【旅人タラン】
ロイド・アリグザンダー
1 わたしはだれだろう?
春はたけなわだった。農場をひらいて以来作物のそだちがいちばんよい夏になりそうだった。果樹園はかぐわしい花でまっ白に見え、深緑のはたけは、みどりのかすみのようにやさしくひろがっていた。だが、美しいながめも、よいかおりも、タランの心を浮きたたせてはくれなかった。タランにとって、カー・ダルベンは空虚だった。コルを手伝って、いつもとすこしも変わりなく、草とりをし、土をたがやし、予言の白豚ヘン・ウェンの世話をしていたが、仕事ぶりはうわの空だった。一つのことしか考えていなかったのだ。
「なあ、おい。」コルが、朝の乳しぼりをおえたとき、気さくにいった。「おまえはモーナ島から帰って以来、見ていると、まるでつながれたオオカミみたいに落着きがないぞ。エイロヌイ王女に恋いこがれてもしかたがないがな、牛乳おけはひっくりかえさんでくれ。」この老戦士はタランの肩をたたいた。「さあ、元気を出せよ。カブの植え方の秘伝を授けてやるよ。キャベツのことでもいい。いや、おまえの知りたいことなら、なんでも教えてやるぞ。」
タランは首を横にふった。「ぼくの知りたいことを教えられるのは、ダルベンだけさ。」
「それなら、このわしに相談しろよ。」と、コルはいった。「おまえのききたいことなんかで、ダルベンをわずらわしちゃいかん。あの方は、もっとだいじなことを考えているんだ。辛抱づよく時の来るのを待て。」
タランは立ち上がった。「もうこれ以上待てないよ。今話したいんだ。」
「気をつけろよ。」コルは、牛小屋から大またに出ていくタランに注意した。「ダルベンはちょっと気短になっているぞ!」
タランは、寄りあつまって建っている、屋根の低い農場のたてものの間を通りぬけた。ダルベンの小屋のだんろのわきに、黒い着物をまとった女がひとりうずくまり、料理のための火をもやしていた。タランがはいっていっても、頭も上げず、声もかけてこなかった。女はアクレンだった。かつておごりたかぶっていたこの女王は、昔の権力を回復する企てをつぶされた後、リールの城の廃墟から、ダルベンの提供してくれたこの隠棲の地へうつってきたのだった。だが、大昔プリデインを支配していたアクレンも、今は、自らすすんで、モーナに行く前にエイロヌイがしていた仕事を受けもち、一日が終わると、しずかに、穀物倉のベッドに姿を消すくらしをしていた。
ダルベンのへやの前で、タランは不安そうに立ちどまったが、すぐに、せかせかとノックした。タランがゆるしをえてはいっていくと、ダルベンはいろいろなものが山と積んである机の上に時の書をひろげ、おおいかぶさるようにして読んでいた。タランは、この秘密の書の一ページでもよいから、ぜひのぞきたいと思ったが、はなれて近づかなかった。まだ子どもだったとき、一度この古い革とじの書に大胆にも手をふれたことがあり、思い出すと今でも指がひりひりするのだった。
「まったくおかしなことじゃな。」ダルベンは、時の書をとじてタランをちらりと見ながら、つっけんどんにいった。「自分の力に自信まんまんな若者が、私事を、たいそうな重荷に思って、年寄りに相談せねばならぬとは、どいうわけじゃ? ところが、年寄りは、」――ダルベンはやせて骨ばった手をふった。「いや、まあよい、まあよい。わしのじゃまをするおまえの目的が立派なものであってほしいものじゃ。かんしゃくがおきぬようにな。
「話の前にいっておく。第一に」ダルベンは話をつづけた。「エイロヌイ王女は元気でおる。きりょうよしのおてんばが剣の舞のかわりにぬいものをさせられるぐらいのことはべつに不幸ではない。第二に、カアがまだもどっておらぬことは、おまえも気づいておろう。今頃は、たぶん、わしの薬をグルーの洞くつまでとどけたであろう。そして、モーナでおまえをさんざん苦しめたあの人口の巨人は、もとどおりの小さい体にちぢむであろう。じゃが、おまえのカラスはしたたか者で、おもしろいものがみつかれば、どこででも道草をくってしまうことも、わかっておるじゃろうな。それから、もう一つ。豚飼育補佐には、外でいそがしくはたらくだけの仕事がたっぷり与えてあるはずじゃ。それが、なぜここに来たのかな?」
「ただ一つ、知りたいことがあるからです」と、タランはいった。「わたしがここまで育ったのは、あなたの親切のおかげです。あなたは、わたしに家と名前をくださって、この家で、息子として生活させてくださいました。ですが、うちあけたところ、わたしはだれなのです? わたしの両親はだれなのです? あなたは、たくさんのことを教えてくださいましたが、このことだけは、いつもかくしておられます。」
「今までずっとそうであったのなら、」と、ダルベンはこたえた。「今になって、なぜ気にするのかな?」
タランが頭をたれてこたえないのを見ると、老予言者は心を見すかすような目でタランを見てほほえんだ。「さ、いうがよい。真実を知りたければ、まず、その理由をうちあけることからはじめねばならん。おまえの問いのうらには、ある金髪の王女の姿が見えるように思うがの。ちがうかな?」
タランは顔をまっかにした。「そうです。」とつぶやいた。そしてふせた目を上げて、ダルベンの視線を受けとめた。「エイロヌイがもどってきたら――わたしは、わたしは、求婚しようと考えています。しかし、それが、わたしにはできないんです。」と、タランは思いきっていった。「自分の素性がわかるまでは求婚しないつもりなんです。間に合わせの名をつけられた氏素性のわからない捨て子が、王女に求婚するわけにはいきません。わたしの氏素性はなんですか? それがわかるまでは落着けないんです。わたしはいやしい生まれですか、高貴な血をひいているのですか?」
「思うに」と、ダルベンがやさしくいった。「後の方がおまえには気に入るのであろうな。」
「そうであったらと思います。」タランは、ちょっとあかくなってうなずいた。「しかし、かまいません。名誉ある血筋なら――もちろん、わたしも名誉にあずかります。恥辱を受けているなら、それに耐えましょう。」
「名誉にあずかるも、恥辱に耐えるも、等しく強い心がなくてはならぬ。」ダルベンはおだやかにこたえた。そして心労にやつれた顔をタランに向けていった。「だが、気の毒じゃが、おまえの問いにわしはこたえられぬ。ギディオン殿も、わし以上のことは知らぬ。」ダルベンは、タランの考えをさとってそうつづけた。「大王マースもまた、おまえに力をかすことができぬ。」
「では、自分でこたえをさがさせてください。」と、タランは思わず大声でいった。「自分でこたえをさがしもとめることをおゆるしください。」
ダルベンは、しげしげとタランをながめた。それから時の書に目を落とし、まるでその読み古した革とじの書の中深くを射とおすような目で、長いあいだじっと目をこらしていた。
「うれたりんごを」と、ダルベンはひとりごとをつぶやいた。「青い昔にもどすことなど、だれにもできぬ。」そしていかにも悲しげな重い口調でタランにいった。「ほんとうに、それを、おまえはのぞむかの?」
タランの心ははずんだ。「これ以上ののぞみはありません。」
ダルベンはうなずいた。「では、そうさせねばならんな。旅をせよ。どこへでも心のままに。自分の力でなにがまなべるかやってみるがよい。」
「心からお礼申します。」タランはうれしさのあまり、大きな声でいって最敬礼をした。「では、すぐにたたせてください。わたしは、今すぐにでも……」
タランがそういいかけたとき、とびらがいきおいよくあいて、毛むくじゃらな生きものがさっととびこんできたかと思うと、タランの足下に身を投げだした。「だめ、だめ!」ガーギは、毛だらけの両腕で勢いをつけて、おじぎをするように体を前にたおしてはまたおこす動作をくりかえしながら、声をかぎりにわめきたてた。「地獄耳のガーギ、みんなきいてしまう! はい、はい、とびらのかげで耳をすまして!」ガーギはなさけなさそうに、くしゃくしゃに顔をゆがめ、もつれた頭を猛烈にふりたてたので、床にぺたりと倒れそうになった。「あわれなガーギ、ひとりぼっちでさびしく、なげきのあまりやせ細ってしまう!」ガーギはなげいて、「ええ、もちろん、ガーギはおともしなくちゃならない!」といった。
タランは、ガーギの肩に手をおいた。「旧い友であるおまえを残していったら、それは悲しいことだ。しかし、この旅は長いと思うんだ。」
「忠実なガーギ、おともいたします!」ガーギは泣くようにしてたのんだ。「ガーギ、強くて大胆でかしこいから、親切なご主人におそろしい災難がふりかかるのを防ぐことができる!」
ガーギは、大きな音をたててくすんくすん泣きはじめ、今までになく激しく悲しげに鼻をならしてなげいた。タランは、このあわれな生きものをことわりきれず、問うような目でダルベンの顔を見た。
予言者の顔に、今まで見せたことのないあわれみの色がちらりとうかんだ。「ガーギの忠誠とすぐれた分別はたしかなものじゃ。」と、ダルベンはタランにいった。「じゃが、この親さがしの旅が終わるまでには、ガーギの暖かい心になぐさめられ、それが大いに役に立つことがあるじゃろう。そうじゃな」と、予言者はゆっくりつけ加えていった。「ガーギさえ行きたければ、いっしょに旅に出るがよい。」
ガーギは、うれしさのあまり、さけび声をあげた。タランもお礼をいうように頭をさげた。
「では、そうせい。」と、ダルベンがいった。「おまえの行く道は、ほんとうにたやすいものではないが、心のままにふみ出していくがよい。求めるものはおそらくさがしあてることはできまい。が、しかし、まちがいなくすこしは賢くなってもどるじゃろう――そして、自らの力で成長し大人にもなるじゃろう。」
その夜、タランは寝つかれなかった。ダルベンは、ふたりによく朝出立してよいといってくれたが、タランにとって、日の出までの時間は、重い輪をつなげたくさりのように思えた。予定は考えてあった。しかし、それを、ダルベンにもコルにもガーギにも、一言ももらさなかった。自分がきめた予定がかなり恐ろしいものなので内心たじろいでいたからだった。カー・ダルベンを去ることを思うと胸がいたんだが、それよりも、一刻も早く旅に出たい気持ちはさらに強く、いっそう胸が苦しかった。エイロヌイへのあこがれと、今までしばしばひたかくし、うちけしさえしてきたエイロヌイへの愛が、今は洪水のようにふくれあがり、タランを旅へと駆りたてるのだった。
夜明けはまだ遠かったが、タランはおきあがり、銀のたてがみを持つ灰色の牡馬メリンラスに鞍をおいた。ガーギが、ねむい目をしばたたき、あくびしながら、自分と同じくらい毛もじゃでずんぐりと足の太いポニーの支度をしている間に、タランはひとりで、ヘン・ウェンのかこいへ行った。白い豚ヘン・ウェンは、タランがひざをついて片うででだくと、タランの決心をすでに感じとってでもいるように、悲しげにきゅうきゅうないてみせた。
「さようなら、ヘン。」タランは、毛のごわごわした豚のあごをかいてやりながらいった。「ぼくのことを忘れないでいてくれよな。コルがおまえの世話をしてくれるよ。そのうちぼくが……ああ、ヘン。」タランはつぶやき声でいった。「ぼくの親さがしは、めでたく終わるだろうか? 教えられるかい? 希望が持てそうだっていうお告げは?」
だが、この予言の力を持つ豚は、心配そうに、ふがふが、ぶうぶういうだけだった。タランはため息をついて、もう一度、愛情をこめて豚をやさしくたたいてやった。ダルベンが、弱った足をひきずるようにして、戸口まで出てきていた。かたわらに、たいまつをかかげたコルがつきそっていた。朝はまだ暗かったのだ。この老戦士の顔にも、ダルベンとおなじように、愛情のこもった心配そうな表情がうかんでいた。タランはふたりをだきしめた。別れのあいさつをしながら、タランはこの別れの瞬間に、今までになく強い愛情をふたりに感じた。
ガーギが、ポニーの上に、背をまるめるようにしてまたがった。ガーギは、いくらでも食物が出て来る魔法の革袋を、肩からななめにかけていた。タランは、剣を帯び、エイロヌイから贈られた銀かざりの戦いの角笛を持っただけで、はやりたつメリンラスにひらりととび乗った。ふりむいたら、それだけ別れがつらくなることがわかっていたので、じっとがまんしていた。
ふたりの旅人は、ゆるやかに起伏する丘陵地帯を着々と進んだ。目の果てには森の木々が見えた。太陽が頭上に高くなってきた。タランは、ほとんど口をきかなかった。ガーギはおとなしくポニーを小走りにさせて後にしたがいながら、ときどき皮袋に手を入れてたべものを一つかみとり出しては、うれしそうにもぐもぐやっていた。川で、馬に水をやるために休んだとき、ガーギは馬をおりてタランのかたわらに近づいた。
「親切なご主人」と、ガーギは大きな声でいった。「ガーギは、ご主人の行かれるところへはどこへでもついていきますぞ! ご主人は、ゆるゆる、ぶらりぶらりと、最初はどこへ向かいますか? カー・ダスルの高貴なギディオン卿のところへですか? ガーギ、金色に輝く高い塔や宴会用の大広間がぜひもう一度見たい。」
「そりゃ、ぼくもさ。」と、タランはこたえた。「しかし、あそこへ行っても、骨折り損だ。ギディオン卿もマース大王も、ぼくの出生については何も知らないと、ダルベンが教えてくれたよ。」
「では、フルダー・フラムの王国へ? けっこう、けっこう! 勇敢なあの吟遊詩人、出迎えてあいさつして大歓迎してくれる。楽しい歌とべんべん!」
タランは、ガーギの行きたくてたまらない様子を見てほほえんだが、首を横にふった。「いや、カー・ダスルへも、フルダーの領地へも行かない。」といって、目を西に向けた。「ぼくは、この旅を慎重に考えてみた。そして、求めるものがみつかりそうな場所は一か所だけだと信じているんだ。」そして、ゆっくりとつけ加えた。「モルヴァの沼地さ。」
タランがその言葉を口にしたとたん、ガーギはまっさおになった。口をあんぐりとあけた。毛もじゃの頭をぱっとかかえこんで、こわそうにあえぎ、のどをつまらせた。
「だめ、だめ、だめ!」ガーギはほえるようにいった。「邪悪な沼地には、危険がひそんでいる! 大胆だが用心深いガーギ、あわれなやわらかい頭が心配! ガーギ、あそこへは二度と行きたくない。こわい魔女たちに、ぴょんぴょん、ぱたりぱたりのヒキガエルに変えられそうになった! ああ、恐ろしいオルデュ、恐ろしいオルウェン、それからオルゴク、ああ、オルゴク、三人の中でいちばん恐ろしい!」
「それでも、ぼくは、もう一度、三人にぶつかってみるつもりなんだ。」と、タランはいった。「オルデュとオルウェンとオルゴク――彼女、いや、彼ら――なんだか正体がわからないが、あの人たちは、ダルベンとおなじくらいの力を持っている。もっと強い力を持っているのかもしれない。あの人たちはすべてを見通している。あらゆる秘密があばかれてしまう。あの人たちなら真相を知っていると思う。しかし、これは夢だろうか」タランは、希望を託して口早につづけた。
「夢だろうか? ぼくの両親が高貴な血筋の生まれだということは? 何か秘めたわけがあって、ぼくをダルベンの養育にまかせたなんてことは、まったくないことだろうか?」
「でも、親切なご主人、もう高貴!」と、ガーギが思わずさけんだ。「高貴で、心がひろく、いやしいガーギにやさしい! 魔女にきく必要ない!」
「いや、ぼくのいうのは高貴な血筋のことなんだ。」タランは、ガーギの反対意見にほほえんでこたえた。「ダルベンが教えられないとしても、オルデュならできるかもしれない。教えてくれるかどうかは、わからないけれど。」タランは、そうつけ加えて「ぼくは、ためしてみるよ。
「しかし、おまえの、そのあわれなやわらかい頭を危険にさらしたくはない。」と、タランは話をつづけた。「沼地の入口あたりにかくれがをみつけて、そこで待っていてくれ。」
「いえ、いえ。」と、ガーギはうめくようにいった。そして、情けなさそうにまばたきすると、タランにはききとれないほどのひくいふるえ声でいった。「忠実なガーギ、約束どおりついていく。」
ふたりは、また旅をつづけた。大アブレン川を渡ってから何日間か、川に向かってくだるなだらかなみどりの河岸に沿って、ぐんぐん西にいそぎ、やがて、心を残しながら河岸をはなれると、北に向きを変えて、とある休耕地を横切った。ガーギの顔は心配のためにひきつっていた。タランは、ガーギが、自分とおなじくらい強い不安にかられていることに気づいていた。沼地に近づくにつれ、この道をえらんだことが正しかったか、疑いの点が強くなった。安全なカー・ダルベンにいたときにはじつによくできていると思えた計画が、今は、向こう見ずで無分別な暴挙のように思えてきた。ガーギがくるりとポニーの向きを変えて、一目散に逃げかえるなら、自分も喜んでそのまねをするにちがいないと、心から思うときが何度かあった。
それから一日旅をつづけると、目の前に、春に見すてられた、みにくい荒涼とした沼地がひろがった。湿地の光景とにおい、よどんでくさったにおのする水たまり――タランはすっかりいやになってしまった。くさりかけている芝生が、メリンラスの足を、がぶりと呑みこむように見えた。ポニーがおびえて鼻をならした。タランは、ガーギに向かい、ぴったり後ろにくっついて、右にも左にもそれないようにと注意した。沼地のほりに生える背丈ほどのアシの中は、比較的地面が固かった。そこで、メリンラスに、アシの中を通らせた。
沼地の上手に、首にようにほそいが、もっとも安全に通れるところがあった。その通路は、ほんとうにタランの記憶にやきついていた。そこは、エイロヌイ、ガーギ、フルダーとともに黒い魔法の釜をさがしにきたとき、アヌーブンの狩人におそわれたところだった。タランは、あの瞬間を、その後何度となく悪夢に見ていた。タランは、道をメリンラスにまかせると、ガーギを手まねきして、沼地に侵入した。牡馬が一瞬よろめき、タランは恐怖に気分がわるくなる思いをしたが、牡馬はすぐに、気味のわるい水の下に、転々とならぶ島が足がかりになることに気づいた。そして、そこを通りきると、タランがせきたてなくても、いきおいよくかけはじめた。ポニーも、命からがら逃げるように、必死に後についてきた。細長い谷間の奥に立ついじけた林をぬけると、タランは馬をとめた。オルデュの小屋が、ま正面にあった。小高い丘に寄りかかるようにしてたてられ、芝土と木々の枝になかばおおいかくされたその小屋は、草がずりおちて、ほそ長い窓をふさいでいた。土壁は、クモの巣状にわれめが走り、今にもくずれ落ちそうだった。そして、ゆがみのきた戸口には、オルデュその人が立っていた。
タランは、胸をどきどきさせながら、ひらりと馬からおりた。ガーギの歯かのかちかちなる音のほかはしんと静まりかえった中を、タランは頭をぐいとあげ、ゆっくりと大またに前庭を進んだ。オルデュは鋭い黒い目で、タランを見つめていた。びっくりしていたのかもしれないが、そんな様子はすこしも見せず、すこし身をのりだすようにして、さらにしげしげとタランの様子をうかがった。ぶかっこうなきもののすそが、ひざのあたりでひらひらしていた。魔女が、いかにもうれしそうに、せわしくうなずくと、雑草のようにくしゃくしゃにもつれた髪にさしたとめ金やピンの宝石がきらきらとひかった。
「なるほど、そうかい!」と、オルデュは楽しそうに大きな声でいった。「かわいいひなっ子と――なんとかいった生きものだったねえ。でも、アヒルちゃんや、あんたずっと背丈がのびたじゃないか。それじゃ、ウサギ穴にもぐりこみたいと思っても、えらい苦労なことになるよ。さ、おはいり、おはいり。」オルデュは、手まねきしてせきたてた。「こりゃ、かわいそうにまっさおだよ。病気だったのかい?」
タランは、ちょっと不安だったが、後につづいた。ガーギは、ぶるぶるふるえながら、しっかりタランにつかまっていた。「気をつけて、気をつけて。」と、この臆病ものは泣き声でいった。「あたたかい歓迎、ガーギに氷のような悪寒を走らせる。」
タランが見たところ、三人の魔女は家事にいそしんでいたようだった。オルゴクは、きしむ腰かけにすわり、ひざの上にかりとった羊毛を山のようにのせて、混じっている雑草をとっていたが、手ぎわはわるかった。その顔は、黒いフードにかくれていた。今のオルウェンが、この前あったときのあのオルウェンかどうかはわからないが、とにかく彼女は、いささか傾きかげんの糸くり車をまわしていた。首にかけた乳白色の玉の首かざりが、いまにも糸車のスポークにからまりそうに見えた。小屋の片すみには、つまれてさびるにまかせた昔の武器の山があり、その中に、織機がすえつけてあった。オルデュは、それをつかって布を織っていたらしい。織物は、とにかくある程度はすすんでいるようだったが、まだ出来上がりにはほど遠かった。こぶがあったり、よれたりした糸が、あっちこっちにはずれていて、オルゴクがとりそこねた草が織った部分にはさまっていた。織られている模様は、わからなかったが、目の迷いなのだろうか、ぼんやりとだが、人間やけだものの形が、布の上をうごきまわっているように見えた。
しかし、そのふしぎな壁かけをよくしらべるひまはなかった。オルウェンが、いそいで糸くり車から立ち上がり、うれしげに手をぱんぱんとたたいて、タランのところへやってきた。「旅するひなっ子と、ガーギだ!」オルウェンは、大きな声をあげた。「それで、かわいいダルベンは元気かい? 今でも時の書を持っているかい? あごひげも、ね? あの子にはずいぶん重いにちがいない。いえ、時の書がさ、ひげじゃなく。」それからつけ加えていった。「あんたといっしょに来なかったのかい? そりゃ、まったく残念だ。でも、ま、いいよ。お客があるなんて、ほんとにすてきだよ。」
「わたしゃ、客なんかどうでもいい。」オルゴクが、いらだたしげにひざの羊毛を床にはらい落としてつぶやいた。「わたしとはうまくいかないんだ。」
「もちろん、そうさ、この欲深!」オルウェンがきびしい声で応じた。「とにかく、客が来てるなんてめずらしいことなんだ。」
これをきくと、オルゴクは鼻をならし、ききとれない声でぶつぶついった。黒いフードにかくされた顔に、暗い表情がうかんだのをタランはちらりと見た。
オルデュが手をあげて、争いをおさえ、タランにいった。「かわいそうに、オルゴクはきょう機嫌がわるいんだよ。オルウェンがオルゴクになる番でね、オルゴクはオルウェンになるのを待ちかねていたのさ。ところが、どたん場でオルウェンがびしゃりとことわったもんで、オルゴクは今がっかりしているんだよ――オルウェンをとがめる気にはなれないがね」そして、小声で、「わたしだってオルゴクになるのはうれしかないさね。でも、なんとかうめ合わせはしてやるがね。
「そして、あんたは」オルデュはずんぐりした感じの顔にしわをよせて笑いながら、話をすすめた。「あんたは、大胆なひなっ子の中でも、もっとも大胆だよ。プリデイン広しといえども、自ら好んでモルヴァの沼地へやってくる者はほとんどいない。その数少ない者の中で、大胆にも二度来たものは、今までひとりもいなかった。オルゴクがその気持ちをくじいてしまうのだろうね。二度来たのはあんただけさ。」
「ねえ、オルデュ、この子は勇敢な英雄だねえ。」オルウェンは、小さな女の子が感心したとき見せるような表情を顔にうかべてタランを見ながら、口をはさんだ。
「ばかなことをおいいでない、オルウェン。」と、オルデュがこたえた。「英雄なんて山ほどいる。この子がいざというとき勇敢にふるまってきたことは、わたしもみとめる。この子は、ギディオン卿とならんで戦い、自分をワシのひなと自覚して誇り高く生きている。しかしね、それは勇敢の一種類にすぎないのさ。このかわいいコマドリは、自力でみみずをさがしたことがあるかい? そのことが、もう一種類の勇気なのさ。そしてね、オルウェンや、その二つを経験してはじめて、みみずをさがす方が勇気が必要ってことがわかるのさ。」そういって、魔女はタランに顔を向けた。「しかし、わたしのひなっ子や、さあ、いってごらん、あんたは、なぜ、もう一度わたしたちに会いに来たんだい?」
「いっちゃだめだよ。」と、オルウェンがさえぎった。「当てさせておくれ。オルゴクがいつもだいなしにしちまうけど、そうさ、わたしゃほんとうに遊びが好きなんだ。」オルウェンはくすくす笑って「千と三つ問題を出させてやろうよ。そしてわたしが一番に質問するよ。」
「わかったね、オルウェン、あんたがそうしたいんなら。」オルデュが大様にいった。「でも千と三つで充分かい? 小羊ってものは、それはもうたくさんのことを知りたがるもんだよ。」
「あなた方が注意をはらうのは」タランは、魔女から目をそらないようにしていった。「ものごとの現在と未来です。あなた方は、わたしのこの度のはじまりからおわりまで、そして、わたしが氏素性を知りたくていることを、もうお見通しだと思います。」
「氏素性?」と、オルデュはいった。「いともかんたん。好みの親をえらんだらいい。おたがい、ぜんぜん知らないんだから、まるっきりふつごうはおこりやしないだろ――あんたにも親の方にも、好きなように思いこんだらいい。そりゃ、びっくするほど心のなぐさめになるよ。」
「なぐさめがほしいのではありません。」と、タランはこたえた。「事実です。それが厳しかろうと、うれしいものであろうとも、です。」
「おやまあ、かわいいコマドリちゃん。」と、オルデュがいった。「それをみつけるとなったら、こんなにむずかしいことはないよ。そのために一生をついやした人たちがいるし、多くは、あんたより苦しい立場にあった。
「しばらく前だったけど、カエルが一匹いてね。」と、オルデュはつづけた。「かわいそうな子でねえ、わたしゃよくおぼえてる。自分が、水の中を泳ぐのがすきな陸の生きものなのか、丸太の上でひなたぼっこするのがすきな水の生きものなのか、さっぱりわからないのさ。そこでわたしたちは、カエルが大好物なコウノトリに変えてやったら、それっきり、自分の正体にうたがいなんかもたなくなった――そして、ほかのカエルたちも、そうなったよ。あんたも、そんなふうにしてもらいたいなら、喜んで手をかすがねえ。」
「ふたりとも、そうしてやる。」と、オルゴクがいった。
「だめ、だめ!」ガーギが悲鳴のような声をあげて、タランの後ろにかくれた。「ああ、親切なご主人、ガーギ、恐ろしい変身や取りきめのこと注意しましたのに!」
「あのへびのことも忘れちゃいけないよ。」と、オルウェンがオルデュにいった。「あれは、茶色まだらでみどり色なのか、みどりまだらで茶色なのかわからなくて、すっかりいらいらして困ってたねえ。そこで、みどりまだらで茶色の、見えないへびにしてやったのさ。それだとはっきり見えるからふんづけられない。そしたらとても喜んで、それからってものはずっと気持ちも落着いたよ。」
「わたしも思い出すよ。」オルゴクがかすれたせきばらいをして、しわがれ声でいった。「いちど……」
「おだまり、オルゴク。」と、オルウェンがさえぎった。「あんたのは話はいつだってとても――とてもごちゃごちゃするからね、おわりが。」
「おわかりだね、ひよっこちゃんや。」と、オルデュがいった。「力をかしてやる方法はいろいろある。どれもみんなあんたが考えつくのよりは、ずっとはやくてかんたんだよ。あんた、何になりたいかね? わたしとしては、ハリネズミをすすめるね。たいていのものより安全な暮らしだから。しかし、あんたの選択をまよわせちゃいけないね。まったくあんたまかせなんだから。」
「その反対にして、びっくりさせてやろうじゃないか。」オルウェンが興奮して楽しそうに大きな声をあげた。「わたしたちだけで決めちまって、決心をかためるなんていやな仕事を省いてやるのさ。その方がずっと喜んでくれるよ。ふたりの小さな顔――いや、変身した後のくちばしかなにかにあらわれる表情を見るなんて、すてきじゃないか。」
「鳥はだめだよ。」と、オルゴクがぶつぶついった。「とにかく、鳥はだめ。あれはがまんできないんだ。羽毛を吸うとせきがでる。」
ガーギは、恐怖のあまり口をぱくぱくするだけで声が出なかった。タランは血が凍るように思った。オルデュが一歩前に出たので、タランは本能的に剣に手をかけた。
「さあ、さあ、ひよっこちゃんや。」オルデュが陽気な声でいった。「かっとなっちゃいけないよ。たいへんな損をするからね。ここじゃ剣が役に立たないことは知っているだろうし、剣をふりまわしたんでは、ちゃんとした頭のはたらきはぜんぜんできなくなる。あんたは、自分から、わたしらの手に運命をゆだねにきたんじゃないか。」
「手?」と、オルゴクがうなるようにいった。フードの奥で目が赤くきらりとひかり、口がひくひくしはじめた。
タランは、たじろがずに「オルデュ」とできるだけ落着いた声でいった。「わたしの問いにこたえてくれませんか。でなければ、これからのことは、わたしたちでやっていきます。」
「わたしたちは、あんたのために、ことをもっとたやすくしてやろうとしただけなんだよ。」オルウェンが口をとがらし、首かざりをいじりながらいった。「腹を立てなくてもいいやね。」
「もちろん、教えてあげるよ、いさましいおたまちゃん。」と、オルデュがいった。「もう一つのことをとりきめたらすぐ、知りたいことはすっかりおしえてあげるよ。つまり、代金さ。あんたが知りたいことは、とてもだいじなことなんだ――とにかく、あんたにとってはね――だから、費用もちょっと高くなるかもしれないね。でも、その点は、来る前に考えていたにちがいないと思うが。」
「黒い魔法の釜をさがし求めていたとき」と、タランがいいはじめた。「あなたは代価にアダオンの魔法のえりかざりを受けとった。あれは、わたしがいちばんだいじにしていたものです。あのとき以来、あれ以上に価値あるものなど、手に入れていませんよ。」
「しかし、ひよっこちゃんや」と、オルデュはいった。「あの取引きはずっと前のこと。すんでしまったことさ。あんた、なにも持ってこなかったというのかい? へーえ、ほかになにも出せないというんじゃ、ハリネズミに変身できるなんて、運がいいと思わなくちゃ。」
「この前は」オルゴクが、オルデュの耳にしわがれ声でささやいた。「その子羊の夏の日の思い出を一つ、受けとろうと思えばできたんだ。おいしい一回分のたべものになっただろうに。」
「あんたはいつも自分のお楽しみばかり考えているんだね、オルゴク。」と、オルデュがこたえた。「三人ぜんぶがのぞむものをなにか考えてみたってばちはあたらないだろうじゃないか。」
「あのとき、金髪のむすめがいっしょだったね。」と、オルウェンが口をはさんだ。「小さなきれいな子だった。この若者は、あのむすめについて、美しい思い出を心にいだいているにちがいない。それを受けとれないかねえ?」オルウェンは熱心だった。「長い冬の夜にそれをひろげてながめたら、どんなにか楽しいだろうねえ。気の毒にこの子には、その思い出がなくなっちまうけど、でも、まことにうまい取引きだと思うよ。」
タランは息をのんだ。「あなた方だって、それほど無情にはなれないでしょう。」
「そうだろうかねえ?」オルデュがほほえみながらいった。「かわいいひよこちゃん――すくなくとも、あんたは知ってるだろ――わたしたちの方じゃ、この問題にあわれみはいっさい入れないんだ。でも」と、そこでオルウェンの顔を見て「それもこたえにはならないね。わたしたちには、もう、思い出はどっさりある。」
「では、わたしがいいましょう。」タランはしゃっきりと立ってさけぶようにいった。ふるえをおさえるため、両のこぶしをかたくにぎりしめた。「わたしには、大切にしているものがほとんどない。これはほんとうです。実の名すらないのです。しかし、わたしから受けとれるものだってなにかあるでしょう。こんなのはどうです。」タランは、声をひくくして早口につづけた。ひたいに汗がにじむのがわかった。それは、すでにカー・ダルベンで決意し、慎重に考えてあたったのだが、いよいよとなると、口がうまくきけず、決心を変えたくてたまらなくなった。
「これから死ぬまでの間に、値打ちのあるものを手に入れたら、それがなんであっても」と、タランはいった。「この手にはいるいちばんの宝を――さしあげると、約束しておきます。あなた方に渡しますから、おすきなときに、要求してください。」
オルデュはこたえず、ただ、ふしぎそうな目でタランを見ていた。ほかのふたりの魔女も、だまったままだった。ガーギすら、くすんくすんをやめていた。タランがオルデュの返事を待っているとき、タランの目の前で、織りかけの布にえがかれたものの形がのたうつように見えた。
オルデュはほほえんだ。「あんたの求めているものは、まだ手に入れていないものまで犠牲にするほど重大なことなのかい?」
「絶対に手にはいらないもの、かもしれないね。」と、オルゴクがしわがれ声でいった。
「これがぎりぎりのところです。」と、タランはさけぶようにいった。「これをことわるわけにはいかないでしょう。」
「あんたの申し出た取引きは」と、オルデュは、楽しそうな平然とした口調でいった。「ひいき目に考えてもあやふやだから、ほんとうはだれも、承知しやしないよ。その点は、たしかもたしかさ。そしてね、貧乏なスズメどもが、そういうタンポを入れていながら、結局死んでしまって約束を果たさなかった例がじつに多いのさ。生きながらえても、心変わり――そうさ、ちょっと頑固になる危険がかならずある。ふつう、だれもが不幸な気持ちになってけりさ。むかしなら、わたしたちも承知したかもしれない。しかし、悲しい経験のおかげで、いっさい承知しないことにしたんだよ。だめだね、ひよっこちゃんや、それじゃだめだよ。気の毒だとは思う。わたしらが気の毒に思うことがあるのならの話だがねえ。」
タランは、のどがしめつけられたようで、声が出なかった。ほんのわずかな間だが、魔女の顔が変化した。目の前にいるのが、オルデュなのか、オルウェンなのか、それともオルゴクなのか、タランにはわからなくなった。力で砕けず、哀訴でも解けない氷の壁が、目の前をふさいだように思えた。絶望感がのどをしめつけた。タランはうなだれて立ち去ろうとした。
「でもね、かわいいひなっ子や」オルデュが陽気に声をかけた。「あんたの問いにこたえられる者がいないといっているわけじゃないよ。」
「もちろん、そうなのさ。」オルウェンがつけたしていった。「そしてね、見さえすればこたえはわかるのさ。」
「で、それはだれです?」タランは、この新しい希望にしがみついてしつこくたずねた。
「思い出したんだが、年に一度キルギリ山にくちばしをとがらしにやってくるツグミがいるんだよ。茶とだいだいがまざった色のやつでね。」と、オルウェンがいった。「あの鳥なら、今までにあったことはみんなしっている。しんぼうして待っていれば、あれにたずねてみることはできる。」
「これこれ、オルウェン」オルデュがちょっといらだたしげに話をさえぎった。「あんたはあんまり思い出にふけりすぎると、わたしゃときどき考えるよ。キルギリ山はあの小鳥につつかれて、とうの昔に平らになっちまって、あのかわいい小鳥は、よそへとび去ってしまったよ。」
「あぁ、ほんとにそのとおりだったねえ、オルデュ」と、オルウェンがこたえた。「度忘れしてしまったよ。じゃ、フリュウ湖のサケならどう? あれほど賢い魚に会ったことはないよ。」
「行っちまった。」オルゴクが、歯の一本をなめながらつぶやいた。「とうの昔。」
「とにかく、ツグミや魚は、とび去ったり、するりと逃げたりでねえ。」と、オルデュがいった。「もっと頼りになるものの方が役に立つだろうよ。例えばフルーネットの鏡をためしてみることもできるんだよ。」
「フルーネットの鏡?」タランはオウム返しにいった。「そんな鏡は、名まえもきいたことがありません。それはなんですか? いったいどこに……」
「知らぬにこしたことはない。」と、オルゴクが口をはさんだ。「この子は、ここにおいてもいい。ガーギも。」
「オルゴクや、わたしがなにか説明しているときには、たのむからしんぼうして待っておくれ。」と、オルデュはたしなめ、タランに顔を向けた。「そうさ、フルーネットの鏡をのぞけば、おもしろいものが見られるだろうね。」
「しかし、どこに?」タランは、もう一度たずねようとした。
「遠すぎる。」と、オルゴクがひくい声でいった。「ここに残るがいい。どうあっても。」
「フラウガダルン山脈にある。」オルデュはこたえて、タランの腕をつかんだ。「ほかに移されていなければね。でも、さ、おいで。オルゴクがいらだちはじめてる。あんたたちをここにおいといたら、あれが喜ぶのはわかってる。それに、一日に二回も失望させられたら、なにをしでかすか、わからなくもなろうじゃないか。」
「しかし、どうしたら鏡がみつかるでしょう?」タランは、ふるえるガーギをつれて小屋から出る前に、どもりながらやっとそれだけ質問した。
「沼地でぐずぐすしてちゃいけないよ。」と、オルデュが大きな声でいってくれたが、その間にも、小屋の中では、おこった大きな声がきこえた。「さもないと、おろかな大胆さ――いや、大胆なおろかさかね、それを悔やむことになるよ。じゃ、さよなら、コマドリちゃんや。」
タランが、待ってくれと、オルデュに向かってさけんだとたん、ゆがんだとびらがぴしゃりとしまった。
「逃げる!」と、ガーギがきいきい声でさけんだ。「逃げるのです、しんせつなご主人。ガーギのあわれなやわらかい頭が、肩の上にのっているうちに!」
ガーギは狂ったように腕をひっぱったが、タランはつっ立ったまま、小屋のとびらをじっと見つめていた。頭の中が混乱し、奇妙に重苦しい気分のとりこになっていた。
「なぜ、彼女は、ぼくの勇気をからったのだろう?」タランは眉をしかめていった。「みみずをさがし出す勇気だと? そんな仕事なら、フルーネットの鏡をさがすよりずっとたやすいだろうに。」
「いそいで!」と、ガーギが泣かんばかりにせきたてた。「ガーギ、探究はもうたくさん! もう、すぐにも安全で楽しいカー・ダルベンに帰りたい。ほんと、ほんと! ああ、どうかどうか、むだなきょろきょろ、じろじろやめてください!」
タランは、それでもちょっとためらった。フラウガダルン山脈については、はるか東方にあるとしか知らなかった。親さがしの手がかりになものがまったくなくては、旅は、ほんとうにむだになるかもしれなかった。ガーギが、どうかおねがいといったような目でタランを見た。タランは、ガーギの肩をやさしくたたいてやって、向きを変えると大またにメリンラスのところへもどった。
「フルーネットの鏡の鏡だけが、オルデュのくれたのぞみだよ。みつけなくちゃ。」
ガーギがあわててポニーに乗ると、タランもいきおいよくメリンラスにまたがった。そしてもう一度小屋に目をやると、ふいに不安になった。「オルデュがくれた?」タランはつぶやいた。「彼女が、たたでなにかを人に与えるだろうか?」
2 カディフォル・カントレブ
ふたりはモルヴァの沼地を後にすると、イストラド川沿いの渓谷の国めざして、西にいそいだ。タランは、いったんスモイト王のとりでカー・カダルンで休みをとり、あの赤ひげの王にたのんで、カー・ダルベンからたずさえてきたよりも丈夫な装備をもらうことにきめたのだった。「あそこから先は」と、タランはガーギにいった。「でたとこ勝負でさがすだけさ。ぼくのあわれなやわらかい頭は、疑問でいっぱいなんだ。」そして、ため息をつき、ほほをゆがめて悲しげにほほえんだ。「ところが、それを解く手だてときたら、一つもない。」
沼地を離れて日数を重ねたあげく、ふたりはカディフォルの国境をこえ、渓谷の国ではいちばん大きいスモイト王の領土にはいった。だいぶ前に灰色の沼地はおわり、あたりはみどりの草地や心地よい森林に変って、森のあき地には家々がぐあいよくおさまりかえっていた。ガーギは、小さな谷間などをうらやましげにしげしげながめ、小屋の煙突からゆらゆらのぼる料理の煙のにおいに鼻をひくつかせていたが、タランは進むときめた道からけっしてそれなかった。このまま元気に進みつづければ、あと三日の旅で、カー・カダルンにつくはずだった。日の沈むすこし前、雲がどんより暗くなりだしたのに気づいたタランは、松林に避難しようと、馬の足をとめた。
タランが馬をおり、ガーギが鞍袋をはずしかけたとたん、一隊の騎馬の武士たちが、ゆっくり馬を駆けさせて松林にはいってきた。タランは、さっと向きを変えて剣を抜いた。ガーギはぎょっとして金切声をあげ、あわててご主人のそばにかけよった。
武士は五人、よい馬を持ち、武装していた。顔はすっかり日やけしてこわいひげをはやし、いかにも馬に乗りつけている身のこなしだった。旗の色は、スモイト家のものではなかったので、タランは、かれらを、スモイトの寄騎の武将の家来たちだと考えた。
「剣をおさめろ。」先頭の武士がそう命じ、そのくせ自分は剣を抜くとふたりの旅人の前で馬をとめ、あざけるような目でふたりを見た。「おまえたちは何者だ? だれの手の者か?」
「浮浪人だよ。」と、べつのひとりがさけんだ。「やっつけてしまえ。」
「浮浪人より、かかしに似てる。」と隊長がこたえた。「どうやら主人から逃げだした奴隷のようだ。」
タランは、剣をおろしたが、さやにはおさめなかった。「わたしはタラン、豚飼育補佐……」
「じゃ、豚はどこにいる?」と、隊長はさけんで荒々しく笑った。「なぜ番をしていないのだ?」それから、おやゆびでガーギをさして「それとも、これが――このなさけないやつが、番している豚の一ぴきとでもいうのかね?」
「かれ、豚でない!」ガーギは腹立たしげにいい返した。「豚とはぜんぜんちがう! ガーギだ。おやさしいご主人に、大胆に賢明におつかえするガーギだ!」
ガーギの怒りのさけびに、騎馬の武士たちをさらに笑わせただけだった。だが、隊長はもう、メリンラスを注意深く見ていた。「おい豚飼い、おまえの馬は身分不相応だな。どうやって手に入れた?」
「メリンラスは正式にわたしのものだ。」タランは声をとがらしていいかえした。「ドンの王子ギディオンの贈りものだ。」
「ギディオン卿の?」隊長は、思わず大きな声でいった。「贈りもの? いや、盗んだんだろう。」隊長はあざ笑った。「気をつけろよ。うそをつくとむちでたたかれることになるぞ。」
「わたしは、うそもつかないし、争いも求めない。わたしたちは、ただの旅人として、スモイト王の城に向かっている者だ。」
「スモイトのところじゃ、豚飼いなどいらんぞ。」と、武士のひとりが口をはさんだ。
「われわれにもいらん。」と、隊長はいってさっと仲間たちを見まわした。「おぬしたちはどう思う? こいつの馬を持っていくか、それともこいつの首か? あるいは両方か?」
「ゴリオン殿は新しい馬をお喜びになるし、この馬ならいっそうむくいてくださるよ。」と、ひとりの武士がいった。「しかし、豚飼いの首なぞ何の役にもたたん。本人も困ろうよ。」
「よくいった! そうしよう!」と、隊長は大声でいった。「それにだ、豚飼いは歩く方が豚のめんどうがよくみられる。」隊長はそうつけたして、牡馬のはづなに手をのばしてきた。
タランは武士の前にさっととび出してメリンラスを防ごうとした。ガーギもとび出して、武士の片足を乱暴につかんだ。ほかの武士たちが馬に拍車をくれた。そして、あっと思ったときにはもう、タランは、前足をふりあげた馬にかこまれていて、メリンラスのそばから追いたてられていた。タランは剣をふり上げようとした。ひとりの武士が馬をくるりとまわして、馬の横腹をどーんとタランにぶつけてよろめかせた。そして、その瞬間に、もうひとりが剣で一撃した。まともに切りつけられたら、タランの首は落ちていたにちがいない。あたったのが剣の腹だったので、タランはただまひしたように地面に倒れただけですんだ。しかし、耳はがんがんなり、頭は混乱してしまい、騎馬の武士たちが目の前で彗星となってとび去るように見えた。ガーギが狂ったようにわめきたて、メリンラスが悲しげにいななき、そして、だれか、またひとり、混乱の中に姿をあらわしたらしかった――タランもそんなことがぼんやりわかった。そして、よろめきながら立ち上がったときには、武士たちは、メリンラスをひいて姿を消していた。
タランは狼狽し、かっとなって、大声にさけびながら、さっきまで歩いていた道にとび出した。すると大きな手が肩をぐいとつかんだ。タランが乱暴にふりかえると、羊毛をあら織りしたそでなしの上着をまとい、荒なわを帯にしたひとりの男が立っていた。むきだしの腕は節くれだっていたが、それは寄る年波のためではなく、労働のためだった。手入れをしていない灰色の乱れた髪が、きびしいけれど親切そうな顔をふちどっていた。
「待て、待て。」と、男はいった。「もう追いつけない。おぬしの馬も大丈夫だよ。ゴリオン卿の家来は、旅人よりも軍馬の方をよくもてなしてくれる。」それから、手にしたカシの杖をかるくたたいて「ゴリオンの国境守備隊のふたりは、頭を治療しなくちゃらんだろ。しかし、この様子では、おぬしもだな。」男は袋を持ち上げると、肩にひょいとつかんだ。「わしはイースの息子イーサン。さ、ふたりともついておいで。わしの家は遠くない。」
「メリンラスがいなくては、わたしの探索は失敗してしまう。」と、タランは大きな声でいった。「わたしはどうしても知らなくては――」しかし、それ以上言葉がつづかなかった。武士たちのからかいの言葉で、心がにえくりかえっていたからだ。それに、親切にしてくれたこの男にも、必要以上のことは話したくなかった。
しかし、農夫であるその男は、根ほり葉ほりきくような好奇心は持っていなかった。「おぬしの探索は」と男はこたえた。「そりゃ、おぬしのことで、わしにかかわりはない。わしは五人がふたりにおそいかかるのを見て、勝負がもうすこし公平になるようにしただけさ。傷の手当てをするんだろ? それなら、ついておいで。」
農夫はそういって、丘の斜面をくだりはじめたので、タランとガーギもついていった。ガーギは、しょっちゅう後ろをふりかえっては、武士たちが姿を消した方にこぶしをふっていた。一方、タランは、一言もしゃべらず、メリンラスのことですっかりふさぎこみ、わざわざ探索の旅に出たのに、結果は馬を失い頭にけがをしただけだとにがにがしい思いをしながら、暗くなってきた道をとぼとぼと歩いていた。節々がいたみ、あちこちがずきずきした。ますますまずいことに、雲が重くなり、夜になるとどしゃぶりの雨となった。そして、イーサンの農場についたときには、生まれてはじめてといってよいほどびじょぬれでよごれてしまっていた。
イーサンがふたりを招じいれたすまいは、荒壁の小屋でしかなかった。しかし、タランは、その居心地よさとよく整理された家具調度におどろいてしまった。今までの冒険の旅で、プリデインの農民に手厚くもてなされたことは一度もなかったので、まるで新しい土地にやってきた外国人のように、ものめずらしげに家の中を見まわした。
今はもう、イーサンをさっきよりも念入りに観察できた。男の風雪に耐えた顔には、誠実さと善良さがあらわれていた。イーサンが好意をこめてにっこり笑うと、傷はずきずきいたんだが、タランも、ほんとうの友人に出会ったのだと知って、にっこり笑いかえした。
おかみさんは、背の高い、仕事のために骨ばってしまった人で、イーサンと同じように顔にはしわが多かった。彼女は、ガーギを一目見ると両手をあげておどろいた。雨水のしたたるもつれた毛に、まるで毛布を着たように小枝や松葉がびっしりくっついていたからだった。そして、タランの血によごれた顔を見たときには、あっと声をあげた。イーサンがさわぎの一部始終を話している間に、おかみさんのアラルカは、木の箱から、かなり着古したが、ていさいよくつくろってある、ごわごわのあたたかい上着をとりだしてくれたので、タランは感謝しながらぬれそぼった服と着がえた。
アラルカが薬草を煎じはじめると、イーサンは、袋の中味をテーブルの上にあけた。パン、チーズ、ほしくだものが出てきた。
「あまりもてなしはできないんだ。」と、イーサンはいった。「わしの土地はほとんど収穫がないから、とれない分をかせぐために、近所のはたけに、何時間か出かせぎに行くんだよ。」
「でも」タランはイーサンの生活の苦しさを知ってはっとしていった。「渓谷地方の土地は肥えているという話をききましたが。」
「うむ、かつてはね。」イーサンは、ものがなしい声で笑っていった。「それは先祖の時代の話で、今じゃない。山の国々が毛の長い羊で有名なように、イストラド渓谷地帯は最良のオート麦と大麦であまねく知られていた。このカディフォル・カントレブは、金のような光沢と重みのある小麦で有名だった。その頃はプリデイン中で黄金時代であったにちがいない。」イーサンは、パンとチーズを切手タランとガーギにくばりながら話をつづけた。「わしのおじいさんが、昔話だといって話してくれたんだが、むかし、ひとりでに土をおこすスキとか、手もふれないのに刈りとりをしてくれるカマがあったそうだ。」
「わたしもきいたことがあります。」と、タランがいった。「しかし、死の国のアローンがそういう宝を盗んでしまい、今は、アヌーブンの要塞の奥深くに死蔵されているといわれています。」
農夫はうなずいた。「アローンの手は、プリデインののどをしめて命あるものを滅ぼそうとする。アローンの影は土地を荒廃させてしまう。わしらの苦しみはつのる一方、それにすぐれた技術がほとんどないから、それがますますひどくなる。魔法の道具が、アローンに盗まれただけかな? いや、大地を実り豊かにするには多くの秘密がある。アローンはそれもうばってしまったんだよ。
「この二年というもの、わしは収穫がなかった。」イーサンは、タランが一心に耳をかたむけるのを知って話をつづけた。「わしの穀物倉はからっぽさ。そして、よそのはたけで汗水たらせばたらすほど、自分のはたけではたらけるひまはすくなくなる。そうはわかっていても、なにしろ、わたしは知識がとぼしすぎる。わしがいちばん知りたいことは、永久にアヌーブンの宝の倉にしまいこまれてしまっている。」
「あんたの技術が足りないだけとはいえませんよ。」アラルカが、筋肉隆々としたイーサンの肩に手をおいていった。「最初の植えつけの前にスキをひく牡牛と牝牛が病気になって死にました。つぎに」アラルカは声を落とした。「つぎにアムレンの手助けがなくなってしまいました。」
タランはいぶかしそうにおかみさんをちらと見た。おかみさんの目はくらかった。
アラルカはいった。「アムレンは、わたしたちの息子です。あなたぐらいの年でした。あなたが着ているのがあの子の上着です。あの子には、もういらなくなりました。もう冬も夏もありません。戦いに倒れた戦士たちといっしょに墓の下でねむっています。ええ、死んでしまったのです。」アラルカはいいそえた。「あの子は、略奪しようとした侵入者たちを追いはらったとき、軍勢に加わったのです。」
「それはお気の毒に」と、タランはいった。それから、なぐさめにつけ加えた。「しかし、名誉ある死です。ご子息は英雄……」
「いえ、殺されただけです。」と、アラルカは厳しい口調でいった。「侵入者は飢えのために戦ったのです。わたしたちも、敵とほとんど同じぐらいしかものがなかったから戦いました。そして、とどのつまり、両方が戦う前よりもっと貧しくなりました。たったひとりではたけをたがやすのは重荷すぎます。ふたりでも重荷です。死の王アローンが盗んでいった秘密があれば、ほんとうに役に立ってくれるでしょうが、悲しいことに、とりもどすことができませんものねえ。」
「大丈夫さ。秘密がわからなくたって、今年の収穫はだめにはならない。」と、イーサンがいった。「はたけは、一枚をのこしてぜんぶ休作だ。しかし、この一枚には労力すべてをつぎこんだ。」イーサンは誇らしげにタランの顔を見た。「妻とふたりだけではスキをひっぱることができなくなったので、わしはこの手で土地をほぐし、一粒一粒たねをまいた。」そういって農夫は声をたてて笑った。「そうさ、そして、おばあさんがねこのひたいほどのだいじな薬草ばたけをいじるみたいに、一本一本雑草をぬいた。不作にゃならん。まったく、不作になんかできない。」イーサンのひたいにたてじわが寄った。「この秋に、夫婦の命がかかっているんだ。」
それ以上、あまり話はなく、とぼしい食事がおわると、タランはほっとしながら炉端にいたむ体をよこたえた。ガーギも、かたわらに丸くなった。疲労はメリンラスを失った絶望感より強く、タランは、草ぶき屋根をうつ雨の音や、消えかかるおきのしゅうしゅういう音をききながら、すぐ寝入ってしまった。
ふたりは、朝の光がさしはじめる前に目をさましたが、イーサンはすでにはたけに出ていることがわかった。雨はすでにやみ、大地をみずみずしくうるおしていた。タランは片ひざをついて、手にいっぱい土をすくいとった。イーサンの言葉は事実だった。土は、ひじょうな労苦をついやしてたがされていた。タランはイーサンを見ながら、あらためてえらい人だと思い、尊敬の念を強くした。その農場は、ほんとうに、豊かな収穫があってよいところだった。タランは、ほんのしばらく、人手不足で荒れている休作地をじっと見ていた。やがて、ため息を一つつくと、またメリンラスのことに頭を切りかえ、足早にそこをはなれた。
どうしたら、銀のたてがみの牡馬をとりもどせるか、見込みはつかなかったが、ゴリオン卿のとりでまでなんとしてでも行くつもりでいた。イーサンの判断では、あの武士たちは馬をそこへひいていったはずだった。愛馬への心配はつのるばかりだったが、タランは午前いっぱいイーサンとならんではたらいた。この夫婦は、昨晩、ほとんどたべなかった。タランには、手伝う以外おかえしの方法がなかった。しかし、正午には、それ以上ぐずぐずしていられなくなり、すぐにも出かけたい気持ちになった。
アラルカが小屋の入口に姿を見せていた。夫のイーサンとおなじように、アラルカも、タランが自ら語ったわずかな話以上になにもきかなかったが、今はじめて質問した。「これからもまだ思ったとおりに旅をするのですか? 家や肉親に背を向けて? 私とおなじように、おかあさんはあなたに会いたがっているでしょうに。」
「残念ながら、わたしは母親を知りません。」タランはそうこたえ、アムレンの上着をたたんで、そっとアラルカの手にのせた。「そして母親もわたしのことを知りません。」
「おぬしは、はたけしごとをよくしこまれている。」と、イーサンがいった。「喜んで迎えてくれるところを求めているのなら、一か所はもうみつかっているんだよ。」
「どこでもてなされても、お宅のように心からであってほしいと思います。」と、タランはこたえた。タランとガーギは、心残りだったが別れをつげた。
3 ゴリオンとガースト
イーサンが、ゴリオン卿のとりでまでの近道を教えてくれたので、ふたりの旅人は、午後もなかばすぎには、そこへたどりついた。それは城ではなく、建物がたくさんつながりあったもので、木のくいをコリヤナギでつなぎ、かためた土ですき間をふさいだかこいがあった。太いくいをならべた門はあいていて、馬に乗った武士、馬を持たない兵卒、牧場から牛を追いこむ牧童など、出入ははげしかった。
ガーギはしぶったが、タランはできるだけ平気な顔ですすみ、いそがしそうな人の群れにまぎれて、人目につかずとがめられもせずに、まんまととりでにはいりこんだ。うまやはたやすくみつかった。ほかの建物にくらべ、それは清潔で大きく、よく手入れされていた。タランは、足早に、くまでで藁をしいている若者のところまで歩みより、しっかりした口調でよびかけた。「ねえ、きみ、ここには、ゴリオン卿の部下がひいてきた灰色の牡馬がいないかい? みごとな牡で、めったにない逸物だという話だが。」
「灰色の牡馬?」うまやの若者は、びっくりしていった。「ありゃ、灰色の竜だぜ! あいつは、うまやを半分けり倒して、おれにかみついた。ありゃ、とても忘れられねえよ。ゴリオン卿も、きょう一日で、あっちこっち骨を折るんじゃないかねえ。」
「それで?」タランはあわててきいた。「卿は、その馬をどうした?」
「馬が卿をどうした、だなあ!」若者は、にやっと笑ってこたえた。「もう十回以上ふりとばしたよ! 馬術指南までが、三つかぞえる間も乗っていられないんだ。ところがゴリオンは、乗ってやろうとまだがんばってる。やつは勇者ゴリオンとよばれてる。」若者はくすくす笑った。それからこっそりつけたしていった。「おれの考えじゃ、やつはこんな仕事ができる腹なんかありゃしないんだ。ところが、家来がそそのかすもんだから、自分の背骨の方が先に折れちまっても、なんとかあの馬をねじ伏せるつもりでいるんだ。」
「ご主人、ご主人」ガーギが、夢中になって小声でせきたてた。「いそいでスモイト王に助けをもとめる!」
タランは、若者の言葉をきいて顔色を変えていた。カー・ダルベンまではまだ遠い。スモイトの助けは間に合わないだろう。「その馬はどこにいる?」タランは、心配を顔に出さないできいた。「そいつはたいした見ものだろうよ。」
うまやの若者は、くまでで、屋根の低い細長い建物の方をさし示した。「大広間の向こうの調練場さ。でも、気をつけろよ。」若者は肩をなでながらいいたした。「はなれてろよ。さもないと、あの畜生、おれのときよりもっとひどくかみつくぜ。」
そこをすぐにはなれて、大広間の前を通ったとたん、人びとのさけび声とメリンラスのおこったいななきがきこえてきた。タランは足をはやめ、ついに走りだした。前方に、馬蹄にふみかためられて、草のはえていない地面がひろがっていた。武士たちにとりかこまれた灰色の牡馬が、後足で立ったり、背を丸めてとび上がったり、後足をけり上げて、おどりはねたりしているのがちらりと見えた。つぎの瞬間、馬の背に乗っていたずんぐりと骨太の男がふりとばされた。あっと思ったとき、両手両足をばたつかせながら、その男は、ゴリオン卿はどたりと地面に落ち、鉛の袋のようにうごかなくなった。
メリンラスは、武士たちのかこいのどこかから逃げられないかと、必死に走りまわった。武士のひとりが、いそいでたづなをつかもうとした。用心など頭から忘れて、タランは大声でさけびながら、馬のかたわらにかけよった。そして、おどろいた武士たちが剣を抜くことに気づく間もなく、はづなをつかみ、両手でメリンラスの首をだくと、メリンラスもいなないてこたえた。タランが馬にとび乗ってガーギをひっぱり上げようと馬の背に手をかけたとたん、まわりで見ていた者たちがかけよってきた。一本の手が上着をしっかりとつかんだ。タランはその手をふりもぎり、雄馬の横腹に背中をぴったりつけた。その間にゴリオン卿は自分で立ち上がり、おしよせた武士たちをおしのけてとび出してきた。
「傲慢! 厚顔!」ゴリオンはほえるようにさけんだ。白髪まじりの黒いあごひげが、おこったハリネズミのようにさか立っていた。鈍重そうな顔がむらさきまだらになっていた。すり傷のためか、息がつまってなのか、猛烈な怒りからか、それとも、三ついっしょなのか、タランに判断がつきかねた。「土百姓が、わしの馬に手をかけるか? こやつをひったてい! この侮辱のみせしめに思いきりむちをくらわせい!」
「わたしは、自分の馬をとりかえそうとしただけだ。」タランは声をはりあげた。「メリンガーの子馬メリンラスは……」
片手をほうたいでつっている、背の高い骨ばった男が、きびしい目でじっとタランを見た。「馬術指南だとタランは思った。「メリンガーとは、ギディオン王子の軍馬か? 高貴な血筋じゃな。これがその子馬だと、おぬしどうして知っている?」
「そんなことは、メリンラスが私の手元から盗まれたのと同様、明白な事実です。」と、タランはいいきった。「この領地境にあるイーサンの農場近くで盗まれたのです。連れはポニーをやられています。」そして、タランは、自分の素性と旅の目的を説明しようとしたが、領主は耳もかさずに、腹をたてて話をうばってしまった。
「厚顔ものめ!」ゴリオンはますますかっとなり、ひげをさか立てて大声をはりあげた。「豚飼い風情がうそいつわりを申して、わしを侮辱するとは、いったいどうしたことか? わしの国境守備のものたちは、あやうく命を落としかけながら、この馬やポニーを手に入れたのだ。」
「いや、わたしたちの命をうばおうとしながらです。」タランはいいかえして、いそいでとりまいている武士たちの顔を見まわした。「あの騎馬武者たちはどこにいます? 彼らを証人としておよびください。」
「いよいよ厚かましい!」と、領主はかみつくようにいった。「あの者たちは、命令どおり国境をまわっておる。きさま、このわしが、のらくらものやぐうたらを家来にしておるといいたいのか?」
「そして、あの者たちは十二分にお仕えしております。」と、武士のひとりがゴリオンにいった。「彼らはみな英雄です。六人の巨人に立ち向かうなど……」
「巨人?」タランは、わが耳を疑ってオウム返しにいった。
「巨人どころか!」と、ゴリオンは大声でいった。「いいか、おぼえておけ。勇者ゴリオンの勇敢な家来たちは、二倍の人数の敵にかこまれたのだ。巨人よりももっとすごい敵だ! そのひとりは、するどい爪と騎馬のあるどう猛な怪物であった。べつのひとりはカシの大木を、まるで小枝のこどくにびゅんびゅんふりまわしておった。ところが、ゴリオンの騎馬武者たちは、彼らを打ち負かして、栄光と名誉を得たのだ!」
「牡馬も魔力にとりつかれていた。」と、家来のひとりがいった。「そして、巨人に劣らず激しく戦った。飢えたオオカミのごとくに腹黒い人殺しだ。」
「しかし、勇者ゴリオンは、こいつをならしてしまう。」と、またべつの家来が領主の顔を見てつづけた。「殿は、この畜生にお乗りになるでしょうな?」
「うん?」ゴリオンは、ふいに、情けなさそうな苦しげなしかめつらをした。「おう、乗るぞ、乗るぞ。」ゴリオンはうめくようにいって、そこでかっとしたように乱暴にどなった。「乗れないだろうなどと思うのは、わしの名誉に対する侮辱であるぞ!」
タランはこういう粗野な武士たちにかこまれながら、おこりっぽい領主を納得させるにはどうしたよいか考えたが、なかばあきらめていた。いっそ剣を抜いて力のかぎり血路をひらこうかと、ふと思った。だが、家来たちのきびしい顔をあらためて見まわすと、とてもだめだという気持ちがつのるばかりだった。
「殿」と、タランはしっかりした口調でいった。「わたしは事実を申しております。巨人などおりませんでした。敵とは、わたしの連れとこのわたしと、加勢の農夫ひとりでした。」
「巨人がいなかった?」と、ゴリオンはどなった。「いよいよ侮辱じゃ!」そして芝土までが無礼であるとでもいうように、どしどし足をふみならした。「きさまは、わしの家来をうそつきとよぶのか? わしをうそつきとよぶのと変わらんぞ、これは!」
「殿」タランは最敬礼して、また話しはじめた。名誉のこととなると怒りっぽくなるゴリオンが、家来がただの馬どろぼうをしたなどという話を信じるはずがなかった。国境を守る騎馬隊にとっても、豚飼育補佐から馬を盗んだというよりも、巨人を打ち負かしたという方がはるかに名誉なのだ。タランにもそれがわかった。「わたしは、だれひとりうそつきだとは申しておりませんし、殿のご家来衆も事実を語ったのです。つまり」と、タランはつけ加えた。「ご家来衆の目から見た事実です。」
「なんたる傲慢!」と、ゴリオンはさけんだ。「事実は事実じゃ! 巨人がいた、怪物もいた、根こぎにしたカシもあった! わしの家来は、その武勇に対し、手厚いむくいを受けた。だが、きさまはその厚顔のむくいに、むちをくれてやる!」
「わたしは、このように思っています。」タランは、注意深く言葉をえらんで話をつづけた。今まで一生けんめい話したことを、ゴリオンの方がすっかり侮辱と思いちがえしてしまったことからの用心だった。「あの時、日が沈みかけていました。わたしたちの影のため、人数が二倍ほどに見えたのです。事実、ご家来衆は、じっさいの二倍の人数と見ました。
「巨人のことは」タランは、領主がまた傲慢だとさけび出さないうちに、早口に後をつづけた。「これもまた、日暮れの長い影のために、わたしたちがそれほど大きく見えたからです。だれでも、見まちがえるほどだったのでしょう。」
「カシの木の棍棒がある。」と、ゴリオン卿がいいだした。
「農夫は、太いカシの杖を持っておりました。」と、タランはいった。「腕は強く、ふりおろし方もすばやいものでした。ご家来のふたりを見ればよくおわかりのことです。あれほどの力でふりまわしたのですから、木に打たれたと思ってもふしぎはありません。」
ゴリオン卿はしばらくものがいえず、一本の歯を舌でなめ、ごわごわのひげをなでていたが、「怪物がいただろ? 家来がじっさいに見た、狂暴きわまりないやつが?」
「その怪物なら、殿の目の前に立っています。」タランは、ガーギを指さしていった。「彼は長年の友です。おだやかではありますが、おこれば、じつにどう猛な敵となります。」
「はい、はい、ガーギですぞ!」と、ガーギはさけんだ。「大胆で、かしこく、親切なご主人のために激しくたたかうガーギですぞ!」こういって、ガーギは歯をむき出し、毛もじゃな腕をりまわし、じつに恐ろしげなわめき声をあげたので、ゴリオンと家来たちは一歩後ろにさがってしまった。
領主の顔に、困りきった表情のしわがあらわれた。彼は、大きな体を支える足を変えてタランをにらみすえた。「影だと!」と、これはうなるような声でいった。「きさまは、わしに仕えるものの勇敢さを影でごまかすつもりだな。またまた侮辱……」
「ご家来たちが、言葉どおりのものを見たと信じているのなら」と、タランはいった。「そして、それゆえに戦ったのでしたら、勇敢さに変わりはありません。じっさい」と、タランは、なかばつぶやくように言葉をついだ。「それは、あの方たちが正直であるのと変わらず、まったく偉大なことです。」
「話はもうたくさんだ。」と、馬術指南が話にわってはいった。「行為で示すがよい。この馬をのぞいては、四本足の生きもの、このわしが乗れないものはいない。土百姓のきさまに、この馬に乗る勇気があるのか?」
タランは、返事のかわりに、すばやくメリンラスの鞍にひらりとまたがった。メリンラスはいなないて、前足で土をかき、そしてしずかになった。ゴリオン卿はおどろきのあまり息がつまり、馬術指南は信じられないように目を見張った。ゴリオンの家来たちから、おどろきのささやき声があがったが、そのとき、だれかが無遠慮に声をたてて笑い、大きな声でいうのがきこえた。「ほ、ほう、ゴリオン! 領主が乗りこなせぬ馬に、土百姓が乗ったぞ。あんたは馬も名誉もうばわれたぞ!」
タランは、ゴリオンのすりきずのできた顔に、メリンラスに乗らなくてすむことがまんざらいやでもなさそうな、ほっとした表情がかすかにあらわれたのを見たと思った。しかし、家来のこの言葉で、領主の表情が怒りでくらくなりはじめた。
「ちがう!」タランは、輪をつくっている男たちに向かって声をはりあげた。「あなた方は、主人とあおぐ殿を、豚飼いのやくざ馬に乗せたいのか? それが殿の名誉にふさわしいことなのか?」タランは、思いきった考えが頭に浮かんだので、今度はゴリオンに顔を向けた。「しかし、殿、殿はこの馬を受けとってくださいますか、わたしからの献上品として……」
「なんだと?」ゴリオンは顔を土気色にして、せいいっぱいどなった。「侮辱だ! 傲慢きわまる! なんたる厚かましさ! よくもいいおった! 豚飼いなどからなにが受けとれるか! 二度とこんなものに乗ったら身分にきずがつくわい!」そういって片手をさっとふった。「行け! 目ざわりだ――やくざ馬も、その怪物も、怪物のポニーも、とっとと失せろ!」
ゴリオンは、音がするほどのいきおいで口をとじると、それっきりなにもいわなくなった。ガーギのポニーがうまやからひき出され、タランとガーギは、領主と家来たちに見守られながら、ぶじに門を出た。
タランは、せいいっぱい落着いた態度で、頭をそらすようにしながら、ゆっくりと馬を進めた。しかし、とりでが見えなくなったとたん、ふたりとも馬に拍車をかけ、命からがら逃げた。
「ああ、すぐれた知恵が、あの高慢な殿さまから、馬をとりもどした!」ガーギがそうさけんだのは、ゴリオンの気が変わっても、もう安全なところまで馬を走らせてからだった。「ガーギだとて、あれほどの賢さ持っていない。ああ、ガーギ、親切なご主人のように賢くなりたい。しかし、このあわれなやわらかい頭、あのようなこと思いつくほど練れていない!」
「わたしが賢い?」タランは笑った。「なによりもまず、メリンラスをとりもどすのがやっとこの知恵だぜ。」そういって、彼は、心配そうに谷間のあちこちに目をこらした。暗くなるまでには、農家にぶつかって宿がかりられると思っていたからだ。ゴリオンの守備隊とぶつかってからというもの、何が丘陵をうろついているかもわからないので、そういう連中とぶつかりたくなかった。しかし、家も小屋も見えないので、ふたりは暗さの増す夕やみの中を進みつづけた。
前方にひらけた土地があらわれ、燈火があかあかともえていた。タランは、ゴリオン卿のところとよく似たとりでの近くで馬をとめた。しかし、このとりでは、さくの四すみや、門の両側高くあげられた見張り窓や、はては大広間の屋根の上にまでたいまつの火がともされ、大宴会でもひらかれているように見えた。
「思いきってここにはいるか?」と、タランはいった。「ここの領主がゴリオン同様のあつかいをするようなら、ギセントの巣でねむった方がよくねむれるくらいだが。」しかし、寝心地のよいベッドでねむりたいと思いながら、まねくようなたいまつの輝きを見ると、つかれがますますひどく感じられてきた。タランはちょっとためらっていたが、やがてメリンラスをうながして門に近づいていった。
タランは見張り櫓の男たちに向かい、自分たちはスモイト王の知人でカー・カダルンへ向かう旅人であると大きな声で告げた。門がきしみながらあいて、門番がはいれとあいずしたとき、タランはほっとした。知らせを受けて侍従長があらわれ、タランとガーギを大広間まで案内してくれた。
「わが殿ガースト卿に、客になるゆるしをえなさい。」と、侍従長は教えてくれた。「待遇は殿が判断してくださる。」
侍従長の跡についていきながら、タランは、暖かい食事と寝心地のよいベッドのことを考えて気がはずんだ。大広間の方から、大きな話し声や笑いや、にぎやかなたて琴の音が流れてきた。入口に足をふみ入れると、天井の低いへやの両側に長い食卓がならび、大勢の人がすわっているのが見えた。へやの奥に、家来やその夫人たちにかしずかれた、ひとりの武将が、きらびやかな服をまとい、片手に角のさかずき、片手に骨つき肉のまだほとんどたべていないのを持って、すわっていた。
タランとガーギは、うやうやしく頭をさげた。ふたりが進み出ようとしたとき、広間のまん中に立っていたたて琴の楽人がふりかえり、あっと大きな声をあげてかけ寄ってきた。タランは、手がもげるかと思うほどきつい握手をされた。そして長いとがった鼻、つんつんした黄色い髪のその楽人が、古なじみのフルダー・フラムだと気づくと、うれしいおどろきに目をぱちくりさせた。
「会えてうれしいよ、おふたりさん。」と、吟遊詩人は大きな声でいって、ふたりを貴賓席の方へひっぱっていった。「別れて以来、もうさびしくてな。おぬしたちは、カー・ダルベンに落着いたのじゃなかったのか? モーナを船出したとき」フルダーは大いそぎで説明した。「わしは、ほんとうに、放浪をやめて領地に腰をすえるつもりだった。しかし、そこで自分にいいきかせた。おい、フルダー、春は一年に一度しかないんだぞ、とね。そんなわけでここにいるのさ。しかし、おぬしの方はどうしたのだ? いや、まず、たべものと飲みものだ。それから話だな。」
フルダーは、ふたりを案内して、ガースト卿の前までつれていった。タランの目にうつったのは、鈍重な顔つきで、うす黄色のあごひげをはやした武将だった。きれいな首かざりをつけ、クルミでも割れそうな太い指にはゆびわがひかっていた。そして、腕には、銀ぱくの腕輪がまきついていた。この領主の衣装はぜいくたで仕立てもよかった。しかし、新しいよごれやしみばかりでなく、だいぶ前からのものらしいよごれやしみもあることに、タランは気づいた。
吟遊詩人は、たて琴をさっとかきならして、ふたりの名をガーストに告げた。「これなる両名は、アヌーブンのアローンの手にあった黒い魔法の釜をさがしだし、ドンの王子ギディオンと肩をならべて戦った者たちでござる。その大胆なふるまいにさわしく、手厚くおもてなしくだされ。」
「そうしてつかわす!」と、ガーストは大声をあげた。「寛容王ガーストのもてなしぶりに、けちをつけられる旅人はおらんのだ!」ガーストは、貴賓席にふたりの席をもうけると、からの鉢や皿をおしのけ、手をたたいて大声で侍従長をよんだ。侍従長がやってくると、ガースト卿は、たべものと飲みものを運べと命じたが、その数ときたら、タランには半分もたべきれないと思えるほどだった。ガーギは例によって腹をすかせていたので、うれしい期待に口をぱくぱくさせていた。
侍従長が去っていくと、ガースト卿はまた話にもどったが、その内容はたべものの高価さや旅人に対するガーストの気前よさについてであって、タランにはよくわからなかった。それでも、礼儀正しく最後まで耳をかたむけ、ガーストのとりでにぶつかった幸運におどろいたり喜んだりした。フルダーがいてくれたおかげで、さらに気が楽になったタランは、思いきってゴリオン卿に会った話をしてみた。
「ゴリオンか!」ガーストはふんと鼻をならしていった。「高慢ないなか者だ! 粗野な土百姓だ! 大ぼら吹きの自慢屋だ! だが、何を自慢できる?」ガーストは角のさかづきをぐいとつかむと、「これを見たか?」と大声でいった。「ガーストの名が彫り込んであるが、字は金でかいてあるのだぞ! あとで見せてやるが、倉庫にはもっとすばらしいものまである。ふん、ゴリオン! あいつは馬肉しか知らんし、それもごくわずかだ!」
その間に、フルダーは、たて琴を肩にあてると、ある曲をかなではじめた。「これは、わしが自ら作ったつまらない曲だが」と、フルダーは説明した。「しかし、正直な話、何千という人びとにかっさいされ、おほめをいただいて――」
その言葉がフルダーの口から出たとたん、たて琴がすきすぎた弓のようにしなったかと思うと、一本の絃がぴーんと高い音をたてて切れた。「ちぇっ、こいつ!」と、詩人はぶつぶついった。「わしを片時ものんびりさせてくれんのか? いや、まったく、こいつは、ひどくなるばかりだ。事実を爪のあかほども色づけしたとたん、弦を一本損する。だが、ほんとうなんだよ、わしがいおうとしたのは。確かに六人は、この歌を、その、なかなかよいと思ってくれたんだ。」長いあいだの悲しい修練のおかげで、フルダーは切れた絃を器用につないだ。
その間に広間を一わたり見まわしたタランは、客たちの皿や角さかずきには、中味が半分ほどもなく、いっぱいだった様子が一度もないことに気づいてびっくりしていた。侍従長がたべものを盛った皿をガースト卿の前においたとき、タランはますます首をかしげてしまった。卿が両ひじで皿をかこってしまったのだ。
「たっぷりたべるがよい。」ガーストは、肉汁をちょっぴりつけた小さなパンの皿をタランとガーギの方におしやり、のこりはひとりじめしてしまった。「寛容王ガーストは常に気前がよい! これは、乞食になりかねない悲しい欠点じゃよ。しかし、持っているものをなんでもふるまうのがわしの性質でな。抑えられんのだ!」
「寛容?」タランは、声を忍ばせてフルダーにつぶやいた。その間、ガーギは、情けないたべものをのみこんでしまい、もうないのかと、がっかりした様子であたりを見まわしていた。「これじゃあ、彼にくらべたら、乞食だって気前よく見えますよ。」
食事は、ガーストがふたりに向かってたっぷりたべろと声高にすすめながら、じっさいには、山盛りの大皿から固い肉切れをほんのいくつか、しぶしぶとってくれただけで、おわってしまった。そのほかには、ガーストがたべられるだけ腹に入れ、さかずきにあごひげをつっこんでうつらうつらはじめたとき、ようやくとぼしいたべのこりをのみこめただけだった。とうとう、タラン、ガーギ、フルダーの三人は、まだ空腹のまま、沈んだ気分で道をさぐりながら、見すぼらしいへやへたどりつき、それでも石のようにねむった。
翌朝、タランは、すぐにカー・カダルンへ向かって出立したいといい、フルダーも同行することにきめた。ところが、ガースト卿は、一行が倉庫を見てほめるまでは、出してくれなかった。領主は、さかずき、装飾品、武器、馬飾り、そのほかタランがひじょうに高価だと思うたくさんのものを入れた箱を、つぎつぎ景気よくあけて見せた。しかし、いっぱいごちゃごちゃに入れてあるので、どれがどれやら区別もつかないほどだった。こうした品物の中で、タランはふと、形の美しいブドウ酒のさかずきに目をとめた。それは見たことがないほど美しいものだった。だが、感心してながめるひまなどほとんどなかった。領主が大いそぎで、けばけばしい飾りのはづなを、手に押しつけてよこし、つづいてすぐ、やはり値打ちものだと思っているあぶみを手渡してきたからだった。
「あのブドウ酒のさかずきは、ほかのものを全部あわせたほど値打ちがある。」フルダーがタランにささやいたのは、ガースト卿が三人を、倉庫からとりでのさくのすぐ外の大きな牛のかこい場へ案内してくれたときだった。「あれは、陶工アンローの作品だとわしは見たね。名工だよ。プリデイン一の陶工だ。彼のろくろには魔力があるにちがいない! あわれなガーストめ! 財産豊かだと思いこんでいるくせに、持ちものの価値をまったく知っておらん!」
「しかし、これだけの宝をどうやって手に入れたんでしょう?」と、タランはいった。
「わしなら、そういうことは質問するのをためらうね。」フルダーは、にやっと笑ってささやいた。「おそらく、ゴリオンがおぬしの馬を手に入れたのとおなじやり方だろうな。」
「それから、これが」領主は、群の中でのんびりと草をかんでいる黒い牝牛のかたわらで立ちどまった。「それから、これがコルニーロ、プリデイン一すばらしい牝牛だぞ!」
タランも、これだけはうそもかくしもないと思った。コルニーロはみがかれたようにつやびかりしていた。内ぞりした短い角が、日にきらめいていた。
ガースト卿は、牝牛のつややかな横腹をとくいげになでた。「子ヒツジのようにおとなしく、牡牛のようにたくましい! 馬におとらず足がはやく、フクロウのように賢い!」と、ガーストは自慢をつづけたが、コルニーロは、ただもくもくとかみかえしをつづけながら、まるでただの牝牛以上に見てもらいたくないとでもいうように、しんぼう強い目でタランを見た。
「コルニーロは、牛の群れをひきいておる。」と、ガースト卿は高らかにいった。「いかなる牧童にもできぬほどみごとにな。必要とあればスキもひき、粉ひき車もまわす。生まれる子牛はかならずふたごだ! 乳ときたら、最上のものだ! 一滴一滴がクリームだ! あまりに濃いので乳しぼりの女も、かきまわせないくらいだ。」
コルニーロは、ため息でもつくように、ふうっと鼻息をはくと、しっぽを左右にふりながら、またかみかえしをはじめた。ガースト卿は、タランたちを、牧場から養鶏場へ、つづいてタカのかごへと駆り立てた。それで午前のなかばはつぶれてしまい、タランがとりでから出ることをあきらめかけたとき、ようやくガーストは、一行の馬の支度を命じてくれた。
そのときになってはじめて、タランは、フルダーが今もリーアンに乗ってあるいていることに気づいた。リーアンは、モーナ島でタランたちの命を救ってくれた金色がかった黄色い毛の、巨大な猫だった。「うむ、わしは、彼女を飼っておくことにした――というより、彼女の方がわしを、だなあ。」と、吟遊詩人はいった。リーアンが、タランに気づき、音もなく前に出てきて、うれしそうに、大きな頭をタランの肩にこすりつけはじめた。「ますますたて琴がすきになってな。」と、フルダーは言葉をついだ。「いくらきいても満足せんのだよ。」この言葉が口から出たとたん、リーアンは、長いひげをひくっと動かして向きを変え、詩人をぐいぐい押しはじめた。そのため、詩人はその場ですぐにたて琴を肩からはずし、ちょっとした曲をかなでなくてはならなかったが、リーアンは、大きくのどをならし、大きな黄色い目をうっとりとしばたたいてきいていた。
「さらばじゃ。」領主が、馬と猫にまたがった一行に声をかけた。「寛容王ガーストのとりでは、いつも気前よくおぬしらを迎えるぞ!」
「あの気前よさだと、飢え死にしかねませんよ。」タランは、また東に向かって馬をすすめながら、笑って吟遊詩人にいった。「ガーストは気前がよいと信じこんでいますが、あれは、ゴリオンが勇敢だとうぬぼれているのとおなじですね。わたしの判断では、両方ともほんものではありません。しかし、」と、タランはつけ加えた。「ふたりとも、自分に満足しているようです。人間というものは、ほんとうに、自分が思うとおりのものなのでしょうか?」
「それは、自らの判断が正しい場合のことだ。」フルダーはこたえた。「自らの意見とじっさいとがあまりにちがいすぎる場合は――その、つまり、わが友よ、そのような男は、ゴリオンの巨人話とおなじで中味がないといわねばならんなあ!
「しかし、彼らをあまり厳しく判断してはいけない。」と、吟遊詩人はつづけていった。「ああした領主たちは大同小異なんだよ。今ヤマアラシのようにぷりぷりしているかと思うと、つぎの瞬間には子犬のように人なつこいのさ。財産をためこんでいるが、ふいにその気になると、極端に気前がよくなることもある。勇敢という点では、臆病者はいない。彼らはいつも死と隣り合わせで、それをなんとも思っていない。そして、戦いでは、喜んで味方のために命をすてるのを、わしは見てきた。と同時に」フルダーはさらにいった。「これも今までの放浪中に経験で知ったことだが、自分のしたことは年がたてばたつほど、偉大なものになっていくのさ。だから、もっとかがやかしい戦いは、いちばん古い戦いなんだよ。だから、おぬしが、じつにたくさんの英雄に出くわすのも、まあ当然なんだ。
「彼らに、このわしのたて琴があったら」フルダーは、用心深く楽器に目をやりながらいった。「プリデイン中のとりでで、大さわぎが持ち上がるだろうな。」
4 牝牛事件
その日の午後おそく、一行はスモイト家の真紅の旗をようやく見た。カー・カダルンの塔の上に、真紅の地にえがいた黒い熊の紋章が、いさましくひるがえっていた。木のさくしかない領主たちのとりでとちがい、スモイトの城は荒切り石の城壁にかこまれ、鉄のかざりびょうを打った城門のある城で、どんな攻撃にも耐えられそうだった。城壁のけずりとられたきずや城門のへこみを見て、この城がすくなからぬ攻撃を押しかえしたことをタランは知った。だが、三人を迎えて、城門は大きくひらかれ、槍を持つ儀仗兵がいそいで案内にあらわれた。
赤ひげの王は大広間の宴卓についていた。皿、大盛り皿、酒がはいっているのや、もうからになっている角さかずき――それらのならび具合から、タランは、スモイトが朝からほとんどずっと飲み喰いをつづけていたのだと思った。三人を見ると、王はカシの木のいすからぱっと立ち上がった。いすは、王本人そっくりに、巨大なくまの形につくってあった。
「いや、こりゃおどろいた!」スモイトがあまり大声でわめいたので、食卓の皿ががちがち音をたてた。「おぬしら三人に会えたら、こりゃごちそうどころじゃないわい!」王は向こうきずだらけの顔をじつにうれしげにほころばせて、太い腕で三人を、骨がぼきぼき鳴るほどだきしめた。そして「おい、その古道具で一曲べんべんやってくれ。」と、フルダーに向かって大声でいった。「楽しい出会いに向いた楽しいやつをな。そして、おぬし」スモイトは、赤毛がびっしりはえた部厚い手で、タランの肩をつかんで話をつづけた。「この前会ったときには、毛をむしられたニワトリそっくりにやせっこけていたっけな。それから、このもじゃもじゃのお仲間――こりゃ、こりゃ、この男、カー・ダルベンからここまでずっと、やぶの中をころげてきたのか?」
スモイトは手を鳴らして、たべものと飲みものを持ってこいとどなり、客の一行がたべおわり、自分もあらためて満腹するまで、タランの話に耳をかそうとはしなかった。
「フルーネットの鏡?」スモイトはいった。ようやくタランの探究の旅が話題になったのだ。「そのようなものは、きいたこともないな。フラウガダルン山脈中で鏡を一つさがすなんて、乾草の山で針一本をさがすようなものだ。」王は、太い眉をぐいっと寄せて首を横にふった。「フラウガダルン山脈は、自由コモット領にそびえる山脈だ。あそこの連中がおぬしに力をかしてくれる気持ちになるかどうかだが……」
「自由コモット?」と、タランはきいた。「その名まえだけはきいたことがありますが、それ以上はなにも知りません。」
「たくさんの小村落にわかれた国なんだ。」と、フルダーが話に加わった。「その国は山地のカントレブの東境にはじまり、大アブレン川に至る間にひろがっている。わし自身はそこまで旅したことはない。自由コモット領は、このわしでさえ放浪するには、いささか遠すぎる。しかし、国そのものはプリデイン中でもっとも楽しいところだ――山や谷は美しく、地味は肥え、牧場の草は豊かに茂っている。剣をつくる良質の鉄や、装飾用の金や銀を産する。陶工アンローもコモット人たちの仲間になって暮らしているということさ。ほかにも織物の名人、金属細工師など、たくさんの職人がいる――はるかな昔から、そうした技術がコモットの誇りなのだ。」
「誇り高い人たちでな。」と、スモイトがいった。「それに、生まれつきがんこだ。大王マース以外、いかなる領主にも臣従しない。」
「臣従しない?」タランは面くらってたずねた。「では、だれが、彼らを支配しているのです?」
「うむ、自らが国を治めておる。」と、スモイトはこたえた。「彼らは、また、力も強く意志強固だ。それに、プリデイン中のどこよりも、自由コモットの国は平和でたがいにむつみあっている。これは、このひげにかけて確かなことだ。そんな彼らだ。どうして王だの領主だのが必要なものか。そういうことの真の意味が明らかになると」と、スモイトはつけ加えた。「王の力は、王が支配するものたちの意志次第となるのだ。」
タランは、スモイトの話に注意深く耳をかたむけていたが、うなずいて、なかばひとりごとのようにいった。「そんなふうに考えたことはありませんでした。しかし、おっしゃるとおりです。ほんとうの服従は自分から喜んでする場合だけです。」
「話は、もうたくさんだ!」と、スモイトは大声でいった。「話をしていると、頭がいたくなるし、のどはからからになる。さあ、また喰ったり飲んだりしようじゃないか。その鏡なんか忘れてしまえ。このわしの国にとどまることにしろよ。馬をならべて狩りをしたり、宴会をひらいたり、ゆかいに暮らそうじゃないか。ばかげた仕事でうろつきまわるより、ここにいた方が太れる。そして、これはな、おぬしにはだいじな忠告なんだぞ。」
だが、結局タランが思い切るつもりのないことがわかると、スモイトは気さくに、一行の旅に必要なものを用意することを承知してくれた。翌朝、スモイト王によれば、昼の食欲を刺激するくらいにはなるという朝食の大ごちそうが終わると、王は一行のために倉をひらき、最上品をまちがいなく選べるように、いっしょについてきてくれた。
タランが、巻いた綱や鞍袋やはみなどをえらびにかかったとたん、城の番兵のひとりが倉にとびこんできて大声でさけんだ。「王さま! ガースト卿の騎馬武者のひとりがまいっております。ゴリオン卿のとりでの略奪隊が、ガースト卿秘蔵の牝牛ならびに牛の群れ全部を盗んだといっております!」
「くそっ!」と、スモイトはほえるようにどなった。「なんたることだ!」王のからみあったやぶのような両の眉毛が一つになって盛りあがり、顔が、あごひげのようにまっかになった。「あやつめ、よくも、わしの領土内でさわぎをおこしおった!」
「ガーストの手のものは武装しております。ゴリオンを攻めるつもりですぞ。」番兵は、早口に報告をつづけた。「ガーストは、王さまの加勢を心からのぞんでおります。使者にお話くださいますか?」
「使者に話すだと?」と、スモイトはまたほえるような声でいった。「そいつの主人の方を、平和を乱したかどで鉄の足かせをはめてくれる。いや、それだけじゃ足らんぞ! わしの許しもなしに平和を乱しおったのだ!」
「ガーストに足かせ?」タランはちょっと面くらってたずねた。「しかし、ゴリオンが彼の牝牛を許しもなしに盗んだのだから……」
「彼の、牝牛?」スモイトがさけんだ。「なにが彼の牝牛だ! 去年、ガーストは、あれを、ほかならぬゴリオンから盗んだのだ。そして、おととしはその逆だった。両方とも、あの牝牛の正当の持主を知らんのだ。あの二人のさわぎ屋どもは、いつもけんかをしておる。こんども、気候が暖かくなって、また頭に血がのぼったのだよ。しかし、わしが、やつらの腹立ちをひやしてやる。土牢にほうりこんでだ! ガーストもゴリオンも!」
スモイトは、がっしりした両刃の戦斧をさっとつかんだ。そして、「ふたりとも、耳をつかんでひっぱってくる。」とわめいた。「ふたりとも、ここの土牢は知っているもうたっぷりと味わっているんだ。だれか、いっしょに来るかね?」
「わしが行く!」フルダーが、目をかがやかせていった。「行くとも、フラムの者は戦いを避けぬ!」
「手をかせとおっしゃるなら」と、タランもいった。「喜んでおかしします。しかし……」
「よし、じゃ馬に乗れ!」と、スモイトはどなるようにいった。「正しいさばきを見せてやるぞ。そして、やつらの頭をぶちわってでも、ガーストとゴリオンの間をとりしずめてやる!」
スモイトは戦斧をふりながら、勢いよく倉をとび出していき、あっちこっちで大声に命令をつたえた。十二人の戦士が、たちまち馬にとび乗った。スモイトは、胸の筋肉が盛り上がった大きな馬にひらりとまたがると、歯のすきまからひゅうと音を出してあいずしたが、その音は、前歯がとぶほどに大きかった。つづいて手をふって、進めと命じた。さけび声とさわがしい音につつまれて、よくわからないままに、タランもメリンラスにまたがり、勢いよく庭から城門を出た。
赤ひげの王は、ひじょうな速さで先頭にたち、谷間をぐんぐん進むので、遅れずについていくには、リーアンですらがんばらなくてはならなかった。ガーギはといえば、息ができないようなありさまで、狂ったように駆けるポニーの首にしがみついていた。スモイト王がとまれとあいずしたとき、彼の軍馬もメリンラスも泡をふいていた。
「めしだ!」スモイトはそうさけんで、ひらりと馬からおりたが、毎朝の馬ならしでもはじめたばかりといったように、ぜんぜん疲れた様子を見せなかった。したがう一行は、ぜいぜいあえいでいて、食欲などまるでなかった。ところが、スモイトは、腰につけた重い青銅のおびを両手でぽんとたたいた。「飢えると、人間は陰気になって、戦闘心がにぶってしまうからな。」
「王さま、わたしたちはガースト卿とたたかわなくてはいけないのですか?」タランは、いささか心配になってたずねた。カー・カダルンからついてきたスモイトの兵力は、わずか十二人だったからだ。「それに、ゴリオン卿の兵士たちが武装しているとしたら、両方とたたかうには、あまりに劣勢ではありませんか。」
「戦う?」と、スモイトはいいかえした。「とんでもない。だからなんとも残念なのさ。わしは、日の暮れぬうちに、あの騒動屋どもの鼻づらをつかんで土牢にほうりこんでやる。やつらは、わしのいうがままよ。なんといっても、わしは、かれらの王なのだ! これにはたっぷり力がこもっている。」王は、力強いこぶしをふってみせて、そうつけ加えた。「そのことを充分にやつらの頭にたたきこんでやる。」
「しかし。」タランは思いきっていった。「あなたは自分で、王の真の力は、支配されるものの意志次第とおっしゃったではありませんか。」
「それがどうした?」スモイトは、大きな体を木の幹にもたれさせて、鞍袋からとり出した大きな肉の切り身にかぶりつこうとしていた。「わしのいったことを楯に、わしを困らせるでない! ええい、王は王なのだ。」
「あなたは、今までに何度も、ガーストとゴリオンを土牢にとじこめました。」と、タランはこたえた。「ところが、まだ、ふたりはけんかをしています。ふたりの間を丸くおさめる方法はぜんぜんないのですか? それとも、ふたりにわからせる……」
「道理を説いてきせかてやるとも!」スモイトは、戦斧をつかんでどなるようにいった。そして、突き出て見える眉をしかめた。「だが、おぬしのいうとおりよ。」王は、うなずくと、眉をしかめ、肉の中の軟骨をかむように、タランの考えをじっとかみしめているような表情をした。「ふたりとも、むっつりと土牢にはいり、むっつりと出ていく。おぬし、なかなかだいじなことを思いついたぞ。土牢は、あのふたりにはききめがないんだ。そして、うむ、そのわけがわかったぞ! あそこには、もっとしめり気とすきま風が必要なんだ。そのようにつくりかえてやる! 今夜は、あそこをたっぷりとしめらせておこう。」
タランが自分の考えはそれとはちがうといおうとしたちょうどそのとき、フルダーが大声をあげて、草原を全速力で走ってくる騎馬武者をゆびさした。
「ゴリオンの旗じるしを持っている。」スモイトがさけんで、右手に戦斧を、左手にまだ肉を持ったまま、さっと立ち上がった。二人の部下がいそいで馬に乗り剣をひき抜くと、その武者を迎えうつために馬に拍車をくれた。だが、相手は剣さげて、領主からの知らせを持ってきた使者だと大声でさけんだ。
「このろくでなしめ!」と、スモイトはどなりつけて、肉も戦斧も置きすて、馬上の男のえり首をつかみ、鞍からひきずりおろした。「また、なにかいたずらごとをひきおこしたのか? しゃべれ! 知らせろ。それとも、きさまの胃袋ごと、ひきずりだしてくれようか!」
「王さま」と、使者はあえぎながらいった。「ガースト卿は優勢な軍勢でせめてきています。わが殿ゴリオン卿は苦戦しています。殿は、味方をもっと集め、王さまもご加勢くださるようにお願いせよといいました。」
「牛はどうなった?」と、スモイトが大声できいた。「ガーストは牛をとりもどしたか? ゴリオンがまだおさえているのか?」
「どちらもちがいます。」使者は、ひとこというたびにスモイトにゆさぶられるので、必死にこたえた。「ガースト卿は、自分の牛をとりもどし、さらにゴリオン殿の牛もうばおうと攻め寄せたのです。ところが、戦っている間に、家畜はぜんぶ、おびえて逃げてしまいました。王さま、両方の牛がいなくなったのです。一頭のこらず、まいごです。問題の、コルニーロも!」
「それでおしまいにしろ!」と、スモイトは宣言した。「牛どろぼうにはよい教訓になる。ガーストとゴリオンが和睦を宣言すれば、土牢に入れないでやろう。」
「いえ、王さま、いくさは激しくなっています。」使者は、しつこくいった。「どちらもひきません。どちらも、自分の牛がいなくなったことを相手のせいにして非難しています。ゴリオン卿は、ガースト卿に復しゅうをちかい、ガースト卿は、ゴリオン卿に復しゅうをちかっているのです。」
「ふたりとも、いくさがしたくて、うずうずしておったのだ。」と、スモイトはかっとなってさけんだ。「今、そのいいわけができたのだ!」そして、部下のひとりをよぶと、ゴリオンの使者をカー・カダルンへつれていき、人質としておさえておけと命じた。「のこりの者は乗馬だ。いやはや、結局お笑い草を見ることになる。」スモイトは、戦斧をにぎりしめた。「ようし、きょうは頭をぶちわってやる!」その大きな声は楽しそうだった。そして傷だらけの顔がまるで宴会に行くとちゅうのようにはればれとしてきた。
「吟遊詩人たちは、これをうたいつぐであろう。」フルダーが、スモイトののぼった気分にすっかりのまれて熱っぽくさけんだ。「フラムの者はいくさの最も激しいところにとびこむ! 激しければ、ますますけっこう!」たて琴が胴ぶるいし、一本の絃がぷつりと切れた。「つまり」フルダーはあわててつけ加えた。「あまりこっちの数がすくなすぎなければたすかるな、ということだ。」
「王さま。」タランが、大またに軍勢に近づいていくスモイトに声をかけた。「牛がいないためにガーストとゴリオンが戦いをやめないというのなら、わたしたちが牛をさがしてみるべきではないでしょうか?」
「そのとおり、そのとおり!」と、ガーギも口をはさんだ。「迷い出ていなくなった牛をさがす! そして、戦い、切りあいをおわらせる!」
だが、スモイトは、すでに馬上にあって、武者たちにつづけと命令していた。だから、タランも、ついていく以外になかった。スモイトがどちら側のとりでに向かっているのか、タランにはわからなかった。ただ、スモイトのことだから、ガーストとゴリオンのどちらが先に王につかまっても、結果にかわりはないと思った。
ところが、しばらくすると、通っている道が、イーサンの農場から来た道であることがわかったので、タランは、王がゴリオンのとりでに向かっていると判断した。だが、ひらけた野原を馬蹄をとどろかして横切っているとき、王がぐいとっと左に向きを変えたので、よく見ると、すこし前方に一団の騎兵が見えた。
彼らの旗さしものを見たとたん、スモイトは激しい怒りのさけびあげ、騎兵たちに追いつこうとして馬に拍車をくれた。しかし、騎兵たちも、全速力で馬を駆っていたので、あっという間に森に姿を消してしまった。スモイトは、たづなをしぼって馬をとめると、騎兵たちに向かってどなり、ばかでかいこぶしをふってみせた。
「ゴリオンのやつ、新手の軍勢をさわぎに投げこんだのか?」スモイトは顔を赤黒くしてほえるような声でいった。「それで、ガーストも人数をふやしたのだ! あの土百姓どもはガーストの旗をたてておったわい!」
「王さま。」と、タランが話しだした。「牛がみつかりさしたら……」
「牛だと!」スモイトがはき出すようにいった。「このさわぎは、牛だけじゃおさまらんのだ。このような騒動は、ほくちに火花をとばすように、ぱっと燃えひろがる。あのばかなごろつきどものおかげで、カディフォル全土に戦火がひろがり、気づいたときにはだれもが必死に戦っていることになるのだ!」
スモイトは、ためらう様子だったが、その表情は深刻な恐れのために暗かった。顔をしかめ、ひげをひっぱっていたが、「境を接する国の領主どもが問題だ。かれらも高見の見物はせず、こっちが内乱となったら、攻めかかってくる!」
「しかし、牛を」タランはなおもいった。「わたしたち三人でみつけられます。王さまは、その間に……」
「土牢だ!」と、スモイトはさけんだ。「やつらのけんかが、さらに大きくなって手におえなくなる前に、ガーストとゴリオンを、あそこにぶちこもう。」
スモイトは、馬の腹をぐっと押して突進した。道を通ろうなどとしないで、猛烈な速度で、いばらもやぶも突きぬけて進んだ。タランの一行と戦士の一隊をひきいて、スモイトは石の河原をがらがら音をたてて進み、馬を急流にとびこませた。渡り場のえらび方はまずかった。川にはいったとたん、タランは、水が鞍がかくれるほどに深いことに気づいた。スモイトは、いらだたしげにさけびながら、ぐいぐいと横切ろうとした。タランは、王があぶみにふんばって立ち、部下やタランたちに手をふって、もっといそげとせきたてるのを見た。ところが、つぎの瞬間、軍馬が足をすべらせて横だおしにたおれかかった。馬と乗り手は、はでな水しぶきをあげて倒れた。タランが、メリンラスをせきたててそばまで行こうとしたとき、スモイトが鞍からはなれ、手足のついたたるのようなかっこうで、ぐんぐん下流に押し流されはじめた。
タランの後ろでは、何人かの戦士たちが馬首をめぐらし、川岸を走って王に追いつこうとしていた。タランは対岸に近づいていたので、メリンラスをせいいっぱいいそがせて川を横切ると、鞍から岸のかわいたところまでとんで、岸づたいにスモイトを追った。急流の水音で耳がいっぱいになったところで、タランは王が容赦なく滝に向かって流されていることに気づき、ぎょっとなった。心臓が破裂しそうに思ったが、タランは走りに走った。しかし、タランが急流に足をふみ入れる直前、王の赤ひげが渦まき泡立つ水の中に沈んだ。スモイトが滝のへりをこえて落ちたとき、タランは絶望のさけびをあげた。
5 さばき
タランは、高い滝をふちどって突き立つ岩を一足一足くだっていった。落ちる水が白いしぶきをあげている滝つぼの中で、スモイトの巨体が渦に巻きこまれてまわっているのが、かろうじて見えた。たたきつけてくる水を物ともせず、タランは滝をくだって滝つぼに身をおどらせた。スモイトの帯を手さぐりし、ようやくつかまえた。渦と戦い、そのために、あやうくおぼれそうになったが、なかば気を失っている王を、やっとのことで浅瀬までひっぱっていった。
スモイトは、ひたいからの出血がひどく、いつものあから顔が紙のように白かった。タランは、水につかっている王の巨体をひっぱり、渦まく水の手からぶじにうばいかえした。ちょうどそこへ、ガーギとフルダーがかけつけて、王を岸までひっぱりあげる手伝いをしてくれた。スモイトは打ち上げられたクジラのように、岸辺にぐったりと倒れてしまった。
ガーギは、心配げなうめき声をたてながら王のきものをぬがせようとした。その間に、タランと吟遊詩人は、いそいでスモイトのきずをしらべた。
「まあ、運がよかったと思っていいね。頭がひびわれて、肋骨の半分が折れただけだよ。」と、フルダーがいった。「ほかの男だったら、まっぷたつになっていたろうよ。」そして気を失った王のまわりにあつまってきた兵士たちをちらりと見て、声をひそめ、タランにだけいった。「しかし、こまったことになったな。これでは、ガーストにもゴリオンにも、足かせをはめることはできない。このきずは、とても応急手当じゃだめだよ。カー・カダルンへつれていくのが上策だな。」
タランは首を横にふった。近隣の領主たちはすきさえあれば攻め寄せてくるといった。スモイトの言葉を思い出したのだ。それに、タランは、ガーストとゴリオンを説得していくさをおわらせるには、コルニーロをみつけだすのが最上の策だと心のうちで考えていた。しかし、あれこれ考えると、まるでオルデュの機のように頭の中がごちゃごちゃ入りくんでしまった。タランはスモイトとかわりたいとせつに思った。こんなときに気を失っている彼がひどくうらやましかった。
「イーサンの農場の方が近い。」と、タランはいった。「王をあそこへ運んでガーギをつきそわせよう。あなたとわたしは、ガーストとゴリオンをさがしだして争いをくいとめるために手をつくさなくてはなりません。コルニーロと牛の群れの方は、みつかるのぞみがあるのやらないのやら、わかりませんが。」
タランたちは、マントを細かくさいて、スモイトのきずをほうたいしにかかった。すると、王のまぶたがひくひく動き、大きなうめき声が口からもれた。
「たべものをくれ!」と、スモイトがあえぎながらいった。「おぼれかけてもかまわんが、飢え死にしそうなのはかなわん。」そういって王は、タランの肩に手をかけた。「いい若者だ、おぬしは。わしの命を救ってくれた。一瞬おそかったら、わしはつぶされていただろう。どんな礼でもするからな。」
「なにもいりません。」タランは、スモイトの部厚く広い胸にまいたほうたいを結びながらこたえた。そして、「残念ながら、わたしの心からののぞみは、だれもかなえることができないのです。」とつぶやいた。
「かまわん。」と、スモイトは苦しげな息でいった。「わしにのぞむことがあれば、なんでもかなえてやる。」
「王さま、あなたはあまり動けません。」タランは、苦しげに立ち上がろうとするスモイトにいった。「どうか、あなたの軍勢をわたしたちにおまかせください。そして……」
「親切なご主人! おききください!」と、ガーギが興奮して大声をあげた。「耳をすまして、おおきください!」
リーアンも、なにかの物音をききつけていた。耳を前方に向け、ひげをひくつかせていた。
「たべものと飲みものをほしがって、わしの胃袋がないとるんじゃ!」と、スモイトが思わずさけんだ。「でかい音にちがいない。なにしろ、わしは太鼓のようにからっぽなんじゃから!」
「いや、いや。」と、ガーギはさけぶようにいうと、タランの腕をつかんで、岸辺の木々の後ろまでつれていった。「ガーギ、ぽんぽん、どこどこ、きかない。モー、モーきこえる!」
吟遊詩人の肩によりかかったスモイトが、よろけながら後を追ってきた。ガーギの言葉にうそはなかった。この生きものの鋭い耳は、けっしてまどわされることがなかった。もう今はタランにも、かすかに牛のなき声がきこえた。ガーギが音のした方に向かって走っていった。木々をぬけると、土地がくだって小さな谷間となり、その底を小川が流れていった。タランは思わず大声でさけんでしまった。そこでは牛の群れが、コルニーロを中心にして、しずかに草をたべていた。
「いや、すごい!」スモイトが、ほえるような声でさけんだ。まったくとほうもなく大きい声だったので、角のはえた頭が十二ほどこっちを向き、見なれない新種
の牡牛が突然しずかな草原にとびこんできたのでびっくりしたというように、丸い目でじっと見た。
「こりゃ、おどろいた!」フルダーも、思わずさけんでしまった。「コルニーロは、一頭のこらず、ぶじにここまでつれてきたんだな。どっちの主人よりも、彼女の方が賢いよ。」
タランがいそいで近づいていくと、コルニーロが頭をあげた。そして、しずかに鼻をならし、いかにも忍耐強そうな目をくるくる動かしてみせた。スモイトは、ひどいけがを物ともせず、得意そうに手をならし、せいいっぱいの大声で部下をよびたてた。
「王さま、この牛たちはイーサンの農場まで追っていきましょう。」と、タランは主張した。「あなたのおけがは、応急のものでなく、もっとよく手当てをしなくてはいけません。」
「すきなところへ追っていくがよい。」と、スモイトはこたえた。「いや、まったく。牛はもうわしらがにぎっておるのだ! これで、ガーストもゴリオンも、あわててすっとんでくるわい!」王は、騎馬の部下二人をよび、領主たちに知らせにいけと命じた。「あの二人の騒動屋に、わしが待っている場所を伝えるのだ。」と、スモイトは大声でいった。「そして、牛がみつかったからといって、休戦のふれを出せと命じてこい!」
「そして、それは、ガーギがみつけたのですぞ!」ガーギが、めちゃくちゃにはねまわりながらさけんだ。「はい、はい! 大胆、賢明で耳のよくきくガーギ、いなくなったものぜんぶみつけた。ほんと、ほんと!」ガーギは、毛だらけの腕をやたらにふりまわし、手柄をたてた誇りと喜びではちきれんばかりに見えた。「ああ、吟遊詩人たち、賢いガーギのこと、うたい語ってくれる!」
「そう、きっとそうしてくれるよ。」と、タランはいった。「おまえは牛をみつけたんだから。しかし、まだガーストとゴリオンの問題がのこっていることを忘れるなよ――そして、コルニーロは一頭しかいないんだ。」
牝牛たちは、最初、谷間をはなれるのをしぶった。しかし、タランは、長い間なだめすかし、ようやくコルニーロを谷間の小道伝いにイーサンの農場に向けてつれ出すことに成功した。ほかの牝牛たちは、ないたり、角をふりたてたりしながら、コルニーロの後についてきた。このおかしな行列は、草原を横切り、起伏する丘をこえて進んだ。スモイトの戦士たちが牛たちの両側を馬で進み、赤ひげの王さま自身は、槍を牛追いの杖よろしくふりまわしていた。リーアンは、まいごに目をくばりながら、群れの後ろを音もなくついてきた。そして、ガーギは、もじゃもじゃのオンドリのように、コルニーロの背に、とくいげに乗っていた。
イーサンの小屋が見えてくると、タランは馬を走らせて先にたち、大声で農夫の名をよんだ。ところが、馬からおりたとたん、とびらがいきおいよくあいた。タランはびっくりしてひきさがった。イーサンが、さびた剣をにぎって立っていた。そして、その後ろで、アラルカが、前かけを顔におしあてて泣いているのがちらりと見えた。
「これが、人の親切にたいする、おぬしの礼のしかたなのか?」イーサンは、すぐにタランに気づいて、かっとなってさけんだ。目をいからせて、近づく軍兵を古びた剣でさしてみせた。「おぬし、わしのはたけをだいなしにするために、あいつらをつれてきたのか? 立ち去れ! はたけならすでに荒らされてしまったわい!」
「そりゃ、どういうことです?」タランは、友人だと思っていた人からこんないい方をされて心からおどろいてしまい、口ごもった。「わたしと来たのは、スモイト王とその家臣たちです。ガーストとゴリオンを和睦させようとして……」
「だれの手の者であろうと、わしの作物をふみ荒らしたことに変わりはない。」と、イーサンがすぐにいいかえした。「ガーストが荒らしたところを、ゴリオン卿がもう一度荒らしたのだ。わしのはたけで押しつ押されつ戦って、とうとう麦一本残らないありさまになってしまった。いくさは彼らの誇りだろうが、はたけはわしの命なんだ。彼らは復しゅうたいのだろうが、わしは収穫したいだけなんだ。」絶望してすっかり力を落としたイーサンは、がっくりと頭をたれると、剣を地面に投げすてた。
タランは、イーサンが苦心さんたんしてたがやしたはたけをいたたまれない気持ちでながめた。軍馬のひづめが土をかきまわしてぐしゃぐしゃにしてしまい、芽の出たばかりの麦は、めちゃくちゃにとびちっていた。イーサンが生活を賭けた収穫は、もうなくなってしまったのだ。タランは農夫の落胆を、自分のことのように理解できた。
タランが何かいおうと思ったちょうどそのとき、一隊の騎馬武者が、はたけにつづく森からあらわれた。タランは、先頭がゴリオン卿であることに気づいた。そして、そのすぐ後に、ガースト卿とその兵士の一団が姿を見せた。けんか相手の姿を見ると、領主は馬に拍車をくれて、むちゃくちゃに小屋までかけこんできて、ぱっと鞍からとびおり、はげしくわめきたてて、ゴリオンめがけてつめよった。
「このぬすっとめ! きさま、また、コルニーロを盗もうというのか?」
「くそっ、このどろぼう!」ゴリオンが、どなりかえした。「わしは、そもそもわしのものだったものを、とりかえしたのだ。」
「うそつきめ!」と、ガーストがわめいた。「あれがきさまのものだったと。とんでもない!」
「侮辱だ! 傲慢無礼だ!」ゴリオンは、顔を紫色に染め、剣の柄にさっと手をかけてどなった。
「だまれ!」スモイトが、とどろくような声でさけんだ。そして、ふたりの領主に、戦斧をふってみせた。「王が話すのだ! このばかな騒動屋どもめが、厚かましくもけんかして、ののしりあいおって!」そこで、スモイトが部下にあいずすると、部下たちが大またに近づいて、ガーストとゴリオンをつかまえた。二つの領主の軍勢が、おこってさけび声をあげ、剣を抜きはじめた。一瞬、タランは、その場でまた戦いがはじまるかと思った。だが、スモイトの戦士たちはびくともしなかったし、はげしくおこっている王その人の姿を見ると、領主の戦士たちも、おとなしくひきさがるよりほかはなかった。
「わしの土牢が、おぬしらに、よき隣人になれと教えてくれるだろう。」と、スモイトは大声でいった。「わかるまで、あそこにはいっておれ。コルニーロは――うむ、わしはきょう頭の鉢を割り、あばらにひびをいらせ、あやうく飢え死にするせとぎわまで追いこまれた。だから、戦利品として要求する! おぬしらがわしに与えた腹立ちのかえしとしたら、わずかなものだ! あと一日これがつづいたら、全領土に戦いの火がひろがっていたにちがいないんだ!」
これをきくと、ガーストとゴリオンは、ほえるような声ではげしく抗議した。そこで、タランは、これ以上だまっていられなくなって、つかつかと王のかたわらに歩みよった。
「王さま、土牢に人を一生とじこめたとて、荒れはてたはたけには一粒の麦もできません。イーサンは、手に入れたいと希望していたものを、すっかり失ってしまったのです。夫婦が生きのびるための一年分の収穫をです。あなたは、願いをかなえてくださるとおっしゃいましたが、わたしは、おことわりいたしました。今、それをお願いしてよろしいですか?」
「なんなりと求めるがよい。」と、スモイトはこたえた。「ききとどけたぞ。」
タランは、前に進み出てふたりの領主と向かいあって、ちょっとためらった。だが、すぐにスモイトの顔を見ていった。「ガーストとゴリオンを釈放願います。」
スモイトが、おどろきのあまり目をぱちくりしている間に、ゴリオンは、今はじめてタランに気づいて大声でいった。「こやつ、わしの馬をかたりとった豚飼いではないか! 土百姓と思っておったが、りっぱな願いをするわ。ききとどけなされ、スモイト王。賢い言葉じゃ!」
「ふたりを釈放して」と、タランはつづけた。「イーサンとともにはたらかせ、彼らがうちこわしたものをあがなわせるのです。」
「な、なんと?」と、ガーストがさけんだ。「わしは、かれを英雄と思っておったが、ただの下人にすぎんぞ! 寛容王ガーストもを、報しゅうなしでモグラのように土を掘らせようとは、よくも願いおった!」
「厚顔! 無礼! 傲慢!」と、ゴリオンがどなった。「勇者ゴリオンを豚飼いめがさばくなど、ゆるさん!」
「寛容王ガーストはむろんのこと!」ガーストが、いかりをこめてさけんだ。
「では、自らさばきをおつけなさい。」タランはこたえた。両手にふみにじられた芽と土をすくといり、怒りくるっている二人の領主にたたきつけた。「これがイーサンの暮らしの道の残りです。これをよくごらんなさい、ゴリオン卿。あなたの巨人や怪物の話より、これの方が事実なのです。そして、ガースト卿、イーサンは、あなたが財産をだいじになさる以上に、この土と芽をだいじにしていたのです。これは、かれが汗水たらして、これまでにしたものだからです――これこそ財産です。」
ガーストとゴリオンは、だまってしまった。乱暴なふたりの領主が、おどおどした子どものように、じっと下を向いてしまった。
イーサン夫婦は、なにもいわずに、ただじっと見ていた。
「この若者は、わしよりよい頭を持っておるぞ。」スモイトが、思わず大声でいった。「それに、裁きもわしより賢明だよ。その上、わしより心がこもっておる。わしなら、土を掘らせるかわりに、土牢にしただろうからなあ。」
ふたりの領主も、しぶしぶ承知した。
タランは、スモイトを見ていった。「最後にもう一つお願いがあります。いちばん不足しているところに、いちばん手厚く願いをかなえてくださいますように。王さまは、自分のためにコルニーロをおのぞみなのですか! あれは、イーサンに与えてください。」
「コルニーロをあきらめろだと?」スモイトは息をつまらせ、とぎとぎれにいいだした。
「わしの、戦利品……」だが、ついにうなずいた。「とらせる。」
「イーサンがコルニーロを所有します。」と、タランはつづけた。「子牛が生まれたら、それはガーストとゴリオンのものとなります。」「わしの牛の群れはどうなる?」と、ゴリオンがさけんだ。
「そして、わしのは?」と、ガーストもさけんだ。「もう、すっかりごちゃごちゃで、どれがどっちやら、だれにも区別がつかん。」
「それは、ゴリオン卿に平等に分けていただきます。」と、タランがいった。
「やらせんぞ!」と、ガースト卿が口をはさんだ。「やつなら、ふとった方を一人じめして、やせこけ牛をぜんぶわしによこすわい! 分けるのは、わしがやる!」
「とんでもない!」と、ゴリオンがどなった。「きさまは、骨の見えるのをうまくわしに押しつけるにきまっておる!」
「ゴリオン卿に分けていただきます。」と、タランはくりかえしていった。「しかし、ガースト卿がはじめにどちらか半分をえらんでとるのです。」
「でかした!」スモイトが思わずさけんでからからと笑いだした。「いや、まったくうまい。ふたりともぐうの音も出まい。ゴリオンが分けてガーストがえらぶ! ほ、ほう! これでふたりのぬすっとも、正直な取引をしなくちゃならん!」
イーサンとアラルカが、いつのまにかタランとスモイト王のそばまで来ていた。「あなたのほんとうの身分は、わたしにはわかりません。」と、農夫はタランにいった。「しかし、あなたは、わたしの助力を、何層倍にもしてかえしてくれました。」
「ああ、親切なご主人の賢さ!」ガーギが、うれしそうにさけんだ。ふたりの領主が牛を分けはじめ、スモイトの戦士たちがカー・カダルンへひきあげようとしているときだった。「ガーギ、牛たちをみつけた。けれども、牛たちをどうしたらよいか、賢いご主人にしかわからなかった。」
「ほんとうに、これが正しい裁きなら」と、タランはこたえた。「ガーストとゴリオンは、コルニーロの子牛を持つことになる。彼女はいつもふたごを生むと、ガーストがいっていたが、そうであってほしいものだよ。」そして、にこっと笑って「がっかりさせてもらいたくない。」
一行がようやくカー・カダルンにもどったのは、日がくれてからだいぶ時がすぎてからだった。フルダーとガーギは、つかれきっていて、それぞれのベッドに倒れこむのがやっとのことだった。タランも喜んでそのまねがしたかったのだが、スモイトが腕をつかんで大広間へつれていった。
「きょうは、ほんとうによくやってくれた。」と、スモイトは心から大きな声でいった。「おぬしのおかげでこの国はいくさをまぬがれ、わしは岩にぶつかってこなごなにならずにすんだ。ガーストとゴリオンがいつまでおだやかにやっていくか、わしにはわからん。だが、おぬしは一つのことを、わしに教えてくれた。わしの土牢は役に立たぬということさ。いやはや、わしは、あんなもの、すぐにふせがせてしまう。きょうからは、わしも、この手を、人をなぐることにではなく、話しあいのために使うようにしてみよう!
「だがな。」と、スモイトは眉根を寄せ手話をつづけた。「わしの頭のはたらきはおそい。それは、人にいわれずともわかっておる。そして、わしは、剣をにぎっている時の方が気が楽なのだ。おぬし、わしの贈りものに、またかえしものをしてくれぬか? カディフォル・カントレブにいてもらいたいのだ。」
「王さま」と、タランはこたえた。「わたしは、肉親のことを知ろうとさがしまわっています。だから……」
「肉親!」スモイトが、太い腹をぴしゃりとたたいてどなるようにいった。「おぬしがほしいと思う肉親なら、どんな肉親にだって、このわしがなってやるぞ! いいか、よくきいてくれ。」スモイトは、もう落着いた声で話していた。「わしは、男やもめで子どもがいない。おぬしは両親がほしいのだろ? わしも、おぬしにおとらず息子がひとりほしい。狩人グウィンの角笛が、このわしのために吹きならされたとき、この地位をつぐものはだれもおらぬし、おぬし以外はあとつぎにしたくない。ここにおってくれ。そして、将来カディフォルの王となってくれ。」
「カディフォルの王?」タランは思わずさけんだ。胸がおどった。エイロヌイに王妃の座をおくることができるというのに、なんで鏡をさがし求める必要がある? これこそ、エイロヌイへの、もっとも誇らかな贈りものではないか? カディフォル王のタラン。その言葉は、豚飼育補佐タランよりは、はるかに耳にこころよかった。だが、ふいに、心からの喜びは冷えてしまった。エイロヌイは、その地位を尊敬してくれるかもしれない。しかし、はじめもしないうちに探究をやめてしまったタランを、はたして尊敬などしてくれるだろうか? 自分でも、そんな自分が尊敬できるか? タランは、長い間こたえなかったが、やがて、心からの感動のこもった目をスモイトに向けて、話しだした。
「あなたが与えてくださろうという名誉ほど、わたしにとって尊いものはありません。ええ――お受けしたくてたまらないのです。」そこでタランは口ごもった。「ですが、わたしは高貴な血筋に正統なものとして王位につきたい。贈りものとしてではなく。」そこで、ゆっくりと「ほんとうに、わたしも高貴な生まれかもしれません。それがはっきりすれば、わたしは喜んでカディフォルを治めましょう。」
「なんと!」スモイトはさけんだ。「いやはや、わしは生まれつき王子であるばかよりも、かしこい豚飼いに、わしの玉座にすわってもらいたいんだ!」
「しかし、こういうこともあるのです。」と、タランはこたえた。「わたしは、自分の真の姿を知りたいのぞみがあるのです。それをとちゅうでやめはしません。もしやめたとしたら、わたしのほんとうの素性は永久にわからずじまいになり、わたしは一生、どこか足りないところがあると思いつづけるでしょう。」
これをきくと、スモイトの刀きずだらけの顔にいかにも悲しげな表情がうかび、残念そうに頭をたれてしまった。だが、すぐに、心をこめてタランの背をどんとたたいてさけんだ。
「よしよし、わかった! おぬしは、乾草の中の針だか、ふわふわした鬼火だか、鏡だか、なんでもいい、それをさがすつもりにしている。だから、わしも、これ以上ひきとめるようなことはいわぬ。そいつをとことんさがすのだ! みつけようが失敗しようが、もどってきたら、カディフォルは喜んで迎える。だが、いそいでくれよ。なにしろ、ガーストとゴリオンは、必ずまたばかなことをしでかすから、このカントレブがどれほどのこっておるか、保証できないからな。」
こうして、タランは、また、ガーギ、フルダーの二人とともに旅に出た。心の奥底に、タランは、自分の血筋についての誇るべき知らせとともに、スモイトの国にもどれるかもしれないというのぞみをいだいていた。だが、ふたたびカディフォル・カントレブに足をふみ入れるまでに、長い旅が続くことを、神ならぬ身の知るよしもなかった。
6 カエル
一行は、カー・カダルンを後にしてから道がはかどり、し、五日でイスドラト川を渡ることができた。そこからしばらくは、フルダーが道案内で川沿いに進み、やがて北東にまがって山岳地帯のカントレブにはいった。渓谷地帯の国々とちがい、山岳地帯は、かたい岩石が多く、灰色に見えた。かつてはみごとな牧草地だったらしいところに、やぶがおい茂り、えんえんとつづく森は、びっしりと木々がならび、うっそうとからまりあっていた。
フルダーも、このあたりにはめったに足をふみ入れたことがないと、正直にいった。「領主どもが、まるで領土そっくりにむっつりしていてなあ。とびきり陽気な曲をひいても、せいぜいしぶい笑いを見せるだけよ。だが、古い言い伝えにまちがいがなければ、このあたりは、プリデインでも、ひじょうに豊かなところであったのだ。山岳地方の羊といったら――おどろくなかれ、羊毛が厚くて、ひじまでうずまるといわれていた。それが、このごろじゃ、悲しいことに、いささか毛がうすいようだ。」
「イーサンの話ですと、死の王アローンは、谷間の農民たちから、たくさんの秘密を盗んだそうです。」と、タランは受けてこたえた。「彼は、山岳地帯の羊飼いからも盗んだにちがいありません。」
フルダーはうなずいた。「あいつが、だいなしにするか盗むかしなかった宝といえば、妖精族のものだけだろう。そして、妖精族の宝にちょっかいを出すことだけは、いかなアローンでも二の足をふむであろうな。それほどの宝ではあるのだが」と、フルダーは言葉をついだ。「わしの王国がある北国と彼らの宝のどれかと交換しろといわれても、わしはいやだね。あそこでは、羊をそだててはおらんが、名高い吟遊詩人や戦士がそだっておる! 当然ながら、フラム家は玉座を保ちつづけてきた――そうさね、おどろくほど長年月だ。フラムのものの体には」と、詩人は広言するようにいった。「ドンの子孫の血が流れているのだ。ギディオン王子その人が、わしの血づきなのだよ。遠い――たしかに遠いつながりさ」詩人はいそいでつけたした。「だが、やはり血縁にはちがいない。」
「ガーギは、名高い羊も毛のふかふかの吟遊詩人も、うらやましいと思わない。」ガーギがなつかしそうにつぶやいた。「ガーギは、カー・ダルベンにいれば幸せ。ああ、すぐに帰れたら!」
「そのことだが、」と、フルダーがこたえた。「またあそこへもどるまでには、つらい旅をしなくちゃならんだろうと思うね。そのなぞを秘めた鏡をみつけるには、長い時間がかかるだろうことは、常識でもわかる。わしも行けるかぎりはおともする。」と、フルダーはタランにいった。「だが、早晩、わが王国へもどらねばならんだろうよ。わが民草はいつもわしの帰りをじりじりしながら待って……」
たて琴がはげしくふるえたかと思うと、一本の絃が音高く切れた。フルダーは、顔をあからめた。「えへん、このとおりさ。つまりな、彼らに会いたくてじりじりは、このわしの方というわけだ。じつを申すと、わしが居らぬときでも、彼らはじつにうまくやっていると、内心考えることがしばしばある。それでも、なお、フラムの者は義務に忠実である!」
一行は足をとめた。フルダーは、リーアンの背からすべりおりると、草の上にしゃがみこんで、切れた絃をつなぎにかかった。詩人は、絃をしめるときに使う大きなねじを上着からとり出し、忍耐づよく音の調節をはじめた。
ふいに、耳ざわりななき声がきこえた。タランはさっと空を見上げ、「カアだ!」と思わずさけんで、一行に向かってぐんぐんおりてくる鳥を指さした。ガーギが、心からうれしそうに大声でさけんで手をたたいたとき、カラスはタランの手首にとまった。
「やあ、とうとう、われわれをみつけ出したね。」タランは、またカラスといっしょになれてうれしくてたまらず大きな声でいった。「教えてくれ。」とタランはすぐにきいた。「エイロヌイはどうしている? さびしがっているかい?――その、わたしたちみんなに会えて。」
「王女!」カアは、羽根をばたばたさせてがあがあなきたてた。「エイロヌイ! タラン!」そしてくちばしをかたかたならし、タランの腕をのぼったりおりたりしてから、べらべらまくしたてはじめたので、タランには、言葉がみんなひとつにつながってしまったようにきこえた。ようやくわかったことは、むりやり王女らしい作法をならわさせられているエイロヌイの腹立ちが、すこしもしずまっていないこと、そして、ほんとうにタランに会えなくてさびしがっていることだけであった――それは二つとも、タランを元気づけ、金髪の王女へのあこがれをさらに燃えたたせる便りであった。
モーナの洞穴では、巨人グルーが、ダルベンの薬のおかげでもとの大きさにもどったことも、カアは伝えてくれた。
カア自身は大変ごきげんだった。なおも声をはり上げてしゃべりたてながら、黒光りするつばさをばたばたさせて、タランの手首からとび出し、みんなにあいさつした。リーアンの頭にまでとまって、いそがしそうに、大きな猫の黄色い毛をくちばしですいた。
「カアの目は探索の助けになりますよ。」タランは、たて琴を置いて近づいてきて、カアのつやつやした羽根をなでているフルダーにいった。「カアなら、わたしたちのだれよりも、この土地が上手にしらべられますから。」
「うむ。」フルダーもうなずいた。「やってくれるつもりがあって、おぬしのいうことをちゃんときかすことができたらの話だが。それができぬと、このろくでなしは自分の仕事はほうって、ありとあらゆる人間の仕事におせっかいをするよ。」
「ほんと、ほんと。」ガーギが、カラスに向かって、人さし指をふってみせて、フルダーの後をつづけた。「ご親切なご主人の命令をよくきくのだぞ! ばたばた、じろじろして、ご主人を助けるのですぞ! こそこそのぞきとうそはだめ!」
それにこたえて、カラスは、生意気にとがった黒い舌をつき出した。そして、しっぽをひょいと動かすと、たて琴までとんでいき、くちばしで弦をじゃんじゃんかきならしはじめた。吟遊詩人のやめろというさけび声をきくと、カアは、楽器の湾曲したわくからとびおり、弦をしめるねじをくわえこんで、草の上をひきずりはじめた。
「ずうずうしいことは、カササギそっくりだ!」フルダーがおこってさけぶと、カラスを追いかけはじめた。「その上、小ガラスのようにぬすっとだ!」
フルダーがあと半歩ほどまで近づくと、たちまちカアは、ねじをくわえたまま、すばしっこくぴょいととんで逃げた。楽しげにがあがあなきながら、カラスはいつもフルダーにつかまらない程度の間をあけて逃げていた。長いすねの詩人が、つまかえようとしてぐるぐる円をえがいて走りまわるその鼻先を、カラスがひょいひょい逃げる光景を見て、タランは思わず笑ってしまった。ガーギとタランが追跡に加わり、タランの指がカラスの尾羽根をつかみそうになったとたん、カアはさっと上にとんで、からかうようにすこしはばたいてとび、森にはいった。それから、カシの老大木のふしくれだった枝にとまり、きらきら光る黒い目で、下にかたまっているタランたちをじっと見おろした。
「おりてくるんだ。」タランは、できるだけきびしい声をつくって命令した。カラスのおどけたいたずらに、本気ではらをたてる気には、とてもなれなかったのだ。「行儀を教えておいたんですが、むだでしたね。その気になるまでもどしてよこしませんよ。」タランは、ため息をついた。
「これ、これ! そいつを落としてよこせ!」フルダー、両手をふってよびかけた。「落とせ、おい!」
この言葉をきくと、カアは頭をぴょこぴょこさせ、つばさをそびやかし、ねじを落とした――が、吟遊詩人のさしのばした手の中へではなく、木のうろの中へだった。
「落とした! 落とした!」カアはそうわめくと、枝の上で体を前後にゆさぶり、自分のいたずらをうれしげにわめきちらして、くすくす笑った。
フルダーは鼻をならした。「まったくムクドリそっくりに無作法なやつだ! やつのばかさわぎのおかげで、わしが骨を折らねばならんわい。」おどけカラスのあつまかしさに悪く血をぶつぶついいながら、吟遊詩人は木の幹にとりついて、体を持ち上げにかかった。半分ものぼらないうちに幹をつかんだ手から力がぬけ、詩人は値の間にどしんと落ちてしまった。
「フラムの者は身がきく!」フルダーは、いたそうに背中をなでながら息を切らしていった。「ええい、このわしにのぼれぬ木などあるものか――いやさ、この木のほかにはだ。」そして、ひたいの汗をぬぐって幹の高いところをにらんだ。
「ガーギのぼる、はい、はい!」と、ガーギがさけんでカシの木にとびついた。毛むくじゃらの手足全部を一度にうごかして、この生きものは、あっという間に木をのぼってしまった。フルダーが大声で声援を送るうちに、ガーギはほそいてを木のうろにつっこんだ。
「ねじここにある、ほんと、ほんと!」ガーギが大声で知らせた。「かしこいガーギ、みつけた!」だが、そこでぴたっと口をつぐんだ。タランは、ガーギが、びっくりして思案するように顔にしわを寄せるのを見た。ガーギは、フルダーに向かってねじを投げると、また木のうろにもどった。「しかし、これは、なんだ? ガーギ、手さぐりで、ほかに何をみつけたのか? 親切なご主人、」ガーギは、大声をあげた。「ここに、おかしなもの、かくしてあります!」
タランは、興奮したガーギが、わきの下にそのなにかをはさんでカシの木をすべりおりてくるのを見た。
「よくごらんください!」ガーギは、かけ寄ったタランと詩人に大きな声でいった。
カアのいたずらなど、たちまち忘れられてしまった。そして、カラスは、まったくけろりとしてタランの肩にとびおりてくると、首をのばし、ガーギのみつけたものを最初に見てやるぞといわんばかりに身をのり出した。
「宝ですか?」ガーギが、うわずった声でいった。「ああ、ひじょうに貴重な宝! ガーギがみつけた!」そして、はげしく地面をふみならした。「おあけくだされ、親切なご主人! あけて、どんな財宝がはいっているかおしらべくだされ!」
ガーギがタランの手に押しつけてよこしたのは、タランのたなごころに収まってしまうほどの小さいずんぐりした宝石箱だった。厚味のあるふたが、ちょうつがいでしっかりとつけてあり、鉄の帯でふちどりした箱で、かぎがかけてあった。
「ちかちか、きらきらの宝石? それとも、ちらちら、ぴかぴかの宝石?」ガーギが、箱を入念にひねくりまわしているタランに大声できいた。フルダーも、興味深そうにしげしげと見ていた。
「ふむ」と、詩人がいった。「これで、あのぬすっとガラスがひきおこしたごたごたにも報しゅうがあったことになるわけだな。だが、大きさからすると、たいしたことはなさそうだよ。」
その間、タランはかぎと取組んでいたが、どうしてもはずれようとしなかった。ふたも、いくらたたいてもこわれなかった。そこで、最後は、地面においてガーギに押えさせ、吟遊詩人とタランが剣の先でちょうつがいをこわすことになった。ところが、その箱はびっくりするほど頑丈だった。だが、力のかぎりこじるとようやくこわれ、大きなぎりりという音をたててふたがあいた。中にあったのは、やわらかい革のつつみだった。タランは、それをそっとひらいてみた。
「なんです? なんです?」ガーギが、片足でぴょんぴょんとびはねながら、きいきい声でいった。「光り輝く宝、ガーギにお見せくだされ!」
タランは、声をたてて笑い、首を横にふった。つつみには、金も宝石もなく、タランの小指ほどの、細い骨が一本あっただけだった。ガーギは、がっかりしてうめき声をあげた。
フルダーが、はなをならしていった。「毛もじゃの友は、ひじょうに小さなヘアピンだかひじょうに大きな楊子だかをみつけだしたらしいな。どちらにしても、あまり役に立ちそうにない。」
タランは、その奇妙なものをあきもせずにしらべていた。白銀色の骨は、からからにかわっていてもろく、さらしたように白くてみがきこんであった。動物のものか人間のものか、タランにはわかりかねた。「いったい、これになんの価値があるのだろう?」タランは眉を寄せ手つぶやいた。
「大いに価値があるさ。」と、フルダーがこたえた。「楊子が必要な向きにはな。だが、それ以上は」フルダーは、肩をすくめた。「おのぞみならとっておくし、いらなければすてるがよろしかろう。どっちでもおなじだと思うよ。箱も、もはや直しはきかんしな。」
「しかし、価値がないものなら」タランは、なおもよくその骨をしらべながらいった。「なぜ、これほど注意深くかぎをかけてあるのでしょう? このかくし方もずいぶん注意深い。」
「わしは長い経験で知っているが、人間は、持ちもののことになると、ほんとうに奇妙なものだよ。」と、フルダーがいった。「お気に入りの楊子が家宝なんてこともある――しかし、たしかに、おぬしのいおうとすることはわかる。フラムの者は頭のめぐりがすばやい! これをかくした者は、みつけられたくなかったのさ。おぬしに先にいわれてしまったが、これには、なにか深いわけがあるね。」
「ですが」と、タランがつづけていった。「木のうろなど、ものをかくすには、あまり安全な場所とは思えません。」
「ところが、どっこい」と、吟遊詩人はこたえた。「なにかをかくすのに、これ以上うまい方法はないんだ。家の中では、さしたる苦労もなくみつけられる。土中に埋めれば、モグラやアナグマのたぐいの心配がある。しかし、この木のようなところなら」フルダーは上を見上げて話をつづけた。「ガーギのほかは、はしごがなくてはよじのぼれないと思う。そして、この森を歩く人間がはしごを持っているなんてことはまずない。小鳥やリスたちが巣をその上につくれば、ますますよくかくされるだけだ。そうさ、それをあそこに隠した人間は、十分に考えた末、そして、苦労して……」フルダーは、いいかけた言葉をうっと押しころした。そして、「すてるんだ。」と小声でいった。「一キロはなれていたって、そいつの呪いのにおいはわかる。楊子だか、ヘアピンだか、その正体はわからんが、なにかうさんくさい。」彼は、ぶるっと身ぶるいした。「いつもいうように、余計な手だしをしちゃいかん。その点について、わしがどう思っているかは知っているね。呪いとおせっかい、この二つは相性がよくないんだ。」
タランはすぐに返事をしないで、しばらく、そのみがきのかかった骨片をじっと見ていた。そして、ようやく、「なんだかわからないけれど、わたしたちが所有してはいけないですね。しかし、よいにしろ悪いにしろ、魔法がかかったものなら、このままにしておいていいものでしょうか?」
「手ばなすんだ!」フルダーは、大きな声でいった。「よい魔法なら、なんのさわりもないだろうし、悪い魔法だったら、どんないやなことがおこるかわかったものじゃない。とにかく、もとにもどしておきたまえ。」
タランはしぶしぶうなずいた。骨を包みなおすと、宝石箱にしまい、こわしたふたをとにかくのせて、ガーギに、うろへもどしてきてくれとたのんだ。ガーギはねフルダーの魔法の話を細大もらさずきいていたので、箱にふれることすらいやがった。そして、仲間二人にさんざんたのまれ、強要されて、ようやく承知した。いそいで木にのぼると、のぼったよりもっとはやくおりてきた。
「やっかいばらいさ。」フルダーはつぶやくようにいうと、できるだけはやく森を出ようとした。タランとガーギも後につづいたが、ガーギは、カシの木がすっかり見えなくなるまで、こわそうに後ろをふりむいてばかりいた。
三人は、馬のところへもどって、すぐに乗ろうとした。フルダーは、たて琴をひろって、あたりを見まわし、大声でいった。「おや、リーアンはどこへ行った? まさか、うろつきに出かけたわけじゃないだろうな。」
タランはぎょっとしたが、たちまち、ほっと安心した。すぐに、巨大な猫が、下生えの中からおどり出て、フルダーめがけて走ってくるのが見えたのだ。フルダーは手をうちならし、歯の間からひゅうと高い音を出してよんだ。
「やあ! やあ! そこにいたか。」吟遊詩人は、リーアンにじゃれつかれて、うれしそうににこにこしながら大きな声でいった。「え、おまえの方はなにを追いかけていたんだね?」
「どうやら、なにかつかまえてきたようですよ――あれっ、やっぱりそうだ――カエルだ!」タランは、リーアンの口から、水かきのある二本の長い足がたれさがっているのを見て、思わずさけんだ。
「はい、はい。」と、ガーギが口をはさんだ。「カエルです! ぱたりぱたり、ぴょんぴょんのカエルっ子!」
「とても信じられん。」と、吟遊詩人はいった。「だって、沼沢地も水たまりも、ごくわずかな水もないではないか。」
リーアンが、とくいそうにのどをならしながら、くわえていたお荷物をフルダーの足下に落とした。それは、ほんとうにカエル、それも、タランが見たこともない大ガエルだった。詩人は、リーアンの頭をかるくたたき、かわいくてたまらないというように耳をなでてやってから、ひざまずくと、ちょっと気持ちわるそうに、動かないカエルをつまみ上げた。
「いや、どうも、ありがとうよ。」フルダーは、いっぱいにのばした手の先にカエルをぶらさげてみせた。「そして、すてきだよ。お礼の言葉もない。リーアンは、よくこうしてくれるのさ。」とタランにいった。「いや、いや、いつも死んだカエルって意味じゃない――ときおりはモグラとかなんとか、いろいろさ。わしが喜ぶだろうと思ってのちょっとした贈りものなんだ。愛情のしるしさ。わしは、いつも大仰に喜ぶことにしてる。やはり、だいじなのは心だからね。」
タランは、好奇心にかられて、詩人からカエルを受けとった。リーアンは、カエルを全然きずつけずにそっとはこんできたことがわかった。リーアンのためではなく、カエルは、水不足でまいっていた。みどりと黄色の斑点がついた皮膚は、あわれに乾いていた。足はだらりとたれていた。水かきのある指は、枯れ葉のように、しぼんでまるまりかけていた。とびでタラン大きな目はかたくつぶっていた。かわいそうに思いながら、タランがやぶの中にすてようとしたとき、心臓の鼓動が、かすかに手のひらに感じられた。
「フルダー、このかわいそうなやつ、生きてますよ。」と、タランはいった。「まだ助けてやれるかもしれません。」
吟遊詩人は首を横にふった。「わしはだめだと思うね。すっかりがたがきておる。ひどい話だ。ゆかいなやつらしいがなあ。」
「あわれなカエルっ子に水をのませる。」と、ガーギが申し出た。「水、ぱしゃぱしゃかけてやる。」
カエルが、タランの手の上で、苦しげにぴくりと最後のあがきをした。片目がぴくぴくしたかと思うと、大きな口がぱくりとあき、のどがかすかに脈をうつようにふるえた。「アラド!」カエルが、しわがれ声をあげた。
「やあ、まだ生きてるぞ!」フルダーが、思わず大声をあげた。「しかし、ひどくぐあいがわるいにちがいな。こんなカエルの声はきいたことがないからな。」
「ウルッギー!」と、カエルはしわがれ声でいった。「オード!」
カエルにさらに声を出そうとがんばっていたが、耳ざわりでほとんどききとれないかすれた音にしかならなかった。
「スケテ! ステケ!」
「こいつ、へんなやつだ。」と、フルダーがいった。タランがさっぱりわからないといった顔つきで、カエルを耳もとへもっていくのを見た。カエルは必死に目をあけ、世にもあわれな、どうかたのむといった目つきでタランをじっと見た。
「カエルは、ケロケロとなく。」と、フルダーはさらにいった。「ときには、ガア、ガアという。ところが、こいつは――カエルが話せるなんてことはなかろうが、わしには、たしか、助けて! ときこえたな。」
タランは手ぶりで、しずかにしろと詩人にあいずした。カエルののどの奥から、また音が出てきた。かすかなささやきだったが、はっきりしていてまちがえようはなかった。タランは、口をあんぐりあけてしまった。信じられないといったように目を大きく見ひらいて、フルダーの顔を見た。口が思うようにきけず、タランは、カエルを持った手をぐっとつき出し、あえぐようにいった。「これは、ドーリです!」
7 危機にある友
「なに、ドーリ!」詩人は、びっくり仰天してオウム返しにさけび、思わず一歩さがった。目が、カエルのようにとび出しそうになり、両手でぱっと頭をおさえた。「そんなばかな! 妖精族のドーリなんて、そんな! ドーリのやつであるもんか!」
ガーギは、皮の水袋を持ってきたところだったが、フルダーの言葉をきくと、恐ろしさのあまり、我を忘れてさけび声をあげはじめた。タランは、ふるえているガーギから袋をとって栓をはずすと、大いそぎでカエルの体をぬらしはじめた。
「ああ、恐ろしい! ああ、ぞっとする!」と、ガーギがなげき悲しんだ。「不運なドーリ! 不幸な小人の友! でも、どうやってこのカエルっ子、ドーリをがぶりしたのか?」
水をじゃぶじゃぶかけられて、カエルは元気をとりもどしはじめ、もう、長い後足を力強くけりはじめた。
「皮膚! 皮膚!」と、ドーリの声がきこえてきた。「皮膚に水をかけてくれ! のどに流しこむな、このとんま! おぬし、おれをおぼれ死にさせたいのか?」
「こりゃ、おどろいた。」と、フルダーがつぶやいた。「わしは、はじめ、このカエルがたまたまドーリとおなじ名まえなのだと思った。しかし、こういう短気さは、どこにいてもすぐわかる。」
「ドーリ!」タランが、思わずさけんだ。「ほんとうに、あなた、ドーリですね?」
「もちろんだ、この長すねの豆のとってめ!」ドーリの声が、かみつくようにさけんだ。「外側がカエルそっくりに見えるってだけで、中味まで変わるもんか!」
タランは、こんな姿がドーリかと思うと、頭が変になりそうだった。ガーギは、ものもいえずに口をあんぐりあけ、目を口ほどにまんまるに見はっていた。フルダーも、おなじように呆然としていたが、どうやらやっと最初のおどろきからさめると、タランがカエルをおろした草の上に四つんばいになった。「おぬし、おかしな旅のしかたをえらんだものだな。」フルダーはいった。「姿を消すことにあきてしまったのかね? あれはやっかいなものだろうってことはわかる。しかし――カエルというのは? なかかなりっぱなカエルになってはおる。そいつは、見たとたん気づいた。」
カエルは腹立ちのあまり、ぎょろりと上目づかいににらんで、みどりのまだらのある体を、破裂するかと思うほどふくらませた。「えらんだ、だと? おぬし、おれが好きこのんでこんな姿になったと思っているのか? このばかめ、魔法にかけられたんだ。それがわからんか?」
タランの心臓は、一瞬とまった。「だれが、あなたに魔法をかけたんです?」タランは、古い友にふりかかった不気味な災難に胆をつぶしてさけぶようにいった。「オルデュですか? この前われわれをおどしましたね。あなたも、やはり、モルヴァへ旅したのですか?」
「ばか! こんにゃく頭!」と、ドーリがいいかえした。「オルデュにちょっかいを出すほど無分別じゃないぞ、おれは!」
「じゃ、あなたをこんな目にあわせたのは、だれですか?」タランは、思わずお大声でいった。「助けるには、どうしたらいいんです? ダルベンなら、こういう魔法を破る力を持っています。元気を出しなさい! ダルベンのところへつれていってあげます。」
「時間がない!」と、ドーリはこたえた。「ダルベンがこの魔法を破れるかどうか、わしにはわからん。妖精族のエィディレグ王にも破れるかどうかわからんのだ。しかし、今は、そんなことはどうでもいい。
「おれを助けたいと思うなら」とドーリはつづけていった。「穴を掘って水をすこしいれてくれ。おれは骨みたいにかわききってる。これが、今のおれにとっちゃいちばんひどいことさ――その、つまり、カエルにとってはだ。そいつは、すぐに思い知らされたよ。」ドーリは、フルダーに向かって目くばせしてみせた。「おぬしのあのでかい猫がみつけてくれなかったら、おれは切株みたいに死んでいたろうな。おぬし、あんなでかぶつを、どこで手に入れた?」
「話せば長くなるが。」と、吟遊詩人が話しだした。
「じゃ、やめろ。」ドーリが、ぴしゃりといった。「おぬしらが、場所もあろうにこに来ていたことについては、もっとひまなときに説明してくれ。」ドーリは、タランとフルダーが剣で掘って水筒の水をいれた泥水の中におさまった。「あーあ――ああ、気分がよくなった。おかげで命びろいをしたよ。ああ、やれやれ――いい気持だ。ありがとう、いや、どうもありがとう。」
「ドーリ、あなたを、こんな気のどくな有様でほうっておくわけにはいきません。」と、タランはさらにいった。「だれが、こんな邪悪な魔法をあなたにかけたのかいってください。その男をみつけだして、魔法を解かせます。」
「必要とあれば剣を使ってでも!」と、フルダーがさけんだ。しかし、それだけでやめて、あらためて感心しきったようにドーリをじっとながめた。「おい、おぬし、カエルになるってことは、正直いってどんな感じかね? しばしば頭をひねって考えたことはあるんだが。」
「しめっぽい! 冷たくて、じとじとしとる! 姿を消すことも気持のわるいことだったが、こいつは、その百倍もひどい。まるで――ちえっ、ばかな質問をして人の気をそらせるんじゃない! そんなことはどうでもいいんだ。おれはなんとかやっていく。もっと重大な問題がおきているんだ。
「そうさ、おぬしたちに助けてもらいたい。」ドーリは、ぐいぐい話をすすめた。「助けてくれるとしたら、おぬしたちだけよ。奇妙なことがおこっていて――」
「どうもそのようだな。」と、吟遊詩人がいった。「どう控え目にいっても。」
「奇妙なことなんだ。」と、ドーリがまた話しだした。「奇妙で人さわがせなことなんだ。最初、それほど前のことではないが、だれかが妖精族の宝庫を略奪したという知らせが、黒い湖の底の王国にいるエィディレグ王までとどいた。押し入ったというんだ! そして、もっとも貴重な宝石を盗んで逃げた。こんなことは、プリデインはじまって以来、はじめてといっていいことだ。」
フルダーが、おどろいて、ひゅうと口笛をならした。「あのエィディレグのことだ。かなりにがりきっておろうなあ。」
「宝石をとられたからじゃない。」と、ドーリがそれにこたえた。「宝石なら十分すぎるほどある。王がにがりきったのは、まず第一に、宝庫をみつけられる者がいること。第二は、大胆にも妖精族の宝に手を出したことだ。おぬしら人間でも、たいていのやつはもうすこし分別がある。」
「アローンか、あるいは彼の手下のだれかでしょうか?」と、タランがたずねた。
「わしは、そうとは思わんよ。」と、フルダーが口をはさんだ。「これは、きょういったばかりのことだが、アヌーブンの王でも、妖精族に対しては、もっと用心深い。」
「それだけは、おぬしのいうとおりだ。」と、ドーリがこたえた。「いや、アローンじゃない。それはたしかだ。しかし、山岳地方のカントレブにいる妖精族の見張りのひとりから、一度報告を受けただけで、それも不完全なものだった。ここの番小屋の番人からは、なんのたよりもない――それからして奇妙なことなんだ。
「エィディレグは、使者を一人送って一帯をしらべてまわり、事件の根源をつかもうとした。だが、もどってこなかった。なんのたよりもなかった。エィディレグはもうひとり送り出した。が、同じことがおこった。音沙汰なし。まったくのなしのつぶてだ。
「それで、つぎにだれが選ばれたか、もうわかるだろう。そうさ、ドーリのやつさ。いやなことを片づけねばならんとき、不愉快なことがあるときはな。」
タランは、今まで、カエルが、これほど腹立たしげな、人をこきつかいやがってといった表情を顔にあわすことができるなど、思ったことがなかった。
ドーリは、カエルとしてはせいいっぱいの鼻のならし方をしていった。「そのときは、もちろん、ドーリのやつを送り出せ、さ。」
「しかし、あなたは犯人をみつけたのですね?」と、タランはたずねた。
「むろん。」と、ドーリはいいかえすようにいった。「しかし、結局失敗した。この姿を見ろ! えりにえってこんな時に、えりにえっていちばん役立たずのものになりはてている! ちくしょう、戦斧さえあったらなあ!」
「妖精族は危険にさらされている。」ドーリはいそいで話をつづけた。「恐ろしい危険にだ。そうとも、わしは、だれが宝庫をみつけて宝を盗んだかをつきとめた。そいつはわしに魔法をかけたのと同じ人間、モルダのやつだ!」
「モルダ?」タランは、眉をしかめてオウム返しにいった。「モルダとはだれです? いったいどうしてそんなことができたのです? なぜエィディレグの激怒を買うことを敢えてしたのです?」
「なぜ? なぜ? なぜ?」ドーリは、かっとなってとび出た目でにらみ、また体をふくらましはじめた。「わからないのか? モルダだ、あの腹黒い悪党の魔法使いだ! うーん、あいつときたらへびよりも抜けめがない! わからんか? やつは、妖精族に魔法をかける方法を発見したんだぞ! 今までおれたちに魔法がかけられる魔法使いなど、ひとりもいなかった。前代未聞だ! 信じられんことなんだ。
「そして、やつがおれたちを生きものに――魚にでもカエルにでもなんにでも変える力を得たとすれば、おれたちはやつのいうがままよ。その気になれば即座におれたちを殺すこともできる。番小屋の番人や、あとかたもなく姿を消したふたりの使者の身におこったことは、それにちがいない。だれの身にもそれがふりかかるかもしれん。エィディレグその人にもだ! 妖精族はひとりのこらず、モルダから身を守れない。妖精の国にふりかかった最もおそるべき脅威なんだ。」
ドーリは、一気にまくしたてて疲れきり、ぐったりしてしまった。タランたちは、恐ろしそうに顔を見合わせた。「やつのたくらみが何であるかは、さぐりだせなかった。」ドーリがようやくまた口をひらいた。「そうさ、やつのかくれがまでは、しごくかんたんにさぐれたんだ。やつは、ここからあまり遠くない囲い地のようなところに住んでいる。いうまでもなく、おれは姿をかくしていった。ところが、そのために耳がものすごくぶんぶん鳴ってな。二匹のクマンバチの巣よりもひどかった! おれは暗闇だったので、姿をあらわしても、一瞬ならよかろうと思った。恐ろしいぶんぶんからのがれるためだ。そして気がついてみたら、もう今おぬしたちが見ているざまになっていた。
「モルダは、すぐにその場でおれをつぶすこともできただろう。それをしないで、おれのあわれな有様をからかいおった。無力なカエルを見るのが楽しかったのだ。それから、岩の間に投げすてた。せめてもの情けに即座に殺すよりも、わしがじりじり苦しむ方がやつの好みにかなったのさ。やつは、このおれが、この乾いた山中で、じりじり弱っていってついに死んでしまうと確信した。ひょっとして死ななくても――何のかわりもあろうはずがないだろう? ただのカエルが魔法使いに勝てるのぞみがいったいあるだろうか? おれは、水をみつけようとして、はってのがれた。はいすすんだが、ついに進めなくなってしまった。そのとき、おぬしの猫がみつけてくれたのよ。みつけてくれなかったら、まちがいなく、おれは終りだったよ。
「一つだけ、モルダは忘れた。」と、ドーリはつけ加えた。「小さなことを一つだけ見逃した。おれがまだ口をきくことかできるってことさ。あのとき、おれは自分でもそれを知らなかった。カエルに変えられたショックで、しばらくは、まったく口がきけなかったからな。」
「いや、おどろいた。」と、フルダーがつぶやいた。「人間がカエルのようながらがら声になるとはきいていたが――や、こりゃ失礼、失礼。」フルダーは、ドーリがにらみつけたのを見て、あわてていいわけした。「おぬしの感情を逆なでしようなんてつもりじゃなかったんだ。」
「ドーリ、わたしたちがしなくてはならないことをいってください。」タランは、小人の話に心から恐怖を感じて、思わずさけぶようにいった。血がこおるように思ったのは、ただドーリの災難のためばかりではなかった。タランには、全妖精族を待ちうけている運命がはっきりとわかった。「わたしたちを、モルダのところまで案内してください。モルダをとりこにできるかどうかやってみます。必要なら殺してもいい。」
「そのとおり!」フルダーが、剣を抜きながらいきおいよくさけんだ。「わしは、わが友をカエルになんか変えさせておかんぞ!」
「はい、はい!」と、ガーギがさけぶようにいった。「カエルはカエル。でも、友だちは友だち!」
「モルダをおそう?」ドーリがこたえた。「おぬしら、頭がおかしくなったか? 結局おれとおなじひどい目にあうだけだぞ。いやいや、そんな危険をおかしちゃいけない。エィディレグには警報を送らねばならんが、その前に、おれは義務を果たさなくちゃならん。それは、モルダの魔力についてさらにくわしくしらべ、それをどのように使うつもりか、たしかめることだ。どんなものに立ち向かわねばならぬかをもっとよく知っていなかったら、妖精族がやつに対抗できるのぞみはない。おれを、モルダのとりでまでもどしてくれ。なんとかして、やつの企ての核心をつかんでみせる。それがすんだら、番小屋へつれていってくれ。そうすれば、エィディレグに報告し、警報をひろく伝えられる。」
ドーリの体がだしぬけにけいれんをおこした。一瞬、息がつまりそうに見えた。しかし、ドーリは体中をふるわせてくしゃみをすると、水たまりからとび出しそうになった。「くそっ、この水気!」ドーリはわなわなしていった。「くそっ、あの腹黒いモルダ! カエルの欠点ばかりよこしおって、長所は一つもよこしおらん!」ドーリは、はげしくせきをはじめた。「ちくしょうめ! どんどん声が出なくなってきおったぞ! いぞげ! いぞげ! おれをつまみあげでぐれ! 道案内する。ぐずぐず、じでられん!」
一行は、いそいで馬と猫に乗った。タランは、ドーリを前鞍にしがみつかせて、彼のいうとおりに馬をとばした。しかし、森は深くなって進む足はおそくなり、からみあったやぶのために、しばしば馬をおりて歩かなくてはならなかった。ドーリはたいした距離ではないとうけあっていたが、いつもの確かな方向感覚は乱れてしまっていた。ときどき、小人は、どの道を進んだらよいかあやふやになってしまい、一行は二度とも馬をとめてひきかえした。
「びなんしないでぐれ!」と、ドーリがかみつくような調子でいった。「おれは、この土地を腹ではいずってきたんだ。鞍の上からだと、ぢがって見えるんだ。」
さらにまずいことに、ドーリがさむさにぶるぶるふるえたり、ときにはけいれん的にふるえたりしはじめた。目がかすみ、鼻水がたれていた。カエルとしてみても、まったくみじめな有様だった。ひっきりなしに、くしゃみとせきの発作がおそい、声はひどくしわがれてしまって、弱々しいかすれ声でささやくのがやっとのことになった。そのため、気分はますますわるくなり、タランに与える指示もまるではっきりしなくなった。
今までのところ、カアは影も見せていなかった。一行がいそいでドーリの命にしたがうことになったとき、カラスは、時もあろうに、腹立たしいほどに反抗的な態度をとった。タランがもどってこいとたのんだのをがんこに無視して、ぱたぱたと森の中へ逃げこんでしまった。とうとう、タランは、その気になればまいもどってくるにきまっていると思って後に残してきた。しかし、一行が苦労しながら森を奥へ奥へと進むにつれて、タランは生意気な鳥のことがだんだん心配になってきた。だから、馬をとめてドーリを地面におろそうとしたとき――これは、小人が地面におりた方が方向がよく思い出せると主張したためだった――ようやくあらわれたカラスを見ても、タランはほっとしただけで、しかることができなかった。いたずらものがいつものいたずらをしてきたことが、タランにはわかった。くちばしに、何かぴかぴかするものをくわえていたのだ。
とくいそうにがあがあないて、カアは、くわえているものを、おどろいているタランの手に落とした。それは、あのみがいた骨片だった。
「おまえ、いったい何をしてきた?」タランは狼狽し、うぬぼれきって前後に体をゆさぶりながら頭をぴょこぴょこさせているカアに向かってさけんだ。
「このいたずらカラス!」フルダーがかっとしてどなった。「こいつ、もどってあの箱からとり出してきたんだ。あの魔法の楊子をすっかりやっかいばらいしたと思っていたのに、また手に入れてしまったわい。ひねくれた冗談だ。このカササギ野郎め!」フルダーはかっとして、マントでカラスをうとうとしたが、カラスは敏しょうによけた。「フラムの者はたわむれ好きである。しかし、こんなことは冗談とは思えぬ。すてたまえ。」フルダーはタランをせきたてた。「やぶに投げこんでしまいたまえ。」
「ほんとうに、これに魔力があるなら、すてる気になれません。」タランは、吟遊詩人とおなじくらい不安を感じていたから、カアがあの箱をあのままにしておいてくれたらよかったのにと心から思いながら、そんな返事をした。はっきりと筋道だててはいえないが、ある奇妙な考えが頭の中ではたらきだしていたのだ。タランはひざをつくと、骨片をドーリにさしだして、その骨片を最初手に入れたいきさつを手短に説明してから「いったいこれはなんでしょう?」とたずねた。「モルダ自身がこれをかくしたなんてことがあるでしょうか?」
「わがらん。」ドーリが、しわがれ声でいった。「こんなふうなものは、今まで見だごどはない。しかし、まぢがいなく、魔力を持っとる。どにがぐ、持っていろ。」
「持っていろ?」吟遊詩人がおどろいていった。「こんないやなかものからは、不運しか受けられんぞ。埋めてしまえ!」
フルダーの激しい口調に気持はうごいたが、ドーリの忠告に従わないのもいやで、タランはどうしたらよいか迷ってしまった。だが、とうとう、つよい不安を感じながらも、骨片を上着のかくしにしまいこんだ。
フルダーはうめいた。「おせっかいだ! 厄介ごとを、しょいこむだけだぞ。この言葉をおぼえておけよ。フラムの者は恐れを知らぬ。しかし、だれかのかくしの中にえたいの知れぬ魔法がひそんでいる場合はべつだよ。」
一行は道をいそいだが、すぐにタランは、自分の判断はまちがっていた、フルダーの不幸な予言には十分な根拠があったと信じるようになっていた。ドーリのぐあいが悪化したのだ。一度に一言か二言をあえぎながらいうのがやっとになってしまっていた。カエルの体は苦しいマラリヤにかかったようにぶるぶるふるえていた。はうというひどく疲れる進み方のために病気になったにちがいないと、タランは思った。一行は、皮膚がかわききってしまわいなように、規則的にドーリに水をかけてやっていた。その処置でたしかにドーリは死なないでいたが、みじめな状態をさらにひどくしてもいた。水をかけられて、ドーリはくしゃみをし、息をつまらせ、ぷっぷっと水をはき出した。そして、まもなく、ぐったりと腹ばってしまった。すっかり弱って文句をいう力もなくなっていた。
日暮れがはやく、一行は小さな谷間で馬をとめた。ここから先はこの上なく用心して旅をしなくてはいけないことを、ドーリが前もって知らせておいてくれたからだった。タランは、しめらせたマントのひだの中に、そっとカエルを入れてから、フルダーをわきへつれていき、いそいで話しあった。
「ドーリには、この仕事をなしとげる体力がありません。」と、タランはひくい声でいった。「このまま進ませる気には、とてもなれませんよ。」
フルダーはうなずいた。「たとえ、彼がのぞんだとしても、できるかどうかあやしいな。」吟遊詩人の顔も、タランの顔とおなじように心配でひきつっていた。
タランはそれっきりだまりこんだ。しなくてはならないことを、はっきりしていた。だが、タランらしくもなく、それをはっきりみとめることをためらっていた。そして、べつのもっとよい計画を考えだそうとしたが、結局はいつもおなじこたえしか出なかった。はっきりした方針をとる決心がつかないのは、親友を救うのがいやなためではなかった。それだけのためなら、喜んで思ったとおりにしただろう。命をおしんでいるのでもなかった。ドーリとおなじ運命におちいることが恐ろしかったのだ。姿を変えられては、自分の探索もできなくなり、無力なあわれな生きものとして、死ぬまでとりこになってしまう。
だが、タランは、ドーリのかたわらにひざをついていった。「あなたは、ここにいてください。フルダーとガーギが面倒をみてくれます。モルダはどこにいますか?」
8 とげのかべ
それをきくと、ドーリは弱々しく足でけってみせて、よくききとれない声でぶつぶつ反対したが、タランのくわだてに同意する以外どうしようもなかった。タランは、カアを肩にとまらせて、森を進んだ。ガーギも、おともするといいはって、小走りについてきた。
しばらくすると、タランは速度を落とし、やがて立ちどまって、もうびっしりといばらの茂るまわりの森を見まわした。木々の間にいばらのやぶが高く茂り、からまりあって通り抜けられない防壁をつくっていた。タランは、目当てのものがみつかったことに気づいた。丈高いやぶはひとりでに茂ったのもではなく、たくみによりあわせた部厚い防壁なのだった。この生きた壁は、他の背の倍ほどもあり、ギセントの爪より鋭いとげがびっしり突き立っていた。タランは剣を抜くと、やぶを切りひらこうとしてみた。やぶは剣や槍先よりかたく、タランの剣は刃がこぼれ、腕の力はなえてしまった。努力の結果やっとあいた小さな穴に、タランは片目をおしつけてみた。目にうつったのは、生い茂る草と、ゴボウの葉にかこまれた黒い石の塚と、黒っぽい芝地だけだった。塚は、はじめ野獣の巣のように見えたが、よく見ると、ひくくてつぶれたような壁の上に土の屋根をのせてある。今にもくずれそうなぶかっこうな住いだとわかった。ものが動く気配も、人がいる様子もまったくなかった。タランは、自分たちの来かたがおそすぎて、魔法使いがとりでをすてたのかと思った。そう思っても、タランの不安は増すばかりだった。
「ドーリはどこかから進入したんだ。」タランはそうつぶやいて、頭をぶるっとふった。「しかし、彼はわたしより腕前がすぐれている。もっとたやすい通路をさぐりあてにちがいない。のりこえようとすれば、みつかる危険がある。」
「さもなければ、いばらにつかまって、ぐいぐい、ずぶずぶ、さされる!」と、ガーギがこたえた。「ああ、大胆なガーギ、なかに何がひそんでいるかわからないのに、へいをのりこえたくない。」
タランは、カラスを肩から手にうつし、「いばらのどこかにさけめか、あるいはトンネルがある。それをみつけてくれ。」と、カアによくたのんだ。「いいか、みつけてくれよ。」
「それも、大いそぎ。」と、ガーギが口をはさんだ。「冗談なし、いたずらなし!」
フクロウのように音をたてずに、カラスはまいあがり、防壁の上を旋回していたが、ふっと姿を消した。タランとガーギは、陰にうずくまって待った。しばらくして、太陽が木々より低く沈み、あたりがうすぐらくなっても、カアからはなんのしらせもなかったので、タランはカアの身を心配しはじめた。カアはいたずら者ではあったが、使命の重大さは理解していた。帰りがおそいのは、ただの気まぐれではなかった。
とうとう、タランは、思いきって待つのをやめることにした。大またに防壁のところまでいくと、用心しながらよじのぼりはじめた。いばらはへびのようにくねってタランの顔や手を意地わるくひっかいた。足をかけようとすれば、かならず、まるで心でもあるかのようによけてしまうのだった。すぐ下で、ガーギが、鋭いさげ先に毛におおわれた頭を突きさされてあえぐ声がきこえた。タランが息をつぐために動きをとめていると、ガーギがとなりまでのぼってきた。
突然、やぶの中で、ぴしっ、がさがさっ、と音がしたかと思うと、やぶをつかんだタランのうでに輪なわがまきついた。タランはあっとさけんだが、その瞬間、細くかたくあんだつなが、ガーギの体にひゅっと巻きつき、ガーギがおびえた表情を顔にうかべるのを見た。たわんでいた一本の枝がぱっとはねて、輪なわをひっぱった。タランは、自分がいばらからもぎとられ、丈夫なつなの先にくっついたまま、空中にはね上げられて、いばらのへいをとびこえるのを感じた。今になってタランは、ドーリがあえぎながらはき出したことばを理解した。わなだ。タランはどさりと落ち、それっきりなにもわからなくなった。
骨ばった手が、タランののど首をつかんだ。石にささった短剣を抜くような、ざらざらした声がきこえてきた。「おまえはだれだ?」声はそういって、また「おまえはだれだ?」
タランはもがいてのどの手をはずそうと、そこで後ろ手にしばられていることに気づいた。ガーギがあわれっぽく鼻をならした。タランの頭は混乱していた。ロウのとけたロウソクの灯が射るように目にはいってきた。目がはっきりしたとたん、粘土がかわいたような色のやつれた顔と、突き出た眉毛の下で井戸の底の水晶のようにぎらぎらと冷たくひかる目が見えた。頭には毛がなく、土気色のくちびるは、ぬい目がはっきりついたきずあとのようにしわがよっていた。
「どうやってここに来た?」と、モルダは尋問した。「わしの、何をさぐろうというのだ?」
へやは、うすぐらいので、天井が低いことと、暖炉には火がなく灰だらけであることぐらいしかわからなかった。タラン自身は低い壁の角に背をもたせてすわらされていた。ガーギは、足下の敷石にころがされている。部厚いカシ板のテーブルの上にヤナギあみのかごがあり、その中にカアが入れられているのを見たとき、タランは思わずカラスに向かって大きな声をあげてしまった。
「なんと」魔法使いが、かみつくような声でいった。「このカラスは、おまえのものか? こいつも、おまえ同様、わしのわなにかかったのだ。何ものも、わしに気づかれずにここにはいりこむことはできない。そこまでは、おまえもすでにわかっている。こんどは、わしが、おまえのことをもっとよく知る番だな。」
「いかにも、あの鳥はわたしのものです。」タランは、さしつかえないかぎりほんとうのことを思いきっていうほか助かるのぞみはないと判断して、ずばりといった。「あれは、やぶをとびこえたまま、もどってきませんでした。そこで、何か災難に会ったのかと心配して、さがしにやってきたというわけです。わたしたちは、フラウガダルン山脈への旅をしているのです。それを、あなたが邪魔だてするいわれはありますまい。」
「自分で自分の邪魔だてをしたのだ。」と、モルダはこたえた。「ハエほどの才覚も持たぬおろかな連中よ。フラウガダルン山脈への旅、といったな? そうかもしれぬ。そうでないかもしれぬ。人間というものは、まことに貪欲で嫉妬心がつよいが、真心はほとんど持っておらん。おまえの顔が、口のかわりにいっておるわい。わたしはうそつきだとな。おまえ、なにをかくそうとしているのだ? いや、どうでもいい。おまえたちが命とよぶ、この世でのわずかな日々がむだにおわるのだ。ここでな。おまえは、ここから出られない。だが――こうしてつかまえておくからには、わしに仕えさせてもよい。それは、よく考えなくてはならぬ。おまえたちの命も、ほんとうにすこしぐらいは役に立つかもしれん。――おまえたち自身にではなくても、このわしにな。」
タランは、身の毛がよだつ恐怖につつまれたが、それは魔法使いの言葉のためばかりではなかった。目をそらすことができないままじっと見ているうちに、モルダがまばたきをしないことに、タランは気づいた。ロウソクの焔でものを見ているのに、しわになったまぶたはぜったいにとじることがなかった。モルダの冷たい視線は片時もゆらめかなかった。
魔法使いが背をのばすと、あかじみてへりのすりきれた服が、やせおとろえて見える体に沿ってのびた。タランはあっと息をのんだ。モルダのしなびた首に、半月をつけた銀ぐさりの首かざりがかけてあったのだ。このかざりを身につけた人間を、タランはほかにひとりしか知らなかった。アンハラドのむすめ、エイロヌイ王女だ。だが、エイロヌイのものとちがい、モルダの三日月には、ふしぎな彫り方をした宝石がついていた。水のように澄みきっていて、その切子面は、中から出る光で輝いているように見えた。
「リール王家のしるし!」タランが思わずさけんだ。
モルダは、ぎょっとして後ずさりした。クモの足のように細長い指で宝石をぎゅっとにぎりしめて、はきだすようにいった。「ばかめ、おまえは、これをわしから奪おうと考えたのか? おまえがここへ送られてきたのは、そのためか? よし、よし。」モルダは、そこでつぶやき声に変え、「そうにちがいないて。」まぶたがないように見える目をタランに据えたモルダは、血の気のないくちびるをかすかにひくひくさせた。「手おくれじゃわい。アンハラド王女は、とうの昔死んだ。そして、秘密はすべてわしのものとなったのじゃ。」
タランは、その名をきいてあっけにとられたように、目を丸くしてモルダの顔を見た。「レガトのむすめ、アンハラド?」タランはささやくような声でいった。「エイロヌイは、母親の運命をすこしも知らずに成人した。しかし、あんただったのだ――あんたの手で」タランは思わずさけんだ。「あんたの手で、彼女は死を迎えたんだ!」
モルダは、不吉な夢を見ている人間のような顔つきで、しばらく口をきかなかった。口をひらいたとき、その声は憎悪がこもって低かった。「おまえたち弱い生きものの生死など、わしが気にかけると思うのか? わしは、人類を十分に知って、そのほんとうの姿がわかっている。野獣より劣っていて、なにもかわらず才覚がない。自分だけのつまらぬ心配事にかかずらっている。高慢と無意味な努力に心を奪われている。うそをつき、だまし、うらぎりあっている。たしかに、わしは人間のひとりだ。人間だ!」モルダはその言葉をばかばかしいというように、はきだすようにいった。「しかし、わしは、ずっと前から、わしの運命がほかの人間とはちがうことを知っていた。そこで、ずっと前からけんかや嫉妬、ちっぽけな損得の暮らしから無縁に生きてきた。」
やつれくぼんだ魔法使いの目がぎらぎらとひかった。「わしは、劣ったものの仲間になって、いっしょに暮らしたくなかった。人間どもと同じように死をむかえたくはなかった。わしは、ひとりで魔法をまなんだ。いにしえのいい伝えから、妖精族が彼らの秘密の宝庫に、ある宝石をかくしていることを知った。それを手に入れた者は、人間のカゲロウに似た束の間の生より、はるかに長い生命を得られるという話だった。その宝庫をみつけたものはひとりもなく、あえてさがそうとしたものもほとんどないということであった。だが、わしには、さがし出す手段が知れるだろうことがわかっていた。
「自らリールのむすめアンハラドと名のっていたあの女のことだが」と、魔法使いはつづけた。「あの女は、ある冬の夜のこと、女の赤ん坊が盗まれ、赤ん坊をさがして長い旅をしてきたといって、わしの住いにあらわれ、とめてくれといった。」魔法使いは、くちびるをゆがめた。「まるで、あの女の運命だか、赤ん坊のむすめの運命だかが、わしにとって重大事とでもいわんばかりだった。夜露をしのぎたべものをもらう礼に、首にかけていたがらくたをよこした。わしにとっては、取引きの必要などなかったのだ。あれはすでにわしのものだった。あの女は弱りきっていて、ひじょうに熱が高く、わしがその気になれば、あの女も守りきれなかったにちがいない。あの女は、夜明けを待たず死んでしまった。」
タランは、聞くに耐えず、顔をそむけた。「あんたが、彼女の命を奪ったんだ。短剣を胸につきさしたのとかわりない。」
モルダは、枯れ枝をおるようなするどい不愉快な笑い声をたてた。「わしは、ここへ来いとたのみはしなかった。あの女の命なんぞ、このわしにとっては、あの女の持ちものの中にあったなにも書いてない本とおなじで、なんのねうちもなかった。もっとも、その本も、それなりに、わずかばかり使いものにはなった。しばらくしてあわれな弱虫が、苦労してここまでやってきた。グルーという名まえの男だった。そやつは、魔法使いになろうとしていた。つまらぬばかが! そやつは、魔法の呪文や、護符や、魔力のある秘密の言葉を売ってくれと、泣きおとしにかかった。泣き虫の成り上がり者めが! わしはうれしくなって、思い知らせてやることにした。なにも書いてない本を売りつけて、魔力が消えるといけないから、ここから遠くはなれるまで本をひらいたりしてはいけないと警告した。」
「グルー!」と、タランはつぶやいた。「では、彼をだましたのは、あんただったのか。」
「人間そっくりにな。」と、モルダはこたえた。「あやつの貪欲と野心が自分をだましたのだ。このわしではない。あやつのその後は知らぬし、また知りたいとも思わぬ。だが、これだけは、まちがいなくもまなんだであろうよ。魔法は金であがなえないということだ。」
「無慈悲と邪悪な心によって奪うこともできないぞ。あんたがアンハラド王女から奪ったように。」と、タランが切りかえした。
「無慈悲? 邪悪な心?」と、モルダはいった。「そんな言葉は、おまえのような生きもののためのおもちゃだ。わしにはなんの意味もない。わしの力が、そんな言葉などまったく無用のものにしてしまった。あの本は、ひとりのおろか者に自分のおろかさを思い知らせる役に立った。だが、宝石は、この宝石は、わしのために役立ってくれた。すべてのものは結局なにかの役に立つ。あのアンハラドという女は、この宝石は重荷を軽くし、つらい仕事をたやすくしてくれると教えてくれた。そして、そのとおりだった。その秘密をさぐって、使い方を完全にまなびとるために、長い年月をついやしはしたが、しかし、ひじょうに重いたきぎの束も思いのままにちぢんでただの小枝になった。わしは、宝石の助けでいばらのかべをたてた。技が上達すると、かくれた泉の水もみつかるようになった。」
魔法使いのまばたきしない目が、とくいそうにきらきら光った。「そして、ついに」と、彼はささやき声でいった。「ついに、宝石はわしがずっとさがし求めていたものへの手びきをしてくれた。妖精族の宝庫への手びきだ。
「その宝庫には長寿の宝石は一つも収めてなかった。」と、モルダはさらに語りつづけた。「だが、それがなんだ! そこになければ、べつな宝庫でみつかる。もはや、妖精族の宝も、鉱山も、秘密の通路も――全部わしにはひらかれている。
「そのとき、妖精族の番人のひとりがわしに出くわした。わしは、そいつが警報を発してはまずいと思った。かつて妖精族に立ち向かったものはいなかったが、わしはそれをやってのけた!」と、モルダは声を高くした。「わしの宝石は台所女中の苦労を軽くするだけのがらたくなんてものではなかった。わしはその魔力の大もとをわがものとしてしまったのだ。わしの思いどおり、この妖精族の番人めは、目の見えないモグラに変わった! そうとも」モルダはつっかかるようにいった。「わしは、求めた以上の力を得ていたのだ。わしは、人間を、その中味ぴったりの、弱くてぺこぺこはいつくばる生きものに変える方法を知っている。このわしに、もうだれがそむける? わしが求めたのは宝石だけか? いや妖精族の王国ぜんぶが、もういつでも、わしのものになるのだ。それから、プリデイン全土がな! そこで、わしは、はじめてわしの運をさとった。人類は、ついに主人をみつけたということをさとったのさ。」
「主人?」タランは、モルダの言葉にびっくり仰天して思わずさけんだ。「あんたは、あんたが軽蔑している連中よりもっと腹黒い。そんな男が、あつかましくも、貪欲だの嫉妬をとがめだてするのか? アンハラドの宝石の魔力は、奉仕を目的としたものだ。奴隷をつくるためのものではない。」
モルダのまぶたの動かない目に、へびの舌の動きに似た光が、きらっとゆれた。「おまえはそう思うか?」モルダはおだやかな調子でこたえた。
へやの外でさけび声がきこえたかと思うと、いばらの防壁のまん中あたりで、ふいにどーんという音がした。モルダがちょっとうなずいていった。「ハエがもう一匹クモの巣にひっかかったな。」
「フルダーだ!」モルダが大またにへやを出ていくと、タランはあえぐようにいった。そして体を投げだすようにしてガーギに近づくと、おたがいをしばったつなをかみきろうとやってみたがむだだった。魔法使いがすぐにもどってきたのだ。魔法使いは、しっかりしばりつけたひとりの男をひきずるようにして運んでくると、ふたりのそばの地面にころがした。それは、タランの心配したとおり、不運な吟遊詩人だった。
「いやはや、おぬしになにがあったのだ? わしはどうなったのかね?」フルダーは、あっけにとられたようにうなった。「おぬしがもどらなかったので――わしが様子を見に出かけてきて――おぬしがあのいばらのやぶにひっかかったと思ってな。」吟遊詩人はいたそうに頭をふった。「いや、ゆさぶられたこと! もう首がもとにもどらんだろ。」
「後を追ってきちゃいけなかったのに。」と、タランが小声でいった。「警告する手だてがつかなかったのです。ドーリはどうです?」
「まったく安全だ。」と、フルダーがこたえた。「ま、今のわしらよりは安全だよ。」
モルダは、それまで注意ぶかく三人を見守っていた。「すると、おまえたちに、わしをさぐらせによこしたのは妖精族だな。おまえたちは、おろかにも、このわしの手からのがれられると考えていたあの小人と同盟しているのか。それもよかろう。このわしが、おまえらを見のしがしてやるとでも思ったか? やつとおなじ目にあわせてやるわい。」
「そうだ、妖精族のドーリは仲間だ。」と、タランが声をはりあげた。「彼にかけた魔法をとけ。よいか、警告するぞ。わたしたちのだれひとりにも、危害を加えてはならん。よいか、モルダ、おまえのもくろみは失敗する。わたしは、カー・ダルベンのタランだ。そして、わたしたちは、ダルベンその人の庇護を受けている。」
「ダルベン、ふん。」と、モルダがはきだすようにいった。「白ひげのおいぼれめ! もはや、あいつの力など、おまえたちを防いではくれぬ。ダルベンですら、わしに頭をさげ、命令どおりに動くであろうよ。さて、おまえたちだが」と、モルダは言葉をついだ。「殺しはしない。そんなことは、とるにたらない罰だ。おまえたちは生きつづける。まもなくなにかの生きものに変るが、その生きものの寿命だけ生きつづける。生きつづけて、そのみじめな一生のつづくかぎり、このわしにはむかったむくいの重さをかみしめるがいい。」
モルダは、くびにかけた首かざりの宝石をつかんでフルダーに顔を向けた。「仲間をさがし求める大胆さよ、臆病に変れ。猟犬のほえる声や漁師の足音をきいて、逃げよ。一枚の木の葉のそよぎや、よぎる物かげをすら、恐れるがよい。」
宝石が目もくらむばかりにひかった。モルダが片手を突き出した。タランは、フルダーがさけび声をあげたと思ったが、それは声にならなかった。ガーギが悲鳴をあげた。タランは、かたわらの吟遊詩人が姿をけしたのを知って恐怖にわなないた。一匹のこげ茶色のウサギが、モルダにおさえられて、必死に足をばたつかせていた。
しわがれた笑い声をたてて、モルダはウサギをつるし上げると、ちょっとの間、ざまを見ろといったようにながめてから、カアのかごのそばの、べつのかごにほうりこんだ。魔法使いは、タランとガーギのところまで大またで近づいてくると、恐怖で白目を出し、意味のわからないことをつぶやいているガーギを見おろした。
タランは、必死になわをほどこうとした。モルダが宝石を持ち上げた。「この生きものは」と、魔法使いはいった。「この半分けだものというやつは、使いものにならん。弱くてびくびくしたやつめ。さらに弱くなり、フクロウやへびのえじきとなるがよい。」
タランはありったけの力をふりしぼって、自分をしばっているなわを切ろうとたたかった。「モルダ、おまえはわたしたちをほろぼす。」と、タランはさけんだ。「しかし、おまえの邪悪な心は、おまえをほろぼすぞ!」
タランがそうさけんだとたん、宝石がまたぴかっとひかった。ガーギがころがっていたところには、一匹の灰色の野ネズミがいて、後足で立ち上がったが、すぐにちいちいなきながらへやのすみへ逃げていった。
モルダが、まぶたの動かない目を、タランに向けた。
9 モルダの手
「そして、おまえだ。」と、モルダはいった。「おまえの運命は、森やみぞで果てはしない。わしのもくろみが失敗する? おまえは、ここでとらわれの身となり、わしの勝利を見ることになる。だが、どんな姿に変えてやろうか? わしの食卓のたべのこしを鼻をならしてねだる犬か? 大空の自由を求めて悲しみにくれる、おりの中のワシか?」
アンハラドの宝石は、モルダの指からぶらんとたれさがっていた。へびに見こまれた小鳥のように、そのかざりをじっと見ているうちに、タランは、絶望して息がつまりそうになった。みじめな姿のガーギとフルダーがうらやましかった。彼らなら、タカの爪かキツネのあごが、かんたんに慈悲深く、一生を終わらせてくれるだろう。タラン自身の一生は、モルダが命を絶とうと思うまで、石と石をこすりあわすように、長くつづくとらわれの苦しみを味わいながらすりへっていくのだ。
魔法使いのあざけりの言葉は、流れこんだ毒液のように、タランの頭をかーっとあつくした。ところがモルダと話しているうちに、タランはなにか毛皮のものが、しばられたくるぶしのところに体をおしつけてきたのを感じた。タランははっとして思わず声をあげそうになった。心がおどり、鼓動がはげしくなった。それは、さっきまでガーギだったネズミだった。
ネズミは、自分のあわれなありさまをものともせず、小さな足でこっそりと、タランのころがっているすみまで走ってきた。そして、魔法使いにみつからずに、タランの手首のなわにとびつき、その鋭い歯でいそいで結び目をかじりだしたのだった。
モルダは、気持がきまらないように、宝石をひねくりまわしていた。タランは、ガーギが、頑固にとけない結び目を必死にかじっているのを感じていた。ネズミの勇敢な努力にもかかわらず、なわはかたく結ばれたままだった。タランは、必死なネズミを助けようとして皮のなわがつっぱるようにしたが、なわがゆるむ気配はすこしもなかった。そして、とうとう、魔法使いがきらきらする宝石を持ち上げた。
「待て!」と、タランはさけんだ。「けだものになる運命が避けられないなら、これだけはききとどけてくれ。何に変えるか、わたしにえらばせてくれ。」
モルダが手をとめた。「えらぶ?」血の気のないくちびるがきゅっと細くなって、顔にあざけりの笑いがうかんだ。「おまえののぞみなど、わしにはどうでもいい。だがおまえ自身の牢獄をおまえがえらぶ方がよいかもしれん。いってみろ。」と、魔法使いはいった。「はやく。」
「カー・ダルベンでは」タランは、わざとひじょうにゆっくり話しはじめた。「わたしは豚飼育補佐だった。わたしが世話をしていたものの中に一匹の白豚がいた……」手首をしばるなわの一本が切れた。しかし、ガーギの体力は弱りだしていた。
「なんと、それでは」モルダが、しわがれた笑い声をたてて口をはさんだ。「おまえは、豚になりたくてたまらないというのか? 泥の中をころげまわり、どんぐりをほじくりたいのか? よろしい、豚飼い、おまえの選択は、ほんとうにぴったりしておる。」
「それだけがのぞみなんだ。」と、タランがいった。「豚になれば、すくなくとも、たのしかったときのことを思い出せる。」
モルダはうなずいた。「そうだ。そして、まったくその理由のために、わしはおまえののぞみをかなえてやらない。かしこい豚飼いよ。」と、モルダはあざ笑った。「おまえは、いちばんののぞみを教えてくれた。だから、ますますそののぞみはかなえてやれないのだ。」
「わたしのねがいどおりにしてくれないというのか?」と、タランはこたえた。ガーギがつかれと戦いながら力をふりしぼったおかげで、また、なわが一本切れた。そして、ふいになわははずれ、タランの両手はたちまち自由になった。「それなら」と、タランは大声をあげた。「わたしは、このままでいるぞ!」
あっという間に、タランは、いきおいよく立ち上がった。そして、剣をさやからひきぬくと、ぎょっとして一歩ひきさがった魔法使いめがけて突進した。モルダが宝石を持ち上げる間もなく、タランはえいとさけんで魔法使いの胸に剣を突き通した。だが、そのさけび声はすぐにはげしい恐怖のさけびに変わり、タランはよろよろとひきさがって壁にぶつかった。
モルダは、かすり傷一つ負わずに立っていた。目はまじろぎもしなかった。魔法使いのからかうような高笑いが、へや中にひびきわたった。
「おろかな豚飼いめ! その剣を恐れるなら、とっくに奪いとっていたわい!」
魔法使いは、アンハラドの宝石を高くかざした。タランの頭は、あたらしいはげしい恐怖で混乱した。モルダの手の中で、宝石が冷たくひかった。恐怖の中でふいに頭がはっきりすると、宝石の鋭い切り口とそれをつかんでいるやせた指が見えた。タランは、今、はじめて、モルダの右手の小指がないことに気づいた。その部分は、切株のようになっていて、切れてしなびたみにくい肉がかたまっていた。
「わしの命がほしいか?」モルダがはきだすようにいった。「さがせ、豚飼い。わしの命はこの体になどとじこめてないわ。そうとも、ここからずっとはなれたところ、死神すら手のとどかぬところだわ!」
「わしは、最後の魔力すら手に入れたのだ。」と、魔法使いはいった。「この宝石は、人間をいろいろに変えられるように、わし自身の命も守ってくれる。わしは、命そのものをひき出して、だれにもみつからないところに、安全にかくした。このわしを殺したいか? おまえがそうねがっても、その剣と同様に、むだなのだよ。さあ、豚飼いめ、わしにいどんだむくいを受けるがよい。猟犬やワシではりっぱすぎる運命だ。あらゆる生きものの中でもっともいやしい、骨なし、手足なしのめくらのみみずになって、まっくらな地中をはうがよい!」
宝石のまん中から閃光がほとばしった。タランはつかんでいた剣を落とし、片うででさっと顔をおおった。まるで雷電に打たれたようによろめいた。だが、それでも倒れなかった。姿もまだ変わらなかった。もとのままのタランだった。
「なにが、わしの魔力をじゃまするのだ?」モルダがおそろしい声でさけんだ。かすかな恐怖が顔をよぎった。「まるで自分と格闘しているようだ。」モルダは、まぶたのしまらない目に信じられないといった表情をうかべて、タランをじっと見た。小指のない手がさらにかたく宝石をにぎりしめた。
タランの頭の中を、ある奇妙な考えがかけめぐっていた。魔法使いの命が、安全なところにかくしてある? だれにもみつけられないところに、といっていたな? タランは、モルダの手から目がはなせなかった。小指だ。木のうろの中にあった宝石箱だ。希望が表情に出てはまずいとびくびくしながら、タランは、ゆっくりと、片手を上着のかくしに突っこんでみがいた骨片をひきだした。
それを見たとたん、モルダの顔は急にしなびたようになった。くちびるをふわせながら、だらりと口をあけ、その口からかすれ声が出た。「おい、豚飼い、なにを持っている? それをわしによこせ。よこせ。命令だ。」
「これは、わたしたちがみつけた、ごくつまらないものですよ。」と、タランは返事をした。「こんなもの、あんたにとっちゃ、なんのねうちもないでしょう、え、モルダ? それほどの力を持っているのに、こんなけちなものがどうしてそんなにほしいのです?」
魔法使いのひたいに、脂汗がにじみ出てきた。顔がひきつり、声がやさしくなった。そのため、ますますぞっとする恐ろしさを感じさせた。「わしに立ち向かう大胆な若者」と、モルダはつぶやくようにいった。「わしは、おまえが、わしに仕えるに足りる男かどうか、ゆたかなむくいに値する人間かどうかを見るために、おまえの勇気をためしたにすぎない。わしの友情のしるしに、黄金を与えよう。そして、おまえの友情のしるしに――そのつまらぬもの、おまえが持っているけちなものを……」
「この、なんの価値もないかけらを?」タランがこたえた。「これを贈りものとしてもっていてくれるのですか? それでは、分けましょう。わたしとあなたと半分ずつ。」
「と、とんでもない。わってはならん!」モルダはまっさおになって悲鳴ににた声をあげた。そして、骨と皮ばかりの手をつき出して一歩タランに近づいた。タランは、すばやくさがると、骨片を頭上にかざした。
「価値のないものだ!」と、タランはさけんだ。「おまえの命だ、モルダ! わたしはこの手に、おまえの命をにぎっているんだ!」
モルダは、おちくぼんだ目をせわしなく動かした。突然、はげしく身ぶるいすると、大風に吹かれたように体がふらふらゆれだした。「そうだ、そうだとも!」モルダは、恐怖でひきつった声をあげた。「わしの命! わしの指につめた命だ。ナイフを使って自分で切りとったのだぞ。かえせ! かえしてくれ!」
「おまえは、自ら、人間よりすぐれていると思っていた。」と、タランはこたえていった。「おまえは、人間の弱さを軽蔑し、もろさを見下したが、自分が人間のひとりであることをさとれなかった。家督もなければ親のつけた名前すらないこのわたしでも、自分が人間であることだけはわきまえている。」
「わしを殺さないでくれ!」モルダが、恐怖と不安で身もだえしながらさけんだ。「わしの命はおまえの手にある。それを奪わんでくれ!」魔法使いはぱっとひざまずくと、ふるえる手をさしのべた。血の気のないくちびるを小きざみにふるわせながら、一気にまくしたてた。「きいてくれ! きいてくれ! わしはたくさんの秘密を知っている。たくさんの魔法を知っている。おまえに教えてやる。全部だ、すっかり!」
モルダは、両手を組みあわせたりはなしたりしていた。組み合せた指をかたくにぎりしめ、タランの足下で米つきバッタのようにぺこぺこ頭をさげた。人をたぶらかすあわれっぽい口調になった。「豚飼い殿、わしは、あなたに仕える。よく仕えます。わしの知識すべて、わしの力すべては、あなたの意のままですぞ。」アンハラドの宝石の首かざりを、モルダは手首にかけて、タランに持ち上げて見せた。「これもですぞ! これすらも、ですぞ!」
「その宝石は、おまえのものではないから人に与えられない。」と、タランはこたえた。
「わしものではないから人に与えられないとな、豚飼い殿?」魔法使いの声がずるそうな猫なで声になった。「わしのものでないから与えられない。しかし、あなたのものだからとってもよい。あなたは、これの持つ秘密のはたらきを知っていますかな? それは、わたしだけが教えられる。これを十二分に使いこなせますかな? あなたは、これのような魔力を持つことを夢見たことはありませんかな? ほら、ここです。手にとりさえしたらよい。人類はあなたの思うがままじゃ。あなたのどんなに小さなのぞみでも、それをことわれるものなどいなくなる。あなたの不興をおそれて、あらゆるものがふるえるのですぞ。豚飼い殿、わしの命を保証してくだされ。わしも保証しますぞ……」
「おまえは、盗んでだいなしにした魔法で取引きをするのか?」タランは、怒って思わず声をはりあげた。「そんな秘密は、おまえといっしょに死に絶えるがいい!」
これをきくと、モルダは、猛烈な泣き声をあげて、床にへばりつくほどひれ伏した。はげしくすすり泣いて身をふるわせた。「わしの命! 助けてくだされ! 助けて! わしを死の手に渡さんでくれ! 宝石を受けとってくだされ! わしを、いちばん下等なはい虫にでも、いちばんきたない害虫にでも変えてくだされ。ただ命だけはお助け!」
ちぢみあがっている魔法使いを見ると、タランは不愉快な気分になり、長いこと口がきけなかった。それでもようやく、「殺しはしないよ、モルダ。」
魔法使いは、ものすごいすすり泣きをすらっとやめて顔を上げた。「殺さないといわれる、豚飼い殿?」モルダは、いざり寄ってタランの足をだこうとするそぶりを見せた。
「殺しはしない。」タランは、ぞっとしてひきさがりながら同じことばをくりかえした。「殺したい気持だが、おまえの悪は底知れないので、わたしには罰の判断がつかない。わたしの友人たちをもとにもどせ。」と、タランは命じた。「そうしたら、とりこにしてダルベンのところまでつれていく。ダルベンだけが、おまえののぞみにかなうさばきをつけられる。立て、魔法使い。アンハラドの宝石を投げてよこせ。」
モルダは、うずくまったまま、ゆっくりといやいやそうに、手首から首かざりをはずした。青くむくんだようなほほをふるわしながら、モルダはちかちかひかる宝石をなで、ぶつぶつひとりごとをつぶやいた。と、突然ぱっと立ち上がり、突進してきた。そして、力いっぱい、首かざりをふるってタランの顔をたたいた。
宝石の鋭い角が、タランのひたいを切りさいた。タランは、あっとさけんでよろめき、ひきさがった。血が目に流れこんで、ものが見えなくなった。小指の骨が手からとんで、くるくるまわりながら床の上を走った。魔法使いのふりまわした力で、宝石が銀のくさりからちぎれ、すみにころがった。
つぎの瞬間、魔法使いが狂った野獣のように歯をむいてうなりながら、タランにとびかかってきた。モルダの指が、タランののどにくいこんだ。モルダは黄色い歯をむきだして、ものすごい笑いを顔にうかべていた。タランは、魔法使いの手をふりはらってのがれようと奮闘したが、狂ったようなモルダの攻撃でよろめいてしまった。体の平衡を失ってどうと倒れた。タランはのどをしめつけている恐ろしいモルダの手をはずそうとしたが、むだだった。気が遠くなってきた。充血した目に、魔法使いの顔が憎しみと怒りにゆがんでいるのがちらりとうつった。
「おまえの力ではとても助からん。」と、モルダはにくにくしげにいった。「わしの力にかなうものか。おまえは、ほかの人間なみに弱い。いっておいたはずだぞ。わしの命はこの体の中にはないのだ。だから、死のごとくに強いのだ! さあ、殺してくれるぞ、豚飼いめ!」
タランは、突然モルダの言葉がほんとうだとわかって、ぞーっとした。魔法使いの言葉にうそはなかった。モルダの老い衰えた腕は、ふしくれだった木の枝ほども固かった。タランが必死にあらがっても、魔法使いのしめつけは強くなるばかりだった。胸がやぶれんばかりにふくれ、タランはまっくろなものにのみこまれていった。モルダの顔がかすんだ。はっきり見えるのは、魔法使いの、まがまがしいまばたきをしない目だけになった。
木がばりばりわれる音が、タランの耳いっぱいにひびいた。モルダのしめつけがふいにゆるんだ。おどろいてかっとなった魔法使いは、さけび声をあげてぱっと立ち上がり、くるりと向きをかえた。タランは、まだ頭がふらふらしたが、壁に手をついて立ち上がろうとした。リーアンがへやにとびこんできたのだった。おそろしいうなり声をあげ、目を金色にらんらんとひからせながら、巨大な猫はさっととんだ。モルダは身がまえてリーアンの攻撃を受けとめた。
「リーアン、そいつに気をつけろ!」と、タランはさけんだ。
リーアンの突進の勢いで、魔法使いはひざをついてしまったが、弱ることのない体力で猫と取組みあった。
リーアンの黄色い体が右に左にすばやく動いた。力強い後足の爪をむき出して魔法使いをうちたおそうとしたが、まとははずれてしまった。魔法使いは、猫の足を身をひねってよけ、今は山なりになった猫の背中にしがみついていた。巨大な猫は大声でうなり、ふうっとおこりながら、大きな口のするどい歯をきらめかせてはげしく頭をふりたてた。だが、ありったけの力をふりしぼっても、しがみついた魔法使いをふりはらうことはできなかった。タランは、自分がそれで失敗していたから、力のあるリーアンですら、ほどなく弱ってしまうことを知っていた。リーアンは、ほんのわずかタランの命を長らえさせてはくれた。しかし、今はリーアン自身も終りなのだった。
そうだ、骨だ! はっと気づいたタランは、四つんばいになって骨のかけらをさがした。どこにもなかった。木のこしかけをはらいのけ、せとものの容器をひっくりかえし、炉の灰をひっかきまわした。骨は消え失せていた。そのとき、後ろで、かん高く、きいきい、ちゅうちゅうなきたてる音がした。タランがいそいでふり向いてみると、ネズミが後足で立って、はげしく頭をふっていた。ネズミは、小さな骨をしっかり口にくわえていた。
すぐに、タランは、よくみがいてある骨片をとりあげて、両手でぴしりと折ろうとした。そして、ぎょっとなって息をのんだ。骨はびくともしなかった。
10 破れた魔法
みがいてある骨片は、鉄のようにかたかった。タランは、歯をくいしばり、体中をぶるぶるふるわせて折ろうとしたが、魔法使いと戦っているのとおなじで、びくともしない感じだった。リーアンが、ぐんなりと腰をおろした。モルダは気を失った猫からぱっととびはなれると、ふたたびタランにとびかかり、骨につかみかかった。魔法使いの指が骨のまん中にかかったが、タランは両端を必死につかんでいた。モルダがタランからもぎとろうとすると、骨がまがるのがわかった。
突然、骨は、ぽきりと二つに折れた。かみなりが落ちるより鋭い音が、タランの耳を打った。ぞっとするような悲鳴がへや中を走ったかと思うと、モルダがよろよろと後ずさり、体をかたくして空をかきむしり、まるで折れた木切れのようにばたりとたおれた。
その瞬間、ネズミが消えた。そして、タランのかたわらにガーギがたっていた。「親切なご主人、われわれを助けてくださる!」と、ガーギはうれしげにさけんで、タランにだきついた。「はい、はい!ガーギ、またガーギにもどった! もう、ちゅうちゅう、きいきいのネズミでない!」
タランの手の中で、折れた骨が灰色の土くれのようになったので、タランはすててしまった。タランは、疲れはてて気持が乱れていて口がきけなかったので、ただやさしく感謝をこめてガーギの肩をかるくたたいてやった。リーアンは、部厚い胸から、苦しそうに息を吐き出して、モルダのやせおとろえた死体のそばに立ち上がった。リーアンの黄色い毛は、今もまだ怒りで逆立ち、長いしっぽはふだんの二倍くらい太く見えた。カアが、せいいっぱいの声でわめきちらし、鳥かごの中でつばさをはげしくばたばたさせているので、ガーギがあわててかけよった。すると、リーアンが、心配そうな問いかけるようなうなり声をあげて、金色の目ですばやくへやのあちこちをきょろきょろながめはじめた。
「助けてくれ!」とフルダーの声がした。「わしはあいかわらずつかまっておるんだ!」
リーアンがぴょんととんで近づくのを追って、タランはへやのすみにかけつけた。モルダがウサギをとじこめたかごの中には、たて琴をだいた吟遊詩人がつめこまれていて、片側から長いすねがだらりとはみ出し、反対側では、二本の手がさかんに空をかいていた。
タランとガーギは、詩人を出しにかかったが、ちょっと手間どった。そして、その間ずっと、詩人は、どもりどもりわけのわからないことをつぶやいていた。フルダーの顔色は恐怖のためまっさおだった。しかし、目をぱちくりして、もじゃもじゃの黄色い髪を一ゆすりすると、ほっとしたように一つ大きなため息をついた。
「なんたる恥辱!」フルダーははき出すようにさけんだ。「フラムの者が! ウサギに変えられたとは! わしは羊毛の袋につめこまれたような気持だったよ! いやはや! まだ鼻がひくひくうごくわい! もうまっぴらだ! おせっかいするとろくなことにならないと、わしはいったなあ。だが、今回ばかりは、え、古なじみのタランよ。おぬしがあの骨を持っていてくれて運がよかった。あ、あっ! もっとゆっくりやってくれ。そのとがったのがつきささる。ウサギだと、まったく! あの腹黒いモルダのやつを前足で、いやいや手でひっつかんでやることができたらよかったんだが!」
ようやくかごから出たフルダーは、リーアンのたくましい首にだきついた。「それから、わしのかわいいむすめ! おまえが、わしらをさがしにきてくれなかったら……」フルダーはぶるっと身ぶるいして、両手で耳をおおった。「うむ、そうだ。もう考えないことにしよう。」
入口に、朽葉色の服に身をつつみ、がんじょうな長靴をはいた、ずんぐりした男があらわれた。すっぽり頭にかぶさるおわん型の革の帽子をかぶっていた。男は、両手の親指をベルトにかけて、きらきら赤く光る目で一行ひとりひとりを見わたした。いつものしかめつらは見せず、大きな顔いっぱいに笑いをうかべている。
「ドーリ!」タランが、まず小人に気づいてさけんだ。「また会えましたね!」
「また、だと?」ドーリが、一生けんめいぶっきらぼうをよそおった声でいきおいよくいった。「おれはずっといたんだぞ。」それから、大またにへやにはいってくると、モルダを見おろしてそっけなくうなずいてから、「そうか。こういうことになったのだな。」と、タランに向かっていった。「おれも、こうなるだろうと思っていたよ。ぬれた布にくるまれたカエルだったとき、ちょっとだけだったが、おぬしら全部が殺されたと思った。そしたら、あっという間に――ごらんのとおりさ。
「その、おぬしの猫は、しばらくすると、そわそわしはじめた。」ドーリは、フルダーの方を向いて話をつづけた。「彼女、おれをつつんだ衣服ごとくわえて、おぬしの後を追ったのだ。」
「いつも姿が見えるところまでしか、わしをはなしてくれないのだ。」と、フルダーがこたえていった。それから、「そのことを」とつづけていとしそうにリーアンの耳をなでた。「わしらみんなが感謝しなくちゃならんよ。」
「しかし、どうやってあのいばらを通り抜けたのかな?」と、タランがたずねた。「モルダのわなは……」
「通り抜けた?」と、ドーリがこたえた。「彼女は通り抜けたんじゃない。とびこえたんだ!」そして、頭をふって「一とびにな! おれをくわえたまま! あんなに高くとんだ生きものは見たことがない。つまり、こんな生きものは見たことがないってことだ。しかし、おぬしらはどうだったのだ? モルダはどうだった?」
「さしつかえなければ」タランが、自分たちのなめた苦しみを語りはじめないうちに、フルダーが口をはさんだ。「わしは、即刻ここを立ちのくことを提案するね。フラムの者はびくともせぬが、たとえ破れてしまったにしても、魔法というやつは、なにかわしの心を乱しがちなんだ。」
「待った。」と、タランがふいに大きな声でいった。「あの宝石! あれはどこだろう?」
ドーリが面くらって見守る中を、タランたちはへや中残るくまなくさがしにかかったがむだだった。タランは心配になった。宝石をのこしたままにしていくのは気が進まなかった。だが、どうしてもみつからないとあきらめかかったとき、上の方でしわがれた笑い声がした。
カアが、カシのたる木にとまって、くすくす、かあかあ笑いながら上機嫌で体を前後にゆさぶっていた。そして、そのくちばしに宝石がきらきらかがやいていた。
「おい、おい!」フルダーがぎょっとしてさけんだ。「それをよこせ! たいへんだ。おまえのために、またわしらが四本足でしっぽのあるものにさせられてしまう!」
タランがさんざんなだめすかし、詩人が腹をたててぽんぽん悪口をいうと、ようやく、カアは、タランの肩におりてきて、宝石をタランの手に落としてよこした。
「これで、かしこく親切なご主人のものとなった!」ガーギが喜んでさけんだ。「ガーギ、きらきら、ちらちらの石がこわい。でも、親切なご主人が持っていればこわくない。」
ドーリが、タランの持ち上げた宝石をしげしげと見た。「そうか、これを使っておれたちを支配するつもりだったのか。わかってしかるべきだったなあ。これは妖精族の国のものなんだ。」小人はそう説明した。「おれたちは、いつもリール王家を崇拝していたから、結婚の贈りものとして、これをレガト王女にさし上げたのさ。王女がむすめにゆずったにちがいない。そして、アンハラドが行方不明になったときこれもいっしょに失われてしまったんだ。」
「そして、今、わたしの手にはいった。」と、タランはいった。そして、手で宝石をかこうようにして、石の中できらめく光をじっとながめた。「モルダは、有益で美しいものを邪悪な目的のものに変えてしまった。これが、ふたたび本当の目的に使えるかどうか、わたしにはわからない。本心をいえば、わたしの心をひきつけるし、また恐ろしくもある。この力は広大――たぶんだれであろうと、人間が持つには広大すぎるだろう。この秘密がたとえまなべるとしても、わたしはそうしたいとは思わない。」そして、ガーギに向かってほほえんでみせた。「おまえは、わたしを賢いといってくれているのかい? すくなくとも、これが使える知恵など、けっして持てないことをわきまえているほどには賢いよ。
「それでも、一つの目的には使えるかもしれない。」と、タランはすぐにいった。「これで取引きすれば、オルデュはきっとわたしの素性を教えてくれる。そうとも!」と、タランは思わず声を大きくした。「これなら、彼女もこばまない宝だ。」だが、タランはふいに口をつぐんで長い間だまりこんだ。手の中には知りたくてたまらないことを知ることのできる手段がある。しかし、気分は重かった。この宝石は正当に手に入れたものではあったが、けっして正当な所有者であるとは主張できなかった。モルダ同様に、タランも取引きには使えないのだった。オルデュが受けとってくれて、そして、タランが高貴な生まれだとわかったとしても――王の衣装で、不名誉な行いをかくしおおせられるだろうか?
タランはドーリの顔を見ていった。「この宝石はわたしのものです。しかし、それはただ与えるためにわたしのものにするのです。わがものとするためではありません。」そして、のろのろと、ドーリの手に宝石を押しつけるようにわたした。「受けとってください。これは、かつて妖精族のものでした。ふたたび彼らのものとなるのです。」
小人のいつものしかめつらがやわらいだ。「おぬしは、妖精族につくしてくれた。」と、小人はこたえた。「おそらく、おぬしら人間が妖精族のためにしてくれた奉仕のうちでもっとも大きいものだろう。おぬしの助けがなかったら、モルダはおれたち全部を滅ぼしてしまえただろうからな。たしかに、この宝石は、おれたちの国にかえらなくてはならんのだ。ほかの者たちの手にあっては危険すぎる。おぬしは正しく判断した。そうしてくれたおぬしを、エィディレグ王はいつまでも忘れないだろう。王にかわって感謝する――そして、おれも礼をいうぞ。」ドーリは満足そうにうなずくと、宝石をだいじに上着のかくしにしまいこんだ。「これも長い旅をした。とうとう、われわれの手にもどるわけだ。」
「そう、そう!」と、ガーギが大声をはりあげた。「しっかりしまっておいてください。親切なご主人が持たないのなら、ガーギ、たちの悪い宝石二度と見たくない。持ってってください、持ってって! どうか、忠実なガーギを二度とネズミに変えないでください!」
タランは愛情のこもった笑い声をたてて、ガーギの肩に手をおいた。「モルダだって、おまえの根性までは変えられなかったろうさ。そりゃ、ドーリの根性を変えられなかったとおなじでね。ネズミに見えたかもしれないけれど、おまえはやはり獅子の心を持っていた。しかし、わたしはどうだったろう?」タランは考えるようにつぶやいた。「かごの中のワシになっても、みみずになっても、――わたしは、ほんとうに、変わらないでいられただろうか? タランとは何物かがさっぱりわからないありさまで、タランのままでいられただろうか?」
一行が魔法使いの小屋を出たとき、太陽がのぼりはじめた。よく晴れたさわやかな一日になりそうだった。いばらの壁は、それをたてた邪悪な魔法とおなじようにうちくずされておれていたので、一行はなんなく通過した。一行は、メリンガーとガーギのポニーのつなぎをといて出発したが、フルダーはかなり進むまで足をとめて休むことを承知しなかった。遠くはなれてもまだ、吟遊詩人は落着かなさそうで、ガーギが食糧袋をひらいている間も、小山の上にぼんやりこしをおろして、ほんとうに自分のものかどうかをたしかめるように、じっくりと耳をいじっていた。
「ウサギか!」吟遊詩人はつぶやいた。「二度とウサギは追わんぞ。」
タランは、ドーリとふたりだけ、はなれたところにこしをおろした。話したいこととききたいことがたくさんあったからだ。ドーリは、また、もとどおり短気でしかめつらばかりする小人にもどっていたが、ときどきちらりと笑顔を見せるので、内心はタランたちにまた会えて上機嫌であることがわかった。だが、タランの旅の目的をきくと、ひたいのたてじわが一段と深くなった。
「自由コモット人?」と、小人はいった。「おれたちはコモット人とはいちばん仲よくしている。彼らはおれたちを、そして、おれたちは彼らを尊敬している。彼らのように大胆で善意にあふれた人たちは、プリデイン中にもあまりおらんだろう。それに、あそこには、農家ではなく城に生まれた幸運だけで、同じ人間を支配するような領主がおらんのだ。自由コモット人たちが尊敬するのは、血筋じゃない。技術だ。しかし、おれにわかっているのはこんなことだけさ。ほとんどつきあいはないからな。彼らが妖精族の助けを必要とすることがあるかもしれないというので、万一を考えてあちこちに番小屋はおいてある。だがそんなことはめったにおこらないね。コモット人はむしろ自分の力に頼るし、それでみごとにやってのけている。だから、おれたちも、彼らのためばかりでなく、おれたちのためにも、それを十二分に喜んでいる。なにしろ、おれたちは、あそこをのぞいた、プリデイン中に目をくばらなくちゃならんからな。
「おぬしがいっていた鏡のことは」と、 ドーリは話をつづけた。「きいたことがない。ただ、フラウガダルン山脈にはフルーネットという湖はある。それ以上は教えられないね。しかし、おぬし、それはなんだい?」小人はだしぬけにたずねた。今はじめて、タランの戦いの角笛に気づいたのだ。
「わたしがモーナを去るとき、エイロヌイが贈ってくれたものです。」と、タランはこたえた。「これは、彼女の誓いのしるしで……」タランは悲しげにほほえんでみせた。「ずいぶん前のことのように思えますよ。」そして、角笛を肩からはずし、ドーリに手渡した。
「これは妖精族のつくったものだ。」と、小人はいった。「まちがいない。」そしてドーリは片端から中をのぞき、反対側からのぞき、つづいて太陽に向けて口から中をのぞき見しようとした。タランはびっくりしてしまった。タランが面くらってながめていると、ドーリは指のつけ根のところで、ごしごしこすったり、ひざにとんとぶつけたりした。
「からっぽだ!」小人はぶつぶついった。「使い果たしてある。いや、まて!」それから、先端の方を耳に押しあてて一心にきき入る様子をした。「一つだけのこっている。一つだけ。」
「一つとは、何が?」タランは、ドーリのことばがまるでわからないので大きな声できいた。
「あいず一つだ。なんだと思っていたんだ?」と、ドーリがけんかごしのようにいった。
ドーリの奇妙なふるまいにひかれて、フルダーとガーギがそばにやってきていた。すると、小人がふたりの方に顔を向けた。「この角笛は、はるか昔、人間と妖精族が深い友情に結ばれていて、助けあうのを喜びに思っていた時代につくられたものなんだ。この角笛には、妖精族をよびだすあいずがこめられている。」
「わたしには、よくわかりません。」と、タランが口をはさんだ。
「よくきいていればわかる。」ドーリはそういいかえして角笛を返した。「注意してきけばな。いいか。」そして、小人は口をつぼめると、高い音で長くひっぱる口笛を三回ならした。タランには耳なれない音だった。「きいたな? あの音をふきならす――いいか、あのとおりだぞ。ちがっちゃいけない。そうすれば、いちばん近くの妖精族のところへ行けて、手助けが必要なら、できるだけのことはしてくれる。さて、調子はおぼえたか?」ドーリはもう一度口笛をならした。
タランはうなずいて、なにげなく角笛を口にあてた。
「今はだめだ、このうすのろめ!」と、ドーリはどなりつけた。「おぼえておけばいいんだ。よびだしのあいずは一回しかのこってないといったはずだ。とっておくことだ。むだにしちゃいけない。いつか、そのあいずに、おぬしの命がかかるかもしれない。」
タランは、びっくりして角笛をまじまじと見た。「エイロヌイ自身が、これについてはなにも知りませんでした。貴重きわまりないご好意をいただきましたよ、ドーリ。」
「好意?」小人はばかにしたようにいった。「ぜんぜん好意じゃない。その角笛は、だれであろうと持ち主のためにはたらく。今回は、おぬしだったにすぎない。おれは、おぬしがすでに持っているものの使いみちを、ちょっとふやす方法を教えただけだ。好意だと? ふん! ありきたりの親切にすぎん。しかし、だいじに持っていろよ。最初のつまらぬ危険でむだに使ってしまったら、ほんとうの災難に出会ったとき後悔するからな。」
「えへん。」フルダーがせきばらいして小声でタランにいった。「わしのおぬしへの忠告はこうだ。おぬしの知恵と剣と足にたよれ、だよ。魔法は魔法だよ、やはり。おぬしが、このわしのような経験をしていたら、魔法などまったくいらないと思うだろうよ。」フルダーは不安そうに角笛を見て顔をしかめ、目をそらしてしまった。「たしかに、このわしはもとのわしにもどれんな!」そして心配そうに耳を手でかるくたたいた。「いやはや! まだふつうよりも二倍は長い感じだぞ!」
11 ドーラス
食事をすませると、一行は草の上にねころがり、その日ののこりと一夜をぐっすりねむった。翌朝、ドーリが別れをつげた。万事解決の知らせは、ドーリのたのみで、すでにカアが妖精の国まで知らせにとび出していた。カアはそこからまたタランに合流することになっていた。
「できればいっしょに行きたいんだ。」小人は、タランにいった。「豚飼育補佐がフラウガダルン山脈をうろうろ旅すると思うと毛が逆立つ。しかし、とてもだめだ。エィディレグにこの宝石をちゃんとわたさなくてはならん。そして、だれが運んでいくか? そりゃ、ドーリのやつさ、ふん!」
「あなたとお別れするのは悲しいですが」と、タランはいった。「思いもかけないほどいいことをきかせていただきましたよ。フルーネットの湖は、鏡とおなじ名まえですから、たぶん、それで、鏡のありかもわかるでしょう。」
「では、さらばだ。」と、ドーリはいった。「おぬしのおかげで、おれたちみんながカエルやらなにやらにならなくてすんだし、宝ももどった。妖精族をそれを忘れない。われわれの記憶は長くつづくのだ。」
小人は、旅人たちとかたく握手をかわすと、皮の帽子を押えてきつくかぶりなおした。ドーリは最後にもう一度手をふった。タランは、小人のずんぐりした姿がたしかな足どりで広い草原を進み、だんだん小さくなって、ついに草原の果ての森にのみこまれて消えるまで、じっと見送っていた。
一行は、暗くなるまで、また北東をめざして進みつづけた。タランは、ドーリが道案内になってくれたらと思い、ぶあいそな小人がいなくなったことをひじょうにさびしく思っていたが、気分は今までにないほど充実していた。タランは心も軽くぐんぐん馬を進めた。肩にかけた戦いの角笛が新しく勇気をふるいおこさせ、自信を持たせてくれた。
「エイロヌイの贈りものは、考えていた以上に貴重なものなんです。」と、タランはフルダーにいった。「ドーリがこの魔力を教えてくれたことに感謝しています。そして、そのことより、フルーネットの湖の話はほんとうにありがたかったです。おかしなものですね、フルダー」と、タランはそのまま話をすすめた。「なんだか、わたしの探索もおわりに近づいてきた感じがするんですよ。今まで以上にさがしているものがみつかるという確信がもてるのです。」
「えっ? なんだね?」と、フルダーはこたえた。たった今目ざめたとでもいうように目をぱちくりさせていた。ガーギは、モルダのことをすっぱりと頭からはらい落としてしまっていたが、吟遊詩人は、今もあの苦しみのために同様しているらしかった。しばしばだまって考えこんでしまい、今にも耳が長くなるのではないかというように、むっつりと両耳にさわってみるのだった。「恐ろしい経験だった!」フルダーは、今もそうつぶやいた。「フラムの者がウサギになるとは。おぬし、なにを話していたっけ? 探索? うん、うん、もちろんそれだったな。」
「ぷーんとにおう!」ガーギが、ふたりの話をさえぎった。「だれかが、おいしそうなもぐもぐむしゃむしゃつくってる!」
「おぬしのいうとおりだ。」フルダーが、鼻をくんくんさせてうなずいた。「ええ、くそ! またこの鼻め、ぴくぴくするわい!」
タランは、たづなをひいて、メリンラスをゆっくり歩かせるようにした。リーアンも、においに気づいていた。耳を前に向け、空腹そうにひげなめている。
「相手がどんなやつだか、たしかめようか?」と、フルダーがきいた。「あつい食事なら相伴にあずかりたいね――ウサギの肉はごめんだが!」
タランはうなずいた。一行は用心深く木立ちの中を進んでいった。タランは、相手に気づかれずに、まず相手を見るつもりだった。ところが、馬をせいぜい五、六歩も進めたとき、やぶかげからぶしょうひげの男がふたりあらわれた。タランはぎょっとした。見張り役にちがいないそのふたりが、さっと剣を抜いた。ひとりが鳥のなき声であいずを送り、鋭い目つきで一行をにらんだが道をふさごうとはしなかった。
あき地にはいったタランは、十二、三人の男が、火をかこんでごろごろしているのを見た。火のまわりでは、くしにさした肉がじゅうじゅういっていた。男たちはものものしく武装していたが、領主の紋章もつけていなかったし、旗も持っていなかった。何人かは肉をかんでいた。剣をといでいるものや、弓のつるにロウをぬっているものもいた。火のすぐそばに、鈍重な顔の男が片ひじをついてのんびりとねそべりながら、長めのあいくちをもてあそんでいた。男は、あいくちを投げ上げて、くるりとまわって落ちてくるのを、柄でつかんだり、刃先で受けとめたりしていた。馬の皮の上着は、そでがやぶれてとれていた。泥によごれた靴は、底が厚くて鉄びょうがびっしりうってあった。黄色っぽい髪が肩より下へたれさがっていた。男は、冷酷そうな青い目で、タランたち三人を品定めするように、ゆっくりとながめた。
「よくまいられた、殿さま方。」男は、馬をおりたタランにのろのろした声でいった。「ドーラスの野営にお迎えできるとは、まことにけっこうな風の吹きまわしでござる。」
「わたしは、殿さまではありません。」と、タランがこたえた。「わたしはタラン、豚飼育補佐……」
「殿さまではない?」ドーラスが、おどろいたふりをよそおって、タランの話をさえぎった。口もとにうすら笑いがうかんでいた。「そうときかなかったら、ぜったいわからないところだったなあ。」
「このふたりは仲間です。」タランは、ドーラスにうまうまからかわれて気をわるくしながらつづいていった。「これがガーギ、それからフルダー・フラム――たて琴をひく吟遊詩人となって旅をしていますが、故郷へ帰れば王さまです。」
「そして、このドーラスは、馬を進めるところ、いずれの地でも王さまさ。」と、黄色い髪の男は笑いながらいった。「さて、豚飼い殿、まずしいたべものはいかがかな?」男は、やけている肉をあいくちでさし示していった。「腹いっぱいたべてくれ。ドーラス一党はくらしのものに不足することがない。たべおえたら、おぬしたち三人のようなお仲間のことを、もっとよく知りたいもんだ。」
「おい、ドーラス、たて琴ひきはおかしな馬に乗ってるぜ。」ひどい切りきずあとが顔にある男が大きな声でいった。「しかし、おれの牝馬なら、あいつと戦っても負けない、ぜったいに。あの馬は根性まがりで生まれつきの殺し屋なんだ。ゆかいな勝負じゃないかい? どうだい、ドーラス? あの猫でちょっと遊ばせちゃくれねえか?」
「だまってろ、グロッフ。」ドーラスは注意深くリーアンを観察してこたえた。「おめえは、あいかわらずばかだな。」そして、くしの肉をひきぬくと、タランたちの方に突き出してよこした。フルダーは、それがウサギ肉でないことをたしかめると、夢中になってたべた。ガーギは、いつもどおり、たべろなどとすすめる必要はなかった。そして、タランも喜んで与えられた分をのみこみ、ドーラスが皮袋でついでくれた下等なブドウ酒を腹にながしこんだ。日の落ちるのがはやかった。一味のもののひとりが、枯れ枝を火にくべた。ドーラスが、目の前の地面にあいくちを突きさして、顔を上げると、鋭い目でタランを見ていった。
「それでは、殿よ、おれたち仲間のひまつぶしに、旅の話をしてはくれませんかな? どこから来て、どこへ行くか? して、それはなんのために? この山国は、目的がはっきりしていない人間には危険なところだ。」
タランは、すぐにはこたえなかった。ドーラスの口ぶりや火をかこんだ男たちの顔つきが、用心深くさせたのだ。「わたしたちは北へ行くところです――フラウガダルン山脈を越えます。」
ドーラスが、にやりと笑ってたずねた。「それから、どこへ行くのかね? それとも、こんなことをきくのは失礼とでもいのうかね?」
「フルーネットの湖まで。」タランはしぶしぶとこたえた。
「あの辺にある宝のうわさをきたことがあるな。」グロッフとよばれた男が口をはさんだ。「この連中がさがしているのは、それかな?」
「そのとおりかね?」ドーラスが、タランにきいた。「宝かね?」ドーラスは大きな声で笑った。「それじゃ口をききたくないのも当然だて!」
タランは首を横にふっていった。「わたしがさがしているものがみつかれば、金より価値がありますよ、このわたしにとっては。」
「ほーお?」ドーラスが身をのり出してきた。「しかし、それほどの宝っていうと、なにかね? え、殿? 宝石か? 細工のうまいかざりものか?」
「いいえ。」と、タランはこたえ、ためらってから、またいった。「両親をさがしています。」
ほんのしばらく、ドーラスはなにもいわなかった。にやにや笑いは消えていなかったがまた口をひらいたその声にはひやりとする者があった。「ドーラスがものをたずねるときには、正直にこたえてもらうことにしているんだ、え、豚飼い殿。」
タランは腹をたてて顔に血をのぼらせた。「わたしは正直にこたえた。そうでないというなら、うそつきといいたまえ。」
息をのむような緊張した空気が、ふたりの間を流れた。ドーラスが鈍重な顔に暗い表情をうかべて体を浮かしかけた。タランの手が剣の柄にかかった。だが、ちょうどそのとき、フルダーのたて琴からふいに陽気な楽の音が流れ出し、詩人も大きな声でいった。「まあまあ、みなの衆! 腹ごなしにゆかいな曲をききたまえ!」
フルダーが、美しい弧をえがいくたて琴を肩にあてがって絃の上に指をおどらせると、火をかこんだ男たちは拍手してつづけろとさいそくした。ドーラスは草の上に、浮かした腰をおろしたが、吟遊詩人をちらりと見て、火の中につばをはいた。
「もういい、たて琴ひき。」ドーラスがしばらくしてからいった。「おぬしの音楽は、ゆがんだなべをたたくみてえにうるせえや。もう休むとしよう。おぬしたちもここにとまっていけば、あしたの朝この一党がフルーネットの湖まで案内してやる。」
タランがフルダーに目をやると、彼のひたいにちらっとしわがよるのが見てとれた。タランは立ち上がってドーラスにいった。「ご親切に感謝します。しかし、時間がたりないので、わたしたちは夜旅をするつもりです。」
「ああ、そう――夜旅だ。」と、フルダーが口をはさみ、ガーギがいきおいよくうなずいた。「湖については――ああ、つまり――お手数をかけたくないのでしな。長いたびで、みなさんの国からずっとはなれておるから。」
「プリデインが、おれの国さ。」と、ドーラスはこたえた。「おぬしら、ドーラス一党のうわさをきいたことはないのかね? おれたちは、代金を支払ってくれるだれにでも仕えるんだ。強力な軍団がほしくてたまらない弱い領主にも、旅の危険から守ってほしいという三人の旅人にもな。危険は多いぞ、たて琴ひき。」ドーラスは、すご味のある声でつけ加えた。「フルーネットは、おれの党の者たちにとっちゃ、ほんのすぐそこだ。そして、おれはその土地にくわしい。おぬしら、無事に行きつこうというんだろ? それなら、さがしている宝のほんのすこしを分けてくれればいい。いやしい召使いへのわずかな報しゅうさ。」
「どうもありがとうございました。」と、タランがまたいった。「もう日がくれてしまいましたから、道をさがしながら行かねばなりません。」
「それでは!」ドーラスが、ひどく腹をたてた様子でさけんだ。「おぬしらは、おれたちのまずしいもてなしをばかにするんだな。殿ばらよ、おまえさんたちは、おれの気持をきずつけた。おれたちのような者といっしょにねたら身分にかかわるんだね? まあ、まあ、豚飼いさんよ、おれの身内を侮辱しないでくれ。やつらは誤解するかもしれないからな。」
じっさい、ドーラスが話している間に、彼の手の者たちの間から気味のわるいつぶやきがきこえてきた。そして何人かが剣に手をふれているのにタランは気づいた。タランは、吟遊詩人の不安はよく知っていたが、決心がつかなかった。ドーラスは、じっと目をはなさずにタランを見ていた。ふたりの男が、なにげなく、そっと馬つなぎの方へうつっていた。彼らが、夜やみの中で、剣をさやからひきぬいているだろうことは、タランにも想像できた。
「それでは、いうとおりにしよう。」タランは、ドーラスの顔をまっすぐに見ていった。「一夜のもてなしを喜んでお受けする。そして、あす、失礼しよう。」
ドーラスはにやりと笑った。「それについちゃあ、またゆっくり相談するひまがある。ゆっくりねむってくれ!」
「ゆっくりねむれだと?」フルダーは、マントに身をくるんで落着かない気持で横になりながらつぶやいた。「とんでもない。わしはぜんぜんねむれないさ。今までも山国はすきになったことがないが、これでもう一つ、ますますきらいになるわけがふえたよ。」フルダーは、あたりをさっと見まわした。ドーラスは、火のそばに身を投げだすように横になったところだった。まちがいなくこの親分のさしずであろ、グロッフという名の男が、タランたちのすぐそばに横になった。「わしは、こういう野武士団のことはよく知っている。」フルダーは声をひそめて話をつづけた。「ごろつきとぬすっとばかりさ。近隣の領主と戦うために彼らの剣をやとった領主たちは、すぐに、彼らの剣が、わが身に迫るのを知ることになる。ドーラスがわしらを危険から守る? いちばんの危険こそドーラスじゃないか。」
「あの男は、わたしたちが宝をさがしていると信じています。」タランは、さやき声でいった。「そう思いこんでいて、ほかのことは信じようとしません。それは、ある意味ではつごうがいいことです。」タランは、ゆううつそうにいい足した。「わたしたちについて行きさえすれば金か宝石があると考えているかぎり、すぐに殺すことはしないでしょう。」
「そうかも知れんが、そうでないかも知れん。」と、フルダーはこたえた。「わしらののどをかき切ることはしないかも知れない。しかし、まちがいなく腹をきめるだろうな。その、――宝のありかを教えろと、わしらをおどしたりすかしたりするといったらいいかな。そして、やつのことだ、足の指をひねるなんてことより、もっとずっとひどいことをすると思うね。」
「それはどうでしょう。」と、タランがこたえた。「拷問するつもりなら、すでにしているだろうと思います。彼はわたしたちをおさえこんでいる。そしてわたしたちは彼といっしょに旅をしたいと思っていない。しかしわたしは、彼がそれほど自信を持っていないのだと思います。そりゃ、こっちは十二人に対して三人ですが、リーアンを忘れちゃいけません。戦いになったら、ドーラスがわたしたち三人を殺す可能性の方が、それはずっと大きい。それでも、ドーラスはひどい犠牲をはらう。つまり部下の大部分ばかりか彼自身もやられるかも知れないと、抜けめないから見とおしていると思いますよ。彼は、やむをえない場合以外は、その危険はおかさないでしょう。」
「そのとおりであってほしいよ。」と、吟遊詩人はため息をついていった。「そのとおりとわかるまで、こんなところにいたくはないな。へびの巣で一夜をすごす方がまだましだからな。この悪漢どもから逃げださにゃならん! だが、その手段は?」
タランは、眉をしかめてくちびるをかんだ。「エイロヌイの角笛。」タランはまずそれをいった。
「はい、それ、それ!」と、ガーギがささやくようにいった。「それですとも! トテトテ、ボボーの魔法の角笛! 助けが来てすくい出してくれる! 吹いてください、賢いご主人!」
「エイロヌイの角笛。」タランは、ゆっくりといった。「そう。これがまず頭に浮かんだ。だが、今使わなくちゃならないだろうか? これは貴重な贈りものだ。むだに使うには貴重すぎる。ほかのあらゆる手が失敗したら……」タランはそこで首を横にふった。「これを吹きならす前に、自分たちの力できりぬけてみようじゃないですか。さ、ねむりましょう。」タランは、フルダーとガーギをせきたてた。「できるだけよく体を休めることです。夜明けのちょっと前に、ガーギはそっと馬つなぎまで行って、ドーラスの馬ぜんぶのはづなを切手くれ。フルダーとわたしは、見張りを沈黙させられるかどうかやってみる。馬をおどろかして、四方八方にちらばせてくれ。それから……」
「必死で逃げるわ」と、フルダーが口をはさんだ。そして一つうなずいて、「うまいぞ。それがいちばんうまく行きそうだよ。おぬしのその角笛をならさないとすれば、たぶんそれ以外に方法はなかろうよ。ドーラスのやつ!」フルダーは、両手でたて琴をだいじそうにかかえてまたいった。「わしの音楽がうるさいだと! たて琴がゆがんだなべだと! あのならず者め、つんぼでめくらだ! フラムの者は寛大である。しかし、わしのたて琴を侮辱するとは、ドーラスめ限度をこえている。だが悲しいことに」フルダーは正直にいった。「ほかに四、五人、おなじ意見をいった者たちがいる。」
ガーギとフルダーは、ときどき目をさましながらうとうとしていたが、タランは不安な気持でずっとおきたままでいた。たき火がもえつきておきになった。ドーラスの手下たちの大きな寝息がきこえた。グロッフはあおむけに寝てじっと動かず、ごうごういびきをかいていた。しばらくの間、タランは目をとじた。戦いの角笛を吹きならさないのは、まちがったやり方だろうか? タランは三人の命があぶないせとぎわであるとわかっているので、胸がいたかった。ドーリは贈りものをむだに使うなと警告していた。しかし、この賭けは重大すぎはしないだろうか? この贈りものは、どうしても、必要とわかっている今こそ、使うべきではいなだろうか? こういう考えが、月のない闇夜よりも重く、タランにのしかかってきた。
黒い夜空が、かすかに灰色を見せはじめたとき、タランはそっとガーギと吟遊詩人をおこした。三人は、注意しながらつないだ馬のところに向かった。タランは、のぞみありと思って胸をはずませた。ふたりの見張りが剣をひざにだいてぐっすりねむりこんでいたのだ。そこで、はづなを切るガーギに手をかそうと向きをかえた。カシの黒い幹がぼんやりと目の前に見えたので、タランは身をかくすその陰にはいりこんだ。
長ぐつの足が一本、ぬっとつき出て、タランの行く手をさえぎった。ドーラスが、あいくちをつかんで、その木の幹に背をもたせて立っていた。
12 賭け
「ほほう、豚飼い殿、これはまた、なんとあわただしいお立ちで。」ドーラスがあざけりをこめた口調でいった。「あいくちを右から左へ、左から右へと投げてうけとめながら、舌をならし、「あいさつもなく? 礼もいわずにかね?」それから、首を横にふって、「そいつは、おれや手下の者たちに対して、たいへん失礼なことだ。やつらはひじょうに感じやすい。やつらの心をひどく傷つけたんじゃないかと思うね。」
ドーラス一党の者たちは、すでにおきだしていた。一瞬、タランはどうしてよいかわからなくなって、フルダーとガーギに目をやった。グロッフはすでに立ち上がっていて、いかにもなにげなさそうに、そっと剣をにぎっていた。タランが、剣をぬくよりグロッフが剣をふりあげる方がはやいだろう。タランにはそれがわかった。そこで、すばやく、馬つなぎの方をうかがった。ドーラスの部下のひとりが、いつの間にか馬の群れのすぐそばへ行っていて、のんびりと狩猟用のナイフの先で手のつめを切っていた。タランは、ふたりの仲間に、動くなと身ぶりで知らせた。
ドーラスが態度をあらためた。目つきがつめたかった。「ほんとうに、おまえたちは、おれたちと別れるつもりなのかね? 山地は危険だと注意されかもかね?」ドーラスは肩ををすくめていった。「おれは、いやがる客をむりやりもてなすなんていわせない。行きたいんなら行くがいい。宝をさがせよ、さっさと旅をしてな。」
「非礼なことをするつもりはない。」と、タランはこたえた。「悪意を持たないでくれたまえ。わたしたちに悪意はないのだから。あなたとお仲間にこれでお別れします。」
タランは、ほっとしてガーギと詩人を手まねきすると、ドーラスに背を向けた。
ドーラスの片手が、タランの肩をつかんだ。「なんだと! それじゃ、かたのついていないちょっとした問題のけりもつけずに行こうってのかい?」
タランがびっくりして立ちどまると、ドーラスはつづけていった。
「そうさ、豚飼い殿、勘定をすまさなくちゃならないぜ。代金をごまかそうってのかね? おれたちゃ貧乏なんだ。もてなしっぱなしでただってわけにはいかないよ。貧乏すぎてさ。」
ごろつきたちが荒々しい声で笑った。ドーラスは、鈍重そうな顔をゆがめて、相手をうかがうような、へりくだった表情をつくってみせた。そのわざとらしさが、かえって顔つきを恐ろしげにしていることにタランは気づいた。ドーラスは、ゆすり口調で大声をあげた。「あんた方は、おれのところの肉をくってブドウ酒をのんだ。一晩中、おれたちに守られて安眠した。あんた方にとっちゃ、こういうことはただ同然なのかね?」
タランは、おどろきあきれると同時に、きりっと身をひきしめてドーラスに目を据えた。手下が首領のそばに集まってきた。ガーギが、じりじりとタランに身を寄せてきた。「守られて、だと!」フルダーがおしころした声でつぶやいた。「だれが、わしらを、ドーラスから守ってくれるのかね? 守る? ふん、わしにいわせりゃ、こりゃ強盗行為だ!」
「それから、まだあるぜ、豚飼い殿。」ドーラスがすかさずつづけた。「おぬしをフルーネットの湖まで案内する料金のことさ。おれの一党にとっちゃ、楽でない旅だ。道は長くて悪いし……」
タランは、相手の、顔を真正面に見た。「あんたは、たべもの飲みものを与えてくれたし、ねむるところも用意してくれた。」タランは、ドーラスのわなから逃げ道をさがすため、必死に頭をはたらかせていった。「それには、ちょうどよいだけのものを支払う。わたしたちの旅の護衛については、たのみもしないし、必要もない。」
「おれの手下は、その気で待っているし、二つ返事で道案内をするよ。」と、ドーラスは返事をした。「取ひきを破るのはそちらさんの方だな。」
「ドーラス、わたしは取ひきなんかしなかった。」と、タランはこたえた。
ドーラスは目を細めた。「しなかった? しかし、やはりきめたことは守ってもらうぜ。」
ふたりは、ほんのしばらく、だまったままにらみあった。手下たちは落着かなげに動きまわっていた。タランには、ドーラスの表情を見ただけでは、この男がほんとうに思いきって戦いをしかけてくるつもりなのかどうか、判断がつかなかった。しかけてくるとしたら、ぶじに逃げだすことはまずのぞみうすだと、タランは落着いて腹をきめた。そこで、思いきって「なにがほしい?」ときいてみた。
ドーラスはにやりと笑った。「こんどは、分別のあることをいったな。わずかな勘定はすぐに片がつく。おれたちゃ、つつましい人間でしてね、殿さま。ごくわずかしか要求しない。あたりまえの料金よりずっとすこししかいらないんだ。――まあ、おたがいの友情に免じて、ドーラスも太っ腹になろう。なにをくださるね?」ドーラスは、タランの剣帯に目をやった。「りっぱな剣だな。そいつをもらおう。」
タランは片手で剣のつかをしっかりとつかみ「これはやれない。」と、いそいでいった。「はづなとはみを渡そう。それだけでも、こっちは不都合なんだが。この剣は、わたしの主人のダルベンがくださったものだ。ほんとうにわたしのものといえる最初のものだし、わたしがおとなになった最初の持ちものなんだ。わたしが愛している人が、手ずから帯びさせてくれた剣でもある。この剣は取ひきに出さないよ、ドーラス。」
ドーラスは頭をぐいとそらせて高笑いした。「ただの鉄の棒になんと仰々しい。愛する人が腰に帯びさせてくれた、だと! 最初の剣だと! そんなことで値打ちがあるもんか。りっぱな武器ってだけのことだ。おれは、それより上等なやつをすてたことがある。しかし、その剣の形はおれにぴったりなんだ。それをわたしてくれれば、それで支払いずみになる。」
ドーラスは残忍なやり方がうれしくてまたらないといった顔つきで手をのばしてきた。タランは、ふいに、激しい怒りを感じた。前後の見境もなく、さっと剣をさやからひきぬくと、一歩さがった。
「気をつけろよ、ドーラス!」と、タランはさけんだ。「この剣をとろうというのか? そいつは高いものにつくぞ。殺されてからじゃ、持つわけにはいくまい。」
「そういうきさまも、そいつは持っていられないぜ。」ドーラスは、びくともせずにこたえた。「おたがいの腹のうちは知れてるさ、豚飼いめ。おれが、がらくたに命を張るほどばかか? きさまが、おれのすることをじゃまするほどばかか?
「そいつは、かんたんにわかることさ。」と、ドーラスはつけたしていった。「きさまがくやむことになるか、おれの方か。おれの力をためしてみるかね? ドーラス一党対きさまたちでたたかうかね?」それにタランが返事をしなかったので、ドーラスはしゃべりつづけた。「おれの商売は他人の血を流すことで、自分の血はむだには流さないんだ。それでこの問題はかんたんにかたづくじゃないか。双方ひとりが出てたたかのうさ。友人らしい賭けだぜ、え、豚飼いよ。やってみる度胸があるかね? 賭けるもの? きさまの剣さ!」
グロッフは、それまでじっと話をきいていたが、その悪党らしい顔をぱっと輝かせて、ぽんと手をうちならした。「いや、いい話だよ、ドーラス! やっぱり、おれたちを楽しませてくれるんだなあ!」
「えらぶ権利はそっちにある、おい豚飼い。」ドーラスがタランにいった。「そっちの代表はだれだ? きさまが仲間とよんでるその毛もじゃのけだものを、グロッフと戦わせるか? 両方ともまずい面をしてるから、いい勝負になるぜ。それとも、たて琴ひきか……」
「いや、ドーラス、これは、あんたとわたし、ふたりだけの問題だ。」と、タランはこたえた。「ほかの者のことではない。」
「ますます、けっこう。」と、ドーラスがこたえをかえした。「それじゃ賭けには応ずるんだな? おれたちふたりが武器を持たず、勝負いかんにかかわらず、それでけりとなる。ドーラスの約束だ。」
「その約束は、あんたの要求とおなじように、いつわりないだろうな?」と、タランはいいかえした。「わたしは、あんたとの取ひきなんか信用しない。」
ドーラスは肩をすくめた。「おれの手下は森の中までさがるから、おれの助太刀はできない。それなら心配なかろう。そっちも同じにしろ。これでどうだ? いやか応か?」
「いやだ、いや!」と、ガーギがさけんだ。「親切なご主人、気をつけて!」
タランは、しばらくじっと剣を見つめた。刃には模様などなく、つかにも、つか頭にもかざりがなかった。だが、ドーラスですら、そのすぐれた出来ばえを見抜いたのだ。ダルベンがこれを手渡してくれた日のことは、タランの記憶の中でも、剣そのもののように光りかがやいていた。そして、あのエイロヌイのこと――激しい言葉も、誇らしげにあからめた顔はかくせなかった。タランは、その剣をだいじなものと思っていたが、それでも、ただ一本の鉄にすぎないと、むりやり冷静に考えることにした。タランは心中うたがっていた。勝っても負けても、ドーラスが、双方全力をあげて戦わなくては、タランたちを自由に旅立たせるとは思えなかった。タランはそっけなくうなずいていった。「いいだろう。」
ドーラスが手下にあいずすると、タランは、全員が十分森の中へひきがるまで、注意深く見守った。タランが命じると、フルダーとガーギも、しぶしぶ馬のはづなを解いて、反対側の森にひっこんだ。タランは、マントをすばやく地面におき、そのかたわらにエイロヌイの角笛をならべた。タランがさやごと剣をはずして地面に投げるのを、ドーラスはずるそうな目を光らせて見ながら待っていた。
タランが後ろにさがった。そのとたん、ドーラスは、ふいにとびかかった。がっしりした戦士の突進の勢いで、タランは胸の息を押し出され、あやうく倒れそうになった。ドーラスが組みついてきた。タランには、かれがベルトをつかんで地面にたたきつけるつもりだとわかった。タランはドーラスの両腕をはね上げてすりぬけた。ドーラスはののしり声をあげて、かたいこぶしでなぐりかかってきた。タランは力いっぱいの一撃はよけたが、横びんを手ひどくなぐられた。耳がきこえなくなったタランは、はなれて体勢を立て直そうとしたが、ドーラスはやすむ間もなくぐいぐい攻撃してきた。
タランには、体重にまさる相手と取組みあってはいけないことがわかっていた。ドーラスの強力な腕につかまれば、タランなど二つに折られてしまう。敵がまたとびかかってきたとき、タランは片うでをつかみ、力いっぱいの背負い投げで、地面にたたきつけた。
しかし、ドーラスは、たちまち立ち上がった。タランは、ふたたび突進してきた相手を、身をかがめてかわした。体が重いのに、ドーラスの動きは猫のようにすばやかった。横ざまに倒れたが、すばやくくるりと立ち直って向かってきた。タランは、ドーラスの太い指が目をえぐろうとねらってくるのを知って、はっとした。タランが目つぶしの指をはずすことに気をとられていると、ドーラスは、タランの髪をつかんでのけぞらせた。ドーラスのこぶしが、ほほをねらってふりあげられた。タランはぞっとして、痛みをこらえながら、恐ろしい笑いをうかべている相手の顔をなぐりつけた。ドーラスの手の力がゆるんだ。タランは、相手の手をふりもぎってのがれた。ドーラスは、一瞬、雨とそそぐこぶしにとまどったようすだった。タランはわずかに有利になったので、それをさらにひろげようと、右に左に敏しょうに動いて、二度とドーラスに優勢になるチャンスを与えなかった。
ふいに、ドーラスが片ひざをつき、片手をさっと出してタランをつかまえた。タランが身をふりもぎってのがれようと必死になっていると、わき腹に、さすようないたみが走った。タランは、傷口をおさえて、しりもちをついた。ドーラスが立ち上がった。その手はくつからひきぬいた刃の短いナイフをつかんでいた。
「武器をすてろ!」と、タランはさけんだ。「素手の戦いだぞ! うらぎったな、ドーラス!」
敵は、タランを見下した。「これで、どっちがばか者か、わかっただろう、豚飼いの殿。」
エイロヌイの角笛が、手のとどくところにあったので、タランは、手をのばしてつかんだ。これを吹いたら、どれくらいで妖精族はこたえてくれるかと、タランはいそいで頭の中で計算してみた。彼らが来るまで、なんとかドーラスをくいとめておけるだろうか? それとも、結局は、逃げるしかないのだろうか? タランは、あの召集の調べを吹きならしたくてたまらなかった。しかし、はげしい怒りのさけび声とともに角笛を投げすてると、マントをひっつかんで楯とし、そのままドーラスめがけてとびかかっていった。
ドーラスのナイフが、マントのひだにひっかかった。かっとなって体に力がわきあがったタランは、ドーラスの手からナイフをはらいおとした。ドーラスは激しい攻撃を受けてよろめき、ばたっと倒れた。タランはすぐにとびかかって肩をつかむと、片ひざで胸をおさえこんだ。
「人殺しめ!」タランはかみつくようにどなった。「おまえは、ただの鉄棒ほしさに、人を殺そうとしたんだぞ!」
ドーラスの指が地面をひっかいていた。片手がぱっと上がった。一にぎりの土と石が、タランの顔にたたきつけられた。
「どうだ、それでも見えるか!」ドーラスが、胸の息をせいいっぱいはき出すようにさけんだ。タランは、いたむ目に両手をあてた。涙がほほをつたってながれた。タランは、手さぐりで相手をつかもうとしたが、ドーラスは、ぱっととびはねて逃げた。
タランは、前のめりに倒れて四つんばいになった。ドーラスのどっしりしたくつが、わき腹をどんとけった。タランはあっとさけんで、体をえびのようにまげてあえいだ。なんとか立ち上がろうとしたが、怒りがかりたてる力でも、体は持ち上がらなかった。タランはくずおれて、顔を地面につけてしまった。
ドーラスは大またにタランの剣のところまで行くと、草地からひきぬいた。そして、タランの顔に向けて、「この豚飼いめ、命だけはたすけてやる。」とあざ笑うようにいった。「きさまの命なんかなんのねうちもないし、殺したくもねえ。だが、こんど出会ったときにはそうはいかねえぞ。」
タランは頭をあげた。ドーラスの目には、あらゆるものを枯らし破壊してしまうかと思われるような冷たいにくしみの表情しか見られなかった。「あんたはなにも勝ちとっちゃいない。」と、タランはささやくような声でいった。「わたしとおなじように、ねうちのあるものなんか、なんにも手に入れなかったじゃないか。」
「いや、豚飼い、おれはなにかを手に入れればうれしい。そいつをうばったときは、さらにうれしい。」ドーラスはタランの剣を空中にほうりなげて受けとめると、頭をのけぞらせて、荒々しい高笑いをした。そして、くるりと向きを変えると、大またに森の中に姿をけした。
体力がもどり、わき腹の痛みがうずく程度に収まってからも、タランは長い間すわりこんでいた。それからようやく、持ちもの――破れたマント、戦いの角笛、剣のなくなった剣のさやなどを集め、フルダーとガーギのところまで歩いた。ドーラスは姿をけしていた。もう影も見えなかったが、高笑いの声は、まだ、タランの耳についてはなれなかった。
13 まよえる小羊
よく晴れておだかやな日になった。一行は山国を奥へ置くとわけ入っていた。ガーギがほう帯をしてくれたので、タランの傷のいたみはすぐに和らいだが、剣を失った心の痛みはそうかんたんには消えなかった。吟遊詩人の方は、ドーラスとの出会いのおかげで耳の長さの心配がはらいのけられてしまっていた。〈ウサギ〉という言葉もほとんど口にしなくなり、つらい旅のよい終わりを、タランといっしょに信じはじめていた。ガーギは、まだ、悪漢どものことをさかんにぶつぶつののしっては、しょっちゅう、後ろをふりかえって、腹立たしげにこぶしをふっていた。運よく、一行はそれっきりあの連中には出くわさなかった。もっとも、ガーギのものすごいしかめつらを見たら、どんな賊も安全なところにひきさがって近づかなかっただろう。
「恥ずべき強奪だ!」と、ガーギはののしった。「ああ、親切なご主人、なんで助けをよぶ角笛をならして、げんこつとだましうちをまぬがれなかったのです?」
「あの剣は、わたしにはとても大切なものだった。」と、タランはこたえた。「しかし、わたしの役に立つ剣はこれからもみつかる。エイロヌイの角笛は、一度使ってしまったら、魔力は失せて二度ともどらない。」
「ああ、そのとおりでした!」ガーギは、自分のもじゃもじゃ頭にはそんな考えは浮かんだことがないとでもいうような、びっくりした顔で目をぱちくりしながらさけんだ。「ああ親切なご主人のこの知恵! いやしいガーギの頭、いつまでもめぐりがよくならないのだろうか?」
「いや、わしらにも、タランが正しい手段をえらんだことがわかるほどの分別はある。」と、フルダーが口をはさんだ。「わしでも、同じことをしただろう――あ、いやいや、本心はだ」フルダーは、あわててたて琴に目をやってつけ加えた。「わしなら、顔から血の気が失せるまで吹きまくっただろうよ。ほら、ほら! 落着けよ、むすめや!」フルダーは、突然、リーアンがぱっと走り出したので大声でなだめた。「おいおい、こんどは、なにを追ってるんだ!」
ちょうどそのとき、タランは、一むれのいばらの中から心細げな動物のなき声がきこえてくるのに気づいた。リーアンは、もうやぶにたどりついていて、おもしろそうにうずくまると、しっぽをふりながら片脚をのばし、いばらを押しわけようとしていた。
白い子羊が一匹、いばらのやぶにからまれて動けなくなっていた。子羊は、巨大な猫を見て、ますます声をはりあげてなきたて、あわれっぽくもがいた。フルダーがたて琴をかきならしてリーアンをひきさがらせている間に、タランがいそいで馬をおりた。ガーギの手をかりていばらを押しわけたタランは、おびえきっている子羊をだき上げた。
「かわいそうにまいごになったんだ――しかし、どこの子羊かな?」と、タランはいった。「近くに農場など見なかったが。」
「いや、こいつの方がわしらよりもよく、わが家がわかると思うね。」と、フルダーがこたえていった。ガーギは、まいごの子羊を見ると、喜んでふわふわの頭をなでていた。「はなしてやって、じぶんで帰り道をみつけさせるよりしかたがないだろう。」
「その子羊は、わしのものだ。」と、きびしい声がした。
タランが、びっくりしてふりかえると、背が高く肩のがっしりとした男が、岩の斜面をあぶなっかしい足どりておりてくるのが見えた。髪にもあごひげにも白いものがまじり、ひろいひたいには何本かの傷あとがあった。男は、とがった岩を苦労してふみこえて来ながらも、黒い目はじっと一行にすえていた。牧童の粗末な身なりで、革の帯にさした狩猟用ナイフ以外武器は身につけていなかった。マントはまるめて背負っていた。上着は、へりがぼろぼろで、すっかりよごれていた。タランがはじめ杖か羊飼いの持つ先のまがった杖と思っていたものは、粗末なつくりの松葉杖であることがわかった。その男の右足はひどいびっこだった。
「その子羊はわしのものだ。」と、牧夫はもう一度いった。
「ほう、それではおかえしいたします。」タランはそうこたえて、子羊を手渡した。
子羊は、おびえたなき声をやめて、牧夫の肩に心地よさそうにうまくもたれた。牧夫はうたがわしげなしかめつらを消し、おどろいたような顔をした。どうやら、まいごの子羊をとりかえすには戦わねばならないと、すっかり思いこんでいたらしかった。「いや、ありがとう。」やや間をおいて、男はいった。そして、すぐにいい足した。「わしは、クラドック、クステニンの息子じゃよ。」
「はじめまして」と、タランはいった。「しかし、これで失礼します。あなたの子羊が大丈夫となれば、わたしたちはまだ先が長い旅なのです。」
クラドックは、松葉杖をしっかりにぎって向きを変え、斜面をのぼっていった。しかし、ほんのすこしのぼったとき、つまずいて倒れそうになった。そして、子羊をだいているため、片ひざをついてしまった。タランはすぐに追いついて両手をさしのべた。
「ここまで来る道もけわしいものでした。羊のかこいまでも大変でしょう。」と、タランはいった。「そこまで手をかしましょう。」
「いらん!」と、牧夫のクラドックはぶっきらぼうな大きな声でいった。「他人の力を借りねばならぬほど、このわしの体が不自由だと思うか?」だが、それでもまだタランが手をさしのべているのに気づくと、表情をやわらげ、「失礼した。おぬしのことばは、心からのものだ。それを悪意にとったのはわしだ。この山国では、つきあいもあまりなく、礼儀正しい者にもあまり出会わない。おぬしは、こうしてわしに親切にしてくれる。」クラドックは、タランの手をかりて立ち上がりながら、にっこりわらった。「そこで、もう一つおねがいしよう。わしのもてなしを受けてくれ。子羊をたすけてくれた礼としては、ささやかなものだが。」
フルダーが馬をひき、ガーギがうれしそうに子羊をだきかかえてくれたので、タランは牧夫につきそって歩いた。牧夫は、はじめ気が進まないようだったが、今は喜んでタランの肩にもたれていた。まがりくねったけわしい道をのぼりきってくだると、山にかこまれた深い谷だった。
タランの目にうつった農家は、今にも倒れそうな小屋だった。あたりの野原から堀りだした石を積み重ねた壁は、一部分くずれ落ちていた。六頭ほどの、へたに毛を刈りこんだ羊が草のまばらな牧草地で草をかんでいた。とびらのない物置きには、さびたスキ、柄の折れた根堀りグワのほか、とぼしい道具類が入れてあった。高い山々の頂きにかこまれた谷間のまん中に、とげのあるやぶでびっしりとかこまれたはたけがあった。わびしげな荒涼としたはたけだったが、草も生えないような大地にがんこにしがみついていた。それはただ一人生きのこった戦士が包囲の輪をちぢめてくる敵に、最後の孤独な戦いをいどむ姿を思い出させた。
クラドックは、はにかんでどきまぎしているようなそぶりで、一行を招じ入れた。小屋の中も、まわりのきびしい土地とほとんど変わらないくらい陰気だった。クラドックは、暖炉やこわれた炉石をなおしたり、屋根の穴をふさいだり、壁のすき間をふさいだりしようとしたことがあったらしかった。しかし、この牧夫の仕事は中断されたまま終わっていた。片すみには糸車があるので、女の人がいたらしいこともわかった。しかし、その人がその糸車をまわすのをやめてから、もう長い年月がたっていた。
「いや、羊飼いさん」フルダーが、板をのせただけの小さなテーブルのそばにおかれた木のいすにこしかけながら、心からいった。「こういう、人が見捨てた場所でくらすとは、あなたは大胆な人ですなあ。居心地はよい」フルダーはいそいでつけ足した。「居心地は、そりゃよい。しかし――その、ええ――いささか辺ぴですな。」
「わしのものです。」クラドックが誇らしそうに目を輝かせてこたえた。フルダーの言葉に刺激されたらしく、クラドックは、片手で松葉杖をぎゅっとにぎりしめ、片手をかたくにぎってテーブルについて身をのり出した。「わしは、ここを奪おうとしたやつらと戦ってきた。これからも、必要とあれば、戦う。」
「いや、むろん、そうなさるでしょうな。」と、フルダーはこたえた。「あなたを怒らせるつもりはありませんが、なによりもまず、ここをあなたから奪いとろうと考える者がいるなんてちょっとおどろきましたね。」
クラドックは、ほんのしばらく返事をしなかった。だが、やがていった。「この土地は、今よりは美しいところだった。何人かの領主たちが、わしらの所有しておるものを、彼らのものと主張するまでは、わしらだけで邪魔されずにおだやかに暮らしておった。わしらのうち、自由をだいじと思う者たちは、団結して彼らと戦った。戦いは激しく、損害は大きかったがとにかく彼らを追いかえした。」クラドックの表情はきびしかった。「だが犠牲も大きかった。死者は数多く、わしの心の友もみな死んだ。そして、このわしは」クラドックは松葉杖をちらりと見た。「このありさまになった。」
「ほかの人たちは、どうなりました?」と、タランはたずねた。
「時がたつにつれて、すこしずつ、家をすてて去ったよ。」と、クラドックはこたえた。「この土地は、守るにも奪いとるにもあたいしなくなった。彼らは苦労して他のカントレブへ移っていった。絶望して戦士づとめをした者もいるし、誇りと希望を押さえて、たべものとすまいを与えてくれる者の作男になった者もいる。」
「ですが、あなたはとどまった。」と、タランはいった。「荒れ果てた土地に、なぜです?」
クラドックは頭をぐっと持ち上げた。「独立した人間でいるためにさ。自由こそ、わしの求めるものだった。わしは、ここで自由を見出し、自由をわがものとした。」
「それでは、あなたは、わたしより運がいい。」と、タランはいった。「わたしは、自分の求めるものを、まだ見出していませんからね。」
クラドックが、たずねるような目を向けると、タランは旅の目的を語った。羊飼いは一言も口をはさまず熱心に耳をかたむけてきいた。しかし、タランが話をつづけているうちに、クラドックの顔には、疑いを押し殺し、自分の考えに対するおどろきを打ち消そうとするような、奇妙な表情がうかんだ。
タランが話しおえると、クラドックはなにかいいかけようとした。しかし、ためらって口をひらかず、わきの下に松葉杖をかいこむと、羊の世話をしなくてはならないとつぶやいて、だしぬけに立ち上がった。松葉杖にたよって出ていく後から、ガーギがやさしい動物をながめて楽しもうとついていった。
一日が暮れた。タランとフルダーは、テーブルをはさんでじっとすわっていた。「わたしは、あの羊飼いをえらいと思いますが、あわれとも思います。」と、タランはいった。「あの人は、一つの戦いに勝った結果、べつの戦いに負けてしまったのですね。あの人の土地が、いまや最悪の敵ですよ。そして、ほとんど勝ちめはありません。」
「どうもそのようだな。」と、吟遊詩人もうなずいていった。「雑草やいばらがこれ以上攻め寄せてきたら」詩人は、顔をしかめてつけ加えた。「屋根の草しか羊にくわせるものはなくなってしまう。」
「できたら手を貸してあげたいものです。」と、タランがそれに応じていった。「しかし、わたしの力じゃとても足りません。」
羊飼いがもどってくると、タランはすぐに出立しようとした。ところが、クラドックは、ぜひとまるようにとひきとめた。タランはためらってしまった。出発したくてたまらなかったが、フルダーが夜旅を好まないことはよくわかっていた。それに、羊飼いの目を見ると言葉以上にひきとめたがっていることがよくわかったので、とうとうタランも承知してしまった。
クラドックの食糧はとぼしかったので、一行は、ガーギの袋のたべものを分けあった。羊飼いはたべる間なにもいわなかった。たべおわると、いばらの枯れ枝を数本、小さな火にくべて、ぱちぱちと焔が上がるのをながめていたが、やがてタランに視線をうつしてじっとながめながら口をひらいた。
「わしの子羊は、まいごになってみつけ出された。しかし、むかしまいごになったべつの一頭は、ついにみつからなかった。」羊飼いは、かなり苦しい思いをしなくては口がきけないとでもいうように、一生けんめい重い口を動かした。「はるか昔、ほかのみながこの谷を出ていったときに、わしの妻は、わしらも出ていこうとしつこくいい張った。妻はやがて子どもを生むことになっていた。妻は、この土地には辛苦と破滅しかないと考えていた。だから、生まれてくる子どものためにそれをねがったのだ。」
クラドックは頭をたれた。「しかし、そのねがいを、わしはきかなかった。妻はくりかえし嘆願したが、そのつどわしははねつけた。やがて、子どもが生まれた。息子だ。息子は生きのびたが、妻は死んでしまった。わしは悲嘆にくれた。わしが殺したようなものだからだ。
「妻の最後のねがいは」クラドックは悲しみに沈んだ声でいった。「子どもをつれてここを出てくれということだった。」クラドックの、風雪をしのいだ顔がひきしまった。「そのねがいすら、わしは耳をかさなかった。出ていくものか」と、クラドックはつけ加えた。「わしは、そう思った。わしは自由のために血を流した。血以上のものを犠牲にした。あきらめるものか、とな。」
羊飼いは、しばらくだまりこんだ。だが、また話しだした。「わしは、男で一つでその子どもを育てようとした。しかし、わしの手に負えるものではなかった。丈夫な子どもではあった。しかし、一年足らずのうちに、その子が病気にかかっていることがわかった。そのときはじめて、母親の言葉が賢明であったことがわかった。それを、このうぬぼれ屋のばか者であるわしがきかなったわけだ。ついに、わしも、この谷を見捨てるつもりになった。
「だが、その決心は手おくれだった。旅の終りまで赤ん坊の命がもたないことがわかった。ここにいても、冬が越せないこともわかった。そのわが心の玉ともいうべき子どもは、すでに死の手に渡ったも同然であった。
「ところが、ある日のこと」と、クラドックはつづけた。「偶然にひとりの旅人がわが家をおとずれた。深い知識を身につけ、秘密の治療法をいろいろ知っている男だった。その男にまかせる以外、わが子は助からないことがわかった。男がそういったし、わしもうそでないことがわかった。彼は、わが子をあわれみ、わしにかわって育てようといってくれた。わしは、かれの親切に感謝して子どもをわたした。
「やがて、彼は、わが息子を連れていずこともなく立ち去っていった。それっきり、その男とわが子には出会わなかったし、たよりをきくこともなく時が流れた。わしは何度も、あのふたりはまちがいなく山のどこかで死んでしまったのだろうと思ったものだ。だが、それでもわしはのぞみをすてなかった。あの旅人は、いつか息子をわが手にもどすとかたく誓ってくれたからだ。」
羊飼いは、タランをじっと見ていった。「その旅人は、ダルベンといった。」
炉にくべたいばらの一本が、ぱちっとはねて二つに折れた。クラドックは、そこで口をつぐんだが、目はタランの顔にすえたままだった。フルダーとガーギは口がきけず、ただ目を見張っていた。タランが、のろのろと立ち上がった。タランは、自分がふるえていることに気づき、一瞬足から力が抜けてくずおれてしまいそうに思い、テーブルの端に片手をついた。口がきけず、考える力もとまってしまっていた。目に見えるのは、だまって自分を見つめているクラドックだけだった。そして、見知らぬ他人として出会ったこの男が、話をきいた今、ますます他人に思えるのだった。他のくちびるが動いたが、声にはならなかった。しかし、ようやく、きれぎれな言葉が出るようになったとき、タランは自分の言葉を他人がいっているように思った。
「では」と、タランは小さい声で言った。「では、あなたは、わたしの父親だと、いうのですか?」
「約束は守られた。」と、クラドックが落着いた声でいった。「息子は帰ってきた。」
14 夏の終り
夜明けが近かった。暖炉の火はとうに消えていた。タランはそっと起きあがった。昨夜は切れ切れにしか眠っていなかった。頭の中に、いろいろなことがごちゃごちゃに浮かんできた。フルダーが、びっくりして思わずさけび声をあげたっけ。ガーギは、うれしげにきいきいわめいていたなあ。クラドックは、ろくに見たこともない息子をあたたかくだきめしてくれた。そしてぼくも、面くらいながら、はじめて見る父親をだきしめた。たて琴の演奏があり、歌がうたわれた。フルダーがあれほど上機嫌になってあんなによい声でうたったのははじめてだった。そして、牧夫の小屋があれほどの浮かれさわぎでなりどよもしたこともはじめてにちがいなかった。それなのに、クラドックとぼくは、たがいの胸の内を感じとろうとでもするように、あまり気がのらずしずかにしていた。そして、とうとうみんなねむったんだ。
タランは入口まで歩いていった。羊たちはかこいの中で音もたてずにねむっていた。山の大気はひえびえとしていた。露が、草のとぼしい牧草地にひろげた銀のあみのように、きらりとひかった。石も、地球に落ちた星屑のようにきらめいていた。タランはぶるっとふるえ、マントでよく体をくるんだ。しばらく戸口に立っていると、自分がひとりではないことに気づいた。フルダーがかたわらに来ていたのだ。
「ねむれなかったのかい?」フルダーが陽気にいった。「わしもさ。興奮しすぎてな。全然目をつぶらなかったよ。あ、いやいや、ちょっとはつぶったかな。いやおどろいたよ、一日半の間のことだぜ! どことも知れぬ土地のまん中で、はぐれてから久しい父親をさがしあてるなんてやつは、そうざらにはいないよ。タラン、わが友よ、おぬしの探索は終わった。それもよい終りだ。これでフルーネット湖への旅をまぬがれた。正直いってわしも大いにうれしいよ。こんどは、これからの予定をたてねばならん。まず北に向かって妖精族の国に行き、ドーリのやつをとっつかまえるべきだな。それからわしの王国へ行ってちょっとごちそうをたべて浮かれさわぎをする。それから、おぬしはモーナまで航海し、エイロヌイに吉報を伝えたいだろうな。そうしよう! もうこれで探索は終わったのだ。おぬしは鳥のように自由なんだぞ!」
「かごのワシのような自由ですよ。モルダに魔法をかけられたようなもんです!」と、タランが思わずさけんだ。「あとほんのすこしでもここに残しておいたら、クラドックはこの谷に殺されてしまいます。彼の荷は重すぎます。それに耐えようとしている彼を立派だとは思います。ほんとうのところ、彼が立派なのはそれだけですよ。彼の行いのため母は犠牲になり、わたしもあやうく犠牲になるところでした。そんな父親を愛せる息子がいますか? しかし、クラドックが生きているかぎり、わたしは血のつながりで彼にしばりつけられているのです。体を流れる血がほんとうにおなじならの話ですが。」
「話です?」と、フルダーがいいかえした。そして、眉をしかめてじっとタランを見た。「話ですというのは、なんだか疑っている……」
「わたしの父だというクラドックの言葉はほんとうです。」と、タランはこたえた。「それを信じないのは、このわたしなんです。」
「そりゃまた、どういうことだ?」と、フルダーはたずねた。「彼が父だと知っているくせに、それを疑うというのは? まったくきつねにつままれたようだな。」
「わかりませんか、フルダー?」タランは、のろのろとつらそうにいった。「わたしが信じないのは、信じたくないからです。わたしは心ひそかに、ほんの子どものときですら、いつも夢見ていました。――わたしは高貴な血筋の生まれかもしれないって。」
フルダーはうなずいた。「うむ、いおうとすることはわかる。」そして、ため息をついた。「だが、残念ながら血縁関係は選択がきかない。」
「もうこれで」と、タランはいった。「夢はただの夢になりました。あきらめなくてはなりません。」
「彼の話には真実味が感じられる。」と、吟遊詩人がこたえた。「しかし、おぬしが内心疑いをもっているなら、どうしたものかな? うむ、あの悪ガラスのカアがいる! あいつさえいてくれたら、ダルベンに知らせに出してやれるんだが。しかし、やつが、この荒涼たる荒れ地で、わしらをみつけるとは思えないな。」
「荒れ地だと?」と、クラドックの声がした。
羊飼いは、戸口まで来ていた。タランは、さっとふりかえったが、口に出したことをはずかしく思い、クラドックがどこまで耳にしただろうかと考えた。しかし、クラドックは、しばらく前からそこにいたかもしれないが、そんな様子すこしも見せず、雨風にさらされた顔にほほえみを浮かべて、ひょこひょこと近づいてきた。ガーギも後からついてきた。
「今は荒れ地と見える。」と、クラドックはいった。「しかし、ほどなく、昔のように美しいところとなる。」そして、ほこらしげにタランの肩に手をおいた。「息子とわしがいる。ふたりでそうしてみせる。」
「わたしは考えていたのです。」と、タランがゆっくりといいはじめた。「わたしは、あなたも、カー・ダルベンへ来てくださったらと思っていました。コルもダルベンも喜んで迎えてくれます。農場は肥沃です。あなたが力をかして働いてくだされば、もっともっと肥沃なものになります。ここの土地は、荒れ果ててしまって、もとにもどすことはできないかもしれません。」
「それでは?」クラドックは、きびしい顔になってこたえた。「わしの土地をはなれるのか? 他人の召使いとなるのか? 今になって? ようやく希望が持てるようになった今になって?」タランを見る目に苦しげな表情が浮かんでいた。「息子よ。」と、クラドックは静かにいった。「おまえは、心の内にあることをなにもかも正直にいっていない。このわしもおなじことだ。幸福な思いのため、わしはほんとうのことに対してめしいになっておった。おまえの生活はあまりにも長い間、わしの生活とはべつであった。カー・ダルベンがおぬしの生家だ。ここを、この荒れ地を、このやせた土地をそう思う以上にな。――それにこの家の主人は足が悪い。」
羊飼いは大きな声ではなさなかったが、その言葉はタランの耳には強くひびいた。クラドックの表情はかたくなり、目にははげしい誇りの色が浮かんでいた。「ここの暮らしを共にせよとはいえん。また、わしにとっては見知らぬ人間である息子に、息子のつとめをせよともいえん。おぬしがのぞむなら、こうして再会したがわかれよう。おまえののぞむままにするがよい。それをとめようとはせん。」
タランがこたえる間もなく、クラドックは向きをかえて、不自由な足で羊のかこいへ行ってしまった。
「どうしたらいいでしょう?」タランは、あわてて大声で詩人にたずねた。
フルダーは首を横にふった。「彼はここを立ちのかんよ、絶対にな。おぬしが頑固な性質をだれからうけついたがじつによくわかる。だめだよ。やつはゆずらない。しかし、ここで落着いて考えれば、おぬし、自分でカー・ダルベンへ行くこともできるじゃないか。ダルベンの口からほんとうのことをきくさ。それを教えられるのは、ダルベンだけだから。」
「もどってくる前に冬になってしまいます。」とタランはこたえた。そして、荒れはてた土地とひどい小屋をじっとながめた。「わたしの――わたしの父は体力がつきようとしています。しごとは長くかかる。今すぐに手をつけなくてはなりません。そして初雪が来る前にやってしまわなくてはならないのです。」
タランは、しばらくのあいだ、なにもいわなかった。フルダーもなにもいわず、つぎを待った。ガーギも、気づかわしそうにひたいにしわを寄せ手口をとじていた。タランはふたりの仲間を見ると胸がいたんだ。「もしよかったら、フルダー、あなたがカー・ダルベンへ行ってください。そして、わたしの探索が終り、どんなことになったかを伝えてください。わたしは、やはりここにいなくてはなりません。」
「こりゃおどろいた。この荒れ果てたところにとどまるというのだね?」フルダーは思わずさけんだ。「疑いを持っているにもかかわらず……」
タランはうなずいた。「疑いは、わたしがわざとつくりだしたものかも知れません。いずれにしても、どうかすぐに知らせをよこしてください。しかし、エイロヌイには、探索が終り父親がみつかったとだけ伝えて、ここのことはいっさいいわないでください。」タランは口ごもった。「クラドックには、わたしの助けが必要なのです。あの人の暮らしも命も、わたしの助けがなくては終わってしまいます。助力をおしもうとは思いません。しかし、エイロヌイに、わたしが羊飼いの息子だと知られたら……だめだめ!」タランはふいにはげしくいった。「そんなことはとてもたまらない。どうか、わたしの別れのあいさつをつたえてください。彼女とわたしは、もう二度とふたたび会ってはならないのです。王女さまは羊飼いの息子のことなど忘れた方がいい。あなた方みんなが、わたしのことなど忘れた方がいい。」
タランは、ガーギに顔を向けた。「そして、親友中の親友だったな、おまえは。さ、フルダーといっしょに帰れよ。ここは、わたしの家であるかもしれないが、おまえの家はもっともっとよいところでなくてはいけない。」
「ご親切なご主人!」ガーギは、必死になってタランにだきつきながらさけんだ。「ガーギ、残る! ガーギ約束した!」
「もう、わたしをご主人とよばないでくれ。」タランは、にがにがしげにいいかえした。「わたしは主人などではない。ただの卑しい百姓だ。おまえは知恵にあこがれているのだったね。わたしといっしょにここにいては、知恵など身につかないよ。自由の身になるんだ。この谷間は、何かがはじまるところではない。ものの終りなんだ。」
「だめ、だめ! ガーギ、そんな話きかない!」と、ガーギはわめいて両手で耳をふさいだ。そして、ぱっと地面に伏せると、火かき棒のように身をかたくして動かなくなった。「ガーギ、ご親切なご主人のおそばを去らない。だめ、だめ、ひいても押してもだめ! なぐってもひきずってもだめ!」
「それじゃ、すきにしろ。」タランは心をきめたガーギが、絶対に気を変えないことを知って、とうとうそういってしまった。
クラドックがもどってきたとき、タランは、自分とガーギはここに残るが、フルダーはこれ以上旅をおくらせられないとだけいった。
リーアンの旅支度がととのうと、タランは、山猫の力にあふれた肩をだき、悲しげににゃあにゃあなくリーアンのこんもりした毛にほほを押しつけた。タランとフルダーは、もう何もいわずにしっかりと手をにぎった。詩人がふりかえりふりかえりしながら、ゆっくりと谷を出ていくのを、タランはじっと見送った。
タランとガーギは、メリンラスとポニーを馬小屋につないだままにして、わずかな持物をくずれかけた小屋に運んだ。タランは、一瞬立ちどまって、せまいへやのくずれかけた壁や、消えている暖炉の火や、割れている炉の石をながめた。牧草地でクラドックがよんでいた。
「これで」と、タランはつぶやいた。「これで、われわれは帰宅したんだ。」
それから何週間かの暮らしは、モルダのおどしが実現していても、これほどひどくはなかったろうと思うほどだった。灰色の高い峰々が、びくともしないおりの鉄棒そっくりにタランをとりまいてそびえていた。タランはそのおりのとりことなり、長い日々の仕事の過酷さを、なんとか忘れて生きようとした。仕事は多かった。というより、いっさいがっさいしなくてはならなかった。土地を切りひらかなくてはならなかった。小屋をなおさなくてはならなかった。羊の世話もあった。最初のうち、タランは、毎朝暖炉のかたわらのわらのベッドからまるで一睡もしなかったようにつかれた体をおこし、待ちうける果てもない労働に出ていかなくてはならないのが、たまらなくつらかった。しかし、まもなく、ずっと前コルがいったとおり、氷のようにつめたい川へでもとびこむように、自らその仕事にうちこむことができるようになり、へとへとにつかれていても気分爽快になれることにあらためて気づいた。
ガーギやクラドックと力を合わせて、タランは汗みずくではたけの大石をひきおこし、小屋までひっぱっていった。石は、壁をなおすのに使えるのだった。羊が水をのむ泉は、ぽたぽ水がしたたるだけになっていた。タランは、それを堀りかえす方法を思いつき、ぬれた土を掘り出し、あたらしい水路をつくって平らな石をしきつめた。水が、きらめきながら新しい水路に流れこんできたとき、タランはもう何も思わず、ひざをついて手にすくって水を飲んだ。そのつめたい一口の水は、生まれてはじめて水をのんだかのように、タランの心をおどろきの念でいっぱいにした。
ある日のこと、三人は、下生えやいばらのやぶを焼きはらいにかかった。タランが受けもったところは、なかなか火が燃え上がらなかった。タランはやぶを分けてはいり、たいまつの火を、やぶの中深くつっこんだ。そのとたん、突然強い風が来て、焔がタランに向かってきた。いそいでひきさがったとき、上着がいばらのとげにひっかかった。タランは、よろめいて倒れながらさけび声を上げた。焔が、まっかな波のようにおそいかかってきた。
ちょっとはなれたところにいたガーギが、さけび声をききつけた。クラドックは、タランの危難に気づくと、松葉杖をついているにもかかわらずガーギよりはやく体をぶつけるようにタランのかたわらにとびこんできた。そして自分の体でタランをかばいながら、ベルトをつかんでひっぱり出した。タランをつかまえていたいばらが、ばちばち、ごうと焔を吹きあげた。
羊飼いは、疲れきったようにあえぎながら、苦しげによろよろと立ち上がった。
タランは傷一つ負わなかったが、クラドックはひたいと手をやけどしてしまった。しかし、彼はにっこり笑ってタランの肩をぽんとたたき、ぶっきらぼうだが愛情のこもった声で「ようやくみつけた息子を、死なせてたまるかい。」とだけいって、また仕事にもどっていった。
「ありがとうございました。」と、タランは大きな声でいった。だが、その声には感謝の念だけでなく、にがにがしげな調子もこもっていた。命をすくってくれた男は、同時に、彼の人生をめちゃめちゃにしてしまった人間でもあったからだ。
こうして、日々が流れた。羊が病気にかかると、クラドックは案外にやさしく面倒を見てやるので、タランは感銘を受けた。だが、高貴の生まれというタランの夢をばらばらにひきさき、タランが心にひめていたエイロヌイへののぞみをすっかりうちこわしたのも、このクラドックだった。羊の群れに危険が迫ると、クラドックは、タランがただただ感嘆する勇気をふるい、わが身の安全などかえりみず、オオカミのように強くなった。だが、同じ男が、血のつながりというくびきで、タランをとりこにしているのだった。クラドックは、タランとガーギが十分にたべてしまうまで、食物にふれようともしなかった。そのため、よく腹をすかせたままですごすことがあったが、いつも食欲がないのだといいはっていた。だが、この贈りものは、タランののどにつかえた。そして、他の人間のしたことだったら感銘を受けたであろうクラドックのこの気前のよさを、タランは軽蔑した。
「この谷間には、羊飼いがふたりいるのか?」と、タランは心の中でさけんだ。「わたしがひたすらに愛情が持てるひとりと、心から憎悪するもうひとりが?」
こんなにして、夏がすぎていった。愛とにくしみにゆれる心の苦しみを忘れるため、タランはただはたらくためにはたらいた。仕事はまだたくさん残っていたし、羊はいつも世話をしなくてはならなかった。今まで、クラドックは、生まれた子羊がまいごになるのを防いだり、もっと豊かな草地を求めて野原を遠くさまよう羊の群れを、夕方かこいにおいこむことできりきまいをしていた。ガーギはぜひにとたのんでこの仕事をひきうけたが、羊もそれをガーギとおなじくらい喜んでいるように見えた。ガーギは子羊たちといっしょに楽しそうにはねまわり、母羊に舌であいずしたりやかましく世話をやいたりした。だから、意地の悪いとしよりの牡羊ですら、ガーギがいるとおとなしくなった。だんだんに寒くなってきたので、クラドックは、毛をかりこんでない羊の皮の上着をガーギに与えた。そのため、羊たちといっしょに動いていると、毛皮で丸くなったこのもじゃもじゃの生きものと羊たちとの区別が、タランにはつかなくなってしまった。タランは、しばしば、ガーギが岩の上にこしかけ、羊がこの守護者をあがめるように、まわりに群がっている場面に出くわした。羊たちは、どこへでもガーギについてあるき、小屋の中までとことこついてくるのだった。羊の群れの先頭を進むかは、戦いに行く武将のようにとくいそうだった。
「よっくごらんなさい!」と、ガーギはさけぶのだった。「羊たちは、なき声をあげてガーギにあいさつする! 親切なご主人、豚飼育補佐? では、大胆なかしこいガーギ、羊飼育補佐!」
しかし、なおもタランは、障壁のような山々のかなたに目を向けていた。一日が終わるごとに、フルダーの姿を求めて小道に目をこらし、カアがちらとでも見えるかとクモをじっとながめた。カラスは、フルーネットの湖へとんでいってしまったのではないかと心配だった。湖でタランたちがみつからなければ、今もそのまま待っているかもしれないし、いらいらして、どこかよそをさがしにいったかもしれなかった。吟遊詩人の方は、もどってこないだろうという気持がますます強くなった。日が短くなり、秋が刻々と近づいてきたとき、タランは夕方の見張りをあきらめ、空を見上げなくなった。
15 鳥かご、ひらく
夏から秋の終りまで、三人は、近づく冬からの唯一の避難所である小屋の修理のためにたゆまずはたらいた。そして今、どんよりした空からちらちらと初雪がおり、岩のわれめがかわいた白い雪で化粧をはじめたときになって、ようやくしごとは終わった。新たにつんだ石の壁はどっしりとゆるがなかった。屋根もふきかえされ、雨風がはいりこまないようにすき間がふさがれていた。中にはいると、新しい暖炉で火があかるくもえていた。木の長いすも修繕してあった。とびらも、もう、こわれたちょうつがいからだらりとたれてはいなかった。クラドックも、惜しみなくはたらきはしたが、小屋の修理は、大部分タランの仕事だった。さびついた道具をみがいてなおすと、必要なほかの道具をつくるのに役立った。実行はもちろんだが、計画もタランの仕事だった。だから、こまかい雪が、何かの虫のように、とかしていない髪にまとわりつくのをはらいもせず、戸口に立ってつくりなおした煙突からのぼる煙をながめていると、やはり誇らしい気持がわいた。
クラドックがやってきてかたわらに立ち、愛情をこめてタランの肩に手をおいた。しばらくの間、どちらもだまっていたが、やがてクラドックが口をひらいた。「これまでの年月、わしは、わしの財産を保ちつづけようとがんばってきた。しかし、これはもう、わしのものではない。」クラドックは、ひげだらけの顔に笑いじわを寄せた。「わしらのものだ。」
タランはうなずいたが、それ以上の返事はしなかった。
冬はしごとがわずかしかなかったから、短い日も、ますます長く感じられた。夜は、クラドックが、暖炉のそばで、たいくつしのぎに、若い頃の思い出やこの谷間の開拓のことを話してくれた。羊飼いが希望や苦難を語るのをきいているうちに、タランの感嘆の念は高まり、はじめてクラドックを自分によく似た人間と考えるようになった。
だから、クラドックにぜひといわれて、タランは喜んでカー・ダルベンで暮らした年月のことや、今までの身の上を語った。タランの冒険の数々をきくとき、クラドックの顔は父親らしい誇りにかがやいて見えた。だが、タランは、エイロヌイのことや、生まれてから今までの思い出が、ふいにわき上がってきて波のよう体全体をつつんでしまうとき、思い出の最中でも、ふいに話をやめてしまうのだった。ぷつんと話をとぎらせたタランは、顔をそむけて火をじっと見つめる。そんなとき、クラドックは、それ以上話せとはいわなかった。
共にはたらくうちに生まれた三人の愛情のきずなは、さらに強くなった。クラドックは、いつもかならずガーギに対して、親切にやさしくふるまっていた。そして、ガーギも羊飼いの仕事が今までになく楽しくて、すっかり満足していた。しかし、一度、冬のはじめに、クラドックがタランにだけこういったことがあった。「おまえがここに来て暮らすようになった日から、わしはおまえを息子とよんできた。でも、おまえが、わしを父とよんだことは一度もないな。」
タランはくちびるをかんだ。以前、タランは、腹立ちを大声でわめいて、この羊飼いにたたきつけてやりたいと思ったことがあった。だから、そういわれるとまたその欲望に心をさいなまれたが、やはり、父親としては軽蔑しながらも男としては尊敬している人間の気持を、傷つける気にはなれなかった。
タランの苦しみをさとって、クラドックは短くうなずいた。「たぶん、いつかはそうよんでくれるだろう。」
雪は、灰色の山頂をまばゆい白に変えた。タランが以前鉄のおりと見なしていた高い峰々が、今は、吹雪のほこ先から谷を守るたてとなっていた。そして、氷にとざされた小道を吹きぬけてくるオオカミのような冬の風を受けても、小屋はびくともしなかった。ある日の午後おそく、クラドックとガーギは羊の群れしらべに出ていった。風が強まったので、タランはせまい窓にどっしりした毛皮をかけようとした。
するとそのとき、とびらが、まるでちょうつがいからもぎとられでもしたように、ばーんとあいた。ガーギが、狂ったようにさけびながら小屋にとびこんできた。
「助けて、ああ、助けてください。親切なご主人、いそいで来てください!」ガーギの顔は紙のようにまっさお、タランのうでをぐいとつかんだ手がはげしくふるえていた。「ご主人、ご主人、いっしょに来てください、はやく、はやく!」
タランは羊の毛皮を投げすてて、あわてて羊毛の上着を着こんだ。ガーギが両手をもむようにしてうめくのにうながされ、マントをひっつかんで、あけはなしのとびらから走り出た。
外に出たとたん、風につかまってのけぞり、あやうくたおれそうになった。ガーギが、両手をはげしくふりながらせきたてた。タランは、強風に向かって背をかがめ、雪が吹きとばされていく野原を、必死な面持ちのガーギにおくれまいところびながら走った。タランたちが夏の間に整地した牧草地のはずれはすぐに岩だらけのがけにつながっていた。タランは、岩のくぼみをはうようにして越えるガーギのすぐ後を追い、まがりくねる通路に出た。ガーギがすぐに立ちどまった。
ガーギが、恐ろしそうに鼻をならしながら下の方を指さすのを見て、タランはおどろきと恐怖で息をのんだ。せまい谷の切りたった岸壁から、小さな岩だなが突き出ていた。そこに、ひとりの男が、両手をぐいとのばし折れまがった片足を体の下にして倒れていた体の一部が落ちた石に埋まっている。クラドックだった。
「よろけて落ちた!」と、ガーギが泣き声でいった。「ああ、情けないガーギ、あの人すべって落ちるの、くいとめられなかった!」ガーギは、両手でぴしゃりと頭をおさえた。「間に合わなかった! おくれて助けられなかった!」
タランは、あまりのことに、どうしたらよいかわからなくなった。刺すような悲しみに胸がふさがった。だが、同時に、はげしい解放感が、ふいに恐ろしいいきおいで、心の奥の奥からわきあがり、どっと胸の内にあふれた。タランには、それが押えられなかった。一目見たとき、目はくらんだが、同時に石のおりがくずれたことをさとったのだった。
岩だなの上でじっと動かなかったクラドックが、苦しげに動いて片手を上げた。
「生きてる!」タランはおどろいてさけんだ。
「ああ、ご主人! いったいどうやって助ける?」ガーギが、泣きながらいった。「恐ろしいがけ、ものすごくけわしい! 大胆なガーギでもおりていかれない!」
「ほかに道はないのか?」タランは、さけぶようにいった。「彼は大けがをしている。死にかけているかも知れない。あのままにしてはおけない。」タランは、くらくらするひたいに両のこぶしを押しあてた。「なんとかあそこまでおりていけたとして、どうやったらここまでひき上げられるだろう? それに、失敗したら――一つの命ばかりか三つの命が失われる。」タランの手はふるえていた。彼の心をとらえているのは、絶望感ではなかった。恐怖だった。頭の中でひそかに声をあげている考えに対する、ぞっとするような恐怖だった。あの大けがをした羊飼いをすくい出せるのぞみが、かすかにでもあるだろうか? ないとしたら、ギディオン王子でも、タランの決意を非難できないのではないか? いや、だれでも非難できないのではないか? 非難しないで、タランとともに、父の死を悲しんでくれるだろう。重荷はなくなり、谷間からも解放され、おりのとびらが大きくひらかれて、今までの人生が待っているのだ。エイロヌイが。カー・ダルベンが。タランは、自分の声がそんなふうに語りかけているように思った。タランははじ入り、ぞっとしながらその声をきいた。
やがて、その思いが胸がはりさけたかのように、タランは、ものすごいいかりを爆発させてどなった。「わたしは、なんて男なんだ!」
タランは、自分に対する激しい怒りになにもかも忘れてしまい、いきおいよく急斜面をくだると、氷の張りつめた岩場を手がかりをさぐりながらおりた。ガーギも、恐ろしさにあえぎながら、追いかけておりてきた。足をかけた岩がくずれ落ちた。タランは、寒さになえた手で突き出た岩をつかもうとしたが、その手もすべってしまった。タランはずるずると落ち、とがった石に胸をつかれてさけび声をあげた。目の前に黒い星がおどり、いたさで息がつまった。上の方から、ガーギが、氷のかけらや小石の雨とともにずるずる落ちてきた。タランの胸は早鐘をついていた。ようやく岩だなについた。手をのばせばとどくところにクラドックが倒れていた。
タランは、クラドックのそばへはっていった。クラドックが必死に頭を持ち上げようとすると、ひたいから血が流れた。「息子、息子や」と、クラドックがあえぎながらいった。「おまえ、わしのために、自分の命を犠牲にしてしまったぞ。」
「いいえ。」と、タランはこたえた。「動かないでください。なんとかぶじに上までお連れする方法を考えますから。」タランは、ひざをついて体をおこした。クラドックは、タランが心配した以上にひどいけがをしていた。タランは、羊飼いを押えつけていた重い石や岩のかけらを慎重にとりのけると、安全な岩壁の方へそっと移動させた。
ガーギは岩だなまでおりると、いそいでタランのそばへやってきた。「ご主人、ご主人。」と、ガーギは大きな声でいった。「ガーギ、のぼり道みつけた。でも、けわしい。とてもけわしくて、つまずいたり、ころげおちたりする危険ある!」
タランは、ガーギの指さすところを見上げた。岩と、雪にうずまった岩のわれめばかりの斜面に、氷のないほそいのぼり道が見えた。だが、ガーギがいったとおり、ほとんど垂直に近かった。ひとりずつならよじ登ることはできる。しかし、けが人をつれてふたりが登るとしたら? タランは歯ぎしりした。さっきのとがった石は、刃もののように鋭かったので、タランもひどい傷を受けていた。息を吸いこむたびに、胸がかっとあつかった。タランはガーギに、クラドックの両足をおさえていろと手であいずすると、切りたった岩壁にへばりつくようにしてよろよろと体を移し、両手を羊飼いの肩の下にすべりこませた。ふたりして、できるだけそっと立たせようとすると、クラドックがいたみに耐えかねて大声をあげたので、しかたなく一たんやめた。苦労してかえって相手を苦しめるのがこわかったのだ。
つよくなかった風が、悲鳴のような音をたてて谷間を吹きぬけ、タランたちにぶつかってきた。タランたちは、あやうく岩だなから吹きおとされそうになった。タランとガーギは、もう一度、クラドックを連れてよじのぼろうとしてみた。しかし、今度も、風がぶつかってきておしもどされた。すこしずつ光がうすれだし、谷間のかげがこくなってきた。タランの目の前の岩壁がゆらめくように見えた。気力をふるって羊飼いをたたせようとすると、足がふえるた。
「ほうっておいてくれ。」クラドックが、しわがれ声でつぶやくようにいった。「ほうっておくんだ。おまえは体力をむだにしておる。」
「ほうっておくんですって?」タランは思わずさけんだ。「肉親を見捨てる息子がどこにいます?」
このこたえをきくと、クラドックはちらっとほほえんだが、すぐに苦痛のために顔をゆがめ、「自分たちの命を守れ。」とかすれ声でいった。
「あなたは、わたしのお父さんです。」と、タランはいいかえした。「わたしはここにいます。」
「いかん!」羊飼いは、せいいっぱいの声でさけんだ。「わしのたのみのとおりにしろ。そして、ここから立ち去れ。いいか、よくきけよ。さもないと手おくれになる。肉親のつとめだと? おまえには、そのつとめの必要がない。おまえをしばる血のつながりなどないのだ。」
「そりゃ、どうして?」タランはあえぐようにいって、羊飼いをくいいるように見つめた。頭がすっかり混乱してしまったタランは、岩だなをしっかりつかんだ。「そりゃ、どういうことです? わたしは息子ではない、というのですか?」
クラドックは、一瞬、しっかりとタランに目をすえた。「わしは、だれにたいしてもいつわりをいったことはない。ただひとりをのぞいてだ。そのひとりが、おまえだった。」
「いつわり?」タランは、びっくりして口ごもった。「では、では、わたしにうそをついたのですか?――それとも、今うそをついている?」
「ほんとうが半分というのは、うそよりたちがわるい。」クラドックがもつれ声でいった。
「いいか、ほんとうだったのは、つぎのことだけだ。ずっとむかし、ダルベンがプリデインを旅してまわっていたとき、わしのところにとまったことはほんとうだ。しかし、何をさがして歩いていたかは、話してくれなかった。」
「子どもは」と、タランは思わず大きな声を出してしまった。「子どもは、いなかったのですか?」
「いた。」と、クラドックはこたえた。「息子がひとり。わしの話のとおり、はじめての子どもだった。だが生まれて、一日も生きてはいなかった。母親もいっしょに死んだ。」声がつぶやきになった。「そして、おまえは――わしは、残っているものを守っていくために、おまえの力が必要だった。ほかの方法が考えられなかったのだ。わしは、うそをいっているとき、すでにはずかしくてならなかった。そして、ほんとうのことを話すのはさらにはずかしかった。おまえの連れのひとりが出ていったとき、わしはただ、おまえもついていってくれたらと心で願うしかなかった。それで自由なってもらいたかった。おまえは、残る方をえらんだ。
「しかし、これもうそではない。」クラドックは、あわてていった。「最初、わしは、松葉杖のようにおまえにもたれかかっていた。おまえは、わしが必要としていることをやってのけてくれたからだ。しかし、息子への愛なら、わしはどんな父親にもひけはとらん。」
タランは深く頭をたれ、口がきけなかった。涙でなにも見えなかった。
クラドックは、自力で上半身をなかばおこしていたが、また岩だなの床の上にあおむけにねてしまった。そして「ここから立ち去れ。」とつぶやくようにいった。
タランが、片手をおろすと、戦いの角笛のへりに指がふれた。タランは、あっとさけんで、背をしゃっきりとのばした。そうだ。エイロヌイの角笛がある! 小屋からとび出したとき、無意識に肩にかけてきたのだ。タランは、いそいでマントの中から角笛をひっぱりだした。妖精族をよび出すあいず、だいじにしてきたよび出しのあいずがある。これだけがクラドックをすくえるのだ。タランは、よろよろと立ち上がった。足下で岩だながゆれるような感じがした。ドーリが教えてくれた調べが、ぼんやりとしか頭に浮かんでこなかった。タランは必死に思い出そうとした。突然、記憶がはっきりし、あの調べがもう一度頭の中にひびきわたった。
タランは角笛を口にあてた。澄んだ音色のあいずの調べが高々とひびきわたった。その音は、消えようとする直前、風にとらえられて谷間中に勢いよく流れていった。こだまが、こだまをよんだ。タランは、うずまく黒い影にのみこまれて岩だなにたおれてしまった。
それからどれほどの間、岩だなにへばりついていたのか、タランにはわからなかった。ほんのちょっとだったのか、それとも数時間だったのだろうか、ぼんやりとおぼえているのは、腰に綱が巻きつけられて力強い手で持ち上げられたことだけだった。小人らしい山男たちの素朴な顔も、うす暗くちらちらするたき火の光の中に浮かびあがったように、ちらりと見たおぼえがあったが、いくつ見たのかわからなかった。
目をあけたとき、タランは小屋にいった。炉では火が燃え、かたわらにガーギがいた。タランは、はっとして上半身をおこした。胸にやけるような痛みが走った。胸にはほうたいがまかれていた。
「あいずが!」タランは、かすれ声でつぶやいた。「役に立った……」
「はい、はい!」と、ガーギがさけぶようにいった。「妖精族が力強い引き上げ、持ち上げで、たすけてくれましたです! それから親切なご主人のひどい傷にほうたいしてくれて、必要なだけの薬草も残していってくれましたです!」
「よび出しのあいずか。」と、タランは話しはじめた。「ありがとう、ドーリ。むだに使うなと注意してくれたっけ。できるかぎり使わずにいてよかった。クラドックのためになったから。クラドックは――ああ、クラドックはどこにいる? あの人のぐあいはどう?」そこで、タランは、はっとして話をやめた。
ガーギがなにもいわず、じっとタランを見つめた。ガーギの顔はみじめにゆがみ、涙をかくそうとして、もじゃもじゃ頭をたれてしまった。
タランはベッドに身を沈めた。まっくらやみが、彼をのみこんだ。心のいたみに泣く自分の声だけが、がんがんと耳にひびくばかりだった。
16 旅人タラン
タランは、どっと出た熱にうかされていた。炎をあげる森を、果てもなくさまよっているように思った。夜も昼わからず、ベッドでのたうっていた。夢の中には、しばしば、ほんの一瞬、それもおぼろげに、エイロヌイや旅の仲間や、愛する人たちの顔があらわれた。だが、その顔々は、風に吹きとばされる雲のように移動し、形を変えながらたちまち消えていった。あらわれた顔が悪夢に呑まれ、その恐ろしさに大声でさけんでしまうこともあった。
しばらくたったある日、タランは、フルダーが目の前にいるように思った。しかし、吟遊詩人はやつれて目がくぼんでいた。黄色い髪がひたいにへばりついていた。口はしぼんだようになり、長い鼻は、刃物のように細くなっていた。着ているものも、ぼろぼろでよごれていた。肩にカアがとまってしわがれ声で「タラン、タラン!」となきたてていた。
「うむ、そうだな、ほんとうにもう目をさましていい頃合だよ。」フルダーが、にやりと笑っていった。吟遊詩人のかたわらでは、木のこしかけにすわったガーギが、心配そうにタランの顔を見ていた。
タランは、夢なのかうつつなのかよくわからず、目をこすった。今度は、目の前の顔が消えなかった。タランは、目をしばたたいた。羊の毛皮が窓からはずされていて、頭上に日の光の筋が見えた。
「ガーギ? カア?」と、タランはつぶやいた。「フルダー? あなた、なにがあったのです? 半分ぐらいやせたようですよ。」
「おぬし、人の外見のことなどいえる資格はなさそうだぞ。」吟遊詩人が、くすくす笑っていった。「自分の姿が見られたら、おぬし、わしよりひどい姿になってることがわかるだろうよ。」
タラン、まだ事情がよくのみこめないまま、うれしくてたまらずにとびあがって手をたたいているガーギに目を向けた。
「親切なご主人、またよくなられた!」と、ガーギはさけんだ。「元気になって、もう、うーうー、うむうむ、いわない。ぶるぶる、がくがく、ふるえない! そして、看病したのはこの忠実なかしこいガーギ!」
「ほんとうだよ。」と、フルダーがうなずいた。「この二週間、やつはめんどりみたいにおぬしの世話に大わらわさ。やつのペットの子羊だって、あれほどの世話はしてもらいはしなかったろう!
「わしは、カー・ダルベンから矢のようにまっすぐもどってきた。」と、吟遊詩人はつづけていった。「いや――その――じつをいえば、しばらくだが道に迷った。つづいて雪がふりだした。リーアンは、耳にまで達する吹きだまりを押しわけて進んだのだが、おしまいには、さすがの彼女もとまらざるをえなくなった。そこでしばらく洞穴に避難したんだが――いやもう、日の光を二度と見られんだろうと思ったよ。」フルダーは、ぼろぼろの衣服を手でさし示した。「あれは、人間をいさささかだらしなくさせるたぐいの旅だったね。四分の三ほどは腹ぺこだったことはいわずもがな。カアが、偶然わしらをみつけてくれてな、それで、雪のすくない道を教えてくれた。
「ダルベンが」と、フルダーはさらにつづけた。「いつもの彼に似合わず、それはひどくびっくりした。もっとも口に出しては『タランは羊飼いの息子ではない。しかし、そこにとどまるかどうかは、まったくあの子が自らきめることだ。』としかいわなかったがね。
「そこで、わしも、せいいっぱいいそいでもどってきた。」と、吟遊詩人は話をしめくくった。「残念ながら、もうすこしはやく到着できればよかったのだが、それはできなかった。」と首を横にふって「なにがあったか、ガーギが話してくれたよ。」
「クラドックは息子がほしかったのです。」タランは、ゆっくりした口調でいった。「わたしが親をほしがったのとおなじです。彼の言葉を信じていた方が、もっと幸せではなかったろうかと思います。しかし、結局、わたしは信じたのだと思います。ガーギとわたしだけなら、よじのぼってたすかったと思います。わたしは、エイロヌイの角笛をクラドックのために吹きならしたのです。もっとはやくそうしていたら、彼はたすかっていたかもしれません。あの人は、勇気のある善良な男でした。誇り高い男でした。それがもう死んでしまったのです。わたしは、それだけの価値があると思われるときにあのあいずを使うために、とっておいたのです。使うだけの名分はみつかったのですが、むだにしてしまいました。」
「むだにした?」と、フルダーがこたえた。「そうは思わないね。おぬしは最善をつくしたのだし、使いおしみをしなかったのだから、むだになったとはぜったいにいわないね、わしなら。」
「あなたの知らないことが、まだあるのです。」と、タランはいって、吟遊詩人をまっすぐに見た。「最善をつくした、ですって? はじめ、わたしは、クラドックを岩だなに置き去りにしようと考えたのです。」
「でも、そりゃ」と、吟遊詩人はこたえた。「だれにも恐怖にかられる一瞬はあるさ。みんながみんな、こうしたいとしばしば考えるそのとおりにふるまっていたら、プリデインには、悲しむべきふるまいしか見られなくなってしまう。行為を重く見ろよ、考えでなく。」
「こんどのことでは、考えもおなじように重く見るのですよ、わたしは。」タランは冷静な声でいった。「わたしをためらわせたのは恐怖ではありませんでした。ほんとうのことをいいましょうか? わたしは、いやしい生まれであることをはじていました。いやでたまらないほどはじていました。わたしは、クラドックを死ぬまでほうっておきたかったのです。そう、あのままにして死なせたかった!」タランはさけぶようにいった。「そうすれば、彼から自由になれるだろうと思ったのです。わたしは、羊飼いの息子であることがはずかしかった。しかし、今はちがう。今はじているのは自分のことです。」
タランは顔をそむけ、それっきり口をつぐんでしまった。
一行は、羊飼いの小屋で冬をすごした。タランの体力は徐々に回復した。最初の雪どけがきて、谷間がとけかかる雪にきらめき、長いあいだ胸の内にあたためていたことを思い出しながら、うすみどりの山々のいただきをながめていた。「もうすぐ、出かけられるぞ。」リーアンと馬たちの世話からもどってきたフルダーがいった。「道は通れるようになっているだろう。フルーネットの湖はそんなに遠くないはずだよ。カアが手をかしてくれたら、すぐに行きつける。」
「そのことをよく考えてみたのです。」と、タランがこたえていった。「一冬中、なにをしたらよいかをきめようと考えていました。そして、こたえは出なかったのです。しかし、一つだけはっきりしたことがありますし、実行の決心がつきました。わたしは鏡をさがしに行きません。」
「なんだって?」フルダーが、おどろいて大きな声を出した。「わしの耳はたしかなのかな? 探索をあきらめるだって? えりにえって今? あれだけのことがあった後でか? おい、タランよ、おぬし、体力は回復したが、頭のはたらきはまだもどっておらんな?」
タランは首を横にふった。「わたしは、あきらめたのです。わたしの探索は、あなた方みんなに深い悲しみしかもたらしませんでした。わたしには、名誉ではなく恥辱しか残りませんでした。タランという男、こいつには、心からうんざりです。わたしは高貴な生まれを心からのぞんでいました。そののぞみが強くて強くて、ほんとうにそうだと信じてしまいました。人に誇れる家督だけがわたしにとってだいじなものでした。それを持たない人たちは――わたしは、イーサンを尊敬しましたし、またクラドックも尊敬するようになりましたが、尊敬していても、高貴な家柄をついでいないということで、おとった人たちと見なしていました。彼らのことを知りもしないで、実際よりも劣っていると判断してしまいました。今は、彼らこそ、ほんものの男だとわかります。高貴ということですか? 彼らはわたしよりもはるかに高貴な人たちですよ。
「わたしは、自分を誇りには思いません。」と、タランはつづけていった。「二度とそんな気持にならないでしょう。かりに誇れるところがあるとしたら、それは今までのわたしにも、今のわたしにもありません。将来のわたしにしかないでしょう。生まれではなく、わたし自身の中から生まれてくるでしょう。」
「すると、あれこれ考えあわせて」と、吟遊詩人がこたえた。「荷物をまとめてカー・ダルベンに向かうのがいちばんいいな。」
タランは首を横にふった。「ダルベンやコルとは顔を合わせられません。そりゃ、いつかは。しかし、今はできません。わたしは、自分の力で生きていかなくてはなりません。自分で暮らしをたてていかなくてはならないのです。小鳥だって自分でえさをみつけなくてはならないんです、どうにでもして。」タランはふいに話を切って、思案する目つきで詩人を見た。「そうだ、オルデュだ――今のはオルデュのいった言葉ですよ。この耳できいたことなのに、今まで、心から理解してはいませんでした。」
「えさをみつけるというのは、せいぜいよくいっても食欲をそそる言葉じゃない。」と、フルダーはこたえた。「しかし、ほんとうのことさ。だれもがみな、技術を身につけているべきだ。例えば、このわしだ。わしは国王であるが、吟遊詩人としてわしに並ぶものはいまい――」絃の一本がぷつりと切れ、一瞬、数本がつづいて切れそうに見えた。
「うむ、とにかく、そんなことはべつにして」フルダーはあわてていった。「家に帰るつもりがないのなら、自由コモット人のところをすすめるね。あそこの職人たちなら、自発的な弟子を喜んで受け入れてくれると思うな。」
タランは、ほんのしばらく考えていたが、やがてうなずいた。「そうしましょう。これからはもう、喜んで迎えてくれる人なら、その歓迎をばかにしたりはしません。」
吟遊詩人はしょんぼりしてしまった。「わしは――わしはいっしょに行けんのだよ。王国が待っておるのでな。まったくのところ、わしは王として王座におさまっているより、詩人として遊歴している方がしあわせなのだ。しかし、すでに、あまり長いあいだるすにしてしまったんでな。」
「では、また行く道を別にしなくてはなりませんね。」と、タランがこたえた。「いったい、いつになったら、別れをいわなくてすむようになるのでしょう?」
「しかし、ガーギは親切なご主人にさよならをいわない。」ガーギが、思わず大声でいった。フルダーは荷物をまとめに行っていた。「だめ、だめ、いやしいガーギ、ご主人のおそばで苦労する。」
タランは一礼して顔をそむけた。「おまえの忠誠にあたいする人間になれる日がくれば、それだけで十分なむくいなんだが。」
「ちがう、ちがう!」ガーギは抗議した。「むくい、いらない! ガーギは、あげたいと思っているものをあげる。いっしょに残っても、なにも求めない。むかし、ご主人、友だちのいないガーギをなぐさめてくださった。こんどは悲しんでいるご主人、なぐさめさせてください!」
タランは、ガーギの手が肩におかれたのを感じた。「ダルベンのいったとおりだったよ、古なじみくん。」タランはつぶやくようにいった。「忠実で勘がよい、だったな? そのとおりだし、それ以上だ。しかし、おまえのなぐさめは、プリデイン中の知恵を集めたより、もっとわたしには役に立つよ。」
翌朝、タランとフルダーは、ふたたび別れをつげた。フラムの者はいつもかならず道がわかるとフルダーはいい張ったが、タランはきかずに、カアを案内に行かせた。このつとめがすんだら、カー・ダルベンへもどるか、どこへでもあるいはすきなところへとんでいくようにと、タランはカアにすすめた。「わたしの旅にしばりつけておくつもりはない。」と、タランはカアにいった。「自分でも、どこで終わる旅かわからないんだから。」
「すると、どうやって暮らしていくのですか?」と、ガーギがビックリしていった。「忠実なガーギおともする。そりゃ、もちろん! しかし、ご親切なご主人、まずどこへ行くのですか?」
タランは返事をしないで立ち上がり、しずまりかえる小屋と、クラドックの永遠のねむりの地を示す小さな石の塚をながめた。谷はふいにからっぽになったように見えた。「あの頃はよく」と、タランはひとりごとのようにいった。「この手で自らの牢獄をつくっていると思ったものだ。今になってみると、よく働き、じつにたくさんのものを得たと思う。二度とないことかもしれない。」
タランは、待っているガーギをふりかえり、「どこへ、ときいたのだったな?」とききかえすと、片ひざをついて地面から一にぎりの枯れ草をひき抜き、空中に投げた。強くなってきた風が、それを東の方、自由コモット人の国の方へ運んでいった。
「あっちさ。」と、タラン入った。『風が吹く方へだ。風についていくんだ。」
タランもガーギも、羊を残していきたくなかったので、ふたりは、めえめえなきながらついてくる小さな羊の群れとともに谷間を出た。タランは、よい牧草地のある農場にぶつかったらすぐ、羊をまかせてしまうつもりだったが、数日たっても人家にぶつからなかった。出発したときは南に向かったのだが、すぐにタランは方角をメリンラスにまかせた。雄馬は南よりもむしろ東に向かったが、ほとんど気にもとめないでいると、とうとう、幅が広く流れがはやい川の岸にたどりついた。
そこは、ゆたかな草地が広々とひろがっていた。前方に、からっぽの羊がこいが見えた。羊の群れは全然見えないのだが、かこいの木戸は、今にももどってきそうな羊を待ちかまえるようにあけてあった。屋根の低い農家と物置き小屋は生前と手入れがゆきとどいていた。毛のもじゃもじゃしたやぎが二匹、前庭で草をたべていた。タランは、びっくりして目をぱちくりさせた。農家のまわりに、大きいの、小さいの、足のついたのなど、さまざまなあみかごが、一見ばらばらにあちこちに置かれているあったからだ。川のそばの数本の木には、木の台がつくりつけてあり、川の土手沿いには、念入りに木の枝をあんでつくったせきらしいものが目についた。木の杭にたくさんのあみがとりつけてあり、流れの中にはつり糸が浮いていた。
たしかに、こんな風変わりな農家は見たことがないので、タランはとまどったが、さらに近づいて馬からおりた。すると、そのとき、背の高い男が物置き小屋からゆっくりと姿を見せ、ふたりの方に歩いてきた。タランは、農場の主婦が母屋の窓からのぞいているのをちらりと目にとめた。同時に、どこからともなく、大きいのや小さいのや、子どもが六人どっととび出してきて、ぴょんぴょん、ぱたぱたと羊の群れの方へかけ出してきた。近づいてきながら、楽しげに笑いあい、さひげあっていた。
「来た! 来た!」
子どもたちは、ガーギを見ると、羊よりもガーギの方に気をとられ、わっと群がり寄ってうれしそうにぱちぱち手をたたき、大きな声でいかにも楽しげにあいさつした。びっくりしたガーギも、ついおかえしに大きな声で笑い、手をたたいてしまった。
タランのところに来た男は、棒のようにやせていて、髪が長くひたいにたれていた。目が小鳥のように青くきらきらかがやいていた。肩幅がなく、足がひょろりと長いので、ほんとうにツルかコウノトリのようだった。上着のそで丈が短すぎるのに、身の丈の方は長すぎた。着ているものは、大きさも、形も、色もちがう端切れをつなぎあわせてつくったものらしかった。
「わたしはフロンウエンの息子フロニオです。」男は、親しみのこもった笑いを顔に浮かべて、片手をちょっとあげてあいさつした。「どなたか知りませんが、ようこそいらっしゃいました。」
タランは、ていねいに一礼した。「わたしの名は――ええ、タラン、といいます。」
「それだけですか?」と、フロニオがいった。「名前としては、ちょっと短く刈りこんでありますね。」そして、人がよさそうに大きな声で笑った。「それでは、無名氏の息子タランとでもよびましょうか? 所さだめぬタランがいいかな? そうして、生きていて息をしているのだから、たしかに、ご両親から生まれなさったにちがいない。そして、どこからかここに、いらっしゃったにちがいないでしょう。」
「では、さすらい人とでもよんでください。」
「さすらい人タラン? それがぴったりするのだったら、そうよびましょう。」フロニオは好奇の目を向けていたが、それ以上なにもたずねなかった。
そこで、タランが、羊をはなす牧草地をさがしていることを話すと、フロニオは力強くうなずいた。
「それじゃ、ここにおいてやりましょう。どうもありがとう。」フロニオは喜こんで大きな声を出した。「ここの草くらいみずみずしくうまい草はないし、かこいだってこんな安全なところはない。雪がとけはじめるとすぐ、こころがけて準備してきたんですよ。」
「しかし、あなたの羊の群れが窮屈になりはしないかと心配です。」と、タランはいった。たしかにフロニオの牧草地と、がっしりつくってあるかこいに感心し、ここにおいていけたらまったく安心だと思った。
「わたしの羊の群れ?」フロニオは笑ってこたえた。「たった今まで一匹も羊などいませんでしたよ! そりゃ、持ちたいと思い、羊を待ちのぞみ、子どもたちは、羊のこと以外は、ほとんどなにも話してはいませんでした。あなた方をここへつれてきてくれたのは幸運の風ですよ。妻のゲウィンは、子どもたちの着るものをつくるのに羊毛がほしいといっています。これで羊毛がたっぷり手にはいります。」
「ちょっと、ちょっと。」タランは、なにがなんだかわからなくなって口をはさんだ。「すると、あなたは、一匹も羊がいないのに牧草地を手入れして、羊がこいをつくったのですか? わたしにはわかりません。むだな労力では――」
「今はどうです?」フロニオは、ぬけ目なさそうに目くばせを一つしてききかえした。「わたしがそうしておかなかったら、第一あなたは、すてきな羊の群れをわたしにくださったでしょうか? 第二に、いただいても、飼っておく場所があったでしょうか? そうじゃありませんか?」
「しかし、前もってわかっていたわけじゃないでしょう。」と、タランがまたきいた。
「は、は、は」フロニオは、笑っていった。「それは、いいですか、なにかの運が向いて、いつかは必ず羊が来ると、わたしにはわかっていたんですよ。ほかのものもみなそうでした! さあ、ぜひとも、しばらくここにおとまりください。わたしらのたべものでは十分なお礼にはなりまんが、せいいっぱいごちそうしますから。」
タランが返事をする間もなく、フロニオは目を丸くしてガーギを見ている少女たちの一人に身をかがめていった。「な、グウェンリアント、茶色のめんどりがきょうたまごをうんでくれたかどうか、走っていってみてきておくれ。」それから、タランをふりかえり、「この茶色のめんどりは気分屋でしてね。しかし、気が向いたときには、りっぱなたまごを生んでくれるんですよ。」それから、またフロニオはほかの子どもたちをいろいろなしごとに走っていかせた。タランとガーギは、このまことに奇妙な一家のにぎやかなさわぎをびっくりしてながめていた。フロニオに案内されて母屋にはいっていくと、ゲウィンが心から迎えいれてくれて、暖炉のそばの席をすすめられた。すぐに、グウェンリアントが、たまごをささげるようにしてもどってきた。
「たまごだ!」フロニオは、大きな声でいって受けとると高くさし上げて、今までたまごを見たことがないようなしぐさでしげしげとながめた。「たまごだ! あの茶色いめんどりが生んだたまごの中では、これがいちばんすばらしい! ほら、この大きさ! 形! ガラスのようになめらかでひびなどまるでない! これで、おいしいごちそうがたべられますよ!」
最初、タランは、フロニオがべたぼめするたまごが、格別ちがっているとは思わなかった。しかし、フロニオの上機嫌にのせられて、ふと気がつくと、自分もたまごをはじめて見るような気持になっているのを知って、おどろいてしまった。フロニオの手の中にあるとたまごのからはじつにあかるく輝いて見え、その曲がりぐあいはじつに優美で美しく見えたので、ガーギまでがおどろきの目を見はった。この貴重なたまごをゲウィンが大きな土なべにわっておとすのを、タランは惜しくてたまらない気持で見つめた。しかし、とタランは心の中でいってみた。フロニオがこれを、この大人数にわけるつもりなら、ほんのちょっぴりにしかならないぞ。
ところが、ゲウィンが土なべの中味をかきまぜている間に、子どもたちがつぎつぎに重荷とびこんできた。みんななにかを持っていた。フロニオは、それぞれがみつけてきたものを見ては陽気な声をあげた。
「ハッカ草か!」と、フロニオは大きな声でいった。「こりゃすばらしい! ようくきざんでおくれ。そして、これは――なんだ? 粉一にぎり? ますますけっこう! やぎが出してくれたあのつぼの乳も必要だね。チーズかな? こりゃぴったりのものだぞ!」そして、彼は、いちばん小さい子どもがいちばんおくれてハチの巣のかけらをさし出すと、うれしそうに手をたたいた。「まったく運がいい! ミツバチが、冬のたくわえの蜜を、わたしたちに残してくれたぞ!」
その間、ゲウィンはせっせと、子どもたちのみつけてきたものを土なべに入れていた。だから、タランの目の前で、中味はふちからあふれるほどになった。それでもなお、おどろくことは続いた。タランが見たところ、戦士の楯をたいらにうちのばしたものにちがいない鉄板があった。ゲウィンは、その上にたくみになべの中身を流し、あかく光るおき火の上においた。すぐに、料理するよいにおいが家中にただよい、ガーギの口につばがわいた。たちまちのうちに、この家の主婦は、荷車の車輪ほどもあるケーキは茶色まだらのきつね色にやけていた。
フロニオがすばやく切りわけたが、だれにもたっぷり渡った上に、すこし余分が出たのを見て、タランは目を見張ってしまった。タランは、今までたべたことのないほどおいしいたまご料理――といえればの話だが――を腹いっぱいたべた。ガーギでさえ満腹した。
「さて、それでは」フローレンスは、食事が終わるといった。「網を見てくる。よかったらいらっしゃい。」
17 せき
ガーギが家でぐすぐずしている間に、タランはフロニオについて川岸まで行ってみた。フロニオは、こすれるような音の口笛を陽気に吹きながら、川への途中立ちどまってかごの中をのぞきこんだ。タランは、かごの一つに、大きなハチの巣がはいっているのに気づいた。これが、ゲウィンのケーキに甘味をつけたハチミツのもとにちがいなかった。だが、ほかのかごはからっぽだった。フロニオは、ちょっと肩をすくめた。
「いいんです。いつかきっとなにかがはいります。この前は、ガンの群れが休みにおりてきましてね。とびたった後にのこった羽根をお見せしたかったですねえ。たっぷりあって、家族みんなのクッションにつめられたんですからねえ!」
すでに、ふたりは川についていた。この川は、ずっと南に下ったところで大アブレン川そのものに流れこんでいたので、フロニオは小アブレン川と名づけていた。「小さな川ですが」と、フロニオはいった。「ほしいと思うものは、いつかは流れてくるんですよ。」そして、その言葉がほんとうであることを見せるつもりか、岸辺のくいにつないである網をぐいぐいとひき上げはじめた。網はからっぽだった。そしてつり糸にもさかなはかかっていなかった。フロニオは平然としてまた肩をすくめてみせた。「あす、たぶん。」
「すると、すると」タランはまたしてもわけがわからなくなって、思わず大きな声をあげた。「あなたは、かごや網で、必要なものが手にはいるだろうと思っているのですか?」タランは、あきれて男の顔を見た。
「そのとおり。」フロニオは、人がよさそうに大きな笑い声をたててこたえた。「わたしの土地はわずかです。それをできるだけ活用はしています。足りないところは――ね、いいですか、わたしにも、これだけはわかります。つまり、人生とは運だということです。そう信じていれば、人はさがしているものを、いつか、かならずみつけるものです。」
「そうかもしれません。」と、タランもうなずいた。「しかし、時間が長くかかってしまったらどうします? あるいは、運が全然むいてこなかったら?」
「成り行きまかせです。」フロニオは、にこっと笑ってこたえた。「あすのことに気をもんでいては、きょう、喜びがなくなってしまいます。」
そういいながら、フロニオは敏しょうにせきにのりうつった。このせきは流れをせきとめるものではなく、水をこして流れてくるものをとるためのものであることが、今はタランにもわかった。フロニオは、この奇妙なしかけの上でうまく平衡をたもちながら、キヌヤナギのあみめの中をつついたりのぞいたり、体を上下させていた。一段とツルににてみえた。と、まもなく、フロニオがうれしげなさけび声をあげて、興奮したように手をふった。
タランは、いそいで、道をひろいながらせきを渡り、そばまでいった。だが、フロニオのかたわらまで行ってみて、がっかりしてしまった。この男がうれしげなさけび声をあげたわけというのが、だれかがすてた馬勒だったのだ。
「やれやれ。」タランは、がっかりした声でいった。「こりゃ、まず役に立たないでしょうね。はみがなくなっているし、たづなは、もうすりきれてしまっています。」
「そうでしょう、そうでしょう。」と、フロニオはこたえた。「しかし、小アブレンがきょうくれたものですよ。そして、なにかの役には立ちますよ。」そういって、フロニオは水のしたたる馬勒を肩にかけると、せきから岸にあがり、大またに、岸辺をふちどるこたぢの中を歩きはじめた。タランもついていった。
しばらくすると、一度に八方にするどい目をくばれるフロニオが、また、あっとさけんで、節くれだったニレの木の根元にかがみこんだ。根の間やまわりに、キノコがたくさん生えていた。
「これをとりましょう、さすらいさん。」フロニオが、うれしそうに大きな声でいった。「これで夕食ができる。こんないいキノコははじめてだ。やわらかくておいしそうだ! きょうは運がいい!」フロニオは、みつけたものをせっせととって、ベルトにぶらさげた袋に入れると、また歩きだした。
ときどき立ちどまっては、何かの薬草やら根っこやらをつみとっていくフロニオについて歩いているうちに、時間がまたたく間にすぎてしまった。タランには、一日があっという間に終わったように思えた。フロニオの袋がいっぱいになると、ふたりは足の向きを変え、来たときとは別の道をとって農場へもどった。ぶらぶら歩いているうちに、タランは突き出た石の頭につまずいて、つんのめってころんでしまった。
「あなたの運は、わたしより強い。」と、タランは悲しげに笑った。「あなたはキノコをみつけましたが、わたしがみつけたのは、すねのすり傷だけですよ!」
「いいや、いいや!」フロニオは、タランのいうことに賛成しないで、石をなかばかくしている土をいそいでかきのけた。「ほら、ごらんなさい! こんなに形のよい石を見たことありますか? 車輪のように丸く、たまごのようになめらかです。掘り出せばいいだけの、たいへんなひろいものですよ!」
ひろいものだとしたら、こんなかたくて重いひろいものははじめてだと、タランは思った。フロニオは、その平らな岩を掘りだそうといってきかなかった。ふたりはかなり苦労して堀りだし、ふたりがかりでよろよろしながら農場まではこんだ。フロニオは、それを物置き小屋にころがして入れたが、物置きは、攪拌器のとって、布の切れはし、飾りの馬具、革ひも、ひもの束など、せきと網とかごのざったな収穫ではちきれんばかりになっていた。
炉の火の上では、とってきたキノコに、鉄板やきのケーキの残りと、子どもたちがみつけてきた早出の野菜一にぎりを加えた料理が、とてもおいしそうにじゅうじゅういっていた。タランもガーギも、すすめられると二つ返事だった。今度は暖炉のそばで休めといわれると、喜んで好意を受けた。ガーギは、満腹してすぐにいびきをかきはじめた。タランも、久しぶりに夢も見ないでぐっすりねむった。
翌朝は、よく晴れてさわやかだった。タランが目ざめたとき、もう日は高かった。タランは、メリンラスに鞍をつけて旅に出るつもりでいたのだが、気を変えて出発しなかった。フロニオのせきは前の日ほとんど収穫をあげなかったが、夜の間に、川はその埋めあわせ以上のことをしてくれていた。大きな小麦の袋が偶然に枯れ枝の束にからまり、枯れ枝のいかだにのって、ぬれずに流れてきてせきにひっかかっていた。ゲウィンは、すぐに、小麦を粉にしてたべものをつくろうと、大きな石の手臼を持ち出してきた。いちばん上からいちばん下まで、子ども全部と、それからフロニオまでがこの仕事を手伝った。タランも喜んで分担をひきうけたが、手臼が重くてあつかいにくいことを知った。ガーギも同様だった。
「ああ、うんざりする粉ひき。」と、ガーギは大きな声でぐちをいった。「あわれな指、いたくてたまらない。うでもひきつれて痛い!」
それでも、ガーギは、ちゃんとわりあて分をひいた。もっとも、十分な粉がひけた頃には、あっという間にまた一日が終りに近づいていた。そして、きょうもまたフロニオはふたりにぜひとまれとすすめた。タランはことわらなかった。ことわるどころか、炉の火のそばに体をのばして横になったとき、タランは、フロニオがそういってくれるのを心ひそかにのぞんでいたことに気づいた。
そうして数日暮らしているうちに、タランは、探索をやめるときめてからはじめて心がかるくなった。子どもたちは、タランとおなじように、はじめははにかんでいたが、親友になり、ガーギとおなじようにタランとも楽しくあそんだ。タランは、フロニオといっしょに毎日網やかごやせきを見まわり、空手でもどることもあったが、ときには風や流れが運んできてくれたおかしな取りあわせの収穫を持ちかえった。はじめ、タランはこういうがらくたをなんの価値もないものと思っていたが、フロニオはほとんどあらゆるものをちゃんと役立てた。荷車の車輪は糸くり車に変わった。馬勒の一部は子どもたちのベルトになった。鞍袋は一足のくつに変わった。タランはまもなく気づいた。この一家に必要なものは、ほとんどが、どこからかやってきたものなのだった。そして、この家の人たちは、たまごでも、キノコでも、シダのようにもろい一にぎりの羽毛でも、あらゆるものを貴重だと考えているのだった。
「考えようによっては」と、タランはガーギにいった。「フロニオの方がガースト卿より豊かだし、将来もそういえるだろうよ。そればかりか、プリデイン中でいちばん幸運な男だ! わたしは、富などうらやましいとは思わない。」タランはそうつけ加えると、ため息をついて首を横にふった。「しかし、フロニオのように幸運でありたいよ。」
タランがフロニオにも、おなじことをいうと、かれは、ただ、にこっと笑って目くばせを一つした。「幸運ですと、さすらいさん? あなたに運があるなら、いつかその秘密をおしえてあげますよ。」そして、それ以上はなにもいわなかった。
そのとき、タランの頭の中では、ある思いつきが生まれかけていた。フロニオのみつけたものは大部分がなにかに利用されていたが――この間の平らな石だけまはだ物置小屋にころがしてあった。「ところで、どうでしょう?」と、タランはフロニオにいった。あれで手臼よりも楽な粉ひき道具がつくれないでしょうか?」
「なんですって」フロニオが、大喜びしてさけんだ。「できるとお考えでしたら、そうしてごらんなさい。」
タランが、思いつきについて思案を続けながら森をうろついていると、前のとほぼおなじ大きさの石にぶつかった。「ちょっとした幸運。」タランは、フロニオに手伝ってもらって、その石をひいていきながら、声をたてて笑った。
フロニオはにこっと笑った。「そうです、そうですよ。」
それから数日間、タランは、ガーギの熱心な手助けをえて、休みなしにがんばった。物置きの片すみに石を一つしっかりとすえつけ、べつの石をその上にのせた。そして、上の石に苦労して穴を一つあけ、馬具の皮のあまりを使って、長い棒を穴にはめこんだ。棒の先を天井の穴から外に出し、てっぺんに木のわくをとりつけ、それに大きな四角の布をはった。
「でも、これ、手臼じゃない。」すっかりでき上がると、ガーギがおどろいてさけんだ。「これ、ぷかぷか、すいすいの船! でも、帆柱と帆だけで船がない!」
「まあ、今にわかるよ。」と、タランはこたえ、出来ばえを見てもらおうとフロニオをよんだ。
一家の人たちも、しばらくの間、タランのおかしな仕掛けを見て、きょとんとしていた。そのとき、風が来て、ぶかっこうな帆が、その流れをとらえた。マストに似た棒がふるえてきしんだ。一瞬、タランは、仕掛けがこわれて、自分のまわりに落ちてくるのではないかと息をつめて見守った。しかし、仕掛けはびくともしなかった。帆はふくらんでゆっくりと回転しはじめた。同時に、小屋の中で、上の石が快い音をたててまわりだした。ゲウィンは、大あわてで、タランの風車小屋に小麦を入れた。たちまち、手臼ではとてもひけないこまかな粉がこぼれ出てきた。子どもたちが歓声をあげてぱちぱち手をたたいた。ガーギは、ぴっくりしてほえるようなさけび声をあげた。そして、フロニオは、ほほから涙がつたい落ちるまで大きな声で笑った。
「さすらいさん」と、フロニオは心をこめていった。「あなたは、つまらないもので、たいへんいいものをつくりましたよ。それも、わたしなんかにはとてもできないほど上手にねえ!」
それから数日間、風車は粉をひきつづけたが、タランは、それだけでなく、その風車を、フロニオの道具の砥石にもつかう方法を思いついた。タランは、自分の細工を見ていると、クラドックの谷間を出て以来はじめて、誇らかな気持がわくのを感じた。しかし、同時に、なんとなく落着かなかった。
「ここで一生を送ったら」と、タランはガーギにいった。「とてもしあわせだろう。そう思うのがあたりまえなんだ。ここには安らぎと心のかよいあいがあるし――一種の希望もある。傷に薬をぬるように、心が安らかになる。」タランは、そこでためらったが、「それでも、フロニオの暮らし方は、なんだかわたしの暮らし方とちがうんだよ。小アブレン川が与えてくれるものではなく、もっとべつのものをさがせと、何かが心をかりたてるんだ。何をさがすのかは、わたしにはわからない。しかし、悲しいけれど、それはここにはない。」
そこで、タランはフロニオと相談し、残念ながらふたたび旅を続けてなくてはならないといった。すると、タランの決心のかたいのを知ったフロニオは、もうとどまれとはすすめなかった。ふたりは別れのあいさつをした。
「ですが」タランは、勢いよくメリンラスにまたがっていった。「残念ながら、幸運の秘密は、ついに教えていただけなかったですね。」
「秘密?」と、フロニオはこたえた。「ああ、わたしの運は、あなたやほかの人たちよりべつに強くはありません。やってくる運をつかめるように鋭く目をくばることが必要なだけです。そして、手に入れたものを活用する知恵をみがくのが必要なだけです。」
タランは、道をメリンラスにまかせ、ガーギとならんでゆっくりと小アブレンの岸辺を進んだ。ふりかえって最後の別れの手をふったとき、フロニオが大声でいうのがきこえた。
「さすらい人タラン、運を信じなさい。しかし、網を張ることを忘れないように!」
18 自由コモット人
タランとガーギは、小アブレン川から東に向かってのんびりと進み、草に寝たり、みどり豊かな谷間に立つたくさんの農家に宿をかりたりした。ここはもう自由コモット人の国だった。ゆるやかな円をえがいてならぶ家々のまわりに、よくたがやされたはたけや牧草地がひろがっていた。コモット人たちは礼儀正しく、もてなしが親切だった。タランがさすらい人タランとしか名のらなくても、小さな村々の人たちは、他人の秘密を尊重して、生まれたところも地位も行き先も、ぜんぜんきかなかった。
タランとガーギが、コモット・セナースのはずれまで進んだとき、かなてこをたたく槌の音がきこえてきた。タランは屋根の低い一軒の小屋の前でメリンラスをとめた。その小屋がかじ屋だった。かじ屋の男は革の前かけをかけた胸の部厚い男で、ざらざらした黒いひげをはやし、頭の毛もブラシのようにこわくてまっくろだった。まつげは焼けてなくなっていて、顔はすすによごれていた。むきだしの肩に火の粉が雨のように落ちてくるのだが、男はハエほどにも思わないようだった。青銅の楯に石があたるような声で、うちおろす槌にあわせて歌をほえていた。それがあまり大きいので、タランは、この男の肺はふいごのように丈夫なのだろうと考えた。ガーギが慎重に火花をさけて後ろにさがると、タランは大きな声でかじ屋にあいさつしたが、ものすごい音のために、声はほとんどとどかないようだった。
「親方」タランは、かじ屋がやっと来客に気づいて槌をおくと、ていねいに頭をさげていったる「わたしは、さすらい人タランという者で、暮らしをたてる手だてに、技術を身につけたいと旅をしている者です。親方の仕事はすこしわきまえているので、もっと腕をみがかせていただきたいのです。お支払いする金も銀もありませんが、どんな仕事でもいいつけてくだされば、喜んでやります。」
「出ていけ!」と、かじ屋がどなった。「仕事はうんとあるが、人に教えるひまはない。」
「ないのはひまですか?」タランは、抜け目なくかじ屋を見ていった。「ほんとうの名人というのは、仕事を教えてこそ名人といえるとききましたが。」
「待て!」タランが出ていこうとすると、かじ屋がほえるような声でそういって、タランの頭に投げつけるのかと思うようないきおいで、槌をつかんだ。「おまえは、わしの腕をうたがってるな? うたがうやつなんか、かなてこでぺしゃんこにしてやるところだ! 腕だと? 自由コモット人の中で、ヒルワスの息子ヘフィズほどのかじ屋がいるか!」
そういうと、かじ屋は、やっとこをつかみ、ごうごう燃える炉の中からまっかにもえた鉄棒をとり出すと、かなてこの上にどんとおいた。そして、槌をふるいはじめたが、それがあまりすばやくて、タランには、ヘフィズのたくましい腕の動きが見えなくなったほどだった。と、突然、鉄棒の先に、葉や花びらのひらきぐあいがほんものそっくりなサンザシの花があらわれた。
タランは、ただもう感心しきってそれをながめた。「これほどたくみな仕事は、今まで見たことがありません。」
「そして、ほかじゃ見られないさ。」ヘフィズは、一生懸命とくいげな笑いをかくしながらこたえた。「しかし、おぬし、なんといったっけな? かじ屋の仕事を知っているのだったな? 秘伝は、多くの人間にあかさないものだ。このおれですら、すっかりは会得していない。」かじ屋は、おこったように、こわい髪の毛をふってみせた。「奥義だと? そいつは死の王アローンに盗まれてアヌーブンにかくされている。失われたのだ。プリデインからは永久に消えたのだ。
「しかし、そら、これを使え。」と、かじ屋は命令して、タランの手にやっとこと槌を押しつけた。「その鉄棒を、前のようにまっすぐ平らにするんだ。それも、冷えちまわないようにてっとりばやくやれよ。ひよっこの羽根にどれほど力があるか、おれに見せてくれ。」
タランは、さっとかなてこのところまで行くと、むかしコルが教えてくれたとおりに、全力をつくして、すぐに冷えてしまう鉄をまっすぐにしようとした。かじ屋は、大きな腕を組んでしばらくせんさくするような目でタランを見ていたが、わははと大声で笑い出した。
「もういい、もういい!」と、ヘフィズは笑っていった。「うそはいわなかったな。ほんとうに技はほんのすこしだ。だが」ヘフィズは、こぶしのように太いつぶれた親指であごをなでながらつけ加えた。「それでも、素質はある。」そういうと、タランをじっと見た。「しかし、火に立ち向かう勇気があるか? 槌とやっとこだけで焼けた鉄と戦う勇気があるか?」
「技を教えてください。」と、タランはいいかえした。「勇気を教えてくださる必要はありません。」
「いや、勇ましい!」と、ヘフィズは大声をあげて、タランの肩をどんとたたいた。「このかじ場でたっぷりきたえてやる! おまえがほんとうにやるなら、おれが必ずかじ屋にしてやる。さて、手はじめに――」かじやはタランの腰の、剣のないさやに気づいた。「おぬし、以前、剣を持っていたらしいな。」
「ええ、持っていました。」と、タランはこたえた。「しかし、だいぶ前になくしてしまい、今は武器を持たないで旅をしています。」
「では、剣をつくれ。」と、ヘフィズは命じた。「できあがったときには、切りあいとかじ屋のしごとと、どちらがつらいかわかるだろう。」
それに対するこたえは、ほんとうにすぐわかった。それから数日間ほどのつらさを、タランは、生まれてから一度も味わったことがなかった。最初、タランは、かじ屋が、すでにかじ場にある鉄の棒をたたかせてくれるものと思っていた。ところが、ヘフィズはそんなことを考えてはいなかった。
「なんだと? 半分仕上がっているものからはじめる?」ヘフィズは、ばかにしたような声でいった。「いや、いや、はじめから終りまで自分で剣をきたえるんだ。」
だから、ヘフィズが最初にいいつけた仕事は、炉のたきぎあつめだった。タランは夜明けから日暮れまで火をたいた。おしまいには、かじ場が、満腹することのない焔の下をもつ、ほえる怪物に見えてきた。ところが、そのときが、仕事のほんのはじまりだった。すぐにヘフィズが、山のような鉱石をシャベルで入れて、その中の鉄をとかしてとることを命じたのだ。鉄棒ができたとき、タランの顔や腕は火にこげて黒ずみ、手は火ぶくれのない皮膚の方がすくなくなっていた。背中がいたんだ。槌の大きな音や、命令し指示するヘフィズのどなり声で耳はがんがん鳴っていた。ふいごを動かすことを申し出たガーギは、火花がぱちぱちはねてもじゃもじゃの毛にふりかかってもたじろがなかった。火花であちこちやけこげができたので、おしまいには、一群の小鳥が巣づくりのために毛をむしっていったような姿になってしまった。
「人生はかじ場なんだ!」ひたいから汗を流して一片の鉄をたたくタランに、かじ屋は大声でいった。「そうとも。槌とかなてこといってもいい! 人間はあぶられ、とかされ、うちたたかれるのだが、自分じゃなにがおこっているんだか、ほとんどわからんのだ。しかし、大胆に立ち向かえ! 鉄は、きたえられて形ができるまでは、価値などありはせんのだ!」
タランは疲れはてて、一日が終わると心からほっとして、小屋のわらのベッドにたおれこんだ。しかし、かなてこの上ですこしずつ剣が形をととのえてくるのを見ると、胸がときめき、元気がわくのだった。重い鉄の槌は、持ち上げるたびにますます重くなるようだった。しかし、ついに、歓声をあげて、タランは槌をほうりなげ、でき上がった剣をかざした。十分にきたえられた、つりあいのよい剣で、炉の火の光をうけてきらきらと光った。
「親方、りっぱな剣ですよ!」と、タランはうれしげにさけんだ。「わたしがさげていたのに劣りません。」
「なんだと!」ヘフィズが思わずどなった。「そんなにうまくできたのか? おぬし、ためしてもみない剣に命を託すつもりなのか?」そういってかじ屋は太いうでをさっとのばしてかじ場のすみの木型を指さした。「あれを力いっぱい打ってみろ。と、かじ屋は命令した。「腹と切っさきとつば元で。」
タランは、鼻高だかと剣をさっとふり上げ、木型の上に打ちおろした。打ちこみの力で、剣がふるえたかと思うと、鋭いぴーん、がーんという音が耳を打ち、剣はこなごなにわれ、破片が四方八方にとび散った。
タランはびっくり仰天して、あっとさけび、自分の目が信じられなくて、まだ手にしっかりにぎっているつかを泣き出しそうな目で見つめた。それから、もうだめだといった目つきでヘフィズを見た。
「そうれ、見ろ!」かじ屋は、他のみじめにしょげこんだ顔つきを見ても、けろりとして大きな声をあげた。「一ぺんで使える剣がつくれると思っていたのか?」かじ屋は、大笑いして首を横にふった。
「じゃ、どうしたらいいんです?」タランは、ヘフィズの言葉にはっとしてさけんだ。
「どうする?」と、かじ屋はいいかえした。「またやり直すほかあるまい?」
そして、そうすることになった。しかし、こんどのタランには、うれしい期待の気持はほとんどなかった。むっつりして、もくもくとはたらいた。そして、二本の剣を、きたえもしないうちに、すでに傷があるとの判断でヘフィズにすてろといわれると、ますすま気落ちしてしまった。焼けた鉄のにおいが鼻についてはなれず、いそいで呑みこむ食事にまでまつわりついた。大きな焼きいれ用のおけから立ちのぼる湯気の柱は、あつい霧でもすいこむようだった。たえまない騒音で頭がおかしくなりそうだった。とうとう、ほんとうに、タランは、きたえられているのは剣ではなく自分だと感じるようになった。つぎにつくった剣は、見かけがわるく、でこぼこしていてひっかききずがのこり、いちばんはじめの剣のように、うつくしくつり合いがとれていないように見えた。タランは、それもすててしまおうとしたが、かじ屋は仕上げろと命じた。
「これなら、ちゃんと使えるかもしれない。」ヘフィズは、タランが疑わしげな顔をしたのに、確信ありげにいった。
タランは、また、大またに木型のところへ行って剣をふりあげた。このぶかっこうな剣をこなごなにしてやれと思い、力いっぱい打ちおろした。剣は鐘のような音をたてた。そしてまっぷたつになったのは、木型の方だった。
「こんどは」と、ヘフィズが落着いた声でいった。「持ってあるける剣になったぞ。」
かじ屋は、ぱちぱちと手をたたき、タランの腕をつかんだ。「やはり、おぬしは、このひよこの羽根に力をためていたんだなあ! 剣が使えることを証拠だてただけでなく、おぬしもほんものであることを見せたのさ。ここにいろよ、な、知っていることはみんな教えてやる。」
タランは、しばらくの間なにもいわず、かすかにとくいげな表情を浮かべてあたらしくきたえた剣を見つめていた。しかし、やがて、「もうずいぶん教えていただきました。」と、ヘフィズに向かっていった。「もっとも、わたしは、手に入れたいと期待していたものをうしなってしまいました。というのは、わたしは、ほんとうに刀かじになれることを期待していたのです。それが、だめだとわかりました。」
「なんだって!」ヘフィズが、おどろいていった。「おぬしには、まっとうな刀かじになれる素質がある。プリデインのだれにもまけない刀かじにれる。」
「そうかもしれないと思うと、元気がでます。」と、タランはこたえた。「しかし、あなたの技はとうてい身につかないことは、勘でわかるのです。わたしは、何かに突き動かされて小アブレン川をはなれました。そのなにかが今またわたしを突き動かすのです。ここにいたくても、だから旅をつづけなくてはならないのです。」
かじ屋はうなずいた。「さすらい人とは、うまい名をつけたものだ。そうするがいい。わしは、心からのねがいにそむけなどと人に求めはせん。その剣は、友となったしるしに身につけているがよい。それは、おぬしのものだ。自分の手できたえたものだから、だれよりも、おぬしが持つべきものだ。」
「これは、上品な武器ではありません。だからますます、わたしには似合いです。」タランは、不恰好な剣をちらりと見て笑った。「これができるまでに十二本もつくらずにすんだのは幸運でした。」
「幸運?」タランとガーギが別れのあいさつをしたとき、ヘフィズは、鼻をならすようにしていった。「ちがう! 運よりは労働さ。いいか、人生はかじ場だぞ! 打撃に立ち向かえ。ためすことを恐れるな。そうすれば、どんな槌やかなてこにでも、十分立ち向かえるぞ!」
すすだらけの手をふるかじ屋のヘフィズに見送られて、タランとガーギは旅をつづけ、大アブレン川の肥沃な谷間を北に向かった。気持のよい田園地帯を四、五日のんびりと旅すると、コモット・グウェニスのはずれについた。そのとたん、ふいに激しい雨がたたきつけてきたので、ふたりは目にとまった最初の避難場所へかけこんだ。
そこは、物置き小屋、うまや、ニワトリ小屋、貯蔵倉などが一かたまりになった家だが、無計画にばらばら建てられているように見えた。しかし、馬をおりて大いそぎで建物の迷路のまん中にある家にかけこもうとしたタランは、建物全部が屋根のついた通路か石だたみの通路でつながっていて、どこを通ってもいずれは戸口にたどりつけることに気づいた。そして戸口は、タランがノックするかしないかのうちにあいた。
「さあ、おはいり、ほんとうにようこそ!」火にくべた小枝がはぜるような声が向かえてくれた。どしゃぶりの雨をさけてガーギが中にかけこんだとき、タランは、灰色の服に身をつつんだ腰のまがった老婆が、暖炉のところへ来いと手まねきしているのに気づいた。長い髪は、組ひものベルトにさげている糸巻きの羊毛そっくりに白かった。また、すそ短の服の下に見える骨ばったすねは、つむのようにほそくて固そうだった。顔はしわだらけで、ほほはこけていた。ところが、そんなに年をとっているのに、歳月はただ彼女をきたえて強くしただけとでもいうように、弱々しい感じがまるでなかった。目など、できたての針のようにひかって鋭かった。
「わたしゃ、機織りのドイバックだよ。」おばあさんは、タランがていねいにおじぎをして名のったのにこたえていった。「さすらい人タラン?」おばあさんは、皮肉たっぷりな笑いを顔に浮かべて、タランの名をいった。「その様子を見ると、ほんとうにさすらっていたらしいね。とても洗たくをしていたようには見えないやね。そりゃ、わたしの機のたて糸よこ糸みたいにはっきりしてるね。」
「はい、はい!」と、ガーギが大きな声をあげた。「機織りの機械見てごらんなさい! 糸、巻いたりしばったり! あまりたくさんありすぎて、ガーギのやわらかいあわれな頭、くるくるぐるぐるまわってしまいそう!」
タランは、そのときはじめて、背の高い機械が、一千本の絃を持つ巨大なたて琴のように、家のすみに置かれていることに気づいた。そのまわりには、さまざまな色の糸巻きがうず高くつまれていた。天井のたる木からは、糸かせや、毛糸やあさ糸の束がさがっていた。壁には長短さまざまな完成品がかかっていた。あるものは簡単な意匠で色あいが明るく、あるものは、もっと細かい技術が必要なもので、模様もわかりにくかった。タランは、かぎりがないほどたくさんの色や模様をびっくりして見つめていたが、やがて、このグウェニスの機織りのおばあさんに顔を向けて、感心しきった口調でいった。「これには、わたしなどの知識が及ばない技術が必要ですね。どうすれば、このような仕事ができるのですか?」
「どうすれば、だって?」おばあさんは、くすくす笑った。「それを教えるには、あんたに知識があっても、ずいぶんしゃべらなくちゃならないよ。でも、見ていれば、わかるようになる。」
そういって、おばあさんは、のろのろと機のところまでいくと、いすにこしをおろして、びっくりするほど元気に、踏み板をふみながら、梭を動かしはじめたが、とちゅうで出来ばえを見るために手をとめることなどほとんどなかった。それでもついに手をとめたおばあさんは、顔をひょいとタランの方に向け、灰色の鋭い目でタランを見すえていった。「こうしてつくるのさ、さすらい人。なんにでも、独特のつくり方がある。こつこつつくるのさ。」
タランの驚きはますます深まった。「これなら、ぜひ習いたいものです。」と、タランは熱心にいった。「刀かじの技は、わたしに向いていませんでした。機織り技術なら向いているかもしれません。おねがいします、教えていただけませんか?」
「頼みなら、教えてあげよう。」と、ドイバックはこたえた。「しかし、いいかい。よくできた布を感心してながめるのと、機の前に自分でこしかけるのとは、べつものなんだよ。」
「どうもありがとうございます。」タランは、喜んで思わずさけんだ。「あなたの機ではたらくことをいやがりはしません。かじ屋のヘフィズのところでも、わたしは、焼けた鉄やかじ場の火からしりごみなんかしませんでした。それに、機織りの梭は、かじ屋の槌にくらべれば、軽いものです。」
「そう思うかい?」と、ドイバックはいってあみ棒がぶつかりあうような、かわいた笑い声をたてた。「それじゃ、手はじめになにを織ってもらおうか?」おばあさんは、鋭い目でタランを見てつづけた。「あんた、自分でさすらい人タランと名のっていたね。すりきれ服のタランの方が似合いだよ! 新しいマントを、自分で織ったらどうかね? それなら、あんたは着るものが手にはいるし、わたしゃ、あんたの指の技術がわかるからねえ。」
タランは、喜んでうなずいた。ところがつぎの日、ドイバックは、機織りを教えるかわりに、タランとガーギを、たくさんあるへやの一つにつれていった。そこには、へやもはちきれんばかりに羊毛がつんであった。
「いばらのとげをすいてとるんだよ。草の葉つまみとっておくれ。」と、機織りのおばあさんは命じた。「ようく、すくんだよ――注意深く、さもないとマントができ上がったとき、羊毛ではなくアザミでつくったように感じるよ。」
目の前の羊毛の量を見て、これはいつまでたっても終わらないだろうと、タランは思った。それでも、タランとガーギは、ドイバックに手伝ってもらって骨の折れる仕事にとりかかった。年とった機織りは、舌ばかりではなく目も鋭いことに、タランはすぐに気づいた。おばあさんは、どんなものも見逃さなかった。ごく小さなかたまりでも、しみ程度のものでも見てとり、糸とり棹でタランの手首をぴしゃりとたたいて気づかせた。だが、糸とり棹よりもタランにとってつらかったのは、年をとっているのに、ドイバックの方が、タランよりも、はやく長く、そしてもっと勤勉に仕事ができることだった。一日が終りに近づく頃、タランの目はかすみ、指先はひりひりし、つかれていねむりが出た。ところが、おばあさんは、一日がはじまったばかりのように元気はつらつとしていた。
それでも、羊毛すきはついに終わった。ところが、こんども、ドイバックは、タランを、機の前ではなく、ばかでかい糸くり車の前にすえたのだ。「どんなすばらしい羊毛でも、つむいで糸にしなけりゃ役に立たない。」と、おばあさんはタランにいった。「だから、つむぐこともはじめにならうのがいちばんだよ。」
「しかし、糸つむぎは女の仕事!」と、ガーギが文句をいった。「だめ、だめ! 糸つむぎなんか、大胆でかしこい機織り職人に向かない!」
「なあるほど!」ドイバックはふんと鼻をならしていった。「それじゃ、まずこしをおろして、その考えを改めるんだね! 男は女の仕事をいやがり、女は男の仕事をきらうそうだ。」おばあさんは、親指と人さし指でガーギの耳をつまんで、タランのかたわらの糸くり車のいすまでつれていきながら、さらにつけ足していった。「しかし、仕事の方から見れば、だれがやってくれたかなんか、どうでもいいのさ。きちんと終りさえすればいいんだよ。」
そんなわけで、それから数日間、ドイバックの注意深い目に見守られながら、タランとガーギは糸をつむいで糸かせに巻いた。ガーギは、ドイバックにこごとをいわれたので、最善をつくして手伝ったが、この不運な生きものは、もう、ひっきりなしに長い糸を体にからませていた。つぎに、ドイバックは、ふたりをつれて、染料をにている小屋へいった。この仕事では、タランもガーギ同様に不器用だった。ようやく糸が染め上がったとき、頭のてっぺんからつま先まで、とりどりの糸に染まっていたのだ。ガーギときたら、突然に毛がはえた虹といった姿だった。
こうした仕事が満足にできてはじめて、ドイバックは、ふたりを機織りべやへつれていってくれた。へやへはいったとたん、タランは気落ちしてしまった。機には一本の糸もかかっていなかった。まるで、葉を落とした冬の木のようだった。
「どうしたんだい?」おばあさんは、タランの憂うつそうな顔つきを見てガミガミ行った。「機には糸をかけなくちゃならないんだ。前にいっといただろ? なんだって、一歩一歩、一本一本つくっていくんだって。」
「かじ屋のヘフィズは、人生はかじ場だと教えてくれました。」タランは、かぎりないほど必要な糸の数を一生けんめい数えてみようとして、ため息をついた。「マントができるまでには、たっぷりときたえてもらえそうですね。」
「人生が、かじ場?」と、おばあさんはいった。「むしろ、機だろうね、暮しと日々が織りあわさっている。そして、模様がわかるようになる人間はかしこいのさ。しかし、新しいマントが手に入れたかったら、もっとよくはたらいて、おしゃべりはすくなくした方がいいね。それともなにかい、クモの一群でもあらわれて、かわりに仕事をしてくれるとでも思っていたのかい?」
模様をきめ、機に糸をかけ終わってもまだ、タランにはそれが、とうてい仕上がらないごちゃごちゃした糸としか見えなかった。布つくりはのろのろしたやっかいな仕事で、長い一日が終わったときの努力の成果は、せいぜい手の幅ほどしかなかった。
「機織りの梭が軽い荷物だなんて、考えたことがあったのかなあ?」タランは、ため息をついていった。「槌とやっとこかなてこを全部合わせたよりも重く感じますよ!」
「重いのは梭じゃない。」と、ドイバックがこたえた。「技の不足のためさ。こりゃ重荷なんだよ、さすらい人。重荷を軽くするものは一つしかないのさ。」
「それは、どういう秘伝ですか?」と、タランは思わずさけんだ。「今それを教えてください。さもないと、マントはでき上がりませんよ。」
しかし、ドイバックはほほえんだだけだった。「忍耐さ。教えることは、わたしにゃできないね。それは、徹頭徹尾自分で学ばなくちゃならないのさ。」
タランは、マントができ上がるまでにはドイバックのような年寄りになってしまうと思いながら、陰気な気分でまた仕事にかかった。だが、手が仕事になれてくるにつれて、アシの間を泳ぐ魚のように梭が動くようになり、機の上の布は着実に大きくなった。ドイバックはタランの進歩に満足していたが、おどろいたことに、本人は満足していなかった。
「この模様は」タランは顔をしかめてつぶやいた。「これは、なぜだかわからないのですが、気に入らないんです。」
「おやおや、さすらい人。」と、ドイバックはこたえた。「だれも、あんたののどに剣なんか突きつけなかったよ。模様をえらんだのはあんた自身だよ。」
「それはそうでした。」と、タランもうなずいた。「しかし、今よく見ると、べつものをえらべばよかったと思うのです。」
「は、は」ドイバックは、かわいた笑い声をたてていった。「その場合、なすべきことは二つのうちのどちらかだね。着ても満足できないマントを仕上げてしまうか、ほどいて新しくはじめるか。」
タランは、長いあいだ自分の作品を見つめていた。おしまいに一つ大きく息をすいこんで、ため息をつき、首を横にふった。「じゃ、そうしましょう。やり直します。」
つづく数日間、タランは憂うつな気持で機の糸をほどきつづけた。しかし、準備ができてまた織りはじめてみると、うれしいことに、布は今までなかったほどぐんぐんでき上がっていった。タランは、新たに見出した自分の技に元気づいた。ついに布が織り上がると、タランは誇らしげにそれをかかげてみせた。
「これは、前のよりずっといい。しかし、これからはマントをはおるたびに、一本一本のことを考えてしまうだろうなあ。」
ガーギが、とくいげに、わあっとさけび、ドイバックも、よしよしというように、頭をぴょこぴょこさせてなずいた。
「よくできた。」と、ドイバックはいった。そして、今はもうあまりきつく見えない顔をタランに向けた。内心ではほほえんでいるような感じだった。「さすらい人や、あんたには才能がある。」おばあさんは、めずらしくやさしい声でいった。「プリデインでも、もっとも腕のいい機織りにだってなれる。わたしがいやがられるのを承知で糸とり棹でそのくるぶしをたたいたのは、しかり甲斐があると考えたからさ。その気ならここに住んで、わたしの機で仕事をしなさい。知っていることは教えてあげる。」
タランは、すぐにはこたえられなかった。そして、タランがためらっていると、機織りのおばあさんはほほえんで、また話しはじめた。
「あんたの胸の内はわかっているよ、さすらい人。」と、おばあさんはいった。「若者の生き方というものは落着かないものさ。そうとも。そして若いむすめもおなじだ。それを忘れるほど、わたしはまだ年をとっちゃいない。あんたの顔にね、コモット・グウェニスにはとどまりたくないと書いてある。」
タランはうなずいた。「かじ屋になりたいと思ったのとおなじくらい、機織りになりたかったのです。しかし、おっしゃるとおりです。これは、わたしがつづけたい生き方ではありません。」
「では、別れなくちゃならない。」と、機織りはいった。そして、「しかし、いいかい。」と、もういつもの鋭い声にもどってつけ加えた。「人生が機織だとしたら、あんたが織り出す模様は、あまりたやすくはほぐせないんだからね。」
タランとガーギは、また、なおも北へと旅をはじめ、ほどなくコモット・グゥェニスから遠くはなれた。タランは新しいマントをまとい、腰は新しい剣をさげていたが、その二つを持つ喜びもたちまち不安になった。ドイバックのいったことが、まだ頭の中に残っていた。思いは、しぜんに、はるかなモルダの沼地にある機にうつった。
「それでは、オルデュはどうなるのだ?」と、タランはいってみた。「彼女は、糸以上の何かで機を織っているのだろうか? たしかに、わたしという小鳥は自分でえさをさがして生きようとしている。しかし、わたしは、ほんとうに自ら布の模様をえらんで織っているのだろうか? それとも、彼女の機の一本の糸にすぎないのだろうか? もしそうだとしたら、ほとんど何の役にも立たない糸ではないのか。ま、とにかく」タランはものうげに笑ってつけ加えた。「そいつは長くてもつれたいとだ。」
だが、何日かたって、メリンラスがつれていつてくれた丘の上から、今まで見たことがないほどうつくしいコモットを見たとき、そんな陰気な考えはふっとんでしまった。手入れがゆきとどいて青々と肥沃なはたけや野原がひろがり、それを大きなモミやツガの並木がふちどっていた。草ぶき屋根と白壁の家々が、日の光をまばゆく照り返していた。空気までがちがって感じられた。つめたくて、ほのかにときわ木のきついかおりがただよっていた。見ているうちに、タランは胸がときめいてきた。妙に胸がおどってきた。
ガーギがかたわらにのぼってきた。「親切なご主人、ここで暮らすことはできませんか?」
「うん。」タランは、はたけや家々から目をはなさずにいった。「うん、ここに落着こう。」
タランがメリンラスをせきたててくだりはじめると、ガーギも、一生けんめいポニーにかけ足をさせてついてきた。浅い流れを渡ったとき、タランは流れの岸で、元気な老人がせっせと土を掘っているのを見て馬をとめた。老人のかたわらには、てんびん棒につけた木のバケツが二つおいてあり、老人は注意深くうす茶色の土をバケツの中にシャベル出すくっては入れていた。老人は髪もひげも青みがかった灰色で、どちらも短く切ってあった。ずいぶんな年なのに、腕など、かじ屋のヘフィズのようにたくましそうだった。
「ごきげんよろしゅう、土堀りの親方」と、タランは声をかけた。「ここはなんという村ですか?」
老人はふりかえり、片うでで、しわの深いひたいの汗をぬぐってから、するどい青い目でタランをじっと見た。「あんたの馬が立って――水をにごしているなあ――この川が、フォーンブレイク川さ。村の名? ここは、コモット・メリンだよ。」
19 ろくろ
「ここがどこだか、さっきいったとおりだ。」男は、タランが岸辺で馬をおりるのを見て、人がよさそうな声でいった。「こんどは、おぬしの名前と、なぜ、名もわからない土地へやってきたか、話してくれんかな? 道に迷って、べつのコモットをさがしているうちにメリンに来てしまったということかな?
「わたしは、さすらい人とよんでもらっています。」と、タランはこたえた。「道に迷ったのかといわれましたが」タランは笑いながらいい足した。そうとはいえません。行き先が自分でもはっきりしないのです。」
「すると、メリンは、おぬしが足をとめるところとしては、どこにもおとらずよいところというわけだ。」と、男はいった。「ついてきなされ。気に入るかどうかわからんが、もてなして進ぜよう。」
男が、最後にすくった土を桶に入れるのを見て、タランは進み出て運びますと申し出た。男がべつにことわらなかったので、タランはてんびん棒を肩にあてた。ところが、桶はタランが思ったより重かった。たちまち、ひたにい汗がふき出した。タランは、一足ごとに重く感じられる荷をかついで、ふらつく足でやっと歩いた。男が指した家が、近づくどころか遠ざかるように思えてきた。
「煙突修繕の粘土をさがすにしては」と、タランはあえぎながらいった。「ずいぶん遠くまで来るんですねえ!」
「おぬし、その天びんをかつぐこつを心得ていないな。」男は、タランの苦しみを見て相好をくずして笑った。タランがほっとして返した天びんを肩にした男は、荷が重いのに元気いっぱい大またに歩き出した。タランたちは引離されそうになった。細長い物置き小屋につくと、男は大きな木桶に粘土を落としこんでから、ふたりの旅人を母屋にまねき入れた。
はいってみると、たくさんの棚があり、素焼のかめや上品なつぼなど、ありとあらゆる陶器がならんでいたが、あちこちむぞうさにおいてあるものの中には、タランが息をのむほど精妙で美しいものがあった。前に一度だけ、タランは、ガースト卿の宝物庫でこのような芸術品を見たことがあった。タランは心からおどろいて老人に顔を向けると、老人はカシ板のテーブルに皿や茶わんをならべていた。
「さっきわたしは、縁と修繕の粘土をさがしているかとききましたが、ばかなことをきいたものです。」タランは、つつましく頭をさげていった。「これがあなたのお作でしたら、前にちょっと見たことがあります。そして、あなたのお名前もわかます。陶工のアンローですね。」
陶工はうなずいた。「わしの作品さ。前に見たことがあるというのなら、おぬしは、ほんとうにわしを知っているといえような。というのはだ、さすらい人よ、わしの技は年を経たために、どこまでが粘土のおかげでどこまでが技によるものか、もはやはっきりしなくなっている――いや、ほんとうをいえば、この二つは一体となっておるのやもしれんでのう。」
家の中には所せましと陶器がならんでいた。つくりたてで、ガースト卿の宝物庫にあったものよりさらにみごとな形のブドウ酒のさかずき、粘土でよごれた長いテーブルにならぶ塗料やうわぐすり入れのつぼなどをタランはさらによくながめてみた。すると、最初はただの食器にすぎないと思っていたものが、それぞれ、ブドウ酒のさかずき同様に美しいことがわかっ、心からおどろいてしまった。どれもみな名工のつくったものだった。タランはアンローをふりかえった。
「わたしは、こうきいていました。あなたのつくったもの一つだけで、一人の領主の宝物庫にあるもの全部より価値があるそうです。それがよくわかりました。ここ」タランはおどろきあまりくびわった。「ここは宝物庫そのものです。」
「はい、はい!」と、ガーギがさけんだ。「うでのいい陶工は、じょうずな創作で富と財産を手に入れる!」
「富と財産?」アンローは、にこにこしながらこたえた。「いや、食卓にのせるたべものを手に入れるだけさ。このつぼや鉢は、ほとんどを、陶工のいないコモットに持っていく。向こうに必要なものを送って、わしが必要なものをもらう。宝など、わしにはいちばん不必要なものだ。わしの喜びは技であって、収入ではない。プリデイン中の財産が、鉢をつくるこの指の技を、さらにみがく力になるかね?」
「ある人たちは』タランは、ろくろをちらりと見て半ば本気でいった。「あなたのおつくりになるものには魔法があると主張しています。」
それをきくと、アンローはのけぞるようにして心から笑った。「そうだといいがな。ずいぶん労力がはぶけるから。いやいや、さすらい人よ、残念ながら、わしのろくろはほかのものと変わりない。だ、これはほんとうだ。ずっと昔、プリデインの名工びっこのゴバニオンはさまざまな魔法の品をつくった。彼は、それらの品を、かしこくふさわしく用いるであろうと思われる人たちに与えたのだったが、それらはつぎつぎに死の王アローンの手に落ちた。今は一つもない。
「しかし、ゴハニオンも、あらゆる技の秘奥を発見して書き残しておいた。」と、アンローはつづけた。「それもまたアローンが盗み、だれも利用できないアヌーブンの宝庫に入れてしまった。」陶工の顔がきびしくなった。「わしは生まれてこの方、それをふたたびみつけだそうと努力し、その本質をおしはかろうとつとめてきた。そして多くのことを知った――子どもが歩くことをおぼえるように、実行によってだ。わしの足はよろめいてきた。もっとも深い知識には、まだ手がとどかない。永久にとどかないのではないかと思う。
「その知識さえつかめれば」と、アンローはいった。「わしは魔法の道具などほしがったりはしない。その知識さえみつかれば」アンローは粘土のくっついた両手を高く上げてさらにいった。「わしはそれで十分だ。」
「しかし、あなたは求めるものがわかっています。」と、タランはいった。「わたしなど、悲しいことに、どこをさがすというあてもなく、さがしもとめいるのですから。」そして、かじ屋のヘフィズ、機織りのドイバックのことや、自分でつくった剣やマントのことを、アンローにうちあけた。「わたしは、自分のつくったものを誇りに思いました。しかし、結局は、かなてこも機も、わたしをまぞくさせてくれませんでした。」
「ろくろはどうかね?」と、アンローはきいた。そして、タランがその技術を何も知らないと正直にいい、粘土でものをこしらえるところを見せてくださいとたのむと、こころよくうなずいた。
アンローは質素な服をたくし上げてろくの前にすわり、すぐにろくろをまわして一塊りの粘土をぽんとのせた。陶工は深くおじぎをするようなかっこうで仕事にかかり、まだ毛も生えていない小鳥でも持ち上げるようにそっと両手をさしのばした。タランの目の前で、アンローは細長い容器をつくりはじめた。タランがしんとした気持で見つめていると、粘土はくるくるまわるろくろの上でちらちらと光を発しながら刻々と変わるように思われた。そのときはじめてタランは、アンローの言葉の意味がわかった。ほんとうに、陶工の器用な指と粘土は一体となって区別がつかなくなり、アンローへの手が粘土の中に流れこんで粘土を生きたものにしているように見えた。アンローは無言で仕事に打ちこんでいた。しわだらけの顔は生き生きとしていた。まったく老いが消えていた。タランは心から喜びを感じたが、その喜びは陶工からじかに伝わってくるようだった。それがわかった瞬間、タランは自分が今、かつて会ったことのない真に偉大な名人の前にいることをさとった。
「フルダーはまちがっていた。」と、タランはつぶやいた。「魔法があるとすれば、それはろくろにこもっているのじゃない。陶工になそわっているものだ。」
「魔法など全然ないさ。」アンローが仕事からを離さずにこたえた。「才能、だろうな。しかし、それにはたいへんな苦労がともなう。」
「それほど美しいものがつくれるなら、その苦労もいといませんが。」と、タランはいった。
「では、おすわり。」といって、アンローはろくろの前にタランの席をつくった。「自分でつくってごらん。」といって、アンローはろくろの前にタランの席をつくった。「自分でつくってごらん。」タランが、できかかっているものがだめになってしまうからとことわると、陶工は笑って、「そりゃまちがいなくだめになる。そしたら、こねおけにほうりこんで、またほかの土とまぜ合わせてしまえば、やがてまた使える。むだにはならない。じっさい、むだになるものは何一つない。形を変えてまだもどってくるものさ。」
「しかし、あなたにとっては」と、タランはいった。「すでにここにそそがれた技術がむだになってしまいます。」
陶工は首を横にふった。「そうではない。技術というものはかめの水とちがって、くみおけでくみ出せばからになるものではない。くめばくむほど、ますますたまるものだよ。いいかね、さすらい人よ。技術の奥義は、おのずから新たになり、くみ出したためいよいよすぐれたものになっていくのだ。さあ、その手をな――こうする。親指を――こうな。」
指の下で回転する粘土にふれたとたん、タランは、陶工の顔に浮かんでいたあの喜びとおなじ喜びに胸が躍った。自分の剣をきたえ自分のマントを織った誇りも、この新しい発見では小さくなってしまった。タランは、ふいに、うれしさのあまりさけび声をあげてしまった。しかし、手の方はおずおずしてしまったため、土がゆがんだ。アンローがろくろをとめた。最初のうつわがあまりにもひどいゆがんだ形のものになったので、タランは、がっかりしながらも、頭をのけぞらせて笑ってしまった。
アンローが、タランの肩をぽんとたたいた。「なかなかいいぞ、さすらい人。わしがつくり出した最初の鉢もこれくらい無格好――いやもっとひどかった。おぬしには勘がある。しかし、技術をまなぶ前に、土をまず知らねばならんな。掘って、えり分けて、こねて、おぬしのもっとも仲のいい仲間の性質よりももっとよく、土の性質を知らねばならない。それから材料をひいて上ぐすりをつくり、それからかまの火がうわぐすりをどんなふうに変えるかもまなばなくてはな。」
「陶工アンロー」タランは、強いのぞみをむき出しにした低い声でいった。「あなたの技術を、わたしに教えてくださいませんか? これは、ほかのどれよりも、ぜひならいたいことです。」
アンローは、しばらく答えをためらって、考え深げにタランを見ていた。「おぬしがならいおぼえられることしか、教えられない。それがどの程度かは、いずれ時がたてばわかる。おぬしがのぞむなら、ここにとどまりなされ。あすからはじめよう。」
ふたりの旅人は、その夜、仕事場の居心地よいすみにのびのびと横になった。ガーギは藁のベッドにまるくなって眠ったが、タランはひざ小僧をだいておきていた。「ふしぎだな。」タランはつぶやき声でいった。「コモット人たちのことを知れば知るほど、ますますかれらが好きになる。しかし、一目見ただけで、コモット・メリンにいちばんひきつけられた。」おだやかでしずかな夜だった。タランは闇の中で、あこがれをこめてほほえんだ。「見たとたん、こここそ、喜んで暮らせる場所だと思った。そして、そして、エイロヌイだってここなら幸せに暮らすだろうと思った。」
「そして、アンローのろくろで」と、タランはつぶやきをつづけた。「この手が土にふれたとき、陶工になれば幸福感を持てるだろうとわかった。かじ屋よりももっと――機織り以上に――これは、指を通じて語れるもの、心の中にあるものを形にできる仕事といった感じなんだ。アンローの考えていることはよくわかる。あの人と仕事は別々のものじゃない。ほんとうに、アンローは土の中にはいりこみ、自分自身の命で土を生きたものにしている。ぼくも、それがまなべたら……」
ガーギは返事をしなかった。くたびれたこの生きものは、もうぐっすりねむっていた。タランはほほえんで、マントを肩までかけてやった。「ぐっすりと眠れよ。旅もこれで終りかもしれないからな。」
アンローは、約束したとおりに教えてくれた。翌日からずっと、この陶工は、粘土をつかっての仕事に劣らず大切な技術を、タランに教えてくれた。それは、よい土をみつけること、土の成分と質を見きわめること、えり分け、まぜ合わせ、ねり加減などだった。ガーギは、どんな仕事にも加わったので、まもなく、もじゃもじゃの体毛に土ぼこりとねば土と、ざらざらのうわ薬などがたくさんくっつき、焼く前のほそい足のついたつぼのように見えてきた。
夏は、楽しくどんどん過ぎていった。そしてタランは、陶工の技を見れば見るほど、ますますおどろきを深くした。アンローは、かなてこに向かうかじ屋のヘフィズよりももっと元気いっぱいにこねおけの粘土をこねた。ろくろに向かえば機織りのドイバックをしのぐ、世にもまれな精巧な仕事をやってのけた。タランがどんなに朝早くおきても、いつもかならずアンローはすでにおきていて、仕事にかかろうとしていた。アンローは疲れ知らずだった。ろくろの仕事に熱中すると、しばしば夜もねなかったし、昼間はたべることを忘れていた。同じ型を二度つかうことはめったになく、自分が創造したものでさえ、改良しようと努力していた。
「古い水は情けないのみものだ。」と、アンローはいった。「古い技術は、それよりさらに情けない。自分の足あとだけをたどって歩く者は、結局歩きはじめたところにもどるだけだ。」
タランがふたたびろくろの仕事を許されたのは、秋になってからだった。そして、タランがつくった鉢は、前ほどぶかっこうではなかった。
アンローは注意深くながめてから、一つうなずいてたにいった。「すこしはまなんだな、さすらい人。」しかし、その鉢をこねおけに投げこんでしまったので、タランはすっかり気落ちしてしまった。だが、「心配いらん。」と、陶工はいった。「保存のねうちがあるものをつくったら、かまで焼いて進ぜる。」
そんな時は永久に来ないのではとタランは思っていたが、ほどなく、アンローは、タランがつくった底の浅い鉢を、単純な形ながらつりあいがよくとれているので、焼いてもよいと判断した。そして、その鉢を、コモット・イサフの人びとのためにつくったなべや鉢といっしょに、ヘフィズの炉よりも大きいかまに入れた。アンローは落着きはらってコモット人たちにたのまれたほかの陶器の仕上げにもどったが、タランは心配がつのるばかりで、とうとう自分が焔にやかれているような気持になってしまった。しかし、ようやく火入れが終り、陶器がひえると、陶工はタランの鉢をとり出し、タランが息をのむようにして待っている間、両手でいじりまわしてしらべ、粘土だらけの指でたたいた。
アンローは、タランに向かってにっこり笑っていった。「いい音がする。初心者の作だが、さすらい人よ、はずかしい出来ではない。」
タランは、ガースト卿でも見たことがない美しい鉢をつくったような気持になり胸がおどった。
だが、その喜びは、ほどもなく絶望感に変わった。その秋、タランはずっと陶器をつくりつづけた。しかし、苦しい努力をつづけてみても、一つとして満足できるものはつくれなかったし、のぞみにかなうものもできなかった。タランはしだいに自身を失った。
「なにが足りないのです?」タランは、アンローに向かって泣くようにいった。「わたしはちゃんと剣をきたえることができましたし、上手にマントをつくることもできました。しかし、今度だけは、ほんとうに会得したいものがどうしてもつかめません。ほかのなによりも身につけたい技術が、なぜわたしには身につかないのです?」タランは、悲痛なさけび声をあげた。「その才能が、わたしには禁じられているのですか?」そういったとたん、タランは内心、自分の言葉が真実にふれたことをさとって、心がこおりついたように思い、うなだれてしまった。
アンローは、タランの言葉を否定せず、深い悲しみをたたえた目で、長い間じっとタランを見ていた。
「なぜ?」と、タランはささやくようにいった。「なぜ、そうなのです?」
「それは難しい質問だ。」ようやく、アンローがこたえた。そして、片手をタランの肩においた。「じっさい、だれひとり、それにはこたえられない。その才を身につけようと一生つとめをはげんで、その努力の果てに、まちがっていたとさとる人たちがいる。生まれながらに才を持ちながら、ついに気づかなかった人たちもいる。やる気をなくすのがはやすぎた人たちもいる。そして、手を染めるべきでなかった人たちもいる。」
「おぬしは、運がよかったと思わなくてはな。」と、陶工はさらにいった。「おぬしは、今それに気づいた。むだなのぞみで何年もつぶさなかった。ここまではまなんだのだ。まなんだことはむだにはならない。」
「では、これから何をしたらいいでしょう?」と、タランはたずねた。クラドックの谷間で味わったとおなじような、悲しくにがにがしい気持がどっとわいてきた。
「幸福への道は、つぼつくり以外にもたくさんある。」と、アンローはこたえた。「おぬしは、メリンにいて幸福だった。これからだって幸福でいられる。おぬしにできる仕事はある。おぬしの手助けはありがたいし、貴重なものだ。弟子としてであろうと、友人としてであろうとな。うむ、そう、そう。」アンローは、あかるい口調でつづけた。「あした、コモット・イサフにわしの陶器を送りたいと思っている。しかし、一日の旅は、わしのような年よりには長い。友として、荷物をわしのかわりに運んでくれまいか?」
タランはうなずいた。「イサフまで、あなたの陶器を運びましょう。」タランは、そういって顔をそむけた。幸せな暮しが、かまの中でこなごなになるきずものの陶器のように、こわれてしまったことをさとったのだ。
20 略奪者
翌朝、タランは、約束どおり、メリンラスとガーギのポニーに陶器を背負わせ、ガーギとふたりで、コモット・イサフへ出かけた。アンローは、イサフの人たちに伝言して、彼らの陶器をとりにこさせることもできたのだ。タランは、それを知っていた。
「これは、わたしがアンローのためにする使いじゃない。わたしに対するアンローの親切なんだよ。」と、タランはガーギにいった。「わたしが自分にかえって、ひとりで考えをまとめる時間を持たせるつもりなんだと思う。」タランは、悲しげにつけ加えた。「しかし、今までのところ、ぜんぜんまとまらない。わたしは、メリンにとどまっていたくてたまらないのだけれど、ここにいなくてはできない仕事はほとんどない。アンローは、友人としても技術の師としてもだいじに思う。しかし、あの技は、とうていてわたしのものにはできない。」
タランは、それからも、頭の中で考えなやみながら、夕ぐれよりすこし前にイサフについた。そこは、今まで見た中ではいちばん小さいコモットで、家も四、五軒しかなく、小さな牧場では、ほんの数頭の牛や数匹の羊が草をかんでいるだけだった。羊のかこいのそばに、一かたまりの人たちがいた。タランが近づくとみんなおそろしい顔つきをしていた。
その様子にとまどいながら、タランは大きな声で名のり、陶工アンローのところから陶器を運んできたことを伝えた。
「やあ、いらっしゃい。」ひとりが、べビルの息子ドラドワズと名のってあいさつした。「そして、さっそくだが、さようなら。」と、男はすぐにつづけた。「アンローにもあなたにもお礼をいいます。しかし、ここにおとまりねがうことは、あなたに血を流させることになりますからね。
「ごろつきどもが、山の中をうろついているのです。」ドラドワズは、タランがふしぎそうに眉をしかめたのにこたえてすぐにいった。「ごろつきの一隊、そう十二人ほどのがいるのです。すでに二つのコモットを略奪したときいています。それも、彼らがたべる分だけの羊か牛を一頭殺すだけでは満足せず、あそびに家畜全部を殺しているそうです。さきほど、丘の上に騎馬のものたちの姿があらわれたのを、わたしが見ました。彼らをひきいた悪漢は、黄色い髪で、栗毛の馬に乗っていました。」
「ドーラスだ!」タランは、思わずさけんだ。
「なに、なに?」と、コモット人のひとりがたずねた。「その一団をおぬしは知っているのかね?」
「もし、それがドーラスの一味なら、よく知っています。」と、タランはこたえた。「やつらはやとわれ兵です。そして、だれもやとってくれない場合には、賃金なしでも喜んで殺しをやると思いますね。したたかな戦士たちです。わたしが知るかぎりでは。その上、アヌーブンの狩人とおなじくらい残酷ですよ。」
ドラドワズが、重々しくうなずいた。「という話です。果たしてわたしたちのところに来るかどうかですが、たぶん来るでしょう。コモット・イサフはちっぽけな獲ものですが、守り手がすくないところなら、それだけますます攻撃をしかけるかっこうの理由になりますからね。」
タランは、男たちを一わたり見た。顔つきや態度から、勇気に欠けていないことはわかった。しかし、タランの耳に、またドーラスの高笑いがよみがえり、あのずるさと無慈悲さが思い出された。「それで、あの男が襲ってきたら」と、タランはたずねた。「どうするつもりです?」
「どうしたらいいというんです、あなたは?」ドラドワズが、おこってどなるようにいった。「みつぎものを出して、見のがしてくれとたのむのか? 家畜をやつらの剣のえじきにし、家をたいまつにやかせるのか? コモット・イサフはずっと平和だった。わたしたちのとくいなのは農耕で、いくさではない。しかし、やつらに立ち向かうつもりですよ。ほかにもっとよい方法がありますか?」
「わたしがメリンへひきかえして、援軍をつれてくることもできます。」と、タランがこたえた。
「遠すぎるし、手間がかかりすぎる。」と、ドラドワズが返事をした。「それに、そんなことはしたくない。それではメリンが手薄になってしまう。自分たちだけで立ち向かう。十二対七だ。わたしの息子のフラサールは」と、ドラドワズは指示をはじめた。フラサールは、コルによって豚飼育補佐に任命されたときのタランとほぼおなじくらいの年の、一本気そうな背の高い若者だった。
「数えまちがいをしていますよ。」と、タランは話をさえぎった。「七人じゃなく九人です。ガーギとわたしが加わります。」
ドラドワズが首を横にふった。「あなたがわたしたちを援助するいわれも義務もありません、さすらい人。あなた方の助力は歓迎しますが、それをたのむつもりはありません。」
「それでもやはり加わりますよ。」と、タランがこたえると、ガーギもそのとおりとうなずいた。「わたしのいうことをねよくきいてください。九人なら十二人に対抗して勝つこともできます。しかし、ドーラスが相手では、数は術策ほどたよりになりません。あの男ひとりだけでも、わたしは、十二人分くらいおそろしい。あの男は、抜けめなく戦い、最小の犠牲で最高のものを手に入れようとがんばります。こっちも、同じやり方で応じなくてはなりません。」そして、タランは、侵入者たちにこっちが劣勢だと信じさせて、ごく弱い防備しかないと見えるところを、ドーラスに攻撃させる作戦を語った。コモット人たちは注意深く耳を傾けた。
「ふたりが羊がこいで、ふたりが牛のかこいで、いつでもおどりかかれるように待ち伏せます。」と、タランはいった。「それなら不意打ちできるから、しばらく支えられます。その間に伏せていたのこりが後ろからせめるのです。それと同時に、みなさんのところの女の人たちが、くまでやくわでがちゃがちゃ音をたてれば、べつの戦士たちが助太刀にかけつけたように思えます。」
ドラドワズは、しばらくじっと考えていたが、うなずいていった。「その作戦はうまくいくかもしれません、さすらい人。しかし、わたしは、かこいを受持つ者たちが心配だ。わたしたち全部のために、攻撃を支えなくてはならないのだから。どこかに手ちがいが生ずれば、のがれるチャンスはあまりない。」
「ひつじがこいで見張る方に、このわたしがはいります。」と、タランがいいだした。
「そして、もう一人はわたし。」フラサールが、いそいで口をはさんだ。
ドラドワズがはひたいにしわを寄せた。「わたしの息子だからというので、おまえをはずしたくはないんだが、おまえは、りっぱな若者で、家畜の世話をよくする。おまえの年齢を考えているんだ、わたしは……」
「家畜はわたしの責任です。」と、フラサールが思わず大きな声でいった。「当然、わたしの持場はさすらい人のところです。」
男たちは、あわただしく相談し、おしまいに、フラサールがタランといっしょに見張りをすることに同意した。一方、ドラドワズはガーギとともに牛のかこいを守ることになった。ガーギは、こわいくせに、タランからあまりはなれることを承知しなかったのだ。作戦をすっかりたておわって、コモット人たちが、ひつじがこいのすぐ向かいにある、木立ちの中におさまったときには、うす雲の上に満月がのぼっていた。冷たい月の光で、ものの影や木立ちや枝の輪郭がくっきりした。タランとフラサールは、かこいの中で、不安そうな羊の群れにかくれた。
しばらくの間、ふたりとも口をきかなかった。あかるい月光を受けたフラサールの顔が、タランには、今までよりもっと子どもっぽく見えた。若者がこわがっていること、必死にそれを隠そうとしていることがわかった。タランは、自分も不安だったけれど、安心させるように、フラサールに向かってにっこり笑ってみせた。ドラドワズがいったとおりだった。若者は年もいかず、経験不足だった。しかし――タランはにっこりした。自分がフラサールの年でも、おなじ権利を主張しただろうことがわかっていたからだった。
「あなたの作戦はうまいものですよ、さすらい人。」ようやく、フラサールが、おしころした声で話しはじめた。なによりも心中の不安をなだめるために口をきいていることは、タランにも知っていた。「わたしたちにはたてられないよい作戦です。失敗するはずがありません。」
「どんな作戦だって失敗することはある。」タランは、乱暴なくらいの口調でそういった。そして、それっきりだまってしまった。心の中で、つめたい風の中の木の葉のように、恐怖が舞いたちはじめたのだ。羊毛の上着につつまれた体が、汗でびっしょりになった。タランはイサフに来ても、べつに有名でもなく、実力の保証もなかった。それなのにコモットの人たちは喜んでタランの話に耳をかたむけ、喜んで自分たちの運命をタランにかけてくれた。ほかにもっと役立つ作戦があったかもしれないのに、タランの作戦を受け入れてくれた。失敗したら、みんな命をなくすかもしれない。その責めはタランひとりが負わなくてはならないだろう。タランは剣のつかをにぎりしめて、目をこらして闇をうかがった。なんの動きも見られなかった。影すらこおりついたように思われた。
「あなたは、さすらい人とよばれていますね。」フラサールが、ちょっと気はずかしそうな口調で落着いていった。「わたしは、さすらいの旅をする人は、なにかをさがしもとめる人にちがいないと思っていますが、そのとおりですか?」
タランは、首を横にふった。「今までわたしは、かじ屋になろうとしたり、機織りになろうとしたことがあった。陶工への道も求めた。しかし、それも終った。これからは、目的もなくさすらうことになるかもしれない。」
「なにもさがしもとめないのなら」フラサールは、親しみのこもった笑い声をたてていった。「それでは、目的をみいだす機会は、まあないでしょう。ここの暮らしは楽ではありません」と、若者はつづけていった。「欠けているのは自発的な意志ではなく知識です。ドンの子孫たちは、長い間死の王アローンに対抗してプリデインを治めてこられました。その保護はありがたく思っています。しかし、死の王アローンがわたしたちから奪った秘密――父の話では、それが回復できたら、ギディオン王子の軍団ですらかなわない強い楯と剣が手にはいるそうです。しかし、こんなありさまの村ではあっても、イサフはわたしの生まれた土地ですし、ここで十分満足しています。」フラサールは、にこっと笑った。「だから、あなたをうらやましいと思いませんよ、さすらい人。」
タランは、しばらく返事をしなかった。それからつぶやくようにいった。「そうさ。うらやむのは、わたしの方だよ。」
それ以上口をきかず、ふたりがどんな物音にもゆだんせずに耳をすましているうちに、夜がふけていき、月が厚くなった雲にかくれてぼんやりしてきた。月光もうすい青い霧のようにぼやけた。しばらくたったとき、フラサールがほっとしたように大きく息をはきだしていった。「来ませんね。通りすぎてしまうのでしょう。」
フラサールがそういったとたん、夜の闇がばらばらに割れて、そのかけらが武装した人影に変わった。木戸がいきおいよく押しあけられたとたん、タランはさっと立ち上がった。
タランは、戦いの角笛を吹きならすと、敵にとびかかった。敵はびっくりしてあっとさけび、しりもちをついた。フラサールも、タランと同時におどり出て、木戸口の敵勢にとびかかった。タランは、敵に対してばかりでなく、敵が音もなくすばやくあらわれて作戦が失敗したという恐怖をおさえるためにも、めくらめっぽうに剣をふりまわした。次の瞬間、おびえた羊たちの狂ったようないいなき声をかき消すような、大きなさけび声があがった。木立ちにかくれていたコモット人たちだ。さらに、家の中からは、鉄のぶつかりあう音がきこえてきた。
羊がこいのところで、ならず者たちはためらってしまった。フラサールの相手は倒れていた。タランは、フラサールが倒れた敵をこえて、あらたに槍をつけていくのをちらりと見た。侵入者たちが、イサフの人たちをむかえるために向きを変えたので、侵入は羊がこいでくいとめられた。ところが、ひとりだけ、長いナイフをふりかざし、野獣のようにうなりながら、力のかぎり殺したりこわしたりしてうさを晴らそうとでもいうように、かこいの中にかけこんできた敵があった。タランがむかえうつと、くるっと向きをかえて切りつけてきた。男はグロッフだった。
グロッフもタランに気づいた。はじめ、ぎょっとしたが、たちまち、待ちに待っていたぞ、うれしいぞとでもいうように、みにくいうすら笑いを浮かべて、手のナイフを持ちなおした。グロッフがついて出たので、タランは剣でナイフをはね上げた。しかし、敵はとびかかってきて左手でタランの目をねらいながら、ナイフの先をきらめかせながら切りつけてきた。だれかが、ふたりの間にさっとわりこんできた。フラサールだった。タランがあぶないとさけんだが、若者は槍の柄でナイフをはじこうとたたかった。グロッフは歯をむきだしてフラサールに向かい、にくしみをこめて切りつけた。フラサールが倒れた。タランは、怒りのさけびをあげて剣をふりかざした。そのとき、突然、ドラドワズがあらわれた。農夫が剣をうちおろすと、グロッフが、ぎゃっとさけんだ。
コモット人の攻撃を受けて、ドーラス一党はしりぞいた。かけまわる男たちの騒々しいさわぎのまっただ中で、タランは、自分がかこいからはなれてしまっていることに気づいた。思いきってふりかえったが、ドラドワズもフラサールも見えなかった。かっとなったタランは、ただ突き進んだ。たいまつがあかあかともえていた。その明かりで、タランは、イサフの女や子どもまでが、くわやくまでをもっと男に加勢し、敵に向かっていくのを見た。タランはガーギをさがし、大声で名をよんでみたが、その声もさわぎにかきけされてしまった。
牛のかこいから恐ろしくほえたてる声があがったかと思うと、黒いものが戸を押しあけてとび出してきた。タランは、怒り狂った黒い牡牛が侵入者の間をはねまわるのを見て、ぎょっとして息をのんだ。その背中にガーギがしがみついていた。ガーギは、せいいっぱいの声でわめきたてながら、力持ちの牡牛の腹をけとばしては、牡牛の向きを変えさせ、おびえきったドーラスの残党の中につっこませていた。
「やつらが逃げる!」と、コモット人のひとりがさけんだ。
タランはぐんぐん走った。木立ちのへりに馬をつないでおいた侵入者たちは、あわてて馬のところへ走り、コモット人たちと、おこった牡牛の角にはさみうちされてしまった。タランは、ドーラスが栗毛にまたがったのを見て、追いつこうと走った。だが、ドーラスは、栗毛に拍車をくれて森にかけこんでしまった。
タランは、うまやにかけもどり、口笛でメリンラスをよんだ。と、ひとりのコモット人がタランのうでをつかんだ。「勝ったよ、さすらい人!」
そのときはじめて、タランは、戦いの音がやんでいるのに気づいた。ドーラスその者も姿を消してしまっていた。タランがあわてて羊のかこいまで行ってみると、ドラドワズの奥さんがひざまずいて息子をだきかかえていた。若者は目をあけるとタランに向かってむりに笑おうとした。
「フラサール!」タランは、ぎょっとして思わずそうさけび、羊飼いの若者のかたわらにひざをついた。
「傷は浅い。」と、ドラドワズがいった。「なおって、また羊の世話ができます。」
「世話をするとも。」フラサールは、タランにいった。「どうもありがとう。わたしたちは世話をする羊をなくさなかった。」
タランは、若者の肩に手をおいてこたえた。「そして、わたしは、羊よりももとだいじなものを、きみに助けられたよ。」
「やつらの半分以上が二度と略奪できなくなった。」と、ドラドワズがいった。「コモット・イサフもほかのコモットも、もうおそえない。残りはちりぢりになった。あの傷がなおるには手間がかかるだろう。さすらい人よ、あなたとあなたのおつれは、ほんとうによくわたしたちにつくしてくれましたよ。あなたはよそ者としてあらわれなすった。しかし、もう今は、よそ者とは思っていません。友人です。」
21 鏡
イサフの人たちは、泊まっていけとうるさくすすめてくれたが、タランは別れをつげてゆっくりメリンへもどった。ドーラス一党の敗北も、タランの気分をすこしもひきたてなかった。思いが今もまだ落着きなく変わり、疑問への答えもみつかっていなかったからだ。タランは前にもまして気が沈んでいた。イサフでの行いもアンローにはほとんど語らなかった。だからふたりの身にどんなことがふりかかったかを話したのは、得意な気持で破裂せんばかりのガーギだった。
「そうです、そうです!」と、ガーギは大声をはりあげた。「邪悪な強盗たち、泣きさけびながら逃げていった! ああ、強盗たち、親切なご主人を恐れた! そして、大胆なガーギをこわがった! そして、大きな牡牛、どしどし、どしどし、ふんづけ、鋭い角でぐさぐさ突きました!」
「大いに満足してしかるべきだね、さすらい人、」アンローは、話の間中だまっていたが、やがてタランに向かってそういった。「おぬしは、まっとうな人たちの生命と家庭をすくったのだよ。」
「ドラドワズは、わたしをもうよそ者ではない、友人だといってくれました。それはうれしいのです。」と、タランはこたえた。「これで自分で自分をよそ者だと思わないようになれたらいいんですが。このわたしが、何の役に立つのです?」それからふいにさけぶようにいった。「自分にとって? ほかの人にとって? わたしにはまったくわかりません。」
「イサフの人たちは、その考えに反対だろうな。」と、陶工はこたえた。「ほかにも、強い剣と勇敢な心を喜んで迎える人たちはいる。」
「やとわれ戦士ですか?」タランは、にがにがしげにいいかえした。「そして、ドーラスと同じ生き方をするのですか?」タランは、首を横にふった。「子どもの頃、わたしは、冒険と栄光と武勲を夢見ていました。今は、そうしたものが影でしかないと思っています。」
「それらのものを影にすぎないと思っているなら、本質を見ぬいていることになる。」と、アンローもうなずいていった。「多くの者が名誉を追い求め、そうしているうちに、得られた以上の名誉を失っている。しかし、わしのいったのは、やとい戦士ということではない……」アンローはふいに口をとじて、しばらくじっと考えこんだ。「その本質をありのままに見るとすれば」と、アンローは、はじめの言葉をくりかえしてつぶやいた。「おそらく――おそらくは」そして、タランをまじまじと見た。
「コモットの言い伝えに、自分の真の姿を見る方法がある。それがほんとうか、あるいはとるにたらぬつくり話か、わしはなにもいうまい。」と、陶工はゆっくりした口調でいった。
「しかし、言い伝えには、自分を知りたいと思うものは、フルーネットの鏡をのぞきさえれすればよい、とある。」
アンローの話ぶりはもの静かだったが、タランにはそれが雷鳴のとどろきのようにきこえた。
「フルーネットの鏡?」タランは、思わずさけんでしまった。クラドックの谷間を出て以来、タランは、鏡のことを考えることをやめ、心にかくし、忘れてしまっていた。月日が、墓の土まんじゅうをかくす枯れ葉のように、鏡のことをおおってしまっていた。「鏡か。」タランは押しころした声でもう一度いった。「それは、はじめから、わたしの探索の旅の目的でした。そして、さがしだすことをあきらめていたのです。それが、すこしもさがしていないときにみつかるとは。」
「おぬしの探索?」アンローは、当惑していった。アンローは立ち上がって、気づかわしそうにタランを見つめていた。「そのことを、おぬしすこしも話してくれなかったな、さすらい人。」
「話したとて、すこしも自慢にはなりますまい。」と、タランはこたえた。
しかし、今は、アンローが親身な表情を浮かべて静かにきいてくれるので、タランはすこしずつ、カー・ダルベンのこと、オルデュのこと、探索のために行った場所のこと、クラドックの死のこと絶望感をいだいたことなどを語った。「以前なら」と、タランは話をしめくくった。「鏡をみつけることだけしかのぞまなかったでしょう。今は、それをこの手に持っていても、のぞきこむのが恐ろしい。」
「おぬしの恐れはわかる。」陶工はおだやかな声でいった。「その鏡でおぬしの心が安らぐかもしれない――あるいはいっそう苦しむことになるかもしれない。たいへんな賭けだ。どっちをえらぶかは、おぬしがきめなくてはならぬ。」
「しかし、さすらい人、このことだけはいっておくよ。」アンローは、じっとくちびるをかんでいるタランに向かって話しをつづけた。「それは、おぬしが考えているような鏡ではない。鏡はこのすぐ近くのフラウガダルン山脈にある。せいぜい二日の旅だ。フルーネット湖の上の端の洞穴の中だ。フルーネットの鏡とは、じつは水たまりなのだよ。」
「水たまり?」タランはおどろいていった。「どのような魔法がかけられているのです?魔法にちがいありませんよ、それは。」
「そうさ。」と、陶工はこたえた。「魔法と考えるひとにとってはな。」
「あなたはどうなのです?」タランは声を低くしてたずねた。「あなたは、それをのぞこうとされましたか?」
「それはしなかった。」と、アンローはこたえた。「なぜなら、わしは自分をよく知っているからだ。陶工アンロー。よかれあしかれ、それだけ知っていれば、一生それで十分にきまっておる。」
「そして、わたしの場合は」と、タランはつぶやいた。「なにを知れば、一生十分といえるのだろう?」そして、しばらくはなにもいわなかったが、ようやく顔をあげた。「おっしゃるとおりです。わたしは鏡をのぞくのが恐ろしい。鏡のお告げを知るのがこわい。しかし、すでに恥辱は味わっている。」タランは、苦しげに吐き出すようにいった。「この上さらに怯懦《きょうだ》を味わわねばならないだろうか?
「あすの朝」と、タランは言葉をついだ。「朝になったら、わたしはフルーネットの鏡まで旅をします。」
決心しても、気持はすこしも休まらなかった。夜あけとともに、タランは、ガーギといっしょに馬にくらをつけた。うたがいの気持が、晩秋のひえた霧以上に心身をつめたくしていた。だが、もうきめたことなので、タランは、ぐんぐん馬を北に進めフラウガダルン山脈をめざした。目標はメレディン山の高いいただきだった。例の洞穴がメレディン山のふもとにあると、アンローが教えてくれたのだ。ふたりはだまったままぐんぐん馬を進め、道がわからなくなるほど光がうすれてしまったとき、ようやく馬をとめた。ふかふかした枯松葉のじゅうたんの上で野宿したが、はげしい不安にとりつかれているふたりは、ほとんど眠れなかった。
翌朝の夜明けに、ふたりは持物をまとめ、山の尾根づたいにかなりの速度で進んだ。まもなく、タランが大声をあげて下の方を指さした。フルーネットの湖が、早朝の光にきらめきながら、細長いだ円になってひろがっていた。青く澄んだ水面に波一つたてず、木々の立ちならぶ岸を底深くうつした湖はまったくの鏡だった。ややはなれて、メレディン山が高くそびえたっていたが、今なお長い斜面にへばりついている霧のため、霧の上に浮かんでいるように見えた。
岸辺まで道をひろって下るにつれ、タランの胸は早鐘を打ち出した。メレディンに近づくと、土地が急斜面でくぼみ、ほんのしばらく草地がつづいてから、浅い谷間に変わった。ふたりは、山から流れ落ちる渓流のほとりに馬をつないだ。タランはすでに洞穴をみつけていたので、いそいでそこに向かい、ガーギも苦労しながら後につづいた。
「あれだ!」と、タランがさけんだ。「ほら! 鏡だ!」
メレディンのふもとに、雨風がえぐった奥行き五、六歩のアーチ型の洞穴があった。ひさしになる岩がせり出していて、それをおおうこけの間を、ちょろちょろと水がしたたりおちていた。タランは走った。胸は高なり、鼓動のはげしさで、手首があつくなった。だが、近づくにつれて足はおそくなった。恐怖が重くのしかかり、足がくさりを巻きつけられるように重くなったのだ。洞穴の入口で、タランはちょっと長く立ちどまってしまった。ガーギが心配そうにタランの顔を見た。
「ここだ。」タランはそうつぶやいた。そして足をふみ出した。洞穴の床はなめらかな石で、一箇所が浅くくぼみ、フルーネットの鏡になっていた。それは、洞穴の中にありながら、みがいた銀の楯のように光を発していた。タランは、そのふちに、のろのろとひざまずいた。くぼみには指の深さほどの水しかたたえられていなかった。岩壁からじわじわとしみ出てできる水滴一粒一粒がたまったものだった。悠久の昔から今までかかっても、水は、まだふちまでたまっていなかった。浅いものではあったが、その水は、切子面があかるい白い光を受けてたがいにうつり合い深味をたたえる水晶のように見えた。
タランは、光る水面を乱しはしないかと、息をするのもこわごわ、身をのり出した。洞穴内は音一つなく静まりかえっていた。枯れたこけのくず一つでも落ちたら、うつるものがこなごなにくだけそうだった。タランは旅にやつれた日やけした自分の顔を見て、手がふえるた。ほんとうに心から、顔をそむけたくてたまらなくなった。しかし自分をおさえて、もっとよくのぞきこんだ。これは目の迷いだろうか? タランは、鏡の上にさらに身をのり出した。そして、あっとさけんだ。自分の目が信じられなかった。
そして、そのときちょうど、ガーギが恐怖の悲鳴をあげた。タランがぱっと立ちあがって、いきおいよく向きを変えたとき、ガーギがかけ寄ってすくんだようにしがみついてきた。目の前に、ドーラスが立っていた。
ドーラスの顔には不精ひげがのび、黄色い髪は、よごれて目の上までたれていた。馬の皮の上着は、片側がたてにさけ、くつは泥だらけだった。ドーラスは、左手に持ったたべものを右手ですくって口につめこみながらタランに向かってにやりと笑った。
「うまく会えたぜ、豚飼いの殿。」
「なにがうまくだ、ドーラス。」タランは、剣を抜きながら大声でいった。「家来たちをよんでわたしたちに攻めかからせるかね? さあ、よんだがよかろう。コモット・イサフで、わたしたちから逃げたやつらを全部な。」タランは、剣をふりかざして大またに前へ出た。
ドーラスが耳ざわりな声で笑った。「おぬしは、相手が剣を抜かないうちに切りかかるのか?」
「では、抜け。」タランはいいかえした。
「抜くさ、これを喰いおわったらな。」ドーラスはそういって、低くばかにしたようにふんといった。「きさまの剣はぶかっこうだな、豚飼い。グロッフのつらよりもっとみにくいぞ。」そこで、ずるそうににやっと笑った。「おれの剣の方がみごとだぜ。それがただで手にはいったときてる。おれの家来? あいつらを、おれによばせたいのか? やつらはつんぼだよ。半分は、墓の土で耳をふさがれちまってるんでね。おれはイサフできさまを見て、コモットのでく人形を団結させたのがきさまだとわかったよ。残念ながら、あのときはひまがなくて、ご挨拶できなかったがね。」
ドーラスは、手の甲で口をぬぐった。「イサフから馬で逃げた連中のうち、ふたりの臆病者は逃げちまって、その後どうなったかおれは知らん。ふたりは重傷だったから、こいつらは、おれが、黒ハゲタカまでの旅をいそがせてやった。だから、もうおれの荷物にゃならない。だが、心配ない。すぐにほかのやつらが、仲間となって集まってくる。
「今のところは、その方がかえっていいんだ。」と、ドーラスはつづけた。「きさまの宝の分け前にあずかるのは、おれひとりだからな。」
「宝?」タランはおどろいていった。「宝なんかないぞ! さあ、ドーラス、剣を抜け。抜かなければ、おまえがやったみたいに、無腰でも殺すぞ。」
「豚飼いめ、うそはもうやめろ。」ドーラスが、うなるようにいった。「この期に及んでもまだおれをこけにするのか? おれは、きさまの旅についちゃ、ちゃんと知ってる。ここまで来るのにまわり道をしても、おれはだまされない。きさまの鞍袋には、値打ちものはいっておらん。この目でたしかめたんだ。だから、えものがだれのものか、まだきまっちゃいねえんだ。」
ドーラスは、鏡のところへ大またで近づいた。「ここがかくし場所か? なにをみつけたんだ、豚飼い? にごった水たまりか? なにをかくしてある?」
タランはあっとさけんで、とびかかろうとしたが、すでにおそく、ドーラスは重いくつを鏡につっこみ、口ぎたなくののしりながら水をいきおいよくはらいとばした。
「なにもない!」ドーラスが、はげしい怒りに顔をゆがめてどなった。
タランはあえいで、よろよろと前にのめった。ドーラスが剣を抜いた。
「豚飼いめ、おれは喰いおわった。」と、ドーラスがさけんだ。
ドーラスが力いっぱい切りかかってきた。その勢いのはげしさに、タランはよろめいて洞穴の外に逃げなくてはならなかった。ガーギがかーっとなってわめきながら、敵にむしゃぶりついたが、ドーラスはガーギをぎゅっとつかんで岩壁にたたきつけるとうなり声をあげてタランにとびかかった。
タランは、ようやくしゃんと立ち、剣をあげて敵の攻撃をふせいだ。ドーラスはののしり声とともにまたぶつかってきた。タランは斜面を後退した。敵がさらに攻めかかってきた。タランは足場を失ってよろよろと後退し、片ひざをついてしまった。
あざけり笑いとともに、ドーラスは剣をふり上げた。かつてはタランのものだった剣を、ドーラスは力いっぱいふりおろした。タランは剣がぎらっと光るのを見た。これでおしまいだと思いながら、それでもタランはその一撃をかわそうと、剣を力いっぱいふりあげた。
二本の剣が、がきっとぶつかり、がーんとなりひびいた。タランの剣がぶるるっとふるえ、タランは反動であおむけにたおれた。だが、剣はぶじだった。ドーラスの剣がくだけていた。
くそ、とさけんで、ドーラスは、役に立たなくなった剣のつかをタランの顔めがけて投げつけると、湖の岸辺の松林に逃げこんだ。主人の口笛をききつけた栗毛の馬が木々の中から姿をあらわした。タランは、逃げる敵を追ってぱっとかけだした。
「おたすけ! おたすけ!」洞穴から、ガーギのさけびがきこえてきた。「親切なご主人! ああ、傷ついたか、おたすけください!」
これをきいてタランが立ちどまったちょうどそのとき、ドーラスが馬にとびのって全速力で走っていった。タランは洞穴へかけもどった。洞穴では、ガーギがうめきながら上半身をおこそうとしていた。タランは、いそいで片ひざをついた。ガーギのひたいが深くさけていた。しかし、ガーギの苦痛は、きずのいたみよりはむしろ恐怖のためとわかった。タランは、ガーギを洞穴を連れ出し、大きな岩にもたれかからせてやった。
タランは、それっきりフルーネットの鏡のところへはもどらなかった。すでに、水はとびちって、まわりの石をぬらし、水たまりはからっぽで、ドーラスの足あとがねば土の上にのこっているだけだった。タランは、ガーギのそばにうずくまるように腰をおろし、両手で頭をかかえた。長い間、じっと動かずなにもいわなかった。
「行こう。」タランは、ようやくそういって、ガーギをたすけて立たせた。「行くぞ。ずいぶん長い道だけどな。」
アンローの小屋には、あかりが一つともっていた。もう夜明けが近かったが、陶工がまだ一心にろくろをまわしていることがわかった。
タランがゆっくりとしきいをまたいではいっていくと、アンローは立ち上がった。ふたりとも、しばらく無言だった。陶工は心配そうにタランの顔をじっと見ていたが、おしまいにいった。「鏡はのぞいたかね、さすらい人?」
タランはうなずいた。「ほんのすこしの間。しかし、もう二度とだれものぞけないでしょう。鏡はこわれてしまいました。」タランは、フルーネット湖でのドーラスとの出会いを語った。タランの話が終ると、陶工は悲しげに首をふった。
「では、なにも見られなかったのか?」と、アンローがいった。
「いえ、知りたいと思っていたことはわかりました。」と、タランはこたえた。
「それをたずねることはやめるよ、さすらい人。」と、アンローはいった。「しかし、話したいというのなら、きこう。」
「自分の姿を見たのです。」と、タランはこたえた。「じっと見ている間に、力が見え――もろさが見えました。誇りと虚栄と、勇気と恐怖が見えました。知恵も、ほんのすこし。おろかしさは、これはたくさんでした。目的は、よい目的がたくさんあらわれましたが、なしとげずにうちすてられた目的の方がさらに多く見えました。この点は、残念ながら、わたしも並の人間と変わりないことがわかりました。
「しかし、こういうこともわかりました。」と、タランはさらにいった。「人間はみなおなじように見えても、雪片のようにみなそれぞれちがい、おなじ人間はひとりもいないということです。あなたは、鏡をもとめる必要がなかった。自分は陶工アンローであると知っているからだとおっしゃっていましたね。わたしも今は、自分がだれだかわかりました。わたしは、だれでもない、わたしです。わたしは、タランです。」
アンローは、すぐにはこたえなかったが、しばらくしていった。「それがわかったというなら、おぬしは、あの鏡が注げることのできる秘中の秘を知ったのだ。やはり、あれには魔力があったのかもしれぬ。」
「魔力などありませんでした。」タランは、こたえてほほえんだ。「あれは水たまり、今まで見た中でもっとも美しい水たまりでした。しかし、ただの水たまりにすぎませんでした。最初」と、タランは話しつづけた。「わたしは、オルデュが、ばかをかついでむだ骨折りをさせたのだと思いました。そうではありませんでした。彼女は、わたしに、鏡にうつるものを見せるつもりだったのです。どの小川でも、川でも、うつるものはおなじでした。しかし、そのときだったら、今のように理解できなかったでしょう。
「血筋については」と、タランはつけ加えていった。「これはどうでもよいことです。血筋はたしかに強く人を結びつけますが、ほんとうの人のつながりは、血縁とはまったく関係ありません。人間はみな血縁のもの、おたがいがきょうだいだと思います。おなじ親と子どもだと思います。かつてさがし求めた家督など、もう、わたしはさがしません。自由コモット人たちが、ちゃんと教えてくれました。すぐれた人間とは、自らなるものであって、生まれではないことを教えられました。カディフォル・カントレブのスモイト王ですら、そう教えてくれました。しかし、あのときは、耳をかそうとしなかったのです。
「フロニオは、人生とは幸運をすくう網だといってくれました。かじ屋のヘフィズはかじ場だといい、機織りのドイバックは機だといいました。しかし、あなたは」タランは、陶工の目をまっすぐに見ていった。「あなたは、人生がそれ以上のものであることを教えてくれました。人生とは、ろくろにのせた粘土のように、なにかにつくりあげる粘土ですね。」
アンローはうなずいた。「そして、さすらい人よ、おぬしは自分の粘土でなにをつくるつもりかな?」
「メリンにはいられません。」と、タランはこたえた。「大すきなところではありますが。今までどおり、カー・ダルベンがわたしを待っていてくれます。わたしの暮らしはあそこにあるのです。帰っていくのがうれしいですよ。あまり長くるすにしましたから。」
あとは、タランもガーギも、陶工アンローも、口をきかずにじっとすわっていた。あけぼのの光がさすと、タランは陶工の手をしっかりにぎって別れのあいさつをした。
「ぶじな旅をな、さすらい人。」アンローは、メリンラスにひらりととびのったタランによびかけた。「わしらのことを忘れるなよ。わしらも、おぬしのことは忘れないからの。」
「わたしは剣をつくりました。」と、タランは誇らしげにさけんだ。「マントもつくりました。鉢もつくったのです。その上、プリデインでもっとも美しい土地の人たちの友情も得ました。これ以上の宝を、だれがみつけられますか。」
メリンラスが、せきたてるようにひづめで地面をひっかいた。タランは、雄馬に道をまかせて出発した。
かくして、タランは、ガーギとともにメリンをはなれた。
馬をすすませていくうちに、たくさんの声が「忘れないで! 忘れないで!」とよびかけてくるように思った。タランは一度ふりかえってみたが、メリンはもはや遠く、見ることもできなかった。山から一陣の風が吹きおこり、枯れ葉を舞いたてながら故郷カー・ダルベンの方へ運び去っていった。タランは風を追った。