リシャール大尉
アレクサンドル・デュマ/乾野実歩訳
[#改ページ]
目 次
第一章 英雄(ただし、この物語の主人公ではない)
第二章 三人の高官
第三章 双子
第四章  アーベンスベルクの古城
第五章 美徳同胞団
第六章 六プース低かったら、フランスの君主はルイ十八世と呼ばれただろう
第七章 五日間に五つの勝利
第八章 学生と特使
第九章 シェーンブルン宮殿
第十章 賢者
第十一章 処刑
第十二章 退却
第十三章 スモレンスクへ
第十四章 告白
第十五章 ドニエプル川
第十六章 馬のためなら王国をくれてやる!(リチャード三世)、ネイのためなら三億フランを出そう!(ナポレオン)
第十七章 帰還
第十八章 |配流《はいる》の地へ
第十九章 リースヒェン・ウォルデック
第二十章 ウォルデック牧師
第二十一章 過去の秘密
第二十二章 従兄ノイマン
第二十三章 大団円
第二十四章 アウグスト・シュレーゲル
訳者あとがき
[#改ページ]
登場人物
[#ここから1字下げ]
ポール・リシャール……ダヴー元帥麾下の騎兵中尉
ルイ・リシャール……イタリアのウジェーヌ副王(ナポレオンの養子)の副官。中尉
シュリック……ナポレオンのスパイ
フリードリヒ・シュタップス……ドイツの学生
マルガレーテ・シュティッレル……シュタップスの婚約者
リースヒェン・シュティッレル……マルガレーテの妹
シュティッレル牧師……マルガレーテ、リースヒェン姉妹の父
ベルティエ元帥……ナポレオンの参謀総長
ダヴー元帥……ナポレオンの部下。第三軍団司令官
ネイ元帥……ナポレオンの部下。モスクワからの退却では|殿《しんがり》軍を指揮
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
第一章 英雄(ただし、この物語の主人公ではない)
リシャールとクタン共著の『ドイツ案内』によれば、標高の高さにかけてはバイエルンのみならずヨーロッパでも|屈指《くっし》の都市であるミュンヘンからはほぼ十八リュー〔一リューは約四キロ〕、一五三○年にメランヒトンがルター派の信仰告白書を起草したことで有名になったアウグスブルクからは九リュー、一六六二年から一八○六年までの期間、市庁舎の中の奥まった一室で神聖ローマ帝国会議が開かれていたラティスボン〔レーゲンスブルク〕からは二十五リューの地点に、ドナウ川の番人とでも言うべきドナウヴェルトという小さな町がある。
厳格公ルートヴィヒ〔バイエルン公ルートヴィヒ二世〕が、不貞をほのめかす告げ口に惑わされてマリ・ド・ブラバントの首をはねたこの古い町には、四本の道が通じていた。シュトットガルト、つまりフランス方面からの二本はノルトリンゲンとディリンゲンから、オーストリア方面からの二本はアウグスブルクとアイヒャッハからこの町へと続いている。フランスからの二本はドナウ川の左岸に沿い、オーストリアからの二本はドナウ川の右岸を通って川を越え、簡素な木の橋を渡ってドナウヴェルトの町へと入っていく。
現在では鉄道がドナウヴェルトを走っており、ドナウ川を下るウルムからの蒸気船に乗れば黒海まで行くことができる。ドナウヴェルトはそれなりに重要な町となってまずまずのにぎわいを見せているが、今世紀〔一九世紀〕の初めころにはそうではなかった。
古い歴史を持つこの町は、何事もないおだやかな日々にあっては孤独の女神と静寂の神に捧げられた聖所のごとく静まりかえっている。だが、一八○九年四月十七日におこった一件は二千五百人の住人を仰天させた。無関係だったのは、ゆりかごにいる赤ん坊と、足どりもおぼつかない老人くらいだった。一人では外出できない老人と赤ん坊は留守番するよりなかったが、そのほかの住民は街路にくり出して広場にあふれ、シュトットガルトからの二本の街道に通じる通りと城館の前は、黒山の人だかりとなった。
要約すると、すべては四月十三日の夕刻にはじまった。輸送車や荷馬車をしたがえた三台の駅馬車が「オテル・ド・レクリヴィス(ザリガニ亭)」の前に停まると、最初の馬車から皇帝のものとよく似た小ぶりな帽子をかぶり、制服の上にフロックコートを着こんだ高級将校が降りてきた。残りの二台から降りてきたのは幕僚たちだ。こうして、マレンゴとアウステルリッツの勝者〔ナポレオン〕が、ドナウヴェルトを拠点にして、またしてもオーストリアと一戦を交えるのではないかという噂があっという間に広まることになった。
この日の夕刻、物見高い人々が旅館の窓から見つめていた高級将校は五十六、七歳の男で、情報通が推測するにはヌシャテル公ベルティエ元帥〔ナポレオンの参謀総長〕だという。元帥の到着後、二、三日もすれば皇帝が姿を見せるはずだ。ベルティエ元帥は到着した日の晩、四方に急使を送り出し、ドナウヴェルトに向けて軍を集結させるように命令した。軍隊がその三日後に行動を開始すると、町の中でも外でもドラムやラッパの音が響き渡り、四本の主街道からはバイエルンやヴュルテンベルクやフランスの連隊がやって来た。
このあたりで、にらみあっている二つの国家、つまりフランスとオーストリアについて述べておこう。ナポレオンと神聖ローマ皇帝フランツ二世〔オーストリア皇帝としてはフランツ一世〕の間で結ばれたプレスブルクの和議が破棄されてこのような事態となったのは、次のようないきさつによるものだった。
このころ、ナポレオンはスペインと交戦中だった。一八○三年のアミアン条約によってイギリスとの戦争が終結したが、この平和は一年しか続かなかった。イギリスはポルトガル王ジョアン六世に圧力をかけてフランス皇帝との和議を破らせた。ナポレオンはたった一行の文章を書くと、そこに署名した。
「ブラガンサ家の統治は終了した」
ヨーロッパを追われたジョアン六世は大海の波に身を|委《ゆだ》ねると、大西洋を越えてポルトガルの植民地に助けを求めた。インド洋で難破した詩人カモンエスは一方の手で自分の詩集を掲げ持ち、もう一方の手で水をかいて作品を守ったが、嵐に|翻弄《ほんろう》されてリオデジャネイロまでたどりついたジョアン六世は、王冠を持ち出すことができなかった。だが植民地にたどりつくや否や別の王冠に目をつけ、ヨーロッパに残してきた王国の代わりにブラジルの王位についてしまったのである。
フランス軍はスペインの領土を通過してポルトガルを占領し、ジュノ将軍が総督に任命された。ポルトガルは小国だったから、総督を置くだけで十分だったのだ。しかし皇帝の計画はそこでは終わらなかった。
アウステルリッツの戦いの後で結ばれたプレスブルクの和議により、オーストリアはナポレオンの義理の息子であるウジェーヌ・ド・ボアルネーをイタリア副王とすることを承認した。フリートラントの戦いの後で結ばれたティルジットの和議により、プロイセンとロシアはナポレオンの弟ジェロームにウェストファリアの王位をさし出した。そこでナポレオンは、ナポリの王位につけた兄のジョゼフをよそにやり、その|後釜《あとがま》として妹婿のミュラを置くことにした。
ナポレオンは準備にとりかかった。ティルジットの和議には、ロシア皇帝がフィンランドを領有し、フランス皇帝がスペインを取るという秘密の条項があった。後は実現に向けたきっかけさえあればよい。
ほどなくしてその機会が訪れた。ミュラは秘密の指令を受けてマドリッドに留まっていた。スペイン国王カルロス四世は、息子相手にやらかした派手な親子げんかのことをミュラに|愚痴《ぐち》った。息子が自分の退位を画策し、フェルナンド七世として即位してしまったからである。ミュラはカルロス四世に、同盟者であるナポレオンの助けを求めるようにすすめた。にっちもさっちも行かなくなっていたカルロス四世はありがたくこの提案を受け入れ、後ろ盾もなくびくびくしていたフェルナンド七世はやきもきしながらこの申し出にしたがった。
ミュラは言葉たくみに親子をさそってバイヨンヌに向かわせた。そこではナポレオンが待っている。ひとたびライオンの爪に押さえられれば、もはや逃れるすべはない。カルロス四世は、自分の息子フェルナンド七世は支配者の器ではないとして、ナポレオンの兄ジョゼフに王位を譲った。ナポレオンは父親の上に右手を、息子の上に左手を置いたわけである。そして父親をコンピエーニュに、息子をヴァレンセーの城館に送ってしまった。
みかえりを保障されているロシアはこの行為を承認するにしても、大陸封鎖令を背負いこんだイギリスが黙っているわけがない。イギリスはスペインから目を離さず、蜂起が起こればすぐに乗じることができるようにと、機をうかがうことにした。
ほどなくしてその機会がおとずれた。一八○八年五月二十七日、聖フェルナンドの日に、スペイン全土の十か所で民衆が蜂起した。カディスでは、トラファルガーの敗戦後にここに退避していたフランス艦隊が|拿捕《だほ》されてしまった。
一か月もたたないうちに、スペインでは次のような教理問答が広がった。
「汝は誰か?」
「神の恩寵によってスペイン人」
「それは何を意味するか?」
「善人である」
「我らが至福に敵する者は誰か?」
「フランス人の皇帝」
「それは誰か?」
「邪悪なる人物にして諸悪の根源、諸善の破壊者、悪徳の中心」
「彼にはいくつの顔があるか?」
「二つ。人の顔と悪魔の顔」
「フランス人の皇帝の数は?」
「一人。|悪《あ》しき三つの人格」
「三つの人格は何と呼ばれるか?」
「ナポレオン、ミュラ、マニュエル・ゴドイ〔スペインの宰相〕」
「その中で最も悪しき者は?」
「三者とも同等」
「ナポレオンは何から生まれたのか?」
「罪より」
「ミュラは?」
「ナポレオンより」
「ゴドイは?」
「ナポレオンとミュラの組みあわせより」
「第一の者の精神とは?」
「高慢と専制」
「第二の者は?」
「強奪と残虐」
「第三の者は?」
「|貪欲《どんよく》と裏切りと無知」
「フランス人とは何者か?」
「かつてはキリスト教徒、今は異端」
「義務に|背《そむ》きしスペイン人にふさわしい責めは?」
「死と裏切り者の汚名」
「スペイン人としてあるべき行為は?」
「我らが主イエス・キリストの教えにしたがうこと」
「敵に対抗するには?」
「相互の信頼と武装」
「フランス人を処刑するのは罪となるか?」
「ならない。異端の犬を殺せば天国に行ける」
ここに掲げられた公理は異常だが、これを作り出した人々の暴虐な無知|蒙昧《もうまい》ぶりとはうまくかみあっている。
こうしてスペイン全土が蜂起し、バイレンではフランス軍が降伏してしまった。一七九二年以来の不祥事である。降伏文書の署名は一八○八年七月二十二日。同月三十一日、イギリス軍がポルトガルに上陸。八月二十一日にはヴィメイロの戦いがあり、フランス軍は大砲十二門を失って、千五百人の死傷者を出した。三十日のシントラの議会ではジュノと指揮下の軍隊がポルトガルより撤退することが決められた。
これを知ったパリは|驚愕《きょうがく》した。状況を好転させる方策はひとつしかない。ナポレオン本人による遠征である。ナポレオンは依然として幸運の星のもとにいた。スペインの地は、リボリ、ピラミッド、マレンゴ、アウステルリッツ、イエナ、そしてフリートラントで起こった驚異を見ることになるだろう。
ナポレオンはロシア皇帝の手を握り、プロイセンとオーストリアでの手はずを説明した。ザクセンの新王はドレスデンを、ウェストファリアの新王はヘッセン=カッセルを見張っている。ドイツから八万の古参兵を集めてパリに立ちより、立法院にはこう告げよう。リスボンの尖塔には遠からずして|鷲《わし》の軍旗がひるがえることになる、鷲が次にめざすのはスペインであると。
ナポレオンは十一月四日にトロサに到着した。十日にはスルト元帥がムートン将軍の支援を受けてブルゴスを制圧。大砲二十門を奪取し、スペイン兵三千人を殺して同数を捕虜とした。十二日にはヴィクトール元帥がエスピノーサでロマナとブレイクの軍を撃破、兵士八千名と将軍十名を殺し、一万二千名の捕虜と五十門の大砲を獲得した。二十三日にはランヌ元帥がパラフォックスとカスタニョスの軍を撃破して、大砲三十門と三千人の捕虜を獲得。トゥデラでの死者もしくは溺死者は四千人に達した。
「マドリッドへの道が開かれましたぞ、陛下! 今こそ、フェリペ五世の都へとお入りください。陛下こそはルイ十四世の後継者にして、あらゆる首都への道をご存知のはず。マドリッドからの派遣団が陛下をお待ちしております。陛下の御前にまかり出て、陛下のお|赦《ゆる》しを請うためです。さあ、エスコリアル宮の高台にお登りください。勝利の歌が四方から聞こえてくるでしょう。
ここには東からの風が吹いてきます。風に乗って聞こえるのはカルデネン、クリナス、ロブレガット、サンフェリーチェそしてモリノ・デル・レイの戦いの声。われわれの日誌には新たに五つの名前が加わり、カタロニアの地では敵の数がさらに増えるでしょう。
ここには西からの風も吹いてきます。ガリシアからの風が陛下の耳にささやくには、スルト元帥がムーア将軍の後衛部隊を撃滅してスペイン軍師団に武器を放棄させたとか。それだけではありません。元帥がスペイン兵の死体を踏みこえてイギリス軍に追いすがると、敵は船に逃げこみ、帆を広げて姿を消してしまいました。彼らの司令官と将軍二名は戦場に屍をさらしています。
北からの風は熱い便りを運んできます。北からの風が伝えてきたのは、サラゴッサが陥落したという知らせです。フランス軍は二十八日間の戦いの末に町に入ることができました。町に入った後は、敵がたてこもった民家を一軒ずつ落としていき、さらに二十八日間の戦いが続きました。サゴンテやヌマンチェやカラホッラと同じことがくりかえされたのです。男も女も老人も子供も僧侶までもが武器を取って戦いました。フランス人が手にしたサラゴッサは、かつては町でしたが今は廃墟にすぎません。
南からの風はオポルトが落ちたことを伝えてきます。スペインでの蜂起はとりあえず鎮圧されました。ポルトガルの制圧はまだですが、国内に軍を進めました。陛下は約束を果たされました。陛下の鷲はリスボンの塔に舞いおりたのです。
しかし陛下はどこにおられるのですか、おお、征服者よ! どうして息をつく間もなく発ってしまわれるのですか?
仇敵のイギリスがオーストリアを口車に乗せました。イギリスは陛下がウィーンから七百リューも遠くにいると告げ、陛下が全軍を必要としていると言い、かつてのドイツ王ハインリヒ四世やフランス王フィリップ二世のようにローマ教皇ピウス七世に破門されかけている陛下からイタリアの領土を回復して、ドイツからフランス軍を追いはらう好機だとたきつけたのです。オーストリアはイギリスのあつかましい言い分を信じてしまいました。オーストリアは五十万の軍を編成し、カール、ルートヴィヒ、ヨハンの三大公に指揮を委ねました。『行け、我が黒鷲よ! フランスの赤い鷲を切り裂くのだ』」
一月十七日、馬上のナポレオンはヴァリャドリッドに向けて出発し、翌十八日にはブルゴスに到着、十九日にはバイヨンヌに着いた。ここで馬車に乗りかえ、誰もが皇帝はまだスペインの地にいると信じて疑わなかった二十二日の真夜中にチュイルリーの扉をたたいた。「扉を開けよ、エックミュールとワグラムの未来の勝利者だ」
だがパリに帰還したエックミュールとワグラムの未来の勝利者は、ひどく機嫌が悪かった。スペインでの戦争には利用価値があると思っていたのだが、不都合続きだった。それでもイギリス軍を大陸にひき寄せるという利点はあった。
あのリュビアの巨人〔ギリシア神話に登場するアンタイオス〕のように、ナポレオンも大地に触れるたびに力がみなぎってくるように感じていた。ナポレオンがテミストクレスだったら、アテナイでペルシア軍を待ち構え、サラミスに艦隊を派遣などしなかっただろう。
幸運という名の愛人はいつもナポレオンには忠実だった。ナポレオンはアディジェからナイルまで彼女を同行させ、ニエーメンからマンサナレまで彼女をつきしたがわせた。だが彼女はアブキールとトラファルガーでナポレオンを裏切った。
今はイギリス軍を相手に三つの勝利をおさめ、将軍二人を殺して兵士の三分の一を傷つけ、敵を海まで追いはらった。まるでヘクトルがアキレウスのいないギリシア軍を手玉にとったときのようだ。だがそのような折も折に、イベリア半島を離れなくてはならなくなった。オーストリアとフランスから届いた知らせのせいである。
というわけでチュイルリーに到着して自室に入ったナポレオンは、ベッドを|一瞥《いちべつ》しただけで寝室を通り抜けると書斎に姿を現した。
「人をやって大法官を起こしてこい。警察大臣と侍従長に私が待っていると伝えろ。警察大臣は四時、侍従長は五時に通せ」
「陛下がお帰りになったことを皇后陛下にお知らせしましょうか?」と、命令を受けた従僕が訊ねた。
皇帝は少し考えてから答えた。
「いや、その必要はない。その前に警察大臣に会おう。それまでは誰も通すな。休むことにする」
従僕が出ていくとナポレオンは一人きりになった。彼は時計に目をやるとつぶやいた。
「二時十五分。二時半に起きるぞ」
ナポレオンはひじかけ椅子に腰をおろすと、左手をひじかけに置き、右手を胴着とシャツの間にすべりこませた。彼はマホガニー製の背もたれに頭をつけて両目を閉じると、小さな吐息をもらして眠りに落ちていった。
ナポレオンにはカエサルと同じようなすばらしい眠りの能力が備わっていた。いつでもどこでも望んだ時間だけ眠ることができるのである。彼が「十五分だけ眠る」と言えば、副官であれ従僕であれ秘書であれ、時間きっかりに皇帝を起こしに来た人物が目を閉じたままのナポレオンを見ることはほとんどなかった。
うらやむべき能力はもうひとつあった。天才に与えられた能力としてナポレオンは、どれほど熟睡していようとも気持ちよく目覚めることができた。まぶたが開くと同時に目が輝き、頭はさえわたった。目覚めた直後も眠りに落ちる直前と同じように、正しく考えることができたのだ。
三人の高官を呼び集めるように言われた従僕の背後で扉が閉まったかと思うと、ナポレオンは眠りだした。何と不思議なことだろう! その表情からは、彼の心中でうずまく激情など|微塵《みじん》も感じられなかった。
書斎に|灯《とも》されているろうそくは一本だけだった。短時間の眠りにつくナポレオンの望みで、従僕が二台の燭台を持ち去った。明りがまぶしすぎれば、まぶたを閉じていても眠りを妨げるかもしれない。従僕は火種となる一本のろうそくに火を灯すと、皇帝の顔を照らす位置に置いた。
書斎はおだやかな光に包まれ、調度品の陰影がしっとりと部屋を満たしている。このまばゆい暗がり(もしくはほの暗い光)の中を、気がかりな夢や物言いたげな幻影が通り過ぎてゆくのだ。
皇帝を包むほのかな光がなかったとしたら、そこで待っていたのは夢かまぼろしだと思っただろう。ナポレオンが両目を閉じるとほとんど同時に、小扉を覆い隠していたタペストリーがたくしあげられて白い影が現れた。身にまとった薄手の布としなやかな動きのせいで、まるで幻影を見ているようだった。
白い影が扉の前で少しの間だけ動きを止めると、闇の中にくっきりとその姿が浮かびあがった。影はふわふわと漂うような足どりで進みだした。|衣《きぬ》ずれの音さえ聞こえない。彼女はゆっくりとナポレオンのそばに近寄っていく。
ナポレオンの側に来ると彼女は、雲のような薄絹の中から艶やかな手をさし出し、ローマ皇帝を思わせるナポレオンの頭部が寄りかかっている椅子の背もたれに手を置いた。情愛のこもったまなざしの先にあるナポレオンの顔は、メダイヨンに刻まれたアウグストゥスの顔のように|静謐《せいひつ》そのものだ。彼女はそっと息をとめ、左手を心臓の上に置いて動悸を|鎮《しず》めようとした。それから息をひそめながら身をかがめると、眠っている人の額に唇を近づけて息だけのキスをした。この秘めやかなキスを受けて、先ほどまでは|蝋《ろう》でできた仮面かと思うほど微動だにしなかった顔の表面がぴくりと動くと、彼女はさっと身を引いた。
だがその動きはあまりにもかすかだった。愛の|息吹《いぶき》によって生じた一瞬の動きは、夜風を受けた湖面のさざなみのように、すぐもとに戻った。依然として片手で胸をおさえたまま、影のような訪問者は執務机に近づくと、紙片にさらさらとペンを走らせた。彼女は眠っている人のもとに戻ると、自分の手と同じくらい白くてなよやかな皇帝の手がはさまっている胴着とシャツの間に紙をすべりこませた。それがすむと、来たときと同じように軽やかに足を運び、分厚い|絨毯《じゅうたん》に衣ずれの音を吸いこませながら扉のところまで行くと、そこで姿が見えなくなった。
白い影が消えて、時計が二時半を告げようとするとき、眠っていた人は両目を開けて胴着にはさんでいた手を抜いた。時計が時間を告げた。
現代のアウグストゥスであるナポレオンはほほ笑みを浮かべ、眠っていようが起きていようが自分の行動を統制できていることに満足した。そして胴着から手を引き抜いたときに落下した紙片をひろいあげた。
紙には何かが書かれている。ナポレオンはひとつきりの明かりの方に身を寄せたが、内容を読むより先に誰の字であるかを見抜いた。彼は大きく息をして文面を読んだ。
『お待ちしておりました、陛下。陛下にお帰りなさいのキスを。私にできるのはそれだけです。誰よりも何よりも陛下を愛する女より』
「ジョゼフィーヌ!」ナポレオンはそう言うとあたりを見まわした。部屋の奥か調度の陰から彼女が現れるのを待っているかのようだ。
だが部屋にいるのは自分だけだった。ちょうとこの時、扉が開いて従僕が入ってきた。両手に燭台を持っている。
「大法官が来られました」
ナポレオンは暖炉のそばに行って寄りかかると大法官の到着を待った。
[#改ページ]
第二章 三人の高官
従僕の後ろから、到着を告げられた高官が姿を現した。
レジ・ド・カンバセレスはこのとき五十六歳。つまり彼を呼びつけた人物よりも十五ないし十六歳年長ということになる。カンバセレスは温厚で善良な人物だった。賢明な法律学者である彼は、父親のあとを継いで一七九二年に会計院参事官になった。一七九三年一月十九日には国民公会の議員に選出され、国王裁判では執行猶予に投票した。一七九四年には公安委員会の議長となり、翌年、法務大臣に任命された。一七九九年にはボナパルト将軍によって第二執政に選ばれ、一八○四年に大法官となって帝国の大公位とパルマ公爵位を授けられた。
外見はというと背の高さは中くらいだが|贅肉《ぜいにく》がつきはじめていた。美食家で快適な生活を好み、着道楽の傾向があった。アンシャンレジーム(旧体制)期の法服貴族ではあったが、ナポレオン宮廷の雰囲気にうまくなじんでおり、社会秩序を立て直した偉大な人物はこのようなカンバセレスの態度に満足していた。
ナポレオンから見ればカンバセレスには、もうひとつの長所があった。つまりカンバセレスはナポレオンを知りつくしていたのである。この天才は彼よりも後に政治の舞台に登場したが、同僚として親しくするうちに同じ道を歩むことになり、今や運命に選ばれた人としてヨーロッパに|覇《は》をとなえている。だがカンバセレスは卑屈に堕することなく本分に従い、おべっかではなく賞賛をもってナポレオンに接していた。
というわけでカンバセレスは、いつでも皇帝の望みどおりに行動する用意ができていた。十五分もあればチュイルリーの礼儀が求める服装を整えるにはじゅうぶんだったし、夜中の二時、言いかえれば熟睡中に起こされるのは不愉快なことには違いなかったが、カンバセレスは晴れ晴れとしたにこやかな顔で登場した。晩の七時にご馳走を食べ終え、くつろぎながら食後のコーヒーを楽しんでいるときに見せる表情と変わるところがない。
だがカンバセレスを待っていた人物は、上機嫌とはほど遠い状態だった。ナポレオンの気分を察した大法官は、ためらうようなそぶりを見せた。
ナポレオンは、大事は言うまでもなく、どのような細事であっても見逃さぬ鷲のごとき目でカンバセレスの動きを見てとった。大法官の心理を察したナポレオンは、表情をやわらげると口を開いた。
「大法官! ここに来てくれたまえ。待っていたのは君ではない」
「私もそのように望んでおります。陛下のご機嫌をそこねたりすれば、この上もない不幸者になってしまいますから」
この時、部屋付きの従僕が退出していった。二台の燭台を部屋に残してろうそくを手に持っている。
「コンスタン、扉を閉めて控え室を確認しろ。私が待っている人物を緑の間に通せ」
ナポレオンはカンバセレスの方に向き直り、息をとめていた後のように一気に話しだした。
「フランスに帰ってきたぞ! チュイルリーに戻った。大法官、今は二人きりだ。胸を開いて本心で話そう」
「陛下、尊敬のあまりに言葉が届かないことはありますが、私はいつでも心を開いて陛下に接しております」
皇帝は射ぬくような目でカンバセレスを見た。
「どうしたのだ、カンバセレス、暗い顔をして。誰もが光を浴びようとするのに、君は影を求めようとする。そういうのはよくない。文官としての身分で言えば、君は私の次に位置するのだぞ」
「陛下が私を重んじられるのは、陛下の善意ゆえであって私の能力ゆえではありません」
「それは違う。私は君の長所を認めて君を重んじている。だからこそ君に法務を任せたのだ。それも法が生まれる時だけではなく、正義という名の母の胎内で育つ時からだ。ところで、刑法が足踏み状態のままだ。一八○八年内に整備させるように言ったのに、今日は一八○九年一月二十二日だぞ。私の不在中にも立法院は開くことになっているが、刑法はまだ準備できていないし、三か月たっても無理だろう」
「この問題に関して包み隠さず申しあげてもよろしいでしょうか?」大法官は思いきって訊ねた。
「言ってみたまえ」
「陛下、恐れから申しあげるのではありません。陛下が剣か|笏《しゃく》をお持ちの限り、恐れるようなものは何もないからです。ですが痛恨の思いで申しあげれば、動揺と無秩序が進行しております」
「大法官、そのことなら言う必要はない。よくわかっている。私がここにいるのはオーストリアとの戦いのためだけではなく、そのような事態に対処するためだ」
「陛下、たとえば立法院ですが――」
「立法院」とナポレオンがくりかえした。一語一語を強調しながら肩をすくめている。
「立法院ですが」とカンバセレスが続けた。何とかして最後まで言いきろうとしているようだ。「立法院では、提出法案に対する反対票が十二、三票を超えることはなかったのですが、その立法院がたてついています。八十票の反対が二度、一度は百票の反対がありました」
「立法院をねじふせよう」
「お待ちください、陛下。適切な時期を選ばなくては。どうかパリにとどまってください。陛下がパリにおられる限り、万事がうまくいきます」
「わかっている。だが、とどまるわけにはいかないのだ」
「ああ、ますます困ったことに!」
「そうだ、困ったことだ。その言葉で思い出したが、マレとかいう男がいたな」
「パリにはとどまれないと?」
「ヴァリャドリッドから四日で戻ってきたのは、パリにとどまるためだとでも言うのか? いや、違う。三か月はウィーンにいなくてはならん」
「陛下」とカンバセレスはため息をもらした。「また戦争ですか」
「君までそんなことを言うのか、カンバセレス。私が戦争をしているとでも?」
「スペインは?」とカンバセレスが|探《さぐ》りを入れた。
「それはそうだ。だがどうして私がかかわることになったのだ? 北では平和を維持できると信じていたからだ。ロシアは同盟国だしウェストファリアとオランダは兄弟国、バイエルンは友好国だというのに、軍隊を四万人まで削減したプロイセンや、イタリアを私にもぎとられて一方の頭を失った双頭の鷲オーストリアに何ができるのだ? オーストリアが五十万の軍を集めるだって? 彼らの軍勢がいるのはレーテー川〔冥界を流れる「忘却」の川〕であってウィーンへと流れるドナウ川ではない。オーストリアは経験から学ぶことができないのだ! もう一度学ぶ必要があるな。今度という今度は、本当に痛い目にあうことになる。私が教えてやろう。
私は戦争を望んでいないし、戦争に興味もない。私が手をつくしてきたことは、ヨーロッパ中が知っている。私が注意を集中しているのは、イギリスが選んだ戦場、つまりはスペインだ。一八○五年に私がドーバー海峡を渡ろうとしていたとき、イギリスはオーストリアのおかげで命びろいしたのだ。イギリス軍を丸ごと海にたたきこもうとしている今も、オーストリアの邪魔が入った。まるでもぐらたたきだ。ここで打ちすえても別の場所に姿を現すのだ。
だがイギリスはフランスのような軍事国家ではない。イギリスは商売人の国だ。ハンニバルのいないカルタゴなのだ。徹底的に痛めつけるか、インドから追い出して決着をつけよう。ロシア皇帝が約束を果たしてくれれば、予定通りに運ぶだろう。オーストリア! 私に背けば大きな代償を払うことになるぞ。|速《すみ》やかに武装解除するか、破滅的な戦争に突入するかだ。将来に疑惑を残さないような形で武装を解くのなら、私としても剣を|鞘《さや》におさめよう。好んで剣を抜きたいわけではないからな。ただしスペイン国内での場合と、イギリスを相手にする場合は別だ。だがオーストリアがいやだと言うのなら、ウィーンに向けて四十万の軍勢を放ち、イギリスは大陸での同盟国を失うことになるだろう」
「四十万の軍勢ですか、陛下」とカンバセレスがおうむがえしに言った。
「どこにいるかと訊ねているのだな?」
「そうです。動かせるのはせいぜい十万かと」
「私の兵士の数を気にするようになったのか。数のことを言ったのは君が最初だよ、大法官」
「陛下――」
「世間の連中はこう言うのだ。『彼の軍はせいぜい二十万だ、いや十五万、いや十万だ! 落ち目の主人からは離れよう、彼の手元には二つの軍隊しかないぞ!』それはまちがいだ」ナポレオンはぴしゃりと額をたたいた。「私の力はここにある」
ナポレオンは両腕を広げた。
「そして私の軍はここだ。どうやって四十万の軍を集めるか聞きたくはないかね? つまりはこういうことだ」
「陛下――」
「教えよう。だが君にではない。君はまだ私の運命を信じているだろう。私が今から言うことを、他人に伝えるのだ。ライン方面軍は歩兵二十一連隊から成り、各連隊は四大隊で編成されている。本来なら五大隊だが、現実はそういうことになっている。ということは八十四大隊、つまり歩兵が七万人だ。
それだけではない。カラ・サン=シール、ルグラン、ブーデ、モリトゥールの四師団もある。これら師団は三大隊編成だから三万人。つまり、歩兵が十万だ。五千のデュパ師団はこの数には入れていない。胸甲騎兵は十四連隊で総数は少なくとも一万二千騎、これに|兵站《へいたん》の兵士を足せば一万四千だ。軽騎兵は十七連隊で一万七千騎。兵站は配属待ちの竜騎兵であふれかえっている。ラングドック、ギーヌ、ポワトー、アンジューから彼らを集めれば、五千ないし一万の兵数になる。つまり歩兵十万、騎兵は三万ないし三万五千だ」
「陛下、合計だと十三万五千にしかなりません。陛下は四十万とおっしゃいました」
「まだだ。砲兵二万、親衛隊二万、十万のドイツ人部隊がいる」
「それでも二十六万七千です」
「そうだ。だがイタリア軍から五万を召集する。彼らはタルヴィスを経由してバイエルンで私に合流する。ダルマチアからのイタリア軍一万とフランス軍一万もここに加わる。合計すれば七万以上の兵数になる」
「三十三万七千です」
「いいかね。あっという間に集めることができるのだ」
「予備隊はどうされます?」
「新兵を忘れているぞ。上院が昨年の九月に二年分の召集を認可しただろう」
「一八○九年の召集兵はすでに武装ずみです。一八一○年の召集兵は法律によって初年度は国内にしか配属できません」
「それはわかっている。だが百十五の軍管区から八万人は出せないと言うのかね? そんなことはない。私は十万人を動員する。一八○九、一八○八、一八○七、一八○六年の該当人員からそれぞれ二万を再召集するつもりだ。この八万は二十歳、二十一歳、二十二歳、二十三歳だが、一八一○年の新兵は十八歳だ。つまり何の不都合もなく新兵を訓練できる」
「陛下、百十五の軍管区が毎年提供できる成年男子は三十三万七千です。そこから十万を、つまり四分の一以上を召集するとおっしゃるのですか。成年男子の四分の一が毎年召集されたりすれば、どんな国でもあっという間に滅亡してしまうでしょう」
「誰が毎年召集すると言った? 四年間の兵役が終われば先年度の召集兵は除隊させる。今回限り、最初で最後だ。この八万人で部隊を編成する。期間は三か月だ。四月末までに四十万の軍を率いてドナウ川に向かう。オーストリアも我が軍に備えているだろう。いいかね、もしオーストリアが手を出してきたら、私の反撃で全ヨーロッパを震えあがらせる」
カンバセレスはため息をついた。
「陛下、ほかにご命令はありませんか?」
「明日、立法院を召集してくれ」
「陛下のご出発以来、ずっと開会しております」
「そうか。では明日、私の意図を知らせよう」
カンバセレスは退出しようとしたが、ひき返してきた。
「マレ将軍のことを口にされましたが」
「ああ、そのとおりだ。だがその件はフーシェと話そう。フーシェを呼んでいると伝えてくれ。緑の間で待つようにとな」
カンバセレスが礼をして扉に向かい、部屋から出ていこうとした。その時、ナポレオンが情のこもった声で親しげに呼びかけた。
「ではまた、大法官」
ナポレオンの態度によってカンバセレスが感じていた個人的な不安は|鎮《しず》まったが、フランスの運命に対する不安は消えなかった。
一人になったナポレオンは、部屋の中をせわしなく歩き回った。権力を握って九年めだった。この年数には執政時代も入っている。賞賛のかげには不信や反対もあったが、疑惑の目を向けられたことは一度もなかった。彼らは何を疑っているのだろう? ナポレオンの幸運だ。彼らはナポレオンを非難するようにさえなった。では最初の非難者はどこに現れたのか? それは軍隊の中だった。それも|古強者《ふるつわもの》ぞろいの親衛隊の中だった。バイレンでの恥ずべき降伏劇がナポレオンの名声をだいなしにしてしまったのだ。ヴァルスはアウグストゥスから託された三軍団と共に命を落としたが、少なくとも降伏はしなかった。
ナポレオンはヴァリャドリッドを発つ前から、カンバセレスが話した内容以上の事実を知らされていた。出発の前日、ナポレオンは|擲弾兵《てきだんへい》部隊を閲兵していた。この時、隊列の中から皇帝がスペインを離れることについてぶつぶつ言う声があったと聞かされた。ナポレオンは兵士たちの顔を見ようとした。イタリアとスペインの陽光をあびて|赤銅《しゃくどう》色に日焼けした顔が並んでいる。皇帝に面と向かって不平を言うだけの度胸がある兵士はいるのだろうか。
ナポレオンは馬からおりると、隊列にそって歩いていった。兵士たちは暗い顔で口を閉じたまま、|捧《ささ》げ|銃《つつ》の姿勢をとっている。だが「皇帝万歳」の声はない。一人の兵士が口ごもった。
「陛下はフランスか!」
ナポレオンの予想どおりだった。彼は有無を言わさぬ態度で兵士の腕から銃をもぎとると、相手を隊列からひっぱり出した。
「恥知らずめ! 私にその気があれば銃殺するところだぞ」
隊列に顔を向けるとナポレオンは言葉を続けた。
「わかっているとも。君たちはパリに戻りたいのだろう? 楽しい暮らしと愛人をとりもどしたいのだ。よろしい。八十年間軍務につきたまえ!」
そして銃を兵士の手に投げつけると、相手は衝撃のあまりに銃をつかみそこねて地面に落とした。怒りを爆発させているナポレオンの目がルジャンドル将軍の姿をとらえた。バイレンで降伏文書に署名した中の一人である。ナポレオンは|脅《おど》しつけるような目つきで将軍のもとに近づいていった。将軍は立ち止まった。足に根が生えたように動かない。
「将軍、手を」
将軍がためらいながら手をさし出した。ナポレオンはその手を見すえている。
「降伏文書に署名したのに、|萎《な》えてはいないのか」
ナポレオンは将軍が裏切り者であるとでも言わんばかりに、その手をさっと振りはらった。将軍にしてみれば上官の命令にしたがっただけだった。彼はなすすべもなく立ちつくした。ナポレオンは馬にまたがると頬を紅潮させてヴァリャドリッドへと戻っていった。そしてすでにわれわれが見てきたように、翌日、フランスに向けて出発したのだった。
扉が開いて待ち人の到着が告げられたときも、ナポレオンは同じ気分のままだった。
「警察大臣閣下!」
フーシェの陰気な顔は不安のためにさらに|蒼《あお》ざめていた。ためらいながら敷居に足をかけている。
「よろしい。ぐずぐずしているわけは知っているぞ」
フーシェは未知の危険の前ではしりごみするが、危険が具体的な形で現れればそれに備えるかあるいはそれに向かって進むような性格の人物だった。
「私がですか、陛下」フーシェは頭をあげながら口を開いた。黄色い髪、つやのない顔、陶器のような青い目、そして大きく裂けた口。
「『リヨンの乱殺者』と呼ばれた私が、どうして陛下の御前でぐずぐずしましょう」
「私はルイ十六世ではないからだ」
「陛下は思い違いをしておられる。しかもこれが最初ではありません。私が一月十九日に投じた賛成票は――」
「私が思い違いをしていると言うのかね?」
「お答えいたしましょう。私は国民公会の議員として、国王ではなく国民に忠誠を誓ったのです。私は国民への誓いを守りました」
「では共和暦第七年テルミドール十三日には誰に忠誠を誓ったのだね? 私にか?」
「いいえ、陛下」
「ではどうしてブリュメール十八日には私に逆らわなかったのだ?」
「ルイ十四世の言葉を思い出してください。『|朕《ちん》は国家なり』」
「そのとおりだ」
「ブリュメール十八日には、国民はすなわち陛下でした。ですから私は陛下にお仕えしたのです」
「だが私は一八○二年に君から警察大臣の地位を取りあげた」
「陛下は私ほど忠実ではないにしても、私よりも有能な警察大臣をさがしておられました。その人物は一八○四年に私に警察大臣の地位を返してくれましたが」
ナポレオンは大またに歩を進めて暖炉の前まで行った。|顎《あご》を胸にうずめ、ジョゼフィーヌの書きつけがある紙をくしゃくしゃと丸めこんだ。
「誰が話してもいいと言ったのだ?」とナポレオンが出しぬけに足をとめた。頭をあげ、鷲のような目でフーシェを見すえている。ダンテが書いたのと同じような情景だ。「皇后を離婚するという話のことだ」
フーシェが暗がりにいなかったら、彼の顔色がさらに|蒼《あお》ざめるのがわかっただろう。
「陛下は離婚を熱望しておられると思っておりましたが」
「私が君にそう語ったとでも?」
「『そう思っておりました』と申しあげました。それに陛下も皇后陛下に献身を求められると」
「君の流儀で言うと、情け容赦なく求めるのだ」
「陛下。誰しもおのれの|性《さが》を変えることはできません。私はオラトリオ修道会の教師として、言うことを聞かぬ子供たちを教えさとしました。若いころに身につけた性急さは今でも消えません。私は実をつける木です。花をお求めにはなりませんように」
「フーシェ。君の友人(ナポレオンはこの言葉に力をこめた)のタレーランが使用人に求めるのはただ一つのことだそうだ。『熱心すぎるな』。この格言を君に進呈しよう。今回は熱心すぎるぞ。国家にかかわることであれ、私の家庭にかかわることであれ、私よりも先に口を開くな」
フーシェは無言だった。
「ところでタレーランのことだ。私がパリを発ったとき、君たちは犬猿の仲だったのに、戻ってみれば親友になっている。一体どういうことだ? 十年間は顔をそむけあい口もきかぬ間柄だったではないか。タレーランは不謹慎な外交官だ、フーシェは恥知らずの陰謀家だと非難しあっていたと聞いたぞ。外交官は勝利を後ろだてにして独走する、警察のこけおどしなど無益だと言いあって相手を馬鹿にしていた。
それほど情勢が緊迫しているのかね? 君の言葉によれば国に忠誠をささげて、過去の不和を水に流さねばならないようなことがおきたのか。君たちは非公式な理由で近づき、公式に和解し、公式に訪問しあっている。声をひそめて、私がスペインで狂信者のナイフに刺されるだろうとか、オーストリアで砲弾に当たるかもしれないなどと言っているのだろう?」
「陛下。スペインのナイフは偉大な国王を知っております。アンリ四世です。オーストリアの砲弾は偉大な将軍を知っております。テュレンヌとベルウィック元帥〔ルイ十四世の元帥〕です」
「お追従で答えるのか。私はまだ死んでいないし、生きているうちから後継者問題に首を突っこまれたくはない」
「陛下、そのようなことは考えておりません」
「考えていないにしても、私の跡継ぎはすでに決まっている。君たちが決めたのだ。さっさと戴冠させておけばよかったのに〔タレーランとフーシェが後継者問題で密謀したという噂があった〕。今は好機だぞ。教皇は私を破門しようとしている。フランスの王冠は人を選ばないとでも思っているのかね? ザクセン公をザクセン国王にすることならできるかもしれない。だがベリー公爵をフランス国王にすることも、フランス国民の皇帝にすることもできん。フランス国王たるには聖ルイの血筋でなければならず、フランス皇帝たるには私の血筋でなければならんのだ。私が不在の場合は、君たちが速やかに事をすすめるように」
「陛下のご指示は?」
「陰謀家どもを泳がせる」
「陰謀をくわだてているのに、罰せずにおくのですか? 彼らの名前を教えてください」
「よろしい。三人の名を教えよう」
「陛下、つまりは警察長官のデュボワが陰謀の計画をあばいたということでしょうか?」
「そうだ。警察長官のデュボワは国民に忠誠をつくす君とは違って、私に忠誠をつくしているからな」
フーシェはかすかに肩をすくめた。だがナポレオンはフーシェのわずかな動きを見逃さなかった。
「肩をすくめるのではなく、声をひそめるのだ」とナポレオンが言った。機嫌が悪そうだ。「強情な連中は好かん。陰謀をたくらむからな」
「陛下は話にのぼっている人物をご存知なのですか?」
「三人のうち二人は知っている。一人はマレ将軍。手におえない陰謀家だ」
「あの変人がたくらんでいる陰謀を恐れておられるのですか?」
「君は二つのまちがいをおかしている。私は恐れてなどおらん。それにマレは変人ではない」
「妄想にとりつかれています」
「それはそうだ。しかも危険な妄想だ。いつの日か私が遠くにいるときをねらってことを起こすだろう。私が三百、四百、あるいは六百リューも遠くに行くまで待っている。そして私が死んだという噂を流し、一気に反乱へとつなげるつもりなのだ」
「そのようなことが可能でしょうか?」
「跡継ぎがいなければあり得る」
「ですからあえて皇后陛下との離婚についてお話ししたのです」
「その話はもういい。君はマレなど小物だと言って、釈放してしまった。それともう一つ教えておこう。警察大臣として、君が私に報告すべきだったことだ。マレは一味の一人にすぎない。秘密の陰謀が軍隊内で進行中だ」
「秘密結社のことですな。陛下はウーデ大佐の魔術のことを言っておられるのですか?」
「そうだ。アレーナ、カドゥーダル、そしてモロー〔いずれもナポレオン暗殺の陰謀に加わったメンバー〕。マレ将軍もそういった夢想家の一人だ。光明会の連中だよ。君の言葉でいうと変人だ。だが危険な変人だ。彼には独房と拘束衣が必要なのに、君はマレを釈放してしまったのだぞ! 二人めの陰謀家、セルヴァンだが、彼も変人だとでも? あいつは国王|弑逆《しぎゃく》者の一人だ」
「私と同じですな、陛下」
「そうだ。だが彼はジロンド派の弑逆者だ。ロラン夫人の愛人だった。ルイ十六世の大臣を務めたこともあるのに国王を裏切り、八月十日には国王の寵を失ったことに対する意趣返しをしたのだ」
「民衆と共にです」
「民衆はお膳立てされたことしかやらんのだ。市街戦のことを思い出してみたまえ。サン・マルソー街とサンタントワーヌ街では何があった? あの時はアレクサンドルとサンテールが扇動したが、私が権力を握っている今でも同じことがおきると思うかね? 三人めの狂信者のことは知らん。フロラン・ギュヨとかいう男だ。だがマレとセルヴァンなら知っている。この二人には気をつけるのだ。一人は将軍でもう一人は大佐だ。軍隊内で二人の士官が陰謀を企てるなどというのは、士気にかかわる」
「陛下。二人を見張らせましょう」
「それとだ。今まで以上に君をとがめなければならないことがある」
フーシェは待っていたかのように頭をさげた。
「世論をいじったな?」
もう一人の大臣だったらこの言葉をそのままくりかえしていただろう。フーシェは完全に理解していたが、よく聞きとれなかったふりをして時間をかせいだ。
「世論ですか? 何のことを言っておられるのでしょう?」
「私が言っているのは」と怒りをおさえながらナポレオンが答えた。「今回の件に関して、君は誤った方向に世論が流れるのを放置した。この前の戦争はあらゆる点で成功だったのに、反撃をくらったかのように思われている。パリでの噂が外国人をたきつけるのだ。この話がどこから来たか知っているかね? ペテルスブルクだ。私には敵がいる。やれやれだ。君は彼らに好きなことをしゃべらせている。私の権威が弱まっている、フランスは私の政策に嫌気がさしている、私の行動力は衰えているなどと言わせているのだぞ。その結果はどうだ。オーストリアがくだらぬ話を信じてしまった。好機到来とばかりに私に喧嘩を売ろうとしている。だが国内の敵も国外の敵も残らずたたきのめしてやる。それはそうと十二月三十一日付けの私からの手紙は受け取っただろうな?」
「どの手紙でしょうか?」
「ベネヴェントからのものだ」
「エミグレ〔亡命貴族〕の子息に関する手紙でしょうか?」
「あまりよくは覚えていないようだな」
「手紙の文言をくりかえしましょうか?」
「君の記憶力を確認するのに文句はない。内容を言ってみたまえ」
「まず」とフーシェは言いながらポケットから書類入れをとりだした。「その手紙はここに」フーシェは書類から手紙を抜きとった。
「持ち歩いていたのか?」
「陛下直筆の手紙は肌身離さず持ち歩いています。オラトリオ会で教師を務めていたころは、毎朝、聖務日課書を読んでいました。警察大臣になってからは、毎朝、陛下からの手紙を読んでいます」フーシェは手紙を開けずに続けた。「この手紙に書かれているのは――」
「いや、私が聞きたいのは手紙の文句ではない。手紙の内容だ」
「陛下は、エミグレは子弟を徴兵から逃れさせて無為徒食させていると書いておられました。陛下は、私が各県から十家族、パリから五十家族を抜き出してリストを作成し、十八歳以上の若者全員をサン=シール士官学校に入校させるようにと書いておられました。さらに陛下は、不満をのべる者があれば喜んで耳を傾けようと書いておられました」
「そのとおりだ。たとえ少数であろうと特定の家族を制度の枠外においてしまうと、彼らはあとに続く世代のためにフランスの栄光を達成しようとはしなくなるだろう。退がってもいいぞ。私が言いたかったのはそれだけだ」
フーシェは頭をさげたが、用を終えたのに退出しそうな気配ではない。
「どうかしたのか?」
「陛下。陛下は私の警察がうまく機能していない多くの例について話されました」
「続けたまえ」
「反論するため、一つだけ例をあげさせてください。陛下はバイヨンヌで二時間ほど足を止められました」
「そうだ」
「陛下は報告書を受け取られました」
「報告書?」
「そうです。私には不都合なことが書かれていました。私を|罷免《ひめん》してサヴァリーを後任につけるようにと」
「署名されていたのか?」
「はい。署名がありました。私が陛下からの手紙を身につけているのと同じように、陛下もその報告書を身につけておられます。陛下が受け取られた報告書は、陛下の服の左ポケットに入っています」
フーシェの指先が、ポケットのある場所をさし示した。
「陛下、私の警察は、場合によってはムッシュー・ルノワールやムッシュー・サルティーヌの警察と同じくらいうまくやっているのです」
フーシェはナポレオンの返答も待たずに後ずさりすると、そばの扉から姿を消した。ナポレオンは無言のまま、片手をポケットにつっこむと、四つ折りになった紙片をとりだした。彼は紙片を広げるとさっと目を走らせて扉に視線を移し、かすかな微笑を浮かべながら言った。
「そのとおりだ。相変わらず見事だな」
そして声をおとすとこうつけ加えた。
「同じくらい正直にはなれないのか」ナポレオンは紙片をびりびりと破ると、暖炉に放りこんだ。
この時、従僕の声が響いた。
「侍従長閣下!」
従僕の後ろにはにこやかな表情のベネヴェント公タレーランがいる。
ところで詩人というものは何も創造しない。一七九二年にヴァルミーで敗れたプロイセン軍の陣中にはゲーテがいた。このとき、疑念の王子であり、|詭弁《きべん》の王たるゲーテは『ファウスト』を執筆中だった。彼が想像もしていなかったことには、主人公と悪魔はすでに神の手によって人間界に降されており、時をへずして舞台に登場することになる。一人は夢想家の額を持ち、もう一人は割れた|蹄《ひづめ》を持っていた。神が降されたファウストはナポレオンであり、メフィストフェレスはタレーランだったのだ。
ファウストが学問にすべてをかけたように、ナポレオンは政治にすべてをかけた。そしてメフィストフェレスが「もっと、もっと」と言い続けてファウストを破滅させたように、タレーランは「まあ、まあ」と言い続けてナポレオンを破滅させたのである。
嫌悪感にさいなまれているときのファウストがメフィストフェレスから離れようとしたように、疑惑にとりつかれているときのナポレオンはタレーランを遠ざけようとした。だが、まるで地獄の契約で結びつけられているかのように、詩的な夢を追い続ける征服者の魂が深淵に落ちこむ時を除けば、二人が離れることはなかった。
ナポレオンが呼びつけた三人のうち、誰よりも動悸を感じていたのはタレーランだろう。だが、三人のうち、誰よりもにこやかな顔でやって来たのもタレーランだった。
ナポレオンはタレーランに目をやると、いらいらした様子で肩をすくめた。それからつっぱるように手を伸ばして相手が書斎の中までは入れないようにした。
「ベネヴェント公。君に言うことは二つしかない。私がこの世でもっともいみ嫌うのは、私を否定する連中ではない。私を否定するためにおのれの所業を否定する連中だ。君は、自分はアンギアン公の処刑にはかかわっていないと吹聴してまわっている。それより何より、君はスペインでの戦争にもかかわっていないと、あちこちでくりかえしている。アンギアン公の死にはかかわっていないだと? 君は書面で意見を出したのだぞ。スペインでの戦争にはかかわっていないだと? ルイ十四世の政策を踏襲するように手紙で言ってきたのは君だ。いいかね、タレーラン君。私の考えでは、記憶力がないというのはとんでもない欠点だ。明日、侍従長の鍵を私のもとに届けるように。これは決定ずみのことだ。侍従長の職はすでにモンテスキューが引き継いでいる」
これだけ言うとナポレオンは口をつぐんだ。彼はタレーランに退出の合図も出さず、タレーランからの退出の礼も無視すると、ジョゼフィーヌの部屋に通じる扉から出ていった。
タレーランは、サン・ドニ教会の階段でモブルーユから平手打ちをくらったときのようによろめいたが、今回の衝撃でぐらついたのは彼の財産だけだった。侍従長はメフィストフェレスのように、何としてでも損失以上のものを取り戻す方策を思いめぐらせていた。
さて読者は同じ日の夜、ナポレオンがカンバセレスに言った言葉をご記憶だろう。つまり四月末までに四十万の軍隊とともにドナウ川をめざすといった言葉だ。こうして、四月十七日の朝、ドナウヴェルトの道と広場が人で埋まることになったのである。人々はナポレオンの姿を求めていた。
[#改ページ]
第三章 双子
朝の九時少し前、群集の波が動いて叫び声があがった。声は弾薬輸送車に火がついたような勢いで広がり、瞬時にしてディリンゲン通りの端から町の中心部まで到達した。何かが起こったのだ。
騒ぎの原因は露払いを務める騎手だった。金モールのついた緑の服を着ている。露払いの半リューほど後ろには、群集の目当てである皇帝の馬車がいた。
露払いはたちまちのうちにディリンゲン通りにさしかかった。|鞭《むち》をふって道をあけるように群集に指示している。人波がさっと引くと、彼は曲がりくねった路地を通って高台の方角に進み、城の前にある広場を抜けると巨大な門の下に到着した。かつての聖十字架修道院だが、今は城館になっている。皇帝はここに宿泊することになっており、ベルティエ元帥が待機していた。
だがベルティエは露払いから新しい情報を受け取ったわけではなかった。元帥は見事な望遠鏡を手に修道院の屋根にのぼっていたから、露払いが到着する十分も前から、街道を疾走してくる皇帝の馬車に気づいていたのだ。
四月九日、カール大公〔オーストリア皇帝フランツ一世の弟でオーストリア軍最高司令官〕はミュンヘンから「フランス軍総司令官」にあてて手紙をしたためた。カール大公はフランス皇帝に出すつもりでこのあて名を使ったのだろうか。そしてロリケ神父同様、カール大公にとってもブオナパルテ侯爵〔ナポレオン〕とはルイ十八世陛下の軍事司令官にすぎなかったのだろうか? そうだとすると、大公はかなりの石頭だったわけだ。ともかく、大公が用いたあて名が総司令官だろうが、元帥だろうが、公爵だろうが、国王だろうが、皇帝だろうが、手紙の内容は次のようなものだった。
「オーストリア皇帝による宣言をうけ、フランス軍総司令官に通告する。私は指揮下の軍隊とともに前進する命令を受けた。抵抗する者はすべて敵とみなす」
この手紙が書かれたのは四月九日だった。十二日の晩、チュイルリーにいたナポレオンは、急報によって敵が動きだしたことを知った。
ナポレオンは十三日の朝にパリを発ち、十六日にディリンゲンに到着した。ここで首都を捨てて二十リュー離れた場所に逃れていたバイエルン王に会った。七十二時間も行軍して疲労していたナポレオンは、ディリンゲンで夜を過ごすことにし、国から逃げてきたバイエルン王には十五日以内に首都に戻れるようにすると約束した。
翌朝七時、ナポレオンはディリンゲンを発つと、一晩の遅れを取り戻すために全速力で馬車を走らせた。彼の馬車は稲妻のように路地を通り過ぎると、速度をゆるめずに斜面を駆けあがり、城館の庭でようやく停車した。手すりのある階段の下には参謀総長の姿が見える。ナポレオンの挨拶は短かった。「おはよう、ベルティエ」と声をかけると、参謀総長はぶつぶつ言いながら爪をかみはじめた。ベルティエの癖なのだ。ナポレオンは幕僚団にさっと手を振って合図を送り、直立不動で待機していた十人あまりの使用人に囲まれながら用意された部屋へと急ぎ足で入っていった。
広い机の上に広げられたバイエルンの大きな地図の上には、樹木、川、谷、村、そして一個一個の家までが詳細に示されている。ナポレオンがそそくさと机まで進むと、副官が旅行用の書類鞄を開けて小型円卓の上に置いた。使用人は革製の袋から簡易ベッドをとりだして部屋の角に設置している。
「よろしい」とナポレオンが、ドナウヴェルトを指で示しながらベルティエに言った。彼が今いる場所である。「ダヴーとの連絡はとれているか?」
「はい、陛下」
「マッセナとは?」
「はい」
「ウディノとは?」
「はい」
「よろしい。彼らの位置は?」
「ダヴー元帥はラティスボン、マッセナ元帥とウディノ将軍はアウグスブルクです。彼らから派遣された使者が報告のために陛下を待っております」
「スパイは放ったのか?」
「二名はすでに戻っています。三人めもまもなく戻るでしょう。彼が一番の手だれです」
「それから何をやったのだ?」
「できる限り綿密に陛下の計画を実行しました。陛下の計画はドナウ川街道を通ってラティスボンからまっすぐウィーンをめざし、傷病兵や重量のある軍用物資の一切を船で運ぶというものです」
「よろしい! 船は足りるだろう。バイエルンの川という川で見つけた船をかたっぱしから買い集めておいた。支流に乗ればすぐにドナウ川に到達するはずだ。島での戦いに備えて、ブーローニュから優秀な水兵千二百名を連れてきた。つるはしとシャベルは準備したか?」
「五万では多すぎるでしょうか?」
「いや、そんなことはない。君がここに着いた十三日の晩以降、どのような命令を出したのかね?」
「まず、全軍がラティスボンに集結するように命令を出しました」
「私の手紙を受け取らなかったのか? その逆にアウグスブルクに再集結させろと書いてあった手紙だ」
「受け取りました。そこでウディノ軍団に発していた命令を撤回しました。同軍団はすでに進軍中です。しかしダヴー軍団はラティスボンに残すべきであると考えました」
「とすると、軍は二つに分かれたのか? ラティスボンとアウグスブルクだな?」
「その間にバイエルン軍がおります」
「軍事衝突は?」
「ランツフートでありました」
「どの部隊だ」
「オーストリア軍とバイエルン軍です」
「師団は?」
「デュロック師団です」
「バイエルン軍はよく戦ったか?」
「善戦しました。ですが四倍の敵に押されて後退を余儀なくされました」
「現在の位置は?」
「ここです、陛下。デュルンバッハの森です。アーベンス川に守られています」
「兵力は?」
「ほぼ二万七千」
「カール大公の位置は?」
「イーザル川とラティスボンの間です。しかし視界が悪く、確定的な情報を得ることができません」
「ダヴー元帥からの使者を通せ」
ベルティエが副官に命令を伝えると、副官は扉を開けて若い猟騎兵士官を部屋に通した。二十五、六歳の青年である。ナポレオンは士官を一瞥すると満足気なそぶりを見せた。非のうちどころのない見事な風采の若者だったからだ。
「ラティスボンからだな、中尉?」
「はい、陛下」
「何時に出発したのかね?」
「午前一時です、陛下」
「ダヴーがよこしたのだな?」
「はい、陛下」
「君が出発したときのダヴー元帥の状況は?」
「歩兵四個師団、胸甲騎兵一個師団、軽騎兵一個師団です」
「兵力は?」
「ほぼ五万です。ナンソーティ将軍とエスパーニュ将軍の重騎兵および一部の軽騎兵、デュモン将軍の第四大隊および砲兵部隊でドナウ川左岸をおさえています」
「ラティスボン周辺への集結に困難はなかったのか?」
「ギュダン、モランおよびサン=ティレール各師団は一発の弾丸も発することなしに到着しましたが、援護にあたったフリアン師団は|小競《こぜ》り合いを続けています。背後のウィルス川にかかる橋のすべてを破壊しましたが、本日、ダヴー元帥はラティスボンで攻撃されるのではないかと思われます」
「ラティスボンからここに来るまでに何時間かかったのか?」
「七時間です、陛下」
「距離は――」
「二十二リューです」
「二時間後に馬に乗るには疲れすぎているかね?」
「陛下もよくご存知のように、軍務において疲れるということはありません。換え馬をいただければ、陛下がお望みの時間に出発します」
「君の名は?」
「リシャール中尉です」
「よろしい。では二時間の休憩をとるように。だが二時間後に出発だ、中尉」
中尉は敬礼すると退出した。
このとき、副官の一人が入ってきた。小声でベルティエに何かを告げている。
「マッセナ元帥からの使者をここに」とナポレオンが言った。
「陛下」とベルティエが口をはさんだ。「それは不必要かと存じます。私は使者に質問し、必要と思われる情報すべてを聞き出しました。マッセナ元帥はウディノ将軍、モリトゥール将軍、ブーデ将軍、バイエルン軍、ヴュルテンベルク軍とともにアウグスブルクにおります。兵力はほぼ九万。ここはもっとよい策があるかと」
「何だ?」
「スパイが戻りました」
「そうか!」
「オーストリア軍の戦線を抜けてきたそうです」
「通せ」
「陛下もご承知のとおり、ああいった連中は大勢の前で話すのを好みません」
「二人だけで話そう」
「陛下は恐れてはおられないのですか?」
「何を恐れる必要があるというのだ」
「光明会、つまり狂信者たちのことが取りざたされています」
「まずは彼をここに。二人きりになってもいいかどうか、彼の目を見て判断しよう」
ベルティエは書斎に通じる小さな扉を開けて、三十歳前後の男を招じ入れた。シュヴァルツヴァルト(黒い森)の木こりの格好をしている。男は数歩進んで部屋に入ってきた。彼はナポレオンの前で立ち止まると、軍隊式の敬礼をして口を開いた。
「神があらゆる災いから陛下を守られますように」
ナポレオンはじっと相手を見つめている。
「やあ、どうやら私たちは知りあいだぞ!」
「陛下。アウステルリッツの前夜、野営地で陛下にロシア軍とオーストリア軍の位置をお知らせしたのはこの私です」
「きわめて正確な情報だった、ムッシュー・シュリック!」
「何と! これはたまげた!」と|偽《にせ》の木こりが叫んだ。「皇帝は私を覚えておられた! 万事うまくいくぞ!」
「そうとも。万事うまくいく」とナポレオンは応じると、参謀総長に合図を送った。
「君が退出してこの男と二人きりになっても、不都合はないようだ」
ベルティエも同じことを考えていたらしく、彼は副官をしたがえるとふり返りもせずに部屋から出ていった。
「最初に」と皇帝が口を開いた。「もっとも切迫した件についてだ。カール大公についての情報は?」
「大公の情報ですか、それとも軍隊についての?」
「両方だ。できればの話だが」
「両方ともお話しできます。従兄弟の一人が大公の軍にいます。義兄は大公の従者です」
「大公の位置は? 軍の主力はどこだ?」
「ボヘミアからドナウ川に進軍し、ダヴー元帥をラティスボンに封じこめようとしているベルギャルド将軍指揮下の五万を別にすると、大公の指揮下には十五万の軍がいます。四月十日、大公は六万の軍とともにイン川を渡りました」
「今、話した内容を地図上で示すことができるか?」
「もちろんです。学校で習いました。ありがたいことで」
ナポレオンは机の上の地図をさし示した。
「イン川を示してくれ」
スパイは地図を一目見ると、パッサウとティトマニンクの間の地点に指を置いた。
「ここ、ブラウナウが大公の渡河地点です。大公と同時に、ホーエンツォレルン将軍も三万の軍勢とともにミュルハイムの下流を渡河しました。四万の別軍もイン川を渡っていますが、指揮官の名前はわかりません……誰でも同時に二か所にいることはできませんから。大公にはりついて動きを見張っていたので……渡河地点はシュハルディンクです」
「ドナウ川の近くだな?」
「そのとおりです、陛下」
「だが十日にイン川を渡っていながら、オーストリア軍はどうして先に進まなかったのだ?」
「泥のせいで動けなかったのです! イン川とイーザル川の間で四日間もぐずぐずしていました。ランツフートの手前でイーザル川を渡ったのは昨日のことです。ここで動きがありました」
「我が味方のバイエルン軍と接触したわけだな?」
「バイエルン軍は二万七、八千しかいなかったので、敵をくい止めることができませんでした。彼らはデュルンバッハの森に後退しました」
「ということは、敵との距離はせいぜい十リューといったところだ」
「いえ、距離はもっと縮まっています。敵は朝方から動いています。ただしこのあたりは支流が多いですから、進軍には時間がかかります。左にはアーベンス川、右には大小のラーバー川があり、森や沼地が広がっています。道は二本だけです。ノイシュタットからランツフートへの道とケルハイムからランツフートへの道です」
「エックミュールにもある。これだとラティスボンまで一直線だ」
「オーストリア軍はそれとは別の二本の道を移動していました。今日、陛下がドナウヴェルトにおられると知っていたので、情報を望んでおられると思ってやってきたのです」
「よろしい。君は多くは話さなかったが、君がつかんだことは確認できた」
「ほかにご質問はありませんか?」
「どんな質問だ?」
「この国の状況です。たとえば秘密結社とか秘密法廷とか」
「何と! 君はそういったことにもかかわっているのか?」
「関係ありそうなことには気をつけています」
「なるほど。一番知りたいのは、ドイツ人がわれわれのことをどう思っているかだ」
「ドイツ人はフランス人に対して怒りを感じています。フランスはドイツをたたきのめして|辱《はずかし》めただけでは満足せず、ドイツを征服して強奪していると」
「彼らはサックス元帥の言葉を知らんのか。『戦争は戦争を養う』」
「失礼ながら、彼らはその言葉を知っています。ですが彼らは他人を養うよりも養われる方が好きなのです。そうなると、陛下の言いなりになっている君主から自由になろうというわけでして」
「どういう方法でだ?」
「二つあります。まず民衆蜂起です」
ナポレオンは唇をゆがめて|侮蔑《ぶべつ》を示した。
「私がカール大公に負ければ、あるいはそういう事態になるかもしれない。だが――」
「だが?」とスパイがくりかえした。
「だが、私は大公を打ち負かす」とナポレオンが続ける。「したがって蜂起は起こらない。二つ目の方法は?」
「二つ目はナイフの一突きです、陛下」
「ほう! 私のような人間を殺す者などいない」
「カエサルは殺されました」
「状況が違う。カエサルにとって暗殺はきわめて幸運なできごとだった。カエサルは五十三歳だった。つまり、天才が衰えだす年齢だ。カエサルは最期まで幸運だったのだ。『幸運の女神は若者を愛する』。ルイ十四世がヴィレロイ〔ルイ十四世時代の元帥〕に言ったとおりだ。長生きしたら、幸運の女神は彼に背中を向けただろう。
一度か二度敗北したのだから、カエサルはアレクサンドロス大王のような人物ではない。ピュロスかハンニバルだ。カエサルは運が良かった。愚か者が二十人もいたのだ。彼らにはカエサルがローマの人間ではないことが理解できなかった。カエサルはローマの精神なのだ。彼らは皇帝を殺したわけだ。だが殺された皇帝の血から帝国が生まれた。心配ない。私はカエサルの年齢ではない。一八〇九年のフランスは紀元前四四年のローマではないのだ。私を殺す者はいないのだよ、ムッシュー・シュリック」
バーデンの農民に歴史談義を聞かせ終えるとナポレオンは笑い出したが、彼は質問に答えたというよりは自分の心中を|吐露《とろ》したのだった。
「それはそうかもしれません」とシュリックは答えた。「ですが、陛下のすぐそばにまで近づいてくる人間の手にはご注意ください。その手が美徳同胞団に属する人間のものであれば、なおさらです」
「その結社は消滅したと思っていたが」
「陛下、ドイツ諸侯、なかでもルイーゼ王妃は彼らをたきつけてきました。現在、ドイツには陛下の暗殺を誓った青年が二千人はいるでしょう」
「その結社は集会を開いているのか?」
「まちがいありません。集会を開いているだけでなく、規約、入会儀式、標語、記章まであります」
「どうやって確認したのだ?」
「私も会員です」
ナポレオンは心ならずも後ずさりした。
「だいじょうぶです、陛下。私は|盾《たて》のようなもの、打撃をかわすのが役目です」
「集会場所はどこだ?」
「地下道や廃屋ならどこででも。陛下もご承知のとおり、ドイツ人は絵に描いたような景色が大好きなのです。万事を詩の一部にしてしまうのです。たとえばアーベンスベルクでは、廃墟となった古城が丘の上からアーベンス川を見下ろしています。私は八日前、その城の広間に通されました」
「よくわかった。その情報についてはそれなりに注意し、無視はしないでおく。行け! 君のことを配慮するように言っておこう」
シュリックは敬礼すると入ってきたときと同じ扉から出ていった。ナポレオンは考えに沈んでいる。
「ナイフの一突きか」と彼はつぶやいた。「そのとおりだ。これならてっとり早い。アンリ四世もオーストリアに備えていたときに刺し殺されたのだ。だがアンリ四世は五十七歳だった。カエサルと同じようにアンリ四世も仕事をやりとげていた。私はまだ仕事を終えていない。|災厄《さいやく》が訪れるのは五十歳を過ぎてからだ。ハンニバル、ミトリダテス、カエサル、そしてアンリ四世。だがアレクサンドロス大王は三十三歳で死んだ。いや、アレクサンドロスのような死に方は、不幸ではない」
このとき、副官が部屋に入ってきた。
「どうした?」
「陛下、イタリア軍よりの使者です。ウジェーヌ副王からです。お会いになりますか?」
「今すぐだ! 部屋に通せ」
「どうぞ」と副官がうながした。士官が敷居に姿を現した。三角帽を手に持っている。二十五、六歳ほどの青年だった。副王の幕僚であることを示す制服を着ている。銀色の肩ひもがついた青い軍服だ。襟にも銀モールの刺繍がある。
外見はと言えば、あっと思わせるような特徴があった。というのは、青年士官を一目見たナポレオンが開きかけていた口を閉じ、相手の頭のてっぺんから爪先までしげしげと眺めだしたからだ。
「仮装舞踏会かね?」
青年は質問の相手を確かめるためにあたりを見まわした。だが部屋にいるのは自分と皇帝だけだった。
「陛下、失礼ながらご質問の意味がわかりません」
「どうして青い服なのだ? 先ほどは緑の服だったぞ」
「陛下。自分は二年前から副王の幕僚団に加わる名誉を受けています。私は常にこの制服を着用しており、いつもどおりの姿で陛下のもとに参りました」
「ここに到着してどのくらいだ?」
「馬からおりたばかりです、陛下」
「どこから来たのだね?」
「ポルデノーネです」
「名前は?」
「リシャール中尉です」
ナポレオンはさらに注意深く青年の顔を見た。
「ウジェーヌからの手紙を?」
「はい、陛下」返事と同時に士官は、副王の紋章がある手紙をポケットからとりだした。
「この手紙が奪われたら?」とナポレオンが訊ねる。「あるいはこの手紙を失ったとしたら?」
「副王は、手紙の内容を暗記するように言われました」
「そうか。だがそれにしてもだ。君は一時間前にラティスボンからやって来たのだぞ。しかも親衛隊猟騎兵の制服を着ていた。それなのに十分前にポルデノーネから来たと言う。今度はウジェーヌの幕僚の制服だ。一体どういうことだね? どうしてダヴーとイタリア副王の双方から同時に命令を受けることができるのだ?」
「失礼ながら陛下、一時間前にダヴー元帥のもとから親衛隊の士官が来たと言われませんでしたか?」
「そうだ、一時間前だ」
「二十五、六歳の?」
「君と同じ年ごろだ」
「私に似ていましたか?」
「瓜二つだ」
「名前は? どうか質問することをお許しください。でも嬉しくてたまらないのです」
「リシャール中尉だ」
「私の兄です。双子なのです。最後に会ったのは五年前です」
「なるほど、そういうわけか。兄に会わせてやるぞ」
「陛下! ポールに会えるのですか! その後すぐに出発します」
「出発の準備はできているかね?」
「陛下、もう一度、使者の役目をお与えください」
「よろしい。行って君の兄を抱擁したまえ。出発の準備をしておくように」
若者は有頂天になって敬礼すると退出していった。一人きりになったナポレオンは手紙の封をあけた。だが最初の行に目を走らせたとたん、その顔がくもった。
「ウジェーヌ! 可愛がるあまりに私が甘すぎた。大佐としてなら有能だが、将軍としてはそうでもない。総司令官としてはさらにだめだ! イタリア軍はサッチーレに向けて退却中だ。後衛部隊は|壊滅《かいめつ》した。サユック将軍のせいだ。彼も軍歴は長いのに……だがイタリア軍が必要になるわけではない。不幸中の幸いだ。ベルティエ! ベルティエ!」
参謀総長が現れた。
「計画が|頓挫《とんざ》したぞ。十人の使者をたてて私の命令を伝えろ。各命令は三人の使者によって、三つの異なった経路をたどって伝達するのだ」
[#改ページ]
第四章  アーベンスベルクの古城
こうしてナポレオンは十人の使者を送り出した。その結果については追って見ていくことにしよう。これと同じころ、あまりにも似すぎていたためにちょっとした勘違い劇を演じることになった双子の兄弟、ポール・リシャールとルイ・リシャールは五年ぶりに双方の腕の中に飛びこんでいた。いつ何どき、弾丸や砲弾をあびて永遠に引き離されるともわからない二人だった。さてこのあたりで、ラティスボンから八リューの場所にある小集落アーベンスベルクの状況を見てみよう。
十七歳前後の若者四人が腕を組んで歩いている。一人はハイデルベルク大学、一人はライプチヒ大学、一人はチュービンゲン大学、一人はゲッティンゲン大学の学生だ。彼らは「シル少佐行進曲」を口ずさんでいる。シル少佐はベルリンでナポレオンに対する反旗をひるがえした人物である。
十六歳になった少女のそばに若者が腰かけている。年齢は二十か二十一。若者はこの歌を聞きつけると立ち上がって、窓辺に近寄っていった。少女は丸い枠を使って刺繍をしている。部屋の角では八歳になった彼女の妹が人形遊びに興じていた。
窓辺を通りがかった四人の歌い手は、こころもち|蒼《あお》ざめた顔色の若者がガラスに額を押しつけ、ひそかに合図を送ってきたのを見た。彼らが若者に合図を返すと、彼は先ほどと同じようにめだたない合図を返した。少女は若者が立ち上がったのを見ると心配そうな目でその姿を追ったが、彼女は若者が返したひめやかな合図を見逃さなかった。
「どうしたの、フリードリヒ?」
「何でもないよ、マルガレーテ」若者は答えると、また彼女のそばに腰かけた。
マルガレーテという名で呼ばれた少女は、ドイツ中で大評判になったゲーテの詩に登場する同名の女主人公を思いおこすなら、あらゆる点でこの名前にふさわしかった。
彼女はアルミニウスの娘のように|白皙《はくせき》金髪で、空のように青い目をしていた。髪をほどけば地面に届くほどだった。彼女が自分の姿を見ようとしてアーベンス川をのぞきこめば、澄みきった|水面《みなも》に映し出された姿はまさしくオンディーヌだった。川の水は驚きに波立ちながらドナウ川へと流れていき、自分が映したものは花より変じた女性か、女性より変じた花だと信じて疑わないだろう。
彼女の妹は、バラ色の頬をした天使のような子供だった。幼い天使がもてあそぶ黄金の砂は運命の手によってかぐわしい小径に撒き散らされ、そこからわれわれの人生がはじまるのである。
学生の方は、シル少佐の行進曲を耳にすると顔を窓ガラスに押しつけたが、マルガレーテに呼ばれてふたたび彼女のそばに腰をおろした。すでにお話したように、彼は二十歳前後の若者だった。背たけは中くらいだが、疲れのためか夜学の苦労のせいか、あるいはカシウス〔カエサルの暗殺者〕やジャック・クレマン〔アンリ三世の暗殺者〕の顔をくもらせたおそろしい考えのせいか、こころもち痩せており、自然にカールした金髪が肩まで伸びている。口は小さめだが意志の強さをあらわすようにしっかりと結ばれており、開いたときには真珠のような歯並びが見える。だが彼の表情には、隠しきれない憂愁が浮かんでいた。
若者は「何でもないよ」と言うとマルガレーテのそばに腰をおろしたが、少女の心配はこの答えでは消えなかった。彼女は何も言わず、以前にも増して熱心に刺繍の手を動かしていたが、彼女をじっと見つめていた若者には、少女の長いまつ毛に涙が光っているのがわかった。二粒の真珠のような涙は一瞬ぷるぷると震えたかと思うと、絨毯の上に落ちていった。
部屋の角で遊んでいた小さな妹が近寄ってくると、人形の服について姉に意見を求めた。涙が落ちていくのを見た妹は、子供らしい無頓着さで訊ねた。
「お姉さま、どうして泣いているの? フリードリヒが泣かせたの?」
この問いかけは若者の胸にずっしりと響いた。彼はマルガレーテのそばに膝をついた。
「マルガレーテ、どうか許してくれ」
「何を許すの?」とマルガレーテが答えた。恋人をじっと見つめる目が魂のしずく、つまり涙で濡れていた。
「僕の悲しみ、僕が夢中になっていること、そして僕のおろかな行いを許してほしい」
少女はうなずいたが、何も言わなかった。
「聞いてくれ」とフリードリヒは続けた。「僕たちが幸せになれる方法があるかもしれない」
「言ってちょうだい。あなたを幸せにできる天使のような力が私にあるのなら、この命をささげなければならないにしても、あなたは幸せになれるわ! シュタップス!」
「君との結婚の許可を今すぐ父上からもらってほしい。結婚したらすぐにドイツを離れよう。どこか別の国に行こう。あの男の名前を聞かなくてもすむような場所に」
「そのどちらもできないわ、フリードリヒ。お父さまのもとを離れるなんて。よくわかっているでしょう? 私を愛しているってうちあけてくれたとき、私も心からあなたを愛していると答えたわよね。あのとき、いっしょになるにはどうしても譲れない条件があることを話したでしょう」
「ああ」と若者は言って立ちあがると、両手で顔をはさんだ。「父上のもとから離れないということだね」若者は部屋の中を少しだけ歩くと、窓辺にあったひじかけ椅子に座りこんだ。
今度は少女が立ち上がって、若者のそばに膝をついた。
「フリードリヒ、お願いよ。私たちの立場はわかってくれているでしょう? 牧師のお父さまには財産がないの。お母さまが亡くなるときに残されたのは、ゆりかごの赤ん坊だけだったわ。だから私が母親がわりになって、この家と妹のリースヒェンが受け継ぐことになる遺産を守ってきたのよ」
「わかっているよ、マルガレーテ。君は天使のような人だ。そのことなら、もう一度言ってくれなくてもわかっているよ」
「忘れてしまったかと思ったの。でもフリードリヒ、あなたはいっしょになってどこかに行こう、お父さまのもとから出ていこうって言ったでしょう?」
「父上が賛成してくれたら?」
「まあ、何て自分勝手な! お父さまは必ず賛成するわ。私の幸せとご自分の孤独をはかりにかけたとしたら、お父さまは娘を不幸にするよりも孤独に暮らす方を選ぶでしょう」
「父上は一人にはならないだろう。リースヒェンと暮らすと思うよ」
「八歳の子供がどうやって家事をするの? お父さまの牧師手当は四百ターレルだから、私が節約しているおかげで、三人が暮らすには十分なの。でも私以外の女性が家に入れば、四百ターレルでは二人が暮らしていくこともできないでしょう」
「僕の両親にはささやかな財産がある。自腹を切ってくれるだろう。父上が不足するようなことはないと思う」
「娘はどうなの? 恩知らずな人ね! あなたが連れ去ってしまう娘はどうなの? ねえ、シュタップス、あのすばらしい春の日の晩、あなたがこの家に入ってきて親しげな言葉で家族にあいさつしたときのことをおぼえていて? 『神と幸福が心きよくふところ貧しき人とともにありますように』。あなたはこう言ってあいさつすべきだったわ。『シュティッレルさん、あなたが家に迎えた男はあなたの娘マルガレーテを愛することになり、彼女の愛が確認できたときには、あなたの寛大なもてなしと心からの気遣いへの返礼として、ナポレオンの名前を聞かずにすむ国に暮らさない限りは幸せになれないという理由のもとに、あなたの娘マルガレーテを連れ去るためにあらゆる手をうつでしょう』」
「ああ、マルガレーテ、マルガレーテ。でも僕は、そういう国でないと幸せにはなれないんだ」。若者はほとんど聞き取れないような声でささやいた。「神聖な誓いを破らない限り、幸せにはなれない」
マルガレーテには、若者がささやくようにつけ加えた言葉が聞こえなかったのかもしれない。若者はその言葉を押し殺すような声でささやいたからだ。あるいは聞こえていたのかもしれないが、彼女には言葉の意味がわからなかった。どちらにせよ、マルガレーテは最初の言葉にだけ答えを返した。
「あのおそろしい皇帝の名前を聞かずにすむ国でないと、幸せにはなれないって言ったわね? そんな国はどこにあるの? いったい世界のどこにそんな国があるの? 本当におばかさんね。頭の上できらめいている星のどれかにたどり着く方法でも知っているの? それにその星に住んでいる人たちだって、この世界のことをのぞきこんでいるはずよ」
「そのとおりだよ」とフリードリヒが答えた。ほほ笑もうとつとめている。「僕は頭がおかしい」
「ちがうわ、フリードリヒ」マルガレーテの声は深い悲しみがこもっていた。「違うわ。あなたは頭がおかしくなんかない。私はあなたが誰かよくわかっているわ」
「マルガレーテ」
「あなたは陰謀家なのね、フリードリヒ」
「祖国を解放しようとする人間を陰謀家とは呼ばない!」若者は叫んだ。両目が異様な光をはなっている。
「神秘的な秘密結社の会員を陰謀家と呼ぶのよ。私の顔を見て言ってちょうだい。あなたはブルシェンシャフト〔友愛をモットーとする学生組合〕の組合員ではないって」
「そんなこと言えるわけがない。誠実なドイツ人は僕たちの仲間だ」
「はっきりと教えて、フリードリヒ。あなたはシル少佐の行進曲を聞きつけると身震いして立ちあがり、窓辺に行ったでしょう? あれは合図なのね?」
「マルガレーテ、君を愛しているから、そして君を愛する気持ちがあまりにも大きいから、恥ずべきことだがうちあけよう。そうだ。僕は美徳同胞団に入っている。そうだ。僕はウィッセンド〔「秘密を知る者」。秘密刑事法廷に由来する言葉〕の会員だ。そうだ。あの行進曲は合図だよ。君は言わなかったけれど、反キリストはここから八リューのところにいる。もし君が『フリードリヒ、ここを出て幸せになりましょう、手をとりあって生きていきましょう』と言ってくれるなら、僕は友人たちのことも、誓いのことも、ドイツのことも忘れよう。そして君といっしょにここを出ていこう。恥知らずの刻印を押されたってかまわない! どうか、僕を愛してなんかいないと言ってくれ」
「ああ、フリードリヒ。私はこんなにもあなたを愛しているわ。どうして銃をとらないの? どうしてドイツを防衛する人たちのもとに行かないの? どうして祖国の名のもとに戦おうとはしないの? あなたは確かに自分の命をかけているわ。でもドイツあってこそのドイツ人じゃないの」
「僕もそう思っていたよ、マルガレーテ。でもあの男には魔法がかかっている。ドイツの古い伝説に出てくる騎士のように、火や弾の中をくぐり抜けていく。火は消え、弾は飛ばず、見当違いの場所に落ちるんだ」
「そうね。でも|鋼《はがね》はもっと強いのよね?」
「マルガレーテ……」
「フリードリヒ、お父さまだわ! お願いだから私に言ってしまったことはお父さまには言わないでね。お父さまは激怒してあなたを放り出してしまうわ」
「父上はだめなドイツ人で、りっぱなフランス人というわけなのか?」彼の口元には苦々しげな笑いが浮かんでいる。
「お父さまはドイツ人でもフランス人でもないわ。一人のキリスト教徒よ。お父さまは戦争があるたびに嘆き悲しんでいる。国王たちは戦争のことを栄誉ある遭遇と呼んでいるけれど、お父さまにとっては身の毛もよだつ虐殺でしかないわ。そして非現実的な夢が実現するようにいつだって祈っている。だれもが憎みあうのではなく、愛しあうようにって」
幼いリースヒェンが人形やおもちゃを放して、シュティッレル牧師に駆けよると、マルガレーテはもとのように刺繍をはじめた。マルガレーテの目から二粒の涙がこぼれ落ちた。だが先ほどとは違って、涙を隠そうともしない。
牧師が入ってきた。うちひしがれた顔をしている。牧師は若者に手をさしのべた。
「どうしたのです? 何か知らせでも?」と彼が問いかけた。
「聞いてごらん」
全員が耳をそばだてた。オーストリア軍のラッパ手がリュッツオー行進曲を吹き鳴らしている。
「やった!」と若者がうれしそうに声をあげた。「復讐のときが来たぞ!」彼は家を飛び出していった。カール大公によって「ドイツ防衛軍」と名づけられた兵士たちを真っ先に歓迎するためだ。
彼らの指揮官はオーストリアのティエリー将軍だった。アムホーフェンを取るために進軍中だったのである。ちょうどこのとき、ラティスボンに向けて|斥候《せっこう》が送り出された。その偵察の結果、同じ日の朝方にナポレオンがドナウヴェルトに到着したことが確認できた。
この情報がオーストリア軍の兵士に与えた影響は、とても言葉では表せないだろう。だが、別々の大学に通っている学生たちの憎悪をかきたてたことはまちがいない。理由はわからないが、彼らはいつのまにかアーベンスベルクに集まっていたのだ。彼らはまた腕を組むと、シル少佐行進曲を歌いながら広場を通っていく。先ほどの歌声が聞き届けられなかったことを恐れているかのようだ。
だがナポレオンがドナウヴェルトに到着したという知らせを別にすると、不確かな情報ばかりだった。オーストリア軍の士官も将軍本人も、フランス軍の位置を正確にはつかんでいなかった。彼らが知っているのは、敵の主力がラティスボンとアウグスブルクにいるということだけだった。
部隊は停止した。確かな情報がない状態で突き進むのはためらわれた。この地域は深い森におおわれており、その間を小規模な川が縦横に走っている。
夜になった。陣地内では敵に備えて、合言葉と応答信号で慎重に連絡がおこなわれた。いたるところに歩哨が立ち、アーベンスベルクの古城にかけられた跳ね橋にも歩哨がいる。歩哨は一時間ごとに交代した。夜中の十二時から一時まで古城で見張りに立つことになっていた兵士の耳に、十二時を告げる最後の音が聞こえてきた。と、マントに身をくるんだ二人の男がこちらに近づいてくる。
「誰か?」
「味方だ!」片方の男がドイツ語で答える。男は歩哨に近づくとマントの前をあけ、攻撃用だろうが防御用だろうが一切の武器を持っていないことを示した。男は正確な合言葉を言ったので、歩哨は男とその連れをそのまま通らせた。二人は跳ね橋を通ると、古城の中に姿を消した。
その五分後、別の男が現れた。今度も「誰か?」の問いかけがあり、同じ合言葉が発せられ、同じ答えが返ってきた。こうやって真夜中の十二時から十五分間の間に、十四人の男たちが次々と跳ね橋を通っていった。全員が同じような茶色のマントですっぽりと身を隠している。一人ずつのこともあれば、二人や三人のこともあったが、それ以上の人数で来たものはいなかった。
歩哨の前を通り過ぎると、あやしい男たちはマントの下から黒いマスクを取りだしてめいめいの顔につけた。十二時十五分の時報が聞こえると同時に、最後の二人がやって来た。これで十六人だ。
最後の二人についてお話ししよう。
他の男たち同様、彼らも跳ね橋を渡ってきた。そして他の男たち同様、彼らも古城に入っていった。だが連れよりも先を歩いていた一人は、丸天井の重みを単独で支えているかのような巨大な柱のもとまで来ると、そこで立ち止まった。
「中尉」と彼が低い声で言った。フランス語だ。「私たちがやっているのは学生の悪ふざけではありませんぞ。どちらかの正体がばれたら、二人ともあの世行きです」
「わかっている」と相手が答える。「アクセントで僕の正体がばれるだろうか?」
「いや! あなたはドイツ人のようにドイツ語を話せます。あなたの正体がばれるとしたら、言葉からではありませんな」
「とすると、どこで正体がわかるのだろう。マスクをつけているから顔ではないし」
「マスクをとらなければならない時がきます」
「アーベンスベルクに来るのは初めてだ。昨日まではラティスボンにいた」
「まちがいないですか?」
「まちがいない」
「念をおしておきますが、これは子供の遊びではない。参加しているのは青年ばかりだが、生死をかけている。疑われたら一刺しです」
「君は危険をおかすのが大変なことのように話すが、僕は戦場で毎日のように生死の間をくぐり抜けているのだ」
「戦場ではそうでしょう。日の光の下で、上級位の肩章や新しい勲章を手に入れるために命をかける。ですがここでは、最悪の事態がおこれば地下室の中で陰惨な最期を迎えることになる。ロシアの皇帝やオスマン帝国の宰相みたいに、いきなり背中から刺されたり、吊るされたりするのは、誰だっていやなもんですよ」
「ムッシュー・シュリック」と、シュリックが恐怖を吹きこもうとしていた相手が、決然とした声で言った。「僕には使命がある。必ず遂行するつもりだ」
「それはそうと」とスパイが続けた。「注意すべきことは説明しました。あとは好きなようにしてください」
「確かに注意は受けた」
「危険がおよんだ場合には、私の助けをあてにせんでくださいよ。あなたにつきあうことはできるが、命まで助けることはできない。あなたの国の金貨も大好きだが、自分の首はもっと大事ですから」
「ここまで連れてきてくれたのは君だ。あとは美徳同胞団に紹介してくれるだけでいい。それ以上は何も求めないよ」
「少しでも危なくなったら、私はあなたなど知らないふりをしますよ。それも一度ではなく、聖ペテロのように三度まで」
「それでかまわない」
「本当に?」
「本当だ」
「じゃあこれ以上は何も言いません」
こう言うとシュリックは、柱の彫像に隠されていたバネ仕掛けを押した。彫像がくるりと回転すると、狭い入口が出現した。狭いとはいっても、人一人が入っていけるだけの幅はある。最初の一段目は地面と同じ高さだったが、階段は地下広間に続いているようだ。外周が十二ピエ〔四メートル〕ほどもある巨大な柱のこちら側にかけられたランプが、光を投げかけている。先導の男は黒いマスクの目穴から、連れに向かって最後の目くばせをした。「油断するな」とでも言っているようだ。
実際のところ、歩哨からは彼らの姿は見えなかった。古城は静まりかえっていた。年月を経て崩落の進んだ巨大な城壁の上には、月も星も見えない漆黒の空が低くのしかかっている。
「さ、行こう」ともう一人が言った。この男の身元は、われわれにはまだ知らされていない。この言葉を待っていたかのように、先導役の男がらせん階段に足をかけた。もう一人の男が後に続く。彼らの背後で扉が閉まった。
階段を降りきると、先導役の男の前に青銅の扉が現れた。彼が同じ間隔で扉を三回ノックすると、|銅鑼《どら》を鳴らしたかのような反響があった。
「気をつけて!」とシュリックが言う。「扉が開きます。向こう側には番人がいますよ」
扉が開くと、そこにはマスクの男がいた。番人だ。
「時はいずれに?」と番人が訊ねる。
「夜が明けそむる時」とシュリック。
「朝まだき、何をなすか?」
「朝日と共に目覚める」
「何のために?」
「打つために」
「いずこより来るか?」
「西方より」
「誰によって|遣《つか》わされたのか?」
「復讐者」
「使命の証しを見せよ」
「ここに」
シュリックは番人に八角形の小さな木片を見せた。ドイツの宿屋で見かける鍵についているものとよく似ている。その上には言葉が書かれていた。「バーデン」。番人は身元を確認すると、新来者の|符牒《ふちょう》を壷の中に投じた。その壷にはすでに、シュリックよりも先に来た会員たちの符牒が入っている。
「この者は?」と番人が訊ねてきた。シュリックの連れをさし示している。「何者だ?」
「|盲《めし》いたる者」とその男が答えた。|流暢《りゅうちょう》なドイツ語だ。
「ここで何を求めるのか?」
「光」
「紹介者は?」
「我を先導する者」
「その者は汝の身元を保証するか?」
「彼に問いを」
「汝は先導せし者の身元を保証するか、兄弟?」
「保証する」
「よろしい。彼を瞑想の間に通せ。迎えの時が来れば、彼を呼び出そう」
番人は壁に埋めこまれていた扉を開けると、シュリックの連れを部屋に通した。地下牢のような部屋にランプが|灯《とも》されている。がらんとした室内にあるのは、椅子と石のテーブルだけだった。ラインの伝説では、魔法によって眠り続ける人物がこのような椅子に座っている。彼はドイツが再び一つになるとき、眠りからさめるだろう。そう、|赤鬚《あかひげ》王フリードリヒ(バルバロッサ)のことだ。シュリックは連れの若者を|瞑想《めいそう》の間に残すと、大広間へと続いている鉄格子の方に進んでいった。シュリックの目の前で番人が鉄格子の扉を開けた。
[#改ページ]
第五章 美徳同胞団
鉄格子の向こうには、地下広間があった。この部屋は会議室と呼ばれており、壁も天井も真っ黒だった。一つきりのランプが鉄の鎖で天井から吊りさげられている。
ランプの下には武器が積みあげられていた。銃や剣やピストルが乱雑に折り重なっているが、警戒の声があがれば誰もがとっさに好みの武器をとることができるような配列になっていた。ランプの明かりが銃身や刃に反射して、不気味な光を放っている。積みあげられた武器の片側、鉄格子の扉に面した側にはこの陰鬱な会議室の議長が使う黒大理石の机があった。机は壇上に置かれており、壇には三段の階段がついている。
机の後ろには背もたれが高くなった議長用の椅子があった。背もたれの上部には青銅の鷲が飾られているが、その鷲はハプスブルク家の双頭の鷲でも、プロイセン王家の単頭の鷲でも、シャルルマーニュ大帝のビザンティンの鷲でもない。議長の椅子は、王座としても使われるのだ。
山積みになった武器を囲むように、火薬でいっぱいになった十六の樽が並んでいる。この樽が参会者用の椅子となる。つまり不意打ちをくらった場合には、降伏するよりも仲間もろとも自爆するのが参会者に課せられた義務なのだ。
ひとつしかない扉は広間へと続いている。壁にかけられた黒布の下には、別の扉があるのだろう。だがそのような扉があったとしても、透視能力でもない限りは誰にもわからなかった。シュリックの背後で鉄格子が閉まると、どこからか十二時半の時鐘が聞こえてきた。いくつかにわかれた集団の中から一人の男が進み出てくると、演壇の上に立って口を開いた。
「聞いてくれ、兄弟たち」
全員が無言で話者の方を見た。
「兄弟たち、夜がふけ、時間がたっていく」
彼は番人に問いかけた。
「番人、集った賢者の数は?」
「私も入れて十六人だ」
「では十七番目の者は裏切ったのか、囚われたのか、もしくは死んだのだろうか?」と時間をきいた人物が言った。「彼は、ドイツの解放が話しあわれるこの集会に出てこなかった」
「兄弟」と番人が答えた。「十七番目の者は裏切り者でも囚人でも死者でもない。彼はオーストリア軍の制服を着て扉のところで歩哨に立っている」
「そういうことなら、会議をはじめようか?」
参会者らはうなずいて賛成の意を表した。
「兄弟」と同じ人物が続けた。「会議では大臣が国王を代表するように、ここではわれわれは民衆を代表していることを確認しておく。番人は、名前を読むように」
番人が次々と名前を読みあげていった。
「バーデン、ナッサウ、ヘッセン、ヴュルテンベルク、ウェストファリア、オーストリア、イタリア、ハンガリー、ボヘミア、スペイン、チロル、ザクセン、ルクセンブルク、ハノーヴァー、ホルシュタイン、メクレンブルク、バイエルン」
ハノーヴァーを除いて、名前が呼ばれるたびに「出席」という返事があった。外で歩哨に立っていたのはハノーヴァーの代表だったわけだ。
「壷から一人の名前をとりだすように」とすでに話していた男が続けた。「その兄弟がわれわれの議長となる」
番人が壷の中に手を入れて小さな木片をとりだした。
「ヘッセン」と彼が読みあげる。
「私です」と参会者の中の一人が答えた。
それまで進行をつかさどってきた参会者が三段になった階段をおりると、運命によって新しく選ばれた議長が壇にのぼって椅子に腰をおろした。彼の前には大理石の机がある。
「兄弟たち、着席してくれ」
十五人の参会者が腰をおろし、一つの空席が残された。ハノーヴァー代表の席だ。
「兄弟たち」と議長が口を開いた。「今日は新入会員を受け入れ、復讐者を決めるためのくじを引くことになっている。最初に入会式をおこない、その後でくじを引くことにする。新しい兄弟の紹介者は?」
「私です」とシュリックが立ち上がった。
「身元は?」
「バーデン」
「よろしい。ではもっとも若い兄弟二人は、行って入会希望者を連れてくるように」
各人が自分の年齢を告げると、最年少の二人は二十歳のバイエルン代表と二十一歳のチロル代表だった。二人は立ちあがると新入りを連れに行った。その後すぐに、鉄格子のもとで待ち受ける紹介者の前に彼の姿が現れた。入会希望者は目隠しをされている。一緒にいた会員たちは彼を数歩進ませて広間まで連れてくると、向きを変えて元の席についた。彼の側にいるのは入会紹介者だけだ。深い静寂があった。全員の目が入会希望者に向けられている。森閑とした中に議長の声が重々しく響いた。
「兄弟、時は?」
「主人が徹夜し、奴隷が眠る時」と入会希望者が答える。
「鐘の音を数えよ」
「主人のために鳴る音ゆえ、何も聞こえない」
「汝が聞く時は?」
「鐘の音が奴隷を目覚めさせる時」
「主人はどこに?」
「机に」
「奴隷はどこに?」
「地面に」
「主人は何を飲むか?」
「血を」
「奴隷は何を飲むか?」
「涙を」
「汝は両者に何をなすつもりか?」
「奴隷を机につけ、主人を大地に横たえる」
「汝は主人か、それとも奴隷か?」
「どちらでもない」
「汝は何者か?」
「いまだ何者でもない。だが、何者かになる」
「何者に?」
「見ぬく者に」
「使命を知っているか?」
「習得する」
「誰から学ぶのか?」
「神から」
「武器を持っているか?」
「縄と短剣」
「その縄とは?」
「我らの力と我らの兄弟の証し」
「証しによれば汝は何者?」
「自分は縄の|撚《よ》り糸、兄弟たちが縄をなって力を吹きこんだ」
「なぜ縄を持つのか?」
「結わえつけ、締めつけるため」
「なぜ短剣を持つのか?」
「切りさき、分断するため」
「血の書に名が記される者すべてに対して、その縄と短剣を用いると誓うことができるか?」
「できます」
「では誓いの言葉を」
「誓います」
「剣と十字にかけて誓った言葉をたがえるようなことがあれば、汝自身を縄と刃にさし出すか?」
「さし出します」〔*〕
* ここでは入会式の応答を正確に再現した。詳しくは十六年前に発表されたジェラール・ネルヴァルとの共同執筆による戯曲『レオ・ビュルカール』を参照。同作品には共同執筆者にして友人でもあるネルヴァルによるドイツの秘密結社に関するすぐれた前書きがある(原注)。
「よろしい。美徳同胞団の会員として汝を受けいれる。汝の心の信頼と不信にしたがって、仮面をつけるのもはずすのも意のままである」
若い男はためらいもせずにさっと目隠しと仮面をとると、マントを脱ぎ捨てて口を開いた。
「何事もおそれない者は、見るにせよ見られるにせよ顔を隠すことなどない」
彼らが見たのは、二十五、六歳の涼しい目元をした好青年だった。軍人らしい風貌をしており、目は青、髪と口ひげは濃い栗色だった。身なりはと言えばどこから見ても学生だが、どうやらもう何年も前に大学を出たらしい。
だが、全員が彼を見守っていたちょうどこの時、中央の柱にある入り口をふさいでいた青銅の扉がいきなり開き、十七番目の会員があわてふためいて入ってきた。外で歩哨に立っていたハノーヴァー代表だ。
「兄弟たち、大変だ!」
「どういうことだ?」と議長が聞き返す。
「百人以上の人間がここに入っている。合言葉を言ったので、兄弟だと思ってしまった。敵にとり囲まれているぞ!」
「どうしてそう思うのだ?」
「ここには十六人しかいない」
「それで?」
「歩哨の任務が終ったので古城に入った。だが、地下には降りずに壁の裏に隠れて様子をうかがった。裏切りを案じたのだ。その場所から歩哨に立っている男を見張っていた。だが、彼はわれわれの仲間でない。しばらくすると五十人くらいの一団が歩哨のもとにやって来た。全員が武装している。隊長が前進の指示を出すと、歩哨が全員を通らせた。彼らは古城の中に散っていった。急いで知らせに来た。間にあえばいいのだが。兄弟を助けることはできなくても、兄弟とともに死ぬことはできる」
「武器をとれ!」
一同は騒然となった。積みあげた武器のところに駆けよると、めいめいが扱い慣れた武器を選び取った。シュリックはどさくさにまぎれて新入会員のそばに近よると、早口にささやいた。
「マスクをつけて! 逃げ道をさがすのです。広間にはたくさんの出口がある」
「マスクはつけるが逃げはしない」
「では武器をとって戦うんです!」
彼は積みあげられた武器のもとまで突進したが、短いやりとりの間にシュリックは小銃とピストルをつかんでおり、残されていたのは剣だけだった。この間にも柱の方からは武器のぶつかりあう音が聞こえてくる。と、青銅の扉のすき間から不気味に光る銃剣の先が突き出てきた。|焦《あせ》ったハノーヴァー代表がしっかりと閉めなかったのだ。
「撃てっ!」と議長が叫ぶ。十人がその声にしたがった。だが火打石が火蓋をたたく乾いた音がして火花が飛び散っただけだった。
「裏切りだ!」と学生たちが叫び声をあげた。「弾が入っていない。秘密の扉へ、兄弟!」
彼らはあらかじめ予想していたかのようにさっと散ると、壁掛けまで走り寄った。だが壁掛けはたちどころに数か所で切り裂かれ、それぞれの裂けめから武器が光っているのが見えた。
学生たちは立ち止まるとあわてふためきながら周囲を見まわした。銃剣の列にとり囲まれている。そこにいたのは、バイエルン軍の制服を着た百五十名あまりの兵士だった。
「兄弟たち」と議長が声をはりあげる。「もはや死ぬしかない!」彼は低い声で続けた。「弾薬に火をつけろ!」
命令はさっと広まった。彼らは銃剣に道をゆずるかのようにいっせいに後退した。まるで訓練を積んだ軍隊のようだ。彼らが部屋の中央に集まると、バイエルン兵がにじり寄ってくる。学生たちは万が一の事態に備えて用意しておいた火矢に点火すると、椅子がわりに使っていた火薬樽に向かって突進した。
叫び声があがった。樽の中に入っていたのは硫黄を塗った導火線ではなく、ただの縄だった。これでは爆破はおぼつかない。
「裏切りだ、味方を売ったやつがいるぞ!」あちこちから声があがり、武器が投げ捨てられている。
「くそっ!」とシュリックが連れに向かって悪態をついた。「やっかいなことになった」。彼は声をひそめてつけくわえた。「身元を言ってこの場から出ましょう。バイエルンはナポレオン皇帝の味方ですから」
若い士官はバイエルン兵を見回した。マスクからのぞく目に鋭い光をたたえながら、彼は剣をさし出すかわりにこれを折った。「それはそうだが、たとえ味方とでも戦う方がよかった」彼は学生の中にまぎれこんだ。
バイエルン兵が目の前に迫っている。銃剣の先と十八人の学生たちとの距離はほんの五、六歩しかない。
「諸君」とバイエルン兵の指揮官が声を発した。「バイエルン国王マクシミリアン陛下の名において君たちを捕虜とする」
「国王の命令なら仕方ない。ただし捕虜になるのであって、降伏するのではない」と議長。
「そんなことはどうでもいい。言葉遊びをするために来たのではない。命令を遂行するために来たのだ」
「兄弟たち!」と議長が叫んだ。「バイエルン王の手先によって捕虜となるか、バイエルン王の手によって滅びるか、君たちはどちらを選ぶのだ?」
「バイエルン王は裏切り者だ」という声があがった。
「ゲルマンの血筋から追放すべきだ」と別の声が言う。
「ドイツ諸侯たることをやめてフランスとの同盟に署名するような君主だ」
「結社の会員なら誰でも、彼に向かって短剣をふるう権利がある」
「この世界の人間なら誰でも、彼の顔に唾を吐きかける権利がある」
「静かに!」とバイエルン兵の指揮官が|凄《すご》みのある声で制した。
「ドイツ万歳!」学生全員が声をそろえた。まるで一人の人間のようだ。
「静かに!」と指揮官。「一列に並べ。抵抗するな」
「是非もない」と議長が言った。「銃殺するということか。ドイツのまことの戦士たちよ、列を作りたまえ!」
学生たちは議長の言うままに列をつくった。昂然と頭をあげている。指揮官はポケットから紙片をとりだして読みあげた。
「エルンスト・フォン・ミュルドルフ大尉は百五十名の指揮をとり、陰謀者一味の集会所となっているアーベンスベルクの古城を包囲せよ。現在は会議場と呼ばれているかつての秘密法廷にいる全員を逮捕すること。一味を整列させて十名の場合は一名を銃殺、二十名の場合は二名を銃殺せよ。以下の処置はこれに準ずるものとする。処刑終了後、残りの者を釈放せよ。一八○九年四月十六日、ミュンヘンにて。マクシミリアン」
「ドイツ万歳!」と学生たちが唱和する。
「くそっ!」とシュリックが連れの耳にささやいた。「場所を代えるんです! 中尉! ちょうど十人めの場所ですよ」だが注意を受けた本人は答えもせず、動じもしなかった。
「諸君。自分は君たちが誰かを知らない。だが自分は軍人であり、軍人は義務に従わねばならない。軍法は迅速である。ただちに正義を執行する」
「執行したまえ!」という声が聞こえた。
「執行したまえ!」全員が唱和する。大尉は右端から数を数えはじめた。シュリックが言ったとおりだった。十人めは新入会員の若者だった。
「前に出たまえ」と大尉。若者はそのとおりにした。
「君が血を流すことになった」
「異存ない」平静な声だ。
「準備はできているか?」
「できている」
「言い残すことは?」
「何もない」
「両親はいるか? 友人は? 家族は?」
「弟がいる。私の紹介者となり、先ほど読みあげられた命令書によれば私の処刑後に釈放されるはずの人物は、私の弟のもとに行って私がどのように死んだかを伝えてほしい」
「君はカトリックか? プロテスタントか?」
「カトリックだ」
「では僧侶が必要だな」
「私は毎日、生命を危険にさらしている。我が魂を導かれる主は、私が自らに恥じないことをよくご存知だ」
「では命乞いもせず執行の延期も申し出ないのだな?」
「私は武器をとってバイエルン国王の盟友、ひいては国王本人に陰謀を企てた。君の義務を果たせ」
「では心の準備を」
「すでにできていると言った」
「マスクをつけたままでもよいし、とってもかまわない。マスクをつけたままであれば、その形で埋葬され、君の正体は誰にも知られない」
「だがそうすれば、死を前にして|蒼《あお》ざめた顔を隠すためだと思われるだろう。マスクをとろう」若者が黒いマスクをはずすと、おだやかな顔が現れた。学生たちの間から賞賛のため息が聞こえてくる。一人のバイエルン兵が彼に近づき、折りたたんだハンカチーフを手渡そうとした。若者はハンカチーフを持ったバイエルン兵の手を押し戻した。
「願い事だが」若者はしっかりした声で続けた。相変わらずおちつきはらっている。「ひとつある」
「言いたまえ」と大尉。
「私は君と同じように軍人で士官だ。目隠しはしたくない。発砲の号令も自分でやりたい」
「認めよう」
「では君が待つ側だ」
学生の一人が若者の方に手をさしのべながら列を離れた。
「兄弟、バイエルンの名において殉教者に敬礼する」
ほかの十七名も代表地区の名を挙げて同じことをした。大尉は学生たちをとがめなかった。勇気ある行動をまのあたりにし、軍人としての心をゆさぶられていたのだ。若者は自分の足で壁に向かった。
「この場所でいいのか?」
大尉がうなずく。
「八名だ」と大尉が言った。八名の兵士が前に出た。
「処刑囚から十歩の距離で二列になれ。号令を待て」
八名は指示された場所に立った。
「銃は|装填《そうてん》ずみか?」と若者が訊いた。
「そうだ」と大尉。
「では時間はかからないな」と若者が明るい表情で言った。彼は声を高くすると続けた。
「気をつけ!」
八名の目が彼を注視する。
「|担《にな》え、銃!」
兵士たちが号令にしたがった。
「構え!」
軍隊式のやり方で整然と事がはこんでいく。
「ねらえ!」
八つの銃口が下がって標的にねらいを定めた。
「私の紹介者は」と若者が明るい声で続けた。「私の顔に照明を近づけてくれ。彼の名が辱められないことを確認してほしい」
「その必要はない」と大尉。「君が勇者であることは全員が確認した」
「よろしい。撃てっ!」
八発の弾丸が一斉に発射された。だが若者を動転させたことに、彼は立ったままだった。しかも傷も痛みもない。
「ドイツ万歳!」学生と兵士が声をひとつにして叫んだ。
「どういうことだ?」と若者が声をあげた。信じられないといった面持ちだ。
「つまりです」とシュリックが口を開いた。「これが試練なのです。あなたは見事に試練を通過しました」
「ドイツ万歳!」の声がくりかえされた。
「兄弟」と一人の学生が声をかけてきた。最初に彼の方に手をさしのべ、最初に列を離れて敬礼をした学生だ。「兄弟。もう終ったのだから、|蒼《あお》ざめてもいいし、震えたってかまわない」
若者は壁から離れて学生の手をとると、答えの代わりにその手を自分の胸に押し当てた。
「君には敬服する」と学生が言った。「僕の心臓の方が早く打っている」
「兄弟たち」と銃殺されかけていた男が口を開いた。今は自由の身だ。「今日の会合はこれで終わりか?」
「さて」と議長が大尉と兵士たちに話しかけた。「君たちはさがってくれ。後は自分たちだけで集会を続ける。見張りを頼む」
大尉と兵士たちが部屋から出ていった。シュリックは連れのもとに近づくと、低い声で言った。
「これはたまげた! 見あげた勇気だ。今日からは『獅子心』のリシャールと名乗ってくださいよ」
議長はバイエルン士官と兵士の役を演じた下位の会員たちの姿が見えなくなるまで、彼らの背中を見守っていた。それから会員たちの方に視線を移し、口を開いた。
「兄弟たち、席に戻ってくれ」
議長は自分の席につき、他の会員たちも騒動が起こる前に座っていた場所に腰をおろした。
「静かに!」と議長の声が響く。
深い静寂があたりを覆った。生き物の気配すらない。心臓も鼓動を止めたようだ。
「復讐者らよ、時刻は?」
一人が立ち上がった。
「立っているのは誰だ?」とリシャールと呼ばれた若者がシュリックに訊ねた。
「告発者です」
告発者が議長の問いに答える。
「決断の時」
「復讐者らよ、空模様は?」
「嵐が迫っている」
「復讐者らよ、|雷《いかずち》は誰の手に?」
「神の手に、そしてわれらの手に」
「復讐者らよ、聖なる法廷はいずこに?」
「ウェストファリアで消滅し、バイエルンで復活した」
「その証しは?」
「この集会が証しとなる」
「兄弟、起訴を許可する。訴えを聞き、裁定をくだそう」
「皇帝ナポレオンを起訴する。彼はドイツ人に対してこの上もなく深刻な罪をおかした。すなわち、ドイツ国民を破滅させようとする罪である。彼はドイツ国民を破滅させるため、義弟のミュラをベルク大公となし、末弟のジェロームをウェストファリア王とした。彼はドイツ国民を破滅させるため、フランツ二世を退位させてスペイン人の望まない兄のジョゼフを王位につけようとしている。彼はドイツ国民を破滅させるため、バイエルンとオーストリアを戦わせ、ライン同盟と帝国を戦わせ、友人と友人を戦わせ、ドイツ人とドイツ人を戦わせ、兄と弟を戦わせている」
「兄弟たち」と議長が口をはさんだ。
「告発者に賛成か、反対か?」
「われわれは彼に賛成する。われわれは彼に同意する。われわれは彼にならう。ドイツ万歳!」
「皇帝ナポレオンは有罪か?」
「然り!」全員が声をそろえた。
「いかなる罰を与えるのか?」
「死刑!」
「誰が刑を執行するのか?」
「われわれが執行する」
「君たちの中から?」
「運命によって選ばれた者が」
「番人、壷を」
番人が壷を持って来た。
「兄弟たち。壷の中に白い球を入れる。ここに集った代表と同じ数だ。それから黒い球をひとつ入れる。黒い球が最後まで残った場合は、神がわれわれの計画に賛成していないということだ。復讐は神の手に委ねよう。残った球は神のものだからだ。諸君は賛成するか?」
「賛成する」と全員が声をあわせた。
「黒い球をとった者は、聖なる使命に命を捧げるか?」
「捧げる」
「単独の行いであるとして仲間の名前を漏らすことなく死ぬと誓うか? 新しい兄弟が実行しようとしたように、恨みもなく後悔もなしに死ぬと誓うか?」
「誓う」
「では白い球、それから黒い球だ」
番人が壷をひっくり返すと、十七の白球とひとつの黒球が机の上に転がった。議長は十七の白球を数えながら壷に戻し、最後に黒球を入れた。その後は球には手をふれず、壷をゆすって球を混ぜあわせた。これで準備が整った。
「さあ、各代表は地域名のアルファベット順に球をひとつ取るように。新しい兄弟はどこの代表か?」
「アルザスです」と会員になったばかりの若者が答えた。
「アルザス!」と学生たちが驚いている。「ではフランス人なのか?」
「フランス人とでもドイツ人とでも、兄弟たちが望むままに」
「そのとおりだ」と数人が声をあげた。「アルザス人はドイツ人だ。アルザス人は偉大なドイツの血筋に属する。ドイツ万歳!」
「兄弟たち」と議長が言った。「新しい兄弟の処遇は?」
「すでに入会をすませ、試練にも耐えたのだから彼はわれわれの兄弟だ。オランダやスペインやイタリアからも代表者が集まっている。フランスの代表者がいていけない理由はない」
「よろしい」と議長。「アルザスの名を壷の中に入れることに同意する者は挙手を」
全員の手が挙がった。
「兄弟たち」と議長。「アルザスはドイツである」
議長は番人から受けとった十八番目の白球を壷に投じた。
「ではアルファベット順に」と議長が続ける。代表の名が告げられた。
「アルザス」
新入りの若者が壷の前に進み出た。手を壷の中に入れる瞬間、ためらいの表情がその顔を走った。銃殺執行班に発射の号令をくだしたときには見せなかった表情だ。彼がとったのは白い球だった。
「白だ!」と若者が声をあげた。喜びを隠しきれない。
「白」と全員が声をあわせる。
「バーデン」と議長の声が響いた。シュリックが意を決して壷の中に手を入れ、白い球を持ち出した。
「白」と全員が唱和する。
「バイエルン」バイエルン代表が壷に手を入れた。握られていたのは黒い球だった。
「黒」と彼が言った。おちついている。喜びさえ感じさせる声だ。
「黒」と全員の声が一つになった。
「よろしい」とバイエルン代表が言った。「三か月以内にナポレオンは死ぬ。さもなければ自分が銃殺される」
「ドイツ万歳!」その場に集まった全員が声をあわせた。集会の目的は達せられた。美徳同胞団の会員たちはひき返していった。
[#改ページ]
第六章 六プース低かったら、フランスの君主はルイ十八世と呼ばれただろう
〔プースはフランスの度量衡。一プースは三センチ弱〕
ある日の夕刻、シェーンブルン宮殿の一室で少年の日のライヒシュタット公〔ナポレオンの息子〕がカール大公の息子たちと話をしていた。話すうちに彼らが高い声で笑い出したので、その近くでオーストリア皇帝や諸大公夫妻と話しこんでいたカール大公は、息子たちのおしゃべりが皇帝一同の|耳障《みみざわ》りになるのではないかと気になった。大公は子供たちに注意をうながすために、部屋の片方の端からもう片方の端まで行き、何がそれほどおもしろいのかと訊ねた。
「ああ、父上!」と年長の息子が答えた。「気になさらないでください。ライヒシュタット公が話してくれたんです。彼の父親はいつだって父上を手ひどく痛めつけていたって」
まことの勇者であったカール大公は子供たち以上の大声で笑い出した。これを見ていた皇帝や諸大公たちも声をあげて笑った。彼らは大公以上に心から大笑いしたに違いない。
ウィーンの宮殿にいる彼らがカール大公の敗北を話題にして大笑いしていたころ、テンゲン、アーベンスベルク、ランツフート、エックミュール、そしてラティスボンの勝者はすでにこの世にはいなかった。
この話には確かな出所がある。この話を私に語ってくれたのはオルタンス女王〔ナポレオンの弟ルイの妻。ナポレオン三世の母〕だった。ライヒシュタット公が亡くなってまもない一八三二年、オルタンス女王がアレーネンベルクの城に招待してくれたことがある。私は八日の間、城に滞在し、彼女からこの話を聞いたのだ。だが、この章では一八○九年の戦役について語ることにしよう。これはナポレオン戦争の中でも、もっとも驚異に満ちたもののひとつだった。
われわれが最後にナポレオンを見たのは、四月十七日正午のドナウヴェルトだった。ナポレオンは指揮下の各元帥と将軍にあてて命令を出そうとしている。大急ぎで命令を送らなければならない相手がいた。誰よりも遠くに位置しており、誰よりも遅れて命令を受け取ることになるからだ。その相手というのはダヴー元帥だった。すでに語ったように、ダヴーはすでにラティスボンをおさえていた。というわけで、口述し終えたダヴーへの命令書を携行するよう、ナポレオンが真っ先に指示したのはポール・リシャール中尉だった。だが、困惑の|態《てい》で爪をかんでいたベルティエ元帥が告げるには、その士官にはすでに特別命令がおりているのだという。
ベルティエは、ナポレオンがリシャールという名前の軍人を使者として送り出すつもりであれば、イタリアから来たルイ・リシャールを使者にたてることもできると答えた。だがナポレオンにしてみれば、ダヴーがよこしたのと同じ使者を元帥のもとに帰すことができないのなら、機転がきいて勇敢でありさえすれば、使者の名前などどうでもよかった。一人の士官が進み出た。そこで皇帝はその士官にダヴー元帥あての命令書を託した。
ベルティエは命令書の複製を二通作成しており、別の二名に命令書を持たせて異なった道からダヴーのもとに送り出した。三人の使者が一人も目的地に到着しなかったとしたら、とんでもないことになっていただろう。皇帝の命令は次のようなものだった。
「即刻ラティスボンを離れ、一大隊を残して防衛にあたらせよ。慎重かつ大胆に川筋とオーストリア軍の間を抜けてドナウ川の上流方向に進軍。アバッハとオーバーザーレを経由し、アーベンスベルク近郊で川がドナウ川に注ぐ地点まで移動。そこで皇帝と合流せよ」
ダヴーへの命令書を発送したら、次はマッセナと連絡をとらねばならない。新たに三人の伝令が選ばれ、次のような命令書が異なった三経路を通って発送された。
「皇帝の命令は以下のとおりである。マッセナ元帥は十八日の朝にアウグスブルクを出発し、オーストリア軍の左方にあるファッフェンホーフェン街道を通ってアーベンス川沿いを下れ。その後のドナウ川、イーザル、ノイシュタット、もしくはランツフートへの進軍については、追って皇帝からの指示がある。マッセナ元帥の軍はチロルを進軍し、アウグスブルクには有能な指揮官とドイツ兵部隊二個連隊、傷病兵、二週間分の食料および物資を残すこと。元帥はドナウ川に向けて強行軍で移動するように。今回ほど元帥の献身が求められている状況はない」。この命令書は次の言葉でしめくくられていた。最後には皇帝直筆による簡略な署名がある。「大急ぎで進め! NAP」
二つの命令書が発送されるとナポレオンは、ルイ・リシャール中尉に向かって、兄と同じようにベルティエから任務を受けたかどうかを質問した。リシャール中尉が進み出た。兄のポールに再会できた嬉しさで有頂天になっている。二時間の休息のおかげで、今すぐにでも出発できる状態だった。ナポレオンは中尉にウジェーヌ公への手紙を託した。
「親愛なるウジェーヌ。君はポルデノーネでの戦闘によって、われわれとともにウィーンに入城する機会を失った。おそらく来月十五日までにはウィーンに達することができるだろう。できるだけ速やかにわれわれと合流せよ。一直線にオーストリアの首都をめざせ。最後に受け取った命令書のとおりに行動してくれ。この手紙を送ったのは、神が君を守るように祈っていることを伝えたかったからだ。ナポレオン。
追記。マクドナル将軍に命令を出してイタリア軍に復帰するように言っておいた。将軍に与えた任務に関しては、将軍の口から直接確認するように」
若い士官はナポレオンの手から手紙を受け取ると会釈して部屋を出ていった。そして馬にまたがったかと思うと姿が見えなくなった。この直後、ナポレオンはドナウヴェルトを発ってインゴルシュタットに向かった。インゴルシュタットはラティスボンとアウグスブルクの中間にある。つまりここが今回の作戦の中心地となるわけだ。
言うまでもないが、ラティスボンからドナウヴェルトまでの距離と、アウグスブルクからドナウヴェルトまでの距離にはかなりの差がある。ラティスボンからドナウヴェルトまでは二十二リュー、アウグスブルクからドナウヴェルトまではわずかに八、九リューだ。このため、マッセナは五時ごろに命令書を受け取ると、翌十八日の朝に出発できるようにすぐさま準備にかかった。だがダヴーが命令書を受け取ったのは、夜遅くになってからだった。
というわけで十八日、ダヴーは指揮下にある五万の軍を集め、フリアン師団を再集結させる必要に迫られた。同師団はバイロイトからアンベルクへの途上で、オーストリア軍のベルギャルド将軍が指揮する部隊と戦闘を交えていたが、いささかも混乱することなく味方の行軍を援護していた。さらに指揮下の全部隊をドナウ川右岸から左岸に移し、ラティスボンにはモラン師団を残すことになった。
ベルギャルド将軍の軍は五万の兵士から成り、今後の戦闘に参加させないようにする必要があった。同部隊はボヘミア軍に属しており、軍隊の集結を計画していたカール大公が呼び寄せたのである。
こうしてダヴーは十八日中に、サン=ティレール師団、ギュダン師団、サン=シュルピス将軍の重騎兵部隊をドナウ川右岸から左岸へと移動させた〔史実ではこの逆で左岸から右岸へと移動〕。同時に、シュトラウビンク、エックミュール、アバッハ方面にモンブラン将軍の軽騎兵部隊を扇形状に展開させ、カール大公の正確な位置をつかもうとした。というのもダヴーとその指揮下にある五万の軍は、窒息しそうになった人が直感的に空気の通り道をめざすように、フリアン師団の近くにいるハンガリー軍とランツフート街道に出現したオーストリアの大軍にはさまれた場所を通ることになったからだ。アーベンスべルク付近のアーベンス丘陵が、再集結場所に予定されている。十九日の朝、ダヴーは進軍を開始した。
ところでわれわれがここで語ろうとするのは、この有名な戦役の歴史ではないのだから、敵に囲まれたダヴー元帥がドナウ川の右岸にそって慎重かつ見事に行軍していった経緯についてはふれないでおこう。われわれは、運命の手によって剣と銃と大砲から守られてきた人物の命運を、短剣によって絶とうとする陰謀のあとを追うことに専念しようではないか。大軍が移動するさなかにあって、われわれはナポレオンの一挙手一投足に注目することにしよう。前章で物語ったように、ねらわれていたのはナポレオンの命だからだ。
十九日の夜から二十日の朝にかけてナポレオンはインゴルシュタットからフォーブルクに移動した。ここで、フランス軍の集結予定場所だったアーベンスベルクをめざしていたオーストリア軍が、小規模な戦闘で撃退されたことがわかった。つまりダヴーの目的地であるアーベンス丘陵からは敵がいなくなったわけである。
十九日には一日中、大砲の音が聞こえた。二十日の朝九時、ナポレオンとベルティエ元帥以下の幕僚団から成る騎馬の一団が、護衛兵に先導されてアーベンスベルクの丘に姿を現した。彼らは丘を登りきると古城のそばで足をとめた。シュティッレル牧師の家からはほぼ百歩の場所だ。彼らは民家の中に入るよう、ナポレオンに勧めたのだが、皇帝は斜面にいる方を選んだ。そこからは周囲全域を見渡すことができる。右手の方角にはバーワングがあり、左手にはタンが広がっている。
だがベルティエはスパイのシュリックとの会話から、皇帝の身辺に気をつけるようにという警告を感じとっていた。夜明けから日没にかけて、アーベンスベルクを制圧していた全連隊に命令が下った。丘陵付近の民家に宿営し、民家と民家にはさまれた空き地と古城の中にはテントを張るようにというものだった。
ナポレオンは、他事に注意を集中させていることもあって、このような警戒には気づいていなかった。彼の回りを警護役の兵士たちがぐるりと囲んでいる。彼はこの種の予防策には時間をかけず、一切を側近に任せていた。キリスト教徒として神の摂理を信じていたからか、ムスリムのように宿命を信じていたからか、ローマ人のように運命を信じていたからか、彼は敵の銃弾に身をさらすのも、狂信者の短剣にねらわれるのも意に介してはいなかった。彼の生命は運命をつかさどる神の手中にあるのだ。ここでもいつもの習慣どおり、机が用意され、地図が広げられ、報告書が読みあげられた。
前日に起こった出来事を書いておこう。ダヴー元帥は夜明けとともに四列の縦隊編成をとってラティスボンを出発した。前衛部隊は左に進み、ラティスボンからエックミュールを経由するランツフートへの主道を通った。二縦隊は小集落を結ぶ中央の小道を通り、|輜重隊《しちょうたい》で構成される右翼はラティスボンからマインブルクに抜けるドナウ川沿いの道を進んだ。
この日、カール大公はローアにいた。つまりアーベンスベルク丘陵とよく似た丘の上から、ドナウ川とグロス・ラーバー川の渓谷を一望していたことになる。グロス・ラーバー川はアーベンス川とは反対の方向に流れており、ラティスボンの下流十五リューの場所でドナウ川にそそいでいる。これとは逆にアーベンス川はラティスボンの上流十五リューの場所でドナウ川と合流している。ダヴーがナポレオンの命令を受け取ってアーベンスベルクをめざしたのと同じ時刻に、ダヴーがラティスボンにいると信じていたカール大公は同市に向けて前進することにした。指揮下にある八万の軍とボヘミアからやって来るベルギャルド将軍の五万の軍でダヴーをはさみ撃ちにするつもりだったのだ。われわれが見てきたように、ベルギャルド将軍の部隊はすでにフリアン師団と衝突していた。
この結果、ナポレオンがアーベンスベルクに到着したときには町はがらんとしていたし、カール大公は守備隊一連隊を残してダヴーがラティスボンから引き払っていることに気づいたわけだ。さらにそれだけではなく、対角線上を進んでいる二つの軍の最左翼が、どこかで遭遇することになるだろう。
カール大公は、ドナウ川渓谷とグロス・ラーバー川渓谷の間にある東斜面を通っていた。ダヴー元帥が通ったのは西斜面だった。朝の九時には、ダヴー指揮下の二列縦隊の先頭が丘を越えており、西斜面から東斜面へと移動していた。フランス軍最左翼を構成するギュダン師団は、第七軽歩兵連隊の散兵をかなり前方まで進出させていた。彼らはローゼンベルク部隊の散兵と遭遇し、射撃戦を展開した。だが、ダヴーはこの衝突にはさほどの意味はないと見てとった。元帥は馬をギャロップで駆けさせると、全隊で行進を続け、散兵は隊の後方にさがって斜面から撤収したように見せかけろと命令した。
というわけで第七軽歩兵連隊が引きあげると、オーストリア軍の散兵がシュナイダートの村をおさえ、彼らが所属しているローゼンベルク将軍の部隊はディズリンクまで進んだ。その一方、第七軽歩兵連隊最後の大隊がハウゼンから撤収するとホーエンツォレルン将軍の部隊が入り、テンゲンの正面に広がった森林地帯を囲うようにして制圧した。
両軍の左翼が衝突したのは、まさにこの場所だった。ナポレオンのもとに激戦の知らせが届いた。ディズリンクではモンブラン将軍対ローゼンベルク将軍。テンゲンではサン=ティレール将軍とフリアン将軍対ホーエンツォレルン将軍、リヒテンシュタイン家のルートヴィヒとモーリッツ。さらに両軍の最左翼はいたるところで衝突していた。
だがカール大公は事実を誤認した。大公はフランス軍の最左翼を最右翼だと思いこんでいたのだ。彼は自分の正面にはナポレオンとフランス軍主力がいると信じていたが、フランス軍主力はドナウ川とカール大公指揮下にある主力の間に忍びこんでいたのである。
このため、カール大公はグルブの丘から動かずに、戦闘を傍観していた。大公の手元には歩兵十二個大隊がいたが、ルートヴィヒ大公の軍が集結するまでは決定的な動きをとりたくなかったのだ。カール大公はルートヴィヒ大公に命令を送ると、そのままの位置にとどまった。そしてオーストリアの貴公子にふさわしい慎重さで機をうかがいながら、翌日の決戦に備えることにした。
さて、一連の戦いについてナポレオンのもとに集まった情報は次のようなものだった。
モンブラン将軍の前衛部隊は二百名を失った。フリアン師団の損失は三百、サン=ティレール師団の損失は千七百、モラン師団の損失は二十五、バイエルン軍の損失は騎兵百ないし百五十。全体ではほぼ二千五百名ということになる。
敵の方は、ディズリンクで五百、テンゲンで四千五百、ブッフとアルンホーフェンで七百ないし八百。全体ではほぼ六千名だ。
ナポレオンはカール大公には見えていなかったことが見えていた。彼は、自らの象徴に選んだ鷲のような目で高みから物を見ることができるのだ。ナポレオンがアーベンスベルクに到着したのとほぼ同じころ、ダヴー元帥はテンゲンとビュルンドルフを経由してアーベンスベルクに姿を現し、ランヌ元帥はノイシュタットの近くに到着、ヴレーデ師団はビブルクからジーゲンブルクに移動してアーベンス川渡河に備えていた。
ナポレオンは、テンゲンを中心として自軍を動かし、オーストリア軍中央をたたくことにした。カール大公の戦線を二分し、全予備をドナウ川沿いからランツフートに投入する。その後で反転し、敗北もしくは四散した軍の中にカール大公の主力が含まれていない場合には、軍を再集結して敵軍をはさみ撃ちにするのだ。
続いてナポレオンは、二万四千の軍でテンゲンを固守するようにダヴー元帥に命令した。ランヌ元帥には二万五千の軍とともにローアに急行し、いかなる犠牲をはらってもこれを奪取するように命令した。そして、バイエルンとヴュルテンベルクの兵士からなる四万の軍を指揮していたルフェーヴル元帥には、アルンホーフェンとオッフェンシュテッテンの確保を命令した。そして翌日、混乱におちいったオーストリア軍後衛部隊がランツフートで渡河を試みるだろうという想定のもとに、マッセナ元帥にはフライジングとモースブルク経由でランツフートに直行するように命令した。九万の軍を手元に置いた今となっては、マッセナの軍は不要だったからだ。
それからナポレオンは、戦線に加わろうとしているバイエルン軍とヴュルテンベルク軍を閲兵した。かつてはどちらも敵だったが、今はフランスの同盟国となっている。ナポレオンは目の前を通り過ぎて行く彼らに話しかけた。一区切りごとに通訳がドイツ語に直している。
「偉大なるドイツ人たちよ、今日、諸君を戦争に参加させるのは、私のためではなく、諸君のためである。私がオーストリア王家の野心から守ろうとしているのは、諸君の国なのだ。諸君はオーストリアの支配から脱することができる。
この戦争により、私は諸君にすみやかに平和をもたらすだろう。それも永遠の平和である。そして力をつけた諸君は、かつての支配者がつきつける難題を自らの力でかわすことができるだろう」
「それだけではない」とナポレオンは続けた。彼は兵士たちの中へと馬を進めた。「今日はわれわれも諸君と共に戦う。私はフランスの運命と我が生命を諸君の忠誠に|委《ゆだ》ねる」
この言葉が終るか終らないうちに一発の銃声が聞こえた。と思うと、ナポレオンの帽子が頭からふっとび、馬の足元に落ちた。
銃声が聞こえたという形容は正しくない。大歓声の中にあって銃声はほとんど聞きとれなかったし、帽子が落ちたのはナポレオンの乗った馬が不意に動いたためだったからだ。バイエルン軍の士官が隊列から進み出て帽子をひろいあげると、ナポレオンに手渡した。
ナポレオンはさっと帽子に目を走らせると、満足げな表情を浮かべながら帽子を頭に載せた。その後、部隊は斜面を下ってアルンホーフェンへと進軍していった。
斜面を下りきるとベルティエが、最後の命令を受け取るためにナポレオンの側に近づいていった。ナポレオンはベルティエに命令を与えると、帽子を手にとり、そこについた銃弾の穴をさし示しながら言った。平然とした声だ。
「弾の当たった場所が六プース低かったら、ルイ十八世がフランスの君主になっていただろう〔ルイ十八世は大革命で処刑されたルイ十六世の弟。イギリスに亡命中もフランスの王位を主張していた〕」
ベルティエはさっと|蒼《あお》ざめた。危機一髪のところだったのだ。参謀長は副官の耳にささやいた。
「ポール・リシャール中尉を呼べ、今すぐにだ!」
[#改ページ]
第七章 五日間に五つの勝利
ナポレオンの予想どおりに事が運んでいった。歩兵二万、猟騎兵千五百、胸甲騎兵三千五百を率いて左翼をかためていたランヌは、ローアに向けて進軍した。われわれが見てきたように、ランヌはバッヘルとオッフェンシュテッテンを経由し、いかなる犠牲をはらってもローアを奪取するようにとの命令を受けていた。
ランヌが進んだ地域には森林が点在し、その間を縫うように|隘路《あいろ》が走っていた。縦隊で進むランヌ軍の先頭は、オーストリアのティエリー将軍率いる歩兵部隊の側面と衝突することになった。ティエリー軍の騎兵はカール大公の命令にしたがって、ラティスボンをめざしている。騎兵は歩兵よりも速く移動するため、このときにはすでに通り過ぎた後だった。
ランヌは猟騎兵千五百で敵歩兵を攻撃した。騎兵が全速力で敵に襲いかかる。オーストリアの歩兵は方陣を組んで突撃を迎え撃つかわりに、森の中に逃げこもうとした。突撃してくるのが少人数にすぎないとは知らなかったのだ。だが彼らは森に到達する前に斬られてしまった。
混乱におちいったティエリー軍はローアをめざしてシュストク将軍と合流した。二将軍の部隊が合体する。だがランヌは、どんな犠牲をはらってでもローアを奪取せよという命令を忘れなかった。猟騎兵たちは逃げるオーストリア歩兵を追撃し、容赦なくサーベルの餌食にした。
オーストリアの二将軍の手元には三千の軽騎兵がいた。彼らは軽騎兵を放って猟騎兵を迎撃させる。この動きを見ていたランヌは、胸甲騎兵一連隊を送り出した。胸甲騎兵は軽騎兵を粉砕し彼らをローアに追いこんだ。
ちょうどこのとき、二万のフランス軍歩兵部隊が到着した。胸甲騎兵に支援された第三十連隊が正面からローアの村を襲撃し、第十三連隊と第十七連隊がそれぞれ右翼と左翼に分かれて村を包囲する。オーストリアの二将軍は撤収の準備が整うまで村を防衛し、戦闘開始の三十分後にローアを放棄するとローテンブルクに退却していった。
ランヌは使者を出した。使者は全速力で馬を走らせるとナポレオンのもとをめざした。ローアを奪取して皇帝の命令を遂行したことを報告するためである。さらに、敵からの銃火が続く間は、オーストリア軍への攻撃を続けるつもりであることもつけくわえた。
この知らせがナポレオンのもとに届いたのは、ヴュルテンベルクとバイエルンの軍隊がノイシュタットからランツフートへの道でルートヴィヒ大公を追撃していたころだった。この追撃は一日中続き、大公はほうほうの|態《てい》でペッフェンハウゼンにたどりついた。
ナポレオンはローアが奪取されたことを知るとランヌの後方に急行し、その日の晩にはローテンブルクに到着した。約束どおりに一日中オーストリア軍を攻撃していたランヌは、夜になってようやく戦闘を停止するとローテンブルクに入った。すばらしい一日だった。
ランヌの損害は二百足らずだが、敵の死者と捕虜は四千に達していた。ティエリー将軍も捕虜になった。ルフェーヴル元帥指揮下のバイエルン軍とヴュルテンベルク軍は千名を失っていたが、三千名の敵を殺してオーストリア軍をイーザル川方面に追いこんでいた。
だが重要なのは死傷者の数ではない。とはいっても数の上でも見事な成果ではあった。この日の戦闘で最も意味があったのは、カール大公を左翼軍から分断したということだった。ナポレオンは十万近い軍勢の先頭に立って指揮をとり、オーストリア軍の分断に成功したわけだ。こうなれば、頭と尾に切り離された大蛇を別々に攻撃することができる。
だがナポレオンはカール大公の正確な位置をつかんでいなかった。ナポレオンはカール大公の主力をイーザル川まで追いつめたと思っており、翌朝、全軍でランツフートを急襲するつもりだった。ランツフートはイーザル川に面しており、そこから八ないし十リュー離れた場所がイーザル川とドナウ川の合流地点になっている。
マッセナの進んだ道が悪路ではなく、彼の軍団が時間どおりに到着していたとしたら、ナポレオンとイーザル川の間にいたオーストリア軍は、殺されるか捕虜になるか溺れ死んでいただろう。
テンゲンにとどまって中心軸の役割を果たしていたダヴーに命令が出された。前方にいる部隊を少しだけ残し、主軍の動きにあわせてイーザル川まで急行せよ。カール大公を粉砕した後は、ベルギャルド軍に対処するためにラティスボンにひき返す可能性もある。
この時点でナポレオンは、自分が追いつめているのがカール大公の主力だと信じており、ダヴーがくいとめているのがオーストリア軍主力だとは思ってもみなかった。三十六時間もの間、六万近くの軍勢を指揮しているカール大公の気配がないというのは、どう考えてもおかしなことだったからだ。
一方、カール大公は二十日中、フランス軍が自軍とドナウ川の間にすべりこんできたことに気づかなかった。大公はナポレオンが正面からぶつかってくるだろうと予想しており、五万の軍を率いるルートヴィヒ大公と連絡がとれるまでは攻撃をかけたくなかったのだ。
だが待っても無駄だった。ルートヴィヒ大公が指揮する五万の軍は、ナポレオンによって追いつめられ、イーザル川にたたきこまれようとしている。大砲の音がしてようやく、カール大公は背後で何かが起こっていることに気づいた。彼は反転してラティスボンを背に回した。ラティスボンにはボヘミア軍が来るはずだ。そこでカール大公はラティスボンからランツフートへの道に布陣した。エックミュールのすぐ手前である。
翌日にはオーストリア軍を捕捉すると決めていたナポレオンは、服を着替えてもいなかった。だがナポレオンの追撃よりもオーストリア軍の逃げ足の方が速かったのだ。彼らは、ローテンブルクとペッフェンハウゼンからの二経路をたどって、夜にランツフートに到着した。
ナポレオンはあやしいと思いはじめていた。オーストリア軍はあまりにも簡単に陣地を放棄したように見える。秋風に舞い散る木の葉のように、ナポレオンが追い散らしているのはオーストリア軍の主力なのだろうか? それとも一部にすぎないのだろうか? 後方に残した二万四千のダヴー軍団は、大公とっておきの大胆な一撃を受けて孤立してしまわないだろうか?
二日間の勝利が一段落し、この日の夜は栄光に満ちていた。このとき、ナポレオンの天才はひときわ明るく光り輝いていた。
ダヴーの危機に気づいたナポレオンは、デュモン師団、ナンソーティ将軍の胸甲騎兵師団、ドロイ将軍とバイエルン皇太子指揮下のバイエルン兵師団をダヴーのもとに送った。そして自分はランヌ軍二万五千とヴレーデ将軍の率いるバイエルン部隊を引き連れて、オーストリア軍をランツフートまで追撃することにした。ランツフートには三万のマッセナ軍が到着することになっている。
朝の九時ごろ、ナポレオンはモラン将軍指揮下の歩兵、胸甲騎兵、軽騎兵とともにアルトドルフに到着した。ナポレオンが進軍した路には落伍兵や傷病兵があふれかえり、大砲や輸送車が捨てられている。敵は大混乱のうちに退却したのだ。
森がとぎれた場所に小高い丘があった。頂上からはイーザル川にそって広がる青々とした平野を見渡すことができる。ランツフートも一望のもとだ。ナポレオンはここで足を止めた。征服者にのみゆるされた眺めだった。
敵軍は四散してちりぢりになっていた。騎兵、歩兵、砲兵、それに|輜重隊《しちょうたい》がもみあいながら橋に殺到している。ここまで混乱してしまってはどうしようもない。殺されるのを待つだけだ。
だが一刻も早く状況を見ようとしたナポレオンは、ほとんどの部隊よりも先に来ていたため、彼といっしょに丘に登ってきたのは九千名前後にすぎなかった。そこにいたのはベシエールの胸甲騎兵部隊、ランヌ指揮下の猟騎兵、モラン師団の第十三軽歩兵連隊だけだったが、彼らは前衛部隊のように一丸となって八倍の敵に襲いかかかった。
オーストリア軍の騎兵が混乱する戦線から抜け出した。フランス軍をくいとめて味方の渡河を援護しようとしている。だがフランスの胸甲騎兵と猟騎兵と歩兵は皇帝の星を信じていた。皇帝の星は彼らの上で輝いている。フランス軍はオーストリアの騎兵を圧倒した。オーストリア軍は死力をふりしぼって歩兵を再集結させたが、モラン師団がおしよせてきた。彼らはなぎ倒され、算を乱しながら橋に殺到していく。
残念なことにフランス軍の砲兵部隊は行軍に参加していなかった。それでも十門ほどの大砲を設置すると、剣と銃剣から逃れた兵士らに砲火を浴びせることができた。刃は人をゆっくり殺すが、砲火はてっとり早く殺すのである。
この間にもフランス軍は丘に四散していた敵の落伍兵を集めた。橋までたどりつく力を失っていた者、降伏した者、つまりイーザル川に飛びこむ気力がなかった者たちだ。大砲、輸送車、車に載せられた舟橋も集めた。オーストリア軍はこの舟橋を使ってドナウ川やラインまでも渡るつもりだった。だがこれらの舟橋は、クセルクセスが持っていた|鞭《むち》と同じように無用の長物になってしまった。クセルクセスは鞭でギリシア人を追い払うつもりだったが、その逆に自分が海にたたきこまれたのだ。
渡河が続く間にも一部の敵兵はミュルドルフやノイマルクへと引いていった。恐慌状態におちいらなかった人々は、ランツフートの市街やゼリゲンタール郊外で持ち場についていた。だがわれわれが見てきたようにモラン師団が一丸となっておしよせ、マッセナ軍の先頭がモースブルク方面に現れた。マッセナ軍の到着は、オーストリア軍の退却線を分断するには遅すぎたが、敵を圧迫するにはじゅうぶんだった。
突然、一番大きな橋の方角で猛烈な煙が巻きあがった。オーストリア軍が橋に火を放ったのだ。フランス軍との間に水と火の垣根を作ろうというのである。ナポレオンはふりむいて副官を見た。
「行け、ムートン」
将軍はナポレオンの意図をくんで、第十七連隊の先頭に立つと、余計なことは言わずに簡潔な命令を出した。
「皇帝が見ている。続け!」ムートン将軍と部隊は燃えさかる火の中につっこんでいった。彼らは水と火と銃弾という三重になった死の恐怖の中を進んでいく。そしてついにランツフートの市街に突入した。
オーストリア軍は高台から、フランス軍が四方八方から押し寄せてくるのを見ていた。ナポレオンのもとには二万五千、ヴレーデのもとには二万、そしてマッセナのもとには二万がいる。もはや支えるすべはない。敵の陣が崩れた。
殺された者は少なかった。おそらく二、三千名だろう。大砲の数が不足していたせいだった。だが捕虜の数は七、八千名に達した。軍用行李も物資も大砲も手に入れた。そして何と言っても敵軍の戦線を分断したのだ。もはや戦況をくつがえすことはできない。
見守っていた戦闘が終わりに近づいたころ、ナポレオンは足をとめて耳をそばだてた。背後から大砲の音が聞こえてくる。大小のラーバー川の間だ。砲兵出身のナポレオンは鋭い耳をしていた。まちがいない。ここから八ないし九リューの場所で戦闘が行われている。ダヴーの軍だ。敵と遭遇したのだ。
ボヘミアから到着したベルギャルド軍だろうか? それともカール大公が指揮するオーストリア軍だろうか? ナポレオンは不安になってきた。大公軍は彼の背後にいる。両方の軍をあわせると、十一万の大軍になる。ダヴーの軍は四万だ。敵がどちらであったとしても、数では勝ち目はない。だがナポレオンは今の場所から動くわけにはいかなかった。打ち負かした敵の前から後退すれば、敵は再集結して後ろから攻撃してくるだろう。ナポレオンは待った。ダヴーの勇気と冷静さを信じていたのだ。だが心は不安でいっぱいだった。
大砲の音は一向におとろえない。エックミュールの方角だ。夜の八時になってようやく静かになった。昨夜、ナポレオンは着衣のままで寝台に横たわった。だが今晩は寝台に触れることさえなかった。午後十一時、ダヴー元帥のもとからピレ将軍が到着した。ナポレオンは歓喜の声をあげると将軍のもとに駆けよった。
「どうだった?」とナポレオンが性急に訊ねる。将軍は口を開いてもいない。
「上首尾です、陛下!」と将軍が早口で答えた。
「よし! 詳しく話してくれ」
ピレは、昼は戦い夜は起きている青銅のごとき人物に、戦いの経過を語った。命令にしたがって左に移動していたダヴーは、ローゼンベルクとホーエンツォレルンの軍に遭遇した。元帥は敵を攻撃して進路から追いはらい、敵をエックミュール方面まで後退させた。
オーストリア軍が退却する間に、味方はパリンクとシアーリンクの村を銃剣で奪取した。戦闘がはじまって三時間が経過したころ、ナポレオンからの援軍が到着した。ダヴーは、ナポレオンの意図を理解した。つまり、ナポレオンが二万の軍を送ってきたということは、皇帝は彼の軍を必要としておらず、彼の任務は敵を足止めすることにある。
敵はエックミュールにたてこもり、防衛のための配置を固めたようだ。ダヴーは砲撃を開始した。こうすればナポレオンが最も聞きなれた音によって、情報を伝えることもできる。ナポレオンはこの砲声を聞いていた。ピレ将軍がその意味を伝えたわけである。
ダヴーは千四百名を失い、三千名のオーストリア兵を殺していた。ランツフートでのナポレオンは三百名を失い、読者がすでにご存知のように、七千名の敵を殺したか捕虜にしていた。合計するとこの日だけで一万名のオーストリア兵が戦闘不能となった。
ピレ将軍がナポレオンの側にいるとき、ラティスボンからの使者が到着したという知らせが入った。使者は、アーベンスブルク、ペッヘンハウゼン、アルトドルフを経由していた。つまりナポレオンと同じ道をたどってやって来たことになる。
使者がもたらした知らせは次のようなものだった。
読者はご記憶のことと思うが、ナポレオンはダヴーに、ラティスボンに一連隊を残すようにという命令を出していた。一連隊とは何とも少なすぎる。だが兵力を集中するには、これだけの兵力しか残せなかったのだ。
ダヴーが選んだのは第六十五連隊だった。指揮官はクタール大佐。彼らならだいじょうぶだとダヴーは信じていたのだ。大佐は城門を閉めて街路にはバリケードを築き、ラティスボン防衛の態勢を固めた。
アーベンスベルクでの戦闘があった四月十九日、五万のボヘミア軍がラティスボンの城門前に出現した。一連隊が一軍を相手に戦闘を開始し、マスケット銃の射撃で八百名を殺した。だが翌日、ドナウ川の右岸、ランツフートのすぐそばにカール大公の軍が出現した。
新手の敵を前にして、連隊は残っていた弾丸を使いきった。十万をこえる軍に対抗して、ラティスボンのような場所を二千の銃で守りぬくことなどできない。クタール大佐は時間をかせぐために、午前中に休戦交渉を開始した。ようやく夕刻五時ごろ、使者の通行を求める条件で降伏したのである。
ただちに使者が全速力でラティスボンから出発した。使者は十時間で二十リューを駆け抜けると、真夜中の一時にランツフートにいるナポレオンのもとに到着した。使者がもたらした情報には重要な意味があった。クタール大佐と指揮下の連隊は捕虜となったが、ナポレオンは敵の詳細な位置をつかむことができたのである。
オーストリア軍とボヘミア軍が合流し、カール大公はエックミュールからラティスボンにいたる地域を掌握している。ということは、ダヴーがしがみついている敵軍こそがカール大公の本隊なのだ。こうなれば、ナポレオンはエックミュールに向かい、ダヴーの四万と自分が率いる八万の軍で敵をはさみうちにすればよい。一刻の猶予もない。
ピレ将軍はもう一度馬にまたがるとエックミュールをめざした。十二時から一時の間に皇帝が全軍を率いてそちらに到着するとダヴーに知らせるためだ。皇帝の到着は、五十門の大砲による一斉射撃によって告げられることになっていた。この砲撃音がダヴーによる攻撃開始の合図になる。
使者が出発するとナポレオンは、四万のルートヴィヒ大公軍を追撃するため、イーザル川対岸に部隊を送り出した。ルートヴィヒ軍は三日間で二万五千を失っていた。追撃に参加したのは、マルラツ将軍の軽騎兵部隊、ドイツ人騎兵部隊の一部、ヴレーデ将軍のバイエルン師団、そしてモリトゥール師団だった。
それからナポレオンは、ドナウ川とイーザル川の間、つまりノイシュタットからランツフートの間に二万の部隊を|梯型《ていけい》に配置した。そしてランツフートからラティスボンに通じる道とグロス・ラーバー渓谷に、サン=シュルピス将軍の胸甲騎兵四個連隊、ヴァンダーム将軍のヴュルテンベルク部隊、さらにランヌ軍団に所属するナンソーティ将軍の胸甲騎兵六個連隊、ギュダン師団、モラン師団を送り出した。
彼らへの命令は、一晩中行軍を続け、正午にエックミュールに到着、一時間後に攻撃を開始せよというものだった。ナポレオン自身は、マッセナ指揮下の三師団およびエスパーニュ将軍の胸甲騎兵師団とともに出発した。
ダヴーの軍はほぼ三万五千だ。ヴァンダーム将軍とサン=シュルピス将軍は一万三、四千を引き連れており、ランヌ軍は二万五千。ナポレオン本人の指揮下には一万五、六千。合計するとほぼ九万。カール大公はこれだけの軍を相手にすることになる。
このころ、カール大公は二日間ためらった末に、とうとう心を決めた。ナポレオンの戦線に襲いかかろうというのである。ナポレオンがオーストリア軍に対して立てた作戦とまったく同じものだ。大公はアバッハを攻撃しようとした。
アバッハにはモンブラン将軍の胸甲騎兵がいる。われわれが見てきたように、この部隊は十日〔実際には十九日〕にディズリンクで戦闘を経験しており、アバッハでオーストリア軍と小規模な|小競《こぜ》り合いを継続していた。カール大公は自軍が相手にしているのは大軍だと信じていたが、実際には戦線の軸となる部隊にすぎなかった。彼らはフランス軍の最右翼だったが一転して最左翼となり、ナポレオンがアーベンスベルクからランツフートへ進軍している間は後衛だったが、ナポレオンが反転してラティスボンをめざし、ランツフートからエックミュールへと進軍を開始した今では全軍の前衛になったわけである。
ボヘミア軍から送り出されたコロヴラート将軍の部隊がドナウ左岸〔実際には右岸〕に渡る時間をかせぐため、カール大公は攻撃開始時刻を正午から一時の間に決めた。読者は覚えておられるだろうが、この時刻はナポレオンがエックミュールに入ると決めた時刻と同じだった。
この作戦には二つの軍が参加することになっていた。二万四千がブルグヴァインティンクからアバッハに進み、一万二千がヴァイルホーからペイシンクをめざす。これらとは別に、ダヴー軍の正面にあるオーバー・ロイヒリンクとウンター・ロイヒリンクに配置されている四万のローゼンベルク軍、エックミュールへの道を封鎖しているホーエンツォレルン軍、エッゴルフシャイム付近に配置されてラティスボンの丘陵地を守る|擲弾兵《てきだんへい》予備と胸甲騎兵から構成される一軍は、二つの部隊が作戦行動をとっている間は動かないように命令されていた。この配置のままで夜が過ぎていった。
朝になった。丘全体を覆う深い霧が晴れたのは、九時になってからだった。コロヴラート将軍の部隊はドナウ川を越えることになっていたが、渡河が終ったのは正午ごろだった。このときまでは、一発の弾丸も発射されていない。
二つの軍が別々にアバッハとペイシンクをめざしていたとき、何の前ぶれもなしに大砲の轟音が響いた。バックハウゼンの方角だ。ナポレオンが統率するフランス軍主力がエックミュールの前方に出現したのである。
ナポレオンは、前もって決めておいた合図を送る必要がなかった。フランス軍が姿をあらわすなり、オーストリア軍から弾が乱れ飛んできたからだ。
これにあわせてヴカソヴィッチ将軍の軽騎兵部隊が襲ってきた。フランス軍縦隊の先頭にいたヴュルテンベルク兵が後退する。だがヴァンダーム将軍が彼らを先頭に押しもどし、モラン師団とギュダン師団の援護を受けてリンタッハの村に通じる道から敵を一掃した。さらにヴァンダームの左翼にはデュモン師団とバイエルン軍が加わった。戦闘の展開を予想したナポレオンが、前日に送り出していた部隊だ。
大砲の音を聞いたダヴーは、二個師団を前進させた。二師団ともにやきもきしながら一時間以上も合図を待っていたのだ。砲兵部隊は道路を確保するために、敵の正面に向けて砲撃を開始した。
猛烈な砲撃をうけたオーストリア軍の先頭隊列は陣地を捨てて後退し、オーバー・ロイヒリンクとウンター・ロイヒリンクの村に逃げこんだ。彼らは追撃してきたサン=ティレール師団を猛烈な一斉射撃で迎え撃ったが、フランス軍兵士は歴戦のつわものぞろいだった。
オーバー・ロイヒリンクは銃剣突撃によって奪取した。防御の固かったウンター・ロイヒリンクはなかなか落ちなかった。村は斜面にあり、敵は二段射撃で攻撃してくる。第十連隊は斜面を登りはじめた最初の五分間に五百名を失った。だがひとたび村の中に達すると、抵抗は無駄だった。村に入った第十連隊は抵抗する兵士を皆殺しにして、三百名を捕虜にした。
二つの村を防衛していた部隊は斜面をのぼって引きあげていった。第十連隊がすさまじい射撃をあびながら敵を追撃していく。フリアン将軍はすぐさま、二つの村の間にある森に指揮下の師団を送り出した。
バルバネグル将軍が第四十八連隊と第百十一連隊の先頭に立ち、銃剣をつけて森の切れ間を進んだ。攻撃部隊は村をこえたところでルートヴィヒ大公、ハシュテラー、コーブルクの三個連隊に襲いかかり、彼らをエックミュール方面に追いはらった。全線での戦闘がはじまった。
エックミュール方面に引いていたローゼンベルク将軍の部隊は、第四十八連隊と第百十一連隊の攻撃をかわして陣地を死守しようとした。フランス軍胸甲騎兵の援護を受けたバイエルン騎兵部隊がオーストリア軍騎兵に突撃した。ヴュルテンベルク歩兵は、ヴカソヴィッチ指揮下の歩兵がおさえていたエックミュールの村に迫った。彼らは二度めの攻撃で村を奪取し、敵の歩兵を丘の上まで追いあげた。
こうなればナポレオンがとるべき行動はただひとつ。道をふさいでいる部隊の間をつき抜けて、一気に丘をめざすのだ。丘にはルートヴィヒ大公、ハシュテラー、コーブルクの連隊、ヴカソヴィッチの全歩兵、ビバー旅団の一部が退避している。
ランヌはギュダン師団にグロス・ラーバー川を渡らせた。彼らはロッキンクの丘を一直線に突っきり、オーストリア軍右翼の側面に回りこむと、これを斜面から追いはらった。この間にナポレオンは、ひしめきあいながら退却しているオーストリア軍めがけて騎兵を放った。
この動きを見ていたオーストリア軍は停止し、バイエルンとヴュルテンベルクの騎兵に軽騎兵をぶつけてきた。オーストリア軍軽騎兵は丘の上から突撃してくる。彼らは坂を駆けおりてきた勢いで、バイエルンとヴュルテンベルクの騎兵を|蹴《け》散らした。だが彼らを待ち構えていたのは鉄の壁だった。フランス胸甲騎兵だ!
鉄の壁が全速力で走りだした。オーストリア騎兵の間を駆けぬけ、敵の本隊を|蹂躙《じゅうりん》し、ついに丘の上に立った。ちょうどこのとき、向かい側ではロッキンクを掌握したギュダン将軍の歩兵が高台に出現した。
歩兵の目の前では、胸甲騎兵が見事な突撃を展開していた。彼らは斜面を駆けおりてくる敵の騎兵を粉砕して、斜面を駆け上がっていく。ギュダン師団の兵士は一人残らず手を打ち鳴らしながら歓声をあげた。
「胸甲騎兵、万歳!」
これと同時に、ウンター・ロイヒリンクの上方に広がる森を掌握したサン=ティレール師団が斜面の敵を一掃し、突撃してきたヴィンセントとシュティプジッツの軽騎兵を道の方まで追い散らした。道は大混乱になっている。
これで障害物はなくなった。恐慌状態になったオーストリア軍は、エッゴルフシャイムに布陣していた味方の胸甲騎兵の背後に逃げこもうとした。エックミュールからは二リューほどしか離れていない。
このとき、フランス軍が大挙して丘に姿を現した。中央には騎兵がおり、両翼は歩兵がかためている。騎兵部隊を構成するのはバイエルンとヴュルテンベルクの騎兵、サン=シュルピス将軍とナンソーティ将軍指揮下の胸甲騎兵十個連隊。一万五千の騎兵は、地響きをたてて進軍した。地震でさえ大地をこれほどまでに揺らすことはなかっただろう。
フリアンとサン=ティレールの師団は勝利に酔いしれ、騎兵に負けぬくらいの速度で両翼を駆けた。圧倒的な勢いだった。接近するフランス軍を見たオーストリア軍騎兵が前進し、迎撃に出る。
時は四月、夕方の七時。|黄昏《たそがれ》が迫っている。
情け容赦のない白兵戦がはじまった。次々と新手の敵に立ち向かわねばならない。軽騎兵、胸甲騎兵、フランス兵、バイエルン兵、オーストリア兵がうす暗がりの中で入り乱れ、手当たりしだいに殺しあった。一時間もするとあたりはすっかり暗くなり、サーベルや胸甲がぶつかりあって飛び散る火花が見えるようになった。
突然、湖の堤防が決壊したように、人の波が大挙してラティスボンへと向かいはじめた。最後の陣が崩れ、抵抗がやんだ。オーストリアの胸甲騎兵は、決して敵には背中を見せないとでもいうかのように、前面にしか胸甲をつけておらず、敗走するとなるとひとたまりもなかった。道には二千の胸甲騎兵が折り重なって倒れていた。短刀で刺されたように、全員が背後からやられていた。
ナポレオンは戦闘終了の命令を出した。追撃すれば大公の第二軍に遭遇するかもしれない。彼らは無傷で士気も高いだろう。痛手を負うことになるかもしれない。大公がラティスボンの手前で停止すれば、明日、五度めの戦いを挑む。ドナウ川を渡れば、追撃することになるだろう。
野営する時間だった。兵士たちは疲れきっている。ランツフートから到着した部隊は、夜明けから正午まで歩きとおし、正午から午後八時まで戦いぬいたのだ。マッセナの三個師団は午後三時に到着したから、活躍の余地がなかった。
過酷な一日が終った。高くついた勝利だった。
フランス軍では二千五百名が戦闘不能となった。オーストリア軍では六千名が死傷し、三千名が捕虜となり、大砲二十五ないし三十門を失った。
ダヴーはエックミュール公爵の栄冠を手にし、ナポレオンは数時間の休息をとることができた。どう考えても、カール大公が明日も戦闘をいどんでくるとは思えない。大公はドナウ川をもう一度渡るだろう。まったくそのとおりだった。ナポレオンが予見したように、大公は夜のうちに渡河の手配を進めていたのである。
カール大公はペイシンクに向かう途中で急を聞いて戦場に駆けつけた。エックミュールを押さえることはできたが、友軍の後退を阻止するには遅すぎた。オーストリア軍は混乱しきっており、すぐに戦闘態勢をとれるような状態ではない。何といっても背後にはドナウ川がある。さらに加えて、エッゴルフシャイムからラティスボンに広がる丘を防御するには、騎兵の数が足らなかった。
カール大公はもう一度ドナウ川を渡るだろう。軍の半分はラティスボンにある石の橋、残る半分はボヘミア軍が用意した舟橋を使って対岸に移動することになる。退却を援護するのは、アバッハまで行ってひき返しただけのコロヴラート将軍の軍だ。
早朝三時、大公の軍は行軍を開始して、二本の橋を渡りはじめた。町の前には軍の動きをかくすために、コロヴラートの部隊を残して防御にあたらせている。さらにその前には騎兵の全部隊がいる。オーストリア軍は、夜明けとともに敵が攻撃をしかけてくるだろうと予測していた。そのとおりだった。ナポレオンは午前四時に馬にまたがった。目標物が見えるようになるとただちに、フランス軍軽騎兵が前進した。敵と一戦を交えるのか、あるいは敵を追撃するのかを見きわめるためである。
だがオーストリア軍騎兵はそのような猶予を与えず、昨日の報復とばかりに猛烈な勢いでフランス兵に襲いかかった。こうして、夜が来るまで続けられた昨夜の戦いを思わせるような激しい戦闘がはじまった。彼らは戦いながら町へと後退し、フランス軍の注意をひきつけた。味方の|擲弾兵《てきだんへい》と残りの歩兵が、舟橋を渡ってドナウ川の対岸に到着する時間をかせぐためだ。
だが軽騎兵の一部が敵の意図を見抜き、ランヌ元帥のもとに馬を走らせると、敵の主力がラティスボンの下流でドナウ川を渡っていることを知らせた。ランヌは指揮下の砲兵を一か所に集めると、舟橋めがけて猛烈な砲撃を開始した。一時間後に舟橋が破壊され、千人が戦死あるいは溺死した。舟は|木《こ》っ|端《ぱ》微塵になって炎上し、ドナウ川の流れを下っていく。ウィーンは大公軍の敗北を知ることになるだろう。
コロヴラート将軍は、大公軍が再集結する時間をかせぐために町にバリケードを築いた。町に迫るフランス軍軽装歩兵の眼前で城門が閉じられた。
ラティスボンを囲む一重の城壁には、間隔を置いてそびえる塔と深い堀があった。ナポレオンは|梯子《はしご》を使って城壁を乗りこえるように命令した。カール大公に石橋を爆破する時間を与えてはならない。フランス軍もこの橋を渡って敵の追撃にかかるからだ。二十五分もたたないうちに四十門の大砲が集められた。城壁に向けて砲撃が開始され、砲火を浴びた市中からは火の手が上がっている。
ナポレオンは射程距離の半分の場所まで近づいていった。城壁のいたる所にはオーストリアの狙撃兵がいる。後ろにさがるようにと側近たちが懇願したが無駄だった。ナポレオンは一歩もひかない。
突然、ナポレオンが口を開いた。フェンシングの師範が冷静にフルーレの一突きを明言するときのようだった。
「来たぞ!」
可能な限り片時も皇帝のそばを離れずにいるベルティエが走りよった。ベルティエの顔がさっと|蒼《あお》ざめる。
「陛下! アーベンスベルクでも同じようなことが」
「そうだ。アーベンスベルクでは高く狙いすぎた。そしてラティスボンでは低く狙いすぎたな」〔ここでナポレオンは足に軽傷を負った〕
五月十三日、ナポレオンはウィーンに入城した。親衛隊第一連隊の軍楽隊長が口ひげをひねりながらフランツ二世の宮殿を見つめている。
「これが、皇帝が何度も口にしていたオーストリアの王城なのか」
[#改ページ]
第八章 学生と特使
一八○九年十月十一日の火曜日。フランス軍による二度めのウィーン占領から五か月がたっていた。オーストリアの将軍の制服を身につけた四十歳くらいの人物がアルテンブルクからウィーンに通じる道をたどっていた。二人の副官と馬の手綱を引く従者が同行している。
実直そうな顔をした将軍の目には、少しも邪気が感じられない。ガルの骨相学〔頭蓋骨の形から人格が推測できるという考え方。一九世紀に流行した〕にしたがって、外見あるいは推測による彼の長所と短所を述べるならば、|奸智《かんち》が占める部分はごくわずかだった。その顔には心の中の状態がそのまま顔に現れている。まるで暗い色のベールで顔をおおっているようだった。
というわけで二人の副官は、将軍をもの思いにふけらせておき、その左右について彼を護衛するかわりに、たがいに目配せすると少しだけ後ろにさがった。二人はきがねなく話をかわしながら、このささやかな騎馬行列の中心人物の後をついていった。彼らの後ろには同じくらいの間隔をおいて、馬の手綱を持った従者が歩いていく。もうすぐ午後四時だ。夜が近づいている。
この騎馬隊に気づいた若い男が離れた場所で立ちあがった。道端で休憩していたらしい。若者は溝をとびこえると、将軍一行がやって来る方向に近づいていく。
若者の背丈は中くらいでブロンドの髪が肩までたれている。青い目がくもっているのは、いつも眉をひそめているせいだろう。生えはじめたばかりのブロンドの口髭は、柔らかなうぶ毛のようだ。
彼は三枚の|樫《かし》の葉が縫いとりされたひさし付きの帽子をかぶり、たけの短いフロックコートとぴったりした灰色の長ズボンを身につけ、膝上まである柔らかい革の|長靴《ちょうか》をはいていた。制服とまではいかないにしても、ドイツの学生の一般的な服装である。
騎馬の一行を見かけた若者の動きから察するに、彼は一行の長らしき人物に好意を感じているか、あるいは何かを訊ねようとしているようだった。若者は先頭の人物をちらっと見ると、声をかけた。
「伯爵閣下、教えていただきたいのですが、ウィーンへはまだ遠いのでしょうか?」
声をかけられた人物はもの思いにふけっていたため、彼の声を聞くことはできたが、言葉の意味がよくわからなかった。将軍は視線を下げ、善意のこもった目で若者を見た。彼は質問をくりかえし、ウィーンへの距離について訊ねた。
「三リューだよ」と将軍が答える。
「伯爵閣下」と若者が決然とした声で続けた。簡素きわまりない依頼をしているのだから、よもや拒絶はされないだろうと思っているかのようだ。
「長旅でひどく疲れました。今晩にはウィーンに着かなくてはなりません。従者が引いている馬に乗せてもらえないでしょうか?」
将軍は先ほどよりも熱のこもった目で若者を見つめた。この青年は高い教育を受けているように見える。
「もちろんだとも」将軍は従者の方を向いた。
「ヨハン、その馬をこの方に。お若い方、名前は?」
「疲れた旅人です、伯爵閣下」
「疲れた旅人に」と将軍がほほ笑みながらくりかえした。若い道連れが望むとおり、|匿名《とくめい》のままで受け入れるつもりなのだ。
ヨハンは言いつけにしたがい、二人の副官は半ばからかうような目つきで成りゆきを見守っている。若者はひらりと|鞍《くら》にまたがった。馬に乗るのは初めてではないらしい。熟練とまではいかないまでも、馬術の初歩は心得ているようだ。
若者は自分の場所は従者の近くではないと言うかのように、馬を前に進めると副官たちと同じ位置に出てきた。将軍は若者の動きを見逃さなかった。
「お若い方」と、少しの間をおいて将軍が口を開いた。
「伯爵閣下」
「名無しのままでいたいとお望みだが、私の横に来るのは都合が悪いかね?」
「いいえ、そうではないのですが、なれなれしいのは失礼にあたります。それに閣下がゆるしてくださったとしても、深刻な問題について考えておられる閣下を邪魔したくありません」
将軍はますます不思議そうな表情になって若者を見た。
「君は私のことを伯爵閣下と呼んでいたな。私の名を知っているのか?」
「今は、フォン・ビュブナ伯爵閣下と馬を並べる光栄に浴していると思っています」
将軍はうなずき、若者の言葉がまちがっていないということを示した。将軍は言葉を続けた。
「君は私が深刻なことを考えていると言った。君は私がウィーンでやろうとしていることを知っているのかね?」
「フランス皇帝と直接交渉して、和平を結ぶためではないのですか?」
「失礼だが」とビュブナ伯爵は笑いだした。「名を明かしたくないという君の願いを聞き入れたとき、君は私の義理堅さを認めてくれたことと思う。だが私たちはもはや対等の立場ではない。私は君の名前も知らないし、君がウィーンで何をするつもりかも知らない。だが君は私の名前だけでなく私の使命まで知っているのだからね」
「伯爵閣下、対等ということなら、私がこのような服装で閣下の善意にすがったことを思いだしていただければ、私が閣下とは対等の立場にはないということを納得していただけます」
「それはそうだが、君は私のことを知っているし、私がウィーンに行く理由も知っている」
「私は閣下を存じあげています。私は軍人ではありませんが、戦闘中に閣下をお見かけしました。最初はアーベンスベルク、次はラティスボンです。私は閣下がウィーンでなさろうとしていることを知っています。フランスとオーストリア双方の特使による話しあいがあったアルテンベルクからやって来たからです。それに噂も広まっています。フランツ二世は、メッテルニヒとヌーゲントが状況を打開できないことにいらだち、ワグラムの戦いの後でずっととどまっているドティスに閣下を呼びよせて全権を委任されたとか」
「なるほど、君は私の立場と私の使命については確かな情報を持っているようだね。気を悪くしないでほしいのだが、君は包み隠さず話してくれたけれども、私としては疑念を感じているのだよ。君のアクセントから察するに、君はバイエルン人だね?」
「そうです、伯爵閣下。私はエックミュールから来ました」
「では私たちは敵どうしだ」
「敵どうし?」と若者は伯爵を見つめながら言った。「敵どうしとおっしゃったのですか?」
「そうだ、敵どうしだ。私たちはたがいに戦った。バイエルン人とオーストリア人だ」
「アーベンスベルクとラティスボンで閣下をお見かけしたとき、私はあなたの軍と戦ってはいませんでした。それに仮に敵どうしであるとすれば、それは閣下が戦争をするときではなく、和平を結ぶときです」
伯爵は、これ以上はできないほどにまじまじと若者を見た。
「お若い方」と、ややあって伯爵が口を開いた。「この世のことはすべて運次第と言うではないか。今日、君と会ったのも、私の従者が馬を引いていたのも、疲れきった君がその馬に乗せてほしいと頼んだのも、すべては運命だったのだよ。そして他の人間だったら、身元の知れない相手として君を拒絶しただろうに、私は友人として君を受け入れた。これも運命だったのだ」
若者は頭をさげた。
「君は悲しげで不幸そうな顔をしている。君の悲しみはいやされることがあるのか? 君の不幸は和らげられることがあるのか?」
「閣下もおわかりでしょう」と若者が答えた。ひどく沈んだ声だ。「私は閣下より有利な立場にいるわけではありません。私が閣下を知っているように、閣下も私のことを知っておられます。これ以上はお訊ねにならないでください。閣下は私の国と私の意見と、そして私の心をご存知なのですから」
「いや、聞きたいことがある。同じ質問だからいいだろう? 私は君の悲しみをいやすことができるかね? 私は君の不幸を和らげることができるかね?」
若者は首を横にふった。
「私の悲しみはいやされることがありません。私の不幸は和らげることができません」
「ああ、なるほど! 愛情の問題か!」
「そうです。ですがそれだけではありません」
「そうだろうな。だがそれが最大の不幸の原因だ」
「そのとおりです、伯爵閣下」
「その女性は浮気者なのかね?」
「いいえ」
「では、亡くなったのか?」
「そうだったらよかったのに!」
「というと?」
「彼女はフランスの士官に辱められました」
「それはひどい!」と伯爵は言って旅の道連れとなった若者の方に手をさしのべた。そのしぐさには、若者と不幸にみまわれた少女に対する二重の同情が現れている。
「それから――」と伯爵は続けた。だが今回の質問は好奇心からというよりは同情から出たものだった。
「それから」と若者が言葉を継いだ。「それから私は、父親と姉妹をともなってバーデンまで行きました。彼女には十歳にもならない妹がいるのです。バーデンでは違った名前を使っています。そうすれば父親も、娘が受けた辱めを隠し通すことができるでしょう。私はバーデンまで行ったあとでここに戻ってきたのです」
「歩いてかね?」
「そうです。これで私が疲れていたわけがおわかりになったでしょう? そしてどうしても今晩中にウィーンに到着したかったので、閣下の善意にすがったのです」
「そういうことだったのか。君の恋人を汚した男がウィーンにいるのかね?」
「そして祖国を汚した男も!」と若者は言ったが、あまりに小さな声だったのでビュブナ伯爵の耳には届かなかった。
「私がいたころのゲッティンゲン大学では、しょっちゅう剣を抜いていたな」と伯爵が口をはさんだ。ウィーンをめざす若者の意図をほのめかそうとしているのだ。だが若者は無言だった。
「ところで」と伯爵は続けた。「君が話しかけているのは軍人だ。その人物は、受けた恥辱にはつぐないが必要なことも、君のような人を怒らせてただではすまないことも知っている」
「というと?」
「つまりだ。恋人を辱めた男を殺すためにウィーンに行くのだろう?」
「殺すために?」
「正々堂々と、剣かピストルでだ」
「私は相手の男を知らないのです。一度も会ったことがない。名前もわかりません」
「何ということだ! では君は、その男をさがしているわけではないのか」
「伯爵閣下。申しあげたとおり、愛情だけの問題ではないのです」
「では別の問題については訊かないでおこう」
「そうしてください。私は誰にも言わないと決めているのです」
「それ以外に私に伝えておくことはないかね?」
「何についてですか?」
「君自身のこととか君の計画、君の希望についてだよ」
「私の希望ですか? 私にはもう希望などありません。私の計画は閣下のものと同じです。ただ、閣下はオーストリアの平和をお望みですが、私は世界の平和を望んでいます。私は貧乏で力のない無名の学生です。閣下は私の名前など聞いたこともないでしょう。ですが私の名は、いつか有名になるかもしれません」
「それでも名を明かさないと?」
「伯爵閣下、一刻もはやくウィーンに着かねばなりません。騎乗することを許してくださったこの馬を使って、先に行かせていただけませんか? 行かせていただけるのなら、宿泊される宿と馬を引く従者の名を教えてください。感謝の念をこめて私の名をお教えします」
「君が乗っている馬は自由に使ってくれたまえ。私はプロイセン・ホテルに泊まる予定だ。何か伝えたいことがあれば、私はそこにいる」
「神のご加護がありますように、伯爵閣下!」
若者は馬を全速力で走らせると、あっという間に兵器庫のそばを抜けてグラーベン通りに入り、マクシミリアン大公が抵抗をこころみた時に爆破された古い外堀を通って宮殿の前に到着した。
ここまで来ると若者は左に曲がり、マリアヒルフにある小さな家の扉の前で馬をとめた。扉についていた|真鍮《しんちゅう》製のノッカーを同じ間隔で三回たたくと、扉が開き、若者と馬は中庭へと入っていった。若者の背後で扉が閉まった。
だが、ビュブナ伯爵が二人の副官と一人の従僕とともにウィーンの城壁に到着し、プロイセン・ホテルをめざしていたころ、マリアヒルフにある家の扉がまた開いた。来たときは馬に乗っていた若者が今度は徒歩で扉から出てきた。若者は家並みにそって歩きながらあたりを見まわし、しばらくすると刃物商の店に入っていった。さまざまな形をしたナイフを長い間見比べたあとで、若者は|柄《つか》の黒い長めのナイフを選ぶと代価を支払った。
若者は店を後にすると、マリアヒルフの小さな家に戻った。そして馬丁がビュブナ伯爵の馬を|藁《わら》でこすっている間に、買ったばかりのナイフを砥石の上に横たえて念入りに|研《と》ぎはじめた。それから鉛筆を削った。切っ先と刃縁の切れ味を確認するためなのだろう。若者はノートを一枚破ると、そこに文字を書きつけた。
「プロイセン・ホテルに滞在中のビュブナ伯爵閣下へ。忠実にして献身的なしもべより。フリードリヒ・シュタップス」
十分後、馬はプロイセン・ホテルの厩舎に入り、ビュブナ伯爵の手には紙片が握られていた。
[#改ページ]
第九章 シェーンブルン宮殿
ウィーンから三キロメートルの距離、マリアヒルフを見下ろす場所の少し左にシェーンブルン宮殿が建っている。ヨーゼフ一世が創建し、マリア・テレジアが完成させた宮殿だ。
ナポレオンはウィーンに入城するたびにこの宮殿に本営を置いた。一八○五年のアウステルリッツの戦いの後も、一八○九年のワグラムの戦いの後もシェーンブルンに滞在した。そして一八一五年、ワーテルローの戦いの後は、彼の息子がシェーンブルンに入ったのである。
シェーンブルンは、レンガ壁と|尖《と》がった屋根を除くとパリ郊外にあるフォンテーヌブロー城とほぼ同じような設計になっている。主館と二つの翼があり、一対の外付き階段が正面の列柱群の上部を通って二階へと続いている。主館と並行になった低い建物は厩舎や使用人部屋にあてられており、両端が出あう場所には、間口十メートルほどもある入り口がある。そしてその両脇には内庭を囲うようにオベリスクがそそり立っている。
この入り口には橋がかかっており、橋の下にはいくつもの小さな川が流れている。これらの川はドナウ川へとそそぐのだが、それほど重要視されているわけでもないので、名前すらつけられていない。宮殿の裏には段状庭園が広がり、広大な芝生の中のひときわ高くなった場所には眺望台が見える。その両端には、陰影に富んだ魅力的な雑木林が茂っている。
一八○九年十月十二日の木曜日、ワグラムの勝者はこの眺望台にいた。そして不安そうな面持ちでいらだたしげに歩き回っていた。なぜ、不安を感じていたのだろう?
今回もナポレオンは天才を発揮した。今回も運命はナポレオンに忠実だった。だが彼は、自分の宿命の中に抵抗のきざしがあることを感じとっていた。彼は人間を相手に戦った後で、自然の力を相手に戦わねばならなかった。再び神に戦いを挑むのであれば、そのときは征服者の地位から引きずりおろされるだろう。ナポレオンはドナウ川で受け取った自然からの警告に気づいていたのである。
ではどうしていらだっていたのだろう? 七回続けて敗北したというのに、首都をとられたオーストリアが降伏しようとしないのだ。ハプスブルク家を支配者の座から追い落とせるのではないかという思いが、ナポレオンの脳裏をかすめた。ポルトガルではブラガンサ家を、スペインではブルボン家を追い落としたではないか。だが双頭の鷲の|鉤爪《かぎづめ》は、彼が思っていたよりもしっかりと帝国をつかんでいた。
それにしてもオーストリア、ボヘミア、そしてハンガリーの三つの王冠を奪い取り、オーストリア人かドイツ人の頭に載せてしまうというのは、何とも魅力的な考えだった。だが自尊心をくすぐるこの夢が実現できないことはよくわかっていた。オーストリアから四、五百万の人民と、六つもしくは七つの地域を奪うというのが、せいぜいのところだったのだ。
八月の末に最初の交渉が行われ、メッテルニヒ、ヌーゲント、シャンパニーが列席した。だが十月の十二日になってもオーストリアの外交官二名からは、確定的な返事を引き出せていない。フランス側が提示した条件は、オーストリアにとっては厳しすぎたのである。オーストリアは領土不変更の原則を主張した。
ところで領土不変更の原則とは具体的に何を言っているのか、おわかりになるだろうか? 読者諸氏のために、ここで説明しておこう。
ナポレオンはオーストリアの皇帝に、フランスが占領している土地ではなく、それらの占領地に代わる別地域の|割譲《かつじょう》を求めた。フランス軍はツナイム、ウィーン、ブリュン、プレスブルク、アデルスベルク、グラーツを占領しており、これらを譲れというのは無理な注文だったからである。
代替地を割譲すれば、九百万の人口と一万二千ないし一万五千平方リューの土地がフランスの手に渡ることになる。これはつまりオーストリア全人口の三分の一以上、全国土の四分の一以上がフランスのものになるということだ。
だがナポレオンは、徐々に条件をやわらげていき、四、五百万の人口と六、七千平方リューの土地を要求するのみになった。それでもフランツ二世にとっては厳しすぎた。とは言うもののフランツ二世は、この恐るべき征服者の心に直接はたらきかけて、彼から譲歩を引きだすにはどうすればよいかを心得ていた。
というわけでフランツ二世は外交官らの手に一件を|委《ゆだ》ねるのをやめ、ナポレオンのもとに自分の副官であるフォン・ビュブナ伯爵を送りこむことにした。伯爵は将軍であると同時に世情にも通じており、すぐれた知性まで備えていたからである。前章でわれわれは、フランツ二世が選んだ交渉役に出会った。ここでもう一度、彼の人となりを説明する必要はないだろう。
さて、ナポレオンは首を長くして新しい交渉役の到着を待ちわびていた。オーストリア皇帝がナポレオンの出国を望む以上に、ナポレオンはフランスへの帰国を望んでいたのだ。無言のままでそわそわと歩き回っていたナポレオンは、五分ごとに宮殿の方角にあるガラス戸に顔を押しつけていた。その横顔は、古代の彫像を思わせる。
交渉役の将軍がようやく姿を見せた。彼は宮殿から展望台へと続く緑におおわれた斜面を登ってくる。ナポレオンは、はやる気持ちを抑えきれなかった。こういう場合にはしかるべき手順と作法をふんで訪問者を迎えることになっているのだが、彼は自分の手で扉を開けるとフォン・ビュブナ伯爵を招き入れた。
「さあ、入ってくれたまえ、ムシュー・ド・ビュブナ」と、ナポレオンが声をかけた。「オーストリア皇帝が今回の交渉に不満なのも無理はない。外交官どもは口先でしか物を言わんのだ。商売でもするかのように、できるだけ多くの商品を売りつけようとする。軍人が平和を論じればどうなる? 戦争で決着をつけるのだよ、ムッシュー・ド・ビュブナ」
「それでしたら私は戦わずして敗北しましょう。条件をおっしゃってください。降伏のしるしとして剣をさし出します」
「それでも条件について話しあう必要がある。いいかね、私は自分に力があることを知っている。外交官どもの茶番劇に幕を引くこともできる。だからこそ、軽率だととられかねないくらいの率直さで話すつもりだ。君は私の要求を知っている。君の側では何を要求することになっているのだ?」
「陛下はザクセンを拡げ、バイエルンを強化し、アドリア海にあるわれわれの港を手に入れようとしておられます。新生ポーランドにてこ入れしたほうがよろしいのでは?」
ナポレオンはほほ笑みを浮かべると、ビュブナを制するしぐさをした。
「ロシアと仲たがいしろと言うのかね? そうだな。そうなればオーストリアにとっては都合がいいだろう。だがロシアは君たちに厚い友情を示したのだぞ。私がロシアの本当の敵であるオーストリアと戦っていても手を出してこなかったのだからな」
「陛下は議論をうまく誘導しておられます。ですが、私にも言わせてください――」
「争点がずれていると言うのかね? ムシュー・ド・ビュブナ、一日、いや一時間で合意に達することだってできるだろう。私が自分の名にかけて率直に語っているように、君が君主の名にかけて率直に語ってくれればの話だが。君の言うとおり、私はザクセンとバイエルンでさらに数百万の人口を手に入れようなどと思ってはいない。私の関心、私の本当の関心は先任者の政策を継承することにある。アンリ四世、リシュリュー、そしてルイ十四世らがやりはじめた仕事を完成させるのだ。てみじかに言えば、オーストリアの君主権をオーストリア、ボヘミア、ハンガリーの三王国に分割する。この三分割を実現するには、もう一度戦わなくてはならない。そうすれば決着がつくだろうが、名誉にかけて言えば、私はそのような事態を望んではいないのだ」
「わかりました、陛下。オーストリアと友好関係を結ぶおつもりは?」
「どのような方法でだ?」
「陛下、平和を築くには二つの方法があります。ひとつめは、陛下の力と寛容さにかかっています。つまり、オーストリアから奪った土地のすべてをオーストリアに返還されるという方法です。オーストリアを戦争前のような強国に戻し、オーストリアの忠誠と感謝をかち得るというものです。いまひとつの方法は、言いにくいのですが、こちらは狭量で危険で残酷です。この方法は失墜した大国にとってはほとんど利益とはならず、大国を失墜させた強国にとってはますます利益とはなりません――」
「失礼だがちょっと待ってくれたまえ、ムッシュー・ド・ビュブナ。アウステルリッツの戦いが終わると、オーストリア皇帝が私の野営を訪れた。その後で私は最初の方法を実現しようと努力したのだ。フランスとは二度と戦わないという彼の言葉にしたがって、私は戦争をやめようと努力した。フランスとは二度と戦わないという彼の言葉にしたがって、私は戦争で得た若干の土地を除いてオーストリアの領土を回復した。その後で私は、恒久的な平和が訪れると信じていたのだ。少なくとも私にはそう思えた。だが私がイギリスとスペインを相手にしたとたん、約束が|反故《ほご》にされたことに気づいた。誓いの言葉も守られなかった。
これ以上オーストリア皇帝の言葉を信じることはできない。私がオーストリアと戦ったのは個人的な理由からではない。私が信用していないのは、オーストリアではなくてオーストリアの皇帝なのだ。その証拠が必要かね? フランツ二世は、王冠はいらない、退位したいなどと言い続けている。よろしい。フランツ二世は退位し、私と友愛の絆で結ばれているヴュルツブルク大公に王位をゆずるのだ。大公はイギリスの言いなりにはならないと心に決めている。フランツ二世を退位させたまえ。そうすれば私はウィーンを出て、私が獲得したすべての土地を彼の後継者に与えよう。そしてオーストリアに課した二億の賠償金のうち、未払いの一億五千万についてはこれを要求せず、すでに受け取った五千万を返却しよう。確実な言葉があれば、さらに数百万を上乗せしよう。いや、それだけではなく、チロルも返還する」
「陛下」とビュブナ伯爵が口を開いた。ひどく困惑している。「陛下がお示しになった平和のための最終条件を聞けば、フランツ二世陛下はまちがいなく退位されるでしょう。自分の頭上で王冠が粉々になるのを見るよりも、後継者のもとで帝国を維持する方を選ばれるはずです」
「私の意図を正しく理解してもらいたい。君は最終条件と言ったが、これは私の最終条件でもなければ絶対条件でもない。これは仮定なのだ。君主間の礼儀にしたがって、押しつけがましいことは言わないでおこう。退位するというのがオーストリア皇帝の意向ならば、オーストリアにとってはおおいなる幸福が訪れるだろう。だが私はそのような結果を予想してはいないし、オーストリアの寛大さにも期待していない。というわけで最初に提示した条件に戻らなければならない――」
「条件をゆるめてください!」
「よし、条件をゆるめよう。だが領土不変更の原則は適用しないでおく。私はボヘミアの三地区を要求した。これは問題外だ。私は上オーストリアからエンス川にいたる土地を求めた。だが、エンス川はあきらめる。カリンシアの一部は断念し、フィラッハだけにする。クラーゲンフルトは返還するがカルニオレとザクセンの右方からボスニアにかけての地域は手元におくことにする。私は、ドイツの二百六十万人を要求した。だが百六十万人にしよう。残るはガリツィアだ。私を援けなかった同盟者に対しては、何らかの処置が必要だ。これは正しい。だが、その同盟者は私を裏切ったわけではない。私はガリツィアを大公国に加えるつもりだ。この点に関しては双方ともに不都合はない。どちらもが欲しがらない土地だからな。
だがイタリアとなると話が違ってくる。トルコへと通じる大街道が必要なのだ。三十万の軍と三百の大砲を通さねばならない。トルコ政府に働きかければ地中海を掌握することができる。オスマン帝国と国境を接していなければ、相手に影響力をふるうことはできない。土地が必要だ。だが地中海や大西洋をおさえてイギリスに立ち向かおうとするたびに、君の主君のせいで私の指の間からイギリス人がするりと抜けてしまうのだよ。
同盟国のことはこのくらいにして、私とフランス帝国の話題に戻ろう。アドリア海とイリリア地方については、私の要求をのみたまえ。その他に関しては話しあおう。だが私の真意を理解してほしい、ムシュー・ド・ビュブナ。これが私の最終条件だ。さあ、もう行きたまえ。戦争再開の命令を出すつもりだ。ワグラム戦後、我が軍は日々増強されている。歩兵は申し分のない状態で休息も十分、今までにないほど士気が高い。騎兵用の軍馬はドイツで補充した。大砲五百門の移動準備が完了し、別の三百門は占領地に配備されている。ザクセンとボヘミアでは、ジュノ、マッセナ、ルフェーヴルが八万を指揮している。ダヴー、ウディノ、親衛隊をあわせると十五万になる。これだけの軍勢を引き連れてプレスブルクから出発し、二週間のうちにハンガリーの心臓部まで進出、オーストリアの王家に最後の一撃をお見舞いしよう」
「陛下」とビュブナが口をはさんだ。「陛下は率直さの見本を示されました。私たちとしてもすべてを奪い去る戦争をこれ以上経験したくありません。それでも戦争と同じくらい危険な平和よりは、戦争を選びます。陛下は二十三万の軍について話されましたが、私たちには三十万の軍があります。ですが陛下と戦えるような将軍がおりません。陛下、どうか私たちの要求を寛大な心で受け入れ、最後の条件をお示しください」
「ムシュー、ペンをとって書きとめてくれ」
ビュブナ伯爵は椅子に座るとペンを持ち、口頭による最後通牒を筆記した。
「・イタリアについて。
クラーゲンフルトを除くフィラッハ地区、つまり北アルプスへの通路。加えてライバッハとサヴァ川右岸からボスニアにいたる地域。
・バイエルンについて。
パッサウとリンツ間に引かれた一線を境界とする。起点はエーファディンク近くのドナウ川、終点はシュヴァンシュタット。グミュントを同地域に割譲し、キーム湖からザルツブルクに至る地域を含める。
・ボヘミアについて。
私が指定する重要でない飛び地。および人口五万以下の土地。
・ガリツィアについて。
新ガリツィア、左はヴィストラ川とピリツァ川、右はヴィストラ川とブーグ川にいたる地域。ザモスクはクラコフ近隣地以下の面積とする。ただしヴィエリチカの塩田を含める」
「このとおりだ」とナポレオンが続けた。「イタリアとオーストリアについては百六十万人ではなく、百四十万人で満足することにしよう。さらにガリツィアについても三百万人ではなく、二百万人におさえる」
「では陛下は、これ以外の要求は放棄されるのですか?」とビュブナ伯爵がすぐに訊ねた。
「とんでもない! 君はわかっていないようだな。調整しなければならない点が二つ残っている。最初のものは――」
ビュブナ伯爵はペンを持って待機している。
「書かなくてもいい」とナポレオンが言った。「重要な二点は、君の主君と私が書簡でやりとりする。その他の点については、私が君に求めたことはさしてこみいっているわけではない。それに君は記憶力がよさそうだ。いいかね、私はオーストリア軍の兵力を十五万にまで削減する。これは私の希望ではない。私は必ずそのとおりにする。そしてオーストリアは賠償金として一億を支払わなければならない。私が今までに受け取ったのはその半分だ」
「陛下、それは厳しい要求です」
「だろうな」
「いずれは元の兵力に戻していただかないと」
「まあ、聞きたまえ。私は君の主君のために段取りをつけているのだ。元の兵力に戻す件だが、これはイギリスの出方にかかっている。
イギリスが平和、それも確実で恒久的な平和を約束するのなら、オーストリアが五十万の軍を持つことを許可しよう。つまり今回の戦争が開始する前に君たちが持っていた兵力だ」
「陛下」と言いながらビュブナが立ち上がった。「返事はいつお持ちしましょうか?」
「ムッシュー」とナポレオンが答えた。即座に心を決めたのである。「戻ってきても無駄足になるだろう。私はここにはいない」
「どこかに行かれるのですか?」
「スティリアだ」
「ご出発はいつ?」
「明日だ。最終条件は君に伝えたとおりだ。私はムッシュー・シャンパニーに全権を委任している。戦いが避けられないようであれば、私は戻ってくる。だが、ムッシュー・ド・ビュブナ、はっきり言っておくが、私をここに戻らせたりすれば|災《わざわ》いがおこるぞ」
「陛下は出発されるのですか?」とビュブナは呆然としながらくりかえした。
「そうだ! 出発する。私といっしょに来たまえ、ムッシュー・ド・ビュブナ。宮殿の庭を通っていこう。軍隊に出立の挨拶をする」
今回ばかりはビュブナ伯爵も納得した。ナポレオンは本当にここを出ていくのだ。彼は立ちあがり、自分が書いた紙片をポケットに入れるとナポレオンの後についていった。二人は芝生に覆われた斜面を下り、宮殿の中を通りぬけると前庭に面した外付き階段の所まで出ていった。
前庭には人々が集まっている。ナポレオンは外付き階段の中央部にあるバルコニーに近づいていった。ナポレオンの右にはビュブナ伯爵、左にはベルティエ元帥がいる。ナポレオンよりも三段下の階段を昇っていくのは、副官のラップだ。
兵士たちが「皇帝万歳!」と叫びながらバルコニーの下を行進していき、方陣隊形になって整列した。ナポレオンはビュブナに向かってついてこいという合図を送ると、階段をおりて方陣の中に入っていった。
ラップはナポレオンの先を歩いた。まるで前もってナポレオンが何かを恐れていると聞かされたかのようだ。この数か月間、ラップは同じ行動をとっていた。そしてベルティエは、四六時中、警戒を怠らなかった。アーベンスベルクの古城で開かれた秘密集会から、暗殺者が送り出されているのだ。
ナポレオンの通り道をあけるために人垣が引くと、左右に離れていく人々の間から一人の若者がやにわに前に出てきた。ラップはぴかりと光る物体があることに気づいた。彼は腕を突き出すと、ナイフを握った手の袖をつかんだ。
「シュタップス!」とビュブナが叫んだ。「ああ、陛下、陛下――」
「どうかしたのか?」とナポレオンが声をかけた。にこやかな表情だ。
「青年が陛下を暗殺しようとしたのです。ご覧にならなかったのですか?」
「私にはそういったことは見えない。フランスが私を必要としているのなら、私の使命が私の防具となる。フランスが私を必要としないのなら、神が私の運命を定めるだろう」
ナポレオンは暗殺者についてそれ以上は何も言わなかった。ラップが犯人を憲兵に引き渡した。ナポレオンはおちつきはらって方陣の中に入っていった。アーベンスベルクで銃弾が帽子を貫通したときも、ラティスボンで足に負傷したときもそうだった。
だがナポレオンは低い声でベルティエに言った。
「ムッシュー・ド・ビュブナは彼の名前を知っている」
「どうしてそう思われるのですか?」
「彼を見たときに名前を口にした」
「何と言ったのです?」
「シュタップス」
[#改ページ]
第十章 賢者
閲兵式が終ってビュブナ伯爵がシェーンブルンを後にした二時間後、ナポレオンはわれわれが朝方に彼を見かけた眺望台に戻っていた。だが今回は一人ではなく、五十歳くらいの黒服を着た男と一緒だった。男の目線は鋭く、知性が感じられる。ナポレオンは彼と親しげに言葉をかわしていた。侍医のコルヴィザールだった。
「陛下を診察するようにと言われて、腰が抜けそうでした」と、この有名な医師が言った。「陛下をねらった暗殺計画のうわさが広まっていましたから、負傷されたのではないかと思ったのです」
「ご足労をかけたな、先生。君も見てのとおり、騒ぐようなことではない。君を呼んだのは私のためではないのだよ」
「というと、誰のために?」
「暗殺未遂者だ」
「とりおさえられるさいに重傷を負ったとか? あるいは自殺を図ったのでしょうか?」
「拘束時の傷については万全の配慮でとりおさえたから、かすり傷ひとつ負っていないはずだ。自殺を図ったとも聞いていない」
「ではどうして私を呼ばれたのですか?」
「昨日、ムシュー・ド・ビュブナがたまたまその若者の道連れになり、先を急ぐ相手のために馬を貸し与えた。彼の言葉を聞いてその若者に興味を持ったのだ」
「陛下を暗殺しようとした人間にですか?」
「おかしいかね? 私は不動の決意というものを高く評価しているのだよ、コルヴィザール先生。私が見るところでは、フリードリヒ・シュタップスにはこの美点が備わっているようだ。シュタップスがいだく不動の決意は美点なのか、それともただの|偏執《へんしゅう》なのか、つまり彼は愛国者なのかそれとも狂人なのかを知りたい。君の目で見きわめてほしいのだ」
「やってみましょう」
「彼に関しては女性をめぐる興味深い一件がある。なるほどと思わせる話なのだが、私たちにはかかわりのないことだ」
「要するに陛下は、彼を救う口実をさがしておられるのですか?」
「そうかもしれんな」
「わかりました。彼に会ってみましょう」
ナポレオンはラップを呼び、指示通りにしたかどうかを訊ねた。
「はい、陛下」
「では囚人を部屋に」
ラップが退出すると入れかわりに若者がやってきた。手錠をされて両脇には憲兵がいる。彼の後ろにはラップがいた。
「手錠をはずしてやれ」とナポレオンが言った。
手錠がはずされた。ナポレオンはラップの方を向いた。
「犯人とコルヴィザール医師以外は退出するように」
ラップはためらった。ナポレオンは、オリュンポスのジュピターのように顔をしかめた。ラップは二人の憲兵を先に退出させると、後に残る三人に向けて最後の|一瞥《いちべつ》を送ってから出ていった。だがサーベルの柄に手をかけたまま、扉のそばで聞き耳を立ている。
ナポレオンは楕円形のテーブルの端に置かれた椅子に腰を下ろした。そのそばに立っているのはコルヴィザールだ。
「フランス語はわかるかね?」とナポレオンが訊ねた。
「少しなら」
「通訳を通すか、それとも自分の口で答えるか?」
「自分の口で答えます」
「フリードリヒ・シュタップスというのは本名かね?」
「そうです」
「出身は?」
「エルフルトです」
「ウィーンにはいつから?」
「昨日からです」
「ここに来た目的は?」
「あなたに平和を求めるため、そして平和が必要であると証しするためです」
「私が、使命を帯びていない人物の話を聞くとでも?」
「私の使命はビュブナ伯爵のものよりも神聖です!」
「ビュブナ伯爵はオーストリア皇帝のもとから来たのだぞ」
「私は神のもとから来ました」
ナポレオンは、問いかけるような目でコルヴィザールを見た。コルヴィザールは「質問を続けるように」と身ぶりで示した。
「私が君の言うことを聞かなかったとしたら、君はどうするつもりだったのだ?」と、シュタップスの方を見ながらナポレオンが質問した。
「あなたを殺します」
「私が君にどのような害を与えたと?」
「我が祖国を抑圧しています」
「君の国は私に反抗したのだ。私が勝者となった。戦争は運次第だ。アレクサンドロス大王はペルシアに勝って抑圧した。カエサルはガリアに勝って抑圧した。シャルルマーニュはザクセンに勝って抑圧したのだ」
「私がペルシア人だったらアレクサンドロスを刺していたでしょう、ガリア人だったらカエサルを刺していたでしょう、ザクセン人だったらシャルルマーニュを刺していたでしょう!」
「宗教的な熱意にもとづいて決心したのかね?」
「違います。愛国心です」
「共犯者は?」
「父親でさえ私の計画を知りません」
「今までに私を見かけたことがあるか?」
「三度あります。今が四度めです。最初はアーベンスベルク、二度めはラティスボン、三度めはシェーンブルンの庭です」
「君はフリーメーソンかね?」
「いいえ」
「光明会か?」
「いいえ」
「ドイツの秘密結社に属しているのか?」
「共犯者はいないと申しあげました」
「シル少佐を知っているか?」
「いいえ」
「ブルートゥスは?」
「どちらのブルートゥスですか? 二人います」
「そうだ」とナポレオンが言った。表情がぱっと明るくなった。「一人は父親を殺し、もう一人は息子を殺した……モローやピシュグリュらの陰謀のことは?」
「新聞で読んだだけです」
「彼らについてどう思う?」
「自分たちのために動き、死を恐れていた」
「君は女性の肖像画を持っていたそうだが?」
「その絵を取り上げないように頼んだところ、聞き入れてもらえました」
「その女性は誰かね?」
「それがどうかしましたか?」
「彼女が誰かを知りたい」
「結婚することになっていた相手です」
「愛しているのか! 君には父親がいる、婚約者もいる、それなのに暗殺者になろうと?」
「内なる声にしたがったのです、『打て!』という」
「その後で逃げるつもりだったのかね?」
「そんなことは思っていませんでした」
「どうしてそんなに厭世的なのだ?」
「宿命が私に困難な人生を与えました」
「君を|赦《ゆる》せば、どのように自由を使うかね?」
「あなたはドイツを滅ぼそうと心に決めている。私は次の好機を待ち、時を選びます。次はうまくいくでしょう」
ナポレオンは肩をすぼめた。
「コルヴィザール先生、後は君がやってくれ。この若者を診て君の意見を言ってほしい」
コルヴィザールは若者の脈を調べた。それから胸に耳をあて、次に相手の目を観察した。
「この若者はカシウスやジャック・クレマンと同じ狂信者です」
「狂人ではないのかね?」
「違います」
「熱は?」
「標準よりも脈拍数が四回多い程度です」
「平常なのか?」
「まったく平常です」
ナポレオンは若者のもとに一直線に歩み寄った。鋭いまなざしでじっと若者を見ている。
「生きたいか?」
「何のために?」
「幸せになるためにだ」
「私にはもう無理です」
「父親と婚約者のもとに帰り、心静かに暮らすと誓いたまえ。そうすれば君を助けよう」
若者は驚いた様子でナポレオンの顔を見ると、しばしの間をおいて答えた。
「実のない約束はできません」
「どういうことだ?」
「その誓いを守ることはできません」
「君は軍事法廷で裁かれることになるのだぞ。三日以内にすべてが終る」
「死ぬ覚悟はできています」
「いいかね。私は明日、出発する。君が裁かれて銃殺されるときには、私はここにはいないのだ」
「私は銃殺になるのですか?」とシュタップスが問い返した。どことなく嬉しそうだ。
「そうだ。私に誓えないというのなら、そういうことになる」
「私は神に誓っています」と、首を横に振りながら若者が言った。
「だが生を終える瞬間、君はその誓いを後悔するだろう」
「そうなるとは思いません」
「だが、そうなるかもしれない」
「そうですね。人間は弱いものです」
「そうだ。君は弱くないかもしれないが、後悔するかもしれない」
「では、私にどうせよと?」
「私が求めているとおりのことを誓いたまえ」
「誰にですか?」
「神にだ」
「それから?」
「それからこの書きつけを軍事法廷の責任者に見せるのだ」
ナポレオンは紙片に何かを書きつけると紙を折りたたんでシュタップスに手渡した。若者は紙片を受け取ると、読まずに胴着のポケットに押しこんだ。
「コルヴィザール先生、この若者は狂人ではないのだな?」
「狂人ではありません、陛下」
「ラップ!」
ラップが入ってきた。
「被告を牢獄に戻せ。彼の犯罪を裁く軍事法廷を召集しろ」
ナポレオンはコルヴィザールの方を向いた。
「先生」と、ナポレオンが問いかける。シュタップスのことなどきれいさっぱり忘れたかのような態度だった。「ひとつ、教えてもらいたい」
「何でしょうか?」
「男は四十歳になっても子どもを作れるだろうか?」
「もちろんです」
「五十歳なら?」
「作れます」
「六十歳なら?」
「時によって」
「七十歳なら?」
「できないことはありません」
ナポレオンは笑みを見せた。
「子どもが必要だ。息子が必要なのだ。あの狂人が私を殺していたなら、フランスの王冠は誰のもとに行くのだ?」
それからナポレオンは|顎《あご》を胸にうずめると低い声でつぶやいた。
「それにしても恐ろしいことがひとつある。彼らが憎悪しているのはもはや革命ではなくて、この私なのだ。彼らは私が諸悪の根源であり、世界の秩序をかき乱す者であるとしてつけねらっている。だが神もご照覧あれ、戦争を望んだのは断じて私の側ではない! それに狂信者にとりまかれ、暗殺者を送り出してくる国王たちには、私にはない切り札がある。そうだ、彼らは」とナポレオンは言葉を続けた。「彼らは王冠のもとに生まれたのだ。私が自分の孫だったらよかったのに!」
ナポレオンはどっかと椅子に腰をおろすと、両手を額にあててじっと考えこんだ。その数分間に、この|秀《ひい》でた額の奥では何がおこったのだろう? そしてこの岩のごとき堅固な精神はどのような考えに襲われたのだろう? それはナポレオンと神のみが知る秘密だった。
ややあって彼はおもむろに一枚の紙を引き寄せると、ペンをとってインクに浸した。そして指でペンをもてあそんでから、紙にペンを走らせた。
「警察大臣へ
一八○九年十月十二日 シェーンブルンにて〔*〕
今日の閲兵で、エルフルト在住のルター派牧師の息子である十七歳の若者が私に近づこうとした。士官たちが彼を押しとどめたところ、ただならぬ様子を示したので疑念をもち、彼が短剣を所持していることを発見した。
私はその若者と面談した。彼は高い教育を受けているように見えた。彼は私を暗殺し、オーストリアをフランスの手から自由にしようとしたと言った。私が見るところ、彼は宗教的もしくは政治的な狂信者ではない。この新しいブルートゥスのことをよく理解できたとは思えない。興奮状態にあったので、詳しく調べることができなかったのだ。じゅうぶんにおちついてから調べさせる。たいしたことではない可能性もある。
今回の経緯を知らせるのは、話に尾ひれがついてしまうのを防ぐためだ。この件が広まらないようにしてくれ。問題が生じれば、若者は狂人だったということにするつもりだ。このことは誰にも言わないように。閲兵はとどこおりなく終了し、私も騒ぎには気づかなかった。
ナポレオン
追伸。念を押しておくが、今回の件に問題とすべき点はまったくない」
*この自筆の手紙は現存する。暗殺未遂犯の年齢を三歳引きさげたのは、これが大人ではなくて少年の犯行であることを強調するためだったのだろうか(原注)。
それからナポレオンは鈴を鳴らして従僕を呼んだ。
「ラップを呼べ」
「将軍はこちらです、陛下」
「通せ」
ラップが入ってきた。
「ラップ。確実な使者を選び、この手紙をフーシェに届けさせろ」
ラップは軍隊式のきびきびした動作と絶対的な服従心で手紙を受け取ると、くるりときびすを返した
「フーシェにだぞ、必ずじかに渡すのだ」
[#改ページ]
第十一章 処刑
ビュブナ伯爵に告げたとおり、翌朝、ナポレオンはウィーンを出発した。その日の夕刻には、ベルティエ元帥によって軍事法廷が召集され、フリードリヒ・シュタップスに死刑が宣告されたという噂が飛びかっていた。被告はすべてを告白し、処罰を逃れようとはしなかった。判決を聞いた後は、執行猶予も恩赦も要求しなかった。
彼は牢獄に戻ると、翌日に予定されている処刑の前に連絡役の若い猟騎兵士官をよこしてくれるように頼んだ。士官の名はポール・リシャールだった。それから祈りを捧げると適当な時刻に起こしてくれるように頼み、世話になった牢番に手持ちの全財産であったフリードリヒ金貨四枚を渡した。それがすむと彼は寝台に横たわり、ポケットからメダイヨンをとりだすと何度も口づけした。そして心臓のあたりにメダイヨンを置いたまま眠りに落ちていった。
やがて牢番が囚人を起こしにきた。シュタップスはすぐに目を開け、早々に戻ってきて彼を起こしてくれた牢番に礼を言った。すがすがしい表情だった。それからやや念入りに服装を整え、優雅なしぐさでブロンドの髪をくしけずった。牢番が朝食に何を食べるかを訊ねた。
「ミルクを一杯もらえますか」
シュタップスがコップに入ったミルクを飲み干したとき、刑が執行される直前に面会を求めていた若い士官が戸口までやって来た。若い士官の顔には困惑の表情はなかったが、死刑囚が別の人間を選んでくれたらよかったのにと思っていることはまちがいない。
「僕の頼みに応じてくれてありがとう。頼みたいことがある」
「もちろん喜んで引き受けよう」
「僕たちが会ったのは今日が最初ではない。中尉」
「そうだ。今回は心ならずも報告担当官の任務を遂行することになった」
「僕が言ったのは軍事法廷での審議のことではない。僕たちはそれより前に別の場所で会っている」
「そうかもしれないが、いつどこで会ったのかまったく覚えていない」
「当然だ。僕はマスクをつけていたが、君はつけていなかった」
「何だって!」ポール・リシャールはわなわなと震えながら声をあげた。「アーベンスベルクの古城でのことか?」
「そうだ。君は一瞬だが銃殺を覚悟したのだろう?」
「僕の場合は芝居だったが、君の場合は現実だ。残念だが」
「だが君はあれが芝居だったとは知らなかったのに、最後までひるまなかった。リシャール中尉、君は勇敢な男だ。あの晩、君を獅子心のリシャールと呼んだ人物は正しかった」
若い士官は色を失った。
「僕があそこにいた理由を知っているのか?」
「知らない。だが軍人は命令にしたがわなくてはならない。正直な人間が自分の言葉にしたがわなくてはならないのと同じことだ。他のことはどうだっていい! 軍事法廷で君を見かけたとき、こう思った。『勇者はすべて兄弟だ。ここにおまえの兄弟がいるぞ、シュタップス。さあ、思いきって最後の頼みをするがいい』」
「君はまちがっていない。人間としてできることなら、許される範囲内で何でもやろう」
「簡単なことさ! 君を巻き添えにするようなことは頼まない」
「言ってくれ」
「僕には愛する女性がいる。今回のことがなかったら妻になるはずだった。彼女の父と僕の父は友人同士だ。だが僕たちが結婚することは――」
「それは君が秘密結社に入ったからだ。そこで運命が皇帝を暗殺する使命を君に与えた。そして君の愛もすべての希望を失ったのだろう?」
「違う」とシュタップスが答えた。暗い表情だ。
「続けてくれ」
「時間が迫っている……君を待たせることになる」
中尉は、そのとおりだということを伝えるためにうなずいて見せた。
「僕は、女性の肖像が描かれたメダイヨンを持っている」
「知っている」
「死を迎えるまでメダイヨンを取りあげないで欲しいと頼んだ」
「その願いはすぐに認められたよ」
「そうか。では僕が死ぬときはそのメダイヨンを胸につけておこう」そう言うとシュタップスは胸に手を置いた。
「君と一緒にそのメダイヨンも埋葬しようか?」
「いや、僕が死んだらそのメダイヨンをはずし、いつか婚約者に渡してほしい。そして僕がどのように死んだか、そして何よりも彼女のことを思いながら死んだことを話してほしいのだ」
「彼女はバイエルンにいるのか?」
「違う。あの惨劇のあと、彼女とその父親はバイエルンを離れてウォルファッハに行った。バーデン大公国にある小さな町だ。彼女はそこにいるだろう」
「わかった。処刑の時刻になったらそのメダイヨンを僕に手渡してくれ」
「メダイヨンを胸につけたまま死にたいのだ。僕が死んだ後で胸からはずしてくれ」
「女性の名は?」
「メダイヨンの裏に書いてある」
「頼みはそれだけか?」
「まだある。僕はごろつき同然の殺人者たちと一緒にされたくない。胸からメダイヨンをはずしたら、僕の右手をこじあけてくれ。紙片があるはずだ。軍事法廷の列席者と連絡をとり、裁判長を務めた大佐にその紙片を渡してほしい」
「そのとおりにする。他には何かあるか?」
「ない」
「では、僕にできるのは君の手を握り、勇気を保つようにと願うことだけだ」
「君の握手を受け入れよう。だがもうひとつのことについては、君が願ってくれるまでもないだろう。次に会うのは?」
「処刑場だ」
「広場か?」
「そうだ」
若い士官と若い死刑囚は、今生の別れとなる握手をかわした。若い士官は去っていった。シュタップスが収監されている軍用獄は、処刑が予定されている広場を見下ろす場所にあった。処刑は八時に行われる。今は七時四十五分。広場は人で埋まっていた。フランス兵もいれば、ウィーンの市民もいる。ポール・リシャールが牢獄から出てくると、人々は彼をとり囲んで死刑囚の様子を訊ねた。ポールは、死刑囚はアーベンスベルクで彼に会ったことに気づき、信頼する唯一の人物として最後の願いをかなえるように頼まれたと言った。
「今日、処刑されることにまちがいはないのか?」と、軍事法廷に列席していた大尉が質問した。
「はい、大尉殿。軍法はすみやかに執行されますから」
「それはそのとおりだ。だが大佐が彼に言っていたのだが、ベルティエ元帥に恩赦を願うこともできるそうだ。それから宣告文が読みあげられた後で大佐からじかに聞いたところでは、こういった審判ではベルティエ元帥が皇帝から全権を委任されているらしい」
「被告は、大尉が言われたようなことはやっていません」
「彼は恩赦を求めないのか?」と複数の声が質問した。
「そうです。彼は死を覚悟しているが、その理由は本人と神にしかわからない」
この時、八時が告げられて牢獄の扉が開いた。最初に軍曹が出てきた。その後に四人の兵士が続く。四人の後から死刑囚が姿を現した。彼は牢獄で上着と胴着を脱いでおり、身につけているのはシャツとズボン、ブーツだけだった。顔色は|蒼《あお》ざめているが態度はおちついている。|驕《おご》りもなければ卑下もない。冷静に死を迎えようとする男の姿だった。
彼は自分がどこに行くかを知っていた。二十歳で命を捨てることにはなったが、熱狂はまったく感じなかった。情念にかられてこのような犯罪を実行したとはいえ、死を前にした今は、作り事めいて熱に浮かされたような情念は堅い決意に置きかわっていた。こころもちひそめた眉と、唇から|顎《あご》にかけての緊張が決然とした表情を作り出し、口元にはかすかなほほ笑みが浮かんでいる。
被告に続いて銃殺班の残りが姿を見せた。六名の兵士だった。シュタップスは戸口から三歩も進まないうちに、誰かを探すかのようにあたりを見まわした。彼の目がリシャール中尉の目とあった。中尉の目が「僕はここにいる。君との約束を果たそう」と告げている。シュタップスは軽く頭をさげた。彼の顔に|一抹《いちまつ》の不安が浮かび、一瞬だけ表情がくもった。隊列は処刑場所をめざした。と、大砲の音が響いた。
「どうしたのだ?」とシュタップスが訊ねた。
「昨晩、和平条約の署名が行われた。ドイツ人に知らせるためだ」
「和平条約が?」とシュタップスがくりかえした。「それは本当なのか?」
「本当だ」
「神に感謝の祈りを」
「何を感謝するのだ?」
「ドイツに平和が戻った」シュタップスはひざまずくと、彼を囲む二列の兵士の間で短い祈りを捧げた。彼が立ちあがると、リシャール中尉が近づいてきて言った。
「気持ちは変わらないか?」
「どうしてそのような質問を?」
「恩赦を求めることもできる。認められるかもしれない――」
シュタップスは相手を制した。
「僕の頼みを覚えているだろう?」
「覚えている」
「前に言ったとおり、約束を果たしてくれるだろうね?」
「もちろんだ」
「では、君の手を」
リシャール中尉は手をさし出した。
シュタップスは自分の右手から左手に何かを持ちかえたが、中尉にはそれが何かは見えなかった。それからシュタップスは若い士官の手を心から握りしめた。ごく自然な動作だった。何の飾り気もない。リシャール中尉には、シュタップスの気力がいささかもくじけていないのがわかった。
隊列が行進を再開した。牢獄の扉から処刑が行われる場所までは三百歩ほどの距離がある。所定の場所までは十分もかからない。その間も、一分ごとに大砲の音が響いてくる。シュタップスには、先ほどの話が本当だったことがわかった。規則正しい大砲の音は重大な出来事を告げているに違いない。彼らは城壁の下に到着して停止した。
「ここか?」とシュタップスが訊ねる。
「そうだ」と軍曹が答えた。
「どちらを向いて死ぬかを選びたいのだが」
軍曹には言葉の意味がよくわからなかった。リシャール中尉が進み出た。シュタップスが同じ言葉をくりかえし、リシャール中尉が軍曹に説明した。死刑囚は西の方角を向いて死ぬことを望んでいた。アーベンスベルクの方角だった。彼の願いは認められた。
「中尉」とシュタップスが声をかけた。「要求ばかりしているのはわかっているが、僕は軍人ではないから銃殺の号令を自分で出したいとは思わない。だが僕の死に立ち会っている人々の中にいる友人に銃殺の号令を出してほしい」
リシャール中尉は軍曹を見た。
「どうぞ、中尉」と軍曹が答える。
中尉は、シュタップスの願いがかなえられたことを示すためにうなずいてみせた。
「では執行を」とシュタップスが言った。
一人の兵士がハンカチーフを持ってシュタップスに近づいた。
「中尉!」とシュタップスが声をあげた。「そんなものが必要だと思っているのか?」
リシャール中尉が合図を出した。兵士はハンカチーフを持ったまま離れていった。中尉が号令を発した。だがアーベンスベルクの古城で同じ号令を出した時ほどの決意は感じられない。
「気をつけ!」
しんと静まりかえった城壁のそばで、銃を動かす音が響いた。
「|担《にな》え、銃!」
遠くで大砲の音が響いている。
「構え、銃! ……」中尉は最後の号令をかけるのをためらった。
「撃て!」決然としたシュタップスの声が響いた。兵士たちにしてみれば、号令を発したのが中尉だろうが、死刑囚だろうがどちらでもよかった。彼らは号令にしたがった。マスケット銃が標的に向けて火を吹き、フリードリヒ・シュタップスは八個の弾丸に貫かれて倒れた。リシャール中尉は目をそむけた。
中尉は死刑囚の方に顔を向けた。ついさっきまで生きていた人間は、今やただの死体になっていた。シュタップスは左手を胸の上に置き、右手を握りしめたかっこうで死んでいた。中尉は死体のそばに近よった。
「諸君、この不運な若者は私に最後の頼みをした。彼の胸には女性の肖像を描いたメダイヨンがあり、彼の手には紙片がある」
兵士たちは中尉に道をあけた。リシャール中尉は地面に膝をつくと、フリードリヒ・シュタップスの体を動かしてシャツのボタンをはずした。髪の毛で編んだひもが見える。中尉は糸のように細いそのひもを引いた。ひもの先にはメダイヨンがあった。中尉はためらいながらメダイヨンの肖像画を見た。その瞬間、彼の口から叫び声がもれた。
「マルガレーテ・シュティッレル! ああ、恐れていたとおりだ」彼は大急ぎで死体の右手をつかむと力まかせに拳をこじあけ、折りたたまれていた紙片をとりだして広げた。紙には短い文が記されていた。
「恩赦を与える ナポレオン」
「ああ、何てことだ!」とリシャール中尉は叫んだ。「シュタップスは死を望んでいたんだ」
彼は震える手で手紙とメダイヨンを握りしめるとうちひしがれた声で言った。「僕だ。僕が彼を死なせたんだ!」
[#改ページ]
第十二章 退却
一八一二年九月十四日、祈りの丘にいたナポレオンは夏の日のまぶしい陽光をあびながら、聖なる町に輝く幾多のドームを見つめていた。彼の軍隊はボロディノの戦いで四分の一の兵力になっていたが、それでも九万の兵員を擁していた。兵士たちは手を打ち鳴らしながら「モスクワ! モスクワ!」と叫んでいる。十四年前には別の方角から東方をめざし、「ピラミッド! ピラミッド!」と叫んだのだ。
同じ日の夕刻、ナポレオンは無人のモスクワに入城した。その昔、無名のブレン(このブレンという呼称をもとに、古代ローマの歴史家たちはガリア人の首領にブレンヌスという名を与えたわけである)に率いられたガリア人たちがカピトリウムの丘〔ローマの中心となる丘〕に達したとき、そこには|象牙《ぞうげ》の椅子に腰を下ろした元老院議員らがいた。彼らは死を覚悟していたのだ。だがモスクワではそうではなかった。町に残っていたのはフランス人の商人だけだった。彼らは恐怖にひきつった顔でやって来ると、信じられない情報をもたらした。
「モスクワには誰もいない!」
同じ日の夜、叫び声があがった。ナポレオンは眠ってはいなかったので、起こされることはなかったが、この声には仰天した。
「火事だ! 火事だ!」
声を聞いたナポレオンは、クレムリンに数ある窓の一つからモスクワの市街を見渡した。バザールが炎に包まれている。最初、彼は不注意による失火だと思った。彼は、軍警察を適切に組織していなかったからだと言ってモルティエ元帥を責めた。そして、酔っ払った一人の兵士が建物に放火したのだと言いたて、その兵士を見つけしだいに銃殺せよという命令まで出した。だが、実際にはまったく違った状況が進行していると聞かされた。つまり、深夜の零時から一時のあいだに火の玉が空中からバザールに落下して燃えあがり、炎のほかにも信号らしき閃光が見えたというのである。
事実、それは信号だった。というのも、ほとんど同時に火災が発生し、市内の三か所が炎に包まれたからだ。それでもナポレオンは半信半疑だったが、次々と報告が入ってきた。証券取引所でも火災が起こり、警官の制服を着た人間が穂先にタールを塗りつけた槍で火をつけて回っていたらしい。二十軒、三十軒、いや、百軒もの家屋では、暖炉に火を入れた途端に隠されていた爆弾が爆発し、フランス軍兵士を殺傷して家を炎上させた。
よくも|悪《あ》しくも事態はさらに進展した。ごろつきの一団が|松明《たいまつ》を手に街路を駆け抜けていく。彼らは酒に酔いしれて、いやおそらくは愛国心に酔いしれながら次々と火を放っていった。フランス兵の姿が彼らの興奮をあおりたて、破壊活動に勢いがついた。彼らは松明を握りしめて放さなかったので、サーベルで腕を切り落とすよりなかった。
次々と寄せられる報告を聞くナポレオンは、心の底から驚いていた。彼は信じようとせず、あらゆる証拠を否定し、独り言を言い続けていた。
「ろくでなし! 野蛮人ども! スキタイ人!」
朝になったが、夜ほど明るくはなかった。夜は炎に照らされたが、昼は煙で薄暗かったからである。誰もナポレオンをふりむかせることができなかった。彼は窓から窓へと歩き回っては、大声で怒鳴っていた。
「火を消せ! 火を消すのだ!」
人間に対してはあれほど力強い彼の声は、自然の脅威に対しては非力だった。前にも同じようなことがあった。ナポレオンはウィーンでもモスクワと同じ声を出していた。エスリンクの戦いの前日、ドナウ川の水位が上がって橋が流された時のことだ。だがあの時は、とにもかくにもドナウ川を制することができた。水を制したように火を|鎮《しず》めることはできなかったのだろうか?
できなかった。火は見えない力を得て燃え広がり、巨大な円を描きながら近づいてきた。ナポレオンは文字通り炎の海に囲まれてしまった。民家からあがる火の手が津波のごとくうねり、たけり狂う火の海がクレムリンの城壁にも届きはじめる。
火を凝視するうちに時間ばかりが過ぎていく。一同は皇帝をとり囲むと、クレムリンから退去するように懇願した。だが、ナポレオンは窓のそばを離れようとしない。まるで、誰かが力づくで自分を連れ出すのではないかと恐れているかのようだ。夜になった。目の前まで火が迫ってきた。ナポレオンの顔も炎に照らされている。タイタン族の総攻撃を受けるジュピターを思わせる姿だった。
自分の意見なら聞いてもらえるのではないかと考えた人たちが駆けつけてきた。身近な相談役であるベルティエ元帥、義弟にあたるミュラ、義理の息子のウジェーヌ公らが皇帝に懇願した。だがナポレオンは聾唖者のごとくに押し黙っている。彼はただ一つのこと、つまり目の前の事実に感覚を集中させていた。ナポレオンは腕を組み、無帽だった。火影が映える顔で火災をにらみつけている。
突然、口から口へと話が伝わりだした。その話を聞かされた誰もが、自分が聞いたよりも短い時間で同じ話を隣の人間にくりかえしている。各人の口を経由してきた話が皇帝の耳にも届いた。
「クレムリンに火がついた!」
だがナポレオンは動じない。
「消火しろ」とナポレオンが命令した。彼らは命令にしたがい、火の手はおさまった。だが十分後には、先ほどよりもあわただしく同じ話が入ってきた。
「消火しろ、火を消すのだ!」とナポレオンがくりかえす。だが、三度めにクレムリンに火がついた時は、兵器庫の砲塔が燃えあがった。今回は放火犯を捕らえることができた。犯人は軍警察の兵士だった。放火犯がナポレオンの面前に連れてこられた。彼は、犯人を連行してきた兵士に質問を浴びせた。この兵士は命令にしたがったのです、陛下。誰の命令か? 上官です。その上官は誰から命令を? 彼の上官です。
放火の命令は上から来たものだった。ロシアの首都を燃やしたのは、頭のおかしな狂信者ではなかったのだ。犯人は上からの命令にしたがったのだ。前もって準備された計画が実行されたのである。
ナポレオンは肩をすくめると苦々しい顔になり、放火犯を連れていくように指示した。放火犯は中庭に引き出され、銃剣突撃によって処刑された。彼は笑い声をあげると、脅迫めいた言葉をロシア語でわめきながら死んでいった。その言葉を聞いていたポーランド兵が、おびえた表情で宮殿の階段を駆けのぼると、ナポレオンが閉じこもっている部屋の前までやって来た。
「クレムリンに爆弾が!」とポーランド兵が言った。「ロシア人は側近もろともナポレオン皇帝を爆殺するつもりです!」
「陛下」ウジェーヌ公が呼びかける。「人間が相手ならカエサルやアレクサンドロスのように戦えますし、神々が相手ならディオメデスやアキレウスのように戦えます。ですが、火と戦うことはできません!」
「わかった」とナポレオンは言って心を決めた。「北の階段はどこだ?」
即座に扉が開いた。案内役が大あわてで経路をさし示す。自分たちもこの場から逃げ出したいのだ。彼らは有名な北階段を降りていった。この階段は、ピョートル大帝による銃兵隊士|殺戮《さつりく》の場所として知られている。
「陛下、本営はどこに移しましょうか?」とベルティエが質問した。
「ペテルスブルクへの途上にあるペトロウスキー宮殿に移る」
猛威をふるう炎と煙、おまけに仕掛け爆弾だ。足元で火山の地鳴りがしているというのに、ナポレオンは頑としてフランスの方向には退こうとはしない。それどころか、ペテルスブルクに向けてさらに軍を進めようとしている。
だが、ペトロウスキー宮殿に到達できるのだろうか? あまりにも悠長にかまえすぎた。すでに炎に囲まれており、火災が行く手をさえぎっている。岩の壁を抜ける間道のおかげで裏口のような所に出ることができ、やっとのことでクレムリンを脱出した。だが、クレムリンから出てしまうと、今度はさっきよりも炎に近づいたどころの話ではなく、周囲はまさに火の海だった。巻きあがる煙が道を消し、灰だらけの空気のせいで満足に呼吸もできず、喉も焼けつくようだ。足まかせに歩くうちに、道らしき場所に出た。運のいいことに、そこはまさに道だった。だが、狭い上に曲がりくねり、両側からは炎が迫ってくる。
ナポレオンは徒歩で進んだ。二十人の男たちがその周囲をかためている。少しでも呼吸が楽になるようにと、ミュラとウジェーヌが帽子であおぎたてながらナポレオンの先を進んだ。その後ろにはベルティエがいる。いつもどおりだ。皇帝から離れず、皇帝の前でも横でもなく、皇帝が通ったあとをついていく。ベルティエはナポレオンの心を読みつくしているが、決して自分から行動をおこすことはない
一同は炎の壁の間をぬうようにして進んでいった。頭上には炎のアーチがかかり、足元でも火が這い回っている。燃えあがった|梁《はり》が右からも左からも落下してくる。土砂降りの雨さながらに、とけた鉄や鉛が回転しながら屋根から降ってくる。風に巻きあげられた炎が、貪欲な舌先をのばして将校の羽飾りをなめていたかと思うとだしぬけに上昇していった。まるで強風にあおられる吹流しだ。
出口を見つけるか策を講じなければ、窒息してしまう。あと五分遅かったら、誰もが地獄行きだっただろう。一瞬、来た道をひき返そうという考えが彼らの頭に浮かんだ。だが、突然、背後にあった家屋が崩れた。ひき返すにも炎に|阻《はば》まれてどうにもならない。
「前進だ!」とミュラ。
「前に進もう」とウジェーヌも声をあわせる。
「前進」とナポレオンが言った。だが両手で顔をおおいながら前方を歩いていた一団からは、首をしめられているような声が返ってきた。
「無理です、何も見えません! 火の海です!」
ちょうどその時、煙の中から叫び声が聞こえてきた。
「こちらです、陛下!」
三十歳くらいの男だ。顔に走るサーベルの傷跡は、まだ新しいと見えて青白い。男はナポレオンの左側に渦巻いていた煙の中から飛び出してきた。
「案内しろ」とナポレオンが言う。
「こちらです、陛下!」
男はもう一度煙の中に姿を消すと、くりかえした。
「こちらです、私に任せてください」
ナポレオンはハンカチーフで口を押さえた。息苦しさも限界だった。窒息して死んでしまう。
「こちらです、陛下!」と男がくりかえしている。何歩か進んだ先では、火の手がわずかに弱まっている。煙もそれほど濃くはない。朝方に燃えつくしてしまった場所に出たのだ。
担架に乗せられた将官の姿が見えた。彼らが奇跡的に脱出してきた猛火の中に突っこもうとしている。ボロディノで負傷したダヴー元帥だった。ダヴーは自分をクレムリンまで運ばせ、ナポレオンに退去を懇願するつもりだったのだ。皇帝を見たダヴーは、身を起こすと両腕を皇帝の方につきだした。ナポレオンは元帥の手を握りしめたが、冷静さを失ってはいなかった。まるでいつもどおりのことをやっているかのようだ。
ちょうどこの時、五十歩離れた場所に火薬箱を載せた輸送車が見えた。炎の中を突っきってこちらに向かってくる。
「陛下、早く通ってください!」と道案内の士官が叫び声をあげた。
「いや、通すのは火薬の方だ」とナポレオンは言い、笑いとばそうとしながら言葉を続けた。「火事のさいには、何とかして火薬を取りのける必要があるからな」
火薬箱が爆発して炎上した。皇帝の近くにいた者たちがさっと人垣を作った。二箱、三箱、四箱と次々と爆発していく。燃えあがった破片が、火の雨と化して降りそそいできた。全部で五十。一同は炎に包まれた輸送車をやり過ごすと、また先に進んでいった。ペトロウスキー宮殿の正門にたどり着くと、皇帝が訊ねた。
「われわれの先を歩いているのは、リシャール中尉ではないのか? ドナウヴェルトで君が伝令に立てた男だ。よい時に現れて道案内をしてくれた。おかげで火事から脱出できた」
「陛下、その通りです」とダヴーが答えた。「ただし、今は大尉です」
「それでは不十分だ、ダヴー。少佐にしたまえ。とりあえずは君のレジオン・ドヌール十字章を彼に授与してくれ」
ダヴーは若い士官を呼びよせると、自分の胸から金色の十字章を外して言った。
「リシャール大尉、皇帝からだ」
リシャール大尉は頭をさげた。ナポレオンは通り過ぎながら大尉に手で合図を送った。そのしぐさには「君のことを覚えていたぞ。君のことは忘れない」という意味がこめられている。若い士官はその場を離れた。皇帝のためならいつでも死ぬ覚悟ができている。思い残すことなど何もなかった。
翌日、ナポレオンは起床するとモスクワに向いた窓に駆けよった。火災が|鎮《しず》まっているか、少なくとも火勢が弱まっていることを願っていたのだが、モスクワ全市が火の海と煙の雲に包まれている。はるかな距離をこえて求めてきたモスクワ、砂漠の蜃気楼のようにどんどんと逃げていったモスクワ、やっとのことで手が届いたモスクワ、そのモスクワは今や灰の山と化してしまった。この手でつかむことができないのは、もはやツァーの軍隊だけではない。ツァーの町までが手の内から消えてしまったのである。
一八○五年、一八○六年、そして一八○九年のナポレオンならどうするだろう? 彼は果断な決断によってブーローニュの野営地を撤収し、アウステルリッツの勝利を得た。ベルリン入城の日時を宣言してチュイルリーを後にした。そしてスペインを離れるとその足でフランスを横切り、ウィーンへと進軍したのだ。
彼はペテルスブルクへと軍を進めるだろう。自分でそう言ったのだから。机の上には地図が広げられていた。地図上には、ロシア人の帝国の第二の首都にいたる道が記されている。だが、横にある机の上にはパリへの道を記した地図があった。
ナポレオンは八日後に決断を下すことにした。ペテルスブルクにいるアレクサンドル皇帝にあてた手紙の返事が戻るには、八日が必要になる。まだ九月十九日だ。空は晴れ渡っている。もう少し待ってみよう。
火災が発生してから三日後、モスクワは焼失した。だが、火は|鎮《しず》まり、焼け残ったクレムリンにいすわることはできる。皇帝はクレムリンに戻った。彼にしてみれば、モスクワに再入城するような気分だった。クレムリンからは、飢えた軍隊の惨状を見ることができた。兵士らが瓦礫の山をあさっている。
モスクワが燃えあがり、燃えつきた三日間のうちに、ミュラは追撃していたクトゥーゾフ軍の進路を見失った。だが、すぐに情報が入ってきた。クトゥーゾフは東に逃走した後、突然向きを変えて南に軍を進めていた。現在はモスクワとカルーガの間にいる。ナポレオンはミュラにクトゥーゾフ追撃を命じた。ミュラは命令を実行し、九月二十九日と十月十一日にクトゥーゾフと接敵した。
これらの戦闘がナポレオンの希望をうち砕くことになった。思いがけない知らせだった。たとえて言えば、雲ひとつなく晴れ渡った夏の日に、突如として雷鳴を聞いたときの感覚にも似ていた。この前の対オーストリア戦役を別にすると、ナポレオンが首都を制することで、戦争は終わっていた。どうして今回の戦争は今までの戦争とは違っているのだろう、どうしてモスクワは他国の首都とは違っているのだろう?
だが今回は、一つ、いや三つのことがらがナポレオンの恐怖心をあおった。これまで遭遇したことがなかったもの、つまり、三つの沈黙である。モスクワの沈黙、モスクワをとりまく荒涼たる大地の沈黙、そしてアレクサンドル皇帝の沈黙。ツァーはモスクワの大火にも動じていないようだ。ナポレオンは日数を数えてみた。すでに十一日が過ぎていた。沈黙のうちに過ぎ去った十一の日々は、十一の世紀にも等しかった。
いいではないか! 強気でいくのだ。ナポレオンはモスクワで越冬するだろう。モスクワに知事をおき、議会を組織する。軍需品調達の命令を出し、モスクワの防御をかためよう。活力の源となるパンと塩は十分に蓄える。飼養できない馬は屠殺して塩漬けにする。住居が見つからない場合は、地下室で寝泊りすればよい。パリの一流俳優が、ドレスデンの舞台に立ったようにモスクワの舞台にも立つだろう。モスクワにとどまるのは五か月間だ。五か月などあっという間に過ぎていくだろう。春になれば援軍が到着する。リトアニアが軍備を整えてフランス軍に合流し、ロシアの息の根をとめるのだ。
だが、パリでは何と言うだろう。パリ市民は、五か月の間、皇帝のことも十五万人の軍隊のことも聞かされずに過ごすことになるのだ。態度のあやふやな同盟国、プロイセンとオーストリアはどう動くだろう? ちょっとしたきっかけで敵になるかもしれない。
いつまでも夢を見ているわけにはいかなかった。十月三日、新しい決定が下った。焼け残ったモスクワに火を放ち、トヴェルを経由してペテルスブルクに向かうのだ。マクドナル元帥が主力と合流する手はずになっている。後衛部隊を率いるのはミュラとダヴーだ。
ウジェーヌがこの新計画を諸将に読み聞かせた。将軍、元帥、公爵、国王たちが顔をみあわせている。皇帝の気は確かだろうか。もちろん、気は確かだった。幸運の星が遠ざかりはじめただけだ。今までだったら、後ろにさがらなくてはならない時でも幸運の星を頭上に感じ、我が手でつかむことができた。だが、今回は幸運の星は見あたらず、手を伸ばしても|空《くう》をつかむだけだった。
だが実際のところは、ナポレオンがつかまなければならないのは幸運の星ではなく、平和だったのである。ナポレオンはコランクールを使節にたてようと思った。コランクールは外交官として二年間をロシアの宮廷で過ごし、アレクサンドルとは親しかった。彼だったらロシア皇帝から好条件を引き出せるかもしれない。だが、コランクールはこれを辞退した。コランクールはアレクサンドルをよく知っていた。ロシアの地にフランス兵の姿が見える間は、相手は一言も返してはこないだろう。
そこでローリストンに白羽の矢がたった。彼は使節となることを受諾した。ローリストンはクトゥーゾフの本営まで行って、ペテルスブルクへの通行を老将軍に求めた。だが、クトゥーゾフの権限はそこまでは及んでいない。そこでクトゥーゾフは、ヴォルコンスキ伯爵をペテルスブルクに送ることを提案した。伯爵が使者に立ったところで、結果は同じだと知っていたからである。まったくそのとおりだった。ヴォルコンスキにしてもローリストンやコランクールと同様、回答を持ち帰ることなどできないだろう。決定権を握っているのは冬だったのだ。
十月十四日。初雪が舞った。冬が来たのである。
ナポレオンはやっとのことで冬の脅威に気づいた。彼はあらゆる教会から装飾品を奪うように命令した。フランス軍の戦利品とするためである。パリの廃兵院が特別の恩恵を受けるだろう。クレムリンの巨大なキューポラに輝いていた聖イワンの金の十字架が、廃兵院のドーム屋根を飾ることになるはずだった。
十月十六日。フランス軍は移動を開始した。だが退却がはじまったわけではない。退却、それは帝国の運命が揺らいでいることを知らせる致命的な言葉なのだ。同日、クラパレード師団が戦利品や傷病兵を満載した輸送車ともども、モジャイスク街道を前進した。長旅の疲労にたえられない傷病兵らは、捨て子養育院に置きざりにされた。これらの病院にはフランス人と同じくらいの数のロシア人もいた。軍医たちはわけへだてなく犠牲者に接し、敵味方の区別なく治療をほどこした。軍医にしてみれば、誰もみな同じ人間なのだ。彼らは患者らとともに病院にとどまるだろう。
突然、それまでは遠くの方から散発的に聞こえていた大砲の音が、モスクワの近くで鳴り響いた。
皇帝はクレムリンの中庭でネイの軍団に属する師団を閲兵しているところだった。不吉な砲声はナポレオンの耳にも届いたが、彼は聞こえなかったふりをした。夕刻になっても、誰一人として恐ろしい知らせを口にしようとはしない。だが、デュロックが皇帝の居室に入っていくと、クトゥーゾフがヴォロノヴァでナポリ王を攻撃、左翼に回りこんで退路を遮断し、大砲十二門、輸送車二十台、有蓋馬車三十台を捕獲したことを伝えた。二名の将官が戦死し、四千人が戦闘不能になったと言う。ナポリ王本人も戦線を建て直そうと奮戦するうちに負傷したが、ポニャトフスキ公、クラパレード将軍、ラトゥール・モーブルグ将軍のおかげで完敗を免れたのだった。
これこそナポレオンが待ち望んでいた知らせだった。モスクワを撤収する口実がなかったのだ。だが、この知らせがそれをもたらしてくれた。クトゥーゾフを|懲《こ》らしめなければならない。
十八日の晩中、軍隊はヴォロノヴァ方面に進んだ。翌十九日には、皇帝も聖都モスクワを後にしてカルーガへと向かった。
「道で出会う者は痛い目にあうぞ!」とナポレオンは|呪詛《じゅそ》の言葉を口にした。フランス軍は三十五日間、モスクワにとどまっていた。モスクワから出ていくのは、十四万五千の兵士、五万頭の馬、五百門の大砲、二千台の砲車、四千台の輸送車、軽馬車、大型馬車、運搬車だった。
四日後。すでにモスクワから三日の行程を進んできたというのに、十月二十二日の夜半から二十三日の午前一時にかけて、猛烈な爆発音が響いて大気がびりびりとふるえた。大地も揺れている。まるで地震だ。
夜も眠らずに皇帝の警護にあたっていた人々が、ぎょっとして立ち上がった。彼らは恐れおののきながら、これほどの衝撃を与えるような何事が起こったのだろうと言いかわしている。
デュロックが皇帝の部屋に入ってきた。ナポレオンは服を着たままで横になっていた。床に入ってから一睡もしていない。デュロックが入ってくる音に気づいて、ナポレオンが頭をあげた。
「陛下、あの音を聞かれましたか?」
「ああ、聞いた」
「何事でしょうか?」
「何でもない。クレムリンが爆発したのだ」ナポレオンはそう言うと、壁の方を向いてしまった。デュロックは退出していった。
[#改ページ]
第十三章 スモレンスクへ
十一月十九日。モスクワを出発して一か月になる。
縦隊を組んだ総勢四、五千名のフランス軍が、十門ほどの大砲を引きずりながら黒々とした長い列を作って進んでいた。スモレンスクを発って一日。コリトニアとクラスノイの中ほどになる。
縦隊の横には三百の騎兵がはりついていた。彼らは別々の部隊に所属していたのだが、スモレンスクで再集結し、散々難儀した末にようやく行軍に加わることができたのである。元の連隊、あるいは軍団がどうなってしまったのかは、誰一人知らなかった。彼らはどうなるのだろう? 次の春がめぐって来たら、彼らが行進してきた雪原には何が残されているのだろうか?
さて、われわれが、最良の軍団からこぼれてきた不幸な兵士たちの姿をながめているうちに、三日前に同地点を通過していたナポレオンは、オルシャに足を踏み入れていた。皇帝にしたがうのは、本来は三万五千を数えた老親衛隊の残存部隊六千、ウジェーヌ軍四万二千の生き残り千八百、ダヴー軍七万の生き残り四千という有様だ。ナポレオンは勇気と忍耐力を示すために自ら指揮棒を手に行進したが、この|期《ご》に及んでも「大陸軍」の呼称にこだわっていた。
「ハンニバルの没落! 明日はアッティラの運命!」
十一月十四日にスモレンスクを発つ際、ナポレオンは自分に続いてウジェーヌ公、ダヴー元帥、ネイ元帥が出発することを決めていた。最初にウジェーヌ公、次にダヴー、最後がネイという順番になる。さらに各軍団の出発には一日の間隔をあけることも指示していた。つまり、ナポレオンが十四日にスモレンスクを発った後、十五日にはウジェーヌ、十六日にはダヴー、十七日にはネイが出発することになる。
ネイは放棄する大砲の砲耳〔砲身を支える部分〕を破壊し、弾薬を爆破し、落伍兵を先に進ませ、スモレンスクの城壁の四か所を破壊することになっていた。彼はこれらの指示を過不足なくやりとげるとスモレンスクを出発し、先行した三軍団のせいで荒廃しつくした道を進んでいった。
真実を言うならば、もはや軍隊ではなかった。ナポレオンが率いる親衛隊六千、ウジェーヌの千八百、ダヴーの四千しか残っていない。さらに悪いことには、彼らは飢餓に|瀕《ひん》していた。何もない雪原を三十一日間も敗走してきたのだ。自分の身を守るために必要だと判断したことをする以外には、どのような規律も存在しなくなっていた。
[#ここから1字下げ]
上官の命令も連隊旗もどうでもよい
昨日は大陸軍、今日は敗残の群れ!
今となっては右翼も左翼も中央もない
そして雪!
負傷者が死馬の下にもぐりこむ
過酷な一夜が過ぎていく
ラッパ手は無言のままで|凍《い》てついた任務につく
鞍上にかまえた姿は霧氷で覆われ
石と化した口には真鍮のラッパがはりついている!
白い粉に混じるのは銃弾、散弾、そして砲弾
|擲弾兵《てきだんへい》は震えるわが身におののきながら
灰色の口ひげも凍りつき、思いに沈んで歩いていく
雪が降り、雪が降り、北風がうなる
見知らぬ土地の雨氷の上
彼らにはパンもなく、靴もない
もはや生者ではない、軍人でもない
霧の中をさまよう夢とまぼろし
黒い空の下を進む亡者の列
茫漠とした無辺の荒野こそが
物言わぬ復讐者
空から舞う雪は音もなく降り積もり
巨大な軍隊に死装束をまとわせる
誰もが死を感じ、誰もが一人ぼっちだ……
〔ユゴーの詩、『贖罪』より〕
[#ここで字下げ終わり]
ヴィクトル・ユゴー! 偉大なる詩人にして我が親愛なる友人!
あなたは悲惨な退却行を見事に描ききった。だがわれわれはここで、別のエピソードを紹介することにしよう。
雪原を進んでいるのは、戦役開始時にネイの指揮下にあった四個師団の生き残りだった。今はコリトニアとクラスノイの間にいる。兵力はというと、わずかに四、五千の歩兵と二ないし三百の騎兵を数えるのみだ。
突然、前方を進んでいた数名の斥候が停止して地面を見つめた。現場に駆けつけたネイは、彼らの注意をひいたのが戦いの痕跡だったことを知った。雪原が血に染まっている。そこかしこに武器が放棄され、ずたずたになった死体が散乱していた。横たわる死者の長い列は、生前に隊列を組んでいた時の位置を示している。
熊の毛皮の下にぼろぼろになった親衛隊猟騎兵士官の制服を着こんでいた騎兵が、ころがるように馬からおりた。
「何てことだ! ここで戦ったのはウジェーヌ公の軍だ」
穴だらけになった騎兵帽にはプレートがついており、連隊番号が記されていた。騎兵は不安げに死体の長い列をたどっていった。|畝間《うねま》にまかれた種のように死者が横たわっている。だが、どこまで行ってもきりがない。死者の数は数千人に達していた。夜が近づいている。前進しなくてはならなかった。
昨日の朝から戦いがはじまったのだろう。兵士らが、閉じてしまった戦友たちの目を開けさせようとして声高に呼びかけても、こたえてくる負傷者は皆無だった。戦場の上を夜が通りすぎていった。零下三十度という状況にあっては、火を|焚《た》かなければ生きて朝を迎えることはできない。一、二リュー先まで静まりかえっている。見えるのは死者の姿だけだった。とりあえずは死者の列が進むべき道を教えてくれた。部隊は死者が教える道を二時間たどり、そこで行進をやめた。
ここで野営して夜をすごすことになる。|焚《た》き火の準備だ。毎晩、行進をやめた後には過酷な作業が待っていた。危険をおかして隊列から抜けては小屋を壊し、食料を持ち帰るのである。出て行く者は多かったが、戻ってくる者は驚くほど少なかった。寒さに命を落とす者もあれば、コサックの槍に貫かれる者もあった。捕虜として連れていかれる者もいた。だがこの晩はそれほどの手間をかける必要はなかった。モミの林から|薪《たきぎ》をとり、死んだ馬を食料にする。スモレンスクを発ってまだ一日しかたっていなかったから、パンも残っていた。
まっさきに戻ってきた兵士たちの中には、先ほど馬から飛びおりて死者の列をたどっていた騎兵士官もいた。だが、夜の訪れと共にオオカミの群れが近づいて来た。こいつらを追いはらわねばならない。ありがたいことに、オオカミは獣肉よりも人間の方が好物だった。馬には手をつけていない。おかげで兵士たちはじゅうぶんな食事をとることができた。
焚き火をおこし、歩哨を配置する。オオカミの遠吠えを別にすると、静かに夜がふけていった。翌日の明け方、元帥が出発の合図をだした。|鋼《はがね》の体に火の魂を宿した男だ。常に誰よりも後に休息をとり、誰よりも早く行進をはじめる。
数百名の兵士が焚き火を囲んで休んでいた。火はあらかた消えており、煙がたちのぼっていた。うとうとしている内に意識も|朦朧《もうろう》となり、知覚も麻痺して半分死んだような状態だったから、たたき起こすよりもそのままにしておく方が、時間も苦痛も少なくてすんだだろう。
部隊は行進をはじめた。一晩中、雪が降り続き、朝になってもやまなかった。彼らは磁石を使い、北に背を向けて見渡す限りの雪原の上を進んでいった。ネイが先頭を行く。リカール将軍と二、三人の将軍がその後に続いたが、彼らよりも先を進んでいる人々がいた。前衛部隊ではない。他人よりも早く目的地に到着したがっている兵士たちだった。
不意に思いがけない動きがあり、ネイの注意をひいた。先を進んでいた兵士らが、突然速度を落としたかと思うと、あわただしく集結した。もっと前を進んでいた兵士らは後戻りして後続の集団のもとに駆けこんでいる。ネイは馬を走らせると、どうしたのかと訊ねた。兵士らがさし示した方向には、おりしも小降りになった雪を透かして山なみが見えている。そこにはロシア兵が一面に展開していた。
クトゥーゾフ軍の側面に出てしまったのだ。敵の兵力は八万。ナポレオンを追撃している最中だった。雪のせいで頭を低くして進んでいたため、気づかなかったのである。だが、ロシア軍は高地に布陣しており、小人数の部隊の動きを一時間も前から目で追っていた。フランス軍は無謀にも自分からわなに飛びこんできたのだ。ロシア軍の陣は両端が近接した巨大な半円形を描いており、ネイが率いる数千人の部隊は円形競技場の中で敵に遭遇することになる。
ネイは武器を構えるように命令した。と、外套に身をつつんだ将校が敵陣からまっすぐこちらへと向かってくる。話しあいを求める使者だ。フランス軍は使者を待ちうけた。最前列から五十歩ほどの距離まで来ると、将校は帽子を掲げて振った。休戦の申し入れにやって来た使者はフランス人だった。兵士たちが口々にさけんだ。
「フランス人だ!」
前日に通りすぎた戦場で、死体をひっくりかえしながら連隊番号を確認していた猟騎兵士官が雪原を横切ってきた。戦場に転がる死体がウジェーヌ部隊のものだと気づいたあの士官である。彼は馬を前に進めると地上にとび降り、敵の使者に抱きついた。二人の士官は交互に呼びかけた。
「ポール!」
「ルイ!」
彼らは双方ともに死者の中に兄弟の姿をさがし求めてきたのだが、神のご加護のもとに今は生きて再会し、神のご加護のもとに今は生きて再会し、ふたたび相手を抱擁することができたのだった。
その間にも二人のもとには多数の兵士が駆けよってきて、両名をとり囲んだ。高地から降りてきた士官が、自分の使命を説明した。彼はウジェーヌ公の副官を務めていたのだが、隊列ごと兵士たちをなぎ倒した例の戦闘で捕虜になった。昨日に通過したあの戦場だ。そして、ネイの姿に気づいたロシア軍の老将クトゥーゾフが、降伏を勧めるために彼を送り出したのだった。
「フランス人なのに、どうしてこの使命をうけたのか?」ネイが使者に質問する。
「元帥閣下、理由を説明させてください。最初に、クトゥーゾフ元帥の言葉をお伝えし、その後で私の言葉をつけ加えます。クトゥーゾフ元帥が言われるには、尊敬すべき対戦者にごくわずかでも生存の可能性があるのならば、閣下のように偉大な将帥、名誉ある戦士に対してこのような申し出は行わなかっただろう、だが、砲百門を有する八万のロシア軍が、貴官の前と両翼に展開している。このため、クトゥーゾフ元帥はフランス軍の捕虜を使者としたのです。私をここに送り出したのは、フランス人の言葉には、ロシア将校の言葉よりも真実の重みがあると考えたからなのです」
「よろしい」とネイが言った。「ロシア軍の申し出はわかった。次は君の言葉を聞こう」
「わかりました、元帥閣下。昨日の朝、ウジェーヌ公も今と同じ申し出を受けました。その返答としてウジェーヌ公は六千の兵士と共に、八万の兵士に銃剣突撃しました」
「いいぞ! やっとフランス人らしいことを話すようになったな」
「ミロラドヴィッチが相手だったとしたら、こう言うところです。『万事休す、です。共に死にましょう』。ですが、相手はクトゥーゾフです。四分の一、三分の一、いや、半分は倒れるかもしれません。ですが、ここから逃れることはできるでしょう」
「よろしい」とネイが言葉を継いだ。「クトゥーゾフの元に戻って、最初に言うべきだったことを言いたまえ。フランスの元帥は死んでも降服しないとな」
「まさにそのとおりのことを言いました」と若い士官は答えた。それから兄に向かって言った。
「ポール、武器はあるか? 戦闘になれば敵をふりきって君と合流しよう」
猟騎兵士官は外套代わりにしていた熊皮の下から大ぶりなトルコ製の短剣を抜いた。刀身はペルシア製、柄には金線入りのダマスク象眼がほどこされている。士官は短剣を弟に手渡した。
「待っているぞ」
若い使者はネイに敬礼すると、ロシア軍の陣地にひき返した。ネイはこの中断時間を利用して、陣を組ませた。片方には、じゅうぶんに食事をとった八万のロシア軍が何列にもなって整列しており、その向こうには第二陣も見える。見事な装備の騎兵隊、強力な砲兵隊に加えて地の利もある。もう片方にいる五千の兵は兵科もばらばらで雪原で道に迷い、多数の負傷者をかかえている。誰もが寒さと飢餓のせいで死にかけている。
それがどうした! ここにいる五千の兵で八万の兵を攻撃するのだ。ネイは合図を出した。リカール師団の敗残兵千五百が先頭に立った。リカール将軍と指揮下の千五百名が戦いの火蓋を切ることになる。リカール師団に続いて、ネイと残りの部隊が前進する手はずだ。
リカール将軍は高地に展開しているロシア軍に向けて前進した。一瞬前まで|凍《い》てついて静まりかえっていた場所に轟音が鳴り響き、閃光が走った。幾つもの火山が同時に爆発したようだった。リカール将軍と千五百の兵が砲火をかいくぐって、前面の丘をめざした。渓谷に出ると首まで雪に埋まりながらそこを渡りきり、ロシア軍の戦線を攻撃する。だが、反撃をくらって渓谷まで押しもどされてしまった。
ネイも前線に出て砲火のもとに身をさらしていた。元帥は兵士を呼び集めると態勢を立て直し、先頭に立って前進した。彼は四百のイリリア人部隊に敵の側方に回って陣を奪取するように命令した。イリリア人部隊を率いるのは、例の猟騎兵士官だ。
まったく、正気のさたではない。四百の兵で八万の部隊の側方に迂回し、これをたたこうというのである。一人で二百五十人を相手にするようなものではないか! だが彼らはこれをやった。英雄たちの時代だったのだ。
ネイは三千の兵士をひき連れてロシア兵が充満した生きた要塞に攻撃をしかけ、四百のイリリア人部隊を率いたポール・リシャール大尉は側方から敵を攻撃した。ネイは兵士たちの前で長々と話したりはしなかった。彼は無言だった。何も言わずに部隊の先頭に立って前進する。全員が彼にしたがった。
敵の第一陣が銃剣突撃を受けて混乱した。第二陣はそこから二百歩の距離に展開している。
「前進!」とネイが声をはりあげた。
だが、第二陣に迫った時、三十門の大砲からの砲弾が両端に命中した。部隊は三つに寸断され、大蛇のように身をよじると後退をはじめた。やはり不可能だったのだ!
「後退! 常歩だ!」ネイが号令する。リカール将軍も声をあげる。「聞こえているか? 元帥の命令は常歩だぞ!」
兵士たちは通常の歩様で後退すると渓谷を渡り、ゆっくりとした足並みを保ったままで攻撃を開始した場所まで戻ってきた。ただ、攻撃に加わった五千名のうち、戻ってきたのはわずかに二千だった。
いや、それだけではなかった。山の斜面から四百のイリリア人部隊が降りてきた。登っていった時よりも数が増えている。彼らはフランス人とポーラント人とドイツ人からなる三百の捕虜を連れた五千のロシア軍部隊と遭遇したのだった。イリリア人部隊が死に物ぐるいの勇気を奮って敵に襲いかかると、一瞬にして雌雄が決し、ロシア軍は捕虜を残して壊走した。こうしてリシャール兄弟は再び手を握りあうことができた。
この時、ネイと二千の兵士がクトゥーゾフからの砲火をあびながら、方向を変えて隊を組みなおすのが見えた。中央突破が不首尾に終ったことに気づいたポール・リシャールは、元帥の部隊と合流する命令を出した。
ネイの部隊に残された道は? 方陣を組んで死ぬまで戦うのだ。だがイリリア人部隊が解放した捕虜の一団が到着した。彼らはクトゥーゾフのやり方を知っていた。彼らが言うには、クトゥーゾフはナポレオンとウジェーヌを通過させた、ネイも通過させるだろう。ネイは迂回するだけでよい。クトゥーゾフは追撃しないだろう、彼はロシアの冬の力を頼りにしている。冬こそは銃弾よりも速くて確実な敵なのだ。クトゥーゾフはこう言っている「冬将軍が私の総司令官だ。自分は冬将軍の副将にすぎん」
ちょうどその時、退却を支援するかのように再び雪が降りだした。ネイは瞬時に考えをめぐらせると、スモレンスクへ逆戻りするように命令した。誰もが|唖然《あぜん》として無言のまま立ちつくした。北に戻るだって? もっと寒い場所に後戻りするのか? ナポレオンから離れていくのか?
「スモレンスクをめざす。常歩だ」ネイがくりかえす。
彼らは納得した。何かの計画があるのだろう。この状況から脱出できそうだ。兵士たちは所定の位置につくと、五十門の大砲からの砲弾が降りそそぐ中を行進した。だが、敵陣からやって来たのは砲弾だけだった。
捕虜が予想した通りだった。北方のファビウス〔知恵者〕、クトゥーゾフは丘から動かなかった。ロシア軍の一隊が斜面を下り、退却する二千人に襲いかかっていたとしたら、すべては終わっていただろうに。だが、総司令官からの命令無しで動く者はいなかった。
フランス軍の敗残部隊めがけて大砲が火を吹き、降りしきる雪と同じくらいの砲弾が降りそそいだ。雪に視界をはばまれた砲手は、あらゆる方向に砲弾を飛ばしてくる。死者は硬直した四肢を突っ張るようにして横たわり、負傷者は倒れては起きあがって行進し、また倒れてはもがきながら起きあがって行進した。やがて倒れた負傷者の上には、死者と同じように雪が降り積もっていき、最後には広大な覆いが彼らの姿をすっぽりと包んでしまった。ロシアの冬がフランスの誇りに着せかけた死装束だった。
そこここに小さな隆起ができていた。最初は赤かったが、だんだんと白くなっていった。隆起の下には死者がいる。猛烈な砲撃と雪のせいで、方角を見定めることもままならない。黒い塊が目の前に見える。新手のロシア軍部隊だ。
「止まれ! 何者だ?」部隊を率いていた将軍が叫んだ。
元帥が応じる「撃て!」
「待った!」と、解放された捕虜の中にいたポーランド兵が言った。ポーラント兵は前に進むと、ロシア語で話した。
「自分たちはオンヴァロフ軍の者です。フランス軍を強襲し、渓谷で捕虜にしました」
ロシア軍の将軍は返答に満足し、部隊を通過させた。雪のせいで視界が悪く、飛びかう砲弾も混乱の原因となった。フランス軍はそのまま二リューを歩いて停止した。ウジェーヌ軍が戦った場所だった。
もはやロシア軍からの砲弾も届かず、クトゥーゾフからも見えない位置に来ていた。
[#改ページ]
第十四章 告白
後に残された負傷者の中には、ポール・リシャール大尉がいた。太腿に銃弾が命中し、同じ弾が乗馬も殺してしまったのだ。混乱のせいでルイには、ポールが倒れるところが見えなかった。ルイはずっとポールの姿を目で追っていたから、彼の姿が見あたらないことに気づいた。ポールの安否をたずねまわっていると、あるドイツ人兵士が、ポールが乗馬もろとも倒れるのを見ていたと言う。
ルイは徒歩だった。彼は声を限りにポールの名を呼びながら、部隊の後方を歩きまわった。呼びかけに答える声があった。視界をふさぐほどの雪の中を、ルイは声の方向に突進した。倒れた騎手と馬の上にうず高く雪が積もりはじめていた。ポールの足は馬の下敷きになっていた。もう片方の足は銃弾を受けて砕かれていたので、馬の下から足を引き抜くことができない。彼は心静かに死を待っていた。その時、ルイの声が聞こえてきた。
ルイは超人的な力をふりしぼると死んでいる馬を持ちあげて、ポールの足をひきずり出した。そしてポールを引きよせると子どもを横抱きにする時のような格好でポールをかかえあげ、何とかして彼を運ぼうとした。
しかしポールは、部隊についていくのは不可能だとルイに言い聞かせた。そこでルイはポールを死んだ馬に寄りかからせると、戦友たちがいる方角に向かって進みはじめた。ポールは馬の鞍袋から大型のピストル二挺をひき抜くと、接近してきたコサック兵の先頭を走る二騎の脳天にねらいを定めた。
ルイは部隊に追いついた。ロシア軍からの砲撃はやむ気配がない。ルイは騎兵といっしょに徒歩で進んだ。残っていた騎兵は百五十騎ほどだった。まっさきに弾に当たって絶命した騎兵が手綱を放すと、すかさずルイがその手綱をとった。この瞬間を待っていたのだ。ルイは死んだ騎兵の足を|鐙《あぶみ》から外して体を地上におろすと、空になった鞍に飛び乗った。馬の首をロシア軍の方向に回したかと思うと、ルイはたどってきた道をひき返した。
ルイは何度も馬をとめては声を限りにポールの名を呼んだ。ポールがいた場所には大きなモミの木があったはずだ。だが、絶え間なく降ってくる雪が目隠しとなり、十歩先に何があるかも見えない。ルイは呼び続けた。今度は呼びかけに答える声が聞こえる。ルイは声の方向をめざした。
依然として砲撃が続いている。だが、疲労に加えてあまりにも寒すぎるため、砲弾を気にかける者はいなかった。即死者は何と幸運だったのだろう! 彼らが恐れていたのは雪と寒さ、それと負傷者や瀕死の人間をむさぼりにやって来るオオカミだった。
何度も呼びかわすうちに、ルイとポールは再び相手の姿を目にすることができた。ルイはポールを抱えあげると自分の馬に乗せた。自制心からか、あるいは砕かれた足の痛みを感じなかったからか、ポールはうめき声さえもらさなかった。
ルイは手綱を持って馬を引いた。ポールは鞍頭にしがみつき、兄弟は味方の後を追いはじめた。半リューほども進んだだろうか。小石に導かれて道を進んだおとぎ話〔ヘンゼルとグレーテル〕の子どもたちのように、二人は死体や盛りあがった雪や血の痕をたどって味方のもとへと急いだ。半リューをすぎると血の痕が消えた。負傷者の歩みもここまでだった。彼らは道標に姿を変えた。血の痕は雪で覆われ、次第に見えなくなっていった。
ここまで来ればロシア軍からの弾は飛んでこない。兄弟は勘を頼りに先を進んだ。二時間がたった。スモレンスクを発ってから何も食べていなかった馬が、一歩進むごとによろめくようになり、とうとう倒れてしまった。ルイが二度、三度と馬を立たせようとする。
ポールは自分を置いていくようにルイに懇願した。ルイは無傷だし、いい外套もある、その上から自分の熊皮を着れば、味方に追いつくことができるだろう。そうすれば味方といっしょに生き残れるかもしれない。だが、ルイは肩をすぼめた。
「ポール、君にもよくわかっているはずだ。元帥は本気でスモレンスクをめざしているわけじゃない。クトゥーゾフをあざむくつもりだ。元帥はもとの道に戻ってドニエプル川に出ようとしている。そしてリアディかオルシャでフランス軍と合流するだろう」
ポールは首をふった。
「で、味方はいつひき返してくると思う?」
「今晩。遅くとも明日の朝だ」。ルイが自信たっぷりに答える。
「じゃあ、取り決めをしよう」
「どんな取り決めだ?」
「名誉にかけて守ると誓うか?」
「話してみろよ」
「明日の朝までは君の助けを受け入れる。その時までに味方が戻ってこなければ、僕を置いていくんだ」
「わかった」
「明日の朝、僕を置いていくか?」
「そうしよう」とルイは答え、性急に言葉を発するポールを制した。「取り決めは成立だ」
「では、誓いの手を」
「わかった」
「明日の朝までは君と一緒にいよう」
ルイは周囲を見回した。軍隊、おそらくはウジェーヌ公の軍がここで野営したのだろう。森閑とした中で一軒きりの小屋がまだ形をとどめていた。副王はここで夜を過ごしたようだ。ルイはポールを抱きあげると、小屋の中の一番奥まった隅まで運んでいき、それがすむと薪を求めて外に出ていった。
幽霊のように白くて貧弱なモミの木があちこちに立っており、砲弾にはぎとられた枝が散らばっていた。ルイは大きめの枝をひろうと小屋に戻り、部屋の隅にあったわずかばかりの|藁《わら》くずを集めた。
ルイの意図を察したポールは、二挺持っていたピストルの片方をさし出して点火させようとした。だがルイはピストルを持っているようにと言った。オオカミに対抗するにはピストルが要る。夜になれば小屋に近寄ってこないとも限らない。明日には必ずやコサックがやってくるだろう。
ルイは倒れたままの馬の側に行くと、鞍袋の中をさぐった。ピストル二挺だけでなく、弾薬袋の中には火薬と銃弾まで入っていた。ルイは鼻歌まじりに小屋へと戻ってきた。ポールは愛情のこもった目でルイの動きを追っていた。ポールを元気づけるため、ルイは心配事など何もないかのような晴れやかな表情を作った。
彼はよく燃えそうな枝から雪をはらいのけると、小屋の中央に積みあげ、隅にも同じように枝の山を作った。かき集めた藁を枝の下におしこむと、ポケットにあったくず紙で火薬を包み、ねじり棒を使ってピストルから詰め綿を抜く。火薬の半量を残し、銃身を紙に当てて引き金を引くと、音もなく炎が出てきた。炎は紙にくるんだ火薬に引火して燃えあがった。すかさずルイが懸命に息をふきかける。紙と藁に炎がまわり、ややあってモミの枝も火に包まれた。五分後には枝の山が燃えさかっており、火を保つ以外にはする事がなくなった。
「食い物はどうしよう」とポールが言った。
「何とかするよ」とルイが応じる。
ルイは馬が倒れている場所に戻ると、ポールから渡された例の短剣で肉片を切りとろうとした。ルイはこの短剣のおかげでロシア兵をかわすことができたのだった。だが、哀れな馬はまだ死んでいなかった。馬は自分の運命から逃れようとするかのように力をふりしぼりながら立ちあがり、火のある方向に向かってよろよろと歩きはじめた。馬は小屋の中に入ると、積みあげた緑の枝先をばりばりと食いだした。「すごい食欲だ」とルイが言った。
ルイには馬を殺す決心がつかなかった。ポールも同じ気持ちだった。弱った馬にわずかばかりの元気をつけさせれば、明日も使えるかもしれない。
ルイは、少量のブランディーが残っていたガラス瓶をポールに手渡すと、木の枝を求めてまた外に出て行った。カラマツがあった。カラマツの若枝はモミの若枝ほど苦くはない。彼はカラマツを幹ごと切り倒すと、小屋までひきずっていった。やわらかい部分は馬に与え、堅い枝と幹は薪用として火のそばにならべた。
足早に夜がやって来た。ポールが思案顔で言った。「ところで僕たちは何を食べようか?」
「だいじょうぶさ」とルイが答える。「考えがある」
出し抜けに四方八方から遠吠えが聞こえた。
「やって来たぞ」とルイ。「あれが夕食だ」
あっという間もなく、雪の上の黒い影がこちらに向かってくるのが見えた。影の中の一頭が、火を見て何度か向きを変えた。目の中で炎が燃えているかのように、二つの光が輝いている。
「そういうわけか」とポールが言った。「最初に近づいてきたやつをやっつけるつもりだな?」
「その通りさ」
「僕のピストルを使え。ヴェルサイユの工場製だ。君の武器より役にたつ」
「それはだめだ。コサックがうろついているはずだ。音を聞きつけてここにやって来るだろう」
「どうする気だ?」
ルイは鞍の下に置く布を左腕にまきつけた。カラマツの若枝を腹いっぱいにつめこんだ馬は、小屋の片隅で横になってやすんでいる。続いてルイは右手に短剣を持つとハンカチーフを使って手首にゆわえつけ、外に出ていった。そして、小屋から十歩ほどの場所にある木の後ろに隠れた。
五分とたたないうちに、大きなオオカミが人間のにおいを嗅ぎつけて近づいてきた。ルイからは五歩と離れていない。ぎらぎらとした眼でルイを見ながら歯を噛みならしている。
ルイはまっすぐオオカミに向かっていった。オオカミは後ずさりしたが、あわてた様子もなく逃げるわけでもない。若い士官を見すえたまま、隙あらばいつでも飛びかかることのできる態勢をとっている。
突然、足の下で地面が裂けたような感触がして、ルイは雪の割れ目に落ちこんでしまった。流れにはまってしまったのだ。オオカミの右足の下にあった雪はそのままだったが、ルイの下の雪はくずれていた。
ちょうどその時、ルイはとがったものが肩にくいこんできたのを感じた。とっさの判断で短剣を持った方の腕をふりあげるとほとんど同時に、食いこんでいたオオカミの牙がはなれた。生暖かい液体が顔を流れていく。ルイは短剣をぐいぐいとオオカミの胸につきさした。一瞬の苦悶のうちに戦いが終わった。
オオカミは逃げようとしたが、数歩先で雪を血にそめて横たわった。ルイはもがいているうちに膝まで水につかってしまった。岸をのぼって地面の上に出なくてはならない。短剣が役にたった。凍った地面に短剣をつきさして体を支え、どうにか水からあがることができた。ルイはオオカミのもとに駆けよった。オオカミは人間が近づいてくるのに気づき、逃げようとしたが無駄だった。ルイはオオカミの後脚を持つと小屋までひきずっていった。
「だいじょうぶか?」とポールが声をあげた。
「ああ、だいじょうぶさ。毛皮はともかく、とびきりの焼肉だ。今晩は国王も公爵も元帥も、これほどの夕食にありついているとは思えないな」
「君は血まみれじゃないか」
「僕のじゃない、オオカミの血だ」
オオカミの血にはわずかだがルイの血も混じっていた。だが、ルイはそのことは黙っていた。ルイはオオカミからはらわたを抜いて皮を|剥《は》ぐと、肉片を切り取った。ありがたいことに、フランス軍の撤退がはじまってからというもの、オオカミたちは肥え太っていた。最後にルイは火の中からおこり炭をとり出すと血がしたたっている生肉に押しあて、ポールの方を向いた。
「どうだい、僕が焼いた肉は?」
「そうだな、一杯の水があればなおいいね」
「では、君の望みをかなえよう」
ルイは馬の鞍袋をはずすと、その中に七、八個の銃弾を入れた。それから肩ひもをほどいて鞍袋を結びつけた。彼は川のそばまで行くと、表面の氷を足で割って鞍袋を流れに沈め、水をくみあげた。何頭ものオオカミが後を追ってきた。よろめいたりすれば、一瞬のうちに食い殺されるだろう。小屋からは肉を焼くにおいが煙まじりに漂い、四分の一リューほども離れた場所からオオカミたちを呼びよせていた。
ルイは何事もなく無事に小屋まで戻ると、水で満たされた鞍袋をポールに手渡した。鞍袋を受けとったポールは、普通のコップから飲むように一気に飲みほしてしまった。ルイはもう一度川まで行ったが、今度は左手で|松明《たいまつ》を持った。小屋に戻ってくるときに、臭いをかぎつけたオオカミがすぐ近くまで寄って来たため、用心することにしたのである。今度は松明のせいで、オオカミたちは近づいてはこなかった。ルイは小屋まで無事に戻ることができた。
小屋の周囲をうろつかれる程度だったら、恐れることはない。火が燃えている限り、オオカミは近づいてはこないだろう。しかもルイは、翌朝まで火を燃やし続けられるだけの木を集めていた。水と燃料は確保できた。ルイはポールの側に寄り、ほどよく焼けた肉を短剣の先に刺すと、うまそうにむさぼり食った。ロンドンきっての心地よい宿に腰を落ちつけてビーフステーキを平らげているみたいだった。だがポールは沈んだ表情でルイを見ている。
「食べないのか?」とルイが訊ねた。
「ああ。のどが渇いているだけだ」
「飲めよ」とルイが言って鞍袋をさし出した。ポールは鞍袋をうけとると、ごくごくと何度も水を流しこんだ。
「全部飲めよ」とルイが言う。「水場はそんなに遠くない」
「いや、これで十分だ」とポールは答えて言葉を続けた。「実は話がある」
ルイがポールを見つめた。
「聞こう」
「味方が元の道をひき返すだろうという君の希望は、まちがっている可能性がある」
「それ以外の方法はあり得ない」
「まあいい。だが、戻ってこないかもしれない」
「それはどうだろう」とルイが反論する。
「僕はそう思う。君にさからっているわけじゃない。でもそう思うんだ」
「それで?」ルイが不審げに訊ねる。
「明日になっても部隊が戻って来なかったら、君は部隊をさがしに行くんだ」ルイが驚いた表情を見せた。「そんなに簡単なことじゃないぞ」と言いたげだ。
「もう決めたことだ。明日の朝、もう一度話しあおう」
「わかった」
「それまでの間にうちあけることがある。君は僕よりもフランスに生きて戻るチャンスが多いからね」
「うちあけるって?」
「ああ、そうだ。僕はまちがったことをしてしまった」
「君がだって! ありえない!」
「いや、本当だ。悔いなく死ぬために――」
「どういうことだ?」とルイがさえぎる。
「つまり、ここで死ぬことになるとしても、悔いなく死んでいきたいんだ。だからそのために、君が僕のあやまちをつぐなうと約束してくれ」
「男と男の約束だ。やりとげよう」
「ドイツでの話だ。彼女は牧師の娘だった。父親はアーベンスベルク教会の牧師をしていた。皇帝が狙撃された村のことを知っているだろう?」
「ああ」
「彼女の名はマルガレーテ・シュティッレル。僕が汚してしまった相手だ」
「君がだって?」
「先に言っておこう。邪悪な行いというだけではすまない。あれは犯罪だった。どうしてあんなことをやったのかわからない。今でもずっと考えている。本当だ。弾に当たった時も彼女のことを考えていた。『天罰だ』と口走りながら倒れたんだ」
「ポール……」
「倒れたとき、かいつまんで君に話しておきたいという誘惑にかられた。今ここで詳しく話していることをだ。でも思いなおした。君を呼べば一緒に命をおとすことになる。だから何も言わなかった」
「そうだったのか。でも君がいないことには気づいていたよ」
「君は献身的な兄弟として戻ってきた。でも、ありがとうは言わないでおこう。君が僕にしてくれたことは、僕も君に返してきたからね。だが戻ってきた君を見たとき、これは神の恵みだと思った。これで自分のあやまちをつぐなうことができるかもしれない。僕は女性を汚した。無理やりに犯した。僕は戦闘の興奮で頭がおかしくなっていたんだ。彼女には恋人がいて、結婚の約束をしていた。フリードリヒ・シュタップスだよ。シェーンブルンで皇帝を殺そうとした男だ」
「シュタップス?」
「そうだ。まるで小説だ! フリードリヒとは光明会の会合で会った。僕がそこにいた理由を話す時間はない。フリードリヒは、牢獄まで来てほしいと僕に頼んだ。僕は彼に会いに行った。彼は処刑場まで同行してくれと言った。そして約束してほしいと頼まれた。自分が死んだら、胸につけているメダイヨンをはずし、右手に持っている紙の内容を読んでくれと言うのだ。それを読んでしまったら、彼に死刑判決を下した軍事法廷を取りしきっていた大佐に渡してくれと言った。僕はすべて約束すると答えた。それからフリードリヒといっしょに処刑場まで行った。彼は数発の銃弾に貫かれて倒れた」
「それで君は肖像画のついたメダイヨンをはずしたのか?」
「ああ、そうだ。メダイヨンをはずして紙の内容を読んだ。肖像はマルガレーテ・シュティッレルのものだった!」
「そうだったのか」
「まだ続きがある。紙には短くこう書かれていた。『恩赦を与える ナポレオン』」
「ポール……」
「フリードリヒは恩赦などいらなかったんだ。彼に何ができただろう! 愛する人が悪人に汚されたんだ。そして、その悪人とは僕のことなのだ」
「ポール!」
「その悪人とは僕のことなのだ」とポールはくりかえした。「わかってくれただろう? 僕が死んだら、君が僕の遺産を相続することになる。でも僕たちにはそれぞれ二十万フラン近くの財産があるから、君に僕の金は必要ないだろう。だからこうしようと思う。君が彼女を見つけることができるかどうかはわからないけれど、もしフランスに戻れたら、ドイツで彼女をさがしてくれないだろうか?」
「わかった、さがしてみよう」
「もう一度言っておく。彼女の名はマルガレーテ・シュティッレル。父親は一八○九年にアーベンスベルク教会の牧師を務めていた」
「わかった」
「彼女を見つけたら、今までのことを伝えてほしい。それから、僕が天罰を受けたこと、荒れ野にある小屋でオオカミの群れとコサックの喚声に囲まれながら、自分のあやまちを君にうちあけたこと、僕の罪を君がつぐなうと約束したこと、とは言ってもこのような罪をつぐなうことができるかどうかはわからないのだが……そして、この罪をつぐなうために僕の財産すべてをさし出すことを伝えてくれ。この肖像画が君のたすけになるだろう」
ポールは|懐《ふところ》から肖像画をとりだした。シュタップスの胸からはずしたあの肖像画だ。メダイヨンには髪の毛で編んだひもがついている。ルイはそのひもを自分の首にかけた。
「ゆっくり休めよ」
「君の手を」
「ここだ」
「眠るんだ。明日のために力をためなければ」
「眠ってもいいのか?」
「ああ。眠るんだ。僕も寝るよ」
ルイは立ちあがると、消えかけていた焚き火に|一《ひと》かかえのカラマツとモミの枝をくべた。それから燃えさしの枝を手にするとオオカミの群れにむかって放り投げた。焼き肉のにおいにひかれてやって来たオオカミたちは、焚き火を遠巻きにして集まり、半円形に小屋をとり囲んでいた。板の割れめから中の様子をうかがうものもいた。だが、オオカミの群れは眼の前に落ちてきた燃えさしに驚き、吠えかわしながら逃げていった。
小屋の中では火が明るく燃えさかっていた。ルイは外套にくるまると、ずっと眼を覚ましているつもりでポールのそばに横たわった。だが、二十五分が過ぎるころには疲れと若い時分には抗しがたい眠りへの欲求のせいで、眼と頭がぼうっとしてきた。物事の境界線が消えていき、最後には目の前も頭の中も暗くなってルイは眠りに落ちてしまった。
明け方、ルイは手を握られる感触のせいで眼が覚めた。眼を開けてみると、ポールが彼を起こそうとしている。
「ルイ、のどが渇いた」と傷を負った男がうったえた。ルイは目をこすりながら頭をはっきりさせた。バケツ代わりの鞍袋をつかむと、川の所まで出かけていく。ルイが小屋を出るとほとんど同時に、背後で銃の音がした。ルイはきびすをかえした。不吉な予感がする。太腿を砕かれていたポールが、ルイの足手まといになることを予見して自分の頭を撃ち抜いてしまったのだ。
[#改ページ]
第十五章 ドニエプル川
ルイ・リシャールの予想はまちがっていなかった。北方をめざしていたネイの心は決まっていた。ロシア軍をあざむくのだ。彼はわれわれが語ってきた話を知らない。倒れる部下が見えないように頭を高くあげ、負傷者のうめき声が聞こえないように耳をふさぎ、まっすぐに雪原を進んでいく。飛びかう銃弾にも気をとめず、道しるべの上に積もりゆく雪も意に介さなかった。
三時間後、元帥は足をとめた。村があった。他の村と同じように誰もいない。一つか二つ、あるいは三つの軍がすでに通過した後だった。扉も窓もはずされている。燃料の足しになるものはすべて燃やされていた。長居は無用だ。夜が明ける前に行進を再開しよう。ドニエプル川は行く手を流れているはずだ。だが行く手にはロシア軍がいる。まっすぐ東に向かい、直角に曲がって真北をめざせば川岸に出ることができるだろう。
九時ごろ、大砲の音が聞こえた。彼の安否を気にかけたナポレオンが、救出部隊を派遣したのだろうか? いや、違う。砲音は一定の間隔で聞こえてきた。ロシア軍だ。野営地で勝利を祝っているのだ。
橋をかけるための小船もなければ材料もない。ネイとともにいた二千の人々は、道をさがしながら進むしかなかった。だが、進行方向には八万の敵がいる。逃げおおせることなど不可能だ。あの砲声が本当に意味していたのは、今からネイを捕虜にするということだったのだ。元帥は兵士らを集めて状況を説明した。
「敵をあざむこう。明日の夜明け前に出発し、明日の夜までに主軍に合流する」
野ざらしで夜営するよりはまだましだった。小屋には扉も窓もなかったが、当座の避難所にはなった。明け方の四時、各隊の指揮官らはドラムやトランペットの合図なしで兵士たちを起床させた。
弱っている者たちを起こして出発の態勢を整えるまでに、さらに一時間の遅れが生じた。三、四百人ほどは動こうとしなかった。どのような嘆願も頼みも脅しも彼らの腰をあげさせることはできなかったのだ。左の方向に進むうち、部隊は前の晩に通ったのと同じ道に戻っていた。
行進して二時間がたったころ、先頭を行く兵士たちが急に停止した。何かを話しあっているような気配だ。ネイが駆けつけた。
「どうした? 何かあったのか」
兵士たちは雪の上の赤い点をさし示した。煙が細長く立ちのぼっている。灰色の空を背景に、黒い煙がよく見えた。コサックの前衛部隊と|鉢《はち》合わせしたのだろうか?
一人の兵士が進路をそれると、一回りして戻ってきた。彼によると煙が出ているのはぽつんと建っている小屋だと言う。どうやら農民の家らしい。近くにはロシア軍やコサックの姿はみあたらないようだ。部隊は一直線に小屋をめざした。
小屋まで二十歩の距離に近づいたとき、中から一人の男が出てくるのが見えた。両手にピストルを持っている。
「誰か?」と男が声をあげた。
「あれはフランス人だぞ!」五百人がいっせいに叫ぶ。その男は小屋の中に戻った。
男が見せた無関心ぶりを誰も理解できなかった。あのフランス人は正気を失ってしまったに違いない。どうして戦友にあんなに冷淡な態度を示すのだろう。兵士たちはさらに前進して小屋に入った。先ほどの男が死体のそばにひざまずいている。
「ルイ・リシャール大尉だ」とささやく声があった。
「兄をさがしていた」と、ポールが倒れる所を見ていたドイツ兵が言葉をたした。ネイが小屋に入ってきた。ルイが元帥を見つめて言った。
「元帥閣下、ドニエプル川をさがしておられるのでしょう?」
「そうだ」
「兄を埋葬させてください。その後で、川までご案内します」
「彼のように勇敢な兵士であっても、誰もが埋葬されずに放置されてきた。墓穴を掘るのがどれほど短い時間であろうとも、時間を浪費することになる」
「元帥閣下。昨晩、オオカミが死体をむさぼり食っているのを見ました。兄のなきがらをオオカミの餌食にしたくはありません。われわれが失う時間については、必ず取りもどしてみせます」
「つるはしかシャベルを持った工兵はいるか?」
装備品を携行していた兵士四、五人が見つかった。
「兄のために墓穴を掘ってくれた者には、熊皮とこの外套を渡そう」とルイが言った。二人の兵士が作業をはじめ、浅い穴が掘りあがった。彼らはポール・リシャール大尉のなきがらを穴の中に降ろすと土でおおった。続いて四人の兵士が墓の上でマスケット銃を発射した。モスクワを発って以来、将軍といえどもこれほどの礼をもって葬られた者はいなかった。
「では出発しましょう」とルイが声をかける。ルイは元帥を川まで案内した。昨晩、流れにはまりこんでしまった場所である。雪の上にはオオカミと自分の血がまだ残っていた。ルイは東方に流れている川を示しながら元帥に言った。
「元帥閣下、この流れはまちがいなくドニエプルにそそいでいます。この小川をたどっていけば、ドニエプルまで行くことができます」
どう考えてもまちがいなさそうだったので、誰も反対しなかった。小川にそって進むうち、無人の村に到着した。彼らは村を横切って行った。村をぬけると広い川が見えた。
「問題は川が凍っているかどうかです」とルイが言った。
「凍っているはずだ」とネイが答える。
部隊は静かに川岸に近づいた。川は凍結しているだろうか? 二千人にとっては、生きるか死ぬかの|瀬戸際《せとぎわ》だった。
川の表面は静止していた! この場所に来るまで、川の表面はゆるやかに動いていた。だが、ここで川筋が大きく湾曲しているため、流氷が一か所に集まっている。おそらくは一時間ほど前からだろう。この地点より上流でも下流でも、板状の氷が流れにそって動いていた。
「こうなったら渡河できるかどうかを確認するのみだ」と元帥が言った。「二千人の同胞のために自分の安全を犠牲にする覚悟のある者はいるか?」
元帥が言葉を終えないうちに、一人の男が凍結しきっていない川を渡ってみようと申し出た。ルイだった。兄の死にうちのめされていた彼は、捨て鉢になっていた。ルイは自分の命を運にまかせる気になっており、この危険を冒すことが賞賛に値するとは感じていなかった。
全員の目が川を渡っていくルイを見つめた。誰もがはらはらしながら息を殺している。ルイは迂回して危険を避けたりはせず、まっすぐ対岸に渡り着いた。この大胆な若い士官は期待されたとおりのことをやった。対岸では感謝の声がわきあがった。
次の瞬間、予想外のことがおこった。ルイが再び氷の上を歩いて戻ってきたのだ。往路と変わらぬ無頓着さだった。
「元帥閣下。徒歩の兵は渡ることができますが、慎重に一人ずつ渡河する必要があります。何頭かの馬も対岸に行けるでしょうが、残りは遺棄して先を急がなくてはなりません。氷がとけはじめています」
ネイはあたりを見まわした。彼が指揮する部隊には弱りきった千人ほどの兵しか残っていない。病気の者もいれば、負傷した者もいる。食糧を求めるうちに本隊からはぐれてしまったのだ。そして彼らの後方には、女性や子どもたちの一群がいる。
「集結のために三時間待とう」とネイが言った。
「今すぐ渡りましょう、元帥閣下」とリカール将軍が割って入った。「自分がここに残り、渡河を援護します」
「いや、私が最後に渡ろう。一晩中起きていたのだから、三時間寝ることにする。渡河の時間になったら起こしてくれ」
ネイは外套にくるまると雪の上で眠った。カエサルやハンニバルやアレクサンドロスも同じことをやった。彼には偉大な戦士が持つ|剛毅《ごうき》な精神と、英雄に不可欠な鉄のごとき身体が備わっていたのだ。三時間が過ぎ、ネイは起きあがった。追いつくことのできた者は全員が川岸にいた。夜明けまで二時間しかない。急がなくては。
ルイは最初に渡河した。今度もだいじょうぶだった。だが、ルイの後に続いた兵士たちの間から、氷が割れそうだという叫び声があがった。ややあって今度は氷が割れたという声があがり、兵士らが膝まで水につかっている。それ以上は叫ぶ必要がなかった。全員の耳に氷の割れる音が響いてきた。
「一度に一人だ」とネイが声を張りあげる。自己保身の感情から、彼らは命令にしたがった。兵士たちの長い列が、重みのせいでゆれ動く氷の上を渡っていく。
最初の兵士が向こう岸にたどりついた。だが凍りついた川岸が急斜面となって立ちふさがっている。まるで川まで押し戻そうとするかのようだ。彼らはいにしえのロシア大公国の地から離れようとしているのに、ロシアの地にあっては、生者を守るには死者が必要だったのだ。斜面を登る途中で何人もの兵士が足をすべらせて転げ落ちた。薄い氷は重みに耐えきれず、彼らは流れの中に消えていった。
晩の十一時ごろだった。危険な渡河が遅々として進まぬまま、すでに五時間が経過している。輸送用の馬車につめこまれた傷病兵や女性や子どもたちの一団が追いついてきた。不幸な人々は、どうあっても馬車から降りようとしない。馬車には全財産が載っていたからだ。それに、ここで馬車を離れてしまったら、この後、どうやって進めばいいのだろう。
彼らは氷が少しばかり固くなっている場所を見つけた。何頭かの馬が通過していった場所だ。元帥は馬車がその場所を通ることを許可した。二、三台が渡河を試みた。三分の一の距離までは何事もおこらなかった。と、氷が揺らぎだしたかと思うとひびが走り、叫び声があがった。だが、ひきかえすことはできない。重量のある馬車が長い間同じ場所にとどまっているのはあまりも危険だ。
彼らは馬を駆りたてた。馬は本能にさからって、揺れ動く不安定な足場の上を前進して行く。馬も人間同様、死にものぐるいになって恐怖心をおさえこみながら、荒い息で進んでいった。すでに渡り終えた者もこれから渡ろうとする者も、息をのみながら渡河中の一団に目をこらした。と、暗闇の中で定かには見えなかったが、突然、馬車が停止した。馬の足が水を蹴っている。恐怖に満ちた金切り声があがったかと思うと、苦悶のうめき声に変わっていく。声は次第に弱まっていき、最後には聞こえなくなった。惨状を見守っていた人々は恐怖に満ちたまなざしで、馬車が消えた場所を見た。氷の上には何もない。すべてが消え、すべてが深みにのみこまれていったのだ。二か所か三か所に泡が見えた。それだけだった。
大切な馬車だが捨てていかなくてはならない。人々は持ち物を選びはじめた。選択には時間がかかり、恐怖のために作業がはかどらない。母親は子どもをかかえ、負傷者は互いに支えあい、病人はやっとのことで身を引きずって行く。物言わぬ亡霊の行列だ。
三分の一が川に沈み、三分の二が川を渡りきった。ベレジナでも同じことがくり返されるだろう。それも、もっと大きな悲劇として。
真夜中までには全員が川を渡り終えるか、もしくは川に沈んだ。武器を持つことのできる兵士は千五百名しか残っていなかった。それ以外に、三、四千名の落伍兵、傷病兵、女性、子どもたちがいた。大砲を運ぼうとする者はいなかった。砲は捨てられた。
ネイは自分の言葉どおり、最後に川を渡った。元帥は対岸に着くと、敗残部隊を前進させた。ルイ・リシャールは先頭集団の中にいる。打ちひしがれた心のせいで、寒さも危険も感じなくなっていた。
四分の一リューほど行くと、ルイは腰をかがめて道に触れてみた。踏み固められた道だった。深いわだちの跡は、大砲や弾薬車や輸送車が通過したことを示している。敵軍を避けてここまで来た。寒さと戦い、人間と戦い、水とも戦った。それなのにまた戦わなくてはならない。
兵士たちの力は尽きていた。とうの昔に希望も尽きていた。だが、それがどうした! ネイの号令が響いた。「前進!」
道は村へと続いていた。奇襲をかけて村を占拠する。さまよってきた部隊は歓喜につつまれた。稲妻が走る嵐の最中に一瞬の晴れ間が見えたようなものである。モスクワを発って以来、ずっと手に入らなかったものが見つかったのだ。食料、暖かい場所、そして生きている人間。敵には違いなかったが、静寂と雪原と死だって、同じくらい恐るべき敵ではないか!
部隊はその村に二時間とどまってから行進を再開した。ここからオルシャまでは二十ないし三十リューの距離がある。オルシャまで行けばフランス軍と合流できるはずだ。
朝の十時ごろだった。ある村で休息していると(夜中の一時以来、村に出るのはこれで三度めだった)、黒々としたモミの木の森が見えた。まるで自分たちと一緒に行進しているようだ。森はざわざわと騒々しく動いている。プラトフのコサック部隊だ。ネイの軍を追ってきたのだ。千二、三百の兵士と五、六千の落伍兵の集団を軍と呼べればの話だが。
近くに別の村があった。ドニエプル川のそばだ。ネイの部隊はその村に避難した。とりあえず左側は川によって守られている。夜が明けると、六千ないし八千の兵士と二十五門の大砲が味方の右翼に追いすがってきた。だが、攻撃はかけてこない。どうしてだろう。攻撃の好機は二度、三度とあったのだ。敵の司令官は酒に酔っていた。将軍は命令を出すことができず、兵士はあえて動こうとはしなかった。神の摂理は酔っぱらいには味方しなかったのである。
だがとうとうその時になった。全力で敵に立ち向かわなくてはならないだろう。誰もがそう思った。しかしネイは敵を知りぬいていた。
ネイは兵士たちに話しかけた。みな、大急ぎで食事をかきこんでいる。「あわてなくてもいいぞ。ゆっくり食べろ。敵をくいとめるには二百もいれば十分だ」
ルイ・リシャールが集めた二百名が、元帥をとり囲んだ。ネイは正しかった。元帥と二百の兵は六千のコサック兵を寄せつけなかった。プラトフはまだ酔っぱらっているらしい。ネイはすぐに命令を出した。食事が終わり次第、出発する。一時間後、部隊はふたたび行進を開始した。
どうやらコサックは、村を占拠しようとしているらしい。部隊の最後を行く落伍兵が村はずれの小屋を後にするとすぐさま、低くかまえた槍先がきらきらと光り、大砲が火を吹いた。部隊はコサックの大軍にとり囲まれた。四方から敵が襲ってくる。
負傷者や落伍兵、畑泥棒、女性や子どもの群れは、恐怖心にあおられながら部隊の横を歩いていた。彼らは逃げ場を求め、川の方角へと部隊を押していく。
ネイは彼らに銃剣を向けるように命令した。こうすれば押し寄せる人の波をとめることができる。逃げまどっていた人々が部隊を守ることになった。足手まといとなるどころか、生きた要塞になったのだ。
槍先が左右をかき回し、砲弾が縦横に飛びかった。だが攻撃は人の波に吸いこまれ、勇気をくじくことも命を奪うこともできなかった。弱者が強者を守ったのである。まさに生きた盾だ。自らの意思によるものではなかったが、効果はじゅうぶんだった。
この間も元帥は部隊を前進させた。片側では川が防御となり、もう片側では人々の群れが盾となる。
地面の状況によっては、川筋から離れなくてはならないこともあった。コサックの一団が部隊と川の間を通り抜けていく。だが彼らは一斉射撃を受けて退散していった。弾薬を節約するため、サーベルを手にしたネイが銃剣をかまえる五、六百人の先頭に立って突撃することもあった。コサックは撃退されて、人馬もろとも川に消えていった。敵と味方、フランス人とロシア人が同じ流れにのまれて、黒海へと運ばれていく。
部隊は二日間行進を続け、二十リューを歩いた。アブの群れにまとわりつかれたウシのように、敵に包囲されながら移動を続けたのだった。
三日目が暮れていく。休息を願うかのように、人々が倒れていった。だが、立ちどまることはできない。倒れていった者たちを後に残していくしかない。友人に頼まれてその頭を撃ちぬいてやる剛毅な連中もいた。
ネイはすべてを見ていた。はりさけそうな胸を両手で押さえると、涙がこぼれないように頭を高くあげた。夜になった。彼らはモミの木の林を縫うように進んでいった。枝にふれただけで雪のかたまりが落ちてくる。突然、暗い森が明るくなった。大砲が火を吹き、音をひきながら飛んで来た弾が人と木をなぎ倒す。そのどちらもが苦悶の叫びをあげた。
部隊は後退した。混乱して列が乱れる。
「やっとお出ましだぞ」とネイが声をはりあげる。「戦友、前進だ!」
五十人の兵士がしたがった。人間の中の巨人族にしてホメロスが歌った英雄アイアスのごときこの男は、神々の思惑などものともしなかった。彼は先頭に立ち、敵から逃げだすどころか攻撃してきた相手を追いはらった。
セギュール氏は、この壮烈な退却行を格調高く書き記した。どうして彼は他の作品を書かなかったのだろう? フランス学士院が禁じたのだろうか?
そうではない。セギュール氏は自分の眼で惨状を見た。そしてその衝撃的な体験を伝えようとしたのだ。彼はトロイアの滅亡に立ちあったアイネイアスと同じことを言うだろう。
「自分はその大部分にかかわったのだ」
夜明け方、またしてもプラトフが率いるコサックの槍と銃弾に遭遇した。フランス兵は森に避難して応戦したが、隙だらけの要塞からマスケット銃を発射しても、敵を撃退することはできない。コサックは射程距離の半分程度の場所まで近づいてきた。彼らはフランス軍にぴったりとはりつきながら、兵士を血祭りにあげていく。隊列の長さまでこちらと同じだった。手をくださずとも、時間がたてばフランス兵は倒れていく。彼らはフランス兵が死んでいくのを待っているだけでよかったのだ。
ネイの部隊は砲火の下を行進し、砲火の下で足をとめ、砲火の下で食事をとった。行進の際も、停止の際も、食事の際も、兵士たちは倒れて死んでいった。死神だけは|倦《う》むということを知らなかったのである。
四度めの夜が来た。彼らは停止せずに行進を続けることにした。主軍に近づいているかもしれない。部隊には二十頭の馬と二十人の騎兵が残っていた。何千人もの死者の間を抜けながらも無傷だったルイ・リシャールがその先頭を進みながら、オルシャがあると思われる方角をめざしている。オルシャにはフランス軍がいるはずだ。
[#改ページ]
第十六章 馬のためなら王国をくれてやる!(リチャード三世)、ネイのためなら三億フランを出そう!(ナポレオン)
先に述べたとおり、ナポレオンは十一月十四日にスモレンスクを発った。初日には道が敵となった。道は、一軍を破滅させるほどに手ごわく、過酷で、悪意に満ちていた。彼らは無言のまま夜に出発した。だが、この静寂を乱す音があった。|輜重隊《しちょうたい》があげるののしり声である。馬を鞭打つ音も騒がしい。砲車や輸送車をおしあげて丘をこえるのは途方もない力仕事だった。しかもいったん登りきってしまえば、今度は人間の力では重みを支えることができずに、何台もの車がぶつかりあいながら大音響をたてて坂をころげ落ちていく。谷底にはばらばらになった車の残骸が散乱していた。
親衛隊の砲兵部隊は二十二時間をかけてようやく五リューを進んだ。軍隊は十リューの範囲に広がっていた。つまりスモレンスクからクラスノイの間ということになる。先を急ぐ兵士たちの集団がクラスノイに到着していたころ、落伍兵たちはやっとのことでスモレンスクから離れようとしていた。
コリトニアはスモレンスクとクラスノイの中間にある。スモレンスクからは五リュー、クラスノイからも五リューの地点だ。ナポレオンはコリトニアで停止するつもりだった。だがクラスノイに続く道と交差するエルニア街道にも軍隊の姿があった。フランス軍よりも秩序がよく、人数も多く、意気もさかんな一軍が、エルニア街道を進んでいたのである。兵数は九万。指揮官はクトゥーゾフだった。クトゥーゾフの先鋒隊がフランス軍よりも先にコリトニアに入ったという知らせが、ナポレオンの耳に届いた。
「コリトニアで停止する。ロシア軍を追いはらおう」とナポレオンが言った。一人の将軍が千人の兵を率いて、コリトニアからロシア軍を追いはらった。将軍の名はわからない。災厄のさなかにあっては、偉大な名前のみが記憶される。難破の際には大きな破片が注目を集めるようなものだ。
絶望、あるいは死に対する無頓着のおかげで、フランス軍の力は何倍にもなった。何事もなければ一万人がようやく達成できることを、このような状況下では五百人がやりとげる。コリトニアに入ったナポレオンの耳に、別の先鋒隊が三リュー離れた渓谷の背面に布陣しているという知らせが飛びこんできた。ミロラドヴィッチが率いる二万五千の前衛部隊だ。フランスに戻るには、十万五千の軍の間を抜けていかねばならない。
ナポレオンがこの報告を聞いたのは、コリトニアにただ一つ残っていた屋敷の中だった。この屋敷は、ナポレオンをおびき寄せるための|罠《わな》ではないかという者もいた。時を見計らって、自分を犠牲にする覚悟の農民が屋敷に近づき、隠されていた導火線に火をつけようとするのではないだろうか。そうなれば、ジュピターが天界にもたらした嵐よりもすさまじい大嵐を地上にもたらしたこの半神も、ロムルスのごとく嵐の中に消滅してしまうだろう。この話を知ってか知らずかナポレオンは、テーブルの前の椅子に座った。テーブルの上には道路地図や見知らぬ国の地図が広げてあるが、おおまかな情報しか載っていない。
そこにセバスチアニ将軍の副官が入ってきた。副官の知らせによると、所属のわからない軍の前衛部隊とクラスノイで遭遇し、道を切り開くために敵を攻撃中だという。副官は別の知らせも持ってきた。クラスノイから三リューの場所にあるリアディで、コサックの不正規部隊に所属すると思われる四つめの先鋒隊が、はぐれて行進していた兵士たちを補えたらしい。捕虜の中には二人の将軍もいた。
これらの情報から判断すると、ナポレオンの周囲と行く手にはのっぴきならない状況が展開している。この報告を受けた皇帝はスモレンスクに留まっていたウジェーヌ、ダヴー、ネイに使者を送り、出立を急がせるだろうと思われた。一万五千ないし二万の軍で二十万の大軍を相手にしなくてはならないのだ。だがナポレオンは思案に沈んだまま、何の命令も出さなかった。
翌日、軍隊は進軍を開始した。まるで、道路には敵の姿は見えないという知らせが斥候から届いたとでも言うかのようだった。彼らは事前策もとらずに縦隊を組むと前進を開始した。縦隊の中心にはナポレオンがいる。マレンゴやアウステルリッツの戦勝を導いた幸運の星が、ロシアの雪雲の中にも輝いているとでもいうのだろうか。
畑泥棒と脱走兵が前衛部隊となり、病人と負傷者が最後を進んだ。気力が感じられるのは、ナポレオンがいる場所だけだった。突然、眼の前に静止したままの戦列が現れた。雪原の上に人馬が並んで防御を固めている。
畑泥棒と脱走兵が停止した。皇帝の乗馬が彼らの動きに驚いている。ナポレオンは頭をあげると望遠鏡で黒々とした戦列をながめた。
「コサックだ。狙撃兵十二名を前に出せ。突破口を開いてそこを抜けよう」
一人の士官が十二名の兵士を率いてコサックの列に穴をあけると、驚いた鳥の群れのように部隊全体が逃げ出した。これで道から障害物が無くなった。だが左の方角から砲弾が飛んできた。砲弾は縦隊の側方に命中し、地面をえぐりながら転がって行く。全員がナポレオンを見つめた。
「どうした?」と皇帝が言った。
「陛下、あれを!」
見ると、一度に三人の兵士がなぎ倒されている。ナポレオンからは十歩の距離だ。
「あの大砲を黙らせろ」とナポレオンが言った。
負傷したエクセルマン将軍が七、八百名のウェストファリア兵を率いて、大砲の攻撃にかかった。その間にも親衛隊の生き残り兵がナポレオンの周囲に集まり、皇帝を銃弾から守っている。彼らは砲火の下を平然と進んでいった。親衛隊の軍楽隊は『家族のもとが一番』を演奏している。皇帝が手をのばすと音楽が止んだ。
「軍楽隊の諸君、『帝国に敬礼』を演奏するのだ」
砲弾の雨の中にあって、軍楽隊は気高い勇気でこれに応じた。彼らはパレードでもするかのように、おちつきはらってナポレオンが命じた曲を演奏し続けた。演奏が止むより早く砲火が止んだ。エクセルマン将軍が丘をよじ登って砲兵隊を制圧したのだ。
「見たまえ」とナポレオンが言った。「敵の力はこの程度だ」
だがこの日には、人間の敵を倒すよりも道を進むことの方が難事業だった。兵士の犠牲は百人に満たなかったが、坂道にであうたびに大砲も弾薬車も輸送馬車も捨てていかねばならなかった。不運なことに、落伍兵らは物品の略奪には時間をかけても、大砲の火門に釘をうちこむ手間まではかけなかった。捨てられた大砲は、一時間後には彼らに向かって発射されることになるだろう。
ナポレオンはクラスノイに到着した。だが彼の後方では、高台の上からフランス軍の動きを見張っていた敵軍が下方への移動を開始した。そしてミロラドヴィッチ率いる二万五千の兵が、ナポレオンと後続する三軍団の間に入りこんできたのである。
翌日、クラスノイで夜を過ごして出立する時になると、五、六リューほど離れた後方から大砲の音が聞こえてきた。ウジェーヌの軍がミロラドヴィッチに攻撃されたのだ。戦場には多くの死者が残され、遠からずしてネイが同じ場所を通りすぎることになる。われわれが見てきたようにその戦場では、ポール・リシャールが死者の中に弟の姿をさがしていたのだが、今となってはポール本人が死者となってしまった。
ナポレオンは停止命令を出した。ナポレオンがこよなく愛する義理の息子ウジェーヌは、とうの昔にポルデノーネとサッチーレでの失敗をつぐなっていた。ウジェーヌを敵の手に渡すわけにはいかない。
ナポレオンは一日中待った。だが、ウジェーヌは現れなかった。夜になると、大砲の音は聞こえなくなった。
ナポレオンは、部下の忠誠心を確保するため、声に出して今後の見通しを語った。ウジェーヌはダヴーとネイがいる方角に後退したはずである。ということは、明日になれば三軍団が一緒になってロシア軍の戦線を突破し、ナポレオンがいる本隊の後衛に合流するだろう。
夜が過ぎ、朝になったが、何も現れなかった。またしても大砲の音がする。クトゥーゾフが丘の上からネイの部隊を砲撃している音だった。前日の晩には、同じ丘でウジェーヌが敗走している。
ナポレオンは近くにいたベシエール、モルティエ、ルフェーヴルの三元帥を召集した。ベルティエを呼ぶ必要はなかった。ベルティエは決して皇帝の側を離れない。彼は皇帝の影だった。
フランス軍のすぐ後ろには全ロシア軍がいる。ロシア軍はナポレオンを包囲したと思っていた。そしてナポレオンを罠にさそいこんだと信じていた。だが、実際に包囲できたのは部下の部隊だけだった。
ロシア軍がウジェーヌやダヴーやネイと戦っている間に前進すれば、敵よりも一日、二日、いや三日は早く進むことができるだろう。そうすれば友好国であるリトアニア領内に入ることができる。ロシア軍の方は敵地に足を踏み入れることになるのだ。
だが、卑怯にも勇敢な戦友たちを見捨てていくのか? 先頭集団を救うために、仲間たちを犠牲にするのか? もろともに死を選ぶか、もしくは全員で助かる道を選ぶほうがましなのではないだろうか? ナポレオンが口にしたのは命令ではなくて質問だった。「私はこうする」ではなくて、「君たちはどうする?」だった。
答えはひとつだった。「仲間を救いに行きましょう」こうして、鉄の網に追いこまれたイノシシは向きを変えた。だがこの時、ロシアのオジャロフスキ将軍が先鋒隊を率いてリトアニアに通じる方向に現れたという知らせが入った。敵軍に背中をさらしながら、方向転換して逆戻りするわけにはいかない。
皇帝はラップを呼んだ。
「オジャロフスキの先鋒隊に向かって前進しろ。一分たりとも無駄にするな。闇にまぎれて攻撃するのだ。銃は撃つな。いいか、銃剣だけで戦うのだ。最初にここ一番の勇気を示せば、兵士らはずっとそのことを覚えているものだ」
ナポレオンが命令を出せば誰もがそれにしたがった。ラップは一言も発せずに歩いていった。だが、十歩も行かないうちにナポレオンが彼を制した。
ナポレオンは一瞬のうちに考えをひるがえした。
「いや、ここに残れ、ラップ。|小競《こぜ》り合い程度の戦闘で君を失いたくない。年があけたら、ダンチッヒで活躍してほしい。君のかわりにロゲを行かせよう」
ラップは退出すると、考えにふけりながらロゲ将軍のもとに行ってナポレオンの命令を伝えた。ラップは首をひねっていた。彼にしてみれば、どうにも理解できないことだったのだ。自分たちは十五万のロシア軍に包囲されながらもう一度ロシアの地に入っていこうとしており、誰もがまるで想像上の国ででもあるかのようにフランスのことを語っている。だが、ナポレオンは来年のことを考えており、この場所から百八十五リューも離れた場所にある傘下の都市に部下の一人を派遣するつもりでいる。そうは言っても今ここにいるナポレオンには、もはや敵に刃向かう力さえ残っていないではないか。
ロゲ将軍が出撃して銃剣突撃を敢行し、チルコヴァとマリエヴォから敵を追いはらった。痛い目にあった敵は十リューほども後退し、二十四時間はその位置を動かなかった。
真夜中ごろ、ウジェーヌの知らせが入った。だが、現れたのはウジェーヌだけだった。彼はロシア軍の間に血路を開いてここまでやって来たのだが、ネイとダヴーがどうなったかについてはまったく知らなかった。ウジェーヌが言うには、両名ともに戦闘を続けているらしい。夜間に右手の方角で大砲の音が響いていたからだ。
クトゥーゾフはフランス軍にとっては救いの神だった。この老人はロシアの風土同様に不活発だった。ロシアの冬が雪と風でフランス軍を打ちのめしているのと同じように、クトゥーゾフは敵を砲撃するだけで満足だったのだ。ナポレオンはクトゥーゾフの鈍重さと、ロゲがオジャロフスキをたたいたことで生じた動揺に乗じた。彼は、ヴィクトール元帥率いる三万の軍とシュワルツェンベルク公の予備をオルシャとボリゾフに回した。だが、ウジェーヌを見捨てなかったのと同じように、ダヴーとネイを見捨てるつもりなどなかった。ナポレオンは彼らと合流する意思を固めていたのである。ただし今回はエックミュールの時のように大勝利を得るためではなく、二人の元帥と二つの軍団の敗残兵を救うためだった。
十一月十七日、ナポレオンは翌朝五時に行動を開始するようにという命令を出した。こうして全軍、いや、軍に残っていた全員が、自分たちはポーランドをめざしているのだと思っている時、ナポレオンはポーランドに背を向けて北方に進路を変えたのだった。
「どこに行くのだろう?」と誰もが口々に叫んだ。「この道はどこに続いているんだ?」
「ダヴーとネイを救出に行く。戦友を助けるのだ!」
兵士たちは口をとじた。当然の行為だった。彼らは命令にしたがった。
ナポレオンは二人の部下をロシアから奪いかえすだろう。さもなくば彼らとともにロシアにとどまるだろう。難局を切り抜けたウジェーヌはリアディへの道を進んでいる。彼らは力を使い果たしており、行進することはできたが、戦力は失っていた。クラパレード将軍は傷病兵を率いてクラスノイの防御にあたっている。傷を負い病んではいたが、彼らは敵を一定の距離まで遠ざけ、近づいてきた敵兵を倒すだろう。
正午ごろ、ナポレオンは三つの敵軍の間に入った。右翼に一軍、左翼に一軍、そして前方にも一軍がいる。三つの軍は前進し、集まっているだけでよかった。彼らは十二万の兵士でナポレオンとその一万一千の軍をとり囲んでいる。大砲のかたわらに立ち、一日中大砲を発射し、敵兵をなぎ倒すだけでよいのだ。一兵たりとも逃がれることはできないだろう! 彼らは位置についた。大砲が静かに出番を待っている。
兵士たちには見えなかったが、フランス軍には守護者がついていた。彼らはロシア軍の前に立ちはだかった。リボリ、ピラミッド、マレンゴ、アウステルリッツ、イエナ、フリートラント、エックミュール、そしてワグラム! 世界が現代のアキレウスの弱点に気づくまでに、さらに三年が必要だった。イギリスが参戦して、瀕死のライオンの心臓に近衛騎兵の剣を突き刺す必要があったのだ。ワーテルローのくぼ地に帝国親衛隊の墓場を用意する必要があったのだ。
ついに大砲が火をふいた。後方のクラスノイから音が響いてくる。ロシア軍はナポレオンの本隊を敬遠して、クラパレードの部隊に|矛先《ほこさき》を向けたのだ。フランス軍は四方から敵に囲まれてしまった。クラスノイへの攻撃が合図だった。続いて残りの三方でも戦いがはじまった。フランス軍は前進を続けた。炎に包まれたクレムリンでも同じようなことがあった。あのときは火と戦いながら火の壁の間を進んだのだ。
突然、燃える壁が崩れた。まさに奇跡だった。ダヴーとその軍隊が壁に穴をあけたのだ! これで残るはネイのみとなった。ダヴーは彼がどうなったかは知らなかった。ダヴーが知っていたのは、ネイが一日遅れの行程にあるということだけだった。だが、これほどの砲撃を受けながら一日待つというのは不可能だった。そんなことをすれば、|窯《かま》の中の青銅のように、軍隊が溶けてなくなってしまう。
ナポレオンはモルティエ元帥を呼んだ。彼はモルティエに、クラスノイを防衛してできるだけ長い間ネイを待つようにと命令する一方、リアディとオルシャ方面への通り道を切り開こうとした。
ナポレオンは超人的な気力を奮って、四万のロシア軍の中をつき進んで行かなくてはならない。スモレンスクの方を向いている間に、ナポレオンとポーランドの間に敵がすべるように入りこんでいたのだ。
ナポレオンと皇帝親衛隊の残存部隊はクラスノイを後にした。モルティエ、ダヴー、ロゲの三名が撤退を援護する。昨日、チルコヴァとマリエヴォで前衛部隊となったロゲ指揮下の若年親衛隊が、翌日はクラスノイで後衛部隊となった。町に足を踏み入れた時、ロシアの砲兵隊に向けて二度の突撃を敢行した第一軽歩兵連隊には、五十名の兵と十一名の士官しか残っていなかった。
その日の夕刻、ナポレオンはリアディに到着した。明日はオルシャに着くだろう。スモレンスクでは二万五千の兵士と百五十門の大砲、軍資金用金庫、必要物資を確保していた。だがオルシャではわずかに一万の兵士と二十五門の大砲を数えるのみであり、金庫は略奪されていた。
もはや撤退ではない。敗走だった。後退ではない。逃走だった。
一万人がベレジナを渡河するための作業は、八中隊からなる工兵部隊を率いたエブレ将軍に|任《まか》された。ナポレオンはオルシャを発つことになるが、そうなればネイを後に残していくことになる。アウグストゥス帝は自分の軍団を返せとヴァルスに要求することができたが、ナポレオンは自分に向かってネイの軍団を返せと要求するしかない。
ナポレオンは一晩のうちに何度も扉をあけては、ネイの消息を確認した。「ネイの知らせはあったか?」
外で音がするたび、ナポレオンは窓を開けて質問した。「ネイが到着したのか?」
全員が北方に目をこらした。だが、厚くなる一方のロシアの戦列以外、何も見えなかった。全員が耳をそばだてた。だが、大砲の音さえ聞こえてはこない。墓場の沈黙があるだけだった。もしネイが生きているのなら、戦っているはずだ。彼は死んだのだ。本当に死んだという事実がもたらされたかのように、誰もが同じ会話をくりかえすようになった。
「十五日に彼と会った。彼の最後の言葉はこうだった……」「十六日に彼と会った。彼の最後の答えはこうだった……」そして、ナポレオンは言った。
「ネイ、ネイ! 私のエルヒンゲン公を、私のモスクワ公〔どちらもナポレオンがネイに授けた称号〕を取り戻すためなら、チュイルリーの金庫にある全財産を出そう!」
真夜中ごろ、ギャロップで走る馬の蹄の音が響いてきた。続いてわきあがったさけび声の中からはネイの名が聞こえる。
「ネイだと?」とナポレオンが大声を出す。「彼の知らせを持ってきたのは誰だ?」
若い士官が皇帝の前に通された。ぼろぼろになった青い制服には銀糸の縫いとりがある。ウジェーヌの副官だ。
「ああ、君だったのか! ポール・リシャールだな」
「いいえ、陛下。本官はルイ・リシャールです。兄のポールは戦死しましたが、元帥閣下は健在です」
「彼はどこだ?」
「ここから三リューの位置です。元帥は援助を求めています」
「ダヴー! ウジェーヌ! モルティエ! ネイを助けるのだ。元帥諸君、出陣だぞ。ネイの消息がわかった。これまでの損失も無駄ではなかった。ネイが戻ってきた!」
最初に姿を現したのはウジェーヌだった。
「この知らせを持ってきた士官にレジオン・ドヌール十字章を与えよう」とナポレオンが言う。
「兄のものです、陛下」と若い士官が答えながら、懐から十字章を取りだした。ポールの死後に彼が着ていた制服の胸からはずしたものだった。
「やあ、君だったのか。ルイ!」とウジェーヌが声をあげた。「よい知らせだが、使者はそれ以上だ」
「陛下」とモルティエが入ってきた。「私を行かせてください」
「私も志願します」とウジェーヌ。
「私の方がウジェーヌ公より古参です」とモルティエが言う。
「陛下」とウジェーヌが言葉を返した。「私は副王です。階級の上からも優先権があります。誰よりも先にネイの手を握るのは私です」
モルティエは一歩後ろにさがった。
「モルティエ元帥」とナポレオンが言う。
モルティエはナポレオンの手に接吻するとため息をもらした。
「いつか君を国王にしよう、モルティエ。そうすれば『階級の上からも優先権がある』と言えるようになる」とナポレオンが言った。
二時間後、ナポレオンの部屋にネイが入ってきた。ネイを見たナポレオンは両手をさしのべて大声をあげた。
「帝国の鷲は救われた。君が生きて戻ったのだからな」
ナポレオンは自分を見つめている周囲の人々に向かって言った。
「諸君、三時間前の私は、この喜びの瞬間のためになら三億フランを出しただろう。だが、神は無料でこの瞬間を恵んでくれた」
[#改ページ]
第十七章 帰還
この物語がはじまったとき、私は読者諸氏をチュイルリーにあるナポレオンの書斎へと案内した。話の上ではその三年後にあたる今回も、森閑とした薄暗がりの中で|主《あるじ》の登場を今しばらく待っていただくことにしよう。今は一八一二年十二月十八日。もうじき宮殿の主が姿をあらわすはずだ。
ちょうどこの時、レシェル街に面したチュイルリー宮に通じる門の前には、みすぼらしい四輪馬車が停止していた。十分も前から門の扉を開けようとしているのだが、誰もやってこないのである。やがて、扉をたたく音ではなくて衛兵に起こされた門番がのろのろとやって来た。騒音を立てている人物を確認するためだった。なんとそこにいたのはマムルークのルスタムだった。いつもどおりエジプト風の衣装に身を包んでいる。しびれを切らしたルスタムが声をはりあげている。
「急いでくれ。皇帝がご到着だ」
門番が門にとびつくようにして扉を大きくあけると、馬車は扉をくぐり抜けて宮殿の中庭を対角線状に突っきっていき、正面玄関の前で停止した。
二人の男が馬車から降りてきた。一人は背が高く、もう一人は中くらいの背たけだった。二人とも毛皮にくるまっている。二人は四輪馬車からおりると足早に階段をのぼっていった。二人を先導するルスタムは同じ言葉をくりかえしている。
「皇帝陛下! 皇帝陛下! 皇帝陛下!」
ナポレオンの到着と同時に、従僕が駆けつけてきた。彼は音を聞きつけて飛んできた同僚の手から燭台をうけると、ナポレオンの書斎に直行した。すべてを服従させるこの鋼のごとき人物にあっては、睡眠は二の次なのだ。
皇帝は書斎を横切っていった。三年前にはこの部屋で足をとめ、しばしの休息をとった。そして不運なジョゼフィーヌが影法師のように軽やかにナポレオンのもとを訪れ、その額に甘い夢のような口づけをしたのだった。だが、今は違う。ナポレオンは立ちどまりもせず、眠りもせず、ぶっきらぼうな調子で言った。
「大法官!」
皇帝が意見を求めるのはいつもカンバセレスだった。要するに、彼以外には意見を求めなかったのである。それがすむと、皇帝は背の高い人物をしたがえて、皇后の居室に通じている廊下を進んでいった。
皇后は就寝するところだった。どうにも気分が晴れない。お付きのマダム・デュランを下がらせてベッドに横になろうとしたその時だった。皇后の部屋の隣室に入ろうとしていたマダム・デュランの耳に廊下から足音が響いてきた。マダム・デュランが扉を開けると二人の男が入ってきた。マダム・デュランは悲鳴をあげた。
このような時刻に、どうやってここまで入ってくることができたのだろう。彼女は二人の|闖入《ちんにゅう》者に仰天した。二人とも陰謀をたくらむ人物のようにすっぽりと外套にくるまれている。マダム・デュランは女主人を守ろうとして皇后の部屋まで走りよった。と、男の一人が外套を脱いでひじかけ椅子に投げかけた。ナポレオンだった。
「陛下!」と彼女はさけんだ。そしてうやうやしく道をゆずった。皇帝は待っているようにと連れに合図すると、皇后の部屋に入った。
「ルイーズ、私だ」
今の皇后はあの魅力にあふれたジョゼフィーヌではなかった。彼女は四十歳をこえてなお、すらりとした体の線を保っていた。心を浮き立たせる微笑、浅黒いはだ、そして黒い眼と髪を持つ幸運の女神。彼女は皇妃の冠を受け、その冠を光輝で満たした。だが、今の皇后は、誰からも愛され、誰からも慕われたあのジョゼフィーヌではなかった。
ルイーズは二十三歳の娘だった。金髪でぽっちゃりしており、態度はよそよそしかった。青い目は心もちとび出ており、色白で赤ら顔だ。ぶ厚い下唇のせいで受け口になっている。彼女はフランツ二世の娘だった。マリ・アントワネットの姪にあたる。つまりナポレオンはルイ十六世の甥というわけだ。人好きのしない魅力のない人物、それがマリ・ルイーズだった。
ナポレオンは書斎でジョゼフィーヌを待っていた。だがマリ・ルイーズの部屋には自分から入っていった。その理由はわからない。人間の心は謎に満ちている。皇帝の心だろうが、名も知れぬ庶民の心だろうが、変わるところはないのだ。
「皇帝陛下!」と驚いたマリ・ルイーズが声をあげた。
ジョゼフィーヌだったら満面に笑みをたたえて「ボナパルト!」と言っただろうに。だが、マリ・ルイーズの判断は正しかった。金色の髪を持つアルミニウスの娘、|腫《は》れぼったい下唇をした神聖ローマ皇帝の|末裔《まつえい》にとっては、彼はボナパルトではなくて皇帝なのだから。
皇帝はどうやってオルシャからの距離をこえて来たのだろう? われわれがオルシャでの状況を見ていたとき、ナポレオンはネイと再会したところだった。パリからは遠く離れた場所である。
簡単に説明しよう。
皇帝がコリトニアで小休止したとき、フランスからの急使が到着した。急使はフロショ伯爵からの手紙をたずさえていた。皇帝はモスクワ以来、どのような危機にも泰然としていたが、この手紙に目を通したとたんに色を失った。それから彼は羽ペンをつかんで紙を広げると、長い返事を書いたのだが、ロシア軍に奪われるのではないかとおそれて、書いたばかりの手紙をびりびりと破いてしまった。そしてオルシャに着くと、他の文書類といっしょにフロショ伯からの手紙も燃やしてしまったのである。この手紙の内容を知っていたのは、ナポレオンただ一人だった。彼の心は手紙のせいでひどい衝撃を受けたのだが、顔に現れた驚きの表情は、数時間後にはあとかたもなく消え去っていた。
ナポレオンはボリゾフを経由して退却することに決めていた。読者諸氏は、皇帝がベレジナに橋をかけるためにエブレ将軍を派遣したことを記憶しておられるだろう。
十一月二十二日、フランス軍は枝だけになったカバノキの小暗い林に囲まれた道にそって出発した。道はひどくぬかるんでおり、ひざまで泥の中にもぐってしまう。信じ難いことに、あまりにも弱っていたため、多くの兵士はぬかるみに倒れこむと二度と立ちあがることができなかった。彼らは泥の中でおぼれ死んでいった。
やがて、次々と知らせが入ってきた。
夕刻になると、一人の士官が全速力で馬を駆けさせてきた。ナポレオンの居場所を訊ねている。ナポレオンは士気を|鼓舞《こぶ》するため、指揮棒を手にして兵卒と同じように徒歩で進んでいた。兵士たちは士官に皇帝の居場所をさし示した。
使者は悪い知らせを持ってきた。ボリゾフが敵将チチャコフの手に落ちたというのである。皇帝は眉ひとつ動かさなかった。だが、話を聞き終えると、指揮棒で地面をたたきながら大声で言った。
「天の書には、すべてがわれわれに敵するようにとでも書いてあるのか!」
ナポレオンは立ちどまると、不要な馬車すべてと輸送車の半数を燃やして、あまった馬を砲車用にまわすようにと命令した。駄獣が集められた。乗馬も例外ではない。ロシア軍には一門の砲も一台の輸送車も渡してはならないのだ。
それから全軍の|鑑《かがみ》となるべく、ナポレオンは軍の先頭に立ってうっそうと茂ったミンスクの森へと入っていった。一万二千もしくは一万五千ほどの兵士が皇帝にしたがって森に足を踏み入れた。みな、うなだれて無言だった。こうして大陸軍の影は森の中へと消えていった。
火の柱に導かれたイスラエルの民のごとく、全員がナポレオンについていった。それに今となっては、これらの幽鬼のごとき人々がおそれているのは敵ではなくて、ロシアの冬だったのだ。ロシア兵だって! それが何だ。ロシア兵は集団で馬を駆けさせては、道を通り過ぎていく。だが、本当の敵は寒気と雪と氷、飢えと渇き、そして|泥濘《でいねい》だった。
彼らはベレジナに到着し、ロシア軍と戦いながら渡河を敢行した。川という怪物が軍隊の足をつかんでたぐりよせ、数えきれぬ人々が深淵へと沈んでいった。ヴィクトールとウディノの軍が合流して兵士の数が増え、一万二千人が対岸に残された。だが、渡河は続けられた。
十一月二十九日、皇帝は運命の川岸を離れた。
ナポレオンの生涯で三度、三本の川が異なった時期に彼の行く手をさえぎった。エスリンクではドナウ川、ボリゾフではベレジナ川、そしてライプチッヒではエルスター川が悲劇をもたらすことになったのである。
十一月三十日、ナポレオンはプレシュニツィエにいた。十二月四日にはビエニサに入り、翌五日にはスモルゴノイに到着した。
ここでナポレオンは元帥たちを召集し、各人のはたらきにふさわしいねぎらいの言葉をかけた。続いて総司令官たる自分を責める言葉を口にしたが、その後でつけ加えた。
「自分がブルボン家の人間だったら、やすやすとまちがいをおかしたりはしなかっただろう」
それからウジェーヌに第二十九回大陸軍広報を音読させると、自分は軍を離れるつもりであると全員の面前で明らかにした。
出発は同日の夕刻だった。どうしてもパリに戻らなくてはならない事情があった。軍隊を救うにはパリから指令を出すしかない。オーストリアとプロイセンに声をかけて態勢を整えれば、三か月のうちに五十万人の兵士をヴィストラ川に集結させられるだろう。
皇帝が出発した後の総指揮は、ナポリ王のミュラがとることになった。夜の十時、皇帝は準備を整えると将官たちを抱擁してパリをめざした。
皇帝はみすぼらしい馬車に乗りこんだ。コランクールと通訳のヴォルソヴィッチが同行する。馬車の後ろには、ロバウ伯とデュロックの乗ったそりが見える。ロスタムの他に従僕一名もいっしょだった。
最初はミエドニキをめざす。そこではバッサーノ公が必要品を準備していた。十万人分のパン、肉、ブランディー、飼い葉が用意されている。軍隊がここまで来れば、八日間は滞在できるだろう。
コヴノからヴィルコヴィスキに抜け、ここで馬車をそりに変えた。使者を送り出し、馬を変える。ワルシャワでそりをとめてポーランドの大臣たちに会い、一万人の兵士と物資の調達を要請した。そして、三十万の軍隊を率いて戻ってくると約束してワルシャワを後にした。
ドレスデンではザクセン王に会い、オーストリア皇帝に手紙を書いた。それからザクセンの首都に一時滞在していたワイマールの宰相サンテニャンに会い、ライン同盟の諸君主とドイツにいる主な軍司令官全員に向けた手紙を口述した。ここで皇帝はそりからサンテニャンが提供した馬車に乗りかえた。
こうしてナポレオンは、十二月十八日の夜十一時に、チュイルリーに到着したのである。
モスクワからスモルゴノイまでのナポレオンは、一万人の退却を指揮したクセノフォンの役割に徹した。スモルゴノイからフランスの国境までは、パレスチナからの帰国途中にオーストリア公の手で投獄されてしまったリチャード獅子心王同然の境遇だった。パリのチュイルリーに到着してようやく、とりあえずではあるが、ヨーロッパの覇者にかえり咲くことができたのだった。
さて、われわれが見ているナポレオンは、書斎を通りぬけてマリ・ルイーズの寝室に入っていくところだった。カンバセレスが待機しているという知らせが入ったとき、ナポレオンはまだ皇妃の寝室にいた。
ナポレオンがサロンまでひき返してみると、コランクールが居眠りをしている。皇帝を待っているうちに眠ってしまったのだ。休息なしで働くことができるのは、ナポレオンただ一人だけだった。
「陛下!」と大法官が声をあげた。
「そう、私だ。大法官」とナポレオンが答える。「十四年前にエジプトから戻ってきた時と同じだよ。まるで亡命者だ。あの時は東まわりでインドを攻略するつもりだった。今度は北まわりで行くつもりだった」
だがナポレオンが言わなかったことがある。エジプトから戻ってきたころは、上昇運のただ中にいた。ロシアから戻ってきた今は、後にしてきた国の気候さながらに運勢が冷えきっていたのである。
カンバセレスは無言を通した。こういう状況にあっては、皇帝には話すべきことが山ほどあり、何が何でも話さなくてはならないのだ。
ナポレオンは両手を背後に回すと、部屋の中を歩きまわった。そして急に立ちどまったかと思うと、まくし立てはじめた。カンバセレスが彼の考えについてこられると思っているかのようだ。たとえて言えば、川岸で水面に向かって体を傾けている旅行者が川の流れについていけると思っているのと同じようなことだった。
「私が戦っているのは政治的な戦争だ。敵意によるものではない。ロシアが現におこなっている悪事をやめさせたかったのだ。農奴解放をうたって、ロシアの民衆を蜂起させることだってできた。だが、そういうやり方はとらなかった。そんなことをすれば、何千もの家族に死と犠牲を強いることになっただろう」
ナポレオンは思考が流れるままに話し続けた。彼の思考はヴィルコヴィスキで乗りかえたそりにも負けぬ速さでベレジナのぬかるんだ川岸からパリへと飛んできたのだ。
「フランスにふりかかった災厄はすべて観念主義者らのせいだ。フランスは|誤謬《ごびゅう》にみちびかれ、観念主義者がフランスを暴徒どもの手に渡したのだ。彼らは謀反の原理は高貴な義務であるなどと言い立てて民衆をそそのかし、民衆を主権につけた。だが、民衆には主権を行使することなどできないのだ。
国家の再生をまかされたなら、このような原理には絶対にしたがってはならない。歴史をひもとき、異なった法律の利点と不都合を学ばなくてはならない。大帝国の行政官たるもの、このことを絶対に忘れてはならない。内相のアレーやモレなどは、常に君主と王座と法律を守る覚悟を持つ必要がある。最も立派な死に方とは、戦場に倒れる兵士の死に方だ。行政官が主君と王座と法を護って命をおとしたとしても、戦士ほどの栄光には輝かないにしてもだ――」と、ナポレオンは、語気を強めて続けた。「命を投げ出すどころか、義務さえ果たしていない臆病な連中がいる」
ナポレオンは唐突にカンバセレスの方を向いた。
「君は友人だ。一体、どういうことだったのだ?」
カンバセレスは、来るものが来たと思った。今までの長広舌が何を意味するか察しはついていた。ナポレオンはマレの陰謀を話題にしているのだ。ナポレオンがコリトニアで受け取った知らせは彼の心を揺さぶり続けていた。
「詳細をお聞かせしましょうか?」
「詳しく話してくれ」とナポレオンは言って腰をおろした。
「陛下はマレをご存知ですか?」
「見かけたことならある。一度だけだ。彼を目にとめると、『マレ将軍です』という声が聞こえた。彼は秘密結社に入っていた。ワグラムで戦死したウーデとは友人だった。ウーデが死んだのは私のせいだそうだ。一八○八年に私がスペインにいたころから、マレは陰謀に手をそめていた。その時に銃殺することもできた。証拠はじゅうぶんだった。だが、やりたくなかったのだ。血を見たくない……シュタップスは死を望んでいた。だが私は恩赦を与えた。陰謀家どもは私を殺せると思っている。まったくどうかしている。マレの話に戻ろう……マレは精神病院送りになった。私が移送させたのだ。いいかね、カンバセレス君。情けをかけてばかりだから、こんなことになるのだ。私が冷酷無比な暴君だって! とんでもない! 精神病院の場所は?」
「トロンのはずれです、陛下」
「所有者は?」
「ドゥビッソン医師です」
「敵か味方か?」
「医師がですか?」
「そうだ。私が訊きたいのは、彼が陰謀に加担していたのかどうかということだ」
「ああ、なるほど。不運な男です。陰謀があるなどとは夢にも思っていませんでした」
「だが、扉を開けた」
「いいえ、違います。マレは壁を乗りこえて逃亡しました」
「一人でか?」
「ボルドーのラフォン神父もいっしょでした。彼らは命令書やら元老院決議書やら宣言文の類でいっぱいになった書類鞄を持っていました。共犯仲間の二人が通りで待ち受けていたのです。家庭教師をしているブートレと伍長のラトーです」
「この二人が役割を演じることになっていたのだな。一人は警察長官、もう一人は副官の役だ」
「そのとおりです、陛下」
「もう一人僧侶がいるだろう?」
「スペイン人です」
「そうか。驚くようなことではない」
「その男は監獄でマレと知りあいました。自宅はロワイヤル広場にあります。その家に、武器やら将軍の制服やら副官の肩章やら警察署長の綬章やらを隠していたのです」
「すべて手配ずみだったわけだな!」と大声を出すと、ナポレオンはいらいらした調子で言った「続けてくれ」
「マレは衣服を着替えて武器を持つと、ポパンクールの兵営に行って扉をたたきました。そしてラモット将軍の名で隊長を呼び出したのです」
「なるほど」とナポレオンが言った。「名を|騙《かた》ったのだな。誰も知らん名だ。だから成功したのか。それで隊長は?」
「大佐はベッドに入っていました。熱で寝こんでいたのです。マレはこう言いました。『大佐、知らせが入った。ボナパルトが死んだ』」
「ボナパルト!」とナポレオンがくりかえした。「一部の人間にとっては、私はいつだってボナパルトなのだ! だが私は十四年間も成功し続けてきた。ブリュメール十八日、戴冠式、そしてヨーロッパ一の旧家との縁組だ。それなのに最初の第一声が『ボナパルトが死んだ』だと? それで終わりか!……ボナパルトが死んだ! ナポレオン二世はどうなのだ? ナポレオン二世は生きているではないか」
「陛下」とカンバセレスが答える。「陛下は軍人というものをご存知でしょう? 軍人は命令を聞き、命令を詮索せず、命令にしたがうのです」
「だが命令は偽物だった」
「大佐は本物だと信じてしまい、少佐を呼びました。そしてラモット将軍になりすましたマレが命令を読みあげました。部隊が集められ、マレの命令どおりに配置されました。この部隊は|薬莢《やっきょう》を持っておらず、銃には訓練で使う木の弾丸しか入っていませんでした。マレは部隊をともなってラ・フォルス監獄に出向くと、扉を開けさせ、ブロッチェチアンピという名のコルシカ人を呼びました」
「コルシカ人だと!」とナポレオンが口をはさんだ。「彼は騙されなかったはずだ。それから?」
「ラオリー将軍とギダル将軍を連れ出しました」
「ギダルにしても、軍法会議にかけられてトゥーロンに送られるはずだった。彼がイギリスと内通していたことは明らかだった。で、トゥーロン送りになったのだろうな?」
「いいえ、そうではなくて、彼が受け取ったのは元老院の証書でした。次にラオリー将軍ですが、彼は警察大臣への任命書を渡され、前任のロヴィゴ公爵を逮捕するように言われたのです」
「ロヴィゴは」とナポレオンが言った。時として迷走する決然とした正義感がこもっている。これは彼の性格の一部でもあった。「ロヴィゴはだまされたのだろう。明け方の四時か五時に武装した一団に起こされたのだ。彼の立場は理解できる。ところでカンバセレス君、その後の展開を聞こう」
「はい、陛下。陰謀は二方向で進められました。新任の警察大臣が前任大臣の逮捕に出向いている間に、マレはバビロン兵営に命令を出し、兵舎にいた下士官にあてた書類も同送しました。その書類の中には、元老院決議書の写しのほか、株式市場、財務局、銀行、パリの城門での任務を新しい担当と交替するようにという命令書も入っていました」
「兵営の隊長は誰だ?」とナポレオンが質問した。
「ラブ大佐です」
「抵抗したのだろうな?」
「スーリエ大佐と同じように騙されてしまい、命令にしたがいました」
ナポレオンは両てのひらをピシャリと打ちあわせた。
「いまいましい」とナポレオンがうめくように言った。「それで続きは?」
「この間にラオリーは警察庁をめざしました。前もって警察長官のもとにブートレを送りこんでいたのです。警察長官は逮捕されてラ・フォルス監獄に護送されました」
「ギダルの監房に入れられたのか。筋書きどおりだな。だが、何だって逮捕されたりしたのだ?」
「大騒ぎのさなかにあって、パスキエ男爵はどうにかこうにかロヴィゴ公に伝言を送ったのですが、使者はロヴィゴ公に会うことができなかったのです。ラオリーはすばやく行動して警察庁の門を通ってしまいました。ラオリーが大臣室の扉をこじ開けたかと思うと、大臣本人が部屋の前に姿を現したのです」
「だがラオリーとロヴィゴ公は友人だぞ。いつのことかは忘れたが、ロヴィゴ公がラオリーを推薦してきたことがあった」
「あの二人は、『君・僕』の関係です、陛下。ラオリーはいつもどおりの口調で警察大臣に呼びかけました『やあ、サヴァリー〔ロヴィゴ公〕、君は僕の捕虜になった。危害は加えない』」
「で、ロヴィゴ公は?」
「抵抗を試みました。陛下もご存知の通り、ロヴィゴ公はやすやすと捕らえられるような人物ではありません。ですが、ラオリーが『彼を捕らえろ』と命令すると、十人の兵士が警察大臣を組みふせてしまいました。大臣は武器を持っていなかったのです。そしてギダルが怒鳴りちらしながらラ・フォルスまで大臣を連れていきました」
「続けてくれ。聞いているぞ」
「マレはパリ司令官ユラン伯爵のもとに出向くと、警察大臣の名において彼を逮捕しました。そしてユラン伯爵が納得しないのを見ると、相手の|顎《あご》にピストルを発射して床に転がしてしまいました。次にマレは参謀部長のドゥーセ将軍のところに行き、新政府のもとで職務を遂行するように申し渡すと、今後の展開を説明しました。しかし、突然、一人の男が前に進み出てきたかと思うと、弁舌をふるっているマレを制止し、『貴官はラモット将軍ではない。マレ将軍だ! 昨日、いや、つい先ほどまで国事犯用の牢獄にいたではないか』と叫んだのです」
「いいぞ! やっとまともな人間が現れた」とナポレオンが大声を出した。「で、その男の名は?」
「ラボルドです。軍事警察の隊長です。マレは二挺目のピストルを抜くと、ラボルドにねらいを定めましたが、ドゥーセ将軍がマレの腕をつかみ、ラボルドを外に押し出しました。ラボルドは部屋の外で監察官のパケに会いました。パケはギダルをトゥーロン送りにする件についてラボルドと打ちあわせをするつもりだったのです。パケはラボルドの話を聞いて仰天しました。ギダルは元老院議員でラオリーは警察大臣、ブートレが警察長官だというのです。さらに、臨時政府の長となったマレ将軍がユラン伯爵にピストルを発射して重傷を負わせたという話も聞かされました……その五分後、ラボルドとパケの手によって、マレはふたたび牢獄送りになりました。続いてラオリーも逮捕されましたが、彼はマレの言葉を信じきっていたため、どうして自分が逮捕されたのかまったく理解していませんでした。ギダルはその晩のうちに逮捕されましたが、ブートレの逮捕は八日後です」
「それで現在の状況は? 残りの者はどうなったのだ」
「ラブ大佐は執行猶予となりました。ラトー伍長ですが、叔父がボルドーの検事総長です」
「その他の者は?」
「他の者と言いますと?」
「陰謀に加担した連中だ」
「将軍三名、スーリエ大佐、ピカレル少佐、彼らの部隊に所属していた四人の士官、パリ守備隊の二名は十月二十日に銃殺されました」
ナポレオンは考え深げに少し間をおくと、いささかためらいながらつけ加えた。
「死に方はどうだった?」とカンバセレスの目をのぞきこむ視線が、「真実を語れ」と言っている。
「立派でした。そして犯罪者ではあっても軍人らしく死にました。マレは冷笑を浮かべていましたが、確信に満ちていました。その他の者たちもおちついていましたが、自分たちとは関係のない陰謀のせいで、会ったこともない男といっしょに処刑されることに対しては動揺していました」
「ということは、彼らを処刑することで義務を果たしたと思っているのだね? 大法官?」
「そうです。私の義務であったと確信しています。大罪に対しては、迅速に正義を行わなくてはなりません」
「その考え方は正しいだろうな。君の立場からすると」
「私の立場とおっしゃると?」
「そうだ。大法官の立場からすれば、ということだ。つまり、裁判官としての立場だ。だが、私の立場はだな」と言ってナポレオンは口をつぐんだ。
「失礼ですが、陛下」とカンバセレスが言葉を継いだ。ナポレオンの考えを聞かなくてはならない。
「私ならこういう考え方をする」と皇帝が話しだした。「私だったら政治的な理由で、違った方法をとっただろう」
「陛下――」
「私なら、と言っただろう。君の立場でではない。カンバセレス君」
「陛下なら恩赦を?」
「関係者全員にだ。上官の命令にしたがっただけだからな」
「マレは?」
「マレは別だ。狂人としてシャラントンの精神病院に送りこむ」
「ラブ大佐とラトー伍長は?」
「明朝に釈放だ、カンバセレス君。私がパリに戻ったことも知らせておいてくれ」
それからナポレオンは、親しい人たちにしか見せない気さくな調子でつけ加えた。
「ではお休み、大法官殿。明日の朝、国務院で会おう」
ナポレオンは自室へと向かいながらつぶやいた。
「ラオリーか。モローの副官だった男だ。モローがイギリスの軍艦でルアーブルまで来たとしても驚かんぞ」
ナポレオンの予想は一年だけずれていた。翌年、モローはアメリカを出国し、ドレスデンの手前でフランス軍の砲弾に両脚を砕かれることになる。
一八一三年五月一日、スモルゴノイを後にする際に元帥たちに言ったとおり、ナポレオンは三十万の大軍を率いてリュッツェンに姿を現した。プロイセンが離反しなかったとしたら、そしてオーストリアが裏切りへの道を歩みはじめなかったとしたら、ナポレオンは五十万の軍勢を集められただろう。公言した人数よりも二十万人少ない軍勢しか集まらなかったのは、ナポレオンの落ち度でも、フランスの落ち度でもない。
四月二十九日、戦いの火蓋が切って落とされた。五月二日、リュッツェンの戦いに勝利した皇帝は、ボヘミアからハンブルクにいたるエルベ川左岸地域を掌握したのである。
[#改ページ]
第十八章 |配流《はいる》の地へ
一八一五年九月二十三日土曜日、ミズンマストに英国国旗、メーンマストに提督旗を掲げた舷の高い大型船が緯度零度、経度零度、偏角零度の地点を通過していった。ヨーロッパからの船だ。航路から判断するに、南アメリカかインドに向かっているらしい。
この日は、イギリス人が「|髭《ひげ》祭り」と呼んでいる祝祭日にあたっていた。この船でも祭りが行われている。赤道を通過するさいには、文明世界に属する世界中の船が同じような祭りを祝っており、イギリスの場合は海神ネプチューン、フランスだと「ボノム・トロピーク〔熱帯王〕」が登場する。基本的には同じ祭りだが、国によっていろいろなやり方があるのだ。
さて、われわれが見ているイギリス船の甲板では、恒例の無礼講がはじまって水夫たちが騒いでおり、一番の古顔が満場一致で一日船長になっていた。一日船長に選ばれた男は、三つ又の|矛《ほこ》を持って長い付け髭をつけ、金紙で作った王冠をかぶってメーンマストの下にしつらえた玉座に腰をおろしている。初めて赤道を通過する人々が、海神ネプチューンのもとに連れて来られると、海神にうながされた乗組員たちが彼らの顔にタールを塗りたくり、ブリキ製の巨大なかみそりで頬とあごの髭を剃ってしまう。髭剃りが終わると海神の合図で、ばかでかいことで有名なハイデルベルクのビール樽にも負けないほど大きなビール樽が転がされてくる。彼らの頭の上で樽が傾けられると、ピスヴァシュの滝〔スイスにある名滝〕かと思うような勢いで塩水が頭にふりそそぐのだ。
こうして祭りが終わると、水をぶっかけられた船客やら士官やら水夫らは、熱帯の太陽で顔を乾かすことを許される。そして海神のしもべに扮した人物から、赤道の通過料を支払ったという証明書を受けとるのである。
さて、祭りがたけなわとなっているころ、一人のフランス士官が急に甲板に現れた。彼は海神に近づくと、流暢な英語で話しかけた。
「ネプチューン陛下、ナポレオン皇帝よりの金貨百枚です」
「ナポレオン皇帝だと?」と海神が言った。「そんなやつは知らん。ボナパルト将軍なら知っている」
「まあまあ」とフランス士官はにこやかに続けた。「よく忘れるのですが、十年間というもの、ボナパルト将軍は皇帝だったのです。では、もう一度最初から言いましょう。ネプチューン陛下、ボナパルト将軍よりの金貨百枚です」
「そういうことならよろしい」と海神は答えて、ごつごつした手を出した。
だが、フランス士官とイギリス人水夫の間に、繊細で貴族的な白い手が入ってきたかと思うと金貨を受け取った。
「その金貨は私がお預かりしましょう、将軍。日が暮れてから分配した方が賢明ですからね」
海神は、海草の髭の奥でぶつぶつと不満をもらしたが、結局は同意して手をひっこめた。こうして「髭祭り」は進められていったのだが、出し抜けに一人の水夫が大声をあげた。
「おい、後ろを見ろ、サメだぞ!」
「サメだ! サメだ!」と全員が声をあげた。
一人残されていた海神も玉座から立ちあがると、他の者たちといっしょに船尾まで行き、何が起こっているかを確認しようとした。
さて、すでにお話ししたように、この船のメーンマストには提督旗がひるがえっていた。つまり、この船には提督も乗っていたわけである。ここで提督の許可が出たので、水夫たちが船尾に集まってきた。読者もご存知の通り、船尾は高級士官用の区画となっている。
一人の水夫が鉄鎖のついた巨大な|鉤《かぎ》ばりに豚の脂身をつけると、海に投げ入れた。身震いするほどの大きなサメだった。あわ立つ海面の上に見える背びれが激しく上下している。数分が経過した。鎖を舵にくくりつけていた水夫が、異常な衝撃に気づいた。と思う間もなく、しっかりとくくりつけられていた鎖が三、四か所の異なった方向にすばやく移動しはじめた。鎖の輪が船ばたにぶち当たり、壁板が壊れるのではないかと思うほどだった。
やがて鎖の動きは次第にゆるやかとなり、ぴんと張った鎖の先で白っぽい物体が暴れているのが見えた。もがいているサメの腹だ。
叫び声が聞こえた。乗組員全員が勝どきをあげている。海神ネプチューンがとりしきった先ほどの馬鹿騒ぎが最高潮に達したときでも、これほどの熱狂ぶりは見られなかった。
わきあがる歓声の中、一人の男が船尾にある階段を登ってきた。赤道祭では見かけなかった顔である。
その男は、誰もが知っているあの帽子をかぶり、フランス親衛隊猟騎兵の緑色の制服を着ていた。胸にはレジオン・ドヌール大鷲章が光っている。レジオン・ドヌール十字章と鉄冠章も見えた。男の後ろには、先ほど金貨をさし出した将軍のほかに、フランス海軍の制服を着た四十五ないし五十歳見当の男がつきしたがっている。
ナポレオンだ。彼にしたがう将軍はモントロン、海軍士官の制服を着ているのはラスカーズだった。
彼らが乗っているのはフリゲート艦ノーサンバーランド号だった。総司令官はコックバーン提督、目的地はセントへレナである。水夫にも士官にも提督にさえも、ナポレオンのことをボナパルト将軍と呼ぶようにという通達が出ていた。出航したのは八月七日。プリマスの港を出てから四十七日がたっている。
ナポレオン一行にとって、赤道通過ははじめての経験だった。だが、いまやボナパルト将軍に格さげされてしまった皇帝もその随員たちも、提督の配慮によって、破天荒な通過儀礼には参加しなくてもいいことになっていた。この高名な捕らわれ人は、甲板から響いてくる大声をいぶかって、何事が起こったのかを確認しに来たのだった。
甲板ではてんやわんやの大騒動がくり広げられていた。ナポレオンはサメが鉤にかかって、船に曳かれていることを知った。彼は座り慣れてきた大砲に腰を下ろすと事の結末を待った。
その直後、水夫らが叫んだ。サメを釣りあげているのだ。と、船べりからとがった鼻先が突き出てきた。口の中には三重になった歯が見える。最後のふんばりでサメが甲板に引きあげられた。だが、その瞬間、水夫たちはさっと後ずさりしてサメから離れた。のたうち回るサメに近づこうという者はいなかった。
引きあげられたサメは、瞬時に甲板を支えにして途方もない高さまで跳びあがった。そして口が砲架に届いたかと思うと、すさまじい勢いで噛みついたので歯が木にくいこんでしまい、しばらくの間、動きが止まった。自分で罠にはまってしまったのだ。
待ち構えていた船大工がサメに近づくと、骨も砕けよとばかりに斧をその頭にぶちこんだ。
サメは砲架から口を放した。木には深い歯の跡が残っている。すぐさま身を躍らせると一跳びで右舷から左舷まで移動した。その通り道をさえぎる形になった三、四名の男が衝撃のために仰向けに倒れ、そのうちの一人はそのままのびてしまった。他の連中は船べりにかかっているハンモックめがけて突進すると、マストを横から支えているロープをするすると登りはじめた。まるでサルの軍団だ。
すべては乗組員たちの喚声と笑い声の中で進行していった。非日常的な祝祭がサメとの闘いを彩る形となり、一幅の絵を見ているようだった。
最初のうち、ナポレオンはこの闘いに見とれていたが、激しい動きと怒号と喧騒の中で、深い物思いに沈んでいった。
ナポレオンが大砲から立ちあがったときには、サメの頭は胴体から切り離され、腹も裂かれていた。一人の水夫がサメの心臓を手にしている。船医が確認すると、体内からとりだされたサメの心臓はまだ動いていた。頭を無くし、横一文字に腹を割かれているというのに、何というすさまじい生命力だろう。
ナポレオンは断末魔の苦悶を目のあたりにして憐憫の情にとらわれた。サメからそらした彼の視線がラスカーズ伯の目とあった。
「行こう。回想録を口述するぞ」
ラスカーズは皇帝の後についていった。だが、彼が中甲板までおりていったとき、ロス艦長が近づいてきた。
「ボナパルト将軍はどうして下へ?」
「皇帝は」とラスカーズは答えた。「サメが苦しむ様子を見るにしのびないのです」
イギリス人たちは驚いたようだった。彼らが聞かされてきた話に登場するナポレオンは、戦いが終わるたびに戦場を散策しては、死者を見て眼を楽しませ、負傷者の苦悶を聞いて耳を満足させるというものだったからだ。騒ぎがおさまると乗組員たちは血まみれの甲板を洗い流し、サメの出現で中断した祭りを再開した。
その間にもナポレオンは回想録を口述していた。今は、ヤッファでペスト患者の毒殺を拒否したというくだりにさしかかっている。退屈をまぎらわせるため、ナポレオンは自分の戦争について書き記すことにしたのだった。
暑くて単調な日が過ぎていった。航海がはじまってから、皇帝はほとんど甲板には出なかった。朝食の前にも姿を現さなかった。そして戦争の時と同様、朝食の時間は決まっていなかった。イギリス人は毎朝八時に朝食をとったが、フランス人一行の朝食は十時だった。
朝食がすむと、皇帝は四時まで読書をして過ごす。モントロンやベルトラン、あるいはラスカーズらと会話することもあった。四時になると着替えて談話室に行き、チェスの勝負に参加する。五時になると、提督本人が晩餐の用意ができたことを伝えにくる。そして晩餐がはじまり、一同が席につくのである。
提督の晩餐会は二時間近く続くのが常だった。ナポレオンの食事時間よりも一時間五十分も長い。初日から、食後のコーヒーが運ばれてくると皇帝は席を立った。提督の晩餐に招かれていたベルトラン大元帥とラスカーズも、皇帝にしたがって部屋を出て行った。
一同があっけにとられた。提督はすんでのところで怒りだしそうになった。彼が皇帝の非礼に対して英語で何事かをつぶやくと、席に残っていたベルトラン夫人が英語で答えた。
「提督閣下、お忘れではありませんこと? あなたさまが会食なさった人物は、世界の主だったのです。あの方が席を立てば、パリであろうと、ベルリンであろうと、ウィーンであろうと、あの方と会食する名誉にあずかった王たちも席を立って後についていったのですわ」
「マダム、おっしゃるとおりです」と提督は答えた。「しかしながらわれわれは王侯ではありませんし、パリやベルリンやウィーンにいるわけでもありません。われわれは食事が終わる前にボナパルト将軍が席を立っても、気分を害したりはしないのです。ただ、われわれは席に残るということにさせていただきましょう」
この日以来、皇帝一行は自由に行動してもいいようになった。
長い航海の間に、セントへレナの囚人となるナポレオンはラスカーズに自分の幼年時代や少年時代の逸話を語り聞かせた。それらの逸話はラスカーズの『セントへレナ日記』に記されている。やがてそれらの思い出話も終了する時が来た。ナポレオンとしては語りつくしてしまったのだが、聞き手としてはまるで聞きたりない。というわけで、九月九日の土曜日、ナポレオンはイタリア戦役の口述を開始したのである。
この気晴らしは、最初は三十分程度だったが、次第に一時間、二時間、三時間という具合に長くなっていった。だが、それを除くと毎日が決まりきったことのくりかえしで単調に過ぎていった。こうして八月七日の月曜日にはじまった航海は、十月十三日の土曜日まで続けられた。
十月十三日の晩餐の席で、提督は翌日の夕刻六時ごろにはセントへレナの島影を見ることになるだろうと告げた。読者にもおわかりだろうが、乗組員にとっては待ちに待った知らせだった。彼らは六十七日間も海の上にいたのである。
提督の言葉どおり、翌日、一同が晩餐の席についていると、昼の二時からトゲルンマストの見張り台に上っていた水夫が大声をはりあげた。「陸だ!」
食後のデザートの時間だったが、全員が立ちあがって甲板にのぼっていった。皇帝は船の先まで行くと、自分の眼で陸地をさがした。
ナポレオンの目には、水平線のあたりを漂っている|霧《きり》のようなものが見えただけだった。霧に見えたものが実は固い物体だとわかるには、水夫の目が必要だったのだ。翌日は明け方から全員が甲板に集まった。夜間は停船していたのだが、この時刻までにはかなり島に近づいており、早朝のすみきった大気のおかげで、くっきりと島影が見えた。
正午ごろ、海岸から四分の三リューの距離まで来ると船は|碇《いかり》をおろした。ナポレオンがパリを発ってから百十日目だった。この配流の旅は、エルバとセントへレナという二つの島にはさまれた百日天下よりも長かったことになる。
皇帝はいつもより早く自室を出た。上部甲板を前方に進むと、さめた目で島を見つめている。表情一つ動かさない。この青銅の仮面は現代のローマ皇帝の意のままにあやつられていた。口のそばの筋肉のみが、独自の意思で動いているように見える。
島の眺めは満足のいくものではなかった。左右に細長く広がった村が見え、その端は巨大な岩山の麓まで続いていた。岩山は太陽のせいで荒れて乾ききっている。ジブラルタルと同じように、大砲の命中しない場所を探そうとするなら、腕のいい技師に百ルイを支払う必要があっただろう。
皇帝は考えに沈んでいたが、十分ほどするとラスカーズに声をかけた。
「さあ、仕事だ!」彼は甲板をおりるとラスカーズを席につかせ、口述をはじめた。その声にはいささかの変化もない。
碇がおろされると、提督はすぐさま艦載の小型ボートに乗り移って島をめざした。提督は夕刻六時に疲れきって船に戻ってきた。彼は島を一巡し、住みやすそうな場所を見つけてきたのだ。ただし残念ながら修復する必要があり、完成までには二か月ほどかかりそうだった。だがイギリス政府からは、おちつき先の住居が決まるまではナポレオンを上陸させてはいけないという厳然とした指令が出ていた。
しかしながら提督の決断は早かった。提督は、ボナパルト将軍は船旅で疲れているのだから、自分の裁量で将軍を上陸させようと言った。だが、すっかり夜も更けていたので、その日に上陸することは不可能だった。そこで提督はナポレオンに、明日はいつもより一時間早く晩餐にしましょう、そうすれば食事が終わった後で島にあがることができますと伝えた。
翌日、食堂から出てきた皇帝は、士官全員が後甲板に、乗組員の四分の三が上部甲板に集合しているのを目にした。小型ボートが準備され、ナポレオンは提督とベルトランと一緒にボートに乗り移った。その二十五分後、一八一五年十月十六日の月曜日、ナポレオンはセントへレナの岩を踏んだ。
その後の物語は、アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』に書かれている。
[#改ページ]
十九章 リースヒェン・ウォルデック
ナポレオンが、配流の地となった灼熱の島に足をおろしたのと同じ時刻。バーデン大公国きっての景勝地として有名な渓谷のすそ野に目を転じてみよう。ここにある小さな田舎町ウォルファッハでは、ゲーテの『ファウスト』に出てくるマルガレーテを思わせるような十六歳の娘が、回していた糸車をとめ、両手をだらりとさげたままで壁に寄りかかっていた。彼女は、暮れはじめた空を見あげながら、ドイツでは誰もが知っている俗謡を口ずさんでいる。
[#ここから1字下げ]
あなたと別れたその日から、
どうしていいのかわからない
私の安らぎは消え、魂は沈んでゆく
私にはもう平安がない
あなたがいない世界は墓場も同然
世間の縁もいとわしいだけ
思いは乱れ、心はちぎれそう
あの人の姿をさがして、窓から外をながめ
あの人を思って、家から外へと出る
[#ここで字下げ終わり]
娘はすっかり物思いに沈んでいたので、中庭の扉が開いた音にも、その扉から若い男が入って来て、部屋の敷居の所で足をとめたのにも気づかなかった。男は二十九か三十くらいの年かっこうで、ウェストファリア地方の農民の服装をしていた。農民の服装と書いたのにはわけがある。この若者を近くで見ると、隠そうとはしているが軍隊風の歩き方をしていることに気づくからだ。しなやかに、かつ決然とした足どりで歩くこの青年にふさわしい衣服はただ一つ。そう、士官の制服である。顔立ちはといえば、なかなかの美男子でしかも男らしい顔だった。青い目は生き生きとした精気に満ちており、髪は栗色がかった金髪で、歯は真っ白だった。
若者の来訪に気づかない娘はまだ歌い続けている。
[#ここから1字下げ]
楽しみも悲しみもあなた次第
私はあなたの影法師
あなたと別れたその日から
どうしていいのかわからない
[#ここで字下げ終わり]
彼女の声はもの悲しく、歌の調べは憂いに沈んでいた。その様子はあまりにもつらそうだったので、若者は歌の残りを聞くにたえず、足早に前に進み出た。
「リースヒェン!」
娘は息をのんでふりかえった。黄昏時の薄暗がりの向こうに若い男の姿が見える。樫の食器棚の上には三筒式の真鍮製ランプがあるのだが、娘は火をつけていなかった。彼女は恐怖の入り混じった声でさけんだ。
「あなたなの?」
「そう、僕だよ。何て悲しい歌なんだろう!」
「まあ、この歌を知らないの?」
「知らない」
「そうよね、あなたはフランス人だもの」
「僕のドイツ語の発音のことかい? リースヒェン、そう言われると不安になるよ」
「違うわ。あなたはザクセン人みたいにドイツ語を話せるわ。私が言ったのは、そんなことを言うとフランス人みたいに見えるということなの。ドイツ人ならだれだってこの歌を知っているのよ。ラインからドナウ川まで、ケールからウィーンまでのあいだで、この歌を知らない娘なんていないわ。ゲーテの詩に出てくるマルガレーテの|紡《つむ》ぎ歌なの」
「ああ、その歌なら知っている」と青年は明るく答えると、証拠を見せようとした。それから、娘の言葉どおり、生粋のザクセン人と同じ発音で、もの悲しい歌の最初の四行を復唱した。
「何て言ったの?」
「こうだ。小鳥にむかって『さあ、鳥よ、歌っておくれ。おまえの歌を聞きたいのだ』と言う代わりに、『さあ、リースヒェン、話しておくれ。あなたの声は私を喜ばせる』とね」
「私はちゃんと話したわよ」
「よし。じゃあ、僕が話す番だ」と言うと青年は、両腕をさしのべながら、娘に近寄った。
「さようなら!」
「何ですって?」
「リースヒェン、行かなくてはならないんだ。ウォルファッハから出ていくんだよ。ドイツのもっと奥まで行かなければ」
「また危ない目にあっているの?」
「死刑を宣告されれば銃殺だからね」
青年の話しぶりは、死刑もふくめて幾多の危険をくぐり抜けてきたことを感じさせた。
「そういうことなんだ」
「ああ、神さま!」両手をあわせながら娘が声をあげた。「いったいどういうことなの!」
「僕が最初に言った言葉を覚えているだろう? 三日前、ここと同じ場所で、偶然にも、いや、そうじゃない、リースヒェン、言いなおすよ。三日前に天の助けによって、この扉が開いたとき、僕が最初に言った言葉は、『腹がぺこぺこで、のどもからからだ。国から逃げてきた』だった」
「でもおとといは、安全な隠れ場所を見つけたって言っていたじゃないの」
「リースヒェン、君にさよならを言うにあたって、本当のことを白状するよ。その隠れ家というのは君の家だったんだ」
娘はあっけにとられて青年を見つめた。
「私の家ですって! お父さまの許可もなしに、お父さまの家に隠れていた、ですって!」
「だいじょうぶ、出ていくから。でも、どうしてここに来たかを説明させてくれ。そして僕のことも話させてくれ」
娘は糸車を足でわきにどけると、両手を膝の上において逃亡中の青年をまじまじと見た。その視線には、いぶかる気持ちといとしく思う気持ちが入り混じっている。
「僕はナポレオン皇帝といっしょにエルバ島にいた。皇帝は僕をフランスに送りこんで、フランス帰還の手配をさせた。僕はラ・ベドワエール大佐とネイ元帥に連絡をとった。二人とも銃殺されるだろう。僕も刑を宣告されたが、二人よりは運がよかった。逮捕されるということがわかったので、ストラスブールに避難した。僕の生まれ故郷だからね。一か月近く、友人の家に身を|潜《ひそ》めていたのだけど、四日前、追っ手が来ると聞かされ、城壁を乗りこえると泳いでライン川を渡り、バーデン大公国に入った。それから、子どものころからよく知っているわき道を一日中歩いて、ウォルファッハに着いた。ドイツの奥にまで行かなくちゃならない。そこでやらなくてはならないことがある。でも、リースヒェン、君に会えた。人間は運命を変えることなんてできない。君に出会えたのだから、危険なのはわかっていたけれど、ここにとどまったんだ」
「ここから出ていくと思っていたわ。でも次の日の朝もあなたに会えてうれしかった。どうして出ていかなかったのなんて訊かなかったでしょう?」
「どうして出ていかなかったかって?」と若者は答えた。無邪気な子どものようなひたむきな表情だ。
「どうしてここにいるかって? それはつまり、こういうことさ。この離れは中庭にぽつんと建っていて、はしごを上ればがらんとした屋根裏部屋に通じているだろう? 君がいないときに屋根裏部屋まで行き、そこに|潜《ひそ》んでいたんだ。屋根裏部屋の屋根は下の階まで垂れていて、この部屋の窓が開いている。僕は夜を待っていた。出発するつもりだった。最後に一目君を見て、お別れを言うつもりだった。でも、急に君がいる場所の窓が開いて、君が姿を見せたんだ。いまさら、君は美しいなんていう必要はないけれど、ねえ、リースヒェン、窓から身をのりだして月光を浴びた君はきらきら輝いていた!」
リースヒェンは恥ずかしそうに何かを口ごもった。頬を染め、頭をさげると暗がりの方を見ている。青年は話を続けた。
「君はバラの花束を持っていたよね。どうして君があんなに生き生きしていたのかはわからないし、君の顔をあんなに輝かせた魂の光が何だったのかもわからない。君はじっと道を見つめていた。僕がここを出た後でたどることになる道だ。君は秋の|名残《なごり》の花びらを道にまき散らしていたね。秋に生まれ、太陽を浴びることなく色あせた花だ。君はその花を黒い森の方角にまいていた。僕が行ったと君が思っていた方角だよ」
「風に乗せて飛ばしたの。方角を決めていたわけじゃないわ。風が運んでいったのよ」
「それはそうだけど、その風はフランスの方角から吹いている。友人からの風なんだよ! 君は長い間、窓辺にいた。僕はずっと君を見ていた。窓が閉められたとき、足に根が生えたかと思った。ここを出ていく勇気がなかったんだ」
「それなのにどうして今日は出ていくなんて言いだすの?」
「今日、この町でフランスの憲兵がバーデン大公国の憲兵と話しているところを見かけたんだ。まちがいなく、あいつらは僕をさがしているはずだよ」
「まあ、どうしましょう!」とリースヒェンが声をふるわせた。
「そんなことは、僕にとってはどうだっていいんだ、リースヒェン。でも、君の家にあやしいフランス人がいるということになると、君のお父さんまで困った立場になるだろう。いや、一番困るのは君なんだ。君は僕の頼みで、秘密を守ると約束してくれたのだから」
「その約束は、あなたのためというより私のためなの。私はお父さまのために喜んで秘密を守るつもりよ。お父さまはあんなにいい人で立派なキリスト教徒だけど、なぜだかわからないけれど、フランス人を心底憎んでいるのよ。あなたの国の人をちらっと見ただけで、真っ青になって震えていたの、それも今までに十回も。でも、ここにいる方が安全だというのなら、ここにいてちょうだい」
「リースヒェン、君はなんていい人なんだ!」
「人間の命は、神さまの目の前にはこの上もなく尊いものよ。私がやったことを神さまがお|赦《ゆる》しになりますように」
「君は天使みたいな人だ、リースヒェン」と青年は続けた。「僕が君から離れるのは、危険が迫っているからというだけじゃない。さっきも話したように、どうしてもやらなくちゃいけないことがあるんだよ。僕はバイエルンに行く」
「バイエルンに行く?」と娘は、顔をあげながらそのままくりかえした。
「うん。若い女性をさがしに行く。君と同じくらいきれいだけど、君よりも不幸な身の上なんだ。この使命を終えたらその時こそ自由だ。フランスとの国境地帯がどんなに危険だったとしても、必ず戻ってくるよ」
「いつ?」
「いつかはわからない。でも、三か月待ってくれ」
「三か月だけね!」とリースヒェンが嬉しそうな声をあげた。
「三か月以内に僕を見かけたら、僕に気づいてくれるよね。リースヒェン、約束してほしいんだ」
「それくらい覚えているわよ。三か月間、友人に会わないからって、普通は忘れるわけがないでしょう?」
この時、時計が七時を告げた。若者は、時を知らせる七つの音をひとつひとつ数えている。
「七時ね」と娘がつぶやいた。「お父さまは今朝がたエッテンハイムに向けて出発したの。もうじき帰ってくるでしょう」
「そうだね」と逃亡中の若者は答えた。「それに、もう行かなくては」
リースヒェンは開け放たれた窓まで行くと彼方に目をやりながら、「あなたがたどることになっている道はわかっているの?」と、ためらいがちに訊ねた。
「ああ。でも、僕が見ているのはこれからたどることになる道じゃなくって、ここに戻ってくるための道だ」
「あなたは逃亡中なのよね。ウォルファッハはフランスのすぐそばだし、あなたがたどっていく道だって……」
「お別れだよ、この町とも君とも、リースヒェン」若者は沈んだ表情になって続けた。
「不思議なめぐりあわせだ。僕はフランス以外の場所で人生をすごしてきた。ここ、あそこと足をとめ、一か所におちつくことがなかった。空と海の間を流れながら、目の前を通り過ぎる島に降り立つ水夫の生活と同じだよ。十二歳から十五歳まではイタリア、十五歳から二十歳まではチロルとドイツ、二十歳から二十五歳まではイリリアとオーストリア、それにボヘミア、二十五歳から二十七歳まではポーランドとロシア。こんなにたくさんの国に入っていったけれど、フランスを離れることは少しもつらくなかった。
僕は連隊旗にしたがい、その上で翼を広げる鷲の旗印に目をこらし、飛び立つ鷲について行ったんだ。でも今は、フランスを離れるのがつらくてたまらない。フランスをこれほど|愛《いと》おしく思ったことはない。こんなことを言うのはばかげているけれど、リースヒェン、どうか僕のことを信じてほしい。君の愛があれば一年余分に生きることができる。君が僕を愛し続けてくれるのなら、十年余分に生きることができる。生き続けてもう一度、ラインの川面にただよう|霧《きり》の向こうにストラスブール大聖堂の尖塔を見たいんだ」
「そうね、あなたの故郷ですものね」
「君にはこういう考えはわからないだろうね。僕は世界で一人ぼっちなんだ。愛する人たちは父も母も兄もみんな死んでしまった。敬愛、賞賛、献身、そのすべてを僕はひとりの人にささげたんだ。その人は高みから失墜した。その場所があまりに高かったので、その人の目には僕のことなど見えていなかった。僕はその人についてエルバ島まで行った。セントへレナにも行くつもりだった。だがイギリスはそれを認めなかった。僕はフランスに戻り、死刑を宣告された。何もかもうんざりだ。財産はあるけれど、そんなにたくさんじゃない。でも多分、自分らしく生きていくことはできると思う。自分の気持ちをうちあけることで、誰かが僕のことを気にとめてくれるのならね」
「友だちはいないの?」
「僕の友人は戦友たちだ。彼らはヨーロッパ中の戦場で戦い、僕のそばで倒れていった。生き残った者は国を追われた。僕のようにね。今は、自分たちが征服した土地をさまよっている」青年は悲嘆にくれた様子で肩を落とした。
「恋人は?」とリースヒェンが小さな声で訊いた。
「恋人! 僕たちは恋とは無縁の世界にいたんだ。武器を持った旅人なんだよ。駆け足で世界中をまわり、戦いの風が目の前を吹きぬける。その風を追いながら絶えずくりかえされるただ一つの言葉、それは『前進! 前進!』。想像できないだろうけど、そういう世界なんだよ。もうすぐ三十歳になる。僕の心では荒々しい感情が|渦《うず》を巻いていたけれど、今は穏やかな気持ちが芽生えている。人間として苦しんだ後では、子どものように愛することができると思う」
「どうしましょう!」とだしぬけに娘が大きな声を出した。「馬車が街道をやって来る音よ」
「ああ。聞こえた」
「エッテンハイムからお父さまが戻ってきたんだわ」
「出発しなければならないということだね」
娘は青年士官に手をさしのべた。
「ねえ、信じてほしいの。心の底からこう言いたいのよ。『ここにいてちょうだい』」リースヒェンの情にほだされ、青年は一瞬ためらった。
「リースヒェン。僕は出発しなければならないけれど、その前に願いごとが……」
「なあに?」
「君が僕に示してくれたやさしい気持ちの形見がほしい。屋根裏に隠れていたときは、君がまき散らしたバラの花を屋根裏部屋に持っていったんだよ。君はスミレの花束を身につけているよね。香りでわかる。その花束をくれないか? 僕は出ていくよ」
「スミレの花束?」とリースヒェンがさみしそうに言った。
「そうだよ。逃亡生活のお守りになってくれるだろう」
「悲しいお守りだわ。このスミレは秋咲きなのよ。あなたが話していたバラもそうよ。どこに咲いていたか知っている?」
「どこだっていいよ。君がつんできたのなら」
「お墓に咲いていたの。姉さんのお墓よ。亡くなってから、そうね……今日でちょうど三年になるわ。まだ霜がおりてないから花は咲いているけれど、死者のための悲しい花よ。毎朝、姉さんのお墓から花を集めて、同じような花束を作るの。一日中、花の香りが漂っているわ。その香りが私のお守りになってくれる。姉さんを感じることができるのよ」
「すまない。僕の願いはとりさげよう」
「いいのよ。ほら、ここにあるわ。さ、行ってちょうだい」
「ありがとう、リースヒェン、ありがとう。二度めの追放だ。フランスから離れ、君からも離れて行くんだ。でも僕は戻ってくる。僕を忘れないで、僕のために祈ってくれ」
「悲しいわ。誰のために祈ればいいの? あなたの名前さえ知らないのよ」
「リシャール大尉だ」
「お父さまだわ。あそこよ、街道をこっちに向かっているわ。さ、行って!」
青年はリースヒェンの手を握ると自分の熱い唇に押しあてた。青年が片方の扉から出ていったかと思うと、もう一方の扉が開いた。
「さようなら、リースヒェン、別れを言うのはつらい」そして彼の姿は見えなくなった。
[#改ページ]
第二十章 ウォルデック牧師
娘は一人でその場に残り、そしておそらくは生まれてはじめて、父親の足音がしても走って迎えにいかなかった。若者の姿が見えなくなると、リースヒェンは力が抜けたような気分になり、彼が出ていった扉のそばにあった椅子に座りこんだ。静まりかえった暗い部屋に父親が入ってきたときも、ずっとそのままだった。
老人にしてみれば、娘が迎えに出てこなかったのは不思議だったし、それより何より娘の姿も見当たらない。老人は一度立ちどまってから何歩か進むと、闇の中に目をこらした。しばらくの間は、何も見えず、何も聞こえなかった。
「リースヒェン!」と呼びかける声には、半ば詰問の調子がこもっている。父親が自分の名を呼ぶのを聞いた娘は、夢からさめたかのように立ちあがると父の方に駆け寄った。
「お父さま、ここです」
「そこにいたのか!」牧師はいささか驚きながら言った。声の方向に手をのばしていくと、自分の手の下の方に娘の手があった。
「おいで。さ、私を抱いておくれ。最初はおまえのために、次は逝ってしまった者のために」
娘は老人の首に腕を回した。
「ええ、ええ、お父さま!」リースヒェンは二人分の感情に満たされながら大きな声で答えた。「ええ、ええ、お父さま! 私のために、そして姉さんのために! そうすれば、娘の一人を亡くしたことを思い出さなくてもすむわよね」それからリースヒェンは老人から受け取ったマントを椅子にかけ、杖を部屋の隅にたてかけた。
牧師は娘を目で追った。まるで全部見えているようだ。
「どうしてこんなに暗いのだね、リースヒェン?」
「ランプを|灯《とも》すのを忘れたの」と娘はわずかばかり上ずった声で答えた。
「一人でこんなに暗い場所に?」
「夢を見ていたのよ」と娘は口ごもった。
牧師はため息をもらした。娘の口ぶりには困惑が感じられた。リースヒェンは大きな暖炉に近づくと灰の中からおき炭をとり出し、三筒にわかれたランプの筒の一つに火を|灯《とも》した。ランプは明るく燃えあがり、六十歳あまりの老人の姿を照らしだした。老人の整った顔には深い|皺《しわ》が刻まれている。辛苦に満ちた人生を歩んできたのだろう。だが、その表情には慈愛が満ちている。悲嘆が残した痕跡の間から思いやりに満ちた心が顔をのぞかせていた。
だが、娘が父親の顔に抱いていた印象は、われわれの観察とは違っていた。彼女が見慣れた父の顔は、いつもくもっていたからだ。だが彼女にしても、陰鬱な表情の仮面の下におだやかで陽気な人柄があることには気づいていた。牧師が持っていた|鞄《かばん》に気づいた娘が声をかけた。
「お父さま、その鞄は?」
牧師の表情が一気にゆるんだ。
「これかね?」
「ええ」
牧師は鞄を持ちあげてみせた。
「おまえの持参金だ」
「私の持参金?」驚いたリースヒェンが声をあげた。牧師は娘に鞄を手渡した。
「持ってごらん」
リースヒェンは、父から受け取った鞄をあやうく落としかけた。
「重いわ!」
「そうだよ」と老人は誇らしげに答えた。「二千ターレル入っているからね」
「二千ターレル!」と彼女はくりかえした。その声は、父の声が喜びに満ちていたのと同じくらい、悲嘆に満ちていた。「二千ターレル! だからずっと切り詰めた生活をなさっていたのね」
「切り詰める?」
「お年以上の仕事をなさっていたわ」
「そんなに働いていたことがあったかな?」
「おひとりでブドウの刈りこみと|剪定《せんてい》をなさったでしょう?」
「リースヒェン」と言いながら牧師はにっこりした。「ブドウの木は福音書のたとえ話にも出てくるだろう? その意味では、自分の手入れをしているのだよ」
「お父さまは私のために無理をなさっているわ」とリースヒェンがとがめるような口調で言った。
「おまえのために?」
「そう。お父さまは私を大切にしすぎているのよ」
「いや、そんなことはない」
「たとえば?」
「三年前にも持参金を用意したことがあった。覚えているだろう?」
「ええ」
「あのときも二千ターレルだった。だが一八一二年から翌年にかけての冬はいつになくきびしいものだった。おまえはまだ十四歳だったし、貧しい人々をたすけるのは牧師の使命だ。おまえにはまだ時間があるし、神からのお恵みもある。だがあの人たちは食べるものも飲むものもなく、寒さにふるえるばかりだった」
「お父さま」
「覚えているかい、リースヒェン」牧師は娘を抱く手に力をこめて続けた「あれは十一月だった。ライン川から黒い森にかけての一帯がとてつもなく冷えこんだ晩があった。風がうなり、氷雨が窓をたたいていた。私たちは暖かい服にくるまれ、暖炉のそばに集まっていた。おまえはそこにいて、私はここにいた。覚えているだろう?」
「ええ、お父さま」
「私はうとうとしていた。するとおまえが糸紡ぎの手を休めて、問いかけてきた『お父さま、何を考えているの?』私は、食べるものも着るものもなく、寒さに震えている人たちのことを考えているのだと答えた。するとおまえは立ちあがって食器棚のところまで行き、二千ターレルが入った|鞄《かばん》を私のもとに持ってきた。私にはおまえの気持ちがすぐにわかった。私は鞄を受け取ると外に出て行った……夜が明けると、おまえの持参金は無くなっていたが、六十人もの人びとがパンと薪と服を手に入れて、冬を乗りきることができたのだよ」
「そうよね、お父さま!」リースヒェンはそう言いながら父親を抱きしめた。「あの人たちの感謝の言葉を聞いて、神さまはお喜びになったわよね」
「そうとも。その証拠に二年後には同じだけの持参金を用意できたのだからね。だがおまえはもう十四歳ではなくて十七歳だ。今度こそはおまえのためにこの持参金を使うつもりだよ。とは言っても、ドイツの伝説に出てくるように、お金持ちの騎士だとか男前のお殿さまがおまえのとりこになるかもしれないがね」
「まあ、お父さまったら何をおっしゃるの」とリースヒェンがぴしゃりと言った。
「だってそうだろう? おまえはグリゼルダのように賢いだけでなくて気立ても器量もいい。グリゼルダはパルシヴァル伯と結婚したのだよ」
「お父さま、とりとめもない話はそこまでよ。家族の話に戻りましょう。マルガレーテ姉さんはいろいろな人に愛されたわ。ハイデルベルクの大学生ウルリッヒ、フランクフルトの銀行家の息子ヴィルヘルム、それにオッフェンブルク伯爵家のルドルフもよ」
「ああ、そのとおりだ!」と牧師は答えたが、その表情は急にくもった。リースヒェンは父親の顔をおおった暗い影に気づかなかった。
「お父さま、約束するわ。私はそんなに高望みはしなくってよ」
「まあ、まあ。いずれはおまえも結婚するのだよ。おまえにふさわしい婿があらわれますように。さあ、重いかもしれないがその|鞄《かばん》を持って。私のベッドのそばにある戸棚にしまってきてくれないか。鍵はここだ」
リースヒェンは笑いながら鞄を受け取った。
「これが私の持参金になるのね。でもそうならなかったとしたら――」
「そうならなかったとしても、おまえの笑顔、おまえの澄んだ目、そしておまえの薔薇色の頬があればじゅうぶんだよ。どれをとっても私からではなく、神からの贈り物というわけだがね」
娘はランプから火をとってろうそくを|灯《とも》すと、部屋を出ていった。ずっしりとした鞄の重みが腕につたわってくる。牧師はいつもと変わらぬ愛情のこもったまなざしで娘の後姿を見送ると、ひとりごとをつぶやいた。
「あの子には話さなかったが、二千ターレルには三ターレル足らないのだ。一ターレルをある老婦人に、二ターレルを足のなえた中風の病人に渡したからな。彼が主の御言葉を聞くことができればいいのだが。『お立ちなさい、杖をすてて歩くのです』。だが、今週中には三ターレルを元に戻しておこう。持参金はきっちり二千ターレルだ。この宝にふさわしい青年が現れれば、私の可愛いリースヒェンは幸福をつかめるだろう!」
牧師は天をあおいだ。失った娘の幻をさがしているようにも見える。それから、祈りとも問いかけともとれる調子で言った。
「天は私に償いを与え給うだろうか」
この時、娘が部屋に戻ってきた。
「お父さま、|鞄《かばん》を戸棚にしまってきました。鍵はここよ」
「ありがとう。ところで、おまえの都合はわからないが、そろそろ夕食の時間だと思うのだがね」
「そうね、お父さま」とリースヒェンは答えたが、うわの空だった。彼女は三歩ほど進むと足を止め、物思いに沈んだ。父親は娘を見守っている。
「どうかしたのかね?」
「何でもないわ」リースヒェンはそう答えると数歩進んだ。彼女はテーブルクロスを広げだしたが、急に両手を食卓の上についた。不安げな表情で父親を見ている。
「リースヒェン?」
「お父さま?」
牧師は娘を手招きした。
「ここにおいで」
リースヒェンは足早に父親のそばに来た。父の願いと娘の気持ちがぴったりと重なっているかのようだ。
「お父さま、なあに?」
「つらいことでもあるのか?」
娘はかぶりを振った。
「ないわ」
「心ここにあらずといった感じだよ」
「そうね、お話しすることがあるの。でもこんなに困ったことはないわ。どうしましょう」
「話してごらん」と牧師が心配そうな顔でうながした。「私は甘い父親だ。おまえが自分を責めることはない」
「そうね、私がお話するのはいいことよ!」
「いいことなのに、どうして迷ったりするのかね?」
「そのことに問題はないのよ。そのことに関係したある人をめぐる不思議な話なの」
「一体どういうことなのかね、話してくれないか」
「ええ、聞いて」
「遠慮なく話しなさい」
「その人をかばってくださる?」
「いや。だがおまえが小さかったころは、|赦《ゆる》してもらわなくてはならないことは話してこなかった」
「悪いことをしたときには、何も言わなかったということね」
「まあ、話してごらん」
「ねえ、お父さま。いつもこうおっしゃっていたわよね。お父さまのお父さまたちは、信仰を貫くためにとてもつらい目にあったって」
「そうだ。昔の話だがね。ルターや三十年戦争のときのことだ」
「それに信仰に生きた人たちのことも話してくださったわ。ときには涙を浮かべながら。その人たちは、自由と財産と生命までかけて追われている人たちを助けたのよね」
「ああ、そうだよ。だが、彼らが地上でおかした危険は報いられるだろう。天国では神の右に居場所が与えられるはずだ」
「そういうことなら、お父さま、祖国を追われた人に憐れみを感じてもいいのよね? 今、話した人たちのように」
「追われていると?」
「そうよ」
「その人は今どこに?」
「さっきまではここに。今は遠くまで行っているといいのだけど」
「その不幸な人物だが、おまえは彼をかくまっていたのだね?」
「お父さま、お許しください」とリースヒェンはためらいながら言った。「その不幸な人は……」
「どうしたね?」
「その人は、その……」
「そういうことか。フランス人なのだね」
「そうなの。ナポレオン皇帝のもとで戦っていた人なのよ。皇帝がエルバ島から帰ってくる手助けもしたの。今はフランスから逃げ出さなくてはいけなくなったのよ」
「おまえは心の命じるままに正しいことをやった。だが、私の心を疑ったのはまちがっていたね」
「お父さまもその人をかくまうつもりだったの?」
「もちろんだとも。牧師の家は、追い立てられ居場所をなくした者の隠れ家なのだ。で、そのフランス人は何歳なのだね?」
「年ですって?」
「そうだ」
「二十八か三十歳くらいよ、お父さま」
「若い男なのか?」
「若い男だったから、追い帰した方がよかったのかしら?」
「いや、そんなことはない!」と牧師は答えたが、心配そうに娘を見つめた。
「どうして私を見ていらっしゃるの?」
「さがしているんだ」
「何を?」
「おまえはスミレの花束をつけていた。今朝方、姉さんの墓からつんできたスミレだよ」
「失くしたと言うことだってできるけれど」とリースヒェンはおちついて答えた。「神さまがお守りくださったおかげで、嘘を言わないでもすむわ。フランス人が欲しいと言ったの。その人にあげたんです」
「リースヒェン、リースヒェン」と牧師は首を横に振りながら声をあげた。「今日まで私は、牧師の娘は村中の娘のお手本だと言ってきたのだが……」
「お父さま、何をおっしゃりたいかわかるわ。でも、嘘もいつわりもありません。その人が感謝のしるしにスミレを欲しいと言ったの。だから、友情のしるしにその人にスミレを渡したんです」
「その青年とはもう会わないのだね?」
「そうね、多分。でも……」
「でも?」
「彼はまた会いたいと言ったわ。三か月したら戻ってくるって」
「リースヒェン、リースヒェン、わかっているのか?」
「彼のことね、お父さま?」
「彼の国は私たちに|災《わざわ》いをもたらしたのだよ」
「どういうことなの?」
「つまりだね、今日は特別の日だと言いたかったのだ。十月の十六日だ。若くして逝ってしまった人の命日じゃないか」
「そうね。マルガレーテ姉さんが亡くなって四年だわ」
「喪服はもう着ていないが、あれほどのつらい記憶は、どれほど月日がたっても消えることはない」
「そうね、お父さま。姉さんの部屋も亡くなったときのままにしてあるわ。あそこは、姉さんの思い出を大切にしまっておく場所なのよ」
「信仰に殉じた聖女の思い出でもある。おまえはフランス人のことを話しただろう。そして、どうして私がフランス人を恨んでいるかを訊ねた。今日は悲しい日だが、マルガレーテがどうして亡くなったか、神とおまえの母親が与えてくれたあの天使がどんなにつらい道を歩んで天に昇っていったかを話すことにしよう」
「お父さま! 姉さんはなんて恐ろしいめにあったんでしょう! 亡くなって三年が過ぎたのに、姉さんのことを話すのがそんなにつらいなんて!」
「何が起こったかは、永遠の秘密にしておきたかった。おまえに話したくはないのだよ。だが、おまえに助けられたフランス人が戻ってくると約束して、多分、そのとおりになるのだとしたら、一切を話しておかなくてはなるまい。彼が戻ってきたら、おまえには『思い出せ!』と言うだろうし、もし戻ってこなかったとしたら『忘れろ!』と言うことにしよう」
「お父さま、お願いだから話して」
牧師はしばらくの間、過去を思い出したかのように顔を両手にうずめた。それからため息をもらすと、次のような話を語りはじめた。
[#改ページ]
第二十一章 過去の秘密
「七年前までさかのぼろう、リースヒェン。おまえはまだ小さくて、人形で遊んでいるような年ごろだった。突然、ラティスボンからはフランス軍が、ミュンヘンからはオーストリア軍がやって来たという知らせが入った」
「ええ、覚えているわ、はっきりと。アーベンスベルクの丘ね。古いお城のそばに小さな白い家があった。ブドウのつるが門の上をはっていたわね。庭にはリンゴの木もあった」
「オーストリア軍がやって来たときのことを覚えているかい?」
「ええ。姉さんと客間にいたのよ。友だちのシュタップスも一緒だった。遠くでドラムの音がしていたわ。学生たちが軍隊行進曲を歌いながら家のそばを通り過ぎて行った。姉さんの横に座っていたシュタップスは立ち上がって窓辺に行き、歌っている人たちを見ていたわ。ねえ、お父さま、シュタップスはそれからどうなったの?」
「彼は銃殺されたのだよ」
「銃殺ですって?」とリースヒェンは悲鳴をあげて、|蒼《あお》ざめた。
「そうだ。銃殺されたのだ」
「どこで?」
「ウィーンだ」
「どうして?」
「ナポレオン皇帝を暗殺しようとした」
「ああ!」とリースヒェンは言いながら、手で顔をおおった。
「かわいそうなシュタップス! でも彼は大罪を犯したのよね。どうして皇帝を暗殺しようなどと?」
「シュタップスから見れば、皇帝はドイツの抑圧者だった。シュタップスは秘密結社に属していたのだよ。その組織に入るには、自分の意思を捨てなければならないのだ」
「では、皇帝を狙撃したのは彼だったのね。そのせいでアーベンスべルクは略奪されて火事になった」
「彼を責めようとは思わない。だが、私たちの不幸はその時にはじまったのだ」
「そうね。お父さまはけがをなさって、死者といっしょの場所に運ばれていったのよね。あの日から自分が死ぬ日まで、姉さんは泣き続けていたわ。一体、何があったの? 訊ねるたびに、答えはいつも同じだったわ。『いつか話そう、いつか』って」
「こういうことだったのだ。ナポレオンは自分の帽子に穴をあけた銃弾には、たいした関心を持っていなかった。だが、ベルティエ元帥は、この犯罪行為には報復が必要だと考え、一連隊にアーベンスベルクまで戻って正義を行えと命令した。必要な場合には、一人の人間のあやまちのために、村全体に罪を負わせてもいいということだ。
フランス軍の一連隊がベルティエの命令を実行するために戻ってきた。だが、フランス軍が放棄した村はオーストリア軍によってすでに押さえられていた。村の争奪が、その日一番の重大事になった。フランス軍は何としてでも村を奪い取ろうとし、オーストリア軍は村を死守しようとしたのだ。おそろしい戦いだったよ。
私たちの家は防御が固められ、まるで要塞のようだった。私もそこにいた。自分たちの国を守るという義務を実行するため、|殺戮《さつりく》に我を忘れた兵士たちといっしょだった。だが、私は平和主義者だ。すべての人は兄弟であり、ただ一つの国があるだけだと信じている。私はおののきながら敵と味方のために祈りはじめた。オーストリア人とフランス人の両方だよ。彼らにはわからないのだ。目があるのに見えないのだよ! 自分たちの側にいない者は敵あつかいする。彼らは私に銃を握らせると、引き金を引けと言った」
「ああ!」とリースヒェンは小声で言った。「あの家で、そんなにひどいことが起こったのね」
「そうだ。だが、大砲の発射音と耳をかすめる銃弾のさなかに、私は神に祈った。『主よ、あなたは偉大なお方、あなたは力に満ちたお方、あなたは慈悲を与えたまうお方。今は死を求めている人々が、兄弟として抱擁しあうことができますように。今は戦いにあって呼ばれる御名が、あまねき平和にあって呼ばれますように!』祈っている最中に私は突然よろめき、声が出なくなった。目の前が暗くなり、血まみれになって倒れてしまった。銃弾が胸に当たったのだ」
「お父さま!」とリースヒェンが悲鳴をあげながら、両腕を父親の首に回した。その声は、まるで今この時に父が撃たれたように|切羽《せっぱ》つまっている。
「倒れながら最後に見えたのは、マルガレーテの姿だった。マルガレーテは隠れていた場所を抜け出して、私の足元に駆け寄ってきた。あのときは本当に苦しかった。意識が|朦朧《もうろう》として昼なのか夜なのかもわからなかった。死神に捕まったと思った。マルガレーテの方に手をのばした。血にそまったもやの向こうにマルガレーテの姿が見えたのだ。マルガレーテの名前を呼んで、その体に触れ、祝福しようとした。だが、力が続かなかった。目の前が暗くなり、気が遠くなった」
「ああ、お父さま!」
「どのくらいの時間が立ったのかわからない。だが気がついて目を開けてみると、天にはすがすがしい光が満ちていた。このまま目を閉じてしまおうと思ったときよりも、はるかにつらかった。死に身を|委《ゆだ》ねるよりも、生きようとすることのほうがずっと大変なことなのだよ……戦争とはそういうものなのだ。何と恐ろしい! 戦争はありとあらゆる罪をひきずってくる。私は死者の中に倒れていた。手には銃を握ったままだった。見逃されたのは、死者だと思われたからだ。私たちが暮らしていた小さな白い家は灰の山になって、周囲からは煙がたちのぼっていた。村は廃墟となり、畑の|畝《うね》にも町の溝にも血が流れていた。教会の中まで血の海だった。そこでマルガレーテを見つけた。真っ白な顔で呆然とし、ほとんど死にかけていた。ああ、死んでしまったほうがまだしも幸せだっただろうに!」
「お父さま!」とリースヒェンが叫んだ。涙があふれている。
「それなのに」と牧師は苦しそうに続けた。「それなのに、彼らはあれはすばらしい戦闘だったなどと言ったのだ。攻めた方も守った方も名誉を貫いたなどと言ったのだ。私が受けた傷は自然に|癒《い》えていった。だが、マルガレーテが受けた傷は癒えなかった。気配りもいたわりも献身もマルガレーテにとっては無意味だった。やがて、私はバイエルンを去ってウェストファリアへ、ウェストファリアからバーデン大公国へと移った。名前もシュティッレルからウォルデックに変えた。だが、マルガレーテは生きる意欲を失っていた。おまえも見ただろう、マルガレーテの顔は青白くなってやせ細り、日ごとに気力もほほ笑みも失っていった。そして一八一二年の十月十六日、マルガレーテは|赦《ゆる》しを与えながら息を引きとったのだ」
「かわいそうなお姉さま!……」
「いいかね、こういうことなのだよ。シュタップスと婚約していたマルガレーテは、ハイデルベルクの学生とも、フランクフルトの銀行家の息子とも、オッフェンブルク伯爵家のルドルフとも結婚しようとはしなかった。マルガレーテはリシャール大尉に乱暴されたのだ」
「何ですって!」とリースヒェンは絶望にかられて叫んだ。
「どうしたのだね?」
「リシャール大尉ですって?」
「そうだ。リシャール大尉だ。私たちが喪服を着ることになったのは、その男のせいなのだ。おまえの年齢なら一年間だが、私の場合は一生だ」
「ああ、何てことでしょう!」とリースヒェンは口ごもった。耳にした名前の重みにつぶされそうだ。
「私は平和を貫きたい。神の前にひざまずいて祈ることはたった一つだけだ。どうか、どうか、あの男を私の目の前に連れてこないでください。そんなことになれば、我を忘れてしまうかもしれない。そしてこれは神の正義なのだと思ってしまうかもしれない。神よ、どうか、どうかお願いです!」
「お父さま、お慈悲を!」
リースヒェンは、父親が復讐を誓って天にさしあげた腕を引いてもとに戻した。
「そうだな、その通りだ。もう考えないことにしよう。少なくとも憎しみをいだきながら考えるのはやめよう……夕食はできたかな? 席につこうか。悲しいが、おまえと私の間の席には誰もいない。マルガレーテの場所だったからな」
牧師は席についたが、食事には手をつけず、両手に顔をうずめた。リースヒェンは父親の向かいの席について背もたれに寄りかかると、深い悲しみに沈みながら父親を見つめた。と、その時、やや遠くで銃声が響いたかと思うと、出し抜けに足音が聞こえた。次の瞬間、中庭の扉がさっと開いた。リースヒェンは悲鳴をあげた。
牧師はふりむき、青年を見た。つい先ほどリースヒェンに別れを告げたあの青年だ。
「この人よ、お父さま」とリースヒェンが小声でささやいた。
「お入りなさい」
「追われているのです。もう一度、助けてくださいませんか?」
「早く中へ。私の隣に座りなさい。リースヒェン、皿をそろえてくれ。ドイツ語はわかるかね?」
「わかります」
「よろしい。あなたは客人だ。だいじょうぶ。助けてあげられるだろう」
青年は食卓の席についた。牧師はほんの数分前に、その席にマルガレーテの姿が見えないことを嘆いたばかりだった。
リースヒェンは大急ぎで青年の前に皿を並べると、自分の席にもどりながらつぶやいた。
「ああ神さま、この人をここに来させたのは、あなたの怒り、それともあなたのお慈悲でしょうか?」
それと同時に憲兵隊班長の制服を着た男が、開いていた窓枠を支えにして上半身を部屋の中につっこんできた。食卓についている三人をじっと見ている。
「ああ、シュリック班長だわ。もうおしまいよ」
だが、リースヒェンに途方もない恐怖を与えたシュリック班長の顔には、敵意などまったくなかった。班長は礼儀正しく帽子をとると、牧師に挨拶した。
「お食事中でしたか、牧師さん。皆さんもおそろいで」
リシャール大尉はすばやく班長の顔を見た。前に会ったことがある。
牧師はと言うと、内心とは裏腹におちつきはらっていた。
「何か?」
「お手間はとらせません。シュリック班長です」
われわれの主人公である大尉は、班長の名前にも顔にも覚えがあった。だが、どこで会ったか、いつ名前を耳にしたのかまでは思い出せなかった。シュリック班長の方でも、大尉をじっと見つめているところを見ると、彼の記憶力もリシャール大尉に負けないくらい優れているようだが、それ以上というわけでもなさそうである。
班長はしばらく大尉をじろじろと見ていたが、ややあって疑いは晴れたという様子で首をたてにふった。
「牧師さんに失礼があってはならんと市長から念を押されましてね。入ってもよろしいですかな?」
牧師が大尉に向けた視線には、「あわてたりすれば万事休すだ」という意味がこもっている。それから牧師は班長に言った。
「もちろんです。どうぞお入りください。何の不都合もありませんよ」そして牧師はこうつけ加えた。
「リースヒェン、シュリック班長の足もとを照らしてあげなさい」
リースヒェンは立ちあがると震える手でランプを持ち、班長のところに行こうとした。だが、それと同時に班長は窓枠をまたいで部屋に入ってきた。
「いや、お気遣いなく、お嬢さん! われわれにとっては窓が入り口なんですよ」
リースヒェンは大尉の方を見た。大尉は平然とした態度を崩さない。何のことだかわからないとばかりに、部外者としての役割を見事に演じている。
「ようこそ、シュリック班長」と牧師が冷静な声で言った。リースヒェンはひどく|蒼《あお》ざめていたので、班長が心配そうなまなざしを向けた。
「お嬢さん、お加減が悪そうだが私がいきなりお邪魔したせいでしょうな。見た目がいかついだけですから、どうか心配なさらんでください」
こう言いながらも班長は、フランス人から瞬時も目を離さなかった。大尉は班長のそばで泰然とかまえながら食卓に頬杖をつき、何事もなさそうな様子で班長の方を見ていた。だが、班長が大尉に向けるまなざしには好奇心がこもっている。
「いやいや、そんなことはありませんよ」と牧師が答えた「シュリック班長はいつも礼儀正しい方だ」
リースヒェンは何とかしてほほ笑もうとした。
「でもお父さまと何度か言い争いをなさっていたわ」
「言い争いですと! 牧師さんのようによくできた方と言い争うなどという無作法なことは、やっていないと思いますが」
「何のことで言い争っていたか、お望みでしたら申しあげます」
「お聞きしましょう、お嬢さん」
「フランス人のことです」
「ああ、なるほど。それならわかります。私はフランス人のこととなると、いささか強情でしてね、あの国民を賞賛しておるのです。ですが牧師さんはフランス人を憎悪している。そのとおりでしょう? 牧師さん」
「まったくそのとおりです、シュリック班長」
「ドイツはフランスのせいでひどい経験をしましたからね。それに牧師さんは、バイエルンとウェストファリアでも暮らしておられたのでしょう? 特にバイエルンではいろいろなことがあった。私はよく知っていますよ、そこにいましたから」
「あなたもあそこにおられたのですか?」と牧師がすかさず聞きかえした。
「いましたとも。私はナポレオン皇帝陛下の軍中にいたのです。尾ひれをつけて私の話を広めている連中までいます。牧師さんはご存知でないでしょうが」
「ええ、知りません」
「その話では、私はフランス語とドイツ語の両方を使ってうまくやったとされています。まあ、これは国境地域に暮らす人間にとっては当たり前のことですがね。それだけでなく、チロル、リトアニア、ハンガリーの方言まで理解しており、あちこちを探索してはナポレオン皇帝に情報を提供していたと言うのですよ。さらに私がベルティエ元帥と取引しており、情報の価値次第ではかなりの報酬を得ていたということになっています」
「まあ」とリースヒェンが目を丸くして言った「そういうのって、スパイじゃないんですか?」
「そのとおりです、お嬢さん。口さがない連中はそう言っています。ですが私は好奇心を満たすためにあちこちを歩いたのです。そして物見遊山気分で見聞したことをナポレオン皇帝に伝えたのですよ。ナポレオン皇帝は私の他愛ないおしゃべりを楽しむと、寛大にも金銭を渡してくれたのです」
「なるほど」と牧師が合いの手を入れた。
「皇帝は懐の広い人物でした。ある時などは親衛隊猟騎兵の青年士官に同行して、かなり危なっかしい任務をこなしたこともあります。このときのことをお聞かせしましょうか?」
「ぜひお願いします、シュリック班長。私はナポレオンの話は好まないのですが、あなたのお話には興味をひかれます」
「ところで」と班長は客人を見ながら言った「お客人はドイツ語を話されますかな?」
「つまり?」とリースヒェン。
「つまり、フランス語に切り替えて話すこともできますが」
「おかまいなく」とそれまでは無言でいた青年が、よどみないドイツ語で答えた。「そのまま続けてください」
「お、われわれは同郷というわけですな。では、遠慮なく続けさせていただきましょう。私とその猟騎兵士官の話なのですがね。私たちはいっしょにアーベンスベルクの古城に行きました。そこでは秘密結社の集会が開かれておったのです」
「アーベンスベルク?」と牧師がさえぎった。
「そうです、アーベンスベルクです。牧師さんはアーベンスベルクのことをご存知なので?」
「ええ、しばらくの間、アーベンスベルクに住んでいましたから」と牧師が答えた。平然とした表情だ。
「で、私たちは連れ立ってアーベンスベルクの古城に行きました。それから会員になって秘密結社の目的をさぐったのです。つまり、私とその猟騎兵士官の二人ですな。もう少し詳しく言うと、私はすでに会員でした。そして翌日、ベルティエ元帥に一部始終を報告したのですよ。ベルティエ元帥はこの話に非常な興味を示し、皇帝の名において百ナポレオンをくれました」
「それは大金ですな、シュリック班長」と牧師が驚きの声をあげた。「それと同じように興味深い話を報告していたとすると、すっかり暮らし向きもよくなったのでしょうね」
「いやいや、そんなことはありません。妻と子を養わなくては。それに子どもが娘だった日には、持参金を蓄えなくてはなりませんからな」
「まったくです。そのために国籍を度外視して仕事をされたわけですな」
「度外視する? はて、何のことですかな、牧師さん」
「あなたはドイツ人だ。それなのにフランスの皇帝に仕えた」
「ドイツ人! 本心でそう言われるのですか」
「もちろんです」
「いいですかな、牧師さん。一体全体、バーデン大公国の人間はドイツ人なのか、フランス人なのか。私はそれほど石頭じゃあない。私はバーデン人です。最初、私はドイツ人でしたし、バーデン大公国もドイツでした。やがてバーデン大公国はフランスの属国のようなものになり、私もそれにならいました。ですが今やヨーロッパは混乱しきっており、ウィーン会議ではライン同盟を再編成して新しい盟主を置くことになった。バーデン大公国を統治しているのはフランスの大公女〔ナポレオンの養女ステファニー・ド・ボアルネー。バーデン大公妃〕ですが、またしてもドイツの一部になったわけです。つまりバーデン大公国の人間である私は、またまたドイツ人になったということなのですよ」
「ごもっともです。それで――」と牧師は応じた。シュリック班長の真意をつかもうとしているようだ。
「つまりですね、牧師さん。私には自分が誰なのかわからんのです。ですから何らかの組織に所属して、自分はこういう者だと納得するために憲兵になりました。もはやドイツ人でもフランス人でもなく、憲兵として任務を果たすだけです。フランス人だったら『何なりとお申しつけください』というところだ」
「わかりました、シュリック班長。それで結論は?」
「結論? 私に結論を言えとおっしゃるのですか」班長はそう言うと、客人の方に視線を走らせた。同じ意見かどうかを確認するためだ。だが相手はまったく表情を変えない。
「ああ、神さま!」とリースヒェンがつぶやいた。事態が大詰めに向かっているのを察したのだ。
「では申しあげましょう。今の私は、頭のてっぺんから足のつま先まで憲兵以外の何者でもない。骨の髄まで班長以外の何者でもない。そして私の任務は、フランス人の逃亡者を追跡して逮捕することなのです。その男は例の人物の元部下でして、彼らの陰謀に加担し、今は死刑から逃れるために逃亡中です。ライン川の向こうでは『やつらを一網打尽にする』と言っていますから。そういうわけで、その男はバーデン大公国に逃げこんできたのです」
「そのフランス人の名前は?」と牧師がさぐりを入れた。
「ああ、どうしよう」とリースヒェンが低い声で口走った。班長が口にする名前を聞いた父は何と思うだろう!
「それがですね、今になってもまだ知らせてこないのですよ。わかっているのは人相だけでして」班長は目の前の大尉から視線を動かさずに続けた。
「人相書きによると、青い目で金髪、色白、口の大きさは標準、歯は白、身長は五ピエ四プース、年齢は二十八から三十」
牧師は内心の恐怖につき動かされてしまい、とっさに客人の方を見た。リースヒェンは大尉を見る必要などなかった。確認するまでもなく、人相書きはぴったりと一致している。これまでのところ、班長の顔つきやそぶりには少しも敵意が感じられなかったことを見てとった牧師はいささかなりとも強気になり、用心するようにと目で大尉に合図しながら、班長に言った。
「シュリック班長、それだけではよくわからないのですが……」
「私がここに来たわけですか? 今からお話しますよ。われわれ、つまり私と二人の部下は三日前からある男を見張っておったのです。だが、捕まえるにはいたらなかった。この近くにいるのは確かなのですがね。ところが今晩になって部下の一人が言うには、長い植えこみをするりと抜けていった人影があったのですよ。その部下によると、人相書きと一致する人物だったそうです。部下が小銃をかまえると、相手はのけぞって逃げ出した。部下は追跡を開始し、牧師館の庭の壁ぎわまで彼を追いつめたのです。だが、その男は身軽だったと見え、馬車よけの石を足場にして壁を乗りこえると、反対側の花壇に飛び降りました。部下は男に向けて発砲したのですが、相手に命中させるというよりは、われわれに急を告げるためでした。音がした方向に走っていくと、小銃に弾をこめている部下を見つけました。部下の話を聞き、ひょっとして牧師さんがそのフランス人を見かけなかったかをお訊ねしたようなわけでして」
「見かけたかどうかですか?」と牧師が答える。
「それとこの家にかくまわれていないかどうかもです」
「一体全体、どうして私が? 私はあの国民を深く憎んでいるのですよ」
「わかっていますとも! 部下にもそう話しました」
「まあ、そうだったのですか!」とリースヒェンはほっとしながら言った。
「私は部下にそのとおりのことを言ったのですよ」と班長が話しだした。まるで、自分の話を聞く人々に、希望と恐怖を交互に経験させようとしているようだ。「しかしですな、自分に対してはこう言った。『いや、待てよ。牧師さんはあんなにいい人なのだから、憎しみを忘れることだってできるだろうし、一番憎んでいる相手をかくまうことだってできるだろう』とね」
「シュリック班長、我が家を捜索してください。もしその男を見つけたら、連行されてもかまいませんよ」
「いや、われわれがさがしている男がこの場にいないのなら、探す必要はありません」と班長が答えた。依然として客人から目を離さない。そして班長は出ていくそぶりを見せた。だが、牧師が口を開いた。
「シュリック班長、しばらくお待ちを。出ていかれる前にライン・ワインをどうぞ」
「私にですか? それはありがたい。では、以前の友人、フランス人に乾杯といきましょう」
「リースヒェン、一番いいのを持ってきておくれ」
娘はぎごちなく立ちあがると、ランプに火を|灯《とも》すためにろうそくを取った。だが、この騒動の中心だった大尉は、誰よりもおちついて見えた。彼はリースヒェンの手からろうそくを受け取るとランプに点火し、ろうそくを娘に返した。リースヒェンは不安げな目で一同を見ると、部屋から出ていった。
[#改ページ]
第二十二章 従兄ノイマン
シュリック班長はリースヒェンがすっかり見えなくなるまで、その後姿から目を離さなかった。
「なるほど」と彼は自分に言い聞かせるように口を開いた。「お嬢さんは、後ろ髪を引かれるような気分なのでしょうな。お嬢さんの前では私が口にしなかったようなことを、牧師さんに質問するだろうと見抜いておられる」
「どのような質問ですかな、シュリック班長」と牧師が訊ねた。とうとうこの瞬間が来たのだ。
「そうですな。さしつかえないようでしたら、ラインの向こう側での決まり文句どおり、包み隠さずに聞かせていただきたい。そして、お嬢さんに余計な気をつかわせないでもすむように、この若い方がここで何をやっているのかを教えていただきたい」
「ご覧のとおり、食事を共にしているのです」
「それはそのとおりです。まったくです。ですが、お訊ねしたいのは、この若い方が何をしているかということではなくて、彼は誰かということです」
「彼をご存知ないのですか?」
「いや、存じあげません。お近づきになりたいものです」と班長は答えて会釈した。
客は気ぜわしく首を横にふった。内心ではこう言っている。「気づまりなお芝居ごっこはもうやめにしましょう」
だが牧師は、シュリック班長にどう対すればいいかを大尉よりもよくわきまえていた。牧師は客人を見ると、もう少しだけ我慢するようにと目で伝えた。
「いいですかな、シュリック班長。ウォルファッハに来る前は……」
「ウェストファリアとバイエルンにお住まいでしたな。先ほど、そううかがいました」
「そうです。家族の中にはバイエルンに留まっている者もいます」
「アーベンスべルクに?」
「その通りです」
「ところで牧師さん、その若い方はご親戚で?」
「妹の息子でしてね、甥のノイマンです」と牧師はためらいながら答えた。いや、嘘をついたってかまわない。立派な動機があるのだから、事実を曲げてもよいではないか。
「で、どちらへ?」
「さあ」と牧師は答えながら、にこやかな顔をつくった。
「なるほど、そういうことですか。ご結婚なさるわけで。ノイマン氏はリースヒェン嬢と結ばれるわけですな。ノイマンさん、心からお慶びいたします」
偽者のノイマン氏がうなずいた。だがまだ不足らしい。シュリック班長がノイマン氏に近づきながら声をかけてきた。
「どうぞ手を」
若者は手をさし出したが、とんでもないしかめ面だったので、牧師がたしなめるように目配せして自分の役割を思い出させる破目になった。だが、さし出した手はいささかも震えていない。若者はしっかりとシュリックの手を握ると、さわやかな目つきで班長の目を真っ直ぐに見た。
「肝のすわったお方ですな」と班長がささやくように言った。「七年前に私がつけたあだ名はまちがっていなかったわけだ、獅子心のリシャール」
班長は、若者にも聞こえるようにと最後の言葉をはっきりと発音した。だが若者の様子から察するに、彼はこの言葉を耳にしても何も思い出さなかったか、あるいはその意味がわからなかったようだ。
ちょうどこの時、リースヒェンが戻ってきたので、牧師と若者は彼女に目線を移した。リースヒェンは、赤っぽい色をした細長いワインボトルを片手に持っていた。食卓に彩りを添える唯一の小道具だ。彼女は父親の前にワインを置くと、出演者一同の顔を見くらべた。席を外していた間に何がおこったのかを見定めようとしている。リースヒェンは、班長の上機嫌ぶりを見て少しだけほっとした。
班長は誰に聞かせるでもなくつぶやいた。ぬかりなくリースヒェンを見つめている。
「十六か十七歳、若くて美しい……」そこまで言うと、彼は若者に目線を移した。
「二十八から三十歳。青い目、栗色の髪、白い肌、中くらいの口、白い歯、身長まではわからないが、立ちあがれば五ピエ四プースあたりにまちがいない。おにあいじゃないか!」
「人相書き!」牧師とリースヒェンは同時に息をのんだ。
「正体を見ぬかれたぞ」と大尉は心の中で叫んだ。
牧師は班長のグラスにワインを注ぎ終わったばかりだった。班長はグラスをとると高くさしあげた。
「なるほど! さて、お嬢さん、こうして美酒を手にしたからには言わせていただきましょう。あなたとノイマン氏の健康を祝して! そして未来の幸福な家庭のために!」
リースヒェンは目を丸くして父親と若者を見くらべた。班長が口にした最後の言葉はどういう意味なのだろう。
「おや、見当はずれのことを申しましたかな? 他意はなかったのです、本当ですよ」
「ノイマンさんの健康と幸福な家庭のためですって? どういうことですか?」リースヒェンにしてみれば、自分がいない間に何がおこったのかさっぱりわからなかったのだ。
牧師はうなだれた。若者はこれ以上辛抱できなかった。彼は立ちあがるとフランス語で班長に話しかけた。
「ムッシュー、もう幕引きにしましょう。あなたがさがしている男は私です」
だが班長は若者の肩に手を置くと腰かけるようにとうながし、低い声でささやいた。
「まあまあ。私はこの間までフランス人だったのですよ。今回は可憐なリースヒェン嬢と婚約したノイマン氏のために乾杯したまでです」これだけ言うと班長は、大きな声になって続けた。
「ではノイマン氏の健康を祝して!」
「シュリック班長、あなたは立派なお方だ!」と牧師が言った。
「お静かに! いやはや、これにはたまげた。騒ぎたてると誰かに聞かれるかもしれませんぞ」と班長が小声で制した。
「そうですわね」とリースヒェンも班長にあわせる。
「私がみなさんにお伝えしたかったのはただひとつ、ナポレオン皇帝(ここで班長は敬意を表すために手を帽子まで持っていった)の副官が重大な知らせを託した人物は、ラインの向こう側で言われているようなお人よしではなかったということなのですよ」
「シュリック班長!」とリースヒェンが口走った。「ありがとうございます!」
「しっ! お静かに」と班長は小声で続けた。「次にお会いする時も善人のシュリックのままだとは限りませんぞ」ここで班長は大きな声に切り替えた「ですが今回は部下たちにはこう言いましょう。つまりですな、追いかけていた人物をさがしていたが、そこにいたのは未来の花婿だったとね」それから班長はささやくようにつけ加えた。「花婿殿は大急ぎで婚礼の準備をなさってくださいよ」
「ああ、シュリック班長!」と言いながらリースヒェンは、感謝のあまりに思わず両手を打ちあわせた。
「お静かに! ノイマンさんはどこかに身を|潜《ひそ》めてください。どこでもかまわないが、全員が寝静まるまでは外に出ないでくださいよ。ではごきげんよう! 牧師さん、お嬢さん、そしてノイマンさん!」そして意味ありげな目線を投げかけると、班長は去っていった。
なかば喜劇めいた盛りあがりを見せたこの場面の出演者一同は、班長が部屋を出ていって扉を閉めるまでその姿を目で追っていた。牧師は息切れしそうなほど緊張していたが一言も発せずに歩き出した。班長が入ってきた窓とよろい戸を閉めるためだ。よろい戸を閉めるとき、半開きになった戸の隙間から班長が見えた。二人の部下と話をしている。
この間に、リースヒェンは若者に近づいて行った。
「何てことになってしまったんでしょう! 私のせいで大変なことになるところだったわ。シュリック班長でなかったらあなたは捕まっていたわね」
「まったくだ」と牧師が言った。「だが彼のおかげで君は助かった」
「本当にありがとうございます!」と言うと、若者はにこやかな顔で牧師の手にキスした。
「リシャール大尉がマルガレーテのお父さまの手にキスするなんて!」とリースヒェンは小声で口走った。「あの人をここに来させたのは、神さまの怒りではなくて、神さまのお慈悲なのかしら」
「お客人、私を信じてください。シュリック班長の忠告にしたがいましょう」牧師はそう言うとマルガレーテの部屋をさし示した。
「さ、この鍵を。階段を昇って部屋に入ってください。ですが、尊敬の気持ちを忘れないで。あの部屋にいた人は信仰に殉じたのですから。そして私が呼ぶまで出てきてはだめですよ」
「感謝します。でも、最初にお断りさせてください。あなたにもう一度お会いする前にここを出ていかなくてはならないかもしれません。そして、何もお話しせずに出ていくかも……」
「どんな話なのですか?」と牧師が言った。とりあえずの危機が去った今では、フランス人への憎しみが心の中でまた燃えあがっていた。
「班長と話しておられたところでは、ウェストファリアにお住まいだったとか?」
「そうです」
「それからバイエルンにも」
「それがどうかしましたか?」
「班長はアーベンスベルクの名前も口にしましたね」
「それで?」
「本当にアーベンスベルクにお住まいだったのですか?」
「まあ、どうしましょう。この人は一体何を言い出すのかしら?」とリースヒェンは思った。リースヒェンは若者のそばまで行った。彼が話しすぎるようなら、とめなくてはならない。
「アーベンスベルクでのお知りあいの中に、シュティッレルさんという方はおられませんでしたか? 立派な方です」
リースヒェンはすんでのところで悲鳴をあげそうだった。彼女は若者の腕をつかんだが、彼にはその意味がわからないようだ。
「シュティッレル、シュティッレル」と牧師はくりかえした。呆然とした顔で若者を見つめている。
「そうです、シュティッレルさんです」
「知っていますよ」
「ねえ」とリースヒェンがささやいた。「危険が迫っているのよ、班長さんが言ったとおりになさって」
「あと少しだけ話させてください、お嬢さん」そう言うと若者は、もう一度牧師に問いかけた。
「牧師さん、私はシュティッレルさんをさがしているのです。大事な用事がある。アーベンスベルクに行けば会えるでしょうか?」
「どのような用事なのです?」と牧師が聞き返した。声が上ずっている。
「それはご容赦を。私以外の人物にかかわる秘密なのです。ですからお訊ねすることしかできません」腕をつかんでいるリースヒェンにはかわまず、若者は質問をくりかえした。
「アーベンスベルクでその方に会えるでしょうか。それとも傷がもとで亡くなってしまったとか?」
「お父さま!」とリースヒェンが口の前に指を立てた。これ以上は黙っていてとうったえている。牧師はうなずいた。
「わかったよ、リースヒェン」それから若者に声をかけた。
「シュティッレル牧師は傷がもとで亡くなったのです」
「亡くなった!」と若者はかろうじて聞こえるような声で言った。「亡くなったのですか!」若者はさらに訊ねてきた。今度は普通の声だ。
「その方に娘さんは?」
リースヒェンは椅子にもたれかかった。今にも倒れそうだった。
「二人の娘がいました。どちらの娘さんかな?」
「マルガレーテです」リースヒェンは両手で口を押さえた。すんでのところで叫び声をあげるところだったのだ。
牧師の顔が見る見る|蒼《あお》くなった。
「あなたは……牧師にマルガレーテという娘がいたことをご存知なのですか?」
「ええ、知っています」若者はためらった。今から発しようとしている質問の中に、あれほど愛していた兄の魂を見るような気分がしたのだ。
「マルガレーテは幸福に暮らしているのですか?」
「ああ、まさにそのとおりです! この世の誰よりも幸福です。マルガレーテは天国にいるのですよ」
「その方も亡くなったのか!」と若者はうなだれた。
しばしの沈黙があった。若者はリースヒェンからろうそくをうけ取ると、口を開いた。
「これですべてです。もうお訊ねすることはありません」
今度は牧師が動き、若者をひきとめようとした。だが、リースヒェンが二人の間に割って入った。
「お父さま、この方は身を隠さなくてはならないのよ。捕まってしまうわ」それから若者を階段の方に押しやった。「お願いですから、一刻たりとも無駄にしないで。さ、早く姉さんの部屋に」
若者は驚いて立ち止まった。
「さ、早く」リースヒェンは小声でささやいた「部屋に入ったら窓の間にかかっている肖像画を見てね。出ていくのはその後よ」
若者はリースヒェンを見た。先ほどとは表情が一変していて、彼女の物腰には有無を言わさぬ迫力がこもっていた。リースヒェンと牧師の間で以心伝心のやりとりがあったのだ。だが、少なくとも今は、そのわけを聞かせてもらうわけにはいかない。
彼はリースヒェンに言われるがままに階段のところまで行った。牧師は娘と若者を交互に見くらべている。この若者は一体誰なのだろう、そしてシュティッレル牧師をさがしてどうするつもりなのだろう。若者は扉を開けると、部屋の中に姿を消した。
若者が消えた扉が閉まるか閉まらないうちに、リースヒェンはくたくたと椅子に倒れこんだ。牧師は娘のそばまで行くと、天を仰いだ。
「神よ、感謝します。一人の人間が救われました。ですが、あと一人、救われねばならぬ人間がいます」
牧師はリースヒェンに手をさし伸べた。
「さ、勇気を出すのだ」
「お父さま、それはどういう意味なの?」とリースヒェンはうなだれていた頭をさっとあげて聞き返した。
「こういうことだよ。おまえはあの若者を愛しているね?」
「あの人を?」とリースヒェンはひきつった顔で口走った。
「そうだ、あの男だ」
「まさか、お父さま! 思いちがいをなさっているわ」
「どうして隠すのだね、リースヒェン? 嘘を言っても無駄だよ」
「お父さま、本当よ! 少なくとも誓って言えることがあるわ」
「誓うだって?」
「そうよ。姉さんのお墓にかけて!」
「何を誓うというのだね? そのように神聖なものにかけてまで」
「あの若い人のことなど、何とも思ってないわ」
「彼を愛していないのか?」
「愛してないだけじゃないわ。あの人が怖いのよ」
「どういうことだね?」
「お父さま、お願いだからもうあの人のことは話さないで」
「いや、それはできない。どうして彼のことを恐れるのだ?」
「何でもないわ! どう言えばいいのかわからない、ああ、どうしましょう!」
「リースヒェン?」
リースヒェンは答えるかわりに後ずさりした。その目が扉に釘付けになった。
「シュリック班長よ、お父さま! 何をするつもりかしら」
牧師はふりむいた。戸口に立っていたのは班長のシュリックだった。
[#改ページ]
第二十三章 大団円
シュリック班長は決まり悪そうな表情を浮かべていた。手には小振りの小銃を持っている。最初の訪問時よりも険悪な雰囲気だ。先ほどは武器など持っていなかったのだから。牧師は|探《さぐ》るような目で班長を見た。
「さてと、私との縁は切れたと思っておられたでしょうな、牧師さん。私も同じことを思っていたのです。ですがご存知の通り、事を|謀《はか》るは人、事を成すは天と言いますからな」
「まったくです。ですが私は何も知らないのですよ」
「私が戻ってきたわけはですね。その、何と言うか……。牧師さん、今、あなたの目の前にいるのはライン同盟諸国で誰よりも困っている人間です」
「どうしてそれほどお困りなのです?」と牧師が訊ねた。リースヒェンは肩で息をしている。班長が一言発するたびに、かろうじて呼吸している有様だ。
「先ほど申しあげたように、詳しい情報を待っていたのです」
「なるほど」
「帰宅途中でそれを入手しました」班長は牧師に近づきながら続けた。
「私たちがさがしていた男は、思っていた以上の危険人物です」
「ああ、神さま。すべて終わりなのですか?」とリースヒェンが小声で口走った。
「思っていた以上の危険人物というと?」と牧師が聞き返した。
「懸賞がかかっているほどです、牧師さん」
リースヒェンはすばやく階上の部屋を見た。だが、獲物を追い求める班長の目はリースヒェンの|一瞥《いちべつ》を見逃さなかった。
「思ったとおりだ」と班長は心の中でつぶやいた。「あの男はまだここにいるぞ」
「懸賞金がかかっていると?」牧師が質問した。牧師はシュリック班長が金に弱いことをよく知っていた。戦いがはじまろうとしている。
「二千ターレル、それだけです」
「それで?」と牧師は受けて、会話の流れを班長に任せた。
「それでつまり、彼を捕まえた人物がその賞金を手に入れるわけです」
リースヒェンは死人のような顔色になり、父親と目線をかわした。
「それに昇進できます」と班長が言い足した。
「昇進ですか?」と牧師。
「その通りです。犯人を捕まえたのが班長だったら曹長になれる。曹長だったら少尉になれる。捕まらないはずはないのですから……」
「何と言われました?」
「つまりこういうことです。その男は必ず捕まるでしょう。ここで捕まらないにしても、どこか別の場所で捕まります。というわけで、正当な理由のもとに偵察に戻ってきたわけです」
「どんな偵察です?」
「そう、つまりですね。他の誰かではなく、私が賞金と昇進を手にした方がいいと思うのですよ」
「何ということだ!」と牧師が声をあげた。
リースヒェンは口をつぐんでいたが、合掌したままの両手を班長に向かってさしのべた。
「いやはや!」と班長が言った。「牧師さん、憲兵にとって二千ターレルというのは十二年間の給料なんですよ!」
「シュリック班長、あなたほどふところの広い方が、たったそれだけの金のために……」
「何と! 牧師さん。二千ターレルは決して少ない額ではありません! 私がベルティエ元帥に報告をしていたころには、五百ぽっちのために絞首刑になりかけたことだってあるのです」
「待ってください! 懸賞金のかかっている人物はあなたの戦友だったのでしょう?」
「重々承知の上です。だからこんなに悩んでいるのですよ」とシュリックが頭をかきながら答えた。
リースヒェンはかすかな希望の光を見たような気がした。
「でもシュリック班長、あなたは顔色一つ変えずに彼を処刑場送りにするのですか?」
リースヒェンは全身が鳥肌立ったような気分になった。
「くそ、いまいましい! どうすればよいものやら! 一体私にどうせよと? このところめっきり財布が軽くなりましてね、牧師さんもおわかりのはずだ。階段を十二段上がれば、十三段目に二千ターレルの入った袋がある……ええい、くそっ! 何という誘惑だ!」班長はこう言いながら、二階の部屋の扉に視線を移した。牧師は観念した。
「ああ、シュリック班長。あなたは正直な方ですわ」
「そのとおりです、お嬢さん。私は憲兵ですからね。私の義務は人を逮捕することなのです」
「あなたは憲兵だけれど、あなたには温かい心があるわ!」
「そう、私には心がある。ですが私には、養わねばならない妻と結婚をひかえた娘もいるのです。持参金無しでは娘を|嫁《とつ》がせることもできない。そうでしょう、牧師さん? あなただってお嬢さんのためにすべてをなげうって持参金をかき集めたではないですか……二千ターレルがあれば、私の娘の持参金になる」
「お忘れですよ。二千ターレルのうちのなにがしかはあなたの部下のものになる」
「いや、そうじゃない。大公の布告にはこう書いてあります。『捕まえた本人に賞金を与える』二人の部下はもう休んでいます。二人を起こさないように手配してきました。ということは私が一人で捕まえることになる。賞金は全額、私のものになるのですよ」
「お父さま!」とリースヒェンが牧師の耳元でささやいた。「私は結婚なんてしません」
牧師は愛情のこもった目で娘を見た。
「あの男を愛していないのだね」牧師は班長の方に向きなおった。
「シュリック班長、よく聞いてください」
「聞いておりますよ、牧師さん。ですがあの扉から目を離すわけにはいかんのです……さてと(ここで班長は扉の方に顔を向けた)……ここならよく見えるし、物音もよく聞こえる」
「今なさっていることを後悔しているのでは?」
「絶望的な気分です」
「いやいやながら逮捕しようとしているのでしょう? あなたが処刑台に送ろうとしているのは、かつての同胞であり、戦友ではありませんか」
「一生後悔することになるでしょう、牧師さん!」
「あの不運な男を捕まえないでも二千ターレルを手に入れることができるとしたら……」
「あわれみには褒賞金は出ないのです」
「出ることもある」
「誰が出すのです?」
「あわれみをかけることが美徳であり、務めでもあるという人もいるのですよ」
「お父さま!」とリースヒェンが喜びの声をあげた。
「もし私が二千ターレルをお渡しするとしたら?」
「あなたがですか!」
「そうです、私です。あの男の命を救いたい」
「だが昇進は?」
「昇進については約束できません」
「わかりました。私の方でも犠牲を払いましょう。昇進はあきらめます」
「それでは彼を見逃すのですね? あなたが追っている男です」
「なるほど、こういうことですな」と班長はにこやかに応じた。「私に二千ターレルをくださるとおっしゃるのですか。そのような恩義を受けたとすれば、私としては感嘆のあまりに我を忘れるしかありません。ですから、私がどこを向いてどのくらい目を閉じていればよいかを言ってくださればいいのです」
「リースヒェン、ここに鍵がある。お金のある場所はわかっているね?」
「お父さま!」と娘は声をあげ、父親の手に唇を押しつけた。
「お待ちください、牧師さん」
「どうされました?」
「ああ、神さま!」とリースヒェンが口ごもった。
「だいじょうぶ、二言はありません。それに取引が成立しています。ただ、これだけはわかってください。私は牧師さんから二千ターレルを奪うわけじゃない。これがその布告です」
班長は、それまで片時も手放さなかった小銃をテーブルの上に横たえた。とは言っても手をのばせば届く場所である。次にポケットから紙片を出した。紙片には政府の封印が見える。班長は紙片に書かれた文を読みあげた。
「『リシャール大尉の身柄をとりおさえてこれを当局に引き渡した軍関係者に二千ターレルを与えるものとする』」
「ああ、もう終わりだわ!」とリースヒェンが絶望の声をあげた。
「リシャール大尉ですと?」牧師の顔は|蒼《あお》ざめていき、今にも崩れ落ちそうな気配だ。「リシャール大尉にまちがいないのですか」
「まちがいないですとも!」と班長。「布告を読んでみてください」
「本当にリシャール大尉なのか」と言うと牧師は、班長が机の上に置いた銃にとびつくといきなり銃をつかみあげた。あまりにもとっさのできごとだったので、班長にもどうすることもできなかった。「あなたの仕事ではない。私の仕事です」と牧師が言う。
階段を駆けあがろうとする牧師の脚にリースヒェンがすがりついた。膝をついた格好で牧師の体を抱きかかえている。
「お父さま! マルガレーテ姉さんの名にかけてのお願いよ! 姉さんは死の床で|赦《ゆる》すと言ったわ」
「一体どういうことです?」と班長。
一瞬の沈黙があった。牧師は左手に握っていた銃をそっとおろすと、右手で握っていた食器棚の鍵をリースヒェンに渡した。
「さあ、行きなさい。おまえの心と神のご意思のとおりに」
「お父さま! 命の続く限りお父さまを愛しているわ!」
牧師は椅子にぐったりと倒れこんだ。驚きのあまり、班長は目をみはっている。
ちょうどこのとき、マルガレーテの部屋の扉がさっと開いたかと思うとゆっくりと閉じられた。
「シュリック班長」と、牧師が額をぬぐいながらようやく口を開いた。せめぎあう心のせいで玉のような汗が噴出している。「シュリック班長、あなたにさしあげるのは二千ターレルより三ターレルだけ少ないのです。今朝がた、三ターレルを喜捨しましたからね。ですが神は祝福してくださるでしょう。晩には、一人の同胞の命を救ったのですから」
「三ターレルですと? 牧師さん、これだけの大金なのですから、細かいことは言わないでおきましょう! ですが三ターレル分の不足を家内に説明しなくては。まだフランス人のままだったら、食事に使ったと言いわけするところですが、今はドイツ人なのだから、酒代にしたと言うことにしましょう」
班長はこれまでに自分が帰属した二国の国民性を思い浮かべながら、そう答えた。リースヒェンが戻ってきた。両手で|鞄《かばん》をかかえている。
「お金はここに入っています」。息をきらしながらリースヒェンが言った。大急ぎで戻ってきたのだ。
「ありがとうございます」と言いながら班長はリースヒェンから鞄を受け取った。「お嬢さんがこれほどの器量よしでなかったとしたら、良心が痛んだでしょうな。ですがこのきれいな顔なら持参金など要りません」
「シュリック班長」と牧師が重々しく言った。「約束を忘れないでください」
「もちろんです、牧師さん、ご安心ください。ノイマン氏を一刻も早くアーベンスベルクに送り出さなくては。牧師さんはお嬢さんと一緒に出発してください。結婚式をあげなくてはなりませんからね」
班長の背後で中庭の扉が閉じられると同時に階段の扉が開き、大尉が出てくる気配がした。だがリースヒェンと牧師に見えていたのは班長が出ていくところだけだった。
班長の姿が消えるか消えないうちに、リースヒェンは牧師の胸にとびこんだ。
「お父さま! すばらしいわ、お父さまは何て偉いのでしょう!」
老人はしばし娘を強く抱きしめたが、その顔には沈んだ笑みが浮かんでいる。父はそっと娘を押し戻した。
「さあ、あの青年を呼ばなくては」
「でも何もおっしゃらないでね。あの方を責めないで」
「まあおちついて。黙って行かせれば、私がやったことの意味がなくなってしまう」
牧師がリシャール大尉を呼ぼうと頭をあげると、手すりのところに大尉の姿があった。牧師は、体中の血が心臓めがけて逆流するような気分になった。
「そこにおられたのですか」と牧師が口を開いた。
「そうです。話はすべて聞きました。娘さんがおっしゃったとおりのことを私にも言わせてください。シュティッレルさん、あなたはすばらしい方です!」
「私のことをご存知なのですか?」
「窓の間にかけられた肖像画が――」
「誰だかおわかりなのですか?」
青年はポケットからメダイヨンをとりだした。
「このミニアチュールのおかげです。兄が死にぎわに私に託したのです。シュティッレル牧師と娘さんのマルガレーテを探す助けになるだろうと言って。兄はお二人に財産を残しました。自分がおかしたあやまちを謝罪し償うためです」
「というとリシャール大尉は――」とリースヒェンがあえぎながら声をあげた。
「僕たちは双子の兄弟なんだ、リースヒェン。二人とも軍人で二人とも大尉で、あまりに似すぎているものだから制服で見分けるしかなかった。シュリック班長が知っていたのは兄の方だが、君たちも見たように僕を兄とまちがえたんだ。罪をおかしたのは兄だった。兄は僕に罪滅ぼしを頼みながら死んでいったんだよ」
「ああ、お父さま!」リースヒェンはそう口走ると、手のひらを合わせながら父親の足元に崩れおちた。
八日後、アムステルダムからシュティッレル牧師のもとに短い手紙が届いた。
「できるだけ早くリースヒェンと一緒においでください、父上。私の身は安全です。ルイ・リシャール」
[#改ページ]
第二十四章 アウグスト・シュレーゲル
一八三八年のこと。私はドイツの伝説を集めようと思い立ち、ラインの川辺を旅していた。さまざまな言い伝えに彩られたラインは、あらゆる川の中でももっとも詩情に満ちている。ボンに足をとめたとき、詩人のシムロック氏がアウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル老教授〔ドイツ・ロマン主義の中心的人物〕を紹介してくれた。教授は雑誌「アテネーウム」の創刊者であるとともに、『ラシーヌのフェードルとエウリピデスのフェードルの類似点について』の著者、『ラーマーヤナ』の翻訳者、マダム・スタール、ゲーテ、シラーの親しい友人でもある。
七十歳になる教授はいまだにかくしゃくとしており、人生の大部分を批評家としてすごしてきた。ひっきりなしに作品を生み出さねばならない詩人や作家と同じように、教授も精気にあふれており、明晰ではつらつとした精神を堅持していた。というわけで私は、ドイツでも指折りの知識人の前に通されるとすぐに今回の旅の目的をうちあけ、教授が知っている言い伝えの類を聞かせてもらおうと思った。
「ドイツではなくフランスの話をお話するとしたら、何とおっしゃいますかな?」
「もちろん大歓迎ですよ。教授の口で語っていただけるのですから」
「私はささやかな小説を書こうと思っていたのです。五十ページくらいの短いものですよ。ですがムッシュー・デュマ、私は年をとりすぎました。五十ページの小説を書き終える時間が残されているとは限らない。あなたは若い(この時、私は三十五歳だった。教授の年齢の半分である)。たっぷり時間がある。あなたが小説を書くのです。私が書いた五十ページをもとに、二冊か三冊の本にしてください」
「願ってもないことです」
「しかし条件がひとつあります」
「どのようなものでしょう?」
「話に出てくるのは私の知人ですし、二人の主要人物は今でも健在です。ですから二人の性格も話の展開も変えないでほしいのです」
「わかりました」
「約束してくれますか?」
「約束します」
教授は紅茶をすすめてくれた。私は旅行日誌をとりだすと、執筆にとりかかるまでに教授の話を忘れてしまわないようにとペンを走らせた。私が今まで語ってきた出来事は、シュレーゲル教授から聞いたものだ。
シュレーゲル教授は、ナポレオンからスパイのシュリックにいたるまで、話に登場する人物全員を知っていた。教授が名前を変えるように要求した人物は、シュリックただ一人だった。私は講義を聴く学生のように、高名な教授の話に耳を傾けた。
半時間ほど続いた話を語り終えると、教授は私がほほ笑みを浮かべているのに気づいた。
「私がお聞かせした話はどうでしたかな?」
「私の意見ですか? とんでもない! 世界一の批評家を前にして作品の批評をするなど、恐ろしくてできません」
「うまくかわされましたな。ですがフランスの寓話作家が書いているように、隣人の目の中にある|塵《ちり》は見えるのに、自分の目の中の|梁《はり》は見えないものです。それにそもそも寓話作家というのは、変装した批評家なのですよ」
私は教授の言葉にはげまされて続けた。
「戦闘に関連する部分が見せ場になっていますね。ユゴーの言葉によれば征服の巨人たるナポレオンが登場するたびに物語が膨らみ、叙事詩の風格が出てくる。シュタップスの挿話は興味深いですし、ポール・リシャールの最期も劇的だ。しかし……」
私はそこで言いよどんだ。
「続けてください。意見を聞きたい」
「ではお言葉に甘えて。ルイ・リシャールがシュティッレル牧師の家に逃げこむ場面から後は牧歌的な味わいになっています」
「つまり?」
「つまりフランスの物語がドイツの田園劇になっています」
「なるほど!」
「私の考えでは、ここにドイツ文学の不幸がある。つまり中間がないのです。崇高のきわみに舞いあがったかと思うと、素朴な世界まで一直線に降下してしまう」
「つまり自然な展開を無視して一気に跳躍してしまうと?」
「そうです」
「シラーの戯曲『群盗』は?」
「あれは幻想的な作品です。素朴でもなければ自然でもない」
「ではあなたのフランス的感性から見ると、リースヒェンとルイのやりとりは?」
「詩情を強調しすぎています。場合によっては子どもっぽくなる」
「たとえば?」
「そうですね、たとえばですが、スミレの花束というのは子どもっぽい。花束を受け取る場面からはじまり、終幕で花束を返すという軽喜劇を二十ほど知っています」
「フランスでは花束を受け取らないのですか? 返すこともないのですね。ですが不老を象徴するものがあったでしょう? 毎年、新しくなるものです。つまり、花です」
「ああ、さすがは名だたる批評家でおられる! しかし私は、花は年老いると言ったのではありません。花束を受け取る設定には芸がないと言ったのですよ。そういうのは、処女作を書いている詩人だとか、初めて恋をした見習い書生がやるようなことです。
しかし三十歳にもなった士官がやるようなことではない。彼は帝国の戦いに参加したのです。アウステルリッツ、イエナ、ワグラム、そしてボロディノ。恐るべき退却行を経験し、悲惨な状況の中で愛する兄を失った。それから皇帝についてエルバ島まで行き、皇帝とともに戻ってきた。彼はワーテルローについても考えをめぐらせた。ワーテルローこそは、あらゆる戦闘の中で最も哲学的な意味のある戦いです。このような男が、バラをまき散らしている少女の姿を見ただけで恋におち、少女の家を離れなくてはならなくなると、記念としてスミレの花束をくれと頼むというのは、不自然だと思うのです」
シュレーゲル教授は熱心に私の意見に耳を傾けていた。
「若い人を愛したことがおありですかな、ムッシュー・デュマ?」
「とても若い人を愛したことがあります」
「ルイ・リシャールのようなやり方で愛したことは?」
「あります。私は軍人ではなくて農民でしたから。それに三十歳ではなくて十五歳でした」
「では私の話を聞いてください。今度は私がお答えしましょう」
「お願いします」
「あなたは論理的な観点から話されました。私は現実的な観点でお話しましょう」
「シュレーゲル教授。現実的なドイツ人というのは初耳です」
「人間の心には四つの季節があります。人の一生や一年のように」
「ええ。でも、たった一つの季節しか持たない人もいますよ」
「春ですね? ムッシュー・デュマ?」
「そうです! 私が百歳まで生きるとしても、確実に言えることがひとつあります。百歳になっても私の心は、結婚式のときのように花で飾られているでしょう」
「そうです。私が言いたかったのはそのことなのです。心の春が十五歳ではじまる人もいれば、二十歳、三十歳ではじまる人もいる。ルソーが筆をとったのは四十歳のころでした。そして彼は、十八歳から執筆をはじめたヴォルテールよりもみずみずしい文章を書いたのです」
「おっしゃろうとすることはわかります」
「簡単なことですよ。つまり、ルイ・リシャールには青春時代がなかった。彼は三十歳になるまで戦争という血にまみれた陰惨な世界しか知らなかったのです。彼は最初に出会った少女と恋に落ちた。春がはじまったのですよ。この恋が彼の初恋だった。彼の心で春が生まれたのです。戦士の胸の高鳴りも、訪れた国々も、命を賭した戦場もどうだっていい! 百回も千回も戦って勝ち負けを争った。荒々しい音の響き、高まる鼓動、栄光、名誉心、献身、それらすべてを手に入れようとした。だがそれらは愛ではなかった。愛は春です。春が咲かせた花を愛が摘むのです」
「どうして最後にスミレの花束を返すようにしなかったのですか? スクリーブ〔フランスの劇作家〕の『ヴァレリー』の大団円のように」
「本当のことを知りたいと?」
「物書きになってからというもの、それしか望んでいません」
「わかりました。では、あなたの小説では最後に花束を使ってください」
私はにっこりした。
「ムッシュー・デュマ」とシュレーゲル教授がかしこまった口調で続けた。
「先ほど申しあげたように、私は今お話した物語の主要人物を知っているのです」
「ルイ・リシャールですね?」
「そう、ルイ・リシャールです。彼の家にある暖炉の両側には、二つの額が飾ってありました。片側にかかっているのは、兄の遺体から外したレジオン・ドヌール十字章です。もとはと言えばナポレオン皇帝から授かったものでした……もう片側には何があったと思いますか?」
「さあ」
「出発の晩にリースヒェンが彼に渡したあのスミレの花束ですよ」
私はうなずいた。
「では約束を忘れないでください」
「約束というと?」
「私はこの話を公表するつもりはありません。ですが、もしあなたが小説にするのであれば、登場人物をいささかたりとも変形しないでください」
高名な作家とかわしたこの約束を寸分もたがえなかったことを、ここに記しておく。(完)
[#改ページ]
訳者あとがき
『リシャール大尉』(Le Capitaine Richard)は、『三銃士』『モンテ・クリスト伯』などの娯楽大作を残したアレクサンドル・デュマ・ペール(一八○二〜七○)がナポレオン時代を舞台に著した作品である。だが、この作品のことを知る人は、日本ではもちろんのこと、本国のフランスでもあまりいないのではないだろうか。こころみにインターネットで検索してみても、発表された年さえよくわからないのだが、フランス語と英語の情報を総合すると、一八五八年に(一八五四年とする情報もある)三巻本の体裁で出版されたらしい。今回の翻訳では、フランス語の電子書籍を底本とし、適宜、英語訳(一八九三)を参考にした。
デュマの作品は明治十年代から日本語に訳されている。この時期には自由民権運動が高まっていたため、最初期に翻訳紹介されたものは『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』ではなくて、フランス革命に題材を求めた一連の作品だった。たとえば明治十五年には『仏国革命起源/西洋血潮小暴風』の題名で『ジョゼフ・バルサモ』が紹介されている。
一七八九年に始まったフランス革命に続くのが、『リシャール大尉』の舞台となるナポレオン時代である。デュマの父トマ・アレクサンドル・デュマ(一七六二〜一八○六)は、革命戦争で活躍して一兵卒から将軍にまで出世し、ナポレオンの部下となってイタリアやエジプトで戦った。フランス貴族の父と黒人奴隷の母を持つデュマ将軍は「黒い悪魔」の異名をとり、ナポレオンもその勇猛ぶりを称賛している。
だが共和主義者であったデュマ将軍は、ナポレオンには批判的な言動をとったと言われている。彼はエジプトからの帰国途中にナポリ王国の捕虜となって二年間の牢獄生活を送った後、いちじるしく健康を害してフランスに帰国し、軍務に復帰することができないまま一八○六年に他界した。この時、息子のアレクサンドル・デュマはわずかに三歳だった。未亡人からの嘆願にもかかわらず、ナポレオンは将軍の遺族に年金を支給しなかった。アレクサンドル・デュマは幼くして死別した父親を敬愛してやまず、彼の作品には父親のイメージが随所に登場していると言われている。
デュマはナポレオンやナポレオン時代を題材にしていくつかの作品を残した。初期の作品『ナポレオン・ボナパルト(戯曲)』(一八三一)が書かれたのは、七月革命(一八三○)によってブルボン家が倒れ、ルイ・フィリップが王位についた直後のことである。この時代には、ナポレオンがセントヘレナ島でラスカーズ伯に口述した『セントへレナ日記』(一八二三)の出版などをきっかけとして、いわゆる「ナポレオン伝説」が急激に広まっていた。スタンダールの『赤と黒』(一八三○)には、主人公ジュリアン・ソレルの愛読書として『セントへレナ日記』の題名が挙がっている。
戯曲『ナポレオン』は、オデオン座の支配人だったシャルル・ジャン・アレル(一七九○〜一八四六)に請われて書いたものであるが、当時のデュマはナポレオンに対してあまりいい感情は持っていなかったようだ。「ベッドにいたとき、アレルが入ってきた。彼はナポレオンの劇を書くという計画を持っていた。当たり興行になりそうな予感はしたが、作家として心ひかれる話ではなかった。私の家族はボナパルトのせいでひどいめにあったから、ナポレオンに対する偏見もあった……私はアレルの頼みを断った」(デュマ『回想録』第七巻より)。
結局、アレルの愛人であった名女優マドモワゼル・ジョルジュの口ぞえもあって、デュマは戯曲『ナポレオン』を短期間で完成させた。ちなみに、アレルは筋金入りのボナパルティストであり、若き日のマドモワゼル・ジョルジュはナポレオンの愛人でもあった。戯曲『ナポレオン』は成功をおさめ、サーカスから借りてきた馬が舞台に登場するなど、大掛かりな舞台演出もあって評判となった。
デュマはこの後もナポレオンが登場する作品をいくつか発表しており、ここで訳出した『リシャール大尉』もそのうちのひとつである。先述したとおり、同作品が発表されたのは一八五八年のことであり、戯曲『ナポレオン』の発表からはすでに二十年以上が経過していた。この間、一八四○年にはセントヘレナに葬られていたナポレオンの遺骸が、盛大な礼をもってパリの廃兵院に改葬され、ナポレオン崇拝熱の高まりは、ナポレオン三世による第二帝政の開始(一八五二)という形をとることになった。十九世紀のフランス文壇を代表するユゴー、バルザック、デュマの三大巨人が、ナポレオンによって表象されるデーモニッシュな意志の幻影にとりつかれていたことは、これまでにもたびたび指摘されている。
本作でのデュマは、当時の歴史書や回想録を利用して叙事的な効果を高める一方、熟達した作劇法によって主要人物をめぐるエピソードを効果的に織りこみながら、ナポレオン帝国の全盛期から滅亡までの歴史を物語っている。前半部の山となる一八○九年戦役では、フランスの首相も務めた歴史家アドルフ・ティエール(一七九七〜一八七七)の大部にわたる歴史書の記述を利用しており、後半部の見せ場であるモスクワからの退却行では、記録文学の古典として現在でも読まれているフィリップ・ポール・セギュール(一七八○〜一八七三)の『ロシア遠征史』を随所に用いている。また、ドイツ民族主義に殉じた若者を同情的に描くところなどは、自由主義の闘士でもあったデュマの一面を示すものだろう。
本作品を執筆したころのデュマが、ナポレオンに対してどのような個人的感情をいだいていたかは推測するしかないが、『リシャール大尉』には、フランスの英雄時代を象徴する人物としてのナポレオンが表現されている。デュマは生涯をとおして、読者が読みたいと思う作品を書いた。『リシャール大尉』に描き出されたナポレオン像は、当時の読者が共有していたナポレオン観、もしくは当時の読者が求めていたナポレオン像をある程度までは反映していると言えるだろう。その意味では本作品は、この時代の集団心性をうかがい知るための資料ともなると思う。
最後になったが、本作品を電子書籍として発表することができたのは、ひとえにデジタル書店「グーテンベルク21」の理解と厚意によるものである。ここであらためて感謝の意を述べておきたい。
また、表紙絵には、作者である長谷川哲也氏の好意により『ナポレオン 獅子の時代』(少年画報社)中の挿絵を使わせていただいた。