【タラン・新しき王者】
ロイド・アリグザンダー
1 帰郷
灰色の雲におおわれてひえびえとした草原を、二人の男が馬でのろのろと進んでいた。背の高い方がタラン。タランは、風をまともに受けながら、鞍から身をのり出すようにして、遠くの山々を見つづけていた。腰には剣が、そして肩には銀のわくのついた戦いの角笛が見えた。おとものガーギは、乗っているポニーより毛深かったが、着古したマントで体をくるみなおし、寒さにこごえた耳をこすって、いかにもつらそうにうめき声をたてはじめたので、とうとうタランも馬をとめた。
「いいえ、いいえ!」と、ガーギはびっくりしてさけんだ。「忠実なガーギ旅をつづける! しんせつなご主人についていく。はい、はい、いつもかわらず。ぶるぶる、うんうん、お気になさいますな! あわれな柔かい頭、がっくりしてもお気になさってはなりません!」
タランは、ガーギが口ではいさましいことをいいながら、寒さがしのげそうなトネリコの木立ちをそっと見ているのを知ってほほえんだ。
「いそがなくてもいいんだ。そりゃ、はやく家には帰りたいが、そのおまえのあわれな柔かい頭を犠牲にしてまでいそぐことはない。ここで野宿してあすの朝になってから出かけることにしよう。」
二人は、馬をつなぐと、石でまるいかまどをつくり、小さなたき火をした。ガーギは、たべものをのみこむがはやいか、まるくなっていびきをかきはじめた。タランはこの友とおなじくらいつかれてはいたが、馬具の革の修理にとりかかった。しかし、ふいにその手をとめて、ぱっと立ち上がった。なにかつばさのようなものが、タランめがけてぐんぐんおりてくるところだった。
「見ろ!」と、タランがさけぶと、ガーギは、体をおこして寝とぼけた目をぱちくりさせた。「カアだ! ダルベンが迎えによこしたにちがいない!」
カラスは、つばさをばたばたさせ、くちばしをがちがちならして、大声でがあがあなきたてながら、タランのさしのばした手首にとまった。
「エイロヌイ!」カアは、せいいっぱいの声でなきたてた。「エイロヌイ! 王女さま! 帰ってきた!」
タランの疲れは、マントがするりと体から落ちるように、たちまち消え失せた。ガーギはすっかり目がさめて、おどりあがらんばかりに大声でわめきながら、あわてて馬のはづなを解きにとんでいった。タランは、メリンラスにとび乗ると、灰色の雄馬に何回か小さな円をえがかせてから、カアを肩にとまらせたまま、木立ちから一気にとび出した。ガーギもポニーに乗ってすぐ後につづいた。
二人は、たべものを口にするひまも寝る間もおしんで、昼夜を問わず馬をすすめた。人と馬の力のかぎりにひたすら道をいそいで、山峡をくだり、大アブレン川をこえて南へ南へと進んだ。そして、ついに、あるよく晴れた朝、ふたりは、ふたたびカー・ダルベンのはたけが目の前にひろがるのを見た。
タランがしきいをまたいだとたん、家中がわれかえるようなさわぎになり、タランはもうどっちを見たらいいのかまるでわからなくなってしまった。カアは、すぐにつばさをばたばたさせてぎゃあぎゃあおしゃべりをはじめた。コルはこみ上げるうれしさに大きなはげ頭と大きな顔をかがやかせて、タランの背中をどんどんとたたいていた。ガーギは有頂天になってさけび声をあげながら、毛をもうもうとふりまいてとびはねていた。瞑想の邪魔など、いつもはけっしてゆるさない老予言者ダルベンまでが、歓迎さわぎをながめに、部屋からのこのこ出てきた。この大さわぎにつつまれたタランは、エイロヌイをろくろく見ることもできなかったが、王女の声だけはさわぎに負けずにはっきりときこえた。
「カー・ダルベン、タラン。」エイロヌイは、自分のそばへ来ようとしているタランに向かって大きな声でいった。「わたし、もう何日も待ちこがれていたのよ! わたし、若い貴婦人になる修行に出かけていたでしょ。こんないい方、出かける前はそうでなかったみたいにきこえるけれど。ずっとるすにしていてようやくもどってみれば、あなたはここにもいないじゃないの!」
タランは、すぐに王女のそばへ行った。すらりとした王女は、今も、銀の三日月を首にかけ、指には妖精族がつくったゆびわをはめていた。しかし、今は、さらにひたいに金の輪が見えた。服装も豪華だった。それを見たタランは、ふいに自分のマントも靴も旅のほこりや泥にまみれていることに気づいた。
「それに、あなたは、お城で暮らしたら楽しいだろうと思っているでしょうけれど」エイロヌイは、息をつくひまもなく話をつづけた。「そんなことぜったいないわ。退屈でどうしようもない! わたしね、顔がうずまって息ができなくなるようなガチョウの羽根の枕がついたベッドでねかされたわ。あれが必要なのは、わたしよりもガチョウたちよ――あれって、羽根よ、枕じゃなく。それに、給仕ときたらたべたくないものばかりもってくる。必要のあるなしにかかわらず髪は洗わなくちゃならない。裁縫と機織りとお作法なんて、もう考えるだけでうんざりすることばっかり。最後に剣を抜いたのはいつだったか、もう忘れてしまった……」
しかし、エイロヌイはだしぬけにおしゃべりをやめて、不審そうな目でタランを見た。「変ね。あなた、なんだか変わったわ。髪の形じゃないわね。まるで目をつぶったまま自分で切ったみたいにひどいけど。変わったのは――そうね、よくわからない。つまりね、あなたが名のらなかったら、だれにもあなたが豚飼育補佐だってわからないってことよ。」
タランは、エイロヌイがこまったように眉をしかめるのを見てやさしくわらった。「残念ながらヘン・ウェンの世話をやめてからずいぶんになるからね。まったくの話、自由コモット人の国を旅している間、ぼくもガーギもさまざまな仕事で苦労したんだが、豚の世話だけはしなかったよ。ほら、このマントは、機織りのドイバックの機で織ってつくったものだ。そして、この剣は――かじ屋のヘフィズがきたえ方を教えてくれてつくったんだ。それから、これ――」タランはかすかに悲しみの感じられる口調でそういって、上着のかくしから皿を一枚とり出した。「こんなものだけれど、これは陶工アンローのろくろでつくったものだ。」そして、その皿をエイロヌイに手渡し、「よかったらあげるよ。」
「みごとなものね。」と、エイロヌイがこたえていった。「わたし、だいじにするわ。でも、わたしがいおうとしていたのも、今あなたがいったようなことなのよ。わたし、あなたが豚飼育補佐としてあまりよくないといっているのじゃない。プリデイン中であなたの右に出る飼育補佐はいませんからね。でも、それ以上になにかがそなわったのよ……」
「おっしゃるとおりです、王女さま。」と、コルが口をはさんだ。「ここを出ていったときは豚飼育補佐でしたが、今は、やればなんでもできる男になってもどってきたようです。」
タランは、首を横にふった。「いや、ぼくは刀かじにも機織りにもなれないことをまなんだだけだ。それに陶工もだめだとわかった。そこでガーギとふたりで帰ってきたんだが、その途中で、カアと出会った。もう、ここにいつまでもいるつもりだ。」
「あら、うれしい。」と、エイロヌイがいった。「だれにきいても、あなたはあっちこっちうろついているとしかおしえてくれなかったのよ。ダルベンは、あなたが両親をさがしに出ていったのだとおしえてくださったけれど。それで、あなた、父親だと思ったけれどじつはそうでなかっただれかに出会ったのだったわね。それとも、その反対だったかしら? わたしには、どうもよくわからなかった。」
「わかってほしいことなんか、ほとんどなにもないんだ。」と、タランはいった。「さがし求めたことはちゃんとみつかった。ぼくののぞみどおりではなかったが。」
「そう。のぞみどおりではなかった。」今までつくづくとタランをながめていたダルベンがつぶやくようにいった。「さがし求めた以上のことをみつけたのだ。そして、おそらくは、自覚しておる以上のものを身につけたじゃろう。」
「でも、あたし、あなたがなぜカー・ダルベンから出ていきたがったのか、今もってわからない。」
タランには、それにこたえるひまがなかった。ふいに手をつかまれて、その手をきおいよくふられたからだ。
「やあ、やあ!」目が青く、うす黄色い髪をした若者が、大きな声でいった。美しい刺しゅうをほどこしたマントは、ずぶぬれになって水をしぼったようにしわだらけだった。くつひもは、五、六箇所、だんごのような結び目があった。
「ルーン王子!」タランは、あやうく見そこないそうになった。陽気な笑顔だけはもとのままだったが、すっかりすらりと背が高くなっていた。
「今はもうルーン王です。」と、若者はこたえた。「昨年の夏、父が亡くなりましたもので。エイロヌイ王女がここにもどられたのも、一つにはそのためです。母は、教育が終わるまでモーナにとどめておきたい意向でした。あの母のことはごぞんじでしょう! 母ときたら、ダルベンからエイロヌイを送りかえせといってきてもなお、その意向をすてませんでした。そこで、」と、ルーンは得意げにつけ加えた。「最後は、わたしが反対したのです。わたしが船の用意を命じて、モーナ港から出港してしまったのです。いやもう、王さまというものは決意したらなんでもできるものですねえ!」
「ほかにもいっしょにつれてきた者がいますよ。」ルーンはそうつけ加えると、暖炉の方に顔を向けた。タランは、ずんぐりした小男がなべをひざにのせてすわっているのに、今はじめて気づいた。その男は、指をなめると、タランに向かってだらりとした鼻をひくひくうごかしてみせ、立ち上がろうともしないで、大きな頭でそっけなくうなずいた。もじゃもじゃの髪が海草のようにゆらめいた。
タランは信じられないように目を見張った。小男は、のろのろと立ち上がると、傲慢な誇りを傷つけられたらしく、ふんと鼻をならして、「巨人を思い出すのに手間ひまはかかるまいに。」と、つっけんどんにいった。
「思い出す?」と、タランはこたえた。「もちろん! モーナの洞穴だ! しかし、この間見たとき、あなたは――とにかく、もっと大きかった。でも、まちがいない。ほんとうにグルーだ!」
「わしが巨人のままでいたら」と、グルーがいった。「これほどはやく忘れられることもなかったろうに。こんなふうになってしまったのが、まことに残念だ。いいかね、洞穴では――」
「あなた、またかれに火をつけちゃったわ。」エイロヌイが、タランにささやいた。「あの人ね、聞き手がげんなりしてしまうまで、巨人であった輝かしいときのことをしゃべりつづけるのよ。話をやめるのはたべるときだけ、そして、たべるのをやめるのははなすときだけなの。たべるのはわかるわ。ずいぶん長い間きのこだけで命をつないでいたのだから。でも、巨人だったときも、ずいぶんみじめだったでしょう。だったら忘れてしまいたいはずなのにねえ。」
「ぼくは、ダルベンが、グルーをふつうの大きさにちぢめる薬を、カアにもたせてやったことは知っている。」と、タランがこたえていった。「その後はどうなったのか、全然きいていなかったんだ。」
「それは、こうなのよ。」と、エイロヌイがいった。「洞穴から解放されるとすぐ、ルーンの城にやってきたの。そして、あのきりのないくだらないしおしゃべりで、みんなを死ぬほどうんざりさせたのだけれど、だれも追い出す気にはなれなかったの。船でここへ来るとき、かれもダルベンに感謝しているだろうから、ちゃんとお礼をいいたいだろうと思って、いっしょにつれてきたの。ところが、そんな気持はぜんぜんなかった! 耳をひっぱるようにして、ようやく船にのせたのよ。ここへつれてきてみると、モーナに残しておけばよかったと思うわ。」
「しかし、仲間が三人欠けているのがさびしいね。」タランは、小屋の中を見まわしていった。「あのドーリとフルダー・フラム、それに、ぼくは、ギディオン王子がエイロヌイの帰郷を祝いに来てくれると期待していたんだが。」
「ドーリからはくれぐれもよろしくと伝言があった。」と、コルがいった。「まあ、かれが来なくてもがまんしなくてはな。あの小人族の友人を妖精国からひき出すのは、はたけの切り株をひきぬくよりむずかしいよ。小ゆるぎもするものか。フルダー・フラムなら、お祭りさわぎとあれば、どんなときだって、たて琴を持ってやってくる。もうとっくに来ていなければならんのだがねえ。」
「ギディオン王子も、そのはずなのだが。」と、ダルベンがコルの言葉につけ加えていった。「わしは、話しあわねばならぬことがある。おぬしら若い者は信じないかも知れぬが、王女と豚飼育補佐の帰郷よりもっと重大なことがあってのう。」
「それじゃ、わたし、フルダーとギディオン王子がいらしったとき、またこれをかぶるわ。」エイロヌイは、ひたいできらめいていた金の頭かざりをぬいでいった。「これをかぶった姿をちょっと見ていただくためにね。でも、見ていただいたらすぐにぬぐわ。すり傷はできるし頭が痛くなるのよ――まるで首でもしめられているみたい。場所が首より上なだけね。」
「王女よ」ダルベンが、しわの深い笑顔を見せていった。「王冠は装飾品よりは心地よくないものじゃ。そなたも、それをまなばれたのなら、すでに多くのことをまなんでこられたわけじゃ。」
「ああ、教育!」エイロヌイは、きっぱりといった。「わたし、耳まで教育につかっていました。外にあらわれないものですから、身についたなんてとても信じられません。あら、いいえ、そうとばかりはいえませんでした。はい、これ。わたし、これをまなびました。」エイロヌイは、服のかくしから、四角に折りたたんだ大きな布切れをとり出すと、はにかむようにしてタランに手渡した。「あなたのために、わたしが刺しゅうしたのよ。まだでき上がっていないんだけれど、そのままでいいからあなたに持っていてほしかったの。でも、あなたが作ったものほど、上手にできてはいないわ。」
タランは布切れをひろげてみた。タランが両手いっぱいにひろげた布には、みどりの野原を背景にして青い目の白い豚が、ちょっとたどたどしい線で刺しゅうしてあった。
「それ、ヘン・ウェンのつもりなの。」エイロヌイは、その手芸品をよく見ようとしてルーンとガーギがわれ先に寄ってきたのを見て説明した。
「はじめは、あなたの姿も刺しゅうしようとしたの。」と、エイロヌイはタランにいった。「あなたはヘン・ウェンが大好きだし、それに――それに、わたし、あなたのことを考えていたから。ところが、どんなにやってみても、棒のてっぺんに小鳥の巣をのせたみたいになっちゃって、ちっともあなたに見えないのよ。だから、ヘン・ウェンだけにしてやり直したわ。だから、あなた、ヘンのちょっと左側に立っているんだって想像してね。そう思ってつくったんだから、こんなに刺しゅうできたのたよ。これに一夏かかったんですからね。」
「つくっているとき、ぼくのことを考えていてくれたときくと、これはますますうれしいおくりものだよ。ヘンの目は、ほんとうは茶色だけれど、そんなことはどうでもいい。」
エイロヌイは、すっかり気を落とした様子で、タランを見ていった。「気に入らないのね。」
「とんでもない。」と、タランは力をこめていった。「茶色でも青でもかまわないんだ。これは役に立つなあ!」
「役に立つ!」エイロヌイが思わず声をはりあげた。「だいじなのは、役に立つことじゃないの! それは記念のおくりものよ。馬の毛布とちがうわ! カー・ダルベンのタラン、あなた、ほんとうになんにも知っていないのね。」
「いいや」タランは、たのしげにわらっていった。「すくなくとも、ヘン・ウェンの目の色なら知っているさ」
エイロヌイは、赤味がかった金髪をさっとふってあごをぐいと突き出した。「ふん! そして、わたしの目の色なんか忘れてしまったんでしょう。」
「いいえ、王女さま」タランは、落着きはらってこたえた。「わたしは、これをいただいたときのことも忘れてはいません。」そういって、タランは角笛を持ち上げてみせた。「この角笛の魔力は、あなたやわたしにはわからないほど偉大なものでした。それはもう失われてしまいました。しかし、あなたにいただいたものですから、わたしは大切に持っております。
「ところで、きみは、なんでぼくが自分の血統を知りたがっていたかと質問したね。」と、タランはそのまま話をつづけた。「それは、ぼくの血統が高貴なものであってほしい。そうであれば、今まで口にする勇気がなかったことを求めてもいいだろうと思ったからなんだ。ぼくののぞみはまちがっていた。でも、のぞみはかなわなくても――」
タランは、ぴったりした言葉はないかと考えてためらった。そして、また話をつづけようとしたちょうどそのとき、小屋のとびらがどーんと押しあけられた。タランはおどろきのあまり、あっとさけんでしまった。
戸口には、フルダー・フラムが立っていた。吟遊詩人の顔はまっさおで、黄色いもじゃもじゃの髪の毛がひたいにへばりついていた。そして、肩には、ぐったりした男をかついでいた。
タランとルーンは、あわてて手をかすためにかけよった。ガーギとエイロヌイもかけより、ぐったりと動かない男をたすけおろした。グルーは、ふくらんだほほをふるわせながら、ものもいえずになりゆきを見ていた。男がだれだかわかった瞬間、タランはまあまりのことにくらくらっして倒れそうになった。しかし、すぐに、手が自然てきぱき動いて、マントをぬがせたり、やぶれた上着をゆるめたりしはじめた。ふみかためた土間に横たわったその男は、ドンの王子ギディオンだった。
偉大な戦士のオオカミ色の髪には血がこびりつき、風雪にきたえられた顔も血によごれていた。戦う男の憤怒の形相そのままに、王子は気を失っていた。倒れるギディオンには、ほかに身を守るものがなくなったのか、片うでにマントを巻きつけていた。
「ギディオン卿が殺された!」エイロヌイが泣き声をあげた。
「いや、生きている――しかし、虫の息だ。薬をたのむ。」と、タランがガーギに命じた。「わたしの鞍袋に薬草がある。それを――」タランは、はっとしてダルベンに顔を向け、「お許しください。わがあるじの家では、命令するのはわたしではないことを忘れていました。しかし、あの薬草はたいへんきくのです。タリエシンの息子アダオンが、以前くださったものです。よろしければ、お使いください。」
「その薬草のききめは知っておる。それにあれ以上のものはここにはない。」と、ダルベンがこたえていった。「それに、わが家だとて恐れず命令するがよい。おのずからそなわったものだからの。おぬしの自信に満ちた態度を見ると、まかせても心配ないと思う。思うままにやるがよいぞ。」
コルは、もう、鉢に水を入れて流し場からいそいでひきかえしてくるところだった。ダルベンは、ギディオンのかたわらにひざをついていたが、立ち上がると詩人に顔を向けた。
「この邪悪なふるまいは、だれのしわざか?」老予言者の声はささやくように低かったが、小屋中にはっきりときこえた。予言者の目は怒りに燃えていた。「だれが卿をおそうなどということをやりおった?」
「アヌーブンの狩人です。」と、フルダーがこたえた。「あやうく二人の命をうばわれるところでした。おぬしはどうだった?」フルダーは、せかせかとタランにきいた。「よくも、やつらをまいてにげられたものだ。あれ以上の災難にあわなくてほんとによかったなあ、おぬし。」
タランは、きょとんとしてとりみだしている吟遊詩人の顔を見上げた。「おっしゃることがまるでわかりません、フルダー。」
「わからない?」吟遊詩人がいいかえした。「わしは、ありのままをいっているんだぞ。一時間足らず前のことじゃないか、狩人たちがおぬしにおそいかかったとき、ギディオンがおぬしを救おうとしてあやうく死にそこなったのは。」
「わたしに、おそいかかった?」タランは、ますますわからなくなった。「いったいどういうことです? ガーギもわたしも、狩人たちにはぶつかりませんでした。それに、わたしたちは、この一時間というもの、ずっとカー・ダルベンにいましたよ。」
「なんと、これは。フラムの者の目にまちがいはないぞ!」と、フルダーはさけんだ。
「熱のせいですよ。」と、タランがいった。「あなたもおそらく思ったより重い傷を負っているのかも知れません。ゆっくりお休みください。できるだけ介抱してあげます。」タランはギディオンの介抱にもどり、ガーギが持ってきた薬草のつつみをひらくと、薬草を水の鉢にひたしはじめた。
ダルベンの顔に不安の表情がうかんだ。「狩人の話をきこう。どうもその話は気にかかってならぬ。」
「ギディオン卿とわたしは、北から行を共にしてまいった。」と、フルダーがはなしはじめた。「アブレン川を渡って、ここまであとすこしというところまでやってきたとき、ちょっと前の方にあき地があって……」詩人は、そこで一息いれてタランの顔を見た。「おぬしがいるのを、この目で見たんだ! おぬしは追いつめられらていた。そして、たすけてくれとさけんで、はやく来てくれと手をふった。
「ギディオンは、わしを後にのこして進んでいった。」と、フルダーは話をすすめた。「おぬしは、すでに全速力であき地を走り抜けていた。ギディオンは風のような速さでおぬしを追った。リーアンもじつによく走ってくれた。だが、わしがギディオンに追いついてみると、もうおぬしは影も形もなく、そのかわりにアヌーブンの狩人どもがわんさといった。やつらは、ギディオンを鞍からひきずりおろしたところだった。わしに立ちむかってきたらみなごろしにしてやったのだが」フルダーは思わず声を高くした。「わしがとびこんでいくと逃げてしまった。ギディオンは瀕死の重傷を負っていたので、とてもそのままにしてはおけなかった。」
フルダーは、そこでがっくりと頭をたれてしまった。「傷はとてもわしの手におえるものではなかった。そこで、こうしてここまではこんでくるよりほかはなかった。」
「あなたが卿の命をすくったのです。」と、タランはいった。
「そして、ギディオンが命にかえても守ったであろうものを失ってしまったんだ!」吟遊詩人は、さけぶようにいった。「アヌーブンの狩人どもは、卿を殺しそこねた。だが、もっと大きなわざわいがふりかかった。やつらは卿の剣をうばい去った――さやぐるみ!」
タランは息をのんだ。偉大な友の傷にばかり気をとられていたタランは、黒い剣ディルンウィンがギディオンの腰にないことに、今まで気づかなかった。はげしい恐怖を、タランは感じた。魔法の剣、太古の魔力を秘める炎の剣ディルンウィンが死の狩人の手におちた。かれらはあの剣を、暗黒の領土アヌーブンを支配する死の王アローンのところへもっていくにきまっていた。
フルダーはがくりと地面に腰を落し、両手で頭をかかえこんでしまった。「そして、大声でわしらをよんだのがおぬしでなかった、ということになると、もう、わしにはわけがわからん。」
「あなたがごらんになったものの正体は、わたしには判断がつきません。」と、タランはいった。「ギディオン卿の命がなによりもだいじです。今のことは、あなたの頭がもっとはっきりなさったときにはなしあいましょう。」
「たて琴ひきの頭は、すこしもくもってはおらぬ。」暗い片すみで今までだまって話をきいていた黒衣の女が、ゆっくりとみんなのところにやってきた。束ねずにたらしたままの長い髪には光があたってうすい銀色にひかった。かつてのぞっとするような美貌は、陰うつに色あせ、おぼろな夢のようにきえかかってはいたが、今もなお名ごりをとどめていた。
「豚飼育補佐よ、不幸なめぐりあわせが再会の喜びをそこなってしまうが」と、アクレンはいった。「でも、ようもどられた。なんと、今もまだわらわが恐ろしいか?」タランの不安なまなざしに気づいて、アクレンはほえんだ。鋭い歯が見えた。「アンハラドのむすめエイロヌイも、わらわの力は忘れておらぬ。もっとも、そのわらわの力をリールの城においてうちくだいてしまったのは、ほかならぬこのむすめであったが。だが、ここに住んでいるからには、わらわも、そなたたち同様、ダルベンにつかえているわけであろうが?」
アクレンは、さっさと、土間にあおむけに横たわるギディオンに近づいた。タランは、アクレンのつめたい目に、あわれむような表情がうかぶのを見た。「ギディオン卿は命をとりとめよう。」と、アクレンはいった。「だが、生は死よりも残酷な運命であることに気づくことであろう。」それから、身をかがめると、指先で軽く戦士のひたいにさわったが、その手をまたひっこめて吟遊詩人に顔を向けた。「たて琴ひきよ、そなたの目は、そなたをだましはしなかった。そなたの見たものは、そう見えるようにしくまれていたのじゃ。豚飼育補佐の姿、であったな? かれがその姿になろうとしたのなら、当然そう見えたはず。そのような魔力が使えるのはただひとり、死の国アヌーブンの主、アローンをおいてない。」
2 文字杖
タランは、ぞっとして思わずあえぎをもらした。黒衣の女はつめたい目でちらりとタランを見た。
「アローンも、本身をさらしてアヌーブンの境を越えることはようできぬ。」と、アクレンはいった。「それは死を意味するからであるが、かれはどんなものにでも姿を変えることができ、その姿が楯とも仮面ともなる。たて琴ひきとギディオン卿の前に、かれは豚飼育補佐となってあらわれた。目的のためにもっとも都合がよいと思えば、森のきつねにでも、タカにでも、いやみみずにでもばけられたであろう。そうとも、豚飼育補佐よ、かれならどんな生きものの姿かたちをもえらぶことができたはず。いともやすやすとな。ギディオン卿に対しては、肩をならべていくたびとなく戦い、よく知っていて信頼している仲間が危機にある姿を見せるほど、よいおとりはない。ギディオンはまことに抜け目ない戦士。それ以外のわなにかかることはない。」
「では、わたしたちはもうだめだ。」タランは、がっくり気落ちしていった。「アヌーブンの主は、自由自在にわれわれの中をうごきまわれるのに、こっちはかれに対する防備ができない。」
「そなたが恐れるのももっともじゃ、豚飼育補佐よ。」と、アクレンがこたえていった。「そなたはアローンの秘奥の魔力をかいま見たのじゃ。だが、それは、ほかの手段が役に立たぬときにのみ使われる魔力なのじゃ。かれは、絶対の危険がせまった場合か、あるいはきょうのように危険をおかしても得られるものがはるかに大きい場合意外は、けっしてとりでをはなれることはない。」そこで、アクレンは声をおとした。「アローンには秘密がたくさんある。だが、この変身の秘密ほど入念に守られているものはない。一たび変身すれば、かれの力も技も、変身したものと同じになってしまう。だから、ふつうの生きものと同様、かんたんに殺すことができる。」
「ああ、フルダー、わたし、あなたといっしょにいたかった!」と、エイロヌイが心からくやしそうにさけんだ。「アローンがどんなにタランらしく見せても、わたしならだまされなかったのに。わたしなら、ほんものの豚飼育補佐とにせものの見分けがついたのに!」
「おろかなうぬぼれじゃ、アンハラドのむすめよ。」と、アクレンがばかにしたようにこたえた。「いかなる目も、死の王アローンの仮面の奥を見透かすことはできぬ。わらわ目のほかはな。おや、疑っておるのか?」アクレンは、エイロヌイのおどろきを見てとって即座にそういった。
アクレンの変わり果てた顔に、昔の誇り高い表情のなごりがあらわれ、声も傲慢さと怒りを帯びてとがってきた。
「ドンの子孫たちがプリデインに住みつくはるか以前のこと、カントレブの領主たちが大王マースとかれの戦将ギディオンに臣従をちかうはるか以前、かれらに服従をちかわせたのはわらわであった。アヌーブンの鉄の王冠をいただくこのわらわであった。
「アローンは、わらわの配偶者であり、わらわにつかえ、命令に従っておった。それがわらわを裏切った。」アクレンの声は低くてしわがれていた。目が怒りのためにぎらぎらしていた。「あの男め、わらわから王座をうばい、わらわをほうり出した。だが、かれの魔力はわらわには秘密でもなんでもない。わらわが教えてつかわしたものだからだ。あやつがどんなに変身してそなたたちの目をくらまそうとも、アローンの素顔をわらわの目からかくしおおすことはできぬ。」
ギディオンが身じろぎしてかすかにうめいた。タランがまた薬草をひたした鉢のところにもどると、エイロヌイが戦士の頭を持ち上げてやった。
「ギディオン王子を、わしのへやに運ぶのじゃ。」と、ダルベンが命じた。予言者の心労にやつれた顔はひきつっていて、老いたほほのしわが一段と深くなって見えた。「おぬしの腕のおかげで、卿は死をまぬがれた。」と、ダルベンはタランにいった。「こんどは、このわしの腕でなおせるかどうか、ためしてみなくてはならぬ。」
コルが、たくましい腕でギディオンをだき上げた。
アクレンが、コルの後についていこうとしながらいった。「わらわは眠る必要がない身じゃ。寝ずの看護にもっともふさわしい。一晩中ギディオン卿をみとりますぞ。」
「わたしが看病しますわ。」エイロヌイが、コルのかたわらにならんでいった。
「わらわを恐れるでない、アンハラドのむすめ」と、アクレンはいった。「わらわは、ギディオン卿に悪意などいだいてはおらぬ。」そして、からかい気味にだが、つつましく深く一礼してみせた。「うまやがわらわの城、流し場が領地。それ以外なにも求めはせぬ。」
「来るがよい。」と、ダルベンがいった。「ふたりとも手をかしてくれ。いや、いや、ほかの者たちは、希望をもってじっと待っておれ。」
夜の闇があたりをつつみ、窓の外はなにも見えなかった。タランは、暖炉の火が熱を失ってしまい、だまりこんでいる友人たちに冷たい影だけを投げかけているように思った。
「はじめのうち、わたしは、死の狩人たちでも、なんとか不意をつけば、アヌーブンへの退路を絶てるのではないかと思っていました。」タランが沈黙を破るようにいった。「しかし、アクレンのいうことがほんとうなら、アローン自身が狩人たちを指揮している上に、すでにギディオンの剣がかれらの手に落ちてしまっています。アローンの目的はわかりませんが、心配でたまりません。」
「わしは自分が許せんのだ。」と、フルダーがいった。「今回の敗北はわしのせいだ。すぐにわなを見抜くべきであった。」
タランは、首を横にふった。「アローンは、あなたにじつにむごい策略をかけたのです。ギディオンまでがだまされたではありませんか。」
「だが、わしはちがうぞ!」と、吟遊詩人はさけんだ。「フラムの者は鋭い目を持っておる! はじめから、わしはちがいに気づいておった。あの馬の乗りざま、あの……」吟遊詩人の肩にかかっているたて琴の絃がぴしーんと激しい音をたてて緊まったので、暖炉の近くにうずくまっていたガーギが、ぱっと立ち上がった。フルダーは、うっとのどをつまらせてなまつばをのみこんでからつぶやいた。「またか。こいつめ、一度ぐらい大目に見たらどうだ。ほんのちょっと……その、事実を色づけすれば、このいまいましい弦のやつ、かならず切れおる! いいか、わしは大げさにいうつもりなどなかったのだ。思いかえすと、たしかにわしも気づいた……あ、いやいや、ほんとうのことをいおう。やつの変身は完璧であった。もう一度やられても、だまされるだろう……相変わらずやすやすとな。」
「いや、すばらしい!」目を見張って話をきいていたモーナの王がつぶやいた。「わたしだって、そうした変身ができたらと思いますねえ。信じられないことだ! わたしはいつも考えていました。アナグマになったら、アリになったら、どんなにおもしろいだろう、ってね。わたしは、アナグマやアリのように土木工事をする方法が知りたくてたまらないんですよ。王になって以来、わたしは、あっちこっちの改良工事に手をつけてきました。つまり、モーナ港に新しい防潮堤をつくりたいわけです。すでに一度やってみました。わたしの計画は同時に両端から工事をはじめることでした。日程が半分ですみますから。どこがまずかったのかわかりません。このわたしが全工事を監督したのですから。ところが、なぜだか、まん中でつながりませんでした。だから、あれを完成させるもっとよい方法をみつけなくてはならないのです。それに、グルーの洞くつまでの道路を計画しています。あそこはおどろくべきところですから、ディナス・リードナントの人たちも喜んで見にいくと思います。いや、びっくりするほどかんたんですよ。」ルーンは、ほこらしげに顔をかがやかせながらいった。「とにかく、計画はです。どういうわけか、実行はかならずいささかむずかしい。」
グルーは自分の名がきこえたので、きき耳をたてた。かれは、今までずっと、炉のすみをはなれなかった。小屋の中でおこったことにおどろきはしたが、それでもなべをしっかりかかえこんではなさなかった。「わしが巨人だったとき」と、グルーはおしゃべりをはじめた。
「おぬし、ちびイタチを連れてきていたのか。」フルダーが、ルーン王にいった。もと巨人は変わり果てていたが、フルダーは、すぐにその小男がグルーだと気づいたのだ。「あいつが巨人だったときも」と、吟遊詩人はおさえきれない怒りをこめた目でグルーを見てつぶやいた。「けちな巨人だった。あの洞穴から抜け出るためならなんだってやっただろう――あのきたないシチューの中にわしらをほうりこもうとさえしたんだからな。フラムの者は心がひろい! だが、やつはちょっとやりすぎた。」
「わしが巨人だったならば」グルーは、フルダーの言葉を無視したのかきこえなかったのか、おしゃべりをやめなかった。「わしをはずかしめて、耳をひっぱって臭い船に追いこむことなどしなかっただろう。わしは、こんなところへ来たくはなかった。きょう、こんなことがおこってみると、ますますいるのがいやになる。」そういって、グルーは口をぎゅっと結んだ。そして「ダルベンなら、すぐにモーナにもどすよう、とりはからってくれるだろう。」
「ええ、それはきっと」と、タランがこたえていった。「しかし、今ダルベンは、もっと重大なことにかかりきりです。わたしたちも同じです。」
グルーは、待遇がわるいとか思いやりが欠けているとか文句をいいながら、人さし指でなべ底のものをすくうと、腹立たしげにちゅうと指をすった。タランたちは、もうなにもいわず、寝ないで待つためにそれぞれの場所におちついた。
炉の火が燃えつきて灰となった。小屋の外は風が出た。タランは組んだ腕に頭をのせた。かれは、ここに帰ってきたら、地位も生まれも忘れて、ただの男がただの女にするように、エイロヌイの前に立ち、結婚の申し込みをしたいと思っていた。ところが、ギディオンの身にふりかかった災難のため、個人的なのぞみなど、とるに足りないものになってしまった。しかし、みんなの心にふたたびやすらぎがもどるまでは、むりに返事をきくなどできないことだった。タランは目をとじた。夜風が、カー・ダルベンのしずかな牧草地や果樹園をぼろぼろにひきさこうとでもするうよに、かん高いさけびをあげて吹いていた。
肩に手がおかれるのを感じて、タランは頭をあげた。エイロヌイだった。
「ギディオンの意識がもどったの。わたしたちに話があるといってる。」
ダルベンのへやにはいったとき、ドンの王子ギディオンはベッドの上で上半身をおこしかげんにして横になっていた。日やけした顔には血の気がなく、苦痛よりも怒りで、きつく眉根を寄せ手いた。結んだ口元にはきびしいしわがよっていた。みどりの目には暗い怒りのほのおがもえていた。けがなど物ともせず、傷を負わせた敵などばかにしきっている、誇り高いオオカミの目ににていた。アクレンは、ひっそりと、すみの闇にとけこんでいた。老予言者は、本がところせましとならぶテーブルのそばに、心配そうな顔をして立っていた。彼のかたわらには、タランが少年時代にいつもすわって教えを受けた木の長いすがあった。時の書――ダルベン以外だれも手をふれことのできない大きな革張りの秘奥の書が、古から伝わるたくさんの本の上に、とじられたままのっていた。
タランは、エイロヌイ、フルダー、ルーン王の先頭にたって大またにギディオンのかたわらに進み出ると、偉大な戦士の手をにぎった。ドンの王子は、きびしい顔に笑みをうかべていった。「豚飼育補佐よ、楽しい再会とはいえぬ。それに、長くは共にいられぬ。ダルベンから、死の王の策略のことをきかせていただいた。ディルンウィンは、どんなことをしても即刻とりもどさねばならぬ。おぬしのさすらいの旅のこともきいたぞ。」ギディオンは、そのことにもふれてくれた。「おぬしから、もっとくわしくききたいが、べつの機会まで待たねばならんな。わしは、きょう中にアヌーブンへ旅立つ。」
タランは、びっくりして気遣わしそうにドンの王子を見守りながらいった。「傷を受けたばかりです。とてもそんな旅はできません。」
「といって、ここにとどまっていることもできぬ。」と、ギディオンはいった。「はじめてディルンウィンを手に入れてから今までに、わしはあの剣の本質をさらによく知るようになった。といってもわずかなものだが」そうことわってから「しかし、あれを失うことが致命的であることぐらいはわかる。
「ディルンウィンの来歴は、今生きている人間の記憶もとどかぬほど古い。」と、ギディオンは話をつづけた。「その多くは忘れ去られるか抹消された。長い間、あの剣は、ただの伝説であり詩人の歌の題材にすぎぬと考えられていた。吟遊詩人の長タリエシンは、プリデインのいい伝えにもっともくわしい男だが、そのかれですら、名工であったびっこのゴバニオンがリデルシュ・ヘイル王の命を受けて、王国に大きな力を加え、かつまた国の守りになる武器として、ディルンウィンをきたえたとしか語ることはできぬ。剣を守るため、魔力がこめられ、さやに警告の文字がきざみこまれた。」
「その古の文字、わたしおぼえています。」と、エイロヌイがいった。「ほんとうに、あれは忘れられません。タランが、わかりもしないことにちょっかいするのをふせぐのにひどい苦労をしましたから。『ディルンウィンを抜く者は、王家の者のみなるべし……』」
「その文字の真の意味は『高貴な心の持主』というのが近い。」と、ギディオンがいった。「その魔法は、剣を賢くふさわしく使う者以外、抜くことを禁じたのだ。ディルンウィンのほのおは、その資格がない者が抜くとき、その身をやきつくしてしまう。だが、さやの文字はすれて消えた。それ以上の剣の目的を伝えてくれたはずである古の言葉もすべてはわかっておらぬ。
「リデルシュ王は生涯あの剣を身につけていた。」と、ギディオンはさらに話をつづけた。「かれの子息も剣を引き継いだ。かれらの治世は平和で国は富みさかえた。だが、そこでディルンウィンの歴史はとだえてしまう。リデルシュの孫リッタ王があの剣の持主となった。かれは渦巻き城がアクレン女王のとりでとなる以前、あの城の城主であった。そして、ディルンウィンをにぎりしめたまま、なぞの死をとげた。そのときから、あの剣は渦巻き城の地下深いへやに、王の遺骸とともにうずめられたまま忘れ去られた。」そこで、ギディオンは、エイロヌイに顔を向けた。「そのへやで、王女よ、そなたがみつけ出したのだ。そなたは、自らの意志で、あれをわたしにおくってくれた。しかし、わが手をはなれたのは、わたしの意志によるのではない。あの剣は、わたしの命、いやわれわれのだれの命よりもだいじなものだ。アローンの手に落ちては、プリデインに滅亡をもたらすやもしれぬ。」
「アローンが、あの剣を抜くことができると思いますか?」タランがあわててきいた。「あの剣をわれわれに向けることができましょうか? あれを邪悪な目的に役立てることができるでしょうか?」
「それは、わたしにはわからぬ。」と、ギディオンはこたえた。不安が顔にあらわれていた。「死の王アローンは、魔力を破る手段をみいだしたのやもしれぬ。あるいは、自らあれを使うことがかなわぬとなれば、ほかの者が使うのをじゃまだてするのが目的かもしれぬ。剣ばかりでなく、このわたしの命をも奪おうとしたのであろう。フルダー・フラムのおかげで、命だけはこうして奪われずにすんだ。だから、今後は奪われた片方をみつけ出さねばならんのだ。たとえ、アヌーブンそのものの奥深くにはいりこもうとも。」
今までずっと口をつぐんでいたアクレンが、顔を上げてギディオンにはなしかけた。「あなたにかわり、わらわにディルンウィンをさがさせてくだされ。わらわは、アヌーブンへの道を知っている。秘密の宝庫も、その守りも、わらわにはすべてわかっている。剣がかくされているのであれば、みつけだしましょう。アローン自身が身につけておるなら、かれからディルンウィンをうばいとりましょう。いや、それのみではない。わらわは、あらゆるものにかけて、かならずかれをほろぼしてみせる。これは、自らすでにちかったことであるが、改めてあなたにちかいますぞ。ギディオンよ、あなたは、わらわが死を乞うたとき、生きることを強いた。だから、ここで、生きる意味を与えてくだされ。復しゅうをさせてくだされ。」
ギディオンは、すぐには返事をしなかった。灰色にきらりとひかる目でアクレンの顔をじっと見てから、ようやくこたえた。「アクレンよ、復しゅうは、わたしには許可できぬものだ。」
アクレンは顔をこわばらせた。両手をよじって爪を突き出した。タランは、アクレンがギディオンにとびかかるのではないかと思った。だが、彼女は動かなかった。そして、「わらわを信用せんのじゃな。」と、しわがれ声でいった。血の気の失せたくちびるをゆがめてあざわらいの表情をうかべた。「それならそれでよい、ドンの王子よ。そなたは、かつて、この王国をわらわと分けあうことを一生に附した。こんどもまた、わらわのいうことをさげすんで損をするがよい。」
「わたしは、そなたをさげすんではおらぬ。」と、ギディオンはいった。「ダルベンの保護を受けよとせつにねがっているだけだ。ここで安らかに暮らしているがよい。われらの仲間のうち、あの剣をみつけ出せるのぞみがもっともうすいのがそなただ。そなたに対するアローンの憎悪は、そなたのかれに対する憎悪にすこしもひけはとらぬ。そなたがアヌーブンに足をふみこむ前でも、そなたを見かければ、アローンかその部下がそなたを殺してしまう。アクレンよ、そなたの申し出は不可能なことだ。」ギディオンは、そこでちょっと考えてからつけ加えた。「ディルンウィンをみつけ出す策はべつにあろう。」
ギディオンはダルベンに目を向けたが、ダルベンは憂わしげに首を横にふった。
「残念ながら、時の書は、わしらがぜひとも知らねばならぬことを語ってはくれぬ。わしはかくされた意味を知ろうと、のこるくまなく注意してさぐってみた。このわしにさえ、その意味はまったく闇のままじゃ。文字の杖をもってきなさい。」老予言者は、コルに命じた。「たよりになるのは、ヘン・ウェンのみである。」
白い豚は、かこいの中から、黙々と近づいてくる人の列をながめいてた。ダルベンが、古代文字をきさんだトネリコの、文字杖三本を骨ばった肩にかついでいた。グルーは、食糧庫のたべものにしか興味がないのであとにのこった。そして、ガーギも、以前巨人だったこの男の本性をちゃんと見抜いていて、目をはなさない方がいいと考え、やはりあとにのこった。アクレンは、もうなにもいわず、フードで顔をかくしてじっと小屋の中にすわっていた。
いつもなら、タランの姿を見れば、予言する豚ヘン・ウェンは、うれしげにきいきいないて、あごをこすってもらおうと、さくのところまでちょこちょこやってくる。ところが、きょうにかぎり、この牝豚はいちばん奥のすみにひっこんで、小さな目をいっぱいに見張り、ほほをぶるぶるふるわせていた。ダルベンがかこいにはいって三本の文字杖を地面に突きたてると、ヘン・ウェンは鼻をならして、ますますしりごみし、体を奥のさくにくっつけてうずくまった。
ダルベンは、ほかの者にききとれない言葉をつぶやいて、トネリコの杖のかたわらに立った。タランたちは、かこいの外でじっと待った。ヘン・ウェンは鼻をならすだけで、動こうとしなかった。
「なにをこわがっているの?」と、エイロヌイが小声でいった。タランはこたえないで、服のすそを風にはたはたさせて立つ老予言者と、文字杖と、じっと動かないヘン・ウェンに目をすえていた。どんよりした空を背景にして、ダルベンもヘン・ウェンも、だまって見つめるタランたちとはるかにへだたる別な時に凍りついて動かなくなっているように思われた。予言者が豚の予言を求めるところを見るのは、タランにもこれがはじめてだった。ダルベンの持つ力がどれくらいのものか、タランにははっきりわからなかった。しかし、ヘン・ウェンのことは知っていたから、かの女が動けないほどおびえていることがわかった。タランはじっと待ったが、それがじつに長く感じられた。ルーンですら異常に気づいた。モーナ王の陽気な顔は、うれわしげにくもっていた。
ダルベンが、不安そうにギディオンを見た。「今まで、文字杖を見せられて、ヘン・ウェンがこたえるのを拒否したことはなかったのだが。」
ダルベンが、ふたたび、タランには意味のわからない言葉をつぶやいた。予言の豚は激しく身をふるわせて目をとじると、短い前足の間に頭をうずめるようにうなだれた。
「たて琴をすこしかなでたらいかがでしょう?」と、フルダーが申し出た。「今まで、それでじつにみごとな成功を……」
予言者は、手ぶりで吟遊詩人にだまれとあいずした。そして、もう一度、おだやかだがうむをいわさない口調でなにかいった。ヘン・ウェンは身をちぢめて、痛みに苦しんでいるようにうめき声をあげた。
「恐怖で予言力がめしいておる。」ダルベンが、きびしい声でいった。「わしの呪文すらきこえないのじゃ、わしではだめであった。」
見守る人たちの顔に、深い失望の表情がうかんだ。
ギディオンが、うれいにとざされた目をふせた。「わたしたちもおわりでしょう。彼女のおつげがなんであろうと、それをきけなくては。」
タランは、何もいわずいそいでさくをまたぎこすと、しっかりした足どりでおびえている豚のところまでいき、かたわらにひざをついた。あごをこすってやり、やさしく首をなでてやった。「こわがらなくていい、ヘン。ここなら、おまえに危険が及ぶことなんてないんだから。」
ダルベンは、びっくりして思わず近づこうとしたが、思いなおした。タランの声をきいて、豚が用心深く目をあけたのだ。
鼻をひくつかせて、ヘン・ウェンはかすかに頭を上げ、小さく「ぶう!」と一声ないた。
「ヘン、きいておくれ!」と、タランはたのんだ。「ぼくには、おまえに命令する力はない。しかし、ぼくらには、おまえの助けがいるんだよ。おまえをだいじに思っているぼくたちみんなに。」
タランははなしつづけた。はなしているうちに、予言の豚のふるえがとまった。立ち上がろうとはしなかったが、愛情をこめてぐうぐう、ぶうぶういったり、やさしくのどのおくでつぶやくような音をたてたりした。目をしばたたき、大きな顔にわらいに似た表情をうかべた。
「さあ、いっておくれ、ヘン。」と、タランがはげました。「さあ、知っていることを教えておくれ。」
ヘン・ウェンは落着かなげに体を動かした。それから、のろのろと立ち上がると、ふんと鼻をならして文字杖をちらりと見た。短い足で、一歩一歩文字杖に近づいてきた。
予言者は、タランに向かってうなずいて、つぶやくようにいった。「よくやった。きょうは、豚飼育補佐の力の方が、わしの力よりも強い。」
タランが、口をききかねて目を見張って見ていると、ヘン・ウェンが一本目の杖の前に立ちどまった。そして、今もまだおずおずしながら、鼻先で一つまた一つと杖にきざまれた文字をさし示した。ダルベンは、一心に見ながら、予言の豚がさし示した文字を、いそいで羊皮紙に書きうつしていた。ヘン・ウェンはほんのしばらくつづけたかと思うと、ふいにやめて、心配そうに杖からひきさがった。
ダルベンの顔には深いうれいの色があった。「これが、予言なのか、ほんとうに?」ダルベンは強い驚きをこめた声でつぶやいた。「いや……いや、ちがう。もっともっと知らねばならぬ。」ダルベンは、タランに目をやった。
「たのむよ、ヘン。」タランは、豚に寄りそってささやいた。豚は、またぶるぶるとふるえはじめていた。「ぼくたちを助けてくれ。」
タランは、自分がたのんでもヘン・ウェンが逃げてしまうのではないかと心配だった。
ヘン・ウェンは首をふって横目でタランを見て、あわれっぽくぐつぐつのどをならした。それでも、タランにたのまれて、用心深い様子でちょこちょこと二本目の杖まで行った。そして、さっさと片づけてしまおうとでもするように、ひじょうな速度で文字を鼻でさし示した。
予言者は、それをつぎつぎ書きとめたが、手がふるえていた。「では、三本目じゃ。」予言者がせきたてた。
ヘン・ウェンは、足をつっぱらせてすわり立ちの姿勢になった。そして、しばらくは、いくらタランがなだめすかしても動こうとしなかった。それでも、とうとう四本の足で立ち、今までよりもっとこわごわ、最後のトネリコの杖のところまで行ってくれた。
ヘン・ウェンが近づいて今にも一つめの文字をさし示そうとしたとたん、三本のトネリコの杖はまるで生きもののように身ぶるいして左右にゆれた。そして、地面から抜けようとするかのようによじれると、雷鳴が大気をひきさくようなぴしっという音をたてて裂け、われて、ばらばらに地面にちらばった。
ヘン・ウェンは、きいーっと恐怖のさけびをあげてころがるようにとびのき、かこいのすみへ逃げていった。タランはあわてて豚のところへかけよったが、ダルベンは身をかがめて杖の破片をひろいあげ、これで万事休したといったようにながめながら、
「こんなにこわれては修繕できぬし、もはや役に立たぬ。」と重い口調でいった。「原因は、わしにはわからぬ。ヘン・ウェンの予言も終わってはおらぬ。だが、予言の結末もはじめのもの以上に不吉なものなのであろう。ヘン・ウェンは、自らそれを感じとっていたにちがいない。」
大予言者は、ヘン・ウェンに背を見せてゆっくりとかこいから出た。エイロヌイがタランのところまでやってきて、いっしょになっておびえきっている豚をけんめいになだめた。ヘン・ウェンは、あいかわらず荒い息をしながらぶるぶるふるえて、前足で頭をかくすようにしていた。
「予言をいやがったのも当然ね。」エイロヌイが、さけぶようにいった。しかし、すぐにタランに向かって「でも、あなたがいなかったら、ヘンは何もいわなかったでしょうね。」とつけたした。
ダルベンは、片手に羊皮紙をつかんで、ギディオンのそばへ行った。コルと、フルダーとルーン王が心配そうに二人のところに集った。タランとエイロヌイも、ヘン・ウェンになんの異常もなく、そのままそっとしておいてほしいだけであることがわかると、いそいでみんなのところへ行った。
「おたすけ! ああ、たすけてください!」
ガーギが、両手を狂ったようにふってわめきながら芝生を夢中でかけてきた。そして、仲間の輪の中にとびこんでくると、うまやの方を指さしてさけんだ。
「ガーギ、どうしようもなかった! ガーギ力をつくした。ええ、ほんと、でも、あわれなやわらかい頭、ぽかぽかどかどかなぐられただけ!」そしてどなるようにして報告した。
「全力疾走! よこしまな女王、行ってしまった!」
3 予言
タランたちは、いそいでうまやまで走った。ガーギがいったとおり、ルーン王の馬が一頭姿を消していた。アクレンの姿もなかった。
「メリンラスで追わせてください。」と、タランがギディオンに許しを求めた。「なんとか追いついてつかまえます。」
「まっしぐらにアヌーブンに向かうつもりだな。」フルダーが、思わずさけんだ。「わしは、あの女をけっして信用していなかった。くそ、どんな裏切りをたくらんでいるのやらわかったもんじゃないぞ! あの魔女め、わが身の欲だけを考えて出ていきおったにきまっておる!」
「アクレンは、おそらく死ぬために出ていったのであろう。」ギディオンが、きびしい顔で丘陵や冬枯れた木々の方に目をやりながら、フルダーにこたえていった。「彼女にはカー・ダルベン以外に安全なところはない。守ってはやりたいが、彼女をさがすために、わたしがさがし求める仕事をおくらす気にはとてもなれぬ。」それから、ダルベンに顔を向けてヘン・ウェンの予言を知らねばなりません。それだけが手がかりです。」
予言者はうなずくと、先に立って全員を小屋につれていった。年老いた予言者は、まだ羊皮紙と割れた文字杖を手にもっていた。へやにはいると、ダルベンは、手にもったものをテーブルに置き、長い間じっと見てからようやく口をひらいた。
「ヘン・ウェンは語れるかぎり語ってくれた。わしらが彼女からきき出せることはすべて語ったと思う。わしは、自分が読みちがえたのだと空だのみをして、彼女がさし示した文字を、今もう一度読んでみた。」ダルベンは表情をおさえ、視線を落として、一語一語に心臓をしぼられでもするようにぽつりぽつりと語った。「わしは、ディルンウィンをとりもどす方法をきいた。これがそのこたえじゃ。
物言わぬ石と、声なき岩に、語れとたずねよ。
「一本目の文字杖かわしが読みとったヘン・ウェンの予言じゃよ、これが。」と、ダルベンはいった。「これが拒絶なのか。予言そのものなのか、あるいはこれ以上たずねてはならぬという警告なのか、わしにはわからぬ。じゃが、二本目の杖の文字は、ディルンウィンそのものの運命をつづっておる。」
ダルベンは、語りつづけた。その予言者の言葉は、剣先のように深くタランの心に突きささって、血のひえるようなく苦しみを与えた。
ディルンウィンの炎は消え
その魔力は失せる。
夜は真昼に変り
川は凍った火で燃える。
しかる後、ディルンウィンは返る。
老予言者は頭をたれ、しばらくは何もいわなかった。だが、「三本目の杖は」と、ようやくダルベンはいった。「ヘン・ウェンが予言をすっかりすませないうちにだいなしになってしまった。ヘンは、これ以上のことを語れたかもしれぬ。しかし、最初の二本から判断して、今までのものよりよい知らせをのぞむことはまずできまい。」
「この予言は、わたしたちをからかっています。」と、タランはいった。「ヘンはいつわりなく語ってくれました。しかし、これでは、石に助けを求めたのと変わらないじゃないですか。」
「そして、石にきいたとおなじくらい無意味だわ!」と、エイロヌイがはげしい口調でいった。「ヘンだって、正直にうちあけて、ディルンウィンはとりもどせないっていえたでしょうに。夜は真昼になるはずがない。つまりは意味がないのよ。」
「今までの旅において」と、フルダーが話をつづけた。「わしは、川はいわずもがな、ごくちっぽけな流れでも、燃えるところなど見たことがない。予言は二重に不可能というわけだ。」
「でも、ですね。」と、ルーン王が無邪気なあこがれをこめていった。「それがほんとうなら、おどろくべき見ものですよ。じっさいにおこってくれたらと思いますねえ!」
「モーナの王よ、あなたがそれを見ることはありますまい。」ダルベンが、重い口調でいった。
ギディオンは、じっと考えながらテーブルのところに腰をおろし、割れた杖を両手でひねくりまわしていたが、立ち上がって仲間たちにいった。「ヘン・ウェンの予言にはがっかりした。それに、わたしがのぞんでいたものとはあまりにちがいすぎる。だが、予言が全然助けにならないとしたら、人間がみずから助けをみつめなくてはならぬ。」ギディオンはそういうと、トネリコの破片をぎゅっとにぎっとぴしりと折った。「わたしの息の根がとまらぬかぎり、わたしはディルンウィンをさがし求める。予言はわたしのもくろみを変えぬばかりか、ますます緊急なものにしてくれた。」
「では、ごいっしょにまいりましょう。」といってタランは立ち上がり、ギディオンに顔を向けた。「あなたの体力が回復するまで、わたしたちの力をお使いください。」
「まさにそれさ!」フルダーが、いきおいよく立ち上がった。「わしは、川が燃えようが燃えまいがいっこうにかまわん。石に語れとたのむ? わしなら、アローン本人にたのむね。かれも、フラムの者にはいかなる秘密もあかすであろう!」
ギディオンは、首をよこにふった。「この仕事は、人間が多ければ、それだけ危険が増す。ひとりでやるのがもっともよい。だれかが、死の王アローンとの戦いに命をかけるとすれば、それはこのわたしでなくてはならんのだ。」
タランは、ギディオンが抗弁を許さない口調でそういうのをきいて頭をさげ、「それが御心でしたら」といったが、「しかし、カアをまずアヌーブンにとばすということはどうでしょう? まず、かれをおやりください。かれならすみやかにとんでいって、なにか情報をもってかえってくれます。」
ギディオンは抜け目のない目でタランを見て、承知とうなずいた。「豚飼育補佐よ、おぬし、さすらいの旅ですこしは知恵を身につけたな。おぬしの計画は手堅い。カアなら、おぬしたち全員の剣よりももっとわしには役に立つ。しかし、ここでカアを待つことはしない。それではあまりにひまがかかりすぎる。カアには、できるだけアヌーブンをさぐらせてくれ。それからカディフォル・カントレブのスモイト王の城で、わたしに合流させてくれ。スモイトの領土はアヌーブンへの道すじにある。だから、カアが合流してくれれば、わたしの旅もなかば成就したことになろう。」
「せめて、スモイト王の城までおともさせてください。」と、タランはいった。「そして、途中で傷がなおるまで護衛させてください。ここからカディフォル・カントレブの間にも、アローンの狩人たちがいて、今もあなたを殺そうとして待っているかもしれません。」
「きたない悪漢ども!」と、吟遊詩人がさけぶようにいった。「腹黒い殺しやどもめ! こんどは、わしの剣を味わわせてやるぞ。来るならきてみろ。いやぜひ、来てもらいたいもんだ!」すると、たて琴の絃が一本大きな音をたてて切れ、ほかの絃がじゃーんとなった。
「わかった、わかった――その、つまり――これは口ぐせにすぎぬ。」フルダーは、しおれていった。「全然出くわさなければいいと思うよ。うるさくて旅がおくれるとこまるからな。」
「だれひとり、このわしの不便は考えておらんじゃないか。」と、グルーがいった。この元巨人は食糧庫からでてくると、すねた目つきでみんなを見まわした。
「いたちめ!」フルダーがつぶやき声でいった。「ディルンウィンが失われ、われわれの命も瀬戸際に立たされているかもしれんのに、こいつは、自分が不便になるといってやきもきしている。まったくちっぽけなやつだ。いつもそうだったがな。」
「だれもいいださないところをみると、」と、エイロヌイがいった。「わたしはとおもに加えていただけないようね。いいわ、強情は張りません。」
「王女よ、あなたも知恵を身につけられたな。」と、ダルベンがいった。「モーナでむだに暮らしていなかったのじゃな。」
「もちろん。」と、エイロヌイはかまわずつづけた。「みなさんが出かけた後で、わたしふと、きょうは、ちょっと馬にのって野草をつみにいくのによい日よりだと思うかもしれないわ。そして、野草はなかなかみつからないかもしれないわ。だってもう冬も間近でしょ。でも、いいこと、これはみなさんの後をつけるのじゃありませんからね。でも、偶然に道に迷ってしまい、まちがえてみなさんに追いついてしまうかもしれないわ。そうなったら、もうおそすぎて家に帰れなくなりますけれど、それはわたしがわるいのじゃありませんから。」
ギディオンが、やつれた顔をほころばしてわらった。「おすきなように、王女よ。とめだてできぬことは、受けいれることにしているのだよ、わたしは。行きたいものはついてくるがよい。だが、カー・ダルベンのスモイト王のとりでまでだ。」
「やれやれ、王女さま」コルが、首をよこにふってため息をついた。「わたしはギディオン殿下に反対するつもりはさらさらありませんが、そのように自儘を押しとおすのはお若い夫人のふるまいとは申せませんぞ。」
「もちろんそうです。」と、エイロヌイはうなずいた。「テレリア王妃が最初に教えてくださったのがそのことでした。貴婦人は我意を通そうとしないものです。すると、やきもきしなくても、なんとなく思いどおりになるのよ。わたし、そのやり方が身につくだろうなんて思ったことなかったけれど、一たんこつをのみこんだら、ほんとうにとてもかんたんなのよ。」
それ以上時をおかずに、タランは、暖炉のそばのとまり木から入口までカアをつれだした。こんどばかりは、カアも、生意気そうにくちばしをならしたり、があがあわめいたりしなかった。いつものように腹を立てたり、しゃがれ声でがあがあないたり、ばかげたいたずらをするかわりに、タランの手首にとまって、首をかしげて光る目でじっと見ながら、タランが念入りに仕事の説明をするのをじっときいていた。
タランが手をさっと上げると、カアは、別れのあいさつにつやのあるつばさを羽ばたいてみせた。
「アヌーブン! ディルンウィン!」カアが、がらがら声でいった。
カラスは舞い上がった。そして、たちまちカー・ダルベンのはるか上空まであがった。風にふき上げられた木の葉のように、カアは、見上げる人たちの上空でふわりと風にのっていた。だが、すぐに、ふざけたようにひらひらとつばさを動かしながら、北に向かってとんでいった。タランが目をこらして後姿を追っているうちに、カラスはかすんで見える雲の中に姿を消した。そこで、ようやく、タランも、悲しい不安な気持をいだきながら仲間の方に目を向けた。カアなら旅の危険にも油断はしないと、タランは信じていた。狩人の矢がある。アローンの獰もうな使い鳥ギセントの爪や剣のようなくちばしもある。タランたちは、今まで再三にわたってギセントにおそわれたことがあった。ひなでも危険でないとはいえないのだ。
タランは、少年のとき命をたすけてやったギセントのひなのことを思い出した。その鋭い爪は今もよくおぼえていた。カアは勇敢で機転がきくカラスだったが、それでもやはり心配だった。そして、カア以上に、ギディオンの探索の旅のことが心配だった。タランは、なんとなく、カアのひろげたつばさの上に、今までよりさらに過酷な運命がかぶさるのではないかと思った。
文句たらたらのグルーについては、一行が大アブレン川の近くまで行ったとき、ルーン王が停泊している船まで送り、そこで王のかえりを待たせるということにきまった。ルーン王がカー・カダルンまでギディオンに同行すると心をきめていたからの処置だった。グルーは、ゆれる船の上で長く待たされるのも岸辺のかたい砂利の上でねむるのもいやだったが、しかし、元巨人の抗議もルーン王の心を動かして予定を変えさせることはできなかった。
ギディオンがダルベンとふたりであわただしく最後のうちあわせをしている間に、残りの者たちはうまやから馬をひき出しはじめた。全身が白くて黄金色のたてがみをもつギディオンの馬、かしこいメリンガーは、落着いて主人を待っていた。タランの牡馬メリンラスが、鼻をならし、いらいらと地面をかいた。
エイロヌイは、すでに、お気に入りの栗毛の牝馬ルアゴルにまたがっていた。このお姫さまは、マントのかくしにだいじな宝ものをいれていた。彼女が両手にくるむと光りかがやく金の玉だった。
「あのうっとうしい冠はおいていくわ。」と、エイロヌイは宣言するようにいった。「あんなもの全然役に立たないもの。せいぜい髪をおさえるだけよ。そんなことくらいですり傷つくるなんて意味ないでしょ。でも、この玉を持たずに行くくらいなら、逆立ちしてあるくわよ。それに、これがあれば、いざってときあかりになるから、この方が頭にのっけておく輪よりずっと実用的だわ。」鞍袋の中には途中で仕上げるつもりで、タランのためにつくった刺しゅうの布がいれてあった。「仕上げるときに、ヘン・ウェンの目の色をきめられると思うわ。」と、エイロヌイはいい足した。
フルダーが乗るのは、茶がかった黄色い毛の巨大な猫リーアンだった。リーアンは馬ほどあった。この猫は、吟遊詩人の姿を見ると、ごろごろと大きい音をたててのどをならした。この力強いけものが鼻をおしつけてきたので、フルダーはおしたおされないように押えるのがやっとだった。
「しずかにな、いい子だ。」吟遊詩人は、リーアンが大きな頭をぐいっとのばして首と肩の間にのせてきたので、思わず大きな声でいった。「たて琴で一曲やってくれというのはわかっておる。あとでひいてやるよ、約束する。」
グルーは、すぐに、その猫がリーアンだと知って、不平がましくいった。「そりゃ正しくない。その猫はもともとわしのものだ。」
「そうだよ。」と、フルダーがこたえていった。「あんたが、昔この子を大きくするためにあのひどい薬を煎じてのませたことをかんじょうにいれればな。乗りたかったら、どうぞためしてごらんくださいだ。だが注意しておくぞ――リーアンは、しっぽよりも長い記憶力をもっておる。」
その言葉どおり、リーアンは、グルーを見たとたん、しっぽを左右にふりはじめた。黄色い目をひからせ、ひげをひくひく動かし、ふさ毛のある耳をぴたっと寝かせて、ずんぐりした小男にのしかかるように身がまえた。のどから出る音が、吟遊詩人にあいさつするのとはまるでちがったものになった。
フルダーは、いそいでたて琴をかきならした。リーアンはグルーから目をうつし、大きな口をきゅっとまげて大きな顔にわらいをうかべ、うれしそうに目をしばたたきながら詩人を見た。
だが、グルーは、青い顔をもっと青くしてじりじりと猫からはなれながらつぶやいた。「巨人だったときには、なにもかも、もっとずっとうまくいったんだが。」
ルーン王は、連銭あし毛に鞍をつけていた。コルも、ギディオンのおともをするときめ、メリンラスとルアゴルの子馬である栗毛のラムレイにのることにした。そのため、グルーはガーギの乗る毛もじゃのポニーに相乗りしなければならなくなった――そして、それはガーギにも馬にもグルーにもいやなことだった。その間、タランは、コルに手をかして、うまや、かじ場、物置き小屋などをひっかきまわして武器をさがした。
「みんなにはとても行きわたらない。」と、コルがいった。「この槍は豆のつるのとってによく使ったものだよ。」古つわものは、そうつけ加えた。「ほかの目的に使いたくないと思っていたんだが。情けないことに、ギディオンに貸してさしあげられる剣は一本しかない。それもリンゴの木の支柱に使っているさびているやつだ。かぶとも、昔わしが使った皮のやつしかないが、それにはスズメが巣をこしらえている。だが、わしのこの古なじみの頭は皮のようにかたい。スズメがさわがなくても、カー・カダルンまで行ってかえる間ぐらい、わしを守ってくれるだろう。」コルはそういって、目くばせをしてみせた。
「それから、え、息子よ。」コルは、タランが心配そうに眉を寄せているのにちゃんと気づいていたが、陽気にしゃべりつづけた。「わしは、豚飼育補佐がギディオン卿と馬をならべて進みたくてかっかとしておった日のことをよくおぼえてい。それなのに、おぬし、今は霜にやられたカブみたいにしおれて見えるな。」
タランはほほえんでいった。「ギディオンさえゆるしてくだされば、わたし自身がアヌーブンへ行きたいよ。あんたのいったことはまったくそのとおりだ。わたしがあの頃の少年だったら、こんどの旅は栄光にみちた大胆不敵な冒険と思ったろうよ。しかし、人間の命が栄光より短く、血であがなわれた栄誉がきびしいむくいであることぐらいは知るようになったよ。
「ぼくは不安なんだ。」と、タランはつづけた。「ずっと昔、あんたは、ヘン・ウェンをぬすまれたとき、彼女を救い出そうとしてたったひとり、苦労してアヌーブンにはいりこんだろ。教えてくれないか。ギディオンがたったひとりでアローンの領土にはいって、なんとかやれるだろうか?」
「かれ以上の男はいないさ。」コルは、槍をかついでいった。そして、タランが、この古つわものが質問に全然答えていないと気づいたときには、もう物置きからいなくなっていた。
カー・ダルベンがはるか後ろになり、あたりが暗くなってきたとき、一行は森の奥深くで野営することにした。
エイロヌイは、うれしげに地面に体を投げ出すようにしてすわりこんだ。「気持のいい木の根や岩の上で寝るなんてほんとうに久しぶり! ガチョウのはねのふとんとはまるでちがってとても楽しいわ!」
ギディオンがたき火をしてもよいといった。コルが馬たちの世話をしている間に、ガーギがたべもの袋をひらいて食事を分配した。一行は、長い一日の旅の後なのですっかりひえきって体がこわばってしまい、ほとんどものもいわなかった。ところが、ルーン王はすこしも変わらずに陽気だった。旅人たちが背を丸めて貧弱な火をかこむと、ルーンは小枝を一本とってせっせと地面をひっかいて、目の前の地面にクモの巣のような線をいっぱいかいてみせた。
「あの防波堤のことですが、どうして失敗したかわかったように思うんです。ええ、まちがいありません。いいですか、こうすればいいんですよ。」
タランは、たき火ごしに見て、ルーンの目が真剣そうにきらきらかがやき、顔にはあのなつかしい子どもっぽいわらいがうかんでいることに気づいた。だが、ルーンは、モーナ島ではじめて知ったときのあの無鉄砲なひよっこ王子ではなかった。ルーンが自ら計画した仕事にうちこんでいたように、タランもかじ場や機織やろくろの仕事に心をうばわれていたのでそれがよくわかった。ルーンが王国を統治する中で成人したと同様に、タランも自由コモット人のたくましい人びとにまじって苦労したことでやはり成人していたのだった。タランは、今までとちがった友情をいだいてルーンをじっと見つめた。モーナ王がはなしつづけるうちに、タランは地面をひっかいた線に興味をそそられてしまった。ルーンのはなしをききながら、タランは地面の線を調べてみた。そして、ついにほほえんでしまった。ルーン王子に、一つだけ前とすこしも変わらないところがあるのに気づいたのだ。以前とおなじように、このモーナ王は、どういうものか自分の能力では及びもつかないことばかり思いつく。
「そんなふうにつくると、あなたの防波堤は崩れるんじゃないでしょうか。」タランは好意のこもったわらい声をたてていった。「ほら、この部分をごらんなさい。」と、タランは指さした。「重い方の石はもっと深く沈めなくてはなりません。そして、ここは……」
「すばらしい!」ルーンは、思わずそうさけんで、指をぱちっとならした。「おっしゃるとおり! モーナに来て、ぜひ完成の手助けをしていただきましょう!」そして、夢中になって新しい線をひきはじめたので、あやうく頭からたき火につっこみそうになった。
「ああ、偉大で親切な御主人!」と、ガーギがさけんだ。彼は、今までふたりの同志が話しあっていたことを、まるでわからないながらもじっときいていたのだった。「なんという賢明な調査と計画! ガーギ、かしこい話する知恵がほしい!」
ギディオンが、だまっているようにと注意した。「声をたてるな。この火だけでも、あぶないのだ。今はただ、アローンの狩人どもが出撃していないことをいのるばかりさ。この少人数では、一にぎりの狩人にも立ち向かうことはできない。やつらは並の戦士ではないからな。」ギディオンは、ルーンの物問いたげな表情に気づいてつけ加えた。「狩人は邪悪な戦士団なのだ。仲間のひとりが殺されると、殺された男の分だけ、残りの連中が強くなる。」
タランもうなずいてルーンに教えた。「不死身とおなじくらいにおそるべき連中です。不死身というのはアヌーブンを守る死ぬことのない無言の生きものでしてね。おそらく、狩人より恐ろしいでしょう。不死身は殺すことはできません。ただ、あまり遠くまで旅をしたり、アヌーブンの国外にいつまでも残っていたりすると、力は弱くなります。」
ルーンは、びっくりして目をぱちくりさせ、ガーギは口をつぐんで落着かなそうに後ろをふりかえった。無慈悲な不死身のことを思い出したタランは、またヘン・ウェンの予言を考えてしまった。「ディルンウィンの炎は消える。」と、タランはつぶやいてみた。「でも、アローンにそんなことがどうしてできるだろう? かれがいかに強大な力をもっていても、あの剣を抜くことすらできないだろうに。」
「予言はならべた言葉以上のものだ。」と、ギディオンがいった。「だから、奥にある意味をさぐらねばならぬ。アローンが、ディルンウィンをかくしているかぎり、われわれにとってあの炎は消えたもおなじだ。永遠にアローンの宝庫にしまいこまれてしまったら、どんなに役に立つものであっても、その力は消えたも同然だ。」
「宝庫?」グルーが、一瞬たべるのをやめていった。
「死の王の領土は、悪のとりでであるばかりでなく、宝庫でもある。」と、ギディオンはいった。「長い間、アローンがプリデインからうばいとったすばらしい有益なものにみちみちておる。その宝は使われておらぬ。アローンの目的は、奪うこと、宝を人間に使わせないこと、ここにいるわれわれが今まで見たことがないほど豊かな実りを生むであろうものを、われわれの手に渡さないことだ。」ギディオンは、そこで一息いれてからつけ加えた。「これは、形を変えた死とおなじではないか?」
「わたしは、こんなことをききました。」と、タランがいった。「アヌーブンの宝庫には人間ののぞみがすべてかなうだけのものが収まっているそうです。ひとりでに動くスキ、手を使わなくても刈りとる鎌など、たくさんの魔法の道具があるといわれています。それに金属細工や陶芸の秘伝、羊飼いや農民の知識などをも、アローンはぬすみました。こうした知識も、かれの宝庫に永遠にとじこめられているのです。」
グルーがちゅっ、ちゅっと歯くそをせせった。太くて短い指でつかんでいるたべものを、口へもっていくのを忘れた。しばらくじっと考えていた元巨人は、やがてせきばらいを一つしていった。「わしは、おまえたちの無礼やはずかしめをゆるしてやる。わしが巨人だったら、そんなまねはぜったいにさせなかったが、まあ、よい。みんなゆるしてやる。悪意のないしるしとして、わしもおまえたちといっしょに行ってやる。」
ギディオンが、きびしい目でグルーを見た。しばらくじっと見ていたが、やがて、おだやかにいった。「たぶん、そうなるであろう。」
「これで心底見えた!」フルダーがばかにした声でいった。「ちびいたちめ、なにかをこそこそぬすもうと思っているんだ。ほれ、鼻をぴくぴさせておるわ! やっこさんを味方にするような日が来ようとは思ってもみなかった。しかし、あとに残すよりは安全だろうて。」
グルーは、にこやかにわらいながら、「おまえもゆるしてやる」とだけいった。
4 スモイト王の城
あけ方、ルーン王は、一行と別れて西のアブレン港へ行くしたくにかかった。船長に会って築堤計画の改善を伝えるつもりなのだった。フルダーは、川の浅瀬と向こう岸の近道を知っていたので、いっしょに行くことになった。
エイロヌイも同行することにきめた。「わたし、ルーンの船に刺しゅう糸を半分わすれてきてしまったの。ヘン・ウェンをきちんしあげるのに、とって来なくちゃならないのよ。このおふたりにはみつからないわ。わたしだってとこに置いたかはっきりしないんですもの。それに、もっと暖かい旅用のマントやなにもかも忘れてきたらしいわ。今はどこに置いたか思い出せないけれど、船に行ったらすぐに思いつけるはずよ。」
コルが、うれしそうにわらってはげ頭をなでながらいった。「王女さまは、なにからなにまで、ぐっと貴婦人らしくおなりです。」
「わしは船に居残らないのだから」グルーが、昨夜の決心を変えずにいった。「わき道につれていかれるいわれはないと思う。わしは、ギディオン卿のおともをしていく。」
「いや、ちっぽけな巨人さんよ、それは考えちがいだ。」と、吟遊詩人がいいかえした。「相乗りもかまわんとおっしゃってくださったら、モーナ王のうしろにのるんだ。さ、はやく。わしがちょっとでも目をはなすなんて思うなよ。おぬしは、わしといっしょにいくんだ。もどりもおなじだ。
「大丈夫ですよ、フルダー」タランは、フルダーをわきによんでいった。「グルーがわたしたちを困らせるはずがありません。わたしが自分で目をくばっていましょう。」
吟遊詩人は、もじゃもじゃの黄色い髪の頭を横にふった。「いや、わが友よ。この目で見ていたほうが、それもたえず見ていたほうが、安心がいくのだよ。いやいや、あのちびいたちはわしが監督する。先へ行っていてくれ。正午よりずっと前にアブレン川の向こう岸で追いつくから。
「スモイトに再会できるのがうれしいよ、わしは。」とフルダーはつづけていった。「あの赤ひげのおいぼれ熊がわしは大すきでな。カー・カダルンでたっぷりごちそうをたのしもうじゃないか。スモイトはたべることも戦い同様盛大にやるからな。」
ギディオンは、すでにメリンガーにまたがっていて、いそげとあいずした。フルダーはタランの背中をどんとたたくと、リーアンのところへ走っていった。リーアンは、つめたいけれども明るい日をあびて、自分のしっぽの先にとびかかっては、ひとりたのしげに遊んでいた。
ルーン王、フルダー、エイロヌイ、グルーの一行は、まもなく見えなくなった。タランは、ギディオンとコルにはさまれて西に馬を進めた。ガーギは、小馬にのって後ろからとことこついてきた。
一行は、アブレン川を渡ったところで休んだ。正午をすぎても、ルーン王の一行は姿を見せなかった。タランは、心がさわいだが、災難にぶつかったためと思わないことにした。「ルーンが、アナグマのトンネルかアリ塚でも見ようして足をとめているんでしょう。それだけのことだろうと思いたいですね。」
「大丈夫」と、コルがいった。「フルダーがせきたてるさ。もう、すぐにでもやってくるょ。」
タランは、万一フルダーが道をまちがえていれば道案内になると思って、あいずの角笛をふきならした。それでもまだ、かれらはやってこなかった。ギディオンは、待てるだけ待ってから、カー・カダルンへ進むことにきめた。そして、それ以後はぐんぐん旅をつづけた。タランは、ルーンとその一行が全速力で追ってくる姿は見えはしないか、ふいにモーナ王の陽気な「やあ、やあ!」がきこえはしないかと、しばしば鞍の上でふりかえった。しかし、一日がおわりに近づいたとき、ルーンはどんなにいそいでもそれほどはやくは馬を走らせられない男だから、もうずいぶんおくれたと納得せざるをえなかった。それに、フルダーが暗くなってから旅をしないこともわかっていた。
「後ろのどこかで野営しているさ。」コルが、タランを安心させるようにいった。「なにかがおこっていれば、だれかひとりが知らせにきてるはずだ。フルダー・フラムは、スモイトの城までの道を知ってる。あそこで再会できるよ。それに、あまり遅れるようなら、スモイトが捜索隊を出してくれる。」たくましい古つわものは、タランの肩に手をかけ、めくばせを一つしてみせた。「心配しなくちゃならんはっきりした理由がないかぎり、気持を楽にしていることだ。それとも、エイロヌイ王女のそばにいたくてたまらんのかね?」
「彼女はついてきちゃいけなかったんだ。」タランは、ちょっとおこったようにこたえた。
「そのとおり。」と、コルがにやっとしていった。「だが、反対をとなえたのは、おぬしじゃなかったぞ。」
タランも、にやっとわらいかえしていった。「彼女に反対するなんてことは、もうとうの昔にあきらめたよ。」
翌日の午前のなかばすぎ頃、前方にカー・カダルンが姿を見せた。石の塔の上に、黒熊の紋章をえがいた真紅の旗が強い風にはためいていた。とりでは、いくたの戦いがのこした傷あとだらけのどっしりした城壁を、ひげの王の眉毛そっくりにそそり立てて、平地にたっていた。コルが乗馬ラムレイをせきたててとび出していき、ドンの王子ギディオンの名で門衛に向かって門をあけろとさけんだ。どっしりした城門があいて一行がかけこむと、兵士が馬をつれていき、一行は一群の戦士に先導されてスモイトの大広間へはいっていった。
ギディオンは足早に廊下をすすんだ。タランとコルとガーギも、護衛にはさまれながら後ろを追った。「スモイトは食事中だね。」と、タランがいった。「あの人の朝食は真昼まで続くから。」そこで声をたててわらってから「朝食は、昼、夜の食事をとる食欲を刺激するものだっていうんだ。ギディオンも、わたしたちが腹いっぱいたべてしまうまでは、なにもきけないな。」
「はい、はい!」と、ガーギが大声でいった。「ガーギ、おいしいくしゃくしゃ、もぐもぐ、ぜひいただきたい!」
「いただけるとも。安心しろよ。」と、タランがこたえた。
かれらは大広間についた。大広間の奥には、カシの大木をたてに二つに割り、両の前足を、持ち上げて立つ熊の形に彫ったスモイト王の大きな玉座があった。
だが、玉座にすわっていたのは、スモイト王ではなかった。
「マグ!」タランが、あっとおどろいてさけんだ。
護衛兵たちがさっととびかかってきた。他の剣は剣帯からもぎとられてしまった。ギディオンは、恐ろしいさけび声をあげて戦士たちにぶつかっていったが、敵はどっと群がり寄ってドンの王子をひざまずかせてしまった。コルもおさえつけられ、背中にぴたりと槍を突きつけられていた。ガーギは、激しい怒りと恐怖にかられてわめきたてた。護衛のひとりが、もじゃもじゃのえり首をつかみ、さんざんぶちのめしたので、このあわれな生きものは、立ち上がるのもやっとのありさまになった。
マグは、まるでしゃれこうべのような顔つきでにやりとした。細い指をかるくうごかして、戦士たちにはなれていろとあいずした。やつれた灰色の顔がたのしげにひくひくけいれんしている。「ギディオン卿、このような再会は予想もしなかったものでした。わたしの部下たちはカー・カダルンを占領しておりますが、これは余分の報しゅう、それも、わたしがのぞんだ以上に豊かな報しゅうでしてね。」
ギディオンのみどり色の目が、怒りにぎらぎら燃えた。「きさま、あつましくもスモイト王のカントレブに侵入しおったな。王がもどらぬうちに、ここから立ち去れ。スモイト王は、わたしのようにおだやかには、きさまをあつかってくれぬぞ。」
「あなたもスモイト王のところへ行くのです。」と、マグはいいかえした。「あの無礼なカントレブの領主を王などとよぶのばかばかしいですがねえ。」マグは、うすいくちびるをゆがめて、刺しゅうをほどこしたマントにそっと手をやった。タランは、この髪の長い男の意匠がモーナの宮廷の侍従長だったときよりもはるかに豪華になっているのに気づいた。
「わたしが臣従をちかった主人は、スモイトよりもモーナ王よりも、アクレン女王よりも強力なのだ。」マグは、陰気なわらいを顔にうかべていった。「今やドンの王子よりも強力だ。」そして、首にかけた鉄のくさりをまさぐり、重い役職章をもてあそんでみた。タランは、それに狩人のひたいにおさまれているのとおなじ印があるのを見てぞっとした。
「わたしがつかえる主人こそ」マグは、居丈高な声でいった。「アヌーブンのあるじ、死の王アローンその人だ。」
ギディオンの目は、いささかもたじろがなかった。「マグ、きさまはようやくまことの主人をみつけた。」
「ギディオン卿、この前おわかれしたとき、」と、マグはいった。「わたしは、あなたが死んだものと信じました。後になって死んでいないとわかってほんとうにうれしかったですよ。」侍従長は、くちびるをなめた。「復讐を二度味わうことがゆるされる人間などめったにいないな。そして、わたしは、この再会の日が来るまでじっと耐えてきた。
「そう、耐えたのだ。」マグは、はき出すようにいった。「わたしは、モーナ島をのがれてから長いこと放浪した。時間を待ちながら、身を落としてさまざまな主人に仕えた。ある主人は、わたしを土牢にほうりこもうとさえした。かつては一の王国をこの手ににぎっていたこのマグをだ。」侍従長の声がかん高くなった。顔が土気色になり、目がとび出しそうな形相にかわった。しかし、すぐに、わなわなと手のふるえる興奮を自らおさえて、スモイトの王座にゆったりとすわりなおした。そして、一語一語を味わうように話をつづけた。
「ようやく、わたしは苦心の末アヌーブンにたどりついた。暗黒の門のまさに入口にだ。アローンは今とはちがい、当時わたしのことを知らなかった。」マグは満足げにうなずいた。「かれは、わたしからたくさんのことをまなびとった。
「アローン王は、ディルンウィンの来歴は知っていた。」と、マグは話をつづけた。「それが一度姿を消し、ふたたび見つけ出され、ドンの子孫ギディオンが腰に帯びていることも知っていた。だが、それを手に入れる最良の策をかれに教えたのは、このマグだった。」
「おまえの反逆などけちなものだ。」と、タランがいった。「おまえがいてもいなくても、早晩アローンはあの邪悪な策を思いついていたさ。」
「たぶん」マグは、ふてぶてしくいった。「たぶん、かれがわたしからまなびとったことは、わたしがかれからまなびとったことより少ないだろう。わたしは、まもなく気づいたのだ。かれの権力がきわどいせとぎわにたたされていることに。アローンの闘士角の王は、とうの昔に敗北して死んだ。あの黒いクローシャン、不死身どもをつくり出したあの釜までがこわされてしまった。
「アローン王には、たくさんのカントレブの王たちの中に秘密の臣下がいる。」と、マグはさらに話をつづけた。「アローンかれらに大きな富と領土を約束し、王たちは臣従をちかっている。だが、アローンの敗北はかれらを不安にした。アローンに対し、今まで以上の臣従をかちえる手段を示したのはわたしなのだ。ディルンウィンをアローンの手に渡したのは、わたしの策、わたしだけの策だったのだ!
「今やあらゆるカントレブに、死の王アローンがプリデインでもっとも強力な武器をにぎったといううわさがひろがっている。アローンは、ギディオン卿、あなたよりもはるかによくあの剣の秘密を知っている。そして、敗北するはずがないことも知っている。かれの臣下は歓喜している。ほどなく勝利をあじわうことになるからだ。ほかの武将たちもアローンの旗の下に集結するだろう。かれの軍勢はふくれあがる。
「それを考え出したのが、このマグなのだ!」と、侍従長は大きな声をあげた。「死の王につぐ者であるこのマグ! アローンの名で語るこのマグなのだ! わたしはかれの代理の使者だ。国から国へとめぐりあるき、ドンの子孫と同盟者たちを滅ぼす軍勢を集めることになっている。プリデイン全土が、アローンの領土になるであろう。そして、かれに反抗する者たちを――アローン王は、慈悲深い気持になれば殺すであろう。流される血は狩人たちがのむのだ。そして殺されないものは永久に奴隷として服従させられる!」
マグの目はぎらぎらしていた。血の気のないひたいが汗でひかり、ほほがはげしく小きざみにふるえた。「そのむくいとして」マグは力をこめていった。「そのむくいとして、アローン王はわたしに向かい、あらゆるものにかけてちかってくれた。いつかは、このマグが、アヌーブンの鉄の王冠をいただくことになるのだと!」
「きさまは反逆者であるばかりか、じつにばか者だ。」ギディオンが、きつい声でいった。「それも、かさねがさねばかなことをしておる。一つは、アローンを信じていることだ。もう一つは、スモイト王がきさまの陰険な言葉に耳をかすと思っていることだ。きさま、スモイト王を殺したのか? 生きているかぎり、彼がきさまの話などきくものか。」
「スモイトは生きている。」と、マグはこたえた。「かれの忠誠など全然問題にしておらぬ。わたしは、かれのカントレブで、かれの臣下たちに臣従をもとめる。スモイトの名でわたしの大目的に奉仕するよう、スモイトから命令させてやるのだ。」
「スモイト王は、舌を切られたってそんなことをするものか。」タランが、思わずさけんだ。
「たぶん、舌を切ることになろう。」と、マグがこたえていった。「おしになっても、あの男はやはりわたしに仕えることになる。わたしとくつわを並べて進み、わたしが、かれにかわって、かれ自身の言葉で語るよりもたくみに語ることになろう。いや、」そこで、マグはちょっと考え、「やはり、わたしでなく、かれ自身の口から命令する方がよい。舌を切りとるかわりにそれを使わせる方法はある。何人か、すでにためされたものたちがいる。」
マグが考えるように目をなかばとじた。「最善の手段が今わたしの目の前に立っている。ギディオン卿、あなただ。それから、豚飼い、おまえだ。ふたりであの男にはなしてみてくれ。わたしに屈服してはならぬことを、スモイトに理解させてくれ。」マグは、腹黒そうな笑いを顔に浮かべた。「おまえたちの命はその結果できまる。」
侍従長は、かるくあごを上げてあいずした。護衛が進み出た。
一行は、乱暴に大広間から突つき出された。タランは、あまりの驚きと絶望感に胸がふさがれ、どこを歩かされたかほとんどわからなかった。戦士たちが立ちどまった。ひとりが、勢いよく重いとびらをあけた。戦士たちはタランの一行をせまいへやにほうりこんだ。とびらがきしみながらしまると、闇が一行をのみこんだ。なにも見えないへやを足さぐりして動いているうちに、タランは何か横になっているものにつまずいた。すると、それがもぞもぞ動いて大きな声でほえた。
「こいつが、こいつが!」スモイト王の声だった。タランは骨がくだけるような力でつかまれてしまった。「マグめ、きさま、また来おったか? わしは生きておるかぎり、きさまにひっぱり出されはせん!」
タランは、のどをしめられ、骨をくだかれそうになったが、あぶないところでギディオンが名乗りをあげ、仲間の名前をスモイトに伝えてくれた。のどをしめつけるスモイトの力がゆるみ、大きな手がタランの顔をなでた。
「こりゃ、おどろいた。うむ、まちがいない!」スモイトは、仲間にとりかこまれて大きな声でいった。「豚飼育補佐! ギディオン卿! それから、コル! おぬしのはげ頭ならどこにいたってわかるわい!」スモイトの手が、ガーギのもじゃもじゃした頭にふれた。「それから、これはあの小さい――ええと、なんとかだ! よいところで会ったな、諸君。」スモイトは、そこで低く太い声でうめいた。「そして、悪いところで会った、でもある。あのへらへらわらいのまぬけめ、どうやっておぬしたちをわなにかけたのかな? あのぺらぺら舌のくねくね野郎め、わしらをひとりのこらずひっかけおったんだ!」
ギディオンが、口早に今までのいきさつをスモイトにはなしてきかせた。
赤ひげの王は激しい怒りのうなり声をあげた。「マグのやつは、おぬしらを捕えたとおなじように、かんたんにこのわしも捕えおった。きのうの朝めしのとき、くいはじめたとたん、侍従があらわれてゴリオン卿の使者がお話いたしたいといって来ていると知らせた。わしは、あのゴリオンがまたガーストと不和になっていることも知っておった。例によって牝牛どろぼうさわぎさ。いや、まったく、プリデインの領主どもは、いつになったら、絶え間ない争いをやめてくれるのかなあ! しかし、ガースト側の話はすでにきいていたので、ゴリオン側の話もきかねばならぬと、わしは考えたのだ。」
スモイトは、はげしく鼻をならして、太いふとももをたたいた。
「それから一口も呑みこまぬうちに、マグの戦士どもがわしをとりかこんでしまいおった。ふん! あやつら、このスモイトを生涯忘れんだろう! 別の一隊がひそんでいて、そいつらは城門から殺到してきた。」スモイトは、そこで両手で頭をかかえた。「わしの部下たちは、殺されるか、護衛室や武器倉にとじこめられるかしてしまったよ。」
「王さま」と、タランは心配になってたずねた。「あの、痛むのですか? マグのやつ、拷問を口にしていましたが。」
「痛み!」スモイトは、へや中にがんがんひびきわたる大声でほえるようにいった。「拷問? そいつはあぶら汗が出るほど味わった。だが、あの岡っ引きのうじむしに加えられたのではない。わしの皮膚は部厚くできておる。マグなぞ、わしに向かってくれば自分がけがをするだけだ! やつの拷問なんぞ、虫さされかいばらのひっかき傷ぐらいなものさ。そうだな、友人同士の争いでもっとひどい目にあったことがあるんだ!
「痛み、といったな?」と、スモイトははげしい言葉ではなしつづけた。「このひげ全部にちかって、自分の城にとじこめられるっていうのは、焼きごてをあてられるよりずっと痛く苦しいものだぞ! わしのとりででとりこになっているんだぞ! 自分の城の大広間でいっぱいくわされたんだ! 自分のたべものと飲みものを、口の前でひったくられて、朝めしがだいなしになったんだぞ。拷問だと? もっとひどい! それだけでも、人間不機嫌になって食欲をなくすわい!」
その間、ギディオンとコルは闇の中を手さぐりして壁のところまで行き、かすかな光をたよりに、どこかにもろい箇所はないかと一生けんめいしらべていた。タランは、ようやく暗闇でもものがすこし見えるようになったので、ギディオンとコルがむだな努力をしていると思った。牢は窓がなかった。ほほに感じられるかすかな空気の動きは、太い鉄棒がはまっているドアの小さなのぞき窓からはいってくる風だった。床は、土を踏みかためたものではなく、ほとんどすき間なく板石をしきつめたものだった。
スモイト自身も、ギディオンのしていることの目的に気づくと、首を横にふって、鉄びょうを打ったくつで床をどんどんと踏んで大きな声でいった。「わしが自分でつくったのだからちゃんと知ってる。苦労してもなんにもならんよ。すぐにむだだとわかる。」
「この牢は、地上からどれほど深く掘ってありますか?」タランは、刻々と逃亡の望みがうすらいでいくのを感じながらも、そうきいてみた。「掘って出られる方法はありませんか?」
「地下牢か?」と、スモイトがおどろいたようにいった。「カー・カダルンには、もう地下牢はないぞ。この前会ったとき、おぬしが、わしの地下牢を役立たずだといったではないか。おぬしのいうとおりだったから、わしは、あれをふさいでしまった。今はな、このカントレブでは、どんなごたごたがおこっても、ちょっと話せばすぐにかんたんに片がつく。わしの声をきけば、だれでも行いを改めるか、考えを改める。地下牢か、まったくな! ありゃ、予備の食糧庫さ。
「いや、あのつくりほどにしっかりと、食糧をたくわえておいたらよかったなあ。マグのやつ、焼きごてでもむちでも持ってこい。そんなものは、この腹食い拷問にくらべたらなんでもない。食料庫は流し場のとなりなんだ! もう二日も何もくっとらんのだ、わしは。それが、二年にも思える! あの腹黒の裏切り者め、まだ祝宴をつづけておる! そして、このわしには、においしかかがせてよこさん! くそ、このむくいは必ず受けさせてくれる。」スモイトは思わず声を高くした。「わしは、あいつに一つだけたのみがある。一瞬でいいからあの細っ首をこの手でつかませてもらうことさ。やつがくらいおったプディングでもパイでも、押し出してやるぞ!」
ギディオンが、怒り狂っているスモイトのとなりにやってきてしゃがみこんだ。そして冷たく落着いた声でいった。「おぬしの食糧庫が、われわれの墓場になるかもしれぬ。われわれだけではない。フルダー・フラムが仲間とともにここへ来ることになっている。マグのわなは、われわれ同様にかれらをもとらえてしまうにちがいない。」
5 見張り
フルダー・フラムは、エイロヌイとルーン王とグルーの道案内をして、短時間でアブレン港にたどりついたが、もどりはずっとおそくなった。はじめに、モーナ王が、連銭あし毛が川岸で立ちどまって水を飲んだとき、あろうことか、前のめりに落馬した。水に落ちた不運な王はびしょぬれになったが、元気はすこしもおとろえなかった。ところが、剣帯がはずれ、剣が浅瀬に沈んでしまった。そして、ルーン自身も馬具のつなにからまれて、剣をひろい上げることができないでいたので、フルダーが川にはいってさがさなくてはならなかった。すると、こんどは、グルーが、びしょぬれの吟遊詩人と相乗りすることを、文句たらたらいやがった。
「いやなら歩け、このちびいたちめ!」フルダーは、寒さにふるえながら両腕でわき腹をどしどしたたいてさけんだ。「いいか、船までひきかえせ!」
グルーは、横柄にふんと鼻をならしただけでおりようとはしなかった。
エイロヌイはが、いらだってどんと地面をけった。「みんな、いそいでくださらない! わたしたち、ギディオン卿のお世話のためについてきたのよ。これじゃ、自分たちの面倒も見られないありさまだわ。」
元巨人は、ルアゴルの背に王女と相乗りすることに同意し、一行はまた進みはじめた。ところがリーアンが、ふいにいたずらっ気をおこしてしまった。彼女は、大きな足でぱっとつっぱしると、茶がかかった黄色い首に必死にしがみつく吟遊詩人をのせたまま、たのしげにぐるぐるはねまわった。フルダーは、リーアンが自分をのせたままあおむけにころがるのを防ぐのがせいいっぱいだった。
「こんなこと――めったにやらんのだ。」大きくとびはねながら仲間のまわりをまわるリーアンの上で、息を切らした吟遊詩人がさけんだ。「今までは――ほんとうに――おとなしかったんだ! おこっても――むだ。なんにも――なりゃせん!」
とうとう、フルダーも、さんざん苦労したあげくたて琴を肩からやっとはずして一曲かなでなくてはならなくなった。それで、ようやくリーアンもしずまった。
正午をまわってまもなく、吟遊詩人は、遠くでふきならすタランの角笛のかすかなひびきをききつけた。「わしらのことを心配している。すぐに追いつければいいが。」
一行は、せいいっぱい道をいそいだ。しかし二組の間の距離は、ちぢまるどころか逆にひろがり、やがて日が暮れてしまった。一行はくたびれて野営した。
翌朝、元気をとりもどしてまた旅を続けた一行は、フルダーの計算によると、半日足らずのおくれまで追いついた。ルーン王は、いつになくカー・カダルンにはやくつきたがり、あし毛をかりたてた。しかし、あし毛の足はリーアンやルアゴルよりもずっとおそかったので、エイロヌイとフルダーは、ひんぱんに立ちどまらなくてはならなかった。
午後もなかばを過ぎたとき、ルーン王がうれしげなさけび声をあげた。カー・カダルンがほど遠からぬところに姿をあらわしたのだ。木々のかなたに、スモイト王の真紅の旗がくっきり見えた。一行は、すぐさま足をいそがせて進もうとしたが、エイロヌイは眉を寄せて、はためく旗をもう一度ながめた。
「おかしい。」と、王女はいった。「スモイト王のゆかいな熊の旗は見えるでしょ。でも、ギディオンが入城しているはずなのに、ドンの王家の旗が見えないのよ。テレリア王妃が教えてくださったわ。王族のだれかが訪ねてみえたとき、カントレブの領主は儀礼としてドン王家の黄金の朝日の旗をあげるものなのですって。」
「平常の場合はたしかにそのとおりだ。」と、フルダーがうなずいていった。「しかし、こんな時にきてが自分の所在を世間に知らせたいと思うかな。スモイトに、儀礼などはぶけといったのだ。まことに分別ある用心だ。」
「もちろん、そうですわね。」と、エイロヌイがこたえていった。「それを思いつかなくちゃいけなかったわ。フルダー、あなたってほんとうに思慮深い方。」
吟遊詩人は、うれしそうに顔をほころばした。「経験ですよ、王女。長年の経験です。しかし、ご心配なく、やがて、あなたもこのような知恵を身につけることができましょう。」
「あなたがおっしゃるとおりですけど」エイロヌイは、もっと進んだとき、またいった。「城門がひらいていないのは変だわ。スモイト王なら、城門を大きくひらいて、スモイト王みずから指揮する儀仗兵をずらりとならべて待っているでしょうに。」
フルダーは、手をふって若いむすめの意見をしりそげた。「いや全然。ギディオン卿は危険な旅をしている。宴会をまわりあるいているのではない。そんな仕事をどう果たすのか、わしにはわかっている。わしも、じつに数多く秘密の使命の旅をしたこと――あ、いやいや、一、二回したことがある。」かれは、あわてていいなおした。「だから、カー・カダルンが城門をカキのごとくにぴたりと閉じているだろうと思っていたよ。」
「そうね」と、エイロヌイがいった。「そういうことは、たしかに、あなたの方がわたしより知っているでしょうね。」エイロヌイはためらい、ぐんぐん近くなる城をよく見ようと目をこらした。「でも、わたし、スモイト王が近隣の領主たちと戦っているなんて聞いていないわ。城壁に見張りがふたりいれば、じゅうぶんすぎるくらいでしょ。それがどう? 弓隊が一組まるまるいるわ。」
「そりゃ、当然」と、フルダーがこたえた。「ギディオン卿を守るためさ。」
「でも、ギディオンがあそこにいることは、だれも知らないはずでしょ――」と、エイロヌイがいいはった。
「ふうむ!」吟遊詩人は、大きくうなってリーアンの足をとめた。「あなたのおかげで、頭が混乱しちまうなあ。あなたは、ギディオンがカー・カダルンにいないといいたいのかね? いないなら、すぐにわかる。いても、これまたすぐにわかる。」フルダーは、黄色い髪が針金のように突っ立つ頭をひっかいた。「しかし、かれがあそこにいないとしたら、そりゃ、なぜ? いったい何があった? いるとすれば、何も心配することはない。それでも、いない場合には……ううむ、ちくしょう、あなたのおかげで、不安になっちまったぞ。わしはにわからん……」
「わたしにもわからないわ。」と、エイロヌイがこたえた。「わたしにわかっているのは――いいえ、わかってもいないのだけれど――そう、説明できないわ。わたしには、その城がすっかりゆがんで見える――いえ、見えるのじゃない。感じ? でもない……ま、どっちでもいいわ。」エイロヌイは、ふいに大きな声でいった。「体中悪寒が走ったの。どうも気に入らないのよ。そりゃ、あなたには経験がある。でも、わたしの血筋は女の魔法使いなのよ、代々。だから、若い貴婦人になる方をえらばなかったら、わたしも女の魔法使いになっていたと思うわ。」
「魔法!」吟遊詩人は、不安そうにつぶやいた。「そいつに近寄ってはいかん。ちょっかいを出しなさんな。魔法なんて決していい結果にならんことも、わしは、経験で知っておるのだよ。」
「いいですか」と、ルーン王が口を入れてきた。「王女が、何かおかしいと感じておられるのでしたら、わたしはよろこんで先駆けしてさぐってまいりますが。わたしは、堂々と門をたたいてたずねてみます。」
「とんでもない。」と、フルダーがこたえていった。「なにもかも順調、とわしは確信しておる。」そのとたん、たて琴の弦が一本、ぴしんと高鳴って切れた。吟遊詩人はせきばらいしていった。「いやいや、全然確信などしておらん。ええ、めんどうな! 若いむすめに吹きこまれた考えがふりすてられんとはな。万事が狂っておる。」
「あなたを決心させるため――いや、わしが安心したいんだ。」と、フルダーは王女にいった。「わしがさぐりに行く役を引き受けよう。吟遊する詩人となれば、わしは自由に出入できる。なにかまずいことがおこっても、だれもわしを疑いはしない。まずいことがなければ、それはそれでさしつかえない。ここで待っていてくれ。すぐにもどる。スモイト王の宴席について、この用心をわらうことになるだろうよ。」かれは、そうつけ加えたが、あまり自信はなさそうだった。
吟遊詩人は、リーアンに乗っていって人目をひかない方が賢明だと考えて、猫からおりた。それから「おい、いたずらなんかするなよ。」と、グルーに警告した。「おぬしから目をはなしたくはないんだが、リーアンが見張っているからな。彼女の目は、わしより鋭いぞ。歯も鋭いことを忘れるなよ。」
吟遊詩人は、てくてく歩いて城に向かった。しばらくして、エイロヌイは、城門がさっとひらかれフルダーが中に姿を消すのを見た。それっきり、城はまた静まりかえった。
日が暮れたとき、王女は深刻な不安におそわれた。今になっても、吟遊詩人からはなんの合図もなかった。エイロヌイ一行は、茂みにかくれてフルダーの帰りを舞っていたのだが、王女はこらえ切れずに立ち上がると、城に顔を向けて、「これじゃ、ほんとうにまずいじゃないの!」と大きな声でいって、いらただしげにいそいで茂みから出ようとした。
ルーン王が王女をひきもどした。「いや、大丈夫でしょう。そうですよ、まずいことがあれば警告のためにすぐもどってきていますよ。きっと、スモイトが夕食をふるまってくれたか、そうでなければ……」ルーンは剣を抜いていった。「わたしがしらべに行きます。」
「だめ、行っちゃだめ!」と、エイロヌイが声を高くしていった。「はじめに、わたしが行くべきだったのよ。人に言いくるめられてだまっているなんて、そんなばかことしちゃいけなかったのよ。」
ところが、ルーンはきかなかった。エイロヌイもきかなかった。それにつづいてのささやき声だが激しいいいあいは、当の吟遊詩人がだしぬけにもどってきたことでうちきられた。詩人は、ぜいぜい息を切らしながら、茂みによろめきこんだ。
「マグのやつだ! あいつが、みんなをつかまえたんだ!」フルダーの声には、月の光を浴びた顔色同様生気がなかった。「つかまった! わなにかかったんだ!」
エイロヌイとルーンは、呆然としながら、フルダーがしらべてきた話をきいた。「戦士たちも、スモイトを含めて四人が裏切りの罪でとらえられているというだけで、それがだれなのかは知ってはいないんだ。裏切りとぬかしおる! かれらは、つくり話を信じこまされているのさ。この陰謀はもっと根が深いのだろうが、その正体までは、わしにはさぐり出せなかった。番兵どもは、城にはいるものはだれでもつかまえろという命令を受けているのだと思う。運のいいことにその命令も吟遊詩人にまでは及ばないらしかった。吟遊詩人がふらりとやってきて夕めしにありつくために歌うなんて、ごくありきたりのことだから、戦士たちもまったく疑ってみることはしなかった。ただし、監視の目は離さず、スモイトの大広間やかれらがとじこめられている食糧庫へ近づくことはさせなかったね。しかし、わしは、マグをちらりと見た。ええい、あのにやにやと人を小馬鹿にしたクモ野郎め! まったくその場をさらせず突き殺させたらと思ったよ!
「戦士どもは、この指がもげそうになるまで、たて琴をひかせた。」フルダーはいそいで話をしめくくった。「それがなければ、ずっと前にもどれたんだがな。途中でやめる勇気はなかったね。やめたら、あやしまれたにきまってる。あやしいやつは、ちゃんと一匹いるんだよ、あそこに!」フルダーは、いかにも腹立たしげにさけんだ。
「どうしたら、助け出せる?」と、エイロヌイがたずねた。「とじこめられた理由なんかどうでもいいのよ。あとできけばいいんだから。まず、あの人たちを助け出すことよ。」
「できないね。」フルダーがあきらめたようにいった。「不可能だ。たった四人ではな。それも、グルーを入れて四人なんだぞ。やつは全然あてにならん。」
グルーが、ふんと鼻をならした。ふだん、この小さい男は、自分に直接かかわりがあること以外は、なんの関心も示さないのだった。ところが、こんどは、興奮した表情で、「巨人だったときには、城壁なんかひき倒せたんだがな。」といった。
「その巨人だったときの話は、もう、やめろ。」フルダーが、ぴしゃっといった。「今は巨人じゃないんだ。唯一ののぞみは、このカントレブのさらに奥まで進んでいって領主のだれかに事件を知らせ、攻城軍を召集させることだ。」
「ひまがかかりすぎるわ。」と、エイロヌイがいった。「おねがいだから、しゃべらないで。わたしに考えさせてちょうだい!」
王女は、こんどこそ、いきおいよくあき地に出ると、いどむように城をにらんだ。すると、まっくろい城も、来るなら来いといどみかえしてきた。頭をめまぐるしくはたらかせても、はっきりした策は思いうかばなかった。王女は、悲しさと怒りのまじった泣き声をもらして、顔をそむけようとした。と、そのとき、近くの木の前のところで、何かが動いたのがちらっと見えた。王女は、はっとして足をとめた。そして、真正面から見る勇気が出せず、横目を使って見ると、おかしな形のものがじっとうずくまっているのがわかった。エイロヌイは、そのままフルダーやルーンの方にあるいていくふりをしながら、すこしずつその木の方へ近づいた。
エイロヌイは、突然、リーアンのようにすばやく、うずくまっているものにとびかかった。うずくまった影は、ころがってのびると、くぐもった悲鳴をあげた。エイロヌイは、ぶったり、けったり、ひっかいたりした。フルダーとルーン王がすぐにかけつけてきた。詩人が、じたばたするその何かの片端を、ルーン王が反対側をつかんだ。
エイロヌイはさっと身をひくと、マントから大いそぎで金の玉をとり出して両手でかこった。金の玉が光りだした。エイロヌイは、光を、ばたばたしている何かに近づけたが、すぐに、口をあんぐりあけてしまった。金色の光に照らし出されたのは、鼻がだらりと長く、口元のあわれっぽい、しわだらけの青白い顔だった。クモの巣のように細くてふわふわした髪の下で、涙をためた目をあわれっぽくしばたたいている。
「ギスティル!」エイロヌイが、びっくりしてさけんだ。「妖精族のギスティルじゃないの!」
吟遊詩人がつかんでいた手をはなした。ギスティルは体をおこし、細い腕をさすってからのろのろ立ち上がり、身を守るようにマントをひきまわした。
「またお会いできてうれしく思います。」と、ギスティルはもごもごといった。「いや、ほんとうにうれしい。あなた方のことは、よく思い出しましたよ。では、さよなら。ほんとうに、もう行かなくてはなりませんので。」
「力をかしてちょうだい!」と、エイロヌイはたのんだ。「おねがい、ギスティル。仲間がスモイトの城にとらわれているのよ。」
ギスティルは、両手で頭をかかえこんだ。顔にあわれっぽいしわを寄せた。「たのみますよ。」とうめいた。「どならんでください。ぐあいがわるいんですよ。こんばんはどなり声が耐えられないんです。それから、その光を目にあてないでくれませんか? だめ、だめ、ほんとうにひどすぎる。ひき倒されて組み伏せられただけでもたくさんです。その上いじめられ、どなられ、半めくらにされたんじゃねえ。申し上げましたように――ええ、こうしてふいにお目にかかれてうれしかったです。もちろん、よろこんで助力いたしますよ。しかし、このつぎでどうでしょう。こんなに気が落着かないときでなく。」
「ギスティル、あなたにはわからないの?」と、エイロヌイは思わずさけんだ。「あなた、わたしの話を全然きいていなかったの? このつぎ、ですって? 助けてくれなくちゃいけないのは、今よ。ギディオンの剣が奪いとられてしまったのよ。ディルンウィンが奪い去られたのよ! アローンの手に渡ったんだわ。あなたには、その意味がわからないの? これ以上恐ろしいことなんかないのよ。とじこめられて命もあぶないんじゃ、ギディオンだって剣をとりもどすどころじゃないでしょ。それに、タランも――コルもガーギも――」
「そういうことがおきることもあるんですよ。」と、ギスティルはため息をついていった。「そのとき、いったい何ができるか? 悲しいことに、ただ事態の好転をのぞむ以外にないのですが、たいていは好転しない。しかし、いいですか、それ以外になにもできんのですよ。そりゃ、わたしも、ディルンウィンが盗まれたことは知っています。悲しい経験です。気がめいる事態です。」
「おぬしが、すでに知っている?」吟遊詩人は、びっくりしてさけんだ。「こりゃ、おどろいた! 話してくれ! あれはどこにある?」
「全くわからないんだ。」ギスティルが、まるでなげやりな声でいったので、エイロヌイも、このしめっぽい妖精が真実をのべていることを知った。「しかし、ほかの心配ごとにくらべたら、それはごくちっぽけなことなんですよ。アヌーブンをめぐって、何がおころうとしているか――」ギスティルは、ぶるっと身ぶるいして、わなわなふるえる手で血の気の失せたひたいをかるくたたいた。「狩人たちが集結しています。不死身たちが、ひとり残らず出てきました。あんなにたくさんの不死身を、わたしはいまだかつて見たことがありません。あれを見ただけで、まともな人間なら病気になってしまいますよ。
「しかも、ことは、それだけにとどまりません。」ギスティルは、のどからしぼり出すような声でいった。「カントレブの領主のうち何人かが軍勢をつのり、武将たちがアヌーブンで会議をひらいています。アヌーブンは、内も外も、どこを見ても戦士がひしめいています。わたしのトンネルや監視所もみつかってしまうのではないかと心配しているくらいなんです。近頃は、アヌーブンのすぐ近くにいる妖精族の見張りといったら、わたしひとり――いよいよ情けないですよ。仕事が山のようにありますから。
「ほんとうの話」ギスティルは早口につづけた。「お仲間はあそこにいる方が楽ですよ。はるかに安全です。どんな仕打ちをされようと、クマンバチの巣にぶつかるよりはいいにきまっています。運よくあの方々にまたお会いになったら、わたしが心からよろしくいっていたとお伝えください。残念ながら、まことに残念ながら、わたしはもうここにはおられませんでして。妖精国へ向かう途中なんですよ。エィディレグ王に即刻この事態をお知らせしなくてはならないのでして。」
「あなたが、わたしたちを助けようとしなかったことを、あのエィディレグ王が知ったら」エイロヌイが、腹を立ててつっかかった。「見張り所をはなれなければよかったと後悔することになるわよ。」
「これは、長くてつらい旅なんです。」ギスティルは、エイロヌイのおどしなどまるで無視して、ため息を一つつくとクモの巣頭をふってみせた。「旅の間中、地上を行かなくてはならないのです。エィディレグは、途中の動きをすべて知りたがるでしょうからね。わたしは、旅には絶えられんのですよ、こんな体で、こんな天気ですから、もう全然。夏だったら、もっとずっと楽だったでしょうがねえ。しかし――これは、どうもいたし方ありません。さよなら、お元気で。お会いできてよかったですよ。」
ギスティルは、かがみこんで、体ほどもある大きなつつみをとり上げた。エイロヌイがその腕をつかんだ。
「だめよ、行っちゃだめ! 仲間をすくい出してから、エィディレグ王に報告すればいいでしょ。妖精族のギスティル、わたしをだまそうと思ってもだめ。あなたは、見せかけよりは賢い人よ。でも、力を貸してくれないのなら、こっちは借りる方法を知っているわ。無理やりにしぼり出してあげる!」
王女は、この妖精の首っ玉をつかむようなしぐさをした。ギスティルは、胸がはりさけるような泣き声をあげて弱々しく身を守ろうとした。
「しぼり出すなんて、ごめんだ! どうか、やめてください。とても耐えられませんよ。今はやめてください。さよなら、ほんとうに今はとてもそんなときでは……」
一方、フルダーは、ものめずらしそうにつつみをながめていた。大きくふくらんだつつみは、エイロヌイがはじめにギスティルにとびかかったやぶの近くにころがっていて、中味がすこしはみ出ていた。
「こりゃ、おどろいた。」吟遊詩人は、つぶやくようにいった。「がらくたがごちゃごちゃあるぞ。こいつは、家をしょってるカタツムリよりひどいわい。」
「つまらんものです。まったくつまらんものですよ。」と、ギスティルがあわてていった。「旅を楽にするための、ちょっとしたなぐさみものがいくつかはいってるだけです。」
「ギスティルの首根っこをしめ上げるよりも、このつつみをしめ上げる方がうまく行くかもしれんよ。」フルダーが、ひざをついてつつみをひっかきまわしながらいった。「ギスティル自身よりも役に立つものがあるかもしれんな。」
「すきなものをおとりなさい。」ギスティルは、エイロヌイが金の玉の光をつつみに向けるのを見てすすめた。「よろしかったら、みんなお持ちなさい。わたしにはべつにさしつかえありません。なくても、なんとかなりますよ。つらいことですが、なんとかなるでしょう。」
ルーン王が、羊の皮の裏張りしたつくろいめのある上着二、三着、ぼろぼろのマント四、五着をひっぱり出した詩人のかたわらにひざをついてさけんだ。「おどろきましたねえ! ほら、これは鳥のたまごですよ!」
「そうです。」ギスティルが、ため息をついていった。「お持ちなさい。それは、だいじにとっておいたものでしてね。いつ必要になるかわからないですから。でも、さし上げますよ。」
「いや、けっこう。」と、吟遊詩人はつぶやくようにいった。「おぬしのものをうばいたくなんかないよ。」
いそいでかきまわすと、からのと水がはいったのと、水筒が二つ、つなぎになっていて小さくたためる杖が一本、予備の羽毛入れがついた座ぶとん一つ、綱が二本、つり糸と大きなつりばりがすこし、テントが二つ、鉄のくさびがどっさり、それから曲がった鉄棒が一本出てきた。柔かい大きな皮も一枚あったが、それはギスティルがしぶしぶ説明したところでは、ヤナギの枝で枠をつくってその上に張れば、小舟ができるものだった。そのほか、大きな乾し野菜と薬草の束が五つ、六つ、それからさまざまな色のコケをつめた袋がたくさん出てきた。
「わたしの体には」ギスティルは、コケの袋をさしてもごもごといった。「アヌーブンあたりのあのしめり気とつめたさはじつによくないのです。こんなもの、全然役には立ちませんが、まあ、ないよりはましでして。でも、どうぞ、どうぞ――」
吟遊詩人は、すっかり失望して首を横にふった。「役立たずのがらくただな。綱とつりばりは借りてもいいがね。しかし、いったいこんなもの、何の役に立つというんだ……」
「ギスティル」エイロヌイが、腹を立ててさけんだ。「あなたのテントも船も杖も、なんの役にも立ちそうにないわよ! なんでもいいからあなたをぎゅうの目にあわしてやりたいわ。あなたなんかもうがまんがならない。行っておしまいなさい! ええ、さよならですとも!」
ギスティルは、ほっとして大きなため息をつくと、手早くつつみをまとめはじめた。つつみを肩にのせたとき、マントから小さな袋がぽろっと落ちた。ギスティルは大あわてでひろおうとした。
「おや、これはなんですか?」ルーンが先に袋をひろい上げ、そわそわしている妖精に渡そうとしてたずねた。
「たまごです。」ギスティルが、もそもした声でいった。
「あなたがころがったとき、よく割れずにすみましたねえ。」と、ルーンが陽気な声でいった。「よくしらべた方がいいでしょう。」ルーンはそうつけ加えると、袋の口にぎりぎりと巻いてあるひもをほどいた。
「たまごか!」フルダーが、ちょっとうれしそうな顔になっていった。「一つ二つたべるのもわるくないな。昼からなにもたべておらんのだよ――あそこの戦士どもめ、たて琴をぶっつづけにひかせたくせに、わしに食事をもってくることさえしなかった。それじゃ、いいかい、もうぺこぺこだからさっそく一つなまでいただくぞ!」
「だめ、だめ!」ギスティルが、金切声をあげて袋をひったくろうとした「たべちゃいけません! これはたまごではないのです。たまごとはまったくちがうものです!」
「でも、ほら、たしかにたまごですよ。」ルーンが、袋の中をのぞきこんでいった。「たまごでなかったら、いったいなんです?」
ギスティルは答えにつまり、はげしくせきこんでから、ため息をついて、あえぐようにいった。「煙、です。」
6 ひとかえりのたまご
「いや、おどろきましたねえ!」と、ルーン王がさけんだ。「たまごでつくった煙! いや、煙でつくったたまご、かな?」
「煙は、中にはいってるんです。」ギスティルは、みすぼらしいマントで体をくるみながらぼそぼそといった。「では、さよなら。からをわれば煙が出ますから――それも、おびただしく。お持ちなさい。贈りものです。ギディオン卿にお会いになることがあったら、アヌーブンはぜったいに避けるようにご注意ください。わたしだって、あそこからはなれるのがうれしいですし、二度ともどってきたくないと思います。では、さよなら。」
「ギスティル」エイロヌイがきつい声でいって、この陰気な妖精のうでをぎゅっとつかんだ。「あなた、そのマントの中に、なにかもっとたくさんかくしてるでしょ。どうもそんな気がする。ほかに何をかくしているの? さ、いってしまいなさい。いわなければ、いいこと、ぎゅうぎゅう……」
「ない、ない!」ギスティルは、のとがつまったような声でいった。風がつめたいのに、びっしょり汗をかきはじめた。クモの巣のような髪がくたりとたれさがり、ひたいからぽたぽた汗が流れて、まるでどしゃぶりの雨にぶつかったようなありさまだ。「ないんです、つまり、その、ちょっとした身のまわりのものがすこしあるだけで。がらくたです。見たいとおっしゃるなら、どうぞ……」ギスティルは両うででさっとマントをはねあげた。まるで鼻の長い陰気なコウモリが、羽根をひろげたように見えた。エイロヌイたちがびっくりしてマントの内側をのぞいている間、ギスティルはため息をついては、なさけなさそうにうめき声をあげていた。
「こりゃ、まためずらしい!」フルダーが、思わず大きな声をあげた。「それに、なんと、きりもなくあるじゃないか!」
マントのうらには、ひだにつつまれるようにして、十個ほどの布の小袋や網袋、たんねんにくるんだ小さなつつみなどが整然ととりつけてあった。ほとんどの袋には、フルダーがあやうくたべそうになったのとおなじたまごが一組ずつはいっているようだった。ギスティルは、網袋を一つちぎってとると、それをエイロヌイに渡した。
「ほーお」ルーンが、思わずさけんだ。「さっきがたまご、こんどはキノコですか!」
王女が見ても、その袋には茶色い斑点のある大きなキノコが五、六個はいっているばかりだった。ところが、ギスティルは両手をはげしくふってうめくようにいった。
「気をつけて、気をつけて! あぶないんです! それを割ったら髪の毛をすっかりこがしてしまいますよ! それは、すごい炎を吹き出します。そんなものご入用とは思えませんが、どうぞ、お持ちなさい。わたしのほうは、おはらいばこにできれば、まったくほっとしますよ。」
「これこそ、ぜひほしかったものよ!」エイロヌイが、よろこんで声をあげた。「ギスティル、あなたをぎゅうぎゅうしぼりあげるなんておどしてごめんなさいね。」王女はそういって、不安そうに袋をながめている吟遊詩人に顔を向けた。「そうですとも! これなら役に立つわ。さて、こんどはなんとか城にはいりこむ手だてをみつけなくてはいけないんだけれど……」
「王女さま、王女さま」フルダーが、それにこたえていった。「フラムの者は恐れを知りません。しかし、せいぜいたまごとキノコを手に入れたぐらいでは、いくら特別なたまごやキノコであっても、それだけでとりでを征服するなど、とてもできることとは思われませんぞ。だが……」フルダーはためらっていたが、やがて、指をぱちりとならしてつづけた。「いや、うまくいくかもしれん! 待てよ! できそうに思えてきた。」
一方、ギスティルは、だぶだぶのマントから残ったつつみをとりはずしていた。「これもどうぞ。」妖精は、ため息をついていった。「ほとんどとり上げられてしまったのですから、残ったのもさし上げましょう。ぜんぶおとりなさい。さあさあ、わたしの方は、こうなったらもう、どうということはありません。」
ギスティルがふるえる手にのせてさし出したつつみには、黒い土の粉がいっぱいつまっていた。「これを足にまぶせば、足跡がかくせます――つまり、だれかが足跡をみつけようとした場合ですが、足跡かくしがこの粉の使い道なんです、ほんとうは。ですが、相手の目にぶっつけると、目が見えなくなります――とにかく、ほんのしばらくなら。」
「こりゃ、ますますいい!」と、フルダーがうれしそうに声を高くした。「これで、あのクモやろうの手からすぐに仲間をとりもどせる。大胆な行動! 煙幕! 炎の波! 目つぶし! そして、フラムの者が救出に向かう! こりゃ、吟遊詩人たちが語りつぐ種になるぞ。ところで、なあ、わが友よ。」詩人は、心配になってギスティルにきいた。「そのキノコは、まちがいなく使えるんだろうな?」
一行は、策を立てるためにいそいで茂みの陰にもどった。ギスティルは、さんざんなだめすかされ、その上にまたぎゅうのめにあわすとほのめかされたり、エィディレグ王の不興を持ち出されたりしたあげく――さかんに深いため息をついたり、うめいたりしながら――とうとう救出に手を貸すことを承知した。
「長い間の経験で」と、フルダーがいった。「この種の仕事は正面からぶつかるのがいちばんと、わしは考える。まず、わしが城へもどる。戦士たちはわしをおぼえているから、疑いをいだかずに城門をひらいてくれるだろう。マントの下に、ギスティルのたまごとキノコをかくしていく。門があいたとたん――煙の幕と、炎の噴出だ! おぬしたちみんな、わしの後ろの物陰にひそんでいるんだ。わしの合図で、全員が剣を抜いて、せいいっぱいの声でさけびながらつっこむ。」
「いや、すばらしい! きっとうまくいきますね。」モーナの王は、思わずさけんだがすぐにひたいにしわを寄せた。「それと同時に、こうなるのではないでしょうか。いえ、こうしたことは、わたしにはよくわからないのですが、わたしたちは、自分たちで仕掛けた煙と火の中につっこむことになるのではありませんか。つまりですね、戦士たちにみつかりませんが、こちらもかれらが見えなくなります。」
フルダーが、首を横にふっていった。「いや、いや、わしを信じてくれ。これがもっともよい、もっとも手っとりばやい策なんだ。わしは、今までに十指にあまるとりこを救い出しておる。」たて琴の絃が張りつめてふるえ、何本もいっぺんに切れそうになった。フルダーは即座につけたした。「いや、計画上の話さ。厳密にいえば、じっさいにはひとりも救ったことがない。」
「ルーンのいうとおりよ。」エイロヌイが、きっぱりといった。「その策は、自分でつまずいてころぶよりひどいわ。それに、一度に何もかも賭けることになるでしょ。だめねもっとよい策を立てなくてはだめだわ。」
ルーン王は、自分の言葉に賛成が得られたことにおどろき、うれしくなって顔をかがやかせた。うす青色の目をしばたたき、はにかんでにっとわらってから、思いきってもう一度意見をのべた。「わたしは、突然修復中の防波堤のことを考えたのです。」王は、いささかためらいがちにそう話しはじめた。「つまり、両端からはじめたということをです。運わるく、わたしの希望どおりの結果にはなりませんでしたが、思いつきはよかったのです。ですから、ここでもおなじことをやってみたらどうでしょう。もちろん、防波堤をつくるのではありません。二方面からカー・カダルンを攻めるのです。」
フルダーは、自分の持ち出した策がかんたんに片づけられてかなりがっかりしてしまい、肩をすくめた。
しかし、エイロヌイはうなずいていった。「ええ、それがいちばん賢いやり方ね。」
グルーは、鼻ではあしらった。「いちばん賢いやり方は、軍勢をひきつれてくることさ。わしが巨人であったら、よろこんで力を貸しただろうがな。しかし、このくわだてに加わる気はないぞ。」
小男はさらに何かいおうとしたが、フルダーに一にらみされてだまってしまった。「心配するな。」と、フルダーがいった。「わしが片時もはなれずにいてやる。おぬし、たしかな人間にまかされているわけさ。」
「それじゃ、いいですか」ルーンが、話をつづけたくていらいらしながら口をはさんだ。「人数は五人です。だれかが裏から城壁を乗りこえなくてはなりません。そして、残りは城門からはいります。」若い王は立ち上がったが、目が熱っぽくかがやいていた。「フルダー・フラムは城門をあけること。つぎに、他の者たちが裏から攻撃をはじめたら、わたしが馬でまっすぐに城門からつっこむ。」
ルーンの手は剣をつかんでいた。王は、モーナの歴代の王を従えてでもいるように、頭をぐっとそらして誇らしげに仲間の前に立っていた。王は、もううれしくてたまらないように熱っぽい態度で力強くはっきりと話しつづけていた。エイロヌイも口がはさめなかった。
けれども、やはり、王女は話のじゃまをしなくてはならなかった。「ごめんなさい、ルーン。でも、これは、フルダーも賛成してくださると思いますけれど、あなたは、いざという時以外は、実戦に加わらない方が計画上いいと思うの。そうすれば、あなたは、あなたの力が必要なところへすぐに行けるし、あまり危険もないでしょ。」
ルーンは失望落胆して顔をくもらせた。「しかし、わたしは……」
「あなたは、もう王子ではないのよ。」エイロヌイは、ルーンが反対するすきを与えずに言葉をついだ。「今はモーナの王さまです。あなたの命はあなた一人のものではないことがわからない? あなたには、心配しなくてはならない領民たちがいるのです。だから、あなたに必要以上の危険をおかさせるわけにはいきません。今だってあなたには危険すぎるのかもしれないわ。テレリア王妃がもし事の成りゆきを予測できていたら、あなた、カー・ダルベンまで航海してこなかったわよ、きっと。」
「これと母とがなんで結びつくのか、わたしにはわかりませんね。」ルーンは、思わず声を荒げた。「父なら、きっとこうしろと……」
「あなたのお父上は、王さまであることの意味を理解していらっしたわ。」エイロヌイは、おだやかにいった。「あなたも、お父上とおなじように、それを知るようにしなくてはいけないわ。」
「あなたは、モーナで漁をしてくらす人たちに、べつな借りがあります。」と、エイロヌイはこたえていった。「そして、返礼を要求する権利は、漁民の方がつよいのです。」
ルーンはひきさがり、剣を地面にひきずったまま、がっくりと小さな土の塚に腰をおろしてしまった。フルダーが、肩をたたいてはげました。
「絶望することはないさ。われらの友ギディオンのたまごやキノコでうまくいかなければ、おぬしだって任務以上のことをしなくちゃならなくなる。みんな、そうしなくちゃならなくなるんだ。」
この少人数の一団が茂みのかくれがを出てあかり一つない城に向かったのは、夜明け直前で、ひえこみがきびしかった。それぞれが、ギスティルのキノコとたまごと黒い土のような船のつつみを分けてもっていた。一行は大きく迂回して進み、ようやく、カー・カダルンのいちばん暗くて陰の多い城壁に近づいた。
「計略を忘れるなよ。」フルダーが、息を殺して注意した。「きめたとおりにことを運ばなくちゃならんぞ。全員が持ち場についたら、ギスティルはそのすばらしいキノコを一つ割る。火が番兵たちを庭の裏の方へひきつけるはずだ。それが、おぬしたちへの合図だぞ。」フルダーは、エイロヌイとルーンにいった。「そこで――いいかね、合図があってからだぞ――おぬしたちは、いつでもすぐに城門を押しあけられるように待機する。にげ出すときはかなりいそぐことになりそうだからな。同時に、このわしは番兵小屋にとじこめられているスモイトの戦士たちを解きはなす。その必要があれば、その連中がおぬしらの援護をしてくれるだろう。その間に、わしは食糧庫まで行って仲間を自由にする。あの腹黒いクモめがまだほかへみんなを移していないことをいのるばかりだ。もし、移してしまっていたら、そうだな、その場で新しい策をたてねばなるまいな。
「さて、それでは」フルダーは、高い黒々とした城壁がぼーっと前方にあらわれたところで、ギスティルにいった。「おぬしに、約束どおりにやってもらう時が来たようだ。」
ギスティルは、いかにもつらそうにため息をつくと、今までよりもっとみじめったらしく下あごをだらりとのばした。「きょうは、よじのぼれるような体のぐあいじゃないんですがねえ。お待ちねがえたらねえ、来週まで、あるいは、この天候がよくなるまでですねえ、ま、いいでしょう。どうもしかたがありませんね。」
この陰気な人物は、なおも自信なさそうに首を横にふりながら、肩にかけていた綱の輪をはずした。そして、荷物の一つだったつり針をいくつか、ほそい綱の先にとりつけた。ルーン王は、すっかりひきつけられた様子で、ギスティルが器用な身のこなしで綱を空中に投げるのを見守った。頭上の胸壁で、かすかにものをひっかくような音がしたかと思うと、つづいてがちっと固い音がして、針がつき出た石にひっかかった。ギスティルは綱をぐいとひっぱってから、まだ手元にのこっている綱の輪を肩にかけた。
「もしもし」と、ルーンは小声できいた。「あのつり針であなたの体重が支えられますか?」
ギスティルは、ため息をつくと、悲しそうにルーンを見ていった。「あぶないもんです。」
ぶつぶつぐちをこぼしながら、しかし、ギスティルは、するするっと綱をのぼり、一瞬宙ぶらりんになったが、すぐに城壁に足がかかった。そこで切り立った城壁に足をふんばり、綱をたぐるようにして、あっという間にのぼって見えなくなった。
「すばらしい!」と、ルーンが思わずさけんだ。
吟遊詩人が、大あわてでだまれと注意した。
すぐに、つり糸がたぐり上げられ、もっと太い綱の端がぶらぶらとおりてきた。吟遊詩人は、声を殺しながらせいいっぱい抗議するグルーにのぼれと命じて、たれている綱にとりつかせた。
「のぼれ。すぐ後からわしものぼる。」と、フルダーはつぶやくような声でいった。
詩人とモルダと巨人が、夜の闇にとけこむと、ルーンが後に続いた。エイロヌイが綱をつかむと、ぐいぐいひっぱり上げられた。上まであがったエイロヌイは、勢いよく胸壁をのりこえて、石だたみの上におり立った。ギスティルは、すでに、裏門に向かっていそいでいた。フルダーとグルーは、下におりてやみに消えていた。ルーン王が、エイロヌイに向かってにっとわらいかけ、つめたい城壁にぴったりくっついてうずくまった。
月は沈み、上空がまっくらになった。エイロヌイは、細長い建物がスモイトの大広間だと見当をつけたが、その建物やうまやなど、しずまりかえる建物のただ中に、見張りのかがり火が小さくちらちらと燃えていた。胸壁を城門の方に進んだところに、じっと動かずにまどろんでいる見張りの姿が見えた。
「いや、じつに暗いですねえ!」と、ルーンが陽気な声でささやいた。「これなら、ギスティルの魔法の粉はいらないでしょう。今のままでも、わたしには見えませんよ。」
エイロヌイは、ギスティルが姿を消した方角に目を向けて、じりじりしながらじっと合図を待った。ルーンは、すぐに綱をすべりおりられるように身がまえて緊張していた。
中庭で、だれかのさけび声があがった。と同時に、大広間の落す闇の中で、まっかな炎がぱっと上がった。
エイロヌイは、すばやく立ち上がった。「へまをしたんだわ! フルダーの攻撃がはやすぎたわ!」
そのときになって、ようやく、城の裏手でぱっと火が燃え上がるのが見えた。走りまわるあわただしい足音にまじって、また警報のさけびが上がった。だが、戦士たちがギスティルのおとり攻撃を迎えうちに向かわず、大広間にかけつけるのを見て、エイロヌイはがっかりしてしまった。中庭には人影が入り乱れ、たいまつの火がたちまち数を増した。
「さ、はやく!」エイロヌイはさけんだ。「城門へ!」
ルーンがいきおいよく城壁から綱をたっておりていった。エイロヌイも、すぐに続こうとしたが、そのとき、城壁の見張りのひとりが弓をつかんだのに気づいた。その男は、エイロヌイめがけて走ってくると、立ちどまってねらいをつけた。
エイロヌイは、あわててかくしからキノコを取り出し、戦士めがけて投げた。キノコは手前に落ち、石にあたって割れたかと思うと、炎をふき出した。エイロヌイは、一瞬目がくらんだ。炎は、ごうごう、ぱちぱち音をたててもえ上がった。弓手は、恐怖のさけびをあげてよろめきさがった。矢が、エイロヌイの頭をかすめてとんだ。
エイロヌイは、綱をつかみ、城内におりた。
7 モーナ王
牢獄となっている食糧庫の中で、警報のさけびを最初にききつけたのはガーギだった。戦士たちのさけびは、部厚い壁にへだてられてくぐもってはいたが、ガーギは、仲間のだれより早く牢の外の大さわぎに気づき、はっとして立ち上がった。一行は、一晩中いつマグがあらわれかると恐れながら脱出の手だてを求めてむだな努力をしていた。そのために疲れ果ててしまい、牢番の敵があらわれたときにはさんざんに思い知らせてから討死にしたいと念じながら、交替でとろとろと浅い眠りをとっていた。
「戦いと切りあい!」と、ガーギがさけんだ。「あれは、疲れ果てたとりこを救い出すためか? はい、はい、そうにちがいない! はい、はい、ここですよ、ここです、われわれは!」ガーギは、とびらまでかけ寄ると、鉄格子ごしに大声でわめきはじめた。
もう、タランにも、剣と剣がぶつかりあうらしい音がきこえてきた。コルとスモイト王が、さっとタランのそばにかけよってきた。ギディオンは、大またに二足歩いてドアまで行き、興奮しているガーギを押しのけた。
「用心するんだ。フルダー・フラムが救出の手だてを考えついたのかもしれんが、城中の者をおこしてしまったら、味方に救われる前に、マグに殺されるかもしれないぞ。」ギディオンはきびしい声で注意した。
とびらの外で足音が大きくひびいたかと思うと、どっしりしたとびらの錠をがちゃがちゃさせる音がきこえた。ギディオンたちはいそいでひきさがり、敵にとびかかろうと低くかまえて待った。とびらが、いきおいよくあいた。とびこんできたのは、エイロヌイだった。
「わたしについてきて!」と、エイロヌイはさけんだ。エイロヌイは、明るく光る玉を左手で高くかかげ、右手で帯につけていた袋をはずした。「この中のものを身につけて。キノコからは火、たまごからは煙が出るわ。むかってくる敵に投げつけるのよ。あ、それから、この粉――これは目つぶしに使えるの。
「武器はみつけられなかった。」と、エイロヌイは早口にいった。「スモイト王の戦士たちは自由にできたけれど、フルダーは中庭で敵にかこまれている。万事狂ってしまったのよ。はかりごとがだめになってしまったんだわ!」
スモイト王が、ほえるような怒りのさけび声をあげて、入口に向かってとび出し、「そんなキノコやたまごなんぞしまっとけ! この手さえあれば、裏切り者の首根っこをひきちぎってくれるわい!」
ギディオンも、いきおいよく入口をとび出していった。タランも、コルとガーギを従えて、エイロヌイのあとから夢中で走った。タランは、大広間の廊下を走りぬけ、夜明けのうすくらがりの中にとび出した。中庭には、濃い白煙が、まるで大波のように盛り上がって、夜明けの空をおおいかくしていた。白い煙は、風向きによって、うねり逆まく波のように移動し、一瞬上がって切り結ぶ戦士たちの姿を見せたかと思うと、たちまち見通しのきかない波となってどっともどってきた。あちこちで、ごおーっという炎の柱が、白煙をつらいぬいてふき上がった。
エイロヌイの姿を見失ったタランは、渦まく煙の中にとびこんだ。戦士のひとりが、剣を振り上げて切りかかってきた。タランは、ころがって剣の一撃をかわし、片手をさっとふり上げて、分配された粉を敵の顔に投げつけた。敵は、まひしたようにあとずさって、目を大きくあけたまま、ぼんやりと虚空を見てつっ立ってしまった。タランは、ぼんやりしてしまった敵から剣をうばいとって進んだ。
「スモイト! スモイト!」うまやの方で、赤ひげの王のときの声がひびきわたった。煙で目をふさがれるまでのほんのひととき、タランは、怒りにかられたスモイトが、大きな鎌を武器にして、熊が作物を刈りとるような姿で、あたりを打ちはらっているのを見た。
だが、不運なガーギは、両手にたまごをにぎりしめたままころんでしまった。煙が吹き出てその体を包んだ。タランの目に、ほんのちょっとの間、二本の毛もじゃの腕がめちゃくちゃに動くのが見えたが、それもあっという間に煙の大波に呑まれてしまった。ガーギは、あらんかぎりの声でわめきたてながら、あたりかまわず狂ったように突進した。敵は、この恐ろしい煙のたつまきから、わっとさけんでにげまどった。
タランは、スモイト王が部下たちを結集させようとしていることに気づいて、うまやまでの道を切りひらこうと戦った。コルが、ほんのしばらく力をかしてくれた。この強者は、たおれた敵から剣を奪ったところだった。コルは、今まで武器にしていたくわを投げすてると、ひしめくようにフルダー・フラムを取り囲んでいる剣士たちにぶつかっていった。タランも戦いのただ中におどりこみ、右に左に剣をふるって敵を倒した。
マグの戦士たちはしりごみしてさがった。吟遊詩人は、タランに合流して中庭を走った。
「ルーンはどこです?」と、タランが大声でたずねた。
「わからん!」フルダーが、あえぎながらいった。「かれは、エイロヌイとふたりで、われわれのために城門をひらくことになっていたんだ。しかし、いや、まったく、あれから何がおこったのか、わしにはわからんのだ。すっかり狂っちまったんだ。マグの家来がグルーをふんづけて、そのため、その場でわしらはみつかってしまった。それっきり、へまばっかりさ。今グルーのやつがどこにいるのか、全然わからないが――しかし、あのちびいたち、なかなかよくやったといわねばなるまいな。ギスティルのやつもそうだ。」
「ギスティル?」タランは、びっくりしてつぎの言葉がのどにつかえた。「いったい……」
「まあ、いい、あとで話す。そんな折が果たしてあるかどうかわからんが。」
ふたりは、うまやの間近まで進んだ。タランは、ギディオンの姿を見た。ドンの王子のオオカミ色の髪の頭は、むらがる敵を圧するように突き出て見えた。だが、ギディオンのぶじを知ったタランの安堵は、たちまち絶望に変わった。移動する煙の雲の切れ間から、戦いの風向きが味方になって不利になってきていることが見てとれたのだ。攻撃のために集結することができたスモイト勢は、ほんの一握りにすぎなかった。残りは、中庭のあちこちで、スモイトと切りはなされ、必死にたたかっていた。
「城門へ!」と、ギディオンが命じた。「逃げられる者は、城門から逃げよ!」
タランは、味方がなさけないほど数において小勢であることを知って気を落とした。城門がひらかれているのは、ぼんやりと見えた。だが、マグの戦士たちがさらに増えて逃げ道をふさいでしまった。
突然、馬に乗った男がひとり、中庭におどりこんできた。それは、連銭あし毛にまたがったルーンだった。モーナ王のまだあどけない顔は、激しい怒りに生き生きとして見えた。軍馬が後足立ちしてどっと突き進むと、ルーンは剣を頭上でふりまわしながら、せいいっぱいの声を張り上げた。
「弓の者ども、予につづけ、庭につっこめ!」
王は、馬をくるりとまわして、剣をふって進めとあいずした。さけび声が武器のぶつかりあう音を圧してひびきわたった。「槍隊! こっちだ! いそげ!」
「援兵だ!」と、タランが思わずさけんだ。
「援兵?」吟遊詩人が、おどろきのあまりオウムがえしにいった。「そんなもの、数キロ四方に一兵もおらんぞ!」
ルーンは、片時も休まず、戦っている敵の中に馬を走らせて行き来しながら、全軍がなだれこんでくるかのように命令をさひげつづけていた。
マグの兵たちは、姿の見えない敵を迎えうつため向きを変えた。
「計略だ!」フルダーが、思わずさけんだ。「やつは気ちがいだ! うまくいくもんか!」
「いや、うまくいった!」タランは、一目で、敵勢があわてふためいて新手に立向かうため散っていくのを知った。タランは、角笛を口にあてると、突撃のあいずを吹きならした。マグの兵士たちは、敵がこんどは後ろから来たと思いこんでたじろいだ。
ちょうどそのとき、リーアンが城門からとびこんできた。巨大な猫がとびはねてくるのを見た兵士たちは恐怖のさけびをあげた。リーアンは、戦士たちには目もくれずに中庭を突進したが、彼女が迫っていくと、戦士たちは剣をすてて逃げた。
「わしをさがしているのだ!」フルダーが、大よろこびでさけんだ。「おーい、わしはここだ、ここだ!」
陣容を整えたスモイト王の兵士たちは、この機をとらえてどっと激しく攻めかかった。マグの戦士の多くは、すでに逃げ去っていた。恐怖にかり立てられたかれらは、あわてふためいてなにがなんだかわからなくなり、同志討ちをはじめた。ルーンは馬をかって走りつづけ、煙の中に姿を消した。
「じつにうまくだましてくれたもんだ!」フルダーが歓声をあげた。「たまごもキノコもじつに役に立ってくれたが、計略を成功させたのはルーンだよ!」
吟遊詩人は、大いそぎでリーアンにかけ寄った。タランは、ギディオンが馬に乗っているのに気がついた。ギディオンの命令で、金色のたてがみのメリンガーは、矢のように中庭をつっきって、逃げる敵を追っていった。スモイトとコルも、それぞれの馬にとび乗ってかけ去った。その後を、ギスティルが全速力で、これも馬をとばしていった。タランも、メリンラスをみつけに走った。だが、うまやに行きつく前に、エイロヌイのよぶ声がきこえた。タランはふりかえった。エイロヌイの着ものは、あちこちが破れ、顔もすっかりよごれていた。王女は、ただならない様子でタランを手まねきしていた。
「はやく! ルーンが大けがしたの!」
タランは、走って彼女のあとにつづいた。裏の城壁の近くに、連銭あし毛が乗り手を失ってたたずんでいた。モーナの王は、ギスティルのキノコの火に焼けてくすぶっている荷車に背をもたせ、足を前に投げ出して地面にすわっていた。ガーギとグルーが、これは無傷でよりそっていた。
「やあ、やあ!」ルーンは、かすかな声でいって手をふった。顔からはまったく血の気が失せていた。
「勝ちました。」と、タランはいった。「あなたがいらっしゃらなかったら、まけていたでしょう。あ、動かないで。」タランは、そう注意して、若い王の血に染まった上着をひらいてみた。そして、気づかわしげに眉をひそめた。一本の矢がわき腹深くささっていて矢柄が折れていた。
「おどろきましたねえ!」と、ルーンはささやくような声でいった。「わたしは、戦いに出たことがなかったんですよ。だから、自信がありませんでした――全然ねえ。しかし、ねえ、頭の中に、まったくおかしなことばかり、たえず浮かんでいましたね。わたしは、モーナ港の防波堤のことを考えていたんです。ね、びっくりするでしょう? そう、あなたの案はみごとに成功しますよ。」ルーンの声がかすかになった。あたりに目を走らせた。その顔が、ふいに、とても幼く見え、ひどくおぼつかなそうな、ちょっとおびえた表情が浮かんだ。「そして、ああ、故郷へもどったらうれしいでしょうねえ。」
王は立ち上がろうとした。タランがあわてて支えようとかがみこんだ。
ちょうど、そのとき、フルダーが、はねながらついてくるリーアンといっしょにあらわれた。「やあ、ここにいたのか。」フルダーは、ルーンに声をかけた。「わしらは、それぞれの任務以上に苦労することになるといっただろ。しかし、おぬしのおかげで切りぬけたなあ! そうだ、詩人たちは、おぬしをたたえてうたうだろう……」
タランが悲しみにうちひしがれた顔を上げた。「モーナ王は死にました。」
タランたち一行は、悲しみに沈みながら、カー・カダルンからすこしはなれたところに、黙々と墓の塚をきずいた。スモイト王の戦士たちも加わっていた。夕暮れ、戦士たちは、たいまつを持って馬にのり、ゆっくりと塚のまわりをまわってモーナの王の名誉をたたえた。
最後の火が消えると、タランは墓地の前に立ち、しずかな声で語りかけた。
「おさらば、ルーズルム王の息子ルーン。あなたたちの防波堤はついにできあがらなかった。しかし、わたしは、そのままに打ちすてておかないことをお約束します。あなたにかわり、このわたしが自ら建設するとなれば、あなたの国の漁民たちに、必ず安全な港をつくってさしあげます。」
日がくれて間もなく、ギディオンとコルとスモイト王がもどってきた。マグは、かれらを上手にかわして逃げてしまった。追跡が失敗におわったので、みんなは疲れ果ててやつれていた。かれらも、ルーンの死をいたみ、倒れた戦士たちの名誉をたたえてとむらった。それがおわると、ギディオンは同志の人たち全部を大広間に集めた。
「死の王アローンは、悲嘆にくれるひまもろくに与えてくれぬ。そして、われらが務めを果たしおえるまでに、これからもまだ多くの者の死をいたまねばならぬであろう。さて、ここで、わたしは、右か左か、慎重にえらばねばならぬ問題をはなす。
「妖精族のギスティルは、われわれと別れて、エィディレグ王の領土に向かって旅を続けている。別れる前、ギスティルは、アローンの軍勢の集結について、さらにくわしく伝えてくれた。マグのいったことは、腹黒いほら話ではなかった。ギスティルは、わたしとおなじように、アローンがこんどのいくさでわれわれの息の根を止めるつもりであると考えている。かれの軍勢は、こうして話をしている今も集まりつつあるのだ。
「ディルンウィンをアローンの手に渡したままにしておくのは、ひじょうに危い賭けだ。致命的な賭けかもしれぬ。」ギディオンは、ぐいぐい話をすすめた。「だが、われわれは、さらにさしせまった危険に立ち向かわねばならぬ。わたしは、あの黒い剣をさがすことはやめる。あの剣がアローンにどのような力を与えようとも、わたしはわが身にそなわる力をつくして、死ぬまでアローンに立ち向かっていく。わたしは、アヌーブンへではなく、ドンの子孫たちを集めるために、カー・ダスルへ向かう。」
しばらくの間、だれひとり口をひらかなかった。だが、ようやく、コルがこたえていった。
「ドンの王子よ、わたしは、あなたがかしこい道をえらばれたと思います。」
スモイトとフルダー・フラムもうなずいて、同意の心を示した。
「おぬしたちが信じてくれるように、わたしも自分の知恵が信じられるとよいのだが。」ギディオンは、重い気持でこたえた。「では、そのようにする。」
タランは立ち上がり、ギディオンをまっすぐに見ていった。「わたしたちのだれかひとりが、死の王のとりでにはいりこめる手だてはないでしょうか? ディルンウィンの探索は、ほんとうにあきらめなくてはならないのでしょうか?」
「豚飼育補佐よ、おぬしの考えはよくわかっておる。」と、ギディオンはこたえた。「だが、わたしの命令に従うのが、わたしに対するもっともよい力添えなのだ。ギスティルは、アヌーブンへの旅などむだに命をすてるだけだ。いや、そればかりではなく、貴重な時のむだだといさめてくれた。ギスティルの本性は、自らの本性をかくすことにあるのだが、妖精族の中でもかれほど物が見え、信頼のおける者はおらぬ。わたしは、かれのいさめを重くみる。われわれのだれもが、そうしなくてはならぬ。」
「ギスティルは、妖精族から援軍がえられるように力のかぎり努力すると約束してくれた。」と、ギディオンは話をすすめた。「エィディレグ王は人類にあまり好感をいだいてはおらぬ。だが、いかなかれでも、アローンの勝利がプリデイン全土を荒廃させてしまうことはさとらなくてはならぬ。妖精族も、われわれとすこしも変わらぬ損害を受けるのだ。
「だが、エィディレグを過大に頼ることはとてもできぬ。われわれ自身の軍勢を集結し、新たな兵を募らねばならぬ。この問題については、北の国のプリダイリ王からもっとも大きな助力をえることができよう。プリデイン広しといえども、かれほど強力な軍勢をひきいられる王はいない。かれの、ドン王家との盟約はかたく、かれとわたしは強い友情のきずなで結ばれておる。わたしは、プリダイリに使いを送り、カー・ダスルでわが軍勢に合流してくれるよう依頼する。
「われわれはみな、カー・ダスルに集合しなくてはならぬ。」と、ギディオンは、さらに話をつづけた。「その前に、スモイト王は、自領および近隣の国々の忠実な戦士をひとり残らず召集してもらいたい。」そこで、ギディオンは吟遊詩人に顔を向けた。「ゴードーの息子フルダー・フラム、おぬしは北方の王国の王だ。即刻国にもどってくれ。北方のカントレブの軍勢を集結する仕事はおぬしにまかせる。
「そして、豚飼育補佐よ」ギディオンは、タランの物問いたげな目にこたえていった。「おぬしの役割はまことに重大だ。おぬしは自由コモット人によく知られている。あそこでできるかぎりの軍勢を集めるようたのむ。おぬしにしたがう人たちをひきいてカー・ダスルに来てくれ。ガーギとコルフレヴァの息子コルをつけてあげよう。エイロヌイ王女もやはり行を共にする。王女の身を守ってくれよ。」
「よかった。」と、エイロヌイがつぶやくようにいった。「わたしを送りかえすなんて話は全然でなかったわ。」
「ギスティルの話では、アローンに味方する戦士たちがすでに続々と進んでいるそうです。」と、コルが王女にいった。「渓谷地帯のカントレブはどこもまったく危険きわまりないのです。そうでなかったら、王女さま」コルは、にやっとわらってつけ加えた。「あなたはもう、とうの昔にカー・ダルベンに向かっておられますよ。」
まだ夜もあけないうちに、ギディオンとフルダーは、カー・カダルンを出立し、それぞれの道を進んでいった。スモイト王は武具に身をかためて城を出た。王が敵におそわれたことをおくれて知ったガースト卿とゴリオン卿があわててやってきて合流し、王とともに出陣していった。このふたりのけんか仲間は、共通の危機に直面した今、自分たちのいさかいはおあずけにした。ゴリオンは、ガーストの言葉をいちいち侮辱と思うことをやめた。ガーストはゴリオンを怒らすことをおさえた。そして、ふたりとも、牝牛のことすら口にしなかった。
おなじ日の朝、中庭にいたタランのところへ、すでに髪に白いものがまじるがっしりした農夫がひとり、馬にまたがってやってきた。以前、スモイトのカントレブでタランと深い交わりを結んだイーサンだった。ふたりは心をこめてしっかりと手を握りあったが、農夫はきびしい表情を顔に浮かべていた。
「今は、思い出を語っているひまはない。」と、イーサンはいった。「わしは、おぬしに、まごころと――これを」と、さびの浮いた剣を抜きはなって「ささげにやってきた。これはかつて使ったことがある。こんども役に立てられる。おぬしが行くところ、いかなるところへも供をするぞ。」
「その剣はありがたく思います。そして、その剣を帯びる人の助力はさらにありがたいものです。」と、タランはこたえていった。「しかし、あなたの加わるべきは、この国の王のもとです。王の軍に加わってください。いつかもっとよい時に再会できるのを楽しみにしています。」
タランと、かれに同行する同志一行は、ギディオンに命じられて、カアがさらにくわしい情報をたずさえて帰るのを、スモイトの城で待った。だが、つぎの日になっても一向にカアが帰ってくる気配がないので、出発の支度をととのえた。エイロヌイは無事だった刺しゅうを注意深くひろげて、とてもうれしそうにいった。
「あなたは、もう一軍をひきいる武将になったのね。武将には馬じるしがなくてはいけないでしょ。」
エイロヌイは、まだでき上がっていない刺しゅうを、皮ひもで槍先に結びつけた。
「ほら、武将の紋章としては、ヘン・ウェンはあんまり恐ろしげに見えないかもしれないけれど、豚飼育補佐の紋章としてなら、ほんとうにぴったりだと思うわ。」
一向は城門を出た。タランとならんで馬をすすめるガーギが槍を立てると、風が白い豚の旗をひろげてはためかせた。煙のために黒ずんだ城と、すでにまっ白に霜をかぶった新しいモーナ王の塚をおおうように、どんよりした雲がたれさがっていた。雪が近いのだった。
8 使者たち
カアは、カー・ダルベンをとび立つと、ひたすらアヌーブンをめざしてとんだ。高く舞い上がって果てもない大空を好きかってにとびまわったり、白い羊の群れのような雲をさっとかすめてとんだりするのは鳥のいちばんの楽しみだった。しかし、カアは、風とたわむれたい誘惑をおさえて、一心に先をいそいだ。眼下はるかに、アブレン川が、とけた銀の糸のようににぶく光っていた。冬枯れたはたけが点々と見えた。葉を落とした森が黒々とひろがっていた。その森を、丘陵のすそをぬうようにつづく黒ずんだみどりの松林が区切っていた。カアは、日のある間はほとんど休まず、一途に北西へいそいだ。夕闇がひろがり、カラスの鋭い目でも濃くなる闇の先が見えなくなると、はじめてカアも地上に舞いおり、木の枝にねぐらをみつけて休んだ。
来る日も来る日も、カアは雲の上をとび、気流に乗って、川の中の木の葉のように、ぐんぐん流されながらとんだ。しかし、イドリスの森をこえて、恐ろしげなアヌーブンの山々に近づくと、気流に乗る飛行をやめ、山道のどんな動きにも油断なく目をくばるため、地上近くに舞いおりた。すると、ほどなく、武具に身をかためた戦士たちが一列になって北に向かうのがみつかった。さらに近づいてみると、かれらがアヌーブンの狩人たちであることがわかった。しばらくあとをつけていくと、狩人たちがいじけた低木とやぶばかりのところにとまったので、カアも低い枝に舞いおりて休んだ。狩人たちは火をもやし、火をかこんでは昼食のしたくをはじめた。カラスは、小首をかしげてじっと耳をすましたが、つぶやくような話し声からは何もききとれなかった。しかし、かろうじて「カー・ダスル」という言葉だけがききとれた。
カアは枝の上を移りながら、きょろきょろとあたりを見まわして、もっと近い枝をさがした。熊の皮を着こんでけものような顔つきをした狩人のひとりが、カアをみつけた。この男は、よい気はらしができると思ってにやりと恐ろしげなわらいを顔に浮かべると、弓をつかんで矢をつがえ、すばやくねらいをつけて矢を放った。その動作はすばやかったが、カラスの鋭い目はそれをすこしも見のがしていなかった。カアは、ぱたぱたっととんで矢をよけた。矢は、カアのやや頭上を、枯れ枝をならしてとんだ。狩人は、このカラスめ矢を一本損したぞと悪態をつき、また矢をつがえた。カアは、すっかりいい気持になり、があがあと相手をあざわらいながら、あたりをひとまわりしてから、もっと安全に盗みぎきできることろをみつけようと、林の上に舞い上がった。
ギセントたちが現われたのは、そのときだった。
カアは、狩人たちの野営地にもどることだけに気をとられていて、一瞬、巨大な鳥が三羽現われたことに気づかなかった。三羽のギセントは、堤のようにひろがる雲のへりから、まっくろなつばさをはばたいて、どっと突っこんできた。カアのとくいな気分はたちまちけしとんだ。カラスは、攻撃をかわすと、この死の使いたちに上空をおさえられては一大事と、必死に上昇した。
ギセントたちも、たちまち向きをかえた。一羽が群れからはなれてにげるカラスを追い、あとの二羽は、つぎの攻撃のために力強くはばたいて雲をめざして上昇していった。
カアは、死力をつくして上へ上へととびつづけたので、追うギセントもなかなか差をちぢめることができなかった。ところが、霧の海を突きぬけたとたん、さんさんと日がふりそそぐ上空に出てしまい、目がくらんだ。
そこでは、二羽のギセントが待ちかまえていた。二羽は、激しい怒りに満ちたなき声をあげて、カラスめがけて急降下してきた。後ろから迫るギセントをのがれようとすれば、新手の二羽にぶつかってしまう。ギセントたちのつやつやしたくちばしと赤い目が、日を受けてきらめくのが見えた。ギセントの勝ち誇ったなき声が虚空をつんざいてひびきわたった。カラスは、まごついたふりをして、速度を落とした。ギセントがせまってきた。その一瞬、カラスは、つばさに死力をこめてとんで、まるであいくちのようにおそいかかってきた敵の爪をはずした。
だが、まったく無傷とはいかなかった。一羽のギセントに、つばさの下を切りさかれた。カアは、目もくらむような痛みをこらえて、敵からのがれた。広々とした空では、しかし、かくれるところはなかった。もう、つばさにたよっていてはたすからなくなっていた。カアは地上に向かって急降下した。
ギセントたちも、いっぱいくわされたままひきあげはしなかった。血のにおいにたけりたっていたし、殺しをあきらめる気もなかった。カアが地上の森にたどりつく前につかまえようと、矢のようなはやさで追ってきた。
カアの目に、もっとも高い木々がぐんぐん迫ってきた。しかし、カアは、高い木々をさけて、下生えをめざした。からみあう枝が追跡するギセントたちのじゃまをしてくれた。カアは速度を落さずに地上をかすめてとび、迷路のようなやぶの、奥へ奥へとのがれた。上空ではひじょうに役に立つギセントのつばさの大きさが、今はえものを追うじゃまになった。カラスは、まるでキツネのように、地面にかくれてしまった。
昼の光がうすれはじめた。カアは痛みに苦しみながらねぐらを定めた。夜が明けると、油断なく目をくばりながら、木のてっぺんにあがってみた。ギセントはもういなかったが、アヌーブンのはるか東に追いはらわれてしまったことが勘でわかった。カアは、ぎこちなくはばたいて木から舞いあがった。南に向かえばカー・ダルベンだが、弱ってきた体ではとても行きつけなかった。命がある間に、いそいで行き先をきめなくてはならなかった。カアは、一度円をえがいてとんでから、助かるとしたらそこしかない新しい目的地をめざしてのろのろととびはじめた。
カアは、とびつづけた。それは絶え間ない苦しみだった。ひんぱんにはばたきがとまり、風の流れだけで浮かんでいた。一日中とびつづけることなど、もうできなかった。日が沈むかなり前に、傷の痛みに耐えきれず舞いおりて、木々の中にかくれなくてはならなかった。太陽に近くて体があたたまる高いところをとぶことはできなかった。地面のちょっと上を、木のてっぺんのすれすれにとぶしかなかった。
いつもは静かな眼下の山野が、戦士たちの動きでにわかに活気づいていた。馬に乗っていく者がいた。歩いていくものもいた。とぶちからを残しておくために休んでいる間に、カアは、この戦士たちの目的地が、アヌーブンの狩人とおなじ、ドンの子孫たちのとりでであることをききとった。苦痛以上にはげしい驚愕の念にかりたてられて、カアはとびつづけた。
イストラド川の北東の山岳地帯は体がなえるほどさむかったが、ようやくさがし求めていた場所がぼんやりと見えてきた。その谷は、ぐるりを切り立ったがけにかこまれていた。雪をいただく山々の中で、そこだけが暖かそうにみどり色だった。一軒の小屋が見えてきた。青い湖水が日にきらめいていた。がけに後ろを守られた丘の斜面に、船の形をした長いものが横たわっていた。びっしりとこけむした船の残がいだった。カアはやっとの思いでつばさを動かし、石のように谷間に落ちた。
カアが目をつぶっていると、なにかにしっかりとくわえられて、草の上から持ちあげられるのがぼんやりとわかった。そしてすぐに、低くて太い声がした。「おや、ブリナック、なにをくわえてきたのかね?」
カラスは、それっきり気を失った。
気がついて目をあけたとき、カアは、日のあたるへやで、やわらかいイグサの巣に寝ていた。体に力はなかったが、痛みは消えていた。傷口にはほう帯がまいてあった。ふらふらと羽ばたいてみると、すぐに、がっしりした二本の手がのびてきて、たくみにカアをおさえておとなしくさせた。
「しずかに、しずかに。」という声がした。「しばらくはとべないだろうよ。」
白いあごひげをたらしたその顔の男は、日焼けして深いしわがきざみこまれ、深い雪の中に立つカシの老木を思わせた。筋肉の盛り上がった大きな肩の下まで白髪がたれさがっていた。ひたいには黄金の輪がはまっていて、まん中に青い宝石が一つひかっていた。カアは、いつものようにうるさくしゃべりたてることも忘れて、つつましく頭をたれた。カアは、今まで一度もこの谷まで来たことがなかった。しかし、こんな避難所があっていつでもにげこめるという思いは、いつも心の中にあった。プリデイン中の森の生きものの意識の下深くにかくされている記憶とでもいうのか、あるふしぎな勘が、カアをまちがいなくみちびいてくれた。カラスは、今ようやく、自分がメドウィンのすみかにたどりついたことをはっきりと知った。
「待てよ、ふむ、ふむ。」メドウィンは、はるか昔の記憶の糸をたぐるようにひたいにしわを寄せていった。「おまえは、たぶん――うむ――血筋はあらそえず出るものだろう。カドウィルの息子カアであろう。うむ、まちがいない。いや、すぐにわからんで失礼した。じゃが、カラスの家系もおびただしいものじゃからな。ときどきごちゃごちゃになってしまってな。わしは、おまえの父親が足のひょろひょろしたひなのときから知っておった。」メドウィンは昔を思い出してにっこりほほえんだ。「あのいたずら者は、わしの谷間の常連であった――つばさを折ってくる。足のつなぎ目をはずしてくる。つぎからつぎと災難に見舞われておった。
「おまえは、父親を見習わないようにたのむぞ。」メドウィンはひとりで話をつづけた。「おまえのことは、すでにうわさにきいておる。勇ましい手柄話をたくさんな――それと、そうだ、いささか自慢癖があるそうじゃな。それに、おまえがカー・ダルベンの豚飼育補佐につかえておることもきいておるぞ。メリンラスといったな、たしかあの若者は。いや――失礼、それは彼の男の馬の名であった。もちろん、メリンガーの息子メリンラスのことじゃ。豚飼育補佐の名は度忘れてしまったのう。じゃが、たいしたことではない。カドウィルの息子よ、彼の若者に忠実につかえるのだ。あれは心ばえすぐれた若者だ。全人類のうち、あの若者こそ、わしがこの谷間に出入りを許すごく少ない者のひとりじゃ。さて、おまえのことじゃが、どうやらギセントどもと戦ってきたようだの。用心せい。このところ、あのアローンの使者どもがたくさん空をうろつきまわっておる。だが、もう安全じゃよ、おまえは、すぐにまたとべるようになる。」
ひじょうに大きなワシが一羽、メドウィンのいすの背にとまって、カラスをじっと見ていた。老人のかたわらには、オオカミのブリナックがすわり立ちの姿勢でひかえていた。灰色ですらりとしたオオカミは、黄色い目をひからせ、尾を左右にふりながら、カラスに向かってにやりとわらってみせた。と、そのとき、もう一匹、ブリナックより小さくて胸に白い星のような毛のあるオオカミがとことことはいってきて、仲間のわきにうずくまった。
「やあ、ブリアバルか。」と、メドウィンがいった。「お客にあいさつをしに来たのかね? この客のことだ、きっと父親におとらず痛快な話をきかせてくれよう。」
カアは、メドウィンが楽にわかってくれるので、カラス語を使ってはなしはじめた。話をきいているうちに、老人の顔つきはしだいにきびしくなっていった。カラスがはなしおえても、メドウィンは、ひたいに深いしわを寄せたまま、しばらくだまっていた。ブリナックが不安になって低く悲しげな声をたてた。
「ついに来たか。」と、メドウィンは重い口調でいった。「考えれば、もっと前にわかっていたことだがの。けだものたちの間に奇妙な恐怖が゛ひろがっておることは感じていたのだ。ぼんやりとしかわからぬ何かからのがれて、ここへにげこんでくる動物が日に日にふえておるのだ。かれらの話では、アヌーブンの狩人が大挙してあらわれたという。人間の軍勢もあらわれたそうじゃ。かれらの知らせの意味が、今ようやくわかった。わしが常に恐れていた時がついに来たのだ。じゃが、わしの谷間は、かくれがを求めるものをすべていれることはできぬ。」
メドウィンの声は、はげしく吹きつのる風のように大きく高くなってきた。「人類は、アヌーブンの奴隷となる脅威にさらされておる。プリデインの生あるものすべてが脅威を受けているのだ。死の国の支配の下では、ナイチンゲールの歌も消え果てしまうであろう。アナグマもやモグラの通路は牢獄となり果てるであろう。自由な気分を満喫しつつ、山野を歩きまわるけものも、大空をとぶ鳥も絶え果てるであろう。殺されないものを待ち受ける運命は――あのギセントの運命であろう。はるか昔にとらわれの身となり、拷問され、ならされ、暖かだった心がゆがめられ、アローンの邪悪な目的にかなうように変えられたかれらとおなじ目にあうことになるのだ。」
メドウィンは、ワシに顔を向けていった。「エディルニオンよ、おまえは、すみやかに山の仲間たちのところまでとんでいけ。そして、ワシ族にこぞって起てとつたえよ。
「そして、ブリナック、それからブリアバルよ。」メドウィンは、さっと耳をたてた二匹のオオカミに命令した。「おまえたちは急を知らせてまわるのだ。仲間のオオカミたちに。敵をひきさきつぶす手と腕を持つクマたちに。するどい角を持つ雄ジカの群れに。大小問わず、森に住むものすべてに。」
メドウィンは、すっくと立ち上がっていった。両のこぶしは、木の根が大地をつかむようにかたくにぎりしめられていた。カラスはおごそかなおそれに打たれて声一つ出せなかった。メドウィンの目はぎらぎらと光っていた。声は、つぎつぎにとどろく雷鳴かと思われた。
「生きものたちに、わが名において告げよ。この言葉は、むかしプリデインが黒い洪水におおわれたとき船をつくった者、かれらの祖先のものたちの命をぶじにすくった者の命ずることであるといってきかすがよい。今や、巣という巣、穴という穴は、この悪の洪水に立ち向かうとりでにならねばならぬ。けもの、鳥すべてに、死の王アローンにつかえる者どもに対して歯で立ち向かえ、くちばしでたたかえと命ずるのだ。」
二匹のオオカミは、肩をならべて小屋から走り出ていった。ワシは空にまいあがった。
9 旗じるし
タランたちがスモイト王の城を出立して一日の旅をおえる前に、小雪がふりだした。イストラド渓谷にたどりついたとき、谷の斜面はすでにまっ白で、川には氷が張りだしていた。氷のはった川を渡ると、われた氷で馬の足が切れた。一行は、寒風吹きすさぶ山岳地帯を東に進み、ひたすら自由コモットをめざした。一行のうちで、ガーギがいちばん寒さに苦しんでいた。大きな羊の毛皮の服にくるまっていたにもかかわらず、このあわれな生きものは、気のどくなほどがたがたふるえていた。くちびるはむらさき色、部厚い髪の毛には氷の粒がへばりつき、歯がたえずがちがちなっていた。それでも、ガーギは、おくれずにタランとならんで馬をすすめ、さむさになえた手から旗をはなさなかった。
何日かつらい旅を続けた後、一行はようやく小アブレン川を渡ってセナースにたどりついた。タランは、ここで最初のコモット軍をつのることにきめていた。ところが、草ぶきの家が立ちならぶ村へ馬を乗りいれてみると、すでに村中の男が集まっていて、その中にかじやのヘフィズのたるのような胸と針金のようなひげが見えた。かじやは、肩で人を押しわけてくると、大づちほどもある手でタランの肩をどんとたたいてあいさつした。
「よく来た、さすらい人。おぬしがまだ遠くにいるときに気づいてな。出迎えのためこうして集まっていたのだ。」
「お出迎えありがとうございます、友人のみなさん。」と、タランはこたえていった。「しかし、わたしは、あたたかい歓迎に対して、大変な仕事をもとめにやって来たのです。よくおきき下さい、皆さん。」タランは、大いそぎで話をつづけた。「わたしがもとめるものは、気軽にもとめ、気軽にききとどけられるものではありません。みなさんの力と、みなさんの勇気と、そして、いざとなれば、みなさんの命がほしいのです。」
コモットの人びとが、がやがやいいながらひしめくように輪をちぢめると、タランは、ギディオンの身におこった事件とアローンの陣ぶれのことを告げた。話がおわったとき、人びとは深刻な顔つきで長い間なにもいわずその場にじっと立っていた。が、やがてかじやのヘフィズが声をあげた。
「自由コモット人はマース大王とドン王家に敬意をはらっておる。だが、われわれは、友と信じている人間だけにこたえて起ち、その男に、義務としてではなく友情をもってしたがう。だから、このヘフィズが、まずさすらい人タランについていくぞ。」
「われらも! われらも!」コモット人たちが、異口同音にさけんだ。そして、すぐにみんなが武装のために家に向かっていそいだので、おだやかだったセナースはあらしが近づいたときのように騒然となった。
しかし、ヘフィズは、びくともしない笑顔をタランとその仲間に向けて、はっきりといった。「わしらの意思は強固だが、武器はとぼしい。だが、心配するな、さすらい人。おぬしは、わしのかじ場でいさましくはたらいてくれた。こんどは、わしのかじ場がおぬしのためにはたらく。それから、わしは、コモット領のかじや全部に使いを送り、わし同様必死になっておぬしのためにはたらけといってやる。」
男たちが馬のしたくをととのえ、ヘフィズがかじ場で火花をちらしている間に、タランは、仲間をつれて近隣のコモットをまわった。タランの任務はたちまち知れわたり、説得などしなくても、白豚の旗にしたがって進もうという牧夫や農夫が、毎日群れになって集まってきて、軍勢はふくれる一方だった。タランは夜を日についではたらきつづけた。集結地にあつまっている志願の戦士たちの間を、疲れを知らないメリンラスにまたがってまわりあるき、食糧や装備をたしかめたり、かがり火のかたわらで、新しくつくられた隊とともに会議をひらいたりして暮らした。
ヘフィズは、セナースでできる仕事をすっかり片づけると、武具奉行としてタランの一行に加わった。
「あなたは、みごとに仕事を果たしてくれましたが、それでもまだ武器はとても足りませんよ。』タランは、かじやにだけそっといった。「プリデイン中のかじ場を使っても、われわれの必要をみたすのにじゅうぶんではないと思います。なんとか方法をこうじなくては……」
「そりゃ、運にめぐまれれば、方法はありますよ!」という声がした。
タランがふりかえると、ひとりの男が馬を寄せてきた。タランは、おどろいて目をぱちくりさせてしまった。コモットの戦士の中でも、この男ほど奇妙な武装をした男は見たことがなかったからだ。男は背が高かった。髪がすなおに長くたれ、足はまるでコウノトリを思わせるほど長くて、馬に乗っていても地面についてしまいそうだった。上着は、鉄片をはじめさまざまな金属のかけらがびっしりと張りつけてあり、手には、棒の先に鎌の刃をとりつけた武器を持っていた。頭には、なべをうち直した即製のかぶとがのっていたが、ひたいをすっぽりおおって目までかくれそうだった。
「フロニオ!」タランはよろこびの声をあげ、心をこめて新しく加わったこの戦士の手をにぎった。「フロンウェンの息子フロニオ!」
「そのとおり。」フロニオは、風変わりなかぶとを押し上げながらこたえた。「あなた、わたしが早晩やって来るだろうとは思わなかったですか。」
「しかし、おくさんや家族の人たちのことがある。」と、タランがいいはじめた。「あの人たちを後に残して来てくださいとはいえませんよ。ほら、あの子どもたち、六人いましたね。」
「そして、つぎがにぎやかに生まれてくる途中です。」フロニオが、うれしそうにわらってこたえた。「それも、わたしについてまわる幸運のおかげで、ふたごだと思いますね。しかし、わが家の子どもたちなら、わたしが帰るまでちゃんとぶじでいますよ。まったく、プリデインの将来を安泰にするためなら、今はさすらいさんについていかなくちゃなりません。しかし、あなたの心配は腕の中の子どもたちのことではなく、戦士のことでしたね。きいてください、さすらいさん。」と、フロニオは話をつづけた。「わたしは、コモットの戦士たちの中に、くまでやかさくきで武装している人がいるのを見ました。あの刃を切りとって木の柄にはめこむことはできませんかね? そうすれば、はじめはたった一つだったものが三つ、四つ、いやそれ以上の武器になるじゃありませんか?」
「そうだ、それならできる!」ヘフィズが思わずさけんだ。「なんでそれがわからなかったかなあ?」
「わたしも同様です。」と、タランもうなずいた。「フロニオは、わたしたちのだれよりも賢い目でものを見ます。ところが、この人は、ほかの人間なら鋭い機知とよぶであろう才能を、幸運とよんでいるのです。では、わが友フロニオ、できるだけの武器をみつけだしてください。あなたなら、人の目につかないものまでみつけてくれるでしょう。」
フロニオが、あちこちのコモットから小がま、草かき、火ばさみ、大がま、刈り込み用のつめなどを集め、かじやヘフィズの助けをかりて、とてもむりだと思えるものまでなんとか新しい目的にかなうものにつくりなおしてくれたので、武器の数はどんどんふえた。
タランが、毎日戦士をつのって人数をどんどんふやしている間、コルとガーギとエイロヌイは、装備や食糧を荷づみする仕事を手伝っていた。これは、エイロヌイには全然気に入らない仕事だった。この若い王女は、荷物を山とつんだ荷車のわきをてくてく歩くよりも、馬を駆ってコモットからコモットへとかけまわりたくてたまらなかった。彼女は、男の服を着て、髪の毛をあんで頭に巻きつけていた。腰の帯にはかじやのヘフィズからうまいことをいってせしめた剣と短剣をさげていた。戦士用の服は体に合わなかったが、本人はとくいになっていたから、タランがかけまわる仲間に入れるのをこばんだときには、なおさら腹を立てた。
「荷駄の馬の世話がおわって荷物が片づいたら、いっしょにかけまわろう。」と、タランはいった。
王女も、しぶしぶそれに同意した。しかし、翌日、軍の後ろにならんだ馬の列のところをタランがゆっくりと馬を走らせて通りすぎたとき、王女はかんかんになってさけんだ。「だましたわね! この仕事は、いつまでたっても終らないじゃないの! 荷駄隊が一列ようやく片づいたなと思ったとたん、また別なのが来るじゃない。いいわ、わたしは約束を守るわよ。でも、カー・ダルベンのタラン、あなたが武将であろうとなかろうと、わたしもう口をききませんからね!」
タランは、にやりとわらってそのまま馬をすすめた。
タランとその仲間は、大アブレン渓谷を北に向かってコモット・グウェニスにはいった。
馬をおりたとたん、タランはいきおいのいい声をかけられた。「さすらい人! あたしゃ、あんたが戦士をさがしていて、しわくちゃばあさんに用がないことは知っているよ。しかし、ちょっと足をとめて、あんたを忘れなかった人間のあいさつを受けておくれ。」
グウェニスの機織りドイバックが、家の戸口に立っていた。髪は白く、顔もしなびていたけれど、この機織りは相変わらず元気で疲れを知らないように見えた。ドイバックは、灰色の目でじっとタランをしらべるように見ていたが、やがてその目をエイロヌイに移した。年をとった機織りはエイロヌイを手まねきした。「わたしゃ、さすらい人タランは、よく知っている。あんたは男の格好をしているし、その髪はちょっと洗った方がいいが、それでも、わたしにゃ、あんたがだれだかちゃーんとわかるよ。」彼女は、抜け目ない目でエイロヌイを見た。「まったくねえ、さすらい人とはじめて会ったとたん、この子は美しい乙女を心にいだいているとわかったよ。」
「ふん!」と、エイロヌイは鼻をならした。「ほんとにそうだったかどうですか。今は、ますますあやしいですわ。」
ドイバックは、楽しげにくすくすわらった。「あんたがわからないのなら、ほかにだれもわかる者はいないねえ。まあ、あんたとわたしと、どっちが正しいか、時が教えてくれるよ。ところでね、むすめや」ドイバックはそういうと、しなびた手に持っていたマントをひろげて、エイロヌイの肩にかけてくれた。「これを、しわくちゃばあさんから若いむすめへの贈りものとして受けとっておくれ。そして、老婆とむすめの間にたいしたちがいがないことを知っておくれ。よちよちとしか歩けないばあさんにだって、いつもむすめらしい心は残っている。そして、うら若いむすめにも、老婆の知恵が一筋は通っているものさ。」
そのときはもう、タランも戸口まで来ていた。タランは、心から機織りの老婆にあいさつしていから、エイロヌイに贈られたマントに感嘆の声をあげた。「ヘフィズとコモット中のかじやたちが、わたしたちの武器をつくるためにはたらいてくれています。しかし、戦士には武器に劣らず体をつつむものが必要ですが、残念ながら、このような衣類がありませんでね。」
「あんたは、機織り女は、かじやほどがんばりがきかないとでもお思いか?」と、ドイバックはこたえた。「あんたは、うちの旗を使ってしんぼうづよく布を織ってくれだったから、こんどは、うちの旗の方があんたのためにいっそうせいだしてはたらくよ。コモットというコモットの梭は、さすらい人タランのためにとぶように動くだろうよ。」
タランたちは、機織りの約束に力づけられてグウェニスをはなれた。コモットをすこし出たとき、タランは、自分たちのほうに向かって少人数の騎馬隊がいそいで近づいてくるのに気がついた。先頭を進んでくる背の高い若者が、タランの名を大声でさけんで片手をあげてあいさつした。
タランも、うれしそうにあっとさけぶと、メリンラスを駆って一隊を迎えに走り、若者のかたわらでたづなをひいて馬をとめると「フラサール!」とさけんだ。「いや、まさか、コモット・イサフのあの羊がこいから遠くはなれた、こんなところで会えるとは思っていなかったなあ。」
「さすらい人、あなたについての知らせは、あなたよりもずっと先までづいているんです。」と、フラサールはこたえた。「しかし、わたしは、あなたがコモット・イサフを小さすぎるとみて通りすぎてしまわないかと心配だったのです。」フラサールは、そこでちょっとはにむかように言いよどんだが、さすがに子どもっぽい自慢げな気持をかくせずにつけ加えた。「そこで、わたしが、村の人たちをつれてあなたをみつけにやってきたんです。」
「イサフの大きさで、村の勇気ははかれはしない。」と、タランはいった。「それに、わたしは、あなた方全部が必要だし、よろこんでむかえますよ。ところで、おとうさんはどこにいらっしゃる?」タランは、騎馬の人たちの中をさがしてたずねた。「ドラドワズはどこです? 息子さんがここまで出てくる場合には、かならずいっしょにいらっしゃるはずだが?」
フラサールが顔をくもらせていった。「この冬に奪われてしまいました。悲しいことですが、父を哀悼するためにも、生きていたら父がしたであろうことを、わたしがするのです。」
「それで、おかあさんはどうなのです?」タランは、フラサールとならんでゆっくり馬を走らせて仲間のところへもどりながらたずねた。「あなたが家や羊の群れをのこして出てくることを、あの人ものぞんだのですか?」
「羊はだれかが世話をします。」と、若い羊飼いはこたえた。「母は、子どもがしなくてはならないことも、男がしなくてはならないことも、ちゃんとわきまえています。わたしは一人前の男です。」羊飼いは力強くいった。「あの晩、羊がこいの中で、あなたとともにドーラスやかれの部下のならず者たちに立ち向かったときから大人になったのです。」
「はい、はい!」と、ガーギがうれしそうにさけんだ。「恐れを知らぬガーギも、あの悪者どもに立ち向かいましたぞ!」
「信じるわよ。」エイロヌイが、おもしろくない顔をしていった。「その間、わたしは、ひざまをまげておじぎをしたり、髪の毛を洗ってもらったりしていたのよ。わたしは、そのドーラスって男のことは知らないけれど、もし出会うことがあったら、かならずこのうめ合わせをするって約束しておくわ。」
タランは、首を横にふっていった。「あいつを知らないことを幸運だと思いたまえ。ぼくはあいつをいやってほど知っている。不運なことにね。」
「あの悪者も、あの夜以来やっかいをかけなくなりました。」と、フラサールがいった。「二度とやっかいをかけることはないでしょう。コモット領をはなれて西に流れていったとかききました。そして、死の王に臣従したといううわさです。おそらくそのとおりでしょう。しかし、ドーラスがほんとうに臣従するのは、自分に対してだけですよ。」
「あなたが無償で申し出られた助力の方が、アヌーブンの王がほうびでつって手に入れるどんな力よりも、わたしたちにはとうといものです。」と、タランはフラサールにいった。「ギディオン王子も、あなたに感謝なさいますよ。」
「王子よりは、あなたへの助力です。」と、フラサールはいった。「わたしたちは、戦うことよりも、たがやすことを誇りにしています。この手でできる仕事の方を、剣による仕事よりも誇りにしています。わたしたちは、いくさをのぞんだことなどありません。わたしたちは、こうして白い豚の旗じるしのもとに参じました。それは、この馬じるしが、わたしたちの友人であるさすらい人タランのものだからです。」
タランたちが渓谷を進みつづけるうちに、天候はますます悪くなった。そして、コモット人の軍勢がどんどんふえるので、進みぐあいはどうしてもおそくなってしまった。昼があまりにも短いので仕事も片づかなかった。しかし、タランはひたすら馬を進めた。コルがいつもつきそっていた。コルはいつも陽気で、ぐち一つこぼさなかった。コルの大きな顔は、さむさと風のために皮膚がかさかさにかわいて赤くなっていたが、その顔も羊毛を裏につけた大きな上着のえりにかくれてほとんど見えなかった。腰にはがっしりした鉄の輪づくりの剣帯をつけ、背中に牛皮の丸い楯をせおっていた。鉄を打ちのばしたかぶとを都合してきてかぶっていたけれど、はげ頭にはあの古い皮の帽子ほどうまくおさまらないと本人は思っていた。
タランは、コルの知恵をありがたく思い、なにごともよろこんで相談した。軍人が、集まる人びとで混雑してきたとき、ますますまとめにくくなる大軍をひきつれたままコモットからコモットへと進軍するよりも、小さくてはやく動ける部隊をつくり、直接カー・ダスルへ進ませる案を出してくれたのも、ほかならぬコルだった。フラサールとヘフィズとフロニオは、タランの前衛をはなれようとせず、いつも身近にいてくれたが、タランがマントに身をくるんで凍てついた地面に横になり、ほんのしばらくの貴重なねむりをむさぼる間、かれの身を守っていてくれるのはいつもコルだった。
「あんたは、ぼくにとっちゃカシの杖みたいな人だ。いや、そんなものじゃないな。」と、タランは声をたててわらっていた。「堂々とした大木だな。そして真の戦士だ。」
コルは、にっこりすると思いきや、顔をしかめたタランを見ながらたずねた。「おれをほめるつもりなのかね? それなら、むしろ、真のカブ作りでリンゴ集めといってもらいたいね。おれは全然戦士なんかじゃない。しばらくの間求められて戦士になっているだけさ。おれははたけが恋しい。はたけだっておれに劣らず、このおれを恋しがってるよ。」それから、こうつけ加えた。「おれは冬支度をしてやらないで出てきてしまった。春の植えつけのときになったら、ひどいむくいを受けることになるよ。」
タランもうなずいた。「いっしょに、たがやしたり草をとったりしよう。真のカブつくりとして――そして、真の友として。」
闇の中で、かがり火がちらちらとゆれながら燃えていた。つながれた馬たちが落着かなげに動いていた。周囲に目をやると、夜の闇よりもさらに黒い影がたくさんかたまっていた。ねむっている戦士たちだった。つめたい風が、まるで切りつけるようにタランの顔にあたった。タランは、突然心底から疲れを感じた。そして、コルに顔を向けていった。
「また豚飼育補佐にもどったら、どんなに気が軽くなるだろうなあ。」
タランのところに、スモイト王が領主たちを集めて大軍をもよおし、今北に向かっているという知らせがとどいた。それとともに、アローンについた何人かの領主たちが、カー・ダスルに向かう軍をおそうために襲撃隊を送り出したこともわかった。こうして、タランのつとめは、さらに緊急なものとなったが、せいいっぱいいそいで進む以外によい手段はなかった。
一行は、コモット・メリンにたどりついた。ここは、タランが放浪中にたずねた土地の中で、もっとも美しいところの一つだった。武装する戦士たちの立てるそうぞうしい物音や馬のいななきや馬上の人たちのさけびがきこえる今ですら、白壁と草ぶき屋根の家々がならぶ小さな村は、そんなさわぎも知らぬげにしずまりかえっているように見えた。タランは、ツガとモミの大木にかこまれた共同墓地を馬をとばしてかけぬけた。あふれんばかりの思い出を心の中にいだきながら、タランはかつてなじんだ家の前に馬をとめた。家の中で暖かい火が燃えているにちがいない煙が、煙突からたちのぼっていた。ドアがあいて、粗末な茶色の服を着たずんぐりと小さくてとても元気な老人が出てきた。髪もひげも鉄灰色で、それを短くかってあった。目は青く、生気に満ちていた。
「よく来たのう。」老人は、タランに声をかけ、かわいた粘土がこびりついている大きな手をあげた。「おぬし、さすらい人としてここを出ていったが、武将としてもどってきたのだなあ。武将としての腕については、ずいぶん話をきいておるよ。ところで、おぬし、わしのろくろでみがいた腕はもう忘れてしまったかな? おぬしに教えたのは、わしの才能のむだづかいだったかな?」
「しばらくでした、陶工アンロー」タランはこたえて、勢いよくメリンラスからおりると、愛情をこめて老陶工の手をにぎった。「じつを申せば、むだづかいでしたね。」タランは、老人について家の中にはいりながら笑っていった。「お師匠が不器用な弟子をおとりになったためです。わたしには才能がないのです。しかし、おぼえはわるくありませんよ。わずかですが、習いおぼえたことは忘れておりません。」
「では、見せておくれ。」陶工は、さあやってごらんと、木桶の中からぬれた粘土を一すくいとり出した。
タランは、悲しげにほほえんで首を横にふった。「わたしは、ごあいさつするために立ち寄っただけなのです。わたしは今剣の仕事をしています。陶器をつくってはいないのです。」そういいながらも、タランはためらった。炉の火のほてりで、上品なブドウ酒びん、ほれぼれするほど美しくできている水さしなど、たくさんの作品が棚の上でひかっていた。タランは、すばやくつめたい土を手にとると、アンローがまわしはじめたろくろにぽんとのせた。時間にぎりぎり追い立てられているのはわかっていた。だが、自分の手の下で作品が生まれはじめると、ほんのしばらくだけれど、ほかの仕事の重荷を忘れてしまった。むかしがよみがえり、うなってまわるろくろと、形のない粘土から生まれる器の形以外のことは消え失せてしまった。
「うむ、よくできた。」アンローがしずかな口調でほめてから、すぐにつづけた。「コモット中のかじやや機織りが、おぬしに武器と衣服を与えようとはたらいているそうだな。だが、わしのろくろは剣もきたえられず、戦士のマントも織り出すことはできぬ。それに、わしの粘土は平和な仕事に使うものしかつくらぬ。悲しいことだが、今おぬしの役に立つものは何も提供できんよ。」
「あなたは、ほかの何ものにもまさるものをくださいました。」と、タランはこたえた。
「わたしは、それをいちばん大切にしています。わたしの生きる道は戦士の道ではありません。ですが、今剣をとらなければ、プリデインには、職人という職人のつくったものを役立て、その美しさを楽しむ場がなくなってしまうのです。そして、もしわたしが失敗したら、あなたから学びとったものすべてを失うことになるのです。」
タランの手がとまった。コルが腹にひびくような声でタランの名をよぶのがきこえてきたのだ。タランは、ろくろの前からいきおいよく立ち上がると、びっくりしてみているアンローにあわてて別れのあいさつをして、大いそぎで小屋を出た。コルはもう剣を抜きはなっていた。あっという間にフラサールも合流してきた。メリンからすこしはなれた野営地に向かって馬を走らせながら、コルが早口につげた話によると、見張りが略奪者の一隊をみつけたとのことであった。
「まもなくおそってくるだろう。」と、コルが注意した。「こっちの荷駄の列に攻撃をしかけてくる前に迎えうたなくてはならん。カブつくりとしては、弓隊と馬の達者を一隊つれていくように助言するね。フラサールとわしは小部隊をつかってやつらを釣ってみる。」
かれらは、敏速に作戦をたてた。タランは先頭を駆けながら騎馬のものと歩兵をよびあつめた。みんないそいで武器をつかみ、タランの後につづいた。タランは、エイロヌイとガーギに、荷駄の間に身をかくしているように命じると、ふたりの反対に耳をかさずに、村をとりまくモミの森に向かって馬をとばした。
略奪隊は、タランの予想以上に重装備の兵力だった。そして敏速に雪の丘をこえておそってきた。弓隊が、タランのあいずとともに前進して浅いくぼみに伏せると、コモットの騎馬隊が突進した。敵見方の騎馬隊がぶつかり、馬蹄のとどろきと剣のぶつかりあうおとがあたりにうずまいた。やがて、タランが角笛を口にあてた。その鋭いあいずがあたりにひびきわたると、弓隊がかくれていたところから身をおこした。それが小ぜり合いにすぎないことはタランにもわかっていた。しかし戦いははげしかった。そして、コルとフラサールの隊が多くの敵をひきつけて戦ってくれたあげく、ようやく略奪隊はばらばらになってにげ去った。それでも、そのたたかいは、タランがドンの王子のために武将としてはじめて指揮をとったたたかいだった。コモット人たちは、ごくわずかの負傷者を出しただけで戦死はひとりもなく勝利を手にした。タランは、意気あがる戦士たちをひきいて森からメリンに向かってひきかえす途中、すっかり消耗しつくしてぐったりしながらも、勝利の喜びに心が高なるのをおぼえた。
丘のてっぺんにたどりつくと、下に、黒い柱のような煙があがり、火がもえているのが見えた。
最初、タランは、野営地でたき火をはじめたのだと思った。そこで、メリンラスを全速力で走らせて丘を下った。近づくと、血のように赤い夕空を背景に、夕日よりももっと赤い炎がゆれ動き、谷間中から煙があがってあたりをおおっているのがわかった。コモットが燃えていたのだ。
隊の人たちを後に残して、タランはメリンにかけこんだ。野営地の戦士たちにまじって、エイロヌイとガーギが必死になって消火につとめていたが、火は一向に消えそうもなかった。コルは、すでにもどっていた。タランは、メリンラスからとびおりてコルのそばまでかけつけた。
「おそすぎた!」と、コルがさけぶようにいった。「襲撃隊が迂回して、背後からメリンに攻めこんだんだ。メリンは火をかけられ、住民は切り殺された。」
深い悲しみと激しい怒りで、タランはものすごいさけび声をあげ、燃えている小屋の間を走った。草ぶき屋根はすっかり焼け落ち、壁はほとんどが大きく口をあけてくずれていた。アンローの家もほかと変らず、内部をさらしてくすぶりつづけていた。陶工の死体はくずれた石の中にころがっていた。かれの手になる作品は、一つのこらずこなごなになっていた。ろくろはひっくりかえり、器はくだけてとび散っていた。
タランは、がっくりとひざをついた。コルが肩にそっと手をおいたが、タランは身をひいてその手をはずし、古強者を見上げて、「わたしは、きょう勝利のさけびを上げたね?」と、しわがれたひくい声でいった。「そんなもの、かつてわたしに友情を示してくれた人たちには、なんのなぐさめにもならない。わたしは、この人たちにじゅうぶんむくいただろうか? え? この手はメリンの血に染まってしまったんだ。」
しばらくしてから、フラサールは、コルをわきによんで小声でいった。「さすらい人は陶工の小屋から動こうとしませんよ。だれだって自分の傷に耐えるだけでもまったくつらいことです。しかし、人をひきいる者は、従う者すべての傷に耐えなくてはならないものです。」
コルもうなずいた。「今は、いたいところにいさせてやれよ。あすの朝になれば気をとりなおすさ。」しかし、すぐにつけ加えた。「もっとも、傷口はけっしてふさがらんだろうが。」
真冬になったとき、最後の隊の集結がおわり、コモットの軍はカー・ダスルめざしていそいだ。フラウガダルン山中を北西にいそいだタランの下には、一軍の騎馬隊に加えてフラサール、ヘフィズ、フロニオがいた。この軍勢は強力だったので守りが固く、進軍の速度は落ちなかった。
敵の襲撃は二度あったが、タランの軍は大きな損害を受けながらも、二度とも敵を追いはらった。敵は、白い豚の馬じるしをかかげて進む武将から手痛い目にあってしりごみし、それっきりこの隊列をなやまそうとはしなくなった。タランの軍は、敵に邪魔をされずすみやかにワシ山脈のふもとを通過した。ガーギは、今もとくいげに馬じるしをかかげて進んでいた。白い豚の旗は、遠い山々からたたきつけてくる強い風にはげしくはためきつづけていた。タランは、マントのかくしにお守りを一つひそめていた。コモット・メリンの火で黒くなったせとかけだった。
カー・ダスルの近くまで進んだとき、先駆の戦士たちが、べつの一隊が近づいてくると知らせてきた。タランは、ひとりだけ馬をとばした。近づく軍の前衛の槍隊の中に、フルダー・フラムがいた。
「お、これは、これは!」吟遊詩人は大声をあげると、リーアンをせきたててタランのかたわらまでとんできた。「ギディオンもお喜びになるぞ! 北方の領主たちは全軍をこぞって起ったよ。フラムの者が命ずるとき――あ、いやいや、じつはギディオンの名で兵をつのったのだ。そうでなかったら、これほど喜んで集まりはしなかったさ。ま、それはどうでもいい。みんな進軍中だからな。プリダイリ王も兵を起こしたときいた。それが事実なら、まことの戦闘部隊が見られるぞ! おそらく西方のカントレブの半分はかれの指揮下にはいっていると思う。
「えっ、ああ、そうなんだ。」プリダイリは、背中のくぼんだ足の太い灰色の馬にグルーが乗っているのをタランが目にとめたのに気づくと、すぐにいった。「ちびすけも、まだいっしょにいるのさ。」
元巨人は、タランに向かってそっけないあいさつをしただけで、せっせと骨をかみつづけていた。
「あの男をどうしたらよいかのわからんのだよ。」と、フルダーが低い声でいった。「軍勢という軍勢が集結している最中だろ。荷づくりして送ってしまう気になれなかったのさ。それで、今もここにいる。泣きごとやぐちはあいかわらずだ。きょう足がいたいといえば、あしたは頭というぐあいで、あっちこっちすこしずつなんだ。そして、たべていないときは、巨人だったときの話を延々と続けている。
「いちばん困るのは」フルダーは、ほんとうに困り果てているようにつづけた。「やつの話をぶっつづけにきかされているうちに、やつのことを気の毒に思うような気にさせられてしまったことなんだ。やつは小心なイタチだよ。今までも、そしてこれからもそこは変わらん。しかし、ちょっと考えてみると――やつは今までじつにひどい扱いを受け、だまされつづけてきたんだ。さて、グルーが巨人だったとき……」吟遊詩人は、はっとして途中でやめ、ひたいをぽんとたたいた。「いや、たくさんだ! やつのおしゃべりをこれ以上きいていると、信じこまされてしまうな! さあ、わしらに合流してくれ。」フルダーはそう大声でいうと、ごちゃごちゃと背中にしょった、弓、矢筒、楯、革ひもなどの中からたて琴をはずした。
「友人がまた一堂に会するのだ。それを祝うと同時に、体がひえないように一曲やろう!」
吟遊詩人の音楽で元気づいた一行は、また進んでいった。まもなく、カー・ダスルのそそり立つ城壁が、冬の日を金色に浴びて姿をあらわした。がっしりとした陸堡が、とびたとうとはやりたつワシのようにぐっと突き出て見えた。城壁と城郭の間には、城をとりかこむように、ドン王家に忠誠をちかって参陣した領主たちの天幕や兵士たちの野営地が見えた。タランの胸はおどった。だが、それは、領主たちの馬じるしや風にはためくドン王家の朝日の旗を見たからというより、コモットの戦士と仲間たちがぶじに旅の目的地にたどりつき、すくなくともしばらくはあたたかくして休めるという思いのためだった。ぶじに――タランはふと思いなおした。忘れていたことがよみがえってきた。モーナ王ルーンは、カー・カダルンの城門の前の塚にねむっている。それから、陶工アンロー。タランは、マントの中のせとかけをにぎりしめた。
10 プリダイリ、来たる
カー・ダスルは一大陣営となっていた。武器づくりのかじ場からは、燃える雪が降りしきるかと思うばかりに火花が散り、ひろい庭には馬蹄の音がとどろき、鋭い合図の角笛がこだましていた。エイロヌイ王女は、安全な城内にはいっても、粗末な戦士の服をもっと似つかわしいものに着がえようとしなかった。しぶしぶやっと承知したのは、髪を洗うことだけだった。貴婦人たちは数人が残っているだけで、あとは全部東のとりでに避難していた。しかし、エイロヌイはそこへ行って糸をつむいだり布を織ったりして暮らすことを、ぴしゃりとことわった。
「カー・ダスルはプリデイン中でもっとも輝かしい城でしょうよ。でも、どの城だって貴婦人というものはおなじなのよ。わたしは、テレリア王妃のメンドリの群れといっしょにいたんだから、それでもうじゅうぶん以上。あの人たちのしのびわらいやうわさ話をじっときくなんて――そんなの、羽毛で耳をくすぐられるよりたまらない。王女だからというので、もう石けん水でおぼれかけたんだもの、それでたくさん。わたしの髪、まだ海草みたいに詰めたくてねっとりしてるわ。着るもののことなら、今のままでとても着心地がいいわ。とにかく、婦人用の服は一枚のこらずなくしてしまったし、またつくらせるつもりなんかありませんからね。今着ているもので、ちゃんと間に合います。」
「わしの着ているものがこれでよいかとは、だれひとりきいてくれようともしない。」グルーが、怒っていった。だが、タランの見たところ、この元巨人の衣服は仲間のだれのものよりもきちんとつくろってあった。「しかし、悪い待遇というやつ、わしもなれてしまった。わしが巨人だったとき、あの洞くつ内では、もっとずっとちがっておったぞ。広い心だ! ああ、もはや二度とかえってはこない。うむ、思い出すなあ、コウモリとわしが……」
タランには、エイロヌイの言葉に反対する気力も、グルーの話に耳を傾けるひまもなかった。かれは、一行の到着をきいたギディオンのまねきで、王座の間に伺候することになっていた。そこでコルとフルダーとガーギが、いっしょに旅をしてきた戦士の装備や食糧を手に入れる仕事をしている間に、護衛の後について王座の間へはいっていったが、ギディオンがマソーヌイのマースと何事か相談しているのを見て近づくのをためらった。しかし、マースが手まねきしたので、すぐにひげのまっ白な支配者の前に出て片ひざをついてあいさつした。
大王は、老いた手を力強くタランの肩において立てと命じた。タランがマソーヌイの息子マースにお目通りしたのは、ドンの子孫たちと角の王の軍勢とのいくさ以来のことだった。久しぶりに見る王家の支配者の顔には、歳月の重みがくっきりときざまれていた。心労にやつれ顔のしわは、ダルベンのしわよりもさらに深かった。ドン王家の黄金のかんむりが、非情な重荷に見えた。しかし、王の目はするどく、断固とした誇りにみちて見えた。それ以上に、深い深い悲しみをたたえていることを感じとったタランは、自然と悲しみに心をふさがれて頭をたれた。
「余の顔を見よ、豚飼育補佐よ。」マースは、しずかな声でいった。「余が自ら知っておることに気づいたとて、おそれてはならぬ。死は、余に向かって手をさしのべておるが、余はその手をつかむことをいといはせぬ。王侯をも墓所によびよせる、あの狩人グウィンの角笛を、余はすでにきいた。
「余はよろこんで、そのよび出しにこたえたい。」と、マースはいった。「王冠というものは無情な主人であり、豚飼いの杖よりもむごいものである。杖はふりあげるものであるが、王冠は、よろこんでそれをかぶりたいと思っているいかなる男にもたえられぬほどおしかぶさってくるものだ。余が悲しく思うのは、自分の死ではない。生涯の終りにあたって、余が平和のみをもとめたこの地に血が流されるのを見なくてはならぬことだ。
「おまえは、わが王家の歴史を知っておろう。はるか昔、ドンの子孫たちは黄金の船にのってこのプリデインにやってきた。人びとは、プリデインの宝を奪い、美しく豊かな土地をたがやせぬはたけとしてしまった死の王アローンからの保護を求めた。それ以来、ドンの子孫たちはアヌーブンの猛威を防ぐ楯となってきた。だが今楯がくだければ、すべてがくだけてとんでしまう。」
「われわれは勝ちます。」と、ギディオンがいった。「アヌーブンの王は、今度の一挙にすべてを賭しています。しかし、かれの力は、すなわちかれの弱点でもあるのです。と申しますのは、もしかれをくいとめれば、かれの力は、永久に粉砕されてしまうからです。
「吉報と凶報が、ともどもまいっています。」と、ギディオンはつづけていった。「凶報とは、スモイト王がイストラド渓谷で戦陣をはっていることです。かれの大胆不敵をもってしても、イストラド以北まで道を切りひらくことができず、あそこで冬を迎えるはめになってしまいました。しかしながら、かれは、わが王家によくつくしてくれています。かれの戦士たちは南方の領主たちの中から出た裏切り者たちと戦い、かれらがアローンの他の戦闘部隊と合流することを防いでいてくれています。
「われわれの士気を鼓舞してくれるのは、西方諸国の軍がわがとりでまであと数日のところまで進んでいるという知らせです。物見の者たちは、すでにかれらを見ています。これは、プリデインはじまって以来の大軍で、プリダイリその人がひきいています。かれは、わたしのたのみをすべて受け入れた上、それ以上のことまでしてくれました。唯一の不安は、アローンの部下たちが、プリダイリがカー・ダスルに到着する前に攻撃をしかけて、道をはばむのではないかということです。しかし、その場合にはお知らせがとどきましょうから、わが軍勢が進んでいってかれを救えばよいでしょう。
「このほかの吉報の中にも、ききのがせないものがあります。」ギディオンは、げっそりとやつれた顔をほころばせてつけ加えた。「カー・ダルベンのタランとコモット領の戦士たちの到着です。わたしは、今までも、かれをひじょうにたのみにしてまいりましたが、これからはさらに力とたのむつもりでおります。」
そこで、ギディオンは、タランの騎兵と歩兵の陣割りを指示した。大王は注意深く耳を傾けてから、うなずいて同意を示した。
「それでは、さあ、つとめにもどるがよい。」と、マースはタランにいった。「豚飼育補佐が、王の重荷をささえる力となるときが、ついに来たのだ。」
つづく何日間か、タランたちは、自分たちの必要なところで、ギディオンの命令のままにはたらいた。グルーすら、いくぶんはつらい仕事も受けもったのだが、これは自らの意志ではなく、フルダーがむりやりにやらせたためだった。元巨人は、かじやヘフィズに見張られながら、かじ場でふいごを動かす仕事をさせられて、ちっぽけな手にできた火ぶくれのことを、ひっきりなしにぐちっていた。
カー・ダスルは、ただ、要塞というだけではなく、追憶の場でもあり、美をこめた場所でもあった。城壁にかこまれた多くの庭の一つはずれまで行ったところに、丈高いツガの林にかこまれた自然のあき地があり、木々の間のあちこちに、古の王や英雄たちの栄誉をしのぶ塚がつくってあった。彫刻がほどこされかざりものにかざられた木造の建物には何代も続いた高貴な血筋の家の武具一式や、詩人のうたに名高い馬じるしなどが壁にかかっていた。また、プリデイン中のカントレブやコモットからおくられた宝がしまってある建物もあった。その中に、陶工アンローの手になる優美なブドウ酒びんをみつけたとき、タランは胸にいたみをおぼえた。
タランたちは、仕事のあいまに、あちこち見てあるきそのたびに驚きの念にうたれ、それを心から楽しんでいた。コルは、今までカー・ダスルまで来たことがなかったので、アーチ門や、城壁のかなたの雪をいただく山々より、さらに高くそびえて見える塔などを、あかずながめていた。
「こりゃまったくきれいなもんだ。」と、コルは心からいった。「それにじつに巧みにできている。しかし、塔を見ると、わしはリンゴの木をもっとよくかりこんでおくべきだったと思ってしまう。それに、ほっぽらかしにしてあるはたけには、この庭の石ほども、作物がわんさとできちまうんだろうなあ。」
ひとりの男が、ごく小さくて質素な建物の戸口に姿を見せ、タランたちに声をかけて手まねきした。背の高い、すっかり日焼けした男で、白髪を長く肩までたらしていた。荒織りした戦士の服をゆったりと着ていたが、かざり一つない皮の帯には剣も短剣もなかった。タランたちがまねきに応じようと向きを変えたとたん、フルダーがいそいで男のところまで走っていき、つもった雪にかまわず、片ひざをついておじぎをした。
「辞儀をせねばならないのは、わたしのほうかもしれませぬな、ゴードーの息子フルダー・フラム。」と、男はほほえんでいった。「そして、許しをこわねばなりません。」男はタランたちにも、手をさしのべた。「わたしは、あなた方をよく知っています。あなた方は、わたしを知らないでしょうがね。」タランたちがびっくりしたのを見て、男は楽しそうに声をたててわらった。「わたしの名は、タリエシンといいます。」
「プリデインの吟遊詩人の長だよ。」フルダーが、とくいげに顔をかがやかせて、うれしそうに説明した。「わしに、このたて琴をくだされたお人だ。恩を受けているのさ。」
「恩かどうか、まったくなんともいえませんな。」と、タリエシンがこたえた。一行は、彼について中にはいった。そこは、広びろしたへやで家具などもごくすくなかった。頑丈ないすが四つ五つ、長いすがいくつか、それとふしぎな木目の出た長いテーブルが、あかあかと燃える暖炉の火を受けてひかっていた。壁は昔の書物や羊皮紙の巻物などでうずまり、たる木の見える天井のやみの中にまでうず高くつまれていた。
「まったくの話ですよ」と、吟遊詩人の長がフルダーにいった。「わたしは、あのおくりもののことをよく思い出していました。じつのところ、いささか良心がとがめています。」詩人の長は、鋭いけれどもやさしさのこもった楽しげな目つきでフルダーを見た。はじめ、タラン、タリエシンをひじょうに年とっている人と思ったのだが、今はかれの年がわからなくなった。顔には、深いしわが寄っているのだが、表情には老人らしい知恵と若者の生気が奇妙にまじりあっていた。かれは、その地位のしるしとなるものをいっさい身につけていなかった。そして、タランにもそんなかざりなどいらないことがよくわかった。タリエシンの目は、タランの戦友だった息子のアダオンとおなじ灰色で深くくぼみ、ものの奥まで見透かすように見えた。そして、この吟遊詩人の長の顔と声には、武将以上の威信が感じられ、王侯よりも堂々とした威厳があった。
「わたしは、あのたて琴をさし上げたとき、あれの本性を知っていたのです。」と、詩人の長は話をつづけた。「そして、あなたの癖も知っていましたので、いつも絃のことでちょっと苦しむのではないかと思いましてね。」
「苦しむ?」フルダーが、思わず声を高くした。「いや、全然! そんなことは、片時もなかった……」絃が二本、大きな音をたてて切れたので、ガーギがぎょっとなった。フルダーは鼻の先までまっかになってしまった。「よく考えてみれば、じつは、こいつめ、むりやりわしに真実をいわせましてな――いや、わたしが、まあ、ふだん正直にいうより、すこし余分に正直といいましょうか。しかし、今ふと思ったのですが、真実を語って人に害を与えたことはありませんでした。すくなくとも、わし自身には害はなかったですな。」
タリエシンはほほえんだ。「では、だいじなことをまなばれましたね。ですが、このおくりものは、たわむれでありながら、まったくのたわむれともいえないものでしてね。そう、心のこもった笑いをおくったとでもいいましょうか。しかし、あなたは喜んで今まで持っていてくだされた。こんどは、どれでもおすきなたて琴をおとりください。」
タリエシンが指さした棚には、たくさんのたて琴がならんでいた。かなり新しいもの、相当古いもの、そして中のいくつかは、フルダーがたずさえているものよりずっと優美な形だった。フルダーはうれしそうに、おっとさけんで、あわてて棚のところへ行き、一つ一つだいじそうに絃にふれてみたり、つくりに感心したりして、楽器の前を行きつもどりつした。
フルダーは、自分が持っているたて琴の、切れたばかりの絃やひっかき傷やへりのかけ跡などを物悲しげにながめてしばらくためらっていたが、やがて、ちょっとまごついたような口調でつぶやいた。「ああ――そう、たしかに、これは名誉なことです。しかし、この古なじみのやつで、わたしにはまったくじゅうぶんですよ。これは、たしかに、ひとりでに演奏するときがあるのです。どれ一つ、こいつの音色に及びませんよ。もちろん、絃をなおせばの話ですが。それに、わたしの肩にうまく収まりましてね。ここにあるものを見くびるのではありません。われわれはおたがいに慣れたと、そういいたいのです。いや、まったくありがたいお言葉です。しかし、とりかえたくないのです。」
「では、そうなされ。」と、タリエシンがこたえていった。「それでは、ほかのみなさん方に申し上げよう。」詩人の長は、タランたちに向かって話しかけた。「あなた方は、カー・ダスルの宝をさまざまごらんになられた。しかし、この城のまことの誇りであり値のつけられぬ宝を見たことがおありかな? それがここにある。」かれは、手でへやのぐるりをさし示してしずかな声でいった。「この知識の間には、プリデインの古の知識の多くがたくわえられてある。死の王アローンは人間から技の奥義を奪いとったが、わたしたち吟遊詩人のうたや物語を奪いとることはできなかった。それらは、ここにしっかりと集められている。勇敢な友よ、あなたのつくられたうたも」と、フルダーに向かって「かなりたくさんありますぞ。」と、タリエシンはいった。「そして、すべての人が追憶を分かち合い、自分以外のすべての人の知恵をわがものとするのです。このへやの下には、さらに豊かなものがたくわえられています。」タリエシンは、そういってにっこり笑った。「詩の意味と同様、知恵の大部分は、深くにかくれているのです。吟遊詩人の広間もあります。残念ながら、フルダー・フラム」タリエシンは、いかにも残念そうにいった。「ほんとうの詩人以外には、そこへはいることはできません。しかし、いつかは、あなたも、われわれの仲間に加わることでしょう。」
「ああ、気高き詩人たちの知恵!」ガーギが、驚嘆のあまり目がとび出すような表情でさけぶようにいった。「もう、いやしいガーギのあわれなやわらかい頭、ぐるぐるくるくる渦巻いてごちゃごちゃ! 悲しい。なさけない。ガーギには知恵がない! しかし、知恵さえ得られるなら、くしゃくしゃ、もぐもぐ、しなくてもいい!」
タリエシンは、この生きものの肩に手をおいてたずねた。「そなた、自分に知恵などまったくないと思っているのかな? それはちがう。知恵も、旗が織りあげる布同様にかぎりなくちがいがあるのだ。そなたの知恵は、善良で親切な心の知恵だ。これはめったにない。それだけますます大きな価値がある。
「それは、コルフレヴァの息子コルの知恵でもある。」と、吟遊詩人の長はいった。「さらに、不毛な土地をよみがえらせて肥沃なものに変え、豊かな実りをあげる仕事から受けるおくりもの、つまり大地の知恵が加わっている。」
「その仕事は、わたしのはたけがするのでして、わたしではありませんよ。」コルは、うれしくもあり、またつつましい人柄でもあったので、はげ頭のてっぺんまでもも色に染めながらいった。「それに、仕事のとちゅうでほうりっぱなしにしてきましたので、とにかく、つぎの収穫をあげるには、かなりひまがかかるでしょう。」
「わたしは、モーナ島で知恵を身につけることになっていました。」と、エイロヌイが話に加わった。「それが目的で、ダルベンは、わたくしをあの島へ送りだしたのです。わたしが身につけたのは、裁縫と料理と礼式だけでしたわ。」
「ものを習うのは、知恵とはちがいます。」タリエシンは、やさしさのこもったわらい声をたてて、エイロヌイにいった。「王女さま、あなたにはリール王家、つまり女系の魔法の血が流れております。あなたの知恵は、あらゆる知恵の中でも、もっとも奥深くかくされたものかもしれませぬ。あなたは、心臓がひとりでに鼓動することを知っているのとそっくりおなじに、ひりとでにものごとがおわかりになる。
「わたしは、知恵をみがく上で、まことに悲しいことにぶつかりました。」と、タランがいった。「わたしは、あなたのご子息がなくなられたとき、いっしょにいたのです。あの方は、偉大な魔力を秘めたえりどめを一つくださいました。それを身につけていた間、多くのことがわかり、かくされたことがはっきりと見えたものです。あれが、ほんとうにわたしのものになったことがあるのかどうか、それはわかりませんが、今はもう待っておりません。あのときわかっていたことは、今は消えやらずのこる夢のように思い出されるばかりで、もはや、わたしの力では、つかめなくなってしまいました。」
タリエシンの顔にかすかに悲しげな表情がうかんだが、すぐに消えた。「この世には、はじめに損失と絶望と悲哀を知らねばならぬ人がいる。」詩人の長は、おだかやな声でいった。「知恵に至るあらゆる道の中でも、その道がもっとも残酷でもっとも長い。あなたはそんな道を歩む人であろうか? それは、わたしにもわからぬ。そうであっても気を強く持ちなさい。最後まで歩みとおした人は、知恵を身につけるばかりか、それ以上のことをする。かりとったばかりの羊毛は布になり、ただの粘土は器に変わる。それとおなじで、その人は知恵に手を加えて他の人びとに合うようなつくりかえる仕事をする。その人が他の人びとに与えるものは、得たものより大きくなる。」
タランが返事をしようと口をひらきかけたとき、城の中央のもっとも高い塔で、合図の角笛が高らかになりひびき、城壁の小塔の兵士たちが口々にさけび声をあげた。見張りが大声でプリダイリ王の軍勢が見えたと告げしらせた。タリエシンが先に立ち、一行は幅の広い石段をのぼって知識の間の屋上にあがった。そこからは、城門の外がながめられた。タランには、谷を埋める槍の列に夕日があたってきらめくのが見えるだけだった。と、そのとき、何人かの騎馬武者が、わらわらと列からとびだし、雪まだらの野原をぐんぐん走ってくるのが見えた。先頭を進む武者の赤、黒、金の馬具が、ゆるやかに起伏する野原の白を背景に、くっきりと目にうつった。武者の金のかぶとが夕日にさん然とかがやいていた。タランがなおもよくながめようとしたとき、番兵たちがタランたちの名をよび、大広間へ集合するようにという命令を伝えてきた。
ガーギは、白い豚の馬じるしを手にして、あわててタランのあとを追った。一行は、人びとをかきわけるようにして大広間へいそいだ。大広間には長いテーブルが置かれ、主人席にマースとギディオンがすわっていた。タリエシンは、ギディオンの左の席についた。マースの右側には、プリダイリ王家の旗をかざった玉座がしつらえてあった。そして、テーブルの両側には、ドンの王侯たちや、カントレブの領主、武将たちが居流れていた。
大広間の壁ぎわには、旗持ちがずらりとならんでいた。ガーギは、すっかりまごついてきょろきょろあたりを見まわした。しかし、ギディオンが手でさしずしたので、旗持ちの列に加わった。このあわれな生きものは、いかめしい戦士たちの中にはいってしょんぼりし、どうしていいかわからないほどおびえているようすだった。しかし、仲間がはげますように見まもってやり、コルが顔いっぱいににやりとわらって目くばせしてみせると、ガーギは、大広間のだれにも負けないほど堂々ともじゃもじゃ頭をあげ、即席の馬じるしをしっかり持って立った。
タラン自身も、ギディオンから武将の席にすわれと指示されたときには、かなりこだわりを感じた。戦士の服のままのエイロヌイは、うれしげにわらってみせて、まったく平然として見えた。
「ふーん、だわ! ヘン・ウェンの旗、とってもりっぱに見えるじゃない。見映えのことなら、たいていの旗より上よ。あなた、目の色が青か茶色かってさんざん文句いってたわね。あれでちっともおかしかないわ。ほら、変な色に刺しゅうしてある旗がいくつか……」
エイロヌイが、ぴたっと話をやめた。入口のとびらが大きくあけられて、プリダイリ王が大広間にはいってきたからだ。王は、全員の視線を浴びながら、大またに会議のテーブルに向かって近づいてきた。かれは、ギディオンに劣らず背が高く、たいまつの灯にきらきらと光る豪華な服を身にまとっていた。かぶとはかぶっていなかった。タランが金のかぶとと見あやまったのは、ひたいのあたりに灯を受けて金色にかがやいている長い髪だった。腰の剣はさやにはいっていなかった。エイロヌイが小声で、プリダイリはいくさが勝利するまで剣をさやにおさめないことをしきたりにしていると、タランに教えた。王の後ろには、フードをかぶせたタカを手首のこてにとまらせたタカ匠や、プイル家の真紅のタカをぬいとりしたマントの武将や、槍持ちに左右を守られた旗持ちがつき従っていた。
ギディオンは、吟遊詩人の長とおなじようにかざりのない戦士の服を着て席についていたが、プリダイリを見て立ち上がりあいさつしようとした。ところが、プリダイリはテーブルまで進み寄らずに立ちどまり、腕ぐみをすると、自分を待っていた大広間の領主たちを一わたり見まわして大声でいった。
「諸卿よ、しばらくであった。こうして集まっておられるのを見て、まことにうれしく思う。アヌーブンの脅威はおたがいのいさかいを忘れさせてしまう。諸卿は、頭上をとびまわるタカを見たひなどりのように、またもドン王家の庇護を求めておられる。」
プリダイリの声は、あからさまなあざけりをこめて、ひびきわたった。タランはねその乱暴ないい方にどきっとしてしまった。大王マースも、きつい目をプリダイリに向けたが、口をひらいたとき、そのはなしぶりは控えめでどっしりとしていた。
「そうであったら、どうだというのか、プリダイリ卿よ? われらともに戦う人びとをよび集めたのは余である。それは、すべての者の安全が今おびやかされているからじゃ。」
プリダイリは、ものすごいわらいを顔に浮かべた。整った顔に血がのぼっていたが、それが寒さのためか怒りのためか、タランにはわからなかった。金髪の頭をぐっとそらせて、びくともせずに大王のきびしい目を見かえすプリダイリの、高くつき出た両のほほ骨のあたりが充血していた。
「自分が脅威を受けて、だれがぐずぐずとためらうものか。」と、プリダイリは大王にこたえていった。「人というものは、のどぶえに鉄のこぶしか剣をつきつけられてはじめて求めに応じるものだ。あなたに忠誠をちかっている者たちは、それが自分の目的に役立つからそうしているだけだ。ここにいるカントレブの領主どもの間では、平和なときなどまるでない。それぞれが隣国の弱味につけこんで利を得るのに必死になっている。心の奥底では、死の王アローンに劣らずよこしまではないか。」
カントレブの王たちの間から、おどろき怒ったざわめきがおこった。マースが、すばやく手をふってしずめた。
すぐに、ギディオンが口をひらいた。「他人の心の奥をおしはかるなど、いかなる人間の知恵も及ばぬことだ。人の心の中には正も邪もひそんでおる。だが、そのようなことは、おぬしとわたしがむかしよくやったように、たき火のおきをかこんで考えるとか、宴果ててかがり火が燃えつきようとするときに思いめぐらすことがらである。われわれが今せねばならぬのは、プリデインを守ることである。さあ、プイルの息子プリダイリよ、おぬしの席はここにもうけてある。多くのことをきめねばならんのだ。」
「ドンの王子、おぬしは、わしをよび出した。」と、プリダイリがかたい口調でこたえた。「わしはやってきた。おぬしに力添えをするためではなく、おぬしに降伏を求めるために。」
11 とりで
一瞬、満座の者の口がこおりついた。プリダイリのタカの足につけた銀の鈴が、かすかな音をたてた。と、タランが剣を手に立ち上がった。カントレブの王たちが激しい怒りのさけびをあげて、剣を抜きはなった。ギディオンがしずまれと大きな声で命令した。
プリダイリは、じっと立っていた。家来たちは剣を抜いて王を中心に円陣を組んだ。大王マースも、王座から立ち上がっていた。
「プイルの息子よ、そなた、われらをからかっておるな。」と、大王はきびしい声でいった。「じゃが、裏切りなどを、冗談の種にしてはならぬ。」
プリダイリは、相変わらず腕を組んだまま立っていた。金色に光って見えた顔が、鉄色に変わっていた。「これを冗談とおとりなさるな。そして、このわたしを裏切り者とおよびなさるな。わたしは、このことを長い間じっくりと、苦しみ抜いて考えた。そして、今は、これ以外にわたしがプリデインに奉仕できる道はないと思っている。」
ギディオンは、まっさおになっていたが、どっしりと落着いた目をプリダイリに向けてこたえた。「その言葉、狂ったとしか思えぬ。アローンのいつわりの約束のために正しい思慮がめしいてしまったのか? 死の王の家来がアヌーブン以外のどの国に奉仕するというのだ?」
「わしに対して、アローンは何も約束できぬ。わしには、すでにすべてがあるからだ。」と、プリダイリはこたえた。「だが、アローンは、ドンの子孫たちが失敗したことを成しとげるだろう。カントレブの間の絶え間ないいくさを終らせ、今まで平和がなかったところに平和をもたらすだろう。」
「それは死の平和だ。口をきけぬ奴隷の、声のないくらしだ。」と、ギディオンがいいかえした。
プリダイリは、まわりをさっと一わたり見まわし、口をゆがめて冷笑した。「ギディオン卿、この連中がそれ以上のものを受けるねうちがあるのか? この連中の命を束にしても、おぬしとわしの、どちらかひとりにでも匹敵するとお考えか? この自称の領主どもは粗野なけんか好きばかりだ。おのれの家をおさめる資格すらない。
「わしは、プリデインのためにもっともよいやり方をえらぶ。」と、プリダイリは続けた。「わしは、アローンに仕えない。斧はきこりの主人ではない。結局は、わしに仕えるのがアローンとなる。」
その言葉をきいて、タランは血がこおるような恐怖におそわれた。プリダイリはマース大王に向かっていった。
「武器をすてなされ。庇護を求めてあなたにしがみついている弱虫どもを見捨てなされ。今ここで、わしに降伏なされ。カー・ダスルは助けてとらせる。それから、あなたも。そして、わしと力を合わせて国をおさめるに足ると思える人たちも、助けてとらせよう。」
大王マースは、ぐっと頭をそらし、片時もプリダイリから目をはなさずに低い声でいった。「それは悪の最たるものじゃ。善をよそおって行なわれる悪ほど悪いものはない。」
カントレブの領主のひとりが、会議のテーブルからいきおいよく立ち上がると、剣をふりかざして、プリダイリに切りかかろうとした。
「手を出してはならぬ!」と、マースはさけんだ。「われわれは、彼を友としてここに迎えた。そのかれが敵として出ていく。ぶじに出してやれ。かれのタカの羽一枚でもそこなうものは死刑にする。」
「出て行くがよい。プイルの息子プリダイリよ。」ギディオンが、冷静な、それだけますます怒りのはげしさを感じさせる口調でいった。「わたしの心の苦しみは、おぬしにすこしも劣らない。われわれの友情は破れた。われわれの間には、もはや戦場しかない。ふたりをつなぐものは切り結ぶ剣先だけだ。」
プリダイリは、それにこたえず、家来たちといっしょにくるりと向きを変えて大広間から出ていった。プリダイリが馬にまたがったちょうどそのとき、かれが敵になったという情報が戦士たちの間に伝えられたので、戦士たちはじっと動かず、もくもくと敵の王を見送った。城外では、プリダイリの軍勢がたいまつに火をともしていた。タランの目がとどくかぎり谷間中がほのおだった。プリダイリは、真紅と金の服をたいまつのようににぶく光らせながらゆっくりと城門を出ると、待機している自軍に向かい、はやがけで去っていった。タランとコモットの戦士たちは、体がなえるような絶望感にとらわれながらじっと見送った。かれらは、カー・ダスルに集まったほかの人びととおなじように、このきらびやかな王が、えものを殺すタカのように、自分たちの命をつかんで持ち去っていくことを知っていた。
ギディオンは、プリダイリ王の軍が夜明けとともに攻めよせてくると考えていたので、とりでの戦士たちは夜を徹して攻撃に立ち向かう支度をした。ところが、夜明けを迎え、やがて青白い太陽がしだいに高くなっても、プリダイリの戦闘部隊はほとんど前進しなかった。タランとフルダーとコルは、他の武将たちにまじって、ギディオンのかたわらに立ち、城壁から谷間を見わたした。ギディオンは、谷間をくわしくながめ、ごつごつした線をえがく山と平地の間の大地をしらべていた。ここ何日かは雪は降っていなかった。岩のさけめや小さな谷間には、細長い白い斑点が、まるで羊毛のかたまりのようにのこっていたが、ひろい草地の大部分は、すっかり雪がなくなっていた。草原をおおう霜のマントのあちこちに、枯れ草のこげ茶色のぶちが、やぶれ穴のように見えていた。
斥候たちがもどってきて、プリダイリの戦士たちが谷間を制圧し、前線の交通を断ったと知らせてきた。それにもかかわらず、少人数の襲撃隊も側面攻撃の騎兵たちも一向にあらわれてこなかった。だから斥候たちは、この事実と歩兵、騎兵の配置状況から判断して、攻撃はカー・ダスルの城門を鉄のこぶしでたたくような総攻撃ではないかといった。
ギディオンも同意見だった。「プリダイリは、犠牲がどんなに大きくても、全力をふるって打ちかかってくるつもりなのだ。わが方にかれほど人数のゆとりがないのを知っているから、部下の命などおしげもなく投入できるのだ。」
ギディオンは眉根を寄せ、こてをつけた手の甲であごをなでた。みどり色の目をほそめて谷をながめわたしているしわのきざまれたその顔は、敵のにおいをかぐオオカミそっくりだった。「プリダイリ卿は傲慢な男よ。」ギディオンは、そうつぶやいた。
ギディオンは、そこでさっと武将たちをふりかえっていった。「わたしは、敵の攻撃を待つつもりはない。そんなことをしていたら、まちがいなく敗北だ。プリダイリには、波のようにわれわれを呑みつくしてしまう兵力がある。とりでを出て戦いをいどみ、波が盛り上がって波頭が白くなる前にこちらから攻めかかるのだ。とりで内のまもりはマソーヌイの息子マースが指揮をとってくれる。これ以上はむりというまで戦ったら、そのときはじめてとりでにひき上げ、とりでをまもろう。」
ギディオンは、朝日に輝きはじめた城の、立ちならぶ建物や塔をしばらくじっとながめていた。「ドンの子孫たちは、自らの手でカー・ダスルをひらき、アローンに対する楯としてばかりでなく、プリデインの知恵と美の守りとしてこの城をきずいた。わたしはプリダイリをうちくだくために力のかぎりたたかうとともに、カー・ダスルを破壊から守るために力をつくす。この二つの目的をとげるか、二つながら失うかどちらかになるであろう。だが、われわれは、のろい雄牛のようにではなく、すばやいオオカミやずるがしこいキツネのように戦わねばならない。」
ドンの王子は、武将たちに向かって敏速に命令を下し、それぞれの仕事をはっきりと指示した。タランは不安になった。まだ少年だったとき、大人にまじって大人の地位を占めることがかれの夢だった。そして、少年だったとき、そうなってもじゅうぶんにやっていけることを自認していた。ところが今、しらがまじりの歴戦の勇者たちにまじっていると、自分の力が弱く知識もあやふやに思えてならなかった。コルが、タランの内心を感じとって、はげますように目くばせを送ってきた。このしたたかな老農夫は、ギディオンの言葉をよく注意してきいていた。それは、タランもちゃんと知っていた。だが、コルの心の片すみだけは、この場を遠くはなれた、たのしげにせっせとカブばたけの世話をやいているのではないかと、タランは想像していた。城側は、ほぼ午前いっぱいかかっててきぱきと戦線をととのえたが、その間プリダイリ軍は部署を守って動かなかった。カー・ダスルの城壁からややはなれたあたりに、重装備の戦士たちが、プリダイリの攻撃のほこ先をくいとめるために陣を張った。そして、それをギディオン自らが指揮することになった。リーアンにまたがったフルダーは、タリエシンのひきいる吟遊詩人の戦士隊とともに、谷を横切る陣列に加わった。コモットの騎兵たちは、プリダイリの攻撃の側面に位置して、打ち寄せる波に横から切りこみ、敵の前衛の力をくずし弱める役目をあてられた。
タランとコルは一隊をひきいることになったが、フラサールもべつの隊をまかされると、部署をめざして馬をとばしていった。ガーギはぶかぶかの上着を着こんでいるのにぶるぶるふるえながら、なにもいわずに集結地点のしるしにするため、白豚の旗を、こおりついた地面につきたてていた。タランは、味方のあらゆる動きを見まもっている敵の目を感じ、恐怖のまじった奇妙ないらだちにかりたてられて、弓のつるのように気が張りつめてしまった。
ギディオンが、メリンガーにまたがって、コモット人たちの配置の最後の点検にやってきたとき、タランは思わず大きな声できいた。「なぜプリダイリはじっと待っているのです? わたしたちをからかっているのですか? かれから見るとわたしたちなどただのアリみたいなものなのですか? わたしたちはせっせと丘をのぼるアリで、彼はいつでもおしつぶせる人間なのですか?」
「忍耐だ。」ギディオンが、友人としてのはげましと武将としての命令をまじえた口調でこたえた。「おぬしたちは、わたしの剣だ。自らくずれるようなことがあってはならぬ。よいか、敏速に行動して、一度の戦闘にあまり長くかかずらわっていてはいけない。数多くいくさをしかけるのだ。」ギディオンは、タランの手をにぎり、つづいてコルとガーギの手をにぎってから、「さらば」とそっけないようにいうと、メリンガーの馬首をまわして、自分の隊の方にかけ去っていった。
タランは、姿が見えなくなるまで見送ってから、遠くにそびえ立つカー・ダスルの塔に目をうつした。エイロヌイは、グルーとともに、大王の庇護を受けてとりでに残っているように命令されていた。タランは、城壁にいるエイロヌイがちらりとでも見えないかと目をこらしてみたが、もちろん見えるはずもなかった。彼女が自分に対してどんな気持をいだいているかについては、カー・ダスルにいたときとかわらず、すこしもはっきりしていなかった。いうまいと決心していたにもかかわらず、タランは心のうちを洗いざらいうちあけそうになった。ところが、洪水に押し流れたように、突然戦士を集結させる仕事に巻きこまれ、別れのあいさつもしないで出てきてしまったのだった。エイロヌイへの慕情がいたみのように体を走り、ついに言えなかった言葉がまるで鉄の手のようにのどをしめつけた。
突然、メリンラスがまっ白な息を鼻から吹き出して地面をひっかきはじめた。タランは、はっとしてたづなをひきしめた。目をあげたとたん、プリダイリ軍が動きだし、どっと谷間に進撃してくるのが見えた。いくさがはじまったのだ。
いくさは、タランの予想とちがってゆっくり盛り上がる波頭のようにではなく、すばやい動きでせまってきた。最初に来たのは、ときの声をあげる兵士たちの、ふくれあがる波だった。ドンの子孫たちは、プリダイリの突撃をじっと待つことはしないで、攻め寄せる敵とわたりあうために突進した。タランは、ギディオンのまたがる白馬メリンガーが前足を高く上げるのを見た。しかし、両軍の衝突の瞬間はわからなかった。あっという間に、二つの波は一つになり、槍と剣の大渦となって猛烈ないきおいでうずまき流れはじめていた。
タランは、角笛を吹きならし、それに応ずるフラサールの命令のさけびをきくと、メリンラスの横腹をかかとでぐっとしめつけた。コルもコモットの戦士たちも、それぞれの馬に拍車をくれてタランのあとに続いた。メリンラスが、力強い足をとばして、早がけから全力疾走にうつった。牡馬の力強くうねる筋肉を感じながら、タランは剣をふりかざして人の海の中に突っこんだ。頭の中が渦を巻いた。タランは、おぼれかけた男のようにあえいだ。自分がおびえきっていることがわかった。
目の前を、敵と味方の顔が走馬灯のようにぐるぐるまわった。フロニオが、からざおをふるうように、右を左をなぎはらっているのがちらりと見えた。即製のかぶとをぐらぐらゆらし、長い足を折るようにしてあぶみにかけているその姿は、生きたかかしそっくりだった。だが、フロニオの行くところ、まるで鎌に刈りとられる麦のように敵が倒れた。ヘフィズの堂々たる姿は、戦闘のまっただ中にまるで城壁のようにそびえていた。フラサールの姿はどこにも見えなかったが、若い羊飼いのかん高い雄たけびがたしかにきこえたと、タランは思った。そのとき、すさまじいうなり声が耳にはいってきた。リーアンがフルダーをのせて敵におそいかかったのだ。だが、つぎの瞬間には、どっとおそいかかってきた敵が剣をふるって切りつけてきたので、それを受けて切りかえすことに夢中になり、切り結ぶ剣のほかは何も見えなくなってしまった。
タランとコモット軍は、何度となく、敵の側面に切り込んでは、すばやく鉄の渦からひきあげまた切りこむ攻撃をくりかえした。そんな攻撃のさなか、まったく偶然に、タランは金と真紅に輝く男をはっきりと目にとめた。まっくろな馬にのったプリダイリ王その人だった。タランは王に立ち向かおうとした。一瞬、ふたりの目が合った。しかし、プイルの息子は、見すぼらしい騎馬武者の挑戦にこたえようとはしなかった。すぐに目をそらしてそのままひた押しに進んでいってしまった。そのとき敵の群れの中から一本の剣がさっとふりあげられ、タランの顔を横なぐりに切りはらおうとした。剣はよけたが、プリダイリの軽蔑にみちた目は、タランの心に深くつきささった。一度、タランの軍は、敵軍の大きなうねりにあって戦場から押しもどされた。タランは、ガーギの馬じるしを目にとめると、味方の騎兵をそこに集結させようとした。と、そのとき、プリダイリ軍の隊と隊との間のほそいすき間を一頭の馬がタランめざして疾走してきた。ルアゴルだった。長い槍を持った戦士が、その背にへばりつくようにしてのっていた。
「もどれ!」タランは、ありったけの声でさけんだ。「気でも狂ったか!」
その戦士、エイロヌイは、ちょっと馬の速度を落とした。あんだ髪は革のかぶとの中にたくしこんであった。このリール家の王女は、タランに向かって陽気ににっこりわらいかけてさけびかえした。「あなたがびっくりしたことはわかるわ。だからといって失礼な態度をとっていいってことにはならないでしょ。」そして、そのまま走っていってしまった。
一瞬、タランは、今見たのがほんとうにエイロヌイだとは信じられなかった。
だが、たちまち、タランは、一団の敵と戦っていた。敵はメリンラスの両側からおそいかかってきて、のり手もろともたおそうとした。タランは、ぼんやりと、だれかがメリンラスのくつわをとってわきへひっぱっていこうとしているのに気づいた。プリダイリの戦士たちがしりぞいた。ひしめく敵の中から抜け出したタランは、鞍の上で体の向きを変えると、馬をわきにひっぱった新しい敵に向かって、夢中で剣をふり上げた。
敵と思ったのはコルだった。たくましい農夫は、かぶとをなくしていた。はげた頭がまるで野いばらにつっこんだように傷だらけだった。「おいおい、その剣は敵に向けろ。友人に向けるな!」コルは、大声でいった。
タランは、はっとしてちょっと口がきけなかったが、すぐにへどもどしながら「コルフレヴァの息子コル、あんたが命を救ってくれたんだね。」
「ああ、ま、そういうことだ。」コルは、今ふいにそれに気づいたような調子でこたえた。
ふたりは顔を見合わせると、まるでばかのようにぷっと吹き出した。
空が血に染まったかのような夕方になってようやく、タランは、この戦闘について明るい見とおしをもちはじめた。プリダイリの突撃路の全面に投入されたギディオンの軍は、敵の猛攻をくいとめた。プリダイリの戦闘隊は味方の死体につまずくようによろめいた。攻撃の波は高まったままでとまってしまった。今や、向きを変えた風が谷間を吹きわたっていた。ドンの戦士たちがまた元気づいてときの声をあげるのをきいて、タランは胸をおどらせた。ドンの軍はぐんぐん押して、目の前の敵を追いたてた。タランは角笛を吹きならすと、コモットの騎兵をひきいて突進し、反撃の潮の流れに加わった。
敵の陣列が、くずれる城壁のように左右にぱっとわれた。タランがたづなをひきしめると、メリンラスがおどろいていななき、さおだちになった。谷間中が、ぞっとする恐怖におののいたように思えた。タランは、一目見てすぐにそのわけを知った。そのとき、つぎつぎにおどろきのさけびが上がり、タランの耳にまでとどろいた。
「不死身だ! 不死身の戦士が来た!」
プリダイリの家来たちは、恐れかしこむようにさっとしりぞいて道をあけた。不死身たちは、死人のようにおしだまったまま、はやくもなくおそくもなく、ひらかれた道を埋め、重い靴の音をひびかせながら進んできた。まっかな夕映えの中で、かれらの顔の色はいっそう土気色に見えた。目は、まるで石のようにつめたくどんよりとしていた。不死身の戦士の列は、ためらうことなく、もくもくとカー・ダスルに向かって進んできた。かれらは、先端に鉄をつけた破城槌を綱でつりさげて進んでいた。
敵軍が、不死身を左右からはさんで、ドンの子孫にふいにあらたな攻撃をいどんできた。タランは、恐怖にふるえながら、プリダイリが攻撃をおくらせていたことの意味と、傲慢な態度をとった理由をはじめてさとった。今ようやく、裏切った王の策が実現したのだった。長い不死身の列の背後の高台から、新手の敵がどっとおし寄せてきた。プリダイリにとって、きょう一日の戦闘などからかいにすぎなかったのだった。殺りくがはじまっていた。とりででは、弓手や槍の戦士が城壁にところせましとならんでいた。矢が雨あられと降りそそいだが、口のきけない不死身たちはびくともしなかった。矢という矢は、ねらった敵にあたったが、敵は、血の出ない体から矢をひき抜くときに足をとめるだけで、ぐんぐん進んできた。その顔には、苦痛も怒りもなかった。人間らしいさけび声も、勝ちほこったときの声も、その口からは出なかった。この戦士たちは、生気のないその顔そっくりに、情容赦なく人を殺すことだけを仕事にして、墓場からあらわれたように、アヌーブンからここまでやってきたのだった。
カー・ダスルの城門は、破城槌にたたかれてうめきふるえた。たたきつけられる槌のこだまが城中をふるわせるにつれて、大きく頑丈なちょうつがいがゆるんだ。門扉が割れて切り傷のような、最初の割れめができた。不死身たちは、もう一度力をこめて槌をたたきつけた。カー・ダスルの門はこわれて、内側に倒れた。ドンの子孫たちは、プリダイリの戦士たちにはさみうちされながら、とりでにもどろうと必死に戦ったが、もうだめだった。タランは、激しい怒りと絶望感にとらわれてすすり泣きしながら、不死身たちが倒れた城門を大またにふみこえていくのを、どうしようもなく見ていた。
不死身たちの行く手に、大王マースが立ちはだかっていた。マースは、ドン王家の衣装をまとい、金の帯の輪をしめ、頭にドンの黄金の王冠をかぶっていた。肩にまとった純白の羊毛のマントは、まるで死装束かと思われた。マースは、老いた右手に抜き身の剣をにぎって、それをぐっと突き出していた。
アヌーブンの不死身の戦士たちも、ぼんやりした記憶がかすかにもどったのか、そこで立ちどまった。だが、すぐにまた大またに進みだした。戦場は今、物音一つきこえなかった。プリダイリ軍の戦士たちすら、畏怖の念に打たれて息をつめていた。不死身が近づいても、大王はしりぞかず、かれらに目をすえていどむように剣をふりあげた。誇りに満ち、年月によってそなわった威厳に満ちて、びくともせずに立っていた。血の気のない戦士の最初のひとりが攻めかかった。大王は老いた両手にしっかりと剣をにぎり、さっとふりおろした。不死身はそれをはねかえすと、力いっぱい王に向かって剣をふりおろした。大王はよろめいて片ひざをついた。口をきかない戦士たちがどっとおそいかかって、大王を突いたり切ったりした。タランは顔をそむけ、両手で顔をおおっていた。マソーヌイの息子マースが倒れ伏すと、不死身たちはその死体をふみつけて、容赦なくひたすら前に進んでいった。そのとき、闇につつまれた山々のどこかから、長くひっぱる角笛の音があがり、山はだにこだまし、あたりの空気をふるわせたかと思うと、なにか黒い影がとりでの上空をかすめてとび去った。
今、プリダイリ軍は、不死身の後から城内になだれこんでいた。城外では、攻城軍がギディオン側の敗残兵を怒涛のようないきおいで高台に追いあげ、雪にうずまった小さな谷間に追い落としていた。カー・ダスルからは、不死身の破城槌が城壁をつぎつぎにくずす音が雷鳴のようにきこえてきた。大広間や知識の間の上にほのおが見え、まん中の塔の上にはプリダイリの真紅の旗がひるがえった。
その旗とならび、夕日をかくして、アヌーブンの王アローンのまっくろな旗がひるがえっていた。
カー・ダスルは落ちた。
12 赤い休作地帯
一晩中、狂ったように破壊が続けられ、一夜あけたとき、カー・ダスルは廃墟になっていた。さまざまな建物がそびえたっていたところからは、ぶすぶすと煙と火があがっていた。不死身の剣と斧は、英雄の墳墓を囲むツガの林をきれいに切りはらってしまった。あけぼのの光を受けた城壁の残がいは、まるで血に染まったように見えた。
プリダイリ軍は、戦死者を埋葬することもゆるさず、とりでの軍をカー・ダスルの東の山中まで追いはらった。タランとその一党が再会したのは、臨時につくったばかりでごったがえしている山の陣地だった。忠実なガーギは、今も白豚の旗を持っていたが、旗竿は折れ、しるしは何がえがかれているか見分けがつかないほどに切りされかていた。リーアンとフルダーは、地面からほんのちょっと突き出た岩のかげにうずくまっていた。リーアンは、今もまだ目をいからせてしっぽを左右にふっていた。かじやのヘフィズが火をもやしてくれたので、タランとエイロヌイとコルは、たき火のそばにしゃがんで体をあたためた。フラサールは、重傷を負いながらも生きのびた。しかし、コモット軍は大きな犠牲をはらわねばならなかった。人馬にふみ荒らされた戦場にころがる戦死者の中には、フロンウェンの息子フロニオもまじっていた。
とりでの守りについていたごくわずかな生き残りの中に、グルーがいた。ドンの戦士のひとりが、城壁の外でたったひとりぼんやりしていたグルーをみつけ、そのあわれな有様に同情して、野営地まで連れてきてくれたのだった。元巨人はタランたち仲間に再会して泣かんばかりによろこんだが、それでもすっかりおびえきってふるえるばかりで、きれないなことをちょっとぶつぶついうと、やぶれたマントで身をくるみ、火のそばにうずくまって頭をかかえこんでしまった。
ギディオンは、ひとりなはれて立っていた。彼は、長い間、カー・ダスルの廃墟の上空をおおってひろがる黒い煙をじっと見つめていた。しかし、ようやく向きをかえると、戦を戦いぬいた全員に集合を命じた。タリエシンが集合した戦士たちの前に立ち、フルダーのたて琴をとって戦いに死んだ人びとへの哀悼のうたをうたった。くろぐろとした松林の中に、吟遊詩人の長のうたごえが深い悲しみをこめて流れた。しかし、その悲しみには、絶望のひびきはなかった。たて琴の音には深い悲嘆がこめられていたが、それと同時にはっきりと生命と希望の調べもふくまれていた。
たて琴の調べが消えると、タリエシンは顔を上げてしずかにはなしはじめた。「くだかれたカー・ダスルの石一つ一つが名誉のしるしとなり、谷全体がマソーヌイの息子マース及び味方の死者の永遠のいこいの地となる。だが、大王は、今もひとり健在であられる。わたしは大王をうやまい尊ぶ。それとともに、大王にしたがう人びとをもうやまい尊ぶ。」そして、ギディオンにむかってていねいにおじぎをした。戦士たちは剣を抜きはらい、プリダイリの新しい王の名を高らかにさけんだ。
そこで、ギディオンは、同志の戦士たちをよび集めていった。「われわれはこうしてまた再会したが、すぐにわかれなくてはならぬ。プリダイリの勝利で、われわれは、とるべき手段が一つと、のぞみが一つ残った。使者たちが、スモイト王の軍勢や北方の領主たちに、味方の敗北を知らせてくれるが、われわれはかれらの援軍をとても待ってはいられない。なすべきことは、すぐにはじめなくてはならないのだ。プリダイリ軍の十倍の軍をもってしても、不死身に立ち向かうことはできぬ。つぎつぎに軍勢を投げ入れてみてもただ戦死者の列がふえるばかりだ。
「だが、ここに一つ希望の種がある。」と、ギディオンはいった。「人間の記憶にあるかぎり、アローンが不死身をこれほど多く国外に出したことはない。かれは大きな利益をねらってすて身のかけをうったのだ。そして勝ちを収めた。しかし、その勝利が、この上ない弱点になって、今危機を迎えている。不死身が守備していないアヌーブンはまったくの無防備なのだ。」
「すると、アヌーブンには守る者がいないとお考えなのですね?」タランが、即座にたずねた。「かれらのほかには、アローンに仕えるものはいないのですか?」
「人間の戦士たちはいる。」と、ギディオンがこたえていった。「それから、おそらく、狩人どもが一隊。しかし、不死身がアヌーブンにもどって援軍となるのがおくれれば、こっちには残りのものどもを征服できる力がある。」
ギディオンの血によごれた顔は、この上なくきびしく見えた。「かれらをアヌーブンにもどしてはならない。かれらの力は、死の王の領土外にいる時間が長びくにつれ、ぐんぐん弱まってしまう。だから、いかなる手段をつかってでも、かれらの行く手をふさぎ、おくらせ迷わせなくてはならんのだ。」
コルがうなずいた。「いや、まったく、それだけがわしらの望みです。そして、それは、すばやくとりかからねばなりませんな。もう、やつらは、いそいで主人のところへもどりたがっていますからな。しかし、やつらが動き出してしまったら、果たして追いつけましょうかな? やつらを防ぐと同時にアヌーブンへの攻撃が、さて、できるものか?」
「一軍にまとまって進んでいてはできない。」と、ギディオンがいった。「だから、二軍にわかれなくてはならぬ。一軍は小軍団になる。使えるだけの多くの馬を使い、大いそぎで不死身を追う。べつの一軍は、キンヴェルの谷までつき進み、川に沿って北西に下り海岸に出る。谷は土地がなだらかであるから、しゃにむに進めばせいぜい二日で海岸に出ることができよう。
「海は、われわれのこの賭けを助けてくれるにちがいない。」と、ギディオンはつづけた。「陸地を進んだら、プリダイリにたやすくくいとめられてしまう。」そういって、ギディオンはタランに顔を向け、「マソーヌイの息子マースが、ドンの子孫たちを常夏の国から運んできた船のことは、おぬしにはなしてあったな。その船は、そのままうちすてられたのではない。いざという日にそなえて保存され、今も使えるようになっている。忠実な人たちが、キンヴェル川の川口に近い秘密の港にかくして守っていてくれるのだ。あの船団を使えば、プリダイリの西の海岸、アヌーブンの城壁のすぐそばまで行ける。
「この港を知っていたのはふたりだけであった。」と、ギディオンは説明した。「ひとりは、マソヌーイの息子マース。もうひとりはこのわたしだ。さて、陸を行く軍だが」と、ギディオンはタランに向かっていった。「おぬしが指揮をひき受けてくれるか?」
タランは、顔を上げてこたえた。「ご命令のままに。」
「いや、これは命令ではない。」と、ギディオンはこたえた。「わたしは、このような仕事をだれに対してもむりじいはしない。そして、おぬしについていく者も、自らの意志で行ってもらわねばならない。」
「では、わたしは、自らこの仕事をひきうけます。」と、タランはこたえた。
仲間の者たちが、賛成のつぶやきをもらした。
「ドンの子孫の船ははやい。」と、ギディオンがいった。「不死身の者をおくらせるのも、ほんのしばらくでよい。だが、万事が、そのしばらくにかかっている。」
「失敗したら」と、タランがいった。「それをどのようにしてあなたにお知らせしまょうか? 不死身があなたより先にアヌーブンにもどってしまったら、この策はうまくいきませんから、あなたもひきかえしてこなくてはならないでしょう。」
ギディオンは首を横にふった。「ひきかえすことはありえない。それで望みは絶たれるからだ。われわれのどちらかが失敗したとき、われわれすべての命はなくなる。」
フラサール、ヘフィズをはじめ、コモット人たち全員がタランについていくほうを選んだ。それにフルダー・フラムの軍の生き残りも加わったので、この二軍がタランの軍の主力となった。みんなをびっくりさせたのは、グルーが自ら加わったことだった。元巨人は、ともかく例によってぐちをいい暮すほどまでにはおびえが消えていた。もっとも、食欲のほうもすっかりもとにもどり、ガーギのまほうの袋のたべものを際限もなくねだっていた。
「わしは、今までさんざん首根っこをつかまえてあっちこっちひっぱりまわされてきた。」グルーは、指をなめながらいった。「こんどもまた、船に乗せられるか、馬の群れの中にほうりこまれるかだ。よろしい。馬の方にしよう。馬のほうなら、すくなくとも塩っからい水にぬれないからね。しかし、いっとくが、巨人だったときなら、どっちだって承知しやしなかったろうよ。」
フルダーは、元巨人をにらみつけ、タランにだけこっそりいった。「わしらは、どうやら、さまざまな難儀の上に、さらにあのなきごといたちを四六時中がまんして歩かねばならん運命であるらしいな。それに、わしはな、あのちっぽけな心の奥で、やっこさん私腹を肥やすことを考えているのじゃないかと思えてしかたがないんだよ。」吟遊詩人は、首を横にふって悲しそうな目でタランを見た。「しかし、私腹など肥して何になる? グルーが頭をかくすほどのかくれがすら、もうありはしないんだよ。」
ガーギは、白豚の旗を新しい竿にくくりつけたが、ぼろぼろになった紋章をながめて悲しげにため息をついてしまった。「あわれな豚っ子! もう、だれにも見えなくなってしまった。ひきさかれて、きれぎれ、ぼろぼろ!」
「かならず別のをつくってあげるわよ、すぐに……」エイロヌイはそういいかけて、ふいに口をつぐみ、それっきり何もいわずにルアゴルにまたがった。タランは、彼女の不安そうな目の表情に気づいた。リール王家の王女が刺しゅう針を手にできるのはずっと先になるだろう、とタランは思った。そして、口に出さないけれど、ひょっとしたらもうだれも二度とカー・ダルベンにもどれないのではとも考えていた。この過酷な競争がおわったとき、賞としてもらえるのは、死以外にないかもしれなかった。
戦士たちは、剣と槍で武装し馬にのって待機していた。タランとその仲間たちは、もう一度ギディオンに別れのあいさつをすると、山を西に向かった。
不死身たちは、もっともまがりが少ない最短の道を通って、ひたすらアヌーブンをめざすだろうというのが、コルの考えだった。雪をかぶった丘陵をくねくねとくだる軍団の先頭にはタランとならんでフラサールがいた。この若い羊飼いのすぐれた経験と知識が山をくだる旅を楽にしてくれた。かれは、カー・ダスルの谷からひきあげはじめたプリダイリ軍にみつからないようにしながら、すみやかに平地まで道案内をしてくれた。かれらは、そうして何日か旅を続けた。タランは、ひきあげる不死身に追いつけないのではと心配になってきた。だが、せいいっぱい急いで進みつづける以外に方法はなかったから、平地にくだってからは木のまばらな細長い森林地帯を南に向かった。
不死身の姿を最初にみつけたのはガーギだった。ガーギは、はげしい恐怖のために顔を灰色に変えて、岩が点々とちらばる広い野原を指さした。グルーは、はげしく目ばたきし、うっと息をつまらせた。かんでいたたべものをのみこむ力も失せたように見えた。エイロヌイは、何もいわずにじっと見ていた。吟遊詩人は、驚きのあまり、低くひゅうと口笛をならした。
まるで長い蛇のように野原を越えていく隊列を見たとたん、タランも闘志を失った。そして、たずねるようにコルの顔を見た。「あんなのをいくとめて遅らせられるのかなあ?」
「小石一つだって、なだれをそらすことができる。」と、コルはいった。「小枝一本が洪水をせきとめることもある。」
「ありえることだ。」と、フルダーがつぶやくようにいった。「だが、その後で小石や小枝がどうなるか、わしは考えたくないね。」
タランが、戦闘隊形を組むように戦士たちにあいずしかけると、コルがその手をおさえた。「まだはやい。まずはじめに、アローンの奴隷どもがどの道を通ってアヌーブンへもどるつもりかをたしかめたい。小枝に、くいとめ役を果たさせるには、うまく置かなくちゃならないのさ。」
その日一日、そしてつぎの日の午前中、タランの軍団は不死身の足にあわせて進み、前になったり、平行して進んだりしたが、片ときもその姿を見失わないように気をつけていた。タランの目には、不死身の足がおそくなったように見えた。黒い列はたえまなく動いていたけれど、重荷をせおったようにのろのろとしていた。タランがそれをいうと、コルが満足そうにうなずいていった。
「力がすこし衰えているのさ。時が、われわれに力を貸してくれているんだ。しかし、まもなく、われわれの力だけではたらくときがくる。」
やがて、タランの軍は、くねってのびる幅広い帯状の荒地に出た。右を見ても左を見ても、目のとどくかぎり草一本ない土地がつづいていた。生命のない地面は、でこぼこで、いいかげんにたがやしたような筋がついていたり、深いみぞが縦横に走ったりしていた。にごった赤い色の土からは、一本の木も、一株のやぶも生えていなかった。どこに目をやっても、ここで植物がそだったことがあるような跡はまったくみつらなかった。タランは、この荒地を不安な目でながめた。思わず、ふるえが体を走った。それは、つめたい風に吹かれたためばかりではなく、生命のない土地を凍った霜のようにつつんでいるしずかさのためだった。
タランは、声をひそめて「これは、どういうところなんだ?」ときいてみた。
コルが眉をしかめて「赤い休作地、と今はよばれているよ。」とこたえたが、しぶい顔でつけ加えた。「ちょうど今、わしのはたけもこんなふうになっているのじゃないかと思うよ。」
「その名前はきいたことがある。」と、タランはいった。「しかし、旅人のほら話だと思いこんでいたよ。」
コルが首を横にふった。「ほら話どころか。もうずいぶん前から、だれもがここは避けて通る。だが、むかしここはプリデインでも、もっとも美しい土地だった。どんなものでもまるで一夜でそだってしまうようなところだった。穀物も野菜もくだものも――そうだ、ここの果樹ばたけでとれたりんごの大きさと味にくらべたら、わしのりんごなんか風で落ちてしなびたりんごくらいにしか見えない。それくらいすばらしかったよ。だからここは、手に入れるために戦さをするだけのねうちがあった。たくさんの領主たちが所有権をめぐって戦ったよ。しかし、年々歳々この上で戦っているうちに、土地は軍馬のひづめにふみかためられ、戦士の血にけがされてしまった。そして、やがて土地は死んだ。ここを奪いあった連中もみな死んだ。そして、まもなく、土地の死は、戦場以外にもひろがっていったのだ。」コルは、そこでため息をついた。「わしはこの土地を知っている。こうしてまた見るのはいやなんだ。というのはな、若かりし頃、わしも戦闘隊に加わってここにやってきたからだ。そして、ここにわし自身の血もかなり流しているからだ。」
「二度とよみがえることはないだろうか?」タランは、広大な荒地を沈んだ目でながめながらたずねた。「ここから生まれる豊かな実りがあれば、プリデインは豊かな世界になれるんだ。ここをこんなありさまにしておくなんて、血を流すよりももっとひどい恥だと思う。手をつくしたら、この土もまたものを生みだすのじゃないだろうか?」
「そりゃ、だれにもわからん。」と、コルはこたえた。「たぶん、大丈夫さ。もうずっと前からだれもたがやしていないがなあ。しかし、ま、今はその話はやめだ。」コルは、そういうと、荒地の果てにくっきりとそびえ立つ山々の方を指さした。「赤い休作地帯は、ブラン=ガレズ山脈沿いに南にのびてアヌーブンのすぐそばに達しているんだ。ここからだと、この荒地は、アローンの領土にはいるいちばん長いもっとも楽な通路なんだ。わしの判断にまちがいがなければ、不死身はこの道をぐんぐん進んで主人のもとに帰るだろうな。」
「通してはならない。」と、タランはこたえていった。「ここで最初の抵抗をして、できるだけじゃまをしてやらなくちゃならない。」タランは、山の方をちらりと見た。「そして、山地へ追いこもう。岩の間やでこぼこの山道なら、わなをしかけたり、おびき寄せて待伏せしたりできる。われわれにできるのは、せいぜいそのくらいだ。」
「たぶんな。」と、コルはいった。「だがな、そうときめる前に、これだけは知っておいてくれよ。ブラン=ガレズ山脈もアヌーブンへの通路になっていて、それも近道だってことだ。あの山は西に向かうとけわしくなって、すぐに切り立った岩山になる。そこに、いちばん高い竜の山があって死の国の鉄門を守っている。きつい道だ――過酷で危険だ。わしらには不死身以上にこたえるよ。命を落とすこともある。やつらは死ぬことがないが。」
タランは、気づかわしげに眉をひそめたが、すぐにしかたなさそうにわらっていった。
「まったく楽な手はないもんだなあ。赤い休作地の道は楽だけれど長い。山道はつらいが短い!」タランは、首を横にふった。「ぼくにはきめるだけの知恵がないね。あんたの知恵をかしてくれないか?」
「決定は、武将がしなくちゃいけない。」と、コルがこたえた。「だが、カブやキャベツつくりの考えをいえば、力に自信があるなら山の方に五分の見込みかあると思うね。」
タランは、コルに向かってもの悲しげにほほえんでみせた。そして、しばらくしてから「ぼくは、豚飼育補佐ひとりの力には、ほとんど信をおいていないよ。だが、仲間の力と知恵は心から信頼している。いうとおりにしよう。われわれは、不死身を山に追こまなくてはならない。」
「じゃ、これもわきまいておいてくれ。」と、コルがいった。「おぬしがそうきめたのなら、今ここで、それもどんな犠牲をはらってでもやらなくちゃならない。もっと南へ行くと休作地は幅がひろがり、地面もひろびろして平らになる。だから、ここでしくじると、不死身は逃げおおせてしまい、こっちの手がとどかなくなる危険がある。」
タランは、にやりとわらってこたえた。「そういうことなら、かんたんだから豚飼育補佐にもよくわかる。」
タランは、戦士の列を後尾に向かいながら、これからの作戦を知った。タランは、エイロヌイとガーギには、できるだけ戦闘から遠ざかっているように注意をしたが、リールの王女がそんな警告をきくつもりがないだろうことはすぐにわかった。タラン自身は、自ら下した決定が心に重くのしかかっていた。騎馬の戦士たちが森林地帯のへりに集結し、前進して休作地をふさぐ瞬間が刻々とせまってくると、心中の疑いと恐怖はますます強くなった。タランは、ふいに寒さを感じた。でこぼこした荒地をささやくような悲しげな音をたてて吹き渡る風が、まるで真冬の水のようにつめたくマントにしみとおった。タランがコルに目を向けると、コルは目くばせを一つして、はげ頭をいきおいよくうなずかせてうながした。タランは角笛を口にあてて前進のあいずを吹きならした。
タランの軍勢はひとり残らず、コルの助言をいれて、太い枝を切って持っていた。彼らは縦隊になって、藁を運ぶアリよろしく、みぞが縦横に走るでこぼこの荒地を横切りはじめた。かれらの右の方に、大むかしは何かの境だったらしい、石のへいの廃墟があった。休作地の反対側近くまでわれた石がちらばっていて、けわしくそそりたつブラン=ガレズ山脈のふもと近くまでつづいていた。
タランが、苦しみながら進む戦士たちを、必死にせきたててつれていったのが、その廃墟だった。不死身たちは、すでにタランの軍をみつけたらしかった。まっくろな列の動きがはやくなり、休作地を横切ってぐんぐん進んできた。タランの軍は、みな馬からおりて走り、こわれた石べいのすき間に、持ってきた大枝を投げこんでふさいだ。不死身の隊列がぐんぐん接近してきた。かれらの隊列のわきには、部厚いオオカミの毛皮を着こんだアヌーブンの狩人たちが馬に乗ってつきそっていた。不死身の隊の隊長だった。かれらが荒々しくさしずする声が、むちの音のようにタランの耳にまできこえてきた。狩人たちは、タランにはわからない言葉で命令をさけんでいた。意味はわからなくてもあざけるようなひびきと、けだもののうなりに似たわらいのおそろしさはよくわかった。
不死身たちは、カー・ダスルのときとそっくりに、隊形をくずさず大またにひたひたと進んできた。すでに、重いブロンズの剣帯から剣を抜きはなっていた。皮の胸甲にびっしりとうってあるブロンズのびょうがにぶく光った。土気色の顔には、じっと見ひらいためとおなじように、まったく表情というものがなかった。
突然、隊長たちの角笛が、タカのなき声そっくりになりひびいた。不死身たちが緊張したかと思うと、つぎの瞬間、赤黒い大地をどすどすとふみながら、かけ足で突進しはじめた。
コモットの戦士たちは、石と大枝でつくった即製の防壁にとびあがった。不死身たちは古い石の壁にどっとおし寄せてのりこえようとした。フルダーは、リーアンとグルーを馬たちのところにのこし、長い枝をつかんで待っていたが、のぼってくる不死身たちの中に、大枝を槍にしてつきだした。そのとなりでは、ガーギが、太い枝をふりまわして、盛り上がってくる敵の波を必死にうちたたいていた。エイロヌイは、タランがびっくりしてやめろとさけんだのを無視して槍をくり出した。彼女のはげしい攻撃を受けて、まず不死身のひとりがころげ落ち、立ち上がろうともがくうちに、ぐいぐい押してくる味方にふみつけられてしまった。タランの軍は、さらに力をふりしぼり、口をきかない敵をけんめいにたたき、はらい、かわした。
「やつらがこわがっているぞ!」吟遊詩人が狂喜してさけんだ。「見ろ! やつらがにげる! こりゃ、すごい! 殺せなくても、おしもどすことはできるんだ!」
タランは、アヌーブンの狩人の角笛がかん高くなりひびくと、不死身たちがはげしくつき出される槍ぶすまをさけて、あわてふためいて向きを変えるのを見た。胸がおどった。不死身たちの隊長は、ほんとうにこの邪魔だてを恐れているのか、唖の軍団の力が弱ってくるのを恐れているのか? 希望的に見るのでそう思えるだけなのかどうかは、はっきりしなかったけれど、今でもすでに攻撃の波は弱まっているように感じられた。タランには、もう、この防壁での戦いがどのくらい続いているのかわからなくなっていた。空はまだ光が残っていたが、ひっきりなしに槍でつきまくりつづけてへとへとになっているタランには、この戦いが果てもなく続いているように思われた。
フルダーのさけんだとおりであることが、だしぬけにたしかめられた。ものいわぬ不死身の軍団がしりぞいたのだ。隊長である狩人たちが、退却をきめたのだった。馬に乗った指揮者たちは、えものがうまくかくれこんでしまい、いくらがんばってもむだなことに気づいたけものよろしく、角笛を口にあてて、長くひっぱるあいずを吹きならした。不死身の隊列がさっと向きをかえてブラン=ガレズの山々に向かっていった。
コモットの戦士たちが、どっと勝ちどきをあげた。タランは、いそいであたりを見まわしてコルをさがした。ところが、古強者は、防壁沿いに大あわてで走っていくところだった。タランは、大声で名前をよんだが、そのとたん、コルが何を見たかに気づいてぎょっとなった。一隊の不死身が本隊からはなれて、防壁のない壁のさけめから侵入してこようとしていた。
コルがそこに到着したとき、つんである石をのりこえはじめたところだった。老戦士は、すぐに不死身にぶつかっていき、槍をすてると太い腕で不死身をつかまえて投げ落とした。ほかの不死身たちが、さけめめがけてどっとおし寄せてきた。コルは、不死身たちのふるう剣をものともせず、自分も剣を抜きはなって右に左に切りまくった。剣が折れた。コルは、はげしいののしり声をあげると、折れた剣を投げすて、大きなこぶしをふるった。不死身たちは、コルをつかまえて自分たちの中にひっぱりこもうとしたが、コルはつかむ手をふりはらい、よろめいた不死身の手から剣を奪いとると、カシの大木を一撃で倒すようないきおいでふりおろした。
タランが、すぐに加勢にかけつけた。狩人の角笛が退却のあいずを吹きならした。タランも、この最後のはげしい攻防で、彼らの攻撃がほんとうに終わったことを知った。不死身たちは山をのぼりはじめた。赤い休作地帯はついに通過できなかったのだ。
コルは、頭からおびただしい血を流していた。血がぐっしょりとしみこんだ羊毛裏の上着は、不死身の剣でめった切りされていた。タランとフルダーがだきかかえて、すぐに壁の下までおろした。ガーギが、悲しげななき声をあげながら、あわてて手伝いにとんできた。エイロヌイがマントをひきちぎるようにぬぐと、でこぼこ石の上にしいて、老農夫をその上にねかせた。
「やつらを追え。」と、コルがあえぎながらいった。「一息つかせてはならん。小枝が洪水の流れを変えた。しかし、アヌーブンへの道をふさごうとしたら、ふたたび、三たび、いや何回も変えさせねばならん。」
「いや、たくましいカシの大木が流れを変えたんだよ。」と、タランがこたえていった。「ぼくは、またカシの大木にもたれかかったんだ。」そして、労働でごわごわになったコルの両手をとり、そっとおき上がらせようとした。
コルは大きな顔にわらいをうかべ、首を横にふってつぶやくようにいった。「わしは農夫さ。しかし、致命傷がわかるほどには戦士でもある。さ、進めよ。必要以上の重荷は背負っていかないことだ。」
「それじゃ、それじゃ。」と、タランはこたえた。「あんたは、ぼくに約束を破らせるつもりなのかい? いっしょにたがやし、いっしょに草とりをしようといっただろ?」しかし、そういいながら、タランの心は短剣にさされた傷口のように鋭いいたみを味わっていった。
エイロヌイが、悲しみに顔をゆがめて、心配そうにタランを見た。
「わしは、いつだったか、自分のはたけでねむりたいものだと思ったことがある。」と、コルがいった。「蜜蜂の羽音のほうが、狩人グウィンの角笛をきくよりずっとうれしかっただろうよ。しかし、わしは蜜蜂のほうをえらべないことになっていたんだな。」
「あんたをよび寄せるグウィンの角笛はきこえないよ。」と、タランはいった。「きこえるのは不死身に退却を命じる角笛だ。」だが、ちょうどそのとき、山々の上空にかすかな角笛の音があがり、消えゆくこだまが、おおいかぶさってくる影のように荒地に流れた。エイロヌイが両手で顔をおおった。
「わしらの作物の世話をたのむ。」と、コルがいった。
「ふたりでしよう。」と、タランはこたえた。「アローンの戦士とおなじように、雑草だってあんたにはかなわないさ。」
古つわものの農夫は、それにこたえなかった。しばらくしてから、タランは、コルが死んでいることに気づいた。
仲間の人たちが深い悲しみに沈みながら廃墟の石を集めている間、タランは、だれにも手伝うことをゆるさないで、ただひとりかたい地面を手で掘って墓穴をつくった。ささやかな塚ができ上がっても、タランはそこを動こうとせず、日暮れまでに追いつくからといって、フルダーをはじめ仲間のみんなに、いそいでブラン=ガレズ山脈にのぼれと命令した。
タランは、長い間だまって立ちつくしていた。上空が暗くなりはじめたとき、ようやく塚の前をはなれ、のろのろとメリンラスにまたがった。そして、またしばらくの間、赤土と自然石でつくった塚の前に馬をとめていた。
「やすらかに眠りたまえ、カブつくりにして、りんご集めの君よ。」タランは、ささやくようにいった。「君は、あこがれの地からはるかはなれたここにねむっている。わたしもおなじだ。あこがれの地ははるかに遠い。」
タランは、ただひとり、待ち受ける山々めざして、夜のやみがつつみはじめた休作地を横ぎりはじめた。
13 暗黒
それから何日もの間、タランの軍は、不死身に追いついて退路をふさごうと必死に進んだが、進みぐあいは気が狂うほどのろのろとしていた。タランにも、ブラン=ガレズの山々なら五分の見込みだといったコルの言葉の正しさがつくづくとわかった。岩を走る長いさけめ、人ひとり通るのがやっとの谷の細道、眼下のこおりついた谷川まで一気に落ちこんでいるがけなどは、鉄の川が流れるように進む不死身たちの足をおくらせる唯一の頼みだった。しかし、西にそびえる高い岩山からは、雪をふくんだ強い風が吹きおろしてきて、悪銭苦闘するタランたちに、まるで氷のハンマーのようにぶつかってきた。曲がりくねる山道はつるつるすべって危険この上なかった。せまい谷道には、雪でかくされた深い穴があり、馬も人も落ちたらそれっきりだった。
タランがもっとも信頼できる山地の案内人はフラサールだった。山地での経験が深いこの頼もしいコモットの若者は、今や、ふつうの羊とちがうもっと不機嫌な羊の群れの守り手になっていた。フラサールの鋭い感のおかげで、タランの戦士たちは雪にかくれたさけめというこおったわなから何回となくのがれることができた。その上、フラサールは、ほかのだれにもみつけられめない通路をみつけだしてくれた。それでも、見すぼらしいこの軍団の進みはおそく、人も馬も寒さに手ひどくいためつけられていた。巨大な山猫リーアンだけは、氷の針でもつきささるようにたたきつけてくる風にも平然としていた。
「あいつひとり気持よさそうにしてるよ。」フルダーが、ため息をつき、マントの中で身をちぢめた。ちょうど、リーアンが突然木の幹で爪をとぐことを思いついたので、しかたなく背中からおりたところだった。「わしだって、やつみたいな毛皮があったら気持がいいだろうがな。」
ガーギがもの悲しげな顔でうなずいた。このあわれな生きものは、山にはいってからというもの、日に日に毛ばだった雪のかたまりに似てきていた。山の寒さは、グルーの絶え間ないぐちまでとめてしまった。元巨人は、フードをまぶかにかぶっていたので、ぶらりとした鼻のしもやけした先のほか、顔はほとんど見えなくなっていた。エイロヌイまでがめずらしくだまりこんでいた。タランは、エイロヌイが自分とおなじように悲しみに沈んでいることを知っていた。
だが、タランは、むりやりその悲しみを心からはらいのけるように努めていた。そして、執ような追跡のおかげで、ようやく不死身を攻撃できるところまで追いついてからは、彼らのアヌーブンへの退路をおくらせる作戦だけしか考えなかった。一行は、着ているものが汗でびっしょりになり、それがつめたい風でこおるまではたらいて、赤い休作地帯のときとおなじように、木をつかってせまい谷に防さくをもうけた。しかし、こんどは、土気色の戦士たちが、もくもくと剣をふるって枝をたたき切り、さくを乗りこえた。絶望したコモットの戦士たちはおし寄せる敵と白兵戦を戦ったが、不死身たちは容赦なく切りたてて押し通った。タランとコモット軍は、大岩でふさごうとした。しかし、ヘフィズの大力が加わっても、この仕事は手にあまって失敗し、犠牲の戦死者が増えただけだった。
昼は、雪と風の白い悪夢、夜はどうしようもなくこごえた。タランの戦士たちは疲れ果てたけもののようにオーバーハングした岩の下や、山道のほんのちょっとしたくぼみなどにかくれて休んだ。だが、かくれてもほとんどむだだった。コモットの戦士がいることは敵に知られているので、かれらの動きはすばやく敵の隊長たちに気づかれた。最初、不死身たちはみすぼらしい追跡軍を無視する策をとっていた。ところが今はもう、退却の足がはやくなっただけではなく、積極的に戦うつもりなのか、タランの騎兵団にぐっと接近してきていた。
タランとならんで先頭を進むフルダーが、この変化を気づかった。
タランは眉をしかめ、陰気に首を横にふっていった。「そのわけは、もうはっきりしています。かれらの力は、アヌーブンから遠ざかるにつれて弱まります。近づくにつれてその力がもどるのです。だから、われわれの力が弱くなるにつれて、かれは強くなるのです。一回でぴしゃりとくいとめてしまわなければ、努力すればするほどこっちの力が弱くなるばかりです。これでは、まもなく」タランは、にがにがしげにつけ加えた。「アローンの戦士がのぞんでもかなえられないほどの手ひどい敗北を自らこうむってしまいます。」
しかし、タランは、味方のみんなが内心いだいているもう一つの恐れのことは口にしなかった。不死身たちは、日がたつにつれてはっきりと南に向きを変えはじめた。もう一度、ブラン=ガレズ山脈を出てはやくたやすく進める赤い休作地帯に向かいはじめているのだった。タランは、敵がこんなことをするのは、今もまだ追跡者をおそれ、どんなことをしてでもふりはらおうと努力しているためだと考えて、一応満足をおぼえたが心は浮き立たなかった。
その夜雪がふった。タランの軍は、つかれきっている上にふりしきる雪で先が見えないので追跡をやめて休んだ。すると、夜明け前、不死身が野営地に攻撃をしかけてきた。
最初、タランは、口のきけない戦士の一隊が見張りにぶつかって突破したのだと思った。だが、おびえた馬たちのいななきと剣のぶつかり合うさわぎの中で、戦士たちがあわててとびおきて武器をとるのを見て、タランはすぐに、敵の全勢力が味方の陣を突破しかけていることをさとった。そこで、すぐに、メリンラスに拍車をくれて戦いの中につっこんでいった。フルダーはリーアンにまたがると、グルーを腰にしがみつかせて、リーアンを大きく跳躍させながら、防戦に加わった。タランは突進する戦士たちの中でエイロヌイとガーギを見失った。不死身の隊列は、無情な剣そのもののように、コモット騎兵の陣列を分断し、じゃまする者はすべて打ち倒して抵抗をのぞき、ぐいぐい進んでいった。
一日中、不利な戦いがはげしくつづいた。コモット騎兵たちはなんとか軍をまとめようとしたがだめだった。日が暮れたとき、不死身の通った跡は負傷者と死者の血に染まっていた。不死身たちは、致命的な一撃を与えて追跡者をふり切り足早にぐんぐん山を下っていった。
エイロヌイとガーギが行方不明になっていた。タランとフルダーは、心配でいてもたってもいられない気持で、敗残の軍の間をいそいでまわってあるき、隊列をととのえさせた。傷ついてたおれ、戦死した友の死体の中でとほうにくれている落後者のために、集結地のしるしのかがり火がもやされた。タランは、一晩中、角笛を吹きならしたり、行方不明のふたりの名を大声でよんだりして必死にさがしまわった。どちらかの残したものでもみつかるかと、フルダーといっしょに戦場よりも遠くまで馬で行ってみた。何の手がかりもなかった。そして、あけ方にふり出した新雪が足あとをすっかりおおいかくしてしまった。
午前のなかばまでに、生き残った者がぜんぶ集結しおわった。不死身の通貨は馬にも人にも大きな死傷を与えていた。コモット軍は三人にひとりが倒れ、馬は半数以上が殺されていた。ルアゴルが、からっぽの鞍のままかけこんできた。エイロヌイとガーギは生死不明だった。
タランは、もうすっかり冷静さを失い、遠くの山々までさがしに出かけようとした。しかし、フルダーが、気づかわしそうなむっつりした顔で、タランの腕をつかんでひきもどした。
「ひとりでは、とうていみつからんよ。」と、詩人は警告した。「そして、捜索隊を出すひまも人手もない。あのきたないけだものたちを、赤い休作地帯にいれないようにするつもりなら、いそいで進まなくてはならない。コモットの友人たちは、もういつでも出撃できるようになっている。」
「あなたとフラサールが指揮をとってください。」と、タランはこたえた。「エイロヌイとガーギをみつけたら、なんとかして合流します。さ、出発してください、すぐに。すぐにまた会いましょう。」
吟遊詩人は、首を横にふった。「それが命令なら、そうする。しかし、コモットの民を白豚の旗じるしのもとに召集したのはさすらい人タランであり、かれらもさすらい人タランのために召集に応じたのだと、わしはきいている。彼らは、おぬしの指揮に従ったのだ。ほかの男のためだったら、これほどまでのことはしなかっただろう。」
「それでは、エイロヌイとガーギを危険にさらしたままにしろというのですか?」
「つらい選択だよ。残念ながら、だれもそのつらさを軽くしてやれない。」
タランは、返事をしなかった。フルダーのいうことは正しかった。だからよけいにつらく悲しかった。ヘフィズもフラサールも、タランとともに戦うことだけをのぞんでいた。フロニオは、カー・ダスルで命まで落とした。血筋の藻の親しい友を失わなかったコモットの戦士などひとりもいなかった。かれらをはなれてエイロヌイさがしに行ったら、当のエイロヌイが、その行動を認めないだろう。騎兵たちは、タランの命令を待っていた。メリンラスが、いらだって地面をしきりにひっかいた。
「エイロヌイとガーギが、すでに殺されてしまったのなら」タランは苦しげにいった。「もう手のほどこしようはない。生きているなら、自分たちの力でなんとかわれわれのところへやってくるだろう。それをのぞみ、そう信じるよりほかはない。」タランは、のろのろと馬に乗った。そして「生きているなら。」とつぶやいた。
タランは、しずまりかえる山々をふりかえってみたい心をおさえ、待っている戦士たちの方へ馬を進めた。
コモットの軍がふたたび進軍をはじめたとき、不死身たちは、すでにずっと先まで進んでしまい、ブラン=ガレズのふもとに向かって敏速に山を下っていた。コモット騎兵は、ときどきほんのすこし休むだけで力のかぎり馬をいそがせたが、失った貴重な時をとりもどすことは、ほとんどできなかった。
タランは、リールの王女がなんとかして味方の軍にもどってくるのではないかという万一ののぞみをすてず、毎日エイロヌイとガーギの姿が見えないかと目をこらして遠くを見ていた。しかし、ふたりとも消え失せたままだった。フルダーは、せいいっぱい陽気にふるまって、ふたりともそのうちひょっこりあらわれるさとうけあったが、その言葉はうつろにひびくばかりだった。
追跡を再開して三日目、午前もなかばをすぎた頃、ひとりの斥候が、軍の側面の松林の中で正体不明な動きが見えるという知らせをもってかけこんできた。タランは軍を停止させて、いそいで戦闘隊形を命じてから、フルダーといっしょに自ら偵察に行ってみた。道からやや低い松林の中をすかし見ても、枝の影が雪の吹きだまりの上にうつってゆれ動くような、そんなかすかな動きしか見えなかった。しかし、つぎの瞬間、吟遊詩人は興奮したさけび声をあげ、タランはあわてて角笛を吹きならしていた。
森の中を、ずんぐりと背の低い人たちが、長い列をつくって堂々と進んできた。全員が白いフードをかぶり白いマントで身をくるんでいるので、雪の上でほとんど姿が見えなかった。行列が雪のない小さな岩地を横切ったときになってはじめて、タランにもようやくひとりひとりの見分けがつくようになった。白いマントの下にほんのわずか、皮ひもでしっかり結んだ上部な皮ぐつがのぞいているので、なんだか木の切り株がとことこと歩いているように見えた。肩の上と腰のあたりのふくらみは、武器か食糧の袋のためだとタランは思った。
「こりゃ、おどろいた!」フルダーが、うれしそうにさけんだ。「あれが、もしわしの思っている……」
タランは、すでに馬からおりて、吟遊詩人についてこいと手であいずしながら斜面をかけおりていった。百人はゆうにこえる長い隊列の先頭を進んでくるのは、なつかしいずんぐりした男だった。その男も、白いフードとマントですっぽり身をつつんでいたが、燃えるような赤毛がフードの端からはみ出していた。小さな男は、片手に短くて重い戦斧を、べつの手には太い杖を持っていた。彼も、タランとフルダーに気がつくと、大またに近づいてきた。
つぎの瞬間、吟遊詩人とタランは、男の手をにぎったり、がっしりした肩をぽんぽんたたいたり、大声であいさつするやら質問するやら――とうとう相手は頭をかかえこんでしまった。
「ドーリ!」と、タランはうれしくてさけんだ。「わが友ドーリ!」
「そいつは、さっきから、もう五、六回はっきりきいたよ。」小人が、ばかにしたようにいった。「よもやこのわしを忘れてはおるまいと思ったが、やはり忘れてはいなかったな。おぬし。」ドーリは、両手を腰にあてると、いつものくせで、せいいっぱいつっけんどんなふりをして、きつい目であたりを見上げた。しかし、思わず知らず赤い目がうれしそうにきらきらし、顔が笑みくずれてしまった。ドーリは、いつものしかめっつらにもどろうとしたが、うまくいかなかった。
「おぬしのおかげで、かけずりまわされたぞ。」ドーリは、小人の戦士たちに向かい、タランにつづけとあいずして斜面をのぼりながらいった。「おぬしが山にはいったという知らせは受けとったんだが、きょうまでまったく姿が見えなくてな。」
「ああ、ドーリ!」タランは、こらえきれずにまた大声でそういってしまった。長い間会わなかった仲間に思いがけず出会って、まだ驚きからさめていなかったのだ。「いったい、どんな幸運にめぐまれて、あなたが来てくれたのかなあ?」
「幸運?」ドーリが、不平がましくいった。「夜も昼もつめたい風と雪のなかをてくてく歩きまわるのを、おぬしは幸運だというのかね? わしら妖精族はのこらず出動している――あっちこっちにな。エィディレグ王の命令なんだ。わしの軍勢は、おぬしをさがし出して、おぬしの指揮下にはいることになったんだ。わしにも異存はないし、プリデイン中で今助けがいちばん必要なのはおぬしだと思ったから、こうしてやってきたのさ。」
「ギスティルは、ちゃんとつとめを果たしてくれたんですね。」と、タランはいった。「あの人が妖精国にかえっていったことは知っていたんです。しかし、エィディレグ王が耳をかさないかも知れないと心配していたのです。」
「二つ返事で承知した、とはいわんよ。」と、ドーリがこたえた。「じっさいは、どなりつけそうになった。わしは、あの陰気な友がおぬしたちの苦境の知らせを伝えにもどってきたときその場に居合わせたんだ。エィディレグのどなりちらす声で耳がつんざけるかと思ったね。大まぬけめ! のらくらのばかめ! ぬけ作のでかぶつめ! とばかりに、かれがいつも人間について思っていることをわめいたさ。しかし、わめきちらしながらも、よろこんで力をかすことに同意したよ。なんやかんやいっても、うちの王さまは、おぬしが好きなのさ。なによりも、妖精族がカエルやモグラに変えられる危険をおぬしがふせいでくれたことをおぼえているんだ。あれは、妖精族に対して人間がしてくれたもっとも大きな助力だったから、エィディレグはその借りを返すつもりなんだよ。
「だから、妖精族は今進軍中だ。」と、ドーリは話をつづけた。「残念ながら、カー・ダスルには間に合わなかった。しかし、スモイト王には礼をいってもらってしかるべきだね。妖精族の一軍がかれと力を合わせて戦っているからな。北方の領主たちもいくさをおこす支度ができているが、それにもわしらは協力しているんだ。」
ドーリのいい方はあいかわらずぶっきらぼうだったが、こういう知らせを伝えられるのをとくいに思っていることははっきりわかった。かれは、妖精族が敵をだまして谷間全体にこだまをひびかせたため、敵はかこまれたと思ってにげたといういくさの話をおもしろおかしく語り、つづいてすぐにまたべつの妖精族武勇伝をはじめたが、タランの心配そうな表情に気づいてふいに途中でやめてしまった。そして、ふたりの仲間のことをタランからきくと、こんどはかれが心配そうに考えこんでしまった。タランの話がおわっても、しばらくはなにもいわなかった。
「エイロヌイとガーギのことは」と、ようやく小人は意見をいった。「フルダーの意見に賛成だな、わしは。なんとかやってのけるさ。そして、あの王女のことだ、一軍をおこして、先頭をかけていたってわしはおどろかんよ。」
「不死身のことは、まったくむずかしい。」と、ドーリはつぎの話にうつった。「わしら妖精族でも、ああいう生きものには対抗できる手はまあない。ふつうの人間ならだませるどんな策も、やつらには通じないんだ。不死身は人間らしくない――いや、人間味がすくないというべきだろうな。過去の自分についてはなんにもおぼえておらんし、恐怖を知らんし、希望ももってない。やつらの心を動かせるものは、何もない。」小人は、首を横にふってみせた。「それに、あのアヌーブンの申し子どもをなんとかして片づけちまわんと、ほかの戦場で勝ったってそれがむだになってしまう。まったく、ギディオンのいうとおりだよ。やつらをくいとめないと――そうだよ、わしらで力をあわせて、そいつをやらなくちゃならん。それははっきりしてることだ。」
そのとき、妖精軍が到着したので、コモット軍の間に、びっくりしたささやき声がさざ波のようにひろがった。彼らはみな、エィディレグ王の軍勢の戦闘のたくみさと勇敢さはうわさにきいて知っていた。しかし、妖精軍をじっさいに見たものはひとりもいなかった。かじやヘフィズは、小人たちの斧や短い剣に驚嘆の目を見張り、刃の鋭さもきたえもとうてい人間業ではないとほめていた。小人たちもそわそわと落着かなそうだった。なにしろ、エィディレグの戦士中でいちばん背が高いものでも、よやうくフラサールのひざぐらいしかなかったからだ。それでも、妖精の戦士たちは、育ちすぎた子どもでも見るようにしたしみのこもったものわかりのいい目つきで、人間の戦友たちを見ていた。
ドーリがリーアンの顔をやさしくたたいてやると、巨大な猫は親しみをこめてうれしそうにのどをならした。まっかな髪の小人は、そのとき、ふと、岩の上にうずくまってむっつりと新来の戦士たちをながめているグルーに目をとめ、びっくりして思わずさけんだ。「あれは、いったいだれ――いや、なんだ? キノコにしてはでかすぎるが、そうでないとしたら小さすぎる!」
「いや、よくたずねてくれた。」と、グルーがこたえた。「わしの身の上話くらいおもしろいものはないぞ。わしは元巨人であった。そして、現在の不幸なありさまは、あの連中――」といって、グルーはタランと吟遊詩人の方を不機嫌そうな目つきで見た。「すくなくともすこしは思いやりを見せてくれると思っておった連中が、まったく人への気づかいに欠けておったためなのだ。わしの王国――うむ、わしをグルー王とよんでくれたら、まことにありがたいのだがな――あの王国はモーナ島のな、世にもすばらしいコウモリの住む、世にもすばらしい洞穴であったよ。洞穴はまことに広大で――」
フルダーが両手でぴしゃりと耳をふさいでさけんだ。「やめてくれ、巨人! もうたくさんだ! おまえの洞穴やコウモリのはなしをきいているひまはないんだ。おまえがひどいあつかいを受けたことはわかった。自分でそういったんだからな。いいか、フラムの者は忍耐強い。しかし、こんど洞穴をみつけようものなら、きさまをほうりこんで残していくからな。」
ドーリは、じっと考えこむ顔つきになっていた。「洞穴か。」小人は、そうつぶやくと、ぴしっと指をならして、「そうだ、洞穴だ! おい、よくきいてくれ。」と早口にいった。「ここからせいぜい一日ほど進むと――うん、まちがいない――妖精の鉱山がある。もっとも質のよい宝石はとりつくしてしまったので、わしの記憶にあるかぎり昔から、エィディレグはだれもあそこにはたらく者をおいていない。しかし、はいれると思う。大丈夫とも! あの大坑道を進むと、赤い休作地帯の端に出る。あっという間に不死身に追いつくことができる。わしらの軍を合流させて、なんとかやつらをくいとめよう。どうやってくいとめるか、そいつはまだわからんが、今は問題じゃない。いざというとき考えればいい。」
ドーリは、あけすけににやりとわらっていった。「おぬしら、今は妖精族とともにあるのだ。わしらが何かをやるときには、ちゃんとやってのける。おぬしらの心配は半分なくなった。あとの半分だって、なんとかやってのけられる。」
グルーは、カー・ダルベンを出発して以来はじめて上機嫌になっていた。洞穴に似たところへ行くというので元気づいたらしいのだが、機嫌がよくなると、またまた巨人だったときの自慢話をべらべらと果てもなくはじめた。ところが、丸一昼夜しゃにむに進んだあげく、ドーリが切り立った高いがけの前で足をとめると、たちまち、こわそうにきょろきょろしはじめた。不安にかられて鼻をひくつかせ、さかんにまばたきをはじめた。小人がはいれと手まねきした廃坑の入口は、馬がやっとはいれるくらいのただの岩のわれめで、鋭い歯のようなつららがさがってきらめいていた。
「ちがう、ちがう。」と、グルーはへどもどしていった。「こんなの、モーナのわしの領土とはくらべものにならん。半分もない。いやいや、わしがこんな見すぼらしい穴をけつまずきながら歩くだろうなんて思ってはならないぞ。」
フルダーがえりがみをつかんでひきずりこまなかったら、しりごみしてはいれなかっただろう。
「もうやめろ、この巨人め!」と、吟遊詩人はどなりつけた。「みんなといっしょにはいるんだ。」しかし、このフルダー自身もいやいやながらといった態度で、リーアンをつれてはいった。「フラムの者は勇敢である。」と、この詩人はつぶやいた。「だが、わしは今までどうしても地下の通路のようなものが好きになれなかった。そういうものに運がないんだ。よくおぼえておけよ。通過しきらんうちに、モグラ同様穴掘りすることになる。」
タランは、洞穴の入口で足をとめた。ここをはいってしまえば、もうエイロヌイをみつけるのぞみはなくなる。手おくれにならないうちに、もう一度さがしたいという強いねがいに、ふたたびタランは苦しめられた。彼は気力をつくして、そのねがいを心からふりはらった。しかし、心を鬼にしてようやく吟遊詩人の後から穴にはいったとき、自分をそっくりすてたような気持だった。タランは、つまずきながらめくらめっぽうに暗やみの中にはいっていった。
戦士たちは、ドーリの命令でたいまつを用意していた。ともされたたいまつのちらちらする光で見ると、小人が案内してくれた穴の中は、ゆるい下り勾配の坑道であることがわかった。天然の岩壁の坑道は、タランが両手を上げると天井についた。コモットの戦士たちは、びくびくしている馬をひいて、とがった露頭や落ちている石をふみこえて進んだ。
このトンネルは、鉱山そのものではなく、宝石の袋を地上に運び出すために使った側坑の一つだとドーリは説明した。事実、小人のいったとおり、すぐに通路はずっと広くなり、岩の天井もタランの背丈の三倍ほどに高くなった。両側の岩壁には、木でつくったせまい足場が棚状についていたが、多くはすっかりくずれてしまい、角材が土の床に落ちて山になっていた。坑道は、木材の骨組みで天井を支えられて、えんえんとのびていた。しかし、骨組がくさって天井がくずれかけたところがあるので、人も馬も、石と土の山をのりこえたり迂回したり、細心の注意をはらって進まなくてはならなかった。身を切るような外の空気にくらべると、坑道の中は、つもったほこりとくさったにおいが重くよどんで息がつまりそうだった。戦士たちは、くねくね曲がった列になって、たいまつを高くかかげながら進んでいったが、こだまは、こうもりがとぶようにすっときえた。くねくねした影が足音をのみこんでしまうように思われた。おびえた馬のいななきだけが、音をのみこむ大気を切りさいてひびきわたった。
グルーは、坑道にはいってからずっと、ひっきりなしにぐちっていたが、突然びっくりしてかん高いさけびをあげ、かがみこんでなにかをひろいあげた。タランが見ると、元巨人の手の中で、こぶしほどもある宝石がたいまつの光を受けてきらきらかがやいていた。
フルダーもそれを見て、きびしい声で命令した。「もとにもどしておけ。ここは妖精族の宝の坑道だ。おぬしが住んでいたこうもりのいる洞穴とはちがうんだぞ。」
グルーは、ひろった宝石をしっかりかかえこんで金きり声をあげた。「わしのものだぞ! おぬしら、だれも気がつかなかったじゃないか。みつけたら、自分のもにしたくせに。」
ドーリは、その宝石をちらりと見て、ふんと鼻であしらい、タランにいった。「くずにすぎん。妖精族の職人は、だれもあんなものにひまつぶしはしないね。わしらは道ぶしんにだってあれよりは質のいいのを使う。あのきのこづらをしたおぬしの友人が、わざわざ持ってってくれるのなら、そりゃもう大歓迎だよ。」
それ以上すすめられるまでもなく、グルーは、あわてて、こしにさげた皮袋に宝石をしまいこんだ。元巨人のしまりのない顔に、食事の最中にしか見せたことのない表情がうかんでいた。
それからというもの、グルーは、思いもかけないほど元気を出して積極的に道をいそぎ、ガラスの玉のような目をたえずあたりに走らせるようになった。そして、のぞみはかなえられた。すこし進んだとき、たいまつの光を受けて、地面になかば埋まった宝石や、壁から突き出た宝石がきらりとひかって見えた。グルーは、すぐさまとびついて、小さな手で掘り出すと、ひかりかがやく結晶を皮袋にしまった。宝石がみつかるたびに興奮し、それがだんだんひどくなって、ひとりでくすくすわらったりつぶやいたりしていた。
吟遊詩人があわれむような目を向けてため息をついた。「やれやれ、ちびいため、ようやく自分のためになるものをかぎつけたというわけか。また地上に出たら、まあ、さぞかし役に立つことだろうて。石っころひとかかえ! 不死身になげつけるぐらいしか使い道はなかろう。」
しかし、グルーは、できるだけたくさんの宝石を集めようと必死になっていて、フルダーのいったことなど耳もかさなかった。あっという間に、元巨人の皮袋は、透明な赤い宝石、きらめくみどり色の宝石、水のようにすみきった宝石、まん中に金色と銀色がちらりときらめく宝石などでいっぱいになった。
戦士たちの長い列が坑道を奥へ奥へと進むにつれて、宝石の数はますますふえてくるように思われた。しかし、タランは、うちすてられた鉱山の富などすこしも考えていなかった。タランの計算では、まだせいぜい真昼頃のはずだったが、すでにかなりの距離をすすんでいた。そして、坑道がひろがり、道がまっすぐになってきたので、みんなの足はさらにはやくなっていた。
「口笛を吹くように楽なもんさ。」と、ドーリがうけあうようにはっきりいった。「せいぜいあと一日半で、休作地帯に出られる。」
「それだけが残された希望なんです。」と、タランはいった。「おかげで、その希望がかないそうですよ。しかし、休作地帯が難問でしてね。出たところが荒れ果てていれば、こっちの身を守るものはほとんどありませんし、不死身の道をふさぐ方法もまずないわけですからね。」
「ふん!」と、ドーリがはなあらしをふいた。「前にもいったことだが、おぬしは今妖精族といっしょなんだぞ。わしらが仕事にとりかかれば、けちなことやちっぽけなことはいっさいやらんのだ。今にわかるさ。なにかがちゃんと手にはいるよ。」
「けちでちっぽけといえば」と、フルダーが口をはさんだ。「グルーはどこにいる?」
タランは足をとめて、あわててあたりを見まわした。最初、元巨人の姿はどこにもなかった。そこで、たいまつを高くかざしてグルーの名をよんでみた。よんだとたん、どこにいるかわかった。タランは、ぎょっとしてかけよった。グルーは、宝をさがして木の足場によじのぼっていた。つぎの岩屋への入口にあたる骨組のすぐ上の岩天井に、グルーの頭ほどもある宝石がはさまってひかっていた。グルーは、せまい足場にあぶなっかしくつかまって力いっぱい宝石をひき抜こうとしていた。
タランは、大声でおりてくるようにいったが、グルーは、逆にいっそう力をこめて宝石をぐらぐらゆさぶってひき抜こうとした。タランも、グルーをおろすために棚にとびつこうとした。すると、ドーリが腕をつかんでひきもどし、かみつくようにいった。「やめろ! おぬしが乗ったら梁がおれる。」そして、低くひゅうと口笛を吹いて妖精族の戦士ふたりに足場の棚にのぼれとあいずした。足場の棚は、グルーと宝石のはげしい戦いのため、あぶなっかしくゆれはじめていた。「いそげ!」と、ドーリがさけんだ。「そのばかをおろしてくれ!」
ちょうどそのとき、すでにはち切れるばかりにいっぱいになっていたグルーの皮袋がさけた。宝石がきらめく雨となってざーっとこぼれ落ちた。グルーは、ああっとさけんで宝石をつかもうとして、あわてて向きを変えた。足をすべらしたグルーは、夢中で足場にしがみついた。グルーの重みで骨組全体がくずれた。グルーは、宝石どころか命のせとぎわにたたされて悲鳴をあげ、むちゃくちゃに両手をふりまわしてゆれている材木にしがみついた。どしーんという音をたてて、グルーが床に落ちた。骨組がたおれはじめ、天井がごごーっと鳴りだした。グルーは立ち上がると、ばらばらと落ちてくる石から大あわてでにげた。
「ひきかえせ!」と、ドーリがさけんだ。「みんな、ひきかえすんだ。」
戦士たちが馬の向きを変えさせようとすると、馬は恐怖していななき、竿立ちになった。耳をつんざくような音とともに上のほうの足場がくずれ、大きな岩や折れた木材がなだれをうって坑道におちてきた。土ぼこりが坑道に充満し、息がつまって何も見えなくなった。鉱山全体が震動しているようにみえたが、やがてしずまりかえって音一つきこえなくなった。タランは、ドーリとフルダーをよびながら木と石の山までよろめきながらもどった。戦士も馬も押しつぶされなかった。みんなのいた部分は天井がくずれなかったのでぶじだったのだ。しかし、行く手はどうしようもないほどにふさがれてしまっていた。
ドーリは、石と材木の山にはい上がって、長い梁材の端をひっぱって抜こうとしていた。しかし、小人は、すぐに息を切らせてやめてしまい、絶望したような表情でタランをふりかえると、声をあえがせながらいった。「むだだよ。この道を勧めたいのなら穴を掘りぬかなくちゃなるまいよ。」
「距離は?」タランはせかせかとたずねた。「いったいどれくらいかかる?」
ドーリは、首を横にふった。「よくわからんな。妖精族がやっても長くかかるよ。おそらく何日もな。どのあたりまでくずれたかわからないじゃないか。」ドーリは、腹立たしげに大声でいった。「こいつはみんな、あのうすのろちびの、二本足のキノコ巨人のおかげだぞ!」
タランはがっくりと気落ちしてしまった。「すると、どうなる? ひきかえさなくちゃだめか?」ドーリのきびしい表情を見て、返事はきく前にわかった。
ドーリは、ぶっきらぼうにうなずいて、「いずれにしても、おれたちはひどくおくれてしまっている。しかし、わしの意見がききたいというんなら、向きを変えてひきかえすんだな。地上をできるかぎりはやく進んで休作地帯に向かうんだ。もう鉱山は全体がもろくなってしまった。わしの判断にまちがいなければ、つづいて落盤があると思う。つぎの落盤となったら、今のように運よくにげられないかもしれぬ。」
「運よく、だと!」岩にぐったりとこしをおろしていた吟遊詩人がうめくようにいって、頭をかかえこんでしまった。「何日もむだになった! これで、わしらが不死身を攻撃するつぎの機会はだめになった。やつらはアヌーブンにたどりついてしまうだろう。こうなってしまっては、わしが幸運と思うことはただ一つ、あの欲深イタチが、やくたたずの宝石の山にうずまっていたらいいってことだよ。」
一方、そのグルーは、ようやく思いきってくずれ残った足場からはい出してきたところだった。着ているものは破れ、小さな丸い顔はほこりまみれだった。
「何日もむだになっただと?」と、グルーはなきながらいった。「不死身? 坑道がふさがれた? しかし、わしが一財産なくしたことを、ちょっとでも考えてくれたものがいるか? わしの宝石がなくなったんだぞ。すっかり。それなのに、おぬしら、ほんのちょっとの思いやりも見せないではないか。それは利己的だ。利己的だぞ! そうとしかいいようがない。」
14 光
エイロヌイ王女は、二つのことで腹を立てていた。一つは、仲間からはぐれたこと、もう一つは、捕われの身になったことだった。攻撃の最中に、王女は、タランやフルダーからぐんぐんひきはなされてしまった。ガーギが戦いのまっただ中から連れ出してくれなかったら戦死者の仲間入りをしていたにちがいなかった。攻撃の波が去った後、王女は、ガーギに守られながらやみにつつまれはじめた山をあてもなくよろめき歩いた。夜が来てそれ以上タランをさがせなくなったとき、ガーギが浅い洞穴をみつけたので、ふたりはその中にうずくまり明るくなるまでふるえていた。翌日、タランのたどった道をさがしあるいているうちに、突然襲撃された。
エイロヌイは大きな男につかまえられ、けったり、かみついたり、ひっかいたりして相手からにげようと戦ったがむだだった。べつな男が、ガーギを地面にたたきつけると、片手に短剣をかまえ、片ひざでガーギの腰をおさえつけて、うごけなくしてしまった。ふたりとも、あっという間に手足をしばられ、食糧袋のように敵の肩にかつぎ上げられた。どこへつれていかれるのかからないまましばらくはこばれていくと、暗くなっていく夕やみの中にたき火がちらちらし、十人以上のならず者たちが火をかこんですわっているのが見えた。
火のすぐそばにすわっていた男が顔を上げた。男は、よごれた羊の毛皮の上着に粗末なマントをはおっていた。鈍重そうな顔は無精ひげがいっぱい、黄色っぽい長い髪はもじゃもじゃにもつれていた。
「えものをさがしてこいといったのに、とりこを連れてきやがったか。」男は、しわがれた声でいった。「いったい、なにをみつけてきたんだ?」
「つまらねえひろいもので。」エイロヌイを捕えた男がこたえて、怒り狂っている荷物をガーギのかたわらにどさりとおろした。「土百姓ふたりほどのねうちでしょうかね。」
「おそらく、一文にもならんだろう。」と、鈍重そうな顔の男が火の中にぺっとつばをとばしていった。「のどをかっ切っちまえば、わざわざ運んでこなくてよかったのに。」男は立ち上がると、大またにとりこのところへやってきた。そして、首をしめころすつもりなのか、ねとねとした爪のわれた手をのばしてエイロヌイの首をつかんだ。「おい、子ども、きさまの名は?」男は青い目をしかめて耳ざわりな声で質問した。「だれの家来だ? 身代金になるものは持ってるか? おい、ドーラスにものをきかれたら、さっさとこたえろ。」
その名をきいて、エイロヌイは息をのんだ。ドーラスの名は、タランからきいていた。そのとき、ガーギがおびえてうめいた。かれにもこのならず者がだれだかわかったのだ。
「返事をしろ!」ドーラスがさけんで、くそっとののしった。エイロヌイの顔に平手打ちをくらわした。エイロヌイは、頭ががーんとしてしまい、よろめいて倒れた。すると、上着から金の玉がころげ落ちた。エイロヌイはしばられたままもがいて金の玉を体でかくそうとした。長ぐつが玉をけとばした。ドーラスがかがみこんで玉をひろいあげ、たき火の光でひねくりまわしてしらべた。
「なんだい、それ?」ならず者のひとりが、そういってにじり寄ってきたが、玉を見ておどろきのあまり口をあんぐりあけた。
「金だな。」と、べつのひとりがいった。「おい、ドーラス、そいつを割ってみんなに分けてくれ。」
「手を出すな、ブタ野郎ども。」と、ドーラスがすご味をきかせた声でいって、金の玉を上着のかくしにしまった。がやがやと不満の声があがったが、ドーラスはすごい目つきでにらんでだまらせると、エイロヌイの上にかがみこんだ。「きさま、こんながらくたをどこで盗み出してきた。え、このちんぴらぬすっと。きさま、頭を肩の上にのっけておきてえだろ? それだったら、こういう宝がどこにあるかを申し上げろ。」
ガーギは、はげしく歯を鳴らして顔を羊の上着の中にかくし、肩をせいいっぱいちぢめていた。
「きさま、このおれに亀のまねをするつもりかよ?」ドーラスは、しわがれたわらい声をたててそういうと、太い指をガーギの髪にからませてぐいと顔を上げさせた。「きさまが顔をかくしたがるのも、もっともだ。こんなみにくい面は見たことがない!」
ドーラスは、ふいに、はっとしたように声をのみ、さらによくガーギをながめた。「みにくい上に、たやすくは忘れられぬつらよ。そうだったなあ! きさまとおれとは古いなじみだ。一度、おれのもてなしを受けたやつだ! この前でっくわしたとき、きさまは豚飼いの仲間だったな。」ドーラスは、そこでエイロヌイに目を向けた。「だが、こいつは豚飼いとちがうな。」
ドーラスは、エイロヌイのあごを右手ではさんで左右にゆさぶった。「このひげのない子ども……」そこで、びっくりしてうめくと、「なんだ、それじゃ、男のがきじゃないのか? 男じゃない! むすめっ子だ!」
エイロヌイは、もうだまっていられなかった。「むすめっ子とはなによ! わたしは、リールの王女レガトのむすめアンハラドの、そのまたむすめエイロヌイよ。しばられるなど大きらいです。たたかれることもこのまぬ。いじりまわされるのもこのまぬこと。さ、即刻おめなさい!」そして、しばられたままで、いきおいよくならず者をけとばそうとした。
ドーラスはわらいながら一歩後ろにさがった。「たしか、あの豚飼いの殿がきさまの名を口にしていたよ。」そういって、ふざけ半分に深く頭を下げた。「ようこそ、めぎつね王女さま。あなた様なら、この上ないえものでございます。ドーラスとあなたの豚飼いの間には、片づけなくてはならぬ貸し借りがたんとありましてな。あなたのおかげで、ドーラス一党はすこしは借りがはらえることを光栄に存じます。」
「では、即刻、わたしとガーギを解はなす光栄を与えてとらせよう。」といって、エイロヌイはドーラスにとびかかった。「そして、この手にあの安ぴかをとりもどす。」
ドーラスの顔が、怒りで赤黒いぶちになった。「解き放してやる。」ドーラスは、声を押し殺していった。「しばらくしてからな。きれいな王女さんよ、もうしばらくしてからな。きさまを豚飼いとちょうど似合いにしてやってから、あの豚飼いのところへかえしてやるよ。あの男なら、きさまの美しさがちょっとでものこっていれば、ちゃんと見つけてくれるだろうさ。」
「あなたこそ、タランにみつかったら、自分がちょっとでものこしてもらえると思う?」エイロヌイは、いいかえした。リールの王女は、今までずっと冷静だったが、このならず者の冷たい目の奥にある考えをさとると、はじめて強い恐怖を感じた。
「豚飼いの殿とおれは、時が来たらちゃんとかんじょうにけりをつける。」と、ドーラスはこたえていった。そして、にやりと笑って顔を近づけてきた。「だが、あんたとは今けりをつける。」
ガーギが、しばられたままころげまわってさけんだ。「かしこくおやさしい王女さまに危害を加えてはいけないぞ! ようし、ガーギ、この有害なる邪悪なふるまいのむくいを与えてやる!」ガーギは、ドーラスに体をぶつけて、片足にかみつこうとした。
ドーラスは、ののしり声をあげると、ガーギの方に向きを変え、すらっと剣をひきぬいた。エイロヌイが、あっと大声をあげた。
ところが、ならず者が剣をふりおろそうとしたとたん、つき出た岩の上から、なにか長いものがふいにとび出してきた。ドーラスが、押し殺したようなさけびをあげて、剣を手から落とし、後ろ向きに倒れた。全身を毛におおわれた黒い影が、歯をむき出してうなりながらドーラスののどにくいついた。火をかこんでいたならず者たちが、恐怖のさけびをあげてわらわらと立ち上がってにげた。灰色の影が、ぐるりとをとりまいていた。影はさっとならず者たちにおそいかかった。ならず者たちは、必死ににげようとしたが、どこへ逃げても、しなやかな体を持つ影の力とかみつくきばに押しかえされて地面にたたきつけられた。
ガーギが、恐ろしくてたまらず、金切り声をあげた。「おたすけ、ああ、たすけてください! 悪霊たちがころしに来た!」
エイロヌイは、一生けんめい身をおこして立ち上がった。なにか鋭いものが後ろ手のつなをかみ切ってくれるのがわかった。すぐに、手が自由になった。エイロヌイは、灰色の影が足のつなをかみきっている最中に、もうよろめきながら歩き出した。目の前に、動かなくなったドーラスが倒れていた。エイロヌイは、すばやくひざをついてならず者の羊皮の上着の中から金の玉をとりもどした。片手でつつむように持つと、金の玉から黄金の光が流れ出て、目の前にすわっている大きなオオカミを照らし出した。大勢のオオカミたちが、あらわれたときとおなじようにすばやく姿を消していくのが、たき火の光でちらりと見えた。かれらが消えると、あたりはしずまりかえった。エイロヌイは思わず身ぶるいして目をそらした。オオカミたちは、じつに手ぎわよく目的を果たして消えたのだ。
ガーギは、胸に星のような白い毛のある灰色のめすオオカミにつなをかみ切ってもらった。ならず者たちの手からぶじにのがれられたのはうれしかったが、助けてくれたのがオオカミなので、ガーギはひたいにしわを寄せてこわごわ恩人の方を見た。オオカミのブリアバルは、黄色い目をしばたたいて、にやっとわらってみせた。それでもまだガーギは、できるだけはなれているようにしていた。
エイロヌイの方は、自分でもびっくりするほど、恐怖も不安も感じていなかった。オオカミのブリナックは、すわり立ちの姿勢でエイロヌイをじっと見つめていた。エイロヌイは、毛深くてたくましいオオカミの首に手をおいていった。
「わたしたちの感謝の気持がわかってくれたらねえ。わかってくれるかしら、あなたたち。わたし、ずっと前に一度だけオオカミと親しくなったことがあるんだけれど、かれらは、ここからはるかにはなれたメドウィンの谷に住んでいるの。」
それをきくと、ブリナックがあまえるような声をたてて、しっぽを左右にふってみせた。
「あら、今のはことはわかったのね。メドウィンは……」エイロヌイは、ふとためらった。「オオカミは二匹だった……」そして、ぱんと手をたたき、「あら、そうだったの! わたし、オオカミの見分けがつくなんてうそはいわないわ。とにかく、ちょっと見ただけではわからない。でもあなたには、たしか見おぼえがあるわ……ま、とにかく、あなたがあのときのオオカミなら、また、こうして会えてほんとうにれしいわ。どうもありがとう。わたしたち、これで出かけられるわ。もっとも、正直いえば、どっちへ行ったらいいのか、はっきりわからないのよ。」
ブリナックは、にやりとわらっただけで、立ち去る気配を見せなかった。そのままじっと腰をおとしてすわったまま、大きく口をあけて一声高くほえた。
エイロヌイは、ため息をついて首を横にふってみせると、「わたしたちはね、まいごになって仲間をさがしているところなの。でも、豚飼育補佐なんて、オオカミ語でどういったらいいか、まるで見当がつかないのよ。」
一方、ガーギは、魔法の食糧袋をひろいあげて肩にかけたところだった。そして、ブリナックとブリアバルが安全だとようやくわかって、大いに興味をひかれ、すこし近づいて、二匹をじっとながめた。オオカミたちも、やはりぐっと興味をひかれたらしく、ガーギをさかんにながめていた。
エイロヌイが、ガーギに向かっていった。「この二匹は、力をかしてくれるつもりらしいわ。なんとか話がわかったらねえ! オオカミの思っていることすらわからないなんて、わたしの体に流れている女魔法使いの血もしかたないわねえ。」そういったとたん、エイロヌイは、はっと口をつぐんだ。そしてすぐに、「あら――たしか、今わかったわよ! きっとそうだわ! ほら、片方のオオカミがたった今『話してください!』っていったわ。ちゃんときこえ――いいえ、……きこえるんじゃない、わかるんだわ!」
エイロヌイは、呆然とした顔つきでガーギを見ながらいった。「言葉じゃないの。耳できくのじゃなく心でききとるといった感じ。ちゃんとわかるのだけれど、どうしてわかるのか、さっぱり見当がつかないの。でも、このことなのね。」エイロヌイは、ふしきだというようにつけたしていった。「タリエシンがあのときいったのは。」
「ああ、偉大な知恵!」ガーギは、思わずさけんだ。「ああ、かしこい頭! ガーギも、じっと耳をかたむけることがある。しかし、ガーギの心には、おなかがからっぽのときの、ごろごろ、ぶつぶつしかきこえてこない! ああ、なさけない! ガーギ、王女さまのように、深い秘密きくこともできない。」
エイロヌイは、ブリナックのかたわらにひざをつくと、早々にタランのこと、仲間たちのこと、そしてかれらの身におこったことを話した。ブリナックは両耳を立ててじっときき入っていたが、やがて、するどい声でほえると、大きな体をぐっと立て、部厚い毛につもった雪をふりはらって、エイロヌイのそでをぐっとくわえてひっぱった。
「ついてこいっていってるわ。」と、エイロヌイがガーギにいった。「行きましょ。わたしたち、もう安心できる人に守られているのよ。いいえ、安心なけだものに、ね。」
二匹のオオカミは、エイロヌイにはみつけられないかくれた通路を、音もなくぐんぐん進んだ。エイロヌイとガーギは、一生けんめいブリナックのはやい足に合わせて歩いた。しかし、どうしても、しばしば立ちどまって休まなくてはならなかった。すると、二匹のオオカミは、それが当然というように、ふたりがまた歩けるようになるまで、しんぼうづよく待ってくれた。そんなとき、ブリナックは、エイロヌイのかたわらにうずくまって、両の前足の上に灰色の頭を乗せていたが、まどろみもせず、どんなかすかな音にも敏感に耳をうごかしていた。ブリアバルも、見張りと案内役をつとめ、岩のてっぺんにぴょんととび上がっては空気のにおいをかいだ。そして、出発できるようになると、ふたりに向かってついてこいと頭をふってあいずしてくれた。
二匹のほかのオオカミたちは、ほとんど姿が見えなかった。しかし、エイロヌイがほんのちょっとまどろんで目をさますと、オオカミたちが円陣をつくって自分を守っているのに何回か気づいた。彼女が眼をさますと、すらりとした灰色のけものたちは、あっという間に姿を消し、ブリナックとブリアバルの二匹だけになるのだった。まもなく、エイロヌイは、ブラン=ガンズ山中にいる動物が、オオカミだけでないことに気づいた。一度、熊の大群が長い一列になって尾根をゆっくり進んでいくのが見えた。熊たちは、一瞬動きをとめて、せんさくするようにエイロヌイたちをうかがったが、またそのまま進んでいった。つめたく澄んだ大気が、遠くのきつねのなき声や、あいずのこだまとも、それへの返答ともつかない正体不明の音を運んできた。
「動物たち、山中を偵察しているのよ。」エイロヌイが、岩ばかりの頂に突然姿を見せた一頭の牡鹿を指さしてガーギにいった。「ならず者たちは、ドーラスたちのほか、何組ぐらいうろついているのかしら。熊やオオカミたちにきいたら、あまり多くないっていうのじゃないかと思うわ。」
ブリナックが、その言葉をききつけたように、ちらっとエイロヌイを見て舌を出し、黄色の目をしばたたいた。ずらりとならんでにぶく光る歯を見せたその口は、たしかにほほんえでいた。
オオカミと人は進みつづけた。日が暮れると、エイロヌイは金の玉をひからせ、高くかかげてあるいた。すると、オオカミの群れがふたたび集合し、エイロヌイをはさんで金色の光のすぐ外側をならんで進んでいるのがわかった。熊の群れも後につづいていた。ほかの森のけものたちもついてきているのが、見えないけれど気配でわかった。
ブラン=ガレズ山中には、命をおとしかねない危険な場所がたくさんあった。しかし、リールの王女は、ついにそのことにきづかなかった。彼女とガーギは、油断なく目をくばってくれる物言わぬ護衛に守られて、まったくぶじに通過したからだった。
翌日の午前、かなり時がたった頃、今までずっと進路の斥候をつづけていたブリアバルが、興奮して先をいそぎはじめた。彼女はしきりにほえて、高い岩の上にかけ上がり、西の方を向いてはしっぽをはげしくふって、エイロヌイとガーギをはやくはやくとせきたてた。
「タランをみつけたんだと思うわ!」エイロヌイが、興奮してさけんだ。「なにをいってるのか、はっきりとはわからないのよ。でも、みつけたっていっているらしいの。人と馬、だわ! 山猫――これはリーアンのことね! でも、こんなところで、あの人たち何をしようとしているのかな? また赤い休作地帯に向かうのかしら?」
エイロヌイもガーギも、仲間にまた会いたくて、はやり立つ気持をおさえられなくなった。食事のために足をとめることも休むこともしなくなった。エイロヌイが、けわしくなる一方の山中を、危険をものともせず進もうとするので、ブリナックはひんぱんに、彼女のマントをくわえてひきとめなくてはならなかった。ほどなく、深い山のくぼみのへりに出たとき、エイロヌイが、だしぬけにうれしそうなさけび声をあげた。
「見えるわ! 見える!」エイロヌイが、いそいで眼下の広々とした谷間をゆびさした。ガーギがかけよってきて、うれしさのあまりとびはねはじめた。
「ああ、あれは親切なご主人です! まちがいない。それに勇敢な吟遊詩人! アリくらいにしか見えない。でも、目のよいガーギにはちゃんとわかる!」
エイロヌイも、目をこらせば、小さい姿がどうやら見分けられた。それほど遠かった。谷間までの下り道は長いので、きょういっぱいかかりそうだった。夜にならないうちになんとか追いつきたかった。エイロヌイは、急な斜面をかけおりようとして、はっと足をとめてさけんだ。
「いったい、なにをするつもりなのかしら? あの岩壁に向かっていくわ。洞穴? あっ、今最後の馬と人がはいっていく。あそこが洞穴だとしたら、プリデインでいちばん大きな洞穴にちがいないわ。どうしてあんなことをするのかしら? なにかの通路があるのかしら? それともトンネル? ああ、じれったい! 豚飼育補佐のことだから、かくれんぼでもしようなんて思いついたのかもしれない。」
エイロヌイは、大いそぎで、道をひろいながら急な斜面を下りはじめた。どんなにいそいでも、斜面は終わらなかった。ブリナックとブリアバルが助けてくれたけれど、半分ほど下ったところで太陽が西に傾き、ものかげが長くなりはじめた。突然、ブリナックが立ちどまり、のどの奥で低いうなり声をあげた。首の毛を逆立て、歯をむき出した。下の谷間をじっとにらんで、不安げに鼻をひくひくさせた。エイロヌイも、すぐに、ブリナックが立ちどまったわけを知った。戦士の長い列があらわれ、西に向かっていそぐのに気づいたのだ。
ブリアバルが、かん高い鼻声をあげた。エイロヌイは、そのめすオオカミの声に、恐怖とにくしみを感じとった。それも当然だった。
「アヌーブンの狩人!」と、王女はさけんだ。「アヌーブンへもどるところだけど、何百って数だわ。タランは、もう大丈夫とは思うけれど、足あとがみつかりませんように。」
そういったとたん、遠くはなれた岩壁のところで何かが動いたので、エイロヌイは、あっと口に手をあててしまった。暗さを増していく夕やみの中に、タランとその軍勢の豆つぶのようなすがたが、つぎつぎにまたあらわれ出たのだ。
「だめだわ!」エイロヌイは、あえぐようにいった。「また出てきてしまった!」
高いところにいるので、エイロヌイには谷間がよく見えた。そして、コモット軍と狩人たちが、おたがいに気づかないまま接近しつつあることが、突然きわめてはっきりとわかった。
「みんなやられてしまう!」と、エイロヌイはさけんだ。「タラン! タラン!」
こだまは、雪をかぶってひろがる斜面の上で消えてしまった。タランには、エイロヌイの姿も見えず、さけび声もきこえなかった。今谷間は夜のやみにのみこまれ、もはやさけられない二つの軍の衝突を王女の目からかくしていた。それは、いくら動いても役に立たない悪夢の中にいる思いだった。まちがいなくはじまる屠殺を、ただ待つしかない悪夢だった。エイロヌイは、両手をしばられ口をふさがれているように思った。
エイロヌイは、タランの名をよび続けながら、マントの中から金の玉をいそいでとり出した。ぐっともち上げた。金の玉が、見る見る光り出した。オオカミたちがおびえてにげ、ガーギは両のうででぱっと顔をおおった。玉の光は、山腹から突然太陽がのぼったかのように、ひろがり、のび、雲にまでとどいた。黒いがけや黒い木の枝々が光をいっぱいに浴びて、まばゆくくっきりと姿をあらわした。谷間全体が、まひるのように明るくなった。
15 氷の河
突然、谷間中にみなぎりわたった黄金の光をあびて、アヌーブンの狩人たちはあっとさけび、整然と進軍中だった軍列が恐怖にゆれた。狩人たちはひるんで、深い谷間ににげこんだ。タランは、すぐに、自分たちコモット軍が致命的なわなにおちいる寸前だったことに気づいた。しかし、かれの口からは歓喜のさけびがあがった。
「エイロヌイ!」
タランは、メリンラスを駆って谷間を横切り、山腹までつっ走ろうとしたが、フルダーがあわててとめた。
「待て、待て! あの子はちゃんとわしらをみつけたんだ。こりゃ、まぎれもなく、あの子の安ぴかおもちゃの光だ! いや、おどろいたなあ! あれで、わしらを救ってくれたんだ。ガーギもまちがいなくいっしょにいるよ。しかし、あのふたりのところへすっとんでいけば生きてもどってはこられないぞ。狩人がいるのがわかったからな。あっちだって、わしらに気づいたにきまっておる。」
ドーリは、大きな岩の上にのぼって、にげていく狩人たちを偵察していた。エイロヌイのあいずの光は、あらわれたときと同じように、たちまちぱっと消え失せ、谷間はふたたび冬の夜の闇に呑みこまれた。
「まったく危ないところだった!」小人は、うめくようにいった。「えりにえって、地上に出たとたん奴らにぶつかりそうになるとはなあ! ここの鉱山はもう使いものにならんし、ほかの通路までは、あと一週間あるかなくてはならないんだ。それだって、狩人の軍に道をふさがれたら行きつくことはできない。」
フルダーは、剣を抜きはなっていた。「攻撃しよう! あのきたない悪者どもはすっかりおびえておる。今だったら戦意をなくしておるだろう。不意に攻めかかろうじゃないか。そうとも、こいつは、やつらにとっちゃ予想外のことだぞ。」
ドーリが、ふんと鼻をならした。「おぬし、行動の中に知恵分別をおいてきちまったな! 狩人を攻撃する? ひとりを殺して、のこりのやつらをその分だけ強くするっていうのか? 妖精族だってあのごろつきどもを攻撃するとなったら二の足をふむんだ。いやいや、わが友よ、そいつはむだってもんだ。」
「わしが巨人だったら」と、グルーが口をはさんだ。「奴らを追いはらうのなんて、いともかんたんだったがなあ。だが、わしの落度ではなく事情が変わってしまった。それも好いほうに変わったとはとてもいえない。たとえば、モーナにいたとき、ある日、わしは、あの生意気なコウモリどもをほんとうになんとかしなくてはと決意した。これは興味ある話でな……」
「だまっておれ、このちびめ。」と、吟遊詩人がどなった。「おまえのおしゃべりも、ばかげたふるまいも、もうたくさんだ。」
「わかった、わかった。なにもかも、このわしのせいにするがいい。」グルーが、べそかき声でいった。「ギディオンの剣が盗まれたのもわしのせい。不死身が逃げたのもわしのせい。ほかのいやなことも、みんなわしのせいだ。」
吟遊詩人は、元巨人のぐちっぽいおしゃべりにいいかえそうともしなかった。タランは、コモットの戦士たちを比較的安全な坑道の入口にひっこませてから、仲間のところへもどってきた。
「わたしも、ドーリのいうことが正しいと思います。狩人を攻撃するのは、わたしたちの破滅になるだけです。わたしたちの力は、今すでにひじょうに弱くなっています。これをむだに使う気にはなれません。もうかなりおくれてしまっていますから、ギディオンを援護することも、すでに手おれかもしれないのです。だから、狩人がいても、なんとか先をいそぐ策をみつけなくてはなりません。」
ドーリが首を横にふった。「それだってだめさ。やつらは、おれたちがここにいることを知っている。こっちの動きはちゃんとわかってしまう。わかったら必ず追いかけてくる。ということになるから、こいつは、夜明け前に必ず攻撃をしかけてくるぞ。こなかったらふしぎだね。みんな、しっかりとわが身を守れよ。五体満足も今夜かぎりかもしれん。」
「ドーリ」と、タランが力をこめていった。「こうなったら、あなただけが頼りです。狩人の野営地を偵察してきてくれませんか? かれらの策をできるだけ盗みぎきしてください。姿を消したときの感じがどんなだか知っています。しかし……」
「姿を消す!」小人は、片手を頭にぴしゃっとあててさけんだ。「早晩こうなるとは、わかっていたんだ。いつもこうなんだ! あのドーリのやつ、ってことになるんだ! 姿を消すのか! 今できるかどうかわからんぞ。忘れようとつとめてきたんだからな。あれをやると耳がいたくてな。あのいたみよりは、頭の中にクマンバチやスズメバチをいれられる方がまだいい。だめだ、だめだ、問題にならん。ほかのことならなんでもきくが、あれはいやだ。」
「ドーリ、ぼくらのドーリ、きっとやってくれると信じていたのに。」と、タランがいった。
ドーリは、もう一度しぶってみせたが、それを本心と思ったのは、おそらく本人だけだったろう。結局、燃えるような赤毛の小人は、タランのたのみをききいれた。目じりにしわを寄せてしっかり目をつぶり、氷のように詰めたい水にとびこむときのようにぐっと息を吸いこんだと思ったとたん、ぱっと消えた。押しころしたぐちがきこえなかったら、タランにも、そこにドーリがいるとは信じられなかったろう。見えない足にふまれた小石がかちっと音をたてたので、タランにもやっと、小人がトンネルの入口から敵陣に向かっていったことがわかった。
妖精族の軍は、ドーリの命令で、トンネルの外に、大きな半円状に見張りを立てていた。かれらの鋭い目と耳なら、どんな不穏な動きも音ものがすはずがなかった。タランは、この戦士たちがまったくひっそりしていて、声一つたてず、ドーリにも劣らないほどうまく姿をかくしているのを見て心からおどろいてしまった。白いマントのおかげで、くもから姿を見せはじめた月の光で見ると、小人はたちは氷におおわれた石か、霜をかぶった草むらとしか見えなかった。騎兵たちは、こごえないように、馬の間にうずくまってまどろんでいた。グルーも、すぐそばで丸くなってねむっていた。トンネルをはいったすぐのところでは、フルダーが、岩の壁に背をもたせ、片手をたて琴に、片手をリーアンの大きな頭にのせてすわっていた。リーアンは、フルダーのわきにねそべって、小さくのどをならしていた。
タランは、マントにすっぽりくるまって、エイロヌイの信号の光が最初にあらわれた山腹をじっとながめ、あらためて強いおどろきを感じていた。「彼女は生きている。」と、タランはささやき声で自分にいってみた。「生きているんだ。」と何度もささやいてみた。その言葉を口にするたびに心がおどった。ガーギもいっしょだということを、なぜかタランは信じてうたがわなかった。ふたりともぶじだということを体中で確信していた。一匹のオオカミのほえる声が、身を切るような大気にのってきこえてきた。とおくで人のさけぶような音もきこえたが、まもなく消えてしまったので、新しく生まれた希望に満ちあふれているタランは、その音をなんとも思わなかった。
夜もなかばをすぎた頃、ドーリがぱっと姿をあらわした。小人は興奮しきっていて耳なりをぐちることも忘れ、タランとフルダーについてこいといそいであいずした。タランは、騎兵たちに待機を命じてから、ドーリとフルダーのところへいそいだ。妖精軍は、まるで白い影のように音をたてずに、すでにドーリの後をせかせか追っていた。
はじめ、タランは、小人がまっすぐに狩人たちのキャンプ地まで進むのではないかと思った。ところが、ドーリは、敵の陣営までまだちょっとはなれているところで向きを変えると、敵のいる谷間の上にそびえる山の斜面をのぼりはじめた。
「狩人どもは、まだあそこにいる。」ドーリは、のぼりながらおしころした声でつぶやくようにいった。「好んであそこにいるわけじゃない。今まで知らなかった味方がいるんだよ、われわれの方に――あの谷間を、クマとオオカミが何十匹、何十頭と包囲しているのさ。狩人の一団が抜け出そうとしたんだ。わしは姿を消していたからよかったが、さもなかったら、こうしてもどっちゃいなかったね。しかし、狩人どもは姿をかくせない。はじめにクマがおそいかかった。あの悪漢どもを、じつに手ばやく片づけたよ。むごたらしい仕事だったが、手ばやかったね。」
「狩人の一団を殺したのですね?」と、タランが眉をしかめていった。「それじゃ、残りの狩人は一団と強くなってます。」
「そりゃ、そうかもしれぬが」と、ドーリがこたえていった。「クマとオオカミは、おれたち以上にうまく狩人に目をくばることができる。狩人は今夜攻撃してこないと思うね。やつらは、けだものたちを恐れている。朝まで、あの谷間にいるだろうよ。そして、そいつがおれのねがいでもあるんだ。いい策を思いついたんだ。」
そのとき、一行は頂上にたどりついて、氷の張った湖のふちのところに立っていた。切り立った絶壁のへりからまっすぐ下に向かって、凍りついた滝が月の光を浴びてきらめいていた。太く長いつららが、まるで巨大な手の指のように、絶壁につめをたてていた。凍りついた手が、しっかりと湖をつかもうとしている感じだった。銀そのものでできたような川が一本、狩人たちが避難している谷間に向かって下っていった。タランが見下すと、狩人たちのたき火が、まるで悪意を含んだ目のように、闇の中で赤くひかっていた。たしかとはいえなかったが、小高いところの岩や潅木の茂みの間で影のようなものがうごきまわっているのも見えたように思った。それが、小人のいっていたクマとオオカミかもしれなかった。
「さあ、どうだ!」と、ドーリがいった。「あれをどう思う?」
「どう思うって、何を?」吟遊詩人が、おどろいていった。「おいおい、おぬしこそ鉱山の中に分別を置き忘れてきたんじゃないのか。こんなところまでわしらをのぼらせてくれたが、今は自然の美など観賞しているときとは、どうしても思えんね、わしには。」
小人は、両手を腰にあてて、いらだたしげにフルダーを見上げていった。「ときどき、人間てやつはエィディレグのいうとおりだと思うな。おぬしには考えってものがないのか? まるっきりわからんのか? おれたちは、あのごろつきどものだいたい真上にいるんだぞ。湖の水を流すんだ。滝の水を落とすんだ。どっと落としてやるんだ! やつらの野営地へまっしぐらに!」
タランは、はっと息をのんだ。一瞬、希望に胸がおどった。だが、すぐに首を横にふった。「いや、ドーリ、その仕事は大変すぎますよ。氷がわたしたちを打ちまかしてしまう。」
「だったら、氷をとかすんだ!」と、小人はどなった。「木の枝でもやぶでも、燃えるものを切ってあつめるんだ。氷が厚すぎるところは割ってどけるんだ! おなじことをいったい何度いわせるんだ? おぬしは、妖精族といっしょにいるんだぞ!」
「ほんとうにできるんだろうか?」タランが、ささやくような声でいった。
「できないと思うことを、このおれが口にするもんか。」小人が、かみつくようにいった。
フルダーが感心して、低くひゅーと口笛をならした。「いや、おぬしは、いい方が大げさだが、その思いつきには心をひかれるね。ほんとうに、そいつがうまくいけば、やつらの息の根をとめることができるよ。」
ドーリは、もう吟遊詩人のいうことなどに耳をかさず、妖精族の戦士たちに向かって早口に命令を下していた。小人の戦士たちは、斧を帯から抜くと、大いそぎで木を切り、下生えをひきぬき、走って湖の上まで運んだ。
タランは、疑いの念を打ちはらうと、剣を抜いて木の枝を切りはらった。フルダーもいっしょにはたらいた。刺すようにつめたい風が吹いていたが、ひたいからは汗が流れた。せわしく吐き出される息が、顔の前で白いもやとなった。凍りついた滝では、氷を割る小人たちの斧の音がひびいていた。ドーリは、小人の戦士たちの間を走りまわって、やぶや枝の山をさらに大きくしたり、岩や大石をうごかして、流れをはやめるための真っすぐな水路をつくったりしていた。
夜明けが、ぐんぐん近づいてきた。タランは、つかれきってふらふらになっていた。手はさむさのため感覚がなくなり、切り傷からは血が出ていた。フルダーも、立っているのがやっとの有様だった。ところが、妖精族のはたらきには、すこしのゆるみも見えなかった。そして夜明け前には、湖と流水路には、森ができたようにうず高く、やぶや枝がつみ上げられていた。とも、ようやくそれでよしといった。
「さあ、火をつけるぞ。」小人は、タランに向かってさけんだ。「妖精族のほくちは、おしら人間が使うどれよりもよく燃える。あっという間に、えんえんと燃え上がるからな。」小人は、ひゅーっとかん高くあいずの口笛をならした。湖をとりまいた小人たちがいっせいにたいまつをもとして投げた。たいまつは流星のように弧をえがいてとび、たきぎの山に落ちた。タランは、たいまつの火がつぎつぎたきぎの枝に燃え移るのを見た。たきぎの燃える音で耳がいっぱいになった。そのとき、そのはげしい音を圧するように、火から遠くはなれろとさけぶドーリの声が聞こえてきた。タランがぐらつく石に足をすべらせながら必死に火から遠ざかろうとすると、炉の熱気に煮た熱波がおそってきた。氷はとけ出していた。炎が消えるじゅっという音がきこえた。しかし、火は、高く燃え上がっているので、すっかり消えてしまわず、ますますあつく燃えさかった。流水路からは、おし寄せる水の圧力が強くなるにつれて、大きな石がぶつかってうごく、うめにき似た音がきこえてきた。あっという間に、まるで門とびらが押したおされるように、あるいは城壁がくずれるように、絶壁の片側がくずれたかと思うと、一本の水の流れが、いっさいを押しながして水路をつっ走った。巨大な氷のかたまりが、小さな石ころのようにころがり、はね上がりながら轟音をひびかせて斜面を落ちていった。激流が燃える枝ややぶを運び去った。流れるたきぎからとび上がる火の粉がうねって渦を巻き、水の流れの道筋がすっかり燃えているように見えた。
下の谷間では、狩人たちがさけび声をあげて命からがらにげようとしていたが、すでに手遅れだった。突進してきた水と石と氷が、斜面にとりついてのがれようとするかれらをたたき落とした。狩人たちは、悲鳴をあげ怒声をあげながら、滝にうちのめされたり、木っぱのように宙にとばされてとがった岩にたたきつけられたりした。何人かは高いところまでよじのぼることができた。しかし、タランが見ていると、そこまでのがれたとたん、黒い影がとびかかった。無慈悲にけだものを狩りたてて殺してきた狩人たちに、けだものたちが復しゅうするときがやってきたのだ。
谷間は、やがて静まりかえった。タランは夜明けの光で、谷を埋めたまっくらな水がにぶく光るのを見た。くすぶるたきぎの中にはまだ燃えているものもあり、灰色の煙霧があたりにたれこめていた。後ろで、がらがらと石の動く音がしたので、タランはさっと向きを変え剣を抜きはらった。
「おはよう!」と、エイロヌイがいった。「もどってきたわよ、わたしたち!」
「変な出迎え方ね。」エイロヌイは、胸がつまって口がきけず、ただじっと自分を見ているタランに向かっていった。「なんとかおっしゃいよ。」
ガーギが、有頂天になってわめきたてながら、いちどにみんなにあいさつしようとしている間に、タランは、すばやくエイロヌイのそばに歩み寄り、両手でだよきせた。「ぼくは、もうあきらめていた……」
「ばかばかしい。」と、エイロヌイがこたえた。「わたしは、全然あきらめなかった。たしかに、あのドーラスって悪者にひやっとさせられた瞬間はあったわ。それからね、オオカミとクマのことで、とても信じられないような話があるの。でも、あなた方の話が聞けるときまでとっておくわ。狩人たちのことは」エイロヌイは、またいっしょになれた仲間たちといっしょにトンネルに向かいながら話をつづけた。「わたし、すっかり見ていたわ。はじめのうち、あなた方が何をもくろんでいるのか、さっぱりわからなかった。でも、やがてわかったの。あれはすばらしかった。ドーリが一枚加わっていることは、考えればわかったはずだわね。すてきなドーリ! あれ、凍った川が燃えているようだった……」王女は、そこでふいに話をやめて目を見張った。そして、「あなた方、自分たちのしたことの意味がわかってる?」と声をひそめていった。「わからない?」
「わしらのしたことがわかってるかって?」フルダーが、笑ってこたえた。「わかっているとも! わしらは狩人どもを片づけたんだ。りっぱな仕事だよ。フラムの者でも、あれ以上うまくはできなかったろう。よく、わかるとも。わしらはあの悪者どもを影も形もなくしてしまったんだ。いや、まったくうれしい。」
「ヘン・ウェンの予言のことよ!」と、エイロヌイがさけぶようにいった。「予言の一部分が実現したんだわ! 夜が真昼に変わり、川は凍った火でもえる。しかる後ディルンウィンは返るってあったでしょ。ね、あなた方は川をもやした、というか、わたしにはそう見えたのよ。凍った火って、あの氷と、もえるたきぎをさしていると思ってもいいでしょ?」
タランは、王女をまじまじと見ていた。予言の言葉が頭の中にこだまして、手がふるえた。「われわれが自覚しなかったことを、きみはちゃんとさとったわけだね? しかし、きみだって、われわれとおなじようなことをしたんじゃないのかい? やはり自覚しないでさ、え? ほら、考えてごらん!『夜は真昼に変り』だよ。きみの安ぴかおもちゃが、夜の闇を昼にかえたんだよ!」
こんどは、エイロヌイがびっくりする番だった。「あら、ほんと!」と、王女は思わずさけんでしまった。
「はい、はい!」と、ガーギが大声でいった。「賢い豚っこ、真実を語る! 強力な剣もまたみつかりますとも!」
フルダーがせきばらいしていった。「フラムの者は常に楽観的である。しかし、今回ばかりは、つぎのことも忘れるなといっておく。予言は、ディルンウィンの炎は消え、その魔力は失せるともいっておる。これでは、たとえみつけたとしても、わしらの立場が好くなるわけではない。それに、ものいわぬ石の話をきけというのもあったろう。わしは、まだ、ここの石から一言もきいてはおらん。石や岩ならいやというほどあるがね。わしがここの石どもからききとったのは、固すぎて寝台にはならんということだけだ。さらにだ、わしの意思をいえというなら、まずなによりも予言を信じるなといいたいね。わしの経験によれば、予言は魔法同様にひどいもので、行きつくところはただ一つ、災難だよ。」
「わたしも、あの予言の意味はわかりません。」と、タランはいった。「あれは希望のしるしなのか、それとも、わたしたちが、そうであれかしと願って自らをだましているのか? ダルベンか、あるいはギディオンだけが予言を解きあかす知恵をもっているのでしょう。それでも、わたしは、最後にはいくらかのぞみがあると思えてならないのです。しかし、あなたのおっしゃるとおりですね。わたしたちの責務は、今までにくらべてすこしも楽になってはいませんよ。」
ドーリが顔をしかめた。「楽になっていないだと? もう不可能になってるんだぞ。おぬしは、まだ、赤い休作地帯へくだるつもりでいるのか? おれは忠告しとく。不死身はもう追いつかないところまで行ってしまったんだ。」小人は、そこで鼻をならした。「おれに向かって予言の話なんかするな。時間のことも問題にしろ。時間をむだにしすぎたんだ。」
「わたしも、そのことはずっと考えていました。」と、タランはこたえていった。「坑道がふさがってから今まで、ずっと考えていたのです。まっすぐに山を越えていって、不死身が北西に向きをかえてアヌーブンに向かうところでおしもどす以外、のこされた手はありません。」
「かすかなのぞみだ。」と、ドーリがいいかえした。「妖精族はそんな遠くまでは出ていけない。あそこは禁断の地なんだ。アローンの領土にあんなに近いと、妖精族は死んでしまう。ギスティルの見張り所が死の国にもっとも近づいているんだが、おかげであの男の消化のぐあいや性質がどうなっちまったか、おぬしも知ってるだろ。おれたちにできるのは、おぬしたちがうまく進めるようにはからうのがせいぜいだな。おれたちのひとりがついていってもいい。」小人は、そこでつけ加えた。「それがだれだかは想像がつくだろう。ドーリのやつさ!おれは、あまり長い間人間といっしょに地上でくらしていたんだ。アヌーブンにはいっても害がないんだ。」
「そうとも、おれがいっしょに行くよ。」ドーリは、すごいしかめつらをしていった。「ほかに手はないんだ。ドーリのやつ、か! こんなにあいそのいい男でなかったらと、ときどき思うよ、おれは。ふん!」
16 予言者
老人は、くたびれた子どものように、片うでに頭をのせて、本がいっぱいのテーブルにうつぶせていた。やせて骨ばった肩にマントをはおっていた。暖炉ではまだ火がちろちろと燃えていたが、この冬の寒気は、老人の記憶にあるどの冬の寒気よりも骨身にしみた。足元のヘン・ウェンが、不安そうに身じろぎして、かん高くあわれっぽい鼻声でないた。ダルベンは、冬とうつつの間をさまよいながら、しなびた片手をのばしてヘン・ウェンの耳をそっとかいてやった。
それでも、豚は落着きをとりもどさなかった。もも色の鼻づらをひくつかせると、ふんと息を吐いて情けなさそうに何かぶつぶつつぶやき、長いダルベンの服のすそひだに頭をかくそうとした。そこで、ようやく、予言者は頭を上げた。
「どうしたのかな、ヘン? いよいよ、われらの終りの時がきたのか?」老人は、豚を安心させるようにかるくたたいてやってから、大儀そうに木のこしかけから立ち上がった。
「ふむ、あっという間におわるだけのことじゃよ。結果がどうなろうともな。」
老人は、あわてずに長いトネリコの杖をとると、それにもたれるようにして、よろよろとへやから出た。ヘン・ウェンがすぐうしろからとことこついていった。小屋の入口で、老人はマントで身をくるみなおすと、暗い外に出た。満月が果てのない大空はるか高くを西に向かっていた。ダルベンは立ったままじっと耳をすました。かれ以外の人間なら、小さな農場は空の月のごとくにしずまりかえっていると思ったにちがいない。だが、老予言者は、眉根を深く寄せ、目をなかばとじてうなずき「ヘンよ、おまえの知らせてくれたとおりじゃ。」とつぶやいた。「今ようやく、わしにもきこえてきた。だが、まだ遠いのう。となると、だ。」老人は、顔にしわを寄せてほほえみながらつづけた。「彼らを長い間待っておって、この老いくちた骨の芯までこごえることもなかろう?」
口ではそういいながらも、老人は家の中にもどらず、前庭を五、六歩あるいた。さっきまでねむくてふさがりそうだった目が、氷の結晶のようにきらきらひかっていた。老人は、するどい目で、葉の落ちた果樹の林のかなたをじっとうかがった。黒いツタにおおわれたように一面まっくろに見えるまわりの森の中をじっとのぞいているようだった。ヘン・ウェンは、不安げに戸口に残ってすわり立ちしたまま、こわい毛のはえた大きな顔にひどく心配そうな表情をうかべて、予言者をじっと見つめていた。
「おそらく、二十人だ。」と、ダルベンはいったが、口をゆがめてつけ加えた。「攻撃を受けるのか、まぬがれるか、それはわからぬ。わずか二十人、とな? けちくさい数じゃの。だが、それ以上であったなら、長い旅、それもイストラド渓谷の戦いをへてとなると、荷厄介にすぎるであろうの。いや、二十人とは、十分であるし、うまくえらんだものよ。」
しばらくの間、老人はしんぼうづよくじっと立っていた。ようやく、すんだ大気にのってかすかに馬蹄のひびきがきこえ、それがしだいにはっきりしてきたかと思うと、乗り手がおりて馬をひきながら歩きだしたのか、またきこえなくなった。
切り株だらけのはたけの向こう、びっしり木々の立ちならぶ黒い森の前に、やぶが落とす影としか見えないものが動いていた。ダルベンは背をのばして頭をぐいと持ち上げると、アザミの綿毛でも吹くように、口をとがらしてそーっと息を吹き出した。
たちまち、はげしい風が悲鳴のような音をたててはたけの上を吹きわたった。農場はしずまりかえっていたが、その風は、千本の剣を合わせたような勢いで森に向かって突進し、枝を鳴らし幹をゆるがした。馬がびっくりしていななき、人間たちは、だしぬけに大枝にたたかれてさけび声をあげた。突風は、戦士たちにはげしく吹きつけた。戦士たちは両手をあげて身をふさせいだ。
それでも、戦士団は、風にたたかれる森を苦しみながらも抜けて、切り株のはたけまでひた押しに進んできた。突風がおこったのを見たヘン・ウェンはこわそうに金切り声をあげると、くるりと向きをかえて小屋にとびこんでしまった。ダルベンが片手をさっと上げると、風は、おこったときとおなじようにあっという間に収まった。老人は、眉をしかめると、杖で凍てついた芝土を強くたたいた。
つぶやきに似た低い雷鳴がとどろき、大地がふるえた。はたけが、たえまなくうねる海のように盛り上がった。戦士たちはよろめいて体の平衡を失った。攻め寄せてきたものたちの多くは、大地が裂けてのみこまれはしないかと恐れて、われ先に森に避難した。残った者たちは、すすめとはげましあい、はたけをよろめきながら越えて小屋に向かって走ってきた。
ダルベンは、ちょっといらだった様子で、池に小石を投げこむように、指をいっぱいにひろげてさっとふりおろした。その手から、まっかな炎がほとばしり出ると、暗い夜空を背景に、火のむちのような目もくらむ筋をえがいてひろがった。
戦士たちは、ぱちぱちと音をたてるほのおの綱が自分たちをとらえて手足にからみつくのを見て、恐怖のさけびをあげた。馬たちはたづなをふりもぎると、狂ったように森にかけこんだ。戦士たちは剣を投げすて、狂ったようにマントや上着をかきむしった。苦痛と恐怖のさけびをあげて、よろめきながら一目散に森にとびこんでいった。
炎が消えた。ダルベンは、向きを変えてひっこもうとしたが、そのとき、たったひとり、だれもいなくなったはたけをなおも押し進んでくる者がいるのに気づいた。老人はひじょうに驚いて、杖をしっかりつかむと、弱った足であわてて小屋にもどった。たったひとりの戦士は、大またにうまやの前を通って前庭にはいってきた。ダルベンは大きな足音に追われるように大いそぎでしきいをまたいだが、安全な小屋ににげこんだとたん、戦士がドアからとびこんできた。
ダルベンは、さっと向きをかえて攻撃者をむかえた。
「気をつけよ!」と、予言者はさけんだ。「気をつけよ! それ以上近づくでない。」
ダルベンは、すっくと立っていた。目がするどくひかり、声が威圧するようにひびきわたったので、敵はたじろいだ。敵はフードをぬいでいた。暖炉の火が、プイルの息子プリダイリの誇りにみちた顔と金色の髪をちらちらとてらし出した。
ダルベンの目は、すこしもひるみを見せなかった。「ずいぶん待ったぞ、西方領土の王よ。」
プリダイリは、一歩踏みだそうとする気配を見せた。片手が帯につるした抜き身の剣の柄頭をつかんだ。だが、老人の視線がおさえつけて動かさなかった。「おぬし、わしのよび方をまちがえたな。」と、プリダイリはあざけるようにいった。「今や、わしはさらに広大な領土を統治しておる。プリデインそのものをだ。」
「なんと。」ダルベンは、おどろいたふりをよそおってこたえた。「それでは、ドン王家のギディオンは、もはやプリデインの大王ではないのか?」
プリダイリが耳ざわりな笑い声をたてた。「王国なき王、かな? キツネのこどくに狩りたてられるこじき王というべきか? カー・ダスルは陥落した。ドンの子孫どもはちりぢりになった。ここまでは、おぬしもすでに知っておろう。知らせがくるのがなかなかはやいようだな。」
「あらゆる知らせは、すみやかにどく。」と、ダルベンはいった。「おそらく、おぬしがここにたどりつくよりはやくだ。」
「おぬし、もてる力を自慢しておるのか?」とプリダイリが、あざけるようにこたえた。「その力は、もっとも必要などたん場に来て役に立たなくなったのだ。おぬしの魔法はせいぜい一にぎりの戦士をびっくりさせたにすぎぬ。悪知恵にたけたダルベンが、土百姓どもをおいはらったことを自慢するのか?」
「わしの魔法は破壊を目的とはせぬ。警告だけものだ。」とダルベンは、いいかえした。「ここは、わしの意思を無視してはいってきた者にとって危険な場所である。おぬしの部下たちは、わしの警告をききいれた。残念ながら、プリダイリ卿よ、おぬしだけはそうしなかった。あの百姓たちは王よりも賢い。自らの死をもとめることは賢明ではないからのう。」
「魔法使いめ、おぬし、またまちがえたぞ。」と、プリダイリはいった。「わしが求めているのは、おぬしの死だ。」
ダルベンは、わずかに残るひげをしごいて、「プイルの息子よ、さがし求めるものと、みつけ出せるものは、かならずおなじとはかぎらぬものであるぞ。」としずかな声でいった。
「たしかに、おぬしは、わしの命をとるであろう。それは、わしにもよくわかっている。カー・ダスルが落ちた、とな? だが、その勝利は、カー・ダルベンがあり、そして、わしが生きているかぎり実のないものだ。二つのとりでは、長い間アヌーブンの主に立ち向かってきた。一方は金色さん然たる城、一方は農夫の小屋にすぎぬ。一方は廃墟となった。だが、もう一つの方は今もなお悪を防ぐ楯であり、つねにアローンの心臓につきつけられた剣である。死の王はこの事実を知っている。それに、自分はここにはいってこられないし、狩人も不死身もはいってこられないこともわきまえておる。
「それ故に、おぬしが来たのだ。」と、ダルベンはいいかさねた。「主人の命令を果たすためだ。」
プリダイリの顔が怒りのためにまっかになった。「わしに主人などはおらんぞ。」とさけんだ。「プリデインに奉仕できる力が、このわしにそなわっているとしたら、わしは恐れずにその力を使う。わしは、殺すのがたのしくて殺すあの狩人どもとはちがう。わしは、なさねばならぬことを果たす。しりごみはしない。わしの目的はひとりの人間の命、ときには千人の人間の命より大事だ。だから、ダルベンよ、おぬしが死なねばならぬとなれば、わしは殺す。」
プリダイリは、剣帯から勢いよく剣をひきぬくと、ふいにさっと予言者に切りかかった。だが、ダルベンは、杖をしっかりとにぎりしめてふりあげ、剣を受けた。細い杖を打った剣は、こまかくくだけ、破片がちゃりんちゃりんと音をたてて地面に落ちた。
プリダイリは、手に残った柄を投げすてた。それでもまだ、かれの目には恐怖の色はなく、あざけるような表情しか見られなかった。「この魔法使いめ、おぬしの魔力には気をつけろと前もってちゃんといわれているのだ。それを自らたしかめてみたかっただけよ。」
ダルベンは動かなかった。「気をつけるようにと、心からいわれたのかな? そうは思わぬ。心から注意してもらったのなら、わしに立ち向かうことなど、おぬしにはできなかったはずである。」
「魔法使いめ、たしかにおぬしの魔力は強大だ。」と、プリダイリはいった。「だが、弱味の方がさらに大きい。おぬしの秘密をわしは知っている。おぬしも、このわしに立ち向かいはする。だが、ついに勝利するのは、このわしだ。あらゆる力の中で、ただ一つ、おぬしが使えないものがある。使えばそのむくいは死だ。おぬしは、風を意のままにできよう。大地をゆるがすこともできるだろう。そんなことは、なんの役にもたたぬ子どもの遊びだ。いちばん弱い戦士にもできるのに、おぬしにできぬことが一つある。人を殺すことだ。」
プリダイリは、マントの中から、柄頭にアヌーブンのしるしがついた黒くて短いあいくちをとり出した。「わしには、そんな制限がない。おぬしのことで注意を受けたとき、武器も受けとってきたのだ。このやいばは、アローンが手ずから渡してくれたものだ。これは、おぬしのいかなる魔力をもうちやぶってしまうものだ。」
ダルベンのしわだらけの顔に、あわれみと深い悲しみのまじった表情がうかんだ。「あわれなおろか者よ。」と、予言者はつぶやいた。「たしかにそうだ。そのアヌーブンの武器はわしの命を奪うことができるし、おぬしのその手を、わしはとめることができぬ。だが、おぬしは、地中であくせく土を掘るモグラのようにめしいておる。プリダイリ卿よ、ここでおのれにきいてみよ。どちらが主人で、どちらが奴隷であるかを。アローンは、おぬしをだましておる。
「そうじゃとも、だましておるのだ。」ダルベンは、きつく冷たい声でいった。「おぬしは、アローンをおぬしの下ではたらかせようと考えた。だが、まったく気づかずに、おぬしは、かれがやとっただれよりも忠実に、かれに奉仕してしまったのだ。アローンめは、わしを殺すためにおぬしを送ってきた。しかも殺しの道具まで与えてな。だが、わしを殺しての勝利は、アローンのものであっておぬしのものとはならぬ。かれの命令をなしとげてしまえば、おぬしなどアヌーブンの主にとっては無用なぬけがらになってしまう。アローンは、このわしが、おぬしを、カー・ダルベンから生かしてかえさぬことを知りぬいておる。プリダイリ卿よ、おぬしは、ここにそうして立っている今、すでに死人なのじゃ。」
プリダイリは、黒いあいくちをふり上げた。「おぬし、言葉で死をかわそうというのか。」
「窓の外を見るがよい。」と、ダルベンはこたえた。
そういったとたん、真紅の光が窓からどっとさしこんできた。太い炎の帯が突然あらわれてカー・ダルベンをとりまいていたのだ。プリダイリはたじろぎ、あとずさった。「おぬしは、真実の半分だけを信じたのだ。」と、ダルベンはいった。「今まで、たしかに、わしが手ずから死に至らしめた人間はいない。だが、わしの魔法を無視する者は命の危険を覚悟せねばならぬ。プリダイリ卿よ、さあ、わしを殺すがよかろう。あの炎が一瞬のうちにカー・ダルベンをなめつくすであろう。」
金髪のプリダイリの美しい顔が、まさかと思いつつも、つのる恐怖のためにゆがんだ。「うそだ。」と、プリダイリはしわがれ声でいった。「きさまが死んだとたんに、炎も消えるわい。」
「それを、卿よ、おぬしはみずからためさなくてはならぬ。」
「証拠がある!」と、プリダイリはさけんだ。「あのアローンが、いちばんほしがっているものを台なしにするものか。わしの仕事は二つだ! おぬしが知恵のかぎり考えても、それはわからなかった。おぬしの死は一つにすぎない。もう一つは、時の書を手に入れることだ。」
ダルベンは、悲しげに首を横にふって、重い皮とじの書をちらりと見た。「おぬしは二重にだまされたのだ。この本はアローンにも役立たぬし、どんな邪悪な目的にも使えはしない。プリダイリ卿よ、おぬしの役にも立たぬ。」
老人の声の強さは、つめたい風を思わせた。「おぬしはその手を血でけがし、満身の末に仲間をさばいた。おぬしは、プリデインに奉仕するつもりだったのだな? 手段が邪悪だった。悪から善は生まれぬ。おぬしは、気高い目的と考えたことをとり行うにあたってアローンと手を組んでしまった。今やおぬしは、おぬしが征服したいとのぞんだ当の悪のとりこなのだ。とりこであり犠牲なのだ。よいか、時の書には、おぬしはすでに死亡のしるしがつけてある。」
ダルベンの目がもえるように光った。真実の言葉がプリダイリののど首をしめつけたらしかった。王の顔から血の気が失せた。王は、あっとさけんであいくちをなげすてると、大きな書にとびついた。時の書をびりびりにひきさこうとでもするようにはげしい勢いで手をのばした。
「さわってはならぬ!」と、ダルベンが命じた。
だが、プリダイリは、すでに書をつかんでいた。つかんだとたん、古いその書から、もえる木のような一条の尖光がほとばしった。プリダイリの断末魔のさけびがへや中にひびきわたった。
ダルベンは顔をそむけると、深い悲しみにおそわれたのか、がっくりと頭をたれた。小さな農場の外をとりまいていた火はおとろえ、しずかなあけぼのの中に消えていった。
17 ふぶき
ブラン=ガレズ山の西の端を限る一本の木もない岩山まで進んだとき、妖精族の軍は、ドーリひとりを残してひきかえしていった。その岩山の線の外は、死の王アローンの支配下にある土地だったからである。タランたちの一行は、すでに数日の間、こけも生えない石ばかりの荒涼たる土地を苦しみながら進んでいた。空は灰色で、うす雲があちこちにわずか見えたが、それは灰色の上にさらに黒ずんだ灰色を細くちぎってはりつけたように見えた。邪悪の霧がアヌーブンのとりでからにじみ出て、あらゆる生きものの息の根をとめ、岩ばかりのこの荒地だけが残った感じだった。
タランとその仲間たちは、体力を節約するために、ほとんど口をきかなかった。死の国の国境内にはいった第一日目から、かれらは馬をおり、つかれた馬をひいて危険のひそむ道を進まなくてはならなかった。牡馬のメリンラスまでが疲れた様子を見せた。この軍馬が、たくましい首をたれ、ときどき足もよろめくのだった。ところが、リーアンだけは、どんなにせまくて危険な岩棚でもじつにたくみに足音一つたてずに進んでいた。リーアンは、タランたち一行が苦しみながら急斜面をくだって、さらに急な斜面をよじのぼるようなとき、てっぺんの岩から向こうの岩までひょいととんでわたってしまうことがよくあった。そんなとき、この巨大な猫は、しっぽでしりをかかえるようにしてすわり、フルダーがやってきて耳をかいてくれるのをじっと待っていた。そして、またぴょんととんで先にすすんでいってしまうのだった。
ドーリは、杖をしっかりにぎり、白いフードのひさしをぐっとひきおろして、小部隊の先頭を苦しみながら進んでいた。タランも、疲れを知らぬこの小人にはただおどろくばかりだった。小人は、第六感がはたらくのか、かくれた通路やせまい抜け道をかならずみつけ、つらい旅の進みをたすけてくれた。
だが、しばらくすると、ドーリの足の運びもなんだかおくれてきた。ときおり、よろけたり、歩きぶりがふいにたよりなさそうになった。タランはそれに気づくたびに、心配と不安がつのった。ドーリがよろけて片ひざをついたとき、タランはぎょっとしてかたわらにかけ寄り、たすけおこそうとした。仲間もあわててかけ寄ってきた。
ドーリは、いつもの赤ら顔がまだらになっていて、苦しげにあえぎあえぎ呼吸していた。そして、よろめきながら立ち上がろうとした。
「くそ、この腹黒い国め。」と、ドーリはぶつぶついった。「思っていた以上にこたえるよ。おい、ぽかんとしてるな。手をかして立たせろ。」
小人は、足を大地につけている方が気分がいいといって、馬に乗ることをがんこにことわった。タランが、ぜひ休めとすすめると、小人はおこったように首を横にふって、「おれは、おぬしらのために道をみつけるといったのだ。」とかみつくようにいった。「だから、ちゃんとさがす。ぶざまな仕事はがまんできんのだ。妖精族がなにか仕事にとりかかったら、それはきちんと果たすし、ぐすぐずなんかしておらんのだ。」
しかし、しばらくすると、ドーリもメリンラスに乗ることをしぶしぶ承知した。あぶみに足をかけそこねたが、フルダーが力をかして鞍にのせてやると、むっとしてぶつぶつ文句をいった。
しかし、この疲労を軽くする策も長つづきしなかった。小人の頭は、まもなくぐったりと前にたれさがり、体があぶなっかしく左右にゆれはじめ、タランが手をのばして支えようとしたとたん、ぐらりと傾いて馬の背からまっさかさまにおちてしまった。
タランはいそいでとまれとあいずした。「きょうは、もうこれ以上進むのをやめます。」と、タランは小人にいった。「朝になれば、あなたも元気をとりもどしますよ。」
ドーリは首を横にふった。顔はまっさおで、赤い目がどんよりしていた。「待ってもむださ。」と、小人はあえぎながらいった。「この土地にいるのが長すぎたのさ。わるくなるばかりなんだ。案内できる間は進めつづけなくちゃならん。」
「あなたの命を犠牲にしてまで、進めませんよ。」と、タランはいった。「かじやのヘフィズが、あなたを国境までおつれします。わたしたちの方はドラドワズの息子フラサールが道をみつけてくれる力になってくれます。」
「だめだ。」と、小人はつぶやいた。「妖精族のわざがなくては時間がかかりすぎる。おれを鞍にしばりつけてくれ。」小人は、そう命令した。
小人は地面からおき上がろうとしたが、あおむけに倒れて動かなくなった。息がぜいぜいとはげしくなった。
タランは、ぎょっとなって大声でさけんだ。「ドーリが死にそうだ。フルダー、はやく、はやく。リーアンにのせるから手をかしてください。リーアンがいちばん早足だから。あなたがいっしょにのってひきかえしてください。まだ間に合うかもしれません。」
「おれを、ここへ残していけ。」と、ドーリがあえぎながらいった。「フルダーを人数からさくわけにはいかん。やつの剣は十人のはたらきをする。すくなくとも、六人のはたらきはする。いそいで行け。」
「そんなことはできません。」と、タランはいいかえした。
「ばかめ!」小人はしぼるような声でいった。「いいか、よくきけ。こりゃ、しなくちゃならんのだ。おぬし、武将なのか、豚飼育補佐なのか?」
タランは、なかば目をとじている小人のかたわらにひざをつき、肩にそっと手をおいた。「そんなこと、きくまでもないでしょう、わが友よ。わたしは豚飼育補佐だ。」
タランは立ち上がって、リーアンとともにあわててかけ寄ってきた吟遊詩人をむかえた。しかし、小人をふりかえってみると、地面はからっぽだった。小人が消えてしまったのだ。
「やつは、どこへ行った?」フルダーが、びっくりしてさけんだ。
大きな石のあたりから、ぷんぷんした声がきこえてきた。「ここだ、ここだ! どこにいると思ってるんだ?」
「ドーリ!」と、タランは思わずさけんだ。「あなたは死にかけていたんです。それが今の声は……」
「どんなまぬけだって、ちょっとでも分別があればわかるだろう。おれは姿を消したんだ。」ドーリが、ばかめといった口調でいった。「もっと早くに思いつくべきだったんだ。この前アヌーブンにはいったとき、おれはほとんどずっと姿を消していたんだ。それがおれを守ってくれたってことに、まったく気づかなかった。」
「それが今役立つというのですか?」タランは、まだちょっとわかりかねてたずねた。「進もうというのですか?」
「むろん。」と、小人はいいかえした。「もう気分がよくなった。しかし、姿は消したままでいなくちゃならない。がまんできるかぎりってことさ! 姿を消す、ふん! 耳の中が、またクマンバチとジガバチだ!」
「ああ、ドーリ!」タランは、思わずさけんでドーリの手をにぎってふろうとしたが、手が消えているのだから、もちろんだめだった。
「そいつを二度というな!」小人が、かみつくような声でいった。「プリデイン中の人間にたのまれても――ああ、この耳――こんなことをすすんでやるものか。おぬしのためだからやってるんだ! それに、どならんでくれ! 耳にこたえてたまらんからな!」
地面にころがっていたドーリの杖がひとりでに立ったように見えた。姿を消している小人がひろい上げたのだ。タランは、杖の動きを見て、ドーリがまた先頭を歩きはじめたことを知った。
一行は杖を見て判断しながら後につづいた。もっとも、杖が見えなくても、大きな腹立たしげなつぶやき声がきこえるので、ちゃんと道がわかった。
フルダーが、最初にギセントたちに気づいた。遠くの浅い谷間の上空を、黒いつばさをひろげた鳥が三羽、風にのって旋回していた。「やつら、何をみつけたのかな?」と、吟遊詩人が思わず大きな声でいった。「なにがえじきになったか知らんが、つぎはわしらなんてのはごめんだねえ!」
タランは角笛を吹きならした。大きな岩の間のどこにでも身をかくすようにと、つきしたがう戦士たちにあいずした。エイロヌイは、タランの命令を無視して、突き出た高い岩の上によじのぼり、手をかざした。
「はっきり見えないけれど、どうやらあの鳥たち、何かを追いつめたらしいわ。かわいそうに。ギセントが相手じゃ、もう長くはないわね。」
ガーギは、ぞーっとして、できるだけ姿をかくそうと、岩の下にべったりとへばりついた。
「あいつらにみつかったら、ガーギも長くない。」と、この生きものは泣き声をあげた。「やつら、ガーギのあわれなやわらかい頭つかんで、がり、びりっとひきさく!」
「すすんで! すすんで!」グルーが、ちいさな顔をはげしい恐怖のためくしゃくしゃにしてさけんだ。「やつらは、えものに気をとられている。ばかみたいにここでとまっていてはいかん。できるだけ遠ざかるんだ。ああ、今だってわしが巨人であったら、ぐずぐずなどしておらんのだがなあ。」
ギセントたちは旋回の輪をちぢめ、えものめがけて急降下しはじめた。そのとき、今まで一片の黒雲としか見えなかったものが、小さな黒いものを先頭に、突然空の東の一角から流れるようにおりてきた。タランたちが、上空を急速にうごくその黒雲におどろいて目で追おうとしたとたん、黒雲は、指揮者の命令一下というように、つばさのある無数の粒にわれて、まっしぐらに大きな鳥めがけて突進した。相当はなれているにもかかわらず、ギセントたちがこのふしぎな攻撃者たちに立ち向かうため、向きをかえて上昇しながら、はげしいさけび声をあげたのが、タランの耳にもとどいた。
フルダーは、ぴょんととんでエイロヌイのかたわらに立っていた。タランとドーリがよく見えるところまであがってくると、吟遊詩人は興奮してさけんだ。「カラスだ! ううむ、これほどの数は今まで見たことがない!」
カラスの群れは、大きな黒いクマンバチのように敵にむらがり寄っていった。それは、鳥対鳥の一騎打ちではなく、カラスの群れ全部かが、相手の鋭いくちばしや爪を物ともせず、強力なそのつばさにつかみかかりしがみつき、地面にひきずり落とそうとする戦いだった。ギセントが力まかせに攻撃者たちをふりはらうと、新手が陣形をつくってあらたな攻撃をしかけた。ギセントたちは、急降下してするどい岩に身をこすらんばかり低くとび、重荷をふりはらってのがれようとした。しかし、その間も、カラスたちがはげしくつつきかかるので、ギセントたちは眼をまわしてふらふらになり、進路を見失って、またもや容赦な攻撃にさらされることになった。
ギセントは、最後の力をふりしぼり、しゃにむに上昇すると、カラスたちに急追いされながら必死になって北ににげ、地平線のかなたに姿を消した。一羽だけ後にのこったカラスが、タランたちの方にぐんぐん近づいてきた。
「カアだ!」タランは、思わずさけんで両手をさしのばした。
カアは、せいいっぱいの声でわめきたてながらさっとおりてくると、とくいげに目をひからせ、つやのあるつばさをオンドリよりももっととくいそうにぱたぱたさせた。そして、早口にぺらぺら何か口走り、ガアガア、ギャーギャーなきたて、とうとうおしゃべりをはじめたので、ガーギがぱっと耳をふさいだ。
タランの手首にとまったカアは、頭をぴょこぴょこさせ、くちばしかをかたかたならしながらすっかりいい気になって、片ときも休まずしゃべりつづけた。
タランは、カラスがしわがれ声で自慢たらたらおしゃべりするのをやめさせようとしたが、とてもだめとわかったので、この性悪る鳥からはなにもきけないと、あきらめてしまった。すると、カアは羽ばたいてふたたびまい上がり、「アクレン!」とないてみせた。「アクレン、女王!」
「彼女に会ったのか?」タランは、息がとまるほどおどろいた。むかしは権勢をほこったこの女王のことを、彼女がカー・ダルベンから逃げて以来すっかり忘れていたのだ。「彼女はどこにいる?」
カラスは、ちょっとはなれたところまでとんでいってからもどってくると、羽をばたばたさせて、タランをついてこいとせきたてた。「すーぐ、すーぐ。ギセント。」
エイロヌイが、あっといった。「わたしたちが見たのはそれよ。ギセントはアクレンを殺したんだわ!」
「生きてる!」と、カアがこたえた。「けが!」
タランは、コモットの騎兵たちに待機を命じて、地面にとびおりると、カアの後を追った。エイロヌイとドーリとガーギも、あわててついてきた。グルーは、すでに岩でさんざんすりむきをこしらえたのだから、他人のためにわき道にそれるなんてまっぴらだとことわって、ついてこなかった。
フルダーも、一瞬ためらった。「うむ、しかし、やはり行った方がいいだろう。彼女を運ぶのに手が必要だろうからな。しかし、どうもこいつは胸に収まらんのだ。アクレンは心から自分流にやりたがっておった。だから、わしは、手出しをすべきではないようにもう。べつに彼女を恐れているわけではない、全然な。いやいや、実をいえば」フルダーは、たて琴の絃が緊張したのに気づいてあわてていい足した。「あの女を見るとふるえがくるんだ。あの女がわしを土牢にとじこめてからというもの、わしは、あの女になにか親しめないところがあると思ってきた。彼女は音楽がわからん、こりゃたしかだ。ではあるが、」フルダーは、大声でいった。「フラムの者は救助に向かう!」
アクレン女王は、ギセントのどう猛なくちばしと爪からのがれるために、最後ののぞみをかけてはいりこんだ大きな岩のわれめに、まるでひきちぎられた黒いぼろのようになっていて、どっと伏せていた。だが、タランはその避難所では、とても身を守れないと気づいて、あわれに思った。一行がわれめからそっと体を持ち上げてやると、アクレンがかすかにうめき声をあげた。吟遊詩人といっしょについてきたリーアンは、近くにじっとうずくまっていたが、不安そうにしっぽをせわしく左右にふった。アクレンの顔はやつれはてて死人のように血の気がなく、両腕にはあちこちに深い傷があり血が流れ出ていた。エイロヌイがだきかかえて蘇生させようとした。
「リーアンに運んでもらおう。」と、タランがいった。「わたしが持ってきている薬草では足りないようだ。傷以上に、熱が体がまいっている。長い間たべるものも飲むものもなかったんだ。」
「くつが、もうぼろぼろ。」と、エイロヌイがいった。「こんな恐ろしいところを、ずいぶんさまよい歩いたのね、きっと。かわいそうなアクレン! わたし、この人が好きだとはいわないけれど、どんな目にあったか、想像するだけでも足の指がちぢむ思いがする。」
フルダーは、意識を失った女王を平らな地面に移すのを手伝ってしまうと、五、六歩はなれて近づこうとしなかった。ガーギも女王からはなれていた。それでも、タランに命令されるとふたりとも近づいてきた。そして吟遊詩人は、タランたちがアクレンをリーアンの背にのせる間、大きな猫をなだめるために、さかんになぐさめの言葉をかけてやっていた。
「いそげ。」と、ドーリの声がさけんだ。「雪がふりだしたぞ。」
どんよりした空から、白いものがちらちら落ちてきた。そして、あっという間に、一行のまわりで肌をさす風が渦を巻き、たたきつけてくる雪がしだいにはげしくなってきた。雪の針が顔を刺し、視界がますますせばまってきた。ふぶきがはげしくなるにつれ、さすがのドーリですら道がたしかでなくなってしまった。一行は、たがいにしっかりとつながって何も見えない吹雪の中をよろめきながら歩いた。タランはドーリの杖の端をつかんでいた。カアはすっかり雪におおわれていたが、両のつばさを持ち上げて、タランの肩から落ちないようにけんめいに体の平衡をとっていた。リーアンは動かない女王を背にのせ、頭をさげて風をよけながら一歩一歩先に進んでいた。だが、このめったにころばない猫が、かくれた石や雪にうずまったわれめのためにしばしばよろめいた。一度、ガーギが、あっと悲鳴をあげて大地に呑まれたように姿を消した。深いさけめに落ちたのだった。みんなしてようやくひっぱり上げてみると、この不運な生きものは、もじゃもじゃのつららになりかけていた。ふるえがはげしくてとても歩けそうもないガーギを、タランとフルダーがかかえるようにして歩かせた。
風の勢いはすこしもおとろえず、ふりつのる雪は、まるで突きぬけられない幕のように思われた。刺すような寒気が、さらにきびしくなってきた。息が苦しくなり、はげしくあえいで息を吸うたびに、肺にながれこむひえきった空気があいくちのように感じられた。エイロヌイは、寒さと極度の疲労のために泣きだしそうになっていた。それでも、ころばないようにタランにしがみついて、すでにひざまでつもった雪の中を、ドーリの後について一生けんめい歩いていた。
「もう進めない。」小人が、風に負けないような大声でさけんだ。「避難所をみつけるんだ。味方のところへもどるのは、雪があがってからだ。」
「しかし、戦士たちがいる。かれらはどうなる?」と、タランが心配してこたえた。
「おれたちはよりはいい!」と、小人がさけんだ。「あそこのがけの斜面に、かなり大きな洞穴があった。あの若い羊飼いは、ちゃんとあれに気づくはずだから心配いらん。むずかしいのは、おれたちのかくれがをみつける方だ。」
しかし、小人が、長い間骨を折ってさがしまわっても、せり出した岩棚の下の浅いくぼみしかみつからなかった。一行はよろこんでそのくぼみにころがりこんだ。そんなところでも、もろにたたきつけてくる風と雪だけはよけられた。しかし、寒気は相変わらずきびしく、動くのをやめたとたん体がこわばったようになり、手足を動かすのも大儀になった。タランたちはこごえないようにぴったりと寄りあい、リーアンの厚い毛皮にへばりついた。そうしていてもなお、ほとんどききめはなかった。夜のとばりがおりると寒気が一段ときびしくなった。タランは、マントをぬいでエイロヌイとアクレンの上にかけてやった。ガーギも、羊の皮の上着をかけてあげるといいはってそのとおりにすると、歯をがちがちならしながら、もじゃもじゃの両腕で胸をだくようにしてうずくまった。
「アクレンは、今夜一晩もたないのではないですか。」タランは、フルダーにいった。「わたしたちがみつけたとき、すでに死にかけていたんですからね。こんな寒さに耐える体力はないでしょう。」
「われわれにだって、そんな体力があるかね?」と、吟遊詩人はこたえた。「火がなければ、今すぐに、別れのあいさつをしといた方がいいだろうよ。」
「あなたたち、どうしてぶつぶつこぼしているの?」と、エイロヌイがため息をついていった。「わたし、生まれてこの方、こんなに気持がよかったことないわよ。」
タランは、ぎょっとなってエイロヌイの顔を見た。若い王女は、マントにくるまったまま、身じろぎ一つしなかった。目をなかばとじていて、声はねむたげにくぐもっていた。
「とってもあったたかい。」と、王女はたのしげにもぞもぞと話をつづけた。「ほんとうに、このかけぶとんすてき。おかしいわねえ。わたしたちみんなが、おそろしいふぶきにおそわれた夢を見たわ。あの夢はほんとうにいやだった。それとも、まだわたし夢を見ているの? いいわ、目がさめれば消えてしまうんですもの。」
タランは、心配のあまり顔をひきつらせて、乱暴にエイロヌイをゆさぶった。「ねむっちゃいけない! ねむったら死ぬぞ!」
エイロヌイは、返事をしないでくるりと顔をそむけ目をとじてしまった。ガーギも、王女のかたわらに丸くなってころがっていて、おこしてもおきなかった。タラン自身も、死のねむ気につつまれるのを感じた。「火だ!」と、タランはあわててさけんだ。「たき火をしなくちゃだめだ。」
「何をもやす?」ドーリが、ぶあいそな声でこたえた。「この荒れ果てた土地には、小枝一本ないんだ。何をもやすんだ? くつか? マントか? 凍え死にするのが早くなるだけだ。」ドーリはさっと姿をあらわした。「どうせ凍えちまうんなら、耳の中でクマンバチをうならせたままじゃまずいからな。」
その間じっとだまりこんでいたフルダーが、手を後ろにやってたて琴をはずした。それをみて、ドーリはかんかんになってどなった。
「音楽だと! おい、おぬし、頭までこおっちまったのか!」
「ああ、わしらに必要な音色をだしてくれるのさ。」と、フルダーがいいかえした。
タランは、吟遊詩人のかたわりまでにじり寄って「フルダー、なにをするつもりなんです?」ときいた。
詩人はこたえなかった。しばらくの間、彼はいとおしげにたて琴をかかえて、そっと絃をなでていたが、その美しい楽器をさっともち上げたかと思うと、ひざで折った。タランは、楽器の骨組がこまかくわれ、弦がじゃーんといやな音をたててひきちぎられるのを見て、あっと思わず声をあげた。フルダーは、手にのこったかけらをすてていった。
「もやしてくれ。この木はよくかわいている。」
タランは、詩人の肩をぎゅっとつかんですすり泣きしながらいった。「なんてことをしたんです? 侠気にみちたばかなフラム! それをこわしたって、ほんの一瞬の暖しかとれないのに。わたしたちには、こんなたきぎがつくるよりも、もっともっと大きな火が必要なんだ。」
だが、ドーリは、かくしから、すばやく火打石をとり出すと、なさけないほどのたきぎの山に火をつけた。たちまち、たきぎは燃え上がって、突然、みんなをあたたかい空気でつつんだ。タランは、燃え上がる炎を茫然と見つめた。木のかけらはすこしも燃えないのに炎はますますあかるくなるようだった。ガーギが、もぞもぞうごいて頭を持ち上げた。歯の鳴るのがぴたりととまり、寒気で血の気の失せていた顔に色がもどった。エイロヌイもおき上がって、夢からさめたようにあたりをきょろきょろ見まわした。王女は、一目で、詩人のさし出した燃料の正体に気づいた。その目に涙がどっとあふれた。
「くやんだりしないでくれ。」と、フルダーが思わずさけんだ。「じつをいえば、わしはこいつをお払い箱にできてうれしいのだよ。じつはな、こいつをまともにひけたことなんかなかったんだ。だから、いちばんのお荷物だったのさ。いや、ほんとうに、こいつがなくなって、羽毛のように気が軽くなった。いいかね、なによりもだ、わしは吟遊詩人など、してもえらないことはわかっていたんだ。だから、万事これでいいのさ。」
そのとき、炎のまん中で何本かの弦が音をたてて二つに切れ、火花がぱっと空中にまい上がった。
「しかし、ひどい煙だな。」フルダーは、たき火が明るく澄んだ炎を上げているのにそうつぶやいた。「ひどく目にしみて涙が出るわい。」
今、炎は、たきぎ全体にひろがっていた。そして、弦がもえあがると、火のまん中からふいに楽の音が流れ出てきた。楽の音は大きく美しくなり、流れ出る音楽があたりをつつみ、たえまなく岩の間にこだましてつづいた。たて琴は、その命の終りにあたり、長い間かなでた音楽のすべてをはき出しているようだった。調べの音が炎のようにゆらめいて感じられた。
一晩中、たて琴は演奏をつづけた。よろこびの歌、悲しみの歌、愛の歌、武勇の歌をかなでつづけた。火はすこしもおとろえなかった。そして、タランとその仲間たちは、すこしずつ生気をとりもどした。そして、楽の音が空高くひびきわたると、一陣の風が南から吹きおこり、幕でもあけるように、吹りしきる雪を二つに分け、山々にどっと暖気を吹きこんでよこした。
夜があけてようやく、炎はまっかなおきになり、たて琴の調べもやんだ。ふぶきはおわり、岩山はどこもみな、とけかける雪にきらめいていた。
タランの一党は、深いおどろきにうたれて、言葉もなく避難所を出た。フルダーは、ほんのしばらく立ち去りがてに後にのこった。たて琴は燃えつき、一本の絃だけがのこっていた。それは、むかし、ギディオンが詩人におくってくれた切れない絃だった。フルダーは、ひざをついて灰の中からその弦をひっぱり出した。それは、炎のただ中にあったため、ねじれてまるまっていたが、純金のように光りかがやいていた。
18 竜の山
ドーリが予言したとおり、フラサールのおかげで、戦士たちは洞穴に避難し、荒れ狂う吹雪をぶじに切りぬけた。軍はふたたび旅をつづけることになった。最後の障害であるけわしい岩山まで、もうあまり遠くなかった。竜の山の頂が、不気味な黒い姿をぼんやりと見せていた。アクレンは、タランの薬草のききめとエイロヌイの看護で意識を回復していた。フルダーは、この黒衣の女王のそばに近づくのをあいかわらずいやがっていたが、ガーギは、勇を鼓して、この餓死しかけた女に魔法の袋から出したたべものを手渡した。しかし、そのときも、不安げに顔をしかめ、かみつかれないかとでもいうように、手をいっぱいにのばして渡していた。しかし、アクレンはほとんどたべなかった。すると、グルーが、あっという間に残りをひったくって口にほうりこみ、もっと出てこないかときょろきょろあたりを見まわした。
アクレンは、熱のためにすっかり体が弱っていたが、顔にあらわれた傲慢な表情はすこしも変わっていなかった。そして、タランが、仲間ともどもアヌーブンのすぐ近くまで来ている理由をかんたんに説明すると、女王は軽蔑の気持をかくさずにこたえた。
「豚飼いとみすぼらしいその仲間たちが、女王すら失敗した土地で勝利をのぞむというのか? わらわは、マグとかれの戦士たちがいなかったら、とうの昔にアヌーブンについていたはずであった。不運にも、カディフォル・カントレブでマグの軍勢に出会ってしまったのじゃ。」女王は、ひびわれたくちびるをゆがめてにがにがしげに顔をしかめた。「あの者どもは、わらわが死んだと考えてうちすてていった。部下が殺したと報告したとき、マグめ、高笑いしおったわ。きゃつめにも、わらわの復しゅうの恐ろしさを思い知らせてやるわ。
「うちすてられて、わらわは、傷ついたけだものよろしく森の中にたおれておった。だが、わらわの憎しみは、かれらの剣よりも鋭かった。わらわは、四つんばいになってもあの者どもの後を追い、最後の力をふりしぼってうちのめしてやりたかった。だが、じっさいは、復しゅうをとげずに死なねばならぬかと思った。しかし、避難所がみつかったのだ。プリデインには、今もまだアクレンに忠実なものたちかおる。かれらは、わらわがふたたび旅をつづけることができるようになるまでかくまってくれた。あの奉仕に対しては必ずむくいてとらすつもりじゃ。
「だが、わらわは、目的地が見えるところまで行くこともできなかった。ギセントどもは、マグ以上に情容赦がなかった。あの鳥どもが、あのまま攻撃をつづけていたなら、まちがいなくわらわは息の根をとめられていたであろう。かつてかれらを支配したこのわらわをじゃ。かれらには、きびしい罰を与えねばならぬ。」
「わたし、ぞっとする。」と、エイロヌイがタランにいった。「アクレンは、ときどき、今もまだプリデインの女王だと思いこむことがあるのよ。わたしたちを罰しようなんて考えをいだかないかぎり、べつに気にはならないけれど。」
アクレンは、エイロヌイの言葉が耳にはいると、若い女王に顔を向けてすぐにいった。「リールの王女よ、許してくだされ。わらわは、なかばはとりとめもない夢を見ながら、なかばは思い出というらちもないなぐさめにひたって、あのようにいったのじゃ。この命を救ってくれたことに感謝いたしますぞ。そして、何倍にもしてむくいてとらせますぞ。そなた、アヌーブンの山のとりでを越えたいのであろうが? それなら道がちがっています。」
「なんだと!」ドーリがさけんで、思わず姿をあらわした。「妖精族に向かって道をまちがえてるとはなんだ。」
「だが、事実まちがえておる。」と、アクレンはいいかえした。「妖精族にもわからぬ秘密もあるのじゃ。」
「山越えがもっとも楽な道ってことは、秘密でもなんでもない。」ドーリが、がみがみいいかえした。「それが、おれの計画なのよ。おれは竜の山を目標にしている。しかし、いいか、あそこに近づいたら迂回してもっと低い山地を進むんだ。竜の山を越えるほど、このおれがとんまだとでも思うのか?」
アクレンは、あざ笑いを顔にうかべていった。「そんな進み方をしたら、小人よ、そなたはほんとうにおろか者になる。アヌーブンを取り囲む山々のうちで、うち破れるのは竜の山だけじゃ。きくがよい。」女王は、タランがまさかとつぶやくのを耳にしてつけ加えた。「あの岩山はおとりじゃ。わななのじゃ。多くの者がだまされ、落とし穴で白骨となっておる。低い山々は、楽に通れそうに見えて人びとを招き寄せる。ところが、越えようとしたとたん、切りたった断崖からおちてしまう。竜の山は、高いから避けるがよいという顔をしてはいないか? ところが、西側の斜面こそ、アヌーブンの鉄の門への通路にほかならぬ。鉄の門まで行くにはかくされた通路がある。わらわが案内してとらす。」
タランは、女王をじっと見ていった。「アクレン、あなたのいうことはよくわかった。それで、あなたの言葉に、わたしたちの命をかけてみろというのか?」
アクレンは、ぎらりと目をひからせていった。「豚飼いよ、そなたは内心わらわを恐れている。だがの、わらわが教えようという通路と、ギディオン卿の確実な死と、そなた、どちらが恐ろしい? そなたは、アローンの不死身を追っているといったな? わらわの案内に従わなければ、それはできぬ。時のために破れ去ってしまう。豚飼いよ、これがわらわの贈りものじゃ。無視したければそうするがよい。ここで別れよう。」
アクレンは顔をそむけ、破れはてたマントで身をくるみなおした。タランたちは、その場を離れて仲間だけで相談した。ドーリは、自分の才能をアクレンにけなされて腹をたて、不機嫌になっていたにもかかわらず、自分の無知から道をまちがえてしまったかもしれないことを正直にみとめた。「おれたち妖精族は、今までこの国に足をふみ入れる勇気がなかった。だから、あの女のいったことが正しいかどうか判断できないんだ。しかし、片側はけわしくても、その裏側は、ころがりおちてもこぶ一つできない山なら今までに見たことがある。だから、あの女は真実を語っているのかもしれんな。」
「てっとり早く、わしらを片づけようとしているのかも知れんよ。」と、吟遊詩人が口をはさんだ。「白骨がころがっている落とし穴の話はとりはだが立つね。アクレンは、その骨の山にわしらを仲間入りさせたいのじゃないかな。彼女は、彼女なりに勝負をしているにきまっている。」詩人は、そこで不安そうに首をふってみせて、「フラムの者は恐れを知らぬ。しかし、相手がアクレンでは気をゆるしたくはない。」
タランは、しばらくの間なにもいわないで、どちらかにきめなくてはと頭をしぼっていた。そして、こんども、ギディオンが自分におわせたしごとが耐えられないほど重いことを感じた。アクレンの顔は青白いお面のようで、心の奥をおしはかることなどできなかった。この女王が、仲間たちの命を奪おうとしたことは何回もあった。しかし、その魔力をうちくだかれた後は、ダルベンに忠実によく仕えていたことを、タランは知っていた。「彼女がはっきりとあやしいふるまいを見せるまでは、信じる以外にないと思うな。わたしは彼女を恐れている。」タランはそういった。「みんなとおなじくらいにね。だが、恐怖のために、希望にまで目をつぶろうとは思わない。」
「わたしも賛成。」と、エイロヌイがいった。「こんどばかりは、あなたの判断がほんとうに正しいと思うわ。そりゃ、たしかに、アクレンを信用するって、クマンバチを鼻の上にとまらせるようなものよ。でも、はらいのけようとしなければ、さされないでしょ――その、これは、クマンバチのことよ。」
タランは、アクレンのかたわらに近づくと、「竜の山へ案内してください。」といった。「ついていきますから。」
つぎの日、一行は、竜の山の影にはいっている荒涼としたでこぼこの谷間を一日中旅をした。山のいただきは、たしかに竜の名にふさわしかった。てっぺんは、頭にぎざぎざのついた怪物が大きく口をあけているように見え、その両側の斜面はひろげたつばさそっくりだった。大岩塊がつみかさなってそそり立つ山そのものは、一面黒い中に点々と赤黒いまだらがついていて、ごつごつした竜の胴体を思わせた。さっと舞いおりてきてコモット軍をたたきつぶそうとするようにじっとかまえている。この最後の障害を目の前にして、タランとその軍団はぞっとして足をとめてしまった。アクレンは立ちどまった軍団の先頭に出ると、進めと手であいずした。
「もっとたやすい道もある。」アクレンは、左右を切り立った絶壁にはさまれて曲がりくねるほそい道をすすめながらいった。「しかし、道のりが長い上にアヌーブンのとりでに達する前に発見されるおそれがある。この道を知っているのは、アローンのほかは、かれがもっとも信用している部下たちだけ。それとわらわじゃ。わらわこそ、竜の山の秘密の通路をアローンに教えたのじゃ。」
しかし、まもなく、タランは、アクレンがだましたのではないかとうたがいはじめた。人も馬も足がかりがないほど、道がけわしくなったのだ。アクレンは、山の奥深くにわけ入るつもりらしかった。あえぎながら進む戦士団におおいかぶさるように、どっしりとそそり立つ岩がせり出して空をかくしてしまった。ところどころ、道のわきに大きく口をあけた岩のさけめがあり、ふいに冷たい突風が吹きあがってきたりした。タランは、再三岩壁にたたきつけられた。足下に口をあけている深い谷をのぞくと、心臓が早鐘をつき目まいがした。そのたびに、タランはおぞけをふるってつき出た岩の鋭い端にしがみついた。びくともしない足どりのアクレンは、なにもいわずにふりかえり、やつれ果てた顔にあざけるような笑いを浮かべた。
道はずっとのぼりだったが、急勾配ではなかった。こまかくジグザグにのぼっていたのだ。そのため、一行はほんのすこしずつしかのぼれなかった。竜の頭の大きなあごが頭上にぼんやりと見えてきた。今まで奇怪な形の岩山にかくれて見えなかった秘密の通路が、すっかり見えた。下は、切り立った竜の山の斜面だった。いつのまにかほとんどのぼりきって、竜の肩のてっぺんにまで来ていたのだ。そのとき、偵察に出ていたカアがもどってきて、はげしくくちばしをならし、
「ギディオン! ギディオン!」と、あらんかぎりの声で早口にわめきたてた。「アヌーブン! いそげ!」
タランは、いきおいよくアクレンのわきをすりぬけると肩のてっぺんまでかけのぼり、とりでを見ようと岩の間から目をこらした。では、ドンの子孫たちは、すでにアヌーブン攻撃をはじめたのか? ギディオンの戦士たちが不死身に追いついたのか? タランは、早鐘を打つ胸をおさえてさらに高くのぼってみた。と、ふいに、黒い塔が立ちならぶアローンのとりでが眼下にはっきりと見えた。高い城壁と、にらむように無気味に立っているどっしりした鉄の門。ひろい中庭には、かつて黒い魔法の釜がおいてあった戦士の間が見えた。アローンの大広間は、みがきあげた黒い大理石のようにきらめいて立っていた。そして、もっとも高い尖塔の上には、死の王の旗がひるがえっていた。
アヌーブンをはじめてみたタランは、ただよう死の冷気を感じて気分がわるくなった。頭がくらくらし、影におおわれたように目の前が暗くなった。しかし、タランはがむしゃらに岩をよじのぼった。とりでの庭いっぱいに、戦っている人々の姿が見え、剣のぶつかる音や、ときの声がタランの耳にがんがんとひびきわたった。戦士たちが西側の城壁をよじのぼっていた。黒い門はうち破られていた。タランは、メリンガーの白い腹と黄金のたてがみが日にきらめくのを見たと思った。背の高いギディオンとタリエシンの姿が見えたと思った。
コモット軍は、失敗しなかったのだ! アローンの不死身たちはくいとめられておくれてしまい、勝利はギディオンの手にあるのだ! しかし、このうれしい知らせを大声でさけんで伝えようとふりかえったとたん、タランの心臓はこおりついた。南の方に、大いそぎでかけつける不死身の軍勢が見えたのだ。口をきかない戦士たちがどっしりした城門めがけて走っていく。鉄びょうをうったくつの音が、がんがんとひびきわたり、隊長が復しゅうせよと吹きならす角笛がきこえてきた。
タランは、仲間のところへもどるために、岩のてっぺんからとんでおりた。ところが、おりたところの岩だながくずれてまっさかさまに落ちた。エイロヌイの悲鳴がきーんと耳をならし、鋭い岩々がぐるぐる回転しながらせり上がってくるのが見えた。タランは、必死にその岩をつかみ、落ちるのをくいとめようとした。そして、竜の山の切りたった斜面に、二本の腕でぶらさがった。歯のように鋭い岩が両のてのひらにくいこんだ。剣が、帯からむしりとられて、からんからんと音をたてながら下の谷に落ちていった。
タランは、上にいる仲間たちの恐怖した顔を見て、救いの手がとどかないことをさとった。タランは、力をふりしぼって全身の筋肉をわななかせながら、そして大きくあえぎながら、なんとか道までよじのぼろうとした。
片足がすべった。タランは身をよじって体の平衡をとりもどそうとした。と、そのとき、竜の山の山頂から、ギセントがぐんぐん舞いおりてくるのに気づいた。
19 死の王
それは、タランが今まで出くわした中でいちばん大きなギセントだった。ギセントは、かんだかく鳴いて大きくはばたき、あたりの空気をかきまわした。それは死の風とも思われた。タランの目に、大きくひらいたかぎ型のくちばしと血のように赤い目がうつったとたん、ギセントの爪が肩をぐっとつかみ、マントの下の肉をつかもうとくいこんできた。大胆不敵な鳥がぐっとのしかかってきたので、体からにおいたつ悪臭がむっとタランの鼻をついた。深い古傷のある頭が、ぐいとせまってきた。
タランは顔をそむけ、くちばしでのどをかき切られるのを待った。ところが、ギセントはのどを切らなかった。殺すかわりに、あらがいがたい力で、タランを岩からひっぱり上げようとした。ギセントは、もう、おそろしいなき声でなきたててはいなかった。やさしく悲しげな声を出していた。そして、タランをじっと見つめる目には、何かを思い出したような奇妙な表情がうかんでいて、はげしいにくしみは消えていた。
ギセントは、岩から手をはなせとせきたてているようだった。突然、少年だったときのある記憶がタランの頭によみがえった。いばらのやぶの中で傷ついて死にそうになっていたギセントのひなの姿を、タランはもう一度はっきりと見えた。では、このギセントが、ぼくが看病して生きかえらせたあのぼろぼろの羽根のかたまりだったのか? この鳥は、長い年月忘れないでいた借りを、今かえしに来たというのか? タランは、そこまでのぞむ気にはなれなかった。だが、竜の山の斜面にしがみつき、徐々に体力が弱まっていく今は、それをのぞむよりしかたがなかった。タランは、落ちてもしかたがないと思って、岩をにぎる手の力をゆるめた。
ギセントはタランの重みにたじろぎ、一瞬すーっと下降してしまった。タランは、下の岩がゆれうごくのを見た。巨大な鳥は、全力をふりしぼってはばたいた。タランの耳元で風がうなり、体がぐんぐん上へ上へともち上げられるのがわかった。ギセントは、その黒いつばさを持ち上げては力いっぱいはばたき、ぐんぐん上昇し、やがてつかんだ爪をひらいた。タランは、岩ばかりの竜の山の頂上に落ちた。
アクレンのいったことはうそではなかった。タランの眼下には、鉄の門まで、短いそしてじゃまなものがいっさいない平坦な斜面がつづいていた。その鉄の門は、今大きくひらかれていた。いそいでかけつけた不死身たちが、アヌーブンの中になだれこんでいくところだった。死ぬことのないこの軍団は、剣を抜きはなっていた。とりでの中のドンの子孫たちもこの敵に気づき、戦いながら絶望のさけびをあげた。
不死身たちは、山の頂にただひとり立つタランと、屋根の上に姿を見せたその仲間たちに気づいた。本隊の一部が向きを変えて、竜の山に向かってきた。剣をふりかざしながら、ぐんぐんのぼってきた。
タランのギセントが、頭上を旋回しながらたたかいの雄たけびを上げた。巨大な鳥は、風を切って、攻め寄せる戦士たちめがけてまっしぐらにとび、隊列の中に突っこむと、くちばしと爪でせめかかった。思いがけないギセントのはげしい攻撃に、列の先頭にいた不死身たちはあわててひきさがってしりもちをついた。しかし、ひとりが剣をふるって何度も切りつけると、ギセントはついにものいわぬ戦士の足下に落ちた。づはさをぱたりぱたりとうごかし、ひくひくしたかと思うと、やがて、切りきざまれた体はうごかなくなってしまった。
三人の不死身が仲間をとびこえ、タランに向かって斜面をかけ上がってきた。かれらの土気色の顔を見て、タランはいよいよ死ぬときが来たことを知った。かれは、すばやく頂上を見まわして最後の防衛手段となるものをさがしたが、むだなあがきだった。
竜の頭のぎざぎざのいちばん上は、ほそ長い岩だった。その岩は、風雪にむしばまれ、奇怪な形をしていた。浸蝕でできたさけめや穴を、鳴き悲しむような音をたてて風が吹きぬけていた。それはまるで人間がうめき、悲鳴をあげているようにきこえた。その気味わるい泣くような音は、タランに向かって、もっと近くまで来い、さあ来てくれといっているように思えた。この細長い岩だけが、唯一の武器だった。タランは、岩に体ごとぶつかっていき、びくともしない岩をひきぬこうとしてがんばった。不死身はもう目の前だった。
タランがさらに力をふりしぼると、岩がほんのわずか動いたように思えた。そして、ふいに、ぐらりと抜けかけた。タランは、さらにふんばって岩をもち上げると、不死身に向かってがらがらところげおとした。ふたりがひっくりかえって、剣をとばしてしまった。だが、のこったひとりは、すこしもひるまずにのぼってきた。
人間は、自分の上に落ちる雷電に石をぶつけるようなことをする。タランも、絶望にかりたてられて、剣をふり上げながらぐいぐいせまってくる不死身に向かって、小石でも、土くれでも、折れた小枝でもなんでもいいからぶつけてやろうと、あたりを手さぐりした。
竜のぎざぎざの岩がはまっていた穴は、平らな石で内張りがしてあった。そして、その細長い墓穴のような穴の中に、黒い剣ディルンウィンがはいっていた。
タランは、いそいで黒い剣をつかんだ。そのときは、頭が混乱していて、剣の正体には気づかなかった。タランは、ずっと以前に一度ディルンウィンを抜こうとして、その向こう見ずのためにあやうく命を落としそうになったことがあった。だが、今、タランは、剣があったとしか思っていなかったから、命のことなど考えずに、勢いよくさやから引き抜いた。ディルンウィンは、目もくらむばかりの白い光をはなってもえた。そのときになってはじめて、タランは、心の片すみのずっと奥あたりで、ディルンウィンが自分の手の中で炎をあげている、そして自分はちゃんと生きている、とかすかに思った。
不死身は、目がくらんで剣をおとし、両手で顔をおおった。タランは前におどり出ると炎をあげる剣を力いっぱい、敵の胸に突き通した
不死身は、よろめいてたおれた。すると、長い長い間声が出なかったその口から高い悲鳴があがった。すると、死の王のとりでの方から、何百何千の口から出た悲鳴のようなこだまがかえってきた。タランは、よろめいて後ずさった。不死身は、たおれたままうごかなかった。道の上で、鉄の門のところで、不死身たちは、まるでひとりの人間のように、いっせいによろめいて倒れた。すでにとりでにはいってドンの子孫たちとはげしく戦っていた不死身たちも、タランの敵が倒れたとたん、悲鳴をあげてくずれるように倒れた。暗黒の門の破れ口をふさごうといそいでいた不死身の一隊は、ギディオンの戦士たちの足下に、のめってたおれた。西の城壁で攻め寄せる兵士たちを殺そうとしていた不死身は、城壁の上に足をかけたとたん落下した。剣が敷石にあたって大きな音をたてた。魔法の釜が生んだ不死身の戦士たちを、ついに死がうちまかしたのだった。
タランは、仲間たちに向かってついてこいとさけぶと、竜の山の頂きからおりた。コモットの騎兵たちは鞍にとびのり、馬にはやがけを命じて、タランの後から戦場にとびこんだ。
タランは、いそいでとりでの内庭をつっきった。不死身の死を見たアローンの護衛兵たちは、とりでからのがれ出ようとあがいていた。中には、すでに死を覚悟して狂ったように戦うものたちもいた。狩人たちも、ギディオンの戦士たちの剣の下につぎつぎ倒れていったが、残った者たちは新しい力が加わったので、今もまだときの声をあげてギディオンの戦士たちにぶつかってきていた。狩人隊の隊長のひとりが、赤い烙印のある顔をはげしい怒りにゆがめて、タランに切りかかってきたが、炎をあげる剣を見ると恐怖のさけびをあげてにげ去った。
タランは、ひしめきながらはげしくうごきまわる戦士たちの中を切りぬけて、はじめにギディオンの姿を見かけた大広間へいそいだ。入口から中にかけこんだとたん、ふいに、恐怖とはげしい嫌悪感におそわれた。暗い廊下には、たいまつがならんでもえていた。タランは、黒い波に呑みまこれたような気がして、ほんのしばらくたじろいだ。廊下の突きあたりにギディオンがいた。タランに気づくと、すばやく大またにそばまでやってきた。タランは、ディルンウィンがみつかったと、得意そうにさけんでかけ寄った。
「さやにおさめろ!」ギディオンは、片手で目をかばって大声でいった。「さやにおさめないと、おぬしの命がなくなるぞ!」
タランは、いわれたとおりにした。
ギディオンの顔は、まっさおでひきつっていた。みどり色の目がらんらんと光って見えた。「おぬし、どうやってこのやいばを抜いたのだ、豚飼い?」と、ギディオンがきいた。「わたしだけしか、それに手をふれるものはおらんのだ。その剣を渡すがよい。」
ギディオンの声はきびしくて命令的だった。それでも、タランは異様な恐れを感じて、胸をどきどきさせながらためらった。
「はやく!」と、ギディオンは命令した。「おぬしは、わたしの戦いの成果をだいなしにするつもりなのか? アローンの宝庫はわれわれの意のままだ。だれひとり夢想しなかった巨大な力がわれわれを待っている。豚飼いよ、おぬしはそれをわたしと分かちあうのだ。わたしは、おぬしだけを信用している。
「いやしい生まれの戦士どもに、このわれわれの宝を奪わせようというのか?」と、ギディオンはさけんだ。「アローンはその領土からにげ出した。プリダイリは殺され、その軍勢は四散した。今やわれわれに立ち向かえる力を持つものはおらぬ。さあ、その剣を渡すがよい、豚飼いよ。王国の半分はおぬしの手の内にある。手おくれにならぬうちにつかみとるがよい。」
ギディオンが手をのばしてきた。
タランは、恐怖に目を大きく見ひらいて、はっととびさがった。「ギディオン卿、そのお言葉は、友として口にすべきことではありません。裏切り……」
少年時代から尊敬しつづけてきた人物を、あきれてまじまじ見つめているうちに、タランはようやく策略だと気づいた。
気づいたとたん、タランは、さっとディルンウィンを抜きはなち、光りかがやく剣をふりあげた。
「アローンだな!」タランは、あえぐようにいって剣をふりおろした。
切ったと思ったとたん、死の王が化けていたギディオンが、ふいにぼやけて消え失せた。影が一つ廊下をくねっていき、うすれてかき消えた。
仲間たちが、どっと大広間になだれこんできた。タランはいそいで仲間たちにかけ寄ると、アローンはまだ生きていて逃げてしまったと大声で警告した。
アクレンが、にくしみを目にたぎらせていった。「豚飼いよ、そなたの手からはのがれても、わらわの復しゅうからはのがれられぬわ。アローンの秘密のへやも、わらわには秘密でもなんでもない。どこへかくれようとも、かならずさがしだしてみせる。」
アクレンは、いそいでついていくるタランたちを待たずに、くねりまがる通路を大いそぎで走っていった。死の王のしるしがやきつけてある、鉄びょうを打ったがんじょうな木の門があった。アクレンはその門をとびこえた。門の中は長いへやだった。タランは、背を丸めたクモのような人物が、へやのおくにあるどくろをかたどった背の高い玉座の方に、せかせかと近づいていくのが見えた。
マグだった。元モーナの侍従長だった男の顔は死人のように青ざめていた。ぶるぶるふるえるくちびるからはよだれが流れ、目はぎょろぎょろと動いていた。マグはころげるようにして玉座の下まで行くと、敷石の上においてあったものをつかみ、胸にしっかりかかえこんで、くるりとタランたちの方に向いた。
「そこでとまれ!」マグは、アクレンすら、はっとして立ちどまったほどすさまじい声でさけんだ。ディルンウィンを抜きかけたタランも、マグのゆがんだ顔を見たとたん、ぞっと総毛立って立ちすくんだ。
「おまえたちは命がおしいか?」と、マグは大声でいった。「おしければ、ひざまずけ! ひれ伏してあわれみを乞うのだ。余、マグがお慈悲に余の奴隷としてつかわすぞ。」
「おまえは、主人にすてられたんだぞ。」と、タランがいいかえした。「おまえの裏切りも、もうおわりなのだ。」タランは、大またに近づいた。
マグが、気をつけろというように、クモの足に似た両手をつき出した。タランは、侍従長が奇妙な細工の王冠を手にしていることに気づいた。
「余こそ、ここの主人である。」と、マグはどなった。「このマグこそ、アヌーブンの王じゃ。アローンがかたくちかったのだ。鉄の王冠をいただくのは余であることをな。アローンが王位をなぜ失ったか? 王位は余のものじゃ。権利もあり、約束もある!」
「気が狂ってます。」タランは、フルダーにそうささやいた。詩人は、侍従長が王冠を高くかかげてべらべらとひとりごとをいうありさまを、おぞましそうにじっと見ていた。「とりこにしますから、手をかしてください。」
「とりこにはさせぬ。」アクレンが、マントのかくしから短剣を出してさけんだ。「あの男の命はわらわがもらい受ける。そして、わらわを裏切った者すべてが味わった方法でころしてやる。わらわの復しゅうは、まずこの裏切り奴隷からはじまるのじゃ。つぎが、この男の主人。」
「マグに危害を加えてはならん。」タランは、自分をおしのけて玉座まで行こうとする女王をとめた。「さばきは、ギディオンにまかせるのだ。」
アクレンは、タランにはむかったが、エイロヌイとドーリが、あわてて怒り狂う女王のうでをおさえた。タランと吟遊詩人が大またに近づいていくと、マグは玉座にしがみついた。
「おまえたちは、アローンの約束がうそだというのか?」侍従長は、重い王冠をいじりまわしながら歯をむいていった。「余は、これを頭にいただくと約束されたのだ。そして今このように余の手にある。これからもずっとわがものだ!」マグは、すばやく王冠をもちあげて頭にのせた。
「マグ!」と、侍従長は大声でさけんだ。「マグ大王! 死の王マグ!」
侍従長は突然ひたいの上の王冠をつかんだ。勝ちほこった高笑いが悲鳴に変わった。タランとフルダーは、あっと息をのんで後ずさった。
王冠は、鍛冶場の鉄のようにまっかに光っていた。マグは、苦痛に身をよじりながら、すでに白熱している鉄をひっつかんでとろうとしたが、どうしてもとれず、最後の絶叫とともに玉座からころげ落ちた。
エイロヌイが、泣き声をあげて顔をそむけた。
ガーギとグルーは、仲間たちを見失い、なんとかみつけようとまがりくねる通路をいそいでいた。ガーギは、アヌーブンの奥深くはいりこんだためおびえきってしまい、一足ごとにタランの名をよびつづけた。だが、たいまつの照らす廊下からは、こだましか返ってこなかった。グルーもおなじくらいおびえていた。この元巨人はぜいぜいあえぎながらも、ぐちをこぼすことはやめなかった。
「こんなこと、とてもがまんできんよ!」と、元巨人はぐちった。「ひどすぎる! わしは果てもなく不運な荷を負わされるのだろうか? 船にほうりこまれて、むりやりカー・ダルベンにつれていかれる。こごえて死にそうになったかと思うと、命を危険にさらしながら山をひきずりまわされる。一財産手に入れれば、さっとひったくりとられてしまう! そして、こんどはこの始末! あーあ、わしが巨人だったときなら、こんな横暴なあつかいなどがまんしなかったがなあ!」
「ああ、巨人、ぐちと泣きごとやめさない!」仲間からはなれているだけですっかりみじめになっているガーギが、こたえていった。「ガーギ、まいごになってさびしい。しかし、さがして親切なご主人みつけだす。こわがらなくていい。」ガーギは、安心させようとしてそうつけ加えたが、声がふるえないように必死の思いだった。「大胆なガーギ、文句たらたらの小さな巨人の安全を守る、ほんと、ほんと。」
「あまりよく守ってくれないじゃないか。」と、グルーは小うるさくいった。そのくせ、ちびでずんぐりしたこの男は、もじゃもじゃの毛の生きもののかたわらにぴったりくっついて、短い足をせっせと動かし、歩調をあわせて歩いていた。
ふたりが、とある廊下の突きあたりまで歩いていくと、背は低いがどっしりとして幅の広い鉄のとびらが口をあけていた。ガーギはぞっとして立ちどまった。とびらの中のへやからは、熱のない明るい光が出ていた。ガーギは、恐る恐る五、六歩近づいて中をのぞいてみた。戸口の向こう側は、トンネルがどこまでものびているように見えた。光は、宝石や黄金の装飾品から発するものだった。ずっと奥の方に目をやると、影にかくれて見えないが、なにか奇妙なものが見えた。ガーギは、おどろきと恐怖のためにとび出しそうな目をしてひきさがった。
「これ、邪悪な死の王の宝庫。」ガーギは、声をひそめていった。「ああ、きらきら、ちらちら! このへやこそ、いちばんの秘密の、そして恐ろしいへや。大胆なガーギ、ぐすぐずするの賢明でない。」
ところが、グルーは、平気で戸口のところまで進んで宝石の山を見ると、青白いほほをひくひくさせ、目をぎらつかせ、興奮にのどをつまらせながらいった。「わしは一財産だましとられてしまったが、これでやっとつぐなってもらえるぞ。これはわしのものだ! ぜんぶ、わしのものだ! わしがいちばんはやいんだからな。そういったのは! もう、だれにもとらせないぞ!」
「だめだめ! と、ガーギが抗議を申し入れた。「欲深な巨人、これ、あなたものじゃない! それ決めるの、力の大きな王子さまのすること。さ、いそげ。そしてもっとはやくみなさん、さがす。さあ、みなさんに知らせて注意する。ガーギ、ぴしゃりばたんと、わなにかかるの恐ろしい。見張りもいない高価な宝? だめだめ、ガーギ、邪悪な魔法のにおい感じる。」
グルーは、そんな忠告など耳もかさず、ガーギをおしのけた。そして、欲にかつえたさけび声をあげて、しきいをとびこえると、トンネルにおどりこみ、いちばん大きな宝石の山に手を突っこんだ。ガーギは、グルーのえりがみをつかんでひきもどそうとしたが、宝庫の壁からふいに炎が吹き出したため、ひきもどせなくなった。
ギディオンは、アヌーブンの大広間の前に、生き残ったドンの子孫たちとコモットの騎兵たちを集合させた。タランの一行もそこへ合流した。カアまでが、うれしげに鳴きたてながらみんなの頭上をとびまわっていた。ほんのちょっとだが、タランはさぐるような目でギディオンをじっと見た。しかし、長身の戦士がさっと近づいてきてタランの手をにぎると、疑いも消えた。
「おたがい話したいことが山ほどある。」と、ギディオンはいった。「しかし、話をしているひまはない。アヌーブンは占領したが、死の王本人はにげてしまった。われわれの力でできるなら、かれをみつけて殺してしまわねばならぬ。」
「大広間で、ガーギとグルーが行方不明になっています。」と、タランがいった。「まず、あのふたりをみつけ出すことをお許しください。」
「では、いそいでみつけるがよい。」と、ギディオンがこたえていった。「死の王が今もアヌーブンにとどまっているなら、われわれ同様、あのふたりの命もあぶない。」
タランは、腰の帯からディルンウィンをはずして、ギディオンにさし出した。「アローンがこれを手に入れたがったわけが、今になってわかりました。ディルンウィンだけが不死身を滅ぼす力を持っていたのです。なにしろ、とりでの中においておく勇気すらなかったのですからね。竜の山の頂上にかくしておけば害はないと思ったのですよ。アローンがあなたに化けていたとき、わたしは、あやうくだまされて、この武器を渡してしまうところでした。さあ、お収めください。あなたの手にあった方が、さらに安心できますから。」
ギディオンは首を横にふった。「豚飼育補佐よ、おぬしは、みずからの力でそれを抜く資格を得たのだ。だから、それをおびる権利を持っている。」
「いや、まったくだ!」と、フルダーが口をはさんだ。「おぬしが不死身を倒したはたらきはみごとなものであった。フラムの者でもあれ以上にはできぬよ。これで、あのいまわしいやつらを、永久に片づけることができたわけだ。」
タランはうなずいた。「ですが、もう、わたしはかれらを憎悪してはおりません。他人の思いのままになっていたのは、かれらの意志ではありませんでした。かれらも、今は安らかにねむっているのです。」
「とにかく、ヘン・ウェンの予言は、やはりまことであったな。」と、フルダーはいった。「そりゃ、わしだとてすこしも疑いはしなかったがね。」フルダーは、本能的に背中の方に目をやったが、今はもうたて琴の弦が切れる音はきかれなかった。「だが、彼女は、まことに奇妙な言いあらわし方をするものだね。わしは、まだ石が語るのなんてきいておらんよ。」
「わたしはききました。」と、タランがこたえていった。「竜の山の頂上で、あのてっぺんの岩がたてた音は人の声そっくりでした。あの音がなかったら、わたしはあの岩に目もくれなかったでしょう。あの音をきき、あの岩がすっかり浸蝕を受けてうつろになっているのを見て、動かせるかもしれないと考えたのです。そうなのですよ、フルダー、声のない石がはっきりと語ってくれたのです。」
「あなたがそんなふうに考えるのだったら、石は語ったのね。」と、エイロヌイがうなずいていった。「ディルンウィンの炎が消えるってところは、ヘンのまちがいね。それもわかるわ。彼女、あのときすっかり気が動転していたから……」
若い王女がいいおわるよりもはやく、すっかりおびえたふたりの男が、大広間をとび出してみんなのところへ走ってきた。ガーギの体毛はあっちこっち焼けこげてなくなっていた。もじゃもじゃの眉毛はまっくろにこげ、着ているものは今もいぶって煙を出していた。元巨人は、もっとひどい目にあっていた。かれの体は、まるですすと灰のかたまりだった。
タランは、行方不明のふたりを喜んでむかえようとしたが、何をいうひまもなく、アクレンがものすごいさけび声をあげた。
「アローンじゃ! アローンがいる!」
アクレンが、タランの足下の何かに、身をなげるようにしてとびかかった。タランは、ぞっとして息をのみ、身をかたくした。後ろに、とぐろを巻いたへびがいて、今にもとびかかろうと身がまえていたのだ。
タランは、ぱっとわきにとんだ。ディルンウィンが閃光を発してさやばしった。アクレンは、絞め殺そうかひきさこうかとばかりに、両手でへびをつかんでいた。へびは、うろこのある長い胴でむちのように床をたたき、鎌首をアクレンに向けてぬって突き出してきた。きばが、アクレンののど深くくらいついた。アクレンは、あっとさけんであおのけにたおれた。あっという間に、へびはまたとぐろを巻き、死神のように冷たい目をぎらぎらさせてあたりをにらんだ。それから、しゅっと怒りの声をあげると口を大きくあけてきばをむき出し、さっとタランにおどりかかった。エイロヌイが悲鳴をあげた。タランは、力いっぱい、もえる剣をふりおろした。剣はへびをまっぷたつにした。
タランは、ディルンウィンを投げすてると、アクレン女王のぐったりした体をいだいているギディオンのかたわらにひざをついた。くちびるから血の気が失せ、うつろになった目がギディオンの顔をさがしていた。
「ギディオンよ、わらわは誓いを守ったであろうが?」アクレンは、かすかにほほえんでささやいた。「アヌーブンの主は死んだか? それはよかった。わらわは楽に死ねる。」アクレンは、もう一度なにかいおうとして、口をひらいた。しかし、頭はがっくりと後ろざまにさがり、ギディオンがだいている体から力が抜けた。
そのとき、エイロヌイがぞっとするようなさけびをあげた。タランが目を上げると、若い王女が二つに切られたへびを指さした。死んだへびがくねくねとうごき、形がぼやけてきた。そして、へびのいたところに黒い服の男の体があらわれた。切られた首がうつぶせにころがっていた。だが、この人間の死体までが、あっという間に形をくずし、まるで影のように大地にしみこんで消えた。地面はそこだけやけこげてうす茶色になり、日でりの地面のようにわれめができた。死の王アローンは消滅したのだ。
「あっ、剣を! 剣を見てごらん!」と、フルダーがさけんだ。
タランは、すばやくひろい上げたが、柄をにぎりしめたとたん、ディルンウィンの炎が、風にあおられたようにちらちらゆれた。白熱した光が、消える火のようにぼんやりとなってきた。やがて、その輝きはどんどんうすれていき、白い明るさを失い、さまざまな色がうずまき、おどり、ふらふらゆれた。そして、つぎの瞬間、タランの手の剣は、きずだらけで刃こぼれしたただの剣に変わった。さっきまで内から発する炎で輝いていた剣が、今は夕日の光をうつしてにぶく光るだけになった。
エイロヌイがあわててタランのそばにやってきて、大きな声でいった。「ほら、さやにある銘刻も消えていく。さやがにぶく光るんじゃないわ。きえる銘がぼんやり光るんだと思うわ。もっとよく見せて。」
エイロヌイは、マントから金のかたまりをとり出すと、黒いさやに近づけた。金色の光を受けて、きずだらけの銘刻がふいにぎらりとひかって見えた。
「わたしの安ぴかおもちゃが、文字をてらし出したわ! 前から読めた以上の文字が出た!」若い王女はびっくりしてさけんだ。「けずりとられた文字まであらわれた――もう、だいたいぜんぶ読めるわ!」
みんなが、あわてて集まってきた。そして、エイロヌイが玉をかざしている間に、タリエシンがさやを入念にしらべた。
「急速にうすれていくが、文字ははっきりと読める。」と、タリエシンはいった。「いやまったく、王女さま、あなたの黄金の光は、かくれていたものもあきらかにするものですよ。『ディルンウィンを抜く者は、王家の者のみなるべし、しかして、その者は、正義をもって治め、悪を攻めほろぼす者なるべし。善き目的もてこの剣をふるう者は、死の王すらほろぼすべし。』」
読みおえたとたん、銘刻は消えた。タリエシンは、黒いさやのうらおもてをよくしらべてからいった。「かつてひとりの偉大な王が大いなる魔力を手に入れ、おのれのためにのみつかおうとした。そのいいつたえには暗示しかなかったが、その点の意味が今ようやくわかったように思う。その魔力とはディルンウィンだったのだ。目的をそらされて失われ、そしてふたたびみつけだされたのだ。」
「ディルンウィンの役目はおわったのだ。」と、ギディオンがいった。「さあ、この邪悪な土地を出ようではないか。」
アクレンの死顔は、もうあのおそろしい傲慢さが消え、はじめて安らかな表情になっていた。一行は、彼女を黒いマントで包み、大広間に埋葬した。大昔プリデインを支配した女王も、名誉ある死をとげたのだった。
死の王の塔の先端にはためいていた黒旗が突然火を発し、燃えるぼろきれとなって落ちてきた。大広間の壁がぐらぐらゆれはじめた。とりでが、奥深いどこかで身ぶるいした。
タラン一党と戦士たちが鉄の門を出たとたん、城壁が粉ごなになり、堂々とした塔がくずれ落ちた。さっきまでそそりたっていたアヌーブンのとりでの廃墟から、天にとどく巨大な炎があがった。
20 おくりもの
戦士たちは故郷をめざした。ギディオンは全軍をひきいて西に向かい、黄金の船の待つ海岸まで進んだ。光り輝く帆を張った大きな船の群れは、とくいげなカアをいちばん高い帆柱にとまらせてアブレン港に向かった。アローンの滅亡の知らせは、あっという間にひろがった。だから、ギディオンやタランが船からおりてみると、たくさんのカントレブの領主や武将たちが、ドンの子孫に忠誠をちかい、ギディオン王に敬意を表すため、またコモット軍やさすらい人タランにあいさつするために集まってきていた。ガーギは、戦いにちぎれた白い豚の旗をひろげて、意気高らかに進んだ。
ところが、ギディオンは奇妙なほど言葉すくなだった。そして、タランも、小さな農場が見えてくると、喜びより心のいたみを感じた。冬はおわっていた。霜どけの大地では、いのちが動きはじめ、かすかなみどりが、あわい霧のように丘をつつんでいた。だが、タランの目は、冬枯れたコルのはたけだけを見ていた。はたけを見ると、はるかに遠いところで永久に休んでいるあの雄々しいカブつくりを失った悲しみが、あらためて深くなるのだった。
ダルベンが、挨拶のためによちよち出てきた。大予言者の顔のしわは、前よりいっそう深くなっていた。しわの寄った膚はすきとおるように見え、ひたいがいかにも弱々しげな感じをいだかせた。タランは、ダルベンを見たとたん、コルが帰らないことを予言者がすでに知っていることを感じとった。エイロヌイが、ダルベンのひろげたうでの中にとびこんだ。タランも、メリンラスからひらりととびおりて、大またに王女の後を追った。カアが羽ばたきして、声をかぎりになきたてた。フルダーも、ドーリも、そして毛がますますまだらになっていっそうみすぼらしくなったガーギも、いそいであいさつに加わると、みんなが同時に、今までの出来事を伝えようとした。
ヘン・ウェンは、うれしがって、きいきい、ぶうぶう、ふがふがと大さわぎして、かこいのさくから出てこようとした。タランは、さくの中にとびこむとおお喜びの豚の首をだいてやろうとしたが、突然、かん高い小さななき声をききつけると、おどろいて口をあんぐりあけてしまった。
エイロヌイも、いそいでかこいまでかけつけてくると、大喜びしてさけんだ。「子豚!」
ヘン・ウェンとそっくりな白が五匹、そしてまっ黒が一匹、母親のそばにすわり立ちしてきいきい鳴いていた。ヘン・ウェンはとくいそうに、くすくす笑ったり、ぐうぐううなったりしていた。
「ここには、よくお客がやっきての。」と、ダルベンがいった。「その一匹が美男のイノシシじゃった。冬の間、森の生きものたちがだいぶ活発に動いたとき、そやつはたべものとかくれがを求めにやってきた。そして、森よりもカー・ダルベンが気にいってしまってな。今は、どこかをうろついておるじゃろ。まだちょっと野生がぬけておらんで、こんなにたくさんの子どもになれておらんのじゃ。」
「こりゃ、おどろいた!」と、フルダーは思わずさけんだ。「予言する豚が七匹! おいおい、タランよ。おぬしの仕事は、ブラン=ガレズのときより、もっと大変になるぞ。」
ダルベンが首を横にふっていった。「こやつらはがんじょうで丈夫ではあるが、そして、まことにすばらしい子どもではあるがな、力はふつうの豚とすこしも変わらん。それで十分満足であろうさ。ヘン・ウェンの天与の力も、文字杖がくだけたときからうすれはじめてな、もはやとりもどせなくなっておる。それでよいのじゃ。あのような力は、豚にとっても、人間と変わらず重荷でな。だから、おそらく、ヘンも、今の方がずっと幸せであろう。」
二日間、仲間たちは、平和な小さな農場で、また全員がいっしょになれたことを喜びながら満足して休んだ。空がこんなに晴れて見えたことはなく、今までより豊かで楽しい春のきざしに満ちているような、かつてない心からの喜びを約束しているような感じをいだかせた。スモイト王は儀杖兵をしたがえて到着し、夜を徹しての宴会の楽しいさわぎが、農場にひびきわたった。
その翌日、ダルベンによばれて仲間たちがかれのへやへいってみると、そこにはギディオンとタリエシンがすでに来ていてみんなを待っていた。ダルベンは、集まったひとりひとりを、やさしいけれど心の内をのぞくような目でじっと見ていたが、やがて話しはじめた。その声もやさしかった。
「この二日間は歓迎の二日であった。だが、わかれの二日でもあったのじゃ。」と、老予言者はいった。
仲間たちの間から、その意味を問うようなざわめきがおこった。タランは、はっとして鋭い目でダルベンの顔を見た。だが、フルダーは、片手でぱっと剣をつかんで大声でいった。
「そうだろうと思っていましたぞ。して、どんな仕事がのこっているのです? ギセントどもがもどってきたのですか? それとも、狩人どもが今もまだ出張ってきておるのか? 心配はいりませんぞ! フラムの者はいつでも戦える!」
ギディオンは、興奮している吟遊詩人にむかって、悲しげにほほえんでみせた。「そんなことではないのだ、雄々しい友よ。狩人もギセントもほろんでしまった。だが、おぬしのいうとおり、一つだけ仕事が残っている。ドンの子孫は、血のつながる者すべてが、黄金の船に乗りこんで常夏の国に船出せねばならぬ。ドンの子孫の故郷の国へだ。」
タランは、ギディオンの言葉の意味がわからないといったように、大王に顔を向け、「すると」と、今きいたことが信じられない口調でいそいでききかえした。「ドンの子孫はプリデインを去るのですか? 今すぐに船出するのですか? いったいどんな目的で? そして、いつもどるのですか? 死に対するこの勝利を、あなた方こそ第一に喜ぶべきではありませんか?」
「この勝利が、すなわち船出する理由なのだ。」と、ギディオンはこたえた。「これは、はるか昔から負わされていたさだめなのだよ。アヌーブンの主がほろびたとき、ドンの子孫は永久にプリデインを去る、と定められていたのだ。」
「だめ!」と、エイロヌイが異議をとなえた。「えりにえって今なんて、だめです!」
「いや、この古からのさだめをのがれることはできぬ。」と、ギディオンがこたえた。「フルダー・フラム王も行を共にせねばならぬ。かれはドンの王家と血縁だから。」
吟遊詩人は、顔いっぱいに苦しげな表情をうかべ、「フラムの者は、それを喜んでおります。」といった。「そして、ふだんなら、わしも船旅をしたく思いますがな。しかし、わしは、自分の領土にとどまることでもう満足です。いや、まったく、荒涼たる国ではあるが、あそこを離れていささかさびしくなっておることがわかりました。」
それをきいて、タリエシンが口をひらいた。「ゴードーの息子よ、あなたに選ぶ権利はないのです。だが、いいですか、常夏の国は美しい国です。プリデインよりも美しく、心からのねがいはすべてかなえられる国なのです。リーアンも、あなたに同行します。新しいたて琴も手にはいります。私が自分でお教えいたしますよ。そして、吟遊詩人としての知識をお教えいたしましょう。あなたは常に真の吟遊詩人としての心を持っておられた。フルダー・フラムよ。ただ、今までは、まだ準備がととのっておられなかった。あなたは、仲間のために、もっとも大事に思っていたものをあきらめるのですかな? あなたを待っているたて琴は、そんな犠牲をおぎなってあまりあるほど貴重なものであり、弦が切れることはけっしてありませんぞ。
「また、この事実もわきまえられよ。」と、タリエシンはいいそえた。「この世に生を受けた人間は必ず死なねばならない。ただ、常夏の国に住む者は死なないのです。そこは、争いや苦しみのない国で、死ぬことすらないのです。」
「わしらには、さらに一つのさだめが負わされておるのじゃ。」と、ダルベンがいった。「ドンの子孫が故郷の国へ帰るとき、このわしの魔力もつきるのじゃ。わしは、文字杖が途中で割れなかったら、ヘン・ウェンの最後の予言は何を語ったか、長い間考えた。トネリコの杖がくだけたわけが、今わしにははっきりとわかる。あの三本の杖は、あれほどの予言には耐えられなかったのじゃ。その予言とは、まちがいなくこうであったじゃろう。『ディルンウィンの炎は消え、その魔力は失せる。人間は魔力をかりず、自らのさだめをあゆむ。』
「わしも、常夏の国へ船出する。」と、ダルベンは話をつづけた。「わしは、悲しみをいだきながら、だが、悲しみよりも深い喜びを感じながら旅に出る。わしは老いてつかれ果てた。かの国で、わしは、この肩にもはや重きにすぎるようになった荷をおろして休息することになろう。
「悲しいことじゃが、ドーリは妖精の国に帰らねばならぬ。また、カアもおなじじゃ。妖精の番小屋はうちすてられておる。エィディレグ王は、ほどなく、かれの王国への通路をすべてふさぐよう命じるであろう。メドウィンも、すでにその谷間を人間にむかって永遠にとざした。かれのもとに行きつけるのは、動物だけになってしまったのじゃ。」
ドーリは、深ぶかと一礼すると、「ふん!」とばかにしたように鼻をならした。「人間とのつきあいをやめるにゃ、ちょうど頃合だ。ごたごたをおこすだけだからな。そうとも、おれはもどるのがほんとうにうれしいよ。これはドーリのやつ、あれはドーリのやつってのを、もううんざりするほどやったんだ。さあ、ドーリのやつよ、もうこれっきり姿を消すんだ!」小人は、せいいっぱい腹ただしげな態をつくろうとしていたが、きらきらした赤い目には涙があふれていた。
「アンハラドの娘エイロヌイ王女も、やはり常夏の国へ旅しなくてはならぬ。」と、ダルベンがいった。「しなくてはならぬのじゃ。」ダルベンは、エイロヌイがまさかそんなというように息をのむのを見て、念をおした。「カー・コルールでは、王女は魔力を使うことだけを放棄した。だが、その魔力はリール王家の娘に代々伝えられたものであるから、今もそのまま体内に残されている。それゆえ、王女も旅立たねばならぬ。だがの」ダルベンは、エイロヌイが口をはさむすきを与えずにいそいでつづけた。「ほかに、まだ、ドンの王家によくつかえてくれた者たちがおる。忠実なガーギがそうじゃ。ヘン・ウェンも、彼女なりにそれをしてくれた。それと、カー・ダルベンのタランじゃ。かれらは、ほうびとして、わしらと旅をともにしてよろしい。」
「はい、はい!」と、ガーギがさけんだ。「ため息ついたり、死んだりしない国へ、みんないっしょに行く!」ガーギは、うれしさのあまり両手をふりまわしてとびはね、まだ体に残っていた毛をどっさりまきちらした。「はい、はい、はい! いつまでもみんないっしょ! そして、ガーギも、もとめているものをみつける。このあわれなやわらかい頭に知恵!」
タランは、胸をはずませてエイロヌイの名を大声でよぶと、いそいで王女のそばへ行き、両手でだき寄せた。「ぼくたちは、もう二度と別れることはないんだ。常夏の国へ行ったら、ぼくたち結婚――」タランは、はっとして言葉を切ったが、「その、その、きみがのぞむなら。きみが、豚飼育補佐とでも結婚してくれるなら。」
「ほんとに、まあ。」と、エイロヌイがこたえていった。「わたし、あなたがいつまで結婚をさけるのかと思っていたの。もちろん、結婚するわ。そしてね、この問題は、あなたがちょっとよく考えていたら、とうの昔にわたしの返事はわかっていたはずよ。」
タランは、予言者の知らせで、まだ頭が混乱していたので、予言者に顔を向けてたずねた。「この話は、ほんとうのことですか? エイロヌイとわたしは、いっしょに旅していけるんですね?」
ダルベンは、ほんのちょっとなにもいわなかったが、やがてうなずいてみせた。「ほんとうじゃ。わしの力で与えられるむくいは、それがせいいっぱいのところでな。」
グルーが鼻をならした。「あっちにもこっちにも永遠の生命をさずけるとは、まことにけっこうだよ。豚にまでな! ところが、だれひとり、わしのことなどすこしも考えちゃくれない。自分勝手! 思いやり不足! もしも、あの妖精族の坑道がくずれ落ちて――わしの財産をうばったといってもよかろう――こなかったら、わしらは別の道を進んでいただろう。竜の山は行かなかったろう。ディルンウィンもみつからなかったろう。不死身も殺されなかったろう……」モルダと巨人は、腹をたててそういったが、なさけない表情で眉根をぐっと寄せ、口をぶるぶるとふるわせていた。「いいとも、行くがいい! わしを、こんなちっぽけな姿のままにしてな! いいか、わしが巨人だったときには……」
「はい、はい!」と、ガーギが大声をはりあげた。「めそめその巨人も、よくはたらたいた。自分でいっているとおりです。かれを、ひとりだけ小さいままにしていくの正しくない。それに、邪悪な死の王の宝庫で、高価な宝ものがもえあがったとき、あつくて体をこがす炎の中から、命一つすくった!」
「うむ、グルーも、まったく、いやいやながらではあったがはたらいている。」と、ダルベンがこたえていった。「かれにも、みなみなと同じむくいをとらせよう。常夏の国に行けば、かれも、のぞむならばふつうの男の大きさにまで成長しよう。だが、おまえの話では」ダルベンはきびしい目でガーギを見た。「グルーがおまえの命すくったのだね?」
ガーギは、ちょっとたじろいでしまった。そして、こたえようと口をひらきかけたとき、グルーがさっと口をはさんだ。「むろん、ちがう。」と、元巨人はいった。「命一つがすくわれた。このわしの命だ。かれが、あの宝庫からわしをひっぱり出してくれなかったら、わしは、アヌーブンでただの灰になっていただろうよ。」
「ともかく、おぬし、ほんとうのことをいったではないか、え、巨人よ!」フルダーが思わずさけんだ。「でかしたぞ! いや、こりゃこりゃ、なんだかもうちょっと大きくなったようだぞ、おぬし!」
ギディオンが進み出て、タランの肩にそっと手をおくと、しずかにいった。「出立の時はまもなくだ。あすの朝船出する。支度をするがよいぞ、豚飼育補佐よ。」
その夜、タランはときどき目をさました。心をうきうきさせたはげしい喜びは、どんなにさそっても手にもどろうとしない冠毛あざやかな鳥のようにはばたいて、手のとどかないところへとび去ってしまっていた。エイロヌイのこと、そして常夏の国で待ち受けている幸福のことを考えても、それはふたたびもどってはくれなかった。
とうとう、タランは仮寝の床からおき上がり、不安な心をいだいて窓べにたたずんだ。ドンの子孫たちのかがり火は、すでに灰になっていた。満月が、静かに眠る野やはたけを銀色の海に変えていた。そのとき、山々のはるかかなたから、かすかに、しかしはっきりと歌声がきこえてきたかと思うと、つぎつぎそれに和する歌声があがった。タランは息をのんだ。ずっと前に一度だけ、タランは妖精の国でこれに似た歌声をきいたことがあった。今、歌の調べは、高く低くつづいて、月光よりも明るくひかるかとばかりふくれ上がってあたりに満ちてきた。思い出の歌声よりさらに美しくきこえた。だが、だしぬけに歌声はやんだ。タランは、このような歌声を二度ときけないことがわかっているので、悲しくなって、ああと思わずさけんだ。そのとき、この大地の四方八方で、重々しいとびらがしまり、そのおとがこだまとなってきこえてきたように思った。
「なんと、ねむれないのかね、ひよこちゃんや?」という声が、タランの後ろできこえた。
タランはさっとふりかえった。へやに満ち満ちた光で目がくらんだ。しかし、目がはっきりしたとき、タランは、そこに、すらりとした人影が三つ立っているのに気がついた。ふたりは、白、金色、燃えるような緋色とたえず色が変わる服をまとっていた。もう一人は、きらめく黒のマントをまとい、頭をフードでつつんでいた。ひとりは、ふさふさした髪を宝石でかざり、ふたりめは、きらめく白い玉のネックレスをつけていた。ふたりとも、おだやかな、心がしめつけられるほど美しい顔だった。三人めの顔は黒いフードの影になっていたが、ほかのふたりにおとらず美しいにちがいなかった。
「ねむれない上に、口がきけないんだね。」と、まん中の人がいった。「かわいそうに、あしたは、大喜びでおどりまわるどころか、あくびをしてなくちゃならないね。」
「その声――その声は、よくおぼえています。」タランは、ささやくような声しか出せずに、つかえながらいった。「しかし、顔は――そうです、見たことがあります。ずっと以前。モルヴァの沼地で。ですが、まさか、おなじってわけがありません。あの、オルデュ? オルウェン、それから――オルゴク?」
「もちろん、そうだよ、ひなっ子や。」と、オルデュがこたえた。「ま、以前に会ったときはいつも、わたしたちがいちばんきれいなときとは、たしかにいえなかったがね。」
「でも、それが目的にゃ十分かなってた。」と、オルゴクがフードの奥でつぶやいた。
オルウェンが、娘のようにくすくす笑って、ネックレスの白い玉を指でもてあそびながらいった。「わたしたちが年百年中みにくいとしとよりの魔女みたいな顔をしていると思っちゃいけないね。それは、そのとき次第でそうした方がいいというときの顔なんだよ。」
「なぜここにいらっしゃったのです?」タランは、こんなにも美しい姿であらわれたこの魔女たちの、以前と変わらないもののいい方にすっかりめんくらってたずねた。「あなた方も、常夏の国へ旅をなさるのですか?」
オルデュが首を横にふった。「わたしたちも旅はする。でも、あんたといっしょじゃない。塩気を含んだ空気をかぐと、オルゴクは気分がわるくなるんでね。塩気のある空気なんて、気分をわるくさせる程度のものなんだろうがね。わたしたちは、そうさね、どこにでも行くのさ。あらゆるところへ行く、といってもいいかねえ。」
「あんた、これっきりわたしたちにゃあえないよ。わたしたちも、あんたにゃあえない。」オルウェンが、名残りおしいともとれる口調でつづけた。「あんたに会えなくなるとさびしいだろうね。わたしたちに、だれかとあえなくてさびしいと思う気持があればの話だが、とくに、オルゴクは、ぜひあんたを――ま、そんなこと、くよくよ考えないにこしたことはないねえ。」
オルゴクが、ひどく無作法にふんと鼻をならした。その間に、オルデュは、一巻きのあざやかな壁かけをひろげてタランにさし出した。
「ひよっこちゃんや、わたしたちはね、これをあんたにとどけに来たのさ。これを受けとって、オルゴクの不平なんぞ気にかけるんじゃない。オルゴクは、失望をがまんしなくちゃならないだろうよ――これよりいいものがないって失望をね。」
「これは、あなたが織りかけていたとき、見たことがあります。」タランは、つよい不信の念をいだいていった。「なぜ、これをわたくしにくださるのです? わたしはほしがりはしませんし、なにもおかえしできませんよ。」
「こまどりちゃんや、これは本来あんたのものなんだよ。」と、オルデュがこたえていった。「そりゃ、ほんとうにしゃくし定規にいえば、これはわたしたちが織ったものさ。しかし、じつは、これを織ったのはあんたなのさ。」
タランは、わけがわからなくなって、織物をもっとよく見た。すると、そこには、男や女、戦士たちや戦い、鳥やけものたちの姿がびっしりとえがきだされていた。「これは、」タランはおどろきの念にうたれて小声でいった。「これは、わたしの今までのことだ。」
「むろんさね。」と、オルデュがこたえていった。「模様はあんたがえらんだもの、今までずっとそうだった。」
「わたしがえらんだもの?」タランは疑問に思っていった。「あなた方ではなく、ですか? ですが、わたしは考えていました……」タランはとちゅうでやめて、目を上げてオルデュを見た。そして、ゆっくりと「そうですね。かつて、わたしは、世の中はあなた方の意のままに動くと考えていました。今は、そうでないことがわかります。人生という糸は、三人の魔女が、いや、たとえ三人の美女であっても、その人たちが織るものではありません。この模様はたしかにわたしがえらんだものです。しかし、ここは」タランは眉をしかめて織物の模様を仔細に見ながらいった。端のところは織った部分がふいにおわって、糸がたれさがっていた。「こは、おわっていませんね。」
「あたりまえさね。」と、オルデュがいった。「あんたは、これからも模様をえらんでいかなくちゃならないのさ。あんたたち、とほうにくれているひよっこたちはだれもみな、それをしなくちゃならないのさ。織るべき糸が残っているかぎり。」
「しかし、もう、わたしには、自分の織るべき模様がわからない。」タランは、思わず大声でいった。「もう、わたしには、自分の気持が理解できないのだ。なぜ、この喜びに、深い悲しみの影がさすのだ? その理由だけおしえてください。それだけをわからせてください。一つだけ、最後の恵みとして。」
「かわいいひよこちゃん。」オルデュが、悲しげにほほえんでいった。「ほんとうの話、わたしたちが、あんたに何かを与えたことがあるかい?」
それっきり、三人は消え失せた。
21 別れ
その夜、タランは夜明けまで、窓辺から動かなかった。未完成の織物は足下にひろげてあった。夜が明けたとき、カー・ダルベンをかこむ野や山に集まっているコモット人やカントレブの貴族たちはますます数がふえて大群衆になっていた。ドンの子孫たちがプリデインから旅立つことが知れわたったからだった。かれらとともに、東のとりでを旅立ったドンのむすめたちも到着した。タランも、ようやく窓辺をはなれ、ダルベンのへやへ行った。
仲間はすでに集まっていた。ドーリもまだそこにいた。この小人は、友人ひとりひとりに最後の別れをするまでは妖精の国に旅立たないときっぱりいいきっていた。カアは、めずらしくしずかに、ドーリの肩にとまっていた。グルーは旅立てるのでうきうきと喜んでいるようだった。タリエシンとギディオンは、ダルベンのそばに立っていた。そして、そのダルベンは、重い旅行用のマントをはおり、トネリコの杖をにぎって立っていた。こわきに時の書をかかえている。
「ご親切なご主人、おいそぎください!」と、ガーギが大声でいうと、フルダーのかたわらで、リーアンがいらだたしげにひげをひくひくさせた。「みなさん、ぷかぷか、すいすいの支度できています!」
タランは、仲間たちの顔を見た。エイロヌイは、愛情をこめたまなざしでタランを見ていた。ギディオンの顔は風雪にきたえぬかれていた。そして、ダルベンの顔には、深い知恵がきざみこまれていた。タランは、この人たちに、今ほど強い愛情を感じたことはなかった。タランは、老予言者の前に立ってはじめて口をひらいた。
「あなたがくだされたおくりものほどの名誉を、二度とふたたび受けることはありますまい。」と、タランはいった。いうのはつらかったが、かれは意を決して話しつづけた。「昨夜、わたしは思いなやみました。そのとき、オルデュが来た夢を――いや、夢ではありません。ほんとうにここにやってきたのです。そして、わたしは、自覚したのです。あなたのおくりものはお受けできかねるということを。」
ガーギはなにかさけびかけたが、はっと口をつぐみ、信じられないように見ひらいてタランを見つめた。
仲間のみんなもびっくりした。そして、エイロヌイは大きな声をあげてしまった。「カー・ダルベンのタラン、あなた、自分のいっていることがちゃんとわかってるの? ディルンウィンの炎で知恵分別をやかれてしまったの?」だが、そこでふいに、声がのどにつかえてしまった。エイロヌイは、くちびるをかんで、いそいで顔をそむけた。「わかったわ。わたしたちは、常夏の国で結婚することになっていたわ。あなた、今もまだ、わたしの心を疑っているの? わたしの心は変わっていません。わたしに対する思いが変わったのは、あなたの方なのね。」
タランは、エイロヌイの顔がとても見られなかった。悲しみが深すぎたのだ。「それはちがう、リールの王女よ。」と、タランはつぶやくようにいった。「わたしは、長い間あなたに愛をいだきつづけていた。その愛を自覚する以前すら、愛していた。仲間に分かれることはつらく悲しいことだが、きみと別れることは、その二倍も悲しくつらい。だが、そうしなくてはならない。ほかにどうしようもない。」
「慎重に考えるがよい、豚飼育補佐よ。」と、ダルベンがきびしい声でいった。「ひとたびきめてしまえば、ふたたびもとへはもどせぬからの。おまえは、幸福をすてて悲嘆のうちにくらそうというのか? おまえは、喜びと愛ばかりか、永遠の命をもすてようというのか?」
タランは、しばらくこたえなかった。ようやくのことでこたえたとき、その声はいかにも悲しげだったけれど、言葉は明瞭でためらいがなかった。
「わたし以上にあなたのおくりものを受けるにふさわしい人間はたくさんいます。にもかかわらず、その人たちは、けっしてそのおくりものが受けられないのです。わたしの一生は、その人たちと切りはなすことができないのです。コルフレヴァの息子コルの菜園や果樹園は荒れはてたままで、生き返らせてくれる人手を待ち受けています。わたしの技術はコルよりは未熟ですが、かれのために喜んで力をつくすつもりでいます。
「ディナス・リードナントの防波堤は完成していません。」と、タランはさらにいった。「モーナ王の墓所の前で、わたしは、この仕事を未完成のままにしておかないとちかったのです。」
そこで、タランは上着のかくしから、陶器のかけらをとり出した。「陶工アンローのことを、わたしが忘れていいものでしょうか? コモット・メリンやあの村と同様な村々のことを、忘れていいものでしょうか? フロンウェンの息子フロニオや、わたしに従い二度とふたたび家に帰ることができなかった勇者たちを、生きかえらすことはできません。夫を失った妻や父をなくした子どもたちの悲しみをいやすこともできないのです。それでも、このわたしの力で、破壊されたものを、すこしでもつくりなおすことができるなら、わたしはそれをしなくてはならないのです。
「赤い休作地帯は、むかしは実り豊かな土地でした。力をつくせば、あそこもふたたびもとにもどるかもしれません。」タランは、そこでタリエシンにはなしかけた。「カー・ダスルのあのみごとな建物は廃墟となったままです。知識の間とあそこに秘蔵された吟遊詩人たちの知識もうちすてられたままになっています。あなたは、追憶は、こまかい記憶がきえてもなお生きつづけるとおっしゃいましたね? しかし、その追憶が失われたらどうなります? わたしに力をかしてくれる人たちがいたら、わたしたちはくずれた石をつみなおし、追憶という宝をとりもどします。」
「ガーギは力をかしますぞ! ガーギは船出しない、しない、しない!」ガーギが泣き声をあげていった。「ガーギはいつものこる。ガーギは、親切なご主人とわかれなくてはならないおくりもの、いらない!」
タランは、このふしぎな生きもののうでにそっと手をおいていった。「おまえは、みなさんといっしょに行かなくてはいけない。おまえは、わたしを主人とよんでくれるのだね? それなら、最後のただ一つの命令にだけはしたがいたまえ。おまえは、心からのぞんでいた知恵をみつけるのだ。知恵は、常夏の国でおまえを待っていてくれる。わたしがみつけられるものは、なんであろうと、この国でさがし求めなくてはならないのさ。」
エイロヌイが一礼していった。「カー・ダルベンのタラン、あなたは心をいつわらずに選択なさったわ。」
「わしも反対はせぬ。」と、ダルベンもタランにいった。「だが、注意だけはしておく。おまえが自らに課したつとめは、とほうもなく困難なものじゃ。そのうちの一つすら成しとげられるという保証はない。そして、すべてに失敗する危険はまことに大きい。いずれにせよ、おまえの努力はむくわれず、歌にもうたわれず、忘れ去られると思った方がよい。そして、最後に、人間の常として死を迎えねばならぬ。そして、おそらく、永遠のいこいの場所を示す墓所すらつくられまい。」
タランはうなずいていった。「それなら、それでよいのです。むかし、わたしは、英雄とは何かをほんとうに知らないで、永遠にあこがれました。今は、多少は前より理解しているように思います。カブつくりでも、陶工でも、コモットの農民でも、はたまた王でも……自分だけのためより、他人のために骨折る人は、だれもみな英雄です。ずっと前に」と、タランはつけ加えていった。「あなたは、みつけることよりも、さがすことの方がだいじだと教えてくださいました。同様に、骨を折ることの方がむくいよりもだいじにちがいありません。
「むかし、わたしは栄光ある未来をのぞんだものでした。」タランは、それを思い出してほほえみながら先をつづけた。「その夢は、子ども時代が終わるとともに消え失せました。楽しい夢ではありましたが、あれは子どもだけが見るのにふさわしい夢でした。わたしは、豚飼育補佐で心から満足です。」
「その満足すら、おまえは持てぬのじゃよ。」と、ダルベンはいった。「おまえは、もはや豚飼育補佐ではない。プリデイン全土の大王じゃ。」
タランは、はっと息をのんで、ダルベンの顔を疑いにみちた目でまじまじと見つめた。「からかっておいでですね。」と、かれはつぶやくようにいった。「わたしは、あなたにからかわれて王とよばれるほど、傲慢になっていたのですか?」
「おまえの真価は、ディルンウィンを抜きはなったときに、はっきりとわかった。」と、ダルベンはいった。「そして、この地にとどまる道をえらんだとき、王たるにふさわしいことがわかったのじゃ。この位は、わしが今あたえるおくりものではない。おまえが今までに背負った荷よりもはるかに重い荷である。」
「では、なぜわたしが負わねばならないのですか?」と、タランは思わず声を高くした。「わたしは豚飼育補佐です。今までもずっとそうでした。」
「これは、時の書に書かれておることじゃ。」ダルベンはこたえると、タランがまた何かいおうとするのを手をあげてだまらせた。「わしは、このことをおまえに告げる勇気がなかった。おまえにそんなことを教えたら、予言そのものが無に帰してしまったであろう。今の今まで、わしは、おまえが統治者としてえらばれた人間なのかどうか自信が持てなかった。じっさい、きのうは、ちがうようだと思っていたのじゃ。」
「すると?」と、タランはたずねた。「時の書が、あなたをあざむくこともあるわけですか?」
「いや、ありえぬことじゃ。」と、ダルベンはいった。「この書は、われわれの生涯の過去、現在、未来という三つの時期について語るがゆえに時の書の名がある。だが、『仮り』の書とよんでもよい。仮りにおまえがつとめをしくじったら、仮りにおまえが悪の道を歩んだら、仮りにおまえが殺されていたら、仮りにおまえがこのような選び方をしていなかったら――何千何万という『仮り』にがあるわけじゃ。時の書は、ありとあらゆる場合のうち、最後にわずか一つが事実となるまでは『仮り』にとしか予言できないのじゃ。なぜなら、人間の運命をきめるのは予言の言葉ではなく、人間の行為だからじゃ。」
「あなたが、わたしの氏素性をひみつにしておられたわけが、今はよくわかります。」と、タランはいった。「しかし、それは、永久に教えていただけないのですか?」
「それをひみつにしておいたのは、わし自身ののぞみだけによるのではない。」と、ダルベンはこたえていった。「それに、もはや、ひみつにはしておくまい。はるか昔、この時の書をはじめて手に入れたとき、ドンの子孫たちがプリデインを去った後、大王となる者は、へびを殺し、炎をあげる剣を手に入れてふたたび失い、幸福の王国よりも悲しみの王国をえらぶものであることを知った。この予言は、わしにとってすらあいまいなものであった。中でももっともわからなかったのは、プリデインを治めるためにあらわれる者は、身分がわからない者であるという予言であった。
わしは、長い間このような予言をじっくりと考えてみた。」と、ダルベンは説明をつづけた。「そして、ついに、わしはカー・ダルベンを出て、未来の王をさがし、王の出現をはやめることにした。わしは長年さがしあるいた。だが、わしがたずねてみた者はみな、羊飼い、武将、カントレブの領主、コモットの農民など、だれも身分をちゃんと知っておった。
「時はうつりかわった。王たちは栄えほろんだ。いくさがおわり平和がおとずれ、平和がおわっていくさがおこった。じっさい、ある時には、うむ、おまえの年とおなじくらいむかしのことだが、悲惨ないくさがこの国におこった。そこで、わしは探索をあきらめ、ふたたびカー・ダルベンへと足を向けた。そして、ある日、わしは偶然にはげしいいくさのあった野を通りすぎた。身分の高いものもいやしい者もたくさんの戦士が死んでおった。女子どもまでのがれられなかった。
「すると、近くの森から大きな泣き声がきこえてきた。母親が、最後のどたん場で命を助けようとしたのであろうか、ひとりの赤ん坊が森の木々の中にかくしてあったのじゃ。くるんであったものを見ても、赤ん坊の氏素性はわからなかったが、両親は野原に倒れている死者たちの中にいることだけはまちがいないと思った。
「たしかに、それこそ、血筋の不明なだれのものともわからない赤ん坊、つまり身分不明の者だった。わしは、かれをカー・ダルベンへ連れてきた。わしがつけた名はタランだった。
「わしには、たとえ教えたくても氏素性は教えられなかったのだ。」と、ダルベンはさらにつづけた。「わしも、おまえ同様に知らなかったのだからのう。わしは、この秘密ののぞみをふたりの人間にだけ知らせた。それがギディオン卿とコルじゃよ。おまえが成長するとともに、わしらののぞみもふくらんだ。だが、おまえこそ大王となるべき子どもかどうか、確信が持てたことは一度もなかった。
「今の今まで、のう息子よ。」と、ダルベンはいった。「おまえはいつも大きな『あるいは』であったのだ。」
「書かれていたことがついに事実となった。」と、ギディオンがいった。「そこで、今こそわれわれは別れをつげねばならぬ。」
へや中がしずまりかえった。リーアンが、吟遊詩人の内心の苦しみを感じとって、そっとはなをこすりつけた。仲間たちはじっと立ちつくしていた。前に出て最初に口をきったのはグルーだった。
「わしは、着たきりスズメのままモーナを追いたてられて以来、これだけは肌身はなさず持っていたのだ。」グルーはそういうと、上着のかくしから小さな青い水晶をとり出してタランの手ににぎらせた。「これを見ると、わしはあの洞穴や巨人であったすばらしい時代のことを思い出す。だが、どうしたわけか、もう思い出したくなくなってしまった。いらなくなったのだ――だから、さあ、ささやかなものだが受けとってくれ。」
「やっこさん、まだ、この世でいちばん気前がいいとはとてもいえんが」と、フルダーがつぶやいた。「やっこさんが人に何かを与えたのは、たしかこれがはじめてだよ。いやはや、おどろいたね、ちびすけめ、たしかにまた二、三センチ背がのびたぞ。」
ドーリは、腰の帯からみごとにつくってある斧をはずして、タランにいった。「おぬしにはこれが必要だろう。こいつは妖精族の品だから、かんたんにはなまくらにならんよ。」
「わたしの役に立つといっても、持主以上ではないさ。」タランは、小人の手をしっかりとにぎってこたえた。「この鉄も、あなたの真心ほどに無垢であるものか。ああ、ドーリ――」
「ふん!」小人は、すごいいきおいでいった。「また、ああ、ドーリかい! そいつはどっかで前にきいたぜ。」
カアは、ドーリの肩にとまっていたが、タランがつやのある羽を一本の指ですうっとなでると頭をぴょこぴょこさせた。
「さよなら。」と、カアはがあがあ声でいった。「タラン! さよなら!」
「うむ、さよなら。」タランは、にっこりしてこたえた。「わたしは、おまえに礼儀作法を教えることはあきらめてしまったがね、おまえの無作法なふるまいは大いに楽しんだよ。おまえは、性悪ないたずら者だったが、カラスの中のワシだったな。」
リーアンがしずかに近づいてくると、愛情をこめてタランの片うでに頭をこすりつけたが、あまり力をこめてこすりつけてきたので、この巨大な猫はタランをひっくりかえしそうになった。
「わが友のよき道づれでいておくれ。」タランは、リーアンの耳をなでてやりながらいった。「かれが沈んでいるときには、のどをならして元気づけてやっておくれ。わたしも、おまえに元気づけてもらいたいよ。かれからあまりはなれたところまでうろつき出ないようにな。フルダー・フラムのように大胆な詩人でも、さびしさと無縁ではないのだから。」
そのフルダーもすすみ出てきた。フルダーは、火の中からひろい出したあのたて琴の絃を手に持っていた。火の熱のために、弦はくねりまがって切れめのない奇妙な形をつくっていたが、タランが見ている間にも、流れる歌のしらべのようにたえず形がかわった。
「あの古バケツのなごりといえばこれだけさ。」フルダーは、その弦をタランにさし出しながらいった。「ほんとうの話、ちょっとよろこんでもいるのだ。あれは、いつもそうぞうしい音をたてて調子がはずれてばかりいたんで……」詩人は、はっと口をつぐんで不安げに後ろを見てから、せきばらいをした。「あ、いやいや――わしはだ、あの切れてばかりいた絃がなくてはさびしかろうと、いいたかったのだ。」
「わたしも、さびしく思います。」と、タランはいった。「わたしは、あなたを思い出すたびに心があたたまることでしょう。あなたも、わたしを思い出してください。」
「大丈夫だとも!」と、吟遊詩人は思わず力をこめていった。「これからも、歌や物語で語りついでいくよ。フラムの者はけっして忘れない!」
「ああ、悲しい、悲しい!」と、ガーギが泣き声をあげた。「あわれなガーギ、心あたたかく思い出してもらうために、親切なご主人になにかさし上げたい。でも何もない。悲しくみじめ! むしゃむしゃもぐもぐの袋も今はからっぽ!」
目に涙をいっぱいためたガーギが、ふいに手をぽんとうった。
「はい、はい! 忘れっぽいガーギ、一つおくりものを忘れていた。ここに、ありました。邪悪な死の王の燃える宝庫から、大胆なガーギ、これを、ぐいぐい、ひょいととってきましたぞ。ところが、あわれなやわらかい頭、恐ろしくて大混乱していたから、忘れていたのです!」
そういうと、ガーギは、小さな皮袋の中から、正体の知れない金属でできた小さな箱をとり出してタランに手渡した。ほのおに焼けてでこぼこしているその小箱をうけとったタランは、興味深そうにながめていたが、ふたをしっかりふさいでいる封をはがした。
小箱の中にあったのは、びっしりと字が書いてあるうすい羊皮紙の束だけだった。それをしらべているうちにタランはびっくりして目を見張り、さっとガーギに顔を向けて、ささやくようにいった。
「おまえ、自分が何をみつけてきたかわかるかい? ここに書いてあるのは、金属の火入れと焼きもどし、陶器の形のつくり方と焼き方、作物の植えつけと耕作なんかの秘法だよ。これは、大昔アローンが人類から奪ってかくしておいたものさ。この知識ははかり知れないねうちを持つ宝なんだ。」
「おそらく、何よりも貴重なものだろう。」ギディオンが、タランの手にある羊皮紙をしらべにきていった。「人手をかりずに焼いて、人をのんきななまけものにしたであろうあの魔法の道具は、アヌーブンの炎で焼けてなくなった。この宝の方がずっとねうちがある。これを利用するには、熟練した技と体力、精神力が必要だからね。」
フルダーが、心からおどろいて低くひゅうと口笛をならした。「この秘宝を手にする者こそ、ほんとうにプリデインのあるじだな。なあ、タランよ、プリデインでもっとも頭の高いカントレブの領主でも、おぬしの意のままになって、なんでもよろしいからおさげくださいとたのんでくるぞ。」
「そして、それをガーギがみつけた!」と、ガーギがさけんで、ぴょんぴょん宙にとびあがりくるくるおどりまわった。「はい、はい! 大胆で、かしこくて、忠実で、雄々しいガーギ、いつもなにかみつける! まいごの豚もみつけた。黒い魔法の釜もみつけましたぞ! そして、こんどは、親切なご主人のために強力な秘密をみつけました!」
タランは、興奮しているガーギを見てわらった。「ほんとうだよ。おまえは、強力な秘密をたくさんみつけてくれたんだ。しかし、わたしは、これをひとり占めしない。プリデイン中の人たちと分かちあうことにする。これは当然国中の人びとのものだからね。」
「それでは、これも分かちあうがよい。」ダルベンは、今までじっと話をきいていたが、タランの今の言葉をきくと、わきの下にかかえていた皮とじの重い書をさし出した。
「時の書を?」タランは、はてなと物問うような目で老予言者を見ていった。「わたしは、とても……」
「さあ、受けとるがよい、息子よ。」と、ダルベンはいった。「好奇心が強すぎた豚飼育補佐の手をむかしやけどさせたものじゃが、もはや、その指をやけどさすことはない。どこを見るのも自由じゃよ。時の書は、もはやこれからおこることを予言しない。すでにおこったことのみを語る。」
老予言者は、テーブルから羽ペンをとると、書をひらいて、力強いしっかりした字でつぎのように書きこんだ。
「かくて、豚飼育補佐はプリデインの大王となった。」
「これもまた宝であるな。」と、ギディオンがいった。「今や時の書は歴史であるとともに代々伝えるべき遺産となった。さて、わたしのかたみだが、この書以上にりっぱなものなどなにももたない。王冠を渡すこともせぬよ。まことの王は、心に王冠をいただくのだからな。」長身の強者は、タランの手をしっかりとにぎった。「さらばじゃ、もう、これっきり会うことはあるまい。」
「では、わたしの形見として、ディルンウィンをお持ちください。」と、タランがいった。
「ディルンウィンは、おぬしのものだ。」と、ギディオンはいった。「おぬしのものと定められていたものだ。」
「ですが、アローンはほろびました。」と、タランはこたえた。「悪は征服され、この剣は役目をおえたのです。」
「悪が征服された、と?」と、ギディオンがいった。「おぬしは、多くのことをまなびとったが、ここで最後のもっともきびしい教えをまなばねばならんな。おぬしが征服したのは、悪が魔法でつくりだしたものだけだ。それは、おぬしのつとめの中でも、もっともたやすいつとめ、手はじめであっておわりではない。おぬしは、悪そのものが、さほどにたやすく征服されると思っているのか? 人間がにくしみあい殺しあうかぎり、欲と怒りにかりたてられているかぎり、悪は征服できない。人間のそうしたふるまいに対しては、炎をあげる剣も力はない。ただ、あらゆる人間の内にある良心、この火だけはきえることがない。」
エイロヌイは、ただだまってじっと立っていたが、ようやくタランのそばに近づいてきた。若い王女は、ためらわずにタランの目をじっと見ながら、黄金の玉を手渡した。
「これをどうぞ。」と、王女はやさしくいった。「わたしたちが分かちあうはずだった愛ほどには、あかるくかがやきはしないけれど。さようなら、カー・ダルベンのタラン。わたしを忘れないで。」
エイロヌイは、タランからはなれようとしたが、ふいに青い目をいからし、どんと一つ床をならしてさけんだ。「こんなのまちがってるわ! わたしが女魔法使いの家に生まれたのは、わたしのせいじゃないでしょ。わたしは魔力なんてほしがりはしなかった。こんなの、足に合わないくつをはかされるよりひどいじゃないの! どうしてわたし、魔力をもっていなくちゃいけないの!」
「リールの王女よ。」と、ダルベンがいった。「わしは、そなたが自分からそれを口にするのを待っていたのじゃよ。そなたは、ほんとうに、代々伝わる魔力をすてたいとのぞむかの?」
「もちろんよ!」と、エイロヌイはさけんだ。「魔力がはなれてくれるなら、ほんとうにやっかいばらいだわ!」
「それは、そなたの力でできることじゃ。」と、ダルベンはいった。「それだけのことなら、その、そなたの手でできることじゃ。むかしギディオン卿がくだされたそのゆびわな、それがのぞみをかなえてくれる。」
「なんですって?」エイロヌイは、おどろきと腹だちでかみつくような声でさけんだ。「それじゃ、この長い年月、これを使ったらねがいがかなうのを知らずに、これをゆびにはめていたっていうの? そんなこと、なにも教えてくださらなかったじゃありませんか! そんなの、まちがっているどころじゃないわ! そうよ、知っていたら、黒い魔法の釜をこわしたいってねがえばよかったかもしれないでしょ! ディルンウィンだってねがえたでしょ! アローンを征服したいとねがえたかもしれません! 危険なことなど、まるでしなくてもですよ! それを、まるっきり知らなかったなんて!」
「これ、これ。」と、ダルベンがあわててさえぎった。「そのゆびわは、たしかにそなたのねがいをかなえてはくれる。たった一つだけだが。しかし、悪は、ねがいによって征服することはできぬ。そのゆびわは、そなたにだけ役立つものじゃ。そして、そなたの心の奥底にひそむねがいだけを充たしてくれるのじゃよ。今までそれを教えなかったのは、そなたが心からののぞみをほんとうに自覚しているかどうか、信じられなかったからじゃ。
「そのゆびわを、一度まわすのじゃ。」と、ダルベンはいった。「そして、魔力が消え失せるよう心からねがうのじゃ。」
エイロヌイは、ほんとうだろうかと、なんだか心配そうに目をとじて、いわれたとおりにした。ゆびわが、ほんの一瞬きらっとひかった。王女は、あっと苦痛のさけびをあげた。そのとたん、タランの手の中でひかっていた黄金の玉の光がまたたいて消えた。
「おわった。」と、ダルベンがつぶやいた。
エイロヌイは、あけた目をしばたたいてあたりを見まわした。「全然変わった感じがしないわ。わたしの魔力は、ほんとうに消えたのですか?」
ダルベンがうなずいて、しずかにいった。「ほんとうじゃ。だが、そなたも、あらゆる婦人の持つ魔力と神秘だけは、いつまでもその身にひそめて生きることになろう。そして、タランは、世の常の男とおなじように、しばしばそれになやまされることであろうよ。だが、それが世の常というものじゃ。さあ、ふたりとも手をとりあって結婚のちかいをかわすがよい。」
ふたりが結婚をちかいあうと、仲間たちが新婚のふたりをどっととりまいて祝福した。それから、ギディオンとタリエシンが小屋を出ていくと、ダルベンもトネリコの杖をとっていった。
「これ以上出立をのばすことはできぬ。ここでおわかれじゃ。」
「しかし、ヘン・ウェンはどうします?」と、タランがたずねた。「もう一度あってやってはいけませんか?」
「いくらでも会うがよい。」と、老予言者はいった。「彼女は、行こうと残ろうと思いのままであるから、おまえとともにここにのこる方をえらぶことはわかっておる。だが、それよりも前に、ああして野原でいらいらしながら待っている客人に、新しいプリデインの王と王妃が誕生したことを知らせたらどうかの。ギディオンがすでに公にしてくれたことであろうから、国人たちはよろこびの声をあげてむかえようと待っておるであろう。」
仲間につきそわれて、タランとエイロヌイはへやから出た。しかし、戸口までいくと、タランはしりごみしてダルベンをふりかえった。「わたしのような者が、王国を治められるでしょうか? わたしは、無鉄砲にやぶにとびこんだことがあるのをおぼえています。王になるのもそれと変わらないのではないかと心配なのです。」
「たぶん、もっともっといたいめにあうことでしょう。」と、エイロヌイが口をはさんだ。「でも、あなたが難問にぶつかったら、わたしがよろこんで忠告してあげます。今は一つだけきめてちょうだい。あなた、この戸口から出るの、はいるの?」
小屋の外で待ち受ける群集の中に、タランは、かじやのヘフィズやフラサールや、そのほかのコモットの人びとの顔をみつけた。ガーストとゴリオンが肩をならべていた。そのかたわらに農夫イーサンがいた。スモイト王が、ひげを火のようにひからせて、周囲を圧するように立っていた。だが、タランの心の中にだけはっきりとうつっている愛する顔もたくさんあった。タランが、エイロヌイの手をしっかりとにぎって戸口から出ると、どっと歓声があがって新しい王をむかえた。
こうして、ふたりは長い年月幸せにくらし、約束したつとめをすべて果たした。さらに年月が流れ流れて、かれらのことが遠い思い出になったとき、多くの人びとは、タラン王やエイロヌイ王妃やその仲間たちが、ほんとうにこの世にいたことをうたがい、子どもをよろこばすために書かれた夢物語にすぎないと思うようになった。そして、やがては、吟遊詩人のみが信じるばかりになった。