【タランとリールの城】
ロイド・アリグザンダー
1 ルーン王子
赤味をおびたきんぱつのおとめエイロヌイが、カー・ダルベンを去ることになった。エイロヌイは、リールの王族レガトのむすめアンハラドの、そのまたむすめで、王女だった。出立をきめたのはダルベンだった。タランは、ふいに奇妙に気が沈むのを感じたが、老予言者のいうことに反対できないことはわかっていた。
エイロヌイが旅立つ春の日の朝、タランは馬に鞍をおき、うまやからひきだした。王女はせいいっぱい陽気にふるまいながら、わずかな持ちものをくるんで小さな包みをつくり、それを肩にかけた。首には、銀の三日月のかざりがついたすばらしいくさり、指には、大昔つくられたゆびわ、そして、着物のかくしには、もう一つ、だいじなものがはいっていた。それは、エイロヌイの意のままに、燃えるたいまつより明るくひかる、黄金の玉だった。
ダルベンは、ふだんよりやつれた顔で、重荷をせおったように背をまげて、小屋の戸口でエイロヌイをだきしめた。「いつまでも、カー・ダルベンをわが家と思いなされ、わしも、そなたのことはいつも忘れはせん。じゃが、悲しいことに、若い王女の養育は、予言者の力ではとても及ばぬなぞでのう。」ダルベンは、そこでちらとわらってつけ加えた。「豚飼育補佐をそだてるだけでも、手をやいておる。
「モーナの島まで、どうかごぶじでの。」と、ダルベンは話をつづけた。「ルーズルム王もテレリア王妃も、親切で慈悲深い人たちじゃ。ふたりとも、心からそなたの親代わりをつとめ、保護者になろうとのぞんでおられる。そなたは、テレリア王妃から、王女にふさわしい立居ふるまいをまなべよう。」
「あら!」と、エイロヌイが大きな声でいった。「わたし、王女になんか、ちっともなりたかありません! それに、わたしは、もう、今でも若い王女でしょう。どう変わったらいいんですの? そんなの、さかなに水およぎを習えっていうのとおなじだわ!」
「えへん!」ダルベンは顔をしかめてせきばらいした。「わしは、ひざをすりむいたり、破れたきものを着たり、はだしであるいたりするさかななど、見たことはないな。そういうことは、さかなに似あわん。それとおなじに、そなたにも似あわんの。」ダルベンは、骨ばった手を、そっとエイロヌイの肩にのせた。「さあ、さあ、聞きわけねばいかん。人はみな、成長し、変わらねばならぬ時がくるものじゃ。」そして、タランに顔を向けていった。「王女をしっかりとおまもりするのだぞ。おまえとガーギを同行させることに、わしはいささか不安を感じておる。だが、それで別れのつらさがうすらぐなら、同行させねばなるまい。」
「エイロヌイ王女は、必ずぶじにモーナへ送ります。」と、タランはこたえた。
「そして、おまえもじゃ。」と、ダルベンがいった。「ぶじにもどるのだぞ。おまえがもどるまでは、わしは、安心できん。」ダルベンはもう一度王女をだきしめると、そそくさと中へひっこんでしまった。
コルは、大アブレン港までエイロヌイたちを見送り、馬をつれかえることになっていた。このがっしりした古つわものは、もう馬にのっていたが、しんぼうづよく待っていた。毛もじゃのガーギは、腹いたをおこしたフクロウのような、悲しげな顔つきで、小馬にまたがっていた。タランが飼っているカラスのカアも、めずらしくだまりこくって、タランの馬の鞍にとまっていた。タランは、エイロヌイを、彼女の愛馬リーアゴルにのせてやってから、銀のたてがみのメリンラスにひらりととびのった。
一行四人は、カー・ダルベンをあとに、なだらかな丘を越えてアブレン港に向かった。タランとコルは、先導のため、馬をならべて先頭をすすんだ。カラスのカアは、タランの肩に、くつろいでとまっていた。
「彼女は、ひっきりなしにしゃべっていたっけ。」タランが陰気な声でいった。「これでまあ、カー・ダルベンも静かになるね。」
「そりゃ、なるだろう。」と、コルがいった。
「心配ごとも減るね。彼女ときたら、しょっちゅうどこかしらすりむいていたからなあ。」
「うむ。」と、コルがいった。
「これでいいんだね。」と、タランがいった。「やっぱり、エイロヌイは、リール王家の王女だから。ただの豚飼育補佐とはちがうんだものな。」
「そのとおり。」コルは、青くかすむ山々の方に目をそらしていった。
一行は、しばらくの間もくもくと馬を進めた。
「いなくなると、さびしいだろうな。」タランが、おこったような声で、とうとう本音をはいた。
古つわものは、にやっとわらい、てかてかひかる頭をなでた。「王女さまに、そういったのかね?」
「ううん――はっきりとは。」タランは口ごもった。「いったほうがよかったと思うんだ。でも、それをいおうとするたびに、そのう、とてもおかしな気分になっちゃって。それに、彼女ときたら、こっちがまじめな態度をとろうとすると、へんなことをいいかねないからね。」
「かもしれんな。」コルはにこにこしながらこたえた。「一番大事に思うもののことが、いちばんわからないものなんだ。だが、もどってきたら、いくらはたらいてもおいつかぬほどいそがしくなるぞ。気持ちを落着けるには仕事がいちばんだと、おまえにもわかる。」
タランは悲しげにうなずいた。「そうだろうな。」
正午をすぎて、西に向かうと、丘陵が長いすそをひいてアブレン渓谷にくだりはじめた。最後の尾根に近づいたとき、カアがタランの肩からとびあがり、空高くまいあがると、興奮してかあかあなきたてた。タランは、メリンラスをせきたてて尾根を越えた。眼下の川がぱっと目にとびこんできた。こんなに幅の広いアブレン川は、はじめてだった。陸にだかれてしずまる港の水に、日の光がまだらにひかっていた。岸辺に、一そうのすらりと長い船がつながれて、上下にゆれていた。船上には、四角い白帆を上げるために、綱をひいている人びとのすがたがはっきりと見えた。
エイロヌイとガーギもおいついてきた。タランは、気がはずんできた。港とそこに待っている船を見たとたん、だれもが、海風に悲しみを吹きはらってもらったように感じた。エイロヌイは、陽気におしゃべりをはじめ、ガーギは、めちゃくちゃに両腕をふりまわして、あやうく鞍から落ちそうになった。
「はい、はい。」と、ガーギは大声でいった。「雄々しく勇敢なガーギ、ぷかぷかすいすい、船にのって、親切なご主人と気高き王女のお供をしますぞ、よろこんで!」
一行は、馬をゆるやかにかけさせて斜面をくだり、水ぎわで馬をおりた。一行を見た水夫たちが、船から岸まで渡り板を出してくれた。板が渡されたとたん、ひとりの若者が板にのり、大またにせかせかと、一行に向かってやってきた。 ところが、ゆれる板の上を五、六歩進んだだけで、すぐにからだの平衡を失い、よろめいて、ばしゃんと、頭から浅瀬に落ちてしまった。
タランとコルが助けにかけよった。しかし、若者は、すでに自分で立ちあがっていて、水の中をよたよた岸にあるいていくところだった。タランとおなじくらいの若者だった。顔がまんまるで、目はうす青く、髪はうす黄色だった。銀くざりのベルトから剣をさげ、豪華なかざりのある短剣をさしていた。マントと上着はびしょぬれになってしまっていたが、金糸銀糸のぬいとりがあった。この見知らぬ若者は、水に落ちたことにも、衣服がびしょぬれであることにも、まるで平気のようだった。それどころか、まるでなにもなかったように、陽気にわらっていた。
「やあ、やあ!」若者は、大きな声でそういって、水のぽたぽたたれる手をふった。「あそこにおられるのが、エイロヌイ王女ですね? もちろん、そうだ! そうにきまってる!」
それだけいうと、若者は、マントの水をしぼることもしないで、最敬礼をしたので、タランはまたつんのめってたおれるのではないかと心配した。若者は、やがて背をのばすと、重々しい声で宣言するようにいった。「ルーズの息子ルーズルム、およびタヌウエンの娘テレリア、すなわち、モーナ島の王および王妃の代理として、リール王家のエイロヌイ王女にごあいさついたします。あっ、それから、ほかの方がたにも。」若者はふいに気づいて、あわただしくまばたきしながら、そういいたした。「まずはじめに、みなさんのお名まえを、おたずねすべきだったですね。」
タランは、この軽はずみなふるまいに、あっけにとられ、かなり不快になっていたが、進み出て一行を紹介した。それから、若者の名まえをきこうとしたが、相手は話をとってしまった。
「いや、けっこう、けっこう! あとでもう一度、みなさんが自己紹介してください。一度にひとりずつ。そうでないと、わたしは忘れっぽいんで――やっ、船長が手をふっています。潮のぐあいのことにちがいない。あの男ときたら、潮のことばかり心配していましてね。わたしは、船の指揮をとるのは、これがはじめてですが。」と、若者はほこらしげに話しをつづけた。「それがおどろくほどかんたんなのです。ただもう、水夫どもに命令しさえすればいいので……。」
「しかし、あなたは、どなたです?」タランはめんくらってきいた。
若者は、タランを見て、目をぱちくりさせた。「それを申し上げるのを、忘れていましたか? わたしは、ルーン王子です。」
「ルーン王子、王子ですって?」タランはまさかといった口調で、オウムがえしにいった。
「そのとおり。」ルーンはあいそよくほほえんでこたえた。「ルーズルム王は、わたしの父、そして、もちろん、テレリア王妃が母です。さ、乗船しましょうか? 船長をはらはらさせたくないのです。潮のことで、さかんに気をもんでいましてね。」
コルが、エイロヌイをだきしめた。「今度あったら、あなたはわからないかもしれないなあ。すばらしい王女さまになっているだろうからねえ。」
「わかってほしいのよ!」と、エイロヌイは大きな声でいった。「わたしは変わりたくなんかない!」
「だいじょうぶ。」コルは目くばせを一つしてそういうと、タランに向かい、「じゃ、おまえも行っておいで。帰るときは、カアを先にとばしてよこせば、アブレン港まで迎えにくる。」
ルーン王子は、エイロヌイの手をひいて、渡り板を渡った。ガーギとタランがあとにつづいた。タランは、もうルーンにまるで機敏さがないことを見ぬいていたので、エイロヌイがぶじ乗船してしまうまで、油断なく王子から目をはなさなかった。
船はおどろくほど広く、設備もよかった。甲板は長く、両側にこぎ手の座席がならんでいた。船尾には、てっぺんが平らな四角の小屋がつくりつけてあった。
水夫たちがかいを水に入れ、船を中流に出した。コルが、岸辺沿いに馬をゆっくり走らせながら、力いっぱいに手をふっていた。ひろがりつづける川のまがり目を、船がまわると、老戦士の姿は見えなくなった。カアは、帆柱のてっぺんにまいあがったが、ほどよい風がひゅうひゅうと羽毛の間を吹きつけるので、すっかりとくいになって羽ばたいてみせた。カラスというより、黒いオンドリのように見えた。岸が遠く灰色にかすみ、船は海に向かってぐんぐん下がった。
タランは、最初に出会ったとき、ルーンにめんくらい、かすかにいらだちをおぼえたが、今はもう、この王子になど出会わねばよかったと思いはじめていた。タランは、エイロヌイと二人だけで話をするつもりでいた。ぜひともエイロヌイに話したいことが、心の中にたくさんたまっていた。ところが、思いきって話そうとするたびに、ルーン王子が、どこからともなく、ひょっこりあらわれ、まんまるい顔にしあわせそうなわらいをいっぱいにうかべて、「やあ、やあ。」と大声でいうのだった。――このあいさつをきくたびに、タランはますます腹だたしくなるのに気づいた。
一度、このモーナの王子は、つかまえた大きなさかなを、タラン一行に見せようと、夢中でかけよってきた。エイロヌイとガーギはよろこんだが、タランはよろこばなかった。つぎの瞬間、ルーンはべつの方に気をひかれ、ぬれてぬるぬるするさかなを、タランに持たせたまま、いそいで行ってしまったからだ。一群のイルカをさし示そうとして、船ばたから身をのりだしたときには、剣を海に落としそうになった。運よくタランがおさえてやったので、剣はなくならずにすんだ。
船が広い海に出ると、ルーン王子は舵とりをしようと思いついた。ところが、舵をつかんだとたん、舵はするりと手からぬけてしまった。ルーンが舵棒をつかんでいる間、船ははげしく傾いたり、ぐるぐるまわったりしたので、タランは壁にたたきつけられた。水だるの綱が切れて、甲板をごろごろところがった。帆は、だしぬけに進路が変わったため、はげしくはためき、片側のかい全部があやうく折れそうになった。舵とりが、けろっとした顔の王子からあわてて舵をうばいとった。タランは、頭にいたいこぶをこしらえた。おかげでルーン王子は、船乗りの腕前を、タランに高く買ってもらえなかった。
王子は、それ以上舵をとってみようとはしなかったが、船尾室の平らな屋根に上がり、水夫たちに向かって大声で命令しはじめた。
「帆を固定せよ!」ルーンは楽しげにさけんだ。「進路そのままー!」
タラン自身も船のことはすこしも知らなかったが、それでも、すでに帆がしっかりと固定してあり、船がまっすぐ水を切って進んでいることはわかった。そして、タランもすぐに気づいた。水夫たちは、王子になど耳をかさず、落着いて、船を正しく進める仕事をつづけているのだった。
タランの頭のこぶはずきずきいたんだ。上着は、今も、ぬれてさかなくさくて、気持ちがわるかった。だから、ようやくエイロヌイと話せる機会ができたとき、すっかり不機嫌になっていた。
「ふん、モーナの王子だとさ!」と、タランはぶつぶついった。「あんなの、王子のひよっこだよ、ぶざまなバカさまだよ。航海の指揮をとるだって? 船乗りがかれのいうことをきいていたら、たちまち座礁しちまうよ。ぼくは船を動かしたことはないけれど、かれよりは、ぜったいうまくやれるね。あれほど役立たずな人間に会ったことがない。」
「役立たず?」と、エイロヌイがこたえていった。「たしかに、ちょっと頭がにぶいように見えることがよくあるわ。でも、善意でしているのよ、たしかに、善良な心の持主だと、わたしは思うわ。ほんとうに、わたし、なかなかいい人だと思う。」
「きみならそうだろうよ。」タランは、エイロヌイの言葉にますますいらだって、いいかえした。「なにしろ、かれは手をとって助けてくれたものな。親切な、王子らしいふるまいさ。板からつきおとされなくて運がよかったな。」
「すくなくとも、礼儀にかなっていたわ。」エイロヌイは思ったままをいった。「その点が豚飼育補佐には、ときどきないことよ。」
「豚飼育補佐だと。」タランはかみつくようにいった。「そうとも、それが、ぼくの一生の回りあわせなんだろうよ。そうなるように生まれあわせたんだ。モーナのバカさまが王家に生まれたようにね。むこうは王さまの息子で、ぼくは――両親の名まえすら知らないんだ。」
「でも、」と、エイロヌイはいった。「生まれのことで、ルーンを非難しちゃいけないわ。つまり、非難してもなんにもならないっていいたいのよ、わたし。そんなの、はだしで岩をけとばすみたいなものよ。」
タランは、ふんと鼻をならした。「いいかい、かれがさげている剣は、おやじさんのものだろうよ。それに、ウサギでもおどす以外に、抜いたこともないだろうよ。すくなくとも、ぼくは、この剣をさげる権利をかちとっている。それでも、やはり、かれは自ら王子と名のっている。王家に生まれたからといって、かれが、王子の地位にふさわしい人間だろうか? ドンの子孫ギディオンとおなじくらいすぐれている人間だろうか?」
「ギディオン王子は、プリデインでもっとも偉大な戦士よ。」と、エイロヌイはこたえた。「だれもが、あの方のようになれるなんて思っちゃだめ。それから、わたしはこう思う。豚飼育補佐が最善をつくし、王子も最善をつくせば、上も下もないって。」
「上も下もないだと!」タランはおこって大きな声をだした。「まったくよく、ルーン王子をほめたもんだよ!」
「カー・ダルベンのタラン、」と、エイロヌイがきっぱりといった。「あなた、やきもちやいてるのよ。そして、自分をあわれに思っているんだわ。そんなの、自分の鼻をみどり色に染めるみたいにばかげたことよ。」
タランは、それ以上口をきかず、くるりと向きを変えると、ぶすっとして、海をにらんでいた。
ますますぐあいのわるいことに、風が強くなって、波がたち、船が傾斜しはじめ、タランは、満足に立っていられなくなった。目まいにおそわれ、船の転覆が心配になった。エイロヌイは、土気色になって、壁にへばりついていた。
ガーギは、あわれっぽく、おうおうと泣き声をあげた。「あわれなやわらかい頭、くるくる、ぐるぐるのしどおし! ガーギ、この船もうたくさん! ああ、家に帰りたい!」
ところが、ルーン王子は、まるで苦しむことなどなさそうだった。大いに食べ、元気はつらつとしていた。一方、タランは、みじめにマントにくるまってちぢこまっていた。海は夕ぐれまでしずまらなかった。だから日が暮れて静かな入江に停泊したとき、タランは心からほっとした。エイロヌイが、金の玉をとりだした。両手で持っていると、玉はひかりはじめ、その光の筋が、黒い水面をうっすらと照らした。
「おや、それは何です?」ルーン王子が、指揮台からおりてきて、思わず大きな声をあげた。
「わたしの安ぴかおもちゃ。」と、エイロヌイがいった。「いつも持ってあるいているんです。これがいつ役にたつかわからないでしょ。」
「いや、すばらしい!」と、王子はさけぶようにいった。「こういうものは、生まれてはじめて見ました。」王子は、たんねんにその玉をひねくりまわしていたが、手ににぎってみると、光がすうっと消えてしまった。ルーンは狼狽して玉を見ていた目をあげた。「こわしちゃったのでは。」
「いいえ。」エイロヌイは王子を安心させてやった。「だれが持ってもひかるわけではないんです。それだけのこと。」
「じつにふしぎだ!」と、ルーンはいった。「ぜひ、わたしの両親に見せてやってください。わたしの城にも、こういうかざりのものがすこしあるといいのだが。」
ルーンは、もう一度めずらしそうに金の玉をながめてから、エイロヌイにかえした。そして、王女は居心地のよいへやでねむらなくてはといいはり、自分は一山の網の中にねっころがった。ガーギは、そのそばでまるくなり、カアは、タランが高いとまり木からおりてこいとたのんだのを無視して、帆柱の上に宿をとった。ルーン王子は、すぐにねむりにおちてものすごいいびきをかきだした。タランは、もう、がまんしかねるほどいらいらさせられていたので、ねむっている王子からできるだけはなれて、甲板に横になった。ようやく寝いったタランは、みんなといっしょにカー・ダルベンにいる夢を見た。
2 ディナス・リードナント
つぎの日からは、タランも元気をとりもどした。一行も船の動きになれてきた。空気はぴりっと澄んで、塩気をふくんでいた。くちびるにはねかかる水が塩からかった。ルーン王子が、例によって船乗りたちが耳をかさない号令を、指揮台の上でさけんでいるあいだ、タランたちは船上の仕事の手伝いをしてすごした。コルが予言したとおり、仕事がタランの気をまぎらせてくれた。だが、ときどき、だしぬけにこの船旅の目的を思い出し、旅がおわらなければと思うのだった。
タランが一本の綱を巻きおえたちょうどその時、カアが帆柱からさっとまいおりてきて、やかましくなきたてながら、タランのまわりをぐるぐるとびまわった。一瞬おくれて、見張りのものが、陸だとさけんだ。タランたちは、ルーン王子にせきたてられ、いそいで後甲板の指揮台にのぼった。明るい朝の光の中で、タランは、水平船上に顔を出したモーナ島の山山を見た。船は速度を増して、ぐんぐんディナス・リードナント港に近づいていった。港は三日月の形をしていた。石垣の護岸がほどこされていて、桟橋や突堤にはたくさんの船がもやっていた。岸壁はすぐに急傾斜のがけにぶつかり、そのいちばん高いところに、すらりと高い城がそびえ立っていた。城には、ルーズルム王家の旗が、海風にへんぽんとひるがえっていた。
船は、すべるように桟橋についた。船乗りたちは、もやい綱を投げて、桟橋にとびうつった。タランの一行は、ルーン王子に先導され、槍をささげもつ議じょう兵の列の前を城へと向かった。
こんなわずかな道のりをあるく間にも、やはり事故がおこった。モーナの王子は、議じょう兵の隊長に答礼して剣を抜いたが、あまり勢いよく抜いたので、切っ先がタランのマントにひっかかってしまった。
「これはこれは、申しわけありません。」王子は大きな声でいって、自分の剣がつくったマントの長い裂けめが、ぱくりと口をあけているのをめずらしそうにしげしげとながめた。
「いや、こちらこそ、モーナの王子さま。」タランは、ルーンに腹をたて、やぶれた衣服を王と王妃がどう思うだろうと気にかけながら、ぼそぼそとこたえた。だがそれ以上はなにもいわずに口をつぐみ、さけめが気づかれないことを心からねがった。
一行は城門をくぐり、広い前庭にはいった。ルーン王子が、うれしそうに「やあ! やあ!」とさけんで、待ちうけていた両親のところへかけよった。ルーズルム王は、ルーン王子そっくりに、陽気な丸顔だった。王は、タランたちに、何度となくあたたかい歓迎のあいさつをくりかえした。タランの着ているものが破れていることに気づいたかもしれないが、おくびにも出さなかった。それがさらにタランを苦しめた。ルーズルム王がようやくあいさつをおえると、テレリア王妃が進み出た。
王妃は、からだつきのしっかりした、愛想よさそうな人で、ひらひらする白い衣装に身をつつんでい。髪の毛をあみ、その上に金のかんむりをのせていた。ルーン王子と似ているところは、黄色い髪だった。王妃はエイロヌイにキスの雨をあびせ、当惑からまだ立ち直らないタランをだきしめた。ガーギのときにはぎょっとして立ちすくんだが、やはりちゃんとだきしめた。
「ようこそ、アンハラドの娘よ。」テレリア王妃は、またエイロヌイの前にもどっていった。「そなたの来城は――もじもじしてはなりません。しゃんと立っていらっしゃい――当王家の光栄であります。」王妃は、そこでふいに話をやめると、エイロヌイの肩に手をかけてさけぶようにいった。「ま! このひどい衣服! こんなもの、どこで手に入れたのです? ほんとうに、ダルベンがそなたをあの森の中のかくれがから出してよこしたのもあたりまえです。しおどきでした。」
「かくれが、ですって!」エイロヌイが思わずさけんだ。「わたしはカー・ダスルが大好きです。それに、ダルベンは偉大な予言者です。」
「そうですとも。」テレリア王妃はいった。「だから、魔法をかけたりなにかでいそがしすぎて、そなたが雑草のように育つのにまかせてしまったのです!」それからルーズルム王の方に顔を向けると、「あなたも、そう思いでしょう?」
「うむ、雑草そっくりじゃの。」王は、おもしろそうにカアを見ながらうなずいた。
カラスは、つばさをぐっと持ち上げると、くちばしをあけて「ルーズルム!」と大きな声でないて、王を有頂天にさせた。
その間、テレリア王妃は、タランとガーギを順番に観察していった。「ま、そのマント、みっともなく裂けて! ふたりとも、新しい服に着がえなくてはいけません。」と、王妃は宣言するようにいった。「新しい服、新しいくつ、なにもかもです。ちょうどよい。今、この城にはほんとうに腕のよいくつつくりがきています。そのくつつくりは――あ、これこれ、そのように口をとがらしてはなりませぬ。水ぶくれなどができますよ――ここを通りかかったものなのです。しかし、ここでずっと仕事を与えつづけたものですから、今もさかんにくつをつくっています。ここの侍従長がめんどうを見てくれますよ。マグや。」王妃は名まえをよんだ。「マグ、どこにおる?」
「おそばに。」と、侍従長がこたえた。今までずっと、テレリア王妃のわきに立っていたのだ。侍従長は、タランが見たこともないほどすばらしい衣装に身をつつんでいた。豪華な刺しゅうは、ルーズルム王の着ているものをしのぐほどだった。マグは、自分の背より高い、つるつるにみがいた長い杖を持ち、首には、ずっしりした銀のくさりをかけていた。ベルトには、大きな鉄輪でたばねた大小さまざまなかぎが、じゃらじゃら音をたてていた。
「なにもかも、すでに命じてございます。」マグは最敬礼していった。「ご命令を予知いたしました。くつつくり、服つくり、織物師らが待っておりまする。」
「おお、みごと!」テレリア王妃は思わず大きな声でいった。「では、王女とわたしは、まず織物師のへやへまいる。ほかの方たちは、マグよ、そなたがへやへおつれするがよい。」
マグは、さっきよりさらにていねいにおじぎをすると、杖でタランたちをまねいた。タランはガーギを従え、マグのあとについて、前庭を出ると、高い石づくりの建物にはいり、アーチ型天井の廊下を進んだ。廊下のつきあたりに、ドアのあいた入り口があった。マグは、はいれというしぐさをしてから、だまって姿を消した。
タランは、中にはいってみた。へやは、小さいが小ぎれいで通風がよく、細長い窓から日光があかるくさしこんでいた。床には、かぐわしい藺草がしきつめてあり、片すみに、わらぶとんをのせた低いベッドが一つおいてあった。タランがマントをぬぎすてる間もなく、ドアがぱっと開いて、黄色い髪が八方につんつんのびた頭がぬっとあらわれた。
「フルダー・フラム!」タランは、長いこと会っていないこの仲間を見て、おどろいたりよろこんだり、大声をはりあげた。「ほんとうにめずらしい!」
吟遊詩人は、タランの手をにぎると、力いっぱい上下にふりがなら、左手で肩をどんどんとたたいた。カアは、ぱたぱたとはばたき、ガーギは宙にとびあがって、ありったけの声でわめきたて、フルダーにだきつくと、小枝、木の葉、ぬけ毛をどっさりと浴びせた。
「よし、よし、よし!」と、詩人はいった。「ちょうどよく来たな! 待っていたんだ。もう来ないのかと思っていたよ。」
「あなた、どうしてここへ?」ようやく息がつけるようになって、タランがさけぶようにいった。「わたしたちがディナス・リードナントに来ると、どうして知ったのですか?」
「うむ、そりゃ、どうしたって知ってしまうことだったね。」詩人はうれしそうににっこりしてこたえた。「話といったらエイロヌイ王女のことばかりだったからな。ところで、あの子は、どこかね? すぐに会って敬意を表さねばならん。ダルベンが、おぬしをつけてよこすだろうと思っていたよ。ダルベンはお元気かな? コルは? カアは連れてきたんだね。いや、まったく、おしらにあまり長いこと会わなくて、おとづれの道も絶えていたなあ!」
「しかし、フルダー。」と、タランは話をさえぎっていった。「えりにえって、どうしてモーナに来ていたのです?」
「ふむ、そりゃ、かんたんなこと。」と、詩人はいった。「わしはな、こんどはほんとうにうまく王としておさまろうと決心していたんだ。そして、一年の大半はうまくやったのよ。そこへ、春だ。遊歴の季節がくると、屋内のすべてが筆舌につくしがたいほどつまらなく思えはじめ、屋外のあらゆるものが、どうしたことか、わしをひきつけはじめた。そして、気づいたときにはもう旅をしていたというわけだ。わしは、モーナには来たことがなかった。これ以上のりっぱな理由はなかろう。わしは、一週間前、ディナス・リードナントに到着した。おぬしらを迎えに行く船は出てしまっていた。でなければ、それに乗っていたさ。」
「そうだったら、モーナの王子なんかよりずっとよい道づれだったのに。」と、タランはいった。「あの身分の高いばかが暗礁に船をぶっつけて、わたしたちを海のもくずにしなかったのがめっけものでしたよ。でも、ドーリはどうしてます? あなたにも会いたかったけれど、ドーリにも会いたかったのに。」
「ドーリのやつか。」詩人は、黄色い髪をふって見せて、くすくすわらった。「出かけてから、まず、あいつをひっぱりだそうとしたのさ。ところが、ご眷属といっしょに妖精の国にもぐりこんでしまった。」フルダーはため息をついた。「わしらの小人は冒険心を失ってしまったのではないかな。わしは、やつが、気晴らしに同行してくれるかもしれぬと思い、うまくたよりを送ったのだよ。ところが、返事が『ふん!』とだけさ。」
「港まで出迎えにきてくれればよかったのに。」と、タランはいった。「あなたがここにいるとわかれば、わたしも元気づいたのに。」
「うむ――そりゃ、行く気だった。」フルダーはなぜかためらいがちにこたえた。「しかし、待っていて、おぬしをびっくりさせてやろうと考えたんだ。王女の到着のうたをつくるのでいそがしくもあったしな。いわせてもらえば、ひじょうに感動的なうただよ。われわれのことは、みなうたいこまれている。英雄的な行為がどっさりとな。」
「このガーギのことも?」と、ガーギがさけんだ。
「もちろん。」と、詩人はいった。「今夜、おぬしらみんなのためにうたおう。」
ガーギは、手をたたき、さけび声をあげた。「ガーギ、べんべん、あーあーが待ちきれない!」
「まあまあ、ちゃんときかせてやよ。」と、詩人はガーギにうけあった。「そのときがくればね。しかし、なぜ、わしが出迎えの行列に加わるひまがなかったかは、わかるだろう。」
そのことばとともに、たて琴の絃の一本がだしぬけに切れた。
フルダーは、だいじな楽器を肩からはずすと、悲しげにながめながら「また切れおったわい。」とため息をついた。「このいまいましい絃のやつ、かならず切れる。わしが真実にちょっとつけ足しをするたびにだ。じつをいえば、わしはまねかれなかったのさ。」
「しかし、たて琴の吟遊詩人といえば、プリデインじゅうの宮殿で、名誉あるあつかいを受けるじゃありませんか。」と、タランはいった。「いったいなぜここでは――。」
フルダーが片手をあげて制した。「そうとも、そうとも。」と、フルダーはいった。「わしも、ここで尊敬を受け、手厚くもてなされたよ。だが、それはわしが正式の吟遊詩人でないことがばれる前のことだ。ばれてからは、」と、詩人は正直にいった。「うまやへ移された。」
「一国の王であることをいったらよかったのに。」と、タランがいった。
「いや、だめさ。」フルダーは、首をよこにふっていった。「吟遊詩人でいる時は、吟遊詩人なのだ。王であるときは、これまた別人でな。この二つは混同せぬことにしているのさ。
「ルーズルム王とテレリア王妃はおだやかな人柄だ。」と、フルダーは話をつづけた。「わしを追い出したのは、侍従長のやつだ。」
「なにか手ちがいがあったのではありませんか?」と、タランはたずねた。「わたしが見たかぎりでは、あの男は、完璧に仕事を果たしているように思えますが。」
「と、おたずねなら、完璧すぎるといっておこう。」と、フルダーはいった。「なにかで、あの男は、わしの資格のことをかぎつけおってな。気づいたときには――うまやへ行け! だったよ。ほんとうは、あの男、音楽が大のきらいなのだと思うね。どういう理由かで、たて琴がまったくがまんならんという人間に、じつによく出くわすが、おどろいたものだよ、そいつは。」
タランは、ドアをノックする大きな音に気づいた。うわさのマグが、つつましく後ろにひかえるくつつくりといっしょにやってきたのだった。
「やつが、わしを苦しめているわけじゃない。」フルダーが小声でいった。それから、たて琴を見てつけ加えた。「わしの名誉にかけて耐えられぬほどじゃないのさ。」そして、楽器を肩にかけると、「さて、それでは、さっきいったように、わしはエイロヌイ王女に会いにいかねばならん。あとで会おう。よかったらうまやでな。新しいうたをおきかせしよう。」フルダーは、マグをぐっとにらみつけ、大またにへやから出ていった。
侍従長は、吟遊詩人の怒りの目など無視して、タランにおじぎをした。「テレリア王妃の思うしつけで、あなたとおつれの方に、新しい衣服をさしあげます。くつつくりが、おのぞみのくつをつくってくれましょう。」
タランが木のこしかけにすわり、マグがへやから出ていくと、くつつくりが近づいてきた。その男は、寄る年波で腰がまがり、おそろしく粗末なものを身につけていた。あかじみた布でつつんだ頭からは、灰色の髪のへりが肩にふれるばかりにはみ出していた。幅広い革帯には、奇妙な形のナイフと、くつつくりの突き針と、糸のたばがさげてあった。くつつくりは、タランの前にひざをつくと、大きな袋をひらいて片手をつっこみ、皮の切れはしをとりだし、まわりの床にひろげた。そして、ひろげた皮をざっと見てから、一つ一つとりあげてはわきにとりのけた。
「いちばんよいものを使わねばならぬ。」男はカラスのカアによく似たしわがれ声でいった。「それ以外ではだめだ。よいくつは旅のなかばにあたる。」男はくすくす笑い声をたてた。「そうじゃないかね? のう、そうであろう、カー・ダルベンのタラン?」
タランは、ぎょっとして身をひいた。くつつくりの声の調子が突然変わったのだ。タランは、皮の一枚をえらび、そりのある小さなナイフで手ぎわよく型をとっている老人を、びっくりして見おろした。くつつくりの顔は、材料の皮そっくりに日やけしていた。かれも、じっとタランを見た。
ガーギが、大声でわめきたてそうになった。すると、男は、右手の人さし指をくちびるにあてた。
タランは、狼狽して、あわててくつつくりの前にひざをついた。「ギディオン卿では……。」
ギディオンは、うれしそうにぱっと目を輝かしてタランを見たが、相好をくずしてわらうことはしなかった。「よくきけよ。」ギディオンは、おしころした声で早口にいった。「もしじゃまがはいったら、あとで話す手段を考える。わたしの正体はだれにもあかすな。なによりまもまず、いっておかねばならぬことは、エイロヌイ王女の命があぶないということだ。それからおぬしの命も。」
3 くつつくり
タランは顔色を変えた。タランの頭は、ドンの王子がくつつくりに変装しているのを見て混乱してしまっていたが、今の言葉をきいて、ますますわけがわからなくなった。「わたしたちの、命が、あぶない?」タランはあわててききかえした。「アヌーブンのアローンが、ディナス・リードナントほど遠くまで、わたしたちをさがしにきているのですか?」
ギディオンは、手ぶりで、入口で見張れといいつけてから、目をタランにもどし、いそいで首をよこにふっていった。「ちがう。アローンの怒りは、黒い魔法の釜をこわされて以来、激怒に変わっているが、今度の脅威はかれではない。」
タランは、ひたいにしわを寄せた。「では、だれです? ディナス・リードナントには、わたしたちに敵意をいだく人など、ひとりもいません。まさか、ルーズルム王やテレリア王妃が……。」
「ルーズルム王家は、今までずっと、ドンの子孫および大王マースと友好関係にあった。」と、ギディオンはこたえた。「よく考えるがよい、カー・ダルベンのタラン。」
「しかし、エイロヌイに危害を加えようなんて者がいるでしょうか?」タランは思いつめた声でたずねた。「彼女がダルベンに庇護されていることは有名です。」
「ダルベンにも、あえていどもうと思う者がひとりいる。」と、ギディオはいった。「わたしの力でもかなわない。アローン自身とおなじくらい、わたしが恐れている者だ。」ギディオンは、表情をひきしめ、みどりの目をはげしい怒りでぎらりとひからせた。「アクレンだよ。」
タランはぞっとしたが、小声でいった。「ちがう。ちがいます。あの腹黒い魔女は死んでいます。」
「わたしも、そう信じていた。」と、ギディオンはこたえた。「ところが、そうではなかった。アクレンは生きている。」
「だって、渦巻き城は再建されていません!」タランは思わずさけんだ。アクレンがタランをとりこにしてとじこめた土牢が、ぱっと頭の中によみがえった。
「渦巻き城は、おぬしが立ち去ったときのまま、今も廃墟だよ。」と、ギディオンはいった。「すでに、草がおおってしまっている。わたしを殺すつもりで連れていったイース・アニースももはや存在しておらぬ。わたしは、その二箇所をたずねて、この目で見たのだ。
「彼女の運命について、わたしが長い間よく考えてみたことを忘れてはならん。」ギディオンは話をつづけた。「アクレンは、大地に呑みこまれてしまったかと思うほど、まったく行方がわかっていない。わたしは、これに頭をなやまし、ひどく気にかかるので、今までずっとその行方を追いつづけていた。
「そして、ついに手がかりをみつけた。」と、ギディオンはいった。「それは、風が運んでくるささやきのようにかすかで、はじめは気の迷いとしか思えないほどいいかげんなうわさであった。こたえのない、わけのわからぬなぞであった。いや。」と、ギディオンはさらにつづけた。「なぞがなくて、こたえだけあるといったほうがよい。そしてさんざん苦労し、つらい旅の末に、ようやくそのなぞの一部をみつけた。残念ながら一部にすぎないのだが。」
ギディオンは声を低くした。話しつづけながらも、手は一時もとまらず、つくりかけのくつの革を切ったり型をとったりしていた。「しかし、こういうことはわかった。渦巻き城がくずれおちたとき、アクレンは姿をけした。最初わたしは、かくれがを求めてアヌーブンの領土にはいったと思った。アクレンは長いあいだアローンの妻だったからな。じっさい、アローンに力を与えたのは、アクレンであり、彼女もそのときはプリデインを支配していた。
「だが、アクレンは、アヌーブンへは行かなかった。魔法の剣ディルンウィンをひそかにうばわれ、わたしの命をとることにも失敗したため、アローンの怒りをおそれたのかもしれぬ。若いすむめと豚飼育補佐にしてやられたので、アローンにとても顔向けできないのかもしれぬ。その点はよくわからんが。ともかく、あの女はプリデインから逃げ去った。それっきり、彼女の運命はわかってはいない。だが、生きているとわかっただけでも、十分恐れるに足ることだ。」
「アクレンがモーナ島にいると思いますか?」と、タランはたずねた。「わたしたちふたりに復讐したいと思っているでしょうか? しかし、エイロヌイは、アクレンから逃げだしとき、ほんの小むすめでした。自分でしたことの意味がぜんぜんわからなかったんです。」
「わかっていようといまいと、エイロヌイは、渦巻き城からディルンウィンを持ち出した。あれで、アクレンはじつに悲惨な敗北をこうむったのだ。」と、ギディオンはいった。「アクレンは忘れないし、ゆるすこともない。」ギディオンは、ひたいにしわを寄せた。「どうも、アクレンは、エイロヌイをさがし求めているらしい。それは、ただの復讐のためだけではない。それ以上のなにかがある気がする。それは、まだ、わたしにはわからないのだが、即刻みつけださなくてはならないのだ。エイロヌイの命があぶないというだけですませられぬことなのだ。」
「ダルベンさえ、エイロヌイをカー・ダルベンにおいてくれたらよかったんです。」タランは狼狽してしまった。「ダルベンだって、アクレンが生きていることは知っていたにちがいありません。かれの保護の手をはなれたとたん、エイロヌイの命があぶなくなることがわからなかったんでしょうか?」
「ダルベンのなさりようは意味深い。」と、ギディオンはいった。「このわたしにも奥深くにあるものをいつももらしてくださるとはかぎらない。あの方は、多くのことを知っておられるが、口に出しておっしゃるよりも、もっと多くのことを予感なさっておられる。」ギディオンは、ナイフを下に置くと、革ひもをとりだしてぬいはじめた。「ダルベンは、エイロヌイ王女がモーナ島まで航海すると知らせてよこされ、ここに注目しておれと注意してくださったのだよ。ほかにも、いくつか教えてくださったこともあるが、それは、今はいわぬほうがよい。」
「エイロヌイの身が危険だというのに、のんきにすわってなんかいられません。」と、タランはつよくいった。「わたしがお手伝いできることは、ないんですか?」
「なにもいわんことが最高の手伝いだよ。」と、ギディオンはこたえた。「油断せずにおれ。わたしのことも、今話したことも、いっさい人にもらしてはならぬ。エイロヌイ王女にはむろんのこと、フルダーにももらすでない。」ギディオンはほほえんだ。「あのものずきな詩人どの、うまやでわたしに会ったのだが、うまいぐあいに気づかなかった。わたしは、これから……。」
ドンの王子がそこまでいいかけたとき、ガーギが気をつけてと手をふった。廊下に足音がこだました。ギディオンは、すぐにくつの寸法とりをつづけるため、身をかがめた。
「やあ、やあ!」ルーン王子が、大声でそういいながら、大またにへやにはいってきた。「おや、ここにいたのか、くつつくり。もう仕事はおわったのか? ほーお、みごとじゃないか。」王子は、くつをちらと見ていった。「おどろくほど、たくみにつくられている。わたしも一足ほしいものだ。あ、そうそう――母上が大広間へ来てくだされとのことです。」王子はタランを見てそうつけ加えた。
ギディオンの顔は、あっという間にしわだらけになっていた。肩をこごめ、声は寄る年波でふるえていた。それっきりタランを見ることはせず、ルーン王子をまねいていった。「若い王子さまは、こちらへどうぞ。ご身分にふさわしいくつをおつくりいたしましょう。」
タランは、いそぎ足でへやを出て、廊下をすすんだ。カアがぱたぱたおいかけてきた。ガーギは、恐怖のためとび出すような目つきで、タランのわきを小走りについてきた。
「ああ、恐ろしい危険!」ガーギはうめくようにいった。「ガーギ、残念。大予言者がわたしたちを危地におとしいれたこと。ガーギ、あわれなやわらかい頭を、カー・ダルベンの安全なわらの中にかくしたい。」
タランは大広間にいそぎながら、小声で、だまれと注意した。「エイロヌイのほうが、われわれより、ずっとあぶないんだ。ぼくだって、おまえとおなじように、アクレンがまた現われたと思うとぞっとする。しかし、エイロヌイを守るために、ギディオンが来ている。ぼくらもいる。」
「はい、はい!」と、ガーギが大声でいった。「勇敢で忠実なガーギも、金髪の王女さまをお守りいたしますぞ。もちろんですとも。ガーギがいれば安全です。でも。」といって、ガーギは鼻をならした。「ガーギ、やはりカー・ダルベンにもどりたくてたまらない。」
「元気を出せよ、おい。」タランはほほえんでみせて、ガーギのふるえる肩に手をかけた。
「われわれ仲間で、おたがいの身に凶事がふりかからないように気をつけていよう。しかし、忘れるなよ――ギディオンがここにいることは絶対しゃべるな。あの方は、もうきちんと計画をたてているのだから、われわれが、それをもらすようなことは、いっさいしてはならないんだ。」
「ガーギ、だまる!」ガーギは大声でいって、あわてて両手で口をふさいだ。「ええ、ぜったい! でも。」ガーギは、カアに向かって人さし指をふってみせたつけたした。「あのおしゃべりの黒い鳥め、べちゃくちゃ、があがあ、もらさないようにさせなくちゃ!」
「だまれ!」カアは、頭を上下にふりたてて、しわがれ声でいった。「ひみつ!」
カー・ダルベンの果樹ばたけほどの広さに板石をしきつめた、天井の高い大広間にはいったタランは、エイロヌイが貴婦人たちにとりかこまれているのを見た。エイロヌイと同年輩の何人かは、楽しそうに王女の話をきいていた。あとの人たちは、テレリア王妃によく似た服装だったが、眉をしかめたり、こそこそささやきあったりしていた。マグは、王妃の座の近くに立って、無表情にみんなを見ていた。
「そこで、わたしたちは。」エイロヌイは、目をかがやかせながら話していた。「剣をにぎって背中あわせに立っていたの! アヌーブンの狩人たちが、どっと森からとびだしてきた! たちまちわたしたちにおそいかかってきた!」
宮廷の令嬢たちは、興奮してあえぐような声をもらした。だが、何人かの貴婦人たちはぞっとして、ク、ク、というような声をたてた。タランは、かすかにコルの養鶏場を思い出した。タランは、エイロヌイが新しい衣装を身につけていることに気づいた。髪も、くしを入れて、今までとちがった形に結いあげてあった。貴婦人たちにとりかこまれた彼女は、金色の小鳥のごとくにかがやいて見えた。タランは、エイロヌイがおしゃべりをしていなかったら見分けがつかなかったろうことに気づき、奇妙な胸のいたみをおぼえた。
「ああ、なんという話を!」テレリア王妃が大きな声でいった。エイロヌイが、たたかいの話をやめないので、いそいで立ち上がったのだ。「そんな話をきくと――これこれ、人を剣でうつ話をするのに、そんなに楽しんではなりません――そなたは、生まれてこのかた、片ときも安全でなかったように思えてきます。」王妃は、目をぱちくりさせ、頭をふって見てから、ハンカチで風を入れた。「ダルベンがようやく心をきめて分別してくださり、そなたをここへ送りとどけてくださって、まったくほっとしています。すくなくとも、ここにおれば危険なことはありません。」
タランは息をつめた。ギディオンの警告を大声でさけびたい気持ちを必死でおさえた。
ああ、そこにいやったか!」テレリア王妃はタランに気づいて声をかけてきた。「さきほど、考えておっていいわすれたのですが――そうそう。そのようにてきぱき前に出る。そして、できたら、もうすこしうやうやしく頭をさげ、あ、そのように顔をしかめない――こよい、大歓迎会をもよおします。そなたたちに敬意を表し、ほんとうにすばらしい吟遊詩人をまねくつもりでいることを、知らせておきましょう。つまり、吟遊詩人であるといっておる男なのだが、そうじゃ、そなたを知っていると申しています。」
「あの自称詩人には、」マグは、フルダーのことが話題になったので、嫌悪の気持ちをかくせずにいった。「すでに宴に出よと申しつけてあります。」
「そこで、新しい衣装じゃ。」と、テレリアが話をつづけた。「即刻マグとともになにかみつけに行くほうがよろしい。」
「王妃さま、それも、すでに用意してございます。」侍従長は小声でいって、きちんとたたんであるマントと服を、タランに手渡した。
「いや、みごと!」と、テレリアが思わずさけんだ。「それではつぎに――いやいや、万事すんでいるのであろう! それでは、カー・ダルベンのタラン、さがって――これ、そのように眉をしかめるでない。年よりもふけて見えてしまいます――身支度をするがよい。」
タランが王妃に最敬礼しおわるのも待ちきれないように、エイロヌイがかれとガーギの腕をつかんで、大いそぎに退場させた。「あなたたち、もちろんフルダーに会ったでしょ。」と、エイロヌイは小声でいった。「これで、ぐっとあのころらしくなってきたわ。あの人がここにいてくれたなんて、ほんとにうれしい。あんなばかな女たちって、わたしはじめて! ええ、ひとりだって剣を抜いたことのある人なんかいないと思う! あの人たちが話したことといったら、裁縫と、刺しゅうと、織りものとお城のきりものだけ。結婚している人は夫のぐちばかりいっているし、結婚していない人は、夫がいないことばかりなげいてる。生まれてこのかた、ディナス・リードナントをはなれたことがないなんてねえ! わたしたちの冒険を、一つ二つちょっぴり話してあげたの。いちばんおもしろい冒険のことはまだ――それはあとのことにしてあるのよ。あなたたちも、それぞれのはたらきを自分の口で語れるようにね。
「ね、こうしましょうよ。」と、エイロヌイはひとみをかがやかしながら、ぐいぐい話をつづけた。「宴会が終わって、だれも目をひからしていなくなったら、フルダーをつかまえて、四、五日、探検に出かけるの。みんな気がつかないと思う。だって、ここは人の出入りがとっても激しいんだから。モーナ島でだって、すこしは冒険ができるにちがいない。でも、このばかげた城にいては、ぜったいに味わえないわ。だから、まず、あなたたち、わたし用に剣を一ふりみつけて――カー・ダルベンから一ふり持ってきたらよかったんだけど。剣なんか必要ないとは思うけれど、万一にそなえたほうがいいでしょう。もちろん、ガーギは、あの食糧袋を持っていってね――。」
「エイロヌイ。」タランが話の腰を折った。「そりゃ、だめだよ。」
「どうして?」と、エイロヌイがきいた。「ああ、じゃいいわ。剣のことはかまわなくていいわ。このままで冒険だけしましょうよ。」それから、ためらっていたが「あなた、どうしたの? ねえ、あなた、ときどき、じつに奇妙な表情をしてるわ。今この瞬間にも、頭の上に山が倒れ落ちそうだって顔してるわ。わたしが話していたとき……。」
「エイロヌイ。」タランがきっぱりといった。「きみは、ディナス・リードナントをはなれちゃいけない。」
エイロヌイは、おどろきのあまり、しばらく声が出ず、茫然とタランを見つめていたが、「なんですって?」とさけんだ。「あなた、なんていったの? 城をはなれるな、ですって? カー・ダルベンのタラン、あなた、潮風に吹かれて頭がだめになったのね!」
「よく聞いてくれよ。」タランは、きまじめにそういいながら、あれこれ思案した。ギディオンの秘密をもらさずに、このびっくりしている少女に、警告する手だてはないものか。「ディナス・リードナントは――ぼくたちには、なれない土地なんだ。ぼくたちは、モーナについてなにも知っていない。危険なことがあるかもしれない。ぼくたちが……。」
「危険なこと、ですって!」と、エイロヌイがさけんだ。「それなら、まちがいなくあるわ! そして、最大の危険は、わたしが涙が出るほど退屈するだろうってこと! わたしがこの城の中で一生むだにすごすだろうなんて、片時たりとも考えないで。人もあろうに、あなたが、わたしに、冒険に出るなっていうんだから。ほんとうに、あなたどうしたの? ルーンの船がいかりをおろしたとき、いっしょに勇気も落としちゃったんだって思いたくなる!」
「これは、勇気の問題じゃない。」と、タランが話しだした。「上分別というものなんだよ……。」
「あら、こんどは分別なんていいだすの!」と、エイロヌイがかっとなっていった。「今まで、あなたくらい分別なんてことを考えない人はなかったのに!」
「これはちがうんだ。」と、タランはいった。「わかってくれないかなあ?」エイロヌイの表情を見れば、自分のいったことがさっぱりわかってもらえていないことは、はっきりしていたが、タランはたのむようにいった。一瞬、ほんとうのことをもらしてしまいたい誘惑にかられた。しかし、それはやめて、王女の肩をつかみ「いいかい、ここから外へ出ちゃいけないよ。」とおこった声で命令した。「もし、きみが出ていきそうだと思ったら、ルーズルム王におねがいして、きみに護衛をつけてもらうからな。」
「なんですって?」と、エイロヌイがさけんだ。「よくもそんなことが!」涙がどっとあふれ出た。「ええ、よーくわかったわ! あなた、このなさけない島のあのおしゃべりめんどりの手にこのわたしを渡して、ほっとしたのね! わたしを追い出したくてたまらなかったんだわ! ほんとうに、わたしが、このおぞましい城にのこってうずもれたらいいと思ってるんだわ。そんなの、羽毛のつまった袋に、人の頭をつっこむのよりひどい!」エイロヌイは、地団駄ふんですすり泣いた。「カー・ダルベンのタラン、わたし、もうあなたと口をきかない!」
4 暗い影
その夜の歓迎の宴は、たしかにこの城はじまって以来の楽しいものだった。カアは、タランのいすの背にとまり、この祝宴が自分ひとりに敬意を表してひらかれたような様子で、首をぴょこぴょこ上下させていた。ルーズルム王は、上機嫌でにこにこしていた。お客たちの話し声、わらい声が大広間に満ちていた。長い宴卓の後ろには、テレリア王妃の侍女たちがたくさん立っていた。マグは、その間を警戒に行き来しては、きりもなく食べものの皿やのみもののびんを運んでくる召使たちに、指をならしたり、小声で命令をつたえたりしていた。タランは、この宴をまるで悪夢だと思った。ごちそうに手をつけず、不安な気持ちで、黙然としていた。
「あなたがそんなにぶすっとしていなくてもいいでしょ。」と、エイロヌイがいった。「だって、あなたは、ここに居のこる当人じゃないんですもの。わたしがこれからの境遇をがまんしていこうと思っても、そんなあなたじゃ、あまりたよりにはならないわ。いいこと、きょう、あんなふるまいをされたんだもの、わたしまだあなたに口をきかないことに変わりないのよ。」
タランのしどろもどろのいいわけに耳をかそうとせず、エイロヌイはつんと頭をそらし、ルーン王子とおしゃべりをはじめた。タランは下くちびるをかんだ。気をつけろとさけんでいるのに、それが声にならず、気づかないエイロヌイは、陽気に、がけっぷちに向かって走りつつある――タランはそんな気持ちだった。
宴の終わりぎわ、フルダーはたて琴を調節し、大広間の中央にあゆみでて、新しいうたをうたった。そのうたが、フルダーのつくったものの中ではいちばんすぐれたものであることに、タランは気づいたが、きいても、すこしも楽しめなかった。吟遊詩人がうたいおわった。ルーズルム王は、もう、しきりにあくびをしはじめていたので、お客たちは、宴席から立ち上がった。タランは、フルダーのそでをひいて、ふたりだけになった。
「わたしは、うまやのことを、ずっと思案していたんです。」と、タランは心配そうにいった。「マグがなにをいおうと、あなたがお休みになるところじゃありませんよ。わたしがルーズルム王に話します。そうすれば、王はかならずマグに命じて、あなたを城中のへやにもどしてくれます。」そこで、タランは口ごもり、「その、わたしは、仲間がいっしょにいたほうがいいと思うんです。わたしたちは、よそ者で、ここのしきたりやなにか全然知りませんから。」
「いやはや、そんな心配はまったく無用だよ。」と、吟遊詩人はこたえた。「わしは、うまやのほうがよろしい。うっとうしくて物さびしい城から抜け出したくて、わしは放浪をはじめたのだからな。それに、」と、フルダーは声をひそめた。「そんなことをすると、かならずマグと争いになる。あやつの圧迫が忍耐の限度を越えれば、剣の舞さ――フラムのものは気がはやい――そいつは、客としてあまり礼にかなったふるまいとはいえんからな。いや、いや、だいじょうぶ。じゃ、またあすの朝な。」フルダーは、そういうと、たて琴を背負い、おやすみと手をふって、人びとを分けるように大広間を出ていった。
「城に目をくばっていなくてはいけない――そんな予感がするんだ。」タランはガーギにいった。そして、カアをひと差しゆびにとまらせると、ガーギの肩にのせてやった。カアは、たちまち、くちばしで、ガーギのもつれた髪をすきはじめた。「おまえは、エイロヌイのへやのすぐそばにいてくれ。」と、タランは話をつづけた。「ぼくも、すぐに合流する。カアを連れていって、なにかおかしいと思ったら、とばしてよこしてくれ。」
ガーギは、うなずいて小声でいった。「はい、はい。忠実なガーギ、じっと見張りつづける。高貴なる姫君のまどかなる夢路をお守りする。」
帰っていく客たちにまぎれたタランは、人目につかないで庭に出た。ギディオンがいるかと、大またにいそいで、うまやに向かった。晴れた夜空は星がいっぱいで、明るい月が、モーナの山上にかかっていた。うまやに行ってみると、ドンの王子は影さえ見えず、フルダーにぶつかっただけだった。フルダーは、わらの中でまるくなり、片手でたて琴をかかえ、もうすやすやと寝息をたてていた。
タランは、もうまっくらになった城にひきかえした。そして、どこをさがしたものかと、ちょっと立ちどまった。
「やあ、やあ!」ルーン王子が、突然せかせかと角をまわってあらわれ、あやうくタランを押したおしそうになった。「まだ、おきているんですね? わたしもなんだ! ねる前、すこし散歩するがよいと、母上がおっしゃるのでねえ。あなたも、やはり、それでしょう? けっこう! ごいっしょしましょう。」
「いや、できません!」タランは、つよくいった。今ばかりは、無思慮な王子にじゃまされたくなかった。「わたしは――その、仕立て屋たちをさがしているのです。」と、タランはあわてていいたした。「かれら、どこに宿をとっているのですか?」
「仕立て屋をおさがしと?」と、ルーンはたずねた。「はて妙な! いったいぜんたい、なんで?」
「上着です。」タランは、あわててこたえた。「上着が――うまく合わないのです。合うようにしてもらわなくちゃならないのです。」
「こんな夜ふけに?」ルーンは、まんまるな顔にとまどいの色をうかべてたずねた。「いや、そりゃおどろいた!」そして、城の、影になった側を指さした。「かれらのへやは、あそこです。しかし、ねむっているところをたたきおこしても、上手にぬいなおしてくれる気分ではありますまい。仕立て屋というものは、ほら、気分やだから。朝まで待つことをおすすめします。」
「いや、今でなくてはならないのです。」タランは、ルーンから一刻もはやくはなれたくていった。
王子は、肩をすくめると、快活におやすみとあいさつして、またせかせかと去っていった。タランは、うまやの後ろにある一かたまりの小屋の方へ、道をさぐりながら向かっていった。だが、そこでも、タランは無駄足をふまされた。がっかりして、ガーギに合流しようと心をきめたが、そこで、ふいに足を留めた。人影が一つ、足早やに庭をよこぎり、表玄関ではなく、どっしりした城壁の、もっとも人目につかないすみの方へ向かっていくところだった。
エイロヌイが、上手にガーギの目をかすめたのだろうか? タランは、大声でよびとめようかと思った。だが、城の人たちをおこすといけないので、いそいで人影を追った。すると、その人影は、完全に消え失せた。タランは追いつづけた。足もとがおぼつかなく、ころびそうになって城壁につくと、そこにせまい出入り口があった。からだを押しこんでも抜けられるかどうか。タランが、出入り口をかくすツタのおおいを押し分けて通り抜けると、出たところは、港を見おろす岩のがけの上だった。
人影は――すぐに、エイロヌイでないことがわかった。背が高すぎるし、着ているものがちがっていた。一瞬、タランは、息をのんだ。マントに身をくるんだ人影が、そっと城の方をふりかえったとき、月の光がちらっとその顔を照らしだしたのだ。
人影は、マグだった。
侍従長は、まるでクモのようにすばやく、道をひろってくだっていった。タランは、恐怖にわななきながら、つよいうたがいにうごかされ、すばやく、しかも音をたてないように必死の努力をしながら、向こう見ずに、ごつごつした石をふんであとを追った。月の明るい夜だったが、道はたどりにくく、大きな岩がふいにぬっとあらわれてはいそぐ足のじゃまをした。タランは、ねむる港に向かって、悪い道をやみくもにマグを追いながら、エイロヌイの玉の光がほしいと思った。
マグは、タランをじゅうぶんひきはなして斜面をくだりきり、防波堤の上を大いそぎで進んで、突端の大きな岩の山にたどりついた。侍従長は、おどろくほど身軽にひらりと岩の上にとび上がり、はうようにのり越えて、向こう側に、また姿を消した。タランは、マグを見失うことを恐れ、用心をかなぐりすてて走りだした。防波堤には、月光にひかる波がしずかな音をたてて寄せていた。一瞬、柱の見える桟橋で影が一つうごいた。タランは、ぎょっとして、速度を落としたが、またいそいで進んだ。目は迷いつづけだった。岩までが、うずくまってすきをうかがうけだものよろしく、タランのゆくてに立ちはだかるように見えた。
タランは、歯をくいしばって、黒い障害である岩をよじのぼった。見おろすと、海水は、岩にくだけてあわだち、月光にかかやきながらうずをまいてひいていた。手でぐっとからだをもち上げて頂上に立つと、寄せ波の音がはげしく耳をうった。タランは、それ以上進む危険をおかせず、その場にくぎづけになった。マグは、ほんのすこし前方の、ほそい出州の突端で立ちどまった。タランが観ていると、マグはひざをついて、手ばやく何かをした。と、すぐに、ぱっとあかりがともった。
侍従長は、たいまつに火をつけ、それを頭上にかざして、ゆらめく火をゆっくり前後にふっていた。タランが何だろうとこわごわ見ていると、ずっと沖の方で、ぽつんとだいだい色の光が見えた。あれは応答の信号だ。相手は船以外にない、とタランは判断したが、船の姿も岸からの距離も、まったくわからなかった。マグは、さっきとちがう形に、またたいまつをふった。船上の光が、おなじ形をくりかえし、ふっと消えた。マグがたいまつを黒い水中になげすてると、たいまつはじゅーっといって消えた。マグは、向きを変えると、タランがひそむ岩山に向かい、ぐいぐいもどってきた。タランは、ふいにもどった暗闇の中で目をしばたたき、度を失ったタランは、突き出した岩を足さぐりしたが、かけた足をすべらし、あわててべつの足場をさぐったが、うまくいかなかった。マグが、向こう側をのぼってくる音がきこえたので、タランは思いきって手をはなして下に落ちた。鋭い痛みに顔をしかめながら、岩かげに身をかくそうとした。マグの頭が頂上にあらわれたそのとき、タランは後ろからなにものかにしっかりとつかまれた。
タランは、さっと剣に手をかけた。一本の手が、タランの口をふさいでさけびを殺した。そして、タランは、あっという間に、さざ並みのあわだつあたりまでひきずられ、岩だらけの岸にそっところがされた。
「声をたてるな!」ギディオンが、ささやき声で命令した。
タランが、ほっとしたとたん、からだの力がぬけた。頭上では、マグが慎重に岩山をおり、うずくまっているふたりから十歩とはなれていないところを通りすぎた。ギディオンは、寄せ波の真上の岩にへばりついたまま、タランに、じっとかくれていろとあいずした。侍従長は、一度もふりかえらず、今度も防波堤をいそいで通過し、城に向かった。
「つかまえてください!」タランはせきたてた。「船がもやっているんです。やつがあいずを送るのを見ました。なにをするつもりなのか、つかまえて吐かせなくちゃ。」
ギディオンは、首をよこにふった。みどり色の目で、もどっていくマグを追いながら、しのびあるくオオカミそっくりに、口を左右にきゅっとひいて、うっすらとわらっていた。服はあいかわらずくつつくりのぼろをまとっているが、黒い剣ディルンウィンを腰にさげている。
「ほっておこう。」と、ギディオンはつぶやくようにいった。「勝負はまだ終わっておらぬ。」
「しかし、あいずを。」と、タランがいいかけた。
ギディオンはうなずいた。「わたしも見た。おぬしと別れてからずっと、城に目をひからせていたからな。だが、さっきは、」と、ギディオンは、ちょっと声をきびしくしてつけ加えた。「裏切者をとらえるために仕掛けたわなに、豚飼育補佐がはまりはしないかと心配した。おぬしは、わたしに手助けをしてくれるのだろう? それなら、即刻城にもどれ。王女を守っていなさい。」
「マグは、ほっておいていいのですか?」と、タランはたずねた。
「すくなくとも、しばらくは、ほっておかねばならん。」と、ギディオンはこたえた。「くつつくりも、まもなく、突きぎりのかわりに剣をにぎる。それまでは、口をつぐんでいるのだ。マグのくわだてがもっとはっきりするまでは、じゃまだてしたくはない。
「モーナの漁師たちが、知りたいことはある程度、このせんさく好きで無害なくつつくりに、すで語ってくれておる。」と、ギディオンは話をつづけた。それだけでも、一つたけはたしかめられた。あの船にはアクレンが乗っているのだ。
「そうなのさ。」ギディオンは、タランがはっとしたのを知ってさらにつづけた。「そこまでは、わたしも予想していた。アクレン自身は、直接エイロヌイを攻撃する勇気はあるまい。城は堅固で守りはかたい。裏切りだけが城門をひらくことができる。アクレンは、彼女の命令を実行する人手がほしかった。それがだれだか、今わかったのだ。」
ギディオンは、ひたいに深いしわを寄せて話をつづけた。「しかし、なぜだ?」ギディオンはひとりごとのようにつぶやいた。「まだ、なぞが多すぎる。これが、わたしの恐れているとおりなら……。」そこで、いそいで首をよこにふって、「エイロヌイを、なにも知らせず、わなのえさに使うのは、このましいと思えない。が、しかし、ほかにやりようがないのだ。」
「マグは監視できます。」と、タランはいった。「しかし、アクレンはどうしたら?」
「マグと同様に、アクレンのくわだてを知る手だてをみつけなくてはならんよ。」と、ギディオンはこたえた。そして、「さ、はやく行け。」と、命じた。「まもなく、なにもかも、もっとはっきりしてくるだろう。そうあってほしいのだ。エイロヌイ王女を長く危険にさらしておきたくない。」
タランは、大いそぎでギディオンの命令にしたがった。ドンの王子を港にのこし、タランはせいいっぱいいそいで城までのくねった道を苦労してのぼり、城壁の出入口をみつけると、むりにからだをおしこんで、まっくらな庭に出た。マグが城中で自由であるかぎり、エイロヌイが危険であることが、これでわかった。しかし、すくなくとも、マグには目がとどく。肝も冷えるほど恐ろしいのは、暗闇でじっと待っている船だった。美しいが無慈悲なアクレンの記憶が心によみがえってきた。はるかむかしの記憶から、アクレンの青白い顔が、そして、拷問や死をごくおだやかな調子で語る声がよみがえってきた。裏切者の侍従長の後ろに、アクレンの影が大きくうかんで見えるのだった。
タランは、音をたてないようにして、いそいで庭をよこぎった。へやの一つから、うすあかりがもれていた。タランは、忍び足でそこに向かい、つま先だって窓からのぞきこんだ。灯油の光の中に侍従長が見えた。マグは長めのあいくちをつかみ、終始恐ろしい表情のまま、空を切った。しばらくしてから、その武器を着物の中にかくしたマグは、小さな鏡を手にとり、鏡に向かってにっこりわらってから口をひきしめ、いかにも満足そうな目つきでおのれの顔をうちながめた。タランは、ぞっとしながら見ているうちに、はげしい怒りにかられ、とびかかりたい気持ちをかろうじておさえていた。侍従長は、おしまいにもう一度つくりわらいをして、あかりを消した。タランは、げんこつをにぎりしめながら、そこを立ち去り、城にはいった。
エイロヌイのへやのところへ行ってみると、ガーギが敷物の石のうえにうずくまっていた。からだじゅう、もじゃもじゃになっているガーギは、ねぼけまなこをぱちくりさせ、ぱっとおき上がった。ガーギ同様に羽毛が乱れているカアも、つばさの下から、ひょいと頭を持ち上げた。
「万事異常なし。」と、ガーギはささやいた。「はい、はい、油断ないガーギ、出入口からうごかなかった。雄々しくもねむたいガーギ、恐るべき危害から高貴な姫君をおまもりする。やわらかいあわれな頭が重くても、居ねむりなどしない。けっして、けっして!」
「よくやってくれた。」と、タランはいった。「さ、ねむってくれ。そのあわれなやわらかい頭を休ませてやってくれ。あとは、ぼくが朝までここにいる。」
ガーギは、あくびをして目をこすりながら、そっと廊下を立ち去っていき、タランは、へやの前にのこった。敷石の上にすわりこみ、片手を剣にかけ、ひざの上に頭をのせ、疲れからくるねむりとけんめいにたたかった。しかし、やはり一、二度、うつらうつらしてしまい、はっとして目をさました。夜明けの光が増すにつれ、アーチ型天井の廊下がすこしずつ明るくなってきた。最初の日の光を見たとき、タランはほっと安心し、そこでやっと、まぶたをとじるにまかせた。
「カー・ダルベンのタラン!」
タランは、よろめいて立ちあがり、剣に手をかけた。ぐっすりねむってさわやかな顔のエイロヌイが戸口に立っていた。
「カー・ダルベンのタラン!」エイロヌイがきっぱりした口調でいった。「あなたにけつまづいてころぶところだったわよ! いったいぜんたい、あなた何をしてるの?」
タランは、すっかりあわててしまい、廊下のほうがへやより寝心地がよかったからと、しどろもどろに答えた。
エイロヌイは、首をよこにふった。そして、「朝から。」とつけつけいった。「まったくばかげたことをいうわね。まだ朝は早いけれど、こんなばかげた話を、今夜ねるまでにもう一度きけるかしら。豚飼育補佐のやり方って、もうわたしの手におえないように思えてきたわ。」エイロヌイは肩をすくめた。「とにかく、わたしは朝食にいきます。あなたも、顔を洗ってその髪をととのえてからいらっしゃい。すこしは正気にもどるかもしれない。あなた、まるでハエをとってるカエルそっくり。そわそわ落着かなくて!」
タランが頭をふってねむ気をはらいのけ、待てと声をかけようとしたときには、エイロヌイはもう廊下の向こうをあるいていた。タランは、あわててあとを追った。明るい朝なのに、まるで黒いクモの巣のような影に、からだをおおわれている気持ちだった。タランは、アクレンのたくらみが、ギディオンに見破られていますようにといのった。だが、マグはまだ捕えられていなかった。タランは、この侍従長がかくし持つ短剣を思いおこし、一瞬たりともエイロヌイから目をはなすまいと決心していた。
「やあ、やあ!」タランが、ルーン王子のへやの前を通りすぎようとしたとたん、王子がとび出してきた。今洗いたてたように、まるい顔がつやつやひかっていた。「朝食へ?」王子は大声でいって、タランの肩をぽんとたたき、「そりゃ、けっこう! わたしも行くところです。」
「では、大広間でお会いします。」タランは、ルーン王子のなれなれしい手をふりほどこうとして、あわててこたえた。
「いや、まったくおどろくのは、夜の間にちゃんと食欲がもどっていることです。」ルーン王子は話しつづけた。「あ、そうそう、仕立て屋はうまくおこせましたか?」
「仕立て屋?」タランはいらいらとこたえた。「仕立て屋がなにか? あ、おこせました。おこせました。いったとおりにしてくれましたよ。」タランは、廊下の前方をそっと見やって、いそいでつけ加えた。
「すばらしい!」と、ルーン王子は大きな声でいった。「わたしもぜひあやかりたい。ほら、あのくつつくりね、あの男は一度だって、わたしのくつを仕上げたことがないんです。はじめたかと思ったとたん、出ていってしまい、くつはそれっきりおしまいです。」
「あの人には、もっとだいじな仕事があるんでしょう。」と、タランはこたえた。「わたしも――。」
「くつつくりに、くつをつくるよりだいじな仕事なんて、あるんですか?」と、ルーンはききかえした。「いったい……。」そこで、ルーンは、ぱちりと指をならした。「そうだ! なにかあったんだ、知ってる。わたしはまだ上着をつけていない。ほんのちょっと、待っていてください。」
「ルーン王子、」と、タランは大きな声でいった。「わたしは、エイロヌイ王女のところへ行かなくてはならないのです。」
「すぐです。いっしょに行きましょう。」ルーン王子がへやの中から大きな声で返事した。
「あっ! くつひもが切れた! あのくつつくりめ、ちゃんとくつを仕上げてくれていたら、こんなことなかったのに!」
タランは、へやの中をかきまわしているモーナの王子をのこし、不安にかりたてられて大広間にいそいだ。ルーズルム王とテレリア王妃は、すでに席につき、王妃は、例によってお付きの婦人たちにかしずかれていた。タランはさっと一わたり見まわした。いつもならかならずひかえているマグの姿が見えなかった。
そしてエイロヌイもいなかった。
5 ちかい
「エイロヌイは?」と、タランはさけんだ。ルーズルム王とテレリア王妃が目をまるくしてタランを見た。「マグはどこです? エイロヌイをつれて逃げたな! おねがいします、王さま。護衛の方々にお命じください。あのふたりをさがしだしてください。エイロヌイの命があぶないのです!」
「なんじゃ、なんじゃ?」テレリア王妃がきどった声でいった。「マグ? 王女? そちは疲れておるのじゃ――これこれ、そんなにからだをゆさぶったり手をふりまわしてはなりません。潮風で調子がくるったのでありましょう。朝食に出てこないといって、その者の命があぶないことにはなりません。そうでございましょう。」王妃は王を見てたずねた。
「そなたの申すとおりじゃよ。」と、ルーズルムはこたえた。「これは、王家の家臣に対しては酷にすぎる告発であるぞ。」王は、きびしい目でタランを見てつけ加えた。「そちは、なぜマグをとがめたてするのじゃな?」一瞬、タランは、思い乱れ、こまり果ててつっ立っていた。ギディオンは、内密にせよと命じた。しかし、マグが仕掛けてきた今になっても、なお秘密をまもらなくてはならないだろうか? タランは心をきめた。そして、一気に話しはじめた。一行がディナス・リードナントについてからおこったことを洗いざらい、早口に、しばしば、しどろもどろになりながら王たちに知らせた。
テレリア王妃は首をよこにふった。「あのくつつくりがギディオン卿に変装――いやいや、その反対でありましたか――船、魔女へのあいず。まったくとほうもない話だこと。」
「いや、まったく、とほうもない。」と、ルーズルム王はいった。「だが、すぐに真実がわかる。くつつくりをつれてくれば、かれがドン家の王子であるかどうか、たちまちわかることじゃ。」
「ギディオン卿は、アクレンをさがしておられます。」と、タランはさけぶようにいった。「わたしは真実をお知らせしたのです。これがいつわりであったら、わたしの命をおとりください。うそかまことか、おたしかめください。それには、侍従長をおよびになることです。」
ルーズルム王は、ひたいにしわを寄せた。「うむ、マグがここにおらんのは、おかしなことだの。」王もうなずいた。「わかった、カー・ダルベンのタラン。あの男をつれてくるから、あれのおるところで、さきほどの話をもう一度してみるがよい。」王は手をならして召使いをよび、侍従長を召しつれてまいれと命じた。
タランは、時がむだにすぎて手おくれになれば、エイロヌイの命にかかわることを知っているので、心配でいても立ってもいられず気が狂いそうだった。すると、ようやく、召使いがもどり、マグは城中に姿が見えず、エイロヌイもみつからないと知らせた。ルーズルム王が、タランの話を心を乱され、それでも、ことをきめかねているところへ、ガーギとカアとフルダーがあらわれた。タランはかけよった。
「マグ! あの腹黒いクモめ!」吟遊詩人はタランから一部始終をきかされたとたん、思わずわめいた。「たいへんだぞ、あのふたりは馬で出ていった! 全速力で門を出ていくところを見かけたのじゃよ。わしは、エイロヌイをよんだのだが、きこえなかったらしい。とても楽しそうな様子だったぞ。まずいことがおこったなどとは、露思わなかったのう。だが、行ってしまったのはほんとうだ。もうだいぶ前だ!」
テレリア王妃はまっさおになった。侍女たちは悲鳴をあげた。ルーズルム王がいきおいよく立ち上がった。「カー・ダルベンのタラン、そちのいったとおりであった。」
王は、護衛の戦士たちを大声でよびながら、大またに広間を出た。タランの一行は、いそいであとを追った。ルーズルム王のいそぎの命令で、うまやのとびらが勢いよくひらかれた。あっという間に、城の庭は、戦士たちといななく馬でいっぱいになった。そのとき、ルーン王子が、ぶらりと庭にあらわれ、数を増す軍馬を見た。
「やあ、やあ!」王子は、タランに声をかけた。「狩りの支度ですか? いや、けっこうな思いつきだ。これで大気のきりりとひきしまった朝の乗馬が楽しめる。」
「うらぎり者の侍従長を狩るんです。」タランは、そういいかえしてルーンをおしのけると、人馬を分けてルーズルム王のところへ行った。「王さま、総指揮の武将はどなたですか? わたしどもを武将の手もとにお加えください。」
「残念ながら、その武将がほかならぬマグなのじゃよ。」と、王はこたえた。「ここモーナ島ではいくさなど絶えてないものじゃから、武将などいらなかった。そこで、この名誉ある称号をマグに与えるのが、いかにも理にかなうと考えたのじゃ。捜索の軍は、余がみずから陣立てしよう。そなたは――うむ、そうじゃ、必要などんな仕事にも全力で手助けしてくれい。」
ルーズルム王が戦士の組織にかかると、タランとその仲間たちも、一刻をあらそってはたらき、鞍おびをしめたり、武器倉から武器を出して手渡りしたりした。タランがふと見ると、ルーン王子は、白黒まだらで背中がひどくくぼんだ雄馬にやっとのことでまたがっていた。馬は、王子がいくらおさえようとしても、円をえがいてまわろうとしてばかりいた。フルダーとガーギが引き出してきた馬が三頭いた。一目見ただけでタランはがっくりしてしまった。覇気がなく、気性もおとなしそうだった。タランは、今カー・ダルベンでおだやかにくらしている俊足のメリンラスがいてくれたらと思った。
ルーズルム王は、タランの腕をつかむと、いそいで馬のいなくなったうまやの一つに連れこんだ。そして「うちあわせねばならんことがある。」とせきこんでいった。「戦士たちの武備はととのい、二隊に分けてある。一隊は余がひきいてアロー川以南に行く。あと一隊はアロー川以北のパリス山を捜索するが、そなたと仲間は指揮をとる余の息子についていってくれ。余が話しておきたいのは、あの息子のことなのじゃ。」
「ルーン王子が指揮を?」タランは、思わずさけんだ。
「なんと、カー・ダルベンのタラン、」と、ルーズルム王は、声をとがらせてたずねた。「それでは、そちはルーン王子の才幹にうたがいをいだいておるのか?」
「才幹?」タランは大きな声を出した。「ありません! エイロヌイの命は累卵の危うきにあるのです。わたしたちは即刻仕事にかからねばなりません。無能なばかに指揮権を与えるですって? 馬にのったり剣をふるうことはおろか、くつひもすら、満足に結べないではありませんか。モーナまでいっしょに旅して、わたしは十二分に思い知らされました。だれか寄騎の将をおらえびください。いや、ルーン王子以外なら、ただの戦士でも森番でも……。」タランは息をついだ。「ダルベンは、エイロヌイを守れと、わたしにちかいをたてさせました。だからこそ、わたしは正直にいいます。遠慮していたら、義務が果たせないのです。正直に申しあげて罰を受けるなら、いたしたかたのないことです。」
「今度もまた、そなたは正しいことをいっておる。」と、ルーズルム王はこたえた。「罰を受けるのは、そなたではない。この余じゃ。」王は、そこでタランの肩に手をおいた。「余が息子のことを知らぬとでも思うかな? 息子に対するそなたの評価は、まちがっておらぬ。だが、ルーンが一人前の男になり、王にならねばならぬことも、またたしかなことである。そなたは、ダルベンのちかいという荷を負うている。だから、もう一つ、荷を負うてほしいのじゃ。
「そなたのいさおしの話は、モーナにとどいておる。」と、ルーズルム王は話をつづけた。「そして、余も、そなたが勇敢な若者であり、志操正しい若者であることを、この目でとくと見た。うちあけて申そう。この城のお馬奉行は、すぐれた追跡者だ。そなたの隊に同行し、捜索の事実上の指揮をとろう。ルーン王子は名目上指揮をとるだけじゃ。戦士たちは、王家の命令にしたがうものじゃからな。余は、息子をそなたにまかせる。あれが災難にあわぬようにたのみたいのじゃ。また、」と、王は悲しげにほほえんでつけ加えた。「あまりばかげたことをしでかさぬようにも気をつけてほしいのじゃ。王子は、多くのことをまなばねばならぬ。そして、おそらく、そなたから多くのことをまなべよう。あれも、いつかはモーナの王とならねばならぬ。エイロヌイを王妃として、正しくかしこく国を治めてほしいのじゃ。」
「エイロヌイが?」と、タランは思わず声を高くした。「ルーン王子を夫に?」
「そうじゃ。」と、ルーズルム王はこたえた。「王女がふさわしい年齢になったあかつきに、あのふたりが結ばれたらと、余の家ではのぞんでおる。」
「エイロヌイ王女は、」タランは、気持が乱れ、ぼそぼそといった。「王女は、それを知っているのですか?」
「いや、まだじゃ。余の息子も知ってはおらぬ。」と、ルーズルム王はいった。「エイロヌイには、モーナと、ここの暮らし方になれ親しむのに、時を貸さねばならぬ。しかし、この話は、めでたくととのうであろうと、余は信じておる。なんと申しても、あのむすめは王女であり、ルーンも王家のものじゃ。」
タランはうつむいた。深い悲しみのため、口がきけなかった。
「どうじゃ、カー・ダルベンのタラン?」と、ルーズルム王は返事を求めた。「約束してくれるかの?」
城の庭の方から戦士たちの大声でよびかわす声がきこえた。フルダーが、タランをよんでいた。だが、かれらの声が、タランには、はるかかなたからきこえてくるように思えた。タランは、目を落として、じっとだまっていた。
「この件については、余は王として臣下に話しておるのではない。」と、ルーズルム王は、説明した。「息子がかわいい、ひとりの父親としていっておるのじゃ。」王は、そこで口をつぐんで、タランをじっと見つめた。
ようやく、タランも、目をあげて王を見た。そして「おちかいします。」と、重い口でいった。「わたしの力で防げるかぎりは、王子に災難がふりかからないようにしましょう。」タランは、剣に手をおいた。「これを、命にかけてちかいます。」
「おお、カー・ダルベンのタランよ、では、余の感謝をはなむけといたす。」と、ルーズルム王はいった。「エイロヌイ王女をぶじつれかえる力となってくれい。」
タランが、うまやから大いそぎで庭にもどってみると、吟遊詩人とガーギは、もう馬にまたがっていた。タランも、気はふさいでいたが、馬にとびのった。カアがとんできて、肩にとまった。ルーン王子は、輪をえがいてまわろうとしてばかりいた馬をどうやらおさえ、大声で命令していたが、例によってだれひとりしたがうものはなかった。
捜索隊がはやがけで城門を出ると、タランは、肩のカアを手にうつらせた。「なあ、わが友よ。おぬし、王女がみつけられるかい? 注意してさがしておくれ。」タランが小声で話しかけると、カラスは小首をかしげて、抜けめなさそうな目で、タランの顔を見た。タランは、カアを投げるように、手をふり上げた。カアはまいあがり、ぐんぐん上昇した。そして、羽ばたきながら、頭上を円をえがいてとび、大空に向かって高く高くあがったかと思うと、やがて姿を消した。
「ようし! よし!」ガーギが両手をふってさけんだ。「飛翔し、探索するのですぞ! 邪悪、凶悪な侍従のところへ、われわれの先導をするのですぞ!」
「一刻もはやくだ!」と、フルダーがさけんだ。と、フルダーがさけんだ。「あの、人を小ばかにしくさる腹黒グモめをひっとらえたくて、うずうずするわ。フラムの者の怒りを思い知らせてくれる!」
タランがふりかえると、ルーズルム王の一隊が続々と城を出て、南に向きをかえるのが見えた。前方に目をもどすと、先頭を行くお馬奉行が、ディナス・リードナントの港を見おろす丘陵地帯に向けて進みながら、先がけのものたちに、道をさがせとあいずしていた。タランは、フルダーとくつわをならべ、陰気な固い表情で、むっつりと馬を進めていた。
「心配ないよ。」吟遊詩人が安心させるようにいった。「日が暮れないうちに、エイロヌイをぶじに連れて帰れるさ。そしたら、みんなで、この冒険をさかなに騒ごう。お祝いに新作をかならずきかせるざ!」
「そいつは、婚約をことほぐうたにしたほうがいい。」と、タランはにがにがしげにいった。「そして、モーナの王子の結婚をうたいあげたほうがいい。」
「ルーンが?」フルダーは、まさかとおどろいた声をあげた。「結婚だと? 思いもかけなかったなあ! これが城ではなくうまやで暮らす不便の一つさ。新しいたよりやらうわさ話をききそこなう。ふん、ルーン王子がなあ! それで花嫁は?」
タランは、いやいやながら、ルーズルム王のもくろみと、ルーンを災厄からまもるちかいのことを、吟遊詩人に話した。
「ほほう、」タランが語りおえると、フルダーがいった。「そんななりゆきになっておるのかい! おかしいな。」フルダーは、タランの顔にさっと目を走らせてつけ加えた。「わしは今までずっと予想していたのだがな、エイロヌイが婚約するのは――その、つまりだ、こういうことさ。おぬしとあのむすめは、つまらぬいさかいばかりしてはおっても、わしは、きっといつか……。」
「からかわないでください。」タランは、あかくなって、どなるようにいった。「エイロヌイはリール王家の王女です。わたしの身分を、あなたは、わたし同様よく知っているじゃありませんか、わたしは、そんなのぞみをいだいたことはありません。エイロヌイは、つりあった身分のものと婚約するのがいちばんふさわしいのです。」タランは、腹をたてたように詩人のそばをはなれ、馬をはやがけさせて行ってしまった。
「そうはいうがね、そうはいうのだが、」フルダーは、あわててあとを追いながらつぶやくようにいった。「もっとよく胸中をのぞいてごらん。口に出した言葉とちょっとちがった思いがみつかるよ。」
タランは耳をかさず、隊列に加わろうと馬をいそがせた。
捜索隊は、パリス丘陵の山腹にとりついたところで、左に転じて小隊に分かれ、それぞれの持ち場をくまなくさがした。戦士たちは、長いくねくねした横線状に、しばしばとなりを見失うほど幅広くて、人がかくれていそうな箇所を、たんねんに探索した。だが、午前がすぎ、正午をすぎても、侍従長とエイロヌイは、痕跡すらみつからなかった。
みどりにおおわれたなだらかな斜面のあちこちに、石ころだらけのでこぼこな通路があった。そこなら、どんなに目の鋭い追跡者でも、手がかりがみつからないから、にげるマグは、そこを通ったかもしれなかった。タランは重い気分になった。自分は予想をあやまり、エイロヌイは、まったくべつの方に連れ去られたのではないかという心配が心をさわがせていた。タランは、王女についての情報をたずさえたカアがもどってくる姿が見えないかと、ときおり大空をながめわたした。
アクレンのたくらみをつきとめられるのはギディオンしかないことはわかっていた。マグがそのかぎなのだが、その侍従長があまりにすばやく行動をおこしてしまったため、すでに、捜索隊の手のとどかないところまでのがれてしまったかもしれないのだった。タランは、さらに馬力をかけて、折れた小枝、うごかされた石――日が暮れて捜索がうちきられる前に、エイロヌイにちかづげるどんな手がかりでもさがそうとした。
すぐ近くを進んでいたガーギが、タランに向かって大声でさけんだ。「ほら! ほら! 高貴な王子さま、たったひとりではなれていく。森の中へはいりすぎる! 迷子になる。あの陽気な、やあ、やあが、うう、うう、悲しいうめきになる!」
タランは馬をおりて、手がかりらしく見えるものをしらべていたが、目をあげると、ちょうどそのとき、ルーン王子が丘陵の肩のところを、馬をとばして越えるところだった。タランは、さけんでとめたが、遠すぎてとどかなかった。だが、タランは、ルーンがまったく気にかけなかったのだと考えた。そこで、馬にまたがると、王子に追いつこうとした。城を出て以来、タランは、どうにか王子を見失わずにきた。だが、丘陵の肩までのぼってみると、ルーンはハンノキの木立ちの中に姿を消していた。ふりかえると、ぐんぐん影の濃くなる草原、フルダーがゆっくり馬を走らせながら姿をあらわし、タランをよんだ。タランは、もう一度ルーンの名を大声でさけんでから、吟遊詩人とガーギをまねいた。
「あの気味のわるい悪者め、きょうは逃げきりおった。」フルダーは、ふらふらしながら頂上めざすやくざ馬の上で、腹だたしげに大声をあげた。「しかし、あすはつかまえてもどれるから、エイロヌイはぶじだよ。あの王女のことだ。今ごろマグのやつ、彼女をさらったことを後悔しておるよ。あのむすめは、手足をしばられていても、十二人の戦士に匹敵するからなあ!」いさましいことを口にしながら、表情はひどく心配そうだった。「さ、行こう。」と、フルダーはいった。「お馬奉行が戦士たちをよび集めている。われわれも、今夜は、いっしょに野営しなくてはならん。」
詩人がそういったとたん、あいずの角笛の音がかすかにひびいてきた。タランは、眉根を寄せた。「ルーン王子を、ひとりで森においておくわけにはいきません。」
「そういうことなら。」フルダーは、夕日をちらりと見てこたえた。「即刻つれもどすのが上策だよ。フラムの者は目がよい! だが、できうべくんば、暗くなってから野山をつまずきころびながらうろうろしたくはない。」
「そう、そう、いそぐ、てきぱき、がさがさ!」と、ガーギがさけんだ。「恐ろしげな闇があたりをつつむ。雄々しく、しかも用心深いガーギにも、どんなぶっそうなものがひそんでいるかわからない!」
一行は、ここにたしかに王子がいるとタランの考えていた木立ちまで、いそいで馬を進めた。しかし、ハンノキの木立ちをぬけても、王子の姿がないとわかったとたん、タランはにわかに不安になった。王子の名をさけんだがむだだった。返ってきたのは、こだまだけだった。
「そんなに遠くまで行ったはずはないんです。」と、タランは吟遊詩人にいった。「ルーンだって、日が暮れればそれ以上進まないくらいの分別はもっているでしょう。」
闇が木立ちを包んだ。馬たちは、ディナス・リードナントのしずかなうまやにばかりいて、モーナ島の森になじんでいなかった。びくびくして、やぶから鳥がとびたつたびに、あと足で立ったり、しりごみしたりした。タランたちは、しかたなく馬からおり、いやがる馬をひっぱって、道をさがしながら進んだ。タランは、もう、強い不安におそわれていた。はじめはささいなことだったが、今は重大事になっていた。
「馬から落ちたのかもしれない。」と、タランはいった。「こうしている今も、けがをして気を失っているかもしれない。」
「となれば、なんとかみんなのところまでもどろう。」と、フルダーはいった。「そして手助けをたのむのだ。こう薄暗くては、目が多いほどいい。」
「時間のむだが大きすぎます。」タランは下生えをおし分けて進みつづけながらこたえた。ガーギも、ひくく、人にきこえないくらいにくふんくふん鼻をならしながらついてきた。地面ののぼり勾配で、ふもとの丘を越えつつあるとが、タランにもわかった。押し分けた若木が勢いよくはねかえって空気を切る音、ほの白い石にあたる馬蹄の音――きこえるのは、それだけだった。タランが、ぎくっと立ちどまった。とぶように走るなにかが、視野の端をかすめたのだ。ほんの一瞬、陰の中を陰が走ったと見えた。恐怖を押し殺しながら、タランは手さぐり状態で進んだ。馬たちは一段と臆病になった。タランの馬は、耳を後ろに伏せて、こわそうに鼻をならした。
ガーギも、闇にひそんでいたものに気づいていた。おびえたこの生きものは、首筋の毛をさかだて、あわれっぽくわめきだした。「腹黒いよこしまなものたち、なにもしないガーギのあとをつけてくる! おやさしいご主人、ガーギのあわれなやわらかい頭、傷つく危険からお守りください!」
タランが剣を抜き、一行は、暗闇を何度となくふりかえりながら先をいそいだ。今度は、馬たちが、ぐずぐずするどころか、やたらと突き進み、吟遊詩人など、まるでひきずられていた。
「くそ!」フルダーは、木にぶつかってしまい、やぶにからまったたて琴を、騒々しい音をさせてはずそうとしながら文句をいった。「おーい、とまってくれ! これじゃ、あっという間に馬も迷子になる。さがしものがルーン王子だけじゃなくなるぞ!」
タランは、今度はうごこうとしなくなった馬をなんとか落着かせようと骨を折っていた。なだめすかしてひっぱっても、馬たちは、恐怖の目を見ひらいて、横腹をふるわせながら足をつっぱっていた。タランも、へとへとになって、くずれるように地面にすわりこんだ。
「こんな捜索はめちゃくちゃで意味がない。」と、タランはいった。そして、フルダーの方に顔を向けて、「あなたのいったとおりでした。ひきかえせばよかったのです。節約できると思った二倍以上、時間をむだにしてしまいましたよ。エイロヌイの危険は、一瞬おくれればそれだけ増していくというのに、今度はルーン王子が行方不明――今までのところ、カアもそうだ。」
「おぬしのいうとおりらしいよ。」フルダーがため息をついていった。「そして、おぬしもガーギも、ここかどこかをわきまえていないとすれば、わしらも迷子になったのじゃないかと思うね。」
6 グルーの薬
それをきくと、ガーギは泣き声をあげ、両手で頭をつかんで前後にゆさぶった。タランは自分の絶望感を必死におさえ、おびえたガーギを力づけてやろうとした。
「今は夜明けを待つ以外にないんだ。お馬奉行は、かならずこの近くにいるさ。夜が明けたらできるだけ早く、かれをみつけてくれ。なによりも、エイロヌイの捜索をおくらせないことだ。わたしはルーン王子をさがす。」タランはそこでにがにがしげにつけ加えた。「かれを災難からまもるとちかってしまったから、そうするよりしかたがないんだ。しかし、かれをみつけたら、なんとかして捜索に加わる。」
そこで、タランは、頭をたれてだまりこんでしまった。それを、フルダーがじっと見ていた。「悲嘆で心を喰いつくさないことだ。」フルダーはしずかな声でいった。「マグは、長いあいだ逃げかくれはできない。やつはエイロヌイに危害を加えるつもりではなく、ただアクレンのところへ連れていくのだと思う。そして、アクレンのもとに行きつくずっと前に、われわれがとらえてしまう。さあ、休みたまえ。ガーギとわしが交替に見張りをする。」
タランは、疲れ果てて異議もとなえられず、地面にあおむけにねて、マントで身をくるんだ。目をとじたとたん、アクレンの恐怖が思い出され、心を苦しめた。あの傲慢な女王は、怒りと復讐のために、タラン一行のだれであれ、つかまえれば殺すだろう。エイロヌイなら? タランは、アクレンにとらえられたエイロヌイを、考えてみる勇気がなかった。ようやく、うとうとねむれるようになったが、まるで粉ひきうすの真下でねむっている感じだった。
朝日がちらりと顔を見せたとたん、タランはぎくっとして目をあけた。フルダーがゆさぶりおこしていた。吟遊詩人の黄色い髪はもじゃもじゃになり、顔色は疲れのために青かったが、うれしげににこにこわらっていた。
「吉報がある!」と、詩人は大きな声でいった。「ガーギとわしで、わしらなりに、ごそごそ、きょろきょろを、ちょっとやってみたんだ。おぬしが考えるほどひどく道に迷ってはいないよ。じっさいは、円をえがいてころがりまわっていたのさ。自分で見てごらん。」
タランは勢いよく立ちあがり、吟遊詩人のあとについて低い尾根へ行ってみた。「おっしゃるとおりです。ハンノキの木立ちがある。あれにちがいない! そして、あれは――たしかあの倒木のところでルーンの姿を見失ったのです。行きましょう。」タランはうながした。「あそこまでいっしょに行きましょう。あなたは、そのまま進んで捜索隊に追いついてください。」
一行は、大いそぎで馬にのり、馬をせきたててハンノキの木立ちに向かった。木立ちにつかないうちに、タランの馬がだしぬけに足をとめ、ふいに左に向かった。丘陵の肩に沿って茂る木々の中で、かんだかい馬のいななきがきこえた。おどろいたタランは、たずなをゆるめ、いななき声に向かって馬を自由にとことこかけさせた。すると、すぐに、茂みの後ろからなにか青白いものが見えた。さらに近づくと、それはルーンの白黒まだらの牝馬であることがわかった。
「ほら、あそこ!」タランは、フルダーに大声で知らせた。「ルーンはすぐ近くにいます。夜だったので、知らずに通り越してしまったにちがいありません。」
タランは、馬をとめて、鞍からとびおりた。しかし、期待はうらぎられた。馬のそばに、のり手はいなかった。ルーンの馬は、仲間の馬を見ると頭をぐっと立てて、たてがみをふり、心配そうに低くいなないた。
タランは、最悪の場合を予想して、牝馬の向こう側へあわてて行ってみた。フルダーとガーギも、馬をおりてあとを追ってきた。タランの足がぴたりととまった。すぐ前にあき地があり、そこに、最初の印象では、わらでつくったばかでかいハチの巣とみえるものがたっていた。フルダーも追いついてきて、タランとならんだ。タラン、待てと片手をあげてあいずして、その奇妙な小屋にそろそろと近づいた。もうわらぶきだとわかる円錐形の屋根は、あちこちがくずれ落ちていた。小屋の片側は、自然石を積みあげた壁だったが、一角がくずれ、石の山になっていた。窓は一つもなく、一枚の重いとびらが、たるんだ皮のちょうつがいでとめられて、かしいでいた。タランはさらに近づいてみた。わら屋根の穴が、しゃれこうべの目のように、じっと見ている。
フルダーが、あたりをきょろきょろ見て、ささやいた。「あのとびらをノックして、だれか知らんが中にいるものに、モーナの王子を見かけなかったかなんてきくのは、あまりぞっとしないね。さすがのルーンでも、避けたいと思うたぐいの場所のように思えるのだがねえ。しかし、たしかめるには、ほかの手はあるまいな。」
そのとたん、とびらが中から勢いよく押しあけられた。ガーギは、悲鳴をあげて木の上に逃げた。タランは、剣に手をかけた。
「やあ、やあ!」ルーン王子がにこにこわらって戸口にあらわれた。すこしねむたげに見える以外、ルーンはまったくいつもどおりで、けがなど全然ないようだった。「あなた方が朝食をたずさえておられるのでしょうな。」ルーンは、さかんにもみ手をしながら話しだした。「もう空腹で死にそうですよ。あなた方、気づかれたことありますか? 新鮮な空気はじつに食欲を促進させる。まったくおどろくべきことです!
「さ、さ、おはいりなさい。」ルーンは、あいた口がふさがらない顔で自分をじっと見ているタランに向かっていった。「ほんとうとは思えないほど居心地がよろしい。びっくりするほど気持ちよく落着ける。あなた方みんな、どこで一夜すごされたのですか? わたしのようにぐっすりやすまれたのだとよいが。想像もつかないでしょう……。」
タランは、それ以上がまんできなくなった。「いったい、なにをしでかしたんだ、あなたは?」タランはどなった。「なんで捜索隊からはなれた? 迷子になっただけですんだことを幸運と思いたまえ!」
ルーン王子は、めんくらって目をぱちくりさせた。「捜索隊からはなれた? いや、べつにはなれたわけではない。故意ではない。わかるでしょ。馬から落ちて、やみくもに馬を追いまわしたあげく、この小屋のそばでみつけたというだけです。そのときには、もう暗くなってきていた。だから、ねむった。それが常識じゃありませんか。つまり、雨露をしのぐ場所があるとき、野外でねむることもないだろうということですよ。
「迷子になったといわれるが、」と、ルーンは話をつづけた。「私には、あなた方こそ、迷子になったように思えますね。おわかりですか。わたしの行くところが、すなわち捜索が行なわれているところです。なんといっても、指揮をとっているのは……。」
「そう、あなたです。」タランが腹だたしげに言葉をなげかえした。「王の子息として、そうするように生まれついていますからね。」タランは、ふいに言葉を切った。つづけたら、あっという間に、ルーズルム王への約束と、この思慮の足りない王子を守る近いを、大きな声でわめいてしまっただろう。タランは歯をくいしばった。それから冷静な声でいった。
「ルーン王子、わたしたちがあなたの指揮下にあることは、いわれなくてもわかっている。しかし、あなた自身の身の安全のために、どうか、わたしたちからはなれずにいてください。」
「そして、えたいの知れぬ小屋には近づくなと、わしは忠告しておくよ。」と、フルダーも口をはさんだ。「この前、わしがはいった小屋では、あやうくヒキガエルにされるところだった。」吟遊詩人は頭をふってみせた。「そいつは避けるんだね――つまり、小屋はね。どんないやなことに巻きこまれるか、わからん――気づいたときには、もう手おくれだ。」
「ヒキガエルに変わる?」ルーンは全然平気な顔でさけんだ。「ふうむ、そりゃおもしろそうだ。いつか変わってみたいなあ。しかし、そんな心配なことは、なにもありませんよ。ここには、だれも住んでいない。長い間無人ですよ。」
「じゃ、いそいでください。」タランは、二度とルーン王子から目をはなすまいと心をきめていった。「みんなと合流しなくてはなりません。追いつくには、時間もかかるし、道もきついでしょう。」
「ちょっと待って!」シャツしか身につけていないルーンがいった。「すぐ支度します。」
このやりとりの間に、ガーギは木からおりていた。慎重なガーギだが、好奇心には勝てず、あき地をひょいひょいとんでいって、戸口から中をのぞきこみ、とうとう、思いきってルーンといっしょに小屋へはいっていった。フルダーと、いらいらしているタランもガーギにつづいた。
小屋の内部は、王子の言葉どおりとわかった。木のテーブルや長いすの上に、ほこりが部厚くたまっていた。片すみに、ばかでかいクモの巣がかかっていたが、それすらあきやになっていた。われている炉石の上に、とうの昔にもえつきたたきぎののこりの炭があった。炉のそばに、たくさんの大きななべが、からっぽでほこりにまみれて、ひっくりかえっていた。素焼きのわんや細長い水さしは、こまかくくだけ、床にちらばっていた。屋根の穴から落ちこんだ何年分かの落ち葉が、足のくだけた折れたいすを、うずめつくすほどつもっていた。小屋の中は、しずまりかえっていた。森の物音がきこえてこないからだった。ルーン王子が荷物を不器用にまとめる間、タランは、そわそわしていた。
ガーギは、見なれないがらくたの山に夢中になり、たちまちのうちに、ぜんぶ見てまわった。そしてだしぬけに、びっくりしたさけび声をあげた。「なんだ、これは?」そうさけんだガーギは、ぼろぼろな羊皮紙のかたまりを持ちあげてみせた。
タランは、ガーギのかたわらにひざをついて、そのぼろぼろの羊皮紙の束をしらべてみた。野ねずみが、かれらよりずっと前に、それをみつけたことがわかった。たくさんのページがかじりとられていた。雨にうたれて字が流れているページもあった。破損していない数ーページには、読みにくい文字がびっしり書きこんであった。束のいちばん下には、何枚か保存のよいものがあることがわかった。ていねいに皮でとじあわせて、小冊子になっていて、紙面はきれいで何も書いていなかった。
ルーン王子は、まだ剣もつっていなかったが、やってきて、タランの肩ごしにのぞいた。「ほう! そりゃなんです? さっぱり見当のつかないものですね。しかし、興味あるものらしい。それに、きれいな小冊子じゃありませんか。そんなのを備忘録に持つのもいいな。」
「ルーン王子。」といって、タランがそのきれいな冊子をモーナの王子に手渡すと、王子は上着のポケットにつっこんだ。「いいですか。あなたがなにをしようと、その手助けになることなら、なんでもしてあげます。」そういって、タランはまた、羊皮紙の正体をしらべにかかった。「ねずみと風雨のおかげで、この金釘流は、中身がわかるほどのこっていないな。文章にまるで切れめがないようだ。しかし、わたしにはどうも薬の処方のように思える。」
「薬!」フルダーが思わず大声をあげた。「ふむ、そいつは、われわれには、用がないものだな!」
そういわれても、なお、タランは各ページをしらべたり整理したりしつづけた。「待てよ。いったいだれがこれを書いたか、名まえがわかったような気がするな。グルー、と読むんじゃないかな。そして、薬は、この文章によると――といって口ごもったタランは、不安げにフルダーをふりかえり――人間を大きくするもの、とあります。いったい、こりゃどういうことでしょうか?」
「なんと。」と、詩人はききかえした。「大きくだと? 読みちがえではあるまいな、おぬし?」詩人は、タランの手からその羊皮紙をうけとり、自分の目でくわしくしらべた。読みおわったフルダーは、おどろいてヒューとひくく口笛を吹いてみせた。
「わしは、放浪中に。」と、フルダーはいった。「まあ、なんとか多くのことをまなんできたが、その相当部分が、よけいなことをするなってことだ。どうも、このグルーというやつのやったことが、まさにそれらしい。じっさい、かれが求めたのは、自分をより大きく力強くする薬だったのさ。あそこにあるのがグルーのくつだとすると。」フルダーは、すみを指さしてから、話をすすめた。「たしかに、その薬が必要だっのただろう。ちっぽけなやつだったにちがいない。」
枯れ葉になかばうずもれて、かかとのすりへった長ぐつが一足、横だおしにおいてあった。かろうじて子どもの足に合うほどの大きさで、小さくぺしゃんこなのが、タランにはあわれっぽくうつった。
「グルーはいっしょうけんめいにやっていたにちがいない。かれのためにそれだけはいっておくよ。やったことは逐一のべてあるし、処方全部が、ひじょうに念入りに秩序だてて記録してある。使った原料については、」吟遊詩人はむずかしい顔でいった。「わしは考えたくないね。」
「それ、それ。」ルーン王子がせきこんで口をはさんだ。「わたしたちで、ためしてみるべきじゃないかな。どうなるか、おもしろいと思うな。」
「だめ、だめ!」と、ガーギがさけんだ。「ガーギ、水薬、丸薬、まずいの、のみたくない!」
「わしもだ。」と、フルダーがいった。「その点は、グルーもおなじだった。かれは、ききめがありそうだというのぞみが多少もてるまでは、自分のつくった薬を飲もうとは思っていなかった――そのことで、かれを非難することなどまったくできないよ。そこは、ひじょうに懸命にふるまった。
「かれがここに記録したことから判断すると。」と、吟遊詩人は話をつづけた。「かれはわなをしかけて山猫をつかまえた――それも小さいやつだったと思う。グルー自身がひじょうに小さい男だったからね。かれは、その牝猫をつれかえっておりに入れ、せいいっぱいがんばって薬をつくっては与えていた。」
「かわいそうに。」と、タランがいった。
「まったくな。」と、詩人もうなずいた。「わしがその猫だったら、たまらなかったろうな。だが、グルーは、その猫に愛着をもつようになったにちがいない。名まえをつけているからね。ここにかいてある。リーアンだ。そのいやらしいえさを与えること以外、かれは猫にひどいことはしなかったのじゃないかと思う。グルーはたったひとりで暮らしていたから、リーアンは友だちですらあったのじゃないか。
「そして、ついにはじまったのだ。」と、フルダーはさらにつづけた。「この記録を読めばよくわかる。グルーはもうわくわくしてしまったにちがいない。リーアンが大きくなりはじめたのだ。グルーは、リーアンのために新しいおりをつくらなければなかったとのべている。つぎつぎにさ。うれしかったろうなあ。小男がくすくすひとりわらいをしながら、必死になって薬をにている姿が目にうかぶようだ。」
フルダーは、最後のページにかかった。「そこまででおわり。あとは野ねずみにくわれている。グルーの最後の処方を片づけちまったわけだ。グルーとリーアンのことだが――これも、処方とともに消息不明だ。」
タランは、だまって、ぬぎすてられたくつと、さかさに伏せてあるなべを見ていた。「グルーはたしかに姿を消している。」タランは考えながらいった。「しかし、わたしは、なんとなく、かれがこの近くにいるように思う。」
「そりゃ、どういうことかね?」と、吟遊詩人がたずねた。「あ、そうか、おぬしのいおうとすることはわかる。」詩人はぶるっと身ぶるいした。「うむ、その消え方がだ――唐突ってことだろ? わしが考えるところ、グルーは、こまめできちんとした性格の持ち主だ。今のような状態のままで小屋を永久にはなれることはまずなかったろう。おまけに、くつもはかずにはさ。あわれなちびだよ。」フルダーはため息をついた。「これで、よけいなことに手をだす危険がよくわかる。グルーのやつ、さんざん苦労したあげく、猫にくわれたにちがいない。わしの意見としては、最上策は、即刻ここを立ち去ることだ、さあ!」
タランは、うなずいて立ち上がった。そのとたん、おびえた馬のいななきと、必死にかけ去る馬蹄の音があたりにひびきわたった。「馬が!」タランはさけんで、とびらに向かって突進した。
だが、それよりはやく、とびらは、革のちょうつがいからひきちぎられてしまった。タランは剣に手をかけたまま、よろよろっと小屋の中に後退した。なにか巨大なものが、タランにとびかかった。
7 リーアンのすみか
剣がはねとばされてすっとぶと、タランは、攻撃をかわすため、地面にぱっと伏せた。怪物は、力づよく跳躍して、タランの頭上をとびこえた。一行が恐怖にかられて、小屋のあちこちに逃げまどうのを見た大きなけだものは、怒りのさけびをあげた。
いすがたおれ、ころがり、枯れ葉がうずを巻いてまいあがるさわぎとなった。タランが見ると、フルダーは、テーブルにとびあがり、そのひょうしにクモの巣にひっかかって全身クモの巣だらけになった。ルーン王子は、煙突の中にのぼろうとして失敗し、炉の灰の中にうずくまった。ガーギは、できるだけ身をちぢめてすみにへばりつき、ぎゃあぎゃあわめきたてた。「おたすけ、おたすけ! ああ、ガーギのあわれなやわらかい頭を、ばんばん、がりがりからおたすけ、おたすけ!」
「リーアンだ!」と、タランがさけんだ。
「たしかにそのとおり!」と、フルダーがわめきかえした。「実物を見ると、さっきいったとおりだとよくわかる。グルーのやつ、くわれて、とうの昔にこなれちまったんだ。」
けだものののどから、長くうねるようなうなり声がもれ、どこを攻撃しようか迷うように、動きがちょっととまった。タランは身をおこし、そこではじめて、この恐ろしいけだものをよく見た。
グルーが、リーアンの大きくなりぐあいを記録してはいたけれど、タランは、山猫がこれほど大きいとは想像もしていなかった。このけだものは、四本足で立つと馬ほど高く、それでいて、馬よりほっそりと長かった。タランの腕より太いその尾だけでも、小屋のかなりの場所をとりそうに見えた。からだをおおう、部厚くつややかな毛は、背中の方が金色がかった黄色で、黒とオレンジ色の斑点があった。下腹あたりは白く、ここには黒い斑点が見えた。両耳の先には、ふさふさした巻き毛が生え、もじゃもじゃの毛があごをかこんでいた。長いひげがひくひくうごいていた。ぎろりとした黄色い目が、すばやくうごいて、一行をつぎつぎにらんだ。ふうっとうなるたびに、むき出しになってひかるとがった白い歯を見て、好みにあうものなら、なんでもがぶりとやれるにちがいないと、タランは信じた。
巨大な猫は、大きな頭をくるりとタランに向けると、しなやかな足どりで近づいてきた。そのとき、フルダーが剣をひき抜いた。そして、クモの巣だらけのまま、テーブルをとびおりると、あらんかぎりの声でさけび、剣をふりかざした。たちまち、リーアンがくるっと向きをかえた。尾にたたかれて、タランはまたたおされた。フルダーがあわや剣をうちおろそうとしたとき、リーアンのがっしり前足がさっと空を切った。そのうごきは、まったく目にもとまらないほどだった。タランの目がとらえたのは、びっくりぎょうてんしたフルダーの剣が宙にとんで、がたんと戸口にぶつかり、フルダーがひっくりかえったことだけだった。
リーアンは、ふんと鼻あらしを吹き、小きざみにうごく肩を、すくめるようにうごかして、あらためてタランに向きなおった。そして、からだをひくくして首をのばし、ひげをふるわせながら、じりじりと迫ってきた。タランはぴくりともする勇気がなく、息をつめていた。リーアンは、鼻をくんくんいわせながら、タランのまわりをまわった。タランが目だけうごかすと、吟遊詩人が立ち上がろうとしているのが見えたので、じっとしていろと注意した。
「リーアンは、おこっているのじゃなく、われわれをめずらしがっています。」と、タランは小声でいった。「そうでなかったら、今ごろはもう八つ裂きにされています。うごかないで。このまま出ていくかもしれないから。」
「そりゃけっこうな話だ。」フルダーが、のどのつまったような声で返事をした。「やつにのみこまれるときに思い出すよ。いいなくざめになることだろうさ。」
「腹はすかせていないようです。」と、タランはいった。「夜のあいだに狩りに出ていたとすれば、満腹にきまってます。」
「ますます、まずいじゃないか。」と、フルダーはいった。「やっこさん、また食欲が出るまで、わしらをここにとじこめておくぞ。四回分の食事がさあどうぞとすまいに待機してるなんて幸運は、やっこさん、生まれてはじめてにちがいない。」フルダーはため息をつき、首をよこにふってみせた。「わが王国にいたとき、わしは、いつも、小鳥やほかの生きものに、のこりものを出しておいてやったものだ。だが、わが身を出しておいてやる時にめぐり会おうとは、夢にも思わなかったなあ。え、そうではないか。」
ようやく、リーアンは、戸口をふさいで身をおちつけた。大きな前足で舌をなめ、それで耳をこすりはじめた。そして、それにいっしょうけんめいになり、他の一行が小屋にいることを忘れてしまったように見えた。恐ろしかったけれど、リーアンをじっと見ているうちに、タランはほれぼれとしてしまった。ごくささいな動作にも、力がみなぎって感じられた。とびらのない入口から朝日がさしこみ、毛が金色にかがやいていた。その毛皮につつまれた、力にあふれる筋肉が、タランにははっきり見えるように思えた。リーアンは、メリンラスに負けないくらいすばやいにちがいなかった。しかし、きわめて危険であることもまちがいなかった。一行に対して悪意をもってはいないようだが、いつ気が変わるかわからなかった。タランは、必死に、のがれる手だて、いや、せめて武器をとりもどす方法を考えてみた。
「フルダー。」と、タランはささやいた。「音をたててみてください。あまり大きくなく、リーアンがあなたに目を向けるくらいに。」
「どういうことだ?」吟遊詩人は、めんくらってきいた。「わしに目を向ける? そんなことなら、まもなくやるだろう。まだ、わしの番にならなくてやれやれと思っているんだぜ。」それでも、フルダーは、くつで床をこすった。リーアンは、たちまち耳を立て、詩人を見た。
タランは、片手をのばし、音をたてずにリーアンの方へはい進んだ。のばした手の指がリーアンの前足のすぐそばにころがっている剣に向かい、じりじりとのびた。と、まるで電光のようなすばやさで、山猫がタランをなぐりたおした。爪がむきだしになっていたら、剣どころか頭までもぎとられていたにちがいないと、タランはがっくりしながら身にしみて感じた。
「とてもだめだ、わが友よ。」と、フルダーがいった。「わしらのだれより敏捷だよ。」
「これ以上じゃまだてさせてはおけません!」と、タランは思わず声をあらげた。「時は貴重なんです!」
「うむ、まったくだ。」と、フルダーはいった。「生存の時が刻々すくなくなってきているから、ますます貴重になってきたよ。わしは、エイロヌイ王女がうらやましくなってきた。マグは邪悪で腹黒い裏切り者ともなんとも呼べる。しかし、生死をかけるとなると――わしは、リーアンよりマグに立ち向かうほうがはるかによろしい。いや、いや、」と、フルダーはため息をついていった。「わしは、最後の時をできるかぎりのばすだけでもじゅうぶんだ。」
タランは、絶望し、両手にひたいをつよくおしつけたが、すこしすると「ルーン王子。」と、小声でよんだ。リーアンがひげを化粧しはじめたのだ。「そっと立ち上がって、あそこのくずれ落ちたすみまで行けるかどうか、やってみてください。行けたら、はい出して必死に逃げるんです。」
モーナの王子はうなずいてみせた。しかし、立ち上がったとたん、リーアンが警告のうなり声を発した。ルーン王子は、目をぱちくりさせて、すぐにまた腰をおろした。リーアンは、一行をにらみまわした。
「たいへんだ!」と、フルダーがささやき声でいった。「これ以上やっこさんの気持ちをさわがすな。やっこさんの食欲をそそるだけだ。やつは、わしらを、ここから出すつもりはない。これだけはたしかだよ。」
「しかし、逃げなくちゃならないんだ。」と、タランはいいはった。「みんなで、いっせいにとびかかったら? すくなくとも、ひとりは逃げられるかもしれない。」
フルダーは、首をよこにふった。「逃げられなかった者を片づけてからでも、なんなく、その生きのこりのひとりに追いついてしまうさ。考えてみるよ。考えさしてくれ、わしに。」
フルダーはひたいにしわを寄せ、手を背にのばしてたて琴をはずした。リーアンは、うなり声をやめず、じっと動きを見張っていたが、うごこうとはしなかった。
「これは、いつも気をしずめてくれるんだ。」と、フルダーは説明しながら、楽器を肩にあてると、絃をさらさらとかきならした。「これが、頭を刺激して何か思いつかせてくれるかどうかはわからぬ。しかし、演奏すると、すくなくとも、事態がすこしは好転した気になる。」
おだやかなメロディがたて琴から流れると、リーアンが奇妙な声をあげはじめた。「しまった。」と、フルダーはさけんで、すぐに手をとめた。「やっこさんがいるのを忘れるところだったぞ! わしの心のなぐさめになっても、山猫にどうきこえるか、わかったものじゃない!」
リーアンは、なんだかねだるような、奇妙な、長くひっぱる声をたてていた。だが、フルダーがたて琴をまた肩にかけようとするのを見ると、声がとがってきた。そして、おどすようにひくくうなりだした。
「フルダー。」と、タランがささやいた。「つづけて!」
「やっこさんがたて琴がすきだなどと考えるなよ。」と、詩人はこたえた。「そんなことはとうてい信じられんよ。そうさ、人間にだって、わしの音楽をののしったりするのがいるんだ。山猫が人間よりよろこんできくだろうなんて思いなさんな。」そういいながらも、フルダーは、もう一度、たて琴の絃をかきならした。
こんどこそ、タランは確信した。リーアンはたて琴の音に酔っているのだった。山猫の巨大なからだ全体がくつろぎ、筋肉がゆるんだように見え、リーアンはおだやかに目をしばたたいていた。念のため、タランはフルダーに、やめるようにたのんでみた。詩人が手をとめたとたん、リーアンは落着きをなくした。まぎれもなくいらだって、尾を勢いよくうごかし、ひげをひくひくさせた。詩人がふたたび演奏をはじめると、リーアンは、片ほほを床につけ、両耳を前に向けて、うっとりと詩人を見つめた。
「それ、それ、それ!」と、ガーギが思わず声を高くした。「べんべん、じゃんじゃん、やめないで!」
「だいじょうぶ、」と、詩人はうわずった声でこたえた。「そんなつもりは毛頭ない。」
リーアンは、斑点のあるふさふさした毛におおわれた胸の下に、両の前足をひっこめ、ミツバチの大群のうなりに似た音をたてはじめた。とじた口の線がなんだかわらっているようになり、メロディに合わせて、尾の先をそっとうごかしている。
「ほら、このとおりだ!」フルダーは大きな声でいって、ぱっと立ち上がった。「さ、みんな、逃げろ! やつがじっとしているうちだぞ!」だが、フルダーが立ち上がったとたん、リーアンも、ものすごい勢いで立ち上がったので、詩人は、必死に音楽をつづけながら、どさりとすわりこんだ。
「あなたの音楽で気はしずまるんです。」タランはおどろいてさけんだ。「しかし、出してくれるつもりはないんだ。」
「ともかぎらんよ。」詩人は、せわしく絃をかきならしながらいった。「おぬしらは、なんなく出ていけるのではないかな。なさけないことに。」詩人は悲しげにつけ加えた。「やっこさんがとじこめておきたいのは、このわしであるらしい!」
8 フルダーのたて琴
「ここから逃げるんだ!」詩人は、いっときも絃をかきならす手を休めずにせきたてた。「出て行け! やつがいつまでききたがっているか、わからないぞ――わしの力がいつまでつづくかもわからんぞ。」
「ほかに手段があるはずだ。」と、タランはさけんだ。「あなたをのこしていけるものか。」
「そりゃ、わしだっていやさ。」と、詩人は返した。「しかし、おぬしには、今がチャンスなんだ。それをのがしてはならん。」
タランは、ためらった。フルダーの表情はきびしく、ひきつって見えた。すでに疲労しているようだった。
「行け!」と、フルダーはもう一度いった。「わしは、力のかぎりひきつづける。わしの力がつきたとき、わしをくうつもりがなければ、狩りに出ていくだろう。心配はいらん。たて琴でだめになったら、べつな手段を考えるよ。」
悲しみに胸をふさがれ、タランは顔をそむけた。リーアンは、入口をふさいで横にねていた。前足の一本だけをのばしているが、あとの三本は、黄色いからだにそっとつけるようにひっこめていた。背をまるめ、大きな頭をフルダーに向けていた。このどう猛な生きものは、すっかりくつろいでおだやかに見えた。タランが抜き足さし足、ガーギとルーン王子のところまでうごいても、黄色い目をなかばとじて詩人を見ているだけだった。タランの剣は、フルダーたちの武器といっしょに、猫の足の下にあった。タランは、フルダーのたて琴の魔力が破れるのがこわくて、抜きとろうとする勇気がでなかった。
小屋の一角の石がくずれていて、せまいけれどあき地への出口になった。タランは、いそいで、王子に、出ろとあいずした。ガーギが、恐怖に目を見ひらいたまま、つま先立ってあとにつづいた。ガーギは、歯ががちがち音をたてないように、両手であごをしっかりおさえていた。
タランは、なおもぐずぐずして、詩人をふりかえると、詩人は、はげしい身ぶりで出ろとさしずした。
「行った、行った!」フルダーは命令した。「できるだけはやく追いつくから。新しいうたを約束しただろ? ちゃんとうたってきかしてやる。そのときまで――さらば!」
フルダーの口調と目つきには、うむをいわせぬものがあった。タランは、思いきって、石のくずれめを抜けた。一瞬で小屋をのがれ出ていた。
タランが思っていたとおり、馬たちは、リーアンを見て、つなぎ綱を切って逃げてしまっていた。ガーギとルーン王子は、すでにあき地を越えて森に姿を消していた。タランは力のかぎり走って、すぐふたりに追いついた。ルーンの速度は、すでに落ちはじめていた。息が苦しげで、今にもへたへたとすわりこみそうに見えた。タランとガーギは、よろめく王子をささえ、力のかぎり走りつづけた。
しばらくの間、三人は、茂る下生えをおしわけて進んだ。森の木々がまばらになりはじめ、広い草原が前方に見えた。草原の端についたところで、タランは足をとめた。ルーン王子の体力がつきたことがわかったからだった。タランは、これでリーアンからぶじのがれたのであればとねがった。
モーナの王子は、うれしそうに、草の上にすわりこんだ。だが「すぐに元気になりますよ。」と弱々しい声でいいはった。すすまみれの顔は、まっさおでひきつっていた。それでも、王子は、けなげに、いつものように陽気な笑顔を見せようとした。「いや、まったく、走るということは、じつにつかれるものだなあ。お馬奉行に出会って、また馬にのったら、どんなにかほっとするでしょうねえ。」
タランは、すぐには答えず、しげしげとルーンの顔を見た。モーナの王子は頭をたれた。
「あなたが何を考えているか、わたしにはわかる。」ルーンが低い声でいった。「わたしさえいなかったら、あなた方は、こんな苦しい目にあわなかったでしょう。あなたの考えのとおりだと思いますよ。こんなことになったのは、わたしがわるいのです。ただ、おゆるしをねがうばかりです。わたしは、まったくのばかものです。」ルーンは、さびしげにほほえんで話をつづけた。「年とった乳母でさえ、わたしがまるで不器用だといつもいっていました。しかし、しくじり男でいるのはいやでしてね。人びとが王子に期待するのは、そんな人間じゃありません。わたしは、王家に生まれたいとのぞんだわけではない。すくなくとも、その点はわたしの責任ではない。しかし、生まれてしまった以上、わたしは――わたしは、ぜひとも、それにふさわしい人間になりたい。」
「そうお思いなら、なれます。」タランはそう答えたが、モーナ王子の率直さに、ふいにふしぎな感動をおぼえ、ルーンを軽んじていたことをとてもはずかしく思った。「おゆるしいただきたいのは、わたしです。わたしは、あなたの地位をねたましく思っていました。それは、あなたが王子の地位を幸運なめぐりあわせとうけとり、当然のものと思っているのだと考えたからでした。今おっしゃったことは、真実です。男がその地位にふさわしくあるためには、まず一人前の男になろうと努めねばなりません。」
「そう、わたしがいいたいのも、それなんです。」と、ルーンは熱をこめていった。「だから、わたしたちは一刻もはやくお馬奉行の一行に合流しなくてはなりません。わかりませんか? わたしは、この仕事はしくじりたくないと思ったのです。わたしは、つまり、そのエイロヌイの発見者になりたいのです。なんといっても、わたしは、あの人と婚約することになっていますからね。」
タランは、びっくりして王子の顔を見た。「どうして、それを? それは、王さまご夫妻だけがご存じとばかり……。」
「ええ、城中にうわさが流れていましたから。」と、ルーンはこたえた。「それに、ときどきは、知らないはずのこともすこしは耳にします。エイロヌイをモーナに迎えに派遣される前に、すでに婚約問題の気配があると知っていましたよ。」
「今は、エイロヌイをぶじ連れ帰ることだけがだいじです。」と、タランは話しはじめた。心中では、ルーンにおとらずエイロヌイの救い手になりたくてたまらないことがわかっているので、口は重かった。しかし、ためらわずに立ち向かって、これだけはきめなくてはならないこともわかっていた。「捜索隊は、すでにずっと遠くまで行っています。」と、タランはいった。一語一語、口に出すのがたいへんつらかった。だが、一語一語が、苦しいだけにそれだけはっきりと、タランに、とるべき道をきめさせていった。「馬がなくては、とても追いつくことはできません。徒歩でわれわれなりの捜索をつづけることは、苦しすぎるし、危険すぎます。とるべき道は一つしかありません。それは、ディナス・リードナントへもどる道です。」
「だめ、だめ!」と、ルーンが大声をあげた。「危険などかまわない。わたしは、エイロヌイをみつけださなくてはならないのだ。」
「ルーン王子。」タランは、おだやかにいった。「これも、申し上げておかねばなりません。お父君は、わたしに、ちかいをたてるようにいわれました。そして、わたしは承諾したのです。あなたを災難からおまもりすると。」
ルーンはうなだれた。「そのくらいは、推量しなくちゃいけなかったな。わたしを指揮者にすることについて、父がなんといったか知らないが、じっさいの指揮はわたしでないことは、ちゃんとわかっていました。今だって、やはりちがいます。いや、わかりました。あなたのいわれるとおりにしましょう。なにをするにせよ、それをきめるのはあなたです。」
「この仕事は、ほかの人たちが、ちゃんとやってくれますよ。」と、タランはいった。「わたしたちのほうは……。」
「よく、よくごらんなされ!」トネリコの倒木のかたわらにしゃがんでいたガーギが、ふいにさけんだ。「ごらんなされ、ひゅうひゅう、ばたばた、やってきます!」ガーギは興奮して両手をふって、低い尾根を指さしてみせた。タランは、人影が一つ、せいいっぱいかけくだってくるのに気づいた。肩のたて琴をぴょんぴょん上下させながら、まるめたマントをわきの下にしっかりとかかえこんで、やせて足の力のかぎり、吟遊詩人が斜面をかけおりてきた。そして、地面に身を投げるようにすわりこむと、顔を流れる汗をぬぐった。
「ああ、やれやれ!」フルダーはあえぎながらいった。「また会えてよかったよ。」そしてまるめたマントの中から、うばわれた武器をとりだして、みんなに渡した。「それに、この武器がもどって、みんなうれしかろうが、どうだね?」
「けがは?」と、タランがたずねた。「どうやって逃げてきたのです? どうやってわれわれをみつけたのです?」
まだ荒い息をつづけながら、吟遊詩人は片手をあげた。「ま、ちょっと息をつかせてくれ。途中で息切れしちまったんだ。けがか? うむ、ま、いい方によっては、な。」詩人は火ぶくれ状の手の指にちらりと目をやってつけ加えた。「おぬしらをみつけるほうは、まことにたやすかったよ。ルーンは、グルーの炉にあった灰を、みんなかつぎ出したにちがいないな。足跡を見失うなんてことは、まるでなかった。
「リーアンとのことについては。」と、フルダーは、さらに話をつづけた。「まちがいなく、吟遊詩人たちがうたいつづけていくだろう。わしは、今までにおぼえたうたを、あらいざらい演奏し、うたい、口笛で吹き、ハミングしたにちがいない。それも二回くりかえしてな。わしは、あのとき、残りすくなくなった命のあるかぎり、たて琴をかきならしつづけねばならんだろうと、心をきめておった。ああ、あの苦境!」詩人は、そうさけんで、ぴょいと立ち上がった。「どう猛な怪物とともに、ただひとり。詩人対野獣! 野獣対詩人!」
「そして、殺したのですね。」タランが思わずさけんだ。「大胆な一撃――だが、あわれみをこめて。敵は、それなりに美しかったから。」
「うん――いや、じつを申せば。」フルダーがあわてていった。たて琴の絃が一本のこらず今にも切れんばかりに張りつめたからだ。「とうとう、リーアンがねむってくれたんだよ。そこで剣をそっととりもどして、一目散てわけさ。」
フルダーは、からだを楽にして草に腰をおろすと、ガーギが出してくれた食べものを、むしゃむしゃやりはじめた。
「しかし、目をさましたときのリーアンの気持ちまでは保証できんよ。」と、フルダーはまた話しはじめた。「あとを追ってくるにきまっている。ああいう山猫は、生まれながら追跡の名人なんだ。まして、リーアンは、ふつうの山猫の十倍は大きいから、頭のはたらきだって、十倍はいいにきまっている。かんたんにはあきらめない。忍耐力もあのしっぽぐらい長いと、わしは思うよ。しかし、おぬしらがたいして逃げていなかったのにはおどろいたね。捜索隊に合流するため、もうかなり進んでいると思っていたのだが。」
タランは首を横にふり、ディナス・リードナントにもどるという決定を詩人に伝えた。「それが最上だと思うな。」フルダーも、しぶしぶ同意した。「まして、リーアンがうろつきまわっているかもしれぬ今となってはな。」
タランは、丘陵をよく見て、もっとも通りやすくて安全な道をさがした。そして、一瞬息をのんだ。なにか黒いものが頭上はるかをものすごい速さでとんでいたのだ。黒いものは向きをかえて旋回し、つづいてまっすぐにタランに向かってきた。
「カア!」タランは走っていって両手をあげた。カラスは、さっとまいおりてきて、さしのばしたタランのくるぶしにとまった。カアの様子を見ると、難儀を重ねてとんできたことがわかった。羽根がみだれて、まるでぼろのかたまりだった。しかし、カアは、くちばしをせわしくうごかして、興奮したがあがあ声をあげた。
「エイロヌイ!」と、カアはないた。「エイロヌイ!」
9 ルーンの幸運
「みつけたんだ!」みんながとりみだしているカラスをどっととりかこんだとき、タランがさけんだ。「マグは、エイロヌイを、どこへつれていった?」
「アロー!」と、カアがなきたてた。「アロー!」
「川だ!」タランがわくわくしてさけんだ。「ここからどのくらい遠い?」
「とーくない! とーくない!」と、カアがこたえた。
「もはや、ディナス・リードナントへもどるなんて問題になりません。」と、ルーン王子が大きな声でいった。「マグはつかまえたも同然。たちまちのうちに、王女をぶじとりもどせます。」
「その前にリーアンの手につかまらなければの話さ。」フルダーはつぶやくようにいって、タランに話しかけた。「カアは、お馬奉行に伝言ができるかね? 遠慮なくいうと、何人か戦士をつれていくほうが安心できるのだがね。」
「ここで時をむだにしたくないのです。」と、タランは答えた。「ルーン王子のおっしゃ。とおりです。今ただちに行動しないと、マグは、われわれの手をすりぬけてしまいます。さ、いそいでくれ、親友くん。」タランは、カアにそういって、カラスをさっとふりあげてやった。「アロー川まで案内をたのむ。」
一行は大いそぎで出発した。カラスは、枝から枝へとびうつり、一行が近づくまで、いらだたしげになきたてた。だが、やがて、また空中にまい上がると、ついてきてもらいたい方へ、ぐんぐんとんでいった。カラスは、タランたちが、できるだけはやく、丘陵地帯から出られるようにいっしょうけんめいだった。タランにはそれがわかった。だが、いたるところで、森の木々と下生えがからみ会って大きな障害物となっていたので、一行は剣を抜いて、切りはらいながらすすまなくてはならなかった。
道が歩きやすくなったのは、正午をだいぶまわってからで、カアを先にたてた一行は、なだらかに起伏する草原を越え、ほどなく、石のごろごろしたせまい谷間にはいった。草はずんぐりと短く、あちこちがはげて地肌がむきだしになっていて、そこに、白亜の大きな石が巨大なあられのようにちらばっていた。
「ルーズルムの部下全員が、モーナ島をくまなくさがしておるというのに。」フルダーが川に向かってくだりはじめたとき、腹だたしげに大声でいった。「あの悪漢め、どうやってこんなに長く逃げのびられるのか?」
「マグは、われわれの予想以上に知恵がはたらく男だったのです。」と、タランがくやしそうにいった。「かれは、エイロヌイをパリス丘陵地帯につれこんだにきまっています。しかし、じっとひそんでいて、捜索隊が通りすぎたとわかるまで、動かずにいたにちがいありません。」
「悪いやつ!」フルダーがはきだすようにいった。「それにちがいないな。わしらがあとを追ってしろからどんどんはなれていく間、あの腹黒いマグは、のんびりと待っていたんだ。わしらがずっと先へ行ってしまって、やつがみんなの背後にのこるまで。まあいい。すぐにとっつかまえて、そんな小細工のおかえしをしてやる!」
カアは、一行の頭上を、大きな輪をえがいてとんでいたが、ますます興奮してきて、があがあとなきはじめた。タランは、眼下にアロー川が日にきらめくのを見た。カアは、ふいに速度をはやめ、川に向かってまっすぐにとんでいった。一行は、苦しそうにあえぐルーン王子にかまわず、斜面をかけおりた。カアは、とある木の枝にまいおり、はげしくはばたいた。
タランはがっかりしてしまった。エイロヌイもマグも、全然姿がなかった。だが、すぐに片ひざをついてさけんだ。「フルダー! いそいで! ここに馬蹄の跡がある。二頭分だ。」タランは、五、六歩、跡をたどったが、そこで当惑した顔つきで立ちどまった。
「ほら、これ。」タランは、そばまでやってきた吟遊詩人とガーギにいった。「跡がわかれている。いったいどうしたのだかわからない。ルーン王子、」タランは大きな声でよんだ。「軍馬の足跡がみえますか?」
モーナの王子から、返事がなかった。タランは、ぱっと立ち上がり、いそいであたりを見まわした。「ルーン!」だが、王子は影も形もなかった。「またうろつきに行った!」タランはかんかんになってさけんだ。「無分別なばかめ! どこへ行っちまったんだ?」
三人は、心配してルーンの名をよびながら、河岸まで走った。タランが、ひとりでさがしに出かけようとしたちょうどそのとき、モーナの王子が、ヤナギの木立ちの陰からひょっこりあらわれた。
「やあ、やあ!」ルーンは、うれしそうににこにこしながら、いそいで近づいてきた。ほっとしながらも腹をたてたタランがとがめだてする間もなく、王子は大きな声でいった。「これをごらんなさい! おどろきました! いや、まったくおどろきました!」
ルーン王子が片手を突き出した。手にはエイロヌイの金の玉があった。
タランは、目をまるくして金の玉を見つめた。胸が早鐘をうちだした。「どこで、これを?」
「ええ、あそこで。」ルーンはこたえて、こけむした岩を指さした。「あなた方が馬蹄の跡を見ておられるので、わたしは、時間を節約するためにほかをさがしに行ったほうがよいと思ったのです。そして、これがみつかったのです。」王子が、金の玉をタランに手渡すと、タランは、それをだいじに、上着にしまいこんだ。
「王子のおかげで、新しい跡がみつかったぞ。」フルダーが草をしらべながらいった。「なにか、相当大きくて平らなものをひきずった跡がここに残っている。」フルダーは、考えるようにあごをなでた。「ふうむ――小舟かな? ありうるかね? あの傲慢な悪者め、ここに用意しておいたのかな? やつめ、エイロヌイがモーナにつくずっと前から、計画を立てていたとしても、べつにふしぎはないな。」
タランは、いそいで岸辺をくだった。そして、「足跡がある。」と大声でいった。「地面がひどくあらされている。エイロヌイがマグと取っ組み合いをしたにちがいない――そう、そこそこ。そして、あの玉を落としたのだろうな。」タランは、気落ちして、流れがはやく川幅の広いアロー川をじっと見た。「あなたの読みのとおりですね、フルダー。マグは、ここに小舟をおいていたんです。だから、馬をはなして、好きな方に走らせてやったのです。」
タランは、ちょっとの間、渦巻き流れる水をじっと見ていたが、すぐに剣を抜いた。「さ、手伝ってください。」タランは、ガーギと吟遊詩人に声をかけて、ヤナギのところへ走った。
「おやおや、いったいどうしようというんです?」タランが、せっせとヤナギの下枝を切りはらいだしたのを見て、ルーンが思わずさけんだ。「たきびですか? その必要もないでしょうに。」
「いかだです。」タランは、切った枝を地面に投げすてながらこたえた。゜マグは川を利用しました。今度は、われわれが利用するんです。」
一行は、ヤナギに巻きついたつるを切りとると、その間に合わせの綱を、着ものをさいたひもでつないで長くして、切った枝を組み合わせた。ぶかっこうで、たきぎの束のように見えたが、とにかく、すぐにいかだはできあがった。だが、タランが、つるとぼろきれのからまりを、もう一度念のためにしっかりしばりはじめたとたん、ガーギが恐怖の悲鳴をあげた。タランは、さっと立ち上がると、ガーギがはげしく手をふってさし示す、河岸のずっと上の木々の方を、あわててふりかえった。
リーアンが、森からおどり出た。巨大な黄色い山猫は、一瞬たちどまると、右の前足をあげ、勢いよく尾をふりながら、一行をにらみつけた。みんな、ぞっとしてあとずさった。
「いかだへ!」と、タランがさけんだ。「川へ出るんだ!」そして、不細工ないかだの片端をつかみ、川にひっぱり出そうとした。ガーギも、まだわめきたてていたが、走りよって手伝った。ルーン王子も、できるかぎり手を貸そうとがんばった。吟遊詩人は、すでにじゃぶじゃぶ川に逃げ、腰まで流れにつかって、枝のかたまりをひっぱろうとしていた。リーアンは両耳を立てて前に向け、ひげをひくひくと動かして、じっと吟遊詩人を見た。リーアンののどから、大きなうなり声が出たが、なにか鐘の音のようにきこえ、もの問いたげで、恐ろしくはなかった。そして、ひかる目に奇妙な表情を浮かべながら、足音のしない大きな足をふみしめるように、ゆっくりと進んできた。大きくのどをならしながら、山猫は、必死にはたらいている詩人に向かってきた。
「たいへんだ!」と、フルダーが悲鳴をあげた。「また、わしにもどれというんだ!」
そのときだった。低い木の枝にとまっていたカアが、ばたばたとまい上がったかと思うと、リーアンに立ち向かっていった。カラスは、のどのかぎりにうるさくなきたてながら、ふいのことにおどろいているけだものにさっとおそいかかった。リーアンは立ちどまって、おこったようにほえた。カアは、全速力で、リーアンの大きな頭をかすめてとびながら、つばさでうちかかり、鋭いくちばしで敵をつついた。
ふいをうたれたリーアンは、しりもちをつき、カラスに立ち向かうため、向きを変えた。カアは小さい輪をえがいて向きを変え、またおそいかかった。リーアンは、爪をむき出し、空中にとびあがって、カラスをたたき落とそうとした。一握りの羽根がばらばらと落ちるのを見て、タランはうろたえてあっとさけんだが、すぐに、カラスがまだ空中にいて、三度の攻撃にうつるのが見えた。カアは、大きな黒いクマンバチのように、リーアンの目の前をばたばたとび、つかまえられるならつかまえてみろといわんばかりに、大胆になきたて、両のつばさで、ぴしゃっと顔をたたいて、さっととび去った。つぎの攻撃では、近づきすぎたため、リーアンの歯が尾羽根の一本をがきっとくわえたが、カアは、リーアンのくるりと巻いたひげをくわえてひっぱった。
リーアンは、かんかんになっておこってほえたてると、逃げようと必死の詩人とその仲間を忘れ、岸辺から森へとんでいくカラスを追っていった。森の中に、ほえる声がひびきわたった。
最後の一ふんばりで、いかだは川におしだされ、一行はのりこんだ。急流がいかだをとらえて、くるりとまわした。いかだは、あやうく転覆しそうになったが、間一髪タランが、竿を水につっこんだ。フルダーとガーギが、危険な岩からいかだをかわした。ルーン王子は、びしょぬれになりながら、両手で必死に水をかいた。たちまち、いがたは立ち直り、ぐんぐん川をくだりはじめた。
フルダーは、土気色になっていたが、ほっとため息をついた。「絶対につかまったと思ったよ。正直いって、またあんなにたて琴をひくなんて、もうできんね。カアが、うまくやってくれるといいがな。」最後の言葉はいかにも心配そうだった。
「カアは、また、われわれをみつけてやってきますよ。」と、タランが安心させた。「われわれがぶじにのがれとわかるまで、リーアンにつかまらないでいるぐらいの分別はちゃんともっています。リーアンが追いつづけたら、きっとさんざんな目にあうでしょう。」
フルダーはうなずいてから、肩ごしにちょっと後ろをふりかえった。「考えてみれば、」詩人の声には残念そうなひびきがあった。「あれがはじめてだよ、その、つまり、いいようによれば、ほんとうにわしの音楽をききたがる者がいたのはさ。だから、あんなに危険なやつでなければ、まったくの賛辞と思うところだよね、あれは。」
「ちょっと、ちょっと。」と、いかだのいちばん前にしゃがんでいたルーン王子がみんなに声をかけた。「あんなに努力なさったことにけちをつけるつもりじゃありませんが、なにかがゆるんできたように思いますよ。」
いそがしく舵をとりながら、タランは目を落としていかだを見た。ぎょっとした。あわててしばったつたが、ほどけかけていた。いかだは、急流にもまれて、ぶるっとふるえた。タランは、いかだをとめようと、竿を川底につきさした。だが、流れはいかだを流しつづけ、すき間からどっとあがってくる水の力で、つないだ枝がはげしくうごいた。つたの一本がほどけ、枝が一本はなれたかと思うと、つぎつぎばらばらになってきた。タランは、もう使ってもむだな竿をすてると、仲間に、水にとびこめとさけんだ。そして、ルーン王子の上着をつかみ、川にとびこんだ。
頭まで水中に沈むと、ルーン王子は足をばたばたさせて、めちゃくちゃにもがいた。タランは、もがく王子をしっかりつかみ、必死に浮き上がった。あいている右手で岩をつかまえ、ぐらぐらする川底の石をしっかりふんで立った。それから、ありったけの力をふりしぼってルーンを岸までひきずっていき、岸辺にほうりなげた。
ガーギとフルダーは、いかだの残がいをうまくとりあつめ、浅瀬までひっぱってきた。ルーン王子は、上半身をおこして、あたりを見まわした。
「いや、もう一歩でおぼれるところだった。」と、王子は息をはずませながらいった。「今まで何度も、おぼれるってどんなかなと考えていたのですよ。しかし、これからはもうそんなことは考えないでしょうよ。」
「おぼれる?」フルダーが、いかだの残がいを見つめていった。「それどころか! わしらの仕事がだいなしになったのだ!」
タランは、たいぎそうに立ち上がった。「枝はほとんどまた使える。また、つるを切りとってつくりなおそう。」
一行は気落ちしていたが、ばらばらに岸辺にちらばっている枝でいかだの修繕にとりかかった。仕事の進みはさっきよりおそかった。木々がまばらで、つるがほんのわずかしかないところだった。
モーナの王子が、苦しそうにコリヤナギの草むらへ歩いて行った。タランは、王子が、コリヤナギをひきぬこうとして、ひっぱっているところを見た。ところが、次の瞬間、王子の姿が消えていた。
あっとさけんだタランは、腕にかかえていたつるをすて、ルーンの名をよびながら、そこへ走っていった。
吟遊詩人が目をあげて、おこってさけんだ。「もうたくさんだ! 石が一つしかない野原があれば、やつはその石にけつまづく! フラムの者は忍耐づよい。しかし、ものには限度というものがある!」そういいながらも、かれはあわててタランのところへかけよった。タランは、もうコリヤナギの草むらでひざをついていた。
ルーンが立っていたところに、穴が一つぽっかりと口をあけ、モーナの王子をのみこんでいた。
10 洞くつ
フルダーがやめろとさけんだのを無視して、タランは穴にとびこみ、ひきちぎれて網の目のような姿を見せている根のところを、するりとくぐりぬけた。穴がちょっと大きくなり、つづいて垂直に落ちこんでいた。タランは詩人に向かって、長いつたをおろしてくれるようにさけんでからとびおり、よろよろと立ち上がって、気絶しているルーンをかかえ上げようとした。王子は、こめかみの上あたりを切って、たくさんの血を出していた。
つたの端がぶらぶらとおりてきた。タランは、それをつかむと、王子のわきの下にまわしてしっかりとしばりつけ、フルダーとガーギに、ひき上げろと声をかけた。つたは、ぴんと張り、ぎりぎりまで張りきって――ぶつっと切れた。穴の土壁がくずれ、土や石がざざっと落ちてきた。「気をつけろ!」と、タランがさけんだ。「地面がくずれ落ちる!」
「そのとおりらしい。」と、フルダーが大声でこたえた。「そうなると、下へ行っておぬしを手伝うほうがいいようだ。」
タランが見上げると、おりてくるフルダーのくつ底が見えた。吟遊詩人は、うっとうめいて着地した。つづいて、穴の土ほごりをからだの毛でぜんぶふきとったような姿で、ガーギが落ちてきた。
ルーン王子のまぶたがぱちぱちとうごいた。「やあ、やあ!」王子はつぶやき声でいった。「なにがおこりました? あの根は、おどろくほど深く張ってましてねえ!」
「土手の土が川にえぐれていたにちがいありません。」と、タランがいった。そして「あなたがひっぱったときの力と体重で穴があいたのでしょう。だいじょうぶ。」といそいでつけ加えた。「すぐにつれ出してさし上げます。さ、からだをおこしてあげますからしんぼうしてください。うごけますか?」
王子はうなずくと、タランたちにおしてもらって、歯をくいしばりながら、穴の斜面をよじのぼりはじめた。だが、やっと半分ばかりのぼったところで、手がりをつかみそこなった。タランは、落ちてくる王子をくいとめようとして、斜面をかきあがった。ルーンは、夢中で一本の根をつかみ、一瞬宙ぶらりんになった。
根がひきぬけ、ルーンはすとーんと落ちた。穴がくずれ、一行の上に土の壁がどさどさっとくずれ落ちてきた。タランは、両手をさっとあげて、勢いよく落ちてくる土や土くれを防ごうとしたが、うちたおされた。そのとたん、足下の地面がわれてくずれ落ち、タランはまた落ちた。
猛烈にたたきつけられたタランは、ぼーっとなった。土ぼこりが鼻の穴と口にはいった。胸がはりさけそうなほどあえぎながら、タランはからだをつぶそうとする土の重みとたたかった。自分がもう落ちていないことに気づいたのは、そのときだった。頭はまだくらくらしたが、身をよじり、手でかきのけ、タランは土と石から抜け出した。ようやくからだが抜けると、息が楽になった。
タランは、はげしくあえぎ、ふるえながら、勾配のある岩の床に大の字にひっくりかえった。あたりは息苦しいほどのまっ暗闇だった。ようやく頭があげられるくらいまで体力がもどると、タランは、目をふさぐ暗闇にじっと目をこらしてみたが、むろんなにも見えなかった。仲間をよんでも、返事はなかった。声が、奇妙にうつろなこだまをよんでひびきわたった。絶望的になったタランは、もう一度さけんでみた。
「やあ、やあ!」と、べつな声がさけんだ。
「ルーン王子!」タランは、わくわくして名をよんだ。「どこです? ぶじですか?」
「わかりません。」と、王子はこたえた。「もっとよく見えれば、もっとよい返事ができるのですがね。」
タランはからだをおこして四つんばいになると、はってみた。手さぐりの指が、なにかもじゃもじゃしたかたまりに触れると、かたまりはもぞもぞうごいて鼻をくすんくすんならした。
「恐ろしい、ああ、恐ろしい!」ガーギがべそべそこぼした。「どしん、がらがら、あわれなガーギを気味わるい暗闇にほうりこんだ! ガーギ、なんにも見えない!」
「やあ。」暗闇からフルダーの声がきこえてきた。「その言葉をきいてほっとしたぞ。ほんのしばらくだが、わしは、めくらになったかと思ったよ。これじゃ、目をつぶったほうがよく見えるぞ!」
タランは、ベルトにつかまれとガーギにいって、詩人の声のする方へはっていった。ほどなく一行は、またいっしょになり、ルーン王子も、なんとか自力ではいずってきた。
「フルダー。」タランは、不安そうな声でいった。「さっきの地すべりで穴が埋まったのじゃないでしょうか。出口を掘ってみますか、思いきって?」
「それは、掘るというより、むしろ、みつけるということだと思うが、わかるかね。」と、詩人はこたえた。「ひかえめにいっても、この土を掘って出ることができるかどうか、まことにうたがわしい。モグラだとて苦労するだろうよ。もちろん、やるというなら、わしはよろこんでやるが。フラムのものはしりごみはせぬ! だが。」と、詩人はつけ加えた。「手がかりのためのあかりがなくては、これから死ぬまで、掘るべき場所をさがしにおわってしまうだろうな。」
タランはうなずき、眉をしかめて考えた。「ほんとうです。この際、光は、空気におとらず、絶対必要なものですね。」タランはそういってガーギに顔を向けた。「火打ち石を使ってみてくれ。ほくちは持っていないけど、外套に火花が落ちてくれれば、それで燃えついてくれるかもしれない。」ガーギがからだじゅうくまなくさがすらしい、さらさら、ぼさぼさいうおとがきこえたが、やがてなさけなさそうななきべそ声が、「火の石、なくなった!」とうったえた。「だめなガーギ、あかるい火がつくれない! ガーギ、石をなくした。ああ、なさけない、ああ、悲しい! ガーギ、ひとりでさがしにいく。」
タランは、ガーギの肩をやさしくたたいた。「ここにいろよ。火の石より、おまえの命のほうが、はるかにだいじなんだ。なにか、ほかの方法をみつけるさ。そうだ! エイロヌイのおもちゃ! これがひかってくれさえしたら!」
タランは、いそいで上着のかくしに手をつっこみ、金の玉をとりだした。一瞬タランは、玉がうまくひからない場合の失望がこわくなり、両手で玉をぎゅっとにぎりしめた。
やがて、タランは、息をつめて、ゆっくり片手をとりのけた。玉は、手のひらのくぼみにのっていた。なめらかでつめたい表面。手に伝わる重み。その重みが、なぜかまるでないように思えた。タランは、じっと見まもる仲間の目を感じた。そのまなざしが期待にみちていることも察しられた。だが、闇はますます濃くタランをおしつつみ、ますます息苦しく感じられてきた。金の玉は、ちらりともひからなかった。
「わたしじゃだめだ。」と、タランはつぶやくようにいった。「こんなに美しい魔法の品を意のままにする力など、豚飼育補佐にはそなわっていないんだ。」
「わたしがやっても無意味です。」と、ルーン王子はいった。「わたしがだめなことはわかっています。あとにも先にも一度だけ手にとったとき、のせたと思ったとたん、ふっと光が消えてしまいました。いや、おどろくべきことです! エイロヌイ王女は、いともかんたんにひからせるのですからねえ。」
タランは、手さぐりしてフルダーをみつけ、玉を手渡してたのんだ。「あなたには吟遊詩人としての知識があり、魔法の性質にも通じています。あなたなら、使えるかもしれません。さ、たのみます、フルダー。みんなの命が、その玉にかかっているんです。」
「うむ、だが。」と、フルダーはこたえた。「正直申して、かようなものについては、あまり腕がよくなくてな。残念ながら、吟遊詩人のまことの知識は、いつも、ややわしの手にあまるものであった。まったく、あまりに多すぎてわからないから、せいぜい一、二滴なんとか頭につめこんだだけさ。だが――フラムの者は進んで行なう!」
しばらくすると、フルダーががっしりしてため息をつくのがきこえた。「こつがわからん。」吟遊詩人は小さな声でいった。「地面にこつこつぶつけてみることまでやってみたが、それもききめがないのさ。まあ、こんどは、わが友ガーギにやってみてもらおう。」
「ああ、なんたる悲しみ!」ガーギは、吟遊詩人に玉を渡されて、しばらく手に持ってから、そうなげいた。「おどしてもすかしても、なでてもさすっても、ガーギ、運がわるくて、金色のちかちかを出せない!」
「フラムの者は、絶望を知らぬ!」と、フルダーが声を高くしたが、「しかし。」と悲しげにいいたした。「この穴が、所在を示す塚すらない、われらの墓地のように思えてきたよ、急になあ。フラムの者は陽気である――だが、人はどう思うか知らんが、これは気がめいるような状態だ。」
ガーギは、金の玉を、だまってタランにもどした。タランは重い気持ちで、もう一度両手でつつんで持ってみた。玉を手にすると、一瞬、今の苦境を忘れ、エイロヌイに会いたくて胸が切なくなった。エイロヌイの顔がまぶたにうかび、フルダーのたて琴の音よりもはっきりとひびきわたる、あのほがらかなわらい声がきこえてきた。あのおしゃべりとつけつけした言葉を思い出すと、自然、顔にわらいがうかんだ。
タランは、金の玉を、上着のかくしにしまおうとして、はっとその手をとめた。手の中をまじまじと見た。針の先ほどの光が、玉のまん中にかすかにあらわれていた。息をのむように見つめていると、光は大きくなり、かがやきを増してきた。
タランは、かちどきというより、ふしぎな感に打たれて思わずさけび声をあげ、勢いよく立ち上がった。金色の光が、かすかだが、まぎれもなく、あたりを明るくしていた。タランは、ふるえる手で、玉を頭上高くかざした。
「ああ、親切なご主人、わたしたちをすくってくださる!」ガーギが大声をあげた。「はい、はい! 暗闇でむっつりから、すくい出してくださる! 歓喜、幸福! 恐ろしい闇が去った! ガーギ、また、ものが見える!」
「おどろきましたねえ!」と、ルーン王子が思わずさけんだ。「信じられないくらいです! この洞穴を、まあまごらんなさい! モーナにこんなところがあるとは、まったく知りませんでした。」
タランも、もう一度、おどろきにうたれてあっとさけんだ。今まで、タランは、自分たちが、大きなけものの穴のようなところへ落ちたのだとばかり思っていた。だが、エイロヌイの玉のかがやきで、自分たちが巨大な洞くつの入口に行きあたったことがわかった。洞くつは吹雪のあとの森そっくりに、目の前にひろがっていた。石の柱が、何本も、木の幹のように立ち、弧をえがいて天井につながり、その天井からは石のつららがぶらさがっていた。凹凸が影をつくる両側の壁には、たくさんの大きな出っぱりがあり、金色の光を受けて、サンザシの花のようにひかった。きらきらひかる岩層には、深紅な部分と、あざやかなみどりの部分が、細く糸状にくねりまがって走っていた。ぎざぎざした壁には水晶がうねるように手をのばし、わき水にぬれてひかっているのも見えた。だが、ここはほんの入口で、洞くつは奥へ置くへとつづいていた。タランは、大きな水たまりが、鏡のようになめらかにひかるのに気づいた。いくつかはうすみどりに、いくつかはうす青色に、ぼんやりひかっていた。
「これは、いったいなんだろう?」タランがささやくような声でいった。「妖精族の領土の一部だろうか?」
フルダーが首をよこにふった。「妖精族は、思いもかけぬところにトンネルや洞くつをつくっておることはたしかだが、これがそうとは思えんね。生きもののいる様子がまるでないからな。」
ガーギは口をきかず、ただもうびっくりして洞くつに見いっていた。ルーン王子は、うれしくてたまらないといった顔で、奥へはいっていきながらいった。「これは父上にお話しして、島を訪ねてくる人びとに公開していただかなくてはなりません。これをかくしておくなんて、はずかしいことです。」
「たいへんな美の世界だ。」タランが、声をひそめるようにしていった。
「そして、わしらの死に場所だよ。」と、フルダーがつづけた。「フラムのものは景色を楽しむ――それは吟遊詩人の一つの利点であるのだが――それは、つまり、――その――外から見た場合さ、正しくいえば。そして、できるだけはやくわしらが行かねばならんのは、その外だと思うね。」
一行は、地くずれに運ばれて落ちたところまでひきかえした。タランが恐れていたとおり、金の玉の光で見ると、土を掘って道をつけることは不可能とわかった。大きな岩が穴を埋め、完全にふさいでいた。ルーン王子がテーブル状の石の一つに腰かけて休み、ガーギが袋に手を入れて食べものをさぐっているあいだに、タランとフルダーは、いそいでふたりだけで話しあった。
「べつの通路をみつけなくてはなりません。」と、タランはいった。「ルーズルム王や家臣たちは、今はもうエイロヌイには追いつけません。マグが向かった方角を知っているのはわたしたちだけですから。」
「まったくそのとおりだ。」フルダーが陰気な声で返事をした。「だが、その知識も、われわれとともにここにとじこめられておわるのじゃないかな。あのアクレンだとて、ここ以上に堅牢な牢獄にわしらをほうりこむことはできまいよ。
「たしかに、ほかの出入口はあるだろう。」と、吟遊詩人はさらにつづけた。「だが、こういう洞くつは果てしもなくひろがっていることがある。地下では、ひじょうに大きくなっている――そして、入口ときたら、せいぜいウサギ穴ぐらいなんだ。」
それでも、ふたりは、洞くつをどんどん進んでいって地上に通じる道をさがす以外にないということに意見が一致した。タランと吟遊詩人は、モーナの王子を中にはさんでまもりながら、石の森を進みだした。ガーギは、タランの剣帯にしがみついて、とことこついてきた。
ことわりもなく、まったくだしぬけに、ルーン王子が両手をメガホンにしてせいいっぱいさけんだ。「やあ、やあ! やあ、やあ、だれかいますか?」
「ルーン!」タランがしかりつけた。「だまれ! またみんなを危険な目に合わせてしまうぞ!」
「そうは思いませんね。」ルーンはむじゃきにこたえた。「人かものか、なにかをみつけるほうが、なにもみつけないよりよいと、私は思います。」
「そして、われわれの命をあやうくするのか?」と、タランはいい返した。
タランは、こだまが消え去るまで立ちどまっていた。前方にまがりながらのびる洞くつから、なんの物音もきこえなくなると、タランは用心しながら、手まねで一行に進めとあいずした。
一行は、地面がくぼみ、地面から突き出た巨大な歯のような石ばかりのところに出た。洞くつをさらに進むと、地面は高い波、深い谷と上下し、うねり、まがりはじめた。まるで、あらしの海が凍りついているように思えた。さらに進むと、どっしりした岩の山や背の高い塚があらわれ、うごかない雲そっくりに、ふしぎな形を見せてくれた。
苦しみながら進んできた一行は、ここでちょっと一息いれた。通路がせばまってますます歩きづらくなったからだった。空気が、沼の水のようにくさく、重くよどんでいた。一行は芯までひえきった。タランは、みんなをせきたてて、また立ち上がらせた。地上に通じるトンネルを、一刻も早くみつけたいのだった。しかし、探索が、長くてつらいものになりそうな心配がますますつよくなってきた。吟遊詩人の顔をちらりと見ると、フルダーもおなじことを心配していることがわかった。
「やあ、おかしなものがある。」ルーンが大きな声を出して、岩のかたまりの一つを指さした。
それは、ほんとうに、この洞くつで見たものの中でも、もっとも奇妙な形の一つだった。巣から半分突き出たニワトリのたまごに似ていた。その岩は、白くなめらかで、てっぺんがややとがっていた。タランの背ほどあって、あちこちにコケがついていた。最初、巣のように見えたものは、色あせてもつれたあらなわの束らしく、急な斜面の端にかろうじてのっているといったかっこうだった。
「これは、おどろいた!」どうしても近づいてよく見たいとがんばったルーンが、大きな声でいった。「これは、岩なんかではありませんよ。」王子は、びっくりして、みんなの方をふりかえった。「これは、信じがたいけれど、まるでその……。」
タランは、ぎょっとした王子をひっつかんで手荒くひきもどした。王子はひっくりかえりそうになった。ガーギが恐怖のさけびをあげた。奇妙な形がうごきだした。
死んださかなのような白い顔に、二つのどよんとした目があらわれた。眉毛にくっついた水晶のかけらがきらきらと光った。コケとカビが、長くてぱたぱた動く両耳をふちどり、鼻の下にかたまるひげをおおってひろがっていた。
一行は、剣を抜いて、でこぼこの岸壁にへばりついた。ばかでかい頭はせりあがりつづけ、細い首の上でがくがくうごいた。生きもののどで、つまったような音がしたかと思うと、それがさけび声になった。「虫けらども! わしを見てふるえろ! ふるえろ、おい! わしはグルー! わしはグルーだ!」
11 石の王
ガーギは、身をなげるように地面に伏せると、両手で頭をかかえ、あわれっぽく鼻をならしはじめた。怪物は、ひょろひょろと長い片足を、岩だなごしにつき出すと、のろのろとからだを持ち上げはじめた。背の高さがタランの三倍以上あり、両手は、こけむした木の節のようなひざの下まで、だらりとたれていた。そして、からだを片方にかしがせながらタランたちの方によろよろと近づいてきた。
「グルーだ!」タランはあえぐようにいった。「しかし、たしか……。」
「そんなはずがない。」と、フルダーが声を殺していった。「ありえない! 小さなグルーが、こんな! これがグルーなら、わしは、まちがった考えをしていたにちがいない。」
「ふるえろ!」ふるえ声がまたさけんだ。「ふるえさせてやる!」
「いやはや!」と、吟遊詩人はつぶやいた。すでに剣を落としてしまうくらいはげしくふるえていたのだ。「命令されずともふるえておるわい!」
巨人は身をかがめると、手をかざして金の玉の光をふせぎながら、一行をしげしげと見た。
「おまえたち、ほんとうにふるえているか?」と、巨人は心配そうな声できいた。「しかたがないからというので、ふるえているだけではないな?」
ガーギ、一度、思いきって顔をかくした手をのけてみたが、巨人が目の前に立ちはだかっているのを見ると、あわててまた顔をかくし、ますます大きな声であわれな泣き声をあげはじめた。ところが、ルーン王子は、もう最初のはげしいおどろきがおさまって、この怪物を好奇心むきだしでじろじろながめていた。「やあ、やあ、これがはじめてですよ、ひげの中にキノコをはやした人を見るなんて。」と、王子は感想をのべた。「これは、故意にはやしたものでしょうか。それとも偶然ああなったのでしょうか?」
「あれが、わしらの知っているグルーだとしたら。」と、詩人はいった。「たいへんな変わりようだな。」
巨人は、どんよりした目を大きく見開いた。ふつうの人なら、それは微笑とよべただろう。口が、タランの腕より長く左右にのびたかと思うと、巨人がにやっとわらったのだ。巨人は、目をしばたたいて、さらに身をかがめた。
「すると、おまえたちは、わしの話をきいているんだな?」グルーは真剣な声できいた。
「もちろんです。」と、ルーンがしゃしゃり出た。「まったくおどろきましたよ。しかし、わたしたちは、リーアンがあなたを……。」
「ルーン王子!」と、タランはとめた。
今のところ、グルーは、タランたちに危害を加えるつもりはないらしかった。それどころか、一行をびっくり仰天させたことにほくほくして、みんなを見おろしていたが、その満足そうな表情は、とてつもなく大きいだけに、それだけはげしく見えた。だが、タランは、この怪物のことがもっとよくわかるまで、自分たちの探索について口にしないほうが賢明だと考えていた。
「リーアン?」グルーはすぐにききかえした。「リーアンのことを、何か知っているのか?」
ルーンが口走ってしまったので、タランも、グルーの小屋を偶然見つけたことをうちあけなくてはならなかった。いたし方ないこと以外は口にしないようにしながら、タランは、薬の処方をみつけたことをつげた。自分の持ちものをひっかきまわした人間たちに、グルーが好意をもってくれるかどうか、それはわからなかった。だが、巨人はそんなことよりも、山猫の身の上のほうに関心を示したので、タランはほっとした。
「ああ、リーアン!」グルーは心をこめてさけんだ。「あれがここにいてくれたらなあ。だれでもいい、わしの話し相手になってくれるなら!」そういって、グルーが両手で顔をおおうとすすり泣きの声が洞くついっぱいにこだました。
「まあまあ、」と、フルダーがいった。「そんなに嘆きなさんな。あれにくわれてしまわなかっただけでも、よかったじゃないか。」
「くわれる?」グルーは顔を上げて鼻をならしながらいった。「そのほうがよかった! どんな運命だとて、このみじめな洞くつよりはましだ。ここには、ほら、コウモリがいる。やつらは、あの独特のいやらしいやり口で、ちゅうちゅうなきながら、さっとおそってきては、いつもわしをこわがらせる。虫ずが走るような白いはい虫が、岩から頭をぬっと出して、わしをじーっと見る。それからクモのやつら! そして、あのものたち――ものたちとしかいえない! やつらがいちばんひどいんだ。いいか、あいつらを見ただけで血もこおる! ある日のこと、ここじゃあ昼夜がないから、あれを日とよべればだが……。」
巨人がかがみこんできた。声をおとした。ぼーんとひびくささやき声になった。巨人は今までのことを、いっしょうけんめい長々と話すつもりらしかった。
「グルー。」と、タランは話をさえぎった。「あなたの苦境はお気の毒に思います。しかし、たのみます。洞くつの出口を教えてください。」
グルーは、ばかでかいもじゃもじゃ頭を、左右にぐらぐらゆさぶった。「出口だと。わしは、出口さがしをずっとやってきたんだ。全然ない。すくなくとも、わしの出られる口はない。」
「いえ、きっとあります。」と、タランはいいはった。「第一、あなたは、どうやって洞くつにはいりこんだんです? 教えてください。」
「はいりこんだ?」と、グルーはききかえした。「あれは、とうていはいりこんだとはいえない。リーアンのせいだ。えりにえって、あの薬があれほどききめをあらわしたとき、おりをやぶって出てこなかったらよかったのさ。彼女に追われて、わしは小屋をとび出した。彼女は恩知らずだ。しかしわしは根にもっていない。わしは、そのときも、フラスコを持っていた。ああ、あのいまいましい薬なんか投げすててしまえばよかったなあ! わしは、リーアンに追われて必死に逃げた。」グルーはふるえる手でひたいをかるくたたき、悲しそうにまばたきした。「生まれてこのかた、あれほどはやく、あれほど長く走ったことはなかった。今でも、その夢を見る。もっとわるい夢を見ていないときにはな。さて。ようやく洞くつがみつかったので、わしは、そこへはいりこんだ。
「一刻の猶予もならなかった。」グルーは、大きくため息をついて、話をつづけた。「わしは薬をいそいで飲んだ。ふりかえるゆとりのある今になってみると、飲んではならなかったことがわかる。しかし、リーアンがあんなに大きくなったのだから、わしもやはり大きくなる。そうすれば彼女に立ち向かえると考えたんだ。そして、そのとおりになった。」と、グルーは説明した。「事実、薬はひじょうに早くききめをあらわし、わしは、洞くつの天井にぶつかって頭の骨をくだきそうになった。そして、わしは、ぐんぐん大きくなった。わしは必死に、せまいところをむりやりはいすすみ、大きなところ大きなところと、下へ下へともぐり、ついにここに来てしまったんだ。だが、もうどの通路も、わしが出られるほどの幅がなくなっていた。
「あの不幸な日以来、わしはこの出来事をようく考えてきた。しょっちゅう思い返すんだ。」グルーはさらに話をつづけた。なかばとじた目で、どこか遠くを見ながら一心に過去を思いかえしていた。「今は、こう思っている。」グルーはつぶやいた。「今は、こう思っているんだ、もし……。」
「フルダー、」タランは、吟遊詩人に耳うちした。「こいつのおしゃべりをとめて、どの通路でもいいから、教えてもらう手だてはないですか? それとも、ここをすりぬけて、わたしたちでみつけたほうがいいか?」
「わしが今までに見た巨人から――いや、じつをいうとこの目で見たことはないが、話はうんときいておる。グルーは、なんといったらいいか、そう、かなり小さいほうだぞ! わしのいおうとするところが、よくわかってもらえるかどうかわからんが、やつはまず、ちっぽけな男だったから、今もちっぽけで弱い巨人なんだ! それに、たぶんおくびょうだろう。近づくことができさえしたら、まちがいなく戦える。最大の危険は、ふみつぶされるおそれだな。」
「わたしは、心からかれを気の毒に思っています。」と、タランがいいはじめた。「しかし、どうしたら助けてやれるかわかりませんし、捜索はとても遅らすことはできません。」
「おまえたち、きいていないな!」と、グルーがさけんだ。しばらく話をつづけたところで、ひとりごとをいっているようなものだと気づいたのだ。「やっぱりそうだ、前とちっとも変わっちゃいない。」グルーは、すすり泣きをはじめた。「巨人になったって、だれも、わしのことなんか、ちっとも気にかけちゃくれない! そうさ、いいかね、巨人には、人の骨をくだき、目がとび出すまでしめつけることができるものがいる。その連中の話なら、おまえたちだって、ちゃんときく。ところが、グルーはちがう! あーあ、巨人だろうがなんだろうが、グルーのこととなると、変わりがないんだ! 巨人グルーは、なさけない洞穴にとじこめられ、だれにもなんとも思われない! だれひとり会いにもきちゃくれない!」
「おいおい、いいかね、」フルダーが、ちょっといらいらしながら返事をした。巨人がすすり泣きしはじめて、一行に涙をふりかけてきたからだった。「自分が苦境におちいったからといって、おぬし、そいつは自分のせいでしかないんだぞ。おぬしは、いらざることをした。わしはよくいっておるのだが、それじゃあ、結局は泣きをみるんだよ。」
「わしは、巨人になんかなりたくなかったんだ。」と、グルーはいい返した。「とにかく、はじめは。むかし、わしは、名高い戦士になろうと思った。そこで、ゴリオン卿がガースト卿を攻めたとき、その軍に加わった。しかし、血を見るのに耐えられなかった。血を見ると、まっさおに、草みたいになっちまうんだ。そして、あのいくさ! もう、頭がぼーっとしてしまうなあ! あのぶつかりあい、切りあい! あのさわぎだけでも、とても人間には耐えられん! いやいや、まったく問題外であった!」
「戦士の人生は苦難の人生です。」と、タランはいった。「その人生には、雄々しい心がなくてはなりません。あなたが名を成すには、きっとほかの行き方があったでしょう。」
「そこで、わしは、吟遊詩人になろうと考えた。」と、グルーはつづけた。「だが、うまくいかなかった。おぼえねばならぬ式、まなばねばならぬ学問ときたら……。」
「同感だよ。」フルダーが、残念そうなため息をついてつぶやいた。「わしも似た経験をしておる。」
「問題は勉学の歳月じゃなかった。」グルーは、こんなにとほうもなく大きくなかったら、わびしくひびいたと思える声で説明した。「時間をかければおぼえられただろう。それはわかってる。いやいや、問題はわしの足だった。わしには、プリデインを端から端まで歩きまわって放浪することが耐えがたかった。いつもちがったところでねることもだ。水も変わる。たて琴で肩にすり傷もできる……。」
「心からお気の毒に思います。」タランが、そわそわと立つ位置を変えながら、話をさえぎった。「しかし、わたしたちは、ここでじっとしていられないんです。」
グルーは、一行の正面にしゃがみこんでいたので、タランは、うまくすり抜けるにはどうしたらよいかを必死に思いめぐらした。
「どうか行かないでくれ!」グルーは、タランの考えを読みとったかのように、大声でいうと、はげしくまばたきした。「まだ行かないでくれ。通路はすぐに教える。約束する。」
「それ、それ!」と、ガーギがさけんだ。ようやく目をあけてふらふら立ち上がったところだった。「ガーギ、洞くつ好まない。あわれなやわらかい頭、もうがんがん、ごんごん!」
「そこで、わしは英雄になろうときめた。」グルーは、一行のいらだちを無視して、せっせと話をつづけた。「竜とか何かを殺してあるくわけだ。しかし、わからんだろうが、それはまったくむずかしい。そうさ、竜をみつける、そのことすらほとんど不可能なんだ! だが、わしはモール・カントレブで一頭みつけた。
「小さな竜だった。」と、グルーは正直にいった。「イタチぐらいの大きさだった。村人がウサギ小屋にかこっていて、子どもたちが、ほかにあそぶことがないときに、いつも見に行っていた。しかし、竜にはちがいなかった。殺してよかったんだ。」グルーは、そこで、ごーっというような大きなため息をついた。「わしはやってみた。ところが邪悪な生きものめ、わしをかみおったよ。今でも傷あとがある。」
タランは、剣をにぎりなおした。そして、「グルー、」ときっぱりした声でいった。「通路を教えてください。もう一度おねがいします。教えてくれないなら……。」
「そこで、わしは、王になれるかもしれないと考えた。」グルーは、タランが最後の一言を口にする寸前、あわててまたしゃべりだした。「王女と結婚できれば、と思ったのさ。――ところが、だめ。城門で追い返された。
「ほかに、このわしになにができる?」グルーは、なさけなさそうに首をふって泣くようにいった。「魔法をためす以外、なにがのこされていたろう? ついに、わしは、魔法の書を持っていると称する魔法使いに出くわした。かれは、その書をどうして手に入れたかは教えてくれなかったが、書かれてある魔法はひじょうに強力だと断言した。それは、むかし、リールの王家のものであった。」
それをきいて、タランは息をのんだ。それから、「エイロヌイはリール王家の姫ですよ。」と、吟遊詩人に耳うちした。「グルーは、なにをきかせようというんです? ほんとうのことを話しているんでしょうか?」
「それは」と、グルーの話はつづいた。「カー・コルールから伝わったものだった。当然、わしは……。」
「グルー、今すぐ教えてください。」タランは思わずさけんだ。「カー・コルールとは何ですか? それはリール王家とどんな関係があるのです?」
「そりゃ、切っても切れぬ関係さ。」と、グルーはタランの質問にびっくりした様子でこたえた。「カー・コルールは大むかし、リール王家の城地だった。だれでも知っていることだと思うがな。そこは魔力と魔法の宝庫だった。おっ、そうそう、話したとおり、そこで当然わしは、ようやく力になってもらえるものがみつかったと信じた。その魔法使いは、その書物をなんとか手ばなそうとしていた。わしがなんとか手に入れたいと思ったのとちょうど反対にな。」
タランの手が、ふいにぶるぶるふるえはじめた。「カー・コルールはどこです? どうしたらみつかります?」
「みつかる?」と、グルーはいった。「みつかるほどのものがまだあるかどうか、うわさでは、長い年月、城は廃墟のままだそうだ。そして、だれもが想像するように、魔の住むところだという。それに、ずいぶん船をこがなくては行きつけない。」
「陸上を船でだと?」と、フルダーがいった。「そんなばかな。」
「船をこぐのさ。」グルーは悲しげにうなずいて、おなじことをくりかえしていった。「大むかし、カー・コルールはモーナ島の一部だった。ところが、大洪水で本島から分かれてしまったんだ。今は、豆つぶみたいな島にすぎない。そんなありさまではあるが。」と、グルーは話を進めた。「わしは救い出せた小さな宝ものは、みんなとってある……。」
「その島はどこです?」と、タランはさらに質問した。「グルー、それはどうしても教えてもらいますよ。われわれは、どうでも知らなくちゃならないんです。」
「アロー川の川口だよ。」グルーはまた話の腰を折られてかなり腹だたしげにこたえた。「しかし、それは、わしの身におこったことと、なんの関係もない。ほら、その魔法使いは……。」
タランの頭は、はげしく回転した。マグはエイロヌイをアロー川へつれていった。そして船が必要だった。エイロヌイの祖先の地がマグの行き先だろうか? タランとフルダーの目が合った。吟遊詩人の顔つきから、かれもおなじことを考えていることがわかった。
「……魔法使いは。」と、グルーは話をすすめた。「とてもいそいでいたので、わしはその書をしらべるひまがなかった。気づいたときは、もうおそかった。その書は――まったくのくずだった! なにも書いてなかった!」
「それはおどろいた!」と、ルーン王子が思わずさけんだ。「わたしたちがみつけたあの本ですよ!」
「がらくただ。」と、グルーはため息をついた。「しかし、みつけたのなら、持っていてよろしい。おまえのものだ。おくりものだよ。わしを思い出すよすがだよ。それなら、あわれなグルーを忘れないだろう。」
「思い出す時など、ほとんど持てまいて。」と、フルダーがつぶやいた。
「最後に、わしは、自分で薬の調合にとりかかった。」と、グルーはいった。「わしはどう猛になりたかった! モーナ全土をふるえ上がらせるほど強くなりたかった! ああ、まったく長い苦労だった。悲しいかな、結果はこうさ。もうのぞみも絶え果てていたんだ。」巨人は陰気に話をつづけた。「そこへ、おまえたちがやってきた。おまえたちは、わしがこの恐ろしい洞くつからのがれる手助けをしなくてはならん。コウモリや虫ずのはしる生きものはがまんできない。ひどすぎる。いいか、ひどすぎるんだ! いやらしい。ぞっとする。ねとねとする。じめじめする。」巨人は、絶望の気持ちを大声にさけんだ。「カビとキノコはもういやだ! カビ! キノコ! もうたくさんだ!」そして、また涙を流して泣きはじめ、あわれな泣き声が洞くつをふるわせた。
「わたしの主人のダルベンという人は、プリデインではもっとも力ある予言者です。」と、タランはいった。「かれなら、あなたを助ける手だてをみつけることができるかもしれません。しかし、今わたしたちには、あなたの助けが必要なのです。ここを出るのがはやければ、それだけダルベンのもとへ帰るのもはやくなるのです。」
「そんなに長くは、とても待てん。」と、グルーがうめくようにいった。「助かる前に、わし自身がキノコになっちまう。」
「わたしたちを助けてください!」と、タランは心からたのんだ。「助けてくれれば、あなたを助けるために努力しますから。」
グルーは、ちょっとの間になにもいわなかった。ひたいにしわを寄せ、心配そうにくちびるをひくつかせていた。「よろしい、よろしい。」やがて、巨人はため息とともに立ち上がった。
「ついてこい。あ――一つたのみがある。さしつかえなかったら、うん、ほんのちょっとしたことさ、ほんとうにさしつかえなければだがね。やってくれれば、ま、つかの間ではあっても、わしは満足だろうと思う。ちょっぴりの好意さ。わし、わしをだ、よんでくれんかね――グルー王と?」
「なあんだ。」と、フルダーが思わず大声を出した。「王とでも王子とでも、お好みどおりによんでやるよ。ただ、ここから出る道を教えてくだされ――王さま!」
グルーは元気が出たらしく、暗い洞くつの中へふらふらと向かいだした。タランたちも、岩だなをよじておりると、巨人の大またに歩調を合わせるために大いそぎであるいた。グルーは、とじこめられて以来だれとも口をきいたことがなかったので、しゃべりつづけた。かれは、洞くつ内で、こんどはからだを小さくするための新薬を調合しようとしたことを、タランたちに説明した。洞くつの一区画には、仕事場のようなものまでつくってあり、あわだって湯気をあげている温泉が混合物を煎じるのにつかわれていた。手間をかけて石をくりぬき、間に合わせのきね、乳鉢、なべ、おけなどをつくったグルーの器用さに、タランはびっくりし、この必死の巨人に泣きたいほど感心してしまった。だが、タランは、頭をたえまなくはたらかせ、あと少しというたびに鬼火のようにするりと逃げてしまうある考えをはっきりさせようとしていた。それに対するこたえがカー・コルールの廃墟のへやにあり、そこへ行けばエイロヌイにあえると、タランは確信していた。
タランは、外に出ようとあせっていたので、グルーが煙突に似た岩の柱のところで立ちどまると走り寄った。地面のすぐ上のところに、まっくらなトンネルが口をあけていた。
「さらば。」グルーが悲しげにトンネルを指さしてすすり上げながらいった。「まっすぐ行くんだ。出口がわかる。」
「約束しましたよ。」タランは、ガーギ、フルダー、ルーン王子が入口からはってはいるのを見ながらいった。「ダルベンの力が及ぶなら、かれがあなたを助けてくれますよ。」
タランは、金の玉をしっかり持ち、身をかがめると、上の方がでこぼこした入口をむりやりおし通った。コウモリの群がやかましくなきながら、わっとまいたった。ガーギが恐怖のさけびをあげて、走る音がきこえた。つぎの瞬間、タランは岩の壁にぶつかってしりもちをついた。金の玉がしっかりにぎった手からとび出し、でこぼこの地面の小石の間に落ちた。あっとさけんだタランが、あわててふりかえると、大きな岩が入口をふざくのが見えた。タランはからだごとぶつかっていった。
グルーが、通路をふさいだのだった。
12 墓
吟遊詩人も、タランと同様に、力いっぱい岩の壁にぶつかり、そしてようやく立ち上がった。ガーギのさけびが、なきたてるコウモリを圧してひびいた。ルーン王子も、よろめくようにタランのわきに来て全身で岩にぶつかったが、岩はびくともしなかった。金の玉は、すみにころがっていた。だが、そのかがやく玉の光で一目見ただけで、岩をどける以外、出るもひくもできないことがわかった。
「グルー!」タランは、入口をふさいだ岩を力のかぎりおしながら、巨人をよんだ。「ここから出してくれ! なんてことをするんだ!」
ガーギは、はげしい口調でわめきたてながら、びくともしない岩をこぶしでたたいた。タランは、もう一度ぶつかってみた。かたわらで、ルーン王子が、王子なりに力を出してあえいでいる息使いがきこえた。フルダーははりきって押したり持ちあげたりしたが、足をすべらして地面にはいつくばってしまった。
「ちっぽけなミミズめ!」吟遊詩人は力いっぱいどなった。「このうそつき! うらぎりおったな!」
岩の向こう側から、グルーのくぐもった声がきこえてきた。「申しわけない。ゆるしてくれ。だが、こうするよりしかたなかろう?」
「ここから出せ!」タランは、なおも岩を動かそうとしながら、またおなじ要求をした。なかばは怒りのため、なかばは絶望のためすすり泣きながら、タランは地面にくずおれて、ちらばる小石をやけくそにかきまわした。
「腹黒のよこしまなちび巨人め、重い岩をのけろ!」と、ガーギがどなった。「ふさいでとじこめるのをやめろ! やめぬと、怒りにみちたガーギ、大きくてひよわなおまえの頭、がーんと一発くらわすぞ!」
「われわれは、あんたにしんせつなことをしてやろうとしていた。」と、タランはさけんだ。「なのに、あんたは、おかえしにうらぎるのか。」
「そうとも、そのとおりだ。」と、ルーン王子がさけんだ。「みんながここに埋められたら、あんた、どうやって助けてもらうつもりだ?」
かすかだが、ふさがれた通路の向こう側から、すすり泣きの声が流れてきた。「長すぎる!」と、グルーの声がうめくようにいった。「長すぎるんだ! わしは、これ以上、この恐ろしい洞くつで待っちゃいられない! ダルベンが、わしの運命を気にかけてくれるかどうか、わかったものじゃないだろ? おそらく気にかけちゃくれまい。たった今助かりたい。たった今!」
「グルー、」タランは、でるきかぎり冷静にしんぼうつ欲と努めていった。巨人は気が狂ってしまったにちがいないと思ったからだった。「われわれだけでは、あなたに何もしてやれないんだ。できるなら、すでにしていただろうよ。」
「ところが、あるんだ、できることが!」と、グルーがさけんだ。「わしの薬に手をかしてもらうのさ。このからだをもとの大きさにする薬を煎じられると思う。その手助けだけでいい。それでも、たいへんすぎるかね?」
「わしらに手伝わせて、リーアンに与えたあのものすごいえさを、もっとつくろうというのかね。」と、フルダーが声をかけた。「それなら、こんなへんなことをしては、わしらの友情をたのみにできまいが。」詩人は、そこでふとためらったが、ふいにあっとおどろいて目を大きく見ひらいた。「たいへんだ!」詩人は小声でつぶやいた。「やっこさん、リーアンにしたように……。」
詩人がそういったちょうどそのとき、タランの足ががくがくとふるえはじめた。おなじ考えがタランの頭にもうかんだのだ。「フルダー、」と、タランはささやいた。「あの男、ほんとうに気がふれてます。この洞くつが気を狂わしてしまったんです。」
「ぜんぜんちがう。」と、吟遊詩人はいいかえした。「逆に、頭のはたらきをとぎすませるんだ。邪悪で身の毛のよだつ方にだが。やっこさん、煎じ薬をためしに飲ますものがわしらのほかにいないんだ!」フルダーは、大岩にからだをぴったりつけ、両手をメガホンにした。そして、「そんなことはさせんからな、この情けないめそめそ虫め!」とどなった。「わしらは、きさまの邪悪なシチューなんぞ飲まないぞ! うえ死させられたって! のどに押しこもうなどとしたら、思い知らせてやる! フラムの者はかみつけるってことをだ!」
「約束するよ。」グルーがいいわけがましくいった。「おまえたちは、なにも飲まなくていい。危険なことはわし自身がやる。それがまた、ひじょうに危険なんだ。わしが一筋の煙になって吹きとばされるとしたら、どうかね? こんな処方を扱っていると、わかったものじゃない。おこりうるんだ。」
「おこってもらいたいね。」と、フルダーがつぶやいた。
「いやいや、」と、グルーがつづけた。「おまえたちはすこしも痛くないよ。たしかなんだ。ほんのちょっとしか手間もとらない。あっという間だよ! そして、ひとりだけでいいんだ。たったひとり! もとめすぎるなんていうまいな。おまえたちも、それほど自分勝手なんてはずは……。」
グルーの声が狂ったように高くなり、ひじょうな大声で早口にさけび、泣きわめきはじめたので、タランには、いっていることがほとんど聞きわけられなかった。だがグルーがしゃべりつづける言葉をじっときいているうちに、心臓から血がひくように感じ、悪寒におそわれてからだがふるえてきた。
「グルー。」タランは、はげしい絶望感にとらわれてさけんだ。「われわれを、どうするつもりなんだ?」
「どうか、どうか、わかってくれ。」と、グルーの声がかえってきた。「これが唯一のチャンスなんだ。ぜったいにうまくいくよ。わしは、この恐ろしい穴にはいってからずっと、慎重に考えを練ってきた。まちがいのない薬を煎じられるとわかっているんだ。必要なものはみんなある。ただ一つだけ足りない。ほんのわずかな成分だけがない。ぜんぜんいたくはない。なにも感じないよ。誓う。」
タランは、恐怖のため息をのんだ。「われわれのひとりを殺すんだな!」
長いあいだ、だれも口をひらかなかった。とうとう、またグルーの声が一行の耳に流れてきた。気分をそこねたような声だった。「おまえたちは、ひどく――ひどく露骨ないい方をするなあ!」
「くそ。」と、フルダーがさけんだ。「そのやせ首をひっつかまえられれば、きさまに露骨な声をたてさせてくれるぞ!」
そこで、また、無言がつづいた。「どうか。」と、グルーが弱々しくいった。「わしの立場で、考えてみてくれ。」
「ああ、いいとも。」と、フルダーがいった。「その岩さえ、押しのけてくれたらな。」
「わしが平気でいるなどと思ってくれるなよ。」と、グルーはつづけた。「わしは、おまえたちみんなが好きだ。特に小さい毛だらけのやつがな。それに、こんなことはおぞましいと思う。しかし、べつの人間がここに足をとめる機会はもうない。そりゃ、よくわかるね? 腹はたてまいね? おまえらを怒らせたら、わしは、自分をけっして許せないだろうよ。
「今だって。」と、グルーはものがなしくつけ加えた。「どう心をきめたら、おまえたちのひとりを選べるのかわからないんだ。いやいや、わしにはできない。その勇気はない。そんな苦痛をこのわしにむりやり忍べなどといわんでくれ。いや、おまえたちできめてくれ。それがだれにとっても最上だよ。
「信じてくれ。」と、グルーはつづけた。「おまえたちよりも、わしのほうがつらいだろうよ。だが、わしは目をつぶっている。だから、おまえらのだれだかは、わからない。それで、すっかりかたがついたら、そのことは忘れるように努めようじゃないか。わしらは、この上ない親友になれる――つまり、残った者たちがさ。わしは、道案内にたって外へ連れ出してやる。約束する。リーアンをみつけよう――ああ、あいつにまた会えたら、すてきだろうなあ――それで、なにもかもうまくいくよ。
「逃げるなよ。」と、グルーはいった。「二、三、支度するものがあるんだ。待たせやしない。」
「おい、グルー、よく聞いてくれ!」と、タランが大きな声でよんだ。「この、あんたのもくろみは、悪いことなんだ。われわれを出してくれ!」
返事はなかった。岩は動かなかった。
「下を掘るんだ!」フルダーが剣を抜いてさけんだ。「必死で掘るんだ!」
タランとガーギは剣を抜くと、ならんで、どっしりした岩の下の地面に攻撃をかけた。一行は、岩まじりでしぶとい地面を、力いっぱいつついた。剣の先が小石にあたって音をたてた。だが、どんなにやってみても、せいぜい浅い穴ほどの土しか、かきのけられなかった。ルーン王子は、むりやり岩の下に剣をつっこんでみたが、結果は、剣先をぴしりと折っただけだった。
タランは、金の玉をとり上げた。そして、四つんばいになると、みんなでひろげられそうなわれめとか、小さな出入口でもみつかりはしないかと、この牢獄をくまなく調べてみた。岩壁は切りたっていて、われめなどなかった。
「うまくとじこめたものだ。」タランは、ぐったりとすわりこんでいった。「出口は一つしかない。グルーが出してくれる出口さ。」
「考えてみると、」と、ルーンがいった。「かれは、ひとりだけほしいといったのです。だから、三人が残って、王女の捜索が続けられるのです。」
タランは、ほんのしばらくの間、じっと考えてたが、「ここへ来てはじめて、」と、にがにがしげにいった。「マグがどこへエイロヌイをつれていったかわかったと思ったんだがな。カー・コルールさ。今までに得られたもっとも有力な手がかりなんだが、それももうむだになった。」
「むだ?」と、ルーンがいった。「とんでもない。わたしたちは、グルーの申し出どおりにするだけでいいんです。そうすれば、残ったものは、また続けられます。」
「あんた、あの弱虫野郎が約束を守ると思うのかい?」フルダーが腹だたしげにきいた。「わしは、やつを信用するなんて、マグを信用するのとまるでかわらんと思うね。」
「ですが、」と、ルーンはいった。「やってみなくては、たしかなことはわかりません。」
モーナの王子のその言葉で、みんな口をつぐんでしまった。ガーギは、地面にしゃがみこんで、毛におおわれた腕でひざをかかえていたが、ひどく悲しげにタランをじっと見た。「ガーギ行く。」この生きものは、口もきけないほどひどくふるえていたが、かすかな声でいった。「はい、はい。ガーギ、あわれなやわらかい頭、じゅうじゅう、ぐつぐつのために出す。」
「雄々しいガーギ。」と、タランがつぶやくようにいった。「おまえなら、そのあわれなやわらかい頭を犠牲にするだろう。ちゃんとわかってる。」タランは、おびえているガーギの肩を軽くたたいてやった。「しかし、そんなことは問題にならない。われわれはかたまっていなくちゃいけない。グルーのやつ、命ひとつが、どんなに高くつくか思い知らせてやる。」
フルダーが、ふたたび、岩の地面をかきくずしはじめた。「まったく、おぬしのいうとおりだ。わしらは心を一つに合わせてなくちゃならん――とにかく、がんばっていられるかぎりはな。あのちっぽけなやろうがもどってきたら――ううむ、くそ――どういうわけだか、わしはあいつをちっぽけな野郎としか思えないんだ。あいつの大きさにかわりなく、そういう印象を受けたからだろうなあ。やつは、まちがいなく、わしらのだれかをつかまえるだろう。ノミほどの羞恥心もハエほどの真心も持っていないし、やけになっている。やつと戦ったら、みんな殺される見込みが大きい。」
「まさか、グルーの取引を認めるつもりじゃないでしようね。」と、タランがいった。
「むろんちがう。」と、フルダーは受けた。「わしは剣を持って立ち向かい、頭にはとどかないから、ひざのあたりを切ってやる。わしは、皆殺しの危険があることを指摘しているだけさ。わしらの間で犠牲者をえらぶという、やつのばかげた思いつきは、一考だに値しないと思う。」
「値しますよ。」と、ルーン王子がいった。
タランはそのこ賭場の意味がよくわからなかったので、びっくりしてルーンの顔を見た。モーナの王子は、はにかむように、タランに向かってわらってみせた。
「グルーを満足させるには、それしかないんです。」と、ルーンはいった。「そして、そのためとしては、ひじょうに安い取引きだと思いますよ。」
「そんなに安く見つもれる命など、ひとつもありません。」と、タランが反対して話しだした。
「お考えちがいだと思いますよ。」と、ルーンはこたえた。そして、にっこりすると首をよこにふった。「わたしは、洞くつにはいってからずっと、こんなことを考えていたのです。事実に目をそむけてもむだです。――わたしは――わたしは、まったくなんの役にも立ちませんでした。それどころか、迷惑事ばかりひきおこしてきました。そのつもりはなかったのですが、どうやら、それがわたしのさだめなのでしょう。だから、だれかひとりをあたえる場合、その場合はね、それは、この――わたしだ――といわざるをえません。
「ほんとうです。」ルーンは、タランの反対の大声を無視して、早口に話をつづけた。「わたしは、一度だけでも、すこしでもお役に立てたらうれしいのです。それでエイロヌイが助かれば、なおさらです。わたしは、ぜんぜん平気ですよ、ほんとうに。グルーのいうとおり、あっという間のことですから。
「あなた方には、同志のために命をおしむ人はひとりもおりません。」と、ルーンはさらにつづけた。「フルダー・フラムは、リーアンのすみかで、わたしたちのために命を投げ出しました。今だって、気のどくなガーギが、進んでそれをしようとしています。」そこで、王子は、姿勢を正した。「吟遊詩人、いやしい森の生きもの、豚飼育補佐。」ルーンは、タランの視線をとらえ、ひくい声でいった。「王子たるものがそれをせずにいられますか? わたしは、はたして真の王子に値するものになれるかどうか、自信がありません。こうする以外には。」
タランは、長い間ルーンを見つめていた。「価値のことをいわれましたね。わたしは、あなたを無能な王子のひよことしか評価していませんでした。それはまちがいでした。あなたはまことの王子、わたしが今まで考えていた以上にりっぱな男です。しかし、この犠牲は、あなたがはらうべきものではない。あなたは、わたしの、父君に対する誓いを知っているでしょう。」
ルーン王子は、またにっこりわらった。「まったく、重大な誓いです。よろしい、わたしがそれを解きましょう。おや、これはおどろいた、あのコウモリたち、どうしたのだろう?」
13 はしご
「ほんとだ――いなくなっている!」タランは、いそいで金のタランまで、へやじゅうをてらしてみた。「一匹のこらずいない!」
「ほんと、ほんと。」と、ガーギもおどろいてさけんだ。「ぎいぎい、ちゅうちゅう、もうきこえない!」
「それが残念とはいわんね、わしは。」と、吟遊詩人があとを受けていった。「わしはネズミとは仲がいいし、小鳥はいつも好きだった。しかし、その両方をいっしょにしたやつはまっぴらだね。」
「そのコウモリが最良の友で、もっともたしかな道案内かもしれない。」と、タランがいった。「ルーン王子は、重大なことに気づいたのかもしれませんよ。コウモリは出口を知っているんです。それがみつかりさえしたら、コウモリのあとについて出られるかもしれない。」
「まさにしかり。」吟遊詩人がしかめつらをしていった。「まず、わしらがコウモリに変身する。そうなれば、たぶんなんのぞうさもなかろう。」
タランは、岩屋を、すみからすみまで、いそいで大またに歩いた。光がアーチをえがく天井にとどくように玉をさし上げ、岩壁をてらして、われめや露頭をくまなくしらべた。だが、見えたのはずっと以前に岩がかけ落ちてできたくぼみ数箇所だけだった。
タランは何度となく、金色の光で洞穴のぐるりをてらしてみた。ずっと上のほうの岩に、ぼんやりとだが黒い筋が走っているのがわかった。タランは、後ろにさがって注意深くしらべてみた。黒い影が濃くなった。岩にわれめがあり、せまいぬけ道でできているのだった。
「あそこだ!」タランは、ふるえる手で、できるだけ、金の玉をゆらさないようにかかげてみせた。「ほら――岩壁が彎曲しているから、かくれてほとんど見えないんだ。しかし、ほら、岩がへこんでわれていて……。」
「これはおどろいた!」と、ルーンがさけんだ。「驚嘆すべきことです! まさに通路です。コウモリは、あそこから出ていったのですね。わたしたちも出られると思いますか?」
タランは、金の玉を地面に置くと、大またに岩壁まで行き、ちょっとした岩のひだに手をかけてからだを持ち上げようとした。だが、岩壁はまったく切り立っていた。タランは手をすべらし、また手をかけようとしたが失敗し、自分の背の高さまでものぼれず、ひきさがった。ガーギも、つるりとした岩壁をよじのぼろうとした。敏しょうなガーギもタランの二の舞になり、地面にすわりこんで息をはずませながらうめくことになった。
「わしがいっただろ。」フルダーが陰気な声でいった。「必要なのは、つばさが四、五枚なのさ。」
タランは、手のとどかない自由をちらつかせて一行をじらしている高い通路を、ながめつづけていた。「岩壁はのぼれない。」タランは眉をよせていった。「しかし、まだのぞみはあるかもしれない。」タランは高い通路から目をはなして、仲間をふりかえり、また、その視線をもとにもどした。「綱があっても役には立たない。しばりつける方法がないものな。しかし、はしごなら……。」
「それこそ必要なものだ。」と、フルダーがいった。「しかし、この場でつくれないのなら、手にはいらないものをなげいて時間をむだにしちゃならん。」
「はしごは作れます。」タランが平然といった。「そうなんです。すぐ、それにきづくべきでした。」
「なに、なんだって?」と、吟遊詩人が思わずさけんだ。「フラムの者は聡明であるが、おぬしの考えは、わしには及びもつかん。」
「できるんです。」と、タランはくりかえしていった。「それも、もうさがす必要はないんです。わたしたちがはしごなんですよ。」
「そうか!」フルダーが手をぴしゃりとならしてさけぶようにいった。「もちろんだ! そうとも、肩へ肩へとのればいいんだ。」そして壁までかけよると、高さを目ではかった。「それでもまだ高すぎる。」詩人は首をよこにふった。「いちばん上にのる者の手がぎりぎりとどくかどうかだな。」
「でも、とどくことはとどく。」と、タランはいいはった。「あそこしかわれわれの逃げ道はない。」
「一人の逃げ道さ。」と、詩人がいいなおした。「だれにしても、のぼって出た人間の背の高さだけ、はしごが短くなる。その人間をえらぶとなると、グルーの申し出とまあ変わりない。」と、詩人はつけ加えた。「ひとりしか助からん。」
タランはうなずいた。「のがれた者が、つたをおろせるかもしれない。そうすれば……。」タランはそこまでで口をつぐんだ。
グルーの声が、すき間から流れこんできた。「みんな元気かね?」と、巨人は声をかけてきた。「こっちは、まことにぐあいよくいっているよ。すっかりしたくはできた。おまえたちがあまり動てんしていなければいいが。どうか、ひとりだけ出てきてくださらんか? 名はいわないでくれ。知りたくない。悲しい気持ちは、おまえたちと変わらないんだ。」
タランが、さっとモーナの王子に顔を向けた。「わたしは仲間の心中を知っているので、代表して申し上げます。全員助かろうとしても、手おくれです。あなたは、なんとかしてカー・コルールへ行ってください。カアがあなたをみつければ、あそこまで道案内をしてくれるでしょう。」
「わたしは、だれもあとに残していくつもりはありません。」と、ルーンはこたえた。「決めたといっても、それはわたしの決定ではありません。いやですね、わたしは……。」
「ルーン王子。」タランはきつくいった。「あなたは、わたしの指揮下にはいったのではなかったですか?」入口をふさいだ岩がごりっ、ごりっと音をたてはじめ、グルーのはげしい鼻息がきこえてきた。「これも、持っていかなくちゃいけません。」タランは、しぶるルーンの手に金の玉を押しつけていった。「これはもともとエイロヌイのものです。そして、彼女にもどすのはあなたなんです。」タランは目をそらした。「これが、結婚式で、ひかりかがやいてくれるように。」
吟遊詩人が壁に手をついてかまえ、ガーギがその肩にのぼった。ルーンは、それでもためらった。タランが、ルーン王子の上着のえりをつかんで、ひきずった。
タランは、フルダーの背中からガーギの上によじのぼった。人間のはしごは、あぶなっかしくふらふらゆれた。仲間の重みをささえながら、詩人がルーンにいそげとさけんだ。タランは、ルーンの手が自分をつかもうとして失敗するのをからだで感じた。下から、ガーギの苦しそうな息がきこえてきた。タランは、ルーンのベルトをつかんでひっぱり上げた。片ひざが、つづいてべつのひざが、タランの肩にのった。
「高すぎてとどかない。」ルーンがあえいだ。
「立つんだ。」と、タランがどなった。「しっかり。もうちょっとだ。」
タランは、のこった力をふりしぼり、せいいっぱい背をのばした。ルーンの手が岩だなをさぐった。ふいに、タランの肩の荷が消えた。
「おさらば、モーナの王子。」タランは、ルーンが突き出たせまい岩だなにぐいとからだをもち上げて通路にとびこむのを見てさけんだ。
フルダーのあぶないというさけびで、タランは、自分が落ちると気づいた。床の石にたたきつけられたタランは、息がつまり、ぼーっとなりながらも、立ち上がろうとした。まっくらだった。吟遊詩人にひきおこされて、よろよろと詩人のからだにもたれかかったタランは、落ちたところがこの岩穴の入口だったことに気づいた。勢いよく流れこむ冷たい空気で、グルーが岩をおしのけたことがわかった。そして、闇より濃い影が入口からはいってきたのが、見るというより感じられた。タランは、剣をひきぬくと、あてずっぽうにふりまわした。固いものにあたった。
「あっ! いたい!」
のびてきた腕が、ふいにひっこんだ。タランは、フルダーが剣をぬく音をきいた。ガーギは、ちょこちょことタランのそばへ来て、夢中で石をひろってなげつけた。
「さあ、たたかうんだ!」と、タランは大声をはりあげた。「やつは大うそつきで大弱虫なんだ。いそげ! またとじこめられないうちに。」
剣をふりかざし、一行は岩穴からどっと出た。どこかに、グルーがそびえるように立っていることはわかっていたが、暗闇で剣をふりまわす勇気はなかった。すぐそばを石につまづきながら走っている、ガーギとフルダーを切ってしまうおそれがあった。
「ああ、これでなにもかもだいなしだぞ!」グルーが泣き声でいった。「これじゃ、わしが自分で、だれかひとりつかまえなくちゃならない。なぜ、わしにそれをさせる? わかってくれたと思ったのに! わしに力をかしてくれるつもりだと思ったのに!」
ひゅっと、頭上で風がなり、グルーがタランをつまみにきた。タランは、とがった岩の間にさっと伏せた。片側で、フルダーがさけんだ。「気をつけろ。弱虫怪物のやつ、わしらより夜目がきくぞ!」そのときまで、三人はかたまっていた。だが、タランの不意の動きで、かれだけがふたりとはなれてしまった。タランは、仲間と合流し、そしてグルーの狂ったような攻撃からのがれようと、手さぐりで動いた。
タランが、石の山にぶつかると、山はがらがらとくずれて、くさい液体の中にすべり落ちその液体を流してしまった。
グルーが、もうだめだというような大きい泣き声をあげた。「とうとうやっちゃったな! 水薬をひっくりかえしたんだぞ! やめろ、やめてくれ。なにもかも、めちゃくちゃになる!」
はっきり見えないグルーの足が、ぐっとさがってきた。あやうく、タランは剣でなぎはらった。剣は、はねかえされたが、グルーも、ものすごいわめき声をあげた。タランの頭上で、ほとんど闇と見分けのつかない影が、片足でぴょんぴょんはねているらしかった。吟遊詩人のいったとおりだ、とタランはぞっとしながら思った。グルーのいちばんの恐ろしさは、ふみつぶされる危険なのだ。巨人の足にふまれて地面がゆれた。タランは、暗闇をとんで音からにげた。
あっと思ったとき、タランは、洞くつのあちこちにある水たまりの一つに、ばしゃっと落ちていた。タランは、めちゃくちゃにもがいて両手をふりまわし、ふちの岩をつかもうとした。水は、冷たく青白く光った。岩をよじて水から上がったとき、びしょぬれのきものも、顔も、手も、髪も、ぼーっとひかっていた。タランが逃げるのぞみは、これでなくなった。どこにかくれひそもうとも、その光で見あらわされてしまう。
「にげろ!」タランは、ふたりの仲間にさけんで命じた。「グルーはぼくがひきつける!」
わずか一歩で、巨人は水たまりまでやってきた。びしょぬれのからだの光で、タランには相手の巨大なからだが見えた。タランは、剣をふるってぶつかっていった。グルーの欲にもえた手が、剣をふりはらった。
「たのむ、どうか、おねがいだ。」グルーが大きな声でいった。「これ以上ひどいことはしないでくれ! 今だって、また新しく薬を煎じなくちゃならんのだ。おまえには分別がないのか? 他人への思いやりがないのか?」
巨人が、つかまえようと手をのばしてきた。タランは、むだだけれど最後の守りのかまえをとり、頭上高く剣をふりかざした。
真昼のように明るい黄金の光が、ふいにあたりをつつんだ。
グルーが、苦痛のひめいをあげて、両手で目をおおった。「光!」グルーは金切り声でさけんだ。「光を消せ!」
さけび、ほえ、巨人は両手で頭をかかえこんだ。耳をつんざくようなほえわめく声が、洞くつじゅうにひびきわたった。鍾乳石のつららがふるえ、がしゃんと落ちてくだけた。水晶がわれ落ち、タランの上にふりそそいだ。
ふと気づくと、グルーはもう立っていなかった。落ちたものになかばうずまって、大の字によこたわっていた。落ちてきた大きな水晶にあたまを打たれて、じっと動かなくなっていた。タランは、まだ目がくらんでいたが、勢いよく立ち上がった。
洞くつの入口に、ルーン王子が、光りかがやく金の玉を片手に持って立っていた。
14 なにも書いていない本
「やあ、やあ。」ルーンは、三人のところへいそいでかけよりながら声をかけてきた。「生まれてこのかた、こんなにおどろいたことはありませんよ。命令にしたがわないつもりはなかったのですが、あの逃げ道をはい出てから、わたしは――その、あなた方が料理されるのをそのままにしては、どうしても行けなかったのです。どうしもてできませんでした。あなた方なら、だれもこの場合逃げたりしないだろうと、心の中で考えつづけていたので……。」そこで、ルーンはためらい、心配そうにタランの顔を見た。「あなた、おこってはいないでしょうね?」
「おかげで命が助かったのです。」と、タランはこたえ、ルーンの手をしっかりとにぎった。「わたしがとがめるとしたら、あなた自身の命を賭けた点だけです。」
「なんたるよろこび、幸せ!」と、ガーギがさけんだ。「あわれなやわらかい頭、どしどしぐしゃりから助かった! 親切なご主人、ぐつぐつとろとろからぶじのがれられた!」
「しかし、世にもふしぎなのは金の玉です。」ルーン王子はとくいそうににっこり笑って話をつづけた。「わたしが手にとってからも、光は消えませんでした。おどろくべきことです!」王子は、すでに光がうすれはじめた金の玉をふしぎそうにながめてから、タランにかえした。「なにがおこったのか、わたしにはわかりませんがね。この玉は、ひとりでに、ふいに明るくなり、どんどんかがやきを増したのですよ。信じがたいことです!」
「それが、かれをくいとめる唯一の武器だった。」と、フルダーがいった。吟遊詩人は、腰に両手をあてて、よこたわるグルーを見おろしていた。「あまり長いこと洞くつにいたため、明るさに耐えられなかったのさ。このいやらしいちっぽけなうじ虫は。いや、今もまたちっぽけなといってしまったなあ。」詩人はそうくりかえした。「だが、やはり、巨人としてはじつに小心なやつであった。」そこで、詩人はひざをつき、グルーの顔をのぞきこんだ。「頭にひどいさけ傷があるが、まだ死んではおらんな。」そういって、剣に手をかけ、「二度と目をさまさんように。つまり、こうしとくほうがいんじゃないかな。」
「生かしておきなさい。」タランが、フルダーの手をおしとどめていった。「たしかに、かれは、われわれに対して悪事をたくらんだ。しかし、わたしはやはり、このあわれな男をあわれだと思うし、助ける手だてをダルベンにたのむつもりでいます。」
「わかった。」フルダーが十分納得しないながらそういった。「こいつだったら、それだけのことを、わしらにしてはくれないだろうがな。だが、フラムの者は慈悲深い! さ、いそごう。ここから出るんだ。」
「あなたは、どうやっておりたのですか?」と、タランがルーンにたずねた。「下までとどくほど長いつたがみつかったのですか?」
ルーン王子は、はっと思い出して、口をあんぐりあけ、はげしく目ばたきした。「わたしは、その、また、へまをやったらしいのです。」王子はもごもごといった。「おりたのではありません。とびおりたのです。なぜですか、また、外に出るなんてこと、考えもしなかったのです。おどろいたことに、全然思いうかばなかったのです。申しわけない。わたしのせいで、ふり出しにもどってしまいました。」
「ふり出しではありません。」タランは、がっかりしている王子にこたえた。「さっきとおなじように、またあなたを持ち上げてさしあげますし、今度は、なにかをおろしてくださることができます。しかし、いそがなくちゃ。」
「人ばしごをつくる必要はない。」と、フルダーがだしぬけに大きな声でいった。「もっとたやすい方法がある。あそこを見てごらん!」フルダーがゆびさしたところを見ると、洞くつの壁に大きなさけめがぽっかりと口をあけていた。一条の日の光が、ちらばる石の上にさしこんできていた。新鮮な空気が、さけめからひゅうひゅう音をたてて流れこんでいた。「これはグルーに感謝してよいことさ。あの金切り声とほえるようなどなり声で、岩をくずしてくれたんだ。あっという間に外に出られるぞ! あのいやらしいちび怪物ばんざいだ! やつは、モーナをふるえあがらせたいといっておったが。」と、詩人はつけたした。「いや、まったく、そのとおりにしたじゃないか――まずまずだが!」
一行は、いそいで壁ぎわまで近づき、われ落ちた石の山の間を、道をひろってのぼりはじめた。ところが、ルーン王子は、だしぬけに立ちどまり、上着のあちこちをさぐりはじめた。
「ふーむ、これはおどろいた。」と、王子は大きな声でいった。「ちゃんといれておいたのに。」そして、心配そうに眉をしかめると、またきもののあちこちをさぐりはじめた。
「いそげ。」と、タランが声をかけた。「グルーの意識がもどったとき、ここにいたらどうなると思う。なにをさがしているんです?」
「わたしの本。」と、ルーンはこたえた。「いったいどこへいっちゃったのだろう? あの穴を通っている間に落ちたにちがいない。それとも……。」
「ほっときなさい。」と、タランがせきたてた。「なんの値打ちもないんだ。あなたは、すでに一度命を賭けてる。なんにもかいてない本に、もう一度命を張るなんてことはやめなさい!」
「あれは、きれいな記念品でした。」と、ルーンはいった。「それに、役に立つかもしれません。すぐ近くにあるはずなんです。先へ行っていてください。追いつきますから。すぐです。」王子は向きをかえて、さっきとじこめられていたところへ、小走りにもどっていった。
「ルーン!」タランはさけんで、いそいであとを追った。モーナの王子は、岩穴に姿を消していた。タランが追いつくと、王子は四つんばいになって、でこぼこの床を手さぐりしていた。
「よかった、よかった!」ルーンが、ちらりと肩ごしにふりかえってさけんだ。「光がほんのすこしほしいところでした。さて、たしかに、ここにあるはずなんです。まず、わたしがよじのぼったところを見せてください。あのとき落ちたとしたら、どうしたって壁のすぐそばにあるはずです。」
タランは、このあやうく墓所になるところだった岩穴から、必要なら王子をひっつかんでひきずり出そうと心をきめた。そして、大またに近づいたとたん、ルーンがとくいそうなさけび声をあげた。
そして、「ほら、ありましたよ!」王子は本をひろい上げて、たんねんにしらべた。「いたんでいないと、いいですがねえ。さんざんよじのぼったからページが破れたかもしれません。いや、どうやら……。」王子は言葉をきって、がっくりしたように首をよこにふった。
「いや、これはひどい! だいなしになりました。へたな字や印でいっぱいです。いったいぜんたい、どうしてこんなことになったのだろう?」
王子は皮とじの小冊子をタランに渡した。「残念至極です。どのページもみなだめになってます。もう、ほんとうに値打ちがありません。」
タランは、はじめの心づもりどおりに本を投げすて、王子のえり首をつかんでひき出そうとしたが、ページを見て目をまるくした。「ルーン。」と、タランは小声でいった。「これは、落書きじゃありません。注意深く書いた字ですよ。なにも書いてなかったと思っていたがなあ。」
「わたしもです。」と、ルーンがいった。「いったいどうして……。」
フルダーが大声でよんで、いそげとせきたてた。
タランとルーン王子は岩穴を出た。ガーギはすでに天井のわれめにのぼりついていて、ふたりを手まねきした。
「グルーの小屋でみつけた本は、」と、タランがいいかけた。
「グルーの持ちものなんか心配するな。グルーのほうを心配するんだ。」と、フルダーがいった。「やつが身動きをはじめてる。はやくこい。さもないと、やつの薬になってしまうことに、今だってなりかねないぞ。」
太陽はのぼったばかりだったが、しめっぽい洞くつから出た一行には、明るくあたたかだった。一行はありがたそうに、新鮮な春の空気を吸いこんだ。ガーギはうれしてたまらず大声をあげて、ひとり先に走っていった。そして、まもなく、よい知らせをもってきた。川が、ほど遠くないところにあったのだ。一行はせいいっぱいいそいで川に向かった。
大またでいそぎながら、タランはフルダーに本をつき出してみせた。「これには深いなぞが含まれています。文字は、わたしには読めません。書体は古代のものなんです。しかし、どうしてあらわれ出たのか……。」
「あんな経験をしたあとかだから。」詩人は中をちょっと見てこたえた。「じょうだんがいいたい気持ちはわかる。しかし、今は、じょうだんをいっている場合ではないぞ。」
「じょうだん? とんでもない!」タランは、もう一度本をゆびさして話しだした。ところが、ページの上は、前どおりになにもなくなっていた。「文字が。」タランは口ごもった。「消えた!」
「友よ、」と、詩人はやさしくいった。「おぬし、目にだまされたのだよ。川へついたら、頭にぬれてぐいをのせてやるから、ずっと気分がよくなるよ。あの暗闇や、危機一髪、煮られそうだったことを考えたら、むりからぬことではある……。」
「目に狂いはありません。」と、タランが苦情を申し入れた。「洞くつの中でも、あの玉のうずくらい光で見ても……。」
「おっしゃるとおりです。」ふたりの話をずっときいていたルーンが口をはさんだ。「わたしも、この目で見ました。まちがいありません。玉の光がページをすっかりてらしていました。」
「玉!」と、タランが思わずさけんだ。「待て! あの光のためか?」タランは、あわてて玉をとり出した。一行は立ちどまり、なにもいわずにタランを見まもった。手の中の玉がひかりだすと、タランは金色の光がページにあたるような位置にもっていった。
文字が、くっきりとうかび出た。
「驚嘆すべきことだ!」と、ルーンが思わずさけんだ。「生まれてこのかた、これほどのおどろきを感じたことはありません。」
タランは、草地にしゃがみこみ、玉を本にぐっと近づけると、ふるえるゆびで一枚一枚ページをめくった。奇妙なかくし文字が、どのページにもぎっしりならんでいた。吟遊詩人が、長くひっぱる低いおどろきの口笛をならした。
「これは、どう考えたらいいのです、フルダー?」タランはたずねた。本から頭をあげて、心配そうに吟遊詩人の顔を見た。
吟遊詩人は顔色を変えていた。「どう考えるか、いわせてもらえば、」と、フルダーはいった。「この本は即刻手ばなさねばならぬ、ということだ。川にすてたまえ。残念だが、わしにはこれが読めない。この秘密の手写文や古代文字は、どうしてもおぼえられなかった。だが、魔法は見ればわかる。」そして、身ぶるいすると顔をそむけた。「できれば、見ることすらごめんこうむりたい。恐れを感じるのではない。そうさ、ひどく不安な気持ちになるのだ。おせっかいをわしがどう考えているか、きみは知っているだろ。」
「グルーの言葉がほんとうなら、これは魔法の地から出たものです。」と、タランはいった。「でも、いったい何が書かれてあるのかなあ? わたしは、この本をこの世から消しませんよ。」タランは、本を上着のかくしにしまいながらつけ加えた。「口ではうまくいえないんです。なにか、ある秘密に触れたのだという感じなのです。奇妙な感じですよ。手に触れてとび去った蛾――そんな感じの秘密。」
「ふうむ。」フルダーが、落ち着かなげな目でタランをちらりと見ていった。「それを、どうしても持っていくというなら、どうか、おねがいだ――悪意はないんだよ、いいかね――わしからいつもちょっとはなれていてくれたまえ。」
一行が河岸についたとき、とうに正午はすぎていたが、そこで、幸運にぶつかってよろこんだ。いかだの残がいが、そのままになっていたのだ。一行はいそいで修繕にとりかかった。ルーン王子は、今までにないほど元気はつらつと、骨おしみせずにはたらいた。タランは、ここしばらく、モーナの王子がエイロヌイの婚約者であることを忘れていた。だが、ルーンに手をかして、つたでいかだをしばっているうちに、その悲しい事実を思い出した。
「あなたは、ご自分がほんとうの王子であることをたしかめたいと思っていらっしゃったのでしたね? たしかめられましたよ、それは、ルーズルムの息子、ルーン王子。」
「ええ、そうかもしれません。」ルーンは、そんなふうに考えるのははじめてらしくこたえた。「しかし、おかしなものです。そんなことは、前ほど重大なことに、すこしも思えないのです。おどろくべきことですが、ほんとうです!」
いかだのしたくができたとき、もう日は沈みかけていた。一日が終わりに近づくにつれて、タランの不安はつのった。そこで、岸で一夜をあかすより、すぐに進もうとせきたて、いかだにのりこんだ。
まもなく、たそがれが谷間に幕をおろした。アロー川は、のぼる月の光を浴びて銀色のさざ波をたてながら、急流を押し流していった。むっつりと何かを考えているような山にはさまれた両岸は、ひっそりと音もなかった。いかだのまん中では、ガーギが、よごれた落葉の玉のようにまるくなってねむっていた。そのそばには、モーナの王子が、まるい顔に満足そうなほほえみをうかべて、安らかな寝息をたてていた。タランとフルダーは、前半の不寝番を受けもち、急速に海に向かって流れる不細工ないかだのかじをとっていた。
ふたりは、ほとんど話をしなかった。フルダーは、例の奇妙な本に対する不安が、まだすっかり消えていなかった。タランは、あすのことを考えていた。あすは捜索も大詰めに近づくだろうと思っていた。今度もまた、この道をえらんだことが賢明だったかどうかという恐怖と疑いが、タランをなやました。エイロヌイがカー・コルールに連れ去られたとしても、マグ――あるいはアクレン――が今も彼女をそこにとじこめていると信じられる理由はなにもなかった。確実にわかっていることがほとんどないのだ。例の本のひみつ、エイロヌイの金の玉のひみつが、ひじょうにたくさんあるなぞに加わった。
「なぜ?」タランはつぶやいてみた。「なぜ、あの文字は、金の玉でてらしたときだけあらわれるのか? そして、なぜ、あの玉は、以前はだめだったルーンでも、今はひかるのか? それなら、なぜ、このぼくでもひかるのか?」
「わしは吟遊詩人だ。」とフルダーがこたえた。「だから、そういう魔法の仕組みについては知識が深い。教えてあげられ……。」たて琴の、末端に張った一本の絃が、ぴんといって二つに切れた。「あ、いやいや。」と、フルダーはいった。「じつをいうと、ほとんど知らんのだ。むろん、エイロヌイは、思いのままにあれをひからせる力を持って生まれついておる。あの子は、知ってのように魔力を持つ家の子で、あの玉は、あの子のものだ。ほかの人間の場合だが、こうではないか――いいかね、こりゃ憶測だよ――つまり、こんなことと関係があるのじゃないか――ううん、どういったらよいか――玉のことすら考えない――あるいは、おのれを忘れる。
「つまり。」と、フルダーはつづけていった。「あの洞くつで、わしがひからそうとしたとき、わしは心の中でいっておった。『このわしにできたら、このわしが道をみつけだせたら……』。」
「たぶん。」タランは、月光で白くひかりながら後ろへ後ろへととんでいく岸辺を見ながら、しずかな声でいった。「たぶん、おっしゃるとおりでしょう。はじめ、わたしも、あなたのように考えたのです。それから、エイロヌイのこと、彼女のことだけを考えました。そしたら、玉が光を出しました。ルーン王子はよろこんで命を捨てようとしました。かれの考えたのは、わたしたちの安全をはかることで、わが身のことはぜんぜん考えていませんでした。そして、いちばん大きな犠牲をはらおうとしたから、かれが持つと、あの玉はいちばんあかるくひかったのです。それが、玉の秘密でしょうか? 自分より、まずほかの人のことを考えるということが?」
「すくなくとも、玉の秘密の一つとは思えような。」と、フルダーが応じた。「そのことがわかったとなると、おぬしは偉大な秘密を見いだしたのだよ――玉があろうが、なかろうが。」
丘陵が低くなり、やがてスゲの野原にかわった。海のにおいと、塩気を含んだ川水のにおいが、タランの鼻に流れこんできた。前方を見ると、川は幅を広げて、入江に流れこみ、そのかなたの、さらに広々とした水のひろがりにつながっていた。右手の、岩がそそり立つ向こう岸に、寄せ波のとどろきがきこえた。タランは、夜が明けるまではこれ以上進んだらあぶないと、いやいやながら心をきめた。フルダーが、ガーギとルーン王子をおこしている間に、タランはさおでいかだを岸につけた。
一行は、丈高いアシの中に落着き、ガーギが食べもの袋をひらいた。タランは、あいかわらず不安な気持ちで、小さな丘にのぼり、海をうかがった。
「ものかげにはいっていろ。」と、ギディオンの声がきこえた。「アクレンの目は鋭い。」
15 島
ドン家の王子が、スゲの中から、影のごとくに姿をあらわした。頭をつつむ布や道具類は、もう身につけていなかったが、着ているものは変装のままのみすぼらしい衣服だった。ギディオンの肩には、カアがとまっていて、たたきおこされたことに腹をたてながら、目をぱちくりして羽づくろいをしていた。タランを見ると、頭をぴょこぴょこさせ、興奮してがあがあいいだした。
タランは、ぎょっとして、さけんでしまった。ルーン王子が、たいへんな勢いで剣をふりながら、せいいっぱい恐ろしい形相をつくって、大いそぎでタランの加勢にかけつけた。
「ややっ、これはくつつくりのようだな!」ルーンは、背の高い姿を見ると剣をおろしてさけんだ。「ほんとうにそうか? いったいぜんたい、おぬし、約束したあのくつはどうしたのだ?」
「残念ながら、ルーン王子。」と、ギディオンがこたえた。「あのくつは、ほかの仕事のつぎになります。」
「この方は、くつつくりではなく、ドン家の王子ギディオンです。」タランは、あわてて小声で教えた。
ガーギとフルダーも、走ってきた。吟遊詩人は、口をあんぐりとあけてしまった。
「これは、これは!」フルダーは、すぐに言葉がつづかなかった。「ディナス・リードナントで、おなじうまやに寝とまりしていたというのに! ギディオン殿、わしにおあかしくださりさえしたら……。」
「あなたをだましたことはおゆるしください。」と、ギディオンはこたえた。「あかす勇気がなかったのです。あのときは、沈黙が最上の楯でした。」
「ディナス・リードナントで、殿下をさがしたかったのです。」と、タランはいった。「しかし、マグが、そのすきを与えてくれませんでした。エイロヌイをさらって逃げたのです。わたしたちは、かれがエイロヌイを連れていったかもしれない、カー・コルールという島のことをきいたので、そこまでなんとか行こうとしているところです。」
「カアのおかげで、おぬしたちの身に何がおこったか、ちょっと知っている。」と、ギディオンがいった。「おぬしたちが川を下る道をえらんだと、カアが教えてくれた。カアはリーアンに追われておぬしらを見失ったが、ここでわたしをみつけたのだよ。
「アクレンもカー・コルールへ行った。」と、ギディオンはぐいぐい話を進めた。「それを知って、わたしは、彼女の船を追おうとした。漁師のひとりが、北の浜まで船で行ってくれた。おぬしの国人は勇敢だな。」ギディオンはルーンをちょっと見て言葉をそえた。「おぬしがモーナの王となったとき、かれらに忘れず栄誉を与えてやってくれよ。その漁師は、たのめばカー・コルールの城までつれていってくれただろう。この好意を、わたしは受けることができなかった。かれにわたしの使命をあかす勇気が出なかったからな。だが、モーナ港にもどる前に、船にのせていた小舟をよろこんで与えてくれ、しかも、危険な仕事と気前よいおくりものに、報酬を受けとろうとしなかった。」
「では、もうカー・コルールまで行かれたのですか?」と、タランはたずねた「エイロヌイのいる気配はありましたか?」
ギディオンはうなずいた。「うむ。だが、王女の救い出しは失敗してしまった。」ギディオンの口は重かった。「アクレンのとりこになっておる。マグは、われわれのだれよりも機敏に行動したのだ。」
「悪者め!」吟遊詩人がはげしい怒りをこめてさけんだので、カアがびっくりして舞い上がった。「人を小馬鹿にしくさる、こそこそしたどろぼうグモめ! あやつは、ぜひこのわしにおまかせくだされ。あやつとこのわしには、かたをつけるべき深いうらみがある。それが刻々と深くなっていく!」フルダーは剣をふりあげた。「剣などいらぬぞ! みつけたら、素手でつぶしてくれる!」
「待て、待て!」と、ギディオンは制した。「やつは、どろぼうグモかもしれぬが、その一かみは、それだけに致命的なのだ。あの男は、虚栄と野心のために、アクレンのあやつり人形になった。やつはかならず始末するし、アクレンも同様だ。今心配せねばならぬのは、エイロヌイのことだ。」
「救い出すことはできないのですか?」と、タランがたずねた。「どのくらいきびしく見張られているのです?」
「昨夜、あの島まで漕いで行ってみた。」と、ギディオンがいった。「島にいたのは、ほんのしばらくだったので、王女がとらわれている場所はみつからなかった。だが、アクレンがとるに足りない武士たちしか連れていないことはわかった。彼女に賭けたやとい武士やごろつきどもがいるだけだ。アローンの不死身はひとりもまじっていない。」そこで、ギディオンは無情な笑顔をつくり、「アヌーブンの庇護なしには、高慢なアクレンも、お追従者たちしかさしずできんのだ。」
「では、今すぐ攻めることができます。」タランは思わずさけんで、剣に手をかけた。「これだけの人数なら、やつらを打ち負かすことができます。」
「この仕事には、性質のちがうちからが必要なのだよ。そして、わたしたちが恐れねばならぬのは剣のみではない。」と、ギディオンはこたえた。「この事件については、まだおぬしらに語っていないことが多い。わたしにしてからが、知らなかったことがたくさんにある。今ですら、事件のなぞがすっかりとけたわけではない。だが、アクレンの企てが予想以上に根深く、エイロヌイの危機が深刻であることはわかった。手遅れにならぬうちに、なんとかカー・コルールから連れ出さねばならぬ。」
ギディオンは、マントでからだをつつむと、川岸に向かってあるきだした。タランが、腕をつかんでとめた。「わたしたちも連れていってください。」タランは心からたのんだ。「必要なときにはいっしょに戦い、エイロヌイの逃亡を護衛します。」
長身の戦士は歩みをとめると、返事を待つ一行を一渡り見て、みどりがかかった目をタランに向け、しげしげとうちながめた。「おぬしたちの勇気を、わたしは露うたがってはおらぬ。だが、カー・コルールには予想もつかぬ大きな危険がひそんでいるのだ。」
「エイロヌイは、わたしにとって、いや、みんなにとって、だいじな姫です。」と、タランはいった。
ギディオンは、風雪にきたえられた顔をきびしくひきしめて、ちょっと無言のまま立っていたが、やがてうなずいた。「のぞみにまかせよう。ついてくるがよい。」
ドン家の王子は、一行の先に立って沼地帯をこえ、せまい海岸に出た。つづいて、水ぎわを歩いてひっこんだ入江にたどりつくと、小舟が一つ、いっぱいにのびたもやい綱の端で、波に上下していた。ギディオンは、手まねで、一行にのれと命じ、オールをつかむと、音をたてない手ばやいこぎ方で、小舟を外海に向けた。
光にきらめく黒い水が、うねって舟をゆらすようになると、タランはへさきにうずくまって、カー・コルールがすこしでも見えるかと目をこらした。ルーン王子やほかの者たちはともに身をよせあってすわり、ギディオンは力強い肩を前後させてオールを漕いだ。星の光がうすれはじめ、堤のような海の霧が流れてきて、ひえびえと一行をつつんだ。
「仕事は手ばやく、夜明け前に終わらねばならんぞ。」と、ギディオンがいった。「アクレンの部下の大半は、本島側の入口をかためるように配置されている。われわれは、城の向こう側、外壁の真下から上陸する。闇を利用すれば、かれらの目をのがれられる。」
「グルーは、カー・コルールが本島から分かれてできたといっていました。」と、タランがいった。「しかし、こんなに海の中に出ているとは思いもしませんでした。」
ギディオンがひたいにしわを寄せた。「グルー? グルーという男については、カーはなにもいわなかったぞ。」
「カアがわたしたちと別れてからのことですから。」と、タランは説明した。「カアがわたしたちと再会できなかったのも当然です。わたしたちは、地中深くにいたのですから。」タランは、ギディオンに、エイロヌイの金の玉の発見や、グルーの奸計や、ふしぎな本のことを話した。ギディオンは熱心に耳をかたむけ、話をききおわると、オールを引き上げ、舟をただようにまかせた。
「もっとはやくこの話をきかなかったのが残念だ。そうしていたら、この玉を守る、よりよい手段が講じられたであろうに。」ギディオンは、タランが明るくひかりだした金の玉を手渡すとそういって、マントをひろげて光をかこった。それから、すばやくタランの手から例の書物をとって開き、なにも書かれていないページを、金の玉に近づけた。古代文字が、ぱっと浮き出た。ギディオンの顔は緊張のため蒼白になっていた。
「これを読む力は、わたしにはまったくない。」と、ギディオンはいった。「だが、これが何であるかはわかる。リール王家の最高の宝だ。」
「リールの宝ですか?」タランがささやくような声でいった。「それで、どんなたぐいの宝ですか? エイロヌイのものですか?」
ギディオンがうなずいた。「彼女はリール一族の最後の王女だから、血統から当然彼女のものだな。だが、知っておかねばならぬことは、それだけではない。リール王家の王女は、代々、プリデイン中でもっともすぐれた魔法の使い手であり、その魔力を、知恵と温情をもって使ってくれた。カー・コルールのとりでの中には、リールの宝や魔法や、このわたしですら知らぬ魔力を持つ器具が全部おさめられてあった。
「リール王家年代記にも、この、なぞに満ちたものが、どのように保管されているかについては、あいまいにのべてあるだけだ。そこには、母からむすめに代々伝えられ、黄金のペリドリンと名前のみ知られる魔法のことと、魔術や強力な呪文の秘密をすべて書きこんである一冊の本のことが書いてある。
「だが、レガトのむすめアンハラドが、母のねがいにそわぬ結婚のため、城をのがれ出た後、カー・コルールはうちすてられ、廃墟と化した。アンハラドが持ち出した魔法の書は、失われたと思われていた。黄金のペリドリンについては、その後のことは、いっさい闇につつまれておった。」ギディオンは金の玉に目を落とした。「黄金のペリドリンは失われなかった。ひかるおもちゃとして子どもの手に渡しておく以上に、上手なかくし方はあるまい。
「エイロヌイは、魔法の修行のためにアクレンのところにひきとられたと信じていた。」ギディオンは話をつづけた。「が、ちがう。アクレンがエイロヌイを盗み、幼いときに渦巻き城へ連れてきたのだ。」
「アクレンは、黄金のペリドリンに気づかなかったのでしょうか?」と、タランがたずねた。「もしその正体がわかっていたら、エイロヌイに持たせておいたのは、なぜでしょうか?」
「そうする以外なかったからだ。」と、ギディオンはこたえた。「たしかに、アクレンは、エイロヌイがひき継ぐものは知っておった。ペリドリンに気づいたのだが、正当な所有者から力づくで奪えば、魔力が失せることも知っておったのだよ。そして、魔法の書も姿を消していた。それがみつかるまで、アクレンはいっさい手が出せなかったのだ。」
「そして、その正体に気づきもせず。」と、タランがいった。「グルーが魔法の書の所持者になりました。あわれなおろか者! だまされたと思いこんでいましたっけ。」
「だまされていたのさ。」と、ギディオンが応じた。「知っていたとて、黄金のペリドリンの光がなくては、かくし文字を見ることもできなかったろうからな。また、見えても、何の得もなかったろう。かの魔法は、リール王家の王女だけのものだ。エイロヌイだけが、この文字を解読する、生まれながらの力を持っておる。あの王女が成人の域に達するまではだめだが。王女は今、成人の戸口に立っておる。カー・コルールの魔法は、もはや手のうちにあるのだ。そんなわけで、アクレンは、こんなにも必死になってエイロヌイを求めていたのだよ。」
「それじゃ、エイロヌイはぶじだ。」タランは思わずさけんだ。「彼女だけしか、魔法をよみがえらす人間がいないのなら、アクレンには、彼女を殺すことはできない。わたしたちをも殺せない。ペリドリンと魔法の書は、わたしたちの手にあるんだから。」
「いや。」と、ギディオンはきびしい調子でいった。「エイロヌイは以前に増した危険に陥っているといえるかもしれん。」
ギディオンは、魔法の書と黄金の玉を注意深く上着にしまいこむと、オールをこぐ手に、さらに力を入れた。小舟のへりにつかまっているタランは、高い塚状のものが、黒くぼんやりと前方にうかび上がってくるのを見た。ギディオンは、小舟をさらに外海に向け、半円形の進路をとって、ぐいぐいこぎすすめた。波のうねりが小舟を持ち上げてつきすすめるので、速度がしだいに増してきた。波がぶつかるはげしい音が、タランの耳にがんがんひびいた。ギディオンは、力をこめてかいを交互にうごかしていた。小舟が、はげしくあわだつせまい水路につきすすむと、ガーギがあわれっぽく鼻声をだした。
カー・コルールの尖塔が、夜空を背に黒々と立ちならんでいた。その石造りの塔を霧がとりまいていた。かつては誇り高く気高くそびえていたにちがいない塔の列も、今はくずれ落ち、ぎさぎざしたくずれのこりが、折れた剣のかけらのように立っていた。小舟が近づくにつれ、鉄でふちどりした重々しい城門が見えてきた。それこそ、本土とつながっていたときの、どっしりとかまえたとりで、カー・コルールのなごりであった。城門は海に面していたが、城が沈下したため、波打ちさわぐ海水に半ばうずまっていた。波は、あらしに乗じて廃墟をうばいとり、徹底的に破壊しつくそうとするかのように、さかまいてはぶつかっていた。
どっしりした城門のそばに、風と波が、洞穴のような穴をうがっていた。ギディオンは、その穴に小舟をつなぎ、みんなにおりろと身ぶりであいずした。岩にはいのぼったとき、タランは、城門が苦しげにうめき、きしむのをきいた。城門に口ができて、波の攻撃に大声で反抗しているように思えた。ギディオンがぐんぐんのぼっていった。その後ろを、ルーンが、ごつごつした岩に手をかけながら、あえぎあえぎのぼり、タランとガーギは、モーナの王子が落ちたらくいとめようと、そのあとにつづいた。フルダーは、もくもくとがんばってついていった。
カアは、もう城壁までいっていた。タランは、くずれたはざまをいただく切り立った城壁が、黙然とそびえ立つのを見て、カラスのつばさをうらやましく思った。ギディオンは先頭にたち、城壁にぴったり沿ってどっしりした城門の方に向かった。城壁のつき出た部分が、まるで剣で切りつけたようにわれていて、そこに、くずれ落ちた石がころがっていた。ドンの王子はとまれとあいずした。
「ここで待っていてくれ。」ギディオンは小声で命じた。「まず、わたしがはいりこんで、アクレンの見張りの位置を見てくる。」そういって、王子は、音もなくわれめの中に姿を消した。のこった三人は、岩の間にうずくまったが、恐ろしくて口がきけなかった。
タランは、ひざをかかえた腕に、頭をのせた。頭の中にエイロヌイのことと、ギディオンの話が、くりかえしくりかえし浮かんできた。あのすらりとしたよく笑う少女が、アクレンに匹敵するほどの強力な魔力を使うことができるなど、どう考えても信じられなかった。すぐに、もう、すぐに、エイロヌイは救われるのだと、タランは自分にいいきかせた。だが、あせりが高まるにつれて恐怖心も強くなり、タランは心配そうに顔を上げると、ギディオンの気配を求めて、目と耳に神経を集中した。
すぐに、タランは、ドンの王子のあとを追いたい気持ちにかられたが、そのとき、闇の中からギディオンがあらわれた。「アクレンは、貧弱な不寝番しかおいていないぞ。」ギディオンは恐ろしい笑顔を浮かべていった。「ひとりは本島側を見張り、ひとりは剣にもたれていねむりをしておる。のこりはぐっすりだ。」
一行は、いそいでわれめからはいりこんだ。こんどは、エイロヌイの牢をみつける番だったが、タランはがっくりしてしまった。城壁の内部から見たカー・コルールの廃墟は、まるで巨大な骸骨だった。目の前には、かつて華麗だった広間や塔のくずれのこりがひろがっていた。タランは気落ちして、ギディオンをちらりと見た。長身の戦士は、剣を抜けと、しぐさで教え、各自に探索場所をさしずした。
フルダーが、付属の建物に向かおうとしたとき、タランが大声をあげそうになって、あやうくおさえた。カアが、塔の一つから舞いたち、さっとおりてきて、タランがふりあげた腕にとまったのだ。カラスは、羽ばたくと、ふたたび舞い上がり、さっきの塔の上を旋回した。
「みつけたんだ!」と、タランが小声でいった。「捜索はおわった!」
「いや、はじまったばかりだ。」と、ギディオンが注意した。「だれかひとりが、のぼっていって、エイロヌイを連れ出せるかどうかをたしかめる。のこりは壁に沿って見張りにつき、アクレンの部下の不意打ちにそなえるのだ。」
「わたしが。」と、タランはいいかけたが、そこでためらい、ルーン王子を見た。そして一礼すると、「王女はあなたの婚約者におなりでしょう。あなたはのぞんでおられましたね。王女に……。」
「わが武勇のほどを見せたいことをですね? そのとおり。」と、ルーンはゆっくりいった。「しかし、もはやそれをのぞんではおりません。自分で武勇がたしかめられたら、もう満足です。それに、エイロヌイがだれよりもまっ先に会いたいのは、ほんとうはあなただと思いますね。」
タランが目を向けると、ギディオンは一つうなずいて見せ、ほかの者たちに向かい、城沿いに本島の方向にすすめとあいずした。ルーンが、ガーギとフルダーを追っていくと、ギディオンは方ひざをつき、上着のかくしから魔法の書と黄金の玉をとりだした。
「万一まずいことがおこった場合、この二つはアクレンの手に渡してはならん。」ギディオンは、石くずの下に二つを注意深く埋めていった。そして、石を上手にもとにもどすと、まわりの土をうまくならした。「これで、もどってくるまで敵にみつかることはあるまい。」
カアは、タランにもどっていた。ギディオンは立ち上がると、帯の間から一巻きの細い綱をとり出し、片端に輪をつくってからカアに向かって突き出し、ひそひそとなにかつぶやいてみせた。カラスは、細い綱をぱっとくちばしでくわえると、羽音をたてずにくずれかけた塔に舞い上がり、突き出た石の上をぐるぐる舞っていたが、端の輪を上手にその石にひっかけた。
ギディオンがタランの顔を見てやさしくいった。「おぬしの心中はわかっておる。さあ、のぼるのだ、豚飼育補佐よ。この仕事はおぬしにまかせたぞ。」
タランは、塔の下までかけ寄った。綱をつかんで、ごつごつした壁に片足をかけると、重みで綱がぴーんと張った。頭上で霧がうずまくのが見えた。タランは綱をにぎる手に力をこめ、からだをひっぱり上げた。海からの身を切るような突風がもろにぶつかってきた。一瞬、足が塔からはなれ、からだがぶらさがってしまった。眼下では、荒波が岩にはげしくぶつかっていた。タランは、下を見る勇気がなく、ただ必死になって目まいをおこしそうなからだのうごきをとめることにつとめた。片脚がまた塔の壁にかかった。タランは、あるだけの力を綱を持つ手にこめて、さらによじのぼった。
おおいのない窓が、すぐ上のところに口をあけていた。タランは窓じきいまでからだを持ち上げた。小さな部屋の中では、ろうそくの灯が風にゆらめいていた。タランの心はおどった。エイロヌイがいたのだ。
王女は、低い寝台に身じろきもせずによこたわっていた。テレリア王妃が用意してくれた着物を今も着ていたが、泥によごれ、破れていた。赤味がかった金髪はみだれて肩にかかり、顔は青白くやつれていた。
タランは、勢いよくしきいをまたぎこすと、どさりと石の床におり、エイロヌイのそばにかけよった。肩に手をかけた。王女は身じろぎすると顔をそむけ、ねむったままで何かつぶやいた。
「さ、いそいで!」タランはささやき声でいった。「ギディオンが待ってる。」
エイロヌイは身をおこし、片手で顔をぬぐって目をあけた。タランの姿を見ると、びっくりして、あっとさけんだ。
「ガーギも来ている。」と、タランはいった。「フルダーもルーン王子も――みんな来てるんだ。もうだいじょうぶ。さ、はやく!」
「あら、おもしろい。」エイロヌイがねむたげな声でいった。「でも、それ、どういう人たち? それに、そうよ。」エイロヌイはつづいていった。「あなた、だれ?」
16 路傍の人間
「わたしは、レガトの娘アンハラドの、そのまた娘のエイロヌイ。」エイロヌイは、のど元につるした銀の三日月に片手をもっていきながら、そうつづけた。「でも、あなた、だれ? あなたがいっていること、全然わからないわ。」
「目をさませよ。」タランは声を荒げてエイロヌイをゆさぶった。「きみは夢を見ているんだ。」
「ええ、そうよ。もちろん夢を見ていたわ。」エイロヌイは、かすかに、ねむたげにほほえんでこたえた。「でも、どうしてわかった? 夢って、見ているとき、形になって外にあらわれないものだと思うけど。」エイロヌイは、そこで話をやめて眉をしかめた。「いえ、あらわれるかな? いつかはっきりさせなくてはならないわ。唯一の方法はねむっているときの自分を見ることだと思う。でも、それをどうやって見るか、考えもつかないわねえ。」声がもたついたかと思うと、かぼそくなって消えた。なんだか、突然に、タランのいることを忘れたらしく、また寝台に身をうずめてしまった。「むずかしい――むずかしいわ。」と、エイロヌイはつぶやいた。「からだを裏返すみたいだわ。」
「エイロヌイ、ぼくを見てくれ!」タランは、エイロヌイをおきあがらせようとしたが、エイロヌイはうるさそうな小さなさけび声をあげて身をひいた。「よくきいてくれ。」と、タランはいいはった。
「そのとおりにしていたじゃないの。」と、エイロヌイはこたえた。「ところが、まるでわけのわからないことばかりいってる。ねむっていたほうがずっと楽だったわ。わたし、どなられるより、夢見ているほうがいいわ。でも、なんの夢を見ていたかしら? 楽しい夢――豚がいて――人がひとりいて――いいえ、もう消えてしまったわ。ちょうちょうよりはやく。あなたがだめにしてしまったのよ。」
タランは、むりやり、少女をもう一度おきあがらせた。今、タランは、はらはらしながらエイロヌイを見つめていた。着物は旅でよごれ、髪はぼさぼさになっていたが、どこにもけがはないようだった。しかし、目が変にうつろだった。エイロヌイをのみこんだのはねむりではない。タランの手はふるえた。そうだ、エイロヌイは薬をのまされた。そこで、また別な考えがうかび、タランは心臓が凍りつくように思った。魔法をかけられたのだ。
「よくきいてくれよ。」と、タランはたのんだ。「ぐずぐずしていられないんだ……。」
「ことわりもなしに人の夢の中にふみこんできていいなんて、わたし思わないわ。」エイロヌイがちょっといらいらしていった。「ちょっと無作法だわ。まだ使っているクモの巣をこわしてしまうようなものよ。」
タランは窓までかけよった。仲間の姿はまっくた見えず、カアもいなかった。月はすでに沈み、そろそろ空が明るむころだった。タランは、すぐにエイロヌイのところへもどった。
「いそいでくれ。たのむ!」タランは大きな声でいった。「ぼくといっしょにおりるんだ。綱は丈夫だからふたりいっしょにおりられる。」
「綱?」エイロヌイがびっくりしてさけんだ。「わたしが? あなたといっしょに綱でおりるですって? あなたとは、たった今会ったばかりじゃないの。世にもばかげた申し出みたいに思えるわ。いやですよ。」エイロヌイはあくびをかみ殺した。「やりたかったら、ご自分で綱をすべりおりなさいな。」エイロヌイはちょっときつい口調になった。「そして、わたしをねむらせてちょうだい。夢がとぎれたところがみつかったらいいけれど。夢を破られていちばんまずいのはそこなのよ。二度とつづけられないんだわ。」
タランは、おどろきのあまり色青ざめ、エイロヌイのそばにひざをついた。「きみは、何にとりつかれているんだ?」タランはささやいた。「そいつと戦ってくれ。きみは、ぼくが思い出せないのか? 豚飼育補佐タランだよ。」
「あら、おもしろい。」と、エイロヌイはいった。「いつか、あなたのこと、もっと話してね、ぜひ。でも、今はいや。」
「考えるんだ。」タランはせまった。「カー・ダルベンを思い出すんだ。コルを――ヘン・ウェンを……。」
海風が窓ごしに、からみ合うつるのような、細くうずまく霧をはこんできた。タランは、今いった名前と仲間たちの名をくりかえした。
エイロヌイは、まるでこの部屋にいないような、遠くを見る目をした。「カー・ダルベン。」エイロヌイはつぶやくようにいった。「ほんとうに変だわ。――そこも夢の中に出てきたような気がする。果樹園があった。そこは花が咲いていた。わたし、木にのぼったのよ。ぎりぎりのところまで……。」
「そう、そうだったよ。」タランは力をこめてうながした。「ぼくも、その日のことをおぼえてる。きみは、リンゴの木のぎりぎりてっぺんまでのぼりたいといったんだ。ぼくはよせと注意したけど、きみはやっぱりのぼってしまった。」
「わたし、木のことをよく知ろうと思ったのよ。」と、エイロヌイ話をつづけた。「毎年あらためて知ろうとしなくちゃいけないのよ。木はたえず変わるんだから。そして、夢の中でわたしは、いちばん上の枝までのぼったわ。」
「それは夢じゃなかったんだ。」と、タランはつよくいった。「きみの知っている暮らし、きみ自身の暮らしだったんだよ。日があたれば消える影じゃなかったんだ。ほんとうに、きみは、いちばん高い枝までのぼったんだ。そしたら、ぼくのおそれていたとおり、折れた。」
「他人の夢がどうしてわかるのかしら?」エイロヌイは、まるでひとりごとでもいうようにいった。「そうよ。枝が折れてわたしは落ちたの。すると、下にだれかがいてわたしを受けとめてくれた。あれが豚飼育補佐だったのかしら? あの人、どうなったんでしょうね?」
「今、ここにいるのさ。」と、タランは落着いた声でいった。「かれは長いあいだ、かれ自身も知らないまま、いろいろなことをして、きみの愛をもとめていたんだよ。こうしてきみをみつけたんだから、きみだって、かれのところにもどる道をみつけられないかな?」
エイロヌイが立ち上がった。エイロヌイはためらったが、やがて一歩すすみ出た。
だが、タランに向かって歩みよったとたん、目がうつろになり、生気が失せた。「夢よ。夢にすぎないわ。」エイロヌイはそうささやくと、向きをかえてしまった。
「アクレンが、きみをこんなにしてしまったんだ!」と、タランは思わず声を荒げた。
「これ以上きみに危害を加えさせるものか。」そして、エイロヌイをつかまえると、窓の方へひっぱっていった。
アクレンの名を耳にしたとたん、エイロヌイは緊張し、タランの手をふりもぎった。そしてさっと向きを変えてタランに向かうと、「あつかましくも、リール家の王女に手をふれるのか?」
その声はきつかった。目にも、やさしい表情がまったくなかった。一瞬よみがえった思い出が消え失せたことが、タランにもわかった。どんなことをしてでも、この恐ろしい場所からエイロヌイを連れださねばならないことはもちろんだった。今でもすでに手のほどこしようがないかもしれないと思うと、タランはますます恐ろしくなり、いても立ってもいられなかった。そこで、むりやりエイロヌイの腰をつかんで肩にかつごうとした。
エイロヌイが力いっぱいタランのほほに平手打ちをくわせた。タランはよろめいてあとずさった。だが、タランに苦痛を与えたのは平手打ちではなく、エイロヌイの軽蔑しきった目だった。エイロヌイは今、口もとに、あざけりと悪意のこもった笑いをうかべていた。エイロヌイにとって、タランは道端の石ころも同じ人間になっていた。タランは胸がはりさけるかと思った。
タランは、もう一度、エイロヌイをつかまえようとした。エイロヌイは、はげしい怒りのさけび声をあげて、身をひねってのがれた。
「アクレン!」と、エイロヌイは大声でよんだ。「アクレン! 助けて!」
エイロヌイは、戸口から廊下へ走り出た。タランは、ろうそくをいそいでつかむと、逃げる王女を追った。王女のくつ音が、暗い廊下を遠ざかっていった。角をまがる着物の端がちらりと見えて消えた。王女は、あいかわらずアクレンの名をよびつづけていた。すぐに城の者たちが目をさまし、タランたち一行はみつけられてしまうだろう。タランは、自分のまぬけさをののしった。こうなったら、逃げるのぞみがすこしでもあるうちに、魔法をかけられたエイロヌイをつかまえる以外にない。そう思ったとき、城壁でだれかのさけび声と剣のぶつかりあう音がきこえた。
ろうそくで手をやいたタランは、のこりを投げすてた。そして、暗闇の中を、廊下の端まで走り、階段をころげ落ちた。そこは、カー・コルールの大広間だった。朽ち欠けた窓には、あけぼののあかね色のもやがかかっていた。エイロヌイは、朽ちてわれかけた板石の並ぶ広い床をよこぎって姿を消した。一本の手が、タランの上着をぐっとつかみ、ぐるりと向きをかえさせた。タランの目に、たいまつの光がぱっととびこんできた。
「豚飼いだな!」マグがにくにくしげにいった。
侍従長は、マントのかくしから短剣をひき抜くと、タランを一突きしたが、タランは、片腕で相手の手をはね上げて防いだ。短剣がふっとんだ。マグはののしり声をあげ、たいまつを剣にしてよこなぐりにふった。タランは後退し、なんとか剣を抜こうとした。目ざめた見張りたちのさけび声が、大広間いっぱいにひびきわたった。そして、つぎの瞬間、ギディオンと、すぐあとにつづく二人の仲間があらわれた。
マグが、あわてて向きをかえた。フルダーが敵の戦士たちの攻撃を打ち破り、マグめがけて全速力で向かってきたのだ。黄色い針金のような髪をなびかせた吟遊詩人は、もう得意満面だった。
「その悪漢、わしがもらった!」フルダーはそうさけび、頭上で剣をびゅっ、びゅっとふりまわした。狂ったような吟遊詩人を見たマグは、恐怖のさけびをあげて逃げようとした。吟遊詩人はあっという間におそいかかり、剣のひらで右、左と、猛烈に打ちまくったが、ねらいはほとんどはずれてしまった。マグは、大死一番、詩人の首にとびかかり、とっくみあった。
タランが、フルダーの助太刀をしようとしたとたん、戦斧を持った敵がおそいかかってきた。タランも頑強に立ち向かったが、いつのまにか広間のすみまで追いつめられてしまった。たたかいの大混乱の最中だったが、タランは、ギディオンとルーンがほかの敵を相手にたたかっているのを目にとめた。モーナの王子は、折れた剣を、めったやたらにふりまわしていた。そして、そのはげしい一撃が、偶然タランの相手を倒してしまった。フルダーとマグは、そのときもまだ、とっくみあっていた。タランが詩人のそばへかけよったとき、黒いもじゃもじゃとしか見えないガーギもかけつけてきた。そして、怒りのさけび声とともに空中にとび上がり、マグの肩にとびついた。侍従長は、その職の印である銀の鎖をまだ首にかけていた。ガーギは、それをひっつかんで、からだごとぶらさがった。マグは、ああっ、とうめき、後ろざまによろけ、息をつまらせ歯をむきだした。ガーギは、そのままぶらさがっていたが、侍従長が倒れる直前に、ひょいとはなれた。あっという間に、吟遊詩人が、倒れたマグをおさえつけた。ガーギは、ばたばたするマグの足にけられるのもかまわず、その足に力いっぱいしがみついた。フルダーは、マグの頭に腰かけた。裏切者の侍従長をつぶしてくれるといった前のおどし文句を実行にうつすつもりらしかった。
ギディオンは、まばゆくひかるディルンウィンをひき抜き、敵をふたり切り殺した。切られたふたりは、床にころがって、もうぴくりともうごかなかった。敵は焔を発する剣を見ておびえ、逃げちってしまった。ギディオンは大またに仲間のところへやってきた。
「エイロヌイは魔法にかけられています。」と、タランが大声で知らせた。「見失ってしまいました。」
大広間の端に、小部屋との間をしきる赤いカーテンがかかっていた。そのカーテンが、向こう側から押しあけられた。ギディオンが目をやると、そこにはエイロヌイが立っていた。そして、そのかたわらに、アクレンがいた。
17 カー・コルールの魔法
タランは、心臓が凍りつくかと思った。おびえながらアクレンの前に立ったあの日の、悪夢のような記憶がよみがえった。黒衣の女王の姿を見ると、今もあのときと変わらないおびえきった子どものように、またふるえてしまった。束ねていない髪は、銀色にひかって、ふっさりと肩までたれていた。顔色は死者のように白かったが、美しさはすこしもおとろえていなかった。ずっと以前、渦巻き城にいたときには宝石をいっぱい身につけていたが、今は、ほっそりしたゆびも、白い腕も、ゆびわやうでわにかざられていなかった。しかし、二つの目は、宝石そのもののように冷たく、タランの目をひきつけてはなさなかった。
ギディオンが突進した。タランも、さけび声をあげ、剣をかざしてあとにつづいた。エイロヌイがおびえてアクレンにしがみついた。
「武器をおくがよい。」と、アクレンが命じた。「この子の命は、わらわと一連托生じゃ。わらわの命をとるというのか? されば、このむすめも、ともに死なねばならぬぞよ。」
黒い剣を見て、アクレンは身を固くしたが、すこしも逃げようとはしなかった。それどころか、くちびるをゆがめてかすかにほほえんだ。ギディオンは立ちどまり、さぐるようにアクレンを見た。そして、怒りに顔をどす黒く染めながら、ゆっくりとディルンウィンをさやにもどした。
「いわれるとおりにせよ。」と、ギディオンはタランに小声でいった。「アクレンのいうことにいつわりはなさそうだ。死ぬときですら執念深いのかもしれぬ。」
「賢くておられますな、ギディオン卿。」と、アクレンがやさしげな声でいった。「あなたは、わらわをお忘れになっておられないし、わらわもあなたを忘れてはおりませぬ。豚飼育補佐とおろかな詩人どのもおられるが、ふたりとも、もっと前に人喰いカラスのえになっていてしかるべきでありました。おそらく、その者たちは、あなたほどには、このわらわがわかっておられないのであろうが、すぐに思い知らせてやりますぞ。」
「エイロヌイ王女にかけた魔法を解け。」と、ギディオンはいった。「われわれの手にかえしてくれれば、じゃませずにおまえをのがしてやろう。」
「ギディオン卿は寛大でいらっしゃる。」アクレンはからかうようなほほえみを顔にうかべてこたえた。「あなた自身がこのうえなくあやういときに、わたしの安全をうけあってくださるとは。カー・コルールに足をふみ入れたことすら向こう見ずだったのです。そして、苦境を抜けだすのぞみがうすくなればなるほど、そのお言葉はますます大胆におなりになる。」
アクレンは、しばらくギディオンを見やっていた。「あなたのごときお方が、わらわの夫となってともにこの国を支配しようという申し出を、にべもなくおことわりになったとは、まことに残念。
「このむすめを解き放てと?」と、アクレンは話をつづけた。「いえ、いえ、ギディオン卿。このむすめは、わらわの企てどおりにわらわに仕えるのです。わらわの魔法のみがこのむすめをしばっているのではありませぬ。このむすめの先祖のこと、彼女のからだに流れている女系の魔法の血はごぞんじでしょうの。カー・コルールそのものが、正当の王女の出現を長い間待っていたのです。カー・コルールが、この子に呼びかけているのです。この城がすこしでもあるかぎり、つねに呼びかけることでしょう。この地位は、この子の生まれながらの権利なのです。わらわは、このむすめがそれを求める手助けをしようとしているにすぎませぬ。」
「むりやりに求めさせているんだ!」タランが思わずさけんだ。「エイロヌイは自らのぞんでカー・コルールへ来たんじゃない。自らの意志でここにいるのでもない。」必死の気持ちが用心をすっかり忘れさせてしまい、タランは、ふしぎそうに自分を見ているエイロヌイに、思わず近よろうとした。ギディオンが肩をつかんでひきもどした。
「ほんとうに、のぞんでおらぬと思うのか?」アクレンは、片手を上げ、小部屋をさし示した。そこには、エイロヌイの背丈ほどもある古い古い箱が一つあった。「わらわは、この中のものをエイロヌイに見せた。魔法の道具いっさいが、エイロヌイのために秘蔵されてあった。このむすめが思いもしなかった強大な力が、いつでも手に入れられるのじゃ。それを捨て去れと、この子にいうのか? この子の口から返事をきくがよい。」
そのアクレンの言葉で、エイロヌイは顔をあげた。口をひらいたが、言葉は出なかった。エイロヌイは、首にかけた銀の鎖をおもちゃにしながらためらっていた。
「おききなさい、王女。」アクレンが、低い声でたたみかけるようにいった。「この者たちは、そなたの遺産を、生来そなたのものである魔力を奪い去ろうと思っているのです。」
「わたしは、リール王家の王女。」と、エイロヌイが冷たい声でいった。「わたしは、わが物を手に入れたい。それを奪おうとするこの者たちはだれじゃ? ひとりは、わたしの部屋へ来て、わたしをおびえさせた男じゃな。豚飼い、と称しておったな。他の者たちは知りませぬな。」
胸も張りさけるようなガーギの泣き声が、大広間にひびきわたった。「いいえ、いいえ、ごぞんじですよ! そうですとも! あわれな仲間にひどいことをいってくださいますな! ここにいるのは、ガーギですぞ! 卑しい、忠実なガーギですぞ! ガーギ、今までどおりに、賢いお姫さまにおつかえしようとひかえておりますぞ!」
タランは顔をそむけた。あわれなガーギの悲嘆が、自分の悲しみ以上につらくてたまらなかったのだ。アクレンは、注意深い目でエイロヌイを見て、満足そうにうなずいた。
「して、この者たちの運命は? 王女の遺産を奪おうとした者たちの運命は?」
エイロヌイは眉をしかめた。一行を見る目が落着きなくうごいた。頭が混乱し、いいしぶる様子で、アクレンの顔を見た。「この――この者たちに罰を加える。」
「エイロヌイは、おまえの声で話している。」タランは腹をたててどなった。「言葉もおまえのものだぞ! エイロヌイは、内心では、われわれを不幸にしたいと思っていない。」
「そう思うのか?」と、アクレンはこたえ、エイロヌイの手をとると、床に倒れて詩人にがっちりおさえられているマグをゆびさした。「王女よ、そなたの王家の召使いが、まだこの侵入者どものとりこになっています。あれを解き放っておやりなさい。」
マグの肩の上に馬のりになっているフルダーは、えり首をつかんだ手に、さらに力を入れた。吟遊詩人に荒々しくゆさぶられたマグは、つばをとばしてののしった。「おぬしが飼いならしたこの腹黒グモめは、わしのとりこだ!」と、フルダーはさけんだ。「こいつとわしの間には、ずっと前からかたをつけねばならぬ問題があったのさ。こいつを五体満足で返してほしいかね? それなら、エイロヌイ王女をこっちに渡してくれ。」
「取引きの必要はない。」と、アクレンはこたえた。そして、エイロヌイに向かい、そっけなくあいずした。王女の顔に、荒々しくきびしい表情がうかぶのをタランは見た。エイロヌイは、片手を上げ、五本のゆびをいっぱいにひろげてのばした。
「どちらを罰しようかの?」と、アクレンは考えこんだ。「あつかましくも、そなたの召使いと自称しておる醜い生きもののほうかな?」
ガーギが、わけがわからないながらもこわそうに顔を上げたとき、アクレンは、ききなれない言葉をエイロヌイにささやいていた。王女のゆびがかすかにうごいた。ガーギが、信じられないといったように、びっくりして目をまるくした。一瞬、口をぽかんとあけ、身じろぎもせずに王女を見つめていた。王女の片手が、面くらっているガーギに向けられ、指が突然にぴんとのびた。ガーギが鋭い苦痛のさけび声をあげ、からだをかたくして頭をおさえた。
アクレンが、楽しげに目をかがやかせた。そして、また、しつこくエイロヌイにささやいた。ガーギが悲鳴を上げた。目に見えない拷問者を避けるように両手をふりまわしながら、狂ったようにくるくるまわった。やがて、ひいひいわめきながら、ばたっと地面に倒れると、からだを二つに折ってごろごろころげまわった。タランとギディオンがそばにかけ寄った。しかし、苦しめられているガーギは、傷ついたけだもののようにふたりにはむかい、苦痛のあまりめちゃくちゃにうちかかった。
フルダーが、ぱっと立ち上がった。「やめろ!」とさけんだ。「それ以上ガーギを苦しめるな! マグはくれてやる。ひきとれ!」
アクレンの命令とともに、エイロヌイが手をおろした。ガーギは、石の床にたおれて、はげしくあえいだ。からだをふるわせてすすり泣いていた。くしゃくしゃ頭を上げたとき、涙がほほを伝って流れているのが見えたが、それはたった今受けた苦痛だけの涙ではないことが、タランにはわかった。つかれはてたガーギは、苦しみながらも身をおこし、手をついて床にすわった。
ガーギはいざりながらすこし前に出た。涙にぬれた目をエイロヌイに向けて、つぶやくようにいった。「かしこい王女さま、このあわれなやわらかい頭にひどい苦痛を与えられたこと、本心ではありませぬ。ガーギにはわかる。ガーギ、王女さまを許します。」
マグは、そのすきに、吟遊詩人の手からのがれられたことに気づくと、すぐさまよろよろと立ち上がり、アクレンのそばへいそいでのがれた。フルダーとの格闘のおかげで、侍従長はひどいありさまになっていた。しゃれた衣服には、あちこち裂けめが見え、まっすぐな髪ははだらりとひたいの上にたれ、官位を示す首かざりは、まがってひしゃげていた。それでも、アクレンのそばにのがれてしまうと、腕ぐみして傲慢そうに頭をぐっとそらした。目が怒りとにくしみにもえていた。マグの視線だけでも、ガーギが受けたよりももっとはげしい苦痛でフルダーはころげまわるだろう。アクレンがマグにそんな力を与えたことを、タランは確信した。
「たて琴ひきめ、このむくいをたっぷり味わわせてやるぞ。」と、マグがはき出すようにいった。「最初きさまに出会ったとき、むちをくれてたたきださずにおいたことをうれしく思う。今なら、きさまを、きさまのたて琴の糸にひっかけて、ルーズルムの城のいちばん高い塔からつるしてやることができるからな。わしがディナス・リードナントの君主となったらすぐ、そうしてくれる。」
「ディナス・リードナントの君主だと!」フルダーがかっとしてさけんだ。「侍従のしるしだって、きさまには過ぎた栄誉だ。」
「ふるえるがいい、たて琴ひきめ!」と、マグはあざけった。「ディナス・リードナントは、わしのものだ。そういう約束なのだ。全領土がだ。マグ王だ! マグ大王だぞ!」
「マグまぬけ王だ!」と、吟遊詩人が切りかえした。「アクレンが王国を約束しただと? きさまには食器の洗い場のほうがずっとにあいだ!」
「アクレンの約束などうそだ。」と、タランがさけんだ。「思い知って嘆くがいい、マグめ!」
黒衣の女王はにっこりわらった。「アクレンは、仕えるものへのむくいも、はむかうものへのむくいも、わきまえておる。マグの王国は、プリデインのもっとも強力な国々に伍するであろう。そして、カー・コルールは、空前の栄光にみちたものとなる。この大広間はプリデイン全土の統治者の玉座となる。アローン王ですら、わらわの前にひざまずせかてやろう。」アクレンの声は、ささやきほどにひくくなった。青白い顔に、冷酷な情熱がみなぎっていた。ギディオンたちにそそがれていた目は、今、かれらを越えた遠くを見ていた。「アヌーブンのアローンめは、おじけづき、あわれみをこうであろうぞ。だが、かのものの王座はくつがえしてくれるわ。かの者に、権力への秘奥をあかしてやったのは、このアクレンであった。かの者はわらわを裏切ったからには、そのあだを受けさせてやるわ。かの者の前にプリデインを統べていたのはわらわであった。わらわの統治権に、あえて異をとなえるものなど、だれひとりいなかったのだ。ふたたびかくなるであろう。永遠に、かくなるであろうぞ。」
「おぬしの、古の統治ぶりは、伝承が伝えている。」ギディオンが、鋭い声でいった。「人びとを、どうやっておぬしの奴隷にしておこうかとしていたこともな。おぬしは、おぬしをあがめない者を苦しめた。服従した者にとって、人生は、じりじり死に近づくこととほとんど変わりなかった。おぬしが血のいけにえを求め、いけにえのさけびを楽しんだことも、わたしは知っているぞ。だめだな、アクレン、そんなことはふたたびとはよみがえらせない。おぬし、このむすめが、そんなことのために手びきをすると考えているのか?」
「この子は、わらわの思うがまま。」と、アクレンはいい返した。「この子の生きた心の臓をこの手ににぎっているようなものじゃ。」
ギディオンの目がぎらりとひかった。「おい、アクレン、おぬし、なにをいってもむだだ。このわたしはだませない。おぬしは、エイロヌイ王女を通じて支配しようとしているのか? 王女が使える魔力は、まだ目ざめていない。それを目ざめさせる手段が、おぬしにはないではないか。」
アクレンはさっと青ざめ、たたかれたようにあとずさった。「わかりもせぬことを、なにをいう。」
「いや、いや、ちがいますよ!」今まで、茫然と話をきいていたルーンが思わずさけんだ。モーナの王子は勝ちほこってアクレンを見すえた。「本ですよ! 黄金の光ですよ! 二つとも、わたしたちが持っているんだから、渡すもんですか!」
18 黄金のペリドリン
「ルーン王子、しゃべっちゃいけない!」タランは警告したが、手おくれだった。ルーン自身もしくじりに気づいて、あわてて片手で口をふさいだ。まんまるい顔に狼狽しきった表情をうかべ、どうしようというふうに、あたりをきょろきょろ見まわした。ギディオンは、風雪をしのいできた顔を青白く緊張させたまま、だまっていた。だが、不運なモーナの王子を見た目は、とがめるよりも、悲しそうだった。ルーン王子は肩を落とした。首をたれ、なさけなさそうに顔をそむけた。
ルーンが思わず口走る前、ギディオンが話している間、タランは、アクレンの心に恐怖がまじったのをかんじとっていた。それが今は消え去り、なぞめいたわらいに口がほころんでいた。
「ギディオン卿、わらわがあなたに真実をかくしたがっているとでもお思いか?」と、アクレンはいった。「魔法の書がカー・コルールから消え失せたことはわかっていたので、わらわも長いことさがしていたのです。黄金のペリドリンは、王女が自ら投げすてたか、なくしたかした。まことに、わらわの企てを成就するには、その二品が足りませぬ。お礼を申しますぞ、ギディオン卿。」と、アクレンはつづけた。「あなたのおかげで、長たらしい探索の手間がはぶけました。わらわに渡されて、苦しみをすこしでも軽くなされたがよい。さあ!」アクレンは荒々しく命じた。「渡すのじゃ!」
ギディオンは、きっぱりした声で、慎重にゆっくりといった。「モーナの王子の申すとおりだ。わたしたちは魔法の書と、魔法をあきらかにする光とをみつけた。だが、やはり王子の申すとおり、おぬしには渡さぬ。」
「渡さぬとな?」と、アクレンはいい返した。「ふん、手をのばしさえすればよいほどのことじゃ。」
「わたしたちの手にはない。」と、ギディオンは答えた。「上手にかくしてあるから、おぬしにはとうてい手にはいらぬ。」
「それも、たやすく片づくこと。」と、アクレンはいった。「舌をときほぐし、秘中の秘をも声高にさけばせる手はある。」そして、ルーン王子をちらりと見た。「モーナの王子は、わらわが強いずとも話す。ふたたび語ることになる。」
ルーンは目をぱちくりさせてかたずをのんだが、いさましくアクレンに立ち向かった。「わたしを拷問しようとお考えなら、よろこんでためしていただきましょう。どれほどのことがわかるかをためすのも、おもしろいでしょう。なにしろ、わたし自身、ペリドリンのありかなどかいもく知らないのですから。」ルーンは、一つ大きく息をすいこむと、目をかたくつぶった。「さあ、さあ、やってください。」
「アクレン様、たて琴ひきめを、わたしにおわたしを。」マグせがんだ。フルダーは、毛をさかだてんばかりに、さあこいとにらみつけ、「きゃつめ、わたしの音楽で、あのたて琴にあわせてうたったことがないほど、よくうたわせてみせます。」
「おだまり、侍従長、」アクレンがぴしゃりといった。「みんな、よろこんで口をわるようにしてくれるわ。しまつはそれからじゃ。」
ギディオンの手が、黒い剣のつかにかかった。「わたしの同志の何人にも危害を加えさせぬ。」ギディオンはさけんだ。「危害など加えたら、よいか、いかなる犠牲をはらおうと、おぬしを切り殺す。」
「こちらもおなじことじゃ。」と、アクレンが切りかえした。「わらわを倒そうとしてみよ。このむすめを殺す!」そして、声を落とすと、「故に、ギディオンよ、生には生、死には死ということじゃ。さあ、どちらをとる?」
「この人たちが、わたしの安ぴかおもちゃを持っているのなら。」エイロヌイが、アクレンに身を寄せながらいった。「それは返さなくてはいけない。あれが、他人の手にあるのはふさわしくない。」
その言葉をきいたタランは、思わず悲しげなさけびをもらしてしまった。一行の顔をひとりひとりじって見ていたアクレンが、すぐにタランに顔を向けた。
「これは、そなたにはうれしくないのう、豚飼育補佐よ。」アクレンはささやき声でいった。「王女に他人よばわりされることは、そなたには苦しみじゃ。短剣よりもむごく傷を与えるのであろう? そなたの足もとの、そのあわれな生きものの苦しみよりはげしい傷をな。わらわが、かくなれと命じたからには、王女はこのままじゃ。だが、王女に、そなたのことを思い出させるのに、黄金の玉は高すぎる代価か? そなたにはなんの意味もない魔法の書は、どうじゃ?」
アクレンは、タランから目をはなさず、近づいてきた。その声は、ささやきほどに低くなっていた。その言葉は、タランだけにきこえる感じで心にからみついてきた。「わらわがプリデインを支配しようと、他のものが支配しようと、豚飼育補佐になんのかかわりがあろう? ギディオン卿ですら、そなたがこよなく思うものを、そなたのために手に入れることはできぬ。じっさい、かれはただ王女を死なすだけじゃ。だが、わらわなら、そなたに、王女の命を与えられる。そうよ、わらわのみが与えられる贈りものじゃ。
「そして、それのみか、さらにさらに」と、アクレンはささやいた。「わらわなら、エイロヌイ王女を王女にできる。だが、彼女の夫である王はだれじゃ? そなたは、このわらわに、王女を解きはなち、無知な王子と結ばせよとねがうのか? そうじゃとも。王女はルーズルムの息子に与えられることになっておると、マグがきかせてくれた。
「そのあかつき、豚飼育補佐の得るものはなんじゃ? 王女をとりもどし、結局、他の者に奪われるのか? これがそなたの胸の内であろうが、カー・ダルベンのタラン? これも考えるがよい。アクレンは好意には好意でむくいることを。」
アクレンのまなざしは、短剣のきっさきのようにタランを刺しつらぬいた。タランは頭がくらくらした。タランは、なかばすすり泣きながら、ささやき声をきくまいとしたが抗しきれず、両手で頭をおおってしまった。
「さあ、話すのじゃ。」と、アクレンの声が追いうちした。「黄金のペリドリンは――かくし場所は……。」
「ほしいものはくれてやる!」
一瞬、タランは、自分の声が、話すまいとする意志を打ち負かして大声でさけんだのだと思った。だが、すぐ、信じられなくて、口をあんぐりあけてしまった。
その言葉は、ギディオンの口から出たものだった。
ドンの王子は、オオカミに似た灰色の髪の頭をぐいとそらし、目をぎらぎらさせて立っていた。そして、その顔には、タランが見たことのないはげしい怒りの表情があった。この戦士の声は、あらあらしく冷厳に大広間にひびきわたり、きくものをおののかせた。タランは身ぶるいした。アクレンは、ぎょっとして、ふいに身うごきした。
「ほしいものはくれてやる。」ギディオンがもう一度さけんだ。「黄金のペリドリンと魔法の書は、城門近くの城壁のわれめに、わたしがこの手で埋めた。」
アクレンは、一瞬ただだまっていたが、やがて目をほそめた。「わらわに、いつわりをきかすのか、ギディオン?」アクレンは、歯がみするような口でつぶやいた。「それがほんとうでなかったら、エイロヌイは今すぐ死ぬことになるぞよ。」
「二つとも、おぬしの手のとどくところにある。」と、ギディオンがこたえた。「手に入れるのをひかえるのか?」
アクレンが、マグにそっけない手ぶりで命じた。「とってきてやれ。」侍従長は、あわてて大広間を出ていき、アクレンはふたたびギディオンに顔を向けた。そして、「気をつけるがよい、ドンの王子、」としわがれた小声でいった。「その剣に手をかけることはならぬ。すこしでも近づいてはならぬ。」
ギディオンは返事をしなかった。タランと一行は、言葉もなくじっと立ちつくしていた。
マグが、大広間にもどってきた。マグは、黄ばんだ顔を興奮にひくひくさせながら、とくいげに黄金のペリドリンをささげ持っていた。息を切らせてアクレンのかたわらにかけよったマグは「たしかでしたぞ! もう、わしらのものだ!」とさけんだ。
アクレンは、二つの品をひったくってとった。黄金の玉は、鉛のようにくすんでいて、その美しさは消えていた。アクレンはほしくてたまらないように、それをつかんだ。両眼がぎらぎらした。顔にわらいがうかび、とがった歯の白い先がのぞいた。一瞬、アクレンは、さがし求めていた宝を手から離すのがいかにもいやそうにしていたが、すぐに、エイロヌイの手におしつけた。
マグは、大きな期待にわくわくそわそわして有頂天だった。やせた細長いゆびで、しっかりと銀の首かざりをつかみ、とび出た目を欲望にぎらつかせ、ほほをふるわせていた。「わしの王国!」マグは、かん高い張りつめた声でさけんだ。「わしの王国! すぐにわしのものになるぞ!」
アクレンが、くるりと向きをかえて、あざけるようにその顔を真正面から見すえた。「王国を、卑しいばかものにとな? 命をとられずにすんだら、ありがたく思うがよい。」
マグは、アクレンの言葉の重大さを知ると、口をあんぐりあけ、かびたチーズ色に顔色を変えた。はげしい怒りと、それに劣らない恐怖でのどをつまらせながら、マグは、アクレンのおどすような目にしりごみした。
魔法の書は、エイロヌイののばした手の上に、ひらいてのせてあった。エイロヌイは、もう一方の手に黄金のペリドリンを持ち、ふしぎそうに見ていた。黄金の玉のまん中に、きらめきながらくるくるまわる雪の一ひらのような、ごく小さな一点の光があらわれはじめた。エイロヌイが眉根を寄せた。その顔に奇妙な表情があらわれた。タランが恐怖に呆然となってじっと見ていると、エイロヌイは苦しいとでもいうように、頭をいそがしく左右にふって、はげしく身ぶるいした。ほんの一瞬、目を大きく見開いて、なにか話そうとする様子を見せた。その声は、あえぎにしかならなかった。だが、その、たちまち過ぎた一瞬、タランは、エイロヌイが、おぼろげに記憶をとりもどしたように思った。声に出そうと、のぞみのない努力をしたのは、このタランの名ではなかったろうか? エイロヌイは、心のうちで荒れ狂う二つの強い力にひきさかれでもするようにふらふらした。
「呪文を読むのじゃ!」と、アクレンが命じた。
黄金のペリドリンの光がじりじりとかがやきを増してきた。なんだか、風がものいう力を得て、せきたて、甘い言葉でだまし、命令でもするかのように、大広間じゅうに、かすかな、わやわやというささやきに似た音がおこってきた。それは、カー・コルールの石そのものが声を持ったかのようだった。
「はやく! はやく!」アクレンがさけんだ。
エイロヌイは、自分をおさえつけている力ぜんぶにあらがっていた。タランは、それに気づき、心中にのぞみがこみ上げてきた。苦しんでいる王女には、アクレンのあらゆる脅迫も、タランたちのあらゆる助けの力も及ばないのだった。
すると、突然、エイロヌイのたったひとりのたたかいがおわった。タランは絶望して、思わずさけび声をあげた。エイロヌイが、ひかりかがやく玉を持ち上げると、さっと、何も書いていないページに近づけたのだ。
黄金のペリドリンは、今まで見たことがないほどまばゆくかがやいたので、タランは片手をさっと上げて目をおおった。光が大広間に満ちみちた。ガーギは、床にぱっとひれ伏すと、毛むくじゃらな腕で頭をかかえこんだ。タランたちは、恐ろしくてあとずさった。
突然、エイロヌイが床石に魔法の書を投げつけた。書の間から真紅の煙が一すじたちのぼったかと思うと、それが幅広い一本の火と変わり、大広間の丸天井にまで突き上がった。書が、自ら出した焔で焼きつくされたときですら、炎はおとろえるどころかぐんぐん高くなり、真紅から目もくらむばかりの白に変わって、ごうごう、ぱちぱちと燃えさかった。燃えてちぢんだページが、火のうずの中でくるくるまわり、しゅうしゅう音をたてる炎の中心をおどりまわった。それを見て、負けたというように、カー・コルールのささやき声がうめきに変わった。小部屋をしきる赤いカーテンが広間の側に吹かれたかと思うと、くねる火柱につかまった。もう、魔法の書はすっかり消え失せていたが、それでも燃え上がった炎は、しずまらなかった。
アクレンは、はげしい怒りに狂わんばかりになり、悲鳴に似たさけびをあげつづけていた。のぞみを失った心からの怒りのため、その顔はゆがんでいた。エイロヌイは、なおも黄金のペリドリンをしっかりとつかんだまま、くずれるように床に倒れた。
19 洪水
ギディオンが、さっと前におどり出た。そして、「おぬしの魔力はつきたぞ、アクレン!」とさけんだ。土気色になった女王は、一瞬よろめいたが、すぐに悲鳴をあげながら大広間からにげ出した。タランは、エイロヌイのそばにかけ寄ると、炎をものともせずに、王女のぐったりしたからだをだきおこそうとした。ギディオンは、アクレンをつかまえようと力いっぱい走っていた。吟遊詩人は、剣を抜いて、あとを追っていった。マグは姿を消していた。ガーギとルーン王子が、いそいでタランに力をかしにやってきた。いくらもたたないうちに、フルダーがもどってきた。顔がまっさおになっていた。
「あの腹黒グモが、わしらをおぼれさせようとしてる! マグのやつ、城門をあけたんだ!」
吟遊詩人が大声でそう告げたとき、タランは、寄せ波のとどろきをきいた。カー・コルールが震動した。タランは、気を失っているエイロヌイを肩にかついで、よろめきながらくずれて大きくなっていた窓から外に出た。カアが、狂ったように塔の上空を旋回していた。フルダーは、城門の方へ来いとせきたてていた。そこで、船にのれるのぞみがあるかもしれないからだった。タランは、フルダーについていったが、巨大な鉄わくのついた城門が、打ち寄せる海水のためにちょうつがいからちぎりとられそうになっているのを見て、だめだとさとった。波にたたかれた城門は、さっと内側にあいてしまい、あわだつ大波が、えものをあさる野獣のように、島に突進してきた。
城壁のかなたでは、おし寄せる波のてっぺんに、マストがかしぎ帆が風にはためくアクレンの船があった。波にもてあそばれる船のふなばたには、生きのこりの戦士たちがしがみつき、船にはい上がろうと苦闘していた。へさきには、マグが立っていて、にくしみに顔をゆがめ、くずれはじめた城に向かってげんこつをふっていた。ギディオンの船の残がいが、おし寄せた海水の上でくるくるまわっているのを見て、タランはのがれる手段がぜんぶだめになったことを知った。
外壁が、海の最初の突進でくずれ落ちた。積み上げた石がふるえたかと思うと、ばらばらになって落ちた。カー・コルールの塔という塔がゆれうごき、タランの足下の地面がぐらぐらゆれた。
大混乱の中で、ギディオンの声がひびきわたった。「それぞれ、わが身をまもれ! カー・コルールはこわれる! 城壁からとんではなれろ。さもなくば、おしつぶされる!」
タランは、ドンの王子が、アクレンの逃げていった堤防のいちばん高い岩にのぼったのを知った。のぼったギディオンは、アクレンの手をとってくずれる岩からたすけだそうとしていた。ところが、アクレンは、ギディオンにこぶしをふるい、顔をひっかいた。女の悲鳴とののしり声が、おし寄せる波のとどろきをつらぬいてきこえた。堤防がくずれ、ギディオンはよろめいて倒れた。
廃墟の最後の防壁が倒れた。ざざっと音をたてながら水の幕が空を消した。タランは、エイロヌイをぎゅっとだきしめた。氾濫する海がふたりをのりこえ、水中にのみこんだ。あわだつ海水で息がとまり、容赦ない潮にもまれて、意識のない王女を腕からひきもがれそうになった。タランはけんめいになってうき上がったが、すぐに島がさけて沈んだために生じた渦につかまった。エイロヌイをしっかりつかんで、必死に渦からのがれたとたん、こんどはくだけ波のえじきになり、波はまるで野馬のようにタランをつきころがした。
タランは、ころがされて波間に落ちたが、海のために体力と胸の息をたたき出されてしまった。それでも、まだ、タランはのぞみを失わなかった。白波立つ寄せ波は、タランとかよわいお荷物を本島の岸の方へ運んでいってくれるからだった。黒みどりの波のために目に水がはいってよく見えなかったが、それでもなぎさに寄せる小さな波がぼやっと見えた。タランは、使えるほうの手で弱々しくおよぎだした。だが、この最後の努力で体力がつき果ててしまい、まっくろなものにのみこまれた。
意識がもどると、灰色の空が見えた。うなり声がきこえたが、波の音ではなかった。ばかでかい二つの黄色い目が、タランの目をじっとのぞきこんだ。うなり声が高くなった。熱い息が顔にかかった。目がはっきりすると、とがった歯とふさふさした毛のはえた耳が見えた。タランは、自分があおむけにねていて、リーアンが底のやわらかい大きな片足を胸にのせてのぞきこんでいることに気づいてあわててしまった。たいへんだと大声でさけび、もがいてのがれようとした。
「やあ、やあ!」こんどはルーン王子が、まるい顔いっぱいに笑みをたたえてのぞきこんだ。そのかたわらには、フルダーがいた。吟遊詩人も、ルーン同様、びしょぬれでよごれきっていて、黄色い髪から細長い海藻がたれさがり、そこから水がたれていた。
「まあ、落着けよ。」と、フルダーはいった。「リーアンは何もしないよ。仲よくなりたいと思っているだけさ。その気持ちの表し方が変わっているときもあるがね。」フルダーは、猫の大きな頭をなで、たくましいあごの下をかいてやって、なだめるようにいった。「おいでリーアン、いい子だ。わしの友だちをふんづけちゃいけないよ。彼はまだ、そういうことにはむいていないんだ。おとなしくていたら、たて琴の糸がかわいたらすぐ、一曲かなでてやるからな。」
フルダーは、またタランの顔をのぞきこんだ。「わしらは、リーアンにうんと礼をいわにゃならんのだよ。じっさい、なにもかも、リーアンのおかげなんだ。海がわしらを打ち上げたとき、寄せ波からわしらぜんぶをひろいあげてくれたのさ。彼女がひろい上げてくれなかったら、まだ、あそこにころがっていただろうよ。」
「ほんとうにおどろくべきことでした。」と、ルーン王子が口をはさんだ。「わたしは、おぼれ死んだと思いましたよ。しかし、奇妙なことに、意識がもどっても前とすこしも変わった気がしませんでしたねえ!」
「気づいて、かたわらにリーアンがうずくまっていたときは、ほんとうにぎょっとしたよ。」と、フルダーがいった。「彼女は、両の前足でたて琴をおさえていた。わしが目ざめてまたかなではじめるのが待ちきれないといったふうにな。この猫ときたら、わしの音楽に夢中なんだ! だから、ここまでずっと、わしらのあとをつけてきたのさ。いや、まったく、そうしてくれてよかったよ。しかし、なにごとにも時と所を考えなくちゃならないことがようやく彼女にもわかったのだと思う。ほんとうに、しごくおとなしくしているからな。」フルダーがそうつけ加えたのは、リーアンがごしごしごしごし頭をこすりつけはじめたため、ひっくりかえりそうになったからだった。
「ほかの人たちは、どこにいます?」タランが、心配そうにあいての話をさえぎった。
「カアはどこへいったかみつからないようだ。ガーギ、たき火用に流木さがしにいっている。」と、吟遊詩人がこたえた。「かわいそうに、まだ、リーアンをこわがっていてね。しかし、まあ、いずれなれるよ。わし自身、すっかり好きになったからな。こんなによいきき手がみつかることは、そうざらにはないから、わしは、飼おうと思ってる。いやいや、」と、詩人はつけたした。リーアンが首すじにひげをこすりつけて、力強いその前足でからだをおさえつけたからだ。「たぶん、その反対のいい方をすべきだろうな。」
「エイロヌイは? ギディオンは?」と、タランがせきたてた。
吟遊詩人は目をふせた。「うむ、そりゃ。」詩人はつぶやくようにいった。「ここにおるよ。ギディオンは、できるかぎりのことをやった。」
不安がつのったタランは、ふらふらと立ち上がった。ころがっている岩の風下側に、人が二人ねかされていて、かたわらにギディオンがひざまづいていた。タランはよろよろとなぎさを歩いていった。ギディオンが目をあげてタランを見た。いかにも気づかわしそうな顔だった。
「エイロヌイは生きておるよ。」ギディオンは、タランの目の問いにこたえていった。「それ以上のことはわからぬ。だが、これだけはわかる。アクレンはもうエイロヌイを支配していないよ。」
「アクレンは――では、アクレンは死んだのですか?」タランはたずねて、黒い服に身をつつんだ姿をじっと見つめた。
「アクレンも生きている。」と、ギディオンはこたえた。「だが、長い間生死の境にあった。しかし、魔力はもう破れてしまっている。これが、事件のなぞに対するこたえだよ。ところが、大広間で彼女と対面するまでは、それがわからなかった。体面しても最初は、それも確信はできなかった。彼女がほんとうに自らを死に至らしめてもエイロヌイをあきらめないことがわかったときはじめて、彼女がおとろえきった自力の魔法以外、なにもかも支配力を失ってしまったことがわかったのさ。彼女の目と声で、わたしはそれを読みとった。アクレンの力は、アヌーブンの王とのつながりが切れたとたんに、衰えはじめていたのだ。
「カー・コルールの魔法は、アクレンの最後ののぞみだった。今や魔法は失われ、カー・コルールは海の底になった。」と、ギディオンはさらにいった。「もうアクレンを恐れなくてよいのだ。」
「それでもまだ、わたしはアクレンが恐ろしい。」と、タランはいった。「それに、カー・コルールは忘れられないでしょう。アクレンは、わたしに、ほんとうのことを話しましたよ。」タランは落着いた声でいった。「わたしには、あれ以上、アクレンの話をききつづける意志力がありませんでした。ペリドリンのかくし場所を話してしまうだろうと思っていました。――だから、その前にあなたが殺してくれたらいいと考えたのです。それが。」タランはこまったようにいいたした。「話してしまったのはあなたでした。」
「あれは、なさねばならぬ危険な賭けであった。」と、ギディオンがそれにこたえた。「わたしは、あのおもちゃの性質に、ある推測を持っていた。あの玉だけが、呪文をうき出すことができるからには、それを破壊することも、あの玉だけができるということなのだ。そのときはじめてエイロヌイは解き放たれる。エイロヌイ自身にどんな負担がかかるか、それはよくわからなかった。悲しいことに、エイロヌイはひどい、無残な苦しみをなめた。耐えがたいものだったかもしれぬ。」
「思いきっておこしてみたら?」と、タランが小声でいってみた。
「手をふれてはならぬ。」と、ギディオンがいった。「自然に気づかせねばならんのだ。われわれには、のぞみを持って待つことしかできぬ。」
タランは頭をたれた。「彼女を危害からふせぐためなら、この命もすてたでしょうし、この苦しみからのがれさせられるなら、今だって命をなげだします。」そういって、タランは苦笑した。「アクレンが、豚飼育補佐の運はどうなるのかとききました。それは、わたし自信が、しばしば自問したことでしたよ。今はもうわかります。豚飼育補佐の命なんて、なんの役にもたたないし、だいじなものでもありません。」
「ルーン王子は、そうは思わんだろうよ。」と、ギディオンがこたえていった。「おぬしがいなかったら、あの男はまいごになって、生死にかかわる危険におちいっていただろう。」
「わたしは、ルーズルム王に誓いをたてたのです。」と、タランはこたえていった。「誓いを破らなくてすみました。」
「そして、誓いをたてなかったら。」と、ギディオンがたずねた。「おぬしは、おなじことをしなかっただろうかな?」
タランは、しばらくだまっていたが、やがてうなずいた。「ええ、していただろうと思います。わたしをしばっていたのは、誓い以上のものでした。王子には、わたしの助けが必要でした。わたしに、かれの助けが必要だったように。」そして、ギディオンの顔を見た。「わたしは、ドンの王子が、ばかな豚飼育補佐を助けてくださったときのことも、おぼえています。こんどは豚飼育補佐が王子をたすける。似つかわしくないですか?」
「王子と豚飼育補佐とを問わず」と、ギディオンがいった。「それが男のふるまいなのさ。男の運命はたがいにないまざっている。だから、おぬしは、自分の運命からのがれられないように、他人の運命をよけて通ることはできんのだよ。」
「そして、ギディオン卿。」と、アクレンの声がした。「あなたは、わらわに、過酷な運命をおしつけましたな。」
黒衣の女が立ち上がっていた。アクレンが、岩にしがみついてからだをささえているのだった。フルダーになかばかくれた顔は、やつれ、苦しげにゆがみ、くちびるは血の気がなかった。「死を与えてくれたほうが親切であったであろうに。なぜ、わらわに死をたまわらなかったのか?」
タランは、さっきまで冷たく誇り高かった女王が、ぐいと顔をあげたとき、しりごみした。一瞬、女王の目が誇りとはげしい怒りでぎらりとひかるのが見てとれた。
「ギディオン、そなたは、わらわを滅ぼした。」と、アクレンはさけんだ。「わらわが、そなたの足下にひれ伏す姿を見たいのか? わらわの魔力は、ほんとうに奪い去られたのか?」そこで、アクレンは声をたててわらった。「まだ一つのこっておるぞよ。」
この言葉で、タランは、アクレンが乾いた流木の枝を一本にぎっているのに気づいた。アクレンがその枝を高くかざすと、タランが息をのむ間に、枝はぼやけてにぶくひかりだした。そして、あっと思ったとき、枝のかわりに短剣があった。
どうだといわんばかりのさけびをあげて、アクレンは短剣を胸に突きさそうとした。ギディオンは、とびかかって手首をつかんだ。アクレンはさからったが、ギディオンは、つかんだ短剣をふりもぎった。短剣はまた流木の枝にもどり、ギディオンが二つに折ってなげすててしまった。アクレンは、砂の上に倒れてすすり泣いた。
「おぬしの魔法は、今まで死の魔法であった。」ギディオンは、ひざをついて、アクレンの肩にやさしく手をおいていった。「生きるてだてを求めるがよい、アクレン。」
「放浪者として生きるほか、生きる道はない。」アクレンは、ギディオンをさけてさけんだ。「好きにさせてたもれ。」
ギディオンはうなずき、やさしくいった。「自らすすむ道をみつけるがよい、アクレン。かりにその道がカー・ダルベンに至るならば、おぼえておくがよかろう。ダルベンはおぬしを追いはらいはしないことをな。」
空が、厚い雲におおわれてきた。正午がずきたばかりというのに、岸辺に突き出た大岩が、うすぐらさのため、紫色に見えた。ガーギが、流木でたき火を燃やしてくれたので、一行は、ねむりつづけるエイロヌイのそばにすわり、何もいわずに待ちつづけた。そこからすこしはなれたなぎさには、黒いマントに身をくるんだアクレンが、じっとうずくまっていた。
意識がもどってからずっと、タランはエイロヌイのそばをはなれなかった。エイロヌイがこれっきり目ざめないのではないか、目ざめてもやはりタランがわからないのではないかと心配で、しんのつかれるつきそい番をやすめなかった。ギディオンですら、エイロヌイに加えられた危害の影響がどのくらいつづくか予測できないでいた。
「しょんぼりしてはならん。」と、ギディオンはいった。「ねむっているのはよいことなのだよ。この方がどんな薬をのませるより、心をいやす力がある。」
エイロヌイが、寝苦しそうに身うごきした。タランが、はっと腰をうかした。ギディオンが、タランの腕をそっとつかみ、しずかにすわらせた。エイロヌイのまぶたがひくひくした。ギディオンがきびしい表情でじっと見まもっていると、エイロヌイは目をあけ、ゆっくりと頭をおこした。
20 誓いのしるし
王女は、上半身をおこすと、ふしぎそうに仲間を見た。
「エイロヌイ。」と、タランがささやくようにいった。「ぼくらがわかるかい?」
「カー・ダルベンのタラン。」と、エイロヌイはいった。「そんなことがきけるものは、豚飼育補佐だけよ。もちろん、わかるわよ。わからないのは、こんな海岸で、びしょぬれの砂まみれで、わたしが何をしているかってことよ。」
ギディオンがにっこりわらった。「エイロヌイ王女は、われわれの手にもどった。」
ガーギが、うれしさのあまり大声でさけび、タランとフルダーとルーン王子がいっせいに話しだした。エイロヌイが、両手で耳をふさいだ。
「やめて、やめて!」エイロヌイは大声でいった。「頭がくらくらするじゃないの。そんな話し方じゃ、あなたたちの手と足のゆびを同時にかぞえるより、もっとこんがらかっちゃうじゃないの!」
一行がせいいっぱいがまんして口をつぐんでいる間に、ギディオンが一部始終を要領よく話してきかせた。話がおわると、エイロヌイは頭をぶるっとふった。
「みんな、わたしよりずっとおもしろいことをやったのね。」そして、とほうもなく大きい猫ののどをくすぐると、猫はよろこんでのどをならした。「わたしは、どうもはっきりおぼえていないんだから、なおさらよ。
「あのマグが逃げちゃったのは、まずかったわね。」と、エイロヌイはつづけていった。「今ここにいたらよかったのに。あの男とは、かたをつけなくちゃならないことがあるから。あの日、わたしが朝食をとりにいこうとしたら、廊下の角からぬっと出てきたの。そして、ひじょうに重大なことがおこったから、すぐにいっしょに来てくれなくてはといったの。」
「あらかじめ注意しておいてやれたらよかったんだ。」と、タランが話しはじめた。
「わたしに注意?」と、エイロヌイが受けていった。「マグのことで? わたし、すぐにさとったわよ。顔つきを見ただけで、かれがなにかたくらんでいるって。」
タランは目をまるくしてエイロヌイを見た。「それなのに、ついていったのか?」
「あたりまえよ。」と、エイロヌイはいった。「ほかにさぐりようはないでしょ? あなたは、わたしの部屋の前にすわりこんだり、わたしの身辺に護衛をおくとおどしたりで夢中だったでしょ。あなたに分別ある言動を求めてもむだだとわかったの。」
「かれを酷評してはならんね。」と、ギディオンがわらいながらいった。「かれは、そなたをまもることだけを考えていたのだ。そうせよというわたしの命令にしたがったのだよ。」
「ええ、それはわかっています。」と、エイロヌイはいった。「ですから、わたし、すぐに、みなさんがいっしょにきてくださったらよかったのにと思いはじめました。でも、そのときにはもう、手おくれでした。城からすっかりはなれたとたん、マグは、わたしをしばったのです。そのうえ、さるぐつわまで! あんなひどいことってなかった! 一言もしゃべれないんですもの!
「でも、そのために、あの男の企てはだめになりました。」と、エイロヌイはさらにつづけた。「あの男、おっしゃったとおり、捜索隊がずっと前へすすんでしまうまで、丘陵にひそんで待ったのです。それから、わたしを小舟へひきずっていってのせました。きっと、あいつのすねは、これからしばらくはあざだらけでしょうよ。でも、わたしは、あの安ぴかおもちゃを落としてしまいました。さるぐつわをはめられていたため、ひろってほしいと、あいつに伝えられませんでした。
「それが、自業自得となりました。わたしがあれを持っていないことがわかると、アクレンはかんかんになりました。そしてマグをしかりつけたのだけれど、その場ですぐに首をきらなかったのがふしぎ。わたしには、とてもやさしく思いやりがありました。だからすぐ、なにかいやなことがはじまるなとわかったのです。
「そのあとは。」と、エイロヌイは話しつづけた。「アクレンがわたしに魔法をかけたのでほとんどなにもおぼえていません。あのおもちゃが、またこの手にもどるまではあれを手にしたら――ほんとうにふしぎでした。あの光の中に、あなた方がみんな見えたのです。目で見たというのではなく、心で見たのです。そして、わたしに魔法を破ってくれとねがっていることがわかりました。わたしも、みんなどおなじくらい、破りたかった。
「ところが、なんだか自分がふたりいるようでした。ひとりは魔法を打ちすてたいと思い、別のひとりは、すてたくないと思っていました。魔力を持つ女になれる機会は今以外にないとわかっていました。今、魔法をすてたら、それっきりだとわかっていました。それは、」エイロヌイは、やさしくタランに向かっていった。「ずっと前モルヴァの沼地で、あなたがアダオンの魔法のえりかざりをすてようと決心しなくてはならなかったとき、ちょっとあんな気持ちだったと思うわ。
「そのあとのことは、いやでした。」エイロヌイは口ごもった。「わたし――わたし、話したくありません。」そして、ちょっとだまりこんだ。「これでもう、わたしは魔法使いにはなれないわ。もう、すっかりなくなって、のこったのはただの女の子よ。」
「それこそ、大いに誇ってよいことさ。」と、ギディオンがやさしくいった。「自ら犠牲にしたもののおかげで、そなたは、アクレンがプリデインを支配することを防いだのだよ。われわれは、この命ばかりか、もっと多くのものを、そなたのおかげで助けられたのだ。」
「魔法の本が燃えてしまったのはうれしいけれど、」と、エイロヌイはいった。「あのおもちゃがなくなったのは悲しい!。もう、ずっと沖まで流れていってしまったにちがいないもの。」そこで、エイロヌイはため息をついた。「もう手の内ようはないわねえ。でも、ないとさびしいでしょうよ。」
そのとき、タランは、うすぐらい灰色の空で、なにかがきらりとひかってうごいたのを見た。そこで、ぱっと立ち上がった。カアだった。カアが全速力で舞いおりてくるところだった。
「これでみんなもどった!」と、フルダーが思わずさけんだ。
リーアンが両の耳をぴっと立て、長いひげをひくひくさせたが、カラスに向かって突進しようとはしなかった。それどころか、すわり立ちして、このきのうの敵に向かい、親しげにのどをならした。
カアの羽根はよごれきって乱れに乱れていたが、エイロヌイの頭上を羽ばたいて舞った。ぶざまな姿だったけれど、カアはもう大とくいで、なきたてたり、くちばしを打ちあわせたりした。「おもちゃ!」と、カアはしわがれ声でいった。「おもちゃ!」
カアの爪から、エイロヌイののばした手の中に、黄金のペリドリンが、ぽとりと落ちた。
はじめ、ギディオンは、朝まで休むことにきめていた。ところが、ルーン王子がぜひディナス・リードナントにもどりたいといった。
「かたづけなくてはならないことが山ほどあるのです。」と、王子はいった。「わたしたちは、自ら引き受けなくてはならないことを、マグにまかせてしまっていたのではないかと思います。王子であるためには、考えていたより、もっと多くのことがあるのですね。わたしは、そのことを、豚飼育補佐に教えられました。」と、王子はつづけて、タランの手をしっかりにぎった。「ほかのみなさんからも教えられました。それに、わたしはモーナのこともほとんど知りません。わたしが王になることがあったら、かならず、すっかり見てまわります。まあ、今度のようにではないことをのぞみますが。そんなわけで、おさしつかえなければ、わたしは、すぐに出発したいのです。」
ガーギは、カー・コルールの近くでなんかぐずぐずしていたくなかったし、フルダーはリーアンに、自分の王国というあたらしいすまいを一刻も早く見せたくてたまらなかった。エイロヌイがだいじょうぶ旅ができるといい張ったので、おしまいにギディオンもすぐに出発することに同意した。そのうえ、グルーがどうしているかをたしかめるため、洞くつのところを通ることにも同意した。それは、タランがあのあわれな巨人を助けてやるといった約束を、今も忘れなかったためだった。
みすぼらしい姿の一行は、すぐに海岸をはなれるしたくをととのえた。アクレンも、ついに、カー・ダルベンへ行くことを承知して、もの思いに沈みながらのろのろついてきた。反対に、リーアンは吟遊詩人のかたわらをぴょんぴょんはねてすすみ、カアは頭上でばたばたとびまわっていた。
エイロヌイは、ほんのしばらく、波打際までおりていった。タランもついていって、おどる波をじっと見つめる彼女の後ろで待った。
「カー・コルールを最後に一目見ておくべきだと思ったの。」と、エイロヌイはいった。「ただ、その場所をおぼえておきたかったの。いいえ、なくなった場所、かな。ある意味では、姿を消してしまったのは悲しい!。カー・ダルベンを別にしたら、あそこだけがわたしの家ですもの。」
「きみが、ぶじにディナス・リードナントについたら。」と、タランがいった。「ぼくはモーナには、もういなくなる。こんな経験をしたのだから、きみも――きみも、いっしょにもどってくれたらと、ぼくはのぞんでいたんだ。しかし、ダルベンは、きみをここにおくつもりだと、ギディオンははっきりいっている。そのとおりだと思うよ。ダルベンの声がきこえるようだ。『救い出されたことと、教育を受けることとは、関係がないぞ』って。」
エイロヌイは、しばらく何もいわなかった。が、やがて、タランをふりかえった。「わたし、カー・コルールで、もう一つ思いだしたことがある。人はみな成長し、変わらねばならぬ時がくるっていうダルベンの言葉よ。ほんとうに、若い貴婦人になることが、魔法をつかさどる女になるよりたいせつなことかしら? あの方の真意は、それだと思うけれど、自分でさとらなければならないことね。
「だから、若い危機婦人になることを習いおぼえなくちゃならないとしたら、それがなんであろうと、貴婦人になれば、成長して変わることよね。」と、エイロヌイは話しつづけた。
「だから、わたし、ディナス・リードナントのあのおばかさんたちの二倍のはやさでおぼえちゃって、半分の期間で家に帰る。だって、もう、カー・ダルベンだけが、わたしのほんとうの家なんだから。
「あら、これ、なにかしら?」エイロヌイがふいにさけんだ。「海が、わたしたちに贈りものをしてくれたわ!」
エイロヌイはかがみこんで、あわだつ寄せ波の中から、なにかへこんだものをとり出し、からまっている海藻をとってすてた。タランが見ると、それは大昔のたたかいの角笛だった。銀が巻きつけてあり、銀の口笛がついていた。
エイロヌイは、手にとって表、裏と、ためつすがめつ見ていたが、やがて悲しげにほほえんだ。「カー・コルールの唯一の形見よ。なんの役に立つのか、わたしは知らないし、これからもわからないでしょう。でも、また会う日まで、わたしを忘れないと約束してくれるなら、わたしも、あなたを忘れないと約束する。そして、これが、わたしの誓いのしるし。」
「よろこんで約束するよ。」と、タランはいった。そして、ためらってから「しかし、きみにあげる誓いのしるしが、なにかあるかなあ。言葉のほかに、なにもないよ。」
「豚飼育補佐の言葉?」と、エイロヌイはいった。「それで、ほんとうにじゅうぶんよ。ま、これをどうぞ。贈りものをするほうが、さよならをいうよりずっとすてきだわ。」
「でもやはり。」と、タランがこたえた。「ぼくらはさよならをいわなければならないよ。きみ、知っているだろう。ルーズルム王とテレリア王妃は、きみとルーン王子を婚約させるつもりだよ。」
「まったくねえ!」と、エイロヌイがぷんとしてさけんだ。「でも、だいじょうぶ、そんなことさせるもんですか。他人に自分の気持ちをきめてもらうにも限度があるわ。ルーンは、たしかによくなった。こんどの旅は、生まれてこのかた、あの人には最上の経験だったし、いつかは尊敬できる王さまにだってなれるかもしれない。でも、婚約となると……。」エイロヌイは、そこでふいに言葉を切って、タランの顔を見た。「あなた、じゃ、ちょっとでもまじめにとって、わたしが……? カー・ダルベンのタラン、」エイロヌイは、目をいからせて、おこった声でさけんだ。「あなたとは口をきかないわ!
「とにかく。」エイロヌイは、いそいでつけ加えた。「しばらくの間はね。」