこを大いに悪くしつけていたが、その年の十月、むすこやオーギュスト・マケなどを連れて、スペインからアルジェリアへと向かった。このときむすこのアレクサンドルは、その後彼の文名をとどめるに至った『椿姫』のモデルであるマリ・デュプレシスと熱烈な恋愛関係にあった。
スペインの町々で大いに歓迎されたデュマの一行は、翌年一月パリにもどった。その年の二月には経営になる「歴史劇場」が完成し、そのこけら落としは、新作の『マルゴ女王』で、夜の六時半に開幕して、最後の幕がおりたのは明け方の三時で、えんえんと八時間半もつづいたこのメロドラマに対して嵐のような拍手喝采がつづいたという。しかしこれよりも長時間にわたった彼の芝居は、脚色された『モンテ・クリスト』で、これは長すぎて、ひと晩では演じられないので、三晩かかったそうである。
当時の彼は名声の絶頂にあって、一年に八十万フランの収入があったという。これは王侯の収入であるが、同時に彼の出費も王侯なみであった。彼はヴェルサイユに近いマルリ・ル・ロワの森の中に豪壮な「モンテ・クリスト荘」を新築したが、しばしばここに六百人に近い人々を招待して、大宴会を催した。来客はローマ人の服装で出席することに定められ、調度品及び料理も、古代ローマを模倣したものであったという。だが、原稿の約束にしばられて書きあげねばならぬ彼は、しばしばその野外宴に出席することができず、ようやく原稿を書きあげて来客たちの仲間に加わろうとしたときには、すでに宴会の終わりを告げる花火が空高く打ち上げられたという。
彼はまた食客たちの、いい食いものになっていた。何をしているかわからず、彼自身も見知らぬ男が、何年にもわたって彼の家に居すわっていたというのだから、これではいくら稼《かせ》ぎがあってもたまったものではない。
このように彼の屋敷に押しかける人はふえる一方で、しまいには極端にいえば彼のすわる場所さえなくなる有様だった。そのうえ仕事の注文はいよいよ多くなる。たまりかねて彼は、仕事部屋を別に持つことにした。しかしそれも、最初の予定では雨露をしのぐテーブルと椅子さえあれば足りる簡単な小屋だったのが、台所と寝室ぐらいはいいとして、しまいには書庫から婦人用のしゃれた部屋、さては噴水や池まである五階建の大邸宅になってしまい、最初は一週間で完成するはずの小屋が完成するまでに三年近くかかったといわれる。
デュマは芝居や小説のほかにも、ルイ十四世と十五世の時代についての歴史を二冊書き、そのほかに文学関係の雑誌『新フランス』や『月報』のほか、三つの共和主義と民主主義の政治雑誌を次々に出した。そして彼自身、一八四八年の二月革命から五一年十二月二日のナポレオン三世によるクー・デターに至る動乱の時代には、共和派の代議士としてさまざまの地区から数回立候補したが、いずれも落選の憂き目にあった。演説会には聴衆が押し寄せ、彼は得意の雄弁をふるって聴衆を湧《わ》かせていたのに、蓋《ふた》をあけてみると、いつも意外の結果に終わるのだった。
二月革命勃発の年も彼はあい変わらず書きつづけ、『四十五人』(十巻)、旅行記『パリよりカディス』、また五一年にかけてスペイン、アルジェリアの旅行記『タンジール、アルジェ、チェニス』を発表し、五十年にかけて、『三銃士』の続編である『ブランジェロンヌ子爵』(二六巻)の執筆にかかっている。また歴史劇場の経営は続けられ、二月に前述の『モンテ・クリスト』を、十月には『カタリーナ』を上演し、またむすこの小説『椿姫』を脚色して上演した。しかし動乱の日々のこととて、どの劇場もがらあきで、『椿姫』も一度の上演だけで続演とはならず、歴史劇場も翌年十月には債権者に押えられて閉鎖しなければならなくなった。デュマの損害は五十万フランを超えたが、彼は一向に動ぜず、あい変わらずの浪費生活をつづけていた。
だがついに、五一年十二月二日のクー・デターから一週間ほど経ったある日、デュマは債権者から身を隠すために、ベルギーに逃亡せざるを得なくなった。
〔晩年〕
一八五三年十一月、デュマは懐しのパリへもどってきた。そして夕刊誌『ル・ムースクテール』(銃士)を創刊し、その翌年には、五二年から執筆中の『回想録』を書きあげた。だが、このころからさしもの筆力も衰えを見せはじめ、五七年二月にいままでの有力な協力者であったオーギュスト・マケから著作権問題で訴訟を提起され、袂《たもと》を分かつに及んで、かなり精神的な打撃をこうむった。じじつ以後も執筆はつづけられたが、あまり世評にはのぼらず、六十年にはガリバルディのイタリア統一運動を助けにイタリアへおもむき、爾後《じご》四年間同地に滞在した。六四年にイタリアの歌姫ファニー・ゴルドザを同伴して帰国したが、執筆活動はおもわしくなく、ときどき死んだ友人についての講演会を開いたり、ときには注文があれば広告文までも書いたという。
一八六八年に最初の女カトリーヌ・ルベーの臨終にあたり、むすこアレクサンドル、娘マリの乞《こ》いを容れて、正式の結婚をする。
そして翌年、医者のすすめでひと夏をロスコフですごした彼は、『料理辞典』の執筆に打ち込んだ。
一八七〇年の春、南フランスへ旅行し、マルセイユで普仏戦争の起こったことを知って、九月にディエップの近くのブュイの別荘に住むむすこのもとに帰った。彼はその年の十二月五日に、六十八歳にして永眠した。家族と数人の隣人と、見張りのドイツ兵が、この伝説の人アレクサンドル・デュマの葬儀に参列しただけだった。
このときのむすこアレクサンドルの弔辞がじつに良く、またデュマその人をよく語っているので、ガイ・エンドワ著、河盛好蔵氏訳『パリの王様』より引用する。
父上よ、慣例に従えば、親族以外のだれかによって述べられなければならぬ言葉を、むすこが述べることは正しいことではありません。しかしわれわれは、いまや不倶戴天《ふぐたいてん》の敵に取りかこまれ、あなたの友人たちは、あなたが死なれたことすら知りません。
軍人の子として生まれたあなたは、あなたの父上が身を投じられたように、文学に身を投じました。五〇年に近い年月、あなたは飽《あ》くことを知らぬ大衆のために喜劇、悲劇、小説、紀行、歴史を提供する闘《たたか》いをつづけてきました。フランスも、ヨーロッパも、アメリカも、あなたの作品で養われました。あなたの筆の速さには写字生さえも及びませんでした……羨望蔑視《せんぼうべっし》する連中は、あなたの剽窃《ひょうせつ》を非難し、あなたを文学産業家とののしりました。だがあなたは、一刻たりとも働くことをやめませんでした……。
そしてデュマ・フィスは、父親が彼を自分の作品にもまして傑作であるといったことにいい気になったことを謝すと同時に、父の仕事に対して羨望の念を抱いたことを告白し、創作の方法よりも人生を愛する仕方を教えてくれた亡父に、改めて感謝の意を表したのであった。
作品解説
「人と文学」で述べたように、一八三二年スイス旅行中に、『亡命貴族のむすこ』の上演が失敗したので、かねてよりウォルター・スコットばりの歴史小説を書こうと念じていたデュマは、劇作から小説への転向を決意し、その後戯曲と並行して小説にも筆を染めてみたが、どうやら小説として成功を見るに至ったのは、一八四二年に発表した『ダルマンタル騎士』であった。
これはオーギュスト・マケ(一八一三〜八八年)のチェッマーレ陰謀事件についての下書をデュマが脚色して伸ばしたもので、それから十二年間、マケが構想を練って下書を作り、デュマがそれに飾りつけをして筆の勢いに乗って作品に生気を与えるという関係はつづいたのであって、この『三銃士』にしても、二人の協力により書かれたものである。ただし、デュマの途方もない想像力と、読者をぐんぐんひっぱってゆく筆力とがなかったら、その小説としてのおもしろさは欠くことになったであろう。
彼はマルセイユの図書館で、ガスティヤン・クールティ・ド・サンドラの編纂《へんさん》した『ダルタニャン氏回想録』三巻を借りだした。これはカステルモール伯爵ダルタニャン元帥(一六一一あるいは一二〜七三年)のルイ十三世の末期よりルイ十四世の初期にかけての軍事ならびに宮廷秘話の手記ともいうべきもので、伯爵の死後刊行されたという真偽《しんぎ》不明の書だが、とにかくその第一巻から『三銃士』が生まれたことは事実である。そしてマケがこの小説の下書を書きあげ、デュマがそれを大いに想像力をはたらかせて筋を組み替え、誇張し飾り立て、『回想録』の中では取るに足らぬ脇役にしかすぎなかったアトスには得体の知れない性格を、アラミスには銃士の装いをした神学者を、ポルトスには根が善人の大ぼら吹きを、そしてダルタニャンには勇敢にして慎重な性格を与え、英国の一貴族の娘である某ミラディーに、ダルタニャンと張り合う悪魔的な間諜《スパイ》の役を振りあてたのである。
作品鑑賞
この小説は最初、一八四四年三月十四日から七月十四日にかけて、「世紀紙」に連載され、パリ市民の血を湧かした。歴史上の事実を追いながらも、彼のもつ豊かな想像力によって思うぞんぶんに粉飾し、個性豊かな登場人物に奇想天外な行動を次々と展開させるこの小説は、読者を魅了せずにはおかなかった。けっして格調があるとか、りっぱなとかいう文章ではないが、自由奔放な筆力が、読者をひっぱってゆくのである。それにはまた、さすがに散文劇をもって劇作家としてデビューした彼だけあって、会話の運びがうまいせいもある。デュマはいった。
「ああ! もしわたしがヴィクトールのように(ユゴーのこと)詩句が作れたら、あるいはヴィクトールがわたしのように劇が作れたら」と。
なるほどあれほど当時の観客を湧《わ》かせた彼の劇は、今日では上演されていない。つまりティボーデの言うように、「劇の創造は、あたかもふた子の誕生のように、まれにみる偶然によりそれに呼応し、それに匹敵《ひってき》する文体の創造を伴って、はじめて生命あるものになるから」である。
だが興味本位の大衆小説には、文体はさほど重要ではない。読者を息つくひまもなく読みつづけさせる筆力と、筋のおもしろさ、道具立ての奇抜さがあればよろしいわけだろう。一編をつらぬく思想とか主義主張とかはないが、騎士道精神を受けつぐ銃士たちの心意気とでもいうものが、一般大衆にとっての魅力でもあるのだ。
それにもうひとつ、これは作者の意図しなかったことではあるが、なるほどデュマは史実に忠実に過去を再現しようなどとは考えなかったにもかかわらず、ルイ十三世とリシュリュー枢機卿、それにアンヌ・ドートリッシュとバッキンガム公を登場させて英仏両王朝の側面史となったこの小説は、つづく『二十年後』、『ブラジュロンヌ子爵』とともに、ルイ十三世からルイ十四世に至る爛熟《らんじゅく》したブルボン王朝の堕落ぶりを、大づかみではあるが、かいま見せてくれる。
彼は創作のモットーとして、「たとえそれは真実でなくとも、すくなくとも根拠のある嘘であること」、つまり、嘘と真実との区別が出来ないような作品を書こうと意図していたが、そのような宮廷ならびに宮廷人の腐敗した生活ぶりは、事実そのままではなくとも、それに近いものを彷彿《ほうふつ》させ、やがて来るフランス大革命を予測させている。
[#地付き]江口清
[#改ページ]
あとがき
たいていの男の子がそうだったように、わたしも子どものころ『三銃士』を、夢中になって読んだ記憶がある。ところで十年ほど前のことだが、ガイ・エンドワの『パリの王様』(河盛好蔵氏訳)を、文字どおり時間を忘れて耽読《たんどく》し、「いや、これはおもしろい……豪放磊落《ごうほうらいらく》な巨人のくらし」とデュマばりの題で、図書新聞に書評を書いたことがあった。そのようなこともあって、この度この小説の全訳を頼まれたとき、すでに名訳がたくさんあって気の重い仕事ではあったが、この小説のおもしろさに触れる喜びと、その喜びの秘訣、つまり読者を魅する点をさぐって見ようとしてお引き受けした。
なるほど構成力はすばらしく、さすがに劇作家の出だけあって会話はうまい。だが、おもしろい個所もあったが、退屈な個所も少なからずあった。これは小生に感激性が薄らいだためと、作品のもつ時代性の相違から来るものであろう。なにしろ原文は、これが筆力というものか、書き流した文章で、悪くいえばだらだらした締りのない文章であって、ときには大意をつかんで自分流に書き直したくなり、これには弱った。そうしないですんだのは竹村猛氏の角川版を参照させていただいたおかげで、改めてここに謝意を表しておきたい。
なにしろ書きあげた原稿を誌み返さないデュマのこととて、日付けや人物の呼称などに矛盾した個所があり、なかでもウィンター卿がミラディーの義兄にあたるか義弟にあたるかで、ずいぶん困った。ほかの訳本はミラディーがその家の次男に嫁いだと述べているのでウィンター卿を義兄としているが、原書の後半でミラディーの亡夫を「兄」とはっきり書いてある個所が二つあったので、ウィンター卿を彼女の義弟であるとして、それで全文を統一した。原書は Garnier版を使用し、Pleiade版を参照した。(訳者)
〔訳者紹介〕
江口清《えぐちきよし》
一九〇九年、東京神田に生まれる。旧アテネ・フランセ高等科卒。翻訳はその頃から手がけ、メリメ『カルメン』、ラディゲ『ドルジェル伯爵の舞踏会』、ヴェルヌ『海底二万リュー』、ルブラン『奇岩城』のほか『ラディゲ全集』及びその評伝『天の手袋』その他多数。