【タランと角の王】
ロイド・アリグザンダー
1 豚飼育補佐
タランは、剣をつくりたいと思っていた。しかし、タランに仕事を教えるコルは、馬蹄をつくることにきめていた。だから、午前中はずっと馬蹄つくりだった。タランの腕はいたくなり、顔はすすで黒くなった。とうとう、タランは槌をほうりだし、とがめるような目を向けたコルの顔を、まっすぐ見てさけんだ。
「どうしてだい? どうして馬蹄をつくらなくちゃいけないんだ? 馬がいるわけでもないのに!」
コルは、大きなはげ頭を桃色に光らしているまるっこいがっしりした男だった。タランのつくったものをちらりと見て、「ここにいなくて、馬も幸運だな。」とだけいった。
「剣なら、もっとじょうずにつくれるんだ。」と、タランはいいかえした。「つくれるってわかってるんだ。」そして、コルの返事も待たず、やっとこをつかんで、まっかにやけた鉄の棒を、かなてこの上にぽいとのせ、ものすごい勢いで、槌をふるいはじめた。
「待て、待て!」と、コルはさけんだ。「そこからあとは、そんなふうにやるんじゃない!」
槌の音のためにコルの声がきこえなかったので、タランは、かまわずに、ますます力をこめて鉄をたたいた。火花が空中にとびちった。ところが、たたけばたたくほど、鉄はくねり曲がり、とうとう最後には、やっとこからはずれて、地面に落ちてしまった。タランは、あっけにとられて、目をみはった。やっとこで、くねった鉄を拾いあげて、しらべてみた。
「英雄のための剣とはいえないな。」と、コルくがくさした。
「だめになっちゃった。」タランも、ゆううつそうにうなずいた。そして「まるで、病気のへびだね。」と、悲しげにつけ加えた。
「だから、わしが注意しようとしたのだ。」と、コルがいった。「おまえは、まるでまちがってる。やっとこは、こう持たなくてはいけない――そうそう。打つときには、手首には力をいれず、肩の力で打つ。正しい槌の使い方をしている時は、音でわかる。まあ、一種の音楽がある。それに」と、コルはつけ加えた。「この鉄は、武器をつくる鉄ではない。」
コルが、くねり曲がったできそこないの剣を炉にもどすと、剣はすっかりとけてしまった。
「剣が一本ほしいもんだなあ。」と、タランはいって、ため息をついた。「そうすれば、あんたに剣術がならえるもの。」
「へーえ!」と、コルが大声をあげた。「なぜ、そんなものがならいたい? カー・ダルベンには、いくさなんかないではないか。」
「馬だっていないよ。」と、タランはいいかえした。「それでも、馬蹄をつくってるじゃないか。」
「それをつづけるのだ。」コルは平気な顔をしていった。「練習だからな。」
「剣術だってそうだよ。」と、タランはせがんだ。「ねえ、剣術を教えてくれよ。あんた技を知ってるにちがいないもの。」
コルのよく光るはげ頭が、一段とぴかぴかしはじめた。なにかうれしいことでも思いかえしているように、顔にかすかなわらいがうかんだ。「そのとおり」と、コルはおだやかにいった。「若いころ、一、二度剣をにぎったことはある。」
「じゃ、今教えておくれよ。」タランはせがんだ。そして、火かき棒をつかむと、それをふりかざして、さっと空を切り、かたい土間の上を、前後にはねまわった。
「ほら」と、タランは大きな声でいった。「もう、だいたいおぼえたんだ。」
「そんなものを、ふりまわすのはやめな。」コルがくすくすわらいながらいった。「そんなふうに気どってとびはねてわしにかかってきていたら、今ごろはもう、こまぎれになっておるじゃろ。」そこで、コルはちょっとためらったが、「いいか」と急いでいった。「剣術には、正しい法とまちがった法があることくらいは、知っておかねばならんぞ。」
コルは、べつの火かき棒をつかむと、「さ、いいか」と、すすけた顔で目くばせを一つしていった。「きちんと立ってみろ。」
タランは、火かき棒をかまえた。コルが大声であれこれさしずしながら、ふたりは、ガラン、ドシンとそうぞうしい音をたてて、突きやかわしを練習しはじめた。一瞬、タランは、ぜったいにコルに勝てると思った。ところが老人は、目をみはるような軽い足で、さっとしりぞいてしまった。たちまち、タランは、必死になってこるのふりおろす剣をかわさなくてはならなくなった。
だしぬけに、コルが動きをとめた。そこで、タランも、火かき棒をふりあげたままの姿勢で動きをとめた。かじ場の入口に、背は高いが、もう腰が曲がっているダルベンが立っていた。
カー・ダルベンのあるじ、ダルベンは、三七九歳だった。顔がひげにうずまっているので、いつも灰色の雲ごしに世の中をのぞいているように見えた。タランとコルが、たがやし、種をまき、雑草をとり、収穫をして、小さな農場をきりもりしている間、ダルベンは深くものごとを考えていた。深く考えるという仕事は、とてもつかれる仕事なので、ダルベンも、考えるときには、横になって目をつぶらなくてはならなかった。ダルベンは、朝食のあと一時間半考える仕事をし、午後、おそくなってから、もう一度考えにふけるのだった。かじ場のさわぎが、朝の考えにふけっていたこのあるじを、じゃましてしまったのだ。骨ばったひざのところまで、着物の片すそがあがっていた。
「そんなたわけたことは、すぐにやめるのじゃ。」と、ダルベンはいった。「おぬしにはおどろく。」ダルベンは、コルに向かって眉をしかめてみせた。「だいじなしごとをせねばならぬというのに。」
「コルがわるいんじゃありません。」と、タランが口をはさんだ。「剣術をならいたいといったのは、ぼくなんです。」
「わしがおどろいたといったのは、おまえにではない。」と、ダルベンはいった。「いや、つまりは、やはり、おまえにおどろいたのかの。わしといっしょに来るがよい」
タランは、このひじょうに年とったあるじのあとについてかじ場を出ると、ニワトリの囲い場を通って、草ぶき屋根の白い小屋にはいっていった。ダルベンのへやにはいると、朽ちはじめた古い書物の重みでさがったたなから、書物のいくつかが、床にこぼれ落ちているのが見えた。床の上には、鉄のなべ、かま、びょうをうった帯、絃のあるたて琴、絃のないたて琴など、さまざまなものがつみ重ねてあった。
タランは、木の長いいすに腰かけた。ダルベンがものを教えたりしかったりする気でいるときには、タランは、きまってそこに腰かけるのだった。
「わしも充分に承知はしておる。」ダルベンは、テーブルの自分の席に腰をおろしながらいった。「武器を使うにも、どんなことにも、一定の技術が必要ではある。だが、おまえがそれをいつならいおぼえたらよいかは、おまえよりかしこい人びとがきめてくれる。」
「すみませんでした。」と、タランがいいわけしはじめた。「ぼくがいけませんでした。その……」
「いや、わしは、おこっているのではない。」ダルベンは、タランをおさえるように手をあげていった。「少しばかり悲しいだけだ。時の流れは早い。ものごとは予想よりも早くおこってしまうものだ。だが、」ダルベンは、ひとりごとのように低くつぶやいた。「わしは心配だ。どうも、これには、角の王が一役買っているのではないかと思うのじゃ。」
「角の王って?」と、タランがたずねた。
「かれのことは、あとできかせよう。」と、ダルベンはいった。そして、ずっしりした革表紙の本を手もとにひきよせた。それは、ダルベンが折りにふれてタランに読んできかせる<時の書>で、タランは、その本の中には、人間の知りたいことはなんでも書いてあると信じていた。
「以前、おまえに説明したように」と、ダルベンは話をつづけた。「――おまえは、たぶん、わすれてしまっているだろうが――プリデインは多くのカントレブ、つまり小王国にわかれ、多くの王がいる土地だ。もちろん、王の下には、戦士たちを指揮する武将がおる」
「しかし、だれよりもえらい大王がいます。」と、タランがいった。「マソヌーイの息子、マースがいます。部下の武将はプリデインでもっとも強い英雄です。あなたから話にきいている英雄。ええと、ギディオン王子!」タランは、熱っぽく話しつづけた。「ぼくは知ってるんです……」
「おまえの知らないことが、まだまだある。」と、ダルベンはいった。「それは、理由があって、わざとおまえに教えておかなかったことなのだ。今のわしは、生者の領土内のことより死者の国、アヌーブンのことが気がかりなのじゃ。」
アヌーブンときいて、タランはぶるっとふるえた。ダルベンすら、それを口にしたときには声をひそめた。
「それと、アヌーブンの領主、アローン王のことも気がかりじゃ。」と、ダルベンはいって、「これは知っておくがよい。」と、すぐにつづけていった。「アヌーブンは、死者の国というだけではない。あそこは、金や宝石いうまでもなく、そのほか、人間のためになるあらゆるものが集まっている宝庫なのじゃ。むかし、それらは、人類が持っておった。だが、アローンはよこしまなことに利用しようと、だましたりすかしたりして、つぎつぎぬすみとってしまった。そのいくつかは、またうばいかえしはしたが、ほとんどは、今もアヌーブンの奥深くにかくされ、アローンめが目をはなさずに守っておる。」
「でも、アローンは、プリデインの支配者にはなりませんでしたよ。」と、タランがいった。
「それをありがたいと思うがよい。」と、ダルベンがいった。「彼が支配者にならなかったのは、ドン女王の子息たち、ドンの子どもたちと、女王の夫たる太陽の王ベリンのおかげなのじゃ。大むかし、かれらは夏の国から船旅をかさねてプリデインにたどりつき、人類はまだまずしかったが、この国が美しく肥沃であることに気づかれた。ドンの息子たちは、ここからはるか北にあるワシ山脈のカー・ダスルにとりでをきずいた。そして、迫りくるアヌーブンの脅威からこの土地を守り、アローンにうばわれたものを、ほんの一部ではあるがうばいかえす手助けをしてくだされた。」
「ドンの息子たちが来なかったら、どんなことになっていたか、考えただけでぞっとします。」と、タランがいった。「彼らの到着が幸運だったわけですね。」
「だが、いつもそうとはかぎらぬ。」ダルベンは、苦わらいを顔にうかべていった。「プリデインの人間たちは、子どもが母親にまといつくがごとくに、ドン家の力にたよるようになってしまった。今になっても、まだたよっておる。大王マースはドン家の末えいである。ギディオン王子もそうじゃ。だが、たよるのも、しきたりだけのことになっておる。プリデインは、今日まで、人間の国としてはこれ以上はないほど平和であった。」
「お前に教えてないことがあるといったが」と、ダルベンはいった。「それは、こういうことだ。うわさだが、新しく、強力な武の王が興ったというのだ。ギディオンに匹敵する強さだといい、もっと強いというものもおる。だが、腹黒い男で、邪悪にも死をよろこぶという。子どもが犬をもてあそぶように、死をもてあそぶということじゃ。」
「だれですか、その男?」と、タランが思わず大きな声でいった。
ダルベンは、首を横にふった。「その名はだれも知らぬ。また、素顔を見たものもない。その男は枝角のある面をかぶっている。それで、角の王とよばれている。この男のねらいはわからぬ。アローンの味方ではないかと思うが、どんなつながりがあるものかはわからぬ。わしは、おまえの身の安全のために、今ここで命じておく。」と、ダルベンはつけ加えた。「さっき見たことから考えると、おまえの頭は武勲をたてたいなどというばかな考えでいっぱいのようじゃ。どんな考えをもっているかは知らぬが、そんなものはすぐにわすれてしまうがよい。正体のわからぬ危険が広がりだしておる。おまえは、まだ大人になりはじめたともいえぬ年じゃ。わしには、おまえが、できるなら五体満足に成人するのを見とどける責任がある。だからじゃ、おまえは、どんなことがあろうとも、カー・ダルベンをはなれてはならん。果樹園の向こうまでも出てはならんし、むろん森の中へなど行ってはいけない――ここしばらくは。」
「ここしばらくだって!」タランは、ふいに大声でわめいた。「きっと、いつまでたっても、ここしばらくなんだ! そして、一生、野菜や馬蹄をつくってくらすんだ!」
「これ、これ」と、ダルベンはいった。「もっとわるいことも、この世にはあるのだぞ。おまえは輝かしい英雄になろうと心をきめたのか? おまえは、馬をかって刀剣をきらめかすことが輝かしいことと思っておるのか? 輝かしいということは……」
「ギディオン王子ははどうなんです?」と、タランはさけんだ。「そうですとも! ぼくは、王子のような人間になりたいんだ!」
「ふむ」と、ダルベンがいった。「まるで問題にならんじゃろ、そんなのぞみは。」
「どうして?」タランが勢いよく立ちあがっていった。「機会があれば、ぼくにだって……」
「どうして、というか?」と、ダルベンが話をさえぎった。「ときによると、わしらは、答えをきいて知るより、答えをさがしても見つからぬことから、より多くのことを知る場合がある。この問題がそれにあたる。理由はわしも知ってはいるが、今教えたら、ますます話がややこしくなる。おまえが大きくなって、ともかく分別を持つようになれば、おそらく自分で判断できるじゃろ。おまえが判別を身につけられるかどうか、ときどき疑問に思うが。」
「そのときになってもおまえは、たぶんまちがった判断を下すじゃろう。」と、ダルベンはつづけていった。「だが、それは、自分の判断じゃから、人にいわれるよりは、幾分納得がいくじゃろう。」
タランは、むっとおしだまって、力なく長いすに腰をおろした。ダルベンは、もう、深い考えにふけりはじめていた。あごがだんだんさがって胸についた。ひげが、まるできりのつつみのように、耳のあたりで風によれている。やがて、ダルベンは、しずかにいびきをかきだした。
春らしいリンゴの花のにおいが、窓から流れこんできた。ダルベンのへやの窓から、森のへりがすこし、うすみどりにかすんで見えた。もういつでも耕作できる畑も見えた。まもなく夏がきて、その畑もこがね色に変わるだろう。ふと、テーブルに目をやると、すぐそばに<時の書>があった。タランは今まで、自分でその本を読んだことがなかった。タランは、ダルベンが一部分しか話してくれなかったことが、この本の中にはもっと書いてあるにちがいないと思った。ダルベンは、ずっともの思いをつづけていて、頭をあげる様子はなかった。タランは立ちあがると、明るい日光がいっぱいのへやの中を、テーブルに近づいた。一ぴきのカブトムシがたてる、キチキチというものうい音が、森からきこえてきた。
タランは、両手を本の上にのせた。しかし、すぐに、いたみを感じて、あっ、といいながら急いで手をひいた。両手とも、クマンバチにさされたように、指がぴりぴりいたかった。タランは、ひょいととんで後ろにさがったが、そのとたん、長いすにぶつかって床にたおれた。そして、しょげかえって、指を口にいれた。
ダルベンがまばたきした。タランをうかがって、のんびりあくびをしてから、いった。「コルのところへ行って、ぬり薬をもらうがよい。そうせぬと、おそらく火ぶくれになる。」
タランは、恥じいって、いたむ指をかかえながら、あわてて小屋を出た。コルは野菜畑のそばにいた。
「<時の書>をねらったな。」と、コルはいった。「すぐにわかる。これで、おまえも、すこしはりこうになる。いいかな、それが、勉学の三つの基本の一つなのだ。多くを見る、多くをまなぶ、多く苦しむ、という三つのな。」そして、タランをつれて、家畜用の薬がしまってある馬小屋に行き、タランの指に薬をかけてやった。
「なにも見させてくれないんじゃ、いくら多くをまなんだって、なんにもならないよ。」と、タランはいいかえした。「ぼくは、おもしろいことはなにも知らず、おもしろいところへは、どこへも行けず、おもしろいことはなにもできない運命をしょってるんだと思うよ。ぼくは、ぜったい、ひとかどの人間にはなれないんだ。カー・ダルベンでだって、なんでもないもの。」
「よしよし。」と、コルはいった。「そんなことでなやんでいるのだったら、おまえをなにかにしてやろう。今日ただ今から、豚飼育補佐タランだぞ。おまえは、わしを手伝って、ヘン・ウェンの世話をするのだ。えさをいつもたやさず、水をはこんでやり、一日おきにからだをよく洗ってやるのだ。」
「そんなこと、今だってやってるよ。」タランは、にがにがしげにいった。
「なら、ますますけっこうじゃないか。」と、コルがいった。「ことがますますかんたんになるからな。おまえがなにか役名のついたものになりたくても、今のところ、これ以外は思いつかんのだよ。それに、神託を下す豚の飼育補佐になる若者など、ざらにはいない。じっさい、このプリデインじゅうで、神託を下す豚なんて、彼女が一ぴきしかいないんだから、このうえなくだいじなやつなんだ。」
「ダルベンにとっちゃ、だいじさ。」と、タランはいった。「ぼくには、なんのお告げもないよ。」
「お告げがあると思っていたのかね?」と、コルがいいかえした。「ヘン・ウェンの神託にはきき方がある――おっ、ありゃなんだ?」コルは小手をかざした。ブンブンうなる黒い雲が、果樹園から流れ出たかと思うと、ぐんぐん進んできて、コルの頭のすぐ上を流れていったので、コルは、横っとびにさけた。
「蜜蜂!」と、タランがさけんだ。「分封だ!」
「時季はずれだ。」と、コルがおどろいた声でいった。「なにか狂ってる。」
蜜蜂の黒雲は、太陽に向かってぐんぐんあがっていった。と、つぎの瞬間、ニワトリの囲い場から、ニワトリたちがかん高く鳴きたてる声がきこえてきた。ふりかえって囲い場を見ると、一羽のおんどりと五羽のめんどりが羽ばたきをしていた。タランは、ニワトリたちもとびたとうとしていると思ったが、そう考えたときには、もう六羽は蜜蜂同様空中にまいあがっていた。タランとコルが、囲い場まであわててかけつけたときは、すでに手おくれだった。おんどりを先頭にしたニワトリたちは、ぶきように羽ばたいてとびながら、丘の肩をこえて姿をけしてしまっていた。
牛小屋の牛二頭が、おびえて目をきょときょとさせながら、鳴きたてた。
ダルベンが、窓から顔をだした。いらいらした顔つきだ。「これでは、まったくなにも考えられんではないか。」ダルベンは、きびしい目つきでタランを見ていった。「すでに注意したではないか――」
「どういうわけか、動物たちがおびえてるんです。」と、タランはいいかえした。「はじめに蜜蜂がとんでいって、つぎにニワトリがとんでいって――」
ダルベンは、表情を変えた。「うむ。それは、このわしもわからぬ。」ダルベンは、コルに向かってそういった。「すぐに、ヘン・ウェンにたずねてみなくてはならんの。文字杖をもって行かなくては。急いで、杖をさがすぞ。手伝ってくれ。」
コルは、ヘン・ウェンの文字杖をさがしに小屋にはいっていった。文字杖とは、呪文が彫ってある長いトネリコの棒だった。タランは、こわいながらもわくわくしていた。ダルベンは、ほんとうにせっぱつまった重大事のときしか、ヘン・ウェンの神託をきかないことを、タランは知っていた。タランがものごころついてから今で、一度もなかった。タランは、急いで豚のところへ行ってみた。
ふだん、ヘン・ウェンは正午までねむっていた。目をさますと、からだに似合わない軽い足どりで、とことこと囲いの中の日かげまで行き、そこに居心地よくおちついて、一日をすごす。この白い豚は、しょっちゅうぶつぶつひとりごとをいったり、くすくすわらったりしていた。そして、タランの姿を見さえすれば、のどをかいてもらおうと、大きくて生意気そうな顔を上向けるのだった。ところが、きょうは、タランなどまるで見向きもしなかった。そして、ぜいぜい、ひゅうひゅういいながら、囲いの向こう端のやわらかい土を、夢中でほっていた。穴がぐんぐん大きくなり、もうすぐにでも、もぐって外に出られそうだった。
タランは、ヘン・ウェンにやめろとどなったが、土くれは、あいかわらず、ひじょうないきおいで四方八方にとびちっていた。タランは、さくをとびこえた。神託の力をもつふしぎな豚は、土ほりをやめてふりかえった。穴は、すでに、十分くぐり抜けられる大きさになっていた。タランが近づくと、ヘン・ウェンは、かこいの反対側へにげて、新しい穴をほりはじめた。
タランは、体力もあり足も長かった。ところが、おどろいたことに、走るのはヘン・ウェンのほうがはやかった。タランが、二つめの穴まで走っていくと、ヘン・ウェンはすかさず向きを変えて、短い足で、はじめの穴にかけもどってしまった。もう、穴は、二つとも、ヘン・ウェンの頭と肩がぬけるほど、大きくなっていた。
タランは、夢中で穴をうずめにかかった。ヘン・ウェンは、あと足をふんばり、前足で土をかいて、アナグマよりすばやく、穴をほった。タランは、穴ほりをくいとめることをあきらめた。そして、さくにのぼると、ヘン・ウェンがぬけだそうとしている所にとびおりた。そこにいて、ヘン・ウェンをつかまえ、ダルベンとコルが来るまで、つかまえておくつもりだったのだ。だが、タランは、ヘン・ウェンのスピードと力を、あまく見すぎていた。
土くれと小石が、ぱっと、あたりにとびちったとたん、豚はさくの下からおどり出て、タランを空中にはねとばした。タランは、どしんと落ちて、うっ、といった。ヘン・ウェンは、畑を走って、森にとびこんでしまった。
タランは、あとを追った。前方に、黒く、おそろしげな森が立ちはだかっていた。タランは、大きく息をすってから、豚を追って、一気にとびこんでいった。
2 王の仮面
ヘン・ウェンの姿はもう見えなかった。前方のやぶで、がさごそいう音がした。豚は、姿を見られないように、やぶの中にかくれたのだと、タランは思った。そこで、音を追って走った。しばらくすると、地面が急勾配ののぼりになったので、タランは、木をびっしり立ちならぶ斜面を、四つんばいで、のぼらなくてはならなかった。上までのぼりつめると、森がひらけ、目の前に草原があらわれた。ヘン・ウェンが、風にそよぐ草の中にとびこむのが、ちらりと見えた。草原をよこぎった豚は、たちまち、木立の向こうに姿をけした。
タランは、急いであとを追った。すでに、おそろしくて今まで足をふみいれなかったところまで来ていたが、厚く茂る下生えを分けて進みつづけた。ほどな、やや広い小道に出たので、はやく進めるようになった。ヘン・ウェンは、走るのをやめたのか、ずっと遠くまでいってしまったのか、タランにきこえるのは、自分の足音だけだった。
タランは、帰りの道しるべになると考えて、しばらくの間、小道を進んだ。しかし、小道は、曲がりくねり、あちこちで二つに分かれているので、カー・ダルベンがどの方角にあたるのか、さっぱりわからなくなってしまった。
草原を進んだときは、強い日にてらされて汗が出たが、やがて、しずまりかえったカシとニレの木の下にはいると、身ぶるいが出た。こんどの森はそれほど深くはなかったが、たけ高い木々の幹はかげにつつまれ、日光も切れ切れにしかさしこんでこなかった。大気は木の葉のにおいを含んでしめっていた。鳥の声一つせず、りすのおしゃべり一つ、きこえてこなかった。森は、まるで息をひそめているようだった。
だが、そのしずかさの底には、なにか不安なうめきのようなものが感じられ、木々の葉までが、身をふるわしていた。枝枝は、身をよじり、欠けた歯のようにこすれあって、音をたてていた。小道もタランの足の下でふるえているようだった。タランは、どうにもならないほどさむくなった。そこで、両腕をふりまわし、ふるえをはらいのけるため、足をはやめた。あてもなく走っていることは自分でもわかっていた。ニまたの道や曲がり角に、気をくばっていようとしてもだめだった。
ふいに、タランは立ちどまった。前方で、馬の重い足音がきこえたのだ。足音が大きくなるにつれ、森全体がゆれはじめた。そして、つぎの瞬間、一頭の黒馬が、だしぬけに見せた。
タランは、肝をつぶしてしりもちをついた。全身に汗の吹き出た黒馬には、怪奇な人物が乗っていた。その男は燃えるようにまっかなマントを、はだかの肩にまとっていた。がっしりした太い腕もあかく染まって見えた。恐怖にわななくタランの目には、その男の頭が人間の頭ではなく、枝角のはえた雄ジカの頭に見えた。
角の王だ! タランは、汗で光る横腹を波うたせながら、足を高くあげてかけすぎる馬からのがれるため、ぱっとカシの木にへばりついた。黒馬と騎手が、すばやく通過した。顔をかくしている仮面はどくろ面、面の上に内反りした大きな枝角がおそろしげにつき立っていた。白いどくろ面の大きな目のくぼみの奥に、角の王の目がぎらりと光って見えた。
王の後ろに、たくさんの騎馬がつづいた。角の王が、野獣そっくりの長くひっぱるさけび声をあげた。すると、部下の騎士たちが、あとにしたがいながら、つぎつぎにそのさけび声をまねた。みにくい顔に、にやにやわらいをうかべた一人の騎士が、タランの姿に目をとめた。騎士は馬首をタランに向けると、剣をひきぬいた。タランは、カシの木からすっとんではなれ、やぶにとびこんだ。剣が、マムシのうに、ひゅっ、ひゅっと音をたてながら、追ってきた。タランは、背中に、さすようないたみを感じた。
タランは、若木の枝に顔をびしりとたたかれたり、とがった岩に気づかないで、つまずいてつんのめったり、ひざをぶつけたりしながら、めくらめっぽうに走った。森の木々がまばらになると、干上がった川床を、石をがらがらいわせてにげた。やがて、精魂つきはてたタランは、よろけてたおれ、ぐるぐるまわる地面に、手をついてしまった。
タランが目をあけたとき、すでに日は西に沈みかけていた。タランは、自分が小さな芝地にねていて、からだにはマントがかけてあることに気づいた。片方の肩がひどくいたかった。ひとりの男が、かたわらにひざをついていた。近くで、一頭の白馬が草をかんでいるのが見えた。さっきの騎士たちに追いつかれたかと思ったタランは、ぎょっとして身をおこした。まだ、めまいがした。そばの男が水筒をさし出した。
「さ、のみなさい。すぐに元気になる。」
その見知らぬ男の髪は、オオカミの毛のように、白髪まじりでもじゃもじゃしていた。くぼんだ目は、みどりがかって見えた。人のよさそうな顔は、日やけして黒く、雨風にさらされて、こまかいしわがたくさんよっていた。着ているものも粗末なうえに、旅のほこりによごれていた。精巧に細工した金具のついた、幅広の帯をしめている。
「さ、のみなさい。」見知らぬ男は、タランが半信半疑で水筒を受けると、もういちどいった。「毒でも飲まされるような顔つきだな。」男はにっこりわらってまたいった。「ドンの家のギディオンは、けが人にそのようなことはしないぞ……」
「ギディオン!」タランは、のんだものにむせながら、よろよろと立ちあがった。「あなたがギディオンなんて、うそだ! ぼくはギディオンを知ってる。偉大な武将なんだ。英雄なんだ! ちがう、かれは……」そのとき、男の革帯につってある長い剣が目にとまった。めだたないように、つやをけしてはあるが、剣の柄頭は金色で、まるくなめらかだった。柄には、金細工のトネリコの葉がまきついて、にぶく光っていた。さやには木の葉の模様があった。まさしく王者の剣だ。
タランは、片ひざをついておじぎをして、いった。「ギディオン殿下、無礼をおゆるしください。知らなかっただけなのです。」ギディオンに助けおこされたタランは、それでもなお、粗末な身なりと、しわのよったつかれたような相手の顔を、信じられないような目でまじまじと見た。この輝かしい英雄のことを、ダルベンはなんといっていたか。そして、ぼくは、この人のことを、どんなふうに想像していたか。それが――タランはくちびるをかんだ。
ギディオンは、タランの失望した表情を見てとった。そして、「王子をつくるのは衣装ではないぞ。」とやさしくいった。「戦士も、剣のみでは生まれん。さあ。」ギディオンは命令した。「おまえの名をいいなさい。そして、なにがあったのかも教えておくれ。グズベリをつんでいてとか、ウサギを追っていてなどという、うそはいかん。そんなことで刀傷を受けるわけはない。」
「角の王を見てしまったんです!」タランは一気に話した。「王とその部下たちが、森を通ったんです。部下のひとりが、ぼくを殺そうとしました。あれは、たしかに角の王です! おそろしい男です! ダルベンにきいたより、ずっとおそろしい男でした!」
ギディオンが眉をよせた。「おまえは、いったいだれだ? ダルベンの名を口にするおまえは、いったいだれなのか?」
「カー・ダルベンのタランです。」タランは、おちついて見えるようにつとめながら答えたが、顔色が変わっていた。ギディオンは、すぐには話をつづけず、妙な表情でタランを見た。「こんなに遠くまで来てなにをしているのかね? おまえが森にいることを、ダルベンは知っているのか? コルといっしょに来たのか?」
タランが、口をあんぐりあけ、ぽかんとしてしまったのを見て、ギディオンはのけぞるようにして、わらいだした。
「そんなに、びっくりすることはない。」と、ギディオンはいった。「わしは、ダルベンもコルもよく知っておる。あのふたりは、かしこい人たちだから、おまえをひとりで、こんなところまで来させることはないはずだ。すると、おまえはにげだしたのかな? よくきくがよい。ダルベンのいいつけには、そむいてはならぬぞ。」
「いえ、ヘン・ウェンのせいなんです。」と、タランはいいかえした。「ぼくの手にはおえないことを、ちゃんとわきまえていなくちゃいけなかったんです。どこかへ行ってしまったんです。ぼくがわるいのです。ぼくは、豚飼育補佐で……」
「行ってしまった?」ギディオンの顔がきびしくなった。「どこへ? いったい、あの豚になにがあったのだ?」
「わかりません。」と、タランはさけぶようにいった。「森のどこかにいるんです。」タランがけさのできごとを早口に話しはじめると、ギディオンは一言もききもらさないように、じっと耳をかたむけた。
「これは予測しなかったことだ。」ギディオンは、タランの話をききおわると、つぶやいた。「ヘン・ウェンをすぐに見つけださぬと、わしは使命を果たせない。」そして、ふいにタランの顔を見ていった。「よろしい。わしもヘン・ウェンをさがしてやる。」
「殿下が?」と、タランがびっくりしていった。「殿下がこんな遠くまで来たのは、それじゃ……」
「ヘン・ウェンだけがつたえてくれる情報が、ほしかったからだよ。」と、ギディオンはそくざにいった。「それを手に入れるために、カー・ダスルから一か月かかって旅して来たのだ。ずっとあとをつけられ、見張られ、狩りたてられた。それほどまでして来てみれば」ギディオンは、苦笑した。「ヘン・ウェンは、にげてしまっている。まあ、よい。見つかるだろう。わたしは、角の王について、ヘン・ウェンが知っていることを、くわしくききださねばならんのだ。」そこまでいって、ギディオンは、ためらう様子をみせたが、「こうしている間にも角の王のほうでも、ヘン・ウェンをさがしているのではないかと思う。」
「きっとそうだ。」と、ギディオンは話をつづけた。「ヘン・ウェンは、角の王がカー・ダルベンの近くにいることを感づいて、おそろしくなってにげたのだ……」
「それじゃ、角の王をくいとめなくちゃいけません。」と、タランはきっぱりといった。「攻撃してうちたおしましょう! 剣をおかしください。お味方します!」
「これ、これ、おちつきなさい。」とギディオンはたしなめた。「わたしのいのちも、ほかの人間のいのちも、その尊さに変わりはないが、わたしは、自分のいのちを、ひじょうにたいせつにしておる。おまえは、たったひとりの戦士と豚飼育補佐ひとりで、角の王と部下の戦士団に攻撃をしかける無謀をやろうというのか?」
タランは、姿勢をただしていった。「おそれはしません。」
「おそれない?」と、ギディオンはいった。「とすれば、おまえはおろかものだぞ。あの男は、全プリデインで、もっともおそれねばならぬ人間だ。それでは、この度の間にわたしが知ったことをきかせてやろうか。これは、おそらく、ダルベンすら、まだ気づいていない重要なことなのだ。」
ギディオンは、草の上にひざをついた。「おまえは、布を織る技術を知っておるか? 糸を一本一本織り合わせると模様ができる。」ギディオンは、話しながら、長い草をひきぬいて、たちまち網目状にあんでみせた。
「じょうずですね。」タランは、ギディオンのすばやい指の動きを見ていった。「見させていただいて、いいですか?」
「織物も、これよりはるかに重大なものがある。」ギディオンは、草の網を上着のかくしにしまいながらいった。「おまえは、アヌーブンで織られている模様の一本の糸を、さっき見たのだ。」
「アローンは、長い間アヌーブンをはなれることはしない。だが、かれの手は、どこにでも伸びる。王たちの中には、まるで剣の先のように鋭い権勢欲に、責めさいなまれている者たちもいる。そうした者たちを確保するために、アローンは、かれらに富と領地を約束し、楽師がたて琴をかきならすように、かれらの欲望をかきたてている。アローンの甘言とおくりものは、かれらの心中の、あらゆる人間らしい感情をやきつくしてしまう。かれらはアローンに臣従をちかい、アヌーブンの外でアローンにつかえ、永久にアローンの手ににぎられてしまうのだ。」
「じゃ、角の王は?」
ギディオンは、うなずいた。「そうだ。かれがアローンに臣従をちかったことは、うたがいの余地なくわかっておる。アローンの公認した代表戦士だ。ふたたび、アヌーブンの力が、プリデインをおびやかしはじめたのだ。」
タランは、口がきけず、ただ目をみはるばかりだった。
ギディオンは、タランを見ていった。「機が熟せば、角の王とわたしは対決する。そして、一方が死ぬだろう。それが、わたしのちかいなのだ。だが、彼らの目的は闇につつまれていてわからない。それを、ヘン・ウェンにきかねばならんのだ。」
「遠くまで行ってはいないと思います。」とタランは大きな声でいった。「姿をけした場所をお教えしましょう。そこなら、わかると思います。あれは、角の王に出くわす直前で……」
ギディオンは、むりにつくったわらいを顔にうかべていった。「日ぐれに、失せたものの足あとをさがすのかね? すると、おまえの目はフクロウの目かな? ここで野宿しよう。夜があけたらすぐに、わたしがさがしに行く。運よくいけば、なんとか見つけられて……」
「じゃ、ぼくはどうするんです?」タランは、相手の話をさえぎった。「ヘン・ウェンの係りはぼくです。にがしたのは、ぼくですから、見つけなくちゃいけないのも、このぼくです。」
「だれが見つけるにしても、この仕事はひじょうに重大なことなのだ。豚飼育補佐にはじゃまだてさせない。かれは、もとめて痛い目にあいたがっているようだから。」ギディオンは、そこで、ふと口をつぐんで、皮肉っぽい目でタランを見た。「だが、考えてみると、やはり、じゃまだてされそうだな。角の王がカー・ダルベンの方へ行ったとすれば、おまえをひとりで帰すわけにはいかぬし、また、おまえにつきそっていって、追跡を一日おくらせる気には、とてもなれない。おまえひとりで、この森にのこっておるわけにもいかない。なにかの手を考えださんと……」
「ぼく、ぜったいに、、じゃまなんかしません。」と、タランは思わず声を高くしてしまった。「いっしょにつれて行ってください。そうすれば、ダルベンやコルにも、わかるでしょう。ぼくにだって、はじめたことをやりとげる力があるってことが。」
「それ以外にしかたがあるまいな。」と、ギディオンはいった。「カー・ダルベンのタランよ、どうやら、われわれふたりは、同じ目的に向かって進むらしいな。とにかく、しばらくの間はだ。」
白馬が、とことこと小走りによってくると、ギディオンの手に鼻づらをすりよせた。「メリンガーが、食事だといっている。」ギディオンは、鞍袋から食べものをとりだした。そして、「今夜は、火はたけないぞ。」とタランに注意した。「角の王の偵察隊が、すぐ近くにいるかもしれないからな。」
タランは、急いで食事をすませた。興奮していて食欲がなく、夜あけが待ちどおしくていらいらしていた。傷がつっぱってしまい、木の根や小石のある地面にねころぶことができなかった。英雄でも地面にねることがあるなどと、タランは、今の今まで考えたこともなかった。
ギディオンは、ひざをかかえて、ニレの大木によりかかり、ゆだんなく気をくばっていた。やみがこくなり、ギディオンと木の見わけがつかなくなった。すぐ前にでも行かなかったら、とても人とは見えず、影のこい部分としか思えなかった。ギディオンは、森そのものにとけこんでしまったのだ。みどりかがった目だけが、新月の光をうつして光っていた。
ギディオンは、長い間口をきかず、じっと何かを考えていたが、ようやく、「そうか、おまえがカー・ダルベンのタランなのか。」といった。黒い影の中からきこえてくるギディオンの声は、おちついていたが、なにか、ただならない気配があった。「おまえは、いつごろからダルベンとともにくらしている? 身寄りのものはだれか?」
木の根もとにうずくまっていたタランは、マントのえりをさらにかたくおさえた。「ものごころついてからは、ずっとカー・ダルベンでくらしてきました。身寄りのものなど、ひとりもいないと思います。両親の名も知らないんです。ダルベンが教えてくれませんから。ぼく自身」タランは、顔をそむけながらいった。「自分がだれなのか、知っていないんです。」
「それは、」とギディオンは答えた。「だれでもそうだ。みんな、自分がだれなのかを、ひとりで見いださねばならんのだ。おまえと出会ったのは幸運であった。おまえのおかげで、今までよりも、少しはよくわかってきた。それに、カー・ダルベンへむだ足をはこばなくてもよくなった。それで、ふと思ったのだが、」ギディオンは、あたたかい気持ちの感じられるわらい声をたてた。「わたしの旅は、豚飼育補佐に援助されるさだめになっておるのだろうか?」そこで、ちょっとためらって、「あるいは、」と少し考えた。「その逆かもしれぬ。」
「それは、どういうことですか?」と、タランはたずねた。
「たしかなことはわからぬ。」と、ギディオンはいった。「どちらも同じことだ。さ、ねむれ、あすは朝が早いのだ。」
3 ガーギ
タランが目をさましたとき、ギディオンは、もう、白馬メリンガーに鞍をおいていた。タランの身をつつんでいたマントは、露でしめっていた。かたい地面で一夜をすごしたため、からだの節ぶしがいたかった。ギディオンにせきたてられたタランは、桃色に染まりだした灰色のあけぼのの光で、ぼんやり白く見える馬に、よろけながら近づいた。ギディオンは、タランを鞍までひっぱり上げて、後ろにまたがせると、小声で馬に命令した。白馬は元気よく、朝霧の中を進んだ。
ギディオンは、タランが最後にヘン・ウェンを見た地点をさがした。しかし、そこにたどりつくには、かなり長い間、馬からおりてさがさなくてはならなかった。ギディオンは地面にひざをついて、草の上をしらべて進んだ。タランは、それをじっと見ていた。
「幸先がいいぞ。足あとにぶつかったらしい。」ギディオンは、草がほんの少し、まるくへこんでいるところを指さしてみせた。「ヘン・ウェンはここにねていた。それも、ついさっきまでだ。」
ギディオンは、大またに五、六歩進んで、折れた小枝や、たおれた草などを、一つのこらずよくしらべた。
きのう、タランは、ギディオン殿下が粗末な胴着を着て、どろのついたくつをはいているのを見てがっかりした。しかし、今日は、あとについて進むにつれて、えらい人だと思う気持ちが強くなりばかりだった。ギディオンは、どんなものもけっして見のがさなかった。そして、やせた灰色オオカミのように、音をたてずにらくらくと歩いた。そのギディオンが立ちどまり、もじゃもじゃの頭をあげると、眉をしかめて遠くの山脈をながめた。
「足あとが、どうもはっきりしない。」ギディオンは、ひたいにしわをよせていった。「斜面をくだったのではないかと思うが、これはただの当て推量だ。」
「あたり一帯は森だから、にげこめば見つかりません。」と、タランはいった。「どうやってさがしはじめたらいいんですか? プリデインなら、どこへだって行けるでしょうからね。」
「そうでもない。」と、ギディオンは答えた。「どこへ行ったかは、わからないかもしれないが、行ってないところは、はっきりしている。」そして、狩猟用ナイフを腰の帯からひきぬいた。「いいかな、教えてやろう、それを。」
ギディオンは、片ひざをつくと、ナイフで地面に手早く何本か線をひいた。「これがワシ山脈」ギディオンの声に、故郷を思う気持ちがかすかに感じられた。「北方の、わたしの国の山だ。これが、大アブレン川だ。アブレンは、ここで西に曲がって海にそそいでいる。われわれの探索では、この川をわたらねばおわるまい。そして、これがイストラド川だ。この川の流れる谷をさかのぼって、北に向かえばカー・ダルベンにつく。
「だが、ここをごらん。」ギディオンは、イストラド川としてひいた線の、左をさして話をつづけた。「ここが竜の山で、アローンの領土だ。ヘン・ウェンは、ここへ行くのは絶対にさけると思う。じつに長いあいだ、アヌーブンにとらわれていたからだ。けっして、そこには近づこうとはしないはずだ。」
「ヘン・ウェンは、アヌーブンにいたんですか?」タランは、びっくりしてたずねた。「でも、どうやって……」
「むかしの話さ。」、とギディオンがいった。「ヘン・ウェンは、人間にかわれていた。彼女の予言の力など、全然知らない農夫にかわれていたのだ。だから、ふつうの豚同様な一生をおえていたかもしれない。アローンが、気づきさえしなかったら。アローンは、彼女がただの豚とはまったくちがうことを知り、その高い価値にも気づいて、みずからアヌーブンの外に出て来てつかまえた。ヘン・ウェンがアローンのとりこであったとき、どんなおそろしいことがおこったか――それは、話さないほうがいい。」
「ヘンのやつ、かわいそうに。」と、タランがいった。「ひどいくらしだったにちがいありません。でも、どうやってにげだしたんです?」
「にげたのではない。」と、ギディオンがいった。「すくい出されたのだ。ひとりの戦士が、たったひとりで、アヌーブンの領土深く潜入し、ヘン・ウェンをぶじにつれもどしたのだ。」
「じつに勇敢だなあ、そのふるまい!」タランはさけぶようにいった。「いいなあ、ぼくも……」
「北の吟遊詩人たちは、今も、そのいさおしをうたってくれる。」と、ギディオンがいった。「われわれは、その戦士の名を永久にわすれない。」
「だれです、その人?」と、タランは知りたがった。
ギディオンは、タランの顔をしげしげと見てたずねた。「知らないのか? ダルベンは、おまえの教育をおろそかにしておるな。コルだよ。コルフレヴァの息子コルだ、その男は。」
「コル、だって!」と、タランは思わずさけんだ。「同じ、じゃないでしょ……」
「いや、同じ人間さ。」と、ギディオンがいった。
「でも……でも……」タランは口ごもった。「コルが? 英雄? しかし……あんなにはげてるのに!」
ギディオンは声をたててわらい、首を横にふっていった。「豚飼育補佐よ、おまえは、英雄について、奇妙な考えをいだいておるようだな。勇気が髪の長さによって判断されるなど、わたしは今まで知らなかったな。髪があるかどうかが問題になるとも、知らなかったぞ。」
タランは、しょげかえり、ギディオンの地図をのぞくこと以外、なにも考えないことにした。
「それから、ここだ。」と、ギディオンは話をつづけた。「アヌーブンに近いここに、渦巻き城がある。アクレン女王のすまいだ。この女王は、アローンとかわらぬほど危険な人物で、美しさも邪悪さもぬきんでた女性だ。だが、アクレンについては、ふれぬほうがよい秘密がある。
「だから」ギディオンの話はさらにつづいた。「ヘン・ウェンがアヌーブンへも渦巻き城へも向かわないことだけはたしかなのだ。わたしがつかんだ手がかりは、ほんのわずかだが、それから推すと、彼女はまっすぐに走っている。さ、急ぐぞ。なんとか足あとをみつけよう!」
ギディオンは、メリンガーの向きを変えて斜面をのぼった。反対側の斜面をくだりきると、大アブレン川のはげしい水音が、夏のあらしの風のようにきこえてきた。
「また歩かねばならん。」と、ギディオンがいった。「このあたりのどこかに、足あとが見つかるはずだ。だから、注意深く、急がず進むのが良策だ。いいか、わたしのすぐ後ろから来るのだぞ。」ギディオンは、タランにそういいつけた。「おまえが、やみくもに進むと、ヘン・ウェンがのこしたはずの手がかりをふみあらしてしまう――おまえは、どうやらやみくもに進むくせがあるようだ。」
タランは、おとなしく、ギディオンの五、六歩後ろを歩いた。ギディオンは、まるで鳥影のように、まったく足音をたてなかった。メリンガーまでが音をしのばせて進み、落ちている小枝一本ふみつけなかった。タランは、ずい分気をつけるのだが、それほどしずかには歩けなかった。気をつけようとすればするほど、枯れ落ち葉をかさこそいわせてしまうのだった。どこに足をおろしても、穴があったり、いじわるな枝が落ちていて、タランにしくじりをさせるように思えた。メリンガーまでが、後ろをふりかえって、とがめるようにタランを見た。
タランは、音をたてずに進むことに神経を集中したので、まもなくギディオンからかなりおくれてしまった。斜面に目をやったタランは、まるくて白いものが見えたと思った。ヘン・ウェンをギディオンより早く見つけたくてしかたがなかったタランは、道をはずして、草の中をのぼってみたが――見つかったのは、ただのまるい石だった。
がっかりしたタランは、ギディオンに追いつこうと急いだ。そのとき、頭上で、木々の枝がざわざわとゆれた。立ちどまって見あげたとき、なにかが、後ろにどさっと落ちた。二本の毛むくじゃらな腕が、ひじょうな力で、タランの首をぎゅっとしめつけた。
タランをつかんだ、そのなんだかわからないものは、鼻をならし、ほえた。タランは必死で、助けてくれとさけんだ。そして、からだをよじったり、足でけったり、自分からごろごろころがったりして、姿の見えない敵と戦った。
突然、呼吸がらくになった。変なものが頭上をとんで、木の幹にたたきつけられた。タランは、地面にくずれおれるようにすわりこみ、首筋をなではじめた。ギディオンが、かたわらに立っていた。木の下には、タランが今まで見たことのない、世にもおかしな生きものがのびていた。タランには、それが人間なのかけだものなのか、よくわからなかった。どうやら両方がまじっているらしく思えた。髪の毛はひどくもつれていて、一面に木の葉がくっついているので、まるで大掃除が必要なフクロウの巣のように見えた。腕は長くてやせていて、毛におおわれていた。足も、手とおなじくらい柔軟できたなかった。
ギディオンは、きびしいがこまったような表情を顔にうかべて、この生きものを見ていた。「おまえか。」と、ギディオンはいった。「わたしのじゃまも、わたしの保護しているもののじゃまも、しないようにと、命じておいたではないか。」
それをきくと、その生きものは、大きなあわれっぽい音をたてて鼻をならし、目をぐりぐりさせて、両手で大地をたたいた。
「だいじょうぶ、これはガーギというものだ。」と、ギディオンがいった。「いつも、どこかをうろつきまわっている。見かけの半分もどうもうではないし、力はあるが、ふしぎにおとなしい。荷やっかいなだけさ。ただ、どういうわけか、たいていのできごとはちゃんと見ている。わたしたちの力になってくれるかもしれない。」
タランは、ちょうどそのとき、息をとめたところだった。からだじゅうにガーギの毛がくっつき、オオカミ狩りの犬がぬれたときの、あのいやなにおいが鼻をつくのだ。
「ああ、殿下」と、ガーギは泣き声でいった。「ガーギ、悲しい。だから、偉大な王子様の強い手で、あわれなやわらかい頭をなぐられる。おそろしい力でぶたれてしまう。そうです、そうですとも。このあわれなガーギにしてくださることは、もういつもきまっておりまする。しかし、戦士の中の戦士にぶたれますのは、まことに名誉でございます。」
「おまえの、あわれなやわらかい頭など、なぐる気はない。」と、ギディオンはいった。「だが、その泣きごとをやめぬと、気が変わるかもしれんぞ。」
「はいはい、お強い殿様!」と、ガーギは大声でいった。「殿のおおせには、もう、すぐにしたがいまする!」ガーギは、四つんばいで、じつにめまぐるしくはいまわった。こいつにしっぽがあったら、くるったようにふるにちがいないと、タランは思った。
「では」と、ガーギは、あわれっぽくたのんだ。「お強い殿さまおふたりは、ガーギめに食べものをくださいますですね? ああ、むしゃむしゃ、もぐもぐたのしいこと!」
「あとでやろう。」と、ギディオンがいった。「われわれの質問に答えたらやるぞ。」
「あとで、ですと!」ガーギが大声でいった。「ものを食べるためなら、あわれなガーギは、いくらでも待てます。これからずっとあとになって、えらい殿さま方が広間で宴会をなさるとき――いや、たいへんな宴会でございましょう――この腹ぺこのみじめなガーギが待っていることを思い出してくださるでしょう。」
「いつまで待ったら食べられるか」と、ギディオンがいった。「それは、われわれの知りたいことに答えるはやさできまることだ。おまえ、けさ、白い豚を見かけたか?」
くっつくようにならんだガーギの小さな両目が、ずるそうにきらっと光った。「豚一ぴきさがすために、そりゃ大勢の殿方がおそろしげなさけびをあげて、森中馬でかけまわっていなさる。あの方々なら、ガーギをうえ死させるようなひどいことは、なさいますまい――そうですとも――きっと、食べものをくださって……」
「やつらなら、おまえが思いなおそうとしたときには、もう首をちょんぎっておるだろう。」と、ギディオンはいった。「そのうちのひとりは、角のある面をかぶっておったか?」
「はい、はい!」と、ガーギはさけんだ。「大きな角! ああ、あわれなガーギをお助けください! 首を切られたら、いたい、いたい!」そして、長くひっぱる、おそろしい声でほえた。
「もう、堪忍袋の緒が切れるぞ。」と、ギディオンがおどすようにいった。「豚は、どこにいる?」
「ガーギ、あの馬に乗った強いさむらいたちの話きいた。」と、ガーギは話をつづけた。「うそじゃない。木の上で、じーっとよくきいた。ガーギ、とてもしずかで、頭いい。だから、だれも気がつかない。でも、ガーギ、ちゃんときいた! あのえらいさむらいたち、いっていた。ある場所へいったところが、大きな火に追いかえされたって。みんな、きげんわるかった。そして、まだ、馬を走らせて、大声でさけんで、その豚をさがしてる。」
「ガーギ」と、ギディオンがきっぱりといった。「豚はどこにおる?」
「豚? ああ、おそろしい空腹が、わたしを苦しめる! ガーギ、思い出せない。豚なんか、いたかな? ああ、ガーギの腹、からっぽだから、腹の空気が頭につまって、ああ、気を失って、やぶの中にたおれてしまいそうだ!」
タランは、とうとう、いらいらをおさえきれなくなって、どなった。「この、ばかな毛むくじゃらめ、ヘン・ウェンはどこにいるんだ? すぐにいえ! ぼくに、あんなとびつきかたをしただけだって、頭をたたかれてもしかたがないんだぞ。」
ガーギは、あお向けにころがると、両手で顔をかくして、うめき声をあげた。
ギディオンが、こわい顔でタランを見た。「命令さえ守っていたら、おまえも、これにとびつかれはしなかったろう。これのことは、わしにまかせておけ。これ以上、やつをおびえさせてはならん。」ギディオンは、ガーギを見おろして、おだやかな声でたずねた。「よし、よし。豚はどこにいるのだね?」
「ああ、なんとはげしい怒り!」ガーギは鼻声でいった。「豚は、ぱしゃぱしゃ泳いで、水をわたっていきました。」ガーギは、上半身をおこすと、毛むくじゃらな腕をふって、大アブレン川の方をさした。
「いいか、うそをついたら」と、ギディオンがいった。「すぐにわかるからな。うそとわかったら、わしはかんかんになってもどってくるぞ。」
「強い殿さま、これで、もう、むしゃむしゃ、もぐもぐできますね?」ガーギが、鼻にかかった、細いきいきい声できいた。
「約束だからな。」と、ギディオンがいった。
「ガーギ、小さい殿を、むしゃむしゃやりたい。」ばけものは、きらりと目を光らせてタランを見た。
「いや、そりゃだめだ。」と、ギディオンがいった。「かれは、豚飼育補佐だから、食べたら、ものすごい中毒をおこす。」そして、ギディオンは、鞍袋の口をあけ、いく切れかのほし肉をとり出して、ガーギに投げ与えた。「さあ、行け。だが、わしにつまらんいたずらをしてはならん。わすれるなよ。」
ガーギは、食べものをひっつかむと、すぐ口にほうりこみ、するすると木にのぼったかと思うと、木から木へとびうつって姿をけした。
「胸くそわるいけだものめ、」とタランがいった。「いやらしくて、腹黒くて……」
「いやいや、腹の中はわるくない。」と、ギディオンが答えた。「腹黒くおそろしくなりたくしてしかたがないんだが、それが、あまりうまくいかんのだよ。あいつときたら、自分で自分を、すっかりあわれんじまっておるので、わしらも、つい腹だたしくなってしまうのさ。腹をたてても、しかたがないんだが。」
「ヘン・ウェンのことは、ほんとうでしょうか?」と、タランがたずねた。
「ほんとうだと思う。」と、ギディオンはいった。「わたしのおそれていたとおりだ。角の王は、カー・ダルベンをおそったのだ。」
「あ、それで、火をつけたんですね!」タランは思わず大きな声でいった。今の今まで、生まれ育った所のことなど、まるで念頭になかったのだ。それが、今、ふいに、白い小屋が炎につつまれている。情景や、ダルベンのひげや、勇敢なコルのはげ頭などが、一度にわっと頭にうかんできて、心をゆさぶった。「ダルベンとコルがあぶない!」
「いや、だいじょうぶさ。」と、ギディオンがいった。「ダルベンは老練な知恵者よ。かれに気づかれずに、カブトムシ一ぴき、カー・ダルベンにもぐりこむことはできん。燃えたのではない。その火というのは、ふいのお客のもてなしに、ダルベンが細工をしたものにきまっておる。
「もっともあぶないのは、ヘン・ウェンだ。われわれの探索は、いよいよ緊急を要することになったぞ。」ギディオンは、早口に言葉をつづけた。「角の王は、あれがいなくなったことを、もう知っていた。あとを追うだろう。」
「それでは」タランは、さけぶようにいった。「かれよりさきに、見つけださなくちゃ!」
「豚飼育補佐よ」と、ギディオンがいった。「おまえは、今始めて、分別ある意見をいったぞ。」
4 怪鳥ギセント
馬のメリンガーは、ふたりを乗せて、大アブレン川の、なだらかに傾斜した岸辺を、足早に進んだ。岸辺は、森の木々にふちどられていた。ふたりは、馬をおりると、ガーギが教えてくれたほうに向かい、急ぎ足で進んでいった。岩が一つ地面からつき出ている所で、ギディオンは立ちどまり、うれしそうにさけんだ。粘土質の地面に、ヘン・ウェンの足あとが、彫りつけたようにくっきりのこっていた。
「ガーギめ、でかした!」と、ギディオンは思わずさけんだ。「あいつ、むしゃむしゃ、もぐもぐをたんのうしてくれるとよいが。これほど手ぎわよく案内してくれたとわかっていたら、おまけをつけてやったんだが。
「うむ、たしかに、ヘン・ウェンは、ここで、川をわたったのだ。」と、ギディオンは、話をつづけた。「われわれも、そうしよう。」
ギディオンは、メリンガーをひいて川に向かった。大気が、だしぬけに、重苦しくつめたくなった。大アブレン川は、岩をかむ白いあわのすじをいくつもひきながら、灰色の水をとうとうと流していた。タランは、メリンガーの鞍頭につかまりながら、おずおずと河岸を進んだ。
ギディオンは、大またに、まっすぐ川にはいっていった。タランは、少しずつぬれるほうがよいと思い、できるだけ水にぬれないようにしていたが――ついに、メリンガーが、タランをぶらさげたまま、ざぶりと水にとびこんだ。タランは、あわてて足を底につけようとして、よろめき、水しぶきをあげた。氷のような水が、首まであがってきた。流れのいきおいは、ぐんぐん強くなり、灰色のへびのように、タランの足をまきこもうとした。急に、川底がなくなった。タランは足のふみ場をなくし、なんでものみこむ川の流れにつかまって、気がつくと、ささえのない水中で足をばたばた動かしていた。
メリンガーが、力強い四本の足でぐいぐい泳ぎはじめた。だが、流れにおされてぐるりとまわってしまい、タランにぶつかって水中に沈めてしまった。
「鞍から、手をはなせ!」ギディオンが、流れの音にまけない大きな声でどなった。「馬から泳いではなれるんだ!」
水が、タランの耳といわず鼻といわず、どっとはいりこんできた。あえぐたびに、川水を飲んだ。ギディオンが、タランのあとを追ってきて、まもなく追いつき、髪の毛をつかんで、浅瀬までひきずっていってくれた。ギディオンは、ぽたぽた水をたらしながら、せきこんでいるタランを、岸辺にひっぱりあげた。メリンガーは、ふたりよりやや川上で、岸にあがると、小走りにふたりの所へやってきた。
ギディオンは、きびしい目でタランを見すえた。「わしは、はなれて泳げと命じたはずだ。豚飼育補佐というものは、みな、がんこなうえに、耳が悪いのか?」
「ぼくは、泳げないんです!」タランは、はげしく歯をならしてふるえながら、大声を出した。
「それでは、なぜ、それを、川をわたる前にいわなかったのか?」ギディオンがおこってたずねた。
「おぼえられると思っていたんです。」と、タランは口答えをした。「いざ泳ぐときになれば、すぐにできると思ったんです。メリンガーさえ、ぼくにのしかかってこなければ……」
「おまえは、自分のばかげたふるまいに対するいいわけからして、勉強しなくてはならんな。」と、ギディオンがいった。「メリンガーのことをいったが、彼女は、おまえなど足下にも及ばぬほどかしこい。おまえが成長して大人になったとて、とてもかなうものではない。――それに、おまえが大人になれようとは、ますます思えなくなってきたぞ。」
ギディオンは、すらりと馬にとび乗ると、びしょぬれでどろだらけのタランをひっぱりあげた。メリンガーの馬蹄が、かちっ、かちっ、と石をうった。タランは、鼻をならし、ぶるぶるふるえながら、前方の山々を見た。青空高く、鳥らしいものが三つ、風にのってゆるゆると旋回していた。
つねに八方に目をくばっているギディオンも、たちまち、その三つのものに気づいた。
「ギセントどもだ!」ギディオンは、そうさけぶと急いで馬首を右に向けた。だしぬけに向きを変えた馬が、ふいにぱっと走りだしたため、タランは、からだのつりあいがとれなくなった。両足がぱっとあがったか、と思ったとたん、小石のちらばる河岸に、どしんとおっこちてしまった。
ギディオンは、すぐにメリンガーをとめた。そして、タランがいっしょうけんめいおきあがろうとしているうちに、まるで食べものの袋を持ちあげるように、タランをつかんで、メリンガーの背にひきあげた。遠かったときには、風にまかれる枯れ葉ほどにしか見えなかったギセントたちが、馬上のふたりめがけてつき進んでくるにつれて、ぐんぐん大きくなった。三羽は、巨大な黒いつばさをはばたき、ぐんぐん速度を増して、急降下にうつった。メリンガーは、馬蹄の音をひびかせて、川のつつみをのぼった。ギセントたちは、ぎゃあぎゃあ鳴きながら、せまってきた。森のへりにつくと、ギディオンは、タランを鞍から投げおろし、自分も馬からとびおりた。そして、タランをひきずりながら、枝をひろげたカシの木の下の地面に伏せた。
黒くぎらりと光るつばさが、木々をたたいた。タランは、かぎ型に曲がったくちばしとつめをちらりと見た。短剣のように、つめたく、おそろしく見えた。ギセントたちがまいあがって、ふたたびおそってきたとき、タランは、おそろしさのあまり、悲鳴をあげて、手で顔をおおった。ギセントたちがおそいかかると、葉がざーっと音をたてた。三羽は、また、さっとまいあがり、しばらく、宙にうかんでいたが、やがて、ぐいぐい上昇し、西をさして急速にとび去っていった。
タランは、思いきって顔をあげた。顔はまっさおで、全身がふるえていた。ギディオンは、河岸まで大またに歩いて行って、とび去るギセントたちをながめていた。タランも、ギディオンを追い、そのわきに立った。
「こんなことにならねばよいがと、思っていたのだよ。」と、ギディオンはいった。表情は、暗く、きびしかった。「今までは、なんとか、やつらの目をさけてきたのだが。」
タランは、なにもいえなかった。敏速がもっとも必要なとき、メリンガーから、ぶざまに落ちてしまったし、カシの木の下では、まるで子どものようなぶざまを見せてしまったからだった。タランは、ギディオンにしかられると思っていた。だが、戦士のみどり色の目は、黒い三つの点をじっと追っていた。
「早晩、われわれは、見つけられてしまう運命にあったのだよ。」と、ギディオンはいった。
「ギセントは、アヌーブンのスパイ兼伝令の役をしていて、アヌーブンの目といわれている。かれらの目は、かくれているものを、あっというまにみつけだしてしまう。かれらの目的が偵察だけで、えものあさりでなかったのがめっけものさ。」ギディオンが、目をそらした。ギセントがとうとう見えなくなったのだ。「かれらは、今、アヌーブンの鉄おりにもどっていった。きょうじゅうに、アローンも、われわれのことを知ってしまう。そしたら、すぐに手をうつだろう。」
「見つけられさえしなかったら。」と、タランがうめくようにいった。
「すぎたことをくやんでも、しかたがない。」また歩きだしながら、ギディオンがいった。
「どのみち、アローンは、われわれのことは、すでにきいていただろう。わしが、カー・ダスルを出発した瞬間に、もうわかってしまったにちがいない。ギセントだけが、アローンの手下ではないからな。」
「でも、いちばん手におえない手下だと思います。」タランが、ギディオンにおくれまいと足をはやめながらいった。
「とんでもない。」と、ギディオンはいった。「ギセントの仕事は、殺しよりは、むしろ情報をもっていくことなのだ。かれらは、何代も前から、そのようにしこまれている。アローンににぎられてしまう。だが、ギセントは、血と肉でできた生きものだ。剣で立ち向かえる。
「剣がなんの役にも立たぬ部下たちがいる。」と、ギディオンはいった。「そして、その中に、戦士としてアローンにつかえている不死身どもがいるのだ。」
「それは、人間じゃないのですか?」と、タランがたずねた。
「人間だったのだ、かつては。」と、ギディオンが答えた。「かれらは死者なのだ。死者となって、長い塚の安息所にねむっていたのを、アローンがぬすみだしたのだ。アローンは、死者を魔法のかまにつけて、ふたたびいのちを与えるのだそうだ――あれが、いのちといえるかどうかは疑問だが、とにかく、不死身どもは、死者同様、永久に口がきけない。そして、ほかの人間を、おなじ奴隷の身分におとすことだけを考えている。
「アローンは、不死身どもを、アヌーブンの国内で親衛隊として使っている。それは、かれらが、主人からはなれている時間と距離に応じて、力がなくなってくるからだ。だが、アローンも、もっとも無慈悲な仕事をさせるときには、不死身の何人かを、あの国の外に出すこともある。
「この不死身というやつは、慈悲やあわれみの心がまったくない。」と、ギディオンは、話をつづけた。「アローンが、さらに、よこしまな細工を、かれらに加えているからだ。アローンは、かれらが生きていたときの記憶をすっかりうばいとってしまった。だから、不死身どもには、涙やわらいや悲しみの記憶がなく、愛情が生む親切心の思い出もない。アローンのあらゆる所業のうち、これがもっとも残酷なものの一つなのだ。」
さんざんさがしまわったあげく、ギディオンは、もう一度、ヘン・ウェンの足あとを見つけた。足あとは、荒れ果てた野原を通り、浅くて小さな谷間にはいりこんでいた。
「足あとは、ここでおわっている。」ギディオンは、むずかしい顔をしていった。「石ばかりの地面にも、跡は、少しはのこっているはずなのだ。ところが、全然見つからん。」
ギディオンは、ゆっくりと念を入れて、谷間の左右をさがしまわった。タランは、気落ちしている上につかれてしまい、一歩ふみ出すと、つぎの一歩がどうしてもふみ出せないほどだった。だから、暗くなって、ギディオンがやめざるをえなくなったときには、ほっとした。
ギディオンは、とあるやぶに、メリンガーをつないだ。タランは、くずれるようにすわりこむと、頭をかかえこんだ。
「ヘン・ウェンのやつ、けむりのように、姿をけしてしまった。」ギディオンが、鞍袋から食べものをとり出しながらいった。「どうなったか、いろいろ考えられるが、一つ一つよく考えるひまなど、とてもない。」
「すると、どうしたらいいんです?」タランが、ぞっとしてたずねた。「見つけだす手段はもうないんですか?」
「もっとも確実な捜索法が、いちばん手短とはかぎらないさ。」と、ギディオンがいった。
「それに、さがしだすには、ほかの人間の助けが必要なこともある。ワシ山脈のすそ野に、年老いた男がひとり住んでいる。メドウィンという名の人物だが、この男は、プリデインに住むあらゆる生きものの、心の中とそのくせがわかるという話なのだ。ヘン・ウェンのかくれがを知っているとすれば、この人物以外にない。」
「ぼくたちが、その人を見つけられれば。」と、タランが口をはさんだ。
「そのとおり。見つけられればの話さ。」と、ギディオンは答えた。「わしは、まだ会ったことがないのだよ。ほかの人たちも、さがしたが、みな失敗した。だから、望みはかすかだ。それでも、まるで望みがないよりはましだよ。」
風が吹いてきて、まっ黒な木立ちがざわめいた。遠くで、猟犬のさびしい鳴き声がした。ギディオンが、弓のつるのようにぴーんと神経をとがらして、きっと上半身をおこした。
「角の王ですか?」と、タランがせきこんでいった。「こんなに近くまで、追いついたんですか?」
ギディオンは、首を横にふった。「あんな声でほえるのは、かりうどグウィンの猟犬たち以外にない。すると、」ギディオンは、考えるようにいった。「グウィンも出てきているのだな。」
「やはり、アローンの手下ですか?」タランが、不安をはっきり声に出して、たずねた。
「グウィンは、このわしにすら正体がわからぬ、ある王に忠誠をちかっておる。」と、ギディオンが答えた。「その王は、おそらく、アローンより強大な王だろう。かりうどグウィンは、猟犬だけを供に、ただひとり動くのだが、かれのあらわれるところ、かならず人が死ぬ。グウィンは、死と戦いを予知する力を持ち、遠くにはなれてじっと見ながら、戦士たちの死をきめていく。」
猟犬の群れのほえる声をおさえるように、角笛の長くひっぱる澄んだ音がきこえてきた。空を切るようなその音は、タランの心をさしつらぬいて、身もこおるような恐怖心をいだかせた。だが、山々がかえすこだまは、角笛の音そのものとちがい、恐怖よりも悲しみを感じさせた。うすれゆくこだまは、日光も小鳥のさえずりも、あかるい朝も、あたたかい暖炉も、食べものも飲みものも、また友情も――よいものはすべてなくなり、もはやとりかえしがつかないと、なげいているようにきこえた。ギディオンが、片手をタランのひたいに強くおしあてていった。
「グウィンの角笛は警告なのだ。それを知っていて、得があるかどうかはわからんが、とにかく警告だと思わねばならぬ。だが、あのこだまを、あまり熱心にきいてはいけない。あれをききすぎたものは、それっきり、あてもなくさまよいつづけるからな。」
メリンガーのいななきで、タランは夢を破られた。ギディオンが立ちあがって、メリンガーのところへ行ったとき、タランは、影が一つ、やぶの後ろにとびこむのを、ちらりと見た。タランは、さっと身をおこした。ギディオンがふりかえった。あかるい月の光の中で、影がまた動いた。タランは、恐怖心をむりにおさえて、やぶにとびこんだ。とげがタランをひっかいた。タランは、正体のわからないなにかを組みしいた。すると、相手は、夢中でタランにつかみかかってきた。タランはとっ組みあい、相手の頭らしいものをつかんだ。すると、雨にぬれたオオカミ猟犬そっくりのにおいが、鼻をついた。
「ガーギ!」タランは、かんかんになってさけんだ。「この、こそこそ野郎め……」タランが乱暴にゆさぶると、奇妙な生きものは、ぶかっこうにからだをまるめた。
「もういい! もういい!」と、ギディオンが声をかけた。「そのあわれなやつを、あまりおどかして、度を失わせてはならん!」
「じゃ、これからは、自分で、自分の身を守ってください!」タランは、かっとして来てに返し口をした。ガーギのせいいっぱいのさけびにも負けない声だった。「偉大な武将は、豚飼育補佐なんかの助けは、いらなかったんでした!」
「豚飼育補佐とはちがって」ギディオンはおだやかな声でいった。「わしは人の助けをばかにしない。それに、おまえは、まず、相手がなにものかをたしかめてから、いばらのやぶにとびこむ分別をもつべきだ。さ、その怒りは、もっとふさわしいものに向けるんだ……」そこで、ギディオンはつぎの言葉をためらい、タランをしげしげと見た。「うむ、おまえは、わしのいのちがあぶないと思ったんだな。」
「相手が、この、ばかでとんまのガーギだとわかっていたら――」
「だが、じっさいには、わかっていなかった。」と、ギディオンはいった。「だから、あんな無分別な突進をした気持はいただく。カー・ダルベンのタランよ、おまえはどんな人間であるにしろ、とにかく臆病者ではない。お礼をいわせてもらうぞ。」そして、ギディオンは、ていねいに一礼した。
「それじゃ、あわれなガーギはどうなります?」と、ガーギがわめいた。「ガーギにはお礼はいわない――ああ、もちろん――ガーギなんか、えらい殿さま方に、頭をぴしゃりとたたかれるだけ! 豚を見つける手伝いをしたって、ちょっともぐもぐする、食べものだけ!」
「豚は見つからなかった。」タランが、おこっていいかえした。「ききたいならいってやるが、おまえは、角の王のことを知りすぎてる。あいつに告げ口をしたとしてもふしぎはないから……」
「ちがう、ちがう!大きな角の殿は、このりこうであわれなガーギを、必死になって追いまわした。ガーギは、ひどくなぐられるの、こわい。ガーギ、親切で力のある守り手についていく。忠実なガーギ、二度とはなれない!」
「それで、角の王はどうしている?」ギディオンが、すかさずたずねた。
「ああ、とても腹たてている。」ガーギが、あわれっぽい声でいった。「腹黒い殿さまたち、豚が見つからないので、ひそひそ、ぶつぶついいながら馬を走らせている。」
「今、どこにいる?」と、ギディオンがたずねた。
「遠くない。あの人たち、川をわたった。でも、りこうで、お礼いってもらえないガーギだけが居場所知ってる。あの人たち、すごい炎あげて、たき火してる。」
「そこまで、つれて行ってくれないか?」と、ギディオンがたのんだ。「やつらのくわだてが、わかるかもしれないから。」
ガーギが、たずねるように、鼻にかかった声でいった。「むしゃむしゃ、もぐもぐは?」
「そういう話になるだろうと思っていたよ。」と、タランがいった。
ギディオンが、メリンガーに鞍をつけ、三人は、月光にてらされた丘陵地帯を、陰から陰を伝いながら横切りはじめた。ガーギは前かがみになって長い手をぶらぶらさせながら、先にたってぐんぐん進んだ。三人は、深い谷間をつぎつぎ横切った。やがて、とある丘のてっぺんで、ガーギがぴたりと動かなくなった。眼前の広い野原は、数多くのたいまつであかあかとてらされていた。タランは、巨大な炎の輪が一つできているのに気づいた。
「ここで、むしゃむしゃ、もぐもぐ?」と、ガーギがいいだした。
ギディオンは、そのたのみを無視して、斜面をくだるぞと手で合図した。しかし、声を出さない用心は、ほとんど必要なかった。人でいっぱいの野原には、ひくくてうつろなたいこの音がひびきわたっていた。馬がいななき、人びとがさけびあい、武器ががちゃがちゃと音をたてていた。ギディオンは、しげみの中にうずくまって、じっと観察した。火の輪のまわりで、高いあしだをはいて背を高くした戦士たちが、頭上にふりかざした剣で、楯をうっていた。
「あの連中は、なんですか?」タランは小声でたずねた。「それから、あの柱にぶらさげてある、枝であんだかごは、なんですか?」
「あの連中は、いくさのおどりの勇者たちだ。人間がまだ野蛮人にすぎなかった時からつづいている、古い古い儀式だよ。あのかごも――すたれるにこしたことはない、古代の風習の一つだ。
「しかし、あそこを見ろ!」ギディオンがふいに声を大きくした。「角の王がいる! そして、ほら、あそこ、」ギディオンは、騎馬の軍勢を指さしてさけんだ。「レギィド国の旗がある! ダイ・グレズィンの旗も、マウルの旗も見える! 南の国々の旗が、みんな見える! そうか、これでわかったぞ!」
ギディオンが、それ以上なにもいう間もなく、角の王が、たいまつをつかんで、やなぎあみのかごまで馬を進め、かごの中にたいまつをつっこんだ。火は、コリヤナギであんだかごに燃えうつった。悪臭のする太いけむりがまっすぐ空にのぼった。戦士たちは、剣で楯をうちならし、声をそろえてさけんだ。かごの中から、人間の苦しみもがく悲鳴があがった。タランは、息をのんで、顔をそむけた。
「もう、これで十分だ。」と、ギディオンがさしずした。「さ、急ごう。ここから立ち去ろう。」
ギディオンが、荒涼とした野原の端でとまったとき、夜があけそめた。ギディオンは、それまでずっと無言だった。ガーギすら、恐怖に目を見ひらいたまま、なにもいわなかった。
「これで、ここまで旅をしてきた目的の一部はわかった。」と、ギディオンがいった。ギディオンは顔はまっさおで、表情はきびしかった。「アローンは、思いきって武力を使おうとしている。角の王がその指揮をとる。角の王は強力な軍勢を集めた。あれを使って、攻めよせてくるだろう。ドンの子孫たちは、あれほど強力な敵をむかえるには、準備が不足だ。警報を伝えねばならぬ。わしは、すぐにカー・ダスルにもどらねば。」
森の一角から、敵兵が五騎、馬をゆっくりと走らせて野原に出てきた。タランはぱっと立ちあがった。先頭の敵が、馬に拍車をくれて疾走してきた。メリンガーが、声高くいなないた。敵の戦士五人が、すらりと剣をぬいた。
5 折れた剣
ガーギは、恐怖の悲鳴をあげてにげていった。先頭の戦士が攻めよせて来ると、ギディオンは、タランのかたわらに立った。そして、片手をすばやく上着の中につっこむと、草であんだ小さな網をとり出した。すると、一にぎりのしおれた草は、太く長くなり、ぱちぱちいいながら、ふいに光を発しはじめた。タランはその白い炎のために、目がつぶれるかと思った。敵の戦士が剣をふりあげた。ギディオンは、一声さけぶと、まばゆく輝く網を敵の顔に投げつけた。敵は、悲鳴をあげて、剣を落とし、空をかきむしった。草の網がひろがって、巨大なクモの巣のようにからだをつつんだので、敵は馬からころげ落ちた。
ギディオンは、からだがなえてしまったタランを、トネリコの木のところまでひっぱっていくと、革帯から狩猟用の短剣をひきぬき、タランの手におしつけて、大声でいった。「余分な武器はこれしかない。できるだけうまく使えよ、よいか。」
ギディオンは、木を背にしてのこった四人の敵をそなえた。大剣が、ギディオンの頭上でぎらりと弧をえがき、閃光のような刃がひゅうと空を切って鳴った。敵が、二人に向かってきた。一頭の馬が前足をあげて立った。タランには、馬のひづめが自分の顔めがけてふりおろされるとしか見えなかった。馬上の敵は、にくにくしげに、タランの頭めがけて、剣をふりおろし、馬首をめぐらして、もういちど攻めてきた。タランは、短剣をかまえて、めくらめっぽうに突いて出た。敵は、苦痛と怒りのさけびをあげて、さされた足をつかむと、馬の向きを変えてにげていった。
ガーギの姿は、どこにもなかったが、一条の白い光が野原を走っていた。メリンガーがたたかいに加わったのだ。白馬は、金色のたてがみをふりたて、おそろしい声でいななくと、敵の中にとびこんだ。メリンガーは、おそろしさにあわてふためいて、目をぐるぐる動かす敵の馬に、力強いからだをぶつけていき、入りみだれて、おしまくった。ひとりの戦士が、馬の向きを変えようと、はげしくたづなをひいた。馬は、しりもちをついた。メリンガーが、背をいっぱいにのばして、あと足で立ちあがった。前足が空をはげしくかいたかと思うと、するどい馬蹄が戦士をたたきのめし、地面にうちたおした。メリンガーは、くるりと動いて、からだをまるめた地面の敵をふみつけた。
のこった三人の戦士は、あれくるうメリンガーの守りを、力ずくで突破した。トネリコの木を背にしたギディオンは、剣をびゅっとふって木の葉をたたき切った。両足は、根がはえたように、しっかりと地面をふんで動かなかった。全速力でおしよせる敵のおそろしさにも、びくともしなかった。両眼は、おそろしいばかりに光っていた。
「ほんのちょっとの間、しっかりその場をおさえていろよ。」ギディオンは、タランに声をかけた。大剣が空を切って鳴ると、敵のひとりがおし殺したさけびをあげた。のこりのふたりは、一瞬ためらって、攻撃の手をとめた。
野原に、馬蹄の音がひびきわたった。三人の敵がしりぞきはじめたとたん、新手の騎馬の敵が全速力で突進してきた。新手のふたりは、だしぬけのように馬をとめると、ためらいもなく馬をおりて、ギディオンめがけて、ぐんぐんかけよってきた。ふたりの顔は土気色で、目はまるで石だった。腰には、ずっしりした青銅の帯をまき、その帯から、まっ黒な革むちがさがっていた。胸あてには、青銅のこぶがいくつもついていた。ふたりとも、楯を持たず、かぶともかぶっていなかった。ぴくりとも動かない口元には、身の毛もよだつ死者のわらいがうかんでいた。
ギディオンが、ふたたび剣をとりあげた。そして、「にげろ!」と、タランに向かってさけんだ。「こいつらは不死身だ! メリンガーに乗って、この場をのがれろ!」
タランは、背中を、今までよりももっと強くトネリコの木におしつけて、短剣をふりあげた。そのとたん、ふたりの不死身がおそいかかってきた。
タランは、黒いつばさが羽ばたくような恐怖に、かりたてられていたが、その恐怖は、不死身の青黒い顔や光のない目のためではなく、かれらがまるで幽霊のように、声を出さないためだった。もの言わぬ敵が剣をふりあげ、金属と金属がぶつかりあった。慈悲を知らない敵は、くりかえして切りかかってきた。ギディオンの剣が、ひとり防備をやぶって、心臓深くつきささった。青黒い敵は、うめき一つもらさなかった。ギディオンが剣をひきぬいても、一滴の血も流れなかった。不死身は、眉一つしかめず、からだを一ゆすりすると、また攻撃にうつった。
ギディオンは、歯をむきだし、みどり色の目をぎらぎらさせて、追いつめられたライオンのようにがんばっていた。不死身は、守るギディオンに切りかかった。タランは、もうひとりの青黒い敵に突きかかった。敵の剣先が腕を切りさき、短剣は、やぶの中にはねとばされた。
ギディオンは、一撃を受けそこねて、ひたいからほお骨まで切られ、血を流していた。ギディオンの剣の力が弱まった。そのとたん、不死身は、ギディオンの胸に突きを入れた。ギディオンが身をよじってよけると、剣先が横腹をさした。青黒い戦士は、さらにはげしい攻撃を加えた。
ギディオンは、髪の乱れた大きな頭をがくりとたれて、よろめいた。だが、力強いさけびをあげて突進し、そして、片ひじをついてしまった。ギディオンは、弱まっていく体力をふりしぼって、もういちど剣をふりあげようとした。不死身たちは、武器を投げすてると、ギディオンをつかまえて地面に投げたおし、急いでしばりあげた。
そのとき、さらにふたり、戦士があらわれた。ひとりが、タランののどをしめつけている間に、もうひとりかが後ろ手にしばった。タランは、メリンガーのところまでひきずってつれて行かれ、ギディオンといっしょに、メリンガーの背につまれた。
「けがはひどいか?」ギディオンが、頭をもちあげようとしながら、たずねた。
「いえ」と、タランはいった。「でも、あなたは重傷です。」
「苦痛なのは、傷ではない。」ギディオンは苦笑しながらいった。「もっとひどい傷を負ったこともあるが、生きのびたからな。おまえは、なぜ、わしの命令どおりににげなかったのだ? わたしが、不死身にたいしては無力であることは知っていた。だが、おまえがにげる間ぐらいは、やつらを支えられていたと思う。だが、カー・ダルベンのタランよ、おまえはみごとにたたかったぞ。」
「あなたは、ただの武将じゃないんですね。」と、タランが小声でいった。「なぜ、ぼくに、ほんとうのことを教えてくださらなかったんですか? アブレン川をわたる前に、あなたは草で網をつくりました。ところが、きょう、あの草は、ぼくが今まで見たことがないものに変わりました。」
「いや、わたしは、いったとおりの人間さ。あの草の網――うむ、あれはただの草ではない。ダルベンが、用い方を教えてくれたのさ。」
「あなたも魔法を使うんですね!」
「多少は心得ている。残念なのは、アローンの魔力から、わが身を守るほど、強力でないことだ。きょうも、」と、ギディオンはつけ加えた。「勇敢な同志を守れるほど、強力でなかったよ。」
ひとりの不死身が、馬に拍車をくれて、メリンガーとならぶと、帯につけたむちをとって、ふたりの捕虜を無慈悲にたたいた。
「もう口をきくな。」と、ギディオンがささやいた。「いたい目を見るばかりだ。これきり会えぬ場合もあろうから、さらばといっておくぞ。」
一団は、一度も休まず、長い間進みつづけた。イストラド川の浅瀬をわたるとき、不死身は捕虜の両側にぴったりくっついて護衛した。一度タランは、思いきってギディオンに話しかけようとしたが、むちで中断されてしまった。タランののどは、やけつくようにかわき、めまいがなんどとなくおそってきて、意識を失いそうになった。もう、いったいどのくらい旅をしたか、はっきりとわからなくなった。何度となく、熱にうかされた夢うつつの状態におちいったからだった。太陽は、まだ、空に高かった。タランは、丘のてっぺんに、高い灰色の胸壁がぼーっとうかびあがってきたのに、ぼんやりと気づいていた。前方に城の庭があらわれ、メリンガーの馬蹄が石だたみにひびきわたった。タランは、乱暴にメリンガーからひきずりおろされ、アーチの天井のある廊下を、よろめきながら追いたてられて歩かされた。タランの前を、ギディオンが、ひきずられるようにはこばれていた。タランは、同志に追いつこうとしたが、不死身のむちで、ひざをついてしまった。番兵が、タランをひきずりおこして、けとばして歩かせた。
ようやく、ふたりの捕虜は、広い会議の間へひきすえられた。まっかな壁かけのかかった壁には、ちらちら光るたいまつが燃えていた。外は、まだまっぴるまだったのに、この窓のない大広間は、つめたい敷石から、夜の冷気としめり気が、霧のようにたちのぼってこもっていた。広間のいちばん奥には、まっ黒な木をほってつくった王座があり、ひとりの女がすわっていた。若く美しい女で、その白い顔は、まっかな服を着ているため、いやが上にも白く見えた。首には、宝石のネックレスが見え、手首には、宝石をはめこんだ腕輪がはまっていた。大きな指輪が、たいまつのちらちらする光をうけてきらめいていた。女の足もとに、ギディオンの剣がころがっていた。
女は、さっと立ちあがった。「なんで、わが城に、このような恥をかかすのじゃ?」女は戦士たちに向かってさけんだ。「このふたりの傷は新しく、また、手当てもしておらぬではないか? その怠慢の罪は、だれかがうけねばならぬぞよ!」女は、タランの前に立ちどまった。「それに、この若者は、もう立ってもいられぬほどじゃ。」女は手をたたいた。「食べものとブドウ酒と、傷にぬる薬をもってまいれ。」
女は、タランの顔を見て、気の毒そうにほほえみながらいった。「かわいそうに、きょうのことは、ひどいまちがいですよ。」そして、女は、やわらかい手で、タランの傷口にさわった。指がおしつけられると、タランのいたむからだが、ここちよいあたたかさにつつまれた。いたみがとれて、うっとりするような安らいだ気持ちになった。それは、わすれて久しいカー・ダルベンのむかしの、子どものときのあたたかいベッドや、ものうい夏の午後を思い出させる安らいだ気持ちだった。「どうやって、ここに来たの?」女はしずかにたずねた。
「大アブレン川をわたりました。」と、タランは、話しはじめた。「ごぞんじでしょう、あんなことがおこったので……」
「やめろ!」ギディオンの声が、ひびきわたった。「その女はアクレンだ! おまえに、わなをかけようとしているのだ!」
タランは、あっと息をのんだ。一瞬、タランは、このように美しい婦人が、前から注意しろといわれていた、悪意をひそめているとは、信じられなかった。ギディオンの見まちがいじゃないだろうか? それでも、タランは、口をかたくとじてしまった。
女は、びっくりして、ギディオンを見た。「そのような非難は、礼にかないませんぞ。その傷では、いたしかたもあるまいが、腹をたてることはいりませぬ。そなたは、だれですか? そなた、なぜ……」
ギディオンは、目をいからした。「おまえは、わたしをよく知っている。わたしが、おまえを知っているようにだ。おい、アクレン!」ギディオンは、血の流れる口からその名まえをはきだすように、さけんだ。
「ギディオン卿が、わらわの領土を旅しておられることは、きいておりました。それ以外のことは……」
「アローンは、われわれを殺すために、戦士を送ってきた。」と、ギディオンはさけんだ。「そいつらが、おまえの会議の間にいるではないか。それでも、おまえは、それ以上なにも知らぬというのか?」
「アローンは、あなた方を見つけよと、戦士を送ってきたのです。殺すためではない。」と、アクレンは答えた。「そうでなかったら、卿はこうして生きてはおられません。こうしてお会いしてみますと」と、アクレンは、ギディオンをじっと見ながらいった。「このようなお方が、路傍で血を流して死ななくて、ほんとうによかったと思います。と申しますのは、じつは、話あいたいことがたくさんあるのです。あなたの利益も大きいことです。」
「わたしと取引するつもりなら」と、ギディオンはいった。「なわをほどいて、剣を返してもらおう。」
「要求なさるのですか?」と、アクレンはおだやかにいった。「おわかりにならないとみえますね。その手のなわをほどき、武器を返してさしあげても、なお、あなたには得られないもの、それを、わたしはさしあげようというのです。それは、ギディオン、あなたのいのちということです。」
「なにと交換にかね?」
「はじめは、もうひとりのいのちと取引きしようと、思ったのです。」アクレンは、タランをちらりと見ていった。「しかし、そのいのちでは、生きようが死のうが、なんでもないことがわかりました。だから、ほかにもっとおもしろい取引きのしかたがあるのです。あなたは、ご自分で思っていらっしゃるほど、わたしのことは知りませんよ、ギディオン。この城からは生きて出られません。そこで、わたしは約束します。」
「きさまの約束など、アヌーブンの悪臭がぷんぷんするわい!」と、ギディオンはさけんだ。「そんな約束など、あざわらってくれる。きさまの正体は、すっかりわかっておるのだ!」
アクレンは、さっと顔色を変えた。舌うちして、ギディオンを平手うちした。血の色に染まった彼女のつめあとが、ギディオンのほおにいくすじかついた。アクレンは、ギディオンの剣をさやからひきぬくと、両手で持って、ギディオンののどをついたが、紙一重のところでぴたりととめた。ギディオンは、目をいからせて、堂々と立っていた。
「ふん」と、アクレンは大声でいった。「殺してなぞやるものか。あとになって、あのとき殺されていたらよかったと思うであろう。そして、慈悲のやいばをと、たのむことになろう! そなたは、このわらわの約束をあざわらいおった! 今約束したことは、かならず守ってやろうぞ!」
アクレンは、ギディオンの剣をふりあげると、力いっぱい石柱にたたきつけた。火花がちり、剣は大きな音をたてたが、刃こぼれもしなかった。アクレンは、かっとなってかん高いさけび声をあげ、剣を床にたたきつけた。
ギディオンの剣は、それでも折れずに、光っていた。アクレンは、また剣をつかむと、するどい刃のところを、手がまっかになるまで強くつかんだ。そして、白目を見せて、口をゆがめて呪文をとなえた。広間いっぱいに雷鳴がとどろき、まっかな太陽のような電光がひらめいたかと思うと、剣は、こなごなにくだけて床に落ちた。
「おまえも、やがてこなごなにしてくれるわ!」アクレンは、かん走った声でそうさけぶと、片手をあげて不死身をよび、聞きなれないあらあらしい言葉で、なにかを命じた。
血の気のない戦士たちが進み出て、タランとギディオンを、広間からひきずりだした。石だたみの暗い廊下で、タランと敵ともみあい、ギディオンのそばへ行こうと戦った。不死身のひとりが、むちの柄で、タランの頭をなぐった。
6 エイロヌイ
タランは、きたないわらの上で、意識をとりもどした。わらは、ガーギの一族が先祖代代その上でねていたようなにおいがした。二メートルほど頭上の鉄格子窓から、うす黄色い日光がさしこんでいた。弱い日の光のすじは、ざらざらしてしめっている石壁にぶつかってぷつんと切れていた。壁の小さな光は、鉄格子の影に区切られていた。そのあわい光は、この地下牢を明るくするどころか、ますます陰うつにし、密閉されている感じを強めていた。この黄色いうす暗がりに目がなれると、びょうのうってある重いとびらと、とびらの下にあけてあるほそい差し入れ口が見えた。牢そのものは、せいぜい、縦横三歩の歩幅しかなかった。
頭がいたかった。手がしばられたままなので、大きなこぶが、ずきずきいたむらしいとしか、わからなかった。ギディオンの身がどうなったかを、タランは考える勇気がなかった。不死身の戦士になぐられたタランは、ほんのわずかの間、一度意識をとりもどし、ふたたび、うずまく暗黒にのみこまれてしまった。タランは、そのわずかな間に、自分が目をあけて護衛の肩にかつがれているのに気づいたことを、ぼんやり思い出した。頭が混乱してはっきりしないが、うす暗い廊下の両側に、とびらがならんでいたことも思い出した。一度、ギディオンが大声でよんでくれた――と、タランは思ったが、――友の言葉は思い出せなかったし、その記憶すら、悪夢の一部だったかもしれなかった。ギディオンも、べつの地下牢にほうりこまれたのだろうと、タランは思った。そうであってほしいと、タランは心からねがった。アクレンの蒼白い顔とぞっとするような金切り声が、頭についてはなれなかった。ひょっとしたら、ギディオンを殺せと命じたかもしれないと思った。
それでも、ギディオンは生きていると、信じられるわけがあった。会議の間で、ギディオンが堂々とわたりあったとき、アクレンは、かんたんにギディオンののどを切ることができた。ところが、アクレンはがまんした。つまり、アクレンは、ギディオンを生かしておくつもりなのだ。ギディオンは死んだほうがらくかもしれないと、タランはしずみこんで考えた。あの誇り高い人物が、うちのめされた死体で横たわる姿を想像すると、タランは、悲しさで胸がいっぱいになったが、それはすぐ、怒りに変わった。タランは、よろよろと立ちあがると、よろめきながらドアまで行き、けとばしたり、わずかにのこったちからをふりしぼってからだごとぶつかったりしてみた。だが、絶望して、じめじめした床に、くずれるようにすわりこみ、びくともしないドアのカシの板に頭をおしつけた。だが、しばらくすると、また立ちあがり、まわりの壁をけとばしはじめた。運よく、ギディオンが、となりの牢にいたら、この合図をききとるかもしれないと考えたからだった。だが、音がにぶくてくぐもっているので、弱々しい音では、厚い壁を通さないだろうとわかった。
タランが壁からはなれたとたん、なにか光るものが、格子窓からとびこんできて、石の床に落ちた。タランはかがみこんでしらべた。それは金でできているらしい玉だった。タランは、めんくらって窓を見上げた。格子の間から、こい青色の目が、タランを見かえした。
「あのう」軽やかで気持ちのよい少女の声が、きこえてきた。「わたし、エイロヌイっていうんですけど、すみませんが、その安すぴかの玉をほうってくださいません? つまらないおもちゃで遊ぶなんて、子どもみたいだって思わないでくださいな。わたし、子どもじゃありませんから。でも、ここにいると、ときどき、ほんとうになにもすることがなくなってしまうので、今も、それを投げていたら、手からそれてしまって……」
「おじょうちゃん」タランは、話をさえぎった。「だめです……」
「あら、わたし、おじょうちゃんじゃありません。」エイロヌイが、いいかえした。「たった今、いったでしょ? あなた、頭がわるいの? お気の毒ね。のろまでばかって。ほんとにいやなことですもの。あなた、お名まえは?」エイロヌイは、しゃべりつづけた。「人の名まえがわからないと、わたし妙な気持ちになるの。ほら、わかるかしら、自分が足がわるいとか、手の指が三本しかないみたいな気持ち。まぬけな話でしょ……」
「ぼくは、カー・ダルベンのタラン。」タランはそういったが、すぐに、しまったと思った。これもまた、わなかもしれないと気づいたのだ。
「すてき。」エイロヌイが、ほがらかな声でいった。「どうぞ、よろしく。あなた、どこかの領主か、戦士か、武将か、吟遊詩人か、さもなければ怪物なんでしょ。怪物がいたのはずいぶん前だけど。」
「そのどれでもない。」タランは、エイロヌイが、じぶんを、領主やなにかと思ったことに、すっかり気をよくしていた。
「ほかに、なにがあるかしら?」
「ぼくは、豚飼育補佐っていうんだよ。」と、タランはいった。そして、口にしたとたん、くちびるをかんで後悔した。だが、口の軽さを自らなぐさめるため、小さな女の子にそのくらい知られても害はないだろうと、心の中でひとりごとをいった。
「すばらしいわ。」と、エイロヌイはいった。「そういう人がここに来たのは、あなたがはじめてよ。――でも、べつの牢にいる気の毒なあの人もそうなら、あなたがはじめてじゃないけど。」
「その人のことを教えてくれ」タランはすかさずいった。「その人は生きてるかい?」
「わからないわ。」と、エイロヌイがいった。「窓からのぞいてみたのだけれど、わからなかったの。ぜんぜん身動きしなかったから。でも、生きていると思うわ。死んでいれば、アクレンがカラスのえさにしているわよ。じゃ、まりをとってくださいな。あなたの足もとよ。」
「それがとれないんだ。」と、タランはいった。「手をしばられているのさ。」
青い目に、びっくりした表情がうかんだ。「あら、そうなの。それでわかったわ。じゃ、わたしが、とりにはいらなくちゃ、だめそうね。」
「とりにはいってなんか、来られないよ。」タランは、うんざりしたような声でいった。「ぼくは、ここにとじこめられているんだ。わからないかい?」
「もちろん、わかってるわよ。」と、エイロヌイがいった。「とじこめておくのでなかったら、人を牢に入れる意味があるの? カー・ダルベンのタラン、あなた、ほんとうに、ときどき、びっくりするようなことをいうわね。あなたをばかにしていうのじゃないけど、豚飼育補佐って、うんと頭を使わなくちゃならない仕事なの?」
鉄格子の外の、タランには見えないところにあるなにかが、さっと、とりはらわれて、ふいに青い目がきえた。人がとっくみあうような音がしたかと思うと、細くてかん高い悲鳴がきこえ、つづいてもっと太い金切り声がして、そのすぐあと、ぴしゃりとたたく音が大きくひびいた。
青い目は、それっきりあらわれなかった。タランはわらにもどると、どさりとたおれて横になった。しばらくの間、物音一つしない、ひとりぼっちの牢にじっとしていると、ふいに、エイロヌイがまた来てくれたらと思いはじめて、たまらなくなった。タランは、あれほどわけのわからない人間に出会ったことはなかった。この城のみんなと同じくらい悪い人間にちがいない――と思うのだが、心からそう信じこむことはできなかった。とにかく、タランは、エイロヌイのおしゃべりでもいいから、他人の声がききたくてたまらなかった。
頭上の鉄格子窓が暗くなった。夜が、黒くてつめたい波のように、牢の中に流れこんできた。重いドアの差し入れ口が、がたんとあいた。なにかが差し入れられる音をききつけたタランは、そこまではいずっていった。それは、平べったいおわんだった。タランは、毒入りの食べものかもしれないという心配がきえないので、注意深くにおいをかぎ、最後に思いきって、舌先でなめてみた。中身は、食べものではなく、生あたたかくてかびくさい水が、少しはいっているだけだった。のどがやけつくようにかわいていたタランは、味などはかまわず、おわんに顔をつっこんで、飲みつくした。
タランは、わらの上にまるくなると、ねむって苦痛をわすれようとした。きつくしばった革ひもは手にくいこんだが、ふくれあがった両手は、タランをあわれんでか、もう感覚がなくなっていた。ねむっても、見るのは悪夢ばかりで、はっと身をおこすと、自分が大声でさけんでいるのに気づいた。タランは、もう一度ねむりにかかった。すると、わらの下でかりかりいう音がした。
タランは、よろよろと立ちあがった。かりかりいう音が大きくなった。
「どいて!」かすかにさひげ声がきこえた。
タランは、びっくりして、まわりを見まわした。
「石の上からどいてよ!」
タランはあとずさった。わらの下からきこえてくる。
「だって、あなたが上にのっていたら、持ちあげられないでしょ、ばかな豚飼いさん!」くぐもった声が、文句をいった。
タランは、こわくなって、すっかりあわててしまい、急いで壁にはりついた。しきわらがもちあがりはじめた。すき間のある敷石の一枚がもちあがって横にずれると、ほっそりした人影が、まるで地からわいたようにあらわれた。
「だれだ?」と、タランはさけんだ。
「だれだと思ったの?」と、エイロヌイの声がした。「それに、おねがいだから、そんなにさわがないでちょうだい。もどってくるって、さっきいったでしょ。あっ、わたしのまりは、そこね……」
影がかかんで、あわく光る玉を拾いあげた。
「きみ、どこにいるんだい?」と、タランが大きな声でいった。「ぼくには、見えないんだ。なんにも……」
「それで、あなた、こまっているの?」と、エイロヌイがきいた。「なぜ、はじめにそれをいわなかったの?」たちまち、あかるい光が、牢をいっぱいにてらした。光は、少女が手に持つ玉から出ていた。タランはびっくりして、目をぱちぱちさせた。「それは、なんだ?」
「わたしの安ぴかおもちゃ。」と、エイロヌイがいった。「いったい、何度いわなくちゃいけないの?」
「しかし――しかし、それ、光るじゃないか!」
「どうなると思っていたの? 鳥になってとんでいくとでも?」
タランは、すっかりまごついてしまったが、はじめてつくづくとエイロヌイを見た。すでに知っていたとおり目は青く、赤味がかった金髪が腰までたれていた。顔は、よごれているが、ほお骨が高く、上品で、妖精を思わせた。どろがついている短い白い服を着て、腰には銀ぐさりがまきつけてあった。すばらしいくさりを首にかけ、その先端には、銀の三日月がついていた。年は一つか二つ、タランより少ないようだが、背は同じくらいあった。エイロヌイは光る玉を床におくと、さっとタランのところへよってきて、手をしばっている革ひもをほどいてくれた。
「もっと早く、もどってくるつもりだったの。」と、エイロヌイはいった。「ところが、あなたとお話しているところを、アクレンにつかまったの。あいつ、わたしをむちでたたきはじめたわ。だから、かみついてやった。
「それから、地下の深いところにあるへやに、わたしをとじこめたのよ。」エイロヌイは、敷石を指さして、話をつづけた。「渦巻き城には、地下のへやが何百ってあるのよ。ありとあらゆる回廊や細い通路があって、まるで蜂の巣。アクレンがつくろったものじゃないわ。このお城は、むかし、偉大な王のものだったというわ。アクレンは、通路ならぜんぶ知っていると思っているけれど、知らないの。その半分も歩いてみたことないんですもの。あのアクレンがトンネルを通りぬけるところなんて、想像できて? ほら、あの人、見かけより年よりでしょ。」エイロヌイは、くすくすわらった。「でも、わたしはぜんぶ知っているわ。そして、ほとんどの通路はつながりあっているのよ。でも、きょうは、玉を持っていなかったので、暗かったから、いつもより時間がかかったわ。」
「つまり、きみは、このおそろしい城に住んでいるんだね?」と、タランはたずねた。
「あたりまえよ。」と、エイロヌイがいった。「わたしが、こんなところへお客に来たがるなんて、考えられないでしょ?」
「じゃ――じゃ、アクレンは、きみのおかあさん?」タランは、あえぐようにいうと、おそろしそうにあとずさりした。
「とんでもない!」と、少女はさけんだ。「わたしはエイロヌイ。アンハラドのむすめ。アンハラドはレグィトのむすめ、レグィトは――ああ、めんどくさくて、とてもぜんぶいえないわ。わたしの先祖は」と、エイロヌイは、誇らしげにいった。「海神族よ。わたしは、海神王、舌たらずのリールの血すじなのよ。アクレンはおばなんだけれど、ときどき、ほんとうは、おばなんかじゃないと思うことがある。」
「じゃ、きみは、ここでなにをしてるんだい?」
「だから、ここに住んでるっていったでしょ。」と、エイロヌイは答えた。「あなたに、なにかをのみこませるには、何度も説明しなくちゃならないのねえ。わたしの両親が死ぬと、血縁の人たちが、アクレンについて魔法使いになるようにって、ここに来させたのよ。それが一族のしきたり。わからない? 男の子は武将に、女の子は魔法使いになることになっているの。」
「アクレンは、アヌーブンのアローンと、手を結んでいるんだぞ!」と、タランは思わず大きな声を出した。「腹黒くて、いやらしいやつなんだぞ!」
「あら、そんなこと、みんな知っている。」と、エイロヌイがいった。「わたしも、ときどき、一族の人たちが、ほかの人のところへ行かせてくれたらよかったのにって思う。でも、あの人たち、もうわたしのことを、わすれてしまったにちがいないわ。」
エイロヌイは、タランの腕に、深い切り傷があるのに気づいた。「どこで、こんな傷を受けたの? こんなにひどく打たれたり切られたり、されるがままになっていたなんて、あなた、戦いのことはあまり知らないのね。でも、豚飼育補佐では、そういう仕事をたのまれることは、あまりないんでしょうね。」エイロヌイは、きもののへりを細くさいて、タランの傷をしばりはじめた。
「だまって切られていたわけじゃない!」と、タランはおこっていった。「こいつは、アローンか、きみのおばさんのしわざだよ。――どっちのだかわからないけど、そんなことはかまわない。どっちも、わるいことにかけちゃ同じだから。」
「わたし、アクレン、大きらい!」エイロヌイがはきだすようにさけんだ。「あの女は、いやしくていじのわるいやつだわ。ここにやってくる人の中で、あなたくらい話しておもしろくない人はいないわ――そのあなたまで、あいつは傷つけるんだから!」
「それだけじゃない。」と、タランはいった。「彼女は、ぼくの友だちを殺すつもりなんだ。」
「だとしたら」とエイロヌイがいった。「まちがいなく、あなたも殺される。アクレンて、なにごとも中途はんぱにはしないから。あなたを殺すなんて、まったくひどいわ。そんなことになったら、わたし、悲しくてたまらない。だって、それがわたしだったら、いやですもの……」
「ねえ、エイロヌイ、」と、タランが話をさえぎった。「城の下にトンネルや通路があるのなら――きみ、ほかの牢へ行けるかい? 城から抜け出す道があるかい?」
「もちろん、あるわ。」と、エイロヌイはいった。「はいる道があれば、出る道もある道理でしょ?」
「ぼくたちを助けてくれるかい?」と、タランはたのんだ。「ぼくたちは、どうしてもここから抜け出さなくちゃならないんだ。抜け道を教えてくれないか?」
「あなたをにがすの?」エイロヌイが、くすくすわらった。「そんなことしたら、アクレンがかんかんにならないかなあ!」そして、頭をぐいとそびやかすようにした。「わたしを、むちで打ってとじこめようとしたんだもの、いい気味だわ。そうよ、そうよ。」エイロヌイは、目をきらきらさせて、話をつづけた。「すてきな思いつきだわ。あなたを見にアクレンがここにおりてきたときの顔を、ぜひ見てやりたいわ。そうよ。こんなゆかいなこと、わたしにはとても思いつけない。ねえ、想像できて、あなた……」
「よくきいてくれ。」と、タランはいった。「ぼくが友だちのところへ行ける通路があるかい?」
エイロヌイは、首を横にふった。「それは、とてもむずかしいわ。通路のいくつかはたしかに牢に通じる通路とつながっているのよ。でも、牢から牢へ行こうとすると、おそらくあなたは、べつの抜け道へ……」
「それなら、いいんだ。」と、タランはいった。「どの通路かで、友だちといっしょになるってことはできるかい?」
「なぜ、そうしたいのか、わけがわからないわ。」と、少女はいった。「わたしがその人をつれ出して、城の外であなたを待つようにするほうが、ずっとかんたんでしょ。なぜ、あなたが、ものごとをめんどうにしたがるか、わたしには理解できないわ。人間ふたりではいずりまわるのだって、そうとうきついわよ。それが三人になったら、どんなだか、わかるでしょ。それに、あなたじゃ、ひとりで歩けっこないし。」
「よし、わかった。」タランはいらいらしていった。「はじめに、友だちのほうをにがしてやってくれよ。ただ、あの人が、動けるくらい元気でいてくれるかどうかだよ。もし動けなかったら。すぐに知らせにきてくれなくちゃいけないよ。なんとかはこぶてだてを考えるから。
「それと、メリンガーっていう、白い馬がいるんだけど」と、タランは、つづけていった。「あの馬、どうなってしまったかなあ。」
「うまやにいるでしょ。」と、エイロヌイがいった。「馬がいるのは、ふつう、うまやじゃない?」
「たのむ。」と、タランはいった。「その馬もつれ出してくれたまえ。それから、ぼくたちの武器もね。やってくれるかい?」
エイロヌイは、すぐにうなずいた。「ええ、とてもおもしろそうだわ。」そして、また、くすくすわらった。それから、光っている玉をとりあげて、両手でつつんだので、牢内はまた暗くなった。石が動いて、もとの場所におさまる音がした。澄んだわらい声の余韻だけをただよわせて、エイロヌイがきえたのだ。
タランは、牢内を行きつもどりつしていた。今になってはじめて、心に希望がわいてきた。もっとも、あのとりとめのない女の子が、どこまであてにできるかは、わからなかった。あの子なら、やりはじめたことも、途中でわすれそうだった。それどころか、アクレンに密告するかもしれなかった。これはもう一つのわなであって、自由を約束して、結局はまたそれをとりあげてしまうという新しい拷問かもしれなかった。しかし、かりにそうだったとしても、これ以上わるくなることはないと、タランは判断した。
体力をのこしておくために、タランはわらにねそべってからだをらくにしようとた。エイロヌイにしばってもらった腕の傷は、もういたまなかった。今もまだ、のどはかわき、腹はへっていたが、水を飲んだため、いくぶんやわらいでいた。
地下の通路を往復するには、どのくらい時間がかかるか、タランにはわからなかった。しかし、時がたつにつれて、タランはだんだん心配になってきた。そこで、あの少女が行き来に使った敷石をはがそうとしてみた。指から血が出るまでがんばってみても、石はびくともしなかった。そこでまた、まっ暗な中にすわりこんで、いつともおわりのわからない待機をつづけた。エイロヌイは、もどって来なかった。
7 わな
廊下で、かすかに音がきこえ、それがだんだん大きくなってきた。タランは、あわてて、ドアの差し入れ口に耳をおしあてた。近づいてくるどっしりした足音と、武器のがちゃがちゃいう音がきこえた。タランは立ちあがり、壁に背をおしつけた。あの女の子は、うらぎったのだ。タランは、身を守るものはないかと、さがしてみた。たやすくつれて行かれるものかと、心にきめていたのだ。なにかを手にしていたいので、タランは、きたないわらをつかみ、投げつけられるように身がまえた。なんともなさけない防備だった。タランは、そのわらを燃えあがらせるギディオンの魔力が自分にもあったらと、切なくねがった。
足音は、たちどまらずに通りすぎた。そこで、タランは、ギディオンの牢へ行くのではないかと、心配になった。だが、足音は、通路のつきあたりと思える方向に向かって進み、かすかになっていった。守衛の交替かもしれない。タランは、ほっとして、ため息をついた。
タランは、もとの位置にもどった。エイロヌイは、きっと来ない。タランは、空約束をしたエイロヌイに腹をたてた。あいつは、能なしのばかだ。不死身がぼくをつれに来たら、おもしろがってわらうにきまってる。タランは、両手で顔をおおって泣いた。今もまだ、エイロヌイのおしゃべりが耳にのこっていた。タランは、そこで、ぎょっとなった。そら耳と思った声が、ほんとうにきこえたのだ。
「あなた、いつも、つごうのわるい石に、腰をおろしてなくちゃいけないの?」と、その声はいった。「あなたは、重すぎて持ちあげられないわ。」
タランは、ぱっと立ちあがると、あわててわらをとりのけた。敷石がもちあがってきた。
金のまりが発する光は、もう弱まっていたが、それでも、エイロヌイがうきうきしていることぐらいはわかった。
「あなたのお友だちは、もう出たわ。」と、エイロヌイはささやき声でいった。「メリンガーも、うまやから出しておいた。城の外の森にかくれているわ。さ、これで、すっかり片づくのよ。」エイロヌイは、ほがらかな声でつづけた。「人と馬が、あなたを待っている。だから、自分の名まえまでわすれちゃったような顔してないで、さ、来るの。そうすれば、外で会えるわよ」
「武器は見つかったかい?」と、タランはたずねた。
「それは、だめ。さがす機会がなかっのたよ。」と、エイロヌイがいった。そして、「あなた」とつけ加えた。「ほんとうに、わたしが、なにもかも注文どおりにやるだろうなんて思ってやしないでしょ?」
エイロヌイは、光るまりを、床までおろした。「先に出て。わたしがあとよ。そうすれば、石をもとどおりにしておけるでしょ。そうすれば、アクレンが、あなたを殺させに人をよこしても、手がりが一つなくなるわけよ。アクレンは、あなたが空中にかき消えたと思うわ――それで、ことは、ますます腹だたしいものになるのよ。わざと人をおこらせたりするのがよくないことは、わたしも知っているわ。ヒキガエルを手わたすみたいなことですもの。でも、こんなにいい機会は、とても見のがすわけにはいかないわ。二度とないかもしれないでしょ。」
「きみがにがしたってこと、アクレンにはわかるだろう。」と、タランはいった。
「いいえ、わからないわ。」と、エイロヌイはいった。「わたしは、まだ、とじこめられていると思っているわよ。わたしが抜け出せることを知らなければ、わたしがここに来たことなんか、わかるはずがないでしょ。でも、そういってくれるあなたって、とっても思慮深いのね。つまり、思いやりがあるんだわ。わたし、思いやりって、りこうなことより、ずっとずっとたいせつだと思う。」
エイロヌイが、ぺちゃくちゃ、おしゃべりしている間に、タランは、せまい穴から下におりた。抜け道は天井が低いことがわかった。タランは、四つんばいになるほど、かがまなくてはならなかった。
エイロヌイは敷石をもとにもどすと、先にたって進みはじめた。金のまりの光で、両側の壁が、かたい土であることがわかった。
タランが、身をかがめながら進んで行くと、左右にのびるべつの通路にぶつかった。
「まちがえずに、わたしについて来るのよ。」と、エイロヌイが声をかけた。「そういう道には、はいって行かないでね。つぎつぎ枝わかれしているのもあるし、ゆきどまりのもあるから。まいごになってしまう。にげたいのだったら、まいごになるなんて、むだなことでしょ。」
少女が、ひじょうに足早に進むので、タランは、ついていくのがやっとだった。二度も、ころがっている石につまづいて、土をつかみ、あわてて追いついた。前の方には、小さな光が軽く上下しながら見えていたが、後ろは、長い暗闇の指が、タランのかかとをつかんではなさなかった。アクレンの城が渦巻き城といわれるわけが、タランにもわかった。せまくて息がつまるような通路が際限もなく、曲がってのびていた。タランには、自分たちがほんとうに進んでいるのか、ただ堂々めぐりをしているのか、確信がもてなかった。 土の天井が、走る足音とともにゆれた。
「看守たちのへやの真下よ。」と、エイロヌイが、ささやいた。「上で、なにかがあったのよ。ふだん、アクレンは、夜中に看守をおこしたりしないから。」
「牢へ行ってみたにちがいないよ。」と、タランがいった。「きみが来てくれる直前も、ずいぶんざわついていたから。ぼくたちが、にげたことが、わかったのにちがいない。」
「あなたは、とても重要な豚飼育補佐にちがいないわね。」エイロヌイが、ちょっとわらっていった。「アクレンだって、あんなさわぎはしないと思うわ。あなたが……」
「急いで。」と、タランがせきたてた。「アクレンが城のまわりに番兵をたてたら、ぼくらは、ぜったいに、にげられなくなってしまう。」
「心配ならやめてほしいわ。」と、エイロヌイがいった。「あなた、足の指でもねじったみたいな声、出しているわ。アクレンが、番兵をたてたいのなら、すきなだけ、たてさせとけばいいわ。トンネルの出口のありかは、アクレンも知らないんだから。まさか、あなた、わたしが、あなたを正門からにがすなんて思ってはいないでしょ?」
口ばかり動かしているようでも、エイロヌイは、速度をおとさずに急いでいた。タランは、地面につくくらいにかがんだ姿勢で、かすかなあかりから目をはなさず、左右の壁を手さぐりするようにして進んだ。道が急に曲がるところでは、思わずそのまま進んで、ざらざらの壁にぶつかり、ひざをすりむいた。それから、おくれをとりもどして、追いつくために、歩く速さを二倍にしなくてはならなかった。道が、また曲がった。エイロヌイのあかりがゆらめいたかと思うと、見えなくなった。まっ暗になったとたん、地面の片側が急に高くなっているところにぶつかり、タランはからだの平衡を失った。たおれてころがった。そして、立ちあがるひまもなく、くずれた土砂といっしょに、斜面をすべり落ちた。タランは、つき出た岩にぶつかって、もう一度ころがると、ふいにまっ暗闇の中に落ちてとまった。
どさりと落ちたのは平らな石の上で、それも、頭からではなく、足からだった。タランは、いたみをこらえて立ちあがると、頭をはっきりさせようと、ふってみた。そのとたん、自分が、かがまずに、まっすぐ立っていることに気づいた。エイロヌイも、あかりも、見えなかった。タランは、思いきってよんでみた。
しばらくすると、頭上で土砂をふむ足音がきこえ、金のまりの光が、かすかに見えた。「どこにいるの?」と、少女の声がした。その声は遠いようだった。「あら――わかったわ。トンネルの底がぬけたのよ。あなた、きっと、地面のわれめに落っこちたんだわ。」
「われめじゃない。」と、タランはさけんだ。「なかに、深いものの中にころがり落ちたんだ。あかりを見せてくれないか。のぼらなくちゃならないから。」
また、土砂をふむ、ずずっという音がした。「あら、ほんと。」と、エイロヌイがいった。
「あなた、やっかいなところに、はまりこんだわ。ここ、地面がすっかりくずれ落ちてる。そして、下の方に岩だながあって、あなたは、その下にはいってる。いったい、どうやってそんなところにはいったの?」
「わからない。」と、タランが答えた。「しかし、自分からはいりこんだんじゃ、ぜったいない。」
「おかしいわ。」と、エイロヌイはいった。「はじめに通ったとき、こんなところはなかったわ。あんなにどしどし歩いたから、きっと、なにかがゆるんだのね。なにがゆるんだのか、よくわからないけれど。ここのトンネルは、見かけほどしっかりしていないんだと思うわ。だから、城そのものも、そうなのよ。アクレンがいつもこぼしてるわ。いろいろなものがもれ出たり、ドアがきちんとしまらないって……」
「そのべちゃくちゃは、やめてくれ。」タランは、頭をかかえてわめいた。「もれるだの、ドアだのなんて、ききたくない。ぼくがよじのぼって出られるように、あかりを見せてくれよ。」
「そこが問題よ。」と、エイロヌイがいった。「よじのぼれるかどうか、はっきりわからないのよ。ほら、その岩だなが、ずいぶん長くつき出ているうえに、端が切りたったように落ちこんでいるでしょ。岩だなまで、手がとどく?」
タランは、両手をのばして、せいいっぱいとびあがってみた。手がかけられるところなど、見つからなかった。頭上の影の大きさを考えると、エイロヌイのいったことが正しいように思われた。石まで、手がとどかなかった。たとえとどいても、切りたつ斜面をよじのぼることはむりだった。タランは、絶望してうめいた。
「ぼくをすてて行ってくれ。」と、タランはいった。「そして、仲間にいってくれ。城には警報が出ているって……」
「そして、あなたは、なにをするつもりなの? コップの中のハエみたいに、じっとしてるわけには、いかないわよ。それでは、いつまでたっても、ことがうまくはこばないわ。」
「ぼくがどうなろうと、そんなこと、問題じゃないんだ。」と、タランがいった。「つなを見つけて、もどって来てくれればいいよ。さわぎがおさまってから……」
「いつおさまるか、わからないでしょ。わたしがアクレンに見つかったら、どうなるかわからないわ。そして、わたしが、もどって来られないとしたら? あなたは待ちつづけて、骨になってしまうわ――人間が白骨になるまで、どのくらいかかるか、わたし知らないけど、まあ、かなりの時間がかかるんでしょうよ――そうなったら、今まで以上にひどいことになるじゃないの。」
「じゃ、ほかにどうしたらいいんだ?」と、タランはどなってしまった。
白骨などといわれて、タランはしんからぞっとした。そして、かりうどグウィンの角笛を思い出し、悲しみと恐怖で心がいっぱいになった。タランは、頭をたれて、ざらざらした岩壁に目をやった。
「それは、気高いふるまいよ。」と、エイロヌイがいった。「でも、とにかく、今のところは、まだ、その気高さを発揮しなくてすむと思うわ。アクレンの戦士たちが出てきて、森をさがしはじめれば、あなたのお友だちも、じっと待ってはいられないと思う。どこかにかくれて、あとであなたをさがすわよ。わたしは、そう思う。それが分別のある行動だわ。もちろん、あの人も豚飼育補佐だったら、なにを考えてどう動くか、予測がむずかしいけれど。」
「あの人は、豚飼育補佐なんかじゃない。」と、タランはいった。「あの人は……いや、あの人の身分なんか、きみに関係ないことだよ。」
「それは、礼儀にかなった言い方じゃないわね。でも、まあ……」エイロヌイは、話題を変えた。「だいじなのは、あなたをそこから出すことね。」
「どうしてみようもないよ。」と、タランがいった。「ぼくは、ここでつかまえられたんだ。アクレンが考えた以上に、うまくとじこめられてしまったのさ。」
「そんなふうにいっちゃだめ。わたしの着物をひきさいて、なわをあむことだってできるんだから――でも、率直にいって、着物なしで、トンネルの中をはいまわるの、じつはわたしいやなの。それに、この着物じゃ、なわにしても、長さも強さもたりないと思うわ。はさみがあれば、髪の毛を切ってつぎたせば――だめね、それでも、まだ足りないと思うわ。あなた、しばらくだまっていて、わたしに考えさせてくれない? あ、待って。金の玉をあなたにわたしておくわ。さ、うけとって!」
金の玉が、岩だなをこえて、ひゅっととんできた。タランは、落とさずにうけとめた。
「ねえ、」と、エイロヌイが声をかけた。「そこの様子はどう? なにか、ただの穴なの?」
タランは、玉を頭上にかかげた。「あっ、ここは、穴なんかじゃない! へやだよ。ここにも、トンネルがある。」タランは、五、六歩、はいってみた。「先はどこまでもつづいてるようだ。大きい……」
後ろで、石ががらっと落ちてきたかと思うと、すぐに、エイロヌイが、とびおりてきた。タランは、信じられないように、目をまるくして、エイロヌイを見た。
「ばか!」と、タランはどなった。「この考えなしの……なんてことをしたんだ、きみは! これで、ふたりとも、とじこめられてしまったんだぞ。きみは、分別をもてなんて、ぼくにいったろ! そのきみが……」
エイロヌイは、にこにこしながら、タランの息が切れるのを待った「さて、」とエイロヌイはいった。「そちらがいいおわったのなら、とってもかんたんなことを説明させてもらうわ。トンネルってものは、どこかに通じているものよ。どこに通じていても、ここよりもよい場所に出られる可能性が大きいでしょ。」
「べつに、きみをわるくいうつもりはなかったんだ。」と、タランはいった。そして、「でも」と悲しげにいい足した。「きみが、自分の身を危険にさらすいわれはないよ。」
「そら、まただわ。」と、エイロヌイがいった。「わたし、あなたを助けて、にがしてあげるって約束したでしょ。わたしは、そうしているところよ。わたしはトンネルにくわしいから、このトンネルが、上のトンネルと同じ方向に、のびているのじゃないかと思うの。このトンネルは、上のトンネルより、枝がずっと少ないし、ずっとらくに歩けるのよ。」
エイロヌイは、タランの手から、光る玉をうけとると、新しい抜け道にはいって行った。タランもつづいたが、まだ半信半疑だった。
8 王の墓所
エイロヌイがいったとおり、そのトンネルは、上のトンネルより、ずっとらくだった。ウサギ穴のウサギのように、ちょこちょことはうようにしなくても、ふたりならんで歩けた。上のトンネルとちがい、両壁は大きな平らな石がはってあり、天井はさらに大きい平らな石でできていた。四角なトンネル沿いに、等間隔に置いてある石柱が、天井の石をささえていた。空気も、多少よかった。長い年月、少しも動かなかったように、かびくさくはあったが、トンネル特有の、窒息しそうな重苦しさがなかった。
それでも、タランの気持ちは、あまりひきたたなかった。エイロヌイも、この道にはいったことがないといっていた。エイロヌイは、陽気にだいじょうぶといったが、タランは、エイロヌイがこの道の行き先を少しも知らないのだとしか思わなかった。ところがエイロヌイのほうは、クモの巣のようにトンネルをおおう暗闇を金色のまりの光でてらしながら、そして、サンダルの音をぱたぱたひびかせながら、足早に進んでいた。
いくつか枝のトンネルがあったが、エイロヌイは、目もくれなかった。「このトンネルをまっすぐつきあたりまで行きましょう。」といった。「そこまで行けば、なにかがあるはずだわ。」
タランは、さっきのへやへもどりたいと、思いはじめていた。「こんなに奥まで来ちゃいけなかったんだ。」タランは、眉をしかめていった。「あそこにいて、穴から出るくふうをすべきだったんだ。ここまで来たって、まだ、あとどのくらいこのトンネルがつづくのか、わかってもいないじゃないか。何日も、ただ歩きつづけるかもしれないよ。」
タランには、べつの心配もあった。こんなに進んだのだから、トンネルも、もう、のぼりになっていいはずだ。
「トンネルを抜ければ、外の地面に出るはずだろ。」と、タランはいった。「ところが、ずっとくだりじゃないか。外になんか、ぜったいに出られない。地中深くもぐるだけだ。」
エイロヌイは、きこうともしなかった。
だが、まもなく、そうもしていられなくなった。五、六歩進むと、丸石の壁にふさがれて、トンネルが行きどまりになったのだ。
「こうなるだろうと思っていたんだ。」タランは、ろうばいして思わずさけんだ。「きみが、よーく知ってるというトンネルの、つきあたりに来たんだぜ。それが、このざまだ。これで、もう、もどる以外に方法はなくなった。時間をすっかりむだにして、出発したときと、事情はすこしも変わっちゃいない。」タランは、くるりと向きを変えたが、エイロヌイは、防壁をふしぎそうに見ていた。
「わからないわ。なぜ、苦労してトンネルをほって、それをふさぐことがあるのかしら? だれが、これをほって岩でふさいだにしろ、おそろしくたいへんな仕事だったにちがいないわ。ねえ、どう思う? なぜ……」
「知るもんか! たのむから、ぼくたちに関係ないことなんかに首をひねるの、やめてくれ。ぼくはもどるぜ。」と、タランはいった。「あの岩だなをどうやってのぼったらいいか、わからないけど、岩の壁をぶちぬくよりは、ぜったいにかんたんだよ。」
「でも、」と、エイロヌイはいった。「これ、ほんとうに奇妙だわ。たしかなのは、ここが、どこだかわからないってことよ。」
「おしまいには、まいごになるってことはわかってたよ。いわなかったけど、わかっていたよ。」
「わたし、まいごになったとは、いわなかったわ。」と、少女はいいかえした。「ここがどこだかわからないって、いっただけよ。全然意味がちがうわ。まいごっていうのは、自分がどこにいるのか、ほんとうにわからないことよ。ちょっとの間わからないっていうのは、まいごとはちがうわ。渦巻き城の真下にいることはわかっているのよ。はじめは、それで十分だわ。」
「つまらない区別にうるさいんだな。」と、タランがいった。「まいごは、まいごさ。きみときたら、ダルベンより始末におえない。」
「ダルベンて、だれ?」
「ダルベンは、ほくの――、いや、そんなこといいじゃないか!」タランはむっつりした顔で、ひきかえしはじめた。
エイロヌイも、あわててあとを追った。「横道を一つしらべてみましょうよ。」と、エイロヌイは声をかけた。
タランは、その申し出を無視した。しかし、最初の横道に近づくと、足をおそくして、暗闇の中を、ちょっとのぞきこんだ。
「はいりなさいよ」と、エイロヌイがせきたてた。「これをためしてみましょうよ。とてもよさそうじゃない。」
「しっ!」タランは、頭を低くしてきき耳をたてた。遠くで、ささやき声と、なにかがさらさらいう音がした。「なにかがいる。」
「じゃあ、ぜひ、正体をさぐりましょう。」エイロヌイが、タランの背中をつついていった。「進んでくれない?」
タランは、用心深く、五、六歩はいってみた。そのトンネルは、天井が、本道より低く、さらにくだりになっているようだった。タランは、エイロヌイとならぶようにして、慎重に進みつづけた。そもそも、こんなところにはいる原因となった、あの気持ちのわるい墜落を思い出して、一歩一歩用心して足を前に出した。ささやき声は、高い泣き声、拷問される人の泣きさけぶ声そっくりになった。糸をよるように、声がぐんぐんよられて、今にも切れそうなほど、かたくなる――そんな感じだった。空気中に、ひやりとするほどの冷気の流れが一本あり、それが、うつろなため息や、うねるような低いつぶやき声をはこんできた。べつの物音もきこえた。石の上を、剣先をひきずって歩くような、からから、きいきいという音だ。タランは、手がふるえているのに気づいた。一瞬たじろいだタランは、すぐ、エイロヌイに、ここで待てと合図した。
「あかりをかしてくれ、そして、ここで待っていてくれ。」
「幽霊だと思う?」と、エイロヌイがきいた。「わたし、幽霊にぶつけるそら豆持ってないわ。幽霊退治にほんとうにききめがあるのは、そら豆くらいしかないのよ。でも、わたしが、あれを幽霊じゃないって思ってること、あなた知ってるわね。幽霊が音をたてたくなったら、あんな音をたてるでしょうけれど、わたし、きいたことないの、幽霊の音。わざわざ音なんかたてないと思うわ。ちがうわね。あれ、風がたてる音だと思うわ。」
「風? いったい、どうすりゃ、風が……いや、いや。」と、タランがいった。「そいつばかりは、きみが正しいかもしれないぞ。穴があるのかもしれない。」タランは、ぞっとする音を気にしないようにつとめ、あれは幽霊の声じゃなく、すき間風の音だと、むりに思いこんで、足を速めた。エイロヌイも、待てという命令をきこうとせず、ならんで大またに進んだ。
まもなく、ふたりは、道のおわりについた。ここも、また、くずれた石が道をふさいでいた。ところが、こんどは、せまいぎざぎざしたすき間があいていた。そのすき間で、泣くような音が大きくなるのだった。タランは、顔に、冷気の流れがあたるのを感じた。そして、穴をてらしてみたが、まりの金色の光でも、闇の幕をつきやぶることはできなかった。タランは、そろそろと、せまい穴をくぐり抜けた。エイロヌイも、ついて来た。
ふたりが出たところは、天井の低いへやだった。そこは、暗闇が深く、エイロヌイのあかりも弱くかすかだった。うすみどりの、ぼやっとしたあかりは、物の形をぼんやりとしか見させてくれなかった。風の音は、怒りにふるえる人のかん高いさけびそっくりだった。つめたい風が吹いているのに、タランのひたいには、汗がにじみ出ていた。タランは、あかりをかかげて、また一歩進んだ。ものの形が、前よりはっきりしてきた。壁にずらりとかかっている楯、山につんである剣や槍が見えた。足がなにかにあたった。タランはよく見ようとして、かがみこんだが、おし殺さしたさけび声をあげて、また、とびさがった。足もとにあったものは、人間のミイラ――完全武装した戦士のミイラだった。そして、すぐそばに、もう一体、また一体――大むかしのミイラは、大きな石版を守って円陣をつくっていた。そして石版の上には、ひとりの男が大の字に横たわっているのが、ぼんやりと見えた。
エイロヌイは、なにかを見つけて、そっちに気をとられ、戦士たちには、ほとんど目もくれなかった。「こんなものが、ここにあるなんて、アクレンは考えてもみたことないわよ。」エイロヌイは、小声でそういうと、カワウソの皮でつくった衣服や、大きなつぼからあふれている宝石類を指さした。かぶとの山のまん中で、武器類がきらきら光っていた。木の枝であんだかごには、ブローチ、首かざり、くさりなどがはいっていた。
「知っていたら、アクレンが、とうのむかしにとっていっちゃってる。ほら、ぜんぜん、似合わないのに、あの人、宝石がすきでしょ。」
「ここは、この城をたてた王の墳墓にちがいない。」タランが、声をひそめるようにしていった。そして、戦士のかたわらを通り、石版に横たわる人に近づいた。死者は、豪華な服につつまれていた。幅の広い革帯には、みがかれた宝石がきらめいていた。かぎつめをつけた手は、今にもさっとひきぬくかのように、宝石をちりばめた剣の柄をしっかりとにぎっていた。タランは、ぞっとして、あとずさった。骨となった王が、王家の宝物をうばおうとするよそ者を、とれるならとってみろと、にらみつけたように見えたのだ。
タランが向きを変えたとき、一吹きの風が顔にあたった。「こりゃ、抜け道があるぞ。」タランは、大きな声を出した。「あそこの、ほら、向かい側の壁にさ。」そして、幽霊のような声がする方へ走って行った。
床のすぐ上に、トンネルの口があいていた。新鮮な空気がかぎとれた。タランは、それをふかぶかと吸いこんで、「急ごう。」とせきたてた。
タランは、ひとりの戦士の、皮と骨だけの手から剣をもぎとると、トンネルにもぐりこんだ。
そのトンネルは、今まで通った中で、いちばんせまかった。タランは、腹ばいになって、石ころだらけのトンネルを、むりやりはい進んだ。後ろで、エイロヌイがあえぎながらついてくるのがきこえた。そのとき、まったく新しい音がきこえはじめた。遠くでごおー、がらがらっという音がしたのだ。音が大きくなり、地面がぐらりとゆれた。突然、トンネルもゆれだし、地中の木の根がおどり出たかと思うと、足の下の地面がもちあがり、くずれ、われた。あっと思ったとき、タランは、岩山の斜面の下に、ほうり出されていた。丘の奥深くで、どしんと大きな音がひびいた。タランの頭上高くそびえ立つ渦巻き城は、青い火につつまれていた。突風が来て、タランは、大地にたたきつけられそうになった。空にいなずまが走り、ばりばりと鳴りとどろいた。後ろで、エイロヌイの助けを求めるさけび声がきこえた。
エイロヌイは、せまいトンネルから、半分抜け出て、つっかえていた。タランが、穴をふさいだ石にとっくんでいると、渦巻き城の城壁が、まるで灰色のぼろれきのようにゆれた。立ちならぶ塔が、信じられないほどゆれていた。タランは、土くれや木の根をせっせとかきのけた。
「剣がじゃまで、抜けられないのよ。」と、エイロヌイがあえいだ。「さやが、なにかにひっかかってるんだわ。」
タランは、歯をぎりぎりいわせながら、さいごの石をどけて、「なんの剣?」ときいた。それから、エイロヌイの両のわきの下に手を入れて、ひっぱり出した。
「ふーう」エイロヌイはあえいだ。「骨をばらばらにされて、まちがえてつながれたって感じよ。剣のこと? 武器が必要だって、あなた、いっていたでしょ? そして、あなたが一つとったから、わたしも、一つとってもいいだろうと考えたのよ。」
大地の中心からつきあがってきたような、はげしい爆発音とともに、渦巻き城が、落ちこむようにくずれた。巨大な城壁が、まるで小枝のようにさけ、ぎざぎざしたさけめが夜空を背景にはっきりと見えた。やがて、音がまったく絶えた。風も絶え、大気が重苦しくなった。
「いのちを助けてくださって、どうもありがとう。」と、エイロヌイがいった。「あなた、豚飼育補佐にしては、ほんとうに勇気があるわ。あんなにびっくりすることがおこってるとき、すばらしい勇気を示すのね。
「アクレンは、どうなったかしら。」エイロヌイは、話しつづけた。そして、「もうかんかんだわよ。」と、うれしそうにわらった。「そして、たぶん、なにもかも、わたしのせいにするわよ。いつだって、思ってもみないことまで、わたしのせいにして、おしおきをするんだから。」
「アクレンが、あのくずれた城の下なら、もう、だれのおしおきもできないさ。しかし、そんなことをたしかめるために、ぐずぐずしたりしないほうがいいな。」タランは、そういって剣を腰にさげた。
エイロヌイが王の墳墓から持ってきた剣は、長すぎて、腰にさげると歩きにくいので、背にしょわなくてはならなかった。
タランは、その剣を見て、おどろいた。「これは――あの王が持っていた剣じゃないか。」
「あたりまえよ。」と、エイロヌイがいった。「いちばんいいのでなくちゃだめでしょ?」そして、光るまりを拾いあげた。「ここは、城の裏側、つまり、城だったものの裏側よ。あなたのお友だちは、あそこの森の中だわ――待っているとすればだけど。あんなたいへんなことがおこった後だから、待っているほうが、ふしぎだけど……」
ふたりは木立に向かって走った。前の方に、ぼんやりと、人間と白馬が見えた。「あそこにいる!」と、タランはさけんだ。
「ギディオン!」と、タランはよんだ。「ギディオン!」
月が、雲間に顔を見せた。男がふりかえった。ふいにさしてきた明るい月光の中で、タランはぴたっと立ちどまり、口をあんぐりあけてしまった。そこにいたのは見たこともない男だった。
9 フルダー・フラム
タランは、勢いよく剣を抜いた。マントを着た男は、あわててメリンガーのたづなをはなし、木の後ろにとびこんだ。タランは切りつけた。木の皮が、空中にとびちった。見知らぬ男が、前後ににげまわるので、タランは、剣をふったり、ついたり、やぶや枝をめちゃくちゃに切った。
「おまえは、ギディオンじゃない!」と、タランはさけんだ。
「わしも、そう名のったおぼえはない。」と、見知らぬ男もさけびかえした。「わしを、ギディオンと思ったのなら、そりゃ、たいへんなまちがいだ。」
「そこから出てこい。」タランは、またつきを入れて、命令した。
「きみが、そのとてつもないやつを、ふりまわしている間は、ぜったいに出んぞ。――ほらほら、気をつけろ! いや、これは。アクレンの牢にいたほうが安全だったな!」
「すぐ出てこないと、命は……」とタランはどなった。そして、ものすごい勢いでやぶにつっこみ、さらにはげしく攻めたてた。
「休戦! 休戦!」と、見知らぬ男がよびかけた。「武器をもたぬ人間は、切れないはずだぞ。」
エイロヌイは、タランの五、六歩後ろにいたが、かけよって、タランの腕をおさえた。「やめて! わたしが、あんなに苦労して助けてあげた友だちを、そんなふうにあつかうもんじゃないわ!」
タランは、エイロヌイの手を、ふりもぎった。そして、「こんな、ひどい裏切りがあるか!」とどなった。「きみは、ぼくの友だちを、牢にのこして、死なせちまったんだぞ! きみは、今までずっと、アクレンとくらしていたんだったな。そいつを、わきまえていなくちゃいけなかったよ。きみなんか、アクレンと変わりはない!」タランは、心の苦しみをはき出すようなさけび声とともに、剣をふりあげた。
エイロヌイは、すすり泣きしながら、森にかけこんだ。タランは、剣をおろして、頭をたれてしまった。
見知らぬ男が、思いきって木の後ろから出てきた。「休戦だね?」男はもう一度きいた。「こんなさわぎのもとになると、わかっていたら、わしだって、あの赤毛のむすめのいうことなど、きかなかったよ。うそじゃない。」
タランは、頭をあげなかった。
男は、用心しながら、五、六歩近づいた。「君を失望させて、まことに相すまん。」と、男はいった。「ギディオン王子と見まちがわれたことは、まことにうれしいのだが、似ているところなど、ほとんどないのだ。あるとすれば、威厳らしいものが――」
「ぼくは、あんたがだれだか知らない。」タランは、にがにがしげに言った。「だが、ひとりの勇者が、その命で、あんたの命をあかせなったってことはわかる。」
「わしは、ゴードーの息子、フルダー・フラム。」男は、うやうやしくおじぎをしていった。「たて琴の吟遊詩人です。よろしく。」
「吟遊詩人に用はない。」と、タランはいった。「たて琴では、ぼくの友は生きかえりはしない。」
「ギディオン殿が、死んだといわれるか?」と、フルダー・フラムがたずねた。「それは、悲しい知らせだ。かれとは血のつながりがあり、わしは、ドンの一族とは同盟していただいておる。だが、きみは、なぜ、かれの死を、このわしのせいにする? ギディオンが、わしの命を、あがなってくれたとあれば、少なくとも、そのいきさつくらいは、きかせてくれないか。さすれば、このわしも、きみとともに、その死をいたもう。」
「行ってください。」と、タランはいった。「あなたのせいではありません。ぼくが、うそつきの裏切り者に、ギディオンの命を託してしまったんです。ぼく自身、死ぬべきなんだ。」
「それはまた、あの愛きょうのあるむすめをよぶには、ひどい言葉だ。」と、吟遊詩人がいった。「それに、彼女は、ここにいない。弁明ができない人間だがな。」
「あの子のいいわけなんか、ききたくありません。」と、タランはいった。「いいわけすることなんか、ありはしませんよ。森でまいごになってしまえばいい。かまやしない。」
「かりに、あの子が、きみのいうとおり、うそつきで裏切り者だったら」と、フルダーが考えをのべた。「そのとき、追いはらってもいいではないか。きみは、いいわけなど、ききたくないかもしれぬが、ギディオンならききたがると、わしは確信するね。失礼だが、あの子があまり遠くまで迷いこんで行かぬうちに、見つけに行ったほうがよいと思う。」 タランは、うなずいた。そして、「そうでした。」と、冷静になっていった。「ギディオンがさばいてくださるでしょう。」
タランは、くるりと向きを変えると、森の方へ歩いて行った。エイロヌイは、あまり遠くまで行っていなかった。五、六歩前方に、金のまりの光が見えた。少女は、あき地の大きな石に腰かけていた。両手で顔をおおい、肩をふるわせていた。小さく、かぼそく見えた。
「あなたが泣かせたのよ!」エイロヌイは、タランが近よると、ふいにわめきたてた。「わたし、泣くのがだいきらいなのに。泣くと、鼻が、とけだしたつららみたいになるから、きらいなのに。ばかな豚飼育補佐。あなた、第一、自分がわるいのに、それをたなにあげて、わたしの気持ちを傷つけたのよ。」
タランは、まったくの意外なことばにびっくりしてしまい、うまく口がきけなかった。
「そうですとも」と、エイロヌイは、大きな声でいった。「ぜんぶ、あなたがわるいのよ。あなたったら、わたしに助けてもらいたがっていた人のこと、なんにもいわず、ただ、べつの牢にいる友だちだってばかり、いってたじゃないの。だから、わたし、べつの牢にいる人をだれだか知らないけど、助けたわよ。」
「きみは、あの牢に、もうひとりべつの人がいるなんて、いわなかったぞ。」
「いなかったもの。」と、エイロヌイはいいかえした。「フルダー・フラムだか、なんだかって名のってた人しか、いなかったわ。」
「すると、ぼくの友だちは、どこにいるんだ。」と、タランはたずねた。「ギディオンはどこにいるんだ?」
「わたしは、知らないわ。」と、エイロヌイはいった。「アクレンの牢内にいなかったことはたしかよ。そればかりか、一度だっていたことない。」
タランにも、少女がうそをついていないことがわかった。タランも、やっと思い出した。ギディオンとぼくがいっしょだったのは、ほんのわずかな間だった。護衛がギディオンを牢に入れる現場を見ていなかった。こっちで、かってにそう思いこんだだけだった。
「アクレンのやつ、いったい、ギディオンをどうしたんだろう?」
「さっぱりわからないわ。」エイロヌイはそういって、くすんくすん鼻を鳴らした。「自分のへやへつれていくこともできたでしょうし、塔に閉じこめることだってできたでしょ。その人をかくしておくところなら、十二か所くらいあるわ。あなたは、『ギディオンという名の男を助け出してくれ。』って、いいさえしたらよかったのよ。そしたら、わたしだって、見つけられたと思うわ。ところが、あなたは、りこうに立ちまわらなくちゃというので、万事かくして……」
タランはがっくりしてしまった。「ぼくは、城にもどって、かれを見つけなくちゃならない。アクレンが、かれをとじこめたと思われるところを、教えてくれるかい?」
「城は、もう、あとかたもないわ。」と、エイロヌイがいった。「それに、これ以上あなたに力をかせるかどうか、わからないわ。あんなふるまいをされたし、あんなひどいことをいわれたんだもの。まるで、人の髪の毛に、毛虫をくっつけるみたいなことだわ。」エイロヌイは、つんと上を向いて、タランを見ようとしなかった。
「きみをとがめたのは、まちがいだった。」と、タランはいった。「ひどく悲しいけど、それと同じくらい、はずかしいよ。」
エイロヌイは、つんとしたまま、横目でちらりとタランを見た。「そうでしょうね。」
「ぼくひとりで、さがすよ。」と、タランがいった。「きみがことわるのも当然さ。きみに関係したことじゃないものな。」タランは、向きを変えて、あき地から出て行きかけた。
「あら、そんなに急いで、わたしのいうことに賛成しなくたっていいわよ。」と、エイロヌイがさけんだ。彼女は、石からするりとおりて、あわててタランのあとを追ってきた。
ふたりがもどってみると、フルダー・フラムは、じっと待っていた。エイロヌイの玉の光で、タランは、思いがけなくあらわれたその人物を、よく見ることができた。吟遊詩人は、すらりと背が高く、長いとがった鼻をしていた。黄色に光る髪の毛が、もじゃもじゃと八方にのびていて、まるで、ぎざぎざした太陽のようだった。上着のひじと、きゃはんのひざに、つぎがあててあり、不器用な大きな針目でぬいつけてあった。詩人が自分でやったのだと、タランは思った。すらりと美しい弧をえがくたて琴を、肩からさげていたが、それをのぞいたら、タランが<時の書>でならった吟遊詩人らしいところは、どこにもなかった。
「それでは、このわしは、まちがって助け出されたらしいな。」フルダーは、タランから、これまでのいきさつをきいて、そういった。「結局は、このようなことになると、知っておくべきだったよ。わしも、わしは、あのひどいトンネルにはい進みながら、ずっと自問しつづけておった。このわしが、牢の中で呻吟しておろうがおまいが、いったいだれが心配してくれる、となあ。」
「ぼくは、城にもどります。」と、タランがいった。「ギディオンが、まだ生きている望みがあるかもしれませんから。」
「たしかに、そうだ。」吟遊詩人が、目を輝かして思わずさけんだ。「フラム家の者、救助に向かえ! 城を攻めよ! 突撃するのだ! 城門を打ちたおせ!」
「攻めるといっても、ほとんどなにものこっていないわ。」と、エイロヌイがいった。
「そうかね?」フルダーは、がっかりした声でいった。「まあ、よろしい。できるだけのことをいたすことにしよう。」
丘の頂上には、巨大な石が、巨人のこぶしでくだかれたように、ころがっていた。四角なアーチをえがく城門だけが、骨のようにうす気味わるく、ぽつんと立っていた。月光を浴びた廃墟は、すでに、幾歳月を重ねたふぜいだった。くずれた塔をおおうように、うすい布に似た霧がかかっていた。タランは、自分がにげたことを、アクレンは知ったにちがいないと思った。アクレンは、城がくずれる直前に、護衛兵の一隊を送り出していた。その兵たちが、石くずの山のあちこちに、石のように動かずに、たおれていた。
タランは、絶望的になりながら、廃墟をあちこち、さがしまわった。城は、土台からくずれ、その上に城壁がたおれこんでいた。タランは、吟遊詩人とエイロヌイに手伝ってもらって、われた岩を一つ、二つ、動かそうとした。しかし、それは手にあまる仕事だった。とうとう、力つきて、タランは、首を横にふった。「これ以上は、むりだ。」と、タランはつぶやいた。「これを、ギディオンの墳墓とさだめよう。」そして、しばらくの間、だまって廃墟をながめわたしていたが、やがて、顔をそむけた。
フルダーが、死んだ護衛兵の武器をとったらどうかといった。そして、さっそく、短剣と長剣を腰におび、手に槍をにぎった。エイロヌイは、王の墓から持ってきた剣に加えて、細身の短剣を腰にさした。タランは、持てるだけの弓と矢を集めた。これで、この一団も、軽装備ながら、効果的な武装ができた。
小さな隊は、沈んだ気持ちで斜面をくだった。メリンガーは、二度と主人に会えないことがわかっているかのように、首をたれて、おとなしくついてきた。
「この邪悪な場所から立ちのかなくちゃ。」と、タランがさけぶようにいった。「こんな所からは、一刻も早く立ち去りたいよ。渦巻き城は、ぼくに悲しみを味わわせただけだ。もう二度と見たくもない。」
「わたしたちふたりには、それじゃ、なにを味わわせたっていうの?」と、エイロヌイがきいた。「あなたのいうこときいてると、あなたがなげき悲しんでいるのに、わたしたちは、ただすわりこんで、たのしい時をすごしてるっていうみたいよ。」
タランは、はっと立ちどまった。「ご、ごめんよ。そんなつもりじゃなかったんだ。」
「それに」と、エイロヌイはいった。「夜の夜中に、わたしが森を抜けて進むだろうなんて思ったら、とんだまちがいよ。」
「わしもだよ。」と、フルダーが話にわりこんだ。「遠慮なくいうが、わしはもう、つかれきっているから、アクレンの入口でだってねむれるね。」
「みんな休みが必要なんだ。」と、タランはいった。「しかし、ぼくは、アクレンが、生きていようと死んでいようと、心がゆるせないんだ。それに、不死身たちがどうなったかも、まだわかっていない。やつらがのがれていれば、こうしている今も、ぼくらをさがしているかもしれないんだ。だから、どんなにつかれていても、こんな近くにいるのは、おろかなことだよ。」
エイロヌイとフルダーは、しばらくなら歩いてもよいといった。しばらくすると、木々にぐあいよく囲まれた場所を見つけ、三人は、ぐったりと草の上に身を投げた。タランは、メリンガーの鞍をはずしてやったが、エイロヌイが、ギディオンの持ちものを持ってきてくれたのを知って、うれしく思った。鞍袋の中にマントがあったので、それはエイロヌイにわたしてやった。吟遊詩人は、自分のおんぼろなマントに身をくるみ、たて琴は、ふしくれだった木の根の上に、そっとのせた。
タランが最初の見張りをひきうけた。土気色の戦士たちのことが、まだ頭にこびりついてはなれなかった。どこの暗がりに目をやっても、かれらの顔が見えたような気がした。夜がふけるにつれ、森の生きものが通ったり、風が木の葉をせわしなくさらさらいわせたりするたびに、タランはびくっとした。やぶがざわめいた。こんどは、風ではなかった。タランは、かすかに、かさこそいう音をききつけた。手がさっと剣をにぎった。
人影が、月光の中にとび出したかと思うと、ころがるようにして、タランのところへやってきた。
「もぐもぐ、むしゃむしゃ?」と、鼻にかかった声がいった。
「その奇妙な友人は、だれかね?」吟遊詩人が、上半身をおこし、今あらわれ出たものを、ふしぎそうに見ながらたずねた。
「豚飼育補佐にしては、」と、エイロヌイがいった。「あなた、変な友だちがいるわね。それ、どこで見つけたの? それ、なに? そういうものを、今まで、見たことがないわ。」
「ぼくの友だちでなんか、あるもんか。」と、タランは大きな声でいった。「そいつは、ぼくたちが攻撃をうけたとたん、にげてしまった。なさけない、こそこそ歩きの、くだらないやつなんだ。」
「ちがう、ちがう!」ガーギは、毛むくじゃらな頭をぴょこぴょこさげて、鼻声でいいかえした。「あわれな、いやしいガーギは、いつも、力強い殿さま方に忠実ですぞ――たとえ、こづかれたり、けがをさせられたとしても、殿さま方につかえる、ああ、なんという喜び!」
「うそをつくな。」と、タランはいった。「おまえは、いちばんだいじなときに、にげたじゃないか。」
「切ったり切られたりは、りっぱな殿さま方の仕事でございます。あわれで弱いガーギの仕事ではありませんです。ああ、あの、なんとおそろしい太刀風! 強い殿さま、ガーギめは、助けをよびに行ったのでございます。」
「だれも見つけて来なかったじゃないか。」タランが腹をたてていった。
「ああ、なんたる悲しさ!」と、ガーギはなげいた。「勇者をすくう人はいなかったのでございます。ガーギは、遠い遠い所まで行きました。大きな声でさけびながら。」
「それは、きっとそうだったろうよ。」と、タランがいった。
「あわれなガーギは、そうする以外、なにができましょう? ガーギ、偉大な戦士が苦しむの、見るのがつらい。ああ、なさけなくて涙が出る! しかし、いくさとなったら、ガーギ、大けがするか、のど切られて死ぬだけ。」
「たしかに、勇敢なことじゃなかったわね。」と、エイロヌイがいった。「でも、まったくのおろかなものでもないわ。首を切られてしまっちゃ、しょうがないもの。なによりまず、この人、なんの助けにもならないんでしょ、戦いでは。」
「ああ、気高いご婦人のお知恵!」ガーギは、エイロヌイの足もとにひれふしてさけんだ。
「ガーギが、助けをさがしに行かなかったら、今こうして、お役にたつために、ここにあらわれることなど、できませんでした。しかし、今、こうして、ここにおりますです! そうですとも。忠実なガーギは、おそろしい殿にぶたれたり、たたかれたりするため、もどって来たのです!」
「おまえなんか、見たくない。」タランはいった。「うろうろしていると、ほんとうに泣かなくちゃならないようにしてやるぞ。」
ガーギは、鼻を鳴らした。「お強い殿さま、ガーギは、おおせにはすぐしたがいまする。もうなにもいいません。この目で見たことも、まるでだまって、もうしませんぞ。はい、はい。強い英雄方のお休みをじゃまなどいたしませんとも。ガーギが涙ながらにお別れして行くところを、ごらんくださいまし。」
「今すぐ、もどってこい。」と、タランは声をかけた。
ガーギは、ぱっと明るい顔になった。「むしゃしむゃ?」
「いいか、ガーギ、」と、タランはいった。「食べものは、ほんとうに少ないんだ。だが、持っているものは、おまえにも公平にわけてやる。それがおわったら、あとは自分でさがして食べなくちゃならないぞ。」
ガーギはうなずいた。「もっともっとたくさんの軍勢が、するどい槍を持って、谷間を進んでいる――ああ、あのものすごい数! ガーギ、全然音をたてずに、じょうずに見張る。あの人たちには、助けもとめない。あぶないけがさせられるだけ。」
「それはなんだ、なんの話だね?」と、フルダーが思わず声を大きくした。「大軍勢だって? それは、ぜひ見たいものだ。わしは、軍勢の行進のたぐいがいつもすきで、見てたのしむのだよ。」
「ドンの一族の敵が、集結ちゅうなのです。」タランは、あわてて吟遊詩人に教えた。「ギディオンとぼくは、つかまる前に、それを目撃したのです。ガーギのいうとおりなら、もう後詰めがやって来たんです。」
吟遊詩人が、勢いよく立ちあがった。「フラムの家のものは、危険にしりごみはせんぞ! 敵が強大であればあるほど、それだけ栄光は増すのだ! 敵をさがしだして、攻めようではないか! 吟遊詩人たちが、永久に、われわれをたたえる歌をうたってくれるだろう!」
タランは、フルダーの熱狂ぶりに感動して、思わず剣をつかんだ。しかし、すぐに、カー・ダルベン近くの森で、ギディオンにいわれた言葉を思い出し、首を横にふった。「いや、だめです。」と、タランはゆっくりいった。「かれらを攻めようなんて考えるのはばかげています。」そして、フルダーを見てほほえんだ。「吟遊詩人は、ぼくたちのことをうたってくれるでしょう。しかし、そのとき、ぼくたちは、もう、それをきけませんよ。」
フルダーは、気を落として、またすわりこんでしまった。
「ふたりとも、吟遊詩人に栄誉をたたえてもらう話がしたかったら、いくらでもどうぞ。」と、エイロヌイがいった。「でも、わたしは、いくさをしたい気分じゃありませんからね。わたしは、ねます。」そして、地面にまるくなって、頭からマントをかぶってしまった。
フルダーは、まだ納得しかねる気持ちのまま、かわって見張りにつくために、木の根によりかりかった。ガーギは、エイロヌイの足もとにまるくなった。つかれきっていたが、タランは、ねむれなかった。頭の中に、また、角の王があらわれ、燃えあがる大きなかごの中から悲鳴がきこえてくるのだった。
タランは、はっとしてからだをおこした。ギディオンをいたむあまり、ここまで来た目的をわすれていたことに気づいたのだ。タランの探索の目的は、ヘン・ウェンだった。ギディオンの目的は、ドンの子孫たちに警報を伝えることだった。タランの頭は混乱した。友だちが死んだことがたしかな今、カー・ダスルに向かってみるべきだろうか? その場合、ヘン・ウェンはどうなるだろう? 万事が、ややっこしくなってしまった。タランは、カー・ダルベンのしずかなくらしにもどりたかった。野菜畑の草取りや馬蹄つくりすら、この上なくすばらしいものになった。どうしたらよいかわからず、タランはおちつかなげに寝がえりばかりしていた。ようやく、つかれにまけてねむったが、悪夢ばかり見た。
10 名剣ディルンウィン
タランが目をさましたとき、夜はすっかりあけていた。ガーギは、もう、がつがつした様子で、鞍袋をふんふんかいでいた。タランは、すばやくおきあがると、のこった食料をできるだけたくさん分配した。それでも、少しのこしたのは、これからの旅で、食料さがしが、ひじょうにむずかしくなるかもしれないからだった。よくねむれなかった夜のあいだに、タランは方針をきめていた。ただ、それが賢明な道かどうか、確信がもてないので、今のところ、口には出さないでいた。今はただ、とぼしい朝食をだまってとることにした。
ガーギは、あぐらをかいてすわり、うれしそうな声をあげながら、大きく舌を鳴らしてむしゃぶりついていた。だから、じっさいの二倍も食べているように思えた。フルダーは、まるで五日間ぐらい食事をしたことがないような調子で、とぼしい食べ物を、飲みこんでいた。エイロヌイは、墳墓から持ち出してきた剣のほうに気をとられていた。剣は、ひざにのせてあった。エイロヌイは、舌の先をちょっとのぞかせ、こまったように、ひたいにしわをよせながら、剣をしげしげとながめていた。
タランが近よると、エイロヌイは、剣をさっとかくした。「わかったよ。」タランはわらっていった。「ぼくがぬすむんじゃないかみたいなふるまいは、しなくていいよ。」柄と柄頭には宝石がはめこんであったが、さやは、つぶれていて、色が失せ、年月のために、ほとんどまっ黒だった。それにもかかわらず、由緒ある名剣の気品を感じさせた。タランは手にとってみたくなった。「刃を見せてくれないか。」
「その気になれない。」と、エイロヌイが大きな声でいったので、タランは、ほんとうにびっくりしてしまった。そして、エイロヌイの顔に、恐怖に近いほど厳粛な表情がうかんでいるのに気づいた。
「さやに、魔力の象徴が彫りつけてあるのよ。」と、エイロヌイがつづけていった。「アクレンの持ちもののいくつかにも、このしるしがついていたわ。これは、禁断のもののしるしなの。もちろん、アクレンのものは、みんなそうだけど、中でもいくつかは、ぜったいにおかしてはならない神聖なものとされていたわ。
「それから、べつの銘刻もあるんだけど」エイロヌイは、また、眉をしかめるようにしていった。「古代文字だわ。」それから、足をどんとふみならして、「あーあ、アクレンがすっかり教えといてくれたらよかったのに。だいたいはわかるんだけど、全部とはいかないの。これくらい、いらいらさせられることはないわ。話を、途中でうち切られたときみたいよ。」
そこへ、ちょうど、フルダーがやって来て、やはり、ふしぎな剣をのぞいてみた。「墓所から持ち出したのだね?」吟遊詩人は、八方に黄色い毛のつき出た頭をふって、おどろいたようにひゅうと口を鳴らした。「それは、すぐに片づけたほうがよろしい。墓所で見つけたものは、あまり信用せんほうがよい。そうしたものとかかわりを持つのは、よくない。以前どこにあって、だれが持っていたとも、わからんからなあ。」
「それが、魔力のある武器なら、」タランは、ぐっと興味をひかれ、ますます手にとってみたくなり、そういいはじめた。「持っていたほうが……」
「おねがい、だまって。」と、エイロヌイがさけんだ。「うるさくて、考えられないわ。片づけろの、持っていろのって、あなたたちの話していること、わたしにはわからないわ。なんといっても、これ、わたしのものでしょ? わたしが見つけて、持ち出したのよ。そのために、あやうく、あのひどいトンネルから、出られなくなりそうになったのよ。」
「吟遊詩人は、こういうものをよく知っているはずだけど。」と、タランがいった。
「むろんのこと。」フルダーが、確信ありげににっこりして答え、長い鼻をさらに剣に近づけた。「こういう銘刻は、みんなだいたいおなじ文句でな。この手のものは、刃にではなく、さやにきざんであるものさ。文句は、うむ、『わが怒りに気をつけよ』――なんてことで、ありきたりの言葉だな。」
そのとたん、ぴーんという高い音がした。フルダーは、目をぱちくりさせた。たて琴の弦が一本ぷつりと切れたのだ。「失礼。」といって、フルダーは、楽器をしらべに行った。
「そんな言葉は全然ないわ。」エイロヌイがきっぱりいった。「もう、少しわかったわ。ほら、つかのそばからはじまって、ツタみたいにさやをとりまいてつづっているのよ。今まで逆に見ていたわ。まず、ディルンウィンとあるわ。剣の名まえだか、王さまの名まえだか、それはわからない。あっ、そうよ、これが剣の名まえだわ。また、ここに出てくるから。
『ディルンウィンを抜く者は、王家の者のみなるべし。しかして、その者は、治め、攻め……』
「なにかを、なのよ。」と、エイロヌイが話をつづけた。「とってもかすかで、わからないわ。銘の字がこすれて、きえかけているのね。いいえ、おかしい。こすれてるんじゃない。けずり落とされたんだわ。よほど深く彫りつけてあるのね。今でも、かすかにのこっているもの。でも、のこりのところが読めないわ。この文字は、どうやら、死、らしい……。」エイロヌイは、身ぶるいした。「あまり、気持ちがよくないわね。」
「ぼくに抜かせてくれよ。」と、タランはもう一度たのんだ。「刃の上に、もっときざみつけてあるかもしれないよ。」
「ぜったい、だめ。」と、エイロヌイがいった。「これには、魔力の象徴がついているっていったでしょ。わたしはその呪縛をうけているのよ――それがまずだいじなこと。」
「アクレンは、もう、君を束縛なんかできないよ。」
「アクレンじゃないわ。」と、エイロヌイは答えた。「わたしは、アクレンも、同じしるしのついたものを持っていたと、いっただけよ。これは、アクレンが使えた魔法よりももっと強力な魔法なの。ぜったいにまちがいないわ。わたしには、とてもこの剣を抜く勇気がないし、あなたにも抜かせるつもりはないわ。それに、<王家の者のみ>ってあって、豚飼育補佐については、全然ふれていないでしょ。」
「ぼくが王家の血すじじゃないと、きみにどうしてわかる?」タランは、かっとなってきいた。「ぼくだって、生まれつき豚飼育補佐じゃない。父親は王さまだったかもしれないんだ。<時の書>では、かならず、そんなふうに話がおわってるからな。」
「<時の書>なんて、きいたこともないわ。」と、エイロヌイがいった。「でも、なによりもまず、王子とか王であっても、この場合、だめだと思うの。王家の者というのは、ただ、現在の言葉で、いちばん近い意味のものにおきかえただけなのよ。古代文字では、この言葉は、王家の血すじってことだけではないの。そんなの、ざらにいるでしょ。つまり――ああ、なんていっていいかわからないわ。なにか、ひじょうに特別なものなのよ。そして、かりにあなたがその資格をもつとしたら、自分がそうではないかと考える必要なんかない――しぜんにわかるものだと思う。」
「だから、もちろん、」タランは、エイロヌイの言葉に腹をたてていった。「きみは、ぼくがそうじゃないと、きめこんでいるんだね――そのなんだかじゃないって。」
「あら、あなたをおこらすつもりはなかったのよ。」と、エイロヌイはいった。「あなた、豚飼育補佐にしては、ほんとうにすばらしいと思う。生まれてから今までに出会った人々の中では、いちばんすてきな人だとさえ思っているわ。ただ、この剣は、あなたに渡すことを禁じられているの。それだけのことだわ。」
「じゃあ、きみ、その剣をどうするつもり?」
「むろん、持っているわ。井戸に投げこむなんて、できないでしょ?」
タランは、ふんと鼻を鳴らした。「いいかっこうだろうよ――小むすめが大剣をね。」
「わたし、小むすめじゃありません。」エイロヌイは、大げさに髪をゆすっていった。「いにしえ、わたしの一族は、剣持ちのおとめが、男のかたわらで戦いました。」
「今は、いにしえじゃないさ。」と、タランがいった。「きみには、剣よりお人形のほうが似合いだよ。」
エイロヌイは、くやしさのあまり金切り声をあげて、タランをたたこうとしたが、そのとき、フルダー・フラムがもどってきた。
「これこれ。」と、吟遊詩人はいった。「けんかはいけない。つまらんことだ。」そして、大きなかぎで、新しく張った弦の木くぎをしめた。
エイロヌイは、フルダーにやつあたりした。「この銘刻は、とても重要なものだったわ。怒りに気をつけろなんてことは、全然書いてない。あなたは、一つも、まともには読めなかったじゃないの。魔法の剣の文字が読めないなんて、すてきな吟遊詩人さんね。」
「うむ、やはりわかるかね。」フルダーは、せきばらいをして、おずおずした口調でいいはじめた。「その、じつは、こういうわけなのだ。わしは、正式の吟遊詩人ではないのだ。」
「正式じゃない吟遊詩人なんて、どういうものなの?」と、エイロヌイがいった。
「ふむ、まったくな。」と、フルダーはいった。「ま、わしの場合、特別でな。わしは、王でもあるのだよ。」
「王?」と、タランがいった。「王さま!」タランは、片ひざをついた。
「それにはおよばん、およばんのだ。」フルダーはいった。「わしは、もう、そういうことはわすれることにしている。」
「あなたの王国はどこにあるの?」と、エイロヌイがたずねた。
「カー・ダスルから東へ数日間旅したところだ。」と、フルダーはいった。「領土は広く……」
そのとたん、タランはまた、弦が切れる音をきいた。
「こまった楽器だよ。」と、吟遊詩人はいった。「また、二本も切れてしまった。今話したとおり、いや、そうだなあ、じつは、わしの国は北にある、かなり小さな王国でな。つまらぬ、荒涼たるところなのだ。そのため、わしは国をすてた。ずっと、吟遊詩人と放浪にあこがれていたからだ。放浪の詩人になってやろうと決心したのさ。」
「吟遊詩人て、ものすごく勉強しなくてはならないものだと、わたし、思っていたわ。」と、エイロヌイがいった。「かってに決心しただけでは……」
「そうさ。それが難問の一つであった。」と、元国王はいった。「わしは勉強した。試験はひじょうによいできで……」たて琴の上端の短い弦が高くて、細い音とともにぷつりと切れて、ツタの手のようにくるくるっとまきあがった。「いや、ほんとうはひじょうにふできだった。」と、元国王はつづけた。「そのため、吟遊詩人組合は、わしを入れてくれなかった。じっさい、このごろは、たいへんな知識を要求するのだよ。何巻、何十巻もの詩、歌、音楽、暦の計算、歴史、そして、あらゆる種類の字が書けねばならんし、秘密のしるしもおぼえる――とうてい、頭につめこめるものではない。
「組合は、わしによくしてくれた。」と、フルダーはさらにいった。「タリエシンという組合の長みずから、このたて琴をおくってくれたのだ。そして、これこそ、このわしに必要なものだといった。ときどき、あの男は、ほんとうに好意を見せてくれたのかどうか、考えてしまうことがあるがな。これは、すばらしいたて琴なのだが、弦がまったくやっかいでな。投げすてて、ほかのたて琴にしようかと思わぬではないが、いかにも音色がよろしい。これほどのものは、ほかに見つかりはしないだろう。いまいましい弦のやつさえ……」
「しょっちゅう、切れているらしいわね。」と、エイロヌイがいった。
「そのとおり。」フルダーは、いささか恥ずかしそうにうなずいた。「わかっているのは、切れるのはふつう――つまり、わしは感じやすいたちの人間で、興奮してしまう。だから、その、事実をいささか手直しするのかもしれない。ほら、純粋に、劇的効果を出すためにな。」
「事実をそんなに手直しするのをやめたら、」と、エイロヌイがいった。「弦のごたごたもおこらないのじゃないかしら。」
「そう思う。」吟遊詩人は、ため息をついていった。「やってみるのだが、むずかしい。じつにむずかしいのだ。王となると、そのくせがついてしまうのだよ。ときどき、かなでるよりも、弦をなおしている時間のほうが、多いのではないかと、考えてしまうね。だが、したかあるまい。万事うまくとはいかんものさ。」
「アクレンにつかまったとき、どこを旅していたのですか?」と、タランがたずねた。
「どこということはない。」と、フルダーはいった。「そこがよい点の一つでな。吟遊詩人は、どこかに向かって急ぐことをせんでよい。いつも旅をしている。そして気がつくと、どこかについているわけだ。こんどの場合は、不運にもアクレンの牢だったわけだ。彼女は、わしの演奏など、きこうともしなかった。あの女には、音楽などわからんのだ。」
「王さま、」と、タランはいった。「わたしに、おねがいがございます。」
「王さまよばわりは、やめてくだされ。」と、元国王はいった。「フルダーで、もう十分ですぞ。おねがいだと? それは、うれしい! 王座をすててこのかた、ねがいをききとどけることなど、いちどもなかったのだから。」
タランは、フルダー・フラムとエイロヌイが草の上にすわったのをしおに、ヘン・ウェン捜索と、ギディオンからきいた角の王のこと、かれに、呼応してたったカントレブのことなどを物語った。ガーギも、朝食をおわると、にじりよってきて、塚の上にしゃがんで、じっと話に耳をかたむけた。
「ぼくの心はきまっている。」と、タランはぐんぐん話を進めた。「ドンの子孫たちに、角の王の攻撃がはじまらないうちに、この蜂起のしらせを伝えなくてはならない。角の王が勝てば、アローンがプリデインののど首をおさえてしまう。それがどんなことなのか、ぼくは、この目で見て知っている。」タランは、自分が会議の席の武将のようにしゃべっていることに気づいて、おちつかなかった。しかし、ほどなく、もっとらくな気分で話せるようになった。たぶん、ギディオンにかわって話しているからだ、と、タランは思った。
「きみの考えはわかる」と、フルダーが口をはさんだ。「きみは、豚さがしをつづけ、このわしに、ドンの戦士たちのところへ知らせに行ってくれというのだろう。よい考えだ! よし、すぐに出発する。角の王の軍勢が追いかけてきたら……」吟遊詩人は、空を切ったりついたりしてみせた。「フラムのものの武勇のほどを、思い知らせてやる。」
タランは、首を横にふった。「いや、カー・ダスルへは、ぼくが自分で行く。あなたの武勇をうたがうのではありません。しかし、危険すぎるのです。ほかの人に、わかってもらおうとは思いません。」
「豚は、いつさがすつもりなのかね?」と、フルダーはたずねた。
「ぼくの仕事は、」タランは、吟遊詩人の顔を見ていった。「あきらめなくてはなりません。第一の仕事がおわって、もしできるようなら、自分の仕事にもどります。それまでは、ギディオンのためにはたらくだけです。かれの命を犠牲にしてしまったのは、ぼくです。だから、ギディオンの仕事をかわって果たすのが、公平なさばきというものです。」
「事情を考えると、」と、吟遊詩人がいった。「きみは、自分を責めすぎていると思うね。きみには、ギディオンが牢にいないことを、知る手だてがなかったのだよ。」
「それでも、変わりはありません。」と、タランは答えた。「もう決心したのです。」
フルダーは、いいかえそうとしたが、タランのきっぱりした言葉におされて、だまってしまった。少ししてから、フルダーはたずねた。「それで、きみのねがいとは?」
「二つあるのです。」と、タランはいった。「一つは、カー・ダスルへのもっとも近い道を教えていただきたいこと、もう一つは、この少女を、一族のものの所まで、ぶじに送りとどけていただきたいことです。」
フルダーが返事をする間もなく、エイロヌイが、かっとなって勢いよく立ちあがった。「送りとどける、ですって? わたしは、自分のすきな所に送りとどけてもらうわ。送りかえされるなんて、ごめんですからね。そしたら、またどこかへ送られるに、きまっているんだから。そして、そこがまた、さびしいところにきまっているのよ。いやだわ。わたしも、カー・ダスルへ行きます!」
「危険はひじょうに多いんだ。」と、タランははっきりいった。「その上、少女のめんどうはみきれない。」
エイロヌイは、手を腰にあて、目をいからせていった。「名まえがないみたいに、<この少女><少女>なんてよばれるのはまっぴらよ。まるで、顔なんかないみたいな感じになるわ。あなたが決心しているなら、わたしだってしているわよ。いったい、どうやって、このわたしをとめるつもり? もしも、あなたが、」エイロヌイは、吟遊詩人を指さして、早口につづけた。「わたしを、あのいやしい、ばかな親類縁者――といっても、第一ほとんど血のつながりがない――あの連中の所に送りとどけるつもりなら、たて琴で頭をなぐって、めちゃくちゃにしてやるから――」
フルダーは、目をぱちくりさせ、たて琴を、かばうようにしっかりつかんだ。エイロヌイは、その間も、話しつづけた。
「そして、どこかの豚飼育補佐さんが――名まえだって口にしたくないけど――わたしと反対の考えをもっていたら、とんでもない思いちがいだとわかるわよ。」
三人がいっせいにしゃべりはじめた。「だまれ!」タランが、ありったけの声でさけんだ。そして「わかったよ。」といった。フルダーとエイロヌイが口をつぐんだからだ。「きみを、」と、タランは、エイロヌイにいった。「しばって、メリンガーにつんでしまうことだってできるんだ。しかし、」タランは、エイロヌイが口をはさもうとするのを手でおさえて、つづけた。「そんなことはしない。きみがさわぎたてるからじゃ、ぜったいない。今、そんなことをしないほうがよいとわかったからさ。」
吟遊詩人は、びっくりしたようだった。
タランは、話をつづけた。「人数が多いほうが、それだけ安全なんだ。なにがおこっても、だれかがカー・ダスルへたどりつける可能性が大きくなる。だから、みんないっしょにいたほうがいいと思う。」
「忠実なガーギも!」と、ガーギがさけんだ。「おともしますぞ! こそこそうろついて、つくりわらいをしながら、とがった槍でガーギをつこうとする悪い敵が、じつに多いのだから!」
「さしつかえなければ、」と、タランはいった。「フルダーには、案内役になってもらいます。しかし、きみたちにいっておくが、」タランは、ガーギとエイロヌイをちらりと見ていった。「この仕事のじゃまをするようなことは、なに一つしてはいけない。」
「ふつうなら、」と、フルダーがいった。「この種の冒険行は、わし自身が指揮をとりたい。しかし、」と、フルダーは、タランが反対しかけるのを見て、すぐつづけた。「きみはギディオンの代役をつとめておるからして、かれ同様に、きみの権能をみとめよう。」そして、尊敬礼をして、「フラムのもの、御意のままでござる!」
「さあ、前進!」と、吟遊詩人はさけんだ。「戦わねばならぬときは、戦おう! そうとも、わしは、槍ぶすまを切りひらいて今日まで……」
六本の弦が一度に切れ、のこりも張りきって、今にも切れそうになった。タランがメリンガーに鞍をつけている間、吟遊詩人は、しょんぼりと、弦のつけかえをはじめた。
11 山中の逃亡
はじめ、タランは、エイロヌイに、メリンガーに乗るよう申し出た。だが、エイロヌイはことわった。
「わたし、あなたたちくらいには、歩けるわ。」エイロヌイが、ひどくおこってどなったので、タランも、それ以上はいわないことにした。タランにも、この少女の口のわるさには気をつけなくてはけいなことが、もうわかっていた。そして、白馬には、渦巻き城で手に入れた武器をはこんでもらうことに、話がついた。ディルンウィンだけはべつで、これは、エイロヌイが、かってに守護者ををきめこんでいた。
フルダー・フラムは、短剣を使って、進もうとする道すじを、地面にかいて、タランに教えた。「角の王の軍勢は、きっとイストラド谷にとどまるであろう。軍勢の進軍にはもっともたやすい道だから。ここが、渦巻き城だ。」フルダーは、そこを、腹だたしげにつついた。「イストラド川の西岸になる。さて、いちばんの近道は、この山々を北に向かってまっすぐ進む道だよ。」
「ぼくたちは、その道を行かなくてはなりませんね。」タランは、フルダーのかいた入りくんだ道を、いっしょうけんめい読みとろうとしながら、そういった。
「いや、友よ。わしは、すすめない。これだと、すこしアヌーブンに近すぎるところを通ることになる。アローンのとりでは、渦巻き城のすぐそばにある。それはさけて行きたい。われわれがとるべき道は、これだと思う。つまり、イストラド川の西岸の高い所を進んで行くのだ。われわれは、谷間そのものを抜けて行く必要がないのだから、まっすぐに澄めるわけだ。そうすれば、アヌーブンと角の王の両方をさけられる。われわれ四人は、重い武具を身につけた戦士より早く進める。敵よりもずっと早く、カー・ダスルにさほど遠くない所に出られるのだ。そこへ出たら、あとは、まっしぐらに、目的地へかけこめばよい。それで、役は果たせる。」フルダーは、満足してにっこりしながら背をのばした。そして「という計画なのだ。」といいながら、短剣の先の土をぬぐいとった。「りっぱな戦術さ。わしの国の武将でも、これ以上手ぎわよく、これをつくりあげるわけにはいくまいよ。」
「そうですね。」タランは、吟遊詩人のいった西岸だの、高い所などがまだ飲みこめないまま、そういった。「とても理にかなっているようですね。」
かれらは、日をいっぱいに浴びた広い草原へくだった。晴れた朝で、あたたかった。草は、露をまだのこして、頭をたれていた。一団の先頭を、足のひょろ長いフルダーが、大またに元気よく歩いていた。たて琴が背中でおどっていた。みすぼらしいマントは、たたんで肩にかけてあった。エイロヌイは、黒い大剣を背おい、微風に髪をなぶらせながら、二番目を進み、そのすぐあとにガーギがつづいた。髪の毛に葉っぱや小枝がいっぱいについてしまったガーギは、なんだか、ビーバーのつくったダムが歩いているように見えてきた。ガーギは、両腕を大きくふり、頭を左右にふりながら、うめいたり、つぶやいたりして、ぴょんぴょんはねるように歩いていた。
タランは、メリンガーのたづなをとって、列のしんがりを進んだ。鞍につけた武器がなかったら、この一団は、春のぶらぶら歩きをしているとしか見えなかったろう。エイロヌイは、ほがらかにおしゃべりをしていた。フルダーも、ときどき、ふいに歌をうたいだした。タランただひとりが不安だった。タランには、この明るい朝のおだやかさが、うそに思えた。金色に輝く木々が、暗い影をかくしているように見えた。タランは、あたたかいのに、身ぶるいした。タランは、仲間たちを見て、内心で心配もしていた。カー・ダルベンにいたとき、タランは英雄を夢みていた。だが、今はもう、夢と実際がひじょうにちがうことがわかっていた。カー・ダルベンでは、タランの判断をたよりにするものなど、ひとりもいなかったのだ。タランは、ギディオンの力と導きがほしいと思った。ぼくの力では、この仕事は重荷ではないかと、タランは考えた。そこで、渦巻き城の方角をふりかえり、ギディオンの墳墓の見おさめをしようとした。丘陵のてっぺんに、雲を背景にして、ふたりの騎馬兵がくっきりと姿を見せた。
タランは、あっとさけんで、仲間に、森へかくれろと手ぶりで知らせた。メリンガーが勢いよく走りだした。タランたちは、すぐにやぶの茂みにうずくまった。騎馬兵たちは、稜線を進んでいた。遠すぎて、タランにも、顔ははっきり見えなかった。しかし、馬上の姿勢のかたさを見ると、不死身のあの土気色の顔と、生気のない目が、見えるように思えた。
「いったい、いつごろから、あとをつけていたんだろう?」と、フルダーがきいた。「われわれを見つけたのだろうか?」
タランは、葉のかげから、用心しながら見ていたが、丘陵の斜面を指さした。「あれが、その答えですよ。」
土気色の不死身ふたりは、馬の向きを変えて、丘陵から草原に向け、ぐんぐん斜面をくだりはじめた。「急げ。」と、タランは命令した。「追いつかれちゃならないぞ。」
四人は、草原にもどらず、やみくもに森の中を進んだ。不死身の出現で、フルダーのえらんだ道は、もうすてなくてはならなかった。しかし、吟遊詩人は、不死身の追跡をふりきったら、迂回して、また高い所の道に、もどりたいと思っていた。
四人は、水を飲むために立ちどまるのもおそろしく、一かたまりになって、小走りに逃げつづけた。森が、日光をかなりさえぎってくれたが、しばらくすると、その進み方がからだにこたえだした。ガーギだけは、つかれもせず、不快な思いもないようだった。アブや蚊やブヨの大群も、分厚い体毛をつき通すことはできなかったから、ガーギは少しも変わらない速さで、走るのがすきだと、いばっていいはったエイロヌイは、メリンガーのあぶみにしっかりつかまって進んでいた。
敵がどのくらい近くまで追って来ているのか、タランには、はっきりわからなかった。だが、音をたよりにすれば、不死身たちが追跡に失敗することは、ほとんどなかった。タランたちは、音をたてずに進むことを、やめていた。助かる道は、遠くに逃げることだけだった。だから、夜になってからずい分あとまで、四人は進みつづけた。
厚い雲に月がかくれてしまうと、四人は、まっ暗闇を、あかり一つなく、つき進むことになった。みんな、見えない枝にぶつかったり、顔をひっかかれたりした。いちどエイロヌイがころび、タランがひっぱって立たせた。ところが、少女は、またよろめいてひざをつき、頭をがくりとたれた。タランは、メリンガーの鞍の武器をおろして、フルダーやガーギと分担して持ち、いやがるエイロヌイを、メリンガーに乗せた。エイロヌイは、前のめりにたおれて、金色のたてがみに、ほほをうずめてしまった。
タランの一行は、一晩じゅう、森をおしわけて進んだ。森は、イストラドの谷間に近づくにつれて、ますます深くなってきた。ようやく、ほんの少し明るくなってきたときには、さすがのガーギまでが、つかれでよろめきはじめ、毛むくじゃらの足の一歩一歩が、ひどくつらそうだった。エイロヌイはこんこんとねむっているので、タランは病気になったのかと心配した。ぬれた髪がひたいにへばりつき、顔色は血の気がなかった。タランは、吟遊詩人の手をかりて、エイロヌイを鞍からおろし、こけむした土手に背をもたせかけてやった。そして、思いきって、やっかいな剣をはずそうとすると、エイロヌイは片目をあけ、むっとした顔をして、タランの手から剣をひったくった――その態度は、思った以上に、はっきりしていた。
「なんといったって、あなたには、いろいろなことがわからないのよ。」と、エイロヌイがつぶやくようにいった。剣はしっかりつかんでいた。「でも、豚飼育補佐って、そんなもんだと思う。あなたは、この剣を持ってはならないって、前にいったでしょ? だから、もう一度いって――いえ、これで三回目かしら、四回目かしら? 回数をわすれたわ。」エイロヌイは、そういって、剣を両手でかかえこむと、また、ねむりこんでしまった。
「ここで休まなくちゃならないですね。」タランは、吟遊詩人にいった。「ほんの少しでも。」
「この瞬間なら、」と、フルダーがうめくようにいった。もうあおむけに、大の字にねころんでいた。「だれにつかまうろとかまわないよ、わしは。アローンが来たって歓迎して、朝食を持ってないかときくだろうな。」
「不死身は、夜の間に、ぼくたちの跡を見失ったかもしれませんね。」タランは、自信なそうに、しかし期待するようにいった。「どれくらいひきはなしたか、わかればなあ――ま、ひきはなしていればのはなしだけれど。」
ガーギが、ちょっと元気になって、大きな声でいった。「かしこいガーギ、それわかる。さがしたり、こっそり見たりする。」
あっという間に、ガーギは、高い松の木を半分ほどのぼっていた。そして、やすやすとてっぺんまでよじのぼると、大きなカラスよろしく枝にとまり、今まで通ってきた方向に、目をこらした。
その間に、タランは、鞍袋をあけた。分配してもしかたないほど少ししか、食料はなかった。タランとフルダーは、それをエイロヌイにやることにきめた。
ガーギは、松の木のてっぺんからでも、食べもののにおいをかぎつけ、むしゃむしゃ、もぐもぐの期待に、鼻をはげしくひくつかせながら、急いで木をおりてきた。
「ふたりの戦士は、ずっと遠く。でも、ガーギには見えた――ほんと、ほんと。おそろしい顔で、ものすごい勢いで馬を進めていた。でも、ちょっとむしゃむしゃするひまはある。」と、ガーギは申したてた。「ああ、かしこい、勇ましいガーギには、すくなすぎる!」
「むしゃむしゃは、もうないんだ。」と、タランはいった。「不死身がまたあとを追って来ているのなら、食べものより、わが身のことを心配したほうがいいぞ。」
「でも、ガーギなら、もぐもぐ見つけられる! とても速く――ほんと――ガーギは、もぐもぐさがし、とてもじょうず。偉大な気高い殿さま方のおなか、満足させられる。でも、殿さま方、あわれなガーギのことわすれて、切れっぱしものこしてくれない。」
タランは、ガーギとかわらず、がつがつして見えるフルダーと、手短に相談してから、少し時間をとって、木の実や食べられる根などを、さがすことに同意した。
「それがよい。」と、吟遊詩人はいった。「不死身がまだ遠くにいる今、食べられるものを食べておくほうがよろしい。わしも手伝う。森で食べるものをさがすことにかけては、なんでも知っている。いつもやりつけて……」たて琴の弦がぴーんとはりつめ、一本が今にも切れそうになった。「いや、いや。」フルダーは、急いでつけ加えた。「わしは、エイロヌイといっしょに、のこっていたほうがいいな。じつをいうと、わしは、キノコとサルノコシカケの区別もできんのだ。できたらと思うよ。そうしたら、放浪の詩人ぐらしも、はるかに充実したものになるのだが。」
タランとガーギは、見つけたものを入れるために、マントを持って出かけた。タランは、小川に出くわしたので、ギディオンの革の水筒に、水を入れるために立ちどまった。ガーギは、ひもじそうに鼻をくんくんさせて、そのまま進み、ラワンの木立ちの中に姿を消した。小川の岸のそばで、キノコをみつけたタランは、急いで集めた。かがんでさがしまわっている間、ガーギのことをほとんどわすれていた。すると、突然、森の中から、いたそうな悲鳴がきこえてきた。タランは、貴重なキノコをしっかり持って、なにがおこったのかを見に急いだ。すると、ガーギが、木立ちのまん中にひっくりかえって、悲しげに鼻を鳴らしながら、身もだえしているのにぶつかった。そばにハチの巣が一つころがっていた。
最初、タランは、ガーギが、ハチにさされたのだと思った。ところが、もっとひどいけがをしていることがわかった。ガーギが、ハチの巣をとりに、木にのぼったところが、枯れ枝が重みで折れてしまったのだ。ガーギのひねった足の上に、重い枝がのっていて、抜けなくなっていた。タランは、枝をとりのけてやった。
ガーギは、あえぎながら頭をふった。「あわれなガーギの足、折れた。」ガーギはうめいた。「もう、ぶらぶら歩きまわれない!」
タランは、かがみこんで、けがをしらべた。足は、骨こそ折れていなかったが、ひどい傷をうけ、見ている間にはれてきた。
「これで、ガーギ、首切られる。」と、本人がなげいた。「切ってください、おえらい殿さま。早く、早く。ガーギ、おそろしい剣見ないように、白目出している。」
タランは、しげしげとガーギを見た。この生きものは真剣だった。目でタランにうったえていた。「ええ、ええ。」と、ガーギはさけんだ。「さあ、口をきかない戦士が来てしまわないうちに。ガーギは、敵の手にかかるより、殿の剣で死にたい。ガーギ、歩けない! みんな、切られて、おそろしい死に方しなくちゃならない! だから……」
「いやいや、」と、タランはいった。「おまえを森に置き去りにして、敵に首を切らすようなことはしない。だれが、そんなことするものか。」一瞬、タランは、まずいことをいったと思った。このあわれなやつのいうことが正しいのは、わかっていた。けがのため、進みはおそくなる。ガーギだって、ほかのみんなと同様、アローンの手におちるより、死んだほうがましなのだ。それでも、タランは、どうしても剣が抜けなかった。
「おまえとエイロヌイは、メリンガーに乗って行けばいい。」タランはそういうと、ガーギを立たせ、毛だらけの片腕を、肩にかけさせてささえた。「さ、行こう。一歩一歩歩いて……」
エイロヌイと吟遊詩人のところへたどりついたとき、タランはへとへとになっていた。エイロヌイは、目に見えて元気になっていて、前より早口なくらいにおしゃべりしていた。ガーギがだまって草の上に横になっている間に、タランは、ハチの巣を分配した。分けまえは、なさけないほど少しだった。
フルダーが、タランをわきへよんだ。「きみの毛むくじゃらの友人は、荷やっかいになるね。」と、フルダーは小さい声でいった。「メリンガーにふたり乗せたら、どこまでもつかわからんよ。」
「そのとおりです。」と、タランはいった。「でも、ほかに方法が見つからないのです。あなたなら、かれを見すてて行きますか? かれの首を切りますか?」
「もちろん。」と、吟遊詩人はいった。「即座に! フラムのものは、ためらわぬ。いくさを有利にたたかったりするためならば。やっ、こりゃまずい! また、弦のやつ、切れおるわい。それも、太いほうだ。」
タランは、これからはこんでいかなくてはならない武器を、再分配するためにもどったが、自分のマントの前に、大きなカシの葉がおいてあるのを見て、びっくりしてしまった。葉の上には、ガーギの分の小さなハチの巣がのっていた。
「偉大な殿のために。」と、ガーギがつぶやいた。「ガーギは、きょう、腹へっていない。もぐもぐ、むしゃむしゃいらない。」
タランは、ガーギの誠のこもった顔を見た。ふたりは、はじめて、ほほえみあった。
「気まえのいいおくりものだね。」と、タランはやさしくいった。「しかし、おまえは、ぼくたちのひとりとして旅をするんだから、体力をたくわえておかなくちゃだめだよ。おまえの分はとっておけよ。当然おまえのものなんだ。この分以上のはたらきをしたんだよ。おまえは。」
タランは、ガーギの肩に、そっと手をかけた。ぬれたオオカミ猟犬そっくりなにおいが、今までほど、いやでなくなっていた。
12 オオカミ
その日、タランは、しばらくの間だが、ついに不死身をふりきったと信じた。しかし、午後もおそくなったとき、不死身は、遠くの森はずれにふたたび姿をあらわした。傾く夕日を背にした戦士たちは、小さな隊がしゃにむに進んでいる平原の方に向け、長い影をのばしながら、斜面をくだってきた。
「早晩、あいつらと戦わなくちゃならないな。」タランが、ひたいの汗をふきながらいった。「今、ここでやってしまおう。不死身と戦って勝つことはありえないけれど、運よくいけば、しばらくはささえていられる。エイロヌイとガーギがうまくにげられれば、この仕事を果たすチャンスが、まだあることになる。」
メリンガーの鞍に、だらりとたれさがるようにして乗っていたガーギが、たちまち大声でわめきたてた。「だめ、だめ! 忠実なガーギ、このあわれなやわらかい頭を助けてくれた、強い殿さまといっしょにのこる。ガーギ、恩をわすれず、よろこんで戦う。さっ、ばさっと、剣をふって切る……」
「その気持ちはありがたいが、」と、フルダーがいった。「その足では、さ、ぱさっと剣をふるうことも、なにもできまい。」
「わたしも、にげたりしないわ。」と、エイロヌイも口をはさんだ。「わたし、あのばかな戦士がついてくるというだけで、顔をひっかかれたり、きものを破られたりしながらにげるのなんか、もうあきあきしたわ。」そして、身軽に鞍からとびおりると、タランの荷物から弓を一張り、矢を一にぎりとった。
「エイロヌイ! やめろ!」と、タランはさけんだ。「あの連中は死なないんだ! 殺せないんだ!」
背中にしょった大剣がじゃまになるのに、エイロヌイは、タランより足が速かった。タランが追いついたとき、エイロヌイは小さな丘にのぼって、弓につるを張っていた。不死身は、草原を馬で疾走してきた。抜いた剣が、日光を反射してきらりと光るのが見えた。 タランは、エイロヌイの腰をつかんで、ひきさがらせようとした。すると、すねを思いきりけとばされた。
「あなた、なんにでも、ちょっかい出さなくちゃいられないの?」エイロヌイが、ぷんぷんしていった。
タランが、もう一度エイロヌイをつかまえようとしたとき、エイロヌイは、矢を太陽に向けてふしぎな言葉を口の中でつぶやいた。矢をつがえ、不死身をねらってはなした。矢は、弧をえがいて上がって行き、まぶしい夕日の光で見えなくなった。
タランは、おりはじめた矢を、ぽかんと口をあけて見守った。大地につきささったとたん、矢羽根から、銀色の細長いものがぱっととび出した。たちまち、空中に、巨大なクモの巣ができて、騎馬の戦士に向けて、流れるようにゆっくり向かっていった。
ちょうどそのとき、かけつけてきたフルダーは、あっけにとられて、つっ立ってしまった。
「ふうむ!」フルダーは思わずさけんだ。「あれは、なんだ? 宴会のかざりものに似ている。」
クモの巣は、ゆっくりと不死身をつかんだ。ところが、不死身たちは、まるで気にもしなかった。馬に拍車をくれて進んでくる。クモの網は破れて、きえてしまった。「うまくいかなかった!」エイロヌイは、泣きそうな声でさけんだ。「アクレンがやると、大きくてねばねばした網になるのに。失敗だわ! 彼女が練習してたとき、とびらの外でこっそりぬすみぎきしたのよ。でも、だいじなところを、ききもらしたんだわ。」エイロヌイは、じだんだをふんで、顔をそむけた。
「彼女をひきさがらせてくれ!」タランは、吟遊詩人に向かってさけぶと、剣を抜いて、不死身たちに立ち向かった。かれらは、もう目の前だった。ところが、敵の攻撃にそなえて身がまえたちょうどそのとき、敵はためらいを見せた。不死身たちは、ふいにたづなをしめた。そして、なんの合図もなく、くるりと馬の向きを変えると、もくもくと、丘陵めざしてもどって行った。
「うまくいった! やっぱり魔法がきいたんだ!」フルダーが、おどろいてさけんだ。
エイロヌイは、首を横にふった。「ちがうわ。」エイロヌイは、沈んだ声でいった。「なにかが、あのふたりをひきかえさせたのよ。でも、それは、わたしの魔法だとは思わないわ。」そして、弓からつるをはずし、落とした矢を拾いあげた。
「その原因はこうじゃないかと思う。」と、タランがいった。「かれらは、アローンの所へもどって行ったんだよ。不死身は、あまり長くはアヌーブンからはなれていられないって、ギディオンが教えてくれた。あのふたりの力は、渦巻き城からはなれて以来、弱くなりつづけていたんだ。そして、ちょうどここまで来て、限界にきちゃったんだ。」
「アヌーブンにたどりつける力が、のこっていなければいいわね。」と、エイロヌイがいった。「こなごなになるか、コウモリみたいに、小さくちぢんじゃうといいわ。」
「そうはならないと思うな。」タランは、ゆっくり丘陵をこえて行くふたりの騎士をながめながらいった。「連中は、主人のところへもどるための、時間と、距離は、わきまえているにちがいない。」それから、感心したようにエイロヌイを見て、「そんなことはどうでもいい。やつらは行ってしまったんだ。それから、きみのあれ、生まれてこのかた、あんなすばらしい術は、見たことがないくらいだよ。ギディオンが、草の網をつくって、それから炎を出したのは見たけど、あんなふうにクモの巣がつくれる人を、見たことはないなあ。」
エイロヌイは、びっくりしてタランの顔を見た。ほほが、夕日の色より赤く染まっていた。「ねえ、カー・ダルベンのタラン、あなた、はじめて、わたしに対して、礼儀をこころえたもののいい方をしたわよ。」だが、すぐ、つんと上を向いて、鼻をひくひくさせたかと思うと、「そうだわ、ひっかかるところだった。問題はクモの巣ね。あなたは、クモの巣のほうをいってたのね。このわたしの身の危険なんか、どっちでもよかったのよ。」そして、つんつんしたまま、大またに歩いて、ガーギとメリンガーの方へ行ってしまった。
「いや、そりゃちがう。」と、タランは大きな声でいった。「ぼくは――ぼくはね……」だが、もう、エイロヌイの耳にはとどかなかった。タランは、しおしおと、あとからついて行った。そして、「ぼくには、あの子がなにを考えてるのだか、わかりませんよ。」と、吟遊詩人にいった。「あなた、わかりますか?」
「気にしなさんな。」と、フルダーがいった。「向こうも、ほんとうは、こっちにわかるとは思っていないのさ。」
その夜、タランたちは、やはり交替で夜の見張りをした。だが、不死身が姿を消して以来、みんな、だいぶ気が軽くなっていた。タランは、夜明け前の最後の見張りだったが、エイロヌイの時間がおわるだいぶ前に目をさました。
「きみ、ねむったほうがいいよ。」と、タランはエイロヌイにいった。「あとは、ぼくが見張るから。」
「わたしは、自分の役目ぐらい、ちゃんとやれます。」と、エイロヌイはいった。午後から今まで、ずっと、タランに対してつんつんしているのだった。
タランは、いいかえさないほうがよいことを知っていた。そこで、自分の弓と矢筒を拾いあげ、黒いカシの幹のそばに立って、月の光で銀色に輝く草原を見わたした。すぐそばで、フルダーが、気持ちよさそうにいびきをかいていた。足のけがが少しもよくならないガーギは、寝苦しそうに動いて、ふんふん鼻を鳴らしていた。
「ねえ、きみ、」タランは、こまったようにおずおずと口をきった。「あのクモの巣だけど……」
「あのことなら、もうなにもききたくないわ。」と、エイロヌイはいいかえした。
「ちがうんだ――ぼくがいおうとしてたのは。ぼくは、ほんとうに、きみのことを心配してたんだよ。しかし、クモの巣であんまりおどろいてしまって、いうのをわすれてしまったんだ。きみが不死身に立ち向かったのは、勇敢だった。それがいいたかっただけさ。」
「それだけいうのに、ずいぶん手間がかかったわね。」エイロヌイは、満足そうにいった。
「でも、豚飼育補佐って、思ったよりのんびり屋なんだと思うわ。たぶん、仕事の性質から、そうなってしまうんでしょうね。誤解しないでね。その仕事、とてもだいじだと思うわ。ただ、手早さってことが、あまり必要ない仕事なのよ。」
「最初のうち、」と、タランは話しつづけた。「ぼくは、ひとりでだって、カー・ダスルに行きつけると考えていた。今は、助けがなかったら、ここまでだって、来られなかったってことがわかったよ。こんな勇敢な仲間ができたのは、まったく幸運だった。」
「ほら、またいった。」と、エイロヌイがさけぶようにいった。ひじょうに強い調子だったので、フルダーのいびきが、つっかえてしまった。「あなた、そんなことしか頭にないのね! だれかが手伝って、あなたの槍や剣やなにかをはこべばいいのよ。だれだっていいのよ。それで、あなたは満足するのよ。カー・ダルベンのタラン、わたし、もうあなたと口をきかない。」
「うちにいたときは、」と、タランはいったが――ひとりごとになってしまった。エイロヌイが、もう、マントを頭からかぶって、ねむったふりをしていたからだ。「なにも事件なんかなかった。ところが今は、事件ばかりだ。しかし、どうも、ぼくは、事件をうまくさばいていないようだなあ。」タランは、ため息を一つつくと、弓のしたくをして、見張りの役についた。夜明けには、まだ間があった。
翌朝、タランは、ガーギの足が、さらに悪化しているのを知った。そこで、コルが薬草の性質を教えてくれてよかったと思いながら、野営の場所をはなれて、薬草さがしのため、森にはいりこんだ。薬草を見つけたタランは、湿布薬をつくって、ガーギの足にあててやった。
その間、フルダーは、短剣を使って、新しい地図をかきはじめた。フルダーは説明した。あの不死身のために、われわれはイストラド渓谷深く追いこまれてしまった。はじめの道にもどるには、少なくとも、つらい旅を二日つづけなくてはならない。「ここまで来てしまったからには、」と、フルダーは説明をつづけた。「イストラドをわたって山沿いに進んだほうがよい。角の王に見つからないように、間をとってだが。カー・ダスルまで、あとわずか数日だ。速く進めば、どうやら間にあうだろう。」
タランは、この新しい案に賛成した。この案が、前の案より困難なことはわかっていた。しかし、みんなで武器を分けて持ってさえいれば、メリンガーも、不運なガーギをはこんで行けると判断した。エイロヌイは、タランと口をきかないといったことをわすれて、また歩くといいはった。
一日歩くと、一行は、イストラド川のつつみに出た。
タランは、用心深く、こっそりとつつみのへりまで行ってみた。すると、幅広い谷間を土ぼこりが移動しているのが見えた。急いでひきかえして、このことをフルダーに伝えると、吟遊詩人は、タランの肩をたたいていった。
「わしらのほうが先に進んでいるぞ! すばらしい知らせだ。かれらがすぐ近くにいるだろうから、イストラド川をわたるのは、夜になるまで待たねばならんと思っていたのだ。半日もうかったぞ! さ、急ごう。そうすれば、日が沈まないうちに、ワシ山脈のふもとにはいりこめる!」
フルダーは、だいじなたて琴を頭上にかざして、勢いよく川にはいった。ほかのものも、あとにつづいた。イストラド川も、そこは浅くて、せいぜいエイロヌイの腰ほどしかなかったから、一行は、なんなくわたってしまった。それでも、あがったときには、びしょびしょで、からだもつめたくなっていた。夕日は、着物をかわかしも、からだをあたためてもくれなかった。イストラド川をわたりきった一行は、谷の斜面をよじのぼったが、これほど勾配が急で岩ばかりの所ははじめてだった。これは、ただの想像だったかもしれないが、渦巻き城のまわりの土地にいたとき、タランは、大気が重くて、おさえつけられるような感じがしていた。ところが、ワシ山脈に近づいて、松のぴりりとかわいたにおいを胸にすいこむと、からだが、すっと軽くなったように思えた。
タランは、一晩じゅう進みつづける予定でいた。だが、ガーギの傷が悪化したため、しかたなく、休めの命令をだした。薬草で湿布をしたのだが、足はひどい炎症をおこし、ガーギは、熱のためにがたがたふるえていた。やせてあわれげに見えた。むしゃむしゃ、もぐもぐをすすめても、少しも元気にならなかった。メリンガーまでが、心配していた。白い牝馬は、目をなかばとじて、かわいたくちびるをかたく結んでいるガーギを、鼻づらでそっとなで、低くいなないて、心配そうに息をふうと吐いた。できるだけのことをして、なぐさめようとしていたのだろう。
タランは、思いきって、小さなたき火をたいた。それから、フルダーに手をかしてもらい、ガーギを火のそばに寝かせてやった。エイロヌイが、苦しんでいるガーギの頭を持ちあげるようにして、革の水筒の水を飲ませている間に、タランと吟遊詩人は、そこから少しはなれ、ふたりだけで、小声で話しあった。
「ぼくの知っている手はつくしてみました。これ以上の治療はぼくの腕ではできません。」タランは、悲しげに首を横にふった。「きょう一日で、ひどく衰弱してしまい、ぼくの片手でも、持ちあげられるくらい、やせてしまいましたよ。」
「カー・ダスルは、もう遠くない。」と、フルダーはいった。「しかし、わが友は、生きてあそこが見られないのではないかな。」 その夜、たき火のあかりがとどかない暗闇で、オオカミがほえていた。
翌日は、一日じゅう、オオカミがあとをつけてきた。音をたてずにつけてきたが、ときどき、合図しあうようにほえていた。オオカミたちは、いつも、矢のとどかないところにいた。しかし、タランは、やせた灰色のものが、生い茂るやぶかげを、さっと動いてはきえるのを、ときどき目撃した。
「これ以上近よってこないかぎり」と、タランは吟遊詩人にいった。「オオカミは心配しなくていいですね。」
「あの連中は、攻撃をしかけちゃこないよ。」と、フルダーは答えた。「とにかく、今のところはね。けが人がいると知ったら、それはもう、腹だたしいほどしんぼうつよいんだ。」そして、心配そうにガーギをちらりと見て、「やつらにとっては、これは、待つだけのことなのさ。」
あなたって陽気なたちなのね。」と、エイロヌイが口をはさんだ。「あなたの話をきいていると、このまま待っていればオオカミが食べてくれるみたいにきこえるわ。」
「攻撃してきたら、追いはらおう。」と、タランがおちついていった。「ガーギは、ぼくたちのためなら、よろこんで命をすてようとしている。ぼくたちも、そうしなくちゃならないんだ。目的地まであと少しなんだから、なにより、元気をなくしちゃいけない。」
「フラムのものは、けっして元気など失わんわ」と、吟遊詩人がさけんだ。「オオカミでもなんでも、来い!」
だが、灰色のけものたちの姿が、ずっとあとをつけてくるので、一行はすっかり不安になってしまった。今まで、おとなしくて、いうことをよくきいたメリンガーまでが、手におえなくなってきた。ひっぱろうとするたびに、金色のたてがみをふりみだして、目をぎょろぎょろと動かすのだった。
まずいことは重なるもので、フルダーが、山中を進んでいては、おそすぎると、いいだした。
「これ以上東に向かうと、」と、吟遊詩人はいった。「ほんとうの高山にはいりこんでしまう。今のわしらの状態では、とてもそこは越えられない。しかし、ここは、四方を山で囲まれているようなものだ。どの道を進んでも結局は遠まわりだったのさ。あのがけは、」吟遊詩人は、左手にぬっとつっ立つ岩塊を指さした。「けわしすぎりておりられない。わしは、ここまで来てしまわないうちに、道が見つかるだろうと思っていた。しかし、ついにみつからなかった。できるだけ、北に向かいつづけるより、しかたがないな。」
「オオカミは、なんなく道を見つけているようだわ。」と、エイロヌイがいった。
「おじょうさん、」吟遊詩人は、いささか腹だたしげにいいかえした。「わしだとて、四本の足で走り、一キロはなれた所にあるごちそうのにおいがかげたら、きっとなんの苦労もなく、道が見つかると思う。」
エイロヌイは、くすくすわらっていった。「ぜひ、やってみてもらいたいわ。」
「ここには、すでに四本足で走れるものがいるじゃないか。」ふいにタランがいった。「メリンガーさ! カー・ダスルへの道が見つかるとしたら、メリンガーだよ。」
吟遊詩人は、ぱちりと指をならしてさけんだ。「それだ! 馬というものは帰り道を知っている! やってみるだけのことはある――今以上の窮地に立たされることはありえないからな。」
「豚飼育補佐にしては、」エイロヌイが、タランにいった。「あなた、ときどき、おもしろいことを思いつくわね。」
一行がまた進みはじめると、タランは、たづなをはなして、メリンガーを自由にしてやった。白馬、なかば意識を失ったガーギを鞍に乗せて、自信ありげに、先頭をとことこかけだした。
午後も、なかばをすぎたころ、メリンガーは一本の道を見つけだした。フルダーが、このわたしでも見のがしていただろうといったほどの道だった。それ以後、メリンガーは、高い山々の尾根をめざして、岩にはさまれたせまい道を、先に立ってぐんぐん進んだ。みんな、おくれずについて行くのがやっとだった。白馬が、細長いせまい谷に走りこんだとき、タランは、一瞬その姿を見失った。そこであわてて追いかけると、白馬が、つき出た白い石をくるっと曲がって、姿をけすのが、ちらりと見えた。
タランは、吟遊詩人とエイロヌイに、早く来いとさけんで、そのまま走った。だが、ふいに足が動かなくなった。左手の、高い岩だなに、金色の目をぎらぎらさせ、まっかな舌を出した、一ぴきの巨大なオオカミが、うずくまっていた。タランが剣を抜く間もなく、やせたオオカミが、岩からとんだ。
13 かくれ谷
毛むくじゃらの、どっしりしたからだが、タランの胸にどしんとあたって、タランをたおした。タランが、たおれながらも、ちらりと目をくばると、吟遊詩人のフルダーも、もう一ぴきのオオカミのために、地面におさえつけられていた。エイロヌイは、三びきめのオオカミがとびかかろうとするのを見すえながら、じっと立っていた。
タランは、すばやく、剣に手をかけた。灰色のオオカミが、その腕にかみついた。だが、オオカミは、タランを、小ゆるぎもできないように、おさえているだけで、歯を肉にくいこませはしなかった。
突然、谷の向こう端に、ゆったりした服をまとった、大きな男が姿をあらわした。男の後ろに、メリンガーがいた。男は、片手をあげて、なにか命令した。タランをおさえていたオオカミは、すぐに、犬のように従順に、かみついていたあごをゆるめて、ひきさがった。男は、よろよろと立ちあがったタランのほうへ、大またに近づいてきた。
「命を助けていただきました。」と、タランはすぐにいった。「ありがとうございます。」
男が、またオオカミになにかいうと、オオカミたちは、あまえるような鼻を鳴らし、しっぽをふりながら、男のまわりに集まった。男は、肩幅がひろく、腕などがふしくれだっていた。活力にあふれた、がっしりした老木を思わせる、ふしぎな感じの人物だった。白髪は肩から背にたれさがり、白いひげは、腰にとどいていた。ひたいには、青い宝石を一つかざった細い金の輪が見えた。
「この動物たちは、」男は、きびしくて重々しいけれど、あたたか味のある声でいった。「おまえたちの命をとるようなことはせぬ。だが、ここから立ち去らねばならんぞ。ここは人間のすみかではない。」
「道に迷ってはいりこんだのです。」と、タランはいった。「わたしたちは、馬のあとについて来て……」
「メリンガーのことかな?」男は、するどい灰色の目で、タランをじっと見た。男の目は、もじゃもじゃの眉毛の奥で、谷間の霜のように、きらりと光って見えた。「メリンガーが、おまえたち四人を、ここにつれてきたのか? ガーギのこぞうは、たったひとりでくらしておったと思うが。すると、これは、どうしても、おまえたち四人は、メリンガーの友人ということになる。あれは、たしかメリンガーであろう? どうも、母親とそっくりなものでな。それに、あまり、いろいろなものがいるので、ときどき名まえが思い出せなくなってしまう。」
「あなたがだれだか、わかりました。」と、タランはいった。「メドウィンでしょう!」
「わしかな?」男は、顔に深いしわをよせて、にっこりわらった。「うむ。以前はメドウィンとよばれておった。だが、おまえは、どうしてそれを知っておるのかな?」
「わたしは、カー・ダルベンのタランです。ドンの王子ギディオンが友人なので、かれからききました――かれが死ぬ前に。ギディオンは、カー・ダスルに向かっていたのです。今のわたしたちと同じように。あなたに出会えるなんて、考えてもみませんでした。」
「うむ、ほんとうにな。」と、メドウィンは答えた。「おまえには、このわしが見つからなかったはずなのだ。この谷を知っているのは、動物だけなのだ。メリンガーがここまで道案内をしてくれたのだ。タラン、といったな? カー・ダルベンのな?」メドウィンは、大きな手をひたいにあてて考えた。「待て、待て、うむ、そうじゃ。たしか、カー・ダルベンからのお客さんが来ておる。」
タランは、胸をおどらせてさけんだ。「ヘン・ウェン!」
メドウィンは、面くらった顔でタランを見た。「おまえは、ヘン・ウェンをさがしていたのか? はて、それはおかしい。いや、彼女は、ここにはいない。」
「でも、わたしは、ここにいるとばかり……」
「ヘン・ウェンの話はあとにしよう。ほら、友人がひどいけがをしているではないか。おいで。できるだけの手当てをしてみよう。」メドウィンは、みんなに向かってついてくるようにと身ぶりで合図した。
オオカミたちは、タラン、エイロヌイ、吟遊詩人の後ろから、ひたひたと音もなくついて来た。メリンガーが待っている谷の端につくと、メドウィンは、まるでリスくらいの軽いものでも持ちあげるように、鞍からガーギをだきおろした。メドウィンにだかれたガーギは、うめき声一つたてなかった。
一行は細道をくだった。メドウィンは、大木が動いてでもいるように、どっしりとした大またで、ゆうゆうと歩いていた。この老人ははだしだったが、とがった石も砂利も平気だった。細道は、だしぬけに曲がり、もういちど曲がった。メドウィンは、岩がむきだしになったがけの肩の切れめを抜けた。そこを抜けたとたん、目の前に、さんさんと日光がふりそそぐ、みどりの谷間があらわれた。ぜったいにのりこえられないほど、けわしい山々が、谷間をぐるりと囲んでいた。さすような風も吹かず、大気がなごやかだった。草が、みずみずしく生い茂っていた。大きなツガの木立ちのあちこちに、カー・ダルベンを思わせる低い白い家々が立っていた。家々を見たとたん、タランは郷愁に胸をしめつけられた。家々の後ろの斜面には、一見コケむした木の幹らしいものがならんでいたが、よく見ると、それらは、雨風にさらされた、バイキングの船の梁らしかった。タランはびっくりしてしまった。その船は、ほとんど土におおわれていたが、その土から草や花がはえ茂って、さらにおおわれてしまい、すでに山の一部になりきっていた。
「あの老人は、じつにうまく、ここにかくれておるな。」と、フルダーが小声でいった。
「わしには、ぜったいに入口が見つからなかっただろうし、出口もはたして見つかるかどうか。」
タランはうなずいた。これほど美しい谷は、今まで見たことがなかった。草原では、牛の群れがしずかに草をかんでいた。ツガの木立ち近くに、小さな湖が、空をうつして、青く白くきらめいていた。あざやかな色の冠毛をいただく鳥たちが、木々の間をとびかっていた。みどりこい芝生を歩いたとたん、タランは、からだのいたみとはげしいつかれが、急にうすらぐのを感じた。
「子ジカが、ほら!」エイロヌイが、うれしそうに声をあげた。
ならぶ小屋の後ろから、斑点のある足長の子ジカが一ぴき姿を見せ、空気のにおいをかいでいたが、ふいに、とことこメドウィンの方へかけて来た。この優雅なけものは、オオカミなど少しも気にせず、老人のかたわらで、たのしげにはねまわった。子ジカは、見知らぬ人間には、人見知りをして、しりごみしたが、やがて好奇心に負け、まもなく、エイロヌイの手に鼻づらをすりよせた。
「こんな近くで子ジカを見たの、はじめてよ。」と、エイロヌイはいった。「アクレンの所には、ペットなんかいなかったのよ。とにかく、あそこに住みつきたいペットなんかいなかったわ。それも、あたりまえ。この子ジカ、かわいいわ。なんだか、風に吹かれてるみたいに、からだじゅう、ぴりりっとした感じよ。これにさわると。」
メドウィンは、身ぶりで、待っているようにと伝えて、いちばん大きな小屋に、ガーギをはこびこんだ。オオカミたちはすわり立ちの姿勢をとって、旅人三人を横目で見ていた。タランが鞍をおろしてやると、メリンガーは、やわらかい草を食べはじめた。小じんまりした白いトリ小屋のまわりで、六羽ほどのニワトリたちが、鳴きながら、えさをついばんでいた。オンドリが首をもちあげると、切りこみのついたとさかが見えた。
「あっ、あれは、ダルベンのニワトリだ!」と、タランはさけんだ。「まちがいない! あの茶色のメンも、白いやつも――どこにいたって、あのとさかなら見分けがつくんだ。」そういって、タランは、ニワトリたちにこっこと鳴いてみせた。
ニワトリたちは、えさのほうに気をひかれていて、ほとんど見向きもしなかった。
メドウィンが、また入口に姿を見せた。手には、大きなあみかごを持っていて、その中には、つぼ入りの牛乳、チーズ、ハチの巣、平野部では、あと一月たたなければとれないくだものがはいっていた。「わしは、すぐに、おまえたちの友人の看病をする。」と、メドウィンはいった。「その間、どうか、おまえたちは――おお、そうか、そうか。では、気づいたのだね? それが、カー・ダルベンから来た客人たちじゃよ。どこかその辺に、蜜バチの群れもおるはずだ。」メドウィンは、ニワトリの所にいるタランを見てそうつけ加えた。
「みんな、にげてしまったんです。」と、タランがいった。「ヘン・ウェンと同じ日でした。」
「すると、ここへまっすぐに、やって来たらしいな。」と、メドウィンがいった。「ニワトリたちは、恐怖のため、動けないほどだったよ。それが、なにを意味するのか、わしには、さっぱりわからんのだが。うむ、おちつくことは、すぐにおちついたのだが、もちろん、そのときには、そもそも、なぜあそこをにげだしたか、わすてれおったな。おまえたちも知ってのとおり、ニワトリというやつ、世のおわりが来るぞとあわてた、つぎの瞬間には、もうえさをついばんでいるからのう。そのときが来れば、すぐに、とんでもどるじゃろう。だいじょうぶだ。ダルベンとコルの食べるたまごがとぎれるのは、気の毒じゃがなあ。
「さあ、中へおはいり。」と、メドウィンは、話をつづけた。「とりちらかしておるがな――朝食の席に熊がおったと申せば、どんな状態か、おわかりであろう。だから、なんのおかまいもできぬ。休むなら、牛小屋にわらがある。おまえたちにも、さほど寝ごこちがわるくはなかろうと思う。」
三人の旅人は、すぐに、メドウィンの出してくれたもので食事をすませ、牛小屋に行って寝じたくにかかった。天井の低い牛小屋は、ほし草のここちよいにおいでいっぱいだった。三人が、わらをかきわけて、寝場所をつくっていると、メドウィンの朝食の客のひとりが、まるくなって寝むっているのに出くわしてしまった。フルダーは、最初不安そうだったが、その熊が、吟遊詩人に対して食欲がないと、ようやく納得すると、まもなくいびきをかきはじめた。エイロヌイは、なにかいいかけて、いいおわらないうちに、ねむっていた。
タランは、少しもねむくなかった。メドウィンの谷が、一夜のねむり以上に、タランを元気にしていた。そこで、かれは、牛小屋を出て、野原をぶらついてみた。湖の向こう岸を見ると、カワウソたちがすべり台をこしらえ、水にすべり落ちては遊んでいた。タランが近づくと、ちょっと遊びをやめ、タランも仲間になれなくて気の毒だとでもいうように、頭をあげてタランを見ていたが、また、遊びをはじめた。一ぴきのさかなが、銀色のうろこをきらめかせて、水からとびあがった。波紋が広がり、やがて、しずかに岸辺にとどいた。
メドウィンは、小屋の後ろに花畑と野菜畑の両方をつくつていた。タランの心の中に、ダルベンの畑で、またコルといっしょにはたらきたいという気持ちが強くわきあがってきた。それに気づいてタランはがくぜんとした。今までの旅をふりかえり、これからの旅を思うと、カー・ダルベンであれほどばかにしていた仕事が、今は、きりもなくたのしいものに思えてくるのだった。
タランは、湖の岸に腰をおろし、湖の向こうの山々に目をやった。いただきにかかる夕日の光で、塚にうずもれかけたバイキングの船の残がいが、くっきりとうかびあがって見えた。だが、それをしらべるひまは、ほとんどなかった。メドウィンが、おちついた足どりで、野原を歩いて来たからだ。かたわらを、子ジカが、とことこ走り、後ろからは三びきのオオカミがついて来た。茶色のゆるやかな衣服をまとった白髪のメドウィンは、雲をいただく山のように、大きくどっしりと見えた。
「ガーギは、さっきよりらくになっている。」老人は、太く低い声でいった。子ジカは、湖の岸辺をはねまわりに行ってしまったが、老人はどっかりと腰をおろし、大きな頭をタランに向けて、やや前かがみになった。「ガーギはすっかりよくなる。もう心配はいらぬ。ここにいるかぎりはの話だが。」
「わたしは、長い間、ガーギのことを考えてきました。」タランは、老人の灰色の目をまっすぐに見ながらいった。そして、自分たちの旅の目的と、ガーギがけがをするまでの一連のできごとを説明した。メドウィンは、首をかしげ、じっと考えるようすで、耳をかたむけてくれた。タランは、ガーギが、他人を危地におとしいれるよりは、自分から犠牲になろうとしたことを物語った。「はじめのうち、わたしは、かれがあまりすきではありませんでした。」と、タランは正直にいった。「今は、いくら鼻を鳴らされても、ぐちられても、すきになってきました。」
「あらゆる生きものは、尊敬すべきものを持っておる。」メドウィンは、もじゃもじゃの眉をしかめていった。「いやしいものも、誇り高いものも、みにくいものも、美しいものも、みな同じだ。」
「ギセントにだけは、そういいたくありません、わたしは。」と、タランが答えた。
「わしは、あの不幸な生きものに、あわれを感じるだけじゃ。」と、メドウィンはいった。「はるかむかし、あのものたちも、ほかの鳥たち同様、のびのびと生きていた。やさしく、信頼がおけた。それを、アローンが悪知恵をはたらかせ、誘惑して手なずけ、支配下においてしまった。アローンは、アヌーブンに鉄の鳥かごをつくり、ギセントたちの牢獄とした。かれがギセントに与えた拷問は、筆舌につくしがたい恥ずべきものであった。ギセントたちは、今、恐怖のために、アローンにつかえているのだよ。
「そんな手段で、アローンめは、プリデインのあらゆる生きものを、堕落させようとしておる。人類も例外ではない。わしがこの谷にとどまっておるのも、一つにはそれがあるからじゃ。この谷間では、アローンも、生きものに危害を加えることができぬ。だが、もしかれがこの国の支配者となったあかつきには、生きもの全部を助けられることができぬ。それはうたがわしい。アローンの手に落ちたものは、即座に命を絶たれれば、幸運といわねばならん。」
タランはうなずいた。「わたしがドンの子孫たちに急を告げに行かねばならないわけが、ますますよくわかってきました。ガーギのことですが、かれは、ここにのこったほうが安全ではないでしょうか?」
「安全?」と、メドウィンがききかえした。「うむ、それはそうだな。だが、ここでガーギを見すてたら、心に深い傷を負わせることになる。かれの不幸は、今のところ、正体が定まらぬことじゃ。ガーギは、動物の知恵を失い、人間の知識を身につけておらぬ。それゆえ、両者ともに、かれをきらうのじゃ。だから、なにか目的のあることにたずさわるのは、かれにとっては、ひじょうにだいじなことなのじゃ。
「おまえの旅の足手まといになるとは思わぬ。おまえと、同じくらいには歩けるようになる――あすになれば、たやすいことじゃ。つれて行ってくれと、わしからたのむ。かれも、おまえにつかえるやり方を、みずからさがしだすであろう。必要なときには助力をこばまんでくれ。」と、メドウィンはつづけた。「また、かれの助力をもこばまぬようにな。グレイドールの息子ギシルが、びっこのアリから学んだことじゃ、これは。知っておるであろうが。」
「びっこのアリ?」タランは、首を横にふった。「アリについては、ダルベンがずい分いろいろ教えてくれました。しかし、びっこのアリの話は、なにもきいていません。」
「長い話だ。」と、メドウィンはいった。「くわしくきける折もあろう。今は、これだけ知っておけばよい。キルフウ、だったか、その父親だったか――うむ、息子のキルフウじゃ。よろしい。若いキルフウが美しいオルウェンに求婚したとき、その父イスパダゼンは、数かずのためしをした。当時、イスパダゼンは、巨人の長であった。その試験がどんなものであったかは、それらが、ほとんど不可能なものという以外、わしらの今の話にはかかわりがない。そして、キルフウも、仲間の助力がなかったら、果たしえなかったであろう。
「ためしの一つは、麻の種を九ブッシェル集めることであったが、国中さがしても、それほどの種はなかった。そこで、グレイドールの息子ギシルが、友のために、この仕事をひきうけることになった。ギシルは、どうしたらこの仕事がなしとげられるかを思案しながら、山を歩いていた。すると、アリ塚で、いとも悲しげな泣き声がきこえる。アリ塚のまわりが火事になり、アリたちの命があやうくなっていたのだ。ギシルは――うむ、たしかにギシルだった。記憶ちがいではない――剣を抜いて火をたたきけした。
「アリたちは、そのお礼に、野原をすっかりさがしつくし、ついに九ブッシェルの麻の種を集めてくれたのだ。だが、巨人の長は、こまかいいやな男でな、量が不足していると文句をつけた。種が一粒たりないから、暗くなるまでに、とどけてよこさなくてはいけないといったのじゃ。
「ギシルには、その一粒をどこで見つけたらよいか、かいもく見当もつかなかった。ところが、太陽が沈みはじめたちょうどそのとき、とうとう、一ぴきのびっこのアリが、重い荷をしょって、よたよたあらわれたのじゃ。それは、たった一粒の麻の種であった。そのおかげで、量がきっかりになったのじゃ。
「わしは、今日まで、人類というものを考えてきた。」メドウィンは、さらに話をつづけた。
「人間は、ひとりの場合は、まるで湖のアシのように、弱々しいことがわかった。たしかに、人間は、みずからを助けねばならぬものじゃ。だが、同様に、助けあうことも学ばねばならぬ。おまえたちは、みな、びっこのアリではないか?」
タランは無言だった。メドウィンは、片手を湖につっこんで、水をかきまわした。主らしいサケが、さざ波をたててうかびあがってきた。メドウィンは、並はずれて大きいそのさかなの、あごのあたりをなでてやった。
「ここは、どういう場所ですか?」タランはとうとう、おしころした声で質問してしまった。「あなたは、ほんとうにメドウィンですか? まるで一ごとのように、人類のことをお話しになるのですね。」
「ここは平和郷だ。」と、メドウィンがいった。「それゆえ、人間には、少なくとも、今はまだ、ふさわしくないのじゃ。人間にふさわしい場所となるまで、わしは、森や水の生きものたちのために、この谷を守りつづける。森や水の生きものたちは、命があやうくなっても、まだ力があれば、わしをたよってここに来る。苦しいとき、悲しいときにも、こへ来る。けだものも、悲しみ、恐怖、苦しみを味わうことを、おまえは信じないかな?」
「ダルベンが、」と、タランはいった。「教えてくれました。はるかむかし、黒い水の大洪水がプリデインをおおったとき、ネヴィト・ナヴ・ネイビオンが船を一隻つくり、あらゆる生きものを一つがいずつその船に乗せてはこんだそうです。水がひいたとき、その船も地にとどまったといいますが――だれもその場所を知りません。しかし、ぶじにまたこの世界にもどった動物たちは、その場所をおぼえていて、子孫たちもけっしてわすれていないということです。そして、ここには、」といって、タランは塚の斜面を指さした。「水面よりはるか高いところに船があります。ギディオンは、あなたをメドウィンとよびました。しかし、あなたは……」
「わしは、メドウィンじゃ。」と、白いひげの老人は答えた。「おまえには、その名でよい。今、そんなことはだいじではない。わしは、ヘン・ウェンのことを心配している。」
「では、ヘン・ウェンを、一度もごらんになっていないのですか?」
メドウィンは、首を横にふった。「ギディオン卿のいわれた言葉は正しい。ヘン・ウェンは、プリデインのどこよりも、ここへ――命の危険に感づけば、なおさら、ここへまず来たはずである。だが、影も見せず、うわさもまったくきいておらぬ。だが、いずれ、ここにたどりつくであろう……」
タランは、心中ぞっとして、「殺されていなかったら。」とつぶやいた。「そんなことがおこったと思いますか?」
「わしにはわからん。」と、メドウィンは答えた。「だが、そうかもれしぬとは思う。」
14 黒い湖
その夜、メドウィンは、旅人たちのための宴会を準備してくれた。朝食の熊の食べちらかしは、すっかり片づけられていた。小屋は、カー・ダルベンの小屋より小さいが、居ごこちよく整とんされていた。メドウィンが、人間の客をもてなすことには、ほんとうになれていないことが、タランにはわかった。テーブルは、タランたち全員がならんですわるには、長さがたりなかった。そして、いすは、ベンチや乳しぼり用のこしかけで間にあわせなくてはならなかった。
メドウィンは、テーブルの片端に席をとった。子ジカはもうねむってしまって、いなかったが、オオカミたちは、かれの足もとにうずくまって、うれしそうな顔をしていた。そして、かれのいすの背もたせには、金色の冠毛のあるひじょうに大きなワシが一羽とまっていて、一瞬のゆだんもなく、目を光らせていた。フルダーは、今になっても動物や鳥をこわがっていたが、そのために食欲がなくなりはしなかった。三人分ほど食べて、少しも満腹した様子を見せなかった。ところが、フルダーがシカ肉のおかわりをいただきたいというと、メドウィンは、長い間くすくすわらってから、それは肉ではなく、かれが特別に料理した野菜だといって、フルダーをびっくりさせた。
「もちろん、野菜よ。」と、エイロヌイが詩人にいった。「この方がお客を料理するなんて、あなただって思わないでしょう? それじゃ、まるで、人を食事によんでおいて、その人を焼いて食べるみたいなものよ。あなたって、ほんとうに、豚飼育補佐と同じくらい、頭がにぶいわね。どっちも、すじの通った考え方をしないわ。」
タランは、食事も休息の機会も、とてもうれしく思ったが、食事ちゅう、ずっと口をきかず、わらの寝床にひきとってからも、じっとだまりこくっていた。ここへ来るまで、タランは、ヘン・ウェンが死んだかもしれないなどとは思ってもみなかった。メドウィンと、そのことについて、もう一度話してみたが、老人も、だいじょうぶ生きているとはいってくれなかった。
目がさえてしまったタランは、牛小屋を出て、夜空を見あげた。大気が澄んでいるので、星星は、見たことがないほど近く、青白く輝いていた。タランは、ヘン・ウェンをわすれて、ほかのことを考えようとした。カー・ダスルにたどりつくことが、タランに課された義務であり、それだけでも、ほんとうにむずかしいことなのだった。一羽のフクロウが、音もなく頭上をとんだ。影が、音もなく近づいてかたわらに立った。メドウィンだった。
「ねむれないのかな?」と、メドウィンはきいた。「夜休まずに、旅立ちしてはいかんな。」
「これは、早くおわらせたい旅なのです。」と、タランはいった。「ときどき、もう二度とカー・ダルベンを見ることはできないだろうと思うのです。」
「人間は、その旅のおわりを、あらかじめ知る力を、与えられていない。」と、メドウィンは答えた。「おまえが、愛してやまぬ地にもどれぬことも、あるかもしれぬ。だが、今ここに、せねばならぬ仕事があるなら、そんなことは問題ではなかろう。」
「こんなことを考えているのです。」と、タランはあこがれるようにいった。「ふたび故郷へ帰れないことがわかっているのなら、この谷にとどまったら、しあわせだろうと。」
「おまえの心は、若くて、かたまってはおらぬ。」と、メドウィンはいった。「だが、わしの見通しにあやまりがなければ、よろこんでここに迎えたい、数少ない人間のひとりじゃよ。ほんとうに、それを望むなら、ここにとどまってもよいぞ。義務のほうは、友人たちにまかせてだいじょうぶふだと思う。」
「いいえ、」タランは、長い間答えなかったが、やがてそういった。「わたしは、みずから、この義務を背おったのです。」
「そうであるなら、」と、メドウィンが答えた。「みずから、それをあきらめることができるわけだ。」
谷じゅうが、タランに向かってここに残れとうったえているように思えた。ツガの木たちは、ここには憩いと平和があると、ささやいていた。湖は、深い所までうす明るくてらす日の光のことや、たわむれ遊ぶカワウソたちのよろこびを、語りかけていた。タランは、顔をそむけた。
「いいえ、」と、タランは急いでいった。「わたしは、もうずっと前に、心をきめてしまったのです。」
「では、」と、メドウィンはしずかな声でいった。「そのとおりにするがよい。」そして、タランのひたいに片手をあてていった。「おまえが望むだけのことは、ききとどけてつかわそう。それは、一夜の休息じゃ。ぐっすりとねむりなさい。」
タランは、どうやって牛小屋にもどってねむりこんだか、全然おぼえていなかったが、朝日で目をさましたときには、すっかり元気を回復していた。エイロヌイと吟遊詩人は、すでに朝食をすませていた。ガーギがいっしょにいるのを見て、タランはよろこんだ。タランが近よると、ガーギはよろこびのさけびをあげ、うれしそうにとんぼがえりを一つしてみせた。
「ああ、うれしい!」と、ガーギはさけんだ。「ガーギ、いつでも歩いたり、しのび歩きしたりできる。まちがいない! 立ちぎきもできる! えらい殿さま方、幸福で気分いいガーギに、親切してくだされた!」
メドウィンは、この生きものの足を治療してくれたばかりか、風呂に入れて毛まですいてくれた。今までにくらべたら、ガーギのからだにくっついた枝や葉は、ずっと少なくなっていた。それだけでなく、メリンガーに鞍をつけたとき、鞍袋に、食糧と、全員にいきわたるあたたかいマントがはいっていることもわかった。
老人は、タランたちをよびよせると、地面に腰をおろしていった。「角の王の軍勢は、すでに、一日分の道のりは、先に行っておるであろう。だが、これから教える間道を急げば、失った時間のうめあわせはできる。一日か、二日早く、カー・ダスルにたどりつくことができる。だが、いっておくが、山道はきつい。のぞむなら、もういちどイストラドの谷へ出る道に案内してもよい。」
「その場合、わたしたちは、角の王のあとをつけることになります。」と、タランがいった。「かれらを追い抜くチャンスが少なくなりますし、危険も大きくなります。」
「山ごえが危険でないと思ってはならんぞ。」と、メドウィンはいった。「種類はちがうが危険はある。」
「フラムの家の者は、危険をのりこえて栄える!」と、吟遊詩人がさけんだ。「山であれ、角の王であれ、わしはおそれはせぬ――いや、さしておそれぬ。詩人は、あわてて、そうつけ加えた。
「わたしたちは、山道に賭けてみます。」と、タランがいった。
「今度だけは、」と、エイロヌイが口をはさんだ。「あなたも正しい決断をくだしたわ。どんなに危険でも、山なら、わたしたちに槍を投げやしないわ。あなた、ほんとうによくなってきたわよ。」
「しかし、よくききなさい。」と、メドウィンが命じた。メドウィンは、話しながら、目の前のやわらかい土を使って、たくみに、小さな山の模型をつくってみせた。それは、フルダーが土の上にかく地図より、ずっとわかりやすかった。話がおわり、旅人たちの持ちものや武器が、メリンガーの背に、うまくくくりつけられてしまうと、メドウィンは先に立って、谷から外にみんなをつれ出してくれた。タランは、一歩一歩、その道をよく見て進んだが、老人と別れたとたん、谷へはもどれなくなることがわかった。
しばらくすると、メドウィンは立ちどまっていった。「ここから、道は、北にむかっている。ここで分かれよう。さて、カー・ダルベンのタランよ。おまえの決断が賢明であったかどうか、それは、やがて心のうちから答えが生まれよう。おそらく、また会えるであろうから、そしたら、きかせておくれ。では、また、会う日まで。」
タランが礼をいおうとしてふりかえったとき、白いひげの老人の姿は、もう山にでも呑みこまれたようにきえていた。旅人たちは、岩ばかりで、風の吹きぬける台地にとりのこされたのだった。
「ふむ。」と、フルダーが、背中のたて琴をゆすりあげながらいった。「これからオオカミに会っても、わしらがメドウィンの友人だとわかってくれると思うね。」
一日目の旅は、タランが思ったほどたいへんではなかった。今度の旅は、タランが先頭に立った。吟遊詩人が――何本もたて琴の弦を切ってしまったあとで――メドウィンの指示をあまりよく記憶していないことを、みとめたからだった。
四人は、太陽が傾きだしてからずっとあとまで、着々とのぼりつづけた。地面は、ごつごつでこぼこしていたが、メドウィンの教えてくれた道は、はっきりとたどることができた。つめたく澄みきった渓流が、銀色にきらめく、くねったすじをえがいて、おどるように山腹をくだり、はるか下の渓谷地帯にきえていた。大気はすがすがしかったが、ひえびえしていたので、みんなは、メドウィンがくれたマントをありがたく思った。
風が吹きこまない、長いわれめにはいったところで、タランはとまれの合図をした。その日のうちに、おどろくほど進み、予定の道のりをはるかにこえたので、夜までむりやり進んでつかれても意味がないと思ったのだ。四人は、高地にはえるいじけた木にメリンガーをつなぎ、そこで野営をすることにした。もはや不死身たちの脅威はなかったし、角の王の軍は、はるか下の、それも西のほうを進んでいるので、タランも、たき火をしてだいじょうぶと考えた。メドウィンのくれた食糧は、料理の必要がなかったが、炎のおかげでからだがあたたまり、みんな元気づいた。
山頂が落とす影であたりが暗くなると、エイロヌイが金のまりを光らせて、断層面を見せている岩のわれめにはめこんだ。一日の旅の間、うめき声一つ、うなり声一つたてなかったガーギは、岩の上にちょこんとすわると、景気よくからだをぼりぼりかきだした。だが、メドウィンに洗って毛をすいてもらったばかりなので、それはただ、くせだからしているにすぎなかった。あれほど食べたのに、あいかわらずやせている吟遊詩人は、たて琴の弦をなおしていた。
「はじめて会ってから今まで、あなたは、ずっと、そのたて琴をはなさないけれど。」と、エイロヌイがいった。「まだ演奏したことがないわね。そんなの、話をきかせたいと申し出て、相手が、さあ、どうぞというと、なんにもいわなくなるみたいなものよ。」
「あの不死身共があとを追っているとき、わしが、がちゃがちゃ、たて琴を鳴らすなどとは、あなたも、まあ思うまい。」と、フルダーはいった。「なぜか、そうしてはいけないと、わしは思っていた。だが――フラムの者はつねに親切である。だから、あなたが、ほんとうにききたいと思うなら――」フルダーは、まごつきながらも、うれしそうな顔つきで、そうつけ加えた。そして、片手でたて琴をだいた。指が弦にふれたかと思うと、たて琴のえがく曲線のように、美しく、やさしいメロディが、歌詞のない歌をうたうように流れ出た。
そのメロディには、高まる音の中を自在に流れる言葉があると、タランは思った。それは、故郷よ、故郷よ、とうたっていた。そしてその言葉の中から、たちまちきえ去るので、さだかではないが、カー・ダルベンの畑や果樹園や、黄金色に輝く秋の午後や、雪がうすもも色にそまり、ぴりりとさむい冬の朝などが、あらわれるように思えた。
やがて、たて琴の音はやんだ。フルダーは、細長い顔に奇妙な表情をうかべて、弦にくっつくほど頭をたれていた。「いや、おどろいた。」吟遊詩人は、しばらくしてからいった。「わたしは、もうすこし陽気なもの、ほら、わしの国の武将がいつもよろこんできくようなものをかなでようと思っていたんだよ。わしらの心が雄々しくなるようにな。じつをいうと、」詩人は、いささか気落ちした声で正直にいった。「つぎには、どんな曲がひけるのか、わし自身わからんのだよ。わしは指を動かすのだが、たて琴のほうがかってに鳴るのではないかと、ときどき思うのだ。
「たぶん、」と、フルダーは、話をつづけた。「タリエシンが、恩恵をほどこすつもりでこれをくれたわけも、そこにあるのだろう。というのは、試験を受けようと詩人会議に出ていったとき、わしが持っていたのは、ある吟遊詩人がのこしていってくれた古いやつで、ニ、三の歌しかひけなかったのだ。だが、フラム家の者は、おくりものの馬の、歯をしらべるようなまねはしない。いや、この場合は、たて琴だがね。」
「悲しいしらべだったわ。」と、エイロヌイがいった。「でも、奇妙なのは、その悲しさがいやなものと思えないことよ。たっぷり泣いたあと、気分がよくなるのに似てるのよ。わたし、海のことを思い出してしまったわ。ごく小さかったとき離れて、今までずっと行ったこともないのに。」それをきくと、タランは、ふんと、ばかにしたが、エイロヌイは無視した。「波が、絶壁にあたって、くだけて、あわ立つの。その向こうは、目のとどくかぎり、白い波頭なの。それは、リールの白馬とよばれているのだけれど、じっさいは、さかまきよせる順番を待つ波にすぎないのよ。」
「ふしぎだな。」と、吟遊詩人はいった。「わしは、ひそかに、自分の城のことを考えていた。小さくて、すき間風がはいりこむ城ではあるが、もう一度見たいものだ。つまり、放浪にあきることもあるんだよ。わしは、また腰をおちつけて、尊敬される王になろう、つとめればなれるだろうという気持ちにさえなったよ。」
「ぼくは、カー・ダルベンが、いっそうだいじな所になった。」と、タランがいった。「出て来たときには、たいしてだいじども思っていなかったけれど、今は、こよないものと思っている。」
ガーギは、今までだまってきいていたが、おうおうと、長くひっぱる泣き声をあげた。「そうです、そうです、おえらい戦士たちは、すぐに、お館に帰って、笑いさわぎながら、みやげ話をなさる。あわれなガーギは、また、こわい森にもどって、傷つきやすい頭をかかえて、ぐすぐす、ぐうぐう、ねむらなくてはならない。」
「おい、ガーギ。」と、タランがいった。「もしもどれるときがきたら、おまえもカー・ダルベンへつれて行ってやるよ。ダルベンが承知してくれて、おまえが気に入れば、いつまでいてもいい。」
「なんたるよろこび!」と、ガーギは大声をあげた。「正直ではたらきもののガーギは、感謝の意を表しますぞ。もちろん、なさけ深く、従順なガーギは、いっしょうけんめいはたらきます、そして……」
「従順なガーギなら、今は、ねむったほうがいい。」と、タランはさとした。「ぼくらもねむる。メドウィンのおかげで、道がはかどった。もう、あまり遠くないはずだ。夜明けに出発しよう。」
だが、夜のあいだに強い風が吹きだし、夜明けには、どしゃぶりの雨が、かれらの寝ていた岩のわれめにふりこんできた。風は、おさまるどころか、ますます強くなり、岩山の上で金切り声をあげた。旅人たちの避難所に、まるでげんこつでなぐるようにぶつかってきて、つかまえて谷に落としてやるといわんばかりに、さけめの中にまで吹きこんできた。
それでも、タランたちは、マントで顔をおおうようにして出発した。さらにこまったことに、道がすっかりなくなり、前方に、ぼんやりと、絶壁が迫ってきた。旅人をびしょぬれにしてから、雨はやんだが、岩はすべりやすく、危険このうえもなかった。足どりのたしかなメリンガーすら、一度つまずいた。タランは、一瞬、もうだめかと思って息をのんだ。
今にもふりだしそうな雨雲の下に、陰気でまっ黒な湖が見えた。山々が、半円型にまわりを囲んでいた。タランは、つき出た岩の上で立ちどまり、湖の向こう側の山々を指さした。
「メドウィンの話では、」と、タランは吟遊詩人にいった。「あそこに見えるさけめに向かうことになっています。あそこまで行くんです。しかし、ほぼまっすぐにつっきれる道があるのに、山々をこえるなんて、意味がないと思うんです。ここは、ほんとうに、もうよじのぼれないくらいけわしくなってきましたが、反対に、湖の岸は、少なくとも平らですからね。」
フルダーは、とがった鼻をなでながらいった。「くだってまたのぼる時間を考えてみても、数時間の節約になると思えるな。うむ、やってみるだけのことはあると信じるね、わしは。」
「メドウィンは、谷間を横切れなんて、一言もいわなかったわ。」と、エイロヌイが口をはさんだ。
「こんな絶壁のことも、なにもいわなかった。」と、タランがいいかえした。「こんながけなんか、かれにはなんでもないんだよ。ここに長い間住んでいるからさ。われわれにとっては、それだけ、ますますたいへんなものに感じられるんだ。」
「人の教えをきかないのは、」と、エイロヌイが思ったとおりをいった。「耳をふさいで井戸にとびおりるようなものよ。旅などめったにしたことのない、豚飼育補佐にしては、あなた、急に旅なれたようね。」
「地下の墓からの出口を見つけたのは、だれだと思うんだ?」と、タランはいいかえした。「これは、もうきまったことだ。われわれは、谷間を横切る。」
くだりはつらかった。しかし、平地にたどりついたとき、時間の節約ができるというタランの確信はさらに強まった。タランは、メリンガーのたづなをとって、一行の先頭に立ち、せまい岸辺を進んだ。湖は、山すそがすぐそばまで迫っているので、浅いところをじゃぶじゃぶ通らなくてはならなかった。湖水が黒いのは、空をうつしているからでないことに、タランは気づいた。水そのものが、どんよりと黒く、鉄のように、つめたく重く見えた。谷底も、岩山同様ゆだんがならなかった。気をつけていたにもかかわらず、タランはよろめいてあやうく水の中にたおれそうになった。みんなに注意してやろうとふりかえると、おどろいたことに、ガーギは、すでに腰まで水につかり、湖のまん中に立っていた。フルダーもエイロヌイも、水をはねかえしながら、どんどん岸から遠ざかっていく。
「湖を通っちゃだめだ。」と、タランはさけんだ。「岸にいるんだ。」
「そうしたいんだ。」と、吟遊詩人がどなりかえした。「しかし、どういうわけか、ひきかえせない。おそろしい力でひかれて……」
次の瞬間、タランにも、フルダーのいう意味がわかった。思いがけない波のうねりが、タランの足をすくい、たおれるからだをささえようと、手をつき出したとたん、黒い湖がタランをぐいっとひきこんだ。かたわらのメリンガーが、足をはげしく動かして、悲しげにいなないた。空がぐるぐるとまわって見えた。タランは、奔流の中の小枝のように、ぐいぐい流された。エイロヌイが、そばを流れていった。タランは、足を底につけて立ち、エイロヌイをつかまえようとしたが、手おくれだった。タランは、浮き沈みしながら、湖面を流されていった。タランは、頭が沈まないようにあがきながら、向こう岸につけば、とまるだろうと考えた。きこえるのは、ごーっという音だけだった。湖のまん中の渦巻きが、タランをとらえ、勢いよく底までひきずりこんだ。タランは、黒い水に飲みこまれた。あっ、おぼれると、一瞬思った。
15 エィディレグ王。
山がくずれるようにかぶさってきた奔流の中で、タランは、くるくるまわりながら、空気を求めてもがいた。水は、タランを、左に右につきとばしながら、ぐんぐん湖底へとひっぱりこんでいった。なにかにぶつかった。なんだか正体はわからなかったが、とにかく、タランは、かすかにのこった力をふりしぼって、それにしがみついた。大地がこなごなにふっとんだような、はげしい音がして、水が渦巻きあわ立った。タランは、びくともしない壁にぶつかったのを感じ、それっきり、なにもわからなくなってしまった。
目をあけたとき、タランは、自分がフルダーのたて琴をしっかりつかんで、表面のなめらかな、かたい床に横たわっていることに気づいた。すぐそばで、はげしい流れの音がきこえた。タランは、用心深く、からだのまわりを手さぐりしたが、指にふれたのは、流れのふちのように思えるぬれた石だけだった。頭上の高いところに、うす青いあかりが一つ光っていた。そこは、洞穴の岩屋らしかった。上半身をおこすと、その動きで、手にもったたて琴がじゃーんと音をたてた。
「おい! そこにいるのは、だれだ?」という声が石の堤のずっと先のほうからきこえてきた。それは、かすかな声だったが、タランには、声の主が吟遊詩人だとわかった。タランはやっとの思いで立ちあがると、声のしたほうに向かってのろのろと、はって進んだ。途中で、なにかにけつまずいてたおれると、そのなにかが、ふいに腹だたしげに声を出した。
「近道なんて、まったくおみごとでしたわね、カー・ダルベンのタラン。おかげで、わたしびしょぬれだし、わたしのおもちゃのまりも、見つからないじゃないの――あら、あったわ、ここに。むろん、すっかりぬれているけど。それに、あとの人たちがどうなったのか、ぜんぜんわからないじゃないのよ。」
金色の光の中に、ぼーっと、しずくをたらしているエイロヌイの顔が、うかびあがった。青い目が腹だたしげにぎらぎらしていた。
毛むくじゃらなからだから、水をはねとばして、ガーギがころがるようにやって来た。「あーあ、このあわれなやわらかい頭は、びちゃびちゃ、ばしゃばしゃ!」
そして、つぎの瞬間、フルダーがみんなを見つけてやって来た。フルダーの後ろで、メリンガーがいなないた。「このあたりで、わたしのたて琴の音がきこえたぞ。」と、フルダーはいった。「はじめは、わが耳が信じられなかったよ。二度とあのたて琴は見つかるまいと思っていたのでな。だが――フラムの者は絶望を知らぬ! しかし、まったく運がよかった。」
「ぼくは、これっきりでおわりかと、思いましたよ。」タランがそういって、楽器をフルダーに手わたした。「ぼくらは、なにかの洞穴に流れこんだのですが、これは天然のものじゃありませんね。この敷石を見てごらんなさい。」
「メリンガーを見てごらんなさいよ。」と、エイロヌイが大声をはりあげた。「食糧がすっかりなくなってる。武器もよ。みんな、あなたの、ごりっぱな近道のおかげだわ!」
そのとおりだった。渦にまきこまれたとき、腹帯がとけて、鞍がなくなってしまったのだ。それでも、みな、剣を身につけていたのだけは、幸運といえた。
「すまない。」と、タランはいった。「こんなところに流されたのは、ぼくの失敗だ。こんな道を、えらばなければよかったんだ。しかし、できてしまったことはしかたがない。ぼくが、みんなをここへつれこんでしまったのだから、出口もぼくがさがす。」
タランは、あたりを見まわした。ごうごうという水音は、幅の広い水路をはげしく流れる水音だった。堤も、今まで思っていたよりずっと広かった。アーチ型の高い天井は、さまざまな色の光にてらされていた。タランは視線を仲間にもどした。「こりゃ、ほんとうに変だよ。ここは、地下も深いところのようだけど、湖底ではなく――」
それ以上なにをいう間もなく、タランは後ろから組みつかれ、ひどくたまねぎくさい袋を、むりやりかぶされてしまった。エイロヌイが金切り声をあげたが、すぐに、その声もくぐもってしまった。タランは、一度にべつべつの方向に、ひっぱられたり、おされたりしていた。ガーギが、おそろしい、ほえるようなさけびをあげはじめた。
「おい! そいつをつかまえろ!」と、あらあらしくどなる声がした。
「自分でつかまえろ! こっちは手がふさがってるのが見えないのか?」
タランは打って出た。だれかの頭にちがいない。まるくてかたいものが、タランの腹をどんと打った。頭をつつむたまねぎくさい闇を通して、ぱっぱっと人をたたく音がきこえてきた。エイロヌイが戦っているのにちがいなかった。タランは、今、後ろからおされ、せいいっぱいせきたてられていた。タランに向かってどなったり、仲間でどなりあう声がきこえた。「それ、急げ!」
「このばかめ、こいつらの剣をとりあげてないじゃないか!」――という声とともに、またエイロヌイの金切り声がきこえ、けとばしたらしい音がして、ちょっとしずかになり――「じゃ、いい。剣はそのまま持たせておけ。やつらに武器を持たせたままでエィディレグ王の前につれて行けば、おまえはとがめをうけるぞ。」
タランは、目をふさがれたまま、大勢集まっているらしい人びとの中をおしわけて、小走りに進まされた。みんなが同時にしゃべっていたから、耳を聾せんばかりのさわがしさだった。がっしりしたドアが、どしんと後ろでしまった。たまねぎ袋が、ひきむしるように、とりはらわれた。
タランは、目をしばたたいた。タランは、今、きらきらと明るい、高い丸天井のへやのまん中に、フルダー、エイロヌイとならんで立っていた。ガーギの姿は、どこにもなかった。かれらをとらえた者たちは、足が短くて、ずんぐりむっくりした、六人の戦士たちだった。帯には戦斧がしてあり、手に弓を持ち、えびらを背おっていた。エイロヌイのかたわらに立っている、がっしりした小さい男の左目が、みどりがかった黒に変わりはじめた。
三人の正面の、長い石のテーブルには、こい黄色のあごひげをはやした、小人らしい男がいて、戦士たちをにらんでいた。小さな男は、はでな赤とみどりの服を身につけていた。肉づきのよい手の指には、指輪がきらめいている。「これは、なにごとだ?」と、男はどなった。「このものたちは、なにものなのか? わしのじゃまをしてはならぬと、命じたではないか?」
「しかし、王さま、」戦士のひとりが、不安そうにひきさがりながらいいはじめた。「われわれは、このものたちをつかまえ……」
「こまごまと説明して、わしをわずらわさなくては、気がすまんのか?」エィディレグ王は、ひたいをぴしゃりとたたいてわめいた。「おまえたちは、わしを破滅させてしまう! わしを殺してしまう! 行け! 行け! あっ、ばかもの、とりこはつれて行くのではない!」首をふったり、ため息をついたり、ぶつぶつこぼしたりしながら、王は、岩をくりぬいてつくった玉座に、くずれるように腰をおろした。護衛のものたちは、あわてて姿をけした。エィディレグ王は、タランとその一行を、きっとにらんだ。「では、さあ、いうがよい。なにが望みであるか? 前もって知らせておいたがよいぞ。望みはかなわぬかもしれぬとな。」
「王さま、」と、タランが口をきった。「わたくしどもは、王さまの領土の安全通行を望むだけでございます。わたくしども四人は……」
「三人しかおらんではないか。」エィディレグ王は、ぴしゃりといった。「おまえ、数がかぞえられんのか?」
「仲間のひとりを、見失っております。」と、タランは悲しい声でいった。タランは、ガーギが恐怖にうち勝つ勇気を身につけてくれたらと、今までねがってきた。しかし渦の中でのあのひどい苦しみを思うと、かれがにげ去っても、とがめることはできなかった。「仲間をさがすために、ご家来の手助けをねがわしく存じます。それにまた、食糧と武器もなくなっておりますので……」
「まったくのたわごとだ!」と、王はさけんだ。「うそを申すな。きく耳もたんわ。」そして、そで口からオレンジ色のハンカチをとり出して、ひたいをふいた。「なぜ、おまえたちは、ここへやって来たのか?」
「豚飼育補佐が、とほうもないくわだてに、わたしたちをひっぱりこんだからです。」と、エイロヌイが口をはさんだ。「なぜはむろんのこと、どこにいるのかすら、わたしたちは知らないのです。暗闇で坂をころげ落ちるより、もっとひどいですわ。」
「当然じゃ。」エィディレグは、声にあざけりをこめていった。「全然わからんじゃろ。おまえたちは、ティルウィス・テグ、つまり美しい人たち、たのしき人びと、あるいは、妖精族とかなんとか、つまらぬ、腹だたしい名まえで、おまえたちがよんでおるものの、その王国のまん中にいるのじゃ。うむ、そうとも、もちろん、わからんさ。おまえたちは、まったく偶然に通りかかったのだ。」
「わたしたちは、湖にとらえられたのです。」と、タランが苦情をいった。「湖が、わたしたちをひきこんだのです。」
「うまいもんだろ、え?」エィディレグ王は、さっと誇らしげなわらいを顔にうかべて答えた。「むろん、わし自身、少し改良を加えたのだ。」
「それほどに、おとずれるものを遠ざけておきたいのなら、」と、エイロヌイがいった。「もっとよい方法を使わなくちゃ――人びとが近づかないように。」
「おまえたちほど近づくと、」と、エィディレグは答えた。「もはや近づきすぎなのじゃ。そのときには、追い出してやりたいとは思わぬ。ひきこんでしまいたいのじゃ。」
フルダーが首を横にふっていった。「美しい人びとは、ここだけではなく、プリデインじゅうにいると、今まで思っていましたが。」
「もちろん、ここだけではない。」エィディレグが、いらいらといった。「ここは王宮なのだ。そうじゃ、おまえたちの想像がおよぶかぎりの場所に、トンネルや鉱山がほってある。だが組織の真のはたらき、真の仕事はここ、まさにこの場所において――この王国の間においておこなわれている。わしの肩にかかっておる! よいか、それは重すぎる。重すぎる仕事じゃ。だが、ほかのだれにまかせられる? なにかを正しくとりおこなおうとしたら――」王は、ふいに、指輪のきらめく指で、石のテーブルを、とんとんたたいた。「それは、おまえたちに関係ないことじゃ。」と、王はいった。「おまえたちは、今でも十分難儀しておる。それを見すごしてはならんな。」
「ここで仕事が進められているなんて、わたしには思えないけど。」と、エイロヌイがいった。
タランが、エイロヌイの軽率さをいましめるより早く、王座の間のドアが、勢いよくあいて、一群の人たちが、どっとはいってきた。よく見ると、小人ばかりではないことがわかった。何人かは、すらりと背が高く、純白の長い服をまとっていた。何人かは、さかなのように、からだじゅうがきらめくうろこにおおわれていた。何人かは、大きなうすいつばさを動かしていた。しばらくの間は、混乱した話し声や、おこったさけびや、口げんかの声ばかりがやかましく、エィディレグが、そのさわぎに負けないようにどなっていた。ようやく、王は、その一群を外に出した。「仕事がなされていないとな?」と、王はさけんだ。「おまえたちには、仕事にそそがれるものがあまりよくわからんのだ。夜の子どもたち、というのも、人間が考えだしたばかげた名の一つだが、かれらが今夜、モール・カントレブの森で歌をうたうことになっておる。練習もしておらんのだ。ふたりが病気で、ひとりはゆくえがわからん。
「湖の精どもは、一日じゅうけんかをしておって、今はすねている。髪の毛はめちゃくちゃだ。そして、そのことを考慮してやるのはだれか? だれが、あのものたちを陽気にし、なだめ、すかすのか? 答えはあきらかである。
「それに対し、わしがどんな感謝をうけるか?」と、エィディレグ王は、わめきつづけた。「まったくうけん! おまえたち足長のうすのろどもが、たとえばじゃ、『エィディレグ王よ、地上界のささやかな魅力や美を、わたしたちがたのしめるように、あなたがはらわれたひじょうな努力と、しのばれたひじょうな不便に、感謝いたします。あなたと妖精族がいなかったら、地上界はまったく筆舌につくせぬほどつめたい所でありましょう。』といった、もっともそっけない感謝の意すらも――よいか、一度でも――あらわそうとしたことがあるか? ほんのニ、三語でよろしい。心からの感謝をあらわそうとしたことがあるか?
「全然! 正反対! 地上界で、頭のかたいおまえらばかどもが、小人族のひとりに出くわしたらどうなると思う? でかいハムくさい手でつかまえて、うずめた宝まで案内させようとする。あるいは、三つのねがいをききとどけさせるまで小人をつねる。一つでは満足せず――そうとも、一つではなく、なんと三つもだぞ!」
「よいか、はばからずにいってきかせよう。」エィディレグは、話題に興奮し、ますます顔を赤くして話しつづけた。「わしは、この三つのねがいも、宝あさりも、おしまいにしてしまった。もうおわりだ! ぜったいにおわりだ! おまえたちがとうのむかしに、わしらをほろぼさなかったことに、わしはおどろいている!」
ちょうどそのとき、エィディレグ王の玉座の間のとびらの外で、合唱がはじまった。その和音は、どっしりした石の壁をも通してきこえてきた。タランは、生まれてこのかた、これほど美しい歌声をきいたことはなかった。かれは、しばらくの間、高まるメロディのほかいっさいをわすれて、うっとりとききほれていた。エィディレグまでが、どなるのをわすれて、歌声がきえるまで、あえぐような息づかいをしていた。
「あれで、ちょっと助かるわい。」ようやく王がいった。「夜の子どもたちは、また一つにまとまったにちがいない。理想的にとまではいかないが、まあ、なんとかやっていくじゃろう。」
「わたしは、妖精族の歌をきいたのは、今が初めてです、」と、タランがいった。「これほどみごとなものとは、思いもしませんでした。」
「おせじをいおうとしてもだめじゃ。」エィディレグは、おそろしげな顔をつくろうとしながらも、思わずにっこりしてさけんだ。
「びっくりしたわ。」と、エイロヌイが思わず大きな声でいった。「なぜ、王さまは、そんなにご苦労なさるのです? あなた方妖精族が、地上の人間をおきらいなら、なぜ心をわずらわすのです?」
その間、吟遊詩人は、歌のしらべを思いおこそうと、考えこむようにたて琴をつまびいていた。
「むすめよ、それは専門家の誇りじゃ。」小人の王は、まるまるした右手を胸にあてて、軽く頭をさげながらいった。「われら妖精族がなにかをなすときには、すべて正しくとりおこなうのじゃ。さよう、」そこで、ため息をついて、「犠牲などかえりみないのじゃ。それは、なさねばならぬ義務じゃ。だから、なしとげる。ついえなど考えもせぬ。わしにとって、」と、王はさらにつづけた。「そんなことはなんでもないのじゃ。わしはねむれない。やせてしまった。だが、そんなことはたいしたことではない……」
エィディレグ王がやせてしまったというのなら、以前はどんなだったのか、と、タランは心の中で考えた。だが、この疑問は、口にすまいときめた。
「わかりました。わたしはごりっぱと思います。」と、エイロヌイがいった。「王さまのお力は、ほんとうにおどろくべきものと思います。王さまは、きわめてかしこい方にちがいありません。この王座の間に、たまたま豚飼育補佐がいるとしたら、その豚飼育補佐ですら、ちゃんとそれに気づくと思います。」
「いや、ありがとう、むすめ御よ。」エィディレグ王は、一段とていねいに頭をさげていった。「そなたはかしこい話ができるたぐいのお人だとわかる。ぶざまでのろまな大きなものたちに、このようなことがらに対する理解力をもつものがいるなどとは、きいたことがなかった。だが、少なくとも、そなたは、われらが当面する難問題を、理解しておるらしいの。」
「王さま、」と、タランが口をはさんだ。「王さまのお時間が貴重であることは、わかっております。これ以上おじゃまをいたしますまい。わたしたちを、カー・ダスルまで、ぶじ行かせてください。」
「なに、なに?」と、エィディレグはさけんだ。「ここを立ち去るとな? それは、だめじゃ、例がない? 若者よ、いちど妖精族の所へ来たら、ここにとどまることは、もうきまっておるのじゃ。うむ、そうじゃ、このむすめ御のために、むりにゆずって、おまえたちを、らくに出してやることはできような。ただ、おまえたちを五十年間ねむらせるか、あるいは、みなコウモリにするだけのことじゃ。しかし、よいか、これは、まったくの好意なのであるぞ。」
「わたしたちの仕事は、急を要するのです。」タランは大声をあげてしまった。「今でさえ、もうおくれすぎています。」
「そりゃ、おまえたちのことじゃ。わしは知らん。」エィディレグは、肩をすくめた。
「では、かってに通るまでです。」タランは剣を抜いてさけんだ。フルダーもさっと剣を抜きはなち、タランとならんで身がまえた。
「ますます、ばかげておるわい。」エィディレグ王は、自分に向けてつき出された剣を、ばかにしたようにながめていった。そして、タランたちに向かって指をふってみせた。「それ! ほれ! さあ、腕を動かせたら、動かしてみよ。」
タランは、全身の力をふりしぼった。からだが、まるで石に変わったようだった。
「剣をしまうのじゃ。そして、おだやかに話しあおう。」小人の王は、また手をふっていった。「おまえたちを、出してやらねばならない。もっともなわけを教えてくれれば、考えてから、すぐに返事をしてもよい。そうさ、一、二年以内にな。」
タランは、旅の目的をかくしても、むだだとさとった。そこで、自分たちの身におこったことを、エィディレグに説明した。小人の王は、アローンの名を口にすると、どなりちらすことはやめたが、タランの話がおわると、首を横にふった。
「これは、おまえたち大きなばかどももが、専念すべき戦いじゃ。妖精族は、人間たちに忠誠をちかってはおらん。」王は、腹だたしげにいった。「人間どもがやって来る以前、プリデインはわれわれのものであった。おまえたちが、われわれを地下に追いやった。わしらの鉱山を略奪した。おまえたち、大まごつきのまぬけどもがだ! さらに、われらの宝をうばい、今もうばいつづけておる。ぶきようなまぬけどもが……」
「王さま、」と、タランはいいかえした。「わたしは、自分の弁護しかできません。わたしは、あなた方のものをぬすんだことはないし、ぬすみたいとも思いません。わたしの仕事は、あなた方の宝よりも、わたしにとっては重要なのです。かりに、妖精族と人類の間にうらみがあるとしたら、それは、両者の間で解決すべきことです。しかし、角の王が勝ち、地上の国をアヌーブンの影がおおうようになれば、アローンの手は、あなたのもっとも深い洞穴にまでのびてくるのです。」
「豚飼育補佐にしては、」と、エィディレグはいった。「おまえはかなり雄弁じゃ。だが、妖精族は、その時がきてから、アローンのことは心配する。」
「その時がきたのです。」と、タランはいった。「わたしは、その時が、まだすぎてしまっていないことを、望むばかりです。」
「地上界のできごとが、ほんとうにわかっていないんですね。」エイロヌイが、ふいにさけぶようにいった。「あなたは、人びとのこころよいくらしのために、自己を犠牲にするとか、魅力だとか、美だとか、お話しなさいます。わたし、あなたが、そのために気をつかっているなんて、全然信じません。あなたは、たいへんなうぬぼれやで、がんこで、わがままで……」
「うぬぼれや、とな!」エィディレグは、目をむいてどなった。「わがまま、とな! わしほどあけすけで、心の広いものなどいるものか! どうしてそんなことがいえるのか。おまえらは、わしに生き血でも流せというのか!」そういうと、マントを王は、ひきさくようにかなぐりすてて、ほうり投げ、指から指輪をひき抜いてあちこちに投げすてた。「さあ! みんな持って行け! わしなど一文なしにしろ! さあ、ほかにはなにがほしいのだ――この王国か? ここから出て行きたいと申すか? ぜったいに出て行け! 早ければ、それだけいい! がんこだと? わしは、心がやさしすぎるんじゃ! それが命とりになるじゃろう! だが、そんなことは、おまえらには、なんでもなかろう!」
ちょうどそのとき、王座の間のとびらが、また、勢いよくあいた。ガーギが、必死にしがみつく小人の戦士ふたりを、まるでウサギのようにふりまわしながら、とびこんで来た。
「ああ、うれしき再会! 忠実なガーギは、また力強い英雄のところにもどりましたぞ。勇敢なガーギは、はげしく、ぽかぽか、ごんごんと戦いましたぞ。そして、勝ったのです! ところが、強い殿さま方はつれ去られてしまった。かしこいガーギは、さがしまわり、のぞきまわり、そして、そうです! ついに見つけました!
「しかし、それだけではありません。はい、忠実にして誠実、そして、こわいもの知らずのガーギは、もっと見つけものをしたのです。おどろき、よろこび、ああ、歓喜!」
ガーギは、興奮のあまり、片脚でくるくるまわりながら、手をたたいて、おどりだしてしまった。
「雄々しい戦士たちが豚をさがしに行く! その豚を見つけたのが、このかしこい頭のよいガーギ!」
「ヘン・ウェンか?」と、タランが声をあげた。「どこにいる?」
「ここです、お強い殿」と、ガーギはさけんだ。「豚は、ここにいます!」
16 ドーリ
タランは、エィディレグ王にとがめるような目を向けた。「あなたは、ヘン・ウェンのことなど、なにも口にしませんでしたね。」
「そっちで、きかなかったぞ。」と、エィディレグはいった。
「そりゃ正しからざるしうちだな。」と、フルダーがつぶやくようにいった。「たとえ王であっても。」
「うそをつくより、もっとひどい。」タランがおこっていった。「あなたは、このまま、わたしたちに旅をつづけさせたかもしれない。そしたら、ヘン・ウェンのことはわからずじまいだったかもしれない。」
「あなた、自分を恥じるべきよ。」エイロヌイが、話にわりこんで王を指さした。王は、見つけられて、こまりはてた顔つきだった。
「だれかが穴に落ちそうになっているのに、そしらぬ顔をしているようなものだわ。」
「早いもの勝ちというではないか。」小人の王は、強い口調でいった。「小人の一隊が、アブレン川の河岸で、ヘン・ウェンにぶつかったのだ。あの豚は、峡谷を走り抜けようとしておった。そうだ、おまえたちがまだ知らないことを教えておくぞ。戦士六人が、ヘン・ウェンを追っていたのだ。角の王の部下たちだった。わが隊が、その戦士たちのしまつはつけたがな――わしらには、おまえら、ぶきようなのろまを片づける、独特のやり方があるのだ――、そして、かれらが、途中ずっと地下を通って、豚をここへつれてきたのだ。
「小人族が、ヘン・ウェンを救ったのだぞ。」と、エィディレグは、顔をまっかにして、おこった声で、話をつづけた。「これまたよい例ではないか。わしは、礼をいわれたか? とんでもない。それどころか、不愉快な名でよばれ、おぞましい考えのまとになる。いや、おまえたちの顔にちゃんとかいてある。エィディレグはどろぼうで、なさけないやつだ――そう胸の中でいっておる。よろしい。それだけでも、豚はもどせぬわ。そして、おまえたちは、みんな、ここにとどまるのだ。わしの気が変わるまで。」
エイロヌイは、怒りであえいだ。「そんなことすれば」と、エイロヌイは大きな声でいった。「あなたは、ほんとうに、どろぼうでなさけないやつよ! あなた、わたしに約束したでしょ。小人族は、一度口に出したことは、とりけさないものよ。」
「豚のことはいわなかった。一言もいわなかったぞ。」エィディレグは、両手で腹をしっかりおさえて口をかたく結んだ。
「そのとおり。」と、タランがいった。「いいませんでした。しかし、これは廉直と名誉の問題です。」
エィディレグは、目をぱちぱちさせてそっぽを向いた。オレンジ色のハンカチをとり出して、またひたいをふいた。「名誉。」と、王はつぶやいた。「うむ、おまえが、それをいいだすだろうと思っておった。たしかに、小人族は、ぜったいに約束をやぶらぬ。そうか、」王はため息をついた。「あけっぴろげで心の広いことの、これが価なのか。いたしかたない。豚はもどそう。」
「なくした武器のかわりも必要です。」と、タランがいった。
「なんだと?」エィディレグは悲鳴をあげた。「わしを破産させるつもりか?」
「それと、むしゃむしゃ、もぐもぐ!」と、ガーギが声をはりあげた。
タランはうなずいた。「食糧も、です。」
「こりゃ、あんまりだ。」と、エィディレグがどなった。「おまえたちは、わしを殺そうとしている! 武器、食べもの、その上に豚とは!」
「それに、カー・ダスルまでの道案内人をおねがいします。」
これをきいて、エィディレグは、破裂するのではと思うほどおこった。ようやく気をしずめると、しぶしぶうなずいた。「ドーリをかしてやろう。かしてやれるのは、かれひとりだけだ。」そして、手をうって武装兵をよび、命令を伝えると、タランの一行に向きなおった。「さあ、行け。わしの気が変わらんうちに。」
エイロヌイは、足早に玉座に近づくと、身をかがめてエィディレグ王の頭のてっぺんにキスした。「ありがとう。」と、エイロヌイは小声でいった。「あなたは、まったく愛らしい王さまだわ。」
「行け! 行け!」と、小人の王はさけんだ。へやを出て、石のとびらがしまりかけたとき、タランは、エィディレグ王が、しあわせそうににこにこしながら、頭をなでまわしているのを見た。
一隊の小人にみちびかれて、一行は、天井がアーチ型の通路を進んだ。はじめ、タランは、エィディレグ王の王国が、迷路のような地下の通路しかないものと思っていた。ところが、おどろいたことに、通路は、まもなく幅広い大通りとなった。はるか頭上の大ドームでは、宝石が太陽のように明るく輝いていた。草はなかったが、みどりのコケのふかふかしたじゅうたんが、牧草地のようにひろがっていた。青い水をたたえた湖が、頭上の宝石ときそうようにきらめいていた。家々がたちならび、小さな農場もあった。タランも仲間たちも、そこが地下であることが、信じられない気持ちだった。
「考えていたのだが、」と、フルダーが小声でいった。「ヘン・ウェンは、ひきとりに来られるまで、ここにおいて行ったほうが賢明ではないかな。」
「わたしも、それを考えました。」と、タランは答えた。「エィディレグの約束を信用しないわけではありません――たいてい信用できます。しかし、あの湖からもう一度はいって来られるかどうか確信がもてないんです。そして、かれの王国へはいるべつの道が見つかるかどうか。王は、われわれを、たやすく入れてくれないにちがいないと思います。だから、つれ出せるときに、つれ出さなくちゃならないんです。こんど見つけたら、もう目をはなしませんよ。」
だしぬけに、一軒の家の前で、小人の一隊はとまった。すると、手ぎわよくつくってある囲いの中で、「ふうん、ふうん」という大きな鳴き声がした。
タランは、囲いまでかけよった。ヘン・ウェンは、さくに前足をかけて立ち、せいいっぱい声をはりあげて、ぶうぶう鳴いた。
小人のひとりが木戸をあけると、白い豚は、きいきい鳴きながら、ころげるようにとび出してきた。
タランは、ヘン・ウェンの首をだきしめた。「やあ、ヘン! メドウィンすら、おまえは死んだと思っていたんだよ!」
「きゅう! きゅ、きゅう!」ヘン・ウェンが、うれしそうにわらった。ガラス玉のような目がきらきら光っていた。大きなもも色の鼻づらを、タランのあごの下につっこみ、うれしくてたまらないようにおしてきたので、タランはあやうく、ひっくりかえりそうになった。「すてきな豚らしいわね。」と、エイロヌイがいって、ヘン・ウェンの耳の後ろをかいてやった。「友だちの再会を見るのは、いつもいいものだわ。朝日の光とともに目をさますみたいよ。」
「たしかに、大きな豚だな。」と、吟遊詩人もうなずいた。「それに、正直いって、まことにきれいだ。」
「その豚を、かしこく、けだかく、勇気あり、分別あるガーギが見つけた。」
「心配するなよ。」タランは、ガーギに向かってほほえんでいった。「みんな、けっしてわすれやしないから。」
ヘン・ウェンは、ころがったり、短い足でよたよた歩いたり、うれしそうにタランのあとからついて来た。小人たちは、野を横切って、ずんぐりした人影が待ちうけているところまで一行をつれていった。小人隊の頭が、待っていた男をゆびさして、エィディレグの約束した案内人のドーリだとつげた。ドーリは、背が低くずんぐりしていて、横はばが背たけほどあるように見えた。さび色の皮の上着を着、ひざまであるじょうぶな革の長ぐつをはき、頭にはまるいぼうしをかぶっていたが、そのへりから、燃えるような赤毛がはみだしていた。革帯には、戦斧と短剣がさしこんであり、小人族特有の、太く短い弓を肩にかけている。
タランは、ていねいにおじぎをした。小人は、きらきらした赤い目でタランをじっと見て、ふんと鼻を鳴らした。それから、深く息をすいこむと、顔がまっかになって、今にも破裂するのではないかと思われるまで、じっと息をつめたので、タランはびっくりしてしまった。まもなく、小人は、いっぱいにすった息を全部はきだし、また鼻を鳴らした。
「どうかしましたか?」と、タランはきいてみた。
「おぬし、今でも、わしの姿が見えるのだな?」ドーリが、おこったようにはげしい口調でいった。
「もちろん、ずっと見えてます。」タランは眉をしかめていった。「見えないわけがないでしょう?」
ドーリは、ばかにしきった目つきでタランを見ただけで、答えなかった。
ふたりの小人が、メリンガーをひいて来てくれた。タランは、ほっとした。エィディレグ王が、りっぱに約束を守ったことがわかった。鞍袋は食糧でふくらんでいた。白馬の背には、たくさんの槍・弓・矢が乗っていた――どれもみな、小人族の武器の常で、短く重いものだったが、念入りにじょうぶにつくられていた。
それ以上むだ口はきかず、ドーリは、一行を手まねきして、草原を横切りはじめた。不平がましくぶつぶつひとり言をいいながら、小人は、先頭に立って、切りたったがけまで進んだ。その岸壁にたどりついたとき、はじめて、タランは、天然のいわに長い段が切ってあることに気づいた。ドーリが頭をぐいとふって段をさし示し、そして、一行はのぼりはじめた。
この小人族の通路は、一行がこえてきたどの山よりも急だった。メリンガーはいっしょうけんめいにのぼっていった。ヘン・ウェンは苦しげにあえぎながら、一段一段からだをもちあげていた。岩の段は、曲がりくねっていた。一か所では、あまり暗くて、一行はおたがいの姿を見失った。しばらくすると段がなくなり、一行の歩く所は、かたい石だたみのせまい道となった。前方に、何条もの白い光がちらちらとあらわれたのは、よく見ると大きな滝の内側にいるからだとわかった。一行は、順に、ぬれて光る岩をつぎつぎにとび、あわ立つ流れをじゃぶじゃぶわたり、ようやく、山のすがすがしい大気の中に出た。
ドーリは、太陽をちらっと見あげた。「昼間もあとわずかだ。」ドーリはつぶやいたが、その声は、エィディレグ王よりももっとあらっぽかった。「おれが、へとへとになりながら夜っぴて歩くなんてことは期待するな。このへんでやってる仕事じゃないんだ。えらばれちまったんだ。一行のご案内、といってもなんという一行だい! 豚飼育補佐。たて琴を持った黄色っ毛のばか。剣をもつむすめっ子。なんだか毛むくじゃらなやつ。家畜は申すにおよぶまい。望みはただ、本ものの軍勢にぶつからないことだけよ。ぶつかったら最後さ、ほんとうに。おぬしらには、ひとりとして剣があつえそうなのはおらん。ふん!」
エィディレグの領地を出て以来、ドーリがいちばん長くしゃべったのがこの言葉だった。ずいぶん失礼な意見だったが、タランは、この小人も、おしまいにはあいそよくなってくれるだろうと思った。しかし、ドーリは、いいたいことをいってしまうと、しばらく口をきかなかった。しばらくして、タランが思いきって話しかけると、小人はおこったようにそっぽを向き、また息をつめはじめた。
「おねがい。」エイロヌイが、思わず大きな声でいった。「それをやめてちょうだい。あなたを見てるだけで、水を飲みすぎたような気分になっちゃうのよ。」
「まだうまくいかんのだ。」と、ドーリがうめくようにいった。
「いったい、なにをしようとしてるんですか?」と、タランはたずねた。
ヘン・ウェンまでが、ふしぎそうな目で、小人を見た。
「なにをしているように見える?」と、ドーリが答えた。「おれは、姿をけそうとしているんだがな。」
「そいつは、妙なこころみだな。」フルダーが、思ったとおりをいった。
「おれは、姿がけせると思われているんだ。」と、ドーリがかみつくようにいった。「おれの一家はみんなできる。あんなやり方でだ! ロウソクを吹きけすようにきえるんだ! ところが、おれはできぬ。わらわれてもしかたがない。エィディレグが、一組のばかについて行けと、送り出してよこしたのもあたりまえさ。いやなこと、不愉快なことをしなくちゃならん場合は、かならず『ドーリのやつを見つけてこい』だ。宝石をカットするとか、剣にかざりをつけるとか、矢に羽根をつけるとなると――そいつは、ドーリのやっこさんの仕事とくる!」
小人は、また息をつめたが、今度はとても長かったので、顔は青くなり、耳がぶるぶるふるえてきた。
「こんどはうまくいきそうだぞ。」吟遊詩人が、はげますような笑顔をつくっていった。「全然見えない。」その言葉が口から出たとたん、たて琴の弦が一本、ぷつんと切れてしまった。フルダーは、悲しげに楽器をながめてつぶやいた。「いまいましいやつめ。やや誇張してることはわかっていたさ。かれを元気づけるためにやったことなんだ。ほんとうに、輪郭がちょっとぼやけて見えたんだ。」
「わたしなら、宝石のカットができたりなんかすれば、」タランは、思いやりをこめてドーリにいった。「姿がけせなくても気にしないな。わたしが知っていることといったら、野菜と馬蹄をつくることだけだ。それだって、あまりよく知っちゃいない。」
「ぜったいにできないことを、できないからってくよくよするなんて。」と、エイロヌイが意見をつけ加えた。「そんなのばかげてるわ。姿をけそうなんて、頭で立って背を高くしようとするより、もっとひどいことよ。」
こういう善意の意見も、小人の気を晴らしはしなかった。小人は、ぷりぷりして戦斧を左右にふりまわしながら、大またに先頭を歩いた。ふきげんだけれども、ドーリがすぐたれ道案内であることに、タランは気づいた。ドーリは、ほとんどいつも、例によってぶつぶついったり鼻を鳴らしたりするだけで、たどっている道についての説明もせず、一行がカー・ダスルにつくにはどのくらいかかるかも、教えようとしなかった。だが、タランは、旅をしている間に、山林地帯の様子や、道の見つけ方などを、ならいおぼえたので、一行が、西に向かって山岳地帯をくだりはじめていることに気づいていた。そして、その日の午後いっぱいで、タランたちは、予想以上に進んでいた。それがドーリのすぐれた案内のおかげであることを、タランは知っていた。タランが、それをほめると、ドーリは、「ふん!」と答えただけで、また息をつめた。
その夜、一行は、行く手をじゃまする最後の山の、風のこない斜面に野営した。ガーギは、タランから火をおこす方法を教えられていたので、みんなの役にたつのをよろこんだ。いそいそと枯れ枝を集め、かまどの穴をほり、さらに、あとでひとりだけこっそりと、くしゃくしゃもぐもぐする分をのこすこともしないで、食糧を均等に分配して、みんなをおどろかした。
ドーリは、なにをするのもいっさいことわった。腰にさげた大きな皮袋から食糧をとり出し、岩の上に腰かけて、むっつりと食べていた。一口食べおわるごとに、いらいらするのか、ふんと鼻を鳴らしていた。そして、ときおり、息をつめた。
「つづけるんだよ、きみ。」と、フルダーが声をかけた。「もう一度やったら、うまくいくかもしれんぞ。たしかに、きみの輪郭はぼやけてきたぞ。」
「し、やめて!」エイロヌイが、詩人をたしなめた。「けしかけちゃだめよ。さもないと、いつまでも息をつめていようと、決心するかもしれないでしょ!」
「はげましただけなんだ。」詩人は、しょげかえっていいわけした。「フラムの者は、あきらめを知らんのだから、小人がそうしてわるいわけもなかろう。」
ヘン・ウェンは、一日じゅう、タランのそばをはなれなかった。今も、タランがマントを地面にひろげると、白豚は、うれしげにぶうぶううなって、よちよちその上に乗り、タランのかたわらにおちついた。ヘン・ウェンは、しあわせそうににんまりして、しわのよった耳をだらりとさげ、気持ちよさそうに、鼻づらをタランの肩におしつけた。まもなく、頭をすっかりタランの肩にのせてしまったので、タランは寝がえりがうてなくなった。ヘン・ウェンは、はでにいびきをかいた。耳のすぐ下で、ぴー、ごうごうと、うるさい音がやまなかったが、タランはあきらめてねむることにした。「ヘン、おまえが見つかってうれしいよ。それに、おまえもよろこんでいるのが、またうれしいんだ。しかし、こんな大いびきをかかないでくれたらなあ。」
翌朝、一行はワシ山脈に背を向けて、カー・ダスルの方向に向かいはじめた。タランは、その方向が正しいことをいのった。木々がしだいに多くなりはじめたとき、タランは、もういちど見おさめに、ワシ山脈をふりかえったが、山やまは、遠くに、高く、しずかに、そびえて見えた。タランは、自分たちの道がワシ山脈ごえでなかったことにほっとしていたが、心中ひそかに、いつかふたたびおとずれて、日にきらめくあの氷と黒い岩の頂上軍をのりこえたいと思った。この度をはじめるまで、タランは山を見たことがなかった。しかし、今は、ギディオンが、あこがれをこめて、カー・ダスルを語ったわけがわかった。
タランは、いつの間にか、また、ギディオンがヘン・ウェンにたずねるつもりだったことを、あれこれ考えはじめた。そこで休んだとき、フルダーに話してみせた。
「カー・ダスルには、ヘン・ウェンのいうことがわかる人がいるかもしれません。」と、タランはいった。「しかし、今予言させることさえできたら、なにか重大なことを告げるかもしれませんね。」
吟遊詩人はうなずいた。ところが文字杖がなかった。
「新しい呪文をためしてもいいわ、わたしが。」と、エイロヌイが申し出た。「アクレンが、べつなのをいくつか教えてくれたのよ。でも、それがヘンに使えるかどうかは、わからないわ。予言の豚とは関係ない呪文だったから。ヒキガエルを呼びよせる、すばらしい呪文なら、知っているのよ。アクレンは、かぎをあける呪文を教えようとしていたけど、今はもうおぼえていないわ。おぼえていたとしても、かぎなんて、豚とはあまり関係がないわね。」
エイロヌイは、ヘン・ウェンのかたわらにひざまづき、早口になにかささやいた。ヘン・ウェンは、相好をくずして、ふがふが、くんくんいいながら、しばらくの間、おとなしく耳をかたむけていた。しかし、おしまいに、たのしげに「きゅ、きゅう!」というと、うれしそうによちよちと、タランのところへかけて来てしまった。
「だめだな。」と、タランはいった。「それに、時間をむだにしても意味がない。カー・ダスルに行けば、文字杖もあるだろう。しかし、たしかとはいえない。ダルベンの持っているものは、なんでも、プリデインじゅうで、一つしかないらしいからね。」
一行はふたたび進んだ。ガーギは、今や、一行の正式なコックであり火の番であったので、ドーリのつぎに、胸をはって大またに歩いていた。ドーリは一行の先頭に立って、あき地をぬけ、ハンノキの並木の所を通過した。だが、少し行くと、立ちどまって、首をかしげた。
タランも、その物音をききつけていた。それは、かすかだけれど、細くてかん高い悲鳴だった。悲鳴は、枝の曲がりくねったいばらのやぶから、きこえてくるようだった。タランは、剣を抜くと、小人を追い抜いて急いだ。最初、枝のもつれた暗闇の中には、なにも見えなかった。さらに近づいたタランは、ぎょっとして足をとめた。
ギセントがいた。
17 ひなっ子
そのギセントは、片羽をたて、片羽を胸の上にぶざまにたたんで、まるでくしゃくしゃの黒いぼろきれのように、ひっかかっていた。はじめて羽が抜けかわったばかりの若鶏で、せいぜいワタリガラスほどの大きさだった。からだのわりに頭がやや大きすぎ、羽根はうすく、すじばかりがめだった。タランが用心深く近づくと、ギセントは、とびたとうとしてつばさをばたばたさせたが、むだだった。そこで、かぎ型のくちばしをあけ、気をつけろというように、しゅっといった。しかし、目はどんよりして、なかばとじていた。
一行も、タランのあとからやって来た。ガーギは、声の正体を知ったとたん、背をまるめて、こわそうに何度もふりかえりながら、安全な所まで、こそこそにげて行った。メリンガーはこわそうにいなないた。白豚は気にもかけず、すわり立ちして、たのしそうな顔をしていた。
フルダーは、その鳥を見ると、びっくりして、小さくヒューッと口笛を鳴らした。「近くに親鳥がいなくてほんとうによかったな。ギセントは、ひなが危険と知ると、人間を八つざきにするからなあ。」
「これ、アクレンを思い出させる。と、エイロヌイがいった。「特に、ふきげんな日の目のあたりを。」
ドーリが、革帯から戦斧をひき抜いた。
「なにをするんです?」と、タランがたずねた。
小人は、びっくりして、タランの顔を見た。「なにをするだと? ばかげた質問はそれだけか? おぬしには、わしが、その鳥を、ここで片づけるつもりだなんて、考えもつかんのだろ? まずはじめに、こいつの首をちょんぎるのさ。」
「いけない!」と、タランはさけんで、小人の腕をつかんだ。「これは、ひどいけがをしているんだ。」
「だからけっこうなのさ。」と、ドーリはぴしゃりといった。「そうでなかったら、おぬしも、わしも、みんなも、ここにこうして立ってはいなかったさ。」
「ぼくは、殺させないぞ。」と、タランがきっぱりいった。「この鳥は、苦しんでいて助けが必要なんだ。」
「そのとおりよ。」と、エイロヌイがいった。「この鳥、ちっとものんびりしたところないもの。その点は、アクレンよりもっとひどいくらいだわ。」
小人は戦斧を地面にたたきつけると、両手を腰にあてて、ふんと鼻を鳴らしていった。
「おれは、姿を消すことはできん。しかし、少なくともあほうじゃない。さあ、その邪悪なひなっ子を拾いあげろ。水をやれ、頭をなでてやれ。そうしたら、どうなるかがわかるだろうさ。力がついたとたん、そいつがまずやってのけることは、おまえらを、びりびりにひきさくことだぞ。そして、つぎが、アローンの所へまっしぐらだ。そうなったら、すばらしくやっかいなことになる。」
「ドーリのいうとおりだよ。」と、フルダーがつけ加えていった。「わし自身も、首をちょんぎるのはうれしくない――その鳥には興味がある、といっても、けっして気持ちのよいたぐいの興味ではない。しかし、わしらは、ここまでは、少なくともギセントの災難にもあわず幸運だった。きみのいうように、アローンのスパイを、わしらのただ中に入れてしまうことに、わしは異議をみとめない。フラムの者は、つねに親切心をもってはいるが、これは行きすぎのように思えるな。」
「メドウィンなら、そうはいわないでしょう。」と、タランは答えた。「あの山中で、かれは、あらゆる生きものに対する親切について話してくれました。そして、ギセントのことも、ずいぶん教えてくれました。ぼくは、このギセントをカー・ダスルへつれて行きます。これは、重要なことだと思います。ぼくのきいたかぎりでは、まだ、生きたギセントをつかまえた人はいないのです。ひじょうに貴重なものかもしれませんよ。」
吟遊詩人は頭をかいた。「うむ、そうだ。これがとにかく役にたつとしたら、死んだのより生きてるほうがいい。だが、いかにしても、その案は危険が多い。」
タランは、やぶからはなれていろと、手ぶりでみんなに知らせた。ギセントのけがは、いばらのとげだけではないことがわかった。どうも、タカがけんかをしかけたらしく見えた。背に血が点々とつき、たくさんの羽毛がむしりとられていた。タランは、そっと手をのばした。ギセントは、また、しゅっといった。長い間のどががらがらと鳴った。タランは、ギセントが、今すぐ死ぬのではないかと心配した。そこで、熱をもったからだの下に手を入れた。ギセントはくちばしとつとめで攻撃してきたが、力がつきていた。タランは、いばらのやぶから、ひな鳥をひきあげた。
「傷に合う薬草が見つかれば、湿布してやれる。」タランはエイロヌイにいった。「しかし、薬草をひたすお湯がいるんだ。」エイロヌイが草と木の葉で巣をつくった。タランはガーギに、たき火をつくって石を焼いてくれとたのんだ。その石を水に入れれば、お湯ができる。タランは、すぐあとからついて来るヘン・ウェンといっしょに、急いで薬草さがしに出かけた。
「いつまでここにいるのかね?」ドーリが、後ろでどなった。「おれはかまわんよ。急いでいるのは、おぬしで、おれじゃないんだ。へっ!」そして、戦斧を帯に勢いよくさしこむと、ぼうしをぎゅっときつくかぶり、あらあらしく空気をすいこんで息をつめた。
タランは、コルが薬草のことを教えてくれたことに、もう一度感謝した。必要な草のほとんどが、すぐ近くにはえていた。ヘン・ウェンは、ひどく熱心に薬草さがしに加わり、たのしそうにぶうぶういいながら、落ち葉や石の下をほりかえした。じっさい、タランが見のがしていただいじな薬草を、はじめに見つけたのは、この白い豚だった。
ギセントは、タランが湿布をあてても、さからってあばれたりはしなかった。タランは、上着をさいてつくった布切れを、煎じ薬にひたし、鳥のくちばしに、薬湯を一滴一滴たらしこんだ。
「そいつはまことにけっこうだがね。」好奇心に負けて治療を見に来たドーリがいった。「おぬし、そのいやらしいやつを、どうやってつれて行こうと思っているのかね? 肩へでも、とまらせていくか?」
「わかりません。」と、タランはいった。「マントにくるんで行けると思っていたんだけど。」
ドーリは、ふんといった。「そこが、おぬしらでかぶつのやっかいなところだ。目先しかものが見えんのだ。しかし、このおれが、鳥かごでもつくってくれると思ったら、大まちがいだぞ。」
「鳥かご、そうだ、それだ。」タランはうなずいた。「いや、そんなことで、あなたをわずらわしたくはありませんよ。自分でつくってみます。」
小人は、タランが若木を集めて、かごをあもうとするのを、ふんといった目で見ていた。
「ちえっ、やめろ!」ドーリは、たまらなくなってどなってしまった。「おれは、へまな仕事をじっと見ちゃいられないんだ。さあ、どけよ。」ドーリは、タランをおしのけて、地面にしゃがみ、若木をとりあげた。そして、ナイフでたくみにけずり、あんだツタで結びあわせた。そして、ほんとうに、あっという間に、ちゃんと使える鳥かごを持ちあげてみせた。
「そのほうが、姿を消すなんてのより、たしかに実用的よ。」と、エイロヌイがいった。
小人は、なにもいわずに、おこった目でエイロヌイをにらんだ。
タランは、鳥かごの底に葉をしいて、そっとギセントを入れてやった。そして、一行はまた旅をつづけた。ドーリは、むだにした時間のうめあわせをしようと、今度は前よりも速く歩いていた。タランやほかの仲間が、ついて来られるかどうかをふりむいてたしかめることもしないで、山の斜面をぐいぐいとくだった。一行は、足を速めたため、前よりしげしげと立ちどまって休まなくてはならなくなった。いそいでも意味がないことに、タランは気づいたが、小人にそのことをいうのは賢明でないと判断した。
その日のうちに、ギセントはどんどん元気をとりもどしてきた。休むたびに、タランはえさをやり、薬を与えた。ガーギは、またおびえてしまって、近づかなかった。タランひとりが、平然とこの鳥をあつかっていた。フルダーが仲よくしようとして、鳥かごに指をつっこんだとき、ギセントはふるいたって、くちばしで指を切りさいた。
「いっておくぞ。」と、ドーリがはげしくいった。「こんなことをしても、よいことはない。だが、おれのいうことになど耳をかすな。どんどんやれ。そして、のどをかっ切られろ。そうなってから、かけこんで来てぐちをいうんだな。おれは、ただの道案内だ。命令どおりにするだけよ。」
日がくれると、一行は野宿して、あしたの予定を話しあった。ギセントは、すっかりよくなり、食欲もじつに旺盛になっていた。タランがすぐに食べものを持って行かないと、猛烈にぎゃあぎゃあとさわぎ、くちばしで鳥かごをたたいた。タランが与えるえさを、すぐに飲みこんでしまい、もっとほしそうに、あたりを見まわした。食べてしまうと、鳥かごの底にうずくまり、頭を持ちあげて、じっと耳をすまし、どんな動きにも目をくばるのだった。タランは、思いきって指を網ごしにつっこみ、鳥の頭をなでてみた。鳥はもう「かーっ」などとうならず、全然かみつこうとしなかった。ギセントは、エイロヌイのえさも食べるほどになったが、吟遊詩人が仲よくしようとしても、これはだめだった。
「あなたが首をちょんぎるのに賛成したことを、ちゃんと知っているのよ。」と、エイロヌイが詩人にいった。「このかわいそう鳥があなたをおそれているからって、文句もいえないわよ。わたしの首をちょんぎりたいと思っていただれかが、あとになってやって来て、あいそよくしても、わたし、やはりその人をつついているわ。」
「鳥はひなのときにしこむんだって、ギディオンがいってたよ。」と、タランがいった。「あの人が、ここにいてくれたらなあ。あの人なら、この鳥のあつかい方を、いちばん知っていると思うんだ。たぶん、今までとはべつなやり方でしこめるだろうよ。しかし、カー・ダスルには、よい鷹匠がいるはずだ。鷹匠と会ってみての話だ。」
だが、翌朝、鳥かごはからだった。
ドーリは、ほかのものよりずっと早く目をさましたので、それを最初にみつけた。かっとなった小人は、タランの鼻先に、からのかごをつきつけた。若木の格子は、ギセントのくちばしで、ばらばらにちぎれていた。
「さあ、これでわかったろ!」と、ドーリはさけんだ。「だから、いわんこっちゃない! おれが注意しとかなかったとは、いわせないぞ。あの裏切りやろうは、こっちの話をすっかりきいて、今ごろはもう、アヌーブンに向かっているところさ。今まで、おれたちのいどころをアローンが知らなかったとしても、まもなくそれがわかるってわけだ。よくやってくれたよ、おぬし。まったくよくやってくれた!」ドーリは、ばかにしきっていった。「ばかと豚飼育補佐に、ごかんべんねがいたい!」
タランは、失望とも恐怖ともとれる表情をかくせなかった。
フルダーは、なにもいわなかったが、きびしい顔をした。
「ぼくは、また、まちがいをしてしまった。いつもどおりだ。」タランは、腹だたしげにいった。「ドーリのいうとおりだ。ばかとは、豚飼育補佐のことさ。」
「それは、そのとおりかもしれないわ。」エイロヌイは、タランを元気づけるようなことはいわずに、うなずいた。しかし、「でもね、」とあとをつづけた。「わたし『いわないことじゃない』っていう人、がまんがならないのよ。そんなのって、こっちが席につくひまもないうちにやって来て、こっちの食べものを食べちゃう人より、もっとひどいわ。
「それは、そうだけど、」エイロヌイは、さらにいった。「ドーリに悪意はないわ。あの人、見せかけの半分も感じがわるくないのよ。そして、たしかに、わたしたちのことを心配してくれているわ。あの人は、ハリネズミに似てるの。外側はとげだらけでも、ひっくりかえしてしまえば、とても感じやすいのよ。あの姿をけす練習さえやめてくれたら、あの気質もずいぶん変わると思うわ。」
それ以上、くやんでいるひまはなかった。ドーリは、一行をさらに急がせた。かれらは、それまでずっと、イストラド渓谷沿い野山を進んでいたのだが、昼をすぎると、小人は西に向きを変えて、もう一度平地に向かって歩きはじめた。空は、なまりのようにどんよりと雲があつくなりはじめていた。ときどき強い突風が一行の顔をたたいた。太陽が、雲におおわれて白くなり、さむくなってきた。メリンガーが、不安そうにいなないた。今まで、おちついてたのしげだったヘン・ウェンが、目をくるくる動かし、なにかぶつぶついいはじめた。
一行が小休止している間に、ドーリは先に進んで、あたりを偵察し、すぐにひきかえしてきた。ドーリは、一行を、とある小山の上までつれて行くと、身ぶりで地面にぴったり伏せるように命じ、眼下のイストラド川を指した。
下の平地は、馬に乗った戦士や歩いている戦士でうずくまっていた。黒い旗が、強い風でばたばたしていた。これほどはなれていても、タランの耳には、武器のぶつかる音や、規則正しい、地なりのような進軍の足音がきこえてきた。くねって進む軍勢の列の先頭には、角の王が馬を進めていた。
かれは巨人だった。後ろで馬をかけさせている護衛たちを圧してそびえているように見えた。湾曲したかぶとの角が、するどいつめのように立っていた。タランが、おそろしいけれど、目をはなせずに、じっと見ていると、角の王が、山のほうにゆっくりと顔を向けた。タランは、地面にぴったりとはりついた。このアローンの軍勢の指揮者に、タランが見えるはずはなかった。だから、それは気の迷いであり、タランの恐怖のあらわれにすぎなかったのだが、タランには、角の王の目が、自分を見つけだしてしまい、その視線が短剣のように心臓をぐさりとさしたような気がした。
「追いつかれた。」タランは抑揚のない声でいった。
「急ぐんだ。」小人がかみつくようにいった。「ぐずぐず、くやんでいないで、てきぱき動け。敵もわしらも、カー・ダスルまで、あとせいぜい一日なんだ。こっちは、今でも敵より、もっと速く動ける。おぬしが、あの恩知らずなアヌーブンのスパイめにひっかかっていなければ、今ごろは、やつらよりずっと先に行ってたんだ。いわないこっちゃない。」
「もう少し武装を強化しなくちゃいけないな。」と、吟遊詩人がいった。「角の王は、谷の両側に物見を出しているだろうからな。」
タランは、メリンガーの背の武器をほどき、弓と矢筒と短い槍を、ひとりひとりにわたした。エィディレグ王は、丸いブロンズの楯も、全員にわたるだけととのえておいてくれた。それは小人用の大きさだったから、進軍する敵を見たあとでは、あわれなほど小さかった。ガーギは、腰に短剣をさした。一行の中で、ガーギがいちばん興奮していた。
「さあ、さあ!」と、ガーギはさけんだ。「これで、大胆不敵なガーギも戦士になりましたぞ! ガーギには、相手に深手を負わせる刃も、つきさす槍もある! もういつでもちゃんちゃんばらりんとやれる!」
「わしもそうだ!」と、フルダーが高らかにいった。「怒れるフラムの者の攻撃に、耐えられる者などおらんわい!」
小人は両手で頭をぴしゃんとたたくようにおさえ、歯ぎしりした。それから、「べちゃくちゃしゃべりながら動くのはやめろ。」と、はげしい口調でどなった。今度は、あまりおこってしまい、息をとめることができなかった。
タランは、楯に肩をかけた。ヘン・ウェンは、しりごみして、こわそうにぶうぶう鳴いた。「おまえがこわいのはわかっているよ。」と、タランはなだめるようにいった。「しかし、カー・ダスルへついたら、もう安全だからね。」
豚は、しぶしぶついて来たが、ドーリがまた進みだすと、ぐずぐずした。タランには、せきたてて進ませるのがやっとのことだった。
つぎに休んだとき、ドーリはタランをよんで、さけぶようにいった。「こんなことをしてたら、まるで見込みはない。はじめはギセントでおくれ、つぎが豚だ!」
「ヘンは、おびえているんです。」タランは、腹をたてている小人に説明しようとした。「角の王が近くにいることを知っているんです。」
「それじゃ、しばってしまえ。」と、ドーリはいった。「馬の背につむんだ。」
タランは承知した。「そうですね。いやがるとは思いますが、それ以外しようがありませんね。」
ほんの少し前まで、豚は木の根かたにうずくまっていた。ところが、もう影も形もなかった。
「おい、ヘン。」タランは、ぎょっとしてよんでみた。そして、吟遊詩人に「ヘンは、どこへ行きました?」ときいた。
詩人は、知らないと、首を横にふった。詩人もエイロヌイも、ヘンがどこかへ行くのを見かけなかったのだ。ガーギは、メリンガーに水を与えていて、豚のことには全然気をくばっていなかった。
「また、にげるなんてはずはない。」とタランは思わず大声でいった。そしてあわてて、森へもどって行った。だが、まっさおな顔でもどって来た。
「いない。」タランは、あえぐようにいった。「どこかにかくれているんだ。ぼくにはわかる。」
タランは、くずれるように地面にすわりこみ、頭をかかえた。「目をはなしちゃいけなかった。片時も目をはなしちゃいけなかったんだ。」かれの声は苦しそうだった。「これで二度しくじった。」
「みんなに、先に行ってもらいましょうよ。」と、エイロヌイがいった。「わたしたちで見つけて、追いつくのね。」
タランが答える間もなく、血も凍るような音が聞こえた。山で、狩人の一団が、せいいっぱいにさけぶ声がきこえ、角笛が長くひびきわたった。
一行は、恐怖に凍りついたようにつっ立っていた。おそろしさにのどから声が出ず、タランは、口のきけない仲間の顔を見まわした。ぞーっとする角笛のしらべが大気をふるわせ、なにかの影が、どんよりした空をちらっとよぎった。
「狩人グウィンが馬を駆るところ、」と、フルダーがささやくようにいった。「すぐ後ろに死神がつきしたがう。」
18 ディルンウィンの炎
グウィンの角笛のひびきが、山々にすいこまれるようにきえた。そのとたん、タランは、おそろしい夢からさめたように、ぎくりとした。草原をかけてくる馬蹄のひびきがきこえたのだ。
「角の王の物見だぞ!」フルダーが、一行めがけて馬を走らせて来る戦士たちを、指さしながらさけんだ。「われわれに気づいたのだ!」
戦士たちは、鞍からのめるように身をのりだし、馬をせきたてて、ぐんぐんとばして来た。近づくと、槍を水平にかまえた。的をねらうように穂先がきらりと光った。
「また、クモの巣の術をやってみてもいいけれど、」と、エイロヌイが申し出たが、すぐにいいなおした。「この前やったとき、あまり役にたたなかったわねえ。」
タランは、ぎらりと剣を抜きはなった。「敵はわずか四人だ。ともかく、数だけは対等だよ。」
「剣は、まだしまっておきたまえ。」と、フルダーがいった。「まず、矢が先だ。剣はあとでたっぷり使える。」
一行は、肩の弓をとった。フルダーの指揮で、かれらは一列にかたまり、片ひざをついた。詩人の黄色いざんばら髪が風になびいていた。興奮に顔を輝かせている。「もう何年もちゃんとした戦いをやっておらんのだよ。」と、詩人はいった。「吟遊詩人になっていて、一つだけ物足りんのはそのことよ。フラムの者を攻撃するとどうなるか、やつらも思い知るだろう!」
タランは、矢をつるにあてがった。詩人の命令で、かれらは弓をひきしぼり、ねらいをさだめた。
「うて!」フルダーがさけんだ。
タランは、自分の矢が先頭の戦士から大きくはずれたのを見た。タランは、腹だたしげにさけんで、矢筒から矢を抜いた。となりで、ガーギが、とくいそうにさけぶのがきこえた。矢の一斉射撃で、ガーギの矢だけが的にあたったのだ。射られた戦士は、のどに矢をつきたてて、馬からまっさかさまに落ちた。
「こっちにも針があることが、これでわかったろう!」と、フルダーがさけんだ。「さ、もう一度だ!」
騎馬の戦士たちは向きを変えた。今度は、前より用心して楯をかまえた。三騎のうちニ騎が、正面攻撃をかけてきた。のこった一騎は馬首をめぐらし、全速力で守り手の横にまわった。
「さあ、友よ、」と、詩人がどなった。「円陣をくめ!」
ドーリが、もっと近づいた敵めがけて矢をはなちながら、ぶつぶついうのを、タランは耳にした。ガーギの一の矢は、運がよかっただけであった。今度は、うなってとんでいくどの矢も、敵の軽い楯をかするばかりであたらなかった。タランの後ろで、メリンガーがいななき、はげしく地面をたたいていた。タランは、このめす馬が、ギディオンのためにひじょうに勇敢に戦ったことを思い出した。だが、今はつながれていた。そして、タランは、つなをほどいてやるために、戦列をくずす勇気がなかった。
三騎の敵は、一行のまわりをまわっていた。一騎が楯のない側を守り手にさらした。ドーリの矢が勢いよくつるをはなれたかと思うと、その敵の首につきささった。のこったニ騎は、馬の向きをくるりと変えて、全速力で草原をかけ去って行った。
「やっつけたわ!」と、エイロヌイが大きな声をあげた。「蜜蜂がタカを追いはらったみたいよ!」
フルダーか息をはずませながら、首を横にふった。「わしらのために、これ以上犠牲をはらわないだけさ。こんど来るときは軍勢で来る。それは、こっちの勇気を高く買ってのことだからけっこうなんだが、こっちは待ってはいられない。フラムの者は、いくさも退却も潮もこころえておる。ここのところは、にげたほうがよろしい。」
「ヘン・ウェンはおいて行けない。」と、タランは必死の声でいった。
「じゃ、さがしに行け。」と、ドーリがおこっていった。「豚どころか、首もなくなるぞ。」
「敏しょうなガーギが行く。」と、ガーギが申し出た。「大胆にくまなくさがす。」
「どう考えても、」と、吟遊詩人はいった。「やつらは、また攻めてくる。われわれは、どんな小さな戦力も失うわけにはいかない。フラムの者は、数のひらきを気にかけはしないが、戦士ひとりへったことが致命的になることもある。わしは、あの豚なら、みずから身が守れると確信している。どこにいようとも、今のわれわれより危険は少ないよ。」
タランはうなずいた。「おっしゃるとおりです。しかし、二度までも、ヘンを失ったことが、ぼくは悲しいのです。ぼくは、ヘンさがしをあきらめて、カー・ダスル行きをえらびました。すると、ガーギが、ヘン・ウェンを見つけだしてくれました。そこで、二つの使命をなしとげたいと望むようになっていたのです。しかし、あれか、これか、一つにしなくてはいけないようです。」
「問題はだ、」と、フルダーがいった。「角の王の攻撃開始前にドンの子孫たちに急を知らせる機会が、とにかくあるかどうかだ。その疑問に答えられるのは、ドーリただひとりだな。」
小人は、眉をしかめて、ちょっと考えていたが、「機会がないことはない。」といった。「だが、それには、谷にくだらなくちゃならん。くだれば、角の王の前衛のまっただ中だ。」
「通り抜けられますか?」と、タランがたずねた。
「やってみなくちゃわからない。」と、ドーリはぶっきらぼうにいった。
「きめるのはきみだ。」吟遊詩人が、タランをちらっと見ていった。
「やってみよう。」と、タランは答えた。
その日は、それからずっと、一行は休まずに進んだ。日がくれたとき、タランは休みたいと思ったが、小人は危険だと反対した。一行は、つかれておしだまったまま、ひたすら進みつづけた。フルダーの予期していた攻撃はまぬがれたが、たいまつを持った騎馬の一隊が、矢のとどく距離の所を通過した。一行は、木立ちのへりにうずくまって、炎の流れがくねって曲がりながら、山のかなたにきえるまで待った。ドーリは、すぐに、この小さな一隊を谷におろした。谷にくだると、木々がうっそうとしげるかくれがが見つかった。
だが、夜明けにあらわれた光景は、タランをすっかり絶望させてしまった。谷は、どこに目をやっても、戦士たちでわきかえるようだった。大空を背景に、黒い旗がはためいていた。角の王の軍勢は、せわしなく動く、武装した巨人のように見えた。
一瞬、タランは、わが目をうたがって、ぼう然としてしまった。それから、顔をそむけてつぶやいた。「おそかった。おそかった。失敗した。」
小人が、進軍する軍勢をしらべるようにみている間に、フルダーが大またに進み出て、元気にいった。「一つだけ、まだ手がのこっている。カー・ダスルは、まっすぐ前方だ。このまま進んで、あそこで最後の一戦をしようではないか。」
タランはうなずいた。「そうです。ぼくの部署は、ギディオンの国人のかたわらにあります。ガーギとエイロヌイは、ドーリが安全な所まで、つれて行ってくれるでしょう。」タランは、大きく息をすいこむと、剣つりの革帯をきつくしめなおして、「あなたは、ほんとうによく道案内をしてくれました。」と、小人に向かっておちついてあいさつした。「王さまのもとにもどり、われわれの感謝の言葉をお伝えください。あなたのつとめは、これでおわりました。」
小人は、おそろしい目でタランを見て、ばかにしたようにいった。「おわった! ばかのとんまめ! おまえの身が心配だなんてことじゃないんだぞ。おれは、おまえが切りきざまれるのを見てるつもりがないんだ。おれは、ひどい仕事にゃ、がまんがならないたちでね。好きもきらいもない、おぬしといっしょに行く。」
その言葉がおわらないうちに、一本の矢がドーリの頭上をうなってとんだ。メリンガーが前足をあげて立った。一行の後ろの森から、一団の歩兵が、ばらばらっととび出して来た。
「行け!」吟遊詩人がタランに向かってさけんだ。「全速力で走れ。さもないと全員討死だ!」タランがためらっていると、詩人は肩をつかんで馬のほうにおしやり、その後ろから、エイロヌイをつきとばしてよこした。フルダーは、剣を抜きはなってさけんだ。「わしのいうとおりにせよ!」その目が燃えていた。
タランは、メリンガーの鞍にとび乗ると、エイロヌイを、後ろにひっぱりあげてやった。白馬がぱっとかけだした。エイロヌイが、タランの腰にしがみついているうちに、白馬は、一直線にシダの中をつっきり、角の王の前衛に向かって走った。タランは、方向の指示など、全然しなかった。白馬みずからが、進む道をきめていた。たちまち、タランは敵のまっただ中にいた。メリンガーは、一回あと足でつっ立ってから、どっと突進した。タランは、剣をひき抜き、右に左になぎはらった。一本の手があぶみをつかんだが、すぐに切りはらわれた。タランは、その手の戦士が後ろざまにたおれ、もみあって追いかけてくる軍勢の中に飲みこまれるのを見た。白馬は、軍勢の中を抜けきり、小山の端めざして、光のように走った。今、あとからついてくる敵は、ただ一騎だった。タランは、角の王のかぶとの角が、風を切って迫るのをちらりと見て、ぞっとした。
敵の黒馬は追いついて来た。メリンガーは急角度に向きを変えて、森に向かって走った。角の王も、すぐにあとを追って来た。やぶをばりばりいわせてつっきり、最初の木立ちを通過したところで、ついに、角かぶとの巨人は、メリンガーとならんだ。角の王の黒馬は、あと一息とふんばって、つき進んできた。馬の腹と腹とがふれた。メリンガーは、かっとなってあと足で立ち、前足で打ってかかった。タランとエイロヌイは、鞍からほうりだされた。角の王は馬首をまわして、ふたりをふみつぶそうとした。
タランは、あわてて立ちあがると、めちゃくちゃに剣をふりまわした。それから、エイロヌイの腕をぐいとつかみ、身を守れる森にひきしりぞいた。角の王は、どさりと地面にとびおり、大またにニ、三歩近づいて攻めかかろうとした。
エイロヌイが悲鳴をあげた。タランは、さっと向きを変えて、角の面をかぶった男に立ち向かった。アヌーブンの主その人によってあけられた底なしの穴の中に呑みこまれていくような、どす黒い恐怖心に、タランはとりつかれていた。古傷がまた口をあけたのに似た苦痛を感じて、タランはあえいだ。アクレンのとこりであったときの絶望感がそっくりよみがえり、力がなえてしまった。
まっ白などくろ面の奥で、目をらんらんと光らせながら、角の王は、血で赤くよごれた右手をふりあげた。
タランも、無意識に剣をふりかざしていた。剣が、がたがたゆれた。角の王の刃がはげしくふりおろされ、タランの剣は、その一打ちでくだけとんだ。
タランは、役にたたなくなった柄をすてた。角の王は一息いれた。こみあげてくる殺人のよろこびに低くうなりながら、王は、剣をにぎりなおした。
命のせとぎわの恐怖にかりたてられて、タランは機敏に動いた。とびさがって、くるりとエイロヌイに顔を向け、「ディルンウィン!」とさけんだ。「そいつをよこせ!」
エイロヌイがなにをする間もなく、タランはエイロヌイの肩から、つり皮ごと剣をひったくった。角の王は、その黒いさやを見て、おびえたようにためらった。
タランは、柄をしっかりとにぎりしめた。剣は、さやをはなれてくれなかった。タランは全身の力をこめて抜いた。剣がほんの少し抜けた。角の王が剣をふりかぶった。タランが、もう一度ねじるようにして抜こうとすると、剣は、さやごと手の中でまわった。そのとき、目もくらむばかりの閃光が、真正面の大気をひきさいた。電光がタランの手をこがして、タランを大地にたたきつけた。
ディルンウィンは、白い炎をあげながら、タランの手をとび出し手のとどかない所に落ちた。角の王が、タランの真上に迫った。さけび声をあげて、エイロヌイが角の王にとびかかった。巨人は、歯をむいてののしり、エイロヌイをはねとばした。
そのとき、角の王の後ろで、大きくさけぶ声がした。苦痛にかすむ目で、タランは、木々の前に、背の高いひとりの男が立ったのを見た。意味のわからないさけびもきいた。
角の王は、剣をふりあげたまま、動かなくなった。その剣のまわりを電光がとびかった。雄ジカの角が、まっかなすじに変わり、どくろの面が、とけた鉄のように、くずれて流れ出した。角の王ののどから、苦痛と怒りのさけびがあがった。
タランは、あっとさけんで、腕で目をおおった。地面がうなって、ぱっかりわれたように思った。そして、それっきり、なにもわからなくなった。
19 秘密
すずしくさわやかで、よいかおりのただようへやの高窓から、日光がさしこんでいた。タランは、目ばたきして、低くてせまいベッドからおきあがろうとした。とたんに目まいがして、白いリンネルをぐるぐるまいた腕がずきずきいたみだした。床には、枯れアシがしきつめてあり、明るい日光にあたって、小麦のわらのように黄色に見えた。ベッドのかたわらで、なにか、まだらに日光をうけたものが、もぞもぞ動いて立ちあがった。
「きゅーう、きゅう。」
ヘン・ウェンが、ふがふが、くっくっいいながら、まるい顔いっぱいにわらってみせた。そして、うれしそうにのどを鳴らしながら、タランのほおを鼻でつつきはじめた。ヘン・ウェンは、口をあけた。だが、声が出なかった。へやのすみで、銀のすずをふるようなわらい声がはじけた。
「あなたのその顔、ほんとうに鏡で見せてあげたいわ。まちがって鳥の巣にはいっちゃったさかなみたいな顔つきよ。」
エイロヌイは、やなぎあみの腰かけから立ちあがった。「わたし、あなたがまもなく目をさますだろうと思っていのたよ。だれかがねむっているのを、すわったまま見守ってるっての、どんなにたいくつか、あなたには考えもつかないでしょ。石べいの石をかぞえてるみたいなものよ。」
「ぼくたち、どこへつれて来られたんだい? ここは、アヌーブンかい?」
エイロヌイは、もういちど声をたててわらい、首を横にふった。「まったく、豚飼育補佐の質問らしいわねえ。アヌーブン? ぶるぶる、だわ! あんなとこ、ちっとも行きたくないわよ。あなた、どうして、いつもそう不愉快なことを考えるの? たぶん、傷で頭がおかしくなっちゃったのね。もう、前よりずっと元気になったみたいよ。ゆでたニラのように、まだみどりっぽい顔色だけど。」
「べちゃくちゃしゃべるのやめて、ここがどこだか教えろ!」タランは、寝がえってベッドからおりようとしたが、ぐったりと横になって、片手で頭をおさえた。
「まだ、おきあがっちゃいけないことになってるのよ。」と、エイロヌイが注意した。「でも、自分でそれに気づいたらしいわね。」
大声でぶうぶういって、もぞもぞ動くと、ヘン・ウェンは、もううれしくて、ベッドによじのぼりはじめた。エイロヌイが、びしっと指をならして、命令した。「おやめ、ヘン。タランのじゃまをしたり、おどろかしたりしちゃだめ。乗っかるなんてとんでもない。」そして、またタランに顔を向けて、「ここは、カー・ダスルよ。」といった。「すてきなお城。渦巻き城よりずっとすばらしいわ。」
記憶がいっぺんにもどって、タランはもう一度おきあがった。「角の王! なにがおこったんだ? 角の王はどこにいる?」
「たぶん、墓の中、と思うわ。」
「死んだのかい?」
「そりゃそうよ。」と少女は答えた。「死んでいなかったら、かれがだまって墓になんかはいると思う? 死んでのこったものは、あまりなかったけど、のこりの死体はうずめられたのよ。」エイロヌイは身ぶるいした。「あんなおそろしい男に出くわしたことは、たしか生まれてはじめてよ。アクレンよりおそろしかった。わたしをひどい勢いで、はねとばしたわ――あなたに打ってかかる直前。」そういって、エイロヌイは、頭をなでた。「あのとき、あなた、かなり乱暴にわたしの剣をひったくったわね。わたし、何度も、あれを抜くなっていっといたでしょ。でも、あなたは、きかなかった。だから、腕にやけどしたのよ。」
タランは、あの黒いさやのディルンウィンを、エイロヌイがもう肩からしょっていないことに気づいた。「しかし、それじゃ、どうして……」
「あなた、気絶して運がよかった。」と、エイロヌイは話をつづけた。「あなた、いちばんおそろしいところを見ないですんだのだから。地震がおこったの。そして、角の王は、燃えて、とうとう、そうね、すっかりばらばらになっちゃった。気持ちよくなかったわ。ほんとうのことをいうと、そのことを、わたし口にしたくないの。目がさめている今だって、まるで悪夢を見ているみたいになってしまうのよ。」
タランは、いらいらを歯ぎしりでこらえた。そして、やっといった。「エイロヌイ、事のいきさつを、ゆっくり、くわしく話してくれよ。さもないと、ほんとうにおこるぜ。そうすれば、きみも、あとでくやむことになるんだぜ。」
「わ、た、し、が、な、に、を、は、な、せ、る、の?」エイロヌイは、大げさにしかめつらをしてみせながら、一語一語はっきり区切っていった。「あ、な、た、が、わ、た、し、に、口、を、き、か、せ、よ、う、と、し、な、い、の、に。」そして、肩をすくめてみせた。「ま、とにかく。」エイロヌイは、また、ふだんの息もつかせない早口にもどっていった。「敵軍は、角の王が死んだことを知ったとたん、やっぱり、事実上くずれてしまったの。もちろん、角の王みたいにとけたわけじゃないけど。ま、ウサギの群れみたいに、にげちる形でくずれたのよ。いえ、それもちがうわねえ。とにかく、大の男たちが、あんなにおびえたところは、見ていてあわれだったわ。もちろん、そのときには、ドンの子孫たちも機をとらえて攻撃していたわ。あの金色の旗の波を、見せてあげたかったわ、あなたに。あの美しい戦士たちも。」エイロヌイはため息をついた。「あれは――ちょうど、その――口に出してはとてもいえないわ。」
「それから、ヘン・ウェンは……」
「あなたが、ここへつれて来られてから今まで、このへやから一歩も外へ出ていないわ。」そして、「わたしもよ。」と、タランをちらりと見て、つけ加えた。「ヘンは、とても頭のよい豚ね。そりゃ、ごくたまには、たしかにおびえて分別をなくしてしまうことは、あると思うの。それに、その気になれば、ものすごくがんこにもなるのよ。それを見ていると、わたし、ときどき、豚と、飼っている人間に、ちがいがあるのかなあって考えてしまう。もちろん、これ、特定の人間をさしていってるんじゃないの、わかるわね。」
タランのベッドの真向かいにあるとびらが少しあいて、フルダー・フラムの黄色いとがった髪と、つんと高い鼻がのぞいた。
「それじゃ、きみも、わしらとまた一つになれたんだな。」吟遊詩人が大きな声でいった。「いや、わしらがまた、きみと一つになれた。きみならそういうかもしれんなあ!」
吟遊詩人の後ろにひかえていたガーギと小人が、勢いよくとびこんできた。そして、エイロヌイのとめるのもきかず、わっと、タランをとりかこんだ。フルダーとドーリは負傷した様子がなかったが、ガーギは頭にほうたいをまき、びっこをひいていた。
「ええ、ええ!」ガーギは大声をあげた。「ガーギ、友垣のため、あたるをさいわいなぎたおして戦いました! あのすさまじき剣! たけだけしい戦士たち、ガーギのあわれなやわらかい頭をうちました。しかし、雄々しきガーギは、にげなかった。ぜったいに!」
タランは、心をうたれて、ほほえんだ。「あわれな、やわらかい頭は、気の毒だったね。」タランは、ガーギの肩に手をおいていった。「ひとりの友が、ぼくのために負傷した。申しわけないよ。」
「なんたるよろこび! ああ、あのものすごい戦い! おそろしいガーギ、よこしまな戦士どもをひどくこわがらせ、泣きわめかせてやりましたぞ!」
「ほんとうの話だよ。」と、吟遊詩人がいった。「かれは、いちばん勇敢だった。ここにいる背の低い友も、戦斧でおどろくほどのはたらきをしたのだが。」
ドーリが、はじめてにっこりわらった。「おぬしたちには、ひとりも勇気のあるやつなどおらんと思ったがな。」ドーリは、わざとらしく、つっけんどんにいった。「はじめ、おぬしらを、みんな腰抜けと思ったものよ。深くおわびいたすぞ。」ドーリは、そういい足して頭をさげた。
「わしらは、あの一隊をくいとめた。」と、フルダーはいった。「きみらが十分遠くへ行ったと確信できるまでな。これからしばらく、あの連中の中には、ときおり、わしらを思い出して、にがい思いをするやつがおるであろう。」吟遊詩人は、顔を輝かせた。「そうとも、」と大声をはりあげた。「わしらは絶望的な人数の差にもかかわらず、狂ったように戦った。フラムの者は降伏を知らぬ! わしは、一度に三人を切ってかかった。切った! ついた! べつのひとりが、後ろからわしをつかまえおった。あのなさけない臆病者めが。だが、わしは、ふりとばしてやった。われわれは、敵を追いはらって、カー・ダスルに向かった。八方を囲まれていて、途中ずっと、敵の首をおとし、深手をおわせながら……」
タランは、フルダーのたて琴が、いまにもばらばらに切れるだろうと思っていた。おどろいたことに、糸はぴんと張って、びくともしなかった。
「まあ、それが、」フルダーは、なんでもないように肩をすくめてみせた。「わしらの戦いだったのさ。いざやってみれば、まあたやすいものでね。わしは、事態が悪化してきても、おそれはしなかったよ、一時たりとも。」
一本の弦が、太く低いひびきをたてて切れた。
フルダーは、タランに口をよせてささやいた。「おそれたよ。すっかり色青ざめたのさ。」
エイロヌイが、吟遊詩人をつかまえて、とびらのほうにおし出した。「出て行って! みんな! おしゃべりで、タランをつかれさせてしまうわ。」そして、フルダーのつぎに、ガーギと小人を追いはらった。「はいって来ちゃだめよ! わたしがゆるすまでは、だれもはいって来ないで。」
「わしも、かね?」
タランは、ききおぼえのある声をきいて、はっと身をおこした。
ギディオンが、入口に立っていた。
一瞬、タランは、それがギディオンとわからなかった。よごれた外套と粗末な上着ではなく、ギディオンは、輝くばかりの王子の服をまとっていた。首にかけたくさりの先には、太陽を型どった黄金の円盤がさがっていた。みどり色の目は、前とちがった深味をたたえ、新しい力がこもっていた。タランは、はじめて、以前に想像したとおりのギディオンを見たのだった。
腕の傷などすっかりわすれ、タランはベッドからはねおきた。長身の英雄も大またに近づいた。この武将の物ごしの威厳にうたれ、タランは片ひざをついて、つぶやいた。「ギディオン殿下。」
「友だちどうしは、そんなあいさつはしないものだ。」ギディオンは、タランをやさしく助けて立たせながらいった。「カー・ダルベンに近い森で、このわしに毒を盛られはしないかとおそれていた豚飼育補佐を思い出すと、いや、ますますたのしい気持ちだよ。」
「渦巻き城このかた、」タランは、せきこんでいった。「生きてふたたびお目にかかれるとは、思ってもいませんでした。」タランは、ギディオンの手をしっかりつかんで、恥も外聞もなく涙を流した。
「そなたよりは、少し元気に生きておるぞ。」ギディオンは、にっこりわらっていった。そして、手をかして、タランをベッドにすわらせた。
「しかし、いったいどうして……」タランは、ギディオンが、黒ざやの、傷だらけの剣を腰におびているのに気づいて、質問をはじめた。
ギディオンは、タランの表情を読みとっていった。「贈りものだよ。若い貴婦人からの王家への贈りものだ。」
「わたし自身の手で、腰につけてさしあげたの。」エイロヌイが話にわりこんだ。そして、ギディオンを見ていった。「わたし、この人に、抜いてはいけないっていったんですけれど、この人は、手がつけられないほどがんこなんです。」
「すっかり抜きはなたなくて、よかった。」と、ギディオンがタランにいった。「ディルンウィンの炎は、いかにきみが豚飼育補佐であっても、強力にすぎただろうと、わしは思う。
「これは、エイロヌイが気づいていたとおり、力の武器なのだ。」と、ギディオンは、話を進めた。「ひじょうに古いもので、わしも伝説にすぎないと信じていたのだ。今もまだ、ディルンウィンについては、賢者中の賢者すら、とくことのできない深い秘密がある。これが持ち出されたために、渦巻き城はくずれ落ち、アローンには、手いたい打撃となったのだ。」
ギディオンは、力をいれただけで、たやすく剣を抜きはなち、高くさしあげた。剣は、目もくらむばかりに光り輝いた。恐怖とおどろきのため、タランはしりごみした。傷がまたうずきだした。ギディオンは、急いで剣をさやにおさめた。
「わたし、ギディオン殿下にお会いしたとたん、」エイロヌイが、すばらしいといった目で、ギディオンを見て、また口をはさんだ。「この方こそ、その剣を持つべき方だと知ったのよ。正直いって、そのやっかいなものがかたづいて、ほっとしたわ。」
「口をはさむな。」と、タランが大声をあげた。「きみがべちゃくちゃはじめる前に、友の身になにがおこったかを、ぼくにきかせてくれよ。」
「長話で、そなたをつかれさせてはいけないな。」と、ギディオンがいった。「アローンの脅威がとりのぞかれたことは、もう、そなたも知っておるだろう。また攻撃してくるかもわからんし、その方法や時は、だれも予測できない。だが、今のところ、脅威はほとんどない。」
「アクレンはどうなりました?」と、タランはたずねた。「それから渦巻き城は……」
「渦巻き城がくずれたとき、わたしは、あそこにもういなかった。」と、ギディオンはいった。「アクレンが、わたしを牢からつれ出して、馬の背にくくりつけたのだ。不死身がついて、われわれはイース・アニースの城へうつった。」
「イース・アニース?」タランは質問した。
「アヌーブンの要塞だ。」と、ギディオンがいった。「渦巻き城から、さほど遠くない。アローンが、プリデインに対して、今より大きな支配権を持っておったときにつくられたものだ。死のとりでだよ。城壁には、人骨がうず高くつみあげられている。アクレンがどんな拷問をもくろんでいるか、わたしには予測できたよ。」
「だが、わしを土牢にほうりこむ前に、アクレンめ、わたしの腕をかたくつかんでいったのだ。『ギディオン殿下、あなたは、なぜ死にたいのです? 人間にはけっしてつかめない、永遠の生命と権力を、このわたしが与えようといっているのですよ。』
「『わたしは、アローンよりはるか以前に、プリデインをおさめていました』と、アクレンは語ってくれた。『アローンをアヌーブンの王にしたのは、このわたしです。力を与えたのも、このわたしです――ところが、きゃつめは、その力を使って、わたしを裏切りました。しかし、あなたが望むなら、アローンの玉座におさまり、かわって支配権をにぎれるのです。』
「『アローンはよろこんで、たおそう。』と、わたしは答えた。『そして、その力をもって、アローンともども、おまえをほろぼしてやる。』
「アクレンは、かんかんになって、わたしをいちばん深い土牢にとじこめた。」と、ギディオンはいった。「イース・アニースにいたときほど、死の危険が迫ったことはない。」「どのくらい、あそこにとじこめられていたのか、たしかなことはわからない。」と、ギディオンは話をつづけた。「イース・アニースにいると、時というものが、ここにいて考えるのとまったくちがうのだ。アクレンが考えだした拷問のことは、話さないほうがよい。もっとも邪悪な拷問は、からだに与えるものではなく、精神に与えるものだ。その中でも、もっとも苦しいのは絶望だ。だが、苦しみのどん底にあっても、わたしは希望にしがみついていた。イース・アニースは、わたしに考えさせてくれた。人間が耐えていれば、死すら、その秘密をついにあかしてくれるということを。
「わたしは、耐えた。」と、ギディオンはおちついた声でいった。「そして、ついに、以前はかくされていてわからなかった多くのことが、あきらかになったのだ。この点についても、わたしは語ろうとは思わない。わたしは、生と死、わらいと涙、始まりとおわりなどのはたらきを理解したというだけで、そなたには十分であろう。わたしは、世の真実を知った。そして、いかなるくさりも、わたしをしばっておくことはできないと知った。わたしをしばっているものは、夢のように軽くなってしまった。その瞬間、牢獄の壁がとけてなくなった。」
「アクレン、どうなりました?」と、エイロヌイがたずねた。
「わからない。」と、ギディオンはいった。「あれ以来、会っていない。何日かの間、わたしは、傷をなおすために森にひそんでいた。そなたたちをさがしにもどってみると、渦巻き城はくずれ落ちていた。わたしは、そなたの死をいたんで喪に服した。」
「わたしたちも、あなたの喪に服したのです。」と、タランがいった。
「わたしは、ふたたび、旅をつづけ、カー・ダスルに向かった。」と、ギディオンは話をつづけた。「しばらくの間、フルダーがえらんだと同じ道を進んだのだ。もっとも谷を横切ったのは、ずっとおくれてだった。そのときはもう、すこしだが、そなたの一行を追い抜いていた。
「谷を横切った日、一羽のギセントが空から、急降下してきた。ところが、おどろいたことに、わたしを見ても、攻めもかかりもせず、急いでとび去りもしなかった。へんな鳴き声をあげながら、わたしの前をとんでいるのだ。ギセントの言葉も、もうわたしにはわかるし、どんな生きものの言葉もわかる。だから、一団の旅人が近くの山から動きだしたこと、その一行には白い豚がいっしょにいることがわかった。
「わたしは、あわててひきかえした。そのときはもう、ヘン・ウェンは、わたしが間近にいることを感じとっていた。そこで、そなたのもとから走ったのだが」と、ギディオンは、タランに説明した。「それは、恐怖にかられたのではなく、わたしを見つけるためだったのだよ。ヘン・ウェンからきいたことは、わたしの予想よりはるかに重大なことだった。それで、アローンの武将が、必死にヘンをさがしていたわけもわかった。かれも、ヘン・ウェンが、かれを破滅に追いこむ、ある秘密を知っていることに気づいていた。」
「なんですか、それ?」タランがせきこんできいた。
「ヘン・ウェンは、角の王のほんとうの名まえを知っていた。」
「名まえですって?」タランは、びっくりして、思わず大きな声を出した。「名まえがそれほどの力を持つとは、今まで気がつきませんでした。」
「うむ。」と、ギディオンは答えた。「悪を直視する勇気をもち、その本質を見きわめようとし、そのほんとうの名をつかめば、悪は無力になってしまうから、ほろぼすことができるのだ。だが、わたしの英知のかぎりをつくしても、」そこで、ギディオンは手をのばして、白豚の耳をかいてやりながら、「ヘン・ウェンがいなかったら、角の王の名を知ることはできなかったであろうな。」
「ヘン・ウェンが、森の中で、その秘密をあかしてくれたのだ。わたしとヘンは、無言で心が通じあうので、文字杖も魔法の書もいらなかった。かのギセントが、頭上を旋回しつつ、角の王の所まで、わたしを案内してくれた。そのあとは、そなたの知るとおりだ。」
「そのギセントは、今どこにいますか?」と、タランはきいてみた。
ギディオンは、首を横にふった。「わからん。だが、アヌーブンへ帰ったかどうか。彼女の所業がアローンの知るところとなれば、八つざきにされるにちがいないからな。わかっているのは、あの鳥が、そなたの親切に、申し分なく恩がえしをしたということだけだ。
「それでは、休むがよい。」と、ギディオンはいった。「このつぎには、もっとたのしいことを話そう。」
「ギディオンさま。」立ちあがって去ろうとするギディオンに、エイロヌイが声をかけた。「角の王のほんとうの名まえを、おきかせくださいませ。」
ギディオンの、しわの多い顔がほころんだ。「それは、秘密にしておかねばならない。」そういって、ギディオンは、少女のほほを、やさしくなでてやった。「だが、そなたの名まえの美しさとは、くらべものにならんとだけはいえる。」
数日後、タランがひとりで歩けるほど回復すると、ギディオンは、カー・ダスルを一まわり案内してくれた。とある小丘に立ってみると、とりでだけでも、カー・ダルベンが七つ八つはいるほど広かった。武具製造所があった。うまやには、軍馬がずらりとならんでいた。ビールをつくる所もあった。織りものをするへやもあった。下の谷間には、民の家々が群がってたっていた。清流が、日を受けて黄金色に輝きながら流れていた。その日おそく、ギディオンは、タランの一行を、カー・ダスルの大広間によんだ。一行は、旗と槍が林のようにならぶ大広間で、ドンの家の主マソウヌイの息子マース王の感謝の言葉をうけた。ひげの白いこの老王は、ダルベンと同じように年老いていて、やはりおこりっぽかったが、エイロヌイよりさらによく口がまわった。王の話ほど長い話を、タランは、今まできいたことがなかった。それがようやくおわると、一行は頭をさげ、王は、護衛にささえられて、金色の布をしきつめたこしに乗って、広間から出て行った。タランたちが別れのあいさつをしようとすると、ギディオンが声をかけてきた。
「偉大な武勇にくらべれば、ささやかなものではあるが、わたしにできる贈りものをいたしたい。わたしの心からの贈りものである。そのねうちよりも、むしろ、この思い出のために、たいせつにしてほしいとねがう。
「フルダー・フラムには、たて琴の弦を一本贈る。これは、どれほど武勇を誇張しようとも、けっして切れることがなく、音色はこの上なく美しく、心のこもるものである。
「小人族のドーリには、それを望まなくなるときまで、姿をけす力を与えよう。
「忠実にして雄々しきガーギには、食糧のたえることなき袋を与えよう。たいせつにいたせよ。これは、プリデインの宝物の一つである。
「リール家のエイロヌイには、大むかし、小人族の職人がけずった宝石をつけた金の指輪を与える。価値あるものだ。しかし、わたしには、友情のほうがはるかに尊い。
「そして、カー・ダルベンのタランには……」といって、ギディオンは一息いれた。「なにを贈ったらよいか、まことにむずかしい。」
「わたしは、なにもいりません。」と、タランはいった。「わたしは、自分から進んでしたことと、友情とみずからの名誉のためにしたことに対して、友人からおかえしをもらおうとは思いません。」
ギディオンは、にっこりしていった。「あいかわらず性急でがんこだな。よいか、わたしは、そなたが内心であこがれていることを、よく知っておる。武勇、真の価値、功業を求める夢は、気高い夢である。だが、それを実現させるのは、わたしではなく、そなた自身である。なんなりと、ほかのものを望むがよい。かなえてとらそう。」
タランは、礼をかえした。「多くの危難には会いましたが、わたしは、殿下の、この北国の山や谷が好きになりました。それでも、心は、ますます、カー・ダルベンにひかれております。帰郷したくてたまりません。」
ギディオンは、うなずいた。「かなえてとらす。」
20 帰郷
カー・ダルベンへの旅は、じゃまがなくて速かった。南のカントレブの王たちは、魔力をうちやぶられて、それぞれの領土に、こそこそともどったからであった。タランとその一行は、ギディオンにわざわざ案内してもらい、イストラド渓谷を南下した。エイロヌイは、タランから、何度も、コルとダルベンの話をきかされていたので、さそわれてもことわらず、いっしょについて来た。ギディオンは、一行全部に、すぐれた軍馬を贈った。タランが贈られた馬がもっともすばらしかった。それは、メリンガーの血をひく雄馬で、銀色のたてがみを持ち、からだは灰色で、メリンガーにおとらぬ脚力をほこっていた。ヘン・ウェンは、とくいそうに馬用のかごにおさまり、心から満足そうだった。
カー・ダルベンが、これほど心から人をむかえたことなど、今までになかっただろう。とにかく、ごちそうだけでも、さすがのガーギがはじめて満腹したのだった。(タランは、もうそのときには、ダルベンが、今までのことをすっかり見通していたのではないかと考えていた。)コルタランをだきしめた。コルほどの英雄が、豚飼育補佐をおぼえていてくれたうえに、エイロヌイやヘン・ウェンや、そのほかの人たちみんなを、歓迎してくれるのを見て、タランはただもうびっくりしていた。コルの顔は、冬の暖炉の火のように輝き、はげ頭まで、うれしそうに光っていた。
ダルベンは、瞑想を一時やめて、宴会に出た。だが、宴が果てるとすぐ、自分のへやにひきこもり、しばらく姿を見せなかった。あとになって、ダルベンは、ギディオンとふたりだけで、数時間話しあった。ギディオンには、この老予言者にしかもらすことのできない重要な話があった。
ガーギは、すっかりくつろいで、納屋のほし草の中にもぐって、ぐうぐうねむった。フルダーとドーリが、あたりをぶらつきに出ると、タランは、ヘン・ウェンの囲いをエイロヌイに見せてやった。白豚は、前と代わらず、きゅうきゅう、ぶうぶういって、たのしそうだった。
「それじゃ、ここが、そもそもの発端なのね。」と、エイロヌイがいった。「あらさがしをするようにきこえちゃこまるけれど、もし、あなたが、ヘンをちゃんと囲っていたら、あれほど難儀はしなかったと思うわ。カー・ダルベンは、あなたのいってたとおり、すてきな所ね。もどれてうれしいでしょ。そうね、さがしていたものの置き場所を、ふいに思い出したみたいな感じね。」
「うん、そうなんだろうな。」タランは、さくによりかかって、さくをしげしげと見た。「これから、どうするの?」と、エイロヌイがきいた。「また、豚飼育を補佐するんでしょ。」
タランは、目をあげずにうなずいてから、「ね、エイロヌイ」とおずおずした調子でいった。「ぼく、思っているんだ――その、つまり、考えてたんだけどね……」
おわりまでいわないうちに、コルが急いでやって来て、ダルベンが、ふたりだけで会いたいといっていると、タランに告げた。
「エイロヌイ――」タランは、もう一度いったが、ふいに口をつぐみ、大またに小屋へはいって行った。
へやにはいって行くと、ダルベンは、大きながペンで、<時の書>に書きこみをしていた。だが、タランを見ると、すぐに書をとじてわきにかたづけた。
「さて、さて、」と、ダルベンはいった。「わしらふたりだけで、おちついて話しあいたいのじゃよ。まず、はじめに、おまえは、英雄となったが、それをどう思うかききたいものだな。たぶん、おまえは、ややとくいな気持ちであろう。しかし、」と、ダルベンはあとをつづけた。「おまえの顔には、そんな様子が少しも見えんが。」
「とくいになるわけが少しもないのです。」タランは、すわりなれた木の長いすに腰をおろして、いった。「角の王をほろぼしたのは、ギディオンでした。そして、ヘン・ウェンが、それを手伝ったのです。そして、ヘン・ウェンを見つけたのは、ぼくではなく、ガーギでした。ぼくが、抜くだけの器量もないのに名剣を抜いて負傷したとき、ドーリとフルダーは、輝かしい戦いをしました。それに、その名剣を墓所からとり出したのが、そもそも、エイロヌイだったのです。ぼくは、ほとんどいつも、へましかやりませんでした。」
「おや、おや、」と、ダルベンはいった。「この上なく陽気な宴会でも、しめっぽくなるほどのぐちじゃな。だが、おまえのいったことは、そのとおりかもしれぬが、おまえにも、少しは誇ってよいことがあるぞ。一行をまとめいてひきいたのは、おまえだ。おまえは、はじめの目的をなしとげ、ヘン・ウェンは無事ここへもどった。へまをしでかしたとしても、おまえは、それに気づいている。前にもいったとおり、見つけるより、さがすことのほうがだいじな場合もある。
「みなが、同じ目標をめざして、危険をともにするならば、」と、ダルベンは、さらにいった。「だれがなにをしたかなど、ほんとうにだいじなことかな? われわれのおこないは、まったくのひとりの力でできるものはない。他の人間のだれにも、自分の一部分がある。だれよりも、おまえは、そのことをわきまえていなくてはならん。
「きくところによると、おまえは、友人のフルダーと同じくらい性急であったそうな。中でも、いばらの茂みに、やみくもにつっこんだ夜の話がそれだ。それから、おまえは、ガーギと同じくらい、自分をなさけなくも思っていた。また、ドーリ同様、不可能なことをしようとつとめた。」
「ええ、」と、タランもうなずいた。「しかし、ぼくのなやみは、そればかりではありません。ぼくは、しょっちゅう、カー・ダルベンの夢を見ました。そして、以前にもまして、ここが――そして、あなたとコルが好きになりました。ここにもどることだけが、もっとも強い望みでした。ところが、おかしな気持ちなのです。以前寝起きしていたへやにもどってみると、おぼえていたよりも小さいのです。畑や野原は、美しいのですが、思い出にあるほど美しくはありません。そこで、なやんでいるのです。ぼくは、もう、生まれ故郷でも、よそ者になってしまったのでしょうか?」
ダルベンは、首を横にふった。「ちがうぞ。おまえが、よそ者になることはない。だが、小さくなったのは、カー・ダルベンではない。おまえが大きくなったのだよ。それが自然な成りゆきなのだ。」
「それと、エイロヌイのことがあります。」と、タランはいった。「彼女は、どうなるのです? ここで――ここで、いっしょにくらすことは、できないんですか?」
ダルベンは、かたく口を結んで、<時の書>を、いたずらするようにめくった。「当然、エイロヌイ王女、うむ、彼女は王女なのだよ――は、親族のもとにもどらねばならん。」と、ダルベンはいった。「そのことを彼女は話さなかったかな? だが、急ぐことはあるまい。ここにとどまることを承知するかもしれぬ。おまえから、そういえばじゃが。」
タランは、ぱっと立ちあがった。「いいます!」
タランは、大急ぎでへやをとび出し、ヘン・ウェンの囲いに向かった。エイロヌイは、まだのこっていて、予言する豚を、おもしろそうにながめていた。
「きみ、ここにいられるんだよ!」と、タランは、思わず声をはりあげた。「ぼくが、ダルベンにたのんだんだ!」
エイロヌイは、つんと頭をそらせた。「わたしにたのむことは、まるでわすれていたらしいわね。」
「うん――でも、ぼくは……」タランは口ごもった。「ぼく、考えなかったんだよ……」
「いつだってそうよ、あなたは。」エイロヌイは、ため息をついた。「まあ、いいわ。コルが、わたしのへやをととのえているところよ。」
「もう?」タランは、また大声をあげてしまった。「コルが、どうして知ってたんだろう? それに、きみがどうして?」
「ふん!」と、エイロヌイがいった。
「きゅう!」と、ヘン・ウェンがいった。