三銃士1
アレクサンドル・デュマ作/江口清訳
目 次
はしがき
一 ダルタニャンの父親の三つの贈りもの
二 トレヴィール殿の控えの間
三 拝謁《はいえつ》
四 アトスの肩、ポルトスの吊り帯、アラミスのハンカチ
五 近衛の銃士たちと枢機卿の親衛隊士
六 国王ルイ十三世
七 銃士たちの内幕
八 宮廷の陰謀
九 ダルタニャン頭角をあらわす
十 十七世紀のねずみ捕り
十一 事件はもつれる
十二 バッキンガム公ジョオジィ=ヴィリィアーズ
十三 ボナシュー氏
十四 マンの男
十五 法官と武人
十六 かつてしたように司法卿セギエは、またもや鳴らすべき鐘をさがしたこと
十七 ボナシュー夫妻
十八 恋人と亭主
十九 作戦
二十 旅
二十一 ウィンター伯爵夫人
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主要登場人物
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ダルタニャン……この小説の主人公。ガスコーニュの貴族。三銃士とかたい友情を結ぶ。
アトス……三銃士中の最年長者。剛勇で思慮ぶかく、賭事《かけごと》が好きだが、女性には近づかない。
ポルトス……三銃士の中で一番の大男。腕っぷしは強く、また虚栄心も強く、女にもてる。
アラミス……三銃士中の、最年少者、聖職者を志望しているが、ひそかに高貴な夫人と恋におちいっている。
トレヴィール殿……ルイ十三世の忠臣で、銃士隊長。
プランシェ……ダルタニャンの従者。
グリモー……アトスの従者。
ムクストン……ポルトスの従者。
バザン……アラミスの従者。
ルイ十三世……小心で神経質な平凡な国王。
王妃アンヌ・ドートリッシュ……美しい気位の高い王妃。リシュリュー枢機卿にふかくうらまれている。
バッキンガム公爵……イギリス国王チャールズ一世の宰相。なかなかのやり手で、王妃アンヌの恋人。
リシュリュー枢機卿……フランス国王の主席顧問官、事実上の宰相で当時の最高権力者。
ロシュフォール伯爵……枢機卿の腹心。マンの町でダルタニャンとはじめて出会う。
ミラディー……イギリス生まれの絶世の美女。枢機卿のために尽くす影の女。
ボナシュー……ダルタニャンの家主で小間物屋。枢機卿にまるめられてその手先となる。
ボナシュー夫人……王妃の忠実な侍女。ダルタニャンの初恋の女性。
ウァルド伯爵……枢機卿の腹心で、カレーでダルタニャンに刺されたが、奇跡的に一命をとりとめる。
ウィンター卿……イギリスの伯爵でミラディーの義弟。バッキンガム公の友人で、決闘後ダルタニャンと親しくなる。
フェルトン……清教徒の狂信者。ミラディーにそそのかされてバッキンガム公爵を刺殺する。
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はしがき
これから諸君にお話しようとするこの物語の主人公たちは、OSとか、ISとかで終わる名前をもっているが、けっして神話の人物ではないとご承知願いたい。
一年ほど前に、わたしが王室図書館でルイ十四世の歴史について調べていたとき、ふと『ダルタニャン氏の回想録』という本に目がとまった。これはアムステルダムで、ピエール・ルージュのもとで印刷刊行されたとあった。これは当時の著作物の多くが、真実を書きたいがバスチーユの監獄《かんごく》のご厄介《やっかい》になるのがごめんだというので、こうした方法をとられていたまでである。その標題にわたしはひかれた。そこでわたしは、もちろん保管係員の許可を得たうえで自宅に持ち帰り、夢中になって読んだ。
わたしはここで、この珍しい本の内容を、くどくどと述べようとは思わない。ただこれが、当時の風俗に大いに興味をもっておられる読者のお役に立てば、わたしは満足なのである。これらの素描《そびょう》の大部分は、兵舎の入口や居酒屋《いざかや》の壁に描かれてあるようなものではあるが、ルイ十三世や、アンヌ・ドートリッシュ王妃や、リシュリューや、マザランその他の当時の宮廷人たちの姿を、アンクティル氏の歴史書におさおさ劣らぬ筆で描きだしているのである。
しかし、ご承知のとおり、詩人の気まぐれな心を打つものが、必ずしも一般読者に感銘を与えるとはかぎらないものだ。そこで、いま注意したこまかい描写に、
おそらくは一般読者が感心しているように感動しながらも、わたしがもっとも心を奪われたことは、きっといままでだれも少しも注意を払わなかったであろうと思われることについてである。
ダルタニャンは、かの有名な銃士隊に入れてもらうために、はじめて近衛《このえ》銃士隊長トレヴィール殿をたずねたとき、その控《ひか》えの間で、アトス、ポルトス、アラミスの三人の若い銃士に出会ったと語っている。
正直のところ、この見なれぬ三つの名前に、わたしは注意をひかれた。すぐにわたしは、これはかなり著名な貴族が、気まぐれのためか、不満からか、あるいは財産がないためかで、銃士隊に入隊したときにこのような変名を使ったものか、さもなければダルタニャンが、その人たちの身分を隠そうとして、このような偽名《ぎめい》を用いたにちがいあるまいと考えた。
それ以来、これと同時代の他の著作物の中に、わたしの好奇心をそそったこれらの風変わりな名前の手がかりを見つけないかぎりは、作者としてのわたしの気持ちは、どうにも落ちつかなかった。そのためにわたしが読んだ書物の表を書くだけでも、一章の長さになるだろう。それはそれで、はなはだ有益なのだが、おそらくこの物語の読者にとっては、それほどおもしろいものではないだろう。で、わたしは、次のことだけを言うにとどめておく。わたしがそういうむだな調査をつづけたあげく、がっかりして、いよいよ調査を打ち切ろうとしていたときに、有名な学者の友人ポーラン・パリスの教示のおかげで、整理番号四七七二か四七七三か忘れてしまったが、二折判の本の記録を発見したのである。標題は、こうあった。
[ルイ十三世の末期よりルイ十四世の初期に至るあいだに、フランスに起こった若干《じゃっかん》の事件に関するラ・フェール伯爵の覚書]
最後の希望であるこの稿本をめくっているうちに、二十ページにアトスの名を、二十七ページにポルトスの名を、つづいて三十一ページにアラミスの名を発見したときのうれしさがどんなものであったか、ご想像にまかせよう。
今日のように歴史学が高度に発達している時代に、こういう、まったく未知の稿本を発見したことは、ほとんど奇跡に近いといってよかった。そこでわたしは、自分の著作をひっさげてアカデミー・フランセーズの会員になることはまず不可能であるとしても、他人の著作をもって後日|碑銘《ひめい》並びに芸文のアカデミーにはいる目的で、とりあえずこの記録の出版許可を求めたのである。その許可が幸いにして与えられたことをここに言っておかねばならないだろう。というのは、とかく政府はわれわれ文士連を冷遇すると悪意をもって公言してはばからない連中に対して、反駁《はんばく》しておくためにだ。
さて、今日ここに適当な題名をつけて読者におめにかけるのは、その貴重な記録の第一部であって、これがそれ相応の成功をおさめることは間違いないことであるが、そのときには引きつづいて第二部を刊行することをお約束する。
それまでは、名づけ親は第二の親というから、おもしろかろうと退屈であろうと、この物語に対するご批評はラ・フェール氏に対してではなくて、このわたしに向けられんことを、読者にお願いするしだいである。
では、いよいよ物語にうつるとしよう。
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一 ダルタニャンの父親の三つの贈りもの
一六二五年四月の第一月曜のこと、『ばら物語』(中世の叙事詩)の作者の生まれたマンの町は、まるで新教徒《ユグノー》たちがやってきて第二のラ・ロシェル(大西洋に面する港町。宗教戦争後新教徒がここに立てこもり、イギリスの援助を得ていた)にでもしてしまったように、てんやわんやの大さわぎだった。町の人たちは、女どもが大通りのほうへ逃げ去ったり、子どもたちが戸口で泣き叫ぶのを聞くと、いそいで鎧《よろい》を着こみ、いささか心もとない気持ちを火縄銃《ひなわじゅう》や槍《やり》で支えて、旅館フラン・ムニエのほうへ駆けつけた。旅館の前には、好奇心いっぱいの群衆が、がやがや騒ぎながら、刻々につめかけていた。
当時、このような騒ぎは日常茶飯《にちじょうさはん》のことで、どこの町の記録にも、このような出来ごとが書きとめられていないことは、ほとんどないといってよかった。諸侯はたがいに戦っていたし、国王は枢機卿《すうききょう》(法王の最高顧問)と争っていた。また、スペイン王と国王との戦いもあった。そのうえ、こうした内戦や国と国とのあいだの争いのほかに、なお盗賊《とうぞく》や、乞食《こじき》や、新教徒や、狼《おおかみ》や、ならず者がいて、民衆の日常生活を脅かしていた。町の人たちは、常にこれらの盗賊や狼やならず者に対して武装していて、しばしば諸侯や新教徒に対して、ときには国王に対しても立ちあがった。ただ、枢機卿とスペイン王に立ち向かったことは、けっしてなかった。
つまり、こういう風習が身についていたので、前記の一六二五年四月の第一月曜日に、騒ぎを聞きつけた町の人たちは、べつに黄と赤のスペインの旗も、リシュリー公の定紋《じょうもん》も見えないのに安心し、フラン・ムニエ館のほうへと駆けつけたのだった。
行ってみると、だれの目にも、騒ぎの原因がすぐにわかった。一人の青年、その肖像をひと筆で描くとすると、十八歳のドン・キホーテを想像してくれればいい。鎖《くさり》かたびらも胸当てもつけていないドン・キホーテ、ブルーの地色が、酒粕《さけかす》色か明るい空色か見分けもつかない色合に変色してしまった、毛糸の胴着を着こんだドン・キホーテである。面長《おもなが》で、色は浅黒く、頬骨が突き出ているのは、ずる賢く見える。あごの筋肉が異常に発達しているので、ベレー帽なしでもガスコーニュ人(スペインに近い南西部のガロンヌ川流域地方。ガスコン生まれの人間は、大言壮語して、自信過剰の傾向がある)であることは歴然としているが、この青年は羽飾りのついたベレー帽をちゃんとかぶっていた。目は利口そうで、大きく見開かれ、鼻は鉤鼻《かぎばな》だが、鼻筋は通っている。少年というには大きすぎたし、成人というには小さすぎた。うっかりした人間で、腰の長剣を見落としでもしようものなら、これは旅に出た農家のむすこだぐらいに思ったかもしれない。吊革《つりかわ》につるされたその長剣は、歩くときには持ち主のふくらはぎを、馬上で行くときには馬の腹をおおっている毛を、ぱたぱたたたいていた。
つまりこの青年は乗馬をもっていたが、この乗馬がまたたいした代物《しろもの》で、人目をひくものだった。馬齢十二か、十四歳ぐらいのベアルン産の小馬で、毛並は黄色、尻尾《しっぽ》に毛がない代わりに、足にはえらい腫物《はれもの》ができていた。歩くときに頭をひざよりも低くさげるので、鞅《むながい》をつける必要もないのだが、それでいて一日三十二キロも行くのである。ところが不幸なことに、この馬の長所は、その奇妙な毛並とおかしな歩き方のために隠されてしまっていたから、馬に関してはみんなが一見識をもっていた当時のこととて、この馬が十五分ほど前にボージャンシー市門を通ってマンの町に姿をあらわしたときには、えらく評判になってしまい、その悪評は乗り手の身にまで及んだのである。
この悪評は若いダルタニャンにとっては、(当代のロシナンテに乗ったわがドン・キホーテの名をこういった)ずいぶんとつらかった。自分がどんなに名騎手であろうとも、こんな馬に乗れば滑稽《こっけい》な姿にならざるを得ないことをよく承知しているだけに、いっそうつらかった。それゆえ彼は、父ダルタニャンからこの馬を餞別《せんべつ》としてもらったときには、ふかいため息をついたものだった。だが、こんな馬でも少なくとも二十リーヴルぐらいはすることを知っていたし、この贈物に添えられたそのときの父の言葉が、また並々ならぬ貴重なものであったことは確かであった。
ガスコーニュ生まれの老貴族は、かのアンリ四世でさえも一生抜け切れなかった生粋《きっすい》のベアルンなまりで、息子にこういったのだ。
「せがれや、この馬は十三年前に、このおまえの父の屋敷で生まれ、それ以来ずっとここで育ってきたのだから、おまえもこれをかわいく思っているにちがいない。けっして売り渡すようなことはしてはならぬ。平穏に、りっぱに余生をまっとうさせてやってくれ。もしこれにまたがって戦場に出るような場合には、老僕をいたわるような気持ちで、大切にしてやれ」
老父ダルタニャンは、なおもつづけた。「さて、おまえの古い貴族の家柄からいっても当然なことじゃが、もし宮廷に出入りできるようになったら、ご先祖代々五百年以上も保たれてきたこの家名を、おまえ自身のためにも、またおまえのまわりの者たちのためにも、りっぱに守り抜いてゆかねばならぬ。まわりの者たちというのは、おまえの両親や友人たちのことじゃ。国王陛下と枢機卿殿のほかは、だれとてけっして容赦《ようしゃ》するな。今日、貴族が出世をするには、まず勇気じゃ、いいか、勇気あるのみじゃよ。少しでも怖気《おじけ》づいたら、目の前にぶらさがった幸運も、そのあいだに取り逃がすことになろう。おまえは若いし、それに、二つの理由で、おまえは勇気を欠かさぬはずじゃ。第一に、おまえはガスコーニュの生まれだし、第二に、このわしのむすこだからな。機会を恐れず、進んで冒険を求めることだ。剣の扱いは、このわしが教えてやった。おまえには鉄のような足と、鋼《はがね》のような腕力とがある。機会を見つけては、闘《たたか》うことだ。果たし合いは禁じられているが、それをあえてするには二倍の勇気がいるわけだから、いよいよもって闘ったらいい。
さて、せがれよ、わしがおまえにやれる贈り物といったら、十五エキュの路銀と、この馬と、いまおまえに言った忠告と、これだけしかない。なお、お母さんがジプシー女から教わったもので、心臓さえやられていなければどんな傷にもよく効くという薬の処方を、おまえに伝授することになっておる。万事にそつなく、幸福に生き長らえてくれ。
最後に一つつけ加えておくが、おまえに与えておく手本は、このわしのことではない。わしは宮廷に出仕したことはないし、宗教戦争にしたって志願して参加しただけじゃからな。わしの話というのは、トレヴィール殿のことじゃ。あの方は、昔、うちの隣りに住んでおられてな。子どものころ、光栄にも国王ルイ十三世陛下のお遊び相手になられたのじゃ。ときには遊びがけんかじみたふうになったこともあったが、そんなとき、王さまのほうがいつもお強いというわけにはゆかなかった。王さまはぽかぽか打たれたことから、かえってトレヴィール殿に深い尊敬と友情とをお持ちになるようになった。その後トレヴィール殿は、はじめてパリにのぼられる旅の途中で果たし合いをすること五度、先王|崩御《ほうぎょ》のあと現国王の御成年までのあいだに、戦争や攻城のときは別として、剣を交えること七度、さらに国王ご成年よりこの方は、おそらく百回も数えるだろうよ。そんなわけで、果たし合い禁止の勅令や法令が度々あるのに、いまは銃士隊の隊長として、つまり陛下のご信任の厚い近衛《このえ》の歩兵軍団の長として、世間衆知のとおり、こわいものなしといわれる枢機卿閣下からさえも恐れられておられるほどじゃ。それにトレヴィール殿は、年収一万エキュもある。まさに大侯だ……そのような方でも、はじめはいまのおまえと同じようだったのじゃ。この手紙を持参して、お目通りを願うがいい。そして、ああいうふうになれるように、よくあの方のなされることを見習うことだ」
言いおわると老ダルタニャンは自分の剣を息子にはかせ、その頬《ほお》を愛情こめて接吻すると、彼に祝福の言葉を与えた。
青年は父の部屋を出ると、例の秘薬の処方を持って待っていた母親のところへ行った。いま聞いた父親の忠告を守るためには、この秘薬をしばしば用いる必要がありそうだった。ところでこっちのほうの別れは、父親のときとは違っていっそう長く、いっそう情がこもったものだった。もちろんダルタニャン老人も一人息子がかわいくないわけではなかったが、そこは男で、情に溺《おぼ》れてはならぬと思ったからだ。それに反して夫人のほうはやはり女で、しかも母親だったので、彼女は涙にくれた。ダルヤニャンにしても、未来の銃士隊士として毅然《きぜん》とした態度をとろうと大いに努力をしたが、やはり自然の情には勝てなくて、あふれ出る涙を半分も隠すのがやっとのことだった。
その日のうちに直ちに青年は、父からの二つの贈り物、十五エキュと馬と、それからトレヴィール殿宛ての手紙をたずさえて、旅路についた。例の忠告が、贈り物のおまけとして与えられたことは申すまでもない。
このような携帯品をもったダルタニャンは、さきに作者が歴史家の義務としてその肖像を描いて比較しておいた、かのセルバンテスの作中人物に、姿ばかりかその心までがそっくりそのままだった。ドン・キホーテは風車を巨人と見まちがえ、羊の群れを敵の軍勢と勘違いしたが、わがダルタニャンは人の微笑をすべて侮辱《ぶじょく》と見まちがえ、人の視線をすべて挑戦と見てとったのだ。その結果は、タルブからマンの町までに来るあいだ、拳固《げんこ》は握りどおしだったし、剣の柄に手をかけることは一日に十回もあった。それでも、拳固はだれのあごにも飛ぶようなことはなかったし、剣もついに鞘《さや》を走ることはなかった。その黄色っぽい馬の姿が通行人たちの微笑をそそらなかったわけではなかったが、馬の上にはみごとな長剣ががちゃがちゃ音を立てていたし、さらにその剣の上には、傲慢《ごうまん》というよりはむしろ兇暴《きょうぼう》な目つきが光を放っていたので、どうしても人びとは高笑いをすることができず、もしどうしてもがまんできなくなると、まるで古代の仮面のように、せめて片面だけしか笑うまいと努力をするのだった。
そんなわけでダルタニャンは、この不幸なマンの町に来るまでは、なんとか威厳を保ちつづけることができ、激昂《げきこう》しやすい性質を抑えていられたのであった。
ところが、フラン・ムニエ館の入口で馬から降り立ったところ、宿の主人も下男も馬丁も、だれひとり踏台で鐙《あぶみ》をはずずのに手を貸そうとはしてくれない。そのときダルタニャンは、半開きになった階下の窓のところに、いくらかしかめ面をしていたが、気品のある風貌で背の高い貴族らしい男がいるのに気づいた。その男は、かしこまって聞いている二人の男に、何かいっているようだった。ダルタニャンは例によって、てっきり自分のことが話題になっていると思いこむと、耳を澄ました。
こんどは、ダルタニャンの勘違いは、半分だけですんだ。話題は自分のことではなかったが、馬のことだったのである。その貴族は聞き手に向かって、馬の特徴をこと細かに述べ立てていたが、間き手はいまいったように、話し手に敬意を表していたので、その度ごとに高笑いをして話し手の意を迎えていた。さて、忍び笑い一つでも青年の怒りを誘うにはじゅうぶんだったのだから、このような騒がしい高笑いを聞いて、彼にどのような効果を及ぼしたか、想像にかたくないであろう。
しかしながらダルタニャンは、まず自分を嘲弄《ちょうろう》するこの不敬な男の面《つら》がまえを確かめておこうと思った。そこでこの見知らぬ男をじっと見すえて見てみると、その男は年のころ四十から四十五ぐらいで、目は黒くて鋭く、顔面は蒼白《そうはく》、鼻筋はすっきりと通り、黒い口ひげをきれいに刈こんでいた。胴着をつけ、同色の帯紐《おびひも》でつるした紫色のズボンをはき、飾りといえば袖につけた切り口だけで、そこからシャツがのぞいていた。胴着も半ズボンも新しいが、かばんのなかに長いこと詰めこまれていた旅着のように、しわがついているようだった。
ダルタニャンはもっと緻密《ちみつ》な観察者の目で、すばやくこれらの点を見てとったのだが、おそらくは本能的に、この見知らぬ男が自分の将来に大きな影響をもつようになることを見てとったからではなかろうか。
さて、ダルタニャンが紫色の胴着をつけた貴族にじっと視線をそそいでいたときに、男はベアルン産の小馬について、いかにも巧みに深遠な説明をやってのけたところだったので、二人の聞き手はどっと声をあげて笑い、その男自身も、もしこういうことを言うのを許されれば蒼白の微笑を、その顔にただよわせていたのだった。こんどこそは、疑う余地もなかった。ダルタニャンは、明らかに侮辱《ぶじょく》されていたのだ。そうと確信を得た青年は、ベレー帽をまぶかにかぶり直すと、ガスコーニュで訪れる旅の貴族たちを見て覚えていた宮廷人の身ぶりを多少気どってまねして、片手を剣の柄《つか》にかけ、もう一方の手を腰に当てながら、しずしずと進み出た。だが、残念ながら前へ進むにつれて、こみあげてくる怒りのために目がくらみ、かねて用意してあった堂々とした挑戦の言葉はどこへやら、口をついて出て来るのは粗野な人柄を示す言葉ばかりで、それに伴う荒々しい動作であった。
「あいや、そこの鎧戸《よろいど》のうしろに隠れているお方。さよう、あんただ。なんでまた、お笑いになるのか、ひと言お聞かせ願いたい。どうせ笑うなら、こっちもいっしょに笑わせてもらいたいものだ」
その貴族は、そのような奇妙なとがめ立てが自分に向けられているのだと知るためには、いくらかの時間が必要だというふうに、ゆっくりと馬から乗り手のほうへ視線を移した。そしてもはやそれが疑いなく自分に向けられているのを知ると、ちょっと眉をひそめ、さておもむろに、なんとも言えない皮肉と横柄《おうへい》な口調で、こう答えた。
「あなたにお話しているわけではないが」
「いや、こちらは、あんたに話があるんだ!」と、相手のいんぎん無礼と、丁重と軽蔑の入りまじった態度に激昂《げっこう》した青年は、声を荒げていった。
見知らぬ男はうすら笑いを浮かべてちょっとこっちを見やってから窓から引っこんだが、ゆっくりした足どりで旅館から出てくると、ダルタニャンから二歩ばかりのところで、馬の正面に立った。その落ちつきはらった態度と、人を食った顔つきとに、窓辺に残っていた話相手の二人の男は、どっと哄笑《こうしょう》した。
ダルタニャンは男が出てきたのを見たので、剣を一尺ばかり抜き放った。
「この馬も若い頃はきっと、きんぽうげのような色つやをしていたにちがいないな」と、未知の男は相変わらずじろじろ馬を眺めながら、窓辺《まどべ》にいる二人に声をかけた。ダルタニャンがそのあいだに立ちふさがって、いきり立っているのだが、いっこうに気のつかないふうだった。
「植物のほうではよく知られている色なんだが、現在までのところ、馬のほうでは非常に珍しい色だね」「主人を笑うことができないもんだから、馬を笑うっていうわけか!」と、トレヴィール殿の競争相手は、怒りにまかせて叫んだ。
「わたしは、そんなに笑うほうじゃない」と、未知の男は言い返した。「この顔をよく見ればわかるだろう。しかし、笑いたいときには笑うっていう特権だけは、残しておきたいものだね」
「おれはな、気が向かないときには笑ってもらいたくないな」と、ダルタニャンは叫んだ。
「へえ、そうかい?」と、未知の男は、なおいっそう落ち着きはらって、「なるほど! しごくもっともな話だ」
そう言うと男はぐるりとまわって、また元の正面の入口から宿の中にもどろうとした。入口のところには鞍《くら》の置いてある馬が一頭つながれていることは、ダルタニャンがここに来たときすでに知っていることだった。しかしダルタニャンは、無礼にも自分を愚弄《ぐろう》した男を、このまま見のがすような性分ではなかった。彼は剣を抜き放つと、あとから追いかけていって叫んだ。
「もどれ、引き返せ、ふざけた奴だ! おれはうしろからは斬《き》りつけたくないからな」
「おれを斬る気か!」
男は踵《かかと》でくるりと向き直り、驚きと同時に軽蔑《けいべつ》をこめて青年を見やりながら、「おや、おや、お若いの、気でも狂ったか!」
それから低い声で、自分自身に言い聞かせるようにして「惜しいことだ」と、言いつづけた。「銃士隊員を集めようと百方手を尽くしていられる陛下に、いいおみやげになろうものを!」
その言葉が終わるのを待たずに、ダルタニャンが怒りにまかせてお突きを入れてきたので、それより早く飛びのいていなかったら、男の冗談《じょうだん》も、これが言い納めとなっていたかもしれなかった。そこで未知の男は、もはやこれまでと相手に会釈《えしゃく》をすると、まじめに剣をかまえた。ところがそのとき、例の二人の聞き手に宿の主人までが加わって、手に手に棍棒《こんぼう》や十能《じゅうのう》や火ばさみを振りかざして、ダルタニャンに打ってかかってきたのだ。これはたちまち完全な牽制《けんせい》攻撃となった。そこでダルタニャンが鉾先《ほこさき》を転じて三人のめった打ちに立ち向かっているあいだに、当の相手は剣をぴたりと鞘《さや》におさめると、さも役者になりそこなったと言わんばかりに、あい変わらず落ちつきはらった顔をして、こんどは見物人となってこうつぶやいていた。
「ガスコン人は始末がわるい、早くあのオレンジ色の馬に乗せて追っ払ってしまえ!」
「卑怯《ひきょうもの》め、おまえをやっつけるまでは、行かんぞ!」
ダルタニャンは乱打《らんだ》をあびせてくる敵から一歩も退かずに、防戦これ大いに努めた。
「また、あんな減らず口をきく。まったくガスコーニュの奴は仕末がわるい! そいつがどうしてもそうして欲しいっていうんだから、もう少し踊らせてやれ。そのうちに疲れてきたら、もうたくさんだと言うだろうからな」と、男はつぶやいた。
だがこの未知の男は、相手がどんなに剛情な人間だか、まだ知らなかったのだ。ダルタニャンは、けっして人に許しをこうような男ではなかった。そこで、闘いはなお数分間つづいた。ついにダルタニャンは疲れきって、剣を手から落とし、棍棒《こんぼう》でたたかれて、二つに折られてしまった。そのとき別の一撃が額《ひたい》に飛んできたので、ほとんど気を失って、血だらけのままその場にのけぞって倒れた。
ちょうどそのときに、あちこちから人びとが駆けつけたのだ。宿の亭主は、悪い噂が立つのを恐れて、下男たちの手を借り、けが人を炊事場へ運びこんで応急の手当てを施《ほどこ》した。例の貴族のほうは、すでに窓辺にもどっていて、宿の前に集って動こうとしない群衆を、さも困ったといわんばかりに、じりじりしながら眺めていた。
「どうしたい、あの気違いは?」と、入口をあける音に振り向いて、からだを気遣《きづか》ってはいってきた亭主にたずねた。
「お殿様には、おけがもなく、ご無事で?」
「ああ、かすり傷ひとつ負わん。わしは、あの若者がどうなったかとたずねているんだ」
「だいぶいいようで。なにしろ、すっかり気絶していたもんですから」
「ほんとうかい?」と、貴族はたずねた。
「それでも気を失う前に、からだじゅうの力をふりしぼって、あなたさまを呼び、あなたさまに挑《いど》もうとしておりましたが」
「まったくあの暴れん坊は、悪魔の生まれ代わりのような奴だ!」と、未知の男は叫んだ。
「なあに、お殿様、悪魔などとは、とんでもない」と、亭主は、さも軽蔑《けいべつ》するように顔をしかめて、「気絶しているあいだに持ち物をしらべましたところ、包みのなかにはシャツが一枚だけで、財布には十二エキュしかありませんでした。それでいてあの男は気を失いかけるときに、こんなことがパリで起こったとすれば、あなたさまはさっそく後悔するところじゃ、ここではもう少し経《た》たねば後悔しないだろうが、などと、へらず口をたたいている始末でさあ」
「それでは、どこかの高貴な方のお忍び姿なのかな」と、未知の男はひややかにいってのけた。
「あんな男にはご用心なさった方がよろしいかとぞんじまして、こう申し上げるわけでございます」と、宿の亭主はいった。
「それで、腹立ちまぎれに、どなたかのお名前を口走ったかな?」
「じつは、ポケットをたたいて、こんなことを言いました。[そのうちわかるぞ、トレヴィール殿が、ご自分の身内にこんな侮辱を加えられて、どうお考えになるかが]ですって」
「なに、トレヴィール殿だと?」と、その男はきっとなっていった。「ポケットをたたいて、トレヴィール殿の名を口にしたとは?……それじゃあ、おまえは、その若者が気を失っているあいだに、きっと奴の懐中《かいちゅう》をさぐってみたにちがいあるまい。どうだい、何があったかな?」
「銃士隊長、トレヴィールさま宛の手紙が一通ございました」
「ほんとうだな!」
「誓って、嘘《うそ》いつわりは申し上げません」
もともとあまり敏感でない宿の亭主は、自分の言葉が相手の表情にどのような影響を与えるかは、ほとんど気にもとめなかった。未知の男は、いままでひじをついていた窓の縁《ふち》から身を起こすと、不安そうに眉《まゆ》をしかめた。
「ひょっとすると、トレヴィールは、あのガスコーニュの小僧をおれに差し向けたのかもしれんな?」男は口の中でつぶやいた。「あんな若造だが、しかし使い手の年がどうあろうと、剣は剣だ。ことに相手が小僧っ子だと思うと、つい用心をおこたるものだ。計りごとも些細《ささい》な障害で破れることもあるからな」
そう言うと男は、しばらくのあいだ、じっと考えこんでいた。
「ところで、亭主、あの気違いをなんとかして追っ払ってはくれないか? 人情として、おれはあの男を殺す気にはなれん。だが、どうも邪魔《じゃま》っけだ。いま、どこにいるんだ?」と、男はつけ加えていった。
「二階の女房の部屋で、傷の手当てを受けております」
「衣類も包みも、いっしょにおいてあるんだな? 胴着もはずしちゃいまい?」
「いえ、いえ、そういったものは、みんな階下の台所においてございます。あなたさまのお目ざわりとあれば、あの気違いめを……」
「無論のことじゃ。あんな男がいたんでは、この宿屋に悪い噂がたって、まともな客は寄りつかんぞ。さあ、行っておれの勘定をしてくれ。そしておれの従僕に伝えてくれ」
「おや、もうお発《た》ちなので?」
「さきほど、馬に鞍をつけとけって言っておいたではないか。言いつけどおりにしていなかったのか?」
「いえ、いえ、お殿さまがごらんになられたように、ちゃんと鞍をつけていつでも出発できるように、戸口につないであります」
「そうか、では言いつけたとおりにやってくれ」
[へえ! あんな小僧が恐ろしいのかな]と、亭主は心の中で思った。
しかし、男の威圧するような視線に出合うと、はっと思い直して、うやうやしく一礼し、出て行った。
「ミラディーが、あの男に見つかるといけない」と、男はなおもつづけた。「あの人は、まもなくここを通るはずじゃ。いや、もう遅すぎるくらいだからな。おれが馬に乗って、迎えに行ったほうがよいようじゃ……ただ、あのトレヴィール宛の手紙にどういうことが書いてあるか、見たいものじゃ」
そうつぶやきながら男は、台所のほうへ歩いて行った。そのあいだに宿の亭主は、あの青年がいるばかりに、大切な客が宿から出るようになったのだと思いながら、女房の部屋にあがって行くと、ダルタニャンはすっかり正気に返っていた。
そこで亭主は、あんな身分の高い殿さまにけんかを吹きかけたのだから、司直の者の手がまわらないともかぎらないと、彼に知らせた。なぜならば亭主の意見によれば、あの未知の男は身分の高い貴族であったからで、そこでダルタニャンのからだがまだ弱っているのに立ち上がらせて旅をつづけるようにと仕向けたのだった。
ダルタニャンはまだ半ば頭がはっきりしていなかったが、胴着もつけず頭に包帯を巻いた格好で立ち上がり、亭主に促されるままに階段をおりかけた。
ところが台所まで来た青年のまず目にとまったものは、大きなノルマンディ産の二頭の馬をつけたりっぱな四輪馬車の踏み段のところに立って、落ち着きはらって話しこんでいる先刻のけんか相手であった。
馬車の扉の窓わくの中に顔を見せている話し相手は、年の頃二十歳から二十二歳ぐらいまでの婦人であった。ダルタニャンがどんなにすばやく、ひと目で相手の容貌《ようぼう》を見定めてしまうかはすでにいったとおりだが、そのときもその婦人が若くて美しいことを、すぐに見てとってしまった。しかもその美貌は、いままでダルタニャンが住んでいた南国ではまったく見られなかったものであっただけに、いっそう印象がつよかった。色は青白く、ブロンドの巻毛を肩の上まで垂らし、もの憂《う》げな大きな青い目をしていて、ばら色の唇《くちびる》と真白な手を見せていた。女はひどく急《せ》きこんで、男に話しかけていた。
「それでは、台下(貴人の尊称)からわたくしへのご命令は……」と、女はいった。
「すぐにも英国へもどって、公爵《こうしゃく》(バッキンガム第一公爵のこと。この物語の一六二五年頃は、主君チャールズ一世とアンリ四世の息女アンリエット・ド・フランスとの婚儀を成立させるために英国大使として渡仏していた。作者は彼がアンヌ・ドートリッシュをめぐってリシュリュー枢機卿と対立していることを暗にほのめかしている)がロンドンを離れたかどうかを、じきじきに知らせるようにとのことでして」
「で、その他のおさしずは?」と、美しい旅の女はたずねた。
「この小箱の中にはいっていますが、イギリス海峡をお渡りになってからでなければ、おあけにならないように」
「わかりました。で、あなたは、これからどうなさるのです?」
「わたしは、パリにもどります」
「その傲慢《ごうまん》な子どもをこらしめてやらずにですか?」と、女がきいた。
未知の男は答えようとしたが、ちょうど口を開きかけたそのときに、話を残らず聞いたダルタニャンが、入口の敷居のところに飛び出た。
「その傲慢《ごうまん》な子どもが、そっちをこらしめてやる。こんどはこらしめようとかかっている人間が、先刻のように逃げだしはしまいな」
「逃げだしはしまいな、とな?」と、男は眉をしかめた。
「まあ、女の前では、まさか逃げるわけにはゆくまいな」
男が剣に手をかけるのを見て、ミラディーが呼んだ。
「思いだしてくださいましな、少しでもおくれると何もかもだめになってしまうっていうことを」
「そうでしたな」と、貴族は叫んだ。「では、あなたはご自分の方向へ。わたしは自分の道をとるとしましょう」
そう言って男は頭を下げて女に会釈《えしゃく》をすると、馬にひらりと飛び乗った。一方、馬車の御者は、曳馬《ひきうま》にはげしい鞭《むち》をくれた。こうして二人の対話者は、それぞれ反対の方角に、まっしぐらに走り去った。
「ああ、お勘定《かんじょう》を」と、宿の亭主は、大声でわめいた。旅の客に対して抱いていた好意は、勘定を払わずに立ち去ろうとするのを見るに及んで、ふかい軽蔑に変わったのである。
「払ってやれ、下司野郎《げすやろう》め」と、なおも馬を走らせながら、男は従僕に呼びかけた。従僕は二、三枚の銀貨を亭主の足元に投げ捨てると、また主人のあとを追って駆けだした。
「ああ、卑怯者め、意気地《いくじ》なし、にせ貴族め!」と、こんどはダルタニャンが、従僕のあとを追いかけながら叫んだ。
しかし手傷は相当にひどくて、とうていこのような激動には堪えられなかった。十歩も行ったか行かぬうちに、耳鳴りはするし、めまいはするし、頭がぐらぐらしてきて、血潮が流れて目にはいるし、彼は道の中ほどに倒れてしまった。それでもなお、口では呼ばわっていた。
「卑怯者め、卑怯者め!」
「ほんとうに卑怯な男でさあ」宿の亭主はダルタニャンに近づいて行って、こうつぶやいた。(ラ・フォンテーヌの)寓話の中で鷺《さぎ》が蝸牛《かたつむり》にしたように、こんなお世辞をいって青年と仲直りをしようというわけである。
「そう、ほんとうに卑怯な奴だ」と、ダルタニャンは吐きだすようにいった。「それにしても、あの女はきれいだな!」
「だれです、あの女って?」と、亭主はたずねた。
「ミラディーだ」
そう口の中でつぶやいて、ダルタニャンは、またしても気を失ってしまった。
「まあ、いいやね。二人の客は逃がしたが、この男が残っている」と、亭主は腹の中でつぶやいた。「少なくとも数日間は逗留《とうりゅう》しなきゃなるまいからな。十一エキュは、もらったも同然だ」
読者もごぞんじのとおり、十一エキュというのは、ダルタニャンの財布の中に残っている金額である。
宿の亭主は一日に一エキュとして、十一日間で治療できると計算したのだった。もっともこれは、お客に相談しない計算だったが。
翌朝五時に、ダルタニャンは起き出ると、自身で台所へ降りて行って、ぶどう酒と油とまんねん香と、そのほかわれわれの耳に達しない諸々《もろもろ》の材料を求め、母からもらった処方を片手に例の秘薬を練りあげると、医者の手当はいっさい断わって、自分で湿布《しっぷ》を取り替えながら、からだじゅうの傷にその薬を塗りつけた。ところがそのジプシー女秘伝の薬が効いたのであろう、あるいは医者がいなかったためかもしれないが、ダルタニャンはその晩にはもう立つことができるようになり、翌日にはもうほとんど全治していた。
ところが、それらのまんねん香や油やぶどう酒の代金を払う段になると、当人は絶食をしていたので、それらが支払いのすべてのはずだったが、亭主の言によると、例の黄色い馬がそのからだに似合わず、普通の量の三倍も食べたというので、それらも合わせて支払おうとしたところ、ダルタニャンの懐中《かいちゅう》には、十一エキュがはいっているすり切れたビロードの小さな財布があるばかりで、トレヴィール殿宛の手紙はみつからなかった。
青年はズボンやチョッキのポケットを二十ぺんも裏返したり、袋の底をなんべんも捜したり、財布をあけたりしめたりして、じつに辛抱《しんぼう》づよく手紙を捜したものだ。だが、どうしてもみつからないとはっきりわかると、これが三度目の激しい発作《ほっさ》に落ち入って、あやうく、またもやぶどう酒と香油の代金が必要となるところだった。というのは、この若い暴《あば》れん坊がかっとなって、もし手紙がみつからないときには、いまにも家じゅうのものをみんなたたきこわすぞという見幕を見せたので、亭主はさっそく猟槍を手にとり、女房はほうきの柄《え》を、下男たちは一昨日使った同じ棒を握って身構えたからである。
「おれの紹介状はどうした! 紹介状はどこへ行ったんだ!」と、ダルタニャンは叫んだ。「出さぬと、十ぱひとからげに頬白《ほおじろ》みたいに串刺しにしてくれるぞ」
だが残念なことに、この青年の威嚇《いかく》は、その場の事情が、その完遂《かんすい》を許さなかった。すでに述べたとおり、彼の剣は、最初に戦ったときに二つに折れてしまったが、彼はそのことをすっかり忘れていたのだった。そこでダルタニャンが鞘《さや》から抜き放ったときには、剣はわずかに八、九寸ばかりの根元だけが残っているだけだった。亭主がそっと鞘におさめておいたものだ。残りの刃の部分は料理頭が肉串に使おうと思って、こっそりくすねてしまっていた。
当てがはずれたというものの、血気にはやるこの青年が、これくらいのことで思いとどまるはずはなかったが、亭主のほうが客の言い分はなるほどもっともだと考え直したのだった。で、槍の穂先を下げると、
「なるほど、そうだ、あの手紙はどこへ行ったのだろう?」
「そうさ、どこへやったんだ?」と、ダルタニャンは叫んだ。「言っておくが、あの手紙はトレヴィール殿へ宛てたものだぞ。どうあっても捜しださねばならぬ。もし見つからぬときは、あの方の手で捜してもらうぞ!」
このおどかしは、たしかに亭主を縮みあがらせた。国王と枢機卿を除いては、このトレヴィール殿の名が、軍人はもとより、町人のあいだでも、もっともしばしば口にされる名前だったからである。なるほど、ジョゼフ神父という人物もあったが、この枢機卿の腰巾着《こしぎんちゃく》の通称[灰色の台下]の名は、あまりにも世間で恐れられていたので、その名はごく低い声でしか口にだされなかった。そこで亭主は猟槍を遠くへ役げだすと、女房や下男たちにもそれぞれほうきや棒を捨てさせ、自ら先に立って手紙を捜しはじめた。
「あの手紙には、なにか大切なものでもはいっていたので?」
しばらくむだに捜しまわってから、亭主がたずねた。
「もちろん、そうさね!」宮廷への仕官の道をあの手紙に託していたガスコーニュ人は叫んだ。「おれの全財産がはいっていたんだ」
「スペインの国債ですか?」
「国王陛下じきじきお支払いの手形だ」と、ダルタニャンは答えた。あの紹介状を使って国王に仕えようと思っていたのだから、少しぐらい口からでまかせのことをいったって、まんざらうそにはなるまいと思ったのである。
「そりゃ、たいへんだ!」と、亭主はすっかり悲観して叫んだ。
「なに、かまわんさ。金なんかどうでもいい」と、ダルタニャンは、同郷国人特有の落ちつきをみせて、なおもつづけた。「あの手紙さえあればいいんだ。あれを紛失《ふんしつ》するくらいなら、ピストール金貨の千枚をなくしたほうが、まだましなくらいだ」
二万枚といってもよかったのだが、さすがに青年らしい羞恥心《しゅうちしん》から、そうは言えなかった。みつからないので途方にくれていた亭主の頭に、とつぜん一条の光がさした。
「あの手紙は、紛失したのじゃありません」
「なんだって!」と、ダルタニャンは聞き返した。
「そうです。あの手紙は盗《ぬす》まれたのです」
「盗まれたって! だれにだ?」
「きのうの、あのえらい方にです。あんたの胴着がおいてあった台所へ、のこのこはいってきて、一人っきりでいましたからな。たしかに、あの人が盗んだのにちがいありません」
「そう思うかね?」と、ダルタニャンはまだ信じかねるといったふうだった。まったく個人的なあの手紙を、他人が必要だとはどうしても納得ゆかなかったからだ。じっさい、下男たちにしても、泊まり合わせた旅の客にしても、あんな書いたものなど一文の得にもならないであろうに。
「では、あの無礼な貴族があやしいというのだな」と、ダルタニャンはつづけた。
「たしかにそうだと思います。あなたさまがトレヴィールさまの身内の方で、あの有名なお殿さま宛のお手紙をお持ちだと申しましたところ、あの方はひどく心配そうなごようすで、その手紙はどこにあるかとおたずねになり、それがあなたさまの胴着の中にあることがわかると、すぐに台所におはいりになったようなわけでして」
「では、あいつは盗っ人だ。トレヴィール殿に訴えてやる。そうすればトレヴィール殿が国王陛下にお話しになるだろう」
そういってダルタニャンは威厳をもってポケットから二エキュを取りだすと、帽子を手にして戸口のところまでついてきた亭主にそれを与え、例の黄色い馬にまたがった。そしてその後はなんらの事故もなく、パリのサン=タントワーヌ門に至った。そこで乗り手は馬を三エキュで売り払ったが、最後の行程ではずいぶん手荒く乗りまわしたのだから、いい値段で売れたもんだと言えるだろう。それゆえ、ダルタニャンが馬を譲りわたした相手の博労《ばくろう》も、その九リーヴル、つまり三エキュの金を支払うときには、毛並が変わっているのでこんな法外な値段をつけたのだと言い足すのを忘れなかった。
こうしてダルタニャンは、小さな包みを小脇《こわき》にかかえ、徒歩でパリの町へ足を踏み入れた。そしてあちこち歩きまわった末、やっととぼしい懐中にふさわしい貸間をみつけることができた。その部屋は、いわば屋根裏部屋で、リュクサンブール宮の近くのフォソワイユール街にあった。
手付け金を渡すとすぐにダルタニャンは、その部屋に閉じこもって、胴着とズボンに飾りひもを縫いつけることで、その日の残りを過ごした。その飾りひもは、母親が老父ダルタニャンのまだ真新らしい胴着からはぎとって、こっそり渡してくれたものだった。それからフェラィユ河岸へ行って、剣に刃をつけさせ、こんどはルーヴル宮へもどって、通りがかりの銃士に、トレヴィール殿の屋敷をたずねた。それはヴィユー・コロンビエ通りで、ちょうどダルタニャンが借りた部屋のすぐ近くであった。これは、こんどの旅行にとって、幸先《さいさき》のよいように思われた。
それから彼は、マンの町でとった態度を満足に思い、過去になんらの悔《く》いも覚えず、現在に安んじ、未来の希望に満ちてベッドにはいり、勇者の眠りについた。
こういう、まだまったく田舎《いなか》ふうの睡眠は、翌朝九時までつづいた。その時刻に起き出ると彼は、父親の評価によればこのフランス王国で三番目の人物である、かの有名なトレヴィール殿の屋敷へと向かったのである。
二 トレヴィール殿の控えの間
ガスコーニュではこの家族はいまだにトロワヴィール殿と呼ばれているが、パリではトレヴィール殿と呼ばれているこの人も、最初はまったくいまのダルタニャンと同じであった。つまり一文なしだが、剛胆《ごうたん》と機知と分別という、ガスコーニュの貧乏貴族が父親から往々にして受けつぐものであり、ペリゴールやベリー地方の裕福な貴族が実際に受けつぐものよりもはるかに将来性のある資本を身につけていたのである。途方もない剛勇《ごうゆう》と、さらにいっそう並みはずれた幸運のおかげで、この変転常ならぬ時代に処し、宮廷の寵《ちょう》という入手しがたい階段をとんとん拍子《びょうし》に登りつめ、その絶頂にまで至ったのである。
彼は国王の友として遇されていた。王は知ってのとおり、父王アンリ四世の徳を慕《した》われる方であり、トレヴィール殿の父君はそのアンリ四世に仕えて、神聖同盟の戦いで献身的に尽くしたのであった。王は手許に金がないのでその労に報いることができず……これはベアルン出身のアンリ四世に終生欠けていたもので、このためにいつも王はその借財を、よそから借りてくる必要のない唯ひとつのもの、つまりは機知によって支払われておられたのだが……つまりは現金がないので、その代わりに先代トレヴィール殿は、パリ開城のあとで、[忠誠にして剛毅《ごうき》な]という銘句《めいく》入りの赤地《あかじ》金獅子模様《きんじしもよう》の紋章を使うことを許されたのだった。
これはたいへん名誉なことではあったが、物質的にはたいしたことではなかった。そこで、このアンリ王の有名な戦友が死んだときには、その息子が遺産として受けとったものは、剣と名誉ある紋章だけだった。しかし、この二つの遺品と汚れのないその家名のおかげで、トレヴィール殿は若い国王のお側《そば》近くに侍《はべ》ることを許され、剣をよく使い、紋章の辞句に忠実であったので、当時この国で屈指の剣の達人であったルイ十三世が、もし決闘をする友人があれば、介添人《かいぞえにん》としてはまず自分を、次にはトレヴィールを、いやあるいはトレヴィールのほうを先にすすめてみるつもりだと、常日ごろ口にしておられるほどになった。
そんなわけでルイ十三世は、ほんとうにトレヴィール殿が好きだったのである。それはいかにも王さまらしい、利己的な愛情ではあったが、愛情であることには変わりはなかった。こういう不幸な時代にあっては、トレヴィールのような気性の人間で自分の周囲を固めておくことが、願わしかったのだ。
ところで、その紋章の銘の第二句[剛毅《ごうき》]を自分の紋章につけ得る人物はたくさんいたが、第一句[忠誠にして]という銘句を名乗り得る貴族はまず稀《まれ》だった。トレヴィールは、その稀な一人であった。番犬のような、よく人の意に従う知力、盲目的な勇気、鋭い眼とすばやい手、そういった稀な素質をもった一人であった。その眼は、国王がだれかに不満でおられるかどうかを見るためについており、その手は国王が好ましく思っていない人物、たとえばベームや、モールヴェールや、ポルトロ・ド・メレや、ヴィトリーといった人物を打ちすえるためにあった。
つまりトレヴィールにはいままでそういう機会がなかっただけで、いつもその機会を狙《ねら》っているのだから、もし手のとどくところを通りさえすれば、三本の頭の毛を引っ張ってもつかまえてみせると、心に誓っていた。それゆえルイ十三世は、トレヴィールを近衛銃士の隊長に任命したのであって、ルイ十三世に対する銃士隊の忠誠ぶりやその盲目的な服従ぶりは、アンリ三世に対する侍従たちや、ルイ十一世に対するスコットランド衛兵の関係と同じであった。
こうした点ではリシュリュー枢機卿《すうききょう》も、王にひけをとらなかった。ルイ十三世が屈強の精鋭で身のまわりを固めているのを見ると、このフランス第二の、いやむしろ第一の、国王ともいうべき枢機卿は、自分もまた親衛隊をもちたいと思った。そこでルイ十三世と同じように銃士隊をつくったわけだが、そのためにこの相争う二大有力者は、フランス全土はもとより諸外国にまでも呼びかけて、有名な剣の使い手を集めることになったのである。
そこでルイ十三世とリシュリューとは、よく夜分に将棋《しょうぎ》をさしながら、それぞれの隊士の功績が元で口論を闘《たたか》わした。いずれもが、自分の隊士の挙止《きょし》や勇気を誇り、口ではけんかや決闘を禁じていながらも、暗にけしかけて武器を取らせ、その争いの勝負に一喜一憂《いっきいちゆう》するのだった。これらの争いで、ときには敗れたが、多くの場合勝利を得たある男の回想録によれば、少なくとも以上の話は、事実であった。
トレヴィールは、主君の弱みをつかんでいた。彼が、あまり友情に忠実であったとは言われていない国王に、ずっと変わらぬ寵《ちょう》を得ていたのは、そういう手だてをもっていたからだった。彼はリシュリュー枢機卿の面前で、さもあざけるようなようすを見せて自分の隊士を閲兵《えっぺい》し、台下の灰色のひげを怒りでぴんと立てさせたりした。それにトレヴィールは、もし敵を犠牲にして生きられないときは味方の犠牲においてでも生きてゆくのが、この時世の兵法であるということを、よく心得ていたのだ。彼の輩下《はいか》は暴れん坊の一団を作っていて、彼以外の命令には何者にも従わないようにしつけられてあった。
国王の銃士、というよりむしろトレヴィール殿の銃士ともいうべきこれらの連中は、傷だらけの胸をはだけて酔っぱらい、居酒屋や大道や賭博場《とばくじょう》をのし歩き、大声でわめいては口ひげをひねりあげ、剣をがちゃがちゃ鳴らしながら、枢機卿の親衛隊に出会うと、これ幸いとばかりにぶつかっていった。それから、むやみやたらと冗談口をききながら、往来の真ん中で剣を引き抜くのだが、ときには殺されることもある。そうなっても仲間は悲しんでくれるし、ちゃんと復讐してくれることを知っているからだ。多くの場合相手を殺すが、そうした場合はトレヴィール殿がいてもらいさげてくれるから、そう長いこと牢屋《ろうや》にいなくてもいいと確信していた。
それゆえトレヴィール殿は、あらゆる点で、これらの男たちの賛仰《さんぎょう》の的《まと》だった。彼らはいずれも負けず劣らずの荒くれ男であったにもかかわらず、ひとたびその前に出ると、まるで教師の前に出た小学生のようにちぢみあがり、どんな些細《ささい》な言葉にも従い、ごくわずかな叱責《しっせき》にも死をもってこれを償う覚悟をきめていた。
トレヴィール殿はこのような強力な力を、まず王とその友人のために、次には自分と自分の友人のために役立てた。それなのに、当時の回想録のいずれを見ても、このりっぱな貴族が人から非難を受けたという話は出ていない。しかも武人ばかりではなく文人にも敵のあった方なのに、その敵からも非難されてはいないのだ。策士としたって、一流の策士にひけをとらないくらいの権謀術策《けんぼうじゅっさく》にたけていたのに、この人は廉直《れんちょく》な士として通っていたのである。
それに、はげしい剣の試合や練習でからだを酷使しているのに、好色の道にかけても第一人者であり、もっとも洗練された伊達男《だておとこ》の一人であって、また粋《いき》な文句を吐くことにかけても当代一流の人物だったとみえる。ちょうど二十年前にバッソンピエール(スイス傭兵の連隊長で、なかなかの色男であった)がうわさされたように、トレヴィールの艶聞《えんぶん》も、さかんに取りざたされた。これで、およそこの人物の見当はつくだろう。このようにしてこの近衛銃士の隊長は尊敬され、恐れられ、愛されていたわけで、まさに人間の達し得られる絶頂にあったということができるだろう。
ルイ十四世は、その宮廷の小さな星をことごとく自らの広大な輝きの中に吸収してしまったが、その父君のルイ十三世は[多くのものにそれぞれ異《こと》なる]太陽として、自分の輝きを寵臣たちに分け与え、その身の価値を宮廷人それぞれに及ぼした。王の早朝|謁見《えっけん》と枢機卿のそれとのほかに、当時パリでは、みんなが多少なりとも求めている小さい謁見は、二百以上もあった。これらの二百もの中で、もっとも人気のあったのが、トレヴィール邸の謁見であった。
ヴィユー・コロンビエ街にあるその屋敷の中庭は、まるで陣営のようにごった返していて、夏は朝の六時から、そして冬でも八時から、そうであった。いつも圧倒的な人数がいるように見せて交代するものらしく、五十人から六十人ぐらいの銃士が、いつでも来いといわんばかりに完全武装をして、絶えず歩きまわっていた。今日なら、その上に一軒の家が建ちそうな大きな階段を、なんらかの寵遇《ちょうぐう》を得ようとするパリの請願者《せいがんしゃ》や、ぜひとも入隊したいと願う地方の貴族や、主人の伝言をトレヴィール殿にとどけに来る色とりどりの服装をした従僕たちが、上がったり下がったりしていた。
控えの間では、選ばれた人たち、つまり呼びだされてきた人たちが、長い円型の腰掛けにかけていた。そこは朝から晩までざわついていて、そのあいだにトレヴィール殿は、この控えの間につづいた自分の部屋で訪問を受け、訴えを聞き、命令を与えていた。そしてちょっと立ち上がって窓のところに行きさえすれば、ルーブル宮のバルコニーに立たれた国王のように、そのまま部隊を閲兵《えっぺい》することができた。
ダルタニャンが現われた日は、圧倒されんばかりの人群れで、とくにぽっと出の田舎者《いなかもの》には、そう思われたであろう。もっとも田舎者といっても、これはガスコーニュの人間で、当時ガスコーニュの人間というのは、めったにものおじしないという評判だったのは事実だった。
さて、頭の四角な、でかい釘を打ちこんだ厚い扉の中に一歩踏みこむと、すれ違いざまにどなり合ったり口論したりふざけ合っている一群の銃士の中に押しこまれてしまうのだった。このような人の波の中をどうにか切り抜けて通ろうというには、宮廷人か大貴族か、それとも美しい女でなければできなかった。
この雑踏の中を、わが青年は胸をどきどきさせ、やせ細った脛《すね》に並べて細身の長剣をたらし、片手を帽子の縁にかけて、どぎまぎした田舎者が落ちつきを見せようとするときにする、あの薄ら笑いを浮かべながら、歩いて行った。人の群れを抜けると、ほっとひと息つけたが、みんなが自分を振り返るらしいようすがよくわかった。いままで相当わが身に自信をもっていたダルタニャンも、生まれてはじめて自分が滑稽《こっけい》に思われてきた。
階段のところまで行くと、もっと悪かった。上がりばなでは四人の銃士たちが、気ばらしのために剣の稽古をしており、踊り場のところでは十人から十二人ほどの仲間が、自分たちの番の来るのを待っていた。
四人の一人は上の段で抜き身を手にして、他の三人があがって来るのを防ぐ、というよりも懸命になってあがって来るのを妨げていた。
下の三人はじつに軽妙な剣のさばきで、彼に向かってきた。ダルタニャンははじめ、これらは稽古用の剣術刀で、切っ先に皮の[たんぽ]がついていると思っていた。ところがまもなく、その人たちが傷ついたのを見て、どの剣もとぎすまされた真剣であることがわかった。しかも傷ができるたびごとに、見物人ばかりか当人たちまでが、どっと笑い声をあげるのだった。
このとき上段にいた者は、じつに巧みに相手をあしらっていた。そのまわりを人が取り巻いていたが、一本突かれるたびに除外されて、謁見の順番を相手に譲るという取りきめだった。五分間のうちに三人とも、手首に、あごに、耳にそれぞれ軽傷を受けて、相手の上段の男は一度も傷つけられなかった。じつに巧みな腕で、約束どおり三人分の順番を手に入れたのだった。
どんなことにもびくともしない覚悟で出てきたとしても、わが若い旅行者は、さすがにこの遊戯を見てはびっくりした。田舎《いなか》にいたときは、何しろすぐにかっとなるような土地柄だっただけに、決闘に近いものぐらいは見ていた。だが、この四人のガスコーニュふうの荒っぽい遊戯は、さすがのガスコーニュにおいても、かつて聞いたことのないほどのすさまじいものに思われた。ガリヴァーが出かけて行ってひどく恐ろしいめにあったという、あの有名な巨人の国にでも連れて行かれたような気がした。
ところで、まだこれでおしまいではなかった。この先にはまだ踊り場があり、また控えの間があるのだ。
踊り場ではもう剣を振りまわしてはおらず、女たちの話をしていたし、控えの間では、宮廷の噂話でもちきりだった。ダルタニャンは、踊り場では赤くなり、控えの間では身ぶるいした。ガスコーニュでは、若い小間使いたちや、ときには若い主婦たちまでも恐ろしがらせたこの青年の早熟な、とりとめのない想像力でもってしても、ここで耳にはいってくるみだらな話の半分ほども、こんな有名人の名や露骨な描写で飾られた恋の手柄話の四分の一ほども、思いつけるものではなかった。
ところで踊り場では彼の品行方正が傷つけられたが、控えの間にはいったら、彼の枢機卿に対する尊敬の念が、すっかり踏みにじられたのだった。ダルタニャンはそこで、全ヨーロッパを震えあがらせている政策や、枢機卿の私生活までが、声高だかと批判されているのを耳にして、ひどく驚いたのだった。そういう私生活をさぐってみようとしただけで、すでに多くの強力な諸侯が罰せられていたというのに、老父ダルタニャンがあんなにも尊敬していたこの偉人を、トレヴィール殿の銃士たちは、足がガニ股《また》だとか、猫背《ねこぜ》だとかいって、さんざんに嘲笑《ちょうしょう》しているのだった。
なかには、枢機卿の恋人であるエギヨン夫人や、その姪《めい》のコンバレ夫人を諷刺《ふうし》した辛辣《しんらつ》な小唄をうたったり、枢機卿の小姓《こしょう》や親衛隊を愚弄《ぐろう》する者もあって、何から何までが、ダルタニャンには正気の沙汰とは思われなかった。
そのくせ枢機卿に対する嘲弄《ちょうろう》の最中に、ひょっこり王の名前が出てくると、瞬間、猿《さる》ぐつわでもかまされたように、みんなの口がぴったり止まってしまうのだった。そのたびに、おずおずと身のまわりを見まわして、まるでトレヴィール殿の私室とをへだてる壁に耳でもありはしまいかと心配しているようなようすだった。ところがまもなく、また話が[台下]のことにもどると、騒ぎは前よりもいっそうひどくなって、枢機卿の行動が洗いざらい口の端にのぼるのだった。
[たしかにこういった連中は牢屋へひっぱられて、縛り首になる人たちだな]と、ダルタニャンは恐ろしくなった。[おれだって、この連中といっしょになって、こうやって話を聞いているのはまちがいないのだから、おれも共犯者と見なされるだろう。枢機卿を敬《うやま》えとあれほど言われた父上が、こんな不心得者《ふこころえもの》の中におれがいるのを見られたら、なんとおっしゃることか]
そんなわけだから申すまでもなく、ダルタニャンがこのような会話の中にはいろうとしなかったのは想像できるだろう。ただ目を見張り耳をそばだてて、ひと言ものがすまいと全神経を緊張させているばかりだった。が、やがてそのうちに、父親の忠告をじゅうぶん信じていたにもかかわらず、自分の好みからいっても、また性質からみても、いまここで聞いているけしからぬ話に、非難するどころか、だんだん引きこまれてゆくのをどうしようもなかった。
そのうちに、なにしろトレヴィール殿の家臣にとってはまったく未知の人間だったし、はじめて見る顔なので、一人の男がなんの用かと彼にたずねた。そこでダルタニャンはつつましく自分の名を告げて、同郷人のよしみをもって、トレヴィール殿が謁見《えっけん》を賜わるようお取りなしくだされたいと、その男にたのんだ。その男はさも親切そうに、適当なときを見はからって、その希望を伝えてあげようと約束してくれた。
最初の驚きからやや覚《さ》めてきたダルタニャンは、やっと周囲の人たちの服装や顔を、少しは眺める余裕ができた。
もっとも活気づいている一団の中心人物は、背の高い、傲慢《ごうまん》な顔つきをした銃士で、風変わりな服装のために、みんなの注意をひいていた。その男は隊の制服である広袖《ひろそで》の外套《がいとう》を着ないで……当時はいまほど自由は許されていなかったとはいえ、ある程度はわがままができたので、制服の着用が絶対の義務ではなかった……その代わりに、いくらか色あせてすり切れてはいるが、からだにぴったりした空色の上着をつけていた。そしてその上に金糸の縫いとりをしたりっぱな剣つり帯をしていて、それがまるで日を受けた水中の鱗《うろこ》のように、ぴかぴか輝いていた。深紅のびろうどの長外套を優美な線を見せて肩にはおり、その前だけをあけて、長い細身の剣をつるした例の見事な吊り帯をのぞかせていた。
この銃士は、ちょうどいましがた勤務からさがってきたところで、風邪《かぜ》をひいたと訴えては、ときどきわざとらしい咳《せき》をしていた。まわりの人に言っているところによると、それだから外套を着ているのだそうだが、この男が高慢《こうまん》ちきに口ひげをひねりながら、甲《かん》高い声でしゃべっているあいだ、まわりの者、とくにダルタニャンは、その刺繍《ししゅう》をした吊り帯に、すっかり見とれていた。
「仕方がないではないか」と、その銃士はいった。「流行だものな。ばかげたことだとおれも思うが、こんなのがはやってるんだからな。それに遺産なんてものは、何かに使わなくてはならんからな」
「おい、ポルトス!」と、その場に居合わせた一人が呼んだ。「その吊り皮がおやじの金で手にはいったなどと、おれたちに思いこませようとしなくってもいいぜ。先週の日曜日に、ポルト・サン=トノレあたりで貴公に出会ったが、あのときいっしょだったヴェールをかぶった婦人にもらったのだろう」
「ちがう。おれの名誉にかけて、貴族の名にかけて誓ってもいいが、ちがうさ。このおれが、このおれの金で買ったのさ」と、いまポルトスと呼ばれた男が答えた。
「そうさ、ちょうどおれがこの新しい財布を自分で買ったようにさ。ただ、おれの女が古い財布に入れといた金でな」と、もう一人の銃士がいった。
「おれはほんとうのことをいってるんだ。それが証拠に、ちゃんと金貨で十二ピストール払ったんだからな」と、ポルトスはいった。
疑いはまだ残っていたが、感嘆の声は高まった。
「そうだろう、アラミス?」と、ポルトスは、べつの銃士のほうを返り見ていった。
この銃士は、いまアラミスと呼んで声をかけた銃士とは、まったく対照的な男だった。年はまだやっと二十二か三で、顔つきもやさしくあどけない顔をしている。おだやかな黒い目をしていて、そのばら色の頬《ほお》は、秋の桃とでもいうような柔らかさをもっていた。そして唇《くちびる》の上には美しい口ひげが、くっきりした輪郭を描いていた。その手は、血管がふくれるのを心配でおろせないといったふうで、耳の血色をよくするために、ときどき耳たぶをつねっていた。ふだんは口数が少なく、ゆっくりしゃべるほうだが、挨拶はていねいで、笑うときには美しい歯を見せるだけで声を立てない。その歯がまたたいへんきれいで、ほかのところもそうだったが、とくに歯は念を入れて手入れをしているようだった。彼は友人の質問に答えて、そうだとうなずいてみせた。
この肯定で、吊り帯についての疑いははれてしまったものと見え、それからはただ感嘆して眺めているだけで、もうだれもそのことについては話題にのせなかった。そのうちに会話は、急転して、べつの話題に移っていった。
「シャレー(ルイ十三世の寵臣で、リシュリューに対する陰謀を疑われ、ナントで逮捕され断首された)の従者の話したことをどう思うかね?」と、またべつの銃士が、だれにと言うでもなく、みんなに向かっていった。
「どんなことをいってるんだい」と、ポルトスが念を押すような口調で聞き返した。
「ブラッセルで、枢機卿の腹心の部下ロシュフォールが、聖フランチェスコ派の托鉢僧《たくはつそう》に化けているのが見つかったんだ。ロシュフォールの奴、変装のおかげで、レーグ殿をいっぱい食わせたそうだ、あのお人よしのな」
「あのお人よしのな。だが、それはほんとうのことか?」と、ポルトスがたずねた。
「アラミスから聞いたのだ」と、その銃士は答えた。
「ほんとうか?」
「なんだ、ポルトス! 貴公はよく知ってるじゃないか」と、アラミスがいった。「きのう、拙者《せっしゃ》が話したではないか。もう、この話はやめよう」
「もう話はやめようって! それは、そっちの考えだ。もうこの話はやめだって! ちえっ! 貴公はすぐに話の結末をつけたがる。なんだと! 枢機卿が一人の貴族の動静をさぐらせ、あげくの果てには裏切者、盗人《ぬすっと》、やくざの手によって手紙を盗みださせ、そしてその密偵と手紙とによって、シャレーの首をはねさせようっていうんじゃないか、あの男が国王陛下を亡《な》きものとし、王弟殿下と王妃とを結婚させようと企《たくら》んでいるという口実でな! だれもこのような事件のからくりは知らなかったのに、それを貴公が昨日われわれに教えてくれ、みんなをすっかり喜ばせてくれたんだ。それなのに、われわれがまだそのニュースに驚きあきれ返っているというのに、今日になったらもうそんな話はやめようとは、そりゃあ、どういうわけなんだ!」
「じゃ、話すとしよう、そんなに話せというなら」と、アラミスは、自分を押さえていった。「もしおれがシャレーの従者だったら、ロシュフォールの奴、ただではすまさぬのだが」と、ポルトスが叫んだ。
「そして貴公は、赤帽子卿(枢機卿は赤い帽子をかぶり緋衣を着ているので、リシュリューはこのようなあだなをもっていた)にひどいめにあうってんだな」と、アラミス。
「赤帽子卿か、そいつはいいぞ、赤帽子とな」と、ポルトスは手をたたいて、うなずいた。
「赤帽子卿とはおもしろいぞ。ひとつ、この言葉をはやらしてやろう。まあ、おれにまかせておけ。アラミスという男は、まったく気のきいたことをいう奴じゃよ。それが好きな天職につけなかったのはなんとも残念なことじゃ! きっと、味のある神父ができあがったろうにな」
「なあに、ちょっと時期がおくれるというだけのことだよ」と、アラミスは答えた。「そのうち、いつかはそうなってみせる。ポルトス、貴公も知ってのとおり、そのために拙者は神学を学んでおるのじゃからな」
「この男は、きっとそうなるな」と、ポルトスはうなずいた。「おそかれ早かれ、そうなる」
「早くにだよ」と、アラミス。
「はっきり心にきめて、法衣を着るには、この男はただひとつのことを待っているのさ」と、一人の銃士がいった。
「何を待ってるんだね?」と、べつの一人がきいた。
「王妃がフランス国王の後継者をお生みになるのをさ」
「そういう軽口はやめにしよう」と、ポルトスが制した。「幸いにも王妃は、まだお世継ぎをお生みになれるお年頃だ」
「バッキンガム殿がフランスに来ておられるそうだな」とアラミスは、一見なんでもないこの言葉を、明らかにけしからん意味をもたせる皮肉な笑いを浮かべていった。
「おい、アラミス、こんどは貴公がよろしくないことを言う。貴公の才知も度がすぎるといかんな」と、ポルトスがさえぎった。「もしこれがトレヴィール殿に聞こえたら、えらいことになるぞ」
「おや、ポルトス、拙者《せっしゃ》に説教をする気かな?」アラミスのやさしい眼に、さっと光るものが感じられた。
「なあ、おい、銃士でも神父でも、どっちでもいいからなってくれ。ただし、両方いっしょはいかんぞ」ポルトスは、なお言葉をつづけた。「ほら、アトスがいつか言ったろう、貴公はなんにでも手をだしたがる男だとな。まあ、そう怒るなよ、怒ってもだめだぜ。貴公とアトスと拙者とのあいだには、ちゃんと取りきめがあるんじゃからな。貴公はエギヨン夫人のところへ行ってはごきげんをとるし、シュヴルーズ夫人の従妹のボワ=トラシー夫人のところへも出かける。なにしろ貴公は、ご婦人方にはえらく人気があるという評判だからな。いや、なにも貴公に艶話《つやばなし》を白状せいというわけではない。秘密を打ち明けろといってるんじゃないんだ。貴公が秘密を守るってことは、よく知っておる。ただ、そういう美徳をもっておるんじゃから、そいつをひとつ王妃のために使ってもらいたいんだ。国王でも枢機卿でも、どっちでも好きなほうに尽くしたらいい。だが、王妃は神聖だぞ、噂をするにしても、いい噂だけにしろ」
「ポルトス、貴公はナルシスのように思いあがった男だな」と、アラミスはやり返した。「アトスから言われるなら仕方がないが、知ってのとおり、拙者は説教されるのは大きらいだ。それじゃ、こっちも言うが、貴公のその吊り帯は、ちと身分不相応じゃよ。拙者は、好きなときに坊主になる。だが、それまでは銃士なんだから、銃士として言いたいことを言わせてもらうと、目下のところ、貴公の言うのを聞いてると、じりじりしてくるわい」
「アラミス!」
「なんだ、ポルトス!」
「まあ、よせよ!」まわりの者が、叫んだ。
「トレヴィールさまが、ダルタニャンさまをお待ちでございます」そのとき、従僕が私室の扉を押し開いて呼ばわった。
この呼びだしのあいだじゅう扉は開いたままだったので、みんなはだまりこんでいた。ガスコーニュの青年はこの沈黙の中を、控えの間を縦に突っきって、銃士隊長の部屋にはいった。心の中では、うまいぐあいに、この妙なけんかの結末に立ち合わずにすんだことをうれしく思っていた。
三 拝謁《はいえつ》
トレヴィール殿はそのとき、ひどくきげんがわるかったが、床につかんばかりにおじぎしている青年に、ていねいに会釈を返した。そしてベアルンなまりの挨拶を受けると、自分の若い頃と故郷のことを同時に思いだして微笑した。人間いくつになっても、この二つの思い出はなつかしいものである。が、ほとんどすぐに彼は控えの間のほうに歩み寄ると、ダルタニャンにはちょっと失敬してあの連中と話をつけてくるといったふうに手でしらせて、三度つづけざまに呼ばわった。
「アトス、ポルトス、アラミス!」
一人の名前ごとにますます声を大きくして呼んだから、けっきょく命令の口調から怒りの口調までが、みんな発せられたことになる。
すでにわれわれが知っている二人の銃士、つまり三人の中のあとの二人は、すぐに一座から離れて、私室へとやってきた。二人が入口の敷居をまたぐと、すぐに扉はしまった。彼らの態度は完全に落ちついたものとはいえなかったが、やはり威厳があり、同時に服従の気分のみなぎった、おっとりしたものがあったので、もともとこれらの人たちを神に近い人だと思い、その隊長を、あらゆる雷撃を用意しているオリンポス山のジュピターだと思いこんでいたダルタニャンは、ただもう感じ入っていた。
二人の銃士がはいってきて、扉がその背後でしまったとき、控えの間で、おそらくこの呼び出しが話題を供したのであろうか、一段とざわめきがひどくなったとき、トレヴィール殿は押しだまって眉をひそめながらポルトスとアラミスの前を、大股《おおまた》で縦に三、四度行ったり来たりしていたが、はたと二人の前に足をとめて、足元から頭の先へと、いらだたしい視線を投げかけた。
「陛下がこのわしになんと言われたか、貴公たちは存じておるか、つい昨晩のことだが、どうじゃ知っているか?」と、声を荒らげていった。
「いいえ」と、ちょっとだまりこんでいたあとで、二人の銃士は答えた。「いや、一向に存じません」
「でも、よろしければ、われわれにお聞かせくださいまし」と、アラミスが、たいへん丁重な言葉と、いんぎんなようすを見せて言い添えた。
「陛下は今後、近衛《このえ》銃士は枢機卿の親衛隊の中から採用すると仰せられたのじゃ」
「枢機卿の親衛隊からですと! それはまた、なぜでございますか!」とポルトスが勢いこんでたずねた。
「それはな、ご自分のお飲みものに良質のぶどう酒をまぜて、内容を一新させる必要があるとのお考えからだ」
二人の銃士は、目の中まで赤くなった。ダルタニャンは、事情はさっぱりわからなかったが、ただもうその場に居たたまれないような気持ちになった。
「そう、そうなんだ」と、トレヴィール殿は興奮して言いつづけた。「陛下の仰せになるのは、もっともなのだ。なにしろ、宮廷では、近衛銃士の人気ががた落ちなのは、事実だからな。きのうなども枢機卿は陛下との将棋の席上で、いかにもお気のどくなと言わんばかりの口調でな……こいつがわしにはますますもって気に入らんのだが……こう話されたのだ。[あの呪われた銃士どもが、あのばか騒ぎをする連中が]と、ことさら皮肉な言い方でたたみかけて言われるので、いよいよもってわしは不快になったが、[あの空威張《からいば》りをする連中が]と、こんどは例の山猫《やまねこ》のような目でわたしをにらみながら、[昨晩フェルー街の居酒屋で、おそくまで居すわっておりましたので、夜まわりのわたしどもの親衛隊が]このあたりから、わたしを嘲笑《ちょうしょう》するような口調になってな。[やむを得ず、そのうるさい連中を逮捕《たいほ》しました]とな。
なんというざまだ! おまえたちも、このことについては、いくらか知ってるにちがいあるまい! 近衛の銃士を逮捕するとは! おまえたちもいっしょだったんだろう。弁解は無用だ、わかってるんだからな。枢機卿殿は名前までもあげられたんだ。まったく、わしの責任だ、そうだとも、わしの責任だよ。なにしろ、隊員を選んだのは、このわしなんだからね。
どうした、アラミス、法衣が似合うというのに、なぜ近衛の制服を所望したのじゃ? おい、ポルトス、そのりっぱな金の吊り帯は、竹光《たけみつ》を吊るしておくためのものかな? それからアトス! おや、アトスがいないな。どこへ行ったんだ?」
「隊長殿」と、アラミスはいたましそうに答えた。「あの男は病気なので、それもたいへん悪いので」
「なに、病気で、重体だと? どこが悪いんだ?」
「痘瘡《とうそう》ではないかと、心配なのですが」とポルトスが、自分も会話に加わりたいと、ちょっと口をはさんだ。「まったく困ったことでして、ひどい顔になってしまうことは免れませんからな」
「痘瘡だって。またまた名誉な話を聞かせてくれるわ、ポルトス!……あの年で、痘瘡になるかな……そんなことはあるまい!……そうではなくて、けがをしたんだろう、あるいは殺されたのかもしれんな……ああ、もしおれがそうだと知ったなら!……おい、銃士たち、わしは貴公たちにああいう悪所へ足を踏み入れたり、往来でけんかをおっぱじめたり、四辻で剣を振りまわすなどは求めてはおらんぞ。枢機卿の親衛隊の笑い者などにはなってもらいたくないんだ。親衛隊の連中はみんな落ち着いた、腕のたつ勇敢な奴らだからな。つかまるようなことはやらんし、第一むざむざつかまるようなへまはやるまい! そうだとも……一歩でも退くくらいなら、その場で殺されるほうを選ぶだろうよ……逃げたり、隠れたりするのは、近衛の銃士隊のすることだよな、まったく!」
ポルトスとアラミスは怒りで身を震わせた。すぐにも飛びかかってトレヴィール殿の首を絞めにかかりたいところだが、隊長がこうまでまくし立てるのは、じつは自分たちを親身になって思ってくれるからだと心の中で思った。二人は床を踏み鳴らし、血のにじむほど唇《くちびる》をかみ、剣の柄を折れんばかりに握りしめていた。
部屋の外では、さっきアトス、ポルトス、アラミスの三人が呼ばれたことを聞き知っている上に、トレヴィール殿がかんかんになっていることが知れわたっていた。好奇心にかられた十人ばかりが頭を壁によせて、憤慨のあまり真青《まっさお》になっていた。扉に押しあてた耳には、部屋の中の話し声が、すっかり聞こえた。そこで隊長の罵声《ばせい》を次々と控えの間にいるみんなに、口から口へと伝えてやった。たちまちのうちに、私室の扉のところから通りに面した正門に至るまで、邸内はわきかえるばかりの騒ぎとなった。
「ああ、なんたることか! 近衛の銃士が枢機卿の親衛隊の手で逮捕されるとは」と、トレヴィール殿は、心の中では部下と同じくらいおさまらぬ気持ちでつづけて叫んだ。そのぽきぽきと折り捨てるような言葉は、まるで一語一語が鋭い短剣のように聞き手の胸にささるように響いた。「しかも、相手の台下の隊士六人が、国王陛下の隊士六人を捕えたというではないか! なんたることじゃ! わしは腹をきめたよ。この足でルーヴル宮へ参上して、近衛銃士隊長をやめさせてもらうことにする。その代わりに、枢機卿の親衛隊の副長にしてもらおう。もしそれもお許しがなければ、ええ、そうなったら、坊主にでもなるわい」
この言葉を聞いて、外の騒ぎはいちだんと高まった。それも、罵声《ばせい》と怒りの声だけだった。
[畜生!][いまいましい奴め!][奴らをやっつけろ!]そういった言葉が空中に入り乱れた。ダルタニャンはつづれ織の壁掛けの裏にでも身を隠したいような、テーブルの下にでももぐりこみたいような、やりきれない気持ちだった。
「申しあげます、隊長殿!」ポルトスは我を忘れて口走った。「なるほど六対六ではありましたが不意を襲われましたので、剣を抜くひまもないうちに、二人がやられてしまい、アトスもひどい傷を負って、動けませんでした。それでもごぞんじのとおり気丈なアトスのことですから、二回ほど立ちあがろうとしましたが、そのたびに倒れてしまいました。それでもわれわれは降参などしません、しませんとも! むりやりに引っ立てられたのです。ですから途中で、振り切って逃げてきたのです。アトスは死んだと思ったものですから、連れて逃げるまでもあるまいと、そのままその場に置いてまいりました。まあ、こういうわけでして、隊長殿、いつも勝ちいくさとはいきかねます。かの偉大なポンペイウスはファルサルスの戦いで敗れましたし、それに勝るとも劣らぬわがフランソワ一世王も、パヴィの地で一敗地にまみれたと、承っております」
「誓って申しますが、わたしは相手の剣を奪って、敵の一人を倒しました。最初の手合わせで、わたしのが折れてしまったものですから」と、アラミスが口をはさんだ。「殺したか、あるいはたんに刺《さ》しただけか、そこのところはよろしくご判断ください」
「そんなことは聞いていなかった」と、トレヴィール殿は少し言葉を和らげていった。「察するところ、枢機卿殿は大げさに言われたのかな」
「ところで、お願いですから」とアラミスは、隊長の気持ちが静まったと見てとって、思いきってこう頼みこんだ。「どうか、アトスが傷ついたことはおっしゃらないでくださいまし。陛下のお耳に達したと知ったら、あの男のことですから悲嘆にくれることでしょう。なにしろ重傷でして、肩から胸まで突き抜けていますので、ひょっとしますと……」
ちょうどそのとき、扉のカーテンをもちあげて、美しくて気品のある、だが血の気の失《う》せた顔がその房《ふさ》の下に現われた。
「アトス!」と、二人の銃士は声をかけた。
「アトスか!」とトレヴィール殿もつづけて叫んだ。
「隊長殿、お呼びだそうでして」と、アトスはトレヴィール殿に向かって、弱々しいが、落ちつき払った声でいった。「隊長殿がお呼びだと聞きましたので、大急ぎで参上いたしました。何か、ご用でございましょうか?」
こう言い終わると銃士は、いつもと変わらず革帯をし、制服にきちんと身を固めて、足どりもしっかりと、部屋の中にはいってきた。
「いまもこの連中に、無益なことで命を粗末に扱ってはいかんと申しておったところじゃ」と、隊長はいった。「勇敢な士は国王にとってたいへん大切なものだからな。そして陛下は、近衛銃士こそ、この世でもっとも勇敢な武士であることをよくごぞんじなのじゃ。さあアトス、握手じゃ」
トレヴィール殿は、いまはいってきた男がこの親愛のしるしに答えるのも待たずに、いきなり右手をつかむと力一杯握りしめたので、さすがのアトスも、ふだんなら大いに自制できるのに、痛みに堪えかねてなお一層青白い顔になって思わずたじろいだが、隊長殿にはそれがわからなかった。
扉は半開きのままだった。隠しておいたのだが、アトスの傷はもうだれでも知っていたから、彼が駆けつけてきたことで、大騒ぎが起こっていた。隊長の最後の言葉を聞いて、満足の喊声《かんせい》がわき起こった。そして興奮のあまり二、三の顔が、カーテンの隙間《すきま》から現われた。おそらくトレヴィール殿にしても、このような礼儀を欠く行為をきつい言葉でたしなめようとしたのであろう。
そのときとつぜん、握っていたアトスの手がひきつるのを感じたのだ。見ると、アトスが気絶しそうだった。アトスは力をふりしぼって痛みに堪えていたが、ついに堪えかねて、ばったり床に倒れたのだった。
「医者だ!」トレヴィール殿の声がひびきわたった。「わしの医者を、陛下の侍医を、いちばんいい医者を呼ぶんだ! 外科医だ! さあ、わしのアトスが死にかけているんだ」
トレヴィール殿の叫び声を聞いて、みんなが部屋の中に飛びこんできたが、扉をしめるのを忘れて負傷者のまわりにつめかけた。 しかし、いくらこういうふうに集まってみても、医者が邸内に居合わせなかったら、どうにもならないことだった。やっと医者が人だかりをかきわけて、気絶しているアトスのところへ近づいたが、まわりの騒ぎが邪魔なので、とにかくまず第一に、負傷者を隣室へ運んでくれるようにと頼んだ。トレヴィール殿はすぐに自分で扉をあけると、ポルトスとアラミスにつづくようにさしずをしたので、二人は友のからだを抱えて、隣室に運んだ。そのあとに医者がつづき、そのうしろで扉がしめられた。
すると、いつもなら畏れおおい場所であるトレヴィール殿の私室が、いっときは控えの間のつづきのようになった。だれもが口ぐちに議論し合い、大声で枢機卿とその親衛隊とにあらゆる罵詈雑言《ばりぞうごん》を投げかけた。
しばらくすると、ポルトスとアラミスとがもどってきた。医者とトレヴィール殿とは、負傷者のそばに残っていた。
やっと、こんどはトレヴィール殿がはいってきた。負傷者が意識を取りもどしたからだった。医者の言葉によると銃士の容態はみんなが心配するほどのことはなく、気絶したのはただ出血のせいだとのことだった。
やがてトレヴィール殿が合図をしたので、一同は引きさがった。ただダルタニャンだけは謁見のことを忘れずに、ガスコーニュ人特有のねばりづよさで、じっとその場に立っていた。
みんなが立ち去って扉がしまると、トレヴィール殿は振り向いて、青年とただ二人だけになった。いましがたの事件のために、思考の糸がとぎれてしまったので、この辛抱《しんぼう》づよい請願者《せいがんしゃ》に、用向きはなんだとたずねた。そこでダルタニャンが名のると、トレヴィール殿は現在と過去のすべての記憶を一度に取りもどして、青年の事情がすっかりわかった。
「失敬した、失敬した」と、彼は微笑を浮かべていった。「お国のかた、きみのことをすっかり忘れていた。しょうがないよ! 隊長というものはな、一家の家長と同じで、責任ときたら普通の家長以上のものを背負わされているんだ。隊士は、まるで図体《ずうたい》ばかり大きい子ども同然さ。しかもわしは陛下のご命令や、ことに枢機卿のご命令は、なんとしても果たさねばならんのでな……」
ダルタニャンは、微笑を禁じ得なかった。その微笑を見てトレヴィール殿は、相手がまんざらばかでないと見抜き、話題を変えると話の本筋にはいった。
「わしは、きみの父上が大好きだった。その人のむすこさんのどういう役に立てるかな。さあ、急いでいっておくれ。なにしろ、時間がないのでな」
「じつはタルブを出て、こちらへ参りましたのは、お忘れないそのご友情にすがって、近衛銃士の隊服をお許し願おうと思ったからでございます。しかしこの二時間、目《ま》のあたりに見ましたことによって、自分の望みがそう易々《やすやす》とは得られぬご厚意であることがわかりました。とてもそのような大きなご厚意を受けるには、わたしごとき者はそれに値いせぬとさとりました」
「まあ、じじつ厚意といえるだろうな」と、トレヴィール殿は答えられた。「しかしそれは、きみが考えているほど、あるいは考えているように見えるほど、それほど困難な望みでもないのだ。ただ、陛下のお作りになった取りきめがあってな。気のどくだがそれによると、なんどか戦場に立つとか、しかるべき殊勲《しゅくん》を立てるとか、わが隊ほどでなくとも別の隊に二年ほど勤めあげた者でなければ、銃士には採用されないことになっているのだ」
ダルタニャンは、だまって頭をさげた。容易に手に入れられぬと知って、いっそう銃士の制服を手に入れたくてならなかった。
「しかし」と、トレヴィールは、相手の腹の底までも読みとろうとするような鋭い視線で、この同郷の青年を見すえると、「いまもいったように、父上とは旧友のあいだだから、何かきみのためにしてあげたいと思う。わがベアルン出の青年貴族とあれば、まず金がないのがふつうだな。いまだって、わしが郷里を出たときと、そう事情は変わっておるまい。きみも、そう金は持っていまい」
ダルタニャンはだれからも施《ほどこ》しなどは受けたくないといわんばかりに、昂然《こうぜん》と身をそらした。
「わかった、わかった」と、トレヴィールはつづけた。「そういう気構えは、よくわかる。わしがパリへ出てきたときには、ポケットにわずか四エキュしかなかったが、そんな金ではルーヴル宮は買えまいと言う者があったら、相手かまわず剣を抜いただろうよ」
ダルタニャンはいよいよ身をそらした。馬を売り飛ばしたおかげで、トレヴィール殿より四エキュも多い金をもって、人生の門出《かどで》を飾ることができたからだ。
「わしの言う意味は、いくら金をもっていようが、それを大切に残しておく必要があるということだ。だが、貴族たるにふさわしい武芸にはげむことも、また必要なことじゃ。わしがこれから王立武芸道場の師範に紹介状を書いてあげよう。明日からでも、月謝なしで通うことができる。わずかな好意だが、まあ受けてくれ。家柄のいい、金持の貴族でも、こういう特典は、望んでも得られないことがあるものだからね。きみはそこで、馬術や、剣術や、舞踏を習ったらいい。そのうちにそこで、いい付き合いもできるだろう。そしてときどきはわしのところへやってきて、どの程度になったか報告してくれたまえ。そのうちにはまた、何かきみのためにしてあげられることもあるだろうからな」
ダルタニャンは宮廷の風習にはまだ慣れていなかったが、それでもこうした扱いが冷淡なものであることには気づいた。
「残念なことに、父からもらったあなた宛の紹介状をいま持っておりませんもので」
「まったくだ」と、トレヴィール殿は答えた。「わしもふしぎに思っていたところなんだ。われわれベアルン人にとっては唯一の資産であり、当然なくてはならぬ唯一の資産であり、路銀でもある紹介状を持たずに遠路はるばる、よくもやって来られたものだとな」
「ちゃんと持参したのでございますが、しかも正式なのを」と、ダルタニャンは叫んだ。「ところが、ひどい奴がいるもので、盗まれたのです」
そして彼は、マンの町での出来事を語って、あの見知らぬ貴族のことを詳細にわたって話した。熱心な、そして真実味のこもったその話しぶりは、トレヴィール殿をすっかり喜ばせた。
「それは、妙だな」と、彼は考えこんでつぶやいた。「わしのことを、大声で話したっていったね」
「はい。たぶんわたしが軽卒だったのでしょう。なんといってもご尊名は、わたしにとっては道中の守り刀ともなったわけですから。とは申せ、そう度々使ったわけではございませんが」
おべっかをいって人に取り入ろうとすることは、当時にあっても行なわれたことで、トレヴィール殿にしても国王や枢機卿と同じようにお世辞を好んだ。そこで思わず微笑を浮かべたが、すぐにその微笑は消え去り、自分のほうからマンの出来ごとに話をもどした。
「して、その貴族は頬にかすり傷はなかったかな?」
「はい、弾丸《たま》のかすったような傷痕が」
「なかなかの美男子ではなかったかな?」
「はい、そのとおりで」
「背は高いか?」
「はい」
「顔色は青く、髪は褐色で」
「そうです、そのとおりです。どうしてまた、あの男をごぞんじなのですか? ああ、こんど見つけたら! いや、地獄の底であろうとも、必ず見つけだして見せましょう……」
「女を待っていたといったな?」と、トレヴィールはつづけた。
「待ち合わせていた女としばらく話してから、あの男は出発しました」
「二人の話がどんなものだったか、知らないかい?」
「男は小箱をひとつ手渡し、その中に命令がはいっていると申しました。そしてそれをロンドンに着いてからあけるようにといっていました」
「女はイギリス人だったかね?」
「男はミラディーと、その女を呼んでいました」
「あいつだ!」と、トレヴィールはつぶやいた。「あいつだ! まだブラッセルにいるものとばかり思っていたが」
「ああ、もしあの男が何者だかごぞんじでしたら」と、ダルタニャンは叫んだ。「あいつが何者なのか、またいまどこにいるのか、教えてください。その代わり、ほかのいっさいのお願いは取りさげます。銃士隊に入れていただくという約束だって取り消してもかまいません。どうあっても、わたしは復讐しなければならないのですから」
「そいつはやめたほうがいい」と、トレヴィールは叫んだ。「それどころか、あいつが向こうから来るのを見たら、きみは別の方角へ避けたほうがいいぞ。あんな岩のような人間には、ぶつからんほうがいい。ガラスみたいに、こっちがこなごなになっちまうぞ」
「かまいませんとも、あいつを見つけることができたら」と、ダルタニャンはいった。
「さしあたり、わしがきみに与える忠告としては、こっちからあの男を捜《さが》さんこったな」
とつぜんトレヴィールは、ぷっつり話をやめた。ふと、この旅の男が父親からもらった紹介状を盗まれたというのもおかしい話だが、その盗んだ男に対してこれほどつよく憎悪《ぞうお》を示すにしても、その裏に何か不実なものが隠されているのではないかとあやしまれたからだった。
この青年は台下のまわし者で、何か罠《わな》でもかけにきたのではあるまいか? ダルタニャンと名乗るこの男は、じつは枢機卿の手先で、わしの屋敷にはいりこませ、わしの身辺に近よらせて、まず安心させておいてから失脚《しっきゃく》させようと、いままでになんども使った手を用いているのではなかろうか? 彼は改めてじっとダルタニャンを見すえた。表面は謙遜をよそおいながらも、抜けめのない才ばしった容貌で、はっきりとその正体がつかめない。
[ガスコーニュ生まれだとはよくわかるが]と彼は考えた。[枢機卿側とも、わしの味方ともどちらともいえる。よし、ひとつ試してみよう]
「きみはわしの旧友の子息《しそく》だし」と彼はゆっくりした口調でいった。「きみが紹介状をなくしたという話もほんとうだと思うよ。それに、さっきのわしの態度が冷淡だと思わせてしまったその償《つぐな》いとしても、一つわれわれの政策の機密を打ち明けるとしよう。陛下と枢機卿とは、ごく仲がよろしいのだよ。表面上のご不和は、愚人をたぶらかすためのものじゃ。わしの同郷人であり、りっぱな騎士でもあるきみが、そこいらのばか者どもと同じように、こんな見せかけにだまされるとはわしも思ってはいない。わしはこの全能のおふた方に対して忠誠のまことを尽くしているのだ。陛下はもとよりだが、わがフランスの生んだもっとも勝《すぐ》れた人物の一人であらせられる枢機卿殿にお仕えすること以外に、わしのなすべきことはないのだよ。
そこで、きみにもよく考えてもらいたいのだが、きみが家族関係だろうが、友人関係だろうが、よしまたきみ自身の考えからであろうとも、近衛の銃士隊のあいだによく見かけるような枢機卿殿に対する反感をもし持っていたとしたら、わしに別れの挨拶をして出て行ってもらいたいのだ。機会があれば力をお貸しもしようが、個人的にめんどうをみるわけにはいかんのだよ。いずれにしても、こういうふうにざっくばらんに話したことだけは、わかってもらえるな。なにしろ、こんなふうに若い人に打ち明けて話したのは、これがはじめてなんだからね」
トレヴィールは、心中ひそかにこう考えていた。[もし枢機卿がこの小狐《こぎつね》をわしのところへよこしたとしたならば、わしがどんなにあの人をきらっているかは知っているのだから、わしに取り入る最良の方法は、自分のことをひどく言うにかぎると、こいつに教えてあるにちがいない。だからわしがなんと言おうが、こいつは台下が大きらいだと言うにちがいない]
ところがトレヴィールの期待に反して、ダルタニャンはじつに素直にこう答えた。
「わたくしは隊長殿とまったく同じ気持ちで、パリに出てきたのです。父は、国王陛下と枢機卿殿と隊長殿を、フランスでもっとも大切なお三方だといって、だいじにお仕えするようにと申されました」
ダルタニャンは、トレヴィール殿を他の二人のあとに付け加えたが、こうしておけば悪いことはあるまいと考えての上のことだった。
「つまりわたくしは枢機卿殿に深い尊敬を抱いておりますし、そのなさることに対しましては深い尊敬を抱いております。ですからあなたさまがこうして卒直にお話しくださいますことは、たいへん結構にぞんじます。わたくしが同じ気持ちなのをお認めくださることになるわけですから。しかし、わたくしに何かお疑いをお持ちのようでしたら、それはいたし方のないことでございますが、かえってほんとうのことを申しあげて身の破滅になることもよくぞんじております。それも止むを得ないでしょう。ただ、わたくしがどういう男だか認めてくださればありがたいので、じつはそれが、わたくしの何よりの望みなのでございます」
トレヴィール殿は、ひどくびっくりした。相手の腹の底まで見とおす力と、その率直なものの言い方に、ほとほと感心したのだった。
しかし、疑いがまったく晴れたわけではないので、この若者がそこらの青年たちよりもすぐれているだけに、だまされているのではないかという心配があるのである。でも、ダルタニャンの手をしっかりと握って、こういった。
「きみは、いい青年だ。だが現在のところは、さっきいったことしかしてあげられない。この屋敷には、いつでも来てよろしいよ。わしにはいつでも会えるのだし、いつでも機会をつかまえることができるのだから、そのうちたぶんきみは、自分の望みを達することができるだろうよ」
「つまり、わたくしがそれにふさわしい資格ができるまで待ってくださるというわけですね」と、ダルタニャンはいった。「よろしゅうございます」
彼はガスコーニュ人らしいくだけた調子で、こう付け加えた。「そう長くはお待たせしませんから」
そして彼は、まるでほかに用事があるといわんばかりに、さっさと出て行こうとした。
「まあ、待て」と、彼を引きとめてトレヴィール殿がいった。「武芸道場の師範に紹介状を書くと約束したんだから。それとも、そんなものはいらん、というかね?」
「いいえ、ちょうだいしますとも。こんどこそは気をつけます。だいじに所持して、必ず宛先へ届けます。もしまた盗もうなどという者があったら、目にものみせてくれまする!」
トレヴィール殿はこの空威張《からいば》りを見て、思わずほほえんだ。そしていままで話しこんでいた窓際に同郷の士を残したままでテーブルに坐ると、約束の紹介状を書きはじめた。
そのあいだダルタニャンは、べつにすることもないので、窓ガラスを拍子をとってたたきながら、銃士たちが次々と立ち去って、町角に消え行くのを目で追っていた。
トレヴィール殿は手紙を書きおわると封をし、それを手渡そうと青年に近づいた。ところがダルタニャンが、それを受けとろうとして手を伸ばしたちょうどそのとき、トレヴィール殿が驚いたことには、青年がはっとして飛びあがり、怒りで顔を真赤《まっか》にして、叫びながら部屋《へや》を飛びだしたことだった。
「畜生! こんどこそは逃がさんぞ」
「だれのことだ?」と、トレヴィール殿がたずねた。
「あいつです。手紙を盗んだ奴《やつ》です。やい、畜生め!」
そういって、そのまま青年は姿を消した。
「気ちがいめ!」トレヴィール殿はつぶやいた。「だが、ひょっとすると、しくじったと思って、あいつ、うまくずらかったのかもしれんぞ」
四 アトスの肩、ポルトスの吊り帯、アラミスのハンカチ
怒り狂ったダルタニャンは、三段跳びで控えの間を横切り、こんどは四段おきに階段を飛び降りようとしたが、そのとき勢いあまって、ちょうどトレヴィール殿の部屋の別の出口から出てきた一人の銃士にぶつかった。頭を彼の肩にぶつけた銃士は、あっとばかりに叫ぶというより唸《うな》った。
「失礼」といって、ダルタニャンはなおも走りつづけようとして、「ごめんください。なにしろ急いでいるものですから」
階段に一歩足を踏みかけたとき、鉄のような手が、むんずとばかりに彼の飾り帯をつかんだ。
「急いでいるって!」経帷子《きょうかたびら》のように真青になった相手の銃士は叫んだ。「そんな口実で、このわたしにぶつかって、それで[ごめんなさい]だけですむと思うのか? そうはゆかんぞ、お若いの。きょうトレヴィール殿がわれわれに少しばかり無礼な口のきき方をしたのを聞いたからといって、貴公も同じように無礼な口のきき方が許されると思うと、とんでもないことだぞ。まちがえては困る、貴公はトレヴィール殿ではないんだからな」
「いや、いや、とんでもないことで」と、相手が医者の手当を受けて帰ろうとしていたアトスだと知って、ダルタニャンは、いよいよ困った。
「けっして、わざとしたわけではありません。ですから[ごめんください]とあやまっているのです。もう、それでいいでしょう。繰り返して言うのも余計のようですが、もう一度申しましょう! じつは、たいへん急いでおりますので、どうかお放しください。用事を果たしに行かせてください」
「お若いの、貴公は田舎《いなか》から出てきたばかりで、礼儀を知らんと見えるな」手を放したアトスは、こういった。
その言葉に三、四段降りかけたダルタニャンは、はたと足をとめた。
「なんと言われる! どんな遠方から来ようが、あなたから礼儀作法を教わるいわれはない」
「たぶんな」と、アトス。
「ああ! もし拙者《せっしゃ》がこのように急いでいるのでなければ……人を追っているのでなければ……」
「お急ぎのお方、このわたしなら、走らなくても見つかるぞ。おわかりかな」
「では、どこで?」
「カルム=デショー修道院のそばだ」
「時刻は?」
「正午ごろ」
「正午だな、よろしい、まいります」
「待たさぬようにな。正午を十五分過ぎたら、こちらから出かけて行ってきみの両耳を切り落としてやる」
「よろしい! 十分前に行っていよう」と、ダルタニャンは叫んだ。
そして、悪魔が乗り移ったように走りだした。あの未知の男の静かな足どりなら、まだそう遠くへは行くまいと念じながら。
ところが、通りへ出る門のところで、ポルトスが警備の者と話していた。二人のあいだには、ちょうど人が一人だけ通れる余地があった。これだけ余地があればじゅうぶんだと、ダルタニャンは二人のあいだを、矢のように走り抜けた。
だが彼は、風のことを計算に入れていなかった。
まさに通り抜けようとしたそのときに、風がポルトスの長い外套《がいとう》をあおり、ダルタニャンはその中にまともに飛びこんでしまったのである。おそらくポルトスは、この衣服の重要な部分を手放したくないという理由があったのだろう、おさえていた袖《そで》を放すどころか、いよいよ引き寄せたので、そのためにダルタニャンはポルトスの強い抵抗で生じた旋回運動によって、ビロードの布地の中に巻きこまれてしまった。
銃士の罵《ののし》る声を聞いたダルタニャンは、目を見えなくした外套から抜け出ようとして、ひだのあいだに出口を求めた。彼はなによりも、例のりっぱな吊り帯を汚しはしなかったかと、それが心配だった。ところで、びくびくしながら目をあけてみると、ポルトスの両肩のあいだ、つまりまさしく吊り帯の上に、ぴったり鼻をつけていたのである。
なんとそれが、うわべだけがきれいだという世の習わしにもれず、この吊り帯は前だけが金の縫いとりがしてあって、うしろはただの水牛の革だった。見栄《みえ》っぱりのポルトスは、すべてを金ぴかにするわけにいかなかったので、半分だけをそうしておいたのだった。そこで風邪《かぜ》をひいて外套を着なければならない理由があったのである。
「こいつめ!」ポルトスは背中のほうでもがいているダルタニャンを振り放そうと懸命になりながらどなった。「こんなふうに人にぶつかるなんて、気でも狂ったのか!」
「お許しください」
やっとこの大男の脇の下から顔をだしたダルタニャンは、「なにしろ、いま人を追い駆けて急いでいたものですから」
「追い駆けてるときは、目を置き忘れるものかね?」と、ポルトスが聞き返した。
「そんなことって」ダルタニャンはかっとなって答えた。「目があるおかげで、人に見えないものまで見えまさあ」
ポルトスは、その意味がわかったかわからないか、とにかくずっと怒ったままでいった。
「おい、いっておくが、銃士にこんなふうにぶつかると、ひどいめにあうぞ」
「ひどいめにあうとは、ちと言葉がすぎる」
「いつも大勢の敵を前にしている男には、ぴったりしている言葉さ」
「いや、まったく! あんたが敵にうしろを見せないってことは、よくわかってますよ」
自分のいった悪ふざけにすっかりうれしくなった青年は、からからと笑いながら遠ざかった。
ポルトスは怒りに歯をむきだして、飛びかかろうとした。
「あとで、いずれあとで」と、ダルタニャンは振り返った。「あんたがその外套を脱いだあとのことで」
「では一時に、リュクサンブール宮のうしろで」
「よろしい、一時に」そう答えてダルタニャンは、町角を曲がった。
ところが、いま来た道はもちろんだが、見渡すかぎり、人影はなかった。あの未知の男がどんなにゆっくり歩いたとしても、道はかなりはかどったわけだ。ひょっとすると、どこかの家の中にはいってしまったのかもしれない。ダルタニャンは会う人ごとにその男のことをたずね、渡船場まで下って行き、またセーヌ通りからラ・クロワ・ルージュ通りへと上って行ったが、まったく見つからなかった。ただ、これで彼のためになったことといえば、額に汗が流れだしてくるにつれて、気持ちが落ちついてきたことである。
そこで、いままで起こった事件について反省してみると、いろいろなことがあったが、いやなことばかりだった。まだやっと朝の十一時になったばかりというのに、トレヴィール殿の不興を買ってしまったのだ。ダルタニャンが出て行ったあのやり方を、きっととっぴだと思ったにちがいなかった。おまけに、二つも手ごわい相手と果たし合いをすることになってしまった。いずれも、一人でダルタニャンの三人ぐらいは殺せる相手であった。しかもそれが二人とも近衛の銃士で、彼が日頃どんな人間よりも勝れている人間だと考え、深く尊敬していた人たちなのだった。
先の見通しは、かんばしくなかった。どうせアトスの手にかかって死ぬのだから、青年がポルトスのことはあまり気にかけていないことは納得ゆくだろう。しかしながら、人間の心に最後まで残るものは希望であると言われているとおり、もちろんひどい手傷を受けるのは覚悟の上だが、ひょっとしたらこの二つの決闘に生き残ることができはしまいかという期待が、生まれてきたのだ。そこで生き残ったときの将来の戒《いまし》めとして、次のようなことを考えたのである。
[なんという軽卒な、ばかなことをしたんだろう。あの勇敢だが、不幸にして肩のところに負傷していたアトスに向かって、おれはその傷にまともにこの頭をぶつけたのだ。あの男がこのおれをその場で殺さなかったのはふしぎなくらいだ。あの男には、そうする権利があったろうにな。それにしても、さぞかし痛かったろうにな。ポルトスに至っては、ああ! こっちはもっと滑稽《こっけい》だ]
思わず知らず、青年は笑いだした。だが、この一人笑いは、知らない人が見たら変に思うだろうと考え、そっとあたりを見まわした。
[ポルトスのほうは、たしかに滑稽だが、これもやはり、このおれがそそっかしいからだ。声ひとつかけずに、あんなふうにして人にぶつかるっていう法があるものか! おまけに、用もないのに外套の中にまではいりこむなんて! あの呪《のろ》われた吊り帯のことを、おれがあんな当てつけを言わなかったならば、許してくれたかもしれないのだ。まったく、うまい当てつけだったな。ああ! なんとおれは呪われたガスコーニュ人であることか! 揚げ鍋《なべ》の中にぶちこまれても、しゃれのめすだろうな。さあ、ダルタニャン、いいか]と、彼は自分を労《いた》わる気持ちで語りかけた。
[どうも、あり得ないことだが、もしうまく切り抜けられたとしたら、今後は礼儀正しくしなければいかんぞ。人から感心されるような、人の模範になるような者にならなければいかんぞ。愛想よく丁寧《ていねい》だからといって、卑怯者だとはかぎらんからな。アラミスを見たらいい。まるで温和と優雅そのものだ。それでいて、アラミスを卑怯者だといった者がいるだろうか。断じていやあしない。よろしい、今後おれは、あらゆる点であの男を見ならうことにしよう。おや、ちょうどその人がいる!]
ダルタニャンは歩きながらひとり言《ごと》をいっているうちに、エギヨン邸の近くにまできていたが、その屋敷の前でアラミスが三人の騎士と話しているのに気づいた。アラミスのほうでもダルタニャンに気づいたが、彼は今朝《けさ》、トレヴィール殿にこの青年の前で叱られたことを覚えていたし、銃士たちが叱られることを目撃したこの男に対してはあまり愉快ではなかったから、知らん顔をしていた。
ところがダルタニャンのほうは、仲直りしたい気持ちと礼儀正しくふるまいたい気持ちとでいっぱいだったから、四人の若者に丁寧なおじぎをし、愛想のいい微笑を浮かべて近づいて行った。
アラミスは軽く頭を下げたが、微笑はしなかった。それに四人とも、ばったり会話をやめてしまった。
ダルタニャンは自分が邪魔者であることに気がつかぬほどばかではなかったが、まるで知らない連中が自分に関係のない話をしているところへ来合わせたばつの悪さからうまく切り抜けるほど、社交界の作法にはなれていなかった。そこで彼は、できるだけ上手にこの場を引きさがる方法を彼なりに捜していたのだが、ちょうどそのとき、アラミスがハンカチを落として、ついうっかりしていたのだろう、それを足で踏みつけたのが目にとまった。ばつのわるさを救うちょうどよい機会だと、彼は思った。で、彼は身をこごめると、できるだけ優雅な物ごしてハンカチを銃士の足の下から引きだし、なんと相手が一生懸命に足でおさえていたのに……こういって差しだした。
「このハンカチは、おなくしになってお困りのものとぞんじますが」
ハンカチはじじつみごとな刺繍《ししゅう》がしてあって、隅に王冠と紋章とがついていた。アラミスはまっかになって、ガスコーニュ人の手からそのハンカチを、ひったくるようにして取りあげた。
「おや、おや、アラミス」と、騎士の一人が叫んだ。「これでも貴公は、ボワ=トラシー夫人と仲がよくないなどといえるかい。あの美しいご夫人がご親切にも自分のハンカチまで貸してくれているのに」
アラミスはこのとき、ダルタニャンのほうをちらっと見た。その視線は相手に、これで不倶戴天《ふぐたいてん》の仇敵を得たことを知らせるような鋭いものであった。が彼は、またいつものおだやかなようすにもどった。
「諸君、それはみんなの思いちがいだ。これはわたしのではない。この人がなぜわたしに手渡したのか、わからないのだ。その証拠に、ほら、このとおり、わたしのはポケットにはいっている」
そういって彼は、自分のハンカチを取りだした。これもなかなかしゃれたハンカチで、当時は高価なものだとされていた上等な白麻製であるが、ただこれには刺繍もなく紋章もなくて、ただ持主の頭文字がついているだけだった。
こんどはダルタニャンは、ひと言も口にしなかった。自分が大失策をやらかしたことに気づいたからだった。しかしアラミスの友人たちは、彼の否定をそのまま信じる気にはなれなかった。
そこで一人が、わざとまじめくさった顔をして、若い銃士に問いかけた。
「もし貴公の言うとおりだとしたら、どうしても拙者は、きみにその返却を求めなければならないことになる。きみも知ってのとおり、ボワ=トラシーは拙者の親友だからな。その細君の持ち物を、そんなに振りまわされてはかなわんからな」
「返してくれといったって、どうもまずいな。実際きみの要求する気持ちはわかるが、形式の点でお断わりだ」
「じつは」とダルタニャンがびくびくもので、こう切りだした。「わたしはアラミス殿のポケットからそのハンカチが落ちるところを、実際見たわけではございません。ただ足で踏みつけていられるのを見たわけですが、足で踏んづけている以上、その方のものだと思ったのです」
「それがあなたの間違いなんだ」と、相手の気持ちは少しも察せずにひややかにアラミスは答えた。そしてボワ=トラシーの親友だと名のった騎士に向かって、
「だがね、よく考えてみると、きみがボワ=トラシーの親友だとしたって、わたしだってあの男と親しいことはおさおさ、きみに劣りはしないさ。だから、このハンカチがぼくのポケットから落ちたとしてもいいし、きみのポケットから落ちたとしてもいいわけだ」
「いや、ちがう、名誉にかけても」
「きみが名誉にかけて誓うなら、わたしも誓って言うぞ。そうなると、二人の中のどちらかがうそをついたということになる。よし、こうしよう、モンタラン。二人で半分ずつ取ろう」
「ハンカチをかい」
「さよう」
「こりゃいい」と、ほかの二人の騎士が叫んだ。「まさにソロモン王の裁きだ。いや、アラミス、貴公はあい変わらず知恵者だな」
若い貴族たちは、どっと笑った。そして話はそれきりで終わった。三人の貴族と銃士とは友情をこめた握手をかわすと、べつべつに別れて行った。
[いまこそこの伊達男《だておとこ》と仲直りするチャンスだぞ]と少し離れたところにいたダルタニャンは、そう思った。このような感心な考えを抱きながら彼は、自分のほうへは目もくれずに遠ざかってゆくアラミスのほうに近づいた。
「あのう、わたしのしたことは悪く思わんでくださいますな」と、声をかけた。
「いや」と、アラミスはさえぎった。「貴公の先程のやり方は、あのような場合、りっぱな男のなすべきことではないな」
「なんですと」と、ダルタニャンは気色《けしき》ばった。「あなたはまさか……」
「貴公は、まさかばかだとは思われないし、たとえガスコーニュあたりから出てこられたにしても、ポケットのハンカチを足で踏みつけるにはそれ相応の理由があることぐらいはおわかりだと思うね。まったく!パリの町は白麻の布で敷きつめられてあるのではないからね」
「このわたしをそのように恥ずかしめようとなさるのは間違いですぞ」とダルタニャンは、持ち前のけんか好きが、事をまるく納めようとする気持ちに先立って、やり返した。「いかにもわたしはガスコーニュ生まれだ。ご承知のことだと思うが、ガスコーニュの人間は気短かですぞ。たとえそれがばかげたことであろうとも、一度あやまればそれでじゅうぶんだと思うが」
「わたしはなにも、貴公にけんかを吹きかけようというのではない。幸いわたしは剣術使いが商売でもないし、銃士になっているのも一時のことであるから、やむを得ないときでなければ剣は取るまいと思っておる。それもいやいや取るのだから。だが、この場合は事が重大ですぞ。なにしろあなたのために一人の女性の名誉が傷つけられたのだからな」
「つまり、われわれによってなのだろう」と、ダルタニャンは叫んだ。
「どうしてハンカチをわたしに返すような、へまな真似《まね》をなさったのだ?」
「どうしてまた、ハンカチを落とすような、へまな真似をなさったのです?」
「だからさっきも申したように、このハンカチはわたしのポケットから落ちたのではないと、また改めて申しておく」
「では、これで二度にわたってうそをつかれたことになる。わたしはこの目ではっきり落ちるのを見たのですからな」
「おい! 言葉に気をつけたまえ、ガスコーニュ生まれのお方いの! 一つ作法をお教えするとしようか」
「そいつは、あなたのミサのときにお願いするとしましょう、神父さん! さあ、いますぐにけりをつけることにしましょう」
「いや、それはお断わりする。ここではだめなのだ。ここはエギヨン邸の前で、枢機卿の手先がいっぱいいるからな。貴公だって台下の命を受けて、このわたしの首を狙《ねら》っているかもしれんからな。ところでわたしは、この頭がこうして肩の上にちゃんと乗っかっているのがなによりも似合うと思っているのだから、この首はあくまでも捨てたくないよ。で、わたしはどうしても貴公を討ち果たすつもりだから、さように思って頂きたい。ついてはどこか落ちついたところで、貴公が自分の死にっぷりを人目にさらさずにすむようなところで、安らかに貴公に引導をわたしたいのだ」
「どうぞそうして頂きたい。だが、あまり当てになさらぬほうがよろしいですぞ。とにかく、このハンカチは、あなたのものであろうとなかろうと、持って行って頂きたい。またお役に立つかもしれませんからな」
「貴公はガスコーニュの生まれだな」と、アラミスがたずねた。
「さよう。大事をとって果たし合いを延ばされようとするのはよくありませんぞ」
「大事をとるって、そのようなことが銃士にとっては無益な美徳であることぐらいは、よくぞんじておる。だが、それは僧職の身にとっては欠くべからざるものだ。拙者が銃士でいるのは当分のあいだだから、わたしはどうしても大事をとりたいのだ。では二時にトレヴィール殿の屋敷でお待ち申そう。そのときに適当な場所をお教えすることにしよう」
二人の青年は挨拶を交わし、それからアラミスはリュクサンブール宮へ通じる道をとり、ダルタニャンは時刻が迫っているのを知ると、ひとりごとを言いながらカルム=デショーのほうへと歩いて行った。
[まったく、われながらあきれた話だ。だが殺されても銃士の手にかかるのが、せめてもの慰めさ]と。
五 近衛の銃士たちと枢機卿の親衛隊士
ダルタニャンは、パリにはだれも知り合いがなかった。そこで彼は、介添人《かいぞえにん》は相手のきめてくれるものでがまんすることにして、だれも連れずに、アトスのきめた果たし合いの場所に出かけた。それに彼の気持ちは、こちらの弱味を見せずに、勇敢な銃士に、なんとかわびを入れてみる気になっていた。このような決闘の結果は、元気な若者と傷ついて弱っている相手との勝負である以上、負ければ相手に二倍の勝利感を与えるわけだし、勝ったところで匹夫《ひっぷ》の勇と汚名をきるのが関の山だったからである。
それに、この冒険好きの青年は、いままでのところではじゅうぶんに描き得なかったかもしれないが、普通の性格ではないことを読者はお察しのことと思う。それゆえ彼は、死は免れないと自分に言い聞かせながらも、ふつう勇気のない凡庸《ぼんよう》な男が死ぬ場合のように、むざむざと殺される気にはどうしてもなれなかった。彼はこれから闘おうとする相手の、それぞれ違った性格をよく考えてみて、自分の立場をはっきりと見てとった。アトスには、自分の心できめたとおり誠意のこもった謝罪の意を述べれば、彼とは仲直りできるだろう。もともとこの男の大貴族らしい風貌《ふうぼう》といかめしい顔つきとは、たいへん気に入っているのだ。ポルトスについては、例の吊り帯のことでおどかしてやることができた。もしその場ですぐに殺されないとすれば、あの話をおもしろおかしくみんなに話して語れるわけだから、ポルトスに恥じ入らせて彼を笑い者にさせることができるわげだ。
最後にアラミスだが、この腹黒い男はさして恐ろしくはなかった。彼の番まで事が運んだとしても、この男はどうにか片づけることができそうだった。少なくとも、かのシーザーがポンペイウスの兵士たちに勧告したように、顔めがけて突きまくり、あの男が誇りとしている美貌を台なしにしてやればいいのだ。
それにダルタニャンにはいつも父親の忠告の言葉が頭にあって、それが彼の決心をゆるぎないものにしていた。[国王陛下と枢機卿とトレヴィール殿のほかは、だれとてけっして容赦《ようしゃ》するな]という[あれ]である。そこで彼はカルム=デ=ショーセ、当時の言い方だとカルム=デショーの修道院に向かって、飛ぶように走って行った。その修道院は窓のない建物で、草も木もない原っぱに囲まれており、ここは決闘の場所として、時間をむだにしたくない連中がいつもプレ=オー=クレール広場の代わりに使うところであった。
ダルタニャンが、その修道院の下にひろがっている空地《あきち》の見えるところまで行くと、アトスは五分前から待っていて、正午がちょうど鳴っているところだった。つまりアトスは、まるでサマリアの女の大時計と同じように正確だったわけで、これではどんなに決闘について口やかましい人でも、文句のつけようがなかったろう。
アトスはトレヴィール殿の侍医から新たに手当をしてもらったものの、まだ傷がひどく痛むので標石《ひょうせき》の上に腰かけながら、持ち前のおだやかな中に威厳のある顔をして待ち受けていた。ダルタニャンの姿を見ると立ちあがって、礼儀正しく彼の前に進み出た。ダルタニャンも帽子をとり、その羽飾りが地面にひきずるほどうやうやしく会釈《えしゃく》をして、相手に近づいた。
アトスから声をかけた。
「あの、介添《かいぞえ》になってくれる友人を二人呼んであるのだが、それがまだ来ない。いつもおくれるようなことはない連中なので、ふしぎに思っているのです」
「わたしのほうは介添はありません」と、ダルタニャンはいった。「なにしろパリへきたばかりですからな、トレヴィール殿のほかにはだれも知らないのです。あの方は父が少しばかりぞんじあげているので、それでお会いしろと言われて出てきたのです」
アトスは、ちょっと考えこんだ。
「トレヴィール殿しか知らないとな?」
「さよう、あの方以外にはない」
「それはどうも」と、アトスは半ば自分にも言いきかせるようにして言いつづけた。「弱ったな、あんたなどを殺したら、大人《おとな》げないといわれるだろうしな!」
「そんなことはないでしょう」と、ダルタニャンは威厳をもって会釈をした。「その傷ではずいぶんご不自由だと思われますのに、それでもわたしに敬意を表して剣を抜いてくださるのですから」
「たしかに不自由ではありますな。おまけにさっき、貴公が大そう痛いめに会わせてくださったからな。だが、わたしは左手を使いますよ。こんなときは、いつもそうするんでね。これはなにも、貴公を軽くみてそうするなどとは思わないでくれたまえ。わたしは左右どちらの手も使えるんだからな。むしろこのほうが、貴公には不利かもしれない。前もって知らされておらずに左利きを相手にするのは、たいへんぐあいのわるいものだからな。こうしたことをもっと早く知らせておかなくて、なんとも申しわけござらん」
「まことにもってご丁重なご挨拶、いたみ入ります」と、ダルタニャンはまたおじぎをした。
「そう言われると恐れ入るが」とアトスは、いかにも貴族らしいようすで答えた。「では、もしおさしつかえなければ、ほかのことをお話しするとしよう。ああ! これは痛い! 貴公はずいぶんひどくぶつかったからな! 肩が焼けるようだ」
「じつは、お許し願えれば……」
「なんだね?」
「わたしは驚くほど傷によく効く薬をもっていましてな。これは母親ゆずりの薬でして、自分でもためしてみましたが」
「それで?」
「それで、この薬をお用いになれば、あなたの傷は三日以内にきっと治ると思いますな。ですから三日たってあなたがお治りになったら、そのときお手合わせをお願いしようと」
ダルタニャンはこれらをごく率直に述べたのだが、それは彼の礼儀正しさをよく示し、彼が勇気に欠けているなどとは少しも感じさせなかった。
「これはまた」と、アトスは答えた。「あなたの申し出は、たいへん結構なことです。お受けするわけではないが、いかにもりっぱな貴族の心が感じられる言葉だ。騎士という騎士がもって範《はん》とするに足るシャルルマーニュ大帝(カール大帝。中世初期のフランク王カロリング王朝の王。初めてヨーロッパの統一をなしとげた)時代の騎士たちは、いつもそのような言行を示したものじゃ。だが残念ながら、いまは大帝の時代ではない。枢機卿《すうききょう》の時代だからな。今日から三日したら、どんなに秘密にしておいても、二人が果たし合いをすることは知れわたってしまう。そうなると、われわれの勝負には邪魔がはいることになるでしょうな。それはそうと、あの連中はどこをうろつきまわっているのだろうな」
「では、もしお急ぎならば」と、ダルタニャンは、いましがた決闘を三日延期しようと申し出たときと同じ率直さで、「もしお急ぎならば、どうかご遠慮なく、すぐにもこのわたしを片づけてしまってください」
「これはまた、いいお言葉だ」とアトスは、ダルタニャンに上品にうなずいてみせた。「思慮を欠いた人間の言葉ではない。たしかに心ある人の言葉だ。わたしは、貴公のような性格の男が好きだよ。もし貴公と殺し合いをするのでなかったら、あとでじっくり楽しい話し合いができるのだがな。まあ、あの連中の来るのを待つとしよう。わたしはいつでもよいのだから、そのほうが正式でいいだろう。ああ、あそこに一人きたのが、そうらしい」
じじつ、ヴォジラール街のはずれに、ポルトスの巨体が見えてきた。
「こりゃまた!」と、ダルタニャンが叫んだ。「あなたの第一介添人がポルトスさんとは?」
「さよう。なにかぐあいがわるいかな?」
「いや、べつに」
「もう一人も、来ましたぞ」
ダルタニャンはアトスのさし示すほうを返り見たとき、そこにアラミスを見いだしたのだった。
「こりゃ驚いた!」最初のときよりもさらにびっくりした口調で、ダルタニャンは叫んだ。
「おそらくきみは、われわれが離ればなれではいられぬことや、銃士隊、親衛隊、それから宮廷や町でも、[アトス、ポルトス、アラミス、切っても切れぬ三銃士]と言われることを、ごぞんじないのだな。なにしろ貴公はダックスだかポーだかから出てきたばかりなのだから……」
「タルブからでさあ」と、ダルタニャンは答えた。
「だからこんな話は知らないのもむりはない」と、アトスはいった。
「実際みなさんは、いいお名前をお持ちですな。もしこんどの決闘がなんらかの意味で評判になったとしたら、みなさんの団結の固さは、少なくとも気性の相違にもとづくものでないことを証明することになりましょうな」
そのあいだにポルトスが近づいてきて、手をあげながらアトスに挨拶した。だがダルタニャンがそこにいるのを見て、すっかり驚いた。
ついでに申しておくが、彼は吊り帯を取り替え、外套《がいとう》を脱いでいた。
「おや、おや! これはどうしたわけなんだ?」
「この人と、拙者は勝負をするのさ」と、アトスはダルタニャンをさし示し、同じように手をあげて挨拶をした。
「おれもこの男と果たし合いをするのだ」と、ポルトスがいった。
「でも、それは一時にです」と、ダルタニャンは答えた。
「わたしもこの男と闘うんだ」ちょうどそのときにそこへ来たアラミスがいった。
「でも、それは二時です」、ダルタニャンは、同じように落ちついていった。
「で、アトス、貴公の決闘の理由はなんだね?」とアラミスがたずねた。
「じつは、はっきりとはわかっておらんのじゃが、この男が拙者の肩を痛めつけたものだから。で、貴公は、ポルトス?」
「うん。おれはつまり、果たし合いをしたいから勝負をつけるんだ」といって、ポルトスは顔をあからめた。
なんでも見のがさないアトスは、ガスコーニュの青年の唇に、ずるそうな微笑がさっと浮かんだのを見てとった。
「服装のことで論争をしましてな」と、青年が脇からいった。
「で、アラミス、貴公は?」と、アトスがたずねた。
「わたしは神学上の問題で、理非曲直《りひきょくちょく》をつけたいのじゃ」そう答えながらアラミスは、ほんとうの決闘の理由はだまっていてくれるようにと、ダルタニャンに目くばせをした。
アトスはダルタニャンの唇に、二度目の微笑がかすめるのを見た。
「ほんとうかい」と、アトス。
「さよう、聖アウガスタンのことで、意見が一致しないことがあるもんでして」と、ガスコーニュ人がいった。
「たしかに、こいつは頭のいい男だ」と、アトスがつぶやいた。
「さて、こうしてみなさんおそろいになったからは」と、ダルタニャンが切りだした。「ひとつおわびを申さねばならぬことがあるので」
[おわび]という言葉を聞くと、そら見たことかとばかりに、アトスの顔にはさっと暗い影がさし、ポルトスの唇には軽蔑《けいべつ》するような微笑が浮かび、アラミスは不承知だという身ぶりを見せた。
「あなたがたはわたしの言うことがわかっていない」と、ダルタニャンはこういって頭をあげた。その顔にさっと日の光がさして、その不敬な美しい輪郭《りんかく》をくっきりと見せた。
「おわびというのは余の儀でもござらぬ。お三人みんなに借りをお返しすることができぬこともあるかと思ったまでです。つまり、アトス殿は最初にわたしを殺す権利を持っておられる。そうなるとポルトス殿の債権は値打ちがたいへんなくなってくる。アラミス殿に至っては、無きに等しい。そういうわけでみなさんに、改めておわびを申します。だが、理由はただそれだけのことで、いざ尋常《じんじょう》に勝負勝負!」
こう言い終わるやダルタニャンは武者ぶりよろしく、さっと腰の剣を抜き放った。
ダルタニャンは、頭にかっと血がのぼった。もはやこうなれば、いまアトス、ポルトス、アラミスに対してしたように、全銃士一同を敵にまわしても立ち向かったであろう。
正午を十五分まわっていた。太陽は天頂にあり、いまやこの決闘の場は、その灼熱《しゃくねつ》の下にさらされていた。アトスも剣を抜き放った。
「ひどい暑さだな。だが胴着を脱ぐわけにもゆかんな。さっきもまた傷口から血が流れ出したようだから、貴公が突いた傷から出る血をお見せしてはご不快だろうしな」
「いかにも」と、ダルタニャンは答えた。「わたしが突こうとだれが突こうと、あなたのようなりっぱな貴族の血を見るのはつろうござる。では、わたしも胴着をつけたままでしますか」
「もうよい」と、ポルトスが口をはさんだ。「そんな挨拶はたくさんだ。あとに待っている人間のことも考えてもらいたい」
「そんな無作法な口のきき方をするのは、ポルトス、貴公一人のときにしてもらいたい」と、アラミスはさえぎった。「わしの考えでは、この二人の言ってることはまことにもっともな、いかにも貴族にふさわしいことだと思うが」
「さあ、かかってこられい」アトスは身がまえて、声をかけた。
「よろしい、いざ」ダルタニャンは剣を交えて、それに応じた。
ところが二人の剣が触れ合って音を立てたかと思うと、ジュサック隊長の率いる枢機卿台下の親衛隊の一隊が、修道院の一角に現われた。
「親衛隊だぞ、剣をおさめろ」ポルトスとアラミスが同時に叫んだ。「二人とも剣をおさめろ」
が、ときすでにおそく、二人の構え方がまぎれもない決闘であると、見られてしまった。
「あいや、銃士の方々」ジュサックは部下に合図をして、彼らのほうに近づいてきた。「決闘をしておられたな。おのおののお方、お布令《ふれ》をなんと心得られる」
「あいや、親衛隊の諸公、貴公らはそろって大らかな方がたじゃ」アトスは悪意をこめていった。なぜならばジュサックは、一昨日の敵方の一人だったからだ。「かりにわれわれが貴公らの果たし合いの現場を見たとしても、とめだてはいたすまい。まあ、われわれにやらせてくれたまえ。貴公らだって労せずして、おもしろい見物ができるではないか」
「残念ながら、それは出来ぬ相談だと、はっきり申しあげる」と、ジュサックは答えた。「なによりも職務がだいじじゃ。さあ、剣をおさめてくだされ。そしてご同道を願う」
「残念ながら、それは出来ぬ相談だわい」と、アラミスはジュサックの言葉をまねて、「われわれ一存《いちぞん》によることなら、喜んでご招待に応じてもよかろうが、まずトレヴィール殿がお許しになるまい。さあ、さっさとご通過ください。そのほうが身のためですぞ」
こうした嘲弄《ちょうろう》を聞いて、ジュサックは激昂した。
「もし従わんときは、こっちから打ってかかるぞ」
「向こうは五人で、こっちは三人か」と、アトスはつぶやいた。「これでは、また負けるぞ。いよいよここが死に場所だ。また負けた姿を隊長殿の前にさらすわけにはいかんからな」
ジュサックが部下を整列させているあいだに、アトス、ポルトス、アラミスは、つと身を寄せ合った。
この瞬間にダルタニャンの決心はついた。これこそまさに、男子の一生を決定してしまう事件のひとつだった。国王につくべきか、それとも枢機卿に味方すべきか、二つに一つだった。一度きめてしまえば、もうそれは変えられないことだった。いま闘うことは、法に背《そむ》くことであり、つまり生命を危険にさらすことであって、国王よりも強力な宰相を敵にまわしてしまうことなのだ。青年の頭に、そういう見通しが、さっとついた。しかも賞賛に値いすることに、彼は一瞬もためらわなかった。そこでアトスとその友人たちを見まわしてこういった。
「みなさん、あなたがたのお言葉を、よろしかったら訂正させていただきたい。いま、われわれは三人と言われたが、わたしには四人と思われるが」
「だが、あんたはわれわれの仲間ではない」と、ポルトスがいった。
「なるほど、わたしは制服は着ていない」と、ダルタニャンは答えた。「だが、わたしには心がある。わたしの心は銃士のものだ。それは自分でよくわかっている。それがわたしをそうさせるのだ」
「退《の》きたまえ、お若いの」と、ジュサックが叫んだ。おそらく彼はダルタニャンの意図を、その身ぶりや表情から読みとったにちがいない。「きみはこの場から立ち去りたまえ。そのほうがいい。けがをしないように、さあ、早く行きなさい」
ダルタニャンは、動かなかった。
「たしかに、貴公は好青年だ」と、アトスは青年の手をぐっと握った。
「さあ、早く、どうするか定めてもらおう」と、ジュサックがいった。
「よし。なんとかしようや」と、ポルトスとアラミスがそれに応じた。
「隊長殿は、なかなか大らかな方じゃな」と、アトスがいった。
だが三人とも、ダルタニャンの若さと、経験不足を気づかっていた。
「われわれ三人のそのうちの一人は負傷してるし、そして別に子どもが一人だ」と、アトスがいった。「それでもあとで、四人だったと言われるだろうな」
「うん。だが、このままのめのめと!」とポルトス。
「それは、できまい」と、アトス。
ダルタニャンは、三人の気持ちがきまらないのを見てとった。
「とにかく、わたしをためしてみてください。たとえこっちが負けたとしても、けっしてわたしはこの場を立ち去りませんから」
「お名前は?」と、アトスがたずねた。
「ダルタニャン」
「よし、アトス、ポルトス、アラミス、それにダルタニャン、さあ、突っこもう!」と、アトスが叫んだ。
「どうだ、そっちの話はついたかな」と、ジュサックは三度目の声をかけた。
「話はついた」と、アトス。
「どっちにしたんだ?」と、ジュサックがたずねた。
「お相手することにする」と、アラミスは片手で帽子をあげ、もう一方の手で剣を抜き放った。
「なに、手向かう気か!」と、ジュサックは叫んだ。「もちろんだ! 驚いたか?」
かくて九人の敵味方は、一定の作法を持しながらも、猛り立って互いの相手にぶつかって行った。アトスは枢機卿のお気に入りのカユザックという男に向かい、ポルトスはビスカラに、そしてアラミスは二人の敵と渡り合った。
ダルタニャンはといえば、ほかならぬジュサックに正面からぶつかった。
ガスコーニュの青年の胸は、割れんばかりに高鳴った。それは恐怖ではなく、とんでもない! そんなものは陰さえなくて、対抗心からだった。彼は怒り狂った虎のように、敵のまわりをまわること十度、構えや位置を変えること二十度に及んだ。相手のジュサックも決闘好きという評判があるほどの男で、場数は十分に踏んでいたのだが、このように縦横無尽《じゅうおうむじん》に跳ねまわる男が相手では、防ぐだけで手こずっていた。なにしろ法則などおかまいなしに盲滅法《めくらめっぽう》に打ちかかり、それでいて自分のからだには少しも触れさせまいと、突けばさっと身をかわすのだった。
ついにジュサックは、このような闘いにじりじりしてきた。子どもだと思って相手をなめてかかっていただけに彼は思わずかっとなり、つい手先が乱れてきた。ダルタニャンは実践の経験こそなかったが理論はよくわかっていたので、いよいよ攻撃の手を強めてきた。ジュサックは早く片をつけようと思って、力いっぱい踏みこんで烈しい突きを入れた。しかし相手はすぐに身をかわし、ジュサックが乱れた体勢を立て直そうとした瞬間、蛇のように刃の下をかいくぐると、敵の胴体ふかくぐさりと剣を突き刺した。ジュサックは、ばったり倒れた。
そこでダルタニャンは戦場のようすいかにと、ぐるりと周囲を見まわした。
アラミスはすでに敵の一人を倒して、もう一人と烈しく闘っていた。しかしアラミスは有利な体勢にあったから、じゅうぶんに相手と闘えた。
ビスカラとポルトスとは、ちょうど相打ちになったところだった。ポルトスは腕を、ビスカテは腿《もも》を刺されたのだ。しかし双方とも傷は浅いので、なおいっそう烈しく切りむすんでいた。
アトスはまた新たにカユザックから傷つけられて、見るからに血の気の失せた顔をしていたが、一歩も退かず、剣を持つ手を変えて左手で闘っていた。
当時の果たし合いの掟《おきて》では、ダルタニャンはだれかの助太刀をすることができた。そこで彼は、味方のうちに、加勢を必要とする者はいないかと見渡すうちに、アトスの視線にぶつかった。この視線は、いかなる雄弁にも勝るものであった。アトスは声をだして助けを求めるくらいならむしろ死を選ぶといった男であったが、目つきにものを言わせて、その視線で助けを求めることはできたのである。ダルタニャンはそうと察すると、勢いよく跳《は》ねあがって、カユザックの脇に駆け寄り、叫んだ。
「親衛隊の方、わたしが相手だ、さあ、かかるぞ!」
カユザックは抜り向いた。ちょうど潮どきがよかった。これまで気力だけで持ちこたえていたアトスは、がっくり膝《ひざ》をついたのである。それでも彼は、ダルタニャンに向かって呼びかけた。
「畜生! 頼むから、そいつを殺さんでおいてくれ。傷がなおって元気になったら、改めてそいつとけりをつけにゃならんからな。ただ剣をたたき落とすだけにしといてくれ。剣をからんで。そうだ。うまいぞ! うまくいった!」
アトスの口からこの感嘆の叫びがもれたとき、カユザックの剣は二十歩ほど向こうに飛ばされていた。ダルタニャンとカユザックとは、剣を取ろうとし取らせまいとして、同時に飛びかかった。が、ダルタニャンのほうが身が軽く、ひと足早く剣を踏んまえた。
カユザックはアラミスに殺された隊士のもとへ駆けよって、その剣をつかむと、ダルタニャンのほうへもどろうとした。が、その前に、アトスが立ちはだかった。彼はダルタニャンが代わってくれたあいだにひと息入れたので、ダルタニャンが敵を殺してしまいはしないかと心配のあまり、また闘いをつづけようと欲したのだった。
ダルタニャンは、アトスの望みどおりにさせないのはかえって不本意であろうと考えた。はたしてその後まもなくして、カユザックは喉をつかれて倒れた。
ちょうどそのとき、アラミスも仰向《あおむ》けに倒れた敵の胸元に剣を突きつけて、命乞いをさせていた。残るはビスカラとポルトスの勝負であった。ポルトスは大いに虚勢を張って、時間をたずねてみたり、ビスカラの弟がナヴァールの連隊で中隊長になったのを祝ったりした。だが、こんなに揶揄《やゆ》しながらも、勝利は得られなかった。ビスカラは、倒れて後やむという豪の者だったからである。
それにしても、なんとかして、けりをつけねばならなかった。巡視《じゅんし》がやってくれば、国王側であろうと枢機卿側であろうと、負傷者であろうとなかろうと、そっくり引き立ててしまうにちがいなかった。
そこでアトス、アラミス、ダルタニャンの三人はビスカラのまわりを取り巻いて、降服しろとすすめた。一人で四人を相手にまわし、腿《もも》に傷を受けながらも、ビスカラはなおも抵抗しようとした。だが、肱《ひじ》をついて身を起こしたジュサックが、降参しろと呼びかけた。ビスカラはダルタニャンと同じガスコーニュ生まれだった。彼は聞こえぬふりをして、ただ笑うだけだった。そして打ち合いの合間に、剣の先で地面の一角を示しながら、聖書の一節をもじって、
「ここにビスカラ死せんとす、彼とともに在りし者から一人離れて」と、うそぶいていた。
「おい、相手は四人だぞ、もうやめろ。命令だ」
「ああ! 命令とあらば、話はべつだ」とビスカラはいった。「貴公は班長だ。服従しなければなるまい」
言い終わると彼はうしろへ飛びのき、敵に渡すまいと剣を膝に当てて二つに折り、修道院の石垣ごしに投げこんでから両腕を組むと、枢機卿派の歌を口ずさんだ。
武勇は、よしんばそれが敵方であろうとも敬意を払われるのが常である。近衛の銃士たちはビスカラに剣で敬意を表してから、それを鞘《さや》におさめた。ダルタニャンもそのとおりにしてから、ただ一人倒れなかったビスカラに手伝わせて、ジュサックと、カユザックと、アラミスの相手で傷を負った男とを修道院の車寄せの下まで運んだ。もう一人の男は、前述したとおり絶命していた。それから銃士たちは引き上げの鐘を鳴らし、五本のうち四本の剣をぶんどって、喜びに酔いしれながら、トレヴィール殿の館へもどって行った。
彼らは腕を組んで往来も狭しとばかりにひろがり、出会う銃士に一人一人話しかけ、まさに凱旋《がいせん》行進だった。ダルタニャンの心は、喜びであふれていた。彼はアトスとポルトスのあいだにはさまって歩きながら、友情をこめて二人の腕をそっと締めつけるのだった。
「まだわたしは銃士ではないが」とトレヴィール殿の屋敷の門をくぐるときに、彼は新しい友人たちをかえり見ていった。「せめて見習ぐらいには及第したでしょうな」
六 国王ルイ十三世
この事件は、大いに評判になった。トレヴィール殿は大っぴらには大いに銃士たちを叱ったが、低声で賞《ほ》めそやした。しかし、国王の耳に入れるに時を逸してはいけないので、トレヴィール殿は大急ぎでルーヴル宮に参内《さんだい》した。だが、すでに遅かった。国王は枢機卿とともに居間においでで、いまお仕事中なので拝謁《はいえつ》はかなわぬとのことだった。その夜トレヴィール殿は、国王のカルタ遊びの時間を見はからって出かけた。陛下は勝負に勝っていて、根がひどく欲のふかい方だけに、大変上機嫌だった。そこで遠くからトレヴィールの姿を見ると、声をかけた。
「さあ、ここへ来たまえ、隊長殿。少し叱ることがある。さっき枢機卿が来てな、あんたの銃士どもについて苦情を言いおった。ひどく興奮しておってな、あのぶんでは今夜はあの人は気分がすぐれんだろうな? まったく! あの連中は、手のつけられぬ、やくざ者だな、あんたのところの銃士たちは!」
「いや、陛下、とんでもないことでございます」と、これから事態がどう変わるかを見てとったトレヴィールは答えた。「それどころか、まるで子羊のようにおとなしい、気のいい連中でございます。私が保証いたしますが、あの者たちの望んでいることはただ一つ、陛下のお役に立つときにしか剣を抜かない、ただそれだけでございます。ところが枢機卿台下の親衛隊の者どもが、ことごとにけんかを吹きかけて参りますので、ついやむなく、あの者たちも身を守らねばならんというわけでして」
「まあ、聞きなさい、トレヴィール殿」と、国王はいった。「いいかね、あんたの話を聞いてると、どこかの宗教団体の話をしているように思われるね! まったく、隊長殿、あんたにあげた隊長の辞令を取りあげて、それを修道院をあげると約束したシュムロー嬢のほうにまわしたいくらいだよ。いや、わたしは、まさかあんたのそのような言葉をそのまま信じるようなことはしないよ。トレヴィール殿、世間ではわたしのことを[公正王ルイ]と呼んでいるのじゃよ。まあ、ゆっくり事情を調べてみることにする」
「ああ! それならばこそ、陛下のその公正なご判断をご信頼申しあげて、陛下のお楽しみが終わるのを、静かに辛抱づよくお待ちしているのでございます」
「まあ待ちたまえ、もう少し。それほど長くは待たせないからな」と、国王はいった。
じじつ形勢が変わって、国王は今までの儲《もう》けを失いはじめていたのだから、なんとか口実を作って、勝ち逃げを……賭博用語ということだが、筆者はその語源を知らない……しようという気だった。そこで国王はすっくり立ちあがると、目の前にあるその大部分はいま勝って得た金だが、それをポケットに入れていった。
「ラ・ヴィユーヴィル、わたしの代わりに勝負をしてくれ。わたしはトレヴィール殿とだいじな話があるでな。うん、わたしのぶんは八十ルイあったのだから、それと同じだけ賭けたらいい。負けた連中から苦情が出ないようにな。なによりも公正が第一だ」
それからトレヴィール殿のほうを振り向いて、いっしょに窓のほうへ歩いて行った。
「ではなんだな! 枢機卿の親衛隊が、おまえのところの銃士たちにけんかを仕掛けたというのだな」
「さようでございます、陛下。例によってでございます」
「して、事の起こりは、どうなのかな? 知ってのとおり、両方の言いぶんを聞かねば判断はつきかねるからな」
「ああ、それは! 至極《しごく》簡単な、ごく自然の成り行きでして。じつはうちのもっとも優秀な隊士の三人が、陛下よりその忠誠を一再ならず賞《ほ》めていただいた者で、陛下もその名をごぞんじのアトス、ポルトス、アラミスの三人が、今朝わたくしのところで知り合いになったガスコーニュの一青年と遊びに出かけたのでございます。たしかサン=ジェルマンへ行くとかで、カルム・デショーが待ち合わせの場所だったのでございますが、そこへジュサック殿とカユザック、ビスカラ、その他二人の親衛隊の連中が来合わせたのでございます。こんなに大勢で来たところを見ますと、お布令《ふれ》に違反するような意図をもってきたのに相違ございません」
「うん、なるほど! わたしもそう思うな」と、国王はいった。「おそらく、果たし合いでもしに参ったのであろう」
「わたくしは別に彼らを責めるわけではございませんが、あのカルムの修道院の付近のような人気のないところへ、武器をたずさえた五人もの男がなんのために参ったのか、それは陛下の御賢察にお任せたします」
「さよう、もっともだよ、トレヴィール、おまえの言うとおりだ」
「そこで彼らはうちの銃士たちを見ると考えを変えて、隊同士の怨恨《えんこん》のために、個人の怨恨を忘れてしまったのでございます。なにしろごぞんじのように、銃士たちは陛下に直属し、陛下にのみ忠勤をはげむ者たちでありますゆえに、当然枢機卿に属しております親衛隊とは犬猿《けんえん》のあいだでございまして」
「うん、そうなんだよ、トレヴィール」と、国王は寂しそうにいった。「このフランスに二つの党派があり、王国に二人の支配者がいるということは、たいへん嘆かわしいことじゃ。が、トレヴィール、いずれこのことは決着がつくであろう。それで、親衛隊の連中がけんかを吹きかけたというのか?」
「たぶんそうだと思われますが、断言はできかねます。真相というものは、ごぞんじのように、なかなか極めにくいものですが、公正王ルイ十三世と申されている陛下のようなすぐれた直観力を恵まれております方でしたら……」
「なるほどな、トレヴィール。だが銃士たちのほうは彼らだけではなくて、ほかに子どもがいたそうだが」
「はい、陛下。それに手負いが一人ございました。つまり近衛《このえ》の三銃士とは申せ、一人はけが人でそれと子ども一人とで、枢機卿の方のもっとも手ごわな五人と闘い、しかも四人を倒したのでございます」
「それはまた、たいへんな勝利だ!」と、王は喜びに顔を輝かして叫んだ。「完全な勝利だ!」
「はい、陛下。あのセー橋の勝ち戦《いくさ》と同じく完全な勝利でございます」
「四人の中で、けが人が一人と子どもが一人だと申したな?」
「まだやっと青年と言えるか言えぬほどの子どもでございますが、それがこの度の闘いでまことにりっぱにやってのけましたので、じつはわたくし、はばかりながら陛下にご推挙いたそうとぞんじまして」
「名前はなんと申す?」
「ダルタニャンと申します。わたくしの最も古い友人の一人で先王陛下にお仕え申し、宗教戦争で赫々《かくかく》たる武勇を示しました者のむすこでございます」
「で、その若者がよくやったと申すのじゃな。その話を聞かせてくれ、トレヴィール。知ってのとおり、わたしは合戦や決闘の話が好きなものでな」
そう言うとルイ十三世は誇らしげに口ひげをひねって、ポーズをつくった。
「さきほども申しましたとおり、ダルタニャンはまだ子ども同然で、それにまだ銃士の名誉を得ておりませんので、平民の服装でした。で親衛隊の連中も、この男があまりにも年が若く、おまけに銃士隊に属していないのを見てとって、打ちかかってくる前にその場を去るように申したのでした」
「してみると、やはり向こうから仕かけたわけだな」と、王は言葉をはさんだ。
「仰せのとおりでございます。このとおり明白な事実でして。そこで彼らが立ち去るようにと勧めましたところ、その者が答えて言うには、自分の心はすでに銃士であって、すべてを国王陛下に捧げている身ゆえ、これなる銃士の方々とともに踏みとどまるつもりだと」
「勇ましい奴だわい!」と、王はつぶやいた。
「言葉どおり、その者はとどまりました。陛下のためにも、頼もしい男でございます、この男が、あのジュサックをやっつけたのですから。それで枢機卿があのように憤慨なされたのでございます」
「ジュサックを倒したのが、その男なのか?」と、国王は大声でいった。
「そんな子どもが! トレヴィール、そんなことはあり得ぬ話じゃ」
「いや、まことに陛下に申しあげたとおりでございまして」
「ジュサックが、あの王国きっての剣士がかい!」
「さようでございます、陛下! あの男は、教えを乞うべき師に出合ったしだいでして」
「その若者に会ってみたいな、トレヴィール、わたしは会ってみたい。そしてもし何かしてやれることがあったら、ひとつ考えてやろうではないか」
「いつ拝謁《はいえつ》をお許し願えるでしょうか?」
「明日の正午」
「一人だけ連れて参りますか?」
「いや、四人いっしょに連れてくるがいい。わたしはみんなに礼が言いたいからな。忠誠の士はなかなか得がたいものだからな。その忠誠には報いなければならぬものだ」
「では正午に、ルーブル宮に参内いたします」
「ああ、トレヴィール、小さい階段からにしてくれ。小さい階段だよ、枢機卿に知れるとうるさいからな」
「かしこまりました、陛下」
「わかっているだろうが、トレヴィール、禁令はやはり禁令だからな。あくまでも果たし合いをすることは禁じられているのだから」
「でも陛下、今回の衝突はふつうの果たし合いとはまったく事情がちがっておりまして、いわばけんかでございます。その証拠にはこちらが銃士三人とダルタニャン合わせて四人に対し、枢機卿方は五人ですから」
「なるほどそうだね」と、国王は答えた。「だがとにかく、小さい階段から来てくれ」
トレヴィールは微笑した。彼にとっては、子どものような王がその支配者に対して反抗したというしるしを得ただけでも、すでに満足だったのだから。彼はうやうやしく王に挨拶すると、王の許しを得て退去した。
その夜ただちに三人の銃士は、拝謁の栄を賜わることを知らされた。彼らは前にも王に拝謁したことがあるので、それほどひどく興奮はしなかったが、ダルタニャンはそうはいかなかった。例のガスコーニュ人特有の想像力で、いまこそ幸運が訪れたと思い、その夜は金色でいろどられた夢を見てすごした。それゆえ八時には、もうアトスの家に行っていた。
ダルタニャンが着いたときには、銃士はすっかり着替えをすませて、外出するばかりだった。拝謁は正午なので、アトスはポルトスやアラミスとともに、リュクサンブールの馬小屋のすぐそばにあるテニスコートでひと勝負することになっていた。アトスはダルタニャンにもいっしょに行かないかと誘った。彼はまだ一度もそのような遊戯をしたことはなかったが、九時から正午近くまでの時間をどうにも使いようがないので、行くことを承諾した。
二人の銃士はすでに来ていて、球を打ち合っていた。どんな運動競技にもたいへん強かったアトスはダルタニャンと組んで、相手方二人に挑戦した。しかし一球を打っただけで、それも左手でやったのだが、傷がまだ新しいのでとてもこういう運動をするわけにはいかないことがわかった。
そこでダルタニャンが一人だけ残ったのだが、彼はまだ[へた]で正式な試合をするのは無理だろうと、点数をとらずにただ球の打ち合いだけをすることにした。ところがポルトスの強腕によって打ちこまれた一球がダルタニャンの顔のごく近くをかすめたので、もしこれをうまくよけずにまともに受けたとしたら、そんな顔では国王の前には出られないので、今日の拝謁はだめになるところだったと思った。
ところでこんどの拝謁こそ、このガスコーニュ人の想像の中にあっては将来のすべてがかかっているので、彼はポルトスとアラミスに丁重に挨拶をすると、対等に打ち合いができるようになるまでは競技はやめておくといって、綱を張ってある見物席の中にはいってしまった。
ところがダルタニャンにとって不幸なことに、見物人たちの中に枢機卿の親衛隊の一人がいたのである。この男は昨日の仲間の敗北のことを非常にくやしがっていて、折あらば復讐したいものだと心に誓っていたのだった。で、いまこそ好機至れりとばかりに、隣りの男に声をかけた。
「あの若造が球をこわがるって驚くことはないさ。あれはたぶん銃士見習だろうからな」
ダルタニャンはまるで蛇《へび》にでもかまれたように振り向いて、無礼な言葉を吐いた親衛隊士をにらみつけた。
「へえ! 見たけりゃたんと見るがいいさ」と、その男は横柄《おうへい》な態度でひげをひねった。「お若いの、いまいったのは、たしかにこのおれなんだからな」
「あんたの言われたことは、はっきりしすぎるくらいはっきりしてるのだから、ちょっと顔を貸してもらおう」と、ダルタニャンは低声で答えた。
「いつだね、それは?」と、その男は相変わらずからかうような口調でたずねた。
「これからすぐに」
「拙者《せっしゃ》がだれだか、もちろんおわかりだろうな」
「まるっきりわからぬ。だが、そんなことはどうでもいい」
「いや、それはいかんな。拙者の名を知ったら、きみはそうは急ぐまいよ」
「では、お名前は?」
「ベルナジュー」
「よろしい、ベルナジュー殿!」と、ダルタニャンは落ちつきはらっていった。
「出入口でお待ち申そう」
「先に出られい。ついて行くから」
「そう急ぎなさるな。いっしょに出るところを見られるとぐあいがわるい。これからわれわれのすることに邪魔がはいると困る」
「よし、わかった」自分の名前がこの若者に対しては一向にききめがないのに驚いた。
実際、ベルナジューという名はおそらくダルタニャンだけが例外で、世間ではだれ一人知らぬ者はなかった。国王や枢機卿のどのようなお布令《ふれ》でも禁ずることのできなかった毎日の闘争に、必ずといっていいくらい出てくる名前の一つだったからである。
ポルトスとアラミスは競技に夢中だったし、アトスも熱心にそれを見ていたので、若い仲間が出て行ったのに気づかなかった。ダルタニャンがいましがた親衛隊士にいったように出入口で待っていると、一足おくれて相手はやってきた。正午に拝謁せねばならぬので、ダルタニャンは時間をむだにすることができなかった。で、あたりを見まわすと、往来には人影のないのがわかった。
「まったくベルナジューともいわれる方が、相手としてこんな銃士の見習いしかもたれないとは、いやはやおめでたいことで。だが、まあご安心のほどを。こちらは全力を尽くして闘いますからな」と、彼は相手に呼ばわった。
ダルタニャンの挑戦を受けた相手は、「だが場所が悪いようだな。サシ=ジェルマン寺院の裏手か、プレ=オー=クレールの中のほうがよいように思われるが」
「あなたの言われるのはごもっともだが、残念ながら、わたしは時間がない、正午に約束があるのでね。さあ、行くぞ!」
ベルナジューは、このような挨拶を二度と相手に繰り返させる男ではない。彼の剣がその手に光ったかと思うと、この小僧めがと呑《の》んでかかって、おどりかかった。しかしダルタニャンは、昨日すでに見習をすませていたし、その勝利の記憶も真新しく、今後の寵遇《ちょうぐう》に胸おどらせている矢先だったので、一歩も引くまいと決意は固かった。
そこで二人の剣は鍔《つば》ぜり合いとなったが、ダルタニャンはあくまでも後退しないので、敵のほうが一歩後退せざるを得なかった。しかもその後退したときに、その剣先が少し乱れた隙《すき》を狙《ねら》って、ダルタニャンは相手の剣先をかわし、一歩踏みこんで敵の肩を突いた。そしてすぐと、こんどは自分のほうが一歩退いて剣をかまえ直した。
ベルナジューは、何たいしたことはない、と叫んで、盲《めくら》めっぽうに打ちかかってきたが、自分自身が相手の剣先に突き刺さってしまった。それでも彼はまだ倒れもせず、降参もせずに、身内の一人が勤務しているラ・トレムイユ殿の屋敷のほうへじりじりとさがって行った。
ダルタニャンは敵に与えた傷の深さを知らなかったので、なおも烈しく迫り、三度目の攻撃で止めを刺そうとしかけた。
ちょうどそのとき、庭球場の中から二人の親衛隊士が剣を手にして飛びだして来ると、ダルタニャンめがけて襲いかかった。ベルナジューがダルタニャンと交わしていた言葉を聞いていた彼らは、そのあとで彼が出て行ったのを見たのだが、通りのただならぬ騒ぎが庭球場まで聞こえてきたので、さてはとばかり思い当たったのだった。同時に、アトス、ポルトス、アラミスも飛びだしてきて、若い仲間に打ってかかろうとしている二人の親衛隊を押しもどした。このとき、ベルナジューがばったり倒れた。親衛隊士は相手が四人なのを見てとって、大声で呼ばわった。
「お出合いくだされ、ラ・トレムイユ邸の方々!」
その声を聞きつけると、邸内に居合わせた者は残らず出てきて、四人に打ってかかったので、こんどはこちらも、「銃士隊の人は出られい」と呼ばわった。
この呼び声は、一般によくわかっていた。なぜならば銃士隊が台下の敵であることを知らないものはなかったし、彼らが枢機卿を憎んでいることは一般に好意をもって見られていたからだった。それゆえアラミスの言う[赤頭巾殿]直属以外の親衛隊は、こうした争いの際には、近衛銃士隊に味方した。
そこでちょうど通りかかった三人のエサール殿の親衛隊士中の二人は、さっそく銃士四人に味方し、残る一人はトレヴィール邸に駆けつけて、「銃士隊の方々、お出合いくだされ!」と呼ばわった。
邸内には例によって武装した銃士がいっぱい詰めていたから、さてはとばかりに駆けつけてきた。敵味方入り乱れての混戦となったが、銃士隊側のほうが優勢で、枢機卿方の親衛隊とトレムイユ家の配下の者は邸内に逃げこみ、敵がなだれこまないように門を固く閉ざした。負傷者はいち早く運んでしまっていたが、これがまたすでに話したとおり、なかなかの重態だった。
銃士とその味方の興奮はその極に達し、国王の銃士に向かってなされたラ・トレムイユ家の郎党どもの非礼は許しておけぬから邸内に火を放ってはどうか、という議論が起こっていた。この提案が一同の熱狂のうちに成立したが、そのとき折よく十一時を告げる鐘が鳴ったのである。
ダルタニャンとその仲間は、拝謁のことを思いだした。彼らはこのような快挙に自分たちが参加できないのを残念に思い、一同の者をなんとかなだめて思いとどまらせた。 そこでみんなは敷石を邸内に投げこむことでがまんしたが、それでも門は閉ざされたままだった。これには一同もあきれ返ったが、そのあいだにこんどの事件の首謀者と見られていた連中は仲間から離れて、トレヴィール殿の屋敷のほうへ向かって行った。
屋敷では、早くも事件を知っていたトレヴィール殿が、彼らを待ち受けていた。
「さあ、早くルーヴル宮へ。一刻の猶予《ゆうよ》もならんぞ。陛下が枢機卿の口からこのことを聞かれる前に、なんとかしてお目通りしたいものだ。これは昨日の事件のつづきだといってお話するのだ。そうすれば、二つの事件がうまく結びつくからな」
トレヴィール殿は四人の若者を従えて、ルーヴル宮へと赴《おもむ》いた。ところが驚いたことに、陛下はサン=ジェルマンの森へ鹿狩りに行かれたとのことだった。トレヴィール殿は二度も聞き返したが、その度に銃士たちは隊長の顔が曇《くも》るのを見た。
「陛下は、きのうから猟にお出かけの予定だったのか?」
「いいえ」と侍従は答えた。「じつはけさ、主猟頭《しゅりょうがしら》が参られまして、昨日陛下のために鹿を追いこんでおかれたと申されたのです。陛下も最初は行かないとおっしゃっていたのですが、狩猟の楽しみにはついお負けになって、お食事後お出かけになられました」
「陛下は、枢機卿殿にはお会いになられたか?」と、トレヴィール殿はたずねた。
「お会いになられたと思います」と、侍従は答えた。「と申しますのは、けさわたくしは台下のお馬車に馬がつけられたのを見ましたので、どちらへ行かれるのかとたずねましたところが、サン=ジェルマンだとの返事でしたから」
「先手を打たれたな」と、トレヴィール殿はいった。「わたしは今夜、陛下にお会いしよう。しかしおまえたちは、考えなしにお目通りを願うようなことはしないほうがいいな」
その意見はしごくもっともだったし、なによりも王の性格をよくのみこんでいる人の言葉だったので、四人の若者もあえて逆らおうとはしなかった。そこでトレヴィール殿は、それぞれ家に帰って、沙汰《さた》を待つようにとすすめた。
屋敷に帰るとトレヴィール殿は、こっちから訴え出て、先手を打つ必要があると思った。そこでさっそく使者をラ・トレムイユ殿の屋敷へ送り、枢機卿の親衛隊士を邸内から追い払うことと、銃士に乱暴をはたらいた配下の者を譴責《けんせき》することを求めた。
ところが、トレムイユ殿はすでに、例のベルナジューの身内である従者から事情を聞いていて、苦情をいうのはトレヴィール殿や銃士の側にはなく、家来を傷つけられたり放火されそうになった当方にこそ文句があるといった。こんなふうでは、お互いに貴族の体面もあることだし、当然双方が自説を固持して譲りっこないから、トレヴィール殿は一挙にことを解決すべく、自らラ・トレムイユ殿に会いに行くことにした。
そこでさっそく彼は先方の屋敷におもむき、案内を乞うた。二人の貴族は、丁重に挨拶を交わした。二人のあいだに友情はなかったけれども、少なくとも互いに尊敬は抱いていたからである。二人とも情に厚く、名誉を重んじる人たちだった。ラ・トレムイユ殿は新教徒であり、国王の前に出ることはまれで、どの党派にも属さず、その交際関係には概して偏見をもたない人であった。でも、さすがにこのときの応対ぶりは、いんぎんではあったが、いつもよりひややかであった。
トレヴィール殿は、切りだした。
「ラ・トレムイユ殿、われわれは互いに相手に対して文句があると思っているようですから、それではいっそごいっしょにこの事件を究明してみてはと思い、参上したしだいでして」
「結構ですな。しかしわたしは事情をすっかり聞いているので、それによるとそちらの銃士のほうがすべて間違っているようですな」
「あなたは公正でものわかりのいい方だから、わたしの申し出は受けてくださると思うのですが」
「承りましょう」
「お宅の従者の身寄りだというベルナジュー殿のご容態はいかがですか?」
「それが、ひどく悪うござってな。腕に受けた傷はたいしたこともないのですが、ほかに胸をやられていましてな。医者の言うには、これが問題だそうです」
「でもけが人は、意識はあるのでしょう?」
「ええ、それはあります」
「話はできますか?」
「どうやら話すことはできます」
「それでは、いかがでしょう! われわれ二人でその男の枕元に行きましょう。そしてまもなく召されるであろう彼に、神の御名《みな》において真実を語ることを誓わせましょう。つまりその男に自分で自分を裁かせようというので、わたしは彼の言うことを信じることにいたします」
ラ・トレムイユ殿はちょっと考えこんだが、それに勝る思いつきも浮かばないので、承知した。
そこで二人は連れだって負傷者のいる部屋へ行った。けが人は身分の高い人が二人そろってはいってきたのを見て、ベッドの上に起きなおろうとしたが、その力がなく、無理をしたために気を失って倒れてしまった。
ラ・トレムイユ殿が近寄って、気つけ薬を嗅《か》がせたので、正気にもどった。そこでトレヴィール殿は、病人を虐使《ぎゃくし》したと言われるのがいやだったので、ラ・トレムイユ公に質問させることにした。
トレヴィール殿が予想したとおりのことが起こった。生死の境におかれているベルナジューは真相をいつわったりする気力もなく、二人の貴族に向かって、ことの次第をありのままに語った。すべてがトレヴィール殿の思うとおりになった。で彼は、ベルナジューに早くよくなるようにと声をかけてから、ラ・トレムイユ殿に別れを告げて屋敷に帰ると、さっそく四人の者に食事に来るようにと使いをだした。
トレヴィール殿の客は上流の人たちだったが、いずれも反枢機卿の者ばかりだった。それゆえ、食卓での会話はずっと、台下の親衛隊が受けた二度の敗北のことで、花が咲いた。しかも二度とも立役者はダルタニャンだったから、彼は一座の賞賛を浴びた。アトス、ポルトス、アラミスの三人もこの若い友だちをおおいに賞《ほ》めそやした。これは仲間だからというばかりではなく、この人たちは過去において、こういう経験を度々もっていたからであった。
六時ごろ、トレヴィール殿はこれからルーヴル宮へ行かねばならないといった。しかし国王から許されている拝謁の時間はもう過ぎていたので、小さな階段からはいらずに、四人の若者を連れて控えの間に居すわった。王はまだ狩猟からもどられないからだ。三十分ほど廷臣にまじって待つほどに、扉が開いて陛下のご帰還が告げられた。
この知らせを聞いて、ダルタニャンは骨の髄《ずい》まで震えるような気がした。たしかに、これから起こる一瞬間で、自分の一生が定まるように思われたからだ。そこで彼の眼は不安げに、王のはいって来られる扉にそそがれていた。
ルイ十三世は、先頭に立ってはいってきた。まだ埃《ほこり》まみれの猟服で、大きな長靴をはき、鞭《むち》を手に持っていた。ひと目でダルタニャンは、王の機嫌が悪いのを見てとった。こんなに陛下のご機嫌が悪いのがわかっているのに、廷臣たちはその前に列をつくってお迎えした。宮廷の控えの間では、ぜんぜんお目にとまらないよりも、たとえ不機嫌な目つきでもいいから、見られたほうがよかったのだ。
そこで三人はためらうことなく一歩前へ出たが、ダルタニャンは彼らのうしろに隠れていた。しかし陛下はアトス、ポルトス、アラミスは個人的によくごぞんじのはずなのに、まるで知らないといった顔つきで、彼らのほうを見ず、言葉もかけられずにその前を通りすぎて行かれた。トレヴィール殿はといえば、王の視線がそのほうに注がれると、じっと強く見返したので、陛下のほうが目をそらした。陛下はそのまま、口の中でぶつぶつ言いながら、居間の中へはいってしまった。
「どうもおもしろくない雲ゆきだな」と、アトスが薄ら笑いを浮かべてつぶやいた。「これではまだわれわれは、こんどもシュヴァリエ(レジオン・ドヌール五等勲章)に叙勲《じょくん》はしていただけないぞ」
「ここで十分ほど待っててくれ」と、トレヴィール殿が声をかけた。「十分たってもわたしが出て来なかったら、さっさと屋敷へ帰ってくれ。それ以上待っていてもむだだからな」
四人の若者は十分待ち、十五分待ち、二十分待ったがトレヴィール殿が出て来ないので、どうしたのだろうかと大いに不安になったが、そのまま退出した。
トレヴィール殿が思いきって王の居間へはいったところ、王はたいへん不機嫌で椅子《いす》に腰かけ、鞭《むち》の先で長靴をたたいていられた。それでも彼は平静を装って、ご健康はいかがですかとたずねると、「よくない、よくない、退屈だよ」と、王は言われた。
じじつ退屈はルイ十三世のもっとも悪い病気で、よく廷臣のだれかをつかまえると、窓のところへ連れて行って、こんなことを言うのだった。[どうだね、いっしょに退屈しないかね]
「なんと仰せられます、陛下がご退屈とは! 本日は、狩猟のお楽しみがおありになったのでは?」と、トレヴィールはたずねた。
「たいした楽しみさ、まったく! このごろはなにもかもうまくない。獲物が足跡をつけないのか、犬の鼻がだめになったのか知らないがね。七歳もの大鹿を放して、六時間も追い駆け、さていよいよ追いつめて、サン=シモンが合図の角笛を吹こうとして口にあてると、どうだね、猟犬どもはすっかりだまされおって、二歳にしかならぬ小鹿に飛びかかって行くんだ。こんなふうでは、鷹狩《たかがり》をやめたように、犬を使う狩までやめなくてはならないことになるね。ああ! わたしはまったく不幸な国王だよ。一昨日は、一羽しかいなかった大鷹が死んでしまったし」
「ほんとうに、陛下のお嘆きはお察し申しあげます。たいへん残念なことで。でも、まだいろいろな種類の鷹や隼《はやぶさ》をたくさんお持ちのようにぞんじますが」
「ところが、それを仕込む人間が一人もいないのだよ。鷹匠《たかじょう》はいなくなってしまうし、猟犬を使う技術を知っている者だって、このわたしだけなんだ。わたしがいなくなれば、あとはもうおしまいさ。罠《わな》か落とし穴で猟をするよりほかは仕方があるまい。せめてわたしに、弟子を養成する閑《ひま》でもあったらと思うのだが! いや、だめ、だめ、枢機卿殿がやってきて、わたしを少しも休ませてくれんからな、やれスペインのことだの、オーストリアのことだの、イギリスのことだのといってな。そうそう、枢機卿で思いだしたが、トレヴィール殿、わたしはあんたに、ちと文句がある」
トレヴィールは、話がこうなるのを待っていたのだ。国王の性格については、ずっと以前から知り抜いている彼なのだ。最初の愚痴《ぐち》はいわば序論のようなもの、自分を元気づけるために刺激するようなものであって、これからが言いたい本論だということを彼はよく知っていたのだ。
「なんでまた、わたしが陛下のご機嫌をそこねたのでございましょうか?」と、トレヴィールは、いかにも驚いたというふうを装ってたずねた。
「いったい、あんたは、それで自分の務めを果たしていると思っているのかね?」と、王はトレヴィール殿の言葉には直接に答えずに、「あたしがあんたを銃士隊の隊長に任命したのは銃士たちが人を殺し、町を騒がせ、パリを焼き払ったりするのをあんたが黙認していいというわけではあるまい? だが、しかし」と、王はつづけて、「このようにあんたをとがめるのは、少し早まったかもしれんな。たぶん乱暴者はもう牢《ろう》へ入れられてしまって、あんたは処罰がすんだことを報告にきたのかも知れんからな」
「陛下」と、トレヴィール殿は落ちつきはらって答えた。「わたしは、陛下のお裁きをお願いしに参ったのでございます」
「だれを処罰するのだね?」と、王は声を荒げていった。
「中傷する者たちをでございます」と、トレヴィール殿は答えた。
「ああ! これはまた異《い》なことを聞く」と、王は言い返された。「あんたのところの三銃士、アトス、ポルトス、アラミスと、ベアルンの青年の四人が、あのかわいそうなベルナジューに打ってかかってひどい目にあわせ、いまごろは死にかかっている、そうではないのか! それからラ・トレムイユ公殿の屋敷を取り囲んで、焼き打ちにしようとしたのではないかな! なるほど、あの屋敷は新教徒の巣だから、もしこれが乱世のことなら、そういうことをしてもたいしてとがめ立てしなくてすむかもしれないが、この太平の御代《みよ》にそんなことをされては困る。どうだ、こういう事実を、あんたは否定する気かね?」
「たいへんうまくこしらえた話ですが、だれがそのようなことを陛下のお耳に入れたのでございますか?」
「この話をだれがしたって言うのか! それがだれだか知りたいかね、それはね、わたしが眠っているあいだにいつも目を覚まし、わたしが遊んでいるときに仕事をし、この国の内外のこと、フランスはもとよりヨーロッパじゅうを動かしてる人、その人をおいてほかにありようがないではないか?」
「では陛下は、おそらく神のことをお話しになっていられるのですな」と、トレヴィール殿がいった。
「陛下に勝る力をもっているものは、神以外には知りませんので」
「そうではない。わたしの言うのは、国家の支柱、わたしの唯一の相談相手、唯一の友である枢機卿殿のことじゃ」
「台下は法皇さまではございません、陛下」
「それはどういう意味かね?」
「教義信仰において誤ることのないのは法皇のみでありまして、過ちをおかさないことは枢機官にまでは及びませぬ」
「枢機卿殿がわたしをだましている、つまりわたしを裏切っているというのだね。ではあんたはあの人を非難しているんだね。そうならそうと、はっきり言いなさい」
「いいえ、そうではございません。わたしはただ、あの方がご自分で思いちがいをしておられる、真相をよくごぞんじない、と申しているのでございます。ですから性急に、日頃憎んでおられる近衛銃士をとがめ立てなさったのでございます。事実をまだ確かな筋からお聞きになってはいないのでございます」
「だが、訴えはラ・トレムイユ公自身から出ているのだよ。このことについてなんと答えるつもりかね?」
「公はこの事件の公平な証人となるには、あまりに直接の関係が深いとぞんじますが、しかしわたしは、あの人がりっぱな誠実な貴族であることをぞんじておりますから、あの人の言うことを信じてもよろしゅうございます。ただ、一つ条件がありますので」
「なんだね?」
「陛下があの人をお呼びだしになって、陛下ご自身で、お調べ願いたいのです。ほかにだれもお入れにならずに、陛下ご自身で。公が参内いたしましたら、すぐにわたくしもまた陛下に拝謁いたします」
「よろしい! ラ・トレムイユ公の言うことなら信用するんだね」と、王は念をおした。
「はい」
「あの人の意見なら承認するんだね?」
「いたします」
「公が何か償いをせよといったら、それに応ずるかね?」
「もちろんでございます」
「ラ・シェネー!」と、王は声をかけた。いつも戸口のところにいるルイ十三世の腹心の侍従が、すぐにはいってきた。
「ラ・シェネー、すぐにラ・トレムイユ殿に来るようにといってくれ。今夜話があるのでな」
「陛下は、ラ・トレムイユ殿とわたくしのほかには、だれにも会わないとお約束くださいますでしょうか?」
「誓って、だれにも会わぬ」
「では陛下、明日またお伺いいたします」
「よろしい、明日」
「時刻は何時がよろしゅうございますか?」
「いつでも、あんたのよいときに」
「でもあまり早くまいって、陛下のお眠りをさまたげ申してはとぞんじまして」
「わたしの眠りをさまたげるって? わたしが眠るとでも思っているのかね? わたしは眠りゃあしないよ。ときどき夢を見る、ただそれだけだよ。だから、どんなに早く来てもよろしい。そうだな、七時ごろにするか。だが、銃士たちに非があるときまったら、覚悟してもらいたい」
「もし銃士たちに非がございましたら、彼らを陛下のご処置にお任せいたしますから、御意《ぎょい》のままにお仕置きくださいますように。ほかに何か承ることがございましたら、何なりとお申しつけくださいますように」
「いや、もう何もない。世間でわたしのことを公正王ルイと呼ぶのも、もっともだな。では明日、明日のことにしよう」
「では陛下には、ご機嫌うるわしく!」
国王がいかに眠りが少なかったにせよ、トレヴィール殿はそれ以上に眠れなかった。その夜のうちに三銃士と仲間の青年に使いをやって、翌朝六時半に屋敷に来るようにと命じておいた。そして彼らを連れて宮中へ出かける途中でも、少しも先のことなど約束せず、自分ともども一同の運命はさいころの目の出方のように運まかせだということを隠しもしなかった。
小階段の下でみんなを待たせ、もし王がなお腹を立てているようすだったら、そのまま引きとるよう、もしお目通りが叶《かな》うようだったら呼ばせるからということにした。
トレヴィール殿が王の居間につづく控えの間に行くと、そこにラ・シェネーがいて、じつは昨夜使いを出したのですが、ラ・トレムイユ公は不在で、帰宅したときはすでに参内するにはおそすぎたので、今朝《けさ》、いましがたお見えになって、いまちょうど陛下にお会いしているところだとのことだった。
これはうまいぐあいだと、トレヴィール殿は思った。これならラ・トレムイユ公と自分との供述とのあいだに他人のよけいな入れ知恵などがはいる余地がなかったからである。
かくて十分とたたぬうちに居間の扉があいて、ラ・トレムイユ公が現われ、トレヴィール殿に近づくとこういった。
「トレヴィール殿、陛下は昨日の出来ごとについて聞きたいと、わたしをお召しになったのです。わたしは、事実をありのまま申しあげてきました。つまり、非はまったくわたしの屋敷の家臣にあること、そしていつでも、わたしのほうからあなたに対して謝罪する気持ちでいることをです。ちょうどいいところでお目にかかりました。どうかわたしのおわびの言葉を聞いていただきたい。そして、これからもお変わりなくご昵懇《じっこん》にお願いしたいものです」
「いや、いや、ラ・トレムイユ公」と、トレヴィール殿はいった。「かねてよりあなたのご敬意に対して、じゅうぶん信頼しておりましたので、陛下のおとがめに対して、あなたご自身によって守っていただきたいと、そう考えていたのです。そのわたしの眼は、まちがっておりませんでした。わたしがいま申しあげたようなことを言い切っても間違いのない相手が、まだフランスには一人おられることに対して、心から感謝するしだいでございます」
「いや、結構々々」と、扉のあいだから二人のやりとりを聞いていた王が声をかけた。「だがトレヴィール、公はあんたの友人だと自分でいっているのだから、ひとつあんたの口から公に伝えてもらいたい。わたしも公の友人になりたいと思っているのに、先方からはこの頃あまり来てくれぬのだ。もうかれこれ三年も会わなかったのだよ。それも、いつもこちらから呼びにやらなければだめなのだから。あの人に、いまのわたしの言葉を伝えて欲しい。どうもこんなのは、王自ら言うべきことではないからな」
「ありがたき仕合わせにぞんじます、陛下」と、公爵はいった。「ですが、いつも陛下のおそばにある者だけが、いや、これはなにもトレヴィール殿に当てつけて申しているわけではございませんが、そういう者たちだけが、もっとも忠誠をはげんでいるのだとはかぎらないと、お考え願いとうございます」
「おや! わたしのいったことが聞こえていたとみえるね。いや、そのほうがいいんだ」と、国王は扉のところまで歩み寄って、「やあ、トレヴィール、あんたの銃士たちはどこにいるのかな? 一昨日連れて来いといったのに、なぜそうしなかったのかな?」
「階下に待たせてございます。お許しが出ましたら、ラ・シェネーが呼びに行ってくれることになっております」
「よし、それはいい! すぐ、こちらに通しなさい。もうじき八時だろう。九時に人に会うことになってるからな。では公爵殿、また来てください。トレヴィール、はいるように」
公爵は挨拶して、出て行った。彼が扉を開いたちょうどそのときに、ラ・シェネーに導かれた三銃士とダルタニャンとが、階段の上に姿を現わした。
「来たまえ、勇敢な諸君」と、国王は呼ばわった。「来たまえ、諸君を叱ることがあるので」
銃士たちはからだをこごめて、進んできた。ダルタニャンは最後にはいってきた。
「ちと、ひどいね!」と、国王はつづけた。「きみたち四人でたった二日のあいだに、枢機卿の親衛隊を七人までも倒してしまうなんて! ひどすぎるよ、ちと、ひどすぎる。このぶんで行くと、枢機卿は、三週間後には、親衛隊を入れ替えなければならないことになるだろう。わたしのほうは、こんどこそは禁令をきびしく実施しなければならないことになる。一人くらいのことなら、まあ大目に見よう。しかし、二日に七人とは、あんまりだよ、やりすぎだ」
「でございますから、陛下」と、トレヴィール殿が横合いから口を入れた。
「この者たちはこうして、すっかり恐縮し後悔しまして、おわびを申しあげにまいったようなわけでございます」
「恐縮して、後悔してるとな! さあね!」と、国王はいった。「わたしは、そういった表面だけの君子づらは信用できないな。とくに、そこのガスコーニュ人の顔つきにはね。さあ、近くへ寄れ」
ダルタニャンは、声をかけられたのが自分だと知ると、いかにも参ったというようすを見せて前に出た。
「これは! おまえは青年だといったが、トレヴィール、まだほんの子どもじゃないか! この者が、ジュサックを手ひどくやっつけたのかね?」
「それからベルナジューにも深手《ふかで》を与えました」
「ほんとうかな!」
「まだその上に」と、アトスが口をだした。「もしこの男がわたしをビスカラの剣から救ってくれませんでしたら、いまこうして陛下の御前には出られなかったでございましょう」
「では、このベアルンの男はまったくの鬼神かな! トレヴィール殿、父君の口癖ではないが、[こいつめ、よくも!]だ。そんなふうだと、胴着が何枚あろうと、剣が何本あろうと足らんな。ところでガスコーニュの者は、いつも貧乏してるそうじゃないか」
「おそれながら殿下、ガスコーニュの山には、まだ金鉱は発見されておりませんようでして。先王陛下のお偉業をお助け申した功により、神の奇跡が現われてしかるべきはずですのに」
「そうすると、このわたしが王位についたのも、ガスコーニュ人たちのおかげということになるね、トレヴィール、わたしは先王のむすこだからな。いや、まったく、わしに異存《いぞん》はない。ラ・シェネー、わたしの服のポケットを捜してみてくれ、四十ピストールあるはずだ。もしあったら、ここへ持ってきてくれ。ところで、そこの若い人、どういう事情でこうなったのか、正直にいってくれんか?」
ダルタニャンは前日の事件を、こと細かに物語った。陛下の御前に出られる喜びのためによく眠れず、拝謁の時間よりも三時間前に友人の家に出かけたこと、それから庭球場へ行ったこと、そこで球が顔に当たるのをこわがったので、ベルナジューに嘲笑《ちょうしょう》されたこと、そのためにベルナジューが命を失われようとし、またなんの関係もないラ・トレムイユ殿が屋敷を焼き払われそうになったことなどを、すっかり話した。
「そのとおりだ」と、国王はつぶやかれた。「公爵から聞いたのと寸分たがわない。気の毒なのは枢機卿だな、かわいがっていた部下を、三日間で七人も失くしたんだからな。だが、もうたくさんだよ。いいかね、おまえたち! もう、たくさんだ。おまえたちは、フェルー街の復讐をりっぱにやりとげたんだ、いや、それ以上のことをしたんだ。これで満足したはずだが」
「陛下さえご満足でしたら」と、トレヴィールはいった。「われわれは何も申すことはございません」
「うん、わたしは満足だ」
そういって陛下は、ラ・シェネーの手からひと握りの金貨を受けとると、それをダルタニャンの手に握らした。「さあ、これが余の満足のしるしじゃよ」
当時は、今日われわれの気風となっている誇りをもつということは、まだ行なわれていなかった。貴族が王じきじきに金銭を手渡されても、恥とは思わなかったのである。そこでダルタニャンは、少しもためらいを見せずに四十ピストールをポケットに入れ、それどころか陛下に厚く礼を述べた。
「さあ」と、陛下は柱時計を見ていった。「もう八時半だから、さがってもらいたい。さっきもいったとおり、九時に会う人があるのでな。おまえたちの忠誠に改めて感謝する。今後も期待してよろしいな」
「恐れ入ります、陛下!」と四人は口をそろえていった。「陛下の御為《おんため》なら身を八つ裂きにされようとも」
「よし、よし。だが、からだには気をつけてもらいたい。そのほうがよろしい。それでこそ、このわたしに一層役立つというものだ。トレヴィール殿」と四人の者がさがってゆくあいだに、王は小声で付け加えた。「あんたの銃士隊にはもう欠員はないし、それに入隊するには見習をすませてでなければ採用しないことになっているのだから、あの青年はあんたの義弟のエサール殿の親衛隊に入れたらいい。ああ、まったく! なあ、トレヴィール、枢機卿の渋い顔が目に見えるようで愉快だよ。きっと腹を立てるだろうな。だが、かまうもんか。わたしには権利があるのだからな」
そういって王は、トレヴィールの手を握った。退出したトレヴィールが銃士たちといっしょになると、彼らはダルタニャンの四十ピストールを分配しているところだった。
果たして枢機卿は国王が言ったとおり、たいへんな立腹で、一週間も将棋の相手をしに来ないほどだった。それにもかかわらず王は、これ以上は出来ないといったほどの愛想のよさで、枢機卿に会うたびごとに、やさしい声でたずねるのだった。
「ところで、枢機卿殿、あなたのところのベルナジューとジュサックの容態は、その後いかがですか?」
七 銃士たちの内幕
ダルタニャンはルーヴル宮を出ると、四十ピストールの金貨の自分の分けまえの使い方を友人たちに相談した。アトスは、ポム・ド・パンでうまい食事をとるのがいいと言い、ポルトスは従僕《じゅうぼく》を雇ったらいいと言い、アラミスは適当な女をみつけるにしかずと述べた。
食事のほうはその日のうちに決行され、新しく雇った従僕が給仕をした。食事の手配はアトスによってなされ、従僕を世話したのはポルトスであった。これはピカルディ生まれの男で、その日、トゥルネール橋の上から唾《つば》を吐いては水面に波紋ができるのを眺めていたところをポルトスが見つけたのであった。
ポルトスはこの男のしていることは瞑想的な性格を表わしていると主張して、それ以外には推薦の言葉をいわずに連れてきたのだった。プランシェは……これがそのピカルディ人の名前だったが、その立派な相手の貴族に雇われるものだとばかり思い込んでいたところ、その家にはすでにムスクトンという相棒がいて、家は広いが二人も従僕をおくわけにはいかないから、ダルタニャンのところで働いてくれといわれ、いささか失望したものだ。しかし、この主人が催した晩餐《ばんさん》に、主人がポケットから金貨をつかみだして支払うのを見たときは、これで自分も運勢がいよいよ開けたわいと思って、こういう福の神の中に迷いこんだわが身の果報を喜んだのであった。その気持ちは宴会がすんだあと、その残りもので長いあいだの飢えを満たしたそのときまでつづいた。
ところが夜になって、主人のベッドの支度をするときになると、プランシェの夢は消え失せてしまった。ベッドは寝室と次の間の二部屋しかないこの家に、一つしかなかったからである。プランシェはダルタニャンのベッドから掛けぶとんを一枚とって、次の間で寝た。それ以後ダルタニャンは、掛けぶとんなしで過ごしたわけである。
アトスにもやはり従僕がいて、グリモーという名だったが、それを彼は自分なりの方法でしつけていた。このりっぱな貴族は、たいへん無口だった。もちろん、アトスのことである。彼は仲間のポルトスとアラミスの二人とごく親しい仲になって五、六年になるのだが、二人は彼が微笑するのをよく見たが、その笑い声は聞いたことがなかった。彼の言葉は簡潔ではっきりしていて、言いたいことははっきり言うがそれ以上のことは何も言わないといったふうで、少しも飾りっ気がなかった。そしてその話は、挿話など一つも入れない、事実のみだった。
アトスはやっと三十になったぐらいで、心身ともに美しくりっぱだったのに、恋人があるという話は、だれも聞いたことがなかった。彼もまた、けっして女の話をしなかった。ただ、人が彼の前で女の話をするぶんには一向かまわなかった。それでもそういうときには、皮肉や非社交的な言葉を差しはさんで、それだけでも、こういう話が彼にはまったく不愉快な話であることが、だれの目にも明らかだった。控えめで口数が少なく、まるで老人のようだった。そういう自分の習癖に反しないために、彼は自分のちょっとした身振りや唇の動き方で、グリモーにわかるようにしつけていた。声にだして言うときは、よほどの重大なことにかぎられていた。
グリモーは主人の人柄に惹《ひ》かれ、その才能に深い尊敬の念を抱きながらも、火のように恐れていた。ときどき主人の意を受けてそれを実行に移すとき、じつはその正反対のことをやってしまうことがあった。そういうときアトスは肩をすくめて、別に怒った顔もしないで、グリモーをなぐるのである。そういうときには、いくらかしゃべった。
ポルトスは、すでにおわかりのとおり、アトスとはまるで反対の性格である。多いにしゃべるばかりでなく、声が大きかった。相手が聞いていようがいまいが、そんなことはどうでもよかった。これは、この男の美点として認めるべきだった。彼は話す楽しみのために、自分の声を聞くためにしゃべるのである。学問以外のことなら、なんでもしゃべった。彼の言うところによると、子どものころから、学者という者に対して、根づよい憎しみを抱いているとのことだった。彼はアトスに比べると外貌に見劣りがするので、二人の交際がはじまった頃は、そのような劣等感から、しばしば相手に言いがかりをつけ、華美な服装で相手をやっつけようとやっきになった。
ところがアトスのほうはただの銃士の制服を着ていても、そのなんでもないただの歩き方だけで、さも当然だとばかりに、たちまちポルトスを第二位に蹴《け》落としてしまった。そこでポルトスは、アトスがお色け話などは絶対にしないのをもっけの幸いに、そのような自分の手柄話をトレヴィール殿の控えの間やルーヴル宮の衛兵詰所《えいへいつめしょ》にまき散らして、気持ちをなぐさめることにした。彼の情事の相手は法官の細君から武人の細君というふうに転々としていたが、この頃では彼はもっぱらさる外国の公爵夫人にたいへん熱を入れていた。
古いことわざに、[この主人にして、この下僕あり]とあるので、アトスの従僕からポルトスの従僕に、つまりグリモーからムスクトンへ話を移すことにしよう。
ムスクトンはノルマンディの出身で、もともとポニファースというおだやかな名前だったのを、主人がムスクトンというたいへん響きのいい、勇ましい名前に変えてしまったのである。ポルトスに仕えるに当たっての条件に、お仕着せを頂いて住み込むだけでよいのだが、ただし大いにはでにふるまわせてくれという条件があった。
彼は一日に二時間だけ閑《ひま》をもらって、別の仕事でお小遣いをかせぎたいといった。ポルトスはその言いぶんが気に入ったので、承諾した。ポルトスにとっても都合のいい話だったからである。彼は自分の古い上着や余分の外套《がいとう》を仕立て直してムスクトンにやった。腕ききの仕立屋が身近かに居合わせたので、その仕立屋のおかげで古着類が新品同様になり、ムスクトンはたいへんりっぱな身なりで主人の供をすることができた。もっともその仕立屋の細君がポルトスと怪しいというので、ポルトスの貴族趣味もたいしたことはないと言う人もあったが。
アラミスについては、彼の性格はいままでにじゅうぶんに説明したと思うし、なお物語の進むにつれて、友人たちの性格と合わせて、さらに筆を進めてゆくことになろうが、そのアラミスの従僕の名はバザンといった。主人はいずれ聖職につこうという気持ちがあったから、彼は聖職者の従僕にふさわしく、黒い制服をいつも着せられていた。四十に近いベリー生まれの、柔和《にゅうわ》でもの静かなぼってり太った男で、皿数は少ないがうまい料理を作るし、閑《ひま》があれば宗教書を読み耽《ふけ》っていた。それに[見ざる、言わざる、聞かざる]の徳を備え、無類の忠義者だった。
これでざっと、主人と従僕たちのことがわかったから、こんどは彼らが住まっている住居に話を移すとしよう。
アトスは、リュクサンブールのすぐ近くのフェルー街に住んでいた。小ぎれいに飾りつけをした小さな部屋が二つあって、家主がまだ若くて美しい女で、これがまた彼に秋波を送っているのだが、いっこうにききめはなかった。このつつましい住居には、部屋の壁のところどころに過去の豪奢《ごうしゃ》な生活を物語るような品々が飾られてあった。
例えば、ひと振りの剣だが、みごとな象眼《ぞうがん》がしてあって、その形を見るとフランソワ一世時代にさかのぼるものであり、宝石をちりばめた柄《つか》だけでも、二百ピストールの値打ちはじゅうぶんにあった。だが、どんなに困ったときでも、アトスはこの剣をけっして質入れしたり、売ったりしたことはなかった。ポルトスは長いあいだ、この剣が欲しくてならなかった。この剣を手に入れるためなら、寿命の十年ぐらい縮めてもいいと思っていた。
ある日ポルトスは、ある公爵夫人と逢いびきをすることになって、その剣を借りたいとアトスにいった。アトスはだまって、ポケットの中から有り金をさらけだし、宝石や、財布や、金鎖や、飾り紐をかき集めて、それをそっくりポルトスにさしだした。だがあの剣は、あの場所に封印したようなもので、持主である自分が引越しをするときでなければ動かすわけにはいかないと言い放った。
この剣のほかに、アンリ三世時代の貴族の肖像画があった。たいへん上品な服装をしていて、サン=テスプリ勲章をつけており、どこかアトスと似ているので、この勲章をつけた大貴族は、彼の祖先ではないかと思わせるところがあった。
最後にもう一つ、りっぱな金銀細工の手箱があって、剣や肖像と同じ紋章がついていた。これは暖炉の真ん中に置かれてあって、ほかの装飾品とはっきり違いを見せていた。アトスはこの箱の鍵《かぎ》を、いつも身につけていた。ある日彼は、ポルトスの前でこの箱を開いたことがあったが、ポルトスは、この手箱の中には手紙や書類だけだと見てとった。たぶん恋文や家族の手紙にちがいないと思った。
ポルトスは、ヴィユー・コロンビエ街の、ごく豪奢《ごうしゃ》な外観の、広壮なアパルトマンに住まっていた。友人といっしょに自宅の窓の前を通るときは、いつも正装してムスクトンが立っている窓のほうを指さしながら、「あれが、おれの家だよ!」と言うのが、ポルトスのきまりだった。だが、だれも彼が自宅にいるのを見た者はいなかったし、あがれとすすめられたこともなかったから、この豪奢な外観の内容がどんなにりっぱなものであるかは、だれにも想像がつかなかった。
アラミスはといえば、居間と食堂と寝室からなる、ささやかな住居に住んでいた。寝室はほかの部屋と同じように階下にあって、さわやかな青々とした小庭に面していたが、木の茂みのために、隣家からは見通されないようになっていた。
さてダルタニャンであるが、彼が宿を見つけたしだいは知っているし、従者プランシェのことは、すでに語ったとおりである。ダルタニャンは生まれつき好奇心のつよいほうであったから、アトス、ポルトス、アラミス三人の正体を知ろうとして、あらゆる手を打ってみた。なぜならば、これらはすべて仮《かり》の名で、それぞれほんとうの貴族の名は隠していたからだ。ことにアトスは、大貴族らしい風格があった。そこでダルタニャンは、アトスとアラミスのことを知るためにはポルトスにたずね、ポルトスのことを知るためにはアトスにたずねた。
残念ながらポルトスは、この無口な友人アトスについては、ごく表面のことしか知らなかった。なんでも噂《うわさ》によれば、恋愛のことでたいへん不幸なめに会い、女に裏切られて一生をだいなしにしてしまったということだった。だが、それがどういう裏切りかということになると、だれも知らないのだった。
ポルトスは、その実名だけは他の二人と同様に、それを知っているトレヴィール殿ただ一人であったが、それ以外のことでは彼の生活は知りやすかった。虚栄心がつよくおしゃべりだったから、ガラスのように見通すことができた。ただし彼の自画自賛は、そのまま信じることはできなかった。
アラミスのほうは、少しも隠しごとなど持っていないように見えるが、じつはまったく秘密でおおわれているような若者だった。他人のことをたずねても、あまり答えないし、自分のことについてはうまく話をそらしてしまった。
ある日ダルタニャンは、彼にポルトスのことについて長いあいだたずねたあげく、ポルトスと某公爵夫人との艶聞を聞きだしたので、ついでにアラミス自身のそういった色事をさぐりだしたいと思った。
「ところで、あなたのほうはどうなんですか?」と、ダルタニャンはたずねた。「他人さまの男爵夫人や、伯爵夫人や、公爵夫人のことばかりお話のようですが」
「いや、わたしは、ポルトス自身がそういう話を吹聴《ふいちょう》するから、言うまでのことさ。わたしの前でいい気になってしゃべるもんだからね。だがね、ダルタニャン君、仮に他人の口からそういう噂を耳に入れたにしても、本人の口から聞いたにしても、わたし以上に口の固い者はいないから、その点は安心だよ」
「そりゃあそうでしょう」と、ダルタニャンはいった。「しかしあなた自身にしたって、いずれかの貴夫人がたと、かなりお近づきがおありのようにお見受けしますがね、あなたと知り合うきっかけになった例の刺繍《ししゅう》のしてあるハンカチを見てもね」
アラミスは、こんどは少しも怒らず、さらにいっそう謙虚な態度をとって、やさしく答えた。
「ねえ、きみ、わたしが僧職に就《つ》きたがっていることを、それからわたしがあらゆる俗事を避けていることを、忘れないでくれたまえよ。きみが見たあのハンカチは、わたしがもらったものではなくて、わたしの友人が、わたしの家に置き忘れていったものなんです。わたしは友人と、その恋人のためを思って、しまって置いたのさ。わたしには女なんかないし、女を持ちたいとも思ってはいないよ。この点では、思慮ぶかいアトスを手本としているわけだ。アトスは、女なんか持っていないからね」
「だが、なんていったって、あなたは神父じゃない、銃士なんですからね」
「銃士というのは仮の姿で、枢機卿の言葉じゃないが、心ならずも銃士っていうわけさ。気持ちの上では、あくまでも聖職者だよ、ほんとうさ。アトスとポルトスのおかげで、こんな勤めに引っぱりこまれたのさ。じつは僧職につこうとしたときに、ちょっとした悶着《もんちゃく》を起こしてね。いやいや、こんなことはきみには興味があるまいし、それにきみの貴重な時間を取りあげることにもなるわけだからね」
「いや、いや、けっして! わたしには大いに興味がありますよ」と、ダルタニャンは叫んだ。
「それに、いまわたしは何もすることがないんだし」
「そうかな。でもわたしは、日課の祈祷書《きとうしょ》を読まなければならないし、エギヨン夫人から頼まれた詩も作らなければならない」と、アラミスは答えた。「それにまた、シュヴルーズ夫人のために、紅《べに》を買いにサン=トノレ街にも行かなければならない。このように、貴公のほうに急ぎの用がないとしても、わたしのほうは、たいへん忙がしいんだよ」
そう言いながらアラミスは、しなやかな手つきで握手をして出て行った。
ダルタニャンは、ずいぶんいろいろと苦心をしたが、これ以上新しい三人の友だちについて知ることはできなかった。そこで彼は、いまのところは彼らの過去のことをそのまま信じることにし、将来に現われるであろうもっとも確実な新事実に期待をかけることにした。そしてそれまでは、アトスはあのアシル(ホメロスの「イーリアス」の主人公。心はやさしいが、怒れば凶暴な勇士)のように、ポルトスはアキレウス(トロイア戦争のギリシアの勇士で、かっとなる気性の烈しい戦士)のように、アラミスはヨセフ(聖母マリアの夫、キリストの父または義父)のように、それぞれ考えることにした。
それにしても、これら四人の青年たちの生活は明るいものだった。アトスは賭けごとをしては、いつも負けてばかりいた。しかしながら彼は、自分の財布は友人のためにははたくが、友人からはただの一スーも借りることはなかった、口約束で賭けをしたときは、きまって翌朝の六時には債権者を起こしに行って、借金を払うのだった。
ポルトスは短気だった。もし賭けごとで勝つと、大いにいばって浮きうきしていたが、負けると数日間は姿を見せなかった。そうしてふたたび姿を見せたときは青ざめた浮かぬ顔をしていたが、そのくせポケットには、ちゃんと金がはいっていた。
アラミスは、けっして賭けごとをしなかった。まさに銃士としては最も好ましからざる人物であり、飲み仲間としても最も悪い存在だった。そしていつも仕事をしたがっていた。ときには食事の最中に、酒がまわり話がはずんでくるのに、そして一同の者がこれであと二、三時間は食卓についていられると思っているのに、アラミスは時計を気にしながら愛想《あいそ》のよい微笑を浮かべて立ちあがり、さる神学者に会う約束があるからといって立ち去ってしまうのだ。またあるときは、論文を書かねばならないから邪魔をしないでくれといって、家に帰ってしまうのだった。
しかしそういうときでもアトスは、その気品のある容貌に似つかわしい寂しげな微笑を浮かべて見送るばかりだったし、ポルトスは、どうせあいつは田舎《いなか》の坊主にしきゃなれまいとつぶやきながら盃《さかずき》を傾けていた。
ところがダルタニャンの従僕のプランシェは、めぐり会った幸運をみごとに受けとめていた。彼は日給三十スーをもらって、一か月のあいだは[あとり](ホオジロににたスズメ科の小鳥)のように陽気な気分で家に帰り、主人に愛想よく仕えた。だが、フォンワイユール通りの家に不運の風が吹きはじめると、つまりルイ十三世から賜わった四十ピストールの金が残り少なくなってくると、ようやく彼は愚痴《ぐち》をこぼしはじめた。
それを聞くと、アトスは胸がむかつくようだと言い、ポルトスはけしからんと怒り、アラミスはおかしな奴だと考えた。そこでアトスはダルタニャンに向かって、そんな奴は暇を出しちまえとすすめ、ポルトスはとにかくなぐりつけてやるがいいと言い、アラミスは、主人というものは従僕からは挨拶以外の言葉は聞くものではないと主張した。
「あんたたちは、勝手なことが言えるわけだ」と、ダルタニャンは答えた。
「アトス、あんたはグリモーに対して少しも口をきかないし、相手にしゃべらせないようにしているのだから、いやなことなど聞こうったって聞く機会などありゃしない。ポルトス、あんたははでな生活をして、従僕のムスクトンから見れば神さまみたいなものだ。それからアラミス、あんたはいつも神学の勉強ばかりしていて、おとなしくて信心ぶかい召使いのバザンに尊敬の念を起こさせている。ところがこのわたしときたら、信望もなければ金もない。銃士でもなければ親衛隊士でもないんだ。そんなわたしが、どうしてプランシェに、親愛の情だとか畏怖《いふ》の気持ちを起こさせることができるだろうかね?」
「重大な問題だよ」と、三人の友は答えた。「こいつは家庭内のことだ。従僕だって、女と同じことさ。すぐさま、こっちの思いどおりに仕込んでしまわなければならんよ」
ダルタニャンは、よく考えた。そして取りあえずプランシェをなぐりつけてやることに定めた。何事も良心的に事を運ぶ彼は、たっぷりとプランシェをなぐりつけておいてから、勝手に暇をとることはまかりならんと言い渡した。「なぜなら」と、彼は付け加えていった。「おれには未来があるからな。いずれ、もっと良い時が来るにきまってるからな。おれのそばにいれば、おまえの運は開けてくるぞ。だからおまえの望みどおりに暇をやって、せっかくの幸運をつかみそこなうような目に会わせたくないんだ」
こうしたやり方を見て、銃士たちはダルタニャンに対して大いに尊敬の念を払った。プランシェもまた敬服して、もう暇をくれなどとは言わなくなった。
四人の若者の生活は、お互い同志共通のものになった。田舎から出てきて、なんの習慣にも染まっていなかったダルタニャンは、何から何までが目新しく、たちまち友人たちの習慣になれ親んでいったのである。
冬は八時、夏は六時に起床して、トレヴィール殿の屋敷に出かけ、命令を受けたり情勢を聞いたりするのだ。ダルタニャンは銃士ではないのだが、感心するほど几帳面《きちょうめん》に勤めを果たした。三人の友人のうちの一人が勤務につくと、いつもそれについて行ったから、彼のほうは常時勤務というわけであった。そんなふうだから銃士の詰所《つめしょ》ではみんなが彼を知っていて、だれからもいい青年だと思われていた。最初ひと目で彼の良さを知り、彼に心からの親愛の情を寄せていたトレヴィール殿は、国王に彼のことを吹聴《ふいちょう》することを怠らなかった。
いっぽう三人の銃士も、この若い友だちをたいへんかわいがった。この四人を結ぶ友情もさることながら、決闘や用事や遊びのために日に三度や四度は顔を合わせねばならなかった彼らは、まったく影と形のように切っても切れぬ関係になった。絶えずリュクサンブールからサン=シュルピス広場へ、あるいはヴィユー・コロンビエ通りからリュクサンブールへと、たがいに相手を捜しまわっている姿をよく見かけたものである。
そのあいだに、トレヴィール殿の約束は実現しつつあった。ある日のこと、王はエサール殿を呼んで、ダルタニャンをその親衛隊の見習隊員として採用することをお命じになった。ダルタニャンはため息をつきながら、その制服を着た。もしこれを銃士の隊と替えられるのだったら、十年ぐらい命が縮まってもいいと思ったほどだ。しかしトレヴィール殿は、二か年の見習期間を終えたらきっと望みを叶えてやる、それもダルタニャンが陛下のために働くとか、なんらかの勲功を立てたりする機会さえあれば、もっと早く実現するだろうと約束してくれた。ダルタニャンはその約束をしっかり胸に秘めて退出した。そしてその翌日から勤務についた。
そこで今度はダルタニャンの勤務中に、アトスやポルトスやアラミスがいっしょになった。なんのことはない、エサール殿の親衛隊は、ダルタニャン一人を加えた日から、四人の隊員を一度に得たようになったのである。
八 宮廷の陰謀
さて、ルイ十三世からもらった四十ピストールも、世間の例のごとく、始めがあるように終わりがあった。
終わりが来てみると、四人の仲間は困窮《こんきゅう》に落ち入った。最初はアトスが、自分の持ち金で共同の生活を支えた。次はポルトスが、例のちょいちょいやってのける雲隠れのおかげで、二週間ほど一同の必要を満たした。最後はアラミスの番だが、彼は喜んで自分の責任を果たした。彼の言うところによれば、神学の書物を売り払って、何ピストールかの金を入手したとのことである。さてそこで例によって、彼らはトレヴィール殿におすがりして、給金の前借りを少しばかりしてきた。しかし親衛隊長はともかくとしても、三人の銃士はすでに借金を背負っていたから、これくらいの前借りではどうにもならなかった。
とうとう、これでまったくどうにもならないとわかると、最後の努力をして彼らは八ピストールか十ピストールほどの金を集め、それをポルトスが勝負に賭けた。が、運がついてないときはどうにもならないもので、すっかりすってしまい、二十五ピストールの借金をつくってしまった。
不自由どころか、窮乏生活となった。そこで腹を減らした四人が従者を連れて、河岸通りや銃士の詰所を歩いてまわり、友人のところで食事にありつくという有様だった。アラミスの意見によれば、ゆたかなときに、あちこちにご馳走をばらまいておけば、困ったときにその幾分かを拾い集めることができるというわけだった。
アトスは四回食事に招待され、その度に友人たちとその従僕とを連れて行った。ポルトスもそういう機会を六回つくって、やはり仲間に相伴させた。アラミスも八回、同じようなことをやった。この男は、諸君もすでにお気づきのとおり、目立たぬながらも仕事のほうは大いにやってのけたのだ。
ダルタニャンはといえば、パリにはまだだれも知人がいなかったので、同郷の司祭のところでチョコレートの朝食が一回と、隊の旗手の家での夕食が一回と、それだけがやっとだった。彼は仲間をその司祭のもとへ連れて行って、みんなで司祭の二か月分の食糧を平らげてしまった。旗手の家ではずいぶんご馳走をしてくれたが、これはプランシェの言のとおり、いくらたくさん食べたところで、食事は一度に一回分しか食べられはしないものだ。
そこでダルタニャンは、自分が一度半の食事しか都合ができなかったことで、肩身のせまい思いをしていた。司祭の家の朝食は、アトスやポルトスやアラミスが手に入れてくれたご馳走のお返しだとすれば、せいぜい半食分にしか当たらなかった。彼は青年らしい生一本《きいっぽん》さから、自分がすでに一か月ものあいだ、この仲間を養ってきたことを忘れて、なんとかしなければならないと、自分のせいのように思っていた。そう思いつめると、彼の頭は活発にはたらきはじめた。
このように若くて勇気があり、大胆きわまる四人の男が集まっていながら、ただぶらぶら歩きまわったり、剣術をやったり、しゃれを飛ばしているだけではもったいないと、本気になって考えたのである。
たしかに、おたがいに財布から生命に至るまで出し合っている四人である。常に助け合って一歩も退かず、一人であろうが四人であろうが、いったん定めたことは必ず実行する四人である。それは四方を威嚇《いかく》している四本の腕であり、いざというときは一点に集中する四本の腕である。こうして四人が集まるからには、こっそりであろうと公然とであろうと、坑道からであろうと塹壕《ざんごう》からであろうと、策略によろうと腕力によろうと、いったん選んだ目標に、たとえどんなに遠かろうとも、また障害が多かろうとも、なんとかそこに到達する道が開かれるはずだった。ところがダルタニャンがただ一つ驚いたことは、仲間もだれもこういうことに考えつかないということだった。
彼はそのことを考えてみた。ほんとうにまじめになって、一つになった四倍の力が進んで行く方向を見つけようとした。この力で押し切ったら、アルキメデスの求めた挺《てこ》のように、地球を持ち上げることだってできるにちがいないと思った。するとそのとき、軽くドアをたたく音がした。ダルタニャンは寝ているプランシェを起こして、あけるようにといった。
ダルタニャンはプランシェを起こして……という言葉を聞いて、いまはまだ夜で昼ではないと早合点をしないでもらいたい。とんでもない! ついいましがた、四時が鳴ったばかりなのだ。二時間ほど前にプランシェが主人のところにやってきて、食事をさせて欲しいといったところ、主人は[ひもじいときは眠ったらいい]ということわざをあげて答えたからだった。そこでプランシェは、眠ることによって食事をしていたのである。
ごく普通の顔をした町人らしい男が、はいってきた。
プランシェはデザートの代わりとして、二人の会話を聞きたいものだと思ったが、その町人は、重大な秘密の話だから、二人っきりにして欲しいといった。
ダルタニャンはプランシェをひきさがらせて、客に椅子をすすめた。ちょっとのあいだ二人は、だまったままで互いに相手をさぐるようにじっと見つめ合っていたが、ダルタニャンは承《うけたまわ》ろうという合図として軽くうなずいた。
「ダルタニャンさまはたいへんお強い方だという噂《うわさ》を聞いておりますもので、それでひとつ秘密の打明け話を聞いていただこうと思いまして」と、町人はこう切りだした。
「どうぞ、お話しください、どうぞ」とダルタニャンはいったが、直観的に、これは何かうまい話になりそうだと感じた。
男はまたちょっとだまって、それからつづけた。
「わたしの家内は、じつは王妃さまのお下着係を勤めておりまして、頭もわるくはないし、器量のほうもまあまあでございます。わたしといっしょになってから、もうじき三年になります。持参金はたいしたことはございませんでしたが、何しろ王妃さまの裳裾捧持者《もすそほうじしゃ》のラ・ポルトさまがあれの名づけ親で、たいへん目をかけておられましたので……」
「それで?」と、ダルタニャンはたずねた。
「それで、あなた」と、町人はつづけた。「じつは家内がきのうの朝、自分の仕事部屋から出ましたところを誘拐《ゆうかい》されたのでございます」
「だれに誘拐されたんです?」
「はっきりとはわかりませんが、どうやら心当たりは……」
「心当たりの人というと?」
「以前からあれを付けまわしていた男なので」
「けしからんな!」
「わたしには、これは色恋などよりも、政治のことがからまっているように思われましてな」
「色恋よりも政治だとね」と、ダルタニャンは、ひどく考えこんでしまった。「いったいあなたは、それでどういうことを考えているのです」
「その考えていることを、あなたさまに申しあげてよいやら……」
「もしもし、わたしはなにも、あなたから何かを聞きたいなどとはいっていませんよ。あんたのほうからここへやって来られたんですからな。秘密を打明けたいなどと言いだしたのは、そもそもあんたじゃありませんか。どうぞ、好きなように。帰ろうって言うなら、いまのうちだ」
「いいえ、そういうわけでは……あなたさまはたいへんお心の正しい方だとお見受けしますから、もちろんわたしは信頼しておりますとも。で、つまり考えますのに、わたしの家内がかどわかされたのは、あれ自身の色ごとではなくて、もっとずっとおえらい貴婦人の恋が原因で、まあ、そのために巻きぞえを食ったらしいのです」
「ははあ、ボワ=トラシイ夫人の件かな?」と、ダルタニャンは、宮廷の事情にひとかど通じている顔をしていった。
「もっとえらい方でして」
「エギヨンかな?」
「もっと上で」
「では、シュヴルーズ夫人かな?」
「もっとずっと上で」
「では王……」と、ダルタニャンは声をのみこんだ。
「それが、そうなんでして」と、町人は聞きとれるか聞きとれないほどの低い声で答えた。
「で、その相手は?」
「そりゃもう、あの公爵に……」
「なに、公爵だと……」
「さようで!」と町人はいよいよ声を低めて答えた。
「だが、どうしてあなたは、そういうことを知っているのか?」
「どうしてですって?」
「そうだよ、どうしてあんたは、そういうことを知っているんだ。中途半端な打明け話はいかん……さもないときは……おわかりかな」
「家内から聞きましたんで、家内の口からみんな」
「で、奥さんはまただれから?」
「ラ・ポルトさまでございますよ。さっきも申したでしょう、あの方はあれの名付親で、王妃さまのご信任の厚い方なのです。それでラ・ポルトさまは、王妃さまをお慰め申し上げるために、家内をおそばに出したのでございます。なにしろ王妃さまは、あのように国王陛下はお構いつけになりませんし、枢機卿さまからは何かにつけて探りを入れられていますし、みんなからは裏切られているお気のどくなお身の上なので、それでせめていろいろとお話を承るお相手にもと思われまして」
「なるほど! 少し話がはっきりしてきたな」と、ダルタニャンはいった。
「ところで、四日前に家内が帰ってまいりました。週に二度、お暇をいただくという約束なもんですから。こう申すとなんですが、家内はわたくしを、なかなか愛していますんで。で、そのとき帰ってきた家内の話によりますと、この頃は王妃さまはひどくご心配のごようすだとのことでした」
「そうかな?」
「さようでございます。枢機卿さまが特に最近ではひどくおいじめになるそうでして。あのサラバンドの一件がお忘れになれないのだと見えますな。サラバンドの件は、ごぞんじでいらっしゃるのでしょう」
「もちろん知っているとも」ダルタニャンはなんにも知らないのだが、いかにも知っているというようすで、こう答えた。
「それで今では、憎いというより復讐《ふくしゅう》のつもりなんでしょう」
「なるほど」
「そこで、王妃さまのお考えでは……」
「王妃さまがどうお考えかな?」
「たぶん、だれかがご自分の名をかたって、バッキンガム公へ手紙を出したに相違ないと……」
「王妃さまのお名前でか?」
「はい、公をパリへ呼び寄せるために。そしてパリへ来られたら何か罠《わな》をかけようというわけで」
「へえっ! ところであんたの奥さんは、なんでまた、そういうことに関係があるのかな?」
「あれが王妃さまに忠実にお仕えしていることは、だれでも知っておりますからな。ですからあれをご主人のそばから引き離して、王妃さまの秘密を握っている者として脅迫するとか、あるいは誘惑してスパイとして使おうとか」
「ありそうなことだな」と、ダルタニャンはあいづちを打った。「ところで、かどわかした男をあんたは知ってるのですか?」
「さきほども申したとおり、心当たりはございます」
「名前は?」
「さあ、それは知りません。ただわかっていることは、枢機卿さまの腹心の手先だということだけでして」
「しかし、顔を見たことはあるんでしょう?」
「ええ、いつぞや家内があれだと教えてくれました」
「その男の人相に何か特徴でも?」
「ございますとも。きつい顔をした、髪の毛の黒い、日焼けしをした肌《はだ》をして目つきの鋭い、真っ白な歯並びを見せた、それに、こめかみに傷痕《きずあと》がございました」
「こめかみに傷痕だと!」と、ダルタニャンはうなった。「そして歯が白くて目が鋭くて、黒髪に日焼けしたきつい顔立ちだって! まさしく、マンで出会ったあいつだ!」
「あいつですって?」
「そう、そうだとも。だが、それとこれとは関係のないことだ。いや、そうではない。これでかえって事は簡単になる。それどころか、もしわたしの相手があなたの男と同一人物だとしたら、一度に二つの復讐ができるわけだ。だが、そいつは、どこにいるんだ?」
「それが、さっぱりわからないんで」
「住んでいるところの見当は?」
「それが、つきませんので。いつぞや家内を送ってルーヴル宮へまいりましたときに、いれちがいにあの男が出てまいりまして、そのとき家内があの男だと教えてくれただけでして」
「いや、はや! なんとも漠然《ばくぜん》とした話だな」と、ダルタニャンはつぶやいた。「で、あんたは奥さんが誘拐された話を、だれから聞いたのですか?」
「ラ・ポルトさまからで」
「くわしく話してくれたのですか?」
「それは、あの方もごぞんじなかったのです」
「ほかからは何か情報でも?」
「それが、じつはございましたので……」
「なんだって?」
「ですが、そこまで申しあげては、あまりに無分別のようにも思われまして……」
「またまた、そういうことを言う。だがご注意までに申しておくが、ここまで来たら今さら後にはひかれませんぞ」
「引きさがりはいたしませんとも」と、町人は自分を力づけるために誓いを立てた。「このボナシューの面目《めんもく》にかけても……」
「ボナシューとおっしゃるのか?」と、ダルタニャンは言葉をさえぎった。
「はい、それがわたしの名前でして」
「それで[ボナシューの面目にかけて]と言われたんですな! いや、お言葉をさえぎって、失礼いたしました。しかしそのお名前は、どうも聞いたことがあるようだが」
「そりゃ、そうでしょう。わたしはこの家の大家ですからな」
「これは、これは!」と、ダルタニャンは腰を浮かして会釈《えしゃく》をしながら、「では、あなたがわたしの家主さんでしたか」
「さようで。あなたは三月前にこちらへ見えてから、いろいろとお忙しいものとみえて、家賃をお払いくださるのをすっかりお忘れのようですが、わたしはただの一度も請求したことはございません。そういうわたしの心づかいをご考慮いただけるかとぞんじまして」
「これは、どうも、ボナシューさん」と、ダルタニャンは答えた。「あなたのそういうお気持ちには感謝いたしますとも! ですからいまも申したとおり、もし何かのお役に立つことがあれば……」
「はい、あなたさまをすっかり信頼いたしまして、さきほども申しましたように、このボナシューの名にかけて、ご信頼申しますとも」
「では、お話を最後まで承りましょう」
町人はポケットから一枚の紙片を取りだして、ダルタニャンに手渡した。
「手紙ですな」と、青年はいった。
「ええ、けさ受け取ったのです」
ダルタニャンは開封したが、あたりがもう暗くなりはじめたので、窓のそばに近寄った。町人もそれにつづいた。ダルタニャンは声を出して読んだ。
[妻女の行方をさがすな。当方の用さえすめば送り届ける。もしも捜索に類することを少しでもすれば、万事それまでと覚悟せよ]
「これは、はっきりしている」とダルタニャンは言葉をつづけた。「要するに、これはただの脅迫ですよ」
「そりゃ、わかってます。でもこの脅迫がわたしは恐ろしいんで。なにしろわたしは武士ではございませんし、それにバスティーユの牢獄《ろうごく》もこわいですからね」
「ううん!」と、ダルタニャンはうなった。「いや、わたしだってバスティーユは好きじゃない。剣で事がすむなら、まだいいのだが」
「でも、いまの場合、わたしはあなたさまを大いに頼みにしてまいったのですから」
「そうかな?」
「あなたさまのまわりには、いつも強そうな銃士の方々がついておられますし、それにそれらの銃士方はトレヴィールさまの配下で、従って枢機卿さまの敵方であることもぞんじあげております。ですから王妃さまのために何かお尽《つ》くしになってあげて、枢機卿さまの鼻をあかすようなことを喜んでなさってくださるものと、こう考えたようなしだいでして」
「そりゃ、もちろんそうだ」
「それに、三か月間の部屋代も一度も口にだしませんでしたし」
「いや、いや、よくわかった。お話はまことにもっともなしだいで」
「なお今後も引きつづいて当方においでくださるかぎり、部屋代のことは少しも申さんつもりでおります……」
「それは、ありがたい」
「なおそのうえ、もしご入用でしたら、五十ピストールぐらいのところは、さしあたってお困りでしたら、ご用立て申しましょう」
「そいつは、すばらしい。してみると、ボナシューさん、あなたはよほどのお金持ちのようですな」
「まあ、気楽にやって行けるという程度でして。小間物屋の商売と、それにまた、あの有名な船乗りのジャン・モケの最近の航海に少しばかり投資したものですから、年収二、三千エキュほどのものを、まあ掻《か》き集めましてな。そんなわけでございますから、もしよろしければ……おや、あれは!」と、町人は叫んだ。
「どうしました?」
「あれは?」
「どこに?」
「通りの、お宅の窓の向かい側に、あの家の人口の陰に、外套に身を包んだ男が……」
「やあ、あいつだ」ダルタニャンと町人とは、同時に叫んだ。二人は等《ひと》しく自分たちの相手の男を認めたのである。
「さあ、こんどこそ逃がさんぞ」
そう叫ぶが早いか、ダルタニャンは剣に飛びかかった。そして鞘《さや》を払うと、部屋の外に飛び出した。
階段で、出会いがしらに、アトスとポルトスに出会った。二人がさっと体を開いたそのあいだを、ダルタニャンは矢のように通り抜けた。
「おい、そんなに走って、どこへ行くんだ?」二人の銃士は、いっせいに叫んだ。
「マンの男だ!」
そう言い捨ててダルタニャンの姿はもう見えなかった。ダルタニャンはなんども仲間に、あの未知の男との一件、その男が何か重大な用件らしいことを美しい旅の女にことづけていたことなどを話してあった。
アトスの意見では、ダルタニャンはけんかさわぎのあいだに手紙を紛失したのだというのだ。ダルタニャンがその未知の男について語った風采《ふうさい》によれば、どう見ても貴族でしかないので、貴族たる者が他人の手紙を盗むというような卑劣な真似はできるものではないというのである。
ポルトスは、要するにそれは貴婦人と騎士との逢いびきであって、そこへダルタニャンと黄色い馬とが邪魔にはいったのにすぎないといった。
アラミスは、こういったことは非常にむずかしいことで、あまり深く考えてみてもはじまらないといった。
そんなわけだから、ダルタニャンがいまちょっと口をもらしたのを聞いただけで、あのことだとすぐにわかった。そして、ダルタニャンがその男に追いつくにしても姿を見失うにしても、どっちみちここへ帰ってくると思ったので、彼らはそのまま歩きつづけた。
二人がダルタニャンの部屋にはいると、部屋はもぬけのからだった。青年と未知の男とが出会えば、おそらくひと騒動は免れまいと察した家主は、これまでの話でおのずからその性格はお察しがつくと思うが、用心にしくはないと思って、さっさと出ていってしまったのである。
九 ダルタニャン頭角をあらわす
アトスとポルトスの予想したとおり、三十分ほどするとダルタニャンは帰ってきた。今度もまた、あの男を取り逃がしてしまった。相手はまるで魔術でも使ったように、消え失せたのである。
ダルタニャンは抜身をひっさげて、そのあたりの道という道をくまなく調べてまわったのだが、それらしき姿さえみつからなかった。そこでとうとう、おそらくはじめからそうすればよかったのだろうが、あの男が身を寄せていた入口のところへ引き返してきて十ぺんか十二へんも、はげしく槌《つち》の音を響かせて案内を乞《こ》うたのに、答えは得られず、その音を聞きつけた近所の人が窓から顔をだして、その家は戸口も窓もみんなしまっていて、もう半年も前から空き家になっているのだということだった。
ダルタニャンが通りを走りまわって戸口をたたいているあいだに、アラミスがたずねてきていっしょになったので、ダルタニャンが帰ると四人の仲間が全部そろったことになる。
「で、どうだったね?」
額に汗をかき怒りに震えているダルタニャンを見ると、三人の銃士はこうたずねた。
「それでな!」と剣をベッドに投げだして、彼はつぶやいた。「まったくあいつは、悪魔の化身《けしん》のような奴さ。幽霊か化物のように消え失せてしまった」
「貴公は幽霊というものを信じるかい?」アトスがポルトスにたずねた。
「おれはこの眼で見たものしか信じない。幽霊なんかは見たことがないから信じないな」
「聖書は」と、アラミスが口をだした。「われわれにそれを信ぜよと説いている。サミュエルの亡霊がサミュエルの前に現われたことがある。これは信条なのだから、これが疑われるとなると、だまってはいられない、ポルトス」
「人間であろうと悪魔であろうと、生身《なまみ》であれ幽霊であれ、とにかくあの男はおれを呪《のろ》うために生まれた奴だ。奴が姿をくらましたおかげで、とてもいい話をふいにしてしまったんだ。百ピストールか、おそらくはそれ以上になる仕事をね」
「そりゃまた、なんのことだい?」と、ポルトスとアラミスが声をそろえていった。
アトスだけはいつものように沈黙を守って、ただダルタニャンにいぶかしげな眠を向けただけだった。
「おい、プランシェ」と、ダルタニャンはちょうどそのとき、半開きのドアから顔をだして立ち聞きをしたがっている従者を呼んだ。「大家のボナシューさんのところへ行って、ボージャンシーのぶどう酒を半ダースほど寄こしてくださいといって来い。ぶどう酒はあれにかぎるで」
「おや! 貴公のところの大家は信用貸しをするのかい?」と、ポルトスがたずねた。
「そうなんだ。それも今日からさ。まあ大舟に乗った気でいなさい。もし酒が悪かったら、ほかのを取りにやらせるから」
「利用はすべし、ただし乱用はすべからず」と、アラミスがもったいぶった口調でいった。
「だからダルタニャンは、わしたち四人の中で一番頭がいいというのさ」と、アトスがいった。この言葉にダルタニャンは軽く会釈《えしゃく》を返したが、アトスはそれだけ言ってしまうと、また元のようにだまりこんでしまった。
「それにしても、いったいどういうわけなんだ?」と、ポルトスがきいた。
「そうだよ」と、アラミスも口をだした。「わけを聞かせてほしいね。といっても、それがどこかの貴婦人の名誉を傷つけるものだったら困るが。もしそうだったら、だまっているほうがいいだろう」
「安心したまえ。だれの名誉も傷つけるような話じゃないからな」
そこで彼は友人たちに、大家がたずねてきたことから、大家の細君をかどわかしたらしい男が、例のフラン・ムニエ旅館でけんかをした男と同一人物だったということを、くわしく物語った。
「そいつは悪くない話だ」アトスは通《つう》らしくひと口、酒を飲んでみて、悪くないというしるしにうなずいてみせてからいった。
「その大家から五、六十ピストールは引き出せるな。が、その五十か六十の金に、四つの首を賭《か》ける値打ちがあるかどうかは問題だな」
「ただ考えてもらいたいのは」と、ダルタニャンは声をあげた。「この事件には、かどわかされておそらくは脅迫されたり苦しめられている女があるんだからね。しかもそれが女主人に忠実だったという、ただそのことだけのためにさ」
「気をつけろよ、ダルタニャン。貴公はボナシューの細君のことで、どうも少し興奮しすぎるようだよ。女というものは、われわれ男性を破滅させるために作られているんだからな。すべてわれわれ男の不幸の元は女性にありだ」
このアラミスの言葉に、アトスは眉をひそめ、唇を噛《か》んだ。
「おれが心配しているのはボナシューの細君のことなんかじゃないんだ」と、ダルタニャンは叫んだ。「じつは王妃さまのことなのだ。国王陛下からは冷たく扱われ、枢機卿からは迫害され、しかもお味方をする者は片っ端から首をはねられてしまう、あのお気のどくな方のことだよ」
「なぜ王妃は、われわれが大きらいなスペイン人やイギリス人を好かれるのかな?」
「スペインはあの方の生まれ故郷ではないか」と、ダルタニャンは答えた。「スペイン人を好かれるのは当然だろう。もう一つのほうは、イギリス人がみんな好きだというのではなくて、一人のイギリス人がお好きなのだという話だが」
「いや、まったく」と、アトスがいった。「その相手のイギリス人は、王妃がお好きになるだけのことはあるのだ。あんなりっぱな風采の人を見たことはない」
するとポルトスも、「着こなしも天下一品だしな。あの人がルーヴル宮で真珠をばらまかれたときおれは居合わせたんだが、そのとき拾った二つの真珠が、十ピストールずつに売れたんだぞ。おい、アラミス、貴公もあの人を知ってるだろう?」
「知ってるとも。わたしはアミアンの庭園であの人をつかまえた連中の一人だもの。王妃付侍従のピュタンジュ殿に連れられてあそこへ行ったんだがね。あのころ、わたしは神学校にいたのだが、あの出来事は、陛下にとってお気のどくな事件だと思ったものだ」
「だからといって」と、ダルタニャンは言ってのけた。「おれはバッキンガム公の居場所がわかっていたら、だれがなんと言おうが、すぐにも手をとって王妃さまのおそばへ連れて行くんだがな。なあに、枢機卿にいまいましい思いをさせるだけだって、胸がすうっとするさ。なにしろ、われわれのほんとうの敵、唯一の敵、そして永遠の敵は、あの枢機卿なんだからな。いいか、貴公ら、あの人を思いきりやっつけることができるならわたしは喜んでこの首を投げだしてもいい」
「で、その小間物屋は貴公に言ったんだね」とアトスは話をもどしていった。「バッキンガム公が贋《にせ》の手紙でおびきだされたと、王妃はお考えになられているとね」
「それを大層ご心配になっていられるそうだ」
「待ってくれ」と、アラミスが横合いからいった。
「なんだい?」と、ポルトスがたずねた。
「話をつづけてみてくれ。わたしにも少し思いあたることがあるから」
「そうだ」とダルタニャンがいった。「王妃の侍女の誘拐《ゆうかい》といまの話は結びつくね。バッキンガム公をパリへ呼び寄せる話と、なにか関係があると思うのだが」
「ガスコーニュの人間は、なかなか頭が働くな」と、ポルトスはすっかり感心していた。
「わたしは、この男の話を聞くのが好きなんだ。国の訛《なま》りがおもしろくてね」と、アトス。
「おい、みんな、ちょっと聞いてくれ」と、アラミスが声をかけた。
「よし、アラミスの言うことを聞こう」と、三人は声をそろえていった。
「昨日のことだが、ときどきわたしが自分の研究のことで意見を聞きに行く、さる博学の神学者のところへ行ったんだ」
アトスが、にやりと笑った。
「その神学者は少し寂しいところに住んでいる。趣味でもあるだろうが、仕事も仕事だからね。で、わたしがその家から出ようとしたとき……」
ここでアラミスがちょっと言葉を切ったので、
「それで貴公がその家を出ようとしたとき、どうしたんだ?」聞き手はいっせいに先を促した。
アラミスは、まるで嘘《うそ》をつこうとしている途中で不意に行きづまって、しきりに自分の気持ちとたたかっているようすだったが、二人の仲間がじっと自分のほうを見すえ、耳をそば立てているので、いまさら後へ引くわけにもいかなかった。
「その神学者には、一人の姪《めい》がいるのだ」と、アラミスは言いつづけた。
「なに、姪がいるって!」と、ポルトスが口をはさんだ。
「たいへん身持ちの正しい婦人だよ」と、アラミスがいったので、三人は笑いだした。
「ああ! 貴公たちがそんなに笑ったり、信用しないのならもう話はよすよ」
「われわれはマホメット教信者のように信じるし、霊柩台《れいきゅうだい》のようにだまりこんでいることにするよ」と、アトスがいった。
「では、つづけよう」と、アラミスは、「その姪は、ときどき伯父さんに会いに来るんだ。昨日はちょうど偶然わたしといっしょになったんだ。そこで帰りに馬車まで送って行く役目を、わたしがせねばならなくなった」
「そうか、馬車を持ってるんだね、その学者の姪は?」と、その短所の一つは饒舌《じょうぜつ》であるところのポルトスが、「たいしたもんだな」と、横合いからいった。
「ポルトス」と、アラミスがたしなめた。「貴公はどうも口数が多いと、たびたび注意したじゃないか。だから、女にもてないんだよ」
「おいおい、みんな」事件の真相がなんとなくわかりそうな気がしてきたダルタニャンは、注意をうながした。「重大な話なんだぜ。つまらん無駄話はやめよう。さあ、アラミス、先を話しなさい」
「そのときとつぜん、背の高い、褐色の肌をした貴族らしい物腰の男が……待てよ、ダルタニャン、貴公の例の男と同じタイプの男なんだが」
「同じ男だろう、きっと」
「そうかもしれんな」と、アラミスはつづけて、「その男がわたしにつかつかと近づいてきた。五、六人の男を従えているんだな。そしていかにも丁重な言葉で、[公爵]と、まずわたしに言い、それから[あなたさまもどうぞ]と、わたしが腕を貸していた婦人にも声をかけたんだ……」
「その学者の姪にかい?」
「だまってろよ、ポルトス!」とアトスが注意した。「しようのない奴だな」
「[どうかこの馬車へお乗りくださいまし、そのままそっとお静かに]というじゃないか」
「きみをバッキンガム公とまちがえたわけだな」と、ダルタニャンがいった。
「そうだろうね」と、アラミスは答えた。
「だが、女のほうは?」と、ポルトスがたずねた。
「王妃さまと思ったわけだな!」と、ダルタニャンがいった。
「まさに、そのとおりだ」と、アラミスもあいづちを打った。
「このガスコーニュ人は魔物だ! 何ひとつ見のがさない」と、アトスが感心して叫んだ。
「たしかにアラミスは背丈も同じだし、あの美男子とどこか風貌が似たところがあるからな。が、銃士の制服を着てたろう……」
「大きな外套を着てたんだ」と、アラミス。
「この七月に、おどろいた奴だ! 博士は、きみが来るのを人に知られては困るのかい?」と、またポルトスがまぜ返した。
「その密偵が、からだ格好をまちがえたのはわかるとしても、顔まではね……」と、アトスがいぶかった。
「大きな帽子をかぶっていたんだ」と、アラミスが答えた。
「おやおや、神学の勉強だというのに、なんという用心ぶかさだ!」と、ポルトスが叫ぶ。
「おいおい、みんな、冗談いって時間をつぶしているときではないぞ。手分けして、小間物屋の細君をさがそうじゃないか。それがこの事件の鍵《かぎ》だ」と、ダルタニャンがたしなめた。
「そんな身分の卑しい女をかい! ダルタニャン?」と、ポルトスはさも軽蔑《けいべつ》するように唇を突きだした。
「王妃側近のラ・ポルト殿が名づけ親だという女だ。さっき、わたしがそういったじゃないか。それに王妃さまがそのような身分の低い女を頼りになさっているのは、やはりそれなりの考えがあってのことだろう。身分のある者だと、すぐ人目につくし、それに枢機卿は目がきく人だからな」
「よし、ではまず小間物屋と取り引きをすることだ、いい値でな」と、ポルトスがいった。
「その必要はない」と、ダルタニャンは答えた。「あの男が支払ってくれなくても、別の方からたんまりお礼はもらえるからな」
そのとき、階段にあわただしい足音が聞こえたかと思うと、ドアが荒々しく開かれて、不幸なめに会った小間物屋が、この相談中の部屋にころがりこんできた。
「お助けくださいまし、みなさま、どうか、お願いです! 四人の男がやってきて、わたしを捕えようといたしますんで。どうか、お助けくださいまし」
ポルトスとアラミスは、立ちあがった。
「まあ、待ちたまえ」ダルタニャンは二人に、半分抜きかけた剣を鞘《さや》におさめるようにと合図を送って、「ちょっと待った。この際必要なのは勇気じゃなくて、慎重に行動することだ」
「だからといって、まさかこのままでは……」と、ポルトスが叫ぶのを、すぐにアトスが、「ダルタニャンにまかせろ」と制して、こう言いつづけた。
「なんども言うようだが、この男はわれわれの中で一番頭がいいんだ。とにかくおれは、この男の言うことに従うつもりだ。ダルタニャン、貴公の思うとおりにやってくれたまえ」
このとき四人の親衛隊士が次の間の戸口に現われたが、四人の銃士が剣を握って立っているのを見ると、それ以上は踏みこめなくてためらった。
「どうぞ、おはいりください」と、ダルタニャンから声をかけた。「ここはわたしの部屋です。われわれはみな、国王陛下ならびに枢機卿殿の忠実なる臣下なのですから」
「では、おのおの方は、われわれが命令されたことを行なうのに、ご異存はないのですな」と、その中の重だった者がいった。
「異存どころか、場合によったらお手伝いもいたそう」
「あいつ、なにを言ってるんだ?」と、ポルトスがつぶやいた。
「しっ、だまってろ! わからん奴だな」とアトスが制した。
「でも、あなたはさっき助けてやると……」と、小間物屋は低声でぼやいた。
「自由な身でいなければ、おまえさんを救えないんだ」と、ダルタニャンは急いで耳打ちをした。「ここであんたをかばい立てすると、われわれまで捕えられてしまうからな」
「でも、このままではわたしが……」
「さあ、どうかみなさん」と、ダルタニャンは声を大きくしていった。「わたしには、この男を守ってやらねばならぬ理由はございません。けさはじめて会ったばかりでして、それがなんの用だったかは自分で申すでしょうが、厚かましくも部屋代を請求しにまいったので。そうだろう、ボナシューさん、答えたまえ!」
「それは、そのとおりでございますが、でもあなたさまは……」と、小間物屋は叫んだ。
「わたしのこと、仲間のことも何もいってはならん。とくに王妃さまのことは何もいってはいけない。さもないと、あんたが助からんばかりか、こっちまでみんなやられてしまうんだ。……さあ、どうかみなさん、この男を連れてってください」
ダルタニャンはあっけにとられている小間物屋を、親衛隊士のほうへ押しやった。
「けしからん男だ、あんたは! 銃士ともあろうわたしに金を請求しに来るなんて! 牢《ろう》へぶち込んで、なるべく長いこと入れといていただきたい。そのあいだにわたしも、金を工面しておきますからな」
巡邏隊《じゅんらたい》は恐縮しながら礼を述べると、獲物を補えて出て行った。
その出て行こうとするうしろからダルタニャンは、隊長とおぼしき男の肩をたたいた。
「どうです、ひとつ一杯やって、お互いの健康を祝おうではありませんか」そう言いながら彼はボナシューより寄贈を受けたボージャンシーを二杯のコップになみなみと注いだ。
「これは光栄の至りで。喜んでちょうだいします」
「では、貴殿のご健康を……ときに、ご尊名は?」
「ボアルナール」
「では、ボアルナール殿!」
「あなたのご健康を!……尊公のお名前は?」
「ダルタニャン」
「では、ご健康を祝して」
「いや、まず、国王陛下と枢機卿台下のご健康を祝して」とダルタニャンは、すっかり感激して大声をあげた。
巡邏隊《じゅんらたい》の隊長も、もし酒でも悪ければダルタニャンの誠意を疑ったかもしれないが、なにしろ銘酒なので、すっかり相手を信用した。
巡邏隊長が仲間のあとを追って立ち去って四人だけになると、ポルトスがさっそく口を切った。
「なんだって、またあんな卑劣《ひれつ》な真似を貴公はするんだ。銃士が四人もそろっていながら、救いを求めてきた哀れな男を見殺しにするなんて。しかも貴族たる者が、あんな下っ端役人と乾盃《かんぱい》をするなんて!」
「おい、ポルトス」と、アラミスがいった。「さっきアトスが貴公をばか者呼ばわりしたが、わたしもその意見に賛成だな。ダルタニャン、きみはえらい男だ。もし将来貴公がトレヴィール殿にとって代わるようなことがあったら、きみの手でこのわたしを修道院長に推挙してくれたまえよ」
「おや、おや、さっぱりわけがわからん」と、ポルトスは一人ぼやいた。「貴公までがダルタニャンのしたことをいいと言うのかい?」
「もちろんだ」と、アトスが答えた。「いいと思うばかりではなく、大いにほめてやるよ」
「では」とダルタニャンは、自分のとった行動をひと言もポルトスに説明しようともしないで、「さあ、これからは、[四人はひとつ]を標語にして、やってゆくことにしようではないか?」
「しかしね」と、ポルトスはまだぶつくさいっていた。
「手をだして誓いたまえ」と、アトスとアラミスとが同時にうながした。
ほかの連中のするのにならって、まだぶつぶつ言いながらも、ポルトスは手をさし伸べた。四人はいっしょに、ダルタニャンのいった標語[四人はひとつ]を声をそろえて繰り返した。
「これでいい、さあ、みんな自分の部屋に引きあげるとしよう」と、ダルタニャンは、まるでいままで指揮をとっていた人のような口調でいった。「そして、せいぜい気をつけることだ。これからはいよいよ、枢機卿が相手だからな」
十 十七世紀のねずみ捕り
ねずみ捕りの発明は、なにも今にはじまったものではない。社会ができて警察というものが作られると同時に、このねずみ捕りという張りこみ法も考えつかれたのだ。
読者諸君はおそらく、ジェリュサレム街の陰語をごぞんじないと思うし、それに筆者もこのような物語を書きはじめてから十五年にもなるが、まだこのような意味でこの言葉を使うのははじめてだから、[ねずみ捕り]というのがどういうものか、ここで説明しておこう。
ある家で一人の人間が何かの罪で逮捕されたとすると、当局はその逮捕をしばらく秘密にしておいて、その場所へ警察の者を四、五人張りこませておく。入口の戸をたたく者があればすぐに開いて内部に入れて閉じこめてしまうか、捕えてしまうのだ。こういうやり方で二、三日のうちには、この家と親密な関係にある者はほとんどみな捕えられてしまう。
これがつまり、ねずみ捕りという方法なのである。
こうしてボナシューだんなの家はねずみ捕りになり、そこへたずねてくる者はみな枢機卿の手の者につかまり、尋問を受けることとなった。もちろんダルタニャンの住んでいる部屋は二階で、別に道路があったから、そこへ来る者は取り調べを受けずにすんだ。
それに、そこへ来る者は、三人の銃士だけだった。彼らはべつべつに捜査をはじめていたが、何もこれという手がかりもつかめなかった。平常無口で通っているアトスまでが、直接トレヴィール殿に質問して、相手をひどくめんくらわせたりした。
トレヴィール殿もこのことについては何も知らなかったが、ただ一つ、最近国王と王妃、それから枢機卿に会ったときに、枢機卿は何か気がかりのことがある様子だったし、陛下は不安そうであり、王妃にいたっては前夜眠られなかったのか、それとも泣かれたのか、まっかな目をしていられたのに気づいていた。しかし王妃はご結婚以来、夜眠られないとか、泣き明かされるということは珍しくないので、トレヴィール殿はべつに気にもとめなかったということだった。
とにかく、国王と特に王妃については、今後よくよく心してお仕えするようにとトレヴィール殿はアトスに注意し、ほかの仲間にもそうつたえておけと命じた。
ダルタニャンは、一歩も部屋から出なかった。彼は自分の部屋を見張り場としたのだ。やってきては捕えられる人間が、窓から見えるからだ。それに床板をはずして穴をあけておいたので、薄い天井一枚をへだてた階下で行なわれる尋問の様子は、すっかり聞こえた。
まず捕えられた人間は身体検査をされてから尋問を受けるのだが、それはだいたい次のようなものだった。
[ボナシュー夫人が、夫かまたは他のだれかに宛てて、なにかおまえに渡してくれと頼まなかったか?]
[ボナシュー氏は、その妻かまたは他のだれかに宛てて、なにかおまえに渡してくれと頼まなかったか?]
[夫妻は口頭で、おまえになにか打ち明け話をしなかったか?]
もし彼らが何か確実なものをつかんでいるとしたら、こういう尋問の仕方はしないだろうと、ダルタニャンはそう考えた。では、いったい何を知ろうとしているのだろうか? バッキンガム公がパリに来ているかいないか、公は王妃とすでに会ったかどうか、またはこれから会おうとしているかどうか、おおかたそんなところだろう。
ダルタニャンは、いままで聞いたところによって、どうやらそんなところだろうと思った。
そうしているうちに、ねずみ捕りは常習的なものとなり、ダルタニャンの監視もそのままつづくこととなった。
ボナシューがつかまった翌晩のこと、九時ごろになって、それまでいたアトスがトレヴィール邸へ行くといって立ち去り、まだ寝床の支度をしていなかったプランシェがその仕事にかかろうとしていたとき、通りに面した入口の戸をたたく音が聞こえた。戸は開くと同時にすぐにしまったので、まただれかがねずみ捕りにかかったのだ。
ダルタニャンは、はずしていた床板のところへ駆けつけると、腹ばいになって耳をすました。
まもなく叫び声がひびきわたり、それが呻《うめ》き声になり、だれかがその声を押しふさごうとしていた。尋問はまだまだだった。
「こりゃ! 女のようだわい」と、ダルタニャンは思った。「身体検査をするので、抵抗しているんだな。手荒な真似をしている。ひどい奴らだ!」
こうなると、さすがに慎重さを誇《ほこ》る彼も、階下で起こっている騒ぎに飛びこんでゆきたい心をおさえるのがやっとだった。
「あたしは、この家の者と申しているじゃありませんか。ボナシューの家内でございますよ、王妃さまにお仕えしている者でございますよ」と女は叫んでいる。
「ボナシューの妻だって!」と、ダルタニャンはつぶやいた。「みんなが捜しているものが、こうやっておれの手の中に飛びこんでくるとは、なんてまがいいんだろう」
「そのおまえさんを、われわれは待っていたんだよ」と、尋問している男は女に答えた。
女の声はいよいよ弱まり、だんだん苦しそうになる。騒がしい物音が床板にひびいた。女は必死になって四人の男に抵抗しているようだった。
「お許しくださいまし、どうか、お許しを……」もうその声は、とぎれとぎれにしか聞こえない。
「猿《さる》ぐつわをはめている。どこかへ連れて行く気だな」ダルタニャンはばね仕掛けのように立ち上がった。「おい、剣をよこせ。いや、おれのそばにあった。おい、プランシュ!」
「なんでございます、だんなさま?」
「アトス、ポルトス、アラミスを呼んでこい。三人のうちだれかは家にいるだろう。あるいは三人とも帰っているかもしれん。武器を持ってすぐ駆けつけろというんだ。ああ、そうだ、アトスはトレヴィール殿のところへ行っている」
「で、だんなさまは、どちらへいらっしゃるので?」
「おれは窓から飛び降りるんだ。そのほうが早い。一刻も猶予《ゆうよ》はならんからな。おまえは床板を元に戻して、掃除してから、言いつけたところへ走って行け!」
「でもそんなことをしたら、わざわざ殺されに行くようなもんでしょうが……」
「いいから、だまっておれ」と、ダルタニャンは答えて窓際に手をかけると、あまり高くない二階から、すり傷ひとつしないで飛び降りた。
それから戸口のほうへまわりながら、つぶやいた。「こんどはおれがねずみ捕りにかかる番だが、こんなねずみに出くわす猫《ねこ》こそ災難だな」
案内を乞う槌《つち》が青年の手で音を立てると、内部の物音はぴったり止んで、足音が近づいた。戸が開くと同時に抜き身をひっさげたダルタニャンはさっと部屋の中に飛びこんだ。うしろのドアはおそらくばね仕掛けにでもなっているのだろうか、一人でにしまった。
ボナシューの家作に住んでいる人たちや、近所の人たちの耳には、叫び声や、荒々しい足音や、剣の触れ合う音や、家具のこわれる物音などが、ひっきりなしに聞こえてきた。この騒ぎに驚いて窓から顔をだした人びとの眼に映ったのは、入口がぱっと開いて、そこから出るというよりも、追い払われた烏《からす》が飛び立つように、黒装束《くろしょうぞく》の男が四人飛びだしてきたことだ。いずれもちぎれた翼のような、服や外套の破れ布を地面やテーブルの隅に落として行った。
ダルタニャンはたいして骨を祈らずに勝利を得た。武器を持っていたのは一人だけで、それもただお義理に抵抗しただけだったから。もちろんほかの三人も、椅子や腰掛や陶器類を手にして彼になぐりかかろうとしたが、青年の長剣で二、三か所かすり傷を負わされると、もはやそれまでだった。わずかに十分間で彼らは敗退し、ダルタニャンは勝利を得たのである。
窓をあけた近所の人たちも、騒動になれっこになっているパリ市民のこととて、黒装束の四人が逃げ去るのを見さだめると、安心して窓をしめた。これで事件も片がついたと思ったからであろう。
もう時刻もだいぶおそく、その頃も今と同じように、リュクサンブール付近では、人びとは早くから寝てしまうのだった。
ボナシュー夫人と二人きりになったダルタニャンは、彼女のほうに向き直った。かわいそうに女は肱掛《ひじかけ》椅子の上に仰向《あおむ》けに倒れて、半ば気を失っていた。ダルタニャンは、ちらりと女の様子を見てとった。
二十五、六歳の、青い目をした褐色の髪の美しい女である。鼻はちょっと反り返っているがきれいな歯並びで、乳白色にばら色のさした顔だった。しかし、この女を貴婦人と見まちがう特徴は、まずそこまでだった。手は白かったが華奢《きゃしゃ》でなく、足の格好も身分のある婦人とは見えなかった。だが幸いなことにダルタニャンは、まだこうした細かい点に気がつくほどに目が肥《こ》えていなかった。
さて、ボナシュー夫人を眺めていた彼の視線が、ちょうど彼女の足元にとまったとき、そこに一枚の白麻のハンカチが落ちているのに気づいた。いつもの癖でそれを拾いあげてみると、アラミスともう少しのところで首のやり取りをしかけた例のハンカチと同じ紋章が、その片隅についていた。
あの時以来、紋章のついたハンカチにはこりているので、ダルタニャンはだまって、それをボナシュー夫人のポケットに入れてやった。
ちょうどそのとき、ボナシュー夫人は意識を取りもどした。眼をひらいて、恐ろしそうにあたりを見まわすと、部屋はからっぽで、自分を助けてくれた男と二人きりなのに気づいた。すぐに彼女はほほえみながら、手をさしだした。そのボナシュー夫人の笑顔は、じつにこの世のものとも思われぬくらい美しかった。彼女はいった。
「ああ! あなたさまがあたくしをお救いくださいましたのですね。ほんとうにありがとうございます」
「奥さん、わたしは貴族のなすべきことをしただけで、お礼にはおよびません」
「いいえ、いいえ、恩知らずの女をお助けになったのではないことをお知らせしたいものだとぞんじておりますわ。でも、あの男たちはこのあたしを、どうするつもりだったのでしょう。最初、あたしはどろぼうだと思いましたわ。それに、どうしてうちのボナシューは、ここにいないのでございましょうかね?」
「奥さん、あの連中はどろぼうとはまた違う意味で、危険な奴らなのですよ。奴らは、みな枢機卿殿の手先なのです。じつはあなたのご主人は、もうここにはいないのです。昨日捕吏がきてあの人をバスティーユへ送りこんだのですよ」
「あのバスティーユへ、うちの人を!」ボナシュー夫人は叫んだ。「まあ! どうしたっていうんでしょう! 気のどくに! 罪もないあの人が!」
そう言うこの若い女の驚きの表情の中に、なにか微笑のようなものが見えた。
「何をしたかって、おっしゃるのですか?」と、ダルタニャンはいった。「あの人の罪はただひとつ、あなたのような美しい方の夫である幸福と不幸とを同時にもったことにあるのです」
「ですけれども、あなたはまさかごぞんじでは……」
「ええ、知ってますよ、奥さんが誘拐《ゆうかい》されたということなら」
「だれにですの? その人をごぞんじでいらっしゃるのですか? ああ! もしごぞんじでしたら、おっしゃってみてくださいまし」
「年は四十から四十五がらみの、黒い髪の日焼けした顔の男で、左のこめかみに傷跡があるでしょう」
「ええ、そうですわ、そのとおりですわ。で、その男の名は?」
「名前ですか? それがわたしにはわからないのです」
「それでうちの人は、あたしが誘拐されたことを知っておりましたのでしょうか?」
「誘拐したその男から、手紙で知らされたのですよ」
「それでうちの人は」と、ボナシュー夫人は困ったような様子でたずねた。「誘拐された理由を知っているふうでしたでしょうか?」
「ご主人は、政治上の理由だと思っているようですね」
「最初はまさかと思っておりましたけれども、いまではあたくしも、そう考えますわ。でもうちの人は、あの……あたしのことをちょっとでも疑っているようなことはございませんでしたでしょうか?」
「ああ、それでしたら、けっして! ご主人はあなたがお身持ちのよいこと、ことにあなたの愛情のことを自慢しておられましたからね」
またもやかすかな微笑が、この美しい女のばら色の唇《くちびる》のあたりに浮かんだ。
「それにしても」と、ダルタニャンはつづけて、「あなたは、よく逃げてこられましたね」
「ちょっとのあいだ一人でおかれた、その隙《すき》に逃げだしましたの。けさになってから、誘拐された理由が、あたしにもわかりはじめてきましたので、敷布を使って窓から降りたのです。そして、うちの人がここにいるものとばかり思ったものですから、駆けつけたわけなのです」
「ご主人にかばってもらおうと思ってですか?」
「いいえ、あの人にはとてもとても、あたしを守ってくれるだけの力などございませんわ。でも、ほかのことで役に立ってくれると思いましたので、それを言いにきましたの」
「それは、なんです?」
「ああ、それは! そのことはあたし一人だけの秘密ではございませんので、申しあげるわけにはまいりません」
「まず、奥さん」と、ダルタニャンはいった。「わたしはつまらない親衛隊士ですが、慎重に行動されんことをおすすめしますね……とにかくここは打ち明け話ができるような場所ではない。さっき追っぱらった連中が加勢を連れて帰って来るかもしれないし、もしここで見つかったら、もうだめです。わたしのほうも三人の友だちに知らせてはありますが、あの連中が在宅かどうかわかりませんしね」
「ほんとうに、おっしゃるとおりですわ」と、おびえきってボナシュー夫人は叫んだ。「逃げましょう、逃げましょう、ごいっしょに」
そう言いながら彼女は、ダルタニャンの腕を取ると、つよく引っぱった。
「だが、どこへ逃げるつもりなんです?」
「とにかく、この家を出ましょう。あとのことはまた考えるとして」
若い女と青年とは、入口の戸もしめないで、急いでフォソワイユール通りを下り、フォッセ=ムッシュウ=ル=プランス通りにはいると、サン=スュルピス広場でやっと足をとめた。
「これからどうしますか? どこまであなたをお連れしたらいいのですか?」と、ダルタニャンはきいた。
「そうおっしゃられると、あたしもこまってしまうんですけれども」と、夫人は答えた。「じつはうちの人からラ・ポルトさまに知らせてもらおうと思っていましたの。ラ・ポルトさまなら、この三日間のルーヴル宮の事情がどんなだかおわかりでしょうし、あたしが宮中へ行っても危険がないかどうか、それもわかるとぞんじましたので」
「わたしだって、ラ・ポルト殿のところへ行くことぐらいできますよ」
「そりゃあそうでしょうけれども、一つ困ったことには、うちのボナシューならルーヴル宮で顔を知られていますから通してもらえますけれども、あなたではだれも知りませんから、きっと入れてくれませんわ」
「そんなことなら!」と、ダルタニャンがいった。「ルーヴル宮の脇門にいる番人で、あなたに本気になって味方してくれる人がおありでしょう。ちょっと合言葉を使えば……」
ボナシュー夫人は、じいっと青年を見つめた。
「その合言葉を一度使ったら、すぐにそれを忘れてくださるでしょうか?」
「誓って、貴族の名にかけても!」と、ダルタニャンは、相手に疑いをさしはさむ余地のないほどの真実味のこもった語調でいった。
「いいですわ、あなたさまを信用いたしますわ。お見受けしたところ正直な方らしいし、誠意を尽くしてくだされば、そのうちあなたにもきっといいことがございますものね」
「わたしは、国王陛下のためなら、そして王妃さまのお喜びになることでしたら、心から無条件で、なんなりとお役に立ちたい気持ちでおりますよ。ですから友人だと思って、わたしを使ってください」
「でも、そのあいだ、あたしはどこにいたらいいでしょうね?」
「ラ・ポルト殿が、あとであなたを迎えに来られるような家を、どこかごぞんじありませんか?」
「ありませんわ。あたくし、いまはだれも信用できませんので」
「待ってください。ここは、アトスの家の近くだぞ。そうだ、ここがいい」と、ダルタニャンがいった。
「アトスさんて?」
「友人の一人です」
「でも、その方が家にいらっしゃって、このあたしをごらんになったら?」
「家にはいませんよ。それに、あなたを部屋にお入れしたら、鍵はわたしが持って行きますから」
「でも、その方がお帰りになったら?」
「帰ってきませんよ。もちろんあの男には、わたしが夫人を一人つれてきて、おまえの部屋に待たせてあると伝えておきますから」
「だって、そんなことをしたら、あたしに悪い評判が立ちそうですわ」
「そんなことは気にしないことです。あなたがだれだか知っている者はいませんし、それにこの際、都合のいいことばかりいっていられませんからね」
「では、そのお友だちのところへ行きましょう。どこですの?」
「フェルー街、すぐそこです」
「では、まいりましょう」
二人はまた歩きだした。ダルタニャンの予想どおり、アトスは留守だった。友人としていつもこの家でやっていることなので、彼は鍵を受けとると、階段を上がって行って、ボナシュー夫人を部屋に入れた。
「どうかお気楽に」と、彼はいった。「部屋を内側からしめて、待っていてください。だれが来ても、あけてはいけませんよ。わたしが帰ってきたらノックを三つします、こういうふうに」
そして彼は、つづけて二つをかなり強く、少し間をおいて軽く一つ、ノックしてみせた。
「わかりました」と、ボナシュー夫人は答えた。「では、こんどはあたしがあなたに教える番ね」
「うかがいましょう」
「ルーヴル宮のレシェル通り側の通用門へ行って、ジェルマンという男を呼んでください」
「よろしい。それから?」
「きっと用向きを聞くでしょうから、そうしたら[トゥールとブリュッセル]と、こう言うのです。そうしたらあとはなんでも、あの人はあなたのおっしゃるとおりに従いますから」
「それで、どういう命令を?」
「まず、王妃付侍従のラ・ポルトさんをお呼びしてくれと」
「そのラ・ポルトさんが見えたら?」
「あたしのところへ来ていただくようにって」
「よろしい。だが、あなたとどうして、どこでまたお目にかかれるでしょうか?」
「あなたは、どうしてもまたあたしと会いたいんですの?」
「ええ、ぜひとも」
「それでは、そのことはあたくしにお任せください。ご心配なさらないで」
「そのお言葉を当てにしてますよ」
「ええ、当てにしてくださいまし」
ダルタニャンは会釈《えしゃく》をしながら、できるだけ色っぽい視線を、この美しい女に送った。そして階段を降りると、ドアにきちんと鍵がかかった音がした。
ひとっ走りで、彼はルーヴル宮に着いた。レシェル通りの通用門をくぐったとき、十時が鳴った。いままでのこうした出来ごとは、すべて三十分の間に引きつづいて起こったわけである。
すべてが、ボナシュー夫人のいったように片づいた。合言葉を聞くと、ジェルマンはうなずいた。十分ほどするとラ・ポルトが詰所にやってきた。ダルタニャンはかいつまんで事のしだいを話し、ボナシュー夫人の居場所をしらせた。ラ・ポルトはその場所を二度も念を押して確かめてから、走るようにして出て行ったが、十歩ほど行ってから引き返してきて、「お若い方」と、ダルタニャンにいった。「ひとつ、あんたに忠告したいことがある」
「なんでしょう?」
「こんどの件に関して、あなたにご迷惑がかかるかもしれないが」
「ほんとうですか?」
「うん。あなたのお友だちで、だれか遅れている時計を持っている人はないだろうかな?」
「それで?」
「その友だちのところへ行って、あなたが九時半にその人のところにいたということを証明してもらえばいいのです。法律用語では、不在証明というやつだが」
ダルタニャンはこれはなかなか行き届いた忠告だと考えたので、飛ぶようにしてトレヴィール殿の屋敷に駆けつけた。しかしみんなのいる客間を通らずに直接トレヴィール殿の居間へはいりたいと申し入れた。彼はこの屋敷の常連の一人だったから、その要求は難なく受け入れられて、取り次ぎの者はトレヴィール殿のもとへ、若い同郷人が何か重大な話で至急にお目にかかりたいといっている旨を伝えた。
五分後にトレヴィール殿は現われて、こんなに遅くなんの用事だとたずねた。
「申しわけございません」
一人でいるあいだに柱時計を四十五分も遅らせておいたダルタニャンは、「まだ九時二十五分ですから、おめにかかれる時刻だと思いまして」
「なに、九時二十五分だと! そんなはずはないが」そういってトレヴィール殿は、柱時計を見た。
「よくごらんくださいまし。あのとおりでございます」と、ダルタニャンは答えた。
「なるほど」と、いって、「もっと遅いと思っていたが。まあ、よい。それで、用件というのはなんだね」
そこでダルタニャンは、王妃に関する事件を長々と話した。自分が王妃に対して抱いている心配を述べてから、自分が聞いたバッキンガム公爵に対する枢機卿の陰謀《いんぼう》のことを話した。その話しぶりがいかにも自信ありげで落ちついた態度だったので、トレヴィール殿は前にも述べたように、枢機卿と国王と王妃とのあいだに何かあったなと自分でも気づいていただけに、その話を信じてしまった。
十時が鳴ったので、ダルタニャンはお暇《いとま》した。トレヴィール殿は情報をしらせてくれたことを感謝し、今後も両陛下には心して仕えるようにと言いおいて、客間へはいった。ダルタニャンは階段の下まで来たとき、杖を忘れたことに気がついたので、大急ぎで居間にもどると、ついでに明日になって他人にさとられないようにと、時計の針を元どおりに直しておいた。これで不在証明をしてくれる人ができたわいと安心して、階段を降りると、すぐに通りへ出た。
十一 事件はもつれる
トレヴィール殿の訪問をすますと、ダルタニャンはすっかり考えこんでしまい、家へ戻るのにいちばん遠い道をとった。
このようにまわり道までして夜空の星を眺め、ため息をつき、一人ほほえんだりして、いったいダルタニャンは何を考えていたのだろうか?
ボナシュー夫人のことをである。この見習銃士にとってはあの若い女こそ、理想の恋人といってよかった。美しくて神秘的であり、宮廷の事情に通じているせいか、そのやさしい顔立ちの中にもどこか重々しいところがあって、それに情がないようにも見えなかった。それがまた恋の初心者にとっては、なんとも言えない魅力があった。そのうえダルタニャンは、からだを調べたり手荒な真似をした悪党の手からこの女を救ってやったのだから、この目ざましい働きで二人のあいだに、いつでももっとやさしい情愛に変わり得る感謝の気持ちが生まれていたわけである。
ダルタニャンはもう空想の翼に乗って、金鎖《きんぐさり》かダイヤモンドを添えて逢いびきの手紙を持ってくる使者の姿を思い描いていた。前述したように、若い騎士たちは国王から親しく金銀を受けとるのを恥としなかったが、いまと違って道徳感がゆるやかだった当時にあっては、恋人から金品を受けとることをやはり恥としなかったのである。女たちはほとんど常に、貴重ないつまでも残るような思い出の品を男に贈っている。それは自分たちの愛情のはかなさを、そのような永続性のある品物で支えようとしているかのようだった。
当時は、出世のために女を使うことさえ、少しも恥とはしなかった。ただ美貌だけしか取得《とりえ》のない女は、その美しさだけを与えた。
それゆえ、[もっとも器量よしの娘は、自分の持つものしか与えない]というようなことわざが生まれてきたのだろう。富裕な女は、そのうえに持ち金の一部を与えた。武士道華やかなりしこの時代の勇士で、もし彼らの恋人からなにがしかを入れた財布を鞍《くら》の前輪につけてもらわなかったとしたら、拍車《はくしゃ》も買えず、従って武勲も立てられなかったであろう人たちがかなりいたに違いなかった。
ダルタニャンは何も持っていなかった。田舎者の気おくれ、それはつかのまに散る花のような、桃の実の[けば]のような、ほんのうわっつらのものだっただけに、三人の銃士が与えてくれた、はなはだけしからぬ忠告によって吹き飛ばされてしまっていた。
ダルタニャンは、その頃の奇妙な世情に従って、パリにいても戦場にいるような、まるでフランドル地方にでもいるような気持ちになっていた。かの地では相手はスペイン人だが、ここでは女だ。とにかくどこにいても、戦うべき敵はおり、課すべき徴発金はあったのである。
しかし断わっておくが、そのときのダルタニャンは、まだまだもっと高尚な、利欲に恬淡《てんたん》な気持ちでいたのだ。なるほど小間物屋は自分で裕福だといっていたのだし、あのように薄のろであるからには、財布のひもは細君が握っていることぐらいは青年にも見抜くことができたであろう。しかしそういうことは、ボナシュー夫人を見たときに生じた感情に作用を及ぼしはしなかった。それゆえ、やがてこれから展開されるこの恋愛の発端においては、欲得づくの気持ちは、まずほとんどなかったといってよかろう。ほとんどという意味は、若くて美しく、優美で利口である上に金持ちだという条件は、恋のはじまりにおいては、やはりなんといっても、それを強める力があることをいなめないからだ。
裕福な生活には、容姿をさらに引き立たせるための、いろいろ貴族的な思いつきや手段が用意される。上品な真っ白な靴下、絹の衣装、レースの胸当て、足にはきれいな靴、髪には新しいリボンとか、そういったものを身につけたところで醜《みにく》い女がきれいになるということはまずあるまいが、きれいな女はいっそう美しくなる。それに、手がまたすべてを引き立てるのだ。とくに女は手を美しく保っておくためには、仕事などをしてはいけないのである。
読者もよくごぞんじのとおり、ダルタニャンはけっして百万長者ではなかった。いつかはそうなりたいとは思っていたが、そのような望みが叶《かな》うのはまだまだ遠い先だと思っていた。さしあたって自分の恋する女に、女が必ず欲しがる唯一の楽しみである、こまごました物を買ってやれないことが、なんとも情けなかった! だが少なくとも女が金持ちであれば、男が貧乏で買ってやれないときに、それを自分で買うことができる。ふつう女がそういう楽しみを手に入れるには夫の金でするのだが、さてその夫がそのためにお礼をいってもらえることは、めったにない。
それにダルタニャンは、もっともやさしい恋人になる気ではいたが、一方では友人に対する忠実な気持ちはもっていた。小間物屋の細君に対する恋の手段をあれやこれやと考えながらも、仲間のことを忘れてはいなかった。美しいボナシュー夫人とサン=ドニの原っぱや、サン=ジェルマンの市場を散歩するときには、アトスやポルトスやアラミスをいっしょに連れて行き、仲間に自分が手に入れた女を自慢してやろうと思っていた。それに、そうやって歩きまわれば腹が減るものだということも、彼はよく知っていた。だからそのあとでささやかながらも気のきいた晩餐《ばんさん》をとって、一方では友人の手を取りながらも、一方では恋人の足にもさわることができるのだ。それにまた、暮らし向きに困った場合には、こんどこそダルタニャンが仲間の救い主にもなれるわけだった。
さて、ダルタニャンが大きな声ではだめだと言い、低声では助けてやると約束をして捕吏の手に引き渡したボナシューは、その後どうしているだろうか? ほんとうのことを言うと、ダルタニャンはあの男のことなど少しも考えてはいなかったのだ。あるいは考えているとしても、彼がどこにいようが、そんなことはいっこうにかまわないというふうだった。まことに恋は、あらゆる情熱の中で、もっとも利己的なものである。
しかしながら、読者は安心されるがいい。ダルタニャンがいくら大家のことを忘れていようが、またはどこへ連れていかれたかわからないという口実のもとに忘れたふりをしていようとも、作者はけっして忘れはしないし、あの男がどこにいるかも知っているからだ。しかし当分は、われわれもこの恋こがれているガスコーニュ青年のするとおりにしておこう。あの感心な小間物屋のことは、あとでまた話すことにする。
ダルタニャンは未来の恋のことをあれこれ考え、夜に話しかけ、星にほほえみかけながら、シェルシュ=ミディ街、当時のシャッス=ミディ街を歩いて行った。ちょうどアラミスの住居の付近にきたので、ちょっと立ち寄って、今日プランシェを使いにやって[ねずみ捕り]へすぐ来てくれるようにといった理由を話そうと思った。プランシェが行ったときは彼は家にいたはずだから、さっそくフォソワイユール街に駆けつけたにちがいなく、おそらくそこには他の二人の仲間しかいなかったはずだから、みんなは何が何やらさっぱりわけがわからなかったことだろう。こんな人騒がせをした以上は、一つ言いわけをしておかねばなるまいと、ダルタニャンは口にだしてこうひとり言をいった。
なお心中では、ちょうどあの美しいボナシュー夫人のことを話して聞かせる、いい機会だと考えていた。いま彼の頭は、夫人のことでいっぱいだった。初恋に慎重さを求めることにしてからが無理な話で、初恋というものは大きな喜びが当然あるべきものであって、その喜びがひとりでに外にあふれるものであり、さもなかったら息がつまってしまうことだろう。
パリの町はもう二時間も前から暗くなっていて、人通りもまれになっていた。サン=ジェルマン町の大時計が、十一時を打った。気持ちのいい気候である。ダルタニャンは、いまではアサス街になっている小道を歩きながら、ヴォジラール街から吹いて来る風に送られてくる夜露に冷えた庭園の芳香を胸いっぱいに吸っていた。原っぱを渡って遠くの居酒屋から、鎧戸《よろいど》越しに酔客《すいきゃく》の歌声が聞こえてくる。小道のはずれまで行くと、ダルタニャンは左へまがった。アラミスの家は、カセット街とセルヴァンドニ街のあいだにあった。
ダルタニャンはカセット街を通りすぎて、[かえで]や、[ぼたんかずら]の茂みの下に、友人の家が見えるところまできた。するとそのとき、セルヴァンドニ街から人影のようなものが出てきたのに気がついた。それは外套にくるまっていたので最初は男だと思ったが、小柄なことと、動作がきびきびしてなくて歩きにくそうにしていることで、女だとわかった。
その女は自分が目ざしている家の前に来ているかどうかがはっきりしないらしく、上を見あげて考えこんだと思うと立ちどまり、あともどりしたかと思うとまたやって来るというふうだった。ダルタニャンは興味を覚えた。
「ひとつ、自分が役立つかどうか、たずねてやるとするか!」と、彼は考えた。「あの歩き方では、どうやら若い女らしい。きれいな女かもしれない。うん、きっとそうだ。こんな時刻に女が町を一人歩きするのは、恋人に会いに行くためにきまっている。ちえっ!うっかり逢いびきの邪魔なんかしようものなら、うらまれるだけのことだ」
そうしているうちにも、女は相変わらず軒並みや窓を数えながら歩いていた。だがそういうことは、べつに時間がかかることでもなく、むずかしい仕事でもなかった。この通りには三軒、屋敷があるだけで、道に面して窓は二つしかなかった。その一つは、アラミスの家の並びの家の窓であり、もう一つはアラミス自身の家の窓であった。
「そうだ!」と、ダルタニャンは思った。例の神学者の姪《めい》というのが頭に浮かんできたからである。「なんのこった! こんなに遅くなって女がアラミスの家をさがすなんておかしな話だが、たしかにそうらしい。よし、アラミス! こんどこそはっきり、貴様の正体を見とどけてやるぞ」
ダルタニャンはできるだけ身を細めて、道路でもっとも暗い場所の、上壁のくぼみの奥に置かれた石のベンチのそばに隠れた。
若い女は、なお歩きつづけていた。軽やかな足どりでそれとわかるばかりでなく、小さな咳《せき》ばらいをひとつたてたが、それで若々しい声の持ち主であることが感じられた。ダルタニャンは、この咳ばらいは合図だなと思った。
はたしてその咳ばらいに答える合図があったので、決心したものか、あるいは自分でここが目的の家であると確信がついたからか、女は思いきってアラミスの家の鎧戸《よろいど》に近づくと、指をまげて同じ間隔で三つノックした。
「たしかに、アラミスの家だ。おい、偽善者め、神学の勉強の正体をひんむいてやるぞ」
三つのノックがすむか、すまぬうちに、鐙戸の内側が開かれて、ガラス越しに光がもれた。
「おや、これは!」耳をすましていた青年はいった。「入口からではなくて、窓からか! 前から訪問はわかってたんだな。さあ、これから鎧戸が開いて女は窓から忍び入る。けっこうなことさ!」
ところが驚いたことに、鎧戸はしまったままであった。おまけに、瞬間明るくなった光は消えて、また元の暗闇になってしまったのである。
ダルタニャンは、いつまでもこういう状態がつづくはずはあるまいと考えた。そして耳をそばだて、眼を凝《こ》らして監視しつづけた。
案の定《じょう》、数分たつと、内部からコツコツと、二つたたく音がした。通りの若い女は、一つたたいてそれに答える。鎧戸がそっと開かれた。
ダルタニャンがどんなに熱心に目を見張り、耳をそばだてたか想像できよう。あいにくなことに、明りがほかの部屋に移されていた。だが青年の眼は暗闇《くらやみ》になれていたし、それによく言われるようにガスコーニュの人間は猫のように闇でも目が見えるとのことだった。
で、ダルタニャンは、若い女がポケットから白いものを取りだして、急いでそれをひろげて見せるのを見てとった。それは、ハンカチのようだった。女はそれをひろげながら、相手に隅のところを注意させた。
それを見てダルタニャンは、ボナシュー夫人の足元に落ちていたハンカチのことを思いだした。と同時に、またアラミスの足元に落ちていたハンカチを連想したのである。
「いったいこのハンカチは、どういう意味なのだろう?」
いまいる場所からはダルタニャンは、アラミスの顔は見えなかった。彼は、もちろん他の女と話をしているのはアラミスだと、思いこんでいた。青年の好奇心は慎重さに打ち勝って、二人がハンカチを見るのに気をとられているのを利用し、隠れ場所を飛びだすと、足音をしのばせながら電光のようにすばやく、壁の隅にぴったり身をつけに走った。そこからはアラミスの部屋の内部を、すっかり見ることができた。
そこへ行ってみてダルタニャンは、驚きの叫び声をあげるところだった。夜の訪問者と話をしているのはアラミスではなくて、それもやはり女だったからである。ただ彼は、着ているものの形でそれとわかっただけで、顔つきまではよく見わけることができなかった。
ちょうどそのとき、内部の女はポケットから別のハンカチを取りだして、さしだされたハンカチと交換した。それから二人の女は、数語を取りかわした。最後に、鎧戸がしめられた。窓の外にいた女は身をひるがえすと、ダルタニャンの数歩先を通りながら、外套の頭巾《ずきん》を下げた。が、その用心も、時すでにおそく、ダルタニャンは、それがボナシュー夫人であることに気づいたのである。ボナシュー夫人だとは!
女がポケットからハンカチを取りだしたとき、もしかしたら彼女ではあるまいかという懸念《けねん》が、頭をかすめはした。しかし、ルーヴル宮まで連れていってもらうためにラ・ポルト殿を呼んでくれと頼んだボナシュー夫人が、夜の十一時半にたった一人で、また誘拐されるかもしれないというのに、パリの町を歩きまわるなどということが考えられようか?
そうだとすると、よほど重大な用事のためにちがいなかった。いったい、二十五歳の女の重大な用事とはなんであろう? それは恋だ。
しかしながら、このような危うい真似をやってのけるのは自分のためだろうか、それともだれかのためだろうか? このようなことを青年は、自分の胸に問いかけていたのだが、すでに心の中ではいっぱしの恋人らしく、嫉妬《しっと》の炎が燃えあがっていた。
しかしながら、ボナシュー夫人の行く先を突きとめるには、ごく簡単な方法があった。跡をつければいいわけだから。そこで彼は当然のことだと、なんの考えもなくそれに従った。
壁のへこみから抜け出た立像のように土塀《どべい》から青年が姿を現わし、あとを追ってくる足音を聞くと、ボナシュー夫人は小さな叫び声をあげて、逃げだした。
ダルタニャンは、彼女のあとを追った。外套のために歩きにくい女に追いつくのは、彼にはなんでもないことだった。彼女が逃げこんだ道の三分の一ぐらいのところで、彼は女に追いついた。かわいそうな女は疲れというより恐怖のために、息も絶えだえだった。ダルタニャンがその肩に手をかけると、彼女はひざまずいて、喉《のど》からしぼりだずような声でいった。
「さあ、殺すなら殺してください。なんとしたって、あたしの口からは聞きだせませんよ」
ダルタニャンは女のからだに腕をまわして抱き起こした。だが、からだの重みで、女がいまにも気を失いかけているのがわかった。そこで彼はあわてて、やさしい言葉をかけた。が彼女には、こういうやさしい言葉は役立たなかった。なぜならば、男のそういうやさしい言葉には、世にも恐ろしい意図が隠されていることがあるからだった。しかし、声がすべてを語った。若い女は、その声をどこかで聞いたような気がした。そこで眼を見開いた。彼女は自分を恐怖に追いやった男をじっと見ると、それはダルタニャンではないか、彼女は喜びの声をあげた。
「まあ! あなたでしたの、あなたなの! よかったわ!」
「そうですよ、わたしですよ。神さまがあなたをお守りするように、わたしをおつかわしになったのです」
「あたくしを追いかけてきたのも、そのようなお気持ちからでしたの?」と、若い女は、あだっぽい微笑を彼に投げかけながら、たずねた。いつもの人をからかう気性がでたのだ。敵だと思った人間が味方だとわかった瞬間から、もう危惧《きぐ》の思いはすっかり影をひそめてしまった。
「いいえ、そうじゃないんです」と、ダルタニャンはいった。「ほんとうのことを言うと、偶然、あなたのあとをつけたのです。一人の婦人が、わたしの友人の家の窓をたたいていたのを見たもんですからね……」
「あなたのお友だちですって?」と、ボナシュー夫人は彼の言葉をさえぎった。
「もちろんですよ、アラミスは、わたしの親友の一人ですからね」
「アラミスって! どなたのことですの?」
「へえっ! まさか、あなたはアラミスを知らないって言うつもりではないでしょうね?」
「そのようなお名前を聞くのは、いまがはじめてですわ」
「では、あの家へ行ったのもはじめてだと、あなたはおっしゃるのですか?」
「もちろんですわ」
「では、あの家には若い男が住んでいるということも、ごぞんじじゃないのですか?」
「ええ」
「銃士が住んでいることを?」
「ええ、知りませんわ」
「では、あなたが会いにきたのは、あの男じゃないのですね?」
「とんでもありませんわ。第一、あなたもごらんになったでしょうが、あたしの話の相手は女性ですよ」
「そうでした。でも、その女の人は、アラミスの友だちなんだ」
「そんなことは、あたしは知りませんわ」
「だって、あの女はあそこに住んでるんでしょう?」
「それは、あたしに関係のないことです」
「では、あの女はだれですか?」
「ああ! それはあたしの秘密じゃありませんものね」
「ボナシューの奥さん、あなたはきれいな方だ。だが、同時にあなたは、世にもふしぎな方ですね……」
「そのために、あたしは損するのでしょうか?」
「いや、それどころか、あなたはすばらしい方だ」
「では、腕を貸してちょうだい」
「ええ、よろこんで。で、これから?」
「ええ、あたしをお連れになって」
「どこへですか?」
「あたくしの行くところへですわ」
「で、どこへ行かれるのです?」
「行けばわかりますわ、入口まで来ていただくのですから」
「そこであなたをお待ちしてるんですか?」
「その必要はございませんよ」
「では、一人でお帰りになるんですか?」
「さあ、そうかもしれませんし、そうでないかもしれませんわ」
「ところで、そのときおともをする人は男でしょうか、それとも婦人でしょうか?」
「それは、まだわかりませんわ」
「わたしにはわかるでしょうよ!」
「どうしてですの?」
「あなたが出て来られるまで待ってますからね」
「そういうことをおっしゃるなら、お別れしましょう!」
「どうしてなんです?」
「あなたに来ていただかなくてもいいですから」
「でも、さっきはあなたのほうから……」
「貴族の方のご援助をお願いしたので、スパイの監視なんかはごめんですわ」
「これは、いささかひどいことを言われる!」
「断りなしに人のあとをつけて来る人を、なんと言いまして?」
「ぶしつけ者」
「それではまだ、おだやかすぎます」
「いや、わかりました。あなたのおっしゃるとおりにしますよ」
「どうして、最初からすんなりとそうしていただけなかったのかしら?」
「あとで、そうしなかったことをくやんでいるといっても?」
「あなたは、本当に後悔なさっているのかしら?」
「それは自分でもよくわかりません。ただわたしのわかっていることは、あなたの行かれるところまでおともができるのだったら、あなたがして欲しいと言われることならなんでもすると、お約束できるということです」
「そこまでで、あとは別れてくださいますね?」
「ええ」
「あたしの出てくるところなどを、見張っていないで?」
「もちろんですとも」
「誓っても?」
「貴族の名にかけて!」
「では腕をとってください。さあ、まいりましょう」
ダルタニャンが腕をさしだすと、ボナシュー夫人はなかば笑い、なかば震えながら、その腕にすがった。そして二人はラ・アルプ街のはずれまで来たとき、そこで彼女は、さっきヴォージラール街で見せたようなためらうようすを見せた。しかしながら、何かの目じるしでわかるらしく、一軒の戸口を認めて、そこに近よった。
「ええ、あたしが用のある家はここですわ。ご親切にお送りくださいまして、ありがとうございました。一人だったらどんなめにあったかもしれないのに、ほんとうにたすかりましたわ。でも、お約束を守っていただくときがまいりましたわ。あたくしの目的の家にまいったのですもの」
「お帰りは、ほんとうに心配はないのですか?」
「どろぼうの心配だけですわ」
「それでも心配じゃないのですか?」
「あたしから何を奪おうっていうんですの? あたしは一文も持っておりませんもの」
「紋章入りの、刺繍《ししゅう》をした美しいハンカチをお持ちではございませんか?」
「どのハンカチのことでしょうかしら?」
「あなたの足元に落ちていたのを、わたしが拾ってポケットに入れてあげた、あのハンカチのことですよ」
「おっしゃらないで、もうなにもおっしゃらないで、ひどい方ね。あなたはあたしの身を滅ぼそうとなさるおつもり?」と、若い女は叫んだ。
「ほら、あなたにはまだ危険があるのではありませんか、わたしがたったひと言っただけで、あなたは身を震わせ、そのひと言をだれかに聞かれたら身の破滅だとおっしゃる。さあ奥さん」と、ダルタニャンは女の腕をつかんで、燃えるような目つきでじっと見つめながら、「いいですか、もっと大きな気持ちになって、わたしになんでも打ち明けてください。わたしの目を見れば、わたしの心にはあなたに尽くしたい気持ちと同情心しかないことが、よくおわかりでしょうに?」
「ええ、そりゃもう」と、ボナシュー夫人は答えた。「ですから、あたくしの秘密でしたらなんなりとお尋ねくださいまし。お話ししますわ。でも、ほかの人たちの秘密は、それは別問題ですわ」
「よろしい」と、ダルタニャンはいった。「わたしは自分で探ってみましょう。なにしろそういった秘密は、あなたの生命にかかわることでもあるのですから、わたしの秘密であるとも言えますからね」
「お気をつけになってくださいよ」若い女は、ダルタニャンが思わず身ぶるいしたほどの真剣な調子で叫んだ。「ほんとうにあたしの問題に手だしをしないでください。あたくしのしていることを助けてやろうなどとは思ってはいけませんよ。あなたがあたくしに好意をお持ちになり、あたしのために尽くしてくださったことを知っていればこそ、そうお願いするのです。ご恩は、一生忘れませんわ。ですから、どうかあたくしの言葉をお信じになってください。ねえ、もうあたしのことなどは考えないで。あなたにとっては、もうあたしなど、いないもおなじことなのです。あたしなんかには会わなかったものと、そうお考えになってくださいまし」
「アラミスもわたしと同じようにしなければならないのですか?」ダルタニャンは不快になって、そういった。
「あなたはさっきから二回も三回も、その名前を口にしましたね。前にも申しましたが、ほんとうにあたし、そんな方はぞんじあげませんわ」
「その男の家の窓をノックしておきながら、その男を知らないんですって! そんなことって、ありますかね! わたしをそんなおめでたい男だと思ってるんですか」
「あなたはあたしにしゃべらせようとして、そんな話を作ったり、そんな人をこしらえたのでしょう」
「わたしはべつに作りだしたりはしませんよ。仮空《かくう》の人間じゃありませんとも。わたしは、ちゃんとした事実をいっているだけです」
「ですから、あの家には、あなたのお友だちの一人が住んでいるとおっしゃるのですか?」
「そのとおり。これで三度目ですが、あの家にはわたしの友人がいて、その友人がアラミスです」
「やがて、何もかもはっきりするでしょう」と、若い女はつぶやいた。「いまのところは、何も言わないでください」
「もしもあなたが、わたしの心の中をはっきりとごらんになることができたら」と、ダルタニャンはいった。「そこに旺盛《おうせい》な好奇心を読みとって、きっと同情してくださるでしょうし、そこに烈しい恋心を読みとって、すぐにわたしの好奇心を満足させてくださるでしょうね。あなたを愛している人間を、なにもこわがる必要はないんだから」
「まあ、もう恋などと、ずいぶん気が早いこと!」と、若い女は頭をゆすった。
「恋のほうから、せっかちにやってきたのです。しかもはじめての恋なので。なにしろわたしは、まだ二十歳にもならないんだから」
若い女は、こっそり彼の顔を盗み見た。
「いいですか、まあ、だいたい、わたしには見当がついているんです」と、ダルタニャンはいった。「三か月前に、わたしはハンカチのことで、アラミスと決闘までするところだったのですよ。そのハンカチは、あなたがアラミスの家にいた女にお見せになったハンカチと同じもので、きっと、しるしも同じものがついていたでしょうね」
「お話を聞いてると、あたし、くたびれてきますわ、ほんとうに」
「だが、慎重なあなたのことだ、よく考えてみてください。もしあなたがそのハンカチを持っているところを捕えられて、それを取りあげられたら、身の破滅ではないのでしょうか?」
「どうしてですの、あの頭文字はC・B、つまりコンスタンス・ボナシューですから」
「それとも、カミーユ・ド・ボワ=トラシィでもいいわけでしょう」
「おだまりになって! もう一度おだまりくださいと申しますわ。いくらこのあたしの身が危険と申しても、おやめにならないんですね。でしたら、あなたご自身の身が危険だとお考えになってみてください」
「わたしがですか?」
「そうですよ、あなたがですよ。あたしと知り合いになったことで、牢屋《ろうや》の危険、生命までが危険なんですよ」
「では、あなたのおそばを離れますまい」
「あなた!」と、若い女は手を合わせて懇願《こんがん》した。「どうか、一人の武人の名誉にかけて、一人の貴族に対する礼儀のためにも、ここからお立ち去りください。ほら、十二時が鳴っています、約束の時間なのです」
「奥さん」青年は頭をさげていった。「そのように言われると、わたしはお断わりできかねます。ご安心ください。立ち去りましょう」
「でも、あとをつけたり、こっそりうかがうようなことはなさらないでしょうね?」
「このまま家にもどりますよ」
「ええ、あなたが善い方だとは、よくわかっていましたわ!」ボナシュー夫人は片手を彼のほうにさしだし、もう一方の手を、壁にはめこんだ小門のたたき槌《づち》にかけた。
ダルタニャンは、さしだされた手を握ってその上に燃えるような唇をつけた。
「ああ! わたしはあなたに会わない方がよかった」
ダルタニャンは率直な荒っぽさでこういった。女性はしばしば、すましこんだ礼儀正しさよりも、こういうやり方を好むものである。なぜならば、それは心の底をさらけださせて見せることであり、感情が理性にうち勝っていることを示しているからだった。
「まあ!」と、夫人は、まだ握っているダルタニャンの手を握り返しながら、情のこもった声でふたたびいった。「でも、あたしにはそうは言えないわ。今日はだめだといっても、明日はそうでなくなることもありますものね。いつかあたしが自由の身になったら、あなたの好奇心を満足させてあげることもできるかもしれませんしね?」
「わたしの恋についても、同じような約束をしていただけるでしょうか?」と、ダルタニャンは、喜びにあふれた声でいった。
「まあ! そのほうは、あたし、お約束できませんわ。あなたにどんな気持ちをもつようになるか、そうなるのもあなたしだいよ」
「では、今日のところは……」
「今日のところは、感謝の気持ちだけ、といったところね」
「ああ! あなたは何という魅力のある方なんだ!あなたはわたしの恋をあやつっていられる」と、ダルタニャンは、寂しそうにいった。
「いいえ、あたしはあなたの寛大なお気持ちにつけこんでいるだけ、それがすべてですわ。でも相手によれば、何かしてやれば、あとで埋め合わせをしてくれるってこともお忘れないように」
「ああ! あなたはわたしを、だれよりも幸福にしてくださる。今夜のことを、そしてその約束をどうかお忘れないように」
「ご安心あそばせ。適当な時と、適当な場所で、必ず思いだしますから。さあ! これでお帰りになって、どうかお立ち去りくださいませ! 十二時きっかりの約束でしたのに、遅れてしまいましたわ」
「もう五分」
「ええ、でも場合によっては、五分間が五世紀にもあたりますからね」
「恋をしているときにはね」
「そうだわ! あたしが会いにゆく相手が恋人ではないと、だれがあなたに言いまして?」
「あなたを待っているのは、男の人なんですか? 男なんですね!」と、ダルタニャンは叫んだ。
「よしましょう。また言い合いがはじまりますからね」と、ボナシュー夫人はかすかに微笑を浮かべていったが、そこにはじりじりしている気持ちを隠せなかった。
「いや、いや、行くとします、帰りますよ! わたしは、あなたを信じます、たとえわたしの誠意がばかげたものになろうとも、わたしはわたしの誠意を尽くしてみます。では、これで、奥さん、さようなら」
そういって、握りしめていた手をやっとの思いで振りきって彼が走り去ると、ボナシュー夫人はさっきと同じように、ゆっくりと規則正しく三つノックをした。通りの角で青年が振り返ってみると、戸は開いてすぐにまた閉じて、美しい小間物屋の細君の姿は、もうそこにはなかった。
ダルタニャンは歩きつづけた。彼はボナシュー夫人の行動をさぐるようなことはしないと約束したからには、彼女の生命があの家の中でどうなろうとも、また送ってくれるはずの人物の手でどうなろうとも、彼は帰るといった以上はそのつもりでいた。五分後には、フォソワイユール街に来ていた。
「かわいそうにアトスの奴、なんのことだか話がわかるまい」と、ダルタニャンは、ひとり言をいっていた。「おれを待っているうちに、眠りこんでしまったか、それとも家に帰ったかもしれない。家に帰ったら、留守中に女が来たことを聞かされるだろう。アトスの家に女か! そうそう、アラミスの家にも女がいたっけ。どうも変なことばかりつづくな。どういう結末になるか、なんとかして知りたいもんだが」
「だめです、だんな、悪いことばかりです」という声を聞いて、青年はそれがプランシェだとわかった。物思いにふけっている人がよくやるように、彼はつい大きな声でひとり言をいいながら、いつしか自分の部屋にあがる階段につづく小道にさしかかっていたのだ。
「なにがだめなんだ? なに言ってるんだ、ばかめ!」と、ダルタニャンはたずねた。「なにが起こったんだ?」
「何から何まで、悪いことばかり」
「どんなことだ?」
「まず、アトスさまが逮捕されました」
「つかまったって? アトスが! なぜだ?」
「だんなさまの部屋にいたからなんで。てっきりだんなさまだと思いこんで」
「で、だれにつかまったんだい?」
「だんなさまが追っぱらった黒装束の男たちが呼びに行った巡邏《じゅんら》隊にでございます」
「なぜ名乗らなかったんだい? なぜ自分は無関係だと言わなかったんだね?」
「わざとそうしなかったんですよ、だんなさま。それどころか、わたしのそばにおいでになって、[いま自由なからだでいなくてはならないのはおまえの主人で、このおれではない。あの男は事情に通じておるが、このおれは何も知らんからな。あの男を逮捕したと思わせておこう。そうすればあの男は時間が稼《かせ》げる。三日たったら、おれは、名乗ってやる。そうすれば釈放されるにきまっているからな]と、そうおっしゃいました」
「よくやった、アトス! うまい考えだ」と、ダルタニャンはつぶやいた。「いかにもあの男のやりそうなことだ! それで、捕吏どもはどうした?」
「四人でアトスさまを連れて行きました。バスティーユか、フォル=レブェックでしょうな。二人が残って黒装束の男たちと一緒にその辺をかきまわして、書類をありったけ取りました。あとの二人は、そのあいだ外で見張りをしていましたが、仕事が終わると、家の中をからっぽにして、みんな行ってしまいました」
「ポルトスとアラミスはどうした?」
「お会いできませんでした。こちらにお見えになりませんでしたので」
「おれが待ってるといったんだろう、そのうちにやって来るかもしれんな」
「そうですね、だんなさま」
「よし! ここでじっと待ってるんだぞ。もし二人が来たら、ここで起きたことを話して、ポム・ド・パン亭でおれを待ってるように伝えてくれ。ここではあぶないからな。この家は監視されているかもしれない。おれはこれからトレヴィール殿に報告に行って、それからみんなに会うつもりだ」
「かしこまりました」と、プランシェは答えた。
「ここにじっとしてるんだぞ。こわくはないな!」と、ダルタニャンは、従僕を励ましてやろうとして、わざわざ戻って来ると、そう声をかけた。
「だいじょうぶですよ、だんなさま」と、プランシェは答えた。「だんなさまはまだわっしのことをよくごぞんじありませんが、わっしはその気になりゃ、勇気が出るんで。まったく、その気になることが肝心なんで。それにわっしはピカルディ生まれですからね」
「よし、わかった」と、ダルタニャンはいった。「死んでもここを離れるな」
「わかってますとも。このわっしがだんなに首ったけだってことを、とっくと見せてあげますからな」
[よし]と、ダルタニャンは心の中でつぶやいた。[おれがこの男に対して用いた訓練の仕方は良かったらしいぞ。こんど機会があったら利用してみよう]
それから、その日の働きでだいぶくたびれている足に鞭《むち》打って、トレヴィール殿の屋敷に向かった。
トレヴィール殿は留守だった。自分の隊がルーヴル宮の勤務に当たっていたので、隊長もそちらへ行っていたのである。
どうしても会う必要があった。今日起こった事柄を、どうしても知らせておかなければならなかったからだ。ダルタニャンは、ルーヴル宮にはいって行こうと決意した。エサール殿の親衛隊の服装をしているので、だいじょうぶ通れるはずだった。
そこで彼はプティ=ゾーギュスタン街をずっと下り、ボン=ヌーフ橋を渡るつもりで河岸通りをのぼって行った。ふと渡し船で渡るつもりになって川べりまで来てみると、ポケットをさぐってみたら船賃を払うだけの金がないのだ。
ゲネゴー街のはずれまで来たときである。ドフィーヌ街のほうから二人連れの人影が出て来るのにぶつかったが、その格好を見て、彼ははっとした。
その二人連れは、一人は男、一人は女であった。
女のほうは、ボナシュー夫人の物腰だし、男のほうはアラミスと見まちがうばかりに、よく似ていた。
おまけに、女が着ている黒い外套は、ダルタニャンがヴォジラール街の鎧戸のところで見たのと、ラ・アルプ街の戸口で見たそれと、そっくり同じである。
それに、男は銃士の制服を着ていた。
女は外套の頭巾《ずきん》を下げていたし、男は顔にハンカチを当てていた。二人ともこうして用心しているところを見ると、顔を知られたくないのだ。
二人は橋にさしかかった。ルーヴル宮へ行くダルタニャンと同じ道だ。ダルタニャンはそのあとにつづいた。ダルタニャンは二十歩と行かないうちに、女はボナシュー夫人で、男はアラミスだと、はっきりと確信を抱いた。
と同時に彼は、嫉妬から来るありとあらゆる疑心で、心中が波立ちはじめた。
彼は二重に裏切られたのだった。一つは友人から、もう一つは、すでに自分の女だと思いこんで愛していた女からだった。ボナシュー夫人はアラミスなどという男は知らないと、あんなに固く誓ったのに、そのような誓言をした十五分後に、そのアラミスの腕によりかかっているのだ。
ダルタニャンは、この美しい小間物屋の細君を知ってからまだ三時間しか経っていないことや、彼女を連れ去ろうとした黒装束の男たちの手から彼女を救ったことで幾らか感謝の気持ちを見せただけで、べつに彼に約束したわけでもないということを、少しも考えてはいなかった。そして、自分は裏切られ、侮辱《ぶじょく》され、愚弄《ぐろう》された恋人だと、思いこんでいた。血と怒りが顔にのぼってきた。すべてをはっきりさせてやるぞと、彼は決心した。
若い女と青年とは、あとをつけられているのに気づいて、足を早めた。ダルタニャンは駆けだして二人を追い抜くと、こんどは引き返してきたが、ちょうどそのとき、二人は橋のこのあたり一面に光を投げかけている街灯に照らしだされたサマリアの女の像の前まで行ったところだった。
ダルタニャンが彼らの前で足を止めたので、二人も立ちどまった。
「なんとなさるおつもりだ」
一歩さがってその銃士は呼ばわった。その口調のなまりを聞いてダルタニャンは、自分の推測が一部まちがっていることに気づいた。
「アラミスではないのか!」と、彼は叫んだ。
「ちがう、アラミスではない。驚かれたようすから察して人ちがいをされたのだな。許してさしあげよう」
「許すだと!」と、ダルタニャンは叫んだ。
「そう」と、その見知らぬ男は答えた。「だから通していただきたい。あなたが用があるのは、このわたしではないのだから」
「なるほど、そのとおりだ」と、ダルタニャンはいった。「だが、あなたには用がないが、この婦人には用がある」
「なに、この婦人に? あなたは知らないはずだ」と、未知の男はいった。
「それはあんたの思い違いで、わたしはよくぞんじておる」
「まあ!」ボナシュー夫人は非難する口調で、「あなたには、武士としての、貴族としてのお約束をいただきましたのに。それを当てにしていてもいいと思っていましたのに」
「わたしだって」と、当惑を見せてダルタニャンは、「奥さん、あなただってお約束なさったじゃありませんか……」
「さあ、わたしの腕を取りなさい。行くことにしましょう」と、見知らぬ男はいった。
一方ダルタニャンは事のしだいにびっくりし、ぼうぜんとして、銃士とボナシュー夫人の前に腕を組んで立ったままだった。
その銃士は二歩ほど前へ出ると、ダルタニャンを手で押しのけた。
ダルタニャンはさっと飛びさがると、剣を抜いた。
同時に、電光のような早さで相手も剣を抜き放った。
「お待ちくださいませ、閣下《かっか》」と叫びながらボナシュー夫人は二人のあいだに割ってはいり、両手で剣をつかんだ。
「閣下だって!」ふとある考えが浮かんだので、ダルタニャンは叫んだ。「閣下だとすれば! お許しください、もしかしたら、あなたさまは……」
「バッキンガム公爵閣下でいらっしゃいます」と、ボナシュー夫人は低声でいった。「こんなことをなさると、あたしたちはみんな身が危うくなります」
「閣下、それからあなたにも、深くおわびします。じつは閣下、わたくしはこのひとに恋している者でして、そのために嫉妬いたしまして。失礼ながら閣下にも、恋とはどのようなものか、ごぞんじのこととぞんじます。お許しくださいますように。それから閣下のためにこの身を捧げる方法があれば、お教えくださいますように」
「あなたは誠実な青年だ」といってバッキンガム公爵がさしだす手を、ダルタニャンはうやうやしく握った。「わたしのために尽くしてくれると言うなら、その気持ちを受けよう。ルーヴル宮まで、あとからついてきてもらいたい。もしだれか、われわれをうかがうような者がいたら、斬《き》り捨てていただきたい」
ダルタニャンは抜き身をひっさげたまま、ボナシュー夫人と公爵とのあとから二十歩ほどの距離をおいてついてきた。彼はチャールズ一世(一六〇〇〜四九。イギリス王)に仕えるこの優雅な宰相のさしずを忠実に果たそうと思っていた。
しかしながら幸いなことに、若い親衛隊士忠勤のあかしを公爵に見せる機会もなくて、若い女と美貌の銃士とは、無事にルーヴル宮のレシェールの小門をくぐることができた。
ダルタニャンはそのまますぐにポム・ド・パン亭に行き、そこで待っていたポルトスとアラミスに会った。しかし彼は二人にわざわざ来てくれといった理由については説明せずに、ただちょっと手を貸してもらいたいと思ったのだが、一人で用向きを片づけてしまったと語った。
さて、いよいよ話が佳境にはいってきたので、三人の友人らにはそれぞれ自宅に引きとってもらい、ルーヴル宮の奥ふかく、バッキンガム公とその道案内のあとを追うことにしよう。
十二 バッキンガム公ジョオジィ=ヴィリィアーズ
ボナシュー夫人とバッキンガム公爵とは、なんなくルーヴル宮にはいった。ボナシュー夫人は王妃付の待女として顔が知られていたし、公爵のほうは、前述したようにその夜の警備に当たっているトレヴィール殿の銃士隊の制服を着ていた。それに守衛のジェルマンは王妃方に心を寄せる者で、もし何ごとかが起こったとしても、ボナシュー夫人が自分の恋人を王宮内にひき入れたといって罪を着ればすむことだと思っていた。それに彼女も、自分が責めを負う覚悟でいた。もちろん彼女の評判は傷つくだろう。しかし、たかが小間物屋の細君の評判など、世間で問題になるだろうか?
宮廷内にはいると、公爵と若い女とは壁の下部をつたわって、二十五歩ばかり歩いた。そこで夫人は、昼間は開いているが夜はふつうしまっている小さな中扉を押した。扉は開いた。
二人がはいると、内部はまっ暗だった。しかしルーヴル宮のこのあたりはお側《そば》付きの縄張りだから、ボナシュー夫人はすみずみまで知っていた。彼女は扉を次々としめてから公爵の手をとり、二、三歩進むと手すりをつかみ、足で階段をさぐって昇りはじめた。公爵は三階にあがったことを知った。すると彼女は右手へまがって長い廊下を通ってから、また一階下って、さらに数歩行ってから鍵穴に鍵をさしこんで扉をあけた。そして公爵を、ただ常夜灯だけがついているその部屋の中に押し入れると、こうささやいた。
「ここでお待ちくださいませ、閣下、そのうちにお見えになりますから」
それから彼女ははいってきた扉から外へ出て、鍵をかけた。公爵はだれが見ても監禁されたも同然だった。
しかしながら、言っておかねばならぬが、こんなふうに一人になっても、バッキンガム公爵は、少しもこわくはなかった。公爵の性格の特徴のひとつは、冒険を求め、ロマネスクな恋愛を追い求めることだった。勇敢で大胆で思い切ったことをする公爵が、こうした試みに生命を賭《か》けることは、こんどがはじめてではなかった。王妃アンヌ・ドートリッシュの手紙だと言われてそれを信じてパリへやってきたのだが、それが罠《わな》だと知ると、英国へ帰るどころか、かえって自分の置かれた立場を利用して、どうしても王妃に一度会ってからではないと出発しないと、王妃に申し入れたのである。王妃も最初はきっぱりと拒絶したのだが、公爵が激昂《げっこう》のあまり無分別な真似でもされてはと、考え直したのである。そこでとにかく会った上で、すぐに帰ってもらうように頼んでみようと決心した。
ところがそれが決意されたその夜に、公爵を迎えに行ってルーヴル宮へ連れて来る役目だったボナシュー夫人が誘拐《ゆうかい》されたのだった。二日間、彼女の行方《ゆくえ》はまったくわからず、計画は行き悩んでいたが、やっと彼女が脱走してラ・ポルトと連絡が取れるに及び、計画はまた進められて、もし捕えられなかったら三日前に実行できたはずの危険な計画を実行に移したのだった。
一人になったバッキンガムは、鏡に近よった。銃士の制服が、彼にすばらしくよく似合った。当時三十五歳の彼は、英仏両国を通じて、もっとも美貌の、もっとも優雅な貴族として、だれの目にもそう認められていた。父子二代の国王に愛され、巨万の財に恵まれ、全能の権力をもって王国を思いのままに乱したり鎮《しず》めたりしていたバッキンガム公爵ジョオジィ=ヴィリィアーズは、後世数世紀にわたって人の噂にのぼるような、とてつもない生活の一つを思い描いていた。
それゆえ自ら恃《たの》むところがあり、自分の力を過信して、他人を支配する掟《おきて》も自分には届かぬものと思いこんでいる彼は、いったん定めた目的には、ふつうの人間にはそれを仰ぎ見るだに目がくらむほど高く、望むだけでも狂気の沙汰《さた》である場合でも、まっしぐらにそれに向かって突き進むのだ。誇り高き美貌のアンヌ・ドートリッシュに何度も近づき、これも魅惑《みわく》して彼自身を愛させるようにしたのも、つまりはそのようなしだいであった。
さて、さきほども申したようにジョオジィ=ヴィリィアーズは鏡の前に立って、帽子の重みでくずれてしまった美しい金髪をなでつけ、口ひげをつまみあげた。長いあいだ待っていたときがやってきたのがうれしくて、喜びに胸はずませ、鏡の中の自分に自信と希望のあふれた微笑を投げかけていた。
ちょうどそのとき、壁布に隠れていた扉が開いて、一人の女が現われた。バッキンガムは、その姿を鏡の中に見て、思わず叫んだ。王妃だった。
アンヌ・ドートリッシュは、そのときは二十六歳か二十七歳で、まさにまばゆいばかりの美しさだった。
そのようすは、いかにも女王や女神といったふうで、エメラルドの輝きを投げているその瞳《ひとみ》はこのうえなく美しく、やさしさと威厳に満ちていた。
口は小さくて朱色、オーストリア王家の人らしく少し受け口であるが、ほほえむときはなんともいえないやさしさが漂い、人を軽蔑するときにはこのうえなく高慢《こうまん》ちきに見えた。その肌はビロードのようになめらかで、その手や腕のひときわ目立つ美しさは、当時の詩人たちが競って賞《ほ》め讃《たた》えたものだ。
最後にその髪だが、若いころの金髪が今は栗色に変わって、それがたっぷり打ち粉をふった捲毛《まきげ》となり、うつくしく顔のまわりを縁《ふち》どっていた。顔の赤味がもう少し薄かったら、どんなあら捜し屋も文句のつけようもないし、鼻がもう少しほっそりしていたら、どんな彫像師でもこれ以上のものは求めなかったであろう。
バッキンガムは一瞬、目のくらむ思いだった。夜会や舞踏会でも、また競技場でも、今夜ほどアンヌ・ドートリッシュの美しさが際《きわ》だって眼にうつったことはなかった。王妃は簡素な白い繻子《サテン》の衣裳で、待女のエステファニヤを従えていた。それは、王の嫉妬やリシュリューの迫害から免れて残っている、ただ一人のスペイン人の待女であった。
アンヌ・ドートリッシュは、二歩ばかり進み出た。バッキンガムは急いでその足元にひざまずくと、王妃に避けようとする暇も与えずに、その衣装の裾《すそ》に接吻をした。
「公爵さま、手紙をさしあげたのがあたくしでないことは、もうごぞんじでいらっしゃいますわね」
「ええ、ぞんじております、王妃さま」と、公爵は叫んだ。「たしかにわたくしは、雪が熱気をおび、大理石が暖まる、そのようなことを信じるほど愚《おろ》か者であったことは、よく自分でもぞんじております。しかし、だからといって、人が恋をしているときは、たやすく相手の心を信じてしまうものなのですから。でも、この旅行はむだではございませんでした。こうして、お目にかかれたのでございますから」
「ええ、でも、どうして、こうやってあたくしがあなたにお会いしたか、おわかりでしょうか」とアンヌ王妃は答えた。「あなたさまをふびんに思うからでございますわ。あたくしがいくら心配いたしましても少しも気におとめにならずに、ご自分の命を失い、あたくしの名誉を傷つけるおそれのあるこの都に、いつまでもおとどまりになっておられるからです。こうやってお目にかかったのも、深い海、両国の反目、神聖な誓い、何もかもがあたくしたちをへだてているのだということを申しあげるためなのでございます。こうしたことに背《そむ》くことこそ、神を恐れぬことでございましょう。つまりわたくしは、二度とあなたさまに会ってはならないということを申しあげたいのでございます」
「お話しになってください、王妃さま、いくらでもそうやってお話しになってください。あなたのやさしいお声が、お言葉のきびしさを包み隠しておりますから。神を恐れぬと申されましたね。しかし、神が結びたもうた二つの心を分けへだてることこそ、神を汚すことではないでしょうか」
「公爵さま」と、王妃はきっとなっていった。「あたくしはあなたさまを愛しているなどとは、けっして申さなかったことを、あなたはお忘れなのですね」
「でも、愛していないとも申されませんでした。いまになってそのようなお言葉を聞くとは、あまりにつれのうございます。わたくしのこのような愛情、ときの隔たりも、お目にかかれぬことも、望みの薄さも、けっして消すことのできないこの愛情に比べ得るものがどこにございましょうか。ちぎれたリボン、失われた視線、わずかに口からもれるお言葉で満足しているようなこの恋ですのに。
わたくしがあなたにお目にかかったのは三年前で、三年以来ずっとあなたを愛しております。はじめてお目にかかったときどんな衣装でいられたか、申してみましょうか? そのとき身のまわりにつけておられた装飾品を一つ一つ言ってみましょうか? ええ、まだありありと、この目に残っているのです。あなたは、スペインふうのクッションの上に坐っていられました。あなたは金銀の刺繍した緑の繻子《サテン》の服に、垂れ袖《そで》が美しい腕にかかり、そのお美しい腕に、大きなダイヤの留めがついていました。きっちりした襞襟《ひだえり》に、髪にお着物と同じ色の小さなボンネットをかぶられ、その上に鷺《さぎ》の羽がついておりました。
ええ、ええ、こうやって目を閉じていましても、あのときのお姿がはっきりと目に見えてまいります。そうしてこの目をあけると、あのときよりも百倍もお美しいお姿が、目の前にあるのです」
「まあ、なんということを!」と、アンヌ・ドートリッシュはつぶやいたが、こんなにもはっきりと心に刻みつけていてくれた公爵に向かっては腹を立てる勇気もなかった。「そのようなことを思いだして、どうにもならない愛情をかき立ててみたところで、愚かしいことではありませんか」
「でもこのわたしが、なんのために生きているとおぼしめされますか? わたくしは、もう思い出のほか、何もない男なのです。それのみがわたしの幸福であり、宝であり、希望でもあるのです。あなたにお目にかかるたびごとに、わたしは自分の心の宝石箱に、一つづつダイヤモンドの石をおさめてゆくのです。こんどでそれは四回目になります。この三年のあいだに、わたくしは四度お目にかかりました。さっき申しあげたのが初めてで、二度目はシュヴルーズ夫人のところで、三度目はアミアンの庭園で」
「公爵さま」王妃は顔をあからめながら、「あの夜のことはおっしゃらないで」
「いえ、いえ、それどころかごいっしょに、あのときのことをお話しましょう。あの夜こそ、わたしのもっとも幸福な輝やかしいときでした。あの美しい夜のことを覚えていらっしゃいますか? あのやわらかな香気に満ちた夜、澄んだ空に星がいちめんに散りばめられて! ああ、あのときだけは少しのあいだだけでも、あなたと二人きりでいられたのでした。あのときこそあなたは、あなたの心の悩みも、孤独の寂しさも、すべてをわたくしに打ち明けてくださるように思われました。あなたはわたしの腕に、この腕によりかかっていられました。わたしがあなたのほうに頭を寄せると、あなたの美しい髪の毛がわたしの顔に触れて、その度にわたしはからだ中が震えました。
ああ、王妃さま、あのような瞬間にわたしが感じた天上の幸福、天国の喜びは、あなたにはおわかりにならないでしょう。いいですか、わたしの富も、わたしの運命も、わたしの名誉も、わたしが生きながらえるために残されているすべてのものが、このような瞬間のために、このような夜のためにあったのです! なぜならば、あの夜こそ、王妃さま、あの夜こそ、あなたはわたくしを愛していられたのですから」
「ええ、公爵、おっしゃるとおりかもしれません。あの場所の雰囲気《ふんいき》、あの夜の魅力、あなたの視線の力、ときとして女を迷わすために結びつくそういうすべての条件が、あの夜はあたしのまわりにすっかり集まっていたのですもの。でも公爵、あなたもおわかりになったでしょうが、王妃としてのあたくしが、弱まってゆくあたしを救いにきたのです。あなたが思いきって口にだされた最初のひと言を聞いたとき、その最初の無謀なお言葉にお答えしなければならなくなったときに、あたしは人を呼んだのでした」
「ええ、そうです! おっしゃるとおりです。わたくし以外の人間の恋だったら、あのような試練にあってくじけてしまったでしょう。しかしわたしの恋はそのためにかえって烈しく、永遠のものになったのでした。あなたはパリにお戻りになれば、わたしを避けられるとお思いになった。わたくしが主君から守るようにと命じられている貴重なもののそばを、よもや離れるようなことはしまいとお思いになった。ああ、この世のどんな宝ものであろうと、どのような国王であろうとも、このわたしにとってはそれがなんでしょう! 一週間後には、わたしは帰ってきたのでした。こんどはあなたは、ひと言もわたしに言葉をかけてはくださいませんでした。ただもう一度お目にかかりたいばかりに、君寵《くんちょう》を失い、命も捨てる気で帰ってきたわたしなのに。でもわたしは、あなたのお手に触れることさえいたしませんでした。それであなたは、そのように従順で後悔している姿を見て、わたしを許してくださったのです」
「ええ。でも、ごぞんじのように、あたくしにはなんでもなかったそのような取るに足らぬことに、非難が集まったのです。国王陛下は枢機卿にそそのかされて、たいへんお怒りになりました。ヴェルネ夫人は遠ざけられ、ピュタンジュは亡命することとなり、シュヴルーズ夫人はご不興をかうことになったのです。そしてあなたが大使としてこちらへ来たいとお望みになられたときは、いいですか、陛下ご自身が反対なさったのです」
「そうです。しかしフランスは、その王の拒否を、戦争によって支払うことになるでしょう。わたしは、二度とあなたにお目にかかりますまい。その代わり、いいですか、わたしは毎日、わたしの噂を、あなたにお聞かせいたしますから。わたしが計画しているレ島(ラ・ロシェルの正面にある)の攻撃やラ・ロシェルの新教徒との同盟は、何が目的だとお考えになりますか? それは、あなたにお会いする喜びなのですよ。
わたしは武力をもってパリへ攻め上ろうというような希望はもっておりません。わたくしには、よくわかっているのです。けっきょくこの戦いは、講和《こうわ》ということになるでしょうから。講和には使節が必要になるでしょう。その使節に、このわたしがなるのです。そうなればわたしを拒否することはできますまい。わたしはまたパリにやって来るのです。あなたにお会いできるのです。そして、瞬間の幸福を手に入れるのです。たしかに数千の人間が、彼らの生命で、わたしの幸福をあがなうことにはなるでしょう。でも、かまいませんとも、あなたにお会いできるためなら! こうしたことは、たぶん気違いじみたことでしょう、おそらく無分別なことでもあるでしょう。しかし、これ以上に愛されている女性がいるでしょうか? これ以上に心からの奉仕を受けている王妃があるでしょうか?」
「公爵さま、あなたはご自分の弁護のために、なおさらあなたをお責めするようなことをお考えになりますのね。公爵さま、あなたがあたくしにお与えなさろうとする恋のあかしは罪悪といってもいいものですわ」
「それは王妃さま、あなたがわたしを愛してくださらないからですよ。もしあなたがわたしを愛してくだされば、またちがったふうにわたしを見てもくださるでしょう。でも、もしわたしを愛してくださるなら、ああ! もし愛してくださるなら、あまりの幸福に、わたしは気が狂ってしまうでしょう。ああ、さっきもおっしゃったあのシュヴルーズ夫人にしても、あなたほどむごい方ではありませんでした。オランはあの方に恋をしましたが、あの方はそれにちゃんと応《こた》えてくれたのです」
「シュヴルーズ夫人は、王妃ではございません」アンヌ・ドートリッシュは、あまりに烈しい恋の告白に思わず打ち負かされて、こうつぶやいた。
「では、もしあなたが王妃でなかったら、このわたしを愛してくださるのでしょうか? わたしにつれなくなさっているのは、ただご身分がさまたげているのだ、とそう信じてよろしいのでしょうか、もしあなたがシュヴルーズ夫人でいらっしゃったとしたら、このバッキンガムは希望を持てたのだと、そう信じてもよろしいのでしょうか? ありがとうございます、王妃さま、そのおやさしいお言葉に心から感謝いたします」
「まあ、公爵さま、それは誤解でございます、お思いちがいでございます。あたくしはそのような意味で……」
「おっしゃらないで! もうなにもおっしゃらないで!」と、公爵はいった。「もしもわたしの思い違いで自分が幸福なのだとしても、どうかその幸福を取りあげるようなむごいことは、なさらないでください。あなたもおっしゃったように、わたしは罠《わな》にかけられておびき寄せられたのです。おそらくそのために、わたしは命を落とすことになるでしょう。妙な考えですが、この頃わたしは、死ぬような予感がしてならないのです」
そういって公爵は寂しげな、しかし魅力のある微笑を浮かべた。
「まあ、なんということを!」と、アンヌ・ドートリッシュはさも恐ろしそうに叫んだが、その叫びには、言葉で現わす以上に深い関心を公爵によせていることが、はっきりと示されていた。
「あなたをこわがらせようと思って、こんなことをいったのではありません。それに、こんなことはばかげた話ですし、自分でもそのような夢のことなど気にしてはいません。しかし、さっきおっしゃったお言葉が、わたしに与えてくださった希望が、すべてをつぐなってくれるでしょう、このわたしの生命までも」
「ええ、そうですわ!」とアンヌ・ドートリッシュはいった。「このあたくしにも、公爵、このあたくしにも、そういった予感がありますわ、夢を見ることがありますの。あなたが傷を受けて血まみれになって倒れていらっしゃる夢なのです」
「左の脇腹を、短刀でぐさりと刺されてでしょう」と、バッキンガムが口を入れた。
「ええ、そう、そう、公爵、左の脇腹を短刀で。でも、あたくしがそんな夢のことなど、どうしてあなたに話させられたのでしょうね? あたくしは神さまにだけ、それもお祈りの中でしかもらさなかったことでしたのに」
「わたしには、もうそれ以上の望みはございません。あなたはわたしを愛してくださるのですから、それでじゅうぶんで」
「あたしがあなたを愛してるんですって?」
「ええ、あなたがです。もしも愛しておいでにならないなら、どうして神さまがわたくしたちに同じ夢をお送りになったのでしょうか? もしもわたしたちの心が結ばれていないのなら、どうして同じような予感をもつようなことがあるでしょうか? ああ、王妃さま、あなたはわたしを愛していらっしゃいます。わたしのために涙を流してくださいますね?」
「まあ、なんということを! なんということをおっしゃる!」と、アンヌ・ドートリッシュは叫んだ。「そのようなお言葉は、これ以上聞いてはいられませんわ。ほんとうに公爵さま、どうぞお引きとりくださいませ。あたくしがあなたさまをお慕《した》いしているか、いないかは、あたくしにもわかりません。ただわかっていることは、けっして誓いに背《そむ》くまいと心できめていることです。どうか、あたくしを憐《あわ》れとおぼし召しになって、すぐにお発《た》ちくださるように。ああ! もしもあなたが当地で危害を受けられ、このフランスでお亡くなりになるようなことがありましたら、そしてそれが、あたくしを愛してくださったばかりにそうなったのだとしたら、あたくしとしては心の慰めようもなく、そのために気が狂ってしまうでしょう。どうかお発《た》ちになって、お発ちになってくださいませ」
「ああ! そのようなことをおっしゃっているあなたが、どんなにお美しいことか! ああ! わたしはどんなにあなたを愛していることでしょう!」
「お帰りくださいませ! お帰りくださいますように! どうかお発ちになって、しばらくしてからまたお目にかかりましょう。こんどは大使としておいでくださいますように。あなたの身を守る護衛に取り囲まれ、かしづく従者をお連れになって、おいでくださいませ。そうなれば、あたくしはもうあなたの身を心配することもございませんし、心からあなたさまにお目にかかれることをお喜びできますわ」
「いま言われたことは、ほんとうでございましょうか?」
「ええ……」
「では! あなたのおやさしいお気持ちの証拠として、これが夢ではないと思いださせるような品を何かちょうだいできないでしょうか。あなたが身につけていられて、このわたしも身につけることができるような、何か指輪か、首飾りか、鎖のようなものでも」
「そのようなものを差しあげましたら、お帰りくださいますか?」
「ええ」
「いますぐに?」
「ええ」
「フランスを去って、イギリスにお戻りになりますか?」
「ええ、誓って!」
「では、お待ちくださいませ」
そしてアンヌ・ドートリッシュは自分の部屋に戻ると、名前の頭文字を金で象眼《ぞうがん》してある[ばら]の木の小箱を持って、すぐに出てきた。
「さあ、これを公爵さま」と、彼女はいった。「どうかこれを、あたくしの思い出に」
バッキンガムは小箱を受けとると、またもやひざまずいた。
「出発すると約束してくださいましたわね」と、王妃がいった。
「約束どおりにいたします。どうかお手を、王妃さま。そうしたら出発いたします」
アンヌ・ドートリッシュは眼を閉じて手を差しだした、もう一方の手でエステファニヤに寄りかかって。いまにも体から力が抜けてしまうような気がしたので。
バッキンガムは情熱をこめて、その美しい手に唇を当てると、しばらくして立ち上がった。
「半年以内には、もし生きてさえいれば、またお目にかかるでしょう。たとえそのために世界中がひっくりかえるようなことになろうとも」
そういって約束どおり、彼は部屋の外に飛び出した。
廊下で待っていたボナシュー夫人は、来たときと同じような慎重さと幸運とによって、彼をルーヴル宮の外まで送った。
十三 ボナシュー氏
こうしているあいだに、読者もすでにお気づきになったであろうが、一人の人物を不安な立場に追いやったままで、いっこうに気にかけなかったようだ。その人物とは、騎士道と色恋のはなやかだったこの時代に、互いに入り組み、もつれ合っている政治と恋愛の策謀の中に巻きこまれた尊敬すべき殉教者《じゅんきょうしゃ》、ボナシュー氏のことである。
読者は覚えておられるか、おられないか知らないが、幸いにも作者は、この男の姿を見失うようなことはしないと、お約束しておいたはずである。
ボナシュー氏を逮捕した捕吏は、そのまま彼をバスティーユへ連れて行くと、震えている彼を、銃をかまえている一隊の兵士の前を通ってひっ立てて行った。
それから地下牢の中に送りこまれ、ひどい罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせられ、さんざん手荒な扱いを受けた。
捕吏たちは相手が貴族でないと見てとると、まるで農民|一揆《いっき》同然の扱いをした。
約三十分もすると、一人の書記がやってきて、拷問《ごうもん》を止めさせたが、彼を尋問室にひっ立てて行くようにと命令したので、ボナシュー氏の不安は終わるどころではなかった。ふつうなら尋問は囚人の部屋で行なわれるのだが、ボナシュー氏に対しては、そのような取扱いはしなかった。
二人の監視人が小間物屋をつかまえると、中庭を通って、見張りが三人立っている廊下へはいり、扉をあけて、天井の低い部屋の中へ彼を押し込んだ。部屋には調度として、一つのテーブルと一脚の椅子があるきりで、そこに一人の役人が腰かけて、書きものをしていた。
二人の監視人は囚人をテーブルの前まで連れて行き、役人の合図で、声のとどかないところまで離れた。
そのときまで書類の上にかがみこんでいた取調べの役人は、用事のあるその男を見ようとして顔をあげた。鼻のとがった、黄色い突き出た頬骨《ほおぼね》の、小さいが探るような鋭い目つきの男で、[いたち]か狐《きつね》のような容貌をしていた。長くてよく動く首の上に乗っかった頭が、ちょうど亀が甲羅《こうら》から首をだすときとそっくりに左右に首を振って、背のゆったりした黒い法服からのぞき出た。
彼はまずボナシュー氏に、その姓名、年令、身分、住所をたずねた。
被告は、ジャック=ミシェル・ボナシューという名で、年齢は五十一歳、元小間物屋、住所はフォソワイユール通り十一番地と答えた。
すると役人は尋問をつづけずに、名もない一町人が政治に関与することの危険について長々と説教をはじめた。
彼はその序論にさらに説明を加えて、過去のあらゆる宰相の以《も》って模範とするに足ると同時に、未来のすべての宰相の模範である類いまれな枢機卿殿の権勢と功績とについて語り、それに逆らう者はなんびとたりとも容赦はしないと申し渡したので、話がいっそうややこしくなった。
こうして彼は説話の第二話を終えると、鷹《たか》のような目つきを、じっとかわいそうなボナシューの上に注ぎ、彼のおかれた立場がどんなに重大であるか反省しろと促した。
ところで、小間物屋の反省は、もうすでになされていた。彼はラ・ポルト氏がその名づけ娘を自分の細君にくれたことを、そのうえまた、その名づけ娘が王妃の下着係に採用されたことを、しみじみと呪《のろ》っていたのである。
ボナシュー親方の性格の底には、ひどい吝嗇《けち》にまじった深い利己主義があり、それがそっくり極端な臆病《おくびょう》さで包まれていた。若い妻に対する彼の愛情にしてもまったく第二義的なものなので、いま述べた彼の本質的な感情の前では抗《あらが》うべくもなかった。
じじつボナシュー氏は、いま聞いた言葉について、いろいろと考えてみた。
「でございますが、お役人さま」と、彼はおずおずといった。「わたくしは、われわれを治めておいでになる類《たぐ》いなき枢機卿さまのご功績につきましては、だれよりもよくぞんじあげ、ご尊敬申しあげている者でございます」
「ほんとうかな?」と、相手はいかにも疑わしそうなようすを見せてたずねた。「しかし、もしそれがほんとうなら、どうしてこのバスティーユへ連れて来られたのかね?」
「どうしてこんなところにいるのか、というよりも、なんの理由でここに来ているのか、まったくわたくしにはお答えできないことでして」と、ボナシュー氏は答えた。「なにしろ、わたし自身わからないことでして。でも、枢機卿さまの御意《ぎょい》にさからったことでないことだけは確かでございます」
「だがおまえはなんらかの罪を犯したのにちがいないな、こうやって大逆罪という罪名で告発されているのだから」
「大逆罪ですって!」
びっくりしてボナシューは叫んだ。「新教徒を憎《にく》み、スペイン人をきらっている一介《いっかい》の小間物屋が、どうしてまた大逆罪などに問われるのでございましょう? お考えになってください。まったくもってあり得ないことでございます」
「ときにボナシュー」と取調べの役人は、その小さな眼で相手の心の底まで見とおせるとでもいったふうに被告をじっと見すえながら、「そのほうには家内がおありだね?」といった。
「はい」と小間物屋は、いよいよ話がこみ入ってきたのを察して、ぶるぶる震えながら答えた。「つまり、ございましたので」
「なに? ございましたとは? いまはないというなら、それはどうしたわけかね?」
「かどわかされたのでございます」
「かどわかされたと?」と、役人はいった。「さようか!」
この[さようか!]という言葉に、ボナシューは、事がいよいよめんどうになってきたのを感じた。
「かどわかされたと? して、かどわかした相手の男を、おまえは知っておるのか?」
「知っているような気がします」
「何者だ?」
「それが、はっきりとわかっているのではございませんので、ただ、そうではないかと疑っているだけでして」
「だれに疑いをかけているのだ? いいから、卒直に申してみろ」
ボナシュー氏は、いよいよもって当惑の極に立ち至った。すべてを否定すべきか、それともすべてを話すべきか? 否定すれば、知っていて言えないのだと思われるおそれがある。すべて話してしまえば、こちらの誠意だけはわかってもらえる。そこで彼は、すべてを話すことに決心した。
「わたくしが疑わしく思っている男は、褐色《かっしょく》の髪をした、背の高いりっぱな男で、どうみても大貴族といった風采《ふうさい》をしていました。わたしが家内を連れて帰ろうとしてルーヴルの通用門の前で待っているとき、なんどもわたしたちのあとをつけてきたような気がするので」
役人は、ちょっと不安を感じたようすを見せた。
「で、その男の名前は?」と、たずねだ。
「それが! 名前はぜんぜんわからないんです。でも会いさえすれば、ひと目でわかります。千人の中でも、ちゃんと見分けられます」
「千人の中からでも見分けられるというんだね?」
「つまり……」と、ボナシューはしまったと思ったので、しどろもどろで答えた。「つまり、その……」
「その男がわかると、おまえははっきりいったのだから」と、役人はいった。「よろしい。今日のところはこのくらいにしておこう。調べを進める前に、おまえがそのほうの家内を誘拐《ゆうかい》した犯人を見知っていることを報告しておかねばなるまいからな」
「わたしは、その男を知っていると申したわけではございません」と、ボナシューは絶望して叫んだ。「そうでなくて、わたしが申しましたのは……」
「この男を連れて行け」と、役人は二人の監視人にいった。
「どこへ連れて行きましょうか?」と、書記が脇から口をだした。
「地下牢《ちかろう》だ」
「どの地下牢に?」
「なあに、どれでもいい。錠《じょう》がちゃんとしまるところならな」
取調べの男が冷たくそういったので、ボナシュー氏は恐怖におののいた。
[ああ! なんということだ!]と、彼は思った。[おそろしい不幸が、この身にふりかかったもんだ。女房の奴が、何か恐ろしい罪を犯したにちがいない。それで共犯と思われて、おれもいっしょに罰せられるんだ。うちの奴は白状したにちがいない。そしておれに何もかも話したといったんだろう。女ってものは、意気地《いくじ》がないからな! 地下牢、それも、どれでもかまわないって! そう、ひと晩なんかわけなくたってしまう。そして明日になったら車裂きか、絞首台だ! ああ、神さま! わたしをお憐れみください!]
ボナシュー親方の嘆きなど少しも聞こうとはせず、このような嘆きにはなれっこになっている二人の監視人は、片腕を両側からつかんで引っ立てて行った。
そのあいだに取調べの役人は書記をそばに待たせて、急いで一通の手紙をしたためた。
ボナシューは眼を閉じなかった。地下牢の居心地がわるかったというよりも、心配で眠れなかったのだ。腰掛の上で、ちょっとした物音にもびくつきながら、夜を明かした。やがて朝の最初の光がさしこんできたとき、彼にはその光までが不吉な色を帯びているように思われた。
とつぜん、錠《じょう》をはずす音がしたので、ボナシューは飛びあがった。いよいよ処刑台に連れだされる、そう思ったとき、目の前に死刑執行人ではなくて、前夜の役人と書記の姿を見たときには、もう少しで二人の首にしがみつくところだった。
「そのほうの事件は、昨夜以来、たいへんこみ入った話になってきた。こうなったら、何もかもほんとうのことを話したほうがいいぞ」と、役人はいった。「枢機卿のお怒りを取り除くには、改悛《かいしゅん》のしるしを見せる以外にはないからな」
「でもわたくしは、何もかもお話しするつもりでおりますが、少なくとも知っていることでございましたら。どうか、おたずねになってくださいまし」
「ではきくが、妻はどこにいるのだ?」
「それは前にも申しあげたとおり、かどわかされまして」
「そう、そのとおりだ。だが昨日の午後五時に、おまえの手をかりて逃げだしている」
「家内が逃げた、ですって!」ボナシューは叫んだ。「ああ! なんていう女だろう! でも逃げたのは、誓って、わたしのせいではありません」
「では、おまえは昨日、隣りのダルタニャンのところへ、何をしに行ったのだね? 長いこと話していたらしいが」
「ああ、そのことでしたら! それは事実でございます。たいへん悪うございました。たしかにわたしは、ダルタニャンのところへまいりました」
「その訪問の目的は?」
「家内をさがしだす手助けをお願いしようと思いまして。わたしには、家内を連れ戻す権利があると思いましたもので。でも、どうやらそれは、わたしの間違いだったようで。どうぞお許しくださいますように」
「で、ダルタニャンは、なんと返事をした?」
「助けてやると約束をしてくれました。でも、あとでわたしはあの方にだまされたことに気がつきました」
「おまえは、お上《かみ》をいつわるつもりだな。ダルタニャンはそのほうと盟約を結び、その盟約により彼は、そのほうの家内を逮捕した役人を追いはらい、どこか人目のつかぬところへかくまったのだ」
「ダルタニャンさんが家内を連れて行った、ですって! そんなことが! それはいったい、どういうことなんで?」
「幸い、ダルタニャンは、こちらでつかまえた。これからそのほうと対決させてやる」
「いや、それは! たいへんうれしいことでして」と、ボナシューは叫んだ。「顔見知りの人に会うことは、悪い気がしないもんですからな」
「ダルタニャンをここへ連れて来るように」と、役人は二人の監視人にいった。
二人は、アトスを連れてはいってきた。
「ダルタニャン殿、貴公とこの男とのあいだに起こったことを包まず話してもらいたい」と、役人はアトスに向かっていった。
「ですが! この人は、ダルタニャンさんではありません」と、ボナシューが叫んだ。
「なんだって! ダルタニャン殿ではないと?」と、役人も叫んだ。
「まるっきり違います」と、ボナシューは答えた。
「では、この人はだれなんだ?」
「申しあげることはできません。わたしは、この人を知らないんですから」
「なんだと! おまえはこの人を知らんのか?」
「そうです」
「いままで会ったこともないのか?」
「会ったことはございますが、お名前はぞんじあげないので」
「あなたの名は?」と、役人はたずねた。
「アトス」銃士は答えた。
「それは人の名前ではない、山の名前だ!」かわいそうに、頭がおかしくなりかけてきた役人が、そう叫んだ。
「それが、わたしの名だ」と、アトスはしずかにいった。
「しかしあなたは、自分がダルタニャンという名前だといったではないか」
「わたしがですか?」
「さよう、あなたが」
「つまり、[あなたはダルタニャン殿だろう]ときくから、[そうお思いかな?]と、答えたまでだ。捕吏どもは、たしかにそうだと口ぐちに叫んでいた。わたしもあえて逆らおうとはしなかった、それに、自分で思い違いすることだってある」
「あなたは法の尊厳《そんげん》を傷つけるおつもりか?」
「とんでもない」と、アトスは落ちついて答えた。
「あなたはダルタニャン殿だ」
「ほら、あんたもまたそう言われるではないか」
「ですけれど」と、こんどはボナシュー氏が口をだした。「お役人さま、お疑いになるまでのこともありません。ダルタニャンさまはわたくしどもの借家人でして、家賃こそ払ってはくださいませんが、いや、それだからこそ、わたくしはよくあの方をぞんじあげております。ダルタニャンさまは、まだ十九か二十《はたち》のお若い方で、こちらさまはどう見ても三十歳にはおなりのようです。それにダルタニャンさまはエサール殿の親衛隊士ですし、こちらさまはトレヴィール殿の銃士隊の方です。ほら、制服をごらんなさいまし」
「なるねど、そのとおりだ」と、役人はつぶやいた。
ちょうどそのときドアが勢よく開かれて、バスティーユの看守に案内された一人の使者がはいって来ると、一通の手紙を役人に渡した。
「うん! なんという女だ!」と、役人が叫んだ。
「なんでございますか? 何とおっしゃいました?だれのことを申されてるので? まさか家内のことでは?」
「そうだよ、おまえの細君のことだ。おまえさんの事件は、こっちの思う壷《つぼ》だ、みているがいい」
「そんなことって!」と、小間物屋は興奮して叫んだ。「まあ、わたしの言いぶんも聞いてください。わたしが牢《ろう》にはいっているあいだに家内がすることで、どうしてわたしのほうの事件がそれに関連してるのですか?」
「そのほうたちのあいだで取りきめた計画を、おまえのかみさんはつづけているからさ」
「誓って申しあげますが、お役人さま、それはとんでもない誤解でして。わたしは家内のいたしますことは何も知りませんし、家内のいたしましたことはわたしとなんの関係もございません。それにあの女が何か不始末を仕出かしたのでしたら、わたしはあの女と縁を切ります。もう妻とは思いません、呪《のろ》ってやります」
「やれ、やれ!」と、アトスは役人に向かっていった。「もうわたしがここに用のない人間だとわかったら、どこかへ追っぱらっていただきたい、このボナシュー氏のそばにいるのはまったくやりきれんからな」
「囚人たちを元の場所に連れもどせ。そして前にもまして厳重に閉じこめておくんだぞ」
役人はボナシューとアトスをいっしょにさし示しながら命じた。
「でも、ご用がおありなのはダルタニャン殿だとすると、このわたしにどうしてその代理がつとまるのかわかりかねるが」
「命令どおりにしろ。もっとも奥まった場所にだ! わかったな」と、役人は叫んだ。
アトスは肩をすくめ、ボナシューは猛虎《もうこ》の心臓も張り裂けんばかりの憐《あわ》れっぽい悲鳴をあげて看守人に引かれていった。
小間物屋は前夜と同じ地下牢に連れて行かれ、一日中そこにおかれた。ボナシューはたかが小間物屋にすぎないので、一日中泣いてばかりいた。彼自らもいったように武士ではないのだから、むりもなかろう。
夜の九時ごろ、彼が寝床へはいろうとしたとき、廊下に足音がした。その足音は彼のいる地下牢に近づき、入口の戸が開いて、看守が現われた。
「ついて来い」看守人のあとからはいってきた一人の警吏がいった。
「来いといったって、こんな時刻に! いったい、どこへ?」ボナシューは叫んだ。
「連れて行けと命令を受けた場所にだ」
「でも、それでは返事になりません」
「だが、そのほうに対しては、これだけしか言えないのだ」
「ああ! なんということだ。こんどこそ、もうだめだ!」と、哀れな小間物屋はそうつぶやくと、もはや逆らう力もなく、腑《ふ》抜けしたように、警吏のあとに従った。
来るときに通った廊下を抜け、中庭を横切り、建物をひと棟《むね》通り抜けて、正門の入口に出た。そこには四人の馬上の親衛隊に取りかこまれた馬車が一台待っていた。彼はその馬車に乗せられ、脇に警吏が腰かけた。昇降口には鍵がかけられ、二人は動く牢獄の中に閉じこめられた。
馬車はゆるゆると、まるで霊柩車《れいきゅうしゃ》のように動きはじめた。錠《じょう》をかけられた鉄格子越しに、囚人は家と歩道だけを眺めていた。それでも彼は生粋《きっすい》のパリジャンであったから、街の指導標や看板や街灯を見るだけで、すぐに何通りであるかがわかった。バスティーユの囚人を処刑する場所であるサン=ポールに来たときには、もう少しで気絶しそうになり、二度もつづけて十字を切った。彼は馬車がそこにとまるにちがいないと思ったのだ。ところが車はそのまま通り過ぎた。
さらに行くと、彼はまた大きな恐怖に襲われた。政治犯を埋葬するサン=ジャン墓地のそばへさしかかったときである。ただ彼を安心させたことは、ふつうそういう人間を埋葬するには、まず首をはねてからなのが慣例なのに、彼の首はいまだに肩の上にちゃんと乗っていることだった。だが馬車がグレーヴへの道を取り、市役所のとがった屋根が見え、やがてアーケードの下をくぐったときには、いよいよこれで万事窮したと思い、かたわらの警吏に懺悔《ざんげ》をしようとしかけた。が、それを断わられると、なんとも言えない哀れっぽい声でわめきだしたので、たまりかねた警吏は、もしいつまでもそうやって騒ぐなら、猿《さる》ぐつわをはめるぞといった。
こうしておどかされると、かえってボナシューは安心した。もしグレーヴで死刑にするつもりだったら、何も猿ぐつわなどはめる必要はないはずで、馬車はもうすぐその場所に来るからなのだ。じじつ車は、その不吉な場所には停車せずに、そのまま行ってしまった。もうあと心配なのはラ・クロワ=デュ=トラオワールだけだった。馬車はまさに、その方向に向かっていた。
こんどこそ、もはや疑う余地がなかった。このラ・クロワ=デュ=トラオワールは、身分の低い罪人を処刑する場所だったからだ。サン=ポールやグレーヴ広場で処刑されると思ったのは、ボナシューのうぬぼれだったのだ。まだあの不吉な十字架は見えなかったが、いまにもそれが目の前に現われるように思えた。
あと二十歩というところで、人のざわめきが聞こえ、馬車がとまった。いままでなんどもつづけて衝撃を受けたので、もはや精根《せいこん》が尽き果てたボナシューは、瀕死《ひんし》の人間のかぼそい呻《うめ》き声を発すると、気を失ってしまった。
十四 マンの男
これらの群衆は、これから絞首刑になる人間を待っているのではなくて、すでに処刑された罪人を見物しに来たのだった。馬車はちょっととまったが、すぐにまた動きだして、群衆のあいだを抜けると、サン=トノレ街を通り、ボン=ザンファン街をまわって、ある低い門の前にとまった。
門が開くと、二人の衛士が警吏に抱かれているボナシューのからだを受けとった。それから庭の小道を通り、階段を昇って、控えの間にそっと置いた。
これらの行動は、じつに機械的にやってのけられた。
彼は夢の中で歩いているように、ただ歩いた。霧の中で物を見ているように、眺めていた。聞きとることはできず、ただ物音が耳にはいるだけだった。こういうときなら、抵抗してじたばたすることもないし、憐《あわ》れみを乞《こ》うために泣きわめくこともないから、このまま彼を処刑することもできたであろう。
こうして彼は腰掛の上に、壁に背をもたせ、両腕をだらりとさげて、置かれたままの姿でじっとしていた。
そのうちにふと気がついてあたりを見まわしてみると、べつに恐ろしそうなものはないし、さしあたって危険の迫っているようすもない。腰掛はふっくらと気持ちがよく、壁は美しいコルドバの革張《かわば》り、そして窓には金の輪でとめた赤い綾織《あやお》りの大きなカーテンがかかっていた。彼は、自分の恐怖心が大げさすぎたことが、だんだんとわかってきた。そこで彼は、まず頭を左右に、それから上に、少しずつ動かしはじめた。
こうした身動きをしてみせても、だれからもとがめられなかったので、彼は少し元気づき、こんどは片足を動かしてみて、次にもう一つの足を動かした。それから両手をついて腰掛からからだをもち上げてみたら、ちゃんと立ち上がることができた。
そのとき、風采《ふうさい》のいい一人の役人がドアの垂れ布を開いて、隣室のだれかと言葉をかわしていたが、まもなく振り向いて、「ボナシューというのは、そのほうか?」とたずねた。
「ええ、お役人さま」
ボナシューは、生きている人間とは思えぬような声で、口ごもっていった。
「こちらへ来なさい」と、役人はいった。
そして彼は小間物屋を通すために、からだを脇へよせた。ボナシューは言われたままに、だれかいるらしい次の間へはいった。
そこは大きな書斎で、壁に攻防さまざまの武器がかかっており、しめきってあるので息苦しいところへ、まだ九月だというのに暖炉《だんろ》にはもう火がはいっていた。部屋の真ん中には、四角なテーブルがあって、本や書類がいっぱい積んであるその上には、ラ・ロシェルの町の大きな地図がひろげられてあった。
暖炉の前に、高慢《こうまん》ちきな、いばりくさった顔をした中背の男が立っていた。眼が鋭く、額の広い男で、口ひげの下にあごひげが伸びているので、そのやせた顔がいっそう細長く見えた。年のころは、せいぜい三十六、七歳なのに、髪にもひげにも、もう白いものがまじりかけていた。剣はさげていなくても、どうみても武人の面構《つらがま》えで、水牛皮の長靴にうっすらと埃《ほこり》が残っているのを見ると、その日どこかへ馬で出かけたようだった。
この男こそ、アルマン=ジャン・デュプレシ、つまり枢機卿その人だった。
今日われわれが知っているような姿……、老いさらばえて殉教者《じゅんきょうしゃ》のような苦悩を浮かべ、肉体はおとろえて声は消え入らんばかりに、さながら墓場のような大きな肱掛椅子《ひじかけいす》にふかぶかと身をうずめ、ただ精神力だけで生きながらえ、思考力だけで全ヨーロッパを相手に戦っているような、そういった姿ではなくて、いま目の前にいるのは、この時代に実際にそうであったままの姿で、体力こそはすでにおとろえかけていたが、彼を前代未聞《ぜんだいみもん》の傑物たらしめた精神力によって支えられ、ヌヴェール公をその領地マンツーにおいて助け、ニーム、カストル、ユゼスを攻略したのち、いまや英国民をレ島から追っ払い、ラ・ロシェルを攻撃しようと意気さかんな騎士であった。
だが、ちょっと見たところでは、これが枢機卿だというしるしは何もないのだから、顔を知らぬ者には、だれの前にいるのか、とてもわかるものではなかった。
あわれな小間物屋が入口で立ちすくんでいるあいだじゅう、いま述べた人物の視線はじっとその上にそそがれて、まるでその男の過去の底まで見通そうとするかのようだった。
「あれが、そのボナシューという男か?」
しばらく沈黙していたのちに、彼はいった。
「さようでございます、閣下」と、さっきの役人が答えた。
「よし。その書類をくれ、そしてさがってよろしい」
役人は示された書類をテーブルから取って、それを要求した人物の手もとへ持って行くと、床につかんばかりに頭を下げて、出て行った。
ボナシューはその書類が、バスティーユで取られた自分の尋問書《じんもんしょ》であるのを知った。ときどき暖炉の前の人の眼は書類の上から離れて、あわれな小間物屋の心の底まで突き刺す短刀のように、その上にそそがれた。
十分ほど読み、十秒ほどそうして観察してから、枢機卿の心ははっきりと定まった。
「この男は陰謀には、どう考えても関係はない。だが、かまうもんか、調べてみよう」と彼はつぶやいた。それから枢機卿は、ゆっくりと声をかけた。
「おまえは大逆罪に問われている」
「それはもう聞いて承知しております、閣下」ボナシューは、役人がさっき口にした尊称をそのまま使って、「でも、誓って身には覚えのないことで」
枢機卿は、こみあげてくる微笑をおさえた。
「そちは、そちの妻や、シュヴルーズ夫人、バッキンガム公たちとともに、陰謀を企てたのだ」
「たしかに閣下、そのような名前を家内の口から聞いたことはありますが」と、小間物屋は答えた。
「どういうときにだね?」
「家内の申しますには、リシュリュー枢機卿はバッキムンガム公をパリにおびきだして、王妃さまといっしょに破滅させようとしているのだと」
「そんなことをいったのか?」枢機卿の語調は荒々しかった。
「はい、閣下。でもわたしは家内に、そんなことを口にするべきではない、台下はそんなことをなさる方ではないと……」
「おだまり。おまえはばかだよ」と枢機卿はいった。
「家内もわたしに、さように申しましたが」
「そちは、妻を誘拐した男を知っているのか?」
「いいえ、閣下」
「しかし、疑いをかけている者はあろう?」
「はい、ございますが、しかしそのことを申しましたらお役人さまのごきげんを損じたようでしたので、今後はもう言わぬことにしました」
「そちの妻は逃げだしたが、そのことは知っていたか?」
「いいえ、ぞんじませんでした。牢に入れられたあとで、そのことを知ったのです。これもお役人さまの口からで、まったくご親切なお方です」
枢機卿は、また笑いをかみ殺した。
「では、妻が逃げだしたあとのことは、何も知らないのだな」
「まるっきりぞんじません。でもきっと、ルーヴルに戻ったにちがいありません」
「朝の一時には、まだ帰っていなかった」
「へえ! では、いったいどうしたのでございましょう?」
「そのうちにわかる、心配するな。枢機卿に何も隠すことはできん。枢機卿はなんでも知ってるからな」
「そうだとしたら閣下、枢機卿さまはこのわたくしに、家内がどうなったか教えてくださるでしょうか?」
「たぶん。しかしその前に、そちの妻とシュブルーズ夫人との関係についてそちが知っていることを、すっかり白状しなければならん」
「でも閣下、わたしは何も知りませんので。会ったこともございませんし」
「細君を迎えにルーヴル宮へ行ったときは、いつもまっすぐに家に帰るのかね?」
「そういうことは、めったにございませんでした。いつも家内が布地屋に用があると申しまして、そこへわたしも送って行きました」
「布地屋は何軒だね?」
「二軒でございます」
「どこにあるんだ?」
「一軒はヴォージラル街、もう一軒は、ラ・アルプ街でございます」
「そちもいっしょに中へはいるのかね?」
「いいえ、いつも外で待っておりました」
「どういう口実で、そちの細君は一人ではいるのかね?」
「べつになんとも申しません。ただ、待っていてくれと申しますから、待っておりましただけで」
「気のいいだんなさんだな、ボナシューさん!」と、枢機卿はいった。
[おれのことを、ボナシューさんっていってくれたぞ! こいつあ、風向きがよくなってきたぞ!]と、小間物屋は心の中でつぶやいた。
「その家の入口を覚えているだろうな?」
「ええ」
「番地も?」
「はい」
「何番地だ?」
「ヴォージラル街二十五番地と、ラ・アルプ街七十五番地でございます」
「よろしい」
こう言うと枢機卿は、銀の鈴をとって鳴らした。役人がはいってきた。
「ロシュフォールを呼んでくれ。帰っていたら、すぐ来るように」と、低声で命じた。
「伯爵は来ておられます。台下にぜひおめにかかりたいそうで」と、役人は答えた。
「台下だって!」と、ボナシューはつぶやいた。彼とても、ふつう枢機卿に与える称号がどんなのだかは知っていたのだ。
「すぐ来るように! 早く!」リシュリューはせきこんでいった。
役人は部屋から飛びだした。枢機卿の従臣たちはいつもこのように迅速《じんそく》に用事を果たすのである。
「台下だって!」ボナシューはまだうつろな眼をくるくるさせて、つぶやいていた。
役人が出て行ってから五秒と経たないうちに、ドアが開いて、新しい人物がはいってきた。
「この人だ!」と、ボナシューは叫んだ。
「何が、この人なんだ!」と、枢機卿はたずねた。
「あの、家内を連れてった人でございます」
枢機卿は、また鈴を鳴らした。役人が現われた。
「この男を、また衛士の手に渡して、わしが呼ぶまで待たせておけ」
「いいえ、閣下! いいえ、この人ではありません」とボナシューは叫んだ。「いや、わたしの間違いでした。まったく違う別人でございます! この方はそんな悪い方ではありません」
「このばか者を連れて行け!」と、枢機卿は命じた。
役人はボナシューを抱くようにして、二人の衛士が待っている控えの間に連れて行った。
新たに通されたその男は、いらいらした目つきでボナシューの出て行く姿をじっと見送っていたが、ドアがしまると枢機卿のそばにつかつかと歩み寄ってきて、
「とうとう会ってしまいました」と、いった。
「だれがだ?」
「あの方と彼です」
「王妃と公爵かい?」とリシュリューが聞き返した。
「そうです」
「で、どこでだい?」
「ルーヴル宮で」
「たしかに、そうかね?」
「まちがいありません」
「だれから聞いたのだ?」
「ラノワ夫人からです。ご承知のとおり、あの人は台下のお味方ですから」
「どうして、もっと早く知らせてくれなかったのだろう?」
「偶然そうしたのか、またはお疑いがあってのことか、王妃はシュルジ夫人をお部屋にお寝かせなり、次の日も一日中おそばにとめ置かれたそうです」
「なるほど、こっちの負けだ。仕返ししてやらねばなるまい」
「わたしも全力をあげて、お尽くしいたします。どうかご安心くださるように」
「それで、どういうふうに行なわれたんだね?」
「夜中の十時半には、王妃は待女たちといっしょにおられました……」
「どこに?」
「ご寝室にです」
「なるほど」
「そこへ下着係の待女からといって、ハンカチがとどけられました」
「それで?」
「すると、王妃はひどく興奮されて、頬紅《ほおべに》をつけておられたお顔が、まっさおになられました」
「で、それから」
「つとお立ちあがりになると、いつものお声でない声で、[十分ほどして戻ってくるから、みんなここで、このまま待っているように]と、おっしゃってから、ご寝室の扉をあけて出て行かれました」
「どうしてラノワ夫人は、そのすきに知らせに来なかったのだろうね?」
「まだ、はっきりとわかったわけではなかったからです。それに王妃が、[みんな、ここで待っているように]と、おっしゃったので、お言葉に逆らうこともいたしかねたので」
「で、王妃はどのくらい部屋をあけられたのかな?」
「十五分ほどです」
「待女はだれもついて行かなかったのか?」
「エステファニヤ夫人だけが」
「そして、それから戻られたわけだね?」
「はい。でもそれはお頭文字入りのばらの木の小箱をお持ちになるためで、すぐにまたお出になりました」
「それからしばらくしてお戻りになったときには、その小箱はお持ちだったのかね?」
「いいえ」
「ラノワ夫人は、その小箱に何がはいっていたか知っていたのか?」
「ええ、知っておりました。陛下が王妃に贈られたダイヤモンドの飾りひもです」
「その小箱を、王妃は持たずにお帰りになったわけだな」
「そうです」
「ラノワ夫人は、そのとき王妃はそれをバッキンガム公に渡された、と考えているわけだね?」
「きっと、そうだと思います」
「どういうわけで?」
「その翌日ラノワ夫人は、ご装身具は自分の係りであるのを幸いに、その小箱をさがして見つからないのに驚いたふうをして王妃におたずねしたところが……」
「で、王妃はなんと……」
「王妃はまっかになられて、前の晩その宝石の一つをこわしたので、細工師のもとへ修繕《しゅうぜん》にやったとお答えになられました」
「細工師のところへ行って、そのような事実があったかどうか、たしかめて来る必要があるな」
「もう、たしかめてまいりました」
「で、細工師はなんと申した?」
「そのようなことは、何も承っていないとのことでした」
「よし、よし、ロシュフォール、まだまだ、完全な敗北ではない。いや、ひょっとすると、かえって、こちらの思う壷《つぼ》かもしれんぞ」
「いつもながら台下のご才覚には……」
「部下の失策をつぐなうとでもいうのか?」
「御意《ぎょい》にございます。わたくしが申しあげたい儀を、おっしゃってくださいました」
「ときに、シュヴルーズ公爵夫人とバッキンガム公がどこにひそんでおるか、わかっているか?」
「それがわかりませんので。部下の者もその点に関してははっきりしたことが言えなくて」
「わしは、知ってるぞ」
「なんと、閣下が?」
「さよう。少なくとも心当たりはある。二人のうち一人は、ヴォージラル街二十五番地、もう一人はラ・アルプ街七十五番地だ」
「さっそく、逮捕しましょうか?」
「いや、もう遅いだろう、立ち去っている」
「かまいません、とにかく確かめてみましょう」
「では、うちの親衛隊を十人ほど連れて行って、その二か所を捜索してみたまえ」
「行ってまいります」
ロシュフォールは、そのまま部屋を飛びだした。
一人になった枢機卿は、ちょっと考えこんでから、また鈴を鳴らした。
同じ役人が、また現われた。
「囚人を連れておいで」と、枢機卿はいった。
ボナシュー親方がふたたびつれてこられると、役人は枢機卿の合図で退いた。
「そちは、このわしをあざむいたな」
「わたくしがでございますか?」と、ボナシューは叫んだ。「わたしが閣下をあざむくなんて!」
「そちの妻がヴォージラル街やラ・アルプ通りへ行ったのは、べつに布地商のところへ行ったのではない」
「では、どこへ行ったことになりますかな」
「シュヴルーズ公爵夫人や、バッキンガム公のいるところへ行ったのだ」
「なるほど」と、ボナシューは記憶を呼び起こしながら、「そういえば、おっしゃるとおりでございます。わたしもなんどか家内にいったことがございますが、こんな看板もかかっていない家に布地屋が住まっているわけはないって。そのたびに家内は笑いだすばかりでした。ああ!」と、ボナシューは、ふいに枢機卿の足元にひざまずいた。
「ああ、あなたさまは、ほんとうに枢機卿さまでいらっしゃるのでしようか。あの、世間の者が尊敬申しあげている知能のすぐれた枢機卿さまで」
こんなボナシューのような取るに足らぬ男の讃美の言葉ではあったが、やはり枢機卿もそう言われてわるい気はしなかった。で、そのあとすぐに、まるで何か新しい思いつきでも浮かんだかのように、唇《くちびる》に微笑を浮かべると、小間物屋に手をさしのべて言った。
「さあ、立ちあがりなさい。あんたは正直な男じゃ」
「枢機卿さまがわたしの手をとってくださった。わたしの手が、こんな偉い方の手にさわったのだ」と、ボナシューは口走った。「そのお偉い方が、わたしを[あんた]と呼んでくれたんだ!」
「そうだよ、そのとおりだよ」と枢機卿は、この人をよく知っている人間なら必ず警戒するはずの、ときどき使う柔和な口調でいった。「罪のないあんたに不当に嫌疑《けんぎ》をかけて、気のどくなことをした。そうだ、埋め合わせをしなければならん。さあ、この袋を取りたまえ。百ピストールはいっている。そして、このわしを許して欲しい」
「許せなどと、閣下!」
ボナシューは冗談かと疑って、袋を手に取るのを躊躇《ちゅうちょ》しながら、「わたしなんかを逮捕しようが、拷問《ごうもん》にしようが、または縛《しば》り首になさろうが、あなたさまのご自由ではありませんか。あなたさまは主権者であらせられるのですから、わたくしごとき者がひと言たりとも申し立てる筋合いではないでしょう。それが許せなどとは、冗談がすぎます!」
「いや、ボナシュー殿! あんたが大らかな気持ちになってそういってくれることは、わしにもよくわかる。ありがとう。まあ、この袋を取って、あまり不満な気持ちにならずに帰ってもらいたい」
「それどころか、すっかり満足した気持ちで帰ることができます」
「じゃ、さようなら。というより、ではまた、といったほうがいいね。とにかく、また会おう」
「閣下がお望みとあらばいつでも結構でございます」
「ちょいちょい、そう願うとしよう。なにしろあんたと話しているのはたいへん愉快だったから」
「ああ! 閣下」
「ではまた、ボナシュー殿」
枢機卿が片手をあげてこう言うと、ボナシューは床につかんばかりに平伏して、あとずさりをしながら出て行ったが、控えの間にはいると、感激のあまり声をはりあげて、「閣下万才! 台下万才! 枢機卿万才」と叫んでいるのが聞こえてきた。
枢機卿は、このボナシュー親方の誇張《こちょう》された感激ぶりを、微笑を浮かべて聞いていたが、やがてそれが遠くに消えてしまうと、「よし、これでわしのためなら死んでもいいという人間が、また一人できた」と、つぶやいた。
それから彼は、前にも述べたように、机の上にひろげてあったラ・ロシェルの地図を注意ぶかく調べはじめ、十八か月後にはこの包囲された町の港を封鎖してしまう、かの有名な突堤が築かれることになっている場所を、鉛筆でしるした。
こうして戦略について深い策略をめぐらしていると、ドアがまた開いてロシュフォールがまたはいってきた。
「どうだった?」枢機卿は急いで立ち上がると、性急にたずねた。そのせっかちなようすは、いかに伯爵に命じておいた役目が重大であるかを示していた。
「それがです!」と、伯爵は答えた。「台下がご指示になった家には、たしかに二十六、七歳の婦人と、三十五歳から四十歳ぐらいに見える男が、それぞれ一人は四日、もう一人は五日間滞在していましたが、女のほうは昨夜、男のほうはけさ、立ち去りました」
「あの連中だ!」と、枢機卿は時計を見ながら叫んだ。「でも、もう追いかけても、間に合わぬ。公爵夫人はツールに、公爵はブーローニュにもう着いているはずだ。こっちが追いつくのはロンドンということになる」
「おさしずをお願いします」
「この件については、他言はいっさい無用だ。王妃はそっとそのままにしておくこと。われわれがあの方の秘密を握っていることは知らせてはいけない。われわれは何かほかの陰謀事件を探索しているのだと思わせておくことだ。それから、司法卿のセギエを呼んでくれたまえ」
「台下、あの男はどうなさいましたか?」
「だれのことだね?」
「あのボナシューです」
「うまい役に仕立ててやったよ。あれの細君を見張る密偵の役にな」
ロシュフォールは、主人の辣腕《らつわん》を認めている人間らしく丁寧におじぎをすると、出て行った。
一人になった枢機卿はまた腰をおろし、手紙を一通書いて私印で封印してから呼鈴を鳴らした。
例の役人がはいってきた。これで四度目である。
「ヴィトレイを呼んでくれ。旅に出る支度をしてくるようにとな」
しばらくして、彼が呼んだ男は長靴をはき、拍車をつけて彼の前に現われた。
「ヴィトレイ、大急ぎでロンドンへ行くのだ。途中で少しも休んではならぬ。この手紙をミラディーに渡すのだ。ここに二百ピストールの伝票があるから、これを出納係へ持って行って現金を受け取るように。役目を果たして六日間で帰ってきたら、またそれだけの金をあげよう」
使者はひと言もいわずに頭をさげると、手紙と二百ピストールの伝票とを受け取って、出て行った。
手紙の内容は、次のようなものだった。
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ミラディーへ、
バッキンガム公が出席されるこんどの舞踏会に出ること。公爵の胴着には十二個のダイヤモンドのある飾りひもがついているはずゆえ、近づいてその二個を切り取ること。ひもの飾りが手に入りしだい、ご一報ありたし。
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十五 法官と武人
これらの事件のあった翌日、アトスがいっこうに姿を見せないので、ダルタニャンとポルトスとは、そのことをトレヴィール殿に報告した。
アラミスは五日間の休暇を願い出ていたが、聞くところによると、家事のことでルーアンに行っているとのことだった。
トレヴィール殿は、隊士の父親であった。どんなつまらぬ、いかに無名の士であろうとも、ひとたび銃士隊の制服を着れば、この人から実の兄弟から受けるのと同様の助力が期待できるのだ。
そこでさっそくトレヴィール殿は、警視総監のところへ出向いた。クロワ・ルージュの署長が呼び出された。いろいろ情報をしらべた結果、アトスはいま、フォル=レヴェックに留置されていることがわかった。
アトスは、ボナシューが受けたような試練を受けていたのだった。この二人の囚人の対決の場面はすでにわれわれが見たとおりだが、アトスはそのときまでダルタニャンの身を思い、必要な時間を失わせまいとして何も言わなかったのだが、そのときになってはじめて、自分はアトスでダルタニャンではないと、はっきりと言明したのだ。
さらに彼は、ボナシュー氏もボナシュー夫人も、見たこともなければ話したこともないといった。彼はその夜十時ごろに友人のダルタニャンのところへたまたまたずねて行っただけで、その時刻まではトレヴィール殿の屋敷で夕食をすませ、そのあとずうっといたので、このことに証人がいるなら二十人でもいると断言して、その中にはトレヴィール殿をはじめ、著名な数人の貴族の名を並べたてた。
二度目に調べた警部も最初のと同じように、この銃士の率直できっぱりした申し立てに目をまわした。もともと法官は、こういう武人を押さえつけて快とするところなのだが、トレヴィール殿とか、ラ・トレムイユ公とかの名前が出てみると、うかつにそうも出来なかった。アトスはやはり枢機卿のもとへ送られたのだが、あいにく枢機卿はルーヴル宮の国王のところへ行っていた。
ちょうどそこへ、警視総監のもとを辞し、フォル=レヴェックの署長と別れて、アトスのそこにいないことを確かめてきたトレヴィール殿も、陛下をたずねてやってきたのである。
銃士隊長であるトレヴィール殿は、いつでも国王に拝謁《はいえつ》が許されていた。
国王が王妃にどのような憶測《おくそく》を抱いていたかは人も知るとおりで、その憶測を巧みに焚《た》きつけるのが枢機卿だった。枢機卿はこと陰謀となると、男よりも女のほうに非常に疑いの眼を向けた。
こういう疑いのもっとも大きな原因は、王妃アンヌ・ドートリッシュのシュヴルーズ夫人に対する友情だった。この二人の婦人のことのほうが、スペインとの戦いや、イギリスとの紛争や、自国の財政難以上に、国王の頭を悩ましていた。シュヴルーズ夫人は王妃のために、政治上の陰謀ばかりでなくもっと気がかりなことに、その恋愛の策動においても大いに働いているにちがいないと、国王はそう見ていたし、じじつまたそう信じこんでいた。
それゆえ、枢機卿から追放されてトゥールに蟄居《ちっきょ》していたはずのシュヴルーズ夫人がパリへやってきて五日間も滞在し、警察の眼をくらましていたということを枢機卿の口から聞くと、王は大いに恐れた。もともと移り気で不誠実なくせに、王は[公正王ルイ]とか、[貞潔王ルイ]とか呼ばれることを望んでいたが、このような性格は後世においてはなかなか理解しがたいものである。
やがて枢機卿は、シュヴルーズ夫人はただパリに来たばかりではなくて、当時の言葉でいえば、[秘法]と呼ばれていた通信手段によって王妃と連絡を取っていたこと、またそういう陰謀事件を枢機卿が探知して、れっきとした証拠をもって現行犯として王妃の密使を捕えたところが、そこへ王妃方の手先である一人の銃士が現われて、陛下のために忠実にその捜査に当たっている警吏に向かって抜剣して打ってかかり、公務執行の妨害をしたことなどを、なお付け加えて説明したときには、ルイ十三世はもう自制力を失って顔面蒼白となり、王妃の居間のほうへ一歩踏みだしたほどだった。こうして怒りが爆発すると、王はじつに冷酷無比な人になってしまうのだった。
ところでじつは枢機卿はこの話の中で、バッキンガム公のことについてはひと言も触れていないのだった。
ちょうどそのときトレヴィール殿が、冷静で礼儀正しく、威風堂々とはいってきた。
トレヴィール殿は枢機卿がそこにいて、国王の顔が気色《けしき》ばんでいるのを見ると、だいたいの事情をすぐに見てとり、まるでペリシテ人を前にしたサムソン(イスラエルの判官。怪力をもってペリシテ人を悩ましたが、敵中の女性デリラのために毛髪の秘密を知られ、神通力を失って盲目となる)のように、からだに力がはいってきた。
ルイ十三世は、そのときすでに扉のハンドルに手をかけていたが、トレヴィール殿がはいってきたのを見て、振り向いた。
「ちょうどいいところへきた」
感情がある点までたかぶると、それを押さえることのできない王は、「いまわたしは、あんたのところの銃士のことで、けしからん話を聞いたところなのだ」と、いった。
「わたくしも」と、トレヴィール殿はあくまでも冷静にいってのけた。「陛下の法官方のことで、けしからん話をお耳に入れたいとぞんじまして」
「なんだと?」と、王は、きっとなっていった。
トレヴィール殿は、同じような口調でつづけた。「じつはこういうようなわけでございまして、検事の役人や取締りの警吏諸公は、いずれも尊敬に値いする人々ではありますが、どうもわれわれ軍服着用の者をはなはだしく憎んでいるようでして、先日もわたくしの配下の銃士の一人をある家で逮捕し、町の真ん中を引っ立てて行って、フォル・レヴェックに投獄いたしました。それがいかなる者のさしずによるかは、わたくしの問いにも答えぬ始末なのです。捕えられた銃士は、わが部下と申せ、もとより陛下の銃士であり、素行はよろしく、評判もよろしき武人で、陛下にも拝謁《はいえつ》の栄を賜《たまわ》っておりまする、あのアトスでございます」
「アトス、たしかにその名はぞんじておる」と、王は機械的に答えた。
「思い起こしていただければ、ありがたい仕合わせで、アトスは先だっての忌《い》まわしい争闘の折、カユザック殿に深手を負わせた銃士でございます……ときに閣下」と、枢機卿のほうをかえり見て、「カユザック殿は、もうすっかりよくなられたでしょうな?」
「ありがとう!」枢機卿は怒りで唇を噛みしめながらいった。
「その日アトスは、友人のガスコーニュ出身の若者をたずねていったところ、あいにくと留守でして、その若者というのは、陛下の銃士隊の末子隊であるエサール殿の手の者でございます。そこでアトスがその留守宅で待ちながら本でも読もうと手にとろうとしたときに、警吏や兵士の一群が押し寄せてまいり、戸口を破ってなだれこんでまいったのです」
枢機卿は王に、[それは、さっき申しあげたあの件の調べのためで]という意味の目くばせをした。
「そのことなら承知しておる。その者どもは、役目としてやったことだ」と、王は言い返した。
「では」と、トレヴィール殿はいった。「わが罪もない銃士を捕え、まるで大悪人のように二人の警吏がひっ立てて行ったのも、陛下のおんために十度も血を流し、今後もなおそのような覚悟をきめている栄誉ある武士を、雑言を浴びせる群衆の唯中《ただなか》を引きまわしたのも、やはりみな陛下のおんためになしたことなのでしょうか?」
「なんだって!」と、王は少し動揺の色を見せて、「そんなことまでしたのか?」
「トレヴィール殿は、お話の罪もない栄誉ある武士が、それより一時間前に、ある重要な事件を調査させるためにわしが派遣した四人の役人を、剣を抜いて追い払ったということを、まだ言っておられない」と、冷静そのもので枢機卿は述べ立てた。
「では、その事実を、一つ台下に証明くださるようお願いしたい」と、トレヴィール殿は、ガスコーニュ人の率直さと武人らしい荒々しさをむきだしにして声をあらげた。「じつはアトスなる者は、いずれ陛下に申しあげようとぞんじておりましたが、身分の高い貴族でございまして、その件の一時間前には、拙宅《せったく》で食事をすませてから客間において、居合わせたラ・トレムイユ公やシャリュス伯と雑談をかわせていたのでございます」
国王は枢機卿を見やった。
「調書が証明いたします」と、彼は王の無言の問いに、きっぱりと答えた。「その男から狼藉《ろうぜき》に会った役人どもが作製したものでして、陛下にもごらんいただきたいとぞんじます」
「法官どもの作った調書と、武人の誓言とを同じに考えられるのか?」と、トレヴィール殿は昂然《こうぜん》と言い放った。
「まあ、まあ、トレヴィール、だまらっしゃい」と、王は制した。
「もし陛下がわたくしの配下の者に対してお疑いを持たれるようでしたら」と、トレヴィールはいった。「わたくしどもでも枢機卿殿に対抗して、わたくしなりに証拠調べを進めて行きましょう」
「捜索が行なわれた家には、たしか銃士の友人だというガスコーニュ生まれの若者が住んでいたはずだが」と、枢機卿はなお泰然《たいぜん》としてつづけた。
「ダルタニャンのことでございましょう?」
「あなたがたいへん目をかけているという噂の青年のことですよ、トレヴィール殿」
「はい、台下、おっしゃるとおりで」
「で、その若者が、よからぬ入れ知恵をしたために……」
「アトスにですか? 二倍も年が違うアトスにですか?」と、トレヴィール殿はさえぎった。「それに、ダルタニャン自身も、あの晩はわたしの屋敷にきておったのです」
「おや、おや、それではあの晩は、みんながお宅にいたわけですか?」と、枢機卿。
「台下は拙者《せっしゃ》の言葉をお信じにならないのですか?」トレヴィール殿の顔が怒りであかくなった。
「いや、いや、けっしてそんなつもりはない!」と枢機卿は打ち消した。「だが、その若者がお宅いたのは何時ごろでしたか?」
「ああ! そのことでしたら、はっきりと申しあげることができます。と申しますのはあの男がはいってきたとき、柱時計が九時半だったのに気づいたからなのです。もっとおそいと自分では思っておりましたが」
「で、お宅を出たのは何時でしたか?」
「十時半でした。その事件があってから一時間後で」
「だが、やはり」と、トレヴィールの誠実なことは少しも疑っていなかった枢機卿殿は、だんだんと自分の勝利が遠のいて行くのを感じながら、「アトスはあのフォソワイユール街の家で捕えられたのはじじつなのだから」
「自分の友人の家をたずねるのはいけないのでしょうか? わたしの隊の銃士が、エサール殿の隊の者と親しくすることは禁じられているのでしょうか?」
「さよう、その親しくしている友人の家が、当局の嫌疑《けんぎ》を受けている場合は」
「つまり、その家は嫌疑をかけられていたんだよ、トレヴィール」と国王は口をはさんだ。「おそらくそのほうは、そのことを知らなかったのではないかね?」
「まったく、そのことはぞんじてませんでした、陛下。しかし、その家のどの個所が疑われてもやむを得ませんが、あのダルタニャンの住んでいる場所に対する嫌疑だけは、断じて認めるわけにはまいりません。本人も申しておりますように、あの男ほど陛下に忠誠の志を抱き、枢機卿閣下に尊敬の念を抱いている者はいないと、はっきりと断言いたします」
「いつだったか、カルム=デ=ショーセ修道院の近くで起こったあの不幸な争闘の折に、ジュサックを傷つけたのは、そのダルタニャンではなかったのかね?」と、王はくやしさでまっかになっている枢機卿のほうを見ながらいった。
「その翌日には、ベルナジューを。はい、陛下、そのとおりでございます。陛下にはなかなかご記憶がよろしくて」
「さて、けっきょく、いかがいたしたものかな?」と、国王はいった。
「これはわたくしの及ばぬことで、陛下のおさしずによらねば」と、枢機卿はいった。「わたくしといたしましては、有罪を主張いたしますが」
「わたくしは否認いたします。でも、陛下にはお仕えしておる裁判官がおりますので、その者たちが裁きをつけてくれるでしょう」
「そうだ、このことは裁判にかけたらいい」と、王も同意した。「裁判するのはあの連中の仕事だ。黒白をつけてくれるだろう」
「ただ申しあげておきたいことは」と、トレヴィールはつづけていった。「この不幸なご時世では、いかに清らかな生活を送っていようと、なんら非の打ちどころのない高徳の士といえども、汚辱は免れず、迫害を受けるありさまでございます。それゆえ武人が、警察沙汰において過酷《かこく》な扱いを受けるようなことがありますと、必ずや不満が起こることとぞんじますが」
この言葉は言い過ぎであったが、トレヴィール殿はそれを重々承知の上で、ぶっつけたのだ。彼は爆発が起こることを望んでいた。なぜならば、そうなれば抗道にも火がつき、その火がすべてを明るみへ出すと思ったからだ。
「なに、司直の扱いが不当だと!」
国王はトレヴィール殿の言葉を取りあげて叫んだ。「司直のやり方について、あんたはそれについてどれほど知っているか? あんたは銃士の面倒《めんどう》を見ていれば、それでよろしい。よけいなことに口をだすな。あんたの言うことを聞いていると、不幸にして銃士を一人捕えると、フランス全体が危殆《きたい》にひんするとでもいうようだ。なんだ! たかが一人の銃士のことで大騒ぎをして! そんなもの、十人だって逮捕してみせるぞ! 百人はおろか、隊全部だっていい! つべこべ言う耳もたぬわい!」
「陛下のご信任を失ったとあらば、それだけでわが銃士どもは一人残らず、みな罪人でございます。従ってわたくしも、この剣を陛下にお返しいたす覚悟をきめました。枢機卿殿には、わたくしの配下の者の罪をあばかれました以上は、いずれはこのわたくしをも罪ありとなさることでございましょう。それならばこちらより進んで、すでに捕えられているアトスや、近く逮捕されるであろうダルタニャンとともに縛《ばく》につきたいとぞんじます」
「頑固者《がんこもの》のガスコーニュ男め、もういい加減によさないか?」と、王はいった。
「陛下」と、トレヴィールは少しも声を低めずにいった。「わたくしの銃士をお返しくださるか、それともすぐに裁判にかけていただくか、お取り計らいをお願いいたします」
「裁判にかけよう」と枢機卿が言い放った。
「よろしい! 結構でございます。ただし、その場合には、このわたしが彼のために弁護に立つことを、陛下はお許しくださいますように」
国王は騒ぎが大きくなることを心配して、「もし枢機卿のほうに格別の異議がなければ」と、いった。
彼は国王の考えがわかっていたので、先まわりをしていった。
「いや、わたくしのほうで何か先入観をもって判断しているかのごとくおぼしめすとあらば、わたくしはひきさがることにいたします」
「では、あんたは」と、王はトレヴィールにむかって、「アトスはあの事件のあいだじゅう、そのほうの屋敷にいたことを、従って本件にかかわりのなかったことを、亡き先王の霊にかけて誓えるかね?」
「わたくしがだれよりも尊敬し、だれよりもお慕い申しておる先王陛下、および陛下の前でお誓いします」
「陛下、よくよくお考えくださいますように」と、枢機卿が口をはさんだ。「もし囚人をこのまま釈放いたしましたら、真相を明らかにすることができなくなりますことを」
「アトスは、逃げ隠れはいたしません」とトレヴィールは、それに応《こた》えた。「法官がたがもし尋問の必要とあらば、いつなりと答える用意があるでしょう。ご安心ください、このわたくしが責任をもちますゆえに」
「さよう、逃げる恐れはあるまい」と、王もいった。「トレヴィールがいったように、いつでも呼ぶことができるのだ。それに」と、国王はここで声を低め、枢機卿に懇願するようなまなざしを送って、「あの連中を安心させておくことは、政策としてな」
ルイ十三世のこの政策という言葉に、リシュリューは微笑を浮かべた。
「どうぞご命令をだされるように、特赦《とくしゃ》の権限をお持ちなのは、陛下でございますから」
「特赦というのは、罪人にのみ適用されるもので」と、最後まで譲らぬトレヴィールは「わたくしの銃士は潔白でございますゆえ、陛下がお与えくださることは特赦ではなくて、正しいお裁きでございましょうな」
「いまは、フォル=レヴェックにいるのか?」と、国王はたずねられた。
「はい、陛下。しかも重罪人として地下の秘密牢に」
「それはひどいな! で、どうすればよろしいかな?」と、王はつぶやいた。
「では、釈放の勅書にご署名くださるように」と枢機卿がいった。「わたくしも陛下と同じく、トレヴィール殿の保証があれば、それでじゅうぶんでございますから」
トレヴィールはうやうやしく頭を下げたが、その喜びの中にも不安がないわけではなかった。枢機卿がこんなにすんなりと折れて出てくれるよりも、頑強に抵抗してくれるほうが、彼にはよかったのである。
王は赦免状に署名をし、トレヴィールはさっそくそれを手にとった。
彼が出て行こうとしたとき、枢機卿は親しげに微笑を彼に送り、王に向かっていった。
「陛下の銃士隊の中では、隊長と隊士の中が実にしっくりいっておりますな。これでこそ、りっぱなご奉公もでき、もって範とするに足ると申すべきでしょう」
[あの男は、これからずっと、おれに悪だくみを仕掛けてくるだろう]と、トレヴィールは物思いに耽《ふけ》っていた。[ああいう人間を相手にしては、いつになったら安心できるか、際限がありゃしない。だが、急ぐこった。陛下の考えがすぐ変わることだってあるんだから。それに考えてみりゃ、一度釈放した人間をふたたびバスティーユやフォル=レヴェックなりへ送りこむほうが、そのまま知らん顔をして入れっぱなしにしておくよりもむずかしいことだからな]
トレヴィールは威風堂々とフォル=レヴェックの門をくぐると、平然と落ちつき払っていた銃士を救出した。それからダルタニャンに会うなり、いきなりこういった。
「こんどはうまくいったが。まあ、これはジュサックをやっつけたお礼だ。そういえば、まだベルナジューをやっつけた分が残っているが、まあ、あまり当てにしないでいてくれ」
とにかく、トレヴィール殿が枢機卿を疑ったことも、またこれきりではすむまいと考えたことも、たしかに当たっていた。なぜなら彼は、銃士隊長が出て行って扉がしめられるとすぐに、国王に向かってこういったからだ。
「これでやっと陛下とお二人だけになりましたから、まじめなお話をいたしましょう。じつは陛下、バッキンガム公が五日前からパリに来ておられまして、けさやっとお発《た》ちになったばかりでございますぞ」
十六 かつてしたように司法卿セギエは、またもや鳴らすべき鐘をさがしたこと
この数語がルイ十三世にどのような印象を与えたかは、とても想像もつかないものだった。国王は赤くなったかと思うと、次にはたちまち青くなった。それを見て枢機卿は、これで一挙に失地を回復できたことが、はっきりとわかった。
「バッキンガム公がパリに! いったい何をしに来たんだ?」と、王は叫んだ。
「おそらく陛下に反抗する新教徒たちやスペイン人と密議をこらすためでしょう」
「いや、いや、そうではあるまい! シュヴルーズ夫人やロングヴィル夫人、それにコンデ一族と共謀して、わしの名誉を傷つけようとはかるためだろう」
「これはしたり! 陛下ともあろう方が、なんというお考えを! 王妃さまはじゅうぶん分別がおありですし、それに第一、陛下をお愛しになっていられます」
「女は弱いものですよ、枢機卿殿」と、国王はいった。「わたしをたいへん愛しているというが、その愛情がどんなものであるか、自分でも見当がついている」
「わたしはやはり、バッキンガム公がパリへ来たのは、政治上の目的だと考えますが」
「いや、ほかの目的で来たと、わたしは確信するよ。しかし、もし王妃がまちがいを起こしたとしたら、そのままではすまされぬぞ!」
「そのようなよこしまなことを考えるのは、なんとも忌《い》まわしいことではございまするが、じつは陛下のお言葉を承って、わたくしにも少し心当たりがございます。例のラノワ夫人ですが、なんどか尋問いたしましたところ、けさ、こういうことを申しました。王妃さまは昨夜たいへん遅くまで起きておられ、しかもけさはたいそうお泣きになったごようすで、一日じゅうお書きものをしていらしったとのことで」
「それだよ、あの男に宛てたものにちがいない」と、国王はいった。「枢機卿、ぜひその王妃が書いたものを手に入れたいが」
「どうして手に入れたらよろしいのでしょう? そのようなことは、わたしはもとより、陛下だってなされるものではございますまい」
「あのアンクル元帥《げんすい》夫人の場合は、どうだったか?」王は怒りが最高潮に達して、声を荒らげた。「衣裳戸棚をひっかきまわし、夫人のからだまで調べたではないか」
「アンクル元帥夫人と申しても、たかが一元帥の夫人で、しかもフィレンツェ生まれの卑《いや》しい身分の女にすぎませんが、こちらは畏《おそ》れ多くも陛下のお妃《きさき》さま、フランスの王妃アンヌ・ドートリッシュさまで、いわば世界最高の女王さまのお一人であらせられます」
「だが、やはり罪であることには変わりはない。それに、王妃が自分の高い地位を忘れてのことなら、それだけに低く落ちたわけで、よけいに卑しまれるというものだ。わたしはずっと以前からこういう政治や恋愛のつまらぬ策謀は根絶しなければいかんと、決意していたのだ。王妃はまだほかに、ラ・ポルトとかいう男を側近としているようだが……」
「さようで。その男がこの件のいっさいをあやつっている黒幕の男だと、わたしは思っていますが」
「枢機卿、ではあんたもわたしと同じように、王妃がわたしを裏切っているとお思いかな?」
「くり返して申しあげますが、わたしは王妃さまが陛下のご権勢に逆らうような陰謀に加担してはおられるとも、陛下のご名誉を傷つけるようなことはなさっておられぬと、かたく信じております」
「わたしは、その両方をやっていると思う。王妃はわたしを愛してはおらぬ。ほかの男を愛している。あの憎むべきバッキンガムを愛しているんだよ。なぜあの男がパリにいるあいだに捕えてしまわなかったのかね?」
「公爵を捕えろとおっしゃるのですか! あのチャールズ一世王の宰相をですか! ほんとうに陛下は、そうお考えなのですか? どんな騒ぎが起こりますことやら! それに、わたしはまだ信じられないと申しあげている陛下の抱いておられるお疑いに、もし万一なにか根拠があるとしたら、それこそどういうことになるやら!」
「しかし、あの男がうろうろと、こそ泥《どろ》のように町中をうろつきまわっていたのなら、いっそ思いきって……」
そこまでいってルイ十三世は、自分の言いかけた恐ろしい言葉をのみこんでしまった。枢機卿は首をのばして、その言葉を聞こうとしていたのだが、それはそのまま王の唇までで消えてしまった。
「いっそ思いきって……」
「いや、なんでもない」と、王は打ち消した。「なんでもないんだ。だが、あの男がパリに滞在中は、あんたはずっと見張っていたんだろうね?」
「それが、陛下」
「どこに泊まっていたのかね?」
「ラ・アルプ街七十五でございます」
「それは、どのあたりかな?」
「リュクサンブールの近くで」
「王妃はあの男と会わなかったと断言できるかね?」
「そのような軽がるしいことはなさらぬと、わたしは信じますが」
「しかし通信はしていたんだな。一日じゅう書いていたというのは、あの男に宛てた手紙であろう。枢機卿殿、その手紙をなんとかして手に入れたいものだな」
「方法は一つしかございますまい」
「どのような?」
「その役目は、司法卿のセギエ殿にお申しつけになることです」
「すぐにここへ呼ぶように!」
「あの男は、ただいま拙宅《せったく》に来ているかとぞんじます。さきほど呼び寄せまして、わたくしが宮中へまいっているときだったら、待っておるようにと、そう申しつけておきました」
「すぐに呼び寄せるように!」
「陛下のご命令とあらば直ちにお申しつけのとおりにいたしますが、しかし……」
「なんだね?」
「しかし王妃さまがたぶんご承知なさりますまい」
「わたしの命令でもか?」
「はい、そのご命令が陛下ごじきじきのものであることをごぞんじでないと」
「よろしい! でははっきりとわからせるために、わたしが自分でそう言いに行こう」
「陛下、ご不和にならぬようにと、このわたくしが精いっぱいの努力をいたしてまいりましたことを、どうかお忘れなきように」
「いや、わかっておる。あんたはいつも王妃をかばっておった。かばいすぎるといってもいいくらいだった。そのことについては、いずれあとで話したいがね」
「いつなりと、陛下のよろしいときに承りましょう。いずれにしましても、わたくしとしましては、陛下と王妃さまとのお仲のむつまじくありますように、そのためにはこの身を捧げることを、幸福ともまた誇りとも思っておる者でございます」
「いや、ありがとう枢機卿。とにかく司法卿を呼んでもらいたい。わたしは王妃のところへ行ってくる」
こう言うと、ルイ十三世は扉《とびら》を開いて、アンヌ・ドートリッシュの部屋につづいている廊下に出た。
王妃は、ギトー夫人、サブレ夫人、モンバゾン夫人、ゲメネ夫人などといった貴夫人に囲まれていた。隅のほうには、マドリードからお供をしてきたスペイン人の待女のエステファニヤ夫人が控えていた。ゲメネ夫人が何か本を読んでいて、みんなは熱心にそれに聞き入っていたが、聞いているふりをしながら自分だけの物思いに耽《ふ》けられることができるので、朗読をすすめた王妃だけが、上《うわ》の空であった。
この物思いは、恋の消えなんとする輝きによって金色に染められてはいたものの、悲しみの色はやはり隠しおおせなかった。夫の信頼を失い、他方では好意をすげなくはねつけられた怨みで枢機卿の憎悪《ぞうお》からしつっこくつけまわされている、そういった王妃アンヌ・ドートリッシュの現状だった。
それというのは、王太后マリ・ド・メディシスの例を目《ま》のあたりに見ていたために、枢機卿の恋情《れんじょう》を拒《こば》み通したからだった。古い記録によると、王太后は枢機卿のそういう好意を最初から受け入れていたといわれているが、アンヌ・ドートリッシュは、最後までそれを拒み通したのだった。
王妃は自分の周囲にいた人たち、もっとも忠実な従者や、もっとも打ちとけた話し相手や、もっとも親しい友人たちが、つぎつぎと葬り去られてゆくのを見たのだ。不幸を人に与えるという不吉な力を持って生まれた人たちの物語のように、王妃の手が触れるとたんに、きまって不幸が生じるのだった。王妃に友情を示されることは、迫害を呼ぶ運命の合図のように見えた。シュヴルーズ夫人も、ヴェルネ夫人も追放されたし、最近ではラ・ポルトまでが、いつ自分も捕えられるか心配だと、王妃に向かって口にするほどに至っていた。
こういう暗い思いに沈みきっていたときに扉が開いて、国王がはいってきた。
読み手はすぐに本を伏せ、すべての夫人たちは席を立って、あたりは、しーんと静まり返った。
国王は少しも会釈《えしゃく》らしいようすも見せずに、つかつかと王妃の前へ行き、いつもと違った声でいった。
「いまここへ、司法卿がやって来ることになっている。その男からわたしが命じてあることを聞いてもらいたい」
いままでに離婚だとか、追放だとか、さては裁判だとかいって絶えずおどかされつづけている不幸な王妃も、紅《くれない》の下にさっと青ざめ、思わず聞き返した。
「なんのために来るのでございましょうか? 陛下ご自身がお言いになれぬことで、司法卿がこのあたくしに申すということは、どういうことでございましょうか?」
国王はそれに答えずに、くるりと背をむけてしまった。ほとんと同時に、衛士頭のギドーが、司法卿の訪問を伝えた。
司法卿が姿を見せたときには、王はもう別の扉から立ち去ってしまっていた。司法卿は半ば微笑し、半ば顔を赤らめてはいってきた。この人物は、いずれこの話の先のほうで出てくるので、いまここで紹介しておくのも悪くはあるまい。
この司法卿は、なかなか愉快な人物であった。かつては枢機卿の従僕をしていたノートル・ダム寺院の修道会員デ・ロッシュ・ル・マールが、きわめて忠実な人物だといって枢機卿に推挙したので、枢機卿はその言葉を容《い》れてそれを採用したのだが、結果はたいそうよかった。この男に関する逸話は幾つかあるが、その中の一つとしてこんなのがある。
非常に放縦な青年時代を過ごしたこの男は、せめてしばらくは若気のあやまちの償いをしようと思って、さる修道院にはいった。ところが、その神聖な場所にはいるときに、すばやく戸口をしめることができなかったとみえて、欲情もまた彼とともにはいってしまったらしかった。そして彼はあい変わらず欲情の虜《とりこ》となっていた。その苦悩を打ち明けられた修道院長は、誘惑の悪魔を追い払うために一策を考え、そういうときには鐘楼《しょうろう》の鐘を思いきり鳴らしなさいと忠告した。その鐘の音が聞こえれば、彼が誘惑に苦しめられていることが他の修道僧たちにわかるから、みんながこぞってお祈りしてあげることにしよう、というのである。
未来の司法卿はこの忠告を入れた。彼は修道僧たちがしてくれる祈祷《きとう》の力に助けられて、悪魔を追い払おうと試みた。ところが、一度巣くった悪魔は、容易なことでは退散しなかった。祈祷に力を入れれば入れるほど、誘惑も強まると見えて、鐘は夜となく昼となく鳴りひびき、烈しい欲情にさいなまれる贖罪《しょくざい》者の苦行のほどを告げるのだった。
修道僧たちは、一刻の休息も得られぬことになった。昼は礼拝堂に通じる階段の上り下りに疲れ、夜はまた夜で正規の勤行《ごんぎょう》のほかに、二十回も寝台から飛び降りては、僧房の床で跪拝《きはい》をしなければならなかった。
さて悪魔のほうであきらめて退散したのか、それとも修道僧たちが疲れ果ててしまったのか、そこのところはだれにもわからないが、三か月後にこの求道者はかつてない悪魔につかれた男という評判を残したまま、俗界にもどった。
修道院を出ると司法畑にはいり、伯父《おじ》の後を襲って高等法官となったが、いつのまにか枢機卿に取り入ったところは、どうしてなかなか抜け目がない。やがて司法卿となると、王太后への憎しみや、アンヌ・ドートリッシュに対する復讐《ふくしゅう》の仕事では、熱心に枢機卿のために力を尽くした。シャレー事件では裁判官たちを扇動したり、主猟官ラフマ殿の企てにはその黒幕になったりした。そしてついに枢機卿に巧みに取り入り、全幅《ぜんぷく》の信頼をかち得たために、今度の特別な役目を仰せつかる結果となり、こうして王妃の前に現われたわけである。
この男がはいってきたとき、王妃はまだ立ったままだったが、その姿を見るとすぐ肱掛椅子《ひじかけいす》に腰かけて、女官たちにもそれぞれ椅子や丸椅子に坐るように合図をし、高い気位を見せて言葉をかけた。
「なんの用事なのです、どのような目的でここへ来られたのですか?」
「国王陛下のご命令によって、まことに畏《おそ》れ多いことではございますが、王妃さまのご書類を調べさせていただきにまいったのでございます」
「なんですって! わたくしの書類を調べる……王妃であるこのわたくしの! 何という無礼なことを!」
「なにとぞ、お許しくださいますように。今日のことは、まったく陛下のおさしずによるお使いの役にすぎませんので。さきほど陛下がこちらに見えて、わたくしが参上いたしますことは、御自《おんみずか》らお伝えくださったのではないでしょうか?」
「では、調べなさい。まるでわたしに何か罪があるようですわね。エステファニヤ、わたしのテーブルと机の鍵《かぎ》を、みんな渡してください」
司法卿は形式的に、そういう家具類を調べてみたが、王妃がその日に書いた重要な手紙は、そんな場所にないことをよく承知していた。
司法卿は机の引き出しを二十ぺんもあけたりしめたりしたが、こうなると、さすがに躊躇《ちゅうちょ》はしたが、いよいよ事の結末をつけねばならぬと感じた。つまり、王妃のからだを調べることであった。
そこで彼はアンヌ・ドートリッシュのほうに歩みよって、すっかり当惑したようすで、
「さて、これから」と、いった。「いよいよ重要な調査が残っておるのでございますが」
「どんなことですか?」王妃はさっぱりわけがわからなかった、というより、それがどういうものだか、むしろわかりたくなかったのである。
「国王陛下は王妃さまが今日一通の手紙をしたためられたことを確信しておいでで、しかもそれがまだ発送されていないことを、ごぞんじでございます。そのお手紙は王妃さまのテーブルの中にも机の中にも見当たりませんが、しかしどこかにあるはずでございます」
「ではあなたは、王妃のからだに手を触れようというのですか?」
そういって王妃はすっくと立ちあがると、ほとんど威嚇《いかく》するような目つきで、司法卿をじっと見すえた。
「わたくしはただ、国王陛下の忠実な下僕《しもべ》でございます。陛下のご命令とあらば、なんなりとも果たさなければなりません」
「なるほど! そのとおりですわ。枢機卿殿の間諜《スパイ》どもは、うまく役だったわけですね。たしかに、わたしは今日手紙を書きました。そして、まだ出してありません。ここにあります」
そういって王妃は、その美しい手で胸のところを押さえた。
「それをお渡しくださいまし」
「陛下になら、お渡ししましょう」
「もし陛下ご自身でお受けとりになるお気持ちでしたら、ご自分でお望みになったはずです。しかし重ねて申しますが、わたくしがお受けとりする役目を仰せつかっておりますので、もしお渡しくださいません場合は……」
「その場合は?」
「なんとしてもちょうだいして行くのがわたくしの役目なので」
「ええっ、それはどういう意味?」
「どうしても役目を遂行しなければならないのです。王妃さまのおからだをお調べしてでもその手紙を持参せよと、そのお許しを得ているのでございます」
「まあ、なんてひどいことを!」と、王妃は呼んだ。
「でございますから、どうか穏《おだ》やかな方法をお選びくださいますように」
「こんなことは恥ずべき暴力|沙汰《ざた》です。それがおわかりですか?」
「陛下のご命令でございますから、なにとぞご容赦《ようしゃ》のほどを」
「いいえ、いけません。そのくらいなら、死ぬほうがましです!」と、王妃は叫んだ。身内を流れるスペイン人とオーストリア人の血が、烈《はげ》しく湧き返ったのである。
司法卿はうやうやしく頭を下げたが、自分の役目を実行するには一歩たりともひかぬ決意をはっきりと示し、尋問室の拷問吏《ごうもんり》といった態度で、アンヌ・ドートリッシュにじわじわと近づいて行った。その王妃の眼からは、憤りの涙が流れ落ちた。
王妃はすでに申したように、じつにお美しい方である。それゆえこういう役目は、はなはだもってデリケートなものであった。王はバッキンガム公への嫉妬心のあまりに、ほかの人たちへの嫉妬を忘れていたといえよう。おそらく司法卿のセギエはこの瞬間、かの有名な鐘をいまにも鳴らそうとして、そのひもをさがしたにちがいなかった。しかしそれが見あたらないので覚悟をきめ、さきほど王妃が手紙はここにあるといったその場所のほうに手を伸ばした。
アンヌ・ドートリッシュは、一歩あとへさがった。その顔は、いまにも息絶えなんばかりに青ざめていた。そして左手を、倒れまいとして後ろにあったテーブルにおいて身を支え、右手で胸から手紙を抜きだすと、それを司法卿にさしだした。
「さあ、これが手紙です」きれぎれに言うその声は震えていた。「これを持って、見るも汚らわしいそちの姿を隠してしまっておくれ」
司法卿のほうも明らかに興奮して身を震わせていたが、手紙を受けとると、床に頭がつくほどはいつくばって、出て行った。
扉がしまるかしまらぬうちに、王妃は気を失いかけて、女官たちの腕の中に倒れた。
司法卿は手紙の中身は一言も読まずに、王のもとへそれを持って行った。国王は震える手で手紙を受け取ると、まず宛名をさがしたが、それはみつからなかった。そこでまっさおな顔をしてゆっくりと封を切ったが、最初の数語でそれがスペイン王宛のものであることがわかったので、一気に読みくだした。
書いてあることは、枢機卿を攻撃するための策謀であった。王妃は自分の弟とオーストリア皇帝に対して、絶えずオーストリア王家を滅亡に導こうと画策《かくさく》しているリシュリューのやり方を怒ってフランスへ宣戦を布告するようすを見せ、講和条件として枢機卿を罷免《ひめん》する条件を持ちだすようにと勧告していた。しかし、こと恋に関しては、ひと言も手紙の中にはみつからなかった。王はすっかりうれしくなって、枢機卿がまだ宮中にいるかどうかとたずねた。まだ書斎で、陛下のおさしずを待っているとのことだった。
王はさっそく、彼のところへ出向いて行った。
「いや、あなたの言うとおりだった」と、国王はいった。「わしの思い違いだったよ。みんな政治むきのことばかりで、手紙には恋のことなど少しも書いてなかった。その代わりあなたのことが、大いに問題になっていますぞ」
枢機卿は手紙を受けとると、注意ぶかく読み終わり、また読み返した。
「いいですか、陛下! このとおりわたくしの敵は、計《はか》っております。もし陛下がわたくしを罷免しなければ、これら両国は戦いを仕かけてくるというわけです。わたくしが陛下のお立場にあったとしても、こういう強国の要望をいれないわけにはいかないでしょう。それにわたくしとしましても、職を退くことができれば仕合わせだと、考えておりますので」
「なんと言われる、枢機卿?」
「こういう敵と絶えず戦わねばならず、烈しい事務に追いまくられていては、ますます健康をそこねるばかりでございます。おそらくわたくしは、ラ・ロシェル攻囲にあたっての疲労には堪えられぬとぞんじます。それには、コンデ殿なり、バッソンピエール殿といった、戦争を指導する力をもった勇敢な人を任命することです。元来わたしは僧職にある身でありながら、その道からはずれて、なんら才能のない方面の仕事に没頭しているだけでございます。そうなされたほうが、国内にあっては和平が保たれましょうし、国外に対してもご威信《いしん》が高まることと確信いたします」
「枢機卿、あなたの言うことはよくわかる」と、国王はいった。「心配されることはない。この手紙の中に出てくる人間はみな、それ相応に罰してやる。王妃も同じことだ」
「なんということをおっしゃいますか、陛下? そういうことで王妃さまから怨《うら》みを受けては、このわたくしがたまりませぬ! ご承知のように、陛下にお逆らい申しても、常日頃わたくしは王妃さまのお味方を申しあげておりますのに、王妃さまはいつもこのわたくしを敵と見ているのでございます。もし王妃さまが陛下のご名誉をそこなうようなことをなさいました節は、話はまた別でございます。わたくしのほうからまっさきに、『陛下、ご容赦なさいますな』と申しあげるでしょう。ところが幸いに、そうではないのでございます。陛下ご自身がはっきりとその証拠をごらんになったのでございますから」
「それはそうだ」と、国王は答えた。「あなたの言うことは、いつもながら正しい。しかし王妃にわたしが腹を立てていることは、少しも変わらん」
「お腹立ちは、王妃さまのほうでございましょう。じつのところ、王妃さまが本気になって陛下をお怨みになったとしても、わたくしはもっともなことだと思いますよ。陛下は、じつに苛酷《かこく》にお取り扱いなさいましたもの」
「わたしは、自分の敵はもちろんだが、枢機卿、あなたの敵に対しても、たとえそれがいかに身分の高い相手であろうと、またそのためにどんなに危険をおかそうとも、常にきびしく当たるつもりなのだ」
「なるほど、王妃さまはこのわたくしの敵ではありますが、陛下の敵ではございません。それどころか貞淑《ていしゅく》で、ご従順で、非の打ちどころのないお妃さまであらせられます。どうかわたくしのお取りなしで、お仲直りあそばすように」
「では、王妃のほうからあやまってくればよい。先にあれのほうから、わたしのもとへ来るべきだ!」
「それは逆でございます。まず陛下が範を示さねばいけません。不当に王妃さまをお疑いになったのですから、陛下のほうがお悪かったのですから」
「わたしのほうからだって? 絶対にいやだ!」と、王は叫んだ。
「陛下、お願いしますから」
「第一、和解するとしても、どうやってもちかけたらいいんだ?」
「なにか王妃さまのお喜びになるようなことをなさったらよろしいでしょう」
「どんなことを?」
「舞踏会をおひらきになったら。王妃さまがダンスがお好きなのは、陛下もよくごぞんじのとおり。そういうお慰みがあれば、あの方のお怨みもそう長くはつづきますまい」
「枢機卿殿、わたしがああいう社交的な慰みをいっさい好まぬことは知っておるだろうが」
「陛下がおきらいなことを王妃さまもごぞんじなればこそ、陛下に対する感謝のお気持ちもいよいよ深まろうというものです。それに王妃さまは、いつか御誕生のお祝いに陛下がお贈りあそばしたダイヤの飾りひもをおつけになるちょうどよい機会ではありませんか。王妃さまはいままで、あれをおつけになる機会がありませんでしたもの」
「まあ、考えておきましょう、枢機卿殿」と、国王は答えたが、王妃の罪といっても自分にはあまり心配にならない問題で、自分が大いに恐れていた件については潔白《けっぱく》であることがわかったので、彼は内心大喜びで、和解する気持ちにすでになっていた。「考えてみましょう。それにしてもあなたはたしかに寛大ですね」
「陛下、峻厳《しゅんげん》は大臣たちにお任せになるのがよろしゅうございます。寛大は王者の徳ですから、陛下はそれをお用いになるのがよろしい。そのほうが陛下のおためでもございます」
そういったとき枢機卿は時計が十一時を打つ音を聞いたので、退出の許しを乞うためにうやうやしく挨拶をし、くれぐれも王妃との和解を嘆願した。
アンヌ・ドートリッシュは、ああして手紙を取られたからには何らかのおとがめはあろうと覚悟していたのに、翌日は王のほうから和解を望むような態度を見せるので、ひどく意外に思った。最初ははねつけようとした。女としての自尊心、王女としての誇りが、あのように傷つけられたのだから、そうやすやすと和解することは出来ないことだった。だが、まわりの女官たちの勧《すす》めによって、やっとあのことは忘れたような素振りをすることにした。王は王妃の気持ちが自分にもどったらしい気配に乗じて、すぐにも夜会を開くつもりでいる旨を伝えた。
不仕合わせな王妃にとっては、そういう催しが開かれることなどはめったになかったのだから、枢機卿の考えどおりに、この知らせを聞くと、心の中はともかくとして、その顔からは怨みの色が消え去った。彼女がいつその催しを開くのかとたずねたところ、国王はその点は枢機卿と相談した上でと答えた。
じじつ王は毎日のように枢機卿に向かって、その夜会はいつごろ催されるのか、とたずねるのだが、彼はいつも何か口実をつけては決定を延ばしていた。
こうして、十日ほどすぎた。
お話した事件があってから八日して、枢機卿はロンドンの消印のある一通の手紙を受けとった。それにはただ数行、こんなことが書いてあった。
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あれは手に入れました。しかし旅費が足りないので、ロンドンを発《た》てませぬ。五百ピストールご送金を乞う。金が来しだい、四、五日後にはパリに到着するでしょう。
[#ここで字下げ終わり]
枢機卿がこの手紙を受けとった日に、王はまた例の相談をもちかけた。
リシュリューは指を折って数え、低い声で一人ごとをいった。[金を受けとってから四、五日で着くと、あの女はいっている。金がとどくまでに四、五日、あれが帰って来るのに四、五日、合わせて十日だ。それに海上の風向きや、思わぬ手違いもあろうし、それに女の足だ、まず十二日と見ておくか]
「どうだね、枢機卿、計算はできたかな?」と、王はたずねた。
「はい、陛下。今日は九月二十日でございます。十月三日を市長のほうで祝日にするそうですから、その日ですと万事都合がよろしいでしょう。そうしませば、陛下のほうから改まって王妃さまのごきげんをとるようには見えないでしょうから」
それから枢機卿は、こう付け加えた。「ところで陛下、夜会の前日に、あのダイヤの飾りひもがどんなによく似合うか見たいからと、王妃さまにおっしゃることをお忘れなきよう」
十七 ボナシュー夫妻
枢機卿がダイヤの飾りひものことをいったのはこれで二度目だから、ルイ十三世もこれはおかしい、これには何か意味があるな、と思った。
現代のような完成したものではなかったにしても、当時としてはすぐれた警察網をもっていた宰相が、王の夫婦生活のことで王自身よりもよく事情に通じていることがあり、そのために国王がはずかしめられたことも一度や二度ではなかった。で、こんどは自分で王妃アンヌ・ドートリッシュと話をするときにその会話の中から何か新しい秘密でもかぎつけてきて、それを枢機卿の前で話してやったら、相手がその秘密を知っていようといまいと、いずれにしても自分の威厳を高めることに役立つだろうと、そう王は考えたのである。
そこで国王は王妃に会いに出かけたのだが、例によってまわりの者たちに威嚇《いかく》するような言葉を浴びせながら近づいて行った。アンヌ・ドートリッシュは顔を伏せ、そのうちにやむだろうと思って聞き流していた。
ところが、ルイ十三世が望んでいることは、そういうことではなかった。彼は口論をしかけてその中から何か手がかりをつかむつもりだったのだ。枢機卿には何か下心があって、これは彼がいつもやることだが、こんども恐るべきだまし打ちを企《たくら》んでいると思いこんでいたのだ。で、国王は、王妃をしつっこく譴責《けんせき》することによって、やっとその目的に近づいた。
「でも」と、わけのわからぬ非難にたまりかねて、アンヌ・ドートリッシュは叫んだ。「陛下は、お心の中で思っていらっしゃることを、すっかりはお言葉にされてはおりません。いったいあたくしが、どういうことをしたのでございましょう? あたくしがどういう罪を犯しましたのでしょうか? あたくしが弟に書いた手紙のことで、まさかこのような騒ぎをするとは思えませぬが」
こうはっきりと逆襲されると、国王も返答のしようがなかった。そこで王は、この機会に、夜会の前の日に言うつもりだった例の枢機卿の注意したことをいってみるのもいいと思った。
「じつは」と、王は威厳をつくろっていった。「近く市庁で舞踏会がある。市庁の役人に敬意を表して、その日はあなたは正装して出てもらいたい。誕生日にわたしがお祝いにあげたダイヤの飾りひもをぜひともおつけになるように。これがわたしの返事です」
その返事は、恐ろしい効果があった。アンヌ・ドートリッシュは、王はなにもかも知っていると思った。そしてこの七、八日だまっていたのは、王の性格にもよることだろうが、やはり枢機卿のさしがねだろうと推測した。王妃は顔面蒼白となり、いまは蝋細工《ろうざいく》のようになったその手をテーブルにつき、おどおどしたまなざしで国王を見つめながら、ひと言《こと》も言えなかった。
「おわかりだね」王はその理由はわからなかったが、王妃の狼狽《ろうばい》ぶりを心ゆくまで楽しんでいた。「わかりましたね?」
「はい、はい、わかりました」と、王妃は口ごもっていった。
「舞踏会には出てくれるね?」
「ええ」
「あの飾りひもをつけて」
「ええ」
王妃の血の気の失せた顔色はますます青くなり、それに気づいた国王は、その性格の悪い一面である冷酷な残忍《ざんにん》さで、それをいい気味だと楽しんでいた。
「ではいいね、わたしの言いたいのはそれだけさ」と、王は言い放った。
「その舞踏会は何日ですの?」と、アンヌ・ドートリッシュはたずねた。
王妃の声のいまにも絶えなんばかりなのを見てルイ十三世は、このような質問には答えないほうがいいと、本能的に感じた。
「なに、ごく最近のうちだが、さていつだったか、つい忘れてしまった。枢機卿に聞いておこう」
「では、この催しを思いついたのは枢機卿なのですね?」と、王妃が声を荒らげた。
「ああ、そうだよ」国王は驚いて答えた。「それがどうしたっていうんだね?」
「あたくしが飾りひもをつけるようにって、それを勧めたのもあの方でございますか?」
「それは、つまり、その……」
「いいえ、そうに違いありません!」
「なんだね! あの人だろうがわたしだろうが、そんなことはどっちだっていいじゃないか? それを勧めてわるいって理由もないでしょう?」
「そりゃあ、そうですわ」
「では、出席してくれるね?」
「はい」
「よろしい」国王は引きさがりながら、「よろしい、あてにしているからね」といった。
王妃は腰から折り曲げるようにして会釈《えしゃく》をしたが、それは挨拶というよりも、じつは膝の力が抜けていたからである。
王は上きげんで出て行った。
「ああ、これでだめだわ」と、王妃は取り乱してつぶやいた。「もうだめだわ。枢機卿に何もかも知られてしまったのだもの。あの人が陛下をそそのかしたんだわ。陛下はまだ何もごぞんじないけれども、そのうちにみんなおわかりになるわ。もうだめだわ。ああ、どうしよう、ああ!」
王妃はクッションの上にひざまずき、わなわなと震える両腕の中に顔を埋めて、お祈りをした。
まったく、状況がわるかった。バッキンガム公はロンドンに帰ってしまったし、シュヴルーズ夫人もトゥールにいる。いままで以上にきつい監視のもとにあることを思うと、王妃はひそかに、だれとははっきり言えないが、女官の中のだれかが自分を裏切っているように思えてならなかった。ラ・ポルトは、ルーヴル宮から出て行けぬ人間だ。とすると、頼みになれる人間は一人もいないことになる。
このようにして、身に迫る不幸を前にし、ただ一人打ち捨てられた思いに沈んで王妃はすすり泣いていた。
「このあたくしでは、王妃さまのお役に立つことはできないでしょうか?」
とつぜん、いたわりのこもった、やさしい声が聞こえた。
王妃は、はっとして振り向いた。なぜならその声音《こわね》には疑わしいものは何も感じられず、そこには好意しか感じられなかったからだ。
はたして、王妃の居間の戸口のひとつに、美しいボナシュー夫人の顔がのぞいていた。国王がはいってきたとき、彼女は小部屋で服や下着を整理していたので、出るには出られず、そのまま話をすっかり聞いてしまったのである。
王妃は不意を突かれて、甲高《かんだか》い叫び声をあげた。というのはあまりに取り乱していたので、この若い女がラ・ポルトの世話で仕えている小間使いだとはすぐにわからなかったからだ。
「ああ! ご心配なさいますな、王妃さま!」と、若い女は両手を合わせ、王妃の苦しみにもらい泣きしながらささやいた。「遠く離れておりましても、また身分の卑しい者でございましょうとも、あたくしは王妃さまに身も心も捧げている者でございます。王妃さまをなんとかしてお苦しみからお救いしたいものと、その方法があるように思われますので」
「まあ、おまえがどうしてそのようなことを!」と、王妃は叫んだ。「それならまっすぐに、わたしを見てごらん。だれからも裏切られているこのわたしに、おまえを信じることができるかどうか、わかるでしょう」
「ああ、王妃さま!」と、若い女はひざまずいて叫んだ。「あなたさまのためなら、命を投げだす覚悟でいることをお誓いいたします!」
この叫びは心の底から出たもので、最初の言葉と同じように、少しも疑うふしはなかった。
「たしかに」と、ボナシュー夫人はつづけた。「たしかに、ここには裏切り者がたくさんおります。しかし聖母さまの御名に誓って、このあたくしほど王妃さまにお味方している者はおりません。あのさきほど陛下がお話しになった飾りひもは、バッキンガム公爵さまにおあげになったものでございましょう? 公爵さまが腕に抱えてお持ち帰りになった、ばらの木の小箱にはいっていたものでございましょう? それともあたくしの思い違いでしょうか? ちがいますでしょうか?」
「まあ! おまえはなんていうことを!」
王妃は恐ろしさのあまり歯の根も合わなかった。
「そうです! あの飾りを、なんとしても取りもどすことです」と、ボナシュー夫人はつづけた。
「そう、そうしなければいけないんだわ」と、王妃はいった。「でも、どうすればいいか、どうやって取り返すことができるか?」
「だれか使いを、公爵さまのところへ出せばよろしゅうございます」
「でも、だれを?……だれにそのようなことを任せましょうか?」
「あたくしにお任せくださいまし。あたくしにその栄えある役目を果たさせてくださいませ、王妃さま。あたくしがきっとお使者をみつけますから!」
「でも、手紙を書かなければ」
「ああ! そうでした。それは、ぜひ心要です。王妃さまの御直筆でひと言。それからご自分の印と」
「でも、そのひと言がみつかったら、あたしは罪人です。離婚になり、国外追放です!」
「ええ、もしそれが敵の手に落ちたらば! でも、そのお手紙は、必ず先方へ届けてごらんに入れます」
「では、あたしの命も、名誉も評判も、すべてあなたの手に任せるわけね!」
「はい、そうです! どうしてもそうしていただきませんと。だいじょうぶ、お守りとおしてみせますわ」
「では、どういうふうにして? せめてその方法を知らせてください」
「あたくしの夫が二、三日前に釈放されたのです。まだ暇がなくて会ってはおりませんが、この人は、だれにも好悪の気持ちをもたない、正直な律義者でございます。なんでも、あたくしがしてくれといえば、やってくれます。ほんとうの用向きは知らずに、言われるままに出発して、王妃さまのお手紙をそれとは知らずに、そのまま宛先へ届けてくれるでしょう」
王妃は感激のあまり若い女の両手を握ると、相手の心の底を読みとろうとするかのようにじっと顔を見つめたが、その美しい眼の中に誠実さだけしかないのを知ると、やさしく彼女に接吻した。
「では、そうしてちょうだい」と、王妃は叫んだ。「そして、あたしの命と名誉とを救っておくれ!」
「まあ! そんなに大げさにおっしゃらないでくださいまし。お役に立てばうれしいとぞんじておりますので、なにもこのあたくしが王妃さまをお救い申すなどとは! ただ王妃さまは裏切り者どもの陰謀の犠牲におなりあそばしているということなのでございます」
「そう、そうなのです。ほんとうに、あなたの言うとおりよ」
「ではお妃さま、お手紙を。急がなければなりませんから」
王妃は、インクと紙とペンとが置いてある小さなテーブルに駆け寄ると、二行ほど書き、自分の印で封印をして、それをボナシュー夫人に手渡した。
「それはそうと、大事なことを忘れていました」と、王妃がいった。
「なんでしょうか?」
「お金」
ボナシュー夫人は顔をあからめた。
「ああ、そうでございましたわ。ほんとうのことを申しあげますと、夫は……」
「お金をお持ちでないというわけね」
「いいえ、持ってはいるのでございますが、ひどくけちでございましてね。それが、あの人の欠点でございますの。でも、ご心配なく、なんとか工面《くめん》いたしますから」
「あたしも、お金をもっていないのよ」と、王妃はいった。(モットヴィル夫人の回想録を読んだ人なら、この返事を聞いても驚かないだろう)「でも、ちょっとお待ち」
アンヌ・ドートリッシュは、宝石箱のところへ駆け寄った。
「さあ、この指輪を。なんでも高価なものだということです。弟のスペイン王からもらったもので、これはあたしのものなんだから、どうしようとあたしの勝手だわ。この指輪で、お金を作ってちょうだい。そうしてご主人に行っていただきましょう」
「一時間後には、きっとそういたさせます」
「宛先を見ましたね」王妃の声は、聞きとれないほど低かった。「ロンドンのバッキンガム公爵閣下」
「きっとお届けします」
「感心な方ね!」と、アンヌ・ドートリッシュは思わずいった。
ボナシュー夫人は王妃の手に接吻をすると、手紙を肌着の中に隠し、小鳥のように敏捷《びんしょう》に姿を消した。
十分後には、彼女は家に帰っていた。王妃にいったように、彼女は釈放された夫とはまだ会っていなかった。それゆえ、枢機卿に対する夫の考え方が違ったことは知らなかった。その後ロシュフォールが二、三度たずねてきて、彼と親しくなり、その考えをすっかり変えてしまったのだ。ロシュフォールは、細君をかどわかしたのは悪気があってしたのではなくて、政治上の配慮にすぎないのだと、たやすく信じこませてしまったのだ。
さて、彼女が帰ってみると、ボナシューは一人で部屋の片づけをしていた。ソロモン王も通り過ぎたあとに痕跡《こんせき》を残さぬ三つのものの一つに法を挙げてはいないが、あの事件のあと、家具はほとんどこわされ、戸棚はほとんどからっぽになっていた。女中にいたっては、主人が逮捕されたときに逃げだしてしまっていた。かわいそうにその娘は恐ろしさのあまり、パリから生まれ故郷のブルゴーニュまで、とぼとぼと歩いて帰ったのだった。
律義な小間物屋は家に帰ると、さっそく釈放された喜びを細君にしらせた。細君からはまず喜びの返事とともに、勤めのひまができしだい会いに帰るからといってきた。
そのひまができるまでに五日間かかった。いつものボナシュー親方なら、この五日間は、かなり長く感じられるわけだが、こんどの場合は枢機卿を訪問したり、ロシュフォールがたずねてきたりして、考えごとの材料がたくさんあった。じじつ考えごとをしていると、時間の経つのは早いものである。
ましてボナシューの考えごとはばら色の夢に包まれているのだから、なおさらである。ロシュフォールは友だち呼ばわりしてくれて、親愛なるボナシュー君といってくれるし、枢機卿も大いに彼のことを重く見ているなどと、絶えず彼のことをおだてるので、小間物屋はいまにも立身出世の道が目の前に開けて来るような気がしてならなかった。
いっぽうボナシュー夫人のほうにも考えごとはあった。しかしこれは、野心などとはおよそ関係のないことで、彼女の考えというのは、あの美貌で勇敢で、すっかり恋の虜《とりこ》になっているらしい青年の上に、我《われ》知らず想いが移って行くことであった。十八歳でボナシュー氏と結婚してからは、まわりの男といえば夫の友だちばかりで、どちらかといえば身分に比べて気位の高いこの若い女に甘い気持ちを抱かせるほどの男もいなかったから、ボナシュー夫人はつまらぬ誘惑にかられるようなこともなく過ぎてきた。
しかしこの時代は、とくに貴族という称号が町人のあいだに大きな力があって、ダルタニャンは、その貴族なのだ。おまけに親衛隊の制服を着ている。これがまた、銃士隊の制服に次いで、女性のあこがれの的《まと》だった。それにくどいようだが、この青年は若くて美貌の持ち主で、冒険好きときている。愛し愛されたいという気持ちで、むきになって恋を語る男なのだ。これだけあれば、二十三歳の女の頭をぼうっとさせるにはじゅうぶん以上のものだが、そのボナシュー夫人がいまやちょうど、その人生の花ともいうべき年齢に達していたのだ。
このようにこの二人の夫婦は、一週間以上も顔を合わさず、しかもその一週間のあいだに、それぞれ重大な出来事があった関係上、なんとなく懸念《けねん》を抱いて近寄った。でもボナシューはさすがに喜びを隠しきれず、両腕をひろげて妻のほうにやってきた。
ボナシュー夫人は額《ひたい》をさしだすと、すぐに、「ちょっとお話がありますの」といった。
「なんだね?」と、びっくりしてボナシューが聞き返す。
「そうよ、とても重大な話があるのよ」
「じつは、こっちにも、大事なことであんたに聞きたいことがあるのだがね。あの誘拐《ゆうかい》された模様のことを、少し話してもらえないかね」
「いまは、そんな話どころじゃないのよ」と、ボナシュー夫人がいった。
「じゃ、なんのことだね? わたしがつかまったことかね?」
「そのことなら、あの日のうちに聞いてしまったわ。だけど、あなたは何も悪いことをなさってはいないし、べつに陰謀に関係しているわけでもないし、あなた自身はもちろん、だれかを巻きぞえにするような話を知っているわけはないのだから、あたし、そんなに気にしなかったわ」
「気楽なことをいってらあ!」
ボナシューは細君が冷淡なのにむっとして、「このわたしは、一日一晩、バスティーユの地下牢《ちかろう》にほうりこまれていたんだぞ」と、どなった。
「一日や一晩ぐらい、すぐたちますよ。その話はあとにして、あたしがなぜ帰ってきたか、その話を聞いてちょうだい」
「なに? 帰ってきたわけだって! それじゃあ、一週間も別れていた亭主の顔が見たかったからじゃないのか?」と、小間物屋は大いに感情を害して、聞き返した。
「それはそれとして、別の話があるのよ」
「言ってみなさい!」
「そりゃあ、とても大事なことで、それでこれからのあたしたちの運命がきまるかもしれないようなことなんですよ」
「わしらの運命はな、あんたの留守中に、形勢ががらりと変わったんだぜ。これから数か月すると、世間のみんなにうらやましがられるような身分になるかもしれん」
「そうよ、あたしがこれから頼むことを聞いてくれたら、いよいよそうなると思うんだけど」
「わたしにかい?」
「そうよ、あなたによ。りっぱな正しい行ないをして、同時にお金がたんまりはいるんだから」
ボナシュー夫人は金のことを言うのが、夫の泣きどころを突くということを知っていた。しかし相手は小間物屋でも、リシュリュー枢機卿と十分間も話してきた現在では、人間が変わってしまっていた。
「うんと金がはいるのかい!」ボナシューは唇をとがらせていった。
「ええ、たくさん」
「だいたい、どのくらいだい?」
「さあ、千ピストールぐらいかしら」
「では、その仕事というのは、よっぽど重大だとみえるね」
「そうよ」
「どんなことをするんだい?」
「これからすぐに出発するの。あたしが渡す書類を持って、どんなことがあっても手放さずに、必ず先方にじかに手渡すこと」
「で、行先は?」
「ロンドン」
「へえ、ロンドンへか! 冗談じゃない。わたしはロンドンなんかに用はないよ」
「でも、あなたにあそこへ行って欲しいっていう人があるのよ」
「その人って、だれなんだ? いっておくが、もうわしは目隠しされたままではなんにもしないぞ。自分のする仕事はなんのためか、そればかりではなくてだれのためかってことを、ちゃんと知っておきたいのだ」
「ある身分の高い方が、あなたをお使いに立てるのよ。そしてやはり身分の高い方が、あなたの来るのを待っているんです。ご褒美《ほうび》はあなたの想像以上だってこと。あたくしがお約束できるのはこれだけだわ」
「また陰謀だ、あい変わらず陰謀か! もうたくさんだ、こんどはその手は食わんぞ。枢機卿さまにちゃんと教わったからな」
「枢機卿ですって! 枢機卿にお会いになったのですか?」と、ボナシュー夫人は叫んだ。
「お呼びいただいたもんでね」と、小間物屋はほこらしげに答えた。
「それであなたは、いい気になって出向いたっていうわけね、なにしろ軽はずみなことを平気でする人なんだから」
「そうじゃない、行くも行かぬも、こっちの自由にならなかったのだよ。衛士に両脇から挟《はさ》まれて行ったんだからね。ほんとうのところ、そのときは枢機卿なんて知らなかったのだから、行かずにすめばそのほうがいいと思っていたのさ」
「では、ひどいめにあったんでしょう? こわいめにもあったんでしょう?」
「ところがわたしに手をさし伸べて、[親しい友よ]とお呼びなさった! どうだい! わたしはあのえらい枢機卿のお友だちなんだよ」
「まあ、えらい枢機卿だって!」
「そう呼んで悪いのかい?」
「べつに反対するわけじゃないけれど、でもああいう宰相の寵遇《ちょうぐう》なんて、いつどうなるものやらわからないから、そういう人に味方するのは、ばかげた話だと思うわ。あの方よりももっと権力のある方がいらっしゃいますわ。気まぐれ人の気持ちや事件の結果に左右されない権力というものがありますよ。そういう権力にこそお味方すべきですわ」
「だがね、残念ながら、いまのところわたしがお仕えしているえらい人の権力以外には、そうした権力があるとは思えんね」
「あなたは枢機卿さまにお仕えしてるんですか?」
「そうだよ、だからあの方に仕える身として、あんたが国家の治安を乱すような陰謀に加わったり、フランス人ではなくてスペイン人の心をもった女の人に仕えたりするのを、今後は許しておけんのさ。あのえらい枢機卿さまがいらっしゃって、なんでも見通しのきく鋭い眼光でにらんでおいでになるからいいようなものだが」
ボナシューは一語一語、ロシュフォール伯から聞いたとおりの言葉を繰り返していっているだけだが、かわいそうに細君のほうは、夫をあてにして王妃に受け合ってきただけに、いまにも迫って来る危険と、わが身の力なさとに、いたたまれぬ思いだった。しかし夫の弱点、ことにその貪欲《どんよく》さを知っているだけに、なんとかして目的を遂行《すいこう》しようと望みを捨てなかった。
「まあ、あなたってば、いつのまにか枢機卿のお味方になったのね! ご自分の妻をひどい目に合わせ、王妃さまに無礼なことをしたりする人たちに使われて平気なの!」
「個人の利害など、公の利害の前に出ればなんでもない。わしは国家を救おうとする人たちの味方だよ」と、勢いこんでボナシューはいった。
じつはこれもロシュフォールのいった言葉で、そっくりそのまま、ちょうどいい機会だと思って借用したのである。
「だけどあなたは、その国家というものがどういうものだか、いったい、わかっていらっしゃるの?」と、ボナシュー夫人は肩をすくめていった。「あなたはなんの才覚もない、平凡な市民で満足していらっしゃるのが分相応です。そして目先の得になることだけをしてりゃあいいのよ」
「ほい、ほい、これはどうだね!」
そういってボナシューは、まるくふくらんだ袋《ふくろ》をたたいて銀貨の音をさせながら、「どうだね、これは! お説教ずきの奥さん?」と、いった。
「そのお金、どうしたの?」
「わからないかね?」
「枢機卿さまから?」
「あの方と、その友だちのロシュフォールからさ」
「ロシュフォールですって! その人よ、あたしを連れだしたのは!」
「そうかもしれん」
「そういう人からお金もらっていいの?」
「あの誘拐はまったく政治上のことだって、あんたはいったじゃないか?」
「そうよ、でもあの誘拐は、あたしにご主人を裏切らせ、あたしを拷問《ごうもん》してでも、ご主人のお名前ばかりか、ご主人のお命までもあやうくさせるようなことを白状させるのが目的だったのよ」
「だがね」と、ボナシューはいった。「あんたのご主人さまというのは、不実なスペイン女なんだよ、枢機卿さまのなさることは当然なことさ」
「あなたっていう人が卑劣《ひれつ》でけちで、意気地《いくじ》なしだとは知ってたけれども、そんな恥知らずだとは知らなかったわ!」
「な、なんということをいうんだ?」
いままで細君の怒るところを見たことがなかったボナシューは、この怒りを前にしてたじたじの体《てい》だった。
「あんたほど下劣な人間ってないわ!」とボナシュー夫人は、夫が押され気味なのを見てとって、なお、おおいかぶさるようにしていった。
「ああ! あんたは策謀《さくぼう》をしているのね! 枢機卿派の陰謀に加わって! ああ、あなたっていう人は、お金のために、身も魂も売ってしまったんだわ」
「いや、枢機卿さまにだよ」
「同じことよ!」と、若い女は叫んだ。「リシュリューっていったって、悪魔っていったって」
「おだまり、おだまりったら! 人に聞かれたらどうする!」
「そうね、あんたの言うとおりだわ、あんたの卑劣なことが人に聞かれたら、あたし恥ずかしいわ」
「だが、いったいわたしに、何をしろっていうんだい?」
「さっき言ったじゃないの。すぐに出発して、あなたを見こんでお願いした役目を忠実に果たしてくださることよ。そうしてくだされば、いっさいを忘れてあげますわ。許してあげてよ。さあ」
そういって彼女は、手をさしだした。「さあ、仲直りしましょう」
ボナシューは意気地なしでけちな男だったが、細君を愛していた。彼は、ほろりとなった。五十男が、二十三歳になったばかりの細君に、そういつまでも怨みを抱いているわけにいかなかった。ボナシュー夫人は、彼がためらっているのを見て、「さあ、決心がついたでしょう?」といった。
「だがね、あんたがしてくれっていうことを、もう少し考えてみてくれよ。ロンドンといやあ、パリからはずいぶん遠いんだよ。それに、たぶんおまえの仕事というのは、危険がないことじゃあるまい」
「なんですよ、うまく避けりゃあ!」
「いや、こいつは、きっぱり断わることにしよう。そういう陰謀の手伝いは、あぶなくってしょうがない。わたしはバスティーユを見てきた。ぶるぶるっ! こわいところだ! 思いだしても、身ぶるいがするよ。わたしは拷問《ごうもん》されたんだ。拷問ってどんなものか知ってるかね? 両足のあいだに角材を突っこんで、骨もくだけんばかりに締めつけるんだ。いやだよ、わたしは絶対に行かんよ。いやなこった! それより、どうしてあんた、自分で行かないんだい? ほんとうのところ、わたしは今日まで、あんたのことを思いちがいしてたよ。あんたは男だよ、それも気性の烈しい男さ」
「そして、あんたは女ね、ばかで愚鈍で、あわれな女なんだわ。そう、こわいのね! ええ、いいですとも! すぐに出発しないんなら、王妃さまの命令であなたを逮捕させて、あんたがそんなにこわがっているバスティーユにぶちこんであげるから」
ボナシューは、じっくり考えこんだ。頭の中で、枢機卿の怒りと王妃の怒りとどっちが大きいかを、とくとはかってみた。その結果は、枢機卿の怒りのほうが、ずしりと重く感じられた。
「王妃さまの命令でわたしを逮捕させるなら、そうしたらいい。わたしは枢機卿側になる」
こうはっきりと言われてボナシュー夫人は、これは言い過ぎだったと気づき、あまりに深入りしすぎたのがこわくなった。彼女は瞬間、恐怖を感じている間抜け面《づら》といった、愚かなくせに固い決心を示しているその顔を眺めて、こわくなった。
「そんなら、いいわ!」と、彼女はいった。「おそらく、けっきょくはあなたの言うことが正しいのかもしれない。男のほうが女よりも、政治むきのことはくわしいってわけね。それにあなたは、枢機卿と会って話してきたんですからね。でもあなたっていう人は、あたしを愛していると思って当てにしていたのに、こんなにつれない仕打ちで、あたしのちょっとした思いつきも叶《かな》えてくれないなんて、ずいぶんひどいわ」
「その思いつきが、とんでもないことを招きそうだからだよ。だからうかつには乗れんのさ」とボナシューは勝ち誇っていった。
「では、あきらめますわ」と、若い細君はため息をついていった。「いいわ、この話は、もうやめにしましょう」
「だが、このわしがロンドンへ行って何をするのか、せめてそれだけでも聞いておこうか」
おそまきながらロシュフォールから細君の秘密をさぐっておくようにと言われていたことを思いだして、ボナシューがいった。
「そんなこと、知ったところでむだですわ」と、本能的に疑惑を感じた若い女は、こんどは尻《しり》ごみをしはじめた。「あのね、女たちが欲しがるようなつまらないものを買うためよ。お礼はたんまりもらえたんですけれどもね」
だが、彼女が打ち明けまいとすればするほど、かえってボナシューは、彼女がはっきり言いたがらない秘密が重大なものに思えてならなかった。そこで彼は、すぐにもロシュフォールのところへ行って、王妃がロンドンへ送る使者をさがしていることを知らせようと決心した。
「ちょっと、わたしは外出するがね」と、彼はいった。「あんたが帰って来ることを知らないもんだから、友だちと会う約束をしちまってね。すぐ帰ってくるよ。ほんのちょっとだから待っていてくれれば、用がすみしだいすぐに戻ってきて、もうだいぶおそいようだからルーヴルまで送って行ってあげるよ」
「けっこうよ」と、ボナシュー夫人は答えた。「どうせあなたは、あたしの用をしてくださるほどの勇気もないんだから、あたしルーヴル宮へは、一人で帰りますよ」
「では、好きにするがいい」と、もはや小間物屋ではなくなった彼は、こういった。「そのうち、また会えるだろうね?」
「ええ、たぶん来週あたりね。もしお閑《ひま》がいただけるようだったら、家の中を片づけに帰ってきますわ、だいぶ散らかっているようですから」
「そうかい。じゃ、待ってるとしよう。もう、わたしのことを悪く思ってないだろうね?」
「あたしがですか? いいえ、ちっとも」
「じゃ、近いうちに?」
「ええ、そのうちに」
ボナシューは細君の手に接吻をすると、急いで出て行った。
夫が表の戸をしめて出て行き、一人になるとボナシュー夫人はつぶやいた。
「そうだわ、あのおばかさんが枢機卿につくのは、はじめからわかってたわ! それなのにあたしは王妃さまに安うけあいをしてしまって、あのお気の毒なご主人に約束なんかしてしまって……ああ! どうしましょう! きっと王妃さまはあたしを、宮中にうようよしている、だれかから差し向けられてスパイとしておそばにお仕えしているつまらない女の一人だとお思いになるわ。ああ、ボナシュー! あんたなんかいままでだってそんなに愛しちゃいなかったけれども、いまじゃそれどころではない、憎いわ! 覚えておいで、きっと仕返ししてやるから!」
彼女がこういったちょうどそのとき、天井をたたく音がしたので顔をあげると、天井板を通して声がした。
「ボナシューの奥さん、小道のほうの小さい入口をあけてください。いま降りて、そちらへ行きますから」
十八 恋人と亭主
「ああ、奥さん」と、若い細君があけてくれた戸口からはいりながら、ダルタニャンは声をかけた。
「失礼なことを申すようですが、あなたのご亭主は情けない男ですな」
「では、あたしたちの話をお聞きになりましたの?」
ダルタニャンの顔を心配そうに見守りながら、ボナシュー夫人はせきこんでたずねた。
「何もかも」
「でも、どうしてそんなことが? まあ!」
「わたしだけが知っているある方法でね。前にもこの方法で、あなたが枢機卿側の警吏と烈しく言い争っているのを聞いたことがありますよ」
「それで、あたしたちの話から、どんなことがわかりまして?」
「いろいろなことが。まず第一にあなたのご亭主は間抜けで阿呆だっていうことが。これはぐあいのいいことなんですが。次にあなたがたいへんお困りのことが。これも、わたしにとってはたいへんうれしいことでして、つまりわたしに、あなたのためにお尽くしできる機会を与えてくれるわけですからね。あなたのためなら、火の中にでも飛びこむつもりでいることは、神さまがよくごぞんじですからね。最後に、王妃さまがロンドンへお遣《つか》わしになる使者として、勇敢で頭がよくはたらき、誠実に尽くす人をお求めになっていられること。ところでわたしは、少なくともその三つの中の二つの資格は備えている者と思い、ここに現われたのです」
ボナシュー夫人は答えなかった。が、喜びで胸は波打ち、眼はひそかな期待で輝いた。
「で、もしもこの役目をあなたにお頼みするとしたら、どんな保証をしてくださいますの?」と彼女はたずねた。
「あなたに対する愛情です。さあ、いってください、お命じになってください、どういうことをするんですか?」
「ああ、困ったわ!」と、若い女はつぶやいた。「このような秘密を、あなたに打ち明けていいものかしら? まだ子どものようなあなたに!」
「では、だれかわたしのことをあなたに保証してくれる人があればいいんですね」
「ほんとうのところ、そういう人があれば、たいへん安心なんですけれども」
「アトスを知っていますか?」
「いいえ」
「ポルトスは?」
「いいえ」
「アラミスは?」
「いいえ、なんですか、その人たちは?」
「近衛《このえ》の銃士たちです。その隊長のトレヴィール殿はごぞんじでしょう?」
「ええ、ええ、その方ならぞんじあげております。個人的にはぞんじませんが、王妃さまがよく、あれは勇気があって忠節なお方だとお話しになっているのを聞いたことがございます」
「あの方が枢機卿に通じてあなたを裏切るだろうとは、まさかあなたは思わないでしょうね?」
「ええ、そんなことはけっして」
「では! あの方にあなたの秘密をお話しになってください。そしてそれがどんなに重大で大切なことであり、恐ろしいことであろうとも、あなたがわたしにそれを頼めるかどうか、あの方におたずねになってください」
「でも、その秘密はあたしのものではありませんもの、あたし一存でそんなふうに打ち明けられませんわ」
「あなたは、そんな大切な秘密を、ボナシュー氏には打ち明けようとなさいましたね」と、ダルタニャンは、怨《うら》めしそうにいった。
「それはもう、木の洞《ほこら》や、鳩《はと》のつばさや、犬の首輪に手紙を托《たく》そうという気持ちでしたわ」
「でも、このわたしが、あなたを愛していることはよくおわかりでしょうに」
「ご自分ではそうおっしゃいますが」
「わたしは信義を重んじる人間ですよ!」
「あたくしも、そうだとは思いますわ」
「わたしには勇気があります!」
「ああ! そのことなら、あたくし、確信しますわ」
「では、わたしをためしてみてください」
ボナシュー夫人はまだ最後のためらいを捨てかねて、じっと青年の顔を見つめた。ところがその眼には燃えるような熱意があり、その声には固い信念がこもっていたので、彼女はこの男を信じてもいいような気になった。それに彼女はいまや、のるかそるか、思いきってやってみなければならないところへ追いつめられていた。あまりに用心しすぎても、あまりに信用することも、どちらも王妃の身を危うくする危険があった。さらに本心をいってみれば、彼女がこの若い保護者に感じている、ある打ち勝ちがたい気持ちが、とうとう打ち明ける決心をさせてしまったのである。
「では、お話しますわ」と、彼女は口をきった。「あなたのお言葉や確信のほどには負けましたわ。でもこれをお聞きになっている神さまの前に誓って申しますが、もしあなたがあたくしを裏切ったら、たとえあたくしの敵があたしを許そうとも、あたしは死であなたを呪いながら、自殺して果てるでしょうよ」
「わたしも神の前に誓いますよ」と、ダルタニャンはいった。「もしわたしがあなたのご命令を果たす途中で捕えられたら、そのためにだれかの迷惑になるようなことを何もせずに、また何も言わずに、死んでみせます」
そこでこの若い女は、偶然サマリアの女の像の前でその一部を彼に見せてしまった恐るべき秘密を、この男に打ち明けた。これで二人は、お互いに恋を告白し合ったわけだ。
ダルタニャンの顔は、喜びと誇りに輝いていた。彼が自分のものにした秘密、彼が愛している女、信頼と愛情、そういったものが彼を巨人にしたのだ。
「出かけます、すぐに出発しましょう」と、彼はいった。
「ええっ! もうお発《た》ちになるのですか!」と、ボナシュー夫人は叫んだ。「では、隊のほうは? 隊長さんには?」
「まったく、あなたのおかげで、そういうことは、とんと忘れておりましたわい、愛するコンスタンス! そう、たしかにあなたの言うとおりだ。休暇をとらなければいけない」
「また一つ障害ができましたね」ボナシュー夫人は悲しそうにつぶやいた。
「なあに、このくらい!」と、ダルタニャンはちょっと考えこんでから答えた。
「うまく切り抜けてみせますよ。ご安心なさって」
「どうやって?」
「今晩トレヴィール殿に会いに行きましょう。そして、あの方の義弟エサール殿に、わたしの休暇のことを頼んでいただくことにしましょう」
「もう一つ心配が」
「なんですか?」ボナシュー夫人が言いにくそうにもじもじしているのを見て、ダルタニャンがきいた。
「たぶんあなたは、お金を持たないんでしょう?」
「たぶんだけは、よけいですよ」と、ダルタニャンは笑いながら答えた。
「では」と言いながらボナシュー夫人は戸棚をあけて、三十分ほと前に夫があんなに大切そうになでさすっていた袋を取りだした。「これを持ってらっしゃい」
「枢機卿からもらったものですね」と、ダルタニャンは、大声で笑った。諸君もご承知のとおり床板をはずしておいたので、小間物屋とその細君との会話は、細大|洩《も》らさず彼は聞いていたのである。
「枢機卿からのお金ですよ」と、ボナシュー夫人は答えた。「こうしてみると、けっこうありがたいものですね」
「まったく!」と、ダルタニャンは叫んだ。「枢機卿のお金で王妃さまの危急が救えるというのは、二重の喜びですな」
「あなたは、ほんとうにいい方ね」と、ボナシュー夫人はいった。「王妃さまも、きっと悪いようには扱わないでしょうよ」
「なあに、わたしはもうじゅうぶんに報《むく》いられていますよ。わたしがあなたを愛しているっていうこと、それをこうやって言うことをあなたは許してくださるのだから、それだけでもう望外の幸福ですよ」
「しっ、静かに!」と、ボナシュー夫人は身震いしながらいった。
「なんですか?」
「通りに人声がします」
「あの声は?」
「夫ですわ。ええ、たしかにそうです!」
ダルタニャンは急いで戸口に走って、錠《じょう》をおろした。
「わたしが出て行くまで、はいってきては困るな。わたしが出てしまったら、あけておやりなさい」
「でも、あたしもそれまでに出ていなければ。ここにいたら、どうしてお金のなくなった言いわけがたつでしょうか?」
「なるほど。出たほうがいい」
「どうやって外へ出るの? 外へ出たら見つかりますわ」
「では、わたしの部屋へいらっしゃい」
「ああ!」と、ボナシュー夫人は叫んだ。「そんなふうにおっしゃると、あたし、こわくなりますわ」
ボナシュー夫人はそう言いながち、眼に涙を浮かべていた。その涙を見てダルタニャンはかわいそうでたまらなくなり、彼女のひざに身を投げかけた。
「わたしの部屋にきても、まるで寺院にいるように安心していてください。貴族として、そのことは誓って守りますから」
「行きましょう、あなたのお言葉を信じて」
ダルタニャンはそっと錠をはずして、二人は影のようにこっそりと、小道に向かってあいている小さい戸口から出た。それから足音を忍ばせて階段を昇り、ダルタニャンの部屋にはいった。
部屋にはいってからも、なおいっそう安全を確保するために、青年は内側から戸を動かぬようにした。それから二人して窓に近づき、鎧戸《よろいど》の透き間からのぞくと、ボナシューが外套《がいとう》を着ている男と話しているのが見えた。その外套を着ている男を見るなり、ダルタニャンはおどりあがって、半ば剣を抜きはなち、戸口にむかって駆けだした。
それは、マンの男だったのだ。
「何をしようとなさるの?」ボナシュー夫人は叫んだ。「そんなことをしたら、あたしたちは、だめになってしまうじゃありませんか」
「でも、あの男をぜひ殺すと誓ったのですから」
「あなたのからだは今ある方に捧げてあるので、あなたのものではありませんよ。王妃さまのお名によって、あなたが旅行以外の危険に身をさらすことを禁じます」
「あなたの名によっては、何もお命じにならないのですか?」
「ええ、あたしの名によっても」と、ボナシュー夫人は、烈しい感動をこめて叫んだ。「お願いしますわ。おや、お聞きになって。なにかあたしのことをしゃべっているようですよ」
ダルタニャンは窓のそばに行って、耳を澄ました。
ボナシューは入口の戸をあけてみて、だれもいないのを見ると、待たせてあった外套の男のところへもどってきた。
「家内は出かけました。もうルーヴル宮に帰っているでしょう」
「あの人は、あなたが出て行ったのがどういう目的だか感づいてはいなかったかね?」
「いや」と、ボナシューは自信たっぷりで答えた。「うちは、ごくあさはかな女ですから」
「親衛隊の若者は、在宅でしょうか?」
「いないでしょうね。ごらんのとおり、鎧戸はしまっておりますし、透き間からちっとも灯がもれていませんからね」
「どっちにしても、確かめてみる必要はありますね」
「どういうふうにしてですか?」
「部屋の入口をたたいてみるんだね」
「あの男の従僕《じゅうぼく》にたずねてみましょう」
「行ってきなさい」
ボナシューは、さっき二人が通った小さい戸口から出て階上へ行き、ダルタニャンの部屋の戸をたたいた。
だれも答えはしない。その夜はちょうどポルトスが、例によって虚勢を張るためにプランシェを借りて出て行ったのだった。ダルタニャンにいたっては、その存在を示すようなことをする気はなかった。
「だれもいないようでした」と、ボナシューはもどってきていった。
「どっちにしても、お宅にはいろう。戸口にいるよりも、そのほうが安全だからな」
「ああ、困ったわね! もう話し声が聞こえやしない」と、ボナシュー夫人がつぶやいた。
「なあに、そのほうが、かえってよく聞こえるんですよ」
そういってダルタニャンは、例の床板を三、四枚めくって、絨毯《じゅうたん》を敷いた。これで彼の部屋は、かのドニ王(シラクサの王。紀元前四〇五〜三九八年。猜疑心がつよく、いつも衣服の下に鎧を着込み、ふた晩つづけて同じ部屋には眠らなかった。囚人の地下牢から通じる耳の形をした聴音室に陣どって、囚人の私語を聞いては処罰したという)の盗聴室のようになった。そうしてから彼はひざをついて、彼がしているように穴ぼこにかがみこむようにとボナシュー夫人に合図をした。階下では、
「たしかにだれもいないね?」と、未知の男。
「だいじょうぶですよ」ボナシューの声。
「では、奥さんは?……」
「ルーヴル宮に帰りました」
「きみ以外にはだれとも話をしないで?」
「もちろん、そうでしょうね?」
「これは重要なことだからね、いいかい?」
「ところで、お知らせしたことは、お役にたったのでしょうか?」
「たいした値打ちものだよ、ボナシュー君、正直にそう申しあげる」
「では、枢機卿もご満足でしょうな?」
「もちろんのことです」
「ああ、偉大な枢機卿さま!」
「奥さんとの話の中で、だれかの名前は出てこなかったですか?」
「出なかったようでした」
「シュヴルーズ夫人とか、バッキンガム公とか、ヴェルネ夫人とかいった名前が?」
「いいえ。ただわたしをロンドンへやるのは、ただ高貴な方の御用だとは申しましたが」
「裏切り者!」と、ボナシュー夫人はつぶやいた。
「しっ!」と制しながらダルタニャンは、彼女がいつとはなしに彼にゆだねていたその手をぎゅっと握りしめた。
「とにかく」と、その外套の男はつづけた。「きみがその使いの役を引き受けるような顔をしなかったのはまずかったな。手紙を手に入れることができたのに。そうすれば国家の危機が救われ、君にしたって……」
「わたしが?」
「そうさ、きみは枢機卿から貴族の称号がいただけたのにさ」
「そんなことを、あの方はおっしゃっていたのですか?」
「そうとも。不意にそうしてやって、あっときみを驚かせるおつもりだったのだよ」
「ご安心ください」と、ボナシューはいった。「家内はあれでわたしが好きですし、まだ間に合うでしょうから」
「ばか者!」ボナシュー夫人がつぶやいた。
「しっ!」とダルタニャンはいって、さらに強く手を握りしめた。
「まだ間に合うというと?」と、外套の男。
「わたしはこれからルーヴルへ駆けつけて、家内を呼び出し、さっきの話は考え直したっていって話を元にもどし、手紙を手に入れて枢機卿さまのところへ」
「よろしい! すぐ行きたまえ。わたしはその結果を聞きにすぐまたここへ来よう」
未知の男は出て行った。
「恥知らず!」ボナシュー夫人はまたこのような形容詞を付して夫をののしった。
「しっ!」とダルタニャンはくり返して、またさらに強く女の手を握りしめた。
そのとき恐ろしいわめき声がしてきて、考えこんでいたダルタニャンとボナシュー夫人を、はっと我に返らせた。金のはいっていた袋が見当たらないので、どろぼう、どろぼうと叫んでいたのである。
「ああ、どうしましょう! 町の人たちが騒ぎだしますわ」と、ボナシュー夫人は心配した。ボナシューは長いあいだわめきたてていたが、そういう叫び声は珍しくないし、フォソワイユール街の住民たちを呼び覚ますことはできなかった。ことに小間物屋の店はここのところ評判がわるかったから、だれも出て来なかった。そうと知ったボナシューは、なおわめきながら外に飛びだしたが、その声はバック街の方角に消え去って行った。
「さあ、あの人が出て行ったから、こんどはあなたが出て行く番ね」
ボナシュー夫人はそういった。「勇気をふるって、というより特に慎重になさってくださいね。王妃さまのおためだということをお忘れなく」
「あの方とあなたのためですよ!」と、ダルタニャンは答えた。「ご安心ください。美しいコンスタンス、王妃さまの感謝を受ける身となって帰ってきますからね。しかし帰ってきたときは、あなたの愛も期待できるでしょうね?」
若い女はぱっと赤く頬《ほお》を染めて、それに答えただけだった。しばらくしてダルタニャンは、その家を出た。やはり大きな外套で身を包み、その裾《すそ》を長剣の鞘《さや》で勇ましく跳《は》ねあげながら。
ボナシュー夫人は愛情のこもった視線で、いつまでもその姿を目で追った。それは女性が愛されていると感じている男に送る、あの視線であった。が、その姿が町角で消え去ると、彼女はひざまずいて両手を合わせて叫んだ。
「ああ、神さま! どうぞ王妃さまをお守りください、そしてこのあたくしをお守りくださるように!」
十九 作戦
ダルタニャンはその足で、トレヴィール邸に行った。数分内に枢機卿は、その手先と思われるあの憎むべき男から報告を受けるにちがいないから、一刻も猶予《ゆうよ》はならぬと彼が考えたのは正しかった。
青年の胸は喜びではちきれそうだった。名誉と富とを手にいれる機会が目の前に現われたのだった。しかもそれを最初から煽《あお》り立てるかのように、熱愛する女に近づくことができたのだった。思いがけずに一挙にして、神に求めても得られなかったであろうものを手に入れる機会を与えられたのだった。
トレヴィール殿は、常連の貴族たちと客間にいた。ダルタニャンもこの家に親しく出入りしている者の一人として知られていたので、まっすぐに書斎に通り、重大な用件でお会いしたいと申しこんだ。
五分と待たないうちに、トレヴィール殿が出てきた。青年の顔に輝いている喜びの表情をひと目見るなり、隊長はすぐに、また何か新しいことが起こったなと見てとった。
道々彼は、事実をそのままトレヴィール殿に打ち明けたものか、それともこの秘密の役目を何も聞かないで黙許してもらうべきか、いろいろと考えながら来たのだった。だがトレヴィール殿には常日ごろ恩顧《おんこ》を受けている身ではあるし、王や王妃には忠誠を誓い、枢機卿を腹の底から憎んでいるトレヴィール殿であってみれば、この人にはすべてを言うべきだと、青年は決心した。
「わたしに用があるそうだね?」と、トレヴィール殿がたずねた。
「はい、隊長」と、ダルタニャンは答えた。
「ご多用中をお邪魔しましたが、しかし事の重大なのがおわかりになれば、それもお許しいただけると思いまして」
「では言いたまえ、聞いてあげよう」
「ほかでもございません」ダルタニャンは一段と声を落として、「これは王妃さまのご名誉、いやおそらくはお命にもかかわる問題なのでございます」
「なんだと?」トレヴィール殿はまわりを見まわし、二人のほかにだれもいないのを見さだめると、ダルタニャンのほうをきっと見た。
「じつは、ある偶然のことから、わたしはある秘密を知りまして……」
「秘密を知ったら、命をかけても守るがよいぞ」
「だが、隊長殿には話さねばなりません。隊長のご助力を得ないことには、王妃さまからお受けした役目を果たすことはできませんので」
「秘密というのは、おまえのものか?」
「いいえ、それは王妃さまのでして」
「王妃さまから、わたしに打ち明けてもよいとのお許しを得ているのか?」
「いいえ、それどころか、絶対に他にもらしてはいけないときついご命令でして」
「では、なぜそのようなご命令にそむくのか、このわたしに?」
「でも、ただいまも申しましたとおり、あなたさまのご助力を願わねば、わたしには何もできませんし、その目的をご承知なければ、お願いすることもお聞き入れくださるまいと思いましたものですから」
「秘密はもらさんでおきたまえ。そして、ただその願いだけをいってごらん」
「エサール侯から二週間の休暇が得られますよう、お口添えをお願いしたいので」
「いつからだね?」
「今夜からです」
「パリを去るのか?」
「使者として発《た》ちます」
「行き先は、いってもいいのかい?」
「ロンドンです」
「おまえが目的を果たせないことを望んでいる者があるかね?」
「おそらく枢機卿殿は、わたしの目的達成をじゃまするためなら手段は選ばないでしょう」
「それで、一人で行く気か?」
「はい、一人で発ちます」
「それでは、ボンディから先へは行けまい。このわたしが断言するよ」
「どうしてでございます?」
「やられてしまうな」
「役目を果たすためなら、死は覚悟のことです」
「だが、それでは使命は果たされまい」
「なるほど」と、ダルタニャンはいった。
「いいかい」と、トレヴィールはつづけた。「ふつうそういう役目を遂行する場合、四人でやって一人がやっと行きつけるもんだ」
「たしかに、ごもっともです。さいわい例のアトス、ポルトス、アラミスの三人がおります。この三人なら、わたしの言うことをなんでも聞いてくれることは、隊長もごぞんじのはずです」
「秘密をあかさずにかい? もっともわたしも聞こうとはしなかったが」
「われわれはかねてより、盲目的な信頼と絶対の献身とを誓い合った仲なのです。なお隊長殿の口から、わたしを信頼して万事任せてあると、ひと言いってくだされば、あの連中も隊長と同じように、なにも聞こうとはいたしますまい」
「わしに出来ることは、三人に二週間の休暇が与えられることだな。アトスには、傷の治療にフォルジュの鉱泉に行くことをすすめる。ポルトスとアラミスには、病人を一人で放っておくのは気がかりだろうから、友人としてついて行くがいいといってやる。休暇をやれば、連中の旅に出ることをわたしが認めたことになるからな」
「ありがとうございます。お礼の言葉もございません」
「すぐに、みんなに会いに行け。今夜のうちに実行に移すんだ。ああ、そうだ! エザール殿宛のおまえの休暇願いを書いておいてもらおうか。おそらくおまえは尾行されているかもしれん。とすれば、今夜ここへ来たことはすでに枢機卿の耳にはいっているのだから、理由のたつようにしておかねば」
ダルタニャンが願書を書いたのを受けとってトレヴィール殿は、朝の二時前には四つの休暇の許可書がそれぞれの宿舎に届くようにすると約束した。
「わたしの分もアトスのもとへお送りくださいますように。家へ帰りますと、また悪い奴に出会うとめんどうですから」
「承知した。では、元気で、道中気をつけて! ときに」と、トレヴィールは彼を呼びとめた。ダルタニャンが戻ってくると、「金はあるのか?」ときいた。
ダルタニャンは返事の代わりに、懐中《かいちゅう》の例の袋をたたいてみせた。
「たりるのか?」と、トレヴィール殿。
「三百ピストールございます」
「よかろう、それだけあれば世界の果てまで行ける。では、行け」
ダルタニャンは頭をさげると、トレヴィール殿は手をさしだした。彼はその手を、感謝と敬意とをこめて握った。パリに着いて以来、彼はこの人には感服させられてばかりいた。威厳があって誠実で、じつに偉大な人物だった。
彼が最初に行ったのは、アラミスの家だった。ボナシュー夫人を尾行したあの晩以来、彼はこの友人のもとへは来たことがなかった。それにこの友と会う機会はこのごろめったになく、たまに会えば、いつもきまって沈んだ顔をしていた。
その晩もアラミスは、何か考えこんでいるようすで、浮かぬ顔をしていた。ダルタニャンがその深い憂鬱《ゆううつ》の理由をたずねてみたら、アラミスは来週までに聖アウグスチヌスの第十八章の訳稿をラテン語で書かねばならないので、それがひどく気になっているのだとのことだった。
しばらくそうして話しているところへ、トレヴィール殿の従僕が一通の封書を持ってはいってきた。
「これはなんだ?」と、アラミスはたずねた。
「お申し出になった休暇の許可です」との返事だった。
「休暇なんか願い出やしないよ」
「だまって、受けとっておけばいい」ダルタニャンが横合いから口をだした。
「いや、ご苦労。ほら半ピストール、お使い賃だ。トレヴィール殿に、アラミスがお礼を申していたとお伝えしてくれ。もういいから帰りな」
従僕はうやうやしくおじぎをして出て行った。
「これはいったい、どういう意味だ?」と、アラミスがたずねた。
「二週間の旅の用意をして、このわたしについて来るんだ」
「だが、おれはいまパリを発つわけにはゆかん。あのことがわからねば……」そういってアラミスは、口をつぐんだ。
「あの人がどうなるかだろう?」と、ダルタニャンがそのあとを受けていった。
「だれのことだ?」と、アラミスは聞き返す。
「ここにいた女の人さ。あの刺繍《ししゅう》したハンカチの主のことさ」
「ここに女がいたなどと、誰が貴公にいったのだ?」アラミスの顔は、死人のように蒼白になった。
「この目で見たんだよ」
「だれだか、貴公わかってるのか?」
「だいたい見当はついてるな」
「おい、貴公はいろいろなことを知っている男だから、あのひとがその後どうなったか、知っているだろう?」と、アラミスはたずねた。
「トゥールに帰っていると思うな」
「トゥールにか? なるほど、そうだろうね。貴公はあのひとを知ってるんだな。だが、どうしておれにひと言もいわないで、トゥールに帰ってしまったんだろう?」
「つかまると困ると思ったんだろうな」
「でも、手紙ぐらいはよこしたって?」
「あとで貴公に迷惑をかけてはと心配したんだろう」
「ダルタニャン、その言葉で貴公はおれを蘇生《そせい》させてくれた! おれは軽蔑され、裏切られたとばかり思っていたんだ。あのとき会えて、あんなにうれしかったのに! でも、おれ一人のために、ああまで危険をおかしたとはどうしても信じられないがな。いったい、どういうわけでパリへやって来たんだろうな?」
「今日われわれが、これからイギリスへ出かけるわけが、つまりそれなのさ」
「というと、どういうわけなんだ?」と、アラミスがきいた。
「いまにわかるよ、アラミス。だが、いまのところは、いつかの貴公の[学者の姪《めい》]にならっておこう」
アラミスは苦笑した。いつかの夜、友だちに聞かせた話を思いだしたからである。
「よし。あの人がパリを発ったのが確かだというなら、もうおれはパリにとどまる理由は少しもない。いつでも貴公について行くよ。で、どこへ行くといったのかな?」
「取りあえず、アトスのところへだ。もし行く気があれば、急いでほしいな。だいぶ手間どったからな。それに、バザンにも知らせておくほうがいい」
「あの男も連れて行くのかい?」
「たぶんね。さしあたって、アトスのところまで来させておくがいい」
アラミスはバザンを呼んで、あとからアトスの家に来るようにと命じた。それから、「さあ、行こう」と、外套と剣と、三|挺《ちょう》の短銃を手にして、なお出て行く前に置き忘れた金貨がないものかと机の引きだしを三つ四つ開けてみたが、それもむだだとわかったので、ダルタニャンのあとにつづいて出た。彼は心中、この若い親衛隊士が、自分が宿に泊めた女のことを自分と同じくらいに知っていて、その後の女のようすは自分よりもよく知っているらしいのはどうしたわけだろうかと、考えていた。
ただ出がけに彼はダルタニャンの腕に手をかけて、じっとその顔を眺めながら、
「あのひとのことは、だれにも話さなかっただろうね?」と、たずねだ。
「だれにも言わんさ」
「アトスや、ポルトスにもだね?」
「あの連中には、これっぱかしも言やあしないさ」
「それでよかった」
大事なことがわかったので安心したアラミスは、ダルタニャンと並んで歩きだし、まもなく二人はアトスの家に着いた。
アトスは片手に休暇の許可書と、もう一方の手にトレヴィール殿の手紙を持って、考えこんでいるところだった。
「いま、こんなものが来たんだが、この休暇許可書と手紙とはどういう意味なのか、貴公たちにわかるかね?」と、けげんな顔をしてアトスがいった。
[#ここから1字下げ]
親愛なるアトスよ。貴下の健康上、絶対に必要と愚考するゆえに二週間休暇を取るように。フォルジュの鉱泉か、その他適当な地におもむいて、一刻も早く快癒《かいゆ》されんことを。 トレヴィール
[#ここで字下げ終わり]
「いいかねアトス、この許可書と手紙の意味は、このわたしについて来いということなんだよ」
「フォルジュの鉱泉にかい?」
「そこでなくてもいい、どこへでもさ」
「国王陛下のためにか?」
「陛下と王妃のおんためにだ。われわれは両陛下にお仕えする身ではないかね?」
そのとき、ポルトスが現われた。
「おい、おかしなことになったぞ」と、彼はいった。「いったいいつから銃士隊では、願い出もしない休暇が許可されるようになったのだい?」
「友人が代わりに願い出るようになったからさ」と、ダルタニャンが答えた。
「ははあ! なにか新しいことが起こったな?」と、ポルトスがしたり顔をしていった。
「そうだ。これからわれわれは出発するのだ」と、アラミスがいった。
「どこへ?」とポルトスはたずねる。
「いや、おれは知らん。ダルタニャンに聞いてくれ」と、アトス。
「ロンドンへだ、貴公たち」と、ダルタニャンがいった。
「ロンドンだって!」と、ポルトスは叫んだ。「なにをしにロンドンへ行くんだ?」
「さあ、そいつはちょっと言えないんだが、とにかく、おれを信用してくれ」
「だが、ロンドンへ行くには金がいるが、おれは金を持っていないよ」と、ポルトス。
「わたしもないさ」と、アラミス。
「おれもだ」と、アトス。
「ところが、おれは持ってるんだ」と、ダルタニャンはいって、ポケットから例のお宝を取りだし、テーブルの上にずしりと置いた。「この袋の中には、三百ピストールはいっている。めいめいが、七十五ピストールずつ取ることにしよう。それだけあれば、ロンドンに行って帰って来られる。それに心配はいらないさ、われわれみんながロンドンに行く必要はないんだから」
「そりゃあ、またなぜだね?」
「なぜならば、たぶんそうなると思うんだが、われわれの中の幾人かは、途中でとどまることになるだろうからな」
「それじゃあ、われわれがこれからやろうとするのは戦いなのかい?」
「それも、最も危険なやつだと思ってもらおう」
「へえ! しかしだな、死ぬかもしれないということになると、せめて目的ぐらいは知っておきたいもんだね」と、ポルトスがいった。
「貴公が聞いたところで、どうにもなるまい」と、アトス。
「しかし、おれはポルトスの意見に賛成だな」と、アラミス。
「陛下はいつも、われわれにご説明になるかね? そうではあるまい。ガスコーニュで戦う、またはフランドルで戦う、みんな、行って戦え! これだけだ。理由なんて、だれも気にかけないじゃないか」
「ダルタニャンの言うとおりだ」とアトスはいった。「ここにトレヴィール殿から三通の休暇の許しが来ている。出所は不明だが、三百ピストールの金はある。どこでも、行けというところへ行って、死ねばいいではないか。人生って、そんなに、いちいち理由を突きつめて行動せにゃならんものかね? ダルタニャン、おれはいつでも貴公について行くぞ」
「おれも行く」と、ポルトス。
「おれもだ」と、アラミスもいった。「パリを離れるのも悪くはない。気ばらしがしたかったところだ」
「よろしい! 気ばらしはたんまりさせてやる。大舟に乗った気でいろよ」と、ダルタニャンは答えた。
「ところで、出発はいつなんだ?」と、アトスがたずねた。
「これからすぐにだ。一刻も猶予はならん」と、ダルタニャンは答えた。
「おうい、グリモー、プランシェ、ムスクトン、バザン」と、四人の若者はそれぞれ従者を大声で呼んだ。「出発準備だ、隊の詰所へ行って、馬をひいて来い」
銃士たちは自分の馬も従者の馬も、ふつう軍隊が兵営に置くように、じじつ隊の詰所に置いていた。
プランシェ、グリモー、ムスクトン、バザンの四人は、大急ぎで出て行った。
「さあ、作戦を立てよう」と、ポルトスがいった。「まず最初にどこへ行く?」
「カレーだ。ロンドンへ行く順路だからな」と、ダルタニャンが答えた。
「よし! おれに考えがある」とポルトスがいった。
「言ってみろよ」
「四人がいっしょだと、あやしまれる。ダルタニャンがみんなをさしずするとして、おれはまず先駆けをして、ブーローニュ街道を進む。二時間後にアトスが、アミヤン街道を通って出発する。アラミスは、ノワイヨン街道からあとを追う。ダルタニャンはプランシェの服を着て、好きな道をとる。プランシェは親衛隊の服を着て、ダルタニャンに成りすまして、あとからついてくればいい」
「諸君」と、アトスがいった。「わたしの意見では、こういうことに従僕を入れるのはよくないと思うな。秘密というものは、れっきとした貴族だってふとしたことでもらすこともあるのに、従僕たちだったら売り渡しかねないからな」
「ポルトスの計画は、まず実行不可能のようだな」と、ダルタニャンがいった。
「わたし自身、どういうさしずをしていいかわからないのだが。わかっているのは、わたしが手紙の使者だということだけさ。一通持ってるだけで、封印がしてあるので、三通のコピーを取るわけにもいかない。だからおれの考えでは、やはり四人いっしょに旅をするよりほかはないだろう。手紙はここに、このポケットにはいっているんだ」
そういって彼は、手紙の在り場所を示した。「もしおれが殺されたら、貴公のうちのだれかが、これを取って旅をつづけてくれ。その者も殺されたら、残った者が代わる。そういうふうにして、だれかが目的地へ達すれば、それでいいわけだろう」
「よくいった、ダルタニャン! わたしの考えもそうだ」と、アトスは声をつよめていった。「ところで、やはり話の筋道はつけておく必要がある。おれは湯治《とうじ》に行く人間で、貴公らはいっしょについて来る。だが鉱泉の代わりに海水浴に行くことにしよう。それは、おれの勝手なんだからな。もし途中で逮捕して来たら、トレヴィール殿の手紙を見せりゃあいい。きみたちは休暇の許可書を出しゃあいいんだ。もし向かってきたら、防ぎゃあいいんだ。調べられたら、ちょっと海の塩水に浸りたいだけで、ほかに目的などござらんといって突っぱねりゃいい。四人がばらばらだとつかまるかもしれないが、四人いっしょなら、一つの軍勢だ。四人の従者には短銃や小銃を持たせておいて、もし敵が一隊になって攻めて来れば、それこそ目にもの見せてくれるぞ。そして生き残った者が、いまダルタニャンのいったように、手紙を持って旅をつづけたらいい」
「よくいった」と、アラミスが叫んだ。「貴公はめったにしゃべらん男だが、しゃべるとなると、まるであの黄金の弁舌といわれた聖ジャンのようだな。わたしはアトスの作戦に従うよ。どうだね、ポルトス?」
「おれもそうする」と、ポルトスが応じた。「ダルタニャンさえ異存がなければ、ダルタニャンが使者なのだから、当然こんどの計画の指揮に当たるべきだ。奴《やつ》の決定どおりに、われわれは動けばよい」
「よろしい!」と、ダルタニャンは叫んだ。「われわれはアトスの説に従うことにしよう。そして二十分後に出発する!」
「よし、そうしよう!」と、二人の銃士は声をそろえていった。そしてそれぞれ、手を袋に伸ばして、七十五ピストールずつを取ってから、定められた時刻に出発するための準備をはじめた。
二十 旅
朝の二時に、四人の勇士は、サン=ドニの市門からパリを出た。夜が明けないうちは、みんなは押しだまって歩いた。さすがに強《ごう》の者たちも、真っ暗闇の中では、そこらじゅうに伏兵がいるように思われたのだ。
朝の光がさすとともに、みんなの舌は解けはじめた。そして太陽が顔をだすと、ふだんの陽気さがもどってきた。戦の前夜のように心は波打ち、眼は輝いて、これからひょっとすると別れなければならないこの世は、なんといっても良いところだったなどと、そんな感慨《かんがい》にふけっていた。
この一行のいでたちは、とにかく、目を見張らすものがあった。銃士たちの黒い馬、その雄々しい装い、身についた規律正しい足並み、どう隠してもそれとわかる緊張感が見えた。
そのあとからは、完全武装をした従者たちがついてきた。
シャンティイに着いたのは八時ごろで、それまでは何事もなかった。朝食をとらなければならない。そこで、聖マルタンが貧者に外套を半分裂いて与えている看板の出ている宿屋の前で馬を降りた。従者たちには、鞍《くら》はつけたままにしておいて、いつでも出発できるようにしておけと命じた。
一同食堂にはいって、テーブルについた。
ダマルタン街道からやってきたばかりの貴族が一人、同じ食卓で朝食をしたためていた。この男が天気模様のことを話しかけてきた。こちらでも、それに受け答えをした。彼が健康を祝して盃《さかずき》をあげたので、こちらもそれに応じた。
やがて従者のムスクトンがやってきて馬の用意ができたというので、一同が食卓から立とうとしたとき、見知らぬ男はポルトスに向かって、リシュリュー枢機卿の健康を祝そうではないかといった。ポルトスは、喜んでそうしてもいいが、そのあとで国王陛下の健康も祝したらと答えた。するとその男は、枢機卿のほかには国王などは認めぬと言い放った。ポルトスがこの酔っぱらいめ、と言うと、相手はいきなり剣を抜き放った。
「ばかなことをしたもんだ」と、アトスがいった。「仕方がない。こうなったら、あとへは引けまい。そいつを斬《き》ってしまって、大急ぎであとから来い」
ポルトスがあらんかぎりの秘術を使って目にもの見せてくれるぞと呼ばわっているあいだに、三人は馬にまたがって、一散に駆けだした。
「これで、一人減った!」五百歩ばかり行ってから、アトスがいった。
「なんであの男は選《よ》りに選《よ》って、ポルトスを相手にしたんだろう?」と、アラミスがたずねた。
「ポルトスが大声で話すもんだから、われわれの指揮者だと思ったのだろう」と、ダルタニャンがいった。
「いつもながら、このガスコーニュの若いのは、知恵者だな」と、アトスがつぶやいた。
そんなことを言い合って、彼らは旅行をつづけた。
ボーヴェで二時間ほど、馬を休めるためとポルトスを待つためにとまった。二時間待ってもポルトスは現われず、なんの消息もないのでまた出発した。
ボーヴェから四キロばかり行くと、道が傾斜にはさまれて狭《せば》まっているところで、八人から十人ほどの男が、道が舗装されていないのを幸いに、道普請《みちぶしん》をしているふうを装って穴を掘って泥ぶかい溝《みぞ》を作っていた。
アラミスは、長靴がこねかえした泥でよごれるのを恐れて、あらあらしくどなりつけた。アトスがそれを止めようとしたが、まにあわなかった。男たちが口ぐちに、罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせてきたので、冷静なはずのアトスまでがかっとなり、その中の一人に向かって馬を突っかけた。
すると彼らはさっと溝のところまで退いて、そこに隠してあった銃を取りだした。たちまち一行七人は銃火の一斉攻撃を受けた。アラミスは肩を射抜かれ、ムスクトンは腰の肉づきのいい部分に弾《たま》を撃ちこまれた。が、落馬したのはムスクトンだけだった。自分で傷が見えないので、たぶんよほどひどくやられたと思ったのだろう。
「待ち伏せだ。こっちからは発砲しないで前進だ!」と、ダルタニャンは叫んだ。アラミスは傷を受けたが、馬のたてがみにしがみついて、一行についてきた。ムスクトンの馬もついてきて、乗り手なしのまま加わって走っていた。
「これは替え馬にしよう」と、アトスが言うと、「おれは帽子の替えが欲しいよ」と、ダルタニャンがいった。「弾でふっ飛ばされてしまってね。あの中に手紙を入れておかないで、ほんとうによかったよ」
「ほんとうだな! だがかわいそうに、ポルトスはあとから来たら、やられちまうな」と、アラミスが言うと、アトスは、
「ポルトスが生きていれば、もう追いついてるはずだよ。あの酔っぱらいめ、いざとなったら正気になったにちがいない」
こうして二時間ほど駆けた。馬は疲れきって、いまにも役に立たなくなりそうだったが、かまわずに走りつづけた。
一行は、このほうが危険が少ないと思ったので、間道《かんどう》をとった。クレーヴクールまで来ると、アラミスはこれ以上は進めないと言いだした。じじつ、ここまで来るには、その身だしなみのいい風采《ふうさい》と上品な物腰の下に秘められた根《こん》かぎりの勇をふるい起こしていたのである。彼の顔はひきつづいてまっさおで、だれかが馬上で彼を支えてやらねばならなかった。
そこで一軒の宿屋の前で彼を降ろし、バザンを付き添いに残した。この男は、小競合《こぜりあ》いにでもなると、かえって荷厄介になるような男だったからだ。そして一行は、アミヤンで泊まりたいものだと、先を急いだ。
「畜生!」駆けはじめると、アトスが吐きだすようにいった。「われわれ二人と、グリモーとプランシェだけになってしまった! もう断じて奴らの手には乗らんぞ。カレーまでは口もきかんし、剣も抜かん、おれは誓うぞ」
「誓うなんてやめろ。とにかく、突っ走るんだ、馬が倒れるまで!」と、ダルタニャンは叫んだ。
そして馬の腹に拍車を入れてみると、馬はひどく駆り立てられて、元気を取りもどした。アミヤンに着いたのは真夜中だった。リス・ドール館に投宿した。
宿の主人はたいへん好人物らしく見えた。片手に燭台を持ち、片手に木綿のナイト・キャップをつかんで、一行を出迎えた。彼は二人を上等の部屋に案内しようといったが、あいにくなことに部屋が建物の両端にあった。ダルタニャンとアトスとが断わると、ほかには殿さま方をお泊めできるような部屋はございませんと答えた。だが二人はきっぱりと、わらぶとんを下に敷いてくれればいいからいっしょの部屋に泊まるといった。亭主はなおも言い張ったが、旅行者も譲らなかった。とうとう二人の言うようになった。
二人は寝床を用意して、中から戸締りを厳重にした。そのとき中庭にあいている鎧戸《よろいど》をたたく音がしたので、だれかとたずねたら、従者の声だとわかったので、窓を開いた。
なるほど、プランシェとグリモーの顔があった。プランシェがこういった。
「馬の番はグリモーだけでじゅうぶんですから、よろしかったら、わたしがお部屋の入口で横になって寝ましょう。そうすれば、だれが来ても、おそばまで近づけませんから」
「で、おまえは、なんの上で寝るつもりなんだね?」と、ダルタニャンがたずねた。
「これが、わたしのベッドで」そういって彼は、ひと抱《かか》えのわらを見せた。
「じゃあ、来てもらおう」と、ダルタニャンはいった。「おまえの言うとおりだ。ここの主人の顔は気にくわん。愛想《あいそ》がよすぎる」
「おれも気にくわんな」と、アトスもいった。プランシェは窓からはいって、入口に横になって寝た。グリモーは、朝の五時には起きて馬の用意をしておきますと約束して、馬小屋のほうへ行った。
夜のうちは、まだ静かだった。午前二時ごろ、だれか戸口をあけようとした者があったので、プランシェが飛び起きて、「だれだ?」と叫ぶと、間違えたと答えて、足音は遠ざかった。
朝の四時に、馬小屋で大きな音がした。グリモーが馬小屋の男衆を起こそうとしたら、奴らは打ってかかってきたのだ。窓をあけてみたら、かわいそうにグリモーは熊手《くまで》の柄で頭をやられて、気絶していた。
プランシェは中庭に降りて、馬に鞍《くら》をつけようとした。どの馬も蹄充血《ていじゅうけつ》になっていた。ムスクトンの馬だけは前日五、六時間のあいだ主なしで走ったのだから、まだまだ走れるわけだった。それがどうしたことか、宿の主人の馬を瀉血《しゃけつ》するために呼んだ獣医が、間違えてこっちのほうを瀉血してしまったのだ。
なんとなく気にかかることばかりだった。こうして次々といろいろなことが起こるのは、だぶん偶然のことなのだろうが、なにかの陰謀の結果とも考えられた。
アトスとダルタニャンは外へ出たが、そのあいだにプランシェは近所に馬を三頭売ってくれるところはないかと、聞きに歩いた。宿の入口のところに、鞍をつけたままの元気のいい馬が二頭あった。これなら、じゅうぶん役に立った。そこで持主をたずねた。昨夜この宿に泊まった人で、ちょうど今、主人に勘定を払っているところだということだった。
ダルタニャンとプランシェを宿の入口に待たしておいて、アトスが勘定を払いに行った。主人は奥の天井の低い部屋に寝ていたが、アトスを招き入れた。
アトスはべつに疑わずにそのままはいると、支払いのために二ピストール取りだした。主人は一つの引きだしを半開きにした机の前に、一人で腰かけていた。彼はアトスの出した金を受け取ると、そのままためつすがめつ見ていたが、とつぜん声を張りあげて、これはにせ金だ、にせ金づくりの一味として、こいつも連れの男もひっ捕えろとわめいた。
「ばか野郎!」と、アトスは詰め寄った。「おまえの耳を切り落としてやる!」
ちょうどそのとき、すっかり身を固めた四人の男が横手の入口からはいってきて、アトスに打ちかかってきた。
「おれはつかまったぞ!」と、アトスはあらんかぎりの声をだして叫んだ。「逃げろ、ダルタニャン、早く、早く」そして短銃を二発、ぶっ放した。
ダルタニャンとプランシェは聞くが早いか、戸口につないであった二頭の馬をはなして飛び乗り、拍車を入れるとまっしぐらに飛ばした。
「アトスはどうなったろうな?」走りながらダルタニャンは、プランシェにたずねた。
「それが!」と、プランシェは答えた。「二発で二人の男が倒れるのは見ましたが、窓越しに見たところによりますと、他の奴らと斬《き》り合っていられました」
「勇ましい男だな!」と、ダルタニャンはつぶやいた。「ああいう友だちを見捨ててゆかなくちゃならんとはな! もっとも、こっちもこれから先どうなるかわからんがね。急ごう、プランシェ、急ぐんだ! おまえもなかなか勇敢だよ」
「だからご主人、言ったじゃありませんか、ピカルディの人間は、使ってみなくちゃわからんとね。それに、ここらはわっしの故郷《くに》でさあ。つい張り切るわけなんで」
二人は馬を飛ばして、一気にサン=トメールまで駆けた。そこで馬をひと息入れさせたが、用心して手綱《たづな》を腕にかけたままで、路上に立って食事をとった。食事がすむと、すぐに出発した。
カレーの町に百歩ほどのところで、ダルタニャンの馬がへたばった。どうしても起きあがろうとしない。目と鼻から血を吹きだしている。プランシェの馬も立ちどまってしまい、もうこれ以上は進まなかった。
幸い、さっきもいったように町から近かったので、馬は国道に乗り捨てたままで、港まで走った。プランシェは主人に、五十歩ばかり先を、やはり従僕《じゅうぼく》を連れた貴族が歩いていると告げた。
二人が足を早めてその貴族に近づいてみると、その貴族はいかにも用事がありそうなようすだった。長靴は埃《ほこり》にまみれていた。これからすぐにイギリスに渡る船はないかと、たずねているところだった。
「ほんとうなら、わけないことなんですが」と、まさに出帆しようとしている一|艘《そう》の船の船長は答えた。「じつは、けさお達しがありましてな、枢機卿の特別の許可書を持たぬ者はだれも渡してはならんという命令で」
「わたしは許可書を持っている、これだ」
そういってその貴族は、ポケットから書類を取りだした。
「それに港湾総督の検印をもらってくださいまし。そうしたら、ぜひ手前どもの船へ」
「総督はどこにいるのかね?」
「別荘のほうで」
「というと、どこだ?」
「町から一キロばかりのところでして、ほら、ここから見えるでしょう、あの小さな丘の麓《ふもと》の瓦ぶきの屋根がそうで」
「わかった」と、貴族は答えた。そして供を連れて、その別荘のほうへ歩きだした。ダルタニャンとプランシェは、五百歩ばかりの距離をおいて、そのあとをつけた。
町を出るとダルタニャンは足を早め、ちょうど貴族が小さな森にさしかかったところで追いついた。
「もし、もし、そこのお方」と、ダルタニャンは呼びかけた。「たいへんお急ぎのようですな?」
「一刻も猶予のならん用事でな」
「それは困りましたな」と、ダルタニャンはいった。「じつはわたしもたいへん急いでいるもんでして、ちょっとお願いがあるのですが」
「どういうことです?」
「拙者《せっしゃ》を先へ行かせていただきたいので」
「それはだめだ」と貴族はいった。「わたしは四十四時間で、二百四十キロも飛ばして来たくらいで、明日の正午までにはどうしてもロンドンへ行かにゃならんので」
「わたしも四十時間で同じ道程《みちのり》を急いできたわけでして、明日の十時までにはロンドンに着かねばならないのです」
「残念だが、わたしが先に来たのだから、道をお譲りするわけにはいかん」
「残念ながら拙者はあとから来たのだから、先へ行かせてもらおう!」
「陛下のご用ですぞ!」と、貴族は言い放った。
「拙者は私用なので!」とダルタニャンはうそぶく。
「貴公は拙者にけんかを売る気だな?」
「おや! それでどうなさる気だ?」
「貴公の望みは?」
「それが知りたいのか?」
「さよう」
「よろしい、あなたがお持ちの許可書をお渡し願いたい。拙者にはそれがないので、どうしても、一つ必要なのだ」
「冗談を言うにもほどがある」
「冗談などではない」
「通せ!」
「通すことはならん」
「お若いの、頭をぶち抜いてやろう。リュバン、わたしの短銃をよこせ」
「プランシェ」とダルタニャンは叫んだ。「従者のほうは、おまえに任すぞ。おれは主人をやっつける」
プランシェはさっきの働きで気をよくしているので、リュバンに飛びかかった。力はあるし、元気一杯なので、なんなく相手を地面にたたき伏せ、胸をひざで押さえた。
「どうぞそちらを片づけてください。こっちは、よろしくやりますから」と、プランシェがいった。
これを見て主人の貴族は剣を抜き放ち、ダルタニャンめがけて飛びかかってきたが、相手は手ごわかった。三分もするうちにダルタニャンは、ひと突きするごとにこう叫びながら、三太刀浴びせかけた。「アトスのために一突き、ポルトスのために一突き、そしてアラミスのために一突きだ」
三度目に、貴族はぱったり倒れた。
ダルタニャンは相手が死んだか、あるいは少なくとも気絶したと見てとって、許可書を取ろうとして近づいた。ところが懐中をさぐろうとして手を伸ばしたとたんに、倒れていた男はまだ手にしていた剣で、ダルタニャンの胸を下からぐいと突き上げた。
「このひと突きがお返しだ」
「このおれにひと突きか! 最後は一番いい奴だ!」
ダルタニャンは怒りにまかせて、四番目の突きを、相手の腹に突き刺して地面にまで突き通した。これで貴族は眼を閉じて、完全に失神した。
ダルタニャンは懐中をさぐって、通行許可書を取り上げた。それは、ウァルド伯爵という名前だった。
それから地上によこたわっている、気絶しているというよりたぶん死んでいる、やっと二十五歳になったぐらいの貴公子に最後の一瞥《いちべつ》を投げた。自分たちの存在すら知っているか知らないかのような人たちの利害のために、こうして命のやりとりをする人間のふしぎな運命を思って、さすがに彼の口からため息がもれた。
だが助けを求めるリュバンの叫び声で、まもなく彼は、そうした反省から引きだされた。
プランシェは手を喉首《のどくび》に当てて、力いっぱい締めつけていた。
「こうやって押さえつけていますとわめきませんが、ちょっとでも手をゆるめるとまたわめきだすんで。こいつはどうも、ノルマンディの奴《やつ》らしいですな。ノルマンディの奴は、どうも強情っ張りでしてな」
じじつ、こんなに押しつけられながらも、リュバンはなお声を振りしぼって叫ぼうとしていた。
「待て」と、ダルタニャンはハンカチを取りだすと、この男に猿ぐつわを噛ませた。
「さあ、こいつを木に縛《しば》りつけましょう」と、プランシェがいった。
仕事はことなく運んで、こんどはウァルド伯爵のからだを従僕のそばへ引きずってきた。もう夜になろうとしていたし、この二人を置いた場所は、森の中へ数歩踏みこんだところなので、翌朝まではだいじょうぶ人目につかなかった。
「さあ、港湾総督のところへ行こう」と、ダルタニャンがいった。
「でも、お見受けするところ、おけがをなすっていられるようですが」
「たいしたことはないよ。それよりも、少しでも早く用事をすましてしまおう。傷のほうはそれからだ。どっちにしたって、たいしたことはない」
二人は大急ぎで、役人の別荘へ向かった。
ウァルド伯爵の名で、取り次ぎを頼んだ。
すぐにダルタニャンは、奥に通された。
「枢機卿殿ご署名の許可書はお持ちでしょうな」と、総督がたずねた。
「はい、これでしょう」と、ダルタニャンは答えた。
「ああ、これは正規の書式で、しかもりっぱなご紹介までついている」
「当然のことです。わたしは枢機卿台下のもっとも忠実な側近なのですから」
「台下は、だれかが英国へ渡るのをお止めになりたいごようすですね」
「そうです。ダルタニャンとかいう名前のベアルン出身の貴族ですが、この者が三人の仲間といっしょにパリを発ちましてな、ロンドンへ渡る目的とかで」
「その男を個人的にごぞんじなのですか?」
「だれをです?」
「そのダルタニャンとかいう?」
「よく知っていますとも」
「では、その人相を教えていただきたい」
「ぞうさないことで」ダルタニャンは、ウァルド伯爵の人相を克明に教えた。
「して、従者は?」と、総督はたずねた。
「リュバンという男を一人連れています」
「よく注意することにしましょう。もしわれわれの手で捕えることができたら、台下はご安心なさるでしょう。厳重な警護のもとにパリへ送らせますから」
「それでこそ、総督殿、枢機卿さまのお覚えもめでたいことでしょう」
「ご帰還の上は台下にお会いになるでしょうな、伯爵殿?」
「もちろんですとも」
「わたくしが台下に忠勤のほどを、よろしくお取り次ぎくださるように」
「承知いたした」
この承諾の言葉に喜んで港湾総督は、さっそく通行許可書に署名をし、ダルタニャンに渡した。
ダルタニャンはそれ以上むだなお世辞に時間をつぶさずに、そこそこに礼を述べて立ち去った。
外へ出るなり、彼とプランシェとは、一目散《いちもくさん》に、森を避けて回り道をし、別の入口から町にはいった。
船は出帆の準備を終わり、船長は港で待っていた。
「いかがでしたか?」ダルタニャンの姿を見て、船長はいった。
「このとおり署名してもらったよ」
「あのもう一人の方は?」
「あの男は、今日は出発しないことになった」と、ダルタニャンはいった。
「だが、心配するな。おれが二人分の船賃を払うからな」
「それでは、さっそく出帆しましょう」
「うん、出帆だ!」と、ダルタニャンは船長の言葉を繰り返した。そしてプランシェとともにボートに飛び乗り、五分後には本船の人となった。
うまく間に合った。約二キロほど沖合に出たとき、ぱっと閃光《せんこう》がきらめいて、大砲の音が聞こえた。
それは、港湾の封鎖を告げる合図であった。
ここらで傷の手当をしておかねばならなかった。幸いなことに、ダルタニャンが考えたとおり、傷はそれほどひどくなかった。剣のきっさきが肋骨《ろっこつ》に当たって、骨ですべってそれていた。それにシャツがすぐに傷口にくっついてしまったので、血はほんの小量しか流れなかった。
ダルタニャンは疲労でぐったりしていた。甲板の上に布団《ふとん》を敷かせて、その上に横になったら、ぐっすり眠りこんでしまった。
翌朝、夜が明けると、もうイギリスの海岸から十二、三キロのところに来ていた。ひと晩じゅう風が弱かったので、船足がのろかったのである。
十時に、船はドーヴァーの港に投錨《とうびょう》した。十時半に、ダルタニャンはイギリスの土地をはじめて踏んで、思わず叫んだ。
「やっと、着いたぞ!」
だが、まだ用は終わってはいない。ロンドンへ行かなければならないのだ。英国では、駅馬の制度がかなりよかった。ダルタニャンとプランシェはめいめい小馬に乗り、御者がその前を走った。四時間で彼らは、首都の入口に着いた。
ダルタニャンは、ロンドンを知らなかったし、英語をちっとも知らなかった。が、紙にバッキンガム公の名を書いて見せると、だれでも公爵の屋敷を教えてくれた。
公爵は国王のお供をして、ウィンザーへ狩猟へ出かけているとのことだった。ダルタニャンは公爵の側近の家臣で、いつも侯爵に付き添って旅行をしているのでフランス語をよく話す男を呼んでもらった。そして、じつは生死にかかわる用件でパリから来た者だが、今すぐにもご主人におめにかかってお話したいと告げた。
ダルタニャンの話し方のまじめなようすに、パトリスという、この宰相の執事は心打たれた。彼はさっそく二頭の馬を用意させて、この青年を自ら案内することにした。プランシェのほうはさすがに力尽きて、へなへなになって乗り物から助け降ろされたが、ダルタニャンのほうは、まさに鉄のからだである。
離宮に着くと、王とバッキンガム公は、八、九キロ離れた沼地で小鳥を追っているとのことだった。
二十分ほどかかってそこへ行ってみると、まもなくパトリスの耳に、鷹《たか》を呼んでいる主人の声が聞こえた。
「公爵さまに、あなたさまのことはなんといってお取り次ぎいたしましょうか?」
「さる夜、ボン=ヌフ橋の上のサマリアの女の像の前で、公爵閣下にけんかを吹きかけた若者だと、お伝えください」
「妙な紹介の仕方ですな」
「これでいいのだと、おわかりになりますよ」
パトリスは馬を駆って公爵のところまで行き、いま言われたとおりのことを公爵に告げ、その使者が待っていると知らせた。
バッキンガムは、それがダルタニャンだとすぐにわかった。フランスに何か変事が起こり、それを知らせに来たのではないかと思って、さっそくその使者はどこにいるかとたずね、遠くから親衛隊の制服を認めると、馬を飛ばせてダルタニャンのもとに駆けつけた。パトリスは遠慮して、そばを離れた。
「王妃に変事があったのではあるまいな?」
この質問の口調の中に、王妃に対するすべての彼の考えや愛情をこめて、公爵は叫んだ。
「そのようなことはあるまいとぞんじます。ただ、なにか重大な危機にあわれているごようすでして、それをお救いできるのは、ただ公爵閣下のみだとぞんじます」
「わたしがか?」と、バッキンガムは叫んだ。
「へえっ! わたしがあの方のお役に立つとは願ってもないことだ! さあ、話したまえ、さあ!」
「このお手紙をどうぞ」と、ダルタニャンはいった。
「手紙だと! だれからの手紙だね?」
「王妃さまからのだと思います」
「王妃からだって!」そういったバッキンガムの顔があまりに蒼白になったので、ダルタニャンは気分でも悪くなったのではないかと思ったほどだった。
公爵は封印をとりながら、「おや、ここが破れているのは?」そういってダルタニャンに手紙に穴のあいているのを見せた。
「おや、おや! いままで気がつきませんでした。ウァルド伯爵の剣がわたしの胸を刺したときにいっしょに突き抜いたあとなのでしょう」
「きみは傷を負ったのだね?」と、バッキンガムは、封をあけながらたずねた。
「いや、なあに! かすり傷です」
「これは大変だ! なんということだ!」と、公爵は叫んだ。「パトリス、おまえはここに残っていて、いや、それよりも陛下のおいでになるところへ行って、まことに申しわけないが、わたしが火急の用事でロンドンへ帰ったと伝えて欲しい。さあ、行こう、きみ」
公爵とダルタニャンはまた早駆けで、ロンドンめざして走った。
二十一 ウィンター伯爵夫人
道々公爵はダルタニャンから、かの地で起こったことばかりでなく、彼が知っていることをすべて聞かせてもらった。青年の口から聞いた話と、自分の記憶とを結びつけてみると、王妃の短かくてはなはだ要領を得ない手紙を補って、事の重大さがよくわかった。わけても公爵を驚かせたことは、この青年に英国の土地を踏ませては困るはずの枢機卿が、どうして途中で阻《はば》み得なかったかということだった。公爵の顔にそうした驚きの表情が読みとれたダルタニャンは、じゅうぶんに用心したこと、途中で次々に血を流して倒れた三人の友人の献身的な働きのおかげで、自分は王妃の手紙に穴をあけただけでここまで来られたこと、ウァルド伯爵にはたっぷりお返しをしたことなどを語った。
卒直に物語るその話を聞きながら公爵は、いかにも驚いたといったようすを見せて、ときどき青年の顔を眺めやっていた。まだ二十歳にもならないこの顔のどこに、そのような慎重さや勇気と忠誠心とが隠れているのかわからないといったふうだった。
馬は風のように駆け抜けて、数分間でロンドンの入口に達した。ダルタニャンは、町中《まちなか》へはいれば公爵が馬の速度をゆるめるだろうと思っていたのに、そうではなかった。あい変わらず疾風のように走りつづけ、道ばたの通行人をひっくり返すのなど意に介しないようだった。じじつ繁華街を駆け抜けるときに、こうした事故が二、三起こったが、ひっくり返った者がどうなろうと、公爵は振り返って見ようともしなかった。ダルタニャンは、罵《ののし》り騒ぐ群衆の中を公爵のあとを追った。屋敷の中庭へはいると、バッキンガムは馬から飛び降り、あとのことなどいっこうにかまわずに馬の首に手綱《たづな》を投げかけて、玄関を駆けあがった。ダルタニャンもいささか不安であったが、同じようにした。心中ではこんな血統の正しい逸物《いちもつ》を放りっぱなしにしておいてと思ったが、すでに三、四人の下僕が調理場や馬小屋から走りだしてきて馬をつかまえたのを見て、安心した。
公爵はダルタニャンが追いつけないほど急ぎ足で、フランスの大貴族が思いも及ばぬほどの美々しい客間をいくつも通り抜けて、趣味のいい豪華な寝室にはいった。寝台のある奥まった部分に、つづれ織りの壁掛けでおおわれた扉があって、公爵はそれを金の小さな鍵であけた。ダルタニャンは遠慮して、少しさがっていた。ところがバッキンガムは、その扉の敷居をまたごうとして振り返ってみて若者が遠慮をしているのを見ると、声をかけた。
「はいりたまえ。もしきみが王妃におめどおりが叶《かな》うときがあったら、ここで見たことを申しあげて欲しいのだ」
呼ばれたので勇気をだしてダルタニャンが公のあとについてはいると、公爵はそのうしろの扉をしめた。
二人がはいったところは小さな礼拝堂で、ペルシア織の金の刺繍《ししゅう》のある壁布ですっかりおおわれてあり、たくさんのろうそくで明るく照らされていた。祭壇のようなところには、紅白の羽飾りをつけた青ビロードの天蓋《てんがい》があって、その下にアンヌ・ドートリッシュの等身大の肖像がかかっていた。あまりにもよく似ていて、いまにも語りかけそうだったので、ダルタニャンは思わずあっと叫んだ。
壇上のその肖像の前に、ダイヤの飾りひものはいっている小箱があったのである。
公爵は祭壇に近づくと、司祭がキリストの前に出たらこうしたであろうと思われるほどの敬虔《けいけん》さでひざまずいた。そしてその小箱を開いた。
「いいかね」と、彼はダイヤできらきらしている大きな青いリボンを箱から取り出しながら、「これはわたしがいっしょに墓場へ埋めてもらおうと誓った、だいじな飾りひもなのだ。王妃はこれをわたしにくださって、またお取り上げなさろうとする。だが、王妃のお気持ちは、神意と同じく、全能だ」
それから彼は手放さねばならぬ飾りひものダイヤにひとつずつ接吻しはじめた。とつぜん彼は、恐ろしい叫び声をあげた。
「どうかなさいましたか?」不安にかられてダルタニャンはたずねた。
「とりかえしのつかないことになった」
死人のように青ざめて、バッキンガムは叫んだ。「宝石が二つ足りない。十しかない」
「閣下、おなくしになったのでしょうか、それとも盗まれたのでしょうか?」
「盗まれたんだよ。枢機卿の仕業《しわざ》だ。見たまえ。宝石をつないであるリボンが鋏《はさみ》で切られてある」
「盗みをはたらいた者に、もしかして心当たりでも……おそらくその者はまだ手許に持っておるでしょうが」
「まあ、待ちたまえ」と、公爵は叫んだ。「これを身につけたのはたった一度だけで、一週間前に、ウィンザーで陛下が催された舞踏会のときだけだ。その席で、だいぶ前に仲たがいをしていたウィンター伯爵夫人がわたしのそばに寄ってきた。あの和解は、さては嫉妬していた女の復讐なのだな。あの日以来、会っていない。あの女は、枢機卿の手先なんだ」
「なるほど、世界中に根を張っているんですな!」と、ダルタニャンは叫んだ。
「そうだ、そうなんだよ!」と、バッキンガムは怒りをこめて唇を噛《か》んだ。「恐ろしい相手だ。そちらの舞踏会は何日に催されることになってるのかね?」
「来週の月曜日です」
「次の月曜日か! まだ五日あるな。必要な手を打つのにじゅうぶん間がある。パトリス! パトリス!」
侯爵は礼拝堂の扉を押し開いて叫んだ。
例の腹心の家臣が現われた。
「宝石屋と、秘書とを呼んでくれ」
家臣は無言のまま、急いで出て行った。常日頃から盲目的に、なに一つ抗《あらが》わずに服従する習慣が身についているようだった。
ところで、先に呼びにやったのは宝石屋だったのに、屋敷内に住んでいた秘書のほうが先にきた。彼がはいってきたとき、バッキンガム公は寝室内の机に向かって、自《みずか》ら何か命令を書いていた。
「ジャクソン、おまえはその足で司法卿のところへ行って、この命令を実行に移すようにと伝えてくれ。即刻にこれを公表するようにとな」
「でも閣下、もし司法卿がこのような非常手段をお取りになる動機についてたずねられましたら、なんとお答えしたらよろしゅうございましょうか?」
「わたしがそうして欲しいのだと言え。わたしは自分の意志をだれにも説明する必要はないのだとな」
「陛下へのご返事もそれでよろしゅうございましょうか?」と、秘書は微笑を浮かべながらいった。「もしかして陛下が、なぜイギリスの港から出る船をいっさい出帆を許さぬとはどういうわけかとおたずねがありましたその節は?」
「なるほどな」バッキンガムは答えた。「そのようなときは、こうお答えしろ、わたしが宣戦を決意したとな、そしてこれはフランスに対する最初の敵対行為だとな」
秘書はうやうやしく一礼して、出て行った。
「まず、この方面は安心だ」と、バッキンガムはダルタニャンのほうを振り返っていった。「そのダイヤがまだフランスへ行っていないとすれば、きみのほうが先に着くからな」
「どうしてでございます?」
「わたしはいま、イギリス王国の港に停泊中のすべての船に出航停止の命令を出したのだ。こうすれば特別に許可のないかぎり、一隻たりとも錨《いかり》をあげることは赦されないからな」
ダルタニャンは、国王の信頼によって与えられた無限の権力を、自分の恋のために使うこの人を、あきれて眺めた。バッキンガム公も、この青年の顔の表情でその心が読めたとみえて微笑した。
「そうなのだよ、アンヌ・ドートリッシュは、わたしの心の女王なのだ。あの人のひと言で、わたしは国も裏切り、王も裏切り、神さえも裏切るのだ。あのラ・ロシェルの新教徒たちにわたしが約束した援助も、あの方が打ち切るようにと言われたので、わたしはその言葉どおりにした。わたしは約束を破ったが、なに、かまやせんよ! わたしはあの方の希望どおりにしたんだからな。そのおかげで、わたしは大きな報酬を得たではないか? あの肖像、あれをわたしはいただいたのだからな」
一国の運命、大多数の人間の生命が、どんなにもろい目に見えぬ糸でつながっているかと思って、ダルタニャンは感じ入っていた。彼がすっかり考えこんでいたとき、金銀細工師が通された。アイルランド人の、腕のいい職人で、バッキンガム公の御用で、年八十万リーヴルも稼《かせ》いでいると豪語《ごうご》している男である。
「オライリー君」と、公爵はこの男を礼拝堂の中に通して、「このダイヤの飾りだがね、一つがどのくらいの値打ちだろうね?」
細工師は、その見事な細工をちらりと見て、そのダイヤの値踏みを頭の中ですると、即座に答えた。
「ひと粒が千五百ピストールはいたしますな」
「これと同じ粒のを二個作るのに、どのくらいの日数がかかるか? ちょうど二個足りないだろう」
「一週間いただければ」
「一つに三千ピストールだそう。明後日までにいるのだが」
「なんとかいたしましょう」
「きみは得がたき人物だよ。オライリー、話はまだあるんだ。というのは、この飾りひもはだれにも渡せぬ品ゆえ、この屋敷内で作ってもらいたいのだ」
「それはどうも出来かねますことでして、公爵さま。その原品とそっくり同じものを作るのは、わたくし以外にはございませんので」
「だから、オライリー君、きみはわたしの囚人になるんだよ。この時間にこの屋敷から出ようとしたって、出来ない相談だよ。まあ、腹をきめることだな。必要な弟子の名前をいってくれ。それから持って来させる道具もな」
細工師は公爵を知っていた。なまじっか抗《あらが》ってもむだなことを知っていたのだ。で、すぐに決心した。
「家内に知らせてもよろしゅうございますか?」と、彼はたずねた。
「ああ、いいとも。会ったっていいよ、オライリー君。監禁といったって軟禁なのだから、安心するがいい。また不自由をかけるからには、弁償しなければなるまい。さあ、これは二個の宝石の代とは別に、一千ピストールの手形だ。これで窮屈な思いを忘れてもらいたい」
ダルタニャンは、多くの人間と巨額の金とを自由自在に動かすことのできるこの宰相を見て、ただただ驚くばかりだった。
いっぽう細工師は細君に手紙を書き、それに一千ピストールの手形を添えて送り、一番腕の良い職人と、これこれの品質と目方のダイヤモンドと必要な道具ひとそろえとを至急に届けるようにと言ってやった。
バッキンガムは、細工師を彼のために当てがった部屋に連れて行った。その部屋は三十分もすると、細工場に変わってしまった。それから公爵は各戸口ごとに見張りを置き、家臣のパトリス以外にはだれも入れてはいけないと命じた。細工師オライリーとその助手たちとが、たとえどんな名目だろうが外出を禁じられたことはもちろんである。これだけの処置をとると、公爵はダルタニャンのところへもどってきた。
「さて、若い友よ」と、彼はいった。「イギリスの運命はいまわれわれ二人の掌中にあるんだ。きみは何がお望みかね? どういうことをして欲しいかね?」
「ベッドですな」と、ダルタニャンは答えた。「正直に申して、目下わたしが一番欲しいのはそれですよ」
バッキンガムは、自分の部屋につづいた一室をダルタニャンに与えた。この男を疑っていたからではなくて、王妃のことを絶えず話のできる相手として彼を手許におきたかったのだ。
一時間後には郵便船でさえも、いっさいのフランス行きの船は出港を禁ずる布令がロンドン市内に出された。だれが見ても、それはいよいよ両国間の宣戦布告と見えたのである。
翌々日の十一時に、二個のダイヤは出来上がった。じつに精巧に模造されていて、バッキンガムには古いのと見分けがつかないほどだった。どんなに目の利く鑑定家に見せても、彼と同じようにだまされるにちがいなかった。
すぐに、ダルタニャンは呼ばれた。
「さあ、きみが取りにきたダイヤの飾りができた。人間の力でなし得ることのできることをわたしがなし遂げたということの証人になってくれたまえ、実際に、わたしはそうしたのだからね」
「ご安心ください、閣下、わたしはこの目で見たとおりのことをすっかりお話しします。ところで宝石は箱なしでお届けするのですか?」
「箱は邪魔になるだろう。それにこれは、わたしの手許にある唯一のものだから、大切な貴重品だ。わたしがいただいておくと、そう伝えて欲しい」
「まちがいなく、そうお伝えします、閣下」
「ところで」と、バッキンガムは青年のほうをじっと見て、ふたたびいった。
「きみにはどういうお礼をしたらいいかな」
ダルタニャンは、眼の中までまっかになった。彼は公爵が何かを自分に受けとらせようとしていることがわかったからだった。友人たちの流した血、そして自分も流した血がイギリスの金で支払われるかと思うと、彼は奇妙なくらいに腹立たしく思われた。
「申しあげておきますが、誤解のないように事実をよくお考えいただきたい。わたくしはフランス王並びに王妃に仕える身で、エサール殿の親衛隊に所属する者です。わが隊長はその義兄のトレヴィール殿と同じく、両陛下に心からの忠誠をお誓いしている者でございます。ですからわたくしはわが王妃さまのために微力を尽くしたまでで、公爵閣下のためにいたしたわけではございません。なお申しあげれば、これがある人に喜びを与える仕事でなかったならば、あるいはしなかったかもしれないのです。その人というのは、ちょうど閣下にとっての王妃さまに当たるような婦人なのでございます」
「なるほど」と、公爵は微笑しながらいった。「わたしもその人を知っているように思うが、その婦人はたしか……」
「閣下、わたしは名前は申しませんでしたよ」と、青年はいそいでそのことばをさえぎった。
「そうだったね。そうなると、きみの忠誠を感謝するとすれば、その人に対して感謝しなければならないということになるな」
「おっしゃるとおりでございます、閣下。なぜならば、いよいよこうして両国間に戦争が開かれようとしている現在では、わたしには公爵閣下が一人のイギリス人としてしか考えられないからです。従って、ウィンザー宮の庭園やルーヴル宮の廊下でおめにかかるよりは、戦場で閣下にお会いすることのほうが、わたくしには喜ばしく思われるのです。とは申しても、命じられたことを実行に移し、そのために必要とあらば、生命を賭《と》するのを辞さないことには変わりありませんが。しかし繰り返して申しますが、個人として閣下がわたくしのいたしましたことについて感謝なさる必要のないことは、いつかの夜にわたくしがいたしましたことについて礼を述べる必要がなかったことと、まったく同じでございます」
「われわれの国では、[スコットランド人の気位《きぐらい》]というが」と、バッキンガムはつぶやいた。
「わたしたちの国では、[ガスコーニュ人の気位]と申します」と、ダルタニャンがそれに応じた。「ガスコーニュの人間は、フランスのスコットランド人なのです」
ダルタニャンは公爵に一礼すると、そのまま出て行こうとした。
「これこれ! このままで行く気かね? どこから、どうやって出発する気かね?」
「なるほど、そうでした」
「まったく! フランス人というものは、疑うということを知らんな!」
「イギリスが島であって、閣下がその支配者であることを忘れておりました」
「港へ行って[サンド]という帆船《はんせん》をさがしだし、船長にこの手紙を渡したまえ。そうしたらきみを、だれもきみのことなど知っていない港へ送り届けてくれるだろう。その港はふつう漁船しか着かないところだ」
「その港の名前は?」
「サン=ヴァレリーだ。まあ待ちたまえ。そこへ着いたら、屋号も看板もないみすぼらしい宿に行くんだ。船乗り相手の掘っ建て小屋で、一軒しかないから、すぐわかるよ」
「それから?」
「宿の主人を呼んで、[フォワード]と言いたまえ」
「どういう意味ですか?」
「進め、ということで、合言葉だ。そういえば鞍《くら》をつけた馬の用意をしてくれて、きみが行くべき道を教えてくれるだろう。途中四つの宿駅がある。馬を替えるたびに、もしきみがそうしたかったら、きみのパリの住所を教えておくがいい。四頭の馬は、あとからそこへ届くだろうからな。きみはもう、その中の二頭は知っているはずだよ。きみは素人《しろうと》として、なかなかの馬の目ききらしいからな。われわれが乗った例の馬さ。ほかの馬もあれに劣らぬ代物《しろもの》だ。四頭とも、戦場用に訓練してある。いかにきみが気位が高がろうが、その一頭をもらうのを拒絶まではしないだろうな。ほかの三頭はきみの仲間にあげて欲しい。さしずめ、わが軍と戦うときに役立つだろうからな。[目的のためには手段を選ばず]そんな諺《ことわざ》がフランス人にはあったね?」
「いや、ありがたくちょうだいしましょう」と、ダルタニャンはいった。「もし神のおぼしめしにかなえば、閣下の贈り物をじゅうぶんに役立ててごらんに入れます」
「では握手をしよう。たぶん近いうちに戦場で会うことになるだろうが、まあそれはそれとして、いまは友人として別れることにしよう」
「そうです、閣下、いずれ敵として相まみえるのを楽しみにしまして」
「安心したまえ、きっとそうなるよ」
「お言葉を期待しております」
ダルタニャンは公爵に挨拶すると、いそいそと港へと向かった。ロンドン塔の真向かいのところで、指示されたその船がみつかった。手紙を船長に見せると、彼は港湾総督の署名をもらってきて、すぐに出帆の準備にかかった。
五十隻もの船が出航準備をすませて、待機していた。
その中の一隻の舷側《げんそく》とすれすれになったとき、ダルタニャンは、いつかマンで未知の貴族がミラディーと呼んだ美人だと思った女をちらりと見たような気がした。しかし川の流れと風のために船足が早かったので、たちまちのうちに見えなくなってしまった。
翌朝五時ごろ、船はサン=ヴァレリーに着いた。
ダルタニャンはすぐに教えられた宿屋のほうへ向かったが、そこからもれてくる話し声ですぐにそれとわかった。人びとは開戦まぢかい、避けることのできぬ英仏間の戦争のことで話がはずんでいた。水夫たちは陽気に酒盛りをしていた。
ダルタニャンは人ごみを押し分けて主人のそばに行き、「フォワード」とささやいた。すぐに主人はついて来るようにと合図をして、中庭へと通じている戸口から出て、彼を馬小屋に連れて行った。そこにはすでに鞍《くら》をつけた馬が用意されてあって、主人はなお、ほかに用はないかとたずねた。
「これから行く道を知りたいのだが」と、ダルタニャンはたずねた。
「まずブランジーまで行き、そこからヌシャテール。ヌシャテールに着いたら、エルス・ドール館という宿屋にはいりなさい。主人に合言葉を言えば、ここと同じように鞍《くら》をおいてある馬がありますから」
「いくらさしあげたらいいのかな?」とダルタニャンがきいた。「もう支払いずみです。たっぷりちょうだいしましたから。さあ、お出かけになってください。お気をつけなさって!」
「ありがとう!」青年は言い終わると、早駆けで出発した。四時間後には、またヌシャテールへ着いた。
彼は言われたとおりにさしずに従った。ヌシャテールでも、サン=ヴァレリーのときと同じように鞍をつけた馬が待っていた。乗ってきた馬の鞍から短銃を取りだして新しい鞍へつけようとすると、新しい鞍袋《くらぶくろ》には同じような短銃がはいっていた。
「パリの住所は?」
「エサール殿の隊所属で、親衛隊詰所」
「承知しました」と、主人は答えた。
「これからの道順は?」と、こんどはダルタニャンがたずねた。
「ルーアン街道を行きます。町を右手に見ておいでなさい。エクイの村でお止まりになって、エキュ・ド・フランスという旅館にはいりなさい。外観はひどいですが、馬小屋にはこれと同じような馬が待っていますから」
「言葉も同じで?」
「さようで」
「では行くぞ、ご主人!」
「おだいじに。ほかにご用は?」
ダルタニャンは頭をふって答えると、また全速力で出発した。エクイ村で、また同じことが繰り返された。親切な宿の主人がいて、元気な替馬《かえうま》が待っていた。前にやったようにパリの住所を知らせ、また全速力でポントワーズへ。ポントワーズで最後の馬を替えると、九時にはトレヴィール殿の屋敷の中庭に早駆けで乗り入れた。
十二時間で二百四十キロ走ったことになる。
トレヴィール殿は彼を、まるでけさ会った人のように迎え入れた。ただその手を握ったときには、いつもよりも少し強く感じられた。ちょうどエサール殿の部隊がルーヴル宮の警護に当たっているから、さっそく部署《ぶしょ》につくがよい、といった。(つづく)