黒いチューリップ
アレクサンドル・デュマ/横塚光雄訳
目 次
一 忘恩の民
二 兄と弟
三 ジャン・ド・ウィットの弟子
四 虐殺者の群れ
五 チューリップ愛好者とその隣人
六 チューリップ園芸家の愉しみ
七 幸運な男の災厄
八 侵入
九 家族房
十 獄吏の娘
十一 コルネリウスの遺書
十二 死刑執行
十三 ある目撃者の心情
十四 ドルドレヒトの鳩
十五 覗き窓
十六 師と女弟子
十七 第一の珠芽
十八 ローザの求愛者
十九 女と花
二十 一週間の出来事
二十一 第二の珠芽
二十二 花開く
二十三 嫉む男
二十四 黒いチューリップの行方
二十五 園芸協会長ファン・システンス
二十六 園芸協会の一会員
二十七 第三の珠芽
二十八 花の歌
二十九 囚人対獄吏
三十  刑に臨む
三十一 ハルレム
三十二 最後の願い
三十三 大団円
あとがき
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主な登場人物
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コルネリウス・ファンベルル……科学者、画家、チューリップ栽培のために心魂を傾ける夢多き青年。
ローザ・グリフュス……獄吏の娘。コルネリウスのために献身的愛を捧ぐ美しい乙女。
グリフュス老人……ローザの父。残忍で典型的な獄吏。
アイザック・ボクステル……コルネリウスの隣人で、黒いチューリップを盗み出す嫉妬深い男。
オレンジ公ウィリアム……後年英国王となる、オランダ独立運動の主宰者。
コルネイユ・ド・ウィット……コルネリウスの名付け親。民衆のために虐殺される。
ジャン・ド・ウィット……コルネイユの弟。オランダ共和国宰相。
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一 忘恩の民
ハーグの町はいとも清潔で、小粋で、平素から日曜日ならぬ日はないといわれるほど活気の横溢しているところだ。このハーグの町にはこんもりとした茂みに覆われた公園があり、巨木大樹はゴシック風の家並に枝を差し伸べ、四通八達の運河の作る広やかな鏡には、東方風のドームを持つ幾多の鐘楼の影が映っている。
一六七二年八月二十日のこと、七州連邦の首都であるこのハーグの町のどこの大通りにも、黒や赤の衣装を着け、息を切らし不安げな面持ちをした市民たちの群れが満ちあふれていた。腰に剣を帯びる者、肩に火縄銃を担ぐ者、あるいは手に棍棒を握る者など彼らが流れて行く方向は今日でも鉄格子の窓から見られるあの恐ろしいビュイテンホーフの牢獄だった。そこには外科医ティクラーによって提起された暗殺事件に関する告発を受けて、オランダ前宰相の兄コルネイユ・ド・ウィットが呻吟していたのだった。
もしもこの時代の歴史、特に筆者が今から物語ろうとするこの年の歴史が、いま述べた二人の兄弟の名前と、どうしても切り離すことのできない関係にあるものとすれば、以下に述べる数行の説明はいわば前置きともいうべきところであろう。ところでまず、年来の知己たる読者諸君にあらかじめ申し上げておきたいのは、筆者はいつでも開卷劈頭《かいかんへきとう》に愉しさをお約束したいことである。そしてまた後に続く頁をおって、どうにかそのお約束を果たそうとするものである。しかしとにかくここで申し上げたいのは、以下に述べる説明は、この国の歴史が納められている一大政治事件を知るばかりでなく、わがフランスの歴史を明確にする上に欠くべからざるものであることをご諒承いただきたいということである。
コルネイユあるいはコルネリウス・ド・ウィットなる人物は、この国の堤防監察官であったが、生まれ故郷ドルドレヒトの前市長であり、またオランダの代議士でもあって、年は四十九歳だった。当時、オランダの民衆は共和制に倦《う》んで、オランダ宰相ジャン・ド・ウィットも承知しているとおり、彼が連邦諸州に対して恒久法令を発し、永久にオランダから廃止すべきことを図った総督制に対し熱烈な愛着を寄せていた。
いったい民心というものは、気まぐれな変遷を遂げる間に、ある主義のある背後には、ある人物のいることを認めずにすますことは稀なので、民衆は、共和制の背後にはド・ウィット兄弟の峻厳な二つの顔を見ていたのだった。この兄弟はオランダのローマ人というにふさわしい人物であり、国民の嗜好におもねることを軽蔑し、放縦に流れない自由や過剰に陥らない富に対しては不動不屈の味方であった。それと同時に民衆は、総督制の背後には若いオレンジ公ウィリアムの重厚で思慮のある、前屈みの額を見ていたのである。当時の人々は彼に対し「沈黙公」の綽名《あだな》をつけていたが、これは後世の人からも用いられている。
ド・ウィット兄弟はルイ十四世を巧みに操縦していた。彼らはこの国王の精神的勢力が全ヨーロッパに拡大することを感じていた。彼らはまたギッシュ伯という物語の主人公によって有名となり、ボアロオによって歌われたあの素晴らしいライン戦争、三月間に連邦州の兵力を打倒してしまった戦争に成功した結果、この国王の物質的勢力がオランダを圧服するのを感じていた。
ルイ十四世は永年にわたり、オランダ人の仇敵であった。彼らはほとんど絶え間なく、オランダに亡命していたフランス人の口を借り、全力をあげてこの国王を罵倒したり嘲弄したりしていた。その結果、国民的自尊心は共和国の解毒剤に化してしまったのだった。そこで国民感情に挑戦するある権力によって惹起される激しい抵抗と、敗北したどこの人民でも別の指導者が現われれば、廃滅と屈辱とから救われるのではないかという希望を抱く場合に自然と彼らに生ずる倦怠感とから、ド・ウィット兄弟に対しては、二重の激昂が湧き起っていたのだった。
この別の指導者となる人物は、今まさに出現しかけており、未来に非常に巨大な幸運を担うべきルイ十四世と争覇戦を演じようとしていた。それはウィリアム二世の息子オレンジ公ウィリアムであり、ヘンリエット・スチュアートの血を受けたので、英国王チャールズ一世の孫にもあたっていた。この寡黙な若者こそ、既に筆者が述べたとおり、総督制の背後にようやくその影の現われてくるのが見えてきたという人物だった。
この若者は一六七二年には二十二歳だった。ジャン・ド・ウィットはこの若者の傅育官《ふいくかん》となっていたが、この血筋の旧い貴公子を善良な市民にすることを目的として教育にあたっていた。彼は子弟愛よりも祖国愛を重視し、恒久法令によってこの若者から総督への希望を取り上げてしまった。しかし神は、自分に何らの相談もせずに地上の権力を作り上げたり、壊したりしようとする人間の自負心を嘲弄していた。オランダ人の気まぐれとルイ十四世が喚起した恐怖とによって、神はオランダ宰相の政治を変革せしめ、恒久法令を廃止して、オレンジ公のために総督制を復活せしめようとしていた。神はその意志をまだ本来の神秘に包まれた奥底に隠していたが、それはオレンジ公の上に向けられていたのだった。
オランダ宰相は自国民の意志に屈服した。しかしコルネイユ・ド・ウィットは兄よりも強情だった。オレンジ党の平民がドルドレヒトの邸内で彼を取り囲み、死の脅迫を行なったけれども、彼は総督制復活の法令に署名しようとはしなかった。
涙に泣き濡れた妻の切なる願いによって、ついに彼は署名することになったが、しかし自分の名前の上に、次の二つの文字だけは付け加えた。V.C、Caetus、すなわち「暴力に強制されて」という意味である。
その日、彼が敵の襲撃から逃れ得たのは、まさに奇蹟というべきだった。
ジャン・ド・ウィットの方は、自国民の意志に対し、もっと迅速かつ容易に同意したのだけれども、それだとて決して彼のために益するところはなかった。それから数日後、彼は暗殺計画の犠牲者となった。短剣で刺し通されたが、しかし彼はその傷によって死を呼ぶまでには至らなかった。
それはオレンジ党員にとって思惑の外れたことであった。この二人の兄弟の命は、彼らの計画に永久的な障害となっていたのだった。そこで彼らは一時的に戦術を変更し、機会があれば一撃で一瞬のうちに成功を収めようという方法をやめて、短剣で果たし得なかったことを、誹謗によって成就しようと企てた。
いったい、機に臨んで神の手許に、偉業を果たすべき偉大な人物が存在していることはめったにないものである。そこでたまたま、こうした神の摂理による取り合わせができあがる場合には、歴史は即座にこの選ばれた人物の名前を記録して後世の人々の賞賛にゆだねるのである。
しかし悪魔が人間の事業に介入し、ある人物の生涯を破滅せしめたり、ある帝国を転覆せしめようとする場合には、一言耳打ちするだけでただちにその仕事にとりかかろうという憐れむべき人間が、さっそくその掌中に入ってくるものであり、そうでない場合は実に稀有なことに属するのである。
さしあたり今の場合、悪霊の手先となるのにまことに恰好《かっこう》な地位にあったその憐れむべき男というのは、既に述べたとおり、ティクラーと呼ばれる外科医を業としていた男だった。
彼は、コルネイユ・ド・ウィットが、署名に付記した文字の跡からも証明されるように、恒久法令の廃止されることに絶望してオレンジ公ウィリアムに対する憎悪の念に駆られ、共和国を新総督の手から解放する任務を、ある刺客に与えたということを言明した。しかもその刺客とはほかならぬティクラーであり、彼は要求された行為を考えただけでも悔恨に責め立てられ、罪を犯すよりも、罪を暴露する方がはるかにましだと思ったということであった。
そこでこの陰謀の知らせを聞いて、オレンジ党員の間にはどれほどの激昂が湧き起ったかは、読者もよろしく判断されるがよい。一六七二年八月十六日、検察官はコルネイユをその邸《やしき》で逮捕した。ジャン・ド・ウィットの卓抜な兄である堤防監察官は、ビュイテンホーフの一室に幽閉され、極悪人と同様に予備拷問にかけられてウィリアムに対する前記陰謀の自白を強いられるはめに陥った。
しかしコルネイユは偉大な才幹の持ち主であるばかりでなく、剛毅な心の所有者だった。彼は宗教的信念に生きた祖先の人々と同様に、政治的信念を抱いて様々な迫害を微笑のうちに受け入れた殉教者の一族にふさわしい人物だった。拷問にかけられている間にも、彼は毅然とした声音で、ホラティウスの「固き信念と正義の人」の第一節を吟誦し、韻脚を踏んで詩句を読み上げながら、何一つ告白することをせず、体刑執行人どもの暴力ばかりかその狂気沙汰に対しても無関心の態度をとっていた。
判事どもは、ティクラーを無罪として釈放した。そしてコルネイユに対しては、一切の職責と位階とを剥奪し裁判の費用を自弁せしめ、共和国の領土から永久に追放する旨の判決を下した。
無害の人物に対してというばかりでなく、偉大なる市民に対して加えられたこの判決は、コルネイユ・ド・ウィットが絶えずその利益を願って身を捧げてきた民衆にとって、それだけで既に何らかの満足を与えてもよいはずであった。しかしながら、先をお読みなればわかるとおり、それだけでは十分でなかったのだった。
アテネ人は、「忘恩の徒」という相当ありがたい名声を残してきたが、この点に関する限り、オランダ人には遠く及ばなかった。彼らはアリストテレスを追放に処しただけで満足したものである。
ジャン・ド・ウィットは、弟が起訴されたという噂を聞くと、ただちにオランダ宰相の職を辞任した。彼もまた祖国に身を献げた人物にふさわしい報酬を受けたのだった。彼が私生活に持ち込むことができたものは、わずかに倦怠と傷心とだけであった。それだけが一般に、自己を忘れて祖国のために尽くしたのに、刑罰を課せられた廉直な人々に戻ってくる、唯一の利益ともいうべきものであった。
こうした時期に際し、オレンジ公ウィリアムは、自分の力の及ぶ限りあらゆる手段を講じて事態の進行を早めながら、彼を偶像と仰ぐ民衆が、この二人の兄弟の肉体をもって、彼が総督の座に登るために必要な二つの踏み段にしてくれるのを待ち構えていた。
さて、この章を始めるにあたって述べたとおり、一六七二年八月二十日のこと、町全体の人々はビュイテンホーフに急いでいた。それは追放処分を受けて出発するコルネイユ・ド・ウィットが牢獄から出てくるのを見物しようとするためと、ホラティウスに通暁しているこの人物の高貴な肉体の上に、いかなる拷問の跡が残っているかを見届けるためであった。
もっとも一言付け加えておくが、ビュイテンホーフに集まった群集が、一人残らず見世物でも見物しようという無邪気な料簡を持っていたわけではなかった。群衆の列内にいる多くの人々は、何か一役演じようと思っていたのだ。というよりも彼らは、どう見ても十分に果たされたとは思えないある役割を、もう一度やり直そうと思っていたのだった。
それはつまり体刑執行人の役割だった、と言っても過言ではなかったろう。
その他にも別に敵意も持たずに、道を急いでいた人々もいたことは事実である。こうした連中にとっては、久しく権勢を担っていた人物が敗辱にまみれて倒れるのを見て、本能的な自尊心を満足させる群衆をいつでも惹きつけるような例の見世物だけが問題だった。
「あのコルネイユ・ド・ウィットも、怖いもの知らずのあの男も」と、人々は語っていた。
「拷問にかけられては、衰弱もしたろうし、意気も消沈してしまったのではないだろうか? 顔色は青ざめ、血濡れになり、恥ずかしい姿になっているのではないだろうか?」
それにまたオレンジ党の煽動分子は、巧みにこの群衆のあらゆる人々の間に潜入して、群集を鋭利でしかも打撲にも調法な武器として上手に操縦しようと思いながら口々にこう言っているのだった。
「あの堤防監察官のやつは、オレンジ公を総督にしようというのに『暴力に強制されて』やっと認めたばかりか、公を暗殺させようとさえした。ビュイテンホーフから町の門まで行く間に、ちょっとでも機会があったら、わずかな泥でも、石ころでも、あいつをめがけてぶつけてやろうじゃないか?」
そればかりでなく、フランスの凶悪な敵どもは、さらに言葉を付け加えた。
「ハーグの人間が一人前に振舞えて、勇気を持っている連中なら、コルネイユ・ド・ウィットを追放なんかに処して、のめのめと出発なんかさせなかったろうよ。彼奴はいったん国外に出ると、フランスと組んであらゆる陰謀をめぐらすだろうさ。しかも、大悪党の弟のジャンと一緒に、ルーヴォア伯の金を貰って暮らすだろうよ」
いわば、そうした気持ちから、見物人たちは歩いているというよりも、駆けつけて行くところだった。ハーグの住民たちが、ビュイテンホーフに向かって道を急いでいた理由は、まさにそこにあったのだった。
一番先を急ぐ群集の真ん中には、律義者のティクラーが激昂して、何の思慮も忘れて、足を駆っていた。彼はオレンジ党員から、廉潔の英雄、国民的名誉の英雄、キリスト教的慈愛の英雄として引き回されていたのだった。
この律義者の悪党は、コルネイユ・ド・ウィットが彼の徳義心を破ろうとして行なった様々な誘惑や、彼に約束した金額や、暗殺を実行する上のあらゆる困難をティクラーの手から取り除くために、あらかじめどこに凶悪な陰謀をめぐらしていたかということなどを、美辞麗句を並べたて、想像力の限りを尽くして述べ立てていた。
それで彼の演説の一言一句は、貪るように民衆の心に食い入って、ウィリアム公に対する熱狂的な愛情の叫びや、ド・ウィット兄弟に対する盲目的な激昂の叫びを呼び起こすのだった。
民衆は、あの悪党コルネイユのような恐るべき大罪人を、逮捕しながらしかも無事に逃してしまう不公平な判事たちを罵《ののし》り出した。
それに煽動者の連中は、低声《こごえ》で同じ言葉を喚きつづけていた。
「彼奴は行っちまうぞ! 彼奴は俺たちから逃げてしまうぞ!」
また別の連中が、こんなことを言って答えていた。
「船が、シュウェニンゲンで、彼奴を待っているんだ。フランスの船なんだ。ティクラーがそれを見て来たんだ」
「正直者ティクラー! 廉直《れんちょく》な人物ティクラー!」
と、群衆は唱和して叫んでいた。
「それだけじゃないんだぞ」
と、一つの声が語っていた。
「コルネイユの逃げ出す暇に、ジャンの奴も、あの兄とちっとも変わらない大売国奴のジャンの奴も逃げ出してしまうらしいんだ」
「奴らは二人ともフランスに行って、俺たちの金を食っちまうんだ。ルイ十四世に売った船や、兵器廠や、造船所の代金を食っちまうんだ!」
「奴らの出発を邪魔しよう!」
と、他の連中よりも先を行く愛国者の声が叫んでいた。
「牢屋へぶちこめ! 牢屋へぶちこめ!」
と、唱和が繰り返された。
この叫びに和して、市民たちの足はだんだん早くなり火縄銃は装填され、斧は光り、目は爛々と燃え上がる。
しかしながら、暴力沙汰はいまだ一つも起こっていなかった。ビュイテンホーフの周辺を警備している騎兵の一隊は、平静に、無感動に、沈黙を守りつづけており、その冷厳な態度は、市民の群れが叫び立て、激昂し、脅迫を行なったりしているのよりも、ずっと威圧的であった。彼らはその隊長たるハーグ騎兵隊長の眼下で、じっと立ちつくしていた。隊長は鞘から剣を抜き放っていたが、それを低く保持し、切っ先を鐙《よろい》の角に向けていた。
この部隊は、牢獄を警備する唯一の防壁をなしていたが、その冷厳な態度によって、ともすれば混乱し、騒々しくなる民衆の群ればかりでなく、市民軍の離脱するのを牽制していた。この市民軍は、ビュイテンホーフの前面に配置されて、騎兵隊と分担して、秩序の維持にあたることになっていたが、暴徒に向かって、煽動的な叫びを投げかけていた。
「オレンジ万歳! 売国奴をやっつけろ!」
隊長ティリイと騎兵隊の存在は、こうした市民兵全体に、確かに有効なブレーキとなっていた。しかし間もなく、彼らは自分たちの叫び声に興奮してしまった。それにまた彼らは、叫びを上げない人間は勇気を持っていないのだと思い込んで、騎兵隊の沈黙しているのを臆病のせいに帰してしまった。それで暴徒を背後に従え、牢獄の方へ一歩進み出した。
だがこの時、ティリイ伯は単騎で、彼らの前に進み出て、眉をひそめながら剣を持ち直した。
「おい! 市民軍諸君!」
と、彼は問いかけた。
「なぜ諸君は前進するのか? 何を諸君は要求するのか?」
市民兵は火縄銃を振り回し、繰り返して叫びつづけた。
「オレンジ万歳! 売国奴を殺せ!」
「オレンジ万歳だって! それならそれでいいさ!」
と、ティリイ伯は言った。
「わしだって、陰気な面《つら》がまえよりは、愉快な面がまえの方が好きだがね。売国奴を殺せとは何だ! 怒鳴りたいんなら、怒鳴ってればいい。気がすむまで怒鳴るがいい。売国奴を殺せってな! しかし実際に売国奴を殺すということになると、それを妨害するために、わしはここにいるのだぞ。わしはそれを妨害するぞ」
それから兵士たちの方を振り向いて、
「武器を上げろ、兵士たち!」
と、叫んだ。
ティリイの部下の兵士たちは、落ち付いて正確に指揮官の命令に従った。その態度はたちまち市民兵や民衆を尻込みさせ、混乱に陥らせてしまった。それを見ると騎兵隊長は微笑した。
「さあ、さあ!」
と、彼は剣を頼みにしている嘲笑的な語調で言った。
「静かにしたまえ、市民兵諸君。わが兵は発砲はしないぞ、しかし諸君の方も牢獄に近づくな」
「隊長殿、われわれには火縄銃のあることをご存知か?」
と、市民軍の隊長が憤激して叫んだ。
「いかにもわしにはよく見える。諸君は火縄銃を持ってるな」
と、ティリイは応じた。
「諸君はわしの目の前でキラキラ光らせているからな。しかし諸君も、われわれがピストルを持っていることに気をつけたまえ。ピストルは五十歩のところに届くんだ。君の方はやっと二十五歩というところなんだぞ」
「売国奴を殺せ!」
と、興奮した市民兵たちは叫んだ。
「何だ! いつまでたっても同じことを言ってる」
と、騎兵隊長はつぶやいた。
「飽き飽きするな!」
彼は再び部隊の先頭の位置についた。その間にも、喧騒は刻々と大きくなりながら、ビュイテンホーフの方へ向かって進んで行った。
しかしながら熱狂した民衆は、彼らが犠牲者の一人の血を嗅ぎつけているちょうどその時、もう一人の犠牲者が、あたかも自分の宿命の前に道を急ぐかのように、群集や騎兵隊の背後にある広場から百歩ばかりのところを通って、ビュイテンホーフに向かったことを知らなかった。
実のところ、ジャン・ド・ウィットは召使を一人伴って、四輪馬車から下りると、徒歩で牢獄の前にある前庭を静かに横切っていた。
彼は顔見知りの獄吏に、自分の名前を告げて、こう言った。
「こんにちは、グリフュス。私の兄のコルネイユ・ド・ウィットは、お前も知ってのとおり、追放の宣告を受けたのだ。それで町から外に連れ出そうと思って、探しに来たのだがね」
獄吏というのは、牢獄の扉のあけたてをよくしつけられた熊のような男だったが、彼に頭を下げると、建物の内部に勝手に入って行かせた。背後で扉は再び閉じた。
そこから十歩ばかり歩むと、彼は、フリゾン風〔オランダ北部の州名〕の衣装を着た年の頃十七、八の美しい乙女に出会った。彼女はかわいらしい会釈をした。彼は彼女の顎に手をやりながら言った。
「こんにちは、いい子で綺麗なローザ。僕の兄上はどうしておられるね?」
「おお! ジャン様!」
と、若い娘は答えた。
「私があの方のために恐れていますことは、あの方がお受けになった危害のことではございませんの。そんな危害はもう過ぎてしまったことですもの」
「それじゃ、お前は何を恐れているのかね?」
「ジャン様、私が恐れておりますのは、あの方にこれから加えられようとする危害のことですの」
「ああ! そうだね」
と、ド・ウィットは言った。
「あの民衆のことだね?」
「お解りになりまして?」
「まったく、すごい興奮状態だ。しかし我々の姿を見れば、何しろ我々は、いつでもあの連中の福祉になることばかりをやってきたのだからね、おそらく鎮まることだろう」
「お気の毒ですけれど、そんなことは理由になりませんのよ」
と、娘は父親が送った威圧的な合図に従って、遠ざかりながら囁いた。
「そう、そうかも知らんな、お前が言うことは本当だね」
やがて、彼は道をつづけながら、
「まさに」と、つぶやいた。
「あの小娘は、きっと字を読むことも知らないだろう。だから何一つ読んだこともなかっただろう。しかしあれは、世界の歴史をたった一言にくるめてしまった」
そして相変わらず穏やかな態度で、しかし入ってきた時よりも少々憂鬱な気分になりながら、オランダ宰相は、兄の部屋の方へ歩みつづけて行った。
二 兄と弟
美少女のローザが予感を覚え不安を抱きながら述べていたとおり、ジャン・ド・ウィットが兄のコルネイユの牢獄に至る石段を登っている間に、市民兵たちは邪魔になるティリイの部隊を遠ざけようとして全力を尽くしていた。
これを見ると民衆は、市民軍の行為に敬意を払って、声を限りに「市民軍万歳!」を絶叫した。
断乎たる態度のうちにも慎重なティリイ氏の方は、麾下《きか》の部隊にピストルの用意をさせて、市民軍との交渉にあたっていた。彼は議会の命令を受けて三個中隊を率い、牢獄の広場とその周辺との警備にあたっていることを懸命になって説明した。
「そんな命令の理由はどこにあるんだ? 牢獄を警備する理由なんてどこにあるんだ?」
と、オレンジ党員は喚き立てた。
「ああ!」
と、ティリイ氏は答えた。
「諸君は即答を求めておられるが、そのことに関してはわしの答弁する限りではない。わしに与えられた命令は『警備せよ』というのだ。だから、『わしは警備する』というわけだ。諸君、諸君だって大方は軍人なんだろう。そういうことなら諸君にだって、命令は論議の余地のないものだくらいのことはわかってもよさそうなものだな」
「それじゃ、売国奴を町から出してやれるように、そんな命令がおまえに与えられたのか!」
「おそらくそれはそうだろう。なぜかと言えば、売国奴は追放の宣告を受けたのだからね」
と、ティリイ氏は答えた。
「だが、誰がそんな命令を下したんだね」
「国家である!」
「国家が裏切ったんだな」
「そんなことは、いっこうにわしの関知するところではない」
「それじゃ、おまえ自身も裏切り者だな」
「わしが?」
「そうだ、おまえがだ」
「ああ、とんでもない! 市民軍諸君、われわれの言うことがわからんのか? わしは国家を裏切ることはできない。なぜならば国家に雇われている以上、わしは正確にその命令を果たすだけだ」
以上のとおり、伯爵の方にはいとも完全に理由があり、彼の答えには論議の余地がなかったので、喧騒と威嚇との声は倍加した。その喧騒と威嚇とは恐るべきものだったけれども、伯爵はそれに対してできるだけ平静に答えた。
「だが市民兵諸君、お願いしておくが、諸君は火縄銃に装填したりしたもうな。偶然にもせよ、一発でも弾丸が発射され、わが騎兵隊の一人でも負傷することになれば、われわれは二百名ほどの諸君を地上に打ち倒すことになるだろう。そんなことは、われわれにとって誠に遺憾なことなのだ。しかしそれが諸君の意図でもなく、わしの意図でもないことが解れば、諸君にとってはさらに遺憾千万なことになるに違いない」
「おまえがそんなことをやらかせば」
と、市民兵たちは叫んだ。
「今度はわれわれが、銃火をおまえにお見舞いしますぜ」
「いいとも、しかし、われわれに発砲して、われわれを一人残らず殺し終わった時には、われわれの方で殺した連中だって死体になって残っているんだぞ」
「だから広場をわれわれに譲ってくれ。おまえは善良な市民として行動すべきだ」
「まず第一に、わしは市民ではない」
と、ティリイは言った。
「わしは軍人だ。そこには大いに違いがある。次にわしはオランダ人ではない。わしはフランス人なのだ。このことはさらにもっと大きな違いなのだ。だからわしの知っているのは国家だけだ。それがわしに俸給を支払ってくれているのだ。広場を譲れという命令を国家からわしのところに持って来たまえ。わしはただちに回れ右をする。わしはこんなところにはすっかり飽き飽きしているんだ」
「そうだ、そうだ!」
と、百人ばかりの声が叫んだ。それはすぐさま五百人ばかりの声に増えた。
「市庁に行こう! 代議士を探しに行こう! さあ、行こう、行こう!」
「それがいいんだ」
と、ティリイは一番過激な連中が遠ざかって行くのを眺めながらつぶやいた。
「市庁に行って、卑劣な行為を求めるがよい。そんなことを誰が諸君に承知するか、よく解るだろうからな。さあ、行きたまえ、諸君、行きたまえ」
立派なこの軍人は、行政官の名誉を期待していた。行政官の方でも、彼の軍人としての名誉に期待したのだったから。
「では、隊長、大丈夫ですね」
と、第一副官が伯爵の耳に囁いた。
「議員たちはこの気狂いどもの要求を拒絶することでしょうね。しかも多少なりと援軍をわれわれのところによこすでしょうね。そうなれば悪くはないと思いますが」
ところで先刻はジャン・ド・ウィットが、獄吏グリフュスとその娘ローザと会話を交してから、階段を登って行くところで話を切ったが、彼は先にも述べたとおり、検察官の手で予備拷問にかけられた兄のコルネイユが、藁《わら》布団の上に横たわっている独房の入り口にたどりついた。
追放命令が伝達されていたので、コルネイユは特別拷問にかけられることは免れていた。
コルネイユは犯しもしない罪については何一つ告白しなかったが、手首は砕け、指はちぎれちぎれになった有様で、ベッドの上に身を伸ばしていた。拷問を受けてから三日経って、彼は判事どもから死刑の宣告を待っていたのだが、その判事たちが追放刑に処するに止めると知って、ようやく息を吹き返したところだった。
彼は勢力的な肉体と不敵な魂の持ち主だった。それゆえもしも敵どもが、ビュイテンホーフの暗闇の底にある彼の青ざめた顔の上に、天の光明を予見した時から地上の泥沼を忘れてしまう殉教者のあの微笑が輝いているのを眺めることができたとしたら、失望してしまうに違いなかった。
堤防監察官は、現実の救いというよりも、自分の意志の力で彼の有するあらゆる力を快復したのだった。そして彼は裁判の手続き上、これからどのくらいの期間にわたり牢獄に拘留されるかを計算していた。
それはちょうど市民軍の叫喚が、民衆の怒号と入り混じってこの二人の兄弟に向かって湧き上がり、この二人のために防塞の役目を果たしていたティリイ隊長を威嚇していた時のことだった。その喧騒は牢獄の裾《すそ》のほうで上げ潮のように砕けて、この囚虜の人のところまで届いていた。
しかしこの喧騒の響きがどんなに威嚇的なものであったにせよ、コルネイユは一向気にも留めず、また戸外の日光と物音とが入ってくる狭い鉄格子のはまった窓からわざわざ眺めて見ようともしなかった。
彼は連続的な苦痛に責めたてられて、心身ともにひどい麻痺状態に陥っていたので、この苦痛はほとんど習慣的なものに変わっていた。ついには魂や理性だけが肉体の苦痛から解放されるような状態になり、恍惚感が強まっていたので、この魂や理性が物質から逃れ出て、物質の上を浮動しているように思えてきた。それはあたかも消えかけた暖炉の上で、天に昇ろうとしている火焔が暖炉から離れて浮遊しているのとそっくりそのままの状態だった。
彼の方でも同じように、自分の弟のことを考えていた。
それはおそらく事件以来、未知の神秘の引力の作用でお互いに感じ合っていた接近だった。今しもジャンはコルネイユの身の上を考えながら、その場に現われようとしていたので、コルネイユがジャンの名前をつぶやこうとしたちょうどその瞬間、扉がさっと開いて、ジャンが入って来た。彼は急ぎ足で、囚人のベッドに近づいた。囚人は傷ついた腕と白い布で包んだ手を、この高名な弟の方に差し出した。彼がこの弟に勝っていた点は、国家に対する奉仕にあるのではなく、オランダ人が彼に寄せた憎悪の念にあるのであった。
ジャンは優しく兄の額に接吻して、その傷ついた手を静かに藁《わら》布団の上に置いた。
「コルネイユ、お気の毒な兄上」
と、彼は言った。
「ひどいお苦しみだったでしょうね?」
「もう苦しくはない、御身に会えたからな」
「おお! お気の毒な、大切なコルネイユ、あなたがそうでないと言われても、こんなお姿を見ては、私のほうが苦しくなります」
「それにまた、私は、自分のことよりも、御身のことを考えていた。拷問にかけられている間も、気の毒な弟! と言うだけで、私はたった一度も自分の身が悲しいとは思わなかった。だが、お前はここに来た。何もかも忘れてしまおう。お前は私を探しに来てくれたのだね?」
「そうですとも」
「私は治ったよ。起きるのを手伝ってくれ、そうすれば私がどんなにうまく歩けるかが御身にも解ることだろう」
「長く歩くこともありません。養魚池のところに四輪馬車があります。ティリイのピストル兵の後ろの方ですが」
「ティリイのピストル兵だって? どうして彼らが養魚池のところなどにいるのだ?」
「ああ! それは想像にすぎないことですがね」
と、オランダ宰相は、いつものように悲しげな表情の微笑を浮かべて言った。
「ハーグの人々は、あなたがご出発なさるのを見届けたいと思っているのです。そこで少々騒動の起こる心配があるのです」
「騒動だって?」
と、コルネイユは狼狽した弟のほうに視線を据えながら問い返した。
「騒動だって?」
「そうです、コルネイユ」
「では、先刻聞こえたのはそれだったのだな」
と、囚人は独り言のようにつぶやいた。そしてまた弟のほうに向き直った。
「ビュイテンホーフの広場には、人が集まっているんだね?」
と、彼は訊ねた。
「そうです。兄上」
「それじゃ、ここに来るには……」
「何ですって?」
「よくまあ、通って来られたもんだね」
「ご承知でしょうが、われわれは決して愛されておりません、コルネイユ」
と、オランダ宰相は、憂鬱そうな苦痛に満ちた調子で言った。
「私は裏道を通って参りました」
「身を隠して来たのか、ジャン?」
「私は時を移さずやってこようと思っておりました。ところで逆風がある時には、政治でも海でも同じことですが、情勢に順応するというのが私のやり口です。そこで私は迂回して参ったのです」
この時、騒音はさらに激烈になって、広場から牢獄に昇って来た。ティリイは市民軍と応酬していた。
「おお! おお!」
と、コルネイユは言った。
「ジャン、御身はまことに偉大なパイロットだ。御身はエスコオの浅瀬の真ん中を突っ切り、とロンプからアンヴェルまで艦隊を誘導したことがあったが、しかしあの時と同様に無事にこの民衆の波涛の間や岩礁の上を乗り切って、この兄をビュイテンホーフから救い出せるかどうか私には見当がつかんのだ」
「神のご加護により、コルネイユ、われわれは少なくともやれるだけのことはやってみましょう」
と、ジャンは答えた。
「しかし、何よりもまず一言」
「言いたまえ」
叫喚はまたしてもたかまってきた。
「おお! おお!」
と、コルネイユは言葉をつづけた。
「あの群集の憤慨はどうだ! いったいあれは御身に対してなのか? それとも私に対してなのか?」
「コルネイユ、私の信ずるところでは、私ども両人に対してなのです。ところで申し上げておきますが、オレンジ党の連中がわれわれを非難してあの愚劣な誹謗をやっているのは、われわれがフランスと協商を行ったことに対してなのです」
「馬鹿な奴らだ!」
「そうですとも、しかし彼らは、それを非難しているのです」
「だがもしあの協商が成功していたら、レエ、オルセイ、ヴェセル、ラインベルグなど、打ち続いた敗戦も免れることができたのに。あれがあったら、彼らもラインの渡河などは避けて、オランダは、沼沢地帯と運河地帯に囲まれて、今なお無敵を誇っていられたろうに」
「兄上、それはいずれも真実です。しかしそれよりもさらに絶対的な真実は、もしも今、われわれがルーヴォア殿〔当時のフランス陸相〕と取り交わした手紙が発見されたなら、たとえ私が、いかによきパイロットであっても、私には、ド・ウィット家とその財産とをオランダ国外に運び出せる片々たる一隻の船をも救い出すことはできません。この手紙は、誠実な人間の手に入れば、私がいかに祖国を愛し、私がいかに祖国の自由と栄光とのために粉骨砕身して、犠牲を払ってきたかを証明するに足りるでしょう。しかしまたこの手紙がわが仇敵オレンジ党の手に渡れば、われわれの破滅は明らかです。時に兄上、コルネイユ、あなたがハーグの私のもとにおいでになろうとして、ドルドレヒトを離れたおり、あの手紙は焼いてしまわれたことと思っておりますが」
「弟よ」
と、コルネイユは答えた。
「御身がルーヴォア伯と取り交わしたあの手紙は、御身が最近、七州連邦中でもっとも偉大な、もっとも寛大な、もっとも練達せる市民であることを証明しているものだ。私はわが祖国の栄光を愛するものだ。私は特に御身の栄光を愛している。それで私は、あの手紙を焼くまいとしたのだ」
「それでは、われわれのこの地上の命は、破滅下も同然ですね」
と、オランダの前宰相は、窓に近づきながら静かに言った。
「いや、そんなことはあるまいぞ、ジャン。われわれは肉体の救いと同時に、民衆の復活を得られるのだ」
「では、あの手紙はどうなされたのですか?」
「私の名付け子コルネリウス・ファン・ベルルに頼んでおいた。御身も承知のとおり、ドルドレヒトに住んでいる男だ」
「おお、気の毒なことだ、あの気立ての優しい素直な子供にですか! あれはまったく珍しい男で、博識ですが神を祝福する花のことと、花を芽生えさせたもう神のことしか念頭にない男ですよ! あなたはあの男に、あんな命取りの物件の保管をお頼みになったのですか。ですがそれでは彼は破滅しますよ。兄上、あのコルネリウスはかわいそうに!」
「破滅するって?」
「そうですとも、なぜなら彼は強い人間か、弱い人間かそのどっちかでしょうからね。もしも彼が強い人間ならば、彼はわれわれのことを自慢するでしょう。また彼が弱い人間なら、われわれとの親交を恐れることでしょう。もしも彼が強い人間なら、秘密を大声で騒ぎ立てるでしょうし、またもしも弱い人間なら、秘密を奪われてしまうことでしょう。それで、コルネイユ、いずれの場合にしましても、彼は破滅してしまうし、われわれもご同様ということになりましょう。こういう次第ですから、われわれに、もしまだ時間があることなら、すぐに逃げ出さねばならないのです」
コルネイユは、ベッドの上に身を起こして弟の手を握った。弟の手は白い布に触れて、ブルっとふるえた。
「私は自分の名付け子のことを知らなかったのかしらん」
と、彼は言った。
「ファン・ベルルの念頭に、どんな考えが潜み、あれの魂の中に、どんな感情があるかを、いちいち読みとることができなかったのかな? お前が私に求めているのは、あの男が弱い人間だということかね? それとも強い人間だということかね? あれはどっちでもないんだね。だがそれはどっちでもいいことなのだ! 大切なことは、あれが秘密を守れるかどうかということだ。ともかく、あれは、その秘密を何も知ってはいないのだがね」
ジャンは驚いて振り返った。
コルネイユは、優しい微笑を浮かべて言葉をつづけた。この堤防監察官は、ジャンの学校で訓練された政治家なのである。
「もう一度言っておくがね。ファン・ベルルは、私の預けた例の保管物の性質についてもその価値についても一向知っていないのだ」
「それでは急ぎましょう!」
と、ジャンは叫んだ。
「それならまだ時間があるでしょうから、あの手紙の束を焼却する命令を伝えさせましょう」
「そんな命令を誰に伝えさせるのか?」
「召使のクレークをやりましょう。あれは騎馬で私の供をしてきたのです。私と一緒に牢獄に入って、あなたが階段を降りる手伝いをやらせることになっていたのです」
「ジャン、あの栄光ある書類を焼却する前に、もう一度よく考えた方がいい」
「正直なコルネイユ、私はよく考えたのです。ウィット兄弟が名誉を救うためには、何よりもまずその命を救わねばならないと。われわれが死んでしまったら、いったい誰がわれわれの弁護をしてくれるでしょう? いったい誰がわれわれのことを理解してくれるでしょう?」
「では、彼らがあの手紙を発見したら、われわれを殺すものと信じているのか?」
ジャンは兄に答えようとはせず、手をビュイテンホーフの方に向けた。この時、その広場からは、兇暴な叫喚が爆発したように盛り上がって来た。
「よい、よい」
と、コルネイユは言った。
「あの喚き声はよく聞こえるよ。しかしあの喚き声はどういう意味なのだ?」
ジャンは窓を開いた。
「売国奴を殺せ!」
民衆は喚いていた。
「コルネイユ、さあ、今度はお解りになりましたか?」
「それじゃ、売国奴というのは、われわれのことなのか!」
と、囚人は眼を天に上げ、肩をそびやかしながら言った。
「われわれのことなのです」
と、ジャン・ド・ウィットは繰り返した。
「クレークはどこにいるのか?」
「部屋の扉口のところだと思います」
「それでは、中に入れてくれ」
ジャンは扉を開いた。忠実な召使は、事実、敷居のところで待っていた。
「こっちに来たまえ、クレーク、兄上がおっしゃることをよく覚えておいてくれ」
「おお、それでは駄目だ、ジャン、言っただけでは十分でない。やむをえないが、書く必要がある」
「それはまたどういう理由からですか?」
「ファン・ベルルははっきりした命令がなければ、あの委託品を返してくれることもなかろうし、焼くこともあるまい」
「だが、あなたはお書きになれますか」
と、ジャンは、すっかり焼けただれ、傷だらけになった兄の憐れな両手を眺めながら訊ねた。
「おお、ペンとインクさえあれば大丈夫だよ」
と、コルネイユは言った。
「ここには、鉛筆しかありませんが」
「紙はあるかね、ここには何一つ置いてないんだがね」
「ここにバイブルがあります。第一頁を裂くことにしましょう」
「それでよろしい」
「しかし、あなたの筆跡が読めるでしょうか?」
「それは大丈夫だ!」
と、コルネイユは弟を見つめながら言った。
「この指は、体刑執行人の蝋燭の燈心にも堪えたのだ。この意志は、あの拷問にも打ち克ったのだ。これを一緒に合わせて努力するのだ。弟よ、落ち付いていたまえ、一つもふるえの跡など残さず、立派に行を書き綴ってみせよう」
本当に、コルネイユは鉛筆を握り、書き出した。
鉛筆にかかった指の圧力のために、皮膚の傷口が開いてそこから迸《ほとばし》る血の滴《しずく》は、薄い白い布地に染み出してくるのが見えた。
汗は、宰相のこめかみを流れた。
コルネイユは書いた。
[#ここから1字下げ]
親愛なる名付け子よ、
私が預けた委託品を焼却してくれたまえ。内容を見ず、開封せずに焼却してくれ。その品が君自身には未知のものとして終わるように。その中に含まれている類の秘密は、保管者の生命を奪うものだ。かならず焼却してくれ、そうすれば、君はジャンとコルネイユの生命を救えるのだ。
ごきげんよう。私を愛してくれ、
コルネイユ・ド・ウィット
一六七二年八月二十日
[#ここで字下げ終わり]
ジャンは涙を眼に溜めて、紙の上に汚染をつけた兄の高潔な血の一滴をぬぐうと、最後の注意を与えて、これをクレークに渡した。そして苦痛のためにさらに蒼白となり、気絶しそうな姿をしているコルネイユ・ド・ウィットのそばに立ち戻った。
「さあ」
と、彼は言った。
「あの正直者のクレークは、職工長だった昔の呼子《よぶこ》を鳴らします。その時は、彼が養魚池の向こう側に着いて、群衆の間から抜け出した合図です……。そうしたら、今度はわれわれが出発する番なのです」
五分も経たぬうちに、長くて鋭い呼子の響きが、楡《にれ》の黒い葉陰の円頂を、海鳴りのように貫いて、ビュイテンホーフの叫喚を圧倒した。
ジャンは両手を天に上げて、感謝のしるしを表わした。
「さあ、それでは」
と、彼は言った。
「コルネイユ、出かけましょう」
三 ジャン・ド・ウィットの弟子
ビュイテンホーフに集まった群衆の叫喚が、二人の兄弟に向かって、刻一刻と激しくなり、ジャン・ド・ウィットが兄のコルネイユの出発を促そうと決心したころ、市民兵の代表は、前にも述べたとおり、市庁に押しかけて、ティリイの指揮する騎兵隊の退去を要求しようとしていた。
ビュイテンホーフから、フーグストラートまでは、さほど遠い道のりではなかった。ここにまた一人の見知らぬ男がいて、この劇的光景が始まってから、面白そうに事の仔細《しさい》を眺めつづけていたが、これからいったい何が起こるかをいち早く知ろうとして、他の連中と一緒に、というよりもその後について市庁の方に歩みつづけていた。
この見知らぬ男は、非常に若い男で、年の頃はようやく二十二、三才、見かけはそれほど逞《たくま》しくはなかった。彼はおそらく人に認められてはいけない理由があるのか、青白い長めの顔を、フリーズ布の柔らかなハンカチで隠し、そのハンカチで、汗に濡れた額と、燃えるような唇を絶えずぬぐっていた。
目は猛禽《もうきん》類のように据わっており、鼻は鷲の嘴《くちばし》のように長く、口は薄く間一文字をなして開くというよりも傷口のように裂けていた。この男は、もしもラヴァテルがこの時代にあったならば、何よりも有益な骨相学的研究資料を提供したに違いない。
いったい、征服者の顔と海賊の顔との間には、どんな相違があるだろうか? と、故人は語っている。それは鷲と禿鷲との間にある相違なのだ。
一方は穏やかだが、一方は不安そうだ。
それと同様に、この青白い顔つきや、このホッソリして鋭い病み疲れているような身体や、喚きつづける民衆の後に続いて、ビュイテンホーフからフーグストラートへと運んで行くおぼつかなげな足どりなどは、猜疑心を抱いているどこかの主人か、落ち付かない盗人のようなタイプであり、またそんな姿を呈していた。もしも警察の人間が、目下われわれの目をつけている男が注意深く身を隠そうとしている様子を見たならば、確かに、この後者のほうだと見極めをつけることであろう。
その上彼は簡単な身なりをして、見たところ、武器も帯びていないようであった。彼はほっそりして神経質そうな腕と、乾いていかにも白く華奢で貴族的な手を、一人の将校の腕ではなくて肩にもたせかけていた。この将校は拳を剣にかけて、その連れが歩み出し、彼をそのまま一緒に引っ張って行こうとした時まで、一目見てそれと解るような興味を抱きながら、ビュイテンホーフに起こっている一切の光景を眺めていたのだった。
フーグストラートの広場に着くと、青白い顔の男はもう一人のほうをちょうど開いていた窓の扉の蔭に押しやり、市庁のバルコンのほうに目を凝らした。
民衆の狂気じみた叫喚に、フーグストラートの窓が開かれ、一人の男が乗り出して群衆と話をしようとした。
「バルコンに現われたのは誰かね?」
と、若者は目配せだけで、演説者の方を指し示しながら将校に訊ねた。演説者はひどく興奮しているようで、欄干の上に身を傾けているというよりも、それで身体を支えているような形だった。
「あれは代議士のボウェルトです」
と、将校は答えた。
「あの代議士のボウェルトというのは、どんな男だね? 君は彼のことを知ってるかね?」
「少なくとも私の信ずる限りでは、正直な男です。殿下」
若者は、将校からボウェルトの性格に対する評価を聞くと、意外なほどの失望と、目に見えた不満のそぶりを隠さなかった。将校はそれに気付くと、あわてて付け加えた。
「少なくとも世間ではそう言っております、殿下。私はボウェルト氏を個人的に存じておりませんので、何一つ確かなことを申し上げることはできません」
「正直な男か」
と、殿下と呼ばれた男は言い返した。
「君が言いたいのは、|正直な男《プラーヴ・オンム》だというのか、|勇敢な男《オンム・プラーヴ》だというのか?」
「ああ! 殿下、ご容赦下さい。繰り返して殿下に申し上げますが、わたしはあの男の顔だけを知っておりますので、あの男に対してその区別をはっきりつけるわけにはまいりません」
「それはそうだな」
と、若者はつぶやいた。
「待ってみよう。そのうちはっきり解るだろう」
士官は、同意のしるしに頭を下げた。そして黙りこんだ。
「もしもあのボウェルトが正直者なら」
と、殿下は続けた。
「この気狂いどもの行なう要求を、受け入れるような愚かなことをするであろう」
そしてわれにもなく手を神経質そうに動かし、鍵盤の鍵を叩く音楽家の指のようにその連れの肩の上を叩いたが、それは時折、しかも特にその時は、額の氷のように冷たく暗い表情の下に、うまく隠しきれなかった激しい焦燥をあらわに見せてしまうのだった。
その時、市民兵の代表の頭首になった男が代議士を詰問して、彼の同僚の他の議員たちはどこにいるのかと問いただしているのが聞こえた。
「諸君」
と、ボウェルト氏は、二度目の繰り返しをやっていた。
「諸君にお伝えいたしますが、目下、ここにいるのは私とアスペラン氏と二人だけなのであります。私は自分一人だけでは、何一つ決議するわけにはいかないのであります」
「命令を出せ! 命令を出せ!」
と、数千の人々は、声を合わせて叫んでいた。
ボウェルト氏は話をしようとした。しかし誰も彼の言葉に耳を傾けようとしなかった。人々は、彼がその腕を様々な絶望しきった身ぶりで振り回している様を眺めているだけだった。
しかし彼は話を聞かせることができないと解ると、開いた窓の方を振り返ってアスペラン氏を呼び立てた。
今度はアスペラン氏が、バルコンに現われた。そこに立つと、彼は、十分前にボウェルト氏を迎えた時よりもさらに凄まじい叫喚の挨拶を浴びせられてしまった。
彼は群集を納得させる難しい仕事を、やってみないわけでもなかった。しかし群集はアスペラン氏の演説に耳を傾けるよりも、至上の民衆に対し一向何の抵抗も企てないこの国家の番人に、弾圧を加える道を選んだのだった。
「さあ、行こう」
民衆がフーグストラートの正面の扉口からなだれ込んでいる間に、若者は冷やかに言った。
「討議は内部で行なわれるらしいな。大佐、行ってそれを聞こうじゃないか」
「ああ! 殿下、殿下、警戒なさらないと!」
「何を警戒するのだ?」
「代議士連中の間には、殿下と交渉のあった者が多数おります。たった一人でも殿下を認めることになれば、それだけで事は十分です」
「そうだな。この事件に関する一切の煽動者として、僕を弾劾しようということになればな。君の言うことも一理がある」
若者は自分の欲望をあまりに性急に示し過ぎたことを悔いて、一瞬頬を染めながら言った。
「そうだ、もっともなことだ。ここに踏みとどまることにしよう。ここで、彼らが許可を持って戻って来るか、持たずに戻って来るかを見ていよう。そうすれば、ボウェルト氏が正直な男か、勇気のある男なのか判断もつくだろう。このことは、僕の知っておきたいところだ」
「しかし」
将校は、殿下という称号を奉った人物をびっくりしたように見つめながら言った。
「しかし、殿下は、代議士たちがティリイの騎兵隊に退去を命ずるなどということを、ただの一瞬もご想像になってはいまいと思っていたのですか?」
「どうして?」
と、若者は冷やかに訊ねた。
「なぜかと申せば、彼らがこういう命令を下せば、ド・ウィット家のコルネイユとジャンの両氏に対する死刑の宣告文に署名をするようなものだということは歴然たる事実ですから」
「まあ、見ていることにしよう」
と、殿下は、冷やかに答えた。
「人間の心に起こることは、神のみがよく知りたもうところなのだ」
将校はその連れの無感動な顔をひそかにぬすみ見て蒼くなった。
この将校こそ、正直な男で、同時に、勇気のある男なのであった。
殿下とその連れは足をとめている場所から、民衆が市庁の階段のところで喧騒の声をあげ、地団太を踏んでいる物音を聞いていた。
やがてこの騒音は、ボウェルト氏とアスペラン氏が姿を現したバルコンのある広間の開け放った窓から、広間の外に飛び出して広がってくるのが聞こえた。もちろんこの両氏は民衆に押し出されて欄干から飛び出さなくてはならなくなるのを恐れて、再び広間の内部に入ってしまった。
それから渦を巻いて混乱した人影が、窓々の前を通り過ぎるさまが見えた。
評議場は、人波で溢れるばかりだった。
不意に騒音がピタリと止んだ。やがてまた不意に騒乱が倍加して爆発するような段階に達し、古い建物は棟木までも震動するほどだった。
やがて最後には人波の激流が、廊下や階段を通り抜けて再び入り口のところまで流れ出し、入り口の円天井の下を竜巻のように溢れ出るのが見えた。
先頭の一団の真っ先に立って、走っているというよりも飛んでいるといった姿で、歓喜のために醜く顔を歪めた男がいた。
それは外科医のティクラーであった。
「もらったぞ! もらったぞ!」
と、彼は、一枚の紙片を空中で打ち振りながら叫んだ。
「彼らは命令を手に入れたんだな!」
と、将校はびっくりしてつぶやいた。
「まあ、僕の考えていたとおりだ」
と、殿下は動ずることもなく言った。
「親愛なる大佐、君は、ボウェルト氏が正直な男なのか勇敢な男なのか解らなかったのだな。あれは、そのどっちでもないね」
それから眉毛一つ動かさず、前を流れて行く群集を眼で追いつづけながら、
「さあ、いよいよ」
と、彼は言った。
「ビュイテンホーフに行くことにしよう。大佐、僕の信ずるところでは、われわれはまことに珍しい光景にお目にかかることになるだろう」
将校は上体を屈め、答えの言葉も発せず主人の後に従った。
群衆は、広場と牢獄の周辺とに数限りもなくいた。しかしティリイの騎兵隊は、終始同じように手際よく特に毅然とした態度で、この群集を制御していた。
間もなく伯爵は、上潮のような人波が近づくにつれて、高まってくる喧騒の音を耳にした。やがて彼は瀑布の落下するような速度で、先頭の波が流れて来るのを認めた。
同時に彼は、振りかざした手やキラキラ光った武器の上に、空中を泳いでいる例の紙片を認めた。
「おい!」
と、彼は鐙《よろい》の上に立ち上がり、剣の柄頭《つかがしら》で副官を突きながら言った。
「どうもあの下司どもは、命令を手に入れたようだな」
「卑劣な奴らめ!」
と、副官は叫んだ。
それは事実、市民兵の連中が、歓呼のどよもしを立てながら受け取った命令の文書だった。
彼らはただちに行動を起こして武器を下げ、ティリイ騎兵隊の方に向かって喚声をあげながら前進した。
しかし伯爵は、彼らに適当な距離を取らせて、それ以上勝手に近づけさせるような男ではなかった。
「止まれ!」
と、彼は叫んだ。
「止まれ! わが騎兵隊の馬の胸|前《さき》を開けろ、さもなければ、わしは命令する、前進!」
「ここに命令があるぞ」
と、百人ばかりの声が、傍若無人に答えた。
彼は愕然とした面持ちでそれを取り上げると、すばやく視線をその上に投げかけたが大声音で、
「この命令に署名した奴らこそ」
と、叫んだ。
「コルネイユ・ド・ウィット殿のまことの死刑執行人だ。これがわしなら、こんな恥知らずな命令の文字なんか、自分の手でただの一字も書きたくない」
彼はその手からそれを取り返そうとした男を、剣の柄頭で押し返しながら、
「ちょっと待て」
と、言った。
「こういった書状は重要なものだ。だからわしが保管させてもらおう」
彼は紙片をたたむと、注意深く上衣のポケットに納めた。
やがて、部隊の方に向き直ると
「ティリイ騎兵隊、右へ倣《なら》え!」
と、彼は叫んだ。
やがて低声《こごえ》で、しかし誰にも自分の語句が聞き取れるような程度で、
「さあ、首斬り人諸君」
と、彼は言った。
「仕事を始めたまえ」
ビュイテンホーフの広場に轟いていたあらゆる種類の血に飢えた憎悪と、兇悪な歓喜とから成り立っている激しい喚声は、騎兵隊の出発を歓迎した。
騎兵隊は、ゆっくりと隊列を解いた。
伯爵は後尾に踏みとどまって、隊長の馬が地面を後退するに従い、じりじりと前に進み出る酔い痴れたような民衆と、最後の瞬間まで鼻を突き合わせていた。
読者もご承知のとおり、ジャン・ド・ウィットが兄を助け起こして出発を促していた時、彼は危険を誇張していたのではなかった。
それでコルネイユは、前宰相の腕にすがりながら中庭に通ずる階段を降りて行った。
階段の下で、彼は美しい乙女ローザが全身をわななかせているのに出会った。
「おお! ジャン様」
と、彼女は言った。
「何というご運の悪いことでしょう!」
「では、何か起こったのかね、わが子よ」
と、ド・ウィットは訊ねた。
「何でも人の申すには、あの人たちはティリイ伯爵様の騎兵隊を退去させる命令をもらいに、フーグストラートに行ったということでございますの」
「おお! おお!」
と、ジャンは言った。
「わが娘よ、実際にもしも騎兵隊が行ってしまったら、私たちの立場は悪くなるね」
「それで、もしも、私がご忠告を申し上げなければならないようでしたら……」
と、若い娘はブルブル震えながら言った。
「わが子よ、言っておくれ、神がお前の口を借りて、何か驚くべきことを私に語ってくれるようだね!」
「はい、そうでございますわ! ジャン様、私でしたら決して大通りには出てまいりません」
「それはどういうわけかね、ティリイの騎兵隊は、ずっと部署についているはずだがね?」
「そうですわ、あの命令が取り消されない限りは、牢獄の前にとどまっておりますわ」
「もちろんだね」
「あなた様がたは町の外に出るまで、護衛をお受けになるような命令をお持ちでございますか?」
「いや」
「それではいけませんわ! あなた様は先頭の騎兵隊を通り越したら、さっそく民衆の手に落ちてしまいますわ」
「だが、市民軍がいるではないか?」
「おお! その市民軍が一番荒れ狂っているのでございますわ」
「それでは、いったいどうすればいいのだね!」
「ジャン様、私があなた様でしたら」
と、若い娘はおずおずと言った。
「私なら、裏口を通って外に出ることにいたしますわ。出口は誰もいない道路に通じておりますの。なぜなら誰も彼もみんな表口で待ち構えて大通りに集まっているのですから。そうして私なら、あなた様が外に出たいとお思いになる町の出口に向かってまいりますわ」
「だが、兄上は歩くことができないのだ」
と、ジャンは言った。
「やってみよう」
と、コルネイユは崇高な毅然とした態度で答えた。
「でも、あなた様は馬車をお持ちではございませんの?」
と、若い娘は訊ねた。
「馬車は、あの表門の出口にあるのだ」
「いいえ」
と、若い娘は答えた。
「私は、あなた様の馭者が忠実な人だと思いましたの。それであの人に裏口の方に回って、あなた様をお待ちいたすように言いつけておきましたの」
二人の兄弟は、感動して眼を見交わした。全幅の感謝の色をこめた二人の視線は、この若い乙女の上に集中した。
「それでは」
と、宰相は言った。
「後はただグリフュスが、われわれのために、あの門を開けてくれるかどうかを知ることだけだ」
「おお! それは無駄なことですわ」
と、ローザは言った。
「あの人は、とてもそんなことをしようなどとは思っておりませんの」
「それじゃ、どうすればいいのだ?」
「いざという時になったら、あの人が拒絶することぐらい私には前からわかっておりましたの。それで先刻、あの人が、牢屋の窓からピストル兵の一人とお喋りをしている間に、私、鍵束の中から鍵を抜いてまいりましたの」
「それでお前はその鍵を持っているのかね?」
「ここにございますわ、ジャン様」
「わが子よ」
と、コルネイユは言った。
「お前が私のためにしてくれた心づくしの代わりに、私からお前にあげられるものは、部屋に残したバイブルのほかに何一つ持ち合わせていないのだ。これが、誠実な男の最後の贈り物だ。あのバイブルが、お前に幸福をもたらすことを願うよ」
「ありがとうございます、コルネイユ様。私はあのバイブルをいつまでも大切に持っておきますわ」
と、若い娘は答えた。
やがて独り言のようにため息をつきながら、
「文字を知らないなんて、私、本当に悲しうございますわ!」
と、彼女はつぶやいた。
「騒ぎがだんだん大きくなるな、わが娘よ」
と、ジャンが言った。
「一瞬もおろそかにならないようだね」
「では、こちらにおいで下さいませ」
と、美しいフリゾン娘は言った。そして内廊下伝いに二人の兄弟を、獄舎とは反対側に導いて行った。
ずっとローザに案内されて、彼らは十二段ある階段を降り、銃眼のついた城壁のある小さな中庭を通り抜けた。アーチ型の門が開いていた。彼らは牢獄の裏側の人通りの絶えた通路で、昇降台をおろして彼らを待っていた馬車の真正面に出ていた。
「さあ! お早く、お早く、ご前《ぜん》様、あれが聞こえませんか?」
馭者は、すっかり気もそぞろになって叫び立てた。
しかしコルネイユを先に乗せてしまうと、宰相は若い娘の方を振り向いた。
「ごきげんよう、わが子よ」
と、彼は言った。
「私たちがお前に言えることは、ただわずかに感謝の心持ちを伝えることだけだ。私たちは神さまに、お前が今、二人の男の命を救ったことを覚えておいてくださるようにお願いしておこう」
ローザは宰相の差し延べた手を握り、うやうやしく接吻した。
「お出かけになってください」
と、彼女は言った。
「行ってください。あの人たちが扉を壊しているようですから」
ジャン・ド・ウィットは急いで飛び乗ると、兄の傍らに席を占め、馬車の横窓を閉めながら叫んだ。
「トル・ヘックへ!」
トル・ヘックというのは、シュウェニンゲンの小港に通ずる入り口を扼《やく》している、仕切り戸の役目をなしているところだった。シュウェニンゲンの小港には、小船が一隻、この二人の兄弟を待っていた。
馬車は、フランダース産の逞しい駿馬二頭に牽かれて全速力で出発すると、亡命者を運び去った。
ローザは、彼らが街角を曲がるまで見送っていた。
それから彼女は、背後で扉を閉めて戻って来る途中で、鍵を井戸に投げ込んでしまった。
民衆が扉を壊しているのではないかとローザに予感させたあの物音は、やっぱり民衆が、牢獄の広場を明け渡させてから、この扉に飛びかかって来た物音であった。
その扉がどれほど頑丈でも、また獄吏のグリフュスが当否は彼の責任だが、どれほど頑強にこの扉を開けることを拒んでも、そう長くは保《も》つまいという感じがした。グリフュスはすっかり蒼くなって、この扉を開けないでいるのと、壊されないですますのと、どっちがいいかを自問自答していた。ちょうどその時、彼は衣服が優しく引かれたのを感じた。
彼は振り返って、ローザを認めた。
「お前には、あの気狂いどもの声が聞こえるか?」
「よく聞こえてよ、お父さん、何なら代わってあげましょうか……」
「お前なら開けるかい?」
「いいえ、扉を壊すというのなら、そのまま勝手にそうさせておくわ」
「でも、奴らは俺を殺すかもしれないぞ」
「そうね、お父さんの姿を見つけたらね」
「奴らが俺を見つけないようにするには、どうすればいいだろう?」
「隠れればいいことよ」
「どこへだ?」
「密牢の中よ」
「だが、お前はどうするんだ?」
「わたし、お父さんと一緒に降りることよ。私たち、頭の上で扉を閉めましょう。あの人たちが行ってしまったら、その後で隠れ家を出ればいいわ」
「まったく、お前の言うとおりだ」
と、グリフュスは叫んだ。
「このちっぽけな頭の中に、こんな分別があるなんて、こいつはまったく驚いたもんだ」
と、彼は付け加えた。
やがて扉は民衆の有頂天な歓喜を前にして、動き始めた様子だった。
「いらっしゃい、いらっしゃい、お父さん」
と、ローザは小さな揚げ戸を開きながら言った。
「だが、それにしても、俺たちの囚人どもは?」
と、グリフュスは訊いた。
「あの人たちのことは、神さまが見張ってくださることよ、お父さん」
と、若い娘は言った。
「私には、あなたのことを見張らせてくださいね」
グリフュスは、娘の後につづいた。揚げ戸は彼らの頭上に再び落ちた。ちょうどその時、扉は破れて、民衆に進路を与えたのだった。
とにかくローザが父親を降りさせたこの独房は、密牢と呼ばれているもので、われわれがしばらくの間跡を追うのを止めねばならぬ二人の人物にとっては、安全な隠れ家を提供したに違いない。そこは当局にしか知られておらず、当局はその中に、反乱を起すか奪取される恐れのある重罪人の誰彼をよく閉じ込めていたものだった。
民衆は叫びながら、牢獄の中へ殺到した。
「売国奴を殺せ! コルネイユ・ド・ウィットを絞首台にかけろ、死刑にしろ!」
四 虐殺者の群れ
例の若者は相変わらず大きな帽子の陰に顔を隠し、将校の腕にもたれて、ハンカチで額と唇を拭いながら、ビュイテンホーフの一角にある戸締りをした商店の突き出した庇《ひさし》の陰に身を潜めて、猛り狂う民衆の繰りひろげる光景をじっと身じろぎもせずに見つめつづけていた。どうやらそれも終局に近づいた感じだった。
「おお!」
と、彼は将校に言った。
「どうやら、君の言ったとおりだよ、ファン・デンケン。あの二人の代議士諸公が署名した命令は、まさにコルネイユ氏にとっては命取りの命令だ。あの民衆の喚いているのが聞こえるか? 彼らは確かにド・ウィットのご兄弟をたいそう恨んでいるようだ!」
「仰せのとおり」
と、将校は言った。
「私も、あんな喚き声は聞いたことがありません」
「彼らはどうやらコルネイユ殿の獄舎を見つけ出したらしいな。あ! 見ろよ、あの窓はコルネイユ殿の収容されていた窓ではないか?」
事実、一人の男がコルネイユの独房の窓を閉ざしていた鉄格子を、両手でつかんで激しく揺さぶっていた。しかしその男は、十分と経たぬうちに手を離してしまった。
「おーい! おーい!」
と、その男は叫んだ。
「もういないぞ!」
「どうしたんだ。もういないんだって!」
最後にやって来て牢獄がいっぱいなので、中に入ることのできなかった人々が、街路から問いかけた。
「いないぞ! いないぞ!」
と、男は激昂して繰り返した。
「もういないんだ、逃げたに違いない」
「いったい、あの男は何を言っているのか?」
殿下は、青ざめながら訊ねた。
「おお! 殿下、あの男の言っておりますことが事実でしたら、まことに吉報と申すべきでしょう」
「そうだね、もちろん、それが本当なら吉報であろう」
と、若者は言った。
「しかし、不幸にして、それは本当ではあるまい」
「でも、ごらん下さい……」
と、将校は言った。
実際また別の憤激した顔が、怒りの歯軋りを立てながら、窓のところに登って叫び立てた。
「逃げたぞ! 脱走したぞ! 逃がしたぞ」
通路に残っていた人々は、恐ろしい呪詛《じゅそ》の言葉を吐きながら繰り返した。
「逃げたぞ! 脱走したぞ! 奴らの後を追っかけろ! 奴らを追跡しろ!」
「殿下、コルネイユ・ド・ウィット殿は事実、逃亡したものらしいですな」
と、将校は言った。
「そうだ、おそらく牢獄からはな」
と、殿下は答えた。
「しかし町からは逃げておるまい。君はよく解っておるだろうがな、ファン・デンケン、あの気の毒な男は、門が開いていると思っていたんだろうが、閉っている門にお目にかかることになるわけだ」
「では、町の門を閉めるような命令が出ているのでしょうか、殿下?」
「いや、そうとは思えない。いったい誰がそんな命令を出すのだ?」
「それではいったい! 殿下はどうしてそんな想像をなさるのでしょうか?」
「宿命というものがある」
と、殿下は無頓着に答えた。
「稀世の大人物でも、しばしば、この宿命の犠牲者になるものだよ」
将校はこの言葉を聞くと、血管の中に戦慄が走るのを感じた。なぜならば彼はあの囚人がどんな努力をしてみたところで、破滅する運命にあるのを悟ったからであった。
このとき、群衆の咆哮は雷霆《いかづち》のように爆発した。コルネイユ・ド・ウィットがもう既に、牢獄にはいないことが解ったからであった。
ところでコルネイユとジャンの方は養魚池に沿って進んでから、やがてトル・ヘックに通ずる大通りに出た。そして疑念をわずかも引き起こさずに、四輪馬車を進行させようとして、馭者に馬の速度を緩めるように頼んだ。
しかし大通りの真ん中に出ると、馭者ははるか前方に柵が設けられてあるのを見て、背後には牢獄と死を残すことになり、前方には生と自由とが開けているのを感じると、一切の注意を無視し四輪馬車を全速力で疾駆させた。
突然、馬車が停まった。
「どうしたのか?」
と、ジャンは昇降口の扉から顔を出して訊ねた。
「おお! ご前様!」
と、馭者は叫んだ。
「あれ、あのとおり……」
恐怖が、この男の声を圧殺した。
「どうしたんだ。ハッキリ言え」
と、宰相は言った。
「柵が閉っております」
「何だって、柵が閉っているって! 真昼間、柵を閉める習慣はないぞ」
「でも、ごらんのとおりです」
ジャン・ド・ウィットは馬車の外に上体を乗り出して、確かに柵が閉っているのを見届けた。
「構わぬから、行け」
と、ジャンは言った。
「私は減刑令書を持っている。門番は開けてくれるだろう」
馬車は再び走り出した。しかし馭者はそれまでと同じような自信を抱いて、馬を走らせてはいけないように感じられた。
やがてジャン・ド・ウィットは、昇降口の扉から顔を出したが、一人のビール屋に見つけられてしまった。この男は仲間に遅れたのでビュイテンホーフで追いつこうとして、大急ぎで門を閉めているところだった。
彼は驚愕の叫びをあげた。そして彼の前を走って行く二人の男の後を追いかけた。
百歩ばかり走ると、彼は二人の男に落ち着いて話をした。三人の男は立ち止まり、遠ざかる馬車をながめていた。しかしその中に乗っている人物について、確かなことは解らなかった。
その間に、馬車はトル・ヘックに着いた。
「開けてくれ!」
と、馭者は叫んだ。
「開けろだって?」
と、番小屋の戸口に姿を現した門番が言った。
「開けろったって、何で開けるんだ?」
「鍵でだよ、きまってるじゃないか!」
と、馭者は言った。
「鍵で開けるのは解ってるよ。しかし、それには、鍵を持ってなくちゃならないんだ」
「何だって! 君は門の鍵を持っていないのか?」
と、馭者は訊ねた。
「持っていないんだ」
「いったい、どうしたんだ?」
「しようがねえ! 誰だか持って行っちまったんだ」
「誰だ、そんなことをする奴は?」
「誰だか知らんが、きっとこの町から人っ子一人出さないように気をつけてる奴だろうよ」
「おい、君」
と、宰相は馬車から顔を出し、一切の危険を省みないで呼びかけた。
「おい、君、私はジャン・ド・ウィットだ。私のために門を開けてくれ。わたしの兄のコルネイユのために門を開けてくれ。私は兄をつれて亡命の旅に出るところだ」
「おお! ウィット様、何ということでございましょう」
と、門番は馬車の方に急いで近づくと、
「しかし、誓って申し上げますが、鍵は取り上げられてしまったのです」
「それはいつのことか?」
「今朝のことでございました」
「誰が持って行ったのだ?」
「若い男ですが、二十二才ぐらいで、顔が青白く、痩せこけておりました」
「なぜ、君はそれをその男に渡したのか?」
「署名捺印のある命令書を持っておりましたものですから」
「誰のものか?」
「もちろん、市庁のお歴々方のものでした」
「それでは」
と、コルネイユは落ち着いて言った。
「いよいよ、われわれの運命も窮まったようだ」
「どこの門でも、同じような措置がとられたのか?」
「私は存じません」
「さあ、行こう」
と、ジャンは馭者に言った。
「神は人がその命を守るためには、全力を尽くせと命じたもうた。他の門に行ってみよう」
それから、馭者が馬車を回している間に、
「君の好意には感謝するぞ」
と、ジャンは門番に言った。
「意見は、行為とみなされるものだ。君にはわれわれを救う意志があった。神の御眼には、君がそれをやり遂げたように見えることだろう」
「ああ! 向こうをご覧になりましたか?」
と、門番が言った。
「あの連中の間を、全速力で突っ切れ!」
と、ジャンは馭者に叫んだ。
「左の道を取れ。われわれの望みはそれ一つだけだ」
ジャンの口にした人群れというのは、馬車を見送っていた例の三人を中心に、その後ジャンが門番と交渉している間に新手が七、八人加わっていた。
この新手の連中は、この四輪馬車に対して明らかに敵意を抱いていた。
またしても二頭の馬が全速力で自分たちの方にやってくるのを見ると、彼らは棍棒を握った腕を振り回しながら道路を横切って叫び立てた。
「止まれ! 止まれ!」
馭者のほうは、身をちぢこめると鞭で縦横に振り払った。
馬車と人間とは、ついに衝突してしまった。
ド・ウィット兄弟は馬車の中に身を潜めていたので、何も見ることができなかった。しかし彼らは二頭の馬が棒立ちになったと思うと、続いて激しい動揺を覚えた。一瞬、走っていた車輪全体が、不意にたじろいで震動を起こした。車輪は、傾倒した人間の身体らしい円い柔軟な物体の上を乗り越すと、また動き始めた。そして呪詛の声のあがる真ん中を遠ざかって行った。
「おお!」
と、コルネイユは言った。
「どうやら、拙《まず》いことをしたらしいな」
「駆け足! 駆け足!」
と、ジャンは叫んだ。
しかしその命令にもかかわらず、不意に馭者は車を停めた。
「どうしたのだ?」
と、ジャンは訊ねた。
「ごらん下さい」
と、馭者は答えた。
ジャンは瞳を凝らした。
ビュイテンホーフにいた民衆が、一人残らず馬車をやろうとしていた道路のはずれに姿を現し、喚声をあげながら竜巻のように進んで来た。
「停めろ、お前は逃げろ!」
と、ジャンは馭者に言った。
「これ以上先へ行っても無駄なことだ。万事休した」
「あそこにいるぞ! あそこにいるぞ!」
五百人もの声が、一斉に叫び立てた。
「そうだ、あそこにいるぞ! 売国奴! 人殺し! 暗殺者!」
と、馬車の後から追いかけてきた連中が馬車の前から来た連中に応じた。彼らは腕で、仲間の一人の傷だらけの身体を抱え込んでいた。その男は、二頭の馬の手綱に飛びつこうとして馬にひっくり返されたのだった。
二人の兄弟が、馬車が乗り越えるのを感じたのはその男なのであった。
馭者は車を停めた。しかし主人がいくら熱心に頼んでも自分だけで逃げようとはしなかった。
一瞬のうちに四輪馬車は、後を追ってきた人々と、前から来た人々との間にはさまれた。
たちまち馬車は波間に漂う島のように荒れ狂う群集の上に押し出された。
不意に波間に漂う島は動かなくなった。一人の蹄鉄工が鉄槌を振って、二頭の馬のうち一頭を殴り殺したところだった。
この時、ある家の鎧扉がわずかに開いて、例の若者の青白い顔がのぞいた。その陰鬱な眼は、今しも起こりかけている光景を凝視していた。
その背後には例の将校の顔が、若者の顔と同じように青ざめてのぞいていた。
「おお! まったくどうにも手がつけられない! 殿下いったいどうなるのでしょうか」
と、将校はささやいた。
「きまってるよ、恐ろしいことが起こるんだ」
と、相手は言った。
「おお! ごらん下さい、殿下。彼らは馬車から、宰相を引きずり出しました。殴っています。八つ裂きにしています」
「そうだよ、あの連中は恐ろしく憤慨して、激昂しているようだな」
と、若者は、それまでと同じ無感動な語調で答えた。
「今度は、コルネイユを馬車から引きずり出しました。コルネイユは拷問を受けたので、既にもう、傷だらけで、手足も粉々に砕けているのに。おお! ごらん下さい、ごらん下さい!」
「そうだ、いかにもあれはコルネイユだ」
将校は弱々しい叫びをあげて、顔をそむけた。
それは堤防監察官が昇降台の最後の一段目のところで、足を地面に触れようとしかけた時、鉄棒の一撃をくらって頭が砕けたからであった。
それでも彼は再び起き上がった。しかしまたもやすぐにどっと倒れた。
やがて人々は、彼の足をつかんで群衆の間に引きずり込んだ。その真中には、人々が跡を辿ることのできた血|塗《まみ》れの条《すじ》がついていた。しかしそれも歓呼にどよめく大混乱の裡に再び見えなくなってしまった。
若者は、それまでよりもさらにいっそう青ざめていた。そんなことは、とても人間の信じられるところではなかった。彼の眼は、一瞬、まぶたの下に隠れた。
将校は、冷酷な相手が初めて憐愍のしぐさをもらしたのを見て、その魂の和らいだのを利用しようと思った。
「おいで下さい、おいで下さい、殿下」
と、彼は言った。
「何しろあの連中ときたら、宰相のことも暗殺しかねないようですから」
しかし、若者は既に眼を開いていた。
「確かにそうだ!」
と、言った。
「あの民衆は執念深い奴らだ。奴らを裏切ってはよくないぞ」
「殿下」
と、将校は言った。
「殿下のご教育にあたられたあの気の毒なお方を、何とかお救いできないものでしょうか? もしも何か方法があれば、私におおせつけ下さい。この一命を失っても……」
オレンジ公ウィリアム――この若者はまさにこの人物だったのだが――は額に不気味なしわを寄せ、まぶたの下に輝いていた暗い激怒の光を消して答えた。
「ファン・デンケン大佐、行って、わが部隊に出動準備をさせてくれ、いかなる事態にも対処しうるよう武装させるのだ」
「だがそうしますと、殿下お一人を、あの暗殺者どもの前に残して行くことになりますが?」
「僕が自分で不安に思わぬ以上、君は僕の身を気にかけるな」
貴公子はとっさに言った。
「行け」
将校は服従心からというよりも、二兄弟の弟のほうの忌まわしい虐殺の場にい合わせなくてもすむという喜びから、急いでその場を立ち去った。
事はまだすっかり終わっていなかった。ジャンは最後の努力をふるって、彼の弟子が身を隠している家とは筋向いになっている一軒の家の石段に辿り着いた。彼は一時に八方から打ちのめされて、よろめきながら叫んでいた。
「兄上、兄上はどこにおられる?」
熱狂した群衆の一人が、拳固で彼の帽子を地面に叩き落した。
また別の一人は、血に染まった両手を彼の前に突き出した。この男はコルネイユの腹を引き裂いた男だった。この男は時を失せず、宰相をも同じ目に遭わせようとして駆けつけてきたのだった。その間にも人々は、すでに死体と化したコルネイユの身体を、磔《はりつけ》場のほうに引きずって行った。
ジャンは悲しげなうめきをもらすと、片手で両目を覆った。
「ああ! お前は目を閉じたな」
と、市民軍の一人は言った。
「いいとも、俺がお前の目をくりぬいてやろう……」
その男はジャンの顔に、槍をブスリと突き刺した。血はその下からほとばしった。
「兄上……」
と、ジャンはどくどくと噴き出す血にめしいた眼を見張って、コルネイユの最後の姿を見届けようとしながら叫び立てた。
「兄上!」
「そら、一緒にしてやるぞ」
と、別の暗殺者がジャンのこめかみに火縄銃を押し当てて引き金を引きながら喚いた。
しかし、弾は発射しなかった。
すると殺戮者は武器を逆手に持ち、両手で銃身を握ると、ジャンに銃尾で一撃を与えた。
ジャンはよろめいて、その足下に倒れてしまった。
しかしすぐさま、最後の勇気をふりしぼって立ち上がった。
「兄上!」
彼の叫び声の悲痛さに、例の若者は窓の鎧扉を閉ざした。
その上もうこれ以上、見るべきものは残っていなかったのだ。というのは三番目の暗殺者が、ピストルを突きつけて引き金を引いたからだった。今度は弾が発射して、ジャンの頭蓋骨を吹き飛ばした。
ジャンは倒れてしまうと、もう二度と起き上がらなかった。
この転倒した姿に勢いを得た賎民たちは、めいめいその武器を、死体に打ち込むようにした。
各自がそれぞれ鉄槌を振り下ろしたり、剣や、短剣を刺し込もうとした。各自が思い思いに血の一滴でも引き出そうとし、衣服をひとちぎれでも奪い取ろうとした。
やがてこの二人が傷だらけになり、肉は引き裂かれ丸裸になってしまうと、民衆は血塗れになった二つの身体を裸のまま、急ごしらえの磔台のところに引きずって行った。そこに着くと、素人の死刑執行人どもは二人の体を逆さまにしてぶら下げてしまった。
それから一番卑劣な連中がやってきた。彼らはジャンとコルネイユの肉に血の通っていた間はどうしても殴ることができなかったのに、死んでしまった肉は細かく切り離して、その細片《こまぎ》れを一片れ十スウで町に売りに出かけた。
例の若者が鎧扉のわずかな隙間から、この凄まじい場景の最後を見届けたかどうかは解らない。しかし人々が二人の犠牲者を磔台に吊り下げていた折も折、彼は群衆の間を通り抜けた。群衆はやり遂げた愉快な仕事に熱中のあまり、この若者に注意を向ける者もいなかった。彼は、依然として閉じたままのトル・ヘックに行き着いた。
「ああ! 旦那!」
と、門番は叫んだ。
「鍵を持ってきてくれましたかね?」
「うん、君、ここにあるよ」
と、若者は答えた。
「おお! まったくとんでもない災難だ。せめてひる時間前に、この鍵を持ってきてくれたらね」
と、門番はため息まじりに言った。
「それはまたどうしてだい?」
と、若者は訊ねた。
「どうしてって、ド・ウィットのご前様に、門を開けてさしあげられたものを。門がしまっているのをごらんになって、引き返さなくちゃならないはめになったんだ。とうとうあのお二方は、追手につかまってしまったんでさ」
「門だ! 門だ!」
と、その時あわただしげな人声が叫んでいた。
貴公子は振り返るとファン・デンケン大佐の姿を認めた。
「君だったのか、大佐?」
と、彼は言った。
「君はまだハーグから出かけていなかったのか? こんなに遅れては、僕の命令が間に合わんぞ」
「殿下」
と、大佐は答えた。
「私が参りました門は、これで三番目なのです。後の二つはしまっておりました」
「それじゃ仕方がない。この正直者に、門を開けさせよう――開けてくれ、君」
貴公子は門番に言った。門番は、それまで馴れ馴れしく話していた青白い若者に、ファン・デンケンが『殿下』という称号を奉るのを聞いて、すっかり度肝をぬかれて立ちすくんでいたところだった。
そこで門番は自分の過失を償おうとして、急いでトル・ヘックの門を開いた。門は軋りながら滑車の上を滑った。
「殿下、ご乗馬はご入用ではありますまいか?」
と、大佐はウィリアムに訊ねた。
「ありがとう、大佐、ここから遠くないところに、馬が待っているはずだ」
そして、ポケットから金の呼子を取り出した。その楽器は、当時、召使を呼ぶのに使われていたが、鋭く尾を引くような音色が響きわたると、騎馬の従者がもう一頭の馬の手綱を取りながら駆け寄って来た。
ウィリアムは鐙《あぶみ》を使わずに馬の背に飛び乗ると、拍車を当てて、レイド街道に出て行った。
彼はそこまで来ると振り返った。
大佐は、一馬身遅れて、彼に従っていた。
貴公子は、そばに並ぶように合図をした。
「君は知っているか?」
と、彼は、馬を停めずに言いかけた。
「あの悪党どもはコルネイユを殺したが、それからジャン・ド・ウィット殿まで殺してしまったぞ」
「ああ! 殿下」
と、大佐は悲しげに言った。
「殿下が、事実上オランダ総督になられるためには、あの二人はどうしても、踏み越えなければならぬ障害でしたが、しかし殿下のためには、あの二人がまだ生き残ってくれた方がよかったことと思っております」
「確かに、その方がよかったのだ」
と、若者は言った。
「今起こったような事件は、起こるべきではなかったのだ。しかしすんでしまったことは仕方がない。われわれの方から出たことではない。大佐、急がせよう。議会が僕の陣営に使者を送ってよこすことは確かだが、その前にアルフェンに着いていよう」
大佐は一転すると、貴公子を前に送り出し、最初に言葉をかけられた位置に戻って後に従った。
「ああ! まったく、眺めてやりたいもんだ」
と、ウィリアムは眉をしかめ唇をきゅっと引き締め、拍車を馬の腹に打ち込みながら意地悪そうに言った。
「太陽王ルイめは親友のウィット兄弟がどんな取り扱いを受けたか知った時にいったいどんな顔をするものか、まったく眺めてやりたいもんだ! おお! 太陽よ、太陽よ! われは沈黙公ウィリアムと名乗る者だぞ、太陽よ、心してお前の光を照らせ!」
ルイ大王の不倶戴天の敵であるこの若者は、駿馬にまたがって疾駆して行った。この総督は昨日はまだ権力も新しく、さして堅固なものではなかった。しかしハーグの市民たちは、人間の前でも神の前でも等しく高貴な人物たるにふさわしかったジャンとコルネイユの二つの死体をもって、彼のために階段を作ってしまったのだった。
五 チューリップ愛好者とその隣人
さてハーグの市民たちがジャンとコルネイユの死体を寸断していた頃、またオレンジ公ウィリアムが二人の政敵の死を確かめて、それまで寄せていた信頼を抱きつづけるにはいささか同情心を持ちすぎていると知ったファン・デンケン大佐を従えてレイド街道を疾駆していた頃、ウィット家の忠実な召使クレークは、これも駿馬に打ちまたがり、自分の出発した後で世にも恐ろしい事件が起こったとは露知らず、町から離れ、近在の村々を後にした地点まで、並木の車道を疾走して行った。
やっと安全地帯に入ると、人に疑念を起こさせぬために彼は一軒の厩舎に馬を残して、船をいく艘も乗り継ぎながら平穏に旅をつづけた。船は、河のうねうねした支流から支流を巧みに最短距離をとって、彼をドルドレヒトに運んで行った。支流には静かな寄せ波に洗われて、柳や、燈心草や、花の咲き乱れる雑草に岸辺を飾られた綺麗な島が点々と抱かれていた。島の中には肥った家畜の群が陽光を浴びてキラキラ輝きながら、無心に草を食んでいた。
クレークは遠くから風車小屋をちりばめた丘のふもとにある、見るからに心地よいドルドレヒトの町を認めた。彼は、白いいく条《すじ》もの線に支えられた、綺麗な赤い家々を眼にした。それは煉瓦の足が水に浸かっており、開いたバルコンから河の上に、インドやシナの名品である黄金の花模様をあしらった絹の壁掛けと、そのそばから太い釣り糸が何本も垂らしてあるせいだった。この太い釣り糸は台所の窓から水に投げ棄てる日々の施し物に惹かれて、家々のまわりに集まってくる健啖なウナギを取るためにいつでもしかけてある罠であった。
クレークは小船の甲板から、一つ残らず羽根のぐるぐる回っている風車小屋のかなたの丘の斜面のところに、使いの目的となっている白とばら色に彩られた邸宅のあるのを認めた。屋根の稜線は垂れ幕のようなポプラの黄ばんだ葉陰に隠れているが、邸宅の構えは、巨大な楡の木の作り出した薄ぐらい背景の上にクッキリと浮かび上がっていた。邸宅の位置は、日光がろうとを潜り抜けるように降り注いで、緑の障壁があっても朝な夕なに河風の運び込んでくるのを防ぎきれない最悪の霧すらも、乾かしたりやわらげたり豊かにしたりするような形をとっていた。
いつものような町の賑わいの最中に上陸すると、クレークはただちにその邸宅に足を向けた。ここでわが読者諸君に、どうしても必要なこの邸宅の描写をしておこう。
純白でさっぱりした光沢があり、目につく場所よりも目に見えぬところほど丹念に洗い清められ、入念に蝋の引かれているこの邸宅には、一人の幸福な人間が隠れ住んでいた。
この幸福な人間とは、ジュヴェナルのいわゆる「rara avis」(幸福な島)であるが、それがすなわちコルネイユの名付け子ファン・ベルル博士であった。ここに描いた邸に、彼は少年期の終わり頃から住んでいた。というのはその邸宅は由緒あるドルドレヒトの町の、家柄の古い貴族出の商人だった彼の父や祖父の生家だったからである。
父のファン・ベルル氏はインド貿易に従事し、三、四十万フロリンの金を蓄えた。このフロリン貨は鋳造年号が一六四〇年のものと一六一〇年のものとであったが、立派な優しい両親の死後、息子のファン・ベルル氏はこれが全然新しい鋳造貨と同価のものであることを知った。この二つの年代のフロリン貨幣のあったことは、一方が父ファン・ベルルのものであり、もう一つが祖父ファン・ベルルのものであることを明らかにしていた。この四十万フロリンの金は、言わばこの小説の主人公コルネリウス・ファン・ベルルの持ち合わせの金、ポケット・マネーというくらいのところで、地方にある不動産の年収は約一万フロリンばかりあった。
立派な市民だったコルネリウスの父は、生きる道を容易に開いてくれたのと同様に、死の道をも容易にしてくれた第一の伴侶と思われる妻の葬式がすんでから三月後に、臨終の場にあたって、息子に最後の接吻を与えながら遺言した。
「お前が本当に生きてみたいと思うなら、飲んで、食って、無駄使いをするんだな。実験室や倉庫の中で、木の椅子や皮の安楽椅子に腰をおろして、一日中働くなんてことは、生きるということとは違うのだからね。やがてはお前も死ぬだろう。もしもお前がだね、息子を得られるという幸運にめぐり合えないならば、わが一族の名前が消えてもほっとくがよい。私の莫大なフロリン貨は私の祖父と私と鋳造者以外は誰もまだはかってみたこともなく真新しいままになっているが、いずれは誰かわからぬ所有者の手に渡ることだろう。特に言っておきたいが、お前の名付け親コルネイユ・ド・ウィットをみならってはいかんぞ。あの男は、いろいろな職業のうちで一番卑しい政治なぞに打ち込んでいるが、そのうちきっと、悪い最期を遂げるだろう」
やがてこの立派なファン・ベルル氏は、息子のコルネリウスを悲嘆のどん底に沈ませたまま死んでしまった。息子はフロリン貨などには一向愛着をもっておらず、父親を非常に愛していたのだった。
そんなわけで、コルネリウスはこの大邸宅にたった一人で取り残されてしまった。
名付け親のコルネイユは官職を提供したけれども、彼の方が引き受けなかった。またコルネリウスが名付け親の意思に従って、ド・ロイテル提督とともに百三十七隻の艦艇を指揮する戦艦「七州」に乗り組んだ時には、名付け親が勝利の栄光を堪能させようとしたのだがそれも失敗に終わった。威名かくかくたるこの提督はこれらの艦艇を率いて、単独で、仏・英連合軍の勢力と雌雄を決しようとしていた。水先案内レジエに誘導されて、「七州」はイギリス王弟ヨーク公の坐乗する戦艦プリンスの火縄銃の射程内に入っていた。司令官ド・ロイテルの攻撃は迅速かつ巧妙を極めたので、ヨーク公は乗艦が危機に瀕したのを感じたほどだったが、かろうじて「聖マイケル」の甲板に退避することができた。「聖マイケル」の方もオランダ艦隊の砲火を浴びて損傷を受け、やがて大破して戦列の外に出てしまった。戦艦「サンウィック伯」は爆破して、四百名の水夫たちは波間や火焔の間に消え去ってしまった。万事終了すると、後には二十隻の艦艇が粉みじんに粉砕し、戦死者三千名、戦傷者五千名という結果を生じたが、勝敗を決するものは何一つなく、敵も味方も勝利を自分のものときめ、再び戦端を開くより仕方がないありさまで、それでも「サウスウッド湾の海戦」という名称だけは海戦目録に書き加えられることになった。
コルネリウスは、ロイテルにも、堤防監察官にも、栄光にも最後の別れを告げ、深い尊敬を抱いていた宰相の膝に接吻を捧げて、ドルドレヒトの邸に帰った。安息は十分取れることだし、年齢は二十八才、鉄のような健康には恵まれ、見識はあるし、それに資産四十万フロリンと歳入一万フロリンがある上に、人間はいつでも天の配剤によって、過分な幸福も手に入るし、相当な逆境にも陥るものだという確信を抱いていた。
その結果、コルネリウスは、自己流に幸福を作り出すことにして、植物と昆虫との研究にとりかかった。付近に散在する島々の植物を一つ残らず採集して分類したり、その地方の昆虫学を究めて、自分の手で描いた版画を挿入して論文の原稿を書き上げた。そしてついには、自分の時間と、特に恐ろしい勢いで増えていく自分の金とを消費する以外に、何をすることもなかったので、当時その地方に流行していた道楽の中でも一番高尚で、しかも出費の多いものを選ぶことになった。
彼はチューリップを愛好することにしたのだった。
当時は、周知のとおり、フランドル人とポルトガル人とが、競争でこの種の園芸に手を染めていたが、その結果チューリップは神聖視されるに至り、東洋から渡来したこの花については、どんな自然科学者も神に嫉妬を与えるのを恐れて、あえて人間の仲間に入れようとしないようなことになっていた。
間もなくファン・ベルル氏のチューリップは、ドレドレヒトからモン一帯にかけて、唯一の噂話の種をまいた。
往時有名なローマの旅行者たちがアレクサンドリアの画廊や図書館を訪れたように、彼の花壇や穴蔵や乾燥室や球根などが人の訪問を受けるようになった。
ファン・ベルルは最初のほどは歳入を費やしてコレクションを作り上げようとかかったが、やがてはそれを完成させるために例の新しいフロリン金貨にも手をつけてしまった。その上彼の努力が報いられて、素晴らしい結果を収めることになった。彼は異なった五つの品種を発見したので、これにそれぞれ、母の名にちなんで「ジャンヌ」、父の名にちなんで「ベルル」、名付け親の名にちなんで「コルネイユ」などと命名した。その他の二種の名称は忘れたが、しかしこの花の愛好者ならば、かならず当時のカタログを見てそれを思い出されることであろう。
一六七二年の初め、コルネイユ・ド・ウィットはドルドレヒトにやって来て、かつての生家で三ヶ月間暮らしていた。ご存知のとおり、コルネイユがドルドレヒトを生地としているばかりでなく、ド・ウィット一家というのはこの町の出身だったからである。
オレンジ公ウィリアムも言ったとおり、コルネイユの人気はその頃からまったく落ち目になりかかっていた。しかし同郷のドルドレヒトの善良な住民たちにしてみれば、彼は絞首刑に処せられるほどの極悪人でもなかったし、また彼のいささか純粋すぎる共和主義には少しも満足していなかったけれども、彼の人格は誇りとしていたので、彼が町に入った時には、快く町の葡萄酒を捧げようという気持ちを抱いていた。
同郷人たちに謝意を告げてから、コルネイユは年経た父の邸を見に出かけた。そして妻のウィット夫人が子供たちと一緒にやって来て起居するまでに、あちこちを修繕しておくように命じた。
やがて堤防監察官は、その名付け子の邸に足を向けた。堤防監察官が故郷に帰っていることをまだ知らないでいたのは、ドルドレヒト中で恐らくこの男だけだったろう。
コルネイユ・ド・ウィットは、いわゆる政治的情熱と言われる有害な種子をまいて人の憎悪を呼び起こしてしまったのだが、ファン・ベルルは政治の知識を全然無視し、チューリップの栽培に没頭して世人の共感を集めていた。
それにまたファン・ベルルは召使や出入りの職人たちからも慕われていたし、他人に危害を加えたいと思う人間がこの世にあるなどということも一向想像がつかなかった。
ところで人間性の恥辱ともいうべきことに触れなければならないが、コルネリウスは気がつかぬうちに敵を一人作っていた。この敵は、堤防監察官とその弟が生前にはいささかの曇りもなく、死の彼岸まで抱きつづけた献身的な兄弟愛に対して、もっとも恐るべき敵意を示したオレンジ党員の間でさえも、その時まで知ることのできなかったような別の意味で兇悪な仮借のない妥協を許さぬ敵であった。
コルネリウスはチューリップに没頭し出した当時、自分の歳入と父の遺産のフロリン貨をそれに投じることにした。ちょうどその頃ドルドレヒトに、彼の邸と隣り合わせてアイザック・ボクステルと呼ぶ市民が住んでいた、この男は物心つく頃から同じような趣味を持ち、「チュルバン」〔turban すなわちターバン、インド人の頭に巻くターバンの形からチューリップの名がつけられた〕という話を聞いただけで気が遠くなってしまうほどだった。フランスの植物誌学者、すなわちこの花についてもっとも精通した植物史家の証言によると、この「チュルバン」というのはセイロン語で、いわゆるチューリップと呼ばれるこの世に創られた傑作が初めて命名された時の言葉ということである。
ボクステルは不幸にしてファン・ベルルのような金持ちではなかった。そこで非常な苦労をし注意と忍耐とを積み重ねた末、ドルドレヒトの自宅に、栽培に便利な花園を造りあげた。彼は所要の規定に従って土地の区割を整頓し、権威のある庭園師の処方どおりに、温かみと涼しさとが確実に苗床を行き渡るようにした。
アイザックは温室の温度が約二十分の一度狂っても気がついた。彼は風の重さも知っていて、花の茎がかすかに揺れる程度に風を吹き通わせることにした。その結果、彼の作り出した花は世人に喜ばれ出した。その花は美しく趣向さえ凝らしたものであった。多勢の愛好者が、ボクステルのチューリップを参観しにやってきた。ついにはリンネとツールネフォールの園芸界に、自分の名を冠したチューリップを発表した。このチューリップは成功を博し、フランスを通ってスペインに入り、さらにポルトガルまで浸透した。当時ポルトガル国王ドン・アルフォンソ六世は、リスボンから追放されてテルセール島に隠栖していたが、コンデ大公のようにカーネーションに水をそそいで満足しているどころか、チューリップの栽培を楽しみにしておられた。彼は前記のボクステル種の花をごらんになると、「これはなかなか立派なものだね」とのお言葉を賜った。
あらゆる研究に身を打ち込んだ末、突然チューリップ熱に侵されたファン・ベルルは、ドルドレヒトの邸宅を改造した。その邸はすでに述べたとおり、ボクステルの家と隣り合っていたわけだが、彼が自宅の中庭にある一つの建物を一階建て増すと、そこが高くなったので、ボクステルの庭は温度が半度低くなり、言い換えると半度冷えこむことになった。彼はその建物が通風をさえぎり、隣人のあらゆる種類の計算や、栽培上のあらゆる面の節約などに狂いをきたしてしまうことを少しも考慮に入れていなかった。
しかし結局、こんな災難も隣人のボクステルの目から見れば大したことには映らなかった。ファン・ベルルは単なる一画家に過ぎないからだ。すなわち自然の驚異を歪めてカンヴァスの上に再現しようとする一種の気狂いである。その画家が採光をよくしようとしてアトリエを一階建て増したところで、それはその画家の権利である。ボクステル氏がチューリップ園芸家であるのと同様に、ファン・ベルル氏は画家なのであった。彼は自分の描く絵のために日光がほしかったので、温度を半度ボクステル氏のチューリップから奪う結果になったのだ。
法律上ではむろん、ファン・ベルル氏に有利だった。
その上ボクステルは、あまり日光が強すぎるとチューリップをそこなうこと、それにこの花は朝な夕なの静かな日射を受けた方が、真昼の燃えるような日光を浴びるよりもいっそう成長が早く、色彩も豊かになることに気付いていた。
そこで彼はコルネリウス・ファン・ベルルに、無償で日除けを作ってくれたことを感謝したいほどの気持ちでいた。
けれども事の真相は恐らくそれだけのことではなかったろう。ボクステルが隣人のファン・ベルルについて思ったことは、彼の考えの全部を表現したものではなかった。もっとも偉大な魂を持つ人物なら大災厄の最中に身を置けば、哲学に思いを潜めてそこに驚くべき活力の源泉を探り出すものであるが。
だが、そんなわけにいくだろうか? この不遇なボクステルが新築された二階のガラス窓の中に、球根や、珠芽《しゅが》や、土植えのチューリップや、鉢植えのチューリップなど要するにチューリップ・マニヤの持っている専門的な材料がことごとく保有されているのを見たら、彼はどうなってしまうことだろう!
そこには様々なラベルがあり、数々の整理箱があった。仕切り箱があり、整理箱のふたに使う鉄の網戸があった。この網戸は、球根一つが二千フランもするチューリップの一風変わった愛好者たち、二十日鼠や麦鼠や野鼠などの出入りを防ぎ、換気をおこなうためのものだった。
ボクステルはこうした材料をすっかり目に入れた時、まったく度肝をぬかれてしまった。しかし彼は、まだ自分の不幸の範囲についてよく理解することができなかった。ファン・ベルルが、見る目を楽しませてくれるものなら何でも好きなことは周知のとおりだった。彼は師匠のジェラール・ドウや友人のミエリと同じように、自分の絵を描くために自然を徹底的に研究していた。チューリップ園芸家の家屋の内部でも描かねばならなくなって、彼がその新しいアトリエの中に、装飾用の付属物を全部集めてみるということもありえないことではなかったのだ!
ボクステルはこうしたあてにもならない考えに慰められてはみたものの、心に食い入る激しい好奇心に逆らうことができなかった。夜になると彼は、境界の壁に梯子をかけた。隣りのベルル家をうかがってみると、それまでは様々な植物を集めていた広々とした正方形の地面が耘《す》きかえされて、チューリップには一番好適な配合の河泥を混ぜ合わせた腐植土の花壇に模様替えし、土止めのために周囲は全部芝の縁取りをしていることが確かめられた。そればかりか、朝日も夕日も射し込むし、真昼の日光を和らげるような木陰も設けられてある。水は豊富に手近なところから出るし、方角は南南西を向いている。要するにこうしたことは一時の成功を見ればよいというだけではなく、さらに発展を期待している完全な条件を備えているわけだ。疑うまでもなくファン・ベルルは、チューリップ園芸家になりすましていたのだった。
ボクステルが、すぐさま思い浮かべたのは、この博識な男には資産が四十万フロリン、年収が一万フロリンあり、物心両面の資力をチューリップの大規模な栽培に使うだろうということだった。彼は漠然としているが近い将来に、この隣人の成功することを予見した。するとその成功の暁の恐ろしい苦悩が今から胸をいっぱいにし、そのために両手がゆるみ膝の力が萎えてどうすることもできなくなり、梯子から地面に転げ落ちた。
かくてファン・ベルルは絵画用のチューリップのためではなく現実のチューリップのために、この男から半度の温みを奪ってしまったのだった。かくてまたファン・ベルルは最も素晴らしく日光の射し込む方角と、そればかりか球根や珠芽を保存する広々とした部屋を手に入れることになったのだった。この部屋は日当たりといい、風通しといい、換気といい申し分がなく、ボクステルには手の届かない豪勢なものだった。ボクステルにしてみればこうしたことをするためには、自分の寝室を犠牲にしなければならないし、また動物どものために珠芽や球根をそこなわれまいとすると、納屋に寝る覚悟が必要だった。
かくてボクステルは門を並べ壁を接して、敵とも競争相手とも、それに恐らくは勝利者でもあろうと思われる人物を持つことになった。しかもこの敵たるやわけのわからない未知の園芸家どころの騒ぎではなく、コルネイユ・ド・ウィット先生すなわち威名隠れもない人物の名付け子なのであった。
ボクステルは、読者もごらんのとおり、ポルスほどの見上げた心の持ち主ではなかった。ポルスは、アレクサンドルに敗北したが、勝利者の威名を理由として自ら慰めるところがあった。
実際、万一にもファン・ベルルが新しいチューリップを発見して、「ラ・コルネイユ」と名付けた後に、「ラ・ジャン・ド・ウィット」とでも命名したとしたら、ボクステルはどんなことになっただろう! 憤激のあまり悶絶するような騒ぎにもなっただろう。
かくてボクステルは自分の身にまつわる不幸の予言者に変わり、嫉妬に燃えた予感に脅えながらまさにその不幸が起ころうとしていることを察知した。
またボクステルは、こうした発見をしたばかりに、想像を絶した呪いの一夜を送ったのだった。
六 チューリップ園芸家の愉しみ
この頃からボクステルは不安どころか恐怖を抱くようになった。隣人の着想からあらゆる損害が自分の身に振りかかってくるのを思い合わせると、ボクステルは身心双方の努力に強靭さと高貴さを与えるもの、すなわち立派な着想を培養する道を失ってしまった。
ファン・ベルルの方は読者も予想されるとおり、この仕事に天性の完璧な知性を打ち込むようになると、その時からこのうえなく美しいチューリップを育てることに成功した。
ハルレムとかレイドとか地味も最良だし天候も申し分ない町に住むどんな人々よりも、コルネリウスは花の色彩を豊かにし、形状を立派にし、品種を多くすることに成功したのだった。
一六五三年に、後継者の一人によって敷衍《ふえん》された次のような格言を、七世紀このかた金科玉条とする気の利いた素朴な一派があったが、彼はこの一派に属していた。
すなわち、
「花をあなどるは、神を辱《はずかし》めるものなり」
というのである。
各種の流派の中でも、一番排他的なチューリップ派は、これを前提として次のような三段論法を作りあげた。
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一 花いよいよ美しければ、その花をあなどるは、いよいよ神を辱めるものなり。
二 チューリップは、すべての花のうち、最も美しき花なり。
三 ゆえに、チューリップをあなどるは、限りなく神を辱めるものなり。
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ごらんのような論法によって、セイロン、インド、シナの園芸家のことには触れないでおくが、オランダやフランスやポルトガルの四、五千名に及ぶチューリップ園芸家は、悪意をもって世界を法の保護外に置き、チューリップに冷淡な数億の人間どもを、離教者、背教徒、死刑に価するものと宣告した。
ボクステルは、ファン・ベルルの不倶戴天の仇敵ではあったけれども、こうした立場から言うと同じ旗幟《きし》の下に進んだろうことは疑う余地がない。
さてファン・ベルルは、おびただしい成功を博して評判が高くなった。そのためにボクステルの名はオランダの有名なチューリップ園芸家のリストから永久に消え去ってしまい、またドルドレヒトのチューリップ界は、謙譲で人を傷つけない学者のコルネリウス・ファン・ベルルによって代表されることにもなった。
つまりそれは接木《つぎき》をすれば、どんなつまらぬ小枝からもこの上なく立派な新芽が出るし、色の淡い四枚花弁の茨からも豊麗で芳醇なばらの花が咲くようなものである。それはまた王者の一族が、きこり小屋や漁師小屋を出生地としていることがよくあるようなものだ。
ファン・ベルルは、種まき、植えつけ、採集などの仕事にすっかり身を打ち込んでおり、全ヨーロッパのチューリップ界から大事にされていたので、自分と隣り合わせて自分がその位置を奪ってしまった不幸な男が住んでいるなどということは、一向思いもよらなかった。彼は経験を積み重ねて、その結果、みごとな成果を収めつづけたのだった。二年経つと、彼の花壇には恐らくシェークスピアとルーベンスとを除いては、神の天地創造以来何者もこれほどの創造は成し遂げなかったと思えるほどの驚異的な作物が一面に咲きそろった。
そこでまたダンテも書きもらしたような「地獄に落ちた人」とはどんな人間なのかを知ろうとすれば、この頃のボクステルの姿を眺めることも必要だった。ファン・ベルルが花壇の草をむしったり、地味を肥沃にしたり、湿りをくれたりしている間に、また芝生の斜面にひざまずいて、開花期のチューリップの葉脈を一つ一つ解剖し、どんな変形が実現できるか、どんな色彩の配合が試みえられるものかと思案をめぐらしている間に、ボクステルは壁に沿って植えられた扇の形をなしている小さな楓の背後に隠れて、眼を充血させ、口から泡を吹いて、隣人の一挙一動を監視していた。そして隣人が愉しげに見えるような気がしたり、唇に微笑がうかんだり、眼に幸福の光がひらめいたと思う時、彼はそうしたものに向かって数限りもなく呪い言葉や烈しい脅し文句を投げつけていたが、どういうわけでこうした嫉妬や怒りに感染した息吹が花の茎ににじみ込んで、腐敗の元や枯死の種にならなかったものか、それは誰しもが理解に苦しむところだった。
悪意の多くはいちど人間の魂を支配するとなると急速に発展を遂げるものだが、たちまちのうちにボクステルは、ファン・ベルルの姿を眺めているだけでは、どうにも我慢ができなくなった。彼はその花のほうも眺めたいものだと思うようになった。この男にしてもとどのつまりは芸術家だったので、競争相手の傑作が気にかかってしようがなかったのだ。
彼は望遠鏡を買いこんだ。それを助けにすると、彼は花の持ち主の姿ばかりでなく、花の移り変わるさまの一つ一つを監視することができた。つまり花が第一年目に青白い芽を地上に出した瞬間から五年という成長期を費やして、やがて気品のある円筒の形をととのえ、その上にほのかな色彩のニュアンスを現し、それから花弁が育ってくると、もうその時はそのガクから他でもない秘密の宝を覗かせているという瞬間までのことであった。
おお! 嫉妬に燃えた不幸な男は梯子にもたれて、何度ファン・ベルルの花壇にあるチューリップをうかがったことだったろう。その美しさは彼の眼を眩《くら》ませ、その完璧な姿は彼の息の根を止めさせてしまうのだった!
やがて打ち克つことのできない賞嘆の時期が過ぎると、彼は嫉妬の熱病にとりつかれた。この病気にかかると胸は蝕まれ、心は無数の小さな蛇が互いに噛み合うようなありさまに変わり、恐ろしい苦悩を生み出す醜悪な源ができあがるのだった。
いかに描写を尽くしても表現しようもないような苦悩に苛《さいな》まれて、何度ボクステルは夜陰にまぎれてその庭に飛び降り、そこにある植物を踏み荒らし球根を歯で噛み砕き、もしもその持ち主がチューリップを守ろうとするならば、その持ち主自身までも怒りの犠牲にしてやろうと思ったことであったろう。
しかしチューリップを殺すことは、本当の園芸家の眼から見れば実に恐るべき罪悪なのだ!
人間を殺すことは、まだ我慢ができる。
ところでファン・ベルルが本能的に察知するらしい知識を得ては日ごとに進歩していくのを見ると、ボクステルの憤激は極点に達して、隣人のチューリップの花壇の中に石ころや棒きれなどを投げこんでやりたいと思うほどの気持ちになっていった。
しかし翌日になって被害を見れば、ファン・ベルルは調査にとりかかることだろうし、またそうなれば道路から離れていることでもあるし、アマレシットの時代のように石ころや棒きれがこの十七世紀に天から降ってこないことは解るだろうし、たとえ夜陰に活動しても犯行の下手人は発見されてしまい、法律によって処罰されるばかりでなく、ヨーロッパのチューリップ愛好者から永遠に汚名をこうむることだろうし、そうしたことをあれこれ思い返すとボクステルは、詭計《きけい》を用いて憎悪の刃《やいば》を研ぎすまし、自分の身を危うくしないような方法を採る決心をしたのだった。
実のところ、彼はそれを探すのに長いことかかった。しかしついに発見した。
ある夜、彼は二匹の猫の後足の片方ずつを長さ十フィートばかりの紐で結び合わせて、壁の上から一番大事な花壇の真ん中にほうり込んだ。そこは一番血統の正しい花壇、王者の花壇であり、「コルネイユ・ド・ウィット」種ばかりでなく、純白や緋や真紅の「ブラバソンヌ」種、濃淡のある灰白色や真紅や光彩陸離《こうさいりくり》とした桜色などの「マルブレ」種、ハルレムの「メルヴィユ」種、それに明暗とりどりの「コロンバン」種のチューリップなどが咲き競っていた。
壁の上から下に落ちて驚いた二匹の猫は、まず最初に花壇に飛びつくと、抑えていた紐がぴんと張りつめるまでめいめい勝手な方角に逃げ出そうとした。しかしそれ以上は遠くに行けないことを悟ると、凄まじい鳴き声をたててあちらこちらを走りまわり、花の咲きそろっている真ん中でもがきながら紐でその花をなぎ倒した。やがて十五分間も無我夢中で暴れた末、結び合わされていた紐が切れると、猫は姿を消してしまった。
楓の後ろに身を潜めていたボクステルは、夜陰のために何一つ眼に入れることはできなかった。しかし二匹の猫の猛り立った叫び声を聞くと万事が想像されて、彼の心の苦悩は和らぎ、歓喜に溢れてくるのだった。
ボクステルの心には、被害を確かめてみたい欲望が非常に大きかったので、彼は夜明けまでそこに踏みとどまり、二匹の猫が暴れたあげく、隣人の花壇をどんな状態にしてしまったかをその眼でたのしむことにした。
彼は朝霧に包まれて冷えこんでしまった。しかし彼は寒さを感じなかった。復讐をなしとげられる希望によって、彼はいつまでも熱っぽかった。
敵が苦しむということになれば、彼の苦痛はすっかり償われてしまうのだ。
朝日が最初の光線を射しこむころ、真っ白な邸宅の門が開いた。ファン・ベルルの姿が現れて花壇に近づいた。彼はいかにも一夜をベッドの中でよい夢を見て過ごした人のように微笑んでいた。
ふと彼は、昨日は鏡よりも平らだった地面に、溝と小山ができているのに気がついた。チューリップの対称的に並んだ列が、真中に砲弾の落下した舞台の槍のように散乱しているのをみとめた。
彼はまっさおになって駆け寄った。
ボクステルは喜んで身震いした。十五本から二十本のチューリップが引き裂かれたり腹を割られたり、あるものは折れ、あるものはすっかりちぎれてすでに色もさめ果てて打ち倒れていた。汁液がその傷口から流れ出していた。この汁液こそ、ファン・ベルルが自分の血を代償にしても買い戻したいと願う貴重な血液であった。
しかし何という意外なことだったろう! ファン・ベルルの喜びはいかばかりだったことだろう! そしてまたボクステルの味わった苦しみはどんなに筆舌につくし得ないものであったろう! ボクステルが狙いをつけて脅かした四種のチューリップは一本も傷つけられていなかった。その種の気品のある顔立ちは、毅然として仲間の残骸の上にあがっていた。このことは十分にファン・ベルルを慰めるに足りることだった。そしてまた暗殺者を悲嘆に暮れさせるにも十分といってよいことだった。彼は罪が犯されて、しかもそれが無益に犯されたのを見て髪をかきむしった。
ファン・ベルルの方は身に振りかかった災難にすっかり悲嘆に暮れていたが、神さまのおかげで手のつけられないほどの大事には至らなかったとはいっても、その原因を推察することができなかった。彼はいろいろと尋ね合わせるより仕方がなかったが、その結果、夜をこめて凄まじい猫の鳴き声が騒々しくしていたことを知った。それにまた彼は爪跡がついていることや、毛が格闘場に残っていることや、朝露の無心な水滴がちぎれた花の葉の上に並んでいるのと同様に、その毛の上でふるえていることなどから、猫が通りぬけて行ったことを認めた。そこで将来二度と同じ不幸の起こるのを避けようとして、彼は庭師の少年に毎晩庭園内の花壇のそばの番小屋でやすむように言いつけた。
ボクステルはこうしたことが言いつけられるのを聞いていた。彼は番小屋がその日から立てられるのを目撃した。嫌疑を受けなかったというだけでも幸運過ぎることなのに、その結果は幸運な園芸家に対する敵意を今までよりもいっそう募らせるだけで、彼はさらによい機会を待つことにした。
ちょうどその頃、ハルレムのチューリップ園芸協会が、いささかも濁りのない大型の黒いチューリップの発見――製作とはあえて言わないが――に対して賞金を出すことを提案した。当時は自然のままで青黒んだものすら存在しなかったことから考えると、これは手の下しようもなく、また解決のつきそうもない問題なのであった。
そんなことからたとえ賞金の出資者が一万リーヴル出すのを二百万リーヴルにしてみたところで、事は不可能だということが誰の口にも言われていた。
チューリップ界は上下こぞって、この提案に沸き立ってしまった。
少数の愛好者は、どうすればよいかの着想をつかんだが、ただしそれをそのまま応用できるとは信じていなかった。ところが一般の園芸家の方はその空想力が限られたものなので、初めから損のいく投機だと見放してしまい、彼らは最初からこの架空なものだという評判の大きな黒いチューリップを、ホラティウスの「黒い白鳥」やフランスの伝説にある「白いつぐみ」のようなものだと考えることにきめてしまった。
ファン・ベルルはその着想を得たチューリップ園芸家の仲間に入っていた。しかしボクステルは、投機だと考えた園芸家の仲間に属していた。ファン・ベルルはこの仕事を明敏で才気煥発な頭脳に刻みこんだ時から、その時まで自分で育てた各種のチューリップを、赤から茶色に、茶色からこげ茶色に変えるために必要な種まき法や操作にゆっくりととりかかった。
翌年から彼は、完全なこげ茶色の作物を手に入れた。そしてボクステルがまだ自分では淡茶色しか発見できなかった時に、ファン・ベルルの花壇にはこげ茶色の花のあるのを認めた。
チューリップの色彩が様々な構成要素から成り立っていることを証明するに足りるみごとな理論を読者諸君に説明することは、あるいは重要なことかもしれない。また忍耐と才能の力で、太陽の熱や、清らかな水や、土地の水分や、空気の息吹などを出資している園芸家にとって、不可能なことは何一つないということを証明すれば、諸君の感謝を受けることもできるだろう。しかしここに書こうとしてきたことは、一般のチューリップ論ではなく特殊なチューリップの物語である。われわれの主題と並べてみてこの主題の誘惑がどれほど魅力のあるものとしても、われわれは再びそれをしまいこむことにしておくとしよう。
ボクステルは、またしても敵の卓越した力に圧倒されて、栽培に嫌気がさしてしまい、半狂乱になってひたすら観察に身を入れた。
敵手の邸は隙間だらけだった。庭園は太陽に向かって解放されているし、部屋はガラス張りで見透かしだし、仕切り箱や戸棚や箱やラベル類の置かれた真ん中まで、望遠鏡は容易に届くのだった。ボクステルは苗床で球根が腐ろうが、小屋の中で外皮が干からびようが、花壇でチューリップがしぼもうが一向お構いなしだった。それまでは人生をそうしたものを眺めることに費やしてきたのに、今はただファン・ベルルの邸で起こっていることに気をとられてしまった。彼はファン・ベルルのチューリップの茎によって呼吸し、その上に誰かの手で注がれる水によって渇きをいやし、隣人が愛する球根の上に振りかける柔らかな微細な土で満足するありさまだった。しかし仕事のうちで一番知りたいと思うことは、庭園では行なわれていなかった。
一時が鳴った。夜の一時になると、ファン・ベルルは実験室に上がって行った。部屋がガラス張りなので、ボクステルの望遠鏡はよく浸透するのだった。また部屋には太陽の光線に代わって、この学者の燈火が灯ると、壁や窓が照らし出されて、ボクステルは仇敵が、発明の才知を働かせているのを眺めることができた。
彼は仇敵が種子を選り分けて、形状を変えたり、色彩を配合したりする物質をそれに振りかけているのを凝視していた。また彼は仇敵がこの種子のあるものには熱を加え、それからこれに湿りをくれ、やがて一種の接木法を用いて――これは精密な、驚くほど器用な作業を要するものだが――これを他の種子と交配し、それが終わると、黒い色を与えねばならないものは暗いところにしまいこみ、赤い色を与えるべきものには日光かランプの光が当たるところにさらし、白色を与えねばならぬものは――率直に言って、これは水を錬金術的に用いる代表的な方法あるが――絶え間なく水の反射を受けさせたりしていることに気付いていた。
この無邪気な魔術は、子供の夢想と雄々しい天才の夢とが一緒になって生まれたものであり、忍耐のいる永続的な仕事であるが、ボクステルには自分ではとうてい不可能なことを悟って、嫉妬するものの望遠鏡の中に、彼の生活と考えと希望のすべてを注ぎ込んでいたのだった。
まったく奇妙なことだ! 芸術に対してこれほど興味や誇りを抱いているのに、アイザックの心からは、兇暴な嫉妬心も復讐の欲望も消し去ることができなかったのだ。時にはファン・ベルルを望遠鏡に捕捉しながら、彼は一発必中の火縄銃で相手に狙いをつけているような錯覚を起こし、相手を倒さずにはやまぬ一撃を発射するために、引き金を指でまさぐっているのだった。ところでファン・ベルルが仕事に励み、ボクステルのスパイ行為が続けられている頃、堤防監察官コルネイユ・ド・ウィットが生地の町を訪れた次第を、いよいよ物語るべき時が来たようだ。
七 幸運な男の災厄
コルネイユが様々な家事をすませてから名付け子のコルネイユの邸を訪れたのは、一六七二年一月のことだった。
夜に入っていた。
コルネイユは一向に園芸家というわけでもなくまた芸術家でもなかったけれども、アトリエから温室に至るまで、絵画からチューリップに至るまで、邸内をくまなく見て回った。彼は甥がサウスウッド湾の海戦の際は、七州連邦の戦艦に乗り組んでくれたことや、すばらしいチューリップに自分の名を冠してくれたことに感謝の意を表した。その感謝の一つ一つには、息子に対する父親の愛情と好意とがこもっていた。こうして彼がファン・ベルルの数々の宝物を観察している間に、好奇心を抱き敬意すらはらっている群集が、幸運な男の門前にたまってしまった。
ちょうど暖炉のそばで食事をとっていたボクステルは、この騒々しい物音に注意を呼び起こされた。
彼は何事かと思ったが、事の次第を知ると自分の実験室に上って行った。
そこに入ると寒さを堪えながら、望遠鏡に眼を当てて腰をすえてしまった。
この望遠鏡は一六七一年の秋から、あまりたいして役に立つことがなくなっていた。チューリップは東洋のおぼこ娘のように寒がりやなので、冬になると地面では育たない。必要なものは、屋内にあるひきだしの柔らかなベッドとか、ストーブの優しい愛撫なのだ。そこでまた冬の間中コルネリウスは、実験室に引きこもり、書物や絵画に囲まれて時を過ごした。ふいに空に現れた太陽の光線を、ガラス張りの揚げ戸を開いていやおうなしに射しこむようにさせることでもない限り、球根室にはめったに足を運ぶことがなかった。
その夜コルネイユとコルネリウスとが数人の召使を従えて、一緒に部屋部屋を見て回った後のこと、コルネイユは低い声でファン・ベルルにささやいた。
「召使を遠ざけてくれないか、しばらく二人だけでいたいんだ」
コルネリウスは承諾の合図に頭を下げ、それから大声で、呼びかけた。
「叔父上、これからチューリップの乾燥室に参りませんか?」
乾燥室! これこそチューリップの園芸の魔法の堂宇《どうう》であり聖櫃《せいひつ》であり聖なる拝殿でもあったが、往時のデルフォイの神殿のように俗人の参入を許さないところだった。
当時華々しく活躍していたラシイヌ〔一六三九〜九九。フランス古典主義時代の代表的悲劇作家〕の言葉のとおり、召使一人、ぶしつけな足を踏み入れることがなかった。コルネリウスが入るのを許したのは、彼の乳母だったフリゾン生まれの老婆だけで、何一つそこなうことのないようなほうきで掃除をさせるだけだった。コルネリウスがチューリップ宗に身をささげた時から、育て子の心に不安を抱かせるのを恐れて、老婆はシチューに玉葱を入れることさえしなかった。
そこで「乾燥室」という語を聞いただけで、燭台を手にしていた召使たちは、うやうやしくその場から立ち去って行った。コルネリウスは先頭の召使の手から蝋燭をとると、名付け親の先に立って部屋に入った。
ここで一言付け加えておかねばならないが、乾燥室というのは、ボクステルが絶えず望遠鏡を向けていた例のガラス張りの部屋のことであった。
嫉妬に燃えた男は、いつもどおりに部署についていた。彼はまず壁とガラスが明るくなるのを眼にした。
やがて二つの人影が現れた。
その一つの影は大きくて堂々としており威厳があって、コルネリウスが燭台を置いたテーブルのそばに腰をおろした。
この人影に、ボクステルはコルネイユ・ド・ウィットの青白い顔立ちを認めた。彼の長くて黒い髪は首のところで二つに分かれ、肩の上に垂れ下がっていた。
唇の動きだけでは意味を汲み取ることができなかったが、堤防監察官はコルネリウスに何かを述べると大事そうに隠していた白い包みを、懐中から取り出して相手に向かって差し出した。コルネリウスがそれを受け取り、戸棚の一つにしまい込んだ様子から察して、ボクステルはその包みが何ものにもまして重大な書類であろうと想像した。
彼は最初にこの大切な包みの中には、ベンガルやセイロンあたりから新しく到着した珠芽のようなものが入っているのではないかと思った。しかしすぐに思い返してみると、コルネイユはチューリップなどは一向栽培したことがなかったし、彼の関心の的は見た目にもたいして愉快でない悪い植物であり、ことに開花させることが非常に難しい人間だけであった。
そこでこの包みに入っているものは純粋に単なる書類であり、この書類は政治に関するものであろうと思いついた。
しかし政治に関する書類だとすると、この方面の知識に全然関心がないばかりかそれを誇りにしているコルネリウスに、どうしてそれを渡すのか? 彼の意見によれば、何しろこの政治の知識たるや化学や錬金術どころの騒ぎでなく曖昧模糊としているものなのだ。
この委託品は、コルネイユが同国人から不評を招き始めてすでにその脅威を感じていたので、名付け子のファン・ベルルに渡したものであることは疑う余地がなかった。またどんな陰謀にも関係のないコルネリウスの邸宅には、この委託品への捜索の手が伸びてこないことは確かなので、そうなれば堤防監察官にとって事態はますますうまく運ぶわけだ。
それにボクステルの知るところでは、もしも包みの中に珠芽が入っているものとすれば、コルネイユがそのままじっとしているわけがないし、さっそく受け取った贈り物の値打ちを、愛好者として調べて評価するに違いないのだ。
ところが全然反対で、コルネリウスはうやうやしく委託品を堤防監察官の手から受け取ると、依然としてうやうやしくひきだしにしまい込んで、奥の方に押し込んでしまった。というのはまず何よりも見えないようにするためはもちろんのことだが、次の理由は、球根を保存しておく場所をあまり取られないようにするためなのだ。
包みがひきだしに収められるとコルネイユ・ド・ウィットは立ち上がり、名付け子の手を握ってやがて扉口の方に歩んで行った。
コルネリウスは勢いよく燭台をつかむと、飛んで行って、コルネイユが歩くのに都合がよいように明りを差し向けた。
やがて明りはガラス張りの部屋の中から、かき消すように消え、再び階段のところに現れ、ついでまた玄関の下に見受けられたが最後には街路に現れた。そこには堤防監察官が四輪馬車に乗るのを見ようとする人々が、まだ雑踏を見せていた。
ボクステルの想像は誤っていなかった。堤防監察官から名付け子に渡されて大切にしまい込まれた包みというのは、ジャンとルーヴォア伯との間で取り交わされた通信文だった。
コルネイユが弟にも語ったとおり、この委託品は預けられたというに過ぎなかった。コルネイユは名付け子に、政治的重要性を匂わせるようなことを何一つ言い置いて行かなかった。
ただ一つ彼が頼んでおいたことは、この委託品を返すのは、たとえ誰が来て要求しようとも彼の伝言を持つ者に限ってくれ、ということだった。
そこでコルネリウスは、すでに読者もごらんのとおり、この委託品を珍種の珠芽を入れておく戸棚の中にしまったのだった。
やがて堤防監察官は去って行った。物音も燈火も消えた。コルネリウスは、二度とその包みのことを思い浮かべなかった。ところがボクステルの方はその反対に、空想をたくましくした。彼は熟練した水先案内のように、その包みの中には今は遠くて眼には見えないがやがては近づくにつれて大きくなる嵐をはらんだ雲が潜んでいるものと見なしていた。
さて話がここまで来ると、ドルドレヒトからハーグにまたがる豊穣な大地の上に、われわれの物語の目印の杭はすっかり打ち込まれたことになる。その後をたどろうと思われる方は、後に続く数章の発展をごらんになればよい。ところで筆者のほうはファン・ベルルが隣人のアイザック・ボクステルの身裡《みうち》に持っていたような残酷な敵は、ウィット兄弟のコルネイユにしてもジャンにしてもオランダ中を探しても持ってはいなかったということをここで証明して、お約束を果たすことにしよう。
それはともあれ何も知らぬままに元気いっぱいのファン・ベルルは、ハルレムの園芸協会が提示した目的に向かって一路驀進していた。彼は茶色のチューリップからこげ茶色のチューリップに進んでいた。彼の身の上に話を戻すと、ハーグの町ですでに語った大事件が起こったちょうどその日の午後一時頃、彼は花壇から、こげ茶色のチューリップの種から出たがまだうまい結果の得られない球根を掘り出していた。その時までは失敗に終わっていたこのこげ茶色のチューリップが開花するのは、一六七三年の春と予定されていたが、このチューリップは、ハルレム園芸協会の要求する大型の黒いチューリップを生み出すに相違なかった。
そこで一六七二年八月二十日の午後一時に、コルネリウスは乾燥室に入っていた。足をテーブルの桟にかけ、肘を毛氈の上について、歓喜の情に沸き立ちながら球根から取り出したばかりの三つの珠芽を眺めていた。珠芽は純粋に完全な無傷なもので、科学と自然との結合した最もすばらしい産物の一つとして評価しようもないほどの原理を含んでいた。科学と自然とを結びつけたこの配合こそは、一度これに成功すればコルネリウス・ファン・ベルルの名を永久に声価あらしめるに違いなかった。
「大きな黒いチューリップは、僕が発見してやるぞ」
と、コルネリウスは珠芽をすっかり取り出してしまうと、独り言を言った。
「十万フロリンの賞金は、僕が手に入れることになるぞ。僕はそいつをドルドレヒトの貧民に寄付しよう。そうしてやれば、金持ちどもが内乱を起こして憎悪を吹き込んでしまったにしても、やがては収まってしまうだろう。そうすれば僕は共和党にもオレンジ党にも何一つ恐れるところがなくなって、花壇を豪華な状態のままで、維持して行くこともできるだろう。またそうすれば、いったん騒動が持ち上がっても、ドルドレヒトの商人や港の水夫がやって来て球根を引っこ抜き家族に食わせようとしたりする心配もなくなるわけだ。何しろ僕が球根一個を二、三百フロリンで買い込んだと聞きこんだら、あの連中はちょいちょい脅かしに来るだろうからな。だからハルレムの十万フロリンの賞金は、貧民にやってしまうことにしよう。そうきめた。だがな……」
だがな、と言うとコルネリウス・ファン・ベルルは姿勢を取り直してため息をついた。
「だがな」
と、彼は言葉を続けた。
「この十万フロリンを花壇の拡張に使うとか、それとも美しい花々の祖国といってよい東洋に旅行するとかに使えるならこんな愉快なことはないんだがな。
しかし、どうにも仕方がないな! とうていそんなことは考えられない。火縄銃、軍旗、軍鼓、布告文、今の時代には、こんなものが世の中を支配しているんだからな!」
ファン・ベルルは天を仰いで嘆息した。
やがて視線を球根に移した。球根は、火縄銃や軍旗や軍鼓や布告文など、そうした誠実な男の心を乱すだけで他には一向意味のない一切のものにいやまして、彼の心には大切なものであった。
「それにしても、こいつは何と素晴らしく綺麗な珠芽なんだろう」
と、彼は言った。
「何と滑らかで、よい形をしているのだろう。暗い色合いをしているが、これこそ僕のチューリップに、黒檀のような黒い色を約束してくれるものなのだ! 肉眼では、肌の上に葉脈があるとは思われない。おお! 確かに、やがて僕の作り出す花の黒衣には汚染一つ、ついていないというわけだ。
僕の血管から、僕の作業から、僕の思考力から生まれてくるこの娘に、何と名付けたものだろう?。『チューリッパ・ニグラ・ベルレンシス』はどうだろう。
そうだ、ベルレンシスだ。何と美しい名前だろう。この噂が風に乗って地球の隅々まで伝わったら、全ヨーロッパのチューリップ園芸家は、すなわち全ヨーロッパの知識人は震撼するに違いない。
『大きな黒いチューリップ発見さる!』その名は?――『チューリッパ・ニグラ・ベルレンシス』――『ベルレンシスとはどういう意味なのか?』――『発明者ファン・ベルルにちなんだのだ』――『そのファン・ベルルとはいったい何者なのだ?』――『すでに五つの新種――ジャンヌ、ジャン・ド・ウィット、コルネイユなどを発見した男なのだ』――。まったく、これこそ僕の野心なのだ。誰一人としてこの野心で泣かされるものはいないだろう。恐らく僕の名付け親、あの至上の政治家のことだって、僕が彼の名前をつけてやったチューリップを除けば、やがては知るによしもないことになるだろうが、そうなっても、『チューリッパ・ニグラ・ベルレンシス』は、依然として人の口の端に登るだろう。
なんと魅力のある珠芽だろう……。
僕のチューリップに花が咲く時」
とコルネリウスは独り言をつづけた。
「もしもオランダが、平穏に復していたら、貧民には五万フロリンだけやることにしよう。結局のところ何一つ恩恵を受けていない男としては、それだけでもすでに大きなことなのだ。それから残りの五万フロリンで、僕は実験にとりかかろう。この五万フロリンで、チューリップに香りをつけることにしよう。おお! もしもチューリップにばらやカーネーションのような芳香か、あるいはまた全然新しい芳香をつけることができたらこれはもっと素晴らしいことなのだ。この花の女王様は、東洋の玉座からヨーロッパの玉座に移る際に、この花に通有な本来の芳香をなくしてしまわれたが、それを取り戻してやれたらな。インド半島ではゴヤやボンベイやマドラスなどに、それからとりわけセイロンと呼ばれるかつては地上の楽園であった島の中で、この花が持っていたに違いない芳香を取り戻してやれたらなあ。ああ! それこそ何という栄光が輝くのだ! その時こそこの僕は、アレキサンダーやシーザーやマキシミリアンなどであるよりも、コルネリウス・ファン・ベルルであることをずっと嬉しく思うだろう。
なんと立派な珠芽なのだろう!……」
そしてコルネリウスは瞑想に陶然となり、この上なく甘美な夢想にふけっていた。
すると突然、部屋のベルがいつもよりもけたたましく鳴り響いた。
「誰かね」
と、彼は問いかけた。
「旦那様」
と、一人の召使いが答えた。
「ハーグからの御使者です」
「ハーグから御使者だと……どういうわけかね?」
「旦那様、参りましたのはクレークです」
「クレーク、ではジャン・ド・ウィット殿の忠僕だな。待つように言ってくれ」
「私はお待ちできません」
と、廊下で一つの声がした。
そしてそれと同じに、クレークが掟《おきて》を破って乾燥室に飛び込んだ。
ほとんど暴行沙汰に近いこの出現ぶりは、コルネリウス・ファン・ベルル邸内で行なわれていた習慣とはあまりにかけ離れている行為だった。それでファン・ベルルはクレークが乾燥室に飛び込んだのを見ると、珠芽を握っていた手が痙攣したように震えて貴重な珠芽を二つ転がしてしまった。一つは大テーブルの隣りにあったテーブルの下に、もう一つは暖炉の中に転がり込んだ。
「何てことだ!」
と、コルネリウスは、あわてて珠芽の後を追いかけながら言った。
「いったいどうしたんだ、クレーク?」
「実は、旦那様」
と、クレークは、大テーブルの上に紙片を置きながら言った。そこには三番目の珠芽が乗せられていた。
「一瞬のご猶予もなく、この紙片をお読みくださるようにとのご伝言です」
クレークはハーグの町で後にしたのと同じ騒動の前触れが、ドルドレヒトの街頭でも目についたように思ったので、振り向きもせずに逃げ去った。
「よいぞ! よいぞ! クレーク君」
と、コルネリウスは、貴重な珠芽を追うために、腕をテーブルの下に伸ばしながら言った。
「君の持ってきた紙片は読んどくよ」
そして珠芽を拾い上げると、てのひらのくぼみに置いて点検した。
「よかったな!」
と、彼は言った。
「これは無傷ですんだ。クレークの奴め、行っちまったな! 乾燥室に、あんな入り方をしたくせに! さてもう一つを調べようか」
手に持った一つの珠芽を離そうともせずに、ファン・ベルルは暖炉のほうに歩み寄った。ひざまずいて指先で灰に触って調べると、幸いにも冷たかった。
一瞬後、第二の珠芽に触れた。
「よし、ここにあったな」
そして、父親にも似た注意を込めてそれを見つめた。
「前のと同じように無傷だな」
ちょうどこの瞬間、コルネリウスがまだ膝をついて第二の珠芽を調べていた時、乾燥室の扉がはなはだしく乱暴に揺すぶられてその勢いで開いたので、コルネリウスは怒りと呼ばれる例の悪意の焔がカッと頬や耳まで昇るのを感じた。
「またどうしたんだ?」
と、彼は訊ねた。
「ああ、そうか! この邸では、みんな気狂いになったのか?」
「旦那様! 旦那様!」
一人の召使がクレークよりももっと青ざめた顔色になりもっと当惑した表情を浮かべて、乾燥室に駆け込みながら喚き立てた。
「どうしたんだ?」
二度にわたり、掟がすっかり破られたのを見ると、コルネリウスは不吉な予感を覚えながら、訊ねた。
「ああ! 旦那様、お逃げ下さい、お逃げ下さい。今すぐに!」
と、召使は叫んだ。
「逃げろって、どうしたわけかね?」
「旦那様、お邸は国防軍でいっぱいです」
「何を要求しに来たんだ?」
「あなた様を探しているのです」
「何をするために?」
「逮捕をするためです」
「僕のことを逮捕するためだって?」
「そうです、旦那様、司法官が先に立って来ています」
「いったいどういうわけだ?」
ファン・ベルルは二つの珠芽を握りしめてびっくりした眼を階段のほうに向かって投げた。
「上がって来ます! 上がって来ます!」
と、召使は叫んだ。
「おお! 若様、旦那様」
と、今度は乳母が乾燥室に入ってきて、叫び声をあげた。
「だがね、ばあや、どこから逃げりゃいいんだね?」
と、ファン・ベルルは訊ねた。
「窓から飛びおりて下さい」
「二十五フィートあるんだよ」
「盛り土が六フィートもしてあるのですからその上に降りられますよ」
「それはそうだ。しかしチューリップの上に落ちてしまうね」
「そんなことはいいじゃありませんか、早く飛び出してください」
コルネリウスは三つ目の珠芽を取ると、窓に近づいてそれを開いた。しかし飛び越えねばならない距離よりも、花壇に起こすに違いない損害の様子が気にかかった。
「とても駄目だ」
と、彼は言った。そして一歩後にさがった。
それと同時に手すりの格子越しに、兵士たちの握っている槍の穂先が現れて来た。
乳母は両手を高く上げた。
コルネリウス・ファン・ベルルのほうは、人間としてというよりもチューリップ愛好者として賛辞を呈すべきだが、彼の関心はただ一途に非常に貴重な珠芽にばかりかかっていた。
彼は眼でそれを包む紙を探した。クレークが乾燥室に置いていったバイブルの一片を認めたので手に取った。彼は非常に動揺していたので、その紙片がどこから来たものやら一向思い出しもしなかった。三つの珠芽をそれに包んでしまうと、胸の間に隠して待ち構えた。
この時、司法官を先導にした一隊の兵士が入ってきた。
「貴下がコルネリウス・ファン・ベルル博士ですか?」
と、司法官はこの若者を熟知しているのに改まって問いかけた。しかしこういう問い方をしたのは、彼が法の規則に従ったからである。これは、ご存知のとおり、詰問に非常な重厚味を与えるものだった。
「いかにもそうです、ファン・シュペネン殿」
と、コルネリウスは丁寧に裁判官に向かって会釈をしながら答えた。
「あなたもよくご存知のとおりです」
「では、あなたが邸内に隠匿しておられる反逆事件の書類をお渡し下さい」
「反逆事件の書類ですって?」
と、コルネリウスは相手の言葉に唖然として問い返した。
「おお! 驚くにはあたりますまい!」
「ファン・シュペネン殿、僕は誓って申し上げますが」
と、コルネリウスは繰り返した。
「あなたのおっしゃる意味が僕には全然わかりません」
「では、博士、わかるように申しましょう」
と、裁判官は言った。
「昨年の一月、売国奴コルネリウスが、あなたの邸内に残した書類をお渡し下さい」
一条の光が、コルネリウスの胸を横切った。
「おお! おお!」
と、ファン・シュペネンは言った。
「どうやら、思い出されたようですな?」
「確かにそうです。しかしあなたのおっしゃるのは反逆事件の書類ということですね? しかしそういった種類の書類は、僕の手元にはありません」
「ああ! 貴下は否認されるのですか?」
「いかにも」
裁判官は振り向くと、ぐるっと部屋中を見まわした。
「貴家の邸内で、乾燥室といわれるのはどの部屋ですか?」
「正しく目下僕たちのいるところです。ファン・シュペネン殿」
司法官は、手にしていた幾葉かの書類の一番上に乗っている小さなノートを一瞥した。
「これでいいんだな」
と、彼は意を決したもののように言った。
それからコルネリウスの方に向き直ると、
「その書類をお渡し下さい」
と、言った。
「しかし、ファン・シュペネン殿、僕にはそんなことはできません。あれは委託品として渡されたものであり、委託品は神聖なものですからね」
「コルネリウス博士」
と、裁判官は言った。
「国家の名において、私は貴下に命令します。ひきだしを開き、その中にしまってある書類をお渡し下さい」
そう言うと司法官は、暖炉のそばに置いてある戸棚の三番目のひきだしを間違いなく指さした。
事実、堤防監察官が名付け子に渡した書類の入っているのはこの三番目のひきだしだった。するとこれは警察が、完全に情報を握っていることを証拠立てるものである。
「ああ! 貴下はそのとおりなさりたくないのですな?」
ファン・シュペネンは、コルネリウスが茫然として立ちすくんでいるのを見るとそう言った。
「それでは私が自分で開けましょう」
ひきだしを全部奥まで開くと、司法官が最初に見出したものは、注意深く並べられラベルを貼った二十個ばかりの球根だった。それから不運なコルネイユ・ド・ウィットが、名付け子に渡した時とそっくりそのままの状態で例の紙包みが見つかった。
司法官は封蝋をちぎると封筒を破った。眼に映った最初の紙片に貪るような視線を投げると、恐ろしい声で叫んだ。
「ああ! ではやっぱり、当局が受け取ったのは虚偽の情報じゃなかったんだな!」
「何ですって!」
と、コルネリウスは言った。
「いったい、それはどういうことです?」
「ああ! ファン・ベルル殿、これ以上、何も知らないふりなどはなさらん方がよろしいですぞ」
と、司法官は答えた。
「ご同行願います」
「どういうわけです! 僕があなたに同行するんですって!」
と、博士は叫んだ。
「そうです。というのは国家の名において私は貴下を逮捕するのです」
まだオレンジ公ウィリアムの名において逮捕することはできなかった。彼は総督になってから日が浅いので、それを行なうまでには至らなかった。
「僕を逮捕するんですって!」
と、コルネリウスは喚いた。
「だがそれでは、僕が何をしたというんですか?」
「その点は私の関知するところではありません、博士。貴下は、貴下の係の裁判官に対して釈明されればよろしいでしょう」
「どこでそれをやるのですか?」
「ハーグです」
コルネリウスは茫然として、意識を失ってしまった乳母に接吻し、涙にくれている召使たちと握手すると、司法官の後につづいた。司法官は、彼を国事犯として護送馬車に収容すると、急遽ハーグを目指して連れ去ってしまった。
八 侵入
ここに起こった事件は、読者もご察しのとおり、アイザック・ボクステルの悪魔のような所業の結果だった。
彼が望遠鏡を使ってコルネイユ・ド・ウィットと名付け子との会見の様子を残るくまなく観察した次第は、諸君も覚えておられるであろう。
彼は何一つ耳にできなかったのだが、しかしいっさいを眼に入れたことを、諸君は思い起こされるに違いない。
またその包みが一番貴重な球根をしまっておくひきだしに丁寧にしまい込まれるのを見て、堤防監察官から名付け子に託された書類の重要性を察知したことも、諸君は記憶しておられることであろう。
その結果、隣人のコルネリウスよりも政治に関してはるかに多くの注意を払っていたボクステルは、コルネイユ・ド・ウィットが国家に対する大逆犯として逮捕されたのを知ると、自分がただ一言もらしさえすればこの名付け親と同時に名付け子ももちろん、逮捕させることができることとひそかに想像を巡らした。
しかしいかにボクステルが心では嬉しく思ったとしても、告発すれば絞首台行きがわかっている男をいざ告発しようと思うと戦慄せざるを得なかった。
だが悪い考えの恐ろしいのは、悪い精神がだんだんこれになじんでくることである。
それにつけてもアイザック・ボクステルは、次のような詭弁を弄してわれとわが心を励ましているのだった。
(コルネイユ・ド・ウィットは、大逆の告発を受け、逮捕されたがゆえに不良なる市民なのだ。
自分は世人から何の告発も受けておらぬし、空気のように自由でいられるゆえに善良なる市民なのだ。
さて、コルネイユ・ド・ウィットは大逆の告発を受けて逮捕されたがゆえに不良なる市民であることが確実なのであるから、共犯者コルネリウス・ファン・ベルルも不良なる市民であることには、コルネイユと一向変わるところがない。
そこで、自分は善良なる市民であり、善良なる市民は不良なる市民を告発する義務を有する以上、自分、このアイザック・ボクステルはコルネリウス・ファン・ベルルを告発する義務を有するものである)
しかし、もしも貪欲の悪魔が嫉妬の悪魔と歩調を合わせて出現しなかったとしたら、この論理がいかにもっともらしく聞こえようと、ボクステルの心を完全に占領することもなかったろうし、また恐らくは嫉妬が、心を苛《さいな》む単純な復讐欲に負けることも起こらなかったに違いない。
ボクステルは大きな黒いチューリップについて、ファン・ベルルの研究がどの程度まで進んでいたかを知らずにはいなかった。
たとえコルネリウスがどれほど謙譲な人物であっても、一六七三年になるとほとんど確実にハルレム園芸協会の提供する十万フロリンの賞金が手に入るということを、一番親しい友人たちに隠しておくことはできなかった。
ところがファン・ベルルのそのほとんど確実という点が、アイザック・ボクステルの心を悩ます熱病の原因なのであった。
もしもコルネリウスが逮捕されれば、彼の邸内には確かに大混乱が起きるだろう。逮捕された当日の夜ならば、誰一人としてチューリップの監視をしようなどと思いつくものはいないだろう。
そこでその夜、ボクステルは壁を乗り越える。大きな黒いチューリップの育つはずの球根がどこにあるかはわかっているので、彼はこの球根を盗み出す。するとコルネリウスの邸に咲く代わりに、黒いチューリップは彼の家で咲くことになる。そして十万フロリンの賞金はコルネリウスの手に渡る代わりに、彼のものとなるであろう。しかもこの新しい花を『チューリッパ・ニグラ・ボクステレンシス』と呼べるこの上ない名誉もついてくるのだ。
この結論は、彼の復讐心ばかりでなく彼の貪欲の念を満足させた。
目が覚めると、彼はただ大きな黒いチューリップのことを考えていた。寝につくと、彼はその夢ばかりを見ていたのだった。
ついに八月十九日の午後二時頃、アイザックはとうていこれ以上我慢できないほどの非常に強い誘惑を感じた。
その結果、彼は匿名の告発文を起草した。それは事実の確実性を断定に置き換えたものだった。そして彼はこの告発文をポストに投じたのだった。
いかなる有害な手紙がヴィナスの青銅製の口に滑り込んだとしても、これほど急速に恐るべき結果を生じた例はなかったであろう。
その夜、主席司法官は速達を受け取った。彼はただちに同僚たちを翌朝招請することにした。翌朝になると、彼らは参集して逮捕の決定をなし、それを執行するために、ファン・シュペネンに命令を与えた。ファン・シュペネンは名誉あるオランダ人としてこの責務を遂行することとなり、コルネリウス・ファン・ベルルを逮捕した。それはまさにハーグのオレンジ党員がウィット兄弟のコルネイユとジャンの死体の切り身を、火にあぶらせていた刻限だった。
しかしアイザック・ボクステルは罪を恥じたのか気が弱くなったのか、さすがにその日は例の望遠鏡を、隣家の庭園にもアトリエにも、また乾燥室にも向けるだけの勇気がなかった。
彼は哀れなコルネリウス博士の邸で何が起こるかをよく知り抜いていたので、その場を観察するまでもなかった。彼はたった一人しかいない召使が入って来た時にも、起き上がろうとさえしなかった。彼の召使はコルネリウスの召使たちの身の上をかねがね羨ましがっていた。それはボクステルが、彼らの主人の身の上を羨ましがっていたのに引けを取らぬほど、我慢のできない気持ちだった。ボクステルは召使に言葉をかけた。
「今日は起きないぞ。私は病気なんだ」
九時頃、彼は大きな物音が街路に起こるのを耳にした。彼はその物音に震えあがった。その時の彼は本物の病人よりも顔色が青ざめ、本物の熱病患者よりも激しく身をわななかせていた。
召使が入って来た。ボクステルは毛布の中に顔を隠した。
「ああ! 旦那様」
と、召使は怒鳴った。ファン・ベルルの身の上に不幸の起きたことを嘆いて見せれば、主人には吉報を知らせることになるに違いなかった。
「ああ! 旦那様、今、どんなことが起こっているかご存知ないのですか?」
「私が何を知っているというんだい?」
と、ボクステルは聞きとれぬような声で答えた。
「やっぱりね! 今ですね、旦那様、お隣りのコルネリウス・ファン・ベルルが大逆犯ということで逮捕されましたよ」
「馬鹿を言うな! そんなことがあるもんか!」
と、ボクステルは弱々しい声でつぶやいた。
「とんでもない! とにかく、みんなそう言っておりますよ。それにあの邸に、司法官のファン・シュペネンと警吏どもが乗りこんで行くのを、私もこの目で見たんですよ」
「ああ! お前が見たからって」
と、ボクステルは言った。
「そりゃ、何か別のことだよ」
「とにかく、もう一度調べてきましょう」
と、召使は言った。
「落ち着いてください、旦那様、何かお知らせできるでしょう」
ボクステルは召使の熱意を励ますようにうなずいて見せただけだった。
召使は出て行くと、十五分ばかりして戻って来た。
「おお! 旦那様、お話ししたとおりでした」
と、彼は言った。
「こいつは正真正銘でしたよ」
「いったい、どうしたんだね?」
「ファン・ベルル様は逮捕されました。馬車に入れられて、ハーグに護送されました」
「ハーグだって?」
「そうです。何でも人の噂が本当なら、そこに行くってことは、あのお方にとってどうも芳しいことじゃないそうです」
「その人の噂って何だね?」
と、ボクステルは訊ねた。
「それが大変なことなんです! 旦那様、人の噂なのですがね。もっともそれが絶対確実とはまいりませんが、何でもみんなの話では、ちょうど今頃は市民たちがド・ウィットご兄弟のコルネイユ様とジャン様とを暗殺している最中だろうということなんです」
「おお!」
と、ボクステルはもちろん目に浮かんでくる恐ろしい光景を見まいとして目を閉ざすと、つぶやくというより喉もとをゴロゴロ鳴らした。
「何てこった!」
と、召使は部屋を出ながらつぶやいた。
「こんな知らせを聞いたのにベッドから飛び降りようともしないときては、ボクステル様のご病気も相当お悪いに違いない」
まったくのところアイザック・ボクステルは本物の病人になっていた。それは、他人を暗殺した男という病人であった。
ところで彼が相手の男を暗殺したのは、二重の目的からであった。初めの一つはうまくいった。だが後の一つはこれからやらねばならなかった。
夜になった。ボクステルが待ち設けていた夜であった。
夜になると、彼は起き上がった。
それから彼は例の楓の木に登った。
彼はよく思案をめぐらしていた。そのとおりにコルネイユのところでは誰一人として、庭園を監視しようなどとは思いつくものはいなかった。邸の中も召使たちも、上を下への大騒ぎをしていた。
彼は次々と十時が鳴り、十一時が鳴り、やがて真夜中を知らせる鐘の音を聞いた。
真夜中になると、心は弾み手は震え顔色は青ざめて、彼は木から降りると、梯子を取り、隣りの壁に立てかけた。一番上の段まで昇るとじっと耳を澄ました。
あたりは一面に静かだった。夜の静寂を乱す物音は、何一つとして聞こえなかった。
邸の中には、灯りがたった一つしか見えなかった。
それは乳母のものであった。
この静寂と闇とがボクステルを大胆にした。
彼は壁を乗り越えると、ちょっとその頂辺で踏みとどまった。そして何も恐れるものがないと見極めると、彼は梯子を自分の庭からひっぱりあげて、コルネリウスの庭園に下ろし、それを伝わって降りて行った。
それから彼は、黒いチューリップが生まれてくる珠芽の埋められてある場所に行く道を知っていたので、足跡を残さぬように回り道をして、その方向に進んで行った。目指す場所に着くと、残酷な歓びにひたりながら、柔らかな土に手を突っ込んだ。
ところが、何も見つからなかった。彼は間違ったかなと思った。
すると本能的に、汗が額に滲み出した。
彼はあたりを掘り返した。しかし何も見当たらない。
彼は右や左を掘り返した。何にもない。
前や後ろを掘り返した。やはり何の手応えもない。
彼は気が狂いそうになった。というのは、その朝、土が掘り起こされたことに、やっと彼は気付いたからだった。
実際ボクステルがベッドに入っていた間に、コルネリウスは庭園に降りて球根を掘り出し、これを三つの珠芽に分けたのだった。
ボクステルは、その場を離れる決心がつかなかった。彼は両手で十フィート四方も掘り返していたのだった。
ついにもう、失敗を疑う余地はなくなった。
彼は憤激に駆られて梯子を登ると壁をまたいで、コルネリウスの邸から自分の方に梯子を移して、庭に投げ込むと、自分もその後につづいて飛び下りた。
ふと、最後の希望がひらめいた。
それは珠芽が乾燥室にあるということだった。
ただ問題は庭園に忍び込んだように、乾燥室に忍び込むだけのことだった。
そこに行けば、彼は珠芽を発見できるに違いない。
乾燥室の窓ガラスは、温室の窓ガラスのように上がったままになっていた。
その朝コルネリウスが開けたのだが、誰もそれを閉めることに気がついていなかった。
要するに長さが十分ある梯子を手に入れることだった。十二フィートの梯子の代わりに、二十フィートの梯子が必要だった。
ボクステルは、自分の住んでいる道筋に、修繕中の家のあったことを思い出した。この家に、非常に大きな梯子が立てかけられてあった。
もしも職人たちがそれを運び去らなかったとしたら、その梯子はボクステルの仕事にうってつけだった。
彼はその家にかけつけた。梯子はそのままそこにあった。
ボクステルは梯子をつかむと、大骨を折って自分の庭に運んで来た。さらにまた苦労を重ねて、それをコルネリウスの邸の壁に立てかけた。
梯子はちょうど、窓のところに届いた。
ボクステルは重いランプを灯したままポケットに入れて梯子を登ると、乾燥室に侵入した。
この聖櫃《せいひつ》の中に入ると、彼はテーブルにもたれてたたずんだ。膝がしっかりと立たないし、心臓は息が止まってしまいそうに早鐘を打った。
そこは、邸園の中よりもいっそう具合が悪かった。大気というものは人間の所有物件から、そこに含まれている尊厳性を失わせるものだと言えるだろう。そんなわけで、垣根を越えて壁を乗り越えるような人間も、部屋の扉や窓口までは足が進まなくなってしまうものだ。
庭園では、ボクステルも単なる畑泥棒に過ぎなかった。しかし部屋に入ったとなると、彼は明らかに盗賊だった。
しかし彼は勇気を奮い起こした。彼はそこまで来たからには、手ぶらで帰るわけにはいかなかった。
だがひきだしを一つ残らず探しまわり、開けたり閉めたりしてみたが徒労だった。コルネリウスの運命を決することになった委託物の入っていた別格のひきだしですらも、何にも見当たらなかった。彼は植物園におけるように「ジャンヌ種」とか「ウィット種」とか「茶色のチューリップ」とか、「こげ茶色のチューリップ」とかそんなラベルの貼ってあるものは見つけ出した。しかし黒いチューリップは、というよりも黒いチューリップが開花期を迎える暗闇の中でまだ眠っており、身を潜めている珠芽は、影も形も見当たらなかった。
ところがアムステルダムの一流商店の売春帳簿よりもさらに緊密的確に、ファン・ベルルの手で書き込まれている種子と珠芽の二重帳簿を見ると、ボクステルは次のような記載を読むことができた。
「本日、一六七二年八月二十日、大型の黒いチューリップの球根を掘り起こした。そしてこれを三つの珠芽に分割した」
「この珠芽だ! この珠芽だ!」
ボクステルは喚き声をあげると、乾燥室の中を手当たり次第に荒しつくしてしまった。
やがて不意に脳髄がへこんでしまうほど、額をピシャピシャ殴りつづけた。
「おお! 俺は何て惨めな人間だ!」
と、彼は叫んだ。
「ああ! ボクステル、これで三度目の失敗だぞ。いったい自分の珠芽を手放そうなんて人間があるだろうか。ハーグに向かって出発する時、あれをドルドレヒトに捨てて行く人間なんてあるだろうか。あの男には、あれを持って行く暇があったに違いない。なんて卑怯な奴だろう! あの男は自分の身体につけて、あれをハーグに持ち去ってしまったのだ!」
一瞬ひらめいた光はボクステルに、むなしく罪の深淵に落ちこんだことを明らかにした。
数時間前に不幸なベルルが、黒いチューリップの珠芽をいつまでもしげしげと鑑賞した同じ場所、同じテーブルに、彼は雷にでも打たれたように突っ伏した。
「そうだ! 要するに」
と、嫉妬に狂った男はまた青白い顔を上げるとつぶやいた。
「彼があれを持っているとしても、保管していられるのは命のある間だけのことだ。だから……」
まだ残っていた忌まわしい考えは、恐ろしい微笑のうちに吸いこまれた。
「珠芽はハーグにあるんだ」
と、彼は言った。
「だからもう、ドルドレヒトで暮らしているわけにはいかないのだ。ハーグに行って珠芽を手に入れよう! ハーグに行こう!」
彼はその場に莫大な富を棄てることになるとは一向気がつかずに、もう一つの評価しきれぬ富のほうに心を奪い取られていた。
ボクステルは梯子伝いに滑り落ちると、この泥棒道具を持ってきた場所に返しに行った。そして猛獣のような唸り声をあげながら我が家に戻った。
九 家族房
ファン・ベルルが哀れにもビュイテンホーフの牢獄に収監されたのは、真夜中に近い頃だった。
事態はローザが予想したとおりだった。コルネイユの部屋がもぬけの殻になっているのを知ると、群集の憤激は大きくなった。もしもその場でグリフュス親父が群衆の手にとらわれたなら、彼はきっと、囚人の身代わりにされてしまったことだろう。
しかしこの憤激は、警戒心の強いウィリアムが町の門を閉めさせるという警戒手段をとったために、暗殺者に追いつかれてしまった二人の兄弟に向けられたのでだいたい収まることになった。
そこで間もなく牢獄は空っぽになる時期がやってきた。恐ろしい雷のような叫喚が階段からどっところがり落ちていくと、後には静寂が広がった。
ローザはこの機会を利用して、密牢を出ると、次に父親も出してやった。
牢獄はまったく荒涼としていた。トル・ヘックで虐殺がおこなわれているという時期に、牢獄に踏みとどまっている理由なんかあるだろうか?
すっかり震えあがったグリフュスは、勇敢なローザの後について外に出た。二人はどうにかこうにか大扉をしめた。というのは、大扉が半分壊れてしまったからだった。それを見れば強烈な怒りの激流が、そこを通過したことがわかった。
四時頃、騒がしい物音がまたしても戻ってくるのが聞こえ出した。しかしこの物音は、グリフュスにも娘にも少しも不安を引き起こすものではなかった。この物音は、群衆が二つの死骸を引きずって歩く騒ぎであり、死刑執行に使われている広場に吊り下げるために帰ってきた喧騒なのであった。
このときにもローザはまた身を隠した。しかしそれは、恐ろしい光景を見まいとするためであった。
真夜中にビュイテンホーフの扉、というよりも扉の代わりにおかれたバリケードを叩くものがあった。
コルネリウス・ファン・ベルルが連行されてきたのであった。
獄吏のグリフュスはこの新入りの客を迎えると、収獄状に書き込んである囚人の資格に目を通した。
「コルネイユ・ド・ウィットの名付け子か」
と、彼は獄吏らしい微笑を浮かべてつぶやいた。
「ああ、お若いの、ちょうどここには家族房がありますよ。そいつをあなたに差し上げることにしましょう」
自分が言ったこの冗談に気をよくして、この兇悪なオレンジ党員は大型の手提げ灯と鍵束とを持ち、その朝コルネイユ・ド・ウィットが「追放」処分を受けて立ち去ったばかりの独房に案内した。そもそもこの「追放」なる語は革命時代〔フランス大革命、一七八九〜九五〕に、偉大なモラリストたちが高度な政治上の公理として口にしているところだが、ここにいう「追放」もその意味するところは、同じことだ。すなわち、「帰り来らざるは死者のみ」〔フランス革命の指導的政治家は反対派を「追放」に処したが、これはただちにギロチンにかけて処刑する意味に通じた〕
そこでグリフュスは、名付け親の部屋にその名付け子を案内しようとしたのだった。
その部屋に行き着くまでに通る道すがら、このうちひしがれた花造りが耳にしたものは一頭の犬の吠える声だけであり、目にしたのは若い娘の顔だけだった。
犬は大きな鎖を揺すぶりながら壁にくりぬかれたねぐらから飛び出して、噛みつけと命令された時に相手がよくわかるようにコルネリウスの匂いをクンクン嗅いだ。
囚人が重苦しげな手を階段の手すりにかけ、キューキュー軋らせていた時、若い娘が一つの部屋の潜り戸を半分ばかり開いた。その部屋はちょうどその階段の壁の奥になっていて、彼女が住み慣れているところだった。開くと同時に右手に提げたランプは、ふさふさと渦巻いている素晴らしい金髪に囲まれた娘の愛くるしいばら色の顔を照らし出した。そして彼女は左手を胸の上に当て白い夜着の前を抑えていた。というのは思いがけないコルネリウスの到着に、彼女は眠りばなを起こされてしまったからだった。
この情景は、巨匠レンブラント〔一六〇六〜六九。オランダ最大の画家、光線の扱いに独創性を示し、油絵の完成者〕によって描かれるにふさわしいまことに美しい一幅の画面を作っていた。グリフュスの赤い提灯に照らし出された暗い螺旋階段、その頂辺には獄吏の陰気くさい顔、それから目を凝らそうとして手すりにもたれているコルネリウスの憂鬱そうな顔、その下には灯りのさしている潜戸に囲まれたローザのさわやかな顔、階段を登りかけたコルネリウスの高めの姿勢のせいでいささか当惑げな彼女のはにかんだ物腰、その階段の上から、彼の視線はぼんやりと物悲しげに、若い娘の白い丸みのある肩を眺めている。
さらに下の方のすっかり影になって、暗闇のために細部が消え去っている階段のところには、鎖を揺すぶっているモロッス犬〔古代ギリシアの一種族モロッスが飼っていた大型番犬〕の目が爛々と輝いており、鎖のついた首輪の上には、ローザのランプとグリフュスの提灯の二重の明りがキラキラした光を反射させている。
しかしこの至上の巨匠の筆をもってしても、画面に描きつくせぬものは、この青白い美青年がゆっくりと階段を登って行き、父親の告げた『家族房を差し上げましょう』という皮肉な言葉をこの青年と結びつけて考えた時、ローザの顔に浮かんだ悩ましそうな表情である。
この場景はここに描いているよりもはるかに短い束の間のことであった。すぐにグリフュスは歩みをつづけ、コルネリウスはその後に従って行くより仕方がなかった。五分後には、彼は独房に入っていた。読者諸君はすでにご存知のことゆえ、この独房について描写する必要はあるまい。
グリフュスは、その日神の許に魂を返した殉教者が苦痛に苛まれていたベッドを指で囚人に示すと、再び提灯を取り上げて外に出た。
ただ独り取り残されたコルネリウスは、ベッドの上に身を投げた。しかし寝入ることができなかった。彼はビュイテンホーフに日光を取り入れる鉄格子の狭い窓に、じっと目を据えつづけていた。彼はそのままの姿勢で、大空から白いマントが地上に落ちてくるように、黎明の光が樹々の梢を越して白んで来るのを眺めていた。
夜の間は数頭の馬がそここことビュイテンホーフの広場を疾駆していた。巡察兵の重い足音は広場の円形の舗装の上を衝《う》っていた。火縄銃の火縄が西風に燃え上がって牢獄の窓ガラスまで、断続的な明りを投げていた。
しかし夜明けの光が家々の笠石をかぶった頂を銀色に輝かせた時、コルネリウスは自分の周囲に、何か生きているものでもいないかとそれを知りたい気持ちに駆られて、窓に近づくと悲しげな眼差しをグルッと一わたりさまよわせた。
広場の端くれには朝霧のために暗青色に染まった一つの黒いかたまりが、青白い家々の間から定かならぬ影をクッキリと浮かび上がらせて立っていた。
コルネリウスはそれが絞首台であることを認めた。
この絞首台には、まだ血の滴っている骸骨といってもよいほど形の崩れた二つの肉塊が吊り下げられていた。
ハーグの善良な人民どもは、二人の殉教者の肉を切り刻んでしまったが、律儀なことに巨大なプラカードにその口実を二段に書きしるして、絞首台のところに持ち込んでいた。
二十八才の眼をこのプラカードの上に凝らすと、コルネリウスには、看板書きが使うような太い筆で、次のような文句が書かれてあるのを読むことができた。
ここに大悪党ジャン・ド・ウィット並びにその兄の卑劣漢コルネイユ・ド・ウィットを絞首刑に処す。両者とも人民の敵にして、フランス国王の味方なり。
コルネリウスは恐怖の叫びをあげた。恐怖のあまり気が狂いそうになり、扉を足や手で蹴ったり殴りつけたりした。それがあんまり手荒くて急迫していたので、グリフュスは腹を立て、手に大きな鍵束を提げて駆けつけてきた。
普段は床を離れる時間でもないのに、自分を床から追い出した囚人に対して、彼は恐ろしい呪詛の言葉を吐きつけながら扉を開いた。
「ああ、なんだって、そんな真似をするんです!」
と、彼は言った。
「このド・ウィットの片割れも、気が狂ってしまったのかな!」
と、彼は叫んだ。
「だがそうだとすると、ド・ウィットの連中の身体には悪魔がついているんだろう!」
「ねえ、君、君」
と、コルネリウスは獄吏の腕をつかむと窓の方に引っ張って行き問いかけた。
「君、いったい、あそこに読めるものはどういう意味のことですか?」
「どこです、あそこですか?」
「あのプラカードの上です」
コルネリウスは青ざめた顔色をし、息を弾ませながら身体をブルブル震わせて、広場の奥の方にある忌まわしい文字の浮かんでいる絞首台を指さした。
グリフュスは笑い出した。
「ああ! ああ!」
と、彼は答えた。
「そうですか、読みましたか……それは結構なことですな! あれを見ればオレンジ公爵様の敵どもとよしみを通ずる連中が、どういう身の上になるものかさだめしわかることでしょうよ」
「ド・ウィットご兄弟が暗殺されたんだな!」
と、コルネリウスは額に汗をにじませながらつぶやいた。彼は腕をだらりと垂らして両目を閉じると、ベッドの上に身を投げ出した。
「ド・ウィットご兄弟は人民の裁判を受けたのです」
と、グリフュスは言った。
「それをあなたは、『暗殺された』というんですか? 私なら、『処刑された』といいますがね」
そして彼は囚人が静かになったばかりでなく、失神状態に陥ったのを見ると、激しい勢いで扉を引き、ガチャンと閂を差し渡して外へ出た。
我に返ったコルネリウスは、自分しかいないことに気がついた。そして彼の閉じこめられている部屋が、グリフュスの言ったとおり家族房であり、彼にとっては悲惨な死に至るべき宿命的な通路であることを認めた。
彼は哲学者であり、また特にキリスト教徒だったので彼はまず名付け親の霊魂のために、ついで宰相の霊魂のために祈りをささげた。それから最後に、神の贈りたもういっさいの災厄に感謝をささげて観念してしまった。
やがて天国から地上に舞い降り、地上から自分の独房に帰りついて、この独房には彼一人しかいないことを確かめると、彼は胸から黒いチューリップの三つの珠芽を取り出して、獄内で一番暗い隅にあり時代ものの水差しの載っている岩の台座の背後に隠した。
幾年越しの努力も空しかったのだ! 甘い希望も打ち砕かれた! こうなれば、彼の身が死に赴くように、彼の発見も虚無に帰してしまうだろう! ――この獄内では、草の芽一つなく、土は微塵もなく、ただ一筋の日射しさえもなかった。
こう思うとコルネリウスは、暗澹たる絶望に沈んでしまった。彼がそこから出られたのは、ある異常な事態が起こったからであった。
十 獄吏の娘
その夜、グリフュスは囚人の夜食を運ぼうとして独房の扉を開いたが、湿った石畳の上で足を滑らせて、起き直ろうとしたが転倒した。ところが手を伸ばし損ねて、腕の手首を折ってしまった。
コルネリウスは牢番の方に一歩踏み出した。しかし牢番は事の重大性に気付かなかったので、
「何でもないんだ」
と、言った。
「動いてはいけませんぞ」
彼は腕を支えにして起き上がろうとした。しかし骨が曲がってしまった。その時初めてグリフュスは、激痛を覚え悲鳴を発した。
彼は腕が折れたのを悟った。他人に対しては飽くまで無感覚なこの男も、扉口のところで気を失い、再び転倒した。彼はじっと動かなくなり、死体のように冷たくなった。
この間、独房の扉は開けたままになっており、コルネリウスは自由の身に近い立場にあった。
しかし彼にはこの事故を利用しようという考えは、心に浮かんでこなかった。彼は腕の曲がりぐあいや、曲がりながら発した音の調子から、骨折が起こり、激痛があることを知った。彼はたとえこの負傷者が、たった一度その場で口をきいた際に、彼に悪意を示したとしても、この負傷者を助けてやろうという以外には、何も思いつかなかった。
グリフュスが倒れながら立てた物音や、彼が発した悲鳴を聞いて、あわただしい足音が階段の方に聞こえてきた。この足音につづいて、ふいに現れた人影を見ると、コルネリウスは小さな叫び声をもらしてしまった。それに応じて若い娘の叫びが上がった。コルネリウスのもらした叫び声に答えたのは、あの美しいフリゾン娘だった。父親が床の上に身体を伸ばし、囚人がその上にかがみこんでいるのを見ると、彼女は初め、乱暴者で知られているグリフュスがこの囚人と格闘して、打ち倒されたものと思いこんだ。
こうした不安が娘の心に忍び入った瞬間、コルネリウスの方も娘の心にどんな考えが湧いたかを理解した。しかし一瞥して真相が解り自分の思ったことを恥じ入ると、彼女は若者の方に美しい濡れた眼を上げて話しかけた。
「おわびとお礼を申し上げますわ。私の考え違いをお許し下さいませ。あなたさまがなすってくだすったことにはお礼申し上げますわ」
コルネリウスは顔を赤らめた。
「僕はキリスト教徒として、自分の義務を果たすだけです」
と、彼は言った。
「同じ人間を救うのですからね」
「それはそうですわ。でも今朝ほど父はいろいろと無礼なことを申し上げておりましたが、あなたさまはそんなことをお忘れになったのですね。さっそく夜になったら父をお救いくださるなんて。あなたさまは、それがおできになるなんて博愛心以上のものですわね、キリスト精神以上のものですわ」
庶民の娘の口から、こんな気品のあるしかも深いいたわりの言葉がもれるのを聞いて、すっかり驚いたコルネリウスは、美しい乙女のほうへ目を上げた。
しかし彼にはその驚きを娘に明かす暇はなかった。グリフュスはやっと意識を取り戻して目を開けた。息を吹き返すと一緒にいつもの粗暴さももどってきた。
「ああ! そうだっけな」
と、彼は言った。
「囚人の夜食を大急ぎで運んでいたんだっけな。あんまりあわててひっくり返ったんだな。ひっくり返って腕を折っちまったんだな。そこであなたを敷石の上にじっと釘付けにさせておいたわけだ」
「黙っていらっしゃい、お父さん、この方に失礼ですわ。この方はお父さんを助けようと思って一所懸命になっていらっしゃったのよ」
「この人がか?」
と、グリフュスは疑わしそうに言った。
「本当ですよ、君、僕は君をもっとよく癒してあげるつもりです」
「あなたがですか? それじゃ、あなたはお医者ですか?」
「最初の身分はそうですよ」
と、囚人は言った。
「それじゃ、私の腕を癒せますか?」
「もちろんですよ」
「それではどうすればいいんです?」
「木の押えが二つと、包帯が入り用です」
「わかったな、ローザ」
と、グリフュスは言った。
「囚人が俺の腕を癒してくれるんだとさ。こいつは安上がりだ。さあ、手伝って起こしてくれ。どうも重くってやりきれん」
ローザは負傷者に肩を差し出した。負傷者は若い娘の首に、怪我をしなかった方の腕を回した。やっとのことで、彼は膝を伸ばして立ち上がった。その間にコルネリウスは、獄吏が歩かないですむように、肘掛け椅子を近くに押してやった。
グリフュスは肘掛け椅子に腰を下ろした。それから娘の方に向き直ると、
「いいかね、わかったかね?」
と、彼は言いかけた。
「ご入用のものを探してきてくれ」
ローザは下に降りて行ったが、間もなく樽の板を二枚と大巾の布きれを手にもどってきた。
この間に、コルネリウスは獄吏の上衣を脱がせ、自分の袖口をまくった。
「これで間に合いますかしら?」
と、ローザは訊ねた。
「大丈夫です、お嬢さん」
と、コルネリウスは、運ばれてきた品物に目をやりながら答えた。
「そう、上等ですよ。さあ、僕がお父さまの腕を支えておりますから、このテーブルを押して下さい」
ローザはテーブルを押した。コルネリウスは折れた腕を平らにするためにその上に載せ、手慣れた様子で骨折した部分を調整し、副木を当てて包帯でしめつけた。
最後にピンでとめる時、獄吏はもう一度気絶した。
「酢を探してきてください、お嬢さん」
と、コルネリウスは言った。
「酢でこめかみをこすってやりましょう。そうすればまた意識が戻ってきますよ」
しかし、教えられた指図を実行する代わりに、ローザは父親が全然知覚を失っているのを確かめると、コルネリウスの方に歩み寄った。
「ねえ、ご恩返しをいたしますわ」
「何ですって、お嬢さん?」
と、コルネリウスは訊ねた。
「つまりこうなんですわ。明日、あなたさまを訊問することになっている裁判官が、今日、あなたさまのお部屋を調べに参りましたの。あなたさまがコルネイユ・ド・ウィット様のおいでになったお部屋におられるというと気味の悪い笑い方をしましたの。どうもその様子では、あなたさまにいいことは一つもないように思えますの」
「だが」
と、コルネリウスは訊ねた。
「僕をどうしようというのでしょう?」
「ここから、ごらんになると、絞首台が見えますわ」
「だが僕は何も罪を犯していませんよ」
と、コルネリウスは言った。
「あそこに吊り下げられていらっしゃるお方は手足を切られ、細切れにされてしまわれましたが、それも罪があったからなのでしょうか?」
「そうですな」
と、コルネリウスは暗い顔つきになりながら言った。
「それに」
と、ローザは言葉をつづけた。
「世間の人の意見では、あなたさまに罪があればいいというんですの。ですけれど結局、罪があろうとなかろうと、あなたさまの裁判は明日開かれることでしょう。明後日になるとあなたさまは死刑に処せられますよ。何もかもあっという間に片がついてしまいますことよ」
「では、それでどういう結論になるのですか、お嬢さん?」
「私の結論はこうなのです。私は独りぼっちですし、何の力もないでしょう。父は気絶しているし、犬には口輪がはめてあるでしょう。つまりあなたさまがお逃げなさってもなんにも邪魔になるものはないわけです。ですからお逃げになってくださいな。これが私の結論ですわ」
「何ですって?」
「私はコルネイユ様もジャン様もお救いすることはできませんでした。それであなたさまだけはお救いしたいと思いますの。ですからただ、早くそうなすってくださいませ。やがて父は息を吹き返します。恐らく一分も経たぬうちに目を開けますわ。そうなればもう手遅れですわ。ご決心がつきませんの?」
実際コルネリウスは彼女の言葉を聞かないでただ見つめてでもいるかのように、ローザに視線を凝らしつづけてじっと身動きもしなかった。
「おわかりになりませんの?」
と、若い娘はじりじりして呼びかけた。
「わかりますよ、よくわかります」
と、コルネリウスは答えた。
「しかし……」
「しかしって?」
「お断りしましょう。あなたが告発されますからね」
「そんなこと何でもないじゃありませんの?」
と、ローザは赤くなりながら言った。
「ありがとう、お嬢さん」
と、コルネリウスは再び言った。
「しかし、僕はここにいることにしましょう」
「ここにおいでになるんですって、ああ、神様! 神様! それではあなたさまには処刑されることがおわかりにならないんですの? 死刑ですよ、絞首刑ですよ。それもジャン様やコルネイユ様が虐殺された上に八つ裂きにされたように、きっと絞殺されて八つ裂きにされてしまいますのよ……どんなことがあっても私のことなど気にとめたりなさらないで、このお部屋からお逃げになってくださいな。よく思い出してごらん下さいね。このお部屋はド・ウィット様のご一門には、鬼門なんですのよ」
「何だと!」
と、獄吏が目を覚ましかけて怒鳴った。
「誰だ、ド・ウィットの悪党めら、あの畜生めら、あの極猛悪人めらのことをしゃべっているのは?」
「君は興奮しない方がいいですよ、勇ましい御仁」
と、コルネリウスは優しい微笑を浮かべながら言った。
「血のめぐりが激しくなると、骨折にはよくありませんからね」
それから声を潜めて、ローザに言った。
「お嬢さん、僕は清浄潔白なのです。清浄潔白な人間らしく落ち着いて裁判官どもを迎えましょう」
「お黙りになって!」
「黙れって、どうしたのですか?」
「私たちがご一緒にお話したことを、父が勘付くといけませんから」
「どこがお悪いんですか?」
「どこが悪いっておっしゃるんですの? 私がもう二度とここに来られないように、父が私の邪魔をするに違いありませんわ」
コルネリウスは、この素直な打ち明け話を聞くとニッコリした。わずかではあるが幸福の光が彼の不幸な境涯に射し込んだように思われた。
「おい、おい! お前たちは二人してそこで何をコソコソ話しているのだ?」
グリフュスは、頭をもたげると左腕で右腕を支えながら話しかけた。
「何でもないわ」
と、ローザは答えた。
「この方はね、お父さんがこれからどんな養生をしなくてはならないかを私に教えて下すっているのよ」
「俺がどんな養生をしなくちゃならないんだって? どんな養生だって? だがな、お前、お前だってやっぱり養生が必要だぞ!」
「あら、お父さん、どんな養生なの?」
「それはな、囚人どもの部屋なんかには来ないことだ。さもなきあ、来ても、できるだけ早く出て行くことだな! それじゃあ、俺の前を歩いて行ってくれ、さっさとな」
ローザとコルネリウスとは目を見交わした。
ローザの眼は語っていた。
「ほら、おわかりになったでしょう!」と。
コルネリウスの眼にはこんな意味がこもっていた。
「何もかも神様の思し召しどおりになるものさ!」
十一 コルネリウスの遺書
ローザの予想は間違っていなかった。翌日、裁判官はビュイテンホーフにやって来て、コルネリウス・ファン・ベルルの訊問を行なった。この訊問は長くかからなかった。コルネリウスが、ド・ウィットとフランスとの間に取り交わされた致命的な文書を、自宅に保管していたことは明白な事実だったのだから。
コルネリウスはそれを否定しなかった。
ただ裁判官の眼に明らかでなかったことは、この文書が、名付け親のコルネイユから彼に手渡されたものか否かという点だった。
しかし二人の犠牲者がすでに死んでおり、コルネリウスはこれ以上何も注意することもないので、委託品がコルネイユその人の手から預けられたことを否定しなかったばかりか、それがどうして、どんな形で、またどんな状態で預けられたかも語った。
この告白は、名付け子を、その名付け親の犯罪の連累ということに決める結果になってしまった。
コルネイユとコルネリウスとの間には、明白な共犯関係が成立した。
コルネリウスの告白は、そればかりではなかった。彼は自分の趣味や、習慣や、交友関係に関することも、事実のいっさいを物語った。政治への無関心、研究や芸術や科学や花弁の類に対する情熱なども述べた。彼はまたコルネイユがドルドレヒトに来て、この委託品を預けた日から、この委託品は、絶対に保管者によって、手に触れられもしなければ覗いて見られもしなかったということを語った。
この点に関しては、彼が真実を述べていないという反論が出た。この書類は毎日彼が手を入れ、目を注ぐはずの戸棚の中にしまい込まれていたのだから。
コルネリウスはこれに対して、それはそうに違いない。しかし彼が手をひきだしに入れたのは、球根がよく乾燥したかどうかを確かめるためであり、目を注いだのは、球根から芽が出始めたかどうかを確かめるだけだった、と答えた。
彼がこの委託品に関して、無関心だったという主張は正当な根拠に立っていないという反論が出た。なぜならば名付け親の手からこうした委託品を受け取った以上、彼がその重要性を知らなかったなどということはあり得ないからである。
彼はこれに対して、次のように答えた。
名付け親のコルネイユは、彼を非常に愛していたし、ことに非常に聡明な人物であったので、打ち明けると保管者を苦しめるだけなので、この書類の内容については何一つ述べなかったのだ、と。
すると、たとえド・ウィット氏がそういう行動をとったとしても、万一の場合を考えて、自分の名付け子がこの文書と全然関係がないという意味の証明書をこの包みに添付しておくとか、あるいはむしろ、彼の裁判が行なわれている間に、名付け子の弁護に役立つような手紙でも書くに違いない、という反論が出た。
コルネリウスは次のように答えた。彼の名付け親は、ファン・ベルルの邸ではノアの方舟のように神聖視されている戸棚に隠されたので、その委託品が危険に陥ることは絶対にないと思い込んだ。それで、証明書などは無用だと判断したのだ。また手紙というと、ちょっと思い出すことがある。それは彼が逮捕される寸前、珍種の球根を夢中になって眺めていた時、ジャン・ド・ウィット氏の使いの者が、乾燥室に入って来て、一枚の紙片を渡して行った。しかしこのことについては、記憶がおぼろげで幻影のようである。召使は姿を消してしまったし、この紙片の方は、よく探せばたぶん見つかるかもしれない、と。
クレークは、オランダを去ってしまったので、二度と見つけ出すことは不可能だった。
紙片の方は見つけ出せそうもないので、苦労してそれを探そうという者はいなかった。
コルネリウス自身は、この点について、大して主張もしなかった。なぜならこの紙片が発見されたとしても、違法行為の実体をなす通信文とは何らの関係がありそうもなかったからだ。
裁判官どもはコルネリウスに、もっとよく自分の弁護をさせるような態度を見せたがっていた。彼らは彼に対して、被告の運命を掌握している裁判官や、敵手を打ち倒して完全に支配者となっているので、別に迫害を加えることもなく、相手を滅ぼすことのできる征服者などの特質である、親切そうな忍耐心を披露した。
コルネリウスは、この偽善的な保護を受け入れなかった。彼は殉教者の高貴と、正しい人の平静とを示しながら、最後の答弁を行なった。
「裁判官殿、あなた方は様々な事柄をお訊ねになりましたが、そうした事柄に対して、私は正確な真実以外には、何もお答えする必要がありません。ところで、正確な真実とは、すでに述べたとおりであります。包みは、前に述べた経路によって、私の邸に入ってまいりました。神に誓って申し上げますが、私はその内容を何も知りませんでしたし、今もって知らないのであります。私は逮捕されたその日になって初めてその委託品が、宰相とルーヴォア伯との間で取り交わされた通信文であることを知ったのです。私は最後に誓いますが、その包みが私の家にあったことを人がどうして知ったものか、また特に、あの有名でしかも不幸な私の名付け親が私のところに持って来たものを受け取ったということで、私がどうして有罪となるのか、一向わからぬものであります」
コルネリウスの弁論は、それですっかり終了した。裁判官一同は票決することになった。
彼らはこういう点に基準をおいていた。すなわち、
『内乱の芽というものは、万人の利益のために消滅させるべき戦争を刺激する点で、忌むべきものである』と。
そのうちの一人で、犀利《さいり》な観察家として通っている男は、この若者が氷のようなマントを羽織った下に、自分の近親者ド・ウィット兄弟の復讐をしようという熱望を隠しているに違いないので、外見はいかにも冷静であるが、現実には極めて危険な人物に違いないと論証した。
もう一人の男は、チューリップの愛好は政治と完全に調和すること、また歴史に徴しても明らかなように、極めて危険な人物が、胸底では全然別事に心を向けているにもかかわらず、表面を取り繕うために、多少とも庭いじりをした例がたくさんあることなどに注意を向けるようにした。その証拠として、古代人タルカンはカビで罌粟《けし》の花を栽培したし、またコンデ大公はヴァンサンヌの天守閣でカーネーションに水をやっていたが、それはタルカンがローマ帰還を、コンデ大公が牢獄脱出を、ひそかに思いめぐらしていた時機であった。
この裁判官は、次のような両刀論法の結論を下した。
すなわち、コルネリウス・ファン・ベルル氏はチューリップを熱愛しているのか、さもなければ政治を熱愛しているのである。しかしいずれにしても、彼は我々を瞞着しているのである。その理由の第一は、彼が政治に没頭していたことが、彼の邸で発見された様々の手紙から証明されたからである。第二には、彼がチューリップに没頭していたことが証明されたからである。そこにあった球根は、その立派な証拠である。最後に、そしてこの点がもっとも重大なものであるが、それはコルネリウス・ファン・ベルルが同時にチューリップと政治とに没頭していたことである。そうとすると、被告は、政治とチューリップとを同等の熱情をもって細工する、複雑な性質の人物であり、二重人格者である。このことは彼に、公衆の安寧に最も危険な人種のあらゆる性格を与えるであろうし、また先ほど、例を挙げた古代人タルカンやコンデ大公のような大人物と、確実な、というよりも完璧な類似性を与えることにもなるだろう。
こうした論理を並べ尽くした結果は、オランダ総督殿下が、その権力に対するいかに微小な陰謀の萌芽でも根絶して、彼のために七州の施政を簡易化せしめるハーグの司法部に、無限の感謝を寄せられることはいささかも疑問の余地がないということであった。
この論証は、他のいっさいの論証よりも優れていた。コルネリウス・ファン・ベルル氏が、チューリップ愛好者という罪のない外観を装いながら、オランダ国家に対するド・ウィット兄弟の唾棄すべき陰謀や、恐るべき共同謀議に、そしてまた彼らのフランスの敵との内通などに加担したことは明白な事実とされて、あらゆる陰謀の萌芽を効果的に根絶させるために、満場一致で、死刑が宣告されることになった。
判決文には、前記コルネリウス・ファン・ベルルはビュイテンホーフの牢獄より引き出され、同名の広場に設置された断頭台に連行され、そこで、判決執行人の手で斬首に処せられるであろうということが付記してあった。
この討議は真剣なものだったので、三十分ばかりかかった。この三十分間に囚人は自分の独房に戻された。裁判所書記はそこまで来て、彼に判決を読み聞かせた。
グリフュスは、骨折から起こった発熱のためにベッドに就いていた。鍵束は、見習い看守の一人の手に渡っていた。この男が裁判所書記の案内に立ったが、美しいフリゾン娘のローザは、その背後からついて来て、扉のすみに身を潜めた。ため息と嗚咽の声を押し殺そうとして、彼女は口にハンカチを当てていた。
コルネリウスは悲しむよりも驚いた顔つきで、判決文を聞いていた。
判決文の朗読がすむと、書記は彼に何か答弁することはないかと訊ねた。
「一向何もありません」
と、彼は答えた。
「ただ申し上げたいことは、先見の明のある人なら、どんな死刑の理由でもきっと予想がつくと思うが、まさか私がこんな判決を受けるなんて、一度も考えたことがありませんでした」
書記はそれに答えて、こうした木っ端役人がどんな種類の重大犯人に対しても示すような、ひどく慇懃な態度でコルネリウス・ファン・ベルルに敬礼した。
そして書記が立ち去りかけたので、
「ところで書記官殿」
と、コルネリウスは呼びかけた。
「予定は何日になっているんでしょうか?」
「もちろん今日です」
と、書記は、罪人の冷静な態度にいささか戸惑いながら答えた。
突然、扉の外ですすり泣く声がした。
コルネリウスは、誰がこのすすり泣きをもらしたのかを見届けようとして、身を屈めた。しかしローザはその気配を察して後に退いた。
「それでは」
と、コルネリウスは重ねて訊いた。
「刑の執行は何時に行なわれますか?」
「正午です」
「それはどうも!」
と、コルネリウスは言った。
「十時の鐘が鳴ってから、かれこれ二十分は過ぎたと思うが。それでは一刻も猶予ができない」
「神様のみもとにお帰りなさるわけですが、確かにそのとおりです」
と、書記は地面に頭が届くほど最敬礼しながら言った。
「ですが、牧師はどんな方でもお好きにお選びください」
こう言うと、彼は後退りしながら外に出た。見習い看守はコルネリウスの扉を閉めて、その後を追おうとした。その時、真っ白な震える手がこの男と重い扉の間をさえぎった。
コルネリウスの眼に入ったのは、美しいフリゾン娘たちがよくかぶっている、白いレースの耳覆いのついた金の縁なし帽子だけであった。彼はやっと、看守の耳にささやきかける声を聞いた。しかしこの男は、彼のほうに差し出された白い手に重い鍵束を渡した。数段降りると、彼は階段の中ほどで腰を下ろした。そこで階段は、上の方からはこの男に、下の方では例の犬に守られることになった。
金色の冠帽子はクルリと回転した。するとコルネリウスは、ローザの涙の筋のついた顔と、青い潤みを帯びた大きな眼を認めた。
若い娘は張り裂けそうな胸の上に手を置いて、コルネリウスの方に歩み寄った。
「おお! あなたさま! あなたさま!」
と、彼女はささやいた。
彼女の言葉は終わりまでつづかなかった。
「かわいいお嬢さん」
と、コルネリウスは心を動かされて呼びかけた。
「あなたは、僕に何をお望みなのですか? ハッキリ申し上げますが、僕は今後何事についても、大した力を持ってはおりません」
「私、あなたのお情けにすがりたいと思ってまいりましたのよ」
と、ローザは、片手をコルネリウスの方に、片手を天の方に伸ばしながら言った。
「そんなに泣いたりするもんじゃありませんよ、ローザ」
と、囚人は言った。
「なぜならあなたの涙は、死が僕に近づいてくることより、はるかに僕の心を感動させてくれますからね。それにご承知のとおり、囚人は潔白であればあるほど、平静に、しかも歓喜の情を抱くぐらいにして、死に臨むべきでしょうからね。なぜかといえば、その男は殉教者として死ぬのですから。さあ、もう泣くのはよしてください。そして僕にあなたの望みをおっしゃってください。ねえ、綺麗なローザ」
若い娘は、ひとりでにひざまずいた。
「父をお許し下さい」
と、彼女は言った。
「あなたのお父さんを!」
と、コルネリウスは叫んだ。
「そうです、あの人はあなたに、ひどく酷い振舞いをいたしましたわね。あの人は誰に対してもそうするのです。あなたさまにだけ特別に乱暴だったわけではありませんの」
「お父さんは罰を受けましたよ、ローザさん、あんな災難が起こったんだから、罰どころの騒ぎじゃありませんよ。僕は許してあげましょう」
「ありがとうございます!」
と、ローザは言った。
「それでは今度は、私の方で、何かあなたさまのためにお役に立つことはございませんでしょうか?」
「かわいいお嬢さん、あなたの綺麗なお目目を、乾かして下さい」
と、コルネリウスは、優しい微笑を浮かべながら言った。
「もちろん、あなたさまのことなら……あなたさまのためなら……」
「あとわずか一時間しか生きていない男が、何かを欲しいということになれば、たいへん欲張りになりますよ」
「さっきのお話の牧師さまのことはいかがですの?」
「ローザ、僕は全生涯をかけて、神をたたえてきました。神の創りたもうものをたたえてきました。神の意志を祝福してきました。ですから神は私に対して、何一つ気に入らぬことはありません。それで僕はあなたに牧師なんかを求めたりいたしません。ですがね、ローザ、僕がこの世の名残に考えていることは、神の賛美と関係のあることなのです。お願いだから、この最後の考えを成就するために手をかしてください」
「ああ! コルネリウスさま、おっしゃってくださいまし、おっしゃってくださいまし!」
と、若い娘は涙にくれながら叫んだ。
「あなたの綺麗な手をかしてください。そして笑わないと約束してください」
「まあ、笑うんですって!」
と、ローザは身も世もあらぬありさまで叫んだ。
「こんな時に笑うんですって……それでは今まで、私をよくごらんになっていらっしゃらなかったんですの? コルネリウスさま?」
「よく見ておりましたよ、ローザさん、肉眼でも、心眼でも。あなた以上に美しい女性も、あなた以上に純潔な魂の持ち主も、ぼくは今まで出会ったことがありません。ですから僕が、これから二度ともうあなたを見まいとしてもどうか許してください。それはこの世を去るにあたって、この世に何も心残りのないほうが、僕にはいいように思えるからなのです」
ローザは身震いした。囚人がこんな言葉を述べている時にビュイテンホーフの鐘楼では十一時が鳴っていた。
コルネリウスにはよくわかった。
「そう、そう、早くしなくちゃね。あなたが思っているとおりです。ローザ」
そう言うと、彼は身体検査をされる心配がなくなってから、改めて隠した胸のところから、三つの珠芽を包んだ紙片を取り出した。
「ねえ、かわいいお嬢さん」
と、彼は言った。
「僕は花が大好きでした。もっともそれは他に好きになれるものがあるなんて、思いもよらない時のことですがね。おお! 赤くなんかならないで下さい。そんなに顔をそむけたりなさらないで下さい。ローザ、僕は愛の告白をしなくちゃならないのかもしれませんがね。でもそうしたところで、どうにもなりませんからね。あそこのビュイテンホーフの広場には絞首台があって、六十分以内に、僕のそんな軽はずみな言動がどういう結果になるかわからせてくれますからね。
ところでローザ、僕は花が好きだったのです。そして誰もが不可能だと信じている大型の黒いチューリップの秘密を発見したのです。少なくとも僕はそう信じているのです。あるいは知っているかどうかわかりませんが、この大型の黒いチューリップは、ハルレムの園芸協会が十万フロリンの賞金を出している当の目的物なのですよ。この十万フロリンは、そんなものに僕が未練なんか持っていないことは、神さまがご存知ですがね、この紙の中にあるのです。この紙に包んだ三つの珠芽で、それだけの金が手に入るのです。しかもねえ、ローザ、それはあなたの手に入るのです。というのは僕はあなたにこれをあげますから」
「コルネリウスさま!」
「おお! ローザ、あなたはそれを手に入れることができるのです。誰にはばかることもありません。僕はこの世に独りっきりの人間です。父も母も亡くなりました。姉妹も兄弟も、一人もありません。恋の相手として、誰を愛したこともありません。誰かが僕を愛そうと思ったかもしれませんが、僕のほうでは一向気がつきませんでした。それに、ローザ、ごらんのとおり、僕は人から見捨てられているのです。今となっては、あなただけが独房にいて下すって、僕を慰め、僕を励ましてくれるのです」
「でも、十万フロリンなんて……」
「ああ! 真面目にとってください。かわいいお嬢さん」
と、コルネリウスは言った。
「十万フロリンは、あなたの美しさにふさわしい立派な持参金となりますよ。この十万フロリンはあなたのものです。僕のここに持っている珠芽には間違いがありませんからね。それでは、かわいいローザ、十万フロリンをとってください。その替わり僕の方からあなたに求めたいのは、あなたが立派な、若い、自分で好きな、そしてまた僕が花を愛したほどもあなたを愛する青年と結婚するという約束をしてくださることです。ローザ、何も言わないで下さいね。僕にはあと数分しか残っていないのだから……」
哀れな娘は、泣きじゃくって喉をつまらせた。
コルネリウスは彼女の手を取った。
「よく聞いてください」
と、彼は言葉をつづけた。
「あなたがどうしたらいいかをお伝えしましょう。まずドルドレヒトの僕の庭から、土を取って下さい。庭師のブトルュスハイムに、第六号花壇の腐蝕土を分けてもらってください。深い箱にその土を入れて、そこにこの三つの珠芽を植えるのです。来年の五月、つまり七ヶ月後には花が咲くでしょう。茎の上に花が見えたら、夜間は風が当たらないように、昼間は日光が直射しないようにやってください。きっと、黒い花が咲くことでしょう。そうしたら、あなたはハルレムの協会の会長に知らせてやるのです。会長は委員会に、花の色を調べさせることでしょう。そしてあなたに、十万フロリンをよこすことになるのです」
ローザは大きくため息をついた。
「さあ、これで」
と、彼はまぶたの縁に震えている涙を押し拭いながら、さらに言葉をつづけた。この涙は、今まさに別れを告げようとしている生命に注ぐものではなく、彼の眼には入らぬものに違いないあの素晴らしい黒いチューリップに寄せる涙だった。
「僕にはもう、何の望みもありません。ただ、このチューリップの名前に『ローザ・ベルレンシス』と名づけることだけはしてください。つまりその花が、あなたの名前と僕の名前とを同時に思い起こさせてくれるように。だがきっと、ラテン語はご存知ないでしょうから、あなたはこの語を忘れてしまうかもしれませんね。鉛筆と紙を貸してください。それを書いておきましょう」
ローザは、わっと泣き出した。そして革表紙の一冊の本を差し出した。それにはC・Wの頭文字がついていた。
「おや、これは何なんですか?」
と、囚人は訊ねた。
「ああ、そうでしたわ!」
と、ローザは答えた。
「これはあなたさまのお気の毒な名付け親、コルネイユ・ド・ウィットさまのバイブルですわ。あの方は拷問を喜んでお受けになれ、顔色も変えずに判決をお聞きになれる力をこの中からお汲み取りになったのですわ。あの方が殉教者としてお亡くなりになってから、このお部屋で見つけたので、形見として大事にしまっておきましたの。今日それをあなたさまのところに持ってまいりましたのは、この本が本当に神聖な力を持っているように思えたからですの。でもあなたさまにはそんな力は必要ではありませんことね。神さまはあなたさまの心に、そんな力をお吹き込みになっているのですもの。神さまに感謝いたしますわ! さあ、コルネリウスさま、書いておかねばならないことは、この本の上にお書きになってくださいませ。悲しいことに私には字が読めないのですけれど、お書きになったことは、どうしてもやり遂げてお見せしますわ」
コルネリウスはバイブルを取るとうやうやしく接吻した。
「何か書くものは?」
と、彼は訊ねた。
「バイブルの中に、鉛筆がはさんでありますわ」
と、ローザは答えた。
「その中にあったので、私、とっておきましたの」
それはジャン・ド・ウィットが兄に貸したまま、返してもらうのを忘れたものだった。
コルネリウスはそれを取ると、二枚目の上に――ご記憶のとおり、一枚目は裂き取られていたので――自分の名付け親と同様に彼もまた死に臨んでいたのだが、おくれを取らぬしっかりした手つきで、書きとめた。
一六七二年八月二十三日、無実の罪を負い、断頭台に登り、神のみもとに魂を還さんとするにあたり、他はすべて没収されしゆえに、この世に残されたる唯一の財産を、余はローザ・グリフュスに譲り渡す。すなわち余は二個の珠芽をローザ・グリフュスに譲り渡す。余の深く確信するところでは、この珠芽は、ハルレム園芸協会の提供せる十万フロリンの賞金の対象たる大型の黒いチューリップを、来年五月に開花せしむるものなり。願わくは彼女にして余の代わりに、この十万フロリンを受け、余の唯一の遺産相続人たるの地位を得ば、余と同じ年配にして、互いに相愛せる青年と結婚すること、および新種を創出せる大型の黒いチューリップに、ローザ・ベルレンシス、すなわち彼女の名と余の名とを結合せる名称を付与すべきことを、唯一の義務たらしめんとす。
神よ、余に恩寵を、彼女に健康を恵みたまわんことを!
コルネリウス・ファン・ベルル
それからバイブルをローザに渡しながら、
「読んでください」
と、彼は言った。
「駄目ですの……」
と、若い娘はコルネリウスに答えた。
「先刻も申し上げたとおり、私、字が読めませんの」
それでコルネリウスは、書き上げたばかりの遺書を、ローザに読んで聞かせた。
可憐な娘のすすり上げる声は、さらに強くなった。
「僕の条件を受け容れてくれますか?」
と、囚人は憂鬱そうに微笑を浮かべ、美しいフリゾン娘の震えている指先に接吻しながら訊ねた。
「おお! 私、そんなこと存じませんわ」
と、彼女はつぶやいた。
「存じませんですって、それはまたどういうわけですか?」
「なぜかというと、その条件の一つは、とても守れそうもありませんもの」
「どんなことが? 僕たちの約束はうまく納得がいくものと思っておりましたがね」
「十万フロリンを持参金としてくださるのね?」
「ええ」
「私が愛情を抱くようになる人と結婚するためなんですわね?」
「もちろん、そうです」
「そんなことおっしゃって! ねえ、あなた、そのお金は私のものにはならないことよ。きっと私、誰のことも愛したりなんかしないし、誰とも結婚なんかしませんもの」
ようやくの思いでこんな言葉を吐くと、ローザの膝は崩れて、苦悩のために気絶しそうになった。
彼女の顔色がまっさおになり、息も絶えそうになったのに驚いて、コルネリウスは両手で彼女を抱いた。ちょうどその時、階段の方で犬の吠えしきる声に伴われて、不気味な騒音が起こり、それにつづいて重い足音が一つ響いてきた。
「あなたを探しに来たのですわ!」
と、ローザは両手を絞りながら叫んだ。
「神さま? 神さま! ねえ、あなた、ほかに何か私におっしゃることはありませんの?」
彼女は両手に顔を埋めて、しゃくりあげ、涙に濡れて喉をつまらせながら、ヘタヘタとかがみこんだ。
「僕の言っておかねばならないことは、その三つの珠芽を大切に隠しておくことと、先刻も言った指図どおりに面倒を見ることです。これが私の愛情に報いてくださることです。では、ごきげんよう、ローザ」
「おお、わかりましたわ」
と、彼女は顔を上げずに言った。
「おお! わかりましたわ、あなたのおっしゃったことは何もかもみんな私がやりますわ。でも結婚することだけは別でしてよ」
そして彼女は、聞きとれぬほど低い声で付け加えた。
「だって、そんなこと、おお! そんなこと、私、誓いますわ、そんなこと、私には、とてもできませんわ」
彼女は、動悸の高い胸の奥深くに、コルネリウスの貴重な財宝をしまいこんだ。
コルネリウスとローザとが聞いた物音は、書記が死刑執行人や断頭台の護衛にあたる兵士たちや、物見高い牢番たちを引き具して、罪人を連れに戻ってきた騒ぎだった。
コルネリウスは、虚勢も張らず気後れもなく、この連中を迫害者としてよりも、むしろ味方として迎え入れ、彼らが公務の執行にあたり、都合のよい条件をどんなに圧しつけても一向意に介さなかった。
やがて格子のはまった小窓から広場を一瞥すると、断頭台が認められた。断頭台から二十歩ばかりのところに絞首台があったが、総督の命令によって暴虐をほしいままにされたド・ウィット兄弟の遺骸は、その下から取り除かれていた。
護衛の後につづいて降りて行かねばならなくなったとき、コルネリウスは眼で、ローザの天使のような視線を探した。しかし彼の見たものは、剣と槍の影になって、木のベンチのそばに横たえられている身体と、長い髪に半ば覆われた血の気のない顔だけであった。
だが、死んだように倒れているローザは、それでもなお友人の言いつけに従うかのように、ビロードのコルセットにその手を押し当て、自分の命を忘れ果てても、コルネリウスから頼まれた貴重な委託品を本能的に守りつづけようとしてるのだった。
独房を去るとき、若者は、ローザの痙攣している指の間に、黄色くなった紙片が握られているのをふと見かけた。それはコルネイユ・ド・ウィットが非常な苦労をし苦痛に苛まれながら数行の文句を書き残したあのバイブルの紙片であった。もしもコルネリウスがこの数行を読んだとしたら、彼の生命もチューリップも、間違いなく救われていたことだろうに。
十二 死刑執行
牢獄を出て断頭台につくまで、コルネリウスは三百歩とかからなかった。
階段の下では、犬が、彼の通り過ぎるのを静かに見つめていた。コルネリウスはこのモロシア犬の眼の中に、胸をうつような何か優しい表情が浮かんでいるようにさえ思えた。
恐らくこの犬は死刑囚を知っており、無罪放免となって出獄する人間だけに噛みつくのだろう。
牢獄の間から断頭台の下まで、行進する過程が短ければ短いほど、物見高い群衆の混乱はひどかった。
すでに三日前に飲んだ生血でも喉の渇きが止まらなかったのか、こうした物見高い連中が新しい犠牲者を待ち構えていた。
そこでコルネリウスが姿を現すと、たちまち一大叫喚が街路に沿うて伝わって行き、広場一面に広がり、群衆のゴッタ返している断頭台に達する幾多の道筋の四方八方に遠く波及して行くのだった。
そしてまた断頭台は、さながら四つ五つの河が波を打ちつけ合っている島とそっくりだった。
こうした脅迫や叫喚や嘲罵の声の真ん中にあって、もちろんそんなものを聞くまいとしながら、コルネリウスはひたすら黙想にふけっていた。
死に臨んだこの無罪の人は、何を考えていたのであろうか?
それは、自分の敵のことでもなく、自分を裁いた判事のことでもなく、死刑執行人のことでもなかった。
それはセイロンでもベンガルでも、さらに他の場所でもいい。やがて天上から眺め下ろせるだろう数々の美しいチューリップのことであった。その時は、神のそば近くに清浄無垢な人々と一緒に席を占め、彼は憐愍の情を抱いて、この地上を眺めることであろう。そこではド・ウィット家のジャンとコルネイユの兄弟が、政治を思いすぎるの余り絞首刑に処せられ、今またコルネリウス・ド・ファン・ベルルがチューリップを思うあまり首をかかれようとしているのだ。
「剣が一振りされるだけのことだ」
と、この哲人は言った。
「そうすれば僕の美しい夢は始まるのだ」
ただ、この哀れなチューリップ愛好者が知らねばならなかったことは、ド・シャレェ氏やド・トウ氏や、その他うまく殺されなかった人々の場合、死刑執行者が一撃では事をすませなかった、すなわち一度だけの犠牲者で終わらなかったものだが、そんなことになるかどうかということだった。
しかしファン・ベルルは、一向そんなことに臆する気配もなく、断頭台の階段を登った。彼を見物しようと集まった無頼漢どもが三日前に八つ裂きし、あぶり肉にしてしまったあの有名なジャンと、気高いコルネイユの友人であることを、彼は何よりも誇りとしてここに登ったのであった。
彼はひざまずいて祈りをささげた。すると首切り台の上に頭をおき、眼を開いていれば、最後の瞬間までビュイテンホーフの格子窓が見えることに気がついて、激しい歓喜を覚えずにいられなかった。
ついに、この恐るべき行動を起こす時間が来た。コルネリウスは湿った冷たい物体の上に顎を載せた。しかし、この瞬間、まさに頭上から落ちかかり、生命を絶とうとする凄まじい雪崩を、もっとしっかりと支えようとすると、われにもなく眼が閉じてしまった。
断頭台の床の上でキラリと一閃したものがあった。死刑執行人が剣を振りかぶったのだった。
ファン・ベルルは、この世のものとは異なる光と色彩で作られた世界に蘇り、神に対面の挨拶を述べることを信じながら、大きな黒いチューリップに最後の別れの言葉を告げた。
三度、彼は剣の冷たい風が、おののいている頸筋を通り過ぎるのを感じた。
しかし、おお、何という驚異だろうか?
彼は、いささかの苦痛も動揺も感じなかった。
彼の眼に映る物の色合いは、少しの変化も見えなかった。
やがて不意にファン・ベルルは、誰にされたものかわからなかったが、優しさの十分こもった手で抱き起こされるのを感じ、多少よろめいたが、すぐさま自分の足で再び立ち上がっていた。
彼は再び眼を開いた。
誰かが彼のそばで、大きな赤い蝋印を捺した大判の羊皮紙をひろげ、その上に書かれたものを読み上げていた。
そして大空にはオランダの太陽らしく、黄ばんだ白い元のままの太陽が輝いていた。
ビュイテンホーフの高みからは、元と同じような窓が彼を見つめていた。そしてまた広場の下からは、元と同じ無頼の群衆が、うなり声はもう上げずに、ただ茫然として彼を見つめていた。
ファン・ベルルは眼を開き、視線を凝らし、耳を澄ますのに努力してやっと事の次第がのみ込めるようになった。
それはオレンジ公ウィリアム殿下が、ファン・ベルルの体内にある十七リーヴルの生血が――ほとんど何オンスの違いもなかったが――天の審判の盃でも計りきれないことを恐れて、彼の性格と、彼の潔白な外観とに憐れみを寄せたのだということだった。
その結果、殿下は、彼の生命を救う恩赦を与えることにした。――そうしたわけで、あの不気味な光を反射しながら振りかぶられた剣がチュルニュスの頭の周囲を舞い飛んだ死の鳥のように、三度彼の頭の周囲を旋回したのに、彼の頭上に振り下ろされることもなく、椎骨《ついこつ》にも触れずにしまったのだった。
彼が苦痛も動揺も感じなかったのはそのためだった。またそれゆえに、まことに変わり映えのしない、しかし天界の円天井はゆうに支え得る青空に、太陽が笑いつづけていられたわけでもあった。
神に望みをかけ、世界中のチューリップの鳥瞰を期待していたコルネリウスは、いささか落胆せずにはいられなかった。しかし、ギリシア人が『トラチロス』と呼び、われわれフランス人がつつましくも『頸《くび》』と名付けた肉体の一部の精妙なバネ仕掛けが、確かに立派に動くのを見るとひそかに心の安らぎを覚えた。
次いでコルネリウスが心から希望したのは、恩赦が完全なものであり、彼は自由の身に復して、ドルドレヒトの花壇に戻してもらえるということだった。
しかしコルネリウスは欺かれた。当時マダム・ド・セヴィニェ夫人が言ったとおり、手紙には『但し書き』がついているものなのだ。そしてこの手紙の一番重要なところは、この『但し書き』に入っていた。
この『但し書き』を使って、オランダ総督ウィリアムは、コルネリウス・ファン・ベルルを終身刑に処してしまった。
彼には死刑に処するほどの罪状はないが、しかし釈放するには罪状が明白だった。
それで彼は『但し書き』を聞かされることになった。この『但し書き』のもたらした失望に、初めは不満の思いが高まったが、やがて、
「まあ、どうにもしようがないさ!」
と、彼は考えた。
「何もかもおしまいだ、というわけじゃないのだ。終身禁錮にだっていいことはあるさ。終身禁錮されても、ローザはいるんだ。それにまた、黒いチューリップの三つの珠芽だってあるんだから」
しかしコルネリウスは、オランダ七州には各州に一つずつ、すなわち七つの牢獄があり、囚人のパンは、首都のハーグよりもほかの土地の方が高くないということを忘れていた。
ウィリアム殿下は、ハーグで、ファン・ベルルに給食する方便がないと見て、彼をルーヴェスタン城砦に送り、そこを彼の終身牢とすることにした。この地はドルドレヒトのすぐ近くだった。しかし、その相|距《へだた》ることも実に遠いところだった。
というのは、地理学者の説くところによると、ルーヴェスタンは、ゴルクムの正面にあたり、ワハール河とムーズ川との合流地点にある島の突端にあった。
ファン・ベルルは郷土の歴史にも通暁していたので、バルネヴェルトの役後、有為なグロティウスがこの城に幽閉されていたことや、この公法学者、法学者、歴史学者、詩人、神学者を兼ねていた高名な人物に対して、国家が寛大な処置をとり、一日分の食費としてオランダが二十四スウを支給していたことなどをよく知っていた。
「僕なんか、グロティウスの足下にも及ばぬ存在だからな」
と、ファン・ベルルはひそかに思った。
「まあせいぜい、十二スウもくれるかな、なんともお粗末な暮らしだが、しかしどうにか生きていけるだろう」
それから突然、恐ろしい記憶に打ちのめされた。
「ああ!」
と、コルネリウスは叫び声を上げた。
「あの地方は湿気が多く、曇りがちなんだ! それに地質もチューリップには、実によくないんだ!」
「それにローザだ、ルーヴェスタンにはローザはいないんだ」
と、彼はつぶやいた。だんだん垂れてくる頭が胸まで下がっても、彼にはどうしようもなかった。
十三 ある目撃者の心情
コルネリウスが、こうした物思いにふけっている時、一台の四輪馬車が断頭台に近づいた。
この四輪馬車は囚人護送用のものだった。乗車の命令が出た。彼はそれに従った。
彼は最後の視線をビュイテンホーフに向かって投げた。ローザの安堵した顔が、窓に見えやしないかと期待したのだ。しかし馬車は駿馬をつけており、ド・ウィット兄弟や、命拾いをした彼らの名付け子に対する嘲罵の声も幾分混じってはいたが、寛大な総督に敬意を払って群集の爆発させた叫喚の鳴り響くその真っ只中から、いち早くファン・ベルルを拉《らっ》し去ってしまった。
観衆はこんなことを話し合っていた。
「極悪人のジャンと卑怯者のコルネイユを手っ取り早く片づけてよかったな。そうじゃなきゃあ、殿下がお慈悲を垂れて、今の奴を取り上げてしまったように、きっとあの二人もお取り上げになってしまったに違いない」
ファン・ベルルの処刑に惹きつけられて、ビュイテンホーフにやってきた観衆たちは、事態が逆転した様子にいささか失望の態だったが、その中でも一番がっかりしたに違いない男があった。それはこざっぱりとした衣服をつけた市民で、この男は朝から手や足を盛んに振りまわして、処刑道具を取り囲んでいる兵士の列に隔てられるだけで、断頭台から一番近いところに到達した。
多勢の人群は、罪人コルネリウスの「叛逆」の血が流れるのを飽くことなく熱心に眺めようとしていた。しかし誰一人として、この忌まわしい欲望を表す際に、例の市民が示したほど無我夢中な様子を示したものはいなかった。
もっとも熱心な連中でも、少しでもよい場所を得ようとしてビュイテンホーフにやってきたのは夜明け頃のことだった。ところがこの男は、こうしたもっとも熱心な連中に先んじて牢獄の入り口で夜を明かし、そして牢獄のところから、ある者はなだめたり、ある者は突きのけたりしながら、特別指定ともいうべき最前列に到達したのだった。
死刑執行人が罪人を断頭台に連行した時、この市民は、よく見ようとして、また自分の姿をよく見せようとして泉水の縁に登り、死刑執行人に向かってこんな意味の身振りをした。
「では、これできまったな、そうだろう?」
死刑執行人は、これに答えて別の身振りをした。それはこんな意味を語ろうとしていた。
「だから、落ち着いていてください」
いったい、死刑執行人といかにも優しそうに見えるこの市民とは何者だったろうか、そしてまたこの身振りのやり取りは、どんな意味を表していたのだろうか?
しかしこれには何の不思議もなかった。この市民はアイザック・ボクステルだった。彼はコルネリウスが逮捕された時から、すでにご存知のとおり、ハーグにやって来て、黒いチューリップの三つの珠芽に接近しようと努めていた。
ボクステルは手始めに、グリフュスを味方に引き入れようと試みた。ところがグリフュスは、忠実で、警戒心が強くて、牙で噛みつくところまで、ブル・ドッグそっくりな態度を持していた。その結果、彼はグリフュスの逆恨みを買ってしまった。彼は、ボクステルが囚人に何らかの脱走手段を用意しようとして、関係もない様々な事柄を聞き出そうとする熱心なその味方と見なして、追い払ってしまったのだった。
ところでボクステルが最初にグリフュスに提案したことは、コルネリウス・ファン・ベルルが自分の胸の中か、さもなければ独房の片隅に隠したに違いない例の珠芽を奪い取ってくれということだった。しかしグリフュスはこれに対して、階段のところで犬をなでながら退去を迫って答えのかわりにした。
ボクステルは、ズボンの裾をモロシア犬の牙で噛みとられたが、そのくらいで勇気を失うような男ではなかった。彼はまたもや乗り込んで来た。しかし今度は、グリフュスが腕を折って熱を出し、病床についていた。それで、この訴願者を迎え入れることさえしなかった。この男はローザの方に鉾先を転じて、三つの珠芽と交換に、純金の髪飾りを提供しようと申し入れた。この気高い若い乙女は盗んでくれと頼まれた品物に対して、高価な代償が支払われるようにいわれたが、その価値についてはまだ一向気付いていなかったのに、誘惑者を死刑執行人のところに廻してやることにした。すなわちこの死刑執行人というのは、最後の判決者であるばかりでなく、最後の遺産継承者だったからだ。
こうして廻されてみると、ボクステルの心には、ある考えが浮かんできた。
そうこうしているうちに判決が宣告されてしまった。ご存知のように、迅速な判決だった。そんなわけでアイザックは、誰一人も買収する暇が出てこなかった。それで、ローザから暗示を受けた考えから、彼は一歩も踏み出せなくなったのだった。彼は死刑執行人に会いに行くことにした。
アイザックは、コルネリウスが球根を胸に抱いたまま死ぬものに違いない、と信じきっていた。
実際、ボクステルには、二つの事態を予想することができなかった。
ローザ、すなわち恋ごころ。
ウィリアム、すなわち寛容の徳。
ローザもなく、ウィリアムもいなければ、この羨望者の計算には狂いがなかった。
ウィリアムがいなければ、コルネリウスは死んでしまったに違いない。
ローザがいなければ、コルネリウスは、珠芽を胸に抱いたまま死んでしまったことだろう。
ところでボクステルは、死刑執行人に会いに行くと、この男の前で死刑囚の親友として振舞った。そして彼は死刑執行人の手に残す金や銀の装飾品は別にして、目前に死を控えた男の持っている遺品のいっさいを、百フロリンといういささか法外な金額で買い取ってしまった。
しかしこの百フロリンという金額も、それでハルレム園芸協会の賞金を買い取る目安のついている男にとっては、何でもないことではなかったろうか?
これは千倍の利息つきで貸した金だった。そんなことが許されるものなら、これほど素晴らしい投資はあるまい。
死刑執行人の方から言えば、何も労せずに、さもなくても労することはほとんどなしに、百フロリンを儲けることができるわけだった。死刑がすんだら、彼はボクステル氏を、召使どもと一緒に断頭台に登らせ、友人のつまらない遺品を勝手に蒐集させておくだけのことだった。
この遺品に関することは、主人がビュイテンホーフの広場において公衆の面前で死刑に処せられた場合、忠僕たちの間では、慣行となっていた。
コルネリウスのような狂信者には、その遺品に百フロリンも出そうという別の狂信者がついてくるのも、別に不思議のない話だった。
そこで死刑執行人は、この申し出を承諾した。彼はそれに条件を一つだけ持ち出した。つまり前金で支払いを受けるということだった。
ボクステルが市場の見世物小屋に入る連中のように、外に出てから不満をもらしたり、その結果、料金を払いたくなくなる恐れだってありうることだった。
ボクステルは前金を支払って、待ち構えていた。それまでやった後なので、ボクステルの心がどんなに動揺していたか、裁判所書記や死刑執行人にどれほど監視の眼を向けていたか、またさらにファン・ベルルの様々な動作にどのくらい不安な思いをかけていたか、それは読者の判断にお任せしよう。
ファン・ベルルは首斬り台にどんなふうに身体を置くだろうか、どんなふうに倒れるのか、また倒れながら、ガクンと崩れる拍子に、あの評価しようもない珠芽を押しつぶしてしまいはしないか、たとえば金属の中で一番硬い黄金製の小箱の中に、珠芽を秘めておくような注意を、少なくとも彼は払っただろうか、などと……。
判決文の執行に障害が起きた時、この死んだ方がましな男に、どんな効果が生じたかは描写するまでもないだろう。
ところで死刑執行人が時間を潰してしまったのは、コルネリウスの首を打ち落とそうともせずに、その頭上で派手に剣を閃かせていたからだった。
それはともかく、書記が死刑囚の手を取り、ポケットから羊皮紙を引き出すと、この死刑囚を再び抱き起こしたのを眼にし、また総督によって与えられた恩赦の公文を耳にした時、ボクステルはもうこの世の人間ではなくなっていた。猛虎の怒り、ハイエナの怒り、毒蛇の怒りが、彼の眼にも、叫んだ声にも、身振りにも爆発してしまった。もしもファン・ベルルが手の届くところにいたとしたら、彼は飛びかかって、虐殺してしまったに違いない。
かくてコルネリウスは一命を永らえ、ルーヴェスタンに行ってしまうことだろう。その地の自分の獄舎内に、彼はあの珠芽を持ち去ってしまうだろう。そして恐らくそこには庭園があり、彼はその中で黒いチューリップの花を咲かせることになるだろう。
様々の破局のうちには、貧しい一文学者のペンでは描写しつくせぬものがあるが、そうしたことは事実をいっさい簡潔に記して、読者の想像力にゆだねるより仕方がない。
ボクステルは喪神して、泉水の縁から数名のオレンジ党員の上に転げ落ちた。この連中は彼と同じく、事態の急変に不満だった。彼らはアイザックのあげた喚き声を歓呼の叫びと勘違いして、拳固を振って押さえつけてしまった。通路が狭いので別のがわからもっとうまく殴られずにすんだことは事実だった。
しかし、たとえ拳固の雨を浴びようとも、ボクステルの胸に蘇る苦痛には何の足しになるであろうか!
そこで彼は、珠芽を持ったコルネリウスを運び去る、四輪馬車の後を追いかけようと思った。しかしあまり急ぎ過ぎたので、彼は鋪石が目に入らず、よろめいて重心を失ってしまい、十歩ばかり行くと転倒してしまった。そしてハーグのけがらわしい民衆が背中を乗り越えて立ち去った時、踏みつけられ、傷だらけになってようやく起き上がることができた。
またもやこんな状況に陥って、悪運つづきのボクステルは、衣服は引き裂かれ、背は傷だらけになり、手はすりむけてしまった。こんなありさまになってしまっては、ボクステルも、もうあきらめてもいいと思うだろう。
だが、それは見当違いというものだ。
ボクステルは再び立ち上がると、髪の毛をできるだけ引きむしって、「羨望」と人の名付けているあの兇悪で冷酷な女神に生贄としてそれを投げ与えるのだった。
神話によると、毛髪を結《ゆ》う代わりに蛇しか戴いていないこの女神にとって、この供物は、もちろん、お気に召すものに違いなかった。
十四 ドルドレヒトの鳩
かつて大学者グロティウスを収容したのと同じ牢獄に幽閉されたことは、コルネリウス・ファン・ベルルにとって、すでに大きな名誉というべきだった。
しかし一度牢獄に着いてみると、さらに大きな名誉が彼を待っていた。オレンジ公が寛大にもこのチューリップ愛好者を送り込んだ時、ちょうどルーヴェスタンでは、バルネヴェルトの高名な友グロティウスの起居していた部屋が空いていた。
グロティウス氏が、夫人の創意で、誰も巡視することを忘れてしまった有名な本箱に隠れて脱獄した時から、この部屋は城砦の中で悪評の高いところだった。
しかし別の立場からいうと、この部屋を住居としてあてがわれたことは、ファン・ベルルにとって幸先がよいように思われた。なぜなら彼の考えでは、獄吏というものは、第一の鳩が容易に逃げおわせた鳥かごを第二の鳩の棲家にしたりすることは絶対にありえないことだったからだ。
この部屋は、そんな由緒のあるものだった。そこでここにはグロティウス夫人が使用していた婦人用寝台が残っていたということ以外は、暇をかけて細部の説明をするにもあたるまい。この獄房は、どこにもあるようなものだった。ただし他の独房よりもさらに高いところにあった。それで格子窓越しに、美しい景観を眺め下ろすことができた。
この物語の興味は、これ以上|細々《こまごま》した部屋の内部を描写することではない。ファン・ベルルにとって、生命は呼吸器だけのものではなかった。この哀れな囚人は、自分の肺臓器官よりも、他の二つのものを愛していた。自由にさまよえるその思いだけが、それから後、彼に対して人為的な財産を与えてくれるものだった。
この二つとは、花と女とであった。そしてその二つとも、彼にとっては永久に見失われたものであった。
しかし幸いにも、善良なファン・ベルルは、誤解していたのだ! 彼が断頭台を登っていた時、慈悲の微笑を浮かべて彼を見つめていた神は、この牢獄の中でさえ、いかなるチューリップ愛好家もかつて味わうことのできなかったような世にも数奇を極めた生活を、グロティウス氏の部屋に残しておいてくれたのだった。
ある朝、窓に寄って、ワハール河から立ち上る新鮮な大気を吸い込み、はるかかなた、煙突の林立する向こうに、生まれ故郷ドルドレヒトのおびただしい風車小屋を眺めやっている時、彼はその方向の地平線の一点から、鳩が群なして近づいて来て、太陽にキラキラふるえながら、ルーヴェスタンの尖ったいくつかの破風にとまるのを見かけた。
「この鳩は」
と、ベルルはつぶやいた。
「ドルドレヒトからやってきたのだ。だからまたそこに戻るに違いない。誰でもこの鳩の翼に、文句の一つも書いた紙片を結びつけてやれば、涙に暮れているドルドレヒトに、その人の消息を伝えてやれる機会があるというものだ」
やがて、一瞬、夢想に落ちたが、
「その誰かというのは」
と、ファン・ベルルは付け加えた。
「それは僕でいいわけだ」
二十八才で、終身刑に処せられたとあると、すなわち二万二、三千日の牢獄生活があるわけだから、誰しも辛抱強くなるものだ。
ファン・ベルルは例の三つの珠芽に思いを潜めながら――というのは胸の奥で心臓が鼓動するように、この思いは絶えず記憶の底で脈打っていたが――鳩を捕らえる罠を工夫した。一日オランダ貨十八スウ――フランス貨にして十二スウ――の食費をすっかりつかって、彼は鳩を誘惑した。一ヵ月ばかり無駄な努力を試みた末、雌を一羽捉まえた。
それからまた二ヶ月ばかりして雄を一羽手に入れた。そこで二羽を一緒に閉じ込めた。一六七三年の初めに、卵を生んだので、彼は雌を放してやった。雌にかわって雄が卵を守っているのに安心して、雌は翼の下に彼の手紙をつけ、喜び勇んでドルドレヒトを目指して飛び立った。夕方になると、雌は帰って来た。
手紙はつけたままだった。
十五日間手紙がそのままだったので、ファン・ベルルは最初はだいぶがっかりしたが、やがてすっかり絶望してしまった。
ついに十六日目に、雌は何もつけずに戻って来た。
ところでファン・ベルルはその手紙を、あの年老いたフリゾン生まれの乳母に宛てておいた。そして誰か情深い人が、この手紙を見つけたら、できるだけ確実かつ迅速にこれを乳母のところに回送してくれるよう依頼しておいた。
乳母に宛てたこの手紙の中には、ローザに宛てた紙片も入れてあった。
神はその息吹きで、年古りた城壁の上にもニオイアラセイトウの種子を運び、わずかな雨が降り注ぐだけでも、その花を咲かせたもうが、神はファン・ベルルの乳母が、この手紙を受け取ることをお許しになったものだった。
それは次のような次第だった。
ドルドレヒトを去ってハーグに乗り込み、ハーグを離れてゴルクムに向かったアイザック・ボクステルは、自分の家も、召使も、観測所も、望遠鏡も、そればかりでなく飼育していた鳩も見捨ててしまった。
他に職もなく放り出された召使は、わずかばかりの貯えで初めのうちは暮らしていたが、やがてとうとう鳩を食べる始末になった。
それを悟った鳩の群は、アイザック・ボクステルの家の屋根から、コルネリウス・ファン・ベルルの邸の屋根に移住してしまった。
乳母は何でも愛したくなるという善良な心根を持っていた。彼女は自分のところに、憐れみを求めてやってきた鳩の群に同情して、アイザックの召使が、初めの十四、五羽を食べてしまったと同じように、残りの十四、五羽も食べようとして返還を求めて来た時、オランダ金貨六スウを払って、買い取りたいと申し込んだ。
これは鳩の価格の二倍だった。そこで召使は大喜びでこの申し出を承知した。
そんなことで乳母のほうは、嫉妬深い男の鳩の群を、正式に所有することになった。
いうまでもなく、この鳩の群が他の鳩の群と一緒になって、品種の違った小麦や、味の異なる麻の実を探しながら、ハーグ、ルーヴェスタン、ロッテルダムと次々に回遊しながら訪れていたのだった。
偶然にも、というよりあらゆる事象の奥に潜む神のなせる業で、コルネリウス・ファン・ベルルは都合よくこの鳩のうちの一羽を手に入れることができたのであった。
もしも例の嫉妬深い男が仇敵の後を追ってドルドレヒトを離れ、最初はハーグを目指し、次にはゴルクムに、またルーヴェスタンへと――この二つの地方は、ワハール河とムーズ河の合流点で隔てられているだけだが――行くことがなかったとしたら、ファン・ベルルの書いた手紙はこの男の手に落ちて、乳母の手には入らずに終わったことでもあったろう。そうなればローマの靴屋の鳥と同然に、この哀れな囚人は時間も苦労もむなしく費やしてしまいまた筆者も、千変万化の色彩で織りなされる絨毯のように、筆者のペンの下で波乱万丈の物語を繰り広げる代わりに、夜のマントにも似た生気のない、もの悲しくて陰鬱な日々が長々と連続するさまを描くよりほかに仕方があるまい。
こうしたわけで、手紙はファン・ベルルの乳母の手に入った。
かくて二月の初旬に入り、黄昏がその背後に星をきらめかせながら大空から降りてきた頃、コルネリウスは、望楼の階段のあたりに、一つの声のするのを聞いて戦慄した。
彼は手を心臓のところに当てて、耳を澄ました。
それはローザの、甘い、調子のよい声であった。
実を言うと、コルネリウスは驚いて目を回したり、歓喜に気が狂ったりするほどのことはなかった。鳩の物語がなかったならば、あるいは、そうなってしまったことだろうが、鳩は彼の手紙と引き換えに、何もつけない翼の下に希望を隠して運んできたのだった。彼は毎日ひそかに待っていた。というのも彼は、もしも手紙がローザの手に渡れば、彼女はその愛と例の珠芽との消息を、伝えてよこすことを知っていたからだ。
彼は起き上がると耳を傾け、扉のそばに体をもたせた。
そうだ、確かにあのアクセントは、ハーグにおいて彼の心を、いとも優しく揺すぶったあれであった。
だが今やローザは、ハーグからルーヴェスタンへの旅をすませていた。ローザがどうしてうまく牢獄に入り込めたものか、コルネリウスにはわからなかった。それにまたローザがどうしたら囚人のところまで、同じ僥倖に恵まれて入ることができたものかもわからなかった。
コルネリウスがこの点についてあれこれと思い合わせ、不安の上で希望を温めている時、独房の扉についた覗き窓が開いて、歓喜に輝き、装飾品のまばゆいローザが、五ヵ月このかた、顔を青白くしていた悲しみにとりわけ美しくなって、コルネリウスの鉄の格子に顔をピッタリ押し当て、彼に向かって呼びかけていた。
「おお、あなた! あなた、私、とうとう来ましてよ」
コルネリウスは腕を差しのべ、天を仰いで歓びの声をあげた。
「おお! ローザ、ローザ!」
と、彼は叫んだ。
「黙ってね! 低い声でお話しましょう。父がついて来ているのです」
と、若い娘は言った。
「お父さんが?」
「ええ、階段の下の中庭におりますわ。長官さまのお指図を受けていますの。そのうち上ってまいりますわ」
「長官の指図ですって?」
「聞いてちょうだいね。かいつまんですっかりお話してあげましょうね。レイドから一里ばかりのところに、総督さまの別荘があるの。大きな酪農場ですわ。その酪農場で飼っている家畜を、みんな管理しているのが私の叔母で、総督さまの乳母にあたりますの。あなたのお手紙を受け取ってから、悲しいことに私には読めませんので、あなたの乳母《ばあや》に読んでもらうと、わたしは叔母のところに駆けつけました。そして公爵さまが酪農場に見える時まで、そのままそこにおりましたの。そのうち公爵さまがお見えになりましたので、父をハーグの第一監守から、ルーヴェスタン城砦の監守長に転任するようお願いいたしました。公爵さまは私の目的に少しも気がおつきになりませんでした。もしもそれがわかったら、きっとお断りなさったでしょうけど。そうはなさらずにご承知になってくださいましたの」
「それで、ここに来たんですね」
「ごらんのとおりよ」
「それじゃ、毎日会えますね?」
「できるだけ、たくさんね」
「おお、ローザ! 僕の美しいマドンナ、ローザ!」
と、コルネリウスは言った。
「それでは、少しは僕を愛していてくれるの?」
「少しは、ですって……」
と、彼女は答えた。
「おお! あなたって、さっぱり欲のないお方ね、コルネリウスさま」
コルネリウスは熱情に駆られて、両手を彼女の方に差し出した。しかし二人の指だけが、鉄格子越しに触れ合えただけだった。
「お父さんが来ますわ!」
と、若い娘は言った。
ローザはすばやく扉口を離れると、階段の上に姿を現したグリフュス老人のところに飛んで行った。
十五 覗き窓
グリフュスは、モロシア犬を引き連れていた。
万一の場合、犬に囚人たちの見分けがつくように、一回りさせていたところだった。
「お父さん」
と、ローザは呼びかけた。
「ここにあるわよ、グロティウスさんがお逃げになった有名なお部屋が。グロティウスさんて、ご存知?」
「うん、うん、あの卑怯者のグロティウスか。悪党のバルナヴェルトの仲間だな。俺が子供の頃、バルナヴェルトが死刑になるところを見たっけが。グロティウスか! ああ! ああ! 彼奴が脱走したのは、この部屋なのか? だがな、断っておくが、もう奴の後は誰一人として逃げられやしないぞ」
扉を開けると、彼は薄暗がりに入って、囚人に話しかけた。
犬の方は、囚人の脛《すね》を嗅ぎ、喉をグウグウ鳴らしていたが、それは裁判所書記と死刑執行人とに挟まれて出て行くところを見かけた男が、何だって死なずにいたのかともの問いたげな様子だった。
だが美しいローザに呼ばれたので、モロシア犬は彼女のそばに寄ってきた。
「おい、君」
と、グリフュスは、自分の顔のまわりを少し明るく照らそうとして、ランプを掲げながら呼びかけた。
「私は新しい獄吏だが、おわかりかな。私は看守長だから、どの部屋も自分で監視する。私は意地の悪い人間ではないが、こと規律に関しては、いっさい、曲げないことにしている」
「ですがね、僕はあなたのことなら、すっかりわかっていますよ、グリフュスさん」
と、囚人は、ランプの投げる光の輪に入りながら言った。
「おや、おや、あなたですか、ファン・ベルルさん」
と、グリフュスは言った。
「ああ! あなたでしたか、おや、おや、こんなところで会おうとは!」
「そうですね、どうも大変嬉しいことですよ、グリフュスさん。お見受けしたところ、腕はすっかり治ったようですね。ランプを持っているのは、その腕でしょう」
グリフュスは眉をしかめた。
「ごらんのとおりですよ」
と、彼は言った。
「政治なんて、始終間違いを起こすものですな。殿下は、あなたの命を救ったが、私ならそうはさせないところでした」
「おや、おや!」
と、コルネリウスは訊ねた。
「それはまた、どうして?」
「あなたは、また陰謀を企むにちがいない人物ですからね。あなたがた学者というものは、悪魔と交際をしていますからね」
「ああ、そんなことですか! グリフュスさん。腕の治し方が気に入らないのですか? それとも私が、何か代償を要求したとでもおっしゃるのですか?」
と、コルネリウスは笑いながら言った。
「それどころか、とんでもない! その反対ですよ!」
そして獄吏は悪態を言った。
「おかげで、腕はよくなりすぎるほどよくなりましたよ。何か魔法でも吹き込まれたんじゃないんですか。六週間経ったら、何も起こらなかったように、腕が役に立ちましたさ。どうもそれから考えると、仕事のよくできるビュイテンホーフのお医者さんが、今度は三ヶ月ばかり腕を役に立たなくしてやろうなどと言って、元通りに治すために、またもや私の腕を折りたくなるんじゃないんですか?」
「そうされたいんですか」
「いや、お断りしますよ。何しろこの腕では十字が切れるんですからね――グリフュスはカトリックだった。――この腕で十字が切れるうちは、悪魔なんか馬鹿にしてやりますよ」
「グリフュスさん、悪魔が馬鹿にできるんなら、学者を馬鹿にできるのも当然なことですね」
「おお! 学者か、学者か!」
と、グリフュスは、口出しに答えようともせずに叫んだ。
「私はたった一人の学者よりも、十人の兵隊の監視をしている方が好きですね。酒は飲む、酔っ払ってしまう。奴らにはブランデーかムーズ産の葡萄酒でもくれてやれば羊のようにおとなしい。ところが学者ときたら、無論飲むことだって、ふかすことだって、酔っ払うことだってありまさあ! それは確かにそうですよ! ところがそいつがケチなんだ。そんなことに無駄な金をつかわない、陰謀が企めるように、いつでも頭をハッキリさせておくんです。
だが初めに申したとおり、あなたには、そうやすやすと陰謀を企むような真似はさせませんよ。何しろ、本もなければ、紙もなく、魔法の書いてある紙だってありませんからね。グロティウスさんは本と一緒に逃げたってことですがね」
「僕は断言しますよ、グリフュスさん」
と、ファン・ベルルは再び口を開いた。
「恐らく僕も、一時は逃げ出そうと思ったこともありましたよ。しかし、ハッキリ言っておきますが今ではもうそんな考えは毛頭ありません」
「そりゃいい! そりゃいい!」
と、グリフュスは言った。
「あなたがその気なら、私もそれだけのことはやりましょう。それでおあいこですよ。あいこだが、殿下もひどい間違いをやらかしてしまわれたもんだな」
「僕の首を斬らせなかったことですか?……。そのことならただ感謝するばかりですよ、グリフュスさん」
「無論ですとも、ド・ウィットのご兄弟をごらんなさい、今では実に静かにしているじゃありませんか」
「そんな恐ろしいことを言うんですか、グリフュスさん」
と、ファン・ベルルは、嫌悪の情を隠すために顔をそむけながら言った。
「あなたは忘れているんですね、あの不幸なお二方の一人は僕の友人だし、もう一人は……僕の義父ですよ」
「そうですとも、だが私が覚えているのは、どっちも陰謀家だったということです。私は博愛心から言っているのですがね」
「ああ! 本当ですか! それじゃそれがどういうことか、少し説明してください。グリフュスさん、僕にはよくわかりませんが」
「そうですね、もしもあなたが、あのままハルブルック親方の首斬り台にいたとすれば……」
「すると?」
「するとですね、あなたはもう二度と苦しまなくてもすんだことでしょうよ。ところが私がここにあなたを隠しておくからには、あなたに非常に苦しい生活をさせなくちゃならない」
「それを約束してくだすってありがとう、グリフュスさん」
囚人が獄吏の老人に向かって皮肉な微笑を浮べている時、扉の影にいるローザは、天使のような慰めに溢れた微笑を、彼の方に送り返していたのだった。
グリフュスは窓の方に歩み寄った。
外はまだかなり明るくて、よく見分けはつかないが、灰色の霧に融けた広漠たる地平線を、眺めることができるのだった。
「ここの眺めはどうですな?」
と、獄吏は訊ねた。
「実に素晴らしいですね」
と、コルネリウスは、ローザを見つめながら答えた。
「そう、そう、これは素晴らしすぎるな、素晴らしすぎるて」
その時、この見知らぬ男の姿を見て、というより特にその声に脅えて、一羽の鳩が巣から飛び立ち、一目散に霧の中に姿を消した。
「おお! おお! あれは何ですか?」
と、獄吏は訊ねた。
「僕の鳩です」
と、コルネリウスは答えた。
「僕の鳩ですって!」
と、獄吏は叫んだ。
「僕の鳩ですって! 囚人に私物があるのですか?」
「それはそうですがね」
と、コルネリウスは言った。
「善き神が、鳩を僕に貸してくださったとしたら?」
「それだけでも立派な規則違反ですよ」
と、グリフュスは答えた。
「鳩だって! ああ、お若い方、お若い方、あらかじめ一つ申し上げておきますがね。遅くとも明日中にあの鳥は、私の鍋で煮てしまいますからね」
「まず第一に、あなたはあれを捕まえなくてはなりませんね、グリフュスさん」
と、ファン・ベルルは言った。
「あなたはあれが、僕のものであるのをお望みにならないのですね。あれは、まだあなたのものではありません。誓いますが、あれは僕のものではないのです」
「遅くなったって、駄目になるもんじゃない」
と、獄吏は悪態をついた。
「遅くとも明日は、やつらの首ねっこを締めてしまいますよ」
グリフュスはコルネリウスに向かってこうした意地の悪い約束をしてしまうと、窓外へ身を乗り出して、巣の造りを調べにかかった。この隙を利用して、ファン・ベルルは扉に駆け寄ると、ローザの手を握りしめた。ローザは彼にささやいた。
「今晩、九時にね」
グリフュスは約束どおり、翌日になったら鳩を捕まえたい一心で、何も目に入らず、耳にも入れなかった。彼は窓を閉めると、娘の腕をとって外に出た。錠前を二度回すと、閂を差し込み、ほかの囚人にも同じような約束をするために歩み去った。
彼の姿が見えなくなると、さっそくコルネリウスは扉に近づき、次第に小さくなって行く足音を聞いていた。やがてすっかり聞こえなくなると、彼は窓辺に走りより、鳩の巣を根こそぎに壊してしまった。
彼は、ローザにめぐり逢える幸運をもたらしてくれたこの優しい使者が死に曝されるよりも、永久に姿を見せないように追っ払ってしまった方がましだと思った。
あの獄吏の巡視も、兇暴な脅し文句も、監視がひど過ぎることになるだろうという暗澹とした見通しも、そうしたものは何一つとして、コルネリウスから、ローザがいるということで心に蘇ってきた甘い考えや、とりわけ甘い希望などを奪い去ることができなかった。
ルーヴェスタンの天守閣で九時が鳴るのを、彼はもどかしい思いで待ち構えていた。
ローザは言ったのだ。
「九時になったら、待っていらしてね」
青銅製の鐘の最後の余韻が、大空にまだ韻々と震えている時、コルネリウスは階段の方にあたって、軽い足音と美しいフリゾン娘の襞の多い衣装の擦れ合う音を聞いた。間もなくコルネリウスが激しく見据えていた、扉についている窓の格子が明るくなった。
覗き窓は、外に開かれた。
「私よ」
と、ローザは、階段を登りつめてまだ息を切らしながらささやいた。
「私よ!」
「おお! ローザ、素敵だな!」
「それじゃ、私に会えて嬉しくて?」
「あなたがそんなことを訊くなんて! しかしどうやってここまで来られたの? 話してごらん」
「聞いててね、お父さんは毎晩お食事がすむとすぐにおやすみになるの。それで、私、ジンを飲ませて少し酔わせて寝かしつけたの。誰にも何もおっしゃらないでね。こうやって眠らせておけば、毎晩一時間ぐらいは、あなたとお話しに来られてよ」
「おお、ありがとう、ローザ、やさしいローザ」
コルネリウスは、そう言いながら前に進むと、顔を覗き窓に近づけた。あんまり近かったので、ローザは自分の顔を引っ込めた。
「私、チューリップの珠芽をお持ちしてよ」
と、彼女は言った。
コルネリウスの心は躍った。彼はローザに預けた貴重な財宝を、彼女がどうしたかをまだ訊きかねていたところだった。
「ああ、それじゃあれを持っていてくれたんですね!」
「それでは、あれはあなたにとって大切なものだからって、私にくだすったんじゃなかったんですの?」
「それはそうだ。だがあなたにあげた以上、あなたのもののような気がするのですよ」
「あなたが死ねば私のものですわ。でも幸いにあなたは生きていらっしゃるんですもの。ああ! 私、どれくらい殿下を祝福したかわからなくてよ。もしも神さまが、ウィリアム公爵さまにお祈りして差し上げたお恵みを、すっかりお許し下さるなら、きっとウィリアム国王となられ、王国ばかりか世界中で、一番幸せなお方になれますわよ。あなたが助かったと聞いたので、あなたの名付け親のコルネイユさんのバイブルは持っていようと思ったけど、あなたからいただいた珠芽はあなたにお返ししようと決めていたの。だって、どうしていいのかわからないんですもの。それで、父をゴルクムの看守にしてくださるよう、総督さまにお願いしに行こうと決心したのです。ちょうどその時、乳母《ばあや》さんが、あなたのお手紙を持って来てくれたのです。ああ! 私たち二人して、どんなにたくさん、泣いたことでしょう。本当にそうなのよ。でも、あなたのお手紙は、私の決心をいっそう固くするばかりでした。そこで、私、レイドに出かけましたの。それから後は、ご存知のとおりよ」
「ねえ、ローザ、どうして」
と、コルネリウスは聞き返した。
「僕の手紙を受け取る前に、僕に会いに来ようと思ったんです?」
「私がそう思ったのは、ね!」
と、ローザは、恋の思いの募るままに、恥ずかしさも打ち忘れて答えるのだった。
「だって、私、そのことばっかり思っていたんですもの!」
そう言いおわると、ローザは目覚めるばかり美しくなったので、またもやコルネリウスは、思わず額と唇とを鉄の格子に近づけた。
ローザは初めの時と同じように、自分の顔を後ろへ引いた。
「本当に」
と、彼女は、どんな乙女心にもこもっている媚めかしい風情を見せながら口を切った。
「本当に、私、字が読めないことをしょっちゅう悲しいと思っておりましたわ。でもあなたの乳母《ばあや》さんがあなたのお手紙を持って来てくだすった時ほど、ひどい気がしたことはありませんでしたわ。あのお手紙はほかの人にはお話しができるのに、私のような哀れな愚か娘には、何も話してくれないなんて、私、あのお手紙を手の中で、ただじっと握りしめているばかりでしたわ」
「字が読めないことを、そんなにしょっちゅう悲しいことに思っていたんですか?」
と、コルネリウスは訊ねた。
「どんな時に?」
「あら、そんなこと!」
と、若い娘は吹き出して答えた。
「人からお手紙をもらって、読もうとするたびにそうですわ」
「手紙をそんなによくもらうことがあるの、ローザ?」
「ええ、何百通も」
「だがいったい、どんな人があなたに書いてよこすんですか?……」
「どんな人が書いてよこすんですって? だって、第一に、ビュイテンホーフの広場を通る学生たちがいるでしょう。それから練兵場に行く将校たち、それに勤め人や商人なんかもいて、この人たちは、私を覗きに私の部屋の小窓のところにやってきますわ」
「ねえ、ローザ、そんな手紙は、みんなどうするんですか?」
「前には」
と、ローザは答えた。
「誰かお友達に読んでもらっていましたの。そんなことが私にはとても面白かったのよ。でも、ある時から、そんなばかげたことを聞いて時間潰しをしたってつまらないと思うようになりましたの。ある時から、私、みんな焼いておりますの」
「ある時から、っていうんですね」
と、コルネリウスは、愛と歓びとにすっかり取り乱した視線を注ぎながら叫び声をあげた。
ローザはすっかり赤くなって目を伏せた。
それで、彼女には、コルネリウスの唇が近づいたのが見えなかった。だが悲しいことにこの唇は、ただ鉄格子に触れただけだった。しかしこの障害物にもかかわらず、この上なく優しい接吻の熱い息吹きを、若い娘の唇まで送りこんでいた。
唇を焼いたこの焔に、ローザは青ざめた。処刑の日に、ビュイテンホーフで青ざめたのと同じほど、いや恐らくはもっとひどく青ざめてしまった。彼女は悲しげなうめき声をもらし、美しい両目を閉じると、手で心の動悸を抑えようとしたがその甲斐もなく、心を高鳴らせたまま逃げ出してしまった。独り取り残されたコルネリウスは、格子の垣の間に挟まれた獲物のように残っている、ローザの髪の甘い香りを心ゆくまで吸いこんだ。
ローザはあんまりあわてて逃げ去ったので、黒いチューリップの三つの珠芽を、コルネリウスに返すのを忘れてしまった。
十六 師と女弟子
グリフュス親父は、すでにご承知のとおり、コルネイユの名付け子によせている娘の好意を、共に分かとう気持ちなど露ほども持ち合わせていなかった。
ルーヴェスタンには、囚人が五人しかいなかった。それで警護の仕事を遂行することは、さして骨の折れることではなかったし、獄吏とはいうものの、年にふさわしい閑職といってよかった。
しかし、いかにも立派な獄吏であるこの男は、職務に熱心だったので、空想力を精いっぱい働かせて、自分に与えられた仕事を大袈裟にしてしまった。この男にとってコルネリウスは、第一級の犯罪者というとんでもない比重を占めていた。そこで彼は、囚人のうちで一番危険な人物とみなされてしまった。グリフュスは、彼の一挙一動に監視の目を離さなかった。そして彼に臨む場合は、寛容な総督に対する恐るべき反逆という罪科を背負わせて、いつでも怒った顔を見せていた。
彼は一日に三回ファン・ベルルの部屋に入ってきた。何か過失をやっているところを、不意に掴まえようと思いこんでいたからだった。しかしコルネリウスは、掌中に通信係の娘を握ってからというものの、ほかとの交信は諦めてしまった。コルネリウスとしては、たとえ完全な自由の身となり、どこでもお望みの場所に引きこもれるという完全な許可が得られたとしても、珠芽もなくローザもいないほかのどんな住居よりも、ローザがいて、珠芽のあるこの牢獄の住居の方を選んだに違いない。
それというのも、毎晩九時になると、ローザは親しい囚人のところへ話をしに来ると約束したからであり、ローザはご存知のとおり、第一夜からその約束を果たしたのだった。
翌日も前夜と同じように、人知れず気を遣いながら、彼女は登ってきた。ただ彼女は胸の中で、鉄格子にあんまり顔を近づけまいと誓っていた。その上初めからファン・ベルルが真面目に熱中しそうな話題を持ち出そうとして、彼女は前と同じ紙にいつでも包んでいた三つの珠芽をいきなり鉄格子越しに差し出した。
しかし、ローザがたいそうびっくりしたことは、ファン・ベルルが指先で彼女の白い手を押し返したことだった。
若者はいろいろと思案をめぐらしていた。
「聞いてください」
と、彼は口を切った。
「僕たちの全財産を一つ袋に入れておくなんてことは、どうも危険過ぎることだと思うのです。いいですか、ローザ、考えてください。問題は今日まで不可能だと見られていた計画を実現することにあるのですよ。問題は、大きな黒いチューリップの花を咲かせることなのですよ。だからたとえ僕たちが失敗したとしても、後に何も後悔が残らないように、できるだけの注意を払いましょう。この目的が達せられるよう、僕はいろいろ工夫を凝らしてみたが、それはつまりこういうことです」
ローザはこの主人が語り出そうとすることに、すっかり注意を集中した。それは彼女自身がそのことに重大な関心を寄せていたからではなく、この不幸なチューリップ愛好者が重大な関心を向けていたというそのことからだった。
「つまりこうなんです」
と、コルネリウスは言葉を継いだ。
「僕たちがこの大事業を、どうやったら一緒に協力してやっていけるかを考えたのです」
「お聞きしますわ」
「この城砦の中には、小さな花園があるでしょうね。花園がなければどこか中庭でもよいし、中庭がなければテラスでも結構です」
「とても綺麗な花園があってよ」
と、ローザは言った。
「ワハール河に沿っていて、美しい老樹がいっぱいあるのよ」
「それではローザ、その花園の土を少し持って来てくれませんか、調べてみましょう」
「明日ね」
「日陰の土と日向の土とを取って下さい。乾いた時の状態と湿った時の状態とそれぞれの土質を調べてみます」
「安心していらしってね」
「僕が選んだ土は、必要に応じて改良しましょう。僕たちは三個の珠芽を、三つに分けておきましょう。あなたはその一つをとって、僕の選んだ土に、僕の指定した日に植えてください。僕の指図どおりに面倒を見れば、たしかに花が咲きますよ」
「私、一刻も眼を離さなくてよ」
「もう一つは僕に下さい。僕はこの部屋のこの場所で育ててみましょう。そんなことでもすれば、あなたに会えない長い毎日を送るすさびになりますからね。実のところこれには希望が持てません。だから前もって、僕の利己主義の犠牲に当てられる不運な奴をよく見ておきましょう。もっとも時にはここにも日が射すのですよ。僕は人工的に、パイプの熱でも灰でも、何でも利用してみましょう。
最後に三つ目の珠芽ですが、これは僕たちが、というよりもあなたが保存しておいてください。初めの二回の経験が失敗した場合には、最後の手段となるのですから。ねえ、僕のローザ、こんなふうにやれば、僕たちの結婚資金十万フロリンを手に入れることも、僕たちの作品が完成するのを眺めるという無上の幸福を手に入れることも決してできないわけがありません」
「わかりましたわ」
と、ローザは言った。
「明日、土を運んでまいりますわ。私の分とあなたの分を選んでくださいね。あなたの土は、何回も行ったり来たりしなくてはなりませんわね。だって、私、いっぺんにはほんのちょっとずつしか運べませんもの」
「おお! 何も僕たちは、急ぐことはありませんよ。ねえローザ。せいぜい後一ヵ月も経たなくては、僕たちのチューリップを埋《い》けてはいけないのです。だから、時間はたっぷりあるのです。ただ、あなたが珠芽を植える時には僕の教えたとおりにやるだけのことです。いいですか?」
「そのとおりにしますわ」
「一度植えたら、僕たちの栽培しているものに関することは、何もかもいっさい僕に教えてください。気象の変化とか通路の足跡とか、花壇の上の足跡とか、そういったものですがね。夜になったら、僕たちの花園に、猫どもが頻繁にやってくるかどうか、聞いておいてください。何しろあの疫病神のような獣は、たった二匹で、ドルドレヒトにあった僕の花壇を、二つもめちゃめちゃにしてしまいましたからね」
「よく聞いておきますわ」
「月の夜に……、花園を眺めたことがありますか?」
「わたしの寝部屋のお窓は、そちらに向いておりますの」
「そりゃ結構だな。月の夜には、壁の穴から鼠が出てくるかどうかよく見ていてください。鼠という奴は恐るべきげっ歯類ですからね。ノアが方《はこ》舟に、鼠を一|番《つがい》乗せていたということで、ひどい目にあったチューリップ園芸家たちが、ノアのことを手酷くやっつけたこともありましたからね」
「わたし、よく見ておりましょう。猫がいるか鼠がいるか……」
「いいですね! よく注意しなくちゃいけませんよ。それから」
と、牢獄に入れられてから、警戒心が強くなったコルネリウスは先をつづけた。
「それから、猫や鼠よりももっとずっと恐ろしい動物がいるのですよ!」
「それは何ていう動物なの?」
「人間ですよ! わかりますね、ローザ。一フロリンだって盗む者がいる。徒刑場に送られる危険を冒しても、そんな情けないことをするものがいるのです。だから、十万フロリンもするチューリップの珠芽を盗む者がいても、当然過ぎることなのですよ」
「花園には、私のほかに誰も入れないようにしますわ」
「約束してくれますね?」
「私、誓いますわ」
「結構です、ローザ! ありがとう、やさしいローザ! おお! それでこそ僕の得られる歓びは、みんなあなたのところからやってくるというものです」
ファン・ベルルの唇が、前の夜と同じような激しい熱情をこめて、鉄格子に近づいてくるし、それに、戻らねばならない時間がやってきたので、ローザは顔を遠ざけて手を伸ばした。
この媚めかしい若い娘が、とりわけ手入れをよくしているかわいらしい手の中には珠芽が握られていた。
コルネリウスは熱情的に、その手の指先に接吻した。そうしたのは、この手が大きな黒いチューリップの珠芽の一つを握っていたからだろうか? それともこの手がローザの手であったことからだろうか? それは筆者よりも物知りな読者諸君のご推察にお任せするとしよう。
さてローザは、二つの珠芽を胸に抱きしめてもどって行った。
彼女がそれを胸に抱きしめたのは、それが大きな黒いチューリップの珠芽だったからだろうか? それとも珠芽がコルネリウス・ファン・ベルルから渡されたものだったからであろうか? 筆者の信ずるところでは、この点の方が先に述べた点よりも、明白にすることができるようだ。
何はともあれこの時から、この囚人にとって、生活は愉しく充実したものとなった。
ローザは、諸君もご存知のように、珠芽の一つを彼に渡した。
毎晩、彼女は庭から取った土を一握りずつ運んできた。それは彼が最上だと折り紙をつけ、事実、素晴らしいものであった。
コルネリウスは幅の広い水差しを上手に壊して、具合のよい土台を作り、それに半分だけ土をつめることにし、ローザが運んできた土へ、河泥を乾燥させて良質の腐植土に変えたものを少量混ぜ合わせた。
やがて四月の初めごろ、彼は第一の珠芽を植えた。
いうまでもなくコルネリウスは、グリフュスの監視の眼から仕事の歓びを隠すために、注意や技巧や策略を用いたが、それは筆舌につくしえぬほどのものであった。半時間ばかりのことでも、幽囚の哲人にとっては、感覚と思考の上から一世紀にも価するものがある。
一日として、ローザがコルネリウスのもとへやってきて、話をしない日はなかった。
ローザがすっかり学んだチューリップのことが、話の基礎となっていた。しかしこの話題が、たとえどんなに興味のあることでも、いつでもチューリップのことばかり話しているわけにはいかなかった。
そうなると、ほかのことが話に出る。ところでチューリップ園芸家が非常に驚いたことは、会話の範囲が素晴らしく広げられてきたことだった。
ただローザは一つの習慣を守っていた。彼女はきまって美しい顔を、覗き窓から六インチ離していた。というのはもちろん囚人の息吹きが、どれほど若い娘の心を燃やしうるかということを鉄格子越しに感じた時から、この美しいフリゾン娘は自分に不安を抱いていたからだ。
こうした時、このチューリップ園芸家には、珠芽とほとんど同じくらい気にかかり、絶えず念頭に去来することが一つあった。
それはローザが、父親に依存しているということであった。
そうなると、ファン・ベルルは学殖のある博士で、風景画家で、人並優れた人物であり、またあらかじめ既定の事実として『ローザ・ベルレンシス』と呼ばるべき創造物の傑作を間違いなく発見するに違いない最初の人物であるが、この人物の生活、生活以上の幸福が、別個の人間の単純極まる気まぐれに異存するということになり、しかもこの人物たるやまことに陋劣《ろうれつ》な精神の持ち主であり、下賎な身分の男なのであった。それは獄吏というものであり、彼が閉める錠前ほどの知能もなく、また彼が差し込む閂よりもさらに鈍重な代物であった。それは人間と動物との中間にある『テンペスト』のカリバンのような存在だった。
ともあれ、コルネリウスの幸福は、こうした人間に依存していたのだった。この人物は、ある朝、ルーヴェスタンに嫌気がさし、ここの空気が悪いとか、ここのジンがおいしくないとか言い出して、城砦を去り、自分の娘を連れ去ってしまうことだってありえたわけだ。――するともう一度、コルネリウスとローザとは別れ別れになってしまう。そうなると、人類があまりにも手数のかかるのに倦んだ神さまは、恐らく二度とこの二人を結びつけまいとするだろう。
「そうなったら、伝書鳩だって何にもならない」
と、コルネリウスは若い娘に言った。
「というのはだね、ローザ、あなたは僕の書くものを読めないし、それにあなたが考えたことを僕に書いてよこすこともできないのだからね」
「それではね」
と、内心コルネリウスと同じほど、別離を恐れていたローザは答えた。
「毎晩、一時間ずつお会いしてますわね。それを有効に使いましょうよ」
「でも僕は、無駄に使ってはいないと思ってるがね」
「もっと有効に使いましょうよ」
と、ローザは微笑しながら言った。
「私に読み書きを教えてね。あなたのご講義を利用しますわ。私を信じてちょうだいね。そうやれば、自分たちの意志でなら別だけど、そのほかのことで、私たちもう絶対にお別れしたりすることはなくってよ」
「おお! そうなれば」
と、コルネリウスは叫んだ。
「僕たちの前途は、永遠に開けます」
ローザは微笑んで、やさしく肩をすくめた。
「あなたは、いつまでも牢屋に入っていらっしゃるおつもり?」
と、彼女は答えた。
「殿下はあなたのお命を救ってくだすったんですもの、これから自由だってくださらないことがあるかしら? そうしたらあなたはご自分の財産のあるところにお帰りになるんじゃなくて? いったん自由の身になりお金持ちになったら、お馬かお馬車に乗ってお通りしなに、この卑しいローザなんかお目もくれなくなるんじゃなくて? だって獄吏の娘だし、首斬り人の娘といってもいいぐらいなんですもの」
コルネリウスは抗弁しようと思った。確かに彼は真心をこめて、愛情に満ち溢れた真剣な魂を吐露してしまおうとするところだった。
若い娘はそれを遮った。
「あなたのチューリップはいかが?」
と、彼女は微笑を浮べながら訊ねた。
コルネリウスにチューリップのことを話すのは、ローザがコルネリウスにあらゆることを、ローザのことすらも忘れさせる手段だった。
「まあ相当な調子だね」
と、彼は言った。
「薄皮が黒《くろ》ずんだし、醗酵作用は始まったし、珠芽の葉脈は温まってだんだん膨らんできている。今日から一週間たぶんそんなにかからぬうちに、発芽の最初の突起の見分けがつくと思う。ローザ、あなたのはどうです?」
「おお! 私、私はね、いろんなことをたくさん、お指図どおりにやりましたわ」
「それじゃ、ローザ、どんなことをしたの?」
と、コルネリウスは言ったが、その眼は激しく燃え、その息遣いははげしくなって、それはその眼がローザの顔を灼き、その息遣いがローザの心の熱した先の夜とほとんど同じありさまだった。
「私ね」
と、若い娘は微笑みながら言った。というのは彼女は心の底で、この囚人の彼女と黒いチューリップによせる二重の愛情を、観察したい気持ちを抑えられなかったからだ。
「私ね、いろんなことをたくさんしましたの。樹立や壁から遠いところに何も生えていない四角な地所を用意したの。少し砂の多い土地ですけど、乾いているというよりもやや湿気のあるところね。石ころ一つ砂利一つなくってよ。私、あなたのお指図どおり、花壇を一つ作りましたわ」
「うまい、うまい、ローザ」
「地所はそのようにできましたから、後はあなたのお指図を待つばかりなのよ。さっそくお天気の日に、私の珠芽を植えるようにおっしゃってくだされば、私それを植えますわ。ご承知のとおり、私の方があなたより遅くしなければいけませんわね。私の方はいつだって、よい空気でも、日光でも、土地の豊富な水分でも、手に入れる機会はあるんですもの」
「そのとおり、そのとおり」
と、コルネリウスはよろこんで手を叩きながら叫んだ。
「あなたは立派なお弟子さんですね、ローザ。きっとあなたは十万フロリンを獲得しますよ」
「ねえ、お忘れにならないでくださいな」
と、ローザは笑い出しながら言いかけた。
「あなたは私のことをお弟子さんとおっしゃってくだすったけれど、あなたのお弟子さんは、チューリップの勉強のほかに、もっと別なことも教えていただかなければならないのよ」
「そう、そう、綺麗なローザ、あなたが字を読めるようになるということは、あなたと同様、僕にも大切なことなのです」
「いつから始めますの?」
「今すぐ」
「駄目よ、明日からね」
「どうして明日から?」
「だって、今日はもう時間が過ぎて、お別れしなければなりませんもの」
「もうそんなかなあ! だが何を読もうか?」
「おお!」
と、ローザは言った。
「私、ご本を一冊持っていますの。そのご本は私たちに幸運をもたらしてくれることよ。私、そうなればと思っておりますわ」
「それじゃ、明日からだね?」
「明日ね」
翌日、ローザはコルネイユ・ド・ウィットの例のバイブルを携えて、またしても訪れてきたのだった。
十七 第一の珠芽《しゅが》
その翌日のこと、ローザはコルネイユ・ド・ウィットのバイブルを携えてやってきた。
そこで師と女弟子との間には、微笑ましい光景の一つが始まった。作家冥利でペンを運びながら、こうした種類の光景にめぐり逢えると、まことに嬉しいものである。
覗き窓は、二人の恋人に意志を疎通させる唯一の戸口になっていたものだが、高いところにあったので、それまでは二人とも、お互いの顔の上に相手の思っていることを読み取るだけで満足していたが、いざローザの持ってきた本を読もうということになると、どうも具合がよくなかった。
それで若い娘は、右手に持った明りの高さまで本を上げ、頭を傾《かし》げて、覗き窓に身をもたせていなければならなかった。コルネリウスは彼女を少しでも楽させようとして、ハンカチで明りを鉄の格子に結びつけることを思いついた。そこで初めてローザは本の上に一本の指を当てて、コルネリウスが彼女に発音させる文字や綴りの後を追うことができるようになった。コルネリウスは指示棒の代わりに麦藁を持ち、鉄格子の隙間から注意深い女弟子に向かって文字を指し示すのだった。
そのランプの焔は、ローザの血色のいい顔色や、青く澄んだ眼や、前にも述べたフリゾン風の髪飾りに用いられている濃い金色の冠帽などを照らしていた。宙にかざした彼女の指は血が下がり、ランプの光線に輝いて青白くまたばら色を帯び、その色調は肌の下を循環している神秘な生命を示している。
ローザの知能は、コルネリウスの才知と活気横溢した接触を持つことによって、急速に発展していった。問題があまり難しくなってくると、二人の眼と眼とは互いに相手を探り合い、眉と眉とは軽く触れ合い、髪の毛は互いにからみ合って、白痴の闇すらも明るくすることのできる稲光《いなびかり》を発するのだった。
ローザは自分の部屋に戻ると、頭の中で読み方のおさらいをした。そしてまたそれと同時に心の中では、まだ打ち明けていない恋のおさらいを思い浮かべるのだった。
ある夜、彼女はいつもより三十分遅れてやってきた。
三十分の遅刻は重大事件だったので、コルネリウスは真っ先にその理由を聞かずにはいられなかった。
「おお! 怒らないでね」
と、若い娘は言った。
「私が悪いんじゃないんですもの。前にハーグにいた時、牢獄を見たいということでよく父のところに頼みに来た人があったんです。ところがルーヴェスタンで父がまた近づきになったのです。お人好しで、大酒飲みで、面白いお話をする人なの。それにとてもお金離れがいいんです」
「その男って、その他に何か判らないの?」
「いいえ」
と、若い娘は答えた。
「だって、やっと二週間くらいよ。その人が初めてお客さんになって、あんまり熱心にやってくるので、父が夢中になったのは」
「おお!」
と、コルネリウスは不安そうに頭を振りながら言った。なぜかといえば、彼にはこの全然新しい事態がどうやら破局を予想させたからだ。すなわち囚人と看守とを一緒に監視するために、城砦に派遣される隠密がやってきたのだと思えたのだ。
「そんなこと信じられないわ」
と、ローザは微笑しながら答えた。
「もしもあの正直な人が誰かを狙っているとしても、それは私の父じゃなくてよ」
「それじゃ、誰を狙ってるんだろう?」
「たとえば、私のことよ」
「あなたのことを?」
「どうしてそうじゃないっていえるの?」
と、ローザは笑いながら言った。
「ああ! そりゃそうだ」
と、コルネリウスはため息をつきながら言った。
「あなたにはいつまでも求婚者がいないですむわけがないはずだものね、ローザ。その男があなたのご主人になるのかもしれない」
「そうならないとはいえないわ」
「何か嬉しいところがあるの?」
「怖いところっておっしゃってね、コルネリウスさん」
「ありがとう、ローザ、確かに君の言うとおりだ。それで怖いところって……」
「それはこういうわけなの」
「聞いているよ。さあ、話してください」
「その人はね、ビュイテンホーフにも、ハーグの町にも、もう何回となく来ていたの。そら、ちょうどあなたがあそこに閉じこめられていた頃のことよ。私が出かけてしまうとあの人も出かけてしまうの。私がここにやってくると、あの人もここにやってきたの。ハーグでは、あなたに会いたいという口実を使っていたわ」
「僕に会いたいって、僕に?」
「おお、きっと口実なのよ。だってあなたがまた私の父の囚人になったのだし、いえ、そうじゃなくってね、私の父がまたあなたの獄吏になったのね。ですから今でもあの人は同じ理由をつけられるはずなのに、もうあなたの名を持ち出したりしないのよ。それどころか全然反対よ。昨日私が聞いていたら、あの人は父に向かって、あなたのことをご存知ないって言っておりましたわ」
「ローザ、その先を続けてください。その男が何者なのか何をしようとしているのか、僕は見当をつけますから」
「コルネリウスさん、あなたには、あなたのためを思ってくださるお友達が一人もいらっしゃらないって本当なの?」
「僕には友達っていないんだ。ローザ。僕には乳母がいるだけだ。あなたもご存知の女だし、あれもあなたを知ってるはずだね。あれならそんなつまらない真似はしないよ! あのかわいそうなザッグなら自分で来て、トリックなんか使わずに、涙を流しながらあなたのお父さんやあなたに言うでしょうね。――旦那様、お嬢さま、私の子どもがここにおります。私がどんなに身も世もあらぬ思いでいるかおわかりになってください。一時間だけでいいから、あの子に会わせてやってください。私は一生神さまに、あなたがたのことをお祈りに捧げましょう――ってね。おお! そんなことはやめておこう」
と、コルネリウスは言葉をつづけた。
「おお! そんなことはやめておこう。あの気立てのいいザッグは別だけれど、そのほかに僕には友達が一人もおりません」
「それでは私の考えていたとおりね。それならそれでいいけれど、昨日の夕方、私は珠芽を植える予定であなたの花壇の手入れをしていましたの。そのとき半開きになった木戸から人影が一つ、ニワトコと白楊の植え込みの影に滑りこむのが見えました。私は見て見ぬふりをしていたけれど、それが例の男の人なの。あの人は隠れたまま、私が土地を起こしている姿を眺めていました。だから確かにあの人は、私の後を追っかけているのよ。あの人が狙っているのは、きっと私なのよ。私が鋤を動かしたり、土くれに触ったりしているのを、あの人はすっかり知っているのよ」
「おお! そう、そう、それはてっきり恋をしているんだ」
と、コルネリウスは言った。
「その男は若いの、綺麗なの?」
彼はいらいらとローザの返事を待ちながら、貪るように彼女を見つめていた。
「若くて綺麗なんですって?」
と、ローザはプッと吹き出しながら叫んだ。
「顔は醜いし、体は曲がっているし、五十に近いわ。私をまともから見ようとはしませんし、高い声でお話なんかもしませんわ」
「名前は何ていうの?」
「ジャコブ・ギゼル」
「どうも僕は知らないな」
「それではよくおわかりになったでしょう。あの人が来たのはあなたのためではないことが」
「とにかくローザ、その男はどうやらあなたを愛しているらしいね。何しろ、あなたを眺めるというのは、あなたを愛すればこそなのだから。でもあなたのほうはその男を愛しているの?」
「おお! とんでもないことですわ」
「それじゃ、僕は安心してもいいんだね?」
「お誓いしましてよ」
「それならいいや! ところでローザ、あなたはもう字が読めるようになってきたから、僕が嫉妬の苦しみや、あなたのいない時の侘《わび》しさなんかを書いてあげたら、何でも読んでくれるだろうね」
「大きな字で書いてくだすったら、私、読みますわ」
やがて話の具合が次第にローザには不安になってきたので、
「それはそうと」
と、彼女は言った。
「あなたのチューリップはいかがですの?」
「ローザ、僕がどんなに喜んでいるかわかるでしょう。今朝、僕は珠芽の上にかけてある土を静かに掻き分けて、太陽の光でよく見たら、芽の出始めの刺毛のようなのが突き出しているのが見えたのだ。ああ! ローザ、僕の心は歓びに溶けてしまいそうだったよ。あの眼にも見えないほどの白い芽は、蝿の羽が触れただけでも剥がれそうだし、捉えようもないような証拠から微細な生命のあることを示しているが、あれは、ビュイテンホーフの断頭台で首斬り人の刃物を止め、僕の命を救ってくれた殿下の命令を読んだ時より、僕の心を感動させたね」
「それでは、希望が持てますのね?」
と、ローザは微笑みながら言った。
「おお! そうだよ、うまくいきそうだよ!」
「それなら私のほうはどうかしら、いつあの珠芽を植えたものかしら?」
「一番都合のいい日だが、それはいずれお伝えするよ。しかし特に言っておきたいことは、誰の手も借りないですることですよ。特にどんな人間であっても、あなたの秘密を打ち明けないことですよ。わかってるでしょうが、愛好者ならあの珠芽を観察するだけで、その値打ちの見分けがつくでしょうからね。特に、特に注意したいことはですね、僕のほんとに優しいローザ、あなたの手もとに残っている第三の珠芽を大切にしまっておくことですよ」
「あれはまだ、あなたが包んでくだすった紙に入れて、あなたからいただいたまんまにしてありますわ。衣装戸棚の一番奥に入れて、レースの衣装の下に隠してあるの。こうすれば珠芽には重みをかけずに、乾燥したままとっておけますから。では、ごきげんよう、お気の毒な囚人さん」
「おや、もう?」
「そうなのよ」
「あんなに遅く来て、こんなに早く行ってしまうなんて……」
「父は私がもどっていないのを見れば我慢なんかしていないでしょうし、あの恋をしている人は、ライヴァルがあるのかと気にすることになりますわ」
そう言うと、彼女は不安そうに聞き耳をたてた。
「おや、どうかしたの?」
と、ファン・ベルルは訊ねた。
「何か聞こえたような気がしたけど」
「いったい何が?」
「何か足音のようなものが階段をコトコトさせたようだけど」
「なるほど」
と、囚人は言った。
「あれはグリフュスさんじゃないな。グリフュスさんなら遠くからでもわかるからね」
「そうね、父じゃないことは確かね、だけど……」
「だけどって」
「だけど、あれはジャコブさんかもしれないわ」
ローザは階段のほうへとんで行った。若い娘が十歩と降りないうちに、はたして急速に扉の閉まる音がした。
コルネリウスはひどく不安に駆られて、その場に立ちすくんでいた。しかしそれは彼にとって、ほんの序の口に過ぎなかった。
運命がよくない悪戯《いたずら》を遂行しようとする時には、ご親切にもその犠牲者に予告をしないということはめったにない。それは剣客がその敵手に対し、防御の姿勢をとる暇を与えるようなものである。
ほとんどいつの場合でも、こうした警告は人間の本能から生じたり、あるいは活気のない、それもたいていは人が信ずるよりも遥かに活気のない事物に手伝われて表示されるものであるが、ほとんどいつの場合でも等閑《とうかん》に付《ふ》されている。空中に唸りを生じていた一撃が頭上に落ちてくる。この唸り声は頭に警告を発しているのであり、警告を出された以上、頭はあらかじめ警戒しなければならないであろう。
翌日は、これということもなく過ぎた。グリフュスは三回見回りにやってきた。しかし何も発見しなかった。グリフュスは囚人の秘密を不意に掴もうという魂胆から決して同じ時間にはやってこなかった。ファン・ベルルは獄吏がやってくるのを聞くと、ちょうど農園で小麦袋を昇降させるのによく似た機械装置を発明したのでこれを使い、例の水差しをまず瓦の長押《なげし》の下に隠し、それから窓の下に敷き詰めてある石の下に隠そうと図るのだった。わが機械技師はこの操作に必要な綱のほうは、瓦に生えている苔や石のくぼみを利用するという方法を考案していた。
グリフュスは何にもそれに気づかなかった。
この操作は一週間ほど成功を収めた。
ところがある朝、コルネリウスはすでに生育過程に入って芽の飛び出した珠芽の観察にあんまり気を取られ過ぎてグリフュス老人が昇ってくるのを聞き損じてしまった。その日は大風が吹いており、塔の中ではあらゆるものがガタピシ音を立てていたのだ。――扉が突然開いた。コルネリウスは、膝の間に置いていた水差しをいきなり見つけられてしまった。
グリフュスは自分の囚人の掌中に、まだ見たこともない、つまりは隠しておかれた品物を見ると、獲物を襲う鷹よりもすばしこく、その品物に飛びかかった。
偶然といおうか、また悪魔がよく悪人にやらせることのあるあの宿命的な早業といおうか、彼のゴツゴツした手は真っ先に、水差しのちょうど真中の、貴重な珠芽が包んであった腐植土の上に置かれた。この手は手首のところが折れたので、コルネリウス・ファン・ベルルが非常に上手に治してやったあの手であった。
「ここにあるのは何ですか?」
と、彼は怒鳴った。
「ああ! これは私がいただこう!」
と、彼は土の中に手を突っ込んだ。
「何かあるって? 何にもありません、何にもありません」
と、コルネリウスはブルブル震えながら叫んだ。
「ああ! 私がいただいとこう! 水差しに土が入っているとは! この下には何か見咎められては悪いような秘密が隠してあるんだな!」
「ねえ、グリフュスさん」
と、コルネリウスは、略奪者に雛を取られた親鳥のように、不安な顔をして哀願した。
実際グリフュスは鉤《かぎ》のような手で土をほじくり始めた。
「君、君! 気をつけてください!」
と、コルネリウスは真っ蒼になって叫んだ。
「何だって? うるさいぞ! 何だって?」
と、獄吏は喚いた。
「気をつけてくださいと言っているんです。それじゃ傷がついてしまう!」
彼は必死の思いで素早く水差しを獄吏の手からひったくると、宝物でもあるかのように、両腕を防塞のようにして抱え込み、その中に隠してしまった。
だがグリフュスはいかにも老人らしく頑固であり、次第にオレンジ公に対する陰謀を発見したような気がしてきて、棒を振り上げると囚人につめ寄った。しかし花の壷を守ろうとする囚人の決意は動かないように見えた。それで彼は囚人が震えているのは、頭が割られるからではなく、水差しが壊されるのを恐れているのだと悟った。
そこで彼は力まかせに、その水差しを奪い取ろうとした。
「ああ!」
と、獄吏は憤激して言った。
「あなたは抵抗するつもりですか?」
「僕のチューリップに手を触れないでください」
と、ファン・ベルルは叫んだ。
「よし、よし、チューリップだな」
と、老人は答えた。
「囚人諸君の計略はよくわかっているんだ」
「だが、誓いますが……」
「放しなさい」
と、グリフュスは地団太を踏んで繰り返した。
「放しなさい。さもないと警備兵を呼びますぞ」
「誰でも好きな人を呼んでください。しかし僕の命のあるかぎり、このかわいそうな花は渡しませんよ」
グリフュスは猛り立ってまたしても指を土の中に突っ込んだ。そして今度は真っ黒な珠芽を引っ張り出した。ファン・ベルルのほうは相手が中身を手に入れたとは思いもよらず、容器を守り通したことに一安心している暇に、グリフュスは柔らかになった珠芽を激しく叩きつけた。珠芽は敷石の上でペシャリと潰れた。そして獄吏の大きな靴で踏みにじられて、グシャグシャになり、たちまちひき砕かれて形も何もわからなくなってしまった。
ファン・ベルルは虐殺を目撃した。露のにじみ出した残骸を一瞥した。グリフュスが残酷な喜びに浸っているのを理解した。そして絶望の呻き声を発した。この呻き声は数年前、ペリッソンが獄中で飼っていた蜘蛛を殺してしまった人殺しの獄吏でさえ、心を動かされるような声であった。
この人非人を殺してやろうという考えが、稲妻のようにこのチューリップ園芸家の脳裏に閃いた。焔と血が一緒になって額に昇り、彼の眼を眩《くら》ませた。彼はすっかり無用になった土がまだ残っている、重い水差しを両手で差し上げた。一瞬の後、彼はグリフュス老人の禿頭めがけて、これを叩きつけようとした。
叫び声が聞こえて彼は踏みとどまった。涙に溢れ、苦悩に満ちた叫び声だった。これは覗き窓の向こうから哀れなローザが発した叫び声だった。彼女は青ざめて、ブルブルふるえ、両手を宙に高く差し上げながら、父と恋人との間に割りこんできた。
コルネリウスは水差しを投げ捨てた。水差しはものすごい音を立てて、木っ端微塵に砕けてしまった。
するとグリフュスは危険が迫っていたことを悟った。そしてこの恐ろしい威嚇行為に激怒してしまった。
「おお! たまらんな」
と、コルネリウスは彼に言った。
「哀れな囚人から唯一の慰めのチューリップの球根を奪おうとは、君はまったく卑劣な卑しい男だ」
「ほんとうよ! お父さんたら」
と、ローザは言い添えた。
「あなたは何ていう罪なことをなさったんでしょう」
「ああ! お前までがそんなことを言うのか、お喋りめ」
と、老人はカンカンに怒って彼のほうに向きなおった。
「勘違いをするな、いいからさっさと降りて行け」
「畜生! 畜生!」
と、コルネリウスは絶望して言いつづけた。
「要するに、たかがチューリップ一本のことじゃないか」
と、グリフュスはいささか恥ずかしくなって言い足した。
「チューリップなら好きなだけあげますよ。うちの物置には三百個ぐらいありますからね」
「君のチューリップなんか悪魔に食われちまえ!」
と、コルネリウスは叫んだ。
「そんなものは君とどっこいどっこいの値打ちしかないんだ。おお! そんなものは千億あったって駄目なんだ! たとえ僕がそれだけ持っていたとしても、君がそこで踏み潰したあれが取り返せるんなら、君にみんなくれちまうよ」
「ああ!」
と、グリフュスは勝ち誇って言った。
「それでわかりますよ。あなたが気にしているのはチューリップではないんですね。あの球根は偽物で、何か魔法でもしかけてあり、あなたの命を救ってくださった殿下の敵と、たぶん便りをやり取りする方法が隠してあったんでしょうな。私は前にも言いましたがね、あなたの首を刎《は》ねてしまわなかったことはとんだ間違いをしたものだってね」
「お父さん! お父さん!」
と、ローザは叫んだ。
「まあこれで片がついた! 上出来! 上出来!」
と、グリフュスは元気づいて繰り返した。
「あいつをぶっこわしてやったんだぞ、あいつをぶっこわしてやったんだぞ。あなたがまた始めれば、何回でも同じようなことになるでしょうよ! ああ! 男前のいいお友達、私は前にも言いましたがね、私はあなたの生活を苦しくしてやろうと思っているんですぜ」
「畜生! 畜生!」
と、コルネリウスはふるえる指先で、この上もない歓びと希望の今は亡骸《なきがら》と化してしまった珠芽の最後の痕跡をかきまわしながら喚いていた。
「明日、別のを植えましょうね、コルネリウスさん」
と、ローザは低い声でささやいた。彼女はこのチューリップ園芸家のはかりしれない苦悩を悟って、コルネリウスの血に濡れた傷口に一滴の香油でも滴らせるように、心清くもこうした優しい言葉を注ぐのだった。
十八 ローザの求愛者
ローザがこうした慰めの言葉をコルネリウスにかけたのとほとんど同時に、階段のほうからグリフュスに向かって事の次第を知ろうと問いかけている声が聞こえた。
「お父さんだわ」
と、ローザは言った。
「聞こえて?」
「何が?」
「ジャコブさんが呼んでいるわ。心配なさっているのよ」
「あんまり音を立てるからな」
と、グリフュスは言った。
「この学者先生が私を暗殺したとでも思っているかもしれん! ああ! いつでも学者とつき合うとろくなことがない!」
そして、ローザに階段を指さしながら、
「前へ進めだ、お嬢さん!」
と、彼は言った。
そして、扉を閉ざすと、
「今、行きますよ、ジャコブさん」
と、言い終わった。
グリフュスがローザを連れて去ったので、哀れなコルネリウスは孤独と、てひどい苦悩のうちに取り残されてつぶやいた。
「おお! 老いぼれの首斬り人め、俺を殺したのは貴様なんだぞ、俺はもう生きてはいられない!」
まったくこの不幸な囚人は、もしも神が彼の生命のほうにローザと呼ぶ平衡を取らせる錘《おもり》をかけることがなかったとすれば、きっと病気になってしまったに相違ない。
夜になると、若い娘はもどってきた。
彼女は口を開くとさっそくコルネリウスに、今後は彼が花を栽培しても、彼女の父はもう二度と反対をしないだろうということを告げた。
「そんなことがどうしてあなたにわかるの?」
と、囚人は悲しげな様子で若い娘に訊ねた。
「だって、父がそういっておりましたもの」
「たぶん、僕をだますためだろうね?」
「いいえ、父は後悔していますの」
「おお! そうかなあ、だがもう遅過ぎた」
「その後悔は、自分からしたわけではありませんの」
「それじゃ、何だって後悔したの?」
「父のお友達が父のことをどんなに責めたか、ご存知だったら!」
「ああ! あのジャコブ氏だね?」
「ええ、あの方、いつも、私たちから離れないようにしていますわ」
彼女はコルネリウスの額を暗くしていた小さな嫉妬の雲が消え去るような微笑を浮べた。
「いったいどんな様子だったの?」
と、囚人は訊ねた。
「そうね、お夕食の時のことよ、お友達に訊ねられて、父のチューリップのお話、というよりも珠芽のお話をしましたの。それに父がその珠芽を踏み潰してしまった立派なお手柄の話もしたの」
コルネリウスは呻き声にもなりかねない、ため息を吐き出した。
「その時のジャコブさんのお顔をお見せしたかったわ!」
と、ローザは言葉をつづけた。
「本当に私、あの方がお城に火をつけやしないかと思ってしまいましたわ。眼は両方とも松明が燃えているようだし、髪の毛は逆立っているし、握り拳は痙攣しているし、一瞬間、私、あの方が父を絞め殺しやしないかと思ったくらいよ。――『あなたがそんなことをしたのか』って、あの方は怒鳴りました。『あなたが珠芽を踏み潰したんだって?』――もちろん父はそうだ、と答えたの――『何て恥じ知らずなんだ!』ってあの方は言葉をつづけました。『何て憎らしいことをしたもんだ! そんなことをやってあなたは罪悪を犯したんだ!』って。
父はポカンとしておりましたわ。
『あなたもやっぱり、頭にきているんですか?』なんて父はお友達に訊ねていました」
「おお! そのジャコブという人は、なかなか立派な人物だね」
と、コルネリウスはつぶやいた。
「心の正しい、選ばれた人物だね」
「あの方ったら父をずいぶん手酷《てひど》く扱いましたわ。とてもそれ以上人間を酷く扱うことはできないくらいだったのよ」
と、ローザは言いつづけた。
「あの方までが本当に絶望していました。そして絶えず繰り返していました。
『踏み潰したのか、珠芽を踏み潰したのか。おお! たまらないたまらない。踏み潰しちまったのか!』なんて。
それから私のほうに向き直ると、
『ですがね、あの男の持っているのは、一つだけじゃなかったでしょうな?』って訊ねるのよ」
「あの男がそんなことを訊いたの?」
と、コルネリウスは耳をそばだてて聞きただした。
「父は『あれ一つじゃなかったんですか、そんなら他のも探してみましょう』と言いました。『あなたは他のも探すんですって』とジャコブさんは怒鳴ると、父の襟を掴みました。もっともすぐに放しはしましたけれど。
それから私のほうを向いて、
『あのお気の毒な若い男は何か言いませんでしたか?』と訊くんです。
私、どう答えたらいいのか困ってしまったの。だってあなたからよくよく言い含められていたでしょう。あの珠芽がどんなに利益のあるものか、誰にも決して気取らせないようにって。幸い父が、私の戸惑いしていたのを救ってくれましたの。
『あの男が何を言ったかって?……泡を吹いて怒り出しましたよ』ですって。
私、それを遮《さえぎ》って、
『お父さんがあんなに無理な、あんなに乱暴な態度をとれば、どうして怒らずにすませるものですか』と、言ってやりましたわ。
『何を言ってるんだ……それじゃお前も気が狂ったのか?』と、今度は父が怒鳴りつけました。『チューリップの球根一つ踏み潰すことが、そんなに大それた災難なのか。ゴルクムの市場に行けば、一フロリンも出せば何百も買える代物じゃないか』って。
『でもきっと、あれに比べると値打ちがないのよ』と、私、うっかり返事をしてしまいました」
「そう言った時に、ジャコブはどんな様子だった?」
と、コルネリウスは訊ねた。
「そう言いましたら、ね、これはぜひお話しておかねばなりませんけど、あの方の眼がキラリと光ったように思えたの」
「なるほど」
と、コルネリウスは言った。
「でも、それだけじゃなかったでしょう。何か言ったでしょう?」
「こう言いましたわ。『綺麗なローザ、あなたはあの球根を値打ちのあるものだと思っていますか?』って、猫なで声で言いましたわ。私、自分で失敗したことに気がつきました。
『私が、私に何がわかるもんですか』って、私、無造作に答えました。『チューリップのことなんか、私にはどうしてわかるもんですか? ただ私が知っていることは、なんともお話にならないことですけれどね、私たち囚人たちと一緒に暮らさなくてはならない破目に陥っているんだということですよ。――だから私は囚人だって、何か娯楽を持っていた方がいいんじゃないかということを知っているのですわ。あの気の毒なファン・ベルルさんは、あの球根を愉しみにしておいでだったのですわ。ですからね! あの方からそんな愉しみごとを取り上げてしまうなんて、ずいぶん残酷なことだと申し上げているんです』
『だが、第一に』と、父は言いました。
『あの男はどうやってあの球根を手に入れたんだろう? これはぜひ知っておく必要のあることだ。私にはそんな気がするがな』
私は父の視線を避けようとして、目をそむけました。しかしジャコブさんの眼と会ってしまいました。
あの方は私の心の奥底まで分け入って、私の考えていることを追求したいような様子でした。
不機嫌なそぶりを見せてやれば、答えをしなくても済ませることがよくありますわね。私、肩をそびやかして、クルリと背を向け直すと、出口のほうに歩み寄りました。
ところが非常に低い声で発音されたのですけれど、ちょっとした言葉が耳に入ったので、足が停まってしまったのです。
ジャコブさんが父に言っていたのです。
『確かめてみるのも、大して難しいことじゃありませんね』
『身体検査をすればいいでしょう。珠芽がほかにもあるのなら、わけなく見つけられるでしょうよ』
『そうですね。まあだいたい三個はありますな』
と、そんなことを言っているんです」
「三個あるんだって!」
と、コルネリウスは叫んだ。
「僕が珠芽を三個持っているって、あの男が言ったんですね!」
「おわかりになるでしょう。その言葉を聞いた時、私、あなたと同じようにびっくりしてしまったの。私、振り向いてみたわ。二人ともあんまり夢中になっていたので、私のそぶりに気がつきませんでしたわ。
『ですがね、その球根は自分では持っていませんね』と、父が言いましたわ。
『その時は、何か口実を設けて、あの男を下に降ろし、その間に私が部屋の中を探してみましょう』ですって」
「おお! おお!」
と、コルネリウスは唸った。
「そうすると、あなたのジャコブさんというのは、大した悪党なんだな」
「私、恐くなりましたの」
「ローザ、話してください」
と、コルネリウスはすっかり考え込んで言った。
「何のことを?」
「あなたは花壇の用意をしていた日に、あの男が後をつけてきたと言っていなかったかな?」
「言いましたわ」
「ニワトコの木立ちの影に、人影が滑り込んだと言いましたね」
「確かに言いましたわ」
「あなたが鋤を動かしているのを、一つもあまさず見ていたのだったね」
「一つも残らずね」
「ローザ……」
と、コルネリウスは蒼くなって呼びかけた。
「何ですの!」
「あの男が後を尾けていたのはあなたではないな」
「それではいったい誰の後を尾けていたの?」
「あの男が恋しているのはあなたとは違うんだよ」
「それではいったいどなたを恋しているの?」
「あの男が後を尾けていたのは僕の珠芽なんだよ。あの男が恋しているのは僕のチューリップに違いないよ」
「ああ! そういえばそうね! そんなことだって大いにありうることね」
と、ローザは叫んだ。
「それを確かめたいと思いますか?」
「どんな方法で?」
「おお! それは非常にお安いご用ですよ」
「おっしゃってくださいな」
「明日、お花畑にいらっしゃい。最初の時と同じようにあなたがそこに行くことを、ジャコブが気がつくようにやってごらんなさい。最初の時と同じようにあの男があなたの後を尾けるようにやるのです。それから珠芽を埋めたようなふりをして、お花畑から出るのです。しかし木戸のところから様子を眺めてごらんなさい。するとあの男が何をするか、あなたにもきっとわかるでしょう」
「いいことよ! でもその後は?」
「その後だって! あいつが活動を起こしたら、僕たちもそれに応じてやるまでだよ」
「ああ!」
と、ローザはため息を吐《つ》きながら言った。
「あなたは本当に球根がお好きなのね、コルネリウスさん」
「実のところ」
と、コルネリウスはため息まじりに答えた。
「あなたのお父さんが、あの不幸な珠芽を踏み潰してしまった時から、僕の命の均衡が麻痺してしまったような気がするんですよ」
「それではね!」
と、ローザは言った。
「もっと別のことをやってごらんにならなくて?」
「どんなこと?」
「父の申し出たことをご承知にならなくて?」
「どんな申し出だったろう!」
「父はあなたにチューリップの球根を、百個ほど提供すると申していましたわ」
「そうだったね」
「そのうちの二、三個をお受け取りになってくださいな。三つ目の珠芽を育てられるかもしれませんわ」
「そうだね、うまくいくかもしれないな」
コルネリウスは眉をしかめてつぶやいた。
「もしもあなたのお父さんがたった一人でおられるんならね、だがもう一人の男、あのジャコブがいるのではな。あの男は僕たちを狙っているんだ……」
「ああ! それはそうですわね。でも、よくよく考えてちょうだいね! 私、そう思うんですけど、そんなことでもおやりになれば、あなたもあんまり、ぼんやりなさっていなくってすむんじゃないかしら」
彼女は多少、皮肉のこもらないでもない微笑を浮かべながらそう言った。
そう言われるとコルネリウスはちょっと考え込んだ。彼が大きな欲望と戦っているのが容易にわかった。
「いや、とんでもない!」
と、彼はまったく古風な克己心《こっきしん》をふるって叫んだ。
「それは意気地のないことだ。そんなのは気狂い沙汰というものだ。それでは卑怯になってしまう。もしも僕が残っている最後の財産を怒りや嫉妬の充満している危険に曝すということになれば、僕はどうにも許しがたい男になってしまう。駄目だ! ローザ、それはいけませんよ! 明日になったら僕たちは、あなたのチューリップを植える場所を決めることにしましょう。あなたは僕の指図どおりにそれを育ててください。それから三番目の珠芽はだね」
と、コルネリウスは深々とため息を吐いた。
「三番目のチューリップは、あなたの衣装戸棚にしまっておいてください! けちん坊が最初の金貨か最後の金貨をしまっておくように、母親が息子を守るように、怪我した人が血管から流れ出る何よりも貴重な血の一滴を大切にするように。ローザ! それをしまっておいてください。あの中にこそ僕たちの永遠の幸福が、あの中にこそ僕たちの財産が入っていると、何かが僕に告げているのです! どうぞしまっておいてください。ルーヴェスタンに雷火が落ちることがあっても、ローザ、あなたの指輪も、宝石も、あなたの顔を取り囲んでとてもよく映える、その黄金の冠帽も犠牲にしてしまうと誓ってください。ねえ、ローザ、誓ってください。僕の黒いチューリップが潜んでいるあの最後の珠芽を持ち出さぬということを」
「安心しておいでになってね、コルネリウスさん」
と、ローザは悲しみと真面目さとの優しく混ざり合った調子で答えた。
「安心しておいでになってね。あなたのお望みになることは、私にとってはご命令なんですもの」
「それからまた」
と、若者は次第に熱を帯びてきて言葉をつづけた。
「もしもあなたが後を尾けられているとか、行動を監視されているとか、あなたの話からお父さんやあの厭な恐ろしいジャコブが疑念を起こしたりしたかと気づいたならば、やむをえない! ローザ、すぐに僕を犠牲にしてください。僕はもうあなたがいなくては生きていけないし、あなたしかこの世に待っている人もいないのだが、僕を犠牲にしてください。――二度と僕に会いにこないでください」
ローザは胸の中で心臓がしめつけられるような感じがした。涙は眼のところまで溢れてきた。
「何ということでしょう!」
と、彼女はつぶやいた。
「何ですか?」
と、コルネリウスは訊ねた。
「私、わかりましたわ」
「何がわかったんです?」
「私、わかったわ」
と、若い娘はいきなりしゃくりあげた。
「あなたがどんなにチューリップを愛していらっしゃるか、それも、あなたのお心には、ほかに何も愛情を迎える余地がないくらいだということが、よくわかりましたわ」
そう言うと、ローザは逃げていった。
その夜、若い娘が立ち去ってしまってから、コルネリウスは、今まで過ごしたこともないような厭な一夜を送ることになった。
ローザは彼に対して憤りを感じた。彼女にはそれだけの理由があった。彼女は恐らく二度とふたたび囚人に会いにこないであろう。そして彼のほうはローザについてもチューリップについても、何の消息も得られなくなってしまうに違いない。
さて、一点の非の打ちどころのないチューリップ園芸家というものは、今もなおこの世に存在しているのだが、そうした人々に対して、筆者はこのような奇妙な人物を何と説明したらよいものであろう。
筆者がこういうことをいうのは、わが主人公と園芸術に対する冒涜かもしれないが、この二つの愛情のうちで、コルネリウスが一番惜しがりそうなものはローザへの愛情だった。午前三時ごろ、彼は疲労困憊し、恐怖に悩まされ、悔恨に責め苛まれて眠りについた。夢の中で真っ先に現れたのは大きな黒いチューリップではなく、金髪のフリゾン娘の、ゆうに優しい青い眼であった。
十九 女と花
しかし哀れなローザは自分の部屋に閉じこもってしまうと、コルネリウスが誰のことを、あるいはどんなことを夢に見ているのか知るよしもなかった。
それでローザは彼が話していた事柄から推して、彼が夢に見ているのは自分のことではなくチューリップに違いないと思う気持ちが強かった。だがローザは誤解してしまったのだ。
しかし誰一人として彼女が間違っていると話してくれるものもなく、コルネリウスの不用意な言葉は毒液のように彼女の魂の上に注ぎ込まれたので、ローザは夢を見るどころか泣くばかりだった。
結局、ローザは高い精神と素直な深い感覚の持ち主だったので、自分の精神的なあるいは物質的な資格についてのことではなく、その社会的地位について自分の身の上を判断した。
コルネリウスは学者だった、またコルネリウスは富豪だった。少なくとも財産を没収されるまではそうであった。コルネリウスはかつて貴族が祖先伝来の紋章を誇りとしていたのよりも、屋号の紋所をつけた老舗の看板をさらにいっそう誇りとしている実業家出身のブルジョワジーに属していた。だからコルネリウスはローザを一時の慰みものと見ていたのかもしれなかった。だが確実なことは、いざ彼の心を占めるものは何かという時、それは一獄吏の賤しい娘であるローザではなく、むしろチューリップ、すなわち花の中でも一番高尚で誇り高いあの花に心を占められるに違いないということであった。
ローザは、コルネリウスが彼女よりも黒いチューリップを選んだ気持ちをそんなふうに理解した。しかし彼女はそうとわかるといっそう絶望の気持ちに駆られるばかりだった。
そうしたわけで彼女はこの恐ろしい夜の間に、眠られぬままに過ごした夜の間に、ある決心をしてしまった。
その決心というのは、あの覗き窓にもう二度とは行くまいということだった。
しかし彼女は、コルネリウスが彼女のチューリップの消息を知りたいという熱烈な希望を抱いているのを承知していた。それにしても彼女は初めは哀れみを感じてそれが次第に大きくなり、やがて同情からついにはただ一途に、駆け足で恋にまで進んでしまった男を二度と見に行くつもりはなくなっていた。しかし彼女はこの男を絶望させるに忍びなかった。そうした様々な理由から、彼女は始めていた読み書きの学習を一人で進めていく決意をした。幸いにも彼女の習得したものは、たとえその師がコルネリウスであったとしても、もう教師を必要としない段階に達していた。
そこでローザは、非業の最期を遂げたコルネイユ・ド・ウィットのバイブルの二枚目を熱心に読み始めた。それは一枚目が裂き取られてから一枚目になっていたのだがその上には、コルネリウス・ファン・ベルルの遺書が書きとめられてあった。
「ああ!」
と、彼女はこの遺書を読み返しながらつぶやいた。読み終わるまで、愛の真珠ともいうべき涙は澄んだ眼から青ざめた頬の上を流れつづけた。
「ああ! あの時は、とにかく私、あの方が私を愛してくださっているのだとすぐに思い込んでしまったのね」
彼女は誤解していたのだ。行くところまで行ったあの時機ほど、囚人の愛情が現実のものとなっていたことはなかったのだ。なぜならば、すでに筆者も当惑しながら述べたとおり、大きな黒いチューリップとローザとの争いで、負けたのは大きな黒いチューリップのほうだったのだから。
しかし繰り返して言うが、ローザは大きな黒いチューリップが敗れたことを知らなかった。
こうしてローザは長足の進歩を遂げた読みかたの練習を終えると、ペンを取った。そして彼女は賞賛せずにはいられない熱心な態度で、とりわけ難しい書きかたの練習に取りかかるのだった。
しかしとにかく、ローザはコルネリウスがうかつにも勝手気ままに自分の思いを並べ立てた日に、すでにほとんど読める程度に字は書けたので、少なくとも一週間経てば、囚人にチューリップの消息を知らせてやるには十分間に合う速度で、進歩する望みは絶たなかった。
彼女はコルネリウスから与えられた注意を一言も忘れていなかった。その上にコルネリウスが語ったことで、注意の形式をとらなかった場合のことすら、決して一言も忘れていなかった。
彼のほうでは眼を醒ました時、それまでにかつてなかったほどの激しい恋情を抱いていた。チューリップは彼の胸の中でさらになお光り輝き、生彩に溢れていた。しかし結局彼の眼にはそれがもはや何ものをも、ローザさえも犠牲にすべき財宝とは映ってこなかった。そして神が恋人の胴着を飾るために彼に贈ってくれた、自然と芸術との驚異すべき結合を示している貴重な花として見えるのだった。
しかし、日がな一日、漠然とした不安が彼を駆り立てた。彼は、大きな危険がその夜かあるいはその翌日かに襲ってきても、一時的に忘れていられるほどの強い心の持ち主の一人だった。そうした人々は、一度懸念が克服されると、日常どおりの生活を送っていく。ただ時折、忘れていたこの危険が、不意にその鋭い牙で彼らの心に咬みつくのだ。彼らは戦慄して、なぜ自分が戦慄したのかを胸に問う。やがて自分で忘れていたことを思い出して、
「おお! そうか、あのことか!」
と、ため息まじりにもらすものだ。
コルネリウスの『あのこと』とは、ローザが今晩はいつものように来ないだろうという不安だった。
夜が進むにつれて懸念は次第に激しくなり、現存するもののようになってくるのだった。そして最後にはこの懸念がコルネリウスの肉体の隅々まで占領し、彼の裡《うち》で生きているものはただこの懸念ばかりのような状態に陥ってしまうのだった。
こうして彼は余韻の長い胸の動悸を覚えながら、闇を迎えた。闇が深くなるにつれて、前の夜にローザに述べてこの哀れな娘をすっかり憤らせてしまった言葉の数々が、いっそう目前にあるもののように彼の心に蘇ってくるのだった。彼は自分を慰めてくれる娘に、彼のことをチューリップの犠牲にしなさいなどと、言い換えると、彼にとってローザを眺めることが人生に必要欠くべからざるものとなってしまった現在となって、たとえどんなに欲求が強くとも、彼に会いに来るのを諦めなさいなどということを、自分がどうして話せたものかをいぶかしむのだった。
コルネリウスの部屋から、城砦の大時計が時刻を告げて鳴っているのが聞こえた。七時、八時、そして九時が鳴った。この九つ目の時刻を知らせて九つ目の槌が叩かれた時ほど、青銅の鐘の響きが心の底で深々と鳴り渡ったことはなかった。
やがてあらゆるものが静寂に帰した。コルネリウスは手を胸の上に当てて、動悸を圧し鎮めようとしながら耳を澄ました。
いつもは階段を昇ってくるローザの足音や衣ずれの音がすっかり耳に慣れていたので、彼女が第一段目に足をかけると、彼はつぶやくのだった。
「ああ! ローザが来るな」
しかし今夜は廊下の静寂を乱す物音は何一つ聞こえなかった。大時計は九時十五分を告げた。やがて異なる二つの音がして九時三十分になった。それから九時四十五分。そして、ついに荘重な鐘の音が城砦の住人ばかりでなく、ルーヴェスタンの全住民に、十時になったことを告げていた。
それはいつもならローザがコルネリウスに別れを告げる時刻だった。その時刻は鳴った。しかし彼女はまだやってこなかった。
こうしてみると、彼の予感は間違いではなかった。ローザは憤って部屋に引きこもってしまい、彼を見捨ててしまったのだ。
「おお! 僕にはこうなるだけの資格はあるんだ」
と、コルネリウスはつぶやいた。
「おお! 彼女はやってこないだろう。こないほうがましなのだろう。僕が彼女の身になったら、やっぱりそうするに違いない」
そうはいうものの、コルネリウスは相変わらず耳を澄まし待ち構え、望みをかけていた。
彼は真夜中まで耳を澄まし待ち構えていた。しかし真夜中になると望みは絶えた。彼は着の身着のままでベッドに行くと、その上に身を投げ出した。
夜は長く物悲しかった。やがて朝が来た。しかし朝がきても、この囚人には何の希望ももたらさなかった。
朝の八時に彼の部屋の扉が開いた。しかしコルネリウスは顔を振り向けようとさえしなかった。彼は廊下でグリフュスの重い足音がするのを聞き取っていたのだった。しかし近づいてくるのは、この足音だけだということにすっかり気がついていた。
彼は、獄吏のほうに視線を向けることさえしなかった。
だが彼はローザの消息を知るために、この男に訊ねてみようかと思いもした。そんな質問をすれば彼女の父親に、どんなに奇妙に思われるかもしれないとしても、一応訊ねてみるつもりになった。彼は手前勝手に、グリフュスが娘は病気になったとでも答えてくれればと願っていた。
よほど変ったことでも起こらぬかぎり、昼日中ローザがやってくることは絶対になかった。それで事実上、コルネリウスは、日のあるかぎり待ち構えていたことはなかった。しかし彼の身体を走る戦慄や、扉に耳を当てたり、覗き窓にもの問いたげな素早い視線を投げる様子を見れば、この囚人がひそかにローザがいつもの習慣を破ることを願っていることが窺われるのだった。
グリフュスが二度目にやってきた時、コルネリウスは今までの仕草とは打って変わって、獄吏の老人に問いかけた。彼はこの上もない優しい声で老人の健康はどうなのかと訊ねた。しかしスパルタ人のようにあっさりしているグリフュスは、
「元気ですよ」
と、答えただけだった。
三回目にやってきた時、コルネリウスは質問の形式を変えた。
「ルーヴェスタンには誰も病人はおりませんか」
と、彼は訊ねた。
「いませんね」
と、グリフュスは囚人の鼻先で扉を閉めながら初めの時よりも、もっとあっさり答えた。
グリフュスは、コルネリウスのほうからこんな丁寧な振舞いをされた覚えがなかったので、この囚人が買収にとりかかったのだと判断した。
コルネリウスはまたしても独りになっていた。午後の七時だった。すると昨夜よりもさらに激しく、先にも描いたような苦悩がまたしてもやってくるのだった。
しかも昨夜と同じように、時間は流れたが優しい人影は現れてこなかった。
その人影は覗き窓から哀れなコルネリウスの独房を照らし、ひきさがってからもその姿を見せない間じゅう、光を残していたものだった。
ファン・ベルルはまったく絶望してその夜を過ごした。翌日になると、彼にはグリフュスは平素よりも醜悪で、野蛮で、さらにやりきれない存在のように思われた。彼の脳裏というよりも胸の裡に、この男がローザの来るのを邪魔しているのではないかという疑問が掠めたのだった。
彼はグリフュスを絞め殺してやりたいような兇暴な欲望に捉えられた。だがグリフュスがコルネリウスの手で絞め殺されたとしたら、神の掟と人間の法律によって、ローザは永久にコルネリウスと相見えることができなくなってしまうのだ。
そこでグリフュスは自分では気づかずにいたが、かつて経験したこともなかったような生命を失ってしまう最大の危機の一つから、危うく虎口を脱したのだった。
夜が来た。絶望は憂愁に変わった。ファン・ベルルは思い出すまいと努めたが、哀れなチューリップの追憶が自分の嘗《な》めた苦痛と交じり会ってくるにしたがって、この憂愁はいっそう暗澹たるものになるのだった。時はまさに四月で、最も熟達したチューリップ園芸家がチューリップを植えるのに最適の時期としている季節である。彼はかつてローザに「珠芽を土に埋《い》けなくてはならない日はいずれ教えてあげるよ」と言った。彼はその日のことをあの翌日の晩にでも伝えておくべきであった。天候はよかった。空気はまだいくぶん湿気を帯びていたが、四月の太陽の仄白《ほのじろ》い光線に温かくなり始めていた。この光線は仄白いといっても、非常に甘美なもののように思えるものであった。もしも、ローザが植付けの時期を失ってしまったらどうしよう。もしもローザに会えないという苦痛に加えて、植える時期が過ぎたりあるいは全然植えなかったりして、むざむざと珠芽が駄目になるのを目にしなければならない苦痛がやってきたらどうしよう!
こうした二つの苦痛が一緒になると、飲食物が喉を通らなくなるのも無理はなかった。
四日目になると、こんな事態が起こった。
コルネリウスは苦痛に苛《さいな》まれて黙りこくり、生気を失って真っ青な顔色をして、窓の格子から頭を抜き出せなくなってしまうのも構わずに、鉄格子を張った窓から外界のほうへ身を乗り出すようにしていたが、それはまことに哀れな姿だった。彼はいつかローザが話してくれた河岸に牆壁《しょうへき》のある花壇が左手にあるのを見届けようと努力しているのだった。そうやって、彼は失った二つの愛の対象である若い娘かチューリップかのどちらかが、四月の太陽の朝の光を浴びている姿を見つけ出そうと期待していた。
夜になると、グリフュスはコルネリウスの昼食と夕食とを運び去った。コルネリウスはそれにほとんど手をつけていなかった。
その翌日、彼は食事に全然触れなかった。グリフュスは少しも手のついていない二回分の食事を下げていった。
コルネリウスは、一日中、起き上がろうとしなかった。
「うまい具合だ」
と、グリフュスは最後の巡視を終えて階下に降りてくると言った。
「いい按配だ。もうあの学者なんかに悩まされることもなくなりそうだ」
ローザは身震いした。
「何ですって! それはまたどういう意味です」
と、ジャコブは訊ねた。
「あの男はもう水も飲まないし、食事も摂《と》らないし、起き上がろうともしませんよ」
と、グリフュスは言った。
「グロティウス氏のように、あの男もここから箱に入ってお出ましになるだろうが、箱は箱でも、それは棺桶でしょうな」
ローザは死人のように真っ蒼になった。
「おお!」
と、彼女はつぶやいた。
(私にはわかってるわ。あの方が心配していらっしゃるのはチューリップのことなんだわ)
彼女は胸を締めつけられて立ち上がると、自分の部屋に戻った。彼女はペンと紙とをとると、一晩中、手紙を書く練習をした。
翌日、コルネリウスは起き上がると窓のところまで足を引きずっていった。すると一枚の紙が扉の下に滑り込ませてあるのに気がついた。
彼はその紙に飛びかかると、それを押し開いて目を通した。その字体は、なかなかローザのものだとは思えなかった。それほど姿を見せぬこの七日間に、上達していたのだった。
「ご安心ください。あなたのチューリップは健在です」
ローザのこの短い語句はコルネリウスの苦悩の一部を和らげはしたけれども、その中には皮肉な調子のこもっているのを感じ取らずにはいられなかった。しかしそれはそれでよかったのだ。ローザは病気ではなかったのだ。ローザは傷つけられたのだった。ローザが二度と来なくなったのは強制されたからではなかった。彼女がコルネリウスから遠ざかっているのは、自分の意志から出ていることだったのだ。
ローザは自由の身であった。ローザはその意志の中に彼女と会えない悲しみのために死にそうな男と、会いにこないでいられる勇気を見出だしていたのだった。
コルネリウスは紙と鉛筆とを手に入れた。それはローザが持ってきてくれたものであった。彼には若い娘が返事を待っているのだが、しかしその返事を夜にならねば取りにこられないということがわかった。そこで彼は、受け取ったのと同じような紙に次のように書いた。
「僕が病気になったのは、チューリップが不安だからではありません。あなたに会えない悲しみからです」
やがてグリフュスが出ていって、次いで夜がやってくると、彼は扉の下に紙を滑りこませて、耳を澄ましていた。しかしどんなに注意して耳を澄ませても、彼には足音も衣ずれの音も聞こえなかった。
ただ彼は、ため息のように弱々しく愛撫のように甘美な声が、覗き窓から次の二語をささやいたのを聞いただけだった。
「明日、ね」
明日というと――それは八日目になる。一週間、コルネリウスとローザは互いに相見えることがなかったのだ。
二十 一週間の出来事
翌日、いつもの時刻になると、ファン・ベルルは覗き窓を軽く叩く音を聞いた。それは二人の仲が順調だった時に、ローザがいつでもやっていたことであった。
お察しのとおりコルネリウスは扉口から遠くないところにいたが、その鉄格子越しに、あまりにも長い間消え去っていたあのかわいらしい顔を見ようとした。
ローザはランプを手に提げて彼を待っていたが、悲しみに満ち、色青ざめた囚人の顔を見ると、衝動を抑えることができなかった。
「あなたは苦しんでいらっしゃいましたのね、コルネリウスさま?」
と、彼女は訊ねた。
「ええ、お嬢さん」
と、心身ともに苦しみぬいたコルネリウスは答えた。
「あなたは何も召しあがらなくなったそうですのね」
と、ローザは言った。
「お父さんは私に、あなたがもう起き上がれなくなったと申しておりましたわ。それで私、あなたをご安心させてあげようと思い、あなたがご心配になっている大切なものの身の上を書いて差し上げましたの」
「僕も」
と、コルネリウスは言った。
「あなたにご返事をあげましたよ。ねえローザ、あなたは僕の手紙を受け取ったので、また会いにきてくださったんでしょうね」
「そうですわ、私、いただきましたわ」
「それでは字が読めないということは、口実にはなりませんね。あなたはすらすらと読めるだけでなく、書きかたの方も素晴らしく進歩しましたね」
「実のところ、私、あなたのお手紙をいただいたばかりでなく、拝見しましたの。それで何とかあなたを健康にする方法はないものかと思って、私こうして来たのですわ」
「僕を健康にするんだって?」
と、コルネリウスは叫んだ。
「それでは何かよい知らせでも僕に伝えてくれるのかしら?」
そう言うと、若者はローザの上に希望に輝く眼差しをそそいだ。
彼女はこの眼差しを理解もしなかったし、また理解しようともしなかったけれども、重々しい声音で答えた。
「私がお話しなければならないのは、あなたのチューリップのことだけですわ。私、存じ上げているの。あなたにとって一番重大な気がかりはそのことですわね」
ローザはこの短い言葉を冷やかな調子で述べたので、コルネリウスは身震いした。
この熱狂的なチューリップ園芸家は、黒いチューリップをいつでも恋敵として争っているこの哀れな娘が、冷笑を装うヴェールの下に隠しているものを完全には理解していなかった。
「ああ!」
と、コルネリウスはささやいた。
「またか、またですか! ローザ、僕は言わなかったかしら、しょうがないなあ! 僕の思っていたのはあなただけなんだと。僕が惜しんだのはあなた一人ばかりだと。僕に必要なのはあなただけなのだ。あなた一人がいないばかりに、僕は空気も、日光も、熱も、光も、生命も取り上げられてしまうのだ」
ローザは憂鬱そうに微笑した。
「ああ!」
と、彼女は言った。
「そうでしたわ、あなたのチューリップが大変な危険に遭っていますのよ」
コルネリウスは思わず身震いした。たとえそれが罠をかけられたものとしても、罠にかからずにはいられなかった。
「大変な危険だって?」
と、彼は震えあがって叫んだ。
「いったい、それはどうしたこと?」
ローザは優しい思いやりをこめて彼を見つめた。彼女は自分の望んでいることがこの男の力ではどうにもならないものであり、この男はその弱点と一緒に受け入れてやらなければならないのだと気がついた。
「そうよ」
と、彼女は言った。
「あなたのお察しのとおりでした。求愛者で求婚者だったあのジャコブという人が来たのは、やっぱりわたしが目的ではなかったんですの」
「それではいったい誰が目的なの?」
と、コルネリウスは待ちかねるように訊ねた。
「あの人の目的はチューリップですわ」
「おお!」
と、コルネリウスはこの知らせに、二週間前ローザが誤解して、ジャコブが来た目的は彼女なのだと告げた時よりもいっそう青くなりながら言った。
ローザはこの恐怖を読み取った。またコルネリウスは彼女の表情から、筆者がすでに述べたようなことを彼女が考えているのだと気がついた。
「おお、許してください、ローザ」
と、彼は言った。
「僕はあなたのことを知っていますよ。あなたが善良な誠実な心の持ち主であることを知っていますよ。神さまはあなたに思考力や、判断力や、行動力などを与えてくださいましたね。しかし脅かされている僕の哀れなチューリップには、神さまは何にもそういったものを授けてくださらなかったのです」
ローザはこの囚人のこうした口実には答えようとせずに言葉をつづけた。
「私の後を尾けてお花畑に入って来たあの男ね、私、ジャコブに違いないと思ったんですけど、あの男をあなたが不安に思われた時から、私のほうはもっとずっと不安に思いましたの。.それで私、あなたのおっしゃったとおり実行してみました。.あなたと最後にお目にかかった日の翌日、あなたがあんなことをおっしゃった……」
コルネリウスはそれを遮った。
「許してください。もう一度、ローザ」
と、彼は叫んだ。
「ぼくがあなたに言ったことは、僕の間違いでしたよ。あんな困った言葉のことはもうお許しを願いましたがね。もう一度お許しを願いますよ。それでもどうしてもだめですか?」
「あの日の翌日」
と、ローザは言いつづけた。
「あの厭な男が後を尾けているのは……私なのかチューリップなのか確かめる計略のことで……あなたがおっしゃってくだすったことを思い出しながら……」
「そうだ、厭な奴だな……そうですね」
と、彼は言った。
「あなたもあの男が大嫌いでしょう?」
「ええ、嫌いよ。だってあの人は八日前から、私の悩みの種だったんですもの!」
「ああ! あなたも、それではあなたも苦しんでいたの? その言葉は本当にありがたいね、ローザ」
「あの厭な日の翌日」
と、ローザはつづけた。
「それで私、お花畑に降りて、チューリップを植えることになっている花壇に近づいて行ったの。今度も前の時のように、後を尾けられているのかどうかと絶えず気を配りながら……」
「そしたら?」
と、コルネリウスは訊ねた。
「そしたらね! 前と同じような人影が木戸と牆壁との間に滑りこんできて、またニワトコの影に消えてしまったの」
「あなたは、見なかったようなふりをしていたんでしょうね?」
と、コルネリウスは前にローザに与えた忠告をすっかり思い出しながら訊ねた。
「ええ、私、花壇の上にしゃがんで、珠芽を植えるようなふりをして、鋤で土を掘り起こしていたの?」
「そしたらあの男はどうしたかね……その間?」
「木立ちの枝の間から虎のように燃えている眼が、ギラギラと光っていたの」
「見えたんだね? 見えたんだね?」
と、コルネリウスは言った。
「それからね、仕事が終わったように見せかけて、わたし、引っこんでしまったの」
「でも、お花畑の木戸の後ろまでだったのだろうね? あなたが出てしまったら、あの男が何をするか、木戸の隙間か鍵穴から、覗いてみるといった具合に」
「私が戻ってこないかどうかを確かめるためなんでしょう。無論あの人は少しの間待っておりましたわ。それから隠れ家から忍び足で出てくると、回り道をして花壇に近づきました。そしてとうとう目的の場所に、新しく土の掘り起こされた場所の真正面に辿りつきました。四方八方に目を配り、お庭の隅々やお隣りの建物の窓から窓を、それから地面や空や空気まで調べましたわ。誰も見ていなくて、人っ子一人いず独りぼっちだと思うと、あの人は花壇に駆け寄って、両手を柔らかな土に埋め、ひとすくい取り出すと、珠芽があるかないかを見ようとして両手の中で静かに土をほぐしました。三回同じことを繰り返していましたけど、その度ごとに動作に熱がこもってくるのです。それからやっと一杯食わされたことに気がつくと、あの人は夢中になっていた興奮を鎮めて、耙《まぐわ》で元のとおりに土をならしました。すっかり悄気《しょげ》こんできまり悪げに、あの人は普通の散歩者のような無邪気な様子をして、木戸へ引き返していきましたわ」
「おお! 情けない奴!」
と、コルネリウスは額に流れる汗を押し拭いながらつぶやいた。
「おお! 情けない奴、まったく僕が察していたとおりだった。だがローザ、珠芽はどうしたの? 困ったことだよ! 植え付けるにはすでに少々遅すぎるんだ」
「珠芽は六日前から土に埋《い》けてあるわ」
「それはどこなの? それはどういうわけ?」
と、コルネリウスは叫んだ。
「おお! 助けたまえ、なんという不用意なことをしたもんだ! 珠芽はどこにあるの? どんな土に埋けたの? 日当たりはいいの悪いの? あの恐ろしいジャコブに盗まれる危険はないの?」
「ジャコブが私の部屋の扉を無理にこじ開けることでもないかぎり、盗まれる危険はありませんわ」
「ああ! それではあなたの手元に、あなたのお部屋の中にあるんだね」
と、コルネリウスはやや安堵の態《てい》で言った。
「だが、いったいどんな土の中に、どんな容器の中に入れてあるのかしら? ハルレムやドルドレヒトの婦人たちのように、水の中に入れて芽を出させるようなことをしたんじゃないでしょうね。あの婦人たちは土の代わりに水を使っても大丈夫だなどと思いこんでいるんですがね。水は酸素三十三と水素六十六の割合でできているが、それを代わりに使おうなんて……でもこんなことを言ってもしょうがないな、ローザ!」
「ええ、私には少しむずかし過ぎるわ」
と、若い娘は微笑みながら言った。
「私の申し上げられることは、あなたの珠芽は水の中なんかには入っていないということですわ。ご安心なさってくださいな」
「ああ! それで安心した」
「あれはね、砂岩で造った壷の中に入れてありますわ。大きさはちょうどあなたが前に珠芽を埋けていた水差しぐらいなの。庭の一番よい場所から取ってきた土を四分の三道路から取ってきた土を四分の一、それで土壊を作ってその中に入れてあります。私、あなたやあの恥知らずのジャコブがお話しているのを聞いていましたの。どんな土に入れておけばチューリップの芽が出るかを。あなたも憶えていらっしゃるでしょう。私、ハルレムで第一の園芸家ぐらいのことを知っていますのよ」
「ああ! それじゃあ、後は日当たりのことだ。どんなふうに日光に当てているの?」
「今、お天気の良い日には一日中日光に当てていますわ。でも芽が土から出て、日射しがもっと強くなったら、私あなたがなさったようにいたしますわ。コルネリウスさま。朝は八時から十一時まで東側の窓に出し、午後は三時から五時まで西側の窓におき、日光浴をさせますの」
「おお! そのとおり、そのとおり!」
と、コルネリウスは叫んだ。
「あなたは立派な園芸家ですよ、綺麗なローザ。だが僕は思うんだが、僕のチューリップを育てるには、あなたの時間を全部取られることになりますよ」
「ええ、そうね」
と、ローザは言った。
「でも、構わなくてよ。あなたのチューリップは私の娘ですもの。もしも私がお母さんなら、わが子に時間をかけるでしょう。私、それだけの時間をあなたのチューリップにかけますわ。それに私、チューリップのお母さんになるより仕方ありませんわ」
そして彼女は微笑みながら言い足した。
「そうすれば、私、チューリップの恋敵にならなくてもすむでしょう」
「いい子で優しいローザ!」
と、コルネリウスは園芸家のというよりも恋人としての視線を若い娘に投げながらささやいた。ローザはいくぶん、慰められた。
やがてコルネリウスが鉄格子の隙間からローザの逃げ出しそうな手を探し求めている間、一瞬、沈黙した末に、
「それでは」
と、コルネリウスは再び口を開いた。
「珠芽を土に埋けてから、もう六日になるんだね?」
「ええ、六日ですわ、コルネリウスさま」
と、若い娘は答えた。
「まだ芽は出ないの?」
「まだね、でも明日あたり出ると思うの」
「明日になったら、あなたの消息を知らせるついでに、チューリップの消息も伝えてください。いいですね、ローザ?――あなたが今も言ったとおり、僕も娘のことがとても心配なんだ。しかしお母さんのことは、もっとずっと気になっているんですよ」
「明日は」
と、ローザはコルネリウスを横目で見ながら言った。
「明日は、私、来られるかどうかわかりませんわ」
「ええ! 何だって!」
と、コルネリウスは言った。
「なぜ明日は来られないの?」
「コルネリウスさま、私、いろんなお仕事がたくさんあるんですもの」
「反対に僕にはたった一つしかない」
と、コルネリウスはつぶやいた。
「そうね」
と、ローザは答えた。
「あなたのチューリップをかわいがることだけね」
「あなたを愛することですよ、ローザ」
ローザは頭を振った。
彼はまた黙りこんだ。
「要するに」
と、コルネリウスはこの沈黙を破って言葉をつづけた。
「自然の中では全てのものが変わっていくんだ。春の花が咲き終わると、また違った花が咲く。蜜蜂は菫《すみれ》やニオイアラセイトウを優しく愛撫するが、次には同じ愛情を込めて忍冬《にんとう》、バラ、ジャスミン、菊、ゼラニウムととまっていく」
「それはどういう意味ですの?」
と、ローザは訊ねた。
「お嬢さん、あなたも初めは、僕の歓びや悲しみの話を聞くことがお好きだったという意味です。あなたは僕たちお互いの青春の花を愛撫しました。でも僕のほうの花は日陰でしぼんでしまいました。囚人の希望や愉しみの庭には季節が一つしかありません。それは自由な空気や日光が恵まれた美しい庭園とは似ても似つかぬものなのです。いったん五月の収穫がすみ、一度穫物が摘み取られると、華奢な胴着をつけ、金の触角を持ち、透明な羽をつけたあなたのような蜜蜂は、柵の間を通り抜け、歓喜や、孤独や、悲哀を見捨てて、ほかのところに芳香や生温かい水蒸気を求めて行ってしまいます。
要するに、それが幸福というものです!」
ローザはコルネリウスを微笑を浮かべながら見つめていた。彼はそれに気がつかなかった。彼は天井を仰いでいた。
彼は溜息を一つもらすと言った。
「あなたは僕を見捨ててしまったんですね、ローザ。四季の愉しみを得ようとして。それは当然のことなのだ。僕は嘆いたりはしない。あなたに誠意を求める権利なんて、僕に持ち合わせがあるだろうか?」
「私の誠意ですって!」
と、ローザは涙をいっぱい浮かべると叫んだ。もうそれ以上コルネリウスに、頬を伝わる真珠の滴を隠そうとはしなかった。
「私の誠意ですって? 私、あなたに誠意を尽くさないことがあったかしら?」
「それはそうですよ! いったい、これが僕に誠意を示すことかしら」
と、コルネリウスは叫んだ。
「僕を離れて、僕がこの場で死にそうになっているのも放っておいて」
「ですけれど、コルネリウスさま」
と、ローザは言った。
「私、あなたに喜んでいただけるようなことを、何もかもやってさしあげなかったかしら? 私、あなたのチューリップに心をこめていなかったかしら?」
「手きびしいんだね、ローザ! 僕にとってこの世でかけがえのないたった一つの喜びを咎めるなんて」
「私、ビュイテンホーフであなたが死刑になると聞いた日から、心に宿った深い悲しみがあるだけで、ほかには何もあなたのことを咎めたりいたしませんわ」
「ローザ、優しいローザ、あなたには気に入らないの、僕が花を愛することが、あなたには気に入らないの」
「あなたが花を愛していたって、私、気に入らないことはありませんわ、コルネリウスさま。ただあなたが私のことを愛するよりも花のほうを愛しているのが、私には悲しいだけのことよ」
「ああ! かわいい恋人」
と、コルネリウスは叫んだ。
「僕の手がどんなに震えているか見てごらん、僕の額がどんなに青ざめているか見てごらん。ねえ聞いてごらん。僕の心臓がどんなに脈打っているか聞いてごらん。それはね。それは黒いチューリップがぼくに微笑みかけているとか、僕に呼びかけているとかいうことからではないんだ。そうではないんだ。それはあなたがぼくに微笑んでくれ、あなたが額を僕のほうに傾けてくれるからなんだ。それはね――本当かどうかもわからないけれど――あなたの手が逃げ出そうとしながらも僕の手を求めているように思えるし、冷たい鉄格子の向こうにあるあなたの美しい額が上気しているように思えるからなんだ。
ローザ、僕の恋人、黒いチューリップの珠芽なんか潰しておくれ。あの花に寄せる希望なんか壊しておくれ。僕が毎日描きつづけたあの清らかなかわいらしい夢の優しい光なんか消しておくれ。たとえ、この世で一番華麗な衣装をつけ、上品な雅趣があり、神々しい気まぐれのある花だとしても、そんなものはすっかり僕から取り除いておくれ。花の中でも嫉みを誘う花なんか、そんなものはすっかり取り除いておくれ。
でもね、あなたの声や、あなたの身振りや、重苦しい階段から響いてくるあなたの足音などは、取り除かないでおくれ。暗い廊下に輝いているあなたの眼の燃え立つ焔――いつでも僕の心を愛撫してくれる愛の確証は取り除かないでおくれ。ローザ、僕を愛しておくれ。ローザ、僕はよくわかっているのだ。僕が愛しているのはあなただけなんだよ」
「黒いチューリップのお次にはね」
と、ローザは吐息をついた。彼女は生温かいかわいい手を鉄の格子の間から入れると、コルネリウスの手に委ねた。
「何よりも真っ先だよ、ローザ……」
「私、あなたを信じてもいいの?」
「あなたが神さまを信じているように」
「そうだとしても、私を愛したりなさると、あなたをたんと拘束することになるのではないかしら?」
「少なすぎるよ、残念だけど、かわいいローザ。でもあなたを拘束することにはなるね」
「私が」
と、ローザは訊ねた。
「私が何に拘束されるの?」
「まず第一に結婚ができなくなる」
彼女は微笑んだ。
「ああ! あなたったら何ていう方でしょう」
と、彼女は言った。
「あなたがた男の方って、暴君なのね。あなたは美しい人に憧れて、その人のことだけしか考えないし、夢に見るのはその人のことばかしなのね。あなたは死刑の宣告を受けて、断頭台に歩んで行く時にも、最後のため息をそのひとに捧げることでしょうに。それなのにあなたは私のような哀れな娘に要求なさるのね。私の夢や野心を犠牲にするように要求なさるのね」
「だが、いったいあなたが言っているその美しい人っていうのは誰のことなの?」
と、コルネリウスは記憶の中でローザがほのめかしている女を探してみたが空しかった。
「無論、あの黒い衣装の美しい人のことよ。しなやかな胴体と、華奢な足と、気品に満ちた顔を持っているあの黒い衣装の美しい人のことなの。要するに私、あなたのお花のことを話しているの」
コルネリウスは微笑んだ。
「空想の美女なんだね、ローザ。だけどあなたは、あなたに思いを寄せている、というよりも僕に思いを寄せているジャコブのほかにも、あなたの愛を得ようという多勢の伊達者に取り巻かれているんじゃないの。ローザ、思い出してごらん、ハーグでは、学生や将校や勤人なんていう連中のいたことを僕に話していたっけね? だからね、ルーヴェスタンにだって、勤人も、将校も、学生もいないっていうことはないんだろう?」
「おお! それはそうよ、同じようにたくさんいてよ」
と、ローザは言った。
「誰か手紙を書いてよこしたの?」
「手紙を書いてよこしたのは」
「それに今ではあなたも字が読めるし……」
コルネリウスはローザが彼女のもらう手紙を読むことのできる特権を得たのは、自分という哀れな囚人の力に負っているのだと思うとため息をもらした。
「そんなことおっしゃって! ですけれど」
と、ローザは言った。
「私ね、私のところに書いてよこすたくさんの手紙を読んだり、自分から名乗って出てくる小粋な人たちを調べたりしながら、コルネリウスさま、あなたの教えてくださったとおりにやってみるほかに仕方がないと思っていますの」
「何だって、僕が教えたって?」
「そうなのよ、あなたが教えてくださったのよ。あなたはお忘れになっているのね」
と、今度はローザのほうが微笑しながら言葉を続けた。
「あなたはコルネイユ・ド・ウィットさまのバイブルの上に、ご自分でお書きになった遺書のことをお忘れになっているのね。私は忘れておりませんわ、私のほうは! だって私、もう字が読めるんですもの。私、毎日、一回どころか二回ずつも読み返しておりますの。いいこと! その遺書の中で、あなたは私に、二十六才から二十八才までのお顔の綺麗な青年と愛し合って結婚するようにご命令をくだすっているの。私、そういう若い人を探しますわ。昼間はずっとあなたのチューリップにかかりきりなので、夜になったらあなたは、私がそんな人を探しに行くのを邪魔したりなさらないでね」
「ああ! ローザ、その遺書は、僕が死ぬことを予想して書いたものなんだよ。神さまのおかげで、僕は生き永らえている」
「あら、あら! それではその二十六才から二十八才までの美貌の青年を探しに行かないことにしましょう。そしてあなたとお目にかかりに参りましょう」
「ああ! そうだね、ローザ、来てくれたまえよ! 来てくれたまえよ」
「でも、それには一つだけ条件があるの」
「そんなことは前もって承知しておくよ」
「三日間、黒いチューリップのお話をしないことにしたいの」
「もしもあなたが要求しても、そんなことはもう絶対に口に出しません」
「おお!」
と、若い娘は言った。
「不可能なことを要求してもしょうがないわ」
そしてうっかりしていたかのように、彼女はみずみずしい頬を鉄格子に近づけた。あんまり近かったので、コルネリウスは唇でそれに触れることができた。
ローザは恋の想いにあふれた小さな叫び声をもらすと、姿を消してしまった。
二十一 第二の珠芽《しゅが》
その夜はなかなかの首尾だったが、次の日はもっと素晴らしかった。
その前の幾日間かは、牢獄は重苦しく、陰鬱で、上から覆いかぶさってくるようだった。牢獄の重みといったあらゆるものが哀れな囚人の上にのしかかっていた。周囲の壁は黒く、空気は冷たく、窓の格子は間隔が詰まっていて、日光がやっと射しこむ程度だった。
しかしコルネリウスが眼を醒ました時、朝の太陽の光線は窓の格子の間に戯れており、鳩の群れは翼を広げて大空を截《き》っていた。ほかにもまだいる鳩の群れは、まだ閉じたままになっていた窓の隣りの屋根の上で、恋を告げるかのようにクークー啼《な》いていた。
コルネリウスはその窓に駆け寄ると押し開いた。射しこむ太陽の光線とともに、生命や、歓喜や、ほとんど自由といったものまでが、陰気な部屋の中に入ってくるような感じがした。
それは恋が花を開き、彼の周囲にあるものの一つ一つに花を咲かせたからであった。まことに恋こそ、地上のあらゆる花とこと変わった光に輝き、薫香をこめた天界の花であった。
グリフュスは囚人の部屋に入ってきた時、この数日来と同じようにふさぎこんで寝たままでいるものと思っていた囚人が、まっすぐ立ちはだかってオペラの一小節を口ずさんでいる姿を見出だした。
グリフュスは囚人をにらみつけた。
「やあ!」
と、囚人は呼びかけた。
「今朝は、皆さんいかがですか?」
グリフュスは囚人をにらんだ。
「犬君とジャコブ氏と、わが美しきローザさんと、皆さんお元気ですか?」
グリフュスは歯ぎしりをした。
「あなたの朝食ですよ」
と、彼は言った。
「ありがとう、グリフュス君」
と、囚人は言った。
「ちょうどよかった。何しろ腹がうんと減っているもんですから」
「ああ! あなたは腹がうんと減ったんですか?」
と、グリフュスは訊ねた。
「おや、腹が減ってはいけないんですか?」
と、ファン・ベルルは訊ねた。
「どうやら陰謀が進行しているようだな」
と、グリフュスは言った。
「いったい何の陰謀ですか?」
「まあ、いいですよ。そういう噂ですよ。しかし監視はしますからね。学者先生、安心なさってください。監視はいたしますから」
「どうぞご随意に、グリフュスさん! ご随意に! 僕の陰謀といったって、僕の身柄とご同様、全部あなたのお仕事に属しているのですから」
「まあ、お昼になったらわかるでしょう」
と、グリフュスは言った。
そして、彼は出ていった。
「お昼にって」
と、コルネリウスは繰り返した。
「いったいどういう意味だろう? まあ、いいや、お昼まで待っていよう。お昼になったらわかるだろう」
コルネリウスにとって正午を待つのは容易なことだった。彼は夜の九時を待っていたのだから。
正午の鐘が鳴った。階段のほうで、グリフュスの足音だけでなく、一緒に登って来た三、四人の兵士の足音が聞こえた。
扉が開いた。グリフュスが入ってきて、数名の兵士を引き入れると、再び扉を背後で閉めた。
「さあ、ここだ、捜せ」
一同はコルネリウスのポケットの中から、チョッキの間、チョッキと下着の間、下着と肌の間まで捜した。だが何一つ見つからなかった。
一同はシーツや蒲団や、ベッドの藁蒲団の中まで捜した。しかし何にも見あたらなかった。
その時、コルネリウスは第三の珠芽を受け取っておかなかったことを喜んだ。こうした捜索をやれば、グリフュスはどんなに巧く隠しても確かに見つけ出してしまったろうし、そうすれば第一のものと同様な取り扱いをするにきまっていた。
それにしても、囚人が自分の住居を捜索されているのに、こんなに晴れやかな顔つきで立ち会うということは絶対にないことだった。
グリフュスは鉛筆一本と白い紙を三、四枚持って引き上げた。それはローザがコルネリウスに与えたものであった。それだけがこの遠征の唯一の戦利品であった。
六時になると、グリフュスはまたやってきた。今度は一人だけだった。コルネリウスは彼の気持ちを和らげようと思ったが、グリフュスはブウブウ唸り声を出し、口の隅から歯を覗かせて、暴行を加えられるのを恐れている人間のように、後退りしながら出ていった。
コルネリウスは吹き出してしまった。
するとグリフュスは笑いの主を知って、鉄格子越しに怒鳴りつけた。
「よし、よし、最後に笑う者がよく笑えるんだ」
すくなくともその夜、最後に笑える者はコルネリウスだった。なぜならコルネリウスはローザを待つ身だったのだから。
九時になると、ローザはやってきた。ローザはランプを持たずに来た。ローザはもう明りが必要でなかった。彼女は字を読むことを覚えたからだ。
それに明りがあると、それまでよりもいっそうジャコブから付け狙われていたローザの居所が、はっきりしてしまうからだった。
それにまた明りがあると、ローザが顔を赤らめた時、その赤さがあんまりよく見えすぎるからでもあった。
その夜、若い二人は何を語り合ったことだろうか? フランスでは扉口の敷居のところで、スペインではバルコンの一隅と他の一隅とで、東方ではテラスの上と下とで、恋人たちが語り合う仕草の睦言でもあったろう。
彼らは時間の足に翼が生え、時間の翼にさらに羽がはえるようなあらぬことどもを語り合った。
彼らは何もかも語り合った。ただし黒いチューリップのことは除いて。
やがて十時が来ると、彼らはいつものように別れを告げた。
コルネリウスは幸福だった。自分のチューリップのことを話してもらえないチューリップ園芸家としては、この上ない幸福であった。
地上のあらゆる恋人がそうであるように、彼はローザがかわいらしく見えた。彼には彼女が気立てがよくて、優雅で、魅力があるように見えた。
しかしなぜ、彼女はチューリップの話をするのを禁じたのだろうか?
それだけがローザの大きな欠陥だった。
コルネリウスはため息をつきながら、女というものは完全なものではないとつくづく思った。
夜のひととき、彼はこの短所について瞑想に耽った。つまり彼は目覚めているかぎり、ローザのことを考えていたのだ。
一度眠ると、彼は彼女の夢を見た。
しかし夢の中のローザは現実のローザとは違って非常に完全なものであった。夢の中のローザはチューリップの話をしたばかりでなく、花の開いた壮麗な黒いチューリップをシナの花瓶に活けて持ってきてくれるのだった。
コルネリウスは歓びに全身をわななかせ、つぶやきながら目を醒ました。
「ローザ、ローザ、僕はあなたを愛している」と。
そして夜が白みそめると、コルネリウスはもう少しも眠ろうとは思わなかった。
それで彼は日がな一日、目覚めた時に抱いた考えを抱きつづけた。
ああ! もしもローザがチューリップの話をしてくれるのであれば、彼は、セミラミス女王、クレオパトラ女王、エリザベス女王、アンヌ・ドオトリッシュ女王など、世界中で一番偉大であるとか、一番美しい女王たちをさしおいても、彼女を選んだことであろう。
だがローザは、もう二度と来ないという苦痛を課して三日間はチューリップの話をすることを禁じてしまったのだ。
これは恋人として七十二時間を与えられたことであった。しかし園芸家としては七十二時間を消滅したことであった。
七十二時間のうち三十六時間はすでに過ぎた。後の三十六時間もたちまち過ぎ去ってしまうだろう。十八時間は待っているうちに、十八時間は追憶に耽りながら。
ローザは同じ時間になるとやってきた。コルネリウスは英雄的にこの苦行に堪えた。
コルネリウスはあの非常に有名なピタゴラス派の学者のようだった。もしも一日に一度、チューリップの消息を訊ねることが許されるならば、命令の法規に従って五年間でも一言も喋らずにじっとしていたことであろう。
しかしまたこの美しい訪問者は、人があることで命令を出す場合は、他の面では譲らねばならぬということをよく承知していた。ローザはコルネリウスが覗き窓からその指を握るままにまかせていた。ローザはコルネリウスが鉄格子越しにその髪に接吻するのを許していた。
かわいそうな娘よ! すべてこうした恋の媚態というものはチューリップの話をするよりも、彼女にとってはるかに危険なものであった。
心は弾み、頬はほてり、唇は乾き、眼は潤んで、彼女は部屋にもどるとそれを思い知らされた。
そしてその翌日の夜、最初の言葉を交し、最初の愛撫をすると、彼女は鉄格子越しに、夜の闇の中で見えなくとも感じられるような視線でコルネリウスを見つめた。
「あのね!」
と、彼女は言った。
「とうとう芽が出たわ!」
「とうとう芽が出たって! 何が? 誰が?」
コルネリウスは、ローザが自分で試練の期間を縮めてしまったことを信じかねて訊ねた。
「チューリップよ」
と、ローザは言った。
「どうしたの」
と、コルネリウスは叫んだ。
「それではもうお許しが出たの?」
「ええ、そうよ!」
と、ローザは子どもに喜びを許す優しい母親のような口調で言った。
「ああ! ローザ!」
と、コルネリウスは鉄格子越しに唇を差し出し、頬でも手でも、額でも、とにかく何にでも触れようとしながら言った。
彼はそんなものよりもはるかにすばらしいものに触れた。彼の唇が触れたのは、半ば開いていた二枚の唇だった。
ローザは小さな叫び声をもらした。
コルネリウスはすぐに会話をつづける必要を悟った。彼はこの思いがけない接触がローザをひどく怖がらせたように感じた。
「まっすぐ出たの?」
と、彼は訊ねた。
「フリーズ織の糸巻棒のようにまっすぐよ」
「丈はどのくらい?」
「少なくとも二インチぐらいよ」
「おお! ローザ、よく面倒を見てくださいね。どんなに早く大きくなるかわかるでしょう」
「私、これ以上の面倒が見られるかしら?」
と、ローザは言った。
「私、それのことしか考えていないのよ」
「それのことだけだって、ローザ? 気をつけてくださいよ。今度は僕のほうが嫉妬したくなるから」
「でもね、よくご存知でしょう。チューリップのことを考えるというのは、あなたのことを考えることなのよ。私、眼を放さないわ。ベッドから、私、それを見ているのよ。目が醒めると一番先に見つめる相手はそれなの。眠る時、最後に目を放す相手はそれなの。私、そのかたわらに腰をおろして、お仕事をしているの。何しろチューリップを私のお部屋に持ってきた時から、私もうお部屋を離れたりしないんですもの」
「そうだろうね、ローザ。とにかくあれはあなたの結婚資金なんだよ。わかってるね?」
「そうね、あれのおかげで、私、私の愛している二十六才から二十八才までの若い方と結婚できるのね」
「お黙り、いじめっ子」
コルネリウスは若い娘の指を掴んだ。そうすると、話題を変えることもなく、少なくとも対話の代わりに沈黙がやってくるのだった。
この瞬間から、チューリップも若い二人の恋も日ごとに成長を遂げて行った。ある時は葉が開き、やがてはまた花そのものが結ばれた。
この報せを受けると、コルネリウスの喜びは大きくなった。彼の質問は次から次へと、質問の重要さを証拠立てる急調子で出てきた。
「結んだって」
と、コルネリウスは叫んだ。
「花が結んだって!」
「花が結んでいるのよ!」
と、ローザは繰り返した。
コルネリウスは喜びのあまりよろめいて、覗き窓のところに身をよせかけなければならなかった。
「ああ、神よ!」
と、彼は嘆声を発した。
やがてローザの方へ向きなおると、
「楕円形の部分は普通かね、円筒形の部分は膨らんでいるかね、先のところは緑が強いかね?」
「楕円形の部分は約一インチぐらいね、針のように先が細くなっているわ。円筒形の部分は側面が膨らんでいるわ。先のところは半ば開きかけようとしているわ」
その夜、コルネリウスはよく眠れなかった。先の部分が半ば開きかけようとしている時機ほど大切な時機はなかったのだ。
二日後に、ローザはそこが半ば開いたことを告げた。
「半分開いたって、ローザ」
と、コルネリウスは叫んだ。「総苞《そうほう》が半分開いたんだねそれ! では見えるだろう、もう見分けがつくだろう?」
囚人は息を弾ませて言葉をとめた。
「そうよ」
と、ローザは答えた。
「そうよ、髪の毛のようにほっそりした、変わった色の花絲《かし》の見分けがつくわ」
「それで色は?」
と、コルネリウスは震えながら訊いた。
「ああ!」
と、ローザは答えた。
「とても暗い色よ」
「褐色かい?」
「おお! もっと暗い色だわ」
「もっと暗いの、ローザ、もっと暗いの! ありがとう! 黒檀のように黒いの、それとも暗いっていうと……」
「私があなたにお手紙を書いた、あのインクぐらい暗いわ」
コルネリウスは狂気じみた歓びの叫びをあげた。
やがて突然叫びをとめると、
「おお!」
と、両手を合わせながら言いかけた。
「おお! ローザ、あなたに比較するような天使はいないよ」
「ほんとかしら!」
と、ローザはそのほめ言葉に微笑みながら言った。
「ローザ、あなたは実によく働いたね、あなたは僕のために実によくやってくれたよ。ローザ、僕のチューリップは花を開こうとしているんだ。僕のチューリップは黒い花を開こうとしているんだ。ローザ、ローザ、神がこの地上に創りたもうたもので、あなたより完全なものはいない!」
「でも、チューリップのお次にはじゃないの?」
「ああ! お黙り、意地悪め、お黙り、お願いだから、僕の歓びを台無しにしないでおくれ。だがね、ローザ、もしもチューリップがそこまでいっているんなら、遅くとも後二、三日で花が開くかどうか話しておくれよ」
「明日か明後日なら、大丈夫よ」
「おお、僕にはそれが見えないんだ」
と、コルネリウスは後ろに身をのけぞらせた。
「僕には人のほめたたえる神の奇蹟として、あれに接吻することができないのだ。ローザ、あなたの手や、髪や、頬などがたまたま覗き窓にあるとき、僕が接吻するようにはいかないのだ」
ローザは頬を近づけた。偶然のことではなくて、自分の意志から出たことだった。若者の唇は貪るようにそこに吸いついた。
「そうだわ! もしもお望みなら、花を摘み取ってきてあげるわ」
と、ローザは言った。
「ああ! だめ! だめ! 花が開いたらさっそくだね、日陰にうまく置くことだね。それと同時に、時を移さずに、ハルレムの園芸協会長に大きな黒いチューリップの花が開いたことを知らせてやるんだね。ハルレムが遠いことは僕も知っている。しかしお金を出しさえすれば、使者の一人ぐらいは見つかるだろう。あなたはお金を持っているの。ローザ?」
ローザは微笑んだ。
「おお、もちろんよ!」
と、彼女は言った。
「十分持ってるの?」
「三百フロリンあるわ」
「おお三百フロリンもあなたが持っているんなら、何も使者を送るにはあたらないね。あなた自身が、ねえ、ローザ、あなた自身がハルレムに行くべきだ」
「でも、その間、花のほうは……」
「おお! 花はね、あなたが持っていくんだよ。あなたもよくわかっているだろうが、一瞬も花を手放してはいけないのだ」
「むろん花を手放したりはしないけど、あなたとお別れすることになるのね、コルネリウスさま」
と、ローザは悲しくなって言った。
「ああ! それはそうだよ、僕の優しい大切なローザ。神よ、世間の人間どもは何て性が悪いんだろう。いったい僕が彼らに何をしたんだ。なぜ彼らは僕から自由を奪ってしまったのだ! あなたの言うとおりだよ、ローザ、僕もあなたがいなくてはどうにも生きていけないのだ。それではね、あなたはハルレムに誰かを送ってください。僕は誓って言うが! この奇蹟は協会長が身を入れてもいいだけの重大な事件なんだよ。彼は自分でチューリップを調べにルーヴェスタンにやってくるだろうね」
やがて突然語を切ると、震え声で、
「ローザ!」
と、コルネリウスはささやいた。
「ローザ! もしもあの花が黒くならないとしたら」
「まあ! そんなこと! でも明日か明後日の夜になれば判るでしょう」
「夜まで待たなければ判らないのかな。ローザ! 僕は待ちきれなくて死にそうだ。何か合図でも決めておこうか?」
「私、もっといいことがあるわ」
「どうするの?」
「もしも花が少し開くのが夜だったら、私、自分で来てお話するわ。もしも昼間なら、この扉口の前を通って、お手紙を扉の下か覗き窓からか、お手もとに忍びこませるわ。お父さんの一度目と二度目の巡視の間にね」
「おお! ローザ、それがいいよ! その報せをあなたが僕に一言告げに来れば、幸福は二倍になるよ」
「もう十時ね」
と、ローザは言った。
「私、お別れしなくては」
「いいよ! いいよ!」
と、コルネリウスは言った。
「いいよ! お行き、ローザ、行っておいで!」
ローザは悲しそうな顔をして立ち去った。
コルネリウスが彼女を送り出したようなものであった。
むろん、それは黒いチューリップを監視するためであった。
二十二 花開く
夜はいとも穏やかに更けていった。しかしそれと同時にコルネリウスにとっては落ちつかない晩であった。絶えず彼にはローザの甘い声が彼を呼んでいるような気がした。彼は飛び起きて扉口に行き、顔を覗き窓に近づけるのだった。覗き窓はひっそりしていて、廊下には人の気配もなかった。
いうまでもなく、ローザのほうは夜明かしをしていた。しかし彼女が彼より幸福なことは、チューリップの見張りをしていたことだった。彼女はその場で目の前に、まだ世人に知られていないばかりでなく、この世に存在するはずがないと信じられていた奇蹟中の奇蹟である高貴な花を監視していたのだ。
黒いチューリップが発見されたこと、その花が実在していること、そしてそれを発見したのが囚人のファン・ベルルだということを知った時、世人は何というであろうか。
コルネリウスは、たとえ彼のチューリップと引き換えに自由を提供しようという者があっても、遠くへ追いやってしまったことだろう。
夜は明けたが、何の報せも来なかった。チューリップはまだ花を開いていなかったのだ。
昼間も夜と同じように何事もなく過ぎてしまった。
夜が来た。夜とともに、ローザが喜び勇んで小鳥のように軽やかにやってきた。
「どうなの?」
と、コルネリウスは訊ねた。
「いい具合! 素晴らしく好調よ。今夜は間違いなく私たちのチューリップが花を開くのではないかしら?」
「黒い花が開くかしら?」
「真っ黒な花がね」
「ほかの色の斑点なんか一つもないかな?」
「たった一つもなくてよ」
「天の助けだ! ローザ、僕は一晩、夢見ながら過ごしたんだ、まず第一にあなたのことを」
ローザは信じかねるような小さな身振りをした。
「次に僕たちがやらねばならぬことについて」
「それはどんなこと?」
「つまりだね! 僕はこうしようと決めたんだ。チューリップの花が開いて、それが黒いものだと、しかも完全に黒いものだということになったら、あなたは誰か使いを見つける必要がある」
「それだけのことなら、もうお使いは見つけてあってよ」
「信用のおける使いなの?」
「そういうお使いよ、私のことを気にしている男の一人なのよ」
「まさか、ジャコブではないんだろうね?」
「そうではなくてよ、ご安心なさって。それはルーヴェスタンの船頭なの。敏捷な若い人だわ。二十五才か二十六才ね」
「敵《かな》わないね!」
「ご心配は要らなくてよ」
と、ローザは笑い出しながら言った。
「まだ適齢期に入っていない人ですもの。だってあなたが、ご自分で適齢期を二十六才から二十八才までってお決めになったんですものね」
「要するに、あなたはその若者を信用できると思っているわけだね?」
「私が自分のことを信じられると同じぐらいにね。あの人なら、もしも私が命令すれば、ボートからワハール河の中でもムーズ河の中でも飛び込んでしまうことよ」
「それならいいね、ローザ。その若者なら十時にはハルレムに着けるだろう。僕に鉛筆と紙とをくれないか。ペンとインクがあればもっといいんだがな。そしたら僕が書くよ、いやむしろあなたが書いたほうがいいね。何しろ僕は囚人だし、あなたのお父さんがそう見えるように、ほかの人はきっと、これには陰謀があるとでも考えるからね。あなたが園芸協会長宛てに書きたまえ。僕は請合うよ、会長は直々にやってくるだろうね」
「でも、もし会長の来るのが遅くなったら?」
「遅れても一日か、せいぜい二日だよ。だがそんなことはありっこないよ。彼のようなチューリップの愛好者なら、一時間どころか一分だって一秒だって遅れないで、この世の第八番目の奇蹟を眺めに駆けつけるよ。もっとも前にも言ったとおり、彼が一日、二日遅れたところで、チューリップは依然として光彩陸離としているはずだよ。チューリップが会長に認められれば、彼の手で報告書が書かれるのだ。そこで万事が述べられるのだ。ローザ、あなたは報告書の写しを取っておくんだね。そしてチューリップを彼に渡すんだ。
ああ! もしも僕たちが自分の手であれを持って行けるんならね、ローザ、あれが僕の腕を離れるのは、あなたの腕に渡る時だけなんだろうが。だが、こんな夢を見てはいけないんだ」
コルネリウスはため息をつきながら言葉をつづけた。
「あの花がしぼむところを目にするのは誰かほかの連中なんだな。おお! 特にだね、ローザ、会長があれを見るまでは、あれを誰にも見せないことだね。黒いチューリップは、どんなことがあってもだよ! もしも誰かが黒いチューリップを見たとしたら、きっと盗むに違いないよ」
「おお!」
「あなたを恋しているジャコブが恐ろしいということは、あなたが自分で僕に言っていたっけね。一フロリンだって盗む人間がいるんだもの。どうして十万フロリンを盗む人間がいないわけがあるだろうか?」
「私、よく見張っているわ。ね、安心なさってくださいね」
「もしもあなたがここに来ている間に、あの花が開いたとしたら?」
「気まぐれにそうなることもあることね」
と、ローザは言った。
「もしもあなたが部屋に戻った時、花が開いているのを見つけたら?」
「どうしましょう?」
「ああ! ローザ、あの花が開いたら、即刻、時を移さずに会長に通知することを覚えていてくれたまえ」
「それとあなたのところにね、あなたのところにね、ええ、私、よくわかってよ」
ローザはため息をついた。しかし苦しい気持ちはなく、弱さを悟り始めたばかりか、これに慣れかけた女らしい思いだった。
「私、チューリップのところへ帰ってよ、ファン・ベルルさま、そして開いたらすぐにお知らせしますわね。お知らせしたら早速お使いの人を出しますわ」
「ローザ、ローザ、僕の知るかぎりでは、天にも地にもあなたに比べられるものはいないね」
「私を黒いチューリップと比べてみてくださいね、コルネリウスさま。そしたら私、とても嬉しいことよ。本当よ。それではさようならを言いましょうね。コルネリウスさま」
「ああ! 『さようなら、モナミ』と言ったほうがいいよ」
「さようなら、モナミ」
と、ローザはいくぶん心がほぐれて言った。
「ねえ、『私の愛しいお方』って言ってごらん」
「おお! 私の……方」
「愛しい方だよ、ローザ、お願いするよ、愛しい方、愛しい方、ね、そうだろう?」
「愛しい方、そうよ、愛しい方ね」
と、ローザは歓びに酔い痴れて、胸をはずませながら言った。
「それではローザ、『愛しい方』って言ってくれたんだから、『幸せな方』って言ってごらんよ。『この大空の下でこの世の誰よりも幸せで祝福された方』ってね。たった一つだけ足りないものはあるんだがね。ローザ」
「何ですの?」
「あなたのほっぺさ。あなたのみずみずしいほっぺ。あなたのばら色のほっぺ、あなたのビロードのようなほっぺなんだよ。おお! ローザ、不意打ちだとか偶然だとかいうことでなく、あなたの意志から出たものさ、ローザ、ああ!」
囚人の願いはため息の中に消えた。彼はローザと唇を合わせていた。偶然からでも不意打ちによるものでもなく、百年後にサン・プルーがジュリーと唇を合わせたのと同じようなものであった。〔ルソーの小説『新エロイーズ』中の登場人物〕
ローザは逃げ去った。
コルネリウスは魂が唇にとどまり、顔を覗き窓にぴったり寄せたまま立ちつくしていた。
コルネリウスは歓びと幸福とで息が詰まりそうだった。彼は窓を開いた。そして歓びに胸を膨らませながら、雲一つない青空や、丘のかなたから流れてくる二つの河を銀色に照らしている月などを長い間眺めていた。彼は胸いっぱいに元気を奮い起こす清らかな空気を満たした。心は甘美な思いにあふれ、魂は感謝と神への賞賛に膨らんでいた。
「おお! 神よ、あなたはいつでもあの高みにおられる」
と、彼は平伏するばかりにして、眼を情熱的に星屑のまたたくあたりに向けながら叫んだ。
「この日頃、あなたを疑いかけていたことをお許しください。あなたは雲の背後に隠れてしまわれたのだ。一瞬間、僕にはあなたが心美しき神、永遠なる神、慈悲深い神とは見えなくなりました。しかし今日こそは! この宵こそはこの夜こそは、おお! あなたの空の鏡の中に、とりわけ僕の心の鏡の中に、僕にはあなたの完全なお姿が見えています」
この哀れな病人は全快した。この哀れな囚人は自由だった。
夜の一時を、コルネリウスは窓の鉄格子にもたれて、覗き窓に耳を寄せてじっと立ちつくしていた。五感を一つに集中して、というよりもただ二つだけに集中していた。彼は瞳を凝らし、耳そばだてていたのだった。
彼の瞳を凝らしていたのは大空のかなただった。彼が耳をそばだてていたのは地上の世界だった。
そして時々、彼はその瞳を廊下のほうへ向けていた。
「あの下の方には」
と、彼はつぶやいた。
「ローザがいるのだ。ローザは僕と同じように、一秒一秒を待ち構えながら夜明かしをしているのだ。あの下の方には、神秘な花がローザの目の前にあって、生命を呼吸し、半ば開こうとしており、やがてはすっかり開いてしまうのだ。たぶん今頃、ローザはそのしなやかな生温かい指先で、チューリップの茎をはさんでいることだろう。ローザ、あの茎には優しく触ってくれたまえよ。ローザ、ローザ、君の唇は燃えてしまうよ。おそらく今頃、僕の愛する二つのものは、神の視線の下で互いに愛撫をかわしていることだろう」
その時、星が一つ南で燃え、城砦と地平線との間の空間を横切って、ルーヴェスタンの上に落ちた。
コルネリウスは戦慄した。
「ああ!」
と、彼は言った。
「今こそ神が僕の花に魂を送ってくだすったのだ」
まさに彼の推察どおりに、それとほとんど同時に、囚人は廊下のほうに空気の精のような軽やかな足音と、はばたきに似た衣ずれの音を聞いた。そしてよく知りつくしている声が言った。
「コルネリウスさま、私の方、私の愛しい方、私の幸せな方、いらしって、早くいらしって」
コルネリウスは外の窓から覗き窓に一足飛びに駆け寄った。今度もまた彼の唇はローザの囁きつづけている唇と出会った。彼女の唇は接吻の間にも彼に告げていた。
「お花が開いたわ、真っ黒よ、そら、ここにあってよ」
「何だって、ここにあるって!」
と、コルネリウスは唇を彼女の唇から放しながら叫んだ。
「たくさん歓んでいただけるんですもの、少しくらいの危険は仕方がないことよ、そら、ここにあってよ! さあ、お取りになってね」
そして彼女は片方の手で、灯を入れたばかりの小さな重いランプを覗き窓の高さまで掲げて、もう一方の手で奇蹟ともいうべきチューリップを同じ高さまで差し上げた。
コルネリウスは叫び声をあげたが、気絶しそうな思いがした。
「おお!」
と、彼はつぶやいた。
「神よ! 神よ! 神よ! あなたは僕の無実の罪と囚人の憂き目とを償ってくださった。なぜならあなたは僕の獄舎の覗き窓に、こんな二つの花をよこしてくだすったのですから」
「抱きしめて接吻してあげてね、今さっき、私がそうしてあげたように」
と、ローザは言った。
コルネリウスは息をひそめると、唇の先で花の突端に触れた。女の唇に与える接吻は、たとえそれがローザの唇であろうとも、こうまで深く決して心に食い入ってはこなかった。
チューリップは美しく、輝かしく、壮麗だった。その茎は十八インチ以上もあり、槍の穂先のように滑らかでまっすぐな、緑色の四枚の葉から飛び出していた。その花は完全に黒玉のように真っ黒で光沢があった。
「ローザ」
と、コルネリウスは息も絶え絶えに言った。
「もう一瞬も遅れてはいられない。手紙を書かなくてはいけない」
「もう書いてあるのよ、愛しいコルネリウス」
と、ローザは言った。
「本当なの?」
「チューリップが開きかけている間に、私、自分で書いたのよ。何しろ一秒だって無駄にできないことでしょう。この手紙をご覧になって、これでいいかどうかおっしゃってくださいね」
コルネリウスは手紙をとって読んだ。その字体は彼がローザから走り書きを受け取った時よりも、さらにはるかに進歩していた。
[#ここから1字下げ]
会長さま
黒いチューリップはたぶん十秒内に花を開きます。開いたらすぐにあなたさまのもとに使いを送り、あなたさまがご自分で個人の資格でそれをごらんになりにルーヴェスタンの城砦までご来駕《らいが》くださることをお願いいたしたいと存じます。私は獄吏グリフュスの娘でございますが、私の父の囚人たちと同じぐらいほとんど閉じこめられているものでございます。それゆえ私はあなたさまのところに、この驚嘆すべき花を持参いたすことができません。そんなわけで私はあなたさまがご自身でこれを取りにおいでくださるよう、あえてお願いいたす次第でございます。
私の願いは、この花が『ローザ・ベルレンシス』と名づけられることでございます。
花は今開きましたわ、完全に真っ黒でございます……。おいでくださいませ、会長さま、おいでくださいませ。
あなたさまの賤しき下娉《はしため》であることを光栄に存じます。
ローザ・グリフュス
[#ここで字下げ終わり]
「これでいい、これでいい、ローザ。この手紙はまったく素晴らしい。僕にだってこんなに簡潔には書けないだろう。評議会に出て質問されたらあなたは何でも知らせてあげるんだよ。このチューリップがどうやって創り出されたか、どんな注意を払い、どんな見張りを要し、どんな恐怖に脅えながらこの花が出現したものかが誰にもわかることだろう。だが今は、ローザ、一秒でも遅れてはならない……。使いだ! 使いだ!」
「会長さんは何ておっしゃる方なの?」
「およこし、僕が宛先を書いてあげよう。おお! あの人はよく名が通っている人だ。ハルレム市長ファン・ヘリセン氏というのだ……。さあ、およこし、ローザ、およこし」
そしてコルネリウスは震える手で、手紙の上に書き加えた。
ハルレム市長並びに園芸協会長
ピーター・ファン・ヘリセン様
「さあ、行ってください、ローザ、行ってください」
と、コルネリウスは言った。
「僕たちは神の加護を待つのみだ。神は今まで、僕たちを、よくお守りくださったね」
二十三 嫉《ねた》む男
実のところ、この哀れな若い二人は神の直接の加護を多いに必要としていたのだった。
彼らが自分たちの幸福を確実なものだと信じきったこの同じ瞬間に、かつてないほど彼らは絶望のそば近くにいたのだった。
賢明な読者諸君はむろん、ジャコブとは、実はわれわれの旧知の、というよりも旧怨のアイザック・ボクステルであることに、すでに気がついておられたことであろう。
それで読者諸君は、ボクステルがビュイテンホーフからルーヴェスタンにかけて、その愛の対象と憎しみの対象とを追いまわしていたものと察しておられたに違いない。
つまり愛の対象とは黒いチューリップのことであり、憎しみの対象とはコルネリウス・ファン・ベルルのことであった。
あるチューリップ園芸家、ある嫉妬に狂ったチューリップ園芸家以外には誰一人として、こうした珠芽の存在や囚人の野心などを発見することがなかったけれども、嫉妬のあまりボクステルはそれを発見した。発見したというのに語弊があれば推察したのだった。
われわれは彼がアイザックという名前よりもジャコブと名乗った時のほうがいっそう幸運に恵まれて、グリフュスと友人になれたことを知っている。彼はテキセルからアントワープの間で醸造されるうちで最上のジンを提供して、数ヵ月の間にグリフュスから感謝と歓待とを受ける身の上となってしまった。
彼はグリフュスの猜疑心を眠らせてしまった。というのも実はすでにごらんのとおり、グリフュス老人は疑い深い男だったのだ。しかし彼は前にも述べたように、ローザとの縁談にかこつけて、その猜疑心を眠らせてしまった。
その上彼はグリフュスの父親としてのうぬぼれを煽《あお》ってから、獄吏としての本能に媚《こ》びたのだった。彼はグリフュスが閉じ込めている囚人の学者を最も暗い色で描き出してみせては、獄吏の本能をいい気持ちにさせた。真っ赤な偽物であるジャコブの言葉をかりると、この囚人の学者はオレンジ公を害しようとして、悪魔と協定を結んでいるというのだった。
彼はローザのもとでも初めは同じ程度の成功を収めた。もっともこれは彼女の心に共感を喚起したということではない。ローザはいつでもジャコブ氏に対して愛情などは一向持ち合わせていなかったのだから。しかし彼は彼女に対して結婚のことと狂気じみた熱情について語っていたので、彼女の抱くかもしれない疑惑を初めはすっかり消し去ることができた。
われわれは、彼が不用意にも花園にローザの後をつけて行ったので、若い娘の眼にどう映ってしまったかということも、またコルネリウスが本能的な恐怖を感じたために若い二人が彼に対してどんな警戒をするようになったかということも知っている。
特に囚人に不安を喚起したものは、グリフュスが珠芽を踏み潰した際に、グリフュスに対してジャコブが恐ろしく憤慨したことから生まれた次第は、読者も記憶されているに違いない。
その時ボクステルはコルネリウスが第二の珠芽を持っているものと内心では疑っていたものの、しかし何にも確実な証拠は握っていなかったので、それだけその憤慨ぶりも甚だしいものだったのだ。
彼がローザに狙いをつけ、花園ばかりでなく、廊下の中まで彼女の後をつけまわしたのはちょうどその時のことだった。
ただその一度だけ、彼は夜になって裸足で彼女の後をつけたので誰にも姿を見られもせず、足音を聞かれることもなくてすんだ。
ただしその一度だけ、ローザは廊下のほうに人影のようなものが通り過ぎたのを見かけたのだった。
しかし彼女が気づいたのはあまりに遅過ぎた。ボクステルは囚人自身の口から、第二の珠芽のあることを知ってしまった。
彼はローザが計略を用いてそれを花壇に埋めるようなふりをしたのにうまうまとだまされてしまったが、この小さな喜劇は彼の正体を否応なしに暴露するために演じられたことは疑いようがないので、いっそう警戒心を旺盛にした。彼は自分のほうは狙われずに、相手の二人に探りを入れることをつづけようとして、一心になってあらゆる計略をめぐらした。
彼はローザが父親の台所から自分の部屋に、大きな陶器の壷を運んで行くのを見かけた。
彼はローザがチューリップのために、できるだけ立派な土床を用意しようとして、土をこねまわして泥だらけになった美しい手を、水をたっぷり使って洗い落としているのを見かけた。
とうとう彼は屋根裏部屋に、ちょうどローザの窓と向かい合わせになっている小部屋を一つ借りこんだ。そこは肉眼では自分の姿が認められない程度に離れているが、しかし望遠鏡の助けを借りれば、ルーヴェスタンの若い娘の部屋で起こっていることは一つ残らずつけまわしていられる程度の近距離だった。それは彼がドルドレヒトで、コルネリウスの乾燥室の出来事をすっかりつけ狙ったのと同じ有様だった。
彼が屋根裏部屋で暮らすようになってから三日と経たぬうちに、彼にはもう何一つ疑う余地がなくなった。
朝、太陽が昇り出すと、陶器の壷は窓の上に置かれた。そしてミエリスやメッツの描くかわいい女たちにも似て、ローザの姿が忍冬やノーゼンカズラの緑の初々しい小枝に囲まれたこの窓辺に現れるのだった。
ローザはその壷をしげしげと眺めた。その眼差しはボクステルに、この壷に匿《かくま》われている物の実際の値打ちを明白に知らせるのだった。
この壷に秘められているものこそ、言わずと知れた第二の珠芽であり、いわばあの囚人の至上の希望ともいうべきものであった。
夜が来て冷気があまり募り出すと、ローザは陶器の壷を取り入れた。
それはまさに彼女が、珠芽の凍りつくのを恐れているコルネリウスの指示どおりにしていることだった。
日光がさらに強くなると、ローザは午前十一時から午後の二時まで陶器の壷を引っ込めた。
これもまたコルネリウスが、土の乾燥するのを恐れていたからのことだった。
ところが花の芽が土から出ると、ボクステルには何もかも納得がいった。その高さは一インチにも及ばなかったけれども、望遠鏡のおかげで、この嫉妬に狂った男はもう何も疑わなくてよくなった。
コルネリウスの持っていた珠芽は二個あったのだ。そしてこの第二の珠芽は、ローザの愛情と注意とに委ねられていたのだ。
何しろ誰にも考えられることだが、若い二人の愛情はボクステルの眼から見逃されるわけはなかったのだ。
そこでこの第二の珠芽を、ローザの注意とコルネリウスの愛情とから奪い去る手段を見つけ出さねばならなくなった。
しかし、それは容易なことではなかった。
ローザは、母親がわが子のお守りをするように、チューリップを見張っていた。それどころか、親鳩が卵を抱いているような有様なのだ。
ローザは昼の日中でも、部屋を離れなかった。もっと奇妙なことは、ローザは夜になってももうその部屋から出ようとしなかった。
七日間、ボクステルはローザの様子を窺っていたが何の手応えもなかった。ローザはまったくその部屋から出てこなかったのだ。
その七日間というものこそ、コルネリウスがローザの消息もチューリップの消息も同時に失ってしまい、非常な不幸に陥って憂悶の裡に明け暮らした期間だった。
ローザは永久にコルネリウスに拗《す》ねてしまったのだろうか? そうなると、盗み出すということはアイザック氏が初めに思い込んでいたよりも、はるかに困難になるわけだった。
筆者は「盗み出す」といったが、それはアイザックが非常に単純に、このチューリップを盗み出そうという計画から一歩も出よううとしないからであった。チューリップは探りようもない深い謎に包まれて芽を出すことだし、若い二人はその存在を誰の目からも隠している。そうなると園芸術の詳細について何一つわきまえのない若い娘や、あるいは国事犯として罰を受け、獄舎に捕らわれ、監視され動静を探られて、独房の奥から何の要求も出せない囚人などよりも、世人は一応名の通ったチューリップ園芸家である彼のほうを信用するであろう。それに彼がチューリップの所有者ともなれば、家財やその他の動産の場合と同じように所有していることが所有権を決定することにもなるので、彼は確実に賞金を獲得し、コルネリウスに代わって確実に栄冠を受けることになるだろう。そしてチューリップは『チューリッパ・ニグラ・ベルレンシス』と呼ばれる代わりに『チューリッパ・ニグラ・ボクステレンシス』あるいは『ボクステレア』と名づけられることにもなるだろう。
アイザック氏は黒いチューリップに与える名称を、この二つのうちのどちらにしたものかを、決めるまでには至っていなかった。しかしこの二つは同じものを意味しており、それはいずれにしても重要な点ではなかった。
重要な点といえば、それはチューリップを盗み出すことであった。
しかしボクステルがチューリップを盗み出そうとすれば、ローザがその部屋から出て行く必要があった。
それでジャコブあるいはアイザックは思いどおりに、夜の慣いとなっていたランデ・ヴーが再び始まり出したのを、非常な歓びを抱いて眺めていた。
彼はまずローザの不在になるのを利用して、その扉を調べることから始めた。
扉は二重止めになっていてよく締まっていた。錠前は簡単なものを使っていたが、しかしその鍵はローザだけが持っていた。
ボクステルはローザの鍵を盗もうと思いついた。しかし若い娘のポケットを探ることが容易な業ではなかったばかりか、ローザは鍵を失くしたと気がつくと錠前を取り替えさせて、その錠前が替わるまでは自分の部屋から出なかった。そしてボクステルは罪を犯したが、何の成果もあがらなかった。
そこで彼はもっと別の手段をとることにした。ボクステルは見つけられるかぎりの鍵を集めた。そしてローザとコルネリウスが覗き窓のところで幸福な一時間を送っている間に、彼は全部の鍵を試してみた。
二つの鍵は錠前に入った。その一つは一度目の回転はするのだが、二度目の回転には引っかかってしまった。
そこでこの鍵にちょっとした細工をすればよかった。
ボクステルはその鍵に蝋を薄く塗り実験を繰り返した。
二度目の回転の時に鍵がぶつかる邪魔なものが、蝋の上に跡を残した。
ボクステルは小刀のような細刃の鑪《やすり》ですりへらしながら、この痕をたどってゆけばよかったのだ。
二日がかりで仕事をしてボクステルは鍵を完成した。
ローザの扉は音もなく、雑作もなしに開いた。ボクステルは若い娘の部屋に入ると、チューリップと差し向かいになっていた。
ボクステルの最初の犯罪行為は、チューリップを掘り出すために塀を乗り越えたことであった。第二回目は、開いていた窓からコルネリウスの乾燥室に忍び込んだことであった。第三回目は、合鍵をつくってローザの部屋に入りこんだことであった。
誰しもごらんになるとおり、嫉妬はボクステルの犯罪経歴を急速に進展させるのだった。
さて、ボクステルはチューリップと差し向かいになっていた。
普通の泥棒なら壷を小脇に抱えて、持ち去ってしまったことだろう。
しかしボクステルは普通の泥棒ではなかった。彼はよくよく考えた。
彼は重いランプの光を当ててチューリップを眺めながら、この花がまだ十分成長を遂げていないので、外観からいえばまったくの可能性があるように見えても、確実に黒い花が開いてくれるものかどうかわからないと考えた。
彼はこの盗難の噂が広がると、花園の一件があるので泥棒に目星がつき、捜索が開始されれば、たとえ彼がチューリップをどんなに巧く隠しても、再び発見されるに違いないと考えた。
彼はまた、たとえチューリップを発見されないように隠してみたところで、運搬しなければならないことであるし、その途中でどんな災厄が起こるかわかったものではないと考えた。
そこでとうとう彼は、ローザの部屋の鍵はあるし、いつでも好きな時にその中に入れることだから、花の開くのを待って、開花する一時間前か一時間後かにそれを持ち出し、同時に一刻も猶予せずにハルレムを目指して出発したほうがよいと考えた。そこに着けば誰かの異議の申し立てが出る前に、チューリップは審査員の前に置かれることになるだろう。
そうなれば、男でも女でも意義の申し立てをする者があれば、逆にボクステルのほうが泥棒の告発をすればいいわけである。
これこそ、あらゆる点で実によく工夫された立派な計画だった。
こうして夜毎に、若い二人が獄舎の覗き窓の所で甘美な一時間を過ごしている間に、ボクステルは処女の聖櫃《せいひつ》を犯すためではなく、黒いチューリップが花を開こうとしている成長過程を見守りつづけようとして、若い娘の部屋に侵入していたのだった。
すでに述べたあの夜、彼はいつもの夜のように侵入しようとしていた。しかしわれわれが見ていたように、若い二人はわずかな言葉を交しただけであった。コルネリウスはチューリップの見張りをさせようとして、ローザを送り返してしまったのだ。
ローザが部屋を出てから十分も経つとまた引き返してくるのを見ると、ボクステルはチューリップが花を開いたか、あるいは花を開こうとしているのだと悟った。
そこでその夜の間に、一大勝負が演じられるということになった。ボクステルは、いつもの二倍のジンを用意してグリフュスの住居に姿を現した。
つまり両方のポケットに、一瓶ずつ入れて行ったのだった。
グリフュスは酩酊した。ボクステルはこの家のあるじのようになった。
十一時になるとグリフュスは酔いつぶれてしまった。午前二時に、ボクステルはローザが自分の部屋から出て行くのを見た。ところが彼女は明らかに小脇の下にある品物を抱えこんでいた。いかにも大事そうであった。
この品物こそ紛れもなく、今花を開いたばかりの黒いチューリップであった。
しかし彼女はそれをどうしようというのだろう?
彼女は今すぐそれを抱えて、ハルレムに出発するのだろうか?
真夜中に若い娘がたった一人で、そんな旅に出るわけがない。
彼女はチューリップをコルネリウスに、ただ見せに行っただけなのだろうか? そうに違いない。
彼は裸足になると爪先立ちで、ローザの後を尾けて行った。
彼は彼女が覗き窓に近づいて行くのを眺めていた。
彼は彼女がコルネリウスに呼びかけているのを聞いた。
鈍いランプの光を浴びて、彼はチューリップが開いているのを見た。それは彼が身をひそめている夜の闇のように真っ黒だった。
彼はコルネリウスとローザとが使者をハルレムに送ろうという計画を、すっかり耳に入れてしまった。
彼は若い二人の唇が触れ合ったのを目撃し、コルネリウスがローザを返すのを聞いた。
彼はローザが鈍いランプの明りを消し、自分の部屋にとって返すのを見ていた。
やがて彼は十分ばかり経つと、彼女が自分の部屋を出て、用心深く二重止めの鍵で扉を閉ざすのを見た。
彼女がこの扉を非常に注意深く閉めるのは、この扉の陰に黒いチューリップを隠していたからだった。
ボクステルはローザの部屋の上になった階段の踊り場に隠れて、一部始終を見届けた。ローザが自分の部屋のある階段から降りてしまうと、彼は自分の部屋のある階段を降りた。
そしてローザが軽やかな足どりで階段の最後に触れた時、ボクステルはもっと軽やかな手つきをして、その手でローザの部屋の錠前に触れた。
読者もおわかりのこととおもうが、その手の中には例の贋の合鍵が入っていて、本物と同様に簡単にローザの扉を開くのだった。
すでに筆者がこの章の冒頭に書いたとおり、若い二人が神の直接の加護を求めていた理由は、ここにきて初めて諒解される次第である。
二十四 黒いチューリップの行方
コルネリウスは、ローザが彼を残して去った場所にじっと立ちつくしていた。自分の得た二つの幸福の重みに耐える力を体内に探しつづけたが、それはほとんど何の結果も現さなかった。
三十分が流れた。
すでに夜明けの太陽の光線が、青白く爽やかに窓の鉄格子を通して、コルネリウスの獄舎の中に射しこんでいた。ちょうどその時、彼はふいに身ぶるいした。階段を駆け上がってくる足音と、彼のところに近づいてくる叫び声が聞こえたからであった。
ほとんどそれと同時に彼の顔は、ローザの青ざめて当惑しきった顔と真正面からぶつかった。
彼自身も、恐怖に衝たれて青くなり、後退りをしてしまった。
「コルネリウスさま! コルネリウスさま」
と、彼女は息を弾ませながら叫んだ。
「いったいどうしたの? 何ということだ!」
と、囚人は訊ねた。
「コルネリウスさま、チューリップが……」
「え、何だって?」
「何てお話したらいいのかしら?」
「言ってごらん、言ってごらん、ローザ」
「誰かが持っていってしまったの、誰かが盗《と》っていってしまったの」
「誰かが持っていったって、誰かが盗っていってしまったって?」
と、コルネリウスは叫んだ。
「そうなの」
と、ローザは倒れないように扉に身をもたせかけながら言った。
「持っていかれたの、盗られてしまったの」
しかしローザの意に反して、彼女の腰の力は抜け、彼女はへたへたとひざまずいてしまった。
「だが、いったいどうしたんだろう?」
と、コルネリウスは訊ねた。
「話してごらん、説明してごらん……」
「おお! 私のほうに手落ちはないはずだけど、ねえ、あなた」
哀れにもローザはもう「愛しい方」と口にする勇気がなかった。
「あなたはあれだけを、置きっぱなしにしたんだね」
と、コルネリウスは惨めな口調で言った。
「ほんのちょっとの間なのよ、使いの人に知らせに行ったの。その人は五十歩と離れていないワハール河の岸に住んでいるのよ」
「それではその間、僕があれほど頼んでおいたのに、あなたは扉に鍵をかけなかったんだね、困った子だ!」
「いえ、いえ、いいえ、こうなのよ、鍵は放したことがないのよ。私、いつでも手に持っているの、逃げ出すと困るというふうにしっかり握りしめていたの」
「そうだとすると、これはいったいどういうわけだろう?」
「私にもさっぱり見当がつかないわ。私、お手紙を使いの人に渡したの。使いの人は私の目の前で出発したわ。私が引き返した時には、閉っていたわ。お部屋の中は何もかもみんな元の場所にあったわ。ただチューリップだけが見えないの。誰かが私のお部屋の鍵を手に入れたか、そうでなければ贋ものを造ったのに違いないわ」
彼女は涙にむせんで、言葉を途切らせた。
コルネリウスは顔色を変えたままじっと身動きもしなかった。彼は耳を傾けていたのだがほとんど何も理解できなかった。そしてただつぶやいているだけだった。
「盗まれた、盗まれた、盗まれた! 僕はおしまいだ」
「おお! コルネリウスさま、許してね! 許してね」
と、ローザは叫んだ。
「私、もう死にそうよ」
ローザの言葉に脅かされて、コルネリウスは覗き窓の鉄格子を掴むと、力まかせに握りしめた。
「ローザ」
と、彼は叫んだ。
「誰かが盗み出したんだ。それは確かだ。しかし僕たちがこんなことで参ってしまっていいものだろうか? そうじゃないね。とんだ災難が振りかかったもんだ。しかしたぶん取り返しはつくだろう、ローザ。僕たちはこれを盗んだ奴を知っているんだもの」
「だって? 私からハッキリお話ししたほうがいいの?」
「おお! 僕のほうから言ってあげるよ、それはあの恥知らずのジャコブの奴だよ。彼奴《あいつ》が僕たちの努力の果実、丹精の賜物、愛情の結晶をハルレムに持って行くのを、僕たちは黙って見ていられるかしら。ローザ、彼奴の後を追いかけるんだ、彼奴に追いつくんだ」
「だって、そんならどうしたらいいの、私たちがこんな仲になっていることをお父さんに判らせないでするというと? 私、女の身で少しも自由がきかないし、上手にやりこなせそうもないんですもの、それでどうすればいいんですの、あなたがご自身でも多分おできになれないことを、私がどうしてやり遂げられるかしら?」
「ローザ、ローザ、この扉を開けてくれ、僕にそれができないかできるか見せてあげるから。僕があの泥棒を見つけ出せないか出せるか見ててごらん。僕が彼奴に、罪の白状をさせられないかさせられるものか見ていたらいいよ。僕が彼奴に、許してくれ! と大声を立てさせられるか立てさせられないかやがてわかるよ!」
「だって!」
と、ローザは激しくすすりあげながら言った。
「私にどうやって開けられるの? 私が鍵を自分で持っているとお思いになるの? たとえ私がそれを持っていたとしても、あなたをそんなに長い間、自由の身にしておけると思っていらっしゃるの?」
「あなたのお父さんが鍵束を持っているんだ。あの人非人のお父さんが。僕のチューリップの最初の珠芽をとっくに踏みつぶしてしまったあの獄吏の奴が。おお。情けない奴め、情けない奴め! あの男はジャコブの共犯者なのだ」
「もっと低い声で、もっと低い声で、どうぞお願いよ」
「おお! もしもあなたが僕のために開けてくれないのなら、ローザ」
と、コルネリウスは激昂の極に達して怒鳴りつけた。
「この鉄格子をへし折って、この牢獄にいる奴を一人も残らず皆殺しにするぞ」
「ねえ、あなた、お願いよ!」
「言っとくがね、ローザ、僕はこの独房の石を片っ端からぶち壊してやるぞ」
この不幸な男は激怒のあまり十倍も力がこもった両手で、凄まじい音を立てながら扉を揺さぶった。しかも喚き散らす大声が、反響しやすい螺旋階段の底に響き渡っていくことなど、一向お構いなしの有様だった。
ローザは仰天して、この猛り立つ嵐を鎮めようとしたが、一向何の効果もなかった。
「言っとくがね、僕は人非人のグリフュスを殺してやるぞ」
と、ファン・ベルルは怒鳴り立てた。
「言っとくがね、僕は彼奴の血を流してやるぞ。彼奴が僕のチューリップの血を流してしまったように」
この悲運の男は、狂気のようになり始めていた。
「それではね、いいことよ」
と、ローザは胸を弾ませながら言った。
「いいわよ、いいわよ、でも静かになさってね。いいことよ、私、お父さんから鍵束を取ってくるわ。いいことよ、私、あなたのためにここを開けて差し上げてよ。いいわよ、でも落ち着いてね、ねえ、私のコルネリウス」
しかし彼女の言葉はおしまいまでつづかなかった。彼女の前に飛び出した喚き声が、彼女の言葉をとぎらせてしまった。
「まあ、お父さん!」
と、ローザは叫んだ。
「グリフュスの奴か!」
と、ファン・ベルルは真っ赤になって怒鳴った。
「ああ! この悪党め!」
グリフュス老人は、この場の騒ぎの最中に、誰にも足音を聞かれずにそこまで登ってきていたのだった。
彼は乱暴に、娘の手首を掴んだ。
「ああ! お前は俺から鍵束を取ろうっていうのか」
と、彼は腹を立てたあまり、喉を詰まらせるような声で言った。
「ああ! この恥知らずめ! この怪物め! 絞首刑にかけられ損なったこの謀反人が、お前のコルネリウスというわけか。ああ! お前は国事犯と馴れ合っていたのだな。大したもんだ」
ローザは絶望して両手を打ち合わせた。
「おお!」
と、グリフュスは言葉をつづけた。怒りにまかせた激しい語調から、勝利者の冷やかな調子に変わっていた。
「ああ! 無邪気なチューリップ先生、ああ! お優しい学者先生、ああ! あなたが私を殺してくださるんですね。ああ! あなたが私の血をお飲みくださるんですってね! こいつはどうも素晴らしい! たったそれっぱかりのことですか! そうして私の娘と共謀してね! いやはやどうも助からんですな! だがね、それじゃあ私は山賊の巣窟にいるってわけですか、それじゃあ私は同属の洞窟にでもいるんですかね! ああ! 今朝のうちに長官閣下は何もかもご存知になるでしょうよ、そして明日になったら総督殿下が一切合切ご承知になるでしょうな。こんな法律がありますぞ――牢獄で反逆せる者は何人を問わず――って、第六条ですがね。学者先生、われわれはあなたにビュイテンホーフの二の舞をやらせてあげましょうや。こいつはなかなかいいもんですよ。そう、そう、檻の中の熊みたいに拳骨でもかじっていてくださいよ。それからおい、お前、かわいい子、お前のコルネリウスをようくその眼で見ておくことだよ。なあ、私の指輪、お前には忠告しとくがね、もう二度と一緒に陰謀を企もうなんでおめでたい真似は真っ平だよ。さあ、降りよう、変わり者の娘さん。それからあなた、学者先生、ごきげんよう、静かにしていた方がいいですよ、それじゃ、またこの次まで!」
ローザは恐怖と絶望とに気も狂うばかりになって、接吻を囚人に送った。それからとっさにある考えが閃いたので、彼女はこう言いながら階段へ駆け込んだ。
「まだすっかりだめになったわけじゃないわ。わたしを当てにしていてね、私のコルネリウス」
父親は喚きながら、彼女の後を追っていった。
哀れなチューリップ園芸家のほうは、痙攣している指で押えていた鉄格子を徐々に放していった。彼の頭は鈍くなった。眼は眼窩《がんか》の中でグラグラ揺れた。そして彼はこうつぶやきながら、部屋の敷石の上にどさりと倒れた。
「盗まれた、盗まれた!」と。
この間にボクステルは、ローザが先ほど自分で開いた扉から城の外に出た。ボクステルは黒いチューリップを大きなマントに包んで、ゴルクムに待たせておいた幌付きの小型二輪馬車に飛び乗った。そして友人のグリフュスにあわただしい出発の暇乞いもしないで雲を霞と消え去った。
かくてわれわれは彼が二輪馬車に乗ったのを見ていたのだが、もしも読者諸君のご諒承があるならば、彼の旅行が終わるまでその後を追って行くことにしよう。
彼は馬車をゆっくりと行進させた。黒いチューリップを傷めないためには、急速に走ることができなかった。
しかしボクステルは到着の時機が遅れてしまうことを恐れたので、デルフトに着くと新鮮な美しい苔《こけ》を周囲一面につめこんだ箱を一つ造らせた。そして彼はその中にチューリップを収めることにした。花はその中に納まると四方から柔らかに支えられ、空気が上部から入るようになった。こうして小型の二輪馬車はどんな障害も蒙ることなく疾走させることができるようになった。
翌朝、彼はハルレムに着いた。疲労困憊していたが、しかし勝ち誇った思いがした。彼は盗んだ痕跡をすっかりなくしてしまおうとしてチューリップの壷を取り換えると、陶器の壷を砕いて破片を運河に投げ込んでしまった。彼は園芸協会長宛てに一通の手紙をしたためた。その中で彼は真っ黒なチューリップを携えて、たった今ハルレムに到着したということを通告した。そして斑点一つない花と一緒に、立派なホテルを宿にした。
そしてそこで待機していた。
二十五 園芸協会長ファン・システンス
ローザはコルネリウスと別れながら覚悟を決めた。
それはジャコブの盗んでいったチューリップを彼のもとに取り返すか、さもなければ二度と彼に会うまいということだった。
彼女は哀れな囚人の絶望を、それも二つ重なり合った癒《いや》しようもない絶望を眼にしたのだった。
事実その一つは、グリフュスが一時に彼らの恋と逢引の秘密をいきなり握ってしまったので、別離が避けられぬ破目に陥ったことだった。
もう一つはコルネリウス・ファン・ベルルの野心にあふれた希望が、根こそぎに消え去ったことであった。彼はこの希望を七年間にわたって育んできたものだった。
女の中には取るるに足らないことにも意気消沈するが、しかしこの上もない災厄に対しては気力に満ちて、その災厄の中からでもそれを打ち倒す精力や、それを挽回する力を見つけ出すひとがいるものだが、ローザもそうした女の一人だった。
彼女は自分の部屋に戻ると、部屋中に最後の視線を投げてみた。彼女は錯覚でも起こしていなかったものか、チューリップは自分の視線の行き渡らなかったどこかの片隅に置いてあったのではなかったかを見届けようとしたのだった。しかしローザがどう探してもどうにもならなかった。チューリップはやはり見えなかった。チューリップはどうあっても盗まれたのだ。
ローザは必要な衣類をまとめると小さな梱包を作った。彼女は全財産の、ようやく貯めた三百フロリンを取り出すと、第三の珠芽を入れておいたレースの下にしまいこんだ。この珠芽のほうは大切そうに自分の胸の中に隠してしまった。そして彼女の失踪が判った時、扉を開こうとしても手間取るように、扉を二重止めに閉めてしまった。彼女は階段を降りると、一時間前にボクステルの通路となった戸口から牢獄の外に出た。その足で貸馬屋にやって行き、二輪馬車を雇いたいと申し込んだ。
貸馬屋には二輪馬車が一台しかなかった。それはボクステルが昨夜から借り出して、デルフト街道を疾走させていたあの馬車だった。
筆者がここでデルフト街道について述べるのは、ルーヴェスタンからハルレムに行くには大迂回をしなければならないことを言いたいためである。直線コースが取れれば、この距離は半分もなかったといってよい。
しかし大河や支流や小川や運河や湖などが到るところにあって、そのために世界中で一番細分化されている国土を持つオランダで、一直線に旅のできるのは鳥よりほかにいないのである。
そこでローザは余儀なく馬を借りることにした。馬は簡単に彼女の手に委ねられた。というのは貸馬屋がローザのことを城砦の獄吏の娘と知っていたからだった。
ローザは一つの期待を抱いていた。それは彼女が出した使いの者に追い着くことだった。この男は気立てのよい勇敢な若者だったが、彼女はその男と同行すれば、道案内にも用心棒にも役に立つわけだ。
事実、彼女は一里と行かないうちに、河沿いの美しい道路の一方の下を、急ぎ足で歩いて行く男の姿を認めた。
彼女は馬を速足にして、その男に追い着いた。
この正直な若者は、自分の使命の重大さを何も知っていなかった。しかしそれを知りぬいているかのように、行程は至極はかどっていた。一時間足らずのうちに、彼はすでに一里半も歩いていた。
ローザは不用になった手紙を取りもどすと、彼を必要とする理由を説明した。船頭は彼女の申し出に従うことになり、馬と同じ速度で歩くという約束をした。ただしそれには彼が馬の臀か肩に手をかけても、ローザから許してもらえるという条件だった。
若い娘は彼が彼女に手間を取らせないかぎりは、どこでも彼の望みの場所に手をかけてもよいことにした。
二人の旅行者が出発してからすでに五時間は経っていた。そしてもう八里以上も歩いていた。しかし父親のグリフュスは、若い娘が城砦から抜け出していたことをまだ何も気づいていなかった。
とにかくこの獄吏は心底から残忍な男だった。彼は自分の娘に対して、深刻な恐怖を吹き込んだことを嬉しがっていた。
しかし彼がこの面白い物語を仲間のジャコブに話そうと一人で悦に入っている間に、ジャコブのほうはデルフトへの道中をつづけていた。
ただ二輪馬車があるおかげで、彼はローザや船頭よりもすでに三里も先を進んでいた。
彼はローザが自分の部屋に引きこもって、さぞかしブルブル震えたり、拗《す》ねて渋面を作っているものと想像していたので、反ってローザの立場はよくなっていた。
こういうわけで、囚人を除くと誰一人として、グリフュスがめいめいの所在だと信じた場所には見当たらなかった。
ローザはチューリップの面倒を見るようになってからさっぱり父親の部屋に姿を現さなかった。ただし食事の時間すなわち正午は別であった。そこでグリフュスは自分の空腹の状態から考えて、娘が拗ねているにしてもあんまり長過ぎることに気がついた。
彼は鍵番の一人に言いつけて娘を呼びにやった。やがて鍵番は降りてくると、彼女を探して呼びたててみたが何の返事もなかったというので、彼は自分で娘を探して呼んでくるつもりになった。
彼はまずまっすぐに娘の部屋に行ってみた。しかしいくら叩いても、ローザは返事をしなかった。
城砦の錠前屋が呼びつけられた。錠前屋は扉を開け放った。しかしグリフュスは、ローザがチューリップを見つけ出せなかったように、ローザの姿を見つけることができなかった。
この時、ローザはちょうどロッテルダムに入ったばかりのところだった。
それでグリフュスは彼女の部屋と同様に台所を探しても、台所と同様に庭園を探しても、彼女の姿を見つけることができなかった。
獄吏がどんなに腹を立てたか、それは読者のご判断にお任せしよう。あたり近辺を探しまわったあげくの果て、彼は娘が馬を借り入れて、プラダマント〔イタリアの詩人アリオストの「怒れるローラン」のヒロイン〕やクロリンド〔イタリアの詩人タッソーの「エルサレム解放」のヒロイン〕のように、どこに行くかも告げず、まさに冒険を求める女として出発してしまったことを知った。
グリフュスは憤慨してファン・ベルルの独房に登って行った。そして彼を罵り、脅迫して、彼の貧しい家具を全部がたぴし揺すぶった。それから土牢や、地下牢や、絶食や、笞刑《ちけい》などの責苦を彼に与えることを約束した。
コルネリウスのほうは獄吏の言っていることに耳をかそうともしなかった。虐待されても、罵られても、脅迫されても一向に無頓着だった。彼はじっと沈みこんで、身動きもせずに茫然としており、どんな感動にも無感覚のようであり、どんな恐怖にも反応を起こさなかった。
周囲一帯にわたってローザの捜索をすますと、グリフュスはジャコブを探した。しかし娘が見つからなかったようにこの男の姿も見つからなかった。そこでこの時初めて、彼はジャコブが娘をさらって行ったのではないかと疑念を抱いた。
だが若い娘はロッテルダムで二時間の休息を取ると、再び行程をつづけていった。その夜彼女はデルフトに泊った。そして翌日、彼女はハルレムに到着したが、それはボクステルがそこに着いてから、四時間後のことであった。
ローザは真っ先に園芸協会長ファン・システンス氏のもとにおもむいた。
彼女はこの立派な市民が、ある状況に置かれているところにぶつかったのだった。この状況たるや、筆者が画家としてまた歴史学者としてあらゆる債務を怠るまいとすると、どうしても描写を省くことのできないようなものである。
会長は協会の委員会に提出する報告書を作成していた。
この報告は大きな紙の上に、会長の、他に類を見ない見事な筆跡で書かれてあった。
ローザは、ローザ・グリフュスという簡単な名前を名乗った。しかしこの名前が、いかに響きのよいものであっても、会長にはまったく通じなかった。というのはローザは面会を拒絶されたのだから。堤防と水門の国オランダでは、命令に背くことは容易でない。
しかしローザは怯《ひる》まなかった。彼女は自分である使命の責任を背負いこんでいたのだった。そして彼女はたとえどんなに拒絶され、虐待され、罵倒を受けても、のめのめと打ち負かされてはいまいと心ひそかに誓っていた。
「会長さまにお伝えいただきたいのです」
と、彼女は言った。
「わたしはあの方に黒いチューリップのことをお話し申し上げようと思って、ここに参ったのでございます」
この言葉は「千一夜物語」にある有名な「開け胡麻」というほどにも魔法の力をそなえていて、彼女は「通れ」ということに相なった。彼女はファン・システンスの事務室の中まで入っていった。彼女はこの人物と面会するために通りながらこの男を優美な人だろうと想像した。それは正しく花の茎のように華奢な体躯をしたしごく小さな男だった。頭は蕚《がく》のような形をしており、ぼんやりとぶら下がっている両腕はチューリップの二重になった細長い葉に似ていた。その上、習慣的に身体をユラユラと左右に振る動作は、風が吹くとコックリをするこの花とそっくりそのままの有様だった。
この人がファン・システンス氏と呼ばれていることはすでに述べた通りである。
「お嬢さん」
と、彼は大声で呼びかけた。
「話によると、あなたは黒いチューリップのことでおいでになったそうですね?」
園芸協会長にとっては「チューリッパ・ニグラ」こそ第一級の権力者であり、チューリップの女王の資格によって多数の使節を派遣することもありうるのだった。
「はい、そうです」
と、ローザは答えた。
「わたしはとりあえずその花のことをお話しにあがりました」
「うまく育っておりますか?」
と、ファン・システンスは優しい尊敬の微笑を浮かべながら訊ねた。
「それがどうなんでしょうか! わたし、存じておりませんの」
と、ローザは答えた。
「何ですって? それでは何か災難でも起こったのですか?」
「それが大変な災難ですの、そうですわ。それが花ではなくて私の身の上に」
「どんなことですか?」
「私、その花を盗まれてしまったのです」
「あなたが黒いチューリップを盗まれたのですか?」
「はい、そうですの」
「誰だかわかっていますか?」
「おお! 私、見当はついておりますの。でも、まだ告発はできませんの」
「しかし事件は簡単に究明できるでしょう」
「それにはどうすればよいのでしょう?」
「誰かがあなたのその花を盗んだとしても、その泥棒はまだそう遠くには行っていないでしょう」
「なぜ、遠くへ行っていないとおっしゃるのですか?」
「というのはですね、私は二時間前にその花を見たのですから」
「あなたさまが黒いチューリップをごらんになったのですか?」
と、ローザはファン・システンス氏のそばに駆け寄りながら叫んだ。
「私があなたを見ているのと同じことです、お嬢さん」
「でもそれはどこにございますの?」
「ハッキリ言うとあなたのご主人のところです」
「私の主人のところですって?」
「そうです。あなたはアイザック・ボクステル氏のお仕事をしているのではないのですか?」
「私が?」
「もちろん、あなたのことです」
「それでは、あなたさまは私を誰だとお思いになっているのですか?」
「それならあなたのほうは、私を誰だと思っているのですか?」
「私、あなたさまはあなたさまだと思っておりますわ。つまりハルレムの市長で園芸協会長の名高いファン・システンスさまだと存じておりますの」
「そしてあなたのほうは、私に話をしにおいでになったんですね?」
「私、いま申し上げましたわ、私がチューリップを盗まれたということを」
「それではあなたのチューリップというのは、ボクステル氏のチューリップのことですね。それならあなたの説明が悪いのですよ。チューリップを盗まれたのはあなたではなくてボクステル氏なのでしょう」
「私、もう一度申し上げますが、私、ボクステル氏がどんなお方が存じませんし、そんなお名前を聞くのは初めてですわ」
「あなたがボクステル氏のことを知らないとすると、あなたも黒いチューリップを持っておられたわけですね」
「そうすると、もう一つ別に黒いチューリップがありますのね?」
と、ローザは身ぶるいしながら訊ねた。
「ボクステル氏の花がありますよ。確かに」
「その花はどんなふうでしょうか?」
「真っ黒ですね」
「斑紋《むら》などはございませんの?」
「一つもありませんね、針でついたほどもありませんよ」
「あなたさまはそのチューリップをお持ちですの、ここに預けてありますの?」
「いや、しかしそのうちここで預かることになりましょう。というのは賞金が授与される前に、それを委員会に展示しなければなりませんから」
「会長さま」
と、ローザは叫んだ。
「そのボクステルというのは、黒いチューリップの持ち主だと名乗っているそのアイザック・ボクステルというのは……」
「事実、持ち主ですよ」
「会長さま、痩せた人ではございませんの?」
「そうですね」
「禿ておりまして?」
「その通りです」
「ギロギロするような眼つきをして?」
「そうだったと思います」
「落ち着きのない、猫背の、がに股の?」
「まったくあなたのおっしゃるとおり、どの特徴もボクステル氏とそっくりですね」
「会長さま、チューリップは青と白の陶器の壷に植えてありましたかしら。その壷には三面に、籠に盛った黄色い花の絵がついておりますわ」
「ああ! そのことはどうもはっきりしませんね。私は壷のほうより人間のほうをよく眺めておりましたから」
「会長さま、それは私のチューリップですわ。私が盗まれたチューリップですわ。会長さま、それは私の財産なのですわ。私はそれを自分のものだと言いたいために、ここに、あなたさまの前に、あなたさまのところに参りましたの」
「おお! おお!」と、ファン・システンス氏はローザを見つめて言った。
「何ということだ! あなたはボクステル氏のチューリップを自分のものだと言うために、ここにやってきたのですか? あなたはまた大胆なお喋りやさんだな」
「会長さま」
と、ローザはこの言い草に少し当惑しながら言った。
「私はボクステルさんのチューリップを、自分のものだと言いに来たわけではありません。私は自分のものを自分のものだと言うために参りました、と申し上げているのですわ」
「あなたのものですって?」
「そうですわ、私が自分で植えて、育てたものですの」
「それでは白鳥ホテルに行ってボクステル氏を探してごらんなさい。そしてあなたは彼と話をつけるんですね。私はといえば、こんな訴訟を判定することは、昔のソロモン王の前に持ち出された訴訟と同じことで判決を下すことは難しいように思えます。それに私はソロモン王ほどの知恵があるとはいえませんからね。私は報告書を作成し黒いチューリップの存在を確かめ、その発見者に十万フロリンの支払命令を下すだけでたくさんです。ごきげんよう、お嬢さん」
「おお、会長さま! 会長さま!」
と、ローザは言い張ろうとした。
「ただですね、お嬢さん」
と、ファン・システンスは言葉をつづけた。
「あなたは綺麗だし、お若いのだし、まだすっかり堕落しきっているわけではないのだから、私の忠告を胸に納めてください。こうした事件には慎重に構えたほうがいいのですよ。ハルレムに裁判所も牢屋もありますからね。それにわれわれはチューリップの名誉に関しては極度に気を遣いますからな。さて、行ってごらんなさい、お嬢さん、行ってごらんなさい。アイザック・ボクステル氏は白鳥ホテルにおりますよ」
そしてファン・システンスは再び美しい羽ペンを取ると、中断した報告書を書きつづけた。
二十六 園芸協会の一会員
ローザは黒いチューリップが見つかったと思うと、歓びと恐怖とで気も顛倒してほとんど狂気のようになり、白鳥ホテルへの道をとった。船頭はいつでもその後について回っていた。フリーズ生まれのこの屈強な若者は、ボクステルが十人かかってきてもたった一人で薙《な》ぎ倒してしまうことができそうだった。
途中で船頭は事情を打ち明けられた。彼は乱闘が起こるような場合でも、その前で尻込みしたりするような男ではなかった。
ただもしそういう事態が起こっても、チューリップに気をつけるように命令された。
しかしグロット・マルクトにやってきた時、ローザは突然立ち止まった。急にある考えが閃いて彼女を捉えてしまったのだった。それはちょうどホメロス物語にあるミネルヴァが、怒りのためにアキレウスが逆上しようとした瞬間、彼の髪をつかんだのに似ていた。
「ああ、神さま!」
と、彼女はつぶやいた。
「私、大変な過ちを犯してしまったわ。私、きっとコルネリウスもチューリップも私自身もだめにしてしまったわ!
私、警告を与えてしまったわ。私、疑惑を与えてしまったわ。私は女の身一つだけだけれど、あの人たちは一緒になって私と対抗できるのだわ。そうなれば私、ぺしゃんこよ。
おお! 私なんかぺしゃんこになっても構わないけれど、でも、コルネリウスや、チューリップがそうなってしまったら!」
彼女はちょっと思案を凝らした。
「もしも私がボクステルのところに行くとしても、それが私の知らない人だとしたら、もしかしてそのボクステルという人が私の知っているジャコブではないとしたら、もしもそれが別の園芸家であって、その人もまた黒いチューリップを発見したのだとしたら、それともまたもしかして私のチューリップを盗んだ人が、私の疑いをかけている人とは別の人だったとしたら、さもなければもうすでに別人の手に渡っているとしたら、そうしてもしもその人間のほうの見当はつかずに、ただチューリップだけがわかったとしたら、いったいそのチューリップが私のものだということをどうすれば証明できるかしら?
また別の面から考えると、たとえ私はこのボクステルという人がジャコブの偽物だと判っても、それを彼が認めるかどうか誰に見当がつくかしら? 私たちが一緒に議論をしている間に、チューリップは枯れてしまうでしょうよ。おお! 何か啓示を与えてくださいませ、聖母マリアさま! 私の命を賭けた問題でございます。こうしている時にも、息を引き取るかもしれない哀れな囚人の身の上にかかわることでございます」
こういう祈りを捧げると、ローザは天に求めた啓示を敬虔な気持ちで待っていた。
そのうちに騒々しい大きな物音がグロット・マルクトのはずれで起こった。群衆は走り出し、家々の扉は開け放たれた。ローザだけがただ一人、この住民の動きに無関心だった。
「会長さんのところへ戻らなければならないわ」
と、ローザはつぶやいた。
「もどりましょう」
と、船頭は言った。
彼らはパイユの小路を通っていった。その小路はまっすぐにファン・システンス氏の住居に向かっていた。彼はこの上もなく美しい字体で最上のペンを用いて、報告書の作成をつづけていた。
通りすがりの到るところで、ローザが耳にしたのは黒いチューリップと十万フロリンの話ばかりだった。ニュースはすでに市中一帯を流れていた。
ローザがまたもやファン・システンス氏の邸の中に入りこむには、かなりの手数がかかった。しかしながらこの人は、最初の時と同じように、黒いチューリップという魔法の言葉を聞くと心を動かされてしまった。
しかし彼はローザの姿を認めると、心の中で気狂い女かそれよりもっと質《たち》のよくないものと判断していたので、すっかり腹を立てて、彼女を追い返そうとした。
しかしローザは両手を合わせると、人の心に侵み透るような誠意のある真実のこもった語調で言った。
「会長さま、どうぞお願いでございます! 私を追い出したりなどなさらないでくださいませ。その反対に、私がこれから申し上げようとすることをお聞きになってくださいませ。そうすればたとえあなたさまが私の言い分を正しいものとご判断になれないとしても、少なくとも後日神さまの御前で、あなたさまは悪事に加担したことを後悔なさらなくともすむに違いありませんわ」
ファン・システンスはじりじりして地団太を踏んだ。彼が市長としてまた園芸協会長として二重の自尊心を寄せていた仕事の最中に、ローザが彼の邪魔をしたのはこれで二度目だった。
「だが、私の報告書はどうなるんだ!」
と、彼は叫んだ。
「黒いチューリップに関する報告書は!」
「会長さま」
と、ローザは無邪気と真実のこもった毅然とした態度で言葉をつづけた。
「会長さま、もしもあなたさまが私の申しあげることをお聞きにならなければ、黒いチューリップについてあなたさまのお書きになる報告書の根拠は、犯罪行為と虚偽の事実に立脚することになりましょう。お願いいたします、会長さま。そのボクステルさんとおっしゃる方をここに、あなたさまと私との前にお呼びになってくださいませ。私はその方が確かにジャコブさんだと思っておりますの。もしも私がチューリップにもその持ち主にも見覚えがないということになれば、私はその方がチューリップを所有していることに何の異存もないことを、神さまにお誓いいたしますわ」
「やれやれ、そんなことをしてどうするのだ」
と、ファン・システンスは言った。
「と、おっしゃいますと?」
「私はお訊ねしますがね、あなたに見覚えがあった場合に、それをどうやって証明しますか?」
「でも、そうしますと」
と、ローザは望みを失って言った。
「あなたさまは紳士でいらっしゃいます。会長さま。それなのに、もしもあなたさまが、自分で作りもしなかった作品に対してある人に賞金を渡すことを承知なさるばかりでなく、盗んだ作品に対してそんなことをなさるとしたら」
ローザの語調は恐らくファン・システンスの心に、ある確信をもたらしたのだろう。彼は前よりも穏やかにこの若い娘に答えようとしていた。ちょうどその時、騒々しい物音が街路で聞こえた。それはすでにローザがグロット・マルクトで耳にしたが、その時は一向気にも留めず、また彼女の熱心な祈りを呼び醒ますほどの力も持っていなかったのだが、その時の物音がそのままそっくり大きくなったように思われた。
燃え上がるような歓呼の声がこの邸を揺るがした。
ファン・システンス氏はこの歓声に耳を傾けていた。それはローザにとって、初めは騒々しい物音とも思えなかったが今になってもただ普通の騒音に過ぎなかった。
「あれは何だろう?」
と、市長は叫んだ。
「あれは何だろう。そんなことがあるだろうか、ハッキリ聞こえたじゃないか?」
すると彼はもうローザのことなど意にも介せず、事務室に放り出したまま、控の間に飛んで行った。
控の間に着くと同時に、ファン・システンス氏は階段から玄関まで一面に広がっている光景を認めて、大きな叫び声を発してしまった。
群衆に伴われて、というよりも群集を従えて、一人の青年が銀の縁取りをした菫色のビロードの服を簡単に着込んで、気品のあるゆっくりとした足どりで、真っ白な綺麗さっぱりとしたまばゆい大理石の階段を登っていた。
その青年の背後には二人の将校が歩いていた。一人は海軍の将校であり、もう一人は騎兵隊の将校だった。
ファン・システンス氏は、びっくりしている召使たちの真ん中に進み出ると、この騒ぎを引き起こした新来の客の前に近づいて、ほとんど平伏するばかりに身をかがめた。
「殿下」
と、彼は叫んだ。
「殿下、殿下が拙宅にお越しくださるとは! 私どもの陋屋《ろうおく》にとってまたとない光栄だと存じます」
「親愛なるファン・システンス君」
オレンジ公ウィリアムは、彼の特徴になっている微笑に替わる平静な態度で言った。
「私は正真正銘のオランダ人だ。私は水を、ビールを、花を愛好している。フランス人が風味を賞美するあのチーズでさえ、たまには愛好しておるがね。花の中でもとりわけ好きなのはむろんチューリップだよ。私はレイドで、ハルレム市がついに黒いチューリップを手に入れたという噂を聞いた。この話は信じられないことであるが、まことのことだと確かめられたので、園芸協会長に様子を聞きに来たわけだ」
「おお! 殿下、殿下」
と、ファン・システンスは驚喜の態で言った。
「当協会にとりましても、もしもこの仕事が殿下のお気に召したといたしますならば、何という光栄でありましょう」
「花はここにあるのか?」
と、公爵は、余計なことを喋り過ぎたとすでに後悔を覚えながら言った。
「残念なことに、殿下、ここにはございません」
「どこにあるのか?」
「持主の手許でございます」
「その持主とはいかなる人物か?」
「ドルドレヒトのチューリップ園芸家でございます」
「ドルドレヒトの?」
「はい」
「名前は何というか?」
「ボクステル」
「住居は?」
「白鳥ホテルにおります。さっそく呼びにやらせましょう。お待ちになる間、殿下はサロンのほうにお入りいただきたいと存じます。殿下がここにおいでになると判りますれば、その人物は大急ぎで殿下のお手許にチューリップを持参いたすことと存じます」
「よろしい、それでは呼びにやってくれ」
「かしこまりました、殿下、ただ……」
「何か?」
「おお! 大したことではございませんが、殿下」
「この世にあるものは何だって重要だよ、ファン・システンス君」
「それでは申し上げます、殿下、ある難題が持ちあがっておるのです」
「どういうことかね?」
「このチューリップを自分のものだと名乗り出て、権利の回復を要求している者がいるのでございます」
「それは事実か?」
「はい、殿下」
「これには犯罪行為が絡んでいるかもしれないというのだな、ファン・システンス君」
「はい、殿下」
「その犯罪行為の証拠を握っておるのかね?」
「いいえ、殿下、しかし犯人が……」
「犯人がいるのかね、君……」
「そういいたいところです。殿下、チューリップの所有権を主張する女が、そこに隣りの私の部屋におるのです」
「そこにだと! それで君はどう考えるかね、ファン・システンス君」
「私の考えでは、殿下、十万フロリンの餌が女を誘惑したのだと思います」
「その女はチューリップを、自分のものだと主張しているのかね?」
「はい、殿下」
「女のほうでは証拠としてどう言っているのか?」
「殿下がお越しになられた時、私はちょうど、訊問にかかろうとしていたところでした」
「女の言い分を聞いてみよう、ファン・システンス君、聞いてみよう。私はこの国第一の司法官である。私が訴えを聞いてその成否の判定を下そう」
「ここにソロモン王のご登場をいただけたわけです」
と、ファン・システンスは身をかがめて、公爵に道を示しながら言った。
公爵は道案内者について歩みかけたが、ふと立ち止まると、
「先に行きたまえ。そして私のことは『君』と呼んでくれ」
と、言った。
彼らは事務室に入った。
ローザは依然として同じ場所におり、窓にもたれて、窓のガラス越しに庭園をじっと見つめていた。
「ああ! ああ! フリゾンの娘だな」
と、公爵はローザの金色の冠帽と赤いスカートを認めて言った。
彼女は物音を聞いて振り向いた。しかし公爵が部屋の一番暗い隅に腰を下ろしたので、彼女はチラリとその姿を見ただけだった。
誰にも判るように、彼女の注意はすっかりこのファン・システンスと呼ばれる重要人物に向けられていたので、この邸の主人の後についてきた恐らく名乗るほどのものではない地味な見知らぬ男には何の関心もなかった。この目立たない見知らぬ男は書棚から本を一冊取り出すと、ファン・システンスに訊問を開始するように合図をした。
ファン・システンスは菫色の服を着た若者に促されて自分も腰を下ろした。
彼は自分に与えられた重要な立場にすっかり嬉しくなり得意になった。
「お嬢さん」
と、彼は言った。
「あなたはあのチューリップについて、本当のことを一切述べると約束しますね」
「お約束いたしますわ」
「結構です、それではこの方の前でお話しください。この方は園芸協会の会員の一人です」
「会長さま」
と、ローザは言った。
「先ほど私が申し上げたことのほかには、何もお話しすることはございませんでしょう?」
「というと、どうなります」
「ですからさいぜんお願いしたことを、もう一度お願いするだけでございます」
「どんなことですか?」
「ボクステルさんとおっしゃる方に、チューリップを持ってここに来るようお呼びいただきたいのです。もしもその花が私の見覚えのあるものでなかったとしたら、私はハッキリそう申します。しかし私に見覚えがあれば、私はその花の所有権を主張いたしますわ。私は証拠を持って、総督殿下の御前にでもぜひ参りたいと思います」
「では、あなたは証拠をお持ちですね、お嬢さん」
「神さまが、私の正当な権利をご存知でいらっしゃいます。神さまは私にそれをお授けくださいましょう」
ファン・システンスは公爵と目配せした。
公爵はローザが語り始めた時から、この優しい声が彼の耳を衝《う》ったのはこれが初めてのことではないように思われ、記憶を呼び起こそうと努めていた。
一人の将校が、ボクステルを連れてくるために出発した。
ファン・システンスは訊問をつづけた。
「それでどういう点に」
と、彼は言った。
「あなたが黒いチューリップの所有者だという根拠があるのですか」
「そうおっしゃられても、大変簡単なことですけれど。それはつまり私が自分の部屋であれを植え、あれを育てたということですわ」
「あなたの部屋ですって? あなたの部屋はどこにあるのですか?」
「ルーヴェスタンにございます」
「あなたはルーヴェスタンのかたですか?」
「私、城砦の獄吏の娘でございます」
公爵はちょっと身体を動かした。それはこういう意味だった。
「ああ! そうか、やっと思い出したよ」
そして彼は相変わらず本を読むふりをしていたが、今までよりもずっと注意深くローザを見つめていた。
「ところであなたはお花がお好きなのですか?」
と、ファン・システンスは言いつづけた。
「はい、会長さま」
「それでは、あなたは花の研究家ですか?」
ローザは一瞬、躊躇した。やがて心の一番奥底からふりしぼるような声音で、
「皆さま、私は紳士の方々だからと思えばこそお話し申し上げますの」
と、彼女は言った。
その声の調子には真実の響きがこもっていたので、ファン・システンスと公爵とは同時に頷《うなず》いた。
「本当は、そうではありません! 私は花の研究家ではございません。そんなことは思いも及びません! 私はただの庶民の貧しい娘に過ぎません。わずか三ヵ月前には読み書きもできないフリゾンの田舎娘でございます。黒いチューリップは、私が自分で発見したわけではございません」
「それではあの花は誰が発見したものか?」
「ルーヴェスタンの哀れな囚人でございます」
「ルーヴェスタンの囚人が?」
と、公爵は言った。
その声に気がつくと、今度はローザが身震いした。
「それでは国事犯がか」
と、公爵は言葉をつづけた。
「ルーヴェスタンには、国事犯しかいないはずだね?」
そして彼はまた本を読み出した。あるいは少なくとも本を読み出すふりをした。
「はい」
と、ローザは身をふるわせながらつぶやくように言った。
「はい、国事犯でございます」
ファン・システンスは、このような証人の前でこうした告白がもらされたのを聞くと青くなった。
「つづけたまえ」
と、ウィリアムは冷静に園芸協会長に言った。
「おお! 会長さま」
と、ローザは自分の本当の裁判官だと思いこんでいる相手に向かって話しかけた。
「私、大変重大なことを申しあげるところでした」
「まったくだ」
と、ファン・システンスは言った。
「国事犯はルーヴェスタンの密牢に入れてあるはずだ」
「それには違いはございません! 会長さま」
「だが、あなたの言葉を聞くと、あなたは獄吏の娘という地位を利用して、花を栽培するためにその囚人と連絡していたように思えるな」
「はい、会長さま」
と、ローザはすっかり困り果ててつぶやいた。
「そのとおりでございます。私はどうしてもそれを申し上げないわけには参りません。私は毎日、その囚人と会っておりました」
「何という情けないひとだ!」
と、ファン・システンスは叫んだ。
公爵は顔を上げると、ローザの恐れおののいているさまと会長の青ざめた顔色を見ながら、
「そんなことは」
と、明瞭な毅然とした語調で言い出した。
「そんなことは当園芸協会の会員諸君の関知するところではない。会員諸君は黒いチューリップの判定をしなければならないのであって、政治的違反行為については知る必要がない。さあ、娘さん、つづけてごらん」
ファン・システンスは目にものをいわせて、チューリップの名にかけて、この園芸協会の新会員に感謝した。
ローザはこの見知らぬ人から一種の激励を与えられて安心し、この三ヵ月以来の出来事や、その間に彼女の行ったことや、苦しんだことなどを一つ余さず物語った。彼女がグリフュスの残忍なことや、第一の珠芽が砕かれたことや、囚人の受けた苦痛や、第二の珠芽を立派に育て上げるために取られたさまざまな注意や、囚人の忍耐や、二人が別れている間に彼が嘗めるに違いない苦悩などを打ち明けた。また囚人が自分のチューリップの消息が再び得られなくなったとき、絶食して死のうとしたことや、二人が再会した時に味わった喜びや、そしてついに花を開いたばかりのチューリップが、開花してから一時間後に盗まれてしまったと判ったとき、二人を襲った絶望などについて物語った。
そうした一切のことは真実のこもった声音で語られた。その声の調子に、公爵は少なくとも表面だけは無感覚のままでいたが、しかしファン・システンスにはそれが効果を及ぼさずにはいなかった。
「だが」
と、公爵は言った。
「あなたはその囚人と近づきになってから、そう長くはないのでしょうね?」
ローザは大きな眼を瞠ってこの見知らぬ男を見つめた。彼はこの視線を逃れたいと思うかのように、暗がりに身を潜めた。
「それはどういうわけでございますの?」
と、彼女は訊ねた。
「というのはだね、獄吏のグリフュスと彼の娘とがルーヴェスタンに行ってから、わずかに四ヵ月しか経っていないはずだからね」
「そのとおりでございます、あなたさま」
「あなたがハーグからルーヴェスタンへ移される誰だか知らぬ囚人の後を追うために、お父さんの転任を請願しなかったものとすればだが……」
「まあ、あなたさまは!」
と、ローザは真っ赤になりながら言った。
「さあ、すっかり言ってごらん」
と、ウィリアムは言った。
「私、本当のことを申し上げます。私、その囚人とハーグで知り合ったのでございます」
「幸福な囚人だな」
と、ウィリアムは微笑を浮かべながら言った。
このときボクステルのところに派遣された将校が戻って来た。そして公爵に、自分が迎えにいった人物がチューリップを携行して一緒についてきたことを報告した。
二十七 第三の珠芽
ボクステルの到着した報告が終わるか終わらぬうちに、当のボクステル自身がファン・システンス氏のサロンに入ってきた。後につづく二人の男が箱に納めた貴重な品物を運んできて、テーブルの上に置いた。
公爵は知らせを受けると、事務室を離れてサロンに移った。感嘆していたが一言も言葉を発しなかった。そして、自分で安楽椅子を引き寄せておいた薄暗い片隅に戻ると、黙ったまま席を占めた。
ローザは胸をはずませ、真っ青になり、恐怖に駆られながら、今度は彼女が見に来るようにと呼ばれる番を待っていた。
彼女はボクステルの声を耳にした。
「あの人だ!」
と、彼女は叫んだ。
公爵は彼女に、半ば開いた扉のところに行ってその隙間からサロンの中を眺めるように合図をした。
「あれは私のチューリップですわ」
と、ローザは叫んだ。
「あの花ですわ。私、見覚えがございます。おお、かわいそうなコルネリウス」
そして彼女は涙にくれた。
公爵は立ち上がると、扉のところまで行った。彼は一瞬、明りを浴びながら佇んだ。
ローザの眼は彼の上に凝らされた。彼女にはこの見知らぬ人物と会ったのは今が初めてではないことが、それまでよりも確かになった。
「ボクステル君」
と、公爵は言った。
「では、こっちに入りたまえ」
ボクステルは大急ぎで駆けつけると、オレンジ公ウィリアムの正面に出た。
「殿下!」
と、彼は身を後ろに引きながら叫んだ。
「殿下!」
と、ローザはびっくりして繰り返した。
ボクステルは、この感嘆の言葉が彼の左側から発せられるのを聞くと、そのほうを振り返ったが、そこにローザの姿を認めた。
この光景を見ると、この嫉妬に憑かれた男は、ヴォルタ〔イタリアの理学者。一七五四〜一八二七〕の電池にでも触れたように全身をわななかせた。
「ああ!」
と、公爵は独り言のようにつぶやいた。
「この男は動揺しているな」
しかしボクステルは、必死になって自分を制して、すでに立ち直っていた。
「ボクステル君」
と、ウィリアムは言った。
「君は黒いチューリップの秘密を発見したということだね?」
「はい、殿下」
と、ボクステルはいくぶん動揺の窺《うかが》える声で答えた。
この動揺はチューリップ園芸家がウィリアムの姿を目の当たり見て、感動のあまり起こったことには違いないのだ。
「だが」
と、公爵は言葉をつづけた。
「ここにもまた、それを発見したと主張する娘さんがいるのだがね」
ボクステルは軽蔑したような微笑を浮かべ、肩をそびやかした。
ウィリアムはひどく好奇心をそそられるように彼の一挙一動を注視していた。
「ところで、君はこの若い娘さんを存じておらぬか?」
と、公爵は言った。
「存じません、殿下」
「では、娘さん、あなたはボクステル氏を知っておるかね?」
「いいえ、私、ボクステル氏という方は存じておりません。知っているのはジャコブさんと申す人です」
「という意味は?」
「私の申し上げたいのは、ここでアイザック・ボクステルと呼ばれている方は、ルーヴェスタンではジャコブさんと名乗っておりました」
「その点に関して、君の言い分はどうかね、ボクステル君?」
「私はこの娘が嘘を言っていると申し上げます、殿下」
「君はかつてルーヴェスタンにいたことを否定するのかね?」
ボクステルはたじろいだ。公爵の据わった、威圧的に探るような眼差しは、彼が嘘をつくことを妨げた。
「私はルーヴェスタンにいたことを否定することはできません、殿下。しかしチューリップを盗んだということは否定いたします」
「私からあのお花を盗んだのはあなたですわ、私のお部屋から!」
と、ローザは憤然と叫んだ。
「私は否定いたします」
「ではお聞かせしますわ。私が珠芽を埋《い》けるつもりで花壇のお支度をしていた日に、あなたが私の後をつけてお庭に入ってきたことを否定なさるの? 私があれを植えるふりをした日に、私の後をつけてお庭に入ってきたことを否定なさるの? あの晩、私が出てしまってから、あなたは珠芽が見つけられると期待した場所に大急ぎで出かけたことも否定なさるの? あなたはその両手で土を掘り返しました、けれど、何も見つからなかったことを否定なさるの? 本当によかったわ! なぜならあれはただあなたの意図を見破るための計略に過ぎなかったのですもの。さあ、おっしゃいな。あなたはそういうことをみんな否定なさるの!」
ボクステルはこうした様々な質問に答えるのは適当でないと考えた。そこでローザから口火を切られた論戦はそのままにして、公爵のほうに向き直ると、言い出した。
「殿下、私がドルドレヒトでチューリップ栽培を始めてからもう二十年になります。私はこの方面の技術については、ある程度の名声さえかちえております。私の混成種の一つは目録のうちに隠れもない名前を残しております。私はそれをポルトガルの国王様に献上いたしたこともありました。それではここで事件の真相を申し上げましょう。この若い娘は私が黒いチューリップを発見したことを知ったのであります。そしてルーヴェスタンの城砦にいるある一人の情人と結託して、私の希望どおりに行けば、やがては殿下のご判定によって私が手に入れるべき十万フロリンを横領して、私を破滅させようという計略を企てたのであります」
「おお!」
と、ローザは激昂して叫んだ。
「静かに!」
と、公爵は言った。
「それでは」
と、彼はボクステルのほうに向かうと、
「君が今、この娘の情人だと言った囚人とはいかなる人物か?」
と、訊ねた。
ローザは気が遠くなりそうだった。なぜならこの囚人というのは、公爵から大逆犯とみなされていたのだから。
この質問ほど、ボクステルにとって愉快なものはなかった。
「その囚人とはどんな人物かとおおせられるのですか?」
「そうだ」
「その囚人はその名前だけで、この娘がどれだけその正直という点で信頼を持てるものかを殿下に証明するような人物です。その囚人は一度死刑の宣告を受けたのです」
「それで何という名か?」
ローザは絶望の身振りをして両手の中に顔を隠した。
「その男はコルネリウス・ファン・ベルルと申します」
と、ボクステルは言った。
「その男はあの大悪人コルネイユ・ド・ウィットの本当の名付け子であります」
公爵は身震いした。彼の静かな眼は焔を発した。それからまた死人のように冷ややかなようなものが、表情のない面上に広がった。
彼はローザのところに行くと、その顔から両手を離すように指で合図をした。
ローザは何も見ないで磁力に引きつけられた女のように、そのとおりにした。
「それではあなたがレイドに来て父親の転任を私に頼んだのは、その男の後を追うためだったのだね」
ローザは頭を垂れて、今にも崩れ落ちそうになりながらつぶやいた。
「はい、殿下」
「後をつづけたまえ」
と、公爵はボクステルに言った。
「ほかには何も申しあげることはございません」
と、ボクステルは言葉をつづけた。
「殿下は何もかもご存知でいらっしゃいます。ところでこの娘の忘恩を責めて赤面させまいとすると、私としては口にしたくないことがございます。私は仕事の都合でルーヴェスタンに参りました。私はそこでグリフュス老人と近づきになりました。私はこの娘を愛《いと》しく思うようになり、結婚の申し込みをいたしました。ところで私は財産家ではありませんので、不用意なことだったのですが、十万フロリンを手に入れる望みをこの娘に打ち明けました。この望みに間違いないことを証明するために、私は黒いチューリップを見せてやりました。その時この娘の情人というのは、ドルドレヒトでも計画していた陰謀をごまかすためにチューリップの栽培に身を入れておりましたので、二人して私の破滅を企てたのであります。
花の開く前の晩、チューリップはこの娘の手で私の部屋から奪い取られ、自分の部屋に運ばれました。ところが幸いにもその部屋で私はそれを取り戻すことができました。ちょうど危うい瀬戸際で、この娘が大胆にも大きな黒いチューリップを発見したということを、園芸協会の会員の皆さまに報告しようとして、使いを送ったばかりのところでした。しかしこの娘さんはそんなことで参ってしまうような女ではございません。むろんチューリップを自分の部屋にしまっていた幾時間かの間に、この女はいずれ証人として呼べるような何人かの人間にそれを見せたかもしれません。しかし幸いなことに、殿下はこの腹黒い女とその証人たちのことをあらかじめご存知でいらっしゃいます」
「おお! 神さま! 神さま! 恥知らず!」
と、ローザは総督の足下に身を投げると、涙にむせんで呻き声を発した。総督は彼女を罪人だと信じ込んでしまったが、彼女の恐ろしい苦悶のさまには憐れみを催した。
「あなたの振舞いはよくないのだ、娘さん」
と、彼は言った。
「ところであなたの情人のほうは、あなたにかかることを教唆したかどにより、処罰を受けることになるだろう。というのはあなたは年も若いし、非常に正直らしい様子だから、私はこの悪事はあなたの情人から出たもので、あなたから出たものではないと信じたく思っている」
「殿下! 殿下!」
と、ローザは叫んだ。
「コルネリウスに罪はございません」
ウィリアムは身を動かした。
「あなたを教唆したことは罪ではない、そういうことを申したいのか?」
「殿下、私が申し上げたいのは、コルネリウスは最初の罪もそうですが、皆さまがあの人のせいにしていらっしゃる今度の罪もそれと同じように無実だということでございます」
「最初の罪というと、あなたはその最初の罪がどんなものか知っているのか? どうして彼が告発され、断罪されたか知っているのか? 彼はコルネイユ・ド・ウィットの共謀者として、宰相ルーヴォア伯との往復文書を隠匿していたのだ」
「それはそうでございましょうが! 殿下! あの人は自分がそのような手紙を持っているなどということに、気がつかなかったのでございましょう。あの人は全然そんなことを知らなかったに違いありません。本当にあの人は私にそう申しました。あのダイヤモンドのような心に、どうして私に隠せるような秘密が宿ったりするものでしょうか? いえ、いえ、殿下、私、もう一度繰り返します。たとえどのようにあなたさまの怒りを招きましても。コルネリウスは今度の罪と同様に最初の罪も、最初の罪と同様に今度の罪も無実でございます。おお! 殿下! もしもあなたさまが私のコルネリウスをご存知でいらっしゃるならば」
「ド・ウィットの一員をか!」
と、ボクステルは叫んだ。
「殿下はもうとっくにあの男をご存知でおられるのだ。というのも殿下はあの男に対してすでに一度、恩赦を施しておいでになる」
「静かに」
と、公爵は言った。
「先に言ったとおり、国事に関する一切の事件は、当ハルレム園芸協会の関知するところではない」
やがて眉をひそめると、
「チューリップに関しては、安心しておればよい、ボクステル君」
そして彼はつけ加えた。
「いずれ裁判を行うことになろう」
ボクステルは胸を歓喜で膨らまして、頭を下げた。そして会長の祝辞を受けた。
「それからこちらの娘さん」
と、オレンジ公ウィリアムは言葉をつづけた。
「あなたは危うく罪を犯すところだった。私はこの事件についてあなたを処罰することはいたすまい。しかし、本当の罪人にはあなたたち二人分の代償を課することにしよう。その名に価する男は陰謀も反逆すらも実行できる男なのだ。……もっともあの男は盗みをすることはあるまいが」
「盗みをするんですって!」
と、ローザは叫んだ。
「盗みをするんですって、あの人が、コルネリウスが、おお! 殿下、そのお言葉はあんまりです。あの人があなたさまのお言葉を耳に入れれば、死んでしまうに違いありません。あなたさまのお言葉はあのビュイテンホーフの首斬り役人の剣よりももっとずっと確実にあの人を殺してしまうに違いありません。もしも盗難事件が起こりましたとしたら、殿下、私はお誓いいたします。その男こそ犯人でございます」
「証拠を見せたらどうだ」
と、ボクステルは冷然と言い放った。
「よろしゅうございます。承知いたしました。神さまのお助けをいただいて、私がその証拠をお見せいたしますわ」
と、フリゾン娘は元気を取り戻して言い放った。
そしてボクステルのほうに向きなおると、
「このチューリップはあなたのものですか?」
「そうだ」
「この花には珠芽が幾つありましたか?」
ボクステルはちょっと躊躇した。しかし彼はもしも珠芽がすでに知られた二つしか存在しないものとすれば、娘がこうした質問を持ち出すことはあるまいと気がついた。
「三つあった」
と、彼は答えた。
「それだけあった珠芽はどうなりましたの?」
と、ローザは訊ねた。
「それらがどうなったかだと? ……一つは発育が十分でなかった。もう一つは黒いチューリップになった……」
「三つ目のは?」
「三つ目のか?」
「三つ目のはどこにあります?」
「三つ目は、私の家にあるんだ」
と、ボクステルはすっかりまごついて言った。
「あなたの家というと、それはどこにありますの、ルーヴェスタンなの、それともドルドレヒトなの?」
「ドルドレヒトだよ」
と、ボクステルは言った。
「あなたは嘘を言ってるわ!」
と、ローザは叫んだ
「殿下」
と、彼女は再び公爵のほうを向くと言い足した。
「この三つの珠芽の本当のお話を、私の口から申し上げようと思います。一つ目は私の父があの囚人の部屋で蹴り潰したのでございます。この人はそれをよく知っております。なぜかと申せばこの人はそれを奪い取ろうと望んでいたのですから。それでその望みがだめになったと判った時、その望みを取り上げてしまった私の父と危うく大立ち回りをするところでございました。二つ目は私が丹精して、黒いチューリップに仕上げたのでございます。そして最後の三つ目は」
と、若い娘はそれを胸から取り出した。
「三つ目はここにございます。コルネリウス・ファン・ベルルが断頭台に登る時、三つとも私にくれたのですが、その時ほかの二つと一緒にこれを紙でくるんでくれました。今もそのままの紙に包んでありますの。お手にとってご覧なさいませ。殿下、お手に取ってくださいませ」
そしてローザは珠芽を包んであった紙から取り出すと、公爵のほうに差し出した。公爵は両手でそれを受け取ると調べ出した。
「しかし、殿下、この娘はそれもチューリップと同様に盗み出したのかもわかりません」
と、ボクステルは、公爵が熱心に珠芽を調べており、特にローザがその手に残った紙に書かれた数行の文字を一心不乱に読み出したのに恐れをなして、口ごもりながら言った。
不意に若い娘の両目がひらめいた。彼女は息を止めてこの謎の紙片を読み返すと叫び声をあげて、紙片を公爵のほうに差し出した。
「おお! お読みになってくださいませ、殿下」
と、彼女は言った。
「神かけて、お読みになってくださいませ!」
ウィリアムは第三の珠芽を会長に渡すと、その紙片を受け取って読み出した。
ウィリアムはこの紙片に眼を注いだと思うと、よろめいた。その手は今にも紙を落としてしまいそうに震えていた。その目は苦悩と憐愍との混じりあった凄まじい表情を浮かべていた。
ローザが彼に渡したこの紙片は、コルネイユ・ド・ウィットが弟のジャンの使者クレークに託してドルドレヒトに送ったバイブルの一頁で、宰相とルーヴォアとの往復書簡を焼却するように、コルネリウスに頼んでやったものであった。
この依頼は、諸君もご記憶にあろうか、次のような文句に包まれていた。
親愛なる名付け子よ、
私が預けた委託品を焼却してくれ。内容を見ず、開封せずに焼却してくれ。その品が君自身には未知のものとして終わるように。その中に含まれている類の秘密は保管者の生命を奪うものだ。焼却してくれ、そうすれば、君はジャンとコルネイユの生命を救えるのだ。
ごきげんよう。私を愛してくれ、
コルネイユ・ド・ウィット
一六七二年八月二十日
この紙片はファン・ベルルの潔白の証拠であると同時にチューリップの珠芽に対する彼の所有権を明らかにしたものであった。
ローザと総督とは一瞥を交した。
ローザの視線は「よくお判りになりましたでしょう!」と、言いたげだった。
総督の視線は「黙って待て!」という意味をこめていた。
公爵は額から流れ落ちる冷たい汗の滴を拭っていた。彼はゆっくりと紙片を折り畳んだ。彼の眼差しは彼の思念とともに、過去に対する悔恨とかまた恥辱とかいうべき救いのない、底なしの深淵に沈んで行くままになっているようだった。
やがて気を取り直して頭を上げると、
「さあ行きたまえ、ボクステル君」
と、彼は言った。
「裁判が行われることになるだろう。先ほど約束したとおりだ」
それから会長に向かって、
「君はだね、わが親愛なるファン・システンス君」
と、彼はつけ加えた。
「この娘さんとチューリップとをここで保護してくれたまえ、それではさらば」
一同は敬礼した。公爵は民衆の凄まじい歓呼のどよもしの下を、背を曲げて出て行った。
ボクステルは相当不安に駆られながら、白鳥ホテルに戻って行った。あの紙片が、ウィリアムがローザの手から受け取って眼を通し折り畳んで非常に丁寧にポケットの中にしまいこんだあの紙片が、彼には不安の種となった。
ローザはチューリップに近づいて、うやうやしくその葉に接吻した。そして見も心も一切を神に委ねてつぶやいた。
「神さま! あなたさまはコルネリウスがどんな目的で私に字を読むことを教えてくれたものか、ご自分では知っていらっしゃいましたの?」
そうだ。神はそれをご存知だったのだ。なぜならば神こそが、人間をその価値に応じて罰を加えたり償いを授けたりするものであるのだから。
二十八 花の歌
筆者がこれまでに語ってきたさまざまな事件が次々と起こっている間、不運なファン・ベルルはルーヴェスタンの獄舎におき忘れられたまま、グリフュスからひどい苦痛を嘗めさせられていた。獄吏が、死刑執行人に変身しようと断固たる覚悟を決めた時、囚人のほうで味わねばならない一切の苦痛が見舞ったものだった。
グリフュスはローザの消息もジャコブの消息も何一つ受け取らなかった。グリフュスは彼を襲った一切の出来事が悪魔の仕業であり、コルネリウス・ファン・ベルル博士こそこの地上に送られた悪魔の使いだと思い込むようになった。
その結果ジャコブとローザが姿を消してから三日目のことだったが、ある朝、彼はいつもよりもいっそう激昂の態でコルネリウスの部屋に登ってきた。
コルネリウスは窓辺に両の肘をつき両手の上に顔を乗せて、霧深い地平線に視線を注いでいた。そのあたりはドルドレヒトの点々と見える風車がその羽をグルグル廻しているのだった。彼は涙を抑え、彼の哲学が空しく発散してしまうのを防ごうとして、大気を深々と吸いこんでいた。
鳩の群れはいつもと同じようにそこにいた。しかし希望はもうそこには見当たらなかった。むろん未来はあり得ようはずもなかった。
何ということか! ローザは監視されていてもうここに来ることもできないのであろう。彼女にも書くことだけはできるだろうに。しかしたとえ彼女が書いたとしても、どうしてその手紙を彼のところに届けられるだろうか?
いや、そうではない。昨日も一昨日も、彼はグリフュス老人の眼の中に、警戒心を一瞬も弛めるどころではない激怒と悪意を読み取ったのであった。それでは謹慎させられているとか不在とかいうのではなくて、彼女はもっとひどい体刑でも加えられているのではないだろうか? この野蛮人、この無頼漢、この酔いどれはギリシア悲劇にある父親のようなやり口で復讐をしているのではないだろうか? ジンが脳髄に昇っている時、この男はコルネリウスがよく癒し過ぎた腕に、二本の腕と棍棒一本分の怪力を備えるようになったのではあるまいか?
ローザが恐らく虐待されているに違いないというこうした考えは、彼をやりきれなくさせるのだった。
すると彼は自分が無益な存在であることや無能力なことや、それこそ何の存在理由もないことなどが痛感された。彼はひそかに、神がこの罪もない二人の人間にどうにもならぬほどの不幸を与えたのは本当に正しいかどうかを考えてみた。確かにこの当時、彼は疑惑を抱いていた。不幸は素直に信ずることを許さないものだ。
ファン・ベルルはローザに手紙を書く計画をたててみた。しかしローザはどこにいるのだろうか?
彼はともかくハーグに手紙を書いて、グリフュスがある告発を手段に用いて、無論彼の頭上に新たな嵐を呼び起こそうとしていることを予告しておこうかという考えも抱いた。
しかし何で書けばよいのか? グリフュスは鉛筆と紙とを取り上げてしまったのだ。その上、たとえ鉛筆と紙があったにしても、その手紙をどうしてもグリフュスに托せるわけはない。
そこでコルネリウスは頭の中で、囚人どもがよく企てるあらゆるつまらない計略を次々と思い浮かべてみた。
彼はまたよく脱走を考えるようになった。毎日ローザと会うことができた時には、想いもよらぬことであった。しかし彼がそのことを考えれば考えるほど、脱走は彼には不可能に思えた。彼は平凡なことに恐れを抱く選ばれた人間に属していた。こうした人々は、世のありふれた人々をどこにでも連れていく大道を賤しい道だと取り違えて、人生のせっかくのあらゆる機会をともすると失ってしまいがちなものである。
コルネリウスは考えた。
(このルーヴェスタンからかつてはグロティウス氏が脱走してはいるが、これが僕自身の脱走となると、いったいそんなことができるものだろうか? その時の脱走以来、誰もがそうしたことを何もかも予想しているのではないだろうか? 窓はどこもよく防護されてしまっているではないか? 扉は二重にも三重にもなっているではないか? 監視所は十倍も厳重な警戒をしているではないか?
だがそういう防護された窓や二重扉や、かつてないほど警戒厳重な監視所があるばかりでなく、僕は狙いの的を外さないスパイを一人持っているではないか? 憎悪の眼を持っているだけにそれだけ危険なスパイのグリフュスがいるではないか?
それに結局、自分に手も足も出せないようにさせている状況があるではないか? それはローザがいるということだ。たとえ僕が十年かけて窓の鉄格子をひき切る鑢《やすり》を作ったり、窓から降りる綱を編んだり、あるいはデダルのように肩に翼を貼りつけて空を飛ぼうとしてみたところで、……僕はどうにもならない悪い時機に陥り込んでいるのだ! 鑢は鈍り、綱は切れ、翼は日光を浴びて熔けてしまうことだろう。僕は死に損なってしまうだろう。僕は跛《びっこ》になり、片輪になり、腰が抜けて、誰かに拾われるようなことになるだろう。僕はハーグの博物館に入れられて、沈黙公オレンジの血の滲んだ胴着とスタヴェッセンで収容された女水夫の間に陳列されてしまいそうだ。そして自分の計画は、せいぜいオランダの骨董品の仲間入りをする光栄に浴する結果しかかちえないに違いない。
だがそれだけのことでもない。もっとうまいこともあるのだ。いつかグリフュスは僕に対して何か兇悪なことをしかけるだろう。僕はローザを見る歓びや、ローザとの会合を失ってからそれにとりわけチューリップを失ってから、忍耐心を失っている。いずれそのうちグリフュスは僕の自尊心や、愛情や、あるいは身体の安全などに対して危害の及ぶような方法で攻撃して来ることは間違いない。僕はここに幽閉されてから何とも名状しようもない、すぐに噛みつきたくなるような、どうにも我慢のしきれない精気を体内に感じている。僕はむずむずするような乱闘待望症にかかっているし、大立ち回りに食欲を感じているし、何やらわけがわからない殴打したいという渇えを覚えているのだ。僕はあの老いぼれ悪党の喉笛に飛びかかり、あいつを絞め殺してしまおう!)
コルネリウスは最後にこんな言葉をつぶやくと、口をきゅっと結び眼を据えて、一瞬、立ち止まった。
彼は胸の中で貪るように、彼に微笑みかけているある考えを思い返した。
(ところでだ!)
と、コルネリウスは先をつづけた。
(いったんグリフュスを絞め殺したとなると、あいつから鍵を取り上げないって法はないではないか? この上もない徳義的行為をやりましたといった様子で、階段を降りていかないわけがあるだろうか? どうしてローザをその部屋に探しに行かないですませるだろうか? なぜ事実を彼女に説明して、彼女と一緒に窓からワハール河に飛び込んだりしないでいられるだろうか?
二人一緒に泳ぐのは、僕にとってはいとも簡単なことだからな。
ローザよ! だがどうしたものだろうな。あのグリフュスは彼女の父親なのだ。たとえ彼女が僕に対してどれだけ愛情を抱いていても、たとえ彼がどれほど野蛮でどれほど性《たち》の悪い人間だとしても、彼女は僕があの親父を絞め殺したりすることを絶対に承知しないだろうな。その時はいろいろと議論や演説が始まってしまうな。するとそんな口論の最中に、副監視長か鍵番かがまだぴくぴく動いているか完全に絞め殺されてしまったグリフュスを見つけて、飛んで来て、僕の肩に手をかけるという寸法だ。そうなれば僕はまたあのビュイテンホーフの広場やあの下司っぽい剣の光にお目にかかることになってしまう。あの剣はもう今度は途中で止まったりすることはないだろうし、僕の頸《くび》とお近づきになってしまうわけだ。そんなことではたまるもんか、コルネリウス、わが友よ、これはどうやら知恵のない方法だな!
だがそうなると、いったいローザはどうなってしまうんだろう。どうやったらローザと再びめぐり逢えるだろう?)
コルネリウスがあれこれとこんな物思いに耽っていたのは、ローザと父親との間に別離の忌まわしい光景が起こってから三日後のことであった。すでに筆者が描写したようにちょうどその時、コルネリウスは窓辺に肘をついていた。
そしてそれと同じ時、グリフュスが入ってきたのだった。
彼は手に大きな棍棒を握っていた。彼の眼は兇悪な考えにギラギラ光っていた。彼の唇は不快そうな微笑を浮かべて引きつっていた。彼の体躯は均衡のとれない動き方をしていた。そしてこの黙りこくった人物の身裡《みうち》では、あらゆるものが悪意を呼吸しているのだった。
コルネリウスは、すでにお判りのとおり、忍耐の必要なことを悟っていた。理性はその必要なことを確信させるまでに至っていた。コルネリウスはグリフュスの入ってくる物音を聞くと、それが彼だと察しはついたが振り向こうとさえしなかった。
彼にはローザが今度は父の後からついてこないだろうということが判っていたのだ。
怒りを発しかけている人々にとって、その怒りを向けるべき相手の無関心な有様ほど不愉快なものはない。
経費をかけた人間は、それを無駄にしたくはないものだ。
人間が逆上する。すると血が沸騰する。
こうして沸騰すれば、ちょっとした爆発ぐらいでは収まらないとしても、それは当たり前のことである。
ケチな悪党は悪知恵をとぎすますと、ややもすると誰かに相当な手傷を負わせてみたくなるものだ。
グリフュスもご同様で、コルネリウスが一向身動きもしないので威勢よく語り始めた。
「おい! こら!」
コルネリウスは花の歌を口ずさんでいた。哀調を帯びているが美しい調べの歌であった。
われらは見えぬ火の娘
地脈をめぐる火の娘
われらは朝と霧の子よ
われらは澄める大気の子
われらは清き水の子よ
されどわれらは何よりも
天にまします神の子よ
この歌の落ち着いた甘美な調べは静かな哀愁を広げたが、グリフュスを憤激させてしまった。
彼は手にした棍棒で敷石を叩きながら怒鳴りつけた。
「おい! 歌っている先生、あなたには私の言ってることが聞こえないのか?」
コルネリウスは振り向いた。
「やあ、こんにちは」
と、彼は言った。
そしてまた彼は歌をつづけた。
人はわれらを愛すとて
われらを潰し、枯れさせる
われらは細き糸により
大地の愛につながれる
これぞわれらが根と呼びて
すなわちわれらの命なる
されどわれらは手を高く
遠いみ空にさしのべる
「ああ! 魔法使いの畜生め! 貴様は俺を馬鹿にしているな。そうだろう!」
と、グリフュスは叫んだ。
コルネリウスは先をつづけた。
み空ぞわれらがふるさとよ
われらが魂《たま》のきたる国
われらが魂のかえる国
われらが魂はかぐわしき
われらが薫りのことなれば
グリフュスは囚人に近づいた。
「よーし、それじゃお前にはわからないんだな? どんなに無理をしても貴様にドロを吐かそうとすれば、俺にはうまい方法があるんだぞ」
「親愛なるグリフュスさん、君は気でも変になったのですか?」
と、コルネリウスは振り向きながら訊ねた。
ところがそう言ったとおりで、彼が見ると獄吏の老人は顔をゆがめ、眼を爛々と輝かせ、口から泡を吹き出しているのだった。
「いやはや!」
と、彼は言った。
「この様子だと、どうやら気が変になったどころの騒ぎじゃありませんな。これは狂燥患者だ!」
グリフュスは棍棒をグルグル振り回した。
しかし、ファン・ベルルは身動き一つしないで、腕組みしながら言った。
「それでは、グリフュス先生、君は僕を脅かすつもりなんですね」
「そうだ! そうだ! 俺は、貴様を脅かしているんだ!」
と、獄吏は叫んだ。
「何を使ってやるんです?」
「いいか、俺が手に持ってるものをよく見ろよ」
「どうも棒切れのようですな」
と、コルネリウスは落ちつき払って言った。
「もっとも棒切れにしてはデカイですな。だがそんなもので僕を脅かすとは思いもよらないことですな」
「ああ! 貴様にはこんなことが思いもよらないと! どうしてだ?」
「なぜかといえば、囚人を殴った獄吏は誰であろうと二つの刑罰を受けることになりますからね。第一はルーヴェスタンの城砦規定の第九条にありますよ。――国事犯に手を下したるものは、獄吏、監察人、鍵番の何人たるを問わず追放に処せられるべし――とね」
「それは手でやった場合だ」
と、グリフュスは怒りに無我夢中になって言った。
「だが棒でやれば別だ。ああ! 棒を使えばだな、その規定は何も言っておらん」
「第二は」
と、コルネリウスはつづけた。
「第二はその規定には書いてありませんがね。しかし福音書には載っていますよ、第二はすなわちこういうのです。――剣をもって斬るものは剣によって滅ぼされん。棒をもって打つものは棒をもって打たれん――と」
グリフュスはコルネリウスの落ち着いたもったいぶった語調にいよいよ怒りがこみ上げてきて、手にした棍棒を振りまわした。しかし彼がちょうどそれを振り上げた瞬間、コルネリウスは飛びかかって、それを彼の手から奪い取ると、自分の腕の下に掻《か》き込んでしまった。
グリフュスは憤激して喚き立てた。
「さあ、さあ、おやじさん」
と、コルネリウスは言った。
「君の地位を危うくするような真似はよしたまえ」
「ああ! 魔法使いめ。俺はもっと別な方法で、貴様をとっちめてやるぞ」
と、グリフュスは喚きつづけた。
「ああ、いいですとも」
「貴様には俺の手が空っぽだってことが見えるだろうな?」
「そうですな。そう見えますね。至極結構なことと思いますがね」
「朝、俺が階段を登ってくる時、いつもは空手じゃないってことを知ってるな」
「ああ! 本当だ。君はいつでも僕のところに、誰にも想像のつかないような一番悪いスープか一番お粗末な食事かを運んできますな。だが僕にとってはそんなものは罰にはなりませんよ。僕はパンさえあれば身体がもつんですからね。そのパンもですね、グリフュス君、君の口に合わなければ合わないほど、僕の口には結構でしてね」
「俺の口に合わないほど貴様の口には結構だと?」
「そうですな」
「それはどういうわけだ?」
「おお! わけは至極簡単ですよ」
「おう、それじゃ、それを言え」
「いいですとも、僕は知っていますがね、君はまずいパンを僕によこして、僕を苦しめているつもりなんでしょうな」
「貴様の気に入ろうと思って、俺はパンをやってるわけじゃないんだぞ、山賊め!」
「そんならそれでもいいことさ! 君もご承知のとおり僕は魔法使いなのだ。僕は君のまずいパンを素晴らしいパンに変えるのだ。こいつはお菓子なんかよりもずっと僕には愉しみなんだ。そこで僕には二重に愉しみができるわけだ。まず第一に自分の口に合うパンが食べられること、それから君をいつまでも怒らしておけるということだ」
グリフュスは激怒の唸りを発した。
「ああ! それじゃいよいよ貴様は魔法使いだってことを白状したな」
と、彼は言った。
「そうともさ! そのとおり、僕は魔法使いだよ。世間の人の前じゃそうは言わんがね。何しろそういうことになれば、ゴフルディやコルバン・グランディエのように火あぶりの刑に処せられるからな。しかし僕たち二人だけの時は、僕にはそれで一向差し支えないからな」
「よし、よし、よし」
と、グリフュスは答えた。
「だがな、もし魔法使いが黒いパンを白いパンに変えてしまうものならばだ。いっそパンなんか一つもなくっても魔法使いが飢え死にすることはあるまいな?」
「何だと!」
と、コルネリウスは言った。
「それじゃあ俺はもう貴様のところに、パンなんか一かけらも運んでやらないことにしよう。一週間経ったらお目にかかるよ」
コルネリウスは青くなった。
「じゃあ、そいつはだな」
と、グリフュスは言葉をつづけた。
「今日からということにしよう。というのはだな、貴様が腕っこきの魔法使いなら、さあよく見ろと、貴様の部屋の家具類をパンに変えてしまえばいいんだ。俺のほうはだね、毎日、お前の食費としてもらっている十八スウずつ儲かるわけだ」
「だがそれでは暗殺行為だぞ!」
と、コルネリウスは初めてそれとハッキリわかる、あの忌まわしい末路の予想から引き起こされた恐怖の身振りを示して夢中になって怒鳴った。
「よし、よし!」
と、グリフュスは彼を嘲りながら言った。
「それでよしと! 何しろ貴様は魔法使いなんだからな。何もなくたって生きていけるだろうよ」
コルネリウスは再び笑い出しそうな様子をして、肩をすくめた。
「君は僕がドルドレヒトの鳩を、ここに呼んだのを見なかったかね?」
「見たともさ!」
「見たのならいいがね! 鳩の焼肉はうまいものだな。鳩を毎日一羽ずつ食べていれば、人間一匹飢え死にすることはあるまい。そうじゃないかね?」
「火はどうするんだな?」
と、グリフュスは言った。
「火かね! だって君は僕が悪魔と眤懇《じっこん》だということをよく知ってるじゃないか。火は悪魔のお手のものなんだ、それを悪魔が僕のところによこさずにおくなんて、君は考えているのかね?」
「いくら頑丈な男だって、毎日、鳩を一羽食うだけじゃすむまいよ。いつだったかそれで賭けをしたんだが、賭けた連中がみんなやめてしまった」
「そんなもんかね! だが」
と、コルネリウスは言った。
「鳩に飽きてしまったらだね、時々ワハール河かムーズ河から魚を釣り上げることにしよう」
グリフュスはびっくりして目を大きくみはった。
「僕は魚が相当に好きなのだ」
と、コルネリウスは言葉をつづけた。
「君はそんなものを僕には絶対にくれないだろうしな。まあ、いいさ! 君が僕を飢え死にさせようという機会を利用して、僕は一つ魚のご馳走にありつくとしよう」
グリフュスは怒りと恐怖さえ覚えて、危うく気絶しそうになった。
だが気を取り直すと、
「よおし」
と、彼は手をポケットにつっこみながら言った。
「貴様がそんなことで俺を脅かすのならな」
彼はナイフを取り出すと、刃を引き抜いた。
「ああ! ナイフだな!」
と、コルネリウスは棍棒で身構えしながら叫んだ。
二十九 囚人対獄吏
二人はしばらくじっと睨みあっていた。グリフュスは攻勢をとり、ファン・ベルルは守勢だった。
やがて、コルネリウスは事態のけりがなかなかつきそうもないので、相手がどうしてこうも激昂しているのかその原因に探りを入れてみようとした。
「いったいだね」
と、彼は相手に訊ねた。
「君はこれ以上どうしようというんだね?」
「俺がどうしようというんだか、話してやるよ」
と、グリフュスは答えた。
「俺は貴様から娘のローザを返してもらいたいんだ」
「君の娘さんだって!」
と、コルネリウスは叫んだ。
「そうだ、ローザだ! 貴様が魔法を使って俺のところからさらって行ったローザだよ。さあ、あの娘がどこにいるか言わないか?」
グリフュスの態度は次第に危なくなってきた。
「ローザはルーヴェスタンにいるんじゃないのか?」
と、コルネリウスは叫んだ。
「貴様のほうがよく知ってるはずだ。もう一度言うが、ローザを俺に返さないつもりか?」
「よし」
と、コルネリウスは言った。
「俺を罠にかけるんだね」
「これが最後だぞ、俺の娘がどこにいるか、貴様は言わないつもりなのか?」
「そうとも! ならず者、知らないんなら、見当をつけてみろよ」
「待て、待て」
と、グリフュスは唸った。脳髄がすっかり狂乱状態に陥りだして、唇はひきつり、顔色は真っ青になった。
「ああ! 貴様は何も言いたくないんだな? ようし、貴様の口を引き裂いてやろう」
彼はコルネリウスに向かって一歩踏み出した。そして掌中にあるピカピカ光った刃物を見せつけた。
「このナイフが眼に入らないか」
と、彼は言った。
「俺はこれで黒い雄鶏を五十羽以上も殺したんだぞ。俺は奴らを殺したように奴らの飼い主の悪魔をひと思いに殺してやろう。待て、待て!」
「だがね、恥知らずめ」
と、コルネリウスは言った。
「それでは君は、どうしても僕を暗殺するつもりなんだな!」
「俺は貴様の心臓を切り開いてやりたいんだ。その中を見れば貴様が俺の娘を隠した場所がわかるだろう」
熱に浮かされたようにこう言うと、グリフュスはコルネリウスに飛びかかった。コルネリウスはテーブルの後ろに飛びのいて、やっとこの第一撃をかわすことができた。
グリフュスは恐ろしい威嚇の言葉を弄しながら、大きなナイフを振りかざした。
コルネリウスは素手では届かないのだが、刃物があると届いてしまう範囲にいた。それでもしもそれだけの間合いから刃物を突き出されたとすると、胸にぐさりと突きさされることを予想した。もはや一刻の猶予もなかった。彼は大事に持ちつづけていた棍棒を振り上げるとハッシとばかり、ナイフを構えている手首を叩きつけた。
ナイフは床に落ちてしまった。コルネリウスは足でその上を踏みつけた。
ところがグリフュスは棍棒で殴られた痛みと、二度も武器を奪われた恥ずかしさとでどうにも収まりがつかなくなってしまった。彼は執念深く闘争をつづけようとするらしかった。それでコルネリウスは重大な決意をした。
彼は急所を狙ってはそのたびごとに恐ろしい棍棒を振り下した。そして思う存分に仮借なく獄吏をさんざんに打ちのめした。
グリフュスはたちまち許しを求めた。
しかし許しを乞う前に彼は大声をあげて叫び立てた。その悲鳴は響きわたり、城砦の役人全部を驚かせた。そこでたちまち鍵番が二人、検察官が一人、警備兵が三、四人姿を現した。彼らはコルネリウスが、足でナイフを踏みつけて、手にした棍棒を振り回しているのにびっくりした。
コルネリウスは自分の犯した悪事の証人がすっかりそろっているのを見ると、今日でいう酌量すべき情状というものがまだ認められていなかったので、万事休すと観念した。
事実、外観は何もかも彼に対して不利であった。
たちまちコルネリウスは棍棒を取り上げられてしまった。グリフュスはまわりから抱き起こされて人々に支えられた。彼は罵声を放っていたが、傷痕は数えられぬほどだった。その傷痕は肩や背骨を腫《は》れあがらせて、山の峰にたくさんの丘が、点々と浮かび出ているようなありさまだった。
即座に、囚人が獄吏に対して行なった暴行傷害に関する調書が作成された。グリフュスの息のかかったこの調書には何らの手心が加えられるはずがなかった。そこで問題は、獄吏に対して長期にわたって計画され、遂行された、したがって予謀並びに公然たる反逆を伴う暗殺事件ということだけになってしまった。
コルネリウスに対する調書が作成されている間に、グリフュスはすっかり陳述が終わったのでその場には無用の身となった。二人の鍵番は、打撲のために瀕死の態でうめきつづけているグリフュスの身体を獄吏室に運んで行った。
その間に、コルネリウスを捕えた警備兵たちはご親切にも彼に向かってルーヴェスタンの慣例や慣習を夢中になって聞かせていた。彼は入獄した時にこの規定は読み聞かされていることだし、規定の何条かは完全に記憶に入っているし、そうされなくても、彼らと同じほどの知識はあった。
その上、彼らはこの規則がマティアスと呼ぶ囚人にどういう具合に適用されたかを物語った。この男は一六六八年すなわち五年前に、今コルネリウスがやりおおせた行為に比べれば、一向取るに足らない反逆行為を犯したのだった。
マティアスはスープが熱過ぎるのを目にとめた。そして警備兵の隊長の頭にそれを浴びせかけた。隊長はその洗礼を受けてから顔を拭うと、不愉快にも皮膚の一部がツルリと剥《む》けてしまう破目に陥った。
マティアスは十二時に獄舎から引き出された。
そして獄吏室に案内された。彼はそこでルーヴェスタンから出獄したものと記録された。
それから展望台に連行された。そこの眺望は非常に素晴らしく、十一里四方を収めていた。
彼はその場で両手をくくられた。
ついで両眼にはバンドがまわされ、三度、祈りの言葉を誦《しょう》させられた。
やがてひざまずくように指示を受けた。ルーヴェスタンの警備兵十二名は軍曹の合図で、各人とも非常な練達ぶりを発揮して、火縄銃の弾丸を彼の身体に射ち込んだのだった。
その結果、マティアスは失禁して息が絶えた。
コルネリウスは異常な注意を払ってこの不快な物語に耳を傾けていた。
やがてそれを聞き終わると、
「ああ! ああ!」
と彼は言った。
「十二時に、と君は言ったね?」
「十二時の鐘はまだ鳴りませんよ、たしかそうだと思いますが」
と、語り手は答えた。
「ありがとう」
と、コルネリウスは言った。
警備兵がこの物語に一区切りつけるために浮かべた慇懃な微笑がまだ消え去らぬうちに、金属的な足音が階段のほうで鳴り響いた。
拍車が階段のすり減った縁に当たって鳴っていたのだった。
警備兵たちはさっと二つに分かれると、一人の将校を通そうとした。
将校はルーヴェスタンの書記がまだ口述を取っている最中に、コルネリウスの部屋に入ってきた。
「十一号室はここか?」
と、彼は訊ねた。
「はい、隊長殿」
と、一人の下士官が答えた。
「ではコルネリウス・ファン・ベルルという囚人の部屋はここだな?」
「そうであります、隊長殿」
「囚人はどこにおるか?」
「私がそうです」
と、コルネリウスは渾身の勇気を奮い起こしたが少し青ざめて答えた。
「君がコルネリウス・ファン・ベルル君だね?」
と、彼は今度は囚人自身に話しかけて訊ねた。
「ええ、そうです」
「それでは、僕について来たまえ」
「おお! おお!」
と、コルネリウスは言った。彼の心臓は早くも訪れた死の苦悩に苛まれて昂ぶるのだった。
「ルーヴェスタンの城砦では何と手回しがいいんだろう。あの尋問はぼくに十二時だと話していたのに!」
「何ですって! 僕が、あなたにどんなことを言ったんですって?」
と、史実に詳しい例の警備兵はいらいらしているコルネリウスの耳にささやいた。
「嘘っぱちだ」
「それはどういうわけです?」
「君は僕に十二時だと約束したね」
「ああ! そのとおりです。しかしあなたには殿下の幕僚で、殿下の一番の腹心の一人であるファン・デンケン大佐が派遣されたのです。こんなことってあるもんですか! かわいそうにあのマティアスはこんな名誉にあずかりませんでしたがね」
「まあ、いいや」
と、コルネリウスはできるだけ大量の空気を胸に吸い込もうとしながらつぶやいた。
「それじゃあ、コルネイユ・ド・ウィットの名付け子の一市民が渋面一つ見せずに、マティアスとかいう男と同じ数ほど火縄銃の弾丸を身に受けられるということを、あの連中に示してやろう」
彼はしっかりした物腰で書記の前を通って行った。書記は仕事を中断されたので、思いきって将校に声をかけた。
「ファン・デンケン大佐殿、調書はまだ書き終わっていないのですが」
「終わっていなくともよろしい」
と、将校は答えた。
「それでは、そういたしましょう」
と、書記はもっともらしく紙とペンとを、すり切れて手垢のついた紙入れにしまいこみながら答えた。
「もう記録されたわけなんだな」
と、哀れなコルネリウスは考えた。
「僕はこの世では子どもにも花にも一冊の書物にも、僕の名前をつけられないことになるのだな。神はこの三つの必需品のうちの少なくとも一つは、キチンとした人間ならどんな人間に対しても義務として授けているのに違いないのだがな。神はそういう人間に対して魂の所有権や肉体の用益権をこの地上において楽しむことを許したもうているはずだもの」
彼は覚悟を決めると頭を上げて将校の後につづいた。
コルネリウスは展望台に通ずる階段の数を数えた。幾つあるのかあの警備兵に訊ねておかなかったことを残念に思った。あの男ならそんなことを世話好きらしい丁寧な態度で教えてくれずにはいなかったろうが。
この受刑者はこの道のりが必ずや自分を死出の旅路に向かって導くに違いないものとみなした。彼がこの道中で何よりも恐れていたことはグリフュスと会うことであり、ローザに会えないことであった。実際、あの親爺の顔にはどんなに満足した表情が浮かぶことだろう! あの娘の顔にはどんな悲しみの表情が現れることだろう!
グリフュスはこの刑罰にどんなに喝采を送ることだろうか? この刑罰は、コルネリウスが義務として行なったとしか考えていない明らかに正当な行為に対する残酷な復讐なのであった。
だが、あの哀れな娘ローザはどうなってしまうだろう。もしも彼が彼女と会うこともなく、もしも彼が最後の接吻はおろか最後の別れの挨拶もおくらずに死んでしまったとしたら!
もしも彼が大きな黒いチューリップについて何の知らせも得られずに死んでしまったとしたら、そして天国で目を醒ました時に、どちらに目を向ければそれを再び見つけ出せるものかわからないとしたら!
この哀れなチューリップ園芸家はこうした時機に涙に溺れまいとして、ホメロスが恐るべき暗礁を初めて訪れた船乗りに与えたよりも、三倍も多くの勇気を心のまわりに用意した。
コルネリウスは右や左を眺めたが空しかった。彼は展望台に着いてしまったが、ついにローザの姿もグリフュスの姿も認めることができなかった。
コルネリウスは展望台に着くと、臆する気色もなく、自分の死刑執行人である警備兵を探した。なるほど十二名の兵士が集まって雑談を交しているさまが見えた。
しかし集まって雑談を交わしているといっても、火縄銃もなく、また隊伍を組んでもいなかった。
彼らは雑談を交わしているというよりもむしろ内輪で内緒話をしているようだった。コルネリウスにはこうした行為が、普段ならこんな事件を支配している重苦しい雰囲気に似つかわしくないように思われるのだった。
突然、グリフュスが松葉杖にすがって、苦しそうにびっこをひきつつよろめきながら獄吏室の外へ姿を現した。彼の老人らしい猫のような灰色の眼は、憎悪のこもった最後の一瞥を投げようとして、すべての炎を集めて爛々と輝いていた。彼はコルネリウスに向かって恐ろしい悪態を吐《つ》き出した。その奔流のような勢いに、コルネリウスは将校のほうに向きなおった。
「隊長殿」
と、彼は言った。
「この男が特にこの期に及んで、こうして僕を侮辱するのは、どうも感心したこととは思えませんが」
「まあ聞いてやりたまえ」
と、将校は笑いながら言った。
「この正直な男が君にそうしたい気持ちも無理はないのだ。君はあれをだいぶ殴りつけたらしいな」
「ですが、大佐殿、それは正当防衛ですよ」
「まあ、いいだろう!」
と、将校は肩をそびやかして、いかにも一物ありげな身振りを示しながら言った。
「まあ、いいさ、言わせておきたまえ。今となっては、君にとってたいしたことでもないではないか?」
この答えを聞くと、コルネリウスの額には冷たい汗が流れた。彼にはこの答えが特に殿下の腹心だといわれている将校の口から出たにしては、いささか乱暴な皮肉のように思われた。この不幸な男は、自分にはもう何の救いもなく、いかなる友人もいないことを悟って諦めてしまった。
「勝手にしろ」
と、彼は頭を垂れてつぶやいた。
「キリストだってずいぶんひどい目に遭わされたのだからな。たとえ、どれほど僕が無実だとしても、キリストには比べられたものではない。キリストは獄吏に打たれるままになっていた。獄吏を蹴り倒したりはしなかったろうからな」
やがて彼は将校のほうに向きなおった。将校は彼の瞑想が終わるのを、快く待ってくれていたようだった。
「さあ、隊長殿」
と、彼は促した。
「僕はどこに行けばいいのですか?」
将校は四頭立ての四輪馬車を示した。この馬車はビュイテンホーフで同じような状況に陥っていた時、彼の視線を捉えた四輪馬車とそっくりのような気がした。
「あの中に乗りたまえ」
と、彼は言った。
「ああ!」
と、コルネリウスはつぶやいた。
「展望台で、おさらばをさせられるんじゃないんだな、僕は!」
彼はこんな言葉をかなり大声で述べたので、例の歴史家の耳に入った。この男は彼の身辺に付き添っているような恰好だった。
彼はコルネリウスに新しい情報を提供するのを自分の義務だとでも信じていたのに違いなかった。彼は馬車の扉口に近づいてきた。将校がステップに足をかけて、何か命令を与えている間に、その男は低い声で彼に言った。
「受刑者が生まれ故郷の町に連れて行かれたこともありますね。自分の家の表門の前で刑が執行されましたよ。見せしめの効果をもっと大きくするためでしょう。とにかく状況次第ですね」
コルネリウスは感謝の身振りをした。
やがて自分自身に向かって、
「まあ、とにかく!」
と、彼は言った。
「ありがたいことだ。折さえあれば、慰めの言葉を必ずかけずにはいない若い男がいるものだ。ねえ、君、本当に君には厚くお礼を申し上げるよ」
馬車は動き出した。
「ああ! 極悪人! ああ! 山賊!」
と、グリフュスは自分の掌中から逃れて行く得物に拳骨を示しながら喚いた。
「娘を俺に返さないで、あの野郎は行ってしまうんだ」
「もしもドルドレヒトに連れて行かれるのなら」
と、コルネリウスはつぶやいた。
「邸の前を通りすがりに、手入れもできない僕の花壇が荒れてしまっているかどうかを眺めることもできるわけだ」
三十 刑に臨む
馬車は一日中走りつづけた。ドルドレヒトを左に見て、ロッテルダムを通り抜け、デルフトに到着した。夕方の五時になると、少なくとも二十里は走破していた。
コルネリウスは警護と同行者の役割を兼ねている将校に幾つか質問をしてみた。しかしその質問がどんなに慎重なものであっても、彼は情けないことに返事を得られなかった。
コルネリウスは、別に頼みもしないのに喜んで彼に話をしてくれた、あの警備兵がそばにいないのを残念に思った。
むろん、あの男なら彼の三度目の事件の最中に突然降って湧いたこの奇妙な出来事について、初めの二つの事件と同じように丁寧ないきさつと正確な説明を提供してくれたに違いない。
その夜、一行は馬車の中で過ごした。翌日の夜明け頃、コルネリウスは北海を左手に、ハルレム海を右手に見てレイドを越えた。
三時間後に、彼はハルレムに入っていた。
コルネリウスはハルレムで起こっていたことを知らなかった。筆者は彼がさまざまな事件に出会って悟る時まで、彼を何も知らないままにしておこう。
しかし読者諸君に対してはそれと同じにしておくわけにはいかない。読者諸君はわが主人公に先んじても、事態の進行について知っておく権利がある。
すでにわれわれは、ローザとチューリップとが姉妹のようにまた二人の孤児のように、オレンジ公ウィリアムによってファン・システンス会長のもとへ取り残されたことを見てきた。
ローザは総督と対面した日の夕方まで、彼から何の知らせも受け取らなかった。
夕刻、一人の将校がファン・システンスの邸宅に入った。彼は殿下の使いで、ローザを市庁まで来るように呼びに来たのだった。
そこに着くと、彼女は大会議室に案内されたが、その中に公爵の姿を見出した。彼は書きものをしていた。
彼は独りだった。その足許にはフリゾン産の大きなレヴリエ犬がいた。この忠実な犬は、主人の考えを読み取ろうという、どんな人間にもできかねることをやりたがっているかのように、じっと彼を見つめていた。
なお少しの間、ウィリアムは書きものをつづけていた。やがて眼を上げると、扉のそばに立っているローザを見やった。
「こちらへいらっしゃい。お嬢さん」
と、彼は書いたものを手から離さずに言った。
ローザはテーブルのほうへ五、六歩近寄った。
「殿下」
と、彼女は立ち止まると言った。
「さ、よろしい」
と、公爵は言った。
「おかけなさい」
ローザは公爵がじっと見つめているのでその言葉に従った。しかし公爵が再びその紙片の上に眼をもどしかけると、彼女はすっかり含羞《はにか》んでまた立ち止まってしまった。
公爵は手紙を書き終えた。
その間に、レヴリエ犬はローザのほうを見て、彼女を嗅ぎわけていたが、すぐに身体をすりよせてきた。
「ああ! ああ!」
と、ウィリアムは犬に向かって言った。
「同じ故郷のお嬢さんだということがよくわかるんだな。お前はこのお嬢さんを知ってるね」
それからローザのほうに向きなおると、探るような、と同時に膜がかかっているような視線を彼女の上に据えた。
「さて、わが娘よ」
と、彼は言った。
公爵はようやく二十三才になっていた。ローザは十八から二十くらいの年頃だった。いっそ呼びかけるなら「わが妹よ」と言ったほうがよかったろう。
「わが娘よ」
と、彼は奇妙に威圧するような語調で言った。その調子は彼に近づいて差し向かいになって話をする誰もがぞっとするような調子だった。
ローザの手足は震え出した。しかし公爵の顔の表情には好意以外の何ものもなかった。
「殿下」
と、彼女は口ごもりながら言った。
「あなたのお父さんはルーヴェスタンにいるね?」
「はい、殿下」
「あなたはお父さんを愛していないのかね?」
「殿下、少なくとも娘としては愛さなければならないのでしょうが、私はそのように父を愛しておりません」
「自分の父親を愛さないとはよくないことだ。だが、この公爵に嘘をつかないのは立派なことだ」
ローザは目を伏せた。
「ではいったいどういうわけで、あなたはお父さんを愛していないのかね?」
「父は意地が悪いのでございます」
「その意地の悪さはどんな形で現れるのかね?」
「父は囚人たちを虐待するのでございます」
「全部をかね」
「はい、一人残らずでございます」
「だがあなたは、お父さんが特に誰かある一人を虐待するということで非難しているのではないかね?」
「父はとりわけファン・ベルルさんを虐《いじ》めるのでございます。あの方は……」
「あなたの囚人だね」
ローザは後ろへ一歩さがった。
「私の愛している人でございます」
彼女は誇るかのように答えた。
「よほど前からか?」
と、公爵は尋ねた。
「あの方とお目にかかりましたその日からでございます」
「お目にかかったとは?」
「ジャン宰相さまと兄君のコルネイユさまとが無惨のお最期を遂げられたその翌日でございます」
公爵の唇はキュッと締まった。額には皺が刻まれた。一瞬、その眼を隠すかのように瞼が下がった。たちまち沈黙から出ると、彼は再び言葉をついだ。
「だが、牢獄に行き、牢獄に死すべき男を愛して、一体あなたには何になるのかね?」
「殿下、もしもあの方が牢獄で一生を送り、そして死んで行く身の上だとしましたなら、そうすることで私はあの方が生きて行き、また死んでいくお力になれることでございましょう」
「それではあなたは囚人の妻だという立場を承知できるのだね?」
「ファン・ベルルさんの妻になれたら、わたしはこの世に生まれた人間のうちで一番誇り高く、一番幸福な女になることができるでしょう。しかし……」
「しかし、何かね?」
「殿下、私、とても申し上げられません」
「あなたのその口調には、希望の気持ちが宿っているね」
彼女は美しい眼を上げてウィリアムに注いだ。その澄みきった眼は、この人物の死のような眠りについている暗い心の奥底に隠れ、眠りこけている慈悲を探りに行くほどの侵み入るような叡智に輝いていた。
「ああ! わかった」
ローザは両手を組んで微笑した。
「あなたは私に希望をかけているんだね」
「はい、殿下」
「うむ!」
公爵は書き終えたばかりの手紙に封をすると、将校の一人を呼んだ。
「ファン・デンケン君」
と、彼は言った。
「ここにある通牒をルーヴェスタンに持って行ってくれたまえ。君は僕が長官に与える命令を読んで、君に関する部分を実行してくれたまえ」
将校は頭を下げた。やがて庁舎のよく響く円屋根の下を早駆けする馬の音高い足並みが聞こえた。
「わが娘よ」
と、公爵は先をつづけた。
「日曜日にチューリップのお祭りがある。明後日の日曜日だ。ここに五百フロリンあるが、これでおめかしをしたらよい。というのはだね、私はその日があなたのために大きなお祝い日になることを願っているからだ」
「殿下は私がどんな衣装をつけるようお望みなのでございますか?」
と、ローザはつぶやくように言った。
「フリゾンの花嫁御寮の衣装を着るのだね」
と、ウィリアムは言った。
「あなたにはとてもよく似合うだろう」
三十一 ハルレム
ハルレムはオランダの中で最も木陰の豊かなことを誇るに足りる美しい都市である。われわれは、すでに三日前にローザと一緒にこの都市に入ったが、さらにまた囚人の後を追ってやってきた。
他の幾多の都市が海軍工場や、造船場や、店舗や、工場などの威容を誇りにしているのに反して、ハルレムがあらゆる国々の都市に冠絶するものとしてその名誉のすべてをかけているものは、密生している美しい楡の木立ちと、すらりと伸びたポプラの並木であり、わけても特に槲《オーク》や菩提樹やマロニエなどが丸天井をなして高みを覆っている陰の濃い遊歩場である。
ハルレムは隣りにレイドを控え、アムステルダムを中心地としている。しかしレイドが学術都市、アムステルダムが商業都市としてそれぞれ発展の道を辿っているのにひきかえ、ハルレムは農業都市、というよりも園芸都市としての趣を取ろうとしている。
事実、この都市は周囲が十分に閉ざされており、風通しはよく、日光は温度を快適にする。それでこの都市は、海風や平原の太陽に曝されている他の都市ではどうにも提供できそうもない数々の保証を、園芸家たちに与えているのだ。
またハルレムでは土地を愛し、その物産を愛している人々がいずれも心穏やかに暮らしを営んでいるのだった。それはロッテルダムやアムステルダムに住む人々がいずれも旅行や商業を愛好して、不安な落ち着かない気分で暮らしているのにも似ているし、政治家や俗物どもがこぞってハーグで暮らしているのとも同じことだった。
筆者はさきほど、レイドが学者に占領された都市だと言った。
その意味では、ハルレムはもろもろの甘美なもの、音楽や、絵画や、果樹園や、遊歩場や、森林や、花壇などに趣味を有しているところだった。
ハルレムは花に夢中になるようになった。花の中でも、とりわけチューリップに夢中になった。
ハルレムは各種のチューリップのために賞金を提供した。そこで極めて自然な成行きとして、筆者はこの都市が一六七三年五月十五日、斑紋《むら》もなく疵もない大きな黒いチューリップのために、その創造者に賞金十万フロリンを提供することになった次第について物語らねばなるまい。
ハルレムはその特色を発揮し始めた。ハルレムは国をあげて戦争と内乱との渦中にある時機に、花という花にとりわけチューリップに対する趣味を誇示していた。ハルレムはその抱負としている理想が栄えるのを眺めてはいいしれぬ歓びを感じ、理想としているチューリップの花が開くのを見ては語りつくせぬ誇りを抱いていた。ハルレムは森と日光と陰と光とが満ちあふれている美しい都市であった。ハルレムは賞金の授与式をもって、人々の記憶に永遠に残るべき祭典を挙行しようと思ったのだった。
いったい、オランダはお祭り騒ぎの好きな国だが、それだけにこの町にもそうした権利があるわけだ。愉しみごとをやる時ともなれば、この七州連合共和国の善良な人々が、怒鳴ったり、歌ったり、踊ったりの熱狂を繰り広げるさまは、性来の怠け者には決して及びもつかないものだ。
これはむしろテニエル父子の絵でもごらんになるほうがいいだろう。
確かに怠け者というものは、仕事に従う場合に限らず快楽に身を入れている場合でも、一番飽きやすい連中である。
さて、ハルレムは三重の歓びに包まれていた。なぜかといえば、三重の盛儀をお祝いしなければならないからだ。その第一は黒いチューリップが発見されたことであった。その次はオレンジ公ウィリアムが正真正銘のオランダ人として、式典に臨むことであった。それから最後には、一六七二年の惨憺たる戦争の後であるが、オランダ共和国の基礎は艦隊の祝砲を伴奏にして踊り狂っていられるほど堅固になったことを、フランス人に誇示するという国家の名誉に関することであった。
ハルレム園芸協会では、その協会にふさわしく振舞って、チューリップの球根に十万フロリンを提供した。市当局もこれに後れをとりたくなくて、この国家的賞金を祝うために、同額の金を提供し、これを名士たちの手に渡すことになった。
こうして、この祝典の予定された日曜日に寄せる民衆の興奮や市民の熱狂は凄まじいばかりだった。そのありさまには誰しもが、たとえ何事でもどんな場所柄でも嘲笑せずにはいられないフランス人の皮肉な微笑をもってしても、この善良なオランダ人気質に賛嘆を禁じえなかった。彼らはたった一日だけを輝かしいものとし、またこの一日の間だけ、婦人や学者や物好き連中の気晴らしになる新しい一つの花に報いるために、敵を打ち倒し、祖国の名誉を維持すべき戦艦一隻を建造するに足るだけの金を浪費しようとしているのだった。
名士と園芸委員会の先頭には、ファン・システンス氏がこの上もなく豪華な衣服をまとい、ひときわ目立っていた。
この立派な男はあらゆる努力を払って、自分の衣服に暗くて厳粛な優雅な調子を出し、自分の寵愛する花に似せようとしていた。彼は見事に完璧な成功者ぶりだった。
黒玉そのままの黒さ、ふわふわしたビロード、菫色の絹、それに目の醒めるような純白のリンネル、そうしたものが会長の礼装だった。彼は委員会の先頭に立ち、大きな花束を抱えて行進していた。この花束はそれから百二十一年後、ロベスピエール〔フランス革命の巨頭。一七五八〜九四〕が『最高存在』の祭典の際に抱えていたのと似ていた。
ただこの人の好い会長の胸の中にあるものは、フランスの革命家の心が憎悪や野心的な遺恨《いこん》に膨らんでいたのと事かわって、その手に持っている至純な花そのままの純真無垢な花なのであった。
観覧席のように色とりどりで、春のような芳香を放っている委員会の後に続いて、この都市の学者の団体や、司法官や、軍人や、貴族や、田舎紳士などの姿が見られた。
民衆は、この七州連合の共和国民諸氏の間でさえも、行進順序の中に隊伍を持っていなかった。民衆は人垣を作っていたのだった。
それに何かを見物するためにはまた何かを手に入れるためには、こうしたところこそ最上の席であった。
この席こそ、群集が何を語らねばならぬか、時にはどんな行動をとらねばならぬかを知るために、国家の行く手を考えながら勝利の行進が通るのを待っている場所であった。
しかしこの時は、ポンペウスの凱旋でもシーザーの凱旋でもなかった。この時は、ミトリダートの敗戦やガリアの征服を祝うことでもなかった。行列は、地上を行く羊の群れの足取りのように温順《おとな》しく、空を飛ぶ鳥の群れのように何の危害もないものであった。
ハルレムには園芸家のほかに凱旋将軍というものはいなかった。花を讃仰しているハルレムでは花卉《かき》栽培家を神聖視しているのだった。
芳香の立ちこめる平和な行列の中央に、黒いチューリップは、黄金のふさ飾りのついた白いビロードに覆われたかつぎ台の上に乗せられていた。四人の男が担《にな》い棒をかつぎ、交替の男たちが寄り添っていた。それはあたかもローマで、諸神の母なるシベリウス〔ギリシャ神話に登場〕が全民衆をこぞる讃嘆と軍楽隊の鳴り響く中を、エトルリアから運ばれ「永遠の都」に入った時、彼女を担う人々が交替したのと同じようなやりかたであった。
このチューリップの展示会こそ、教養も趣味もない全民衆がビュイテンホーフの泥だらけの敷石をその血で染めることを知っていたあの名高い敬虔な指導者たちの趣味や教養に敬意を表するものであった。もっともその後において、この犠牲者たちの名前はオランダのパンテオンの一番美しい碑石の上に刻み込まれることになったが。
総督殿下が確かに自分の手で十万フロリンの賞金を授与するように決定されていた。このことは一般に誰の興味をも喚起していた。また彼が恐らく何か演説をするだろうということもきまっていた。このことは特に彼の味方や敵の関心を惹いているところだった。
事実、政治家たちの一向とりとめない演説の中にも、これらの人物の味方や敵は、いつでも彼らの思想の片鱗が閃くのを見たいと願っているし、またその結果それを解釈できると信じているものである。
それは政治家の帽子がすべての光線を遮蔽する役目を果たさないのと同じようなものだ。
いよいよ待ちに待たれた素晴らしい日、一六七三年五月十五日がやってきた。ハルレム全市の人々は、近郷《きんごう》近在の人々も加え、森の美しい並木に添って立ち並んでいた。彼らは今度こそ戦争や学問の勝利者ではなく、ただ単に自然の征服者に喝采を贈ろうという非常にハッキリした決心を抱いていた。その征服者はこの無尽蔵な母を促して、その時までは不可能と信じられていた黒いチューリップの分娩をやらせたものであった。
しかし民衆の気持ちでは、これこれのものだけを喝采する決心をしたといっても、それを拘束するものは何一つない。一つの都市が喝采をつづける時というものは、呼子が吹かれている最中のようなもので、決して止まるところを知らないものである。
そこでこの都市の人々はまず第一にファン・システンスと彼が抱えている花束に喝采した。次に彼の友誼団体に喝采をおくり、自分自身までも喝采した。そして最後にこれは当然なことであるが、市の音楽隊がひと休みごとに惜しげもなく演奏する見事な音楽にも喝采した。
すべての人々の眼は、祭典のヒロインである黒いチューリップを見てしまうと、祭典のヒーロー――それは当然このチューリップの創造者であるが――その人の姿を探し求めた。
このヒーローは、好漢ファン・システンスが誰の目にも真心をこめて推敲したものと判った演説に引き続いて登場することになっていた。このヒーローは確かに総督その人よりも、さらに多くの効果を生み出すに違いなかった。
ところで、われわれにとってその日の関心は、たとえどんなに雄弁であってもわが友ファン・システンスの演説にはなく、また厚ぼったい菓子をがりがり齧《かじ》っている晴着をつけた貴族の子弟たちにもなく、さらにはヴァニラの棒に似た燻製|鰻《うなぎ》をしゃぶっている、半裸の貧しい下層民の子供たちにもない。この関心は、ばら色の顔をし真っ白な胸を見せている美しいオランダ娘の上にすらないことだし、自分の邸から決して離れたことのない肥ってズングリした紳士にもない。セイロンかジャワからやってきた痩せて黄色い顔つきをした旅行者にあるわけもなく、塩水に漬けた胡瓜《きゅうり》を茶菓の代わりに貪るように食っている飢えた下層民にあるのでもない。いや、違うのだ。われわれにとってこの場の関心は、力強い、劇的な関心は、そんなところにあるのではない。
その関心は、晴れやかな興奮した一つの顔が園芸協会の委員たちの真ん中を進み出てくるところにあるのだ。その関心は、腰帯に花をつけ、髪に念入りに櫛を入れ、顔を磨き立て全身に緋色の衣服をまとい、その色のために黒い髪の毛や黄色い顔色が特に浮きだって見えるような一人の人物に注がれているのだ。
この晴れやかな陶酔している勝利者、ファン・システンスの演説も総督の臨席も忘れさせるというはかり知れない栄誉を担っているこの日のヒーローこそ、アイザック・ボクステルである。彼は自分の前を、右手にはビロードの敷物の上に載った自分の娘だと称する黒いチューリップが、左手には大きな財布の中でピカピカ光ったり、キラリと閃光を放ったりしている十万フロリンの美しい金貨が行進して行くさまを見ていた。そして顔は視野のうちから一瞬もその金を見失うまいとして、横目で睨んでいく覚悟を決めていたのだった。
時々、ボクステルはファン・システンスの横合いに並ぶために足を急がせた。ボクステルは、栄光と富とを作るためにローザからチューリップを盗み出した男らしく、自分にふさわしい値打ちを作り出そうとして、一足歩むごとにその値打ちらしさを少しずつ見せていた。
あと十五分も経てば、公爵は到着することだろう。行列は最後の休息所に停止し、チューリップは玉座に据えられることになろう。民衆の賛仰をこの好敵手に譲った公爵は、その作者の名前が記載してある赤く彩色した華麗な犢皮《こうしがわ》を手に取ることであろう。そして彼は音吐《おんと》朗々と一つの奇蹟が発見されたこと、すなわちオランダは、彼、ボクステルの仲介により自然を促して黒いチューリップを産出せしめたこと、そしてこの花は爾今《じこん》「チューリッパ・ニグラ・ボクステレア」と呼ばれることなどを宣言するに違いない。
しかし時々ボクステルはその目を一瞬、チューリップと財布から離して、臆病そうに群集の中に潜めた。なぜなら彼はこの群集の中に、あの美しいフリゾン娘の青い顔がひときわ高く浮かびあがっているのが認められるような気がしてならなかったからであった。
誰にも判るように、バンクォーの幽霊がマクベスの饗宴を混乱に陥れたように、彼の祭典を乱すものは正しく幽霊なのであったろう。
なお一言付け加えると、この情けない男は、自分の壁でもない壁を乗り越え、隣家の窓に入るために梯子をかけ、また贋の合鍵を使ってローザの部屋に侵入して、ついに一人の男の栄光と一人の女の持参金とを掠め取ってしまったが、この男は自分のことを泥棒だとは思っていなかったのだ。
彼は実によくこのチューリップの見張りをした。彼はコルネリウスの乾燥室の引き出しからビュイテンホーフの断頭台まで、ビュイテンホーフの断頭台からルーヴェスタンの城砦の牢獄まで、実に熱心にその後を追い続けた。彼はローザの窓辺で、それが芽を出し育っていくありさまを実に丹念に見守ってきた。そしてまた彼は実にしげしげとその花の周りの空気を自分の吐息で温めたものであった。そうした様子は彼以外に作者のあり得ようはずはないと思わせるほどのものだった。こういう時、彼からチューリップを取り上げるものがあるとすると、それはこの花を彼から盗むことになるであろう。
だが、彼にはローザの姿が認められなかった。こうなると、ボクステルの歓びを乱すものはなくなった。
行列は円形広場の中央で停止した。そこの素晴らしい木立ちは花環や花文字で飾られていた。行列は湧き立つような音楽の轟く中を停止した。ハルレムの若い娘たちが高く設けられてある席までチューリップに付き従うために姿を現した。チューリップはその上の、総督殿下の黄金の肱掛椅子と並んでいる台の上に安置されることになっていた。
チューリップは誇らしげに、台の上でのびのびと背を伸ばして、たちまちのうちに寄り集まった群集に君臨した。群集は拍手をした。果てしなく広がる喝采のこだまは、ハルレムの全市に鳴り響いた。
三十二 最後の願い
この荘重な一時《いっとき》、拍手喝采が鳴りもやまずに響き渡っているころ、一台の四輪馬車が森に沿った道を通っていた。馬車は、夢中になっている男女の人群れによって並木の外に押し出された子供たちのためにゆっくり進んでいた。
この馬車は埃にまみれ疲れきって、車軸がギイギイ悲鳴をあげていたが、その中には不運なファン・ベルルが閉じこめられていたのだった。彼の目にも昇降口の扉を通して、筆者がむろん不完全ではあるが読者の眼前に繰り広げようとした光景が入り始めていた。
この人群れ、このどよもし、人間と自然とのあらゆる光彩のこのきらめき、そうしたものはこの囚人を、彼の独房に入ってくる稲妻のように眩惑させるのだった。
彼は自分の身の行末について質問した時、同行者があまり熱の入らぬ返事しかよこさなかったことではあるが、これを最後と思って、思いきってこの上を下への大騒ぎについて質問してみることにした。この大騒ぎははじめから彼にとって全然無縁のものに違いなく、またそうと信じるより仕方がなかった。
「あれはいったいどうしたことでしょうか? ご説明をお願いしたいのですが、副官殿」
と、彼は護衛の任に当たっている将校に訊ねた。
「ご覧のとおりだね」
と、将校は答えた。
「お祭りだよ」
「ああ! お祭りですって?」
と、コルネリウスは、もう久しい間この世のいかなる歓びにも接することのできなかった男らしい、憂鬱そうな無頓着らしい様子で言った。
それから少し沈黙がつづく間に、馬車はわずかな道のりを進んだ。
「ハルレムの氏神祭りですか?」
と、彼は訊ねた。
「花がたくさん、目につきますがね」
「そのとおりだね。花が主役を演ずるお祭りだね」
「おお! 甘い香よ! おお! 美しい色どりよ!」
と、コルネリウスは叫んだ。
「止まれ、この人が見たいそうだから」
と、将校は、軍人にしか見られない優しい情けをかける身振りをして、馭者の役目を果たしている兵士に言った。
「おお! ご好意に感謝します」
と、ファン・ベルルは憂鬱そうに言葉を挿んだ。
「ですが、ほかの人が喜んでいても、どうも僕には喜ぶ気にはなれませんね。ですから、一つ、ここから遠ざかってください。お願いいたします」
「どうともご随意に。それでは前進するとしよう。僕が停止の命令を下したのは、君が要求したからだ。それに君は花がたいそう好きなようだね。それも特に今日、お祭りをして祝っている花が」
「今日、お祭りをして祝っている花とは、どんな花ですか?」
「チューリップの花なのだよ」
「チューリップの花ですって!」
と、ファン・ベルルは叫んだ。
「それでは今日は、チューリップのお祭りですか」
「そうだ。しかし君にはこの光景が不快そうだから、前進するとしよう」
そして将校は道をつづける命令を与えようとした。
だが、コルネリウスは彼を引き止めた。ある恐ろしい疑念が、彼の脳裏を貫いたのだった。
「副官殿」
と、彼は声を震わして訊ねた。
「それではあの賞金を授与するのは今日なのですね?」
「黒いチューリップの賞金かね、そうだよ」
コルネリウスの頬には赤みがさし、全身には戦慄が走り、汗が額に珠《たま》をなした。
やがて彼は、自分も自分のチューリップも出場しない祭りでは、賞を受けるべき人間も花も欠けることになり、むろん、失敗に終わるだろうと考えた。
「やれやれ!」
と、彼は言った。
「ここにいる善良な人たちはみんな僕と同様に不幸なのだ。彼らはせっかく招かれても、この大盛典を見ないで終わることになるだろう。あるいは少なくとも見たとしても不完全なものを見るだけだ」
「君は何のことを言っているのか?」
「僕の言いたいことはですね」
と、コルネリウスは、再び馬車の奥に身を投げると言った。
「僕の知っているある男の力を借りない限り、黒いチューリップは絶対に発見されないということです」
「それではだね」
と、将校は言った。
「君の知っているそのある人がそれを発見したのだろう。現に今、ハルレムの全人士が眺めているのは、君が発見不可能と見なしているあの花だからね」
「黒いチューリップを!」
と、ファン・ベルルは扉から身体を半分乗り出して叫んだ。
「どこですか? どこですか?」
「ほら、あそこだよ、玉座の上だよ。見えないかね?」
「見えますよ!」
「それでは、君」
と、将校は言った。
「さあ、出発しなければ」
「おお! ご容赦ください、お願いします、副官殿」
と、ファンは言った。
「おお! 僕を連れて行かないでください! もっとよく見せてください! 向こうに見えるのが黒いチューリップだな。何だってあんなに真っ黒なんだろう。……そんなことってあり得るだろうか? あの花には斑点《むら》があるに違いない、あの花は不完全なものに違いない。あれは恐らく、ただ真っ黒に着色されているだけのことだろう。おお! もしも僕があそこに行ければ、もっとハッキリそう言えるのですがね。大佐殿、僕を下ろしてください。近くから僕にあの花を見せてください。お願いいたします」
「君は気でも狂ったのか? 僕にそんなことができると思うか?」
「どうぞ、お願いいたします」
「だが、君は囚人だということを忘れているのか?」
「僕は確かに囚人です。しかし僕は名誉を知る人間です。僕の名誉にかけて、僕は逃げませんよ。逃げようともしませんよ。ただあの花をよく眺めさせてください!」
「だが、僕に与えられている命令はどうなるのか?」
将校は、再び道をつづけるように兵士に命令の合図をした。
「おお! せかさないでください。寛大にお願いいたします。僕の全生命はあなたのお情けある合図一つにかかっております。ああ! 今となっては僕の命も多分そう長くはないのでしょうけれど。ああ! あなたは僕の悩んでいることをご存知ではありませんね。あなたは僕の脳裏と心の中で相克《そうこく》しているものを一つもご存知ありませんね。なぜなら要するに」
と、コルネリウスは絶望して言葉をつづけた。
「もしもあれが僕のチューリップだとしたら、もしもあれがローザから盗まれたものだとしたら、おお、副官殿、黒いチューリップを発見したということが、一目でもそれを見たということが、あれが完全なものだと認めたことが、どういうことかお判りになってください。あれが芸術と自然との結合した傑作であることが、それを失うことが、それを永久に失うことがどういうことかご理解ください。おお! ぼくはここから出なければなりません。副官殿、僕はあれを見に行かねばなりません。その後で、もしもあなたがお望みとあれば、僕を殺したらいいでしょう。だがとにかく僕はあの花を見ることにしましょう。あの花を見てみましょう」
「お黙りなさい。お気の毒だがね。すぐにこの四輪馬車に入ってくれたまえ。なぜならば、ほら、殿下の儀仗隊が僕たちの前を横切っているからね。もしも公爵がこうしたみっともない様子に目をとめられ、こんな騒ぎを耳に入れることになると、あなたにも僕にもよくない結果になるからね」
ファン・ベルルは、自分のためというよりも同行者のために気兼ねをした。しかし三十秒と我慢ができなかった。先頭の二十騎ばかりの騎兵が通り過ぎたと思うと、またしても扉口から身体を乗り出し、今しも通りかかった総督に向かって、手まねで哀訴の身振りをした。
ウィリアムはいつものように感情のない眉一つない顔つきで、会長の義務を果たすために広場に臨むところだった。彼は手に犢皮《こうしがわ》の巻物を持っていた。それこそこの祭典に際して、指揮棒の役目をなすものだった。
総督には手真似で哀訴している男が見え、同時にその男に付き添っている将校の姿が認められたのか、彼は停止の命令を下した。
とっさに、数頭の馬は鉄鋼のようなひかがみを慄わせ、四輪馬車に閉じこめられているファン・ベルルから六歩のところで停止した。
「何事か?」
と、公爵は将校に訊ねた。将校は総督の命令一下、馬車から飛び降りると、うやうやしく彼に近づいた。
「殿下」
と、彼は言った。
「あれは殿下のご命令によって私がルーヴェスタンに探しに参りました国事犯であります。殿下のご希望により、ハルレムに連行してまいりました」
「あの男は何を望んでいるのか?」
「あの男は少しの間、ここに停止してくれるよう懇請いたしておるものであります」
「黒いチューリップを見るためです、殿下」
と、ファン・ベルルは両手を合わせて叫んだ。
「私はあれを見ますれば、私は自分で知りたいと思うことが判りさえしますれば、その後で死んでしまっても一向差し支えありません。もっとも死ぬというときには、私は、神と私との仲立ちをしてくださる慈悲深い殿下のために祝福いたしたいと思います。殿下、私の作品が最後の目的を達し、名誉の表彰を勝ち得ますことをお許しください」
この二人の男の間で演じられている光景はまことに奇妙なものであった。二人はそれぞれ護衛に取り囲まれ四輪馬車の扉口にいた。しかし一方は最高の権力を持っているのに、他方は惨めな囚人だった。一方は玉座に登ろうとしているのに、他方は間もなく断頭台に登るものと信じ込んでいた。
ウィリアムは冷やかにコルネリウスを見つめていた。そして彼の切々とした願いを聞いていた。
やがて、将校に向かうと、
「この男は」
と、彼は言った。
「ルーヴェスタンで獄吏を殺そうとして反逆行為をした囚人だな?」
コルネリウスはため息をもらして、頭を垂れた。彼の優しい素直な顔は、赤くなったかと思うとたちまち真っ青になってしまった。この全知全能な公爵の言葉、ほかの人々の目にはつかない何か秘密の使者といったものの力で、すでに彼の犯した罪を知っているこの神のように的確な言葉を聞くと、彼はこれ以上何かの罰が加えられることはあっても、拒絶に遭うものと予想した。
彼は言い争おうとしなかった。彼は弁解をしようと思わなかった。彼はありのままの絶望の胸をえぐるようなありさまを公爵の前に曝していたのだった。それは彼を見つめている偉大な心や精神を持つ人にとっても、非常に明瞭な、非常に感動を喚起するものであった。
「囚人に下車を許してやれ」
と、総督は言った。
「あの男に黒いチューリップを見に行かせてやれ。少なくとも一度は眺める価値があるからな」
「おお!」
彼は呼吸が止まりそうだった。将校が腕で支えてやらなかったらば、哀れなコルネリウスは殿下に感謝しようとしてひざまずき、額を埃《ほこり》まみれにしたことであろう。
この許しを与えると、公爵は熱狂的な歓呼が最高潮に達したその真っただ中にある森を目指して進んで行った。
彼はほどなく自分の台のところに着いた。祝砲が地平線のはるか彼方で轟いていた。
三十三 大団円
ファン・ベルルは群集の中に道を切り開いて行く四人の警備兵に導かれて、斜めの方向から黒いチューリップのほうに突き進んで行った。近づくにつれ、彼の視線は貪るようにその花に注がれた。
ついに彼はその花を見た。それは暑さと涼しさ、影と光のかつて人に知られなかった配合に支配されて、ある日ふと花を開き、やがてまた永遠にしぼんでしまうに違いない世に比類ない花であった。彼は六歩ばかり離れたところから、その花を見た。彼はその完璧な姿と優雅な趣きとを賞玩した。彼は、この高貴と純潔の女王に儀仗衛兵の形をなして立ち並んでいる乙女たちの背後にその花を見た。しかし、自分の目でその花の完璧な姿を確かめるにつれて、彼の心は千々に乱れてくるのだった。彼は前後左右を見まわして、たった一つでいい、質問をしかける相手を探してみた。しかし、知らない人の顔ばかりだった。会場全体、人々の注意の向かっているのは、今しも総督が腰を下ろしたばかりの玉座の上であった。
ウィリアムは満場の注意を惹きつつ立ち上がると、落ち着いた視線を酔い痴れたような群集の上にさまよわせた。彼の鋭い目は、非常に種類の異なった三つの興味と三つの劇によって彼の前に形造られた、三角形の三つの頂点の上に順を追って停まった。
一つの角のところには、ボクステルがいた。彼は全身の注意をこめて、公爵や、フロリン金貨や、黒いチューリップや、会場の群集などを貪るように見つめながら、待ちきれなくて身体をわななかせていた。
もう一つの角には、コルネリウスが息を弾ませながら固唾《かたず》をのんでいた。彼は自分の娘である黒いチューリップただ一つに、視線を凝らし、生命を賭け、心を捧げ、愛情を傾けていたのだった。
最後に三つ目の角には、一人の美しいフリゾン娘がハルレムの処女たちに取り巻かれて、桟敷の上に立っていた。彼女は銀の縁取りをした上品な深紅の毛織の衣装を着けていた。黄金の冠帽から波打って垂れているレースはその上に覆いかぶさっていた。
それはローザだった。彼女は今にも絶え入るばかりに、目に涙をいっぱいたたえて、ウィリアムの部下の一人の将校の腕に身を寄せかけていた。
そのとき、公爵は居並んだ列席者を見渡しながらゆっくりと犢皮の巻物を広げ、静かな、弱くはあるが明晰な声で読み始めた。しかし五万の観衆の上にはたちまち宗教的な沈黙が落ちてきて、息吹き一つ唇からもれなくしてしまったので、その文書の内容は聞き取れないようなことにはならなかった。
「諸君がいかなる目的でここに参集したかは、諸君のご承知のところであります」
と、彼はいった。
「十万フロリンの賞金が、黒いチューリップを発見した者に約束されていたのであります。黒いチューリップ! このオランダの奇蹟はただ今、諸君の眼の前に展示されております。黒いチューリップは発見されました。それはハルレム園芸協会のプログラムの要求している、あらゆる条件に適合しているものであります。
この花の誕生の由来とこの作者の名前とは当市の記念帳に記載されることでありましょう。この黒いチューリップの所有者を近くに呼ばせていただきましょう」
こういうと、公爵はこの言葉がどんな効果を生じるかを見きわめようとして、明るい眼差しを三角形の三つの頂点に次々と移していった。
彼にはボクステルがその桟敷から飛び出すのが見えた。
彼はコルネリウスが無意識に身振りを一つするのを見た。
そして最後に、彼は、ローザの警護に当っている将校が玉座に向って彼女を誘導する、というよりも彼女を押し出して来るのを見たのだった。
公爵の右手と左手とで同時に二重の叫び声が起こった。ボクステルは愕然とし、コルネリウスはわれを忘れて二人揃って叫んだのだった。
「ローザ! ローザ!」
「このチューリップは確かにあなたのものでしようね、お嬢さん?」と、公爵はいった。「はい、殿下!」と、ローザは口ごもった。
彼女の眼の醒めるような美しさに、満場には敬意を表するささやき声がわき起こった。
「おお!」と、コルネリウスはつぶやいた。
「それでは彼女は嘘をついたのかな。あの時は、あの花を盗まれてしまったといっていたっけが。おお! それで彼女がルーヴェスタンを離れた理由がわかった! おお! あの女に忘れられたのか、裏切られたのか、最良の恋人だと信じていたあの女に!」
「おお!」
と、ボクステルのほうではうめいていた。
「何もかも失敗だ」
「さて、このチューリップは」と、公爵は先を続けていた。「発見者の名前を保有すべく、花のカタログには『チューリピア・ニグラ・ローザ・ベルレンシス』の名で記載されるでありましょう。この名前は、爾今《じこん》この乙女が妻として名乗るべきファン・ベルルに因んだものであります」
そう言うと同時に、ウィリアムはローザの手を取ってそれを今しも玉座の下に飛び出して来た一人の男の手中に握らせた。その男は歓喜のために圧倒され、夢中になって、真蒼な顔色をしていた。彼は公爵と婚約者と神に対してこもごも、感謝の心を述べるのだった。神は蒼空《あおぞら》の奥底から、この二人の若者の有様を微笑を浮かべながら見守っていた。
このとき、もう一人別な男が全然異なった感動に打ちのめされて、ファン・システンス会長の足許に崩れ落ちた。
ボクステルは、自分の希望の壊滅したことに茫然として、気を失ってしまったのだった。人々は彼を助け起こして、脈拍と心臓とを調べてみた。しかし、彼は死んでいた。
この椿事《ちんじ》は別に祭典を妨げることにはならなかった。会長も公爵もそのことに大して関心をよせなかったからであった。
コルネリウスはのぞけるばかり驚愕した。彼はあの泥棒が、あの贋物のジャコブなる人物が、事もあろうに彼の隣人のアイザック・ボクステルであることを初めて知ったからであった。彼の純真な魂の中には、この隣人がこれほど性の悪い行動に及ぶなどという疑念は、ただの一瞬も起こって来なかったからであった。
それにしても神が電撃性卒中の攻撃を折よくこの男に見舞われたことは、ボクステルにとって大いなる恩恵なのであった。そのために彼は、その自負心や貪欲にとって苦痛に堪えきれない諸々の事象を、もうそれ以上ながめずに済むようになってしまったのだ。
やがて吹き鳴らすラッパの音につれて、行列は再び行進を開始した。ボクステルが死んだことと、勝利を得たコルネリウスとローザとの二人が互いに手を取り合って肩を並べて足を運んで行くことを除けば、儀式の調子には何ひとつ変更されたものはなかった。
市庁に帰り着いたとき、公爵は十万フロリンの入った財布をコルネリウスに指し示した。
「誰にもよく判らないのだ」
と、公爵は言った。
「君だとしても、ローザだとしてもこの金をかち得たのがどっちなのかが。君、なぜかと言うと、きみが黒いチューリップを発見したものとしても、それを育て、花を開かせたのは彼女なのだからね。それだからまた、彼女がその金を持参金として提供しないものとすれば、それは不当なことに違いない。
その上、この金は、ハルレム市がチューリップに捧げる贈り物でもあるからな」
コルネリウスは公爵がどういう結論に達するかを知ろうとして待ち構えていた。公爵は言葉をつづけた。
「ぼくは十万フロリンをローザに与えよう。彼女はそれを十分役に立てられもしようし、君に提供することもできるだろう。この金は彼女の愛情と勇気と誠実とに対する褒美なのだ。
君についてはだね、もう一つローザに感謝することがある。ローザは君が無実であることの証拠を持って来たのだ」
こう言うと、公爵はコルネイユ・ド・ウィットの手紙が書かれてあり、第三の珠芽を包むのに使われていた例のバイブルの紙片を、コルネリウスに差し出した。
「君についてはだね、君は罪を犯しもしないのに投獄されたことが判明したのだ。
君に言っておくが、君は自由の身であるばかりでなく、罪のない人間の財産は没収されることもあり得ないのだ。
それで君の財産は君に返還されるわけだ。
ファン・ベルル君、コルネイユ・ド・ウィット殿の名付け子であり、ジャン・ド・ウィット殿の友人でもある君は、いつまでもあの一人が代父として君に授けた名前にふさわしく、またもう一人が君に捧げた友情にふさわしい男であってくれたまえ。というのはほかでもないが、ド・ウィットご兄弟は民衆の誤解を受けて、不当に裁かれ不当に罰を受けたが、二人とも、今日ではオランダが誇り得る偉大な市民だったのだ」
公爵はいつに似ず感動した声音で、この二人の名前を表明すると、左右にひざまずいた二人の夫婦から接吻を受けるために両手を差しのべた。
やがてため息をもらすと、
「ああ、まったく!」
と、彼は言った。
「君たちは実に幸福な人たちだな。君たちはきっとオランダの真の栄光、特にその真の幸福を夢見ながら、チューリップの新しい色彩だけを手に入れようと努めていればよいのだろうからね」
そして視線を新たな雲が湧き起こるのを見たかのようにかなたのフランスの方角に投げると、ふたたび四輪馬車に乗り込み、出発してしまった。
その日、コルネリウスはローザを伴ってドルドレヒトに向かって出発した。ローザは乳母のザッグを使いに立てて、父親に事の次第を一つ残らず知らせてやった。
すでに筆者が述べてきたので、グリフュス老人の性格をご存知の人々は、彼が自分の婿と和解するのにどれほど骨が折れたかを理解されることであろう。彼は棍棒で殴打を蒙ったことを心に刻みつけていた。彼はいくつ殴られたかを残った傷痕から数え立てた。
「四十一もあるぞ」
と、彼は言うのだった。
しかし彼もついに譲歩した。
「総督殿下ぐらいの寛大な気持ちにならなくてはな」
と、彼は語っていた。
彼は人間の番人をやめると、花の番人になった。彼はフランドル地方でお目にかかれるまたとない頑固な花の番人だった。有害な蝶の見張りをしたり、野鼠を殺したり、飢え過ぎた蜜蜂を追っ払ったりする彼の姿はなかなか見ものだった。
彼はボクステルの話を聞き、贋者のジャコブにだまされていたと知ると激怒した。彼はかつてあの嫉妬深い男が楓のそばに建てた監視所を破壊してしまった。というのはボクステルの地所は競売に付されたが、コルネリウスの花壇に食い込んでいたからだった。そこでこの地所を広げると、ドルドレヒトの望遠鏡は一切無視できる形になったのだ。
ローザはいよいよ美しく、ますます賢くなっていった。結婚して二年経つと、彼女の読み書きは非常に上達して、二人いる美しい子どもたちの教育を独力でやりおわせるまでになった。この子どもたちはチューリップのように、一六七四年と一六七五年の同じ五月に誕生した。しかしその子どもたちの生まれるには、彼女が子どもたちを得ることになったあの名高い花よりも、大して苦労がかからなかった。
一人は男の子であり、もう一人は女の子であった。男の子にはコルネリウス、女の子にはローザという名前がつけられたことは、言うまでもあるまい。
ファン・ベルルはチューリップにも、ローザにも忠実だった。彼は生涯を通じて、妻の幸福と花卉《かき》栽培の研究とに没頭した。その結果、彼はおびただしい変種を発見したが、それはオランダのカタログに記録されてある。
彼のサロンの内には主要な装飾品が二つあって、二つとも大きな金の額縁におさまっていた。それはコルネイユ・ド・ウィットのバイブルから裂き取られた二葉の紙片だった。諸君も記憶されておられようが、その一つは彼の名付け親から彼に宛ててルーヴォア卿の書簡を焼却するようにとの依頼が書いてあるものだった。
もう一つは、彼がローザに形見として黒いチューリップの珠芽を贈り、その条件として彼女が十万フロリンを持参金とし、二十六才から二十八才までの相愛の青年と結婚するようにとのことを記したものであった。
この条件は、彼が死ななかったのだけれども、仔細にわたり完全に実現した。それはまさに彼が死ななかった故にこそ到達されたものでもあった。
最後に、彼は嫉妬深い連中が近づいても、神はアイザック・ボクステルの場合のように、そうした男から彼を開放したまう暇を恐らく持ち合わせておられなくなるだろうと考えて、それを防ぐために、扉の上部に次の文句を書き記した。これはグロティウスが脱走する日に、その牢獄の壁に刻み込んだものであった。
人間は時として苦痛を嘗めつくすと、――『私は幸福過ぎる』――などとは絶対に口にしないですむ権利を持つものである。  (完)
[#改ページ]
あとがき
オランダといえば風車小屋とチューリップとを思い出す。それほどチューリップは美しい緑と清らかな水の国オランダの風物詩になくてはならぬ景趣の主である。わが国のようにオランダによって文明開化の道が開かれ、西欧文物への開眼が行なわれた国にあっては、特にオランダへの親しみは今もって強いし、またそれはそのまま異国趣味へ通ずるものでもある。幕末蘭学者たちの斯学《しがく》への傾倒ぶりはさておき、史上オランダ風物に寄せる一般人士の愛着のほどは様々な書物の中に伝えられて、おりに触れわれわれの微笑を誘うものがある。
そうしたことでオランダと切り離して考えられないチューリップは、いかにも異国趣味の花、西欧特有の匂いのする花のように感じられる。しかし本書を読まれてもわかるように、この花が実はセイロンを原産地とする東洋の花であり、かつてオランダが強盛を誇り、世界に雄飛していた頃、たまたまインドから輸入され、国民の嗜好に投じて一国を風靡したことを考えると、かの地においてこそ、この花は異国趣味の最たるものであり、東西文物交流のまことに奇《く》しき物語の主人公たるにふさわしいものとも言えるだろう。
しかもオランダが昔日の覇者の面影を失い、ヨーロッパの一隅に特異な風物を有する平和な国として残っているとき、その国柄を象徴するものとしてチューリップの玲瓏《れいろう》な姿容《すがたかたち》を見いだすことは、何か暗示的なものさえ感じさせるものがある。今日、わが国ではドル貨を得る一助にチューリップの栽培が盛んに行なわれているが、本書を読めば改めて大自然の摂理の妙と人間の自然へ寄せる心情の深さとを思わずにはいられない。
いわば本書もそうした大自然への賛歌であり、地上における血なまぐさい係争を離れて、永遠の平和を求める人間の魂の希求を述べた物語なのである。
さて、この作品を飜《ひもと》くにあたり、ぜひ知っておかねばならない背景について一言すると、オランダはもとベルギーとあわせてネーデルランドと呼ばれ、スペインの領地だった。この地は交通の要衝だったので民度が高く古来自治都市が発達し、産業が伸張し、世界貿易の中心地をなし、市民階級が著しい勢力を握っていた。そこに宗教改革の波がいち早く上陸し、初めはルター主義、ついでカルヴィン主義が主として北部七州に弘布された。スペインは熱烈なカトリックの護持者だったので、苛酷な弾圧を行ない、ここに宗教上の争いを中心としてネーデルランドの独立戦争(八十年戦争=一五六八〜一六四八年)が起こった。しかし北部七州と南部十州とは経済上の利害が相反していたので、ついに北部七州のみが一五八一年、ネーデルランド合衆国、すなわちオランダの独立を宣言するに至った。この独立運動の指導者がオレンジ公ウィリアム一世であった。
オランダが独立を認められたのはスペインの無敵艦隊が没落した三十年戦役の後、一六四八年のウェストファリア条約によるものであるが、フランスの太陽王ルイ十四世(一六六一〜一七一五年)は海港を得るためにスペイン王からの相続権を主張して侵略を開始した。これがオランダ戦争(一六七二〜七八年)であり、この作品の直接の背景をなしているものである。この中に登場してくる寡黙な青年ウィリアムとはオレンジ公ウィリアム三世(沈黙公)であり、ド・ロイテル提督とともに国中に海水を氾濫せしめてフランス軍と戦ったものであった。
しかるにウィリアム三世は一六七七年イングランド王ジェームズ二世の長女と結婚、一六八八年には議会に招かれてロンドンに入り、ジェームズ王をフランスに奔《はし》らせ、王権主義と議会主義とが調和される「名誉革命」の立役者となり、翌八九年イングランド王となった。ここにオランダ戦争は英、仏二大強国の世界を舞台にした争覇戦へと進展し、オランダそのものはヨーロッパの一小国に甘んぜざるを得なくなった。
作者のアレクサンドル・デュマは「モンテ・クリスト伯」「三銃士」等で明治以来わが読者に最も親しまれているフランス浪漫派出身の歴史小説家であり、「椿姫」の作者デュマの父である。
原作者について
デュマといえば、父子そろって世界的にその文名を謳われていることで有名であり、わが国でも明治年間、父デュマの「モンテ・クリスト伯」を黒岩涙香が翻案した「岩窟王」このかた、その「三銃士」やまた息子デュマの「椿姫」などで両者とも非常に耳に親しい名前である。
この「黒いチューリップ」の作者は父のアレクサンドル・デュマ(大デュマ)の方であり、この作品は「史実に材を取りながら史実を越える歴史小説家」といわれるこの作者の特色を発揮している点で、なかなか興趣の尽きないものがある。
デュマは一八〇三年七月二十四日、北フランスのエーヌ県にあるヴィクエ・コットレという都市で生まれた。父は同名のデュマ将軍といい、貴族の落胤であるが、大革命時代に相当の活躍ぶりを見せた典型的な武人であった。それだけに財産には恵まれず、デュマが三才の時になくなってから、一家は窮乏し、彼は姉とともに貧しい母親の手で育てられた。彼は少年の頃から読書を好んだが別に文筆への希望もなく、十八才の時には一家を支えるために故郷の町で三等書記や公証人などをやっていた。
一八二三年、母が旧知のフォア将軍を頼って彼をパリに連れて行き、その将来を頼んだとき、将軍の問いに対する彼の答えは実に曖昧模糊としたもので、将軍は彼のためにどういう未来を設計してよいか判らず、ただ字がきれいだということを取り柄にオルレアン公爵の事務局の一謄写係の職を世話した。
しかしパリの生活は次第に文筆人との交遊をひろめ、彼は自分でも劇作を手がけるようになった。世は大革命の動乱期を経て鬱勃《うつぼつ》とした浪漫派の文連が台頭しようとする時期だった。若い文人たちは手を携えて、新しい文芸の開花に努力を傾けていた。一八二九年、彼の戯曲「アンリ三世とその宮廷」はテアトル・フランセ座で上演されたが、これはユゴーの「エル・ナニ」に先立つ浪漫劇の嚆矢《こうし》をなすもので、非常な成功を収めた。その結果オルレアン公は彼を抜擢して図書館の司書補に任じた。翌三〇年、「クリスティーヌ」がオデオン座でさらに大きな成功を得るにおよび、彼の劇作家としての地位は確固としたものになった。
その後の彼は順風に帆を上げた勢いで、浪漫派のグループの中でもユゴーと並び称せられ、当代一流の劇作家としての盛名をほしいままにした。しかしそれだけの声価も、彼には一時代を劃するほどの特に著しい思想や主張が不足しており、それにまた文芸の主流が劇曲から小説に移るのを機会に、彼の書き出した史実と空想との織りなす膨大な小説の大衆的人気の背後に隠れてしまったが、世界的に成功した彼の小説執筆の重要な基礎は、その劇作活動を行なっている時期に育ったといえるであろう。
一八四三年、すなわち四十才のころから、彼はおびただしい数の長編小説を書くようになった。彼にはまた数多い協力者がいたが、それは彼の意欲の強さを物語るものであり、また人助けのためでもあった。二十才の頃は未来に何の目当てもない一介の貧青年だった彼は、壮年になるにおよんで文人としては稀に見る巨富を得て豪華な生活をしていたといわれる。しかし侠気もあり浪費癖もあり、物欲には恬淡《てんたん》だった彼は、よく富を得たがまたそれをよく散じ、歴史劇場の建設その他のために多額な負債を背負うことになり、死ぬまで孜々《しし》として絶えずペンを取って書きつづけていた小説は人気の頂点にあったのに、晩年は借金に苦しむようなことになった。
息子のデュマは一八二四年、デュマがパリに出て間もなく、ベルギー生まれの裁縫女との間に生まれた私生児である。父デュマはこの息子を世に出すためにあらゆる努力を惜しまなかった。普仏戦争の勃発でパリが危くなった一八七〇年十月五日、デュマが息を引き取ったところは、ディエップにほど近いピュイにあった息子の別荘であった。
この「黒いチューリップ」は一八五〇年、デュマが四十七才の時の作品である。一般にデュマの創作活動は一八四三年より一八五〇年までが最盛期とみなされ、彼の代表作はほとんどその間に書かれているが、この「黒いチューリップ」はその円熟期の最後の代表作とされている。  (訳者)