黄金のロバ
アプレイウス/呉茂一・国原吉之助訳
目 次
はしがき
巻の一
巻の二
巻の三
巻の四
巻の五
巻の六
巻の七
巻の八
巻の九
巻の十
巻の十一
解題――呉茂一
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はしがき
西洋の古典、つまりギリシア・ラテン文学の正統は、もちろん詩歌にあるとしなくてはなるまい。悲劇喜劇の演劇も、古代では格律の正しい劇詩であった。しかしその間にも追々と散文精神が、市民社会の興起に伴って目ざめて来た。その主なのは哲学(この中にはプラトンがある)や歴史(へロドトスやトゥキュディデスなど)、弁辞(デモステネス、キケロ)であろうが、これは詩の本地とされた「創作」の分野にまでついに及んで、紀元前後から小説、あるいは散文体の物語を生みだすようになった。
そして古代小説も、いろんな点で、それぞれに独特なすぐれた味わいをもち、現に欧米でもなおひろく愛読されているのは、例えばペンギン叢書に、この『黄金のロバ』が『イリアス』や『オデュッセイア』などと一緒に入れられているのでも知られよう。ペトロニウスの『サチュリコン』は、古代の『泥棒日記』として、つきつめた放下《ほうげ》の生活を、冷たい、うらぶれた眼で見極めている。
それに対してこの「ロバになった人間」の物語は何といえよう(これが昔からの文学史家の一問題だが)。ともかくそこは「魔術の世界」、それもたぶんに戯画化された魔法の横行する世の中である。魔女に寝首を掻かれる恋人、鼻をまちがえて殺《そ》ぎ取られる死体の番人、酒袋の化けた強盗など。またそれは無法者の横行する世界でもある。強盗や人殺しや怪《け》しからぬ役人や淫猥な坊主たちや、夫の眼をぬすんで情夫と戯れる女や。あるいはそれは現代の、もしくはいつも変わらぬ人間の世の姿かも知れない。そして作者アプレイウスは、面白い話の書き手というより、痛烈な諷刺作家なのかも知れない。現にそこには縹緲《ひょうびょう》として美しい≪愛とこころ≫の物語「クピドとプシケ」が織り込められている(第四巻末尾より第六巻まで)。またこのロバは、人間の色欲に溺れながら、それを厭離《えんり》してついにイシス女神の教えに帰依するのである。第十一巻のこの「女神の夢」はたしかに崇高な宗教体験といえるものを描いている。しかし、ともかくそれは「教え」を決して表に現さず、まず何よりも「楽しませること」を心掛ける、恐らくあのルオーの「道化師」の顔をここに挿画として入れても、必ずしも不適当ではあるまいと思われる。この連想が、訳者の身びいきか、それともまことかは、もとより読者の判断にまかせられようが。もとよりネロやドミティアヌスらの暴君がはびこったローマの末世、アプレイウスをどれほどの求道者とするかには、多くの異論があろう。
昭和三十年初夏 呉茂一
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巻の一
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発端―アリストメネスと魔女メロエの奇譚―テッサリアでミロオの邸《やしき》に泊ること
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さてこれから、私がご存じのミレトス風な物語〔ミレトスは小アジアの商都、いろんな奇譚集がここで作られたといわれる〕に種々さまざまなお噺《はなし》を織りあわせ、ご屓負《ひいき》にして下さる皆さんのお耳をたのしいさざめきでうっとりさせよう、というわけなのですが、まずそれにはこのナイル河の葦筆《カラモス》で事細かに記しあげたエジプトの書巻をご覧《ろう》じ下さりませ。いろんな人物の姿や身の上が、ほかの形に変えられてから、また今度は順ぐりに元の相貌に還りつくという、不思議な話をまあ聴いて下さい。
では始めるとして、この男、作者は一体どういう人間か、手短かに申し上げれば、あのアッティカ〔アテナイ周辺の州〕のヒュメットス山、コリントスのイストモス、スパルタのタイナロス岬、こういった名誉の土地、それ以上にも名誉な書物で永遠に伝えられてる、その国〔ギリシア〕が私の古い故郷なんでして。そこでまず子供時分の最初の課業にアッティカの言葉を覚え込み、それから間もなくローマの都へと学問をしに罷《まか》り出ていろいろと苦労し、手引きをしてくれる師匠もなしに、地つきのラテンことばを勉強にかかったという次第なのです。
さればこそいま、私としたことが異国のしかも公け場所の言葉づかいに、もしはしたない物言いでもして失礼申し上げました折には、平にご容赦おき下さるようあらかじめお願いいたしておきます。
いやもう実際、この言語をギリシアとラテンと取り換えましたは、ほんに曲馬で走っている馬から馬へと飛びうつる術と同じこと、これから取りかかろうという話の振りにも対応してるわけなのでして。つまりこれから始まるのはギリシア仕立ての物語。さあ皆さん、聴いて下さい。面白いことは請け合いましょう。〔一〕
テッサリアへ、というのは私どもの母方の先祖がもともとそこに住まって、あの有名なプルタルコス〔『対比列伝』の作者で、西暦一世紀の人〕やその甥に当る哲学者セクストゥスを出したため、世にも知られ我々の自慢の種にもなってますので――そのテッサリアへ私が所用で出かけた折のことでした。険しい山路や滑りやすい谷、露をおく草原や一面に耕された田畑などをわたってゆくうち、乗ってたまっ白な地生れの馬もずいぶん疲れてきましたので、私自身も鞍に坐りきりの疲労をこのさいすこし活溌に歩いて医《いや》そうと考え、馬から飛び降りると額の汗をていねいに拭き取ってやり、耳を撫でたり手綱を弛めたりしてから、だんだんと緩歩《ゆるあし》にすすめてまいりました。いつものように自然の力で疲れの苦しさがおのずと消えてゆくまでと考えまして。
さて馬が道々の草原を、散歩ながらの朝飯というわけで、口を横にひんまげながら、うつむいてしきりに食ってゆくうち、二人の道づれが、たぶんちょっと先を歩いてたものらしく、私と一緒になりました。そこで私は一体どんなことを話しあってるのかと耳を傾けますと、一方の男が高らかに笑いたてて、
「おい勘弁してくれ、君、そんな風におそろしい馬鹿げた嘘をついて人を瞞《だま》すのは」というので。それを聞くと、そうでなくとも平生珍らしいことってえと夢中な私は、「どうか是非、私にもその話を聞かせて下さい」と申しました。「いえ、別に物ずきでというばかりじゃなく、できるだけ沢山の知識を、私はつねづね仕入れたいと考えてるものですから。またそうすれば、これから越すあの丘の険しさも、お話の面白さで、ずっと容易《たやす》く思われましょうし」〔二〕
するとはじめの男がいいますには、「その嘘の本当らしさは、魔法のまじないで速い河が逆さまに流れる、海がじっと縛りつけられる、風がそよともせず死に絶える、いや、太陽のゆくてを遮《さえぎ》り月のしずくを搾《しぼ》り、星をねじまげ昼をくらくし、夜をいつまでも続かせることができる、なんていうのが本当なのと同じくらいだ」
そこで私もいっそう勢いこんで、「ねえあなた、あなたがまず先に話をしだしたのですから、いまさら怠けたり倦《あ》きたりしないで、あとを続けて下さい」といって、もう一人のほうに向い、「だがあなたは聞く耳も持たず心も頑固で、あるいは本当だと確められるかもしれないことを受けつけようとなさらないんですね。他人の間違った意見に惑わされて、はじめて見聞きする不思議なことを、嘘だと考えなしに思ってるんでしょう。とりわけあなたの理解力に届きにくいようなことはね。でもそれをもう少し詳しく気をつけて調べてゆけば、はっきりと会得もできるばかりか、実際自分で楽にやれることすら解るんですよ。〔三〕
まったくのこと、私だって、こないだの晩チーズでまぶした麦の塊りを、友達と会食の席でしたが、ほんのちょっと大きいのをおくれまいと嚥《の》み込んだところ、食物がねばっこく咽喉《のど》にくっついちまって、息の通うみちを塞いだものですから、すんでのところで死にかねませんでした。それがついこの間もアテナイで、しかもあの画廊《ストア》の前でもって、この両眼で見たばかりじゃありませんか、手品師が砥ぎすました騎士の刀を、鋒《きっさき》を下にむけて嚥みこんじまったのを。それからつづいて僅かばかり銭をやったら、猟につかう槍をですよ、いまにも命を取りそうな鋩《きっさき》から、腸のなか深くつき入れちまったんで。
しかもですよ、その槍のはがねの先の、ちょうど刃物の柄がのどくびを抜けて頭のてっぺんに向うところに、しなやかな様子のいい小童《こども》が登って、いろいろと体をねじり曲げ、骨も筋もないみたいに踊りつづけたので、居あわせた我々の誰ひとり感心しない者はありませんでした。まるで医術の神アエスクラビウスの杖に――半分小枝を切りとって瘤だらけなのをお持ちですが――それへ見事な蛇がぬらぬら巻きついてるようといってもいいくらい。ですがさあ、どうかあなた、さっきお始めになったあの話をもう一度くり返して下さい。私はこの方に代わって、ひとりでもあなたの話を本当にしますよ、それで私らが最初に出逢う飯店《はたご》で一緒に昼飯にしましょう。それをまあお話の駄賃として定《き》めておくことにします」〔四〕
するとその男はいいました、「いかにもそうあなたが約束して下さるのは、ご親切な嬉しいことです、じゃあ、やり始めた話の先をつづけましょう。だがその前にあなたに誓っておくが、あの万物をみそなわす太陽神にかけて、私の話は実際まったく確かなことで、もしあなた方がテッサリアでとっつきの町へ辿《たど》り着いたとしたら、それ以上疑いつづけはなさらんでしょう。その地方ではそんなことは隠れもない大っぴらな事柄で、しょっちゅう口の端にのせられている話なんだから。
ところで初めに私の国はどこかお解りのようお話すれば、アイギオンの者なのでして、何の商売で生計《くらし》をたててるかというと、蜂蜜とか乾酪《チーズ》とか、そういった種類の品を、テッサリアやアイトリアやボイオティアなどあちこち往来して商いをしてるわけなのです。でこのヒュパテの町へ、というのはテッサリア中でもここがとりわけ賑やかなところなもので、そこで新鮮な、殊《こと》に味の好い乾酪《チーズ》がどっさり手頃な値段で買えるということを聞いたものですから、そいつをすっかり買い占めようと、急いで馳けつけて来た次第でした。それがですねえ、よくあるように、左の足から〔左は凶兆とされていた〕踏み出したもんで、金儲けのあてがすっかり外れちまったんで。すぐ前の日にルプスという大手の卸商人がみんな買い占めてしまったもんでしてね。
そんなわけで私もくたびれてしまい、ちょうど夕方にもなったので、浴場へ出かけると、そこで、自分の朋輩のソクラテスという男が目にはいったのです。〔五〕
地べたにそいつは坐りこんで、ぼろぼろな古外套で半分体をおおい、顔色も蒼《あお》くて殆んど別人かと思うばかり、ひどく痩せこんで顔かたちもすっかり変わり、まるでよく町の辻で憐れみを乞う運命の敗残者といった姿《なり》でした。そんな風だもので、もともと身内のごく親しい間柄ではあったものの、ためらいながら傍《そば》へ近づいていいました。
『おい、こりゃあソクラテス君じゃないか、一体どうしたというのだ。なんて様子をしてるんだ。どんな罪過を犯したのかね。まったく君の故郷《くに》じゃあもう死んだ者として、君は葬式《とむらい》も悼《くや》みもすまされてるんだぜ。それで君の子供たちには、地方判事の命令で後見人が指定されてるし、細君のほうは毎日嘆き悲しんでやつれ果て、ほとんど盲目になるくらい自分の眼を泣きつぶしてしまうところだったが。死人への最後のつとめも果して、ふしあわせな家の中を新しい婿《むこ》取りのよろこびで陽気だたせるようにと、両親から迫られているところなんだ。それなのに君はこんな幽霊みたいな姿《なり》をして、我々にひどく恥かしい思いをさせるのかね』
すると彼は答えて『アリストメネス君、君は運命のあてにならぬ紆余曲折《うねりくねり》や危なっかしい突っ込み、次々の移り変わりなどというものを知っていないのだ』というと、いきなり綴りあわせたぼろぼろの衣で、もうさっきから恥かしさで染めていた顔を蔽いました。それでお臍《へそ》からずっと足の先までむき出しになってしまった。でも私はとうていこんなに悲惨なさまを見るに忍びなかったので、手をかけて彼を引き起こそうとしました。〔六〕
しかし友だちは、相変らず顔をかくしたままで、『許してくれ、どうか、もう暫く運命に勝利を誇らしておかせるがいい』といいます。でもとうとう、後について来させる一方、すぐさま二枚着ていた衣の一つを脱いで大急ぎで着せた、というよりは被《かぶ》せたといいますか、それでいきなり浴場へ連れ込みました。
油をぬるのも、それを拭き取るのも、みな私が自分の手で世話してやった。ひどい垢《あか》のつもったのも、せっせと擦《す》り取ってやったので。ていねいに身じまいをさせてから、自身さえもうだるいところを、疲れきった友だちをやっとの思いで助けながら、宿屋へひっぱってゆきました。床にやすませ食物を十分にやり、酒をのませて気分を和《やわ》らげ、いろいろ話をして元気づけてやったのです。
そのうちだんだんと話や冗談にも気がはずみ、洒落や悪口などもいい出して、無遠慮な品さだめも構わずやるうち、ふと胸の奥から腹わたを裂くような嘆息をついて、右の手で烈しく額をうちつづけながらいい出しました。『なんて惨めなことだろう、僕は剣闘技の試合を、あまり評判が高いもんだから、見物したいと思ったばかりに、こんな不仕合せな目に遭っちまって。
だって、君もよく知ってるとおり、僕は商売の用でマケドニアへ出かけ、十カ月ほどそこへ逗留してだいぶ金も儲けてから帰ってくるところを、ふとラリッサ〔テッサリアの主要な町〕へ着くちょっと前に、通りがかりに試合の見世物へ入る気になったんだ。それで、本道をはなれ沼の多い谷あいにさしかかると、盗賊のとても多勢な群にとりかこまれ、持ち物をすっかり奪い取られてしまった。やっと逃げることができたけど、すっかり困りきって、とある旅籠《はたご》に行ったところが、そこの女主人のメロエというのが姥桜《うばざくら》ながらまだなかなかの美人で、その女に僕は長いあいだの旅や、苦労にみちた帰り路のこと、惨めにも盗賊にやられたことなど話してきかせたわけだ。
するとその女は僕を普通以上にやさしくもてなしはじめ、まずいろいろな馳走を、しかも無料《ただ》でしてくれたが、そのうち欲情に駆られて僕を寝室につれ込んだ。それで、一度その女のいうままになってからというものは、憐れにも僕はずっと忌わしい災いを身に受けることになり、まえに盗賊が親切にも着料として残しておいてくれた衣類さえも、その女にくれてやってしまった。そのうえ、これまで自分がせっせと荷運びをやって稼いだ駄賃まで貢《みつ》いでたのだ、ついさっき君がみたとおりのあんな姿に、その女の親切と運命の不幸とが僕をしてしまうまでね』〔七〕
『全く君はどんなひどい報いも』と私はいった、『受けるのが当り前だよ、いまのそのざまよりひどいことがあるとすればね。だって君は自分の家庭や子供たちより、そんな汚らわしい欲情や皺くちゃな売女《ばいた》のほうを選んだのだもの』すると友達は人さし指を自分の口にあて、気が遠くなるほど度を失いながら、『しっ、しっ』というんです。そしてあたりを見まわしました。『口を慎しみたまえ、神聖な婦人に対して。あまり無礼なことを喋って自分の身に災難を蒙らぬようにしたがいい』
『じゃ何かね』と私はいいました、『その大そうな勢いの女王さまみたいな宿屋のおかみは、どういう女だっていうんだ』
『神様のような女占いなんだ、それで天を喚び降ろし、大地を宙につるし、泉を凍《い》て固め、山を崩し、亡霊を地下から呼び起こし、神々を黄泉《よみ》に送り、星辰の光を消し、地獄の闇をさえも輝きたたせる力を持っているんだ』
『頼むからそんな芝居がかった科白《せりふ》や引幕を取り止めて、あたりまえのありふれた文句で話してくれたまえ』
『じゃあ、あの女の仕業《しぐさ》を一つ二つ、いやそれよりもうんと聞かせてあげよう。だってこの土地の者ばかりか、インド人やエティオピア人の両種族から世界の向う側に住む人間どもをさえ、あの女にとっちゃあ自分を死ぬほど恋い焦れるように仕向けるのも、ほんの朝飯前にすぎないのだからね。だが多勢の人々の眼の前であの女がやってのけたことを、まあ聞いてくれたまえ。〔八〕
自分の愛人を、他の女と浮気をしたというので、あれはたった一言でもって海狸《ビーバー》に姿を変えてしまったのだ。それというのもこの獣は、猟師に追われると捕まることを懼《おそ》れて、自分の陽物を切りすてておいて、その間に逃げおおせるという習癖があるので、その男も海狸と同様な、つまり他の女に情を移したんだから、こうした目にあうようにというわけなのだ。それからまた近所に住む酒場の主人を、商売がたきというかどで、蛙に化してしまったこともある。それで今じゃあその老人は自分の店の酒樽の中をおよいでいて、きのうまでの顧客を酒粕《さけかす》に浸りながら、うるさく嗄《しゃが》れた声で呼びたてている有様だ。
またもう一人の男を、これは弁護士だったが、彼女のことを法廷で悪く言ったというので、山羊にしてしまった。で今はその山羊の姿でその男は法廷に勤めてるわけだ。それからまたある情夫の妻を、自分に対して悪口を浴びせたかどでもって、孕《みごも》ってるのをすっかりとじこめて胎児の誕生を遅らせ、いつまでも妊娠したままでいるような酷《ひど》い目に遭わせているのだ。そのためもう八年以上も大きな腹を抱えて、憐れにもその女は象でも産みそうに膨《ふく》れきっている始末だ。〔九〕
そのほかにもつづいていろいろ悪戯《わるさ》をしたもので、町中の人達がいよいよ腹を立て、その女にむかって次の日に石籠詰《いしこづめ》の刑にして厳しい制裁を加えることに決定したわけだった。ところがその判決に、彼女は呪いの力でもって先を越してしまい、ちょうどあの芝居にあるメデア〔エウリピデスの劇で名高いコルキスの王女〕が、クレオンからたった一日の猶予をもらっておいて、クレオンの家をすっかりと娘ぐるみその老人まで一緒にして、婚礼の花環の火で焼き尽くしてしまったように、墓の中で溝にむかって魔術の呪文を唱え――これはすぐ後で酔ったとき僕に話して聞かせたことだが――みんなを一人残らず自分の家の中へひそかな威力でもって閉じこめておき、まる二日の間、かんぬきを毀《こわ》すことも、扉を捻《よ》じ開けることも、それから壁に穴をあけることさえもできないようにしてしまったのだ。で終《しま》いには、みな口を揃えて大声に呼びたて、できるだけ厳《おご》そかに誓いをたてて、もう一切将来、彼女には手を出すまいし、もしこれに異議を唱える者があった場合には、彼女のほうにきっと加勢するという約束をしたもんだ。それでやっと彼女も機嫌を直し、町中の人間を釈放してやった次第なのだ。
だがしかし、みんなを集めて判決を下させた発起人だけは、真夜中に家ぐるみすっかり、というのはつまり壁だとか床も土台もすっかりそのまま閉じ込めて、百マイルも離れた他の国の、とても険しい丘のてっぺんにあって、そのため水の乏しい町へ、運んでいってしまった。そのうえ、そこは住家がぎっしり詰ってて、新しく来た家を入れる場所がなかったもので、町の大門の前へその家を放り出して帰ってしまったというのだ』〔一〇〕
『ソクラテス君、いや全くそりゃあ不思議でたまげるような、またそれに劣らず無法な話だね』と私はいった、『君は僕の心にも全くすくなからぬ心配、というよりも恐怖心を叩きこんだよ、針どころか槍ほどのを突きさしてね。その婆が何か悪霊を同じように手先につかい、我々の今しがたの話を聞きとりはしまいかと思ってさ。だから、まだ早いけれども横になって寝《やす》み、ひと寝入りして疲れを癒してから夜明けまえにここを逃げ出して、できるだけ遠方へ落ちようじゃないか』
こう私が勧めるあいだにも、ソクラテスはたまに酒を飲みすぎたうえ、一日の仕事の疲れが出て、もう寝ついてしまい、大きないびきをかきだしました。私はむろんしっかりと戸を閉めて閂《かんぬき》で厳重に固め、寝床も戸のすぐ後ろに据《す》えて十分に押しつけておき、その上に横になりはしたものの、はじめのうちは怖さでもって、しばらくのあいだ寝つかれませんでした。でもおよそ真夜中ごろ、ほんのちょっとばかりうとうとして、やっといま寝《やす》んだと思うといきなり、強盗が押し入ったかと思うような、いやそれよりもっとひどい力で、入口の扉が押し開けられました。
それこそ、蝶つがいも元から捻《ね》じ切られぶち毀《こわ》されて、床に投げだされたので。私の寝台はもともと少々寸が短く一方の脚がこわれ朽ちていましたが、その勢いの烈しさにひっくり返され、私自身もまたころげ出て地べたへ放り出された。寝台は上へ載っかり、私にすっかり覆いかぶさっちまったんです。〔一一〕
その時に私はどういうものか、自然と心の中に反対《あべこべ》な気持が起こってくるのを感じたんです。嬉しいときよく涙が出てくるように、その折もあまりの怖さに笑いを堪《こら》えることができなかったので。このアリストメネスが亀の子の恰好にされてるなんてね。それで地べたに投げだされて、いったい何事が起こるかと、いい工合に寝床の蔭になったまま、そっと横目で覗きながら待っていると、二人のかなり年輩な女がはいって来ました。
一人は明るい燭台を手にささげ、もう一人は海綿と抜き身の刀を提《さ》げていた。こういう姿《なり》で、二人はよく寝《やす》んでいるソクラテスをとり囲みました。でまず剣をもった方がいい出すには、『こいつがねえ、まあパンティア姉さん、私の可愛いエンデュミオン〔月の女神アルテミスに愛せられた美少年〕さ、これが私のガニュメデス〔ゼウスのため天に拉し去られた少年〕なんだよ、夜となく昼となく私の処女《おとめ》ごころを玩《もてあそ》んだ男さ。私の愛情をないがしろにして、悪口をあびせ、私の名誉を汚したばかりか、今度は逃げだそうとしてるんだよ。それで私はちょうどあのオデュッセウス〔ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』の主人公〕にうまく欺《だま》されて捨てられたカリュプソみたいに、いつまでも独り身の淋しさに泣いて暮そうってわけなのさ』
そういってから右手を延ばして、私をパンティアにさし示しながら、『それからこいつがまあ、ご親切な相談相手のアリストメネスさね、この男が先に立ってこの人に夜逃げを勧めたんだがね、今じゃ大方死んだも同然に、地べたへへいつくばって、寝台の下にぶっ倒れてるのさ。こいつは一部始終を眺めながら、私に罵詈雑言《ばりぞうごん》をあびせてから、うまうまと無事に遁れおおせるつもりなんだよ。あとでちゃんとお仕置《しおき》してくれるからね。いえすぐと、ええ、もう一刻の猶予もなしに、今までさんざ悪口を吐《つ》いたのも、この場合の好奇心《ものずき》も、後悔させてくれようさ』〔一二〕
これを聞くなり、みじめや私は体じゅうびっしょり冷汗をかき、怖さに五臓六腑をがたがた震え立てたもんで、寝台までもが下から突き上げる私の力でじっとしてられず、背中の上で飛んだり跳ねたり躍るという始末。するとその優しいパンティアがいうには、
『それじゃあねえ、姉さん、まずこの男を、バッコスの贄《にえ》みたいに、ずたずたに引き裂いちまおうじゃないか〔バッコス祭には狂乱した女たちが贄のけものをひき裂く〕。それともそいつの手足を縛りつけといて、あれを切り取っちまおうかねえ』
といいますと、それにメロエ――その女の名は、ソクラテスの話にあったと同じ、とそのとき私も合点がいったのですが――は答えて、
『でもねえ、こいつの方はともかく生かしておくとしようよ。それでその哀れな男の死骸を、小さい塚にでも埋めさせることにするさ』
といって、ソクラテスの首を外側に向けかえ、左のあぎとへ剣をずっぷり柄《つか》までも突っ込むと、噴き出る血潮をていねいに小さい水袋をあてがって、一しずくも外へ洩れないように受けとりましたが、これを私は自分の眼で見ていたのです。それからですが、まあいつも犠牲を献げるときにやる儀式のつもりでしょう、ご親切なメロエは、右の手を奥深く傷口から内臓までさし込み、私の哀れな部屋友達の心臓を探りまわして引きずり出したんです。そのとき彼は切りつけた刃で咽喉をたち割られたまま、声というよりはむしろ定かならぬ叫びとしかいえぬものを、傷口から吐き出すと息を引き取りました。
その傷のいちばん口を大きく開けたところへ海綿をつき込んで塞《ふさ》ぎながら、パンティアは、
『ねえ、海綿さん。お前は海の生まれだから、河を渡ってゆくときに気をおつけよ』
と、いい放つと出かけましたが、寝台を引きのけざまに、私の顔の上をまたいで腰をおろし、小水をしかけたので、けがらわしい小便の水で私はすっかりびしょ濡れになってしまいました。〔一三〕
二人が出てゆくと思うと、たちまち扉は今までどおりにきちんと立ち直りました。蝶つがいもその穴へはいり込み、かんぬきや錠もちゃんと元のようにかかりました。だが私のほうは、あいかわらずまだ床の上に延びたきり息もたえだえ、裸でこごえて小水を頭からかぶって、まるで今しがた母親の胎内から産まれたての嬰児みたい。いやそれどころか全く半分死人同然、ともかくもうはっきりと磔《はりつけ》になると定まった者に相違ありません。
『自分はどうなるだろう。もし朝になって、あの咽喉を切られた屍が人の目に触れたとしたら、本当のことを申し立てても、その言い分を誰がまことらしくとってくれよう。(みんなが言おう)大の男が、たとえ女に刃向こうことができぬにしてもだ、ともかく助けを呼ぶぐらいはやれそうなもんだ。お前の目の前で人間がのどくびを切られているのに黙ってたのか。なぜまたそんならその強盗がお前も同じように殺さなかった。なぜそんな荒くれた酷《むご》たらしい奴らが、しかも犯行の暴《あば》き手として証人にもなろうというお前を生かしておいたのだ。前に死を逃れたというからには、今度こそそこへ戻ったがよかろう、なんて』
そうあれこれとひとりで思いまどっているうち、夜はおいおい明けようとします。そこで私は、夜明け前にそうっと抜け出し、まあ足もとはぶるぶる慄えながらも、道を急ぐのが最上の手段だと思いきめました。で、自分のわずかな荷包みを手に取ると、鍵をさし込んでかんぬきをはずそうとします。ところがその律義で信用のおける扉は、夜中には自分からひとりでに開《あ》いたくせに、びくともすることか、今度はさんざ大骨折らせ、たびたび自分のかぎを押し込ませたあげく、やっと開《あ》いたというわけでした。〔一四〕
ともかくもこうして出るとたちまち、
『おいおい、どこにいるんだ』と私は叫びました。『旅宿《はたご》の戸口をあけてくれ、夜明け前に出かけようと思うんだから』
門番は旅宿の玄関のすぐうしろの地べたに臥《ふせ》ってましたが、今でもまだ半分ねぼけながら、
『何だとね、お前様はどの街道も盗人《ぬすっと》だらけだってことを、ご存じないかね』ともうします。『こんな夜分に出かけようとしなさるなんてまあ。だがな、もしお前様が何かわるい罪にでも心をせめられ、死にたがってなさるにしてもさ、わしらはそんな南瓜《かぼちゃ》あたまの持ち合わせはないんだよ、お前様のために死のうなんていう』
『もう大して日の出にも遠くないんだ。そのうえ、泥棒どもだって、こんな貧乏な旅人から、何をふんだくれようっていうんだ。それともお前は知らないのか、馬鹿らしい、裸の男から、たとえ十人の角力取りがかかったって、何一つ奪《と》りようがないってことを』
こう言ってやると、門番はぐったりとしてまだ覚めきらず、ぐるりと寝がえりを打ちながら、
『だけれどさ、どうしてわしにわかろうかね。ゆうべ晩《おそ》く一緒に泊りなさったあの連れをね、お前さまが咽喉笛切りさいといて、これから逃げのびようとしてなさるまいかどうかがさ』って言うのです。
その時にはまったく私も、大地が断ちわれて冥途《めいど》の奥底までのぞかれ、その中からほんとに、地獄の猛犬〔三頭でハデスを守る猛犬ケルベルスのこと〕が私に食いかかろうとしてるのが見えるような気がしました。でまたあの親切なメロエは、けっしてお慈悲から私の咽喉笛を助けといてくれたのではなく、酷《むご》たらしい磔台《はりつけだい》にのぼせるため生かしといたのだ、ということまですぐさま心に浮かびました。〔一五〕
そこでもって私はまたもとの寝部屋へ立ち帰り、あれやこれやと何か手早く死ねる手段を思案しました。けれども運命の女神はこの寝台以外には、何一つ私に死ねる武器を授けておいてくれなかったもので、
『ねえおい、寝台さん、お前は何よりこの私にとって大切なものだよ。だって一緒にこのひどい難儀も忍んでくれたし、いろんな夜中の出来事も知りつくし、その証人としては、今じゃあもし咎《とが》めを受けるはめになっても、そのさい私の無実の証拠といって引き合いに出せるのは、お前っきりなんだから。でも今度は冥途へ急ごうというこの私に、安らかな刃物《えもの》をわたしておくれ』
といい終えると、それに纏《まと》いついてる索《つな》へ手をかけて引き出してから、向う側に窓の下から突き出ているぬきへ投げかけ、紐の片はしを取りつけると他のはしをしっかり輪に結んで、寝台に登って死ぬつもりで高みへ身を引きあげ、首をさし入れるとその輪へはめ込みました。
ところが、片方の足で体をささえるつかえ棒をけとばし、身の重さにひかれた索がのどぶえで締って、息のかよい路をとめるつもりのはずを、ふいに、腐って古くなった縄がぶっつりと切れ、自分はそこでそのまま宙からどっさり、ちょうど傍らに横になってたソクラテスの上へ落ちかかると、もろとも地べたへ転がりこみました。〔一六〕
すると、どうでしょう。ちょうどそのおり、門番がとび込んで来て大きな声で喚きたてるには、
『どこにお前さまはいなさるかね。あの真夜中にとてつもなく急《せ》きたてといて、そのくせ今じゃあひっくるまって、いびきをかいてなさるなんてのは』
と、私が上へ落っこちたせいか、それともその男の時ならぬわめき声に目を覚ましたものか、まっ先にソクラテスが起き上ってもうしました。
『まったく、こんな旅宿《はたごや》の下僕どもをお客がひどく嫌がるのも、無理ないよ。今だってそいつが、物欲しげに無作法にもとび込んできてさ、きっと何かかっさらおうとでもいうんだろう、でっかい喚きごえをたてて、くたびれきった俺が、ぐっすりまだ寝てるところを起こしちまやがった』
(それを聞くと)私はおもいがけぬ嬉しさにあふれて、いそいそと勢いよく立ち上り、
『おい、見ろよ、ほれ、とても律義な門番君。よんべお前は酔っぱらって、僕が殺したなんてひどい悪口を吐《つ》いたが、この友達をさ、僕の親父とも兄弟ともいう男を』
といいながら、ソクラテスを抱きしめて接吻《くちづけ》しました。ところが友人はひどく汚い液の臭《にお》いに鼻を刺され、つまりあの女怪どもが私に引っかけてったやつのためですが、力まかせに私を突きのけていうには、
『退《ど》いた、退いた、なんてひどい便所の臭いだ』
と、それから、こんな臭《にお》いの原因《おこり》を、気やさしく訊ねはじめました。ですが私はみじめな気持で、その場はでたらめな冗談をこしらえ、他のはなしに友達の気をもってゆき、わきへ外らしてから右手をとると、
『それよりもう出かけて、朝がたの旅路のたのしさを味わおうじゃないか』
ともうしまして、荷包みをとり上げ、旅宿の泊り賃を払ってやると、どんどん路を進めてゆきました。〔一七〕
しばらく歩いてゆくうち、はや太陽もさし昇ってすっかり明けわたりましたが、私は好奇心からしきりに友達のくびの辺の、剣が突きこまれるのをこの眼で見たあたりを眺めやって、心中に
『気がふれてるな、盃や酒に飲まれて、あんな途方もない夢を見るなんて。見ろ、あのとおりソクラテスはそっくりそのまま、元気で何の障りもないじゃないか。どこに傷がある? 海綿はどこにあるんだ。それよりもだ、第一あの、ああも深い、生《なま》新しい傷痕がどこに見える?』
といいながら、彼にむかって、
『いやまったく、信用のできる医者たちがね、飲み食いの度を過ごした者らは、ひどいとてつもない夢を見るというのは、嘘じゃあないな。それが実際僕もね、よんべ盃をたいして控えなかったもので、この陰惨な夜にこわいむごたらしい幻をみせられたものさ。おかげで今も今、自分がまだ人の血をそそぎかけられ、血のりに汚れてるような気がしてるのだ』
ともうしました。
それに友達は微笑しながら答えて、
『それどころか、君は血じゃなくて、小便びたしになってるんだよ。しかし実をいうと僕自身もね、夢でもって首を切られたように思うんだよ。だってこののどくびも痛んだし、心臓さえ引きちぎられるような気がしたんだ。今もまだ息が切れてしょうがない。それに膝もがたがたふるえる、足許もふらつくんだ。それで何か気分なおしにすこし食事でもやったらと思うんだがね』
そこで私も、
『ほら見たまえ、ここに君の朝飯の支度があるから』
といいなから、肩から手提嚢《てさげぶくろ》をはずし、パンにチーズを添えて早速彼にさし出し、
『あそこにあるプラタナスの樹のとこへいって坐ろう』
とすすめます。
よかろうというので、そこへ坐り、私自身も朝餉《あさげ》をしたためながら、がつがつ掻き込んでいる友達の様子を見ますと、どうやらいよいよ衰えがはげしくなりまさり、顔色もぶなの木色に黄ばんで弱ったありさま。何より一番気づかわれるのは、まったく生きた気色《けしき》もはや見られぬほどなのに、昨夜のおそろしい復讐鬼の姿をまざまざ想い出す私にしては、もうこわくてこわくて、最初口に入れたパンのかけらが、それもずいぶん小さなやつだったのに、咽喉の中ほどにひっついてしまって、下にも降りてゆかず、さりとて上にも戻せないという有様でした。
なぜといって、往来する人のしげささえもが、いよいよ私の恐怖を増していった、というわけは、二人連れの一方がいま殺されたとして、もう一方の男が何も害を加えなかったといっても、誰が本当にするでしょうか。ところで友人は十分に飯をかきこみ終えると、今度は我慢しきれぬ渇《かわ》きを覚えはじめました。上等のチーズをあらかた貪りつくしたせいでしょう。ちょうどそのプラタナスの木の根もとから、そう隔ってないところにゆるやかな小川が、まるでしずかな沼みたいに白銀《しろがね》とも玻璃《はり》ともまごうばかりの輝かしさで、ゆったりと流れていました。そこで、
『おい、じゃあ君、あの流れの乳みたいな清水《しみず》を、存分飲んで来たらよかろう』
と勧めますと、友達は体を起こして、しばらく河に沿って平たい岸のところをたずねあてると、膝を曲げて身をかがめ、水飲みたさの一心から土にぴったり平伏《ひれふ》しました。
するとまだ十分に脣のさきも、水のしずくの表面《おもて》にふれまいというのに、友人の咽喉から傷口が奥深く開いて、そこから例の海綿がいきなり転《ころ》がり出る。それと一緒にほんのわずかの血潮がこぼれると見るうち、からださえすっかり息が絶えはて、河の中へほとんどまっ逆さまに落ち込むところでしたのを、やっと私は片手で友人の足をつかまえ、辛うじて河岸《かし》の上へ引きずりあげました。そこで時のゆるすかぎり、憐れな友達の身の上を嘆き悲しんでから、流れの近所に砂っぽい土を掘って、永久のいこいにと屍《しかばね》をおさめ葬りました。
それから自身|慄《ふる》えながらもひどい恐れに捉えられて、方々ひと気のない奥地ばかりを逃げてあるき、まるで人殺しの罪を身に負っている者みたいに、故郷も自分の家屋敷も捨ててしまって、自分から国を追われ、いまではアイトリアで新規に家庭をもち、暮らしているというわけなのです」〔一九〕
アリストメネスの話はまずこんなものでした。すると例のその連れの男が、これは、いつでも初めから頑固に友人の話を相手にせず拒みつづけていたんですが、このとき、
「いろいろでたらめな話も聞いたが、この話よりでたらめなのにはまだ遇ったことがない。いや、その君の嘘っぱちよりひどく馬鹿げた話はまず知らんね」
といって、今度は私にむかい、
「ところでさあ、あなたは、なりや様子からお見受けするところ相当の身分のかたらしいが、いったいこのつくり話を信じなさるかね」
で、私はもうしました。
「ええ、でも私は、どんなことでもあり得ないものではないと考えているのです。それで運命が定めたとおりに、何によらずそのとおり人間には起こってくるものだと思っています。というのは、私にしろあなたにしろ、またどんな人に対しても、いろんな不思議な、ほとんどあり得ないようなことが、ずいぶん起こってくるものですし、それに実地に見ていない者に話せば、嘘つきと思われるようなことがあります。けれど私は、この方の話をまったく本当にもし、また有難くも思ってるわけなのです。だって楽しいお話のにぎやかさで私どもを慰めてくださった、そのうえ、骨の折れるながい道中を、苦労もせず退屈もしないで過ごして来たではありませんか。それにまたこのご恩には、そこな私の乗馬もともどもあずかり得たとおもいますよ。自分の身を疲れもさせず、あそこに見える市の門まで、あいつの背じゃあなくこの私の耳にのせられ、私がつれて来られたわけなのですから」〔二〇〕
これが私どもの話と道行きとの、両方一緒のしまいでした。というのは、この連れの男は二人とも左手の、すぐ傍の小さな田舎家へ立ち去ったからです。一方私はというと、町へついて最初に見かけた旅宿に乗りつけ、すぐと居あわせた年寄ったおかみに訊ねました。「この町がヒュパテですかね」というと、そうだとのことなので、
「じゃあんたは、ミロオって男を知っておいでかね」
と訊きました。老婆は笑って、
「いかにもねえ、ミロオさんは町中の囲壁《かこい》のすぐ外がわに住んどるだわね」
ともうします。
「ねえお婆さん、どうかその男がどんな人間か、それでどの家に住んでるのか教えて下さいよ」
すると老婆がいうには、
「あの一番はじに、窓がいくつも見えるでしょう、町を外に眺めて、もう一方側では扉がすぐわきの小路へ裏から開く、あすこにお訊ねのミロオさんは住まってるんだがね。お泉貨《ぜぜ》をどっさり持って、たいそうな物持ちですわよ。だけどもね、この上もないけちん坊で、またとっても汚いって悪い評判の高い人間だわさ。つまりね、金銀を抵当《かた》にとってせっせと金《かね》を働かせ、利息をたんと稼ぐんでね、自分はちっぽけな屋敷にとじこもって、しょっちゅう銭勘定に夢中なんですわ。もっともおかみさんを持ってるけれど、これもまたそのひどい暮らしの道伴れってわけさ。女中もたった一人しか置かず、乞食みたいな様子でもって始終出歩いてるんですわ」
こういうのを聞いて私はほくそ笑みながらいいました。
「なるほど、デメアス君はずいぶん親切に、また用心深くはからってくれたもんだな、旅に出かけるって俺を、こんな男のところへ紹介しといてくれたなんて。そこへ厄介になったら、煙も台所のにおいも、てんで嗅がずにすもうてんだから」〔二一〕
そういいながら、わずかへだたったその玄関に歩みより、しっかり閂《かんぬき》をかけまわした扉を名を呼びながら叩きだしました。するとやっとのこと、ひとりの娘が出てきて、
「もしもしあなた、そんなにひどく扉をおたたきだけど、何を低当《かた》にして金を借りようっておつもりなんです。まさかあなたひとりが知らないんじゃないでしょうね、ここじゃあ金と銀の他はどんな抵当も受け取らないってのを」
といいます。
「もうちょっとましなことを触《ふ》れ出してもらいたいね。だが、それより返事してくれ、ご主人にお会いしたいのだが、うちにおいでかね」
女がいうには、
「はい、ですが何のご用で、お訪ねですか」
「コリントスからね、デメアスさんの書いた手紙をご主人宛てに持ってきたんだ」
「ちょっと知らせてきますから、そのあいだここで待ってて下さい」
そういうと娘はまた扉にかんぬきをおろして、なかへはいって行きました。
それからしばらく、また出て来て扉を開き、
「おはいり下さい」
そこではいってゆくと、主人はずいぶんとみすぼらしい臥床に身をよこたえ、今しも食事をはじめたところでした。その足もとにはかみさんが坐りこみ、からっぽのテーブルが設けてあります。それを私にさし示して、
「どうかご遠慮なく」
といいました。
「結構です」
と私は答えて、すぐさま主人にデメアスの手紙を渡しますと、手早くそれを読みおえていうには、
「デメアスさんは有難いな、わしにこんな立派な客人をひきあわせて下さったとは」〔二二〕
そういいながら、かみさんにあちらへ行けと命じ、そのあとへ私を坐るよう勧めましたが、私がまだ遠慮からぐずぐずしてると、衣をとらえて引きながら、
「そこへお坐りなさい。盗賊がこわいので、椅子一つでも十分な家財道具を、ようととのえておかれんもんでしてな」
ともうします。
で私が坐ると、
「いや私はな」
といいました、
「あんたのそのからだの立派な様子、また何よりいまの生娘《きむすめ》みたいな慎しみぶかさからも、あんたがれっきとした家柄の方だとお察ししたが、間違いはなかろう。それにデメアスさんも手紙で同じことをいって来てなさるし。されば、わしのとこの陋屋《あばらや》の狭苦しさも、どうか軽蔑せんでおいて下さい。それすぐ次の間《ま》に寝室をあげますで、それがまあちゃんとしたとまり場になりましょうて。どうぞ心安く泊ってって下さい。そりゃあそうして下されば、この家も鼻が高いというものだし、あんたにとっても立派なふるまいの模範《てほん》をつけたすわけでしょうがな。もしこのささやかな住居にも苦情をいわず、あんたのお父さんと同じ名のあのテセウス〔伝説のアテナイ王で、マラトンの野牛を退治したおり、きわめて貧しい老婆ヘカレのもとに泊り、もてなしを受けた〕の、徳行にひけを取るまいとされるならばですて。ヘカレ婆さんのかぼそいもてなしとても、けっしてつれなくは却《しりぞ》けなさらなかったそうだでの」
そして小婢《こしもと》を呼びよせて、
「フォティス、お客人のお荷物を受け取って、ていねいにあの寝間にお入れしておけ。それから、すぐに納戸から、ぬる膏油や体を拭くリンネルや、その他の品々を、この方がお使いになれるようさっそく持って来なさい。それから客人を近所の風呂屋へご案内してな、いい加減難儀なうえに長いあいだの旅行で疲れ切っておいでじゃろうから」〔二三〕
私はこれを聞くにつけ、ミロオの気質やつましさが推し測られたので、いっそう彼の気にいるようにと考え、
「そんな心配は、一切ご無用です、私らが旅のおり、どこへもみな持ちあるく品物ですから。それにまた風呂屋もすぐに見つけられましょう。それより、これが何より一番おたのみしたいことなんですが、せっかく私を乗せて来た馬に、麦だの藁《わら》だのを、ほれ、ここにあるお貨《あし》をあずかって、フォティスさん、買って来てくれませんか」
といいました。
それこれも済み、荷物も例の寝室へ納まってから、私はひとりで湯屋へでかけて行きましたが、その前に何か自分の食いしろを見つけようと、食料品《くいもの》市場へ赴き、そこでいろいろ豪勢な魚が陳《なら》べてあるのを見て値段をたずね、百円だというのを、こきおろし八十円に負けさせて買い取りました。
そこから今しも出かけようというところへ、もとアッティカのアテナイで同門の相弟子だったピュティアスという男がやって来ました。しばらくして友人はやっと私だと悟り、親しげに歩みよると抱きつきさえしてやさしく接吻《くちづ》けたのち、
「やあ、ルキウス君、まったく、ずいぶん長いこと逢わなかったな、ほんとうにヴェスティウス先生のところから、それぞれ立ち去って以来のことだ。だけどいったいどういうわけで、ここへ旅行してきたのだい」といいます。私は、
「明日《あした》話そう。だが、君の平生の願いがかなったのはうれしく思うよ。だってその従者《おとも》だの杖だの、それから君の服装《なり》が、何よりすぐさま部長級に違いないってことを示しているもの」
というと、答えて、
「いや、市場の監督をやってるのさ。それに厚生部長を勤めてるもんでね。何か君、食い物を買いたいっていうなら、世話してあげるよ」
しかし私はもう夕食のためには、どっさり魚を買って支度ができてるといってことわりますと、ピュティアスは(私の手にした)籠に目をつけ、魚をよく見えるように揺りあげてみて、
「だが君はこんなけちな魚をいくらで買ったのだい」
で私は、
「やっとのことで、魚屋から八十円にまけさせて買ったところさ」
と答えました。〔二四〕
そう聞くと彼はいきなり私の右手をひっとらえて、また逆もどりに食品市場へつれかえり、
「それで何奴《どいつ》からそんなけちなのを買ったんだ」
と訊くので、一人の年寄った小男を指し示しました。その男は角のところに座っていたんです。すると友人はすぐさまそいつを、お役人にふさわしい横柄な口調で、とても猛烈に叱りつけ、
「いつだって、お前らは、わしたちの友人だろうがどんな他処《よそ》からの来訪者だろうが、てんでかまわずにやっつけるんだな。こんなに高い値で下らぬ魚を売りつけようなんて、それで食糧を高価にしといて、テッサリア中の花ともいうこの町を、岩山みたいなさびれたところにしてしまおうっていうんだろう。だが、見逃してはおかんぞ。いまにも、わしの取締り下では、けしからん奴らはどんな目にあうはずのものか、よっく見せつけてくれるから」
というかと思うと、いきなりかごを往来にひっくりかえし、手下の役人にいいつけて魚をふんづけ、足でもってみんなめちゃめちゃにつぶさせました。
こうして、自分のしおきの厳重さにピュティアスはひとり悦《えつ》に入って、それから私にも帰るようすすめながらいうには、
「ルキウス君、じじいをこれだけひどくやっつけておいたから、もう十分さ」
私のほうは、こうした所業にたまげてしまって、まったくものもいわれぬ有様で浴場へと道をたどりました。そしてじぶんの同門の友の力づよい方策のおかげで、お金と夕食とを一度にふいにされたまま、風呂へはいってからミロオのやかたへ、つづいて寝間へと引き取りました。するといきなり、小婢のフォティスがやって来て、〔二五〕
「旦那さまが呼んでおいでです」
ともうします。私としては、もうとっくにミロオのつましいのを知ってますから、おだやかに断りました。旅のつかれを癒やすには、食事よりも寝たほうがいいと思うから、といって。
この返事をきくと、今度は自分でやって来て、右手をとってやさしげに私ををひっぱってゆこうとします。それで私がまだためらって、おとなしく断りつづけますと、あんたがついて来るまでは、あちらへ行かぬ、というのです。それを口に誓言さえするので、あまりの熱心さに、とうとう私も気は染まぬながら随《つ》いてゆくのを、あるじは自分の臥床につれてゆき、私が腰をおろすと、
「デメアスさんのご機嫌はどうですかな、奥さんはどうしてなさるか、子供さんがたは? 屋敷のものたちは?」
など訊くので、いちいち返事をしてやりました。
ことに私の旅行の理由についていっそう委しく尋ねましたが、ていねいにそのわけを述べおえると、今度は郷国のことだのそこの主だった人々のことだの、はてはそこの総督についてまでいちいちくどく問いただすのです。とうとう私がかくも骨の折れるひどい旅路をようやっと終えた後とて、長話しのつづきにくたびれはて、ことばの中途でねこけて口をつぐんだり、それどころか、しまいにはすっかりまいって、何やらわけもないちりぢりの文句を口ごもるきりなのを見ますと、やっと私に寝床へかえるのを赦《ゆる》してくれました。
こういうわけでようやくのこと私は、胸くそわるい老人のおしゃべりな、しかも腹はすき放題な饗宴をのがれて出て、食事ではないねむさに重くなった体を、ただ雑談ばかりの馳走にあずかったまま寝間にはこび、ようやく待ち焦れた安息に身をゆだねるしあわせとなりました。〔二六〕
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巻の二
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小婢《こしもと》フォティスと馴染みをかさねること―ビュラエナの邸での奇怪な物語
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新しい日が夜を追いやって明けそめると、眠りと臥床《ふしど》とから一どきに脱け出した私は、さなくとも珍らしい不思議なことごとを知りたくてたまらず、自分がいま、世界中でも誰も彼も口をそろえて魔法幻術の本家本元という、そのテッサリアのまん中に陣取ってるんだ、ということを思いあわせ、同時にまた好漢アリストメネスの例の話も、この町の中で起こったものだと思うと、それだけ望みと好奇心とに狩り立てられ、町中の一々を入念に見なおしてゆきました。
全くこの町にはそれと見て、その姿が本当のものと思えるようなのは何一つなく、みながみなすなわち恐ろしい呪《まじな》いのため他の形に変えられているに違いあるまい、いま足にぶつかる石くれも人間から固まって化《な》ったもの、耳に声を聞くその鳥もまた、そのままに羽根を生やされ、苑のかこいの樹々さえがまた葉っぱを出した(人間)、流れおちる泉も人間が溶《と》けて化《な》ったのではあるまいかと思われるほどでした。今にも立っている像や絵姿は歩き出し、仕切りの壁ははなしをはじめ、牛などの畜類が預言をかたり、この大空、輝く太陽そのものからして、突然に神託が下されそうな気がするのです。〔一〕
こんな風に変な気持で、というより身を責める物ずきな望みにやや頭もぼんやりとして、しかも自分の欲望にどうまず手をつけるか、どう辿《たど》ってゆくかもてんでわからぬまま、ともかく町中をめぐり歩き、ひまで物ずきなお大尽のふりをして一軒一軒見物してまわるうち、突然知らぬまに食品市場のところへ出てしまいました。するとちょうどそこを多勢の召使どもを引き連れ、忙しげな足どりで歩いてゆく一人の女にでくわしたので、見ると、黄金や宝石やを衣類に嵌《は》めていたり織り込んだりして、一見身分のある婦人と悟られます。
その女の脇には随分と老い込んだ年寄りがくっついていましたが、私をみてとるや否や、
「こりゃどうだ、ルキウスさんじゃないか」
というと、いきなりやって来て接吻《せっぷん》をし、それから何かわからぬことをぶつぶつと婦人の耳にぼやき込みました。それから私に、
「どうして一体あんたは、自分の身内の方のところへ行って挨拶をなさらないのかえ」
というので、私も
「だってあの方は知らない人ですもの」
というなり頬を染めてうつむき、そこへ立ち停りました。するとその婦人は私の方へ眼を向けて、
「ほんとにお母様になる、あのとても優しいサルヴィアさんの、おとなしやかな上品さそっくりだこと、それに身体つきのどこもかしこも、定規をあてたみたいに驚くほど同じですわ。背《せい》の高さも好い加減だし、優形《やさがた》の様子のよさ、頃合いの血色といい、亜麻色のわざとらしからぬ髪の工合や、灰色の眼の活き活きとちょうど鷲《わし》みたいにきらきらした眼光《まなざし》といい、すみずみまで花のように明るい顔立ちから、歩く様子の巧まない立派さといい」〔二〕
とまた付けたして、
「ねえ、ルキウスさん、私はあなたを、まあこの手でもってお育てしてあげましたのよ、それも当然のことというのも、あなたのお母様とは、ただ血筋ばかりか養育《やしない》までも一緒に受けて来たのですもの。私たちは二人ともプルタルコスの家柄に生れたものですし、その上同じ乳母のお乳をいっしょに吸って、姉妹の間柄として同じところで育てられたのです。それで二人のあいだの違いといっては、ただ身分きりのこと、つまりあの人は立派なとこへお嫁《かたづ》きだったのに、私はあたり前の人〔官途につかぬ、格別の地位をもたぬ人のこと〕に嫁いだというだけですのよ。
私はほら、あのビュラエナですの、多分いくたびも、あなたをお育てした者のあいだに、よく私の名がいわれたのを憶えておいででしょう。ですからさあ、私のとこへ安心して来て下さいな、いえそれどころか自分の家も同じに考えてね」
そこで私は、今ではやっと話を聞くひまに顔の紅みも退《ひ》いて来たので、
「でも、小母さん、いけないでしょう、ミロオさんのとこを別に何の苦情もないのに、引き揚げたりしては。それより私がちゃんと欠かずにできることは、本当に十分やりましょうから。たとえばここらを通ることになったら、そのたびにきっとお宅へお寄りしましょう」
こんな風にお互いに話しあううち、ほんの僅か足を運んだきりで、私らはビュラエナの邸へつきました。〔三〕
見ればその玄関先のすばらしく立派なこと、四隅の角々に立てた柱へそれぞれに彫像がのせてあるのは、勝利女神《ニケ》の姿で、翼をひろげながらも歩は踏み出さず、まるい球の今にもころげだしそうな上に露もたれそうな蹠《あしうら》をそうっと触《つ》けているところは、そのままそこに留っていようとはとうてい思えぬ身のかるさに、今にも飛び立ってゆきそうな気がします。それからパロスの大理石づくりのディアナ〔月の女神、また狩の女神で、ギリシアのアルテミス〕の御像が、全体の場所の釣合いをとった中央に据えてありましたが、これも全く見事な彫像の衣を風になびかせ勢いよく前にのり出した姿は、庭へはいってくる人々を面と迎えて神々しい気高さにいかにも尊とげにみえる。その両側には犬がいて女神の傍を護ってますが、この犬がまた石でできてるのでした。そして恐ろしい眼つきや立てた両耳、大きく開いた鼻孔、歯をむき出した口など、いかにもどこか近所に犬の吼え声でも聞こえたら、それこそこの石の咽喉から出たのではないかと思われそうなくらい。しかもこの素晴しい彫刻家は、この像に自分のすぐれた腕前の何よりの見本を示しているというのは、犬どもは胸元高く跳び上りながら、しかも後足は地につけ前の足では馳けてゆく風をしているのでした。
女神の後ろは洞穴のかたちをして一帯に岩がそばだち、苔《こけ》だの草だの葉や枝や、またそこにはぶどうの蔓、ここには石でできた木立が生い繁っているという工合で、それからまた石洞のくぼみには立像の影がうつって、石の光沢に照り映えております。ずっとその岩の端にはいろんな果実やぶどうの房が上手に刻まれて垂れ下り、いずれも彫り手のたくみが自然のまことと腕を競って、いかにも本物そっくりなでき栄えを表わしており、まったくその中からどれをよりどって、新酒にかおる初秋が熟した色を染めかけるとき、食卓にのぼせてもよさそうな工合です。また女神の足下から流れ出でやさしく漣《さざなみ》立つ泉を俯《うつむ》いてみたなら、そこにいかにも自然のまま垂れさがっているぶどうの房が、いろんな他の真実に迫る品々のあいだに、揺れ動いて見えると信じられましょう。
その石の葉ぞえのまん中にはアクタイオン〔女神ディアナの浴《あ》みする裸身をぬすみ見て、鹿に形を変えられ、自分の犬に咬み殺されたという若者〕が、女神にむかいしきりと物ずきな眼《まなこ》を注ぎつつ身体をのり出してるのですけど、もう半分は鹿の姿になりかかって、大理石にも泉の流れにも影を写しつ、沐浴《ゆあみ》しようというディアナを窺《うかが》っているところでした。〔四〕
私がこれらを繰り返し眺めながら、いかにも気にいった様子なのを見てとりますと、ビュラエナは
「何でも、いまご覧になっておいでのものは、すっかりあなたの物と同じですわ」
というと一緒に、他の人たち全部にむかい、二人きりの相談からみな向うへ立ち去るようにと命じました。それで誰一人その場にいなくなると、
「この女神様にかけて、私の大切なルキウスさん、私は自分の息子同様なあなたのためにいつも心配していますの、それで、ずっと前からよく気をつけてもらいたいと思ってたのです。用心なさい、それもしっかり用心するんですよ、あのパンフィレエの悪いたくらみや、邪《よこし》まな呪いにかからないように。いまあなたのいる家の主人だとおっしゃる、あのミロオさんの奥さんになってる女のことなんです。あの女《ひと》はまず一流の魔法使いで、死人の墓でうたうような呪文を残らず心得てるという話ですのよ。それで小枝とか石ころとかそうした下らないものに息を吐きかけて、星の輝くこの空のどんな光さえをも、黄泉《よみ》の底や昔のままの混沌《カオス》の奥へすら沈めかくす術策《てだて》まで知ってるのです。
それでね、誰にせよ様子の好い若い男に目をつけると、その人の男振りに惚れ切って、すぐとその場で自分の眼も心も打ち込んじまうんですって。そうして甘い言葉をならべ立ててその人の魂にはいりこみ、底もしれない情愛の足|枷《かせ》で永久に縛りとめるのです。もしそれが十分に自分の意《こころ》に従わないため、憎さのあまり、いやだとなると、石とか羊とか何になり好きなけものに即座に形を変らせてしまったり、時によるといなくしてしまうことさえあるというはなしなの。あなたにそんなことがあっては大変ですから、よく気をつけて下さらないといけませんわよ。だってあの女《ひと》がしょっちゅう燃えたっているというところへ、あなたの方がまた年頃といい容色《きりょう》といいちょうど頃合いなんですものね」
こうビュラエナはずいぶんと気遣いながら、私に言ってくれました。〔五〕
ところが私の方はそれでなくても前々から好奇心にかられているので、魔術というその始終こいこがれた名前を聞くや否や、パンフィレエにむかって用心をするどころではなく、こっちの方から望んでなり、よしどんなに沢山な授業料を払おうと、そうしたことを教えてもらいたさが一杯で、たとえそれが深い地獄の底であったとしても、即座にきおい込んで、飛び込みかねない有様なのです。
そこで気のせくまま、まるで鎖でもあるかのようにビュラエナの手をふり切ると、「さようなら」といい足すのもそこそこに、ミロオの宿へとんでもない考えで舞いもどったという次第。その道々も気ちがい同然に忙しい足を運びながらいうには、
「さあ、ルキウス、よく気をつけてしっかりやれ、お前の待ちこがれた機会が来たんだ、それで長いあいだの望みが叶おうというんだぞ。いろんな不思議の譚《はなし》でもって胸を一杯にしろ。子供らしい怖れなどうっちゃって、じきじきにそのこと自体に勢いよくぶつかって行け。だがお前の女|主人《あるじ》と色恋でかかりあうのはさし控えて、あの人の善いミロオの臥床はちゃんと大切に守っとくがいい。その代わりに侍女《こしもと》のフォティスの方は折角だからためしてみるんだな。姿だってなかなかしゃれているうえ気がるなたちで、何よりも話好きだからね。昨夕《ゆうべ》だってさ、お前が寝ようとしたとき、親切に寝間へお前をつれていって、やさしく臥床《ねどこ》へ寝かしつけ、ずいぶんと情愛ぶかく夜具をかけてから、お前の頭に接吻までしておいて、さて出て行くのがどんなにいやだったか、顔つきにもよく解ってたじゃあないか、そのうえたびたび後ろを振り返って立ち止ったりしてたもの。だからこの好い機会《おり》が幸せに都合よくゆくかどうか、たとえ危いところがあろうにもせよ、あのフォティスに一度ぶつかってみるんだな」〔六〕
こうひとりで胸に呟きながらミロオの門口にやって来て、そら世間でもいうように、足で自分の考えを確かめたというわけ〔自分の足で投票にでかける、というたとえから、ここでは足で戸をけったのだろう〕。だがちょうどミロオもその細君も家には見えず、ただあの可愛いフォティスだけが留守番をして、折から豚の臓物を詰めものにつくろうと調理の最中、肉を細かに切り刻んで汁を入れた一皿へ、もう匂いでもすぐに覚《さと》られるとおり、ひどくうまそうなソーセージなどが一つ盆にならべ合せてあります。様子はと見れば、小綺麗な麻の胸衣を着込んだうえに、桃色のつやつやしい絹をお乳のすぐ下のところへ高めにむすび、花のような掌でその料理を容れた小鍋をぐるぐるっと揺りまわす、それがまた何度となく繰り返し輸形にゆさぶりまわすその度毎に、手も肢も一しょにしなやかに振りまわされる、それにつれて、まるいお尻もゆるやかにふるえて動き、ふっくらとした背すじまで、いかにも尋常にゆれながら波をうってうごめいている。そうした眺めに思わず釘づけにされたまま、物もいわれずそのままそこへ見とれながら私は立ちつくしていましたが、立っていたのはそればかりか、今までぐったりしていた一物もでした。それからのこと、とうとう私から口を切って、
「フォティス君、なんてまあ君は見事にまた花々しくそのお鍋をお尻もろとも揺すぶりまわすのかね。なんてまあ蜜みたいに甘そうななめ物を作ってるんだ。全くそのお鍋へ指をつっこませてもらえる人は果報な仕合せ者だね」
そういうと、彼女は、それでなくても調子のいい、口も十分達者な娘のこととて、
「いやな人ね、あっちへいらっしゃい。できるだけこの火炉《ストーブ》から遠くへ退《の》いてらっしゃいよ。ほんのちょっとでも私の火先にさわりでもしたら、心《しん》まであなたはやけどしちまうわよ、それで私のほかは誰にもその熱は消しとめられないでしょうからね、好い工合に味を利《き》かしてお鍋も寝台も上手にゆすぶれるのは、私一人きりでしょうよ」〔七〕
こう言いつつも私の方をふりむいて、にっこり笑いました。ですが私は十分くわしく彼女のいちいちの様子恰好を眺めつくすまでは、そこを立ち去りませんでした。だけどなぜ私がほかのことをくどくいう必要がありましょう。いつだって私はまずあたまや髪の毛を入念に見取っておいて、あとでゆっくり家へ戻ってから思い返してたのしむのを何より先に心懸けて来てるのですから。でまた私としては、この考え方はたしかに断然正しいことだと思っています。だって第一、体のうちでもこの部分はとりわけ外に出て人目につくところにあって、私らの眼にまず最初に行き当るわけですし、そのうえ、他の場所は花やかな着物の派手な色彩《いろどり》でかくされていても、頭には生来のつや、美しさが現れているのですから。それからまた自分の生得の|しな《ヽヽ》やきりょうを見せつけようという考えで、着物を脱ぎおおいをすっかり取り去って露《あら》わな姿の、美しさをそのままむき出しにしたがり、ばら色の肌の紅味が金色ずくめの衣裳よりずっと人の気にいろうかと思惑をする女たちもずいぶんおります。
ですけれど、――誰にもせよことのほか容色のすぐれた女の人が髪の毛をすっぽり取って、あたまの形を生れつきの姿にむき出しにしたならば、たとえその女《ひと》が天から降りた天女、海から出てまた波により育てられた、あのウェヌスさま自身であったにもせよ、それで|優雅の神女《グラティアエ》の歌姫群をひきい|愛の神《クピド》たちの全集団をすっかり従え、あの名高い帯を締めておいでの、肉桂《キンナモン》にかおり没薬《バルサム》をしたたらす御姿だって、それが丸禿げで出ておいででしたら、ご主人のウルカヌスさまへすら気にいろうとは望めますまい。〔八〕
もしまた、いかにも見事な髪の色なり、つやつやしい光沢なりが、太陽の光をむかえていっそ一きわ目立って輝《て》りはえるとしたら、――またはおとなしやかに光をかえすとき、あるいはまたまるで違ったあでやかさにいろいろと趣きをかえ、きらきらとした金色をやさしい蜜のいろあいにかげらせたり、また烏羽玉《ぬばたま》の黒髪に鳩のうなじの紫紺のかざり羽を思わせたり、とりわけその上をアラビアの匂い油でしとどにしめし、またきよらかな櫛の歯のこまかさに梳きわけて後ろの方につかねてでもあるとしたらば、恋人のひとみを迎えるその態《さま》はちょうど鏡にも似て、つねにもましてうれしくもまたほれぼれとする人の姿を映《うつ》すものといわれましょうか。あるいはいくつものたばにわけ、それを上手へふさふさと結い上げるとか、すらりとなびかせて背筋へずっと振りかけた趣きもまた格別でしょう。要するに、髪の毛の立派さはかほどにも大切なもので、たとえ女人が黄金をかざり、衣裳や宝石やその他いかなる荘厳を身によそおって立ち出でようと、もし髪のかざりがないとしたらば、すぐれた身姿《みなり》とはとうていいわれまいものとなりましょう。
ですが今のフォティスはというと、格別に骨折ってのこしらえよりも、何気ない巧まぬよそおいが、また趣きを添えてるというわけで、豊かな頭髪《かみ》をゆったりと解いて頸《くび》のあたりに垂れかけた、その先はぼんのくぼのそこここにまとめてからのち、ゆるやかに飾り布をまとわせてふさにつかね、だんだんとたくしあわせて、頭の上でまるいたばに結いあげてありました。〔九〕
もうこれ以上胸にせまるいとしさに私は耐えかねると、いきなり馳け寄って頭のうえの髪がゆいあげてあるところへ、蜜の甘さのかぎりの接吻《くちづけ》をしっかりと押しつけたのです。すると娘は振り返って私の方を向き、流し目にきらっと光る瞳をさしつけると、
「あらまあ、この学生さんたら」
といいます。
「あんたは甘さとまた苦《にが》ずっぱさ〔サッポオ以来の恋の味、bitter-sweet をさす〕の味をなめてみたいっておいいなのね。でも気をつけんのよ、あんまり蜜の甘さに酔って長い先々まで苦汁《にがり》をなめさせられないようにね」
「それが何だ」
と私はいってやりました。
「可愛い娘さん、構いやしないさ、ほんの一度でも接吻《くちづけ》さしてもらえたら、それでもう十分に元気づいて、火にかけて焼かれるんだって覚悟になろうからね」
というより早くいっそうしっかりと娘を抱きしめ、接吻しだしました。するとむこうでも私とおなじに、だんだんといとしごころを唆《そそ》り立てられ、開いた口からかおる息吹きは肉桂のかぐわしさ、寄せあう舌のさわりも欲情に仙酒《ネクタル》のあまさを加えるのに、
「もう僕は死ぬよ、もういまにも死んじまいそうだ、君がこの思いを和めてくれないんなら」
そうすると娘はもう一度私に接吻をかえしながらも、
「心配ご無用、私だってね、こっちからも下地は十分ないわけじゃないんですもの。そんなに引っぱっておかないわよ、灯がついたらすぐあんたの部屋にゆきますからね。だからそれまであっちへ行って、十分身支度をしておおきなさいよ、夜っぴてあんたと雄々しくしっかり戦さをするつもりでいるんですから」〔一〇〕
こんなことをいろいろと互いに言い交わして私らは立ち別れました。
ちょうど正午時分になったとき、ビュラエナから私への贈り物がとどいたので、見るとよく肥《ふと》った豚と五羽のひなどりに、上等な幾年もたった葡萄酒の一壺でした。そこで私はフォティスを呼んでいうには、
「ほらごらん、ウェヌスの勧め手で楯持ちの|酒の神《リベル》〔バッコスのこと〕が、向うからお出ましなんだ。その酒を今日はすっかり飲みほしてやろうよ、そしたら私たちの意気地がない気恥かしさを追っぱらって、思いのままを精一杯つくす元気をうち込んでくれようからね。だってウェヌスさまの船旅にはこの糧《かて》だけが入り用なんだろ、夜どおし燭台には油が、盃には酒が一杯ありさえすりゃあいいんだものね」
その日のあとは、入浴《ゆみ》とそれにつづいて晩餐にすごした。というのは、あの善良なミロオのすばらしい食卓に招かれて就いたわけでしたが、ビュラエナのいましめがなお念頭を去らないので、できるだけ、ミロオのおかみさんの目につかぬように気をつけ、たまたまその顔へ視線をむけるときには、まるで地獄の口にあるという湖でもみるようにおっかなびっくり、やっとせっせと後ろをふり向いては、フォティスのそこで給仕をする姿を見て、元気をとりなおすという始末でした。すると、いましも暮れかかるときにパンフィレエが燭台を見あげて、
「明日はなんてたくさん雨が降るんだろう」
といいましたので、主人がどうしてそれがちゃんと解るかと問い質すと答えて、灯が自分にそれを前もって知らせてくれるのだと申します。そこで家内のことばにかぶせてミロオは笑いながら、
「するとわしらは、そうしたたいそうな灯明という、口あかしをする巫女《シビュルラ》〔アポロンの預言をとりつぐ巫女《みこ》。ローマ、クマエなど諸地にいた〕を養ってるわけだな、天上の事件は何によらず太陽のことまで、燭台の見張り場からちゃんと見まもっているというんだからのう」
といいます。〔一一〕
それに私も口をさしはさんで、
「こういった占いを伺うことは私もいまが初めてではありますが、別に意外とは思いません。そのともし火はささやかな、しかも人間の手でこしらえたものではあっても、あのずっと大きな天上の火をちょうど自分の親とおなじことに思って忘れず、天界の頂きでその空の火がこれからどういうことを仕でかそうとしてるかを、とうとい預言の力で自分でも知り、また我々にも告げ知らせてくれるというのも当然でしょうから。というのは私の郷里《くに》のコリントスにも近頃おりおり一人のカルデア人が来まして、市中をふしぎな驚き入った預言のこたえで騒がせておりますので。それで礼金をとってはいろんな運星のはかりも及ばぬ不可思議を、町の人々に教えてやるので、たとえば、どの日が結婚の挙式にいいとか、町のかこいの土台を何日にきずけば永くもつとか、商売の取引きに吉《よ》い日、旅行のさいさきよい日、船を出すのに安全な日などという工合でして、いや何よりもこの私が、今度の旅めぐりの末はどんなかと訊ねましたら、いろいろとても奇妙な、さまざまな変ったことを預言してくれました。つまりずいぶん華やかな名声をあげようし、あるいはたいそうな物語、ほとんど信ぜられぬような奇譚のたねに、まったく何巻もの書物さえが私の身の上から記されよう、とまで答えるのです」〔一二〕
こう私がいいおえるとミロオは笑いかえして、
「そのあなたのいうカルデア人は、どんな恰好で、何という名を名乗っとりますかの」
と訊くので、私はこたえて、
「せいが高くてちょっと色の黒い男で、ディオファネスという名でした」
と、彼がいうには、
「じゃあきっと彼《あ》の男にちがいない、いやその仁はこの土地にも来とりましてな、多勢の人にむかって同じようにいろいろな預言をして聞かせ、少からぬ礼金、どころかとても大そうな儲けをふところに入れましたが、それから気の毒にもあいにくな仕合せというか、いっそ酷《むご》たらしいめぐり合わせといおうか、に出あいましたじゃ。というのは、ある日のこと、ちょうど沢山の群集にぐるりを囲まれ、まわりに立った人の環にその運勢を占ってやっていたおり、ケルドオという商人《あきんど》がそこへ出て、旅立ちによい日を訊ねましたじゃ。
そこでその男がよい日を選んで指図してやると、商人は財布をとり出してお泉貨《ぜぜ》をならべ、そこへ百デナリの金をかぞえて置いた、占いの謝礼としてとらそうというのでの。するとどうじゃ、そのところへ一人の身分ありげな若者が現れ、うしろの方から立ち寄って占い師の上衣のはしをつかまえた、それで振り向くところを抱きついて、いかにも懐《なつ》かしげに接吻《くちづけ》をしますのじゃ。
そこでこちらもまず接吻をかえしてから、すぐ自分のわきに坐らせはしたが、なにしろ突然に姿を見せられたので魂消《たまげ》たものか呆然として、いまその場所でやっている商売のことも忘れはてて、その若者にむかっていうには、
『いやあ、ずいぶんとお待ちしとったが、いつお着きでしたの』
と、それに答えて、
『ようやっと、きのうの夕方です、けれど今度はあなたの方でも、ねえ小父さん、聞かせて下さいよ、エウボイアの島からああ大急ぎで船出をなさってから、どんなふうに海でも陸でも、旅をしておいででしたか』〔一三〕
こう訊かれて、そのれっきとしたカルデア人のディオファネスは、まだ心も宙に、
『まったく、わしらの敵だとか意地の悪いやつらにでもさせてやりたいほど、おそろしい、実際オデュッセウス風ともいえる旅でしたわ。それがな、わしらの乗っておった船自体が、まずあちこちから暴風《あらし》のつむじに逢うて揺りまわされ、そのうえに両方の舵さえなくしてから、ようやっと向う側の岸へつっこんだところで、いきなりずぶりと沈没してしもうたのですじゃ。そこでわしらは何もかもなくしたあげく、泳ぎついたのもやっとのことだった。さてそこで何や彼や、見知らぬ人らの憐れみや友人らのなさけでもってもろうたものも、これまたすっぽりと剽盗《おいはぎ》どもに分捕られたが、そいつらの悪業をふせぎ戦ったばかりに、わしが唯一人の兄弟のアリグノトスはな、この眼の前であわれや咽喉《のんど》を切られて死にましたのじゃ』
ちょうどこうその男が悲しげにだんだんと話しついできたおり、さっきのケルドオといった商人が、まえに占いの見料にときめて出しておいたお泉貨《ぜぜ》をひっつかむと、早々に逃げていってしもうた。ようやっとのこと、その時ディオファネスははっと目を覚ますと、まわりをぐるり取り囲んだわしらまでもが大きな声で笑いこけるのを見て、自分の不注意からとんでもない大|失敗《しくじり》をやったのに気がついたわけですじゃ。だがあんただけにはな、ルキウスさん、みんなのうち一人だけに、きっとそのカルデア人がほんとうを言うてくれたろう、と祈りますじゃ、そしての、つつがなくこの旅行を仕合せにすまされるようにとな」〔一四〕
こうミロオが長たらしくしゃべくりまくるあいだ、私はひそかに嘆息しつづけていました。あいにくな長ばなしの一くさりをこっちから引っぱり出して、この夕方のあらましとあの待ち構えたこの上もないたのしさもふいにするとは、何という我ながらのたわけかと、一方ならずわれと我が身に腹を立ててた次第です。そこでとうとう堪え切れずに、見得《みえ》体裁もおっぽり出して、こうミロオにいってやりました。
「そのディオファネスという奴には、自業自得な仕合せをうけさせとくし、ほうぼうの国で分捕った儲けもまたもう一度海や陸やで片づけさせるがいいでしょう。ですが私はまだ昨日の旅の疲れがなおり切っていませんもので、どうか早めにやすむのをお許し下さい」
そういうなりその場を引き取り自分の寝間へ戻りますと、もうそこにはとても立派な馳走が支度してあります。それから従僕たちは室の外に、我々の夜のささめごとを立聞きなどせぬようにとの心づかいからか、できるだけ離れたところに床がしいてありました、一方寝台のすぐかたえには小机を置き、上には晩餐のいろんな皿をすっかり、残りとはいえ十分なのを程よく並べ、また見事な盃へもう酒を注ぎ入れて半ばはみたし、ようやっと水を和《あ》えられるほどほどにして二つを据え、そばには今しがた首を切り落して飲みほせといわぬばかりに開《あ》き口をみせつけている酒瓶をそえて、正しくウェヌスの刃取りの業の立合いにもふさわしい腹ごしらえの支度です。〔一五〕
床に身をたおすかたおさぬかというひまに、私のフォティスがはいって来ました。女主人はもう臥てしまったというわけで、面《おもて》もあかるく薔薇の花環をかみにまとい、またゆらゆらとふくらんだ胸のあたりに垂らしながら近よります。そしてきっかり私にじっと接吻《くちづけ》をし、花環を頭にまとわせてからのこりの花を撒きちらすと、盃を手にとって上から湯を注ぎ込み、私に飲めとさし出しました。それをまた私がすっかりは飲みほし切らぬ、ちょっとその前にやさしく取り上げて、のこりを少しずつ、脣で吸い減らしながら私の方をながしめに見て、かわいく小口に飲みきりました。
ついで一杯、もう一杯と、お互いに盃をとり交わしつつ何度となく重ねてゆくうち、私ももうすっかり酒浸しになって、心ばかりかこのからだ自体まですき心にかき立てられ、さなくともはやり立つむねを今はもう抑えかねると、だんだんと着た物も払いのけざま、かわいいフォティスに欲情の堪えがたさを露わにのぞかせ、
「おい、後生だよ」といいました、
「早くさあ助けてくれよ、だってほらごらん、君からちゃんとした宣戦の布告もなしに仕掛けられた合戦が近づいたもんで、このとおりひどく張り切ってるんだから。もうあの猛々しいクピドの最初の矢を胸の奥深く射込まれて、こっちでもまたこう弓弦《ゆづる》を勢一杯にひき絞って構えてるんだ、だからもう今にもあんまりに満ち切ったこの勢いで、つるがはじけはしないかと心配してるところなんだよ。だが一段と僕をよろこばせてくれるつもりなら、髪をといてゆったりと垂れなびかせ、波をうたせといてから、しっぽりと来て抱いておくれよ」〔一六〕
猶予もなし、忽ちすっかりその場にあった食器の類を傍へどけると、着てた衣もそっくりと脱ぎくるめた肌も露《あら》わの、髪を解き流して明るくたのしげに戯れかかる姿は、海の波から浮かび出たウェヌスさまそっくりな何ともあでやかにうって変ったなりかたち、そしてそうっと薔薇色のてのひらですっぺりしたfeminalを、恥かしさに蔽うというよりは物ずきな眼をさけてかげらすといったぐあいで、
「さあ仕合い」といいました。
「それも勇ましく仕合いするのよ、私だって引き退ったり、あんたに背を向けたりはしませんからね。もし男なら勇敢に面とむかってお出あいなさいな、それで息絶えだえにも打ってかかるのよ。今日のいくさは中休みなしでしょうから」
こういうと等しく寝台に上って私の傍にきっちり坐り、たびたび前へのり出しながらしなやかに体をうごかし、ぴちぴちした背中をゆすぶり、揺りうごく恋神《ウェヌス》のたのしみで私を満ち飽かせてくれましたが、しまいには心もつかれ手足もいたみ、すっかりくたびれはてて、二人とも一緒に息もあえぎあえぎ、お互いの胸の中へくずれおちるという始末でした。
こんな風に何度となく手合せをしつづけて一晩中朝の光のさかいまで、やすみやすみは盃につかれを和《なご》めながらもまたすき心を煽りたてつつ、かつはたのしさの思いをたかめつつ時を過ごしました。その夜の先例にならってそれからまた幾夜も、こうして同じように重ねていったわけなのです。〔一七〕
するとある日のこと、たまたまビュラエナからどうしても自分の家の小宴に列席してくれという招きがあって、しきりに辞退したのですが断りきれませんでした。そこで私はよんどころなくフォティスのところへいって、その首の振り方で御心ゆきを、まるで神占い同様に伺わねばならぬ羽目となりました。もとより娘は私を爪の幅ほども外へ出すのはいやいやながら、やさしく一刻ほどは恋のいくさの中休みを大目に許してくれましたが、いうには、
「だけどね、あんた、気をつけて、お食事から早目にかえってくるのよ。だって良い家の息子さん方で酔っぱらって組んで歩いて、町の人たちの安全を脅しまわるのがあるそうですから。よくそこここで街のまん中に斬り殺された屍が倒れてるのを見かけるというんだけれど、大守さまの手勢でさえも遠くなもので、この町からこれほどのわるさを取り除くことができないんですのよ。それにあんたは立派なご身分でまたお金持らしいうえ、外国の方はとかく馬鹿にされやすいものですから、さっそくつけ狙われそうですわ」
「なに、心配しなくてもいいさ、ねえ、フォティスちゃん、そりゃ僕だって他処《よそ》のご馳走より、第一自分の可愛い人の方が大切だし、それに早く立ち帰ってその君の気遣いをなくしてあげたいのは山々さ。だけども何にも同伴者《つれ》なしで行くんじゃなし、ほれ、いつものとおり刀を脇につるしてね、自分自身の護衛兵を持ってくことにしようからね」〔一八〕
こう身ごしらえして私は招宴に出かけてゆきました。
するとそこにはいっぱいに宴会の客があつまっていて、それも指おりの名流婦人の屋敷のこととて、この町の正に精華ともいった人達です。食卓といえばすぱらしい香杉や象牙につやつやと輝き、長椅子には金糸の織物をかけ並べ、大きな高杯《たかつき》はいかにもとりどりな趣きを具えつつもみな一様に高価なもの、こちらには精巧な模様を彫った硝子のがあると思えば、あちらには鏤《え》り刻んだ水晶のうつわがあり、また光った銀器や燦然とした金のうつわ、あるいは巧みに彫り込んだ琥珀のものなどそこここに、石をえぐったのまでいずれも盃の形につくりあげて、おおよそこの世にあり得ぬほどの品々がそこにはみなおいてあります。
立派なよそおいの給仕人たちがおおぜい、料理を盛った皿をいくつも手際よく給仕してゆく、一方ではこてで髪を捲毛にちぢらせ綺麗な着物をきた侍童《こどもら》が、宝石を小盃の形にしたのへ年数を経た酒をついでつぎつぎとさし出します。そのうちに灯火がともされる、饗宴《うたげ》のものがたりもしきりに交わされ、いましもゆたかな笑いごえや打ちとけた冗談やひやかしなどのあちこちにやりとりされる折しも、ビュラエナが私に向っていい出しました。
「こちらでのお暮らしはいかが、お気にいって? お社とか浴場とか、そのほか大低の設備では、まあこの町はよそのどこよりずっと優っていると思いますけど、そのうえ、いろんなくらし向きの道具にもここはとりわけ豊かなので知られてますもの。まったく閑暇《ひま》のある方には思うままの自由、用事で来るお客さまにはローマと同様な賑やかさ、また穏やかな気性の方には、別荘みたいなしずかさが待っていますし、つまりはこの州中でのこの町は、たのしい遊び場といったところですの」〔一九〕
それに私は答えて口をはさみ、
「まったくおっしゃるとおりです、どんな国へ行ったって、ここほど自分が自由だとおもった場所はありません。ですけど私はとても魔法のてだての隠れ家がこわいのです、見当《あて》もつかず避《よ》けることもできないものですから。だって死んだ者の墓さえも安全とはいえぬそうなうえに、火葬場だの塚などから死人の何か残したものを探し出したり、死骸の片はしさえもとり出して生きてる者におそろしい呪いをかけるのに使うという話ではありませんか。それであやしい呪文をいう婆さんたちが、立派な葬式の支度を出そうという瞬間に、(それを聞きつけ)矢のようにさっそく飛んで来て、他人がそれを埋めこむのを先きまわり(して屍を奪い取る)というんですもの」
こう私がいうと、一人がそれに同じて、
「いや、まったくそれどころか、お話のことにかけちゃあ生きてる者だって容赦はないんです。それで誰だったか、ある男は同じような目に遭い、顔一面をさんざんに切りくずされて、すっかりめちゃめちゃにしちまったという話なんです」
こういうと、酒宴の席にある人が、一斉にどっとばかり笑いくずれて、一同の眼も顔もひとしく片隅にひとりで横になっている男へと注がれました。その男はみんながあまり意地悪にしつこくはやし立てるもので、すっかり当惑してぶつぶつ言いながら立ち上ろうとするところを、
「まあまあ、テリュフロン〔「女みたいな心」という名〕さん」
とビュラエナがことばをかけ、
「まあもうちょっと坐ってらして、いつものとおり愛想よくあなたの例の物語を聞かせて下さいましな、そこにいる私の息子のルキウスさんもあなたのご親切でおもしろいお話の一部始終を、たのしく伺うことができますようにね」
と、その男はこたえて、
「ええ、奥様、あなたはいかにもいつものとおり、ご親切に正しくもてなして下さいますが、なかにはとても我慢しきれないほど失礼な人間もいるものですから」
こういきり立って言いました。しかしビュラエナはしきりにせがんで、気の進まぬその男に強いて口を開かせ、とうとう望みどおりにしてもらうことになりました。〔二〇〕
そこで蒲団《ふとん》をうず高く積みあげ、肱《ひじ》によりかかって椅子の上に身を起こすと、右手をさし出して演説家のようなかたちに節をまげ、末の指二本は折り返したまま、あとの指をまっすぐに延ばして、親指を上へ突き立てながらテリュフロンはしゃべり出しました。
「まだ部屋住みのころ、私はミレトスを立ち、オリュンピアの祭りを見に出かけましたが、ついでにこの名に聞こえた地方にも立ち寄って行きたいと考え、テッサリア中をずっと旅行してから、ラリッサにさいさきわるく〔鳥占いの「凶兆」とともに〕着いたのでした。そこでいちいち町中を見物しながら、ちょうど旅費も大分淋しくなったので、何とかしてこのふところを温めるすべもがなと思う折しも、町の広場のまん中に一人の背の高い老人を見つけました。石の上に乗って大きな声で呼ばわるのを聞くと、
『誰か死人の番をしてくれる者はないか、あれば駄賃をあげるが』
というので、ちょうど通りかかった人をつかまえ、
『いったいなぜあんなことを言ってるんです。ここじゃ死人がいつも逃げ出すとでもいうんですか』
と訊ねると答えて、
『黙っていなさい、お前さんはまるで子供だし、全く他国のもんだから、自分がテッサリアにいるんだってのに気がつかないのももっともだが、ここでは女の魔法使いがしょっちゅう死人の顔を食いとって行くのだよ、そいつが魔法使いたちにとっての妖しい術の道具にいるというんでね』〔二一〕
そこで私はいいました。
『ですが、その死骸の見張りの条件というのは、どんなことです、どうかぜひ、あなた、教えて下さいませんか』
『まず第一に、夜っぴて十二分に張り番をしてなけりゃあならない、眼をはっきりとしょっちゅう瞬きもせず死骸に注いでね、ちょっとでも眼光《まなざし》をよそへ向けてはいけないんだ。全くのところ一刻も忘れちゃだめだ、そのけしからん奴らは思うままに姿を変えられるので、どんな生物の形にでも化けこんで、そっと襲ってくるんだってのをね。それでお天道さまや正義正法のまなこさえ、たやすく眩《くら》ましちまおうというんだもの、鳥だとかまたは犬や鼠、ことによっちゃあ蝿の姿にさえ化けてこようてんだ。
それから今度は怖ろしいまじないでもって、番人をねかしこまそうとしかけるんだ、いや全く誰だって、そのとてつもないわるさをする女どもが自分の思いをとげるために、どんなわからぬてだてを企らむか、とうてい定《き》めることもできないだろうよ。それだのにそんな命がけな仕事の駄賃として、くれようってのは、たったまあ四枚か六枚がせいぜいの金貨なんだ。おやおや、私はうっかり言い忘れかけていたが、もし朝になってその死骸が無事そっくりとつつがなく渡しかえされなかった場合は、何によらず切り取られたり減ったりしたところを、自分の顔から同じだけそっくり切りとって償わなきゃならん、という約束なんだ』〔二二〕
それを十分聞いてから私は自分に勇気をつけて、すぐさまつかつかと呼び手の許へ歩みより、いいかけました。
『もう呼び立てるのをやめて下さい、ここに番人になろうって者がいますから、さあ賃金を出して下さい』
『では五十両あげることにしよう。だがな、書生さん、十分気をつけてな、この町でも主だった偉い人の息子さんなんだから、悪いかっさらいの女どもから死骸をしっかりと守ってくれなきゃ駄目だぞ』
『なにをつまらない、役にも立たぬことを、私に向っておっしゃるんです。このとおり、私は鉄でできたみたいな、睡気も知らぬ男なんです。全くあの千里眼のリュンケウス〔アルゴー遠征の英雄の一人〕より、アルゴス〔百の眼があるという巨人〕より眼がはやいんですよ、鋭い眼そのもの、てなくらいでね』
こう言い切るか切らないかに、すぐさまその男は私をつれて一軒の家へ赴きました。その家は門の扉もすっかり閉め切っており、とある小さな脇戸からその中へ私を呼び込むと、窓も閉ざしてうす暗い部屋に連れてゆき、黒い喪《も》の衣を着て泣き沈んでいる一人の婦人に引きあわせました。そしてその傍に進んでいうには、
『この人があなたのご主人さまのお守りをすると申して傭われ、しっかりやるつもりでまいりました』
すると女は一面に垂れかかった髪の毛を掻きのけ、悲嘆のあいだにもまだ色艶の消えやらぬおもてを見せると、眼ざしを私の方に向けていいました。
『どうか気をつけて、十分によく見張りの役を勤めて下さいね』
『何もご心配はいりません』
と私は答えました、
『ただそれ相応のお礼金をいただけましたら』〔二三〕
婦人はさっそくそれを承知して、立ち上ると他の寝間へつれてゆきました。そこには遺骸へ立派なまっしろい殯衣《ひんい》を被せて置いてあるところへ、七人の証人を呼び入れ、てずから顔の被いを取り去って長いことむくろの上で涙をながしたのち、居あわせる人たちの堅い信実を願いもとめて、一々の顔の様子をくわしくさし示し、言った言葉を一人の者に詳しく書板へ記しつけさせるのでした。
『ご覧のとおり鼻も欠けていず、両方の眼もつつがなし、両耳も無事、脣も損じたところがなく、おとがいもそのままそっくりです。どうか、皆さまがた、このことについて証人になって下さいまし』
そういい終ると、その書状にみなみな印をおしてから、出てゆきました。
そこで私はよびとめて、
『奥様、どうか私の是非とも入用な品々をここへ持たせて下さいませんか』
というと、
『おや、何がご入用なの』
と訊ねます。
『とくべつ大きな燭台に夜の明けるまで十分もつだけの油をそえて、それにお湯とお酒の徳利を何本かに盃と、それからご馳走のあまりを何かうまそうに一皿盛っていただきたいのですが』
そうすると婦人は顔を振っていいました。
『馬鹿なことをお言いでない、葬式を出す家でもって食事をしたり、ご馳走にありつこうって考えるなんて、ここじゃあもう何日となく長いこと煙ひとつ立てたこともないのに。それとも宴会でもしにやって来たつもりでいるの。いっそそれより場所に似合った悼みの言葉なり、涙を流しなりすりゃあいいのに』
こういうと一緒に小婢《こしもと》の方をふり返って、
『ミュリネエや、すぐと灯火《あかり》と油とを持って来ておやり、それでお寝間に番人を入れといて、さっさと向うへ行くんだよ』〔二四〕
こんな風にたった一人ほとけ様のお伽《とぎ》にとり残されて、眼をこすりこすり寝ずの番の要心怠りなく、歌をうたいなどして気をおちつけようとするうち、おいおい宵やみも深まって夜となり、夜も更けゆくにつれ人も寝しずまる時分、それからとうとういまは草木も眠るという丑満《うしみつ》の頃になりました。するととても何だか怖さが一段と昂《たか》まって来た折しも、不意に一匹のイタチが這い込んで来て、こちらを向いて立ち止り、とても鋭い眼つきでじっと私を見つめますので、そんなちっぽけな獣のくせにあんまり強い自信をもってることに、こちらも少からず脅やかされて、とうとうイタチに向っていい放ちました。
『こら、あっちへ行け、汚ならしいけものめ、仲間の小鼠どものあいだへでもすっこんでろ、さもないとすぐさま目にものを見せてくれるぞ、さあ、あっちへ行け』
と、イタチは背を向けてじきに寝間から出てゆきました。がたちまち、深い眠りが私を突然に奈落の底へと引きずり込んでしまい、あのデルポイの神〔アポロンのこと〕自身でさえ、そこに横たわっている二人のうち、どっちがよけいに死人らしいか、容易には判じかねるていの始末になりました。そんな風に正体もなく番人がねているところは、そこにいなくても同然でしたが。〔二五〕
いまや夜の引き明けを鶏冠《とさか》をつけた鳥どものうたが高らかに告げてわたると、やっとのことで私も目を覚ましはしたものの、この上もない心配にすっかり脅えながら、屍のところへ馳け寄って灯火をさしつけ、死人の顔のおおいを取っていちいち委細に点検して見ました。それにはどこも何一つ異状もありませんでした。するとそこへ死人の寡婦があわれげに泣きながら、昨日の証人たちを引きつれて気もすずろに馳け込んで来て、いきなり屍のうえに身を投げると何度も長いこと接吻をしてから、灯をたよりにすっかり何の変わりもないのを確かめました。それから後ろをふり向いて用人のフィロデスポテスを呼び出し、立派に見張りをしおおせた番人に猶予なく謝礼をするように指図をして、それを私がすぐ受け取ると、いうには、
『若い衆さん、私たちは心からあなたにお礼をいいますわ、それで本当に、こうしてまじめに務めて下さったのですから、今後はあなたを家のお近づきとしてお扱いしたいと思ってますのよ』
そこで私は思いがけぬ儲けに、すっかり有頂天になりきって、ぴかぴか光る金貨をくりかえし手のひらにちゃらつかせながら、うっとりと見入ったまま答えました。
『いや、奥さん、どうか私をあなたのお家の召使の一人とも考えて下さい、それで、何度でもこうしたご用がありましたら、そのたび遠慮なく私にいいつけて下さいまし』
こう私が言い終るか終らないかに、いきなり召使の者どもがみなよってたかって、私の不埒な挨拶を罵りながら、ありとあらゆるたぐいの利器《えもの》を手にとり、打ってかかりました。一人が拳固《げんこ》であごをどやしつければ、一人は肘で肩の骨をこづく、も一人は掌でひどく脇腹をほじくる、かかとで蹴ったり、髪を引っぱったり、着物を引き裂いたり、こうしてあの気位の高い若者のアドニス〔ウェヌスの愛人で猪に刺されて死んだ美少年〕か、あるいはピンプレエの詩神のつかいの歌人《うたうど》〔オルペウスのこと〕みたいに、さんざんに突き傷、裂け傷を受け、ほうほうのていで家から突き出されました。〔二六〕
そこですぐそばの大路へゆき、やっと気を落ちつけながら、おそまきに自分のあいにくな、またいっそ弁えのない言葉を胸にくりかえして、本当はもっと沢山打ち叩かれても当然だったとうなずいていると、そこへいましも、最後の涙と哀悼の嘆きも終えて、おとむらいが繰り出して来ました。それで町の主だった人物にふさわしくその国の先祖からのしきたりに従い、公けの葬式のはなやかさでもって市場中をねって廻っていったのですが、折しも不意に一人の喪服を着た老人が馳けより、涙にぬれてみるも悲しげな面持で、様子のいい白髪を掻きむしりながら、両方の手で柩にとりつくと何度とないすすり泣きに妨げられつつも声を引き絞って叫びますには、
『どうか、町の方々、あなた方の信実にかけ、また公けの正しさを守るこころにかけて、この殺された市民の肩を持って下され。そしてこの上もない恐ろしい罪を犯した罰を、そのけしからぬ兇悪な女に厳重にむくいてやって下され。この女で、ほかの誰でもないのじゃ、わしの妹の息子にあたる若者をみじめにも、密夫のためにまた後にのこる財産を横領しようとて、毒殺してしもうたのは』
こうその老人は嘆きながらの訴えを、めいめいの人みんなに喚きましたので、町に群がる人たちもだんだんと騒ぎ立てだし、その事件のまことらしさに動かされると、その男の訴えを信じこむようになり、火をもって来いと呼ぶ、石を探しまわる、小童らをけしかけて女を殺せとそそのかすという始末で。すると女の方では空涙をながして、ありとある神々の名を、力のかぎり勿体らしく呼びあげて誓言しながら、そうした罪は覚えがないと言いはりました。〔二七〕
すると今度は前の年寄りが、
『どちらがまことか、その裁きは神々の御はかりごとに任せようではないか。ここにエジプトから見えたザトクラスさまがいなされる。第一流の預言者だが、その方にたんとお礼をさしあげて、この間中から私と約束をしてもろうてあるのじゃ、ほんのしばらく彼《か》の世から死人の霊を招《よ》びかえし、その肉体《からだ》も死んだ後とはいえ、また生き返らせてくれるようにとな』
というより早く、一人の若い男、麻の衣を身にまとい、足には棕櫚の編ぐつをはき、すっかり頭を剃っている姿のを、一同の真中につれ出しました。その男の手をとって長いこと接吻をしたうえ、その膝にまでとりすがっていうには、
『どうか、お上人《しょうにん》様、お慈悲をかけて下され、どうぞお慈悲を。天上の星々にまた地の底の神祇にかけて、自然の五元の力、夜のしじま、またコプトのお宮〔エジプトのテーベ近くの都〕やナイル河のみなぎりに、メンフィスの秘密の御式、またファロスの祭りのがらがらの音にかけて、しばしの間(この死人を)お太陽《てんと》様のおめぐみに与《あずか》らせ、永久に閉ざされた眼にわずかな光をお注ぎ込み下され。けして私らは道をまげようというのでなし、大地に帰したものを取り返そうとするのでもない、ただ報復《しかえし》に心をなぐさめようとて、いささかの生命《いのち》のひまを求めお願いいたすばかりですて』
こう頼み込まれて預言者は一つの小さな薬草をとって死骸の口にあてがい、も一つをその胸におきました。それから東の方へ向き直って、おごそかにさし登る太陽へ無言の祈りをささげ、このとうとげな光景の始終に一段と居あわせる人々の好奇心を、今にもどんな大した不思議が起ころうかと、そそり立てるのでした。〔二八〕
私はすぐに群衆の中へとび込んでゆき、すぐその柩のうしろへ、とある突き出た石に乗っかり、ものほしげな眼で一々をすっかり眺めていました。するとそのうち胸がふくれてもちあがる、今度は脈が生き生きと打ちめぐり出す、見る見る死んだむくろに生気がみちわたってくる。とうとう屍は起き上って、若者の声でものを言い出しました。
『言ってくれ、なんでこの私を、黄泉《レテ》の盃を口にしたのち、また三途《ステュクス》の流れにもう浮かんだものを、たまゆらの生のつとめを果たさせようとて、呼び還しなさるのか。すぐにも止めてくれ、どうぞ止めにしてくれ、そしてこの身をもとのいこいに返らせてくれ』
こうその死人のいう声が聞こえました。すると預言者はいくぶんか激した調子で、
『どうして其方《そなた》は一部始終を人々に語らないのか、そしてお前の死の秘密を明らかにしようとせぬか。それとも私《わし》の捧げる祈りが復讐神《ディラエ》たち〔ギリシアのエリニュスのこと〕を喚びだし得ぬとでも思うておるのか、其方のものうい手足をさいなみ得ぬと』
するとその男はまた柩から言葉をつづけ、深い嘆息《ためいき》をつきながら、人々にこう訴えました。
『私は新しい花嫁のよこしまなてだてによってとり殺され、毒を入れた盃のため命をおとした。まだぬくもりの冷えぬ臥床を、みそか男〔密夫〕にゆだねるという仕儀になったのだ』
これを聞くと、その立派な細君はすさまじいほどの厚かましさで、神を忘れた心に猛りくるって、自分を罪におとそうとする夫に刃向い、言いあいをはじめました。町の人らも湧き立ってそれぞれに味方をする、この言いようもなくけしからぬ女を、生きながらすぐさま夫の屍と一緒に埋めてしまえというのもあれば、死人のいつわりに信用などできぬという人たちもある、というわけで。〔二九〕
しかしこうしたいろんな諍《いさか》いに、引きつづく若者のことばが、きっぱりと決着をつけてしまったのです。というのは、ふたたび一きわ深く嘆息《ためいき》しながら、男はいいだしました、
『見せよう、あなた方に疑いのない真実の証拠を出してあげよう、この上なく明らかに、他には誰一人まったく知る者もないことを、さし出して見せてやろう』
といって指で私をさし示し、
『というのは、そのいかさま智慧のありあまる男が、私の屍《かばね》の番人として、おさおさ見張りを怠らず勤めていたとき、妖術をつかう老婆どもが私のむくろをつけ狙おうとし、そのためいろいろ形を変えて現れたがその甲斐もなく、この男のたゆまぬ見張りをどうしても犯すことができなかった。そこで最後に眠りのもやをこの男の上にこもらせ、深いいこいに埋めてしもうて、それから私の名を呼びつづけた。それもこの生気の失せたふしぶし、冷え切った手足が、魔法の術にすこしずつのものうい骨折りで従ってゆくまで、呼びやまなかったものだ。
ところがこの男は、生きてはおりながら、その折は深い眠りに死人同然の有様なのを、ちょうど私と同じ名を名乗っているため、おのが名を呼ばれると、われとも知らず立ち上り、あたかも生命《いのち》の絶えた影のごとくにおのずから扉のもとに歩み進んで、その寝間の扉は固く閉ざされていたとはいえ、どこかの穴からまず鼻を、つづいて両耳を切り取られて、私の身替りにとんだ手傷を負わされたというわけなのだ。
そしてそのたくらみにすべてが合って露見せぬよう、切り取った耳の形に蝋をこさえてぴったりとそこにあてがい、鼻もそっくり似せて作りその跡にとりつけてある。されば今ここに立っているその男は、あわれや自分の骨折りの褒美ではなく、とんだ片輪の褒美をもろうて、そこにいるというわけなのだ』
こう聞いた私は仰天して、自分のしあわせを試してみようと取りかかりました。手を延ばしてまず鼻をつかむ、と鼻が取れてくる、耳をひっぱってみる、と耳がおっこちる。そこで私は人々がみな指をさし向け、振り返っては互いにうなずきあい、そうして哄笑のわき上るその中を、周囲に立つ人達の足のすきから、冷い汗をびっしょりと流しながらも、くぐり抜けて逃げ出しました。それからはこう片輪にされたうえ人の笑いものになった身で、今さら故郷の家へ立ち帰りもならず、髪の毛を両側へ垂れおろして耳の傷をかくし、鼻の方へはまたこうして麻布をしっかりとのりでくっつけ、その醜さを何とか蔽いつくろっている次第なのです」〔三〇〕
テリュフロンがこう話をしおわるとたちまち、酒浸しになった来客たちはもう一度また大笑いをかさねました。そしていつものとおり笑いの神に乾杯をささげようと皆々のいいあううちに、ビュラエナは私に向っていうのでした。
「この都がまだ初めのむつきの中にいた時分から定《き》められている、お祭りの日が明日来ますの。その日には私どもは、このうえなく尊い笑いの神様を、陽気なまたはしゃいだ祭式でお祝いもうしあげるのです。その日をあなたのお出ましで、いっそう私どもにとり、愉《たの》しいものにして下さいましな。それもね、どうかご自分の持ち前な愛嬌で、神さまをお祝いするのに何か面白さを増すものを工夫して、ひとしおこの大神さまを私どもがお喜ばせできるよう、なさってちょうだい」
「いかにも」と私は答えました、
「おっしゃるようにしましょう。それでほんとに、何か私がこの大神さまにいっそ思いきり豊かに享けていただけるような笑いのたねを、考え出せたらとねがってるのです」
その後、私の僕《しもべ》の心づけから、夜も更けたということに加えて、自分もすっかり悪酔いがしてきたもので、すぐさま立ち上ってビュラエナに挨拶をのべたのち、よろめく足取りに家路を辿りました。〔三一〕
ところがいきなり最初の大路へふみ込む拍子に、突然風が吹きつけて頼みとする提灯を消しちまったので、ようやっと黒白《あやめ》もわからぬ夜の闇をさぐりさぐり、足の指も突き出た石にうち痛めつつ、抜け出して宿へと疲れた身体を運びかえったのでした。こう手を組み合わせて家に近づく折しも、見ると三人の屈強な体もいかつい男が、うちの門扉へありったけの力を振って、ぶつかっていて、しかも私らが来るのに少しも怖れる気配さえなく、いっそう互いにおとらじと勢い烈しくおどりかかる有様に、私どもみな、とりわけ私は、むろん間違いなくこいつらは物|盗《と》りにちがいない、しかも中でもことに兇暴な奴だろうと考えました。
そこですぐさま私は、こういった場合に使おうと衣の下にかねてかくし持っていた剣の鞘を払うと、手にとり直し猶予あらせず賊どものまん中にとび込み、一人一人を手当りに、争いあうのにぶつかりざま、ぶっすりと深く突き込みました。あげくのはてはとうとう私の足下のまん前に、みなひどい手傷を方々に突きあけられて、枕を並べて討死ということになったのでした。こんな風に戦いあううち、その騒がしさにフォティスが起き出して来て、屋敷の戸を開けましたので、喘ぎあえぎ汗にまみれて私は中へ這い込み、あのゲリュオン〔ヘラクレスに殺された山賊〕を殺したという話の代わりに、三人の盗賊との合戦につかれ切って、すぐさま身を臥床と眠りとにゆだねきりました。〔三二〕
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巻の三
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皮袋の化けた賊どもを殺した顛末《てんまつ》―ミロオの妻、幻術で梟《ふくろう》に化すること―それを真似てルキウス、ロバになること
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いましも曙《あけぼの》の女神が、薔薇色の腕《かいな》をうち振りながら、馬の装具もくれないに染めつつ、駕御《くるま》をみそらに進めてゆけば、やすらかな憩いから夜は私をもぎ放して、昼間にひき渡すのでした。ゆうべ犯した兇行をおもいだすと胸はたちまち熱くなります。とうとう私は足を組みかわし、指もたがいにしっかりと編み合せたまま、手を膝において、またもとの寝台の上に坐りこんだまま、思う存分涙にひたりました。いまにも白洲《しらす》へ引き出され吟味を受け、すぐにもお仕置きの言い渡しがあったはては、首切り人の手にかかるところまでを胸に描いておもいやったからです。
「一体誰が、どんな吟味役が私に対してそんな優しい情愛をかけてくれよう、自分が三人までも人を殺した咎《とが》を身に負い、こうも多勢の市民らの血潮にまみれてるというのに、無罪の宣告をくだしてくれようなんて。これこそきっといつかあのカルデア人のディオファネスが、私の旅行はきっとすばらしい成功だろうなどときっぱりと預言をした、そのことなんだな」〔一〕
こう繰り返し繰り返し、かこちながら身の不運をなげきつづけました。すると折も折、門を叩くとみるまにおびただしい叫びや物音がこの家の玄関に聞こえます。そしてたちまち、入口の戸をおし開けてどっと中へなだれ込んだのは、町の役人たちやその手下の者どもにつづくてんやわんやの野次馬連中、見る見る屋敷中いっぱいになり、すぐさま二人の手先が町役人の言いつけでもってご用ご用と、ほとほと今は刃向う気もない私を引き立ててゆきにかかりました。
それから家の小路の出口へまいりますと、これはいかなこと、町中のものが一人のこらずその場へくり出していて、驚くばかりな混みようで私どもの後をついて来るのです。もとより私といたしましては頭も地に低く垂れるどころか、全くもう地の底、いやあの世へまでうなだれ込んで、悲嘆にくれつつ足を運んではいましたが、それでも時おりちょっと眼を横ざまに走らせてみると、これはまたひどく不思議な様子が眼に映りました。というのは、こう何百何千とぐるりを囲んで騒ぎ立てる市人のうちに、腹を抱えて笑いこけない者はてんで一人も見つからないのです。
その間にもとうとうありとあらゆる町筋を引き廻され、ちょうど何か悪いお告げの咎をお祓《はら》いの祭りをやって宥《なだ》めようと、犠牲《にえ》のけものを行列をして引いてゆく折みたいに、市の大広場を隅から隅へずっと連れ渡してから、そこにあるお白洲へ私を引き据えました。一段と高い壇の上にはお役人たちがずっと座を占め、つづいて布令役が一同に声を収めてさし控えるよう申し渡すと、にわかに町の者らは口をそろえてみな騒ぎ立ち、人だかりがひどいためあんまり混み合って窒息する者を出さぬとも限らぬというので、是非この罪の言い渡しは野天の劇場でやってもらいたいとせがむのでした。
たちまち町の人らは馳け寄って、窪みになった大劇場のかこい内をたまげるほど速く一杯に充たしました。入口も屋根までもすっかりいっぱいな人だかりです。柱へよじ登っている者もずいぶんと見え、御像の列にぶら下った者、窓々や欄間のすきからのぞく者など、ともかく全くこの場の仕儀を見たさの一念から、自分の安危さえも意に介せぬというふりなのは驚くばかり、その最中へ町役人らは私を舞台のまん中から、まるで犠牲にする獣みたいに、連れ出してから踊り場の中央へ立たせました。〔二〕
すると、またもや布令役の大きな呼び声に促されて、一人の年寄りが訴人《そにん》として立ち上りました。傍には首がほっそりと糸巻きみたいに細まった器《うつわ》、水時計でしょう、それを控え、それに水を注ぎ込んだうえ、細首から滴り落ちてしまうのを限りに弁論の時間をきめるというわけ。さて集まった人々にむかいこう言いかけます。
「筋目も正しい市民でおいでの皆さま方、いまここに持ち出されましたのは、決しておろそかならぬ重大な事柄の上にもとりわけ全市の安寧にもかかわり、先々の大切なためしにもなろうという件であります。それゆえひときわ皆さま方にお願いするのは、是非ともそれぞれめいめいにもまたご一緒にも、公けの秩序と威厳を保つうえにも十分ご考慮なして頂きたいことで、この非道至極な人殺しめが、あんなにひどい兇行を無慚にもはたらいておいて、しかもしゃあしゃあとお仕置きを逃れてすますようなことのないよう、何とぞお願い申しあげます。
またけっして私が個人的な怨みや憎しみに押し動かされ、ほしいままな恣意《しい》から猛り立つものとお思いでは困ります。自分は夜番頭を勤めておりますが、まったくのこと、今日《こんにち》まで何方《どなた》にしろ、この私が警護のつとめに、手落ちがあったというて咎められる方はあるまいと存じます。
さてこれからくだんの件を昨夜演ぜられましたとおり、あからさまに逐一申し立てるつもりですが、さればおよそもう丑の刻すぎでござりましょうか、ちょうど私どもが市《まち》中の家々をいちいち丁寧に念を入れて一戸一戸検べてまわります折しも、見ればあの若者が、何という無慚なことか、抜刃《ぬきみ》をふるって手当り次第に人殺しの真最中で、数えるともう三人もがあの男の酷《むご》たらしい手にかかってその足許にぶっ倒れており、まだ体には息があるらしくひどい血潮の中に喘《あえ》いでおりました。
ところでその男はというと、さすがにかほどの罪を犯して心にふかくとがめたものでござりましょう、さっそく逃げ出して、とある屋敷へ夜の闇をさいわいと忍び込み、夜中じゅう身を隠しておりました。しかし神々は悪事を働くものの罪をけっしてそのまま見過ごしにはなさりませぬもの、そのごはからいにより彼奴《きゃつ》めがこっそりずらかってしまわぬうちに、私どもが早朝から手配をして彼奴をからめ取りまして、こう皆さま方の畏れ多いお白洲まで裁きをうけるよう連れてまいった次第でござりまする。
そんなわけで皆さま方は、こんな多勢を殺した恐ろしい罪人、しかも現行犯で、また外国《よそ》から渡来した犯人をお裁きになるというわけで、されば何とぞきっと厳しくこの渡り者をお取調べになり、こいつめが、お国の方々に対して犯した罪に厳重なお仕置きを申し渡し願い上げます」〔三〕
こう訴え手がとても激しい勢いで怖ろしい申し立てを終えると、今度はまた布令役が私に向って、何かこれに対し答弁したいことがあったら、すぐさま申し述べるよう指図しました。だが私はその折には全くただ泣きくれる外どうしようもありませんでした。それも実際のところ、その男の猛烈な訴えにあってというより、自分自身のみじめな心の内を思ってのことでしたが、ともかくもとうとう神意に動かされてとでもいうか、思いがけない勇気がわいて、こう弁明いたしました。
「いかにも私とてまんざら、どんなにそれは難かしいことか存ぜぬわけでもありません。人殺しで訴えられている者が、市民の死骸を三つも目の前に控えて、たとえどんなに真実を述べようと、また自分から事の次第を明らさまに申し立てようと、こんなに多勢控えておいでの方々に、自分が無実であるなどと、信じてもらおうなどというのは。
しかし、もし皆さま方にいささかなりと私の言葉を聴くだけのお情けをお持ちいただけましたら、死罪のお裁きは決して私の所行の当然なむくいではなく、むしろ私は筋道立った憤りのためそれも全く偶然の成行きから、この大罪の犯人だという疑いを、思いがけなくこうむる仕儀に立ち至ったのです。〔四〕
というのは、ゆうべ宴会から少しばかり遅くなってから家へ戻ってまいりました折、いくぶんか酔っていたことはいかにも全く私の咎として否定はいたさぬ事柄ながら、宿泊《とま》っています宿、というのはこの町の住人ミロオ様のお宅で、そこへ戻って来ますと、まさしくその門口に見えるのは何人かの盗賊、それも兇悪この上ないのが押し入ろうと企らんでるところで、戸の蝶番《ちょうつがい》も引きちぎって門の扉をいまやもぎとろうといたしております。十分厳重にとりつけてあった閂《かんぬき》もすっかり引きぬきまして、いましも家の人たちを殺してしまう相談を交わしているところでした。
とりわけその中でも一番に勢いも猛々しく体も巨きな男が、こう申して仲間の奴らをけしかけておりました。『おい、さあみんな、これから精一杯男らしく元気を出して、手っ取り早く寝てる奴らをやっつけようぜ。ぐずぐずしたり弱気になったりすることは、すっかり胸から追っ払うんだ。刀をひっこ抜いて家中すっかりばらしてまわるんだぜ。まだ床ん中で寝込んでる奴らはまっ二つにしてやるし、刃向ってこようって奴らは斬り殺しちまうんだ。家ん中に誰一人生き残ってる奴がないようにしとけば、俺たちは無事にずらかれようってもんさ』
いかにもお控えの皆様、この兇悪無比な盗賊どもを――それもつまりは善良な市民としての務めを思い、同時に私の宿の主人たちや自身のためを気遣ったためなのですが――こういった風な事態をおそれて常|日頃《ひごろ》から帯びていました小剣を手にとり、追っ払いかつは何より脅しつけようというわけで、傍へまいった次第なのです。それなのにその全く野蛮で兇悪な奴どもは逃げ出すどころか、私が刃物を持っているのを見ますと、大胆に刃向ってまいるのでした。〔五〕
そこで私も戦いあう体勢をととのえました。むこうの方でも首領か親分とも見える奴がひどい勢いで私に襲いかかっていきなり両手で髪をひっ掴み、後ろへおし倒して石で撃とうとはやりますので、そやつがしきりに石を取ろうともがくところを、束《つか》も通れと刺しとおし、うまい工合にうち倒しました。つづいてもう一人、私の足にすがりついて噛みつく奴を、肩んとこを突きとおして殪《たお》し、三人目の奴もまた向う見ずにかかって来るのを、胸に切りつけて殺しました。
こうやって平和を確保し、泊めてもらっている家や公共の安寧も護り通したことですから、私は罰を受けぬどころか公けのお褒めも頂けることとばかり思っておりました。それに今までとていささかたりともお咎めを蒙った覚えもなく、故国におりますれば人からも十分敬われている者、自分と致しても世間のあらゆる物事以上に身の潔白を重んじてまいったのです。
それで今、なぜこのような咎に逢わなければならないか、私にはまったく合点がゆきません。この上もなく悪い盗賊どもに対して私が腕を揮い、まさに正当な報いを加えてやったというかどでもってです。それに何方《どなた》だって、これまで私とその奴らとの間に個人的な怨みがあったとか、その泥棒どもがいささかなりと、従来私の知り合いだったなどいうことを証拠だて得ようわけはありますまい。ましてや私が何か欲得ずくでこうした振舞いに及んだなど、決して立証される方はないはずです」〔六〕
こう言いおわると私はまた湧き返る涙にくれて、祈りの姿に両手をさし伸べ、公けの慈悲にまた血縁の愛情にすがってなげきながら、あるいは右あるいは左の人々に懇願しました。それでようやく並居る人らも人情に動かされ、また私の涙にあわれを覚えて、もうかなり心も和《やわら》いできたと考えますほどに、日輸と正義の女神の御眼を証人にもとめ、かつは自分の現在の身の成行きを神々の御はかりごとに委ねましたが、どうやらちょっと顔をもたげてあたりを見ますと、こはいかに、並居る群集の誰も彼も、みな一様に賑やかな笑いにあふれ、あの私の宿の主人のミロオ爺さんさえ遅れじと、腹を抱えて大笑いに笑いこけております。
この態《ざま》を見て私はこうひとり胸の中でつぶやきました。ああ全く人のまことも良心もどこへ失せたか、自分は宿の主人の身を気づかうあまりから、こう人殺しをして死刑の罪を受けようというのに、彼の人は私を助け、慰めを与えてくれぬばかりか、それでもまだあき足らずに私が死罪になるのを大声で笑っているとは。〔七〕
それこれする間にも劇場のまん中を分けて一人の女が馳け出して来ました。涙にくれて泣きくずれ黒い着物を着て、ふところには小さいのを抱えております。その後ろにはもう一人粗末な衣をまとった老婆がつづいて、これも同様いたましく涙にくれる姿、いずれも手にオリーブの枝をうち振りながら、例の三人の死骸を布で掩って載せてある台のあたりに取りついて、哀号《あいごう》のこえをあげながらあわれげに叫び立てました。
「公けの慈悲に、また世の中を守る義理人情の掟《おきて》によりまして、どうかこんなにむごたらしく殺された若い者たちを憐れんでやって下さいまし。それで夫をなくし身一つに取り残された私どものため、復讐をして慰めて下さいますよう。せめてこの小さい者がまだほんの生まれたばかしで、頼りもない身の上なのを憐れと思いお助けをお願いします。それでこの盗人《ぬすっと》に血でもって、皆さま方のお法令や町中の掟《おきて》定めに償いをさせるようおたのみ申し上げます」
こう言い終ると、役人の中でも年|量《かさ》というのが立ち上って人々に申しました。
「この犯罪はもちろん厳重に処罰せねばならぬし、また犯人自身とて犯行を否認することはようできぬ。だがまだたった一つだけわしらが十分配慮せねばならんことが残っておる。つまりこれほどの犯行をするのに、他に仲間はおらなかったか訊ねることじゃ。わずか一人でもって、三人ものこのように屈強な若者を殺してしもうたというのは、全く本当とは思えぬことじゃてのう。それゆえ拷問にかけて真実を吐き出させねばなるまい。というのもこの男の供をしていた僕《しもべ》がこっそり逃亡してしもうたでな、今では、こいつを吟味して共犯者の連中を調べ出すほかない仕儀となっておるのじゃ。それでもってこのように恐ろしい兇賊の一味を根こそぎつかまえ、市民の恐怖を除かねばならぬ」〔八〕
そこでたちまちギリシア国の習いによって火だの車輸だの、その他あらゆる拷問の道具が持ち込まれました。私の悲嘆はいよいよ高まります、いや全く二重三重にもなりました、無事な体躯《からだ》で死ぬことさえももう許されなくなろうというのですから。しかし先刻の、泣き叫んで法廷中をさわがせた老婆がいうには、
「町の皆さま方、どうかこの憐れな私の息子たちを殺した泥棒を礫刑《はりつけ》になさる前に、殺された者らの屍の蔽いを取らせて下さいまし、それでみんなの年の若さや様子の好さをご覧になって、一段と正しい怒りに燃えたち、こうした所行に相応な罰を加えてやって下さいますよう」
こういうと、みなそれに賛成して拍手を送り、すぐさま役人は私自身に、そこの台の上に置いてある屍の蔽いを、私の手でもって取り去るように言いつけました。今さら前の怖ろしい所行を人目にさらして、まざまざ見せつけられることなどはとうてい我慢できません。私はずいぶん断りつづけ承知すまいといたしましたが、上役の命令で手先が即座にもしろと迫ります。ついには私の手までわざわざ脇腹から押しやり、われとわが身の破滅へと、屍骸の上へさし出させました。
とうとうそれで私もよんどころなく従い、好まぬところながらも掛けた衣を取り去って、屍をあらわにいたしました。ところがまあ、神さま方、なんていう光景でしょう、何とした奇怪事か、なんてまあ私の不仕合せは不意な変化を受けたのでしょう。だってもう私は黄泉《よみ》の国の王様やお妃様の手下に数えられていたはずなのに、突然まるで反対な事態の変わりかたにたまげてしまい、ただ呆然と、この降ってわいたことの次第のありようをどう説明していいものか、適当な言葉さえ見つけられぬ有様です。というのは、その突き殺された人間の死骸というのは、とりも直さず三つのふくれた皮袋で、そこここに穿孔が見え、それもゆうべの格闘の次第を思い出すと、私が盗賊どもを突き刺したとおぼしいところに、大穴があいております。〔九〕
その時あちらこちらで今までしばらくは上手に隠しおおせていた笑いが、今度は群がる人々一杯にどよめき上りました。あんまりなおかしさにうち興ずる者もあれば、腹のいたさを両手でおさえてしきりに鎮めようという者もある。それがみなみないずれも娯《たの》しさに顔を一面塗りたくられて、私をふり返りふり返りしながら、劇場から引き揚げて行くのでした。
その私はというと、蔽い布を取った瞬間、もう化石したように氷の冷たさで立ちつくし、まったくその劇場に並んでいた石像か柱かに異ならず、その一つとも見まごうばかり。宿の主人のミロオがやって来て手を掛けたので初めて息を吹き返した有様でした。またも湧き出る涙にしきりとすすり上げながらいやがる私を、やさしい力強さで無理にも彼は引っぱってゆき、人気のない道をえらんで曲りくねった小路をひろい、自分の家へ連れてってくれました。そして悲しみも去りやらずまだ慄えおののいている私を、いろいろと説きなだめて慰めましたが、それでも私の胸の底ふかく刻みつけられた先刻の辱かしめに対する憤りは、そんなことでは到底和げられようものではありませんでした。〔一〇〕
すると折しもまた町の主だった役人たちが威儀も正しく私の宿を訪ねて、いろいろと私に説いては慰めようとします。
「もともと私らとて貴君の立派なご身分も家柄の尊さも弁えていないわけでは決してありません、ルキウスの旦那。なぜというと、この国中に貴君のお家筋の名は聞こえわたっているからです。それにあの、貴君がいまそれゆえ非常に慨嘆しておいでの事件とて、いささかも貴君を侮辱しようというつもりから致したものではないのです。
それゆえどうか腹の中からありとある心憂さも、全て払い去って下さいますよう、胸を責める物思いもです。というのは、私どもでは毎年この日に、町をこぞって有難い楽しい笑いの神のお祭りを執り行う定めなところ、その祭りには何か新奇な工夫をこらして賑わせることに致しております。さればその神様はこの新趣向の発案者に、どこまでもお慈悲を垂れ、親しく御眼を注がれましょうし、また必ずや貴君が胸を痛めておられるのを見過ごしはなされますまい。していろいろとお顔色が朗らかな美しさ艶やかさで晴れ渡るようおはからい下されましょう。
また本市全般とて貴君に対し、先刻のことのお礼にまで、とりわけ優れた名誉を呈上することに致しました、即ち貴君の名をこの町の恩人として公けに宣布し、青銅の像を作ってお立てするよう決議したわけです」
こう陳述をおえるとそれに私も返答して、
「いや、テッサリアでも並びないほどとりわけ立派な御市に対しましては、そのような非常な名誉にかなうだけのお礼を厚く申し上げます。しかしその私の姿や像を立てて下さるという話の方は、もっと偉い、それにふさわしい方のために、とっておかれるようお勧めしましょう」〔一一〕
こう慎ましげに言っていささかは機嫌もとり直した面もちに、まあできる限りは、前より嬉しそうなふりをこさえあげて、立ち去ってゆく市役人どもへ愛想よく挨拶をかえしました。
すると、折しも一人の下僕が家の中へ駆け込んで来ていうには、
「おふくろ様のビュラエナさまがあなた様をお招びしておいでです。夕べお約束申しあげました宴会ももう立ち迫ってまいりますので、何とぞとおっしゃっておいでで」
こう聞くと、私はもう怖気をふるって、この遠さからさえビュラエナの邸といえば身震いがするよう。
「いや全くのところ、ねえ君、お招きには是非にも従いたいのだがね、他の約束を破らずにそうできたとしたらばね。それがちょうどここの主人のミロオさんがね、何としても今日《こんにち》この日の一等勢いのある御神にかけても、私にきょう自分のうちの晩餐に出るようと誓言させなさってね、ご自分も出かけなさらず、私にも足をふみ出すのを許して下さらないんだよ。それだから宴会のお約束は、またのことにしてもらおうじゃないか」
こう私がまだ話しているうちにも、ミロオは手をしっかりとうち掛け、風呂屋へ行こうと、私を連れてすぐ近所の浴場へ参りました。しかしその道々も私はあうほどの人々の眼を避け、自分自身がこしらえ上げたみんなの笑いを蒙りたくなさに、ミロオのかげに身をかくすようにして歩いてまいりました。それでどう洗ったか、どう身体を拭いたか、どうやってまた家に戻ったかも覚えていません。いや全く誰も彼もが、眼や合点やまたしまいには手を挙げて私を指すので、心も上の空に夢中で過ごしました。〔一二〕
程なくそれから貧弱なミロオの家の夕餉《ゆうげ》も終わると、私はひどく頭痛がするという口実を、つまりあんまり泣いたもんで頭が痛くなったということにして、たやすく主人のゆるしを得て寝間にひき退りまして、寝台の上に打ち倒れてきょう一日の出来事を一々、胸もつまる思いで思い返しました。そのうちとうとうフォティスが女主人の寝る世話もすましてやって来ましたが、どうも様子が普段とはまるっきり違っております。というのは、いつものお喋りもどこかに消え、陽気な顔もしません、それどころか、いかにも屈託した面もちでひたいに皺を寄せたまま。ようやくのことためらい勝ちにこわごわと言い出しますには、
「あたし本当に自分からすっかり申し上げちまいますけど、こんなご迷惑をおかけしましたのも、みんな私が悪いからなんです」
というなり、懐《ふところ》から鞭を取り出し私にさしつけながら、
「どうかこれでもって、この不実な女に仕返しをしてやってちょうだい、いえそれどころか、何なりとお気のすむよう、もっと酷《ひど》いお仕置きをしてちょうだいな。でもどうか、私が自分から好んであなたをお苦しめするように仕向けたとは、考えないで下さいましね。
ほんとに、神かけて私のためにあなたがほんのちょっぴりでも嫌な思いをなさるよりは、何かの不幸があなたの上に降りかかるような場合は、よしどんなことでも躊躇《ためら》わずに私の血をさし出して、身替りに立ってあげるつもりでしたの。それなのに今度のことはあいにくと私の運がわるかったばかりに、他《ほか》の目的でやるように言いつけられたことが、あなたに災難をおかけすることになっちまったんですの」〔一三〕
すると私は日常《ひごろ》のものずき心をむらむらと起こして、フォティスのいう話のうちに潜む事の次第を隅なく知りたい気を抑えきれず、答えていいますには、
「そいつは全く世界中の鞭のなかでも一番にけしからん、思い上った鞭だよ、君を打ちこらしめようなんてことで持ってこられたのなら。いかにも、君のやわらかい、乳のようにまっ白な肌にさわるまでもなく、僕がそいつはおっぺし折ってめちゃめちゃにしてやろう。だがそれより、僕に本当のことを教えてくれたまえ、そのあいにくと間のわるいめぐり合わせのため僕をさんざんな目にあわせた君の仕事というのは、一体どんな話だったのか。
だって、君の何より可愛い頭にかけても誓うけれど、たとえ君自身がまじめになってそう言い張っても到底僕は信ずることができないんだ、君がすこしでも僕の不利益を計ったろうなんてえ話はさ。それにまた本来何の悪意も持ってなかった所業ならば、よしめぐり合わせがあいにくとか例えば悪かったにしろ、そのために咎をきせられることはなかろうじゃないか」
こう言い終るとすぐに、フォティスの両眼はじっとりと濡れてきらめき、抑えもやらぬ欲情になえなえとして今しも半ばうっとりと閉じかけるのを、私はしかとばかりに唇を寄せて啜《すす》りながら、心ゆくまで接吻しました。〔一四〕
さてやっと娘は嬉しさに元気づくと、
「お願いですから」と申しました、「どうか先に寝室の扉をしっかり閉めさして下さいまし。ひょっと私のいうことが洩れて、とんだ不始末から大騒ぎを起こしでもするといけませんから」
というなり、戸に閂をかけしっかりと錠をおろして、さてこっちを向くと両手に私のうなじを抱きしめ、細い声を一段とまた低めて耳打ちするには、
「怖いわ、ほんとに恐ろしくてたまらないのよ、この邸のかくれたことを暴《あば》き出して奥様の秘密をお打ち明けするってのは。でもそれ以上に私はあなたを、それにあなたの智慧をもっとお頼りしていますの。だってあなたは家柄も立派な方だし、才智も立ち優っておいでの上に、いろいろあらたかな事柄にもよく通じてらしって、何よりお口が固く信実を守る方だと思うんですもの。ですから何によらず今私がお知らせすることは、この尊い胸の中に奥深く包んで、かならず人に洩らさぬよう大切に蔵《しま》っておいて下さいまし。そうして私が何もかも打ち明けてお話するかわりに、そのお返しには、何があろうと堅く口をつぐんでて下さいますようお願いしますわ。
それというのも、人間のうちこの私だけが知ってることを、あなたを愛《いと》しく思うこのこころが、お打ち明けしろって責めるんですもの。今すぐ、ここのお邸の状況《ありさま》をすっかり聞かせてあげますわ。すぐにも奥様のそりゃもう不思議な秘密がお解りになるわ、その秘術には死人の魂も従うし、天の星さえそれに乱され、神霊も強制を受け四大(大地や海、火や虚空)さえ仕えるというほどなんです。
それがね、何をおいても一番にこの魔術の力を奥さんが使おうってなさるのは、誰か様子の好い綺麗な若者を見つけて色目をお使いになる時に定《きま》ってますの。しかもそいつがもうひっきりなしのことなんですのよ。〔一五〕
現に今だって、あるボイオティアから来た若い男に、とても綺麗な人なんですが、もうすっかり参っちゃってんですのよ、それでありったけの手をつくし、どんな仕掛けも夢中になってやってるんです。ゆうべだって聞きました、この耳でほんとに聞きましたわ、お天道様がもっと早く空を降りて、自分の魔法の誘惑を施すのに都合がいいよう夜とさっさと入れかわらないからっていって、こともあろうにお天道様を、黒い雲でかくしちまってすっかり闇にしてやるぞって脅かしていましたのよ。
その若者がね、ちょうどお風呂のかえりに、昨日理髪店に坐ってるのをあの女がみつけたんです。それだもんでその人の髪の毛が、もう床屋さんの鋏に切られて地面に落ちていたのを、そっと取って来いって私に言いつけましたの。で私がそっと行ってせっせと毛を集めていますと、床屋が見咎めて、もうそれでなくてさえ普段から世間でもって私たちが悪い魔法使いだってのは知れ渡っていますもんで、私をとっ捉まえて乱暴に怒鳴りつけるんですの。『こら、この下司女《げすおんな》め。若い好い男の髪毛をこっそり攫《さら》ってくなんてことをすぐさま止めないか。もしどうしてもそんな悪事を止めないってんなら、お前をきっとお役所へ引き渡してくれるから』って。
それで言うより早く、ほんとにもう手を出して検べにかかり、私のふところの中から隠しておいた髪の毛を、怒って掴みとっちまいました。こんなわけで、私もさんざんな目を見せられた上、奥様のふだんの仕方を思い返すと、こういう工合に失敗《しくじ》って戻ったときにはずいぶんひどいお腹立ちで、いつもきまって私をとても厳しく笞でお打ちになるもんですから、もう一度は、逃げ出しちゃおうかとまで考えましたの。でもあなたのことを思い出して、そんな企らみもすぐさま止めにしたんですわ。〔一六〕
ところがちょうど、私がふさぎながら戻ってくる途中で、一人の男が小鋏《こばさみ》で山羊の皮ぶくろの毛を剪《き》ってるのを見つけたんです。その袋がしっかりと結えつけられ、ふくれ上って吊り下がってるのを見ると、このまま手を空《から》にして家へ戻らないですむように、しかも地面に散らばったその毛が亜麻色で、それゆえあのボイオティアの若者とそっくりでしたもんで、そいつをどっさり取り込んでから、奥様に、本当のことは隠しておいて、お渡ししました。
こんなわけで夜分になるとすぐ、あなたがまだお招ばれから戻ってらっしゃらないうちでしたが、パンフィレエ奥様はもう心も上の空で板葺《いたぶき》の物見部屋へ上ってゆきました。そこは両側とも家がすっかり開けた吹き通しで、東の方も他の方も、すっかり四方八方を見通されるとこなんですの。それで魔法の術をやるのにもって来いだもんですから、いつもこっそりそこへ行くんですが、まず手初めにお定りの道具立てをこの悪魔のすむ仕事部屋へと列べたてます。あらゆる種類の香料だの、訳のわからない字を刻りこんだ板だの、不吉な鳥類のかたくなった骸骨だの、死人の墓や屍から取ってきたいろんなものを、ずいぶんどっさり拡げておくんです。こっちに鼻や指がいくつもあると思えば、向うには絞首人《くびくくり》の肉がくっついた釘があったり、またあっちには殺された人間の血を取っといたのや野獣の餌になるとこを横取りをしてきたしゃれこうべがあるってわけなんですもの。〔一七〕
それから今度はまだ動いている獣の臓物に向って何かお呪《まじな》いをしきりにいい、いろんな色の液をそそいで祈るんです。泉水だとか牛の乳だとか山から来た蜂蜜だとか、それに甘露の酒なんかもそそぐんですのよ。それがすむと先刻の毛をとってお互いに編み合わせて房につくって、いろんなお香と一緒に真赤におこっている炭火の中に投げ込んで焼くんです。そうするとすぐさま、魔術の力の誰一人|抗《あらが》えるものもいない勢いにひかされ、無理じいされた神力のめくら滅法な烈しさに操られて、いま現に自分の髪の毛がじいじいいって焦げてるその品物が、人間の息をかりに具《そな》えその気を感じ音を聞き、歩み寄って、自分の毛の焦げる臭いの招くところへやって来ました。で、そのボイオティアの若者のかわりに≪皮の袋≫が家の中へ入りたがって門を襲ったって次第なんです。
そこへそら、ちょうどあなたがすっかり酔っぱらって黒白《あやめ》もわかない夜の闇に誑《たぶら》かされて、勇ましく剣を抜き放ち、まるであの気が狂ったアイアクス〔ギリシア悲劇の主人公〕みたいにふりかざすと、その方が生きた羊の群をおそって、その群をすっかり屠《ほふ》りつくしたのとはうって変って、もっとずっとお強いこと、ふくれあがった山羊の皮袋を三つまで切り殺しておしまいになったんですわ。お蔭さまで私も今、敵どもをすっかり平らげ、しかも擦り傷一つお負いにならないあなたさまを、こう人殺しではなく、袋殺してなわけで抱きしめることができるんですのね」〔一八〕
こう気持よくフォティスが言いはやすのに私の方でも悪ふざけをやり返して、
「それじゃあ、僕自身だって今度は、あのヘルクレスの十二功業になぞらえて、まずこいつを武勇のほまれの手初めに数え立てることもできようもんだね、そら、あの英雄が三つ体のあるゲリュオンだとか、三頭のケルベルス〔地獄の猛犬〕を退治したとおり、僕だって同じ数の皮袋をやっつけたんだから。
しかしこんなひどい苦しみを僕に負わせたその咎を心から喜んですっかり赦してあげられるように、僕が折り入ってお願いするこのことを果しておくれよ。つまりね、あの奥さんがその秘法の術をちょうどせっせとやってるとき、僕にその様子を見させてくれるんだ、神々を呼び出したり、とりわけ自分の姿を変えるところが見たいんだよ。だって僕は魔法の知識を学び取りたくてたまらない人間なんだもの、もっとも君だって、それに全然通じていないとは見えないんだが。
いやそいつは僕にも十分はっきり判るんだよ、感じられるんだ。これまで僕はしょっちゅうれっきとした奥さん方にも抱かれることはことわりつづけてきたんだけれど、君のそのきらきらした眼、真紅の唇、つやつやしい髪の毛やうっとりする接吻、それに薫りの好い胸許《むなもと》のお蔭で、すっかり奴隷みたいな工合にさせられちまって、自分としたことが、進んで君の虜《とりこ》になっているんだもの。その揚句のはてはもう家も忘れ、帰り路の支度もせずに、ただ何よりも媾曳《あいびき》の夜ばっかりを待ち焦れるという始末でね」〔一九〕
それに娘も答えて、
「私だってどんなに、ルキウスさま、あなたのお望みを適《かな》えてさしあげたいでしょう。ただうちの奥様はね、元来が意地悪な性質《たち》だもので、いつも人気《ひとけ》のないところへ隠れて誰もいない場所でもってそっと、こうした秘術をやるのがきまりなんですの。
でもあなたの頼みのほうが自分の身の危うさよりも大切なことですから、ちょうど恰好な機会《おり》を見つけ次第にきっと叶えてさしあげましょう。ただ前にも申しあげといたように、こういう秘密なことですから堅く口をつぐんでいて下さらなきゃいけませんわよ」
こういう風に二人して喋りあううちにも、お互いのいとしさは昂じて、心も体のすみずみも熱くなりまさるのに、着ていたものもすっかりかなぐり捨てると、しまいには一糸もまとわぬ裸形のまま、もろとも恋神《ウェヌス》のたのしみに身を浸しました。ついには私もくたびれ切ったのを、フォティスは自分の方から気前よくいたずらっぽいお愛想を仕向けてきまして、このようにして夜も寝やらぬ疲れた眼《まなこ》にようやく睡気がおとずれると、今度は真昼なかまで二人をそのまま引き留めて離さないのでした。〔二〇〕
こんな工合で二三日をうれしたのしく過ごすうちに、ある日のことフォティスがあたふたと、それもひどく慄えながら馳け込んで来て報らせますには、例の女主人が、これまでいろんな術策《てだて》をつくしてもまだちっとも思いを遂げる運びに至らないのに業を煮《に》やして、次の夜、羽根の生えた鳥に姿を変え、恋焦れる男のところへ、飛んでゆく手筈になったというのでした。それゆえ、私もこの大珍事の見物をする支度によく気をつけてとりかかるようにとのこと。
さればおおよそ初夜〔午後七時から九時〕にもなった頃おい、娘はその高まにある小部屋に足音をしのばせ爪先だちで私を連れて行って、有りあわす扉の隙間から仔細に中の様子をうかがわせました。見るとパンフィレエは最初にすっかり着ていた着物を脱いでしまうと、とある筺《はこ》を開いて中からいくつもの小箱を取り出し、その一つの蓋を取り去って、その中にはいった膏油《ぬりあぶら》をつまみ取ると、長いこと掌《てのひら》でこねつけておりましたが、そのうち足の爪先から頭髪のさきまで体じゅうにそれを塗りたくりました。それで何かこそこそ燭台に向って呟いてから、手足を小刻みにぶるぶると震わせるのでした。すると、からだのゆるやかに揺れうごくにつれて柔かい軟毛《にこげ》がだんだんと生え出し、しっかりした二つの翼までが延び出て、鼻は曲がって硬くなり爪はみな鉤《かぎ》状に変って、パンフィレエはいま耳木菟《みみずく》になり変ったのです。
そうして低い啼《な》き声を立てると、まず様子を吟味するように少しずつ地面から飛び上るうち、次第に高く上ってゆくと見るまに、いっぱい羽根をひろげて、外へ飛んでいってしまいました。〔二一〕
パンフィレエは自分の魔法の力でもって、思うとおり姿を変えてゆきましたが、私はというと、眼のあたり見る出来事だけでもって、すっかりたまげて呆然とつったち、今までのルキウスその人と同じ身とはどうにも考えられぬ有様。それほどまでも心も宙に、うつけ人さながらのたまげようで、覚めながらもなお夢を見る心地でいました。そこで長いこと眼をこすって、自分がほんとに覚めているのかどうかを確かめようとしたくらいでしたが。
それでもとうとう現実に立ちかえると、私はフォティスの手を捉えて自分の眼に引き寄せ、
「どうか、お願いだから、ね、こんな好い機会《おり》はまたとないんだから、ここで君の愛情のたぐえようもないしるしをたのしませてくれないかえ、それで僕にその塗膏《ぬりあぶら》を少しばかり頒《わ》けておくれよ。ねえ、君のそのかわいいお乳房《ちち》にかけて、僕のいとしいかわいい女《ひと》、恩返しもできないほどの心|尽《づく》しで。そうすりゃ僕は永遠に君の奴隷同然、君と結ばれてしまうわけなんだもの」
といえば、娘は答えて、
「まあまあ、あなたったら狐みたいに悪|狡《がし》こく、私に自分で自分の脚へ手斧をぶっつけるように〔自分の墓穴を掘らそう〕というのね。こうやってあたしはテッサリアの女狼たちから、身の護りようも知らないあんたを救けてあげたっていうのに。いまあんたが鳥になってどこかへ消えてしまったら、どこであんたを探しゃあいいの、いつお逢いできるってえの」
「そりゃそんな大罪を犯すのは、第一、神様がお許しになるまいさ。僕がたとえあの鷲《わし》みたいに天高く翔《かけ》って空をわたり(ガニュメデスのように)大神ゼウスの忠実な使者なり、元気のいい鎧《よろい》持ちなりにされたとしても、そうしたすばらしい翔りのその後で飛び戻るのは、君と二人の馴れた巣にちがいあるまいじゃないか。
君のそのやさしい結《ゆ》い髪のふさにかけて誓うけれど――そのふさで君は僕の魂を結いつけてしまったんだが――僕は、フォティス、他のどんな女より君の方が好きなんだもの。それに今こんなことに思い及んだんだがね、もし僕が一度|膏油《ぬりあぶら》をぬってそうした鳥に変ったならば、どんな家にも近づかないよう気をつけなけりゃなるまいと考えるんだ。だって奥さま方が恋人に持つとしたら、耳木菟なんかどれほど立派な情人だろうか。
その夜鳥が、もしどこかの邸にはいり込んでいったとしたら、不吉な飛び方で一家に禍いをもたらすというので、大さわぎしてとっ捉まえ、扉のところへ礫《は》りつけにしてしまうだろうさ。だがそれより、僕は危うく訊ねるのを忘れるところだったが、どんな文句なり仕業なりでもって、またその羽根を脱ぎ捨て、もとのルキウスに立ち戻れるのだい」
と私がいえば、娘はそれに、
「そうしたことの心配ならけっしていりませんわ。奥様が私にいちいち詳しく、どうしたらそういう形態《なり》をまた元どおりの人間の姿へ戻せるか、その方法《やりかた》を教えといて下さいましたから。でもそれは何もあの女が親切から教えてくれたわけじゃありませんのよ、ただ自分が帰って来た折に、私が無事にうまくお手伝いできるためなんですもの。
それに全くこうした不思議が、なんて小さな、またつまらない野草のお蔭で成就されるか、まあ考えてごらんなさいな。茴香《ういきょう》をちょっぴりに桂《かつら》の葉をそえ、泉の水に浸したものを、身に浴びるとか飲むとかするだけなんですわ」〔二三〕
こう繰り返し言い切りながらも、娘はすっかりびくびくもので部屋に忍びいり、筺《はこ》の中から小箱をとり出しました。それを私は受けとるなり先ず胸に抱きしめ接吻《くちづけ》をして、自分にも何とぞ首尾よく羽根が生えて飛べるようお許しをと祈り上げ、早速着てた衣類をすっかり脱ぎすてると、せかせかと手を突っこんで塗膏をしこたましゃくい出し、体中くまなく塗りたくりました。
それでかわるがわる両腕をしきりに振ってみては、今にももう鳥になれようかと待ち構えていたのですが、翼はいうまでもなく、とんと小羽根一つも、生えてくるどころか、見る見る髪の毛は硬くつっぱって荒いたてがみとなり、しなやかだった膚《はだ》もざらざらした皮に変わり、手足の先は五本の指がみんな合さって数が減りたった一つの蹄《ひづめ》になると、背筋の末にも大きな尻尾《しっぽ》がにょきにょきと生えているのでした。
顔もおっそろしく変わって口は長く延び、鼻の孔も大きく開き、唇は垂れ下り、耳まで異様に大きくなって粗毛に被われてます。まったく何ひとつ助かりどころもないみじめな姿の変わりよう、好い気味といえば、せいぜい私の自然までが大きくなって、フォティスだって敵うまいというぐらいなもの。〔二四〕
さて私は何としたものかもう仕様もないまま、体中をくまなく眺めて見れば、いかにもこれは鳥じゃあなしにロバの姿で、今さらフォティスの所業を咎めようにも人間の手振りも言葉も出せず、ただせめて能うかぎりと唇の先を垂らし、涙にぬれた眼で斜《はす》かいにじろっと見返しながら、ものもいえぬまま責めつ恨みつするのでしたが。
娘のほうも私のこの有様を見てとるなり、われと我が手で烈しく顔を打ち叩きながら叫びました。
「あらまあ、どうしましょう、大へんなことをしてしまったわ。あんまり怖くて夢中だったうえに急《せ》っついたもんで、とんだ間違いをやっちまったわ、それに小箱がそっくりなんですもの。でも有難いことに、元の姿に帰るのには、とてもらくな手当てで十分なのよ。だって薔薇《ばら》の花をたべるだけでもって、ロバの形からすぐさま、元どおりのルキウスさまになれるんですもの。
まあほんとうに今日夕方にいつもどおり、花環をいくつかこさえておくとよかったのにねえ。そうしたら、たった一夜でもこんな様子で辛抱なさらなくても済むわけでしたが。でも夜が明け次第、すぐと大急ぎで手当てをしてさしあげますから」〔二五〕
こういってフォティスは愁嘆を重ねるのでしたが、一方私はというと、さすがすっかりロバの形になり変わり、ルキウスではなく荷運びのけものとは化したものの、まだ人間の頭のはたらきは残ってましたので、それこそ長いあいだいろいろと考えあぐみました。そもそもこの碌《ろく》でなしの、何とも言いようなくけしからん罪深い女を、さんざ踵で蹴りつけるなり噛みつくなりして殺しちまったものかどうかと。しかしそうした無茶な企ては、幸いにももっと分別のある思案が取り止めにしてくれました、フォティスをこらしめに殺しちまえば、私の何とか助かる工夫も同時に無くなってしまうのですから。
そこでうなだれて頭をうち振りうち振り、暫しの間はこのひどい所業も黙って我慢することにし、何ともはや辛い身の成行きを敢えて忍びながら、私をこれまで乗せて来たあの温良《おとな》しい馬のところへと、厩をさして出かけましたが、そこには見るともう一匹、これまで私の宿主だったミロオさんのロバが繋がれているのでした。
されば私の考えますには、もし物を言わぬけだものたちにも、おのずから無言にもせよ忠義の心といったものがあるとするなら、私の馬も自分をそれと認めて気の毒に思い、心よく宿もかし十分にもてなしてもしてくれるだろうか、と心あてにもしたものが、まあ、客あしらいのユピテルさまや忠信《まこと》の心をひそかに護る神さま方もご覧《ろう》じ下さい。
その結構な私の乗馬は例のロバと額を寄せて、すぐさま一緒になって私に害を加えようと企むのでした。いうまでもなく飼料《かいば》を取られはせぬかとやっかむのでしょうが、私が馬小屋に近寄るのを見るが早いか、耳を下げて猛り立ち、ひどい勢いで蹄を蹴立てて迫るもので、私は糧秣《かいば》からできるだけ遠くへさけていた有様でした。その|まぐさ《ヽヽヽ》というのも、この夕方私が自分の手でこのまことに恩をわきまえた馬にくれてやったものなのですが。〔二六〕
こうした目に遭わされて、人気もないところへ追っ払われた末、私は厩の片隅に引っこんでいながら、今では朋輩になった(馬ども)の酷い仕打ちをいろいろと思い返して、翌日《あくるひ》になったら薔薇の花のお蔭でもってまた元のルキウスに立ち返り、きっとこの恩知らずな馬に復讐《しかえし》をしてくれようと考えているうち、ふと、この厩の梁《はり》を支えている大黒柱の、ちょうどまん中のところに馬頭観音《エボナ》〔ローマの馬類を守護する女神〕の御像が小さなお宮に据えられてあるのが目につきました。見ればまさしく真新しい薔薇の花輪がいくつか、小綺麗にそれには懸けまわしてあります。
さればこそ、いよいよこれで助かる見込みもついたものだと、今は私も希望にせきたてられるまま、前脚をできるだけ突っ張り、頸を延ばし唇をさし出して、全力をこめて勢いよく跳び上がり例の花輪を取ろうと企らみました。
ところが全く何という運のわるいことでしょうか、いつも私が馬の世話を言いつけておいた小僧が、あいにくとふいにこの私の素振りを見つけて、いきり立って馳けつけますと吼《ほ》え立てるには、
「こん畜生め、一体いつまで俺たちをなめようてんだ、さっきは他の馬の糧秣《かいば》を食おうとしやがって、今度はまた神様の御像まで取ろうてえのか。こらやい、今こそ俺がこの不信心者をぶちのめして、跛足《びっこ》にしてくれるから」
こういうなりすぐに何か利器《えもの》はないか探しまわって、手当り次第に置いてあった薪の束を見つけると、その中から枝葉づきの節くれだって、一番大きそうなのを探し出し、いつまでもむごたらしく私を殴りつづけていたものですが、やっとその折しも、酷《ひど》い物音がしておびただしい喚《わめ》き声もろとも家の門《と》口を打ちたたく様子に、加えて近所の人々も慄えながら「泥棒だぞ」と叫びあわすので、怖気をふるった小僧は逃げていってしまいました。〔二七〕
猶予もなく、たちまちに無理やり門を押し開けて、盗賊の一団が家中へ闖入《ちんにゅう》してき、武器をもって隅なく取りこめ、あちこちから助けにと馳せ集まって来る人々にそれぞれ手痛く刃向いました。見れば一人残らず剣を執り松明《たいまつ》を振りかざして夜をあかあかと照らし、その火と抜きつれた鋩《きっさき》の輝きは、旭のようにもきらめき渡るのでした。
それから倉庫《おくら》の、とても厳重に錠前や閂でとり固めてあるのを――これはちょうど邸の真ん中に設けられてミロオさんの財宝がぎっしりと詰め込んであったのですが、それを大きな斧でうち破り、手当り次第ににひっ掻きまわしてありったけのお宝を運び出すと、手早く荷包みに結《ゆわ》え上げて各自にそれを分配しました。
ところがなにしろ沢山な荷物のこととて、荷の方が荷運びよりも数が多いというわけなので、あんまり多い財宝に手のつけようもなくなったあまり、私ども二匹のロバと私の馬とを厩舎から引き出しますと、できる限り重い荷物を背に積み込んで、今はもう空っぽになった家から、杖でもって私らを脅かしながら追って行くのでした。そして仲間の一人を見張りに残して、あとでこの盗みについてどんな調べが行われるか報らせることにし、しきりに私らを殴りつけて山中の人気もない寂しいところを大急ぎで連れてまいりました。〔二八〕
そのうち山のような積荷の重さや峠道のけわしさ、それに随分と長い道程に、ほとほと私もくたびれ切って、もう大方は死んだも同然の姿でしたが、その時やっと遅まきながらも本気でもって市民法の庇護にすがり、国主の畏《おそ》れ多い御名を引き出し、そのお蔭でこの酷いくるしみを免がれようと思いつきました。
そこでとうとうもう真昼ともなって一行がとある村を通り技けた折りしも、人出も多くちょうど市日で賑っているのを頼みに、群集のまっただ中で、生来知ったギリシアの言葉でもって皇帝《カエサル》の畏《かしこ》い御|名号《みょうごう》を呼び上げようといたしました。それで
「おお」
とだけは、ともかくちゃんと上手に号《よ》べたのですが、あとのカエサルという御名は口に出すことができませんでした。反対に盗賊どもは私のぶざまな叫び声を馬鹿にして、やたらに体中をぶっ叩き、憐れや私の皮をもう篩《ふる》いの役にも立たぬほどまでさんざさいなみました。
しかしそれでも思いもよらぬお助けを、あのユピテル様(天の主神)が私にお授け下さったので。というのは、ちょうど沢山な田舎家や広やかな家並を掠めて行くうち、ふと目についたのは、なかなか小ざっぱりとした小庭のなかに、いろんな草が美しく咲いた間に、初々しい薔薇のつぼみが朝がたの露にぬれ香っている姿でした。
いまは救いの望みに心もたのしくいそいそと、その花に焦れ寄って傍へと近づきましたが、もう唇に唾《つば》をためて待ち構えながらも、ふと、それよりずっと賢い分別が湧いてきました。つまりもし私がいまロバの姿からまた元のルキウスに立ち返ったなら、あるいは魔法使いだという疑いを蒙って、または将来証人として訴えられもしようかという懸念で、きっとすぐさま盗賊どもの手にかかって殺されてしまうに違いありますまい。そこで私はまったくよんどころない仕儀からその薔薇の花もさし控えておき、身に振りかかった不運を忍びながら、当分ロバの形のままで、秣《まぐさ》を食いつづけることにしました。〔二九〕
[#改ページ]
巻の四
[#ここから1字下げ]
ロバのルキウス、押入り強盗に曳かれて山塞《さんさい》にゆくこと―熊に装った盗賊の小頭《こがしら》トラシュレオンの最期―攫《さら》われた少女に老婆クピドとプシケの話を物語ること
[#ここで字下げ終わり]
大方もう正午ごろにもなりましたろうか、燃えるような日の光に暑さまさったころ、一行はとある村落で旧知の間の、盗賊どもの馴染みとおぼしい老人たちの許に立ち寄りました。最初に出会った折の様子、長々しい話しぶりや度重なる接吻などから、たとえロバの身にもせよ、こうした事情はすぐと悟られるのでした。かてて加えて盗賊らは、私の背の荷物を何かと取り下ろして頒けてやりながら、ひそひそと耳打ちをして、この代物《しろもの》が盗み取って来たものだというのを報らせているらしい風です。
そこで私どもは荷物をすっかり背から下ろしてもらって、すぐ傍の牧原で勝手に好きなまま草を食うのをゆるされました。しかし私は今まで枯草の食事などには一向不馴れなもので、なおのことロバや自分の馬なんかと道ばたの草食いの仲間になるなど真平ご免です。それより厩《うまや》の後ろの方によく見渡される小庭があったので、もうすっかり腹が減って倒れそうでしたので、ずかずかとはいり込んでゆきました。それで生えていた野菜を生のままながら、しこたま腹のくちるまで食い尽して、さて神々に祈りを捧げながらそのあたり中を見まわし、せめてどこか近所の庭にでも咲き匂う薔薇の花壇が見えはせぬかと探しました。
というのは、その辺に人気《ひとけ》がないということだけでも、私に十分に心づよさを抱かせてくれたからで、もしやこの往還を離れたところで木叢《こむら》のしげみに隠れ、例の薬方を用いたならば、四つ脚の荷獣の姿で身を屈めて歩む《みじめさ》を脱れ、誰の目にも触れずにまた元の人間に真直ぐ立ちかえることができようと思ったわけでした。〔一〕
こんなわけでいろいろと思案していた折しも、ちょっと程遠いところに、こんもりと木立の茂った窪地があるのに眼がとまりました。そこに生えた種々な草や楽しげな芝生の間にはひときわ目立って、燃えるような薔薇の朱色が映えております。すぐさま私は、ともかくまだ心までは獣になっていませんもので、心中に美神《ウェヌス》や|優雅の天女《グラテイアエ》たちの境内にちがいあるまいと考えました。さればその蔭暗いひそかな社地に、気高い花の、王者のごとき輝きが見えわたるのだろうと。
そこでよい運勢を神に祈りながら、私はすぐさまそこへと馳けつけましたが、全くのことその調子のよさ足のはやさといったら、自分がもうまるでロバではなくて、すっかり競走用の馬にでもなり変わったかのような気がしたほどです。
しかしこんなに素早い、その上素晴らしい私の企らみも、運の悪さを追い越すことはできないのでした。というのはその近くへ行ってみると、あでやかな薔薇の花の、浄らかな露にまた神酒《ネクタル》にうるおうやさしい姿はなくて、その親木である茨の恵まれた棘《とげ》枝も見えず、先に窪地と考えたのもどこやら、ただとある流れの岸をびっしり木叢《こむら》がとり囲んでいるばかりのことでした。
その木立はちょうど月桂樹みたいに長い葉をつけ、また匂いのない花のいくぶんか赤らんだのを咲かせるもので、まあ香りは全くないながらも、学問のない人たちは田舎の言葉で、月桂ばらと呼んでいるのですが、その木は葉も花も羊が食うと死んでしまうということなのです。〔二〕
こうした不運に巻きこまれては、もう身を永らえる気持さえ絶えはて、自分からその毒のある薔薇の葉を食《は》もうと決心しました。ところが私がためらい勝ちに傍へ寄ってゆく折しも、一人の若者が立ち現れたのを見ると、どうやら先刻私がそこの野菜をすっかり食い荒した家の園丁らしく、そいつが庭のひどい有様を見つけて、大きな棒をおっ取ると勢いよくとんで来たわけなのですが、私をひっ捉えると所きらわず打ちのめし、ほとんど命さえ危ういくらいの有様なのを、ようやくのことそれでも我ながら頭のいい方途を考えだして自分の身を救った始末でした。
というのは、お尻を高く持ち上げ、後脚の蹄でその男をむやみやたらに蹴りつけてやり、酷い怪我を負ったやつをすぐ傍の斜面に寝かしといたまま放り出して、一散に逃げ出したからです。
ところがちょうどそいつを、きっと細君なんでしょう、一人の女が高いところから見下ろしていて、息ももう絶えだえに打ち倒れている男を眺めるなり、大声あげて泣き喚きながら傍《かた》えに馳せ寄りましたが、それはつまり自分の悲嘆の声で即座にも私をやっつけようという考えでして。
なぜというと、村中の人間が女の泣きごえに唆《そそ》られて出て来ると、すぐさま犬どもを呼び集め、私を引き裂けとばかり、けしかけるのでした。声に応じてたちまち繰り出した犬どもはと見れば、みな体も大きく数も多く、熊か獅子とでもやり合うのにふさわしいほどでしたので、私はもうほとほと最期が近づいたと覚悟せずにはいられませんでしたが、事の成行きに鑑みて思案を定め、逃げ出すのは取り止めにして、また元の方向へと歩みも迅く、先程私どもが泊った厩へと逆戻りいたしました。
すると人々は犬どもをやっとのことで控えさせると私を捉えて、精いっぱい丈夫な革紐で厩の出っぱりに繋ぎ止め、またもやぶっ叩いて今にも息の根を止めてしまうところでした。しかし、ちょうど滅多打ちの痛みに腹が絞られたとこへ、先刻|生《なま》野菜をしこたま詰めこんだもので、下痢《くだり》腹からパイプのように其奴らに吹っかけてやったのです。その汚ならしい汁を振りかけられたり、ひどい悪臭に閉口したりで、みな私から遠のいて行ったのでした。〔三〕
間もなくもう日も傾いた頃、例の盗賊の一行は再び私らを厩から引き出し、とりわけ私にずっと重い荷を背負わせました。そして行くほどに今日の旅程も大方は辿りおえたわけですが、なにぶんにも道のりの長さと背を圧す荷物の重さに私はすっかり参っちまいました。棒ではしょっちゅううるさく小突かれ、そのうえ蹄はもう磨《す》り減って、跛足《びっこ》ひきひきよろよろと歩いてゆくうち、とうとうある小川の徐《ゆる》やかに流れている岸辺に近く参りました。
それでこれこそ一つ試してみるのに願ってもないよい機会《おり》がやって来たもんだと思案したわけです。つまり上手に両足を折りまげてぶっ倒れ、もうどんなに鞭で打たれようが断乎として起き上って歩き出しなどしない決心の下に、たとえ棍棒なりまた剣で突かれて死のうとままよと覚悟をきめたものです。
だって私はもうすっかりへたばって息も絶えだえなんですから、それこそ当然病気休養を許されてもいいはずでしょう。そしたら盗賊たちも、逃げる行手を急《せ》くところなので、きっと私の背中の荷を他《ほか》の駄獣どもに分け載せ、それから後の私の仕置きは狼どもや禿鷹などの餌食となるに任せるだろうと考えたので。〔四〕
ところが私の折角の妙案も、例のなんともはや意地のわるい運勢のためふいにされちまったのです。というのは、もう一匹のロバの奴めが、私の思惑を推量して先を越したつもりか、早速くたびれた風を装うと、荷物ぐるみ地べたへぶっ倒れやがって、死んだように横になったまま棒で打とうがとげで突こうが、また尻尾や耳や脚をひっぱったり四方八方からおこそうとやってみても、いっかな動きません。
とうとう皆も最後の望みも尽きはて、互いに相談しあいますには、こんな石みたいなロバにかまっていて逃げるのが遅れてはかなわん、というので、其奴の荷物を私と馬とに頒けて積み、剣を抜くとそのロバの膕腱《ひかがみのすじ》をばらばらに切り離し、そのうえ道を少しばかり引っ込んだところの高みから傍らの谷へ、まだ呼吸をしているやつを投げ込んじまったのでした。
その有様に、私もみじめな戦友の運命をつくづくと思って、もうそうした詐謀《はかりごと》や偽《いつわり》は止めにし、ご主人たちのせいぜいお役に立つロバになろうと決心しました。というのはひとつに、一同の話し合いから、私ども一行の泊りもすぐ近くに違いないこと、そこへ着けばこの長い旅もすっかり落着しようし、みなの住居もじきそこにあるというのが解ったからです。
とうとうなだらかな坂道を上り切ると、目的のところへ一行は到着したので、持って来た品々を下ろすと奥へしまい込みます。一方私はというと、やっと重い荷を解き放たれて、浴槽《ゆぶね》のかわりに土塵《ちり》の中へまぶれころがり、ようやく疲労をやすめるといった仕儀でした。〔五〕
事の次第とちょうどこの時機とが、盗賊どもが棲んでいる一帯の場所なり洞穴なりの様子をのべる段取りに立ち至らせます。
まず巍峨《ぎが》とした山があって一帯の森のしげみに鬱蒼《うっそう》とかこまれ、しかもなかなかの高さでした。その中腹はずっと険しい崖になって切りたった傾斜を帯にし、それゆえ容易に近づくこともかなわぬ有様、下はというと、うつろに深く刳《えぐ》ったような谷が取り巻き、ひどい茨のしげみが墻壁《しょうへき》をつくり、どっちを向いても天然の要害をなしております。
その頂上からは豊かな泉が巨きな水泡をわかせてたぎり落ち、斜面を走っては銀波の流れを吐いていました。それから沢山なせせらぎに分かれて散り、谷々へ小川の数々をなしてそそぎ、その向こうは、入江をなす海、あるいは緩やかな大河のさまにも似て見えます。
山々の尽きる端は洞穴をなし、傍《かた》えに塔が高くそびえて、羊小舎にふさわしい頑丈な簀子《すのこ》囲いがしっかりと、その両脇を囲んで設けられてあります。戸口の前には細い小径がわざと作ったみたいについていまして、いかにも盗賊どもの棲家だと誰しもいいそうなところです。
近所には人家一つとてなく、ただ一軒の、ぞんざいに葦で葺《ふ》いた小屋があるだけ。それはまた後でわかったことですが、盗賊の中から|くじ《ヽヽ》で当った物見の者らが、夜な夜な見張りにこもるところなのでした。〔六〕
そこへ一同は一人ずつ手足をすくめてはいってまいりましたが、私どもを戸口のまん前へ丈夫な紐でつなぎますと、居あわせる老婆に向って乱暴に罵《ののし》りました。この婆さんというのは、もうひどい年寄りで腰が曲がっているのに、見たところただ一人でこんなに多勢の若者の世話一切を引き受けているわけなのです。
「何だ、こら、お前は、誰にも劣ったくたばりそこねで、誰にもまさったこの世の恥っさらしで、閻魔様にまで厄介者にされてるくせに、こうのんびりと家に坐りこんで遊んでばかり。俺様たちがでっかい、しかも危ない仕事をやって来たのに、慰安《なぐさめ》の支度ひとつもぐずぐずしててやらんつもりか。昼だって夜だってお前ときたら、しょっちゅう手前の食い意地はった胃の腑の中に、がつがつ酒を注ぎ込む外は何一つやらんのだろう」
こういわれて婆さんは慄えながら、おどおどと軋《きし》み声で申しますには、
「あれまあ、お強いうえに頼もしい若旦那がた、どっさりおいしい味に煮あがったお菜《さい》ができておりますによ。パンも沢山、お酒もよく磨いた容器《うつわ》にいっぱい注ぎ込んであるし、いつも通りにお湯だって、皆さま方がてきぱきと浴びなされるよう支度がしてござりますに」
こう婆さんが言うのを聞くや、皆はてんでに着物を脱いで、裸のまんま一杯に燃やし立てた火に当って好い気持で身を温め、湯を浴びて膏油を塗りたくると、豪勢に馳走を並べたてた食卓にそれぞれ坐りこみました。〔七〕
すると皆が今、腰を下ろしたばかりのところへ、いきなりどやどやともう一隊の、別な若者たちで数もずっと多い連中がやって来ましたが、これまた誰しも同様に躊躇するところなく盗賊の一味と判断いたしましょう。なぜといってこいつらも金貨や銀貨、食器の品々、絹の金糸を織り込んだ衣類だのを獲物にどしどし運び込んで来たからでした。それで同じく沐浴をして温まると、仲間のあいだに座を占めて休みにかかりました。
それからは籤《くじ》を引いて当ったのが給仕の番をし、手あたりに食うやら飲むやら、菜を盛りあげパンを積み上げ、盃も一杯に繰り並べまして、大声でふざけあう、がやがやと歌い立てる、口汚なくののしり戯れて、もうはや酒に酔いつぶれた半分獣のラピタエ〔テッサリア奥地の土民、その王ベイリトオスの婚礼にケンタウリが闖入し大乱闘をひき起こした〕やケンタウリたちも同然なさわぎです。
そのとき一同の中から一人の、群を抜いてがっしりとした体つきの男が言い出しますには、
「俺たちはだ、ヒュパテの、ミロオの屋敷を勇ましく攻め落して来たんだ。それで俺たちの武勇でもって獲物にしたこんなに沢山な財宝の上にも、また皆つつがなくこの城塞へ帰って来た上、まあ何かの役に立つにちがいない、八本の脚を増して戻ったわけなんだ。
ところが貴様たちは、ボイオティアの町々へかかったところが、手前らの首領でこの上もない猛者《もさ》のラマクスを失くして、数をへらされて戻って来やがった。あいつの命は手前らが持って帰ったそこにある荷を、すっかり引っ括《くる》めたよりずっと俺にゃあ大切なのも当然なのによ。
だがなあ、彼奴《あいつ》はともかくあんまり勇まし過ぎたんで自分の命を失したことゆえ、世に聞こえた王様方や大将達の間にも、かほどな男の働きはいつの世までも伝えられよう。それに引き換え手前らはれっきとした盗賊のくせにして、けち臭い小物を盗みにおっかなびっくり風呂屋だの年寄り婆の小屋などを這いずりまわり、屑商売《くずあきない》をやってやがんだな」〔八〕
それに答えて後から来た組の一人がいうには、
「そんじゃあ手前ひとりが知らないでいるのか、大きな家の方がずっと攻め取りやすいってのを。うんにゃ、そうだろう、そりゃ広い屋敷の中には下男や下女が沢山いようが、誰だってみんな主人の財を心配するより、自分の命の方が大切なんだ。ところが倹《つま》しくてんでに一人して暮らす人間となると、僅かな家財を、よしまたかなり多いにしてもだ、表面《うわべ》に見せず内緒にそっと隠しておいて、ずっと烈しくそいつを護り、わが身をかけても防ごうとするんだ。
例えばさ、この一件だけでも俺のいうことが本当なのが解るだろうよ。てえのはな、俺達は七つの門のテーバイ(の都)〔伝説的にテーバイは七つの門ありといわれる。アイスキュロス『テーバイに向う七将』参照〕へつくとすぐに、この道についちゃあ第一の仕事になってるとおり、町の人らの身の上をせっせと訊いてまわったもんだ。
それでとうとうクリュセルスってえ両替屋を嗅ぎつけたんだが、この男は貨財《かね》をうんとこさ持ってるくせに、お勤めの申し付けや寄付の請求をこわがって、どえらい身代をどえらい工夫で隠し込んでいたやつなのさ。つまりな、一人きりで他人から離れ、小さいが十分防備を施した小屋の中に引っ籠って、いやが上にもおんぼろの衣を着て、きたない姿をして金貨の袋ばっかり抱え込んでいやがったんだ。
それだもんで俺たちはまっ先に其奴《そいつ》のとこへ押し寄せることに決めた。ていうのは、ただ一人の手向いなんか見くびっちまって、雑作もなく在り金すっかり奪《と》れようと考えたからさ。〔九〕
そこですぐさま日の暮れを待ち、其奴の家の門口へ押しよせたところ、その扉というのが、いっかな開けることも動かすことも、ましてや毀《こわ》すことなど俺らにできそうもない代物なんだ、そんなに音をひどく立てたら、たちまち近所の者をみな呼び覚まして俺たちの破滅を招こうからな。
そうした折から俺達の偉い棟梁《おかしら》がな、いつも人から見上げられている己が武勇を恃《たの》みにして、鍵をさし込む穴が開いてるところへそっと手を插し込み、錠前をねじ切ろうとやったもんだ。ところがそのうちにだ、二本足(で立つ人間)どもの中でもいうまでもなく一番にけしからんあのクリュセルスめが目を覚ましていて、事の次第を一々見て取り、抜き足さし足、全く音もせぬよう骨折ってだんだん扉口へさし寄って来て、大釘でお首領《かしら》の手を不意にありったけの力を込め、門の板に打ちつけちまったんだ。
こうしてお首領を枷《かせ》にかけたまま放っておいて、自分は汚ない陋屋《あばらや》の屋根に登って、そこから精一杯の声を張り上げ、近所となりの奴ばらを一人一人名を呼び、自分の家が突然火事になったから、町の人みなのためにも(出て来てくれ)と言いふらし喚き立てたもんだ。そこで近くの人々の誰もかもが、すぐとなりの家の大事というんで、びっくり仰天あわてて助けに駆けつけて来た。〔一〇〕
それだもんで俺たちは自分らがやられてしまうか仲間を見すてるか、どちらかという瀬戸際に置かれたんだが、その場の仕儀からお首領の同意でもって、こうした強引な策略を取ることにした。つまり親分のだな、腕が肩につながるところから一打ちに切断しちまい、それでそのまま腕はそこに置き去りにして、傷口は沢山の布片で、血が滴《したた》って跡をつけられたりしないように十分くるみ込んでから、大急ぎで残ったラマクスの身体を運んでいったんだ。
だがなあ、俺達が気遣いにびくびくしながらごった返して行方を急ぎ、さし追った難儀を恐れ一散に逃げてゆくとき、お首領はそりゃあ気象も勝《すぐ》れ、武勇も抜群の強者《つわもの》なんだが、俺達について来るのも、さりとて無事に後へ残ってるのももうできないのを見極めて、しきりに俺達に頼んだりせがんだりして言うんだ。『どうか軍神マルスの右手にかけて、誓約がもし信実ならば、お前らの立派な仲間をこの苦しみと捕虜の辱かしめから解き放してくれ』ってな。
『だって、この手をなくして勇ましい盗賊がどう生き永らえよう、それでもってこそ掠奪も人殺しもできたんだのに。全く自ら択んで仲間の手にかかり殪《たお》れることは俺にとっては十分な満足なんだ』って言うのさ。
それで俺らが誰一人、いくら頼んでも進んで朋輩殺しをやろうとしないのを見て取ると、残った手で自分の剣を執り、長いことそれに接吻《くちづけ》してたが、やがていきなり柄《つか》も通れと胸の真ん中をさし貫いた。そこでもって俺達は勇ましいお首領の器量に感じ入りつつ、遺骸を麻の衣に鄭重《ていちょう》にくるみ込んで、海へ入れて隠しておいた。されば今とてラマクス兄貴は海全体を墓場にしてやすんでいるんだ。〔一一〕
さればさ、あの男の方はいかにも自分の武勇にふさわしい最期を遂げたんだがな、アルキムスの奴ときたら、ずいぶんと智慧のまわる男なんだが、|運の女神《フォルトゥナ》のあまりにも残酷な意地の悪い企らみを免れようがなかったんだよ。ちょうど彼奴《あいつ》があるちっぽけな家に押し入ってな、婆さんが寝ていたんだが、その二階にある寝間へ上っていってな、すぐにも咽喉首を締めて息の根を止めてやるところだったのを、その前にまず有り合わせた代物を一々かなり大きな窓口から外へ投げ下ろしてやろうと思ったんだ、つまり俺達が掻《か》っ払ってくようにな。
それでもういろんな物をすっかり担ぎ出して、婆さんの寝ていた蒲団でも容赦なく奪《と》ろうと思って、そいつを寝台から転《ころ》がし落とし、同じくつまり投げ出そうとしかけたときさ、婆さんが奴の膝にとりすがって、いやもうけしからん女だが、こう嘆願したというんだ。
『あれまあ、お願いだから、若い衆さん、こんなにとても憐れっぽい婆《ばばあ》の貧乏たらしいぼろぼろな代物なんかを、隣りの金持にくれてやんのは止めとくんなさい。この窓はそっちの方へ開いてんだからね』
其奴《そいつ》の悪狡《わるがし》こい文句に巧くだまされてな、本当に話のとおりだと思い込んじまったんで、アルキムスの奴は、つまり前に投げ下ろした物もこれから投げようってものも、自分の仲間のとこじゃなしに他人の家へ放り出しはしないかって心配してな、もうすっかりこりゃ自分の間違いだと信じ切って、一部始終を委細に検分しようと思い、窓から身体を乗り出したもんさ。わけても婆《ばばあ》の言った隣りの家の様子を確かめようと思ったんでな。
こう彼奴《あいつ》が一心にだが、うっかりしてるところを、例の悪たれ婆がな、そりゃ力はなかったろうが、不意にしかも思いがけずに突き押してだ、宙にぶらぶら乗り出し、外を見るのに夢中になってる奴を、まっ逆さまに落としたんだ。それがちょうど高さもひどく高かった上、傍にあったとても大きな石の上に落っこちたもんで、肋《あばら》の骨をぶちつけて壊しちまって、沢山な血を胸から吐き出してな、事の次第を俺達に話してから、程もなく苦しみながら息を引き取ったんだ。
そいつを先の例にならって、ラマクス兄貴の好い道連れってわけでな、俺達は同じようにして葬って来たもんよ。〔一二〕
こんな風に二人も仲間をなくした打撃に、俺はもうテーバイで仕事をすんのが厭になったもんで、近くにあるプラタイアイの町へ出かけていった。するとそこではデモカレス〔「衆民を喜ばせる」という意のギリシア名〕とかいう男がもう大した評判なんだ。
その男は家柄も一流、財産も町一番、人柄も鷹揚で気前がよくてな、その身上《しんしょう》にふさわしく市民らの娯楽のためにも派手派手しく、いろんな催しを企ててやってたんだ。そういった多種多様な企ての模様を、一々それに十分ふさわしい言葉でもって、述べ立てられるほど才のある、口の達者な人間はあるまいよ。
例えば人に知られた技達者な剣術使いだの、足の速さで名高い猟師だの沢山いてな、それから、もう死罪に決められて野獣の馳走に身を供えるばかりな罪人どももいる。
その上にまた野獣らの種類も数も多いこと。というのは特別熱心に、外国からそういった立派な獣どもを運んで来させたんだ、死罪人らの命とりにな。だがこうした目を驚かす催しのいろんな道具立てのうちでも、とりわけその男がいわば親ゆずりの全財産を傾けて準備したのは、おびただしい数の大きな熊だった。というのは自分の故郷《くに》で捕まえた奴や、沢山|金銭《かね》を出して買い入れた奴の外にも、友人らが銘々競争でもっていろいろ贈ってくれたものを、莫大な経費をかけて大切に番人をつけ養っていたからなんだ。〔一三〕
ところがだ、市民らの慰みのためというこんなに素晴しい豪勢な催しも、妬《ねた》み心の意地悪い目を逃れることができなかったというわけさ。つまり長い間捕まっていてくたびれ切ったとこへもって来て、夏の炎熱に憔悴したり、運動不足に坐ってるんでぐったりしたのを、突然悪い疫病が襲いかかって殆んどみんなといっていいほど死に絶やしちまったんだ。
あちこちの往来にそうした獣の災難にたおれた屍《むくろ》が放り出されてあって、中にはまだ息が絶え切らないのもある。それを卑しい賤民どもが出て来てとる。つまり粗っぽく、弁まえもない貧しさから、食物の選り好みをする暇もなく、腹の減ったあまりに穢《けが》らわしい肉に補《おぎな》いを求めて、金のかからぬ馳走にありつこうというんだ。それで方々に倒れている馳走へと押し寄せるんだよ。
で、こうした様子を見てな、俺とあのバブルスとが妙案を一つ工夫し出したってわけだ。つまりそうした熊の中で他よりひときわ体恰好の大きなやつを選び出してな、食い物にするってな風につくろい、俺達の棲家へ運んでいった。それから熊の皮から肉をよくそぎ落とす、但し爪だけはそっくり丁寧にとっておいてな、頭も頸の境までそのまま残しとくんだ。一方背皮はどこからも注意して肉を削って薄くし、細かくした灰をふりかけ日に当ててよく乾燥させた。
こうして皮を天日の熱に乾しかわかしておく一方、俺達はその肉をたらふく腹へ詰め込んだもんさ。また差し追った仕事についちゃあ、こういった約定《きめ》を設けた。つまり俺達の中から一人を、体力よりもむしろしっかりした気力で他に立ち優った奴を選び出してな、それも特別自分から進んで役をつとめたいっていう人間をな、その皮を被って熊のまねをさせようってことに決めたんだ。それからデモカレスの邸にそれを連れ込んどいて、夜分工合よく人の寝静まったおり、門を開けて俺達をらくに入り込ませようてわけさ。〔一四〕
この巧妙な扮装のおもしろさに役を勤めたいって申し出た人間も俺達の勇ましい仲間組に何人もあった。その中から他の者らに抜きん出てトラシュレオンが押されて選《え》り出され、この危なっかしい策略の賽《さい》の目を引き受けることになったんだ。それで例の熊の皮さ、いい工合に軟かく扱いやすくなったやつをすずしい顔で被り込んだものよ。
それから俺達は細かい縫い目で皮のはじのところを縫い合せてな、継ぎ目のすき間は、もちろん極く細いもんだから、長い毛でかくし込んだ。でまた咽喉元の、そこから獣の頸を切り取った穴のところへ、トラシュレオンの頭を無理やり突っこませてな、鼻や眼のあたりには呼吸をするのに小さい穴をいくつもあけて、こうして俺らの豪勇無比な朋輩を、そっくりそのまま熊に仕立て、安い値で借りて来た檻へ入れたもんだが、その中へ彼奴《あいつ》は常とかわらぬ元気のよさでさっさとはいり込んでったよ。〔一五〕
そんな工合に前支度をまずやっといてから、計略の後のところはこういう段取りで進めていった。つまりニカアノルって男のことを聞き出してな、こいつはトラキア生れの人間で、デモカレスとは以前からお互い非常に親密にしていた者だが、その名を借りて偽手紙をこしらえたんだ。自分が狩りをした折の初の獲物を、親しい友人に折角の催しを賑わせようと、お贈りするのだ、ってなふうにな。
それで夕方になるのを待ち、闇の助けを幸い、俺達はトラシュレオンのはいった檻を例の偽手紙もろともデモカレスのところへ持ってったのさ。すると熊の大きいのに感心したり喜んだり、時宜にかなった旧友の気前よさを有難がってな、すぐさまこの嬉しい贈り物の運搬人《はこびにん》の俺達に金貨十枚をつかわせというんで、手許にいつも置いてある櫃《ひつ》の中から数えて出させたもんよ。
すると、いつだって新規なものはすぐさま人間を見物にかり出して来るのがおきまりだから、多勢の者が獣を眺めに寄り集まって来た。そいつらがまた物珍らしさにじろじろと見つめるところを、トラシュレオンのやつはなかなか上手にな、しじゅう脅かすように飛びかかっちゃあ追っ払っていた。
それだもんで町の者はみな、異口同音にデモカレスさんは全く運のいい仕合せな方だってよく噂し合ってな、つまりあんなに野獣に次々と死なれたあとでも、新規な到来物でどうやらこうやら不運を凌《しの》ぐことができようってんでさ。それを聞いて主人は早速熊を自分の新しい荘園へと十二分に気をつけながら連れてくようにと言いつけた。〔一六〕
だがそれに応えて俺は言ってやった、
『旦那、そりゃ危ないこってすぜ、暑い日にさんざ照らされ、長い旅路にくたびれ切ってる奴を、沢山な獣と、しかも噂じゃああんまり丈夫じゃないっていう獣どもと一緒にするなんてえのは。いや、それよりゃあ、お宅のどこか広々とした風通しの好いところへ、まあ本当いうと、どこかこう池の傍とかいった涼しい場所を見つけてやっていただきたいもんで。ご存じでしょうが、こういった類の獣は樹の茂った森間《もりあい》とか、露っぽい洞穴とか、きれいな泉のあたりとかに定《きま》っていつも棲んでるものなんですからねえ』ってな。
こう念を押されてみるってえとデモカレスもすっかり怖くなってさ、それに今まで死なせた沢山な獣のことを考え合わすと大した苦情もいわず承知してな、俺達の好きなように檻をおくのをすぐ許したものさ。で俺は言った、『ところで私ども自身だって、この檻の前んところへ一緒に夜も寝るつもりでいますんで。なにしろあいにくな暑気と長旅で熊は疲れているもんですから、決まった時間に食い物や馴れた飲料を一段と気をつけてやりたいと考えます次第なんで』
すると奴さん、『いや別段わしのとこじゃあ、お前さん方にそうした骨折りをしてもらわんでもいいのだ。もうほとんど家中の者がみな長い間やりつけてんでな、熊の飼い方は十分わかっておるから』って言うのさ。〔一七〕
それで俺達も挨拶をして引き取ったわけだが、町の門を出るってえと、どこかの家の墓地が目についた。本道をずっと離れてな、引っ込んだところにあるんだ。でそこへ行ってから、長い年月に朽ちはて蓋ももう半分しかない柩を、もう中に入ってる死人も粉々の灰になっちまってたんだが、その墓を開けてこれから盗《と》ってくる代物の入れ場所ってことに決めた。
そうして盗賊仲間のお定《きま》りどおりに、夜分月のない頃あいをはかって、楽な眠りがまず最初に人を襲って、次にしっかりと心にはいり込み抑えつけてる時分、俺らの部隊は剣をてんでにデモカレスが門のまん前に、ちょうど外ならぬ掠奪にでも召喚されたみたいに、立ち並んだ。
一方トラシュレオンも遅れることなく、ちょうど夜分の泥棒仕事に頃あいの時分をはかって檻《おり》を這い出し、すぐさま番人どもが傍らにすっかり寝こけて休んでいるやつを、一人のこらず切り伏せ、つづいて門番までも剣を揮《ふる》ってやっつけちまった。それから閂を引き抜いて門の扉を押しひろげ、俺たちが早速駈けつけ、邸の広庭を占領すると、倉のありかへ案内していった。そこには前の夕に奴が素速く銀が沢山しまってあるのを見ておいたんだ。
そいつをすぐさま集まって来た連中が無理やりに壊してはいると、一味の面々それぞれに持てる限りの金や銀やを運び出して、例の墓へだ、申し分なく口の堅い忠実な死人らが番をしてくれるところへ早速隠し込んで、また取る手おそしと大急ぎで戻ってくるように言ってやった。それから皆のためをおもんぱかって、奴らが帰ってくるまでは俺さま一人が後へ残り屋敷の門に踏みとどまって、事の成行きを注意怠らず見張っていることにしたんだ。もしひょっと誰か家の者が目を覚まして出て来たにしろ、屋敷のまん中を熊が馳けまわってる姿は、ちょうど其奴《そいつ》らを脅しつけるのに恰好なもんだったろう。
だってまあどんなに強い向う見ずな奴だって、こんな大熊の恐ろしい姿を夜分に見たとしたら、早速横っ飛びに逃げ出しにかかって、それで部屋ん中へ閉じこもって閂をしっかりと掛け、びくびくもので震えていない奴はないだろうからな。〔一八〕
こう万事申し分なく思案してちゃんと手配りをやっといたのに、あいにくひょんな事がおっ始まっちまったのさ。ていうのは、ちょうど、俺が仲間の帰りを気を揉みながら待っていたとき、一人の召使いの若者がな、物音に目を覚まして、まあこれも天運のなす仕業だろうが、そうっと這い出して獣の姿を見つけたんだ、熊が檻を出て、存分に屋敷中を馳けまわってるところをな。そこで音のしないよう足音を忍ばせて戻ると、皆に屋敷の中で見た事柄を報らせたんだ。
そこでたちまち家中は沢山の召使いどもの群で一杯になった、てんでに炬火《たいまつ》や燭台やろうそくや、そのほかいろんな灯火《あかり》を持って出、暗闇をあかるく照らす。しかもその多勢の誰彼もがみな一斉に利器《えもの》を持って、棍棒だの投げ槍だの、あるいはそれこそ剣さえ抜きはなって、口々を防ぎ守ろうとしたんだ。そのうえに狩猟に使う犬どもまで、あの耳をおっ立て長い毛をなびかせた奴らを、この熊を取り抑えるのにけしかけて来た。〔一九〕
そこで俺は段々騒ぎが大きくなって来たんで、もう逃げ出して巣に戻ろうと思ったんだが、それでもトラシュレオンが犬どもと凄い勢いで闘いあうのを、門の戸の後ろに隠れて見ていた。まあ奴ももう最期と覚悟はしたもんだろうが、それでも俺達仲間や自分自身のこれまでの武勇の誉れを思い起こして、大口あけて迫り寄る猛犬どものあぎとにむかい奮戦を続けたもんだ。つまり自分から進んで引き受けたその役柄をしっかりと保ちつづけて、逃げると見せ、また刃向うと見せ、種々さまざまな身振りだの動きだのを使いながら、それでもとうとう邸《やしき》からころがり出てしまった。
そうして、外の自由な場所へ逃れ出はしたが、命を助かるのには何とも及ばなかったんだ。だってさ、近所の小路からそりゃとても獰猛《どうもう》な、しかも沢山の犬どもがありったけ出そろってな、今しがた邸ん中から一緒について出て来た猟犬と混じり合い一大隊をなしたんだから、そりゃ二目と見られぬ惨めな光景《ありさま》だ。トラシュレオンの奴が猛り狂う犬の群にとり囲まれて、何度となく、咬みつかれ引き裂かれるところなんだ。
さすがにあまりのつらさに我慢しきれず、俺はあたりにどよめきあう群集の中へまぎれ込んじまった。それで『なんていうまあとんでもない、大それた事だろう、こんな大きな、とても値打のある獣を殺しちまうとは』って、包囲軍の首領《かしら》の者らに抗議するくらいしか俺にはできなかった。〔二〇〕
だがこんな思案の言葉も、その不運な若者には何の役にも立たなかった。だってなあ、その間にも一人の男が、丈の高い頑丈な奴さ、邸から馳け出て来ると、いきなり槍を熊の胸元へずっぷり刺し込んじまったからだ。すると続いて一人また一人と、何人もがもう今は怖気《おじけ》もすっかり忘れて、先を争い刀や剣をすぐ傍へ寄ってまで突き立てたもんだ。
だけどもなあ、トラシュレオンは全く見上げた、俺達一党の誇りだよ。永遠に伝えられるにもふさわしい彼奴《あいつ》の生命がとうとう最期というときにも、まだ我慢の力は絶え切らずに、大声ひとつ呻吟《うめき》ひとつさえもあげずに、誓いのことを守りとおした。それでもうさんざん犬に咬みつかれ刃《やいば》に裂かれてからまでも、しきりに熊の吼え声や唸り声をまね、立派に雄々しく身に振りかかった難儀をしのびつづけてから、自分の名を辱かしめずに、運命の手にいのちを預け終えたんだ。
だが並居る者らはその有様にひとしく胆《きも》を冷《ひや》し怖気をふるって度を失い、はては夜明けまで、いやそれどころかずっと日の高くなるまで、誰一人その熊がもう死んでいるというのに、指一本さえ敢えてつけようという者がなかったくらいだった。それをとうとう一人の牛殺しが、こわごわながらおずおずと、他の奴よりはしっかりしてたんだろう、獣の腹を切り割き、立派な盗賊から熊の皮を剥ぎ取ったわけだ。
こうした次第でトラシュレオンまで俺達はなくしちまったが、彼奴《あいつ》の名誉は決して失われなかった。それからは大急ぎでな、かねてから信用のおける死人らに預けてあった例の荷物をとりまとめると、足を早めてプラタイアイの市街を立ち退いた。その道々も俺達は互いに心の中で考えあっていたことさ、全くいかにも信実てえものはこの世にゃあもう見つからないってな。なぜっていやあ、そいつはすっかり軽薄な世間を見限り、亡者や死人ばかりがいるあの世へ引っ越しちまっていったろうからなあ。
こんな工合で運ぶ荷の重さと険しい道とにみんなくたびれ切って、三人の死んだ仲間を悼みながらも、ほらそこに置いてる掠奪《ぶんどり》物をここまで持って来たわけなんだ」〔二一〕
男の長い話がようやく終ると、一同は黄金の盃に生粋の酒をついで、亡くした戦友の思い出を偲びました。それから何かいろいろ歌を唱って軍神マルスを寿《ことほ》ぎたたえ、程もなくみな寝込みました。するとさあ、私たちへも例の婆さんが新大麦をうんとこさ、しかも測りようもないくらい沢山振舞ってくれたもので、私の馬なんかはこんなに一杯な飼糧《かいば》をそれこそ一人占めにして、大盤振舞いにあってるような気持がしたことでしょう。
だが私は、なにしろ今まで細かく挽《ひ》いて長いこと煮て|かゆ《ヽヽ》にしたのでなければ食べたことがないものですから、片隅に多勢の者がみんなで食い残したパンの寄せ集めてあるのを探り出して、長い間の飢えに、蜘蛛の巣でもかかってそうなあごを、思う存分したたかに働かせました。
すると、その時、夜もずっと更けた頃おい、盗賊どもは目を覚ますと塞《とりで》をざわつかせて、それぞれ剣を吊したり幽霊の扮装をしたり、いろんな風に身なりを整えますと、一散に出かけて行きました。しかし私はというと、むやみやたらにがつがつ貪りつづけて、押し迫る睡気さえその邪魔にはなれないくらい、しかも以前、ルキウスだった時分には、たった一つか二つ目のパンでもう腹が一杯、食卓を離れるのが常でしたのに、この折はお腹のまあ底知れずな深さといったら、食うほどに嚥み込むほどに、いつか三杯目の籠まで押し込んでいるところでした。こうした仕事に夢中になっているうち、いつか明るい光が射し込んで来ました。〔二二〕
それでもとうとう、さすがにロバとはいえ羞恥心にかられ、なんとも気は進まぬながら厩から出て、近所にある小川へ行って渇《かつ》えをしずめました。その間に、盗賊一味が向うから気遣わしそうな様子で戻って来るのを見れば、行李どころか、てんで吝《けち》くさい衣類一枚持って帰らずに、あれほど沢山の剣、多勢な人数――いえさ、一味徒党の力をこぞって、僅か一人の処女《おとめ》を連れかえっただけでした。
身分がある者らしく、立派な衣裳がしらせるとおり、その地方でも豪家のむすめといった様子で、全くこうしたロバの私でさえも食指を動かしたくなるほどの乙女の、嘆き悲しみ、衣も髪もおどろに掻きみだしたのを連れ込んだわけです。
それを洞窟の中へ連れて来るなり、娘の嘆くのを宥《なだ》めようという考えで、盗賊たちはこう言い聞かせてやるのでした。「お前はまあ生命《いのち》も身体も決して心配ないのだから、ちょっとのあいだ辛抱して俺達に儲けさせてくれろよ。これも全く貧乏からよんどころなくこうした稼業をする羽目になったんだからな。
ところでお前の親たちは、あんなに山と財宝《おたから》を積んでることゆえ、まあ相当欲張りじゃろうけど、じきに自分の身内の者を買い戻すのに十分なだけ金を支度して来るだろうよ」〔二三〕
こういった風のことをいろいろと並べたてましたが、少女の悲しみは止むわけがなく、それどころか膝にふかく頭をたれて、身も世もあられずうち泣くのでした。そこで盗賊どもは婆を呼び入れ、娘の傍にすわってやさしく話をしかけ、力の限り慰めすかすように命令すると、自分たちはまたもや一味のきまった仕事に出かけて行きました。
しかし少女は、婆さんがどんなに骨を折って言い聞かせても、一度始まった涙をひき止めさせるどころではなく、また一段と烈しく泣き叫びながら、しきりにしゃくり上げて体をゆすぶる哀れさに、私までもついもらい泣きするほどでした。
「ああ、なんてまあ私《あたし》は憐れな身なのか、あんな邸や家の人たち、懐かしい小婢《こしもと》や、あんなに大切な父様母様からも引き離されて、凶々《まがまが》しい盗賊たちの獲物として捕虜《とりこ》にされ、こんなまあ石の牢屋に閉じ込めの辱かしめを受けるなんて。生れてからこの方ずっと育てられつけて来たような楽しいくらしの数々も昔のこと、生命さえ危なっかしく牛殺しの手にかかって、こんなに荒くれたしかも沢山の山賊たちや、身の毛もよだつ剣闘士仲間のあいだに入れられてるんですもの、どうして泣かずにいられましょう、いえ、そもそも生きてることができるでしょうか」
こう繰り返し嘆いているうち、心痛や腫《は》れた咽喉《のど》の苦しさ、また身体のだるさに今はすっかり疲れはてて、とうとうやつれくぼんだ眼《まなこ》を眠りに委ねるのでした。〔二四〕
ところが今|瞼《まぶた》を合わせたばかり、幾ほども経《た》ちませんのに、突然まるで気が触れた者みたいに眠りから跳び起き、またいっそう烈しく身もだえて嘆き悲しみ、胸までも拳でひどく打ったり、その美しい貌《かお》を叩いたりしはじめました。そして婆さんがいろいろそれこそ口を酸《すっぱ》くして、繰り返して悲嘆を重ねる理由《わけ》を訊ねますと、ひときわふかく溜息を吐《つ》きながら、娘はこう言い出すので。
「ほんとに、もうそれこそすっかり何もかもお終いになっちまったわ、もう助かる見込みも望みもなくなっちまった。首をくくる縄なり刀なり、それも駄目なら崖からでも飛び降りるのが、本当にましなくらいだもの」
これを聞くと婆は腹を立てて、なおさら厳《きび》しい顔つきで、一体何を今さら泣くのか、そもそも一度静かに臥《やす》んでおいてから、また急に突然勝手がましく嘆き立てるのは、どういうわけか言え、と迫りながら申しますには、
「きっとこうだね、お前さんはうちの若い衆たちが身代金にたんと財宝《おたから》を儲けるのを邪魔しようってつもりなんだろ。そんなことをもっとし続けるなら、いくらそう涙を流したって、盗賊なんかはどうせ何とも思やしないんだから、その後でおまけに生身のままで火焚《ひあぶ》りにしちまうだろうよ」〔二五〕
こう言われて少女はすっかり怖気づき、婆の手を執って接吻《くちづ》けながら、頼みます。
「赦してね、小母さん、とても哀しい私の身の上に、人の情けというのを思い出して、ちょっとでも同情してちょうだいな。あなただってきっと、ずっと長いこと世間を見て来てるんだから、その白髪《しらが》の髪のうやうやしさにも、憐憫《あわれみ》の心がないわけはないと思うわ。
まあともかく私の不幸のあらましをずっと聞いてみて下さい。私の本当の従兄にね、様子も立派な青年がいますの、土地でも一等の家柄に生れて、町中の人が誰も彼も、評判のいいため息子にと望んだほどなんですの。私にはちょっと三つほどばかり年上で、ずっと稚い時分から一緒に育てられ、大きくなっても邸の中でおなじ屋根の下に住むだけでなく、寝間も寝床もおなじにして、お互いに潔い愛情に結ばれてかたい誓いを交わしあい、末は必ず夫婦と前々からいいあっておりました。
とうとう両親の承諾も得て、世間にも正式にご披露をし、いよいよ当日式を挙げることになり、夫は多勢の親戚や縁故の者らに付き添われ、お社や公けの場所でもって献《ささ》げの贄《にえ》を奉っているところでした。邸中は月桂樹の枝に飾られ、炬火《たいまつ》にあかあかと照り輝いて、婚礼の祝《ほ》ぎ歌もひびきわたっていましたの。
その時お母様は、可哀そうに、私を胸に抱きしめて、お嫁入りの装飾《かざり》でもってきれいにちゃんと支度をして下さりながら、何度も何度もやさしく接吻《くちづけ》をして、熱い祈祷《いのり》とともに先々生まれる子供たちのことまでお願いしていたところを、そのとき不意に刀を持った賊たちがひどい勢いで押し入って来たのです。
あたりはたちまち戦さのような酷《むご》い光景、抜きつれた恐ろしい鋩《きっさき》ばかりきらきらとして。しかも盗賊は人殺しや掠奪をやり出すのでもなく、ただ一塊りに隊を作るといきなり私たちの寝室へやって来ました。家の者らは誰一人出合いもせず、ほんのちょっと手向いをする者さえありません。それでとうとう、この私を、もうすっかり怖さに息も絶えそうに慄えているのを、お母様のふところから無理やり攫《さら》って来たんです。こんなわけで、ちょうどヒッポダメイアやプロテシラオスの婚礼みたいに、ないがしろにされ滅茶滅茶にされちまったんですの。〔二六〕
ところがねえ、小母さん、今またとても凶々《まがまが》しい夢見で、私の不仕合せがもう一度新しくされる、いえそれどころか、いっそう増してきたんです。というのは夢の中で、私は自分の家だの、奥の間や寝間、とうとう寝床からさえ無理やりに引きずり出されて、道を離れた淋しいところを通りながら、不幸な夫の名を呼んできましたの。それで夫のほうも、抱きしめる私の腕を引き離されるなり、まだ薫膏《においあぶら》の香にうるおい、花冠に飾られたままの姿で、私の跡を、それも他人の足で運ばれていくのを、蹤《つ》けて来るのでした。
それで大声で叫びながら容貌《みめ》うるわしい家内の攫《さら》われたのを訴え、町の人々の助力を懇請していますと、夫が跡をつけて来る工合わるさに、山賊仲間の一人がすっかり怒り出しちまって、大きな石を足許から掴むなり、若い夫へ可哀そうにもそれを打ちつけ、殺してしまったんです。こうしたなんとも恐ろしい光景にすっかり脅えて、凶々《まがまが》しい夢から不意にとび起きたけれど、まだ怖くて仕方ないんですもの」
すると婆は娘の泣くのにひかされて嘆息《ためいき》しながら、こう言い出しました、
「心配しなくてもいいよ、お嬢さん、あてにならない夢のつくりごとなんか怖がることはないやね。それに昼間やすんで見た夢幻は嘘っぱちだといわれてるけど、その上にまた夜のあいだの幻影《まぼろし》だって、ちょいちょいよく反対《あべこべ》な出来事を報らせるもんだからね。つまりさ、泣くとか殴られるとか、時にゃあよく殺される夢なんかが、将来《さき》では運のいい結末を告げるのと反対に、笑うとか、おいしいご馳走を腹一杯詰めこんだり、ことに色ごとの楽しみなんていうのは、いまに悲しい辛い思いをするとか、体の病気とかその他いろんな災難に苦しむようになるっていう前兆だって。
だけどね、私があんたに面白い話を聞かせてあげるから、そりゃ昔の老婆《おんば》語りだろうがね、それで早速機嫌をお直し」
といってこう語り出しました。〔二七〕
むかしある国に王様とお妃とがおいでになって、あいだに三人の容姿《すがた》もなみなみならず勝れた姫をお持ちでした。そのうち年長の姫たちは、顔貌《かおかたち》はまことにめでたくおいでながら、ともかく人の世の賞め言葉でもしかるべくお讃《たた》えすることができようと思われましたが、末のお姫さまのとりわけて立ち優った美しさといったら、貧弱な人間界の言葉などでは到底言い表わすことも、ましてや十分賞めそやすなど思いもよらない有様でした。そんなわけで国の内外から尋常《よのつね》ならぬ姫の御容色《ごきりょう》の噂を伝えて、多勢の人々がひたすらに群がり寄って参りましたが、皆々たとえようもないお顔《かん》ばせのめでたさに胆を奪われて魂も中有《ちゅうう》に飛び、ついには右手を唇に当て、人差し指を立てた親指に圧しつけたまま、まるでウェヌスさまご自身でもあるかのように、うやうやしく崇《あが》め敬《うやま》うのでした。
ほどなく一帯の土地にずっと拡まった噂では、あの紺青《こんじょう》の海のそこに生れ、泡だつ波の雫《しずく》に養われてお育ちになった女神様〔ウェヌスのこと〕が、今こそ諸方の国々へとうといお慈《めぐ》みをお垂れになるつもりで、衆生の間に立ち交わっておいでになるそうだとか、あるいはきっとまた天上の滴《しずく》の新しい一滴から、今度は海ではなくて大地が、もう一方《ひとかた》の乙女の華に装われた(新しい)ウェヌスさまをお産みしたのに違いない、などというのでした。〔二八〕
こういう風で日一日と際限もなくその話が拡まり、近在の島々から陸《おか》一面、はては世界中のたいていの国々へまでこの評判が行きわたりますと、沢山の人達が長い旅路をかさね遠い海をわたりなどして、一代の栄《は》えの観物《みもの》をと流れ込んでまいります。今では誰一人としてパフォスやクニドス〔どちらもウェヌスに縁の深い聖地〕や、キュテラアの島へさえ(本当の)ウェヌスさまを拝みに舟を寄せるものはありません。供物《くもつ》はとだえ社《やしろ》は毀《こわ》れ、神様のご座所も汚れて祭儀もろくろく執り行われず、御像に懸けた花環もなくて侘《わび》しい祭壇は冷たい灰にまみれたままです。
人びとが願いをかけるといえば、みなそのお姫さまへかける、そしてこの広大な女神様のご神慮を宥《なだ》めまつろうというわけで、若い姫君が払暁《あけがた》におでましになるときなどには、いろいろな贄代《にえしろ》や山海の供物をおそなえして、そこにはおいでにもならぬウェヌスさまの御名を呼んではお慈みを乞い、はては町筋を姫がお通りになるというと、人々は花環を献げたり、散華を撒《ま》いたりして讃えるという始末なのでした。
しかしこのように天上の尊栄をないがしろにして、不当にも死ぬはずの人間の乙女を拝むことに替えてしまった始終は、本当のウェヌスの瞋恚《しんい》をはげしく煽《あお》り立てずにはおきません。憤《いきどお》りに耐えかねて頭をうち振りうち振り、ひどく猛り立ちながら女神はこう自問自答するのでした。〔二九〕
「まあ見るがいい、宇宙万物のそもそもの産みの親だという私が、四大五元《あらゆるもの》の初めである私がさ、まあ、全世界の慈みの母のウェヌスとしたことが、人間のむすめなどと一緒にされて尊い位を頒けあい、天上に樹てられたこの名号《みょうごう》を、下界の塵や芥《あくた》で汚されるなんて。きっとこれからは神前への献げ物も一緒に分けあい、信心さえも身代わりで好い加減にすまされてしまうのに違いない、そればかりか死ぬはずの(人間の)少女《おとめ》が私の似姿をふれてまわることなのだろう。そうなったらあの羊飼いの少年〔トロイアの王子パリスのこと〕が、この私の世に類《たぐい》ない麗容《あですがた》を、他の偉い女神たちよりずっと上に置いてくれたのもなんにもなりはしない、ユピテルさまだって、あの子の見分けは正当で確かなものだと言って下さったのにさ。
でもまあ、どんな女にもせよ、いつまでも好い気でもって私の栄誉を横取りはさせとかないからね、見るがいいさ、いまにかえって自分の道に外れた容色《かおかたち》を後悔するようにしてやるから」
そこでウェヌスは早速と自分の息子(クピド=愛の神)を呼び寄せました。あの翼の生えた、随分と無考えな子供、いつも質《たち》が悪くて公けのおきて定めも蔑《ないがし》ろにし、火炎だの矢だのに身を固めては、他人の家屋敷を夜よなか駆けずりまわり、ひとの夫婦仲を滅茶滅茶にしたりして、罪も受けずに酷《ひど》い悪行を働き、よい事はこれっぱかりもしないという子供です。この生れついた気儘気随で始末におえない子を、ウェヌスはまだそれでも足らずに口先で嗾《けしか》けたあげく、例の都へ連れて行ってプシケ――例の少女《おとめ》はこう呼ばれていましたので――を眼に指し示し、前の容色《きりょう》争いの一部始終をすっかりと話して聞かせたうえ、腹立ちのあまり嘆息をついたり猛り立ったりして言うことには、〔三〇〕
「どうかお前、母《おや》と子の切れない縁《えにし》にかけて、お前の弓矢の快い痛手に、その炎の蜜のように甘い火傷にかけて、頼むからお母さんの仇を取っておくれ、十分にだよ。そして容色《きりょう》を鼻にかけてるのをうんとどやしてやっておくれ。それとね、何をおいてもこれだけは忘れずにやってもらいたいのは、あの小娘が世界で一番卑しい人間と、この上もなくはげしい恋におちいるようにね、で、その男というのは地位も財産も一身の安全さえも運の神様に見放されて、世界中を探してもこれほどにみじめな者はあるまいというくらいな《ひどい》人にしておくれ」
こういうとウェヌスは息子に、長いあいだしっかりと接吻《くちづけ》をしてやりまして、ほどなく潮の巻きかえす近くの浜辺に赴き、薔薇色の御足《おみあし》でたゆとう波の頂きを踏みながら進んでいくと、見る見る深い海原が(底から)頂上まで澄みわたって鎮まり返ります。そして女神が御胸にまだお思いになるかならぬに、まるで前からの指図みたいに、海の眷属どもがわれ後れじと、ご用を勤めにやって来るのでした。ネレウスの娘らの歌舞《うたまい》の群も来れば、青い髭のざらざらしたポルトゥヌス〔古いローマの港の神〕も、お腹に一ぱい重く魚を入れたサラキア〔古いローマの潮の女神〕も、海豚《いるか》に跨《また》がっているちっぽけなパライモン〔ギリシアの伝説にある童形の海の神〕も出て参ります。
観ればたちまちにあちらこちらから海中を跳んで、トリトンの群もやって来ます、法螺貝をのびやかに吹き立てるのもあれば、絹の暈《かさ》をさしかけて燃えるような太陽の意地悪い光を遮《よ》けてやるのや、鏡をもって女神様の頭さきに差し出すものや、他のはまた二人組で御輦《みれん》の下を泳いでまいります。こうした群勢を引きつれてしずしずとウェヌスは大海原へ進んでゆきました。〔三一〕
一方プシケは人並み勝れた容姿を持ちながら、まるで何一つ自分の美しさの徳を享《う》けてはいませんでした。万人に等しく仰ぎみられ、万人から賞め讃えられはしても、国王にも王子にもそれどころか庶民の間にさえ、誰一人として婿にと望んで来る者がありません。さて女神のように気高いその姿に感じ入りはしても、みな巧妙に鏤《え》り刻まれた彫像でも賞めあうような工合で、もうとっくに二人の姉の方は、程々の容色で国人の誰彼が別に称《ほ》め伝えるというわけでもないのに、近国の王様と縁組して、幸福な結婚を楽しんでいるのに引き替え、プシケはまだ良人《おっと》もなく、ひとり家に籠っては捨小舟の侘《わび》しさをかこち、身も安からず心も傷み、あらゆる人から讃めたたえられる自分の容色を、自身はひそかに呪っている有様でした。
こんな次第で不幸な姫の父王も大変お困りになり、もしや天上の神々の憎しみからか、または神怒の所為《せい》でもと畏れ気づかい、ミレトスにおいでの神様〔アポロン〕の大昔から伝わったご託宣を伺うことにし、祈祷をしたり供物を棒げたりして、大神さまにこの求め手もない乙女に縁組と良人とを授けて下さいますよう、お願い致しました。すると、アポロンはギリシアのしかもイオニアの神様ですけれど、このミレトス物語の作者のために、ラテンの言葉でこう託宣なさいました。〔三二〕
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高い山の嶺《いただき》に、王よ、その乙女を置け、死に行く嫁入りの、粧《よそお》いに飾らせて。また婿として人間の胤《たね》から出た者でなく、荒く猛々しく蝮《まむし》のように悪い男を待ち設けるがいい。翼をもって虚空を高く飛行しあるき、万物を責め、炎と剣をもってすべてのものを痛め弱らす男、その者はユピテルさえも懼《おそ》れ、神々も恐れをなし、諸川も、三途《ステュクス》の河の暗闇さえも怖気をふるう男なのだ。
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前には仕合せだった王様も、この尊いお告げを頂くと、足も重く暗い心で御殿に立ち戻り、お妃にこの情けないご神託の指図をうちあけました。何日となくみんなして嘆き悲しみ、涙をこぼしたりして悼《いた》みつづけるうちにも、酷《むご》いお告げのはたされる日は容赦なく迫って参ります。そして、とうとう哀れな少女を葬いの嫁入りに装い立たせるという時が来ました。松明の輝きも黒い煤《すす》の燃えくずで朧《おぼろ》にかすみ、婚礼の祝い笛の音もいつしか物悲しいリュディア風の恨み言に変わってゆきます、陽気な嫁入り唄もついには陰鬱な哀悼の叫びごえとなってしまって、嫁入りするはずの乙女が、なんということでしょう、(婚礼の)緋色の面帛《かおぎぬ》でそっと涙を拭いているという始末です。
こうした不仕合せな王家の悲しいご運に、町中の人々ももろとも嘆き、やがてその日は誰彼となく仕事を休んで、喪につくという布令をいたしました。〔三三〕
しかし神様の言いつけには従うよりありませんので、可哀そうにプシケは定められた処置《しおき》をよんどころなく受けることになって、葬いじみた婚礼の儀式を一同の深い悲しみの中にも残りなく執り行ったうえ、町中の人を後ろに引き従えて生きながらの葬式が繰り出されました。こうやってプシケは涙ながらに嫁入りではなくて、自分の法事に連れてゆかれたのでございます。さて悲嘆にくれた両親があまりの不憫さに心もくじけて、この酷たらしい所業をやり徹すのをためらってますと、かえって娘の方がこういって両親を励ますのでした。
「なぜお二人ともお年を召して不運なおからだを、長いこと泣き悲しんでお傷めになるのですの、どうしてあなた様方のお心を、それもまあ私のものともいえますのに、ひっきりなしに嘆きつづけてお責め立てになりますの、どうして甲斐もない涙でもって、大切な尊いお顔をお汚しなさいますの、なぜお眼をいためつけて、(これを見る)私の眼を苦しめになるのです、どうしてまた白いお髪《ぐし》を掻きむしったり、胸を、尊い乳房をお撃ちなさいますの。
これがこの私の人並み勝れた容色《きりょう》の立派なご褒美として、あなた様方のお受けになったものでございました。やっと今になっておわかりになりましたのね、私たちは道に外れたはげしい妬みのために、死ぬほどな痛手を負わされていることが。私を神様のように諸国の人々が敬い尊んだ時にこそ、口を合わせて私を新しいウェヌスだと称えた折にこそ、お二人は悲しむなり泣くなり、私をもう他界した者のように悼んで下さったはずでございました。でも今こそ私もはっきりと解って参りました、自分がウェヌスなどと呼ばれたばっかりに、この身を滅ぼすことになりましたのが。ではさあ、私を連れて行って、あの神籤《おみくじ》にあった巖《いわお》の上に据えてくださいませ。早速にも私はその仕合せなご婚礼の式を済ませて、私の立派な良人にも会いとうございますから。やって来る者を拒むこともございませんもの、その全世界を滅ぼすために生れたというひとを」〔三四〕
こう言いきると少女は口を噤《つぐ》んで、足どりもたしかに、ついてゆく人々の行列の中へとはいり込みました。そして険しい山上の定めの巖に着きますと、その天頂《てっぺん》に姫を置いて一同は退散し、道々を照らして来た婚礼の炬火《たいまつ》も、涙のために消されたままそこへ打ちすて、首をうなだれて帰り路を辿ってゆくのでした。一方姫の両親《ふたおや》は言いようもない不幸《ふしあわせ》に気も挫けては、家を閉ざして暗闇の中に引き籠り、絶え間のない悲嘆に身を委せていました。
さてプシケは畏れおののき、巖の頂きに泣き伏しておりますところを、和やかに吹く西の優しい微風《そよかぜ》が、そこからここからと衣をゆすぶっては動かし、懐ろを膨らませてはだんだんと乙女を持ち上げ、穏やかな風の息吹きにのせて高い巖の下道をゆるゆると運んで行って、とうとう麓の谷の花盛りな草原の真中へ、そっと下ろして横たわらせました。〔三五〕
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巻の五
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(クピドとプシケの物語・つづき)不埒《ふらち》な姉たちの話―プシケ禁ぜられた夫の寝姿を見ること
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プシケは柔かに草が茂ってまるで露に濡れた芝の臥床《ふしど》といった場所にそっと身を横たえ、動顛《どうてん》した胸もようやくしずまって来たまま、快《よ》い気持に寝《やす》んでおりましたが、ほどなく十分に眠りも足り、気分もさっぱりしてきたので、やっと人ごこちを取り返して起き上りました。見ると眼の前には高い巨きな樹の生い繁った木立があり、その木立の真央《まんなか》に透きとおって玻璃《はり》のような噴水が湧いています。その泉の傍らには壮大な宮殿が見えますが、その様子が人間の手で造られたものとは到底思えず、どうにも神様の御業に違いありません。何よりも一歩その中へはいって行けば、すぐにも目前にある御殿がどこかの神様の壮麗でまた愉しげな住居だということが解りましょう。上の格《ごう》天井には栴檀《せんだん》だの象牙だのを巧妙に鏤《え》り刻んではめ込み、その下に黄金の円柱がずらっと並んでいて、ぐるりの壁にもすっかり銀を被せ、その上に野獣やその他いろいろな家畜が浮き彫りになって、まるではいって来る人の面前に立ち向ってくるようです。こんなにも微妙に勝れた腕で、銀でもって獣の姿を写し出した人は、必ずや立派な工匠《たくみ》か、または半神か、それともまさに神様かに相違ありません。そのうえ床《ゆか》さえも貴い石を細かくモザイクにして、色々な絵が描き分けてあります。こんなに沢山な宝石や珠玉の上を踏んで歩く人は、きっと祝福された仕合せ者に違いないと言いきれます。
御殿のほかの部分も見渡す限り値打ちもわからないほど立派に飾られ、どの障壁《かべ》も金の大板で固めてあって、その燦《きらめ》きといったらまるで太陽も射《さ》さないのに、御殿中が自分の明りで日中のように照りわたるほどです。寝間も玄関も扉さえもその通りきらきらと輝いていますし、まさしくこれこそユピテル大神さまが、人間界にご下降なさる時のため造営になった天の宮居《みやい》かとも思われるのでした。〔一〕
その景色の愉しさに誘《つ》りこまれて、プシケはもっと傍へと近寄ってみました。だんだんと気安くなってとうとう閾《しきい》のなかへはいって参りますと、世のつねならず美しいその有様に心を奪われ、さて熱心に次々と覗き見をしてゆくうち、建物の向う側に立派な腕前で造り上げた大きな倉があって、沢山の宝物でぎっしりと詰まってるのが目につきました。どんな品物でも(世界にある宝で)その中にないものとてありません。けれども、その目を瞠《みは》らせる豪勢な財宝もさることながら、とりわけて不思議なのは、この世界中のお宝が集めてあるところに、何の鎖も錠前も、番人さえも付いていないことです。
その間をプシケが悦《うれ》しさに夢中になって観てまいりますと、(どこからか)姿も見えない声が聞こえて申しますには、
「奥様、なぜこの沢山の財宝を見てびっくりなさいますの、これはみんなあなた様のものでございますのに。ですからさあ寝間にいらして、十分に寝《やす》んでお疲れを癒しになってから、気が向いたらお風呂におはいり下さいまし。いまお聞きになっておいでの声は、私どもあなた様の侍女《こしもと》たちで、これからはまめまめしくお仕え致しますが、お体がすっかり元気におなりでしたら、すぐと立派なご馳走をさし上げることになっておりますから」と申します。〔二〕
形のない声のいうことを聞いてプシケは、これはきっと神様のお心づけから出た、恵み深いお指図であろうと悟りましたので、まずよく寝んで、それから今度はお湯にはいり疲れを癒した後、ふと見るとすぐ手近に半円形のソファがあって、そこにはいろいろな食事の道具がお食《あが》り下さいといわぬばかりに並べてあります。いそいそと心も愉しくその席に坐りますと、たちまちに仙酒《ネクタル》のようなお酒だの、種々《さまざま》なご馳走のお皿がどっさりと、しかも給仕人もなしに何か風にでも押されてくるように、出てまいります。誰一人姿は見えず、ただ落ちてくる言葉だけが聞こえて、つまり声ばかりがお給仕を勤めるわけなのです。
立派なご馳走のあとで、誰かがはいって来るけはいがして歌を唱うのがわかりましたが、姿は見えません、また誰かが竪琴を弾くのですが琴の形も見えませんでした。それから今度は多勢が一カ所に集まって合唱する声が聞こえてきて、誰も人の形は見えないながら、確かに歌舞《コロス》の群がその辺にいる様子でした。〔三〕
その娯しみもお終いになると、夕暮れの誘いにまかせてプシケは臥床にはいりました。さて夜もいまは更けた頃おい、耳もとで優しいものごえが致します。若い女の身空《みそら》で、しかもたった一人きりのことゆえ、プシケは怖《お》じおののき、何者ともしれぬまま考えつく限りの、どんな災難禍害よりもずっと怖く思うのでした。
とうとうまだ見も知らぬ良人が現れて台に上り、プシケを新妻として迎えいたわると、夜も明けないうちに急いで出かけてしまいました。とすぐに声たちが寝間へ来て、花嫁のお世話をいたし、乙女心のさまざまに乱れたこころを慰めるのでした。
こういう風にして長いこと暮らしているあいだに、いつしかだんだんと自然に馴れて、初めには奇妙と思われたことも始終なれっこになると楽しみに感ぜられてくるというわけ、声だけの者もいつの間にか、なれない寂しさの慰めと変わってくる有様でした。
さて一方姫の両親は、絶える間もない悲嘆のあまり、ひどく老けておしまいになって、その噂が段々と広がってゆき、ついには二人の姉姫の耳にものこらず伝わりましたので、それを聞いた二人の姉達は大そう心配して胸を痛め、執るものもとりあえず自分の家を発つと、互いに遅れじと両親のところへ見舞いに出かけて参りました。〔四〕
ちょうどその晩、プシケに向って良人はこう申し出ました、眼では姿が見えないながらに、手や耳やでもってすれば、十分に理解はつくわけでしたので――「本当に優しいプシケ、私の可愛い妻よ、|運命の女神《フォルトゥナ》は前よりも一層意地悪く、お前に命も危いほどの難儀をさせようとしてるのだから、もっともっと十分に気をつけて用心しなくてはいけないよ。今度お前の姉さん達がね、お前をもう死んだと思って大騒ぎして、お前の跡を尋ねさがして、間もなくあの巖のところへやってくるのだ。だがあの人達の嘆く声がひょっと聞こえて来たにしたって、けっして返事をしたり、ましてやちょっとでも顔を見せたりしてはいけないよ。さもないと私には酷《むご》い嘆きをかけることになるうえ、お前自身にも取り返しがつかない破滅を招く仕儀になろうから」
乙女はうなずいて良人の意見通りにする約束をしましたものの、夜と一緒に良人の姿が消えて行くと、一日じゅうあわれ気に涙をこぼし胸を叩いて日を過ごし、もう自分には何一つ生きた甲斐もないように言い暮らしては嘆くのでした。自分はまるで牢屋の中に閉じ籠められて人間と話をすることも差し止められてる上に、姉たちとさえ、それも自分のことを泣き悲しんでいてくれるのに、労《いた》わり慰めることはおろか、ひと目なり会うこともできないなんて――こう言ってお風呂にもはいらず食事もせずに、何をして心を慰めるともなく、ただひたすらに泣きつくしたあげく、やっと寝床にはいりました。〔五〕
ほどなく平常《いつも》よりちょっと早目に良人が傍に参りまして、まだ泣き濡れている乙女を優しく抱きながら、咎《とが》めだてて申しますには、
「これがお前のした約束だったのかえ、プシケ、一体お前は私にどうしてくれというのか。昼だって夜だって、こうして一緒にいる時でさえも、まだ泣いて悶えてばかりいて。ではもう好きなようにしなさい、そうして災禍《わざわい》を求める自分の心に従うがいい。ただあとで後悔しだしてももう遅いときに、私が本気になって戒めといたことだけは、忘れないでいておくれ」
そうすると乙女は頻《しき》りにせがんだり、はてはもう死んでしまうといって脅したりして、とうとう良人に自分の頼みを肯《き》かせてしまいました。姉さん達に会ってその嘆きを鎮め、またお互いに話しあうことを許してくれるようにです。こんなわけで良人は新嫁の願いを聞き届けてくれたばかりでなく、その上また金銀でも宝石でもやりたいだけを姉たちにやることも許してくれましたが、ただ繰り返し繰り返し、けっして姉たちのよこしまな勧めに唆《そその》かされて、自分の顔を見ようなどとしてはならぬ、さもないとそんな慎みのない好奇心《ものずき》から、大きな幸福の絶頂から奈落の底へとおっこちてしまうばかりか、もう今後は良人に逢うこともかなわなくなるのだから、と脅しかつ戒めるのでした。
プシケは幾分元気を取り返し、良人に礼を言ってまた申しますには、
「まあ、あなた様とこうして楽しく暮らせなくなるくらいなら、いっそ私は百度もその前に死んでしまいますわ。だって私は死ぬほど、たとえあなたがどんな方でいらしても、お慕いしているのでございますから。本当に自分の命とおんなじに、クピドさまだって到底くらべものにならないほど大切な方ですもの。でもどうかお願いですから、このことも序《つい》でにお許し下さいませ、あのご家来の西風《ゼフィルス》に言いつけて、前と同じに姉たちをここへ連れて来させて下さいまし」そして気も融《とろ》けるような接吻《くちづけ》だの甘えた言葉や抱擁だので無理やりに良人をなだめすかして、その上また「ね、私の可愛い方、私の旦那さま、あなたのプシケの愉《たの》しい生命《いのち》」などと甘えながらに言い添えるのでした。そのいとし愛《かな》しい密語《ささめき》の力にひかされ、心ならずも良人は説き伏せられて、何でも望みのことをしてやる約束をしてから、朝の光がさし寄るままにまた妻のかいなから姿をかくしてゆきました。〔六〕
さて一方、姉たちはというと、例の巖の、プシケが置きざりにされた場所を訊ね出して急いでやってき、そこで眼を泣き腫らし胸を撃って嘆くことといったら、あんまりひっきりなしに喚き立てるので、岩や石やがお互いに反響《こだま》しあうほどでした。それから今度は不仕合せな妹の名をやたらに呼び立てるので、とうとうその喚き声が下の谷底まで響きわたりますと、プシケはもう夢中になって気も狂おしく、身を震わしながら家を走り出て申しますには、
「まあどうしてあなた方はそんな哀れげな嘆き声で、甲斐もなくお心を痛めになりますの、悲しんで下さる本人の私はここにおりますのに。ですから、どうかそんな情けない声をお立てにならず、長いこと泣いて濡れたお顔も乾かして下さいませ、だって今しがたまで悼《くや》んで下さった私を、もう胸に抱きしめて下されるのですもの」
で西風《ゼフィルス》を呼んで良人の命令を伝えますと、待つ程もなく指図の通りに、この上もなく穏やかな風に載せて、何の障りもなく姉たちを運び下ろしてくれました。三人の姉妹はそこでお互いに抱きあったり忙しい接吻《くちづけ》を交わしたりして喜びあうひまにも、一度は納まっていた涙がまた新規な嬉しさのあまり湧きかえるのでした。「とにかくまあ家《うち》のなかへ機嫌を直しておはいりになって、うっとうしいお気持をさっぱりなさって下さいまし」〔七〕
こう言って(プシケは姉たちを家の中へ連れ込み)、金色の御殿中の大へんな宝物を見せたり、声ばかりでかしずいてくれる沢山な侍女《こしもと》を姉たちの耳へ引き合わせたりした上、結構を極めた風呂や人界のものとも思えない立派なご馳走の数々で心ゆくばかり接待《もてな》しますと、姉たちはいろんなお宝が天国そのままにどっさりと溢れるほど一杯ある様子に呆れ果てて、今は心の奥深くひそかに嫉《ねた》み心を強めてゆくのでした。到頭しまいには一人のほうが色々と物ずきに、こんな天国のようなお宝の持ち主は誰なのか、またプシケのご主人は何といって、どんな様子の方《かた》かなどといつまでもうるさく訊ねるのでしたが、プシケは先刻良人に言われた命令《いいつけ》に決して背かないで(そんなことは)胸の底へ深く畳んで洩らさずに、自分の良人はまだ若くて様子がよく、やっと綿毛のような髭が口許にうっすり生えた許りで、いつも野山へ狩猟にばかり出かけているのだなどと口から出まかせを言いました。そして長く喋っていてうっかり胸の秘密をさらけ出しなどしないようにと、金の器具《うつわ》や宝石の飾りをどっさり持たせて、早速|西風《ゼフィルス》を呼ぶと二人の姉を送り返させるのでした。〔八〕
こうすぐ送り返されて殊勝な姉たちは家に戻りはしたものの、たちまちいや増す苦汁のような嫉妬に胸をこがして、種々と二人互いに語りあっては騒ぎ立てるのでしたが、とうとう一人が申しますには、
「まあ運の神様は、ほんとうに盲で意地悪で、依怙《えこ》ひいきだわ、同じ親の娘なものを、気紛れにまるで違った仕合せを受けさせるなんて。しかも私達は本来が年上なのに、外国人の良人の処へ下婢《はしため》同然にやられてしまい、自分の家にもお里にも国にさえ別れて、両親からも遠いところでまるで流人《ながしもの》同然に暮らしているのに、あの人は一番下の妹で、もうお産は結構という末子に生れておいて、あんなに沢山なお宝や神様の良人を持ってるのだもの。そんなにどっさりお貨財《かね》をもってたって、ちゃんとした使い方も知らないくせにさ。
ねえ、姉様だって見たでしょう、どんなに家中一杯に、何て立派な宝物があったか、何ていう綺羅びやかな着物や、何ていう輝いた宝石や――その上どこもかしこも歩くところはすっかり大へんな黄金だったでしょう。それでもしあの女《ひと》の連合いが、話どおりに立派な人だったとしたら、世界中にあの女《ひと》ほど幸福な者はいないことになっちまうわ。いえひょっとすると、だんだん馴染むにつれて情愛が深まってきたら、その連合いの神様があの女《ひと》の方も女神にしてしまうかもしれないじゃないの。全く今だってもうそんな風に振舞ってましたわ。ええ本当にあの女《ひと》ったら、声を侍女《こしもと》にしたり、風でさえ顎で指図したりして、もうもうすっかり横柄《おうへい》に構えて女神さま気取りじゃないの。それなのに馬鹿馬鹿しい、私にあてがわれた良人といったら、第一お父様より年がいってて、おまけに瓢箪より頭は滑々《つるつる》で、どんな子供よかひよひよしてて、そのうえ家中を鎖だの閂だのでがんじがらめにして見張りしてるんですもの」〔九〕
ともう一人の姉もそれを承けて、
「全く家《うち》の人っていったらリウマチでもってすっかり腰が曲《まが》っちまって、それだもんで滅多に可愛がってさえくれないところへ、しょっちゅう石みたいに固く曲った指を擦ってやるので、厭な臭いだの油だの汚ない布《きれ》やひどく臭《くさ》い膏薬なんかで、この通り華奢なこの指をだいなしにしてさ、全く世話女房どころか骨を折りどおしの看護女って態《てい》たらくだわ。ともかくあなたはね、こんなことをおとなしく我慢して、というよりまあ馬鹿になったつもりで――思ったまんまを言わせてもらうとよ――辛抱する気か知れないけれど、私の方は到底それだけの値打ちもない女にあんなすばらしい仕合せが行くのを、これ以上我慢して見てられないわ。だって憶えてるでしょう、どんなに思い上った、どんなに傲慢な様子で私達をあしらって、あんまり身の程も忘れて得意になって見得をはる拍子に、つい自分の膨《ふく》れ上った心を見せてしまったってのも。それからあんなにお宝が沢山あるくせに、私達にはいやいやほんのちょっぴり出してよこしただけ。それでじきに私達のいるのがうるさくなると、風に言いつけてさ、私達を追《お》ん出させてひゅうっと吹き飛ばさせたことだって。だからさ、もし私があの人をあんな幸福な境涯からひきずり落してやれなかったら、もう女ともいえないし、生きてる値打ちもありはしないわ。
だからもしあなたも、まあそれが当然だけどさ、あんな酷《ひど》い仕打ちを怒っておいでなら、二人してよく相談しあいましょうよ。それでね、私達のこういう企らみは、両親たちにも他の誰にも知らせないで、いえそれどころか一切あの人の安否については(私達の知ってることを)てんで何にも知らせないどきましょうよ。見たのが今さら残念なようなことを、私達が見ただけでもう十分だわ。だからましてや親や世間の人達に、あの人がこんなに仕合せにしてるってのを触れまわることがあるものですか。だって誰も他人が知らなけりゃあ、お金持だとしたって有難くもないでしょう。いずれいまには私達は召使じゃあなくて、姉さんだってのが解《わか》るでしょうよ。それで今はまあ、ともかくも良人のところへ、貧乏だってとにかく結構ちゃんとしてる自分の家《うち》に帰っといて、ゆっくりとあの傲慢《たかぶり》をこらしめてやる手筈をしっかり工夫しといてから、もっと腹を据えてまた会うことにしましょう」〔一〇〕
こんな悪だくみを二人の悪い女は好かろうということに定《き》めて、前にもらった立派な贈物《みやげ》をみんな隠してから、髪をふり乱し、まるで悲嘆にくれてでもいるように顔をかきむしって、また偽《にせ》の涙を出して見せました。そして両親をこれもまた湧きかえる悲しみの様子ですっかり脅しておいて、けしからぬ奸計、いや、それどころか謀殺をさえ、罪もない妹に対して企らむのでした。
その頃プシケに向って、まだ顔もしらぬ良人はいつもの夜半の物語に、またこう言って戒めました。「お前はどんなに大きな危難が身に迫ってるかを知っているのか、運命の神はまだ遠くから小手調べをやっているのだが、もししっかりと今から先へ気を配っとかないと、すぐ身近に押し寄せてくるのだから。あの義理しらずの牝狼どもはしきりとお前をけしからぬ奸計《わるだくみ》にかけようと企らんでるのだが、それを簡単にいうと、つまり私の顔を探り見るように、お前を説得する気なのだ。だけれど、度々お前にも言っているとおり、一度お前が見たらもうそれからは見られなくなるのだからね。
だから、もし今度あのこの上なく下等な魔女どもが、よこしまな企らみを胸に装ってやって来ても――来るのは解っているのだから――けっして口をきいてはならないよ。もしお前の生来素直な気立てや、やさしい心から、それを我慢できなかったにしろ、断じて良人についてのことは何一つ、耳に入れても答えてもいけない。それに、私たちの家族もいま殖えていくところで、今では私たちの子供がお前のお腹の中にいるのだからね。そしてその子は、お前がこの秘密を黙って守りおおせば、天界のものになろうし、もし破ったら人間にされるのだ」〔一一〕
この報らせを聞いて、プシケは心も愉しく華やぎ、神様の御子を設ける仕合せに手を拍《う》ってはしゃぎつつも、またこれから生れてくる愛の証《あかし》の誉れに気も誇らしく、その母とよばれる嬉しさを有難く思うのでした。増して行く日の数、過ぎて行く月の数を、心に留めて数えながら、一方また知らない間にいつかこんなにまで身重になったのをひどく不思議がっておりました。
けれども、その時にはもうあの厄病神たち、いやらしいあの復讐鬼《フリアエ》どもが、悪蛇の毒気を吐きながら大急ぎで、道ならぬ思いに急《せ》き立てられて、船を馳せて来るところでした。この時もう一度、僅かのひまの訪れに良人は妻のプシケを、繰り返してこう戒めました。
「さあ、最後の日、終局の危機(が迫って来た)。同じ女で、しかも血を分けながら残忍な敵の奴らが、今こそ武具に身を固め、刃を執って、陣を張り隊伍を調え、進軍のラッパを轟かせてやって来たのだ。いまこそ鋩《きっさき》をぬき放って、お前の非道な姉たちはお前の喉笛を狙ってるのだよ。なんという恐ろしい戦さだろう、愛《いと》しいプシケ、いま私達の上に迫って来てるのは。ねえどうか、聖《とうと》い沈黙を守り、家や良人やお前や私らの嬰児をさし迫った破滅の非運から救っておくれ、またあの没義道《もぎどう》な女達に――こんなに人の破滅を企らむほど憎みつくし、血縁の義埋もふみにじったからには、もうお前の姉さんと呼ばせることは到底できないのだから――会ったり、言うことを聞いたりしないでおくれ、彼奴《あいつ》らがいまに魔女《シレエン》みたいに巖の上に登って来て、いやらしい声で岩を轟かせたってね」〔一二〕
それに答えてプシケは、声も絶えだえに泣きじゃくりながら、
「でもあなた様はもう十分に、私の信実と、おしゃべりしないことを確かめて、知ってらっしゃるのではございませんか、今度だって前の時に負けないくらい、私の心がしっかりしてるのをよくお見せ致しますわ。ですから、どうぞ、またあの西風《ゼフィルス》にいつもの役をするように、言って下さい。そしてちっとも見せては下さらないとうといお姿のかわりに、せめて姉たちにまた会うことを許して下さいませ。この肉桂《キンナモン》の香りのように芳《かんば》しい、ふさふさと垂れたお頭《つむ》のお髪《ぐし》にかけて、この柔かくふっくりとした、私のとそっくりな頬にかけて、このなんともしれぬ熱さに燃えているお胸にかけて、またあなた様のお容貌《かおだち》をせめてこの嬰児《やや》のなかに認めることもできようと願うほど、切ない心でおすがりする私の虔《つつま》しい願いを肯《き》き入れて下さって、どうか姉たちと抱き合って喜ぶのをお宥《ゆる》しになり、あなたに頼りきっているプシケの心を、嬉しさに生き返らせて下さいませ。
もうこれ以上は少しもお姿を眼に見たいなどとは思いませんし、今だってもう何も私の邪魔をするものはございませんもの、夜の暗闇でさえもね。私の光明のあなた様がここにいらっしゃるのですから」
こうした言葉や優しい抱擁にすっかりだまされて、良人は妻の涙を自分の垂れ髪で拭いてやりながら、そうすることを約束し、ほどなく明けてゆく日の光にさきがけて、出てゆきました。〔一三〕
陰謀仲間の例の二人組の姉たちは、両親にさえも顔を見せずに、船から上ると真直ぐに例の巖へ、大急ぎでやって来ました。そして自分たちを連れてってくれる風の来るのも待たずに、向う見ずにも自分勝手に谷底へ飛び降りるのでした。でも西風はご主人の命令を忘れないで、気は進まぬながらも、その女達を吹いてゆく微風のふところに受けて、地面へとおろしました。女たちは遠慮会釈もなく、足を揃えて家の中へはいって行き、胸に深く秘めた奸計《わるだくみ》の数々を愉しげな顔つきでかくしながら、自分達の餌食を胸に抱きしめて、お世辞たらたらにこう言うのでした。「プシケちゃん、あなたはもう以前のように子供じゃなくて、もうすっかりお母さんではないの。どんなに私達にとっての大きな仕合せがあなたのお腹の中にはいってるでしょう、どんなにあなたはいまに私たちの家中を喜ばしてくれるでしょう。本当に私達は恵まれてるのね、黄金の(花の)ような赤ちゃんを育てて娯しめるなんて。それにその子は、当然のことだろうけど、両親《ふたおや》の容色《きりょう》に相応すれば、生れたらきっとクピドそっくりでしょうから」〔一四〕
こんな風に情愛を装って、二人は段々に妹の心にとり入りました。プシケはまたすぐさま二人をソファに休め、湯気の湧き立つ風呂に入れて長旅の疲れを癒させてから、食堂に招《よ》び入れ例の素敵な珍味佳肴を列べて豪勢なご馳走をいたしました。堅琴に弾けといえば、響き初める、笛にやれといえば、鳴り出す、合唱の群に歌えといえば歌が始まるというわけで、それがみな誰もそこにはいないのに、この上もなく快い節《ふし》で、聴いている人々の心を娯しませてくれるのでした。しかしこんな魂もとろけるように気持がいい音楽でもっても、まだその性質《たち》の悪い女どもの悪心は和《やわら》ぎ静まるものではなく、かねて謀った奸計《わるだくみ》の罠《わな》へと、言葉巧みに表面《うわべ》をつくろってはいろいろと誘いをかけて、良人はどんな人か、どんな素姓でどんな身分の人か、などと訊ねてゆきました。そうするとプシケはあまりにも一筋なこころから、つい先刻の約束を忘れてしまい、また新規な(前と違った)作り話をして、自分の良人は近隣の国のもので、沢山な資本《もとで》の商売をしていて、もう中年で、ちらほらとたまに白髪も混じってみえるほどだなどと言ってしまいました。それでもほんのちょっとでそんな話は打ち切りにして、またどっさりと立派な贈り物をもたせ、風の車にのせて二人を送り返しました。〔一五〕
けれども姉たちは、穏やかな西風の息吹きにのって、高空を家に帰る途々も、お互いにこう語りあうのでした。
「ねえあなた、どうでしょう。あの馬鹿娘がとてつもない嘘ばっかりいうことったら。前にはまだやっと柔かい髯が生えかけたばかりの若者だって言ったくせに、今度は中年で、白髪が白く目だつなんて。そんなに少しの間に急に年をとって様子が変っちまう人があるかしら。これはもちろんどっちかにきまってるわよ、あの極道娘が嘘ででっちあげたことか、それでなきゃあ自分の良人の様子を知ってないかね。でもどっちが実際にしても、あの女《ひと》を一刻も早くあんな金持ちの身分から追い出してやらなきゃ。それにもし良人の顔も見たことがないとすれば、取りも直さずお婿さんというのは神様で、あの女《ひと》のお腹の中にも神様を胎《みごも》ってるってことになるわ。でも万一にもあいつが神様の子の――なんてまっ平だけど――母親だって呼ばれるようにでもなったら、私は即座にも縄で首をくくってやるわ。だから今のうちに親たちのところへ帰って行って、この筋書のはじまりによくあてはまるような嘘をうまくでっちあげて来ましょうよ」〔一六〕
こういうわけでかんかんになりながら、二人はろくろく両親に挨拶もせず、夜もおちおち眠らずに過ごしたあげく、朝早くから巖のところへ飛んでゆき、そこからいつものように風におぶさってすごい勢いでとび降り、さてまぶたを擦《こす》って無理やりに涙を絞り出しといてから、言葉巧みにこうプシケへ持ちかけました。
「まああなたは本当に気楽なのね。こんなにひどい災難にも気がつかずに幸福らしく納まり返って、自分の危い身の上をてんで気にもしないなんて。それなのに私達は夜の目も見ずにあなたのことを心配してばっかり、あなたがひどい目にあいはしないかって、散々胸を痛めてるんですわ。それがね、これは確かな話なのだけれどね――もともと私達にはあなたの不幸《ふしあわせ》や嘆きや心配は我がこと同然なんだから、とても秘《かく》してはおけないからいうのだけど、夜な夜なそっとあなたの寝床へやって来るってのは、大きな蟒《うわばみ》ですってさ。幾重にもとぐろを巻いて恐ろしい毒|液《じる》をもった、底も知れない大きな口を開けっ拡げた大蛇《おろち》なんだって。あなただってそら、あのアポロンのご神託を覚えてるでしょう、あなたは恐ろしい野獣《けだもの》のお嫁さんになる運命だって言った。それに何人も、この近所で狩りをする人だって、ここらに住んでる大概の百姓だって、その大蛇が夕方食物あさりから戻ってくるところや、近くの川瀬を游いでるとこを見てるんですって。〔一七〕
それで誰でも言ってますわ、いろいろおいしいご馳走をしてあなたをちやほやしとくのも長いことはあるまいって。そうしてあなたのお腹の子が十分に育ってきたら、一層おいしい果実《み》のはいったところを、一口に食ってしまうだろうって。だから今よ、しっかり思案を決めるのは。大切なあなたの身の上を心から気遣ってる姉さん達のいうようにして、ここから逃げ出して危い心配もなく私達と一緒に暮らすか、それともそんな恐ろしいけだものの臓腑の中に埋められてしまうか。でもまああなたがね、結局こうした田舎で声を相手にひっそり暮らし、世間の目を逃れて恋にふけって、生命にもかかわるような汚らわしい享楽《たのしみ》を、毒蛇相手にやっていくのが嬉しいっていうのなら、しかたのないこと。だけどともかく、私達は姉妹《きょうだい》の情として、するだけの務めはしなくちゃならないのだから」
そうするとプシケはあわれにも、単純でやさしい心根から、こんなにも情けない話の恐ろしさに胆を呑まれてしまい、もののわきまえも見さかいもつかなくなって、途端に良人の戒めも自分のした約束もすっかり忘れ果て、底も知れない禍いの中へと身をつき落すのでした。体を震わせ、顔は血の気もなくなって蒼ざめ、口ごもって聞きとりもしにくいほどの声であえぎながら、しどろもどろに姉たちに向って言うには、〔一八〕
「お姉さま、いつでもあなた方は、それがまあ本当のことでしょうけど、情を忘れずに妹の私のことを心配してて下さいますのね。全くのところそういう話をお聞かせした人達が、嘘を言ったとも考えられません。だって私ったらまだ一度も良人の顔を見たことはありませんし、どこの人かもまるで知らないで、ただ夜中にいうことだけを聴いて、てんで光を厭がって姿もはっきりとは現わさない良人のいうままになっているんですもの。あなた方がきっと何かの野獣《けだもの》だろうっておっしゃるのも当然のことだと思いますわ。それにしょっちゅう私を脅して姿を見させないようにして、もし物ずきに顔を見たりすると、大変な災難がくるって嚇《おど》してばかりいるんですの。ですからどうかすぐにでも、こんな危い目にあってる妹を助けるてだてを見つけて下されるなら、今すぐにも助けて下さいまし。さもないと今まで折角私のために色々心配してお尽し頂いたものが、駄目になってしまうことになりますわ」
そこで今はもう、城門もあけ開《ひろ》げたままの何の護りもない裸《はだか》にしてから、妹の心を虜《とりこ》にしてしまった心のねじけた女どもは、今度はもう奸計《わるだくみ》(攻め道具を隠す小屋)の蔽いもかなぐりすて、詐謀《たばかりごと》の剣を抜き放って、何の手立ても弁《わきま》えない乙女のおそれおののく心中へ攻め入って来るのでした。〔一九〕
とうとう一人が言うことには、
「もともと私達は血が繋《つな》がってるんだから、あなたの身の無事安全を計るためには、どんな危難を目の前に見ても、到底たじろいでるわけにはゆきませんわ。だから私達が何度も何度も考え尽した、命を助かるためにとる道はこれしかないという、その方策《てだて》をこれから教えてあげましょう、つまりとても鋭い剃刀《かみそり》をね、それも刃をよく砥《と》いでおいて、いつもあなたが寝るはずの側の寝台のところへ、そっと隠しとくのよ。それから手頃な燭台にね、油を一杯入れて、明るい光で燦々《きらきら》するのを、何かの容器《いれもの》の蓋の下へ覆い隠しとくのさ。もちろんそんな道具立てのことはしっかりと気づかれないようにしといて、それでその魔物が条《すじ》の跡を曳きながらやって来て、いつもの通り寝床に上ってから、長々とのびて正体もなくなった寝入りばなの深い寝息をたて始めたところを、そうっと寝台から抜け出して跣足《はだし》のまんま爪先だって足をはこび、黒白《あやめ》も分らない闇の獄舎《ひとや》から燭台をとり出して来るのです。そうしてその光の手引きでもって、あなたのとても素敵な所行《しわざ》を巧くやりとげる手立てを考えるのよ。それにはまず先刻《さっき》の両刃の利器《えもの》をもって、右の手を高く上に揚げといて、思い切って力一杯に切りつけて、毒蛇の頭を首の付根《つけね》のところから斬り落すのだわ。もちろん私達だってあなたを援けに来ますとも。で其奴《そいつ》が死んであなたがもう大丈夫ということになったら、すぐさまあなたぐるみ宝物も一緒に持ち帰ってさ、それからあなたのお望み次第に、人間だものね、人間のところへお嫁入りさせたげようって今から待ちかねてんですわ」〔二〇〕
こんな文句で、それでなくてもとっくに燃えていた妹の胸をなおせっせと煽り立てといてから、自分達はというと、そんな罪深い所業の現場に居合せるのが恐くて仕方なくなったので、いきなり妹を置き去りにし、例のように空をわたる風におし上げられて巖の上に運ばれるが早いか、逃げ足速くすぐさま船に乗って帰って行くのでした。
さてプシケはただ一人取り残されて――もっとも恐ろしい復讐女神《フリアエ》たちがくっついて心を攪《か》き乱しているので、一人でもないわけながら――心はこうと思い定《き》めしっかり臍《ほぞ》は固めていても、さて実際仕事に手を下すとなると、また考えがぐらついてたじたじとなり、身にふりかかった災難《わざわい》をさまざまに思いわずらうのでした。急《せ》き立つかと思うとまた後にのばす、思いきってはまた怖気づく、よもやと疑いまたいきり立ち、はては、何よりもまず肝腎|要《かなめ》の、同じ体かたちであるものを、悪獣《けだもの》の方は憎みきりつつも、良人としてはまたいとおしく思うのでした。その間にも夕暮れはいつかもう夜となりかかる有様に、慌てふためくうちにも怖ろしい兇行の支度はせっせと取り調《ととの》えられます。夜がくると良人もやって来て、ひとしきり美神《ウェヌス》の前哨戦《さきがけいくさ》がとりかわされるほどもなく、深い眠りに落ちてまいりました。〔二一〕
するとプシケは、平生は身体《からだ》も心もかよわい身ながら、残酷な運命に駆り立てられて今はしっかりした力が加わったものか、燭台をとり出し剃刀《かみそり》を手に握った大胆なさまは、女とも見えない変わりようです。しかし差しつけた燭火《あかり》が、寝間に立てこもる秘密を照らし出すが早いか、いきなり眼に映ったものは何あろう、あらゆる獣類のうちでも一番に優しい、一番に可愛らしい野獣《けだもの》、とりもなおさず|愛の神《クピド》が、様子の好い神様のいかにも様子よく寝《やす》んでおいでのすがたです。それを見ては燭台の明りさえもはしゃいで光を添え、剃刀も大それたことを企《たく》んだ刃の光を悔《くや》むように見えました。
プシケは思いがけぬこの有様に胆をつぶして、正体もなく、気も絶えだえに色蒼ざめて慄えながら膝の上にくずおれてしまい、はては刃物《はもの》をとってあるまいことか自分の胸のなか深く突きこもうとまでするのでした。全くその場にもそうしかねないところを、刃物の方でそんな恐ろしい行いをするが怖さに、軽率《かるはずみ》な手許から滑り出て、すっ飛んでしまったわけでした。もう疲れきって、やっと助かった思いにぐったりとしながら、プシケは神々《こうごう》しいその顔だちの美しさに飽かず眺め入っては、ほっと息を吐くばかりです。
金色の頭には心地よげな髪の毛が、むせ返るほどの仙香《アンブロシア》に薫っています。乳のように白い首すじから真紅の頬のあたりには、あちらこちら総毛《ふさげ》が垂れかかり環《たま》になって、好い工合に止められてるのもあれば、前だの後ろの方だのへ垂らされてるのもある。その様子を見ると、輝くばかりのあんまりな綺羅びやかさに、今は燭台の光さえも影が薄れて見えるほどです。空を翔けるその神様の肩には瑞々《みずみず》しいふたつの翼が、燦々《きらきら》する花のように照りそって、他の部分《ところ》はひっそりとしずまっているのに、一番さきの繊細《こまか》い柔かな和毛《にこげ》だけが微《かす》かに顫えながら、しず心もなく踊り戯れているのでした。そのほかも一体の膚《はだえ》は滑らかに艶々《つやつや》しく、さすが(美の神の)ウェヌスもこんな御子をお持ちになっては、さぞお得意でおいでだろうと思われるほどです。寝台の脚先には弓矢と箙《えびら》と、この神様のありがたい物の具がおいてあります。〔二二〕
それを飽くことを知らない熱心さで、プシケは好奇心に駆り立てられるまま、ためつすがめつながめては、自分の良人の武具に見とれているうち、ふと箙《えびら》から一本の矢を取り出して、親指の先で鏃《やじり》の鋭さを吟味してみました。ところが手の先が震えてついひどく圧したもので、かなり深く突き刺してしまい、皮膚《はだ》のおもてに紅い血の雫《しずく》が、かわいい露の珠を結びました。こうしてそれとも知らずにプシケは、われと愛神《アモル》の愛へ身を陥《おと》しこんでゆくことになったのです。こうなると層一層と恋神《クピド》のこいしさが身に沁み渡り、はては無我夢中でのしかかるようにその貌《かお》を飽かず眺め入って、心の急くままやたらに接吻《くちづけ》を繰り返しては、ただ眠りの頃あいだけに気を遣うのでした。
ところが、あまりの嬉しさに心も添わず胸の痛手になやみ迷うそのひまに、先程の灯明《とうみょう》が、憎らしい裏切りからかまたは忌わしい嫉妬《ねたみ》心からか、それともこんなにも優しい姿態に自分でも手を触れて、同じように接吻《くちづけ》をしてみたいとでも思ったのか、燃えている芯《しん》のさきから熱い油をひとたらし、その神様の右の肩へと落したのです。まあ何という大それた、軽はずみな灯明でしょうか、本当にけしからん恋路の使者《つかい》です、ありとあらゆる炎《ほむら》の神様ご自身を火傷させるなんて。そもそもその由来そのものが、誰かある恋人が夜の間《ま》ももっとゆっくり楽しみながら過ごしたいとでも思って、発明したにちがいないのに。
こういうわけで体を焼かれて、約束の秘密がこのように破られて滅茶苦茶になったのを覚ると、神様《クピド》はいきなり不仕合せな妻の接吻《くちづけ》や抱擁から脱《ぬ》け出て、ものも言わずに飛び去って行くのでした。〔二三〕
それでもすぐにプシケは、立ってゆく良人の右の腓脛《ふくらはぎ》に両手で取りすがり、空高い神の飛行のあわれにいじらしい付随物《つきもの》といった形で、共々に随《つ》いてゆくのでしたが、とうとう疲れ果てて地面へ墜《お》ちてしまいました。
しかし、いとしく思う神様は地上に臥している乙女を捨てておいでにならず、すぐ傍らにある糸杉の上に降りて、その高い天頂《てっぺん》から大変に腹立ちの口調で、こう言いかけになりました。「お前は全く何一つ弁えもないのだね、プシケ、私はまあお母様のウェヌスの命令もてんで思わずに、お前をみじめなこの上もなく下らない人間の恋に縛りつけて、とても卑しい結婚をさせてしまう筈だったのを、その代わりに自分で好きになって、お前のところへ飛んでいったのだ。だがこれは随分無考えな仕業だった、思えばね、つまり私は世に知らぬ者もない弓使いなのに、われとわが身を自分の矢で傷つけてしまって、それでお前を自分の妻にしたわけなのだ。そのあげくがどうかというと、お前には野獣《けだもの》と見なされて、刃でこの頭を斬り落されるところだったのだ、こんなにもお前をいとおしんでる眼をもった頭をね。こんなことはお前に繰り返し始終気をつけるように言っといたし、親切気から度々戒めておいたじゃないか。だがあのお前の結構な相談相手の女たちにも、こんなよこしまなことを教えた罰を、早速とあててくれてやるから。だけどお前の罰はただ私が飛び去ってしまうだけにしといてやるよ」こう言い終ると翼にのって空高く翔《か》けり去ってゆきました。〔二四〕
プシケは地面に倒れ伏しつつも、なおまだ眼の届くかぎりは良人の飛ぶさまを追い眺めて、ただ激しく泣き悲しみながら心を痛めておりましたが、とうとう翼を櫂に良人の姿が久方の空はるかに消えて見えなくなりますと、すぐ近くの流れの岸から真逆さまに身を投げました。けれども優しい川は、きっとこの水さえもいつも燃えたたせてしまう神様に義理を立ててのことでしょう、巻添えを恐れて早速少女を渦にのせ、そっと怪我をしないように、草花の咲き乱れた岸へ置くのでした。
ちょうどそのとき、はからずも野山の神様のパンが河流の近くに座を占めて、山ずみの女神エコーを傍《わき》へ引きつけながら、種々さまざまな声音《こわね》を歌いかえすことを教えていました。川岸のすぐそばには山羊たちが放し飼いになって、流れの髪の毛を刈り取っては遊び戯れています。山羊の足をした神様は、心を傷め気も絶えだえのプシケを傍へ親切に呼び寄せ、いろんなわけからその悲しい話もとうに知っていましたので、やさしい言葉でこう乙女を慰めるのでした。
「きれいな娘さん、私は全く田舎者の羊飼いだが、年をとるのも長くなったお蔭でもって、いろんな目にもあい物の鑑識《みわけ》もつくような次第だけれど、もし私の推量に狂いがなければ――それを賢い人達がとりも直さず占いというのだろうが――お前さんのためらいがちなよろよろした歩き方だの、ひどく蒼ざめた肌の色や始終溜息がちなことや、いや何より第一お前さんのその悲しそうな眼つきから見ても、お前さんは恋に責められていなさるのだ。それゆえ私のいうことをよく聴いて、もう身を投げたりそのほか自分から好んで死ぬような真似は、またとなさらぬがよい。嘆いたり悲しんだりするのも止めて、それよりもクピド様に、この方は神様の中でも一番偉い神ゆえ、よくお祈りして願いなさい、気に入るよう誠を尽してご神意に叶うがいいだろう。あの方もまだ年若で気の優しい遊び好きな神様だから」〔二五〕
こう諭《さと》してくれた牧の神様〔パン〕にも何の言葉も返さず、ただ自分の身を庇い護って下さる御心に手を合わせたばかりで、プシケはまた歩み去って行くのでした。それでも相当な道程《みちのり》を疲れた脚を引きずりながら彷徨《さまよ》って参りますと、もう日の暮れ近く、知らない路を通って、ある町につきました。そこは片方の姉の良人が治めている国でしたので、それに気づくとプシケは自分の来たことを姉さんに報らせてくれるように頼みました。ほどなく御殿に連れ込まれお互いに抱きあってよろしく挨拶を交わした後、訪ねて来たわけを問い質《ただ》されますと、答えて言うには、
「あのあなた方が勧めて下さったことを覚えてらっしゃるでしょう。ほらあの野獣《けだもの》をさ、貪欲な口の中へ私を惨めに呑み込んでしまわないうちに両刃の剃刀で殺してしまえって説きつけて下さったこと。ところがね、みんなして決めといた通りにやって燭台を手引きにその人の顔を窺《のぞ》いて見ると、まあどうでしょう、いきなり眼に映ったのはとても素晴しい気高いばかりの光景《ありさま》なんですの、あの女神のウェヌスの御子様の、つまりクピドその方がよ、そうっと静かに寝んでいらっしゃるではありませんか。だけどそんなにもありがたいご様子に胸が迫って、あんまり大きな嬉しさですっかり動顛してしまい、どうそれを喜んだものか途方にくれていると、本当にちょうど生憎と灯明《とうみょう》が燃えている油を沸き立たせて、肩のところへ落したのです。その痛さに良人はすぐに眠りから目を覚まして、私が刃物や灯火《あかり》やに身を固めているのを見つけると、言いますには、『お前はその通り恐ろしい罪を企らんだのだから、すぐにも自分の物を持って、ここから出て行け、それで私は今度はお前の姉さんと――ってあなたの呼び名を申しました――ちゃんと公然と式を拳げて結婚してやるんだから』というと、早速西風に言いつけて、自分の屋敷から外へ私を吹きつれてゆかせたのです」〔二六〕
まだプシケが言い切りもしないうちに、もうその姉は狂おしい欲望と歪んだ嫉《ねた》みに駆り立てられて、好い加減な嘘っぱちを捏《こ》ね上げて人々をだまし、両親が死んだという報らせがあったとか何とか言って、すぐに船へ乗っていきなり例の巖のところへ駈けつけますと、ほかの風が吹いてるのも構わずに、盲滅法な望みに夢中になって、
「さあ受けて下さい、クピドさん、あなたにふさわしい奥様の私を、それから西風や、お前はこのご主人をうけとめておくれ」というが早いか、できるだけ大きくまっしぐらに飛び下りました。でもいつものところへは、死んでからでさえ行きつくことはできません。鋭い岩の上を落ちてゆくうちに手も足もばらばらになって、そのあとは心相応に鳥や獣に臓腑を裂き啄《ついば》まれ、恰好の餌食となるのがその最期でした。
またその次の応報《しかえし》の処罰《おしおき》も長くはかかりませんでした。というのは、またもプシケがぶらぶらと歩いてゆくうちに、他の町へつきますと、そこには同じような工合で、もう一人の姉が住んでいたのです。そしてこの女も同様、妹のつくりごとに釣られて、悪性にも妹の嫁入り口を横奪りしようと巖のところへ急いで行き、同じような死態《しにざま》を遂げたのでした。〔二七〕
一方プシケがしきりとクピドを尋ねて国々を巡歴している間に、彼方では燭火《ともしび》の傷の痛さにお母様の奥の間に臥《ふ》せったまま呻吟していました。そうするとあの真白なウミネコが――いつも大海の波の上を翼にのって泳いでいる鳥です――大急ぎで、大洋《わだつみ》のふところ深く潜り込んでゆき、そこで今しがたウェヌスさまが沐浴《ゆあみ》したり泳いだりしてる、その傍に陣取って息子さんの火傷のことや、傷が大変に痛んで困ってること、生命のほども疑わしく臥《やす》んでることなどを言いつけました。それに、もうどこの国でも人の口の端《は》に上ってる噂や種々《さまざま》な悪罵を聞けば、ウェヌスの家の人達はみんなひどい不評判。というのは息子の方は山の中で浮気をしてるし、あなた様はまた海に潜ってばかりいて一向世間に出てらっしゃらないので、お蔭さまで今ではもうてんで楽しみというものも、雅びも優しさというものもこの世から姿を消し、みんながみな粗野で無様《ぶざま》で野蛮になってしまいました。さては夫婦の縁結びも友達のつき合いも、子供らを可愛がることさえもうなってしまいました。その饒舌《おしゃべり》でずいぶん世話やきな鳥は、息子の評判をめちゃめちゃにして、ウェヌスの耳へ吹き込んだものです。
そこでウェヌスはすっかり腹を立てて、急に叫び立てました。「じゃあもうあの私の立派な息子はいい女《ひと》があるのだね、さ、言っとくれ、私に心から仕えてくれるのはお前だけなのだから、その女の名は何ていうの。まだほんの生《き》のままの元服もしてない子供を唆《そその》かすなんて。ニンフたちの一人かそれとも|季節の精《ホーラエ》たちか、楽女《ムウサ》の歌舞団《コロス》のなかまか、それとも|美の精《グラティアエ》のうちの女かえ」するとそのお喋り鳥が黙ってればいいものを、「存じません、奥様、でも私の聞き覚えが本当なら、プシケとかいう名の少女に、死ぬほど焦れておいでの模様です」
そこでまあウェヌスは大変憤って一層声をはり上げて叫びました。「プシケをだって! まああの私と容色《きりょう》争いをして、名前を競《せ》り合ってる女を、本気であの子が好きになったというのかい。もともと私があいつを引き合わせてやったというのに」〔二八〕
こう大声に言い立てながら大急ぎで海を出て、すぐさま自分の金色の居間へ行って、話のとおりに息子が病気で寝ているのを見つけますと、もういきなりその扉口のところから声を限りに叫び立てるのでした。
「結構なことだね、本当にこれは、私達の生れ育ちにもお前の名誉にとってもちょうど相応したことだよ。まず第一お前の親の、いえそれどころか主人の命令を踏みにじってさ、私の敵《かたき》を汚れた愛で責め苦しめるどころか、まだこんな年頃の予供のくせに、いつもの気まま勝手なませたやり方で(あの女を)自分のものにしちまうなんて。お蔭さまで、じゃあ私は自分の仇《かたき》を嫁にして我慢するのかえ。それでまたこの碌でなしの女蕩しの憎まれっ子が、自分ひとりがちゃんとした後継ぎの生まれでもって、私はもう年のせいで子ができないとでも己惚《うぬぼ》れてるんだろう。そんならよく覚えといで、お前よりずっと立派な子をまた産んであげるからね、いえそれよりもっとお前に恥をかかせてやるように、うちの下僕を一人後継ぎにして、それにお前のもってる翅《はね》だの炎だの弓や矢までも、私のやったいろんな道具をみんなとり上げてやってしまおう。もともとそれはこんな用に立てるのにやったのではないんだから。それに何一つお前には、お父様の財産《もちもの》から、もらったものはないのじゃないか。〔二九〕
本当に赤ん坊の時から躾けが悪くて、その上に手が速くって、目上の人たちを何度も見さかいなしに酷い目にあわせといて、その上自分の母親までをさ、私をだよ、この極道《ごくどう》者が、しょっちゅういい曝《さら》し者にしてさ。何度も何度も矢を射かけて、それにほんの寡婦《やもめ》と思ってだろう、馬鹿にしてばっかり。義理のお父様〔軍神マルス〕でも、あんなとても強い偉い武土《さむらい》なのに、ちっとも怖がりもしないし。いえそうに違いないさ、私に嫉妬《やきもち》を焼かせて虐《いじ》めようと思って、何度となくあの人をそそのかしてばかりいるじゃないか。だけど今度こそこんな悪戯《わるさ》はうんと後悔させてやるからね、そうしてあんな女と一緒になったのだから、苦い酸《しょっぱ》い目をたっぷり見せてあげるよ。だけど今、笑いものにされたこの始末をどうつけてくれよう、まあどうしてくれたらいいだろう。どんな仕方でこの詐欺師《かたり》を仕置きしてやったものか。いっそ私といつも仲悪の『真摯《まじめや》』の手助けでも借りてやろうか、これだってここにいる小僧の気随気儘がもとで始終気を悪くしてるんだけど。でもあんな穢《きたな》らしい田舎者の女と、話し合うなんて、まあ真平ご免だわ。けれども讐《あだ》を討って気が安まるんなら、どんな人の手を借りたって結構じゃあないか。すぐあの女に頼むことにしよう。厳重にこの碌でなしをお仕置きしてくれるだろうからね、箙《えびら》もといてしまうし矢も取り上げてしまうし、弓も糸を外して松明《たいまつ》も消して、いえ第一あの子の体をさ、もっときつい薬でもって、しっかり性根をつけてくれるだろうよ。いっそあの子の頭をすっかり剃っちまって、あの翼を刈り取ってでもしてくれたら、私の潰された顔も立つし気持も直るだろう。私がこの自分の手でもって金色の輝きに染め上げてやった髪や、この懐ろで仙酒《ネクタル》の泉に浸してやった翼なんかをね」〔三〇〕
こう言い放つと荒々しくウェヌス一流のヒステリーに猛り立ちながら家の外へ出てゆきました。でもすぐにケレスとユノの二方の女神〔ケレスはギリシアのデメテルで大地豊穣の女神。ユノはヘラでユピテルの妃〕が向うからやって来て、ウェヌスの膨《ふく》れた顔を見ますと、なぜそんな怖い顰《ひそ》みでもって折角きらきらとした瞳の美しさをおしこめてるのかと尋ねました。そこでウェヌスが申しますには、「ちょうど好いところへおいででしたのね、煮えくり返ってる私の胸を無理に抑えてしまおうっていうのでしょう。でもそれより、どうかあなた方のお力のありったけで、あのプシケを探し出して下さいましよ、あの逃げ出してうまく飛びまわってる女を。あなた方だってもちろん私のところの結構な評判も、お話にもならないあの息子の所業《しわざ》も、よく知ってらっしゃるでしょうからね」
そうすると二人の女神たちは、その顛末はよく心得ていましたけれど、ウェヌスのきつい腹立ちを宥《なだ》めようとして、こう言いました。「まあ一体お宅の息子さんはどんな悪いことをなさいましたの、奥様。あなたとしたことがそう断然《きっぱり》とお腹立ちになって、坊ちゃんのお楽しみを攻撃なさったり、その好きな女《ひと》をどうかして始末してしまおうとお思いになるなんて。でもねえ、ちょいと、坊ちゃんが綺麗な娘さんにうっかり笑いかけたからって、それがそう大それたことかしら。それにあの子だって男の子だし、いい若者だってのをご存じなんでしょう、もう何歳《いくつ》になるかってのも忘れておいでじゃないんでしょうに。それとも、いくつ歳をとっても結構小さく見えるからって、しょっちゅう子供並みにしてなけりゃいけないのかしら。そうしといてお母さんのあなたが、しかもその上分別ざかりの女が、いつまでも自分の子の遊戯《あそびごと》に眼を皿にしておせっかいをやいたり、放埒《ほうらつ》を咎め立てたり、情事をせきとめたりして、ご自分の手練やご自分の魅力ってものを様子のいい息子さんのところでは、こきおろしてるのじゃないの。だけど、あなたが自分の家《うち》では色恋沙汰《いろこい》をそれこそ厳重にせき止めといておくなら、神様だって人間だって、誰一人としてあんたがやたらに世間中へ愛情《なさけ》の種子をまいてあるくのを放っとくものですか」
こう女神たちは、本人はそこにいないながら、矢の勢いを畏れて、クピドに都合のいい弁護をしてやって機嫌をとるのでしたが、ウェヌスの方は、ひどい目にあったのをこう弄《なぐさ》みものにされてしまったので腹を立て、二人を向うへやりすごしておいてから、足もせわしくまた来た道を海原の方へと向ってまいりました。〔三一〕
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巻の六
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(クピドとプシケの物語・つづき)プシケ、愛神をたずねて苦労のこと―ロバのルキウス少女を乗せ脱走のこと
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話変わってプシケはあちらこちらと駈け回《めぐ》っては、夜も昼も良人を探し尋ねて心の憩《やす》むひまもなく、ただひたすらにその憤りを、妻としての優しい言葉で宥《なだ》めることはもうかなわぬにしても、せめて下婢《はしため》の祈願でもって和らげたいものと願い求めるのでした。そのうち高い山の嶺に何かお宮のあるのをみとめますと、「おや、あそこにうちの旦那さまがいらっしゃらないとも限るまい」といって、忙《せわ》しく足を運んで参りました。それも骨折りにもうすっかり疲れきっているのに、ただ希望と愛のまごころに駆り立てられていくのでした。そしていきおいこんで、一心に高い尾根を超え登り、とうとう神座のすぐ傍まで辿りついて見ますと、そこには穀物の刈り穂がうず高く積んだり、環形にまげて束ねたりしてあって、大麦の穂の束などもおいてありました。そのほか鎌だとか刈入れ仕事の道具一式が、それもみんなあちこち散らばったまま無雑作にごたごたおいてあり、暑い日盛りにでも百姓がてんでに投げ出していったようなふうでした。それをプシケはいちいち丁寧にわけて、ちゃんとそれぞれ片づけて蔵《しま》いました。というのは、どんなお宮にしろお祭りにしろ等閑《なおざり》にしないで、すべての神様のお慈悲をねがい求めなければならないと考えたからです。〔一〕
ちょうどこうやって心をこめてせっせとお手伝いをしてるところへ情け深いケレスがおいでになり、少女をお認めになると、すぐさま大きな声で呼びかけました。
「まあ、お前は可哀そうなプシケじゃないの。ウェヌスさまがね、もうかんかんになって世界中をお前の行方《ゆくえ》をしきりに探しまわっていなさるのだよ、それでお前に一番ひどい処置《おしおき》をして、あの方の力でできるだけの復讐《しかえし》をしてやろうっていきり立っておいでなの。それなのにお前は私のうちの仕事の世話をしてくれて、自分の身の無事安全にも関係のないことを考えているのだわね」
そこでプシケはその足許に身を投げ伏して、溢れる涙で女神のおみあしを潤《うる》おし、大地を自分の髪の毛で拭き払いながら、いろいろと祈願をこめてひたすらお助けをお願いするのでした。
「五穀を穣《みの》らせるその右の御手にお縋《すが》りして、穫り入れの娯しい祭式に、あのエレウシスの聖い籠〔エレウシスは、デメテル崇拝の本拠地。種々な秘儀が行われ、ここにいう編み細工の籠は聖食を容れるためのもの〕の他言を許さぬ秘儀にかけて、またご家来の飛龍たちの翼をもった小車に、またシケリアの国の畝溝《うねみぞ》や(御娘のプロセルピナを)連れ去ったあの車、その方を閉じこめた大地、光を見ないご婚儀のためのご下降や、また御娘をお見つけになってからの光に満ちた御|還御《かえりじ》、またそのほかアッティカにあるエレウシスのお宮が、沈黙《しじま》のうちにたてこめることごとにかけて、どうかこの、あなた様にお縋りいたしますプシケの哀れなこころにお力をお添え下さいませ。どうかあの尊い女神さまのはげしいお憤りが、時のたつにつれ和らいでまいりますまで、いえそれまでならずとも、せめて長い艱難につきはてた私の力が、暫くでも休まって落ちつくまで、そこにある穂の積み重ねの中に、二三日の間でも身をかくさせて下さいませ」〔二〕
それに応えてケレスがいうには、「本当にお前の涙ながらの願いには胸をうたれるし、また助けてもあげたいのだけれど、私の姉妹《きょうだい》の機嫌を悪くするのはねえ、ちょっと困ると思うの。それにずっと昔からあの人とは仲よく手を結びあってきたのだし、そのうえ立派な女《ひと》なのだものねえ。そんなわけだからすぐにこの家から出ていっとくれ、私が補《つか》まえて囚人《めしうど》にしなかったのを精々いいことと考えておくれよ」
プシケは自分の思いがけとすっかり反対に、追い出しを食って《いまは》二重の悲しみに打ち挫《ひし》がれ、とぼとぼとまたもとの道をひろって参りますうち、谷の小昏《おぐら》い木立のあいだに、工匠《たくみ》の腕をつくしたお社があるのを見つけました。どんなことでも、たとえ多分は無駄と考えてもプシケは助かる希望《のぞみ》への道はすべて残さずに試してみよう、どんな神様のお慈悲にもお縋りしようと思っていますので、その聖い御|門《かど》口へと近寄って参りまして、見ると高価な献げ物だの金色の文字を縫いつけた布だのが、木の枝や門《かど》口の柱にかけてあって、それにあるお礼のことわけ(由来)を見ても奉納を受けさせられた女神の名前がすぐに覚り知られるのでした。そこで膝を折りまげ、手をさしのべてまだ温かい神壇にとり縋りつつ、まず涙をおし拭い、こうプシケはお願い申し上げるのでした。〔三〕
「あやに尊いユピテルさまの御|同胞《はらから》、またお妃のユノさま、よしあなた様がサモスの島の神さびたお社においでになろうと――あるいは高いカルタゴの恵み豊かな郷《さと》に往来《ゆきき》なさいましょうと――あなた様を獅子に騎《の》って天界からお降りになった乙女としてお崇めしているその市《まち》に――それともイナコスの堤のほとりアルゴスの世に聞こえた城壁《とりで》をお治めになりましょうと――あなた様をとうに雷神《いかずち》のお妃として、女神らの女王《すめらぎ》として讃えまつるその町を――東の国がこぞって『結びの御神』と尊敬し、西の国はみな『光の神』とお讃え申す御神様、どうかこの私の難渋のきわみのときに、また『安らぎのユノ』さまとして、胸にあまる艱難辛苦に疲れはてたこの身を、さし迫る危難の恐れから助け出し下さいませ。承っているところでは、身の危い妊婦《みもちおんな》には御《み》手ずからいち早くお力をお借し下さるとも申しますゆえ」
こういう風に嘆願しているその眼の前に、たちまちユノは神々しい天つ神の気高さをのこりなく示現しながら、御姿を見せると即ち仰せられるには、「本当に正真正銘私もお前の願いをきいてやりたいとは思うのだけど、ウェヌスさまの心に逆ってはねえ。あの女は私の嫁に当るうえ、始終自分の娘のように可愛がってもきたのだから、助けてあげてはどうにも義理がすまないのですよ。それにまた法律でもねえ、他家《よそ》の下婢《はしため》が逃げたのを主人の同意なしに受け入れてはならないことになってるので、駄目なのだからねえ」〔四〕
今度もまたかように、仕合せの船が難破してしまったことは、もう羽根の生えた良人を探し求める力も出ないほどプシケを怖気づかせ、今はもう身の助かる術《すべ》も望みも失せ果てて、こうひとり思案に沈むのでした。
「今となってはこの上私の身の不仕合せを救ってくれるどんな方法《てだて》が尋ね求められよう、女神様たちさえ、それも御心はありながら、私のために口をきいて下さることもおできにならないというのに。さてこれからもこんなにどこからどこまで罠をかけられていて、どちらへ歩みを向けてゆくことができよう、またどの屋根に隠れ、闇《やみ》にひそんで、広大なウェヌスの避ける術《すべ》もない御眼を逃れおおせよう。それならいっそのこと勇気を振い起こして空《あだ》な望みを雄々しく捨て、自分からさきにご主人〔ウェヌスのこと〕へ身を委《まか》せて、むしろ遅まきながら身を低くして烈しいお怒りの勢いを和げたらどうだろう。それにその上もしかすると、長い間さがし尋ねている人にも、お母様のお邸であうことができないとも限らないではないか」
こうして末の成行きも疑わしい服従、いえそれどころかほとんどわが身の破滅をさえ覚悟しながら、プシケはこれからさきどうお懇願《ねがい》をはじめたらよいかと思案するのでした。〔五〕
一方ウェヌスは地上を探しまわっても仕方がないとあきらめて、天へ向って出かけました。支度をいいつけた御輦《おくるま》は、以前金工の神様ウルカヌスが巧妙なわざをつくして造り上げ、ウェヌスの初の嫁入りに花嫁への贈り物にしたものゆえ、精巧な透《すか》し彫の美しさといい、費用《ついえ》をおしまず黄金そのものをふんだんに使ったところといい、他に類もないとうとさです。(その輓子《ひきて》には)ご主人の女神《めがみ》の臥床を取り巻いて鳥屋《とや》をつくる沢山の鳩のうちから、四羽の真白な鳩が足どりも晴ればれしく進みよって、彩った首をふりふり珠《たま》を鏤《ちりば》めた轅《ながえ》に収まり、女神様が乗り込むとたちまち御輦を羽に《のせて》楽しげに舞い上って行きます。その御輦を取り巻いて声々に囀《さえず》りあそぶのは雀やその他いろいろな好い歌声の鳥たちで、調べも妙《たえ》に節おもしろく歌い立てながら、女神様のご入来を天地《あめつち》に告げ知らせるのでした。
すると雲は割れて引き退り、天は御娘のためにずっとうち開けて、遙かな高ぞらは喜悦《よろこび》にあふれて女神を迎えます。中途に遇う鷲も貪欲な鷹も、ウェヌスの朗らかな眷属たちにはちっとも怖くありません。〔六〕
女神はそれからまっすぐにユピテルの大宮|敷《しき》に向い、意気高々と、あの声の大きな神様のメルクリウス〔ギリシアのヘルメスで、伝令通商の神〕を是非とも手助けに貸して頂きたいとお願いになりました。ユピテルもこれに漆黒の眉をおうなずきになります。とすぐさまウェヌスはメルクリウスを一しょに連れ、大得意で天から降ってみえ、メルクリウスに意気込んで言いたてるのでした。
「ねえアルカディアの兄さま、あなただってよくご存じだわねえ、あなたの姉妹のウェヌスはあなたが傍についててくれなけりゃ、いつだって何もしたことはないでしょう。それでまたどんなに長いこと私が、あの姿を隠した侍女(のプシケ)を探し出せないでいるかっていうのも、もちろん知らないはずがないわ。だからこうしてもらいさえすればもう文句はないんだけどね、あなたが世界中へよびかけて、見つけた人にご褒美を出すって布令をまわして下されば。だから大急ぎで私のお頼みする通りに、一目で人相が解るよう目印をはっきり書き出して、万一誰かが掟に背いて罪を犯し匿まっていた場合、知らなかったなどと逃げ口上をいえないようにして下さいな」こう言いながらメルクリウスの眼の前にプシケの名だのその他いろんなことが記してあるメモを差し出し、話がつくとすぐさまお宅へお帰りになりました。〔七〕
メルクリウスも頼まれた仕事をうっちゃってはおきませんでした。それで隈なく世界中の人間を訪ねてかけまわり、指図をうけたお布令の役をこんな風にして果たしました。
「もし誰にもせよウェヌス神の侍婢《こしもと》で名はプシケというお尋ね者の王女を、逃亡より引き戻すかまたはその隠れ家を指し示し得る者は、ムルキアの円柱〔ローマのキルクス・マクシムスの南にある女神ムルキアの社。ウェヌスの権化とも考えられた〕の後ろ側の、このビラの布令人メルクリウスの許に出頭すべし。通告の褒美としてその者にはウェヌスさま御口ずから七つの快い口づけと、もう一つそれはそれは甘《おいし》いのを、心もとろけるお舌押しでなし下される」
こんな風にメルクリウスが言って歩くと、その素晴しい褒美をせしめたさの一心が、ありとあらゆる人間どもをお互いにせり合い競い合わせるという有様で、この顛末《てんまつ》こそ何よりもプシケの胸から、これ以上ほんの一寸でも躊躇《しりごみ》しようという気持をなくさせてしまった理由でした。こんな次第でご主人の門口へさしよって参りますところへ、やって来たのはウェヌスの召使の一人で、『慣例《しきたり》』という女です。みるといきなり、ありったけの大声で叫びたてるには、「ふん、この性悪のはしたものが、でもとうとう自分のご主人持ちだってのが解り始めたのかね。それとも他のことだってお前さんのやり方は無鉄砲なんだから、今度も知らない顔をするつもりなんだろう、お前さんを尋ねだすんで私達がどんなに苦労させられてきたかってのもさ。でもこれでいいのよ、誰というより私の手にとっ捕まったからには、もう地獄の距《けずめ》にひっ掴まえたも同然、これから早速今までの増長慢のこらしめをうんとみせてやってくれるからね」〔八〕
こういうと乱暴にもプシケの髪の毛に手を突き込んで、何の低抗もしないでいるのを引きずって行き、ウェヌスの御殿につれ込んでご前へと引っ立てて参りました。その様子を眺めるとウェヌスはいきなり大声にお腹を抱えて笑い立てたのは、人がひどく腹を立てるといつもよくやるやつです。そうして頭をふりたてたり右の耳を擦《さす》ったりしながら申しますには、
「でもとうとう自分の姑《しうとめ》へ挨拶をしにおいでなすったってわけだね。それともお前さんの手にかかって命も危ないご亭主にあいに来たのかえ。だがまあ気を大きくもっといで、これから立派なお嫁さんに相応な款待《もてなし》を十分にしてあげるからね」それからまたつづけて、「どこにいるのだえ、侍女の『心配』と『悲しみ』とは」と二人の者を呼び寄せプシケを渡して責め虐《さいな》ませました。二人はまた主人の指図通りに、プシケを可哀そうに鞭で打ったりその他いろんな責め道具でさんざん虐《いじ》めたあげく、またご主人の前に連れて戻りました。そうするとウェヌスは今度も笑い立てておいてから言うには、
「ごらんよ、こんな大きなお腹《なか》をして私の気をひいて慈悲心をおこさせようっていうのだろう、結構な子供を産んで私を幸福なお祖母さんにしてくれるんだからね。本当に私は仕合せ者さ、まだこんなに若い女ざかりにお祖母さんなんて呼ばれてさ、しかも下司《げす》なはした女《め》の生んだ子を、このウェヌスの孫だって世間に謳《うた》わせるなんて。だけどいくら私が馬鹿でも、もう子供なんてのは真平だね、第一この結婚はまるで身分違いだし、そのうえ田舎家で証人もなしに、父親の同意もなくてされたのだから正式なものとは認められやしないさ。またそれだから万が一子を産むのを見逃しとくにしても、生まれた子供は私生児ということになるのだよ」〔九〕
こう言い終るとプシケにとびかかって、着物をびりびりに引き裂き、髪をふりほごし、頭をゆすぶったりして、さんざんに打擲《ちょうちゃく》したあげく、小麦や大麦や、粟《あわ》に罌粟《けし》粒、小豆《あずき》、豌豆《えんどう》、蚕豆《そらまめ》などを取り寄せ、ごちゃごちゃにかきまわし一山に混ぜ合せて積んでおいて、こう言いつけるのでした。
「お前みたいな不恰好な召使は、どう考えたって他のことでは駄目さ、ただ精出してお仕えでもして、好きな人の気に入るようにするほかはないだろう。それだからいまお前さんの働きをこれから試してあげるからね。そこにまぜて置いてあるいろんな種子の寄せあつめを選り分けておくれ、一粒ずつちゃんと種類別にしておいてね、この夕方までに得心がいくようしっかりと片をつけとくのだよ」
こんな風に山のような雑穀の積み重ねをおしつけといて、自分はご婚礼の饗宴《もてなし》に出かけてしまいましたが、プシケはその乱雑な手のつけようもない(穀類の)山に手を出そうともせず、ただ茫然と言いつけられた仕事の大きさにたまげ、物もいわずに呆れているばかりでした。するとそこへ小さな蟻が出て参りました。あのちっぽけな、野原の住まい手です。こんな骨の折れる大仕事の難かしさを見てとると、偉い神様《クピド》のお連合いを気の毒がり、かつはまた姑御《しうとご》の無慈悲さに腹をたてて、せっせと駈けまわってはその辺に住む蟻たちの軍勢をすっかり呼び集めて頼みますには、「お気の毒じゃあないか、ねえ万物を産む大地のすばしこい養い子たち、お気の毒だから、この|愛の神《アモル》の奥方の綺麗な娘さんが、難儀してるのをすぐさま大急ぎで助けてあげとくれよ」
するとどんどん一団また一団と六脚|勢《ぜい》の波は次々におしかけて来ます、そして一生懸命になってめいめいが一粒ずつ山と積んだ穀物をすっかり始末し、それぞれ種類分けにいたしますと、さっさと姿を消してしまいました。〔一〇〕
夜がくると婚礼の宴からウェヌスが帰ってまいりました。お酒を十分にきこしめし、安息香《バルサモ》をしきりと匂わせ、体じゅうには照り咲いた薔薇の花を巻きつけております。言いつけた仕事がびっくりするほど立派に仕上げられてるのを見ますと、「これはお前のじゃないね、本当に悪い女だよ、お前の手でやった仕事ではなくて、彼《あれ》の仕業に違いない」そういうと粗いパンの片《きれ》を放り出して、寝間にはいってしまいました。この間じゅうクピドは、たった一人で御殿の奥に、一|間《ま》の寝部屋に閉じこめられたっきり、厳重に見張りをされていました。気儘気随にやって傷を重くしてしまったり、自分の好きなひとと一緒になったりしないようにというわけです。こんな次第で同じ屋根の下にいながら、この好いた者同士は引き離されて別々に、みじめな夜を明かしたのでした。
しかし払暁《あけがた》がほんのいま馬車《くるま》を〔暁の女神アウロラの出現。天馬の車に乗る姿で表わされる〕空に乗りだすと、ウェヌスはプシケを呼びよせてこう言いつけました。「ほらあすこに森が見えるだろう、ずっと流れてゆくあの川や長い堤に沿ってる森さ。(その中にある水溜りの奥底は)近くの泉に通じてるのだけど、その辺りには金色の裘《かわごろも》にかがやいた羊たちが見張りもなしにいつも草を食べて遊んでいるのだよ。その立派な羊の毛皮から毛を一房どうにでもして大至急、私にとって来て欲しいのだがねえ」〔一一〕
プシケはすすんで出かけてまいりました。命令を果たすためというより、川沿いの巖の上から身を投げて災難から憩《やすら》いを得ようというつもりで。ところが川の中からは、愉しい音楽の育ての親の緑の葦《あし》が、やさしいそよ風にしずかな音をたてながら、天上からの息吹きを受けてか、こういって歌い諭《さと》してくれるのでした。「プシケさん、あなたはいろんな苦労に心を痛めても、今ここで世にも憐れな最期を遂げて、この聖らかな水を穢《けが》してはいけません。それからまた決してこんな時間にあの恐ろしい羊どものところへ近寄っては駄目ですよ。というのは(いまは)羊たちが照りさかる太陽から炎熱を受けて、いつも酷《ひど》く荒れ狂うので、鋭い角《つの》や石のような額でついたり、そのうえ時には毒を持った口で咬んだりして、人間を死なせてしまうほど荒れまわることさえあるのです。けれども真昼時の日がようやく熱気を収めて、羊どもがおだやかな河原にひっそりと鎮まったころには、あそこにある背の高いプラタナスの木の下に――その木は私同様同じ流れ(の水)を飲んでいますが――その下にそうっと身を隠すことができましょう。それで乱暴がやわらいで羊どもの張りつめた気も弛んできたら、早速すぐわきの木立の枝葉をゆすぶれば、金色の羊の毛が見つかるでしょう、その曲がった幹の方々にくっついておりますから」〔一二〕
こう言って素直な気の優しい葦は、悩みつかれたプシケに身を護る道を教えてくれました。その言葉に耳を傾け心に礼をいいながら、プシケは一切の始終を呑み込んで、(暫くは)手を控えておりましたが、やがてすっかり葦のいったとおりにして、容易にそこへ忍びこみ、柔かな黄金の房を懐ろ一杯に盗みとって、ウェヌスのところへ持ち帰りました。けれどもこの二番目の危い仕事(を果たしたこと)も、てんでご主人の気にはいらず、プシケの働きを認めようとはしてくれなくて、やっぱり眉をひそめ苦笑いを浮かべながら、ウェヌスはこう言うのでした。「今度のことだって、誰がそっと蔭でたきつけたのか私にはよくわかっているよ。だけど今度こそ私が本式に厳重な試験をしてあげるからね、本当にしっかりした気性や尋常《なみなみ》でない分別をお前がもってるかどうかをさ。そらあすこのとても高い巖の上に聳え立って険しい山の嶺が見えるだろう、あそこから真黒な泉の黝《くろ》ずんだ波が流れおちて、近くの谷にはいって淵《ふち》となり、黄泉《ステュクス》の沼地に注ぎ込んだそのはては、|叫喚の河《コキュトス》の荒い流れにあわさるのだけれど、その泉の天頂《てっぺん》の、水が湧き出る奥底から、冷たい水を一杯私に大急ぎでね、この甕《かめ》へ汲んで来ておくれ」こういうと水晶を刻《ほ》りぬいた容器を、もっと重い仕置きで脅しながらプシケに手渡しました。〔一三〕
そこで少女はせっせと足の運びも速やかに、山の一番上の高みへと向って参りました、今度こそそこで、この上もなく惨めな自分の命に決着をつけられようと思ってです。しかし今いった嶺の麓の場所にやって来て見ますと、この途方もない大仕事の、生命にもかかわるほどのむずかしさが解って参りました。それはそれは大きな岩が聳えていて、突兀《とっこつ》として滑り易く近よることなど思いもよらず、両側から迫りあうその石の|あぎと《ヽヽヽ》からは身の毛もよだつような恐ろしい噴流がほとばしり出て、洞穴の裂け目から湧き出すとそのまま滝になって崖を流れ落ち、狭い水路にかくされたまま、すぐ近くの深い谷あいへ人目もしらず落ち込んでいるのでした。右にも左の方にも洞《うろ》になった岩からは恐ろしい竜が這い出し……長い頸をもち上げ、その眼《まなこ》はまばたきもせずにしっかりと見張りをつづけ、たえず日光をみつめるその瞳には少しの間のたゆみさえありません。
しかもその上にその水までが声をたてて自分自身を禦《ふせ》ぎ守り、「あっちへ行け」とか「何をする、よく見ろ」とか「何をやるのだ、気をつけろ」とか「逃げろ」とか、それからまた「そら死ぬぞ」などと呼び立てるのです。この有様を見るプシケは仕事などとても思いもよらず、自身が石にでも化《な》ってしまったかのように、体はそこにあっても眼や耳の感覚はぼうっと脱けてなくなり、抜きさしもならぬこの難業の重荷にすっかり圧倒されてしまって、最後の慰めという涙さえも出ない始末でした。〔一四〕
しかし有難い神様の、崇《あらた》かな眼《まなこ》にこの罪もない心の嘆きがとまらないという筈はありません。尊いユピテル大神様のあの気高い鳥が不意に、両方の翼を拡げて飛んで参りました、あの猛々しい荒鷲がです。その昔クピドの誘いによってプリュギアの少年〔トロイアの王子ガニュメデスのこと。ユピテルが鷲になって天上へ拉致した〕をユピテルの盃《さかずき》持ちにと天へ攫《さら》ってってあげたことを忘れずに、今度もちょうどおりのよい手助けをして、奥様が困っておいでの時にその連合い《クピド》を慰めようと、てり輝くはるかな穹窿《あおぞら》のみちを離れ、少女の眼の前に翔けて来てこう言葉をかけるのでした。
「まああなたは、全く単純でこんな事柄をてんで弁えてもいないのに、この世にも聖《とうと》いと同時にまた情け容赦もない泉の水を、一滴でも盗《と》れようと、いえそれどころか手を触れることさえもかなおうと想っておいでなのですか。神々もまたユピテルさまご自身でさえ、あの黄泉《ステュクス》の流れはお畏れになるってことは、ともかく知っておいででしょう、その上ちょうどあなた方が神明にかけて誓いを立てるように、神々は黄泉《ステュクス》の尊厳にかけていつも誓いをなさるということも。だからさあその甕をおよこしなさい」
こういうとたちまちそれを奪って水を満《み》たしにと急いで飛び立ち、巨大な翼をゆらゆらと揺りはためかせて、巨竜の恐ろしい歯の顎《あぎと》や三叉《みつまた》に裂けて燃えたつ舌の間を、右へ左へと揖《かじ》をとりながら、厭がって怪我をしないうちにあちらへ行けと脅しつける水をとうとう汲んで参りました。ウェヌスさまの命令で取りに来たので、自分はその神様のご用をしているのだなどといったため、いくぶんかそこへ寄りつく道も開けたところで汲んで来たのです。こんな次第で、一杯になった甕を大喜びでプシケは受け取り、急いでウェヌスのところへと持って参りました。〔一五〕
それでもまだこんなにしてさえも、猛り立つ女神の御意《みこころ》を和げることはかないません。そして前よりも一層ひどい厳しいお仕置きで脅しつけながら、命の縮むほど恐ろしい薄笑いを浮かべ、プシケを呼んで女神はこうおっしゃいました。「実際お前さんはどうも大した魔法使いだとみえるね、全く気味が悪いよ、私がどんな事を言いつけてもやすやすとやってのけるんだからねえ。だけどもう一つ、いい子だからこの仕事を是非ともしてきとくれな。ここにあるこの手筺《てばこ》をもって」とそれを渡して、「すぐに冥途まで、冥王《オルクス》ご自身がおいでの亡者の棲家《すみか》へと行って来とくれ。それで(お妃の)プロセルピナに筺《はこ》を渡してこういうのだよ、――ウェヌスさまのお頼みには、あなた様の好い御容色《ごきりょう》をほんのちょっぴり、ほんの一日の間保つだけなりと、頒《わ》けて下さいますよう。前からのご自身の分は、ご子息の病気の看護ですっかりすり減らし、使い果たしてしまいましたので――ってね。でもぐずぐずしないでさっさと帰って来るのだよ。私は是が非でもそれをつけて、神様たちの観劇《おしばい》に出かけなけりゃならないのだからね」〔一六〕
そこでプシケは、今度こそいよいよ自分の運もこれまでと覚悟し、あらゆる表面《うわべ》のつくろいもかなぐりすてて、自分が無理やりにも最後のどたん場へと急き立てられているのをはっきりと理解いたしました。それも無理からぬこと、自分の足でこちらから冥界《タルタロス》の亡者の郷土《くに》へ出かけて行かなければならないのですから。そこでプシケも今はもうためらうこともなく、とりわけ高い塔のところへ赴き、そこから真逆さまに身を投げようといたしました。こうしたならばきっと冥界《じごく》へまっとうに降りて行けようと考えたからです。ところがその塔が急に物を言いだして、「まああなたは」と申しました、「可哀そうに、なぜ身を投げて死んじまおうなんてなさるんです。どうして一番お終いの難題のこの仕事で、考えもなくへこたれてしまうんです。一度この呼吸《いき》があなたの身体から絶えたらば、それこそ真直ぐに冥界《タルタロス》の底にゆけはしようけれど、どんなことがあったってそこからまた帰ってはこれやしません。(それよりもあの)〔一七〕
アカイアの世にしられた町、ラケダイモン〔スパルタのこと〕へはそう遠くないのですから、その近所で往還を離れた片田舎に、タイナロスというところを尋ねていらっしゃい。そこには閻王《ディス》の息抜き穴というのがあって、その大きく開いた門口《とぐち》からは、人も通わぬ荒れ路がずっと見えていて、その閾《しきい》を超えさえすれば、すぐとさっきの路にはいるわけですが、そこからはもう真直ぐな道筋で、例の冥王《オルクス》の御殿へ行けますから。でもそこまでのその暗闇を空手《からて》で進んでっては駄目です、ちゃんと蜜酒でこね固めた大麦粉のお餅を両手に持って、そのうえ口のなかにですよ、銅貨を二枚くわえて行くのです。
それでこの死にそうな恐い道をほぼゆきおえるころになると、向うから薪を積んだ跛足《びっこ》の馬が同じく跛足《びっこ》の駆者にひかれて来るのに遇いますが、その人があなたに背中の荷から落っこちる小枝をちょっと拾ってくれとたのんでも、あなたは一|言《こと》もものを言わずに黙って通り過ぎるのです。それからほどなく三途の河へ着きますと、その渡し守のカロンがすぐと渡し賃を請求します。つまりそれで往来の(亡)者を皮の艀《はしけ》でもって向う岸に渡してやるのです。亡者の国でもやっぱり欲というものはなくならないで、カロンでもあの閻王《ディス》様でさえも、何にも只ではしてくれないのです。憐れな死んでゆく人たちは是非とも路用が必要、もしひょっとして懐ろに銅銭がなかったら大変、もうそのままでは息を引き取らせてもらえません。
この薄汚い爺さんに艀賃《はしけちん》として、持ってゆく二枚の銅貨の片方をやるわけですが、それもカロンが自分の手であなたの口から直接《じか》に取るようにおさせなさい。それからまたその緩やかな流れを渡ってゆくときに、その河面に浮いてる年寄りの亡者が、腐った手をさし出して船の中へ引き上げてくれと頼むでしょうが、あなたはけっして道に外れた憐れみに打ち負かされて(引き上げてやって)はいけません。〔一八〕
河を渡ってすこし行くと機《はた》織りの婆さんどもが布を織ってて、ちょっと手を貸してくれと頼みましょうが、これにも手助けをしてはなりません。つまりこれだとか他のいろんな事柄はもともと皆、ウェヌスの奸計《わるだくみ》から出ているもので、あなたの手からなんとか麦粉餅をおっことさせようという企みなのですからね。そんな詰らない麦粉餅などなくなっても大したことはないと思っててはいけません、一つでもなくなしたら最後、もうこの世の光はそれっきり見られなくなるのです。というのは、とても大きな、首を三つももった恐ろしい猛犬がいて、雷のような唸り声で亡者たちに吠えつきますが、死んだ人にはもう何の害も加えようがないのでただ嚇かすばかり、プロセルピナ〔ギリシアのペルセフォネ。ケレスの娘で冥界の王ディス(ローマのプルトス)の后〕の陰気なお宮のその閾口《いりぐち》の前にしょっちゅう不寝の番をして、閻王《ディス》の空虚《うつろ》な御殿を守っているのです。こいつにお餅を一つだけ餌にやって手なずけると、楽にそこを通り抜けられて、そうすればすぐさまプロセルピナのおいでの場所にはいってゆけましょう。お妃はあなたを愛想よく親切にもてなして、気楽に腰をかけて立派なご馳走を食べるように勧めてくれましょうが、あなたは坐るのも地面にして、食べ物も並の粗いパンをもらって食べるようにするのですよ。そうしといてから、わざわざ来た理由《わけ》をお話して、お妃のよこしたものを受け取り、また帰ってくるという次第で、犬の猛るのは残りのお餅で宥《なだ》めすかし、それから貪欲な船頭にはまだ口のなかにとっといてある《はずの》銅貨をやって、その船で河を渡ったらまた前に通った道筋を辿って行けば、またあの天上の星辰《ほしくず》の集団《あつまり》(が見えるところ)へ戻ってこれましょう。ただ何よりもとりわけて気をつけなければならないのは、けっしてどんなことがあっても手に持っているその小筺《こばこ》を開けようとしたり、覗いて見たりしてはいけません。どうあろうとも、その中に蔵《かく》されている神々しい美しさの秘宝《おたからもの》を、物ずきに(検べてみよう)などと思ってはなりません」〔一九〕
こうその智慧の豊かな塔はこまごまと親切に教え訓《さと》してくれました。それでプシケはさっそくタイナロスへ出かけ(いわれたように)ちゃんと銅貨だの麦粉餅だのを持って冥途への路を馳け下り、痩せほうけたロバの馭者の脇を黙ったまま通りすごし、河の艀賃を船頭に払って、そこに浮いている亡者の願いごとも構いつけず、機織り女たちのずるっこい頼みにも相手にならないで、例の犬の身の竦《すく》むように荒れ狂うのはお餅のご馳走で手なずけておいて、プロセルピナの御殿へとはいりこみました。そして女|主人《あるじ》が坐り心地のよい椅子やそれはそれは見事な食事をすすめてくれても辞退して、その足許につつましく坐り、並パンに満足して、ウェヌスの用むきをお伝えしました。するとすぐさま小筺に何か容れて固く蓋をして渡してくれたので、それを持ってもう一つのお餅でだまして吠える犬の口を封じ、残りの銅貨を船頭に払ってやって、往きよりもずっと元気よくいそいそと冥途から立ち戻ってまいりました。
このようにしてまたもとの赫々《あかあか》とした日の光を仰ぎ、手を合わせて伏し拝んでみると、今までは早く言いつけられた勤めを果そうとのみ思ってたものが、にわかに向う見ずな好奇心が胸に湧き立ってきて思うよう、「ちょっと、私もずいぶん頓馬《とんま》だわね、神々しい美しさを手に持ちながら、それをほんのちょっぴりも自分ではお裾分けに預かれないなんて。そうできれば、あの立派ななつかしい方のお気にも召すだろうというのに」こう言うが早いか、小筺《こばこ》をこじ開けて見ました。〔二〇〕
ところがその中には美しさどころか、どんな物もはいっていず、ただ幽冥界の、というより正真正銘の地獄《ステュクス》の眠りだけが、蓋を取られると見る見る立ち昇ってプシケにかかり、昏迷の靄《もや》でひたひたと手足じゅうを取り巻いてしまいました。プシケは立ちどころにその場にくずおれて、じっと身動もせず横になった有様は、眼を瞑《つむ》った屍《しかばね》と何の相違もありません。
さてクピドはもう傷跡も固まり癒ってまいりましたので、長いこと大切なプシケと別れているのが我慢しきれなくなり、閉じ籠められてる寝部屋の上についた窓から脱け出すと、しばらくの休みに勢いをとり戻した翼に乗って進みも早く、プシケのところへ飛んで駈けつけました。そして丁寧に睡眠《ねむり》を拭きとって、またもとの小筺の中へ蔵《おさ》めかえすと、痛みのない背中の矢の尖端《さき》でプシケを呼び醒ましていいますには、「そらまた、可哀そうに、お前は今度も同じ好奇心《ものずき》から死ぬところだったじゃないか。だけどともかくこれから、お母様の言いつけで使いにやられたその仕事を早く果たしておしまい、あとのことは私が始末をつけるから」こういうと身軽な良人は翅に委《まか》せて(飛んで)ゆきましたので、プシケもウェヌスの許へとプロセルピナの贈物《つかいもの》を持って急ぐのでした。〔二一〕
その間にもクピドは身にあまる恋情《おもい》に蝕《むしば》まれて面《おもて》もやつれ、母親が本気になっているのに恐れをなし、またいつもの手を出して、翅の運びも早く天頂に翔け入り、大神ユピテルのご前に、事の次第を述べ立てて助けを願いました。するとユピテルはクピドの頬ぺたをつねってその手を執り上げると接吻《くちづけ》をし、おもむろにこうおっしゃいました。
「息子どの、お前はいつだって、神々が折角私に与えてくれた栄誉を尊重してくれたこともなく、かえって四大五元《あらゆるもの》の法則《おきて》や星辰《ほし》の動きをさえ処理する私のこの胸を、始終突き刺しては傷を負わせ、何度となく地上の愛欲に陥れては恥辱を与え、あのユリアの法規にさえそむき公けの良俗にももとって、愚にもつかぬ情沙汰《いろざた》で私の名誉や評判を毀《そこな》ってばかりいる。しかも蛇《ながむし》だの火だの野獣だの鳥だの野に群れる家畜だのに、穢らわしくもこの私の典雅な顔を変じさせてだ。しかしながら私のいつも程を得た振舞いを忘れずに、お前がこの腕に抱かれて大きくなったことを考え、お前の願いはそっくりと聞き届けてあげよう。が、それには忘れずによくこれからは自分の競争者に気をつけるのだぞ、でもし今度地上でもって容色《みめかたち》の並勝れて美しい乙女を見つけたならば、この親切の返答には、ぜひその娘で礼をしてもらわねばならんな」〔二二〕
こうおっしゃるとメルクリウスに言いつけて神さま方をみんなすぐと会議にお寄せ集めになり、もしこの天上の集まりに欠席すれば高いの罰金をお取りになるよう布令《ふれ》させになりましたので、それが怖さにたちまち天上の集合所は一杯になりました。そこでユピテルは高らかな台座にいと高く座を占めさせて、こう御詔《みことのり》なさいました。
「わが神々たちよ、伎芸神《ムーサエ》の(司る天上の)名簿にあるほどの方々、皆々がよくご存じのとおりここにいる若者は私の手で大きくなった者である。私の考えではこの男の若い盛りの血気にはやる振舞いは、何かでもってぜひ制御する必要があると思うのだ、毎日のように種々《さまざま》な情沙汰《いろざた》だの、ありとあらゆる乱行の悪い噂を立てられるにもほどほどがあるからな。それ故そんな機会をすべてもうなくしてしまって、結婚の足枷で青年の気儘気随を繋ぎ留めるのが一番よいことだろう。ところでこの男は一人の乙女を選んで、それと深いあいだになっている。だからその女と固い契りを結び、末永くそのプシケと添い遂げさせるのがよろしかろうではないか」そしてウェヌスの方へお顔を向けておっしゃるには、「また娘よ、あなたもふさいだり、また立派な血筋が人間との婚約で家柄を下げはしないかなど気遣われぬがよい、私が今この縁結びを不釣合いでなく、正式で国法にも適ったものにしてあげるから」そこですぐさまメルクリウスに言いつけてプシケをさらって天上へ連れて来させた上、|不死の神饌《アンプロシア》を盃に満たして差し出し、「プシケ、さあ飲んで常磐《とこわ》の命を得よ、さすればもういつまでもそなたの手からクピドが傍へ外れることもなく、未来永劫この縁の絶えることもあるまいから」〔二三〕
と見るうちに、ご婚礼の馳走がところも狭しといっぱいに並べ立てられました。一番の上席には花婿がプシケを傍らにひきつけて座を占めますと、同様にユピテルもお妃のユノともども腰をかけ、また順ぐりにすべての神さま方も席におつきになります。そのとき仙酒《ネクタル》の盃を、これはつまり神さま方の葡萄酒にあたるのですが、ユピテルにはいつもの酒つぎのお小姓のあの野山にいた少年が、他の神々にはまた酒神《リベル》〔バッカスの異名でディオニュソスのラテン名〕が酌《く》んでは差し、ウルカヌスがお料理の世話を致しますと〔ウルカヌスは火と鍛冶の神だから料理役にしたものだろう〕、季節神女《ホラエ》は薔薇や色々な花びらでそこらじゅうを紅《くれない》に照りかがやかせますし、優美神女《グラテイアエ》は匂いのよい薫香をあたりに撒き散らし、伎芸神女《ムサエ》はまた朗々と歌を唱いあげる、アポロンが七絃琴《キタラ》を奏でますと、ウェヌスも妙《たえ》な音楽に姿《なり》美しく舞いつれて踊り、その地方《じかた》には手順を決めて伎芸神女《ムサエ》が群れを作って歌を唱ったり笛を吹いたりすれば、羊人《サテュルス》や若い牧神《パン》は笙《しょう》を鳴らして合わせます。
こういう風にしてプシケは正式にクピドのところへお嫁入りをしまして、やがて二人の間には月満ちて一人の娘が生まれる、これが『喜悦《よろこび》』と人の呼ぶ女神でございます。〔二四〕
こう捕われの少女に向って、その飲んだくれの老いぼれ婆さんは話しつづけました。ところで私はほど遠からぬかたわらに佇みながら、こんなに結構な物語を記し留めておく紙と筆とが手許にないのを、ひとえに残念がるばかりでした。
折しも山賊の一味は、どこかしらで激しい手合わせでもやって来たのか、獲物をうんとこさ抱えて戻って来ました。しかし、後へ負傷した者を怪我の手当に残しておいて、大方の元気がいい者らはまたどこかの洞穴に隠しておいた荷の残りを取りに――という話で――出かける支度にかかりました。
そこで弁当を忙しく掻き込むと、私と私の馬とに例の一件を運搬させようというわけで、それから棒で突っついて街道へ連れだし、いくつも坂道や九十九折《つづら》のひどい難所を責め歩かせて、やっとこさ夕方近くに、とある洞穴へ到着しました。そこからまた沢山な荷物を積んで元の道へ、ほんのちょっとの間の休みもくれずに引き戻すのが、とても大した慌てかたで急いでゆくので、私はというと、散々打たれ小突きまわされ、せき立てられるそのあまりに、路傍に据えてあった石にとうとう躓き倒れてしまいました。
それでもまだ相も変らずさんざん私を突き立て、右の脛と左の蹄とを痛めて、立ち上るのもやっとなのを無理に立たすと、一人がいうには、
「一体いつまで俺達はこんなぼろ臭いロバを、今度はそのうえ跛足《びっこ》になったてえのに、用もなく飼っとこうてんだ」〔二五〕
と、それに答えて他のが、
「そうとも、それに彼奴《そいつ》が前兆《きざし》のわるい足どりで俺達の巣にやって来てからってものは、てんでまるっきり何一つ儲けらしい儲けにゃありつかねえ、あべこべに怪我をしたり、なかでも強い連中が殺されたりしてばかりだ」
もう一人も仲間にはいって、
「きっと俺は、その行李を彼奴《そいつ》がいやいやながら運びやがったら、すぐさま崖から突き落して、禿鷹どもの有難い馳走にしてくれよう」というのです。
こう何とも情のやさしい人間様たちがお互いに私を殺す相談をしあっているうち、一行はもう塞に到着しました。というのも、怖さに私の蹄には羽根が生えちまってたものですから。それから運んできた代物を急いで取り下ろしましたが、私どもの手当も一向にせず私を殺す話もどこへやら、怪我のため留守をしていた仲間の者らを呼び出すと、さっそく残りの荷物を取りに、私どもの鈍馬《のろま》さ加減にもう我慢ができぬ、ということで、一同また出かけてゆくのでした。
しかし今にも身に振りかかろうという死を考えると、さすがに少からぬ心配が胸に迫って、ひとり思うには、
「ルキウス、何をぼんやり立ってんだ、それより今さらどんなことが起こるのを待ってるんだ。死、それもこの上なく酷《むご》たらしい死が、山賊どもの宣告でお前のために用意されているんだぞ。それも奴らにゃ大した骨折りではない。そら、すぐそこの崖から尖《と》んがってこちらへ突き出している岩が見えるだろう。そいつがお前が下まで落ちもしないうちに突きささって、手も脚もばらばらにしちまおうさ。
それにあの世間に聞こえた魔女さんが第一、いかにもお前の姿や働きはロバに変えたが、体の方にはロバのように厚い丈夫な皮ではなしに、蛭《ひる》ほども薄いのを着せてくれたんだからな。そんならいっそのこと、さあ、男らしく勇気を出して、まだ十分まにあううちに命を救う手段《てだて》でも考えたらどうだ。山賊どもが留守のあいだの今こそ最上の逃げる機会だ。
番をしている死にかけた婆《ばばあ》が怖いというのか、彼女なんか、その跛足《びっこ》の脚の蹄で一度蹴りさえすりゃあ、片づけられるじゃないか。だが一体どこへ逃げて行ったらいいだろう。誰が私を受け入れてくれるだろう。こいつは全く話にならぬ、いかにもロバらしい思案だった。そもそも誰だって私を途中で見かけたら、ちょうど好い乗物だというわけで、大喜びで連れてっちまうだろうからな」〔二六〕
そこでいきなり私は勢いよく引っ張りますと、今まで繋がれていた手綱がぷっつり切れましたので、四つ脚で素早く逃げ出したわけですが、例の婆の、鳶《とび》のように鋭い眼をのがれることはできませんでした。私が手綱を離れたのを見るが早いか、女の身も老いも及ばぬほどな大胆さで手綱を捉え、力一杯私をもとのところへ引き戻そうといたします。
けれど私は、山賊たちの自分を殺す申し合わせが、到底忘れられないので、いまさら憐憫の情などには動かされず、後脚の|かかと《ヽヽヽ》で婆さんを蹴りつけ、そのまま地面へ打ち倒しました。ところが婆は地べたに倒れ伏しながらも、しっかりと手綱にしがみついて、そのまましばらくは馳けてゆく私に引きずられながらついて来、すぐさま大声をあげて喚きたて、もっと手強《てごわ》い人たちの助けを求めるのでした。
でもあいにくと、どんなに泣き喚いても、ただの空騒ぎに終わりました、というのはちょうど婆さんを助けに出合える者が一人もいなかったからです。そこにいたのは唯一人さっきの捕虜《とりこ》にされてた乙女だけ、それが喚き声を聞きつけて馳け出して来ましたところ、目にはいったのはそれこそとても言語に絶する光景で、昔話にあるディルケ〔テーバイの統治者リュコスの妻で、姪のアンティオペを牛の角に縛りつけて殺そうとしたが、ゼウスを父とするアンティオペの双子の子があらわれて逆にディルケを牛に縛りつけて殺す〕が、これは牡牛ではなくてロバに吊りさがってる姿に、男まさりの勇気を揮い起こすと、まったく見上げた放れ業をやってのけました。
というのはつまり婆の手から革紐をもぎ取るなり、優しい耳打ちで私の駆けるのを引き止め、手際よく私の背に乗るとそのまま今度はまた私に拍車をあてて進めるのでした。〔二七〕
今では私も自分が逃げおおせたい望みに加えて、この乙女を助け出したさの一心に、しかも加えてちょいちょい娘が私を突いて励ますので、馬にも劣らぬ速さで四肢を駆り大地を蹴り立て、乙女の甘くやさしい声音《こわね》には嘶《いなな》きあげて応答をしました。それにまた背を掻きこするふりをしては一再ならず頭をめぐらし、娘さんのすんなりした足先にそっと接吻《くちづけ》をしてやりました。
するとその時、娘は一きわ深く溜息をつくと、天を愁《うれ》わしげな面持《おももち》で仰ぎながら、いうには、
「天においでの神々さま、どうかせめてこの危難のおりに、私をお助け下さいませ、それに厳しいつらい仕合せ(の女神)も、もうお腹立ちを止めて下さい。もう十分にこれまで私が受けた様々な艱難や苦労でもって、お心は癒えたことでしょうから。
それからお前も、私の自由と身の安全を護ってくれ、もし無事にこの身を家まで運んでいって両親やあの様子のいい許婚のところに連れ帰ってくれたら、どんなにお前にお礼を言おうか、どんなご褒美をあげたらいいか、どんなご馳走をしてあげようか。
まず第一にこのお前の|たてがみ《ヽヽヽヽ》をちゃんと櫛で梳《くしけず》って、この処女ぶりの初々しい頸飾りで飾ってあげよう、それから今まで縮れていた額の髪も綺麗に分けてあげようし、洗いもせず放っとかれてばさばさに絡《から》み合ったこの尻尾の毛並にも櫛を入れて、ていねいに結《ゆわ》えてあげるよ。それに沢山の黄金の鋲《びょう》やふさで飾って、空の星みたいにぴかぴかするのでね、町の人たちが並んでお祝いしてくれる中を得意気に歩かせてから、毎日毎日ふところに胡桃《くるみ》だのいろんなおいしい食べ物をいれてって、しょっちゅうご馳走してあげるわよ。お前は私の恩人だものねえ。〔二八〕
それにしても結構な食事や欠けるところのない安楽や何もかも恵まれた生活のあいだに、もちろん立派な名誉もお前は十分にうけられるのよ。つまり私のこの出来事の一部始終や神様のおはかりごとの記念を末代までも証し止めておくように、私がお前に乗って行くこの姿を絵に描かせて、うちの玄関の広間に掲げておくことにしましょうからね。
そうしたら人が来てその絵を見たり、物語に聞き伝えたり、学者がたの筆でもってこの生のままのお話が立派にされて永遠に伝えられるでしょう。『ロバに跨《また》がり捕われを逃れ出ずる尊き乙女の物語』ってね。
お前はまた昔からあるいろんな不思議な出来事の仲間に自身はいることになるのよ、それで今にもみんなは、お前が本当にしたことを見本に、(あの伝説の)プリクスス〔伝説のテーバイの治者アタマスの子で、継母イノのため犠牲にあげられようとし、金毛の羊に乗って逃亡した〕が牡山羊に乗って海を渡ったのも、アリオン〔前七世紀のギリシア詩人、海難にあったとき、歌の徳で海豚《いるか》の背に救われたという伝説がある〕が海豚たちを船にしたのも、エウロパ〔伝説のテーバイの創立者カドモスの妹で、ゼウス神の愛をうけ、ゼウスの化した白い牛に乗って海を渡り、クレテ島に赴き、そこでミノスをもうけた〕が牛に跨がっていった話も信じることでしょう。それにもしあのユピテルさまが真実牛になってらしたというならば、このロバの形の下にも誰か人間か、それとも神様のお姿が隠されていないとも限らないわね」
こういった工合にいろいろと乙女が話しつぎ、また祈りに嘆息《ためいき》を何度となく織りまぜているうち、私どもはとある三叉路へ来ました。すると乙女はしきりに私の口輪《くつわ》を取って右手へ向けようとするのでしたが、つまりそっちの道が自分の両親の家へゆく路だったのです。しかし私はそっちの方角へ山賊たちが盗品ののこりを取りに出かけたのを知ってますので、頑強に抗《さか》らいつづけ、心の中で物は言えぬながらに、こう抗議するのでした。
「何をするんです、ふしあわせな娘さん、どうしようってんです。なぜ冥途へ急ごうてんです。私の足に逆《さか》らってどうしたいんです。だって(それじゃあ)あなたばかりか、私までを破滅へと導くことになりますもの」
こう私どもがあれこれと所有地の境界訴訟みたいに争いあい、いや全く道の分配あらそいをやっているとき、その眼の前に分捕り品をしょい込んで、あいにくと例の山賊どもが出て来て立ちふさがりました。しかも月の光でもうずっと遠方からこちらを見分けていたもので、意地わるく笑いながら挨拶するのでした。〔二九〕
その中の一人がこう言いかけます。
「一体どこへお急ぎでもって、この道を夜分お出かけってわけなんだね、時ならぬこの夜更けに死霊だとか妖怪《おばけ》なんかも怖くないってのかい。え、お前、至っておとなしい娘さんよ、ご両親へ面会に急いでお行きかね。そんならば俺達がお一人歩きの護衛役をつとめてあげようかい、それでお里への路案内をするとしようかね」
そして一人が手に手綱を取ってつき添い逆にと私を引き向けると、持ち合わせる瘤《こぶ》だらけの杖でもって相も変らず容赦なく私を打ちのめすのでした。そこで私もいやいやながらに迅《すみ》やかな身の破滅へと立ち戻る段取りに、今さら蹄の痛みが思い出されて、首をふりふりびっこを引きはじめました。
すると私を曳いていた男が言うには、
「ありゃ、また手前《てめえ》はよろよろがたがたやってるんか、それで手前のその腐れ足は、馳けて逃げることはできても、歩いてくこたあ知らねえってえのか。ちょっとばかし前にゃあ翼をもった天馬《ペガサス》の速さにだって負けを取らなかったによ」
こう言って棒で殴りながら親切な道づれが私とふざけているうちに、もう山賊の棲家のかこい際まで到着しました。見ると、とある高い糸杉の枝に縄をかけて、先刻の老婆が吊下《つるさが》っていました。それを引きおろすと、早速、首にまだ綱をゆわえつけたままのを、谷底へ投げ落してから、乙女はすぐに括り上げといて、あの不仕合せな婆さんが最後の勤めに支度しておいた食事へと、獣みたいな荒々しさで取りかかるのでした。〔三〇〕
がつがつと貪欲に何もかもむさぼり食うひまにも、一同はもう私たちをどう罰して、どんな腹癒せをしたらいいかと、相談をはじめました。それでこうした騒々しい集まりのことゆえ、てんでに勝手な意見を述べるのでしたが、一人が生きながら乙女を焼き殺しちまえと唱えれば、も一人は野獣の餌食にしろと勧める、また次のは磔《はりつけ》にするがいいといえば、今度は拷問にかけて引き裂いちまえと主張するなど、とりどりながらいずれもみな、乙女を殺すことには評議が一決してるようです。
そのとき一同の中から一人が立って騒ぎを押し鎮めると、落ちついた口振りでこう言い出しました。
「いや我々一党の慣習《ならわし》からしても、また一人一人の慈悲心からも、それに第一俺の節度を守る心にしても、皆に度を超え、犯した罪の限界を超えて、無法なことをさせるわけにゃいかないぞ。野獣も磔も火炙りも拷問も、そういった尋常以上に早まって殺す仕方を、何も急いで採ることはない。まあ、だからよ、俺の考えをよく聞いてから、娘を生かしとくことに、もちろん分に応じた生かし方でな、するがよかろうぜ。
それにお前たちはともかく、先刻決めといたことを忘れたわけじゃあるまい、あのロバのことをな。いつも全く怠けてやがるくせにとても大食いな奴さ、それが今度はおまけに人を誑《だま》して怪我したふりをしやがって、それであの娘が逃げるのを共謀《ぐる》になって手引きしたりさ。
だから彼奴《あいつ》を明日にもぶち殺してやろう、それですっかり臓物を抜き取ってから腹のまん中に娘を裸にして縫い込むんだ、俺達より娘の方が好いてんだからな。で顔だけ外へ出さして、娘の体の他のところは獣の胎内に閉じ込めとくのさ。そうしといてからどこかの尖った岩の上へ、腹へしこたま詰物をしたロバを置いとき、太陽の炎熱に曝《さら》すんだ。〔三一〕
こうすりゃお前らがさっき定めといた正当な処刑《しおき》も、みんなそっくりこの二人が受けることになろうからな。つまりロバのほうは当然な報いとして死ぬ、娘のほうはまた蛆虫《うじむし》に体中を食い裂かれるんだから、野獣に咬まれる目にもあう。太陽のひどい暑熱がロバの腹を焦がすときには、燃える火に焼かれるわけだし、犬らや禿鷲どもが臓物を引きずるときには、磔《はりつけ》の苦を受けるんだ。
だがその他にも娘が受ける苦しみや痛いめはまだいくらも数え上げられようぜ。死んだ獣の腹ん中に身は生きながら入れられている、次にはひどい臭気に鼻を責めさいなまれ、熱さと長いあいだの|ひもじさ《ヽヽヽヽ》に死ぬまで餓鬼の苦を受ける、その上、いっかな自由な手で自殺を企てることさえも叶《かな》うまいからな」
こう言いおわると、山賊たちは(元老院みたいな)足ぶみではなしに、みな全心全意で、その男の意見に賛意を表しました。それをこんなに大きな耳でいちいち聞いてる私としましては、明日の日はもう屍となる我が身の上を嘆きいたむよりほかに、どういたされましょう。〔三二〕
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巻の七
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盗賊ハエムスを装ったトレポレムスの冒険―ロバのルキウス、馬丁の家や牧場でさまざまの難儀のこと
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暗闇が散って空が白み、やがて輝かしい太陽の駕御《くるま》が地上をあまねく照し始めた頃、山賊どもの一人が、姿を見せました。それが山賊とわかったのは、彼ら同志の取り交わした定《きま》りの挨拶からでしたが、その男は、洞窟の口の突端《とっさき》に来て、烈しい息づかいから回復するなり、仲間にこう報告しました。
「このあいだ、俺たちの掠奪したヒュパテのミロオめの家のことなら、もう大丈夫、安心して暮らしていけるぜ。というのはな、お前らが、存分に腕力を振って、ありったけのものをかっさらって、あの邸を逃げ出した後、俺は人ごみの中に紛れ込み、ミロオ家の災難をさも憤り悲しんでるように見せかけてよ、奴らが事件の究明に、どんな計画をたてるか、また、賊の拿捕《だほ》に、どの位まで力を尽くすかなど、ともかくお前たちが命令《いいつ》けたとおり、そんなことをみんな報告しようと思って調べていたんだ。
その結果、疑う余地のないほど確かで、なるほどさもありそうなことだわい、と世間の人が一様にうなずきあった意見というのは、つまりこうだ。
何でもルキウスとかいう男が、盗賊の主犯と決まって、告発されたんだが、その男は、最近|贋《にせ》の推薦状を作って持ち込み、うまくだましてから、ミロオの前では立派な紳士の仮面をかぶり、厚い信用をうけ、客間に招じ入れられ、知り合いの中でも、最も懇意な者という待遇を受けることになった。
とかくするうち、数日前から、ミロオの屋敷の女中を、でたらめの色仕掛けでたらし込んだ。一方また用意周到に、いろんな部屋の閂《かんぬき》をとりはずしておき、祖先伝来の財産が秘してある納戸さえも、注意深くさぐっておいたものだ。〔一〕
そのうえ、その男が泥棒だというもっと確かな証拠は、掠奪したちょうどあの夜に、彼奴《そいつ》は屋敷を逃げ出し、それ以後|杳《よう》として姿がどこにも見えないというのだ。つまり彼奴は、できるだけ早く、追手の目をくらまして遠くに隠れようというので、逃げる手段を前もって、うまく準備しておいたわけだ。それ故、乗って逃げるのに、持って来たあの白い馬も、一緒に連れて行ってしまったという次第なんだ。その後、同じ客間にいた彼奴の奴隷も、その男から主人の犯行や計画が解りはしないかというので、市《まち》の役人に捕まって、牢獄にぶち込まれたうえ、その翌日、ひどい拷問に苦しめられたが、死ぬほどの目に遇いながらも、それについては、一言も白状しないもので、今はルキウスの故郷に役人を多勢送り込んで、彼の罪を糾明するため、捜しまわっているという話だ」
彼がこう言い立てるあいだも、私はルキウスだった頃の幸福な生活を、現在の惨めなロバの境遇に較《くら》べて、いいようもなくなげいているおり、ふと思いあたったのは、昔からいい古されているあの賢者の言葉が、全くのところ根なしごとではないということでした。つまり|運命の女神《フォルトゥナ》は盲目、いや完全に目を抉《えぐ》りとられてしまってるので、彼女がいつでも助けてやるのは、それに相応しない悪い奴ばかり、いまだかつて人間の誰一人にさえ、正しい判断を下したことがないどころか、顔を見ただけでも必ず遠くへ逃げ出したくなるような男どもにばかり執心している。そのうえ、一層わるいことには、私達正直なものには、とてつもなくあべこべな意見さえ、抱いているので、悪人の方が、立派な紳士づらをして栄える一方、逆に本当によい、純な心の人たちが、悪い噂で苦労するのが常だ、といった話です。〔二〕
こんなわけで、私としたことが、その女神の意地悪な仕打ちにあって、よりにもよって最下等の四足獣に変わり果てたこの姿は、どんな非情な人間からも、憐れみと同情を得るのに充分と思われようものを、まるで反対に、私を特別よく接待してくれた家の強盗をしたという罪を負わされ、告訴されてる始末なのです。その罪は窃盗より裏切りと申したほうが、適切でしょうが、私にはその讒訴《ざんそ》を反駁する力はおろか、ほんの一言たりともそれを否定すらできない有様でした。
とうとう、こんな不名誉な罪を着せられて、だまっているのは、自分の心にも後《うしろ》めたい所があるからだなど思われまいかと、大いにいらだち、「|決して致しません《ノン・フェーキー》」といおうと思い立ちました。そして確かに初めの句、「ノン」が出たので、何度も大声で叫んでみたものの、さっぱり後が出て来ず、最初の言葉を繰返すばかり。「ノン・ノン(決して)」と何度も嘶《な》き続けるのでした。垂れ下った唇をできるだけ丸くしようと一生懸命やりましたが。
でもなぜ私は、この運命の意地わるい仕打ちに、これ以上抗議がいえないのでしょう。その女神が、私をかつての私の奴隷で乗物だったあのロバの同じ仲間、つれ合いにしといて、しゃあしゃあとして平気でいるのに。〔三〕
こんな考えにいろいろと逡巡するうち、突然私はもっと大きな不安に襲われました。それは山賊どもの相談の結果、私は少女の死ぬとき、その生贄《いけにえ》となることに決まっていたということを思い出したのです。それでまたしても、自分の腹を眺めては、あの哀れな娘の身の上を気遣うのでした。
さて今さっき私についてのでたらめな報告をもって帰った山賊の首領は、裾に隠していた千枚の金貨を取り出し、いずれは旅人からかすめとったものでしょうが、自分の誠実な心がこうさせるのだといいながら、共有の金庫に蔵《しま》い込みました。それから残っていた仲間の様子を心配そうに尋ね出し、勇敢な男たちはどれもこれも、それぞれはなばなしい最後を遂げてしまったことを聞くと、当分の間は本街道を荒らさず、戦いごとは何によらず止めて、これより仲間を集めることに主力を注ごう、それで元気の良い若者を訓練して、名誉あるマルスの盗賊団の体制を、もとの兵力にまで回復させる方がよいと忠告しました。
それからいうには、
「俺たちの仲間入りを望まない奴は、嚇かして連れてくるし、また、望みによっては、褒美でもって元気づけるなりするがいい。というのも確かに随分多くの連中が、卑しい奴隷の身分を棄てて、王様みたいに権力をふるう生活《くらし》をいっそ望んでいる、というものだ。ところで俺もいまさっき、一人、背が高くて頑丈な、腕の力の物凄そうな若者をつれてきたばかりだ。こいつを唆《そその》かして長い間使わないでいた右手を充分仕込み、物の役に立たせてやれば、喜んで楽しい目にもありつけようし、そうすりゃあ、何もその手を物乞いのために差し出さずとも、自分で好きなだけ、金銀財貨を取って来ることもできようというものだと忠告してやったわけなのだ」〔四〕
ここいい終ると、そこにいたものどもはみんな賛成して、件《くだん》の青年も自分らの仲間にふさわしいと認めて仲間に加えましたが、一同はなおも人員を充実させるため団員を狩り集めようと決定しました。そこで彼は出かけて暫くしてまた、一人の若者を連れて帰ってきましたが、それは物凄そうな男でした。居合わす者誰一人として較べものにならないほど背が高く、頭ひとつ抜きん出ているのでしたが、頬一面にはまだ柔毛《にこげ》が、やっと覆い始めたばかりでした。身体にはいろんな布のきれはしをやたらに縫い合わせた襤褸《ぼろ》を、やっと纒っているきり、その間からあぶら身のたくましい胸と腹とが、相撲をとってもみ合うのが見えるのでした。
こんな具合に登場をしたその若者は、次のように語り始めました。
「|武勇の神《マルス》を敬《うやま》う人たちよ、今ではもっとも信頼する仲間たちよ、どんな大胆さもしてみせようというこの私を喜んで、お前たちの仲間に入れてくれ。黄金を掴むよりも、体に傷を受けるのを喜ぶ、いや他のものが恐れる死さえも辞さない私なのだ。お前たちは私を追放された賤しい乞食だと思ってはならん。私の襤褸からした判断を本当のものだと思ってはならない。というのは、私は以前大きな盗賊団の首領としてマケドニアじゅうを荒らしていた男なのだ。私こそあの有名な賊徒、その名を聞いて付近の人がみな震え上ったトラキアのハエムスなのだ。それに私は同じく世に聞こえた山賊の首領のテロンの息子だ。人間の血を啜ってくらす盗人《ぬすっと》の間で、大きくなって、とうとう私も親父の実力のある後継者となり、好敵手とさえなっていたのだ。〔五〕
そうしていたところ、つい近々の話、かいならした手ごわい部下をみんなと、それに加えて、沢山の財宝までもまたたく間に失ってしまうというひどい目にあった。そのわけはというと、以前はなんでも帝室属吏をしていて二百セステルティウムの俸給をもらっていたところ、惨めな運命から追放の憂目《うきめ》にあい、世の人からすっかり忘れられていた男を私は襲いかけたが、これがそもそもユピテル大神の怒りを買うことになった。さて皆のものに私の冒険を聞いてもらうため、事の始まりから話すとしよう。
一人の名高い男が、宮仕えして多くの顕職を兼ね、皇帝の覚えもめでたく、人々からも尊敬されていたところ、一部のものが気違いじみた嫉妬心から奸計を弄し、その男を告発したため、追放されることになった。しかし彼の夫人のプロティナは、世に比類なく誠実で貞淑な婦人だったので、子供を十人もかかえ、一家の大黒柱となり、流されて行く夫とともに不幸を分ち合おうと覚悟の臍《ほぞ》を決め、今までのローマの楽しい生活と贅沢もあっさりと見くびったのである。それでこの婦人は髪を短く刈り、男の姿を装い、貴重な宝石とか金貨を帯の中に縫い込み、こうして多くの警固兵の抜き身の中に囲まれてびくともしなかった。夫とともにあらゆる危険を冒し、その度にいつも夫の身の上を気づかっては徹夜の用心を怠らず、男にもひけをとらぬ胆力でもって次々と襲ってくる困難を耐え忍んだのである。
こんな風にして、追放の一行は、陸と海とのいくたの災難と危機を逃がれてザキュントス島〔今日のザンテ。この島は追放者が流される島であった〕に向かっていた。この島こそ、その男が運命の指示があるまで、追放の身を長らえていなくてはならなかった島である。〔六〕
さてこの一行がアクティウムの海岸に辿りついた頃、たまたま夜となったので、激浪をさけて、船を海岸においたまま、そこからほど遠くない旅籠屋に泊ったのである。その頃のこと、私たちは、マケドニアで一仕事をしての帰り、その海岸のあたりをうろついていたのだった。そこで私たちはその旅籠屋を襲撃すると、かたっぱしから盗みにとりかかった。それがさんざんな目にあって逃げかえるというていたらくの次第はこうなんだ。私たちが、最初に戸を開けて入ったそのわずかの物音だけで、もうあのプロティナが目を覚まし、警固兵たちの寝室にとび込むや、けたたましく兵士や奴隷の名を呼び立てみんなを起こしたばかりか、近所の人々にまで、応援をもとめたのだ。ところが、幸いにして、こんな人たちがみんな、恐れをなしてかくれ、震えていたもので、私たちもやっとこさ無事にその場を逃げてこられた。こうして一時は危機を逃れたものの、あの立派な貞節の誉れならぶもののない婦人は――左様、私はありのままをいわなくてはならないのだから――数々の善行によって人々から愛されていたもので、皇帝に送った彼女の願いもすぐと叶えられ、夫はすみやかに帰京させ、そして私たちの侵略には、充分満足のいく復讐をしてやるとの約束を皇帝からもらったのである。
そこで皇帝は、もはやこれ以上、ハエムスの盗賊団を跋扈《ばっこ》させてはおけないと考え、時をかさず、私たちを亡ぼしてしまった。こんなにも皇帝の権力は偉大である。こんな具合に皇帝の討伐軍により、私たちが撃滅され粉砕されたとき、私だけが、ほうほうの体《てい》で地獄《オルクス》の喉を逃がれたっていういきさつは。〔七〕
私は胸の折り目に沿うて、長い襞《ひだ》をとりつけた華やかな女の着物をまとい、頭にも可愛らしい頭布をかぶり、女の子によく見かける華奢な白靴をはき、こうして女性の姿に化け、身をくらますと、大麦のかますを積んだロバに股《また》がって、私を血眼になって捜していた物騒千万な兵士どもの間を通りぬけた。奴らは私をてっきりロバに乗った女と思って、つゆ疑わなかった。いやそればかりか、実際のところ、その時の私の頬は少年もかくばかりとみずみずしいなめらかな輝きをもっていたもので、わけなく道を開いてくれたっていうわけだ。それでも私としたことが、親父の輝やかしい名声と、私の私たるゆえんのものを裏切るほど、不名誉なまねをしでかすわけがなかった。なるほど、兵士たちの刃先の間にあっては少々怖れ入ってたけれど、そこをぬけると女装でもって巧みに人目をいつわり、別荘やら屋敷やらを、私一人で侵入し、路銀を掻き集めるにやぶさかではなかったのだから」
こういい終ると、たちどころにその男は、自分の襤褸を引き裂き、二千枚の金貨を賊どもの目の前に投げ出したのでした。それからいうことには、
「さあ、これらの金貨はお前たちへの土産だ。いやむしろこういい直そう。これはお前たち兄弟に快く捧げる私の贈り物だ。ところでお前さんらに不服がなければ、私をぞっこん信じて、首領にしてくれまいか、そうすれば、心に誓って私は、お前らの岩屋をまたたく間《ま》に黄金の屋敷に変えて見せようものを」〔八〕
この言葉を聞くと、盗賊どもは躊躇のいとまあらず、双手をあげ、この男を首領と仰ぐことに賛成しました。それからすぐに誰かが新しい親分のためにといって豪華な服を持ってきて、お金を隠してた襤褸の服と着換えさせたのでした。
こうして身を整えてしまうと、首領は山賊の一人一人を抱擁し、それから部下にすすめられて最高の席につくと、ご馳走と大酒盃でもって首領の前途が祝されました。そのうち、彼らの話がたまたまあの逃亡した娘と、それを助けた私とに進展し、そして娘と私の目前に迫った恐ろしい処刑のことを聞かされるに及んで、あの親分は、娘の閉じこめられている場所を尋ね、案内してもらい、そこで、ぎりぎりと縄で縛られた娘の姿を見ると、さも不平そうにひどく鼻をならして帰ってきました。
「もちろん、私はお前らのすでに決定してしまったことにとやかく難癖をつけるほど、腹黒な男でもなければ、がむしゃらな男でもない。とはいえ、私の方がもっと上手なやり方を心得ているというのに、私の心をいつわってそれを打ち明けないでいると、これまた、いつまでも後めたい気持で苦しめられることだろう。先ず何よりも私を信頼してくれ。これもお前らのことを思ったまでのこと。さて私の日頃の考えでは、盗賊たるものは、自分の本分をとくと見きわめてさえいたら、どんなものでも、先ず自分のためになるものを好んでとるのが当然だと思っとる。ましてや、自分のみならず他人にまでも、とばっちりのふりかかってくる復讐なんぞ、何を好んでいたそうか。そこで、もしお前たちがあの娘を、ロバもろともに殺してしまったら、なるほどお前らの憤りはそれで晴れようが、その代わりこれっぽちの利益もないのだ。そんなことをするよりあの娘を町へ連れて行き、売りとばした方が、どんなによいことかと思ってるわけだ。まあ考えて見るがよい、あんな年頃の女は相当の金額で売れよう。それに私も以前から女郎屋の亭主とはいくらか馴染みもあるし、きっとその中の一人ぐらいは、相当立派な家に育ったあの娘にふさわしい高値で買い取ってくれよう。そして女郎屋から二度と逃げて行けないよう、しっかりかこってくれるだろう。そうすりゃあ、あの娘が、娼家で働いている限りいつまでも、好きなだけお前らは復讐できるというものだ。このような意見は、私の頭で得だと考えただけにすぎないので、これをどうこうするということについてはお前らの気持一つなので、好きなようにするがよかろう」〔九〕
こんな具合に、首領は山賊どもの金庫を太らせる算段をしてやると同時に、私たちの尊敬する命の恩人ともなり、その娘と哀れなロバを弁護してくれました。ところが一方山賊どもは、首領の忠告について、いろいろと詮議を重ね、中々に決定しあぐねていたもので、その間じゅう、私は内心どうなることかとひどく苦しみ、いやはや申すも哀れな有様でした。とうとう彼らは、新しい首領の意見を快く受け入れ、娘をすぐさま縄から解いてやったのでした。
するとこれはまたどうしたことでしょう。この乙女は、自分がやがて売られて行く女郎屋とその亭主の名前を聞くと、ほんとうに満足そうに、にっこりと笑い出したのです。いや全くこれだからこそ、世の女というものはみんな唾棄すべき存在なのだと信じこんでしまったほどです。だってその娘は、ずっと以前から、自分の若い求婚者の愛を受け入れ、貞節な結婚まで願っていたように見えたのは、まっかな嘘だったというわけで、現に私の目の前で、汚れた卑しい女郎屋の名を聞いて喜んでいたのですから。もっとも念のため断っておきますが、この時の女性なり女性のモラルについての私の見解は、みんなロバとして、感じたものに外ならなかったのです。やがてその首領は部下どもにこういうのでした。
「私たちは、この娘を売る前に、そしてまた仲間を狩り集めようとするまえに、先ず私たちの守護神マルスにお祈りを捧げることが大切ではあるまいか。そうはいうものの、どうやら今は生贄に供する一頭の獣も見あたらないようだし、そのうえ、満足に飲む酒が一滴もないときている。そこで、私に十人かそこら手勢をかしてくれ。それだけで充分だ、そいつらと一緒に近所の町を襲い、すぐさまマルスさまの豪華な供物を持ってかえってくれよう」
こうして彼らが出発したあとで、居残り組は、威勢よく火を燃やしたり、マルスのために緑の芝生で祭壇をこしらえたりしていました。〔一〇〕
暫くして、あの一行がかずかずの酒袋とか家畜の群をせしめて帰ってきました。その家畜の中から一頭、抜きんでて、でっかい毛深い老山羊を選び出すと、彼らの遵奉する守護神マルスの生贄としたのでした。それがすむとみんなは大饗宴の贅《ぜい》を尽くした準備にとりかかりました。その時に、あの新しい首領が申すには、「私は、ただたんに強盗やら、はたし合いの首魁《しゅかい》ではない。お前らとの楽しみごとにかけても、したたかの親分と思っといてくれ」
こういって大変気さくに仕事を始め、おそろしく熱心に諸事万端の準備を調えました。あたりを清掃し、食卓をそろえ、肉を料理し、ソーセージをつくったりして、それも素晴しいでき栄えで、みんなに饗したのみか、自分からすすんで、酒をついでまわり、部下の一人一人に大杯を無理やり飲ませたのでした。首領はこう振舞っている間にも、頃を見計って何か用でもあって、それを探しに行くよう見せかけて、足しげくあの娘の所にやってくると、ひそかに持ってきたご馳走やら、飲み残しの酒まで、嬉しそうに与えてやっていました。
それを彼女は、さもおいしそうに頂き、ある時などは、その男から唇を求められて、快くすぐさま可愛い唇を与えてやっていたのです。こんな情景には、私もすっかり気分をこわされてしまい、
「おお、そこなる清純な乙女よ、あんたは、結婚をしようとお互いに固く契り合った婚約者をすっかりお忘れになったのか。その若者とやらを、私はよく存じ上げていないが、それにしてもご両親がきめて下すって、近いうちにも夫となるというあの男を措いて、あんたは、どこの馬の骨ともわかんないこの血なまぐさい盗賊と、結び合おうって了簡かい。それでいてあんたは良心の苛責を感じないのか。あんたは自分の貞節を踏みにじられ、まるで槍と剣の中に暮らすみたいな、あの女郎屋に行きたがっているのか。いやこんな未来の心配ごとより、今の今、ひょんなことで賊どもが、あんたらのこんなぬれ場をみつけたら、どうなることだろう。あんたはもう一度ロバのお腹に入るし、そのうえ私だって折角のがれた死にまためぐり合うってことになるんだが、それでもあんたはきっと、他人の犠牲を笑って見とるんだろう」〔一一〕
こんな具合に、それは大変な怒りようで、私はまるで密告者のように誹謗していました。そのうち首領と娘の取り交わす話を聞いていると、なるほどその内容は曖昧模糊としていましたが、賢いロバには、しだいに事の真相が、はっきりしてきたのでした。つまりこの男は、あの高名な首魁のハエムスなんて真赤な嘘で、本当はその娘の許嫁者《いいなずけ》に他ならないトレポレムスという男だったのです。
というのは、二人の話がはずむにつれお互いの声もだんだん大きくなり、私が傍にいることなんかまるっきり知らない様子で、というより私が死んじまったみたいに「気を強くもってるんだよ、可愛いカリテ、いまにみていてごらん。お前を苦しめたあいつらを一人残らず生捕ってみせるから」といったのでした。
それから、その首領は、今までにもまして、部下どもに、烈しく酒を勧め、ほどよいお湯に温めた生酒を、たらふく飲ませ、したたかに酔っぱらわせてしまったのでした。それが自分ときたら、ほんの一滴も飲もうとしなかったのです。神かけて、私は疑わないのですが、彼はどうやらその時、賊どもの酒盃に、眠り薬を混入していたようです。それで奴らはまたたく間に、一人のこらず、酒にやられ、ごろねしたところは、死んだも同然のていたらく、これを見て、首領は、えたりかしこしと、彼らをぎりぎり縛りあげ、あっさり数珠《じゅず》つなぎにしてしまいました。それがすむと彼は娘を私の背中にのせ、自分らの故郷へと向って出発したのでした。〔一二〕
私たちが町に近づきますと、人々はこの待ち望んでた光景を迎えようとして、町の中はごったがえして、両親やら親戚のもの、被保護者やら後見人から召使までみんな喜びにみちあふれた顔で、私たちの方に狂おしく走ってきました。
まあ皆さんも想像してごらんなさい。この蟻のような老若男女の行列を。神に誓って、二度と見られない、そしていつまでも忘れられない光景を。ロバに跨って誇らしそうなこの乙女を。とうとう私としてもことのなりゆきを、他人ごとのように傍観しておれなくなり、私の喜びも人に負けず見せてくれようと、耳を高くおっ立て、鼻の孔も大きく脹らませ、威勢よく嘶《いなな》いて、いや全く町中を私の嘶き声でもって一杯にしてやったものでした。
さてその乙女が奥の間に迎えられ、両親から慰めの言葉を受けている間に、私はといえば、多くの町の人や、大勢の荷獣と一緒に、すぐにトレポレムスに連れられ、あの洞窟に引き返して行ったのです。それでも私は別にこのことには不平を申しませんでした。というのも元来私は好奇心が強いうえ、今はまた捕虜にした盗賊どもの姿を見たくて、うずうずしていたのですから。
私達がそこにつくと、果たして奴らは、先刻の通り、縄というよりむしろあの酒で生捕られたままの姿でいました。それで洞窟から引き出せるものはみんな持ち出し、金銀財貨を私たち荷獣の背に積みました。盗賊はというと、あるいは縛ったまま転がして行って近くの深い崖底に投げ込み、または、奴らのおびていた剣で突き殺したまま、そこに放っときました。こんな具合に、私達は仇討の凱歌も高らかに、町へ帰りました。そして分捕った財宝は町の金庫に委託され、トレポレムスは彼の求愛したあの乙女を、法律に従って娶《めと》ったというわけです。〔一三〕
この時より、初々しい奥様は、私を命の恩人と呼び慣わし、かゆい所までもこまごまとした注意を払ってくれました。結婚の当日は、私の厩《うまや》が埋るほどの大麦と、バクトリアの駱駝でも充分満腹するほどの乾し草を置くよう、命じました。こうしてもらっても、実のところ私は、披露宴のすばらしい残りものを、お腹も裂けよとばかりに食い放題な犬にではなくロバに変えてしまったあのフォティスとやらを、どんなに罵《ののし》り呪ったことでしょう。
新妻は|愛の神《ウェヌス》の秘密を知った翌日のこと、私からどんなお世話を蒙ったかについて、熱心に両親や夫に説き、遂に私に最高の栄誉を与えるとの保証をしてもらったのでした。そこでこの家の大切な人たちが呼び集められ、私の恩返しはどうしたら一番よいかとの相談となった次第です。ある人はこんな提案をしました。私を部屋にじっとさせとき、何も荷役に使わないようにして、いつも上等の大麦や大豆やえんどうを与え、まるまると太らせたらどうだろうと。しかし次のような意見が優勢となりました。つまり私をいっそ自由の身にしてやり、田舎の牧場に連れて行き、沢山の馬の中に放ってのびやかに跳ね飛ばしてやったらどうだろう。そうすれば牝馬の方でも私に夢中になって、私の高貴な種を宿すことになり、詰るところ、私が主人に多くのロバの子を産んでやることになろうと。〔一四〕
そういうわけで、すぐに放牧場の別当が呼び出され、ごく慎重に取扱うよう命令を受けて、私を委託されました。私としたことが、そこで喜ぶまいことか、何しろこれで今までの重荷や苦役とは、すっかり縁切れだと思ったし、それにわがまま勝手なことはできるし、やがて春ともなると、緑の牧場のあちこちに、バラの花が見られようというわけで、別当の前に躍り出たものでした。
しかし、この期待に続いてすぐに浮かんできた考えというのは、ロバの身さえもこのような恩恵と数々の輝かしい栄誉を与えられたのだから、私がもし人間だったら、もっともっと沢山の幸福に恵まれただろうということでした。
ところがどうでしょう。あの別当に連れられ、ひとたび町から離れたとたん、心待ちにしていた楽しみはおろか自由さえもすっかりなくなったのです。というのは彼の妻が、世に二人といまいと思われるほど貪欲な女でして、彼女は私をすぐに粉屋の碾臼《ひきうす》に縛りつけ、葉のついた生枝でもって、のべつまくなし私をぶったたき、私の汗を犠牲に、彼女の一家のパンを稼ぎ始めたのでした。彼女は自分の家の食代《くいしろ》に私を苦しめただけでは満足せず、近所の人の麦まで引受けて、私をぐるぐると引きまわし、こき使い、賃稼ぎしました。おまけに何ともはやみじめなことに、私はこんな物凄い労働をさせられても、主人との約束ずみの充分なご馳走も与えてもらえなかったのです。つまりもともと私の分け前であった挽き麦を、もう一度碾臼にかけて、私にまわさせ、きれいについてから近所の人たちに売りつけてしまうのでした。それで彼女は私を日がな一日中臼に縛りつけ、さんざん苦しめといて、夜は夜でうす汚い麩《ふすま》を、それもじゃりじゃりと小石まざりのものを食わせたのでした。〔一五〕
私がこんな災難に打ちひしがれているのにあの残酷な|運命の女神《フォルトゥナ》は、またも新しい拷問の責苦に、私を手渡したのです。もっとも、人にいわせると、今度の不幸こそ確かに、主人一家の内外にわたった勇敢な私の行為を讃えて与えられた申し分のない栄光だったのかも知れません。というのは、別当が、とうとうおそまきながら主人の命令《いいつけ》に従って、ある日、私を牝馬の群の中に放牧してくれたのですから。そこで私もやっとこさ自由なロバとなり、それこそ欣喜雀躍《きんきじゃくやく》として、心も宙に浮くばかり、早速未来の恋人を誰にしようかと、特別に素晴しい奴を物色し始めたのです。ところが、この心たのしい希望さえ、破滅のどん底に突き落されたのです。なにしろその牧場の牡馬ときたら、種つけの目的で放たれ、長い間どっさりと草を食べて、恐ろしいほど太っていたから、その馬力ときたら、どんなロバでも立ち及ばないときています。こんな奴らが、私を嫉妬し、不純な雑種でも作られてたまるものかと、用心怠りなく、|慈悲の神《ユピテル》の掟もなんのその、私を恋仇と見てとり、敵愾心《てきがいしん》に燃えていよいよ猛烈に食ってかかったのでした。ある奴はでっかい胸前を高くもたげ、頭をふりかざし、首をおったて、前足の蹄《ひづめ》で私を蹴ったとみる間に、他の奴が、肉付きのたくましい臀《しり》を向け、後足の蹄でけしかけます。別な奴が憎悪をこめた嘶声《なきごえ》で私の耳をつんざくばかり威《おど》したと思うと、鋭い歯をきらめかせて、所かまわず噛みつくのでした。この有様は私のかつて読んだことのあるトラキアの王の物語そっくりでした。その王は残酷にも客人を狂暴な馬の前に投げ出し、そいつらに引き裂かせむさぼり食わせたといわれます。そして本当に極悪無道なこの暴君は、大麦を節約し、貪欲な馬をがつがつにさせといて、人間の生肉を存分与え、彼らの餓えを満足させていたほどの吝嗇《りんしょく》家でもあったのです。〔一六〕
こんな具合にひどい目にあって、ありとあらゆる牡馬から攻撃されていると、私は、碾臼《ひきうす》をひきまわした昔の仕事の方がまだしもだったと悔むのでした。それにも拘らず、私をいじめようとして飽くことを知らない|運命の女神《フォルトゥナ》は、またしても別な苦悩を新たに考え出したのです。今度は山から木材を運んで帰る荷役でしたが、私の手綱をとった牧童ときたら、どんな点においても申し分のない餓鬼でした。山に登るというのに、私に重い荷を背負わせて平気の平左、岩や切り株の出た山道を進ませて私が蹄を傷つけようと、おかまいなく、その上、鞭で私をぶったたき通しだったので、その痛みが髄までも食い込むのでした。何とそれが右側の臀ばかり打ち、おまけに同じ所ばかり集中したので、皮が破れ、傷が深くなって口を開きまるで空洞ができたように、いや窓ができたみたいだったにも拘らず、その餓鬼はいつまでもこの血だらけの傷口ばかり打って止めようとしないのでした。
それに私の背負っていた荷の大きさといったら、それこそ皆さんがごらんになると、ロバよりも象にふさわしいと思われるほどでした。片方の積荷が重くなって傾くときがよくありますが、そんな時、普通の人なら重い側の荷を除いて軽くし、少しでも重荷から解放してくれるか、あるいは少くとも他方の側にのせかえて両方を同じ重さにするのでしょうが、この餓鬼ときたら、軽い方に石をのっけて、釣合いをとろうとしたのでした。〔一七〕
私のこんな責苦は底なしに続きました。彼は、私にでっかい重荷を背負わせたぐらいで満足せず、たまたま川にでもぶつかって立往生すると、彼は山靴を水にぬらさぬよう飛びあがって私の尻に乗っかるのでした。なるほどこの餓鬼の重さぐらい、私の背中を抑えつけてる重荷と較べたら、お話にならないほど軽いものでしょう。けれども私がうっかりと、川岸に沿うたすべっこい泥沼の中に、重荷に耐え兼ねよろめき倒れようものなら、親切な牧童でしたら手を借し、馬勒を引いたり、お尻をもち上げたりして、あるいは少くとも私が立ち上れるよう積荷の一部でも、きっと除いてくれるでしょうに、この小僧ときたら、私が困憊《こんぱい》の極みにあるというのに、鼻糞ほどの力も借してくれないばかりか、私の頭から始めて、耳ものがさず、所かまわず私の体をでっかい棍棒でもってぶったたいたので、普通なら苦痛を鎮めてもらって元気づくところを、私は殴って殴りまくられて、ふるい立たされたのでした。
更に加えて、彼はこんな地獄の責苦を考え出しました。つまり刺《とげ》の先がえらく鋭《とが》ってて、それにさされようものなら、毒にもなるという猛烈な悪臭の茨《いばら》を一くくりにした束を、尻尾に結びつけ吊したものですから、その痛いこと、私が足を前に出す度に、その茨の束がひどい勢いで飛び上り跳ね返って、命とりにもなりそうな刺の毒牙でもって、私をちくちくとさしまくり、傷だらけにするのでした。〔一八〕
それで私は両頭の悪魔に脅されたのです。もし途轍もない残虐な笞《むち》を逃れんものと前の方にかけ出そうものなら、益々烈しく刺がさし込んで今にも死なんばかりに痛むし、それかといって、痛い刺にさされまいと、少しでも手間どって歩こうものなら、早く走れとばかり、笞うたれるのでした。
この下劣な小僧ときたら、何とかかんとかして私を殺してやろうと、ただそればかりで他のことは何も考えてないと思われるほどでした。いや一度ならず彼は神に誓いながらも、私を殺そうとしたのです。やがてある事件が確かに、彼の憎悪を唆かし一層悪辣な企《たくら》みを考えさせることになりました。ある日のこと彼の横柄この上ない仕打ちにとうとう私の堪忍袋の緒もきれ、踵で思いもとげよと、奴を蹴飛ばしてやったもので、奴はこんな復讐《しかえし》に出たというわけです。つまり麻くずの梱《こうり》を私の背中一杯に背負わせ、それを綱でしっかりと縛りつけといて出て行きましたが、隣の村にくる頃、とある家に立ち寄りちょっとした炭火をもらってくると、私の積荷の真中に差し込んだもので、やがて燃えやすい麻くずに火がうつり、その火勢は強まりめらめらと燃え上って、私の身体はまたたく間にすっかり灼熱の炎に包まれてしまったのです。この滅法な災難から上手《うま》く逃げ出すなり、命を救うなり何とか手段を講じようとしてもてんで見つかりそうもなく、それにあれこれと思案をめぐらせているいとまもないほど、事態はいよいよ急迫を告げてきたのです。〔一九〕
しかし、私の不幸のどん底に、どうしたことか、いつもつれない|運命の女神《フォルトゥナ》のいかにも有難い暗示の光が差し込んだのです。この女神のことだからどうせ後で私をもっとひどい目にあわせてくれようとの魂胆から、いまはもう観念の瞼をとじていた死滅から私をのがしといてやろうと思われたものでしょうか。ともかくたまたますぐ近くに先日来の雨によって、新しくできたらしい泥《どろ》んこの深い溜り水を、見ると早いか、私はやにわに馳け出し、荷物もろともその中に飛び込んじまったのです。そこで火もたちどころに消え、おまけに荷は軽くなって、どうやら虎口を脱れたのでした。しかし、この餓鬼はどこまで卑怯で図々しい奴なのでしょう。今度のひどい仕打ちも私の責任にしてしまい、仲間の牧夫たちには、私がかってに近所の火置き場の上を飛び越えようとして、足元を踏みはずし、火の中に落ち込んだため、こんなむごい火傷をしたのだと信じ込ませると、私を嘲笑しながらこういうのでした。
「ところで皆の衆、この火炎獣みたいなロバを、ろくろく役にも立たないくせに、一体いつまで飼っとく気かい」
こういうことがあって数日もたたないうち、彼はいままでよりももっと狡猾な手管《てくだ》を弄して、私を責め立てました。私が積んで行った材木を隣り村で売りさばいてから、何も背負わせないで連れ帰ると、彼奴《そいつ》は、私のような不埒《ふらち》ものの親方なんてあんまり情けなくて、天を呪いたくなるといい、この先もう私の世話は真平ごめんとばかり、こんな不平をつくりあげたのでした。〔二〇〕
「みんなまあ聞いてくれよ、こいつほど不精でのろまなロバが、この世に二つといまいことか、こいつは俺に今まで何度恥をかかせたか知れないのによ、さっきもさ、物騒千万な目にあわしやがった。ていうのは、通る人を見さえすりゃ、べっぴんであろうが、年頃の娘であろうが、可愛い少年であろうが、見境いなしに、こいつときたら自分の荷を投げ出すまいことか、荷鞍さえも振り捨てて狂ったように躍り出し、まるで人間に餓えたみたいで、女を地上に突き倒すと、はあはあ息をきらせながら、滅法、たまげるほどの欲望をおこし、獣欲もむきだしに、|結婚の女神《ウェヌス》も顔をそむけるようなことをやらかそうとするんだ。ともかく、接吻のまねをしゃあがって、相手を抑えたとき淫らな口で噛みつこうってわけさ。こんなことをされたら大変な紛争をまきおこし、俺たちもお上《かみ》に訴えられ、ひょっとしたら罰をうけるかも知れんで。さっきもきれいな女の子を見て、とたんに背中の荷を振り捨て、蹴散らして、凄い勢いで突きあたり、この陽気な女狂いは、その子を地上におし倒し、泥まみれにして白昼公然、跨がろうともがいていたんだ。女が泣き喚《わめ》いたので、その声を通る人が聞きつけ、大急ぎでかけつけてくれ、すぐと蹄の間からその女を引き出したので助かったものの、もしそうでなかったら可哀いそうにその子はロバに踏み潰され、五体も破れ、きっと無惨な死に方をしていたろうし、それに俺だって今頃は罰を受けて首も物騒になってるかも知れんぜ」〔二一〕
こんなでたらめに、私の慎しい沈黙も到底辛抱できないような雑言罵詈《ぞうごんばり》をかさね、牧夫たちの心に憎悪の念を烈しく募《つの》らせ、どうしても私を殺してやろうというわけでした。それでとうとう一人の牧夫が、
「そんなら、なぜこの往来の男娼《かげま》を、手あたり次第に女を犯したがるこいつを、言語道断な強姦の罪にふさわしく、生贄《いけにえ》にしないのか、小僧、お前はすぐにな、あいつをばらしてしまうのだ。そして臓腑《はらわた》は俺どもの犬にくれてやり、肉はみんな俺たちが食ってやるとしよう。その皮には、灰を一杯振りかけ、硬くなった頃にさ、主人の所に持って行きゃあ、狼にやられたって、わけなくだませるわけさ」といったのです。
すると何の躊躇もなく、あの憎らしい告発人は、今や牧人たちの死刑宣告の執行人に早変わりして、いかにもたのしげに、私の罪業をあげつらい、私に足げりされた恨みを晴らしてくれようと――私はあのときいっそのこと彼を蹴り殺してやればよかったのにと、どれほど悔んだことでしょう。――直ちに庖丁を砥石でとぐ用意を始めたのです。〔二二〕
するとその場に居合わせた一人の牧人がこういいました。
「たわけものめ、こんな良いロバをそのように殺すなんてもってのほかだ。こいつがみだらで好色な女狂いだといって、それだけのことですぐにこいつから仕事をとりあげ、俺たちに必要な手伝いをふいにするって法もあるまい。それよりか、ロバの陽具を引き抜いてやれば、もう再び情欲にいきり立つってこともなく、俺たちも物騒な目にあわないで安心できるし、そのうえ、あのロバだって、今までより一層でっぷり太り、肉づきもよくなるっていうわけさ。俺はな、ろくでなしのロバはもちろんのこと、獣欲の炎に燃えて荒れ狂い、手もつけられなかった牡馬さえ、去勢をしてやっただけで、うってかわっておとなしく扱い易く、荷役のみか他の仕事も快くするようになったっていう例を沢山知ってるんだ。そこで、もし俺のこの忠言にお前らが反対しないなら、近いうち市場に行くことにしているから、その時にでも、手術に必要な器具を、家で捜しすぐ持ってかえり、この猛烈な女狂いの陽具を切りとり、去勢し、なんなら去勢した牡羊よりもおとなしくして見せよう」〔二三〕
この提案によって、私は地獄《オルクス》の爪から脱したとはいえ、その次にまちかまえているのが、あのむごたらしい罰なもので、それがまた心配の種となり、体の中でも一そう大切な所をなくしたら、私の生涯もはやこれまでと思われ、ただ嘆き悲しむのでした。その揚句、私は食うものを全く口にしないか、あるいは絶壁から飛び込むかして、われとわが身を亡ぼしてしまおうと、しきりに願うようになりました。どのみちあの世に行くのが運命とあらば、完全な姿で死にたかったからです。
さてどうやってその死を選ぼうかと思案しているままに、夜があけたので、私をばらそうとしたあの悪たれ小僧に従って、私はまた山の麓に連れて行かされました。そしてとある大きな樫《かし》の低い垂れ枝に私をつなぐと、彼は自分だけ山道を登って行き、手斧でもって、私の背負う立木を切っていました。そうして暫くたったと思う頃、付近の洞窟から、突然大きな熊がとび出すとやにわに、でっかい頭を振りかざして、こちらを目がけてきたではありませんか。それを見て私は胆《きも》をつぶし、ただもう夢中で、全身の力を後踵にのっけ、長い首を高くあげたと見る間に木に繋いでた端綱《はづな》を切り、そのまま馳け出し、死ぬか生きるかの思いで、一目散に逃げました。もう坂道など、足で走ったというより体を横にして無茶苦茶ころがって、麓の野原に逃げ込んだのでした。なるほど熊も恐しかったでしょうが、それよりもっと恐しかったのはあの小僧、奴をくらましてやろうと一生懸命だったのです。〔二四〕
こうして一人野原をうろついていると、たまたまそこを通りかかった男が私を見つけ、すぐ私の方にやってきて、背に跨り、持ってた杖で私を打ちながら、まだ見たこともない脇の小道を、連れて行くのでした。これが私にとって気に入らないはずがなく、それどころか、残酷にも私を去勢しようとしたあの屠夫《とふ》から遠く離れるのかと思うと喜び勇んでいました。それに彼の鞭が決して痛いほど感じられなかったのも、棍棒でどやされてひどい目にはなれっこだったからでしょう。
しかし、私を奈落の底に突き落そうとやっきになってる|運命の女神《フォルトゥナ》は、いまほっと一息ついたこの隠れ場に、突然災難をもち込み、またも私を罠《わな》にひっかけて、幸福の邪魔をしたのです。それは、私の主人の牧人たちが、どこかへ逃げた仔牛を捜して、てんでにあちこちと歩きまわっていたところへ、ひょんな具合から、私たちが出会わせたっていうわけです。彼らは私の姿を見ると、すぐさま私の副頭絡《ふくとうらく》を掴み、今にも連れ去ろうとする気配だったので、私の背中の男は、大胆にも、彼らを拒み、神々も人も照覧あれと唱えてから、こう訴えるのでした。
「なんでお前さんらはそんな横柄なまねをするのか。一体どういう了簡で、あっしのロバを奪おうっていうのか」すると、「おい、もう一度いってみろ。どっちが横柄なんだ。お前こそ俺たちのロバをつれとるじゃないか。こっそりと盗みやがってよ。それよか、このロバを曳いとった小僧なんだが、あいつを殺《ばら》したのは、お前なんだろう。あいつの屍をどこへ隠したか、それを吐いたらどうだい」と牧夫どもがいったと見る間に、いきなり、背中の男をひきずり落とし、拳固でなぐる、足で蹴る、いやもうさんざんな目にあわせたので、とうとうその男は誓ってこう叫びました。
「このロバをつれた小僧とやらは決して見なかった。こいつがたった一頭、手綱を切って、おそろしい勢いで走ってきたんだ。え、それは全く確かなんで。あっしはこいつを掴え、持ち主に知らせたら、お礼にもありつけようってわけで、いずれそのうち持ち主の所へ連れて行こうと思ってました」更に続けて、「やれやれ情けないことだ。このロバさえ、人並みの言葉を吐いてくれたらええのに。そしたら、あっしの身の、潔白だってことも申し開いてくれように。そしてお前さんらも、あっしをこんな目に合わせてすまんかったと後悔するだろうに」
といくら言い訳しても、誰一人耳を借そうとしませんでした。牧夫どもは手心も加えないで、彼の首っ玉を掴むと、あの小僧がいつも木を切ってた深い森の方へ連れて行きました。〔二五〕
ところがその森の空地には、どこにもあの少年の姿は見あたらず、ただ、彼のものと思われる五体がこまごまに裂かれ、そこらあたり一面に散らばっているだけでした。この仕業はもう疑う余地もなく、私にはあの熊の牙だと、思われました。そのとき私に話す能力さえ与えられていたら、誓って私の知ってたことをみんなに言ってやれたでしょう。でも私のできたことといったら、熊がおそまきながら、私の仇を討ってくれたってことを心密かに喜んでいるだけでした。
一同はやがてあちこちに散在した残骸の切れ端をみんな見つけ出し、それをどうにか接ぎ合わせると、その地に埋葬してやりました。それから私のベッレロポーン〔エピュルの王グラウコスの子。ここでは通りがかりの盗人をさす〕はといえば、あの小僧をここにつれてきて、こんな残酷な殺し方をしたのはきっとお前だろうと、牧夫から弾劾され、ともかく一応縛られたまま、彼らの小屋に連れ返されたのでした。聞くところによると、その男はあのまま縛っとかれ、翌日になって早々お役所に引き出され、罰を受けるということでした。
話変わって、あの小僧の両親が息子の死を悼み胸を叩いて慟哭《どうこく》している頃、どうでしょう、とうとうあの百姓は約束を忘れないで帰ってきました。そして、もう皆の定めたことだからといって、しつこく私の手術をせがむのでした。すると、そこに居合わせた一人の牧夫がいうことには、
「俺たちが今日蒙った痛手《いたで》は、このロバと別に関係もないが、まあ明日にでもなったら、憎ったらしいロバの陽具はおろか、何なら頭まで、叩き切ったらええじゃろう。その時には、いくらでもお前さんの手伝い人は、おるだろうさ」〔二六〕
こんなわけで、私の命は翌日までもちこされることになりました。それもあの小僧が運よく今日死んでくれたため、ほんの暫くにせよ、私の受難の日がのびたのだと思うと、私も彼に感謝しないではおれませんでした。それは兎も角、私は明日までの命という蜉蝣《かげろう》みたいな身の上ですから、少くともそれを喜び身心を休ませる位の余裕はあっても良いのに、それさえ、与えられなかったのです。というのは、小僧の母親が、黒い喪服をまとい、息子の残酷な死にざまを悼み、両手で白髪を引きちぎり、泣き喚き、胸を打ち叩いて私の厩《うまや》に走り込むなり、
「こん畜生ときたら、今みたいな時でも、呑気な面《つら》をしゃあがって、秣槽《かいばおけ》に頭を突込み、あきれるほど、お腹を太らせ、いやさ破裂するほど、がつがつ食べてばっかり。あっしの悲しみなど馬に念仏、死んじまったお前の主人の禍々《まがまが》しい不幸も、悔んでいないのだろう。それどころか、お前はきっと、あっしが老いさらばえ、力のぬけちまったのをあなどりせせら笑ってるんだろう。こいつは、あんな悪いことをしでかしといて、自分には罪はないとすまし込んでるんだろう。いやさ、ひょっとして、自分ではわるいことをしたとさえ、思ってないのかも知れん。きっとそうじゃ。大抵のものはどんなひでえ罪を犯しても、後《うしろ》めたいとこなんかおくびにも出さず、自分の身の安全を願っているものだ。ええ、いまいましいこの四足《よつあし》め、たとえ心もとない言葉にせよ、それをお前がしゃべれたとしてもさ、自分に落度がなかったと、下手くそにでも一体誰に弁明できるっていうのかい。そうじゃないか、あの時、お前はあっしの息子を脚でかばい、お前の鋭い歯でもって、防いでやれたと思うのによ、可哀いそうにもあの子にあんなひどい死に方をさせたんだ。お前は始終、蹄であの子を蹴り通しにしてきて、なぜあの子が殺されるという間際になって、いつものすばしこさでもって防いでやろうとしなかったのか。いやそうまでしなくても、お前はあれを背中に乗せ、素早く運んじまったら、凶悪な強盗の残虐な爪からも逃れられたはずじゃのに。こともあろうにお前の友だちで主人でつれ合いで牧夫である人を投げ捨て、よくもまあ自分一人で逃げて来られたものじゃて。溺れかけた人に、手をかさなかったというただそれだけで、良識のない人と非難されるっていうそんな世の習慣を、お前は知らないのか。だが今に見ろ、この人殺しめ、あっしの不幸を喜んで見とるのも、そう長くはあるまいて。この老耄婆《おいぼればば》でも苦しまぎれに、どんだけ力を出すものか、思い知らせてくれるから」〔二七〕
こういったと思うと、婆《ばばあ》は着物の下に手をやり自分の胸の飾り紐をといて、それでもって私の後足を一本ずつ巻き、それから二本の足を一緒にきつく縛りあげたので、ちょっとでも私が反抗しようたって叶わない有様でした。この婆はついで厩の戸を閉めるのに使っている大きな閂《かんぬき》を引きぬいてくると、その棒の重さで彼女の力も根負けし、辛抱できなくなり、とうとうその棒が手から落ちてしまうまで、私を打って打ってやめようとしなかったのです。それから婆は自分の弱い腕力があんまり早く尽きてしまったのをこぼしながら、炉辺に走り寄り、そこで松明を燃やし、それをもって私の所に帰ってくると、それを尻尾の下に押し付けたのです、でも私はこれを防ぐ術とて全く見つからなかったので、よんどころなく、尾籠《びろう》にも小水を出し、彼女の顔といわず目といわず、ぶっかけてしまったのです。するとあの婆、目が開けられないうえ、臭いものでどうにかやっと私の焼き殺しをあきらめたっていうわけでした。私があのような手段に出なかったら、きっと私はメレアゲルのように、気が狂ったアルタエアの松明のために死んでいたことでしょう。〔二八〕
[#改ページ]
巻の八
[#ここから1字下げ]
トレポレムス、恋敵トラシュルスに殺されること―その復讐を妻のカリテがする一部始終―ロバのルキウス、逃亡する馬丁らとともに苦労し、ついでシリア女神の信徒一行とともに流浪すること
[#ここで字下げ終わり]
さていよいよその夜もあけ、鶏が黎明を告げる頃おい、隣の町から若者がやってきました。彼はどうやらあのカリテの、つまり私と一緒に盗賊のところで苦難を共にしたあの娘の下男と思われました。彼は同じ身分の召使たちが多くいる中にわり込んで炉辺に席をとると、カリテの一家に起こった奇怪な忌《いま》わしい凶事について、このような話を始めました。
「馬丁や羊飼いや牛使いの皆の衆、あっしらのカリテさまがおなくなりになった。ほんにお気の毒なことに、むごたらしい死に方をなさった。いやそればかりか、あの方の連れ合いまでもあの世にいっちまわれた。ともかくその話をお前さんらにも知って欲しいと思ったので、事の起こりから披露してみよう。この話はいずれ運命の女神が文筆の才を恵み給うた学者さまによって、書きおろされ本として世に問われるにふさわしいものばかりなんだ。
さてあっしらの近くの町に一人の若者がいたが、彼は有力者の家の出だというので、名誉な地位につき、お金もたんまり持っていたが、居酒屋の売女《ばいた》と戯れ、淫酒の日々を送っているうち、困ったことに、泥棒仲間と悪《わる》付合いを始めるようになり、その揚句、人の血でもって自分の手を平気で汚すようになった。彼の名はトラシュルスといい、実際、彼は今あっしのいったとおり、いたる所で評判がわるかった。〔一〕
この男がさ、カリテさまが結婚の年頃になられると、求婚者の中でもいちばん幅の利いたものとなり、がむしゃらにあの方の手を求愛して止まなかった。何しろ彼の家柄ときたら、どんな求婚者よりも立ち優っていたし、財産も莫大だったから、奴はカリテさまのご両親のお気に召すと一人合点していたんだ。ところが奴の素行がおさまらないというので、求愛を拒絶される憂目《うきめ》にあった。そのうちあっしらのお嬢様はたのもしいトレポレムスと婚約なさった。それで奴は、出鼻を挫かれてみじめにも地にまみれた恋心をいつも胸に秘めておき、一方では結婚を拒絶された憤りも一役買って血なまぐさい仕返しをいろいろと考えるようになった。そしてとうとう彼はカリテさまに近づく手頃な機会を見つけ、長い間|企《たくら》んでいた犯行に手をつけたっていうわけだ。その日は、お嬢さまが機敏な婚約者の大胆なおこないによって、今にも盗賊にやられるという恐ろしい瀬戸際から救い出され、それを喜び祝う人たちで町はごった返していたのだが、その中に彼も混じって、それは人目を引くほど喜び立ちまわり、あっしらの新郎新婦さまに、現在の安全と未来の幸福を祝ってやった。それであっしらのお家も彼が立派な家柄の息子だというので、大切な賓客として招待しなさった。その時その男は、内心企んでいた恐ろしいことなどおくびにも出さないで、それどころか自分こそ誰よりも信頼されるに足る友であるといわんばっかりの顔をしていたんだ。そんなことがあってから、彼はあっしらの家にのべつまくなしにやって来て話し込み、そのうち時には晩食とか酒宴に加わるようになり、日がたつにつれ、自分でも知らない間に、恋心がいよいよ募り、その男は深い情欲の谷底に次第に落ち込んで行った。皆もよく知っての通り、無慈悲な恋の炎っていう奴は、それがまだ小さいうちは、知り始めのこととて熱さも心楽しいだけさ。ところがいつも精出して薪をくべているうちその炎は次第に烈しく、その熱《あつ》さも辛抱できないほどになり、その揚句どんな人間も、焼き尽くされてしまうってことになるもんだ。〔二〕
トラシュルスは、長いこと一人であれこれと智慧をしぼってみたものの、恋しい人と密会できるような場所が一向に探し出せなかった。彼には横恋慕の戸口が益々厳重に閉ざされて行くのがわかったし、それに初々しい夫婦の愛情も次第に強くなって、その固い絆を解くことはどう考えでも不可能と思えた。よもやそんなことはあるまいが、万一、カリテさまが彼の思いを叶えてやろうとなさっても、当然のこと、多くの側近が二人に密通させまいと邪魔立てすることだろう。そんなわけで彼とても自分の目指しているものが到底手に入らないとは知っていても、何とか手に入りそうに思え、死霊に憑《つ》かれたように執念深くねらっていたんだ。それももっともなわけで、恋というものは日を重ね強まるにつれ、恋人をして一時はひどく難しいと見えたことも、御し易いと思わすようになるのだ。さて皆の衆、どうかとくと耳を傾け、あっしの話をきいてくれ。トラシュルスの気違いじみた情欲が、周りの人たちにどんな破滅を与えたか。〔三〕
ある日のこと、トラシュルスはトレポレムスを誘って狩猟場に出かけ、野獣を追いまわすことになった。野獣といったところで、せいぜい牡鹿ぐらいのとこなんだ。ていうのはカリテさまがな、角や牙でもって武装した猛獣は恐ろしいからといって、背の君にお許しにならなかったためさ。
一行がこうして先の見えないほど枝葉の繁った暗い森に入って行くと、猟師は視界をさえぎられてしまい、そこで血統のすぐれた猟犬を放って、獣穴にひそむ獲物に不意打ちを食らわせたのだ。賢い犬どもは、日頃の訓練で教わっていた通り、四方に散らばって、獣の通路をみんな塞《ふさ》ぎ、唸り声を抑えてじっと待機していたが、突然猟師の合図がかかって、それを聞いた犬どもは一斉《いっせい》に物凄く吠えたてた。すると、飛び出したのは一匹の牡鹿でも、慌てふためいた小さな黄鹿でも、また獣の中でも一番やさしい牝鹿でもなかった。それは、いままであっしらの見たこともないほど大きな野猪《いのしし》だった。硬い皮の下に肉がむっくりと腫れあがり、体一面ざらざらとした剛毛におおわれ、背中のてっぺんまで硬毛が生えている奴が、鋭い牙をならして、口元に泡を吹かせながら、目の玉をむき、怒りの炎に燃え、口をわなわなと震わせて躍り出たとき、その身の毛のよだつ有様ときたら、まるで全身稲妻のようだった。この猪にいどみかかった勇敢な犬どもは、奴のあぎとで四方に投げとばされ、噛み裂かれ殺されてしまった。とすぐに今度は、最初にぶつかって思いとどまったあの猟網の所に後戻りすると、何しろ弱い網だったのでそれを踏み越え、遠くに逃げてしまった。〔四〕
あっしらはといったら、みんな恐しさの余り震えあがり、おまけに今までの狩りときたらちゃちなやつばかりで、その時もこれといって武器なんぞもってなかったので、手のくだしようもなく、ただ木や葉のかげにこっそり隠れ込んでたんだ。トラシュルスは、この時とばかり、自分の悪辣な奸計をやり遂げる絶好の機会と見て、トレポレムスに向い、言葉上手にこう誘いかけた。
『私たちとしたことが、慌てふためき、この奴隷どもと同じように怯《おび》え、あらぬ恐怖心の虜《とりこ》となって女のように意気沮喪し、こんな素晴しい獲物を取り逃がすって手もないでしょう。さあ馬に乗りましょう。そして奴を素早く生捕るんです。これはあなたの猪槍《いのししやり》です。私はこの投げ槍を持ちますよ』
そこで二人は猶予もおかず、素早く馬に打ちまたがると、一生懸命野猪の後を追っかけた。するとあの野猪は、野性の本能を取り戻し、反撃を始めた。牙をむき、怒りの炎に燃えながら、真先にどいつから襲いかかってやろうかとためらいつつじっと様子をうかがっていた。その隙をねらってトレポレムスが先ず持ってた猪槍を、獣の背中目がけて投げつけた。その時、トラシュルスは野獣の方を見むきもしないで、トレポレムスの馬の後足の膕《ひかがみ》をねらって投げ槍をぶち込んだ。馬は血しぶきをあげ、どっと仰向けにひっくりかえり、心ならずも主人を大地に放り出してしまった。とその途端、怒り狂った野猪が、放り出されたトレポレムス目がけて襲いかかり、服を裂き、今にも起き上ろうとしたところを、牙でぐさりと突き刺したのだ。トラシュルスは、自分の悪だくみが、こんな恐ろしい結果となっても、心に悩むどころか、残忍な猪の生贄になって今にも殺されようとしている友を見ても物足りなかった。それでトレポレムスが猪にさんざん突かれ叩きつけられながらも、抵抗しようとして空しく努力を重ね、悲壮な声で友の助けを求めたにも拘らず、トラシュルスは、投げ槍でもってトレポレムスの右腿を突き刺したのだ。その時きっと彼は、槍の傷口を猪の牙の突傷《つききず》だといって人々をごまかせると考えていたに違いない。だからあれほど大胆なことをやってのけたのだ。それから彼は見事な手練でもってあの獣までも、突き殺してしまった。〔五〕
トレポレムスがこんな非業の最期を遂げると、あっしら召使もそれぞれの隠れ場から出て行き、泣き悲しみながらその側へ馳け寄った。トラシュルスはというと、自分の思いをし遂げ、恨みある友を殺したとて内心喜んでいたが、表面には満足した気配も見せず、額を曇らせ、愁嘆を装い、自分の殺した死骸にすがりついてなかなか手離そうとしなかった。ただ涙を出してやろうにも、出なかったということだけを除くと、彼は考えられる愁傷ぶりを、全くのとこ、巧みにやってのけたのだった。
こんな具合に彼は、本当に悲嘆にくれている俺たちのまねをしながら、自分でやった罪業を獣のせいにしてしまったのだった。
さてこの恐ろしい事件がおこったと見る間に、噂は飛び拡がって真っ先にトレポレムスの家に向い、不幸な若奥様のお耳を打った。あの方は二度と辛抱できないほどの凶報を聞かれると、狂ったように家をとび出し、われとわが身を知らず、まるでバッカス祭の尼のように人ごみの広場を抜け、畠や平野を馳られるのだった。その間もずっと狂おしい泣き声で夫の不幸を嘆いておられたので、町の人々もそれをきいて悼み寄り合い、通りすがりの人々も、その悲しみを分ち合いその現場を見たいばっかりにカリテさまの後について行ったので、町は蛻《もぬけ》の殻《から》も同然となったのだ。奥様はご主人の遺骸の所に到着なさった途端失神して、その屍の上に身を投げ出し、夫に捧げて来られた魂もその場ですっかり失ってしまわれたようだったが、側に居合わせた人たちが抱き起こしたもので、あの方もいやいやながらこの世に踏み止まられたというわけだ。やがてその死骸は、人々に守られて野辺の送りの列をつらね埋葬場へと運ばれて行った。〔六〕
そうした間もずっと、トラシュルスはあたりかまわず仰山《ぎょうさん》な声をたてて泣き喚き胸を叩き、それに始めごろは悲嘆の仮面から、どうしても出なかった涙さえ、今は抑えきれない喜びのために溢れ出すってわけで、屍に向い、あれこれと愛情のこもった言葉を考え、それこそ|真実の女神《ウェリタス》をも騙《だま》しかねない様子でもって、『ああ、私の友よ、戦《いくさ》の友よ、学びの友よ、兄弟よ』と心もさけよと呼びかけ、その間にもカリテさまに向い、胸を打って嘆かれるその手を引き止め、その悲しみを慰め、その慟哭を鎮め、やさしい言葉をかけて、カリテさまの突き刺すような悲哀の刺《とげ》を取り除こうといろいろ工夫し、あちこちに起こった不幸な例を沢山あげて慰めていたのだ。彼がこんなに苦心して嘘っぱちの同情を装っていたのも、つづまるところ、奥様を自分のものにしたいばっかりの執心からさ。
こうして彼は不義な恋情を邪《よこ》しまな喜びでもって養い育てていたのだ。一方カリテさまはお弔いなどのつとめを一切済まされると、すぐにもお連れ合いの後を追おうとそれのみ考え、あれこれと自害の方法を一通り試みられたものの、就中、刃物など使わないで見苦しい所もなく楽々とまるで静かな眠りにつくよう、死んでみたいと思われた。そこでとうとうあの方は気の毒にも絶食を続けて、自分の体を哀弱させようと、不潔な身もおかまいなく亡きご主人の墓穴に身を埋めて、すっかり地上の光を断たれたのだった。しかしトラシュルスは、自分自身はいうまでもなく、友達とか近親の人にも頼みかけ、遂にはカリテさまのご両親にも加勢を頼み、しつこく頑張って奥様の固い決心をくつがえさせたのだ。それからみんなはカリテさまの、窶《やつれ》からほとんど崩れかけないばかりだった体《からだ》にお湯を注いだり、食事を与え、やっとこさ元通りの体力を取り戻してさしあげた。
何といっても奥様は孝心のあつい方だったので、心ならずもご両親の言付けを敬虔に守られたまでのこと、それでお顔に喜びの色が浮かぶ道理がなく、まことに憂欝そのものといったご様子で、周囲の人のいうがままに、生きることを自分の義務と思い、心の中ではいつも骨身に染むほどの悲しみと苦しみにさいなまれておられた。そして来る日も来る日も、夜となく昼となく後悔にうち沈み、亡夫のお姿を酒神リベルの御姿に擬《なぞら》え、真心こめて仕え、敬虔なお祈りを捧げておられたものの、その慰めごとさえ、あの方には愁傷のたねとなるばかりといった有様だった。〔七〕
ところが、いつも性急でその名からも知れるとおり図々しいトラシュルス〔この名はギリシア語の「無思慮」「大胆」という言葉をもじったもの〕は、カリテさまの涙がまだ充分に悲哀を満足させきっていないうちから、いやさ、あの方の千々に砕けた心のさわぎもまだ鎮まっていないし、それに、烈しい慟哭だって、日が経つとともにいずれはひとりでに疲れ果て大人しくなってしまうだろうに、その日も待ちきれず、そのうえ、あの方はまだご主人を思っては泣き、着物を裂き髪を振り乱しておられる最中だというのに、彼奴《あいつ》はもう結婚を申し込む時期がきたと思い込み、大変あつかましくも、今まで心に秘めていた破廉恥で狡猾なのぞみを、打ち明けたのだ。カリテさまはこの罰当りな言葉を聞くと、ぶるぶると身震いして、まるで烈しい雷鳴か天上の嵐か、ユピテル神の激怒にでも打たれたように、地に身を投げ出して失神されてしまった。しばらくして、あの方は正気をとり戻され、何度も獣のような呻き声をくりかえされた。ようやっと、あの方は、悪辣なトラシュルスの悪だくみを見抜かれたもので、彼の結婚についてはもう少し考えさせてくれといって、その希望を延期されたのだ。
とやかくしているある晩のこと、非業の死を遂げたトレポレムスの霊が、血を流しながら、蒼白に打ち変わった顔をあげ、奥様の純潔な眠りを破ったのだ。
『可愛い私の妻よ、今はまだ、私をさしおいて、お前を妻と呼ぶ人は他にはないが、もしお前の心の中に、もう私の面影《おもかげ》がなくなっているのなら、あるいは、私が余りに早く死んだためまだ固くなかった私達の夫婦の絆が、たちきれてしまったというのなら、誰とでも好きな人と幸福な結婚をしなさい。ただトラシュルスの汚れた手の中に身を投げ出し、睦言《むつごと》を交わしたり、食事を共にしたり、閨《ねや》を同じくしたりすることだけは止してくれ。私を殺した彼奴《あいつ》の血まみれの右手だけは避けて欲しいものだ。お前が結婚するにしても、人さまから、近親殺しだと咎められるような忌わしい結婚はしないよう気をつけてくれ。あの時お前が涙して溢れる血を洗ってくれたこれらの傷口は、みんな野猪の牙の仕業ではない。憎らしいトラシュルスのあの槍こそ、私とお前を引き離してしまったのだ』
それからもトレポレムスはいろいろな話をあの方に聞かせ、彼奴の悪業のさまざまな舞台に光を投じてやったというわけさ。〔八〕
カリテさまは始め、悲衷の中にまどろむといった風で、夜具の中に顔を埋め、湧き出る涙で頬をぬらしながら眠っておられたが、何かひどい苦痛を受けたように不安な気持で夢から覚めると、悲しみも新しく、肌着を裂き、狂ったように美しい手でしなやかな腕を打ちながら、長いこと泣きじゃくっておられた。しかしあの方は、その夜現れた死霊については、誰にも話さず、おそろしい罪人のことなど露知らないといったそぶりでしたが、心の中ではあの忌わしい人殺しに復讐をしてやって、この悩み多い世から消えてしまおうと、ひそかに覚悟なさった。それなのに、何と憎らしい奴だろう。盲目の欲望の虜になったあの求婚者がまたやってきて、結婚の話をもちかけ、カリテさまの今となっては何も聞こうとなさらないお耳を煩わした。でもカリテさまは、トラシュルスの言い寄りを丁寧にことわり、並々ならぬ芝居ぶりで、言葉を尽くし腰を低くして、こう願われた。
『トラシュルスさま、あなたのお友達で私の一番愛していた夫の、美しい顔がいまもって、瞼《まぶた》に浮かんで参ります。そして神々しい夫の体にたきこめられた肉桂のかぐわしい匂いも、まだ鼻先に漂っています。そうです、美しいトレポレムスの姿は、いまも私の心の中に生きていますの。それであなたさまが私を可哀いそうな女とおぼしめして、世間の習《ならわし》どおりせめて喪の期間がすぎるまで、結婚をのばして下さいますなら、まあ今年一杯お待ち下さいますなら、あなたさまはどんなに賢くて立派な方でしょう。だってそうじゃございませんか。もちろん私の世間体も考えてのことですが、それと同時に、あなたさまの無事息災を願う気持もあるからです。というのは、まだその機が熟してもないのに、私たちが結婚すると、亡き夫の荒々しい死霊を怒らせることは必定で、その結果、あなたのお命が危うくなったりしては大変でしょう』〔九〕
しかし、トラシュルスの奴め、カリテさまのお言葉をもっともなことだと聞きわけようとしないばかりか、期限つきの約束をしてもらっても嬉しい顔もせず、今までにもまして、例の聞き飽きた調子でもって、鉄面皮にも口説いてやまなかったのさ。それでとうとうカリテさまも、すっかり参ったような風をして、こう答えられた。
『じゃ、これだけはいとしいトラシュルスさま、私の心からのお願いだから、是非ともお許し頂きたいのです。今年が過ぎてしまわないうちは、時々、こっそりと家の者にも気づかれないよう、私達二人の逢瀬をたのしみましょう』
トラシュルスは、この約束が偽りとは知らず、これをもっともなこととして、自分の主張をひっこめ、快く密かな閨事《ねやごと》に同意したのさ。それで彼はあの方を手に入れようとのぼせあがって、もう他のことは何も考えず、ひたすら、夜の早く来るのを、そしてあたりが暗くなるのを願うのだった。
『でもね、あなた』とカリテさまは続けられた。『外套ですっかり身を隠し、お供など連れないで、あなた一人最初の夜番の頃合いに、いらっしゃい。そして一度口笛で合図して下さったら、そのまま待ってて下さい。私の乳母は、門をしめてそこに佇《たたず》み、あなたのおいでをじっとお待ちしてますから、あなたにすぐ門を開いて、お通しすることでしょう。そして家の者に気づかれないよう、明りも点《とも》さず、あなたを私の部屋にお連れするでしょう』〔一〇〕
トラシュルスは、死の結婚式をあげるというのにうずうずしていた。奴は凶々《まがまが》しいことがわが身にふりかかってきそうな不吉な予感など少しも抱かないで、ただ期待に苛立って、一日が大変長いとか、夕暮れの訪れがおそいとか、ぐちばかりこぼしていた。やがて太陽が夜に席をゆずる頃、トラシュルスは、カリテさまの言い付け通り、変装をしてやってきた。それから彼奴は乳母の巧妙な気の配り方にすっかり欺され、希望に胸をふくらませ部屋に通った。老婆は奥様からいいふくめられたままに、お世辞たらたらと、彼の前に眠り薬を入れたお酒の壺と盃を密《しの》び足《あし》で持ってきた。彼はその酒を疑いもせず、盛んに盃を重ねている時、老姿は奥様のお帰りのおそいのは、父御のお具合がわるいからとかなんとか出鱈目を並べていたが、たちまち彼は眠りにおち込んでしまった。そして人がどんなひどいことをしようとしたい放題だといわんばかりに、彼奴がひっくりかえっている所へ、カリテさまが呼ばれて入ってきた。カリテさまは男のような心となり、復讐の一念に激しく燃え、あの人殺しにとびかかり、その上に跨っていわれることには、〔二〕
『ええ、この人が私の夫の信頼していた友だなんて、勇敢な狩人だなんて、私のいとしい夫になるなんて。これが、私から多くの血を流した右手なのね。こここそ、私を破滅させようといろいろ巧妙な手段を講じた心臓のあるところね。この目こそ、不幸なことに、私が惚れられた原因なのね。この目が、夕闇の訪れるのを祈るように待っていたのも、いわば、自分の宿命的な罰を予感していたというわけね。安心してお眠り。幸福な夢をごらん。私は剣や凶器でもってあなたを傷つけようとは考えてません。私の夫と同じような死に目に会わしてあげようなんて思ってません。私はお前の命を助けてあげ、目を殺してやるのです。そして夢を見る以外は、何も見ることのできないようにしてあげよう。生きている自分よりも死んだ友が幸福で羨しいと思うようにしてあげる。そうなるときっとあなたは、この世の光が見えなくて、誰か連れ合いの手びきを必要とするでしょう。でもカリテを抱くこともできないし、それを妻とする喜びも訪れないの。平和な死の中に安息も見出せないし、それかといって、生の喜びを楽しむこともできなくて、この世の白光とあの世の暗闇との間を、定め分たぬ幽霊となって、さまようことでしょう。そしてあなたは、あなたの目玉を抉《えぐ》りとった手をいつまでも捜し求め、しかも不幸の中でも最も苦しいことに、誰を恨んでよいかわからないでしょう。私はトレポレムスのお墓に、あなたの目玉の血を灌《そそ》ぎ、この目玉を供えて夫の清浄な死霊を慰めます。
ところで、私はいつまでぐずぐずしているのでしょう。だからといってそれだけの苦しみをあなたは味ってるのかしら? いいえ、それどころか、今頃はきっと夢を見て、あなたを罰するこの私と一緒にねているぐらいのとこでしょう。さあ、その眠りの暗闇と縁を切り、呪われた別の暗闇に目をさましなさい。目玉のない顔をあげ、仕返しをされたことに気づき、自分の不幸を認め、その苦悩を肝に銘じるのです。あなたの目は、貞節な女をこんなに喜ばせ、結婚の松明は、あなたの寝室をこんなに輝かせています。あなたの結婚の仲人は、|復讐の女神《ウルトリケス》よ、そしてあなたの生涯の伴侶は盲目と永遠の後悔の棘《とげ》なのよ』〔一二〕
カリテさまは、こうトラシュルスの未来を宣告すると、頭髪から鋭いピンをぬいて、彼の両眼を抉りとられた。こうして彼をすっかり盲目にしてそのまま部屋を出られた。トラシュルスはやがてわけのわからぬ痛みでもって、酔い心地と睡気から同時に覚めた時には、もうカリテさまは主人のいつも佩《つ》けておられた剣をぬき、町の中を気違いのように通りぬけ、誰が見てもすぐそれと知られるような恐ろしい目的を胸に、ご主人の墓へまっすぐに走っておられた。そこであっしらは、いや町の人もみんな家を空っぽにし、一生懸命あの方を追いかけたのさ。あの狂った手から剣をとれと互いに喚き合いながら。しかしカリテさまは、トレポレムスの墓の側に頑張って、刀を振りまわし誰一人寄せつけようとなさらないので、あっしらはさんざん涙を流し、言葉をつくし哀訴した。それを見て、『皆さま』とカリテさまはいわれた。『あなた方の涙は私に迷惑です、どうか拭きとって下さい。私の貞操とは何の関係もない皆さんの悲嘆を、おやめ下さい。私は今、夫を殺した憎らしい奴の復讐をしたところです。私たちの結婚を奪った残酷な人を罰してきたところなのです。今はもう私の愛する夫の側へ、この刀でもって行きたいだけです』〔三〕
それからカリテさまは、そこに居合わせた人たちにことの次第を、つまりご主人から夢の中で打ち明けられたという話から始めて、どんな計略でもって、トラシュルスを思う壷に陥れたかを詳しくお話しなさって、右の乳房を刀でつきさし、土の上に倒れ、溢れる鮮血に体を染め何かききとれない言葉を呟《つぶや》きながら、男らしい魂を消散してしまわれた。
そこですぐカリテさまのお友達があの方の体を丁寧に洗い清め、ご主人と同じ墓の中に葬り、末長く妻として一緒に暮らせるようにしてあげたのさ。一方トラシュルスはというと、こういった次第を、人からみんな聞き、この惨事にふさわしい大団円は、新たに惨事をひきおこすより他はないと察した。そして、このような大きな罪を償うためには、彼も剣でもって自殺するだけでは充分でないと考え、自分からあの夫婦のねむる墓地に赴いたのさ。そこで『心休まぬ霊たちよ、わが身を捧げます、自由にして下さい』とくりかえし何度も叫んだ。それから、彼はわれとわが身に罰を宣告し、食を絶ち命を終える覚悟で、その墓穴に入ると、地上の蓋石を固く閉じてしまったのさ」〔一四〕
若者が以上のような物語を、長い嘆息まじりに、ある時は涙も交じえて、述べたもので、牧人どもは大変心を動かされました。しかし、こうなると今までと違った主人に手渡されることになるので彼らはそれを恐れ、自分たちの主人一家の不幸には深く同情しながらも、逃げる用意にとりかかりました。特別の依頼で、私の世話をしていた馬方は、小さな家に大切にかくまっていたものをみんな取り出し、私や他の家畜の背に負わせると、なつかしい古巣を後にしたのです。
私達は子供や婦人を、あるいは若鶏や小鳥や仔山羊や仔犬を背負っていたのですが、そのうえ途中、足弱で逃げおくれるものもみんな、背負って進みました。それで私の負荷も相当な重みでしたが、さほど苦しいと思わなかったのは、私を去勢するつもりだったあの恐ろしい奴から、逃げられてこれ幸いと思っていたからです。
奥深い山を絶望せんばかりに苦しみ通し、あるいは足もとに茫々と拡がる平原を横切って、やがて夕暮れが道を暗くする頃合い、とある賑やかな小ぎれいな部落に着きました。すると、そこの住民たちのいうことには、これから先は、夜はいうまでもなく、昼間でさえも、通るのは止めた方がよいとのことでした。その理由を尋ねると、何でもこの先に恐ろしい狼が群棲していて、その胴体ときたら、ばかに大きく、性質も猛烈に狂暴で、時を選ばず、所構わずしょっちゅう掠奪するので、そこらあたりの人はみんな困っているとのこと。最近では狼どもは街道にさえのさばって、追剥《おいはぎ》のように通行人を襲い、餓えているときは狂暴さをまして、部落のはずれの家まで攻撃して、全く無力な家畜を全滅させたほどで、人間の命さえも虎視眈々と狙っているという話。それにつけ加えてこう忠告してくれました。私たちの通るはずの街道には、食い裂かれた死体が転がり、肉をしゃぶりとられた骨があちこちに白く光っているから、厳しく警戒して道を進めた方がよかろう。それには何よりも先ず松明を燃やし、たとい夜が明け太陽が高く輝いても消さないようにして、狼が身をひそめ待ち伏せていそうな所はどこでも避け、そして恐ろしい狼が松明の輝きを見て、攻撃を躊躇しているときでも、私達はばらばらに散らないで、楔《くさび》状にかたまって進めば、これらの難艱を脱することも不可能ではあるまいとのことでした。〔一五〕
ところが私たちを率いている愚劣な逃亡者どもは、無茶苦茶にただ逃げることばかりにのぼせて、前後の思慮を失い、どうだかわかったものでもない追手を恐れ、親切な土地の人の忠告にも耳を貸さないで、翌日の光も待たず、およそ第三の夜番の頃合い、私達は荷を積み出発しました。それで私ときたら先刻聞いたような危険を恐れ、できるだけ群の真ん中に喰い込み、ぎっしりと並ぶ家畜の間にこっそりとわが身を隠し、狼の襲撃から、私の臀部を防ごうと考えていたもので、どうかすると、他の馬よりも早く走ってみんなを不思議がらせたほどでした。でもその迅速さは、私の生れつきの敏捷というより、むしろ私の恐怖心の証拠だったのです。それでその時は猛烈な恐怖心から、空に飛び立ったという幸運なペガッススが羨しくてなりませんでした。彼は火を吐くキマエラに噛みつかれそうになったとき、驚いて空高く天上までも飛び上ってしまったというのですから、ペガッススが翼をつけていたという伝説が、生れたのも当然だと思いました〔アプレイウスはここで、神話を勝手にもじっている。神話では、ベッレロポンがペガッスス(天馬)に乗って、怪物キマエラを征伐してしまうことになっている〕
ところで、私達を引っぱって行く牧人どもは、まるで戦《いくさ》にでかけるような扮装でした。ある者は槍とか猪槍を、他の者は棍棒を、中には道からいくらでも拾うことができる小石をもっていました。尖った杭《くい》を振りまわしているものもありましたが、大部分のものは、松明を燃やして、狼の攻撃を牽制しました。要するにただラッパがないということを除けば、軍隊として欠けたものは何一つなかったのです。しかし私たちがあれほど戦々兢々としていた危険は、何事もなく実にあっけなく過ぎ去ると、間もなく今度は、いっそう不運な罠に陥ち込むことになったのです。というのは、あの狼どもは、こんなに沢山な若者たちの行列や、仰山な松明に怯《おび》えてしまったのか、いやきっと他の方でも襲っていたのでしょうか、私たちにとんと歯向って来なかったばかりか、遠くでさえ、その姿を見せなかったのです。〔一六〕
ところが、とある村を通りかかったとき、そこの百姓どもが、多勢な私たちを見て、盗賊の一団と早合点し、自分らの財産をひどく案じて、恐怖のあまり、彼らの獰猛《どうもう》なでっかい番犬に、日頃訓練した鋭い叫び声やさまざまの合図をして、私たちに嗾《け》しかけたのでした。この番犬ときたら、どこの狼よりも、どんな熊よりも手強《てごわ》い奴で、外敵を防ぐため用意周到に馴らしてあったため、もともと狂暴なところへ、主人たちの耳なれた号令を聞いたのでたまりません。ますます激怒し、私達を目がけて走ってくると、周囲をとりまいて、あらゆる方向から飛びかかり、家畜といわず、人間といわず、見境いなく噛みつき始めたので、かれこれするうち、大部分のものがやられて地上に倒れました。全くその光景は生涯忘れようとしても忘れることのできない残虐きわまるものでした。猛り狂った無数の犬が、逃げ惑うものを追いかけ、行き迷っているものに飛びかかり、倒れているものに飛び乗り、私たちの間を縦横無尽に走りまわり噛みついたあの時の有様は。
ところがどうでしょう。この災難に引き続いて、それよりもっと不幸なことが起こりました。それは百姓たちが、屋根の上からあるいは近くの丘のてっぺんから私たちの頭上目がけて石をなげ始めたのです。そこで私たちはどこに行ったら、一番安全なのか、どうして足元の番犬の攻撃や、遠くからの飛礫《ひれき》を逃がれたものか、全く宙に迷うほどでした。そのとき突然にも、一つの飛礫が私の背に乗っていた女の頭に命中しました。すると、彼女はその苦痛を辛抱できなくて泣き叫び、大声をあげて私の世話係だった夫を呼び、助けをもとめました。〔一七〕
そこで夫は「神々も照覧あれ」と叫び、妻の血を拭きながら、力一杯抗議したのです。
「お前さんらは、どんな考えで、こんなに残忍な気持となって、哀れな人たちを、そうよ、疲れはてた旅人たちを、よってたかって殺そうとするんだい。俺たちから何を掠奪したいっていうのか。俺たちにどんな損害を与えたら満足するんだ。人間が血|達磨《だるま》になってるのを見て、笑ってるようなお前さんらは、きっと狼の洞窟か、野蛮人の岩屋にでも住んでいるんだろう」
この言葉がすむかすまないうちに、雨|霰《あられ》と降ってきた石はピタリと止り、物凄い犬たちの嵐のような喧騒も静まりました。そこでやっと糸杉のてっぺんに登っていた一人が、
「俺たちはお前さんらの持ちものを取ろうというような欲深い泥棒じゃない。ただお前さんらに乱暴されるんじゃないかと思って防ごうとしただけだ。こうとわかったら、もう何もせん。安心して旅を続けなされ」といいました。
私たちはほとんどみながみな、あるいは石に打たれ、あるいは犬に噛まれ、全身傷だらけのていたらくで、残りの行程を進みました。そのうち相当歩いたと思われる頃、とある森に辿りつきました。その森は欝蒼《うっそう》と繁り、その周囲は緑の芝生に取りまかれ、見るからに心地よい場所でした。その時、一行の統率者たちが提案して、ここで暫くみんな休み、各自、体力を回復させるなり、さまざまの傷を丁寧に手当てするなり、した方がよかろうということになりました。みなそこら一帯に散らばり大地に身を投げ、先ず困憊《こんぱい》した心を蘇生させた後、傷口に思い思いの治療を施すのに一生懸命でした。
あるものは前を流れている小川の水で血を洗い、あるものは腫れた個所に酢の染みこんだ海綿をあて、あるものは、大きな口を開いた傷に繃帯を巻く、といった具合にそれぞれ自分の手当てに気を配っていました。〔一八〕
暫くしてふと気がつくと、遠くの丘の頂から一人の老人がこちらの方を見ているのです。彼の側で山羊が草を食べていることからして、どうやら彼は牧人と思っても間違いないようです。そこで私達の中の誰かが、その老人に向って、「乳を売ってくれないか。しぼりたてでも、固ってチーズになりたてのでもよいが」と叫んでみました。老人はゆっくりと頭を振りながら答えたことには、「お前さんらは何を申さる。今ごろ食べ物とか、飲み物とか、あれこれ滋養物の算段しとる時でもあるまい。お前さんらは一体どこにいるのかご存知かな」
こういったと思うと、くるりと向を変え、遠くの方へ山羊を引いて立ち去りました。その老人の言葉と逃げようは、私らの牧夫たちに異常な戦慄を与えました。不安にかられて、この土地がどういう所なのか知りたいと焦《あせ》っても、誰一人それを告げてくれるものがないと思っていた矢先、一人のかなり大柄のだいぶ耄碌《もうろく》した老人が、弱々しい足どりで、涙を沢山流しながら全身杖に寄りかかってこちらに近づいて来たのです。そして私たちの姿をみとめると、慟哭し、若者の一人一人の膝にとりすがりながらこう嘆願するのでした。〔一九〕
「お前さん方が、もしわしの願いを叶えて下さるなら、|運命の女神《フォルトゥナ》とお前さんらの守り神とに誓って、わしの年頃までも健康で幸福に長生きされるよう祈ります。それで望みの絶えた老いぼれめを哀れと思って、下界からわしの可愛い子を救いあげ、白髪の私にお返し下され。と申すのは、わしの孫が、この世でたった一人の身内が、たまたま生垣で鳴いていたスズメを取ろうってわけでそれに夢中となり、後を追ってると、灌木の根元に口を開けていた穴の中へ、落ち込んじまい、今は死なんばかりなもので。あいつが、しきりにおじいちゃんと泣き叫ぶ声で、まだ生きているわいと思っても、わしはご覧の通りの耄碌の身、助けてやることもできませんのじゃ。幸いお前さんらは若くて力もあることだし、哀れな老人に手を借して下さるのはお易いことでしょう。どうかあの子を、私のたった一人の子孫を、最後の後裔《こうえい》を、つつがなく取り戻して下され」〔二〇〕
こう老人が髪をひきむしりながら、哀願したもので、そこにいたものはみな同情してしまったのです。その時、誰よりも心丈夫で、年若く体も屈強と見える若者が、そういえば一行のうち彼だけが、先刻の騒動からも、かすり傷一つ受けないで逃げていたのですが、この男が、決然と立ち上り、子供のおっこちたという場所を尋ね、指で合図する老人と一緒に、ほど遠くない、とげとげしい藪の方へと急ぎました。その間に、私たち家畜も食事を済ませ、牧人たちも傷の手当てを終え、みんな元気を回復すると、各自、荷の準備をして出発にとりかかりました。そこで一同はあの若者の名を呼び、何度も叫んでみましたが、いつまでたっても返事がないので、何ということなく胸さわぎを覚え、仲間の一人に、彼を呼びにやりました。まだ帰って来ないあの友に出発の時間を知らせ、連れ返すためでした。ところが少したってこの迎えの男が帰ってくると、その顔は白楊《はくよう》のように蒼白で、がたがたと身を震わせながら、仲間についてこんな奇怪な報告をしたのです。
彼が仲間を発見したときには仰向けに倒れたまま、もうその体のあらかたは、物凄い大蛇に呑み込まれて、手の施す術もなかったそうで、そのうえ、あの哀れな老人はどこを探しても見当らなかったということでした。この報せを聞いた途端、みなは先刻の丘の上の羊飼いの言葉をはっきりと思い出したのです。あの牧人の不吉な警告は、ここらあたりに、あんな恐ろしいもの以外、誰一人住んでいないという意味だったのです。そこで一行はこんな人里離れた物騒千万な場所からは、一刻も早く逃げた方がよいと、私たちをでたらめに鞭うちながら、先へ追いやったのでした。〔二一〕
こうして、慌てふためき、相当長いこと旅したと思える頃、やっとある部落につきました。そこで一晩泊ったわけですが、たまたまその地で起こった事件を、今でもはっきりと覚えているので、ここに紹介しておきましょう。
この話の主人公は奴隷ですが、彼は奉公人全部の監督を主人から仰せつかっていたうえ、私達が逗留した大きな荘園の管理人でもありました。彼は同じ家の奉公女を娶《めと》っていたのですが、他の家の解放奴隷の女に恋の炎を燃やしたのです。そこでこの男のつれ合いは、夫の不義に烈しい恨みを抱き、夫の帳薄をみんな寄せ集め、そのうえ夫が納屋の中に大切に隠していたものまで運んできて、それらに火をつけ焼いてしまったのです。彼女はこんなひどい仕返しをしても、自分の閨《ねや》に加えられた侮辱に、心ゆくまで復讐したとは思わなかったのか、われとわが身に憤怒の炎をもやし、綱で自分を縛り、そのうえ夫との間にできていたまだ頑是《がんぜ》ない子もその綱に結びつけると、赤坊もろとも深い井戸の中へ真っ逆さまにとび込んだのでした。
この男の主人は、この投身自殺の話をきいて大変嘆かわしく思い、不身持ちからこんな悲惨な事件を惹き起こした件《くだん》の奴隷を捕えると、彼を裸にし全身に蜂蜜を塗りたくり、無花果《いちじく》の木に固く縛りつけました。その木というのが根元に無数の虫穴をもっていて、その中にアリが棲みつき巣をつくるのに熱心で、もう出たり入ったり、まるで湧き出る水のように列をなして歩きまわっていたのでたまりません。このアリが、彼の体の甘い蜜の匂いを嗅ぎつけて、尽きることなく群り寄り、執念深く噛みついて離れなかったのです。なるほどその痛みは軽いとはいえ、何しろ長い間にわたって噛みつかれたので、やがて肉は無論のこと内臓までも食い尽くされ、見るも悲惨な屍体と変わり果て、遂には、肉をきれいにしゃぶりとられた骨だけが、その不吉な木にくっついて白く光っているということでした。〔二二〕
私たちはこの土地でも、こんな呪わしい因縁にまとわれたので、滞在を長引かすのをよし、大変愁嘆していた村人たちを後にすると、再び旅を続け、まる一日平坦な道を通って、とある賑やかな有名な町につきました。その時はもうすっかり私たちは疲れ果てていました。牧人どもは、その町に竈《かまど》を構え、永住の場所ときめました。それというのもその土地が追手から遠く離れているので、隠れ場所としては結構安全と思われたうえ、豊かな食糧に恵まれているという話も魅力だったわけです。私たち家畜はというと、良い値段で売り飛ばせるよう、三日間休息させられ、市場へ引き出されました。そして競売人が大きな声で一頭ずつの競《せ》り値を呼びあげるにつれ、馬とかロバなどが次々と金持の買い手に落されて行きました。ところが私の方は、一人ぼっち取り残され、ぼんやり立っているだけで、どんな買い手も私を軽蔑したように通りすぎるのでした。やがて私は買い手たちが歯に手を触れて年齢《とし》を数えて行くのにそろそろ飽き始めた頃、たまたまある人が汚い指で、私の歯茎をいつまでもひっかきまわして止めなかったので、私はその臭い不潔な手を、口の中に狭み、こっぴどく砕いてやりました。これを見た周囲の人たちは、私を買うのは危険だと思ったのでしょう。それからは競売人までも、私の不幸を嘲笑して、もう相当|喉《のど》を痛め嗄《しゃが》れ声で苦しんでいたにも拘らず、こんな戯言《ざれごと》をまくしたてるのでした。
「このぐうたらロバがよ、売ったって二束三文にもならんわい。この老いぼれを見とくれ。蹄は磨り切れ、体はさんざん笞の傷跡で見られたざまじゃない。それによ、のらくらと怠けている時に、かえって猛烈に暴れるときている。役に立つことといやあ、こいつの獣皮から石膏屑《せっこうくず》の篩《ふるい》をつくるのが関の山だろうて。しかしまあ秣《まぐさ》を捨ててやっても平気の平左という人があったら、その人にこいつをゆずってあげてもいいぜ」〔二三〕
こういって競売人はあたりの人を哄笑させたのです。ところであの|運命の女神《フォルトゥナ》は、私が今まで何度も意地悪い彼女の仕打ちを逃がれていたために、折角いろいろと私を苦しめたことも満足できなかったのか、またも、あの無分別な目を私に向けてこの哀れな姿にまことにぴったりと似合った買い手を見つけてくれました。こころみに、その買い手なる人をここで紹介しときましょう。彼は相当の年をしてなかなかの道楽者で、禿げた頭に残っていたわずかの白髪をカールさせて前に垂らしていました。彼は世の下積みになって暮らしている屑《くず》の一人で、家から家へ、町から町へと鉦《かね》や拍子木を打ち鳴しながらシリアの女神の像を持ちまわって、物乞いし、やっとこさ暮らしていました。
この男が、何とかして私を手に入れたいと、競売人に私の産地を尋ねました。すると彼は、「カッパドキアの産でだいぶ手ごわい奴だ〔カッパドキアはロバではなく、旺盛な体力をもった奴隷で有名であった〕」と申しました。次いで私の年齢を尋ねると、競売人はふざけた調子で「さる占星学者とやらが、このロバの星座の位置を確かめ、年齢を計算したところ、五歳だそうだが、これはまあ戸籍とやらを見れば、一番よくわかることさ。俺は、ローマ市民を奴隷として、お前に売りつけようものなら、コルネリウス法にひっかかることになろうが〔かかる内容をもった法が存在した形跡はない〕、そんなことは覚悟のうえだ。でもお前さんは何も遠慮することはいらねえ。この善良で有用な奴隷を買ったらいいさ。家の内でも外でも手助けになることうけあいさ」
しかしこの忌わしい買い手は、その後も次から次へと質問して最後に私の性質がおとなしいかどうか心配そうに尋ねました。〔二四〕
これに答えて競売人は、
「まあ羊ですかな、ロバとは思われません。どんな仕事をさせてもおとなしく、咬みもしなければ蹴りもしない、いわば、ロバの皮をまとった善良な人間様よ。俺のいうことが嘘だと思うなら、お易いこと。ちょっとお前さんの顔を、あいつの股の所に近づけて見なさい。どんなに辛抱強いロバか、すぐにわかるさ」とその放蕩者を茶化したので、彼もここでやっと愚弄されていたことに気づき、かんかんに怒ってしまいました。「え、このろくでなしの聾《つんぼ》で唖《おし》の馬鹿野郎め。全能にして万物の母にましますシリアの女神さま、聖なるサバディウスにしてベロナ、アッティスと共に母なるキュベレ、アドニスと共に至上のウェヌスにあらせられる女神さま、どうかこの競売人の目を抉《えぐ》りとって下され。こいつときたら、先刻からずっとあっしを口汚く嘲弄し続けたんだ。この野郎は、こんな暴れ馬に、あっしが女神を載せるとでも思っとるのか。そんなことでもして見ろ。このロバが急に暴れ出し、神聖な御像を振り落しやがって、あっしときたら可哀いそうによ、髪を乱し、八方に走りまわって、地上に投げ出された女神のため、医者を探して来なければならなくなろう」こう罵《ののし》っているのを聞いていて、私は突然狂ったように跳ねてやろうかしら、そしたらきっと彼は、私を狂暴な獣と思い買うのを断念するだろうと考えました。
とその矢先、この計画の先を越し、迷っていたその買い手が代金を支払ったので、私の主人はご承知の通りすっかり私に愛想をつかしていた折から、すっかり喜び、少しも難癖をつけないで千円の代金を受け取りました。それから、私の鼻面《はなづら》に綱をかけるとピレブス〔青年を愛するものという意〕に手渡しました。ピレブス、これが私の新しい主人の名前でした。〔二五〕
さてこうして彼は新しい奴隷を手に入れると自分の家へ連れ帰りました。玄関に一歩足を踏み込むと、奥の方に向ってすぐ大声でこう叫びました。
「おい、娘たち、お前さんらに可愛い奴隷を買ってきてやったぞ〔この宗教団体の信者たちは去勢されているので、皮肉にこのような女性形を使ったと思われる〕」これに答えて出てきた者たちというのは、よこしまな性遊戯を楽しんでいる踊り手の一団で、私を見ると一同大喜びで跳ね上り、人ごとながら喉も裂けようと心配になるほどの甲高《かんだか》い女のような嬌声をあげて、耳もおおいたくなるほどです。しかし彼女らにしてみれば、自分らの仕事に恰好な奴隷ができたと思ったので無理もないでしょう。ところが実際は処女たちの身代わりとなる牝鹿ではなく、男手の当座しのぎのロバであるのを知って、彼女たちは顰面《しかめつら》をし、親方をいろいろとからかうのでした。
「あんたの連れてきたのは、あっしらの奴隷ではなくて、あんたの情夫《いろ》じゃないか」とか「こんな可愛い若鳥を、あんた一人で食べないで、時にはあんたの小鳩たちにも分けてくれるんだぜ」
こんなお喋りを互いにやりとりしながら、彼女らはすぐ近くの秣槽《かいばおけ》に私をつないでくれました。
さてこの一団には太った一人の若者がやとわれていましたが、彼は踊り手たちの伴奏をする巧みな笛吹きでした。一団はこの男を奴隷市場から買ってきたのですが、一行が外に出て女神を引きずりまわす時は、彼は笛を吹いてついて歩き、家にいる時は日常の仕事を誰かれのといわず引き受け、大変重宝がられていました。彼が、その家で私を始めて見たとき、頼みもしないのにたくさんの秣《かいば》をもってくると、顔をほころばせてこう話かけたものです。「お前さん、ようこそきてくれた、俺のつらい仕事を助けにな。せいぜい生き長らえ、主人のごきげんをとったり、俺の疲れきった腰にも慰めを与えてくれよ」
この言葉を聞いて、またも私の将来が茨の道であることを観念したのでした。〔二六〕
翌日になると一団は、さまざまの色合いの服装をまとい、ぞっとする飾りつけで、顔には顔料を塗りたくり、目の縁《ふち》を油絵具で色どって、旅立ちました。あるものは頭巾《ずきん》を巻きつけ、サフラン色の着物をまとい、亜麻や絹の帯をたらしています。中には、真白い地一面でたらめに小槍状の文様を紫に染め出した上衣を着て、腰紐を縛りつけ、足に黄色い短靴を履いていました。女神の像は絹の外皮を着せられ、私の背中に負わされました。
一行はみんな肩まで腕をむきだし、手に大きな剣や斧を振り挙げ、笛の音に調子を合わせ、バッカス酒神のお祭りの行列さながらに、わめきながら踊り狂って行くのでした。こうして一行があちこちの家で物乞いし、ある富豪の別荘らしい所までやってきました。その屋敷に一歩踏み込むと、一行は調子はずれの声をあげて、唸り、狂人のように跳び出したと思うと、やがて頭を下げ、目もくらむ早業でもって首をねじり、長く垂れた髪の毛を身の囲りに振り乱しながら、時にわれとわが身に噛みついていましたが、とうとう持っていた両刃《もろば》の剣で思い思いに腕を切りつけ出したのです。そのうち一団の中でも最も激しく狂っていた一人が、心の底から息もたえだえに喘ぎながら、まるで神霊が魂を一杯にしているような恍惚の状態におちいりました。この男を見ていると、神に憑《つ》かれた人間が、決して浄福といわれるものではなく、むしろ衰弱した病人のように気の毒だと思うのでした。〔二七〕
その証拠にごらんなさい、天帝の摂理がどんな功徳《くどく》を与え給うたか。その男は予言じみたことを叫びたて、まことしやかにわれとわが身を罵倒し、まるで神聖な掟に何か不敬なことでも冒したように、自分を弾劾し、自分の大罪には、みずから正当な罰を課したいとしきりに願うようになりました。そこで彼は鞭をとりあげ、その鞭というのが、女の腐ったようなその男に全くふさわしいもので、羊毛を綯《な》って作ったほっそりした紐に、その全体にわたって羊の骨を縛りつけ、末端には長い房がついているという代物、この節くれだった鞭でもって自分の体を打ちのめしながらも、その苦痛を恐ろしいほど我慢強く耐え忍んでいました。
ここで皆さんにもほぼ想像のつくことでしょうが、一団が剣を切りつけたり、鞭うったりしているうちに、迸《ほとば》り出た血によって大地が汚く染まったのです。こんなに大層傷口から溢れた血を見て、私自身異常な不安に襲われてきました。ひょっとしてこの異国の女神も、ロバの乳を欲しがる人のように、ロバの血を胃の中に吸い込みたくなるのではないかと。しかしそれは単なる杞憂《きゆう》に終わり、やがて一行は疲れてきたのか、それともわれとわが身を傷つけることに満足したのか、あの拷問を一時中断させました。するとこれに立合っていた人達が、われ先にと、銅貨はもちろん銀貨さえも投げ出しました。それを一行は懐《ふところ》を開いてしまい込みました。それにお金ばかりか、酒の瓶とか牛乳、チーズ、麦粉、小麦といったものまで施してくれ、中には女神の運び手にといって大麦をくれた人もありました。そんな施し物を、一行は貪欲にかき集めると、わざわざこのためにと用意してきた袋の中へ、つめ込み、それまで私に背負わせました。そういうわけで以前の二倍にもなった重さに喘ぎながら、私は一度にお宮と穀物倉となって歩きまわらざるを得なくなったのです。〔二八〕
こんな具合に一行はあちこちを彷徨し、至る所でかっぱらいをやって、やがてある部落につくと、いつもより多かった収穫を喜んで、一行は祝宴を張ることにしました。そこである百姓をつかまえ、よく肥えた彼の牡牛を見て、それを生贄に供したら勿体なくもシリアの女神の餓えを宥《なだ》めることになろう、とでまかせの予言を捏造《ねつぞう》してだましとり、そうして、夕食の準備を万端ととのえ、浴場に行きました。体を洗って帰るとき、一人の元気のよい田舎者を、その逞しい体つきや下腹の具合が、彼らの好みに合ったのか、夕食の仲間にといって連れてきました。暫く前菜をとって、これからが本当の饗宴だという頃となると、一行は、もともと恥知らずのけがらわしい奴らだったので、淫らな炎を燃し、自然に悖《もと》った情欲から、言語道断な淫蕩の中にくずれ落ちたのです。彼らはその若者の周囲をとりまき、裸にすると、彼を仰向けに倒し、口々に呪いの言葉を投げかけて、辱しめ出したのです。私はこんな恐ろしい光景を見ているうち、だんだんと息苦しくなってきたので、「おー、助けてくれ」と叫ぼうとしたのです。が、どだい言葉もいえず、発音もできず、ただ「おー」という声だけが、はっきりと力強く、でもロバの嘶きみたいなのが出てきました。しかし私としたことが何と具合のわるい時に叫んだものでしょう。というのは、ちょうどその時、近くの村の若い者たちが大勢で、逃げた仔ロバを尋ね、懸命にあちこちの家を捜している最中だったので、たまたま家の中で嘶いた私の声を聞き、さては誰かが盗み、家の奥に隠したものと早合点し、自分らの手でそのロバを取り戻そうと、突然どやどやと家の中に踏み込んできました。そして彼らは、一団が恐ろしい淫乱に耽っている現場を、すっかり見つけてしまったのです。たちまち隣近所の人達が四方から呼び集められ、そして、唾をかけたいようなこの状況を人々はお互いに披露し合って、生臭《なまぐさ》坊主らのいとも神聖な純潔を皮肉り哄笑したという次第です。〔二九〕
この醜聞は人々の口から口へ伝わって、見る間に拡がり、そして当然のことですが一行は世間の憎悪と罵倒を浴びるに至り、身の危険を感じたので、真夜中ごろ、施し物をみんな荷造りするとほうほうの体《てい》でその部落を逃げ出しました。
朝日が昇るまでに私たちは相当の道程を進みましたが、やがて頂上に日が輝く頃となって、行く手に荒涼とした平野が現れました。そこに至って一行は何ごとか長い間、相談していましたが、結局私をばらしてしまおうということになりました。それで私の背から女神の像を下ろし地上に置き、一切の鞍荷もとりのけてから、私をある樫《かし》に縛りつけると、誰かれとなく、例の羊の骨のついた鞭でもって、ほとんど殺さんばかりに打ち始めました。中の一人は私が彼らの潔白な廉恥心をあんなにひどく侮辱したといって、手斧で私の腱をたたき切ってやると脅しました。すると、他のものたちは、私の体のためを思ってというより、大地に投げ出されてあった女神のことが心配になり、私の命をつなぎとめておいた方がよいという意見を出しました。
そういうわけで一行は再び私の背に荷物を積むと、抜身でもって私を脅しなどして、ある有名な市にやってきました。そこの市長というのは万事につけて敬虔な方で、就中この女神の大変な信心家というので、私たちの鳴らす鉦や鼓の音を聞き、人を酔わせるようなプリュギア風の笛の調べに誘われてやってくると、女神をおし頂き、丁重にもてなすことを誓って、私達一同を、彼の豪壮な屋敷に案内して行きました。そして彼は女神の恩寵をさずかりたいと熱心に敬虔な祈りを捧げ、最も立派な生贄を供えたりしました。〔三〇〕
ところが、今でも忘れることのできない大変危険な事件が、この地で私の身の上に起こったのです。それはこういう次第です。
ある小作人が、市長の所へ獲物の一部だといって、大きな鹿の肥えた腿肉を持ってきました。それは不用心にも台所の戸口の裏側の、余り高くない所に吊られたのですが、そこへどうやら猟犬らしい犬がこっそり忍び込み、喜んでその獲物を平らげると、素早く見張人の目をかすめて逃げ去りました。この損失を知った料理人は、自分の不注意を責め、さんざん恨んで泣いてみたものの後の祭りで、やがて主人の命令で夕食を出さねばならなくなったときは、悲嘆と心配ですっかり意気消沈したのでした。彼は息子たちに最後の挨拶をすますと、綱をもって輪をつくり、それで首を吊り自殺しようと決心しました。しかし、夫の土壇場を、彼の貞節な妻が見逃がしておきませんでした。彼女は呪わしい夫の罠を、邪険に両手でひったくると、
「お前さんったら、今度の災難ですっかり血迷い、ぼんやりしてしまってさ、神様の思召《おぼしめ》しから、あんなにありがたい逃げ道を用意して下すったのに、それがわからないなんて。さ、お前さんが不幸のどん底から元気をとり戻せるなら、私のいうことをよく聞いてごらんよ。実はあのロバなんだがね、誰のものか知らないが、人のいない所へ連れて行って、叩き殺してやるんだよ。それからあいつの腿の肉を、盗まれた鹿の肉そっくりに切ってとり、それを抜け目なく風味豊かなシチューに調理し、主人の所へ鹿の代わりに出すんだよ」すると、憎らしいことにこの悪漢は、私を殺して自分の命拾いをするのを喜ぶ一方では、賢明な妻をひどく賞めちぎり、それからいずれ私の肉を切り裂くためのものでしょうが、いろいろの庖丁を研ぎにかかったのです。〔三一〕
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巻の九
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ロバのルキウス危く屠殺を逃がれること―シリア女神の信徒らの悪業露見、土牢にぶち込まれること―ロバのルキウス、粉屋に奉公のこと―粉屋の女房と情人の話―粉屋の亭主、魔法使いに殺されること―ロバのルキウス、畠作人の手にわたること―正直な三人兄弟が相ついで不幸に陥る物語―兵士が畠作人からロバのルキウスを奪うこと
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こうして、あの卑劣な死刑執行人が私に向って裏切りの手を武装していた間に、私は目前に差し迫った重大な危険から、私の考えを一挙に決断させたのです。つまりこれ以上長々と逡巡してないで、この土壇場を逃げ、恐ろしい肉切りから脱れてやろうと決心したのです。
そこですぐさま私は、縛られていた鼻綱を切ったと見る間に、ありったけの力をふりしぼって突進し、命あっての物種と猛然と行きあたりばったりの扉を突き破って食堂に飛び込んじまったのです。そこではちょうどこの屋敷の主人が、例の女神の坊主たちと供物でもって饗宴の真っ最中だったのでたまりません。折角用意された豪華な料理も食卓も灯火も、私の闖入《ちんにゅう》で粉微塵となって八方に散らかりました。目もあてられない狼籍ぶりに主人はすっかり血迷って、私を手の施しようのない野育ちのロバと思い込み、早速奴隷の一人を呼んで、私を注意してどこかへ連れて行き安全に閉じこめ、二度とこんな暴れ方をさせて楽しい夕食を台無しにされることのないよう縛っておけ、と命じました。私は当を得たこの窮余の一策でもって、あの屠殺者の手をうまい具合に逃がれ命拾いをし、安全な牢獄の中に保護されたのを、心から歓喜したのでした。しかしながら|運命の女神《フォルトゥナ》の味方がない時は、何としても人間に幸福の訪れるわけがなく、それに神慮の定め給うた動かしがたい計画というものは、人間がいかに思慮深い策謀をめぐらしても、賢明な手段を講じても、これを覆《くつがえ》したり、変更したりできないものです。そういうわけで一時は私を命拾いさせたと思わせたあの計略が、かえって一層ひどい危険をもたらし、私を破滅に陥《おとしい》れることになりました。〔一〕
と申しますのは、だしぬけにある下男が興奮し蒼白な顔を震わせ、会食者たちが心地よく談話している食堂に馳け込んで、主人に向って告げたことには、近くの小路からつい先刻、狂犬が恐ろしい勢いで、裏門に飛び込むなり、やにわに怒り狂って猟犬に襲いかかり、それから側の厩《うまや》にも突入し、いよいよ狂暴を加えてそこの沢山の家畜を攻撃し、そればかりか、とうとう人間の生命も脅《おびやか》すに至って、ロバ曳きのミュルティルスや料理人のヘパエスティオや家令のヒュプノピルスや侍医のアポロニウスとか、その他《ほか》に沢山の家の者たちが、その狂犬を追い払おうとして、みんなそれぞれ咬みつかれ、傷ついたというのです。そうして、家畜の中には毒牙にやられ、その狂犬そっくりに暴れ狂ってるものがあるとのことでした。
この報せをきいて居合わせた人はみんな一斉に心を動揺させ、さてはロバの私も同じように恐ろしい病毒をもらって暴れたに違いないと早合点し、みんなてんでに刃物を手にとり、お互いの災難を追い払おうと励まし合いながら、いやはや狂犬病に祟《たた》られたのは私よりもむしろ彼らの方で、私を探しにやって来ました〔ロバはすでに従僕の手によって牢屋のような所に封じ込められていたのだが、アプレイウスは、それを忘れているらしい〕。そういうわけで、もしも私が正に落ち込まんとした破滅の淵《ふち》を予見して、私の飼い主たちが一夜を泊めてもらうはずだった部屋の中に突然とび込まなかったならば、彼らが、すぐさま召使の用意した槍や棍棒や両刃の斧でもって、私の体をさんざんにぶったたいていたことは間違いなかったでしょう。彼らは私の入った部屋の扉を閉じ、閂《かんぬき》をかけると、その場を取り囲んで、もう私の飛び出す危険がないことを確かめ、私が致命的な病毒に冒され、狂犬病に力《ちから》つきて、死んじまうまで待つことにしたのでした。こんな具合でやっとこさ、私は自由の身となり、孤独という幸運の贈り物をしっかりと胸に抱いて、用意されていたベッドに横たわり、本当に何年かぶりに、人間さまのやすらかな睡眠《ねむり》を味わったのでした。〔二〕
さて夜が明けると、私は心地よい寝床でねたため疲労もすっかり回復して、気持よく起き上りました。すると、徹夜で警戒していた人たちが、私の運命について、互いにこんな会話をやりとりしているのを、耳にしました。
「あの哀れなロバは、今でもまだ暴れ狂うだろうか」とか「いやきっと今頃は、病毒の烈しさが頂点を過ぎて、鎮《しずま》ってるかも知れん」とか、いろいろの意見を吐いてましたが、結局誰の意見が本当か試すことになって、隙間から、私をのぞいてみました。ところが私はというと、つつがなく悠々と落着き払っていたので、今度は扉をあけてみて、私が本当におとなしくなっているかどうかもっとはっきり知ろうとしました。そのとき、中の一人が、私には彼が天上から救済者として送られてきたように思えたのですが、私が果たして正気になってるかどうか検証する方法を、みんなにこう説明してやったのです。
「鉢に新鮮な水をなみなみついで、持ってきてロバに飲ませるのだ。もしロバがちっとも恐れないで、いつものようにそれを喜んで飲むなら、もう正気に返って、すっかり病毒から解放されてしまったと判断してよいだろう。それに反して、あいつがもし、その水を見て恐れをなし、触れようともしないときは、昨夜の狂気が相変らず強情に残っているという証拠なのだ。もっともこういうやり方はとっくの昔、本にも書かれていて、誰でも知っているやつなんだが」〔三〕
一同はこの意見に賛成して、すぐさま近くの井戸から、とってきたきれいな水を、大きな鉢に入れると、その時になっても幾分ためらいがちに、私の所にもってきました。そこで私は遠慮容赦なく、すぐさま前の方に足を踏み出し、がぶがぶとさもおいしそうに首を曲げて、いいえもう頭も全部突込んで、命の恩人とでもいいたいこの水を、飲み干したのです。すると今度は、私を手で叩いたり、耳をひっくりかえしたり、鼻綱を引っぱったりして、いろいろなことを試みたのですが、私は彼らの気違いじみた予想を裏切って、どんなことをされても平然としていたので、とうとう彼らは、私の性格がおとなしくなったことを、はっきりと認めることになりました。
こうして私は度重なる災難を脱して、翌日には再び御輿《みこし》を背負わされ、拍子木や鉦《かね》を打ち鳴らして、辻から辻へと彷徨して行く物乞いの旅に連れ出されました。多くの大小の部落をすぎて、ある村につきました。そこの住人たちの話によると、その村は、昔栄えた町が廃墟となり、その中に建てられたということでした。その村で一番先に見つけたある旅籠屋に泊りましたが、私たちはそこで滑稽な話を聞きました。それは素寒貧《すかんぴん》の寝取られた話ですが、ここで皆さんにお聞かせしようと思います。〔四〕
さて彼は赤貧に苦しみながらも、下請負いの仕事をして、ささやかな儲けでもって、やっとこさ生計をたてていました。彼には妻がありましたが、夫と同様すれからしのうえ、これがどうも困ったことに、世間では淫らな女という評判でした。ある日のこと、朝早くから件《くだん》の夫が賃仕事のため、家を出ると、すぐ入れ違いに図々しい情夫が彼の家にこっそりと入ってきました。そして二人が愛の手合わせを悠々と行っていたところ、知らぬが仏の夫は、もちろんこんなことは夢想だにしないで、不意に家に帰ってきました。すると自分の家の戸が締り、錠もかかっているのを見て、彼は妻の貞節を誉めながら、戸を叩き口笛を吹いて、自分の帰ってきたことを知らせたのです。狡猾な上に、どんな破廉恥なことでも平気でやってのける彼の妻は、ときがたい抱擁から情夫を手離すと、部屋の隅っこにあった大甕《おおがめ》の中に、彼をこっそり隠しました。その甕の半分は土の中に埋まっていて、上半分が空いていたのです。こうしておいてから戸を開き、夫を入れると、彼に向ってこうあたり散らしたのです。
「なんでまたあんたは、そんなにぼんやりしてさ、のうのうと懐手で歩きまわっているのよ。毎日の仕事もそっちのけ。うちの生活もお構いなし。食うものもろくに算段しないで、一体あんたはどういう了簡なの。あたしときたら、夜といわず昼といわず針仕事で神経をすりへらしてさ、それでいて小さな部屋に蝋燭《ろうそく》をつけるのが精一杯じゃないの。ああ、隣のダプネは、あたしなんぞ較べものにならない幸福者、朝っぱらから困るほどの飲み放題、食い放題で、いろんな男といいことしてるんだわ」〔五〕
こう剣もほろろにやっつけられては、夫もだまっておれません。
「何をぬかすか、仕事場の大将が訴訟を起こしたんで、俺たちに休暇をくれただけの話さ。でも今夜の夕食ぐらい心組みはしてるんだ。ていうのはな、あの大甕のことさ。見ての通りいつも空っぽのまま、余計な場所を占領していて、そればっかりか、俺たちの出入りの邪魔にもなってるんだ。おれはあれを三百円である人に売っちまったんで、今にその買い主が代金を支払いにやってきて、自分でそれを持って行こうってことになってるんだ。それでお前も身支度して、ちょっと俺に手を借してくれんか。それを土から掘り出して買い手に渡せるようにするんだから」
事ここに至っても悪賢い女は、ふてぶてしく笑いころげて、
「何とまあ、大した腕前の商人と私は一緒になったもんね。私はよ、女の身でありながら、それに家から一歩も外に出るわけじゃないのにさ、ついさっき、四百二十円で売ったんだよ。私の値段よりお前さんが安く売ろうなんて」
といったものでこの売り値にすっかり喜んだ夫は、「してその男とは誰だい。そんなに高く買ってくれた男とは」とせき込むと、
「やれやれお前さんはどこまで間の抜けた男なんだろう。買い手はさっきからあの大甕の中に入ってさ、熱心にその持ちのよさとやらを確かめてるんだよ」〔六〕
女がこういったと思うと、すぐ甕の中の男は、威勢よく立ち上って、
「正直に申して、奥さん、この甕は相当の古物なので、あちこちに大きなひびが入ってぼろぼろですな」それから彼女の夫に向っては、まことしやかに、「始めてお会いした方に、こういっちゃ失礼ですが、今すぐここへ明かりをもってきてくれませんか、内側の汚れを削り落してみて、この大甕が、果たして使用できるかどうか確かめたいっていうわけで。いくらあんただって、俺が悪銭ばかり身につけとるとは思わんでしょう」
そこで一刻の猶予もならずと、この賢明無比な夫は、少しの嫌疑もかけないで、蝋燭に火を点じて来ると、「お客さん、あんたはそこをのいて、何もせんで待ってて下さい。わしが申し分なくきれいにしてあげますから」
といってすぐその男は着物をぬいで、古甕の中に明かりを持って入ると、長年の汚物を削り取り始めたのでした。すると、何としたことでしょう。まことに色好みの若い情人は、職人の妻を前屈みに甕に向って寄りかからせて、後から被いかぶさるように、体をよせ、意のままに女を悩まし始めたのです。一方女は甕の口へ頭を突込み、夫に向って、娼婦のようにふざけた手管を弄して、こことかあそことか、やたらに削り落す所を指で示しているうちに、二人の手合わせは終ってしまったという次第です。こうして痛々しい職人は、四百二十円をもらって背中にその大甕を背負わされ、密夫の家まで持って行かされたのでした。〔七〕
さて一同はそこに数日間滞在して、お上の仁慈によって懐を肥やし、予言でもって多くの人から礼金をしこたまもらっていたのに、そのうえ、いとも神聖な坊主たちは、こんな新しい金儲けを考えついたのです。彼らはどんな場合にも間に合う一つの神籤《みくじ》を作っておいて、民衆たちがいろいろの相談をもちかけてきたらざっとこんな具合に茶化したのです。先ずその神籤の文句というのは、
「軛《くびき》に繋がれし牛の、大地を耕さば、いつの日か、悦ばしき刈入れの時至らむ」
そこでもし、誰かが婚約したいと思って、尋ねにくると、彼らは「そんな場合の返答はこうなんで、つまり軛とは結婚ですな。それで子供という喜ばしい刈入れがあるわけです」といってやり、ある人が土地を買おうと思って尋ねにくると、牛とか軛とか種蒔きとか収穫の豊富な耕地とか、何とかお茶をにごして、結構間に合わせたのです。また、ある人が行商の旅に出たいのだが、と案じて、神の予言を聞きにくると、「世界中で最もおとなしい家畜が、軛に繋がれてお前を待っている。大地から芽生えたものが、利益を約束している」と。
あるいは戦役に出るとか、盗賊団の狩り込みに行くとかいう場合、人からその結果が成功するかどうか尋ねられたら、「あんたの勝利はこの勇気づける神籤から受け合いだ。というのは、敵の首が軛に繋がれるだろうし、盗賊どもからは、利益ある分捕り品を沢山手に入れるだろう」と保証してやりました。こうして一行はすれからしのごまかしの占いでもって、馬鹿にならぬ金額をせしめたのでした。〔八〕
けれども、うんざりするほど後から後から続いてくる質問に、答える種も不足して、さすがの一行も、御輿《みこし》をあげて、旅に出ました。
ところがその道というのが、以前通ってきたどの道よりも物騒なものでした。至る所地割れで、穴や窪みができていて、大抵その中に水が澱んで沼みたいであったり、時には、すべっこい泥の層で蔽われていたので、私は何度も蹴つまずき、めり込み、そのうちには脚も傷だらけとなったのですが、やっとこさ、どうやら平坦な道に出たときは、もうへとへとに疲れ歩行困難といった状態でした。そこへもってきて、全く突然のこと、武装した騎兵の一団が、私たちの背後から追っかけてきたのです。彼らは馬が怒り狂って跳ぶのを抑えきれないといった調子で走ってくるなり、いきなりピレブスやその他の仲間に猛然と襲いかかり、咽喉を締めつけ、涜聖者《とくせいしゃ》とか罰当りとかさんざん罵って、拳固をくらわすと、みんなに手錠をかけてしまいました。
それから厳しい言葉で責めたてて、
「さあ、金盃を出せ、貴様らの悪業の罰金を払え。貴様らは、いかにももっともらしい面《つら》をしやがって、誰も寄せつけないで儀式をあげ、外ならぬ神々の御母の祭壇から、あの金盃をこっそりと盗んだうえ、おそれ入ったことには、こんな大罪を犯しても、その罰を逃がれようと考えて、まだ夜も明けないのに大慌てで村の城壁をぬけ出しやがって」〔九〕
こういったと思うと、一人の男が私の背中に手をかけ、鞍に背負っていた御輿の中をひっかきまわし、金盃を見つけると、一同の前に取り出しました。そこでふてぶてしい私の主人たちも、今度こそは、自分らの忌わしい罪業を見せつけられて、縮み上がりだまり込むと思ったら大間違い、つくり笑いしながら、こう茶化したのです。
「これは何という不当なお仕置。あなた方は一体どれだけ無垢《むく》な民をいじめなさる気か。それもたった一個の盃ぐらいのことでですな。これは神々の御母が、その妹神のシリアの女神に歓待の意味で贈られた土産物じゃあございませんか。なのに、女神の司祭ともあろうものを罪人扱いにして、死の法廷に引き出されるとは」
彼らはあれこれと繰《く》り言《ごと》を並べたてたのですが、それも空しく、町の人々に連れかえらされると、体を縛られすぐ土牢の中にぶち込まれました。それから私の背負っていた金盃と女神の像は下されて、神殿の宝庫におさめられ祭られました。その翌日私は市場に連れて行かれ、またも競売人の声で、競売にさらされたのでした。すると隣の村のある粉屋が以前ピレブスが買ったよりも七セステルティウス高い値で買い落しました。彼は早速小麦を買ってできるだけ沢山私に背負わせると、小石が一杯散らかり、そのうえいろいろの切り株がのぞいている危険な道を歩かせて、彼の経営している粉挽き場に連れ帰りました。〔一〇〕
そこでは沢山の駄馬が多くの円を描いて、様々の口径の石臼をまわしていました。彼らは昼といわず、夜といわず、休む暇もなく絶えず石臼を回転させて、年中粉を挽《ひ》き出していたのです。さて私には、どうやら初めての仕事に目をまわしては困ると思ってか、新しい主人は外国の珍客を迎えたように、仰山なもてなしをしてくれました。つまり最初の日は休暇を与えて、私の秣槽《かいばおけ》に沢山の秣を入れました。しかしこの閑暇と饗宴の幸福はそれきりだったのです。
翌日になると私は朝からこれ以上大きいのはないと思われそうな挽き臼に繋がれると、その場で目隠しされ、円く曲がった道みたいな円形の溝の中に突き落されました。そこに入ったが最後、定《きま》った軌道をぐるぐるまわって、何度も以前の足跡を踏みつけながら、同じ行程をとぼとぼと進んで行くようこしらえてありました。しかし私は自分の賢こさと慎重さをすっかり忘れてしまったのではありません。初めての丁稚奉公に私は向かないという証拠を見せてやろうと企《たくら》んだわけです。実は私が人間の姿で暮らしていた頃、度々粉屋の挽き臼が、こんな風にまわっているのを見ていたので、その時は、能力もないうすのろを装って、大地に足が生えたみたいに立ったまま、じっと動かないでいたのです。こうしていたら、私はきっと大した|ろくでなし《ヽヽヽヽヽ》と考えられ、この仕事には全く不向きだということになり、たとえのうのうと食べさせてくれないにしても、他の何か、ともかくもっと手軽な仕事にでもまわしてくれようと考えたからでした。しかしこの巧妙な策略は空しく破壊されてしまったのです。というのは間もなく沢山の奴隷が棍棒を手にとって私をとり巻く気配がして(もっともその時は、私は目隠しをされていて、別に怪しむこともなかったのですが)不意に合図の声がかかったと見る間に、彼らは一斉に、どなりちらして、私を山のようにどっさり殴り始めました。いやはやこの無茶苦茶な騒音に私もすっかりたまげて、前後の考えもなく一気に全身の力で麻の綱をきりっと張って、猛然と私の軌道を廻り出したのです。すると人々は私の態度の極端な変わりようを見てみんな哄笑したことでした。〔一一〕
こんな仕事でかれこれ一日も大半が終わったころ、私はどうやら完全に参ってしまって、麻の鼻綱を解かれあの石臼の束縛から解放され、厩に繋がれました。
その時の私はというと、すっかり消耗し空腹《すきばら》をかかえて、今にも倒れそうな有様で、元気を回復させることが目下の急務だったのですが、生れつきの好奇心に気を奪われ、足元に投げ出されてあった沢山の食糧には、目もくれないで、ただもう何ということなく喜びを抱いて、この不愉快な粉屋の内幕を熱心に観察し始めたのです。
ああ、神々もご照覧あれ、ここの奴隷たちはみんな何という哀れな姿をしているのでしょう。皮膚一面にわたって鉛色の鞭跡が、縞馬《しまうま》模様につき、彼らのまとっているつぎはぎだらけの襤褸着《ぼろぎ》は、痣《あざ》のできた背中を、隠しているというよりもむしろそれを一層、陰欝に見せていました。中には前の部分をほんの申し訳ほど布で隠している者もありましたが、大抵のものは、隙間から体がみんなのぞいて見えるような襤褸をまとっているだけでした。額に文字を焼きつけられ、髪は半分剃り落され、足には枷《かせ》をはめられていました。全身が土色になって見るからに身震いを覚えるほどで、瞼は熱気を帯びた黒い煙に焼け爛《ただ》れ、目はほとんど視力を失い、それに粉塵を浴びて、正に白粉を体に振りかけて戦う拳闘士よろしく、白っぽく汚れていました。〔一二〕
お次に私の同僚である荷獣どもについて、どんなことを、どんな具合に語ったものでしょう。あの耄碌《もうろく》した騾馬《らば》や、衰弱しきった去勢馬の姿はどうでしょう。秣槽に頭を沈めて、籾殻《もみがら》の山を食い尽くしている彼らの頭は、腐って膿《うみ》を出している古傷のため、苦しそうに喘ぎ、たるみきった鼻面は、咳の衝動からいつも鼻孔を開き、胸前は麻綱の摩擦に皮をすりむき、肉を露《あら》わし、脇腹は始終鞭うたれて、肋骨まで剥《む》き出しています。蹄の底はいつ終わるともみえない回転歩行のため、無茶苦茶に摩滅し、弛緩した皮膚は所かまわず疥癬《ひぜん》を生やし、脂気を失い、ざらざらとしています。同僚たちのこんな悲惨な姿に、いずれ私もなって行くのだと思うと恐しくてたまらず、ルキウスであった頃の幸福な日をなつかしく思い、一方では、絶望のどん底に突き落されたわが身を、頭を垂れて嘆き悲しむのでした。
そういうわけで、もしも私がその時に生来の物好きな性質でもって気分を晴らしていなかったら、到底あの悲惨な生活には耐えて行けなかったでしょう。というのも、この家の者は、私が目の前にいることなんか、少しも考えず、思いのまま勝手に話したり動いたりしていたものですから。考えて見ますと、あの古い詩を書いたギリシアの神のごとき詩人〔ホメロスのこと。次の比類ない賢者とはオデュッセウスのこと〕が、比類ない賢者を描きたいと発心《ほっしん》して、その詩の主人公が多くの町を彷徨し、世の人をつぶさに観祭して始めて最高の徳を勝ち得た、という風に書いたのもむべなるかなと頷《うなず》かれます。今でも私はあの頃のロバを回想して、本当にありがたく思い感謝しているのです。それもロバが私を被い隠してくれ、いろいろの運命を体験させ、もっと思慮深くさせてくれなかったとはいえ、多くの事柄を学ばしてくれたのですから。〔一三〕
そこで私は比較的面白そうで、気持よくまとまった話をして、皆さんのお耳を楽しませようと思います。では始めます。
先ずあの粉屋ですが、私を買って所有主となったこの男は、ともかく正直者で飛び抜けて実直な男でしたが、どういう廻《めぐ》り合わせか、世の女がみんな顔負けするくらい、意地悪い下品な妻と一緒になっていました。それでこの女から夜も昼も目もあてられないひどい仕打ちをされて、彼の境遇には私|風情《ふぜい》のものも心の中では何度も嘆息したほどです。まことにこの蓮葉《はすっぱ》女ときたら、彼女に見られない欠点というものは一つもなく、というよりこの世のあらゆる破廉恥な行為が、まるであの汚らわしい下水溝に流れ込むように、彼女の心の中に寄せ集められていました。薄情で偏狭で不身持ちで、酒癖のある口やかましい頑固者、そのうえ卑劣で抜け目のないかっぱらい屋で、汚らわしいものにお金を濫費することにかけては恐るべき才能をもち、信仰とか貞節というものを目の仇にして憎悪してました。彼女は、神々の御名をないがしろにして踏みにじり、国家の定めた宗教の代わりに、神は一つしかないと宣言して憚《はば》からず、罰当りにもいかさまの儀式を行って、もともとありもしない戒律を口実に、世の人を騙し哀れな夫まで欺いて、朝から生酒を飲み、年中|淫《みだら》な生活に溺れていました。〔一四〕
こんな女が、皆さんには想像のつかない憎悪を抱いて、私を酷使し続けたのです。夜のあけぬうちから、自分はまだ床の中にいるのに新参のロバを挽き臼につなぐよう叫び、床から出るとまっすぐ私の所にやってきて、奴隷に向い、その女の前でできるだけ沢山私を鞭うつよういいつけるのでした。そして、他の家畜どもが、ご飯時刻となって挽き臼から解放される時でも、私だけはもっと長く働かせてから、厩にかえすよう命じました。私に対する彼女のこういうむごい仕打ちが、かえっていっそう彼女の日常生活に、私の生来の好奇心を煽りたてたのです。というのは、一人の若者が始終あの女の寝室にやってくるということを、私ははっきりと感づいていたのです。それで一度でもよいから、私の目隠しがとられ、思う存分見れる機会が与えられたら、何とかしてそいつの顔だけは観察しておきたいと心から願っていました。その願いの叶えられた時に、この忌々しい女の破廉恥な行状を暴露してやる手段を、私にはどうにかして見つけられないこともなかったのですから。
ところでここに一人の婆《ばばあ》がいまして、彼女の放蕩の幇間《たいこもち》となり、色事の便宜を計って毎日彼女の側に、つきまとっていました。彼女はその婆と朝食の時から一緒になり、お互いに盃を交わして生酒を飲み、気の毒な夫を絶望させるためにずるい芝居を演じて、自己を巧みにくらませていました。私はというと鳥にするつもりでロバにしてしまったあの迂闊なフォティスを大変腹だたしく思っていたものの、一方ではこの憐れな姿に勇気づけられる慰めが一つあったのです。それは大きな耳を与えられ、どんなに遠くの物声でも、みんな容易に聞きとれるということでした。〔一五〕
さてある日のこと、この婆のあたりを憚ったような話し声が、私の耳をこのように打ったのです。
「奥さん、そりゃあ、あんたの自業自得というものですよ。私にひとことも相談しないであんなのろまな腰抜けを連れ込んで。あいつときたら、くそ面白くもないいやらしいあんたの亭主が眉を顰《ひそ》めたら、もう何もできなくなってへどもどしてばかり。あいつの情熱だって一向に燃え上らないし、無気力な男だもので、そのためあんたはいつも満足しきれない抱擁の欲望をかかえて苦しむことになるんですよ。これと較べたら、あのピレシテルス〔娼婦を愛すとの意をもつ〕はどんなに素晴しい男でしょう。若くて見た目にも惚れ惚れとして、気前よく大胆でそれこそあんたの亭主がいくら下手な用心をしたって、蛙の面に水でしょう。あの男こそ、どんな女からも、ちやほやされるにふさわしい唯一人の男ですよ。そう、私は誓っていいます。彼こそ黄金の冠を頭に飾られるにふさわしい唯一人の男です。最近だって嫉妬深い夫を、どんな人も及ばない手段を講じて欺いてしまったんですもの。まあ、私の話をきいてから、あんたの情夫とこの男の腕前を較べてごらんなさいな。〔一六〕
あんたもご存知でしょうが、私たちの町の元老院議員のバルバルスという男を。世間ではあの人のことを気むずかしい性格から蠍《スコルピア》〔さそり〕と呼んでいますが。その奥様というのが大変におしとやかで美しい方でしたので、その監視は大した厳重を極め、あの方を後生大事といつも家に閉じこめておくといった念の入れ方でした」と婆の言葉が終わるか終わらないうちに粉屋の女房は口をはさみました。
「それは私がよく知っている、あのアレテでしょう。私の学校友達なのよ。お前のいっているのは」
「ではもうごぞんじですか? あのピレシテルスとその方との話というのは」
「いや、それはちっとも。私は知りたいよ。婆さん、後生だから事の起こりから、詳しく話しとくれ」
すると、いとまもあらず、あの底抜けのお喋り女は、こんな話を始めたのです。
「バルバルスがある日どうしても旅行しなければならなくなり、それにつけても愛する女房の貞節は清く守っておきたいと熱望して、大変信頼していた忠実な若い召使、ミュルメックスという男に、人知れず言い含めて、奥様についての一切の監視を頼んだのです。そして誰かが、たとい通りすがりにでも、その指先を奥様に触れようものなら、召使は牢獄にぶち込まれ、一生縛られたまま、いつかは餓死してしまうぞと脅かされました。バルバルスは、あらゆる神々の御名に誓って自分のいったことを確証したのです。それでミュルメックスもすっかり怯え上ってしまい、奥様の注意深い監視人となると誓ったので、バルバルスも安心して出発しました。ミュルメックスという男は、もともと依怙地《えこじ》なところがあったもので、その気の配り方ときたら大したもの、奥様の外出は一切ご法度にして、家の中でせっせと編み物をしておられるときも、側にいつもくっついていたのです。夕方に奥様がどうしてもお風呂に行かれるという場合でも側から離れようとしないで、奥様の着物の裾をもっているといった具合で、それは本当にあきれる手腕でもって、主人から信頼して任せられた義務を、忠実に守っていました。〔一七〕
けれどもこの気高い夫人の美しさが、どうしてあの鵜《う》の目鷹の目のピレシテルスに知れないでおれるでしょう。いいえ、あの方の貞節が世に有名なだけに一層、そしてその方の警戒ぶりが言語に絶したものであるだけに一層、彼の好き心を唆《そその》かし、欲情の炎を焚きつけることになりました。彼はどんなことをしても、どんな苦しい思いをしても、この家の厳格な掟に打ち勝ってやろうと、あらゆる手段を講じました。彼は人間の誠実なんて脆いものだということを見抜いていて、世の中のことは大抵お金をもってすれば、どんな障害でも打開され、黄金の力によれば鋼鉄のような固い扉も、ぶち壊せると確信していたのです。たまたま一人でいたミュルメックスにぶつかったので、彼は自分の恋心を打ち開けました。そして、彼は、恋しい人を手に入れる時がこれ以上長びくと、われとわが身を絶つより他はないとまで思いつめ、もうその臍《ほぞ》を固めているんだから、何とかして恋の苦痛を除いてくれないかと、腰を低くして頼みました。『おれの頼みごとといってもそんなに難しいことでもないし、大してお前さんの頭を苦しめる必要もないのだ。つまり夕方になると暗闇に乗じて、おれが一人でお前さんの家に行き、それから人に見られないように家に入って、またすぐ出てくるだけなんだ』こんな具合に説き伏せ、最後に強い楔《くさび》を一本強く打ち込んだもので、たちまちそれは召使の強情な堅塁《けんるい》を烈しく貫くことになりました。というのは、ピレシテルスが掌《てのひら》を拡げて、真新しいぴかぴかの金貨を見せ、『このうち八枚はあの人にあげて、十枚は喜んでお前にくれてやろう』といったわけです。〔一八〕
ミュルメックスはこの罰あたりな申し出を聞いて震えあがり、耳を被うようにして、すぐその場を逃げました。とはいうものの、あの眩《まぶ》しかった金貨の輝きは、もう召使の目に焼きついてしまって離れようとしません。どんなにそれから遠ざかっても、自分の家の中に一目散に馳け込んじまってからも、燦然たる金貨の光が、さながら目の前にあるようでした。やがてミュルメックスは可哀いそうにも豪勢な賞金にすっかり血迷って、頭の中は荒れ狂う海のように、いろいろの考えに翻弄され、相反した意見の中に身を裂かれ、もだえ始めたのです。一方では主人に忠実でありたいという気持、他方では金儲けしたいという気持。あれかこれか、責め苦か欲望かと迷いに迷った揚句、とうとう黄金が死刑の不安に打ち勝つことになりました。つまり豪華な金貨に対する彼の欲望は時と共に鎮まらないばかりか、その夜となって彼の宿命的な貪欲が心を突きさし苦しめたもので、どうかすると主人の恐ろしい宣告が、彼を家にとどまらせようとしたにも拘らず、とうとう黄金が外におびき出してしまいました。
もうこうなったら恥も外聞も逡巡もあったものでなく、彼は件の男の言付《いいつけ》を奥様のお耳に伝えました。するとその方は、女によくある軽い気持を抑えきれず、その場であの呪わしい金貨のため、自分の貞操を抵当に入れられました。そこでミュルメックスは喜びで有頂天となり日頃の忠実さもどこかへすっかりかなぐり捨て、焦《こが》れ死ぬ思いだったあの金貨を手に入れようと、というよりも、生涯に一度でもこの手で触ってみたいという気持から、矢も楯もたまらず、ピレシテルスの所へ飛んで行き、お前の願いを叶えてやるのに大層苦労したと得意そうに告げました。そして彼は早速約束の報酬を請求して、今までは銅貨の味もろくに知っていなかった掌《たなごころ》に、ずっしりと金貨を握ったのです。〔一九〕
さてその夜のこと、巧みに覆面をした大胆な色男を、ミュルメックスは誰にも知れないようにつれてかえると、奥様のお部屋に招き入れました。そして二人が始めての抱擁によって、初心《うぶ》な愛の女神に犠牲を捧げていた時、そして真裸の二人の兵士が、恋の女神のため、初陣に出かけていた正にその時に、みなの予想を裏切って思いもかけなかった主人が、わざわざ夜を選んで帰ってきました。主人はすぐ奥様の部屋の扉を叩き、大声で叫んでも石でぶったたいても、中に答えがないので、だんだん疑惑が大きくなってきました。主人はそこでミュルメックスを呼びつけ、拷問にかけて脅したもので、召使は突然の災難にすっかり血迷い、見るも憐れな混乱の中に、前後の処置も見当らないままに、夜の暗闇が邪魔となって、用心深く隠しておいた鍵が見つかりませんといったような言い訳をしているだけでした。一方ピレシテルスはというと、このただならぬ物音に気づくと素早く着物をひっかけ、周章狼狽の果て、靴をはかないで部屋をとび出したのでした。その時やっとミュルメックスは閂の穴に鍵を突込み、扉を開いて主人を入れました。主人が、まだ神々の名をどなり散らして、それでも大急ぎで奥様の部屋に入った隙を見て、召使はピレシテルスのためこっそりと逃げ道を作ってやりました。そしてピレシテルスが門の外へ立ち去ると、ほっと一息ついて門を閉じ、自分の部屋に引きとって眠ったのでした。〔二〇〕
ところが翌日の明け方のこと、バルバルスが寝室を出て行こうとした時、寝台の下に見なれぬ靴を発見しました。それこそピレシテルスが昨夜案内されて忍び込んだ時、はいてきたものでした。この靴からバルバルスは、さては何かあったなと疑ったものの、この心のあやしい騒ぎは妻にも家族のものにも一切うちあけないで、その靴を拾いあげ、だまって懐にしまい込むと、奴隷仲間にミュルメックスを縛りあげ、裁判所へ連れて行くように命じただけでした。そうして彼は裁判所の方に向って急ぎながらも、道々声を押し殺して唸るばかりで、その靴を証拠にすれば、わけなく姦通者の足を掴めようと確信していました。
どうでしょう、バルバルスが、仏頂面に八の字の眉で、一人腹を立てて歩いて行くその後を、鎖につながれたミュルメックスが、自分の罪過は人にまだ知れていないと思いつつ、それでも後ろ暗い良心にさいなまれてしきりに涙を流し烈しく嘆いても、一向に主人の同情をひかず、その気持も動かせないままに従って歩いていた正にその時です。偶然にもピレシテルスにぶっつかったというわけです。その時ピレシテルスはまたよからぬことをたくらんでいたのでしょうが、このだしぬけの鉢合わせに、さすが狼狽したとはいえ、怯えてしまったわけではなく、すぐに自分のしでかしたまずい犯行を思い出し、今からどんなことになるかを素早く洞察すると、ふだんの平静な態度に立ち返ったのです。そしてミュルメックスを囲んでいた奴隷たちをはねのけたと見る間に、大声を張りあげて彼に襲いかかり、その頬に当り障りのない拳固を食らわしながら、『この野郎、誓いを偽った奴め、ここにおられるお前の主人、それから、お前がでたらめに誓って祈った天上のすべての神々よ、この憎らしい奴を、こっぴどくやっつけて下され。さてはお前が、あの浴場で俺の靴を盗んだのだな。お前のような奴は、縛られて鎖をすりへらし、おまけに暗い土牢で苦しむだけの人間だぞ』といったのです。
大胆なこの若者の当為即妙な嘘に、バルバルスはすっかり騙され、それを本当と信じ込み、よい機嫌にさえなって、家にかえりました。そしてミュルメックスを呼びつけ、その靴を渡し、今までの事を心から詫びて、その靴を盗まれた人に返却するよう忠告したのでした」〔二一〕
婆《ばばあ》がここまでおしゃべりをしたとき、女はこう口をはさみました。
「あの奥様は何と幸福な方だろう。あんなに沈着な愛人をほしいままに楽しめるなんて。それと較べたら、あたしなんか可哀いそうなもの。あたしの若い燕ときたら、石臼の音にも、いやさ、あの疥癬だらけのロバの顔にも、おびえているんだから」
「では私がきっと、あの肝っ玉のすわった色男を説き伏せ、彼の好き心を引き立て、密会の時刻に連れてきましょう」といって婆は、夕方帰ってくることを約束して、寝室から出て行きました。一方貞節な女は、すぐに豪華な夕食の準備にとりかかりました。特別上等のお酒の上澄みを汲み取ったり、ソーセージに新鮮な薬味でおいしい味つけをしたり、食卓にはいろいろのご馳走を並べて、まるで神様でもいらっしゃるみたいに、密男の到着を待っていました。それもちょうどよい具合に、女の主人が、隣の洗い張り屋の家によばれ、夕食のご馳走になっていたからでした。
さてその日の暮れも近づいたので、私もようやっと鼻綱から解放され、のびのびと休むことになりました。もっとも、どちらかといえば、苦役から解放されることより、こうして目隠しをとってもらい、あの憎らしい女のすることをみんな見れるっていうことの方が、もっと嬉しかったのは、いうまでもありません。お日様もやがて大海原の中に沈み、地球の下の国を照らし始めた頃、どうです、確かにあの厚顔な婆が、大胆な情夫を従えてやってきたではありませんか。見るとその男はまだほんの少年といった風で、つややかな頬が人目を引くように輝いて、火遊びだけを無上の楽しみにしているようでした。女はその少年を迎えると、心ゆくまで接吻し、それから用意した食卓の椅子にかけさせました。〔二二〕
けれども若い燕が、食前のお酒を一口飲んで、前菜に舌の先を触れたか触れないうちに、みなの予想より早く夫が帰ってきました。そこで貞節な妻は、雨霰と呪いの言葉を投げ、夫の両足の骨も砕けよと、神に呪いながら、今は恐しさで血の気も失って震えている情夫を、たまたま側にあった木製の箕《み》の下に押し込んで隠したのです。それから彼女は、生れつきのずるさを発揮して、自分の不届きもなに食わぬ顔に、平然と夫に向い、なぜこんなに早くも、他ならぬ友人の饗応を途中で帰ってきたのかと、詰問するのでした。
これに対して、彼はさも悲しそうな顔で、しきりに嘆息しながらいったことには、
「淫《みだら》な女が顔の赤くなるようなけがらわしいことをやっているので、よう見とれなかったのじゃ。それで逃げ出したというわけさ。ああ神々よ、あんなに貞節であんなに真面目な女房でいながら、どうして、あれほど醜い破廉恥な行為でもって、自分を汚すのだろう。あの神聖なケレスにかけて〔ケレスは五穀の女神だから、パン屋や粉屋の同業組合は守護神として祭っていた〕、今からは少くともあの女については、自分の目を信じてやるものか」
この言葉をきいて、図々しい女は好奇心を唆られ、その事件の真相を知りたくてうずうずし、今すぐにそれを事の起こりから話してくれと、いつまでもしつこく催促して、中々あきらめようとしなかったので、彼女の願いを入れて、自分の家で起こっていることは知らぬが仏の夫は、よその家の不幸をこう話してやりました。〔二三〕
「俺の友達のあの洗い張い屋のつれ合いというのは、ともかく見た所しっかりとして、貞節そうな女だったので、家の内も潔く守られ、世間でも、いつも良い噂をして、讃めていたものさ。ところがいつの間にか、どこかの若い燕にひそかな恋心を抱いて、人目をはばかった密会を重ねていたのだな。それで俺たちが、浴場から夕食に帰ってきたちょうどその時、女があの情夫と一緒に愛の睦言を交わしていたというわけさ。俺たちがだしぬけに帰ってきたもので、彼女も驚きふためいて、とっさの思いつきから、その密男を床に伏せ、その上に柳細工の籠をかぶせて隠したのだ。その籠という奴は、円筒形で頂上に向うほどすぼんでいるような恰好だが、その上に布を拡げといて、硫黄をその中で焚き、白煙でもって白く染めてたわけだ。そんな籠の中に、うまく隠し終えて大丈夫と考えたのか、女は俺たちと一緒に食卓に坐ったのさ。ところが件《くだん》の男は身に浸む鋭い硫黄の臭いに、鼻を刺戟され、煙に包まれて息がつまり、気も遠くなるようで、何ともはやその鉱物ときたら、元来が物凄いものだから、あの男、くさみばかりしていたのさ。〔二四〕
最初の頃は、亭主も女房のくさみと思ったもので、ありきたりのやさしい言葉をかけて、彼女の健康を心配してやっていたのさ。しかしそのくさみが二度三度と度重なるにつれて、その頻繁さを不思議に思い、どうかしたのではないかと疑い始めた。そこで彼は食卓を荒々しく押しやるが早いか、その籠を取り払って、男を引き出したのだ。その時はもう、男のあれほど烈しかった息づかいもほとんどなくなったような状態だったが、主人はこんな侮辱を受けたことに怒りの炎をもやして、しきりと剣をよこせとさわいでさ、もう死にかかっている男を、今にも殺しかねない勢いになったので、俺はその家の人たちの危険を気づかって〔会食者は、殺人の共犯罪に問われる危険にあったから〕、彼の気違いじみた振舞いをやっとこさ、引き止めてやったのだ。憎らしいあいつは、俺たちが危害を加えなくても、ひとりでに凄い硫黄の毒で死ぬだろうといいきかせてな。そこで主人も俺の忠告に従って、というよりもむしろ事の成り行きに気分をしずめて、もう生き返りそうもないその男を、近くの路次に持って行って捨てたのだ。それから俺は彼のつれ合いにこっそりと耳打ちして、暫くの間、この店を離れ、どこか親しい友の家にでも行き、怒り狂っている亭主の心が鎮まるまで、泊っているがよかろうと忠告してやったのさ。なにしろ彼の心は猛烈に煮えくりかえり、興奮している時だから、自分ばかりか、つれ合いにまで何か恐ろしいことを考え出すのではないかと心配になったからさ。こんな事情で、俺も胸くそがわるくなり、友の食卓を後にして、俺の家に帰ってきたっていうわけだ」〔二五〕
粉屋がこんな話をしている間も、あの生意気で破廉恥な女房は、罵詈雑言でもって、洗い張り屋の女房を非難し続けていました。
「あんな不義でみだらな女なんて、全く女全体のひどい恥さらしじゃないの。自分の貞操を捨てて、夫婦の寝室の誓約を踏みにじって、正しい結婚の住居に女郎屋という汚名を貼りつけ、妻の尊厳もかえりみないで、進んで淫売婦の名にしがみつくなんて」そして「あんな女は生きたまま火炙《ひあぶり》にしたっていいさ」とまで付け加えました。
しかしさすがにこの女も、夫に隠している罪を思い出してうしろめたい気持になり、あの放蕩者が、つらい思いで忍び隠れているのを、できるだけ早く解放してやろうとして、亭主に向い、もう遅いから、床に入るよう何度もすすめたのです。しかし彼は晩食を中途で逃げ出したので、今はすっかりお腹もすいたようだといって、女房にできるだけ丁寧に、食事を要求したのです。それで女も仕方なしに急いで準備をしてやりました。その食事は密男のために作ってあったものですから、この女がそれをしぶしぶと出したのはいうまでもありません。私はといえば、あの憎らしい女の以前からの罪業といい、相も変わらぬ今夜の行状といい、それらをみんな知っているもので、先刻から心の底で煩悶し、いよいよ焦慮を覚えるばかり、何とかして女の奸計をあばき出し、主人の加勢をしたいもの、できればあの箕《み》を蹴飛ばして、その下に亀のようにうずくまっているあの男を、みんなの前にはっきりと見せつけてやれないものかと、あれこれ一人思案していました。〔二六〕
私が主人の気の毒な運命に同情して、こんな具合に心を痛めていたとき、遂に天帝の摂理が私に向ってその目を投げかけたのです。さてその次第は。私たちの飼育を仰せつかっていた跛《びっこ》の老人が、たまたまこの時、家畜をみんなひとまとめにして、近くの水飼い場に連れて行き、水を飲ませたのです。これが私に仇討の絶好の機会を与えることになりました。
私は情夫の側を通りすがりに、狭くるしい箕の縁から、はみ出ていた彼の指先を見つけると、蹄を斜上にあげ、憎悪をこめて踏みつけてやりました。そこで彼は指を粉微塵に砕かれ、その痛さを辛抱しきれなくなって、とうとう悲しい叫び声とともに、箕を押しのけて、這い出たもので、この恥さらしのていたらくが、不倫な女の策略をあばいてしまったというわけです。
ところが粉屋の亭主は、こんなに名誉を傷つけられても、そう驚いた気振《けぶ》りもなく、恐しさで蒼白になりがたがた震えている少年に向って、平静な額と、好意に溢れた顔をして、こういったのです。
「お前さん、何も恐れることはないでな。わしは野蛮人でもなけりゃあ、汚らわしい百姓根性も持っておらんのじゃ、あの洗い張り屋のような残酷なまねをして、お前さんを恐ろしい硫黄の煙で殺してやろうとか、やかましい法律を引き合いに出し、姦通罪に訴え、絞首刑にしてもらおうなど、毛頭考えとらん。何しろお前さんは惚れ惚れするような少年だからな。それよりか、わしも家内と一緒になって、お前さんを引きたてようと思っとる。いやさ、わしの希望っていうのは、一家の財産の分配といったものではなく、わしら三人が一つの寝台に、一緒にいてもちっともいざこざやもつれ合いがないように、わしら夫婦の共有財産として、お前を楽しもうってわけさ。
何といってもわしは今まで女房と平和に暮らしてきたんだから、いやさ、偉い人の言葉に從って、わしら二人は何事につけ意見を同じうしてきたんだからな。それに公平とやらは、夫よりも妻の方がより多くの権利をもつことを許そうとしないのでな」〔二七〕
彼はこうお世辞とも揶揄《やゆ》ともつかないことをいってから、気が進まない少年を、それでもどうにかやっと寝室の方へ連れて行きました。そして無類に貞節なあの妻の方は、もう一つの部屋に押し込めといて、自分一人で少年と一緒にねて、侮辱された結婚の復讐をして気分を晴らしたのでした。
やがて太陽の輝やかしい輦《くるま》が朝を連れ出す頃、彼はいち早く腕力の凄い奴隷を二人呼び出し、この餓鬼《がき》をできるだけ高く天井に吊り下げさせ、鞭でもって奴の尻をぶったたかせながらいうことには、
「お前はまだ、精神も肉体も成熟していないほんの子供なのに、花のような年齢でもって婦女をたぶらかし、その尻を追っては自由の身の女といわず、結婚の掟に縛られた女といわず、傷つけているけど、色男を気取るのはまだ早すぎるというものだ」とごたごた文句を並べたて、心ゆくまで叩いて罰すると、家の外へおっぽり出しました。さすがの色男も思いもかけず一命をとりとめたとはいえ、白い尻を夜を日についでさんざんなぐられたもので、すっかり気を腐らせて逃げ帰りました。それから粉屋の亭主は、妻に三行半《みくだりはん》を渡して、直ちに自分の家から追放してしまったのです。〔二八〕
彼女はもともと性悪な人間だったので、誰が見ても当然と思う夫の仕打ちに腹を立て、大変口借しがり、昔の悪癖をとり戻して女のよくやる手口を使うまでにいきりたちました。それですぐに執念深くあちこち探し歩いて、女の魔法使いを見つけました。その女は祈祷と魔法とでもって、いかなる願いもなしとげるという噂でしたが、彼女はその魔法使いの所にお百度を踏み、無闇に贈り物をもち込んで、二つの願いのうちどちらかを叶えて欲しいと頼みました。その願いというのは、主人の心を和げてまた一緒にさせてくれるか、もしそれがだめなら、主人の心に何か幽霊を呼びおこして、むごたらしい死に方をさせてくれ、というのでした。神通力をもった賢い魔女は、手始めとして、残虐な技《わざ》の中でも一番平凡な武器を使って亭主のかたくなな心を和げ、恋の中におしやるよう努力しましたが、その結果、彼女の思う通りにならなかったので、神々に憤慨し、それと共に一方では約束の報酬をものにしてくれようと、今や哀れな亭主を殺すために、悲惨な死に方をしたある女の怨霊を煽動して、亭主の命を威嚇したのでした。〔二九〕
ところで注意深い読者の皆さんは、私の物語を聞いていて、おそらくこんな質問をなさるでしょう。「さても賢明なるロバよ、お前は粉屋の壁の中にとじ込められていて、しかもお前の断言したように、二人の女が隠密にやっていることを、どうして知ったのか?」
そこなのです。まあ聞いて下さい。荷獣の仮面をかぶった好奇心の強い一人の人間が、どういう経緯で、私の粉屋が死ぬまでの事件をみんな知るに至ったかを。
お昼すぎだったでしょうか、突然粉屋の店先に、まるで被告人のような姿〔被告人は法廷に出頭するとき、着物は裂け、哀れな姿をしていた〕をした、一人の女が現れました。言語に絶する悲哀から顔の形も変わり、痛ましい襤褸着《ぼろぎ》でやっと半身をおおい、何もはかない素足で、ギョッとするほど痩せこけ、黄楊《つげ》のように蒼白な顔に、半白の荒れた髪は、灰に汚れ、前に垂れた髪は顔の大部分を覆っているという有様でした。この女が、やさしく粉屋の亭主の肩に手をかけ、まるで何か秘密ごとでもささやくように、彼の寝室に連れて行きましたが、扉を締めたら、それっきりいつまでも出てきませんでした。やがて奴隷たちに手渡されていた小麦がみんな仕上ったので、きっとまだ何か仕事を命ぜられるだろうと、彼らは寝室の前に立ち、もう仕事はないかと主人に尋ねかけたのです。しかし声をからして何度叫んでみても、主人は一向に返事をしてくれません。そこで扉を烈しく叩いてみたのですが、あまり頑丈に閂をされているので、何か忌わしい事件でも起こったのではないかと胸騒ぎを覚え、戸を強く押しやったり蝶番《ちょうつがい》をぶち破ったりした揚句、やっと部屋に侵入しました。すると、あの女の姿はどこにも見えず、ただ主人が天井の梁《はり》にぶらさがって息絶えていただけでした。
それで彼らは主人を絞殺した縄の結びを解いて、自由な身にしてやると、胸を叩いて喧《かしま》しく慟哭しながら、最後の水浴に連れて行きました。それから葬式を済ませ沢山集まった人たちと一緒に、墓地へ運んで行きました。〔三〇〕
その翌日のこと、隣村にずっと前片付いていた主人の娘が、嘆き悲しみ乱れ落ちた髪を掻きむしり、その合間にも拳固で胸を打ち叩きながらやってきました。彼女がこの家の不幸を知ったのは、人から聞いたためではなく、夢の中に父親が、立ち現れ、まだ紐《ひも》に首を締められた残酷な姿のままで、継母のいじわるい仕打ちを一部始終打ちあけたからでした。それで継母の不義のこと、魔法のこと、悪霊にとりつけられて地獄に落ちた経緯などを知ったのです。
さて彼女は、長い間嘆き暮らして、苦しい日々を送っていましたが、走り集まってきた友達に慰められ、どうやら気持も和らぎ悲嘆も終わりを告げ、九日目にはお墓の前で荘重な式を挙げてから、奴隷とか家具とか家畜などの遺産相続したものをみんな競売にかけました。それで家のものは一人残らず気紛れな偶然のままに、売りとばされて、あちこちと四散したのでした。そして私はある貧しい畠作人に七百五十円で買いとられました。この男の言うには、その値段は高すぎたようですが、でもまあ、私と一緒に働けば、何とか生活の算段もつくだろうと考えたからでした。〔三一〕
こんなわけで、私はまた新しい仕事の詳細を皆さんに話さなくてはならないようです。
私の主人は毎朝多くの野菜を私の背に積み、隣の町に連れて行き、そこで仲買人に野菜を売り渡すと、私の背に乗って、自分の畠に帰ってくるのでした。彼が畠を耕したり水をやったり、腰を曲げて何か仕事に熱中している時は、その間じゅう悠々と私は気持よい休息を味わっていました。ところがどうしたことでしょう。星座が規則正しい運行を終え、そして一年が一定の月日を巡って帰ってくる頃、いつの間にか秋の豊富な新酒の喜びもどこかへ消え、やがて冬至もすぎ、冬の霜が降りようというのに、私は露天に晒《さら》され、屋根のない厩にとじこめられ、打ち続く雨と夜露のため毎日、寒さに震えていたのです。と申しますのは、私の主人は非常に貧乏なため、自分自身さえ藁蒲団もちゃちな被り物も持てなくて、木の葉の小屋に雨露を凌ぎ、まがりなりにも生活していたので、私なんぞに手の届くはずがありません。そのうえつらいことに、朝まだきに冷い土や刺すような氷の上を素足で踏み、疲れきった時でも、あたりまえの食事さえもらえなく、いつも空腹をかかえていました。なるほど食事は主人と全く同じものであったとはいえ、それはお話しにならないくらいお粗末なものでした。つまり腐った|ちしゃ《ヽヽヽ》を食べていたわけで、そのひどいことといったら、すっかり成長しきって種子をもち、まるで箒のようで、葉は腐ってにがく、汚い汁を出しているといった代物でした。〔三二〕
ある夜のこと、隣村の大地主が月明りのない霧深い闇の中で困りぬき、おまけに大雨に降りこまれてびしょぬれとなり、道をうまく辿れなくなって、すっかり消耗した馬を連れて、私たちの畠に迷い込んだのでした。そこで私の主人は彼らを臨機応変に、そして心をこめてもてなし、決して心地よいとはいえないまでも、必要なだけの静かな休息の場を提供して、喜ばしたのです。大地主は、この心づくしの饗応を受けたので、それに何とか恩がえししたいと申し出て、自分の領地から、いくらかの小麦と油とそのうえお酒を二甕贈ろうと約束しました。そこですぐ私の主人は空の麦袋と革嚢《かわぶくろ》を用意すると、私の裸の背に乗って三里の旅に出ました。やがてその旅程を終え、教えられていた領地につくと、親切な地主はすぐと私の主人に豪華なご馳走を出してくれました。
こうして二人がお互いに盃を酌み交わしていた時、まことに奇怪な事件が突発したのです。養鶏場の一羽の牝鶏が中庭をあちこちと走りまわって今にも卵を生み落すような恰好で、いつものようにコッコッと鳴き始めました。それを見た主人は「お前はなかなかの働き女だ。よく生むわい。もう随分とこいつは毎日卵を生み、私たちを養ってくれているが、さてどうやら、また今にちょっとしたご馳走を用意してくれる積りなんだな。おい小僧、あの卵をよく生む牝鶏にいつも置いてやる巣箱を、例の隅っこに持って行け」というと、小僧は、主人の命令に従って走って行きましたが、牝鶏は慣れた藁の巣を見向きもしないで、主人の足下にやってくるなり、思ったよりも早く生み落したのです。しかしその生み落したものは、全く異常な不安をもたらしました。というのは、それは誰も知っているような卵ではなく、羽や爪や目を備え、鳴き声さえ出した完全な雛《ひな》だったのです。そしてそいつはすぐ母鶏の後をついてあるき始めたのです。〔三三〕
ところがそれに続いてもっと奇怪な、それこそ誰でも震えあがるに相違ないような事件が起こったのです。まだ沢山のごちそうが残っている食卓の足元で、突然地面に深い穴が開いたと思うと、物凄い血の泉が噴き上げ、その飛沫がはねかえって、食卓を真っ赤に色どりました。その瞬間居合わせた人達は茫然自失となり、この不吉な前兆について、お互いに不安そうに尋ねあっていたところへ、一人の男が酒倉から走ってきて告げたことには、ずっと前に滓渣《かす》から搾りとられてあった新酒が、全部大樽の中で熱のため醗酵し、まるで下の方に大変な火でも燃えているみたいに、泡立っているとのことです。すると今度は一匹の鼬《いたち》が蛇を殺して口にくわえながら家の外へ走って行くのが見られました。すると羊飼いの犬の口から小さな青蛙がとび出したと思うと、その犬の近くに立っていた牡羊が、犬に襲いかかって噛みつき、殺してしまいました。こんな風に次々と起こったさまざまの事件に、主人やその家の人々はいい知れぬ恐怖に襲われ、すっかり血迷い、前後策も思い浮かばず、天帝の御心を和げるには何が一番大切で、何をしたら罰当りとなるのか、また悪魔祓いはどんな方法で、どんなものを犠牲に捧げたらよいのか、そんなことが一切わからない状態でした。〔三四〕
こうしてみなが不吉な予感と恐怖から、立ち竦《すく》んでいたところへ、ある奴隷が走って、今までにない大きな災難が主人の家に起こったと告げたのです。その話は次のようなものでした。主人にはもう成人した三人の息子があり、それぞれ立派な教育を受けて、相当な地位にあったもので、父親もそれを自慢にして暮らしていました。この若者たちは、小さな家に住んでいるある貧乏人と長い交際をしていたのですが、この貧乏人の隣りに大きな肥沃な畠を持った勢力ある金持の若者が住んでいました。
この金持は家柄の大変立派なのにつけあがって、いろいろな陰謀を企み、町のことは何でも自分の思うがままにやっていました。こいつが隣の貧乏人を可哀いそうにもまるで戦場の仇みたいに苦しめて、貧乏人の羊を殺したり、牛を連れ去ったり、まだ実ってもいない作物を踏みつけたりしました。こうして畠の作物をみんな奪いとってすることがなくなると、今度は貧乏人自身を小さな畠から追い出そうとたくらみ、二人の土地の境界線について余計な訴訟を起こし、貧乏人の土地をみんな自分の所有だと申し立てました。百姓は元来何事につけても控え目な性質だったので、貪欲な金持のためすっかり無一文になっていましたが、せめて自分の墓だけでも、先祖代々の土地に建てたいから、境界線を明確にしておこうと願い、それでも内心びくびくしながら、友人をいくらか呼び集めました。その仲間にあの三人兄弟も加わっていまして、苦境に追いつめられた友を、助け出そうとして、いろいろと智慧をしぼりました。〔三五〕
しかしあの気違いときたら、大勢の市民を前にしても怯えたり血迷ったりするどころか、自分の横領を断念しようと、いいえ、少くとも自分の言葉を和げようとも考えなかったのです。市民たちがものごしやわらかに権利を主張し、金持の猛烈な癇癪を恐れて、和解的な話し合いに出たのに、彼は突拍子もない大声をはりあげて、自分と自分に親しい人々の生命にかけて、勿体ぶった誓いをしながら、こういったのでした。
「調停者がいようといまいとそんなことは俺の知ったことじゃない。奴隷たちよ、あの貧乏人の耳をひっ掴んで、この家から直ちに遠くへ追放してしまえ」
この言葉はたちまち、まわりの人々の心に烈しい義憤をかきたてました。三人兄弟の一人は幾分大胆に出て、直ちに仕返してやりました。「高慢ちきな暴君面をしやあがって、自分の富を笠にきて、おどかそうたって何にもならんぞ、どんな貧乏人だって、法律の保護は受け、金持の無道に抵抗できるようになっとるんだから」
この文句はたちまち油が炎を、硫黄が火を、鞭が狂人を燃えたたせるように、金持の狂暴性を煽りたててしまったのです。狂人はすっかり逆上して、「そこらの者は法律もろとも首を吊ってしまえ」と叫ぶや、奴隷たちに向い、飼っている羊の番犬を鎖から解き放ち、人々にけしかけ、噛み殺させてしまえと命じました。この番犬は、胴体が大きく性質が獰猛で、牧場に転《ころが》っている屍体を常食とし、そのうえ通りすがりの旅人にも見さかいなく跳びかかって行くような奴でしたから、ひとたび、羊飼いの慣れた合図をきくと、怒りの炎に燃え、いよいよ狂暴となり、耳を覆うような唸り声を一斉にあげ、人々に襲いかかりました。そして恐怖におののく人々に所かまわず咬みつき、体を裂き、肉片を散らかし、逃げまどう者を大目に見るどころか、一層しぶとく追いかけて行くばかりでした。〔三六〕
このように人々が狼狽して、至る所で虐殺されている最中に、三人兄弟の一番末の弟が石に躓き足を傷つけ土の上に倒れたもので、これを見た獰猛《どうもう》な犬どもはすぐさまよき餌食《えじき》とばかりおそいかかり、悲惨にも倒れた若者に、さんざんに噛みついたのでした。弟の苦しそうな呻き声をきいた二人の兄たちは、悲愴な気持で助けにやってくると、袂《たもと》でもって自分たちの左腕を包み〔古代ローマの防衛手段〕、一方では雨霞と小石を投げつけて、弟を庇《かば》い犬どもを追い払おうと努めました。しかし犬の攻撃をひるませたり屈服させたりできるものではありません。遂に哀れにもその青年は、断末魔の声をふりしぼって、兄達に仇を討ってくれるよう叫んでから、その場にさんざん噛み裂かれて息をたちました。生き残った二人の兄弟は、もう自分らの生命のことなぞ考えようとしないで、というよりもむしろ絶望的となって、金持に刃向ったのです。怒りは心頭より発し、盲滅法に石を投げつけました。けれども前々から沢山の似たような悪業でもって腕を鍛えていたあの残酷な兇漢は、投げ槍を投げつけ、兄弟の一人の心臓を貫きました。彼はこの致命傷を受けてたちまち息を引き取ったのですが、不思議にも大地に倒れませんでした。
というのは飛んできた槍の大部分が、彼の背中を貫通して、勢い余って大地につきささったので、彼の体はこの頑丈な槍に支えられ、宙に浮いていたというわけです。それから背の高い逞しい奴隷がこの人殺しに加勢して、三番目の若者の右腕を目がけて遠くから石を投げました。当然あたると思われたその石は、空しく的をはずれ、傷も与えず指先をかすめて落ちました。〔三七〕
このちょっとした幸運なできごとが、この賢い青年に復讐のかすかな望みを与えることになりました。つまり自分の手がもう駄目になったように見せかけて、残虐な若者にこう呼びかけました。
「俺たちの家族がみんな死んで行くのを見て、喜ぶがよかろう。そして三人の兄弟の血を見て、お前の貪欲な残虐性を心ゆくまで楽しませるがよかろう。お前の町の人々を、殺しておいて威張るもよかろう。できる限り貧乏人から財産をかっさらいお前の領土の境界を次々と広げて行くがよかろう。どこまで拡げても、隣には必ず人がいることだからな。俺は残念なことに、お前の頭をきっと斬り落すはずだった右腕を、不公平な運命に見舞われ、もぎとられてしまったんだから」
この言葉をきくと、それでなくてもいきりたっていたあの強盗は、一層激怒して刀を抜くや、ものにしてくれんと哀れな青年めがけて、がむしゃらに襲いかかりました。しかし彼の挑んだ相手は組やすくなく、彼の予想を裏切って、その若者は思いもかけず抵抗し、猛烈な勢いで組みつき、彼の右手を掴んで、剣を奪いそれを力一杯振りあげて、金持の汚れた心臓を烈しく打ち貫きました。そこへ奴隷たちが金持の助太刀にやってきたものですから、若者は相手に捕らえられるのを潔しとしないで、やにわに敵の血に染まった剣を引きぬき、自分の喉仏《のどぼとけ》を突き刺したのでした。
こういった顛末《てんまつ》こそ、先刻の奇怪な事件から不吉にも予感されたものであり、そして気の毒な主人が受けとった凶報だったのです。老人はこんなひどい不幸に見舞われ言葉を出すことはおろか、泣くことさえできないで、庖丁を手にとると、その庖丁は先刻彼が手にとってチーズとかいろいろのお昼の料理を、客人に分配したものでしたが、不幸この上ない息子たちと同様、彼もまた喉にそれを何度も突きさして、遂に食卓の上にどっと倒れ、前の不吉な血の跡を、新しい血でもって洗いおとしました。〔三八〕
こうしてまたたく間に破滅してしまったこの家の悲運を、哀れな作男は大そう悼みながらも、一方では自分自身の損害をなさけなく思い、昼食のお礼に涙を支払って何度も空手をうち叩いて、すぐに私の背中に跨り、やってきた道をとってかえしたのでした。しかしその帰り道さえ、彼にはつつがなく終わりませんでした。というのは背の高い男が現れて、それはどうやら、服装や態度からしてローマの駐屯軍の兵士のようでしたが、私達の行く手に立ち塞って、無礼な物腰で「荷もつまないでどこへ、そのロバを連れて行くのだ」と尋ねました。ところが私の主人はまだ悲哀に心を奪われていましたし、おまけに相手の問いかけたラテン語を知っていなかったもので、そのままだまって過ぎ去ろうとしました。これを見て兵士は持前の横柄さを爆発させてしまい、私の主人が返答しなかったのを侮辱されたと思って腹を立て、持っていた萄葡の杖で、主人をぶったたき、私の背から突き落しました。そこで畠作人は平身低頭して、自分はラテン語がわからないので、彼のいったことを理解できなかったといいわけしました。それで兵士は今度はギリシア語で、「お前はこの荷獣をどこへ連れて行くのか?」といいますと、畠作人は「次の町まで行くところです」と。「そんなら俺にそいつをかしてくれよ。というのはここらあたりの荷獣をみんな徴発して、隊長の荷物を近くの城砦から運び出さなくてはならんのだ」といったと思うと、兵士はもう私に手をかけ、手綱を掴んで引き去ろうとしたのです。畠作人はさっき頭を殴られた傷口から流れ出る血を拭き拭き、その兵士に向って、くれぐれも丁重に隠当にやって欲しいと何度も願い、幸運な希望の名に誓って、こういいました。
「このロバときたら、そりゃあ、取柄なんぞございません。それどころかやたらに噛みついたり、おまけに忌々しいことに厄介な病気にはすぐかかるし、近くの畠からちょっとした野菜を積んで運ばしても、すぐに息切れをさせ疲れてしまいます。そんなんだから、重い荷を運ばせるなんて思いもよりませんや」〔三九〕
彼がこんなに願ったのに、兵士は一向心を変えようとしなかったばかりか、畠作人をひどい目に遭わせてくれようという気にさえなって、葡萄の杖を逆に握りかえると、大きな節のある根元の方で、作男の頭を今にも叩き割りかねない勢いになったので、彼は遂に窮余の一策に訴えました。つまり相手の両膝に手をかけて、ちょうど兵士のお情けにすがるよう見せかけ、頭を下げ腰を曲げたと思うと、兵士の両足を掴んで体を宙に持ちあげ、大地にどさっとひっくり返したのです。そして、見る間に拳固や肱《ひじ》鉄砲を食わしたり、噛みついたり、その果ては路上の石を寄せ集めて、顔といわず手といわず全身でたらめに殴ってやったのです。兵士は大地にひっくりかえされたまま、手向うことも防ぐこともできず、ただやたらに「もしも俺が起き上ったら、この軍刀で、お前の体をこなごなに切ってやるんだぞ」とおどかすばかりでした。この言葉に不安を感じた畠作人は、兵士の軍刀を奪いとると、思いきり遠くへ投げ捨ててから、またひとしきり烈しい拳固を食わしました。もう兵士は地上に長くのびてしまって、傷のため身体の自由もきかず、助かる見込もないと観念して、残された唯一の手段に出ました。つまり死んだ風を装ったので、畠作人も、先刻投げ捨てた軍刀を拾いあげると、それをもって私の背にのり、自分の町へ一目散に逃げて帰りました。そして自分の畠のことなど、てんで放ったらかして、友達の家に行き、今までのできごとをみんな話して、危機に追い込まれた自分を何とかしてくれ、できることなら暫くでも、自分とこのロバをかくまってくれないか、二三日人目につかないでいたら、物騒な追手の目もくらませようから、と頼んだのです。すると友人は、旧情を思い出して心よく主人を受け入れ、私の方は四足をまげて、梯子で屋根裏部屋に運び上げ、一方畠作人は、階下の店先にあったこじんまりした箱の中に這い込ませ、蓋をして隠したのでした。〔四〇〕
さてあの兵士の話になりますが、後ほど私が知ったところによりますと、まるで猛烈な二日酔いから覚めたみたいに、やっとのことで起き上ると、足元もふらふらと、殴られた傷跡を苦しみながら、辛じて杖に縋りついて町に辿りつきました。しかし町の人々には、自分が兵士としての自制力を欠き大失態を演じたことについては、恥ずかしさから一言も話せず、だまって侮辱を耐え忍んでいました。ところがある兵隊仲間にぶつかって、自分の不面目な事件を一部始終話してやりますと、彼らのいうことには、彼は軍人としての面目を失ったうえ、軍刀を失い、宣誓した兵士の守護神をないがしろにしたわけだからその罪を感じ、暫く兵営に謹慎しておるがよかろう、その間にも彼らが何とかして私達の足跡を尋ね、見つけ出し、復讐してやろうということになりました。
ところが私達がここに隠れていると告げた裏切者が近所に現れたのです。それからあの兵士の仲間は町役場に訴え出て、隊長の高価な銀器を道で失い、それをある畠作人が拾って返そうとしないばかりか、仲間の家に身をくらましていると、でたらめをいったのです。それで町役人たちは隊長の被害とかその名前を聞いてから、私達の隠れ家の真ん前にやってくると、ひどい剣幕で家の主人を呼び出し、家の中にきっと巧妙に隠しているに違いない私達を、引き渡さないことには、主人自身の首も危くなるぞと脅しました。しかし主人はそんな言葉に少しも怯えず、畠作人の生命をしかと承け合って隠した責任のみを考えて、役人たちに向い私達のことは何も知らない、それどころか長い間あの畠作人の姿さえ見たことがないと断言しました。それに対して兵士達は、あの畠作人はここ以外どこにも隠れていないと、皇帝の霊に誓っていい張ったのです。
それで町役人は、主人が断乎と否定する事実を、捜索によってあばき出そうと決心して、警吏たちや手下の役人どもに命じて、家の中を隅々まで丁寧に探させたところ、人間は誰一人として、いいえそれどころか、ロバさえもその家にいないという結果だったのです。〔四一〕
それで両方の側から激しい議論が湧き起こりました。兵士たちは、私たちについての確実な情報を楯にとり、彼らのいうことを正しいと主張し、皇帝の霊に誓ってやまなかったし、一方町役人たちは、神威を証人として呼び出し、兵士たちの言葉を否定して譲ろうとしませんでした。このやかましい論争の呼び声をきいているうち、私は生れつきの強い好奇心からと、それに浅薄なロバの無鉄砲な考えから、この喧騒の模様を知りたくなって、とある小さな天窓から、頭を突き出しました。その時、たまたま一人の兵士が私の影に目をつけたもので、あれがどうやら捜しているロバらしいと合点して仲問にも知らせてやりました。その途端大きな哄笑が湧き起こって、誰かがすぐに梯子を登ってくるなり、私に手をかけまるで投獄するみたいに引きずり下ろして行きました。こうなると疑う余地など微塵《みじん》もなしというわけで、前より一層念入りに捜索をやりました。そしてとうとうあの小さな箱の蓋をとって畠作人を見つけると、町役人の前に連れ出しました。気の毒にもあの男はきっと牢獄へぶち込まれ死刑の宣告を受けるのでしょう。一方兵士たちは、私の覗《のぞ》き見を嘲《あざけ》ってなかなか笑い声をおさめようとしませんでした。世間でよくいわれる「ロバの覗き見と影のため」〔噂をすれば影とやら〕という諺《ことわざ》は、実際こんな所に由来しているのです。〔四二〕
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巻の十
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夫や義子を毒殺した後妻を裁く賢い老医者の話―ロバのルキウス、新しい親切な主人に買い取られること―ある貴婦人との逸話―ある女囚の話―ロバのルキウスその女囚と見世物に出されようとし、これを恐れて逃走のこと
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その翌日のことです。私は主人の畠作人の身の上については、何も申せませんが、私はというと、例の兵士が興奮の余り軍人としての本分を忘れたというかどで手ひどい折檻を受けてから、誰も邪魔だてするものがないままに、私を秣槽から解いて連れ去りました。そしてどうやら彼の兵舎と思われる所から荷物を背負わせ、その上に、まるで戦場にでも行くような装備をさせて、道に連れだしました。私の装備というのは、きらきらと眩しく光る兜と遠くまで輝き渡る楯と、それに人目を驚かすような長い柄の投げ槍でした。でもこうした本当の目的は、軍規に従おうとしたためではなく、むしろ哀れな旅人を威嚇《おど》そうと思ったからで、その証拠にこれらの武器はすぐ人目につくようわざと積荷の一番上に載せられ、戦争に行くよう見せかけられたのでした。
私たちは暫く余り困難でない平坦な道を進んで、とある小さな町に入ると、街道筋の宿屋には泊らないで、伍長の家につきました。そして早速、彼は私を少年奴隷に任せてしまうと、千人の部下を率いる部隊長の所へ急いで行きました。〔一〕
それから数日後のこと、そこで忌々しくも不倫な犯罪が起こったのですが、私は今でもそれを覚えていますので、皆さんにも読んでもらえるよう、ここに書き留めておきましょう。
さて私達の泊っていた家の主人には、若い息子がありましたが、彼は文学の嗜《たしな》みもあり、従って信仰心と中庸の徳においては模範となるような、おそらく皆さんだってこんな息子があったらと羨しくなるような立派な若者でした。でも彼の母親は、何年も前になくなっていたので、父親は再婚してその女との間にもう十二歳にもなる男の子を設けていました。この継母というのは美徳というよりも、むしろ美貌によって夫の家で権力をほしいままにしていました。彼女は生来淫らなためにそうなのか、あるいは運命によってそうなったのか、それは兎も角として、この継子《ままご》に秋波を送るという恥ずかしいことをし始めたのです。
そういうわけで読者の皆さん、今からお読みになるのは、面白い物語ではなく、悲劇であることを覚悟して頂いて、ここで喜劇俳優の木履を脱ぎ、悲劇役者の半長靴に穿きかえて下さい。
さてこの女の心に、小さなクピドが芽生え始めた頃は、まだその勢力が弱かったため、彼女もそれを人に打ちあけずに耐え忍び、大した苦痛もなく恥ずかしい心を抑えていました。
やがて|愛の女神《アモル》が烈しい熱を帯び気違いじみた本性を発揮して、彼女の心をその狂おしい情炎でもって焼き尽くし始めました。その揚句この激情の女神にすっかり打ちひしがれてしまい、彼女は何をするにも億劫だというような気振りをして、人前で仮病を使い、心の苦痛をごまかしていました。ところで皆さんもよくご存知のように、恋をしている人は、その健康状態や顔付きに、病人と同じような衰弱の徴候が現れてくるものです。たとえば、顔が蒼白に打ち変わって、眼が憔悴し、脚がたるんでしまうとか、そして夜もろくろく眠れなくて、苦悩が長びくほど一層嘆息が烈しくなるとかいったようなことです。それで彼女が泣いてさえいなかったら、ひどい熱病に浮かされていると思えたかも知れません。ああ、頭の悪い世の医者たちよ、彼女の激しい脈膊は、あのただならぬ顔色は、あの苦しそうな息づかいは、あの四方にのたうちまわる頻繁な身体の震動は、これらの原因は一体何かおわかりですか? 善良な神々に誓って私は申します。医術なんか、たとえその心得がなくとも、愛情《ウェヌス》の秘密に通じてさえおれば、熱もないのに体を焼き焦がしている人を診断するぐらいお易いことです。〔二〕
こういうわけで彼女は激しい恋情に深く苦しめられ、これ以上辛抱できなくなって、とうとう今までの長い沈黙を捨て、息子を自分のもとへ呼んで来させました。その息子という言葉こそ、いつも彼女に恥ずかしい思いをさせるので、心の中で抹殺できたら、彼女の気持もどんなにかさっぱりしたことでしょう。それはとも角として、若者は病床の母親の呼出しを受けると、父上の妻であり、弟の母なる人に当然払うべき孝心から、すぐに応じて、老人みたいに心配そうな皺を額に寄せて寝室に入ってきました。ところが彼女は長い間沈黙と苦しい戦いをしてきたため、疲れはて、何か懐疑の浅瀬に乗りあげたように昏迷し、この時の会話のためにと、予め用意しておいた適当な言葉もすっかりいいそびれ、そのうえ羞恥心も加わって、どんなことから切り出してよいものやらわからずに、ためらい手間どっていました。一方若者の方は卑しい疑いなど、さらに抱かないで、かしこまった顔をして病気の原因を尋ねました。すると彼女は二人以外誰もいないというこの宿命的な機会を見逃がしてはならないと思うと、急に大胆となって、溢れる涙に泣きくずれ、顔を覆いかくし、声を震わせながら、こう彼にいいました。
「原因はみんな、そうよ、この病気のそもそものおこりも、いやそればかりか、私を救ってくれる唯一つの薬さえも、あんたなんだよ。なぜって、あんたのその瞳が、私の目を透《す》かして心の奥底まで滲《し》み込み、骨の中まで激しい炎をかきたてるんだよ。あんたのために私は今にも死にそうなの。ね、後生だからあたしを憐れと思っておくれ、お父さんのことなんかちっとも気にすることはないさ。だってあんたは、お父さんが今にも失いそうな女房の命を助けてあげることになるんだから。それに私にはどうもあんたの顔の中に、お父さんの面影を見て仕方がないのだから、あんたを恋しく思うのも当然だろうに。さあ、私たち二人だけなんだから、そこはあんたも安心して、こうならざるを得なかった二人の逢瀬を思う存分楽しんでちょうだい。だってさ、誰にも見られないっていうことは、何もしなかったということと同じなんだからね」〔三〕
若者は全く思いもかけないこの成り行きに心も顛倒《てんとう》し、おぞましい彼女の申し出に一時は身震いしたものですが、今みたいな時に下手に拒絶して、女を興奮させるよりも、約束を引き延して巧みに彼女の心を鎮めてやる方がよいと考えたのです。それで彼はいろいろと約束の言葉を尽くし、できるだけ彼女の心をひきたてるようにして、父親がどこかへ旅行に出かけ、二人が自由に楽しめる機会が来るまで待ってくれ、それまでには健康を回復し元気になるようにと熱心に説きつけ、早々にこの罪深い継母の部屋を出て行きました。
それから彼は、自分の家に起こったこの大きな不幸にはもっと慎重な考慮が必要と思って、すぐさま師として尊敬していた智慧の深いある老人のところへ相談に行きました。そこで二人がよくよく考えたところ、結局彼がこの忌わしい運命の荒れ狂う嵐から、素早く逃げ出せたら、その手が一番安全だろうということになりました。
しかし女の方は、もう一時も待っておれないと、何かいい口実でも見つけたのでしょうか、夫に今すぐ遠い田舎の別荘へ至急出発するよう、それは見事に説き伏せました。彼が出発すると、彼女の希望がその実現に一歩近づいたというので、まるで気違いのようになって、例の若者に遮二無二約束の密会を果たしてくれるようせきたてました。その度に若者はあれこれと口実を設けて、呪わしい密会を避けているうちに、とうとう彼女は、彼がいつも違った言いのがれをしているのは、きっと彼が約束を破棄した証拠ときめてしまいました。そして女は浅はかな気紛れから、不義な恋心を、いっそう危険なことに憎悪に変えてしまい、やがて一人の奴隷を呼びつけました。この奴隷は、彼女が結婚のとき、嫁入り財産として連れてきていた大変なならず者で、世のどんな悪事にもすぐ身を任すような奴ですが、こいつに彼女は意地悪い頭から考え出した策略を申し渡しました。二人にとって、気の毒な若者の生命を奪うことが、最上の策と思われました。そこで時を移さず、彼女はこの悪漢を使いにやって猛烈な毒薬を求めてこさせると、それを用意周到に葡萄酒の中に溶かし込み、罪のない先妻の子を、殺す準備にとりかかりました、〔四〕
こうして悪辣な二人が、毒酒を若者に飲ませる時期について、お互いにこっそりと計画していたある日のこと、とんでもない事件がおこりました。というのは、義弟の方が、つまり、その蓮っ葉女自身の子が、午前の勉強を終えて家に戻りやがて昼ご飯をとり渇きを覚えたところで、たまたま毒を盛ってあった葡萄酒の盃を見付け、もちろん本人はそれに罠が隠されてあるとは露知らず、一息に飲み乾してしまったのです。何しろ兄の方を殺すために用意されてあったもので、それを飲み乾した弟は、たちまち地面に倒れてこと切れました。その子の頓死にびっくり仰天した家庭教師は、身も世もない喚き声をあげて、その母親や家族の者たちを呼び集めました。頓死の原因がすぐに毒を入れた飲み物であることがわかると、集まった人達は、この極悪非道な行為の主犯者をあれこれとあげつらって非難し始めたのです。
しかし、恐ろしい女、性悪な継母の完璧な典型ともいいたいその女は、自分の息子が死んだことは少しも意に介さないで、それに近親殺害者であるという後ろ暗い気持にも、一家の不幸にも、夫の悲嘆にも、息子を理葬する悲しみにも、決心をかきみだされなかったどころか、むしろこの家族の破滅を絶好の機会と、復讐の時期を早めることに決めました。
それですぐに飛脚を送って旅行中の夫に、家庭の破滅を知らせました。夫が間もなく大いそぎで帰宅すると、彼女は大胆にもそらとぼけた仮面をかぶって、継子が自分の息子を毒殺したと誹謗しました。なるほどそういえばそれもまんざら嘘ではありません。というのは年上の息子が毒殺されるはずだった仕組みを、かってに弟が自分の方に仕向けてしまったのですから。しかし、継子の汚らわしい情欲に彼女がつとめて自制し、それに溺れようとしなかったので、継子がその腹いせに弟を殺したのだというにおいては、嘘もはなはだしいものでした。彼女はこんな馬鹿げた嘘をついても飽き足らぬ思いで、自分が継子の破廉恥な行状をばらしたため、今度は自分の生命まで、継子の剣で脅かされていると、いらぬ嘘までつけ加えました。そんなわけで可哀そうにもその男は、息子を二人とも殺してしまうという不安にかられて、度重なる不幸の嵐に心がはり裂けるようでした。それももっともなことで、彼はもう年下の息子が埋葬されるのを目の前に見ましたし、今度は年上の息子が近親相姦と親族殺しの廉《かど》でもって死刑に処せられても、どうしようもないということが、はっきりしていたからです。しかし非常に愛している妻の悲嘆にごまかされて、彼は血を分けた息子を非常に憎んだのでした。〔五〕
不幸な老人は、息子の葬式と埋葬をすますとすぐその足で墓地から、まだ乾ききらない涙に頬をぬらし、灰に汚れた髪をかきむしりながら急いで裁判所に行きました。そこで彼は涙を流して懇願し、遂には裁判官の膝元まで触れるようににじりよって、心からの祈りを捧げ、極悪な妻に欺かれているとは知らず、残った方の息子を死刑にして欲しいと願ったのです。その理由として息子は父親の寝室を冒涜した不孝者で、自分の弟を殺した近親殺害者で、継母を剣でもって脅した暗殺者だと説明しました。そして彼は法廷の裁判官のみならず、聞いていた一般の市人たちにまで、同情の念と義憤とを激しく呼び起こし、かきたてたもので、一同は遂に、退屈な裁判の手続きも、告訴の明白な証拠だても、反駁の曲りくどい考察もみんなぬいて、そんな社会のダニなら、石を投げつけ、殺してしまえと、いきまきわめくに至りました。
そのとき町役人たちは、この小さな激昂《げっこう》の芽が大きな騒乱を惹き起こし、社会の秩序と平和を破るようなことになったら、自分たちも危険になると心配して、一方では裁判官たちに懇願し、一方では人民たちもなだめて、栄《は》えある伝統と良識に従い、正規の手続きを踏み両者のいい分を公平に検討して判決を下してくれるよう頼みました。もしそうしなかったら、われわれは残酷な習性をもった野蛮人や、癇癪もちの暴君と同様に、人のいい分も聞かないで、人を罰することになるではないか、どうかこんな平和な世に、そんなおそろしい事件はおこさないでくれと申しました。〔六〕
この賢明な申し出は、人々に容《い》れられ、そこですぐ廷吏は命を受けて元老院議員たちに、法廷へ集まるよう告げて歩きました。間もなく議員たちが、それぞれの地位に応じていつもの定められた席につきますと、再び廷吏の呼び出しがあって、先ず告訴人が出頭しました。そのとき始めて被告も呼び出しを受けて入りました。そこで廷吏が、アテナイの法典を範とし、マルスの法廷〔アレオパグスのこと。アレオパグスはアテナイのアレス(マルス)の丘に建てられたアテナイの最高裁判所のことで、計画的殺人、毒殺、放火などの事件を取扱った〕の慣例によって、弁護人たちに向い、前口上をのべたり人の同情を買うようなことをいってはならないと申し渡しました。
ところで、今私が述べているような事情を、どうして私が知ったかと申しますと、この事件について人々がお互いにあれこれと話し合っているのを聞いたからです。しかし、どんな議論で告訴人がいきり立ち、どんな反駁で被告がそれに対抗したか、そしてそこで実際に取り交わされた弁論や論告がどうだったか、そんなことについては、私自身厩にいたので、正確に知っているわけがありません。従って知っていないものを、皆さんにお知らせすることはできませんが、確かな筋から手に入れた情報については、この書物の中に記しておきましょう。
さて双方の申し分がすんだところで、一同はこの訴訟を真実なものと確認するため、なおもっと確実な証拠を挙げた方がよいという意見が出て、そして、このような重大な裁判に臨んでは単なる嫌疑から判決を下すべきではないとして、この事件の経緯を知っている唯一人の男といわれたあの奴隷を、どうしても呼び出してこい、ということになりました。しかし彼ときたら、こんな重大な裁判に呼び出され、法廷の満員の視線を浴びても、少しも狼狽せず、更に自分自身の罪を知っていても一向怯えるところなく、勝手にでっちあげた話を真実らしく熱心に喋りあげ、それを人々に信じ込ませようと努めました。つまり、あの若者は継母から侮辱されて腹を立て、その無礼に復讐しようと企み、この奴隷を呼びつけ彼女の息子を殺害してくれと頼み、そしてその頼み事を誰にも内緒にしてくれたら沢山の褒美をやろうと約束した。しかしその約束を破ったら、命はないぞと脅され、若者が自分の手で盛った毒液を奴隷に渡し、弟に飲ませてくれと申した。しかしあの若者は、自分の言い付けに奴隷が従わず、その毒盃を後日、自分の罪の証拠品として保存しておくかも知れないと疑い、最後には、若者自身手を下して、あの毒盃を子供の所へ持っていった。
こんなつくり話を、悪漢はいかにも本当らしく実に巧みにやってのけ、しかもそれを告白するのがさも心苦しいといった風でしたから、裁判はそれで終ってしまいました。〔七〕
議員たちの一人といえども、その若者に対して公平ではありませんでした。なぜといって、彼らはその若者をあきらかに有罪と認め、革袋に入れ縫いつけるように〔この刑罰は、ローマ法によって親殺しや近親殺人者に宣告された。罪人は、鞭でうたれた後、革袋に入れられ、その口を縫いつけられて、川に投げ込まれた〕、宣告を下したほどですから。こうしていよいよ全員の意見が一致して皆同じ判決文を書くことに賛成したので、残っている手続きは、昔からの慣例に従って、賛成の投票石を銅の壺の中に投げ込むことだけでした。その投票石は、いったん投げ込まれたら、もう被告の運命は決定的なものとなって、爾後どんなことがあっても変更は許されず、被告の全生命は死刑執行人の手に引き渡されます。その投票石が投げ込まれようとした正にその時、一人の元老院議員が、この老人は廉直《れんちょく》なことで世に聞こえ、もっとも信頼されていた医者でしたが、投票壺の口を自分の手で蔽い、軽率な投票を誰にもさせないようにして、議員席を見ながらこう申しました。
「わしはこの年になるまでずっと諸君の敬愛を受けて暮らせたのを、何としても嬉しく思っとる。しかし諸君が事実無根の弾劾をやって裁判を済ませ、それこそ公然と殺人を犯されようとしているのを見ては、わしもだまっておれぬ。正義に基づいて、公平な裁判をすることが諸君の本分であるはずなのに、卑怯な奴隷の虚言に欺かれ、偽誓するとは、誠に残念である。わし個人としては、尊敬する神々を足下に踏みにじり、わしの良心をいつわって、不正な判決を下すなんて、ようせん。一応わしのいう話を聞いて、事件の真相を知って欲しい。〔八〕
さて諸君の前にいるこの悪漢は、つい先日のことわしのとこにやってきて、劇薬を作ってくれと熱心に頼み、そのお礼として百枚の金貨を支払うといったのである。欲しい理由を尋ねると、病人に是非とも必要だというのだ。
なんでもその病人というのが不治の病にかかって、長い間さんざん苦しんできたので、いい加減この世の責苦からおさらばしたいと、しきりに願っている由。わしはこれを聞いて、この野郎一癖ありそうな奴だから、出まかせを並べ、下手くそな言い訳をしてやがるなと感づいた。ともかく、何か悪いことでも企らんでいると思いつつ、水薬を作ってやった。いかにもわしはつくってやった。しかし将来証人尋問でもあったらいけないと予想して、すぐには彼の差し出したお礼金を受け取らずこういってやった。
『お前さんのくれた金貨に、万一|贋《にせ》のものや悪質のがまざっていたら困るので、一応これらのお金を革袋に入れとくから、それにお前さんの指輪で判を押してくれ〔指輪は男も女もはめていた。装飾用としての意味もあったが、その指輪に名前などを彫刻して捺印するための目的もあった〕、そうすれば明日、両替屋がきたとき、調べてもらえるからのう』
これはもっともと彼も納得して、わしの銭入れに封印をしたのである。ところでわしは、この奴隷が法廷に出頭したのを見るとすぐに一人の召使を私の家まで一走りさせて、大至急わしの金入れ袋をとってくるよういいつけたんだ。さあ諸君、持ってこさせた袋を諸君の前に披露しよう。奴が見ても、自分の印とみとめるだろう。これでもまだ、あの兄の方が毒殺の廉《かど》で告訴されるというのか、あの毒薬こそこいつが用意したものではないか」〔九〕
すると烈しい変化があの無頼漢を襲いました。顔からさっと血の気が失せて死の蒼白がとって変わり、体の全体から冷や汗がとめどなく流れ始めました。たった今あやふやな両足を交互にじたばたさせたと思うと、今度は頭のあちこちを掻きむしり、口を半ば明けたような恰好で、何事か訳のわからぬことを呟いています。どうやらくだらぬ弁解でもしている様子です。その有様はどう見ても、彼が潔白な人間とは信じられないほどでした。ところがやがて彼は本性をとりもどし、狡猾にも、自分の犯行を徹底的に否定し、あの医者は嘘つきだと非難してやまなかったのです。そこでこの医者も一つには裁判の尊厳を、一つには自分の名誉を、公然と毀損されたと考えたので、益々烈しくその悪漢を誹謗し責めたてました。それで遂に役人の命令により警吏がその強情な奴隷の手を掴み、鉄の指輪をとりはずして、それを革袋の封印とつき合わせてみました。するとこの二つの印鑑の照合は、先刻からの嫌疑を確定的なものとしました。それで彼を拷問にかけるため、車刑や拷問木馬などが、ギリシアの慣例に従って引き出されました。しかし彼はこの拷問を、びっくりするほど我慢強く耐え、どんなに鞭でぶったたいても、松明で焼いても、屈服しようとしませんでした。〔一〇〕
これを見て医者は、
「いや、もう我慢ならん。諸君が公正な法に違反して罪のない若者を処刑することも辛抱できんが、それかといってこの男のようにわれわれの裁判を嘲弄し、罪を犯しといてその仕置きを逃れようっていう態度もがまんできない。こうなったら私がこの訴訟に異論の余地のない証拠を提出するまでだ。諸君わしはな、日ごろ医師としてこんな考えをもっておった。つまりいかなる人にも死の原因となるようなものを与えることはできない、いや、医者は人間を殺すためではなく、むしろ生命を救うために薬を調剤するものだと。こういう信念をもっていたわけだが、この悪漢が人の命を危くするような毒薬を手に入れたいと必死に乞うたときは、わしも考えた。
もしわしが薬をやらないとでもいったら、わしの拒絶が時宜を得なくて、かえってこの男をより大きな罪におとし入れることになろう、あるいはどこか別の医者の所にでも劇薬を買いに行くのではないか、その揚句に剣とか何か刃物をもってやりかけた忌わしい凶事をやり遂げるのではないか、と恐れたもので毒薬をくれてやった。しかしその毒薬は睡眠剤で、俗にいうマンダラゲ〔この植物の根からとった汁液は、麻酔剤として使用された〕だった。諸君もご承知の通り、これは頭を麻酔させる効能をもち、ほとんど死んだも同然な昏睡状態をもたらすものである。
ところで諸君、この悪漢だが、こいつはもうふてくされて、古くからの例で当然最大の懲罰を受けると覚悟しているもので、その処刑と較べたら、うんと軽いこの拷問を、彼は平気で我慢しとるわけだ。全くそれは頷《うなず》けることである。それはとも角、もしあの子が本当にわしの調合した水薬を飲んだとしたら、今だってその子は生きとる、そうだ、きっと安らかに眠っとるはずだ。それですぐ麻酔した昏睡状態から覚ましてやり、眩しい日の光に立ちかえしてやろう。しかしもしあの子の息がきれてもう死んでしまっていたら、諸君は、その死の原因をどこか他の所に求めるということになる」〔一一〕
老人の雄弁をここまで聞いて、一同はなるほどと納得し、とるものもとりあえず、子供が埋まり横たわっている墓地へと走りました。それこそ議員も町の顔役も、町の人はいうに及ばず、みんな好奇心に胸を躍らせてそこへ馳けつけました。そして真っ先に、子供の父親が自分の手で墓の蓋石《ふたいし》を取り除きますと、それと同時に死の眠りから覚めて、生の世界に甦った自分の子供をとり出しました。そして父親はその子をかたく胸にだきしめ、ただもう余りの嬉しさに発する言葉もなく人に差し出して見せました。それから子供は、その時まで着ていた経帷子《きょうかたびら》でもって再び体を包みおおわれ、法廷に連れて行かれました。
こうしてあの極悪な奴隷と、そしてこいつにひとまわり輪をかけた悪辣なあの女との共謀が白日の下に暴露され、その真相がみんなの前に赤裸々の姿となって現れました。そして継母の方は終身の追放を宣告され、奴隷は十字架に磔《はりつけ》されました。一方あの立派な医者は、実に見事な睡眠を与えたというわけで全員の賛成を得て、金一封を贈られました。最後に、老父はというと、世間の話題をかっさらった不思議な彼の運命が、神の摂理にふさわしい大団円となりました。つまり彼は危く、息子を二人とも失ってしまうところだったのに、僅かの間に、いやほんの一瞬にして、突然二人の少年の父親になったのですから。〔一二〕
さて私はちょうどその頃、次のような運命の波に翻弄されていました。例の兵士が、誰も売ったわけでもないのに私を買いとり、懐をちっともいためないで自分のものとしたのですが、暫くたって駐屯軍司令官の命令で、報告書を皇帝のところに持参するためローマに向けて出発しなければならなくなり、彼は隣にいた二人の兄弟奴隷に、私を六百六十円で売りつけました。この奴隷は相当の金持の主人に仕えていて、一人は菓子屋で、果物入りのパイや蜜菓子を作っていました。もう一人は、料理人で風味のあるソースを使っておいしいシチューを料理してました。彼らは一つの部屋に住んで共同生活をしてましたが、私を買った目的は、沢山の食器を運搬させるつもりでした。というのも、彼らの主人があちこちと広く出歩くため、それについていろいろの食器を運ぶ必要がありました。私はこの兄弟の生活に第三の仲間として迎えられ、今までにない幸福な運命を味わっていました。夕刻になると、二人は主人の豪華な食事の準備をすませ自分らの部屋に帰ってきますが、大抵沢山のご馳走を持ってくるのでした。一人は、豚、雛、魚とかあらゆる肉類の残りものをどっさり、もう一人は、パンとか乾菓子や饅頭、いろいろの形のビスケットやクッキーとか、あるいはおいしい蜜菓子といった具合に。
さて二人は帰ってくると気分を変えるため、部屋に鍵をかけて浴場に出かけたので、私は神の恵み給うた饗宴を、心ゆくまで味わっていました。そうではありませんか、彼らの素晴しいご馳走を放っといて、絶望的な秣を食うほど私は愚鈍でもなく、正真正銘のロバでもありませんでしたから。〔一三〕
こんなわけで相当の期間、私は巧妙な窃盗を首尾よく続けました。最初の頃はまだ臆病で、あんなに沢山あったご馳走も遠慮して、ほんのわずかしか盗まなかったので、二人はご馳走が多少減っていても、それがロバの仕業とは、毛頭考えていませんでした。ところが、滅多にわからないという自信が大きくなるにつれて、失敬するご馳走の量も増し、そのうちには、おいしそうな料理ばかりを選んで、思う存分食道楽を奢《おご》らせるようになりました。その頃からです、ちょっとした疑いが、兄弟たちの心に芽生え始めたのは。それでもまさか私がこんなことをしでかそうとは信じていなかったようで、ともかく損害を与える犯人を毎日熱心に探しはじめました。やがて彼らは、お互いに相手を忌々しい盗人《ぬすっと》と疑うようになり、それからはいつも激しいにらみ合いのうちに、相手を注意深く監視して、ご馳走の皿数を数えていました。その揚句、二人の慎ましさも爆発して、一方が他方に向って、こう非難の言葉を浴びせかけました。
「一体お前のやり方というものは近頃、料簡違いもはなはだしいぞ。およそ人間のやることではない。毎日のようにとっておきのご馳走を、ちょろまかしといて、それを小売りに出し、こっそりと自分の貯金を太らせておきながら、そのくせ、残りの分まで二人で平等に山分けせよと主張するなんて。まあ、それはさておいてさ、お前がおれたちの共同生活を気まずく思うようになったのなら、この暮らしの絆《きずな》を切ってしまうって手もあるんだ。俺としては、この損害から受ける苦々しい気持が余り大きいので、二人の間に忌わしい不和の芽を育てるようでならん」すると一方の兄弟は答えました。
「ヘラクレスに誓って、全くお前の図々しさには敬服するぜ。だってさ、お前は毎日毎日おれの分までご馳走をこっそりかっさらっといて、それによ、お前の方から先に文句をごたごた並べたてるとは。その文句こそ、俺は長いこと、だまって嘆息しながら、耐え忍んできたものなんだ。でもな、双方が今話し合いをやって被害の解決策を見つけ出せるものなら、それがよい。だまっている間にお互いの睨み合いが発展し、あのエテオクレスの兄弟喧嘩〔エテオクレスとポリュニケスはテバイの王、オイディプスの子であった。王なき後、二人は嫉妬と権勢欲からテバイ戦役をおこし、兄弟は決闘して非業の最期を遂げた〕みたいなのをまき起こしてもはじまらないからな」〔一四〕
二人はこう大声をあげて罵り合ってから、次のようなことを誓いあいました。二人とも今まで確かに一切の下劣な行為をしなかったこと。どんな窃盗もお互いにしなかったのだから、彼らに共通の被害を与えた犯人を、今後全力をあげて捜し出そう。犯人はきっといるに違いない、なぜって、二人の生活に関係しているのはロバだけであり、そのロバはこんな食事なんか豚に真珠《しんじゅ》だろう、それにも拘らず毎日こうして立派な料理が必ず消えて行くのだ。そのうえ、二人の部屋には、昔ピネウスの夕食を滅茶苦茶にしたというあのハルピュイアエのような猛烈な蝿さえ、一匹も飛び込まないようにしてあったのだから〔ピネウスは予言の力を持っていたので神々に罰せられて盲目になり、おまけに、頭と腕は人間、尻尾と足は鳥という怪物ハルピュイアエに食物を汚されて苦しんだという〕
さて私は自由放題に饗宴をあらし、人間さまの食事をたらふく食って、いい加減飽きてきた頃には、私の胴はでっぷりと肉づき、首も脂肪太りして柔く、鬣《たてがみ》は滋養分を吸って高貴な光沢を放ってきました。しかしこの優雅な容姿は、私の名誉に相当不利な打撃を与える原因となりました。つまり二人の兄弟が、私の体を見て、異常に肥満したのを不思議に思い、それに私が毎日の秣にちっとも手をつけないで放っているのに気がついたもので、それからというものは、二人とも全神経を私に集中させるようになりました。とうとうある日のこと、彼らはいつもの時刻に、例によって戸を締め風呂に出かける振りをして、小さな隙間からのぞいていたところ、私があちこちに拡げられてあったご馳走をがつがつと食べている現場を、見つけてしまいました。
すると二人は、自分らの蒙った損害など、すっかり忘れ、全くこの嘘のようなロバの食事振りに、目をむき、大声をあげて笑いました。
それから一人二人とだんだん沢山の奴隷仲間が呼ばれてきて、この頓馬な四足獣の、今まで験《ためし》のない大食振りを見せ合いました。そして皆が一斉にどっと笑いころげたもので、その賑やかさが、ちょうどそこを通りかかった彼らの主人の耳に聞こえてしまったというわけです。〔一五〕
主人は奴隷たちが一体どんな面白いことがあって笑いころげているのか、その原因を尋ねて事情を知ると、主人もまた同じ穴からのぞき込みました。そして大変悦に入っていましたが、暫くして彼もとうとう笑い出し、それがあまり猛烈だったので、お腹を痛めたほどでした。やがて彼は部屋の戸を開けて、私に近づいてくると、ほんのすぐ側で観察を始めました。私自身いろいろな点を考えて、|運命の女神《フォルトゥナ》がようやっと寛大な態度を見せ、笑顔を向け始めたのを察したので、それに一方では、現に私を取り囲んでいる上機嫌を見て、自信のほどを強めたので、私は少しも怯えないで、静かに主人の見ている前で食事を続けていました。
その結果、家の主人はこの奇妙な光景にすっかりのぼせ、奴隷に私を連れ出すよう命じました。いやむしろ彼が自ら私を食堂に連れて行ったほどでした。それから奴隷に食卓を出させ、食物と名のつくものはどんなものであろうと、みんな持ってきて、それをまっさらのお皿に盛るよう命じました。私はその時、もうかなり食べていたのですが、主人を楽しませご機嫌をとりたいばっかりに、私は差し出されたご馳走を、さもおいしそうにかぶりつきました。彼らは最初ロバの一番嫌いなものは何だろうと詮索して頭を悩ましていましたが、結局、私がどの程度まで人馴れしているか試そうということで、こんなものを与えてくれました。
安息香の液汁で味つけした肉とか、胡椒をふりかけた鳥肉とか、異国風なソースに浸した魚とかいったものでした。私が食べている間じゅう、会食者たちは哄笑をとどろかせていましたが、暫くして、そこにいたある道化者がこういいました。
「飲ませて見ませんか、この友達に、少しばかりの生酒《きざけ》を」この言葉を聞いた主人は、「ろくでなしめ、お前の冗談はまんざら悪くもない。じっさい、我が友はおそらく、蜜酒の一杯くらい喜んで聞こし召すかも知れないて」といって召使にこう命令しました。「おい、あの黄金の両把手の盃を、丁寧に洗って、それに蜜を割ったお酒を注ぎ、私のお客様に献上しろ、だが、お客様に上げる前に、一度この俺様が、試食してやるからそのつもりでな」
するとたちまち会食者たちの間に烈しい好奇心の渦がわきおこりました。私は少しもためらわず、悠々と本当においしそうに、下の唇を舌のように丸くすぼめて、その大きな盃を一気に飲み干しました。するとみんな一斉に私をほめたたえて、歓声をあげました。〔一六〕
主人は相好《そうごう》を崩して大変な満足ぶりで、早速私の買い主である例の兄弟奴隷を呼び出し、彼らの払った金額の四倍ほどを与えて、買いとりました。それから、お気入りの解放奴隷に充分な手当てを支給して、私を慎重に飼い馴らすよう言い含めて、委託しました。
飼い主は本当に人情に厚く、私を丁寧に取扱ってくれました。彼はこの主人から一層好遇してもらいたいと考え、私に芸を仕込み、主人の気晴しをいろいろと工夫しました。先ず私が確実に肱《ひじ》に凭《もた》れかかって、食卓の椅子に坐れるよう、それから、前足を宙にあげて、レスリングをしたり、ダンスをしたりするよう教え込みました。とりわけて人々を驚かせましたことは、人間のいろいろな言葉に対し、私の気に入らない時は頭を後ろに曲げ、私の意にかなったときは、頭を前に傾けるといったように、適当な身振りで応答するという芸でした。あるいは私が喉の渇いたときは、酌取りを見つめ、瞼を交互に瞬かせて、飲みたいという意志を表現させたのです。こうした芸当は、みんな簡単に覚えてしまいましたが、実をいうと、こんな芸は彼からわざわざ手本を示されなくっても、できたことですが、もし私が先生の仕込みもないのに、人間のやる通り何もかも振舞っていたら、彼らは縁起をかついで、不吉な前兆と考え、私を神秘な怪物にして叩き殺し、気前よく、禿鷹の餌食にするかも知れないと、心配していたからです。
そのうち私の評判はだんだんと世間に拡がり、主人も、私の素晴しい芸でもって、名誉な思いをしてあれこれと取り沙汰されました。
「あの男は話し相手にも食卓の友にもなるっていうロバをもってるんだとさ、そのロバときたら、レスリングもやれば、ダンスもやる。人間の言葉も理解できれば、自分の意志も、身振りで示すっていいますぜ」〔一七〕
さて話を進める前に、ここで読者の皆さんに、この主人の人柄とか素性について、お知らせしときましょう。それこそ、この話の一番始めに述べておかねばならなかったのですが。
主人の名は、ティアススと呼ばれ、故郷はアカイア全土の首都であるコリントスであります。彼はその家柄と才能によって当然だと誰もが思うほどに、徐々に名誉の階段を昇って、最近任期五年の地方総督の職に任命されました。それで彼は儀仗鉞《ぎじょうえつ》〔高官たちは人民にわかるように役目に応じていろいろな外的な特徴を持っていたが、儀仗鉞もその一つ。鉞はまさかり〕を許された光栄に応えるため剣闘士の仕合の見世物を三日間続けて行うことを、市民たちに約束しました。彼の仁侠《にんきょう》はそれだけにとどまりませんでした。つまり衆望を得ようとの熱烈な欲望にかられ、テッサリアまで赴いて、血統の正しい馬とか有名な剣闘士を捜したのです。そして自分の趣味に合った万端の準備や買い物をしてしまうと、今や自分の家に帰る段取りとなりました。しかし彼は贅沢な車とか、いろいろの旅行用の豪華な幌付き四輪馬車とかにも目もくれませんでした。それで従者たちはそれらの車を行列の一番後ろから、幌を下ろしたり巻きあげたりしたまま空しく引いてかえりました。かといって主人はあの血統の偉《すぐ》れた莫大な値段がしたというテッサリアの馬やガリアの騎馬などにも乗ろうとしませんでした。ところがその主人が私に対しては、額に黄金の飾りをつけ、極彩色の鞍敷に紫色の背被い、銀の銜轡《くつわ》に粉飾した手綱、それに涼しい音をたてる鈴をつけると、情愛をこめて私の背にのりました。旅の途中では、時々私に親愛の言葉をなげかけ、いろいろと私の美点をとりあげ悦に入っていました。とりわけ彼のお気に召したことは、私が食卓の伴侶にもなるし乗物にもなるっていうことで、それを何度もみんなに触れてました。〔一八〕
さて私たちは、あるときは陸路、あるときは海路の長い旅を終えて、コリントスに到着しました。すると沢山の市民が群がり集まってきました。彼らは、私の察したところ、ティアススだけにひたすら敬意を表せんためというよりも、どうやら私を見たいばっかりのようでした。と申しますのも、私の名声はすでにこの地方にも広まっていて、大変なものでしたから、私が彼らの前に出現したというのは、願ったり叶ったりであったわけです。私の芸を見物したいばかりに沢山の人々が異常な熱望を抱いて押しかけるのを見ると、主人は門を開いて一人一人入れてやりました。そして心付けをもらって、毎日のように相当の金額を集めていました。
こうした見物人の中に、地位財産とも偉れて有名な一人の貴婦人がありました。彼女も他の人と同様代金を支払って、私を見物していましたが、私のさまざまの芸にすっかり惚れ込み、再三足を運んでは感心しているうち、だんだんと私に対して奇怪な情熱を抱くようになりました。そして彼女はこの気違いじみた情熱を癒すにも一向その手段が見つからず、もうロバにのぼせたパシパエといった様子で〔パシパエはポセイドンの命令に従わなかった罰として、牡牛にのぼせることになり半牛半人の怪物ミノタウロスを生んだいう〕、一度私を抱擁したいという希望にあけくれするようになりました。彼女はとうとう沢山のお礼を私の飼い主に掴ませて、私との一夜の同衾《どうきん》を願いました。飼い主は別に気にもとめず、まさか私に色めいた冒険が起こるだろうなんて考えてもいなかったので、ただ、自分のもらった多額のお礼に満足して、彼女の申し出を承諾しました。〔一九〕
私は主人の食堂で夕食をとり、私の寝室に帰ってみますと、もう随分と前からあの婦人が待っていました。ところでこの豪華な室礼《しつらい》は何ということでしょうか。私を見た四人の宦官はすぐにやわらかに膨んだ華奢な羽布団を沢山使って、地上に即製のベッドをこしらえ、その上に黄金色と深紅色に染めたカバーを丁寧に覆い、それから美しい女たちが休むときにはいつでも顎や頭を支えるような可愛い枕を沢山積み重ねてくれました。それが済むと宦官たちは、長く踏みとどまって奥様の楽しみをじらせてはならないと考えてか、すぐさま寝室の戸を閉めて、立ち去りました。寝室の中には蝋燭が絢爛ときらめいて、その明るさは、暗い夜も昼かと紛《まご》うばかりでした。〔二〇〕
やがて彼女は身に纒っていたものを、すっかりかなぐり捨て、美しい胸に巻いていた乳押《ちちおさえ》まで解き終ると、燭台の側に行って、錫《すず》の小壜をとり、オリーブの香油をふんだんに体に注ぎました。次いで私にもその香油を惜しみなくふってくれたのですが、特に私の鼻を濡らすときには、細心の注意を払ってくれました。
それからすぐに彼女は、私におおいかぶさるように接吻して、といってもそれは女郎屋で小銭を乞《こ》う遊女と、小銭を出し惜しむ客たちの間で、投げ交されるような接吻とは違って、本当に清らかな真面目なもので、心からの愛情をこめ「恋しい、いとしいお前、お前だけが私の恋人よ」とか「もうお前なくしては生きて行けないわ」とか、女が男を誘惑するとき、あるいは愛情の真実を示すとき、いつでもいうようなありきたりの言葉を並べてから、私の端綱を掴んで近付けると、私が教わってた通りに難なく私を寝かせました。難なくというのも、私がしなければならないことは、何も新しいことや難しいことでもなかったし、何よりも長い間忘れていて今ようやっと、しかもこんな素晴しい美人の熱烈な抱擁にありつけるというところでしたから。そのうえ、私はおいしいお酒をそれも沢山飲んで、良い機嫌に酔っていましたし、何ともいえぬ香ぐわしい香料に、情熱の炎を煽り立てられていたからです。〔二一〕
その一方では、私は次のようなことを考えて、相当の不安を抱いて苦しんでいました。つまり私はこんなにも大きな足をしていて、どうしてあの美しい婦人の上に馬乗りできようか、彼女のあのすんなりした牛乳と蜜とで作られたような純白の体を、どうしてこの汚い蹄でかき抱くことができようか。高貴な香油を潤した可愛い紅の唇にどうしてこんなでっかい口をして、おまけに小石のような汚い歯を持った不細工な口で、接吻できよう。いや彼女にしたところで、爪先までむずむずしているというのに一体どうしてこんなにも大きな胴体を持ちこたえることができようか。ああ、私としたことがどんな因果でこのような高貴な奥方を引き裂くことになったのか。そしたら、私は主人の催すはずの剣闘士の見世物に一役買って、獣の前に投げ出されるだろうに。
私がこんな調子で煩悶している間にも、彼女は接吻の絶え間なく、炎のような目差しをして、甘い愛の言葉を囁いていました。それは要するに「お前は私のもの、私の小鳩、私の小雀」といった言葉でしたが、そのうち、彼女は私のさっきからの不安や心配が単なる杞憂で全く馬鹿げたものだったということを示してくれました。というのは彼女はしっかりと私の全体を、そうです本当にすっかり私の体を抱き締めました。私が遠慮してお尻を後ろに引こうとすると、益々彼女は興奮して近接しようとあせり、私の背中に手をまわし、強く抱き締め、ぴったりとくっついて離れないのでした。それは全く、彼女の欲望を満足させるのに、私にまだ何か欠けているのかと思ったほどでした。けれどもミノタウルスの母が、愛する牡牛と楽しんでいたという話は、根も葉もないこととして一笑に付すわけにいかないと思ったことでした。
こうしてしんどい一夜を徹して明けますと、婦人はもう一夜を同じお礼金で契約してから、朝の光に知れないようまだ暗いとき家にひきとりました。〔二二〕
私の飼い主は、彼女の申し出に強《し》いて異をたてるまでもなく、彼女の欲するままに、楽しみを用意してやりました。それも一つには、相当の儲けが自分の懐に入るし、一つには新しい誰もまだ見たことのない見世物を、主人のために準備してやることになるというわけで。そこですぐ飼い主は私たちの色ごとについての詳しい内幕を、主人に披露しました。これを知って主人はこの解放奴隷に充分な褒賞を与え、私を市の見世物に出すことを決心しました。ところがあの貴婦人は地位が高いため、私の配偶者にすることはできなかったので、それかといって、どれほど莫大な賞金をかけても、私の相手となる女を見つけられそうにもなかったので、結局、地方総督の宣告を受け、獣の餌《えさ》となる運命にあった一人の女囚が、選ばれました、この女が私と一緒に円形闘技場に引き出され、公衆の面前で恥をさらすことになったのです。ところでこの女がお仕置きをうけた理由というのは、私の聞いたところ、ざっとこんな話でした。
彼女が結婚した男の父親というのがたまたま旅行に出かけるとき、妻に向い、つまりその男の母親に向って、それでなくても沢山の子供をかかえて難儀してるんだから、もし自分の留守に女の子が生れたら、すぐそのまま殺すように頼みました〔当時は子供が多すぎて育てても不幸になるという場合、生れるとすぐ両親の意のままに殺していた〕。間もなく彼女は夫の留守中に女の子を生み落したのですが、母親としての自然な情愛が先立って、夫の命令に服従する気持になれないまま、近所の人に預けて、その子を育ててもらうことにしました。彼女は夫が帰ってきたとき、生れた女の子は殺してしまったと告げました。やがてその女の子が年頃となり、婚礼の日が熱心に願われるようになりました。しかし父親は何も知らないので、母親がどれだけ願っても、自分の娘に身分相応な持参金を持たせてやることができない有様でした。それで母親に残された唯一の手段は、自分の息子に今まで誰にも隠してきた秘密を打ち明けることでした。それというのも、彼女が大変心配していたことがあるからです。つまり、何かの拍子に二人が知り合い、青春の情熱からのぼせあがって、お互いに兄妹とは知らず、恋に落ちるっていうようなことがあってはならないと。
その若者は尊敬に価する孝心の持ち主であったため、母親の約束も、妹に関するつとめも、細心の注意を払って実行しました。彼は家庭の秘密については厳しく沈黙を守り通し、世間の手前では、彼女にただ普通の人間としての感情を見せるだけでした。こうして肉親の情に結ばれた義務を守っていましたが、やがて、両親の後ろ楯を奪われてしまった天涯孤独の近所の少女を、自分の家に引きとり、保護を与えてやるまでになりました。そして時を見て、彼は妹を非常に親しい友に嫁がせ、そして自分の財産の中から持参金も充分くれてやったのでした。〔二三〕
ところがこんなに善良で本当に清く正しい心から出た若者のはからいは、|運命の女神《フォルトゥナ》の忌々しい意志を逃れることができませんでした。|運命の女神《フォルトゥナ》に煽動されて、すぐさま、残酷な|嫉妬の女神《リワリタス》が、その若者の家におしかけてきました。そのため若者の妻が、つまり今お話している事件のため獣の餌食となる宣告を受けた女は、若者の妹を寝室の恋敵とみなし、嫉妬に燃えて、遂に残酷な死の罠におとし入れようと企てました。そして彼女の考えめぐらした策略というのは。
彼女は先ず夫の指輪をぬすんで田舎へ出かけると、そこから一番信頼していた奴隷を(従ってこの奴隷は|信頼の女神《フィデス》そのものには背いた奴なのですが)あの娘の所へ送って、こう告げさせました。若者が田舎の別荘で待っているから、来てくれるように、それもたった一人で誰も連れないで、できるだけ早く来るようにと。それと同時に、彼女はひょっとしてその娘が出発するのを躊躇するのではないかと心配して夫から奪ってきた指輪を、奴隷に手渡したのです、その指輪を見たら、娘はきっと奴隷の伝言を信用してくれるだろうと考えたからでした。
娘は、世界中自分一人しか知っていない兄の伝言《ことづけ》を忠実に守って、差し出された兄の認印を見るとすぐ、大急ぎでいわれた通り一人で旅立ちました。こうして、娘が悪辣な策略にだまされ、張り込まれた罠におち込んだと見ると、あのすさまじい女は怒り狂い無我夢中で、夫の妹を裸にすると、ひどく鞭で打ち始めました。それで妹は、事の真相を訴え、何も不貞な罪を犯していないのだから、こんなに怒鳴り散らされるわけはないと叫び、しきりに兄の名前を呼びたてました。しかし女は、妹の言葉をみんな、人をだます作《つく》り言《ごと》だときめつけ、燃える松明を股の間に突込み、残酷に殺してしまいました。〔二四〕
このむごたらしい妹の死を聞いて、兄と夫は、驚き、とるものもとりあえずかけつけ、いろいろと悔《くや》み言をいい慟哭の中に、可哀いそうな娘を野辺に送りました。兄は妹があんな悲惨な死に方をして、非道に葬り去られてしまったので、到底平静な気持でおることができず、悲哀は骨髄にまで徹し、憤懣が心に燃え、とうとう痛ましくも発狂してしまいました。そのため猛烈な熱に身を焼き焦《こが》し、何らかの処置を施さなくてはならなくなりました。
それで彼の妻は(といっても妻の名称は、もうとっくに妻の信用と共に失っていたのですが)不誠実で醜名高いある医者を尋ねました。この医者は、今までにも度々輝やかしい戦功でもって巷《ちまた》の噂にのぼり、辣腕によって、数々の戦捷記念品を獲得していた男でした。彼女は、この男に彼が劇薬を売ってくれるなら、即座に八十万円も出そうと約束しました。その金額で彼女は夫の毒殺を買おうというわけです。この契約が成立したので、二人は夫の家に参ると、不安や憤懣の鎮静剤として絶対に必要な、そして学者どもが神聖な薬〔この劇薬は、治癲草《エレボレ》から作られたものらしく、憂欝病、精神病に効き目があった〕と呼んでいるあの水薬を持ってきたように見せかけ、実はその特効薬の代わりに、毒薬を持ち込んだのでした。なるほどこの薬も、死界の女王さまにとっては、神聖な薬といえたでしょう。そしていよいよ病人の家族や数人の友だちや親戚のいる前で、その医者は、女の注文通り律義に調剤した水薬を、自分の手で病人に差し出しました。〔二五〕
するとあきれたことにあの女は、一つには共犯罪に問われまいとする魂胆から、一つには医者に約束したお礼金をすっぽかしてやろうと考え、皆の前で医者の盃をとりおさえてこういいました。
「お医者さん、ちょっとお待ちになって。そのお薬を私の大切な夫に下さる前に、先ずあなたがご自分でその一部を飲んでみて下さい。そのお薬の中に何か恐ろしい毒でも混じってるかも知れませんもの。あなたのように慎重で賢明なお方は、そうすることに決して反対なさらないでしょう。だってこういった配慮は、身も心も捧げて夫の生命を気づかっている妻の当然すぎる愛情の現れではないでしょうか」
突然こんな無鉄砲なことを、あの蓮っ葉女がいい出したもので、医者はすっかり面喰い、何をどうしてよいか見当つかず、何しろ切羽詰っている時とて考えている間もなく、その困惑しきった顔付きとか逡巡した態度から、今にも彼のやましい心が疑われそうになりかけた寸前、やっとこさ、盃の水薬を相当量飲みこみました。この試飲を見て若者も安心したのか、その盃をとりあげ、注がれた水薬を飲み干しました。そこで医者の用も済んだわけで、彼としてはただもう一刻も早く家に帰って、さっき飲んだ致命的な毒薬を、救命薬で解毒したい気持で一杯でした。しかしその女ときたら、何事もいったん手をつけたら、神も冒涜しかねない強情さでやり通すという執念深い女だったので、医者を自分の側から爪の幅ほども離そうとしなかったのです。「飲み薬が病人の体中に拡がって、薬の効き目が現れるまで、待ってて下さいよ」とかいいまして。
この女を医者がさんざん拝み倒し、懇願した揚句、やっと帰宅の許可をもらった時には、もう時間も随分経っていたので、すっかり消耗していました。その間に目に見えぬ毒性が、彼の全身を荒れ狂って、骨髄にまで深く浸み込んでいました。彼は重苦しい麻痺状態におち込み、前にのめるようにしてやっと家につきました。
そしてすぐ妻を呼び、今までのできごとをみんな打明け、約束の毒殺料金を、少くとも二人分とりたてるよう依頼したと見る間に、この悪名高い医者は、猛烈な息切れの発作をおこして、死にました。〔二六〕
若者の方も、医者より長く生きておるわけがなく、女房のごまかしの空涙の中に、医者と同じような死に方をして、息を絶ったのでした。彼の埋葬の式もすみ死者の霊を弔って、数日間喪に服した後、医者の女房が、二人分の毒殺料を請求してやってきました。すると女は、どこまで面の皮の厚い奴でしょう、今度も誠実そうな顔をして、うわべを飾りお追従を並べ、仰山な言葉で誓いを繰り返してこういうのでした。いま、自分がとりかかっている仕事を、完成するには、是非ともあの薬が必要なので、もしもう少しでもわけて頂けるなら、今すぐにでも約束のお礼を支払う決心だと。
もう贅言《ぜいげん》を要しません。医者の未亡人は不幸にも悪辣な罠にかかってしまい、簡単に受け合って、金持の女から好意を得たいばっかりに、大いそぎで家に帰ると、すぐ毒薬の箱をみんな持ってきて渡しました。こうして凶行の材料を手に入れたあの女は、血に汚れた手をいよいよ広く遠く伸ばすことになります。〔二七〕
さてこの女は、先ほど殺したばかりの夫との間に、まだ年端もいかない娘をもっていました。しかし、この娘が法律の規定通り亡夫の遺産を相続するということが、女にとって我慢のならないことでした。何とかして娘のものとなる財産をみんな自分の懐に入れようと考えているうち、とうとう娘を殺す気になったのです。つまり彼女は、母親が不幸にして子供に先立たれた場合、その遺産相続は母親がするものだろう〔ハドリアヌス帝の代に、夫や子供が先に死んだときには妻が遺書のない財産を継承してよいという法ができたようだが、アプレイウスの意図は、子を殺すための口実を母親に見つけさせてやるためにすぎなかった〕と信じ、かつて夫に振舞ったような残酷な態度を、今度は子供に対してもとったのでした。
彼女は頃を見計らって、例の医者の未亡人を昼食に招待し、それと同時に自分の娘まで、同じ毒薬でもって殺しました。娘の方は何しろ心臓が弱いうえ、内臓も繊細でひよわいときていたので、すぐさま恐ろしい毒のため死にました。しかし医者の女房は劇薬の猛烈な暴風が肺の中を吹きまわるに至って、始めて事情を疑い、やがて呼吸が困難になってくると共に、益々確信を強め、すぐその足で地方総督のもとへ走りました。そして大声をあげ助けをもとめたもので、近所の人々も騒然と集まり、総督もきっと何か兇悪犯でも告げに来たのだろうと考え、早速その門を開かせ、耳を借してくれました。彼女はやっとの思いをして、残酷な女の今までの犯行を始めからみんな暴露してしまったと思うと、突然眩暈の霧が彼女の精神を襲い、見る見るうちに、唇を半分開いたまま痙攣させ、長いこと歯を食いしばって、軋《きし》ませていましたが、遂に総督の足下に、どっと倒れてこと切れました。
老練な総督は、こんなさまざまな凶行を重ねた有毒の蛇を、いったん発見した上は、もはやのうのうと眠らせておくわけには行かないと、すぐ部下をあの女の寝室に走らせました。そして拷問責めでもって、真相を白状させてから、こんな女にはもったいないのですが、他に彼女の罪にふさわしい刑罰が見あたらなかったので、円形闘技場で獣の前に投げ出されるという刑を宣告されたのでした。〔二八〕
今まで話してきたような女が、私と公衆の面前で結婚式を挙げることになったのです。それで私はその興行の日のくるのを、非常な不安で煩悶しながら待ちました。あんな女囚の体に触れ、自分を汚したり、人々の慰め物に晒《さら》されみっともない目にあうよりも、いっそわれとわが身を殺してしまおうかと、何度も考えたことでした。けれども、私にはもう人間の手はないし指もないし、おまけに擦りきれた円い蹄ときては、いかにしても剣を鞘《さや》から引き抜くことは叶わぬことでした。こういった絶望の最中にあって、一つの淡い希望の光が私の心を慰めてくれました。それは、やっと薄化粧を始めたばかりの春が、見わたす限り柔和な花の芽を鏤《ちりば》め、牧場に紅の眩しい飾り衣をまとわせ、薔薇の花もすでに刺のあるおおいを破って、肉桂の薫香を四方に放っているのです。その薔薇の花こそ、私を元のルキウスに返してくれるはずでしたから。
やがて見世物の日がきました。私は物見高い人々のお祭り行列にとり囲まれて、円形の闘技場まで連れて行かれました。そして催し物の序曲として踊子たちの舞踏が捧げられている間じゅう、私は暫く門の前に立たされていました。私はちょうど入口の所に芽生えていた沢山の草を、自分勝手に首を伸ばして食べながら、時には物珍しそうな視線を、開いた門の中へ投げかけ、楽しそうな余興を眺めて、われとわが身を慰めていました。そこでは青春の花盛りにある少年少女たちが、その姿も艶《あで》やかに、優雅な着物をまとい表情たっぷりに足を運ばせ、ギリシア風のピュリカ・ダンス〔このダンスは最初アキレスの息子のピュッロスがパトロクレスの墓の囲りで踊ったという戦士の舞踏である〕を踊っていました。彼らは秩序正しく並んで、華麗な変化を見せながら、ある時はしなやかな輪のような円形を描き、ある時は鎖のように長く連なり、あるいは、方形の空地を取り囲むように人垣をつくり、あるいは、二つの群に分れて踊っていました。やがて、解散を告げるラッパの音が響きわたって、次々と展開された目もくらむような舞踏が終わったとき、大幕が下ろされ、脇幕が引き込まれて、装置を施した舞台が現れました。〔二九〕
そこには木の茂った山が聳えていました。それは非常に巧みな技術でもって、詩人ホメロスの歌った有名なイデの山そっくりに作られ、それに緑の草地や常緑樹などが植え込まれ、てっぺんには、道具方の手によって、泉が噴き出して、滾々《こんこん》と水が溢れていました。それから小さな山羊の群が柔い草を食《は》み、そしてプリュギアの牧夫パリスと覚しき少年が、女の美しい下着をまとって、両肩から東洋風の上衣の襞《ひだ》を垂らし、頭にも東洋風の金色の頭布をまいて、山羊の群の飼い主を装っています。そこへ一人の素晴しい少年が現れました。
彼は若者のよく着ている短い上衣で左肩を覆っているだけ、あとはもう裸も同然でした。その金髪はあらゆる人の視線を魅了し、おまけに、その髪にそれぞれ釣合いよろしく差し込まれた黄金《こがね》色の小さな羽毛が、ひときわ目立っていました。彼は手にしている杖から、メルクリウス〔ギリシアのヘルメス〕であることが知られました。彼は踊りながら歩み寄ってくると、右手に持っていた黄金の葉に覆われた林檎を、パリスらしい少年に差し出し、頭でもって、これはユピテルさまの命令だと合図すると、すぐまた優雅な足どりでもって立ち去りました。
すると間もなく女神ユノの姿そっくりの気高い顔をした一人の少女が舞台に現れました。彼女がユノと思われたのは、その頭に王冠がきらきらと輝き、手に王笏《おうしゃく》をもっていましたから。そこへまた一人の少女が現れました。それはミネルウァらしく、頭には金色に輝く兜を冠り、その兜にはオリーブの花冠をつけ、そして手を高くあげ、槍を打ち振って、さながらに戦場の姿でした。〔三〇〕
それからもう一人の少女が先の二人の少女に続いて、舞台に現れました。彼女の目も奪うばかりの容姿は、他の二人と較べようもなく優雅で、その神々しい色合いからしてウェヌスであることがわかります。この処女の一糸まとわぬ素肌の姿こそ、本当に完璧な美しさといえましょう。まとっているものといったら薄い絹衣だけで、愛らしい乙女の秘密を暈《ぼか》しているこの羅衣《らい》を、物好きな風が思わせぶりな吐息でもって、あるときはふざけるように吹きなびかせ、そのひるがえる裾から、青春の美しい花を垣間見せ、ある時は無遠慮にも吹き下ろして、その絹衣をぴったりと体に吸い付け、絵のような輪郭でもって、人の好き心を唆かすのでした。それに何よりも素晴しいウェヌスの魅力は、天上から舞い降りたと見えるような純白な肌と、海から湧き出たような紺碧の衣との色なす鮮やかな対照でした。
この女神らしい三人の処女たちは、それぞれお伴をつれていまして、ユノにはカストルとポリュックス。二人とも頭に卵形の兜を冠り、その頂きに星飾りが輝いていました。このカストル達もまた子供役者でした。ユノはイオニア風の笛で種々の曲を奏でながら色気の|い《ヽ》の字も見せない真面目な態度で近寄ってくると、牧夫に向って威厳そのものといった手真似でこう約束しました。もし彼女にその美の褒賞をくれるなら、パリスを全アジアの帝王にしてやろうと。
次に兵装を整えているところからミネルウァと覚しきあの少女は、両側を二人の少年に警護されていました。彼らは戦《いくさ》の女神に従う武装したテロルとメトス〔「恐怖」と「不安」のホメロス風な擬人化〕であり、それぞれ抜き身をもって飛び跳ねながら従っていました。そしてミネルウァの背後にあっては笛の奏者が、ドーリア風の勇ましい曲を奏で、ラッパを吹くような荘重な音と高い調べを混ぜながら、威勢よい舞踏の調子をいやが上にも高めていました。
このミネルウァは頭を振り振り周囲に威嚇するような視線を投げ、敏捷で複雑な身振りをしながら、パリスに向い、もし彼女に美貌の栄冠を与えてくれるなら、彼女の後ろ楯によって、パリスを数々の勝利に輝く勇士にしてくれようといっている様子でした。〔三一〕
いよいよウェヌスの番です。彼女は観客席からおこる烈しい拍手に媚びるような微笑でもって答えながら、舞台の中央へあでやかに進み出てきます。周りには沢山の可愛らしい子供がとりまいていますが、このむっくりとした牛乳のような肌の子供たちを、皆さんが一度でもごらんになると、これこそ天からか海からか飛んできた正真正銘のクピドと思われるでしょう。それもそのはず、彼らの小さな翼といい、小さな矢といい、ともかく一切の服装が、あきらかにあのクピドそっくりなのです。
彼らはまるで女王様が婚礼の夜の祝典にお出ましになるように、松明の炎をゆらめかしながら、彼女の行く手を明るく照らしていました。彼らに続いて若々しい乙女たちの美しい群が波のように打ち寄せてから、ここに三人、典雅なグラティアエの乙女たち、あそこに三人、優美なホラエの乙女たちが、ウェヌスを讃えて花環や花弁を撒きちらし、春の飾りをみんな捧げ、みやびやかな舞踏をくりひろげて、快楽の女神の心を喜ばしていました。さっきから多孔性の笛がリュディア風の甘い旋律を流して観客の心を虜にしていましたが、やがてその旋律も到底及ばないほどの美しいウェヌスが、緩やかにそれとわからない足どりでもって、しずしずと動き始めました。歩くにつれ嫋《たお》やかな体を優雅にくねらせ、それと和するように頭をゆるやかに頷《うなず》かせ、笛の妙なる調べに艶媚《えんび》な身振りで応じていました。その合い間にも、ある時は観客の心をうっとりとさせるような視線を投げかけ、時には、人を不意に驚かすような目付をして、目だけで調子を合わせていました。こうして裁判官の前に近寄ってくるとすぐ、腕をさしのべ、こう誓っている風でした。もしパリスが他の女神よりも上位に自分を置いてくれたら、自分と匹敵するほどの美人を、妻として献じようと。たちまちあのプリュギアの若者は、決心して持っていた黄金の林檎を勝利の証《あかし》として、その少女に手渡しました。〔三二〕
さて、こういうわけですから、卑しい人間どもが、法廷の獣たちが(いやこういったら一層ぴったりとくる、人間の着物をまとった禿鷹たちが)つまり今の世のすべての裁判官たちが、自分の判決を賄賂と交換に切り売りしていて、一向平気なのも無理のないところです。そうではありませんか、開闢の頃の、もうさっきの神々と人間との間のやり取りを見てもわかる通り、その裁判が特別の贔屓《ひいき》で汚されてしまっているではありませんか。偉大なユピテルのご意志により裁判官に選ばれた田舎者の牧夫が、色気を勘定に入れ、あの由緒ある判決を売り飛ばし、そのうえ、すべての人類を破滅におとし入れて〔ウェヌスは約束に従ってパリスにスパルタ王メネラオスの妻ヘレナを与えたので、トロイア戦争がおこり、ギリシア人とトロイア人とが破滅的な運命におち入ったのである〕恬然《てんぜん》としていたではありませんか。
このパリスの審判に続いて起こった有名なギリシアの首長同志の訴訟においても、全く同じことがいえます。博学と思慮にかけては並ぶもののなかったあのパラメデスは、事実無根の弾劾を受け裏切者の廉《かど》で罰せられました。
それから戦場において勇敢無比の偉大なアヤクスは凡庸なウリクセスに判定負けをしています。それから賢明な立法者であらゆる学問の師といわれるアテナイ人ですら、なぜあのような判決を下したのでしょう。デルポイの神の宣託によって、人間の中でも最高の賢者とみなされ、神のような叡智をもっていたあの老人〔ソクラテスのこと〕が、凶々しいごろつきの嫉妬深い奸策にひっかかり、世の娘たちを誑《たぶら》かしたとの理由で――どう致しまして、事実は彼ほど女を拒絶し節制した者はないのに――毒草の苦汁を飲まされ、死刑にされた。これは何としても、あの市民たちの永久に忘れられない不名誉な汚点ではないでしょうか。その証拠に、今日においてさえも、著名な哲学者たちが好んで彼の学説を一番尊いものとみなし、そして幸福を熱烈に追求する時にも、必ず彼の名を挙げて誓っているではありませんか。ところでもうそろそろ皆さんの中には、このような私の瞋恚《しんい》の攻撃を非難して「全体、我々は哲学を売りつけるロバに、我慢できるかっていうのだ」と心の中で呟いておられる方があるかも知れません。そうなったら大変です。
閑話休題。途中投げの物語を続けましょう。〔三三〕
さて、パリスの審判が終わりますと、ユノとミネルウァは、共に同じような痛ましい青筋をたて、落第に憤慨している様子をありありと見せながら、舞台を去りました。一方ウェヌスは喜色満面に溢れ、踊子たちと楽しそうに踊っていました。すると山の頂上の方から、サフランの花を浸した酒の雫が天井の隠れた管を伝って落ち始めました。そしてあちこちに散らばって草を食っていた付近の山羊たちを、その香気ある雨雫ですっかり濡らしました。そのため山羊たちは、汚れてかえって美しくなり、本来の灰白色の毛肌をサフラン色に染め変えました。やがて劇場全体が馥郁たる香に包まれたと思うと、見る間に舞台に穴が明いて、木の茂った山が呑み込まれてしまいました。
すると一人の兵士が広場の真ん中を横切って走るのが見られました。それはすでに申した通り、数々の凶行によって獣の生贄に宣告され、やがて私と光栄ある結婚式を挙げることになっていたあの女を、大衆の要望に応えて市の獄牢から引き出してくるためでした。いよいよ結婚式の床が、いずれ私たちのものでしょうが、入念に準備され出したのです。その床はインドの亀の甲で作られ、眩しく輝き、その上には羽布団が山のようにふんわりと膨み、絹の布地が花のようにかけられました。
私はというと、皆の前で床入りして、あんな汚らわしい売女《ばいた》と共寝すると思うと、穴にでも入りたいほど恥ずかしく、いいえ、それどころか、だんだんと殺されはしないかという不安さえ募《つの》ってきて内心いたたまれないほど苦しんでいました。というのも、私たちが愛の抱擁の中に絡まっているとき、相手の女を殺そうとして、どんな獣を放つことかわかったものではありません。その獣が、たとえ少しでも思慮のある判断を下し、相当念入りに調教されていて、食欲も慎しいとしても、そいつが側にねている女を引き裂くだけで、私の方は非難すべき罪もない潔白な身と認め、命を助けてくれようなんて、そんな甘いことは到底考えられません。〔三四)
そういうわけで、今ではもう羞恥心どころか、生命そのものまでも物騒になってきたと思っている折も折、私の世話係は夢中で、共寝の床を念入りに整えていますし、他の奴隷たちも、あるものは狩猟の準備に心を奪われ、あるものは楽しい見世物にすっかり夢中となって、私のことなどてんで考えている暇がないといった有様です。その上、誰だって私のようによく馴れたロバには、そう仰山な監視もいらないと考えてる風なのを幸い、私は人目にたたないよう、少しずつ忍び足で最寄りの門まで行きつくと、この時とばかり、命をかけての全速力、韋駄天も顔負けするばかりに走りまくって、その間六マイル、やっとケンクレアイに到着したのでした。
聞くところによると、その町はコリントス人の有名な植民地の一つで、その海岸をアエガエウム海とサロニクス湾とが洗っているのでした。そこの港は船の避難所として最も安全だというので、町には沢山の人が往来しています。それで私はこの人通りを避け、人気のない場所を求めるようにして、波の飛沫のかかってくる海岸に参りました。そこでとある砂浜の柔い凹地に疲れた体を投げ出し、休むことにしました。というのも、もう太陽の輦《くるま》が一日の一番端っこに降りてしまっていたのです。そうして黄昏が私を眠りへ誘い始めたと思うと、やがて甘い微睡の中に落ち込みました。〔三五〕
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巻の十一
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ロバのルキウスの祈り―イシス女神|来迎《らいごう》のこと―イシスの祭りにルキウス、人間に生れ返ること―イシスの信徒に加えられ、献身の秘儀にあずかること―ローマに赴き浄福の生活を送ること
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それは最初の夜番の頃でしたでしょうか、私が突然の恐怖から目を覚ますと、ちょうどそのとき満月が皎々と輝いて、海の波間から昇ってくるところでした。私はこの暗い夜の静寂《しじま》を一人でしみじみと味わっているうちに、今更ながら、こんなことを強く信ずるに至ったのです。つまりあの高貴なお生れの月の女神は、至高の権力を握っておられること、そして人間の世界のあらゆる事象がその女神の摂理によって支配されて、いいえ、そればかりか、野獣や家畜から生命なき物質に至るまで、女神の聖なる御光に育くまれ、聖なる御心に守られて、生きているのだ。そして地上天上を問わず、海中に至るまで、ものみなこの女神の満つるにつれて増大し、欠けるにつれて縮少するのだ。そうしてみると、私をあんなに数々の不幸な目に遭わしてきた運命の奴も、今はもう飽きて遅蒔ながらも、幸福への希望を与えてくれるころではあるまいかと考えて、目の前に現れ給うた月の女神の荘厳なお姿に、祈りを捧げようと決心したのです。私は素早く蕩《とろか》すような眠気を蹴散らし、猛然と跳ね起きて体を清めたい一心で、海水の沐浴を行い、七回ほど頭を波の中に浸し込みました。七回というのも、その数字があの神のごときピュタゴラスによると、儀式に一層ふさわしいということでしたから。それがすむと私はあの全能の女神に向い、顔を涙に濡らしてこう祈ったのでした。〔一〕
「天上の女王様、おんみは慈母ケレスとも呼ばれ地上の作物の創造主であらせられます。おんみは娘を探し得た喜びから、太古の食料だった樫の実の代わりにそれよりもっと甘い食物を授けて、未開の人々を養い給うて、今日に至るもエレウシナの野に顕現し給う。おんみはまた天上のウェヌスとも思われ、天地開闢の日にアモルを誕生させて相異なる二つの性を結び給いし後、絶えず新たな生命を吹き込み、人類を永続せしめられ、今日においても波に囲まれしパポスの霊地に、崇拝されておわします。おんみは、ポエブスの姉妹でもあらせられ、仕事女をやさしいお心尽くしでもって慰められ、沢山の人の心に光明をもたらし給い、今日では、エペソスの有名な神殿に祭られておわします。おんみはまたの名を恐ろしいプロセルピナと呼ばれ、夜の遠吼えと三色の顔とをもちて怨霊の攻撃を鎮め、それらを地下の牢獄に封じ込め、聖なる森を彷徨し給い、種々の儀式でもって尊ばれておわします。おんみは、おんみの女性らしい光でもって、あまねく町の城壁を包み、露けき光でもって、豊饒の種子を養い太陽の運航と共に変わる光を与え給う。げにおんみは、いかなる称号、いかなる儀式、いかなる姿でもって呼びかけられても、すべて正しいと思われます。おんみよ、私に御手をかして、今や極まれる苦悩から救い給え。おんみよ、破滅に瀕している私の運命を挽回して給われ。おんみよ、むごたらしい苦難に打ちひしがれてきた私に、今こそ平和と休息を与えて給われ。これ以上の心労と危険は真っ平でございます。この呪わしい四つ足の姿を抹殺して、本来の私の姿に立ちかえらして給われ。元《もと》のルキウスにして給われ。もしも私が神々の逆麟《げきりん》に触れ、苛酷な苦難を受けているものなら、よし生は許されなくともせめて死でも与えて給われ」〔二〕
こう長いお祈りを捧げて心の底から慟哭していると、間もなくまた睡魔が私の疲れた精神をおそって、私は今までと同じ所に横たわって寝てしまいました。そして瞼をほとんど閉じたか閉じないうちに、どうしたことでしょう。大海原の中心に神々でさえ畏敬の念に打たれようかと思われる女神のお顔が浮かび、神々しいお姿を現し給うたのです。少しずつ、全身が浮かび上ったと思うと、その御姿を燦然と光らし、海水を振り落しながら、私の前に静かに立ち給うたのです。ああ、その驚くべき光景を何とかして皆さんにもお知らせしたいものです。しかし人間の貧しい詞藻をもってしては、所詮それを物語る手段《てだて》もなく、そのうえ残念なことに、その女神ご自身私に雄弁術のあり余る豊富な才能を賦与されていなかったもので致し方ございません。
先ず何といってもその溢れるばかりの長いお髪《ぐし》はどうでしょう。かろやかに捲いて、神々しい項《うなじ》に乱れかかるその優美な波立ち。さまざまの花を無造作に編みなした花冠は、女神の頭頂を華やかに飾り、その花冠の中心にして、額のすぐ上の方に平い円板が、ちょうど鏡のように、というよりも月そのものを象徴しているみたいに白銀《しろがね》の光を放ち、その円板の左右には、鎌首をもたげた二匹の毒蛇が絡みつき渦巻いています。
更に花冠の上方からは、麦の穂が垂れていました。繊細な亜麻で織られた内衣は、さまざまの色合いを放って、時には白光のように輝き、時にはサフランの花のように橙《だいだい》色に、時には深紅の薔薇のように燃えていました。そして何にもまして遙かに、私の目を眩惑させたものは、暗い光沢を放っている漆黒の外衣でした。
それは全身をひとまわりして、右腕から左肩に昇り、そこから前面に投げかけられ、さながら楯のような恰好で、さまざまの複雑な襞《ひだ》を重ねて垂れ下り、その裾に総《ふさ》が結びつけられ、優美な曲線を描いてゆらいでいました。〔三〕
刺繍のある縁飾りに、外衣の地と同じような星が鏤《ちりば》められて輝き、それらの星の真ん中に炎の色の満月が皎々と照っていました。それにこの素晴しい曲線を流す外衣の至る所にすき間なく、花という花、果物という果物でもって編まれた花飾りが、とりつけられてありました。一方女神のお持ちの物といえば、全くさまざまなものがありました。先ず右手に、青銅の振鈴《シストルム》を持ち給い、その振鈴《シストルム》は剣の革紐のように彎曲した狭い青銅の葉片の中に、小さな数本の桿《かん》が横切っていて、御手を三度震わせられる度に、清朗たる音を響かせていました。弓手《ゆんで》には、ゴンドラの形をした黄金の燭台を吊り、その把手の出張った部分に、毒蛇が頭を高く持ちあげ、首を大きく膨ませて這い昇っていました。神々しい御足には、勝利の象徴の棕櫚の葉で編んだサンダルを穿いておられました。女神はこのような麗わしいお姿をして御口からアラビアの至福な薫香を発散させながら、私に向ってこのような御言葉を賜りました。〔四〕
「ルキウスよ、私はお前の祈りに大変心をうたれてここに参りました。私は万物の母、あらゆる原理の支配者、人類のそもそもの創造主、至上の女神、黄泉の女王、天界の最古参にして、世界の神々や女神の理想の原型。そして私は輝く蒼穹と海を吹きわたる順風と地獄の恐ろしい沈黙を、意のままに統御できます。私の至上至高の意志は、世界の至るところで、それぞれの地方の習慣から、さまざまの儀式で祭られ、いろいろの名前で呼びかけられています。最も古い人類の種族プリュギア人は、神々の母ペシヌンティアと呼び、生え抜きのアテナイ人はケクロピアのミネルウァと呼び、更に海に洗われたキュプロス島の人々は、パポスのウェヌス、箭《や》持つクレタ島の人は、ディクチュンナのディアナ、三カ国語を話すシクリ人〔シチリア人〕はスチュックスのプロセルピナ、古いエレウシナの住民たちはアッティカのケレスと呼びなしています。ある地方ではユノ、他の地方ではベッロナ、ある所ではへカタ、またラムヌシアとも呼ばれています。そして太陽神が朝生れたての光線を寝床の上に輝かせるエティオピアの人々と、学問の古い伝統にかけては世界に冠たるエジプトの人々とは、いずれも私にふさわしい儀式を捧げ、私の本来の名前でもって、イシスの女王と呼びならわし尊んでいます。かく申す私が、今までのお前の不幸に同情し、お前の味方となり慰めてあげようと思ってやってきたのです。だからルキウスよ、涙を拭き、泣くのはもうおよしなさい。悲嘆をさっぱり流しなさい。
今や私の力でお前を救う日が、到来したのです。そこで私の申し渡す命令を心して聞くのですよ。この夜の次に生れる日は、昔から私の儀式がとり行われて参った日です〔地中海航行の再開を意味するイシスのお祭りは五月五日に行われた〕。明日という日は、冬の嵐が静まり、荒れ狂っていた海の波も和らぎ、船出にふさわしい日とされているので、司祭たちは私に新しい船を奉納して、人々の海上の取引が無事であるようにと、私の加護を祈ります。お前はそのお祭りを別に心配をしなくてもよいが、敬虔な気持でお待ちなさい。〔五〕
と申すのも一人の司祭が私の指図に従い、お祭りの行列の中心を歩み、右手には振鈴《シストルム》に絡ませた薔薇の花環を持っています。それでお前は少しも臆することなく、群衆を押し分けて、決然とその行列に近寄り、私の恩寵を信じきって、ちょうどその司祭の手に接吻するよう見せかけて、すぐ側から礼儀正しく、その薔薇をもぎ取るのてす。すると、私がこんなに長い間憎んできたお前の呪わしい獣の皮は、見る見るうちに剥ぎ取られてしまうでしょう。私の命令を決してむずかしいものと思ってはなりません。なぜかと申すと、私は今お前の所に来ている一方では、その司祭の所にも現れて、やがて起こるべきこれらの事柄を夢の中で教えてやっているのですから。ぎっしりと詰めかけている見物人たちも、私の命令によってお前に道を開いてくれようし、この喜ばしい儀式と華やかな光景の中でも、誰一人としてお前の醜い顔を恐れたり、お前の突然の変わりようを見て不都合な説明をしたり、意地のわるい判断を下したりしないでしょう。
でも今からいうことだけは、とくと記憶して、いつまでも心に深く刻みつけておきなさい。つまりお前の身は今後、生ある限り最後の息を引き取るまで、私に捧げられてしまったものだということを。お前は私の恩恵によって、人間の仲間入りを許されたのだから、お前が生きて行く限り、私に恩返しするというのは当然すぎることです。その代わりお前の生涯は幸福です。私の加護を受けて光栄にみちた生活を送ります。そしてお前がこの世の生をまっとうして、黄泉《よみ》の国に降りて行った時でも、その地下の半球で私がアケロンの暗闇を輝やかせ、スチュックスの深い谷間を支配しているのを見ることでしょう。それでお前も、エリュシウムの野に住みながら、お前を見守っている私に、いつまでも祈りを捧げてくれるのですよ。もしお前の熱心な服従と信仰深い勤行《ごんぎょう》と、不撓不屈の精進潔斎が私の意に叶った場合、運命の定めたお前の生涯でさえ、長く伸ばせるのは、この私だけだということを、肝に銘じておきなさい」〔六〕
ここで尊い御言葉が終わり、神々しい女神はすっと消えて本来のお姿に立ちかえられました。
そこでいとまあらずと、私は直ちに睡魔を追い払い、不安と歓喜で全身汗ばみながら起き上りました。そして至高の女神のかくも厳そかなご来迎に心の底から感動し海の水を体に浴びると、その偉大な命令が念頭を離れないままに、仰せられた言葉を順序正しく回想していました。
やがて暗い夜の霧が消え散って、黄金の太陽が昇ったと思うと、どうでしょう。お祭りの日、いや凱旋の日でも迎えるみたいに、群衆たちがいたる所で一杯に渦まいているではありませんか。そしてこれらの人達はみんな、私一人の幸福のために、大いに囃《はや》したち、歓喜しているようで、いいえ人間ばかりか、すべての家畜も家々までも、それに空気さえも清朗と私に微笑しているようでした。だってごらんなさい。前夜の霜の華《はな》の後を追って燦然と太陽が輝き始めると、囀る小鳥たちまで春の息吹に誘われて甘い旋律を歌いあげ、その可愛らしい挨拶でもって天体の母、四季の創始者、宇宙の統治者の御心をときほぐしています。あたりの木々といえば豊饒の験《しるし》の果実をもたらす木々も、実を結ばないが緑蔭を与えて心よしとしている木々も、みんな南の微風に寛《くつろ》いで葉の芽を綻《ほころ》ばせ、小枝を静かに震わせて甘くかろやかに囁いています。海は、大嵐の恐怖も消え、うねり立った大波も鎮まり、一面油のように凪いでいます。空は、陰欝な雲を追い払い、本来の輝きをとり戻し、赤裸々な透明な光を放っています。〔七〕
そのうちいよいよ荘厳な神霊の出発となりました。先ず露払いともいうべき仮装行列が、それぞれの意匠と趣味を生かし、見ても楽しそうな服装でゆるゆると近づいて参りました。あるものは剣帯をつけて兵士の姿をまね、他のものはギリシア風の兵服と、サンダルと猪槍とを身にまとって、狩人に変装し、あるいは金箔を塗った喜劇役者の短靴を穿き、贅沢な装飾を施した絹の着物をまとい、頭に義毛をつけて女に化け嫋々《じょうじょう》たる足どりでやって参ります。あるいは脛当、楯、兜、剣をつけて、どこか剣闘士の学校からでもやってきたような扮装です。そのすぐ後からは儀仗鉞《ぎじょうえつ》と紫紅の官服とで気取った地方総督。それから古風なギリシアの外套と杖と絹の靴とおまけに山羊の長い顎髭をつけた偽哲学者。ついでそれぞれの芦に黐《もち》や釣り針をつけ、黐竿に見せた鳥屋と、釣り竿に似せた太公望が続きます。次によくなついた大熊が貴婦人のように着飾って、舁床《かきどこ》に載せられて参ります。猿がお祭り用の編み帽をかぶりプリュギア風の黄色い上衣をまとい、羊飼いガニュメデスの姿よろしく、手に金盃をもってきます。膠《にかわ》で羽をつけてもらったロバが、老衰した年寄りに曳かれて、まるでベッレロポンとペガッススとでもいいたい、それにしては滑稽千万な一組が参ります。〔八〕
こんな風に露払いたちがふざけて歓声をあげながらあちこちと道草を食って長びいている間に、救世主女神のお祭り特有の行列が動き出しました。先ず婦人たちは純白の着物も眩しく、さまざまの装飾品を付け春の花環に身を埋めて、それは華やかなものでした。あるものは胸の花弁をもぎとっては神聖な行列の行手に撒き散らし、他のものは背中に鏡をとりつけて照り映える面を、女神の方に向け女神の歩まれるにつれて前方の随行者たちを眺められるようにしていました。あるものは象牙の櫛《くし》を持ちあげ女王の御髪《みぐし》を梳《す》き結《ゆ》うよう、腕を動かし指を曲げ、他のものは神々しい香油や種々の香水をとりまぜて、少しずつ洒《そそ》ぎながら、道を清めていました。それに続いて沢山の人が男も女も燭台、松明、蝋燭など、その他いろいろと工夫をこらした灯明をかかげ、空の星の生みの親なる女神を祝福していました。次いで、何ともいえぬ甘い旋律を奏でる芦笛、角笛の楽しい交饗楽団、それから雪のような純白の礼服を輝やかせた選抜の若者たちの素晴しい合唱。彼らは詩の天才が、|詩藻の女神《カメナ》の霊感を受けて作詩作曲したという立派な讃歌を繰り返して、歌っていましたが、その歌詞は、どうかすると、この行列のもっと深い信心のほどを示そうという序歌《まえうた》とも聞こえたのです。それから偉大なセラピスに身を捧げている笛の奏者たちが、右の耳まで斜めに伸びた芦笛で、この女神とその神殿に古くから伝わる曲を奏してやって来ます。そして、この神聖な行列にすすんで道をあけるように先触れして行くものも大勢いました。〔九〕
それからこの神聖な秘儀を受けた信者たちがしずしずとやってきました。彼らは老幼男女、貴賎上下を問わず、みんな亜麻の純白無垢な着物を清らかに輝かせ、女たちは香油に湿った髪を、透き通ったヴェールでおおい、男たちは髪を完全に剃り落して天頂は艶々と照り映え、それこそ厳そかな儀式を飾る地上の星といった光景です。彼らは真鍮とか銀で、中には黄金でもって作った振鈴《シストルム》を振り、清朗たる音を空高く響かせていました。
それからこの宗教の司祭と呼ばれる位の高い人達が、白い亜麻の着物を、帯のようにぴったりと胸にめぐらし、その先を踵まで垂らし、それぞれ全能の神々イシスとセラピス〔この名の起源はまだ不明〕の特性を示す象徴の品を運んできました。最初の方は、眩しい光を四方に放つご灯明を持って〔セラピスとイシスは、海と、天上の光の統御者だから、灯明がその象徴となり小舟の形をしているのである〕、といってもそのご灯明はさすがに私たちの夕餉の食卓を照らすようなものとは雲泥の差があり、純金製の小舟のような形をしてその真ん中の孔《あな》から、輝かしい炎をのぞかせていました。次の方は同様な出立ちで両腕に「守り本尊」という祭壇を捧持しています。「守り本尊」という特有な名称は、この至高の女神の慈悲深い御心に因んでつけられたものでした。三番目の方は黄金でもって精巧に細工された棕櫚の葉を掲げ、それにメルクリウスの杖までもってまいります〔イシスは地界の女王であり、メルクリウスと同様、迷える魂の指導者として杖が象徴している〕。四番目の方は、正義の標章として掌を拡げた左手を、人々に示しています。左手は生れつき鈍感で不器用で不手際なので、右手より一層正義にふさわしく見えるからです。更にその方は乳房に似た〔イシスは生産力をも代表していたから、乳房はその象徴。また牝牛の形で表現され、牛乳は、イシスからたまわる神聖な滋養物である〕丸い黄金の小さな盃を持っています。それでもって牛乳を灌《そそ》いでおられました。五番目の方は黄金の小枝で造られた黄金の箕《み》をもたれ、次の方は両|把手《とって》付の壺を持って参ります。〔一〇〕
間もなく神々がもったいなくも人間の足をかりて現れ給うたのです。先ず天界と下界を往復し給う見るからに恐ろしい神様で、漆黒と金色の半分ずつ色分けされた顔を挙げ、長い犬の首を高くもたげたアヌビス〔セラピスとイシスの使神で、ギリシアのヘルメス(ローマのメルクリウス)と同一視された。黒色と黄金色はそれぞれ地界と天上の持つ性格を暗示している〕です。左手に使神メルクリウスの杖を、右手には緑の棕櫚を振りながら来られます。すぐその足跡を追って、万物の母なるこの女神の多産性を象徴する牝牛が、幸運な一人の司祭の肩に背負われてやってきます。その司祭はいかにも勿体ぶった足どりで牛を運んでいます。次の司祭は荘厳な儀式の秘物を大切に納めた大きな聖櫃《せいき》を運んできます。次の司祭は清浄な懐に至高の女神の尊い御像を抱いてきました。その御像は、家畜とも鳥類とも野獣とも人間とも似てなくて、その奇抜な精巧な意匠は、その像に筆舌に尽くしがたいほどの畏怖の念を与え、いかにもこの秘儀の象徴らしく、深い沈黙に包まれていて、何とも形容のできないものです。〔一一〕
さて遂に慈悲深い女神の約束し給うた幸福な運命が、私に近づいてきました。つまり私の命を預っているあの大司祭が近づかれたのです。その方は女神の御告げと寸分違わずに、着物をまとい、右手に女神の振鈴《シストルム》と、花環を捧げていました。その花環こそ、神かけて今に私のものとなるものです。そうです、今日という日こそ、あんなにも多くの困難を耐え忍び、危険を乗り越えてきた私が、至上の女神の摂理によって、悪運の残酷な攻撃を征服する日なのです。しかし、私がこの烈しい歓喜に我知らず、発作的に飛び出し、儀式の静かな秩序をこの四つ足の闖入で乱してはならないと心配し、落着き払って、それこそ本物の人間のような歩調で、暇どりながらゆっくりと体を屈《かが》め、少しずつ群衆の中に這い込んで行きますと、不思議や人々は女神の御声を聞いて、道を開けてくれました。〔一二〕
すると大司祭は、確かに昨夜の女神のご宣託を拝受していたのですが――そのことは事の進むにつれてはっきりしました――それにしても余りにぴったりと何もかも女神のお告げ通りに事が運ぶのに驚いた様子で、私を見るなりすぐ立ち止まり、彼の方から右手を差し出して私の口先に、花環を近づけました。
私はもう万感胸にせまり、喜びに動悸も震わせ、その奇《あや》に編みなせる薔薇の輝かしい花環に、夢中で噛みついたのです。そして女神のお約束を早く見たいばっかりに一気にそれを呑み込むと、どうでしょう。天帝のご宣託は確かに真実となって現れました。見る見るうちに、私の醜悪な野獣の顔はすべり落ち、薄汚いたてがみも消え失せ、粗雑な毛肌は和らぎ、でっかい胴体も細まり、足の裏の蹄は爪と変わり、手も、はや肢《あし》の影を失って高貴な役目にふさわしい形と変わり、長い首も縮まり顔も頭も円くなり、大きな耳も、もとのように小さくなり、石みたいな歯も人間並みのほそい歯と生れ変わり、そのうえ以前どれだけ私を苦しめたかわからないあの尻尾まで、すっと消えてしまったではありませんか。群衆は驚愕し、信者たちはこの偉大な神慮の威力をはっきりと目の前に見て、恐れ戦《おのの》きました。そして昨夜の夢のお告げと寸分《すんぶん》たがわず、私が手早く見事に変形をしとげたのを見て、誰もかれも、一度にどっと歓声をあげ、天に向って手を差しのべて、女神の輝かしい慈悲を認めて、賞讃したのでした。〔一三〕
私はと申すと、ただもう茫然自失、発する言葉もなくその場に釘付けされていました。私の心は本当に突然襲った大きな喜びに圧倒され、何といってよいものやら、新生の第一声をどう発したらよいか、いや今取り戻したばかりの舌の前途を祝福して、どんな縁起よい言葉を述べたらよいのか、偉大なこの女神に、どんな具合にどれほど感謝の言葉を捧げたらよいか、などとあれこれ迷っているうちに、大司祭は女神の御告げによって私の災難を一部始終ごぞんじでしたから、目もくらむような奇蹟に一時は大変面食らわれましたが、すぐに私に向って頭で合図し、何よりも先ず私の裸体を隠すため、亜麻の着物をまとうように命ぜられました。というのは、ロバがあの忌々しい毛皮を私から剥ぎとってしまうと、すぐに私はぴったりと股をとじ、そこに注意深く手をあてて、自然の被《おお》いとし、裸体の許す限り端正に身をつくろっていたのです。そしたらすぐ敬虔な信者の一行から、一人が出て、自分の上の下衣をぬぐと、あっという間に私の体にかけてくれました。それを見て大司祭は、温和な顔でというよりも、何か神々しい顔付きで、私の姿をじっと見つめながら、こう申されました。〔一四〕
「ルキウスよ、お前はさまざまの限りない艱難に打ち克ち、|運命の女神《フォルトゥナ》の荒々しい仕打ちと、猛烈な大風の危険から脱れ、ようやっと休息の国の門に、大慈悲の祭壇に到着したというわけだ。今まではお前の生まれも品位も、そのうえ、花と咲き誇る学識さえも、お前に何ら役立たなかった。それどころか、お前は血気盛りの年頃によくあり勝ちな誘惑に負け、みじめにも快楽に沈溺して、お前のその宿命的な好奇心に苦々しい罰を受けたというわけだ。しかしそれはとも角、あの盲目的な|運命の女神《フォルトゥナ》が、意地わるい策をめぐらし、お前をさんざん苦しめている間に、ひょっとしたいたずらな出来心から、思いもかけずお前をこのような法悦の世界につれてきてしまった。今こそ、|運命の女神《フォルトゥナ》よ、このルキウスのもとから去って、どこか他の所に行き、存分、怒り狂うなりと、残忍な餓えを満たすなりと、かってにするがよかろう。われわれの信ずる女神は、ご自分に奉仕させようと生命を預られた人間には、不幸な破目に再びおち込むような隙間を与えられないのだから。そのような人間には、邪悪な|運命の女神《フォルトゥナ》が、どんなに盗賊や野獣や苦役を使って苦しめようとも、小石だらけの曲りくねった道を往復させても、毎日死の恐怖を与えようとも、所詮骨折り損とあきらめるだろう。
ルキウス、お前はもう|運命の女神《フォルトゥナ》――といっても今度は、何もかも見透しの、どんな神々をもご自身の光で照らし給うイシスの女神のお胸に抱かれたのだ。その純白の着物にふさわしく、お前も恵比須顔で、喜び囃し立ち、救世主の女神の行列に、仲間入りするがよかろう。
さて世俗の人々よ、お前らもとくと見るがよい、そしてお前らの間違いをみとめるがよい。今ここに偉大なイシスの女神の摂理によって、過去の苦難から解放された人がいる、ルキウスというこの男は、悪運に打ち勝って歓喜に浸っているのである。
しかしルキウスよ、お前がもっとやすらかな心境を願い、もっと充分な女神の庇護を願うならば、この聖なる義勇兵に汝の名前を連ねるがよかろう。その宣誓については、つい昨晩、お前も女神から強く要望されたところである。さあ早速今から、われわれの宗教の戒律にお前の命を捧げてくれ。むしろ自分から進んで聖職の軛《くびき》の下に服して欲しい。きっとお前もわかるだろうが、女神の奉仕に加わると、たちまち自由の恩恵をいっそうしみじみと味うことだろう」〔一五〕
このように私の行末のことを、尊い大司祭が喘ぎなから、苦しそうに申されると、沈黙してしまわれました。それで私は、すぐ信者たちの行列に加わって女神のお供をしながら進んで行くほどに、人々はみんな私の方を見つめ、関心を払い、指で示し合い、頷《うなず》きあっていました。町全体が私のことを話題にし、こんなことをいっていました。
「あの人は、今日至高の女神のご慈悲によって、人間に生れ変わったのだ。全く運のよい男だ。三度も祝福された男だ。きっとあの人の前世における清浄潔白と信心深さが、天上の御心に通じ、そのため、あんなに光栄なご加護を給うに至ったのだ。それであの人も、新しく生れ変わった今では、どんなことをしても、聖職に身を捧げるだろう」
そのうちにもお祭りの行列は賑やかに騒いで少しずつ進み、とうとう海の際《きわ》までやってきて、おどろいたことには、私が昨夜ロバの姿で眠っていたと同じ場所につきました。そして神々の御像が儀式につれてそこに配置されました。そこにはすでに名匠の手になった船が置かれてありました。その船の胴体は、エジプトの不可解な象形文字で色どられていました。大司祭は口を清め、荘厳な祈祷をあげ、それから燃えた松明と卵と硫黄とでもって、その船を祓い清めると、女神の名を呼んで誓い、こうして奉納の儀式を終えました。
この祝福された船の真白い帆には、黄金の祈願の文字が織り込まれてありました。それは、新しく旅出つ船の航海の安全を祈った文句でした。更に、円く削られた松の檣《マスト》は、高く聳え美しい光彩を放ち、酒盃型の檣頭《しょうとう》は、人々の目を見張らせていました。船尾には金箔の鵞鳥が首を曲げてきらきらと輝いています。船底はすべて、透き徹った栴檀《せんだん》の材ででき、きれいに磨きあげられ、まるで花が咲いているようです。
やがて群衆は信者と俗人を問わず、みんな我れ先きにと、香料とかいろいろの供物を入れた箕《み》を、その船の中に積み重ね、海の上には、牛乳を灌奠《かんてん》として注ぎました。
こうして船はとうとう沢山の贈り物や幸福な祈願を満載して、錨索《びょうさく》を解かれると、ちょうど吹き始めた順風を受け、海をすべり始めました。その船がだんだん遠ざかり、船の姿が私達の視野から消えてしまうと、神聖な御物の捧持者たちは、各自持ってきたものを、再び手にとり、来たときのように賑やかな行列を、すばやく作って、元気一杯神殿に向って帰ることになりました。〔一六〕
さて一行が女神の神殿の正門に到着すると、大司祭とそれから大司祭の前方を歩んで、神聖な御像を捧持していた司祭たち、並びにもうすでに尊い内陣で奥儀を授った信者たちは、その神殿に入りました。そして崇高な儀式のうちに生気に溢れた御像が安置されました。
すると司書と呼ばれる一人が正門の前に立って、パストポリ〔イシスの宗教団の高職者〕の人達――これが神聖なこの神殿の僧侶団体の名称です――を何か会合でもあるかのように呼び集めると、その場で高い壇に昇り、書巻を広げて、先ず皇帝を祝福して、それから元老院議員、騎士並びにすべてのローマの市民を祝福して、それから我々の皇帝の統治し給うすべての国の船乗りや船を祝福して、祈祷の言葉を読み上げました。そしてギリシア語でギリシアの慣例に則って、「プロイアペシア〔「船出」または「航海の再開」の意〕」と宣言しました。この言葉が、航海の前途を祝福しているのだと知って、一同は喜びの声をあげました。人々は勇んで月桂樹の小枝とか葉とか花環を運んでくると、台に置かれた銀製の女神の像の御足に、接吻をして、各自自分の家へ帰って行きました。
しかし私はその場からどうしても爪の幅ほども動く気になれず、女神の御像の前に坐って、それにじっと視線を注ぎながら、昔の冒険の数々を思い出していました。〔一七〕
とかくするうち、早翔ける噂は、翼をしぼめ道草を食って怠けてはいませんでした。すぐさま私の母なる国に飛んで行き、私が女神の覚えめでたく、女神から誰も羨む幸福を与えられたというびっくりするような運命を、至る所に触れまわったもので、私の友人とか家つきの奴隷とか、血縁の人たちは、私が死んだという誤報から折角喪に服していたのを放り出し、あまり突飛な吉報に手の舞い足の踏むところを知らず、各自てんでに贈り物を手にとると、私が本当に地獄から光の世界に帰還したのか、確かめようと大急ぎで走ってきました。私もこの人たちに再会できる望みなど、すっかり失っていた矢先とて、その人たちの姿を見て大変勇気づけられ、そして彼らの心のこもった贈り物を、事情が事情なので感謝して受け取りました。というのも先見の明ある友達が、私の今後の生活とか、支出に間に合うほど充分なものを、あれこれと心配して持ってきてくれたのですから。〔一八〕
私はそれぞれの人に、それ相応の挨拶をして、てっとり早く私の過去の災難とか、現在の至福について話し終わると、再び私は何よりも感謝せねばならない女神の像の前に立ち戻りました。私は神殿の中に入って、奥の一部屋を借り、一時的な住所と定めました。それ以来というものは、女神の奉仕に個人の資格で参加しながら、一方では司祭仲間とねんごろに交わり、毎日怠らず偉大な女神に礼拝していました。私は一晩といえども、いや睡っている時でも、たえず女神の御姿に跪《ひざまず》き御告げをきいていましたが〔一方では、孤独のうちに沈思黙考、他方ではいつ出現するかわからない神に対して注意を集中しているという態度は、イシスの礼拝において本質的なものであった〕、その都度勿体なくも繰り返して、私に申されることは、長いことお預けになっている密儀を、今こそ私が承《う》ける時だというご命令でした。しかし私はそれをどんなに心から熱望していても、戒律に怯えて、それをのばし続けていました。というのも、その密儀に預るためには、どんなに苦しい勤行や厳しい禁欲生活が必要か、あるいはその生活がどんなに多くの危険に晒されるものか、そして安全な護身法として、どんな用心が必要か、そんなことをいろいろと尋ねて承《うけたまわ》っていたからです。私は一人でこんな事情をくよくよと考えていると、一方では早く秘儀を受けなくてはと苛立ちながらも、どうしたことか、ずるずるとのび放題になるのでした。〔一九〕
そうしたある晩のこと、夢の中に大司祭が現れ、大きく脹《ふく》れた着物の垂れの中のものを、みんな私に下さいました。これはどうしたわけですか、と尋ねると、大司祭は、これらはテッサリアから私へと贈り届けられたものの一部で、もう少し経つ頃、私の奴隷として、「四郎《カンディドス》」と称するものがやってくるはずだ、と仰せられました。私は目を覚まして、その夢を回想し、それがどんなことを予言しているのか、いろいろと考えめぐらしました。確かにそのような名前の奴隷は、今まで一度だって使ったことがなかったのですから、なおさらその夢がわからないのでした。しかしこの夢が何の前触れであろうと、現に私の前にある贈り物は、正真正銘私の物だと確信しました。私はこんな具合で、幸先よい意外の贈り物に、すっかり心を奪われ、そればかり考えて神殿の朝の開門を待っていました。その間も、左右へ開いていた白幕の間より、女神の崇高な御像に祈祷を捧げていました。一人の司祭は荘厳なお祈りをあげながら、整然たる祭壇をあちこちとまわって、神の奉仕に余念なく、神殿の内庭から汲み取ってきた清水を聖器から灌いでいました。やがて必要な儀式が終わって、白光の帰還《おかえり》に挨拶する信者の声が聞こえ始め、朝の第一時が告げられました。とちょうどその時、どうでしょう。私があのフォティスの凶々しい失策にかつがれてしまったとき、ヒュパテに残してきた奴隷たちがやってきました。もちろん彼らも、すでに私の冒険は知っていました。それであのとき私の連れていた白馬を返しにやってきたのでした。その馬は何でもあれから他の人の手にわたっていたところを、背中の目印から、それとわかり取り戻したとのことでした。それで私は夢の正確さにただただ驚嘆するばかりでした。というのは夢の中で大司祭の約束し給うた贈り物が、現実と一致したばかりでなく、「四郎《カンディドス》」という名の奴隷を夢の中で暗示して、「白馬《カンディドス》」を実際に返し給うたのですから。〔二〇〕
このことがあって以来、私は一層心をこめて、くる日もくる日もひたすら女神にお勤めを励んでいました。そのうち現在の幸福な生活に自信を得て、何とか未来の望みも叶えられそうな気持になって、それと同時に、献身の秘儀にあずかりたいという願いも日毎に烈しく募ってきて、私は大司祭の所にお百度を踏んで切なる思いを披瀝し、聖夜の密儀をさずけて下さいと懇願しました。ところが、大司祭は万事につけて慎重なうえ、戒律の厳守という点ではあまりにも有名な方でしたから、私が伺うたびに、物腰柔く、親切に、ちょうど両親が頑是ない子の無心を宥《なだ》めるあの調子で、私ののぼせた申し出をうけながし、その都度もっと楽しい希望を抱かせるようにして、私の焦慮を慰めて下さるのでした。あの方の言い分というのはもっともな事ばかりで、こうでした。
「誰でも秘儀にあずかる日は、女神のお告げによって定まるうえに、その神聖なお勤めに立ち会う司祭たちも女神のご指図をまって初めて選ばれ、それから、その儀式に必要な費用まで、同様な手続きを経て定められるのだ。ともかくわれわれとしては忍耐強くこれらの規則を守って、違犯しないことが肝要である。事を焦《あせ》って順序を間違え、呼び出されても、その時より遅れて参上したり、命令もないのに慌てて行くといった失敗はできるだけ避けるよう心がけるのだ。それにつけても、ここの聖職者たちの間では、今まで唯一人として、そんな愚かな不届き者はいなかったし、女神のお告げもないのに、勝手放題に振舞い、女神を冒涜するような密儀をやらかし、それこそ致命的な罪を背負い込み、死の宣告を受けたというような者も一人もいなかった。そもそも人間が地獄の牢獄にとじ込められるのも、その生命を助けてもらうのも、みんな女神の御意のままなのだ。そしてその秘儀にあずかること自体、結局は、われとわが身に死を望むか、あるいは女神の大慈悲にすがって救済されるか、そのいずれかの運命を象徴しているのだ。その証拠に、今にも光の消えそうな瀬戸際に追い込まれた人でも、この戒律の厳しい秘鑰《ひやく》に臆することなく身を任せたばっかりに、どうにかその全能の女神の御力添えで、お膝元へ呼び出され、新しく生れ変わって、今までと違った生涯を送らせてもらったという例もよくあるのだ。こういうわけで、たとえお前が偉大な女神の特別のご詮議により、ずっと以前から聖職に召された運命にあるとはいうものの、やはり女神のご意志に従うのが一番よいのである。お前も今から、ここの信者仲間と一緒になって、世俗の食物とか、禁制の飲食をさっぱりと断って、あらゆる宗教の中でも、最も神聖なこの秘儀を確実に拝受できる体になって欲しい」〔二一〕
こう大司祭は申されました。それで私もこのお言葉を肝に銘じて短気な気分を抑え、毎日を爽快な静寂と心地よい寡黙のうちに、ひたすら女神にお仕えし、お勤めを怠《おこた》らなかったのです。果たして覚えめでたき全能の女神のご慈悲は、約束をごまかしたり、長びかしたりして、私を苦しめるようなことはなさいませんでした。ある暗い真夜中のこと、その暗闇を際立たせるほどの明々白々たる御声でもって、はっきりとこう命令し給うたのです。
「お前の熱烈な誓いを叶えてやれる日が、とうとう来たのです、お前が一日千秋の思いで待っていた日が遂にきました。儀式に必要な費用を用意しておきなさい。お前が知ってる大司祭のミトラは、星座の神聖な関係から、お前と結ばれているので、お前の聖なる儀式に立ち合うことになっています」
最高至上の女神の折角のこの思し召しを聞くと、私は勇気づけられ、まだ朝の光のほの暗い時だというのに睡気を打ち破って、大急ぎ大司祭のおられる部屋に飛び込みました。するとあの方はちょうどその時、床を出て来られるところで、出会いがしらに挨拶をしました。私は今日こそ今までになく執拗に頼み込み、尊い秘儀に預ることが私の義務であるかのように強く主張してやろうと、決心していたのですが、あの方は私を見ると、向うからお先にこう申されました。
「おお、ルキウス、お前は何という仕合せ者だ。こうして尊い女神の御心にかない、輝かしい恩恵を給わるとは。こうなったからには、もうぐずぐずしておれないぞ。お前が心に誓っていつも待っていた日が到来したのだ。
今日こそお前は、いろいろのご異名を持たれるあの女神の神聖なご指図を受け、そしてこの私の手に導かれ、もっとも敬虔な秘儀にあずかるのだ」
こういって老師は情愛こもった右手を私の肩にかけ、早速、壮麗な神殿の正門につれて行かれました。そこでイシスの荘厳な宗旨に則り、開門の儀式をあげ、朝の祈祷を終えると、あの方は奥まった内陣の方から数巻の文書を持って来られました。その文書は、私の読めない文字〔象形文字のこと〕で書かれてあったのですが、一部に拝見された種々の動物の姿は、礼典上の規則を要約した言葉のように思われました。
しかし他の文書に見られた文字は、節くれ立ったり、車輪のように円かったり、あるいは尻尾の方が葡萄の巻き蔓《つる》のように曲りくねったりしていて、俗人どもがいくら好奇心にかられて読もうとしても、到底不可能なことでした。大司祭はその秘書を開いて、私が密儀を受ける上に必要な品物を読みあげ、それを用意しておくよう申し渡されました。〔二二〕
そこですぐ、私はあれこれと熱心に、あるものは自分の手で、あるものは友達に頼むという風にして、惜し気もなく相当のお金を使って、必要なものを買い揃えました。やがて大司祭の適当だと申される時刻がきたので、私は信者仲間に連れ添われて、すぐ近くの洗礼場に案内されました。あの方は先ず私にいつもの通り水浴させてから、ご自身で女神にお祈りをあげ、私の体に水を灌《そそ》いで、浄められました。こうして神殿に連れ戻された頃は、もう一日の三分の二も過ぎていたのでしょうか、女神の御像の前に立たされ、大司祭から極秘の教示を給わりましたが、それは人間の言葉とは到底思えないほどの神秘な響きをもっていました。
それから今度は、並みいる群衆にもわかる言葉ではっきりと、今後十日間私が食事から楽しみを得ることは許されず、肉食や飲酒を禁ずるよう宣言されました。私はこの敬虔な禁欲生活を厳格に守り通して、いよいよ女神の御前に出る運命の日がやってきました。その日太陽が腰を低うして黄昏を誘い始めた頃のこと、おどろいたことにさまざまな所からぞくぞく人が集まってきたのです。そして誰も彼もその密儀の古い習償に従い、いろいろのものを私に贈り、私の名誉を称えてくれました。やがて俗衆たちが全部立ち去ると、大司祭は私に今まで誰も着なかった亜麻の真新しい着物を与えると、私の肩に手をかけ、内陣の最も奥まった部屋に連れて行きました。
さて好事家の皆さん、あなた方は、おそらくその室で交わされた二人の会話とか、そこで起こった事件とかについて、何か話して欲しいと強く要望なさることでしょう。その発表が許されるものなら、喜んで私も話しましょう。皆さんのお耳に入れてよいものなら、喜んでお聞かせしたいものです。しかしそれについて不謹慎なお喋りをしたり、あるいは大それた好奇心から、それを聞こうとしたら、皆さんのお耳も私の舌もひとしく罰を蒙むること必定です。だからといって何も申しませんと、今度は皆さんの方が、熱望を抱いて何となく落ちつかないままに、いろいろと取越し苦労なさるでしょう。そうなると私も辛抱できません。一つ話を聞いて下さい。でもこの話はみんな真実だと思って下さい。
私は黄泉の国に降りて行き、プロセルピナの神殿の入口をまたぎ、あらゆる要素を通ってこの世に還ってきました。真夜中に太陽が晃々と輝いているのを見ました。地界の神々にも天上の神々にも目のあたりに接して、そのお膝元に額《ぬか》ずいてきました。
こういったところが私の話です。皆さんはお聞きなられた今でも、何のことやら、ちんぷんかんでしょう。でもそれはみんな、みなさんのせいです。それはともかくとして俗界の皆さんに打ち明けても、神罰を受けないで済むようなお話をお聞かせしましょう。〔二三〕
朝の訪れとともに、前夜の儀式がみんな終わったので、私は十二枚の法衣〔黄道帯の十二宮を暗示している〕に身を潔め、内陣から出てきました。この法衣はそれ自身相当の秘儀的性格を持っていましたけど、お話しても別に差し支えありません。というのはあの時そこに居合せた多くの人たちもそれをみたのですから。ともかく、私はその姿で神殿の真ん中に導かれ、女神の御像の前で、木製の台の上に立たされました。私は亜麻の美しい花模様のある着物をきて、人目を奪うばかりでした。高価なギリシア風の外套がゆったりと肩から背中をまわって、踵まで落ちていました。その外套は人目のつく所はみんな、いろいろの動物の姿が、さまざまの色彩を使って美しく描かれ、ここにはインドのドラゴン、あそこには、地球の裏の常春の国に住む鳥のような翼をもったグリュプス〔前半身は鷲で、後半身は獅子の怪物〕といった具合でした。この服装は司祭たちが「オリュンピアの法衣〔この名称はおそらくこの法衣がオリュンポスのゼウス大神の祭りの時にも使用されたためであろう〕」と呼び慣わしているものです。そうしたうえに、右手には燃える松明を捧げ、頭には棕櫚の高貴な花冠を頂き、その葉は太陽の光線のごとく四方に光を放っていました。
このように私は太陽の姿をまねて着飾り、女神の御像そっくりとなったかと思うと、突然四方の幕が取り払われたのです。それは私を見ようと思って、群衆が流れ込んだためでした。それから私は素晴しいご馳走と賑やかな会食者とによって、浄福された宗教生活の前途をお祝いして頂きました。翌日の第三日目も同じ儀式をとり行って聖なる朝食を摂り、こうして私は既定の規則通り密儀を完了したのでした。
その後も数日間、滞在して女神の御像を礼拝し、勿体ない法悦の世界に魂を浸らせて日を送りました。それから女神の御告げに従い、充分とはいえませんが、私の力のできる限りの誠心こめたささやかな報酬を支払って、随分と長く伸ばしてきた帰郷の準備にとりかかりました。その時だって女神のお側を離れたくないという強い欲望の絆を、いやいやながら断ち切るような気持でした。お別れに臨み、私は女神の御像の前に行き、長い間ひざまずいて私の頬で御足を撫でているうち、とうとう涙がこみあげ、しきりにむせびながら言葉もとぎれとぎれに、女神にこう誓い申したのです。〔二四〕
「おんみは、げにも聖なるおんみは、常に変わらぬ人類の救い主、おんみは死すべきものに借しみなき慈悲を垂れ給い、哀れなる身の上に母のごときやさしい愛を恵み給う。おんみの御守りなくて、一日といえども、一夜といえども、いや瞬く間といえども、すぎて行くこと能わず。おんみは海と陸とを問わず、そこに住む人間を救い給い、彼らからこの世の嵐を追い払い、彼らに救いの手を差しのべ、彼らに執念深く絡みつく運命の糸を、解き放ち給う。おんみは、彼らのために、運命の暴風雨を宥《なだ》め、天体の不吉な運行をそらし給う。おんみは天上の神々からも尊敬され、地獄の神々からも畏服され給う。おんみは地球をめぐらし、太陽を輝かせ、この世を統《す》べ、黄泉の国を足下に踏み給う。おんみの命ずるままに、星座は従い、四季は巡り、神々は悦び、要素はかしずく。おんみのうなずき一つで、風は生気を帯び、雲は漲《みなぎ》り、種は芽生え、芽は伸びる。威厳あるおんみの前には空飛ぶ鳥も、山駆ける獣も、陽《ひ》に身を隠す蛇も、海を泳ぐ魚も、怖れ戦《おのの》く。
それにつけても、私はおんみを讃えるべく、余りに詞藻《しそう》乏しく、おんみに犠牲を捧げるべく、余りに財産が少のうございます。厳かな御身に抱いている私の気持を、今述べさせて頂こうとしてもいかんせん、私の声にはそれだけの力がございません。いいえ、そのためには、百千の人々の、百千の言葉をもってしても、いいえ、それを永遠に続けても、到底足らざることでございます。それでともかく貧しい身ながら、せめて信心深い私にできることを、やってみようと懸命に念願しています。それは、御身の神々しいお顔と、至福なお声を、大切に心の奥底にしまっておき、いつもそれを思い出しながら、お守りして行くということでございます」
このように至高の女神にお祈りを捧げてから、大司祭ミトラさま、今ではもう私の父として信頼するこの方を抱擁し、お首に何度も唇をあて、あの方の今までの沢山の恩恵に対して、それ相応の恩返しができないということのお許しを願ったのでした。〔二五〕
こんなわけで、私は懇《ねんごろ》にお礼を述べて暇どった後、やっと神殿に別れを告げ、長い間離れていた故郷の家に、そのまままっすぐに帰ってきました。すると数日ならずして、至高の女神のご教示を受けたので、矢も楯もたまらず、大急ぎで荷造りをすませ、便船に乗じて、ローマを目指して出発しました。順風のお蔭で、思ったより早くアウグストゥスの門に無事着きました。そこから二輪馬車を走らせ夕刻には――その日は十二月の十二日でしたが――その極めて神聖な市〔ローマのこと〕に入りました。その時よりさしずめ私のすることといったら、絶対の権威をもつ女神イシスに毎日祈祷を捧げること以外には、別に何もありませんでした。女神はこの市において、その神殿の位置に因《ちな》みマルスの野のイシスとも呼び慣《ならわ》され、熱心な崇拝を受けていました。いうまでもなく私はこの女神の敬虔な信者であり、なるほどこの地の神殿にあってこそ新参者ですが、教義にかけては生え抜きの信者であったわけです。
やがて偉大な太陽神が十二宮を一周して、一年を終える頃、恵み深い女神は、夜を徹してのお心づかいから、今度も私の夢の中に現れ給うて、もう一度密儀と献身の儀式を受けるようにとお告げになりました。一体全体、今度のお告げは、どういうご意図から出たものか。女神は私にどういう運命をお告げになったのか。私はすっかり考え込んでしまいました。なぜって私はもうとっくに密儀にあずかったものと、信じ込んでいたのですから。〔二六〕
それからというものはこのお告げが大変気にかかり、一方では私一人の心のうちでいろいろと詮索を重ね、他方では司祭のもとに判断を仰ぎに行ったりして、その揚句やっと、この不思議なお告げの意味を了解したのでした。つまり私はイシスの女神の密儀には預っていたのですが、至上の神、神々の最高の父にまします絶対無比のオシリスの密儀にはまだあずかっていないわけで、しかもこのお二方は、密接な縁《えにし》で結ばれ、その神性と教義には本質的な一致があるというのに、こと密儀に関しては雲泥の差異が存在していました。そういうわけで、今度はどうしてもこの偉大なオシリスの神に仕えるよう要請されたのだと、考えざるを得なくなったのです。
ところがもうこれについて迷う必要もなくなりました。というのはその翌日の真夜中のこと、亜麻の法衣に身を包んだ一人の司祭が、酒神バッカスがお持ちのような常春藤《きづた》の巻き付いた杖を手に、夢の中に現れると、何とも名状し難いものを取り出し、私の家の守護神の前に置きました。そして、彼は私の椅子に坐ると〔ローマの家には炉の所に必ず|家の守護神《ラレス》があり、その前に祈祷椅子のような、家の主人が坐るべき椅子があった〕、それらのものが、厳かな戒律に則った食事をする際、是非とも必要となるものだ、といったと思うと、一度で間違いなく彼だと認められるような特徴ある歩き方をして、少し左足の踵に跛《びっこ》をひきながら、たどたどしくゆっくりと歩いて消えました。
神の思し召しがこんな具合に歴然と顕れた今は、もう懐疑の霧もすっかり晴れてしまいました。
私は女神に朝の礼拝をすますと、すぐさま街の中を熱心に歩いて、夢に見たと同じ歩き振りの人がいないかどうか、虱《しらみ》つぶしに捜してみました。そうして私の期待は裏切られなかったのです。とうとうパストポリ〔イシスの宗教団の高職者〕の一人を見つけ出し、彼の歩き方の特徴のみか、彼の姿といい着物といい、確かに昨夜の夢の人と、そっくりなのに気がつきました。彼の名がアシニウス・マルケッルスということは、もっと後になって知ったことですが、ともかくその名だって、私が人間に生まれ変わったことと決して無縁ではありませんでした。その人を見ると私はためらう間もなく急いで、彼の側に走り寄ると、彼は私のいわんとしていたことをずばりといいあてました。それもそのはず、昨夜私に密儀のことをあかして下さったと同じような御告げを、彼もすでに仰せつかっていたのでした。なんでも彼が昨夜見たという夢では、彼があの偉大なオシリスに捧げる花環を編んでいると、人間の一人一人に運命をお告げになるその神の御口から、こう申されたというのです。「お前の所に今度、送り屈けるマダウエルの一市民〔巻の一ではテッサリアの生まれとあり、突然ここでマダウエルと変わっているのは矛盾である〕は、正直に申して貧乏な男だが、直ちに私の方の秘儀を受けるよう取り計らって欲しい。と申すのも、そうしてくれれば、私も喜んで、あの男に学者としての輝かしい名声を与えてやれようし、お前にもどっさり報酬をくれてやれようから」〔二七〕
こうして私は秘儀の約束をされたのですが、なにぶん私は財力に乏しいこととて、気ばかり焦って、約束のことを一日一日とおくらせるばかりでした。というのも少しばかりの親譲りの財産は、さきの航海ですっかり使い果たし、おまけにローマでの生活費は、それまでの田舎の暮らしよりも、うんと高くついていたからです。それで私は苛酷な貧乏神に祟られ、まるで昔の諺にもあるように、「生贄と石斧との間に〔進退きわまること〕」板挾みとなって、苦しめられていましたが、それにも拘らず、神は以前にも増して烈しく私を責めたてられるのでした。こんなに何度も励まされては、どんなに苦しかろうとも、神の命令に従わざるを得なくなり、遂にほんとにつまらないものでしたが着物まで売り飛ばして、これで何とか間に合う程度の費用をかき集めることができました。それも神が、特別のご好意でもってこう御|喩《さと》しになったからです。
「お前がもしいくらかでも法悦の気分を、この上とも高めたいと願うなら、お前の衣類のことなど目にもくれるな。こんなに荘厳な秘儀が、今にもお前の上に訪れようというのに、貧乏に身を晒すことぐらい、悔やむこともあるまい。何をそんなにためらっているのか」
そんなわけで、私は必要な準備をみんな調え終わると、前と同じように、十日間をひたすら精進潔斎して、そのうえ、今度は頭髪も剃り落し、毎夜至上の神の密儀にあずかって、啓示を受けました。私は、以前、イシスの時の体験があったので、今度は充分な確信をもって、敬虔な勤行に励みました。この修業は、私の異境の生活に大きな慰めを与えてくれたばかりか、それに劣らず、生活の糧も沢山もたらしてくれました。それはまたどうしてかと申しますと、私は恵み深い運命の順風にのって、法廷に立ち、ローマの言葉でもって、弁護人の仕事をなし、なにがしかのものを稼いでいたからです。〔二八〕
それから間もなくのこと、全く突然に夢を破られ、驚いたことに、再びあの神の御告げを受けて、私は三度目の秘儀を受けるよう慫慂《しょうよう》されました。私は異常な不安に駆り立てられ、一人であれこれと心に迷った揚句、何が何だかわからなくなってしまいました。天帝のこのたびのご意向は何だろう。一体どういうわけで、こんな奇妙なご量見をもたれたのか。もう二度も密儀を受けたというのに、それでも充分ではないのかしら。この上まだどんなことが残っているのだろう。さては、あの二人の司祭が、儀式を間違えたか、あるいは手をぬいたか、いずれかに違いあるまい。何ということでしょう。今頃になって二人の忠実な司祭を、悪人のように疑い始めました。こうして疑惑の大潮に奔弄されて、まさに発狂の寸前まで追い込まれていた矢先、神が夢の中に現れ、御言葉もやさしく、このような啓示を与えて下さいました。
「何でもないのだ、お前はこのように献身の儀式が続いておこるからといって、まるでお前の方に何か手落ちでもあったように心配しているが。それどころか、こんなに度々、神々の恩寵に預るというのは、お前にそれだけの資格があるからだと考え、むしろ大いに喜び元気を出すがよい。他人には殆んど一度だって許されないような事が、お前には三度も与えられた、ということに誇りを感ずるのだ。この三という数宇から、それにふさわしい永遠の浄福を期待するのだ。今度行われる密儀は、お前にとって絶対に必要である。というのも、まあ考えて見るがよい。もしお前がかつてテッサリアで着たあのオリュンピアの法衣を、あの神殿に預けたまま、ずっと置いてきぼりにしておいたら、お前がこのローマの市で、女神のお祭りを迎えても、祈りを捧げることもできなければ、また、女神のご命令を受けたとき、あの至福の衣裳に身を飾って人々に見てもらうこともできまい。さればお前の幸福と光栄と息災のため、今度も悦ばしい魂でもって、密儀に預るべきだ。これが偉大な神の忠告である」〔二九〕
厳かな神は、夢の中で、懇々と、私を説得し、事柄の重要性をお知らせ下さいました。そこで私はこの事態を無視したり、与えられた義務に頬かぶりをして、翌日まで逡巡しているという気になれなくなり、すぐそのまま、夢に聞いたことを私の司祭に伝えました。その時より私は規則を守って、いかなる肉食も絶ち、熱心の余り不変の掟の定めた十日間という斎戒沐浴の日数さえ、自分から進んでのばしたほどでした。
その期間がすぎると、今度は秘儀を受けるに必要な支度を手ぬかりなく整えました。その支度にあたって、私は、自分の懐に相談してやったというよりも、むしろ私の熱烈な信仰心の促すままにやったのでした。そしてその際要したわずらわしい苦労とか出費について、私は断じて未練がましく思ってはならないでしょう。なぜといって、私は寛大な神々のお蔭を蒙って、弁護士をやり、その収入でもって、相当楽なくらしをさせてもらっていたのですから。
それから数日ならずして、遂に、偉大な神々よりも更に威厳ある、威巌ある神々の中でも最高の、最高の神々の中でも最大の、そして最大の神々の統治者におわしますオシリスが、正真正銘のお姿でもって夢の中に顕れ給い、私のすぐお側で勿体なくも、こうお告げになりました。
「私はお前を、法廷に立たせて末長く光栄ある保護を与えるであろう。それで、お前の勤勉と深い学識を嫉妬して、世の人がいくら悪口をいい触らそうとも、何ら恐れる必要はない。それから今後は、ここの僧侶仲間と一緒になって、奉仕する必要のないよう、パストポリの一員に任命してやる。そればかりか、任期五年の参事会員〔イシス教団の中でも位の高い僧侶たちのもらった名誉職であろう〕に選んでやろう」
それで再び、私は完全に剃髪してしまったわけですが、私は禿頭を恥ずかしがって、人目を避けたり、何かでおおい隠したりするということもなく、むしろどこでも見せびらかしたのです。そして、スッラの時代に組織されたという最も古い伝統をもつその僧侶団体の職務に喜んで励んだのでした。〔三〇〕
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解題――呉茂一
一 作者について
この伝奇小説――小説という形式では、世に伝わるあらゆる文学のうちで、同じくローマの、一世紀中頃に属するペトロニウス(あの暴帝ネロの側近として知られ、「風流の目利《めき》き役」と呼ばれた)の悪漢小説《ピカレスク》『サチュリコン』を除けばもっとも制作年代の古いものであり、これと並んで正統派的《オルソドクス》な古典文学中に異彩を放つこの作品――の作者については、彼がおよそ二世紀中頃に栄えて、ローマ帝政下のアフリカに生れた修辞家《レートル》である、ということなどのほか、あまり委しいことが解っていない。その年代に関する唯一の確かな外的証拠も、彼の論説集粋である Florida 中の、スキピオ・オルフィトゥスの頌徳演説が紀元一六三年と推定されることだけで、その他は、彼の種々な作品の内容からしての、いわゆる内的証拠《インナー・テスティモニー》を頼りとするばかりである。
第一に彼の姓名もはっきりとはしていない。この『黄金のロバ』の古写本中、最上とされている羊皮紙本 Codex Laurentianus 68, 2 にも単に Apuleiusとあり、別本も概ね同上もしくは Appuleius で、たまたま Laurent. 29, 2 のように L. Apuleius とあっても、この L. は、恐らく本編の主人公である Lucius の頭文字で、偶然の一致以上には可能性が考えられない。つまり姓だけで、名は不詳とするのが妥当といわれる。
その他作品中に現れている種々な叙述などから推すと、彼はアフリカ州(現在の北アフリカ中部、昔のカルタゴ、今のチュニス辺である)の、ヌミディア境、マダウラ(あるいはマダウルス)市に、西暦一二五年頃生れたらしい。その生家は同市の相当な旧家で、あるいは本編の主人公と同じく(というのは、この『黄金のロバ』には、一種の告白小説の意味もこめられているらしいので)、高名なプルタルコスの一族として、父は英雄と同名のテセウス、母は貞淑のほまれ高いサルヴィアと呼ばれたかも知れない。ともかくこの彼の父親はマダウラで市政にも与る要職に就き、資産も相当にあったらしく、それによって彼は幼時から当時としては申し分のない教育を与えられて、マダウラでの初等教育につぎ、カルタゴからさらになお学芸の中心として聞こえていたアテナイ、さらにはローマにも遊学して諸般の学業を修めることができた。しかも身内からはやがて法律や政治で立つことを期待されながら、彼はひそかに詩文に心を傾け、その言によれば(Florida 20)、あり来たりの文法学や修辞学とは「違った杯を傾ける」に至って、「詩の典雅な酒杯や幾何学の透澄な酒杯、音楽の甘美な酒杯、論理学の固苦しい酒杯、宇宙哲学の無尽蔵な神酒《ネクタル》」に酔うを常としたという。
才能にゆたかな青年の常として、また生来烈しい好奇心に燃えていた彼は、旅行への招きを逃れることができずに、ほぼ成学を見た機に乗じて、東の方アシア州(小アジア地方)に赴き、学芸の一中心であったサモス島やフリュギアのヒエラポリスを訪れた。その後ギリシアのコリントス市に近い外港ケンクレアイで(もし本書の第十一巻を実伝と考えれば)、何かの霊感をうけてであろうか、エジプト伝来の神秘教であるイシス女神の信仰に入った。それからさらにローマに赴いてからも、いよいよ彼の信仰は堅く、二カ月の準備期間による試錬を終えて、イシスとオシリスとの教えの秘儀を授けられたのであった。『黄金のロバ』の制作年代をこのローマ滞在期に当てる学者も少なからず、そうとすれば本書は彼の青年期末の、三十歳前後のとき、一五三年頃の作ということになる。しかしこれにも多くの異説があって、例えば彼の註訳者の一人であるベトロオなどは、本書を七十歳以後の、晩年の円熱した筆になるものと論じているが、本編第一巻の冒頭を読むと、どうしてもローマで、ローマ人士のために綴ったものとしか考えられない。その他華やかな文体といい、ミレトス物語(彼が小アジアへ旅行してから間もない時で)といい、魔術などへの若々しい興味といい、青年時代の創作である可能性が極めて大きいようである。それに彼がローマへ旅行したのも、我々の知る限りではこの青年末期だけではあるが、さりとてアフリカはそうイタリアと離れてもいず、晩年などに旅行する機会も無かったとは言えないであろう。
ともかく、この大旅行、つまり彼の「遊歴時代」を終えて故郷マダウラに帰って落ち着く間もなく、彼はまた遊心の誘いにまかせ、当時流行のアレクサンドリアへの旅に発足したが、その途中オエアという町で、かりそめの病からしばらく床に就いた。ここにはアテナイで同学だった年少の友人シキニウス・ポンティアヌスというのが住まい、東方への旅も恐らく彼の勧奨によるところが少なくなかったとも推察される。そしてこの土地は、彼の一生に極めて重要な意義をもつ運命を担っていた。というのは、彼の結婚・告訴・裁判・弁論・著述などが皆これを機縁としていたからである。
手短かに述べれば、シキニウスの母プデンティラは、十四年前に夫と死別して以後、愛児の養育に専心して孤閨を守って来たが、ようやく息子も成人し、いろいろ財産上のうるさい問題もあり、かたがたそろそろ心細さを痛切に感じはじめる境涯にあった。それでシキニウスは親密な間柄であるアプレイウスに、しきりに母との結婚を懇願したのであった。もとよりポンティアヌス家は、土地でも一流の資産家であり、アプレイウスは父からの遺産を遊学や旅行のためあらまし使い果たしていたことも勘定に入れなければならない。彼としてはさらに東遊の志を抑えがたく、プデンティラもはや四十歳に近い年上のことで、そう魅惑的とばかりも言われないが、この辺のところは極めてデリケートで、他人の臆測を許さないものらしい。ともかく病が癒えると共に、彼はプデンティラの魅力をふかく認めて、その田舎の別墅《べっしょ》で結婚の式を挙げる運びになった。
ところが、このため鳶《とんび》に油揚げをさらわれた感を覚えたのは、前々からその財産とこの恰幅のいい年増盛りの婦人とを狙っていた親類や身内の者どもであった。彼らは今までの競り合いを止めると、共同の敵であるアプレイウスを引き倒しに全力を注ぎ出した。ことにしばらくして義子のシキニウスが病死すると(彼は前々から病身で、それが母親の結婚を熱心にすすめた一つの理由でもあったらしい)、この時とばかり、プデンティラの心をあやしい術でもって虜《とりこ》にして強いて結婚させ、邪魔者のシキニウスを毒薬で殺害したと称し、邪法行使の廉《かど》で彼を告訴したのであった。それにはシキニウスの弟である未成年のプデンスを唆かし、伯父に当るアエミリアヌスが先頭の告訴名義人となっていた。裁判は都城サプラタにおいて、総督クラウディウス・マクシムスの管理下に行われることになった。しかし生来の弁才に修辞術の訓練を積み、あまつさえ第一に真実の強力な援護下にある彼にとって、このような田舎者たちの捏造事件を論破することは、何の労苦にも値しないほどであった。「猫が餌食の鼠をもてあそぶように」彼は相手の論点を一々とり上げ、これを完全に粉砕していった。それにプデンティラが息子に送った手紙、彼が息子に贈与した寛大な財産の分け前などは、事実の反証として彼に有利な裁断をもたらしたであろう。その結果自体は分明していないが、もちろん彼は無罪を宣告されたと推定される。この彼の弁明が、いまも Apologia として彼の作品中に残り、当時のアフリカ、あるいはローマ地方都市の状況、ことに家庭や婦人の地位、財産関係の解明に資するところが甚だ多い。
その後、彼は妻と共に帰国してから、間もなくアフリカ州の首都であるカルタゴに移住し、この地で余生を送ったらしい。当時のカルタゴはハンニバル時代の都とはまた違った繁栄を謳歌し、今日もなお残っている遺跡からも想像されるように、ローマ帝国の属州中でもとりわけ殷盛を極めた大都会であった。歴代の皇帝もまたローマの穀倉であったこの地方には一方ならぬ力入れをし、完備した水道やフォルム(市場広場)に寺院・浴場が立ち列び、ローマの妹市 soror civitas とまで呼ばれていた。この都で彼は十分にその才幹を花開かせる機会を与えられて、あるいはギリシア語やラテン語の教授や訓育に携り、あるいは市民の啓発に尽くして学術講演を試み、あるいは為政者のため頌徳演説を行ない、市政にも参与するなど、縦横に活動をつづけたのであった。一方また詩作を試みるほか、悲劇喜劇などにも手を染め、文字どおり九人の芸神《ムーサ》に同等な情熱を捧げた結果、ついにはカルタゴ市民も彼の功労に感じて、そのために銅像を設立し、また彼をアエスクラピウスの大寺院の祭司に任命して彼に報いた。
なお終わりに彼の風姿容貌について一言すれば、ベルヌイによって公けにされた青銅メダル像を贋物としても、次のようなスケッチを描くことも許されようか。
「あのとても優しい(母上)サルヴィアさんの、おとなしやかな上品さそっくりだこと……背の高さも好い加減だし、優形《やさがた》の様子のよさ、頃合いの血色といい、亜麻色のわざとらしからぬ髪の形や……すみずみまで花のように明かるい顔立ちから、歩く様子の巧まない立派さといい」(本書、第二巻ノ二)
彼は Apologia 中で自分の風采を「平凡で長年の修業のために血も衰え、体力も損なわれ、何らの魅力もない」と貶《けな》しているが、これは告訴人が彼を「男前のよさで婦人を蠱惑《こわく》した」というのに反駁するためであったから、あまり信を措くこともできないであろう。
二 『黄金のロバ』について
ボッカチオがモンテ・カッシーノの僧院で発見したといわれる古写本――それは十一世紀のもので、現存する古写本中最も古くかつ権威あるものとされている Codex Laurentianus, 68, 2 ――には、本書の題は Metamorphoseon Libri XI(変形のくさぐさの物語十一巻)となっている。それで、最初アプレイウスは、この題名で本書を公けにしたと考えられる。ところで Metamorphoses というのは、すでにアプレイウス以前にもオウィディウスが同じ題で作品に残し(『転身物語』)、その他にも同名の書が沢山存在したようである。
そして、この表題をもつ書物の内容と趣向は大体次のようなものである。「ギリシア・ローマの神話ないしそれに類《るい》した神秘的な主題を取り扱った断片的な物語で、ふつう技巧的修飾的な形態を有し、先生が専門的な弁辞家《レートル》を養成する目的で、これを入門者に暗記させたものである」(R. E. Perry)と。
このように伝統的な Paradoxographi(伝奇文学)の概念に、アプレイウスの本書の表題は必ずしも適合しない。第一ここにはルキウスが、ロバに変ずるという唯一つの Metamorphosis(単数)しかないのに、Metamorphoses と複数にしたのはなぜだろう。
この疑問を解決する前に、これと関連する本書のモデル問題を調べてみよう。人間がロバに変形していろいろ異様な体験を重ねるという筋書は、何もアプレイウスの創作ではなく、ほぼ同じ筋書の作品が現在伝わっているのである。それは「ルキオスあるいはロバ」というギリシア語の短編で、ルキアノスの著――多分は偽作――といわれている。ところが、九世紀のコンスタンチノポリスの僧正、フォティウスの著述研究によると、このギリシア語の『ロバ』は、今は失われてしまっているパトライのルキオスの『変形譚さまざま』という本の二巻までの概略であり、更にアプレイウスの本著も、この書の模倣ではないかと考えられるに至った。もちろんこの三書の関係については未だ決定的なものはないが、この紛失したパトライのルキオスの作は、現存する二つの書を比較研究した結果、ルキアノス偽作の『ロバ』の凡そ二倍余の長さをもつものと想定されるが、それは二巻までの頁数で、その他にも別な変形の物語が集められていて複数の標題に応《ふさ》わしいものであったと考えられる。ところでアプレイウスが、この書物から、素材のみならず題名までそのままに用いたのは、彼の誤謬からだという学者と、いやそうではなくて、種々の変形譚を含むといった具体的な意味からでなく、単に変形という一般的な主題《テーマ》を暗示したにすぎないのだという学者とがある。
いずれにせよ、アプレイウスがこの題名を、伝統的な意味から離れて使っているのは確かで、人を訓《おし》えるよりも楽しませながら、しかもルキアノスとは別に相当に諷刺味も交えられている。それに物語の長さの比較からもわかる通り、これは単なる原作の模倣にとどまってはいなかった。彼は原作の『ロバ』に加うるにその頃流行していたミレトス風物語(たとえば、八巻二二〜二八、九巻四〜七など四編)や、プシケとクピドの優雅な物語――そこにスコラスティクな譬喩を見て、これを彼の独創に帰せしめるかは別問題として――や、当時の世相から暗示を得たと思われる描写や叙述(たとえば第八巻のカリテの悲劇)、あるいは有終の美といえるイシスの秘儀の告白などをもって、充分に独自な才能を発揮しているのである。
なるほど、時には全体の構成から見て余分と思われるような插話――たとえは好奇心の奴隷となったプシケとルキウスがそれぞれ「|愛の神《クピド》」と「|運命の女神《フォルトゥナ》」によって救済されるという主題の重複など――や、矛盾した記述(たとえば、第一巻二二、テリュフロンの話、第九巻一のロバが暴れる場面など)、時には英国の学者ならずとも、アプレイウスの名誉のため直訳を遠慮させるような箇所や、何よりも古典語と俗語の不自然な混合、突飛な語法が随所に見出されるとしても、なお盗賊の洞窟から天上へ、賤屋から宏壮な広間へと自在に舞台は推移し、ごろつきからローマの典型的な紳士、密男《みそかお》から老賢人、淫乱な妻から純潔な乙女と交代して人物が登場する。そして神秘的な会話が取り交わされたと思うと、嫉妬深い継母の声に驚かされ、中世の教会で祈祷を聞くかと疑わせると、たちまちローマの血に塗れたコロセウムに民衆の叫びを聞くといった、いかにも興趣の尽きないこの物語は、すでにアプレイウスより二世紀後れて、アフリカに生れた聖アウグスティヌスにさえ、本書を『黄金のロバ』という表題の下に礼讃せしめている。(『神の国』一七・一八)
この西暦四世紀以後中世を通じてずっとアプレイウスの名声は衰えることなく、ある意味では同じく魔法使いと信じられていたウェルギリウスよりももっと喧伝されて、僧院においても俗間においても彼の作品は読まれ、論じられ模倣されてきた。もとも、これはイタリア国内においてのみで、他の地方で、本書が読まれていたという確証はない。
アプレイウスが、その本来の姿に帰って、我々の前に現れたのはルネサンス以後であった。率直に肉の快楽を正当化し、ギリシア・ローマの古典の中に当代と共通した要素を発見しようと試みたルネサンスの人々に、本書が直截《ちょくさい》な魅力を与えたことは当然のことと首肯される。
ボッカチオの『デカメロン』の中に、またセルバンテスの『ドン・キホーテ』にも、ルサージュの『ジル・ブラス』にも本書から素材が用いられた。そして一五二五年にフィレンツオーラ(Firenzuola)がこれをイタリア語に訳出して『黄金のロバ』の題名で出版してから、英国でも同じく『黄金のロバ』として、一五六六年にアドリントン(Adlington)が英訳を出版した。それ以来この「素晴しく面白く楽しい」という最上級の賛辞からする「黄金の」という形容詞を付けた「ロバ」は、少なくも西欧諸国の文人や好事家によって変わらずに愛読されて来たが、ことにその中のプシケとクピドの物語は英国の優れた文芸批評家かつ文明批評家であるウォルター・ペイターによってその著した歴史小説『享楽主義者《エピキュリアン》メーリアス(マリウス)』の中にそっくり取り入れられ、いっそう世界の読書子に親しいものとなっている。いまアプレイウスの直接の礼讃者としてこの物語(ことに「愛と魂」)を取り上げた近代文学者の系列を探れば、その中に次のような名前を見出すことができよう、ルネサンス人のポッジヨ、ボッカチオ(デカメロン中の二插話、「くさめをして見つかった男」第十話第五日、「甕《かめ》にかくれた恋人」第二話第七日)、あるいはラ・フォンテーヌ、酒袋と戦ったドン・キホーテ(本書第二巻の三二)や盗賊の巣窟におけるジル・ブラスは別としても、ドイツの Wieland, Hamerling, H. G. Meyer その他、イギリスの Keats, W. Morris, R. Bridgesなど多くの詩人や作家を。
なお本書に独特な色彩と興味とを与えている二つの特色、すなわち魔術への関心とイシスの信仰への傾倒については、この上にここで述べることはさし控えよう。それはむしろローマ帝政期、紀元二・三世紀頃以降とりわけ甚しかった、古典末期の世相を物語ることであるし、むしろ本書の通読が、よりよい解説ともなるであろうから。ただこの作者の、イシス女神への信心がなみなみのものでないのは、十分な注意を要するであろう。「千万の名をもちたまう女神」は、あるいは童貞マリアでもあり得るのだ。キリスト教が緩やかな、しかし確固とした歩みを進め、下層民から上流へ、大都会へと進出してゆきつつあった時代である。そしてこの入信が巻末に据えられていることには、中に置かれた『クピドとプシュケ』(愛と魂)の物語とも前後照応して、この興味中心と見える一編の戯作が、あるいは一種の教養小説《ビルドゥンクス・ロマン》ではないかを人に疑わしめるものがある。そう見ればロバに形を変えた人間は、迷いの深い肉の身にこめられた魂の象徴でもある。これまでこの物語を、全く読者を楽しませるためと見なして来た私は、このごろ次第に本編をこのように解釈するのが本当ではないか、と考えるようになった。そしてロバはつねに解脱をこいねがい、ついに恩寵によって薔薇の花環を味わい、もとの人身にかえり得たのであった。その裸形をつつむのは、浄らかな聖衣であった。やはりこれは卑俗なローマ人士を楽しませつつも教義にそれとなく導くための、魂の変形譚と観るべきではないだろうか。
三 原典および参考文献
本書の訳出に当って使用した原典、註釈書、あるいは参照した翻訳書を挙げれば、大体次のごとくである。
1.Apulee: Les Metamorphoses, Texte etabli par P. S. Robertson et traduit par P. Valette; Paris, Les Belles Lettres, Tome I. 1940; II. 1946; III. 1945.
2.Apuleius: The Golden Ass, translated by W. Adlington and revised by S. Gaslee: London(Loeb Classical Library), 1928.
3.(Psyche et Cupido の部分について)The Story of Cupid and Psyche as related by Apuleius by L. C. Purser, introduction, text, notes etc. London, Bell, 1910.
これについで
4.Ouvres completes d'Apulee, Tome I. par V. Betolaud. Paris, Garnier, 1864?(texte et traduction fr.)
5.Apulee: L'ane d'or ou Les Metamorphoses, traduction nouvelle avec introduction et notes par H. Clouard; Paris, Garnier, 1932?(texte et trad. francaise)
6.The Metamorphoses, or Golden Ass of Apuleius of Madaura. translated by H. E. Butler. 2 vols. Oxford, Clarendon Press, 2 1928.
7.Apuleius, the Golden Ass, a new translation by Robert Graves, the Penguin Classics, 1950.
一四六五年にサビニ山中のスビアコ僧院でドイツ人スヴァインハイムとパンナルツが古写本を印刷する企てをはじめ、四年後にローマで最初の出版 Editio Princeps を世に問うてから、多くの校訂本が刊行された中にも、すぐれた権威を認められるのは一九〇七年以下数度改版を見たヘルム B. Helm のトイブナー版原典であって、以来最新の校訂本まで、主としてこれに準拠し、若干の校改をそれぞれの見解によって加えているだけである。本書の訳出には前半(六巻まで)はロエブ叢書、後半はベル・レトル版により、もちろん他書も参照し、「クピドとプシケ」では Purser を利用することも多かった。アプレイウスの文体は極めて独自なだけでなく、かなり過飾に陥り対句や同義類義語の重複使用を好むので、かなり訳出しがたい傾向にある、時には噛み砕きを余儀なくされる場合も少なくない。また前半は呉の訳出であり、後半は主として国原がこれに当ったので、その間訳出文体に多少の相違が生ずるのも止むをえないことであろうか。なお参考文献の主なもの(文学史、および古典学誌は除く)若干を読者の便宜として以下に掲げる。
W. A. Oldfather etc: Index Apuleianus, American Philological Association, Middletown, Conn., 1934.
E. H. Haight: Apuleius and his Influence(Our Debt series), London, Harrap. 1927.
M. Bernhard: Der Stil des Apuleius von Madaura, Stuttgart, Kohlhammer, 1927.
S. Dill: The Roman Society from Nero to M. Aurelius, London, Macmillan. 1926.