銀河ヒッチハイク・ガイド
ダグラス・アダムス
風見 潤 訳
ジョニイ・ブロックとクレア・ゴースト
そしてアーリントンのみなさんに
お茶と同情とソファをありがとう
銀河系の西の渦状肢――星図にものっていない寂れた一角に、ちっぽけで貧相な黄色い恒星がある。
その星からおよそ九千二百万マイル離れた軌道をめぐる、青緑色のこれまた小さな惑星がある。その星に棲むのは猿から進化した生命体で、あきれるほど原始的。デジタル時計を精妙な細工だといまだに考えているありさまだ。
この惑星には古来よりひとつの大問題がある――いや、あった、と言うべきか。すなわち、この星の住人の多くは、不幸のうちに一生を終えるのが常だったのである。この問題の解決策は数多《あまた》あれど、ほとんどは、主として緑色の紙きれの移動に関わるものだった。これはおかしなことだ――あらゆる点から見て、緑の紙きれ自体が不幸だったわけではないのだから。
それゆえ、問題は依然として問題のまま残された。住人の多くはみじめで、大部分はとても不幸だった――デジタル時計を持っている人でさえそうだった。
そもそも木を降りたのが大きな間違いだった、と多くの人が考えるようになっていた。木に登ったのさえいけなかったのだ、海を離れるべきではなかったのだと主張する者もいた。
さて、他人《ひと》にやさしくするのはなんとすばらしいことでしょうと説いた罪で、ひとりの男が磔《はりつけ》にされてから二千年ばかりたったある木曜日、リックマンズワースの小さな喫茶店にいたひとりの少女がふと、これまで何がいけなかったのかに気づいた。どうすれば世界が幸せで立派な場所になるか、ついに悟ったのである。今度の解決こそ正しかった。うまくいきそうだったし、誰かが磔にされる心配もなかった。
しかし、あろうことか、少女がそれを電話で誰かに話す前に、世界はおそろしく馬鹿馬鹿しい終末をむかえた。答えは永遠に失われた。
本書はその少女の物語ではない。
おそろしく馬鹿馬鹿しい終末と、それに続くいくつかの事件の物語である。
そしてまた一冊の本の物語でもある。『銀河ヒッチハイク・ガイド』という本――地球の本ではない。地球で出版されたこともない。あのおそろしく馬鹿馬鹿しい終末までは、地球人の誰ひとり、その本について見聞きした者はなかった。
とはいえ、その本はまことに並みはずれた本だった。
小熊座にある大出版社(についても地球人は聞いたことがあるまい)から発行された本のなかでも、とりわけ並みはずれていた。
並みはずれていただけではない。非常な成功もおさめていた――『宇宙家屋修理法』シリーズよりも人気があり、『無重力下の性生活』よりもよく売れ、哲学上の問題を提起したオーロン・コルフィドの三部作『神はどこで間違えたか』『神の大いなる過ち』『この神とは何者か』よりも論争の的となった。
銀河の東の渦状肢の外縁部にはずっとのんびりした文明社会が散在していたが、そこではすでに『銀河ヒッチハイク・ガイド』があの偉大なる『銀河大百科事典』にとってかわり、あらゆる知識と知恵の宝庫と目されていた。『銀河ヒッチハイク・ガイド』には遺漏も多かったし、いいかげんな事項――少なくとも、ひどく不正確な事項もたくさん載っていたが、ふたつの重要な点で、かの古めかしく、退屈な大辞典を凌いでいたのである。
ひとつには、ガイドのほうがちょっと安い。いまひとつには、そのカバーに大きな親しみやすい文字で“あわてるな”と書いてある。
しかし、このおそろしく馬鹿馬鹿しい木曜日の物語は、それからの異様な出来事の物語は、その出来事がどうしてこの並みはずれた本と複雑にからみあったかの物語は、ごくそっけなく始まる。
それは一軒の家から――
1
その家は村はずれの小さな丘の上に建っていた。あたりにあるのはその一軒だけで、イングランド西部地方の広大な農地を遠く見はるかしている。どこから見ても、注目に値する家ではない――建ってから三十年ばかりたった煉瓦づくりの、四角ばってずんぐりした家で、大きさといい形といい、ながめたところで楽しくなるような代物ではない。正面の壁には四つの窓があいている。
この家に特別の意味を見いだしている人物はただひとりで、その名をアーサー・デントという――といっても、彼がこの家を住処《すみか》にしているからにすぎぬ。ノイローゼの気味がでたので、ロンドンから引っ越してきて以来三年、この家に住んでいる。年のころは三十歳ばかり。背が高く、髪は黒く、生れてこのかた寛《くつろ》ぎというものを知らなかった。なぜ寛げないのかという理由の第一は、他人に会うたび“なんでそんなに寛げないのだね”と訊かれるからだ。アーサーはこの地方のラジオ局に勤めていて、友人に、君たちが考えているよりずっと面白い仕事だぜ、というのが口癖だった。そう言うこと自体も面白かった――友人のほとんどは広告業界で働いていたからだ。
水曜の夜はどしゃぶりで、小道はひどくぬかるんだ。だが、木曜の朝、これが最後とアーサー・デントの家を照らした太陽は、晴れやかに、明るく輝いていた。
アーサーはまだ正しく認識していなかったのだが、道路建設委員会は、この家を取り壊し、あとにバイパスをつくる意向だった。
木曜の朝八時、アーサーの気分は上々とは言いかねた。疲れの残る眼をあける。ベッドを出て、疲れの残る足取りで寝室をふらふらと歩き、窓を開ける。ブルドーザーが眼に入る。スリッパをさがしあて、ペタンペタンとバスルームへ洗顔に向う。
歯ブラシに練りハミガキ――ゴシゴシゴシ。
髭剃り用の鏡――天井を向いている。角度をなおす。一瞬、バスルームの窓の外に二台目のブルドーザーがうつった。鏡の位置がなおると、アーサー・デントの無精髭がうつしだされる。髭をあたり、顔を洗い、タオルで拭くと、ペタンペタンと台所に入る。なにか口に入れるものを捜すのだ。
電気ポット、プラグ。冷蔵庫、ミルク。コーヒー。あくび。
ブルドーザーという言葉が、なにか結びつく言葉を捜して、心の中をさまよった。
台所の外のブルドーザーはやたらと大きかった。
アーサーはそいつをまじまじと見つめる。
“黄色”と考え、服を着るため、ペタンペタンと寝室に戻る。
バスルームを通りぬけるとき、立ちどまって、大きなグラスで水を飲む。もう一杯。二日酔いではなかろうか。なぜだろう? 昨夜《ゆうべ》は酒を飲んだかな? 飲んだにちがいない。髭剃り鏡の反射光が眼に入った。“黄色”と頭にうかぶ。ペタンペタンと寝室へ。
立ちどまり、考えた。酒場《パブ》だ。なんてこった。パブへ行ったのだ。なんか大事なことにひどく腹を立てていたんだっけ。その大事なことを飲み仲間に話したのだろう。くどくどと話したのだろう。みんなの表情はぼんやりとしか思い出せない。大事なこととは、新しいバイパスの件。その話を耳にしたばかりだったのだ。計画は何ヶ月も秘密にされていて、誰ひとり気づかなかったようだ。馬鹿馬鹿しい。アーサーは水をグイとひといきに飲んだ。もちろん、バイパスを欲しいと思っているやつなんかひとりもいないさ、彼はかってにそう決めた。委員会にそんな権利なんかあるもんか。あたりまえだ。
だが、その問題のおかげでなんてひどい二日酔いになっちまったんだろう。姿見にうつった自分を見つめた。舌をつきだす。“黄色”と頭にうかぶ。黄色という言葉が、なにか結びつく言葉を捜して、心の中をさまよった。
十五秒後、アーサーは家を出て、庭の小道に迫りくる大きな黄色いブルドーザーの前に身体《からだ》を投げ出した。
L・プロッサー氏はまことに人間らしい人物だと言われていた。換言すれば、まことに猿の末裔《まつえい》たる炭素系二足生命体らしかった。個体の特徴といえば、四十歳で、太っていて、だらしない格好で、委員会で働いていた。知らぬこととはいえ、まことに興味深いことに、氏はジンギス・カンの直系の子孫であった。もっとも、何十世代もの時が過ぎ、人種が混じりあってしまっていたので、遺伝子も、黄色人種《モンゴロイド》の特徴をあらわすのを忘れてしまったものとみえる。L・プロッサー氏に残る偉大な先祖の痕跡といえば、頑丈な胃をもっていることと毛のついた小さな帽子を偏愛していることだけだった。
氏は偉大なる戦士からはほど遠かった。どちらかというと、神経質でくよくよ気に病むタイプだった。特に今日は神経がいらだち、くよくよしていた。仕事の先行きがまったく暗いのだ。今日じゅうにアーサー・デントの家をきれいさっぱり片付けてしまわねばならないというのに。
「やめてくださいよ、デントさん」プロッサー氏は言った。「そんなことをしたって無駄だよ。ブルドーザーの前に永久に横になってるわけにはいかんだろうに」
氏は険しい目つきをつくろうとしたが、眼のほうにはその気がないようだ。
アーサーはぬかるみの中に腹這いになって、プロッサー氏をにらみつけた。
「こっちはかまわんぜ。どっちが先に錆びるかな」
「あきらめてもらうしかないんですよ」プロッサー氏は帽子をつかむと、頭の上でぐるぐると回した。「このバイパスはつくらにゃならん。現につくりかけているんです」
「初耳だ。なぜ作らにゃならん?」
プロッサー氏は指を一本たて、ちょっと振ったが、やがて指をひっこめると、
「なぜ、とは?」と言った。「こいつはバイパスだ。バイパスはつくらにゃならんものでしょうが」
バイパスとはA地点からB地点へ、あるいはB地点からA地点へすみやかに移動することを可能ならしめる仕組みである。その中間のC地点に住む人は不思議に思うのである――A地点の人が大挙して押し寄せるほどB地点はすばらしい所なのだろうか、B地点の人が大挙して押し寄せるほどA地点はすてきな所なのだろうか、と。たった一度でいい、自分たちがどこにいたいのかをよく考えればいいのに、とC地点の人は思うのだ。
プロッサー氏はD地点にいたかった。D地点というのは、特にどこということではない。A地点からもB地点からもC地点からも遠く離れた土地のことだ。D地点には居心地のいい小さなコテージを建てたい。ドアの上には斧を飾るのだ。ほど近いE地点のパブでのんびりと楽しい時を過したい。もちろん細君はコテージにツルバラを這わせたがるだろうが、彼は斧が望みなのだ。理由は自分にもわからない――斧が好きなだけだ。氏は、仲間の運転手たちが嘲るような笑いをうかべているのに気づいて、頬を紅潮させた。
氏は体重を一方の足からもう一方に移したが、居心地の悪さは変らなかった。ひどく無能な人間がひとり、この件にからんでいるようだ。それが自分ではありませんように、と氏は神に祈った。
「あなたにだって、しかるべき時に提案なり反対なりを表明する権利があったんですよ」
「しかるべき時だって?」アーサーが嘲るように言った。「しかるべき時だって? バイパスのことを聞いたのは、昨日、作業員がうちにやって来たときだぜ。窓のガラス拭きにでも来たのかと訊くと、この家を壊しに来たと言うじゃないか。もちろん、そうあけすけに言ったわけじゃないがね。そうそう、最初は窓を二、三枚拭いて、五ポンドいただきますときた。それから、実は……と言うんだ」
「でも、デントさん。バイパス計画はこの九ヶ月間、いつでも閲覧できたんですよ。道路建設委員会でね」
「仰せのとおり。話を聞いて、すぐに行ってみたさ、昨日の午後にね。あんたたちはあの計画書に人の注意を向けようという努力をしたのかね? つまり、誰かにちゃんと話したのか?」
「でも、計画書は掲示されて……」
「掲示? 地下室へ降りて、やっと計画書を見つけたんだぞ」
「あそこが掲示室なんです」
「懐中電燈つきのね」
「きっと電球が壊れていたんでしょう」
「階段の電球もな」
「でもねえ、通告文は見つかったんでしょう?」
「ああ」とアーサー。「見つかったとも。鍵のかかったファイル・キャビネットの奥底に掲示してあったよ。そこは使用禁止のトイレの中で、ドアには“豹《ひょう》に注意”ときたもんだ」
雲の塊が通りすぎた。雲は、冷たい泥濘《でいねい》の中に肘をついて腹這いになったアーサー・デントの上に影を投げかけた。雲はまたアーサー・デントの家に影を投げかけた。プロッサー氏は顔をしかめて、
「とりたてていい家でもないようですが」
「すいませんでしたねえ。でも、おれはあの家が気にいっているんだ」
「バイパスも気にいりますよ」
「気にいるもんか! 口をつぐんで、消えて失せろ! いまいましいバイパスを抱えてな。あんたにはこんなことをする権利はない。それは自分でもよっくわかっているはずだ」
プロッサー氏の口は何度か開閉をくりかえした。その心はしばし、かの家が炎に包まれ、そこから背中に少なくとも三本の槍をつきたてたアーサーが悲鳴をあげて逃げだしてくるという不可解ながらきわめて魅惑的な幻影に満たされた。氏はそうした幻影に悩まされることがしばしばあり、そのたびにひどく神経質になるのである。氏はしばらく口ごもり、やがて気をとりなおして、
「デントさん」と言った。
「やあ、なんだい?」とアーサー。
「ひとつの事実をお教えしましょう。このブルドーザーを進めて、あなたを押し潰すとしましょう――ブルドーザーがどれくらい損傷をうけると思います?」
「どれくらいだい?」
「まったくなしですよ」
プロッサー氏は言い、なんでまた、おれの頭の中は、馬に乗って雄叫びをあげる毛むくじゃらの男どものイメージでいっぱいになっちまったのだろうといぶかしく思った。
まったくなしと言えば、猿の末裔たるアーサー・デントにはひとりの親友がいる。その男が実は猿の末裔ではなく、常々口にしているがごとくギルフォード生れでもなく、ベテルギウスをめぐる小さな惑星の出身であるなどという疑惑をアーサーが抱いているかと申せば、これまたまったくなしであった。不思議な暗号だ。
アーサーはそんなふうに疑ったことなど一度もなかった。
その親友は、地球の数え方で十五年ばかり前に初めて地球にやって来て、地球社会にとけこもうと猛勉強をかさね――かなりの成功をおさめた。たとえば、彼はこの十五年間、役のつかない役者のふりをしてすごした。これはなかなかもっともらしかった。
とはいえ、予備調査をちょっとケチッたため、ひとつ軽率なしくじりをやった。収集した情報にもとづき、ごく目立たない名前として、“フォード・プリーフェクト”というのを選んでしまったのだ。
背丈は疑いをおこさせるほど高くはなく、顔立ちは人眼をひいたが、疑いをおこさせるほどハンサムではなかった。髪は針金のように剛《こわ》くて、赤っぽく、オールバックになでつけている。肌は鼻のあたりからうしろへ引っぱられているみたいにつっぱっている。どこか風変りなところがあったが、それがどこかを指摘するのは難しい。あるいは、あまりまばたきをしないように見えるところかもしれぬ。彼を相手におしゃべりをしていると、彼に合わせてまばたきをしないものだから、しらずしらずに涙がでてくるのだ。あるいはまた、彼の微笑がちょっとあけすけすぎるところかもしれぬ。彼がつと手を伸ばして首を絞めにくるのではないかという印象を抱いてしまうほどのニヤニヤ笑いだ。
彼が地球でつくった友人たちは、彼に対して変っているが無害な人物という印象を抱いていた――おかしな癖をもった手に負えぬ大酒飲みというわけだ。たとえば、招かれもしないのに大学のパーティに押しかけていって、浴びるほど酒を飲み、外に抛りだされるまで、天体物理学者を馬鹿にしつづけるのである。
ときどき彼は、奇妙な狂乱状態におちいることがあった。魅せられたようにじっと空を見つめるのだ。何をしているのかと訊かれると、一瞬、やましそうなそぶりをし、それから、力をぬいて、ニヤリと笑う。
「空飛ぶ円盤を捜していたんです」
と冗談を言う。すると相手も笑って、どんな円盤だね、と訊ねる。
「緑の円盤です!」
つらそうな笑みをうかべて応じ、アハハとけたたましく笑うとみるまに、ぱっと近くのバーに駆け込み、グラスを何度も干すのであった。
そんな晩はひどいことになる。フォードはウィスキイ漬けになり、女の子をひっぱって片隅に陣どると、円盤の色なんてほんとはどうだっていいんだと聞きとりにくい声で説明するのだった。
バーを出ると、夜ふけの道を千鳥足で歩き、通りかかった警官にベテルギウスへの道はどっちでしょうと訊ねたものだった。警官はたいてい“そろそろ御帰宅の時刻じゃありませんかな”とかなんとか応じる。
「ぼくもそうしようとしているんです」というのが、そんな場合のフォードのきまった答えだった。
彼が悩ましげに空を見つめて捜しているのは、本当に空飛ぶ円盤だった。緑の円盤と答えるのは、ベテルギウス商船団の伝統の色が緑だからだ。
フォードは、円盤の到着を切望していた。島流しの十五年は長すぎる。特に地球のような退屈きわまる星ではなおさらのことだ。
フォードは円盤の到着を切望してやまなかった。円盤に合図して着陸してもらい、それに乗り込む術《すべ》を知っているからである。彼は一日三十アルタイル・ドル以下で“宇宙の驚異”を見る術を知っていた。
事実、フォード・プリーフェクトはあの並みはずれた本――『銀河ヒッチハイク・ガイド』の遊軍記者であった。
人間の順応力は偉大である。昼食のころまでには、アーサーの家をとりまく人々の仕事はきちんと決ってしまっていた。泥の中に横たわって、弁護士を呼べ、母を呼べ、面白い本をもってこいと要求するのがアーサーの役目になっていた。公共の利益のためとか、地方発展のためとか、我家だって取り壊されたんだとか、現状維持はいかんのだとか、さまざまに脅したりすかしたり、あの手この手で説得するのはプロッサー氏の役目である。コーヒーを飲みながら、組合規約をひっくりかえし、どうすれば事態を好転させられるか論じあうのがブルドーザー運転手たちの役目だった。
地球はゆっくりといつもどおりのコースを進んでいった。
太陽はアーサーの横たわる泥濘を乾かしはじめていた。
影がまたアーサーの上におちた。
「やあ、アーサー」影が言った。
太陽に顔をしかめながら眼をあげる。フォードが立っているのにびっくりした。
「フォードじゃないか! 元気かい?」
「元気だ。忙しいかい?」
「あったりまえだ」アーサーが叫ぶ。「ごらんのとおりブルドーザーがやってきて、家を取り壊すっていうんで、大の字になっているところさ。とは言っても……まあ、そんなに忙しくはない。なにか?」
ベテルギウス人には冗談が通じない。フォードも心を集中させていないときは、しばしば自分がそうであることに気づかなかった。
「ちょっと話があるんだが」
「どんな話?」
一瞬だが、フォードはアーサーのことなど忘れたかのように見えた。車にとびこもうという兎のように、空をじっと見つめる。やがて、アーサーのそばにしゃがみこんだ。
「話しておかなくちゃならないことがある」気がせくように言った。
「いいとも」とアーサー。「話せよ」
「飲まなくちゃならん」フォードが言った。「飲みながら話すことが肝要なんだ。さあ、村のパブへ行こう」
フォードはまた空を仰いだ。神経質そうに、待ちわびるように。
「わかっとらんな」アーサーは叫び、プロッサーを指さして、「あの御仁がうちを取り壊そうとしているんだぞ!」
フォードは不思議そうにプロッサー氏を見た。
「パブへ行ってるあいだに取り壊せるだろ」
「そんなことしてほしくないんだよ、ぼくは!」
「なるほど」
「いったいどうしたっていうんだ、フォード?」
「なんでもない。なんでもないんだよ。いいか、よく聞いてくれ――とても重要なことを君に話さねばならん。いま話しておかねばならん。それも〈馬丁屋〉のバーで話さねばならんのだ」
「なぜ?」
「どうせ強い酒が欲しくなるからだ」
フォードはアーサーをじっと見つめた。てこでも動くまいと思っていたのが、ぐらつきだしたので、アーサーはびっくりした。これが一種の酒飲みゲームだとは気づかない。マドラナイト鉱を産するオリオン座ベータ星系の小惑星帯に付属する亜空間の宇宙港で、フォードはこれを学んだのだ。
このゲームは地球のインディアン・レスリングに似ていないこともない。ゲームのやり方は以下のとおり――
ふたりの競技者はテーブルをはさんで座る。それぞれの前にはグラスがひとつずつ。
さらにジャンクス・スピリットの瓶が一本(オリオンの古い鉱山歌に“ジャンクス・スピリットはもうかんべん/ジャンクス・スピリットはもうかんべん/頭が飛んでいっちまいそう、舌は嘘八百をならべそう、眼玉は痛むし、おいらは死にそう/ばちあたりなジャンクス・スピリットをもう一杯”と歌われた不朽の酒だ)。
競技者はそれぞれ瓶に精神を集中させ、念力で瓶を傾けて、敵のグラスに酒を注ごうとする。注がれたら飲み干さねばならない。
瓶にはまた酒が満たされ、ゲームは続行。何度でも続く。
一度負けると、だいたい負け続けることになる。この酒の効能のひとつに念力を弱めることがあげられるからだ。
前もって決めておいた量が胃におさまると、敗者は罰を見せねばならない。たいていは生物学的に卑猥なことをするのである。
フォード・プリーフェクトはいつも負けてばかりいた。
フォードはアーサーをじっと見つめる。アーサーは〈馬丁屋〉に行きたいような気になってきた。
「でも、家はどうしよう……?」哀れっぽい声で言う。
フォードはプロッサー氏を見た。ふいにいじわるな考えがうかぶ。
「彼が家を取り壊したがっているのかい?」
「そうだ。そしてバイパスを……」
「君がブルドーザーの前に大の字になっているので取り壊せないんだな?」
「そうだ。それで……」
「協定を結べると思うよ」フォードは言い、「ちょっと、あんた!」と呼びかけた。
プロッサー氏は運転手代表と、アーサーの気が狂ってしまったのかどうか、もしそうなら、いくらぐらい慰謝料を払うべきか、論じあっていたが、呼びかけられてあたりを見回した。アーサーに仲間ができたことに気づき、驚くと同時にちょっとおびえた。
「なんでしょう?」氏は叫び返した。「デントさんはまだ正気に返りませんか?」
「さしあたってはまだ正気じゃないようだよ」フォードが叫んだ。
「やれやれ」プロッサー氏が溜息をついた。
「だから、一日中、ここにこうしているつもりじゃないかな」
「それで?」
「それで、あんたの部下のみなさんも一日中、ここで待機することになる」
「そんな……」
「あんたがあきらめさえすれば、アーサーがずっと大の字になっている必要はないんじゃないかね?」
「なんですって?」
「あんたにとって、アーサーがここにいる必要はないんだ」
プロッサー氏は考え込んだ。
「そりゃまあ、そんなことは……」氏はつぶやいた。「正確には必要ないと……」
プロッサー氏は不安になった。誰も事情がよくのみこめていないのではないかと思った。
フォードは言った――
「じゃあ、アーサーがここにいなくてもいいと思うんなら、三十分ばかりパブへ行ってくるよ。どうだい?」
なんかおかしいな、とプロッサー氏は思った。
「道理にかなっているようだな……」
氏は元気づけるように言い。いったい誰を元気づけようとしているのだろうと首をかしげた。
「あんたもあとで一杯ひっかけたいのなら」とフォード。「そのときはぼくらと交換しよう」
「それはありがたい」プロッサー氏は言った。氏はもはやどうすればいいのかわからなくなっていた。「親切にしてもらって、なんと言っていいか……」
顔をしかめ、微笑をうかべ、両方いっしょにやろうとしたが、うまくいかなかった。毛の帽子をつかむと、頭の上でそれを回したりとめたりした。勝利はほぼ手中にありと思った。
「だから」とフォードは続けた。「ここに来て、泥の中に……」
「なんですって?」とプロッサー氏。
「失敬、はっきり言わなくて悪かった。ブルドーザーの前に誰か寝そべっていなくちゃいけないんじゃないかな。さもないと、デント家を取り壊すのを阻止する人がいなくなっちゃうじゃないか」
「なんですって」プロッサー氏は繰り返した。
「ごく単純なことだよ」フォードが説明する。「あんたがここに来て交替してくれたら、寝そべっているのをやめる、とわが依頼人のデント氏はおっしゃっているのだ」
「いったい何の話だ?」
アーサーは言った。が、フォードは靴先で彼を小突いて黙らせた。
「わたしにそこへ行って、横になれと……」
プロッサー氏は自分に言いきかせるように言った。
「そうだ」
「ブルドーザーの前に」
「そのとおり」
「デントさんのかわりに」
「さよう」
「泥の中に」
「おおせのとおり、泥の中に」
結局はおれの負けか。そう思ったとたん、肩から重荷がおりたような気になった。これこそ自分のよく知っている世界だ。氏は溜息をついた。
「そのかわりに、デントさんをパブへ連れていってくれるんですね」
「そうだよ」フォードが応じる。「そのとおりだ」
プロッサー氏は心配そうに二、三歩前にでて、立ちどまった。
「約束してくれますか?」
「約束する」フォードは言い、アーサーの方を向いた。
「さあ、立って、この人とかわるんだ」
アーサーは立ちあがった。夢を見ているみたいだ。
フォードがプロッサー氏を差し招くと、氏は悲しそうに、ぎごちなく泥の中に腰をおろした。これまでの人生が一場の夢のように思えた。人生は誰のものなのか、みんなは人生を楽しんでいるのだろうかと、氏はときどき不思議に思うのだ。泥濘は尻と腕にべったりとまつわりつき、靴の中に染みこんだ。
フォードは氏を厳しい眼で見つめた。
「いないあいだに、抜けがけで家を壊すのはなしですよ。いいですね?」
「ちょっと考えただけですよ」プロッサー氏は小さな声で言った。「ちょっと心をかすめたけど」と腰をすえて続ける。「実行できるかなって考えるところまではいかなかった」
氏はブルドーザー運転手の代表が近づいてくるのを見ると、後頭部を泥の中に埋め、眼を閉じた。べつに気が狂ったわけではないことを証明するにはどう陳弁すべきだろう、と論点を頭の中で整理しようとした。それは不可能だった――氏の心には騒音や馬、煙、血の臭いが充満していた。みじめな気持ちになったり、だまされたりしたときはいつもこうなのだ。なぜそうなるのか、自分でも説明できなかった。人知を越えた異次元で、偉大なるジンギス・カンが腹をたてて怒鳴っているのだが、プロッサー氏は身体をわずかに震わせて、小さくつぶやくのみである。とじた眼に涙がちょっとしみるのを感じた。官僚的なお偉方。泥の中に大の字になった怒れる男たち。不可解な屈辱を与える風来坊のよそ者たち。そして、頭の中で彼を嘲る正体不明の騎馬の一団――なんて日だ。
なんて日だ。アーサーの家が取り壊されようが取り壊されまいが、もうどうでもいいことをフォード・プリーフェクトは知っていた。
アーサーはまだ心配している。
「彼は信用できるのかい?」
「ぼくは地球がなくなるときまで彼を信用するね」とフォード。
「ふん、そうかい」アーサーが応じる。「で、それはいつごろ?」
「あと十二分だ。さあ、行こう。飲まなくっちゃやりきれん」
2
『銀河大百科事典』は、アルコールについて次のように記しています。すなわち、“アルコール――糖類の発酵によってつくられる無色の揮発性液体。一部の炭素系生物に対して酩酊効果を有する”と。
『銀河ヒッチハイク・ガイド』にももちろんアルコールの記述があります。それによると、いま最高の飲み物といったら、“汎《はん》銀河ウガイ薬バクダン”なんです。
この酒を飲んだときのききめについてもちゃんと書いてありますよ。それは、レモンひと切れで脳髄をブン殴られたようなもの――もっとも、そのレモン、大きな金塊をぐるりと包んでいるのだけれど。
『ガイド』にはほかにも、“バクダン”をつくっているのはどの星なのかとか、一杯の値段とか、飲んじゃったあとの社会復帰《リハビリテイション》のための奉仕グループにはどんなものがあるかとかいったこともちゃんと書かれております。
いえ、自分でつくる方法だって書いてあるんです。
例の“ジャンクス・スピリット”一瓶からエキスを抽出。
そこにサントラギヌス第五惑星の海水(あの素敵なサントラギヌスの大洋《わだつみ》よ! ああ、すばらしきサントラギヌスの魚たちよ!)を一カップ。
アルクトゥールスのスーパー・ジンを三個溶かし込む(ジンは凍ってなくちゃいけません。さもないと、ベンジンがとんでしまっています)。
そこに、ファリアの湖沼地帯で歓喜のうちに死んでいった幸せなハイカーたちを偲び、ファリアの瘴気を四リットル溶かしこんで、泡を立てさせましょう。
暗黒のクァラクティン星域では興奮性の香料がとれますが、なかでも特に香りのたかい、霊妙なる甘い香りのクァラクティン・ハイパーミントのエキスを一カップ、銀のスプーンの背にのせる。
アルゴルの太陽虎《サンタイガー》の牙を一本、ほうりこみ、溶けるのを見守りましょう。アルゴル連星の熱い火がカクテルの奥底にひろがります。
ザンフォーをふりかける。
オリーブを一個。
さあ、お飲みなさい……ただし……充分に気をつけて。
『銀河ヒッチハイク・ガイド』は『銀河大百科事典』より売れています。
「ビールを六パイント」フォード・プリーフェクトは〈馬丁屋〉のバーテンに注文した。
「急いでくれ。世界が終りかけているんだ」
バーテンは、威厳のある老人で、そんな言い方をされてしかるべき人物ではなかった。老人は眼鏡を鼻にのせると、眼をぱちくりさせてフォードを見た。フォードは老人を無視して、窓の外をじっと見つめた。そこでバーテンはアーサーに視線を移した。アーサーは力なく肩をすくめ、なにも言わなかった。
そこでバーテンは、
「さようですか? それにしちゃあいい天気ですね」と言い、ビールを注ぎはじめた。
もう一度、声をかけてみる。
「では、午後の試合においでになるんですね」
フォードはちらっと老人を一瞥した。
「いや、そうじゃない」
と、また窓の外を見つめた。
「では、どうしてそんなことをお考えになったんで?」バーテンは訊ねた。「アーセナルに勝ち目はありませんかね?」
「いやいや、ただ世界が終りかけているってだけの話だよ」
「なるほど、そうおっしゃいましたねえ」バーテンは、今度はアーサーを眼鏡ごしに見て、
「そういうことになったら、アーセナルは負けずにすむわけですな」
フォードは本当にびっくりしてバーテンを見た。
「いや、そういうんじゃないんだってば」と、顔をしかめる。
バーテンは深く息を吸い、
「さあ、御注文のビールです」
アーサーは弱々しい微笑をうかべ、また肩をすくめた。向きをかえ。客たちにも弱々しく微笑みかける。彼らがいままでのおしゃべりを聞いていた場合を慮《おもんばか》ったのである。
しかし、誰も聞いていなかったので、アーサーの微笑の意味は誰にもわからなかった。
フォードの隣に坐っていた男が、ふたりを見、六パイントのビールを見、心の中ですばやく計算をして、ある結論に達した。男はその結論が気に入り、希望のこもった笑みをうかべてふたりを見た。
「あっちへ行ってくれ」フォードが言った。「これはおれたちのビールだ」
アルゴルの太陽虎が敵を追い払うときのような表情をしてみせる。
フォードはカウンターに五ポンド札をぴしゃりとおいた。
「釣りはとっといてくれ」
「ハァ? 五ポンドで釣りはいらないと……。おそれいります」
「それを使うにゃ、あと十分しかないぞ」
バーテンはちょっとのあいだこの場を離れていようと心に決めた。
「フォード」アーサーが言った。「いったいどういうことなんだか話してくれんかね」
「飲みたまえ」とフォード。「三パイントは君の分だ」
「三パイントも? 昼間から?」
フォードの隣の男はニヤリと笑い、我が意を得たりとうなずいた。フォードは男のことなどかまわずに、
「時間なんてものは幻想だよ。昼間っていうのも幻想さ」
「なるほどね。そういった話は〈リーダーズ・ダイジェスト〉に送るといい。君みたいな人のためのページがある」
「飲みたまえ」
「なんでまた三パイントも?」
「筋肉を弛緩させるためだ。いずれその必要がでてくる」
「筋肉の弛緩?」
「筋肉の弛緩だ」
アーサーはビールをじっと見つめた。
「おれは今日、なんか悪いことをしたかなあ。それとも、世間てのはいつもこんなふうだったかしらん。自分の殻にとじこもってばかりいるもんだから、わからなくなっちまった」
「よかろう。説明してみるよ。ぼくら、知りあってどれくらいになる?」
「どれくらい?」アーサーは考えた。「五年くらいかな。六年かもしれん。そのほとんどはまあ、かなり仲がよかったと思えるがね」
「よかろう。で、ぼくが実はギルフォード生れではなく、ベテルギウスをめぐる小さな星の生れだと言ったら、どうするね?」
アーサーはまあねといった調子に肩をすくめた。
「わからんな」と応じ、ビールをごくりと飲んだ。「なぜそんなことを――そんなことを話したかったのかい?」
フォードはあきらめた。いまさらくよくよ考えてもはじまらない。世界が終りかけているというのに、どうしろというのだ。彼はただ「飲みたまえ」と言っただけだった。
それから、明々白々な事実をつけ加えた――
「世界は終りかけている」
アーサーはもう一度、客たちに弱々しい微笑を向けた。客はアーサーをにらみ返した。微笑をうかべるのをやめさせようと、ひとりの客が手を振り、知らん顔をした。
「今日は木曜日のはずだな」アーサーはジョッキにのめりこみながら、ひとりごちた。「木曜日だろうが知ったことか」
3
その木曜日、その惑星のはるか上空、イオン層の中をなにかが音もなく移動していた。正確に言えば、そのなにかは複数だった。ビルのように大きく、小鳥のように静かな数十個のずんぐりした黄色いなにか。それは太陽の電磁波をあびて、滑るように移動し、寄り集まり、準備をととのえ、しかるべき時を待っていた。
眼下の惑星は、なにかの存在にまったく気づいていないようであった。いまのところはそのほうがありがたい、となにかも思っている。黄色く巨大ななにかはまったく気づかれずにグーンヒリイを通過し、レーダーにもひっかからずにケープ・カナベラル上空を通りすぎた。ウーメラとジョドレル・バンクはなにかをはっきりと認めた――なにかが、彼らが長年にわたって探しまわっていたものにそっくりだったのは、まことに遺憾なことであった。
なにかの存在に気づいたのは“亜空間自動捕捉機《サブ・エーテル・センス・オ・マティック》”という黒い小さな装置だけだった。それは音もなく明滅した。それは、フォードがいつも首からさげている革鞄の中にあった。フォードの革鞄の中味はまことに興味津々たるもので、地球の物理学者が一瞥したら、眼玉をとびださせることうけあいだ。だからこそフォードはいつもいちばん上にオーディション用のすり切れた台本をのせ、下が見えないようにしている。自動捕捉機と台本のほかに、電子親指というものも入っている――ずんぐりと短いなめらかなつや消しの黒い棒で、片端に平べったいスイッチとダイヤルがついていた。さらには、大型電卓のようなものもあった。それには百個ばかりの平べったい小さな押しボタンと、四インチ角のスクリーンがそなわっていた。スクリーンには、百万“ページ”のなかの任意の一ページを瞬時にうつしだすことができるのである。気が変になりそうなほど複雑きわまる機械に見える。それも理由のひとつなのだが、プラスチック製のぴったりしたカバーには、大きな親しみやすい字で“あわてるな”と書いてある。そう書いてある理由のもうひとつは、その装置こそが、小熊座の大出版社からだされた本のなかでもとりわけ並みはずれた本であるからだった――すなわち『銀河ヒッチハイク・ガイド』。この本をマイクロ亜中間子=電子装置のかたちで出版したのは、
仮に普通の本のように印刷したら、ヒッチハイカーは数軒の大きなビルをいっしょに持ち運ばねばならなくなるからであった。
フォードの革鞄には、その下に何本かのペンと一冊のメモ帳、それにマークス&スペンサーの大きなバスタオルが入っていた。
『銀河ヒッチハイク・ガイド』はタオルについても語っています。
恒星間を旅するヒッチハイカーの持ち物のなかでも、タオルはとりわけ役に立つ品物です。まず、実用的な価値――ジャグラン・ベータ星の冷たい月に照らされて旅をするときは、タオルにくるまって暖をとることができます。サントラギヌス第五惑星のきらきら輝く大理石の砂浜では、タオルの上に寝そべって、人を酔わせる潮風を心ゆくまで吸いこみましょう。砂漠惑星カクラフーンの赤く輝く星々のもとでは、タオルをかけて眠ります。かの有名な大河、モス川くだりでは、タオルを筏《いかだ》の帆にすることもできます。トラアルには虫のような鳴き声の貪欲な獣が生息していますが、その眼を避けたり(というのは、こいつはいやになるほどマヌケな獣で、あなたがこいつを見ることができなければ、こいつもあなたを見ることができないことになっているのです――とまあ、きわめつけのバカなのですが、貪欲なこともこのうえありません)、悪臭を避けたりするには、タオルを顔に巻きつけます。遭難したときはタオルを振って合図できますし、もちろん、まだきれいだなと思ったら、身体を拭いてもいいのです。
でも、もっと大事なこと、それは、タオルには心理的な価値もそなわっていることです。なにかの拍子に、ストラグ(ストラグ=ヒッチハイカーでない人のこと)がタオルを持ったヒッチハイカーに出会ったとします。ストラグは自動的に、ヒッチハイカーが、歯ブラシや手ぬぐい、石鹸、ビスケットの罐、水筒、磁石、地図、紐、蚊とりスプレー、雨具、宇宙服などなどを持っていると判断するのです。さらに、ストラグは、ヒッチハイカーが“なくして”しまった品物をよろこんで貸してくれるでしょう。ストラグはこう考えるのです――銀河系をはるばるとヒッチハイクし、不便な生活に耐え、いかがわしい地域に出入りし、身の毛もよだつ一か八かの賭に勝ちぬき、それでもタオルを離さなかったような男なら、まちがいなく一廉《ひとかど》の人物だ、と。
したがって、ヒッチハイカー同士では、次のような言いまわしが登場します――
「やあ、あんた、あのフーピィなフォード・プリーフェクトをサスってるかい? あいつこそ、自分のタオルのありかをちゃんとわきまえてるフルードさ」(フーピィ=人づきあいのいい。サス=知る、気づく、セックスする。フルード=まったく人づきあいのいい男)
革鞄の中のタオルの上に静かにのった亜空間自動捕捉機はいっそう激しく明滅しはじめた。地表より何マイルも上空では、黄色い巨大な代物が散開を始めた。ジョドレル・バンクの係員は、お茶を一杯のんで休まなくっちゃと心に決めた。
「タオルは持ってるかね」突然、フォードがアーサーに訊ねた。
ビールの三パイントめに悪戦苦闘していたアーサーは、ひょいと顔をあげてフォードを見た。
「なんだって? いや……持ってなくちゃいけないのか?」
もう驚くことはあきらめていた。驚いたってはじまらない。
フォードはいらだたしそうに舌を鳴らして、
「飲みたまえ」
そのとき、パブの低いざわめきを圧して、ジュークボックスの音楽を圧して、ついにウィスキイをおごってもらった隣の男のしゃっくりを圧して、ドドーンというなにかの壊れる轟音が流れこんできた。
アーサーはビールに噎《む》せ、とびあがった。
「何だ、あれは?」と叫ぶ。
「心配しなさんな」とフォード。「まだ終りは始まっちゃいない」
「そいつはありがたいこった」アーサーは言い、ホッと力を抜いた。
「あれはたぶん君の家が取り壊された音だろう」ビールを飲み干して、フォードが言った。
「なんだって!」
アーサーは叫んだ。フォードの呪文は突然やぶれた。アーサーは凶暴な眼つきであたりを見回すと、窓に駆け寄った。
「本当だ! 家が壊されてる! こんな所でのんびりしてるから――」
「この際、たいした違いはない。あいつらは勝手に楽しませておけばいいさ」
「楽しませるだって?」アーサーは大声をあげた。「楽しませるね」
おれたちは共通の話題を口にしているのだろうかと、アーサーは窓の外の光景を吟味した。
「楽しませるなんて、いやなこった!」
不満の声をあげ、ほとんど空のジョッキを振り振り、狂ったようにパブをとびだす。昼時だったから、パブに友人はひとりもいなかった。
「やめないか、この野蛮人! おれの家を壊すのをやめろ!」アーサーは怒鳴った。「やめるんだ、気違いどもめ!」
あとを追わねばならない。フォードはバーテンの方を向くと、ピーナッツを四袋くれと言った。
「さあどうぞ」バーテンは袋をカウンターにぽんと抛りだした。「恐縮ですが、二十八ペンスいただきます」
恐縮されたフォードはまた五ポンド札をとりだし、釣りはいらないと言った。バーテンは札を見、ついでフォードを見た。ふいに身震いした。一瞬、感動をおぼえた。が、それがどんな感動だか自分にもよくわからなかった。地球人でこんな感動をおぼえた者はこれまでひとりもいなかったからである。数瞬、地球の全ての生命体は意識下でささやかな信号を発した。その信号は、それぞれの生命体が生れた場所からどれだけ離れているかを、正確に、また悲しげに伝えるものであった。地球上にあっては、生誕の地から一万六千マイル以上はなれることは不可能だ。この距離は非常に遠いというわけではない。だから、信号はごくささやかなもので、ほとんど気づかれずにおわった。しかし、フォードはいま強い緊張にさらされていた。彼は六百光年はなれたベテルギウス星系で生れたのだから。
バーテンは一瞬ふらっとした。理解およばぬ距離感にショックをうけたのだ。それが何を意味するのかわからなかったが、新たに尊敬を、畏敬すら覚えて、フォードを見た。
「本当なんですか?」彼は低い声で言った。その声には客を静かにさせる効果があった。
「世界が終りかけているということでしたが」
「本当だ」
「この午後に?」
フォードは緊張からたちなおっていた。ことさら軽薄な口調で、
「そうとも」と、陽気に言った。「あと二分といったところかな」
バーテンには、自分がかわしている会話が理解できなかったが、理解できぬという点では、先刻の感動も同様だ。
「なんとかならんものでしょうか?」
「いや、なんともならんね」ピーナッツをポケットにつめこみながら、フォードは応じた。
静まりかえったパブ――客のひとりがふいに、きしるような笑い声をあげた。馬鹿げたことを信じかけた自分たちを笑ったのだ。
フォードの隣の男はちょっと酔っぱらっていた。眼をきょときょとさせてフォードを見た。
「世界が終りかけてんのなら」と、男は言った。「床に伏せるか、紙袋を頭からかぶるかしたらどうだろう」
「いいと思うなら、どうぞ」
「軍隊ではそう習ったんだ」男は言った。眼はまたウィスキイへとゆっくり戻りはじめた。
「そんなことで、なんかのタシになりますか?」バーテンが訊いた。
「いいや」フォードは親しげな微笑をむけて、「失敬。もう行かなくちゃならない」
手を振って、パブを出た。
パブのなかはひととき静まりかえったが、きしるような笑い声をあげた男がまた笑いだし、一同はうんざりした。男はひとりの娘をむりやりパブに引っぱりこんでいたが、娘はこの一時間でますます男に嫌気がさしていた。あと一分三十秒ほどで、男が蒸発し、水素とオゾンと一酸化炭素とに変ってしまうと知ったら、大いに満足をあじわうことだろう。もっとも、そのときには、本人も蒸発するのに忙しくて、男のことなどかまっちゃいられないだろうが。
バーテンは咳ばらいをした。無意識のうちにこう言っていた――
「最後の御注文をどうぞ」
巨大な黄色い機械は下降をはじめた。その速度が増した。
フォードは宇宙船の到着を知った。彼が望んでいた宇宙船とはいささか違っていた。
アーサーは小道を駆けあがって、もうすこしで家にたどりつくところだった。急に寒くなったのにも気づかなかった。風がでたのにも、不可思議なことに雨が振りだしたのにも気づかなかった。先刻までは彼の家だった瓦礫の上を這いまわるブルドーザー以外のなにものにも注意をはらわなかった。
「この野蛮人め!」彼は怒鳴った。「損害賠償の告訴をしてやる! おまえらを絞首刑にしてやる。八つ裂きにしてやる! 笞打ちだ! 釜茹でだ……もう……もう……いやというはどにな」
フォードは駆足でアーサーのあとを追った。とても速かった。
「それから、もう一度おなじことを繰り返してやる」アーサーは叫んだ。「それでもって、ばらばらになったおまえらを集めて、ドシンドシンと踏んづけてやる!」
アーサーは、男たちがブルドーザーから逃げだしたのにも気づかなかった。プロッサー氏が手をかざして空を見つめているのにも気づかなかった。氏が気づいたものは、雲間を切りさいて降りてくる巨大な黄色いなにか。信じられぬほど巨大な黄色いなにか。
「何度でも何度でも踏みつけてやる」アーサーはまだ走りながら叫んでいた。「こっちの気がすむまでだ。さもなけりゃ、もっともっといやなことを思いついてやる。そして……」
アーサーはつまずいた。頭から倒れこむ。身体をひねり、背中で着地した。とうとう彼もなにかが近づいてくるのに気づいた。天を指さして、
「ありゃあ何だ?」かんだかい声をあげた。
その正体が何であれ、そいつは圧倒的な大きさと黄色い色を誇示しつつ、頭上を飛んでいく。心臓も縮みあがるほどの轟音をあげて天空を一直線に、彼方へと去っていった。切り裂かれた大気がドドーンと音をたててもとに戻る。耳を頭蓋骨の中へ六フィートもめりこませるほどの轟音だ。
次の一機があらわれて、まったく同じ針路を進んだ。ただ音はもっと大きい。
世界中の人々がいま何をしているかは正確にはわからない。いま何をしているか当人にもわからないからだ。正気を保っている者はひとりもいない――家の中に駆け込む者もいる。家から走り出て、かなわぬながら轟音に向って大声をあげる者もいる。
世界中のどの街でも、通りという通りに人がどっとあふれ、車は互いに衝突を繰り返した。轟音はその上に万遍なく降りそそぎ、山にも谷にも、砂漠にも海にもまるで津波のように襲いかかって、すべてを平らに均してしまうかと思われた。
男がただひとり、凛々しく立って空を見つめていた。その眼にはいいしれぬ悲しみがあり、その耳にはゴムの耳栓があった。男はいま起っていることを正しく理解していた。真夜中に枕もとで亜空間自動捕捉機がまたたきはじめ、びっくりして目覚めたときからずっと理解しているのだった。これこそ、永い年月、男が待ち望んでいたものであった。しかし、小さな暗室でその信号パターンを解析したとき、悪寒が彼をとらえた。心臓をぎゅっと締めつけた。地球を訪れることのできる種族は数あるけれど、なにもヴォゴン人でなくたっていいじゃないか。
だが、やらねばならぬことは彼も忘れてはいなかった。ヴォゴンの宇宙船が頭上高くを飛びすぎる瞬間、彼は鞄を開けた。『ジョゼフとすてきな総天然色《テクニカラー》の夢衣』の台本を投げ捨て、『神の言葉』という台本も投げ捨てた。これから行くところでは、こんなものは必要ない。準備万端ととのった。
タオルのありかはちゃんとわきまえている。
ふいに静寂が地球を包んだ。どちらかといえば、静寂のほうが轟音よりしまつが悪い。しばらく、なにも起らなかった。
巨大な船の群れは地球上のすべての国の上空にぴたりと停った。空中にどっしりと腰をすえた。それは自然に対する冒涜だった。人々は呆然としてそれを見つめた。その心は、いま見ているものを理解しようとした。煉瓦なら落下するところだが、宇宙船は落下もせずに滞空していた。
まだなにも起らない。
と、かすかなざわめきがおこった。突然、いたるところでざわめきがおこった。世界中のステレオが、ラジオが、テレビが、テープ・レコーダーが――すべての低音拡声器《ウーハー》が、すべての高音拡声器《トゥィーター》が、すべての中音拡声器《スコーカー》が、静かに生命を吹きこまれた。
あらゆるブリキ罐、あらゆるごみ箱、あらゆる窓、あらゆる車、あらゆるワイングラス、あらゆる錆びた金属板が、励起されて、音響学的に完璧な共鳴板と化した。
地球は、その姿を消す直前に、完全無欠な音声再生機に変った。かつてない最高の拡声装置であった。しかし、コンサートがおこなわれるわけではない。音楽もなく、ファンファーレもなく、ただそっけない通告があるばかり――
“地球のみなさん、お知らせします”
その声はすばらしかった。すばらしく完璧な音で、ひずみは少なく、勇者も泣きだしてしまうほど雄々しい声だった。
“こちらは銀河系亜空間開発公団のプロステトニック・ヴォゴン・イェルツです”と、声は続けた。“たぶんご存じのことと思いますが、銀河系辺境区開発計画にもとづき、この太陽系内を通過する亜空間高速通路が建設されることになりました。お気の毒ですが、この惑星も取り壊し予定に入っております。撤去は地球時間で二分以内におこなわれます。以上”
拡声器は沈黙した。
わけのわからぬ恐怖が、頭上を見つめる地球人の上にのしかかった。恐怖はゆっくりと群衆をつき動かした。群衆は薄板の上に撒かれた砂鉄で、板の下で恐怖という磁石が動いているようなものである。ふたたびパニックがひろがりかけた。ヤケになって、どこかへ逃げだそうというパニックだった。しかし、逃げ場所はどこにもないのだった。
それをながめながら、ヴォゴン人は再び拡声器のスイッチを入れた。
“驚いたフリをしてもだめだ。企画書と撤去の命令書は、地球の測りかたで五十年ものあいだ、アルファ・ケンタウリの地方事務所に掲示してあったではないか。不服の申し立てをする時間は充分にあったはずだ。いまになって文句を言いだしても手遅れだ”
拡声器はふたたび静かになり、こだまも大地の上をさまよってから消えた。巨大な宇宙船は滑るように、ゆっくりと向きを変えた。下部のハッチがあき、黒くて四角い口がひらいた。
このとき、どこかで誰かが無線通信機にとびつき、波長をつきとめ、ヴォゴンの宇宙船に通信を送ったにちがいない。地球を代表して哀願したのだ。その声は聞えなかった。聞えたのは返事のみである。拡声器にまた生命が吹きこまれた。声は当惑していた。
“どういうことだ、アルファ・ケンタウリに行ったことがない、とは? たったの四光年しか離れていないんだぞ。気の毒だが、地方行政に興味をもたなかったあんたたちが悪いんだ。
破壊光線にエネルギーを充填せよ”
黒い口から光があふれでた。
“知らんよ、そんなこと”声が言った。“無関心な星にはまったく同情せんね”
声は途絶えた。
身の毛もよだつ静寂。
身の毛もよだつ轟音。
身の毛もよだつ静寂。
ヴォゴンの建設船団の前には、星のまたたく漆黒の闇があるばかり。
4
太陽から五十万光年ばかり離れた東の渦状肢。銀河帝国政府大統領、ザフォド・ビーブルブロックスは、滑るようにダモグランの海を渡っていた。イオン推進の三角艇はダモグランの太陽を反射してまぶしくきらめいている。
温室惑星ダモグラン。辺境惑星ダモグラン。ほとんど未知の惑星ダモグラン。
ダモグラン――〈黄金の心〉号の秘密基地。
快速艇は海面を飛ぶようにはしった。ダモグランはわざとわかりにくく作られた星だから、目的地に着くまでにはまだしばらく時間がかかるだろう。この星には、大きな砂漠の島がいくつかと、それらをへだてる美しいが茫漠たる大洋があるばかりだった。
快速艇は疾走した。
ダモグランは宙政上まことに不便だったので、いつまでたっても無人のままだった。だからこそ、銀河帝国政府は黄金の心プロジェクトのためにここを選んだのである。ダモグランは無人であったし、黄金の心プロジェクトは極秘だったからである。
艇は宙をとぶように海を渡っていく。この惑星でものの役に立つ群島は一カ所しかないが、いま渡っているのはその島々の間にひろがる海である。ザフォド・ビーブルブロックスはイースター島(この名はまったく意味のない偶然の一致である――銀河語で“イースター”とは小さく、平べったく、明るい茶色という意味だ)のちっぽけな宇宙港から黄金の心島へと向っていた。これまた無意味な偶然の一致で、その島はフランスと名づけられていた。
黄金の心プロジェクトの副産物のひとつに、一連の無意味な偶然の一致がある。
しかし、今日――このプロジェクト完成の日であり、秘密がベールをぬぐすばらしき日であり、〈黄金の心〉号がついに銀河系に公開される日である今日が、ザフォド・ビーブルブロックスにとっても最高の日であるというのは単なる偶然ではなかった。かつて大統領に立候補しようと決心したのは、実にこの日のためなのだ。銀河帝国じゅうに驚嘆の衝撃波をおこした決心であった――ザフォド・ビーブルブロックスだって? 大統領に? まさかあのザフォド・ビーブルブロックスじゃあるまいな。まさかあの大統領じゃあるまいな。おれたちはみな気が狂ってしまうんだ――これがその決定的な証拠だ。そう思った者も多かった。
ザフォドはにやりと笑い、さらに速度をあげた。
ザフォド・ビーブルブロックス――冒険家にして元ヒッピー、享楽家、(キチガイ? うん、ありうるありうる)、躁病の売名家、人づきあいが極端にヘタな男、社交性ゼロとしょっちゅう思われている男。
大統領だって?
誰も気が狂ったりはしなかった。少なくとも、彼が大統領になったので、という者はいない。
この銀河系を統治する原理を理解している者は、ぜんぶで六人しかいなかった。ザフォドが大統領に立候補するつもりだと公言したからには、彼が大統領になるのは多少なりとも既成事実と化してしまったことを、この六人は知っていた。傀儡《かいらい》大統領【注1】としては、彼は理想的だった。
[#ここから5字下げ]
注1――〔大統領〕=銀河帝国政府における最高の称号。
[#ここで字下げ終わり]
“帝国”といういつもつきまとっている語は、いまや時代錯誤《アナクロニズム》となった。世襲制の現皇帝は、瀕死であり、それがもう何十世紀も続いている。死の直前の昏睡状態に入った皇帝は永遠に変化を生ぜぬ静止フィールドの中にとじこめられた。相続人たちはとっくの昔に死に絶えた。つまり、政治の急激な変動さえなければ、統治は階層の一、二段下のところで効果的におこなえるというわけだ。現在は、皇帝顧問団に統治権力が与えられているということになっている――選挙で選ばれた議員たちである。大統領はその議会によって選ばれる。実際には、議会にはなんの権限もない。
特に大統領ときては、名目だけの存在だ――いかなる力も持ちあわせていない。大統領は政府によって選ばれることになっているが、大統領が示さねばならぬ才能は、統率力ではなく、微に入り細を穿って計算された怒りの才能である。このため、大統領は常に論争好きの人物でなければならない。常に激怒しているが魅惑的な人物でなければならない。大統領の仕事は権力を振うことではなく、権力から人々の注意を引き離すことにある。この基準からみれば、ザフォド・ビーブルブロックスは銀河系史上屈指の大統領であった――大統領任期は十年だが、彼はその二期分を詐欺犯として監獄ですごしていた。ごくごく少数の人々だけが、大統領にも政府にもなんの権力もないっことを悟っている。それらの人々のなかでも、ただの六人だけが、どのようなときに究極の行政権力が行使されるかを知っている。それ以外の人々の多くは、究極の政策決定はコンピュータがおこなっているのだ、と心の中では信じている。それはひどく間違っているというわけでもなかった。
ザフォドがなぜ大統領になったのか、その理由は誰もが誤解していた。
ザフォドは艇を斜めに傾けた。片側に水の壁ができて、陽光にきらめいた。
今日がその日だった。今日が、ザフォドの狙いをみんなが悟る日だった。今日こそがザフォドが大統領になった理由のわかる日だった。今日こそ、彼の二百歳の誕生日だった。もっとも、これもまた無意味な偶然の一致だ。
ダモグランの海をとばしながら、ザフォドは自分に微笑んだ。今日はなんてすてきな刺激的な日になることだろう。彼は緊張をとき、物憂げに二本の腕を椅子の背にまわした。スキー=ボクシングに上達するため、最近右腕の下につけた三本目の腕で舵をとる。
「おまえさんは」とザフォドは自分に呼びかけた。「まったく頭のいい野郎だぜ」
しかし、神経は犬笛よりかん高い歌をうたっている。
フランス島は全長二十マイル。中央部の幅五マイル。三日月型をした砂地だ。事実、それは一個の島というよりは、大きな湾そのものというように見えた。その印象をきわだたせているのは、三日月の内側の海岸線のほとんどが険しい崖になっているという事実である。崖の上から五マイル先の外側の海岸まで、島はなだらかにくだっている。
崖の上に、歓迎の人々が立っていた。
そのほとんどは〈黄金の心〉号を建造した技術者と研究者だった――ほとんどが人間型生物《ヒューマノイド》だが、ちらほらとトカゲ型の原子技術者が数人。風の精のような緑色の大銀河人が二、三人。八本の腕をもつ吸着技師がひとりふたり。それにフールーヴーがひとり(フールーヴーは青い色をした超知性体である)。フールーヴー以外はみな、きらびやかな儀式用研究着を着用におよんでいた。フールーヴーだけは儀式のため一時的に屈折率を変えてプリズムの姿になっている。
誰もがどきどきわくわくしていた。彼らは一致協力して物理法則の極限に到達し、それをのりこえたのだ。物質の基本構造を再構成し、可能性と不可能性の法則を引っぱり、ねじり、叩き壊したのである。しかし、彼らが興奮しているのは、首にオレンジ色の飾り帯を巻いた人物に会えるからであるらしい(オレンジ色の飾り帯は、大統領のつける伝統的な装飾である)。大統領が実際にどれほどの力をもっているのか(まったくもっていない)ということなど、彼らはまるで気にしていないようであった。大統領の仕事は権力を行使することではなく、権力から人々の注意を引き離すことだ。それを知る者は、銀河系でたったの六人。
その点では、ザフォド・ビーブルブロックスは驚くほど有能だった。
人々は息をのんだ。太陽にも大統領の操船術にも眼がくらくらした。大統領専用快速艇が岬をぐるっとまわって、湾内に勢いよく進入してきた。きらきらと陽光を反射して、大きなターンをくりかえし、海面を滑るように近づいてくる。
事実、艇は海面に触れる必要はまったくないのだった。イオン化した原子をクッションにして、その上に浮いているからだ。もっとも、視覚的効果をあげるため、水中におろすことのできる薄いヒレがとりつけられている。ヒレは海を深く切り裂いて、空中に水の幕を展げた。幕は斜めに傾いて、湾を横切る快速艇のうしろに泡だちながら落下する。
ザフォドはこの効果が気に入っていた。これをやるのがいちばん得意だった。
彼は大きく舵を切った。快速艇は崖の下で三日月型に大きく横すべりして、ふんわりと波間に着水した。
数瞬のうちにザフォドは甲板に駆けあがり、三兆を越える人々に笑って手を振った。三兆の人々は実際にここにいるわけではない。しかし、それだけの人々が、近くの空中におもねるように浮んでいる小さな立体カメラをとおして、彼の一挙手一投足を見つめている。大統領の気まぐれな行動こそ、いつも変らぬ人気番組であった。大衆はそれを望んでいるのだ。
ザフォドはもう一度、笑った。三兆と六人の人々が知るよしもなかったのだが、今日こそは、彼らの誰も予想だにしない行動の日だった。
ロボット・カメラは、ザフォドのふたつある頭のうち世間に好かれているほうの顔をクローズ・アップした。ザフォドはまた手を振った。余分の頭と三本目の腕がある以外、ザフォドの外見はおおむね人間型《ヒューマノイド》だった。黒い髪の毛は乱れて、四方八方にとびだしており、青い瞳は誰にも見定めがたい光を宿している。ふとつの顎の髭が剃ってあることは、まずないといってよかった。
艇の脇の海面に二十フィートばかりの透明な球体が浮び、明るい陽光をきらりと反射させてゆっくりと揺れていた。球体の中には、つやつやした赤い革張りの半円型のソファが浮んでいる。球がどんなに揺れても、ソファは完璧に静止しつづける。まるで岩にくくりつけられたかのように微動だにしなかった。これまた、視覚効果をねらったものだ。
ザフォドは球の壁をくぐりぬけ、ソファにゆったりと坐った。二本の腕をひろげて、ソファの背にかけた。三本目の腕で膝の埃を払う。ふたつの顔は微笑をうかべて、あたりを見まわした。足を組む。いつ叫び声をあげてもおかしくない、と思った。
球の下で海面が泡だった。沸騰し、海水を噴きあげた。球は宙にもちあげられた。噴水の上でぐらぐらと揺れる。球は光の脚をのばして、どんどんと高みにのぼっていく。球は噴出する水の柱にのり、水はくだけて、数百フィート下の海面へきらきらと落ちていく。
ザフォドは自分の姿を想像して、微笑んだ。
まったくばかばかしい輸送手段だが、同時にまったく素敵な輸送手段でもある。
崖の上に届くと、球は一瞬、わずかに揺れて、手すりのついた斜路《ランプ》にのった。斜路を転がって、小さな台のくぼみにはまりこんで停った。
万雷の拍手にこたえて、ザフォド・ビーブルブロックスは球体から外に出た。オレンジ色の飾り帯が陽光に燃えるようだった。
銀河帝国大統領が到着したのだ。
彼は歓呼の声が静まるのを待ち、それから、手をあげて、挨拶した。
「やあ」
蜘蛛型ロボットがそっと近より、前もって用意されていたスピーチ原稿のコピーをザフォドの手に押しつけようとした。七ページあるオリジナルの原稿の三ページ目以降は、湾から五マイルほど沖合の海面を漂っていた。一ページと二ページはダモグランのトサカワシによって引き揚げられ、すでにワシの作りあげた最新型の巣の一部と化していた。巣は言うなれば張り子細工で、ヒナにはそれを突き破ることがまずできなかった。これでは種の未来があやういではないか、という意見もでたが、トサカワシはすてきな巣を捨てる気はなかった。
ザフォド・ビーブルブロックスは、演説原稿など必要としていなかった。蜘蛛型ロボットがさしだした草稿をそっと押しやった。
「やあ」ザフォドはまた言った。
みんなは彼に笑いかけた。少なくとも、ほとんどみんなが、だ。彼は群衆のなかからトリリアンを見つけだした。トリリアンは、ザフォドが最近、おしのびである惑星へ遊びに行ったとき見つけだした女の子だ。肌の浅黒い、すらりとした人間型《ヒューマノイド》の少女で、黒くて長い髪はゆたかに波うち、歯はきれいに揃い、鼻はちょこんと小さく、瞳はこっけいなほど茶色かった。頭の赤いスカーフを珍しい形に結び、足元まである、茶色い絹の流れるような服を着ているので、彼女はちょっとアラビア人のように見えた。もちろん、アラブのことを知っている者が、その場にいたというわけではない。アラブはごく最近、存在しなくなったわけだし、存在していたときですら、ダモグランから五十万光年も離れていたのだから、それも当然だ。トリリアンは特に重要人物というわけではなかった。少なくともザフォドはそう断言していた。トリリアンはザフォドと行動を共にすることがよくあり、自分がザフォドのことをどう思っているかを彼に伝えるのだった。
「やあ、可愛いね」
トリリアンはちょっときつい微笑をうかべると、眼をそらせた。やがて、視線をもどし、もっとあたたかな笑みをうかべた――が、今度は、ザフォドがあらぬ方を向いていた。
「やあ」
彼は数人の記者団に向って挨拶した。彼らは、ザフォドが“やあ”と言うのをやめて、原稿にとりかかってくれればいいと思いつつ、近くに立っていたのである。ザフォドは彼らにニヤリと笑いかけた。まもなく彼らに途方もない特種を与えることになるのがわかっていたからである。
しかし、ザフォドが次に口にした言葉は、さのみ記者諸子の役には立たなかった。随行していた役人のひとりが、大統領にはどうやら前もって準備しておいた立派な原稿を読む気がないのだな、とかんしゃくをおこし、ポケットにおさめたリモコンのスイッチを入れたのである。一同の前、遠く離れたところに、空高く巨大な白いドームがふくれあがったとみるまに、中央部からひびわれて、裂け、ゆっくりと地面に崩れ落ちていった。そうなるように作ったのだから、そうなることはよく承知していたはずなのに、一同は声もなく驚嘆した。
ドームの下から、大きな宇宙船があらわれた。全長百五十メートル。つやつやした運動靴のような形をしている。しみひとつなくまっ白で、気が変になるほど美しかった。いま眼にすることはできないが、その心臓部には、小さな黄金の箱がおかれている。その中には、有史以来最高の人工頭脳がおさめられていた。その装置ゆえ、この宇宙船は銀河史上もっともユニークな存在となっている。その装置ゆえ、宇宙船は〈黄金の心〉号と呼ばれている。
「すげえ!」ザフォドは〈黄金の心〉号に向って言った。他に言うべき言葉はなかった。
その言葉に記者たちが困っているのがわかったので、もう一度言った。
「すげえ!」
人々は待ち設けるようにザフォドの方を向いた。彼はトリリアンにウィンクし、彼女は眉をあげ、眼を丸くしてザフォドを見た。彼女にはザフォドが何を言おうとしているかわかった。ひどい自慢屋だと思った。
「こいつはびっくりした」ザフォドは言った。「こいつはほんとにびっくりした。驚くほどびっくりした。盗んじまいたいくらいだ」
信じがたい大統領のお言葉だった。なかなか実感がこもっている。一同は好意的な笑い声をあげた。記者たちはよろこんで亜空間通信機のキイを押した。大統領はにやりと笑った。
にやりと笑うと同時に、彼の心はもう我慢できぬというように叫び声をあげた。ポケットにそっとしまってある麻痺《まひ》爆弾に指をかける。
もうこれ以上耐えられなかった。ふたつの顔を天に向けると、長三和音の雄叫びをあげる。爆弾を地面にたたきつけ、群衆の一瞬にして凍りついた微笑の中にとびこんでいった。
5
プロステトニック・ヴォゴン・イェルツは、見ていて楽しくなるような姿はしていなかった。仲間のヴォゴン人にとってさえ、そうである。豚のように狭い額から、まん丸い鼻が高く突きだしている。濃緑色のゴムを思わせる面の皮はとても分厚くて、ヴォゴンの政治行政の世界を泳ぎまわるのに非常に便利だ。もちろん防水性も完璧で、千フィートの深海でもなんの苦もなく生きていくことが可能だった。
といっても、イェルツが海水浴に出かけたことがある、というわけではない。ぎっしり詰ったスケジュールでは、海水浴など夢のまた夢だ。ヴォゴン人は昔から変っていなかった――というのも、数兆年前、ヴォゴン人が初めてヴォグ星の穏やかな原始の海から這いだし、足跡ひとつない浜辺に横たわって、荒い息をついていたとき……つまり、若く明るいヴォグ太陽《ソル》の光が彼らのうえに初めて降りそそいだときのこと、“進化の力”が彼らに働きかけるのをあっさりとやめ、気持ち悪い奴らだなあと脇に抛りだし、こいつは不幸なきたねえ失敗だよと、きれいさっぱり忘れてしまったからであった。ヴォゴン人はもうそれ以上、二度と進化しなかった――生きのびるべきではない種族であった。
それでもしっかり生きのびてきたのは、彼らの生きようという不屈の一徹ぶりに対する賞賛のしるしであろう。“進化だって”と、彼らは自分に言いきかせるのだ。“そんなもの要るもんか!”。自然の力を借りずに、自分の身体の不都合を手術で改善するところまで進歩した彼らを根絶することは、いかなる自然の力にも不可能であった。
一方、ヴォグ惑星の自然はたっぷり時間をかけて、初期のしくじりを償いつつあった。まずは、きらきら輝く宝石をちりばめたハシリガニを生みだしたのである。ヴォゴン人は、鉄の小槌《こづち》でそのカニの殻を割り、肉を食べる。また、思わずドキドキしてくるような色をした細く背の高い木も生れた。ヴォゴン人はこれを切り倒して、カニの肉を焼く薪に利用した。絹のような毛皮とうるんだ瞳をもったガゼルのような優美な生物も生れたが、ヴォゴン人はこれを捕えて、その上にまたがるのだった。その背骨は簡単に折れてしまうので、輸送の役には立たなかったが、ヴォゴン人はとにかくしゃにむにその背に乗っかるのである。
ヴォグ星はこのようにして不幸な時代を過していったが、ある日突然、ヴォゴン人は恒星間旅行の原理を発見した。短いヴォグの年で数年を経ぬうちに、すべてのヴォゴン人がメガプランティス星団に移住を完了していた。この星団は銀河系の政治の中心で、いまでは銀河行政事務の強力なうしろだてとなっている。ヴォゴン人はさまざまなことを学びとろうとした。上流階級の生活様式や美しさを身につけようとした。しかし、ほとんどどの点をとっても、現代のヴォゴン人は祖先のヴォゴン人とまるで変っていなかった。毎年、宝石をちりばめたハシリガニを二万七千匹、故郷の星から輸入し、それを、たったひと晩にして鉄槌でこなごなに砕いてしまうのだった。
プロステトニック・ヴォゴン・イェルツは実に不愉快きわまるという点では、まったく典型的なヴォゴン人であった。そしてまた彼はヒッチハイカーが大嫌いだった。
プロステトニック・ヴォゴン・イェルツの旗艦。その奥深く、暗く小さな船室の片隅で小さなマッチがおどおどとした炎をあげた。マッチを手にしているのはヴォゴン人ではない。といっても、その男はヴォゴン人のことを知りつくしていたので、おどおどするのも当然だった。男の名はフォード・プリーフェクト。【注2】
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注2――フォード・プリーフェクトの本名は、あまり有名ではないベテルギウスの一方言でのみ発音可能である。その方言は、ベテルギウス第七惑星のプラキシベテル共同体を完全に葬り去った〇三七五八銀河年の“フラング衝突事件”以来、完全に消滅した。第七惑星で衝突事件を生きのびたのはフォードの父親ただひとりであった。彼にも充分に説明できぬ異常な偶然によって救かったのであるが、その経緯《いきさつ》は深い謎に包まれている。事実、フラングがいかなるものか知っている者はいないし、それがなぜ、よりによってベテルギウス第七惑星を衝突相手に選んだのかもわからない。自分にまつわる疑惑をきっぱりと払いのけたフォードの父親は、ベテルギウス第五惑星に移住し、フォードをもうけた。いまは亡き自分の種族をしのんで、父は息子に古代プラキシベテルの名前をつけた。
フォードがそのプラキシベテル語の名をいっこうに口にしないので、父は恥辱がもとで死亡した。恥辱は銀河系の一部ではいまもなお命とりの死因なのである。級友は彼にイックスというあだ名をつけた。これはベテルギウス第五惑星語で“フラングがいかなるものかちゃんと説明できないし、フラングがなぜベテルギウス第七惑星を衝突相手に選んだのかもわからない少年”という意味である。
[#ここで字下げ終わり]
フォードは船室を見まわしたが、ほとんどなにも見えなかった。ちらちら瞬くマッチの炎に、大きく奇怪な影がゆらめくばかり。あたりは静寂に包まれている。フォードは溜息とともにデントラシ人に感謝の言葉をつぶやいた。デントラシ人というのは美食家ぞろいの頑固な種族で、つい最近、ヴォゴン人の宇宙船団に調理係として雇われた粗野だが気のいい連中である。雇われるにあたっては、ヴォゴン人とつきあわなくてもいいという条件を付けていた。
この条件はいかにもデントラシ人らしかった。なぜって、彼らは、宇宙一安定した通貨であるヴォゴン人の金は大好きだったが、ヴォゴン人自体は大嫌いだったからである。デントラシ人がすすんでながめようとするヴォゴン人の姿はただひとつ――困り果てているヴォゴン人の姿だけだった。
フォード・プリーフェクトが水素とオゾンと一酸化炭素と化していなかったのは、ひとえにこのささやかな知識のおかげだった。
彼はかすかなうめき声を耳にした。マッチの光に、床で弱々しく蠢く物体が浮びあがった。フォードはすばやくマッチを吹き消した。ポケットに手をつっこみ、めあての物を取り出す。
それを破いて開ける。がさっと振ってから、床に這いつくばる。物体はまた蠢いた。
フォードは口を開いた――
「ピーナッツを買ってきたんだ」
アーサー・デントは身じろぎし、またうめいて、支離滅裂なことをつぶやいた。
「さあ、食べたまえ」フォードはまた袋を振って勧めた。「これまでに物質転送ビームに入ったことがないのなら、身体からきっと塩分と蛋白質が失われているだろうからね。さっき飲んだビールも、少しは身体の細胞組織を守るクッションになっただろうが」
「ウーム……」アーサーはうめいてから、眼をあけた。「暗いな」
「ああ」と、フォード。「暗い」
「明りがない」アーサーが言った。「暗いや。明りがないぞ」
人類に関することで、フォード・プリーフェクトがいつも理解しがたいと思うことのひとつに、明々白々な事実を口にし、何度も繰り返すという人間の習慣があった。たとえば“今日はいい天気ですね”とか“あんたはずいぶん背が高いな”とか“大変だ。三十フィートも上から落っこちたね。だいじょぶかい?”とか。フォードはまず、この奇妙な言動を説明する一仮説をうちたてた。人間というものは唇を動かし続けないと、口がこわばってしまうのだろう、と考えたのだ。この仮説を熟考し人間を観察すること数ヶ月に及び、フォードはこの仮説を捨て、新しい見解を心に抱くようになった。唇を動かし続けなければ、もっと物をよく考えることができるのに、と考えたのだ。やがて彼はこの見解と共に押しつけがましい冷笑的な態度も捨て去り、結局おれは人間が大好きなんだ、と考えるにいたった。だが、人類には知らないことが恐ろしいほどたくさんある――フォードはいつもそのことを心配し続けていた。
「ああ」フォードはアーサーに応じた。「明りがないな」アーサーのためにピーナッツをとってやり、「どんな気分だね?」と訊ねた。
「陸軍士官学校の閲兵訓練みたいだ」アーサーが答えた。「身体の一部はまだ失神したままだっていうのにほっておかれてる」
フォードは闇の中であっけにとられたようにアーサーを見つめた。
「ここはどこだい?」アーサーは弱々しい口調で言った。「答えは聞かないほうがいいかな」
フォードは立ちあがり、「安全な場所だよ」と答えた。
「やれやれ」
「小さな調理室にいるんだよ。ヴォゴンの亜空間開発船団の中だ」
「なるほど。“安全”という言葉にこんな特殊な用法があるとは、いままで知らなかったよ」
フォードはまたマッチをすって明りのスイッチを捜そうとした。また巨大な影が壁に踊った。アーサーはなんとか起きあがると、不安そうに身体をまるめた。恐ろしい姿の宇宙人が彼のまわりに押し寄せてくるように思えた。空気はどんよりと濁っていて、カビくさかった。その臭いのもとをつきとめぬうちに、カビくささはアーサーの肺に忍び入っていた。いらいらしてくるような低いブーンという音がしていて、神経を集中させることができなかった。
「どうやってここに来たんだ?」ちょっと震えながら、アーサーが訊ねた。
「ヒッチハイクしたのさ」フォードが答えた。
「なんだって? 親指を上に向けてつきだしたら、緑色の大目玉の怪物が窓から頭を突き出して、“やあ、あんた。まあ乗りなよ。バシングストークのあたりまでなら乗っけていってやるぜ”とでも言ったというのかい?」
「まあね。親指のかわりに亜空間電子信号装置だし、バシングストークじゃなくて、六光年離れたバーナード星だが、それ以外のところは、だいたい合ってるよ」
「大目玉の怪物の件《くだり》は?」
「緑のやつね。合ってるよ」
「わかった」アーサーが訊ねた。「いつ家に帰れるんだい?」
「帰れない」フォードは言った。証明のスイッチを見つけた。「薄眼にしろよ……」と言いつつ、スイッチを入れた。
フォードですら驚いた。
「こいつはどうだ」アーサーが叫んだ。「ここは本当に空飛ぶ円盤の内部《なか》かい?」
プロステトニック・ヴォゴン・イェルツの不快な緑の身体がコントロール・ブリッジを行きつ戻りつしていた。生命体の生息する惑星を破壊したあとは、いつも漠然たるいらだちを感じるのだ。これはいけないことだ、だから大声で怒鳴りちらせばいい、気分が良くなるだろう――そんなふうに誰かが言ってくれればいいのにとイェルツは思った。彼は制御装置の前の椅子に荒々しく腰をおろした。壊れればいい、そうすれば怒る種が見つかると思ったのだが、椅子は痛みを訴えるようにキイッときしんだだけだった。
「失せろ!」
イェルツは、ちょうどブリッジに顔をだした若い衛兵を怒鳴りつけた。衛兵はちょっとホッとした表情で、すぐに姿を消した。いま着信したばかりの連絡をイェルツに手渡す役目をはたさなくてすんだので安堵したのである。連絡は公式のもので、本日、ダモグランにある政府研究基地において新型のすばらしい宇宙船駆動装置が公開され、これによって亜空間高速通路は無用のものとなった、という内容だった。
別のドアが開いた。今度はイェルツも怒鳴らなかった。デントラシ人が食事の用意をしている調理室に通じるドアだったからである。食事なら大歓迎だ。
毛むくじゃらの大きな生物が昼食をのせた盆を手にひょこひょこと戸口をくぐった。そいつは気違いのようなニヤニヤ笑いをうかべている。
プロステトニック・ヴォゴン・イェルツはよろこんだ。デントラシ人がこんなうれしそうな表情をするときは、この船のどこかになにか、腹を立てることのできるタネがころがっていることを知っていたからである。
フォードとアーサーはまじまじと周囲を見回した。
「こいつをどう思う?」フォードが訊いた。
「ちょっとむさくるしいんじゃないかい」
フォードは顔をしかめて、薄汚れたマットレスや洗ってないコップ、悪臭をはなつ下着らしきものなどが狭苦しい室内に散乱しているのを見つめた。
「まあ、こいつは作業船だからね」と、フォード。「ここはデントラシ人の寝室なんだ」
「宇宙人はヴォゴンとかいうんじゃなかったか」
「そうだ。ヴォゴン人がこの船を操っている。デントラシ人はコックなんだ。彼らがぼくらをこの船に乗せてくれたのさ」
「区別がつかんな」
「じゃあ、これを見たまえ」
フォードはそう言って、マットレスに腰をおろし、鞄の中をかきまわした。アーサーはこわごわとマットレスを突ついてから腰をおろした。そんなにこわがることはなかったのである。スコーンシェラス・ゼータ星の沼地に生えるマットレスは、念には念を入れて殺され、さらに乾燥されたのち出荷されるのだから。生命《いのち》を吹き返すことはまずなかった。
フォードはアーサーに一冊の本を手渡した。
「何だい?」と、アーサー。
「『銀河ヒッチハイク・ガイド』だ。電子を利用した一種の本さ。知っておく必要のあることはなんでも教えてくれる。それがこいつの仕事だからね」
アーサーはそれを両手でうけとって、おっかなびっくりひねくりまわした。
「カバーが気に入った」アーサーは言った。「“あわてるな”か。これだけ役に立つ、よくわかる意見は、今日はじめてだ」
「使い方を教えてあげよう」
アーサーはその本がまるで二週間前に死んだヒバリであるかのように、そっと両手でかかえていたが、フォードはその彼から本をひったくり、カバーをはずした。
「ほら、このボタンを押すと、スクリーンがあかるくなって、索引があらわれる」
三×四インチばかりのスクリーンがあかるくなり、その上を文字がちらちらと横切りはじめた。
「ヴォゴン人について知りたいなら、その名前を入れるんだ」フォードの指がいくつかのボタンを押した。「ほら、でてきた」
“ヴォゴン開発船団”という文字が、スクリーンの上で緑色に輝いた。
フォードはスクリーンの下にある赤い大きなボタンを押した。文字がうねるようにスクリーンを横切りはじめた。と同時に、本は、穏やかで控え目な声で記載内容を語りだした。すなわち――
“ヴォゴン開発船団=ヴォゴン人の船でヒッチハイクしたくなったときになすべきこと――そんなことはやめるべし。ヴォゴン人は銀河でも指おりの不快な種族である――正確に言えば、邪悪というわけではないが、癇癪《かんしゃく》もちで、官僚的で、干渉がましく、無神経である。自分の祖母がトラアルの貪欲獣に襲われても、正本副本あわせて三通の署名入り命令書を作成し、それを提出し、返却してもらい、紛失し、発見し、公聴会を開き、また紛失し、結局は泥炭の中に三ヶ月ばかり埋めこんで、やがて焚き付けとして再生利用するまで、祖母を救けるために指一本あげようとはしないのだ。
ヴォゴン人に酒を吐き出させる最良の方法は、相手の喉に自分の指を突っ込むことであり、ヴォゴン人を怒らせる最良の方法は、トラアルの貪欲きわまりない獣の前に祖母《ばあ》さんを抛りだすことである。
また、どんなことがあっても、ヴォゴン人に自作の詩を読んでもらうことだけはしてはならない”
アーサーは眼をぱちくりさせて、
「なんておかしな本なんだ。ところで、ぼくらはどうやってこの船に乗せてもらったんだい?」
「それが面白いところだ。いまじゃ時代遅れのやり方なんだがね」フォードはカバーの中に本をしまいながら、「ぼくは“改訂新版”のための実地調査を担当している。調査事項のひとつに、ヴォゴンはどうしてデントラシをコックに雇ったのか、というのもあって、それが今回なかなか役に立ってくれたってわけさ」
アーサーは苦しそうな表情をうかべた。
「デントラシって誰だい?」
「すてきな奴らさ」フォードが答える。「この世でいちばんのコックで、いちばんのバーテンだ。それ以外の点では、だらしのない奴なんだがね。ヒッチハイカーがいると、例外なく船に乗せてくれる。仲間が欲しいからということもあろうが、ヴォゴン人が困るのを見たいという理由が大きいな。一日三十アルタイル・ドル以内で“宇宙の驚異”を見てあるこうというヒッチハイカーなら知っておかなくちゃならないことのひとつだよ、これは。そして、そういったことを調べるのがぼくの仕事なんだ。おもしろいだろ?」
アーサーはぽかんとしていた。
「驚いたな」と言い、むずかしい顔でマットレスのひとつを見つめた。
「不幸なことに、ばくは地球に予定よりかなり長く滞在することになってしまった。一週間の予定が十五年に伸びてしまった」
「でも、最初はどうやって地球に?」
「簡単さ。ティーザーに乗っけてもらったんだ」
「ティーザー?」
「ああ」
「それはつまり……?」
「ティーザーかい? 毎日を無為にすごしている金持ちの坊やのことさ。宇宙船で飛びまわっては、まだ銀河文明と接触していない星を見つけ、原住民にちょっかいをだしているんだ」
「ちょっかいをだす?」
フォードはわざわざやっかいな言いまわしをするのを楽しんでいるんじゃないか――アーサーはそう思いはじめた。
「そうだよ。ちょっかいをだすんだ。ティーザーたちは住民がほとんど住んでいない人里離れた土地を見つけては着陸し、純真無垢な哀れな犠牲者の前にあらわれ、頭にへんなアンテナをつけたり、ビービーと音をたてたりして、犠牲者の前をいったりきたりするのさ。かくて、その犠牲者は誰からも信用されなくなるんだ。実に子供っぽいな」
フォードは両手を頭のうしろで組んで、マットレスの上に横たわった。自分自身に満足を感じているように見えた。
「フォード」と、アーサーが語りかける。「ばかげた質問に聞えるかもしれんが、ぼくはここで何をしているんだ?」
「わかってるはずだぜ。ぼくは君を地球から救けだしたんだ」
「地球はどうなったんだい?」
「破壊されたよ」
「なるほど」アーサーは平板な口調で応じた。
「そうなんだ。地球は蒸発しちまったんだよ」
「どうやら、ぼくはちょっと動揺しているようだな」
フォードは顔をしかめた。心の中である考えをころがしているように見えた。
「うん、わかるよ」やっとフォードは声をだした。
「わかるって!」アーサーが叫ぶ。「わかるって!」
フォードはとびあがった。
「その本をよくご覧!」と、低く非難するように言った。
「何のこと?」
「“あわてるな”さ」
「ぼくはあわてちゃいないさ」
「ああ、そうだね」
「まあいい、ぼくがあわてていることにしようか。なんかほかにすることはあるのかね?」
「ぼくといっしょに旅行して、大いに楽しむんだね。銀河系はおもしろい所だよ。耳の中にこの魚を入れておいたほうがいいな」
「なんておっしゃいましたね?」アーサーが訊ねた。かなり丁重な口調だな、と思った。
フォードは小さなガラス瓶を手にしていた。その透明な瓶の中で、小さな黄色い魚がうごめいている。アーサーは眼をぱちくりさせてその魚を見つめた。自分にも理解できるような単純なことばっかりならいいのにと思う。デントラシ人の下着の横に、スコーンシェラスのマットレスが散らばり、黄色い魚を手に、これを耳に入れろと言っているベテルギウス生れの男がいる。コーンフレークの小袋でも見ることができたら、安心できるのだが。しかし、彼には見ることができなかったので、安心感は抱けなかった。
突然、どこからともなく荒々しい音がきこえてきて、ふたりはとびあがった。狼の群れを追い払おうとする人間のしわがれ声のような音に、アーサーは息をのんだ。
「シッ!」フォードが言った。「よく聞くんだ。大事なことかもしれない」
「大……事?」
「ヴォゴン人の船長がマイクで通告しているんだ」
「あれがヴォゴン人のしゃべり方なのかい?」
「よく聞くんだ!」
「でも、ヴォゴン語なんて知らないよ」
「知ってる必要はない。この魚を耳に入れればいいんだ」
フォードは電光石火のはやわざでアーサーの耳をぴしゃりと叩いた。耳の奥に魚がもぐりこんでいき、アーサーは悪寒を感じた。アーサーは恐ろしくなって耳をかきむしったが、それも一、二秒で、ゆっくりと驚きの眼をみはった。逆光になったふたつの黒い顔を見ていたつもりが、突然、白い燭台の絵だとわかったときと同じ経験を、聴覚であじわっていた。あるいは、紙の上に散ったさまざまな色の点が突然、数字の6の形に変るのを見るようなものだ(これでまた大金を払って新しい眼鏡をあつらえねばならない)。
アーサーはまだ吠えるようながらがら声に耳をすませていた。いまでは、その意味がわかる。完璧な英語のように聞えていた。
すなわち……
6
「ヒューヒュー、ガラガラ、ヒュー、ガラ、ヒューヒューヒュー、ガラガラ、ヒュー、ガラ、ヒューヒュー、ガラガラガラ、ヒュー、ガラガラガラ、ヒュー、ズルズル、ウー許さんのである。繰り返す。こちらは船長だ。各自、作業を休止して、よく聞くように。まず第一に、当方の計器によれば、本船にふたりのヒッチハイカーが乗船しておる。どこにいるのか知らんが、こんにちは。はっきりさせておきたいが、君たちはまったく歓迎されておらん。わしは刻苦勉励して、現在の地位を得たのだ。変態のたかり屋相手にタクシー商売をやるため開発船団の船長になったわけではない。すでに君たちの捜索隊を出した。君たちを発見次第、船外に抛り出してやるつもりだ。運がよければ、抛り出す前にわしの詩を読んでやれるかもしれん。
第二、本船はこれより超空間に入り、バーナード星に向う。到着後、補給のため七十二時間ドック入りするが、その間、なんびとといえども船を離れてはならん。繰り返す。上陸許可はすべて取り消す。わしはいま不幸な恋愛にかかわっておる。だから、他の物が楽しむのは許さんのである。連絡終り」
騒音はやんだ。
アーサーは両腕で頭をかかえ、床にうずくまっているのに気づいて、まごついた。弱々しい微笑をうかべる。
「魅力的な男だね」と言った。「ぼくに娘がいたら、あんな奴とは結婚するなと……」
「その必要はなかろうよ」フォードが応じた。「ヴォゴン人には自動車事故ほどのセックス・アピールもありゃしない。待て、じっとして!」アーサーが丸めた身体を伸ばしかけたので、フォードが言った。「超空間に入る準備をしておいたほうがいい。酔っ払ったみたいに不快なんだ」
「酔っ払うことのどこが不快だっていうんだ?」
「水を一杯くれって言うじゃないか、君は」
アーサーはしばらく考えて、
「フォード」と言った。
「なんだ?」
「あの魚はぼくの耳の中で何をしているんだ?」
「君のために翻訳をしているのさ。バベル魚といってね。この本で調べてみたら」
フォードは『銀河ヒッチハイク・ガイド』をぽいと投げだすと、超空間突入にそなえて胎児のように丸くなった。
そのとき、アーサーの精神の底が抜けた。
彼は白眼をむいた。両足が頭のてっぺんから生えはじめた。
部屋はぺちゃんこに折りたたまれ、くるくると回転して、この世の外へと出ていった。アーサーは自分のへその中へとたぐり込まれていった。
超空間を通過しているのだ。
「バベル魚――」と『銀河ヒッチハイク・ガイド』が穏やかな声で言った。「ヒルのような小さな黄色い魚で、おそらく宇宙一奇妙な存在である。自分を耳の中にいれている宿主だけではなく、自分の周囲に存在する者の脳波エネルギーを受けとって、それを常食とする。脳波エネルギーから無意識下の精神波をすべて吸収し、栄養とする。それからバベル魚は宿主の脳にテレパシーの母体とでもいうべきものを分泌する。この母体は宿主の意識的な思考波と脳の言語中枢から発せられる神経信号とを組みあわせて造られたものである。これすなわち、耳の中にバベル魚を入れれば、どんな言語であっても即座に理解できるというわけだ。相手のしゃべっている言語パターンは脳波母体に翻訳され、それがバベル魚によって宿主の心に送り込まれるのである。
これほど有用な存在が純粋な偶然によって進化してきたなどということは、偶然にしても有り得ぬことだというので、現在では、これをもって神の非存在を証明する決定的な証拠だと考える者もでてきた。
その論法は以下のとおり――
神、曰く。“私は自分の存在を証明することを拒否する。というのは、さまざまな証拠により信仰の存在が否定されておる。信仰がなければ、私は無にすぎない”
“しかし”と人間は応じる。“バベル魚こそ神の存在を証明する明々白々な証拠ではありませんか。この魚が偶然によって進化することはありえない。だから、この魚は、あなたが存在している証拠である。それゆえ、存在しているあなたのおっしゃるとおり、神よ、あなたは存在していない。|証明終り《QED》”
“なんてことだ”と神。“そんなことは考えたこともなかった”。神はたちまち、論理の風に吹き消されてしまう。
“ちょろいもんだ”と人間は言う。同じ論理によって、黒は白だと立証され、人間は次の横断歩道で自殺するのである。
著名な神学者たちは、こんな論法は屁の役にも立たないと主張するが、とはいえ、その主張も、オーロン・コルフィドがそのベスト・セラー『神の存在問題の総括』の中心テーマに据え、ちょっとした富を作るのを妨げることはできなかった。
また、バベル魚は、さまざまな種族や文明間の意志の疎通を妨げているあらゆる障害を効果的に取り去ったがために、生命の歴史の中でも特筆すべき血なまぐさい戦争をいくつもひきおこしてきた」
アーサーは低いうめき声をもらした。超空間での刺激で死ななかったことに気づいて、ショックを受けていた。彼はいまや、地球が存在していればそのあるべき地点から六光年も離れている。
地球。
地球の幻影が船酔いに悩む彼の心を嘔吐感と共によぎった。どう想像力を働かせても、地球が消滅してしまったという衝撃を感じとることはできなかった。相手が大きすぎるのだ。両親や妹もいなくなってしまったのだと考え、自分がどう感じるか探りをいれてみた。なんの感興もおこらない。親しかった人々のことを考えてみた。なんの反応もない。二日前、スーパーのレジの前に並んでいたとき、自分のうしろにいたまったく見知らぬ人のことを考えた。と、突然、刺すような痛みを覚えた――スーパーはなくなってしまった。あそこにいた人はひとり残らず消えてしまった。“ネルソン提督の記念碑”もなくなった! “ネルソン提督の記念碑”はなくなり、あの騒々しい演説の声はもう聞かれない。そもそも演説する者がいなくなってしまったからだ。これからは“ネルソン提督の記念碑”は彼の心の中にのみ存在するのだ。イギリスは彼の心の中にのみ存在するのだ――じめじめして臭い、鋼鉄製の宇宙船の内部に閉じこめられた彼の心の中にのみ……。閉所恐怖が波のように彼に押し寄せてきた。
イギリスはもはや存在しない。それは納得した――ともかくも納得した。もう一度やってみよう――アメリカもなくなった、とアーサーは考えた。それは理解できなかった。もっと小粒なところからやってみよう。ニューヨークはなくなった。反応はおこらない。どのみちニューヨークが存在していると思ったことはなかったのだ。ドルは永久に消えてしまった。かすかに心が震えた。ボガートの映画は一本も残っていない、と低くつぶやいた。嘔吐感がする。マクドナルドのことを思った。もうマクドナルドのハンバーガーはどこにもない。
アーサーは激しい勢いで立ちあがった。
「フォード!」
フォードは片隅に座ってぶつぶつひとりごとを言っていたが、ひょいと眼をあげた。宇宙旅行の中でも実際に宇宙空間を飛行しているときがとりわけ苦しいものだと、フォードはいつも思い知らされるのである。
「なんだね?」フォードは応じた。
「君がこの本のようなものの調査員として地球に滞在していたというのなら、いろいろと資料を集めたことだろうね」
「ウム、初版の記載にちょっとつけ加えることができた」
「じゃあ、この版には何とあるのか見せてくれ。ぜひとも見なくちゃいけない」
「いいとも」
フォードは本をアーサーに手渡した。
アーサーは本をしっかりとつかんで、手の震えをおさえようとした。当該ページを呼びだすべく、ボタンを押して地球という見出しを打ちこんだ。スクリーンはぱっと明るくなり、渦を巻いて、やがてあるページがうつしだされた。
アーサーはそのページをじっと見つめた。
「地球という項目はないぞ」と叫ぶ。
フォードは彼の肩ごしにのぞきこんで、
「あるじゃないか」と言った。「下の方だよ。スクリーンのいちばん下を見てごらん。“エキセントリカ・ガランビッツ――エロチコン第六惑星の乳が三つある売春婦”のすぐ下だ」
アーサーはフォードの指さすところを眼で追った。しばらくは内容が頭に入らなかった。やがて、かっとなった。
「なんだと! “無害”だって? これで全部かい? 無害! たったひとこと!」
フォードは肩をすくめた。
「銀河系には百兆もの星があるが、この本のマイクロプロセッサーの容量には限度があるからね。もちろん、地球について、そうたいしたことがわかっていたわけじゃなかったし」
「あんたはこれに改訂を加えてくれたんだろうね」
「もちろんさ。新しい記載事項は編集者に送ったよ。編集が少し刈りこんだが、改善されたことは確かだ」
「新版じゃ、どうなっている?」
「“ほとんど無害”」きまり悪そうな咳をして、フォードが答えた。
「“ほとんど無害”!」アーサーが叫ぶ。
「あの音は?」フォードが低く言った。
「おれの叫んでいる声さ」とアーサーはまた叫んだ。
「違う! 黙って! どうやら、面倒なことになったぞ」
「面倒なことにね!」
ドアの外から、迫りくる足音がはっきりと聞えた。
「デントラシ人かな?」とアーサー。
「違う。あれは鉄鋲をうった靴音だ」
ドアを叩く音が鋭く響いた。
「じゃあ、何者だ?」
「フム、運が良ければ、ヴォゴン人がぼくらを宇宙に抛り出しに来たんだろう」
「運が悪ければ?」
「運が悪ければ」とフォードは暗い声で応じた。「船長は本気で、ぼくらに詩を読んで聞かせるつもりかもしれない……」
7
ヴォゴン人の詩は申すまでもなく、この宇宙で三番目にひどい詩である。二番目にひどいのはクリア星のアズゴス人のものだ。大詩人グランソスが自作の『真夏のある朝、余がわきのしたで見つけし緑のパテの小塊にささげる賦《オード》』を朗読した際、聴衆のうち四人が内出血で死亡した。中部銀河系芸術家協会会長は、みずから足を噛みちぎることで死をまぬがれた。グランソスはこの朗読会に“失望”し、彼の大腸が、人生と文明を救わんと血みどろの努力をかさねて、ぴょんと伸びあがり、喉に達し、脳にまきついたとき、十二冊目の単行本である叙事詩『我が愛する入浴時のごろごろ声』の朗読会をもよおすつもりだ、とニュースで報じられた。
宇宙一ひどい詩は、地球消滅のさい、その作者――英国エセックス州グリーンブリッジのポーラ・ナンシイ・ミルストーン・ジェニングスと共に破壊された。
プロステトニック・ヴォゴン・イェルツの顔に、ゆっくりと微笑がうかんだ。これはべつにしかるべき効果を狙ってのものというよりは、微笑する際の筋肉の動きを思いだそうとしていたからにほかならない。捕虜になったふたりを怒鳴りつけたおかげで、かなり気分がよくなり、いまや寛いで、ちょっと非情なことをする心の準備をととのえていた。
捕虜は詩歌鑑賞椅子に座っていた――というか、縛りつけられていた。ヴォゴン人は自分たちの詩がなべてもっている特性についてはっきりと自覚していたからである。彼らも最初は気質を変えようと努力したものだが、それは、自分らも立派な進化をとげた文明人として銀河社会に受け入れられたいという強烈な主張に支えられていた。しかし今では、彼らに残っているのは、激しい残虐性だけであった。
フォード・プリーフェクトの額に冷汗がにじんでいる。こめかみには電極がとりつけられていた。電極からのびたコードの先は電子装置のバッテリーだ――心象増感機、韻律調整機、頭韻残留機、直喩転倒機など、どれも詩を聞いたときの感動を高めるためのもので、詩人の思想の陰影《ニュアンス》が失われぬように設計されていた。
アーサー・デントは震えながら坐っていた。これからどんな責め苦を受けねばならぬのかまったくわからなかったが、いままで起ったことはどれもこれも気に入らず、その状況がおいそれと変るとも思えなかった。
ヴォゴン人は詩を朗読しはじめた――造語に満ちたいやったらしい一節を。
「おお、へけもこの豚虫よ」と始まった。フォードの身体を痙攣がはしった――こいつは彼が覚悟していたのよりずっとひどい。
「……汝が放尿は我が身にかかる。
さひどれし蜂《はち》に染みついたあかむれの早口白斑よ」
「ウゥゥゥゥギャー」
苦痛の塊が脳髄を一撃し、フォードは頭をのけぞらせた。隣のアーサーも椅子に縛られたまま身をよじっているのが、ちらりと見える。彼は歯をくいしばった。
「我は汝に哀願するそびれ」無情にもヴォゴン人はかまわず続けた。「我がとみくれのわけもこう」
声の調子が恐ろしいほど高まって、熱のこもった不快なぎいぎい声に変った――
「かくて、皺だらけのねまつつみにて我をくみくれそげもけん。
さもなくば、我がみさわせで汝をたらみそ引き裂かん」
「ンンンンンンンンンンンギャァァァァァァァァァググググググググググンンン」
こめかみからこめかみへ増幅された電子刺激がはしり、フォードは悲鳴をあげて、最後の痙攣をおこした。彼はぐったりとした。
アーサーはだらしなく椅子にもたれている。
「さて、地球人よ……」ヴォゴン人は低く言った(彼は、フォードがベテルギウスをめぐる小さな星の出身だということを知らなかった。また、知っていたとしても、頓着しなかったろう)。「単純なる選択の道を示そう。真空中で死ぬか……」と、芝居がかって言葉を切り、
「わしの詩がどんなにすばらしいと思ったかを話すか、だ」
イェルツは蝙蝠《こうもり》の形をした大きな革張りの椅子に深々と身を沈めて、ふたりを見つめた。また例の微笑をうかべる。
フォードはなんとか息をしようとあえいでいた。乾ききった口の中で埃をまぶしたような舌をうごめかせて、うめき声をあげる。
アーサーが元気な声で言った――
「まったくのところ、ぼくはとても気に入ったね」
フォードは首をまわし、息をのんだ。まったく考えてもいなかったやり口だ。
ヴォゴン人も驚いたように眉をあげた。おかげで鼻が完全に顔の中に埋もれてしまう。かなり見やすい顔になった。
「なるほど……」かなり驚いた口調で低く言った。
「そうとも」アーサーは続ける。「形而上学的心象の一部は特に効果的にあらわされているね」
フォードはアーサーを見つめつづけ、このまったく新しい考え方を中心にして、ゆっくりと自分の考えをまとめにかかった。このやり方で本当にいまの苦境から脱出できるだろうか?
「それで……」イェルツがうながす。
「エー……それで……この興味深い律動装置も効果的だ」と、アーサー。「こいつは、作者の情熱的な魂のもつ……アー……」つっかえた。
フォードが救けにとびだし、思い切って言った。
「……魂のもつ人間性の……」
「ヴォゴン性だ」アーサーが低くささやく。
「そうそう、失礼、ヴォゴン性の……エー……」
フォードもつっかえた。しかし、アーサーの方に準備ができていた。
「……ヴォゴン性の根底にある隠喩のシュールレアリスムを対照によって強調しているようだ」アーサーは、ホームストレッチにかかったのを感じとった。「この装置は、詩の構成方法を通じて、これを昇華し、あれを超越し、聴き手の根元的な部分と折りあいをつけることに成功しているのだ」(その声は勝利を確信して高まった……)「かくて、詩がいかなるものであれ、その……その……」(急に力がぬけた)
フォードがとどめの一撃を加える。
「その核心に深い、明瞭な洞察力を与えるのである!」彼は大声で叫び、それから低くつけ加える。「よくやったぞ、アーサー。上出来だ」
イェルツはふたりをまじまじと見つめた。ひとときは、その非情なる魂も揺れ動いた。しかし、これではだめだ、と彼は思った――いまさらこれっぱかし誉められても、もはや手遅れだ。猫が風船を爪で引っかいているようなイェルツの声だった――
「では、わしがこの詩を書いたのは、下品で無情で非情な容姿ではあるが、実は他人から愛されたいと思っているからだ、というのだな」そして、一泊おいて、「そうだな?」
フォードは神経質に笑って、
「そういうことです」と言った。「我々はべつに、心の奥で、あなたが……アー……」
イェルツは立ちあがった。
「違うのだ。おまえたちはまったく間違っておる。わしがこの詩を書いたのは、下品で無情で非情な容姿を鋭く浮彫りにしたいがためだったのだ。おまえたちを船外に放擲することにする。衛兵! 捕虜を第三エアロックに連行し、外に抛り出せ!」
「なんだって!」フォードが叫んだ。
大柄な若い衛兵が前に進みでて、ふたりの縛《いまし》めを解きはなち、太い腕でぐいと引っぱった。
「ぼくらを宇宙に抛り出しちゃいけない!」フォードが大声をあげる。「ぼくらは本を書こうとしているんだ」
「さからっても無駄だ!」衛兵が叫び返した。彼がイェルツの近衛隊に入っていちばんに覚えた言葉がこれだった。
船長は楽しそうに、しかし超然とした態度で捕虜を見つめ、やがてくるりと背を向けた。
アーサーは半狂乱になって周囲を見回した。
「まだ死にたくない!」と叫ぶ。「頭痛がするんだ。頭が痛いまま天国へ生きたくないよ。気分が悪い。こんな状態で天国へ行ったって楽しくないに決ってる」
衛兵はふたりの首をしっかりとつかみ、船長の背中にうやうやしく一礼すると、あらがうふたりを引っぱってブリッジから出た。鋼鉄の扉が閉ると、船長は本来の自分に戻った。低くつぶやきつつ、なにかを考えている。詩を書きとめたノートをパラパラとめくって、
「フーム、“隠喩のシュールレアリスムを対照によって強調する……”か」
彼はしばらくこの言いまわしについて考え、やがて、ニヤリと笑ってノートを閉じた。
「やつらには、死でさえもったいないわい」
鉄板を張りつめた長い廊下に、ヴォゴン人の太い腕にしっかりとおさえられたふたりの人間型生物《ヒューマノイド》の弱々しい抗いの音がこだました。
「なんてこった」アーサーが早口にまくしたてた。「なんてひどいことをするんだ。この野蛮人め、おれを離しやがれ!」
衛兵はふたりを引きずってかまわず進む。
「心配するな」フォードが言った。「そのうちうまい手を思いつくさ」その声はおせじにも希望に満ちているとはいいがたい。
「さからっても無駄だ!」衛兵が吠えるように叫ぶ。
「そんなこと言うもんじゃないぜ」フォードが口ごもりつつ言った。「あんたがそんなことを言い続けたら、言われた人間はどうやって肯定的、建設的な心構えを維持すればいいんだい?」
「くだらん」アーサーがぶつぶつと言った。「なにが肯定的、建設的な心構えだ。ついさっき故郷の星を破壊された者の身にもなってみろ。今朝、目覚めたときは、今日はのんびりしたいい日になるなって思っていたんだ。ちょっと読書でもして、犬にブラシをかけて……いまは午後の四時になったばかりだというのに、地球の残骸から六光年離れたところで、異星人の宇宙船から抛り出されかけている!」
ヴォゴン人の力が強まったので、アーサーは咳きこみ、喉の奥でうめいた。
「わかったよ」フォードがなだめた。「うろたえちゃいけない」
「誰がうろたえてるもんか」アーサーがぴしゃりと言い返す。「こいつはカルチャー・ショックなんだよ。この状況に適応し、自分の立場がわかるまで待つ。それからだ、うろたえるのは」
「アーサー、君はヒステリックになっている。口をつぐむんだ!」
フォードは死にものぐるいで考えようとした。しかし、衛兵の大声に邪魔される。
「さからっても無駄だ!」
「あんたも黙れよ!」フォードがぴしゃりと言う。
「さからっても無駄だ!」
「ひと休みしたらどうだい」
フォードは首をねじって、自分をつかまえている衛兵の顔をじっと見つめた。いい考えを思いついた。
「こんなことが本当に楽しいのかい?」だしぬけにフォードが訊ねた。
ヴォゴン人はぴたっと歩みをとめた。ポカンとした表情がゆっくりとその顔にひろがっていく。
「楽しい?」衛兵はうなるように言った。「どういうことだ?」
「つまりね、こうしたことをやっていて、君は満足した生活をおくっているのかなってことさ。ドスンドスンと歩きまわり、大声でがなりたて、人を宇宙船から抛り出し……」
ヴォゴン人は鋼鉄張りの低い天井をじっと見あげた。眉毛は髪の生えぎわにくっつきそうだ。やがて、彼は口を開いた――
「ウム、勤務時間は楽しい……」
「それが当然だね」フォードはうなずいた。
アーサーが頭をまわして、フォードを見た。
「フォード、あんたは何をやってるんだ?」びっくりして、ささやく。
「いや、まわりの世界に興味を抱いてね。いけないかい?」フォードは答えた。「じゃあ、勤務時間は楽しいんだね」
衛兵は彼を見おろした。どんよりとした心の深みで、いくつかの考えがのろのろとうごきまわった。
「ああ」と応じて、「もっとも、いまあんたに言われてみると、ほとんどの時間はくだらねえ。ただ……」若者はまた天井をにらんで考えた。「ただ、大声で怒鳴っているときは好きだ」彼は肺いっぱいに息を吸い、大声をだした。「さからっても……」
「わかったわかった」あわててフォードがさえぎる。「それが得意だってことはわかったよ。それにしても、ほとんどの時間がくだらないとしたら」と、ゆっくりと言葉を選びながら訊ねた。「なぜこんなことをするんだね? なんのためだ? 女か? SMか? 男らしさのためか? それとも、退屈きわまる仕事にもめげずなんとかやっていくことにやりがいを見つけたのかね?」
当惑したアーサーはフォードと衛兵を見比べた。
「その……」と衛兵は応じて、「その……アー……よくわからんな。たしかにそんなところかもしれない。伯母さんが言うには、若いヴォゴン人にとって宇宙船の衛兵というのはいい仕事なんだそうだ――ほら、制服が着られるし、衝撃銃を腰のホルスターにさしこんで、退屈きわまる……」
「ほらね、アーサー」結論がでたぞといった口調でフォードが言った。「困ったもんだと思うだろ」
アーサーはほんとにそう思っていた。故郷の星がどうなったかという不愉快な問題を措くとしても、現に衛兵は彼の首を締めあげていたし、宇宙空間に抛りだされる音というやつが気に入らなかった。
「この人の困った問題てのを理解できるかどうか、考えてみようか」フォードが言った。
「ここにいるのはかわいそうな若者だ。その仕事といったら、どすんどすんと歩きまわり、人々を宇宙船から抛りだし……」
「それに、大声で怒鳴るんだ」衛兵が言い添えた。
「そう、大声で怒鳴るんだ」フォードは、自分の首をぎゅっとおさえつけている太い腕をおもねるように叩きながら、「……ところが、この若者は、自分がなぜそんなことをしているのか知りもしない!」
それはとても悲しいことだと、アーサーも賛成した。彼は、弱々しい小さな身ぶりで賛意を表わした。息が苦しくて、しゃべることができなかったからである。
衛兵の喉の奧から茫然とした声が洩れた。
「つまり、あんたたちは、こんなことはやめろと……」
「それそれ!」フォードがうながした。
「それはいいが」低い声は続く。「それからどうするんだ?」
「そうさね」フォードは快活に、だがゆっくりと言った。「まず、こんなことはやめるんだ! それから、みんなに言ってやれ――もうこんなことは金輪際やらないぞって」
もっとつけ加えねばならぬような気がしたが、いまのところ、衛兵は彼の言葉を考えることで手いっぱいのようだった。
「フ〜〜〜〜〜ム」衛兵はうなった。「フーム、そいつはどうもおれには好都合とは言えないようだな」
チャンスは一瞬にして消え去った、とフォードは思った。
「いや、ちょっと待ってくれ」とフォード。「そこは出発点にすぎんわけだよ。ね、あんたの思いもよらぬすてきなことがたくさん……」
しかし、そのときには衛兵は腕の力を再び強め、当初の任務を完遂すべく、捕虜ふたりをエアロックへ引っぱっていった。彼はむっとしているようであった。
「もしよかったら、あんたたちふたりをこのエアロックに抛りこみ、自分の仕事を大声で怒鳴りながら、なんとかやっていくほうがよさそうだ」
フォード・プリーフェクトにとっては、ちっともよくなかった。
「あのねえ……よく考えてみろよ!」フォードは言った。もう、あまりゆっくりでなく、あまり快活でもなかった。
「やれやれ……」アーサーがほとんど抑揚のない声で言った。
「もうちょっと待ってくれ」フォードはあきらめない。「音楽やら美術やら、君に話したいことはまだいくつもあるんだ! イテテッ!」
「さからっても無駄だ」衛兵は吠えたて、さらにつけ加えて、「この仕事を続けていれば、いずれは上級大声兵曹になれるんだ。大声をださない、人を抛りださない兵卒にとって、上級兵曹になれるチャンスはそう多くはない。だから、いまの仕事にしがみついていたほうがいいと思う」
一同はエアロックの前に到着していた――それは、宇宙船の内部に穿たれた巨大でがっしりした円型のハッチだった。衛兵がスイッチを操作すると、ハッチは音もなく開いた。
「だけど、関心をもってくれてありがとよ」ヴォゴン人は言った。「じゃあ、バイバイ」
彼はフォードとアーサーをハッチの中の小部屋に抛りこんだ。アーサーは仰向けになって、せわしなく息をした。フォードはあたりをはいずりまわり、閉じかけたハッチに肩をぶつけたが、無駄であった。
「聞いてくれ」フォードは衛兵に向って叫んだ。「この世には、あんたの知らない世界があるんだよ……こんなの、知ってるかい?」
フォードはしにものぐるいで即座にとりだせる文化のきれはしをひっつかんだ――彼はベートーヴェンの第五の第一小節を歌った。
「ジャ ジャ ジャ ジャーン! こいつは君の魂を揺さぶらないかね?」
「べつに」衛兵が応じた。「どうってことない。でも、そいつは伯母さんに伝えてみよう」
彼がさらになにか言ったとしても、それは聞えなかった。ハッチがぴったりと閉ったのだ。あらゆる物音が途絶えた。ただ宇宙船のエンジンの音だけが、遠くかすかに聞えるだけだ。
ふたりは、直径六フィート、全長十フィートの円筒形のきらきら輝く部屋にいた。
フォードは荒い息をつきながら、あたりを見まわした。
「素質のある若者なんだがなあ」と言い、カーブした壁にどすんと寄りかかった。
アーサーはカーブした床に横たわったままである。眼をあげもせず、仰向いて、荒い息を吐くばかり。
「罠にはまったというわけか?」
「そうだ」フォードが応じた。「罠にはまった」
「じゃあ、なにも思いついちゃいなかったんだな。あんたはさっき、なにか思いつくだろうと言ったと思うがね。なにか思いついたんだが、ぼくにはそれがわからなかったというわけかい」
「そうだとも、思いついていたよ」
と、フォードは荒い息をつき、アーサーは期待をこめて彼を見上げた。
「だが、不幸にして」と、フォードは続けた。「このぴったりしたハッチの向う側での話だ」
彼はハッチを蹴とばした。
「だが、それはいい考えだったんだろ?」
「そうとも、実にうまい考えだった」
「どんな?」
「こまかいところはまだ考えついていないんだ。もうどうでもいいじゃないか」
「そうだな……で、これからどうなるんだ?」
「そうさね、もうしばらくすると、眼の前のハッチが自動的に開き、宇宙空間に抛りだされるんだろう。そして、窒息する。肺いっぱいに息を吸いこんでいても、せいぜい三十秒しか保《も》つまい……」
フォードは両手を背中にまわすと、眉をあげ、ベテルギウスの古い戦いの歌を口ずさみはじめた。彼が急に異星人ぽくなったように、アーサーの眼にはうつった。
「そういうわけか」アーサーは言った。「もうじき死ぬんだな」
「そうだ」とフォード。「ただし……いや、待て!」
彼はいそいで円筒を横切り、アーサーの視線のとどかぬところに向った。
「このスイッチは何だ?」
「なんだって? どこだ?」アーサーは首をねじまげて叫んだ。
「いや、からかっただけさ。どのみち、まもなく死ぬんだ」
彼はまた壁に寄りかかり、歌の続きを口ずさんだ。
「こんなとき――」アーサーが言った。「ベテルギウス人といっしょにヴォゴン人の宇宙船のエアロックに閉じこめられ、まもなく宇宙空間で窒息死しようとしているこんなとき――子供のころ、かあさんが教えてくれたことをもっとよく聞いておけばよかったとつくづく思うよ」
「で、おかあさんは何と?」
「わからない。聞いておかなかったんだもの」
「やれやれ」フォードは歌を続けた。
「恐ろしいことだ」アーサーはひとりごちた。「ネルソン提督の記念碑はなくなっちまった。マクドナルドもいまはない。残されているのは、ぼくと“ほとんど無害”という言葉だけ。もうまもなく、“ほとんど無害”という言葉だけになる。昨日、地球はずっと健在でいるように見えたもんだが」
モーターがうなった。
宇宙に通じるハッチが開きだし、信じられぬほど明るく小さな光点がいくつも埋めこまれた黒い虚無が見えはじめて――宇宙に洩れていく空気のかすかなシューッという音は、耳を聾せんばかりの轟音に変った。フォードとアーサーは、おもちゃの銃から撃ち出されたコルクの弾のように宇宙へとはじきとばされた。
8
『銀河ヒッチハイク・ガイド』はまことに並みはずれた本であります。長年にわたり、何十回もの改訂を重ねて編集されてきました。この本には数えきれぬほどの旅行者や研究者の寄稿がおさめられています。
その序文は次のように始まります――
“宇宙は大きい。実に大きい。これぐらい大きいと教えられても、にわかには信じられぬほど広く、大きく、茫漠としている。薬屋までは遠い道のりだと思えるだろうが、しかし、それとて、宇宙にとっては、ほんとにちっぽけな距離にすぎぬ。さて……”云々。(しばらくすると、文体は少し落ち着いてきて、本当に知っておく必要のあることを語りだします。たとえば――夢のように美しい惑星ベスセラミンでは現在、年に十兆人を越える観光客による浸食をおおいに心配しており、そのため、滞在中の飲食物の量と排泄物の量の差を、離星時に、体重から外科的に切りとられるという事実。ですから、トイレに入ったときはレシートを受けとるのを絶対に忘れてはなりません)
もっとも、正直なところを申せば、星々の間にひろがる圧倒的な距離に直面したとき、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の序文を書いた人物より善良な人々はたじろいだものでした。一瞬でも、レディング市にころがる一個のピーナッツとヨハネスブルグ市にある小さなクルミのことをよく考えてみようと呼びかける人もいるでしょう。
真実は単純であります――すなわち、恒星間の距離は人間の想像力の限界を越えているのです。
あまりに速いため、たいていの種族で、光も走っていることに気づくのに何千年もかかりましたが、その光でさえ、星々の間を走るのにずいぶん時間がかかるのです。太陽からかつて地球があった位置まで、光でも八分かかりますし、太陽系にいちばん近い恒星、アルファ・ケンタウリまで四年以上かかるのです。
その光が銀河の反対側に届くには(たとえば、ダモグランに届くには)もっと時間がかかります――五十万年。
この距離をヒッチハイクで踏破した記録としては、五年弱というものがあります。もっとも、これでは道々、あまり見物などできませんが。
『銀河ヒッチハイク・ガイド』には、肺いっぱいの空気を吸いこめば、真空中でも三十秒ほど生きていられると書かれています。もっとも、宇宙の茫々漠々たることを考えれば、その三十秒以内に、別の宇宙船に救助される確率は、二の二十六万七千七百九乗分の一だとも記されています。
二六七七〇九という数字が、かつてアーサーがでかけていったパーティの会場となったイズリントンのあるマンションの電話番号と同じだというのは、まことにめくるめく偶然の一致にすぎない(そのパーティで彼はとびきり可愛い娘に出会ったのだが、ものにすることはできなかった――娘は押しかけ客とどこかにしけこんだのである)。
地球もイズリントンのマンションもそこの電話もいまはないが、二十九秒後にフォードとアーサーが救助されたという事実によって、この数字が記憶にとどめられるとすれば、それもまた善哉《よきかな》。
9
とりたてて理由もないのにエアロックが勝手に開いて閉じたので、それに気づいたコンピュータは驚いてカタカタと音をたてた。
これは、コンピュータが食事に夢中になっていたからだった。
銀河系に一個の穴が出現した。それは正確には一秒の零乗しか存在せず、一インチの零乗しかひろがらなかったが、その端から端までは数百万光年もの長さがあった。
その穴がぴたりと閉じると、たくさんの紙帽子や風船が穴からころがりだして、宇宙空間に散っていった。身長七フィート三インチの市場アナリストの一団が穴からころがりだして、死んだ。死因は窒息死、もしくは驚愕死。
二十三万九千個の目玉焼きも穴からころがりだし、パンセル星系のポフリルという飢饉にみまわれている惑星上に山をなした。
ポフリル人は飢餓により全滅していたが、生きながらえていた最後のひとりも、数週間後、コレステロールのとりすぎで死亡した。
穴の存在した一秒の零乗の間、時は時間流の中で過去に未来に何度も反響した。悠久の昔、どこかで、時は、不毛なる宇宙空間を漂う原子の群れに甚大な傷を与えた。原子団はしっかり寄り集って、まことに異常な、生れるはずもなさそうな形《パターン》をつくった。そのパターンはすみやかに自己増殖する術《すべ》を学んだ(そこがこのパターンの異常なところのひとつである)。そして、それらがたどりついたどの惑星でもやっかいな問題をひきおこし続けた。かくして、この宇宙に生命が誕生したのである。
五つの事件の大渦巻が不条理の嵐となって荒れ狂い、歩道の上に吐き戻した。
歩道の上にフォード・プリーフェクトとアーサー・デントは横たわって、陸にうちあげられた魚のように口をぱくぱくさせていた。
「生きてるぞ」フォードがあえぎながら言い、手がかりを求めて“未知の第三領域”をとびぬけつつある歩道をかきむしった。「ね、なんか思いつくって言っただろ」
「なるほどね」と、アーサー。「おっしゃるとおり」
「実にいいアイデアだったな。近くを通過中の宇宙船を見つけ、そいつに救けてもらう」
本来の宇宙は彼らの足もとで吐き気をもよおすほどに湾曲していた。さまざまな偽りの宇宙は山羊《やぎ》のように音もなく飛び去った。原初の光が爆発し、崩れた凝乳のように時空が散乱した。時間は展がり、物質は収縮した。この世でいちばん大きな素数が宇宙の片隅で音もなく合体し、永遠に消え去った。
「気どるのはやめろよ」アーサーが言った。「そんな可能性はちっぽけなもんだぜ」
「あら捜しはやめよう。とにかくうまくいったんだ」
「で、ぼくらのいる船はどんな船だろう?」
アーサーが訊ねたとき、永遠が彼らの足もとで大きく口をあけた。
「わからん。ぼくはまだ眼をあけちゃいないんだ」
「おや、ぼくもだ」
宇宙は跳躍し、凍りつき、震動し、まったく予期せぬ方向にとびちった。
アーサーとフォードは眼をあけ、周囲を見回した。愕然とする。
「なんてこった」アーサーがうめいた。「こいつはサウスエンドの海そっくりじゃないか」
「やれやれ、それを聞いてほっとしたよ」とフォード。
「どうして?」
「だって、狂ってしまったのかと思ったものだから」
「そうかもしれないぞ。ぼくがそう言ったと思っただけなのかもしれないよ」
フォードは考えこんだ。
「で、あんたはそう言ったの? 言わなかったの?」と訊ねる。
「言ったと思うよ」アーサーが答えた。
「じゃあ、ぼくらふたりとも狂ってしまったのかもしれない」
「ああ、そうかもしれない。あらゆる点から見て、ここがサウスエンドだと思うようじゃあね」
「じゃあ、ここがサウスエンドだと思うのかい?」
「そうさ」
「ぼくもだ」
「それゆえ、ふたりは狂っているにちがいない」
「狂うにはいい日だよ」
「ああ」通りすがりの狂人が言った。
「いまのは誰だ?」アーサーが訊ねた。
「誰――薫製ニシンが鈴なりのニワトコの茂みをはやした頭が五つある男かい?」
「ああ」
「知らない。誰かさんだろ」
「ふうん」
ふたりは歩道に座りこんで、巨大な子供たちが砂浜をどすんどすんとはねまわるのを、“不定領域”に至る補強された手すりをのせて野生馬が空を駆けるのを、落ち着かなげに見守った。
「ねえ」かるく咳ばらいをして、アーサーが言った。「ここがサウスエンドだとしても、どこかおかしなところが……」
「波がまるで岩のようにびくとも動かず、建物が上下に揺れ動いていることかい?」フォードが言った。「そう、ぼくもおかしいと思うね。まったくのところ」と彼は続けたが、そのとき、大きなバーンという音とともに、サウスエンドは六つに等分に裂け、その破片は互いに猥らな形にまつわりついて、くるくると舞い踊った。「実におかしなことが起っている」
笛と弦楽器の悲しげな音が風にのって聞えてきた。一個十ペンスの揚げたてのドーナツが道からポンととびだした。恐ろしい姿の魚が空から雨のように降りそそぎ、アーサーとフォードはその魚をつかまえに走ろうと決心した。
ふたりはわんわんとうなる音の壁に突っ込んだ。古めかしい思考の山に、ムード・ミュージックとひどいタップ・ダンスとどんちゃん騒ぎの谷間に突っ込んだ。と、突然、少女の声が聞えた。
耳に快い声だったが、言っていることといえば、「二の十万乗対一で、現在も減少中」というだけだった。
フォードは一条の光が洩れてくる方向に走っていき、声のでどころをつきとめようとあたりを見回したが、実在が信じられるようなものはなにひとつ眼にはいらなかった。
「あの声はなんだ?」アーサーが叫んだ。
「わからん」フォードが叫び返す。「わかんないよ。確率を計算してるみたいだが」
「確率だって? どういうことだ」
「確率だよ。二対一とか三対一とか五対四とかいうやつさ。二の十万乗対一とか言っていたな。まず起りそうにないことだな」
なんの前触れもなくカスタードの入った百万ガロンの大樽がふたりの頭上でひっくりかえった。
「どういうことなんだ?」アーサーが言った。
「なにが? このカスタードか?」
「違うよ。起りそうにないことの計算のことさ」
「知るもんか。なんにもわからないよ。どうやらぼくたちは宇宙船のなかにいるようだな」
「ここがファースト・クラスじゃないことは確かだね」アーサーが言った。
時空間の構造にふくらみが生れた。醜い巨大なふくらみだった。
「ウワアァァァ……」自分の身体がぐにゃりとなって、おかしな方向に曲った感じがしたので、アーサーは叫んだ。「サウスエンドが溶けていくみたいだ……星々が渦を巻いている……砂嵐だ……両足が夕日のなかに吸い寄せられていく……両腕ははずれちまった」恐ろしい考えが彼の脳髄をつらぬいた。「これからはどうやってデジタル・ウォッチを操作すればいいんだろう」
彼は必死の努力で目玉をフォードの方に向けた。
「フォード。君はペンギンに変りかけているぞ。やめるんだ」
また声が聞えた。
「二の七万五千乗対一。現在も減少中」
フォードは怒りにまかせて、池のまわりをよちよちと走りまわった。
「おい、おまえは誰だ?」彼はガァガァと怒鳴った。「どこにいる? いま何が起っているんだ? これを止める方法はないのか?」
「どうぞ落ち着いてください」心地よい声がした。片翼がもぎとられ、二機のエンジンの片方が火を吹いている飛行機のステュワーデスを思わせる声だった。「絶対に安全ですから」
「安全なんか問題じゃない!」フォードが怒鳴った。「問題は、おれがいま安全なペンギンになっちまったということなんだ。友達のほうは両腕がとれかかっている!」
「だいじょうぶだ。いまもとに戻った」アーサーが言った。
「二の五万乗対一。現在も減少中」
「ぼくの腕は、自分で思っていたより長かったようだ。でも……」
「起りそうにないことをぼくらに話す義務があると思っているのかい、あんたは?」フォードがペンギンらしい怒りの声をあげた。
声はかるく咳ばらいをした。巨大な一個のクッキーがぴょんぴょん跳びはねながら遠くへ去っていった。
「宇宙船〈黄金の心〉号へようこそ」声が言った。
声は続けて、
「あなたがたのまわりに何が見えても、何が聞えても、こわがらないでください。おふたりは、二の二十六万七千乗対一の確率で――あるいは、もっと小さな確率で――確実な死から救けだされたのですから、最初はなにか悪影響を感じるかもしれませんわね。この船は現在、二の二万五千乗対一のレベルで航行中です。何が正常なのか確信がもてるに至ったら、すぐに正常な世界に戻れるでしょう。以上です。二の二万乗対一。現在も減少中」
声は途絶えた。
フォードとアーサーはピンクに輝く小部屋にいた。
フォードはひどく興奮している。
「アーサー!」フォードは叫んだ。「こいつはすばらしいぞ! ぼくらは“無限不可能性|駆動装置《ドライヴ》”で動く宇宙船に救助されたんだ! とても信じられない。こいつの噂は前にも聞いたことがあった。その噂は公式には否定されたけれど、真実をついていたんだ。不可能性ドライヴが完成したのだ! アーサー、こいつは……アーサー? どうしたんだ?」
アーサーは先程から小部屋のドアに身体をぎゅっと押しつけていた。ドアを閉めようとしていたのだが、ドアはうまく閉らないのだった。ドアの隙間から毛のはえた小さな手がいくつも伸びている。その指にはインクのしみがついていた。甲高い、かぼそい声がぺちゃくちゃと狂人のおしゃべりのように聞えてくる。
アーサーは顔をあげて、
「フォード! ドアの向うに数えきれないほどの猿がいるんだ。自分らで作った『ハムレット』の台本のことでぼくたちと話がしたいんだとさ」
10
無限不可能性ドライヴは、超空間で退屈な時をすごす必要もなく、一瞬にして恒星間の広大な距離を横切ることができるというすばらしい方式である。
これは偶然に発見され、ダモグランの銀河政府研究チームによって推進機関として開発された。
本章は手短かに言えば、その発見の物語である。
バンブルウィーニィ57サブ=メゾン頭脳の論理回路を、強力なブラウン運動発生器(たとえば、熱い紅茶)の中にとりつけられた原子ベクトル・プロッターとつなぐことによって、有限な不可能性が発生する原理は、もちろんよく知られている――そうした不可能性発生機はパーティなどで氷を割るのによく使われている。不確定性理論に従い、ホステスの下着を構成する全ての分子を同時に左に一フィート移動させると、氷は割れるのである。
こうした不可能性発生機は推進機関として不適当であると、大勢の著名な物理学者が言明していた――なぜ、そう言明したのか。それは科学の堕落であるという理由もあったが、科学者たちはそうしたパーティには招待されたことがないという理由のほうが大きかった。
不適当だと言うのにはもうひとつ理由があった。星と星のあいだに広がる魂も凍るような広大な宇宙空間を航行するのに必要な無限不可能性フィールドを発生させる機械をつくろうと、何度も何度も試みられてきたのだが、そのたびごとに例外なく失敗したからである。結局、そうした機械は究極的に不可能なのだ、と科学者たちは不機嫌な口調で言明した。
ところがある日、例によって失敗した研究員たちが帰宅したあと、掃除に残されたひとりの学生がこんなふうに考えた――
もしこの機械が究極的に不可能なら、論理的に言って、そのことこそ無限不可能性をあらわしているにちがいない。だから、その機械をつくるためにしなくちゃならんことは、それがどれほどありえぬことか正確に計算し、その数値を有限不可能性発生機に送りこみ、熱い紅茶を一杯いれればいいだけだ……スイッチを入れてみよう!
学生はやってみた。驚いたことに、彼は長いこと待ち望まれていた無限不可能性発生機をつくりだしてしまったのである。
もっと驚いたことに、銀河工科大学のスーパー賢人賞を授与されたあとで、彼は、いきりたった著名学者たちのリンチをうけた。彼らが、学生のしたことで耐えられなかったのはただひとつ、彼のなまいきなところだけだということに気づいたのである。
11
〈黄金の心〉号の不可能性コントロール室は、新しいがために清潔そのものであるという点を除けば、どこにでもある宇宙船の船室そっくりだった。操縦席のいくつかは、まだプラスチックのカバーさえ取りはずされていない始末だ。船室はほとんどの部分が白色で、長方形をしており、小さなレストランぐらいの広さがあった。正確に言えば、完全な長方形ではない。長辺にあたる向いあったふたつの壁は、平行したゆるいカーブを描いていた。その曲りぐあいや角は感動的に不様な曲線を描いていた。実際のところ、ごく普通のたて横高さからなる長方形の部屋をつくるほうが、ずっと簡単だし、ずっと実用的であったろう。しかし、そんなことをしたら、設計担当者はひどくがっかりするに違いない。実のところ、船室の形にはまことに意味深いものがあったのである。凹面の壁には大きなスクリーンがいくつも並び、凸面の壁にはコンピュータがぎっしりと組みこまれていた。片隅には一台のロボットが背を丸めて坐っている。ぴかぴかに磨かれた鋼鉄製の頭部は、ぴかぴかに磨かれた鋼鉄製の膝のあいだにだらしなく垂れている。このロボットもまた新品であった。そのプロポーションは美しく、身体全体がきれいに磨きぬかれていたけれど、人間の身体に似た胴体や四肢は、かえってどこかそぐわないように見うけられる。事実は、ぴったり合っているのだが、その身のこなしがどこか、もっとぴったりしていてしかるべきであるように見えるのである。
ザフォド・ビーブルブロックスはいらいらと歩きまわっていた。ぴかぴかの装置の上で両手をこすりあわせ、興奮したくすくす笑いを洩らす。
トリリアンは一群の装置の上にかがみこんで数値を読みあげている。その声は船内放送でくまなく伝えられるのだ。
「五対一、減少中……四対一、減少中……三対一……二対一……一……可能性因子、一対一……正常空間に復帰。繰り返します。正常空間に復帰」
トリリアンはマイクのスイッチを切った――が、かすかな笑みをうかべて、もう一度スイッチを入れ、
「ですから、まだ困ったことがあるというのなら、それはあなたの責任ですわ。どうぞ気を楽にもってください。すぐに迎えをやります」
ザフォドは困惑した声をあげた。
「奴らは何者だ、トリリアン?」
トリリアンは椅子をくるりと回して彼の方を向き、肩をすくめた。
「ふたりの男性です。宇宙空間で拾いあげたようですわ――ZZ9Zアルファ星域でね」
「なるほど。トリリアン、君がやさしいことは認めるがね、あの状況下でそうすることがほんとうにいいことだったと思っているのかい? つまり、我々はなんといっても逃亡中のわけだし、いまや銀河系の警官の半分は我々を追いかけているにちがいないんだからね。それなのに、ヒッチハイカーを乗せるために停止するなんて。わかっているよ。たしかに君のスタイルは満点さ。でも、頭の働きって段になると、大幅減点だね」
ザフォドは怒ったように操縦卓《パネル》を指で叩いた。重要なボタンが叩かれぬうちに、トリリアンは彼の手をそっとパネルからどかした。彼の心の状態がどうであれ――元気いっぱいだろうが、虚勢をはっていようが、うぬぼれていようが――彼は機械いじりがまったくだめであり、大げさな身ぶりひとつで、いとも簡単にこの船を吹っとばしかねないのである。彼が奔放な生活を成功裡《せいこうり》に送ってこられたのは、自分のしていることの重要性にまったく気づいていなかったからではないか、とトリリアンは思っていた。
「ザフォド」トリリアンは我慢強く言った。「ふたりは宇宙服も着ないで真空中を漂っていたのよ……死んでしまったほうがよかったって言うんじゃないでしょうね」
「いや、そんなことは……ない。たいしたことじゃないさ。でも……」
「たいしたことじゃない? たいして死ぬわけじゃないってこと? でもって?」トリリアンは首をかしげた。
「いや、あとで誰かが奴らをひろったかもしれんし」
「一秒後には、ふたりとも死んでいたわ」
「それなら、奴らを乗せるか乗せまいかもうちょっと考えていたら、行きすぎちまっていただろうに」
「あなたにとって、ふたりが死んじまったほうがよかったって言うの?」
「いや、たいしてよかったっていうわけじゃない。でも……」
「とにかく」トリリアンは制御装置に向きなおりながら、「わたしがふたりを乗せたわけじゃありませんわ」
「どういうことだ? それなら、誰が?」
「この船よ」
「え?」
「この船が乗せたのよ。勝手にね」
「え?」
「不可能性航行の間にね」
「でも、そんなことはありえない」
「そうね、ザフォド。きわめてありえないことだわ」
「そうとも」
「いいこと」トリリアンはザフォドの腕を軽く叩いた。「よそ者のことは心配しないで。わたしの思っていたとおり、悪い人じゃないわ、ふたりは。ロボットを迎えにだすわ。ここに連れてこさせましょう。ねえ、マーヴィン!」
片隅にいたロボットの頭がぴくんともちあがった。が、かすかに頭を揺すっている。ロボットは五ポンドばかり体重が増えたかのように大儀そうに立ちあがった。第三者の眼には、部屋を横切るのにも雄々しい努力を重ねているように見えた。ロボットはトリリアンの前で停止した。彼女の左肩のあたりをじっと見つめているように見えた。
「わたしがいまとても落ちこんでいるのがおわかりになればいいんですがね」ロボットは言った。その声は低く、絶望的だった。
「なに言ってやがる」ザフォドはつぶやき、椅子にどさりと腰をおろす。
「なにか考えごとをしているのね」トリリアンが思いやりのある声で言った。「そのことは忘れなさい」
「そうはいきませんよ」マーヴィンが物憂げに言った。「わたしの心は非情に大きいのですから」
「マーヴィン!」トリリアンがたしなめた。
「わかりましたよ。なにをしてほしいんです?」
「第二入船区画に行って、ふたりの男を監視しつつ、ここへ連れてきなさい」
気にさわるほどのものではなかったけれど、百万分の一秒ほど間をおき、声の高さと質をきちんと計算して変え、マーヴィンは人間に対する侮蔑と不快を表明した。
「それだけ?」
「そうよ」トリリアンはきっぱりと言った。
「おもしろくないなあ」
ザフォドが椅子からとびあがった。
「トリリアンはおまえにおもしろがってくれと頼んじゃおらんのだぞ」と叫んだ。「命じられたことをやればいいんだ」
「わかりましたよ」マーヴィンは割れ鐘のような声をあげた。「やりますよ」
「よろしい」ザフォドがぴしゃりと言う。「たすかるよ……ありがたい……」
マーヴィンは向きを変え、三角形に配置された、先端が平らになった赤い眼を彼の方に向けた。
「あなたを疲れさせたんじゃないでしょうね?」
「だいじょうぶよ、マーヴィン」トリリアンが快活な口調で言った。「心配はいらないわ、本当に……」
「あなたの負担になっているとは思いたくないのです」
「いいえ、心配しないで」快活な口調は続く。「あなたは当然のことを言っただけ。まずいことはなにもないわ」
「本当に気にしていないのですか?」マーヴィンが訊ねる。
「そうよ、マーヴィン」トリリアンは快活に言った。「だいじょうぶだわ……こんなこと、生きていればよくあることだわ」
「生きてる!」マーヴィンが言った。「わたしの前で生命《いのち》のことは言わないでください」
マーヴィンは力なく向きを変えると、身体を引きずるようにして船室から出ていった。満足したような低いうなりとカチッという音をたてて、ドアが彼のうしろで閉った。
「あのロボットとは長くはやっていけそうにないわ、ザフォド」トリリアンがうめくように言った。
『銀河大百科事典』はロボットを、人間の仕事をするように設計された機械装置と定義しています。シリウス人工頭脳株式会社の営業部の定義は“共にいることが楽しいプラスチックの友人”というものです。
『銀河ヒッチハイク・ガイド』はシリウス人工頭脳株式会社営業部を“革命がおこったとき、まっさきに銃殺されるであろうあさはかな間抜けの一団”と定義しています。これには注がついていて、ロボット工学に関する通信員をやってみようという人の志願を歓迎すると書いてあります。
奇妙なことでありますが、タイム・トンネルを抜けて千年未来からやってきた『銀河大百科事典』のある版では、シリウス人工頭脳株式会社営業部のことを“革命がおこったとき、まっさきに銃殺されたあさはかな間抜けの一団”と定義しています。
ピンクの小部屋はまたたいて消え、猿どもももっと居心地のいい次元に去っていった。フォードとアーサーは自分たちが宇宙船の乗船エリアにいることに気づいた。なかなかあかぬけした部屋だ。
「この船は新しいようだな」フォードが言った。
「どうしてわかる?」アーサーが訊ねた。「金属の年数を計るおかしな機械でも持っているのかい?」
「いや、床でこの販売パンフレットを見つけたんだ。“宇宙はあなたのもの”ってたくさん書いてある。ほら、見ろよ、思ったとおりだ」
フォードはパンフレットのあるページを開いて、アーサーに見せた。
「こう書いてある――“不可能性物理学の新たなる前進。宇宙船が無限不可能性に到達するやいなや、船は宇宙のあらゆる点を通過します。どの政府もこれをうらやむことうけあい”へえ、こいつはたいしたもんだ」
フォードは興奮して技術仕様書を探した。そこに書かれていることに時おり驚嘆の声をあげる――流刑中に銀河系の航宙技術は格段に進歩したようだ。
アーサーもしばらくはフォードの言葉に耳を傾けていたが、そのほとんどが理解できなかったので、別のことを考えはじめた。わけのわからんコンピュータの縁に沿って指をはしらせ、手をのばして、スクリーン近くの誘うように大きな赤いボタンを押した。スクリーンはぱっと明るくなり、“二度トコノぼたんヲ押サナイデクダサイ”という文字がうかぶ。彼は身震いした。
「ねえ」依然としてパンフレットに没頭しているフォードが呼びかけた。「宇宙船用の大人工頭脳がつくられたんだってさ。“シリウス人工頭脳株式会社の新製品ロボットとコンピュータ。新型のGPP付き”」
「GPP?」とアーサー。「それは何だい?」
「ああ、本物の人間の個性だ、そうだ」
「へえ、気持ち悪いな」
ふたりの背後で声がした。
「そのとおりです」
声は低く、絶望的で、かすかにカタンカタンという音をともなっていた。ふたりは振り返った。戸口にみじめな様子の鋼鉄人間が背を丸めて立っていた。
「なんだって?」ふたりは言った。
「気持ち悪いんです」マーヴィンは応じた。「どこもかしこもね。徹底的に気持ち悪い。そのことについて口にするのも嫌なくらいですよ。このドアをごらんなさい」
彼はそう言って、戸口をくぐって、廊下に戻った。彼はパンフレットの口調をまねた。その発声装置に皮肉回路が入りこんだ。
「“この宇宙船内のドアはどれもこれも、陽気な性質を付与されております。あなたのために開くのが、こよなき喜びであり、仕事を立派にやりおおせたと思いつつあなたのために閉じるのが、このうえない満足であります”」
ドアが一同のうしろで閉じると、ドアは満足の溜息のようなものを洩らした。
「フゥー!」
マーヴィンは冷たい嫌悪感をこめてドアを見つめた。その論理回路はむかついたようにカタカタと音をたて、こいつに物理的暴力を加えてやろうかという考えをこねくりまわした。別の回路が割りこんで、こう言った――なぜ気にするんだ? そんなことをしたってしょうがあるまい。関わりになるだけ損だよ。別の回路はドアの分子構造や人間の脳細胞の構造を分析して気晴らしをした。その回路はさらに、周囲一パーセク内にある水素発光のレベルを計算し、再び退屈の殻にとじこもった。絶望の発作がロボットの身体を震わせた。彼は向きをかえ、
「行きましょう」と言った。「あなたがたをブリッジにお連れするよう命じられているんです。惑星一個ほどの脳の容量をもったこのわたしが、あなたがたをブリッジにお連れするよう命じられたのですよ。こんな仕事を満足と呼ぶことができますか? わたしにはできませんね」
向きをかえ、憎悪を抱くドアを背に歩きだした。
「アノ、ちょっと聞きたいんだが」フォードはロボットのあとを追った。「この船はどこの政府の持ち物なんだい?」
マーヴィンはその質問にとりあわなかった。
「このドアをごらんなさい」と彼は言った。「こいつはいま開こうとしています。急に動きだすときのもったいぶった我慢できない態度でわかるんです」
愛想のいいかすかなブーンという音とともにドアは開き、マーヴィンはどすんどすんと戸口をくぐり抜けた。
「さあ、どうぞ」
ふたりはあわててあとを追った。ドアはうれしそうなカタン、ブーンという音をたてて閉った。
「シリウス人工頭脳株式会社営業部のおかげですよ」マーヴィンは言い、前方にのびているぴかぴか光って、ゆるくカーブしている廊下をとぼとぼと歩きだした。「“GPPをもったロボットをつくろう”というのが営業部の合言葉だったんです。そこで、このわたしが試作品として作られたわけで、わたしは個性の原型なんです。わかります?」
フォードとアーサーは当惑して、低く否定の言葉をつぶやいた。
「わたしはあのドアが嫌いだ」マーヴィンはしゃべり続けた。「あなたがたを疲れさせているんじゃないでしょうね、わたしは?」
「この船はどの政府の……」フォードがまた言いかけた。
「どの政府のものでもありません」ロボットはぴしゃりと言った。「こいつは盗まれたんです」
「盗まれた?」
「盗まれた?」マーヴィンがまねをした。
「誰に?」フォードが訊ねる。
「ザフォド・ビーブルブロックスに」
フォードの顔面でなにか異常なことが起った。ショックと驚きをしめす少なくとも五つの別個の表情が顔面に積み重なって、ごちゃまぜになった。大股で前にのばしかけていた左脚は、床を見つけることができなくなったようにみえた。フォードはロボットをじっと見つめた。
「ザフォド・ビーブルブロックス……?」と弱々しく言った。
「失礼、なにか間違ったことを言いましたか、わたしは?」おかまいなしに歩きながら、マーヴィンが言った。「ちょっとひと息つかせてください。こんなこといままでなかったもので、なぜわざわざそんなことを言うのか自分にもよくわからないんです。まったく、わたしはひどく落ちこんでいるんですよ。ほら、また自己満足のドアがある。生命ですって! わたしの前で生命のことを口にしないでください」
「誰もそんなこと言ってやしないよ」アーサーがいらだたしげにつぶやいた。「フォード、だいじょぶかい?」
フォードはアーサーをじっと見つめて、
「このロボットはザフォド・ビーブルブロックスと言ったのかい?」
12
〈黄金の心〉号のブリッジには吐き気のするような音楽が大音響で鳴りひびいている。その中でザフォドは自分のことをニュースでやっていないかと亜空間ラジオの波長を調べていた。このラジオは操作がやや難しかった。ラジオというものは、ボタンとダイヤルで操作するものと長いこと相場が決っていた。ところが技術の進歩のおかげで、操作が非常に微妙なものに変ってしまった。パネルを指でひとなですればよかったのが、いまでは、機械の方向に片手を振ればいいだけになっている。もちろん、筋力の節約にはおおいになるけれど、ある番組をずっと聞き続けたいときには、じっと坐っていなければならない。
ザフォドが片手を振ると、チャンネルが変った。吐き気のするような音楽がまた聞えてくるが、今度はニュースのバックグラウンド・ミュージックになっている。ニュース原稿は音楽のリズムに合うよう、いつもはなはだしく変形されている。
「……亜空間通信波にてニュースをお届けしています。銀河系、電波の届かぬ所はなし。二十四時間営業」かなきり声が言っていた。「全銀河系のすべての知的生命体のみなさん、こんにちは……それ以外のみなさんもこんにちは。さあ、どんといきましょうや。さて、今夜のニュース・ストーリイはもちろん、建造なったばかりの不可能性推進宇宙船が、ほかならぬ銀河系大統領ザフォド・ビーブルブロックスによって盗まれたというお話。誰もが抱く疑問は、大統領はついに頭に血がのぼったのか、というものでしょう。汎銀河ウガイ薬バクダンを発明した男、度胸満点のもとペテン師、“エキセントリカ・ガランビッツ”によって大爆誕《ビッグ・バン》以来最高の精力家と言われた男、最近、既知宇宙《ノウン・ユニヴァース》におけるワースト・ドレッサーの七回目の栄誉に輝いた男……その男ザフォド・ビーブルブロックスは、今回は申し開きの用意があるのでしょうか? 当放送局は大統領の私的諮問官であるギャグ・ハルフラント氏に……」
音楽が渦を巻き、一瞬、途絶えた。別の声が割りこむ。おそらくハルフラントだろう。
「さよう、ザフォドはみなさんご存じのとおりの男ですよ、ね」
しかし、それ以上は聞えなかった。船室の向うから、電気鉛筆が飛んできて、ラジオのスイッチ空間を通りぬけたのである。ザフォドはふりむき、トリリアンをにらみつけた――彼女が鉛筆を投げたのだ。
「おい」ザフォドは言った。「なんでこんなことを?」
トリリアンは人影が大きく映っているスクリーンを指で叩いた。
「ちょっと思いついたことがあるんです」彼女が言った。
「ほう? おれについてのニュースを邪魔するほど大事なことなのかね?」
「御自身についてはいままでいやというほどお聞きになっているじゃありませんか」
「おれは自分に自信がもてないのさ。それは知っているだろう」
「あなたの利己主義はしばらく措いておきませんこと? 大事なことなんですから」
「おれの利己主義より大事なことがあるのなら、ぜひ知りたいものだね。さあ、さっさと言ってくれ」
ザフォドはもう一度トリリアンをにらみつけ、やがて笑いだした。
「いいこと、わたしたちはふたりの人間を拾いあげました……」
「どの人間だ?」
「わたしたちが拾いあげた人間ですわ」
「ああ、あのふたりか」
「わたしたちはふたりをZZ9Zアルファ星域で拾いました」
「で?」ザフォドは眼をぱちくりさせた。
トリリアンは静かな口調で言った。
「それが何を意味しているかおわかりになります?」
「フーム――ZZ9Zアルファね。ZZ9Zアルファかい?」
「どうです?」
「アー……そのZはどういう意味だね?」
「どのZです?」
「三つともだ」
ザフォドを相手にしているとき、トリリアンに判断のつきかねることのひとつに、ザフォドの態度がある。人々の警戒心をとりさるために馬鹿を装うこともある。なにかを考えるのが嫌だから、人になにかをしてほしくないから馬鹿を装うこともある。何が起っているかまったくわかっていないという事実を覆いかくすために馬鹿のふりをすることもある。ほんとうに馬鹿のときもある。それを識別することが難しいのだ。彼はとても頭がいいことで有名だった。本当にそうなのだ――とはいえ、それが常に行動にでるとはかぎらない。彼は人を軽蔑するより、人に不思議がられるほうを好んだ。今回は、ほんとうに馬鹿であるようにトリリアンには思えた。しかし、そのことで議論する気はとうに失せていた。
トリリアンは溜息をつき、スクリーンの星図上にしるしをうった。これでザフォドにもわかりやすくなったはずである。
「ここです」と、彼女は言った。「この地点です」
「おや……こいつは!」ザフォドが叫ぶ。
「どうです?」
「何がどうですだ?」
トリリアンの頭の中の一部分が、彼女の頭の中の別の部分に向けてかんだかい悲鳴をあげた。彼女はとても穏やかな声で言った。
「ここは、あなたがわたしを拾ったのとまったく同じ場所ですのよ」
ザフォドは彼女を見、またスクリーンに視線を戻した。
「こいつは! こいつはすごい。まっすぐ馬頭星雲に向っておくべきだったな。どうしてこんな星域にあらわれたんだっけ? つまり、あれはもう存在しないんだから」
トリリアンはそれを無視して、
「不可能性推進です」と、忍耐づよく言った。「それはあなた御自身が説明してくれたじゃありませんか。この船は宇宙のあらゆる場所を走りぬけるんです。それはおわかりですね」
「ああ、でも、そいつはすごい偶然の一致だ、そうだろ?」
「ええ」
「あの地点でまた拾いあげたのか? 広大な宇宙のなかで、よりによってあの地点で? こいつは……計算してみたいな。コンピュータ!」
船内のあらゆる個所を制御しているシリウス人工頭脳株式会社の宇宙船用コンピュータの会話回路にスイッチが入った。
「はい、こんにちは!」
コンピュータは明るい口調で言い、それと同時に記録用のテープが吐きだされた。テープには“はい、こんにちは!”とあった。
「くそくらえ」
ザフォドは言った。このコンピュータとのつきあいは長くはなかったが、すでにこいつを憎むことを知っていた。
コンピュータは合成洗剤を売ろうというかのように厚かましくも陽気な声で続けた――「どんな問題にお悩みなのか知りたいのです。問題を解く手助けをするためにわたしは存在しているのですから」
「わかったわかった」ザフォドが言った。「紙を一枚つかいたいな、と思っただけなんだ」
「お安い御用です」コンピュータは言い、同時に、その言葉を文字にした紙を屑籠に吐きだした。「わかりました。もしほかに……」
「黙れ!」
ザフォドは叫び、操縦席に坐ったトリリアンの脇にあった鉛筆をとりあげた。
「わかりました……」
コンピュータは傷ついたような声で言い、会話回路を閉鎖した。
ザフォドとトリリアンは、不可能性飛行経路走査装置が眼前のスクリーンにうつしだす数字を書きちらした。
「ふたりの立場から見て、彼らが救助される不可能度がどれくらいかわかるかな?」
「ええ、それは定数ですわ」トリリアンが言った。「二の二十六万七千七百九乗対一です」
「かなりの不可能度だな。ふたりは実に実に幸運な連中ということになる」
「ええ」
「だが、船がふたりを拾ったときに、我々がしていたことと比較すると……」
トリリアンはその数字をコンピュータに打ちこんだ。それは無限マイナス一乗対一になった(それは不可能性物理学においてのみ意味をもつ無理数である)。
「……かなり低い」と、低く口笛を吹いてザフォドが続けた。
「ええ」トリリアンはうなずき、不思議そうにザフォドを見た。
「こいつは不可能性の問題でも説明をつけねばならんことだな。まずありえぬことがおこったら、それは貸借表を提出せねばならんというわけだ。きちんと貸し借りがゼロになるようにな」
ザフォドはいくつかの数字を走り書きしたが、それを抹消して鉛筆を抛り出した。
「ちくしょう、計算できん」
「で?」
ザフォドはいらだたしそうにふたつの頭をぶつけあわせ、歯がみした。
「よかろう」と、言った。「コンピュータ!」
会話回路に再び生気が吹きこまれた。
「はい、こんにちは!」と、コンピュータは言った(テープが吐きだされる)。「わたくしの望みは、あなたさまの生活をより快適により快適により快適に……」
「わかったから黙らんかい。ちょっと仕事をしてほしい」
「よろこんで」コンピュータはさえずるように言う。「可能性の測定でございま……」
「不可能性のデータだ」
「かしこまりました。ここに興味ある情報がございます。ほとんどの人の生活は電話番号に左右されているということにお気づきでございましょうか?」
ザフォドの一方の顔に痛みに似たものがはしった。やがて、もう一方の顔にも。
「気でも狂ったのか?」
「いいえ。ですが、わたくしの話をお聞きになれば、あなたさまはきっと気が……」
トリリアンがあえぎ声をあげた。不可能性飛行経路スクリーンの下のボタンを押しまくった。
「電話番号? 電話番号って言ったの?」
スクリーン上にある番号がぱっとうつしだされた。
コンピュータは礼儀正しく待っていたが、やがて続けて、
「わたくしが申しあげたいのは……」
「そんなことしなくていいわ」と、トリリアン。
「こいつは何なんだ」ザフォドが言った。
「知らないわ」トリリアンが応じる。「でも、あのふたりは――あのいやらしいロボットに案内されてこのブリッジにやってくるところよ。モニター・カメラでうつしだします?」
13
マーヴィンはまだぶつぶつ言いながら、廊下をのろのろと歩いていった。
「……もちろん、左手に入っている半導体はどれもひどく痛んでおりましてね……」
「そんな」その横に並んだアーサーが暗い声で訊ねた。「本当かい?」
「そうですとも」とマーヴィン。「取り換えてくれるように頼んだのですよ。でも、誰も耳をかしてくれませんでした」
「わかるよ」
フォードが口笛とも鼻歌ともつかぬあいまいな声をだした。
「それはそうとしてだ」と彼はひとりごとを続けた。「ザフォド・ビーブルブロックスは……」
急にマーヴィンが立ちどまった。片手をあげて、
「いまなにが起っているか、もちろんご存じなんでしょうね?」
「いや、なにが起っているの?」アーサーが訊ねた。彼はなにが起っているか知りたくもなかった。
「また例のドアの眷族《けんぞく》にぶつかったのです」
廊下の壁に自動扉があった。マーヴィンはそのドアを疑わしそうにまじまじと見つめた。
「それで?」フォードがじれったそうに訊ねる。「このドアを通るのかね?」
「このドアを通るのかね?」マーヴィンはまねをして、「そうですとも。こいつがブリッジの入口なんです。わたしはおふたりをブリッジにお連れするよう命じられています。おそらく、本日あたえられた仕事のうちでいちばん知的な任務でありましょう」
ひどい言葉で毒づきながら、マーヴィンはゆっくりと、獲物に忍びよる狩人のようにドアに近づいた。不意にドアが横に開いた。
「ありがとうございます」とドアは言った。「この卑しいドアを幸せにしてくださいまして」
マーヴィンのボディの奥深くで、ギアがうなった。
「おかしなもんです」マーヴィンは悲しそうな抑揚をつけて言った。「生命ってやつはもうこれ以上ひどくなるまいと考えているそのときに、突然、ひどくなるんですものね」
彼はドアをくぐった。あとに残されたフォードとアーサーは互いに顔を見あわせ、肩をすくめあった。ドアの向うからマーヴィンの声が聞えた。
「いまふたりの侵入者にお会いになりたいのでしょうね」と言った。「わたしが片隅に坐って錆びつくのをお望みですか。それとも、いま立っているところで倒れましょうか?」
「ふたりを中に入れてくれるかね、マーヴィン?」
アーサーはフォードを見た。フォードが笑っているのに気づいてびっくりする。
「どうした……?」
「シーッ」フォードが言う。「中に入ろう」
彼はブリッジに足を踏み入れた。
アーサーはおっかなびっくりそのあとに続き、椅子にゆったりと腰かけて、脚をコンソールにのせ、左手で右側の頭の歯に楊子を使っている頭を見て愕然とした。右側の頭はその仕事に没頭しているようだった。が、左側の顔は明るい、寛いだ、呑気な笑みをうかべていた。アーサーは自分の見ているものが信じられなかった――そんなものが山ほどあった。彼はしばらく口をポカンとあけていた。
椅子の男は物憂そうにフォードに手を振り、不快になるほど愛情のこもった声で言った。
「やあ、フォード、元気かね? 訪ねてきてくれてうれしいよ」
フォードは冷静ではいられなかった。
「会えてうれしいよ。元気そうじゃないか。三本目の腕もよく似合っている。すてきな船を盗んだものだ」
アーサーは眼を丸くして彼を見つめた。
「つまり、君はこの人を知っているのか?」ザフォドを指さして訊ねた。
「知ってるとも!」とフォードは叫んだ。「彼は……」フォードは言葉を切り、別のやり方で紹介することに決めた。「ザフォド、こちらはぼくの友人のアーサー・デント。彼の故郷の星が吹きとばされたんで、救けだしたのだ」
「なるほど」ザフォドが言った。「やあ、アーサー。救かってよかったな」
右側の頭がふと眼をあげ、「やあ」と言って、また歯をせせる仕事に戻った。
フォードは続けて、「アーサー、こちらがぼくのはとこのザフォド・ビーブ……」
「初対面じゃない」アーサーが語気するどく言った。
高速道路を車でとばしているとしょう。怠惰な様子ですいすいと何台かの車を追いこすと実に気分がいいものだ。が、はからずもギアをトップからセカンドをへずにロウに落したりすると、エンジンはめちゃくちゃになってボンネットからとびだしてしまいかねない。ペースがめちゃくちゃになってしまうのだが、アーサーの言葉がフォード・プリーフェクトに与えた影響もほとんど同じだった。
「エ……何だって?」
「初対面じゃないって言ったんだ」
ザフォドはぎょっとし、歯茎に楊子を深々と突き刺してしまった。
「なんだって……会ったことがある? エ……会ったことが……」
フォードは眼に怒りをうかべてアーサーをねめつけた。彼はやっとホームグラウンドに戻れたと思っていたのだ。そのホームグラウンドに突然、イルフォードのブヨが北京のことを知っている程度にしか銀河系のことを知らぬ無知な原始人に踏みこまれたので、腹を立てたのだ。
「初対面じゃないとはどういうことだ?」と、フォードは訊ねた。「彼はクロイドンのマーティン・スミスじゃない。ベテルギウス第五惑星のザフォド・ビーブルブロックスなんだぞ」
「そんなことは知ったことか」アーサーは冷たく言いはなった。「会ったことがありますよねえ、ザフォド・ビーブルブロックス――それとも、フィルと呼んだほうがいいかな」
「なんだと!」フォードが叫ぶ。
「ひとつ思いださせてくれないか」ザフォドが言った。「いろんな種族とつきあいがあるので、記憶がごっちゃになっているんだ」
「あのパーティだよ」
「そいつはどうかな」ザフォドが言った。
「落ちつくんだ、アーサー!」フォードが言った。
アーサーは思いとどまった。
「六ヵ月前のパーティだよ。地球の……イギリス……」
ザフォドは唇をきっと結んだまま、微笑をうかべてかぶりを振った。
「ロンドンの……イズリントン」
「ああ」ザフォドは気がとがめているような驚きをみせた。「あのパーティか」
これもフォードにはおもしろくなかった。アーサーとザフォドを交互に見つめた。
「なんだって?」とザフォドに訊ねる。「あのみじめったらしい星に行ったことがあると言うんじゃなかろうな?」
「いや、もちろん滞在したわけじゃない」ザフォドは朗らかに応じた。「ちょっと立ち寄っただけなんだ。ある所へ行く途中……」
「だが、ぼくはあそこに十五年も閉じこめられていたんだぞ」
「おれはそんなことは知らなかった」
「それにしても、地球で何を?」
「見物だよ」
「彼はあるパーティにもぐりこんできた」怒りに身を震わせながら、アーサーが言った。「仮装パーティだった……」
「まあ、そうだろうな」と、フォード。
「そのパーティには」アーサーは続けた。「ひとりの女の子がいた……いや、そんなことはもうどうでもいい。あそこはいまじゃあ煙と化してしまった……」
「あのいまいましい星のことを口にするのはやめてくれないか」フォードが言った。「で、その女性は何者だったんだ」
「知らないよ。とにかく、そう仲良くなれたわけじゃないんだから。一晩中、くどき続けたんだ。彼女はすばらしかった。美しく、チャーミングで、とても知的だった。ぼくはやっと自己紹介をして、ちょっとおしゃべりをした。そこに君の友達があらわれて、こう言ったんだ。“やあ、お嬢さん、この男は君を退屈させているんじゃないのかい。かわりにぼくとおしゃべりをしないか。ぼくはよその星からやって来たんだ”それ以来、彼女の姿は見ていない」
「ザフォドが?」フォードが訊ねた。
「そうとも」アーサーは彼をにらみつけ、ばからしく思うまいとしながら、「彼には二本の腕しかなく、頭も一個だった。フィルと言ったが……」
「でも、彼がよその星の人間だってことは認めねばならないわね」トリリアンがブリッジの隅からぶらぶらとあらわれた。
彼女はアーサーにあたたかな微笑をうかべてみせた。その微笑は彼の上に一トンの岩塊のようにのしかかった。やがてトリリアンは船のコントロールに注意を戻した。
しばらく静寂が続いた。やがて、混乱したアーサーの頭からいくつかの言葉がしぼりだされた。
「トリシア・マクミラン? ここで何をしているんだ?」
「あなたと同じよ」トリリアンは言った。「ヒッチハイクしたの。数学と天文学の学位をもっている人間としては、ほかにとる道があって? そうするか、月曜にまた失業保険の列に並ぶか、よ」
「無限マイナス一」コンピュータが言った。「不可能性計算ただいま完了しました」
ザフォドはコンピュータをじろじろと見まわした。フォードを、アーサーを、そしてトリリアンを見た。
「トリリアン、不可能性ドライヴをするたびにこんなことが起るのかね?」
「たぶんね」トリリアンは答えた。
14
〈黄金の心〉号は宇宙の闇の中を音もなく疾駆していた。いまは昔ながらの光子ドライヴである。四人の乗員は、自分たちの意志や単なる偶然ではなく、異様なる物理法則によって結びつけられたことを知り、不安になっていた――まるで、人間関係が、原子や分子を支配するのと同じ法則に影響されたかのようであった。
船内に人工の夜がおとずれると、四人はほっとして、それぞれの個室にひきあげ、自分の頭の中を整理しようとした。
トリリアンは眠れなかった。ソファに座り、自分と地球を結ぶ最後の、唯一のものを見つめた。それは小さな檻で、なかには二匹のはつかねずみが入っている。これだけは持っていくとザフォドを説得したのだ。出発のとき、もう二度とこの星を見ることはないだろうと覚悟を決めていた。しかし、地球が破壊されたというニュースを耳にしたときは、それを否定しようと心が騒いだものだった。それはひどく離れた場所の非現実のことのように思われた。そのことを考えようと思うこともなかった。トリリアンははつかねずみをじっと見つめた。ネズミは彼女の注意を引こうと、檻の中を走りまわり、プラスチックの小さな足踏み車を狂ったように回した。突然、トリリアンは身震いし、ブリッジに戻った。そこでは、虚無の中を突き進む船の針路を示すランプや数字が明滅している。いま自分は何について考えたくないのだろう――それがわかればいいのにとトリリアンは思った。
ザフォドは眠れなかった。彼もまた、何について考えないようにしているのかわかればいいのにと思っていた。というのも、物心ついたときからずっと、自分は狂っているのではないかという漠然とした感覚にしつこく悩まされていたからである。普段はその感覚を意識にのぼらせぬことができた。悩まずにすませることができた。しかし、フォードとアーサーが突然、説明のつかぬ現われかたをしたため、その感覚が呼び起されてしまったのだ。どうやらそれは、彼には見ることのできぬあるパターンにのっとっているようだ。
フォードは眠れなかった。故郷に帰れるという思いに興奮していたのである。十五年におよぶ虜囚生活は終った。すべての希望を捨て去ろうと思いはじめていた矢先のことである。ザフォドといっしょにしばらく放浪の旅をするのもなかなか楽しいことだろう。もっとも、はっきりとは指摘できないが、あのはとこにはどこかおかしなところがあるように思われた。彼が銀河帝国大統領になったという話には、率直にいってかなり驚かされた。その職を離れた経緯《いきさつ》についても同様だ。その行動のうしろにはちゃんとした理由があるのだろうか? ザフォドに訊いても無駄だろう。彼は自分のしていることに理由をつけることなどできそうにないのだから。彼は測りがたきものを芸術に変えてしまった。彼は異常な天分と無邪気な無能力の混然となった存在で、ありとあらゆるものに攻撃をしかける。だから、どれがどれとはっきり言い難くなることがしばしばあった。
アーサーは眠っていた。ひどく疲れていたのだ。
ザフォドの個室のドアがノックされた。ドアはすっと開いた。
「ザフォド……?」
「なに?」
トリリアンの姿は光に包まれていた。
「あなたの探していたものを見つけたようよ」
「なんだって?」
フォードは眠りにつくのをあきらめた。個室の隅に、小さなコンピュータのスクリーンとキイボードがあった。彼はその前にしばらく座って、ヴォゴンについて新しい記事をまとめようとした。しかし、あまり辛辣なことを思いつけなかったので、これもあきらめ、ローブをまとって、ブリッジへ散歩にでかけた。
ブリッジに入ると、驚いたことに、ふたつの人影が興奮した様子で装置にかがみこんでいるのが眼に入った。
「わかる? この船は周回軌道に入ったわ」トリリアンが言っていた。「あそこに惑星がある。あなたが予言したとおりの座標よ」
ザフォドは物音を聞きつけ、顔をあげた。
「フォード!」彼はかんだかい声をあげた。「来てみろよ」
フォードは近づき、それを見た。いくつかの数字がスクリーンに明滅していた。
「この銀河座標が何だかわかるか?」ザフォドが訊いた。
「いや」
「手がかりをあげよう。コンピュータ!」
「はい、みなさん」コンピュータが感激して言った。「楽しいおしゃべりでもいたしましょうか」
「黙れ」ザフォドが叫んだ。「スクリーンをつけろ」
ブリッジの証明が落された。光の点がコンソール上で踊り、外をうつすスクリーンを凝視する四対の眼に反射した。
スクリーンには何もうつらない。
「あれがわかるか?」低い声でザフォドが言った。
フォードは顔をしかめた。
「あー、いや」
「何が見える?」
「なにも」
「わからんのか?」
「何の話だ?」
「この船は馬頭星雲に入りこんだ。広大な暗黒星雲だ」
「で、このなにもうつっていないスクリーンからそれがわかるはずだというのか?」
「まっ黒なスクリーンが見えるところといったら、銀河系の中では暗黒星雲の中しかなかろう」
「なるほどね」
ザフォドは笑った。彼はなにかにひどく興奮しているようだった。子供っぽいほどに興奮していた。
「こいつはまったくすごいよ。たいしたものだ!」
「暗黒星雲に突っこんだことが、なんでそんなにすごいのかね?」
「ここで何か見つかると思うかね?」ザフォドが訊ねた。
「なにも」
「星ひとつ、惑星ひとつないというのか?」
「ああ」
「コンピュータ!」ザフォドは叫んだ。「カメラを百八十度ほどまわせ。なにもしゃべるなよ!」
しばらく、何も起らないように見えた。やがて、大スクリーンのはじに明るいものがうつりはじめた。小皿ほどの大きさの赤い星がゆっくりとスクリーンを横切っていく。そのすぐうしろを別の星が続く――二連星だ。やがて大きな三日月がスクリーンの隅にあらわれる。燃えるような赤い色が、その惑星の夜の側の濃い闇へと溶けこんでいた。
「見つけたぞ!」コンソールを叩いてザフォドが言った。「とうとう見つけたぞ!」
フォードは驚愕のおももちでその星をじっと見つめた。
「あれは何だ?」
「あれは……」ザフォドが答えた。「これまで存在した星のうちでもいちばんありそうにない星だ」
15
『銀河ヒッチハイク・ガイド』六三四七八四ページ、五a欄〈マグラシア〉より引用
古代の霧の中、前銀河帝国の栄光に満ちた偉大なる時代――生命は荒々しく、豊かで、おおむね無税であった。
強力な宇宙船は異邦の太陽の間を飛びまわり、銀河系空間の最辺境星域をめぐって冒険を探し、報酬を求めていた。その時代、人々は勇敢で、賞金は高く、男は真の男であり、女は真の女であり、アルファ・ケンタウリの小さなムクムクした生物は真のアルファ・ケンタウリの小さなムクムクした生物であった。誰もが未知の恐怖に雄々しく立ち向った。立派な行いを実行し、これまで誰も分割したことのない無限数を分割した――こうして帝国はつくりあげられた。
もちろん、多くの人々が大富豪になったが、これはしごく当然のことで、本当に貧乏な者はひとりもいないから、恥ずべきことはなにもないのである――少なくとも、貧乏の名に値する者はひとりもいなかった。かくて、大富豪や成功した商人にとって、人生は退屈でつまらぬものとなりはてた。これは、自分たちの住む世界の欠点だと彼らは思い始めた。満足している者はひとりもなかった。天気でさえ、午後も遅くなっては上々とはいえなかった。一日は三十分ばかり長すぎた。海はピンクのひどい色に染まっていた。
かくて、特製品工業の新しい形態がうまれる素地がつくられた――すなわち、注文制の豪華惑星の製造である。この工業発祥の地は惑星マグラシアであった。超空間エンジニアはホワイト・ホールから物質を吸いだして、夢の星を続々とつくりだしていった――黄金の星、プラチナの星、地震ばかりおこっているゴムの星――いずれも、銀河系の大富豪たちの期待にそむかぬすてきな星々であった。
しかし、この事業がうまくいったので、マグラシア自身はたちまち有史以来最高の富裕な惑星になり、それ以外の星はみじめな貧困に陥った。かくて、この事業は崩壊した。帝国は壊滅し、十億の飢えた星の上に長きにわたって暗い静寂がのしかかった。その静寂を破るものといったら、政治経済学の価値にかかわる独善的なくだらぬ論文について夜を徹して記す学者たちのペンの音ばかり。
マグラシアは姿を消し、その記憶もたちまちのうちに伝説の霧の彼方へ消えていった。
昨今の文明開化の時代にあっては、その伝説を信ずるものなどもちろんひとりもいない。
16
アーサーは議論する声に目を覚まし、ブリッジに向った。フォードが両手を振りまわしていた。
「ザフォド、君は狂っている」とフォードは言った。「マグラシアは神話だ。おとぎ話なんだ。子供を経済学者にしたい親が、子供の枕もとで話して聞かせるおとぎ話なんだ。マグラシアは……」
「でも、この船はいま、その星のまわりをまわっているんだぜ」ザフォドが言った。
「あんたが何のまわりをまわろうが知ったことじゃないがね」フォードが言った。「でも、この船は……」
「コンピュータ!」ザフォドが叫んだ。
「やめてくれ……」
「はい、みなさん! この船のコンピュータ、エディです。わたしはいまやる気になってますよ。どんなプログラムを入れられたって、ちゃんとやりとげてごらんにいれます」
アーサーは訊ねるようにトリリアンを見た。彼女はブリッジに入るよう、でも黙っているようにと身振りで示した。
「コンピュータ」ザフォドが言った。「現在の軌道をもう一度教えてくれ」
「よろしいですとも」コンピュータはぺちゃくちゃとしゃべりまくった。「本船はただいま伝説の惑星マグラシアの上空三百マイルのところを周回しています」
「それがほんとだとは証明できまい」フォードが言った。「ぼくの体重にかけて、このコンピュータは信用できない」
「体重でしたら、すぐにお教えできます」コンピュータがテープをはきだしながら言った。「よろしかったら、小数点以下十位まで計算してさしあげますが」
トリリアンが口をはさんだ。
「ザフォド、そろそろこの星の昼の側にはいるわ」それから、つけくわえて、「これでこの星の正体がわかるわよ」
「おい、それはどういうことだ? この星はおれが予言したそのとおりの場所にあったんじゃないのか、え?」
「ええ、星があったのは認めるわ。そのことで議論する気はないわ。ただ、下の冷たい岩の塊がマグラシアだとはわからないっていうこと。ほら、夜明けよ」
「わかったよ」ザフォドが低く言った。「それじゃあ、眼を見開いてよくながめることにしようか。コンピュータ!」
「はい、みなさま! わたくしにできますことは……」
「黙らんかい。もう一度この星をスクリーンにうつしだしてくれ」
再びスクリーンに暗い、これといった特徴のない塊がうつしだされた――自転している惑星だ。
一同はしばらくのあいだ黙ってその星を見つめた。だが、ザフォドは興奮のあまりそわそわしていた。
「いまは夜の側を飛んでいるが……」その声はかすれていた。惑星は自転を続けた。
「惑星の表面まで三百マイルだ……」
ザフォドは続けた。これは大事な瞬間だぞ、と思い込もうとしていた。マグラシア! ザフォドはフォードの懐疑的な反応に腹をたてていた。マグラシア!
「数秒で、見えてくるぞ……ほら!」
その瞬間がおとずれた。年を経た宇宙の放浪者でさえ、宇宙から見る日の出の眼をみはるすばらしさには身震いを禁じえないだろう。もっとも、二連星の日の出は、銀河系の奇観のひとつだ。
完全な闇の中から、ふいに眼もくらむような光がさしてきた。その一条の光は次第にその幅をひろげ、細い三日月型になった。それから数秒とたたぬうちに、ふたつの太陽が見えてきた。まるでかまどのような白い光が黒い地平線を焼きつくした。薄い大気を通して、七色のまばゆい光が広がった。
「夜明けの炎だ……」ザフォドが溜息をつくように言った。「ソウリアニスとラームというふたつの太陽の……」
「名前なんてどうだっていいよ」フォードが言った。
「ソウリアニスとラームだ!」ザフォドが強く言う。
ふたつの太陽は宇宙の闇の中でぎらりと輝いた。ブリッジに低くかすかな音楽が流れはじめた。ロボットのマーヴィンが皮肉っぽく鼻歌をうたっているのだ。人間をひどく憎んでいるからである。
眼前の光の饗宴を見つめているフォードの体内に興奮がわきあがってきた。しかしそれは、みなれぬ新しい星を初めて見たときの興奮にすぎなかった。その星をあるがままに見るだけで彼は満足していた。ザフォドがこの光景に馬鹿なおとぎ話をおしつけたので、フォードはちょっといらいらしていた。庭がきれいなら、それで充分じゃないか。花の下に妖精がいると信じる必要はないじゃないか。
このマグラシアをめぐる騒動は、アーサーにはまったくちんぷんかんぷんだった。彼はトリリアンに近づき、いったいなにごとが起っているのかと訊ねた。
「ザフォドが教えてくれたことぐらいしか知らないわ」トリリアンは小さな声で言った。「マグラシアはだれも信じないくらい昔に存在した伝説の星らしいわ。地球でいうアトランティスみたいなものね。伝説によれば、マグラシアは工業惑星だったそうよ」
アーサーは眼をぱちくりさせてスクリーンを見つめた。なにか大事なものをなくしたような気がした。突然、それが何だかわかった。
「この船に紅茶はあるかい?」と、彼は訊ねた。
〈黄金の心〉号が軌道をまわるにつれ、惑星の姿がだんだんとあきらかになっていった。ふたつの太陽は黒い空高くのぼっていた。夜明けの華々しい光景はおわっていた。地表は昼間の光に照らされ、荒れはてているように見えた――灰色のほこりっぽい世界で、わずかに起伏があった。まるで墓地のようにさむざむとして、人気がなかった。ときおり、遠い地平線になにかおもしろそうなものが現われることもあった――渓谷かもしれない、山脈かもしれない、都市かもしれない――しかし、近づいてみると、その姿は崩れ、ぼやけて、結局はなんでもないものに変ってしまうのだった。地表はときおり、何世紀にもわたって吹きつづける薄いよどんだ大気が動くせいでぼやけて見えた。
どうやらこの星はとてつもなく古いものらしい。
眼下をとびすぎていく灰色の風景を見つめているうちに、フォードの心に一瞬、疑いが兆した。莫大な量の時間が、彼を不安にした。その時間を現実のものとして感じることができた。彼は咳ばらいをした。
「ここがマグラシアだとして……」
「マグラシアなんだよ」ザフォドが言った。
「まあ、それはどうでもいい」とフォードは続けた。「この星で何をするつもりなんだい? ここにはなにもないぜ」
「地表にはな」とザフォド。
「よかろう。じゃあ、なにかがあるとしよう。あんたは、この星の工業技術に考古学的な興味を抱いてここにやってきたわけじゃあるまい。何を探しているんだ?」
ザフォドの頭のひとつが横を向いた。そいつが何を見ているのか確かめようと、もう一方の頭もそっちを向いた。だが、そこには見るべきものはべつになかった。
「そうだね」とザフォドは快活に言った。「好奇心ということもある。冒険心ということもあるが、大きな理由は、名声と金だ……」
フォードは鋭い目つきでザフォドを見た。ザフォドには、いまなぜここにいるのか自分でもちっともわかってはおるまい、という気がした。
「わたしはこの星を見ていたくないわ」とトリリアンが身体を震わせながら言った。
「見たくなきゃ、見なくたっていいさ」ザフォドが言った。「この星は薄ぎたなくてみっともないが、どこかにかつての銀河帝国の富の半分が隠されているんだぞ」
たわごとだ、とフォードは思った。ここが古代文明の発祥の地だとしても、すべては塵と化してしまっているだろう。めずらしい品物がたくさんあったとしても、その宝が現在まで残っているという保証はない。フォードは肩をすくめた。
「ここは死の星だと思うな」と彼は言った。
「胸がどきどきして、ぼくは死にそうだよ」アーサーが怒ったように言った。
ストレスや神経の緊張が銀河系全体の大きな社会問題になっている。だから、この状態を悪化させぬためにも前もって読者諸君にお教えしておこう――
この惑星はまぎれもなく伝説のマグラシアである。
まもなく、古代の自動防御装置から強力なミサイルが発射されることになるが、その被害といえば、コーヒー・カップとはつかねずみの檻が壊れ、だれかの腕にアザがつき、ツクバネアサガオが一鉢と純真なマッコウクジラが突然死亡しただけであった。
謎はなるべくあとにとっておくべきであるという考えからすると、だれの腕にアザがついたかはまだあかさないでおこう。このことはさほど重要ではないから、前述のストレス云々の問題は無事回避されることになる。
17
このかなりめちゃくちゃな朝が一段落したあとで、前日の大事件でこなごなになっていたアーサーの心は、ふたたびもとに戻りはじめた。彼は栄養飲料自動合成機というものを見つけていた。それはプラスチックのコップに紅茶とは似ても似つかぬ(しかし、まったく似ていないとも言いきれぬ)液体をそそいでくれるのである。その機械の働きぶりはなかなか興味深いものである。飲物ボタンを押すと、すぐに、押した人物の味蕾《みらい》がくわしく調べられる。その人物の物質代謝が分光分析機でチェックされ、その人物の頭脳の味覚中枢に通じる神経に弱いテスト信号が送られ、どんな味が受け入れられるかを調べるのである。もっともなぜそんなことがおこるのか、はっきりわかっている者はひとりもいない。なぜなら、その機械はいつも、紅茶とは似ても似つかぬ(しかし、まったく似ていないとも言いきれぬ)液体を出すのだから。栄養飲料自動合成機はシリウス人工頭脳株式会社で設計され製造されている。ちなみに、この会社の苦情処理課は、シリウス=タウ星系の第一から第三惑星までの陸地のすべてを占めている。
アーサーはその液体を飲み、なかなかいけることに気づいた。彼はちらっとスクリーンを見つめ、灰色の荒野が何百マイルかとびすぎるのを見守った。ふと、ずっと心を悩ませてきた疑問を訊ねてみる気になった。
「この星は安全かい?」
「マグラシアは五十億年も前に死んだ星だよ」ザフォドが答えた。「言うまでもなく安全さ。幽霊だって身を固めて、いまじゃあ家族ができていることだろう」
そのとき、耳なれぬ不思議な音がブリッジに響きわたった――遠くで聞えるファンファーレのような音だ。うつろなかぼそい音だった。さらに、うつろなかぼそい声が聞えた。
「みなさま、こんにちは……」
死の星から誰かが呼びかけているのだ。
「コンピュータ!」ザフォドが叫んだ。
「はい、お呼びですか?」
「あの音はなんだ?」
「ああ、五十万年前のテープがまわり始めたんですよ」
「なんだって? レコードか?」
「シーッ!」フォードが言った。「まだなにか言っているぞ」
その声は古ぼけていたが、礼儀正しく、チャーミングでさえあった。しかし、間違えようのない脅迫の調子がこもっていた。
「これは録音された放送です」と、声は言った。「申しわけありませんが、現在、この星の住民は全員ではらっております。マグラシアの商工会議所はあなたのご訪問をたいへんありがたく思いますが……」
(「古代マグラシアの声だ!」ザフォドが叫んだ。「わかったわかった」と、フォードが言った)
「……それと同時に残念にも思います。と申しますのは、この星は現在、休業中でございます。ありがとうございました。あなたのお名前と連絡のとれる惑星名をお教えいただければさいわいです。ブザーが鳴ったら、お話しください」
短く一回、ブザーが鳴った。そして静寂。
「マグラシアはわたしたちを追い返したいらしいわ」トリリアンが心配そうな口調で言った。「どうするの?」
「こんなのはただの録音だ」ザフォドが応じる。「飛びつづけるさ。わかったな、コンピュータ?」
「わかりました」
コンピュータが言い、船はさらに加速した。
一同は待った。
一秒ほどすると、またファンファーレが聞えて、声がした。
「当方が業務を再開した場合は、すぐにすべての著名雑誌の広告とカラーのパンフレットでお知らせすることをお約束いたします。お客様はモダンな地形図の中からお好きなものをお選びになることができるようになります」声の中の脅迫がさらに露骨になった。「この星に興味をもってくださったことは感謝いたしますが、そろそろお帰りになってください」
アーサーは不安そうに仲間の顔を見まわした。
「まだ進みつづけたほうがいいと思うかい?」と彼は言った。
「シーッ!」ザフォドが言った。「なにも心配することはありゃしないよ」
「じゃあ、なんでみんなそんなにぴりぴりしているんだ?」
「ただ興味をもっているだけさ」ザフォドが叫んだ。「コンピュータ、大気中に降下を開始。着陸の準備をせよ」
今度のファンファーレは実におざなりだった。声も冷たい口調で、
「この星に対するあなたの熱意はたいへんありがたくぞんじますが、そろそろ、熱心なお客様に対する特別サービスとして誘導ミサイルが発射されるとお教え申しあげます。弾頭には中性子爆弾が装備されておりますが、これはもちろん単なる装飾であります。長生きされることを……以上」
声はぱたりと途絶えた。
「なんてことなの」とトリリアン。
「こいつは……」とアーサー。
「どうする?」とフォード。
「いいか」とザフォド。「こんなことがわからんのか――これは単なる録音だ。何十億年も昔のものだ。おれたちをどうこうできるもんじゃない。わかったか?」
「ミサイルはどうなの?」トリリアンが静かな口調で言った。
「ミサイルだって? 笑わせないでくれよ」
フォードがザフォドの肩を叩き、宇宙船の後部をうつすスクリーンを指さした。遠くから二本の銀色の矢が大気を切り裂いて船に迫ってくるのがはっきりとうつっていた。倍率がすばやく変ったので、二基のミサイルがはっきりとうつった――轟々と音をたてて突進してくる巨大なふたつのロケット。それが突然あらわれたので、一同は息をのんだ。
「こいつはぼくたちを充分にどうこうできそうだぜ」フォードが言った。
ザフォドは驚愕のおももちでミサイルを見つめた。
「こいつはまいった! 下にいる誰かがおれたちを殺そうとしているぞ!」
「まいったな」アーサーが言った。
「これがどういうことかわからないのか?」
「わかっているさ。おれたちはまもなく死ぬってことだ」
「うん。だが、そのほかにだ」
「そのほかに?」
「こうまでされるからには、おれたちの狙いは当っているにちがいない」
「いまから狙いをはずすことはできんのかね」
一秒ごとにスクリーンのミサイルは大きくなってくる。いま、ミサイルはぐるっと大きくまわって、まっすぐ宇宙船を追いかけてくる。だから、いま見える部分といったら弾頭だけだった。
「ちょっと興味があるから訊くんだけど」とトリリアンが言った。「わたしたち何をすればいいの?」
「冷静になるんだ」ザフォドが言った。
「それだけか?」アーサーが叫んだ。
「いや、われわれは……そうだな……回避行動をとるぞ!」ザフォドは急に恐怖におそわれて叫んだ。「コンピュータ、どんな回避行動がとれる?」
「その、なにもとれません、みなさま」コンピュータが言った。
「……それじゃあ、なにかほかに」ザフォドが言った。「……エート……」
「わたくしの誘導装置は故障してしまったようです」コンピュータがほがらかに言った。「衝突まであと四十五秒。みなさんの気が楽になるのでしたら、どうぞわたくしをエディと呼んでください」
ザフォドは同時にいくつかの指示を出そうとした。
「わかった!」彼は叫んだ。「エー……この船を手動で操縦しなければならんな」
「操縦できるのか?」フォードがうれしそうに訊ねた。
「いや、君は?」
「いや」
「トリリアン、君は?」
「いいえ」
「すばらしい」ホッと力をぬいてザフォドが言った。「じゃあ、いっしょに操縦しよう」
「ぼくには無理だな」アーサーが言った。そろそろ自己を主張する時だと思ったのだ。
「そうだろうと思ったよ」ザフォドが言った。「よし、コンピュータ、いまからすべてを手動にする」
「了解しました」
いくつかの大きなデスクの上部が左右に開いて、その中から操縦装置がとびだした。ポリスチレンやセロファンのカバーがちぎれて一同の上に降りそそいだ。この操縦装置はこれまで使われたことがなかったのである。
ザフォドは荒々しい目つきで装置を見つめた。
「よし、フォード、逆噴射全開。右へ十度。ほかには……」
「がんばってください」コンピュータが言った。「衝突まであと三十秒……」
フォードは操縦席にとびついた――何のためのレバーか彼にわかるものは数えるほどしかなかった。そこで、彼はそれを引っ張った。船は震動し、かなきり声をあげた。姿勢制御ロケットが同時に四方八方へと船を引っ張ろうとしたのだ。フォードはレバーの半分を手から離した。船は小さな円を描き、もと来た方向に向った――迫りくるミサイルの方向へと。
四方の壁からエア・クッションがあっというまにふくれあがり、一同はそのクッションに投げ出された。慣性の力のせいで、彼らは数秒間クッションに張りつけになり、息をしようともがいたが、動くことはできなかった。ザフォドは躁鬱病患者のように手足をばたばたさせ、やっとのことで誘導システムを制御する小さなレバーを荒々しく蹴とばした。
レバーはぱちりともとに戻った。宇宙船は激しく身もだえして、上に向ってロケットを噴射した。一同は勢いよくキャビンの向いの壁に抛り投げられた。フォードの『銀河ヒッチハイク・ガイド』は操縦装置の別の場所にぶつかり、アンタレスのインコの分泌線を密輸出するいちばんいい方法を説明しはじめたが、それを聞いている者はひとりもいなかった(小さな棒の形に圧縮したアンタレス・インコの分泌線はむかむかするような臭いを発するが、カクテルに微妙な風味をあたえるため珍重されている。仲間の金持ちに自慢したいため、莫大な金を払って分泌線を買い求める馬鹿な金持ちも少なくなかった)。宇宙船は突然、空に抛り投げられた石のように落下した。
この時点で、乗員のひとりの腕にはひどいアザができていた。このことは強調しておかねばならない。なぜなら、すでに明かしてしまったように、彼らはアザ以外は無傷でミサイルの魔の手をのがれることができたからである。ミサイルは結局宇宙船に衝突しなかったのだ。乗員の安全は完全に保証されている。
「衝突まであと二十秒です」コンピュータが言った。
「よし、このくそったれのエンジンはもうほうっておけ!」ザフォドが叫んだ。
「ああ、それが良うございます」コンピュータが言った。
かすかな轟音がして、エンジンが停止した。船は落下をやめ、すみやかに水平飛行に戻った。そして、またミサイルに向っていった。
コンピュータは歌をうたいはじめた。
「嵐の中を歩くときも……」と、コンピュータは鼻にかかった声で歌いだした。「頭を昂然とあげ……」
黙れとザフォドは叫んだが、その声は迫りくる破滅の前の騒音にかきけされてしまった。
「そして……恐れてはならない……闇を!」エディは歌った。
宇宙船は水平飛行に移ったものの、実は上下さかさの水平飛行だった。一同は天井にへばりついていた。操縦装置に手が届く乗員はもはやひとりもいなかった。
「嵐が過ぎれば……」エディは低く口ずさんだ。
二基のミサイルはスクリーン上にどっしりした姿を見せ、船に向って轟々と進んでくる。
「……黄金の空が見えてくる……」
しかし、まことに運のいいことに、宇宙船の進路はまだ完全に正常に復してはおらず、ミサイルは船のすぐ下を通り過ぎた。
「そして、ひばりの甘くやわらかな歌声も聞えてくる……再び、衝突十五秒前……風の中を歩いて行こう……」
ミサイルは大きな弧を描いて、追跡を再開した。
「そうだ」アーサーが一同を見つめて叫んだ。「いまぼくらは間違いなく死にかけているんだな?」
「そんなことを言うのはやめてくれないか」フォードが叫び返した。
「でも、そうなんだろ?」
「そうだよ」
「雨の中を歩いて行こう……」エディが歌った。
アーサーはあることを思いついた。手足をばたばたさせてなんとか立ちあがる。
「なんで不可能性ドライヴのスイッチを入れないんだ? そのスイッチになら手が届くだろうに」
「なんだと、気でも狂ったのか?」ザフォドが言った。「ちゃんとプログラムを組まないでそんなことをしたら、なにが起るかわかったもんじゃない」
「この期に及んで、それがそんなに大事なことかい?」アーサーが叫んだ。
「夢は嵐にもまれようとも……」エディが歌った。
アーサーは壁と天井の合わせめのもりあがったところへとなんとか近づいた。
「歩け歩け、心に希望をもって……」
「ねえ、誰か言ってちょうだい――アーサーには不可能性ドライヴのスイッチを入れられないって」トリリアンが叫んだ。
「決してひとりで歩くのではない……衝突五秒前。みなさまと知りあえて、うれしゅうございました。神よ……決して……ひとりで……歩くのでは……ない!」
「ねえったら」トリリアンがかなきり声をあげた。「誰か言ってちょうだい……」
次に起ったことは、音と光の大爆発。
18
その次に起ったことは以下のとおり――〈黄金の心〉号はまったく正常に本来の針路を進み続けていた。ただ、その内部はかなり魅力的に変えられている。ちょっと大きくなり、繊細なパステル・カラーの青と緑に染めあげられていた。中央には螺旋階段が、いずこへともなく伸びている。そのまわりにはシダの繁みと黄色い花。そのとなりに、コンピュータのメイン・ターミナルをのせた石の日時計の台。巧妙に配置された証明と鏡のせいで、ていねいに手入れされた広い庭を見おろす温室の中に立っているような気がしてくる。温室のまわりには、精巧な、美しい細工の鉄の脚に支えられた大理石のテーブルが置かれている。その磨きぬかれた大理石の表面をのぞきこむと、さまざまな機械がぼんやりと見えてくる。それに触れると、たちまち機械は手の中で実体化するのだ。しかるべき角度で鏡をのぞきこむと、必要なデータの数値がうかびあがってくるようだ。もっとも、その数値は反射していることを割引いても、とても鮮明とはいいかねた。室内は実際、感動的なほど美しかった。
枝を編んでつくった日光浴用の椅子に寝そべったまま、ザフォド・ビーブルブロックスが言った。
「いったいぜんたい何が起ったんだ?」
「さっき言っただろう」小さな養魚池のまわりをぶらぶらと歩きながら、アーサーが言った。「あそこに不可能性ドライヴのスイッチがあったんだ……」
と、片手でそれがあった位置を示す。いまそこには植木鉢があった。
「それにしても、船はいまどこにいるんだ」
フォードが言った。彼は螺旋階段に腰かけ、手にはよく冷えた汎銀河ウガイ薬バクダンのグラスを持っている。
「さっきと同じ――だと思うわ……」
トリリアンが言った。一同のまわりにあるすべての鏡が突然、眼下をとびすぎていく荒廃したマグラシアの姿を映しだした。
ザフォドは椅子からとびあがった。
「じゃあ、ミサイルはどうした」
鏡の映像は変り、驚くべき光景を映しだす。
「二基のミサイルは」とフォードがためらいがちに言った。「一鉢のツクバネアサガオとひどくびっくりしているらしい鯨とに変っちまったらしいぞ……」
「不可能性因子は」エディが割って入った。彼は少しも変っていなかった。「八百七十六万七千百二十八対一です」
ザフォドがアーサーをにらみつけた。
「こうなると思っていたのか、地球人?」
「さあ、ぼくがしとことは……」
「なかなか賢いじゃないか。不可能性ドライヴのスイッチを一秒間だけ入れ、バリヤーは作動させなかったというわけだな。あんたはわしらの生命の恩人だ。わかってるのか?」
「いや、まあ、たいしたことじゃあ……」
「なんだそうか」ザフォドが言った。「それじゃあいい。忘れてくれ。よし、コンピュータ、着陸だ」
「でも……」
「忘れてくれ、と言ったはずだぞ」
もうひとつ、忘れられてしまったことがある――見知らぬ惑星の数マイル上空に突如出現してしまったマッコウクジラのことだ。
それは鯨にとって自然に保持できる位置ではなかったので、この哀れで、純真な生き物は、自分は鯨であるという意識に慣れる時間はほとんどなく、もはや鯨ではないという事実に慣れるしかなかったのである。
以下は、鯨が意識をもった瞬間から意識を失う瞬間までの、鯨の頭の中の記録である。
おや……! こいつはどうした?
おっと待てよ、おれは何者だ?
おーい。
どうしてこんなところにいるんだ? おれの人生の目的は何なんだ?
おれが何者だとは、どういうことだ?
落ち着け。状況を把握するんだ……やあ、こいつはすてきな気持ちだ。何ていうんだろう? なんか、パカッと口をあけた、ぞくぞくするような感じがおれの……おれの……そうだ、おれのすべてである議論というものを一歩も二歩も進めたいのだったら、いろんなものに名前をつけるところから始めたほうがいい――だから、こいつを胃と呼ぶことにしよう。
いいぞ。すごい。だんだん強くなる。おや、いま頭と呼ぶことに決めたところのまわりをヒューヒューとうなりをあげてとびすぎていくものは何だ? そうだ、こいつは……風だ! なかなかいい名前じゃないか。とりあえずはこれで用が足りるだろう……あとで、これがどんな役に立つのかわかったら、もっといい名前を思いつけるかもしれない。こいつはとても重要なものにちがいないぞ――だって、まわりにずいぶんたくさん風があるようだからな。おっと、こりゃあ何だ? こいつは……尻尾《しっぽ》と呼ぶことにしよう。そうだ。尻尾だ。ほら、ピタピタと動かすことができるぞ。わあ、すばらしい感覚だ。たいした役に立つとも思えんが、いずれ何のためのものかわかるだろう。どうだ――まだ一貫したイメージはわいてこないかな?
だめだ。
気にするな。こいつはほんとにエキサイティングだ。いろんなことがわかってくるんだろうな。いろんなことが楽しくなるんだろうな。期待に胸がわくわくするぞ……
それとも、これは風のせいかな?
ずいぶんと風が強くなっているじゃないか。
ワオ! すごい勢いでおれに近づいてくるあれは何だ? ものすごい勢いだ。ひどくでかくて、平らで、丸くて。あれには、でかくて広くてがっしりした名前が必要だな……だい……ち……だいち……大地! これだ! すてきな名前だ――大地!
こいつはおれと友達になってくれるだろうか。
グシャ! あとは静寂。
奇妙なことに、落下していくツクバネアサガオの鉢の心をよぎったのは、ああ、いやだ、もうこりごりだ、というひと言だけであった。ひと鉢のツクバネアサガオがなぜそんなふうに思ったのかわかりさえすれば、宇宙の本質についていまよりももっといろんなことがわかるのだが――そう思った人々も多かった。
19
「このロボットもつれていくのか?」
フォードが言って、片隅の小さなヤシの木の下に背を丸めて立っているマーヴィンを嫌悪のまなざしでながめた。
ザフォドは、着地したばかりの〈黄金の心〉号の周囲にひろがるさびれた光景を映しだすスクリーン=鏡から、視線をはずして、
「偏執狂のロボットのことかい。ああ、いっしょにつれていくよ」
「でも、鬱病にかかったロボットがどんな役に立つというんだ?」
「困ったことになると思っているんですね」マーヴィンが、死人にではなく、棺のほうに話しかけるように言った。「あなたが鬱病のロボットだったら、どんな役に立つと思います?いえ、答えなくてけっこう。わたしはあなたがたより五万倍も知能が高いんですが、そのわたしにも答えがわからないんですからね。あなたがたのレベルまで下げてものを考えようとすると、頭痛がするんです」
個室からトリリアンの叫び声が聞えた。
「わたしのはつかねずみが逃げたわ!」
ザフォドのふたつの顔のどちらにも、心配そうな表情も関心をもった様子もうかがえなかった。
「きみのはつかねずみなど知ったことか」
トリリアンは逆上した眼でザフォドをにらみつけ、また個室に姿を消した。
人類は(多くの観察者が考えているように)地球上で二番目に知的な生物であるのではなく、実は三番目にすぎないのだ、ということを一同が知っていたら、トリリアンの言葉をもっと注意して聞くこともできたであろうに……
「こんにちは、みなさん」
その声はおかしなことに耳慣れたものだったが、おかしなことにどこか違っていた。威厳のある母親を思わせる鼻にかかった声である。一行が惑星表面に出るためエアロックに到着したとき、その声は聞えてきた。
一同は当惑したように互いの顔を見合せた。
「コンピュータの声だ」ザフォドが言った。「緊急用の予備の個性をもっていることは知っていたが、こっちのほうがマシじゃないか」
「さあ、これから未知の新しい星での一日がはじまります」エディの新しい声が言った。「ですから、みなさんを暖かく、気持よく包みこんであげたい。馬鹿な大目玉の怪物と遊んだりしちゃだめですよ」
ザフォドはじれったそうに指先でハッチを叩いた。
「おれが間違ってた。計算尺のほうがずっとマシなようだ」
「なんですって!」コンピュータがぴしゃりと言った。「そんなことを言うのはだーれ?」
「ハッチを開けてもらえませんかね」腹をたてぬよう努力しながらザフォドが言った。
「言った人が手をあげるまでだめよ」コンピュータは言い、いくつかの連接《シナプス》を閉じてしまった。
「くそったれめ」
フォードは低くつぶやくと、隔壁にどすんとよりかかり、十まで数えはじめた。ある日急に、宇宙の生命体がみな、このやり方を忘れてしまうのではないかと、彼はとても不安に思っていた。数を数えることによってのみ、人間は、自分たちはコンピュータの支配をうけていないのだと示すことができるのである。
「手をあげなさい」エディが頑固に言いはった。
「コンピュータ……」ザフォドが言いかける。
「待ってるわ」それをエディがさえぎって、「必要とあらば一日じゅうだって……」
「コンピュータ……」ザフォドが言った。彼は、コンピュータをへこませる理屈をなんとかひねりだそうとして、結局、相手の土俵でせりあうのはやめにしたのである。「いますぐにこのハッチを開けないと、おまえの中央データ・バンクまですっとんでいって、でかい斧でプログラムを組みかえてやるからな。わかったか」
エディはショックをうけ、口ごもり、考えこんだ。
フォードは静かに数を数えつづけている。これこそ、コンピュータを相手にしたもっとも攻撃的な行動なのである。人間に対して「血……血……血……血……」と言うのと同じだ。
やっとのことでエディは静かに口を開いた。
「わたしたちの関係について、あらためてみんなで話しあわなくちゃいけないわね」
そして、ハッチが開いた。
氷のように冷たい風が吹きこんできた。一同は寄りあつまって暖をとると、マグラシアの不毛の荒野へとランプをくだっていった。
「しまいには泣くことになるのよ。わたしにはお見通しなんだから」
背後でエディが叫び、ハッチを閉じた。
数分後、エディは彼に与えられた命令にびっくりして、もう一度ハッチを開け閉てした。
20
五つの人影は荒野をゆっくりとさまよった。荒野はくすんだ灰色のところもあり、くすんだ茶色のところもあったが、それ以外のところは見る気にもなれぬほどであった。干あがった沼地に似ていた。いまは草一本はえず、一インチの厚さに埃のつもった沼地だ。ひどく寒かった。
この光景にザフォドはかなり意気消沈しているようだった。彼はひとりでうろつきはじめ、まもなく低い小山の向うへ姿を消した。
風がアーサーの眼と耳を強くうち、いがらっぽい薄い大気が喉を刺した。しかし、いちばん痛めつけられているのは、彼の心だった。
「まったくとんでもない話だ……」
アーサーは言った。その声は自分の耳にざらざらと聞えた。この薄い大気のなかでは、音はあまりよく伝わらないのだ。
「陰気なところだねえ」フォードが言った。「猫の寝床にでもいたほうがずっと楽しいや」
彼はしだいにいらだちがつのってくるのを感じていた。この銀河系にはたくさんの星系があり、たくさんの惑星があるというのに――荒っぽいのやら、風変りなのやら、たくさんの生命に満ちているというのに――宇宙の片田舎で十五年も過したあとに、なんでこんな荒れはてたところに来なくちゃならんのか。ホットドッグの売店すらありゃしない。フォードはかがみこんで、冷たい土くれを拾いあげた。だが、その土くれの下には、何千光年もの距離をわざわざ渡って見に来るほどのものはなにもなかった。
「いや」とアーサーが言った。「君にはわからないのかい――ぼくがよその惑星の上にこの足で立つのは、これが初めてなんだ……地球とはまったく関係のない星の上にね。この星がかなり荒れはてているのは残念だけどね」
トリリアンは身体を小さく丸め、眉をひそめて、震えていた。視野の片隅になにかちらっと動くものがいたと神かけて断言したのだが、その方向を向いても、見えるものといったら、百ヤードほど離れて静かに横たわっている宇宙船だけだった。
その一、二秒後、小山の頂に立ち、こっちへ来いと手を振っているザフォドの姿が見えたので、彼女はほっと息をついた。
ザフォドは興奮したいるようだった。だが、大気が薄いのと風があるせいで、何を言っているのかははっきり聞きとれなかった。
小山の頂に登るにつれ、その小山が円型をしているらしいことがわかってきた――直径百五十ヤードほどのクレーターなのだ。クレーターの外側の斜面のまわりには、赤と黒の塊が散乱していた。一同は立ち止って、それをよく観察した。それは湿っていた。それはゴムのような弾力があった。
それが新鮮な鯨肉であることに急に気づいて、一同はぞっと鳥肌をたてた。
クレーターの尾根の上で、一同はザフォドとおちあった。
「見たまえ」
ザフォドはクレーターの中を指さした。
中央に、その運命に失望する間もなく生命を終えた哀れなマッコウクジラのこなごなになった死体がころがっていた。静寂。それを破るものは、トリリアンの喉からときおり洩れる低い嗚咽だけ。
「こいつを埋葬してやってもしょうがないだろうなあ」アーサーがつぶやき、しばらくして、つぶやかなければよかったと思った。
「行こう」
ザフォドが言い、クレーターの中へくだりはじめた。
「なんですって、下へ行くの?」とても厭そうにトリリアンが言った。
「そうだよ」とザフォド。「さあ、見せたいものがあるんだ」
「ここからでも見えるわよ」トリリアンが言った。
「あれじゃないんだ。ほかのものさ。さあ」
一同はみな二の足を踏んだ。
「さあ、来いよ」ザフォドが言った。「なかへ入る道を見つけたんだ」
「なかへ?」アーサーが恐ろしそうに言った。
「惑星の内部へ入る道だ! 地下通路だよ。鯨が墜落した衝撃でひびが入ったんだ。そこからなかに入れる。この五百万年間、誰ひとり歩いたことのない通路を、時の深淵へと……」
マーヴィンが皮肉っぽく鼻歌を歌いはじめた。
ザフォドは彼を殴って、黙らせた。
嫌悪感にちょっと身震いしながら、一同はザフォドのあとについてクレーターのなかへと斜面をくだっていった。不幸な鯨のほうは極力見ないように努めていた。
「生命よ」マーヴィンが悲しそうに言った。「生命を忌み嫌うにせよ、無視するにせよ、生命を好きになることはできないのだ」
鯨が墜落した場所で大地はぽっかりと穴をあけ、網の目のようにはしる通路が露になっていたが、いま、そのほとんどは土砂と内蔵とで塞がれていた。ザフォドはすでに障害物をどかしかけていたが、マーヴィンのほうがずっと速くその仕事をやりとげてしまった。湿っぽい空気が暗い通路の奧からふわっと流れだしてきた。ザフォドは懐中電燈で通路のなかを照らしだした。埃のたちこめた薄闇のなかに、見えるものはほとんどなかった。
「伝説によれば、マグラシア人はほとんど一生を地底で暮したということだ」
「なぜです?」アーサーが訊ねた。「地表がひどく汚染されてしまったのかな、それとも人間が増えすぎたのかな」
「いや、そうだとは思わんね」ザフォドが応じた。「マグラシア人は地表があまり好きではなかっただけのことだろう」
「あなたは、いま自分が何をしているかわかっていると思っているのね?」トリリアンがおっかなびっくり闇の中をのぞきこんだ。「わたしたちはすでに一度、攻撃をうけているのよ」
「いいかね、断言するが、この星の人口はゼロ・プラス我々四人だ。だから、なかに入ろうじゃないか。ああ、そうだ、地球人……」
「アーサーだ」アーサーが言った。
「ああ、あんたはこのロボットといっしょに外にいて、この入口を守っていてくれんかね。わかったかい?」
「守る? 何から? いまあんたは、ここには誰もいないと言ったばかりじゃないか」
「まあね、ただ、安全のためさ。わかったかい?」
「誰の安全だ? あんたたちのか、ぼくのか?」
「利口な坊やだ。わかったな。さあ行こう」
ザフォドはすばやく通路のなかへと降りていった。トリリアンとフォードがそのあとにつづく。
「そのなかでみじめな経験をすればいいんだ」アーサーが言った。
「心配しないで」マーヴィンが彼をなぐさめた。「きっとそうなりますよ」
数秒後、三人は視界から消えた。
アーサーはむかっ腹をたててあたりを歩きまわり、やがて、鯨の墓場は歩きまわるにふさわしい場所ではないと思い至った。
マーヴィンは不吉な眼つきでしばらくアーサーを見つめていたが、やがて自分で自分のスイッチを切った。
ザフォドは早い足取りで通路を進んでいった。かなり神経質になっていたが、きっぱりとした歩調で歩くことで、それを隠そうとしていた。壁には黒っぽいタイルが貼りつめられ、懐中電燈の光に冷たく光った。空気には腐敗臭がこもっていた。
「ほら、おれの言ったとおりだろう?」ザフォドが言った。「人が住んでいた星だ。やはりここがマグラシアだ」
彼はタイル貼りの床に散乱するなにかの破片や埃の中を大股に進んでいった。
トリリアンはいやおうなくロンドンの地下鉄のことを思い出した。もっともあそこはこんなに汚ならしくはないが。
壁のところどころで、タイルが大きなモザイク画のようになっていた――明るい色のタイルで単純な多角形がつくられているのだ。トリリアンは立ち止り、ひとつの多角形をしげしげと見つめたが、なにもわからなかった。彼女はザフォドに呼びかけた。
「ねえ、このおかしなシンボルのようなものは何だと思う?」
「そいつはおかしなシンボルのようなものだと思うね」ほとんど振り返りもせずにザフォドが答えた。
トリリアンは肩をすくめ、急いで彼のあとを追った。
通路の左右にはときおり小さな部屋に通じるドアがあらわれた。フォードはその小部屋のひとつに遺棄されたコンピュータの部品がつまっているのを発見した。彼はザフォドをその部屋に引っぱっていった。トリリアンがあとに続いた。
「ほら、これでもマグラシアだと言うつもりかい?」
「ああ」ザフォドが言った。「おれたちはあの声を聞いとるじゃないか」
「わかった。それじゃあ、ここがマグラシアだという事実は認めることにしよう――いまのところはね。ところで、いままで聞いてなかったが、銀河系のなかからどうやってこの星を見つけだしたんだい。星図のなかから見つけだしたんじゃあるまい。それは確かだ」
「調査をし、政府の古記録を調べ、探偵のような仕事をし、幸運な推理をいくつか重ねただけさ。簡単なことだ」
「そこで、マグラシアを見つけるため〈黄金の心〉号を盗んだというわけか」
「宇宙船を盗んだのは、もっとたくさんのものを探すためだ」
「たくさんのもの?」フォードはびっくりした。「どんなものだ?」
「わからない」
「なんだって?」
「自分でもなにを探しているかわからないのだ」
「どうして?」
「なぜなら……なぜなら……なにを探しているかわかってしまったら、そいつを探せなくなるにちがいないと思っているからだ」
「なんだって、頭がへんになっちまったんじゃないのか?」
「いまのところ、それは考えられないな」ザフォドが静かに言った。「自分自身について、現在の状況でおれの心にわかっている以上のことはわからない。その現在の状況は好ましいものではないのだがね」
長い間、誰もなにも言わず、フォードはザフォドをじっと見つめていた。フォードの心は急に不安でいっぱいになった。
「ザフォド、君がもし……」フォードがやっと口をひらいた。
「いや、待ちたまえ……あることを話してあげよう」ザフォドが言った。「おれは自由奔放な人間だ。なにかしようと思いつくと、そうだ、やっちゃいかんという道理はないぞと思い、してしまうのだ。銀河系大統領になろうと思い、ひょんなことでなってしまった。簡単なことだった。おれはあの船を盗もうと決めた。マグラシアを探そうと決めた。そしたら、そうなってしまったのだ。ああ、おれはどうすればいちばんいいかを算出する。いつもそれが実現してしまうのだ。金をふりこんでもいないのに際限なく使える銀河クレジット・カードを持っているみたいなものだ。で、おれが立ち止って、考えをめぐらしはじめるとしよう――なぜあんなことをしたいと思ったのだろう、とか、どうやればいいかをどうやって思いついたのだろう、とかね――するといつでも、そんなことを考えるのはやめようという非常に強い欲求がおこってくるのだ。いまもそうらしい。これだけのことを話すのに、ひどく力がいるのだ」
ザフォドは言葉を切った。しばらく静寂がつづき、やがて、彼は顔をしかめると、口をひらいた。
「昨夜、またそのことが心配になってきた。おれの心のどこかが正常に働いていないのではないか、ということがだ。やがて、誰かがおれに断わりもなく、おれの心を使っていい考えを手に入れているんじゃなかろうか――ふとそんな気がした。おれはこのふたつの考えを合体させ、誰かがある目的のため、おれの心の一部を使えなくしてしまったのではないか、と考えるに至った。だから、心のその部分を使うことができんのだ。この仮説が本当かどうかチェックする方法はないだろうか、とおれは考えた。
おれは船の医療区画に行き、自分の頭を脳レントゲン・スクリーンの下に突っこんだ。ふたつの頭のどちらにも、重要な試験をすべて加えた――おれは大統領に立候補する前に、政府の医務官の前であらゆるテストを受けねばならなかったことがある。なにも見つからなかった。少なくとも意外なものはなにも見つからなかった。そのテストで、おれが賢く、想像力にとんでいて、責任能力がなく、信用がならず、外向性であることがはっきりした。だが異常はなかった。そこでおれはもっとこまかいところまでわかるテストをまったく無作為に受けてみた。なにもでなかった。そこで、片方の頭のテスト結果の上にもう一方の頭のテスト結果を重ねあわせてみた、依然としてなにもでない。とうとう、おれは馬鹿馬鹿しくなった。すべては偏執病の発作にすぎないとあきらめてしまうところだった。あきらめる前にした最後のことは、重ねあわせたレントゲン写真を緑のフィルターを通してながめてみるということだった。覚えているだろうが、おれは子供のころからずっと緑という色に迷信的な信頼を抱いている。交易船の操縦士になりたがっていたもんだ。覚えているかね?」
フォードはうなずいた。
「すると、でたんだ」ザフォドが言った。「くっきりと浮びあがった。ふたつの脳の中央部にすっぽりと、互いの脳同士を結んではいるが、それ以外のところとはつながっていない部分があらわれたのさ。どこかの大馬鹿野郎がシナプスをみんな灼き切って、ふたつの小脳それぞれに電子的な傷をつけやがったんだ」
フォードはあっけにとられてザフォドを見つめた。トリリアンはまっ青になった。
「そんなことをした奴がいるというのか?」フォードがかすれ声で言った。
「そうだ」
「誰が、なぜやったのかわからないのかい?」
「なぜ、だと? そんなものは推量するしかないが、その大馬鹿野郎が誰かはわかっている」
「わかっている? どうしてわかったんだ?」
「灼き切られたシナプスに頭文字《イニシャル》を焼きつけていきやがったからさ。おれにわかるようにと残していったんだ」
フォードは恐ろしいものでも見るようにザフォドをまじまじと見つめた。ぞくっと鳥肌がたった。
「イニシャル? あんたの脳に焼きつけていったというのか?」
「ああ」
「で、いったいそいつは何者だ?」
ザフォドはまた黙ってフォードを見つめた。やがて、彼は眼をそらして、
「Z・Bだ」と静かに言った。
そのとき、三人の背後で鋼鉄のシャッターがガラガラと閉り、小部屋にガスがどっと噴きだした。
「この話はあとだ」ザフォドが苦しそうに言い、三人は気を失った。
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地上ではアーサーがむっつりと歩きまわっていた。
フォードは、これで時間をつぶせと親切にも『銀河ヒッチハイク・ガイド』をおいていってくれた。アーサーはでたらめにいくつかのボタンを押した。
『銀河ヒッチハイク・ガイド』はたいへんムラのある編集をされています。そのときどきの編集者がいいアイデアだと思ったものが文章になっており、そういったものがたくさん含まれているのです。
そのひとつに(アーサーがたまたまでくわした項目がこれだった)、マキシムガロン大学にかようヴィート・ヴォージャギグというおとなしい学生の体験談らしきものがあります。彼は古代文献学、変形倫理学、歴史知覚力の波動調和理論などの研究ですぐれた学問的成功をおさめようと日夜努力していたのですが、さて、ある晩、ザフォド・ビーブルブロックスと汎銀河ウガイ薬バクダンを飲んでからというもの、何年か前に買ったペンはみんなどうなってしまったのだろうという問題に取りつかれてしまったのでした。
彼はそれ以来、長期間にわたって血のにじむような研究を続けました。その間に、彼は、ペンをなくしてしまうことで有名な土地は銀河中くまなくまわり、ついに、ある珍妙な結論に到達しました。その結論は当時の大衆の想像力を魅了しつくしたものでしたが、彼の仮説によれば、この宇宙には、人間型生命の棲む星もあれば、爬虫類型生命、魚類型生命、歩行樹木型生命、青い超知性霊体などの棲む星もあれば、それと同時にペン型生命の支配する星もあるというのです。持主になくされてしまったペンが向うのはその星なのです。宇宙の|虫食い穴《ワームホール》を通って、ひそやかに、独特のペン型生命の生活を楽しめる世界へと移動し、ペンにぴったり合った刺激に反応し、ペンにとっての良き生活へと導かれるのです。
ヴィート・ヴォージャギグが次のように主張しはじめるまでは、この仮説はなかなかうまくいっていました。ところが彼は、その星を発見したと主張しはじめたのです。その星でしばらく、安い緑のシャープペン一家の運転手としてリムジンを運転していたのですが、とらえられ、幽閉され、一冊の本を書き、税金未納のためとうとう追放の身となってしまいました。公衆の面前でペンを馬鹿にした者には必ずそうした運命が待ちうけているものなのです。
ある日、その星の位置はここだとヴォージャギグが主張した空間座標に向けて探検隊が送り出されましたが、一行が発見したのは、年老いた男がひとりぼっちで住んでいる小惑星一個だけでした。老人の話では、すべては嘘っぱちだということでした――もっとも、のちになって、老人が嘘をついていたことが明らかになりました。
しかし、まだ疑問がふたつ残されたままです――ひとつは、ブランティスヴォガン銀行の彼の口座に、毎年アルタイル・ドルで六万ドルがいずこからともなく振りこまれること。いまひとつは、言うまでもなく、ザフォド・ビーブルブロックスが中古のペンを扱う仕事で大きな利益をあげたことです。
アーサーはそれを読みおわると、本を下に置いた。
ロボットは完全に停止状態にあり、ぴくりとも動かない。
アーサーは立ちあがり、クレーターの頂上まで歩いていった。尾根をぐるりと一周した。マグラシアの地平に沈みつつある美しいふたつの太陽を見つめた。
クレーターのなかに戻り、ロボットを起した。ひとりでいるよりは、鬱病のロボットとおしゃべりをしていたほうがマシだったからである。
「夜がくる。ほら、星が見えてくるぞ」
暗黒星雲の中心部にいては、星はごく僅か、ごくかすかにしか見えなかったが、それでも、たしかに見えないことはなかった。
ロボットはおとなしく星を見、やがて振り返って、
「なるほど、みじめったらしいものですね」
「それじゃあ、あの夕陽はどうだ! あんなすばらしいものは夢の中でも見たことがない……ふたつの夕陽! 宇宙空間で燃えたつ火の山のようだ」
「見ました」マーヴィンが言った。「くだらないですな」
「ぼくの故郷には太陽はひとつしかなかった」アーサーはずっこけるのを、なんとか踏みとどまった。「ぼくは地球という星から来たんだよ」
「存じてます。そう何度もおっしゃっていましたね。ひどい所のようですね」
「いや、美しい星だった」
「海はありました?」
「もちろんさ」アーサーは溜息をついた。「ゆったりと波うつ、広大な青い大洋……」
「海は大嫌いです」
「ねえ、君はほかのロボットとうまくやっているの?」
「憎んでいます」マーヴィンが答えた。「どこへ行くんです?」
アーサーはもう耐えられなかった。彼はまた立ちあがった。
「また散歩してくるよ」
「無理もありません」
マーヴィンは言い、五千九百七十億の羊を数えて、眠りについた――一秒後のことである。
アーサーは両腕を勢いよく振りまわし、もう少し熱心に巡回をしようとした。重い足どりでクレーターの斜面をのぼりはじめた。
大気が薄く、月がないせいで、夜は足早にやってきた。もうとても暗くなっている。そのため、アーサーはそれと気づかぬうちに、老人の方へと歩を進めていた。
22
老人はアーサーに背を向け、急速に色を濃くしていく夕映えの残光をじっと見つめていた。背はやや高く、かなり年配で、灰色の長いローブを着ていた。振り返れば、その顔は細面で、
威厳があり、心労でやつれていたが、信頼できそうな表情をうかべていることだろう。だが、老人はまだ振り返らない。アーサーの驚きの叫びにも反応を示さない。
とうとう夕映えの最後の光が完全に消えてしまうと、彼は振り返った。その顔はいずこからともなくくる光にぼんやり明るんでいる。あの光はどこからくるのだろう、とアーサーがあたりを見回すと、数ヤードはなれたところに乗物らしいものがあった――小型のホヴァークラフトらしい。それが周囲にかすかな光の輪をなげかけているのだ。
老人はアーサーを見た。悲しそうにみえた。
「よりによってずいぶん寒い夜に、この死んだ星においでになったものじゃな」
「あなたは……あなたはどなたです?」
老人は視線をそらした。再び、悲しみがその顔をよぎったようにみえた。
「わしの名など重要ではない」
老人はなにか考えているようだった。考えなしに言葉を口にしてはならぬと思っているようだった。アーサーは間が悪くなった。
「ぼくは……その……びっくりしました」ぎごちなく言った。
老人はまた視線を彼に戻し、ちょっと眉をあげた。
「ハァ?」
「びっくりしたと言ったのです」
「恐がることはない。害を加えたりはしないから」
アーサーは眉をひそめて老人を見つめ、
「でも、あなたはぼくらを狙った! ミサイルを撃って……」
老人はクレーターの中央の穴をのぞきこんだ。マーヴィンの眼からでた弱い光が鯨の死骸にとてもかすかな赤い陰翳《いんえい》をつけている。
老人は低く含み笑いをして、
「あれは自動装置だ」と言い、そっと溜息をついた。「この星の内奧には古代のコンピュータがあり、闇の年月をじっとすごしてきた。その埃をかぶったデータ・バンクには歳月というやつがどっしりと腰をすえておる。日々の単調さをすこしでも破ろうとめくら撃ちをしたのであろう」
老人は厳粛な顔つきでアーサーを見つめ、
「わしは科学が大好きなのじゃ」
「はあ……そうですか」
アーサーは老人の奇妙な、やさしい態度に混乱があらわれたのに気づきはじめていた。
「そうだとも」老人は言い、また口をとざした。
「あの……その……」
姦通のまっさいちゅうに、相手の女の旦那がふらりと部屋に入ってきて、ズボンをはきかえ、天気がどうのこうのと物憂そうに言い、また出ていったときのような、おかしな感じにアーサーは襲われた。
「落ちつかぬようじゃな」老人が上品そうに訊ねた。
「いや、べつに……その、はい。実のところ、ここで誰かにお会いできるとは思ってもいなかったものですから。ここは、死に絶えたかなんかして……」
「死に絶えた? やれやれ、そんなことはない。われわれは眠っておるにすぎんのじゃ」
「眠っている?」信じられないといったふうにアーサーが言った。
「そうじゃ。経済的な後退がおこったためじゃが」
老人は言った。アーサーがその言葉を理解しているか否かは気にしていないようだった。
アーサーはまた話をうながさねばならなかった。
「経済的後退?」
「つまりな、五百万年前、銀河系経済は崩壊した。オーダー・メイドの惑星は贅沢な商品となり……」
老人は言葉を切り、アーサーを見た。
「われわれが惑星をつくっておったことは知っておるじゃろう?」もったいぶった口調で訊ねた。
「はい」とアーサー。「たぶんそれは……」
「すばらしい商売じゃった」老人の眼にもの悲しい色がうかんだ。「海岸線を設定するのがわしの得意な仕事だった。フィヨルドに小さな刻みを入れるのは、尽きせぬ楽しみだったものじゃ……ま、それはとにかく」老人は話の筋道を探していた。「経済的な後退がおこり、その間、眠っておれば、その苦境をまぬがれられると思った。そこでコンピュータにプログラムを入れ、銀河系が経済的に立ちなおったときに再生するようにしたのじゃ」
老人は小さなあくびを噛みころして、続けた――
「コンピュータは銀河系の株式市場とつながっており、銀河系の人々がわれわれの高価な商品を買えるだけの経済力をもつようになったら、わしらはよみがえることになっておる」
〈ガーディアン〉誌の定期購読者でもあったアーサーはその言葉にひどいショックをうけた。
「それは不愉快なやり口じゃありませんか」
「そうかね」老人は穏やかに聞き返した。「失礼、わしはちょっと無神経な言い方をしたかもしれん」
老人はクレーターの中を指さした。
「あのロボットは君のかね?」
「いいえ」クレーターの底から金属的なかんだかい声が応じた。「わたしは誰のものでもありません」
「あいつはロボットというより」アーサーがつぶやいた。「むっつり不機嫌な電子機械といったほうがいいですよ」
「ここに連れてきたまえ」老人が言った。
その声が突然きっぱりした口調になったのでアーサーはびっくりした。アーサーはマーヴィンを呼び、ロボットは実に悲しそうなジェスチャーたっぷりに(本当はそんなことないのだ)、スロープを這いのぼりだした。
「よく考えてみると」老人が言った。「そいつはここにおいていこう。君はわしといっしょに来るのじゃ。すばらしいことが起りつつあるのだぞ」
老人は乗物の方を向いた。なんの信号も見えなかったが、それは闇の中を音もなくふたりに近づいてきた。
アーサーはマーヴィンを見おろした。マーヴィンは実に大儀そうな様子で向きを変え、なにやらぶつぶつとつぶやきながらクレーターの底に戻っていくところだった。
「さあ」老人が呼びかけた。「乗りたまえ、手遅れにならぬうちに」
「手遅れ?」アーサーが言った。「なにが手遅れになるっていうんです?」
「君の名前は?」
「デント。アーサー・デント」
「デントアーサーデント」老人は容赦のない声で言った。「君が死ぬかもしれんということだよ。これは一種の脅迫だ」また悲しみの色が老人の疲れた眼をよぎった。「やつらを扱うのは得手ではないが、やつらは実に能率的だという話だ」
アーサーは眼をぱちくりさせた。
「なんて変った人だ」
「なんだって?」
「いえ、なんでもありません」アーサーは当惑した。「よろしい、どこへ行きましょう?」
「まずは、エアカーに」老人はふたりの横に静かに止っている乗物に乗るよう、身ぶりで示した。「これから惑星の中心部に向う。そこではいま、われわれの仲間が五百万年の眠りから醒めようとしているのだ。マグラシアは目覚めた」
アーサーは無意識に身震いして、老人の隣に座った。エアカーは音もなく夜空に舞いあがった。そのことが彼を落ち着かなくさせた。
彼は、計器盤の小さな明りでかすかに照らしだされた老人の顔を見た。
「すいませんが、お名前はなんとおっしゃるので?」
「わしの名か?」老人が言った。その顔に例によって悲しみがよぎった。彼はためらった。「わしの名は……スラーティバートファーストだ」
アーサーは息をのんだ。
「な、なんですって?」
「スラーティバートファーストじゃ」老人は穏やかに繰り返す。
「スラーティバートファースト?」
老人は厳粛な眼つきで彼を見た。
「重要なことではないと言ったはずだぞ」
エアカーは夜空を疾駆した。
23
ものごとの本質は常にその外見どおりとはかぎらないという、人口に膾炙《かいしゃ》した注目すべき事実がある。たとえば、地球上では、人類はイルカより賢いと思っていた――なぜなら、人類は自動車とかニューヨークとか戦争など、いろんなことをなしとげたからである。だいいち、イルカのしたことといえば、水の中で呑気に暮しているだけじゃないか。一方、これとは逆に、イルカのほうも、自分たちは人間よりずっと賢いと信じていた――その理由はまったく同じである。
おかしなことに、イルカは迫りつつある地球の破滅をずっと昔から知っており、人類に警告を伝えようとしていた。しかし、イルカの警告はほとんどが間違って解釈されてしまった。すなわち、餌をもらうためボールを突ついたり、笛を吹いたりしているのだろうと考えられたのである。そこで、ヴォゴン人の到着する直前、イルカはついにあきらめ、地球人の勝手にまかせることにしたのであった。
イルカの最後の言葉は、アメリカ国家を吹きながらの二回連続背面輪くぐりというきわめて高度な技というふうに誤解されたが、本当のところは“さようなら、魚をたくさんくれてありがとう”であった。
実をいえば、地球上でイルカより賢い生物はたった一種しかいなかった。その生物は、行動学研究所でたっぷり時間をかけ、はずみ車をくるくるとまわしつつ、人間に対し、おどろくほど精妙で的確な実験をおこなっていたのである。人間はやはりその生物との関係を完璧に誤解していたのだが、それはその生物の計画どおりの行動でもあった。
24
エアカーはひえびえした闇の中を滑空していた。マグラシアの漆黒の夜の中、エアカーのかすかな光だけがぽつんと輝いている。エアカーはめくるめく速度で進んでいた。アーサーの隣の老人は自分だけの考えに沈んでいるようだった。アーサーはなんとかおしゃべりをしようとするのだが、老人は、気分はいいかなどと訊ねるだけなのだった。
アーサーはエアカーの速度を測ろうとしたが、外は一面の闇で、速度を測る手がかりとなる目印など見つけることができなかった。飛んでいるという感じはほとんどなくて、実はほとんど動いていないんじゃないかと思えるほどだった。
やがて、遙か遠くにぽつんと小さな光が見えた。数秒のうちに光点がずっと大きくなったので、アーサーはやっとエアカーと相手が互いに途方もないスピードで飛んでいるのだと悟った。相手がどんな乗物なのかみきわめようと思った。眼を凝らしてよく見たが、はっきりと見分けることはできなかった。と、突然、彼は驚きのあまりギャッという声をあげた。エアカーががくんと機首をさげ、あきらかに相手との衝突コースを進みはじめたからだ。双方の相対速度は信じられぬほどであった。息をする間もないうちにすべては終っていた。次に彼が覚えているのは、自分を取り囲んでいるように見える、ぼうっとかすんだ銀色のもの。頭をぐいとうしろにねじまげると、小さな黒い点が背後でどんどん小さくなっていくのが見えた。何秒かついやして、ようやく事態を把握した。
地面に開いたトンネルに突っ込んだのだ。両者が互いに途方もないスピードをだしていると思ったのは、大地にあいた動かないトンネルの入口の発する光に向うエアカーだけがだしていたスピードだったのである。銀色のぼやけたものは、エアカーが時速数百マイルで通過中のトンネルの内壁だった。
アーサーはこわくなって眼をつぶった。
どれくらい時がたったものか、ずいぶんたったように思われたころ、速度がやや鈍ったように感じた。やがて、速度をおとしてそっと停ったのがわかった。
彼はまた眼をあけた。エアカーはまだ銀色のトンネルの中にいた。トンネルがいくつも集まって交叉点のようになっているところをゆっくりとわたっているところだった。それから、ようやくエアカーが停止したのは、カーブを描いた鋼鉄製の小部屋である。ほかにもいくつかのトンネルがやはりここで終っている。部屋の奧には、いらいらしてくるような薄暗い光でできた大きな円があった。いらいらするのは、その円を見ていると眼がおかしくなるからだ。その円に焦点をあわせることは不可能だし、どれくらい遠くにあるのか、あるいは近くにあるのかもわからなかった。アーサーは(見当ちがいだったが)光は紫外線だろうと思った。
スラーティバートファーストは頭をまわして、老いた厳粛な眼でアーサーを見た。
「地球人よ。マグラシアの心臓部に到着したぞ」
「ばくが地球人だって、どうしてわかったんです?」
「そうしたことはやがてはっきりわかるようになろう」老人はやさしく言った。「少なくとも」とわずかに疑いをこめてつけ加える。「いまよりははっきりするじゃろう」
老人は続けて、
「警告しておくが、これから入る部屋は我々の惑星の内部に存在するのではない。この星ではちょっと……小さすぎるのじゃ。これから門をくぐって広大なハイパースペースに入る。少し気分が悪くなるかもしれんぞ」
アーサーは不安そうな声をあげた。
スラーティバートファーストはボタンに触れると、特に安心させるといったふうでもなくつけ加える。
「おじけづいてわしから離れるでないぞ。しっかりつかまっておれ」
エアカーはまっすぐ光の円の中に突っ込んだ。アーサーは突然、無限というやつがどういうものかはっきりとわかった。
実際には、それは無限ではなかった。無限自体は単調で、おもしろくもおかしくもない代物である。夜空を見上げれば、無限を見上げたことになる――距離感がないから、それゆえ、意味もないのだ。エアカーが突入した部屋は無限などではなかった。ただ、とてもとてもとても大きいだけだった。本物の無限よりずっと無限らしく見えるくらい大きかった。
アーサーの五感は跳ねまわり、回転し、はかりしれぬスピードでとびまわった。エアカーは大気の中をゆっくりと上昇した。いま通りぬけた門は、背後の輝く壁にあけた針の穴のようなもので、すぐに見えなくなった。
壁。
壁は想像力を寄せつけなかった――想像力を迷わせ、想像力を打ち負かした。壁は気が遠くなるほど広大で切り立っており、上も下も右も左も、眼の届かぬ先まで伸びひろがっている。めまいによるショックだけで、人間など簡単に死んでしまうだろう。
壁はまったいらに見えた。本当にそうかどうか確かめるには、精巧なレーザー測定装置が必要だ。壁は無限の高みに向ってのぼり、遙かな深みに向ってくだり、左右に果てしなくひろがっているように見えるが、実は曲面を描いていた。壁は十三光秒彼方でひとつにあわさっている。つまり、直径三百万マイル余の中空になった球体で、その中に不可思議な光が充満しているのだ。
「ようこそ」とスラーティバートファーストが言った。
砂粒のようなエアカーは音速の三倍のスピードで、気も遠くなるような空間をのろのろと進んでいる。
「ようこそ――われわれの制作工場へ」
アーサーは恐怖のまじった驚嘆のおももちで周囲を見まわした。前方――どれくらい離れているのか測ることも想像することもできないくらい遠く――中に浮ぶ黒っぽい球体のまわりに、奇妙な形の懸架装置や精緻な彫刻をほどこした金属体や照明やらが浮んでいる。
「ここが」スラーティバートファーストが言った。「わしらが惑星をだいたい作りあげるところじゃ」
「つまり」アーサーはなんとか言葉をまとめあげようとした。「つまり、また始めるつもりなんですか?」
「いやいや、とんでもない」老人は叫んだ。「銀河系はまだわしらを養えるほどには豊かになっておらんよ。ただ、わしらが目覚めたのは、ちと特殊な注文に応ずるためでな……異次元からの特別なお客の注文なのじゃ。君にも興味があるじゃろう……ほれ、わしらの前方ずっと遠くじゃが」
アーサーは老人の指をたどった。やっと、宙に浮ぶ建造物を見つけることができた。たしかに、いくつも浮んでいる建造物のなかで、活動しているさまが見られるのは、それひとつだけだった。といって、どこがどうと指摘できるほど華々しい動きというわけでもない。
しかし、そのとき、その骨組の中を閃光がはしった。そして、骨組の中に浮ぶ黒い球体の上につくられた模様がうきあがった。アーサーの知っている模様だった。見なれた小さな球体である。言葉の形のように、心に組みこまれた常識のように、なじみぶかいものだった。数秒後、彼は愕然として息をのんだ。その球体のイメージが心の中をはしりぬけ、落ち着く場所をさがしもとめた。
心の一部が自分自身に語りかけた――何を見ているのか、その形が何を意味しているのかよくわかっているはずじゃないか、と。しかし心の別の部分はその考えを認めるのをはっきりと拒否し、それ以上考える責任を放棄した。
ふたたび閃光がひらめいた。もはや間違いはなかった。
「地球だ……」アーサーは低く言った。
「正確には地球第二号じゃ」明るい口調でスラーティバートファーストが言った。「当方に保管してあった第一号の設計図から複製をつくったんだよ」
沈黙。
「ということは」とアーサーがゆっくり、抑えた声で言った。「地球というのはもともとあなたがたがつくったのですか?」
「もちろんじゃ。あそこへ行ったことはないかね……ほら、ノルウェーとか呼ばれておったと思うが」
「いえ、行ったことはありません」
「そいつは残念じゃね。あれもわしの仕事なのだ。ある賞をもらったほどの出来でな。まるで皺のように波うった美しい海岸線じゃ。あそこが破壊されたと聞いて、わしはひどく動揺したものじゃよ」
「あなたがねえ!」
「さよう。が、五分後に破壊されていたならば、さほど動揺もせんだったろう。が、あのときはひどいショックだった」
「ハァ?」
「ねずみたちも怒っていた」
「ねずみたちも怒っていた?」
「そうじゃよ」老人は穏やかに言った。
「では、犬や猫やカモノハシも怒っていたでしょうね……」
「だが、彼らは金を払ったわけではあるまい?」
「いいですか」アーサーは言った。「こんなのは時間の無駄だ。ぼくはもう気が狂っちまいそうだ」
しばらくの間、エアカーは静寂を乗せて飛び続けた。やがて、老人は根気よく説明しようとした。
「地球人よ、おぬしの住んでいた星は、はつかねずみが注文し、ねずみが代金を払い、ねずみが運営していたのじゃ。地球は、それが作られた目的を達成する五分前に破壊された。そこで、もうひとつ作らねばならなくなったのじゃ」
アーサーの心は、たったひとつの言葉しか覚えていなかった。
「はつかねずみ?」
「そうだよ、地球人」
「あの、失礼ですが――小っちゃくて、白くて、毛がはえてて、チーズが大好きで、六十年代初期のホーム・コメディでは、こいつに出会うと女性がテーブルに駆けのぼって悲鳴をあげるという、あいつのことですか?」
スラーティバートファーストは上品に咳ばらいをして、
「地球人よ、おぬしのしゃべりかたにはときどきついていけなくなる。いいかね、わしはマグラシアの内部で五百万年の間ねむりつづけていたのだ。おぬしの言う六十年代初期のホーム・コメディなどというものは知らぬのじゃ。とにかく、それはおぬしたちがはつかねずみと呼んでいるものじゃ。それは外見とは似ても似つかぬ存在なのだよ。はつかねずみというのは、すぐれた知性をもった高次元生物の姿がわれわれの三次元に突き出している部分にすぎないのだ。チューチュー鳴いたりチーズが好きだったりするのは、見せかけにすぎんのさ」
老人は言葉を切り、同情するように顔をしかめて続けた。
「彼らは君たちを実験していたのだと思う」
アーサーはしばらく考え、やがて顔をぱっと明るくした。
「いや、そうじゃない。いま誤解の原因がわかったよ。人間がねずみを実験してたってのが本当のところなんだ。ねずみはよく行動学の研究に使われる――パヴロフやなんかだ。だから、ねずみはありとあらゆるテストを受けさせられた。ベルを鳴らすことを覚え、迷路をはしりまわったりして、学習過程というものを調べられたのさ。ねずみの行動を観察することにより、われわれは自分の行動の……」
アーサーの声はだんだん小さくなった。
「まったく巧妙だ」スラーティバートファーストが言った。「驚嘆に値する」
「なんだって?」
「実にみごとに自分の本質を隠蔽し、君たちの思考を間違った方向に導いたものじゃ。迷路で間違った道をはしってみせ、違うチーズをかじり、粘液腫症でコロリと死んでみせる――すべてをきちんと計算のうえやったことなら、累積効果は満点だ」
老人は効果的に言葉を切った。
「いいかね、地球人よ。彼らはすぐれた知性をもった賢い高次元生命体なのだよ。地球も地球人も、一千万年かけて演算をおこなっていた有機コンピュータの母体を形づくっており……
くわしく話してあげようかね。少々時間がかかるが」
「時間なんて」アーサーは弱々しく言った。「いまのぼくにとって問題じゃありませんよ」
25
生きるということに関しては、言うまでもなくたくさんの問題が付随しておる。そのなかでも、よく知られたものには、“なぜ人間は生れたのか?”“なぜ人間は死ぬのか?”“なぜ人間はデジタル・ウォッチなどつけて、時間に干渉されつつ一生を生きていくのか?”といったものがあるな。
数千万年の昔、高次元生命体がおった(その次元における彼らの姿はわしらとは似ても似つかぬものなのじゃ)。彼らは人生の意味についてしじゅう口論をしており、お気に入りのブロッキアン・ウルトラクリケット(なんの理由もなく突然ひとを殴り、ぱっと逃げだすというおかしなゲームなのじゃが)を中断することもしばしばであった。が、それにも飽きてしまい、腰をおちつけて、その問題に片をつける決心をした。
そして結局は、驚くべきスーパー・コンピュータをつくりあげたのじゃ。それは途方もない知性をもっていて、いくつものデータ・バンクを接続する前から、“我思う、ゆえに我あり”からはじまって、ライス・プディングや所得税の存在までを推論してしまっておったほどじゃった。
そのコンピュータは小さな都市ぐらいの大きさがあった。
第一制御卓は特別設計の行政室にすえつけられ、豪華なウルトラレッドの革を張った最高級ウルトラマホガニイの特別デスクにのっていた。贅をこらした黒っぽい絨毯《じゅうたん》が敷かれ、異邦の花が鉢に植えられ、主任プログラマーたちとその家族の浮彫り画がいくつも部屋中に並べられている。風格のある窓からは、並木の植えられた広場を見ることができた。
スイッチの入れられた記念すべき日、地味な服を着たふたりのプログラマーが書類ケースをもってやって来て、静かに行政室に入った。この日、自分たちの種族が偉大な時を迎えるのだ、とふたりは承知しておったが、表むきは静かに落ちついて、上品に席についた。書類ケースをあけ、革張りのノートをとりだす。
ふたりの名はランクウィルとフックといった。
しばらく、ふたりは黙って座っていたが、やがて、フックと眼をかわすと、ランクウィルは身をのりだし、黒い小さな制御盤に触れた。
実にかすかなブーンという音で、大コンピュータがいま活動をはじめたことがわかった。一拍おいて、コンピュータはよく響く、深みのある声でしゃべりだした。
「このわたくし――時空宇宙で二番目の大コンピュータである“深思考《ディープ・ソート》”にどんな御用でしょう?」
ランクウィルとフックはびっくりして顔を見あわせた。
「コンピュータ、君の仕事は……」フックが言いかけた。
「いや、ちょっと待て。おかしいぞ」ランクウィルが心配そうに言った。「このコンピュータは宇宙最大のものになるよう設計したんだ。二番目をつくったわけじゃない。ディープ・ソート」と、彼はコンピュータに呼びかけた。「君はわれわれが設計した有史以来最大最高のコンピュータではないのかね?」
「わたくしは二番目に大きいコンピュータだと申しあげました」ディープ・ソートが言った。「そのとおりなのです」
またふたりのプログラマーは不安そうな視線をかわしあった。ランクウィルは咳ばらいをして、
「どこかに誤解があるようだ。君は、千分の一秒で一恒星に含まれるすべての原子を数えあげるという、マキシムガロンにある“十億大頭脳《ミリヤード・ガーガンチュブレイン》”より大きなコンピュータじゃないというのかね?」
「“ミリヤード・ガーガンチュブレイン”ですって?」ディープ・ソートは不満を隠そうともせずに言った。「あんなものはソロバンですよ――話にもならない」
「では」と、フックが心配そうに身をのりだした。「ダングラバド・ベータ星の五週間におよぶ砂嵐のとき、その砂粒一個一個の軌道を計算できるという、光と創意の第七銀河にある“億兆星精神《グーグルプレックス・スター・シンカー》”よりすぐれた分析能力をもっているんじゃないのかね?」
「五週間の砂嵐?」ディープ・ソートは傲慢そうに言った。「ビッグ・バンのときの全原子のベクトルを見通したこのわたくしにそんなことをお訊ねになるのですか? そんな小型計算機ですむようなことを訊かないでください」
ふたりのプログラマーはしばらく、落ちつかなげに黙りこくった。やがて、ランクウィルがまた身をのりだし、
「だが、君はキケロニカス十二番惑星、魔法と不屈の星にある“超巨大母型同族中性子頭脳《グレイト・ハイパーロビック・オムニ=コグネイト・ニュートロン・ラングラー》”より議論がへただというのかね?」
「“グレイト・ハイパーロビック・オムニ=コグネイト・ニュートロン・ラングラー”」ディープ・ソートは“ラー”をまき舌で発音した。「あいつはたしかにアルクトゥールスのおしゃべり驢馬を言葉でひれ伏させることができるでしょう。しかし、ひれ伏させたうえで散歩につれだせるのは、このわたくしだけですよ」
「じゃあ、どこが問題なんだ?」フックが言った。
「問題なぞありません」ディープ・ソートが豊かなすばらしい声で言った。「わたくしが単に時空宇宙で二番目に大きなコンピュータというだけのことです」
「でも、二番目というのは?」ランクウィルはこだわった。「なぜ二番目なんて言い張るんだ? 君はまさか“多層明晰中性子巨大頭脳《マルチコーティコイド・パースピキュトロン・ティタン・ミューラー》”のことを考えているんではあるまいね。それとも“思考機械《ポンダーマティック》”のことか? それとも……」
制御盤の上を不満そうな光がはしった。
「あんな単細胞のことに思考回路をさく気はこれっぽっちもありませんね! わたくしはいずれあらわれるコンピュータのことを言っているのです」
フックは堪忍袋の緒を切った。ノートを脇にどけると、低くつぶやいた。
「予言者みたいになってきたぞ」
「あなたは未来についてなにも知りません」ディープ・ソートが言った。「でも、わたくしの厖大な回路を使って、未来における可能性の無限デルタ関数の流れの中を進んでいくことができます。そして、いつの日か、わたくしなど問題にならぬほどのコンピュータがあらわれることがわかるのです。もっとも、天命でしょうか、そのコンピュータを設計するのはこのわたくしですが」
フックはホッと溜息をつき、ランクウィルを見た。
「さて、例の質問をしてみるかね?」
ランクウィルは待てという身振りをした。
「君の言っているのはどんなコンピュータだな?」
「いまのところ、もうこれ以上のことは申しあげられません」ディープ・ソートが答えた。「さあ、ほかにわたくしにお訊ねになりたいことはありませんか? さあ、どうぞ」
ふたりは肩をすくめた。フックは気を静めて、「ディープ・ソートよ。我々が君にさせようとしている仕事とは、こうだ――我々は、答えが知りたいのだ!」
「答え?」ディープ・ソートが言った。「なんの答えです?」
「生命!」フックが叫んだ。
「宇宙!」ランクウィルが言った。
「万物だ!」ふたりは異口同音に言った。
ディープ・ソートはしばらく考えこんでいたが、とうとう、
「難しい仕事です」と言った。
「だが、君にならできるだろう?」
ふたたび意味深長な沈黙。
「そう、できます」ディープ・ソートが言った。
「答えは存在するんだな?」フックは興奮に息もできぬ様子だった。
「単純簡明な答えが?」ランクウィルがつけ加えた。
「あります」ディープ・ソートが答えた。「生命と宇宙と万物の答えが。だが」と、つけ加えて、「しばらく考えねばならない」
と、そのとき、大騒動がもちあがった――ドアがばたんと開かれ、色あせたブルーの粗末なローブを着、クラックスワン大学のベルトをしめたふたりの怒れる男が乱入してきた。それを妨げようとした無能な助手たちを脇に押しのける。
「我々はぁ入室をぅ要求するぅ!」若い男が叫び、若い秘書の喉に肘を叩きこんだ。
「そうとも」年嵩《としかさ》のほうも叫ぶ。「我々を閉め出すことはできんぞ!」
彼はプログラマーの助手をドアの外に突きとばした。
「我々はぁ、外に閉め出されんことを要求するぅ!」
若いほうが吠えたてた。そのくせ彼はもうちゃんと部屋の中に入りこんでいる。もうどうあっても、男たちを止めることはできなかった。
「何者だ?」ランクウィルが怒って椅子から立ちあがった。「何の用だ」
「わたしはマジクサイズ!」年嵩が言った。
「わたしはヴルームフォンデルであることをぅ要求するぅ!」若いほうが叫んだ。
マジクサイズはヴルームフォンデルのほうを向き、
「いいか、そういうときには要求するって言わなくてもいいんだよ」と怒ったようにたしなめる。
「わかった」手近のデスクをどんどんと叩きながら、「わたしはヴルームフォンデルだ。これは要求じゃないぞ。これは事実だ! 我々がぁ要求するのはぁ、確固たるぅ事実だぁ!」
「いや、そんなもの要求しとらん」マジクサイズがいらいらした口調で言った。「そんなものはこれっぱかしも要求しない!」
間髪をおかずヴルームフォンデルが叫んだ。
「我々はぁ、確固たる事実をぅ、要求しない! 我々が要求するのはぁ、確固たる事実のぅ完全なる欠如だ! わたしはヴルームフォンデルであるのかもしれないしぃそうでないのかもしれないことをぅ要求する!」
「それにしても、何者なんだ?」怒り狂ったフックが怒鳴った。
「我々は」マジクサイズが言った。「哲学者だ」
「だが、そうでないかもしれない」ヴルームフォンデルがプログラマーたちに向って警告するように指を一本振った。
「いや、たしかに哲学者なんだ」マジクサイズが言った。「我々は“哲学者、賢人、先覚者、その他の思考者の融和連合”の代表としてここにやってきた。その機械のスイッチを切りたまえ――それも、たったいまだ!」
「なにがいかんというのだ?」ランクウィルが言った。
「なにがいかんのか教えてやろう」マジクサイズが応じた。「限界があらわになることだ、それがいかんのだ」
「限界がぁあらわになることがいかんのかぁいかんのではないのかぁということをぅ要求する」ヴルームフォンデルが叫んだ。
「おまえはその機械に足し算でもさせておけばいいのだ」マジクサイズが言った。「我々は永遠の真理を探るとしよう。それがいちばんありがたい。おまえは我々の法的立場を確認したいだろう。法的には“究極の真理の探究”は我々働く思考者から決して奪われてはならぬ権利だ。しかし、やくたいもない機械が働いて、その真理を見つけだしてしまったら、我々は失業してしまうであろう。つまり、我々は真夜中まで、神はいるとかいないとか議論しておったのに、もしこの機械が、朝になって神さまの電話番号なぞを教えてくれたとしたら、我々の立場はどうなるのか、ということだ」
「そうだ」ヴルームフォンデルが叫んだ。「我々はぁ疑惑とぉ不確定とのぉ確固たる領域をぅ要求する」
と、突然、大きな声が部屋じゅうに響きわたった。
「ちょっと意見を述べてもいいですか?」ディープ・ソートが言った。
「我々はストをやるぞぉ!」ヴルームフォンデルが叫んだ。
「そのとおりだ!」マジクサイズがうなずいた。「全国の哲学者がストをおこなう」
室内のブーンという音が急にたかまって、何ヵ所かにそなえつけられたニス塗りキャビネット内のスピーカーのサブ・ウーハーから、ディープ・ソートの声が少し大きくなって聞えた。
「わたくしが申しあげたいのは、わたくしの回路はことごとく、生命と宇宙と万物についての究極の疑問の答えを計算することにふりむけられ、もはや引き返せないということです」ディープ・ソートは言葉を切り、全員の注目を集めていることを知って満足し、少し穏やかな声で続けた。「だが、そのプログラムを遂行するにはしばらく時間がかかります」
フックは我慢できぬというように腕時計を一瞥した。
「どれくらいだね?」
「七百五十万年」
ランクウィルとフックは眼をぱちくりさせて互いに見つめあった。
「七百五十万年」ふたりは異口同音に叫んだ。
「はい」と、ディープ・ソート。「しばらく考えねばならないと申しあげませんでしたか。このようなプログラムを実行させれば、哲学にとってたいへんなPRになりますよ。人々はそれぞれ独自の答えを心に抱くようになるでしょうが、わたくしはそれらすべてを知らねばならない。そのことが世間に知られるようになれば、その事態をいちばん利用できるのがあなたがたではありませんか。あなたがたの意見がはなはだしくくいちがい続け、有力新聞で泥仕合を続けるかぎり、そして、あなたがたに気のきくマネージャーがつくかぎり、あなたがたは喰いっぱぐれることはないでしょう。どうです?」
ふたりの哲学者は唖然としてコンピュータを見つめた。
「なんてこった」マジクサイズが言った。「そいつはわたしが思考と呼んでるやつそのものじゃないか。おい、ヴルームフォンデル、我々はなぜそんなふうに考えたことがなかったんだろう?」
「わからない」ヴルームフォンデルは畏怖を覚えたようなかすれ声で言った。「我々の脳はかなり訓練されているにちがいないと思っていたんだけど」
そう言いながら、ふたりはくるっと向きをかえ、ドアから外へ――夢にも思っていなかった生活へと出ていった。
26
「なかなかためになる話だった」
スラーティバートファーストが物語のおおよそを語り終えると、アーサーが言った。
「だが、まだわからない――それが地球やねずみとどう関係しているんだい」
「いまのは、物語の前半にすぎんのじゃよ、地球人」と、老人が言った。「七百五十万年後、偉大なる答えの与えられる日に何が起ったかを知りたかったら、わしの書斎に来てもらわねばならんな。そこで感覚テープを使えば、その日の出来事を体験できるのじゃ。もっとも、おぬしが新しい地球の表面を歩きまわってみたいと思っておるなら、話は別じゃがね。あれはまだ半分ほどしかできあがっておらん――まだ地殻に人工のダイノサウルスの骨を埋めるところまで至っておらん――新世代の第三紀と第四紀を敷きつめねばならんし……」
「いや、いいですよ。そっくり同じというわけじゃないんでしょ」
「ああ、そうなるだろうな」
老人はエアカーの向きをかえ、あの茫々漠々たる壁へと戻りはじめた。
27
スラーティバートファーストの書斎は乱雑の極みだった。図書館で大爆発があったあとみたいだ。書斎に入ると、老人は顔をしかめて、
「まことに不幸なことに、生命維持コンピュータのひとつで、ダイオードが飛んでな。清掃係を目覚めさせようとしたところ、彼らは三万年ばかり前に死んどることがわかった。あの死体を誰が始末することになるのか、それがいちばんの気がかりじゃよ。さあ、そのへんに座らんかね。いまテープをおぬしの身体につないでしんぜよう」
老人は、ステゴザウルスの肋骨でつくったように見える椅子を示した。
「それはステゴザウルスの肋骨でつくったのじゃよ」そう説明して、紙とペンの山の下から電線を引っぱりだそうとした。
「さあ、これを持って」
老人は被覆をはがした電線の端を二本、アーサーにさしだした。
それをつかんだ瞬間、一羽の小鳥がまっすぐ彼に向って飛んできた。
アーサーは空中に浮いており、自分の姿は完全に見えなかった。眼下にはきれいな立木に囲まれた広場があり、その周囲には見わたすかぎり、広々として空高くそびえる、だがいささかくたびれた白いコンクリートの建物群がひろがっている。建物の多くはひびわれ、雨のしみができていた。しかし今日は太陽が顔をだし、気持ちのよいそよ風が木々のあいだを吹きぬけている。建物が低くブーンと音をたてているようなのは、広場や街路が元気のいい人々であふれかえっているからだろう。どこかで楽隊が演奏をし、きれいな旗がそよ風にはためき、祭りの熱気は空中にまでみなぎっていた。
アーサーは空中にひとりぼっちで、ひどく淋しかった。アーサーと名づけられた肉体すらないのだ。しかし、そんなことを考える間もなく、広場の向うで声がして、みんなの注意を引きつけた。
建物の前の派手やかに飾りつけられた演壇の上にひとりの男が立ち、広場を見おろして、マイクで群衆に呼びかけた。
「ディープ・ソートのそばで待つ諸君!」男は大声をあげた。「この宇宙でもっとも偉大にしてもっとも誠実なる関心をひきおこした哲学者ヴルームフォンデルとマジクサイズの栄えある子孫たちよ……待機の時は終った!」
群衆のあいだから大きな歓声があがった。旗がふられ、吹流しが風になびき、ピーピーと口笛が吹かれた。狭い通りを上から見ていると、まるで仰向けになったムカデが手や足をむやみやたらにジタバタさせているようだった。
「七百五十万年にわたり、我々は今日というすばらしき希望に満ちた日を待ち続けた」演壇の男が叫んだ。「答えの日が来たのだ!」
恍惚状態にある群衆がどよめいた。
「もはや二度と」男は言った。「もはや二度と、朝、目覚めて、おれは何者だ、とか、おれの人生の目的は何だ、とか、これから起きて仕事にいくのは本当に大事なことなのだろうか、とか考える必要はなくなった。本日、我々は、あのいつまでも心にかかる生命と宇宙と万物の問題に決定的かつ簡単明瞭なる答えを教えられるのだから!」
群衆が再びどっとはやしたてたとき、アーサーは自分が滑空して、演壇のうしろにある建物の一回のどっしりした窓に向っていることに気づいた。
一瞬、あわてた。まっすぐ窓に向っていたからである。しかし、一、二秒後、ガラスに触れもしないで窓を通りぬけていた。
その部屋に入りこんだとき、室内の誰も彼に気づかなかった。アーサー自身が存在しないのだから、それはべつに驚くにあたらない。こうした体験は、七十ミリ、六トラックの映画も裸足で逃げだすようなすぐれた投影にすぎないのだということが彼にもわかってきた。
部屋はスラーティバートファーストが説明したのとほぼ同じだった。七百五十万年のあいだ、この部屋は一世紀ごとによく整備され、掃除されてきたものらしい。ウルトラマホガニイのデスクは角がとれてしまっていた。絨毯はちょっと色褪せていた。しかし、革張りデスクの上にのったターミナルは、昨日完成したばかりのようにキラキラと輝いている。
地味な服を着たふたりの男がかしこまってターミナルの前に座り、待っていた。
「もうじきだな」
ひとりが言った。と、その男の首のそばの空中に文字があらわれたので、アーサーはびっくりした。文字は“ルーンクォール”とあり、一、二度またたくと消えた。これは何だと思っているうちに、もうひとりが口を開き、“フォークフ”という文字が首のそばにあらわれた。
「七万五千世代前、御先祖さまがこのプログラムを作動させた」と、その男は言った。「この七百五十万年間で我々がコンピュータの声を聞く最初の人間になるわけだな」
「胸がわくわくするよ、フォークフ」
最初の男が言い、例の文字はいわば字幕なのだとアーサーは思い至った。
「まもなく答えを聞くんだな」フォークフが言った。「生命と……!」
「宇宙と……!」ルーンクォールが言った。「万物の答を!」
「シーッ」ルーンクォールがわずかに手をあげた。「ディープ・ソートがしゃべる準備をはじめたようだぞ」
しばらく待ち設けるような沈黙。制御装置《コンソール》の前面パネルにゆっくりと生命が吹きこまれた。ランプが試験的にまたたき、きちんとしたパターンにおちついた。低くやわらかなブーンという音がスピーカーから洩れはじめた。
「おはよう」ついにディープ・ソートが言った。
「アー……おはよう、ディープ・ソートよ」ルーンクォールが不安そうに言った。「あれはわかったかね……つまり……」
「答えですか?」ディープ・ソートが堂々とした声で応じた。「ええ、わかりましたよ」
男たちは期待に武者ぶるいした。この七百五十万年は無駄ではなかったのだ。
「本物の答えだろうね?」フォークフがかすれ声で言った。
「本物の答えです」ディープ・ソートがうけあった。
「万物の答えだね? 生命と宇宙と万物についての究極の疑問の答えだね?」
「はい」
ふたりはこの瞬間に対処する訓練をうけていた。ふたりのこれまでの人生はこのときのためのものだった。ふたりは赤子のとき、答の発表に立ち合うべく選ばれた人間であった。しかし、ふたりは興奮した子供のように息を荒くし、もぞもぞと落ちつきなく身体をうごめかせていた。
「その答えを我々に教えてくれるね?」ルーンクォールが訊いた。
「はい」
「いま?」
「いまです」
ふたりはかさかさになった唇をなめた。
「だが、きっと気に入らないでしょうね」とディープ・ソートが言った。
「そんなことはどうでもいい!」フォークフが言った。「我々は答えを知らねばならないのだ! いますぐに!」
「いますぐ?」ディープ・ソートが訊ねた。
「そうだ! いますぐ……」
「わかりました」
コンピュータはそう言い、黙りこくった。ふたりはそわそわした。緊張は耐えがたいほどだった。
「きっと気に入らないと思いますよ」ディープ・ソートが言った。
「教えてくれ」
「よろしい」ディープ・ソートが言った。「生命と……」
「フム……!」
「宇宙と……」
「フム……!」
「万物についての究極の疑問の答は……」
「フム……!」
「答えは……」ディープ・ソートは言葉を切った。
「フム……!」
「答えは……」
「フムフム……!!」
「四十二です」感情をこめて言い、沈黙した。
28
長い長い時間がたった。誰もしゃべらなかった。
フォークフの視野のすみに、外の広場で待っている大群衆がうつっている。
「おれたちはリンチされるぞ」かすれた声で言った。
「たいへんな仕事だった」ディープ・ソートが穏やかに言った。
「四十二だと!」ルーンクォールが叫んだ。「七百五十万年かけて、それだけか?」
「何度も徹底的に検算しました」コンピュータが応じた。「まちがいなくそれが答えです。率直なところ、みなさんのほうで究極の疑問が何であるかわかっていなかったところに問題があるのです」
「しかし、あれは最大の疑問だった。生命と宇宙と万物についての究極の疑問だった」ルーンクォールが叫んだ。
「ええ」ディープ・ソートは愚か者は度しがたいといったふうに応じた。「でも、その疑問とはいかなるものなのでしょう?」
ふたりは次第に茫然となって、黙りこくり、コンピュータを、そして互いをまじまじと見つめた。
「それは、それはすべてということだ……万物だ」フォークフが弱々しく言った。
「しかり!」ディープ・ソートが言った。「それなら、究極の疑問が何であるかわかりさえすれば、答えの意味するところもおわかりになるでしょう」
「なんてこった」
フォークフはつぶやき、ノートを脇に抛りだすと、にじんだ涙をぬぐった。
「よし、わかったよ」ルーンクォールが言った。「疑問を教えてくれるかね?」
「究極の疑問を?」
「そうだ!」
「生命と宇宙と万物についての?」
「そうだ!」
ディープ・ソートはしばらく考えた。
「むずかしい」
「でも、できるだろう?」
ディープ・ソートはまた考えこんだ。
ついに――
「できません」
ふたりはガクッと肩をおとした。
「でも、できるものを教えてあげましょう」ディープ・ソートが言った。
ふたりはハッとして顔をあげた。
「誰だ? 教えてくれ」
アーサーは、自分がゆっくりと、だがまっすぐにコンソールに向っていることに気づいて、存在しないはずの頭がムズムズしはじめた。が、これはこの記録をとっている者が劇的効果をたかめるためズームアップしたのにすぎなかった。
「やがて登場するコンピュータのこと以外はなにも話せません」ディープ・ソートの声はおなじみの朗読調に戻っていた。「わたくしとは比較にならぬほどのパラメーターをもったコンピュータです――わたくしがそれを設計いたしましょう。究極の答えに対する究極の疑問を計算できるコンピュータです。有機生命自体が機能母体となる非常に巨大で精密なコンピュータです。あなたがたは新たな形態をとって、そのコンピュータのなかに入りこみ、一千万年をすごすことになりましょう。そうです、わたくしはそのコンピュータをあなたがたのために設計しましょう。それに名前をつけましょう。それは……地球です」
フォークフは眼を丸くしてディープ・ソートを見つめた。
「つまらん名前だな」
彼は言った。と、彼の身体に縦に大きな切れ目が入った。ルーンクォールはどこからともなく吹きつけた突風に巻きあげられた。コンピュータのコンソールはしみだらけになり、ひび割れた。壁がチカチカとまたたき、ぼろぼろになり、部屋全体が天井に向って崩れ上がった……
二本の電線を持ったアーサーの前にスラーティバートファーストが立っていた。
「テープはこれでおしまい」と老人は言った。
29
「ザフォド! 起きろ!」
「ムムムゥ……」
「さあ、起きるんだ!」
「もうすこし寝させてくれよ」
ザフォドは言い、声に背を向けて、眠りに戻ろうとした。
「ぼくに蹴っとばされたいか?」フォードが言った。
「そんなことして楽しいか?」ザフォドがくぐもった声で言った。
「いいや」
「おれもだ。それならやめよう。もう起さんでくれ」
ザフォドは身体を丸めた。
「彼はガスを二倍吸いこんだのよ」トリリアンがザフォドを見おろしながら言った。「気管がふたつあるものね」
「そばでごちゃごちゃいわんでくれ。眠れやしない。この地べたはどうしたんだ。冷たくて堅いぞ」
「金《きん》だよ」フォードが言った。
バレーのようなすばらしい動きでザフォドは立ちあがり、遙か地平を見わたした。黄金の大地が四方八方どこまでもひろがっていたからである。がっしりとして、凹凸ひとつなかった。それはまるで……いや、なんのように輝いていたという形容はできない。黄金でできた惑星と同じように輝くものなど、この宇宙にほかに存在しないからだ。
「誰がこんなものを?」眼を丸くしてザフォドがあえいだ。
「そう興奮しなさんな」フォードが言った。「こいつはただの商品見本だよ」
「ただの誰だって?」
「商品見本よ」トリリアンが言った。「幻影なの」
「どうしてそんなことがわかる」
ザフォドは叫び、四つんばいになって、地面を仔細にながめた。つついてみた。どっしり重量感があり、ほんのちょっと柔らかかった――爪できずをつけることができる。鮮やかな黄色で、鮮やかに輝いている。息を吹きかけると、いかにも本物の金に息を吹きかけたときのように曇るのだった。
「トリリアンとぼくはあたりをすこし歩きまわってみたんだ」フォードが言った。「ぼくらが叫び、怒鳴り続けると、やっと人があらわれた。さらに叫び、怒鳴り続けると、食事をもってきてくれ、ぼくらを応接する準備がととのうまでの時間つぶしにこの惑星カタログの中にぼくらを押しこめたってわけさ。これは感覚テープなんだ」
ザフォドはいまいましげにフォードを見つめて、
「くそったれめ。他人の夢をみるというすてきな夢をみていたのに起しおって」
彼は腹をたてて、どすんとしゃがみこんだ。
「あそこの谷はなんだ?」
「純度検証の刻印だよ」フォードが答えた。「さっき見てきたんだ」
「これでも起すまでにずいぶん待ったのよ」トリリアンが言った。「この前の星は膝まで魚であふれていたわ」
「魚?」
「おかしなものが好きな種族もなかにはいるものよ」
「その前は」とフォードが言った。「白金《プラチナ》の星で、ちょっとさえなかった。でも、純金の星は君もきっと見たがるだろうって思ったもので起こしたんだ」
どちらを向いても光の塊が彼らを照らしつけている。
「きれいだよ」ザフォドはいらだたしそうに言った。
空に、緑色で大きくカタログ・ナンバーがあらわれた。それはまたたいて、変化した。三人があたりを見回すと、風景もまた変化していた。
ただひとこと、「ヤッハ」という声が聞えた。
海は紫色だった。三人のいる浜辺は黄色と緑の小さな小石でできている――どうやら宝石であるらしい。遠くの山々は頂きだけが赤く、ゆったりと起伏をくりかえしている。近くに銀のビーチ・テーブルがあり、フリルと銀の房のついた藤色のパラソルがおいてあった。
空にはカタログ・ナンバーにかわって、大きなCMがあらわれた。“いかなる趣味をおもちでも、自慢ではありませんが、マグラシアは御要望におこたえします”
五百人の裸の女がパラシュートで空から降りてきた。
一瞬にしてその光景は消え、三人は雌牛がいっぱいいる春の草原に立っていた。
「そうだ!」ザフォドが叫んだ。「おれの脳の話をしてたんだ!」
「そのことをしゃべりたいのか?」フォードが訊いた。
「ああ」
ザフォドは言い、三人は座って、周囲に生れては去っていく風景は無視することに決めた。
「おれはこう考えた」ザフォドがしゃべりだした。「おれの脳になにが起ったのであれ、それをしたのは、このおれだ。政府のテストで何かがバレないようにやったのだ。そのことについて、おれ自身はなにも知らない。まったく狂ってるよ、な?」
ふたりはうなずいて同意を示した。
「そこで考えた。人に知られたくない、銀河政府にも、このおれ自身にも知られたくない秘密とはいったい何だ? その答えは、おれにもわからん。あたりまえだな。だが、いくつかの手がかりを組みあわせて、推理をはたらかせることはできる。おれはいつ大統領になる決心をしたのか? ヨーデン・ヴランクスが死んだ直後だ。フォード、ヨーデンのことは覚えているだろ?」
「ああ」フォードが応じた。「子供のころに会ったことがある。アルクトゥールス人の船長だ。とても楽しい奴だった。あんたが彼の大貨物船にもぐりこんだとき、ぼくらにトチの実をくれたっけ。おまえはおれの知ってる子供のなかでいちばんあきれた小僧だって、あんたに言ったねえ」
「いったい何のお話?」
「昔話さ」フォードが言った。「子供のころ、ぼくらはベテルギウスにいた。アルクトゥールスの大貨物船は銀河の中心と辺境惑星とを結んで商品の運搬をやっていた。ベテルギウスの交易偵察船が商売相手を見つけると、アルクトゥールスがそこに商品を卸すんだ。ドーデリス戦争で殲滅させられるまでは、宇宙海賊も多かったので、大貨物船には銀河系の科学でみるかぎりいちばん奇抜な防御バリヤーがそなえつけられていた。大貨物船はまったく荒っぽいものだったよ。それに、でかかった。惑星をめぐる軌道にのると、その星系の太陽に日食をおこさせてしまうほどだった。
ある日、ガキのころのザフォドがその大貨物船にもぐりこもうと思った。成層圏用につくられた三連ジェットの快速艇《スクーター》に乗ってね。ほんとに子供だったんだな。まあ、気違い猿より始末に悪い。ぼくもその襲撃についていった。なぜって、そんなことはできやしないってほうに金を賭けていたんだ。彼に偽の証拠を持って戻ってこられちゃかなわないからね。で、どうなったと思う? ぼくらは、ザフォドが改造して馬力をあげた快速艇に乗り、何週間かかけて三パーセクの宇宙を横ぎって、いまもってどうやったのかわからないんだが大貨物船に入りこみ、おもちゃのピストルを振り振りブリッジに向い、トチの実をだせと言ったんだ。こんなむちゃくちゃは聞いたことがない。かくてぼくは一年分のおこづかいをまきあげられた。なんのためだったのかって? トチの実のためさ」
「その船長もずいぶんあきれた人だった――ヨーデン・ヴランクス」ザフォドが言った。「彼はおれたちに喰いものをくれ、酒も飲ましてくれた――銀河系のなかでも特に気味の悪い星でとれた酒だったっけ。もちろん、トチの実もたくさんくれた。そしておれたちは信じられないようなすばらしい時をすごした。やがて、船長はおれたちを瞬間移動でベテルギウスに戻してくれた。ベテルギウス国立刑務所のなかでもとりわけ警備のきびしい監獄にな。彼はクールだった。大統領になるための活動をしていた」
ザフォドは言葉をきった。
周囲の光景は今は陰鬱なものになっていた。どす黒い霧が渦を巻き、象のようなものが影の中をひそやかに進んでいく。ときおり、幻影の獣を殺す幻影の獣の咆哮が大気を揺がした。こんな星が気に入る人が、採算がとれるくらいには存在するものとみえる。
「フォード」ザフォドが静かな口調で言った。
「ウン?」
「死ぬ直前、ヨーデンはおれを訪ねてきたんだ」
「なんだって! 話してくれなかったじゃないか」
「ああ」
「何と言っていたんだ? 何のために彼は君を訪ねたんだ?」
「彼は〈黄金の心〉号のことを教えてくれた。おれにあの船を盗ませようっていうのは、彼のアイデアなんだ」
「彼のアイデアだって?」
「ああ、あれを盗みだす唯一の機会は、進宙式のときしかなかった」
フォードは愕然としてしばらく彼の顔をまじまじと見つめた。やがて、腹をかかえて笑った。
「つまり、なにかい――あの船を盗むために大統領になったっていうのか?」
「そうだ」
ザフォドはニタリと笑った。そんな笑みをうかべていたら、普通の人間なら壁にゴムを張った密室に閉じこめられることうけあいだ。
「でも、なぜ?」フォードが言った。「あの船を手に入れることがなんでそんなに大事なんだ?」
「わからん。なんで重要か、なんのために必要なのかちゃんと知っているなら、テストにあらわれたはずだ。おれが見のがすはずがない。ヨーデンはいろんなことを話してくれたはずだが、いまはどこかに封じこまれてしまっている」
「では、ヨーデンがあんたになにかをしゃべった結果、あんたは自分の脳に手を加え、めちゃくちゃにしてしまったのだと考えているのか?」
「昔のおれはひどいおしゃべりだった」
「なるほど、それで、ザフォド、あんたは自分で自分の面倒をみたいというわけだね」
ザフォドは肩をすくめた。
「つまり、あんたはその理由にうすうす感づいているんじゃないのか?」フォードが訊ねた。
ザフォドは頭をふりしぼって考えた。疑いが彼の心をよぎった。
「いや」ついに彼は答えた。「おれは自分の秘密を知っているようには思えないな。だが」と、さらに考えてつけ加える。「それは無理もないと思う。おれは自分の心をそんなに信用していないから」
その直後、カタログの最後の星が消え、現実の世界がふたたび姿をあらわした。
三人は、ガラスのテーブルや惑星の設計に対して与えられる賞牌がたくさんおかれたビロード張りの待合室にいた。
背の高いマグラシア人の男が三人の前に立っていた。
「はつかねずみがいまみなさんにお会いになります」と男は言った。
30
「というわけじゃよ」
スラーティバートファーストは、乱雑このうえもない書斎をおざなりに片づけていた。彼は書類の山の頂上から一枚の紙をとりあげたが、他に置くべき場所も思いつかないらしく、またもとの山に戻したが、そのとたん、書類の山はどっと崩れた。
「ディープ・ソートが地球を設計したのじゃ。我々が地球をつくり、君たちが住んだのじゃよ」
「そして、ヴォゴン人が来て、プログラムが完了する五分前に破壊してしまった」とアーサーがつけ加えた。
「そうじゃ」老人は言い、どうしようもないといったように書斎を見まわした。「一千万年分の仕事はかくて失われた。一千万年だぞ、地球人よ……この時の大きさがわかるかね?その間に、一匹の虫から銀河文明が発生することが五回繰り返されるほどなのじゃ。それがすべて失われた」老人は言葉を切った。「まことに官僚的じゃ」
「なるほど」アーサーが考え深げに言った。「それでいろんなことの説明がつきますね。昔から、この世界の裏でなにかが起っているという説明しがたいおかしな気分がしてたんですよ。なにか巨大な、邪悪でさえあるものが、ね。でも、それが何なのか誰にもわからなかったんだ」
「いや」と老人は言った。「それはごく普通の偏執病《パラノイア》だよ。宇宙の全員にその気がある」
「全員? ウム、全員というからには、なにか意味があるにちがいない。おそらく、この宇宙の外で……」
「かもしれんな。だが、そんなことかまうものか」アーサーがかっかとしすぎないうちにスラーティバートファーストは言った。「わしは老い、疲れているのかもしれんな。じゃが、本当に起っていることを見きわめるチャンスというものは、ごくごくわずかなもので、見きわめるためには、そんな感じがするぞと言い、自分をそんな気にさせ続けるしかないのじゃよ。わしを見たまえ。わしは海岸線をデザインする。ノルウェーの仕事に対して賞をもらったこともある」
老人はゴミの山をかきまわして、大きな有機ガラスの塊を掘りだした。そこには老人の名とノルウェーの模型が彫りこまれている。
「あのセンスはどこへいってしまったのだ」老人は言った。「これを作ることのできた感覚は消えてしまった。わしはフィヨルドづくりがライフワークだった。フィヨルドが流行になり、わしが大賞に輝いたのは、つかのまの一瞬であった」
彼は賞牌をひっくりかえすと、肩をすくめ、無造作に抛りだした。といっても、堅いものの上に抛り投げるほど無造作ではなかった。
「そのかわり、いま作っている地球では、わしにアフリカを担当させよった。で、またフィヨルドをつくってやった。わしはフィヨルドが好きだからな。わしは古い人間じゃから、フィヨルドでアフリカがすてきなバロック調になると思っておった。ところが、みんなはこれでは熱帯らしくないとわしに言うのじゃ。熱帯だと!」老人はうつろな笑い声をあげた。「それがどうしたっていうんじゃ。科学はいろいろとすばらしいことを成し遂げたが、わしは正義よりも楽しいことのほうがましじゃ」
「本当ですか?」
「だが、すべてはむなしくなった」
「お気の毒です」アーサーは同情して言った。「そんなことがなければ、とてもすてきな生き方だと思うんですがね」
壁のどこかで、小さな白いランプがまたたいた。
「さあ」スラーティバートファーストが言った。「ねずみに会いに行く時間じゃ。おぬしがこの星にやってきたので、みな、すごく興奮しておる。おぬしの到着は、この宇宙史上三番目にありえぬことだと、おおいに歓迎されておる」
「一番目と二番目はなんです?」
「ああ、ただの偶然の一致じゃろう」スラーティバートファーストは無造作に言い、ドアをあけ、アーサーがついてくるのを待った。
アーサーはもう一度書斎を見まわし、それから自分自身の服装《スタイル》を見おろした。木曜の朝、泥の中に横たわったときのときのよごれきった、汗まみれの服を見おろした。
「ぼくのライフスタイルはどうにもこうにもひどいもんだな」と、低くつぶやく。
「なんだね?」老人が穏やかに言った。
「なんでもありません――つまらんジョークです」
31
無意識のつまらぬひとことが生命にかかわることもある。しかし、この問題がいかに奥深いものかは、いつも充分に理解されているとはかぎらない。
たとえば、アーサーが「ぼくのライフスタイルはどうにもこうにもひどいもんだな」と言った瞬間、一個のワームホールが時空連続体のうえに気まぐれに生れ、アーサーの言葉をはるかはるか昔、宇宙のはるか彼方にある銀河系に送りとどけた。その銀河系では好戦的な種族のあいだで緊張関係が続いていた。恐ろしい恒星間戦争まで一触即発の状態にあった。
双方の首領が最後の話し会いの席についていた。
話し会いのテーブルには気づまりな沈黙がおりている。黒い宝石を埋めこんだきらびやかな戦闘服を着たヴルフルグ族の司令官は、甘い香りのする緑の蒸気に包まれたグククヴント族の司令官をじろりと見た。また空には、彼の命令一下、電気的な死を解き放とうと待ちかまえる百万の武装宇宙巡洋艦がひかえている。ヴルフルグ族の司令官は、自分の母親をののしった言葉を取り消せと卑劣な相手に迫った。
相手は焼けつくように熱い蒼ざめた蒸気のなかで身じろぎした。その瞬間である――ぼくのライフスタイルはどうにもこうにもひどいもんだな、という言葉が聞えてきたのは。
不幸なことに、それはヴルフルグ語でいちばんひどい侮蔑の言葉だった。こうなれば、何世紀も続くすさまじい戦争がはじまっても仕方なかった。
言うまでもないことだが、数千年にわたって多くの人々が虐殺されたあとになって、すべてはつまらぬ誤解から生じたことだというのがわかり、双方の宇宙艦隊は、そもそもの原因と判明したわれわれの銀河系に合同攻撃をかけるため、二、三の意見の相違を水に流すことにした。
強力艦隊は数千年かけて虚空を渡り、最初に遭遇した惑星(たまたまそれが地球であった)に突入した。大きさの測定をあやまったため、宇宙艦隊は誤って子犬の口に呑みこまれてしまった。
宇宙史における因果の交錯を研究している人々によれば、こんなことは四六時中おこっているのだが、我々にはそれを防ぐ力はないのだそうだ。
「それが世間というものだ」と研究者は言う。
エアカーで少し進んだだけで、アーサーと老人はドアに着いた。ふたりはエアカーをおり、ガラスのテーブルと透明プラスチックの賞牌が山と並ぶ待合室に入った。待つほどのこともなく、部屋の奧のドアの上でランプがつき、ふたりはそのドアをくぐった。
「アーサー! 無事だったのか!」叫び声がした。
「ぼくが無事?」アーサーはびっくりした。「おやおや、これは」
照明はかなり暗く、風変りな料理、奇妙な砂糖菓子、異様な果物の並んだ大きなテーブルについているのがフォード、トリリアン、ザフォドの三人だとわかるまでには、ちょっと時間がかかった。三人はがつがつと食事をしているところだった。
「どうしたんだ?」アーサーが訊いた。
「そうさね」ザフォドがこんがり焼いた骨つきの赤身肉にかぶりつきながら言った。「この宴席の招待主がわれわれにガスをかがせ、われわれの心に一撃を加え、まあぞっとする目にあわせてくれて、いま、お近づきのしるしにすてきな食事を御馳走になっているところさ。ほら」彼は鉢からひどい臭いのする肉をとりあげた。「ヴェガ犀《さい》のカツはどうだね。こういうものが好きなら、なかなかいけるよ」
「招待主?」アーサーは言った。「どこに? ぼくには……」
小さな声がした――
「昼食にようこそ、地球のお方」
アーサーはあたりを見まわし、ゲッとうめいた。
「テーブルにねずみがいるぞ!」
ぎごちない静寂。一同は刺すようにアーサーを見つめた。
アーサーは、テーブルにのったウィスキイ・グラスのようなものの中に座った二匹のはつかねずみを見つめるのに忙しかった。彼は静寂に気づき、みんなをながめた。
「アッ!」と、やっと悟った。「これは失礼した。突然のことで、心の準備が……」
「紹介させてちょうだい」トリリアンが言った。「アーサー、こちらがベンジイねずみさん」
「やあ」ねずみの一方が言った。
その髭が、ウィスキイ・グラス様のものの内部にある敏感なタッチ・スイッチらしきものに触れた。グラスはわずかに前進した。
「そしてこちらがフランキイねずみさん」
もう一方のねずみは「お会いできて光栄」と言い、同じように髭をふるわせた。
アーサーは口をぽかんとあけた。
「この二匹はまさか……」
「ええ」と、トリリアン。「わたしが地球からつれてきたねずみよ」
彼女はアーサーの眼をのぞきこんだ。彼女がごくごくかすかに諦めたように肩をすくめたような気がした。
「そのアルクトゥールスの大ロバのすり身の鉢をとってくださらない」トリリアンが言った。
スラーティバートファーストがひかえめな咳をした。
「失礼ですが……」
「ああ、ありがとう、スラーティバートファースト」ベンジイねずみがつっけんどんに言った。「もうさがっていいよ」
「なんですと? ああ……さようですか」老人は一歩さがって、「では、またフィヨルドづくりに戻るといたしましょう」
「ああ、その必要はなくなりそうだ」フランキイねずみが言った。「新しい地球はもう必要がなくなりそうなんだ」彼はピンクの小さな眼をくるくるとまわした。「地球が破壊される数秒前まで地球上にいた現地人を発見したいまとなっては、もう要らないだろうね」
「なんですと?」スラーティバートファーストは茫然としている。「まさか本気じゃないでしょうな! 千個もの氷河を用意して、アフリカに配置するところだったのに!」
「それじゃあ、取り壊す前にスキーでもしたらいい」フランキイがとげとげしく言った。
「スキーですと!」老人が叫んだ。「あの氷河は芸術ですぞ! エレガントな輪郭を描く山並み、きりりとそびえたつ氷の尖塔、堂々とした深い渓谷! 芸術の上でスキーをするなど冒涜ですぞ!」
「ありがとう、スラーティバートファースト」ベンジイがきっぱりと言った。「用事は終ったよ」
「わかりました」老人は冷やかに言った。「では、さようなら、地球人」とアーサーに向って言った。「ライフスタイルがよくなればいいね」
他の人々に軽くうなずくと、老人は向きをかえ、悲しげに部屋を出ていった。
アーサーは言うべき言葉もみあたらず、黙ってその後ろ姿を見送った。
「さて」ベンジイねずみが言った。「仕事に――」
フォードとザフォドはグラスをカチンと合わせた。
「仕事に乾杯!」
「なんだって?」と、ベンジイ。
フォードはあたりを見まわした。
「失礼、乾杯をしようとおっしゃったのだとばかり思ったものですから」
二匹のねずみはガラス製の移動装置のなかをもどかしげに走りまわった。やっとのことで落ち着きをとりもどすと、ベンジイねずみが前に出て、アーサーに言った。
「さて、地球人よ。現在の状況は実はこういうことなのだ――知ってのとおり、我々は一千万年のあいだ、君たちの星を多少なりとも管理してきた。究極の疑問と呼ばれるやっかいな代物を見つけるためだ」
「なぜ?」アーサーがつっけんどんに言った。
「いや――それはすでに考えた」フランキイが口をはさんだ。「でも、答えと合わんのだ。なぜ?――四十二……ね、ぴったりこないだろう」
「いえ、ぼくの言ったのは、なぜそんなものを見つけようというんです?」
「ああ、なるほど」とフランキイ。「ありていに言えば、単なる習慣にすぎなくなっている。それが多少なりとも問題なのだ――我々はすべてがいやになっている。あのアホのヴォゴン人のせいですべてを一からやりなおし、究極の疑問を見つけねばならないということで、実は我々はひどい神経衰弱におちいっておるのだ。言ってることはわかるかね? ベンジイとわたしが与えられた任務を終え、ひと足はやく休暇をとって地球を離れたのは、まったくの僥倖《ぎょうこう》にすぎん。我々は君の友人たちの尽力により、マグラシアに戻った」
「マグラシアは我々の次元への門なのだ」ベンジイが口をはさむ。
「それ以来」と、ねずみは続けて、「五次元テレビのトーク番組にでないかとか、僻地をまわる講演旅行をしないかとか、かなり条件のいい契約の申し出があいついだ。我々はその申し出を受けいれる気になりかけた」
「おれなら受けいれるな。そうだろ、フォード?」
「もちろん。とびつくね――弾丸みたいに」
アーサーはふたりをちらりと見て、この話の狙いはいったい何だろうと思った。
「しかし、我々は収穫をせねばならん」フランキイが言った。「理論上は、我々はまだ究極の疑問を必要としているのだからな」
ザフォドがアーサーのほうに身をのりだした。
「つまりさ、トーク・ショーのスタジオかなんかで、ふたりの男がくつろいで座っているとするな――と、たまたま、ふたりが生命と宇宙と万物の答えを知ってると言ったとする。そして、その答えが四十二だということになる。と、ショーはそれで終りさ。あとが続かんのだ」
「我々は、ぴったりくるなにかを見つけねばならない」ベンジイが言った。
「ぴったりくるなにか、ですって?」アーサーが大声をだした。「ぴったりくる究極の疑問ですか? 二匹のねずみが?」
ねずみたちは毛をさかだてた。
「つまり、観念論もよかろう、純粋な探求心も尊かろう、いかなる形であれ、真実を追求するのは立派だ。が、この世に本当の真実があるとすれば、それは、宇宙のすべての多次元無限性はほぼ確実にひと握りの狂人によってその状態にさせられている――ということを君が考えはじめるときがくるだろう。そして、あと一千万年かけて答えをさがすか、いまお金をとって楽しむか――ふたつにひとつを選ばねばならぬときもくるだろう。そこでわたしはそれを考えてみようというのだ」
「でも……」絶望的な口調でアーサーが言いかけた。
「おい、わかるだろ、地球人よ」ザフォドが口をはさんで、「あんたはそのコンピュータ母体《マトリックス》の最後の産物なんだ。しかも、あんたの星が破壊される瞬間までその場にいたんだぞ」
「エー……」
「だから、君の脳はそのコンピュータ・プログラムの終了直前の形態の有機的な一部分なんだ」フォードがかなりわかりやすく(と、本人は思っている)言った。
「そうだろ?」と、ザフォド。
「ウム」
アーサーは疑わしそうだ。彼はこれまで、なにかの有機的な一部分であると感じたことはなかった。それは自分の問題のひとつだといつも思っていたのだ。
「言いかえれば」ベンジイはその奇妙な乗物をアーサーのすぐ前にもってきて、「問題の構造があなたの頭脳に符号化しておさめられている可能性がたかいのだ――だから、それをあなたから買いとりたい」
「なんだって、疑問を?」アーサーが訊いた。
「そうだよ」フォードとトリリアンが言った。
「大金でな」ザフォドが言った。
「いやいや」とフランキイ。「買いとりたいのは、頭脳だ」
「なんだって!」
「そうさ。かまわんだろう」
「あんた、彼の脳を電子的に読みとれるって言わなかったか」フォードが抗議した。
「言ったよ」フランキイが応じた。「でも、それにはまず頭蓋からとりださなければね。準備をしなければならないから」
「処置するんだよ」ベンジイが言った。「さいの目に切ってね」
「けっこうだ」
アーサーは叫び、椅子からとびあがり、恐怖にかられてあとずさった。
「もとに戻すこともできるよ」ベンジイが穏やかに言った。「戻すことが君にとって大事ならね」
「そう、電子頭脳をね」とフランキイ。「単純なやつで充分だろう」
「単純なやつ!」アーサーが嘆いた。
「うん」ザフォドは不意にいじわるな笑いをうかべた。「だって、あんたは“なんだって”と“わからん”と“お茶はどこだ”しか言わないようにプログラムされてんじゃないのか――だから電子頭脳だって違いはなかろう」
「なんだって」アーサーはさらにあとずさりながら叫んだ。
「おれの言ってることが理解できんのか」
ザフォドは言いかけたが、トリリアンがつねったので、大声をあげた。
「ぼくにだって、違いがわかるさ」アーサーが言った。
「いや、わからないね」フランキイねずみが言った。「わからないようにプログラムされているんだ」
フォードはドアに向った。
「ねえ、すまないがね、ねずみさんたちよ」と、彼は言った。「どうも取引きはできないようだ」
「取引きせねばならんと思っているのだがね」
二匹のねずみは異口同音に言った。その小さなかんだかい声から一瞬にして甘い調子が消えた。かすかなブーンという音とともに、ガラスの乗物がテーブルから離れ、すっとアーサーに近づいた。アーサーはよろめきつつ部屋の隅にさがった。対抗することはできなかったし、なにかを考えることもできなかった。
トリリアンが彼の腕にしがみつき、ドアの方へ引っぱっていこうとした。フォードとザフォドはドアをあけようとどたばたやっていた。が、アーサーは呆然としていて、やたらと重かった――空中を彼に向ってくる齧歯類に催眠術をかけられているみたいだった。
トリリアンは大声でアーサーを叱咤した。が、彼はぽかんとしている。
フォードとザフォドは力をあわせて、ドアをぐいと引き、ようやく開けることに成功した。ドアの向うには、マグラシア人の暴徒(と、ふたりには見えた)一団の醜悪な人々がいた。彼らの容姿が醜悪だというわけではない。しかし、彼らの持っている医療器具は美しいとはおせじにも言えなかった。彼らはどっと襲いかかってきた。
かくて――アーサーは頭を切り開かれようとしている。トリリアンになすすべはなく、フォードとザフォドは徒手空拳で鋭い兇器をもった暴徒に叩きのめされそうになっている。
全体として見た場合、そのとき突然、惑星中をゆるがす警報が鳴り渡ったのは、まことに幸運であった。
32
「非常事態発生! 非常事態発生!」マグラシア中にクラクションが鳴り響いた。「敵船が着陸した。武装した侵入者は8A区にあり。防衛隊出動せよ!」
二匹のねずみはガラスの乗物の破片のまわりをいらだたしそうに嗅ぎまわった。乗物は床に叩きつけられたのである。
「なんてことだ」フランキイねずみが毒づいた。「たかが二ポンドの人間の脳を取るためにこの騒ぎだ」
彼はあたりを走りまわった。そのピンクの眼はぎらぎら光り、白い柔毛《にこげ》は静電気にさかだっている。
「こうなったら、できることはひとつしかない」ベンジイは考え深げに髭をしごいた。「疑問をでたらめにつくってみるんだ。ぴったりくるやつがでてくるかもしれん」
「難しいな」と、フランキイは考えこんだ。「“黄色くて危険なものなあに?”というのは」
ベンジイはしばらく考えた。
「いや、うまくない。答えと合わないよ」
二匹はしばらく黙考した。
「よし」と、ベンジイが言った。“六かける七はいくつ?”というのは?」
「いや、だめだね。文字どおりすぎる。事実にくっつきすぎる」と、フランキイ。「それじゃ賭《かけ》屋の興味をひけない」
二匹はさらに考えた。
やがて、フランキイが言った――
「ひとつ思いついた。“人間が歩く道の数はいくつ?”だ」
「いいぞ」とベンジイ。「うん、これはうまくいきそうだ!」彼はその言葉をくりかえして、「うん、こいつはすばらしい! 特に具体的なことを言っていないところがいい。“人間が歩く道の数はいくつ?”“四十二”。すばらしい。これで賭屋をだませる。フランキイ、ぼくらはやりとげたんだ!」
二匹は興奮してちょろちょろと跳び回った。
その近くの床には、どっしりした賞牌で頭を殴られた醜悪な男たちが何人か倒れていた。
半マイルほど離れた廊下では、四つの人影が出口をさがして走りまわっていた。一同は広々としたコンピュータ区画に出た。あたりをむやみに見まわした。
「どっちだと思う、ザフォド?」フォードが言った。
「よくはわからんが、こっちだと思う」
ザフォドはコンピュータと壁の間に走りこんだ。三人がそのあとを追って走りだしたとたん、ザフォドは急に立ちどまった。その眼前を、バリバリと音をたてて殺人銃から発せられたエネルギーの稲妻がはしり、脇の壁を黒焦げにした。
呼びかける声が大きく響く――
「よし、ビーブルブロックス。そこで止れ。おまえを狙っているぞ」
「おまわりめ!」ザフォドはうめき、くるっとうしろを向いて、しゃがみこんだ。「フォード、いい考えはうかばないか?」
「よし、こっちだ!」
フォードが言い、四人はコンピュータとコンピュータにはさまれた通路に走りこんだ。
その通路の先に、宇宙服を着た重装備の人影があらわれ、殺人銃を振ってみせた。
「おまえを撃ちたくはないんだよ、ビーブルブロックス」その人影は叫んだ。
「おれに続け!」
ザフォドは一同に呼びかけると、三基のデータ・バンクのあいだにとびこんだ。
あとの三人もそのあとを追った。
「警官はふたりよ」トリリアンが言う。「追いつめられたわ」
四人はかたまって、巨大なコンピュータのメモリイ・バンクと壁の間に入りこんだ。
息をひそめて、待った。
突然、空気が炸裂した。ふたりの警官が同時に攻撃を開始したのだ。
「おい、撃ってきたぞ」身体を丸めて、アーサーが言った。「こんなことはしたくないって言ってたんじゃなかったか」
「そうだ、たしかにそう言った」
ザフォドが頭をあげた。
「おい、おまえたち、おれたちを撃ちたくはないって言ったくせに!」
そして、また首をひっこめる。
彼らは待った。
しばらくして、声が返ってきた。
「警官てのも楽じゃねえや」
「何て言ったんだ?」びっくりしてフォードがささやいた。
「警官てのも楽じゃないって言ったんだ」
「それが奴の悩みなんだな」
「そうだろうと思ってたよ」
フォードは大声をあげた。
「おい、よく聞け! ぼくたちも、あんたたちに撃たれるというえらい悩みをかかえているんだ。だから、あんたたちが自分の悩みをおれたちにぶつけるのをやめさえすれば、みんなにこにこ、楽になれると思うがね」
また静寂。やがて大声がする――
「いいか、坊や」と、大声は言った。「あんたが相手にしてるのは、引金をひくしか能のねえ、額の狭え、どんぐりまなこの、口も満足にきけねえウスノロおまわりじゃないんだぜ。社交界でであえたら、きっとおめえも気に入ってくれるような知的なおまわりさんなんだ。いわれもなく人を撃って、そのことをスペース・レンジャー用のバーで自慢げに言うどっかのおまわりとはおまわりが違うんだ! おれたちはな、いわれもなく人を撃っても、そのあと何時間も恋人相手に苦悶するおまわりなんだよ」
「おれは小説を書いてるんだ!」もうひとりが歌うような調子で言った。「けど、一冊も活字になっちゃいねえ。だから、警告しとく、おれはひじょーに気分が悪いんだ」
フォードの眼球は半分がた外にとびだしている――
「ありゃ、何者だ?」
「わからん」ザフォドが言った。「まあ、撃たれてるよりはいまのほうがマシだ」
「それじゃあ、おとなしく出てくるか?」ひとりが言った。「それとも稲妻で黒焦げにされたいか?」
「どっちが好きだ?」フォードが叫んだ。
一瞬後、四人の周囲の空気が黒焦げになった。稲妻が次から次へと四人の前のメモリイ・バンクに撃ち込まれる。
一斉射撃は数秒間つづき、耐えがたいほどに緊張がたかまった。
それがやんだ、余韻が消えるまで数秒、ほとんど静まりかえった。
「おい、まだ生きてるかぁ?」警官のひとりが呼んだ。
「生きてるよ」四人は返事をした。
「こんなことやってても、ちっとも楽しくないんだよな」もうひとりの警官が言った。
「わかるよ」フォードが叫び返す。
「そこでだ、ビーブルブロックス、よく聞いてくれ!」
「なぜだ?」ザフォドが叫んだ。
「なぜなら、これからとても知的で、おもしろくって、人道的なことをやるからさ。いいか、四人とも、もうあきらめて、おれたちにちょっと殴らせろ。もちろん、ひどくは殴らん。おれたちは無用な暴力はつつしむよう堅く戒められているんでね。さもなくば、この星全体を吹っとばす! 帰り道でも眼についたのを一、二個吹っとばしてやろう!」
「そんな無茶な!」トリリアンが叫んだ。「そんなことできっこないわ」
「それができるんだよ」警官が言った。「そうだな」と、相棒に訊ねる。
「そうだとも。もう絶対だね」
「でも、なぜなの?」トリリアンが訊いた。
「なぜなら、いくら進歩的で、感受性ってものをわきまえてる賢い警官でも、やらなきゃならんことってのはあるものだからさ」
「あんなやつらがいるなんて信じられん」フォードは頭を振った。
警官が相棒に訊ねた。
「もうちょっと撃ってみるかい?」
「ああ、よかろう」
ふたりはまた電光をつるべ撃ちにした。
熱と騒音は途方もなかった。メモリイ・バンクはゆっくりと壊れはじめた。前面はほとんど溶けてしまっている。溶けた金属がどろりと、四人がしゃがみこんでいるところに向って流れだす。四人はさらにうしろにさがり、最期を待った。
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しかし、最期はやってこなかった――少なくとも、そのときは。
まったく突然、一斉射撃がやんだ。突然の静寂を破ったのは、苦しそうなうめき声とドサッという音。
四人は顔を見あわせた。
「どうしたんだ?」アーサーが言った。
「射撃をやめたんだ」ザフォドが肩をすくめた。
「どうして?」
「知るか。訊いてきたらどうだ?」
「いやだよ」
四人は待った。
「おーい」フォードが叫んだ。
答えはない。
「おかしいな」
「きっと罠だ」
「そこまで知恵はまわらんさ」
「あのドサッていう音はなんだ?」
「知るか」
四人はさらに数秒待った。
「よし」フォードが言った。「ぼくが見てこよう」
彼は一同を見まわした。
「“いや、それはいかん、かわりにおれが行こう”と言うやつはいないのか?」
三人はいっしょに首を振った。
「なんてやつらだ」
フォードは立ちあがった。
しばらくは、なにも起らなかった。
さらに数秒、やはりなにも起らなかった。フォードは燃えるコンピュータからもくもくと湧きでる濃い煙の奧をすかし見た。
慎重に広いところに足を踏みだす。
やはりなにも起らない。
煙の中、二十ヤードばかりはなれたところに、ぼんやりと、宇宙服を着た人影が見える。その警官はくたっと力なく床に倒れていた。反対方向に二十ヤードはなれたところにも、もうひとりが倒れている。ほかには誰の姿も見えなかった。
ひどくおかしい、とフォードは思った。
ゆっくりと慎重に、彼はひとりの方に近づいた。その身体は、彼が近づいてもぴくりとも動かなかった。彼がさわっても、ぴくりとも動かなかった。力のない指に握られたままの銃を足でおさえる。
フォードは手をのばして、銃をとりあげた。抵抗の気配はさらになかった。
警官は間違いなく死んでいるようだった。
ざっと調べてみたところ、警官はブラグロン・カッパ星人だとわかった――メタンを呼吸している生命体で、マグラシアのような酸素を含んだ大気中では、宇宙服がないと生きられない。
背中の小型の生命維持コンピュータが意外なことに吹っとんでいた。
フォードは驚いて、コンピュータをつつきまわした。こういった宇宙服用コンピュータは通例、宇宙船内のメイン・コンピュータの支援《バックアップ》に完全に依存しており、亜空間を通して直接つながっているが、こうした装置にはあらゆる場合にそなえた安全保障《フェイルセイフ》システムがついている。おおもとのフィードバック機能が機能不全におちいったら話はべつだが、そんな例は聞いたことがない。
フォードはいそいでもうひとりの死体に近づき、それもまったく同じありえぬことが原因で死亡しているのを発見した。どうやら、まったく同時に起ったらしい。
彼は、来てみろと三人を呼んだ。彼らもやってきて、同様に驚いたが、彼ほどの好奇心は抱かなかった。
「とにかくこの穴蔵から抜けだそう」ザフォドが言った。「おれの探すものがここにあるにしても、いまは欲しくない」
彼は二挺目の銃をつかむと、完全に無害となった宇宙服のコンピュータをぶちぬき、通廊へ走り出た。数ヤードはなれたところに止っていたエアカーを吹きとばしそうになり、あやうく思いとどまった。
エアカーには誰も乗っていなかったが、アーサーにはそれがスラーティバートファーストのものだとわかった。
計器が数えるほどしかついていないパネルに一枚の紙がとめてあった。そのメモには矢印がかかれていて、一個のボタンを指し示していた。
“たぶん、このボタンを押すのがいちばんよかろう”
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エアカーは四人を乗せ、R17という速度で鋼鉄のトンネルを地上に向った。地上はいまや荒涼とした曙光《しょこう》に包まれるところだった。
Rというのは速度の単位で、肉体的、精神的健康は保証するが、五分以上乗っているとその保証もできかねるという速度である。それゆえ、その数値は状況により無限に変化する。肉体的、精神的健康は、速度ばかりでなく、第三の要素を知っているかどうかにもかかっている。冷静に扱わないと、この方程式はかなりのストレスや潰瘍をひきおこすこととなり、ときには死に至ることさえある。
R17は一定の速度というわけではないが、それでもかなり速いことはたしかだ。
エアカーはR17で、あるいはそれ以上で飛び続け、凍りついた大地に横たわる白骨のような〈黄金の心〉号のそばで一同をおろした。そして、大事な用事がまだ残っているかのように、もときた方へと猛スピードで戻っていった。
四人は震えながら、宇宙船を見た。
その横に、もう一隻の宇宙船が着陸している。
ブラグロン・カッパの警察艇だ。ずんぐりした鮫のような代物で、色はスレート・グリーンで、さまざまな大きさの、親しみのまったく感じられない黒い字が書かれている。それを読みとろうという者があれば、船籍や、どこの警察署の所属か、どこで燃料補給をうけるかなどがわかることになっている。
ふたりの乗員が数マイル地下の煙が充満した部屋に横たわっているとはいえ、船は不自然なほど暗く、静かだった。これも説明のつきかねるおかしなことのひとつだったが、誰でも、その船がいつ死んだのか感じとることができた。
フォードも感じとることができ、とても不思議に思った――宇宙船もふたりの警官も同時に死んだようなのだ。彼の経験では、宇宙はこんなふうに働いたりはしないものだ。
あとの三人もそれを感じとった。が、それよりも寒気のほうを強く感じとったので、好奇心につき動かされることもなく〈黄金の心〉号へと急ぎ足で戻った。
フォードはあとにとどまり、ブラグロン・カッパの船を調べようとした。彼が歩きだすと、冷たい氷の上に顔を埋めて横たわる鋼鉄の塊につまずいた。
「マーヴィン!」彼は叫んだ。「何をしているんだ?」
「どうか、わたしのことはかまわないでください」くぐもった声が応じた。
「でも、いったいどうしたんだ?」
「おちこんでいるんです」
「どうして?」
「わかりません。わかったことなんて一度もないんです」
「君はなぜ」フォードは震えながら、マーヴィンの隣にしゃがみこんだ。「顔を埃の中に埋めているんだい?」
「みじめな気分になるには、これがいちばん効くんです」マーヴィンが言った。「わたしと話がしたいようなふりをしないでください。あなたがわたしを嫌っているのはよくわかっているんですから」
「いや、嫌ってなんかいないよ」
「いえ、嫌ってます。みんなそうなんです。宇宙ってものがそういうふうにできているんです。わたしが誰かと話をするだけで、わたしを嫌いはじめるんです。ロボットだってわたしを嫌っている。わたしをほっといてくだされば、わたしはすぐにどっかへ行きます」
マーヴィンは立ちあがると、毅然としたように、フォードとは別の方を向いた。
「あの船もわたしを嫌った」彼は警察艇を指さして、力なく言った。
「あの船が?」フォードは急に興奮した。「あれに何が起ったんだね? 知っているかい?」
「あの船は、わたしが話しかけたので、わたしを嫌いになったのです」
「あれに話しかけた?」フォードは叫んだ。「話しかけたとはどういうことなんだ?」
「単純なことですよ。わたしは退屈していて、おちこんでいました。そこで、この船のコンピュータ入力装置とわたしとを接続したのです。わたしはくどくどとコンピュータに話しかけ、わたしの宇宙観を説明してやりました」
「すると、どうなった?」
「コンピュータは自殺したのです」
そう言うとマーヴィンはよろよろと〈黄金の心〉号に戻りだした。
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その晩、〈黄金の心〉号は馬頭星雲から数光年のところを飛んでいた。ザフォドはブリッジの小さなヤシの木の下をぶらつきながら、大量の汎銀河ウガイ薬バクダンで頭をすっきりさせようとしていた。アーサーはベッドに入って、フォードからかりた『銀河ヒッチハイク・ガイド』をぱらぱらとめくっていた。この銀河系で暮していかねばならぬことになったのだから、いろんなことを知ったほうがいいと考えたのだ。
本にはこうあった――
銀河系におこった大文明の歴史をみるに、いずれも明白に次の三段階を通過する傾向がある――すなわち、生存、疑問、世間慣れの三段階だ。“どうやって、なぜ、どこで”の三段階とも呼ばれている。
例をあげよう。第一段階は“いかにして喰うか?”という疑問で象徴される。第二段階は“なぜ食べるのか?”であり、第三段階は“どこで昼食をとろう?”である。
その先を読む前に、インターコムが鳴った。
「やあ、地球人、腹がへったかね?」ザフォドの声だ。
「ああ、まあね。ちょっと腹がすいた」
「よっしゃ。しっかりつかまってな」ザフォドが言った。「軽く食べに行こうじゃないか――宇宙の果てのレストランへ」
1982年12月25日……初版発行