殺意
フランシス・アイルズ/宮西豊逸訳
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目 次
第一部
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第二部
第八章
第九章
第十章
第十一章
第十二章
第十三章
エピローグ
解説
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登場人物
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ビクリー医師……田舎町の開業医
ジュリア……その妻
ヘサリ・トア師……教区牧師
トア夫人……その妻
カーニアン・トア……その娘
ミス・ワプスワージー……村の老嬢
ミス・ピーヴィ……村の老嬢
アイヴィ・リッジウェイ……ビクリー医師の愛人
ギニフリッド・ラタリー……少佐の娘
マドレイン・クランミア……「屋敷」に住む話題の女
デニス・バーン……大地主の息子、マドレインと結婚
ウィリアム・チャトフォード……マーチェスターの弁護士
リドストン博士……マーチェスターの老医師
ラッセル警部……ロンドン警視庁の警部
F・L・ガンヒル、フランシス卿……ビクリーの弁護士
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第一部
第一章
エドマンド・ビクリー博士が妻を殺そうとして行動をはじめたのは、その決心をしてから何週間も後のことだった。殺人は冗談半分にやれることではない。ほんのちょっと≪へま≫をやっても、わが身の破滅をまねくかもしれない。ビクリー博士はわが身の破滅をまねくような危険をおかすつもりはなかった。
もちろん、彼は急にその決心をしたわけではなかった。すこしずつ幾度も考えめぐらした結果、その計画がきまってきたのであった。どんなにぼんやりした計画にしても、それは出発点がなくてはならないとすれば、ビクリー博士の計画は、六月の末に近い、ある暑い土曜日の午後のテニス・パーティが、その出発点であったと見られそうである。
それはビクリー夫妻が主催していたパーティであった。ワイヴァーンズ・クロスの人びとの半分、いや、めぼしい人物ぜんぶが、やって来るはずになっていた。二時ちょっと前に、ビクリー博士が、骨の折れる午前中の往診から、つかれきって昼食に帰ってみると、フェアローン荘は相当ごったかえしていて、妻は食堂を片づけさせようと、いらだたしげに待ちうけていた。
「ほんとに、エドマンド」あつい眼鏡ごしに、とがめだてるように彼を見やりながら、彼女は切り出した。「ほんとに、あなたも、今日くらいは気をくばって、もうすこし早くお帰りになるものと思っていましたわ。こんなに、いつまでもあなたのお食事の後しまつがつけられなくては、フロレンスもサンドウィッチのほうをてきぱきやれないじゃありませんか」夫の帰りがおそい場合、いつもビクリー夫人は、定刻にひとりで食事をすませてしまうのであった。
「すまなかったね、ジュリア。午後にはからだがあくように、午前中にすっかり往診をすませるようにしたほうがいいと思ったものだからね」
「そりゃ、わかってますよ」ビクリー夫人は、わざと夫が道草をくっていたにちがいないという態度をみせて、つじつまの合わない矛盾につじつまを合わせようとした。
ビクリー博士は皿のそばのびんから、ビールをグラスにつぎ、子羊の脚の冷肉を少し切りとった。くたくたになっている彼は、それ以上に弁解しようとしなかったし、してみたところで、まるでむだであることも知っていた。眼前の骨つき肉を、彼は悲しそうに見つめた。ひざ肉は残されていなかった。彼が好んでいたのは、ひざ肉だけだった。不運なことに、ジュリアもそれを好んでいたのであった。
味気もなさそうに、彼はたべはじめた。
ジュリアは番兵みたいに、彼を見おろして立っていた。彼がもう一ぱいビールをつごうとしかかると、彼女は口を出した。
「だめよ、エドマンド。こんな日には、一ぱいでたくさんですわよ」
「暑ければ暑いほど、ビールの味はいいんだがね」と博士は言ってみたものの、たいして望みもいだいていなかった。
だいたい何にしてもそうなのだが、冗談めいたことなど受けつけないジュリアは、ただ顔をしかめただけだった。「しなければならないことがたくさんあるのに、ここに坐りこんで飲んではいられませんよ。それに、ビールを飲むと、ひどく汗が出るのはおわかりでしょう。もっとお肉をめしあがる? じゃ、すぐ呼鈴をお鳴らしになるがいいわ」
ビクリー博士は立ちあがった。ジュリアのほうが立っているのだから、自分で呼鈴を鳴らして、こっちにめんどうをかけないようにできるだろうに、と彼は思ったが、そうは言わなかった。部屋のうちにそれをやる男がいるのに、自分で呼鈴を鳴らしたりするのは、中流階級の作法とジュリアは考えていた。そして彼女にとって中流階級の作法は、彼にとっての売薬みたいなもので――ぜんぜん受け入れることができないものだった。
ビクリー夫人は夫より八つ年上で――四十五、彼は三十七だった。おまけに、なみはずれて小男の博士よりも、彼女のほうがたっぷり二インチは背も高かった。すこし痩せぎすな、まっすぐなからだの女で、ちぢれた黒髪、唇のうすい口をしていて、その両すみが下へまがり、がんこなへの字になっている。まるで陽気でないだけでなく、まるで愛らしくない顔だった。そしてすこしとび出た、うす青い眼の前に、つのぶちの眼鏡でなく、ふちなしの眼鏡をかけていた。二人は結婚して十年になるけれど、子供はできていなかった。
女中のフロレンスが、冷たいグーズベリー・パイの残りものを持ってきて、また引きさがると、ジュリアは夫に指示をあたえはじめた。「まず第一にネットを張るのがいいですわ。最初の半時間にひどくたるみますからね。新しいボールは階段下の戸棚にあります。もちろん、あれを使うんですけど、古いのもホールのマットでよくこすっておくといいですよ。それから二つのテーブルと椅子を出して、こんなに照りつけているのですから、海水浴用のテントも張るべきでしょうね。それをすませたら、つぎには――」
「そんなにたくさんのことはできそうもないな」と医者はおぼつかなげにさえぎった。「ぼくは――」
「ねえ、エドマンド、全部ちゃんとしておかなくちゃいけませんのよ」
「うん、でも、まだ往診が残っているんだよ。午前中にすっかり片づけられなかったんでね。もう二軒いかなくちゃならないんだよ」
ジュリアは顔をしかめた。「だれ?」
「バロットの奥さんと、ホーンの子供さ」
「二人とも急患じゃありませんわよ」
「急患じゃないよ。しかし、重態にはちがいないのさ」
「それほど重態でもありませんよ」とジュリアはきめつけるように言った。「けっこう待てますわ。お客さん方が帰ってから、行ってやればいいんですよ」
「でも、そうすれば、どうしても宅診のあとになってしまうね」
「じゃ、宅診のあとになさるしかないでしょう」とジュリアはまるで夫の口から夕食をたたき落とすようなセリフを、平然と言ってのけた。「もうおすみになりましたの? だめですよ、チーズをめしあがったりする時間はありませんよ。さあ、おいそぎになってくださいな、エドマンド」
ビクリー博士は、とにかく今日はお茶の時にご馳走が出るだろう、と思いめぐらした。「まあ、いいさ、毎日テニス・パーティをやるわけでもないんだから」と彼はものやわらかに言いながら、小ぢんまりした口ひげをナプキンでなでて、椅子をうしろへ押しやった。
いそがされたにしても、食事をしたおかげで気分を持ち直した彼は、帽子をかぶって庭へ出ていった。
ネットの支柱は旧式のものだったので、ネットがぴんと張られるにつれて、ハンドルをまわすのがひどく困難になった。この数年来ジュリアは、つぎのシーズンには新式のと取りかえなくてはいけないと、くり返していたのであったが、こんなまったくのぜいたく品に出すだけの金は、どうもないような情勢になるのが常だった。いずれにしても、彼女自身がネットを張るのではなかったから、彼女にとっては、あまり重要な問題ではなかったのである。博士はネットを必要な高さに張るために、貧弱な百二十ポンドの体重ぜんたいをハンドルにかけ、最後の一回か二回、まわさなくてはならなかった。この難作業をやってのけると、彼は後へさがって、額をぬぐった。健康状態があまりよろしくなかったので、ネットを張るのは骨の折れる仕事なのだ。そして彼は、肉体的な努力をした後で、いつもそうするように、蝋《ろう》でかためた口ひげの先を、注意ぶかくなでまわすのであった。
お客たちには三時半に来てくれるように通知してあったが、もうその時刻は十五分後にせまっていた。ビクリー博士は気がとがめるように時計を見て、家に一ばん近い側とテニスコートの境になっている小さな土手へかけあがり、走りながら淡黄色《うすきいろ》の木綿のシャツ(よく似合うカラーが二つついている)の袖をまくりあげた。小ざっぱりした青い上着は、もうちゃんと一方のネットの支柱にかけてあった。いつもビクリー博士は、青いサージの服を往診に着ていた。古ぼけたツィードの上着に、よれよれのフランネルのズボンで往診する田舎医者のかっこうは、医師としての威厳を転落させるものだと、つねづね彼は思っていた。ネットを張ったり、椅子をはこび出したりする時でも、ビクリー博士は、一点のよごれ目もない灰色のトリルビ帽をかぶっていた。つばが巻きあがり、ひも飾りのついた帽子で――広告文案家が「小《こ》いきな」と言うよりほかないような帽子であった。
デッキ・チェアをはこび出して、組み立てながら、彼は残りの仕事をどんな順序で片づけるのが一ばんいいか、考えめぐらしてみた。つぎには海水浴用のテントを張るのがいいようだった。炎天の日だったので、田舎にしても、顔が黒くなるのは重大な問題だったからである。それにしても、最初の試合にベンジー・トアが出るとすれば、六個のボールだけでは間に合いそうにない気がしてきた。この気むずかしい青年は、ぶきみなほど猛烈な試合ぶりを見せるので、菜園の、ほとんど手もとどきかねるグーズベリーの茂みのただ中へ、ボールをたたきこんでしまう怖れが大いにあったからである。だが、最初のお客が来る前に、折りたたみテーブルを二つ出し、煙草、マッチ、グラスなどを、それぞれ用意しておくことも必要、と思えてきた。そんな物を、あとから、あわをくったように持ち出すほどみっともないことはないからである。(来客のある際に、万事をきちんとする点では、ビクリー博士は妻におとらぬくらい、きちょうめんであった)考えめぐらすと、どれもこれも、急いでやらねばならぬことばかりのようだった。
海水浴用のテントを、けんめいに張っていると、ジュリアが家から現われて、そばへきた。「ネットを張ったんですね、エドマンド」と彼女はダメをおすように言った。ネットが張ってあるのを見ればわかることで、たずねたりする必要はなかったのだが、ビクリー夫人はわかりきったことを、しゃあしゃあと言う女であった。
ビクリー博士は作業の手をやすめて、ネットは張ったよと答えた。
「もうたるんでいますわ。すぐ締めあげたがいいですよ」
博士は急いで支柱へ行き、やっきにハンドルをまわしにかかった。そして、これが自分の精いっぱい、と密《ひそ》かに彼が思っていたよりも、ハンドルをまるまる一回転させて、ネットを引きあげるまで、ジュリアはよろしいと言わなかった。
かすかにあえぎながら、彼は土手の上の彼女のそばへ行った。
ビクリー夫人は冷たい眼で、テニスコートの他の部分を見わたしていた。「ラインのひき方がまるでよくないわね。今朝ウインドコームに、ひくように言いつけておいてくださったの?」
「はっきりと、そう言っておいたんだよ。しかし、なにしろウインドコームはあんな人間だからね」
「そうね」とジュリアは底気味わるく答えた。「例のとおり、いいかげんなことをしたんだわ」土曜日も午後になっては、もうウインドコームを使って午前中の怠慢の修正をやらせるわけにいかなかった。
きまじめに眉をよせて、ビクリー博士はラインをしさいに見た。「それにしても、あの男はやったんだと思うね。うん、たしかにやったんだよ」
「やったにしたって、ただ一度きりですよ。ああ、わたしが同時に四方八方のどこにもいて、自分で何もかも見張っておれないのが、かなしいですわ」彼女の口調は、夫が往診に出かけ、ろくでなしのウインドコームを監督できなかったのを非難するようだった。「まあ、ほかのことがすんだら、すぐにあなた自身が、もう一度ラインをひき直すよりしようがないでしょうね、エドマンド」
「やってみようよ」とビクリー博士はいささか自信がなさそうに言った。ほかのぜんぶのことを、時間に間にあうようにやれるかどうか、頭をひねっていたからだった。
「やってみようって? ラインはひかなくちゃならないんですよ」
「ふむ、ひかなくちゃならないのなら、ひかなくちゃなるまいな」この小柄な男は、いつもの習わしのように、すぐものやわらかに承知した。「じゃ、このいまいましいテントを張ってしまうとしよう。もちろん、こいつはいよいよ扱いにくくなってきてるがね」
どうやら、差しあたりの用件をすませたらしいビクリー夫人は、例のとおり目的ありげなようすで、バラの花壇のほうへ歩み去った。小脇に朝刊をはさんでいた。彼女自身がラインをひき、忙殺されている夫の手伝いをすべきだなどという考えは、両人のどちらの心にもまるで浮かばなかった。
結婚するまでのビクリー夫人は、クルースタントン家の人間だった。そして今でも、姓以外のあらゆる点で、やはり彼女はクルースタントン家の人間であった。そうであることを、一日にいくども、彼女は夫に見せつけた。二人の短い婚約期間中、彼女は一度ならず、いくども、まるで興味ぶかい情報でもきかせるような態度で、自分の祖母なら、執事と食卓を共にしないように、医者とも共にしようとは思わなかったろうが、いま自分《ジュリア》は実際に医者と結婚しようとしている、と短い笑い声をあげ、さぞや祖母は墓場のなかで身もだえすることだろう、と話した。そしてビクリー博士は、そうにちがいあるまいと答えていた。結婚後も、彼女はこの奇異な運命の転換を、しばしば夫に思いおこさせた。そしてビクリー博士は、その祖母が生きていたら、味わうにちがいない気持にたいして、同情を表明しつづけていた。
かつて北デヴォンシアで屈指の名門の一つであったクルースタントン家は、悲惨な没落ぶりをみせていたからであった。十二代目の准男爵チャールズ卿は、すさまじい新税に直面して、自分の生活様式を変えようとしないで、広大なクルースタントン家の土地を少しずつ切り売りして税金を払い、今ではトーキーの郊外のささやかな別荘に、ひとりの妹娘と暮らしていて、はてしもなく飲みつづけるウィスキーにかりたてられ、腹立たしげに墓穴へ急いでいるのだった――だが、未婚の娘が希望するほどの急テンポではなかった。
クルースタントン家の土地はなくなっていた。それぞれ従者と、ふんだんに小使銭をあてがわれて育てられた息子たちのうち三人は、みじめな生き方をしていた。一人はジャマイカでバナナ園を経営しているていをよそおい、一人はダービーの繃帯《ほうたい》会社で大いに活躍しているふりをし、一人は(これだけが)たくさんの金をつぎこんで身につけたブリッジ、玉突き、ポーカーの腕前を活用して、わりあい楽に生計をたてていた。本当に人生の成功をかちとっていたのは、四番目の末弟だけだった。結婚した相手の有名な女優のおかげで、どうにか以前のような生活様式をたもつことができたのである。
ジュリアは、祖母が断じて食卓で歓待しそうもない男と結婚するか、トーキーで妹といっしょに生活するか、どちらかを選ばなければならなくなり、そのどちらかが、たとえ信じられないにしても、不可避の未来だと真剣に言い聞かされたとき、一瞬もためらわなかったのだった。
しかし、べつに彼女がエドマンドに感謝の念をいだいたりしたわけではなかった。三十五にもなり、もう幾年も前に結婚の望みもすてさり、彼女の愛馬に似ていないでもない顔をしていた(これは率直な妹のヒルダが、婚約を知ったとたんに、ずばりと言ったことだった)などということは、彼女がクルースタントン家の人間であるという事実を、少しもきずつけるものではなかった。ジュリアには判断の基準はただ一つしかなく、それは家柄であった。この結婚に対して感謝すべきであるとすれば――どれほど感謝すべきかは、恐らくジュリアだけに評価できることだろうが――エドマンドこそ感謝すべきであった。そしてこの十年間、その点についてエドマンドは、彼女の期待にそむいたと文句をつけられることもなく過ごしてきていたのである。
ビクリー家のテニス・パーティは、ワイヴァーンズ・クロスにとっては、きわめて重要な行事であった。百余人ばかりの社会でも、おもだっためぼしい人たちが、一つの催しに集まるのは、予想されるよりもはるかにまれなのである。ワイヴァーンズ・クロスは村と自称していたけれど、小部落に毛のはえたようなもので、その中心の十字路から半径二マイル内に住んでいる連中のうち、ひとかどの人間(ビクリー夫人)がわが家のテニス・パーティへ招待できそうな者たちは、二十人以上はなかった。こんどのパーティへは、そういう人たちを全部、ビクリー夫人は招待していた。ビクリー家には、テニスコートは一面しかなかったけれど、招待された人たちのうち、すくなくとも半数は、ぜんぜんテニスをやらないのだった。イギリスの田舎でテニス・パーティに招待されるのは、その競技ができることを意味しない。招待される人たちと、されない人たちとの区別は、競技上よりも社交上の線できめられるのである。
もちろん、こんどのようなふだんにない規模のパーティが催されたのには、理由があった。理由もないのに、好きでもない二十人ちかい人たちを招待したりはしない。その理由となっていたのは、ミス・マドレイン・クランミアという人物だった。このミス・クランミアは五年ほど空家《あきや》になっていた「屋敷」へ移転してきたばかりだった(じっさい即金で買いとったことは、この界隈《かいわい》のすべての者たちが知っていた)。もとの所有者のスウィンコーム大佐が死んで、娘がしらべてみると、父が珍奇な球根植物に情熱を打ちこんでいたため、残された「屋敷」を維持してゆく資産もなくなっていることがわかって以来、ずっと「屋敷」は空家になっていた。娘は二度とふたたび球根植物に悩まされる怖れのなさそうなブライトンで、ひっそり暮らしながら、「屋敷」を貸家か売家に出していたのだった。そして五年の年月がながれてから、今度そこにミス・マドレイン・クランミアが現われたのである。
これはたしかに人びとの心をそそる出来事だった。が、堪えきれないほど人びとを興奮させたのは、ミス・クランミアが大へんな金持であるだけでなく、けっして醜くもなくて、きわめて若く、しかも友だちとか伯母とかも同居させず、ただひとり「屋敷」で暮らすと、はっきり言ったことだった。教区牧師のヘサリ・トア師は、これについて明らかに心をいためていると噂《うわさ》されていた。
ミス・クランミアが移ってきてから、もう二週間ちかくになる。ビクリー夫人は、当然、できるだけ早い機会に訪問していたが、こんどは、このテニス・パーティをもよおし、近づきになってもいいような隣人たちに、その若い女性を紹介しようとしていたのである。
四時十五分前に、パーティは本格的にはじまった。
一ばんに来会したのは、例のとおり、トア一家だった。トア師夫妻、娘のカーニアン、息子のベンジーの四人であった。いつもトア氏に、影の形にそうようにつきしたがっているミス・ワプスワージーとミス・ピーヴィが、つぎに来た。しかし、どちらもテニスをやらなかったので、リッジウェイ家の若い兄妹、ハーフォードと妹のアイヴィが現われてから、最初の試合の組合わせをした。ビクリー夫人はこれらの家族をうまく二手に分け(このフェアローン荘での試合の組合わせをするのは、いつもビクリー夫人にきまっていた)、カーニアン・トア、ハーフォード・リッジウェイ組と、アイヴィ・リッジウェイ、ベンジー・トア組とを対戦させることにした。この組合わせの試合は、すでにワイヴァーンズ・クロスで五十回もおこなわれてきていて、前者の組が後者の組を六対二で負かすのは、当の四人がみんな知っているのだった。いつもそんなふうになったのだったが、そうなるにきまっているにしても、やはりベンジーは最終の第五セットでカンシャクを起こさずにいられなかったのである。
「エドマンド」とビクリー夫人は、とてもよく知り合っている人たちがあらたまった場合に顔を合わせた時のように、四人が大げさな愛想笑いをかわしながら、コートへぶらぶら出てゆくのを見やって言った。「エドマンド、トアの奥さんは何よりもまずバラを見たがっていらっしゃるのよ」
「もちろん」とビクリー博士は微笑に顔をかがやかせた。
「もちろん」とトア夫人は、いささか熱意のうすい調子で、おうむ返しに言った。牧師館から歩いてきていたのだし、おろしたての靴が小さかったので、トア夫人としては、バラなどよりも、まず腰をおろして休みたかったのであった。
「今年はとてもすばらしい花が見せられるだろうって、つい先日おっしゃってましたわね?」とトア夫人は自分の夫の魚みたいな、しかし、よく意味をつたえる眼が、ちらと非難の視線をなげてきたのを受けとめて、いそいで言葉をつづけた。もちろん、彼女は思い出していた。夫はビクリー夫人と内密にちょっと話したいと言っていたのだ。ほかのお客たちがまだ来ていない今こそ、絶好の機会にちがいない。「そう、ぜひ拝見させていただきたいですわ。今年は何かまったく新しい品種をおつくりになったんですってね、ビクリー先生。どうか――」
「ついでに、あなたもごらんになったらいいでしょう、ワプスワージーさん。主人の手があいている今なら、ちゃんとご案内できますからね」とビクリー夫人はトア夫人のおしゃべりに容赦なく口をはさんだ。「どんなにあなたが興味をもってらっしゃるか、わかっているんですの。あなたもね、ピーヴィさん」
背がたかく、やせていて、真赤なバラを飾った麦わら帽を、頭のてっぺんにかぶったミス・ワプスワージーは、ついでに拝見できればうれしい、と社交上の儀礼から言わないわけにいかなかったが、しいられて承知したのではないというふうに、どうにか取りつくろった。ところが、ミス・ピーヴィのほうは、高飛車におどしつけられたようすをはっきりと見せた。
「じゃ、お願いね、エドマンド」ビクリー夫人はぴしりと言った。
四人は歩み去った。
バラの花壇で、小柄な医者は、新しい品種のマーガレット・マクグレディやミセス・ヴァン・ロセムズを、ほこらしげに観覧に供した。バラは彼の道楽だった。彼の情熱にそそりたてられて、トア夫人もおろしたての靴のことなど打ちわすれた。
テニスコートでは、まだ第三セットが進行中だったので、ベンジー・トアもまだカンシャクを起こしていなかった。ネットの向こう側のハーフォード・リッジウェイのがっちりした鈍重な体と、おもしろい対照をみせたベンジーのひょろ長い体は、効果的ではないにしても、さかんにくねりまわっている最中で、まだ敗北の苦悩に責めさいなまれてはいなかった。アイヴィのエラーにしても、とても愛らしく技巧のない優雅な動作と、ばかげきった試合ぶりとを、うまく混合してテニスコートにくりひろげていたので、彼女の姿は愉快でもあり悲しくもあったものの、まだ例のようにベンジーを怒らせる段階まではいっていなかった。したがって、アイヴィは、試合の終わりごろよりも、ずっと見事に活躍しているはずだった。
海水浴用テントのコウモリ傘形の屋根の下に、いかめしく腰をおろしたビクリー夫人とヘサリ・トア師は、彼からビクリー夫人に二分間の密談を申し入れた問題について話し合っていた。「この午後、お目にかかれることになっている例の若いご婦人……ムフン……ミス・クランミアについてですがね……もうそろそろ四時でしょうな」
「許しがたいほどおそいですわね」とビクリー夫人は憤《いきどお》ろしげに言った。が、ミス・クランミアのほかにも、まだ現われていない者たちが数人あったのだった。試合がはじまってから来ていたのは、若いデニス・バーンだけだった。昨日オックスフォードからやって来たばかりで、古めかしいイートン校のブレザーコートに、目立つフランネルのズボンをはき、ひどくきちんとしていたが、いまやビクリー博士の手伝いをして、ボールひろいをやっていた。敗北の刃先が心へ深く食い入るにつれて、一瞬ごとに狂暴になっていたベンジーが、機関銃みたいな絶望的な正確さで、グーズベリーの茂みへボールをたたきこみつづけていたのである。
「せめて今日のような場合ぐらいは、時間をちゃんと守ってくれてもよさそうなものですがな」この〈わたし〉が来るのはわかっているはずなのに、とトア氏は言わんばかりの調子だった。
「まだお会いになっていませんの?」
「そう」とトア氏はおごそかな声で言った。「もう少し落ちついてから、訪ねたほうがよかろうと思ったものですからな」彼は大きな頭をふりうごかした。「それにしても、噂が本当とすれば、どうも――さよう、なかなか風変わりなご婦人らしいですな」
「ハンプシアのクランミア家とは関係がなさそうですわ」そのことからしてなかなか風変わりであるかのように、ビクリー夫人はぴしりと言った。「ほかにクランミアというのは聞いたこともございませんがね」
だが、トア氏は本筋からそらされはしなかった。「ただひとりあの『屋敷』で暮らすつもりだというのは、本当とお考えですかな? もちろん、召使たちは別としてですがね。どうも、本当らしいですな。じつにいかがわしい生き方。〈じつに〉いかがわしい。ムフン」
「まったくでございますよ、トアさん。この近隣では、まるで思いもよらないことですわ」
「きわめて若いご婦人のようですな?」
「ええ、二十二を越えていることはないでしょうね。さぐりを入れてみますと――もちろん、さりげなくですがね(それくらいのことをするのは、みなさんに対するわたくしの義務と思ったものですから)――どうやら、数年前に両親をなくして、つい最近、自分のお金が自由にできるようになったらしく、それで頭がおかしくなっているようですわ」
「はなはだ悲しむべきことです」とトア氏は声をあげた。「はな――はだ悲しむべきことです」
「だれかが話してあげなくちゃいけますまい」とビクリー夫人は切り出した。「あからさまにではなく(思慮がたりないせいにすぎませんから、きつく当たるにはおよびません)、ただ、人がどんなに思っているか、わからせる程度にね」
「そのとおりです」トア氏はホッとしたらしかった。「そのとおりです。それこそ、実はわたしも、やらなければならないと考えていたことですよ、奥さん。あなたも同意見なのを承って、うれしいです。これはわたしが、みずからすすんで引き受けるべき役目ではありませんが、人間にはそれぞれ責任というものがあります。わたしの立場としましてはですな……ムフン!」トア氏は教区牧師の立場にある人間らしく、しかつめらしく重々しいせきばらいをひびかせた。
「でも、これは男の方のやるべきこととお考えになります?」めずらしくビクリー夫人の口調はあまり断定的でないようだった。「どちらかといえば、これは……?」
「わたしの家内の役目、とおっしゃるんですか?」トア氏の口調には、あからさまに不信感がただよっていた。
「いえね、わたくし、なんだか、その責任は自分がはたすべきではないか、という気がしていたんでございますのよ。つまるところ、人間の育ちというもの……まあ、わたくしなら、ばかげたことは言わないで、ごく上手にわからせることができそうですわ。それにつけても思い出しますのは、あるとき祖母がしたことです――この祖母というのは、クルースタントン夫人じゃなくて、デンベリー夫人のほうですけれどね……」
ビクリー夫人は極度に真剣な顔つきになり、トア氏も極度に真剣な顔つきになった。二人の舌はいそがしく活動した。
二人の早や口のおしゃべりは、テニスコートで最終セットのサーヴをしようとしていたカーニアン・トアにも聞こえた。彼女にボールをわたすパートナーに、彼女は言ったものだ。「お父さんはあのすさまじい女と、うまく仲よくなってるようだわね」
ビクリー夫人とトア氏が、とほうもないミス・クランミアに、彼らの不満をだれが伝えるかを、きめてしまわないうちに、何もかもが一ぺんにまき起こりはじめた。こんな静かな幕合いのあとでは、とかくそんなふうになるものである。試合はおわった。夫の牧師が密談をしているあいだ、トア夫人がバラの花壇に釘づけにしていた二人の女性は、やっと放免され、綱をとかれた二ひきのテリアみたいに、日かげのデッキ・チェアへ一散に走った。デニス・バーンとビクリー博士は、グーズベリーの茂みから最後のボールをひろい出し、ぶらぶらコートのほうへもどった。そしてチャトフォード氏がやって来た。近くのマーチェスターで業務をいとなんでいる弁護士であるが、独身なので、ワイヴァーンズ・クロスにひとり住んでいるのであった。
「さあ、こんどはどんなふうにやりましょうかな?」ビクリー博士はちょっと帽子をぬぎ、品よくハンカチを額にあてながらも、ベンジーにも愛想よくふるまって言った。「ええっと、ギニフリッドがまだ現われていないから、こりゃどうも、カーニアンとアイヴィに、もう一度やってもらわなくちゃならんようですね」ミス・ワプスワージーはテニスコートに出場できる年齢をすぎていたし、ミス・ピーヴィは心ひそかに自分はまだ若いと思っていたものの、他の者たちがそうは見てくれないのを知るようになっていた。
「やあ、デイヴィ夫妻が見えましたよ」家の角をまがって夫婦づれが現われると、だれかが言った。
「さあ、おいでください、デイヴィの奥さん」と医者はラケットをふりながら、陽気に声をかけた。「ちょうど間にあいました。お願いしますよ」
「これで男子のダブルスがやれるわけですわね」とビクリー夫人が、夫の言っていたことなどは無視して、例の断定的な口調で言った。「デイヴィさん、デニス組対ベンジー、ハーフォード組のね」
「おかまいなければ、やすみたいんですよ」とベンジーがふきげんにぶつくさ言った。「今日はあたらない。ビクリー先生、かわりにやってくださいよ」
「ばかをおっしゃい、ベンジー」とビクリー夫人は、母親の気持を無視して言い返した。「負けかけていたから、うまくやれなかっただけよ」
「やれよ、なあベンジー」とビクリー博士が、彼の背中をたたきながら微笑した。「若いうちに大いに楽しんでおくものさ」
「こんどはやすみたいんですよ、ほんとうに、奥さん」とハーフォード・リッジウェイが歎願するように言った。彼のがっちりした肉体は、まるで溶け去ってゆくように見えた。「いまの試合ですっかりへとへとになっちまったんですよ」
「それじゃア、エドマンド」とビクリー夫人はその弁明を受け入れて言った。「あなたがおやりになるといいわ」
四人の男たちが上着をぬいだ。そしてほかの人たちはまた寄りあつまった。
ハーフォード・リッジウェイは、年寄り連中から安全な距離をおいて、カーニアン・トアのそばのデッキ・チェアに腰かけた。彼はミドルズブラ市の大工場につとめている技師で、いまワイヴァーンズ・クロスで休暇の一部を過ごしているのだった。
当然のなりゆきで、ビクリー夫人のことが話題になった。寛大な心のハーフォードは、あの夫人にしても、よく知れば、それほど悪いひとではない、というようなことを低い声で話した。
とたんに、カーニアンがそれにそそられて言った。「ねえハーフォード、あのひとがどんなにしてあのお可哀そうなテディ先生をつかまえたか、あなたもよく知ってるはずよ」彼女はそのいきさつをくわしく説明した。
ハーフォードは落ちつかないようすでもじもじした。カーニアンの声はしゃがれていた。
「とにかく」と彼女はしめくくりをつけた。「テディ先生はあの女にあまりやさしすぎるのよ。ほんとに先生は、たしかにやさしい人じゃなくって?」
「そうかな? ひどくいやな小男だとぼくは思うがね」
「まあ! それじゃ、アイヴィがどう思っているか、きいてごらんなさいな」とミス・トアは意地のわるい調子で言った。「とにかくね」――彼女は同性の弁護にかかった――「たいていの人たちが先生を好いているのよ。このへんでは、すごく人気があるんですものね。あなたはやきもちをやいているにすぎないんだわ」
「やきもちだって? いったい、どうしてさ?」
「だって、先生とアイヴィとの仲は、一時だいぶ濃厚だったのよ。でも、もちろん」とミス・トアは相手が眉をひそめたのを見てとり、あわてて言いたした。「それはもう終わりをつげたけどね。ちかごろ先生は、ギニフリッド・ラタリーのほかのだれにも、眼をむけなくなってるんだもの」
「ギニフリッド?」とハーフォードはおどろいて、その名前をくり返した。「だって、このパーティにも来ていないよ」
「ええ、だから先生は、あんなにふさぎこんだ顔つきをしてるのよ」
「なんてばかなことを、カーニアン」イギリスの田舎はある種の女性の胸に、ほとんど病的なゴシップへの情熱をそそりたてるらしいが、それを前にした普通の男性の不快さが、若いリッジウェイ氏の語調にこもっていた。「そんなことは、きみのでっちあげだよ」
ミス・トアは、精力的に証拠をあげ、彼の非難を反駁《はんばく》しはじめた。
そのあいだも、ほかの人たちは、いらだたしい気分をあらわに見せながら、ミス・マドレイン・クランミアを待ちつづけていた。
デヴォンシアの地方色の探求に、一時ワイヴァーンズ・クロスに滞在しているにすぎないロンドンの小説家デイヴィ夫妻を別とすれば、ミス・クランミアのおどろくべき遅参に、無関心な人間が一人だけいた。ビクリー博士は、彼女が来ても来なくても、ちっとも気にしていなかった。いまにも爆発するばかりのいらだたしさをもって、彼はギニフリッド・ラタリーを待ちこがれていたのであった。
四時二十分に、マドレイン・クランミアが来た。彼女の遅参には、もっともな理由があった。彼女の自動車のエンジンがスタートせず、二人の園丁と彼女自身がいろいろとやってみたけれど、強情な車の扱い方をまるで知らぬ者たちばかりなので、どうにもできず、やっと今から十五分ほど前になって、園丁頭の燃えさからせる怒りに、エンジンはおびえたらしく、スタートしなかった時と同じように、何が何だかわからぬうちに、スタートしたというのだった。
ミス・クランミアは、この話を大へんまじめにくわしく説明したばかりでなく、熱心なわびごとを、パーティの女主人役だけでなく、ミス・ワプスワージーやトア氏のような、実際的な関係者たちにもくりかえしたので、彼女が来ないために生じていた悪感情はぬぐい去られたばかりか、積極的な好感をいだかれるようになった。すこぶる強硬な気分になっていたトア氏でさえ、少なくとも無言のうちに彼の許しをもとめる、ミス・クランミアの大きな灰色の眼のほろりとさせるような訴えに直面しては、非難の気持もとけてゆくのをおぼえたのである。それから彼女は、十数人のまったく未知の人たちに紹介されて、ひどい試練をうけたのであったが、あら探しをしようと≪うの目たかの目≫の連中にも、この場合の重大な意味をよく心得て、きまじめに対したので、すべての人たちに好印象をあたえた。
「どうやらクランミアさんは幸運な人びとの一人のようですね」とデイヴィ氏がミス・ピーヴィにそっと語った。「どんな未知の男女にでも、以前から自分が心ひそかに会いたがっていた相手だというふうに感じさせますから」
「ええ、たしかにそうでございますよ」とミス・ピーヴィは、話題の主《ぬし》が三十ヤードも離れているのに、ひどく気どった調子で言った。「わたくしたちにとって〈きわめて〉大切な人になるでしょう。〈とても〉いい人だと思いますわ」
そこに集まっていた三人のうちの最後の一人、ミス・ワプスワージーは鼻であしらった。アディラ・ピーヴィがおろかしくも、会ったとたんに、どんな人でもいい人だと思いこむのは、よく知れわたった事実であったからである。しかし、ミス・ワプスワージーにしても、こんどの場合は、いつもほどの確信をもって鼻であしらったわけではなかった。
男子ダブルスがおわったので、ビクリー夫人がお茶をどうぞと声をかけた。一同はわざとらしい陽気さをみせながら、ぞろぞろ家へはいり、あまり広くもない客間へくりこんでいった。途中でトア氏はビクリー夫人に、ミス・クランミアは自分が予想していたのとは大へんちがい、まるでちがっていて、じつに分別のある若い婦人で、心配していたような新しがりの突飛さもなく、ちかごろ眼にするのもうれしい古風な女だ、と秘《ひ》めやかに告げた。近隣に赤恥をもたらさず、あの「屋敷」にひとり暮らせる若い女があるとすれば、ミス・クランミアこそ、その女であるようだ、という意見にまでビクリー夫人は同調するにいたったのである。
客間のうちで、しだいに人びとはそれぞれのグループにあつまった。食堂から補助の椅子が持ちこまれていたが、それでも数人の男たちは立っていなければならなかった。青い上着に、白いフランネルのズボンのビクリー博士は、きびきびと忙しがった。一同にお茶がゆきわたらないうちに、彼が立ちどまり、だれかと一言でもかわしたりしておれば、「エドマンド!」と妻に呼びつけられ、かけもどった彼女の前の盆から、また二つの茶碗をはこんでゆくのだった。ほかの男たちもそれぞれ手伝ってはいたが、ビクリー博士は二人分以上の働きをして茶碗をはこんでいた。
「ビクリー先生!」とトア夫人が部屋の向こうのほうから、彼に親指をふりうごかした。「この午後じゅう、ろくにまだお話しもしていませんわ。ここへいらして、ニュースをすっかりお聞かせくださいな、ぜひともね。牧師よりもお医者さんのほうが、教区の出来事をずっとよくご存じでしょう?」これはどうも、いささかまずい言い方だった。なにしろトア氏が自分の鼻の下、あるいは自分の受持ちの区域内の出来事をまるで知らないのは、隠れもない事実であったからだ。ヘサリ・トア師は、自分の責務よりも、自分自身のことを真剣に考える傾きがあったのである。
「お母さんが、また例のように、へまをやってるわ」とカーニアンが、デニス・バーン青年にささやいた。非の打ちどころのない物腰で、フィッシュ・ペイストのサンドウィッチの皿を彼女にすすめていた若いバーン氏は、四分の一インチほど眉をあげただけで、やりすごした。土地の狐狩協会会長で、大地主で、この地域社会の長老であるジョン・バーン卿の一人息子として、デニスは上品に眉をあげる秘術を修得していたのであった。
「たとえば、あのブレントおばあさんの容体はどんなふうなんですの?」とトア夫人は、前の言い方がおもしろくなかったのに気づいたかのように、いそいでたずねていた。
「ああ、今朝はずっといいほうでした」と小柄な医者は、たてこんだお客たちのあいだをすり抜けるようにして、彼女のほうへ寄ってゆきながら微笑してみせた。「要するに、あのおばあさんは――」
「エドマンド!」
「失礼、トアの奥さん。今はちょっと忙殺されてますのでね」きびすをめぐらして、いそいで彼は仕事へ引っ返した。
「とってもいい方ですのよ」とトア夫人は、今日の「親友」にえらんでいたメアリ・デイヴィに話した。(トア氏のほうは、すでにミス・クランミアを独占し、小さなピンクのケーキを熱心にすすめていたが、それを彼女は神からの賜物《たまもの》のように受けとっているところだった)「もちろん、ビクリーの奥さんだって、とてもいい方ですわ」とトア夫人はしゃべりつづけた。が、じつのところ、半ぶん気が狂うほどビクリー夫人に仰天させられていたトア夫人は、ビクリー夫人を避けるためなら、おろしたての靴で一マイルでも歩み去りたい気持だった。「魅せられてしまうほどでしてね。でも、ほんとに、先生のほうは……まったくのところね、いつもわたくし、そう申すんでございますが……」
「デニー、結婚したら、あなたもあんなふうになる?」とカーニアンがくすくす笑った。「だめ、行かないでよ。あたし、まだサンドウィッチがいるんだから。きっとあなたは、あんなふうにならないわね」
「どんなふうに?」とデニス・バーンは、こんどばかりは眉をあげた効果がなかったことを、悲しく意識しながら、ひややかにきいた。三年前にイートン校にいたころは、さっきほど高く眉をあげなくても、効果があったことを思い返していた……デニスはカーニアンを好かなかった。またデニーと呼ばれるのも好かなかった。それは子供のころの恥ずべき遺物であった。
「奥さんのあごの先で始終こき使われるってふうによ」
「ぼくにはまったくわかりかねるよ、カーニアン」そしてデニスは、なにか相当まじめなことを、だれかと話そうとするかのような、ちょっと他に心をうばわれた態度でサンドウィッチの皿を持ち去った。
リッジウェイ兄妹は、いつものように、大ぜいの人たちのなかでたがいに引きつけられ合って、ならんで立ちながら、何も言わず、ハーフォードはぼんやりとし、アイヴィは少し不安そうだった。
アイヴィは、いささか不安定な型のきれいな娘であった。とてもやわらかな、ゆたかな金髪が、小さな頭からカールになってなだらかにたれ、大きな青い眼はおびえているようだった。姿体はほっそりとして、骨格も華奢《きゃしゃ》で、あぶなっかしげな、もろい印象をあたえ、兄の大柄な鈍重さと、おかしな対照をみせていた。
ときおり彼女は、ピーター・デイヴィと話しているビクリー博士のほうへ、訴えるような眼《まな》ざしをなげずにはいられなかった。だが、どうやらビクリー博士は、大事なお客をもてなすほうが忙しすぎて、兄妹のほうへ来られないようだった。しかしチャトフォード氏が兄妹に近づいて、いささか誇張した調子で話しはじめた。彼は眉がこく、きれいにひげをそった男で、私生活にあっても、弁護士風の態度をつよく見せていた。そしていま自分が代表者になっている法律事務所へ、もとは給仕として入ったことを、自分自身にも他のすべての人びとにも忘れさせようとして、日夜の時間をついやしているのだった。今や北デヴォンの彼の地域で、一流の弁護士とされているから、彼の目的は着々と達成されようとしているわけであった。
やがてベンジー・トアが、このグループに加わり、アイヴィばかりに話しかけた。チャトフォード氏以外の者には、どうしてそうなったのかわからないほど、ごく少しずつ自然のなりゆきのように、四人は愛想よく話しつづけながらも、たがいにまるで関係のない二つの組にわかれてしまっていた。一つはハーフォードとベンジーの組、もう一つはアイヴィとチャトフォード氏の組であった。チャトフォード氏はそんな人間だったのである。
ビクリー博士は黒斑病の話に耳をかたむけ、黒斑病について語り、黒斑病に関連することばかりを考えているようだった。絶えず彼が玄関のほうへ耳をそばだて、車かベルの音を聞きとろうとしていたとは、だれも気づかなかっただろう。
しかし、玄関へ心をむけてはいても、ビクリー博士は、新来のマドレイン・クランミアに観察の眼を向けるのを胴忘《どわす》れしているほどではなかった。どんな新来の女性にしても、彼の観察の眼をまぬがれることはできなかったのである。
こんどの場合、ビクリー博士はほんとうに失望していた。彼はきれいな若い女性を予期していたのだったが、マドレイン・クランミアはまるでそんな種類の女ではなかった。不器量とは言いきれないが、はっきりした特徴がなかった。もっとも、眼だけはべつで、本当に美しかった。だが、口は大きすぎ、顔の血色はわるく、頬骨が高すぎて、きれいではなかった。帽子の下に見える黒い髪は、いやにじめじめした感じだった。からだつきはよく、かなり背がたかく、すんなりとして、すらりとしていたが、ひどい服装をしているのを見て、ビクリー博士は身ぶるいした。博士の意見では、服装はきわめて重要なものだった。富裕な若い女性が、こんな重大なパーティへ出るのに、明らかに新調ではなく、どうやら自家製らしい、じつにつまらない白のフロック、まぎれもない木綿の靴下、やぼったいとしか言いようのない帽子、えたいのしれない靴とは、まるでめちゃ苦茶だ、と彼は痛感した。あらゆる点から見て、ミス・クランミアは手のつけられない女、と彼はサジをなげた。
「エドマンド!」とビクリー夫人が声高くはっきりと言った。「トアさんのところには、めしあがるものがなくなってますよ。お客さん方のお世話を、お忘れにならないようにしてくださいな」
ビクリー博士はびくっとして、話を尻きれトンボにしたまま、ヘサリ師の肉体的欲望に奉仕するために、いそいで部屋を横ぎっていった。
お茶のあとの第二試合も半分すんで、ビクリー博士がもう会えないだろうと絶望してあきらめていたとき、やっとギニフリッド・ラタリーが来た。遅参の理由はちょっと変っていたが、彼女の父を知っている人たちには、もっともと思えないこともなかった。ラタリー少佐は健康をたもつために、お茶のすぐあとで、テニスを一試合やろうと言い張るのがおきまりだった。それも、自分のうちのコートで、自分の娘とでなくては断じてやらないとがんばるので、ギニフリッドは彼のお相手をすましてからでなければ、出て来られなかったのである。こんなわけのわからない父親に、そう自分勝手な時にテニスをやろうとしてもだめよと彼女が言わなかったことを、カーニアン以外、だれもおどろいているようすはなかった。
ギニフリッド・ラタリーは、肉体的にはすばらしい女だった。二十四歳で、背がたかく、よく釣り合いのとれた体格で、この近隣のどんな女性よりもテニスがうまかった――優美なスタイルで激しく打ちこむのだった。容貌のほうは、わかる人間の眼からすれば、きわだっているばかりでなく、美しかった。すこしつり気味の緑灰色の眼、巨匠ティチアンが用いたような金褐色のゆたかな髪、こんな髪の女によく見かける乳色の肌などは、ながめる人間の心に歓喜をそそるものだった。そしてまた、彼女のテニスの試合ぶりが裏書きしているような、生への血気さかんな情熱をもほのめかすものだった。が、彼女の物腰は、それとはまったく反対であった。彼女はひかえめで、伏し眼になってきれいな、筋のとおった鼻を見おろしているようだった。あまりに優雅でありすぎるので、彼女の燃えるような髪につつまれた頭のなかには、虫も殺さぬ心が存在しているかのようであった。
ギニフリッドはビクリー博士に、いつも胸さわぎをおこさせていた。もちろん、彼女は彼をおびえさせていた。どんな若い女性たちにしても、すっかり知りつくしてしまうまでは、そうなのであった。それにしても、彼女の場合、彼は理解するきっかけがつかめなかった。彼女に接近したがっていたものの、どんなふうにしたのがいいか、きめかねた。彼女はまるで性がないようであったが、彼女の容貌からすれば、そんなはずはありそうになかった。しかも、彼女がこの界隈のふつうの青年たちの気持をひきつけていないことは、ビクリー博士も知っていた。ほかの若い女たちは、カーニアン・トアですらも、みんな絶えずつぎからつぎへ恋愛遊戯をくりかえしているようなのに、土地の金棒引き連も、ギニフリッドと結びつけて、どんな青年の名も真剣に持ち出したためしはなかった。
こんなにワイヴァーンズ・クロスの青年たちがおじけている原因は、人前でのミス・ラタリーのひどくとりすました態度にある、としか診断できなかったビクリー博士は、ひどく無性的なもの、つめたい純潔さのようなもの、かりそめの恋の申し出も未然に反発するようなものを、彼女から感じとることができたので、あえて彼女に手を出して運だめしをやってみる気にはなれなかった。ほかの者たちの心の髄《ずい》まで凍らせる、その無性的なもの、つめたい知的な純潔さのようなものこそ、ランプのようなミス・ラタリーの髪のまわりで、ビクリー博士に空しくキリキリ舞いさせていたのであった。この三年間に十幾度も、もう彼女に近づくまい、と彼は決心していた(女性のひじ鉄砲に彼は病的に敏感だった)。が、一度きりなら、一度きりでもよいから、なんとかしなければならない、とまた十幾度も決心しなおしていたのであった。それで彼は集会などで会うと、ほかの女に見せたこともないような、みやびやかな敬意をしめしたり、二人だけが知っているちょっと親しい関係でもあるかのような微笑を、たてこんだ人びとのあいだから時折り投げたり、そのほか、彼女にきわめて敬虔《けいけん》な、しかもきわめて熱烈な関心をいだいていることを、いろんなこまごました方法で伝えながら、たえず気をくばって、できるだけ努力して準備をととのえつづけてきていた。そして、こうした彼の行き方に、この一、二ヵ月間、ギニフリッドが反応をみせているように、彼には思えていたのである。
ビクリー博士の気持はきわめて純粋だった。自分はギニフリッドを深く愛しており、世界中で彼女こそ自分が結婚しているべきはずだったただ一人の女性である、と確信していた。ながいあいだ、このような女性を探しもとめていたのだから、探し当てたという気持は彼の胸をさすばかりだった。これまで幾度も、ほかで見つけたと確信していたことなどは、ちっとも問題にならなかった。
ついに彼は、今日の午後、一度だけ、運だめしをしてみようと決心していた。
その好機は、あらかじめ注意ぶかく準備していた。彼の指導によって、ギニフリッドは園芸に興味をもつようになっていた。今日の午後、彼女が挿木《さしき》にすることになっているハイドレインジア・ホーテンシア〔アジサイの一種〕の切穂を、彼は用意していた。アジサイの切穂を挿木にするのに、六月が絶好の季節でないことは、彼は話していなかった。その切穂は、庭の一ばん奥の隅の道具小屋に待機していた。
あいさつや遅参の弁明がすんで、まだギニフリッドが椅子に腰をおろさないうちに、きわめてさりげなく切り出したとき、彼の心臓は少しどきどきした。「ところでね、ギニフリッド、あの切穂を用意しておいてあげましたよ」
「あら、そうですの」とギニフリッドはとても優雅な口調で言った。
「いまお手すきの間に、受けとっておいてくださったがいいです。いっしょに来て、よくごらんになりませんか?」
返事をまたずに、彼は先に立ってそわそわといそいだ。そして妻の眼をのがれ、テニスコートから姿を消すのに一ばん早い路をとった。ギニフリッドはついて来た。道具小屋のある菜園は、家の向こう側にあった。ビクリー博士は家のかげへ入りこんでしまうまで、足をゆるめてギニフリッドと肩をならべようとしなかった。
切穂が温室ではなしに、道具小屋においてあるのを、ギニフリッドは意外に思ったかもしれないが、そんなけはいは見せなかった。博士が戸をあけてやると、彼女はためらわずに入っていった。息切れがするほど心臓をどきどきさせながら、ビクリー博士はおし殺したような口調で、ハイドレインジア・ホーテンシアの特長を説きはじめた。ひどく長々と話し、くりかえしたり、口ごもったり、ばかげたお愛想の質問をしたりした。いつも思っているように、本当の問題点に、ぶつかりたくもあるし、そうすることが恐ろしくもあって、彼はいらいらして汗をかいた。
しまいにきっかけをあたえたのはギニフリッドのほうだった。「それはあなたの心臓の音ですの?」と彼女は信じかねるようにきいた。「ここにいても聞こえますわ」
無邪気なのか、挑発のセリフなのか、ビクリー博士は混乱のあまり、考えることもできず、めくらめっぽうにぶつかっていった。「そりゃ――ふしぎがるまでもないじゃありませんか」と彼はもぐもぐ言って、ぎこちなく彼女を抱きしめようとした。経験をつんでいるにもかかわらず、ビクリー博士はあまり手ぎわがよくなかった。
「ビクリー先生!」とギニフリッドはびっくりした口調でさけんだ。「なにをなさいますの?」彼女はぞうさもなく小男の腕からのがれたが、おどろきはしずまらぬらしかった。
道具小屋の奥の隅へ後ずさりする彼女を、彼は追った。自分が何を言っているのか、しているのか、わからなくなっていた。「ギニフリッド――ぼくはたまらなくあなたが好きなのです、わかっているでしょう」
「わたくし、わかりませんわ」
「でも、ぼくは好きなのだ。あなたにもわかっていたにちがいないです」
「わたくし――一度も先生のことを――そんなふうに考えたことはありませんわ」
「これまで知ってきただれよりも、あなたが好きなんですよ」
「どの女にでも、そんなことをおっしゃいますのよ」
「そうではないです」
「そうですわ」
「そうではないことを誓います」おたがいが緊張しきっている時ほど、会話がひどく平凡になる時はない。
「ギニフリッド!」
「なんですの?」
「ちょっとぼくに――キスさせて」
「いやです!」
「なぜ?」
「わたくし――させたくないんですの」
「でも、なぜ?」
「わたくし、なんとしても夫と妻のあいだへ割りこみたくないんですの」とミス・ラタリーは、かろうじてとりすました態度を持ちこたえながら言った。興奮して泣きだしそうになっていた。
「でも、ぼくはおそろしくあなたが好きなんです。ねえ、ギニフリッド、ぼくはあなたを愛しているんですよ」
「ちがいます。もうわたくし、お聞きしたくありませんわ、ビクリー先生」
「いや、ビクリー先生などと呼ばないでください。テディと呼んでください」
「ここから出させてください、お願い。出させてくださらなくちゃ」
「でも、まずちょっとキスさせて」とビクリー博士はがん強にねばった。こんな場面になっても、彼女がそれを承知すれば、彼は自分の自尊心がなぐさめられるだろうと思っていた。もはや肉体的接触ではなく、ただ精神的満足だけをもとめていたのだった。
「わたくしはいやです」
「キスをされたことがあるんですか、ギニフリッド?」
「そんなことおききになる権利は、あなたにございませんわ」
「ありますよ。ぼくはあなたを愛しているんですからね」
「失礼させていただきます」あられもなく彼女は力まかせに小男を押しのけ、顔を真赤にして、道具小屋から急いで出た。
「ギニフリッド! いけない――この切穂を持ってゆかなくちゃ……万事がばれてしまう」
彼女は彼を見もせずに切穂を受けとり、二人とも長距離競走でもしたかのように息づきながら、黙々と歩いてもどりはじめた。敗北の悲痛――顔をひっぱたかれながらも、いやがる唇をみごとにキスした光栄ある敗北でもなく、言いようもないほど屈辱的な敗北――に、博士は打ちひしがれていた。
「まったく望みはないですかな、ギニフリッド?」と彼はもう一度きいてみた。
「あなたの押しの強さが、わたくしには、はかりかねますわ!」と彼女は怒りの声を放った。
テニスコートにたどりつくまでに、ミス・ラタリーはいくぶんか落ちつきをとりもどしていた。だが、ビクリー博士のほうは、いよいよ落ちつきを失いかけていた。ゆるやかな怒りの炎が、彼の内部で燃えていて、一瞬ごとに激しくなるばかりだった。すべてを引っくるめた怒りで、それはギニフリッドだけでなく、自分自身にも向けられた。ギニフリッドはまったくのばかなのだ。どれほどの時間と純粋な感情を、おれはこの女のために浪費してきたことだろう。いっぺんキスしたくらいで、夫と妻のあいだへ割りこむなんて、ばかげきっている! ああ、すっかりおれはたぶらかされていたのだ。こんなうぬぼれた見かけだおしの女よりも、あのいつも泣いてばかりいる〈うぶ〉なアイヴィのほうが、もっとましな中身をもっている。しかも、おれはこんな女に、分別や理解力があり、ふつうの女みたいなアヤフヤでない頭脳があるもののように思っていたのだ。たしかに、おれはばかだったのだ!
二人が姿を消しているのに、ビクリー夫人は気づいていた。夫がどんな男であるかを知っている彼女は、侮蔑《ぶべつ》に声をとがらせた。
「ああ、おもどりになったのね、エドマンド。お待ちしていましたのよ」
「ふむ、それで?」どう見ても、ビクリー博士にはちっとも変わったところはなかった。頬骨の上に二つの小さな赤い斑点がほてっていたが、あまり小さくて目だたなかった。
「ボールが一つたりませんのよ。ベンジーがまたグーズベリーの茂みへたたきこんだものですからね。すぐ行って見つけてくださいな」いつもよりも烈しい命令口調で話したので、その高い、いらいらさせるような声は、みんなの耳に聞こえないはずはなかった。男たちはひどくおもしろくない顔になった。みんなはそれぞれボールを探しに行こうと申し出ていたのだが、それは主人役だけがすべき役目だと、ビクリー夫人に告げられていたのだった。いまやみんなの顔に、同じ思いがはっきり現われていた――「犬にだって、あんな言い方はできるものではない」ビクリー博士は妻の口調とその裏にひそんでいるものを感じとり、お客たちの反応も感じとった。彼の頬骨の上の小さな赤い斑点が、すこしばかりひろがった。
すると、そのときギニフリッド・ラタリーが笑った。
それは神経が興奮しすぎたための無意味な笑いにすぎなかった。ビクリー博士も、そうと気づくことができたはずであった。しかし、彼は気づかなかった。彼が聞いたのは世界じゅうの嘲笑、昔から尻にしかれたくだらない亭主に向けられる嘲笑であった。とくに彼が尊敬をもとめ、飢えたように理解を切望していたギニフリッドまでが、嘲笑する群れに加わっていたのである。
顔じゅうを真赤にしながら、彼はくるりと踵《きびす》をめぐらした。さまざまな感情のあらゆる分子が、突然飛躍して、妻に対する圧倒的な憎悪に変化した。「ちくしょう」と彼は小柄な肉体を怒りにこわばらせて、コートの端をまわって大またに歩いてゆきながら、心のうちでつぶやいた。「ちくしょう、もうあまり長くはがまんしておれない。あの女が死んでしまえばいい。ちくしょう、いっそ殺してやりたい」
[#改ページ]
第二章
三十七歳のビクリー博士のことをのべるのには、まず何よりも、小柄である事実を強調しなければならない。小男であることが、彼の現在と過去のほとんどすべての生活部面に影響をおよぼしていた。それは彼が、自分はもうこれ以上に背丈《せたけ》がのびず、これから一生、ほとんど全部の男たちと相当多くの女たちを、見あげながら生きてゆかなければならないのだと、気づいたとき以来のことであった。彼の身長は、深靴をはいたままで五フィート六インチだった。
肉体的な外見は、ふつう一般に考えられているよりも、人格の形成に大きな役割をはたすものである。ささやかな肉体的な欠陥は――たとえば、ふつうよりも足が大きいとか、ほんの少し出っ歯だとかいうようなことにしても――完全に正常な、均衡《きんこう》のとれた人物になるべき人間を、あつかいにくい感覚過敏な人間に変化させるし、その影響は欠陥の部分だけにとどまらない。小柄な男たちは、そり身になって、威張り、想像力が欠けていることを示すか、あるいはむやみやたらにへりくだった態度をとるのが常である。
近ごろでは、コンプレックスとか、抑圧とか、病的執着とかという言葉を、どんな素人《しろうと》でも軽く口にするのであるから、ビクリー博士が自分の状態を知らないとは考えられない。彼にしても、インフェリオリティ・コンプレックスに対して、とくにひどいものには、他の医者に劣らず診断をくだすことができた。しかし、診断できることと治療できることとは別ものである。ばかげていると容易にわかるのであったが、やはりビクリー博士は、女たちの前に出ると卑屈感をおぼえ、男たちの前に出ると無力感をおぼえ、未知の人物に会うたびに、あらゆる点で劣等感をおぼえるのであった。ただ独りいるときだけ、自分は世間のだれにも劣らないし、おそらく少しはすぐれているだろう、と思いめぐらすことができるのだった。
彼の育ちも、こんな状態をつくり出した一因となっていた。イングランド中部地方の一つの町に、ささやかな薬剤師の息子に生まれたビクリー博士は、父の店の手伝いから人生へ出発していた。土地の中等学校で教育をうけてから、ごく小さな大学で二年ばかり勉学し、父の希望によってスコットランドの医学校へやられた(この目的のために、一生かかって父は、節約できるだけの金を少しずつためていた)。スコットランドのほうが、イングランドのものよりも学費が安かったからであった。そして彼は、そこで医師の資格を得た――光彩陸離《こうさいりくり》の成績とはいえなかったにしても、りっぱに資格を得たのだった。
しかし、まもなくビクリー青年は、開業医有資格者であることが必ずしも紳士の資格にならず、英国外科医師会会員であることが長老の資格にならないことを知った。父はありったけの貯金を出し、店までも抵当に入れて、デヴォンシアで小さな医院を開業させてくれたし、それ以来ビクリー博士は努力して、相当以上に繁昌させていたのであったが、この環境にあっては、なににつけても重視されるのは家柄であって、業績などはものの数ではなかった。彼が自分自身の力で以前の生活水準から浮かび出て、以前には店のカウンターのうしろ側からおじぎしていた種類の人びとと、社会的に対等の立場でまじわれるようになったことも、だんだん目ざましいものではなくなった。そして店のカウンターの裏側に生まれたという事実は、だんだん重苦しいものになっていた。
上流の私立中等学校出身の連中にかこまれていて、彼自身は私立中等学校出身ではなかった。オックスフォードやケンブリッジを出た連中と毎日つきあっていながら、彼はどちらの大学も出ていなかった。社会的に対等の者たちで、すくなくとも三代にわたる紳士階級の先祖を列挙できない者はなかったが、彼は自分自身より以前へ紳士の系図をたどってゆくことはできなかった。すべての友人や知人、きわめて貧しい田舎家の患者たちからも、れっきとした人間と認められている女と結婚していたけれど、彼自身はとるにたらない人間にすぎなかった。未知の人について、いつもたずねられるのは、「どんな家柄の人か」ということであって、「どんなことを成しとげた人か」ということではなかった。家柄だけが判断の基準であった。
大柄な肉体から生じる自信をもった男なら、こんな不当な判断に反抗していたかもしれない。ユーモアの感覚があるか否かによって、精神的な尊大さへ追いやられたかもしれないし、ただ笑いとばしていたかもしれない。が、ビクリー博士は、どうしようもなくそれを受け入れるようになった。それと反対方向への激烈さをもっていた彼の父なら、少しは均衡を回復するようなことをやってのけていたかもしれなかったが、もうその父も亡くなっていた。そしてビクリー博士は、父のことやその職業について知っていただれかが、ワイヴァーンズ・クロスにあらわれて、自分の素性をあばきはしないかと、たえずおののきながら生きていた。ジュリア・ビクリーでさえも、自分の夫は少なくとも医者の息子だと思いこんでいて、まだ一度も古い医師の人名簿をめくったりして、彼の欺瞞《ぎまん》を暴露しようとしたことはなかったのである。
彼の背丈や育ちが原因となって、つくられはじめていたものを、結婚が完全に仕上げてしまった。たしかに、あからさまにではないにしても、とりちがえようもないあてこすりによって、お前は虫けらであると、明けても暮れても十年間、それを生存の公理と見なしている人物から、告げられつづけると、すでに自分の意見よりも、他人の意見に重きをおくようになっている人間は、それを説く人物と同じように、やがてはその考えを強く信じないわけにいかなくなるものだ。
虫けら扱いに対するビクリー博士の反抗は、きわめて正常だった。彼はそれを顔面の傷痕《きずあと》のように受け入れた。悲しむべきではあるが、それがそこにあるのだから仕方がないという調子だった。彼はそのことをちっとも気に病んだりしなかった。たとえば彼は、虫けらであろうとなかろうと、この界隈で評判がいいのを知っていたし、それはとても彼をうれしがらせた。そんなことから超越しているようなふりをしていても、われわれのすべてがそうであるように、彼も自分が好んでいる人たちに好まれるのを好んだからだった――そして彼は大ていの人たちを好んでいたのである。多少とも彼は以前のままで、陽気であり、社交好きで、どんな単純なお笑い草でもたちまちおもしろがり、だれのためにでも即座に何でもしてやるのだった。男たちとは仲よくやっていったし、女たちとは(しばしば自分ながらにおどろくのであったが)もっと仲よくやっていった。ビクリー博士は、もう二十年以上も女たちと仲よくやってきていたが、いまでも、最初の娘にキスを許された時と同じように、そのことにおどろきをおぼえるのだった――くすくす笑っていたその娘は、よしてちょうだいと頼み、彼にキスされるくらいなら、舌でもかんでしまいたいようなふりをしてみせながらも、彼女の熱望するままに離してやると、ひどく奇妙に悩ましげな顔つきになったので、彼は神経のいらいらする役割を、はじめから再演せねばならなかったものである。
そのころ、ふつうの行き方で会った人なら、ビクリー博士はデヴォンシアにありふれた素朴な、正常な人間だと言ったことだろう。そして実際、そうだったのである。インフェリオリティ・コンプレックス(劣等感)は、けっして異常なものではなく、むしろ正常状態のように見えるものだ。異常なのは、インフェリオリティ・コンプレックスが皆無であるか、少なくともその反対のものを持っている場合である。どうやら人間は、どちらかを持っているにちがいないらしいからである。
この小柄な男の性向が、いくらかでも本当に現われたのは、女性関係の部面にかぎられていた。
かならずしも女性がビクリー博士を怖れおののかせるわけではなかったが、なにかの理由(幼時の何かの出来事に起因するものとされるにちがいない)のために、彼は男性よりも女性に対する場合のほうが、はるかに不安な気分をおぼえた。女性の前では、異常な卑屈感をおぼえたのである。もちろん、彼の妻は、ただ一語の抑揚や眉のあげ方だけで、名状しがたい卑小感を彼におぼえさせる完全なコツを心得ていた。ちょいと彼女が唇をゆがめれば、彼は自分の夜会服が、自分をりっぱに見せるどころでなく、まるで店の売子が衣裳をまとったかっこうにしていることを知った。彼女の眼がきらりと光れば、彼は自分の紳士ぶりがグロテスクで、これまでも自分自身の家への侵入者であったし、今後も侵入者以外の何ものでもあり得ないことに気づくのであった。しかし、これは特殊なケースだった。一般的に言って、彼にとって女たちは、とにもかくにも、彼女たちが女性であるというだけの理由から、ただ異っているというだけのことから、すぐれた種類の存在なのであった。ビクリー博士と異っているものは、たいていの場合、その点で彼よりすぐれていることになるからだった。
その結果は妙なことになった。彼は女を追いかけないわけにいかなくなった。ほかのいろんなことは別として、彼にもちゃんと付与されている絶対的な男性が、彼をかりたてたのであった。ほかの男たちとの関係では、彼も劣等感をがまんできた。つまるところ、ほとんど大部分の場合、男性の基準は肉体的なものであって、それによる判断の結果は、自分でどうしようもなかったからである。しかし、女たちへの劣等感には堪えられなかった。たぶん彼はこれを、はっきり意識して自覚しなかったであろうが、それはあまり関連のないことだった。とにかく彼は絶え間なく、執念ぶかく、仇《かたき》のように女たちを追いかけたのである。
こうした女狩りは、あまりよろこびをもたらさなかった。追跡は彼の心に、興趣よりも恐怖をみたす場合のほうが多かった。しかも彼は、どうしても自分をおさえかねた。自分の意思よりもはるかに強いものが、彼をかりたてているようだった。それは原始的な男性の奥深く根をはっていて、教化された心の臆病さから反動的に現われた獣性によって、ひどく拡大され強化された衝動だったので、彼にはまったく抵抗できなかったのである。彼がつき合うようになった女たちで、まずまずと言える容貌の女なら、どれにでもちょっかいを出してみずにはいられなかった。いつでも大てい、彼がねらったのはキスだけで、もっと親密な関係に入るのはまれなほうだった。ねらった目的をとげると、彼は満足した。ふみにじられた男性の面目が、やっと立った思いがしたのである。
勝利は甘美であることもあったけれど、そうでないことのほうが多かった。しばしば、勝利を眼前にしながらも、それを得たいとも思わぬこともあったが、この段階まできて後へひくのは失礼にあたるだろうと考えて、それをわがものにせねばならぬこともあった。さらにしばしば、実際にやりとげるまでは、わがものにできると信じられないために、そうすることもあった。事実上、たいてい勝利は彼のものとなった(いつも彼はそれを勝利と考え、相手の女のほうがキスされるのを望んでいただろうとは決して考えなかった)。しかし、ほかの女性ぜんたいに対しては、ちっとも確信が得られなかった。あらたな恋愛ざたにぶつかるたびに、この前ほどにうまくいきそうにないような気がするのだった。
いつもビクリー博士が、弱々しい復讐心とか漁色とかの気持から、こうした恋愛事件に乗り出したものとしておくのは、彼に対して公平を欠くであろう。ささやかな出来事の場合は、そんな気持からであったかもしれないが、重要な恋愛事件では、つねに彼はきまじめな根拠をもっていた。ほんとうに自分が結婚しているべきはずだったただ一人の女性に、ついにめぐり合った、と彼は思うのであった。こんな女性を積極的にさがしていたわけではなかった。たとえ見つけても、なんの役にもたちそうになかったからである。ジュリアは離婚するチャンスを彼にあたえそうになかったし、医院の経営を考慮せねばならぬ田舎医者としては、自分から離婚するだけのゆとりはなかった。ただ運命が、そんな女性とめぐり合わせるにすぎなかった。そんな事件は、十八ヵ月間に一度ぐらいずつ起こったが、そのたびにビクリー博士は、また運命がまちがいをやらかしたと、悲しい気持になるのであった。
もちろん、彼がジュリアと結婚するにいたったのは、彼の不運なコンプレックスのせいだった。その当時ジュリアは羽振りのいい人物だった。名流婦人とも言えそうだった。ビクリー博士は、あらゆる点から考えて、医者として以外、とても自分は彼女の父の家へ入れてもらえないだろうと思っていた。ところが、彼女は入れた。断じて彼女がへりくだって、友人になってくれたりしないだろうと彼は思っていた。ところが、彼女はなった。びくびくしながら、少しばかり愛撫しても、それを彼女が受けいれようとは思いもよらなかった。ところが、彼女は受けいれた。彼は彼女を愛していなかった。彼女にはまるで魅力などはなかった。あまり好きにさえなれなかった。しかし、彼女と結婚しようと実際に望むことができれば(その想念をはっきり心のうちに思いうかべてみようともしなかったが)、、そう望むことができるだけでもって――もはや自分は卑小な人間ではなくなり、逆に、きわめて大した人物になるだろう。もちろん、これはばかげきったことだ。こんなとほうもないことを、一瞬もジュリアは考えてみようともしないだろう、と彼は思った。ところが、彼女は考えた。そしてビクリー博士は、以前にも増して自分が卑小な人間にされてしまったのに気づいたのであった。
はじめから、二人は寝室を別々にした。ジュリアには、従順な妻になろうとする気構えはなかった。ビクリー博士も、彼女がそうなることを別に要求もしなかった。ジュリアはベッドのなかでも、独裁的にふるまいたがる種類の女だった。妻に関するかぎり、この十年間、彼は性的に飢えさせられてきていた。こんな状態にある男は、いろんなことを許されてもよいかもしれない――むろん、当の妻の立場だけは別である。
くりかえして言うならば、女たちとの関係をも引っくるめて、ビクリー博士は、ごくふつうの男性とあまりかけはなれたところはなかった。女たちに対する正常な男性の態度は、およそ女たちが想像するよりも、あるいは彼女たちの男性に対する態度よりも、はるかにずっと複雑なのである――正反対の愛憎が交錯し、自己矛盾的であって、男泣かせの女たちの内部に存在するどんな種類のものよりも、まるでケタちがいに非論理的で、不条理なのである。
他の人間に告白するくらいなら、死んだほうがましだというような一つの習慣が、ビクリー博士にはあった。それは、母親が奇形児に対するように、彼としては、いとおしいとともに、はずかしくもあるものだった。毎夜、彼はみずから「空想」と考えているものによって、自分の心をなぐさめて寝入るのであった。
それはビクリー博士自身を中核として展開し、なにかのきわめて重大な場面が、じつに詳細に心のうちに描き出されるものだった。いつも彼は一人用ベッドに、右脇を下にして寝ころがり、枕を肩に引きよせ、肉体的休養の快楽を心ゆくまで味わいながら、もう少し小ぢんまりとからだを折りまげてから、独り思うのである。「さて、今夜はどんなことをやろうかな? ちょっとクリケットはどうだろう?」
そして十分間ばかり、ビクリー博士がイギリスの選手にえらばれ、最後の優勝決定戦で活躍する光景がくりひろげられるのを、彼は心の眼で追うのである。「エドマンド・ビクリーって何者だい?」と無料入場者たちが腹立たしげにきいている。オーストラリア・チームが先攻で六三七点をとり、イギリス・チームはやっと四六点。続行第二回戦では、打者九人アウトで三二点。エドマンド・ビクリー博士が最後の打者として位置につく。何も知らない群集の野次や嘲笑がつづく。ものすごい六点打が、ローヅ・クリケット競技場の観覧席をこえて飛ぶ。「おや、あの男は打てるぞ!」熱狂した群集の歓声がとどろくなかで、つぎから次へ球を打ちまくり、すべての投球を仕止めながら、一球おきに六点打を打ち、その日じゅう打ちつづけ、あくる日も半日打ちつづける。ついにもう一人の打者がアウトとなる。「エドマンド・ビクリーは六四五点かせいでアウトにならない」「まったく、オーストラリア・チームの十一人ぜんぶよりも、たくさん点をあげおったぜ」それからオーストラリア・チームの第二回の攻撃となり、その優秀な打者たちも、エドマンド・ビクリーが投げる遠目の曲球《カーヴ》にひねられて、つぎから次へアウトにされる。最後にイギリス・チームは、まったくエドマンド・ビクリーの活躍によって、三点の差で勝利を得る。「ビクリー博士、あなたはイギリス・チームを救ったのですよ」しかし、その時分には、ビクリー博士は気持よく幸福に寝入っているのであった。
これは彼の大好きな「空想」であった。もっとも、バッキンガム宮殿へ招喚される場面も、これに劣らず好きなものだった。(「陛下、この重大手術をおこない、多少でも希望をつなぎ得る者は、全世界にただ一人でございます。しかも、手術がおこなわれないとすれば、陛下はおなくなりになるにちがいございません」「してそれは何者か、ゴドフリー卿?」「エドマンド・ビクリーと申す外科の名医にございます、陛下。全科医の仮りの姿で自分の天才をかくし、デヴォンシアのワイヴァーンズ・クロスに、みずからうずもれているのです。しかし、当人を知るわたくしどもは、エドマンド・ビクリーこそ古今を通じて最も偉大な外科医であることを知っているのでございます」「その者を召し出せ、ゴドフリー卿」……「ビクリー博士、おわかりかな? 国王のご生命は君の手中にあるのですぞ」「ただ最善の力をおつくし申しあげるのみでございます、ゴドフリー卿」……「まさに奇蹟! すばらしいかぎり! とうてい余人にはなし得ないことです。ビクリー博士、イギリスは君に永く感謝をささげるでありましょう……」「ワイヴァーンズのビクリー卿よ、立て」……)
彼の愛好している演芸種目は、ほかにもいろいろあった――ウインブルドン全英庭球選手権大会におけるビクリーのハ短調交響曲。ロンドンのバーリントン・ハウスにおけるビクリーの作品展(「ビクリーのみごとな手法は、レンブラントに負うところがあるにしても、それを独自の表現力に転化させたあざやかな彼の手腕は、すべて独得のものである。あえて断言するが、単にパレットのごとき画具をもってしても、天才にはいかに感動的な作品を完成できるか、今はじめて世界の人びとは知らしめられるにいたった……」)。エドマンド・ビクリー作品集。オープン・ゴルフ選手権。B・B・C連続放送ビクリー・コンサート。戦争(「いまや周知のとおり、ビクリー陸軍元帥は、戦争勃発の日、一兵卒として兵籍に入り、ヴィクトリア勲章を授けられた最初の戦闘では……」)。偉大な好色家ビクリー。そのほか種々あった。時々刻々の事態に応じた臨時の「空想」もあった。
たとえば、テニス・パーティの前夜には、あくる日の午後の道具小屋での場面を、まざまざと予想しながら、心たのしい十五分をすごした――手ぎわよく戸をしめる。大胆に、しかもいんぎんに、誠意をみせて話す。「ギニフリッド、もうわかっているにちがいないが、あなたにたいするぼくの気持は……」ギニフリッドが恥ずかしそうによろこぶ。「ああ、エドマンド――テディ! ええ、もちろん、わたくしもあなたを愛してますわ。わたくし――ほんとに、あなたを熱愛していますのよ……」応じてくる彼女、彼の両腕に抱いた彼女のすんなりした肉体の感触、髪の匂い、唇……
こうした空想劇を彼がたのしんだのは、その時が最後となった。ビクリー博士は、しょっぱなにひじ鉄をくった恋愛ざたを、けっして追わなかった。ギニフリッド・ラタリーとの恋愛ざたは、はじまると同時に終わり、感情が激変した。彼女と恋におちていると想像していたビクリー博士は、いまでは彼女を軽蔑すべき女と見ているだけだった。憎むべき女とは見なかった。彼女には憎むだけの値打ちがなかった。ギニフリッドのほうが先に彼を軽蔑しているかもしれない、というような想念を、彼は受けつけようとしなかった。誇りを傷つけられたかもしれぬなどとは、心の奥底ででも認めるのをこばんだ(そんなことをするのは、すでに痛んでいる傷口へ塩をなすりこむようなものだったろう)。そして彼は、その傷口に軽蔑の軟膏《なんこう》を塗ったのであった。あの女はばかなのだ。ばかにほかならないのだ。あんなとんま女が、もっと微妙な理解力をもっているだろうなどと思いこんでいたのは、いまではお笑い草にすぎない。そうだとも、あんなギニフリッドなんか、おれが結婚しているべきはずだった女でないことは、きわめて明白だ。ジュリアにしたところで――まあ、とにかく分別ぐらいはもっている。いっぺんキスしたぐらいで、「夫と妻のあいだへ割りこむ」なんて、あきれたものだ。おそろしくうぬぼれた女だ! まるでギニフリッドのキスが、とても……
それにしても、この物語の後編が残っているのだった。ビクリー博士は、妻が死ぬことをはっきりと熱望した。
テニス・パーティの夜、あたらしい空想劇が上演されはじめた。彼はジュリアのいない生活の場面を心のうちに上演した――自由、拡大、回復された自尊心、他の人たちの前で彼女が何を言うか知れないという不断の恐怖の消失、信じられないほど平和な気分。二時間以上も、彼はその空想劇を見つめつづけていた。
あくる日の夜も、そのつぎの夜も、彼は見つめつづけた。
しだいに、ジュリアのいない生活の場面が、彼の演芸種目の一部になっていった。数週間のうちに、詳細な空想劇の筋ができあがった――病気になるジュリア、悪性の病気のために重態におちいってゆくジュリア、死の床に横たわるジュリア、自分が冷酷な残忍な女であったことを詫びながら最後の息をひきとるジュリア、死んだジュリア、ジュリアの葬式、ジュリアのいない家、ジュリアのいない庭、ジュリアのいない生活……
来る夜も来る夜も、彼は一度もクリケットの場面などは上演しなかった。
ビクリー博士はトア氏を大へん尊敬していた。トア氏は社会的に高い身分になるために結婚していたのではなかった。すでに十分に高い身分であったからである。彼は金のために結婚していた――言いかえれば、すくなくとも、うっかりしているうちに金のある女と結婚してしまっていたのだった。トア夫人は近くの醸造業者の娘で、ワイヴァーンズ・クロスの生活は、この醸造業者の贈与によるものだった。裕福な生活で、あまり働く必要はなかった。トア氏は人生の成功者だと、ビクリー博士は考えていた。
トア氏も、多少えらい人物であった。オックスフォードでの経歴は特筆すべきものだった。ごく少数の精選されたサークルのメンバーで、彼は知的水準では最優秀の者たちと肩をならべていると見られていた。大学の賞のほとんどすべてが、このサークルの手中に落ち、トア氏も幾つかの賞を得ていた。他のメンバーと同様、彼にははなばなしい未来が予言されていた。他の者たちは予言どおりに世に出た。その結果、いまではトア氏は、文芸界や美術界や政界の第一流の人たちを、友人として挙げることができる。トア氏だけが無名で埋もれるにいたっていても、ワイヴァーンズ・クロスでは、けっして落伍者などとは考えられていなかった。天才的な人物によくある≪つむじ曲り≫から、自分でこんな生き方をえらんだにすぎないとされていた。
テニス・パーティから一週間ばかりたって、ビクリー博士は村の街道の郵便局の前で、トア氏に会った。
あきらかにトア氏は何かでうれしがっているらしく、大きく盛りあがった物腰をみせていた。彼の教会のパイプ・オルガンに似ていないこともなかった。いつも堂々とした押し出しで、ごきげんの時には、鳴りわたるティアペーソンのように大きくなり、彼の実際の肉体が占めるよりもはるかに広大な空間を、物質で満たしているような印象をあたえるのであった。
ワイヴァーンズ・クロスの郵便局は、食料品店でもあり、小間物屋でもあるとともに、また金物屋でもあった。すべての取引を一つのカウンターでやっていたが、客は自分が立つ場所によって、どの部に用事があるかを示すことになっていた。トア氏は郵便局の部に立ち、ビクリー博士は金物部に立って、温室用のネズミ取り器を買おうとしていた。だから、二人のあいだには、食料品部と男女用の小間物部があるのだったが、しかもトア氏は、ちゃんと郵便局にいながら、どんなふうにしたものか、二つの部を越えて金物部へのさばり出て、ビクリー博士を端の隅っこへおしこんだ。
「お早う、ビクリー。いい朝ですな」トア氏は全能の神との特別な取決めによって、いい朝にありつけることをビクリー博士に保証するような言い方をした。
「お早う」とビクリー博士は微笑した。ネズミ取り器のような世俗的なものにふれたりするのは、神聖をけがすようにも思えたが、カウンターのむこう側のスティンヴェルばあさんに、彼は自分のほしいものを告げた。この多角的な店を経営しているスティンヴェルばあさんは、同情するようにうなずきながら、神秘的な店の奥のほうへさがしにいった。客のもとめるものをまるで店においていないらしいスティンヴェルばあさんは、奥のほうの隠し場を引っくりかえして探すのに、ふつうの人間の三倍くらいも長々とかかるのにきまっていた。したがって、店で出会った二人の人物は、天気やら近隣の人たちのことやらを話し合う時間が、たっぷりできるわけだった。
「ところで、今日はブレントおばあさんの容体はどんなふうですかな?」とトア氏はおごそかな慈愛をみせてたずねた。ブレントおばあさんの容体が、こんどは本当にわるいと最近きいたのをぼんやりおぼえていたし、村の牧師として、自分の教区内の人びとのことは、どんなに貧しい人のことにしても、つねによく消息に通じていなければならないと思ったからだった。それに、ビクリーも自分の患者のことは話したいだろう、専門的な職業の人間たちは自分の職業関係のことを話したがるものだ、と考えたからでもあった。
ところが、ビクリー博士はこまった顔つきになった。「今日?」と彼はぎこちない調子で言った。「今日もその――やはり死んだままですね。つまり、先週、あなたが埋葬なさったんですから、ね」
「ムフン!」トア氏はきびしい調子でせきばらいをした。とにかく死んでしまったのはブレントおばあさんの〈へま〉であったが、そのことをトア氏がすっかり忘れてしまっていたのは、ビクリー博士のはるかにひどい〈へま〉であった、というように聞こえるせきばらいだった。
「あなたのところでは――ネズミに悩まされておいでになりませんか?」小柄な医者は、〈へま〉のつぐないをしようとして、いそいで口ごもりながらきいた。
トア氏はひろい額に、ほんのすこし眉をあげた。「いや、さいわいにして、わたしはネズミには悩まされませんな」余人は知らず、この自分自身はつねにネズミなどから超越しているのだ、と言うような口調であった。
こんなふうに微妙な調子でたしなめてから、どうやらトア氏はビクリー博士をゆるしたようすで、また前のおおらかな態度にかえった。「昨日わたしはクランミアさんを訪ねましたよ」
「ほう、そうですか」ビクリー博士はべつに興味もそそられなかった。ミス・クランミアは、ほんの少しも彼の心をひきつけていなかったからである。
「じつにすがすがしい若いご婦人ですよ、さいわいにしてね。じつにすがすがしい」
「すがすがしい?」これはビクリー博士自身には彼女に適用できそうにない形容詞であった。
「このごろの紋切り型の若いご婦人にくらべればですね」
「ああ、なるほどね」と言ったビクリー博士は、カーニアンのことを思いめぐらさずにいられなかった。そしてトア氏も同じ思いをしているのではないか、と不安をおぼえた。
しかし、トア氏はそうではなかった。彼の声はパイプ・オルガンの人声|音栓《おんせん》によく似た音調になった。「あの人は教会の復旧基金に、百ポンドの寄付を約束してくれましたよ」と彼は意気揚々と言った。
「百ポンド?」
「百ポンド、ちゃんと申し出てくれたんですよ。はじめての訪問では、当然、こちらから持ち出せることではありませんが、あの人のほうがわれわれの教会を讃嘆していて、西側正面のあの足場に気がついていたんですな。じつに観察力のすぐれた若いご婦人です。思うに」とトア氏はちょっと考えてから言った。「あらゆる点であの人は、われわれの名誉となる人物でしょうな」
言いかえるならば、それについて妻からいろんな危惧《きぐ》を聞かされていたビクリー博士の判断では、ミス・クランミアがあの「屋敷」でひとり暮らすことに対するあらゆる反対も、トア氏の側では引っこめられたわけだった。
トア氏のために公平を期して言うならば、ミス・クランミアは無意識のうちに、こんな結果をもたらす一つの方法を思いついたにちがいない。教会はトア氏が心から熱愛しているものであったから、教会に寄付するのは、彼の心をやわらげる道だった。教会はノルマン時代初期のもので、純粋なサクソン風の地下納骨所がついていて、西の端の垂直式の窓を別とすれば、地上の建物ぜんたいも同一の様式になっていた。ヘサリ師が真剣に自分の責任としているのは教会のことだけで、教会へは自分の妻の財布からいくらでも金をつぎこむのであった。
ビクリー博士はネズミ取り器をもってフェアローン荘へかえった。くずれかけた石細工の部分をちょっと修理するのに百ポンドか、自分とジュリアはテニスの新しいネットも買えないのに!
そうだ、たしかにトア氏のほうが賢明な方策をとったのだ。
こうなれば、ただ一つの望みは、あの女が健康を害してくれることにある。あの血色のわるい顔や眼の下のくぼみからすれば、望みはかなえられそうだ。そしておれを主治医にしてくれることは、まず確実だろう。とてもうま味のある、もうけの多い請求書を出すのには、あの女は打ってつけの相手となるにちがいない。
それにしても――百ポンドとは!
十ポンドで十分だったろうに。
めざす女が、どうやら健康を害したらしかった。すぐ次の日に、ビクリー博士は「屋敷」へ往診をもとめられた。彼は希望に胸を高鳴らせながら、古ぼけたジョウエットを操縦して出かけていった。
ビクリー博士は、まだ一度も「屋敷」のうちへ入ったことがなかった。もとの所有者のスウィンコーム大佐は、ある年マーチェスターのテニス・トーナメントで、一回だけ会ったとき、ビクリー博士がこの退役軍人の心に、ジュリアはクルースタントン家の娘であることを品よく吹きこんで知らせおいたのに、往診をもとめたことがなかった。大佐の主治医はマーチェスターにいたのだった。それで今ビクリー博士は、興味をもって、この古い家にはいるのであった。
ハッと彼は息をのんだ。実のところ、最高の芸術家ビクリーの空想劇を上演していたのにも、いくらか理由がないわけでなかった。バラづくりの合い間に暇のある時など、ちょっとスケッチをしてみたりしていたし、彼は美、わけても古い芳醇《ほうじゅん》な美に対する純粋な感覚をもっていた。この「屋敷」はきわめて古く芳醇で、きわめて美しくもあった。桃赤色で、破風づくりになり、曲った煙突や格子窓のついた後期チュードル王朝式の完璧な建築で、壮大ではなかったが、ジョージ王朝時代の不器用な修理者たちの手によっても、まったくそこなわれていなかった。家のうちには、広やかな、涼しい部屋がいくつもあって、ひくい木造の天井、梁《はり》、ひろく開いた炉、黒光りのする羽目板ばりの壁、チュードル王朝式の盛り上げ飾りや、ジェームズ一世時代の菱形模様の刻まれた炉上の棚飾りなどが見られた。ビクリー博士はじつに興趣ぶかく珍貴なものだと思った。
ホールで彼を迎えたマドレイン・クランミアは、みずから一階じゅうを案内してまわった。狂喜したような彼の熱烈な讃辞を、彼女はうれしそうに聞きながら、まるで彼が当代の大家であるかのように、いくつかの点について相談した。彼は大家ではなかったが、彼女に凡《おおよ》その意見をのべられるくらいの知識はもっていた。そして彼女が熱心に傾聴してくれる態度に、すっかり感激しつづけた彼は、じっさいは彼女のほうが問題のいろんな点を、彼自身よりもよく知っていることには気づかずにすんだ。彼女の健康の問題は、ほんのお義理みたいに持ち出されただけで、すぐに片づけられた。神経質な頭痛に悩まされがちだが、何か薬をもらえまいか、という彼女に、彼は処方を書こうと約束した。
大きな杉の木の下の芝生で、二人はお茶をのんだ。ビクリー博士はほかへも往診にゆかねばならず、六時の宅診までの間に、やっとそれをすますことができるのであったが、マドレインがとても引きとめたがっているらしかったので、彼としては、とどまるしかないようだった。彼女は沈んだ、いささか真剣らしげな微笑をみせながら、もうここで暮らすのが少々さびしくなってきはじめた、と彼に告げた。
お茶をのみながら、二人は美術について語った。現代美術家たちをけなし、ジョージ王朝時代の美術家たちはまずまずとして、十六世紀から十七世紀の巨匠たちだけを尊敬する点で、おどろくほど二人の意見は一致しているようだった。さらに、二人の態度は紋切り型ではなく、あくまでその絵画の正しい評価を基盤としているという点でも、意見が一致した。ミス・クランミアが本当に大へん若いとは、ビクリー博士には思いかねるくらいだった。彼女は三十歳の女の感覚と円熟した判断力をもっているようであった。二人は美術からほかの話題へうつった。そしてどの話題でも、二人の見解は同一であるようだった。なにか意見の相違している点を見つけようとするのが、きわめて興味ぶかい問題となったが、じつにおもしろいことには、ただ一つの相違点も発見できなかったのである。
ビクリー博士はうれしがった。生れてはじめて、どうやら、自分の心と完全に共感する心の持主にめぐり合ったようだった。胸をふくらませながら、彼はそれをほのめかしてみた。すると相手も、他の人と知的な話がかわせるのは、めったにないよろこびであると告白したので、ひとしお彼はうれしがった。ミス・クランミアは、自分の年ごろの大ていの女たちは十二歳の時から知能が発達していないようだし、若い男たちはもっとひどいと意見をのべ、ビクリー博士も同じ意見かときいた。ビクリー博士は、ギニフリッド・ラタリーのことを思いめぐらしながら、若い男たちよりも女たちのほうがひどいと言った。たしかに、一般的にはそうにちがいない、とミス・クランミアは話した。
ビクリー博士として、いちばん気に入ったのは、彼の考えに彼女が敬意を払ったことだった。彼女は彼の言葉を注意ぶかく聞き、きまじめにうなずいて同意を表し、大きな灰色の眼を知的な興味にかがやかせた。微笑すると、眼尻にしわがよって、それを見つめていると、心たのしかった。彼女はあまり微笑しなかったので、もっとしばしば微笑させようとした彼は、微笑させることができるのを知って満悦した。けっして彼は、第一印象を逆転させて、彼女を美人ときめたわけでなかった。たしかに彼女は美人ではなかった。しかし、単に美人であるよりも、なにかもっと生き生きとしたものだった。彼女の顔はじつに興味ぶかいものであった。
もちろん、ビクリー博士がスケッチをやってみていることは明るみに出た。彼ははにかみがちに、しかも誇らしげでもなくはないようすで、そのことを告白した。どうやらミス・クランミアは、彼が何かそういうことをやっている人物とにらんでいたようだった。彼は絵を語るだけでなく、みずから描く人物であるという印象を、彼女にあたえていたのであった。ビクリー博士は彼女のするどい洞察力に驚嘆した。
文字どおり、十年は若返った気分で、彼は「屋敷」から出た。いや、もっと若返った気分だった。はじめてジュリアに会ったときよりも若返っていた。そして実に奇妙に元気づいていた。結局、ジュリアなんか大して問題でないような気がした。人生には――このおれの人生においても――ジュリアなどよりも、ずっと重要なものがあるのだ、と彼は考えめぐらすようになっていた。
ジョウエットを操縦して、のろのろワイヴァーンズ・クロスへ帰りながら、彼は自分をとらえている感情や新しい歓喜を検討してみた。「いや」と彼は断定した。「おれはあの女を愛していない。愛するようにはなれそうにない。そういう魅力は、あの女にはまるでない。だから、ちょっかいを出したりするのは禁物だ。そいつはすべてを台なしにする。どんなことが持ちあがっても、たとえあの女のほうからきっかけをあたえても(もちろん、そんなことはしないだろうが)、ゆめゆめ、ちょっかいを出してはいけない」
彼は鼻唄をうたった。生れて以来、こんなうれしい気分に持ちあげられたことはなかった。ミス・クランミアはいつでも好きな時に来て「屋敷」や庭園をスケッチしてくれと言ったばかりでなく、そうしてくれれば、ほんとうに光栄に思うという気持も、彼に伝えたのであった。
「エドマンド」とジュリアが、車を片づけている彼に、ひややかに声をかけた。「お茶にお帰りにならないことを、どうしてわたしに知らせておいてくださらなかったの?」
「わからなかったものだからね」と彼は陽気に言った。
「あなたの宅診の時間にも、ひどくおくれていますよ」とジュリアはいっそう強く非難するように言った。ビクリー博士が外出中には、ときおり彼女自身が患者たちに応対しなければならず、それを彼女はいやがっていたからである。ジュリアにしても、自分の夫が医者で、持って来られる金のために働いている事実を、知らぬふりしているわけにいかなかったが、できるだけ彼の仕事の手伝いをしないことによって、この品位を低下させる事実に眼をふさごうと懸命になっていたのであった。
「ほう」とビクリー博士は意外そうに言った。「自分の宅診の時間におくれていけないのなら、だれの宅診の時間におくれてもいいのかね?」そして平然とした微笑をみせて、彼は待っている患者たちのほうへ歩み去った。
ジュリアはびっくりしてあとを見おくっていた。
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第三章
ビクリー博士が昼食に帰ったとき、ホールのテーブルの上に、一通の手紙がのっていた。それをとりあげていると、女中が昼食のゴングを鳴らしに入りこんできた。
「リッジウェイさんがおいていらっしゃったんでございます」と女中は告げた。「ご返事はいらないとおっしゃっていました」
「わかったよ、フロレンス」と博士はうなずいた。「書いてやると約束しておいた処方のさいそくだろう」いつもビクリー博士は、召使たちに不必要なことまで説明した。彼の妻は、そんななれなれしい態度で召使たちを取扱う主人を、召使たちはけっして尊敬しないし、りっぱな召使はそんなことをいやがるものだと言い聞かせ、そんな彼の癖をなおそうとしたが、まるで効果がなかったのであった。ジュリア自身は召使たちに対しておそろしく形式ばっていて、彼らを精いっぱい使いこなしていた。育ちに似合わず、彼女は家事をきわめて巧みに切りまわしていたので、フェアローン荘では万事が時計仕掛けみたいに動いていた。その結果として、召使たちはみんな彼女をきらい、えこじなくらいに博士に敬意をささげた。どうも彼らはりっぱな召使たちでなかったらしい。
「ああ、そうでございますか」とフロレンスは微笑して、手紙を読んでいる主人のじゃまにならないように、そっとゴングを鳴らした。
「うん、やっぱり思ったとおりだよ」と彼はちょっと微笑して、手紙をポケットにおしこんだ。「昼食はできているんだね、フロレンス? ちょっと手を洗わなくちゃならない」
手洗所のドアをしめきってから、彼はまた手紙を読んだ。
「愛するテディ――どうしたんですの? どうして手紙も何もくださらないの? ここ三回、水曜日ごとにお待ちしていたのに、まるでいらっしゃらないんだもの。もう三週間ちかく、お宅のテニス・パーティから、ずっとお会いしないのよ。あの時だって、午後じゅう、ろくに口もきいてくださらなかったわ。なにかのことで怒っていらっしゃるの? 今日の午後には、なんとしてもお会いしなければなりません。三時に、あの洞穴に出かけています。ぜひおいでくださいね、テディ。
あなたの
アイヴィ」
「やりきれない!」とビクリー博士は悲しそうに言った。そして昼食に行った。
三時十分すぎに、彼は道路の左右をすばやく見まわしてから、石切場のせまい入口を通ってジョウエットを進めていた。
そこは理想的なあいびきの場所だった。ある日アイヴィが自転車で探検していて見つけたものであった――もう五十年間も放棄されたままになっている古い石切場で、石が切りとられた周囲の側面は、いまは若い木々におおわれて、それらがせまい空間ごしにほとんど頭上に枝をまじえ、その平たい石の床は、自動車を入れるのにあつらえむきになっていた。道路の片側との境になっている石の壁に、ほとんど木々におおわれた入口があって、そこを通りぬけると、まったく思いがけなく石切場へ入りこめるようになっていたので、だれもそこをまるで知らないらしかった。ワイヴァーンズ・クロスから六マイルばかりで、人目をさけられるだけの距離があったし、ジョウエットやアイヴィの自転車でたやすく行けたので、完全な密会の場所、と両人とも喜びの声をあげたのだった。そしてビクリー博士がでこぼこした側面をはいあがり、下方からはらはらしたアイヴィのとめる声を聞きながら、かくされていた洞穴の入口を見つけ、その内部へ入りこんで、そこが岩壁へ掘りこんだ古い採石場であることを知ると、完全の上にも完全きわまる場所ということになった。
洞穴は下の石の床から十二フィートほど上方にあって、いくらかの灌木《かんぼく》を引き抜いてのけたり、平たい石をあちこちにすえて荒けずりの石段をつくったりすると、たやすくあがってゆけるようになった。洞穴の内部は、幅が八フィート、奥行が十五フィートばかりで、二人がまっすぐに立っても、頭をぶっつけずにすむくらいの高さがあった。二人はすっかりそこが気に入った。さっそく穴居人の遊戯がはじまり、二人とも子供みたいな気分で遊戯にとりかかった。半ぶん仕上げられていた一つの石材をテーブルにし、二つの石材を椅子にして、芳香を放つワラビを一抱え奥の端において長椅子にし、そんなにして洞穴の家具がととのえられた。さらに、髪が長くなくては本物の穴居人の女でないというので、アイヴィはその瞬間から断髪をのばしはじめた。下の石の床に生えた灌木の茂みのなかに、うつろな場所を見つけ、そこへ自動車を入れておけば、見えないのがわかると、万事万端、いたれり尽せりの場所となった。
それは去年の夏のことで、それから二人は毎日午後、冬までここで会いつづけ、春になると、また会っていた。だが、春になってからは、ほんのしばらくの間だけだった。その後ビクリー博士は、どうも今年はひどく忙しくて、毎週きちんと来るわけにいかないと言っていた。事実、この二ヵ月間、一度も来ていなかった――二ヵ月前から、彼はギニフリッド・ラタリーに望みをかけていたのであった。
アイヴィは彼を待っていた。彼が最初に見てとったのは、洞穴の入口の灌木ごしに、ひらひらする彼女の白いドレスだった。彼は茂みのなかへ車を入れる作業を、できるだけ引きのばしてゆっくりとやってから、洞穴へあがっていった。アイヴィがまた泣きだすにきまっていた。
「ああ、テディ」アイヴィの口調には非難、歓迎、感謝、心痛がこもっていた。
「やあ、アイヴィ」ビクリー博士は灌木をかきわけ、彼女のあとから洞穴の内部に入り、灌木を透して入りこむ緑色の光線をうけながら、できるだけ陽気な、さりげない声で言った。彼女は顔をあげてキスをもとめたので、彼はキスしてやった。
彼女は彼にすがりついた。「もういらっしゃらないのかと思いかけていたのよ」
「おそくなってすまない。でも、ほんの一分か二分だったろう? おそろしく忙しくてね、目下のところさ」
「来たい気があったの? そうじゃないわね」彼女の眼は気づかわしそうに彼の眼をさぐった。
「来たい気があったかって?」ビクリー博士はひどくおもしろそうに笑った。「もちろん、来たい気はあったよ」彼はおだやかに彼女の腕をはなし、石のテーブルに腰をおろしながら、煙草のケースをとり出した。「それにしても人間は、いつでもやりたいことを全部やれるものじゃないからね。すくなくとも、すごくあくせく働いているあわれな全科医には、やれないよ」彼はケースを彼女にさし出し、彼女がかぶりをふると、自分で煙草に火をつけた。
「これがギニフリッド・ラタリーだったら、もっと来たい気になっていたわね」アイヴィは手にしたハンカチをそわそわとひねりながら、ぼつりぼつりと言った。「そうじゃなくって?」
「ギニフリッド・ラタリーだって! とんでもない思いつきだよ、きみ!」
「みんなが噂しているわ」
「ぼくとギニフリッドのことをか? そりゃ、ばかげている。ぼくはあの女をろくに知りもしないよ」不本意ながらも、すでに彼は守勢に追いこまれつつあった。
「テニスコートから二人きりで、半時間も姿を消すほど、よく知っているくせに」
「半時間? 三分間だけだよ、ほしがっていた切穂をやったわけさ。そんなばかげた話はよしたがいいよ、アイヴィ」
「あれに気がついたのは、あたしだけじゃなかったわ」と彼女は言いつづけた。「カーニアン・トアだって、デニー・バーンだって気がついていたわ。みんな笑っていたわ。ジュリアまでがね。あとでジュリアがどんなふうにあなたに話したか、おぼえているでしょう」
「こっけいだよ。おしゃべり好きの女たちにそそのかされたり……あんな気どった若いとんまのデニーなんかに……」ビクリー博士は急にやめた。こんな女を相手に興奮したり、むかっ腹をたてたりしてみても、なんの役にもたたない。それにしても、この女はなんていらいらさせる、ばかな女だろう。「きみにはぼくのことが、もっとよくわかっていていいはずだよ、アイヴィ」と彼はむりに微笑してみせながら、しめくくりをつけた。
前ぶれもなしに、突然アイヴィがわめきたてはじめた。これまで彼は、アイヴィがわめきたてるのを聞いたことがなかった。彼女がわめきたてることができるなどとは、彼は考えてもいなかった。「それじゃ、ほんとのことを話しましょうか? あのマドレイン・クランミアのことなのよ。ええ、もうあたし、すっかり聞いてるわ。みんなが噂してるんだもの、ほんとうよ。一日おきに、スケッチをやるんだとか言って、あそこへ行っているんだって。スケッチが聞いてあきれるわよ!」
「まったくのところ、アイヴィ」とビクリー博士はつめたく言いはじめた。「どうもきみは――」
「そのくせ、あなたはひどく忙しいんじゃない? 水曜日の午後ここへ会いに来られないほど忙しいのね。でも、あそこへあの女と話しに行けないほどには忙しくないのね」
「クランミアさんの名前を、こんな――こんな下品な話のなかへ持ちこませたくないよ、アイヴィ――わかったか?」とビクリー博士は怒りに青ざめてわめいた。
彼女も青ざめて、頭のてっぺんから足の爪先までふるわせながら、彼の知って以来はじめて、彼に立ちむかってきた。「いいえ、あたしが持ちこむんだから、持ちこませたくないも何もないわ。あなた自身にあの女の正体がわからないのなら、もうだれかがあなたに話して聞かせてもいいころよ。あの女の大きな眼、もったいぶった顔、あたしはあの女が大きらい。あれはひどくずるい女なのよ。あたしはあんな女をちっとも信用する気はない。あなたをなぶっているだけなのよ。ひとりでおもしろがって、かげではあなたをあざけり笑っているにちがいないわ。あの女は――」
「やめろ!」ビクリー博士の顔は怒りにひどくゆがんでいたので、アイヴィはぴたりとやめ、進み出る彼に気圧《けお》されて、そわそわ後ずさりしてゆき、しまいに洞穴の入口に立った。
おそろしい想念がビクリー博士の心にひらめいた――「あの端から突きまくれ! 高く突きあげれば、空中でくるり逆さまになり、底へ落っこちてあの丸石に頭をぶっつけるだろう。だれにも断じてわかりはしない」ほんの一瞬ながら、そうしたい思いはきわめて強烈だったので、ビクリー博士はそれに抵抗するために、じっさい両手を脇で握りしめなければならなかった。赤い靄《もや》が眼前にただようような気がした。つぎの瞬間、それは消え去り、肉体の生気が抜けたようで、怒りも発散してしまっていた。
わななく手で煙草を口へもってゆき、瞬間的に立ちあがっていた自分の体躯《たいく》を、また右のテーブルへおろした。「すべてがばかげたことだよ、アイヴィ」と彼はしずかな調子で言った。「ぼくはクランミアさんに、患者に対するふつうの親しい気持以上のものはもっていないよ。ぼくが時々ちっとばかりスケッチをやるのは、きみも知っているだろう。あの『屋敷』のうちの一部をスケッチしていいと言われたことが、どうしてきみにやきもちをやかせることになるのか、ほんとにぼくにはわかりかねるね」
さっきはアイヴィだけが独り爆発していたのだったし、彼女はその種のことが長くやりつづけられる気質でもなかった。ビクリー博士のすさまじい一喝で、たちまち彼女の意気ごみはくずれていた。そして彼女はこわごわ、まだ安心しきれないような、おずおずした眼つきで彼を見つめていた。
「ほんとに好きじゃないの、あの人――あたしよりも?」
「そうさ、もちろん、好きじゃないよ」とビクリー博士は嘘をつきながら、いらいらした。今の場合のようなりっぱな目的のためであっても、嘘をつくのは好きではなかった。
「ギニフリッド・ラタリーのほうも?」
「そうだとも」
「テディ――ほんとに、まだあたしが好き?」彼女の唇がふるえはじめた。
「もちろんだよ、アイヴィ」
「これまでと同じくらいに?」
「そうだよ」
だしぬけに彼女は泣きだした。「ああ、あたしには信じられない。あなたは好きじゃないんだわ。あたしにキスしている最中にでも、あなたは……」
彼は身をかがめて彼女にキスした。彼女に安心させようとし、また彼女への消えてしまった情炎をかきたててみようともしたのだった。彼女はまた彼にすがりつきながら、彼の肩に顔をおしあててすすり泣いた。彼は不快でたまらず、なにもかもがいやになった。しかし、泣いている女に、もう愛していないと告げるのには、ビクリー博士(そして獣的でない大部分の男性)が持っている以上の精神的勇気が必要なのである。アイヴィのやわらかな、ふわふわした髪を、彼は機械的な指でなでながら、なぜ女は自分の魅力で男をひきつけられなくなると、侮辱されたと考えるのだろうか、と心のうちでまたくりかえした。これは性的虚栄心の一種にちがいない、と彼は考えた。女性としての女は、単に女の役割をはたすことだけで、熾烈《しれつ》な自己満足をおぼえるものなのである。ビクリー博士も、古来の幾多の男たちと同様、それをまるで理解できなかったのである。
アイヴィが泣くのをやめてくれればいい、と彼は思った。おれはもうこの女に飽きがきているし、このへんでおさらばにしたい。いや、はじめから思いちがいをしていたのであって、この女はおれが思っていたような女でなかったし、今もそうではない。そういうことを理解するだけの分別が、この女にあればいいのに。ああ、こんな女を誘惑したおれは、なんてばかだったのだろう! それにしても、この女のほうもひどく誘惑されたがっていたのだ。そもそも、おれが誘惑したのだろうか? そんな意志はまるでなかったのだ。どうしてだか、ついずるずるとそうなってしまったのだ。それに、多くの場合、いわゆる誘惑は、たいてい女から口火をきるもので、男からではない。いずれにしても、この女が提供したものを受けとったおれは、ばかだったのだ。この女からのがれ去ることができるまでには、どえらい責苦をうけなければなるまい。来てくれという哀願、泣き言、涙を思いめぐらすと、彼はぞっと身ぶるいがした。二人とも岩棚の端ちかくにいた。今、いきなり突きまくりさえすれば……
彼はゾッとして自制した。怒りにかられもせずに、こんなことを考えたりするのは、心が混乱しかけているにちがいない。たしかに、アイヴィはいらいらさせるし、こんなあきあきしたことからきれいに手を洗ってしまえれば、じつにすばらしいだろう。それにしても、やはり……
ふいに彼は彼女をはなし、洞穴の向こうのはしへ歩いていって、また煙草に火をつけた。
気分をなぐさめられたアイヴィは、顔の化粧のくずれをできるだけなおし、持ってきていたお茶のことをしゃべりはじめた。彼女が茶道具を平たい石の上に持ち出すのを、ビクリー博士は見つめながら、笑うようにつとめていたが、そんな古めかしい穴居人の儀式やしゃれは、もうおもしろくもなかった。言いようもなく子供っぽく、無意味に見えた。こんなことが、以前にはおもしろかったりしたのだろうか? アイヴィは、もうすっかり幸福そうだった。そんな彼女を見て、彼も満足した。結局、つきつめてみれば、彼女は子供にすぎなかったのだ。じつのところ、彼女がマドレイン・クランミアより一つ年上だとは、彼には信じかねる気がした。はじめて会ったとき、マドレインはどう言ったんだっけ? ああ、そうだ、自分の年ごろの大ていの女たちは十二歳の時から知能が発達していないようだと言ったのだ。たしかに、そのとおり。精神的にアイヴィは十二歳なのだ。
それで彼は、石のテーブルの向こう側に坐らせたかった彼女を、以前のように自分のひざに坐らせてお茶にむかい、あとで髪を見せさせようとした。「ううん、あなたに髪をとかしてみてもらいたいの。ほら! のびたでしょう? この前にここへ来た時よりも、ずいぶんね。こんなにだんだん長くなってゆく髪、あなた好き?」アイヴィはあれやこれやの自分の特質、つねに肉体的な特質を、彼が好きかどうか、知りたがるのであった。
彼は恋の口説《くぜつ》を回避し、自分の家に手紙をおいていったことをたしなめた。あんなことはおそろしく無分別で、ジュリアが開封して見るかもしれないし、女中でも、だれでも見るかもしれない、と彼は言った。アイヴィは、たしかにあれはあたしのへまだったけど、なんとしてもあなたをつかまえたかったあたしとしては、ほかにどうしようがあっただろうか、ときいた。しかし、なぜ、なんとしてもぼくをつかまえたかったのか? あなたがまだあたしを愛しているかどうか、たしかめたかったからよ。ねえ、たしかに愛してくれているの? でも、ほんとうに? ビクリー博士は大いそぎで、もっと危険性の少ない話題へうつった。
彼のひざにのっかったアイヴィは、彼の嫉妬をかきたてようともした。ビクリー博士はいささか哀れをおぼえ、つとめて彼女の望みをかなえてやろうとしたが、興味をもつような顔つきをすることさえむずかしかった。
「その気になれば、あたし、今日はまるで別なところへ行けたのよ」と彼女はもったいぶったようすで言った。
「ほう? それはどこかね?」
「知りたい? すごく?」
「ぜひ知りたいよ、アイヴィ」
「あなたに話そうとは思わないわ」
「話したくないのなら、いいんだよ」
「ひどく怒るでしょう」とアイヴィは思わせぶりな調子で言った。
「へえ、いったいどうしたことなんだ?」
「話しても、怒らないって約束する?」とアイヴィはききながら、顔を明るくした。
「話によりけりさ。とにかく、話してみることだね」
「いいわ――今日はマーチェスターでは半どんね」
「うん、それで?」
「ある人が午後ドライヴに出かけようって誘ったのよ」
「マーチェスターのある人?」
「あそこで仕事をしている人。もう少しであたし、行っちまうところだったのよ、テディ」
「だれなの?」
「あら、それは言えないわ。でも、その人、ちょっとあたしを好いているにちがいないと思うのよ」
問いつめると、明らかに待ちうけていたらしい彼女は、それはチャトフォード氏だと告げた。ビクリー博士はおどろきもしなかった。あのテニス・パーティのお茶のとき、チャトフォードがアイヴィを独占しているのに気づき、ひそかによろこんでいたのであった。
「とてもいい男だよ、チャトフォードはね」と彼は熱のこもった調子で言った。
「やけないの?」と彼女はがっかりして言い、天真らんまんに手の内をさらけ出してしまった。
ビクリー博士は嫉妬に苦悩する人間のまねをしようと懸命になった。「きみと結婚したがっているのか?」と彼は芝居がかったさりげない調子できいた。
アイヴィは、ぐいと顔をうしろへそらせた。「あたしに結婚を申しこんでみれば、どんな返事がもらえるかわかるわよ。ねえあなた、このロック・ケーキをもう一つ召しあがらない? あたしが自分でこしらえたのよ。ほんとよ」
「きみがどんな返事をするか、わかったものじゃないよ、アイヴィ」とビクリー博士はぼつりぼつりと言った。
「あなたは――あたしに結婚させたくはないんでしょう?」とアイヴィは声をあげた。「ねえ――ねえ、テディ!」彼女の唇がまたふるえはじめた。
「結婚させたいなんて、夢にも思わないよ」とビクリー博士はいそいで言った。「しかしだね、きみにもわかっているとおり、きみとぼくは断じて結婚できないんだ。だからぼくとしては、全然きみに結婚させないでおくような、そんな利己的な態度はとれない。もちろん、ぼくはきみが結婚するなんて、思うだけでも、いやでたまらぬ――ぞっとする!――しかし、がまんしなければならない」ビクリー博士は多大の高潔さをみせて言った。「きみのためにね」
アイヴィは安心して活気づいた。「あたし、あなたと結婚できないなら、もうだれとも結婚しないわよ、テディ」と彼女は言った。しかし、チャトフォードの想念が彼女の心に植えつけられていることを、ビクリー博士は気づいていた。彼としては、それがうまく実をむすぶように望むだけだった。
彼はやさしく彼女にキスした。
だが、お茶がすんで、アイヴィが熱をあげてキスし、はにかみがちに色めいたけはいを見せはじめると、ビクリー博士は急いで往診しなければならないと言いわけして、のがれ出た。洞穴の入口に残してきた彼女の姿、ふるえる唇をかくそうとし、口に出して彼をわずらわそうとしなかった烈しい哀訴を、青い眼にみなぎらせた風情《ふぜい》などが、彼をひどく不安にし、帰る途中ずっと彼の心にからみついていた。あわてふためいて、逃げ去りたい思いにおそわれていた彼は、彼女よりも自分自身をあわれみたいくらいだった。
あとで考えめぐらしたとき、女が提供しようとしていたものを拒んだのは、おそらくこれが生涯ではじめてのことだろうと気づいた。それにしても、マドレイン・クランミアとの友情のために、なぜアイヴィのもとめる情事から、あわてふためいて逃げ去らねばならなかったのか、彼にはよくわからなかった。マドレインとの友情のために、そうしたことはたしかであったけれど、彼はマドレインにちょっかいを出す気などはまったくなかったからである。
だが、アイヴィは……
マドレイン・クランミアのさびしい生活は長くもつづかなかった。はじめてビクリー博士が彼女を訪れてから、一週間もたたぬうちに、すっかり彼女はワイヴァーンズ・クロスの社交界の渦《うず》のなかにまきこまれていた。トア氏の大々的な主導によって、トア家がまっさきに彼女を招待した。バーン家、ラタリー家、リッジウェイ家(アイヴィがいるのに)、ミス・ワプスワージー、ミス・ピーヴィも、当然の仕儀として、それにつづいた。ハットン=ハムステッド夫人、つまり、スクェリーズのハットン=ハムステッド夫人――兄のコーンウッド卿が英国皇太子を招いた折りに、ときどき女主人役をつとめたハットン=ハムステッド夫人〔その里方の父バート・ティグリは戦争中じつに多数の梳毛紡績工場を手中におさめたので、政府も自己防衛上、貴族に列しないわけにいかなかった人〕――このハットン=ハムステッド夫人までが、たまにしか来ないスクェリーズに、ほんのしばらく滞在中のある朝、村でトア氏に会い、あとで「屋敷」に名刺をおいていった。前例もない栄誉であった。
ビクリー博士は、招かれるのに応じて「屋敷」のなかをスケッチしていた。もっとも、そんなことをジュリアに話す必要はないと思っていた。最初に訪れてから三週間のうちに、彼は四回スケッチに出かけた。はじめの三回は、若い女主人が「屋敷」にいて歓迎してくれ、なんとなくスケッチはせずじまいになった。四回目は運わるく彼女が留守だったので、スケッチをするよりほかはなかった。それ以外に、ほかのところで――トア家やバーン家のテニス・パーティとか、ジュリアの訪問の答礼に来た時とかに、いくどかマドレインに会った。前の日に彼女が、明日ゆくところを、さりげなく彼に告げたからだった。もはや二人は、古い友人同士のように、あいさつをかわすようになっていた。
マドレインはひどくずるい女だと言ったアイヴィの言葉に、ビクリー博士はあきれかえる思いだった。嫉妬のせいだとしても、そんな悪口はひどすぎる。たしかに、嫉妬する女が、多少もっともらしくけなせるような点はある――マドレインは、しかつめらしく、ふけて見え、たいくつで(知性のない者たちにとってはである)、どうかすると不器量で、まったくやぼったく見える日もある。だが、ひどくずるいなんて! 心と意思の清明な人物こそ、マドレイン・クランミアなのだ。ビクリー博士自身は最初からそれを見てとっていたし、ほんとうにすぐれた人たち――トア氏やデイヴィ夫妻、ジュリアまでも見てとっていたのだ。ビクリー博士はデイヴィ夫妻の判断力を、ほかのだれのものよりも尊重していたのだが、このデイヴィ夫妻にいたっては、ピーターがあまりミス・クランミアを讃美するので、夫人は嫉妬にかられはじめたふりをして、夫をからかったほどだった。そのつぎのとき、ビクリー博士が「屋敷」へスケッチに出かけると、例の杉の木の下に、ピーター・デイヴィとマドレインが坐っていて、メアリ・デイヴィの姿は「屋敷」のうちに見あたらなかった。
三人はささやかなティ・パーティを楽しんだ(この日のマドレインは、いつもほどにきまじめではなかった)。あとでビクリー博士がデイヴィを車で小別荘へ送ってやったとき、この小説家は、マドレイン・クランミアをモデルにした全く新しい人物を、自分の小説に登場させるつもりで、彼女を研究しているのだと打ち明けた。彼女ほど好ましく、金や甘言にまるで毒されていない若い女に、まだ会ったことがない、と熱烈に二人は同意し合った。そしてピーター・デイヴィは、性が人生の支配的要素となっていない女と接触することが、どんなにすがすがしいものであるかを指摘した。
「じっさい、あの人を多少でも批判するとすれば」と小柄な医者は、その道の専門家の前なので、気おくれをおぼえながらほのめかした。「まずそれは――」
「そりゃ、あの女も完全無欠じゃありませんよ」とピーター・デイヴィが口をはさんだ。自分の考えが自然にわき出てくるので、一瞬も待たずにしゃべらなければならないという調子で、彼は人の話の途中へ割りこむ悪いくせがあった。「たとえ初め会ったときに、そんなふうに見えても、どんな人間だって、そうじゃありませんよ」
「いや、まったくです。しかし、わたしが言おうとしていたのは、あの人の欠点の一つは性がないということですよ。そうお考えになりませんか?」
ピーター・デイヴィは、ちょっとパイプをすっていた。その間にビクリー博士は、車を走らせているせまい小路の、見通しのきかない角を注意ぶかくまわった。「いや、わたしの考えるところでは、打ってつけの男にぶつかれば、きわめて激しい情欲を燃えさからせることのできる女ですな。しかし、神経系統がきわめて微妙な均衡《きんこう》をたもっているのです。まずく扱われたり、まるで思いやりのない手ほどきを受けたりすると、その潜在的な能力は永久に破壊されてしまうかもしれません。それは打ってつけの男にかぎるのです」
ビクリー博士はおどろいて沈黙をまもっていた。マドレイン・クランミアが情欲を燃えさからせることができるなどとは、まったく彼には思えなかった。情欲的な気分の彼女を想像することすらできなかった。あらゆる事象において、彼女は感情と対立し、知性を表象しているように見えた。そのためにこそビクリー博士は、彼女に強い感銘をうけていたのだった。こんどばかりは、著名な小説家もまちがっているにちがいない、と彼は思った。
もし小説家の意見が正しいとすれば、その打ってつけの男は自分自身かもしれない、というような考えは、ぜんぜん博士の心に思いうかびもしなかった。
ビクリー夫人の二つの癖が、とくに博士をいらいらさせた。ささいなことで、それ自体としては、いらいらさせるほどのことでもないのだが、彼の場合には、神経にさわるのであった。ある意味で、それは二人のあいだの差異を象徴するものであって、自分自身の家にいても、そのことを絶えず彼に思いおこさせるからであった。彼女はむずかしい言葉が使える場合には決して簡単な言葉を使わず、彼女の発音ぶりは気ざっぽいほどはっきりしていたのである。ふつうの人たちが「なんでもいいかげんに考えちゃいけません」と言うところを、ジュリアは、「なにでもいいイかげんに考えてはいけまッませんッ」というふうに発音したのであった。
例のティ・パーティを「屋敷」で楽しんでから一、二週間たったある晩、食事のときに、彼女がひどくはっきりした言い方をした。「あの若い女、マドレイン・クランミアが、だんだん評判になってきてますねッ」
ビクリー博士はおどろいたばかりでなく、不安になった。おどろいたのは、これまでジュリアは土地の噂話にくわわらず、受け売りもしなければ、耳をかしもしないのが例であったからであり、不安になったのは、明白な理由のためだった。「ほんとかね?」と彼は用心ぶかく言って、待ちうけた。
するとジュリアは、もう一つのいらいらさせる癖を出して、なにも言わなくなった。ビクリー博士は触角をのばしてみなければならなかった。「このへんの人たちはだれの噂でもやるからね」
ジュリアがひどく意味ありげに彼を見つめたので、彼は椅子のなかでもじもじして、ひたむきにチーズ・プディングに注意をむけた。彼女の眼《まな》ざしが語ろうとしていたことは、きわめてはっきりしていた。
通例ジュリアは、夫の浮気にはぜんぜん口出ししなかった。いつも彼は、いま自分がやっている恋愛ざたを、はたして彼女が知っているのかどうかと、疑いつづけていたが、彼女の沈黙に救われた思いになっていた。もっとも、彼女は沈黙しながらも、そんなことは卑俗でありすぎて、自分が注意をむけるほどの価値もない、というような印象は伝えていたのである。ところが、こんどは彼女の声に意味ありげな〈かど〉があった。
いささか意外にも、彼女はさらに説明までした。「きっとデイヴィさんは、ふつうの慣習上から、ほかの者たちよりも少し放縦《ほうじゅう》にふるまってもよかろうと思っているんでしょうけど」ジュリアの言い方には、そんな放縦は許す気はないという調子がこもっていた。
ビクリー博士はほっとして、ふんがいしてみせるゆとりができた。「クランミアさんとデイヴィのことが噂になっている、というんじゃなかろうね、ジュリア?」
「そうだと聞いています」
「そりゃ、いまわしいことだ。まったく、人もあろうに……ああ、なんというけがらわしい心の人非人どもか。だれが噂しているんだ? だれがきみに話したんだい?」
「トアの奥さんが、クランミアさんにそれとなく話してあげるのは自分の義務ではなかろうかと、わたしに相談なさったんですの」トア氏もトア夫人も、まずビクリー夫人に相談せずに、不快な義務を引きうけたことは一度もなかった。たいていビクリー夫人が、その義務から彼らを救ってやろうと申し出ることが、その理由であったのかもしれない。
「あいも変わらぬ金棒ひき! あの〈はねかえり〉のカーニアンが火つけ役だろう。恥ずべきことだ。じつに恥ずべきことだ」
「とてもふんがいなさっているようね、エドマンド」
ビクリー博士は自分が軽はずみだったらしいのに気づいた。「そりゃ、だれでもふんがいせずにはおれまい。あんないい娘だものな。きみ自身だって、いらいらさせられたんじゃないか、ジュリア?」
「もちろん、わたしはトアの奥さんに話しましたよ、クランミアさんの場合、デイヴィさんが一度や二度お茶に『屋敷』へ出かけたからって、そう騒ぎたてるほどのことでもあるまいってね」
「こんな噂がひろがるのは、やりきれんな」とビクリー博士はうめくように言った。
「でも、噂はひろがるものですよ、エドマンド」と妻が耳ざわりな声に深長な意味をこめて言ったので、たちまち彼はうしろめたい顔つきになった。
「そう――そうらしいね」と彼は口のなかでもぐもぐ言った。
不安な沈黙がきた。これまでも妻は猫がネズミをもてあそぶように、自分に対していたし、いまもそうなのだ、という悲しい確信が、だんだん強くビクリー博士を支配した。つぎの瞬間、それが裏書きされた。
「あの女を誘惑するおつもりなの、エドマンド?」
おどろきと、本物の怒りと、胸がわるくなるような息づまるばかりの恐怖に、ビクリー博士は、一瞬、声が出なかった。「おい、これ、ジュリア――」と彼はかん高い、奇妙な口調で言いはじめた。
「あら、わたしにごまかしをおっしゃるにはおよびませんのよ」とジュリアはさえぎった。あつい眼鏡の奥から、うす青い、とび出た眼が軽蔑の色をうかべていた。「あなたが上品な娘さんに信用されたりする人でないことは、わたしはよく知りぬいています。あなたもおわかりになっているでしょうが、ふつうなら、わたしはあなたのお楽しみに干渉したりしないのです。あなたみたいな男に、だまされるほどばかな女なら、ひどい目にあってみるのがいいんですわ。でも、こんどの場合は、あらかじめ言っておきますが、わたしは許しませんよ」
「きみにはそんな権利はない……よくもそんなことが、ジュリア!」とビクリー博士は唇をふるわせながら、せきこんで言った。言語道断な非難がくわえられるにつれて、つのる怒りは恐怖さえも追いはらっていた。とにかく、こんどだけは、じつに大まじめで、あくまでプラトニックであったのに! 十分な根拠のある非難よりも、もっと激怒させる非難が一つだけあるが、それは根拠のない非難である。「きみはまったくぞっとするほどいやな女だね」ビクリー博士はこれまで一度も、こんなことを妻に言ったことはなかったのであった。
「わめかないでくださいな、エドマンド。これ以上もう何も言う必要はありません。あなたが何を言ったところで、わたしは信じかねますからね。あなたが少しでも、なんのかんのと、クランミアさんを悩ますことは許さないって、わたしはあなたに申しわたしました。二度とふたたび『屋敷』へ行かないでくださいよ。あの女に医者が必要なら、リドストン博士がちゃんとやります。それでいいですわね」
「いいことはないよ」とビクリー博士はわめいた。「こんなあつかいは、たとえきみからにしても、がまんできないよ、ジュリア。クランミアさんについて一ばん大事なことが、きみにはわからないんだ。かりそめにも妙に気をまわすなんて……いかにも冷《ひえ》症のきみらしいよ。あけてもくれても、いたるところで、きみはセックスとか、みだらなことばかり見つけたがっているんだ。ぞっとするほどいやな根性だ……ぼくに言わせれば、クランミアさんは……」彼は顔面をぴくぴくさせながら、声を細らせて、ふがいなくだまりこんでしまった。
ジュリアはいやらしい虫にでも対するように、彼を見つめていた。そのいやらしさにさえ無関心のようすだった。「エドマンド、あなたはあの女と恋におちていると想像しているんですか?」
「いや、そうじゃない。きみのけがらわしい当てつけ文句は――」
「ありがとう、わたし、お聞きするつもりはございません。わたしの言うとおりに、もう『屋敷』へは行かないようにしてくださるなら、この問題はおしまいにしていいのです。お食事はおすみになったの? 呼鈴をお鳴らしくださいな」
[#改ページ]
第四章
あくる日の午後、ビクリー博士は、「屋敷」へ出かけていった。
数日前に、マドレイン・クランミアが彼の作品を見たいと言っていたので、彼は古いスケッチの紙ばさみを持参した。不吉な気分だった。妻への怒りがまだ強かったが、こうして彼女の命令にまっこうから反抗することには、ある種の浮き浮きした気分、むちゃをやるよろこびに似たものもまじっていた。また、できるだけ早く「屋敷」へ出かけることによって、なんだか彼は、けがらわしいジュリアの当てつけから、マドレインを守ってやっているような気もした。だが、「屋敷」の車道へ車を入れたとき、みぞおちのあたりに、めいるような気分をおぼえた。
雨がふっていた。それで二人は客間でスケッチを見た。大型の長椅子に腰をおろしたマドレインは、紙ばさみをひざの上にひろげ、そのそばに坐ったビクリー博士は、説明したり解説したりした。過ぎ去った休日の印象や、ワイヴァーンズ・クロスの周辺の風景を描いた数十枚のスケッチを、二人はめくりながら見ていった。マドレインはめったにほめず、じっさいに讃辞を呈するときに、それが効果を発揮するようにした。このスケッチ集の終わりに、人の首や肖像画の試作、想像で描いた顔などが五、六枚あった。マドレインは注意ぶかくそれを吟味していた。
「肖像画への感覚がおありですわね」と彼女は大きな眼で彼を見つめながら告げた。
「ほんとにそうお考えになりますか?」と博士は顔をかがやかせた。「ぼくが一ばん好きなのは、それなんですよ、もちろんね」
ミス・クランミアはため息をついた。「すばらしい才能ですわ。あたくし、ほかのものよりも、そんな才能を持ちたいと思いますわ」彼女の口調には、ビクリー博士がそんな才能を持っているという意味がふくまれていた。
「いやア、ぼくはほんの道楽半分にすぎないんです。まったく、クランミアさん、少しでも似せて描ければ、もうすっかり満足なんですからね」
「おそろしくむずかしいにちがいありませんわ」彼女は肖像画のおそろしいむずかしさを悲しむかのように、憂欝に彼を見た。「でも、これはみな似てますわ。なんとなく、感じとれます。たとえば、これなど」と彼女は木炭で描いた若い女の横顔をとりあげた。「どんなに美しい方だったことでしょう」
ビクリー博士は少し落ちつかない顔つきになった。「それは――じつは、ぼくの想像で描いたものでしてね。モデルはないんですよ」
しかし、ミス・クランミアはまごつきもしなかった。「あたくしもその意味で言っているんですの。とても生き生きとしていますから、だれかに似ているにちがいないと感じさせるんですわ。それにみなぎる生命力。だれかに似せたものでないのでしたら、なおさら驚嘆すべきものですわ。あたくしの言っている意味、おわかりくださるでしょう?」と彼女は熱心にきいた。
「ええ、ええ、もちろん」と博士はすぐさま答えたが、じつはわかっていなかった。「そんなに言っていただいて、たいへんうれしいですよ」
「もっと勉強なさりたいのね」彼女はまたスケッチをめくって見ながら言った。「はっきりしてますわ。もっと勉強なさりさえすれば……」
「おそろしく忙しくてね」とビクリー博士は悲しんだ。
おしくも天才の努力が挫折するのを考える人間たちらしく、二人ともきわめておごそかな顔つきをしていた。もっと勉強できさえすれば、王立美術院会員ビクリー博士の優秀な作品は、毎年の王立美術院展の呼び物になるだろう、とミス・クランミアが考えているのは明らかだった。
突然、彼女は微笑した。奇妙な微笑の仕方だった。ごくゆっくりと口がひろがった。まるで意志に反してのびひろがり、いつでもまたゴムのように元へはねかえりそうだった。眼尻はべつとして、顔の他の部分は不動のままになっていた。異様に美しくない微笑で、ほんとうにおもしろがっている気配がほとんど見えないのだった。「いま、とてもお忙しいんですの、ビクリー先生? お茶をめしあがっていただけますわね?」
「ありがたいですね。ぜひちょうだいしたいです」もともとビクリー博士は、お茶のごちそうにあずかるつもりでいたのだった。
「ところで、まだ雨がふっていますから、外でスケッチをなさるわけにいきませんわね」マドレインの眼は彼の眼をじっと見入った。ひたむきに、力づけるようで、口のほうはまるで微笑していなかった。「こちらでちょっと勉強なさってもいいでしょう?」
「つまり、その……?」
「あたくし、モデルになりますわ、あたくしの肖像画を描かれる気がおありでしたら、よろこんでね」彼女の口調は、彼が承諾しない場合にそなえて、冗談めかして申し出ながらも、承諾してくれるなら、ほんとうに栄誉に思うという意味を、微妙につたえた。「紙などは、あたくしが持ってまいりますわ」
「自画像を描かれることですな」と博士は声をあげた。
ミス・クランミアはかぶりをふった。「ときおり、やってみますの。でも、あたくし、望みありませんわ」
彼女が部屋から出ていっているあいだに、ビクリー博士は敬虔にちかい気持で考えた――絵画一般、さらにおれ自身の絵の話をしている際に、あの女は自分の抱負や才能については、ひとことも言わなかった。そうだ、あんな女には、生涯に一度きりしか会えまい。
窓の近くの椅子の肘に腰をかけ、マドレインは彼のためにポーズした。
意識的にか無意識的にか、彼女の顔はじつに霊妙《れいみょう》な表情をしていた。つややかな黒髪を、マドンナみたいに、まん中で分けていたので、その感じが強められていた。まったく、彼女はじつに霊的に見えたから、もしビクリー博士が彼女のこの世のものならぬ表情を、ほんの一かけらでもとらえることができたなら、彼の絵は「肉体をもとめる霊」と呼ばれていたかもしれなかった。彼女の灰色の眼は顔面に大きく浮きたっていた。こんなおどろくべきものは見たことがない、とビクリー博士は、いささか息をのみながら思った。
ただ彼女が好みのわるい服装をしていることだけが、かすかな耳ざわりな音とも考えられるものを奏《かな》でていた。しかし、その音も、ビクリー博士には、もはや耳ざわりではなくなった。彼女のまとっている風情もないシフォンのフロックは、きわめて高価で、ぴったり体に合っておらず、着ている本人を侮辱しているだけであったが、それを彼は彼女のマドンナのような容貌と関連させて受け入れ、彼女の一つの美徳と考えた。とにかく、ここに、服装などを最高の関心事としない一人の女性がいる。彼女はそんなものを軽蔑しているのだ。たしかに、正しい立場で考えるならば、単に肉体を包むものにすぎない服装などは、軽蔑されるのが当然なのである。ビクリー博士は、着ている本人がふくらんでいない個所で、フロックのほうがふくらんでいるさまを見て、魅力をおぼえた。
二人の友情は、おどろくほど強められた。モデルと画家とのあいだには、ある連らなりがあって、それによって両人とも、はっきりはしないけれど、ともかくあらゆる種類のことを共にしている気持になる。二人の話はきわめて自然に、一般なものから特殊なものへ、特殊なものから親しい話題へうつっていった。じっさいに口に出して言わないながらも、ビクリー博士は自分が夫婦生活で非常に不幸であることを、微妙にマドレインに知らせていた。マドレインのほうも、やはり言葉では言わなかったが、自分がその事実を知っていることも、苦悩する者への深い同情も伝えていた。
二人はほかのことも打ちあけ合った。ビクリー博士は(もうこんなによく知り合った二人のあいだでは)自分の妻が夫の最も大事な点を理解していない事実は語るまでもないこととし、マドレインの巧妙な質問に応じて、この世の中で、想念や希望を打ちあけられるただ一人の相手、理解ある伴侶(女性)が欠けているために、つねに生活に空虚があったこと、そして人生の最も甘美な歓喜も味わっていないこと、その空虚が満たされる望みもほとんど放棄していることを真剣に告白した。するとマドレインは、おごそかな関心を十二分に示しながら(たずねられるまでもなく)、自分も全く同じような空虚のために苦しんできたこと、美を謙虚に愛し、芸術的な自己表現を希求して、微妙に均衡をたもっている自分の心を、一族のだれもがほんとうに理解してくれず、そのために今ひとりきりで暮らさねばならなくなっていること、財産があったところで、それを分かち合う共感的な相手がいなくては、なんにもならないではないか、というようなことを話した。
二人は熱烈な真剣さで自分自身のことや、おたがいのことや、人生のことを語りあった。そしておたがいの内部に、気心の合った精神をみとめあって、しんみりとしたよろこびをおぼえた。
「あなたはおどろくばかりに理解力に富んだ天性にめぐまれていますね、クランミアさん」とビクリー博士は大いに感動して話した。
「世の中には、自分とぴったり調子が合っていて、本能的に理解できる人たちがあるものですわ」とミス・クランミアは、きまじめな、ものわかりのよさそうな微笑をうかべて答えた。
だんだん意味深長になってゆく雰囲気を感じとりながら、ビクリー博士は数分間、黙々と描きつづけた。マドレインがどんなにすばらしいかを思いめぐらすと、彼の胸はふくらんだ。こんな女と結婚できておりさえすれば! だが、もう手おくれだ。それに、こんな女がほかにいるものではない。マドレイン・クランミアは比類のない女なのだ。
彼は自分にまるでわからないことに対して、おろかしい危惧を感じた。いろいろな関係は不動のままにとどまらない。おれとマドレインの関係も、進展するか、後退するかだ。今これが後退するのは、堪えきれない。だが、これが進展することになれば……
驚異的な傑作になるように、彼が文字どおり祈っていた肖像画は、うまくいっていなかった。ちょっと似てはいるが、表面的なものにすぎなかった。マドレインを特徴づけるような、すばらしい共感を彼はほのかにも表現できず、この世のものならぬ表情も、寂然《じゃくねん》とした霊性もとらえることができなかった。平板《へいばん》な絵になっていたのだった。
いらだたしい絶望にかられて、彼は木炭を火のない炉へなげこんだ。「だめだ」と彼はさけんだ。「ぼくはあなたがつかめない。ほんもののあなたがね」
マドレインは、ふつうの女がやるように、はげますような微笑などは見せなかった。たちまち彼女は、芸術的な失敗のすべての責任が自分にもあるという顔つきになった。「見せていただけます?」
「お望みならね。しかし……」自分の失敗に愛想がつきた彼は、窓のほうへ行って外を見つめた。これまで肖像を描いた女たちの場合、うまく描けなかったと告げると、それを一つの儀礼的なあいさつとして受けとったものだ(なぜなのか、彼にはわかりかねた)が、もちろんマドレインは、それほどばかげていまい。きっとひどく失望するだろう。そして正直だから、それを隠しもしないだろう。
マドレインは画架へ歩みより、半ば出来あがった絵を、長いあいだ注意ぶかく見つめていた。彼女の断罪を待つビクリー博士の、胸がわるくなるような心痛は、ほとんど堪えがたいものだった。二人の年齢の差など、とっくに彼は忘れてしまっていた。もはや彼は、半ば出来あがった木炭画を判定する力が、ひいき目にみても未熟な二十二歳の若い女の批判を待つ三十七歳の男ではなかった。彼はみずからの手に成る作品を世界でただ一人の女性、その人だけのために描きあげた当の女性にささげている芸術家になりきっていた。
「上手にできてますわ」やがてマドレインがしずかに言った。まるで彼女は、半ば出来あがった木炭画の判定を、生涯をかけた研究の目的としてきたかと思わせるような、確信にみちた口調で言ったのだった。ビクリー博士は自分が実際に息をとめていたのに気づいて、ホーッと救われたように息をはいた。
「ほんとうにそうお考えになりますか? それは、あの……あなたにそう言っていただくと、なんともうれしいかぎりです」
「とても上手にできてますわ」とマドレインは、顔をちょっと一方にかしげ、ひろく白い額にかすかなしわをきざみ、表情のゆたかな眼を細めて、なおも絵を吟味しながら、ゆっくりと話しつづけた。「だって、あたくし、ほんとに上手な出来ばえと思いますのよ」彼女は良心的な画家たちが、極端な酷評よりも恐れる安っぽい感嘆ぶりはみせなかった。彼女の言葉は、注意ぶかく形づくられてから、さらに注意ぶかく考量された、あぶなげのない判定という感じをあたえた。彼女のお世辞には、お世辞らしい影もなかった。
ビクリー博士は、ただ黙って微笑するばかりであった。
「でも、あたくしには、どういう意味で先生があたくしをつかめないとおっしゃるのか、わかりませんわ。これはあたくしによく似ていると思いますもの」
熱意にかられて、ビクリー博士は彼女のうしろへゆき、身近く立ちながら、肩ごしに自分の絵を検討していた。
「ああ、たしかに、似てますよ。しかし、それは重要な点ではないんです。ちっとばかりこつを心得ておれば、だれだって似ているようなものは描けます。ぼくは真のあなたをつかもうとしていたのです。つまり……あなたが他のすべての人たちと異っている点を表現しようとしていたんですよ。なんとしても、あなたはあなたであって、あなたでない何者でもあり得ませんからね。いや、これはばかげた言い方です。説明するのはむずかしいですが……ぼくの言いたいのは、あなたの表情、あなたのそなえている特殊な相貌、あなたのすばらしい……」
「理解できるような気がしますわ」と彼女はおだやかに言って、窓ぎわへ歩みよった。「そして先生は真のあたくしをつかんでいるような気がしますのよ」と彼女はひくい声でつけくわえながら、雨にぬれた芝生を見わたした。ぱっとさした陽光に芝生はきらめいていた。
ビクリー博士も窓ぎわへいった。心臓がどきどき高鳴り、口のなかが乾ききっていた。「いや、本物のあなたではない」と彼は言った。「あれは世間の見るあなただ――外面的な、日常的なあなただ――ぼくが表現しようとしていたのは、内面のあなた――あなたがあらゆる人間に隠しているあなただった。ただ時折り、ほのかにひらめき出るあなた……だれか幸運な人間だけにね」おれはこの女に言い寄ろうとしている、と彼は狂おしげに思った。そんなことをしてはいけない――いけない。すべてをぶちこわしてしまうだろう。この女はひどくいやがるだろう。もうおれに二度と口をきいてくれなくなるだろう。それに、なんという下司《げす》っぽいふるまい……人もあろうに、この女に対して。そうは思っても、なにかが彼を駆りたてるのであった。
マドレインはまだ窓の外をじっと見やっていた。「そして先生は思っていらっしゃるの……そんな『あたくし』があるって?」
「思っている段じゃない」とビクリー博士はしゃがれた声で言った。「ぼくは知っているんですよ」いけない、と彼の頭脳は高鳴る心臓の鼓動のリズムに調子を合わせて、機械的にくりかえしていた。この女に言い寄ってはいけない。いけない。「そしてぼくは……そのひらめきの一つ二つを……とらえる……特別のめぐみをあたえられているような気がするのです」彼のひざからすっかり力が抜けさったようだった。
マドレインは彼のほうを振りかえろうとしなかった。「たぶん……そうでしょうね」と彼女はほとんど聞こえかねるような声で言った。
たっぷり一分間、沈黙がつづいた。ビクリー博士の心は渦をまきながら、あちらこちらへふらふらした。この女はそんなつもりではあるまい……みずから言っていることの意味がわかっていないのだろう……いけない、いけない、いけない……
突然、狂おしく胆っ玉がすわってきた彼は、自分の運命へ猛進した。「ぼくがどんなことをしようとしているか、わかっているでしょうな」
「ええ、わかってますわ」
「あなたに言い寄ろうとしているんですよ」
「わかってます」
つぎの瞬間、彼女は彼の両腕に抱きしめられていた。
「マドレイン!」
「ああ、エドマンド!」
はじめビクリー博士が衝動的に考えたのは、自分とマドレインが愛し合っていることを、ジュリアに告げることであった。こんな恋愛では、逃げ口上や隠しだては不適当と思えた。妻に隠したりするのは、もはや自分が後悔のほぞをかんでいる他の下劣な密通の線へ、この恋愛を引きおろすことになりそうだった。みずから歓喜の絶頂にあるビクリー博士は、信じかねるほどの新しい幸福のあらゆる経緯も、その絶頂にすえておきたかったのである。
ところが、いささか意外にも、マドレインがその行き方に反対した。そそっかしくふるまうのは、おろかしい、と彼女は指摘した。とり返しのつかない措置をとる前に、自分たち自身のことにしっかり確信がもてるようにならなければならない。それまでに、必要以上に苦しませるのは、ジュリアに対して思いやりのないやり方だろう、とマドレインは言うのであった。
「自分たち自身のことを考えてはいけませんわよ」と彼女はひたむきに言った。「つまるところ、あたくしたちには、おたがい同士があるんですもの。それに引きかえ……あなたの奥さんはお気の毒よ。あなたがどんなにお感じになっているか、あたくしにははっきりわかりますし、あたくしだって、そんなふうに感じていますわ。あたくしをよく理解してくださっているあなたは、もちろん、あなたと同じようにあたくしが、どんなに内証ごとをきらっているかも、おわかりくださいますわね。でも、あたくしたちは自分たち自身の感情を考えてはいけません。奥さんの感情を考えてあげなくてはなりませんわ」
それでビクリー博士は、ジュリアの心の平和のために、自分たち自身を犠牲にしなければならないという意見に同調した。二人はいろいろと彼女のことを語り、「気の毒なジュリア」と呼んで、ほんとうに彼女を大そう気の毒に思った。
しかも、晩の宅診に間にあうように、車を駆って帰りながら、彼はあんなふうに決めなければよかったと残念がった。まっすぐにジュリアの前へゆき、すべてを告げれば、いま彼の心をとらえているしみじみとした歓喜が、みごとに表現できただろう。堂々たる挙止となっていただろう。しずかな威厳をもって――責め合いもせず、ジュリアを犠牲にして安っぽく勝ちほこりもせず――恋愛のいきさつを彼女に告げ知らせる自分自身の姿を、彼は思い描いた。だが、たちまちその幻は消えうせた。彼の知らせに、ジュリアがどんな対策をとるか、彼にはまったく見当がつきかねた。彼女は千変万化の対策をとることができたからである。
それにしても、ビクリー博士は一つのことだけは決めた――ジュリアに対して、できるだけ正直にふるまおう。あの重大な一つの秘密を守るのに必要でないかぎり、断じて嘘をつくまいということであった。じっさい彼は、正直にふるまう機会を、ジュリアがあたえてくれるように願った。
そのとおりになった。彼がホールの奥のささやかな廊下で帽子をかけていると、客間からジュリアが出てきて、近眼らしい眼つきで彼のほうを見た。「あなたですの、エドマンド? お茶にお帰りにならなかったわね」ビクリー夫人はわかりきったことを話すのを、ちっとも苦にしない女だった。「どこへおいでになってましたの?」
「ぼくは≪屋敷≫にいたんだよ」とビクリー博士は答えた。そして何か言いたいなら、じゅうぶん機会をあたえてやるために、しばらく彼女の顔をまともに見ていた。それから廊下を歩いて診察室へ入った。
ジュリアはひとことも言わず、客間へ引き返した。
ビクリー博士のこの世のものでないような高揚した気分は、診察中から食事のゴングが鳴るまでつづいた。それから少しおとろえはじめた。だが、思い描いていたようなしずかな威厳はないにしても、すくなくとも挑戦的気分をもってジュリアに対抗できるだけのものは残っていた。彼はその挑戦的気分に気づき、それに悩まされた。この数時間、彼はジュリアや彼女の表象するすべてのものを、はるかにはるかに超越しているように感じていたのだった。ところが、いまや挑戦的なネズミが猫に直面するように、ジュリアに直面せねばならぬのに気づくと、いらいらしてくるのであった。一ぴきのネズミが自分の穴のなかで、どんな多数の猫にも負けないと思うにしても、猫の前に出て、その意見を主張するためには、強力な自己暗示が必要である。ビクリー博士は自分をマドレインが愛している奇蹟、したがってジュリアなどはものの数ではないということを、たえず自分自身に思い出させつづけていなければならなかった。
ところが、ジュリアは彼の挑戦的気分を活用させなかった。彼が「屋敷」へ行ったことにふれなかった。宅診の前の一場面も、まるでなかったかのようにふるまった。しかも彼女はだまっているわけでなく、いつもよりも少なくもなく多くもなく話し、あらゆる点で、ふだんと全く同じ態度だった。それがビクリー博士を不安にした。これはジュリアらしくない、と彼は感じ、したがって不吉なものを感じた。しかし、これまで一度も彼女の命令に反抗したことがなかったので、こんな場合に、どんなふうなのがジュリアらしいのか、さっぱり見当がつかなかった。前例もない事態に直面したので、ジュリアがとほうにくれ、どう対処してよいのか、迷っているのかもしれない、というようなことはまるで彼の心に思いうかばなかった。かりそめにも妻がとほうにくれたりできるなんてことは、断じてビクリー博士の心には思いうかばなかっただろう。
食事がすんで、客間へうつっても、やはりお上品な虚飾の芝居がつづいた。ビクリー博士は蝋でかためた小さなひげの先を神経質に指でいじり、不安をつのらせながら、緊張して演技をした。ジュリアはまるで演技などしていないかのようだった。田舎の医者は、都会の医者ほど、夜間に多くの病人から呼ばれることはない(都会よりも田舎の人びとのほうが思いやり深いのであろうか?)。だからビクリー博士は、妻と客間で夜をすごす習わしになっていた。彼はマーチェスターの図書館から借りた本を読み、彼女は刺繍かクローセ編みをするのであった。ジュリアは読書に関心をもたなかった。ラジオにも関心をもたなかったので、この家には受信機がなかった。ビクリー博士は一度ためしてみるように、しばしば彼女を説きふせようとしたが、彼女は好きになれないのはわかりきっていると言いはっていた。ところが、今夜は時々ジュリアがあれやこれやと話しかけたので、彼は本から眼をあげて、彼女に答えなければならなかった(自分が本を読まないので、いつもジュリアはだれにも五分間以上つづけて本を読ませないように、けんめいになっているようだった)。そうしている間じゅう、ビクリー博士は、どこからか往診の依頼がきて、このひどく気づまりな部屋から、この家から出てゆけるようになればよい、と思いつづけていた。何か重症――交通事故か、もう少し軽症にしても、しばらく自分に家の外へ出てゆかせるものであればよいのだ。しかし、ぜんぜん往診の依頼は来なかった。
ただ一度だけジュリアが、いちばん重大な問題に微小でも関係がありそうなことを言った。「エドマンド」と彼女はふいに言い出した。「とてもひどい頭痛がするんですの。これがよくなるような薬を薬局から持ってきてくださいな」
「ああ、いいとも」とビクリー博士はぱっと立ちあがった。どんなつまらないことのためにでも、体を動かせるのがうれしい気持だった。「アスピリンにするか?」
「アスピリンがわたしに合わないのは、よくご存じでしょう」
「うん、そうだったね。なにかほかのものを持ってきてあげよう」
彼は薬局へ出かけ、そこに立ってぐずついていた。客間へもどってゆくのが、ひどく不安になった。ジュリアがこんな調子で、こんどのことを見おくってしまうとは考えられなかった。そうだ、あとの楽しみにしようとしているのだ。おれがどんな気持でいるかをよく知っていて、例のとおりネズミをもてあそぶ猫を演じているのだ。そして今夜も持病の頭痛をおこしたのであってみれば……ビクリー博士はこうした頭痛にはおなじみであった。
たいていフェナセチンを解熱鎮痛剤として投薬しているのであった(アスピリンなどと言ったのは、いらいらして思いちがいしたのだ)が、今夜は……
ふと思いついた彼は、声をたてて笑った。錠剤の壜をおろし、ちょいと振って二錠を手のひらに出し、メートル・グラスに入れ、水を加えて溶かしにかかった。医者の身には有利な点がある。ちょっとモルヒネを一服もれば、ジュリアはひどく眠くなって、今夜は問題をまともに持ち出すどころではなくなるにちがいない。彼はガラス棒で錠剤をこまかくつきくだいた。
すっかり溶けてしまうと、彼はちょっとためらった。これでいいかな……? いや、ジュリアの抵抗力は常人以上なのだ。いま、効果確実なものにしておくほうがいい。
彼はまた錠剤の壜をおろし、もう二錠出して、それもメートル・グラスに落としこんだ。いかなジュリアも、たっぷり半グレインの一服には抵抗できまい。
ビクリー博士の見立てはあたった。二十分もたたぬうちに、ジュリアはひどく眠くなり、二階へあがって寝ないわけにはいかなかった。
微笑したビクリー博士は、本を脇へおしやって、今日の午後の出来事を、いくどもいくども思いうかべつづけた。
その夜、彼はちゃんとできあがった新しい空想劇を上演した。単にジュリアのいない生活ではなく、マドレインのいる生活であった。この空想劇は、催眠剤としては役にたたなかった。
ジュリアの奇妙な沈黙は、あくる朝の食事の間じゅうつづいた。食事中の彼女の態度は、昨夜の食事のときと同じように、気味がわるいほど正常であった。ビクリー博士は、午前中の往診のために家を出るとき、小さな箱につめこんだ雷雨をあとにしてゆくような気がした。不安であったが、いささか奇妙なスリルも感じながら、いつまであれがつめこまれたままになっているだろうか、と彼は首をひねった。避けられない一戦をおそれると同時に、それを待ちのぞむような気分だった。
彼は午後のことばかりを思い描きながら、夢みるようにぼーっとして午前中の往診をつづけた。
アイヴィのことなどはすっかり彼の心から消えさっていたので、道ばたで彼に合図している女の姿を見ても、はじめはアイヴィとは気づかず、機械的に車をとめた。
「テディ!」と彼女は、横手に彼の車がとまると、悲しそうに言った。
「なんだ、アイヴィか」ほんのかすかな不安も、いらだたしさもおぼえなかった。最近すてた愛人の前で、これほど安らかな気分でおられる男は、めったにあるまい。じつにみごとに自分が落ちつきはらっているのに気づいて、ビクリー博士は自分ながらおどろいた。これは彼にとって、はじめて味わう気分であり、うれしい気分であった。
アイヴィは小さな青い帽子の下のほつれたカールを、そわそわかきあげた。「ベルストンの奥さんが病気だって知ったので、あなたがこちらへいらっしゃるだろうと思って、一時間ちかくも待っていたのよ」
「ふむ?」
「テディ、お話ししなければならないことがあるのよ」
「とても忙しいんだよ、アイヴィ」
「このごろ、あたしが会いたいときには、いつでもあなた忙しいのね」彼女の下唇がふるえはじめた。ビクリー博士は客観的な興味をもって、それを見つめていた。感情を示すのに、唇が急速にわななくとは、じつに奇妙だ。あれは詩的ではない。哀れでさえもない(かつてあれを本当に哀れと感じたことがあったのだろうか?)。あれはこっけいであるだけなのだ。
「ぼくはほんとに忙しいんだよ」と彼はがまんづよく言った。「それにしても、五分間ぐらいの時間がさけないというわけじゃない。さあ、乗りなさい。ちっとばかり、いっしょに乗って行こう」
「あたしたち、いっしょのところを見られちゃいけないわ」と彼女はためらった。
「乗りなさい」と彼はドアをあけてやった。アイヴィは道路の前後をちらと見まわしながら乗りこんだ。彼はクラッチを入れ、車は前進した。「それで?」と彼は微笑した。「どういうことなんだね、アイヴィ?」まるで彼女が小さな子供みたいな気がした。こんな女を痛めつけるのは恥ずべきことだが、やるより仕方がない。できるだけ情けぶかくあつかってやるようにしよう。
「ああ、テディ」
せまい道を運転してゆくのに気をうばわれているふりをしながら、彼は彼女に落ちつかせる時間をあたえるようにした。彼女が言いたがっていることは、わかりきっていた。もうあたしを愛していないのね――そうでしょう? そして彼は、こんどはもう、その事実を否定するつもりはなかった。きれいに手を切ってしまわなければならない。きれいに、はっきりと手を切ってしまうことだ。ほかに方法は考えられない。
では、話して納得させたがよかろう。だが、人目につくところではいけない。ちょうど車は小さな森を突っ切って進んでいたので、ビクリー博士は森のなかへ通じている小路に車を乗り入れた。そして道路から見えないところまで入りこむと、車をとめた。
「さあ、では、アイヴィ」
「テディ!」
「うむ?」
「ああ、あたし、どう話していいか、わからない、わからないわ」
とび色のスェード革の長手袋をはめた手が、彼女のひざでもだえるように動いていた。彼女はとても小さな手をしていたが、長手袋が手首のところでひろがっているので、よけい手が小さく見えた。その小さな手や足を讃美していた彼は、いまでもそれが大へんきれいなのがわかった。
「話すって、どんなことだい?」
「あの――おそろしいことなのよ」彼女はほんとうにおびえた眼ざしで彼を見つめた。彼女の恐怖がいくぶんか彼に伝わってきた。
「どういう意味だい?」と彼は鋭くきいた。
「あたし――あたし――みごもったのよ――赤ちゃんを」
「ばかな!」
彼は座席で身をねじり、じっと彼女を見た。彼女はちぢみあがって少し彼から離れた。
「そうなのよ、テディ、そうなのよ。あたしには、ちゃんとわかるわ。当然のことじゃなくって?」
「そうとすれば、ぼくのではない」と彼はむごたらしく言った。
彼女の眼に涙があふれた。両手に顔をうずめて、彼女は泣いた。「ああ、テディ」と彼女はうめくように言った。
「アイヴィ――きみは他のどんな男と寝ていたんだい?」
彼女はだまってかぶりをふった。彼はくりかえし質問した。
「ああ、テディ、よくも、よくもそんなことが」
「きみは他の男と寝ていたにちがいない」
「あたし、そんなことしないわ」と彼女はむせび泣いた。「誓ってあたし、そんなことしない。そんなことしないわ」
「とにかく、ぼくのではない。それはたしかだ」
だが、彼は彼女の言うことを信じた。つめたい狼狽《ろうばい》が彼の体内にくい入り、汗が出はじめた。
これはやれきれない。ああ、いまいましい女、いまいましい女、のろわれてしまえ! これからどうなる? ちくしょう、この女をなんとかして……どうやらおれは、この女が他の男と寝なかったと言う以上、それを信じなければなるまいが……ああ、たまらない!
それに、マドレインが……
彼は車から出て、小路を行ったり来たりした。ひげの先を口に入れ、荒っぽくかみながら、自分が何をしているのか、ほとんど気づきもしなかった。
「テディ、ごめんなさいね」
「なあに、いいんだよ。きみの罪じゃなかろうからね」しかし、その口調には、きみの罪だという意味がこもっていた。
アイヴィは泣きはじめた。
ほんの少し前までがまんする気になっていた彼も、彼女の涙をみると、いつものようにいらいらさせられて、かんしゃくが起こって来そうだった。これは重大な問題であって、二人でよく検討しなければならぬものだ。当事者の一人が、両手に顔をうずめて泣いているのでは、討議がはかどるものではない。
「アイヴィ! ほんとにたのむから、そんなにだらしなく泣くのはやめてくれ。きみが冷静でいなくちゃ、いったいどうして話ができるんだい?」
あきらかに彼女は落ちつこうと努力し、眼をぬぐい、赤くなった鼻をかんだ。泣いたために容貌がすっかり台なしになったが、泣き出さないようにすることをぜんぜん知ろうとしない彼女であった。しだいに、彼女のすすり泣きはしずまった。
「ぼくはそれが本当だとは思わないね。妄想にすぎないよ」
アイヴィは前の風よけグラスごしに、ふきげんそうに見つめていた。「そう、口は調法だから、そんなことも言えるわね」彼女の声とは思えないような声だった。突如、新しいアイヴィ、これまで見たこともないアイヴィが現われていた。たよりなげな、やどり木みたいな女から、電光石火に、強靱なゴムのように頑強な女に変わっていた。
「では――どうしてきみにわかるのか?」
「もちろん、あのほうでわかるにきまってるじゃないの」
彼はちらと彼女を横目で見た。「もし本当にきみが……」突然、彼は心をきめた。「いいよ、アイヴィ。心配するにはおよばんよ。いたって簡単だ。ぼくが手術してあげよう」
アイヴィはぎくっとした。「手術……? でも――お医者さんたちは、そんなことしてはいけないことになっているんでしょう」
「まったくね、きみ」と彼はしゃがれ声で笑った。「医者たちにしたところで、絶体絶命、やらざるを得ない場合があるよ」
「あたし、死ぬかもしれないわ。危険よ」
「ちゃんと資格のある医者なら、そんなことはない。ばかなことを言うのはやめるがいい」かんしゃくがだんだん起こって来はじめていた。「ぼくがやれば、ぜんぜん危険はない。危険があるなら、これをぼくが言い出すと思うか? 常識を働かせてみることだよ」
「このあたしがどうなろうと、あなたはかまわないのね」
彼は肩をすくめて、こみあげる怒りをおさえた。たしかめてみなくてはならないけれど、結局、いますぐ急がなくてもよいかもしれない。そしてこの女も承諾せねばならなくなるだろう。だが、なんのかんのと、ごねたりするようであれば……ああ、ちくしょう、ひどくまずいことになったものだ!
あの洞穴の入口の岩棚の上で、心にひらめいた霊感を、彼は思いおこした。今では、そうおそろしいことのようにも思えなかった。おそろしい? いや、うるわしいばかりに簡単だったのだ。しかも、あとで問題も起こりはしなかったろう。アイヴィが岩の側面をよじのぼっていて、足をふみすべらしたと、はっきり断定されただろう。そしてそれが、なんというすばらしい解決になっていたことだろう。あのとき、やってのける勇気がなかったのは、残念なような気がする。勇気――必要なのはそれだけなのだ。
彼は憎悪に似たものをこめて、涙によごれた彼女の顔を見やった。彼女は頑強な顔つきで、前を見つめながら坐っていた。彼は冷たい憤《いきどお》りにおそわれた。そうなのだ、まだおそすぎはしないのだ。このばかな女が、なんのかんのと、ごねたりすれば……この女の問題がおれとマドレインのあいだに水をさすようなことがあれば……かりにこの女のことがマドレインの耳に入ったりしても……この女はみずから用心したがよいということになるのだ。
急に彼は身をめぐらして下ばえのなかへ入りこんでいった。
「テディ!」
彼女はいそいで車からおりて、彼のあとを追った。彼女のふきげんさは消えうせて、その声にも例の哀れっぽい音がこもっていた。
「テディ――ちっとばかりはあたしを可哀そうだと思ってくれないの?」
「ああ、思うよ」と彼はいらいらして言った。
「思ってないわ。怒っているんだわ」
「いや、だれだって、そう思わずにはいられないじゃないか」とおだやかに答えるのが、彼としては精いっぱいだった。
「ほんとにあたしを愛しているのなら、よろこんでくれているはずだわ」
「きみが私生児を生もうとしているのをよろこぶのか?」と彼は腹立たしそうに言った。「ばかもいいかげんにしてくれ」
「あたしを愛していないのね」彼女はすすり泣いた。「そうよ。今になって、ほんとうにわかったわ。愛しているのなら、そんなに思いやりがないってはずないわよ。ああ、テディ……結局のところ、あたし、赤ちゃんができるんじゃなくて、まあ運がよかったわ」
「なんだって?」と彼はわめいた。「それはどういうことなんだ?」
彼の語気におびえて、彼女の涙はひっこんだが、彼女はいどむような身がまえで彼に直面した。「そう、妊娠なんかしてないのよ。あたし、あなたがほんとに愛しているかどうかを知るために、赤ちゃんをでっちあげてみたのよ。だって、ちっとも本心を話してくれないんだもの。あなたには、それだけの度胸がないんだと思うわ。そう、それではっきりわかってよ」彼女はヒステリックに笑った。「だから、あたし、運がよかったわけよ――妊娠なんかしてなくてね」
彼は蒼ざめた顔をして、憎悪しながら彼女を見つめた。「この――あばずれ女め!」
「そう、どうせそうよ」と彼女はかん高く叫んだ。「なんとでも悪口を言ってちょうだい。あたしなんか、もうどうだっていいにきまっているもの。あのごりっぱなマドレインに会ってからはね。いったい、どうしてあの女をあばずれ女と言わないの? あの女こそ、そうなのよ。あなただけは別として、みんなが知っていることなのよ。ほんとにあの女は――」
ビクリー博士は何かにとりつかれ、自分がおさえきれなくなった。何かに駆りたてられ、握りかためた拳《こぶし》でアイヴィの顔をなぐりつけ、いばらの茂みへ彼女を仰向けにぶっ倒し、彼女の口から出た悪態に悪態をたたき返した。何かに駆りたてられ、こわばった仮面のような顔に、眼をぎらぎら燃やしながら、うしろから追ってくる泣きわめく声に耳もかさず、大またに車へもどっていった。
「テディ! ああ、テディ、あたし、そんなつもりじゃなかったのよ……ねえテディ!」
なにをしているのか自分でもわかりかねる体《てい》で、彼はギアを入れ、さっとクラッチを入れた。車は急速に走りだした。彼は全速力で森から出て、道路を疾走していった。
これまでビクリー博士は、愛撫する場合のほか、女に手を出したことはなかった。彼の頭脳は、考えることができず、こんぐらかった感情で高嗚っていた――その半分は胸がわるくなるような悪寒《おかん》、あとの半分は奇妙な、叫び声をあげたいような歓喜であった。
昼食の時間までに、彼のふるえはとまっていた。
しかし、彼はアイヴィを許してはいなかった。自分自身の立場からは、許せた。自分の観点からすれば、アイヴィは哀れむべき女にすぎなかった。ほんとうに彼女を可哀そうに思った。しかし、彼の心にくい入っていたのはアイヴィが彼自身ではなく、マドレインを侮辱したことだった。アイヴィの役にもたたぬ激発は、単にマドレイン個人だけでなく、彼のマドレインに対する新しい立場、マドレインにふさわしいりっぱな人間になろうとしている彼の努力、マドレインの表象するあらゆるものに対する侮辱であった。それはすべてマドレインに帰着するのであった。そしてそれが許せなかったのである。
それにしても、いま冷静に考えなおしてみると、あの洞穴の外の岩棚が、もう問題にならなくなったのは、ありがたい気持だった。あれが問題になったりしておれば、どんなことになっていたか知れたものではない、と彼は身ぶるいした。アイヴィに対する憤怒のはげしさを思い返して、ぞっとした。あんな気分では、どんなことをやってのけたか、神さまだけがご存じだろう。それにしても、おれ自身の内部に、あんな気分になれる力がひそんでいた事実こそ、いささか不思議だ(そう彼は思わないわけにいかなかった)。
昼食のとき、彼はだまりがちで、ひどくぶっきらぼうにジュリアに返辞したので、彼女は彼に向かって濃い眉をつりあげた。あとで、彼がホールの鏡の前で帽子をかぶり、また出かける支度をしていると、彼女が言った。「今日はお茶にお帰りになるつもりなの、エドマンド?」
「いや」と彼はふりむきもせずに答えた。それから何かに駆りたてられてつけくわえた。「お茶は『屋敷』でよばれるだろうよ」
これでジュリアが激発すればいい、と彼は思った。おれが午前中からのじりじりした気分を、まだ持ちこしている今の瞬間に、これまで二人がやったこともないようなすさまじい喧嘩をやれば、この上もなくありがたい効能があろう。緊張した神経はときほぐされるし、欝積《うっせき》したエネルギーを活用する手も見つかるだろうと思った。それに彼は、今こそ負けず劣らずジュリアとやり合い、打ち勝ってやる気がまえになっていたのである。
ところが、ジュリアは彼の願望をうけ入れず、ただ「夕食にはお帰りになるんでしょう?」と言っただけだった。
「もちろんだよ。当然じゃないか」
「けっこうですわ。そのあとでお話しすることにしましょう」
いかにもジュリアらしいやり方だ、と彼は自動車のクランクを荒々しく回しながら考えた(このごろジョウエットの自動スターターは、めったにエンジンを発動させたことがないのだ)。これからおれが幾時間、不安な時間をすごさねばならぬかを、ジュリアはきちんと計算してかかっているのだろう。
ひとしお彼はマドレインへの思慕の情をつのらせた。
まだ何軒か往診しなければ、解放された気分で「屋敷」へ行けなかった。午前中にひどい邪魔を入れたアイヴィをのろいながら、彼はいそいで往診してまわった。玄関の鉄鋲《てつびょう》の打たれたドアの前に、やっと彼が乗りつけたのは、四時ちかかった。
マドレインは、あきらかに待ちうけていたらしく、ホールにいた。あいさつをかわす前に、二人は黙ってキスした。彼女は帽子をかぶっていて、外出の支度をととのえているようすだった。
「あなたにはわるいんですけど、あたくし、うちにいられませんの。こんなに長く待っていてはいけなかったのですが、まずあなたにお会いしなければならなかったものですからね。いらっしゃるのはわかっていましたしね。あたくし、バーン家のお茶に行かなければなりませんのよ」
彼はひどくがっかりした顔つきになった。
「きのうは何も話しませんでしたね」
「あたくし、知らなかったんですの。けさ、バーン夫人が息子さんに手紙をもたせてよこしたんですものね」
「デニーにね? 行けないって言えばよかったんですよ」
「でも、ひどく不作法に見えたでしょうよ」
「先約があれば、べつですよ」
マドレインはかぶりをふった。「いいえ、あたくしは行くべきだと思いましたの。そりゃ迷惑ですわよ、エドマンド。でも、あたしたちはいつも自分たち自身のことばかり考えてはいけませんわ。そうじゃありません? それに、とにかく、その前に、あなたはあたくしに会っているわけでしょう」
「あなたほど愛すべき女性はない」とビクリー博士はささやいて、また彼女にキスした。彼女は彼とちょうど同じ高さだった。
「そしてね、エドマンド」一瞬後に彼女は離れながら、おだやかに言った。「毎日いらっしゃるのはいけないと思いますのよ」
「でも、ぼくは都合のつくかぎり、あなたに会わずにはいられないんです」
「ええ、でも、毎日はいけません。ほとんど毎日はいけませんわ。すぐに人びとが噂をしはじめるでしょうからね」
「なあに、勝手にやらせておけばいいんです」とのぼせあがっている医者は告げた。「ちっとばかりの安っぽいゴシップなんかが、こわいなんて、弱音をあげないでくださいよ、マドレイン」
「あなたのことを考えてあげているんですのよ」と彼女はしかるように言った。「ゴシップはお医者さんにはひどい損害をおよぼしますからね」
「じゃア、いつ会えるんです?」
とどのつまりに、取り決められたのは、毎週月曜日と金曜日に、「屋敷」のうちの湖の近くの森のなかで、マドレインが散歩していること。夕方に診療のない日の水曜日には、ビクリー博士がスケッチ道具で偽装して家のほうへ訪れ、お茶にとどまることであった。土曜日と日曜日は、テニス・パーティがあるので、いけなかったし、火曜日と木曜日は犠牲にしなければならなかった。ビクリー博士はさかんにぶつぶつ言ったけれど、マドレインは断乎として動かなかった。
「どうのこうのと言っても、金曜日は明後日ですのよ」
「でも、今日は水曜日、ぼくがお茶をよばれる日ですよ」
「水曜日のお茶は昨日めしあがったわけよ」と彼女は微笑した。「欲ばっちゃいけないわよ、エドマンド」こんないたずらっぽい彼女の言い方を、はじめて耳にした彼は、ひどくうれしがって、彼女の言い分を通した。
「じゃ、もうあたくし、行かなくちゃ」
二人は火のように燃えながら別れた。
ビクリー博士は憂欝に車を駆りながら、マドレインがあんなに強硬でなければいいのに、おれに帽子ぐらい選ばせてくれたらいいのに、と思った。
彼はひどく味気ない気持だった。
とても家へ帰ったりできるものではなかった。とうとうマーチェスターへ車を走らせてゆき、喫茶店でお茶をのんで、できるだけ長くねばった。そして家から五、六マイルの野原に横たわり、夕食までの時間をすごしたが、そこで読むためにマーチェスターで買ってきた本を読みかけると、すぐにいやになった。昨日の雨で地面がぬれていたし、敷物も持ち合わせていなかった。
家へ帰った時分には、昼食のときに神経を緊張させて張りきっていた反動がきて、彼はすっかり疲れきり、がっくりして、意気銷沈した気分になっていた。食後にジュリアと対決するどころではなく、喧嘩のことを考えるのも堪えきれないくらいだった。とてもやれるものではない、と彼は思った。といって、また出かけるわけにもいきかねた。気分がわるいとごまかしてベッドへ逃げこむのは、役に立たないよりも、もっとひどい羽目になりそうだった。ジュリアが彼を追ってゆき、いっそう彼はさんざんな目にあわされるのにきまっていたからである。今日も例の頭痛をおこしてくれさえすれば、昨夜のようにやすやすとジュリアを片づけてしまえるのだが!
彼はふらふら薬局へ入りこみ、モルヒネの錠剤の壜を、ありがたがるように見つめた。
ジュリア……ああ、今夜はあの女がおれをやっつけるだろう。ぺしゃんこにやっつけるだろう。おれはあの女に立ち向かえない。とてもやれない。あの女は「屋敷」へ行くことを断念させようとするだろう。マドレインを断念させようとするだろう。おれがこの世で大事に抱きしめているただ一つのものを断念させようとするだろう。あの女はおれをいじめ抜いて、しまいに……
いや、どんな目にあっても、ここから逃げ出してもいいから、そればかりはごめんだ。ああ、あの頭痛をおこしてくれさえすれば!
だが、待てよ、頭痛をなおすことができるなら、おこさせることもできるはずなのだ。ビクリー博士は興奮にかられて両手を打ちたたいた。なんというすばらしい霊感! ジュリアに頭痛をおこさせ、あとでなおしてやる――モルヒネでな。ところで、その目的のためには、どんな薬が一ばんよくきくか?
ここで彼の霊感もくじけた。ぜんぜん他の症状をともなわずに、頭痛だけをおこす薬は、彼の薬局のなかには一つもありそうになかった。一つもない。がっかりして、彼は眉根をよせた。そういうものがないとは、なんという不条理なことだろう。
すると、彼の心のうちに、ぼんやりした記憶がうごめいた。彼はそれに力を集中し、けんめいに追及しているうちに、やっとはっきりしてきた。見本が一つあったのだ。すくなくとも三年前に、有名な製薬会社がつくった薬だった。一年間に幾百種も送ってくる薬のうちの一つだったが、とくに彼の注意をひいていたのは、それが非常に高価であったし、一両日後に「英国医事時報」に論評が出たのを見たからであった。あれは――なんの薬だったかな? あ、そうだ、いくつもある尿酸特異質に対する調整薬の一つだった。そしてあれは失敗だったのだ。高価であったばかりでなく――うん、はっきり思い出してきた――はげしい頭痛をひきおこしたからだ。いまもまだあるだろうか……?
すこしでも面白味のありそうな見本をしまっている引出しをあけて、彼は熱っぽく探した。
奥のほうに押しこんであったのを、彼は見つめた。
興奮して抜き足さし足、ビクリー博士はそっと食堂へ入りこんだ。だれもいなかった。それぞれの席の前に、まん中に砂糖づけのサクランボをのせ、ちゃんとできあがったグレープ・フルーツが、半分ずつ皿に入れてあった。いそいでビクリー博士はポケットから一つの紙包みをとり出し、その中身を妻の分になっているグレープ・フルーツにふりかけた。
夕食が終わりに近づいたころ、ビクリー夫人は眼もくらむような頭痛におそわれたので、すぐによくなる薬をくれと夫にたのまなければならなかった。彼があたえた薬は、即座にはきかなかった。しかし、客間でコーヒーが出されてから間もなく、彼女はひどく眠くなり、医者にすすめられて、ただちに二階のベッドへ入った。とたんに、ぐっすり眠りこんでしまったので、今まで起こしたうちでも最悪のその頭痛にも気づかなかった。
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第五章
このころのビクリー博士の感情を、のぼせあがっていたという文句で片づけてしまうのは、公正ではないだろう。われわれはみな、いつかは、こんな扱いにくい現象に悩まされるものだ。ビクリー博士の情緒は、ふつうの人間たちよりもだんぜん高い水準にあった。彼はけっしてそれを疑わなかった。
マドレインのことが彼の心から一瞬も離れなかった。それが前景でかがり火のように燃えていないときには、後景で力づけるように白光を放っていた。それは彼のあらゆる想念や行動を、かがやかしい神聖な光で照らした。マドレインは彼にとって、一つのすばらしい体験の段階から、一躍して一つの固定観念になっていた。彼の人生の他のすべて(夜ごとのジュリアは別として)は、青白い非現実界に消えてしまっていた。ジュリアにしても、彼がいっしょにいる時だけしか存在しないのだった。
彼もこのような偏執をみとめ、大まじめに、ある有名な聖徒たちの法悦になぞらえた。しかし、彼自身に与えられた啓示は、すくなくとも一つの点で、彼らのものよりも巨大である、と彼は思った。なぜなら、神が人間性を身につけているのは、むろん奇蹟的なことであるけれど、人間が神性を身につけているほうが、はるかにもっと奇蹟的なことではないか? もし彼がお祈りをすることがあるとすれば、きっとマドレインの霊に向かってお祈りをしたことであろう。
彼は自分の身に起こった信じがたいことに対して、つつましく驚愕《きょうがく》に打たれていた。純潔、この世のものでないもの、肉体と対立する霊の顕現である人が、おれのような下劣な人間に対して、身をかがめ――自分自身の崇高な立場へ、おれも引きあげてやろうと手をさしのべてくれたとは! そして実際に引きあげてくれたのだった。金や女たちにあさましい見解をいだき、あれやこれやのこまごました卑劣な事がらに満ちた以前のおれの生活は、ぼろくずのようにおれのまわりに横たわっている。マドレインはさしのばした指で、もっと広大な、気高い大望、もっと純粋な未来への道を示してくれている。以前のおれの臆病さは消えはじめている。マドレインがおれを愛してくれるのであってみれば、地上の何者に対しても、なんで劣等感などをいだく必要があろう。マドレインの甘美な、純潔なキスは、あくまで霊的交渉の肉体的表現にほかならないのだ。
彼は彼女のセックスをもとめなかった。そんなふうに彼女のことを一度も思いめぐらしたことはなかった。まったく彼女は、下劣な問題の軌道の外側に存在していたのである。二人がかわすすべてのキスも(肉欲的でない女らしく、マドレインはキスも控えめにした)彼にとっては息もつけないほど神聖な儀式の一部であった。唇をうばったとたんに、どんな女にでも不作法に手を出すのを習わしとしていた彼も、マドレインに対しては、なれなれしく手をふれるようなまねは、すこしもしなかった。彼女の肉体は神聖で犯すことのできないものだったのである。
かんたんに言えば、ビクリー博士はなんとかして、ふたたび十七歳になっていたのである。
木曜日は、一日じゅうマドレインの影も見ず、あくる日の午後のことばかり思い描きながら過ごしたので、夜は気がめいり、あっさり逃げ出した。マーチェスターの向こう側に、特に治療困難な患者をでっちあげたビクリー博士は、コーヒーを飲むとすぐに出かけていった。そして彼は長くぐずついていて、ジュリアがベッドに入り眠ってしまったのがたしかになるまで、帰って来なかった。
金曜日の午後、会いたさ見たさに胸も張りさけそうになりながら、彼は道ばたに車をとめ、マドレインの「屋敷」のうちの森へ入りこんでいった。
湖の端に突き出ている木の下に、平底舟が引きよせられていて、それに彼女は乗りこんでいた。いつもよりもきまじめな顔をしていて、彼がうれしそうにあいさつしても、微笑をかえさなかった。
「この舟へいらっしゃいな、エドマンド。いえ、こちら側へではなくね。あたくし、とても大事なお話がしたいんですの」
うれしそうな表情が、スポンジでぬぐったように、顔面から消えさって、ビクリー博士は不吉な予感に満たされながら、舟の向かい側の端に、すなおに腰をおろした。
マドレインの大きな灰色の眼が、悲しそうに彼を見た。「この前にお会いしたときから、ずっとあたくし、考えていましたのよ、エドマンド」
「はア?」何か冷たいものが、ビクリー博士の心臓のまわりを圧迫し、しめつけるようだった。
「こんなことをつづけるわけにいきませんわ」
「というのは――ぼくたちのこと?」
「ええ」
ビクリー博士はかわいた唇をなめた。「どうしていけないんです?」
「公正じゃありませんわ。ジュリアに対してね」
「しかし――あの女はぼくのことなんか気にしてはいないんですよ、マドレイン。ぼくがあれのことを気にしている以上にはね」
「でも、あなたの奥さんですわ。そう、公正じゃないでしょうね」
「しかし、今の行き方をいけないとするのは、ぼくたちに公正ではないでしょう」
マドレインは首をよこにふった。「いいえ、あたくし、すべてをよく考えてみましたのよ。こんなことをつづけてはいけませんわ」
ビクリー博士は前途の暗黒を見つめた。そしてマドレインを見た。彼女の顔にも苦悩の表情がうかんでいた。なんという気高い女だろう。いつもおどろくばかりに愛他的なのだ。ジュリアに対してまでも!
「ぼくはきみをあきらめられない」と彼は熱烈にさけんだ。「マドレイン――ぼくにはできない。あきらめる気はない!」
「そうしてくださらなくちゃ、エドマンド」と彼女は悲しそうに答えるのであった。
「やっときみを見つけたばかりなのに。ぼくにはできない」
「そんなにまであたくしを愛してくださっているの?」
ビクリー博士はどんなにまで彼女を愛しているか、話そうとした。そのいきおいで、彼は舟の向かい側の端へ、彼女のそばへ近寄った。彼女はだまってかぶりをふったが、彼は彼女をつかまえて引きよせた。彼の両腕に抱きしめられると、彼女は身をゆだねた。彼はしっかりと彼女を抱きよせながら、なんとしても絶対にあきらめられないと告げた。彼女は眼をとじた。その眼に彼はやさしくキスした。彼女は口にもキスさせた。
「ああ、マドレイン」と彼は絶望的にささやいた。「あきらめろと言うなんて、ほんとにぼくを愛していないんだね」
彼女は彼に抱かれたまま、眼をひらいて彼を見あげ、おごそかに言った。「エドマンド、あたくしは生命そのものよりもあなたを愛していますわ。でも、別れなければなりません」
彼のみじめな気持は、彼女が泣きはじめたので、よけいひどくなった。アイヴィみたいな、みにくく、ばかげたすすり泣きではなく、ただ本当に涙が眼からながれおちているだけで、ほかにはなんの気配も見えない泣き方だった。こんな悲しみに終止符をうってやるためなら、ビクリー博士は世界をみじんに打ちくだいてやってもいいような気がした。自分自身も泣きだしそうになりながら、彼は彼女をなぐさめたり、うめいたりした。
彼のひたむきな努力も、マドレインの心をなだめず、反対の効果をもたらしたようだった。彼女の涙はだんだんはげしくなった。彼女は彼にすがりついた。しだいにつつしみの線をすべり出て身もだえし、アイヴィにもおとらないくらい、すさまじくすすり泣いた。ビクリー博士は自分の眼の下で、自分の心臓が切りきざまれているように感じた。しかも彼は、マドレインの愛情の深さに驚嘆するとともに、それを疑った自分自身にあらゆる悪罵《あくば》をあびせることもできたのである。
「ぼくたちは別れられないよ、ねえきみ」と彼はうつろにくり返した。「そんなことをすれば、二人とも死んでしまうだろう」
「別れなくちゃ、別れなくちゃ」とマドレインはすすり泣いた。
「ぼくはジュリアにすべてを話そう」
「いいえ、いいえ! そんなことをしてはいけません。しないと約束してちょうだい」
「でも、ジュリアだって、それほど悪い女じゃない。離婚してくれるだろうよ」
「ああ、エドマンド」とマドレインは泣いた。「あたくし、離婚した人と結婚できそうにありませんわ」二人のあいだで結婚のことが持ち出されたのは、これがはじめてであったが、あまり縁起のよい扱い方はされなかった。
涙のまにまに、二人はこの問題を話しあった。マドレインは、生命そのものよりも彼を愛している、と誓いつづけたけれど、彼をあきらめてジュリアに返さなければならないと言った。たとえ夫婦が愛しあっておらず、幸福にいっしょに暮らしていけないにしても、別れさせた責任が自分自身にあると考えるのは、とても耐えられそうにないからだ、と言うのであった。
ビクリー博士は、自分の感情がおさえられるかぎり、できるだけ努力して事態をうまく解決しようとした。彼女の感情の激烈さにおどろきながらも、彼女をときふせようとした。永久に別れてしまわねばならない、と繰りかえして言うたびに、ますます強くすがりついてくるマドレインに向かって、彼女のジュリアへの思いやりは、うるわしく、まったく彼女らしくりっぱではあるが、おかどちがいだと彼は指摘した。ジュリアは生れてから、だれにも思いやりを示したことがない。したがって、いまぼくたちの思いやりを受けたりできる身でないではないか。
もはやジュリアに忠実か不忠実かということは問題ではなくなっていた。彼は明白な事実の範囲内にとどまっていたが、少なくともその事実を、もうマドレインは知らなくてはならない。彼はすべてを話した。すると、その結果は、いよいよマドレインが身も世もなく泣くばかりとなった。
ジュリアにも多少はいいところがあるにちがいないから、事実を知れば、きっと離婚をさせるだろう、と彼は強調した。そしてそのことを、いくどもくり返したが、マドレインは奇妙に納得しようとしなかった。どんなことがあっても、ジュリアには一言も、ぜったいに話してはいけない、とマドレインは言いつづけた。二人は苦しむよりほかはないが、ジュリアまで苦しまねばならぬ理由はない。一言も話してはいけない、とマドレインは言うのであった。
ほかの女の場合なら、この段階までくれば、ビクリー博士はヒステリーの初期と診断をくだしていただろう。だが、マドレインの場合は、もちろん、そんなことは不可能であった。
結局、なにも本当に解決せずに、二人は別れた。もっとも、マドレインのほうは、二人が永久に別れるのはもちろんのことと受けとっているようすだった。ビクリー博士が去ってゆくまでに、彼女は多少の落ちつきをとりもどしていて、熱烈に別れをつげた。
ビクリー博士は、わきかえるような心理的状態で家に帰った。彼はマドレインの最後通諜の受諾を拒否していた。受諾などは考えてみる気にもなれなかった。マドレインのいない生活は、もはや考えることができなかった。もしもマドレインが先手を打って彼から逃げだすなら、彼は自分の生活に終止符を打つ気だった。
宅診中、患者たちがとだえた合い間に、彼はまったく新しい空想劇を上演してみたほどだった――マドレインが「屋敷」を売り、自分と同じ社会的地位も霊魂もない獣みたいな男と大いそぎで結婚し、モンテ・カルロへ逃げる。薬局にある青酸。ジュリアと、検死官と、マドレインとにあてた三通の遺書。「ぼくの愛するマドレインよ、きみのいない生活は不可能だ。死をえらぶほうがよい。だが、死んでゆきながらも、ぼくはきみにおくりたい、ぼくの……」
一度も誤診をせずに、宅診をすますことができたのは、一つの奇蹟であった。
ジュリアに何も言わないように、マドレインがあんなに念をおしてとめていなければ、と彼は思った。こんなふうな内証ごとは、いやでたまらなかった。りっぱな男らしく、すべてをジュリアに打ちあけたい気持が、またわきたってくるのを、彼は感じた。もちろん、けっしてジュリアは理解しないだろうが、その話し合いから、なにか出てくるかもしれない。しかもジュリアは、おれが「屋敷」へ行くことについて話そうとして、いまも待ちかまえているのだ。向こうから切り出してくれば、恐慌のあまりにでも、おれは事実をしゃべってしまわずにおれなくなるのがわかっている。ジュリアの口を封じなければならない。
彼は前と同じ手で彼女の口を封じた。
夕食が終わりに近づいたころ、ジュリアは頭痛を訴えた。食後に客間でコーヒーをついでからすぐに、彼女はたよりないようすで立ちあがり、ほんの数歩よろめきながら進んで、すっかり気を失ってじゅうたんに倒れた。ほんの二分間ばかり意識を失っていたにすぎなかったが、ビクリー博士はひどくびっくりした。薬を盛りすぎていたのだ。彼女の抵抗力は、彼の想像したほど強くなかったのだ。意識をとりもどすと、彼女は苦痛にうめいた。ジュリアがうめいたりするなどは……
悔恨《かいこん》に汗をにじませながら、彼はかけ出して注射器をとってくると、こんどはモルヒネを皮下に注射した。すぐにそれで苦痛はなくなったので、彼は彼女を二階へつれてあがり、ベッドにはいらせた。ひとり階下へおりてきたときには、彼は全身をふるわせていた。ジュリアにぜんぜん愛情をいだいてはいなかったが、しょせん彼女はすべてを打ちあけられる運命になるだけであるのに、こんなに苦しまねばならぬのは不当なような気がしたのであった。
もうすっかりよくなった、と彼女は言いはったけれど、それから二日、彼は彼女を寝かせておいた。そこで二晩、ぶじに過ごせたわけだった。
日曜日に、バーン家でテニス・パーティがあった。彼はジュリアの欠席の申しわけをことずかって、ひとりで出かけた。ジュリアといっしょでなければ、必要のない人間とされるのはわかっていたが、それでも彼は出かけていった。マドレインが来ていた。二人は上品にさりげなくあいさつをかわした。それきりマドレインはまるで彼に眼もくれず、だれよりもいちばんよくデニス・バーンと話していた。ビクリー博士はみじめな午後を過ごした。
月曜日には、「屋敷」へ出かけた。
奇妙にも、マドレインは、二度と二人きりでは会わないとハッキリ言っていたのに、小さな湖で、平底舟に乗りこんで、ほとんど前と同じ場所にいた。そして彼を見ると、大へんおどろいたようすを見せた。
悔いるところのない彼は、うれしさに微笑しながら、舟にとびうつり、彼女のすぐそばに、どっかり腰をおろした。
「エドマンド、いけません! あたくしが言ったことをお忘れになったの? いいえ、だめですわ」とマドレインは言って、彼の腕のなかに倒れこんだ。
それきり彼女は、この前に会ったときのことにはふれなかった。
ビクリー博士は、いささかとまどい気味になりながらも、幸福な午後をすごしはじめた。友だちとしても愛人としても、この日のマドレインはこの上もなく楽しい相手であった。
二人はまた実際的なことも話し合った。ビクリー博士は「屋敷」の下水設備におどろいていた。それはこの家が建てられた未発達の時代から、あまり改良もされていないにちがいなかった。ビクリー博士は、ほんとになんとかしなければいけないと話した。外聞がわるいし、不健康であるし、じつに危険であると言った。マドレインもまったく同意見で、たしかに、なんとかしなければならないと言った。ビクリー博士は、チフスにかかったマドレインが、自分の腕に抱かれて息をひきとる戦慄《せんりつ》の場面を描き出して見せた。そしてひどく心を悩まし、熱心になった。早速ほんとになんとかしなければならないと話した。やはりマドレインも同意見で、たしかに、早速なんとかしなければならないと言った。
こんな実際的な問題を細部にわたって彼女と話し合うのは楽しかった。下水設備にしても、マドレインと結びつけて考えると、一種の神聖化された様相をおびてくるのであった。
その晩、彼はジュリアに打ちあけた。
「屋敷」から帰る途中で考えぬいて、心をきめたのであった。彼がひどくジュリアに打ちあけたがったのは、隠しておくのがいやであったし、この驚異的な恋愛に関連するすべての事がらを、恋愛そのものと同じ高さの純粋さと誠実さの水準にすえておきたかったからであり、また(彼としてはそれほどハッキリわかっているわけでなかったので)この十年間なにか難問題が起こるたびに、全面的にジュリアに頼ってきた身として、こんどの最高の問題では、いっそう彼女の助力を必要としたからでもあった。
ジュリアは、信じられないほどおだやかに、打ちあけ話を受けいれた。
「ねえ、エドマンド」コーヒー道具が片づけられるとすぐに、彼女は切り出したのであった。「やっとお話ができることになりましたわね。わたしにはわかっているんですけど、わたしの希望を無視して、ずっとあなたは――」
「ちょっと待ってくれ、ジュリア」とビクリー博士はさえぎった。そして立ちあがった彼は、炉に背をむけ、敷物の上に立った。落ちつきはらって、びくびくもしていなかった。マドレインといっしょにいる時にいつも感じる高揚した気分が、まだ持続していたのである。「ぼくもきみに話したいんだよ。クランミアさんのことについてね。打ちあけておきたいんだよ。ぼくはクランミアさんを愛しているし、クランミアさんもぼくを愛している」
あつい眼鏡の奥に、とび出ているジュリアのうす青い眼が、さぐるように彼を見やった。しばらく彼女はだまっていた。たぶん、はじめて夫から聞いた威厳のある言葉に、おどろいていたのだろう。やがて彼女は言った。「そんなことになるのではないかと思っていましたわ」彼女の口調は、バターをまわしてくれと言うときのように、ふつうであった。
ビクリー博士は、左胸部の内側がぴくんとするのを感じた。そして自分が思っていたほどに落ちついていないのに気づいた。「すまない――と思うよ、ジュリア」と彼はよろめくように言ったので、効果は台なしになってしまった。
「いえ、エドマンド、あやまってもなんの役にもたちませんわ」とジュリアはてきぱきと静かに答えた。「それよりも、どうするつもりか、話していただきましょうか?」
だが、どうするかが、エドマンドにはわかっていないのだった。しどろもどろに、彼はそう話した。
ジュリアは、はじめて彼の顔を見るかのように、めんみつに見つめつづけていた。「結婚以来、絶えずあなたは見ばえもしない、いやしい密通にふけってきましたが、こんどもそういうものの一つでないとは、どうしてわたしにわかります?」と彼女はゆっくりと言った。「いいえ、否定なさっても、むだですよ。あなたがどんなふるまいをしていたか、ことごとくわたしは知っていますから――アイリーン・サムフォード、シビル・ホワイトチャーチ、ライダーの娘、マーチェスターの聖堂参事会長プライアの娘、アイヴィ・リッジウェイ、メイベル・クリストーにいたるまでね。そんな下劣なことには、まるで興味がありませんので、わたしは何も言いませんでした。でも、はっきり話すべき時がきたのですわ。こんどのクランミアさんとのいきさつが、これまでのようなものの一つでないとは、どうしてわたしにわかりますの?」
ビクリー博士は顔を赤くした。マドレインの名が、アイリーンやアイヴィやメイベルの名と同等に扱われるなどとは……彼はいきおいこんで話しはじめた。
ジュリアはやめさせた。「わかりました。あなたはあの女をほんとうに愛していると思っていらっしゃるのね。そしてあの女もあなたを愛していると思っていることが、あなたにわかる機会があったというわけですのね。はたして二人が愛しているかどうかは、今後に判明する問題。それにしても、知り合ってから、いくらもたっていないんじゃありませんか?」
ビクリー博士は、二人の人間の心が完全に調和しあっている場合、その事実をみとめるのに幾年もかからず、一目ではっきりわかるものだというようなことを、もぐもぐ低い声で答えた。
「一目惚れね。なるほど。あなたのお年ごろにしては、ひどくロマンティックね」とジュリアはうなずいたが、その口調は言葉ほどに冷酷じみてはいなかった。「それで、エドマンド、もう一度ききますけど、あなたはその一目惚れのことで、わたしにどうしてもらいたいんですの? あなたに妻があるのは、不運ですけれど、あるのは事実ですわ。でも、すこしでもあなたの慰めになるなら、あなたがよくご存じのことを、はっきり言葉にして申しましょう。わたしは少しもあなたを愛していませんし、これまでにも愛したことはありません。実家の耐えられない事態からのがれるために、わたしはあなたと結婚したのでした。したがって、わたしには、あなたに道徳的な苦情を持ち出す資格はぜんぜんない、と推論なさるのは(もちろん、なさっていらっしゃるにちがいないですが)、あなたとしては完全に正常なことですわ。ですから、なんでも率直に言ってくださっていいんですのよ」
「そう寛大に出てくれるとありがたいね、ジュリア」とビクリー博士は感謝と安堵《あんど》に顔をほてらせながら声をあげた。まったく、以前のジュリアときては……
「わたしだって、すこしは寛大な気持も持ちあわせているかもしれませんわ、めったにあなたはそれを認めようとなさいませんでしたけどね」とジュリアは無感動な調子で答えた。「それで?」
「それで――きみが離婚してくれるといいと思ったんだがね」率直に言ってくれと言われていても、ビクリー博士は相当な困惑を感じた。結局のところ……
「ええ、もちろん、離婚しますわ。いかにわたしが寛大でも、あなたがわたしを離婚するのは許せそうにありませんからね。でも、そんなことをすれば、ここの医院がたちまち破滅するのは、おわかりになっていますの?」
「うむ、どこか他の土地で、また開業する気さ」
「ふん! あなたはわたしに手当をお出しにならなきゃならないでしょうよ。わたしには自分のお金が一文もありませんからね。それを出して、同時に新規に開業なさるなんて、いったいどうやっておやりになるつもりですの?」
「なに、そんなことは大してむずかしいことでもないと思うよ、ジュリア」
「わかりましたわ。あなたは最初の妻を、二度目の妻の資産から出す手当で追放なさるつもりなのね?」
「ぼくは――まだ何も、こまかいことまで考えちゃいないんだよ」とビクリー博士は口ごもった。
ジュリアは黒い絹服のひざのしわをのばし、眼鏡をはずしてハンカチでふき、またかけてから、夫を見つめた。「いいですか、エドマンド。ふつうなら、わたしがこんなあなたの考えに一瞬も耳をかさないのは、あなただっておわかりになるでしょう。わたしが聞いてあげているのは、巻きこまれているのがクランミアさんであるからです。あなたの分別をもってしても見わけがついたように、あれはまったく例外的な女ですわ。結婚したくてうずうずしているたくさんの男たちのうちから、あなたを選んだ趣味については、なにも言いたくありませんけど、あなたが自分を分にすぎた果報者と考えてよいことだけは言ってあげておきます。わたしにしても、あの女をよく知っているなどとは言えません。訪問をかわした時と、ここでのテニス・パーティの時のほかは、ほとんど顔をあわせていませんものね。でも、わたしにとても好印象をあたえました。とても好印象をね。
こうした事情であり、わたしたちの結婚の事情も考え合わせて、わたしはあなたに機会をあたえる用意があります。でも、あの女のあなたに対する気持に、思いちがいがないことを、わたしは確信するようにならなければいけません(あなたのあの女に対する気持は、おっしゃるままに受けとっておきましょう)。それで、こんな条件を出すことにします。
つまり、これから一年間、わたしたち三人はみな現状のままで暮らしてゆくのです。そのあいだ、あなた方は好きなだけ、いくらでも会ってよろしい。そして一年たって、まだあの女があなたと結婚したいのならば、あなたを離婚してあげることにしましょう」
ビクリー博士は、しどろもどろのことをしゃべりながら、前へとび出して、妻の頬に大きな音をたててキスした。「ああ、ジュリア、きみは……まったく、きみがそんなにふるまえるとは夢みもしなかったよ……いや、いつもぼくは言ってきたものだが、それにしても……」
ビクリー夫人は一本の指をたてた。「でも、こういうことだけはわかっておいてくださいよ、エドマンド。この一年間に、たとえ結婚を見越してにしても、あなたがクランミアさんを自分の情婦にしようとしたりしたら……」
ビクリー博士の学校生徒みたいな有頂天ぶりは消えうせた。彼は胸がわるくなるようないやな気分になって、うしろへ引きさがった。
そして理性をとりもどした。彼はあわれむようにジュリアを見つめるだけだった。どうせこの女は、そんな自分の根性をおさえることができないのだ。
そんなことがあったのは月曜日だった。火曜日は一日じゅう、ビクリー博士はその秘密をひとり抱きしめていなければならなかった。水曜日に、つまり、マドレインに追い出され、ひどく味気ない気持でマーチェスターへさまよっていってから、ちょうど一週間目の日に、かぎりなく意気揚々として彼は「屋敷」へ出かけていった。すてきなニュースを彼女にもたらすのだ! どんなにすばらしい午後が待ちうけていることだろう。彼女がすすめてくれるなら、ゆっくり夕食まででもいよう。
彼は自信たっぷりに車を車道へ乗り入れ、もはやこの家の女王の夫君にでもなった気持で玄関に乗りつけた。
もうトア氏ぐらいの連中は大したことはない。ほんとうに自分はこのすばらしい屋敷の共有者になろうとしているのだ、と自覚したとたんに、ビクリー博士はショックを感じた。金持の前に出ると、いつも彼の心に生じる最初の卑屈感を克服してからは、マドレインの財産はすっかり背景に消えうせていた。マドレインはマドレインであって、ほかの何ものでもなかった。しかし、いま、マドレインが金持のマドレインでもあるのはきわめてうれしいことだ、と思いめぐらしても、彼は下劣だとは感じなかった。結局、マドレインの資産は付随的現象にすぎない。もっとも、うれしい付随的現象にはちがいない。新しいテニスのネットも買えない人間にとっては……
「クランミアさんは?」と彼は玄関で小間使に、とても幸福そうに微笑したので、よくしつけられている小間使も、微笑し返した。
「お気の毒でございますが、お出かけになっております」
「お出かけ!」彼は落ちつこうとした。「ぼくにことづてはなかったか? ぼくは――ちゃんと――約束してあったんだがね」
小間使はとても気の毒そうな顔つきになったが、ことづけはなかったと言った。
「すっかり忘れてしまったにちがいないな」と医者はつぶやいた。「こまったな。いや、どうも」
彼は家に帰り、一ばん上等の服をぬぎ、一ばん古い服に着かえて、すさまじい勢いでお茶の時間まで園芸をやりつづけた。
ジュリアは彼を見て、かすかにおどろいた顔つきになったが、なにも言わなかった。
「クランミアさんは出かけなくちゃならなかったんだ」ビクリー博士は問いかけられたように、もぐもぐ言った。「ことわりきれなくてね。ぼくに置手紙をしていたよ」
やはり、ジュリアは何も言わなかった。
だが、木曜日の晩に、ジュリアは意味ありげなことを言った。「午後、バーン夫人に会いましてね。その話によると、クランミアさんとデニーが、マーチェスターのトーナメントのミクスト・ダブルスに出るそうですわ」マドレインがテニスをやり、女性が熟達した近ごろでも例外的に上手だというのは、また彼女の意外な一面であった。「昨日きめたんですってよ」
「昨日!」
「ええ、クランミアさんは昨日の午後あそこでテニスをしていたんです。ご存じなかったの、エドマンド?」
「いや、うん、もちろん知っていたがね。ど忘れしていたのさ」下手なごまかしだった。ジュリアは何も言わなかった。
金曜日の午後、マドレインは彼を待ちうけていた。
彼は彼女を非難するつもりはなかった。ただ、おだやかにたしなめるつもりであった。しかし、その必要はなかった。たちまちマドレインが、自分自身を非難しはじめたのであった。
「エドマンド、あたくしを許してくださるかしら?」
「きみを許すって? 許すようなことは何もありゃしませんよ」彼は平底舟に乗りこんで彼女のそばへいった。
だが、彼女はすっかり説明してしまうまで、彼にキスさせようとしなかった。「あたくし、ひどくがっかりしましたの。それにあなたが、あたくしを人非人とお思いになるだろうってこともわかっていました。あたくし、人非人でしたわ。悪魔でしたわ!」そんなささやかな罪にたいして、彼女が自分にあびせる悪罵は大げさすぎるようだった。「でも、あたくし、どうしてもそうするしかなかったんですの。ほんとうに。バーン家へ行かなければならなかったんですわ」彼女の大きな眼は、ひたすら許しをこうように、彼の眼を見入った。なにか本当におそろしいことを告白しているかのように、彼女はおごそかな顔つきをしていた。
「わかっていますとも」彼はひどくキスがしたかった。
「おことわりしたら、ひどく変に見えていたでしょう。ほかのどこへも出かける予定が、あたくしになかったことを、バーン家では知っていたでしょうからね」ビクリー博士が抱いていたかもしれない微かな疑惑も、とっくに消えうせていたが、まだマドレインの弁明は終わらないらしかった。「あたくしたち二人のために、どうしても行かねばなりませんでしたのよ。ひどくあたくしをお憎みになりましたか、エドマンド?」
「いや、とんでもない。なにかそんなことにちがいないと思っていましたよ」そしてマドレインが非難されなければ満足しそうにない顔つきを見せていたので、彼はおだやかにつけくわえた。「どうして置手紙ぐらいしてくれなかったんだろう、と思いましたが、まあ、それだけでした」
「あら、そんなことできるものじゃありませんわ」マドレインはひどくびっくりしたようだった。「そんなことをしたら、召使たちがどう思ったでしょう?」
自分に対する他の人びとの評判を医者ほど気にする者はない。他の人びとの評判が、パンとバターの有無を支配するのだから、しかたがない。それにしても、これは少し評判に気をつかいすぎている、とビクリー博士は思った。
つぎの瞬間、彼はそんなふうに思ったことを、うしろめたく感じた。「ああ、もっともですな。それはまるで思いおよびませんでしたよ」
「では、ほんとに許してくださいますのね?」
「もちろんですよ。許すようなことは何もありゃしませんがね」
やっと彼はキスをさせてもらった。
マドレインの態度には、一週間前のような気分が、すこしも見てとれなかったので、ビクリー博士はほっとした。あの時のことがわかったような気がした。あれは、じつに純真で崇高な女が、他の女の夫に言い寄らせたことに対して、最初に示した反応にすぎなかった。たしかに、あの瞬間のこの女のふるまいは、きわめて満足すべきものであったのだ。
今こそ大ニュースを発表するのに絶好の時だ、と彼は判断した。
「ねえ、すばらしいことをお伝えしましょう。ぼくは昨夜ぼくたちのことをジュリアに打ちあけたんです。きみのほうは、ほんとにかまわないだろうと思ったので――」
「ジュリアに打ちあけたんですって! あたくしたちのことを!」
マドレインの声はかん高く、急に顔が蒼白になっていた。
「そうですよ」ビクリー博士はマドレインの急激な変化におどろいて、いそいで説明しようとした。「ぼくたちのことについて隠しだてをしているのは、ひどくいやだったものですから、ぼくは考えぬいた末――」
「でも、あたくしは、打ちあけてはいけないって言いましたのよ。あなたも、打ちあけないって約束なさったわ――約束なさったわよ」
「いや、約束はしませんよ」とビクリー博士も異議をとなえないわけにいかなかった。「ぼくはきわめて慎重に――」
「ちゃんと約束なさったわ!」
「いや、ほんとに、ぼくは――」
「なさったわ! あなたはひどい人ね、エドマンド! あたくしがいけないって言ったのに、よくもあなたは! 打ちあけないって約束しておいて。もう――ぞっとするほどいやです」はじめビクリー博士は、マドレインが蒼白になったのを、ジュリアへの思いやりのためだと思っていたが、今になって、ただ激怒のためだと知った。
マドレインは彼に向かって嵐のように荒れ狂った(と言うよりほかはない)。
それからわずかばかりの間に、マドレインがほんとうに悩んでいることが、ひしひしとわかった。不運なビクリー博士は、自分自身について幾つかのことを知った。いつも自分では、事実でないかと思っていたものの、マドレインがそんなに思ってくれないように望んでいた事がらであった。あきらかに彼は、ばかげているだけでなく、信じられないほど下品な、不公正なことをしていたのらしかった――マドレインが一度ならず、幾度もそう彼に言ったからである。彼女とのことで、こっそり人目を忍んだりする行き方はいやだから、正しいことをしようとしたのだが、と彼がつつましく抗議しても、なんの役にもたたなかった。そればかりでなく、彼はこの出来事で下司男《げすおとこ》、へまの人間、悪党を演じた男であった。このようなすべてのことを、マドレインは「弁護士席から歩み出た真理の女神」の新しい役割を演じながら、おどろくほど激しく彼に告げたのである。マドレインにまちがいがあるはずはないから、たしかに自分はそのとおりの男にちがいない、とビクリー博士は思った。しかし、こんどばかりは正直にふるまおうと努めただけだったのに、どうしてそんなことが判明したのか、さっぱりわからないのが残念だった。
ジュリアがまるで気にしなかったということにも、マドレインは一顧《いっこ》もあたえず無視した。当然ジュリアは気にすべきであったし、したがって、彼女に打ちあけるのは、残忍きわまる悪虐行為の一幕であったはずだ、というのであった。
つまるところ、この午後ビクリー博士は、かなり惑乱した心理状態で、彼女と別れた(いや、先に去ったのはマドレインにちがいなかったから、別れさせられたのであった)。
変化が恋愛の薬味であるならば、ビクリー博士も、たしかに自分の恋愛はみごとに薬味をくわえられつつある、と思いめぐらしたかもしれなかった。
あくる日、彼はマドレインに会わず、そのあくる日も会わなかった。あきらかにふさぎこんでいる彼に直面して、ジュリアは如才なく沈黙をまもっていた。月曜日に、マドレインは湖にいなかったし、森にも見つからなかった。やっきになった彼は、小間使が非難するかもしれないのもかまわず、家にいった。
小間使は、非難の気配も見せないばかりか、大事な旧友みたいに彼を迎えた。そしてミス・クランミアは客間にいると告げ、おはいりになったらいかが、と言った。それに応じて彼ははいった。
マドレインは悲しそうに彼を迎え、この迷える羊を羊舎へもどしたものかどうか、決しかねているようだった。羊はつつましく自分のあやまちを詫びた(じつのところ彼が正直であったことを詫びているのだとは、両人とも気づかなかったようだった)。そして大へんつつましく大へん長々と詫びつづけたので、しまいにマドレインは、彼の無実の罪を許し、またもや羊舎の扉をあけた。「でも、エドマンド」と彼女はすっかり彼にはいらせてしまう前に、ひどくおごそかに言った。「もしもまた約束をやぶったりなさったら……ほんとに信頼できないとあたくしに思わせるようなことをなさったら……」
ビクリー博士は、まだ一度も約束をやぶったりしたことはない、と指摘しようとはしなかった。いまでは非難をすっかり受け入れ、彼女と同じように、それを真実と強く信じていたからであった。
こんなにして障害がとりのぞかれたので、二人はジュリアの注目すべき申し出を討議できるようになった。
それが気高く寛大で、二人には予期もできず、彼には望めもしなかったほどの申し出であることには、マドレインも同意した。しかし、おだやかなよろこびを見せながらも、彼女は医者のおだやかでない熱狂ぶりには決して同調しなかった。彼にはその理由がわからなかった。二人のふみ進むべき道がひらかれているのに、マドレインは悲しそうに微笑し、とてもすばらしいとか、ジュリアはとても親切だとか言うだけなのであった。追求してみたが、満足な返事は得られなかった。
やがて彼女は彼に告げた。
「ああ、エドマンド、あたくし、離婚した人と結婚しようなどとは、考えたこともありませんでしたわ」
この見解はビクリー博士をおどろかせた。なぜそんなことを気にするのだろう? 宗教上の理由のためだろうか?
いや、宗教上の問題ではない。それほどまでに狭量でありたくないというのが、マドレインの心情なのだ。
では、なぜなのか?
「世間の人たちはひどい噂を立てますからね。ぞっとするほどいやですわ」
「しかしだね、ぼくたちが幸福であるかぎり、ばかな連中の言うことなんか、もちろん気にしやしないでしょう?」
「ええ、もちろんね。でも、あまりけっこうなことではないんじゃありません?」
ビクリー博士は、彼女がひとりで「屋敷」に暮らすようになったことが、すでにワイヴァーンズ・クロスのたくさんの舌べらを活躍させるにいたっている事実は指摘しなかった。この点についての彼女の魅惑的な無知を追いはらえば、彼女は伯母とか、それに類する邪魔な者を連れこんで来そうだったからである。そのかわりに彼は、活気づけるような事実をならべて、彼女の気分をひきたてようとした。
「それにしても、もちろんぼくは、ここの医院をやめなければならないでしょう。だれも知らない他の土地に、ぼくたちは定住できます。外国へだって行けますよ。ぼくたちがいっしょにいて、きみが幸福であるかぎり、どんなことだってできますよ」
そんなにできるなら、万事はそう悪くないかもしれない、とマドレインは同意したが、やはり、彼ががっかりさせられるほど、気がのらないようすだった。
だが、彼に対する愛情が、少しでも冷めたのではないようだった。いったん彼を羊舎へもどしてからは、この女羊飼はどんな特権もあたえずにはいなかった。しかし、二人の愛撫の最高潮の瞬間に、彼女が泣き声でそれを中断するのは、気分を打ちこわすものだった。「ああ、エドマンド、あなたが結婚してさえいなければねえ。どんなにあたくしが離婚ということをいやがっているか、あなたにはわかりませんわ」
ビクリー博士にはわかっていた。マドレインは彼にわからせようと骨をおっているらしかった。
それにしても、彼女は夕食にとどまるように彼にすすめた。そして大体のところ、彼は大へんすばらしく、神聖な日をすごした。
ただ一つだけ、ささやかながら、彼が当惑したことがあった。先夜ジュリアが、もう少したって、万事の荒れ模様が多少しずまったら、マドレインを訪ねて、おだやかにこの件を話し合おうと言っていた。夕食後にビクリー博士が、そのことを何気なく口にすると、マドレインは烈しく反対した。そんなことはあさましい。当惑する。まるでがまんのならないことだ、というのであった。それがジュリアとして正々堂々とした行き方であるし、そんな方法でこの一件ぜんたいが処理されるのが望ましい、と考えていたビクリー博士は、おどろいたが、いまは議論しないほうがいいと思い、いそいで話題を変えた。しかし、彼は困惑した。ジュリアは訪ねると言った以上、きっと訪ねるだろう。そしてマドレインが、みずから言いはったように、ジュリアが訪ねたときに会うのをことわるとすれば、どんなことが持ちあがるだろう? まあ、なりゆきにまかせよう、と彼は問題をなげだした。
その夜おそく、家へ車を駆って帰りながら、彼はマドレインとの会談を正しく見なおしてみることができた。たちまち、マドレインが離婚した男と結婚するのをいやがるのは、けっしてとがめ立てるべきものではなく、魅惑的なものにほかならないことが、はっきりとわかった。あの女の花のような心には、離婚した男と結婚するという思いは、当然、じつに不快なショックだったのだ。しかし、やがてあの女は、気にもしなくなるだろう。そうならなくてはならないのだ。
ジュリアは、実際にマドレインを訪ねた。
二週間ほどたってから訪ねたのであった。この二週間中、真の恋愛はさらになめらかに進行しつづけていた。万事が決着したように見えた。マドレインは、ひときわ魅力にみち、愛情こまやかで、ビクリー博士は天国に暮らしている思いだった。マーチェスターのトーナメントが挙行され、終了した。その四日間、ビクリー博士は、ぜんぜん彼女に会わなかった。ひどく忙しくて、見に行けなかったからだった。彼女とデニー・バーンの組は準決勝まで進出し、デヴィス・カップ選手の組に敗れたが、惨敗でもなかった。つぎに会ったとき、マドレインはまるでほかのことが話せないほどだった。彼女がテニスをそんなに重視しているとは、まったく考えていなかったビクリー博士は、多面的な若い愛人のさらに別な一面に魅せられた。彼は陽気に彼女の気分にとけこみ、この上もなく楽しい午後をいっしょにすごしたものだった。
ジュリアの訪問は、この天国を不快な破片に打ちくだいた。
ジュリアは夜になるまで、訪問したことをおくびにも出さなかった。夜、二人が客間に坐っていたとき、彼女は例のクローセ編みから眼をあげて、だしぬけに言った。「エドマンド、今日の午後わたし、クランミアさんを訪ねましたのよ」
「ほう、それで?」とビクリー博士は気づかわしそうに言った。ジュリアの口調は不吉だった。
「午前中に、電話して都合をたずねようとしましたら、留守でしたので、ことづけをたのんでおきましたの。そして出かけてみると、病気でやすんでいるから、お目にかかれないって、女中が言いましたわ」とジュリアは一息入れた。
「病気?」とビクリー博士はおどろいて言った。
「病気といっても、あなたやわたしと似たり寄ったりですよ。それでも、わたしが言いはると、会ってくれましたわ」ジュリアの声の調子から、かなり長い押し問答をはしょって話していることが推察できた。「わたしが部屋へはいると、あの人は白い木綿の寝間着をきて」と彼女はおどろいたように話しつづけた。「赤いフランネルの化粧着をはおっていましたよ」彼女はまた意味ありげに一息入れた。
「ほう、それで?」その意味がわかりかねたビクリー博士は、ぼんやりした調子で言った。自分自身なら、寝間着に木綿の生地をえらびはしないだろうが、それも愛らしい無邪気なマドレインの趣味を示す一例にすぎないだろうと思った。「そんな服装をしていたというんだね?」と彼はジュリアがまだ何かを待ちうけているようすなので、そう言いそえた。
「それであなたは、なんともお考えになりませんか?」
ビクリー博士は、マドレインの清純な霊性を説明するつもりはなかったので、首をふるだけだった。
「三枚重ねの薄絹の寝間着でも、金襴《きんらん》の化粧着でも買える女が、なぜ木綿や赤いフランネルのものを身につけているのでしょう?」とジュリアはきびしくきいた。「それはね、エドマンド、あの女が自分はそういう種類の女だと、女中にまでも思わせたいからですよ」
「なんだって?」と医者はあっけにとられながらきいた。
ジュリアは眼鏡をはずし、みがいてから、またかけた。かならず重要な話をする前ぶれであった。「エドマンド、わたしは遠回しにものを言う女ではありません。わたしの言わねばならないことは、あなたに苦痛をあたえるでしょうし、その点はお気の毒に思いますが、言わねばならないことなのです。この午後クランミアさんとお会いしたことは、たいへん〈ため〉になりました。わたしはその要点にしてもお話しするつもりはありませんし、ましてばかばかしい文句などにふれるつもりはありません。ただ、わたしのはっきり見てとったことだけをお話ししましょう。エドマンド、こんなことを言わねばならないのはお気の毒ですが、あの女は偽善者ですよ」
「ジュリア!」とビクリー博士は腹立たしげに赤くなりながら叫んだ。
「偽善者ですよ」とビクリー夫人はしずかにくりかえした。「あの女には、あなたを思う気持など、かけらもありゃしません。おもしろがっているだけですよ。たとえあなたが自由の身になったにしても、あなたと結婚しようという気は毛ほどもありゃしないんですよ。あの女が、あなたを相手にしている時そっくりの猛烈さで、デニー・バーンといちゃつきつづけていることを、いったいあなたはご存じですの? あの女は一ばん悪い型の気取り屋です。二六時中、芝居をやりつづけているんです。自分の生活費をかせがなければならなかったら、たちまち舞台に出ていたでしょうよ。あきらかにヒステリーですが、しかも同時に、冷やかな計算もしている胸のうちが見てとれるのですから、ほんとにわたし、愛想がつきる思いになりましたわ。あの女の利己主義は、とほうもないものです。自分自身と自分のばかげた感情以外、なにも考えられないんですね。要するに、あの女はぜんぜん信頼できないし、偏執狂に近いほど利己主義で、世の中で最も危険な種類の嘘つき――ほかの人たちだけでなく、自分自身までもだますことができる嘘つき、と言うよりほかありません。もちろん」とジュリアは公正な心構えをみせようとするかのように、つけくわえた。「わたしはこのようなすべてを、一挙に見てとったわけではないんです。だんだんにわかってきたのですけど、はじめは信じかねるほどでした。それから試しにかかって、わたしが思っていたよりも、あの女がひどいことがわかったのです。愉快な手続きではありませんでしたけど、わたしたち二人のために必要なことだったのですわ。もちろん、クランミアさんは、わたしがどう考えたか、まるで知らないでしょうね」
ビクリー博士は小さな彫像のように坐っていた。しだいに紅潮する顔色だけが、彼の気持を現わしているにすぎなかった。さっと急に彼は立ちあがり、怒りに気も狂うばかりの勢いで、妻を見おろした。「おい」と彼はだみ声で言った。「きみはそんなけがらわしい嘘八百をならべて、なんとかぼくを――」
「おすわりなさい、エドマンド、そして子供っぽいまねはやめなさい。わたしがいつも真実を話すのは、よくご存じでしょう。嘘をつくのは、わたしにはまるで興味がないんですよ。こんどの話が、あなたにショックであることはわかっていますから、わたしもそれだけの酌量はするつもりです。ねえ、よくお聞きくださいな。ほかの場合だったら、わたしはだまっていて、あなたが自分ですっかりわかるまで放っておくでしょう。どうせわかるようになることですからね。でも、こんどの場合は、それでは公正でないと思います。というのは、わたしは一、二週間前の決心を変えたので、その理由をきく資格があなたにあると考えるからです。べつの言葉でいえば、わたしはあの女のために、あなたと離婚するつもりはないんですよ」
「ああ――きみが目ざしているのは、それなんだな?」
「そうですよ、エドマンド、わたしは本気で言っているんですよ。そんなことをすれば、あなたを無用な不幸におとすだけです。今の逆上がおさまれば、あなたにもそれがわかるでしょう。どうやらあなたは、わたしが個人的な悪感情から、こんな態度に出ているようにお考えになっているらしいですが、それは残念なことですわ。もうあなただって、ずいぶんよくわたしをご存じなんですから、わたしがそんな悪感情なんかに屈服しないぐらいのことは、おわかりになっていてもいいはずですからね。それに、わたしは自分の約束をちゃんと将来も守ってゆくつもりです。もしあなたが今後、ほんとにりっぱな若い女にめぐり合われるようなことがあって、そして――」
「えい、だまれ――」とビクリー博士は金切り声で叫んで、部屋からとび出した。
ジュリアは坐ったまま、大きな音をたてたドアをちょっと見やっていたが、やがてまたクローセ編みをとりあげた。
自分に残った機械的な感覚だけで動くように、ビクリー博士はいつものようにガレージのドアをあけ、ジョウエットをスタートさせ、厩舎《きゅうしゃ》の中庭から厄介な角をまがり、左手の門柱をやっとかわして、どうやら無傷で「屋敷」へ向かいはじめた。今日は木曜日で、マドレインの休日であったが、そんなことは彼の心に浮かびもしなかった。彼は憤りに硬直して無我夢中で車をとばした。
いったい「屋敷」でどうするつもりなのか、まるでわかっていなかった。ただマドレインに会わねばならず、ついでに、この言語道断な中傷を打ちくだかねばならないと思っていただけだった。
マドレインは家にいて、ひとりきりだった。彼が客間へ通されると、彼女は立ちあがって、ドアがしめられるとすぐに、「ジュリアね」とだけ言った。
ビクリー博士はうなずいた。
「あの人には、あたくしが気に入りませんでしたのね。あたくし、それを感じとりましたわ。そんなふうなことは、いつも感じとれるんですの。エドマンド――あの人はどんなことを言っていましたか?」
ビクリー博士は彼女を抱きよせてキスした。もう彼女が離せないような気がした。「なに、大したことでもないです」ジュリアが本当に言ったことを持ち出して、このマドレインを苦しませたりする必要はない。「ぼくはただちょっと……」
「ねえ、エドマンド、あたくしもあなたに会いたかったのですよ。ジュリアはとてもいやなことを言いましたか?」
「ちっとばかり、いさかいをしただけですよ。大したことでもないです。今日の午後は、きみにひどいことを言ったんですか?」
マドレインの眼に涙があふれてきた。彼女は顔をそらした。
「あまり同情的ではありませんでしたわ」
「きみはずっと泣いていたんですね」
「ええ」
「ああ、きみ」
「でも、ジュリアはどう言ったんです、エドマンド?」
「なに、大したことでもないですよ、ほんとに。ただ、少しばかりばかげたことを、きみと若いバーンのことで言ってましたがね」
マドレインはさっと顔をあげた。「デニーのこと? どういうことを?」
「ぼくにはよくわからないが、きみがデニーといちゃつきつづけていたとか、なんとかね」
「マーチェスターで?」
「マーチェスターとは言わなかったですな」
「エドマンド――あなたはそれを本当とお思いになって?」
「いや、もちろん、思いませんよ」
マドレインはじっと彼を見つめた。いつもより大きな眼をしていた。「じつはあたくし、それをやってましたの」
「デニーといちゃついていたんですか?」とビクリー博士は声をあげた。
「ええ、マーチェスターでね。でも、いちゃついたんじゃないわ。ただ人前で、あたくしにおぼしめしがあるようにふるまわせてやっただけなの。わざとね」
「でも、どうして?」
マドレインはひどくきまじめな顔になった。「あなたのためによ、エドマンド。もう世間では、あたくしたちの噂をしはじめているんじゃないかと思ったものですからね。それで、あたくし――まあ、どちらかといえば、デニーをはげましてやったの。みんながしきりに二人のほうへ眼をむけていましたわ。もうこれで世間は、あたくしたちの噂をしなくなるでしょうよ」
「ああ、きみはすばらしい!」これほど自己犠牲的な行為は、まだ耳にしたこともないような気がした。ジュリアのあさましい根性……
「あたくしに、腹をたてていらっしゃるの?」
「腹をたてているって! きみの可愛い足にキスしたいくらいですよ。それにしても、マドレイン……」
「え?」
「きみは――あの男が好きじゃないんでしょうね?」
「好き?」マドレインは寛大に微笑してみせた。男たちというものはひどくばかげている。「あら、あの人はまだほんの子供ですわよ」
「あの男のほうはきみが好き?」
「そういうふうにも思えます。でも、そんなところまでいかせはしませんわ」
「きみがほんとに愛しているのは、ぼくなんですね?」
「ええ、エドマンド」とマドレインはおごそかに言った。「あたくしがほんとに愛しているのは、あなたですわ」
「ほんとに、ほんとに?」
「ほんとに、ほんとに、ほんとによ」
ビクリー博士は彼女を離し、落ちつかないようすで歩きまわりはじめた。マドレインは椅子の肘掛けに腰をおろし、彼を見つめた。
「ねえ、きみがぼくを愛しているのはわかっていますが、どのくらい?」
「とても深くよ、エドマンド」
「どのくらいであるかが、わかりさえすればねえ」と彼はうめいた。
「どうして?」
「ぼくは知りたいんですよ」
彼は本当に知りたいのであった。彼女が愛してくれるなら――ほかのすべては、ジュリアをもふくめて、どんなになってもかまわない気持だった。ジュリアのあさましい嫉妬のために、かすかでもマドレインへの疑惑がおこったというのではなかったが、彼女の愛がどれほど深いか、ぜひ知らなくてはならなかったのである。実験――一度きりで、はっきりわかるような実験方法を考えなくてはならない。
一つの方法を思いついた彼は、ふるえながら部屋を横ぎり、彼女が腰をおろしているところへいって、その手をとった。「マドレイン」と彼はしゃがれた声で言った。「かりに――かりにぼくが、いまこのまま来て――いっしょに暮らしてもらいたいと頼んだら、きみはそうしてくれますか?」
マドレインは首をうしろへそらし、まともに彼の眼を見入った。「ええ」と彼女はささやいた。
「では、きみはほんとにぼくを愛しているんですね!」
「ええ」
それは彼の至上の瞬間だった。
二人はたがいにしっかりとすがりつきながら神聖な抱擁を享受しあった。
その夜、ビクリー博士は、ジュリアを死なせなければならないと決めた。
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第六章
十一月のはじめの、ある日の午後おそく、ワイヴァーンズ・クロスから数マイル離れたところで、ビクリー博士はカーニアン・トアに出会った。ビーグル犬でウサギ狩りに出かけていた彼女は、彼の車をとめて、乗せて帰ってもらいたいと言った。
この界隈の噂話なら、いつでもカーニアンから聞けるものと当てにしていてまちがいなかった。彼が彼女に膝掛けをかけてやるかやらないかに、もう彼女ははじめた。
「最近の噂、おききになって、ビクリー先生?」
「きいてないでしょうね。どんなこと?」
「アイヴィのことですけど?」
「いや」ビクリー博士はアイヴィのことなど、ほとんど忘れはてていた。数ヵ月間も会っていなかった。なにか不快な出来事があったが……ああ、そうだ。
カーニアンはこっそり相手を盗み見て、まるで興味がなさそうなのに気づき、がっかりした。ひところ彼がアイヴィにとてもやさしくしていたのは、だれもかれもが知っていたことだった。
「アイヴィは婚約したんですよ」このニュースも歯がゆいほど手ごたえがないようだった。
「そうですかね?」ビクリー博士はあたたかい調子で言った。「よかったですな。だれと?」
「チャトフォードさんと」
「それはすばらしい。りっぱな男ですよ、チャトフォードは。なかなか手堅くてね」
カーニアンは鼻をこすった。「あたしなら、あんな人、夫にする気にはなれないでしょうね」と彼女は少し騒々しく笑った。「でも、タデ食う虫も好き好きって言うじゃありません? たぶん、アイヴィにはぴったりでしょうよ」
「たぶんね」とビクリー博士はぼんやりつぶやくように言った。これで不快なアイヴィの件も、すこぶるうまく片づくわけだ、と彼は考えていたのだった。ああ、あのころのおれは、なんというろくでなしであったのだろう。あさましい……
「アイヴィはとてもねばりつくんでしょう?」とカーニアンは見こみがあると考えたらしいようすで探りを入れてきた。
「ねばりつく?」
「びしょびしょに泣きぬれて?」
「ああ、すこしはそんなところがあるでしょうね」
カーニアンはため息をついた。これでは骨が折れるばかりだ。もっとずばりといこう。
「でも、前に先生は、アイヴィが好きだったんでしょう?」
「そう、かなりね。まったく邪気がない。そういうふうに言える人は、この界隈には見あたりませんよ」
「このへんの人たちは、ひどい金棒引きばかりですからね」とミス・トアはあっさり同調した。「あんな人たちの噂話をきくと、あたしは胸がわるくなってきますのよ。たとえば、ピーヴィさんなんかときたら」
「ピーヴィさん?」ビクリー博士はミス・ピーヴィを金棒引き連の仲間に入れていなかった。だいたい彼女はぼんやりしすぎているようだった。ミス・ワプスワージーなら、相当な毒気がありそうだが、ミス・ピーヴィが、まさか。
「そうなの。それで今、あの人がひどくやっつけているのは、だれだとお思いになる?」
「見当もつきませんな」
「それが、人もあろうに、マドレイン・クランミアなのよ」
ミス・トアの目的がビクリー博士の関心をそそることにあったのなら、それは成功していた。はっきり見てとれるほど、彼はからだをこわばらせた。「ほんとに?」
「そうにきまってますわよ」とミス・トアは相手が急にからだをこわばらせたのに気づいて、うれしがりながらつづけた。「すごくひどいことを言っているんですよ。どうしてなのか、わかりませんけどね。あたしはマドレインがとても好きなんですの。あなたもそうじゃなくって、ビクリー先生?」と彼女は無邪気らしい調子で言った。
「クランミアさんは大へん魅惑的な若いご婦人だと思いますね。世間の連中があの人を噂話の種にするなんて、じつになげかわしいことですね」
ちょっと沈黙がきた。カーニアンはうれしくてたまらなかったが、なかなかの役者だったので、効果を出すために、演技過剰になったりしなかった。ビクリー博士の口調は、これ以上この問題の追求を望まないことを明らかに示していたが、しかも、このままにしておくとは、カーニアンにはほとんど考えられなかった。
「どんなことを」とビクリー博士はひどくこわばった調子できいた。「ピーヴィさんはクランミアさんについて言っているんですか?」
「それが、とてもとほうもない話なんですよ」とカーニアンは、もう言ってしまってもいいだろうと考えて答えた。彼女は帰り道で、ちっとばかり医者といちゃついてみたかった。しかし、注意ぶかく自分のひざを彼のひざへすりよせたり、もっとぴったり膝掛けを巻きつけてくれと頼んだりして、少しばかりそそのかしてみていたが、どうやら彼のほうが、思うツボへはまってくれそうになかったので、こうなれば、もちろん、これが次善の楽しみにちがいないときめたのであった。
「ピーヴィさんはこんなことを言っているんですよ。マドレインは結婚している男を愛し、その男と妻とのあいだにひどいごたごたをまき起こして、そのために急にこの土地から去っていったんですって。そして離婚を望んでいるんだけど、その男の妻が承知しようとしないし、これがすっかり世間に知れたら、ものすごいスキャンダルになるだろうとか――そんなとほうもないことを、うんざりするほど言っているんですよ。あたしはそんなこと、一言も信じませんけど、あなたは、ビクリー先生?」
「もちろん信じませんよ。じつに――ばかげきった話です」
「それでも、このへん一帯にひろがっていますのよ」とカーニアンは楽しくてたまらぬように言った。「みんながその噂をしてますわ。あたし、とてもいやなことだと思うんですけど、先生も?」
「それで――クランミアさんが愛していると言われている既婚の男は、いったいだれなのです?」とビクリー博士は、きわめてさりげなくきいた。
「それが、だれにもわからないらしいんですの」とカーニアンは白ばくれて答えた。「どうもあたしには、そんな人はぜんぜんいないと思えるんですけど、あなたにはそう思えません、ビクリー先生?」
「ぼくはいまわしいことだと思いますね。クランミアさんが帰ってきたら、こんな嘘八百を知らせてやらなくてはならないでしょうな」ビクリー博士の両方の頬骨の上に、小さな薄紅い斑点が見えていたが、その声は落ちついていた。
「ええ、そうしていただきたいわ」とカーニアンは前途に望みをかける調子ではげました。「マドレインがほんとに好きなのは、デニー・バーンだってことを、みんなが知っているんですもの」さらに大きな望みをかけるように、彼女はそうつけくわえた。
しかし、こんどはビクリー博士も引っぱりこまれなかった。
彼はカーニアンを牧師館の前におろし、まっすぐにミス・ピーヴィの家へ車を駆っていった。ミス・ピーヴィは家にいて、わななきながら彼を迎え入れた。以前から彼女はビクリー博士が好きだったのである。
彼はささやかな居間へ進み入り、キッと彼女に向かった。
「ピーヴィさん、あなたはクランミアさんについて中傷的な風説をさかんに流しているそうですね。わたしはクランミアさんに、弁護士を依頼するように忠告するつもりです。なにか異議がありますか?」
「ビクリー先生!」ミス・ピーヴィにどんな異議があったにしても、すっかり口から吹きとばされてしまったようで、彼女は口を動かしたが、言葉は出なかった。
「じゃ、あなたはそれを否認しないんですね?」
「ほんとに、ビクリー先生……そんなこと……わたくしには、ちっともわかりません。だれもそんなことを言ったりしませんし……もちろん、わたくしには、まるでおぼえがございませんわ。よくもまあ――あなたは」腹立ちまぎれに、だんだん彼女は口がきけるようになった。
「じゃ、あなたは否認するわけですね?」
「もちろんですとも。わたくしは――一度も噂話を流したりしたことなんかありません。そうきめているのです。流さないってことにね。ちょうどビクリー夫人のようにです。これはまったく……」
「では、クランミアさんについて流されているという風説を、あなたはどう説明しますか?」
「どうしてそれを、わたくしが説明せねばならないのか、わけがわかりませんわ」とミス・ピーヴィは元気よく言い返した。「いったい、どんな風説ですか?」
「クランミアさんと既婚の男が、ばかげたことをしたとかいうものですよ。そんな風説を流していたことを、やはりあなたは否認しますか?」
「よくもそんな言い方が、わたくしにできますわね、ビクリー先生。もちろん、わたくしは否認いたします」
「では、そんな風説を聞いたことも、否認するわけですね?」
「そういうことはいたしません。たとえこんなに侮辱されるにしても、わたくしは真実を語りつづけたいと思います。カーニアン・トアがそれをわたくしに話したのです。わたくしは耳をかすのを拒みました」
「ああ、それがあなたの弁明ですね?」
「ビクリー先生」とミス・ピーヴィは異常な威厳をみせて言った。「わたくしはあなたがお酒をめしあがっているものと断定します」
ビクリー博士はミス・ピーヴィの断定を無視した。
「なぜあなたはクランミアさんを中傷したのですか?」
「しませんよ。そんな中傷なんてこと。あの人をね」
「つまり、あなたはクランミアさんが好きだというんですか?」
「い、いいえ」とミス・ピーヴィはきしるような声を出したが、それも勇気にみちあふれたせいだった。「いいえ、わたくしはあの人を好きません。一度も好きになったことはありません。わたくし――あの人は誠実が欠けていると思いますの。それで――あの人と既婚の男との噂が流れるのをお望みにならないなら、その既婚の男のほうをお責めになり――これからは噂の種を絶つようにすることを、その男に話してやるほうがいいでしょうね、ビクリー先生。そ、そうなさるほうがいいですよ」そう言ってしまうと、彼女は部屋から逃げだし、二階の寝室に入りこみ、いそいでドアに鍵をかけた。
ビクリー博士は、鍵をかけた寝室まで彼女を追ってゆくつもりはなかったので、家から歩み出て、車へもどっていった。彼は自分のやり方に満悦をおぼえていた。それどころか、誇りに燃えたっていた。おれはマドレインのために一撃を見舞ってやったのだ。これであの悪婆も毒舌をふるうのをやめるだろうし、ほかの悪婆どももやめるだろう。たしかに、一生わすれられないほど、あの悪婆をおどかしてやったのだ。
二階で、ミス・ピーヴィはサラサのカーテンのかげからのぞいていた。ひどくせわしく息づきながら彼女は、医者が車に乗りこんで走り去るのを見つめていた。
「ああ……! ああ、わたくし……いままで、まだ一度も、こんな……ああ、おそろしい男! 可哀そうなビクリー夫人……」ミス・ピーヴィは一語一語に力こぶを入れるように言って、わっと泣きだした。
マドレインは海外にいた。彼女が出かけたのは、十月の半ばだった。じつのところ、デニーが彼の最後の学年の第一学期にオックスフォードへ帰ってから間もないころで、ちょうどビクリー博士が彼女を独占して大いに楽しんでいる最中のことであった。マドレインがデニーと恋愛をしている、と卑俗な世間に思わせるほどにまで、多くの時間をデニーと過ごす必要を、ビクリー博士はちゃんと認めていたし、そんな彼女の自己犠牲を讃嘆しながらも、彼女を独占できるのは楽しいことだったからである。九月が過ぎてからは、特に楽しかったのである。
九月はけっして楽な月ではなかった。一つには、下水設備の問題が、しょっちゅう頭をもたげつづけ、その神聖化された様相もすっかり失われていたからであった。マドレインはそのことについて何もしなかったので、ビクリー博士は彼女の家の下水のことを、自分の個人的な問題みたいに気にしはじめていた。その下水設備はひどいもので、外聞がわるいし、居住者ぜんたいにとっても実に危険であった。マドレインとしては、すぐになんとかしなければならないところだった。だが、彼女は意外なけちくささをみせ、時には弁明し、しばしば腹をたてたりしながら、逃げ口上ばかりならべつづけていた。
下水問題に対するマドレインの態度は、この時分の彼女を表象していた。彼女は――気むずかしいというよりも、明らかにこの過程ぜんたいの心労に悩んでいたのだった。だれにでもわかるであろうが、不運にも他の女と結婚している男と白熱の世紀の恋愛をつづけながら、心労を感じないでいるなどは不可能である。だからマドレインは、一日おきに、幾万もの理由のためにビクリー博士と自分は永久に別れてしまわねばならないと考えたり、こんなに途方もなく愛しあっているという一つの理由のために二人は絶対に別れられないと考えたりしながら、九月をすごしたわけだった。「屋敷」の書斎(こんな重要な事がらのためには、客間よりも適合しているというので、しだいに書斎のほうが使われるようになっていた)では、情熱的な抱擁や、はげしい異議や涙の随時的な伴奏入りで、長時間にわたる熱心な談合がおこなわれた。しかし、表面的に見たところでは、事態はどうにも変らないままになっているようだった。
ビクリー博士は、マドレインに、ジュリアはそれだけの価値のない女だから、彼女のために悩んだりするのは時間と労力の浪費だと説きつづけた。ジュリアが離婚について考えを変えていたことは、言わないほうがいいと彼は判断した。二人の邪魔にならないように、ジュリアを片づける決心をかためているから、もう心を悩ますにおよばないということは、マドレインに告げなかった。この種の慰めは、なかなかうまくあたえられるものでないからである。それで彼は、すべてを知っている人間らしく、結局、万事が二人のために好都合に運ぶのだ、と確言するだけで満足しなければならなかった。すべてを知らないマドレインは、ある瞬間には、彼に永久の別れを告げるキスをし、つぎの瞬間には、彼とパリへ出奔する計画を立てたりしていた。
しまいに、彼女は「万事をよく考え直してみるために」、ひとりでモンテ・カルロへ出奔した。今はシーズンでないから、モンテ・カルロは清純な心の若い女がひとりで暮らしても、まったく害毒を受けないだろう、と彼女は熱心に指摘したのであった。
彼女がモンテ・カルロに出かけているあいだ、ビクリー博士は毎日熱烈な手紙を彼女に書きおくり、彼女からは一週に一度ぐらい返事が来た――たとえば、つぎのような簡素な、正直な短い手紙であった。
「愛するエドマンド――今朝お手紙、こころうれしく拝受しました。早く読もうとして、コーヒーもパンも待てないくらいでした。ねえエドマンド、さきにあたくしに知らせないで、ジュリアと離婚しないという約束を、おぼえていてください。エドマンド、あたくしは離婚した人と結婚する羽目にならないように望んでいるのです。あたくし、あなたを愛していますわ。あなたを、愛しています。あなたを愛しています。あなたを愛しています。あなたを愛していますわ。
あなたの マドレイン
二伸――あたくし、あなたを愛してますわよ、エドマンド」
このような手紙に、ビクリー博士の期待したような身も世もない情熱がみなぎっていなかったとすれば、それはマドレインがそれほど純潔な無邪気な女であったからにちがいない。
とにかく、彼女は離婚した男と結婚する羽目になることを望んでいないのである。
ビクリー博士は、まだその方法はきめていなかったが、その決心はすでにかためていた。
およそ思いつきは、はじめはどんなに不合理に見えても、長い間いじりまわしているうちには、実際的な様相をおびてくるものである。醜悪さにしても、なじみ親しむことによって、美に転化されないまでも、とにかく美醜の比較が無意味になる程度にまでは高揚される。ジェイコブ・エプスタイン氏の制作した記念碑なども、古代カルデアの大昔以来の醜怪きわまる彫刻作品ではなくなり、スズメたちの便利な遊び場になっている。殺人もまるで殺人ではなくなり、慈悲ぶかい救済になる。
もちろん、ビクリー博士は、自分がやろうとしていることを「殺人」とはぜんぜん考えなかった。その言葉を意識的に避けていたわけではない。断じてそれを受けいれることができなかったのだ。たしかに、ほかの男たちはその妻たちを「殺した」が、彼らの場合とはまったく事情がちがう。おれの場合は比類のないものなのだ。ビクリー博士はそう確信していた。ジュリアにはがまんがならない。ジュリアとの生活をもうこれ以上つづけるのは不可能だ。同意による離婚も不可能だ。その機会を得ながら、ジュリアが放棄したからである。そしてジュリアは二度と考えを変える女ではない。いずれにしても、おれの職業的観点からすれば、離婚は不幸な結果をもたらすだろう。マドレインのいない未来は、まるで考えられない。なんとしても、ただ一つの道をとるしかない。きわめて簡単である。
その道を「殺人」と世間が呼ぶであろうことは、ビクリー博士にもよくわかっていた。だが、おろかしい世間が、おれ自身の気持の特異な微妙さを理解したり、おれにとってのマドレインの真の意味を知ったりすることが、どうしてできようか? マドレインが一瞬の苦しみを受けるよりも、くだらないジュリアのような女が千人犠牲にされるほうがましなのだ。マドレインにくらべれば、ジュリアなどはまったくものの数ではない。だが、どうして世間がそれを理解できようか? ときおり、ふと客観的な気分になっている瞬間、ビクリー博士は世間の側に立っている自分に気づくこともあった。「おや、これは殺人にちがいないぞ」しかし、そう思ったあとから、かならず奇妙な、心をそそりたてるようなうぬぼれが、あらわれてくるのであった。「よろしい、では、うまく逃げ切ってやろうとしている未来の殺人犯人が、ここに一人いるわけさ」そしてつぎの瞬間には、これはもちろん殺人などではない、と彼は思うのであった。
ふだんの彼の態度は、しごく簡単であった。彼は医者として、もう役にたたなくなった愛玩用の動物たちを、たくさん処理して片づけていた。こんどはジュリアを片づける時がきた。それだけのことにすぎなかった。
一つの点についてだけ、彼ははっきり心をきめていた。完全な計画、ぜったいに探知されない方法を見つけるまでは、なにもしないということだった。いそいで事をすれば、致命的な結果をまねくだろう。
例の空想劇は、新しい意味をもつようになった。六月以来、なにか好都合な病気でうまくジュリアを片づける場面を、心のうちで観察しつづけていたので、ジュリアの死というものが、すでに彼にはなじみ深い想念になっていた。その想念から、死因をつくる役割を演じる彼自身へは、ほんのささやかな一歩であった。ジュリアの臨終の場面は、後景へしりぞいて、空想劇はこれまでのように結果ばかりを上演せず、こんどは死因を上演しはじめた。なにかの種類の毒薬? 偶然の事故と認められそうな死に方をさせる? なにか巧妙な方法でやれるなら、溺《おぼ》れさせる? 冬の間じゅう、ビクリー博士はそんな空想劇を上演して検討しながら、睡眠時間をだんだんちぢめていった。
これまでのところ、彼はべつに異常なことをしているとは考えなかった。世の結婚生活をながめてきた彼の考え方によれば、大部分の夫たちが、いやな妻を殺す心たのしい計画をねりながら、生涯の少なからぬ時間をついやしているのは、疑う余地のないことだった――ただ勇気さえあれば、彼らはその計画を実行するつもりなのである。彼の優越性が発揮されるのは、自分の夢をみずから実現するところにあるのであった。
こんな優越性が自分に実際にあることを、いまでは彼はもちろんのことと考えていた。マドレインがおれを愛している事実が、それを証明している。マドレインの愛は凡人の群れのなかからおれを引きあげ、もちろん彼女よりははるかに低いが、一般の衆愚《しゅうぐ》よりははるかに高い台座にすえてくれたのだ。マドレインの愛している男は、なんでもできる超人であらねばならない。そして現に彼女が、このようにビクリー博士を愛しているのであってみれば、ビクリー博士は超人であるにちがいない――今まで考えもしなかったことだ。ついに今こそ、おれは自分の真性に眼をひらかれたのだ。
そして、もちろん、超人にとっては、殺人などはありがちなことにすぎない。
彼の空想劇は、いまではだんだん白昼でも上演されるようになった。彼のような人家がまばらに散らばっている田舎の医者には、国民保険患者はすくなく、私費の患者が多い。しばしばビクリー博士は、病家から病家へ幾マイルも車を駆らねばならなかった。ジョウエットのハンドルをとり、ほかの車にほとんど出会わない細道や人通りもない小道をゆっくり走りながら、目下の計画の細部を一つ一つ思い描くのは、彼にとって楽しいことだった。それに心をうばわれて、運転のほうはほんの機械的になっているので、通りすぎる知合いの者たちがあいさつしても、気づかないことも多かった。夜も昼も、くりかえしまきかえし、彼は空想劇を上演し、そのたびごとに、反復によって燃えさかる想像力がいつも提供する小さな修正を、すこしずつ計画にほどこしてゆくのであった。空想劇の筋を一歩一歩、一場面ずつ、幾週間、幾ヵ月、幾年間にもわたって発展させ、忍耐づよく追及してゆくにつれ、ついに何か大きな欠陥が見つかると、ありがたやとばかりに彼はそれを放棄し、べつの計画を探求にかかるのだった。こんなにして、ジュリア・ビクリーは、すくなくとも十二種の異った方法で殺される場面を上演されたにちがいないが、十二月のはじめになって、やっと彼女の夫は、自分の探しもとめていた方法を見つけたのであった。
それはすばらしい方法だった。あきらかに危険はなかったので、テストの必要もないくらいだった。どんなことがあっても、探知される気づかいはなかった。失敗の可能性は、たしかにあったが、ほかの特長を考えると、やってみるだけの価値は十分あった。これほどすぐれた方法は、ほかに見つかりそうになかった。
奇妙にも、この方法を彼に思いつかせたのは、ジュリア自身であった。例の頭痛をおこしたジュリアは、フェナセチンをくれと言った。つねになくひどい頭痛だったので、彼はフェナセチンの代わりに、モルヒネの皮下注射をしてやり、そうした理由を彼女に話した。前と同じように、モルヒネの効力で頭痛はすぐにおさまったので、彼女はフェナセチンよりも、モルヒネのほうがはるかによくきくようだと言った。それだけのことであったが、それがビクリー博士に、そのまま活用できる方法を思いつかせることになったのである。
それから四日後の夜、彼はこの方法を実行にうつした。奇妙にも、夕食にまたグレープ・フルーツが出ていた。ビクリー博士はこの暗合を幸運の前兆と思い、ほくそ笑《え》みながら、ジュリアの分に例の散薬をふりかけた。この夜のジュリアの頭痛は前夜よりもひどかった。そしてモルヒネをくれと言ったのは、彼女自身であった。これもよい前兆だ、とビクリー博士は思いめぐらした。
つぎの夜も、ジュリアはまた頭痛をおこした。そのつぎの夜も、そのつぎの夜も。四日目の夜、ビクリー博士はモルヒネの量をすこしふやすのがよかろうと考え、ジュリアにそう話して、抵抗力がだんだん大きくなってきているからだと説明した。苦しさに蒼ざめたジュリアは、一も二もなく同意した。
こんなにジュリアが苦しまねばならぬのは、ビクリー博士の心を痛めたが、いたしかたがない、と彼は見きわめた。どうせ、そう長いことでもないのだ。いまでは二人は、見かけたところ、きわめて仲よく暮らしていた。いままでどおりに仲よく、とも言えただろう。マドレインの名は、ちっとも持ち出されなかった。多くの恋愛ざたの場合に、性を超越していたジュリアは、こんどの場合にもそうだった。そして、どんな好奇心をおしころさねばならなかったか、わからなかったけれど、目下の恋愛事件の進展ぶりについても、なにひとつたずねなかった。どう見ても、彼女はこんどの件をすっかり心から消し去っているようだった。マドレインが海外へ出かけてしまう前にしても、夫が「屋敷」へ行くのをとめようともしなかった。二人が文通しているのを知っていたにちがいないが、そんな気ぶりも見せなかった。ほんとうにジュリアは、じつにまれな女であった。こんな女が死なねばならないのは、じつに残念なことだ、と夫はほんとうになげかわしい気持になった。
十二月から一月いっぱいにかけて、ジュリアは断続的に頭痛に苦しみつづけた。それを気づかい、思いやりをみせたビクリー博士は、それをモルヒネでしずまらせつづけた。二月のはじめに、なにか効果があるかどうかを試してみようと、ジュリアは転地した。ビクリー博士は効果があるとは思っていないらしかった。どちらの考えも当たっていた。出かけて休養している二週間は、ジュリアはずっと気分がよく、そのあいだに一度も頭痛に悩まされなかったが、帰ってくると、すぐにまた悩まされはじめたからである。
「一ヵ月ぐらいは出かけていなくちゃね」とビクリー博士は思いやり深げに言った。
「とてもできることじゃありませんよ」とジュリアは言った。「この家がどうなります?」これにはもちろん、主治医と夫の二役を演じるビクリー博士にも答えようがなかった。「それに」と彼女はつけくわえた。「わたしが衰弱したりする理由はまるでありませんものね」理由がなければ、衰弱することは論じるにたりたい、というふうに聞こえた。
ビクリー博士は、それに同意したがっているように見えた。「つまるところだね、単に衰弱しかかっているというだけの問題ではないんじゃないかと思うんだよ。どうもぼくには、なにか器質性のもののような気がするんだがね」
「え、なんですって?」
「それはぼくにはわからない。でも、こんな頭痛がつづくようなら、専門医のところへきみをつれていって、みてもらわなくちゃなるまいね」
「そんなことは決してしないでください、エドマンド」とジュリアは憤ろしげに言った。
しかし、やはり頭痛はつづいたので、ビクリー博士の言い分が通った。タマートン・フォリオット卿にみずから診察をしてもらうように連絡して、二人はロンドンへ出かけた。
タマートン卿は、探りを入れるような質問を絶えずつづけながら、ジュリアの歯、眼、耳、そのほか彼女の全身の大部分の器官を徹底的にしらべた。この専門医を一目みるなり、ひどく毛ぎらいしたジュリアは、あとで夫に、あの医者はあんなにめんめんと肝臓のことを話していたところからすると、できるなら、わたしの肝臓をえぐり出し、もとへもどす前に、あの眼鏡ごしに、とっくりそれを見ておきたかったにちがいない、と話したものだった。しかし、ジュリアはなんの理由もなく、やたらに手荒く扱われたわけではなかった。というのは、タマートン卿はジュリアのどこが悪いかを、確信をもって正確に指摘できたからである――ジュリアはあまりに多く食べすぎている、それも不適当な食物を、である。古い歯の根が一本のこっているから、すぐに抜かなくてはいけない。ついでに扁桃腺も切除したがよかろう。これが頭痛の主要な原因だろうから――片方の扁桃腺は敗血症の明確な徴候、決定的な徴候を示している――ちょっと君も見てみたまえよ、ビクリー。そう、これは早速に切除すべきだ。
そしてタマートン卿は彼女の規定食表を簡単に書いて、金のペンシルで自分の歯をいくどもたたき、片眼鏡をぶらぶらさせた(これは、だれも信じなかっただろうが、左の眼が少し近眼なので、使っていたのだった)。それから、ジュリアの肝臓のことについて、ちょっとたずねた。あたかも、いまは少し落ち目になり、そう上品な生活もしていないけれど、高くとまってまるで知らぬ顔もできかねる古い友人の消息でも、気さくにたずねるような調子だった。そして最後に、これだけの労力をついやしても診察料をとらないのにしては、じつにあたたかく握手した。さらにまた、今後は絶対に頭痛は起こらない、と彼女に保証した。それが確信にみちた言い方だったので、一瞬ジュリアも実際にそれを信じたほどだった。このハーリー街とワイヴァーンズ・クロスとの大きな差異を、タマートン・フォリオット卿が示していたのは、このような患者の願望にぴったり一致する確信にほかならなかったのである。
「でも、ほんとうに、エドマンド」ハーリー街をベーカー街駅のほうへ歩きながら、ジュリアが言った。「どういうわけですの、扁桃腺って?」
「扁桃腺?」とビクリー博士はぼんやりオウム返しに言った。ちょっと自分の考えに心をうばわれていたのだった。彼のフォリオットにたいする評価は下落していた。もちろん、フォリオットが頭痛の真因を診断できるなどと思っていたわけではない。それは千里眼の仕事であって、医者のやる仕事ではあるまい。それにしても、あれだけ例の投薬をやっているのに……
「いったい扁桃腺が頭痛とどんな関係があるんですの?」
「なに、タマートン卿は扁桃腺にとても興味をもっているんでね」ビクリー博士の口調には、タマートン卿の道楽をとがめるような気配はなかった。専門医がそれぞれの特異性をもっているのは、よく知られていることである。「先生は扁桃腺の切除をすすめるのがおきまりなんだよ。もしぼくたちが、タマートン卿にせまるほどの大先生、ハメルダウン・ビーコンのところへ出かけていたら、きっと骨の空洞のことを説きたて、パラフィン油のことを話しただろうよ」
「はじめから、専門医がどう言うかわかっていたのなら、どうしてわざわざわたしをつれていったのです?」とジュリアは言った。
「それは、別の意見も大へん参考になる場合があるからだよ」とビクリー博士はとりすまして答えた。
二人はマダム・タッソー蝋人形館へ出かけた。
これまでビクリー博士はその「恐怖の部屋」に入ってみたことがなかった。彼は深い興味をおぼえた。
三月の中ごろに、ビクリー博士は自分の計画の第二部を実行にうつした。失敗の可能性がひそんでいるのは、この部分であった。万事がジュリアにゆだねられなければならず、ちゃんと計画されている通りの筋道をジュリアがたどらないならば、これまでの頭痛もまるでむだな苦労になってしまうのであった。
というのも、タマートン卿の診断が、まったくまちがっているようであったからである。彼女の頭痛は絶対に起こらないどころか、前よりもはげしくなっていた。前には断続的であったのが、今ではほとんど連続的になっていた。ジュリアは蒼ざめ、ひどくやつれ、健康なたくましさなどは、もうすっかり見られなくなっていた。ワイヴァーンズ・クロスのすべての人びとが、彼女の変り方に気づいていた。
二月のおわりに、夫の熱心なすすめによって、また一週間だけ転地し、海の空気にふれてみたけれど、なんの効果もなかった。その間じゅう、ひどく苦しみつづけていた彼女は、ほとんど宿から出ることもできなかった。ビクリー博士も、なんとかやりくりして、その一週間、みずから妻の看護にあたっていたが、しきりに、残念だと声をあげた。
ジュリアの病状が悪化したのは、努力が欠けているせいではなかった。歯の根もちゃんと抜いたし、タマートン卿が書いてくれた規定食表も、きびしく守った。ただ扁桃腺の切除だけは、彼女は拒否した。ビクリー博士も、この点は強く彼女に同調した。扁桃腺は痛い手術であり、ジュリアが無用な苦痛をうける必要は少しもなかったからだった。
この期間中は、モルヒネが彼女の心だのみだった。彼女はかなしげな微笑をうかべながら、これだけが自分の気が狂うのをくいとめてくれているのだと言った。ビクリー博士は、彼女の苦しみを救ってやろうと懸命になり、彼女がもとめるたびに薬を供与し、それも今では回数がずんとふえてきていた。効力を確実にするために、彼は注射する量も元の倍にし、やがて三倍にし、さらにふやさねばならなかった。三月の中ごろには、ジュリアは一日たっぷり五グレインのモルヒネの注射をうけるようになっていた。
ビクリー博士が機は熟したと断定したのは、この時だったのである。
ある夜、食後に、彼女がいつもの注射をもとめたとき、彼はちょっとためらってみせた。
「でも、ねえ、お茶のすぐあとで、一グレイン注射したんだからね」
「わかっていますが、もう前よりもひどく痛んでいるんですの」
ビクリー博士はあごをなで、とてもきまじめな顔つきになった。「きみにもわかっているだろうが、こんな調子でつづけるわけにいかないよ。まったくいけないよ、ジュリア」
「なにがいけないんです?」
「こんなに多量のモルヒネ」
ジュリアは鉛色の眼を彼にむけた。「どういう意味ですの、エドマンド?」彼女は片手で額をおさえ、どんよりした眼つきで彼を見あげつづけていた。彼の言葉の意味など、ほんとうは大して問題でないというふうだった。
ビクリー博士は顔をそむけずにはいられなかった。「つまり――きみのために非常に悪いということだよ」
「これより悪くなりようがありませんわ」
「いや、こんなにモルヒネにばかり頼っていると、これがなくてはやっていけなくなる、つまり……」
「どういう意味なのか、はっきり言ってくださいな、エドマンド」とジュリアはものうそうに言った。
「では、あけすけに言うなら、一つの習慣になるってことさ」
「ばかおっしゃい! わたしが麻薬常用者になりそうだなんて……まったくですよ、エドマンド」
「いや、それほどひどいことにもならないんだよ。そりゃね、きみがほんとに必要な時だけ、もとめているのはわかっている。それにしてもだね、ジュリア、これはきみのために悪い。非常に悪いんだよ。きみはこれを用いないでやってゆくようにしなくちゃいけない」
「ばかばかしいことは言わないでくださいよ。あなたに頭痛がなおせないのならね、エドマンド、せめて痛みぐらいやわらげてくださるのが当然でしょう。すぐに手術室に行って、注射してくださいな」
「ジュリア、がまんするようにしなくちゃいけないよ」脈搏は高鳴っていたが、ビクリー博士はジュリアを気づかうような顔つきしか見せなかった。「ほんとだよ。きみの腕をみてごらん。もう一面に注射のあとでおおわれている。これをつづけちゃいけないよ。きみの主治医として、ぼくは主張しなければならない。これ以上の注射を望むなら、きみは――医者を変えなくてはなるまいね。ぼくはもうこれ以上の注射はできない、きみ自身のためにね、ジュリア」
すでにドアのところまで行っていたビクリー夫人は、苦痛にかられて高飛車な声で答えたが、意外に夫が強硬なのに気づいた。それから議論して、条理をつくしても、ジュリアとしてできるかぎり頼んでも、彼は動かされようとしなかった。もうこれ以上のモルヒネを注射する気はない。もっと望むのなら、医者を変えるしかないだろうが、どんな医者も、これまでの注射量を知れば、これ以上のモルヒネを与える責任はとらないだろう。こんなに言いつづけていたビクリー博士が、夜間往診に出かけてしまったので、やっと議論が打ち切られたのであった。
十一時すぎまで、彼は帰らなかった。帰ると、まっすぐに手術室へ行った。巨大な不安のために、彼は目ざすものを見るにたえないくらいであった。ジュリアはやっただろうか――やらなかっただろうか? これが、いつわりの夜間往診に出かけ、当てもなく車を走らせていた二時間中、たえず彼が心のうちでつぶやきつづけていた疑問であった。
彼女がやらなかったとしても、それは彼のせいではなかった。というのは、もう一ヵ月以上にわたって、彼はこの手術室でジュリアに注射をしてきていた。だから、用意万端は彼女によくわかっているはずだった――どの壜にモルヒネが入っているかも知っているし、注射器をしまっておく引出しも知っているし、注射の仕方もおれ自身と同じくらいによく知っているはずだ。そうだ、ジュリアがやらなかったとすれば、たんに意志が強いなんてものではなく、それこそ超人的なものなのだ。
彼は注射器をしまっておく引出しを、まるで肉体的に苦痛をおぼえるかのように、そろそろとあけて、なかをのぞいてみた。つぎの瞬間、ほっと安堵《あんど》のため息をもらして、身をのばした。彼が注射器の上に横たえておいた脱脂綿の一片が、きれいに消え去っていたのだった。
ジュリアは、ちゃんと計画された通りの筋道をたどっていたのである。
四月のはじめに、マドレインが「屋敷」へ帰って来た。モンテ・カルロからフロレンスへ行った彼女は、フロレンスからローマへ、ローマからヨーロッパの半分をまわってきていた。こうした放浪の旅に、ビクリー博士は自分の責任を感じ、うしろめたく思っていたので、こんどの旅行はちっとも楽しくなかったとマドレインから聞かされると、自分が完全な悪党のような気がした。
二人はまた会いはじめたが、以前のような熱情をすっかりとりもどすことはできなかった。マドレインは神経をとがらせた。旅行も彼女の神経をあまりやわらげてはいないようだった。彼女はまたジュリアの意向について、いろんな厄介な質問をした。離婚はまだ宙ぶらりんのままなのか? あたくしに知らせ、同意を得た上でなければ、なにもしてはいけない。エドマンドは何も隠しだてしていないと誓えるか? どうしてジュリアはふたたび訪ねてきて、もう一度すっかり相談しないのか? マドレインはビクリー夫妻の離婚を望むと言ったり、望まないと言ったりした。こんど長く留守にしていたのをきっかけに、二人はきれいに別れてしまわなくてはいけないと言ったり、長く留守にしていたので、かえって前よりも深く結びつけられるようになったと言ったりした。マドレインの心は、たえず反対方向へゆれ動きつづけた。ビクリー博士は、すべてが彼女にはどれほど困難な事態であるかをよく理解し、彼女の苦悩を彼女におとらず苦悩した。彼はまた「屋敷」であまりひんぱんにデニー・バーンに出くわすように思い、いい気持はしなかったが、それもよく理解した。マドレインが理解すべきだと言ったからであった。
四月の第二週に、ビクリー博士は計画の最後の細目を仕上げにかかった。彼は一言も言わずに、急速に減少してゆく薬局のモルヒネを補給しつづけてきていた。あれ以来、ジュリアの注射のことは、ぜんぜん話に持ち出されていなかった。ジュリアはモルヒネを用いないで、なんとか過ごしているということになっていた。じつのところ、彼女が一日分の使用量を六グレインにまでふやしていることを、彼は算定した。いまのように絶えず頭痛に苦しんでいる彼女としては、それも多すぎる量とは考えられなかった。
ビクリー博士は彼女のために激しく心をいためた。彼女の苦痛にゆがんだ顔、どんよりした眼を見ると、彼は苦悩した。ジュリアがただ自分自身のがんこさのために、こんなに苦しむのはいたましいかぎりだ。早く苦痛からのがれさせてやることができれば、それだけ慈悲ぶかいことになる。そう思った彼は、つぎに彼女がマーチェスターへ出かけるとき、薬種屋から薬品を仕入れてきてくれるように頼んだ。彼が書いた注文書は、大量のモルヒネが主要項目になっていて、彼の署名はすこしふるえていた。しかし、彼もジュリアもよく知っていた薬種屋は、ためらいもせず注文に応じた。
またビクリー博士は、ジュリアの妹に手紙を書き、きわめて重要な内証のことを伝えたいから、自分から手紙を受けとったと言わずに、一日訪ねてきてもらいたい、そしてチャールズ卿は別として、家族のうちでだれでも都合のつく人があったら、いっしょに来てくれるように、と言ってやった。
大柄で尊大にかまえたヒルダが、兄のヴィクターとやって来た。ヴィクターは、ブリッジやポーカーが、独立心のある紳士には有用な芸能であることを悟っている人物で、ジュリアもヒルダも好きではなく、しぶしぶながらに来たのであった。
昼食後、ジュリアが二階へ休息にあがってから、ビクリー博士は二人を診察室につれていって、ひどく真剣な調子で話した。
「もちろん、あなた方はジュリアの変り方に気づいたでしょうね? じつに不快なことをお話ししなければならないのは、遺憾のいたりですが、実家の方々に知っておいていただくのが当然と考えたものですからね。それに、この責任はぼくひとりではちょっと背負いきれないと思いますのでね」
「前置きはかんたんにしてくださいよ、エドマンド。そして一体どうしたのか、話してくださいな」とヒルダはクルースタントン家の人間らしくずばりと言い、いつもこの義兄に話しかける時のように――まるで彼が存在していないかのような顔つきをしてみせた。
「麻薬中毒さ」とヴィクターがかんたんに片づけ、二本目の葉巻に火をつけた。その葉巻のケースをビクリー博士に差しだそうとはしなかった。
「へえ」とビクリー博士はびっくりして言った。「いったい、どうして……?」
「会ったとたんに、見当がつきましたよ。あんな中毒の連中をたくさん見てきていますからね。見まちがいはないですよ、もちろん。ものはなんです? コカイン?」
「モルヒネ」とビクリー博士は言って、いきさつを二人に話した。
「ぼくが注射を中止するのを、ジュリアがひどくおとなしく黙認したときに、ぼくとしては疑念をおこしているべきだったのでしょう」と彼は前もって注意ぶかく練習していた文句でしめくくりをつけた。「しかし、その時すでに、モルヒネがジュリアにそれほど深くくい入っているとは、ぼくも気づかなかったものですからね。大変わるかったと思ってますよ」
「でも、ジュリアが勝手に薬局から持ち出していることに気づいたときには、きっとあなたはそれを取りのけたんでしょうね?」とヒルダが窓のほうに向かって言った。
「もちろんです」とビクリー博士は悲しそうに答えた。「しかし、ジュリアはマーチェスターの薬種屋への注文書に、ぼくの署名をまねて書き入れ、大量に仕入れたんですよ」
「ずるいね」とジュリアの弟は、たいして関心もなさそうに言った。どうやらこの問題に、格別の興味もそそられていないようだった。「中毒の連中はみんなそうですよ。どうするつもりですか、ビクリー?」
「じつは、それについて相談がしたかったんですよ。ぼくの意見としては、ジュリアを療養所へやることですな。もちろん、一定期間だけ。治療をうけさせるためにね」
「そうするだけの余裕があなたにありますか?」とヒルダがあけすけにきいた。「わたしたちのほうの援助を当てにしても、むだですからね」
「ぼくとしては、必要なだけの犠牲は覚悟すべきでしょうな」とビクリー博士はしずかな勇気をみせて言った。
「ちっとばかりでも援助できるといいんですがね」とクルースタントン氏がふきげんらしく言った。
「ふん!」とヒルダが言った。三人は沈黙におちた。
「みずから見ておいてもらいたいんですがね、ヒルダ」とビクリー博士は言った。「あの注射のあとを……」
「もちろん、そんな必要はありませんよ」
「見ておいてもらったほうがいいと思うんですよ」とビクリー博士はおだやかに言いはった。「なにしろ、ぼくの立場はいささかデリケートですからね」と彼はつけくわえたが、それは真実にちがいなかった。
「あなたの話を確認するためでしたら、わたしはジュリアに直接たずねますよ。遠回しなやり方は、信用がおけませんからね」とヒルダはビクリー博士のすぐ左手の何かに向かって言った。
「それはとんでもないことでしょうな」と小柄なビクリー博士が、断乎《だんこ》きめつけるように言ったので、ヒルダも一瞬まともに彼を見たほどだった。「ヴィクターも言ったように、中毒の者たちはこんな――なげかわしい状態になると、じつにずるいんですよ。ジュリアはただ否認するだけでしょうよ」
「もちろん、恥ずかしさのあまり、本当のことは言えないさ」とヴィクターもうなずいた。
「しかし、注射のあとの証拠は打ち消せませんからね。ほんとに、見てもらったほうがいいです。見る口実は、どうでもつけられますよ。左の前膊《ぜんぱく》の上部です」
「承知いたしました」とヒルダは立ちあがりながら言った。「それが義務だと本当にお考えになってらっしゃるのならね」
彼女のために、ビクリー博士はドアをあけてやった。
彼とヴィクターは、ジュリアの病状をいささか大げさな言葉で話しあった。ビクリー博士はこれまでにこの義弟にただ一度、結婚式のときに会ったことがあるきりだった。ヴィクターが姉の衰弱について質問したのに対して、ビクリー博士は大脳皮質の器質性変化に起因するのではないか、と非常に憂慮していると答えた。もしそうであるとすれば、苦痛がつづくだけではなく、しだいに激化して、ほとんど望みはあるまい、と彼は話した。
「脳腫瘍の可能性も見のがしてはいけませんね。もちろん、それは圧迫症状をおこすでしょうし、新陳代謝作用の変化から悪液質状態にもなり得るでしょう」と彼は熱をこめて説明した。
ヴィクターは、なんとか一枚うわ手の役者のように見せかけようとした。「望みがないんですかな、え?」と彼は葉巻の灰を用心ぶかくじゅうたんに落としながら言った。「そうなれば、このぼくなら、どうすると思います? あっさり本人に自由勝手にモルヒネを注射させ、みずから片をつけさせますね」
「そうですかな?」とビクリー博士は興味をそそられたように言った。
「こんな不治の中毒の連中には、そうするのが何よりも最善の策ですよ」とクルースタントン氏は断言した。「どのみち、さんざん苦しむばかりなのに、生かしておく理由なんか、まるでないじゃないですか」
「その考え方には、大いに論じらるべき根拠がありますね」とビクリー博士は医者らしくない態度で言った。
ヒルダが引き返してきた。
「たしかに、疑問の余地はありませんわ」と彼女は言った。「ジュリアの腕は一面に注射のあとが満ちていますからね」
「ぼくがどんなに苦悩しているか、とても口では言えませんよ」とビクリー博士は言った。
これで、もうこの客たちに用事がなくなったので、彼は急患の口実をでっちあげ、駅まで二人を車で送ろうと申し出た。ちょうど間に合いそうな、すばらしい列車もあることがわかった。
二人はちょうどその列車に間に合った。
ビクリー博士は、りっぱな一日の仕事を片づけた気分になりながら、駅の構内をあとにして車を駆った。ちゃんと証拠をつくりあげたし、おまけに、あの両人の態度から判断すると、ジュリアの実家のほうからいざこざが持ちこまれそうにないことも、ほぼ明らかであった。
万事はこの上もなく見事な進行ぶりをみせていた。
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第七章
殺す前に、ビクリー博士はジュリアに最後の機会をあたえてやった。
ここまできても、彼は彼女を殺すということがひどくいやだった。じつのところ、この一件ぜんたいを、徹底的にいみきらっていたのである。この一件は、ほとんどジュリアにおとらぬくらいの苦痛を、彼にもたらしていたのだった。彼は冷淡ではなかったので、来る日も来る日も、自分自身があたえている大へんな苦しみを見ていて、それにすっかり神経を痛めつけられていた。ジュリアがこんなに苦しまねばならないことに、戦慄をおぼえた。彼はもちろん彼女を愛していなかった。たいしていつくしみも抱いていなかった。個人としては、まるで彼女を好いていなかった。しかし、これほどまでに彼女を責めさいなみつづけることは、単に人間として、ほとんど耐えられなかった。頭痛を起こさせる薬をあたえるためには、けんめいに自分自身をかりたてなければならなかった。その薬を彼女の食物にふりかけるとき、いまにも彼は泣けてきそうだった。
クルースタントン家の兄妹が訪ねて来てから三週間たったとき、彼はもうこれ以上がまんしておれないと心をきめた。だんだん神経がひどくいらいらしてきて、その前日には、マドレインと喧嘩をしそうになった――いや、ほんとうに喧嘩をしたのだった。ばかばかしいかぎりであったが、原因はデニー・バーンのことであった。デニーの最後の学期となる夏の学期がはじまってから五日目に、彼は評判のわるい学監のズボンをぬがせ、尻を真紅にぬったために、三週間の停学を命じられた。それがそれほど評判のわるい学監でなかったら、デニーは放校されていただろう。しかし、その学監を好んでいなかった同僚たちは、だいたいその男の存在そのものが、そんな行為を挑発したとも見られるという態度をとった。それにしても、その男はあくまで学監なのであるから、学監にむりやりにヒヒのかっこうさせてうろつきまわらせ、それですむものではない。そこでデニーは三週間の停学を命じられたわけである。
その手柄話をきいて、マドレインがうれしがってるらしいのが、ビクリー博士の気分を害したのであった。ズボンをとられて真紅な尻をした学監についての想念は、およそ霊的なものからかけ離れていることを、ビクリー博士は指摘した。しかし、マドレインは同意し、一瞬、修道女がそんな情景に直面したような表情になりながらも、やはりデニーが離れわざをやってのけたと思っているという印象をあたえつづけた。
デニー自身もそう思っているのは明らかだった。だから「屋敷」のお茶のテーブルに向かったとき、ビクリー博士はデニーに不作法な口のきき方をしないわけにいかなかった。それからビクリー博士とマドレインが、ほとんど喧嘩をしそうになった。いや、ほんとうに喧嘩をしたのである。彼は感情をおさえることができず、デニーの面前で彼女をののしった。するとデニーが、生意気にも怒って顔を赤くし、ただちにここから立ち去らなければ、厩舎の中庭へ引っぱってゆき、ありあわせのものを何でも赤ペンキの代わりに使い、学監と同じ目にあわせてやるぞと無礼なことを言った。しかもマドレインは大きな眼をして、じっと坐りこんでいて、とりなそうともしなかった。ビクリー博士は立ち去らざるを得なかったのである。
そのために、もはやがまんができなくなった。なんとか決着をつけなければならなかった。
その翌日、彼は決着をつけたのだった。
家から出ていったふりをして、歩いて帰った彼は、手術室にひそんで、ジュリアの来るのを待ちうけた。彼女は忍びやかに来て、ふいに彼が現われると、ぎょっと飛びあがった。そのために頭痛が激しくなり、彼女は一瞬ふらついた。
ビクリー博士は片手で彼女の腰をかかえた。彼は帽子をかぶり、手袋をはめていた。「しずかにして」と彼は注意した。「フロレンスが聞いてはいけない。きみの目ざしているのはモルヒネだね、ジュリア」
ジュリアは頭をかかえながら、いどむような態度でうなずいた。「今日はとてもひどいのよ」と彼女はささやいた。「ぜひ注射をしてくださいな、エドマンド」
「うん、この前に注射をしてやってからずいぶん長くたつね」と彼は低い声で言った。「一本くらいはいいだろうな」
彼は自分の体で手先をかくし、どれほどの分量を入れているか彼女に見えないようにしながら、注射器に薬をみたした。ついにその瞬間がきてみると、彼はしずかに落ちついている自分を感じた。とるべき筋道は、心のなかに地図のように描き出されていたし、一つ一つの行動も書きとめられていた。用意をととのえている自分の冷静さに、彼はおどろいた。不安になり、わななきふるえるだろうと予期していたのであった。
一瞬、なにかほかのことで忙しがるふりをして、彼は注射器を彼女に持たせた。まさかのときの用心に、彼女の指紋をつけておくためであった。
ジュリアは袖をたくしあげ、その腕を彼のほうへさし出した。
「ちょっと三十秒ほど待ってくれ」と彼は言った。「この注射がきいてくる前に、きみにたずねておきたいことがあるんだよ、ジュリア。ぼくと離婚することを、もういちど考えてみてくれないか? マドレインとぼくはまだ愛しあっているし、二人は結婚したいと望んでいるんだよ」
「いいえ、エドマンド」と彼女はきっぱりと答えた。「わたしにはそんなつもりはありません」
「このことはもう一年近くつづいているんだよ」と彼はがまん強く指摘した。「ぼくは子供ではない。自分自身の心は知っているよ。ぼくはきみに頼むよ、ジュリア、妻としてではなく、友人としてのきみにね。ぼくはもう心から真剣なんだよ」
「エドマンド、わたしは地上のだれに説かれても、あの女のために、離婚する気はありません。あの女はだめです。ぜんぜんだめですわ」
「それはもう絶対的な最後の返事なんだね?」
「絶対的なものですよ」
これでジュリアは、あたえられた最後の機会を無にしたのである。
ビクリー博士は注射器を彼女から受けとり、微動もしない落ちついた手で、十五グレインのモルヒネを彼女の静脈に注射した。彼の脳髄は奇妙に空白になったようだった。なんの感動もぜんぜん感じなかった。憐憫《れんびん》も、後悔も、恐怖も、責任すらも感じなかった。なんだか、万事の決定権が自分の支配外へとり去られ、まるで彼は肉体的にも精神的にも回避する力のない筋道を、たどってゆくかのようだった。彼の心のなかには、ただ一つの想念があるだけだった――二十分のうちにジュリアは死ぬだろう。このジュリアが……
「ありがとう、エドマンド」とジュリアは感謝するように言った。無意識的に彼は注射器を引出しへぽいと入れた。
「まっすぐに二階へあがって、横たわるがいい」とビクリー博士は彼女を見ずに、単調な声で言った。
「そうしますわ。ああ、そう、そう、あなたにたずねたいと思っていたことがありますわ。あなたは――」
「いまはだめだ。いつかまたほかの時にね」もう一瞬も彼女のそばにいるのは耐えられなかった。逃げ出さなければならない。おそろしいことだ。おれはほんとにやってのけたのだ。二十分のうちにジュリアは死ぬだろう。死ぬ……このジュリアが! 空想劇ではなじみ深い想念であったものの、現実としては、ありそうもないことのような気がするのだった。しかも、おれはやってのけたのだ。ジュリアを殺したのだ。
あわてふためくように、彼は彼女からのがれ去った。すさまじいばかりに、思考力が回復してきていた。
だが、後悔の念は起こらなかった。いまでもまだ彼女を救えただろうが、そんなことをする気にはまるでならなかった。また彼は度を失ってもいなかった。もどって来た時と同じように、忍びやかに家を出た。ジュリア以外のすべての者たちには、この三十分間、彼は往診にまわっていることになっていたのである。彼の車にしても、あらかじめ注意ぶかくきめておいた地点、すこし向こうの道路にとめてあった。道路を通ってまわってゆけば、かなりの距離があるが、庭のはずれの畑を二つばかり横切れば、三、四分で行ける手ごろな地点だった。しかも、途中には灌木や生垣がつづいているので、ほんの数ヵ所だけ身をかがめてゆけば、家の窓からは見えないようになっていた。これまでに幾度も通ったことのある近道だった。
彼はなんの支障もなく車へたどりついた。
二十分のうちに――いや、もう十七分のうちに、ジュリアは死ぬだろう。信じかねるほどだ! 自由……
それを思い描くことが、彼にはまったくできかねた。
どうしたのか、なかなかエンジンがかからなかった。もうそんなことはどうでもよかったのだが、やっぱりじれったかった。こんな時の例にもれず、自動スターターもだめだった。しかたなく車からおりて、車体をゆすぶった。やっとエンジンがかかったので、また車に乗りこんだ。そのとき、道路のすぐ前方の坂へ、だれかがのぼってくるのが見えた。アイヴィであった。これはすばらしい。アリバイの証明に、アイヴィが役にたつ。元気を盛りかえしながら、彼は待ちうけた。実際、考えてみれば、人はどう言うにしても、おれはいささか特記すべきことをやってのけたのだ。
「あら、テディ」とアイヴィは暗い顔になった。あの森のなかでの出来事があってから、いくども二人は顔を合わせていたが、あの出来事には一度もふれたことがなかった。
「やあ、アイヴィ。この車には困ったもんだよ。まったく、新しいのを手に入れる思案もしなくちゃなるまいね。十分前に、急にとまっちまってさ。ぼくがゆすぶっていたのを見たかい?」
「ええ。それからねえ、テディ……」
「うん? ああ、そうだっけ、きみに会えてよかったよ。ぼくの時計がとまっているのさ。困っちゃってね。時計を持ってないかい、アイヴィ?」
「ええ、持っているわ」彼女は手袋の上部をめくって、腕時計を見た。「ちょうど三時二十分前よ」
「三時二十分前だね? ありがとう。きちんと合っているだろうね?」
「今朝きちんと合っていたわ。ねえ、テディ……」
「うん?」
「あたしが婚約したこと、知っている?」
「チャトフォードとか? うん、幾月も前に、だれかが話したよ。カーニアンだったと思うね。おめでとう。りっぱな男だよ、チャトフォードはね」
「あたし、もう何年もあなたに会わなかったような気がするわ」とアイヴィは悲しそうに言った。「よろこんでいるの、テディ?」
「何をさ、きみに会わなかったことをか? もちろん、そうじゃないよ。ぼくはきみに会いたがっていたよ、アイヴィ」
「そのことじゃなくて、あたしが婚約したことをよ」
「ああ、そりゃ、とてもよろこんでいるさ。きみも幸福になれるだろうよ。きっとなれるよ。チャトフォードはいま売出しの男だからな。どうだい、どこかへ乗せていってあげようか?」
「いえ、せっかくだけど。あたし、いまジュノを散歩させているのでね。どこへ行ったのかしら? ジュノや! ジュノ!」
「じゃ、ぼくは失礼しなくちゃなるまい。ではまた、アイヴィ」
「ではまた、テディ」彼女の両眼は、例のように、彼をひきとめようとした。アイヴィは、心の痛手にかられて愛情を燃えさからせる種類の女であった。
じつに調法だ、とビクリー博士は車を駆ってゆきながら、心うれしく思った。それにしても、なんという平穏さだろう。アイヴィは相変わらず同じだし、万象も相変わらず同じだ。おれがジュリアを殺したなんて、信じられない。ジュリアが死ぬ。いや、信じられない。ジュリアが死んだりするはずがない。しかも、これから十二分のうちに、ジュリアは死ぬだろう。
彼はそれを信じることができなかった。
できるだけ正確を期した彼の算定によると、彼が四マイル離れたところでトレイシーじいさんの脳を聴診していたころ、ジュリアは死んだのであった。
その午後、家へ帰るのをいやがる彼の気持は、だんだん強くなっていった。家へ足をふみ入れたとたんに、幕を切っておとされる怖ろしい時間が、前途に待ちうけていた。ぞっとする。だが、つき抜けてゆくより仕方がない。しかも、その時間への登場を、彼は一寸《いっすん》のばしにのばしつづけた。いそぐ必要は少しもないのだ。
病家から病家へ車を駆りながら(たくさんすることがあるように、わざと大部分の往診を午後に残しておいたのだった)、彼はジュリアをめぐって果てしもなく想念をさまよわせた――ジュリアとの結婚、ジュリアとの生活、まるで彼を小犬みたいに扱ったジュリアの態度、ジュリアの横柄《おうへい》さ、尊大さ、不作法さ、他の人びとの面前で彼に恥をかかせるジュリアの無意識的な癖。彼はジュリアを怖れていた。それは彼もつねにみずから認めていた。いま、はじめて彼は、ジュリアを殺したのは、その恐怖のためであったことを、はっきりと知った。ジュリアから逃げ去ることを、彼は怖れていたのであった。
それはじつに奇妙であり、興味ぶかいことだった。多少の想像力のある他の人びとと同じように、だいたい内省《ないせい》などをしないのが習わしのビクリー博士は、これまで読んだことのない心のページをめくってみていたのである。そうだ、それはたしかに真実だ。はるかにもっと簡単に、問題を解決できたかもしれなかったのだ。おれがきいてみたとき、マドレインはいっしょに逃げようと言った。おれは試しにきいてみただけで、実行するつもりは少しもなかったのだが、マドレインはそれを知らなかったのだから、きっといっしょに逃げていただろう。そうすれば、おれがどこかほかの土地でちゃんと開業するまで、二人はマドレインの金で暮らしていけただろう。二人の愛はそんなくだらない因襲にとらわれないほど超然として高大なのだ。支障になるような経済的困難もなかった。では、なぜおれは逃げなかったのか? ただ、ジュリアから逃げ去るだけの勇気がなかったからである。同意による離婚をもとめるだけの勇気を、どうにかふるいおこしたが、それが拒否されると、例のように、ジュリアの裁定を受けいれた。離婚が絶望となったので、別の方法を見つけなければならなくなったのだ。
ビクリー博士はひとり微笑した。インフェリオリティ・コンプレックスを、直接の原因と見なせる殺人は、これがはじめてであろうか? そうは思えない。
それにしても、実際、あのころのおれは、なんというみじめな虫けらであったことか。なんとも浮かびあがりようがなかったのだ。ところが、今は、みじめな虫けらからどれほど高く浮かびあがっているか。人はどう言うにしても、じつに巧妙に計画され、一点の非の打ちどころもなく遂行された光彩陸離《こうさいりくり》の殺人(そうだ、これは殺人だ。この言葉を避ける必要はない)によって、おれは虫けらの部類から永久に高く浮かびあがったのだ。
フロレンスがもうジュリアを発見しただろうか? ……
おれは屋敷へお茶をよばれに行こう。かまわないではないか。今日は水曜日だ。そして水曜日には、いつも「屋敷」へお茶にゆくことにしているのだ。大事なのは、平常どおりにやってゆくことだ。それに、あの「屋敷」におれば、いつでも電話で連絡ができる。疑惑の眼をむけられても、おれが行方をくらまそうとしていたようには見えまい。
もちろん、けっして疑惑の眼がむけられるなどという意味ではない。しかし、やはり……
あのいまいましいデニーめ、わがもの顔に庭でのらくらしたりしているが、今に――もうほとんどそうなっているのだ――この「屋敷」がだれのものか知ったなら、べそをかくにちがいない。ビクリー博士は一瞬、ほんとうに腹立たしくなった。まったく、水曜日なのに、マドレインのやり方はじつによろしくない。
昨日あんなおもしろくないいきさつがあったばかりなのだから、いまいましく始末がわるい。
だが、まもなくビクリー博士の腹立たしさは消えうせた。万事が整然とおさまった。もうデニーなどはまるで問題でなくなった。ぜんぜん物の数ではなくなった。重要なのはただ一人、それはビクリー博士自身であった。彼とマドレインは……
マドレインにどれほどの値打ちがあるのか? そんなことを彼は考えたくなかったし、また実際に考えもしなかった。その種の考察は主要な問題からはずれていると思っていた。それにしても、本当に金持になるということ――しがないけちけちした生活から永久に足をあらい、ふいと思いつくままにどんな気まぐれでもでき、この壮大な「屋敷」を所有して、心たのしくぜいたくな生活をするということは、すばらしい気分をそそられるのであった。彼とマドレインは……いったい、マドレインはどこにいるのだろう?
ビクリー博士は車からおりて、玄関のほうへ歩いていった。芝生から叫び声が聞こえた。立ちあがったデニーが、ぶらぶら近づいて来ていた。いまいましい野郎め! いや、たぶん、昨日の無礼をあやまりたいのだろう。それなら、許してやるとしよう。だが、早いところ、ほのめかしてやらなくてはいけない。いや、ほのめかすよりも、はっきり言ってやるがよかろう。もう今なら、それをちゃんと言ってやることができる。つい去年の夏までのことを思い返してみると、ほほえましくなるが、おれはデニーの前に出ると、ひどく不安になったものだ――不自然で、ぎこちなくて、不作法で、場ちがいのような気がしたのだ。ああ、なんというみじめな虫けら……
「芝生のほうへ行って腰をおろしましょう」とデニーがいささか出しぬけに声をかけた。
「いや、残念ながら」とビクリー博士は冷やかに答えた。「ぼくはクランミアさんに会いに来たので――」
「でも、クランミアさんは留守ですよ。芝生のほうへ行って腰をおろしましょう。あなたに話したいことがあるんですよ」
この若いのは、なんてもったいぶっているのだろう、とビクリー博士は杉の木の下の椅子へデニーと歩いてゆきながら思った。若くて気がきかないにちがいない。あやまるほうよりも、あやまられるほうが当惑するものだから、かんたんにした方がいいということを、どうして人間は気がつかないのか? これも利己主義の一種なのだ。
こちらへ電話の連絡がきていないのは、おかしいな。どうやら、フロレンスはまだジュリアを発見していないらしい。
だが、フロレンスは「屋敷」へ電話をかけてみるだろうか? たぶん、かけてみるだろう。このワイヴァーンズ・クロスの気配から察すれば、おれがこちらへ訪問することは、台所の毎日の噂話になっているにちがいない。まあ、せいぜい噂をさせておくことさ。
気の毒なジュリア。やっとあの大へんな苦しみから救われたのだと思えば、ほっと安堵をおぼえるというものだ。
二人はデッキ・チェアに腰をおろした。
デニーはまっすぐに前方を見つめていた。「ねえ、ビクリー……」
「うん?」
「マドレインのことですがね」
ジュリアをめぐるいろんな思いが、ビクリー博士の心からすっかり消えうせた。「ほう?」
「マドレインは――とても変わった女性ですよね。異常に感じやすい性質ですよ」
「それで?」
「最近ぼくはあの人のいろんな面がわかってきたんです」
「そうかね?」
「そう」
どうもぐずぐずして、いっこうに話がすすまぬようだった。
どういうわけか、デニーはひどくもじもじしていた――この種の紋切り型の、落ちつきはらった若い男にしては、いささか意外だ、とビクリー博士は思った。それに、あやまるのにしては、妙な切り出し方だった。
突然、デニーはすこし赤くした顔を相手のほうにむけた。「あの人はほんとにあなたのことなんか、なんとも思っていないんですよ、ビクリー」と彼は口のなかでもぐもぐ言った。
「いったい、なんのことを話しているんだい?」
「あの人がぼくに話したんですよ――あなたのことを」とデニーはひどくどぎまぎした顔つきになって言ったが、眼は相手の顔から離さなかった。
「ほう、マドレインがね?」ビクリー博士は平静をとりもどしていた。この若僧は〈かま〉をかけて探り出そうとして、マドレインを悩ましていたにちがいない。きっと、自分自身がマドレインを愛していると思いこみ、ちょこざいにも嫉妬したのだ。
「そうです。あの人は――あなたのことなんか、ほんとになんとも思っていないんですよ」
「ほう、そうかね?」もうビクリー博士はおもしろくてたまらなくなった。いまの実情を考えれば、こいつはじつにこっけいだ。「じゃ、あの人が思っているのは、だれだい?」
「ぼくですよ」とデニーはあっさり答えて、いっそう顔を赤くした。
ビクリー博士はやっとがまんして、まっこうから笑いとばすのだけはやめた。「ほんとかね、デニー?」
「そんな薄笑いはよしてくださいよ。ぼくの言っていることは本当です。ぼくはマドレインを愛しているし、だんぜん結婚するつもりですよ。もうこれでわかったでしょう」
「うん、なるほど、なるほどね」とビクリー博士は言った。可哀そうなデニー。ほんとに涙をさそわれそうだ。「それで、いったい、マドレインはどう言ったんだい?」と彼は太っ腹な調子できいた。
「あの人もぼくを思っていることを隠そうとはしませんでしたよ、納得がいきましたかね」とデニーはどら声で答えた。「あの人はじつに率直ですからね。こんどの学期に、ぼくが学校へ出かけるときも、ぼくにキスさせたい気になっていましたよ。あのような女性の場合、それがどういうことを意味するか、あなたにも想像がつくでしょう」
「しかし、きみはキスしなかったんだね。え?」
「ええ、しませんでしたよ。まあ、ぼくたちがここまではっきりさせることができて、うれしいですよ。もちろん、あなたがずっと年上なので、あの人はすっかり引きずられていたんですね」と彼は不平らしく言った。「うぶだから、うれしがらせを言われて、本気にしたりしたんでしょうな。あなたにちょっと足をさらわれたんですよ。あなたといっしょでないときは、あの人はあなたなんか愛していないことがわかっているんですが、いっしょにいると、あなたに異様な魔術でもかけられるみたいだったんです。それが真相だったんですよ」
「なるほどね」とビクリー博士はちらと薄笑いをうかべて言った。マドレインが自分の気持を表明しているのに気づいてもいいはずだったのだが、彼は気づかなかった。
ちょっと沈黙がつづいた。
「では、きっと」デニーはしぶり気味に言った。「あなたはよろこんでくれるでしょうね」
「なにを?」
「つまり、ぼくたちの婚約をですよ」
「きみたちの――なんだって?」
「ぼくたちの婚約。さっきも言ったように、ぼくはあの人と結婚するつもりです。今朝、ぼくたちは婚約したんですよ」
「ばかな!」とビクリー博士は少々つっけんどんな調子で言った。が、それを別とすれば、急に彼の心をおそった混乱をぜんぜん外へもらさなかった。
「それは事実ですよ。ぼくはできるだけおだやかに、あなたに知らせようとしたんです。あなたには、ちっとばかりおもしろくないことじゃないかと思ってね」デニーはもうもじもじしたりしていなかった。彼は昂然とした所有欲に燃えた男であったが、儀礼上、これ見よがしにふるまうのを差しひかえていただけだった。「この手紙――ぼくから話したあとで、あなたにこれをわたしてくれって、マドレインに頼まれたんですよ」
ビクリー博士は、その手紙をうけとり、封筒をやぶって開封した。その文面は、五、六回も読んでみなくては、意味がはっきりしなかった。
「エドマンド――あたくしたちのことをあなたに知らせてくれるように、デニーに頼みました。あなたがひどくびっくりなさるだろうということはわかっていますが、これがあたくしたちのどちらにとっても、いちばんいい解決の道です。このままつづけてゆくことはできないでしょうからね。
では、エドマンド、あたくしの最後の愛をおくります。 マドレイン」
やがてビクリー博士は、その手紙をポケットにおしこみ、急ぎ足に家のほうへ行きはじめた。「むだですよ」とデニーが言った。「マドレインに会おうとしても、留守ですからね」
嘘だ、とビクリー博士は思った。いまいましい嘘、きたならしい嘘、それにもう一つ積みかさねるきたならしい嘘だ。そう思いながら彼は足をはこびつづけた。
あとを追っかけようとしたデニーは、ちょっと迷うようすで立っていてから、肩をすくめて、また椅子に坐りこんだ。たぶん、二人によく話させて、けりをつけさせるほうがよかろう。
ビクリー博士はベルを鳴らそうともしなかった。マドレインは二階の寝室に隠れて待っているにちがいない。彼が寝室へたどりついたとき、ちょうど彼女がドアに鍵をかけていたところだったから、むりにおしあけた。
「エドマンド」と彼女は大きな、悲しそうな眼で彼を見ながら言った。「あたくしに会おうとなさったりしないほうがよかったんですわ」
「ねえ、マドレイン――こんなことは、もちろん、みんな冗談でしょう?」ビクリー博士のようすは、まったく正常に見えた。顔がすこし蒼ざめ、両方の頬骨の上に奇妙な赤い斑点があったが、言葉の発音ははっきりしていた。はっきりしすぎるくらいであった。
マドレインは悲しそうであるばかりでなく、すこしおびえた顔つきをしていたが、安心したようだった。「いいえ、エドマンド、冗談ではありませんのよ。あたくし、よく考えぬきましたの。あたくしたち、このままつづけてゆくことはできません。これがいちばんやさしい道ですわ」
「きみはデニーを愛していないんですね?」
マドレインは非難するように彼を見つめた。「エドマンド、あなたはそんなことをおききにならなければなりませんの?」彼女はベッドのはしに腰をおろした。
ビクリー博士は近寄って、彼女の肩をつかまえた。
「きみがこれからしなければならないことを話してあげるよ、マドレイン」
「エドマンド、痛いですわよ」
彼の指はいよいよ深く彼女の肉へくいこんだ。両方の頬骨の上の赤い斑点は、すこしあざやかな赤味をました。「きみは今すぐ階下へおりていって、あんなばかげた婚約を取り消すのだ。明日ぼくはロンドンへ出かけて、特別許可証を手に入れる。きみもいっしょに行く。いまから三日以内に、ぼくたちは結婚するのだ」
「でも、エドマンド――ジュリアは! ああ、はなしてちょうだい。ひどく痛いわ」
「ジュリアは」とビクリー博士は声をひそめて言った。「死んだのだ」
マドレインは自分の顔をすごく見おろしている蒼白の顔を見あげて、金切り声をあげはじめた。「デニー! デニー! 助けて――助けて! デニー――エドマンドが……」彼女は体をもぎ離して、金切り声をあげながら、窓へ駆けよった。
だが、まっさきに部屋へ入りこんできたのはデニーではなかった。例の愛想のいい小間使であった。困惑した彼女は、不安そうに二人を見くらべていた。
「きみのご主人はヒステリーをおこしているんだよ」とビクリー博士はひややかに言った。「すまないが、水をもってきてくれたまえ」
「かしこまりました。でも――先生にお電話でございます。お宅の女中さんから。どうも――なにか悪い知らせでないかと思います」
マドレインのヒステリカルな金切り声を、頭のなかに鳴りひびかせながら、ビクリー博士は階下へおりて、電話に出た。
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第二部
第八章
ミス・ピーヴィはお茶の会をひらこうとしていた。
準備は昨日の朝からはじまっていた。小さな客間の金箔《きんぱく》ぬりの用だんすから、ダービー磁器の茶道具一式がとり出され、ミス・ピーヴィ自身の手で洗われた(もちろん、こんな仕事はエセルにまかせるわけにいかなかった)。そして奇蹟的に、一つもこわれずにすんだ。午後には、ミス・ピーヴィはチェックのちりよけで頭をつつみ、大きな上っぱりを小さなからだに着て、二サイズも大きい白木綿の手袋を両手にはめ、エセルが客間を片づけるのを監督し、経験と優れた力でエセルを助けてやった。エセルはわずか十四歳で、不器用な娘だった。本来の村の端、ミス・ピーヴィの家に一ばん近い家に住んでいて、自分はミス・ピーヴィのお手伝いさんだと誇らしそうに言っていた。彼女は十二の時から(午前中は九時から十一時まで、午後は特に用事のある時だけ)ミス・ピーヴィのお手伝いさんをしていたが、どういうものか、かえって邪魔になるとミス・ピーヴィはひそかに思っていた。だが、ともかく二人で、ミス・ピーヴィの満足のいくように、やっと仕事は片づけられた。
そして、いよいよお茶の会の当日の朝になると、大わらわの菓子焼きがおこなわれた。批評したり、感嘆したり、守護神の役をつとめたりするエセルに見守られながら(「さあ、ふくらし粉をとっておくれよ、エセル。まんなかの棚の左手のはしの小さな罐《かん》ですよ。いいえ、まんなかの棚よ。左手のはし。いいえ、小さな罐。もういい、わたしが自分でとりますよ」「ああ、あの罐には入っていませんよ。今はないんです。空っぽになったから、あたしが丁子《ちょうじ》を入れといたんですよ。丁子には手ごろみたいだと思いましたんでね。それで入れといたんですわ」「じゃ、ふくらし粉はどこにあるの?」「もうないんですよ」「まあ、そうならそうと、前にわたしに言っておけばよかったのに。ほんとうよ、エセル。じゃ、スティンヴェルおばあさんのお店へ走っていって、一罐買って来なきゃ。七ペンスね、いまわたしの手がふさがっているから……わたしの財布はどこかね? たしかあそこにおいといたと思うんだけど……いいえ、そうじゃなかったわ。ほんとうよ、エセル、ちゃんとわたしに言っておけばよかったのよ」)
ミス・ピーヴィはチョコレートのころもをかけたチョコレート・ケーキ、オレンジのころもをかけたオレンジ・ケーキ、ころもをぜんぜんかけない大量のロック・バンとエクルズ・ケーキをこしらえた。そのうちで「こげた」と言えるのはロック・バンだけで、それもまるきり台なしにはなっていなかった。すくなくとも四分の三は、注意ぶかく外側をけずりさえすれば、客に出せるようにできた。じつに仕事がうまく片づけられた朝であった。
なかなか重大なお茶の会になりそうだった。トア夫人とカーニアンが来ることになっていたし、ジャネット・ワプスワージーはもちろん、ギニフリッド・ラタリーも、説きふせることができたから、父の少佐といっしょに来ることになっていた。トア氏も、時間があったら顔を出すと誠実に約束してくれていたし、アイヴィ・チャトフォードも夫といっしょに、わざわざマーチェスターからやって来ることになっていた。あの可哀そうなビクリー夫人も、まだ生きておりさえすれば……ただ、ハットン=ハムステッド夫人だけは、はっきり来ないと言っていた。それから、もちろん、マドレイン・バーンも。しかし、どうやら彼女は、このごろ、すべての招待をことわっているらしかった。彼女が来ないので、ミス・ピーヴィはひそかに胸をなでおろしていた。
こんなにうるわしい天気なのは、とても幸運だった。一年じゅうで五月ほど、うるわしい月はない、とミス・ピーヴィは心から思った。春に百花が咲きみちて、新緑の夏へうつってくる……でも、庭でお茶は出さないことにしよう。王冠のついたダービー磁器の茶道具には、ふさわしくないだろう。それに、エセルが盆を持ってまわるのでは……
さいわいに、話の種はたくさんありそうだった。ぎこちなく話がとぎれて、ミス・ピーヴィがおぞけをふるうようなことはないにきまっていた。ワイヴァーンズ・クロスの歴史はじまって以来、こんどのような年はなかったからである。結婚が二組、死亡が一人……それに、この界隈《かいわい》を描いたデイヴィ氏の新しい小説。たしかに、話の種にはことかかない。もちろん、噂話も出るだろう。カーニアンと母親が顔をそろえるのだから、出るにきまっている。あまり中傷的にならないでほしい、とミス・ピーヴィは思ったが、じっさい、ワイヴァーンズ・クロスには前例もないほどさかんに噂話が流されているような気がした。それもほんの微かな根拠しかない――いや、本当にまるで根拠のない醜聞じみた噂話であった。ミス・ピーヴィはみずからそれに加わらず、けしかけたりもしないようにしていた。それは自分で固くきめていた行き方だった。しかし、ぶしつけにならないようにして、噂話をやめさせるのは、ほとんどできないことだった。それにしても、どんなことにしたところで、ぎこちなく話がとぎれるよりは、ましだと思えた。
それにつけても、ミス・ピーヴィはビクリー博士の問題にひどく悩まされていた。招待したがよいか、しないがよいか? しなければ、ひどく角《かど》がたつように見えはしないか? といって、招待すれば……たとえマドレイン・バーンが来ないにしても。それに、トア氏がどう言うか……? あんなに妻が悲劇的な死に方をしてから、ビクリー博士が一度も教会に現われないことは、みんなの噂の種になっている。可哀そうなビクリー夫人、あんなになろうとは、だれが夢みだにしていただろう……? 結局、ミス・ピーヴィはビクリー博士を招待しなかった。つまるところ、まったくこんどは女性のお茶の会で、特定の女性の専有になっている男たちだけが来るわけだ。そうなのだ、ビクリー博士を招待したりする必要は、まったくないのだ。
四時きっかりに、お客たちが現われはじめた。
まっさきに来たのはミス・ワプスワージーで、ピンクのバラのついた紫色の麦わら帽子をかぶり、藤色の絹服を着て、なかなか晴れやかな顔つきだった。
「いらっしゃい、ジャネット、ようこそ……すてきなお天気じゃありませんか。ほんとに、いっそのこと……でも、こんなにすっかり準備をしてしまったし、これも……手をお洗いになりません?」
「ありがとう、アディラ」とミス・ワプスワージーはすこしつっけんどんに答えた。「家を出る前に、洗ってきましたわ」
このやりとりには、知らない人間には見てとれない内幕があった。ミス・ピーヴィの家は、本来の村から半マイルばかり出はずれた部落の端にあって、そこから高まっている急な丘の麓に建っていた。ミス・ワプスワージーの家は、ワイヴァーンズ・クロスの向こう側にあって、平地に建っていた。したがってミス・ピーヴィは、上の丘の中腹の泉から、下降式の給水設備を家へつけていた。村そのものには水道がなかったので、ミス・ワプスワージーの家も、その点で不便だった。
ミス・ピーヴィにとっては、この給水設備が大きな慰めになっていた。いろんな摩擦のために、かっと心が熱くなってくると、この冷たい水の流れで洗いきよめ、ありがたい気持になるのだった。村じゅうでも、ミス・ピーヴィの家だけに、水洗式便所があった。(なにしろ「屋敷」ですらも、便所ともなれば……)
ミス・ピーヴィはこの水洗式便所を一度もそんなふうに考えたことはなかったが、いつも「屋内衛生設備」と考えていた。
「かならずわたしは」とミス・ワプスワージーはとんがらかった調子でつけくわえた。「お茶に出かける前に、手を洗いますのよ」彼女はちらと自分の灰色の木綿の手袋を見おろした。まるでこの特定の場所にいるあいだに、手が汚染されないようにさらに万全の準備をしてきたというような身ぶりだった。
「ええ、ええ。もちろん、そうでしょうとも。それでは、ほかの方たちが見えるまで、ちょっと庭を歩いてみましょうか? やっとグロキシニアもほんとに咲きはじめましたので……」ミス・ピーヴィはチュールのスカーフの両端を、ちょっと一時的に結びあわせた。
二人の淑女は庭を歩いた。
それから半時間後には、お茶の会はたけなわとなっていた。これまでに集まったのは、ぜんぶ女性ばかりだった。男性らしくない部類の男性トア氏さえ、異色として加わっていなかった。チャトフォード夫妻もまだ姿を現わしていなかった。かんだかい声々や、淑女らしい声々が、雰囲気を色あざやかな細片に切りさいた。いろんな人物が噂話の舞台に登場し、腹の底まで見透され、ほうほうのていで退場した。世間の信用も、雪片のように地上に落ち散るのであった。
「……あのひとの膝までもないくらいですのよ」とトア夫人がおどろきながらも満足しているようすで、しゃべっていた。「ほんとに、わたしがあんなかっこうをして、わたしたちの教会にあらわれたら、主人がなんと言うか、ちゃんとわかってますわ。それが大聖堂でのことですよ! ほんとに、あのひとも大聖堂参事会員の妻として、体面をたもつことも考えるべきじゃないですか?」
「それに、あのひとはもう五十なんですからね」とミス・ワプスワージーがうなずいた。「胸がわるくなりますわ!」
「まさか、トアの奥さん」とマーチェスターから来た淑女が言った。ミス・ピーヴィの幼な友だちで、大聖堂参事会員より社会的地位は低くても、財布の中身にかけてはずっと上の男と結婚しているのだった。「まさか、ほんとにごらんになったというわけじゃないんでしょう――そのひとの――」淑女たち(本物の淑女たち)ばかりのなかでも、ほのめかすよりほかはない。
「あのひとがひざまずいたとき」とトア夫人はおごそかに答えた。「わたしはそれをはっきりと見ましたよ。はっきりとね!」
「つぎの日曜日には、わたしもこの眼で見なくちゃいけませんわ」とマーチェスターから来た淑女は、まるで相手が自分と同じ女性でないかのように、ひどく楽しそうに言った。
「レースでへり飾りがしてありましたよ」とトア夫人は、それが極悪の罪にも近いことのようにつけくわえた。レースでへり飾りをしておれば、ちゃんと神が礼拝できるとでも考えているのか、という口調だった。はたして神は、みずから創造した人間のそんな軽薄なふるまいを、どうお考え遊ばすだろうか、とミス・ピーヴィまでも頭をひねった。
一つの隅では、カーニアンとギニフリッドが「男性」問題を論じあっていた。
「まあ、まさか、カーニアン」とミス・ラタリーは言っていた。イギリスの処女らしく、性問題におぞけをふるいながらも、渇望をほのめかせていた。「わたくし、そんなことは信じられないわ――ほんとうに、信じられないわ」
「でも、げんにそんなことをしたのよ。嘘なんか言わないわよ。ほんとに、あのサムって、みだらな男だわ」
「でも、どうしてあなたは、そんなことをさせたの?」
「するかどうか、見てやりたかったのよ」
「そうなら、あなただって、相手と同じくらい悪いと、わたくしには思えるわ」とミス・ラタリーは潔癖らしく言った。
「だれに人のことが悪いなんて言えるかしら?」とカーニアンは十ぱ一からげにやっつける勢いで言い返した。
ただギニフリッドにショックをあたえるという簡単な目的を達したカーニアンは、お茶のテーブルをかこんだ年上の群れに注意をむけた。その群れは、いま、既婚の男と土地の映画館に入っているのを見つけられたという、ちゃんとしたマーチェスターの小学校長の娘の美徳の羽毛をむしりとっている最中だった。運わるくカーニアンは、その問題の若い女を知らなかったので、淑女たちの足元に積みかさなってゆく白い羽毛にも、興味をひかれなかった。
彼女はギニフリッドのほうに向きなおり、隠しもせずにあくびをした。「ああ、アイヴィが来ればいいのにねえ。これじゃ、たいくつで口もきけやしないわ。アイヴィには何年も会わないみたいよ。ざっと結婚以来だわ。あなたは会って?」
「ええ、マーチェスターで二週間ほど前に会ったわ」
「結婚生活って、どんなにいいか、きいてみた?」とカーニアンがみだらなウインクをしてたずねた。
「あら、とんでもないわ」とギニフリッドは答えた。ほんとうに衝撃を強くうけるにつれて、よけい無関心なふりをしようとするのが、いつものくせだった。
「すてきな家に住んでいるんだってね?」とカーニアンはうらやましそうに言った。「ビル・チャトフォードは相当うまくかせいでいるにちがいないわ。花嫁のために、たんまりお金をたくわえることができたんだもの。もちろん、ここに住んでいる年月じゅうから、気ちがいみたいにためつづけていたんだけどさ。アイヴィはマーチェスターでどんなふうに暮らしているの?」
「そりゃ、申しぶんなく暮らしているんだと思うわ」ギニフリッドはちょっとお茶をのんだ。右手の人差し指を他の指の下に深く隠していたので、だれもそれが曲っていると謗《そし》ることはできそうになかった。
カーニアンもちょっとお茶をのんで、自分の小指を当てつけるように曲げてみせた。そしてギニフリッドがはげしい苦痛の表情で、それに眼をやっているのを見てとると、カーニアンはぷっと吹きだして、茶碗を下におかないわけにいかなかった。彼女は単純なユーモア感覚をそなえているのだった。
「ところで、もうテディはあなたに求婚したの、ギニフリッド?」と彼女は次にきいた。ミス・ラタリーをなぶるのは、ワイヴァーンズ・クロスがミス・トアに提供してくれるわずかばかりの楽しみの一つだった。ギニフリッドが二十四であるのに、ミス・トア自身が十九(いや、ほとんど二十になりかけていた)にすぎず、おまけに、ギニフリッドが二十四の威厳を十九の生意気にないがしろにされ、それを非常に心外としながらも、うまくやり返さないことが、この楽しみに心地のよい風味をそえるのであった。
「カーニアン、よくもそんなことが言えるわね」とミス・ラタリーはうらめしそうに言うのであった。が、彼女の心もなかなか精妙にできていたので、その質問にすっかりどぎまぎしてみせた。
カーニアンは相手が顔を赤くするのを見てうれしがり、いっそう赤くしてやろうと工作にかかった。「それで、テディは最近またあなたにキスした?」
「どういう意味なの――『また』って?」
「去年の夏、ビクリー家でのテニス・パーティのとき、切穂をあげるって連れていって、キスしてからという意味よ。ちゃんとおぼえているでしょう」
「あの人、しなかったのよ!」
「ねえ、ギニフリッド、あたしをごまかそうとしないでね」とミス・トアは大いに楽しみながら頼んだ。ギニフリッドの赤くなるさまは、いよいよ興趣をそそる見ものとなっていた。「あたし、生れてから、あれほどはっきりしたことは見たためしがないくらいよ。テディは切穂を持って来ないで、用心ぶかくあなたを人目から離れたところへ連れ去り、一時間も雲隠れをして、二人ともすっかり興奮した顔つきでもどって来たんだものね。それなのに、あなたはそんなことを言う――そりゃね、ギニフリッド、あたしはあなたより年下かもしれないけど、きのう生まれたんじゃないわよ。もちろん、テディはあなたにキスしたんだわ」
「そんなこと、しなかったわ。わたくしがチャンスをあたえなかったのよ。ぞっとするほどいやな小男だわ」
「へえ、すると、テディのほうはしようとしたんだけど、あなたがはねつけたわけなのね」とミス・トアは大へんうれしがって声をあげた。「可哀そうなテディ。あたしが相手だったら、よかったのにねえ。あたしはテディを、ぞっとするほどいやな男だなんて、ぜんぜん思わないわ」
「いいえ、そうなのよ」とギニフリッドは執念ぶかそうに言った。
「テディも気の毒ね」とカーニアンは小気味よさそうに言った。「まあ、むごい悲運というものだわ。テディが自由の身になってさ、ギニフリッド、あなたと結婚したいばっかりに、奥さんを殺したってことは、みんなが知っているというのにさ。ああ、ああ、ままならぬものね」
「カーニアン!」
「ギニフリッド、そんなにびっくりしたふりなんかしないでよ。もちろん、テディは奥さんを殺したのよ。あたし個人としては」とミス・トアは賢明らしく言った。「テディを責めたりはしないわ。でも、もしあたしが検死官だったら、テディ先生にいろんな質問をしただろうね」
「カーニアン、どうしてあなたはそんなことが言えるの?」
「なんですって、まさかあなたは、テディが殺さなかったと本気で思っているんじゃないでしょう?」
「ただ、あなたはおそろしい人だと思うわ」
「じゃ、おそろしいのはあたし一人じゃないってことになるわ。母もおそろしい人、父もおそろしい人、ワイヴァーンズ・クロスの半分がおそろしい人ってことになるわよ」
「わたくし、そんなことはぜんぜん信じないわ」
ギニフリッドがひどくふんがいしたので、カーニアンもたじたじして、大それた失言の弁護にあたらねばならなくなった。そこで彼女は大いそぎで、自分の空想的構成物の基盤につぎこむ一かけらの事実を見つけ出した。「でもね、こういうことだけは言えてよ。父はビクリー夫人の死には何かおかしなことがあったにちがいないと考えているのよ。あの検死法廷で、ジュリアが麻薬常用者とされた話は、どうも納得できないって、父は言っているんだもの(ほんとに、あの話はちっとばかりケタはずれじゃない? テディももう少しましな理屈をつくり出せばよかったのよ)。でも、父は教区のうちにスキャンダルをまき起こしたくないから、騒ぎたてようとしないのよ。そういうことなのよ」
「でも、ビクリー夫人の妹さんが、それについての証拠を確認したんですよ。弟さんもね」
「ああ、テディがなんとかうまく抱きこんだのよ。あたし、あの人たちはみんな同じ穴のムジナだと思うわ」
「ばかなことを言うもんじゃないわ!」ギニフリッドはほんとうに怒った。「そんなことを言ってまわるなんて――とてもひどいと思うわ。カーニアン、あなたは――ひどい人よ」
「じゃ、いいわよ」こんどはカーニアンが腹をたてる番になった。「あたしを嘘つきだって言うのね。ほんとのところを、ちゃんと見せてあげるわよ。お母さん!」
「やめて、カーニアン!」
「お母さん!」
「カーニアン、だめよ。だまって!」
「お母さん!」
トア夫人が椅子に坐ったまま顔をむけた。「まあ、どうしたの?」
「ギニフリッドがあたしを嘘つきだって言っているのよ。去年のビクリー夫人事件の陪審の評決に、お父さんが納得しないって、あたしが話したからなの。お父さんがおっしゃったことを、あなたもおぼえているでしょう」
死のような沈黙が、まるでナイフで切ったように、おしゃべりを断ち切った。女たちはそっとうかがうように、たがいの顔を見た。
「い、いいえ」とトア夫人が、長い間をおいてから、身ぶるいするように言った。「わたしは――おぼえていませんよ」
「あら、おぼえているにちがいないわよ。お父さんは――」
「もういいのよ」
小学校長の娘の羽毛むしりが、またつづけられたが、あまり気乗りがしなくなった。ゆたかで、甘美な、まるで際限もないようなご馳走を、一瞬、鼻の先で振りうごかされては、どんなに若くてやわらかくても、一羽のひなどりなどは、つまらない食べ物になってしまうものである。最後のわずかばかりの羽毛が機械的にむしりとられると、四つの飢えたような顔が、トア夫人のほうを向いた。部屋の隅から、ギニフリッドとカーニアンが、年上の女たちを見つめていて、それと気づいた。
「ピーヴィさん」とカーニアンが微妙な調子で言った。「このあいだ、お宅のグロキシニアのことをお話しになっていましたわね。ギニフリッドとあたしで、拝見に出かけてもかまいません?」
「ええ、どうぞ。グロキシニアは……ちゃんと見つかるでしょう。……お茶のほうは、じゅうぶんめしあがったの? ギニフリッド、あなたは手をつけてくださらなかったようだけど……けさ焼きたてのほやほやなの、ほんとよ。カーニアン、どう、あなた……」
「いえ、せっかくですけど、もうじゅうぶんいただきましたわ、ほんとに。さあ、いらっしゃい、ギニフリッド」
二人の娘たちは、ほかの女たちの感謝するような眼ざしをうけながら、出ていった。ドアのほうへ、だらしない足どりで歩いてゆくカーニアンのひょろ長い肉体から、かけひきの気配が発散していた。
外へ出ると、彼女はギニフリッドをかえりみた。「もちろん、あたしたちがあそこにいるあいだは、あの人たちは何も話そうとしやしないわ。でも、あたしたちがあの窓の下の花壇へ行って、花を鑑賞しながら、ピーヴィやワプスワージーから見られないようにしていれば――ね、これはちょいとすばらしい思いつきとは考えない、ギニフリッド?」
「カーニアン、あなたはおそろしい人だと思うわ。わたくしはそんな意地のわるいこと、したくないの」
そうは言いながらも、彼女はカーニアンが忍びやかに窓のほうへ近づいてゆくのについていった。
窓の内側では、トア夫人が冷酷な、しかもほとんど無言の圧力に、品よく屈服した。「まあ、しようのないカーニアンですわ。ほんとに、なんてことを言うんでしょう」
「なぜトアさんは納得なさらなかったんですか?」とミス・ワプスワージーがきいた。単刀直入的な方法の好きな女だった。
「ほんとに」とミス・ピーヴィが気づかわしそうに言った。「わたくしたちは、そうすることが……? それは、なんだか……つまり……」
「つまり、どういうことなの、アディラ?」とミス・ワプスワージーがきいた。
「つまり、あの評決は『過失死』となっていましたね? だれかがそれを納得なさらないとすれば……つまり」とミス・ピーヴィは勇気を出して言った。「それは何かとても怖ろしいことをほのめかしているんじゃないかしら?」
ミス・ワプスワージーは、一座の緊張した顔々を見まわした。「たしかに、わたしたちはみんな、この一年間、心のうちで何か怖ろしいことをほのめかしつづけていたんじゃないかしら?」と彼女は不快な、わななくような声で言った。「もちろん、そうだったんですよ。そしてわたしたちのうちのだれ一人、それを口に出して言う勇気がなかったんです。いまこそ、このわたしは言いますよ。わたしはトアさんと同意見です。わたしも納得できません」彼女はいどむような口調になっていた。「わたしの考えるところでは、ジュリア・ビクリーの死は、ぜんぜん過失ではありませんよ。計画的な自殺ですわ。その理由は――つまり、わたしたちみんなに、よくわかっていることですわ」
五時をすぎてから、やっとアイヴィ夫妻が来た。チャトフォード氏は、大事な弁護依頼人のために予想以上におそくなり、これより早く、アイヴィを車で連れて来られなかったのだと、はっきり説明した。
結婚以来、ほとんどワイヴァーンズ・クロスに顔を見せていなかったアイヴィは、あまり変わっていなかった。ほっそりした姿体は肥ってきた気配もなく、自信を得たようにも見えなかった。なにを言っても、承認をもとめるかのように、たえず青い眼を夫にむけ、その眼の底のかすかなおびえは、弱まっているよりも、かえって強まっていた。あきらかに彼女は、すこし夫をおそれていた。彼女の服装だけが、社会的地位の変化を表面的に示していた。リッジウェイ家は裕福でなかったので、いつもアイヴィは、ツィードや毛織の衣服や自家製の夏のドレスをまとい、質素ななりをしていたものだった。いまの彼女は、ぴったり合った長い袖のついた黒サテンのドレスをまとい、ぴったりして、小さく、簡素なようで、派手に見える意匠の黒いバクー帽を、まるく子供っぽい頭に不似合いな恰好にかぶっていて、田舎家のお茶の会には、いささか場ちがいな感じであった。服装の全体的な調和には、たしかにアイヴィ自身の好みが反映していなかった。そしてウィリアム・チャトフォード氏が、自分の到達した社会的地位を示す服装を妻にさせたいと考えているだけでなく、その選択にも少なからず口を出していることも見てとれるのであった。アイヴィはマーチェスターよりも、ロンドンのボンド街あたりに向いているように見えた。
ミス・ピーヴィは、結婚式から一度も会っていなかったので、あたたかく彼女を迎え(以前からアイヴィを可愛がっていたので)、キスをかわした。エセルが呼ばれて新しいお茶を持ってくるように命じられ、チャトフォード氏はただ一人の男性のお客として、栄誉の席につかせられた。
「お茶を待っている間に、このエクルズ・ケーキを一つめしあがってみてくださいな」とミス・ピーヴィがにこやかに言った。「わたくし自身が今朝こしらえたんですよ」
「ありがとう、ピーヴィさん、よろこんでいただきますわ」とアイヴィは、十二の女性の瞳にうらやましそうに見まもられながら、ワイヴァーンズ・クロスにあらわれたうちで一ばん高価そうな手袋を、小さな手からぬいだ。
「アイヴィはとても元気そうですわね」とトア夫人がお祝をこめた口調で、そっとチャトフォード氏に言った。「そしてとてもスマートで、きれいでね。ほんとに、見ちがえるようですわ」
「またお母さんがまずいことを言っているわ」とカーニアンがギニフリッドにそっと言った。チャトフォード夫妻が来ると、二人の娘たちはまた客間へもどってきていたのだった。
「この帽子?」とアイヴィが、マーチェスターから来ている淑女の質問に答えて言った。「あら、ダンスフォードの奥さん、あなたはまだごらんになっていませんでしたか? これは新婚旅行の折りに、パリで買いましたのよ。ウィリアムがあたくしに買ってくれましたの」と彼女はちらと夫のほうを見やった。
「最新型です」とチャトフォード氏が満足そうな色をみせて説明をつけくわえた。いやに堅苦しい発音なので、妙に聞こえた。
「すばらしいですわね」と一座はお義理の口調で言った。
ちょっと話がとぎれた。だれも口をきかなかった。だんだんぎこちない気分になった。ミス・ピーヴィは哀願するようにトア夫人を見た。トア夫人はミス・ピーヴィを見なかった。幾年間も話がとぎれているように思えた。
突然、ミス・ピーヴィは話しはじめた。「もう五分間ばかり早くあなたがいらっしゃらなかったのは、とても幸運でしたよ、チャトフォードさん」と彼女は神経質にくすくす笑いながら言った。「わたくしたちは今さっき……とても中傷になりそうなことを……あなたが聞かれたら、わたくしたちを一網打尽になさったことでしょう」
「ほんとうですか?」とチャトフォード氏はいんぎんな調子で言った。「では、どんなことをお話しになっていたかおたずねするのは、無分別ということになるでしょうね?」
「そりゃ、とてもね。つまり……」
「ご婦人方がお集まりになると、とかく話が中傷に近づきがちなのは、ぼくも知っていますよ」とチャトフォード氏はユーモラスな調子で話した。「まさか、ぼくが槍玉にあげられていたのではないでしょうな?」
「あら、いいえ、とんでもございませんわ。それは……あの、まるで別のことでして、らちもない村の茶のみ話、噂話でしてね。わたくしたちがおたがいに、ひどくおどろきましたのは、なにしろ、ビクリー夫人が、あの……でも、こんな言い方をしましても、けっして、その……あっ!」ミス・ピーヴィは恐怖をみなぎらせた十二の瞳が、自分を見つめているのに気づき、おどろきの小さな叫びとともに、中途でやめてしまった。いったい、自分は何を話していたのだろう……?
しかし、チャトフォード氏はぜんぜんおどろいているようすはなかった。エクルズ・ケーキをまた一つつまんだ彼は、少し口に入れてかんだ。「ほう、そうですかね?」と彼はほんの儀礼的な興味以上のものをみせなかった。「ビクリー夫人のことを話しておられたわけですね。お気の毒、まったくお気の毒なこと。もう過ぎ去ったこととも言えますがね。それにしても、おっしゃるとおり、じつに奇妙なふしもありますね」
「ねえ、トアの奥さん」とアイヴィがせきこんだ調子で言った。「あたくし、あなたとカーニアンをお茶にお招きしたいと思っていましたのよ。ぜひ近いうちにおいでくださいな。もちろん、あたくしたちのところは、やっと落ちついたばかりですけど、でも……つぎの水曜日あたりはいかが?」
そこでカーニアンとトア夫人は、つぎの水曜日にアイヴィの家へお茶に出かけることにきめた。
いつか話はビクリー夫人のことからそれていった。
まもなく、ギニフリッドが席を立って帰ることにした。夕食のために着がえをする前に、例のとおりテニスの試合ができるように帰る、と父に約束していたからだった。カーニアンもいっしょに来て、途中で牧師館によってベンジーを連れ出し、四人でダブルスをやらないかと誘うと、カーニアンは同調した。マーチェスターから来た淑女も、バスをつかまえなくちゃ、と引きあげていった。
五分後、チャトフォード氏は、残っている女たちの心の底にいちばん執念ぶかくわだかまっている話題を、いかにもさりげなく持ち出した。「さっき、あなたがビクリー夫人のことを話されたのには、ふしぎな気がしましたね、ピーヴィさん」と彼は話した。「じつはぼく自身がその問題をとりあげたいと考えていたんですよ。いや、むしろ、ビクリー博士の問題なんですがね」
「わたしも同意見ですわ」とミス・ワプスワージーが唇をひきしめて言った。「もうとりあげられていい潮時ですよ」
「そうですかね?」とチャトフォード氏はかすかにとまどったようすをみせた。「ぼくは結婚以来いちども博士に会っていませんので、ようすをききたいと思っていたんですよ。もちろん、あなた方なら、お話しくださることができるでしょうな。奥さんを亡くした不幸を、どんなふうに耐えていますか?」
ミス・ピーヴィもミス・ワプスワージーも、トア夫人のほうを見た。
「そうですわねえ」とトア夫人は注意ぶかく言った。「申しぶんなくちゃんとしていらっしゃるようですわ」
「そうですか? けっこうですな。なにしろ悲劇的な事件でしたからね。検死官はじつに如才なく扱ったと思いましたよ」
「まったくね」とミス・ワプスワージーがかみつくように言った。
「とくにうれしい気がしたのは」とチャトフォード氏は、ただ話をしているにすぎないような態度でつづけた。「それまでにビクリー博士の名と結びつけて言いふらされていたらしい――なんと言いますか――噂話ですな、それが検死法廷の死因調査にぜんぜん持ち出されなかったことですよ。きっと検死官の耳にまるで入っていなかったにちがいないですな。しかし、入っていたとすれば、それを黙殺した検死官の行き方は、なかなか当を得たものだと思いましたね」
「噂話ですって?」とトア夫人が興味をみせてたずねた。「そうしますと?」
「ビクリー博士がこの近隣で、いささか無分別な親交があったという噂が、かなり流れていたんじゃないですか?」とチャトフォード氏はなめらかな調子で言った。「もちろん、邪気もない交際にちがいないでしょうが、博士のような立場の男としては、すくなくとも無分別でしたな」
「ああね。まあ、あれは――ええ、そんな噂があったにちがいないと思いますわ」
「相手の名前までも持ち出されていたんですね?」
「ビクリー先生と結びつけて、いろんな名前が持ち出されるのは、毎度のことでしたよ」とミス・ワプスワージーがしんらつに言った。
「ふむ、なるほど、ぼくもそんなことじゃないかと思っていたんですよ。もちろん、あなた方はその相手の名前をご存じでしょうな」
トア夫人は、自分の感情をかくすのが上手でなかったので、落ちつかない顔つきになった。この問題に関連して、ひところ娘からアイヴィの名が持ち出されるのを、しばしば聞いたことがあったのだった。彼女はちらとアイヴィを見やって、その顔がひどく蒼ざめているのを見てとり、どきっとした。では、やはり何かあったのだ。あんなに気をもんでいるようすからすると、なにか深刻なことがあったのだ。噂の半分が本当だとしても、ビクリー博士はなんという不快な男なのだろう。これまでずっと、いい人だと思っていたのに。
アイヴィを助けるために、突然トア夫人は何かはっきりしたことを言おうとしはじめた。「わたし――たしかに、デニー・バーン夫人――そのころのマドレイン・クランミア――のことは聞いていますわ。あの人の名前がビクリー先生の名前と結びつけられていたことは、たしかに聞いていますわ。つまり」――トア夫人は中傷的な文句をやわらげようとした――「そのころは、二人は親密な間柄でしたからね。もちろん、デニーと婚約してからは、あの人もあまりビクリー先生と会いませんでしたけど」
「ああ、なるほどね。あの婚約が発表されたのは、ビクリー夫人が亡くなった日でしたね? ふむ、じつに奇妙な暗合ですな」
「オレンジ・ケーキをすこしめしあがってくださいな、チャトフォードさん」とミス・ピーヴィがすすめた。「自分でつくりましたものですから、わたくし……」
「ありがとう、いただきましょう」
「ねえ、アイヴィ、あなたは何もたべていないじゃないの」
「もうあたくし、じゅうぶんいただきましたわ、ピーヴィさん」
「まさか、あなたもいま流行の食養生をしてるというんじゃないでしょう。わたくしの考えでは、あれはあまりどうも……それにほんとに、アイヴィ、あなたなんかそんなことをしなくても……」
「あら、してませんのよ、あたくし」とアイヴィは蒼白く微笑した。
ミス・ピーヴィとしては、こんなさしさわりのない話題で話しつづけたかったのであろうが、チャトフォード氏はさっきのことをまだ話し終わっていなかったようだった。ミス・ピーヴィがぶらさげた話の糸口を、彼はさし出がましくならないように、しかも強くはらいのけた。
「そうですよ、ぼくもそのことは聞きましたよ。そのころのクランミアさんのことはね。しかし、その前に、ほかの女があったらしいですな。たぶん、あなた方も聞きおよんでいられるでしょう?」
アイヴィの眼が訴えるように、ちらちら三人の顔を見やった。しかし、そんな必要はなかった。女同士のかたい仁義で、三人とも、ミス・クランミアの前のビクリー博士の女友だちなどは聞いたことがない、と強く否定した。もっとも、三人とも、その噂になった女友だちがだれであったか、よく知り抜いてはいた。なるべくならば、噂話に耳をかさないようにしているミス・ピーヴィでさえ、そのことを知っていた。ワイヴァーンズ・クロスのような土地では、噂話に耳をかすにはおよばない。まるで耳にはおかまいなく、いつのまにか噂話は意識のなかへ入りこんでくるのである。
「いいえ」とミス・ワプスワージーは、思い出そうと努力するていで眉根をよせながら言った。「いいえ、ほかのどんな女友だちのことも聞いたことはありませんわ。それはだれでしたの、チャトフォードさん?」
「いや、その女の名前は知らないんですよ」とチャトフォード氏はなめらかな調子で言った。そして三人の女性がほっと安らかに息づきはじめたのに気づいたにしても、彼はそんなそぶりは見せなかった。「おそらくそんな女は存在しなかったのかもしれませんな。もう一人、女があったと耳にしただけですからね。しかし、こんなせまい土地での噂話が、いったいどんなものか、あなた方も知っていられるでしょう」
三人の淑女たちはたしかに知っていたので、噂話を非難するような顔つきをしてみせた。
「奇妙なことですよ」とチャトフォード氏が言った。
ミス・ピーヴィはアイヴィの青い眼の底の表情を見てとり、さっきのトア夫人のように、突然なにかはっきりしたことを言おうとしはじめた。「それがクランミアさんだったことは、ちゃんとわたくしにはわかっていますよ。だって、忘れもしませんが、ある日……ほんとに、とほうもないことがありましてね。わたくし、生れてから、あんなに侮辱されたことはありませんでしたわ」どうしてそういうことになったのか自分でもよくわからぬうちに、ミス・ピーヴィは去年の春ビクリー博士が訪ねて来た時のことを話しはじめていた。その後に会った折りには大目にみるようにはしていたものの、彼女はその時の彼の行為をすっかり許していたわけでなかった。しかし、これまでだれにもそれを話していなかったのであった。いま、話しはじめてから間もなく、こんなことをしなければよかったと思ったが、もう取り消しにかかっても、手おくれであった。
「まあ、そんなことがありましたの」とトア夫人はこの場にふさわしいおどろき方をしてみせた。
「ほう、じつに無分別ですな」とチャトフォード氏は言った。
「そんなことがあったのに、ひとこともわたしに話してくれませんでしたのね」とミス・ワプスワージーが責めたので、ミス・ピーヴィは悪いことをしたような顔つきになった。
アイヴィは何も言わず、高価な手袋の片方を、ただなんとなく幾度も軽く片手でしごきながら、もてあそんでいた。トア夫人は母性的な感情のあふれるままに、アイヴィは着飾った子供のようだと思った。チャトフォード氏のような、味もそっけもない棒切れみたいな男の妻だなんて、考えるだけでもおかしい。年だって、二人は二十以上もちがっているにちがいない。アイヴィはほんとにこの男を愛しているのだろうか?
「もうこれで、相手の『既婚の男』がだれだったかなんて、頭をひねる必要もなくなったわけですわね、アディラ」とミス・ワプスワージーが言った。「それが去年の夏、この土地で大へんな問題になっていたことは、あなただってよく知りぬいているでしょう」
トア夫人が首をふった。「そんなこともあったようですわね」
「じつのところ」とチャトフォード氏が深く考えこむような口調で言った。「その『親交』がどれほどまでに親密なものであったか、ぼくにはわかっていなかったんですよ」親交という言葉が、意味ありげにごくわずかに強調された。
ちょっと沈黙がきた。問題が不安をはらんだまま宙ぶらりんになった。
「その親密さは」とミス・ワプスワージーがゆっくりと落ちついた調子で言った。「ジュリア・ビクリーを麻薬常用者にしてしまうほどのものだったのですよ」
チャトフォード氏はさぐるように彼女を見つめた。「よくわかりかねますがね」
「あら、なんでもないんですよ、チャトフォードさん」とミス・ピーヴィがひどくはらはらして言った。「ジャネットのつまらない思いつきにすぎないんですわ。ほんとに、ジャネット……そういうことは――まあ、あまり楽しいことではないんじゃない? そういうことを話すのはね」
「わたしたちは楽しいようなことを問題にしているのではありませんよ」とミス・ワプスワージーは不気味に言い返した。「じゃ、チャトフォードさん、別の角度から申しましょう。わたしはジュリア・ビクリーを知ってから十年ちかくになりますが、ぜったいにそんな麻薬に屈服したりするような人でなかったことを、あくまで断言できます。おわかりになりましたか?」
「では」とチャトフォード氏は静かに言った。「ワプスワージーさん、あなたはそういう証拠を考慮して、どんなことを示唆しようとしているんですか?」
「どんなことも示唆しようとしていませんよ。ただ、そのことをあなたに話し――トアさんも検死法廷の評決を納得されなかったということをつけくわえれば、それでわたしは自分の義務をはたしたと思うだけですわ」
「まあ、ほんとに、ジャネット」とトア夫人がわななくように言った。「そんなことを言うなんて……あなたにはまったくそんな権利は……」
「権利は権利ですわ」とミス・ワプスワージーは謎みたいに言った。
「あなたはどんなことをわたしにやらせたいんですか、ワプスワージーさん?」とチャトフォード氏がずばりときいた。
「このわたしは、どんなこともあなたにしていただきたいと望んでいませんわ。あなたは弁護士さんです。なにかすべきかどうかは、みずからご存じでしょう。わたしにはまったくわかりません。ただ、さっきの二つのことをあなたにお話しして、重すぎる責任をわたしの肩からとりのぞいた気がするだけですわ」だれがその肩にそんな責任をおわせたのか、ミス・ワプスワージーは言いそえなかった。
「わかりました」とチャトフォード氏は組んでいた足をおろし、前へのり出した。「このすばらしいお茶を、もう一ぱいいただけませんか、ピーヴィさん?」
どうやら問題は打ち切られたようだった。
それから二十分ばかりたって、マーチェスターへ帰ってゆく途中、チャトフォード氏は妻に顔をむけた。「ぼくが予想していたとおり、おまえのありがたい噂は、ワイヴァーンズ・クロスじゅうにひろがっているね」
アイヴィはふるえはじめた。「あら、ウィリアム、あたし、そうは思いませんわ、ほんとに。みんなが言ったように……」
「嘘を言っていたのさ。女が嘘を言っているかどうか、ぼくにわからないと思っているのかい? それくらいのことは、おまえも知っていていいはずだよ、アイヴィ。トア夫人なんか、顔じゅうの筋肉で、心のうちをさらけ出していたよ」
アイヴィは何も言わなかった。
「きっと今ごろは、みんなでそのことを話しているにちがいないよ。ぼくにとっては、まったくありがたい仕合わせというものじゃないか」彼の声には怒りの音調はこもっていなかった。チャトフォード氏は怒ったことがなかった。しかし彼の、味もそっけもない皮肉は、むちのようにアイヴィを責めさいなんだ。「ほかの男がすてた情婦を、まんまと女房につかませられたって、きっとぼくをあざけり笑っているにきまっている。まるで中学生みたいにだまされたってね。じつにおもしろいじゃないか」
「もう、ウィリアム、やめて――おねがい」
「まあ、ともかく、あの連中もおまえを無視だけはしなかったな。ぼくたちも、それには感謝すべきだろうな。おまえの衣裳のせいにきまっているさ。衣裳代は払うだけの値打ちがあるって、いつもぼくが言っているだろう?」
二人はだまりこんで一、二マイル車を走らせた。
「ところで、おまえの前の恋人をめぐるいろんな話は、いったいなんだい? 胸がわるくなるようなばか話じゃないか。ぼくたちがゆく前に、連中はどんなことを話していたのかな? あのワプスワージーという女は、なにか切り札をかくしているね。トアにしても、そうらしい。なにか思いあたることはないか、アイヴィ、え?」ふいに彼は彼女に質問を放った。
「い、いいえ、なにも。あたしにはわかりませんわ」
「ほう、おまえにはわからないんだね? ぼくが結婚してくれと言う前に、おまえがどんな女であったか知っていたら、二度と振りむきもしなかったろうということが、おまえにはわからなかったのと同じようにね、え?」
「もう、ウィリアム、おねがいだから、それをまたむしかえさないで」人のいいアイヴィの眼にはもう涙があふれていた。「どんなにあたしが、あなたを――だましたことをわるいと思っているか、おわかりでしょう」
「それも、ぼくを愛していたからだったというわけだね?」
「あたし、あなたを愛しているのよ、ウィリアム。ほんとなのよ。ただあたしのことを大目にみてくだされば」
「いや、そうじゃないよ」と彼は異常なすさまじさをみせて答えた。「おまえはまだビクリーを愛しているのさ」
「そうじゃありませんわ」彼女はすすり泣いた。「ほんとに、そうじゃありませんわ」
「ああ、おまえがビクリーを愛していることを、ぼくが気づいていたら」と彼女の夫は風よけガラスごしに前方をじっと見つめながら、きわめてしずかに言った。
ちょっとまた沈黙がきて、アイヴィのすすりあげる音が聞こえるばかりとなった。
「アイヴィ」とチャトフォード氏は、そうじゃけんでもない口調で言った。「こんなことをたずねたことはなかったが、実際的なちがいができてくるのだから、話してくれ。ビクリーが誘惑したとき、おまえはそういうことをまるで何も知らなかったのか?」
アイヴィは彼の口調にしがみついた。「ええ、まるでね。誓うわ」
「まったく無知だったんだね?」
「そ、そうよ。そうよ」
チャトフォード氏はじっと前方を見つめた。
「ウィリアム――それで実際的なちがいができてくるんでしょうね?」
彼女の夫はアイヴィのひざをなでた。彼のかわいた手のひらが絹服をこすって音をたてた。
「ビクリー博士にとっては、すっかり実際的なちがいができてくるかもしれないな」と彼はなんの感情も見せずに言った。
アイヴィはおびえた眼を彼にむけ、口をひらいたが、そそくさと顔をそらした。
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第九章
ビクリー博士は赤ぶどう酒をもう一ぱいついだ。ジュリアが死んでから、こんなささやかなぜいたくぐらいはできるようになっていた。
彼は自分のバラのことを思いめぐらしていた。去年は二本のマルシア・スタンホープが意外にみごとに咲いたのだった。去年の秋、もう二本ぐらい注文しておけばよかった、と彼は思った。それにしても、あのかわりに植えたホワイト・エンサインのほうが、もっと当てにできる。今年のバラの花壇は、例年よりもすばらしいものになるだろう。ジュリアがあれを見にゆけないのは、まったく可哀そうだ。二人が接触する部分はわずかばかりであったが、バラの花壇はその一つだったのだ。
気の毒なジュリア! ほんとに、あれは慈悲ぶかい救済だったのだ。生きていても、幸福だったことはなかった。どこにいるにしても、たぶん今ではおれに深く感謝しているだろう。ビクリー博士は、これで千回もそう考えるのであった。
彼はまた煙草に火をつけ、気持よく椅子にくつろいだ。ひざにひらかれていた本が、わきへすべりおちた。九時、仕事はすみ、炉のそばで、ひとりきりで過ごす快適な、長い夜(六月のはじめには、こうするのにかぎる。夜はまだ火がこころよい)。すこしもさびしく感じなかった。そんなことを一度も感じたことはなかった。ビクリー博士は、人間的な交友だけに頼って、自分の楽しみを得ようとする種類の人物ではなかった。
あれから、もう十三ヵ月ちかくたっている。ちかごろ、彼が興味ぶかく気づいていたのは、ジュリアの影がだんだん心から薄れてゆくことだった。それとわからぬぐらいに、すこしずつ彼は、彼女に会う前の状態にもどりつつあった。ジュリアは、彼の生活から離れて、一つの幕合い狂言の様相をおびてきていた――それも、堪えきれなくなると、断乎として勇敢に打ち切りにした幕合い狂言であった。
ジュリアが死んで以来、別人のように変わったことは、ビクリー博士自身が、まっさきにみとめていた。あの一つの行為が、どれほど自分自身についての考えを変えたか、じつにおどろくばかりであった。とにかく、おれは自分の存在を主張し、自分の計画を追及して、あくまでそれを遂行してゆく力にかけては、ほかのだれとも同等、いや、もっと優越していることを一挙に証明したのだ、と思わないわけにいかなかった。あれはどんな文句だったかな?「なかなか大したもので、自分の魂の支配者」そうだ、自分の魂の支配者なのだ。
気の毒なジュリア! 自分のことを幕合い狂言にすぎないなどと考えられたら、さぞいやがったことだろう。
それにしても、あの幕合い狂言は、おれにとっては重要な教訓になった。もう結婚はごめんだ――女たちもごめんだ。自分の魂の支配者は一人でたくさんで、それも女性の支配者はごめんこうむる。
女たち……ああ、マドレインからも危機一髪でのがれたのだ。いまデニーに対して抱いているほどの深い感謝の念を、ほかのだれにも抱いたことはない。その点、ジュリアの意見は正しかった。結局、おれはマドレインの心のどん底まで見破ったのだ。ああ、なんという淫蕩《いんとう》女だ! おもしろがっているだけだったのだ。それはたしかに真実だった。他人の最も深い純粋な感情をもてあそび、きたならしい泥水みたいな自分自身の感情のなかへ引きずりこんでいたのだ。おれはすっかりたぶらかされていた! だが、危機一髪でのがれたのだ!
気の毒なのはジュリアか? 気の毒なのはデニーだ! もうすでに噂が流れている。二人は別居していて、離婚をもくろんでいる(結婚後わずか八ヵ月で……)。マドレインのヒステリー的傾向がひどくなって、精神錯乱状態にまでなっている(たしかにそうにちがいない、とビクリー博士も思った)。いまでは二人の姿は、めったにワイヴァーンズ・クロスでは見かけられない。まったく、気の毒なデニー。二十四歳の未経験な身で、ひとりのいまわしい女の一身にかき集められて百倍にもなった女性のすべての欠陥を、どうして処理したりできようか。そんなに年若く結婚したこと、デニーが早く式を挙げたいと言い張ったこと、バーン家の人たちが気弱く承諾したことを、村の噂は非難した。こんどばかりは、村の噂も正当だったのだ。
そうだ、もう女たちはごめんだ。信頼できない、ただの一人も。一個の男は自分自身のものであるべきであって、自己満足にふけっている女性の熊使いなどのものになるべきではないのだ。ビクリー博士は過去十年間ひたすら探しもとめていたもの――自分が本当に結婚しているべきはずだった女を、やっと探し当てた。そしてそれはぜんぜん女ではなかったのである。
自由を得たことを感謝しよう、と彼は思い、五シリング六ペンスの赤ぶどう酒を、もう一口のんで、自由の霊に乾杯した。
おっと、待てよ、過去の思い出にふけるのは、よろしくないことだ。彼は落ちていた本をとりあげて、また読みはじめた。
事実を突きとめられるかもしれないという考えは、彼の心にうかんだことはなかった。ただ一、二度、検死法廷の時分に、つまらない恐慌におそわれた以外、そんなことはなかった。当然ではないか。なにも証明されるはずはない。なにも見つけられるはずはない。そんな可能性は毛ほどもないのだ。もちろん、どうにもならない噂話は、ある程度ながれたが、そのころ界隈の雰囲気に異常に敏感になっていたビクリー博士も、それがジュリアと彼女の麻薬常用に集中されているものにすぎないと断定した。医院のほうも少し不景気になったが、それは予期していたところだったし、それも今ではほとんど以前の正常な状態にもどっていた。つねに彼は安全に切りぬけていたのだったが、いまではもう安全という問題も消えうせかけていた。安全かどうかを考えたりする理由がないのだ。殺人をやったことを、ビクリー博士はほとんど忘れていた。もちろん、それが彼自身に優越感をもたらした点だけは別だった。
電話のベルが鳴った。悪態を口のうちでつぶやきながら、彼は立って電話のほうへ行った。電話は診察室にあったが、家にはほかにだれもいないのに、長年の習慣から、ドアをしめてから受話器をとりあげた。フロレンスとコックがやめて去っていたので、いまでは毎日、一人の女が村から通っていたのであった。
「もしもし、ビクリー先生ですか?」
「そうです。どなた?」
「アイヴィですわ。テディ――ぜひ会いたいんですの。来られますか――いつものところへ、あすの三時に?」
「まさかねえ、アイヴィ」とビクリー博士はたしなめた。「きみは結婚しているんだから、どうもそんなことは……」
「あら、そんなこととちがうのよ」アイヴィは例のように涙声であったが、せきこんでもいて、少し息を切らしながら話した。「とても大事なことなの。ぜひ来てくれなくちゃいけないわ。おそろしいことが……」
「なんだって?」ビクリー博士の声は急に鋭くなった。
「いまは話せないわ。どうもね。おそろしいこと……だめ、話せないわ。あす来てくれるでしょう?」
「うん、三時にね」
「まちがいなく?」
「うん、まちがいなくね」
彼は電話をきった。
いったい、いまごろ、アイヴィはどうしたというんだろう?
いずれにしても、もう女たちとは縁を切ったのだ。きっぱりと。
アイヴィが来るのは二十分ちかくおくれた。まずい運転の仕方で、入口の片側すれすれに車を乗りいれてきた。ビクリー博士は彼女に代わってハンドルをとり、彼女が言いわけをしている間に、灌木の茂みのなかへ車を乗り入れ、自分の車とならべて、人目につかないようにした。それはウィリアムの車だった。彼女は運転してはいけないことになっていた。ろくに運転の仕方も知らないので、そのためにこんなにおそくなったのだと彼女は言った。車を駆って来る気などはまるでなかったのだが、ウィリアムがロンドンへ出かけたものだから、それで……
ビクリー博士は心のうちでうめいた。ウィリアムがロンドンへ出かけると、すぐさまアイヴィは密会を要求してきた。おれはどうしても女たちと縁を切るわけにいかないのだろうか?
二人は高い巣へよじのぼっていった。アイヴィは石切場の入口へ、おそれるような視線をなげていた。あきらかに彼女は、人に見つけられはしないかとおびえていた。
ビクリー博士は、彼女のあとからよじのぼりながら、その姿をしさいにながめて、とにかくいいなあと思った。アイヴィはたしかにスマートに見えた。ワイヴァーンズ・クロスのほかの連中と同じように、ビクリー博士も、彼女がマーチェスターに移ってから、ほとんど会っていなかった。が、ワイヴァーンズ・クロスのほかの連中とちがって、彼は彼女のことをほとんど思い出しもしなかった。彼女がほんの少ししか変っていないのに、彼はおどろいた。彼女が結婚し、しかもチャトフォードを夫にしているなどとは、考えるのがおかしいくらいだった。そればかりでなく、ほんとうに前よりもきれいになっているように見えた。ちくしょう、チャトフォードなんかには、もったいなすぎる。きれいな女を賞美しようにも、チャトフォードなんか何も知りはしないでないか。それに、あきらかにアイヴィは、まだやっぱりおれを好いているらしい。だからこそ、機会ができると、早速あいびきをもとめてきたのだ。それを思うと、いささか心を動かされる。おれ自身がアイヴィと結婚していなくて、仕合わせのいたりだ。ほかの男と結婚しているアイヴィ、人妻としてのアイヴィは、未婚時代のアイヴィにはひどく欠けていた深い味があるかもしれない。まあ、いずれにしても、可能性はあるかもしれない。
ビクリー博士は、のぼりはじめたときとはまったくちがった気分になって、洞穴の入口へたどりついた。
二人は洞穴の内部に入りこんだ。
以前のビクリー博士がやりそうなことを、今のビクリー博士もためらうところなく、アイヴィに対してもやってのけた。すぐさま彼は彼女を抱きよせたのであった。
彼女はすこしばかり抵抗したが、彼に対してよりも、自分自身に対してであった。「だめよ、テディ、いけないことよ。あたし、人妻なのよ。あら、テディ、はなしてちょうだい」しかし、彼が承知する間もなく、彼女は両腕を彼の首にまきつけ、狂おしげにすがりついていた。
「アイヴィ――ああ」
「ああ、テディ、まだあたしを愛しているの? ほんとに? ねえ、愛しているって言ってよ」
彼はそのとおりに言った。
二人はキスした。
やっぱり、アイヴィは変わっていない、とビクリー博士は思いめぐらした。だが、彼女をチャトフォードの妻と考えるほうが、彼女のおもしろ味が増してくるのであった。
「ほら、ね、あそこにぼくたちの長椅子がまだあるよ。おぼえているだろう? あのクッションつきの長椅子さ。さあ、腰かけよう」
「あら、だめよ、テディ、いけないわ……いま、そんなこと、だめ、よして」
彼は彼女を引っぱって、自分のそばに腰をおろさせた。彼女はほんの形式的に抵抗してみせて、されるがままになった。
可愛いアイヴィ。彼はほんとうにちょっと好きな気になった。それに、こんなに大っぴらに愛情をみせられるのは、いい気分になるものであった。すくなくとも、たまに少量ずつ提供されれば、うっとりさせられる妙薬であった。
彼は彼女の手をとって、手袋をぬがせてから、帽子をとり、おれのものだという満足感をおぼえながら、彼女のやわらかな金髪のカールを指でなでまわした。アイヴィは彼のするがままにまかせていた。
彼女がほかのことを考えめぐらしているのが、だんだん彼にわかってきた。彼女は反応をみせなかったし、愛撫にこたえる情欲も青い眼にあらわさなかった。彼がどんなことをしているかに、気づいてもいないようだった。「なにをぼんやりお考えかね」と彼は冗談めいた調子で言った。
彼にむけた彼女の眼ざしが、あまりに意外なものだったので、彼はその瞬間の姿態のまま身をこわばらせた。それは生気もうせた恐怖の眼ざしだった。彼は電話での彼女の言葉を思い出し、いままで考えていたよりも、もっとまともな意味に気づいた。チャトフォードがアイヴィにどんなことをしていたというのだろう?
「アイヴィ! どうしたんだい? なにかあったんだね。話してごらん」
彼女は唇をしめした。「あたし――どう話していいかわからないくらいよ。それは――おそろしいことよ、テディ。身ぶるいがするわ!」
「どういうことなんだい?」なにか容易ならぬことなのだ。アイヴィがこんな顔つきをしたのはまだ見たことがない。
「ウィリアムがロンドンへ出かけて――そして――」
「まさか、きみから逃げ出していったんじゃあるまい? きみをおいてきぼりにしてさ?」
「そうじゃないのよ。あなたのことでよ、テディ」彼女ははげしくふるえはじめた。
「ぼくのこと?」と彼はおどろいて言った。「つまり、ぼくのことでロンドンへ出かけたというのかい?」
彼女はうなずいた。
「いったい、なんのために? 仕事のためにか? でも、ぼくの弁護士じゃないんだよ。いったい、どういう意味なんだい、アイヴィ?」
彼女の唇はひどくふるえて、はっきり言葉が言えないくらいだった。「あの人は――警視庁へ行ったのよ」
まるで長いピンで刺されたように、ビクリー博士は胸の左側に鋭い痛みがひろがるのを感じた。そして一瞬後に胸がわるくなるような鈍痛をおぼえた。彼はおののき、ぽかんと口をあけ、恐怖にかすんだ眼で、アイヴィを見つめた。
「ああ!」とアイヴィは細い声を放ち、彼からひきさがった。
彼女の動作に、はっとして彼は気をとりなおした。じっさい全身の力をこめて、わななく手足や震える神経を、けんめいにしずまらせた。アイヴィに――感づかせては――いけない。
「警視庁へ?」と彼はしゃがれ声ではあったものの、かなり落ちついた調子で言った。「いったい、なんのためにだい?」
アイヴィはすすり泣きながら、すこしずつ実情を打ちあけた。ビクリー夫人が死んで以来、おそろしい意地のわるい噂がひろがっていた。それをテディは知らなかったの? ええ、そうだったのよ。はっきりしたことは何も言われていなかったのだけれど、どうも事情が「へんだ」と考えられて、あの評決の裏には、ビクリー博士なら話せそうな、まったく別の話がひそんでいるのだ、とほのめかされていた、とアイヴィは言った。
「じゃ、ワイヴァーンズ・クロスの連中は、ぼくがジュリアを殺したときめつけていたのか?」とビクリー博士はふんがいに堪えないようにきいた。こんな噂があったとは、まったく初耳だった。いまいましい根性まがりの女どもめ! あの連中に、ひとあわ吹かせてやりたいものだ。
あら、それほどおそろしいものではなかったのよ、とアイヴィは言った。だが、なにしろ、ビクリー博士とミス・クランミアとのことが噂になっている真最中に、ビクリー夫人が死んだものだから、その時もう彼は新聞にでかでかと書きたてられ、言ってみれば、時の勢いでトップ記事にされた。スキャンダルの立役者から、完全なスターになった。しかし、原因と結果については、ほんのぼんやりとほのめかすようなことが言われていただけだった。
ところが、ぶつぶつ音をたてていた茶びんが、二週間ほど前のミス・ピーヴィのお茶の会で、一ぺんに沸騰《ふっとう》して、はっきりした言葉みたいなものを吹きあげたらしい。ミス・ワプスワージーが音頭をとり、トア夫人がうまく介添役をつとめた。ふつうなら、いつものように女らしい気焔をあげるだけですんだだろうが、とても運のわるいことに、ウィリアムもそこにいて、それをすっかり聞いた。しかも、アイヴィがほのめかすところでは、村の名流婦人にはおもしろい噂話であるものが、弁護士には重大な事件に見えたらしい。あくる日、彼はまたワイヴァーンズ・クロスに出かけ、そのことについてトア氏と話した。なぜトア氏と話したのか? それはトア夫人が、自分の夫は去年の検死法廷の評決をじゅうぶん納得していないと言ったからだった。
「ろくでもない悪婆め、のろわれてしまえ!」激怒に蒼ざめたビクリー博士は、がまんがならなくなってわめいた。「人もあろうに……チャトフォードにはわからないのかい、それが近隣に中傷的な話をひろげることしかすることのない悪婆どもの、ばかげたおしゃべりにすぎないってことがさ? それぐらいのことがわからないのかい?」
「でも、なにしろね」とアイヴィはおどおど言った。「あの人は――あなたをとても憎んでいるんだものね、テディ。あたし――あなたはそのことを心得ているがいいと思うのよ」
「ぼくを憎んでいるって? おどろいたな、ぼくはあの男に何もしたおぼえはないんだよ。どうしてぼくを憎んだりするんだい?」
「だって――あの――」
「まさか、アイヴィ、きみはぼくたちのことを話したんじゃあるまいね、話したんだな! ちぇっ、このばか! ぼくは……」
アイヴィの涙はいよいよたくさん急速にながれおちた。「あなたが怒るだろうって、わかっていたのよ。でも、あたし、どうしようもなかったの。あの人が、むりにあたしに話させたのよ。あれがどんな人か、あなたにはわかりっこないわ。あの人は――あたしが――よくないことをしていたのを知っていて、そして……そりゃ、あたし、話すまいとしたのよ。ほんとなのよ。でも、あれがどんな人か、あなたにはわかりっこないわ。あの手この手で……」
「いいよ、アイヴィ」こんなばかを相手に、かんしゃくをおこしてみても、なんの役にもたたない。冷静にかまえていなくてはいけない、冷静に。おびえさせたり、敵意をいだかせたりしないかぎり、アイヴィはきわめて貴重な味方なのだ。下劣な、陰謀をたくらむチャトフォードの陣営にいるスパイなのだ。愛されていると思いこんでいるかぎり、アイヴィはやるだろう……「いいよ、きみ」彼は彼女の顔をまたなぐりつけてやりたかったし――こんどはなぐりつづけてやりたかったのだが、むりに微笑してみせた。「もう泣くのはおよし。いきさつはよくわかったよ。それに、とにかく、もうすんだことだからね。あの男がぼくを憎むのも、もっとも千万というものさ。それであの男は、ばかげた大発見をネタに、わざわざ空《から》騒ぎをまき起こしに出かけたというわけだな、え? まあ、いいさ。もちろん、警視庁はあの男の言うことなんかに、まるで耳をかしゃしないよ。よしんば、あの男が行くとしてもだね。たぶん、きみをおどかすために、そんなことを言ったにすぎないだろうよ。いくらあの男だって、それほどばかじゃあるまいからね。たとえまた、警視庁で耳をかすとしても、二分間も話をすれば、すべてがはっきりするよ」
「そうなの?」とアイヴィは顔を明るくしながら言った。「じゃ、大へんなこととは思わないのね?」
「大へんなこと? とんでもないさ。こんなばかげきったことが、大へんもヘチマの皮もないじゃないか」ビクリー博士は自分自身の言葉に、もう安心しかけていた。こいつはいまいましくうるさいことになるかもしれないが、大へんなことになったりするはずはない。「まあ、ぼくに笑わせるぐらいが落ちさ――そんなところさ」
「まあ、テディ、そんなふうにとってくださって、とてもうれしいわ。あたし、ほんとにウィリアムのことを恥ずかしく思ってよ」
ビクリー博士は心から本当に笑った。
「だって、きみにはわからないのかね」と彼は熱心に説明した。「警視庁で事情をきいて、それが女房の以前の愛人に対し、過去にさかのぼって嫉妬している一件にすぎないとわかれば、あの男の話すことの九割までは三文の値打ちもなくなる。警視庁では、たちまち見抜いてしまうよ。気ちがいじみた復讐心をね」
「でも、テディ、あなたはそのことを話すつもりじゃないんでしょうね?」
「なんのことをさ?」
「その――愛人だったことをよ。そんなことをされたら、あたし、なにもかも明るみに持ち出されてしまうんじゃない?」
「ねえ、アイヴィ」とビクリー博士は少しいらいらしながら言った。「ぼくはきみの名誉をかばうために、絞首刑になるつもりはないよ。そんなことは、物語の人物はやるかもしれないが、現実の人生では、ちょっとばかりむごすぎるだろうな」
「まあ、よして」アイヴィは身ぶるいした。「絞首刑なんて言わないで。そんな――そんなことを聞くと、ぞっとしてくるわ」
「ばかだなあ」とビクリー博士は彼女をすかした。まるで彼の死刑執行令状に本当に署名がされたかのように、彼女は狂おしげに彼にしがみついた。
ビクリー博士は、さしあたり、もうこれ以上、情事にふける気はなかった。彼は現在までのチャトフォードの行動をすっかり知りたかった。
おざなりの愛撫をしながら、彼はそれを知った。
チャトフォードはまずトア氏と会って話した。トア氏は、はっきり断言できるようなことは何も持ちあわせていなかった。ただ、検死法廷に提出されたありのままの事実というのは、どうも本当らしくないように感じる。あれが真実であるとすれば、あれを説明すべき他の事実が、善悪いずれかの理由によって隠されているにちがいない。だから自分はあの検死法廷の行き方に不満を表明する。つまり、検死官がじゅうぶん深く調べていなかったと言うのであった。
チャトフォードはこの会談についてはあまりアイヴィに話さなかったが、二人でビクリー夫人の性格を検討したことをつけくわえた。もちろん、これはチャトフォードよりも、トア氏のほうがはるかによく知っていて、彼女は麻薬常用の悪習に屈服しそうもない人間であるから、麻薬を用いた表面上の理由になっている頭痛については、もっと十分に調査されるべきであるという結論に達した。彼女が死ぬ前の数ヵ月間、じつに激烈な頭痛に悩まされていたことは、知人たちによく知られていた。彼女の意志の力をもってしても、それを隠すことができなかった。しかし、検死法廷では、その原因がきわめて軽く見すごされていた。タマートン・フォリオット卿の名が持ち出されたが、本人は証言しなかった。チャトフォードはタマートン・フォリオット卿に会うつもりだと言った。
「だが、あの男は何をねらっているのかね?」とビクリー博士は頭をひねってきいた。「いったい、そんなことがなんの役にたつのか? チャトフォードがほんとに考えているのは、どんなことなんだい?」
アイヴィが話したところによると、チャトフォードとトア氏とミス・ワプスワージーは、三人とも、おそろしい疑惑をいだいている。ビクリー夫人は、自分の夫とマドレイン・クランミアとの恥さらしな恋愛事件に責めたてられて、計画的に過量のモルヒネを注射した、と疑っているというのである。
「ジュリアが自殺した、と信じているんだね?」とビクリー博士は半ば信じかねるように言った。
アイヴィも、彼らがそう信じているとは言いきれなかった。彼らはその可能性を信じているだけだが、ウィリアムはそれをすっかりあばき出し、ビクリー博士の信用を台なしにして、永久にワイヴァーンズ・クロスから退散せねばならぬようにしてやろうと決心しているというのであった。
ビクリー博士はほっと安心したとたんに、あやうく笑い出しそうになった。では、殺人などは、まだまるで問題にもなっていないのだな。このアイヴィの阿呆め、あんなにおれをおびえさせたりせずに、どうしてはじめから、そう言っておかなかったのか? それにしても、じつに妙だな、ジュリアの死が自殺にされようなどとは、おれはまだ一度も考えたことがなかった。そんなことはまるでジュリアらしくない。トア氏もアマチュア心理学者として、ちょいと味なまねをやるな。
ビクリー博士は、さらにアイヴィから聞き出しつづけた。
チャトフォードがロンドンで会うつもりでいるのは、タマートン・フォリオットだけでなかった。ロンドンにはデニー・バーンはいなくても、その妻のマドレイン・バーンがいた。チャトフォードはあの恋愛事件を徹底的にあばき出そうと決心していた。実際そこに謎がひそんでいるのだ、と彼はアイヴィにほのめかしていた。ワイヴァーンズ・クロスの連中が信じていたように、ビクリー博士の気持が真剣なものであったのならば(明らかにマドレインのほうはそうでなかったが)、疑いもなくビクリー夫人には自殺する強い動機があったことになる。ビクリー博士がどれほど真剣であったかは、マドレインからつかみとることができる、とチャトフォードは思いこんでいるのであった。
ビクリー博士は、あごをなでた。マドレインはためらうところなく、彼のことを暴露するだろう。それは彼も確信できた。婚約の日以来、彼女は耳をかしてくれるどんな人間にでも、あの恋愛事件のことをしゃべって、下劣なよろこびを味わっているらしかった。そしてまた当然、すすんで耳をかす連中がたくさんいたのである。そのために彼は、この土地でたしかに多大の損害をうけていた。去年医院のほうが不景気になったのは、ジュリアの死よりも、そのことが原因だったと彼は考えていた。だが、たとえマドレインがチャトフォードに洗いざらい暴露するとしても、それがなんだというのだ? そんなものは口先だけの悪態にすぎない。そこまでゆけば、マドレインの言葉を信用できないものとするのは、かなりうまくやれそうだ、とビクリー博士は思った。マドレインがヒステリー患者であることを証明するのは簡単であるし、ヒステリーから妄想へはほんの一歩にすぎない。それに、マドレインの正体をあばいて、いやらしい女であることを暴露してやるのも、いささかおもしろいだろう。気の毒なデニー!
「だが、警視庁とはどういうことだい? たしか、チャトフォードは警視庁へ行ったんだったな。どうしてそんなことをするのだろう?」
つまるところ、いろんな人たちと会って聞いた話と、ワイヴァーンズ・クロスで集めた話を結びつけてみて、調査する必要のある事件と見こみがつけば、警視庁へ行って警察官に話すつもりなのだろう、とアイヴィは言った。
「警視庁では、チャトフォードを笑いのめすにきまっているよ」とビクリー博士は確信をもって断言した。「いまごろになって、ジュリアが過失で死んだか自殺したかなんてことが、だれにどう問題になるんだい? もちろん、ぼくをこの土地からたたき出そうとかかっているのなら、チャトフォードには大いに問題になるかもしれないよ。しかし、警察にはぜんぜん問題にはなるまいさ。死んだ女の名誉をけがしてまで復讐をたくらむとは、じつに下劣なやつだ」
「でも、テディ――あなたは気がもめないの?」
「きみ、なにも気をもんだりすることはないんだよ。もちろん、ジュリアは自殺なんかしたんじゃない。そんなことを考えるのはばかげきっている。しかし、もちろん警察当局も、きみのごりっぱなご主人がそんな空騒《からさわ》ぎをまき起こすのを許してはおくまいさ。当然、ぼくは気をもんだりすることはないんだよ」
「あたしなら、気がもめるにちがいないわ」
「だが、ぼくはちがう。それに、いまは気をもんだりしている時じゃない。こうしてまたここで、きみと会っているんだからね。以前とそっくり同じじゃないか。もとにもどれて、うれしい?」
「あら、テディ、あたしがうれしく思っていること、あなたにはわかっているでしょう。あなたも? ほんとに、ほんとに?」
「そうだともさ。きみは以前よりもきれいになったよ、アイヴィ。おまけに、ちかごろスマートにもなったじゃないか。この帽子が気に入ったよ。それに、本物の絹靴下。こりゃ、すっかり本物の絹なんだろうね、チャトフォードの奥さん、え?」
「だめよ、テディ……いけないわ。だめよ――もう、あたし、人妻なんですもの。そんなことしちゃいけないわ……ほんとに、ビクリー先生、まあ、そんなことをなさるなんて……ああ、テディ……」
一時間たってから、二人は別れた。
ビクリー博士は車を駆って家に帰りながら、ひとり微笑した。チャトフォードの行動などは、本気に重視したりするにはあたらない。それに、その行動に対して、こんなにもすばやく、からめ手から復讐してやれたのは、うれしい、と彼は思った。
アイヴィはきわめて貴重なものとなった。彼女は自分の知ったことをなんでもビクリー博士に知らせたし、彼に代わって根ほり葉ほり夫に質問した。チャトフォードがロンドンから帰ってからは、彼女は車が使えなくなったので、二人はマーチェスターに密会する部屋を借り、そこで週二回ずつ、ひそかに安全に会いつづけた。
ビクリー博士の指示にしたがって、アイヴィは巧妙な行き方をするようになった。いまではビクリー博士を憎み、彼がワイヴァーンズ・クロスから追い出されるのを見てやりたいと、チャトフォード自身におとらず懸命になっているように、彼女はチャトフォードに見せかけた。こんな行き方で、チャトフォードが同情のない質問者にもらしそうもない情報を、ふんだんに彼女はつかみとったのであった。
このようにしてビクリー博士は、チャトフォードがタマートン・フォリオット卿からはほとんど何も聞き出せなかったが、マドレイン・バーンからは、こまごましいことばかりながら、とにかく、警視庁へ行くのがいいと考えられるだけのものを聞き出したことを知った。ビクリー博士は、この警視庁訪問に大いに関心をひかれ、それについてくわしくアイヴィに質問し、あとでチャトフォードに質問すべき点も指示した。しかし、そんなにしてわかったのは、チャトフォードが大した熱意もなく部屋に通されて、犯罪捜査部の大警部に会って話したこと、そして大警部から、なにぶん管轄外であるから、警視庁はこの問題で動くわけにいかないが、もし調査によって何か得られると確信されるなら、所轄のデヴォンシア州警察に事実を申告されるがいいだろうと、おだやかに忠告されたということぐらいのものだった。総じて、あまりうまくいったとは言えないな、とビクリー博士は意地のわるい歓喜に、ひとりくつくつ笑った。
チャトフォードは自分のつかんだ事実を州警察に話した。
その結果については、彼は前よりもアイヴィに黙りがちだった。しかし、ビクリー博士は不安もおぼえなかった。すべてがあまりにばかばかしすぎた。チャトフォード自身とその出しゃばりに、だんだん腹がたち、うるさくなるのを迷惑がる以外、ビクリー博士の気持は影響をうけなかった。調べられたりするなどは考えられもしなかったが、たとえ調べられるとしても、ジュリアの麻薬常用を知ってから、彼女に用いられるところにモルヒネをおいていたことをとがめられるぐらいが、関の山にちがいなかった。それにしても、うるさいことだったので、チャトフォードがだんだん我慢のならないものになってきていた。ビクリー博士は、けっしていやがってはいないアイヴィを、また本式の情婦にすることによって、自分の憎悪を癒《い》やして楽しい気分になった。けしからんおせっかいをやっているチャトフォードは、これくらいの代償をはらうべきものなのだ。
それから長くもたたぬうちに、デヴォンシア州の首都エクセター市から、未知の男が来て、ワイヴァーンズ・クロスをうろつきまわり、さりげなく住民とおしゃべりをしているのが見かけられた。ビクリー博士は、ただ軽蔑まじりに、おもしろおかしそうにこの男の行動を観察していた。村の噂話ばかり集めて、大へん役に立つだろう。それに、村の人びとはみんなおれを好いているが、ジュリアを好いてはいなかったのだ。こんな時間と経費の浪費に抗議する手紙を、納税者の一人として、エクセターへ出してやろうか、とビクリー博士はおもしろ半分に考えたりした。
未知の男は消え去った。そして、もうそれで事は終わったように見えた。もう七月もずんずん日がすぎていたので、ビクリー博士は、夏の残りの日々も平和に暮らせるだろうと期待した。
それにしても、傑作の仕上げになる一筆か二筆をつけくわえるのは、ちっとも差しつかえのないことである。特に一つの出来事はビクリー博士の気に入った。
「テディ」とアイヴィが、ある日、あどけない調子で言った。「あなたがほんとにマドレインに結婚を申しこんだこと、あたしに話してくれなかったわね」マドレインのことはアイヴィの大好きな話題であった。彼女はそれについて彼に訊問したり反対訊問したりするのが好きで、二人の交情のあらゆる点をこまかくたずね、そのころの自分の苦悩、さらに無意識のうちに彼の苦悩も再現して、たのしむのであった。ビクリー博士はやめてほしかった。そんなことはぜんぜん話したくなかったのである。
「そうだったかな?」と彼はしゃがれ声で言った。いつものように、このおもしろくない名前を持ち出されて、しりごみしていたのだった。
「でも、ほんとに申しこんだのね」
「じゃ、あの女はそんなこともしゃべったんだね?」
「そうよ、マドレインがウィリアムに話して、ウィリアムがあたしに話したのよ。ねえ、そのことを話してきかせてよ。テディ。マドレインの話だと、あなたは熱狂的な場面を演じたらしいわね。それが、なんとまあ、あの日あたしが道であなたに会ってから、わずか一時間ばかり後のことなのよ。おぼえている? ねえ、テディ、あたしに話してくれたってよかったと思うわよ。ほんとは、マドレインはなんて言ったの? そしてその間ずっと……テディ、聞いていないのね」
ビクリー博士は窓からふりかえった。アイヴィの話したことから、かねて彼女に指示しておきたいと考えていたことを思い出したのだった。「アイヴィ」と彼は小さな子供に対するように、きわめてはっきりと言った。「あの午後きみに会ったとき、ぼくは時間をたずねたね?」
「そうだったけど?」
「きみは三時二十分前だと言ったね?」
「そう言ったかしら? ああ、たしかにそう言ったわ」
「きみの時計が十五分ちかく進んでいたのに、あとで気づいたかい?」
「いいえ、おぼえてないわ」
「じっさい進んでいたんだよ。そのために、いささかぼくは困った羽目になってね。とても重要な約束があって、本当よりも十五分間すくなく勘定したものだから、その前にゆくはずだった病家を一軒すっぽかしたんだよ」
「ほんとなの? それはわるかったわね、テディ。でも、そんなことをよくおぼえているわねえ」
「おぼえているともさ」とビクリー博士は前よりもはっきりと言った。「あの午後きみがぼくに会った時間は、本当は二時二十五分だったのだ」あの車をとめて道路へ出たとき二人の村人に会ったのが、ちょうど二時二十分をすぎたばかりだったことを、彼はずっとおぼえていた。「きみもそれをおぼえておくがいいよ」
「ええ、おぼえておくわよ。でも、ほんとは、どうだっていいことじゃない?」
「ああ、そうさ。どうだっていいことだよ。でも――たぶん、きみはあの午後ぼくに会ったことをチャトフォードに話したんだろうね?」
「いいえ、話さなかったと思うわ。たしかに話さなかったわ。あの人、たずねたことがないものね。知らないから、たずねようがないんじゃない? でも、じつのところ、あんなこと、あたし自身もすっかり忘れかけていたわ」
「ぼくだって、そうさ。ふっと思い出しただけだよ。でも、もしか持ち出されるようなことがあったら、あれは三時二十分前じゃなくて、二時二十五分だったことを忘れないでね。きみの時計が進んでいたなんてことは、なにも言わないことにしよう。話をこんぐらからせる必要はないからね。ただ、ぼくが時間をきいたとき、きみは自分の時計を見て、二時二十五分だと告げた、と言えばいいんだよ」
「いいわ、テディ。おぼえておくわ」
ビクリー博士は彼女に微笑した。アイヴィがアイヴィであることは、なんと幸運なことであろう。
「ところで、最近チャトフォードは何か話したかい?」
「いいえ、だいぶ長いあいだ話さないわ、テディ」
ビクリー博士は愛情ぶかげに彼女にキスした。
チャトフォードがだんだんアイヴィに黙りがちになっていたのは、ただ一つの理由しかありそうになかった。つまり、何も話すことがないのだった。しかし、ビクリー博士の憎悪は減少しなかった。いや、どちらかといえば、増大していた。
ビクリー博士は、生れてから憎んだことがなかった。だが、いまは二人の人間、チャトフォードとマドレインを憎んでいた――チャトフォードのほうは強い毒気をふくんで憎んでいたし、マドレインのほうは胸がわるくなるような嫌悪感をもって深く憎んでいた。ビクリー博士は、ジュリアよりもマドレインにひどく侮辱されたと思っていた。マドレインは彼が生れて以来いだいた最も神聖な感情、最も純粋な、誠実な感情をもてあそんでいたのだ。彼女自身の不安定な感情を満足させるために、彼の魂のあらゆる要素を食いものにしていたのだ。しかも、それだけであきたらず、おどろくべき饒舌《じょうぜつ》でもって、彼を中傷することに変態的なよろこびを味わっていたのだ。なんの挑発もうけないのに、彼女が彼の心をまっ黒に塗りつぶすことによって、自分自身のいやしく下等な心を白く塗りたてながら、ひどく勤勉に言いふらしている話を、ビクリー博士はよく知っていた――何も知らず、信じやすい白い花のような彼女は、職業的な色事師に心を悩まされていた。その男は驚くべき嘘と遠慮えしゃくもない手れん手くだで、一時的に彼女の心を奪ったが、危機一髪の瞬間、彼女は正気にもどり、神がおんみずから御手をくだし遊ばされたかのように、彼女の両眼からウロコが払いおとされて、ふらちな男はたちまち退散させられた、というのであった。マドレインはこんな趣向の話を、バーン家、トア家、ハットン=ハムステッド夫人など、だれにしても、この界隈のおもだった人たちの耳へ、せっせと流しこんでいた。もちろん、さすがに彼女もこの話に登場する男の名前を挙げることは差しひかえていたけれど、ビクリー博士は一時ひどく冷たい眼で見られる自分自身に気づいたものだった。
いまも彼は、マドレインのことを思うと、憤りに身ぶるいがしてくるのであった。もはや彼はデニーを憎むほどの相手と見ず、気の毒なやつと軽蔑しているだけだった。将来は貴族になれるし、八千ポンドの年収のあるデニーは、もちろん、どんな清純な女の愛情でも受ける資格はあるはずだった。
ビクリー博士が現在、もと彼女の恋敵であったマドレインを憎悪しているために、アイヴィだけが直接の利益を受けることになった。すべての事象が少し遠近法的に見られるようになるだけの期間をおいて、マドレインからアイヴィへもどってきたビクリー博士は、二人を比較してみないではいられなかった。そしてマドレインに対する感情的な反撥にかられて、アイヴィにありもしない真価をみとめるようになったのである。
夏の日々が過ぎてゆくにつれて、ビクリー博士の自分の情婦に対する価値評価はだんだん高まった。つのってゆく彼の愛情は彼女をあたため、彼女は蝶のような心の翼をひろげた。彼に対する彼女自身の愛情は、おどろくほど変わりなくつづいていた。過去を根をもつチャトフォードの嫉妬におびやかされる危険が消えうせたので、彼女は陽気に、快活になっていた。二人の週二回ずつの密会は、以前の密会よりも楽しかった。涙はもう過去のものとなっていた。アイヴィは落ちついてきていたが、彼にとって一ばん大きな魅力だった子供っぽさは失っていなかった。彼女は自分の新しいスマートさが彼の気に入り、自分の魅惑を増すように彼の眼にうつるのを見てとると、天真らんまんな喜びをもって、この新しい分野を開拓しようとした。少女が母親の帽子や毛皮をきてみせるように(ちょうど同じような効果をもたらしながら)、彼女は着飾ってみせた。絹靴下の新しい色合いぐらいにしても、なにか新しい興味をひく服飾品を身につけようとしたり、新しい帽子やドレスにしても、いちいち大まじめに彼の賛成をもとめたりした。
いつもアイヴィが、彼のどんなわずかな言葉にも服従しようとしてみせる態度は、新生のビクリー博士の気持にぴったり合うものだった。起死回生の一挙によって、永久にかなぐりすてるまでは、これまでの生涯じゅう、玄関先におかれた一枚の靴ふきみたいな生き方をしてきた彼は、いまや自分自身の靴ふきをもとめていた。そしてアイヴィは理想的な靴ふきであった。彼は真剣にアイヴィのことを考えはじめた。三年前に、アイヴィこそ自分が本当に結婚しているべきはずだった女だと思ったのも、結局、さほどまちがってはいなかったのだ。ただ、そう思うのが早すぎただけだ。あの時分は、彼女の真価をみとめるだけの能力が、まだできていなかったのだ。まだ手引きひもで引っぱられていた奴隷で、そのひもがなければ、とほうにくれる身であったのだ。だが、今は……
三年前の古い空想劇が、ふたたび上演された。彼はじゅうぶん観察してみて、これはいけると思った。またもやクリケット試合の上演は中止された。
このころ、まったく新しい空想劇も上演された。じつに魅惑的な空想劇で、ゴムの流し型みたいに、絶えずふくらみつづけてゆくようだった。これはアイヴィをめぐる空想劇から発現したものだった。アイヴィがビクリー夫人となるためには、その前にチャトフォードを消し去ることが、あきらかに必要であった。じゃまな夫を消し去るには、二つの方法がある――離婚か死である。離婚にはこんな不利な点がある――アイヴィは一文なしで彼のところへ来るだろうから、共同被告である彼は、ワイヴァーンズ・クロスを去って、どこか他の土地で開業しなければならなくなるだろう。相手がマドレインならば、彼が確実な地歩を得るまで、彼女の金でやっていけるから、簡単であったが、こんどの場合は、それが不可能となるだろう。それにひきかえ、死のほうにはこんな明確な利点がある――アイヴィは彼のところへ来るだけでなく、チャトフォードの未亡人として、チャトフォードの相当な財産で身を飾って来るのだ。してみると、どの面からしても、チャトフォードが死にさえすれば、じつにすばらしく都合がいいのである。
これが最初の空想劇であった。それからこれは、つぎのような線にそって発展した――どうせ死を登場させるなら、チャトフォードだけでなく、マドレインも、そのほかエドマンド・ビクリー博士にとって不快な人間はだれでも、ついでにうまく片づけさせれば、どんなにすばらしく都合がいいだろう。
ビクリー博士がチャトフォードとマドレインを殺そうとして行動をはじめたのは、その決心をしてから数週間後のことだった。殺人は冗談半分にやれることではない。ほんのちょっと〈へま〉をやっても、わが身の破滅をまねくかもしれない。ビクリー博士はわが身の破滅をまねくような危険をおかすつもりはなかった。
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第十章
ビクリー博士はデ・クインシーの「芸術としての殺人」を読んだ。
彼はトマス・グリフィス・ウェインライトには感銘をうけたが、ジョン・ウィリアムズは決して芸術家とは言えないと思った。しかし、ぜんたいの意見としては、この著者に同意した。殺人は芸術となり得る。だが、だれにでもやれるわけではない。殺人は超人のための芸術である。ニーチェがデ・クインシーの主張を発展させることができなかったのは、じつに残念である。
ビクリー博士は、自分が芸術家としてだけでなく、超人としても、殺人に対する資格をそなえていることを、ぜんぜん疑わなかった。こんな資格をそなえているということは、こころよい気分をそそった。自信と力量に満ちた感じをあたえた。がまんができなくなった人間はだれでも、ほんとうに片づけてしまうことができる、と思う気持は……ただ、じつに残念なのは、この特殊な分野の芸術家たちは、自分の傑作を誇らしく指摘できないことである。芸術のための芸術なのである。
それにしても、ビクリー博士は自分の行為を、まだ本当に殺人とは思えなかった。自分がやってのけたことや、これからやろうとしていることと、殺人とのあいだには、きわめてはっきりした差異があった。もっとも、それを全面的に明確化することは、彼にもできなかった。
殺人であるにしても、ないにしても、やはりその方法には細心の注意をはらわねばならなかった。ビクリー博士はめんみつに熟考した。およその大筋ははっきりしていた。その死は自然死か事故死と見えなければならない――断じて計画されたものに見えてはならない、ということだった。弾丸で穴だらけにしたり、斧で切りきざんだり、砒素をふんだんに飲ませたり――見えすいた方法で犠牲者を片づけ、捜査のまずさを当てにして、のがれようとするような殺人犯人に、ビクリー博士は軽蔑を感じるだけだった。彼の方法は、そんなものよりはるかに巧妙なものでなければならなかった。
偉大な人物とは、たんに機会をとらえるだけでなく、それを見てとる人間のことである。ビクリー博士はそのことを心得ていたので、しばらく待機しながら、前の時と同じように、いろんな計画を検討しつづけた。そして自分自身の患者の一人が、悪性の腸詰《ちょうづめ》中毒にかかり――その機会が出現したとき、たちまちビクリー博士はそれを見てとり、マーチェスターの公立図書館へ出かけた。それから細菌培養器を買い入れた。彼は細菌学者ではなかったが、腸詰中毒の毒素をつくり出すボツリン菌の培養は簡単だった。ビクリー博士はそれを培養した。
この思いつきを検討してみればみるほど、いよいよ彼の気に入った。チャトフォードの死は、あらゆる点から見て、自然な様相を呈するだろう。ワイヴァーンズ・クロスに患者が出ていることは、この地方に汚染した食品が出まわっていることを証明する。食品によって病菌を受けるのは、チャトフォードもマドレインも、まぬがれることはできない。計画されたものという疑いは起こるまい。それにしても、この方法は安全ではあるけれど、確実ではない。かならず死ぬとはうけ合えない。しかし、このやり方にはじつに多くの利点があるから、このただ一つの欠点はがまんするしかない。もし失敗しても、最初の罹病《りびょう》で抵抗力が弱っているのに乗じて、いつでもボツリン菌の第二陣をさしむけることができる。そうすれば、死をまぬがれることはできまい。
ビクリー博士は法律上の用件をつくり出し、それを相談するために、数日中にお茶に来てもらいたい、とチャトフォードを招待した。
こまったことに、チャトフォードが気むずかしいところをみせた。ビクリー博士の法律顧問でなかったチャトフォードは、博士の友好的な招待状への返事としてよこしたそっけない手紙のなかで、自分はビクリー博士の法律顧問になる意志はぜんぜんない、とはっきり断わってきた。ビクリー博士が電話をかけると、チャトフォードは冷やかな調子で、ひどく忙しくてワイヴァーンズ・クロスまでお茶に行けない、しかし、その用件のほうは(ぜひと言われるなら)マーチェスターの自分の事務所で、いつでも相談に応じていいと話した。ビクリー博士はアイヴィに向かって、自分の申し出を拒否したチャトフォードの態度に苦々しく不満をならべた。
ところが、突然、まったく思いがけなく、チャトフォードが電話をかけてきて、じつに親しげな調子で、明後日の午後、ワイヴァーンズ・クロスの近くへ行くことになったから、その時でよかったら、ぜひお茶をよばれにおうかがいしたいと言った。よろこんだビクリー博士は、たいへん都合がよいと答えた。
そんなにチャトフォードの気持を変えさせたのが、アイヴィのせいだったのかどうか、ビクリー博士はアイヴィにきいてみることはできなかった。そのあくる日、彼女は密会する部屋に現われなかったからである。そしてビクリー博士がその部屋を借りるために用いていた偽名をあて名にした彼女の手紙がおいてあって、それにはこんなことが書いてあった――急にウィリアムが、あたしをスペインへ行かせることにしてしまった! ウィリアムには一人の妹があって、その夫がイギリスの大きな工業会社の代表としてスペインに住んでおり、あたしはその妹夫婦に会ったこともないのに、突然、あたしとチャトフォードに手紙をよこして、もしチャトフォードが同道できないなら、あたしだけでも、すぐにバルセロナの住居へ訪ねて来てくれと言ってきた。ウィリアムはあたしに行けと言いはり、いやという返事はてんで受けつけようとしない。一生に一度の機会だとか、おまえにはすばらしい旅行になるだろうとか、近ごろ健康があまりよくないようだから、転地はとてもいいだろうとか、あれやこれやと百も理屈を持ち出した。でも、テディは心配するにはおよばない。ウィリアムは何も疑っているわけではないからだ。こんどほどやさしくしてくれたことはないから、それはたしかだ。あたしは秋になったら、またあなたに会いたいと思っているけど、別れているあいだは、つらいにちがいない。いつでもあなたを愛しているし、毎日手紙をあげるから、あなたも毎日手紙をください。
ビクリー博士は、もの悲しかったし、彼女と別れているのはつらかった。だが、そんな幸運に彼女が見舞われたのは、彼も心うれしかった。それに、かならず秋がくるにきまっているのだし、休養はだれにとってもわるいはずはないのだ。
彼はジョウエットでマーチェスターから引き返し、「屋敷」へ向かった。
この一年間、彼はほとんどまったくマドレインに会っていなかった。一度か二度、道ですれちがったことはあったが、いつもたがいに顔を見ないようにしていた。そして人びとも気をきかせて、二人を同じ集まりに招待しないようにしていた。彼は砂利敷きの車道を家へ乗りつけていったとき、ふたたび過去へ入りこんでゆくような奇妙な感じがした。
バーン夫妻は在宅中だった。小間使(例の小間使)は、歓迎の顔つきをしたものか、こまった顔つきをしたものか、わかりかねるようすだったが、ビクリー博士の誘いこむような微笑につりこまれてしまった。彼女は彼を数分間ホールに待たせてから、客間へ案内した。
マドレインとデニーはお茶のテーブルに向かっていた。ぎこちない態度をみせたのはデニーだけだった。彼の顔は、はっきり敵意を表明していた。マドレインのほうは、今こそこの十二ヵ月間待ちこがれていた瞬間だというような顔をしているだけだった。彼女の欺瞞性の深さを知りぬいているつもりのビクリー博士でさえ、これにはおどろいた。彼女の〈きっかけ〉にしたがい、彼も同じような顔をするようにした。
二人のあいだに腰をおろした彼は、自分の訪問の目的を微妙にほのめかした。明確にそれと言わないで、いままでつまらない反目があったが、ワイヴァーンズ・クロスのようなせまい土地に、そんな反目があってはならないから、もし自分が是認されないようなことをしているのであれば、率直な男らしい態度でおわびをし、仲直りをすることにしてもらいたいと思って来たのだ、という意味のことをほのめかした。ビクリー博士が鋭く見当をつけていたとおり、こんな息をのむような場面はマドレインの気に入った。彼女はよろこび勇んで、相手役を買って出た。二人はできるだけ高潔なセリフや寛大な文句を、掛け合いでやりとりした。とまどいして俗悪な疑惑にとりつかれていたデニーなどは、その場にいないのも同然のありさまとなった。
ビクリー博士は、マドレインへの軽蔑の念をいよいよ深めて、「屋敷」から去った。それだけのめんどうをいとわぬ気になれば、一週間たたぬうちに、マドレインを情婦にしてやる確信をもっていた。ただ、そんな気にならぬだけであった。あくる日、夫といっしょにお茶にゆくという約束も、マドレインからとって来ていたからであった。
家に帰ると、ビクリー博士はまっすぐに屋根裏部屋へかけあがった。いろんながらくたのなかに、細菌培養器をおいていたのである。培養器のなかの楽しげなボツリン菌の一族を、しばらく彼はいとしげに見つめていた。
腸詰中毒は、主としてボツリン菌に汚染されたソーセージから起こる。そうなら、菌に汚染されたびん詰の肉からでも、同じように起こるだろう(とビクリー博士は推論した)。びん詰の肉のサンドウィッチが、お茶に出されることになっていた。
ビクリー博士の指図で、お茶の支度は、ちょうどいいころあいにできていたが、料理はまだ客間に運ばれていなかった。料理のそばに彼がただ一人いたなどと、あとでだれかに言わせるようなまねをしてはならなかった。そんなまねはせずに、台所にいるミセス・ホーンの注意が、ほんの二秒間ばかり他の方向へむけられて、その間に二つのサンドウィッチが、ビクリー博士のハンカチのなかにさっと入れられた。こうしておけば、のちにミセス・ホーンは、サンドウィッチを切った時から客間のお客たちの鼻の下へ運ぶまで、全部のサンドウィッチから眼をはなさなかった、と証言できるわけだった。もちろん、そんな証言をする事態がくるなどと考えてやったのではなかった。いまやビクリー博士は、自分が芸術家であることを忘れることができなかったのである。
それから二分間後、屋根裏部屋でびん詰の肉にボツリン菌をぬりつけながら、彼が意識していた考えは、サンドウィッチを皿にもどすとき、見わける目じるし(白いパンのすみについたびん詰肉の小さなピンクのしみ)を、上に向けておくのを忘れてはならないということだけだった。マドレインやチャトフォードのことはぜんぜん考えなかった。事が決行されるにいたってみると、彼にとっては、もはや二人はほとんどまったく人間ではなくなっていた。二つの象徴になっていたのである。
これは手ぎわのいい仕事になりそうだった。
培養菌はほんの少し使っただけであった。あとの部分は、まずそんなことにはなるまいが、第二陣をくり出すのが必要になる場合にそなえて、とっておいてあった。あくる日、二人が発病した知らせがくれば、すて去るために、今夜のうちにびん詰肉のびんに、ほんのちっとばかりの菌をつけくわえておくつもりだった。大事なのは、こんなささやかな点なのだ。
前の場合と同じように、こんども絶対に探知されはしないだろう。打ってつけの人間の手でやれば、殺人なんて、じつに簡単なことだ。
殺人――うん、そうだ、ある意味では、これも殺人にちがいあるまい……じつに妙だ。
菌をたべさせるのは、子供のままごとみたいにやさしかった。ビクリー博士はサンドウィッチの皿を、自分のそばの菓子卓の上においていた。菌がぬられた二つは、皿の向こう側のはしにあった。彼はまずマドレインに皿をさし出してすすめ、つぎにチャトフォードにすすめた。二人とも一ばん手近かのサンドウィッチをとった。まるで手品師が田舎者に特定のトランプの札をとらせるように、わけないことだった。ビクリー博士は二人のあどけなさに、大声で笑い出したくなったほどだった。
みんなでいささか大げさな調子で話しながら、彼はマドレインとチャトフォードが死をたべているのを、それとなく見まもっていた。チャトフォードは、いつものそっけない用心ぶかさに似あわず、こんどは虚をつかれたかっこうで、さっさとサンドウィッチを平らげた。マドレインは、もちろん、自分の心は食べものや飲みもののような世俗的なものから超越しているというふりをしながら(このばかめ!)、サンドウィッチをお上品にもてあそんでいた。デニーは、あきらかにマドレインがたべるのにつりこまれたらしく、彼女のすぐあとから、むっつりだまりこんで、毒が入っているのではないかと考えるかのように、疑わしそうにサンドウィッチを見ながらたべた。とんでもないことを考えくさる!
ビクリー博士は、ジュリアの場合ほどに、この二人に対してあわれみを感じなかった。ある意味ではジュリアは死の罰を受けなくてもよかったのだが、この二人は死の罰を受けなければならないのだ。さらにまた、ある意味では、ジュリアを本当に殺したのはマドレインなのだ。すくなくとも、おれ自身よりもマドレインのほうが殺した割合いは多いのである。そうだ、いまジュリアは復讐しているのだ。サンドウィッチの最後の一かけらが、マドレインのネズミ取り器みたいな口(うん、たしかに、このごろのマドレインの口は本物のネズミ取り器そっくりだ)のなかに消えるのを見まもって、ビクリー博士は奇態な気分を感じた。わっと大笑し、わめき、歌い、ぱちんと指をはじき、大声でどなりまくりたかった。胸がふくれあがってくるようなので、大きく息をすいこんで、胸に満たさなくてはならなかった。奇態な気分ではあったものの、ある意味では身におぼえのある気分だった。ふっと彼は思い出した。一年前に、アイヴィの顔をなぐりつけてから、あの小さな森から車を駆って去ったときに、ちょうど同じような気分だったのだ。
ばかげたことをしゃべったり、くだらないしゃれをとばしたりしながら、彼は話さずにはいられなかった。わきたつばかりの上きげんの彼に、ほかの者たちもつりこまれた。デニーでさえも笑った。わざとらしい大げさな調子は消えうせた。ビクリー博士は歓喜を胸に抱きしめ、この場面ぜんたいをおもしろおかしくながめながら、新聞の見出しを思いうかべていた。「死の饗宴にひびく笑声」「菌入りサンドウィッチを平らげた客たち、死の運命を前に冗談をならべる」「細菌と歓楽」
遠慮がうすれてくるにつれて、マドレインの正体があらわれてくるのも、ビクリー博士は見まもった。彼女の利己心のすさまじさは、あきれるほどだった。どんな話題でも、最初の一瞬以後は、たちまち一般的な問題ではなくしてしまうのだ。マドレインは自分自身に関連する立場からしか考えられないのだった。たとえば自動車のことが話に出て、二種のちがった型の特長についてデニーとチャトフォードが議論しはじめると、マドレインは口を出して、自分自身のおどろくべき運転の巧妙さや、自分自身の冷静さと沈着さだけによって、やっと避けることができた怖ろしい事故の思い出話をやりだすのだった。また、ロンドンの最近の演劇が話題になると、たちまちマドレインは、自分の会った有名な女優たちの逸話を持ちだし、みんなが口をそろえて、劇壇はあなたが登場してスターになるのを待ちうけているのだから、さっそく主演女優として契約したいと申し出たけれど、懸命にやっている(だが下手な)女優たちの口からパンを奪うのを、気高く断わると、みんな泣き出さんばかりになった、というようなことをしゃべるのであった。だれかが、どこかで、何かをやったとすると、きっとマドレインは同一のことを、もっとみごとにやってのけたことになるのであった。デニーも、一度ならず、うんざりした口調で言った――「いやはや、きみはすばらしいよ」ビクリー博士はうれしがった。
しかし、彼も用心ぶかく、この場面をあまり長く引きのばしてあやまちをおかさないようにした。打ち切りにしても変に思われない時刻になると、彼は宅診の前に二軒ばかり急患の往診にゆかねばならないと言いわけをして、お客たちが帰らないわけにいかないようにした。ボツリン菌は油断のならないやつなので、ビクリー博士は、だれかが家へ帰る前に発病したりするような、あぶない目にあいたくなかったのである。玄関の段に立ったチャトフォードに、ビクリー博士はおざなりの弁解をした。思いがけなくバーン夫妻が来たので、じゃまが入り、今日は用件の相談ができなかったが、こんどまた来てもらう時に、ちゃんと話そうと言った。チャトフォードはよく了解したと答えた。
こんなにして、ありそうもないことながら、万が一チャトフォードが生きのびたりして、ボツリン菌の第二陣をくり出す必要が生じた場合の下準備をしておいてから、ビクリー博士は手ぎわよくいった仕事をきちんと仕上げにかかった。かすかに自分自身をおかしがるような態度で、彼は台所のミセス・ホーンのところへ行った。もちろん、こんなこまごましいことは、本当は必要でなかったが、いささか楽しいものではあった。こんなこまごましいことが、いいかげんな仕事と完成された仕事とのけじめになるのであった。ビクリー博士は、自分が殺人のための殺人に、さもしいよろこびを感じているのでないことは知っていた。しかし、芸術作品を皮肉に鑑賞するくらいのことは、してもよかろうと思ったのである。
ミセス・ホーンは痩せた陰気な女で、いつでも最悪の場合の取越し苦労をしているたちだった。
「ねえ、ホーンさん」とビクリー博士は、いつも台所へ入りこむと浮かべる、なだめるような微笑をみせて言った。「あのびん詰の肉は大丈夫と思いますかな? サンドウィッチがちっとばかり変な味がしたんだがね」
「あれは、この午後あけたばかりでございましてね、先生、とても新しそうに見えましたよ。でも、今日は暑かったですから、なんでも悪くなりましてね」とミセス・ホーンはため息をついた。「ほんとでございますよ」
「それで、あのびんはそのへんにありますか? においをちょっとかいでみたいんだが」
ミセス・ホーンはびんを持ってきて、自分でかいでみた。「そう言われてみると、たしかに先生、ちょっと変なにおいがいたしますね」暗示の力は大へんなものだ。
ビクリー博士も、かいでみた。「とても変だ。あなたの言うとおりだよ、ホーンさん。これはすてたがいいね。あのサムフォードの子供がやられているんだから、あぶない目にはあいたくないね。わたしが自分でごみ箱にすてておこう」そうだ、だいたいからみて、明日までのばすよりも、今日しまつをつけておくほうがよさそうだ。
彼は裏の台所を通りぬけて外へ出ると、培養菌のついたジェリーの一片をなすりつけ、びんをごみ箱にすてた。あの一片から、まもなくびんの中のぜんぶの肉が菌におおわれるだろう。ごみ箱にすてた肉がどんなことになってゆくか、ビクリー博士にはわからなかったし、わかりたい気もなかった。あれはなりゆきにまかせておけばよいのだ。しかもそこに、この行動の純粋な芸術的効果があるのだ。
これで、なにもかもすっかりやってのけたわけだ。なんという簡単なことだろう。
ビクリー博士は「フィガロの結婚」の一曲を鼻で歌いながら、ぶらぶら客間にもどり、宅診の時間までピアノをひいた。独学であったが、そう下手でもなかった。そしてピアノは彼に大きな満足感をあたえた。
あくる朝、ミセス・ホーンから情報が伝えられた。村では、なにか事件が起こると、まるで連絡しているようにも見えないのに、ほとんど同時に、界隈のすべての人びとに知れわたるのである。
「あの話、お聞きになりましたかね、先生?」
ビクリー博士は朝食のベーコンの上に、ナイフとフォークをおいて、できるだけ気をひきしめた。「聞いてないが、どんなことですかな?」
「バーン夫人のことでございますよ、先生。あの『屋敷』のね。夜中にひどく悪くおなりになって、マーチェスターからリドストン先生をお呼びになり、えらいことだそうでございますよ」
「ほう」とビクリー博士は、それ相当なおごそかな顔つきをしてみせながら言った。「とても心配なことだね。重態というようなことじゃないんだろうね?」
「みんなの話によりますとね、先生、どうやら重態みたいだそうでしてね」とミセス・ホーンは気の毒がりながら、舌なめずりして楽しむような調子で答えた。
「それは、どうも変だな。わたし自身も昨夜ひどく気分が悪くなってね。もちろん、べつに大したことはなかったんだが、それにしても……うん、このベーコンはさげてもらったほうがいいと思うね、ホーンさん。どうも食べられそうにない。バターをつけないトーストを少しばかりと、コーヒーだけにしよう。でも、まったく、妙な暗合だね」
ミセス・ホーンは〈きっかけ〉をつかんだ。「これは、先生――あのびん詰めの肉のせいとはお思いになりませんか?」
「まさか、あれのことはまるで考えもしなかったよ。だが、まてよ……うん、たしかに、あれのせいとも考えられるね、ホーンさん。こりゃ、たいへんなことになったな」
「なにしろ、変なにおいがいたしましたものね、先生、ほんとでございますよ。あのデニスさんのほうは悪くおなりになったという話はございませんけど、もう一人の方はいかがでございましょう? チャトフォードさんとかおっしゃいましたね、先生?」
「わたしは何も聞いてないがね」とビクリー博士はおぼつかなげな調子で言った。「とにかく、まだそうときめてかかるわけにはいかんからね、ホーンさん。早合点は禁物。もちろん、もしチャトフォードさんが……しかし、まあ待ってみなくてはいけない」
「それにしましても、あたし、あれに手をつけなくてよかったですわ、先生」とミセス・ホーンは心のこりらしく引きさがりながら話した。「なんでも見のがしたりすることはめったにないんですけど、とにかくあれだけは一口もいただきませんでしたわ」
彼女は出ていった。じつに確実な証人ができたわけだった。
ビクリー博士はひとりトーストをたべながら、にんまり微笑した。ベーコンがほしくなったが、りっぱな仕事をやりとげるためには、すこしぐらいの不満はがまんしてかからねばならない。
それよりも気になったのは、チャトフォードについての情報が何も伝わって来ないことだった。ひどく気になってきた。午前の往診中に、自分の家へ二度も電話をかけて、なにか伝言がきてないかとたずねてみたが、なにもきていなかった。不安が高まってきた。結婚前の、馬券を買っていたころに、三十対三の結果を待っていた時よりも、じりじりした気持になってきた。
昼食後、がまんができなくなった。電話をとりあげて、チャトフォードの自宅へかけた。
「すみませんが」と女の声が聞こえてきた。「チャトフォードさんはご病気でふせっていられますので」
ビクリー博士の心臓が勝ちほこったようにぴこんととびあがった。「ご病気? それはいけませんですな。こちらはワイヴァーンズ・クロスのビクリー博士ですが、たいしたことではないんでしょうね?」
電話に出ている女中は、あきらかにためらった。「あたし――存じませんのでございますが」けんめいに聞きとろうとするビクリー博士の耳に、ささやき声で話しあうのがきこえた。どのくらいまでおれに話していいか、コックにたずねているのだな、と彼は思った。
「それで、どんなぐあいですかな?」と彼はいらいらしてきいた。
返事をするまでに、また長くためらっていたが、こんどはささやき合う声は聞きとれなかった。「なにかよくないものをめしあがったにちがいないと思います」
「そうですか? それはじつに妙ですな。ご存じかどうか知らないが、チャトフォードさんは昨日うちへお茶に来られたんですよ。わたし自身も昨夜気分が悪くなったし、バーン夫人も病気だそうで、この方もうちへ来られていたんですがね」召使たちにこまごましいことまで話すのはよろしくないと、あれほどジュリアが言い聞かせていたことなど、まるで彼はかえりみもしなかった。「わたしは何かうちで食べたもののせいにちがいないと心配になってきているんですよ。すまないが、ちょっとチャトフォードさんのところへいって、わたしからよろしくと伝え、午後マーチェスターへゆくから、お訪ねすることにしたいって、そう言ってくれませんか? もちろん、医者としてお訪ねするのではありませんが、ただわたしの気やすめに、診察させてくださるようなら……そう言ってくれませんか?」
「かしこまりました。そのままで、お待ちくださいませ」
待ちうけながら、ビクリー博士は自分の霊感にほくそ笑《え》んだ。医者としての儀礼を無視する極悪の行き方であったが、そんなことはまるで気にしなかった。うまくチャトフォードの副主治医になりすます巨大な利益にくらべれば、そんなことはものの数ではなかった。そうなりさえすれば、チャトフォードは、完全におれの手のなかにおちこむ。こんどの第一回のボツリン菌の襲撃で、あの男が死なないとしても、第二回の襲撃がやりやすくなる。そして必要となれば、第三回も、第四回も。もちろん、第三回が、かならずしも必要というわけではないが。
それに、腸詰中毒であることを、ただちに診断し、はじめからそう確定させることができる。みずから同じ症状の患者を手がけたばかりだから、そんなおどろくべき診断も、ちゃんともっともらしく見えるだろう(リドストンはほとんど確実に、そんな例外的な可能性を見落とすだろう)。万事が都合よくできている。ビクリー博士はチャトフォードに対して、昨日以上のあわれみを感じなかった。あの男はじゃまにならぬように片づけなくてはならないのだ。できるだけ簡単に片づけるほうがいい。
ところが、女中が電話にもどってきて、彼の計画にじゃまを入れた。「チャトフォードさんからよろしくとのことでございます。でも、病気のほうはリドストン先生がお引きうけくださっていますし、病状がわるくて、ほかのどなたにもお目にかかれまいということでございます」
「なるほど」とビクリー博士はなめらかな調子で言った。「では、ご大切にとお伝えねがいます」しかし、受話器をかける彼の手は、怒りにふるえていた。頭ごなしに突っぱねおった。ちくしょう! 無礼にもほどがある……
手ぎわよく片づけてもらえる機会を、こんなに拒否なんて、まったくチャトフォードのほうが度《ど》しがたい、とビクリー博士は思った。
彼は診察室へいって坐りこみ、とっくり事態を考えめぐらした。熟考すればするほど、チャトフォードの病床に近づくことが望ましく思えてきた。望ましい段ではなく、絶対必要なのだ。そうしないと、あの男は全快するかもしれないし、そうなれば、またはじめからこの仕事をすっかりやり直さなければなるまい。同じ方法を二度使うわけにもいくまいし、こんどみたいな完全なものはとても見つかりはしないだろう。チャトフォードを全快させるなんて、とほうもないことだ。
マドレインに対しては、いまではビクリー博士も、それほどやっきになってはいなかった。あの女が死ねば結構だし、おれはあの女をとり除いて世の中のため(ついでにデニーのため)に、貢献をしてやることになる。だが、ありそうにもないことが起こって、死ななければ――まあ、生かしておいてやろう。あの女にも更生の機会をあたえてやるべきだろう。だが、チャトフォードは……ぜんぜん生かしておけない。テーブルに向かって裁定していたビクリー博士は、一瞬、畏怖《いふ》の感におそわれた。自分自身と自分の握っているこんな巨大な力への畏怖であった。彼は自分自身を外側から観察した。生か死かを宣告しつつある小柄な、不気味な人物……かつておれは、自分がつまらない人間だなどと、ほんとに思いこんでいたことがあったのだろうか? ほんとに?
彼の計画はひとりでにできた。はたしてマドレインの病状がどれほど悪いのか、知りたい気持が自然的に強くなった。これでうまくやれそうだった。午後にでも「屋敷」へ出かけて、マドレインに会う。これはむずかしいこともなかろう。あの小間使に対するおれの立場を利用し、日ごろの〈しつけ〉を忘れさせ、まっすぐにマドレインの寝室へ案内させるように口説きおとす自信は十分にある。つまるところ、おれは医者なのだ。そしてつぎには、あすの朝、マーチェスターのチャトフォードの家へ大胆に乗りこむ。マドレインがちゃんとおれを迎え入れたという権威を振りかざして……
小柄な、不気味な姿体がこわばり、おだやかな青い眼が冷酷にきらめいた。いったんチャトフォードの家のうちへ入りこみさえすれば……
その晩、ビクリー博士は、じつに意外な訪問者の来訪をうけた。
午後には、ある意味で彼は成功をおさめていた。つまり、デニーが外出していたので、ぞうさもなく彼はマドレインの病床へ行けたのであった。マドレインは彼に会うのを、すこしもよろこんでいるようすはなかった(おれが帰ったら、小間使は五分間ぐらいお説教をくうだろう、と彼は思った)。そして彼女は、失礼にも近いお上品な気取りぶりで、彼が部屋にいる十五分間、ずっと小間使にそばにいさせていた。
まるで純潔の化身みたいに、彼女は彼に診察させることはおろか、脈さえもとらせなかった。その当惑ぶりがひどく誇張されていたので、なんだか恐慌じみて見えた。まるで彼女はこれまで自分の寝室に医者も、どんな男も入れたことがなく、人妻でもないかのような〈しぐさ〉だった。いったい、このばかな女は、限界の線をどこにひくかも、まるきり知らないのだろうか? 純潔な心を示すためなら、恐怖のまねなどをする必要はないのだ。身を守るようにふとんにくるまったマユみたいな姿を見おろしたビクリー博士は、自分がこの女からのがれたことを本気に神に感謝した。かわいそうな、若いおろか者のデニー!
だが、ここで彼の成功も終わりをつげた。マドレインの病状は、彼が望んでいたほどに悪くなかったからである。実際、悪くなっているべきはずだったのに、それほど悪くなかったのである。死の扉に近づいていないばかりか、一マイルも離れて、その扉も見えないところにいたのである。これにはひどくがっかりさせられた。しかし、これはあのボツリン菌の最悪の欠点であって、あれはまるで信頼できないのだ、とビクリー博士は賢明に反省した。それにしても、おれは公正な男だ。マドレインにも更生の機会をあたえてやるべきだと決めた以上、おれは決めたことを取り消すつもりはない。マドレインは生かしておいてやろう。
だが、チャトフォードもこんな軽い病状であってくれないように、ねがいたいものだ。
訪問者がやって来たのは、ビクリー博士が、こうなれば、あすの朝チャトフォードの寝室に入りこむことが、いよいよ絶対必要、と考えていた時だった。
晩には家に召使がいないので、このごろビクリー博士は、だれか来ると、自分で玄関へ出なければならなかった。玄関の上り段に、大きな、がっしりした体格の男が立っていた。濃い口ひげをはやし、やさしそうな顔をして、山高帽をかぶっていたが、それが落日の残光に不似合いな金色にそめられていた。ビクリー博士の知らない男だった。
「なんでしょう?」とビクリー博士はすこし意外な気持で言った。ワイヴァーンズ・クロスには、知らない人間はめったに現われないのである。「ビクリー博士ですが、わたしに御用ですか?」
「ちょっとお話がしたいのです、おさしつかえなければね、博士」と大柄な未知の男は申しわけなさそうに答えた。「この名刺のような者です。おじゃましても、おさしつかえないでしょうね」そしてやはり申しわけなさそうな顔つきをしていながらも、どうぞと言われるのも待たずに、家のうちへ入りこんできた。
ビクリー博士は、意外な気持をつのらせながら、名刺を受けとり、つぎの瞬間、心臓がのどへとびあがり、そのまま動かなくなったような気がした。名刺に「警視庁、犯罪捜査部、大警部ラッセル」とある文字を読んだからであった。
さいわい、ホールは暗かったので、ビクリー博士は、ふいに襲ってきた胸がわるくなるような狼狽《ろうばい》をけんめいにおさえ、混乱を隠して玄関のドアをしめることができた。ほんの一瞬後に、彼の最悪の恐怖は、ひたむきな判断力によって追いはらわれた。どんな奇怪な捜査のために、この男が来たにしても、もちろん、おれ自身に何かの容疑がかかったからであるはずはない。とにかく、それだけは疑問の余地がない。
十秒もたたないうちに、彼はちゃんと正常な声で答えた。「どうぞ、大警部、診察室へおいでください」
患者用の椅子を大警部にすすめ、自分自身の椅子に腰をおろすと、ビクリー博士はすっかり自信が回復したのを感じた。さっきのばかげたあわて方を思い出し、笑いだしたいほどの気持になりながら、彼は煙草のケースをとり出し、親しげな微笑をうかべて、テーブルごしにさしだした。「煙草はおやりでしょうな?」
「いや、ありがとう」と大警部は言いながら、大きな指にしては意外なほどの器用さでケースの袋から一本ぬき出した。「まあ、いただきましょう」と彼は自分のポケットからマッチをとり出した。
「ところで、どういう御用ですかな?」とビクリー博士は、二人の煙草に火がつけられてからたずねた。「わたしの患者のだれかに、なにかあったというわけじゃないんでしょうね?」
これはちょっと手ぎわのいい持っていき方でないか。
「いや、先生、ぜんぜんそんなことではないんです」この大きな男は、ひどく落ちつかないようすだった。ビクリー博士は相手を見つめながら、自信が増してくるのを感じた。こんな間抜けな警官では、おれには対抗できまい。サーベルや警棒を頼りにする古い型のやつだ。「あなたの患者になにがあったというわけじゃありません。それよりも、もっと私的な問題とでも言うべきものでしょうな」
「ほう?」ビクリー博士はまるで見当もつきかねる顔つきになった。「私的な問題ね? いったい、それは……」
警視庁から来たこの男は、どう切り出していいか、まるでわからぬようすだった。ビクリー博士の軽蔑はつのった。
「なにしろ、先生、いろんな噂があるので、われわれとしては調べないわけにいかないものですからね」と彼は弁解した。「ただ形式としてですね。こんなことであなたをわずらわさねばならないのは、まことに恐縮にたえませんが、どうしようもないのです。それで、おさしつかえなかったら、すこしばかり質問にお答えねがえれば……」
「どんな噂?」いや、これはミスだ。もちろん、ワイヴァーンズ・クロスに住んでいて、あんな噂がながれ、その目的がなんであったかを知らぬはずはない。ビクリー博士は手ぎわよく言いなおした。「まさか、あなたは……」
「いや、いや、じつはそれなんでしてね、先生」と大警部は口のなかで言った。イギリスの田舎の意地のわるい噂話ぜんぶのために、申しわけをしているような調子だった。「あなたにも不快、わたしにも不快なんですよ、こんなことをせんさくするのはね。しかし、きっと了解していただけるにちがいないと思いますが」
「そりゃ、もちろんですよ。それにしても、まったくねえ!」ビクリー博士はきわめて自然に笑った。「とほうもない話にもほどがありますよ。もちろん、わたしも、亡くなった妻についてじつに大それた噂があることを、知らないなどというふりはしません。『善きことのほか死者について語るなかれ』という言葉も、こんな村では通用しないんですからな」
「そう、たぶんそうでしょうな」とラッセル大警部はあいまいに同意した。「そしてもちろん、わたしも、すべてがつまらない空騒ぎにちがいないと思いますが、どうしようもないんですよ」
「しかし、いずれにしても、大警部、それがどうだというんです? そこのところが、わたしにはよくわからないんですがね。もう妻は死んでしまっています。その死が偶然のものであったとしても(もちろん、実際そうなのですが)、また、いまわしい噂がほのめかしているように、妻が計画的に自分の生命を絶ったものとしても、それがどうだというんです? どれほど調べてみても、妻を生きかえらせることはできないんですからね」
ラッセル大警部は、多少うしろめたそうな、親しげな態度になった。「まあ、いまさら言うまでもないことですが、検死官というものは、ひどく自分の特権にこだわるものでしてな。おそらくあなたも、そのことを多分に経験されたでしょう。だから検死官は、あの点に誤りがあったとか、提出されているべきはずだった証拠が提出されていなかったとか考えると――まあ、あなたもよくご存じのように、検死官には権力がありますから、それを行使することになります。これでおわかりくださるでしょう」
ビクリー博士はうなずいた。どこかに何か論理の飛躍があって解しかねるところがあったが、大警部がひどく申しわけなさそうな顔をして、自分の役目がいやでたまらないというふうだったので、ビクリー博士は、そこのところの連らなりを追及しないほうがよかろうと思った。「もちろん。よくわかりましたよ」
「結構です。きっとおわかりくださるだろうと思っていましたよ、先生。それでは、ただ形式として、ちょっと質問させていただければ、もうこの問題でお耳をけがすようなことはないと思います」
「わかりましたよ、大警部。それにしても、話はのどのかわく仕事ですからね。食堂にウィスキーがありますので、はじめる前にびんを持ってきましょう」
大警部は大きな手をあげた。「わたしのためなら、どうぞおかまいなくね、先生。まるでやらないんです」
「おやりにならない?」とビクリー博士は信じかねるように言った。
「いや、つまり――仕事をしている時はですよ」と相手はやらないという意味を限定した。「だらしなくなるものですからね、ほんとですよ」
「とにかく、びんを持って来ましょう。あなたもあとで気が変わるでしょうから」
サイフォンとグラスをさがしにいったとき、ビクリー博士はひそかな微笑を顔いっぱいにうかべた。事態はじつにおかしくてやりきれないほど皮肉だ。あの笑止な大警部は、ジュリアが自殺したのではないかと懸命に調べながら、鼻の下にある真相には、まるで疑いもかけようとしていない。あっさり本当のことを話してやったら、どう言うだろう?「いや、大警部、妻の死は偶然のものではなく、計画的なものでした。しかも、みずから生命を絶ったのではなく、わたしが殺してやったんですよ」もちろん、大警部は信じようとしないだろう。よく医者たちは冗談を言うものだが、自分は古ダヌキだから、一ぱいくわされたりはしないなどと、おかしなことを言うだろう。いったい、警視庁はどこまで転落してゆくのか? 納税者として、ビクリー博士はまったく憤慨にたえなかった。
こうなれば、おもしろおかしく楽しもうという気になって、彼は診察室にもどった。事態はおもしろいだけでなく、ある意味では刺激的でもあった。もっと刺激的なものにしたい強い誘惑を、彼は感じた。火遊びをして、この喜歌劇に登場するような探偵には、まるでわからない微妙な暗示をばらまいてやろうか。いや、もちろん、そんなことをしてはいけない。それは非芸術的な演技過剰《えんぎかじょう》となろう。
大警部は熱心に、厚い黒い手帳を調べつづけていた。そしてビクリー博士が自分のウィスキー・ソーダ(わざと強くないもの)をつくってしまうのを待って、大警部は質問をはじめた。
ただ形式としてと言っておきながら、ずいぶん根ほり葉ほりたずねるんだな、とビクリー博士は思った。もちろん、あらゆる質問に対して、ちゃんと返事が用意してあるのだから、ちっともかまいはしなかった。だが、すべての質問が無用のものに思えた。
まず最初に、ジュリアの病気について長々と質問がつづけられた。発病から徴候、タマートン・フォリオット卿の診察、二回の休養、あらゆる詳細な点にいたるまでの質問であった。ビクリー博士は心のうちで微笑しながら、大脳皮質や悪液質状態についての説をまた持ち出した。これはあのヴィクター・クルースタントンには大へん効果があったのだったが、こんどは大警部の黒い手帳に懸命に書きこまれた。ビクリー博士はあくびをしはじめた。
つぎには、モルヒネの問題になった。ビクリー博士は、もうこれ以上の注射はできないと拒んだこと、その理由、そしてそんなに拒んだことから生じたなげかわしい結果など、そのいきさつをありのままに説明した。事実を話しさえすればいいのだから、この上もなく楽だった。
「わかりました」と大警部はうなずいた。「それであなたは、奥さんが自分で注射しはじめたのを、ぜんぜん気づかれなかったんですね?」
「そりゃ気づきましたよ」とビクリー博士は答えた。いちばん見えすいた落とし穴だ!「薬局のモルヒネが減ってゆくのに気づきまして、その理由は一つしかないと思いましたよ」
「しかし、あなたはなんの処置もとられなかったのですね?」
まったくこれは子供っぽすぎる質問だ。「当然、処置はとりましたよ、大警部。妻のそんな危険なやり方を、わたしが奨励する気だったとでもお思いですか? わたしはそれをしまいこんで鍵をかけましたよ」
「モルヒネをしまいこんで鍵をかけたんですね」と大警部は手帳に書きこみながらくりかえした。「それから、どんなことがあったんですか?」
「ぜひとあれば、お話ししますがね」とビクリー博士は、不本意らしいようすをみせて答えた。「妻はマーチェスターの薬種屋への大量の注文書に、わたしの署名をまねて書き入れたんですよ。こんなことまでお話ししなければならないのは、わたしとしては――非常な苦痛を感じるんですがね」
「当然、そうあるべきですよ、先生。当然ね。言うまでもなく、わたしもこんな質問をせねばならないのは、好ましくないんですよ。ついでにうかがいますが、もしかしたら、その注文書をまだお持ちではないでしょうか? 薬種屋からとり返して、しまっておかれたんじゃないかと思いますがね?」
「それをおききになるとは、はなはだ奇妙ですな」ビクリー博士ははっきりと微笑してみせた。「じつのところ、わたしはその通りにしたのですよ。請求書がきたとき、もちろん、わたしはたずねました。すると薬種屋の男がその注文書を見せましたので、わたしはその男には何も言いませんでしたが、注文書はとりもどしておいたのです。まあ、大事をとりましてね」
「そりゃ、もちろん、たいへん賢明なやり方だったですよ」と大警部は大いに賛意を表した。「ところで、ちょっとその書類を見せていただけますかな?」
「いいですとも。すぐお持ちしましょう。たしか、ここの引出しのどれかに入れておいたと思うんですよ」
彼はそれを見つけ出した。
大警部はそれをめんみつに調べた。「これはわたしがお預りしておいたほうがいいと思います、おかまいなければね」と彼は返事も待たずに、大きな紙入れに注意ぶかくしまいこんだ。
「かまいませんとも」とビクリー博士は言った。いずれにしても、彼としては少しも異議はなかったのだった。
それから大警部は、まったく無関係に見えるようなこと――ジュリアが死んだ日の昼食後のビクリー博士の行動についてたずねた。博士が眉をあげるのに気づいて、大警部は申しわけなさそうな口調で、どこかに手落ちがあったなどと、あいまいな、しかも中傷的なことがほのめかされていて、自分自身としては、そんなとっぴょうしもない考えなんか、すこしも重視しないのであるが、不幸にも職責上、それを冷笑でもって片づけるわけにはいかない、というようなことを話した。
ビクリー博士は、適度のふんがいを表明しておいてから、自分の行動をくわしく語った――昼食をすますと、ほとんどすぐに出かけたこと、思い出せるかぎりの往診先のこと、車のエンジンがかからなかったときにミス・リッジウェイに会ったこと、それからの行為、最後に「屋敷」へ出かけていて、うちの女中から怖ろしい知らせを受けたことを話した。大警部にあらゆる助力を提供しようとビクリー博士は診察日記をとり出し、なにか確証になるようなことがないかと調べてみた。偶然にも、その日にかぎって、彼の訪れた先々のくわしい時間表が書いてあったので、両人とも大へん幸運だったと言い合った。ビクリー博士は、自分を襲った悲愁から気をまぎらすために、あの晩、そんなことを書き入れたのを、今やっと思い出したと説明した。大警部は同情と弁解をかわり番こにくりかえしながら、その日誌を細心に手帳にうつしとった。
「妻の死に関係がありそうなことで、わたしにお話しできるのは、これで全部だと思いますね」とビクリー博士は、日誌がうつしとられてしまうと、ため息まじりに言った。「では、大警部、このへんであれを一ぱいいかがです?」
「いや、せっかくですがね、先生。ご好意は感謝しますよ、ほんとに、でも――」大警部はとてもこまったような顔つきになった。「じつは、遠慮なく言わせていただくと、わたしのほうはまだすっかりすんでいないんですよ」
「まだ何かほかにおたずねになりたいことがあるんですね?」
「わたしの職責上、おたずねしなければならないことなのですよ」と大警部はおだやかに訂正した。「お聞きになっているかどうか知りませんが、奥さんの死はぜんぜんモルヒネによるものではないという風説がながれているんですね」大警部はこんなぞっとするような風説は口にするのもいやだという顔つきをした。
ビクリー博士はおどろいて見せる必要もなかった。「なんですって? わたしにはわかりませんな。もちろん、あれはモルヒネによるものですよ」
「風説ではですね」と大警部は申しわけするように言った。「モルヒネで擬装した砒素《ひそ》によるものだったと言うんですよ」
「砒素? ばかな! まるで問題になりませんよ」
「でも、お手もとに砒素はあるでしょう、もちろんね?」
「ファウラー氏液だけです。あれで死ぬためには、大へんな量を飲まなくちゃなりませんよ」
「薬局かどこか、奥さんの近づけるところに、亜砒酸はありませんか?」
「もちろん、ありません。そんな考え方はまるで笑止ですよ」
ラッセル大警部は手帳に書きとめた。「しかし、お宅のうちには、除草用の砒素剤はあるにちがいないでしょうな?」
「いや、ありません。薬局に少量のファウラー氏液をおいているだけで、それ以外に砒素なんてものは、わたしがここにきて以来、家のうちにも近くにも、ぜんぜんあったことはありませんよ。そんな風説はまったくばかげていますよ、大警部」
「そうだろうとわたしも思っていたんですよ、先生。でも、ただ形式として、おたずねしなければならなかったのは、おわかりくださるでしょう」大警部は手帳をとじて、しまいこんだ。「これですんだと思います。もちろん、よく納得がいきましたよ。ほんとにごめいわくをおかけしてすみませんでした」
「その砒素についての風説ですがね」とビクリー博士は頭をひねるように言った。「まったくわたしにはわかりませんな。砒素の場合、偶然ということは考えられません。だから、妻がそれを計画的に飲んだとするのであれば……非常に苦しい死に方をするわけですね。どんな医者の妻にしても、それくらいのことは知っています。してみれば、たとえ――みずから生命を絶ちたいと思ったとしても、すぐ手もとにモルヒネがあるのに、どうして砒素などを飲んだりするでしょう?」
「それはわたしにもわかりませんな」と大警部もそれをみとめた。「ほんとですよ」
「とにかく、マーチェスターのリドストン博士にお会いになるがいいですよ。わたしはすぐに博士を呼んだんですからね。所見はモルヒネ中毒による死と完全に一致していて、全然ほかのもの、特に砒素などによるものでなかったことを、博士は話してくれるでしょう」
また手帳がとり出された。「ありがとう。リドストン博士ですね。そう、たぶんお会いしたがいいでしょうな。この博士を呼ばれた、と言われるんですね? なるほど。でも奥さんのご病気中は、博士の診察を受けておられなかったんですな?」
「いや、受けましたよ」とビクリー博士はいささか意気揚々として答えた。「妻の死ぬほんの少し前に、博士を呼んで診断をおねがいしました。妻の病状にはわたしも頭をひねりましたし、タマートン・フォリオット卿のおすすめくださった療法も効果がないように見えたものですからね」
「なるほど。そして検死解剖もなかったのでしたな?」
「そうです、検死官が必要と考えなかったのですよ。死因はきわめて明白でしたからね。それに、もちろんわたしはリドストン博士に――妻が不幸な悪習におちいっていることを打ちあけていましたので、博士には別に意外な出来事でもなかったわけです」
「ほう、なるほどね。では、奥さんの本当の病状は一度も見きわめられたことがなかったのですね?」
「そうです、はっきりとはね」ビクリー博士はこんな古くさい話ばかりに、うんざりしかけていた。「しかし、さっきもお話ししたように、妻の頭痛はある種の脳腫瘍か、腫脹《しゅちょう》が病因にちがいあるまいと、リドストン博士もわたしも意見が一致したんですよ。いずれにしても、それが死因ではなかったのですから、死体を解剖してみるにもおよばなかったのです」
「そりゃ、もちろん、そうでしょうな。わかりました。では!」大警部は重々しく立ちあがった。「ああ、そうそう。もうすこしで忘れるところでしたよ。たいへんごめいわくかもしれませんが、ちょっと手術室を見せていただけませんか、先生、そして注射器などがおいてあるところを見せてくださいませんか? ただ奥さんがたやすく手にすることができた、という事実さえ確認すればいいんですからね」
「わかりました。いや、ちっともめいわくではありませんよ。さあ、どうぞこちらへ」
ほとんど微笑も隠そうとせず、ビクリー博士は手術室に案内した。いったい、この男は何がつかめると思っているのだろう……
警視庁から来たこの男に、お望みのものを見せながら、ビクリー博士はいささか他のことに気をうばわれているようだった。おそらく大胆だろうが、かなり巧妙な行き方を、彼は考えていたのである。あまり時間はなかったけれど、心を決めるだけの時間はあった。彼は決心した。
「大警部、さっきわたしは、妻についての中傷的な噂を知らないふりはしないと言いましたが、さらに一歩をすすめて、その出所も知らないことはないとも言えますよ」
「ほう?」大警部はとまどったような顔つきになった。
「そうですよ、そんな噂の出所をちゃんと知っているんです。マーチェスターのチャトフォードという男、弁護士ですよ。あの男はわたしをひどく憎んでいます。恨みをいだいているんですね。それで、そんないまわしい風説をながし、わたしをやっつけようとしているんですよ」
「そうですかな?」大警部の声は、ただ関心をしめしただけだった。
「あなたのご助言を得たいのです。誹毀罪《ひきざい》として告訴すべきでしょうか? 事実はこういうことなのです」ビクリー博士はチャトフォードが恨みをいだいている理由を、ごく簡単に話した。アイヴィが完全に夫を裏切っていることも隠そうとしなかった。ただ、あとでビクリー博士自身が中傷者に対してロマンティックな復讐をしたことを、はっきり明言することだけはやっと差しひかえた。
「わたしはどうすべきでしょうかな、大警部?」と彼は打ちとけた調子できいた。もうビクリー博士はこの男に対して、すっかり打ちとけた気分になっていたのである。ばかではあっても、けっして悪い男ではない。それに、警視庁から来た本物の探偵と多少でも親しく話すのも一興だ。「あなたもおわかりでしょうが、こんなことがつづけられるのを放《ほう》っておくわけにいきませんな。あの男の口にフタをしなくちゃいけませんよ」
大警部は興味をもった。あきらかに興味をもって、いくつかの質問をした。ビクリー博士は男らしい率直さで答えた。アイヴィの品性が落花のようにふみにじられた。
「そうですな、先生、わたしの助言を用いてくださるなら、しばらく何もなさらないことでしょうな。あなたもその女の方を証人席に引っぱり出し、姦通をみとめさせる気はないでしょうが、告訴すれば、そうなりますな。あなたの言われるように、噂がその男から出ているとすればですね、問題を当局にとりあげさせて調べさせるのが、その男の目的だったようで、それ以上のことは何もできないでしょう。わたしの考えでは、もうその男もやめるでしょうな。もしやめなければ……いや、とにかく、わたしがあなたなら、なりゆきをみることにするでしょうね」
「ありがとう、大警部。そうですね、それが一ばんいいでしょうね。ともかく、こんなにあなたが時間を浪費しなければならなかったのは、すべてあの男のせいであることを、おわかりくださってうれしいですよ」ビクリー博士は義務を果たしたような顔つきの裏面に、自分の感じている報復的な気持を隠した。
ラッセル大警部は手術室の計数器にもたれ、前よりもいっそう愚鈍そうに見えた。「それにしても、これはちっとばかり難問ですな、先生。あなたの言われるとおりであるとすれば、その男はどんなことを考えているのでしょう? たとえ、あなたの奥さんが自殺したと証明できるとしても、それは奥さんの名誉を傷つけるだけにすぎません。それでその男は、どうしてあなたをやっつけるつもりでしょう?」
「あの男の細君の話によると、自殺であったことが証明できれば、わたしはこの土地を去らなければならなくなるだろうと、あの男は考えているんですね」
「でも、どうしてです? わたしにはまるでわかりませんな」
「まあ、いろんなことが表面にあらわれてくるかもしれませんからな」ビクリー博士は心得顔ににやにや笑った。「われわれ開業医は、商売をつづけてゆくためには、シーザーの妻のように不義の疑いを受けるような行為があってはならないんですよ。ほかの人たちなら、時折り享楽しても、世間は微笑するだけでしょう。ところが、医者ともなれば――とんでもない、もってのほかですよ!」
ラッセル警部は実際、大ぴらにウインクした。手帳をしまいこむとともに、警官の意識をすて、生来の(いささか愚鈍であっても)愛想のいい人間にかえっているのらしかった。
「いや、わたし自身だって、それに似た立場にいないとは言いませんよ、先生。それにしても、ご婦人方がとても好きであれば、いつでも何かの方法が見つけられるものじゃないですか、え?」と彼はまたウインクした。
ビクリー博士はうれしがるようにくつくつ笑った。今のようないまわしい紳士風を身につけるまでは、彼もそんなふうに育てあげられてきたものだった。それはワイヴァーンズ・クロスには似合わしくないが、ノッティンガムには似合わしい彼の青春のまっとうな特性であった。この大きな人間味のある人間、まちがって探偵になろうとしている人間への親近感が、波のようにビクリー博士をおそった。
「なにしろ、男にとっては、女なしに暮らしてゆくのはつらいものですからな」
暗示が手術室の空気を濃厚にした。
「それに」と大警部はうらやましそうなようすをみせて言った。「われわれのうちのだれかれよりも、お医者さんは機会にめぐまれているでしょうからね」
「まあ、機会がなければ、いつでもつくれるんじゃないですかね?」
二人はよこしまな笑い方をした。
「田舎のご婦人方は、退屈しのぎに何かすることがなくてはこまるでしょうからね」
ビクリー博士は、このとき、いささか巧妙にふるまう機会を見てとった。
「そうですよ、それなのに、医者の扱う患者たち以外、だれもそういうことを真剣に考えないんですよ。それにつけても亡くなった妻は……まったく、大警部、わたしは理解ある真の友を失いましたよ。すばらしい女でした。あんなに、自分の夫に――みずから自由に楽しむままにまかせるだけの分別をもち、その楽しみが別に深い意味もないことを心得ている妻は、そうたくさんはありませんよ」
「奥さんはそういうふうだったのですか?」
「ええ、そうだったんですよ。まれに見る本当の分別をもった女でしたね」ビクリー博士はきわめて真剣な顔つきを見せていた。が、心のうちでは考えていた――これで自殺の根拠も吹きとばしてしまえる。じつにやさしいことだ。
「ほう、なるほどね」大警部も相当に真剣な顔つきをしていた。そしてやっと腰をあげて立ちあがった。「もうこれ以上ごめいわくをおかけするのは遠慮しなければなりますまいね、先生。わたしの質問に大へん率直にお答えくださって、まことにありがとうございました。ただわたしとしては、職務を遂行しなければならなかったことを、おわかりくださるものと信じます」
「ええ、もちろん、よくわかっていますよ。ほかに何か、お役に立つようなことがあったら、なんでもいたしますがね?」
この申し出に、大男の大警部も感激したらしかった。それはありがたいです。せっかくのご好意だから、家のうちをちょっと見せていただきたい。もちろん、ただ形式だけのことで、それも報告書を書くのに役立つでしょうと言った。
ビクリー博士はさっそく承知した。これはじつにおもしろい。
二人はいっしょに家のうちを見てまわった。なにもほのめかしもしなかったが、ラッセル大警部は、いたるところを徹底的に調べた。ビクリー博士は、心ひそかにおもしろがりながら、そばに立って見ていた。大警部は戸棚をあけたり、衣裳だんすをのぞきこんだり、浴槽の下まで見たりした。何を見つけ出そうとしているのか、ビクリー博士にはまるでわからなかった。
「本格的な捜索隊みたいにやられるわけですな、大警部」
「けっして中途半端なことはしないんですよ、先生」とラッセル大警部はおだやかに答えた。「それがわれわれの方式でしてね。なかなかめんどうですが、結局はそのほうが得策なんですよ」
ビクリー博士は警視庁の捜索方法の核心を見抜くような気持で興味をおぼえたが、その方法には感心しなかった。
大警部は屋根裏部屋まで入りこんでいった。彼は最上階への階段を先に立ってのぼっていったので、ビクリー博士はとめようと思っても、とめようがなかった。が、とめようと思ったわけではない。ちっともかまわない、という気だったので、とめだてするような文句は注意ぶかく差しひかえ、熱心に協力する態度をみせてついていった。
大警部は部屋のまん中に立って、器具類や試験管、写真用具、ラジオ部分品(ジュリアの死後ビクリー博士はラジオをいじり、セットをつくるのを冬の道楽みたいにしていた)、その他いろんながらくたを、おどけたびっくり顔で見まわした。「本式の捜索をやっているんでなくて運がよかったですよ、先生。これを全部しらべるには半日かかったでしょうからな」
「わたしの道楽部屋ですよ」とビクリー博士は説明した。
もうすでにいろんなほかの邪魔物がのせてあるテーブルの上に、細菌培養器があった。あきらかに当惑したようすで部屋をぐるりと見まわす大警部の眼ざしは、そちらへさまよいもしなかった。そのきわどい場面が、ビクリー博士の気に入った。この男の鼻の下に……まったく、警視庁にできるのは、せいぜいこんなことなのか!「そこにあるのが細菌培養器なんですよ」と彼はさりげなく言ってやりたい誘惑にかられた。たぶんこの男は、細菌培養器がどういうものかさえ知りもしないだろう。いずれにしろ、この男の眼には、なんの意味もないものと映るだろう。
「すると、あなたは科学的な実験をされるわけですね、先生?」と大警部は試験管をながめながら言った。
「まあ、たまにちょっとした研究をするだけですよ。昔から興味をもっているものですからね。もちろん、田舎の全科医では、あまり機会もありませんがね。でも、できるだけのことをやるわけです」
大警部は実験器具のおいてあるテーブル(細菌培養器のテーブルではなく)へ近づき、ミルス手榴弾でも扱うような手つきで、ブンゼン灯をとりあげた。「化学ね? いや、これはわたしにはまるでわからないやつでしてな」
「そうですか? とても興味ぶかいものですがね。わたしはこういうことをやっていたんですよ」とビクリー博士は、チオ硫酸ナトリウムの液に塩素を通して、閑暇を楽しんでいたことを話した。
「なるほどね」と大警部はぼんやりした口調で言った。「たしか、そのことは耳にしたことがありますよ。それには砒素を使わなくちゃならないんでしょう?」
「ぜんぜん使いませんよ」とビクリー博士は鋭く答えた。どういうわけで、こんなに砒素の問題がとび出しつづけるのだろう? 「階下でお話ししましたように、薬局にあるファウラー氏液以外に、この家にはぜんぜん砒素はないんですよ。そんなに砒素のことを考えるのは、どうしたことです?」
大警部はこまった顔つきになった。「ああ、そのことですか。いや、べつにそのことを考えていたんじゃありませんよ、先生。ちんぷんかんぷんの化学なので、ちょっと感ちがいしていただけです。それにしても、こんなにすっかり見せていただきまして、ありがとうございました。これで、見たかったものはぜんぶ見せていただいたようです」
大警部は、やはりウィスキーを飲もうとしなかったが、二人は愛想よく別れた。
ビクリー博士は診察室にもどり、ウィスキー・ソーダをつくった。こんどは前よりも強くした。彼は自分のやり方に、すこぶる満足していた。おもしろく楽しい晩であった。
それにしても、もう一年以上も前のことを、自殺かどうかなどとむし返すとは、なんというばかげた騒ぎをやらかすのだろう。これも官僚式の繁雑なやり方にちがいなかろう。
いずれにしても、これでチャトフォードはおしまいだろう。
いろんな意味でだ。
真夜中に、恐怖の汗にまみれながら、ビクリー博士は目をさました。
もうだめだ。おれがジュリアを殺したことを警察当局は知っている。警察の連中はそれを立証しようとしている。おれをつかまえ――絞首刑にするまで活動をやめはしないだろう。もうだめだ。
すべてがそれを示している。いまおれの頭は、はっきりしている。すべてが、ぞっとするほど明らかだ。どうして今まで、こんなことがわからなかったのだろう?
自殺の疑いがあるくらいのことで、わざわざ警視庁から人間をさしむけたりするだろうか? もちろん、そんなことはしない。警察当局が疑っているのは殺人なのだ。殺人。どうしたらいいだろう?
デヴォンシア州警察は、なにか見つけたのだ。そして警視庁の応援をもとめたのだ。警視庁は見のがすまい。ああ、どうしたらいいだろう?
すべてがそれを示している。あの大警部はいっしょにウィスキーを飲もうとしなかった。それが証明しているではないか。いっしょにウィスキーを飲もうとしなかったのだ。決定的だ。みずから逮捕するつもりの相手でないかぎり、警官がいっしょに飲もうとしなかったりするはずはない。決定的だ。
検死官が特権にこだわるなどとほのめかしたのは、場あたりのでたらめだ。自殺のことをほのめかしたりしたのも、みんなおれを油断させるために、なめさせたアメだったのだ。あの愛想のいい態度にしても、おれをおびきよせてどろをはかせるためのポーズだったのだ。それなのに、なんてことだ、おれはどろをはいた。とりかえしがつかないのではないか。なにもかも言ってしまったのではないか? 打ちとけた気分になって、女あさりのことをほのめかしたり、チャトフォードに対する報復的な気持をぶちまけたりした。ああ、どろをはいて身の破滅をまねいたのだ。もうおしまいだ。
どうしてあんなばかなまねをしたのだろう? おれは致命的なあやまちをおかした。相手を見くびったのだ。あの男がばかみたいなふりをしていたものだから、まんまとおれはたぶらかされたのだ。しかも、おもしろがっていたのだ! ああ、ばかだったのはおれ自身のほうだったのに。
すべてがそれを示している。おれの行動について語らせたことにしても、警察当局が自殺にすぎないとしているのなら、そんなことを語らせたりしないのではないか? もちろん、しないだろう。当局は殺人であることを知っているのだ。だから、あの男はマーチェスターの薬種屋への注文書を持ち去ったのだ。あれがおれの署名をまねたものなどではなく、偽筆と見せかけたおれ自身の筆蹟であることを証明するために、持ち去ったのだ。持ち去られたおれは、もうあれをとり返して焼きすてることはできまい。あの一枚の紙が、おれを絞首刑にしようとしているのだ。
それに、あの砒素。あれはどういう意味なのか? なにか怖ろしい謎をひそめている。おれがジュリアを砒素で毒殺したと当局は考え、なんとかそれを証明しようとしているのだ。ところが、おれはそんなことはしなかった――しなかったのだ。ああ、なんという怖ろしいことだ。おれは自分が全然やりもしなかったことのために、絞首刑になろうとしているのだ。砒素! あれはどういう意味なのか?
絞首刑! おれは絞首刑になろうとしている――絞首刑に――絞首刑にだ。首を、死んでしまうまで絞められるのだ。
ああ、なぜおれはジュリアを殺したのか――なぜ――なぜ? じつにばかなことをしたものだ。まったく笑い出したくなるほど不必要なことだったのに、なぜ、あんなことをしたのだろう――なぜ? ああ、ジュリアが生きていてくれさえすれば。ひどくジュリアに会いたい。たまらないほどだ。いったい、どうしたらいいだろう?
彼はベッドに起き直った。ピンクの木綿のパジャマをまとった小柄なからだを、きっとこわばらせ、眠っていたので髪を半分さかだてたまま、こぶしを口にあてがいながら、前後に身をゆすぶった。
あんなことさえなければ。ジュリアが生きていてくれさえすれば。
「ああ、ああ」とビクリー博士はうめいて、泣きはじめた。
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第十一章
あくる朝、ビクリー博士の自信は完全に回復していた。昨夜の絶望感は、生命力が一ばん低調になっているときに、警視庁がジュリアの死に本当に関心をもっていると知ったところから、自然的に起こった反作用だった。親しみぶかい日の光のなかで思い出してみると、ひとつの悪夢みたいで、ばかげたことのような気もした。
もちろん、殺人と疑われたりしているのではない。疑われるわけがないではないか? 疑われる根拠がぜんぜんないのだ。チャトフォードが騒ぎたて、弁護士であるし、どうやら有力者でもあるらしいので、内務省もあいつの空騒ぎを調査しないわけにいかなくなり、ロンドンから一人の人間をさしむけて報告書を作らせるまでにいたったのだ。あの大警部にチャトフォードの魂胆を話しておいて、とてもよかった。あれであいつが大へんな利害関係人であることが証明されるから、あいつのばかげた非難は三文の値打ちもなくなってしまうわけだ。
さらに、もちろん、あの大警部も納得したのだ。そうでなかったら、あんなに親しげにふるまうはずがない。殺人事件を調べていると思えば、もっと四角四面にかまえて御用風を吹かせただろう。あんなに愛想よく申しわけなさそうにしたりしなかったにちがいない。警視庁が殺人容疑者に、申しわけなさそうにする! ありそうにもないことだ。
それに、よしんば(とビクリー博士はベーコン・エッグを食べながら考えた)、不可能のようなことが起こり、すでに起こっていて、殺人の可能性が問題にされるとしても――それがどうだというのだ? ジュリアの場合については、チャトフォードとマドレインの場合と同様、なにも証明されるはずはないのだ。なに一つとしてだ。おれは安全な立場にいるのである。まったく、どんな殺人犯人にしても、ほんのちょっと知的な警戒措置をとっておきさえすれば、裁判にかけられたりするはずはないのに、かけられるのは解《げ》しかねる。だが、もちろん、つまるところは、ばか者は知性がないから、知的な警戒措置をとっておかないのである。
チャトフォードは?
放っておくのがいいのではないか? チャトフォードは死にかかっているかもしれない。そうであれば、めでたいことだ。だが、反対に、死にかかっていないかもしれない。そうだとしても、警視庁の探偵の鼻の先で殺人をやってのける気にはなれない。(そうだ、いまチャトフォードが死ねば、それはほんとに殺人となるだろう。じつに奇妙な話だ)しかし、そうだからといって、チャトフォードを見のがしてやることが、おれ自身を公正に扱う道か? どんな点から考えても、チャトフォードは死ぬのが当然である。チャトフォードが生きているかぎり……
じつにむずかしい問題である。
それに、アイヴィがいる。ああ、そうなのだ、おれはアイヴィのことを忘れかけていた。チャトフォードの未亡人として、チャトフォードが刻苦勉励して蓄積してきたすばらしい財産を、ぜんぶ持ってくるアイヴィ。ついに自由独立の身となるアイヴィ……
そうなれば、これもやりがいのある復讐となる。
たしかにそうだ、チャトフォードは死んでもらわなくてはならない。
それにしても、警視庁に厄介をかけてはいけない。ちょっとでもいけない。チャトフォードには、ちゃんとふつうの自然な死に方をしてもらうがいい。毒? とんでもない。あのばかな男は悪いびん詰の肉を食ったのだ。そんなことをすれば、その当然の結果がくることを覚悟しなければならない。ワイヴァーンズ・クロスにも、同じような患者が出たではないか。あの子の名は、ああ、そうだ、サムフォードだ。そうだ、もちろん。あれは腸詰中毒という症状ではないか。いまチャトフォード氏も同じ症状なのだ。うん、そうなのだ。
ビクリー博士は、おえら方の口から言葉が、げんに聞きとられるような気がした。彼は無意識に微笑しながら、コーヒーをのみ終えて、蝋でかためた小さな口ひげに、手ぎわよくナプキンをあてた。
さて、チャトフォードだがな……
しかし、チャトフォードに会うのは、ビクリー博士が思っていたほど簡単ではないようだった。
自宅へ出かけた彼は、そっけなくことわられ、ほとんど顔にぶつかるばかりにドアをしめられた。今日はチャトフォードさんは容体が悪くて、どなたにもお目にかかれません、と興奮した女中は言うなり、ビクリー博士が二の句をつげる間もなく、まっこうからバタン! とドアをしめたのであった。
これでは、二度やってみてもむだだ、とビクリー博士はおだやかに思いめぐらしながら、自分の車に乗りこんだ。あきらかにチャトフォードは、相手がだれであっても会わぬ決心をしているらしかった。だが、チャトフォードにとって不運なことに、ビクリー博士もチャトフォードに会おうと同じように強く決心していた。そしてこの新生のビクリー博士が、何かやろうと決心したとなれば……
彼はマーチェスターの街路に車を駆った。意識的に冷厳な死神みたいな相貌を見せていた。あんなふうにして、チャトフォードがのがれようとしても、そうはいかない。直接的な方法がだめにしても、隠密な方法はいつでも手中にあるのだ。
リドストン博士は留守であった。ビクリー博士は一瞬ごとに冷厳さを強めながら、マーチェスターをぶらつき、もうリドストン博士が帰ったにちがいないと思える時刻になると、引き返していった。こんどは運よく、ちょうどリドストン博士が昼食に帰ったばかりだった。
リドストン博士は、いつもきわめて控えめな人にしては、なかなか愛想よく迎えた。「やあ、ビクリー君、よく来てくれましたな。ずいぶんしばらくだったね。元気かい? うん、君が来るだろうと待ちうけていたんだよ」
「待ちうけていたって?」
リドストン博士は、やせた長身を診察室の椅子のなかにくねらせて、安楽な姿勢を見つけようとしているようすだった。彼はとても大きくせきばらいをした。「そうだよ、あの……オホン! あの男に、君はわたしのところへ行けと言ったんだね。じつに扱いにくくてな。とても――オホン! ――こまったよ。もちろん、わたしは確認しておいたが……」
「ああ! ああ、そう、あの男がやって来たんですね?」やっとビクリー博士は相手の当惑したような話の意味がわかった。いまやっている仕事のことばかり考えつめていたので、警視庁の大警部のことはすっかり忘れていたのである。あの男も、リドストンから大したことも聞き出せなかったろう。結局、リドストンはジュリアの病状について自分の意見をのべただけなのだ。医者としての自分の立場も考えなくてはならない。たとえリドストンにその気があったとしても、もちろん、警官に話せるような何かがあったというわけではない。死はモルヒネ中毒の徴候と完全に一致していた。モルヒネ中毒による死であったからだ。それ以上、なにも必要ないではないか。それにしても、そんなことはもうすべて問題でもなんでもない。
「そうですよ。あなたにお会いするがいいと言ったんですよ。しかし、いま参上したのは、そのことについてではないのです。ねえ、リドストン先生、わたしは気づかっているんですよ。チャトフォードが病気になったと聞きましてね。あなたは主治医ですね? あの男の容体はどうなのです?」
リドストン博士は、返事をする前に、いつものように慎重に考えながら、眼鏡ごしに考え深げにビクリー博士を見つめていたが、急に眼をそらした。「そうだね、かなり悪いほうだね」やっと彼は言って、さらに少し妙に身をくねらせて椅子にもたせた。
「ほんとに重態ですか?」
「たしかに、そうだね」
「そうですか、でも、どの程度に重態なのです? 命にかかわるようなことになりそうですか?」
リドストン博士はまた考え深げに相手を見つめた。「そういうことになるかもしれない。ならないかもしれない」
ビクリー博士はいらだたしさをおさえた。このばかなおやじめ、チャトフォードが死ぬかどうか、どうしてはっきり言えないのか? それにしても、とにかくチャトフォードの容体は悪いのだ。しかし、こっちの望むほどには悪くないようだ。虎穴《こけつ》に近づいて、もう少しさぐりを入れてみよう……
「どうも気がもめましてね。先日、チャトフォードはわたしの家へお茶に来たんですよ。一昨日ね。バーン夫妻も来まして、四人でした。そのうちの三人までが、その夜ぐあいが悪くなったんですよ。だから、ほんとに、わたしは……」
「バーンは悪くならなかったんだよ」
「ええ、悪くならなかったのは、あの男だけでしたよ」
「ほう! じゃ、君も?」
「そうですよ。そうとう猛烈でした。でも、さいわい、どうやらわたしは大部分の毒素を排泄してしまったらしく――」
「毒素?」とリドストン博士は鋭く口をはさみ、こんどは眼鏡ごしではなく、眼鏡の上側からビクリー博士を見つめた。「君は中毒していたというのかね?」
「そうですよ。かなりはっきりした症状じゃないですか」
リドストン博士は両手の長い指先をよせあわせ、ひどく感嘆するようにその指先を見つめた。「それで、その毒素はどんな性質のものと思うのかね?」
「そりゃ、よくわかりませんがね。ある種の食物にふくまれている毒素でしょうな」こんどはビクリー博士のほうが慎重になる番となった。「じつはそのことについて、お目にかかりたかったのですよ。べつに差出口などをしたいわけではないんですが、あの患者にはどんな手当をしておいでですか?」
リドストン博士の医者としての威厳は、あきらかに台なしになった。「それは、じつのところね」と彼はぎこちなく言いはじめた。
ビクリー博士は好ましくない印象を急いで消し去ろうとして、とっておきの愛嬌たっぷりの微笑をうかべた。「わたしからあなたにこんなことを申しあげるのは、ひどく小しゃくに聞えるでしょうが、ほんとに関心をもっているのです。わたし自身がやられたんですからね、文字どおり『医者の不養生』を地でいったやつですよ。そして昨日、バーン夫人のようすをうかがいに参りまして(もちろん友人としての訪問にすぎませんが)、ちょっとお会いしてきたんですよ、たぶんあなたもお聞きになっているでしょうがね」そうだ、このばかおやじはきっと聞いているにちがいないから、そのほうもうまく言いつくろっておくのがよかろう。「あなたが診療にあたっていられるのは知っていますから、わたしは注意ぶかく医者として接するのはさけましたが、ひたむきな関心にかられて、すこしばかり質問をしてみましたところ、その症状がわたしのものとまったく同じなんですよ。おそらくチャトフォードの症状も同じだろうと思いますね」と彼は問いただすように言葉を切った。
「たしかに、二人の症状は相似点《そうじてん》を呈しているね」とリドストン博士もみとめた。
もったいぶったばかおやじめ!「なるほど。そうしますと――!」ビクリー博士はまた微笑した。きげんをよくさせずにはおかないような微笑だった。「じつはですね、わたしが何かのお役に立ちはしないかと思ったんですよ。チャトフォードの症状は、三人のうちで一ばん重いようですし――なにしろ、わたしは自分自身を治癒したんですからね!」
「君を顧問医師として呼べというわけかね?」とリドストン博士ははっきりときいた。
「まあ、そういうことになるでしょうな」ビクリー博士は自分のやっきの気持をかくして、白ばくれた。「こんなことを持ち出すのは、まことに医者らしくない態度であることはわかっていますが、つまるところ、みんな多少とも友人の間柄であるし……それに、わたしはほんとにお役に立てると思うものですからね」
「君は自分自身にどんな手当をしたのかね?」
「ああ、それは……」ビクリー博士は笑った。「それよりも、あなた自身のご高見を承りたいですな」
「ふむ!」リドストン博士は慎重に考えた。「真夜中に、チャトフォードから電話がかかってきた。出かけてみると、大へん苦しんでいたので、モルヒネの注射をして、腹部をあたためるようにさせた。その後、正塩による結腸洗滌《けっちょうせんじょう》をすすめ、ソーダ蒼鉛《そうえん》に青酸剤を処方してやった」
ビクリーはうなずいた。「なるほど。事実上、常道的な手当ですな」
「ほかの方法をとる理由は何もないと思ったのでね」とリドストン博士はぎこちなく答えた。
「そりゃ、そのとおりです。しかし、わたしの場合は……いや、そんなことは申しあげないでおきましょう。それにしても、リドストン先生、本当にわたしは、医者としてのひたむきな関心から、非常にチャトフォードを見たいんですよ。きっと格別のおはからいで同道ねがえるでしょうな? この午後はいかがです?」
「ふむ! いささか常道をはずれたことじゃないかな。それに、いずれにしても、患者の承諾がなくては、わたしにはどうにもできないね」
「チャトフォードは気にもしないでしょうよ」とビクリー博士はあっさり言った。
「あの男はきわめて強硬に反対するかもしれないよ」とリドストン博士はそっけなく話した。
「いけないな、ビクリー君、お気の毒だがね。あまり常道をはずれすぎていると思うよ」
「いや、どうか」とビクリー博士は説きふせにかかった。「格別のおはからいでね、リドストン先生。チャトフォードは気にもしませんよ」
しかし、リドストン博士はついに心をきめたらしかった。彼は立ちあがった。「これはどうもわたしには同意できかねることだね。要するに、そんなことをする気がぜんぜんないんだよ。お気の毒だがね」
「いや、結構ですよ」とビクリー博士は微笑した。「結局、どっちにしたって、ちっともかまわないことですから。それに、そんなに古い常道を守るあなたのほうが、きっと正しいんでしょうよ、リドストン先生、手当のやり方にしても儀礼の問題にしてもね」彼の両頬骨の上に、二つの小さな斑点が赤くあらわれていた。
二人は握手せずに別れた。
ビクリー博士は憤りにこわばりながら、車を駆った。いまいましいばかおやじめ! 用心しないと、つぎはおまえの番になるぞ。まっこうからの侮辱だ――おれ自身の医者としての能力を侮辱するものだ。それ以外の何ものでもない。ビクリー博士は自分のズボンのポケットの小型の薬びんを、ズボンごしに指でいじった。リドストンも用心するがいいぞ。どういう種類の人物を相手にしているのか、気づいていないらしい。
あの二人が、おれをチャトフォードの寝室に入れないようにできるなどと考えているなら……
リドストン博士は、自分の診察室で、すいとり板《ばん》を五分間ばかり見つめていてから、電話を手もとへ引きよせた。
結局のところ、ビクリー博士をチャトフォードの寝室に入れないようにする陰謀などがあるはずはなかった。一時間後、ビクリー博士がおそくなった昼食をすませたとたんに、電話のベルが鳴った。
先方はリドストン博士だった。「ああ、ビクリー君、わたしは君の申し出をよく考えてみたんだよ。もちろん、チャトフォードの承諾がなくては、わたしにはどうにもできないことだったんだが、ちょっと話してみたら、チャトフォードはぜんぜん異議がないと言うんだよ」
「ほう、なるほど」とビクリー博士は懸命に冷静なふりをしながら言った。
「それに、じつを言うとね」とリドストン博士は例のはっきりした口調でつづけた。「患者の症状には、ある不可解な点があらわれているんだよ。それで、君がまだあの申し出のような気持なら……」
「わたしを立会い診察に呼ぼうとしていられるんですね?」
「そう、ある意味ではね……そう、そのとおりだよ」
「あなたのご都合は、三時半ではいかがです?」
「けっこうだね」
「承知しました。参りましょう」
ビクリー博士の歓喜はすごく大きかったので、受話器をかける手がふるえた。チャトフォードはおれの手中にわたされたのだ。
彼は薬局へ行った。午前中から、いちだんといい考えが心にうかんでいたのだった。
めんみつに注意して、一つのカプセルの準備をしながら、彼の想念は一つのバラ色の夢の実現から次の実現へと輝やかしく飛んだ。復讐は気持のいいものだ……だが、アイヴィのほうがもっと気持がいい……財産があって、未亡人になったアイヴィ……そうだ、財産がすべてのうちで一ばん気持がいい。それに、チャトフォードを片づけてしまえば、あんなばかげた調査も総くずれになるにちがいない。その親玉を消し去ってしまうことになるからだ。もっとも、あの調査は、もうとっくに総くずれになっているにちがいない。(あの真夜中に、おれはほんとにあのことを本気に考えたりしたのだろうか? いま思い出してみると、奇妙な気がする。生命力が低調になってくると、脳髄の機能が衰えるのは、じつに興味ぶかい現象だ。精神に対する物質の勝利なのだ)あの大警部も、もう今ごろは、空騒ぎの報告書をポケットに入れて、ロンドンに帰っていることだろう。ある意味では、いささか残念だ。あの男の鼻の先で、空騒ぎをまき起こした親玉を片づけてやれば、おもしろかっただろうに。
ぜったいに探知されない殺人が、いかに巧妙にやってのけられるか、じつに驚嘆すべきものがある。もっと多くの知的な人びとが、なぜこれをやらないのだろう? たぶん、やっているのだろうが、知られずにすんでいるのだろう。しかし、ビクリー博士はそういうことは信じ切れなかった。自分だけが特に独創的な人間にちがいないと思った。
三時半きっかりに、彼はチャトフォードの家の前で、心たのしげにジョウエットからおりた。それから二分間後、勝ちほこったように、ゴールにたどりついた。
チャトフォードの容体は悪かった。それはきわめてはっきりとわかった。彼はぐったりとベッドに横たわり、ひどい虚脱状態におちいっているらしく、ほとんど意識もないように見えた。ビクリー博士は一瞬チャトフォードを見おろしながら立っていて、顔面の筋肉がほころびるのをおさえきれなかった。
「体温を計ってみましょう」と彼は低い声で言った。
「それにはおよばないよ」とリドストン博士も声をひそめて答えた。「いま計ったばかりだからね」彼はベッドから離れた部屋の隅にビクリー博士をつれていって、ささやき声で言った。「君に電話をかけてから、容体が悪化したようだよ。体温も九度三分まであがっている」
ビクリー博士はうなずいた。「ざっと一通り診察してみたほうがいいでしょう」
「いまのところ、そっとしておいたがいいだろうね。君の知りたいことは、わたしからなんでも話してあげられるよ」
「では、ほかの徴候はどんなふうです?」
「まず予期どおりだね。舌にかすかな〈こけ〉、相当な腹痛、下肢の痙攣《けいれん》、それに、もちろん、嘔吐と下痢」
「いちじるしく激しくなっていますか?」とビクリー博士は鋭くきいた。
リドストン博士はためらった。「いや、予想ほどに、いちじるしく激しくもなっていないようだね」
「なにか麻痺の徴候がありますか?」
「そうは――思わない。いや、あるかもしれない。特に気をつけなかったものだからね」
ビクリー博士はそんな無能ぶりに、軽蔑の眼ざしを見せた。「それで、瞳孔は拡大していますか?」
「そう」とリドストン博士は活気づくようすだった。「そうだよ、それはたしかだよ」
「そしてあなたは、ただソーダ蒼鉛に、青酸剤だけで手当をしてきたのですね?」
「それにサリチル酸蒼鉛。四時間ごとに十五グレインずつね」
「なるほど。それであなたのご診断はどうなのですか?」
「わたしの意見ではだね」とリドストン博士はいささか守勢になりながら言った。「食中毒による急性胃腸炎だね」
「そうですか」とビクリー博士はおだやかに言った。「わたしは意見がちがいますな、リドストン先生」
「ちがうかね?」リドストン博士は意外そうだった。
「ええ。わたしの見たところと、あなたの話されたところからして、これは明瞭な腸詰中毒だと思いますね」
「腸詰中毒!」この考えが、リドストン博士の頭にまるで浮かんでいなかったことは明らかだった。
「そうです。もちろん、わたしは自分自身とバーン夫人の症状から、ほとんど確信していたんですよ。しかし、両方とも軽症だったので、断定できなかったのです。それでわたしはチャトフォードをみたかったわけですよ。病菌に感染した経路も、かなりはっきりわかっています。わたしたちはお茶のときに、びん詰の肉をたべましたので――つまり、ほかに病菌を媒介したものは考えられませんね」
「ほう。でも、それは確かめるべきだね、ビクリー君。そのびん詰の肉の残りはまだあるのかね?」
「もうありません。あの時、サンドウィッチがちっとばかり変な味がしたので、あとで台所へいって、においをかいでみたんですよ」そしてビクリー博士は、ミセス・ホーンと相談して、びん詰はすてたほうがいいということになったいきさつを話した。
「弱ったな」リドストン博士は痩せたあごをなでた。「腸詰中毒とはな。いや、じつを言うと、それはまるで考えつかなかったよ。じっさい、一度も手がけたことがないんでね」
「ああ、そこがわたしの有利な点だったのですよ」とビクリー博士は強調した。「わたしはワイヴァーンズ・クロスで患者を手がけましたからね。不幸にも、患者は死亡しましたが、わたしは経験を得ましたよ。わたしが自分自身を急速に治癒できたのも、まったくその経験のためだと思いますね」
「たしかに、たしかにね。それで、どういう手当をすればいいかな」
「ヤラッパ〔瀉下剤《しゃかざい》〕と酒石英〔緩下剤〕をたっぷり服用させることですね」とビクリー博士は立ちどころに答えた。「そしてチャトフォードの症状からすると、服用させるのが早ければ早いほどいいですよ。さいわい、いま持ってきていますから」
「持ってきているのかね?」とリドストン博士は関心をそそられたように言った。
「ええ。ほとんど確信していましたし、早く服用させるのがいいと思ったものですからね。これです」ビクリー博士はズボンのポケットから小さな丸薬容器をとり出し、そのなかから、致命的な培養基のジェリーの入ったカプセルを出した。「ただちに服用させましょう」こいつはまるでお茶の子さいさいではないか。
「わたしが服用させることにしようよ」とリドストン博士は少しぎこちない口調で言った。
こんな医者の嫉妬を見せる子供っぽさを、ビクリー博士は内心ひそかに笑いながら、カプセルを手わたした。そのほうがよかろう。リドストンに殺させてやれ。これで芝居がいよいよおもしろくなってくる。
ビクリー博士はしずかな快感をおぼえながら、カプセルが服用させられるのを見まもった。前に自分の家の客間での場合と同じように良心のとがめなどは感じなかった。チャトフォードはそんな気を起こさせるような種類の人間ではなかった。
リドストン博士は例のきちょうめんな手つきで、コップに半分ほど水を入れ、ベッドに近づいた。「これを飲んでもらいましょう」と彼はおだやかに言った。すると、チャトフォードはそろそろ眼をあけた。頭をもたげる力がなかったので、リドストン博士が頭をささえてやり、チャトフォードの口にカプセルを入れてやった。いくどか努力して、水を飲んでから、やっとチャトフォードはカプセルをのみこんだことを身ぶりで示した。リドストン博士が注意ぶかく頭をまた枕にのせてやっているとき、ビクリー博士は身をめぐらして窓の外を見やった。どうしてもおさえきれない勝利の微笑をかくすには、そうするしか手がなかったのである。ああ、これでいまいましいチャトフォードも、こいつの暗躍もおしまいだ。アイヴィもやれやれだ。ついに自由独立の身となれる。
事をやってのけてしまうと、ふしぎに感覚が鋭敏化したようだった。彼は窓から振りかえり、はじめて部屋じゅうを見まわした。さっと見まわしたとたんに、あらゆるものが見てとれたような気がした――病人が横たわっている大きなダブルベッド(あきらかにチャトフォードは旧式な男らしい。ベッドの問題について旧式なのは、いつも男のほうなのだ)、枕元のテーブルにクズ湯のコップ、マントルピースの上に、乳色の液体の入った薬びん、洗面台の上にコップと二つの小型のびん(やはり薬びん)、三面鏡のついたなまめかしい婦人用の化粧台……ここがチャトフォードの部屋であるだけでなく、アイヴィの部屋でもあると思うと、とても妙な気がする、じつに妙な気がする。
無意識な職業的本能にかられて、彼は洗面台のほうへうろついていった。なぜこんな薬びんがあるのか? 内容を表示した貼紙にしても、じつにおかしい。「炭酸ナトリウム液」「過塩化鉄チンキ」。それに、マントルピースの上の薬びん。だが、その内容は表示されていない。
「まあ、病人はそっとしておいたがいいと思うね」とリドストン博士が切り出した。
ビクリー博士は、もうここにいる用もないので、異議なく同意した。
階下におりると、二人は病状やチャトフォードの回復の見こみなどをちょっと話し、あまり楽観はできないということに意見が一致した。ビクリー博士は、チャトフォード夫人を呼びもどすようにしたのかとたずねた。必要な手配は、できるかぎりしてあるという返事だった。彼はいとまをつげようとした。
だが、リドストンは、なんとしても彼に去らせるのをいやがるようすだった。といっても、チャトフォードの家から去らせるのがいやなのではなかった。二人はきびきびした足どりで家を出た。ところが、リドストンは自分の車で来ていなかったことがわかったので、ビクリー博士は仕方なく自分の車に乗せて家へ送ってやった。すると、リドストンはひどく感激したらしく、ぜひお茶をのんでいってもらいたいと強くすすめた。ビクリー博士は振りきって帰りたかったのだが、どうにも断わりきれなかった。リドストン博士は妻が留守だということを熱心に説明し、これもビクリー博士をお茶にとどまらせる絶好の理由と考えたらしかった。お茶のあとで、リドストン博士が腸詰中毒や食中毒一般、そのほか幾多の問題について質問をしたものだから、五時すぎになるまで、ビクリー博士は引きとめられていた。
やっと逃げ出した彼は、うっとりした満足感にひたりながら、ワイヴァーンズ・クロスへ車を駆った。
家に帰り、車をしまいこんでから、彼の心の底に沈んでいた疑問が、はじめて表面に浮かびあがってきた。いったい過塩化鉄チンキなどが、なぜあそこにあったのか?
彼は診察室の本棚から「薬物学」をとり出して調べてみた。たちまち彼は大声で笑った。洗面台の上にあった過塩化鉄と炭酸ナトリウムにコップ、クズ湯、緩和剤、マントルピースの上の乳色の液体(明らかに水酸化マグネシウム)――これらを綜合してみると、明白すぎるほど明白だ。あのリドストンのばかおやじは、チャトフォードに砒素中毒の治癒をほどこしつづけていたのだ。
つまるところ、あの症状は胃腸炎の症状と同じなのだ。
だから、リドストンはあんなに急に気を変えてきたのだ。そしておれ自身も同じように胃腸炎と診断するかどうか、みずから見とどけようとしたのだ。なんという笑止千万なことだろう。リドストンは砒素中毒ではないかと思い、そして――
ビクリー博士のおもしろおかしい気分が、急に消えうせた。砒素! あの砒素の問題がとび出したのは、あそこからなのだ。ジュリアとはなんの関係もないのだ。あきれたな。それにしても、まさか警察当局が疑ったりするはずはないが……
彼は文字どおり椅子に落ちこんだ。ひざから急に力が抜け去ったのだった。たしかに当局は疑っているのだ。
そうにちがいない。そうでなければ、あの大警部があんなにしつこく砒素のことを質問するわけがないではないか。おれがマドレインとチャトフォードに砒素を盛ったのではないか、と当局は疑っているのだ。ジュリアについての噂話などにふれたのは、煙幕にすぎなかったのだ。あの男はおれを罠《わな》にかけ、砒素を持っていることをおれに認めさせようとしていたのだ。
だが、どうして当局は、そんなことを疑ったりするのか? チャトフォードの症状が、砒素中毒の症状に似ていなくもないのは事実だ。しかし、体内に砒素があるかないかは、有能な分析家にはたちまち確かめられる。そしてその分析家の報告は否定的だったろう。それなのに、どうして当局は疑ったりするのか?
ビクリー博士はテーブルにもたれかかり、両手で頭をかかえた。冷静にならなくてはならない。筋道をたてて考えなくてはならない。
当局は砒素中毒でないかと疑っているかもしれないが、おれが砒素を盛った人間でないかとは疑っていないのかもしれない。
いや、それではつじつまが合わない。おれが砒素を盛った人間でないかと疑われていないのなら、あんなに大警部は質問しなかっただろう。
では、当局はおれが砒素を盛った人間でないかと疑っていたとしよう。だが、排泄物に砒素がないという分析家の報告を、もう受けとっているはずだから、いまでは当局もおれを疑うわけにいくまい。では、どんなことを考えているのだろう? あきらかに、あの病気は自然的な原因によるものであって、嫌疑には根拠がなく、ひどいでたらめであった、と当局は考えているにちがいない。ほかに考えようがない。
だから、リドストンはあんなに気を変えたのだ。リドストンは警察と気脈を通じていて、嫌疑のことを知っていたのだろう。それで、当然、この午前中に、おれにチャトフォードに会わせるのを拒んだのだ。ところが、おれが引きあげてから、分析家の報告を聞き、砒素はぜんぜん問題にならず、あの病気がまったく自然的な原因によるものであることを知った。そこでリドストンはおれを呼んだ。役に立つ意見を聞きたいためばかりでなく、午前の卑劣なふるまいの埋め合わせもするために……
だが、待てよ。すべてが罠だったとすれば? 砒素が問題でなくなり、リドストンもほかの連中も、チャトフォードの病気の真因について頭をひねっていたとする。分析家はなんの毒も発見できないが、当局はビクリー博士がチャトフォードに毒を盛ったのだ、という怪《け》しからん考えを持ちつづけていたとする。そしておれが尻尾《しっぽ》を出して、病気の真因をしゃべりはしないかと望みをかけて、おれを呼んでいたとすれば、ああ、それこそおれがやったことだ。腸詰中毒のような突きとめにくい病気を、ちゃんと診察もしないで診断してしまった……警察当局の手のなかにわが身を投げ入れたようなものだ。
だが、もうちょい待てよ。あわてるのはよくない。かりにそれが事実だとすれば――なあに、ちっともかまうことはないではないか。おれには腸詰中毒を診断できるだけの能力がある。そして腸詰中毒は自然的な病気だ。毒のことなどは問題にならない。おれはただひたむきに、できるだけ早く腸詰中毒であることを確証しようとしていただけなのだ。そういうことにすれば、間違った点はないのではないか?
そうだ。たぶん、ないだろう。腸詰中毒であることを確証しようとするのに、どこに間違った点があろう?
あっ、ちくしょう――あのカプセル。ヤラッパと酒石英が入っているように見せかけたあのカプセル。
だが、リドストンがあれを服用させ、チャトフォードはのみこんだ。おれはこの眼でちゃんと見たのだ。それで罠の可能性はとりのぞかれることになる。そして嫌疑の可能性も。そうだとも。当局は嫌疑のかかっている人間を呼んで、その人間が持っていったものを、平然と服用させたりするはずがないではないか。そうだ、これで決着がついた。
やれやれ、ほっと安心した。やれやれ、根も葉もないことに、ひどくやきもきしていたものだ。ほんとに神経に気をつけなくてはいけないな。この種のことはじつにばかげている。
だが、ちくしょう……リドストンがあのカプセルを服用させなかったとしたら? あんなふりをしていただけだったとしたら? そしてチャトフォードも飲むふりをしていただけだったとしたら? あれが警察当局の仕組んだ罠であって、おれが何か服用させるものを持ってゆくのを、連中のきたならしい手につかみとり、病因をつきとめようという魂胆であったとしたら? ああ、おれは連中の筋書きどおりにやったのだ。まっすぐに罠へとびこんでいったのだ。
もうだめだ。
ぜったいにだめだ。いまごろ、きっと連中は、しきりにくすくす笑っているにちがいない。どうしたらいいだろう?
ああ、ちくしょう……
ビクリー博士は拳《こぶし》でドンとテーブルをたたいた。ばかばかしいにもほどがある。もちろん、そんなことが実際にあってたまるものか。おれのいまいましい妄想にきまっている。チャトフォードはあのカプセルをのみこんだ。おれはこの眼でちゃんと見たのだ。
たしかに見たのか? 彼はじっとテーブルを見つめながら、あのときの場面を思いうかべてみた。そうだ、チャトフォードはあれをのみこんだにちがいない。そうにちがいないのだ。
では、もうそれでいい。こんなにばかげたうろたえ方をするのは、もうたくさんだ。こんなことをやりつづけていても、なんの役にもたたない。だれも何も疑ってはいないのだ。たとえ疑っているとしても、ちっともかまうことはないのだ。なにも証明することはできやしないからだ。ジュリアのことについても、ほかのどんなことについても。証明なんかできないように、ちゃんと形跡をくらましてあるのだ。
それにしても、適当な警戒|措置《そち》をとっておいても悪くはあるまい。たとえば、あの細菌培養器だ。あれはぐあいのわるい証拠になるかもしれない。もう必要もあるまいから、大事をとって破棄しておいたほうがよかろう。
それには今ほど打ってつけの時はない。
彼はぱっと立ちあがった。過度に神経がはりつめていたので、行動がしたかったのである。
彼がホールを通りぬけていると、台所からミセス・ホーンが声をかけた。「お茶をお出ししましょうか、先生?」
「もうすませましたよ、せっかくだがね、ホーンさん」
「はい、わかりました。ああ、それからね、先生、水槽のことで男の人がまいりまして、申しますのには……」ミセス・ホーンの言葉は尻きれトンボになってしまった。彼が一挙に二段ずつ階段をかけあがっていったからだった。どんな水槽のことでどんな男が来たというのだ? いまは水槽のことなんかにかかずらっていられない。やりかけた仕事があるときは、それをやることだ。
彼は屋根裏部屋のドアをさっとあけ、自信たっぷりの足どりで入りこんでいった――が、突然、はっと気がついたとたんに、まっ青な顔になり、信じかねるような眼をして、立ちすくんでしまった。
細菌培養器が消え去っていたのだ。
その夜、三人の男たちがビクリー博士に会いに来た。
彼はしずかに彼らを迎えた。彼らが来ることが彼にはわかっていたからである。これからの会談の一コマ一コマや、話の発展しそうなあらゆる方向について、彼は自分に許された時間内に、いくどもくりかえして考えていたのであった。いま、その時に直面してみると、彼はどんなに自分が冷静であるかに気づいておどろいた。
ラッセル大警部がまず最初にはいってきて、つぎに同じように大柄な男、そのつぎに長身の軍人みたいな顔つきの男がつづき、背後にドアをしめた。これらのトリトンたち〔ギリシア神話、ほら貝を吹いて波を静めたり逆巻かせたりする半人半魚の海神〕にくらべると、鮠《はや》ぐらいのビクリー博士は、けげんそうに三人を見つめた。
ラッセル大警部は自分のつぎにはいってきた男を示した。「こちらはエクセターから見えたアルヘイズ警視ですよ、先生」と彼は大へん愛想のいい調子で言った。「あなたにお話があるそうでしてね」
「そうですか?」とビクリー博士はていねいに言って、いぶかしそうな顔つきをした。だが、心臓がびくっととびあがっていた。まさか、この連中は……「いかがです、診察室へおいでになりませんか」
鈍重《どんじゅう》そうなアルヘイズ警視は、そうしてもよかろうと言った。三番目にはいってきた男は、不快な、不吉な態度で、ドアのそばにじっととどまった。
アルヘイズ警視が口を切った。なかば眼をとじながら、奇妙な、単調な声で話した。文句を暗記していることが、はっきりとわかった。そのようすがひどくおかしいので、ビクリー博士は、ばかげたことながら、くすくす笑い出したくなった。
「本月十四日、マドレイン・バーン夫人とウィリアム・チャトフォード氏が、当家であなたとお茶を喫した後、発病した件について調査がおこなわれました。同日、二人は当家を辞去してから間もなく発病し、はげしい嘔吐、その他の症状をみせました。その症状は、汚染《おせん》された食品を病因とする胃腸炎の症状と一致するものです。わたしの指示によって、警視庁のタナー部長刑事が、本日の午後、当家のごみ箱をしらべました。そのなかに、なかば肉の残ったびん詰肉のびんを発見しまして、それには胃腸炎をおこしたかもしれないような細菌がふくまれていることが、証明されるにいたったのであります。したがって、その汚染されたびん詰肉が、当家のお茶の会で共に摂取された食品に加えられたかどうか、もし加えられたとすれば、だれの手によって加えられたかを、調査することが必要となったのです。それで、本月十四日のあなた自身の行動、バーン夫妻とチャトフォード氏をお茶に招待された理由、その汚染されたびん詰肉について知っていられること、その他、あなたの希望され、問題の解明に役立つと考えられる所見について、あなたは陳述をされたいのではないかと、わたしには思えるのです。が、つけくわえておかなければならないのは、あなたの言われることはすべて記録されて、今後証拠として用いられるかもしれない、ということです」彼は言葉を切って、急に大きく見ひらいた眼でビクリー博士を見つめた。
「もちろん、知っているだけのことはなんでもお話ししましょう」とビクリー博士はこともなげに答えた。ほっとして気が弱々しくなるのを感じていた。ジュリアのことについては一言も出ないな。ただの一言も。当局はあのほうは放棄することにきめたにちがいない。見こみがないと知ったのだ。いずれにしても、どんなことが証明できるというのだ? 空《くう》の空なのだ。こんどのこの問題のほうは――まあ、ジュリアの問題にくらべれば、きわめてささやかなもののようだ。それに、チャトフォードはまだ死んではいないのだ。
「このような汚染された食品が出まわっていることに対しては、大いに申しあげたいことがありますよ」もうとっくに彼は、警視の言葉にふくまれている不気味な意味を、まるで気づかないふりでいこうと腹をきめていた。公共の福祉について警察当局と談合している一人の医者として振るまうのが、申し分なく正常な態度にちがいない。それが水ぎわだった上策だ。それに、いま逮捕できるなどとは考えられない。あの細菌培養器を考慮に入れても、物的証拠はぜんぜんないのだ。この連中はおれをおどかして、なんとか泥をはかせようとしているだけなのだ。へん、そんなことやろうなんて、相手をまちがえているよ。「においをかいでみたとたんに、あのびん詰は何か変だなと思いました。でも、たぶん最初から話をはじめたほうがいいんでしょうな?」
「どうぞ」と警視は言って、ドアのほうへうなずいた。タナー部長刑事が近づいてきて、テーブルに向かって腰をおろし、幾枚かの紙と万年筆をとり出した。「では、先生」
ビクリー博士は落ちつきはらった態度で話しはじめた。
「あのびん詰肉を買って来たのは、家政婦のホーン――」
「失礼ですが、先生」と警視が口を出した。「おかまいなければ、まず最初に、わたしがご注意したことから、言っていただけませんか。わたしのために、ちょっと大事をとっておいていただきたいんですよ」
「いいですとも、もちろん」とビクリー博士は愛想よく同意した。「わたしがまず最初に言いたいのは――」
「こんなふうにはじめていただけませんか。『私、エドマンド・アルフレッド・ビクリーは、自分の述べることが今後証拠として用いられるかもしれないという注意を、アルヘイズ警視から受けた後、つぎの供述をするものであります』」
「けっこうですな、そういうことにいたしましょう」とビクリー博士はマントルピースにもたれながら、うなずいて言った。
テーブルに向かったタナー部長刑事は、いそがしく書きつづけた。
「いまのは書けましたね?」とビクリー博士はきいた。「『あのびん詰肉を買って来たのは』――いや、こう言うほうがいいでしょうな。『汚染されていることが証明されるにいたったびん詰肉を買ったのは、私の――』」
「口を出してすみませんがね、先生」とラッセル大警部が親しげな口調で言った。「それはあとでその問題になったときに、話していただいたら、いかがでしょう? それよりも、あなたとチャトフォード氏、そしてバーン夫妻との交友関係から、お話しねがえたらと思います」
「そんなことがほんとに必要なのですか?」
「まあ、そのほうがよさそうだと、お思いになりませんか?」
「じゃ、ご希望どおりにしましょう。わたしには無関係のように思えますがね。それでは――『私は数年来チャトフォード氏とは知合いです。彼は――』」
「つねに親しい間柄だったんですね?」とラッセル大警部は、大へん興味をもつように天井を観察しながら言った。
「申し分なくね」
「じゃ、わたしなら、そう述べるでしょうな」
「『私たちはつねに申し分なく親しい間柄でした。そして――』」
「チャトフォード氏の結婚までは、ですね?」
「どういう意味です?」
「昨夜あなたが話していられたところによると、チャトフォード氏の結婚の相手は、あなたのもとの愛人だったんですからね」とラッセル大警部はきわめて陽気に話した。
「ああ、そのことね」ビクリー博士は微笑した。大警部も微笑した。アルヘイズ警視の鈍重なしかつめらしさだけは、この人間味の流露を前にしても、やわらぐ反応をみせなかった。「しかし、そのことは、わたしたち相互の関係には少しも影響をおよぼしませんでしたよ」
「ほんとですか、先生。あなた自身がまだその女の方を愛しているのにですか?」
ビクリー博士の微笑はひろがった。では、当局がおれを絞首刑にしようとしている動機は、これだったのだな? チャトフォードを片づければ、アイヴィが自由の身になる。当たらずといえども遠からずというところまで持ってきたのは頭がいい。だが、こんなものをみじんに粉砕《ふんさい》できるおれほどには、頭がよくない。これよりましなものを何も持ち出せないなら、まあ、この試練もそうひどいことにはなりそうにないな。「ところが、わたしは愛していなかったんですよ」と彼はおだやかに言った。「ちっともね。愛していたのなら、わたし自身があの女と結婚していたでしょうよ。チャトフォードの結婚の時には、もはやわたしの妻が生きていなかったことを、はっきりご記憶ねがいますよ。『私たちはつねに申し分なく親しい間柄でした。そしてそれは今日までそのままつづいています』」
「いや、ちょっと待ってくださいよ、先生」と大警部がとがめるように言った。「ほんとはそんなふうに言えないんじゃないですかね? 昨夜はあんなに、チャトフォード氏があなたをひどく憎んでいるとか、恨みをいだいているとか話していられたんですからな。あなた方二人の間柄は、今日まで親しいままでつづいているとは言えないでしょう」
「それじゃア、『私の側からすれば』と書き入れてください。そうすれば、完全な真実となりますよ」
タナー部長刑事が問いただすように顔をあげた。「『そしてそれは、私の側からすれば、今日までそのままつづいています』?」
「そうです」
供述はつづけられた。
この警官たちが来たのは九時二十分だった。一時十五分前になって、ビクリー博士は、明日まで、いや、正確にいえば、今日の後刻まで、延期を申し出た。
「お気の毒ですがね、先生」と警視がにこりともせずに答えた。「供述は中断せずにとるのが、われわれの方式でしてね」
「でも、こんな調子でやっていると、夜明けまでかかりますよ。わたしが何か言うたびに、いちいち質問をされるのではね」
「いや、先生」とラッセル大警部が抗議した。「どうもね、そうは言えないでしょう。あなたが自分自身を公正に主張されるように、われわれは時折り思いついたことを言っているにすぎないんですからね」
「ああ、たしかにそうらしいですな」とビクリー博士はぴしりと言った。「なんとしてもつづけなくてはならないのなら、つづけるしかないでしょう。でも、とにかく、飲み物とビスケットぐらいにはありつかせてもらいますよ。ウィスキーのびんを持って来ましょう」
「それは本当にいい思いつきというものですな」と大警部が元気よく言った。「わたしも手をかしましょう」
「いや、わたしだけでできます。ごめんどうをおかけするにはおよびませんよ」
「ちっともめんどうじゃありませんよ、先生」とラッセル大警部はまるで愛情ぶかげな調子で言って、ビクリー博士といっしょに室を出た。
三時十分になって、供述は終わった。
アルヘイズ警視の要求にしたがって、部長刑事が平板な、まったく表情のない声で供述を読みあげた。
「『私、エドマンド・アルフレッド・ビクリーは、自分の述べることが今後証拠として用いられるかもしれないという注意を、アルヘイズ警視から受けた後、つぎの供述をするものであります。
私は数年来チャトフォード氏とは知合いです。私たちはつねに申し分なく親しい間柄でした。そしてそれは、私の側からすれば、今日までそのままつづいています。バーン夫人とは約二年ばかりつきあってきているにすぎません。彼女は私の妻の友人で、妻の生存中は、私もよく会ったものでしたが、彼女の結婚後は、ほとんどまったく会っていません。デニス・バーン氏とは約十年来の知合いですが、深くつきあったことはありません。十四日には、私はチャトフォード氏を招待していませんでした。彼のほうから来ると言って来たのです。私は漁業権に関心をもっているので、その法律上の問題を相談するために、それ以前に招待しましたが、彼は来られなかったのでした。バーン夫妻のほうは、私が十四日に招待したのです。私たちのあいだに少し冷たい気分ができていまして、そんな状態をつづけるのは、つまらないことだと私は思い、それに終止符をうちたいと考えたのが、その理由でした。チャトフォード氏が来ると知ってから、私はバーン夫妻を招待したのです。チャトフォード氏が同席してくれると、万事が楽にはこぶし、法律上の用件もさほど重要でないので、数日ぐらいはおくれてもかまわないと考えたからでした。
その十四日には、バーン夫妻が先に来ましたので、私は二人を庭に案内し、私のバラを見せました。四時四十分ごろに、チャトフォード氏が来ると、私たちはみんなで客間にはいり、すぐにお茶が出されたのです。食べ物はヤナギ細工の菓子卓の上の皿に入れてありました。バターつきのパン、びん詰肉のサンドウィッチ、サクランボ菓子でした。私はおぼえていますが、チャトフォード氏はびん詰肉のサンドウィッチが大好物だと言って、いくつか食べました。私たちはみんなサンドウィッチを食べたのですが、チャトフォード氏が一ばん多く、バーン夫人が一ばん少なかったのです。私の記憶しているかぎりでは、みんなで出された食べ物をぜんぶ食べました。皿にはサンドウィッチは残されていませんでした。私が食べたサンドウィッチのうちの一つが、かすかに不快な味がするような気がしましたが、なにも言いませんでした。たいしたこととは思わなかったからです。私のおぼえているところでは、チャトフォード氏は、いま大へんに忙しくて、妻はスペインに休養に行っているが、自分もいっしょに行けないのが残念だと言っていました。私は医師として、彼が過労による疲労状態にあったとすれば、なにかの刺激物が胃腸に入りこんだ場合、特に胃腸炎におかされやすかっただろうと考えます。これは私の現在の意見です。彼からそんなに話されるまでは、過労であったとは私は知りませんでした。
お茶に出されたすべての食べ物は、家政婦のミセス・ホーンがつくりました。びん詰肉も彼女が買って来たのですが、買った先は私にはわかりません。彼女は切ってサンドウィッチをととのえ、私の知るかぎりでは、つくったときから、私たちが客間のお茶の席につくまで、サンドウィッチから眼をはなしませんでした。私はそのことを彼女にたずねたのではありませんが、ふだんのつとめぶりからみて、そうだろうと思います。お客たちが帰ってから、私はミセス・ホーンと何かほかのことを話していて、サンドウィッチの一つが変な味がしたと思うと言いました。そのびんを持ってきてもらい、二人でにおいをかいでみたのです。二人とも、ちょっといやなにおいがするような気がしました。私よりもミセス・ホーンのほうが、つよくそんな気がしたようでした。それでも私はその事実をまだあまり重視もしませんでしたが、大事をとって、残った肉はすてたほうがよかろうと言いました。そして私自身がそれをごみ箱にすてたのです。ですから、あのびん詰肉が汚染されていて、食用に適さないものであったことが判明したと、いま聞いても、すこしも意外とは思いません。どうしてそうなったかについては、買った時にそんな状態にあったという明白な説明以上に、どんな説明も私には思いつくことはできません。
私は化学やこの方面の実験に興味をもっています。全科医としてできる程度の研究を、昔から自分の道楽にしてきました。最近、私は戦争中わが国の軍隊が使用していたガス・マスクの製造法の記事を読んでいましたので、それでチオ硫酸ナトリウムの液に塩素を通す実験をしてみる気になったのです。砒素に関連する実験はぜんぜんやったことはありません。薬局にあるファウラー氏液以外、どんな形の砒素も、私は扱ったことがないのです。実験の関係上、私は数週間前に、ロンドンのウイグモア街のラベージ会社に、細菌培養器を注文しました。その正確な日付はおぼえていませんが、当地で私が腸詰中毒の患者の診療にあたったころのことでした。細菌培養器を注文した目的は、生化学のある種の実験をするためだったのです。ある食品に対する消化液の作用に興味をもっていますので、自分で実験をしてみたかったわけです。そういう実験を実際にやってみまして、前から到達していたある結論が、真実であることを証明しました。それは数週間前のことです。最後に細菌培養器を使用したのは、十四日にお客たちが帰ってからでした。サンドウィッチに使われたびん詰肉が、本当に汚染されているかどうかを確めるのは、興味ぶかい実験だと思いついたからです。それで私は、ごみ箱へ出かけ、びんからサンプルをとり、びんはまたすてました。そしてびん詰肉のサンプルから、それにふくまれているかもしれない細菌を培養しようとして、能力のおよぶかぎり努力しました。私としては、そんなにして細菌を培養した培養基の一部を、すぐれた細菌学者に送り、もし細菌がいるならば、それを確認してもらうつもりだったのです。私は細菌学に対する実際経験はありませんが、その原理の初歩的知識はあります。私のところには、確認するのに必要な設備がありませんし、特定の細菌を分離できる能力も私にはありません。しかし、そのような培養基をつくるために努力するのも、一つの興味ぶかい実験だと考えたのです。問題のびん詰肉に、はたして細菌がいるかどうかについては、私は大いに疑問をいだいていたのですが、一つの実験として、やってみるだけの価値があると思ったのでした。十五日に、私は培養基の一部をとって、大きなカプセルに入れました。あとで診察室の顕微鏡でしらべ、もう細菌学者に送ってもいいようになっているかどうかを見きわめるつもりだったのです。それをカプセルに入れようと思いついたのは、リドストン博士にチャトフォード氏の症状の診察をたのまれてから、チャトフォード氏に服用させる強いヤラッパと酒石英のカプセルの準備をしているところであったからでした。そのとき私としては、カプセルならば、ある種の群の細菌をふくんだジェリーの一部を、一時的に入れておくには打ってつけの容器だと思ったのです。カプセルには、培養基のジェリーを他からの影響のないように閉じこめられるので、大気からの汚染が防止できるからでした。また、私は確認していなかったものの、この特定の細菌群の純粋な培養基をつくる考えもあったので、もっと強力な微生物が繁殖しないうちに、この部分を他の部分から分離しておく必要があったのです。仕事やその他の用件に忙殺されたために、それだけの暇がなくて、私はまだこの細菌群をしらべていません。私の知るかぎりでは、この培養基の一部を入れたカプセルは、きのう私がしまっておいたまま、診察室の戸棚の右手の一ばん上の引出しにある丸薬容器のなかに、脱脂綿にくるんであるはずです。理性的にいって、ほかのところにあるとは思えません。
十四日の夜中に、私は発病しました。妻が死んで以来、ひとり暮らしていますので、できるだけ自分の治癒につとめるよりほかありませんでした。なにかあたるものを食べたせいだと思いましたが、こんな場合に医者として予期するような、はげしい嘔吐と下痢をともなう腹痛はなくて、ほとんど麻痺性の症状ばかりでした。このことから、私は腸詰中毒と診断しました。最近みずから腸詰中毒の患者の診療にあたっていましたので、私はその症状によく通じているわけです。やっと少しよくなると、すぐさま階下におりて、ヤラッパと酒石英をたっぷり服用しました。これがこの病気に一ばんよくきくことを、経験で知っていたからです。まもなく私は小康を得て、さらにヤラッパと酒石英を服用し、ついに体内から毒素を排泄してしまいました。さいわい、私は軽症だったので、あくる朝までにはほとんどすっかりよくなりました。それでも、朝食はまるで食べられませんでした。
午後になって、私はチャトフォード氏も発病したことを知らされると、ただちに電話をかけ、主治医の方と協力してお役に立ちたいと申し入れました。しかし、チャトフォード氏のほうでは、すでにリドストン博士が引きうけているとのことでしたので、私は無理おしもしませんでした。その午後、発病していないことを確めるために、バーン夫妻を訪問しました。すると、バーン夫人が病床に横たわっていて、その症状が私の場合と似ており、不幸にも、私より少しひどいのを知って、私は心を痛めました。そのときになって私は、この三人の病因は十四日に私の家のお茶の席で食べた何かにあるにちがいないと確信し、結局、あのびん詰肉に相違ないと考えたのでした。あくる日になって、チャトフォード氏が本当に重態だと聞き、私は特にマーチェスターへ出かけ、こんどはリドストン博士に、かさねてお役に立ちたいと申し出ました。どちらかといえば、めずらしいこの病気に対して、私が得ている経験の価値を、医師として認めてくれるだろうと思ったからです。リドストン博士は問題を考慮してから、チャトフォード氏の承諾がなくては、私の助力を受けいれるわけにいかないと告げました。しかし、私が帰宅してから間もなく、リドストン博士が電話をかけてきて、診察に来てもらいたいと言ったのです。それで私は、特に準備してカプセルに入れていた多量のヤラッパと酒石英を持って出かけました。私はチャトフォード氏を見て、明らかに腸詰中毒だとリドストン博士に告げることができました。そしてまた、適当と考えられるなら、チャトフォード氏に服用させるようにと、ヤラッパと酒石英の入ったカプセルをリドストン博士にわたしました。私があの部屋にいるあいだに、リドストン博士があれを服用させたかどうか、私にはわかりません。あのとき、チャトフォード氏は相当な虚脱状態にあったから、服用させなかったのではないかと思いますが、実際のところ、私は気をつけていませんでした。チャトフォード氏の病状に快方へ向かっている点がなかったところからして、リドストン博士の治療方法が誤っていたことは、私には明らかでした。それで私は、なにが真の病因であるかを、リドストン博士に理解させようと懸命になっていたのです。
私の意見では、自然的な原因によって汚染されていたびん詰肉が、チャトフォード氏とバーン夫人と私自身の病因であったことは疑う余地がないと思います。私としては、これ以上にこの問題を解明することはできません。
私は完全な自由意志をもって、強制されるところなく、この供述をしました』」
「それじゃア、先生」とラッセル大警部が、こんな時刻にふさわしくないほど陽気な調子で言った。「いまの通りでいいんですね? あなたが述べたいのは、いまの通りのことなんですね?」
ビクリー博士は両手をもみ合わせた。「それで結構と思います」この連中はこんなにおそくまで寝させないでおいて、おれを参らせようとしたのだろうが、またもや相手をまちがえたよ。医者は半夜ぐらい知力を使いつづけたところで、正気を失ったりするものではない。そんなことではお得意先も失ってしまう。
アルヘイズ警視はあくびをかみころした。現在の階級に昇進して以来、徹夜の仕事などはしなくなっているのである。「これに署名する前に、なにか訂正、加筆、あるいは削除したいと思われる個所はありませんか?」
「ありがとう、ぜんぜんありません。いま署名しましょう」
ビクリー博士は部長刑事から万年筆をかり、テーブルに身をかがめた。彼は勝利感に燃えるようだった。供述のなかには、一ヵ所か二ヵ所、まずい並べ方をしたところがあったし、言いつくろったり表現方法を変えたりしたい部分も幾つかあった(要するに、表現方法は全面的にとんちんかんなのだ。だが、書きとられる前に、一句ごとに別々に文脈などはおかまいなく、何分間も討議されるのでは、どんな表現ができるというのだ?)。しかし、彼が実際に異議を申し立てることができる個所は一つもなかった。そして全体を通じていえば、警官たちはすこぶる公正であった。彼が予期していたよりもずっと公正であった。最後の一句などは、もちろん、警官たちの顔を立てるために入れた場あたり文句にすぎなかったが、じっさい彼らも不条理な行き方はしなかったのである。わけてもラッセル大警部はそうであった。この大柄な、陽気な、あたたかみのある顔つきの男に、ビクリー博士はとても好感をもった。
たしかに、一ヵ所か二ヵ所、まずい並べ方をしたところはあったが、相手側のかけてきた罠を、逆用して相手側をはめこんだおれの驚異的な、光彩陸離のやり方にくらべれば、ものの数ではない。おれに不利になりそうな証拠が二つだけあったのだが、両方ともみごとに粉砕してやった。夕食の直前に、四苦八苦のおれの心に、その考えが浮かんだとき、きわめて論理的に思えたものだったが、さっき供述書のなかでそれが読みあげられるのを聞いたときには、おれは勝どきをあげたいくらいだった。細菌培養器とカプセル――絶対に、完全に、理路整然とした説明ではないか! 証拠はきれいに相手側の手からたたき落とされたのだ。疑い以外に、もう何ものも残されていないのだ。疑いだけで殺人犯人を逮捕できまい。できたりするはずがない。凶悪な浮浪者、押込み強盗などのような、くだらないカスみたいな者たちなら、話はべつだが、英国外科医師会会員、英国医師会公認開業医エドマンド・アルフレッド・ビクリー博士のような死の芸術家は、そうはいかない。断じて、そうはいかない。
ビクリー博士は、異様に肉太《にくぶと》の飾文字で署名し、それに日付を書きそえたとき、笑い出したいのを懸命にこらえた。この連中は三時半ちかくまでかかって、逮捕という報酬も受けずに引きあげるのだ。だが、もちろん、この連中にしても、どんな人間を相手にせねばならぬかを、はじめからわかるはずもない。エドマンド・ビクリーのような人間に、毎日たち向かうわけではないからだ。
もちろん、疑いは残るのだ。だが、そもそも疑いとは何なのか?
うまくいっておれば、いまごろチャトフォードは死んでいるべきはずなのだがな。
ビクリー博士はまっすぐに身をおこした。「では、これでやっとすんだんですね。そうとあれば、二時間ばかり前におやりにならなかったウィスキーを、一ぱいいかがです? もう心をとぎすましていられるにもおよばんでしょうからな。やりませんか、大警部」
(そしてチャトフォード家にすみやかに訪れる死に対して、無言の乾杯をしてやるのだ)
「いや、せっかくですが、やはりやらないことにしましょう」
「ほう?」とビクリー博士は気にもしない調子で言った。むくれたいなら、むくれさせておけ。「警視、やりませんか」
「わたしの考えるところではね、先生」と大警部が奇妙にやさしい声で言った。「警視は何か別のことをあなたにお話しになりたいようですよ」
警視は勇気をふるいおこすようだった。そしてビクリー博士に少し近づき、こわばった眼ざしで見つめた。「エドマンド・アルフレッド・ビクリー、あなたが言うことのすべては記録され、今後証拠として用いられるかもしれないことを、わたしの義務として注意しておきます。いまわたしは、一九二九年九月十四日、ワイヴァーンズ・クロスでウィリアム・チャトフォード氏とマドレイン・バーン夫人に、有毒な細菌を供与し、二人を謀殺しようと企らんだかどによって、あなたを逮捕します」
ビクリー博士は奇妙な感覚を味わっていた。戦争中に一度か二度、頭のすぐそばで砲弾が破裂した時のような感覚だった。あの時と同じように、知覚を麻痺する轟音《ごうおん》がひびき、頭蓋骨のなかで脳髄がはげしくゆれ、一時的に思考力が麻痺したようだった。肉体を責めさいなむような、あのすさまじい音までも、耳のなかに鳴りひびくようだった。
ぼんやりしていた知覚が、すこしずつ回復して、その途方もない発言の意味をとらえ、検討して、拒否した。「そんなことはできませんよ」と彼は小さいながらも、きわめてはっきりした声で言った。「なんの証拠もないんです。ぜんぜん、なんの証拠も」
ラッセル大警部は大きな、親切気がなくもない手を、小柄なビクリー博士の肩においた。「いまは何も言わないほうがいいですよ、先生」
ビクリー博士は大警部を見あげた。ビクリー博士の口は動いたが、言葉は出なかった。かわいた舌が、かさかさ引っかくような音をたてながら、かわき切った上顎《うわあご》をこするばかりだった。まるで口がきけなくなっていた。おそらく、そのほうがよかっただろう。
「さあ、しっかりして、先生。おい部長刑事、椅子をよせてあげるんだ。さあ、飲み物をつくってあげますよ――ほんとに強いのがいいですか、え? まだ投げだすにはおよびませんよ。生命のあるかぎり希望はあるわけですからな、先生」
たぶん、その場の気転でこんなことを言ったわけではなく、心のあたたかいラッセル大警部は、好意をこめて言ったのだろう。
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第十二章
〔マーチェスター《デヴォンシア》=本社記者 金曜日発〕
【細菌ドラマ】
医師の謀殺容疑事件/発掘された妻の死体
「マーチェスターのシプトン=オグデン=アームヘッド=チャトフォード法律事務所のウィリアム・アンドルー・チャトフォードと、ワイヴァーンズ・クロスのマドレイン・ウィニフレッド・バーンに、有毒な細菌、すなわち腸炎菌を供与し、二人を謀殺しようと企てた件」
今朝マーチェスターの古風な警察裁判所で、以上のような言葉が述べられて、今後にくりひろげられようとする法の一大ドラマの序曲となった。被告はエドマンド・アルフレッド・ビクリー博士、この人物の被告席への登場は、今週の一連のセンセーショナルな事件を頂点へ盛りあげた。
ビクリー博士は、小づくりで、血色のよい人物で、青サージの服に、暗色のネクタイをしめていて、冷静に裁判官に直面したが、被告席に短時間いるあいだ、傍聴席に顔をそむけつづけていた。そして彼は、自分を逮捕したデヴォンシア州警察部次長アルヘイズ警視の証言を、鋭く批判的な関心をもって聞いていた。
「昨夜、私は警視庁のラッセル大警部と同行して、ワイヴァーンズ・クロスのビクリー博士の家に行きました」と警察部次長は言った。「私は本人に会い、重大な容疑によって逮捕することを告げました。
『なんの証拠もない』
私は注意をあたえてから、言いました。
『去る九月十四日、ウィリアム・アンドルー・チャトフォードとマドレイン・ウィニフレッド・バーンに、有毒な細菌、すなわち腸炎菌を供与し、二人を謀殺しようと企てたかどによって、あなたを逮捕します』
それに対してビクリー博士は答えました。
『そんなことはできませんよ。なんの証拠もないんです。ぜんぜん、なんの証拠も』
私は本件担当の検事長の指示により、一週間の再留置を求めます。今日はこれ以上の証言はしません」
ビクリーの弁護士F・L・ガンヒル氏は、現在の段階では保釈を申請するつもりはないと言った。
【被告に喝采する女性群】
警察裁判所の近くには、多数の女性をまじえた大群集が、ビクリー博士を見ようとして待ちうけていた。彼が現われると、喝采がおこり、多くの人びとが彼と握手しようとして、てんやわんやの騒ぎとなった。待たせてあったタクシーに、警官が急いで乗せるとき、被告は微笑をうかべながら、この熱烈な声援にこたえた。被告に対する絶大な同情デモがおこなわれているただ中を、タクシーは走り去った。
【長期にわたる捜査】
ビクリー博士の逮捕は、かなり長期にわたってワイヴァーンズ・クロス界隈ですすめられてきた捜査の結果である。記者の調べによると、こうした捜査は、すでに六月以来、ロンドンに情報が通報された結果として、内務省によって推進されていた。警視庁の刑事たちは、数週間にわたり、内偵をつづけていたのである。
ビクリー夫人は、昨年四月九日、いたましい事情のもとで死亡した。以前から重病に苦しんでいたのだった。検死法廷で死因調査がおこなわれ、モルヒネを過量にみずから服用したための過失死と評決がくだされた。
ワイヴァーンズ・クロスの小さな村は、興奮にわきかえるようになった。マーチェスターに本部をおいた警視庁の刑事たちは、極秘裡《ごくひり》に内偵をすすめたので、チャトフォード氏とバーン夫妻以外は、だれも彼らの潜入に気づく者はなかった。この秘密はじつによくたもたれていたから、ビクリー博士逮捕の報は、村民にはまさに晴天の霹靂《へきれき》であった。その後ビクリー夫人の死体が発掘されるにおよんで、さらに巨大な霹靂に見舞われるにいたった。記者の探知したところによると、有毒な細菌が供与されたと言われている十四日のお茶の会に、ビクリー博士が招待したとき、あわただしく相談を受けた警官たちは、隣人らしくない断り方をして疑惑をおこさせてはいけないから、招待を受けるようにすすめたという。そして刑事たちにも被害者たちにも予想外の結果がもたらされたのである。
事件はセンセイショナルな発展を見るものと予測される。
【死体発掘】
内務省の命令によるビクリー夫人の死体発掘は、今日の午後おそくおこなわれ、当地ですさまじいセンセーションをまきおこしている。発掘作業は五時直後に開始されたが、棺が地上に持ち出されたのは暗くなってからであった。ワイヴァーンズ・クロスのささやかな墓地は、作業中、事件の係官と墓掘人夫たち以外、すべて立入りを禁止された。
現場はきわめて不気味だった。ビクリー夫人の死体を埋めた墓は、イチイの老樹の下にあった。土をこすりおとされた棺は、この神々しい老樹の下に安置されて、内務省の病理学者サウアビー博士の到着を待った。九時数分すぎに、自動車のヘッドライトが、まがりくねった丘の道をのぼってくるのが見えた。そして五分後に、サウアビー博士が警視庁のラッセル大警部につきそわれて、自動車からおりた。角灯をもった警官たちが、二人を墓のところへ案内した。
暗い夜で、陰欝な空は重苦しく曇っていた。強くなった風が、イチイの老樹の枝をうめくように吹きぬけていた。掘り返された墓のまわりに幾人かの人たちが立ち、ゆらめく角灯の光に、彼らの影が奇怪な形にゆがんだ。畏怖に打たれた村人の群れが、黙々と遠くから見まもっていた――真鍮《しんちゅう》の金具と名札のついた立派な樫《かし》の棺が棺架にのせられ、角灯をもった警官に先導されて、ささやかな行列が、近くに建つ草ぶき白壁の無人の小家へ進んでゆくさまは、印象的なおごそかな光景であった。
角灯を補助に、石油ランプの光だけに照らされながら、サウアビー博士は死体解剖をおこなった。だが、この専門家は、多年の実地経験から得た敏腕と老練な技術で、急速に解剖をおこない、ある器官を死体からとり出した。
【死体発掘の法規】
死体発掘に関する法規は、検死法廷をひらく前なら、検死官が発掘を命じられるが、すでに開廷ずみの場合は、内務大臣の命令を要請しなければならぬことを規定している。
【逮捕はセンセーション】
ビクリー博士の逮捕は土地にセンセーションをまきおこした。その実情は筆紙につくしがたいものがある。この土地で最も尊敬され、最も評判のよかった重要人物の一人であった彼は、十四年前にワイヴァーンズ・クロスに移ってきて、それ以来、医者としての手腕と親切心によって、村民に愛されるようになっていた……
出身学校は……
戦争に従軍中は……
F・L・ガンヒル氏は、ずんぐりした両手をもみあわせ、元気づけるように弁護依頼人に微笑した。弁護士とは見えないほど陽気な、肥った小男であった。
「なあに、心配するにはおよびませんよ、ビクリー君。検察側はあの訴因を無理おししないでしょう。有罪にできないことを知っていますからね。見ていてごらんなさい。かならず大陪審は起訴を否決しますよ。なにしろ、物的証拠はぜんぜん何もないんですからな」
「ないと思うんですがね、まったく」とビクリー博士は腹立たしそうに同調した。
「ふむ、あなたがそのことを話したのは残念でしたがね。でも、かまいませんよ。かまいませんよ。相手側は一応証拠のある事件と考えているにちがいないですから、われわれはそれに応酬できる用意はしておかなきゃならんでしょうな。しかし、もちろん、相手側が逮捕したのは、もう一方の件の捜査に着手できるようにするためにすぎませんよ。だから、われわれはそのほうに注意を集中しなければならないんですな」
「むちゃ苦茶ですよ」とビクリー博士は力なげな調子で言った。「こんなことは夢みもできませんでしたよ。あのような妻を亡くしただけでも、じつにつらいんですよ、ガンヒルさん。それなのに、その妻を殺したなどと裁判にかけられるなんて……」
「ごもっとも、ごもっとも。ぞっとするようなやり方です。もちろん、対処の仕方については、もっと十分に相談しますが、わたしはフランシス・リー=バナートン卿に弁護を依頼されるように、強くおすすめしますな。強くね。われわれに打ってつけの人物ですよ。もちろん、引き受けてくれればですがね」
「引き受けないなんて、どうしてです?」
「いやア、忙しい人ですからな、リー=バナートンはね」とガンヒル氏はなにやらあいまいな態度で言った。「それにしても、それはまた後で相談しましょう。いまは、一つ二つの点だけ、あなたと検討しておきたいんですよ」
ビクリー博士はふいに顔をあげた。「ねえ、ガンヒルさん、検察側には起訴する根拠はないんですよ。ありますか? つまり、もう一方の件よりも、もっと証拠がないということですよ。あんなおかしな容疑を裏づける証拠なんか、どうしてあったりしますか。つまり、ばかげきっているということですよ」
「いや、検察側は一つ二つ小さなものをつかんでいるんですよ。大して重要なものでもなんでもない、という点では、わたしもまったく同意見ですがね。要するに、われわれはあらゆる確信をもっていいんですな。あらゆる確信をね。いまから話しておいてもかまいませんがね、ビクリー君、不利な評決がくだされるなんて考えられませんな」
「そうあってほしいですがね、まったく」
「しかし、警戒を怠っていいという意味じゃありませんよ」とガンヒル氏はたのもしい分別をみせて言った。「われわれは警戒すべきであり、また、しなければなりません。もちろん裁判官が、謀殺容疑の証拠を重要なものとして、容認できないと却下すれば、その結果は今さっき言ったようになりますよ。しかし、検察側はかならず容認させようとして闘うでしょう。その段階になっても、まだ勝目はわれわれのほうにあります。すべて裁判官次第でしょうな」
「まさか、わたしに有罪の判決はくだせないでしょう。そんなことはあまりむちゃ苦茶すぎますからな」ビクリー博士はしごく落ちついていた。おれに有罪の判決をくだすなんて不可能だ。
「そうですとも。そのとおりです。あなたがそんなに確信をもっておられるのを見て、わたしはうれしいですよ。じつのところ、わたし自身も全面的にそうなんですからね」ガンヒル氏は両手をもみあわせて、とても確信にみちた顔つきをした。「それにしても、さっきも言ったように、やはりわれわれはあらゆる警戒をしなければなりません。かりに、その証拠が採用されるとすれば、わたしは予感――いや、じっさい、予感以上のものをおぼえるのですが――、検察側はチャトフォードの病室でのあなたの行動を、大いに問題にしてくるでしょうな。われわれはそのことを、まだちゃんと話し合っていませんでしたね? そう、もちろん、まだでした。では、話していただきたいんですが、チャトフォードが実際にはそんな病気でなかったのに、どうしてあなたは腸詰中毒と診断したりしたんですか、それはどういうわけだったのです、え?」
ビクリー博士の両頬骨の上に、小さな赤い班点が二つあらわれた。逮捕されて以来、リドストンのことを考えるたびに、あらわれるのであった。「同業の医者にたぶらかされているなんて、わたしも気づきようがないじゃありませんか。隣室に警官たちや細菌学者を待機させておいて、わたしを罠にかけようとしているなんて」
「ごもっともです。じつに――高圧的だったんですな。では、あなたはチャトフォードの症状についてリドストンにたぶらかされたんですね?」
「まったくそのとおりですよ。わたし自身の症状から、腸詰中毒ではないかと強い疑いをもっていたのです(あとで自分の間違いであったことがわかったが、それは問題外です)。それで、チャトフォードの症状から、そうであることを確めたいと思ったんですよ。わたしの質問に、リドストンが答えたことによって、わたしは確かにそうだと診断したわけです」
「なるほど。わかりました。もちろん、検察側が問題にしようとする点はおわかりでしょうな?」
「はっきりとね」とビクリー博士はいまいましそうに言った。「あなたの説明がありましたからね。そしてまた、培養基の入ったカプセルと、わたしの言った通りに当局が診察室で見つけたヤラッパと酒石英の入ったカプセルとを、わたしが故意にとり変えたとも主張するでしょう。そうにきまっています。わたしは人殺しをしようとしていたものとされているんですからね。それを忘れてはいけませんよ」
「よくわかっています」とガンヒル氏はなだめた。「では、リドストンは計画的にあなたをたぶらかしたわけですね。ふむ、そいつはなかなかいい線ですな。あなたを罠にかけようとしたことを考え合わせると、なかなか有効な線ですよ。うん、この線を追及していけると思いますな」
「なにしろ、それは真実ですからね」とビクリー博士は冷やかに言った。
「そうですとも。もちろんですよ。それにカプセル。なかなか有効、なかなか有効ですよ。うん、その点に対する攻勢には、ちゃんと応戦できます。完全にね。その点についてはぜんぜん心配はありませんな」
「それにしても、しじゅう言っていることですがね、ガンヒルさん、どうしてこの件が公判に付せられたりするのか、わたしにはわかりませんな。わたしはかなり注意ぶかく裁判官を見つめていたのですが、わたしを投獄するつもりがないことは確かだと思いますよ」
「まあ、そうでしょうな。まだ証言がすっかり終わっていませんが、まあ、そんなところでしょうな」
「投獄したりするようなら、とほうもなく不公正ですよ」とビクリー博士は憤るように言った。
「たしかに、そうですよ。わたしも同意見でないとは言い切れませんよ。ほんとに、この事件ぜんたいで、ほんの微かな不安を感じさせるのは、ただ一つの点だけですからな。ほんのじつに微かな不安ですがね。もちろん、あなたにはちゃんと説明できると思いますが」
「できる確信がありますよ」とビクリー博士は微笑した。もちろん、できるにきまっている。
「そうでしょうとも。それは今後バーン夫人がおこなうはずの証言の一部についてですがね。そのことはまだ秘密にされていますが、当局からわたしに伝えられているのです。つまり、ビクリー夫人の亡くなった日に、『屋敷』を訪ねたあなたが、妻は死んだのだとバーン夫人に告げたということなんですよ。そんなに早くあなたがそれを知っているはずがないのに、知っていたのは――まあ、その事実がどんなふうに解釈されるか、おわかりでしょう」
ビクリー博士は、坐ったからだをひどくこわばらせて、この打撃の影響が顔にあらわれないように懸命になっていた。なんてことだ……たしかに、そんなことがあった。いま、はっきり思い出した。こまかい点まですっかり思い出した。まるで真相を感づいたように、マドレインは後ずさりしたが、おそらく感づいたのだろう。あのばくれん女め! あいつはあんなすさまじい怖ろしいことときたら、なんでも感づく女なのだ。
それにしても、これはまったくいやなことになった。こんなとほうもない〈へま〉をやっておきながら、どうしてすっかり忘れていたのだろう? そしてこれをどんなふうに説明したらいいのか?
「まるで事実無根ですよ」彼がよく考えもしないうちに、彼の心がまっこうから本能的な否認の言葉を強引に放ってしまった。
「事実無根、え?」ガンヒル氏はすっかり信じたらしいようすはなかった。「よろしい。けっこうです。事実無根ね。でも、ちゃんと確信がおありでしょうな、ビクリー君? バーン夫人は宣誓してそれを証言しようとしているんですよ。じつのところ、この事件ぜんたいが本格的にはじまったのは、バーン夫人がそのことをチャトフォードに打ちあけたのがきっかけだったんですよ」
「ちゃんと確信がありますよ。いまわしい嘘です」
「なるほど、なるほどね。では、バーン夫人の証言には事実無根だけで立ち向かうわけですな」
「あれはいまわしい、悪意をもった女ですよ」とビクリー博士は顔をこわばらせて言った。「死んだ妻も、あれは大それた嘘つきだと話していたのを、わたしはおぼえています。その点についてはたくさんの証拠を提供できますよ。そのことをきわめて強くあなたから主張していただきたいですね」
「相手側の証人の人格を汚辱してですか、え?」とガンヒル氏は疑わしそうに言った。「危険です。きわめて危険ですな。それはきわめて慎重に考えなくてはいけないでしょうね」
「どんな危険があっても、わたしはあの女の正体を暴露《ばくろ》してやりたいんですよ」
「なるほど、なるほど。まあ、研究してみなくちゃなりませんな。助言を得なければなりません。リー=バナートンに相談してみなくちゃなりませんな。あの人の指示にしたがうことですよ。では、バーン夫人の証言には事実無根だけで立ち向かうわけですな。わかりました」
「ときに、あの女の夫の今の容体はどんなふうですか?」とビクリー博士はきいた。この質問の裏にひそめた悪意を、ほとんど隠そうともしなかった。「屋敷」の下水設備を改良するように幾度も言ってやったのに、マドレインがけちくさく拒んできた報いが、ついに来ていたのである。デニーがチフスにかかった。ビクリー博士の逮捕から二日後に発病して――重態だったのである。それを知っても、ビクリー博士はちっとも気の毒とは思っていなかった。思いあがった青二才のとんまめ!(あの仮面をかぶったお茶の会でも、あいつは一役を演じていたのだ。ああ、いかに憎んでも憎みたりないあの三人組!)そして今、デニーを失う危険に直面したマドレインは、これまでとは打って変ってデニーを愛しているらしい。あの女らしい行き方だ。それにしても、あの女にはなぐさめになるものがある。未亡人になれば、じつにすばらしい財産やいろんなものがころがりこんでくるのだ。
「あまり変わりはないらしいですよ、お気の毒ですがね。あまり変わりはないらしいですよ」とガンヒル氏は少しどぎまぎした調子で言った。弁護依頼人の顔にあらわれたささやかな微笑の特殊な性質に、すくなからず心を騒がせたかのようだった。「とにかく、すこしもよくなっていないらしいですよ」
「ほんとですか? それはいけませんな。じつにいけませんな」とビクリー博士はのどを鳴らすように言った。
逮捕されて以来、その夜はじめて、ビクリー博士はよく眠れなかった。終局に対する確信は微動もしていなかった。こんど持ち出された点は不快なものにちがいなかったが、破滅的なものとは思えなかった。それに、陪審員たちがあんな愚にもつかない女の証言をとりあげ、自分の証言のほうはとりあげないなどとは、考えられもしないことだった。だが、マドレインへの憎悪がはげしく燃えあがり、心がしずまらなかったのである。やっつけられる時に、なぜおれはあの女を殺しておかなかったのか――おかげで、こんないまいましい目にあうのだ! マドレインこそ絞首刑にされるべきなのだ。
しかも、あの女はおれの友情の申し入れを受けいれ、おれの家へ来て、おれにご馳走になり、始終うらはらなことをしゃべりながらも、嘘の証言をしておれの命を奪ってやろうと心をきめていたのだ。けがらわしい、白ばくれた人殺しの雌狐《めぎつね》め!
まあ、あいつの毒舌に勝手にふるまわせてやれ。すくなくともおれは、あいつのお上品な化けの皮をひんむき、下劣な正体をさらけ出させ、法廷におれないようにしてやるから。
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第十三章
一月十八日、月曜日に、エドマンド・アルフレッド・ビクリー博士の妻謀殺事件の公判がひらかれた。法廷の新聞記者たちの所見によると、被告はきわめて気軽な態度で被告席に歩いてゆき、ほのかな微笑をうかべて法廷内を見まわした。あくる日の記事には、このような重大な場面における軽率さに対して、非難がほのめかされていた。
だが、被告の見解はちがっていた。重大な場面などとは、ちっとも考えていなかった。解放への退屈な序曲としか考えていなかったのである。
過去三ヵ月間には、もちろん彼も、いやな瞬間にぶつかってきていたが、そうたびたびではなかった。彼の確信は一度も本当にゆれうごいたことはなかった。自分は有罪になるような種類の人間ではない、とビクリー博士は信じて疑わなかった。かりそめにも、おれを公判に付するとは、無礼きわまることだ、と思わずにはいられなかった。大陪審はこんな起訴状なんか破棄できたはずなのに……
これもみんなチャトフォードとマドレインのおかげだ。だが、このつぎの時には、そうやすやすと逃げさせはしないぞ。
「エドマンド・アルフレッド・ビクリー、この起訴状によって被告は、一九二八年四月九日、デヴォンシア州ワイヴァーンズ・クロスで、ジュリア・エリザベス・メアリ・ビクリーという者を、凶悪に、故意に、殺意をもって謀殺したかどで公訴されている。被告は罪状を認めますか、認めませんか」
「認めません」有罪と認めたりしてたまるものか、この老いぼれの阿呆め。おれが嘘を言うと思っているのか?
陪審員たちがだらだらと宣誓しているあいだに(ありがたいことに、女はふくまれていなかった)、ビクリー博士は退屈しのぎに、このつぎの時にはチャトフォードとマドレインをどうしてやろうかと思案しはじめた。なにかひどく苦痛をおぼえさせる計画がいいな……こんなことを考えていると、妙にやりきれない気持をもたずにすむのだった。
「陪審員諸君、被告エドマンド・アルフレッド・ビクリーは、一九二八年四月九日、デヴォンシア州ワイヴァーンズ・クロスで、ジュリア・エリザベス・メアリ・ビクリーという者を、凶悪に、故意に、殺意をもって謀殺したかどで公訴されています。この起訴状によって罪状の認否を問われ、被告は罪状を否認して、陪審員諸君の裁断をもとめました。したがって、諸君の責務は、証言をよく聞き、被告が有罪か無罪かを評決することであります」
なんというたわごとをならべるのだ。
しかし、陪審員たちはこの場にふさわしいような感動した顔つきをしていた。
ビクリー博士は慈悲ぶかげに彼らを見やった。十二人の善良で誠実な人たち。どうやら十人は農民、二人は知的職業の人たちらしかった。ビクリー博士にも見おぼえがあったから、二人の農民はまちがいのないところだった。そのうちの一人は、ワイヴァーンズ・クロスからそう遠くない土地の者で、ビクリー博士とは会釈《えしゃく》しあうぐらいの知合いだった。彼が向こうへ眼であいさつをおくると、その男は当惑したようすでちょっとうなずき返した。ビクリー博士は、ひときわ満足した気分になった。もうすでに無罪放免にする気持の陪審員が一人できたわけだ。このすべては、なんという茶番狂言だ。
ビクリー博士はガンヒルと微笑をかわし、落ちつきはらって軽くバナートン卿とうなずき合った。見ている阿呆どもは、いくらでも勝手に見るがいい。きまりわるがるような相手と見そこなっちゃいけない。
法廷のざわめきが、急に静まった。だれかが立ちあがりかけていた。
もちろん、あれは検事長なのだろう。
こんな希望に見すてられた事件に、検事長を登場させるなんて、こっけいきわまることだ。当局も根拠がなくて非常に困難な事件であることを気づいているにちがいない。証拠の代わりに雄弁で行こうとしているのだろう。
検事長バーナード・デヴァレル卿は、鳥のくちばしみたいな鼻をした、長身の痩せた人物だった。彼は個性のない口調ではあったが、きわめて座談的な調子で、陪審員たちの頭上四フィートばかりの壁の一点に向かって話しはじめた。さあ、はじまったぞ、とビクリー博士は思った。
最初は、めんみつに注意して聞いていた。もちろん、何も新しいことは出てくるはずはなかった。自分に不利な点も有利な点も、彼は正確に知っていた。しかし、事実が順々にならべられてゆくのを聞いていると、とても興味ぶかかった。ひざの上においた一つづりのメモ用紙に、彼の鉛筆が敏活に走った。
「判事閣下――ならびに陪審員諸君。ただ今お聞きになりました起訴状を支持する証拠を、同僚諸氏とともに、本官の任務として、みなさんの前に提出したいと思います。われわれが、その死について究明している不幸な婦人は……」
ビクリー博士は鉛筆をおいた。しずかな声は話しつづけた。モルヒネの徴候……検死法廷……発掘……死体解剖……このへんはノートをとるほどのことは何もなかった。バーナード卿は話しながら、ガウンを左のお尻の上にまるめる癖があるのに、ビクリー博士は気づいた。ガウンのたれた部分を、太腿にそってだんだん巻きあげ、すっかり一つのかたい団子にしてしまうと、それを離して落とし、また巻きあげはじめるのである。ばかげている。
ビクリー博士の注意力は、ほかへさまよいはじめた。が、ふいにまたひきつけられた。
検事長はビクリー夫人の死んだ時にさかのぼって事件のいきさつを述べてから、彼女の夫がその死を悲しまず、逆によろこんだかもしれない理由にふれはじめていた。動機……動機……動機……
ビクリー博士は、自分の動機とされるものの説明をぜんぶ聞いてはいなかった。急に恐怖におそわれたのであった。検察側は真相をつかんでいるのだ――秘中の秘の真相を。あのばくれん女のマドレインが……
あの破滅的な情熱の物語を、慎重な声が語っているのを聞いていると、冷たい汗がにじみ出た。これはいかん。動機が圧倒的であることは、じつにはっきりしているではないか。彼は陪審員たちのほうを見る勇気がなかった。マドレインが嘘八百でもって、おれを絞首刑にしようとしているのだ。絞首刑に!
いまわしい陳述に耳をとざそうとして、彼はメモ用紙にグロテスクな顔など、心をまぎらしてくれるような絵をかきちらした。どんなことがあっても、落ちついていなくてはならない。心のうちの恐怖をほんの少しでも顔に現わしたりすれば、もうすべてはおしまいなのだ。千もの視線が炎のようにおれの額に穴をあけ、心のうちの想念を見てとろうとしているような気がする。ああ、これはたまらん――たまらん!
昼食休憩時間中に、一人の職業意識のさかんな新聞記者が、苦心さんたんしてビクリー博士のメモ用紙をのぞいた。そしてそれを翌日の紙面の呼び物にした。「この日の公判中つねに気軽な態度を見せていた被告は、検事長の冒頭陳述にも無関心さを示して……」
昼食のため休廷になったとき、緊張しつづけていたビクリー博士は気力が弱っていた。判事が席を立つ前に、法律的な議論がおこなわれていたが、ビクリー博士は注意をむけることができなかった。なにかチャトフォードの証言の許否に関する議論だった。陪審員たちは退廷させられていた。もちろん、それは重要なものだった。じつに重要なものだとガンヒルは考えていた。だが、その重要性も、もう消えうせていた。もはや冒頭陳述でおれは有罪にされてしまったようなものだ。やっと公判がはじまったばかりなのに――有罪にされてしまうとは。これはやりきれない。
休憩時間中に、ガンヒルが例のように両手をもみあわせながら会いに来た。「まあ、現在までのところ、われわれはよろこんでいいと思いますな。ええ、たしかですよ」
ビクリー博士はやつれたような眼《まな》ざしでガンヒルを見つめた。「よろこんでいいって?」
「そうですよ。なかなか公正な冒頭陳述でした。よくゆきとどいた公正なものでしたよ。バーナード卿は手心をくわえて扱っていたようじゃありませんか」
ビクリー博士は何も答えなかった。
「それにしても、バーン夫人が未亡人になったのは遺憾ですな」とガンヒル氏は首をふりながら言いそえた。「夫に死なれたばかりの未亡人というものは、陪審員たちに影響をおよぼすものですからな。かならずそうにきまっているんですよ。まあ、せめて、あの未亡人が泣かないようにしてくれるといいんですがな。しかし、ビクリー君、言っておかなくちゃならないのは、われわれは……そうです、あらゆる確信をもっていることですよ」
昼食後、法律的な議論がまたむしかえされた。陪審員たちはやはり出廷していなかった。ビクリー博士はすっかり気力をとりもどしていた(あんな小さな問題で混乱したりするなんて、なんというばかげたことだったろう。もちろん、神経のせいだ)。そして最初は興味をもって聞いていたが、まもなく退屈してきた。
「ギアリング裁判(一八四九年)、L・J判例集一八、M・C判例集二一五、フラナガン裁判、COX判例集一五、四の三によって……」
彼らは判事に向かって本をふりまわしたり、議論の相手側に向かってふりまわしたり、めぼしい人物を見かけしだい、だれにでもふりまわしてみせた。
フランシス・リー=バナートン卿は、ウインスロー裁判、COX判例集八、三九七を強調して派手な演技をしてみせたが、当のフランシス卿以外、だれもあまり感銘もうけていないようだった。結局、判事はチャトフォードの証言を許容することに決定した。
ビクリー博士は失望したが、気力を失うほどでもなかった。ガンヒルもフランシス卿も、そういう決定になるかもしれないと前もって注意していたからだった。それもよかろう。茶番狂言が長たらしいものになるだけのことだ。
それにしても、ありがたいことに、冒頭陳述はおわった。あれには幾度か不快な思いをさせられていたのだ。
いや、おわったのではなかった。陪審員たちがまた出廷すると、またもや検事長が立ちあがった。まるで閑談でもする調子で、彼はビクリー博士がマドレインとチャトフォードを殺そうとしたいきさつを話した。じつによく事実をつかんでいるのは妙だな(とビクリー博士は、またもや不安をつのらせて聞きながら思った)。検事長も事実をつかんでいるのを心得ているように話している。おどろくほど微細な点にいたるまでだ。検事長の話しているのが事実であることを、もし陪審員たちが気づいたら……気づかずにはいないように思われはじめた。検事長が事実をつかんでいることは、いよいよきらめくばかりに明らかになってきた。
バーナード卿が一つ一つの問題を明確化してゆくにつれて、ビクリー博士はまたもや陪審員たちの顔が見られなくなった。ふたたび混乱はしなかった――しないつもりになっていたが、じっさいやれきれなかった。検事長が陪審員たちに、おれを絞首刑にするように説いているのに、だまって坐ったまま、どうしようもない気持で聞いていなければならないとは……
やっと検事長が腰をおろしたとき、ビクリー博士は自分の下着がぐっしょり濡れているのに気づいた。まだ望みはあるのだろうか? 彼はガンヒルの眼を見てとり、それが相変らずきらめき、陽気そうなのに気づいておどろいた。すると、どうやら望みはあるらしいな。彼はそっと陪審員たちを見やり、その一人があくびをかみころしているのに気づいた。やれやれ!
最初の証人|召喚《しょうかん》のときは、もう最高潮がすぎて気が抜けた感じだった。事実、検事長も、一日分の仕事を終えて満足したかのように退廷した。それを見おくって、ほっと安心したビクリー博士は、その後姿に向かって、大声で笑ってやりたくなった(たぶん少しヒステリックな笑い方だったろうが)。この日に召喚された証人たちは、バーナード卿の部下に訊問された――そして彼らの証言が、どれほど役に立ったか? なんの役にも立たなかった。ぜんぜんなんの役にも立たなかったのである。測量技師がフェアローン荘の図面を提出した(いったい、なんのためにフェアローン荘の図面などを必要とするのだろう?)。女中だったフロレンスが、ビクリー夫人の病気や死んだ日の出来事について自分の立場から話した。フロレンスの見たところでは、ビクリー夫人は自分の頭痛にひどく当惑していたが、どうにもわかりかねていたというのだった。まったく、タマートン・フォリオット卿だって、そうだったのだし、ビクリー博士自身もそうだったのだ。それは別に新しい事実ではなかった。そしてほかの面では、フロレンスの証言はきわめて有利であった。あきらかに彼女はビクリー博士の犯行を信じていなかった。そして現場にいた証人として、彼女の意見は重視されるにちがいなかった。反対訊問の場合にも、フロレンスは、あの日の午後、自分かコックかに姿を見られずに、ビクリー博士が家に引き返して来ることはできなかったと思うと言った。できたと思うと言ってもいいところだったのだ。バーナード卿の部下は再訊問のとき、まるで被告側の証人のように彼女を扱わねばならなかった。
休廷になったとき、ビクリー博士はすっかり活気をとりもどしていた。調和感覚を維持しなければならない――それが秘訣なのだ。
たいくつな証言を聴取したり、訊問したり反対訊問したり、検察側と弁護士側とのあいだにおかしいくらいいんぎんなやりとりがおこなわれたり、衣裳をつけた茶番狂言みたいな公判が、だらだらとつづいた。
いまやビクリー博士は、完全な確信と不安とのあいだを行きつもどりつしていたが、もちろん確信のほうが強かった。いくどか不快な瞬間にぶつかった。そんな場面が多すぎた。だが、そのあとで、いつもガンヒルが大いに安心させた。時には仰天《ぎょうてん》させられるような場面にもぶつかったが、つねにビクリー博士は、手おくれにならぬうちに、調和感覚で立ち直った。
たとえば、マドレインの証言の場合である。
ビクリー博士の皮肉な見方によれば、マドレインは現在の事態――評判が高まり、脚光をあび、同情され、自分が未亡人になったことまでも、大いに楽しんでいたのだった。しかし、だまされていた経験のある彼としては、法廷内の他の男性の眼から、ウロコをはぎとることは望めない、と悟っていた。だから、耳をかすまいと腹をきめ、疾走している馬の絵をいとも丹念に描きはじめた。読者をよろこばせるために、ビクリー博士の芸術的精進を呼び物記事にしていた新聞記者は、いそいで書きとめた。「自分に不利な証言をしている以前の愛人に直面するのを恥じ、被告は絵を描くのに心をうばわれているふりをしていた」
マドレインは低い遠慮のない口調で、自分がすさまじく追いまわされたいきさつをぶちまけた。なにも直接に述べず、思わせぶりな話し方で、ビクリー博士は純潔な処女を毒牙《どくが》にかけようとした飢えた野獣に仕立てられた。新聞記者たちは鉛筆をとがらせた。これは売れる記事になる。今夜の整理部の見出し担当記者連は強いコーヒーと濡れタオルを用意してかからねばなるまい。未亡人の喪服姿で限りない悲愁を見せたマドレインは、記者たちが鉛筆をけずるのに気づいて、さっそく少し泣いてみせた。判事も、検事長も、陪審員たちも、フランシス・リー=バナートン卿までが、おどろきの色を見せた。ビクリー博士は聞かないわけにいかなくなり、馬の絵はやめにして、どうしようもない憤りに被告席で身もだえした。
「さて、バーン夫人、あなたの話したところによると、被告はあなたの寝室に押し通り、結婚を申しこんだのですね。あなたは当然、被告にはすでに妻がある事実を指摘した。それに対して被告は、どう答えましたか」
マドレインは、やさしげな、女らしいためらいをみせたが、やがて静かな勇気をもって義務を遂行した。「『ジュリアは死んだのだ』と言いました」
あくる日のあらゆる新聞紙上に書きたてられたように、センセーションがまき起こった。
ビクリー博士は眼を怒《いか》らせてマドレインをにらみつけた。この一点がどうなるかによって、この裁判に敗北するかもしれないことが、彼にはわかっていたのだった。みぞおちのあたりに沈みこむような気分をおぼえながらも、彼はけがらわしい嘘に直面して、当然の憤りを見せている男のような感じをあたえようとつとめた。
検事長は腰をおろした。
反対訊問がおこなわれているとき、ビクリー博士の心はだんだん沈みこんでいった。彼から注意しておいたのに、フランシス・リー=バナートン卿までがマドレインにだまされているのは明らかだった。彼女をやさしく扱い、大っぴらに同情を示し、彼女の演技にまきこまれているのだった。ビクリー博士は気が気でなくなり、激烈な注意書を弁護士に書きはじめた。フランシス卿はそんなものには眼もくれなかった。ビクリー博士は憤怒にかられて、どなりつけてやりたくなった。
一ばんやり切れないのは、フランシス卿がマドレイン糾弾《きゅうだん》を頭から拒否していたことだった。未亡人になったばかりの彼女が、法廷におよぼすにちがいない影響を考えると、それはあくまでまずい方策だとしていたのである。そしてじつに気まぐれな調子で、反対訊問の方針は、その時がくるまで未定にしておこうと言っていた。マドレインが証言するときに、よく彼女を考察し、その時その場で彼女に対する方針をきめようと言っていたのである。ところが、いまフランシス卿は、どんな方針もまるでとっていなかった。なんということだ、あの女を誘導して、ますますおれに不利な暴言や当てこすりをならべさせている。そんなことばかりやっているのだ。ビクリー博士は、いよいよつのる腹立たしさに狂おしくなってきた。
ふと彼に考えさせたのは、ちらと見た検事長の顔だった。バーナード卿は椅子にもたれ、天井に眼をむけ、空虚きわまる表情をして、何か心のうちの悲しみを隠しているようだった。ビクリー博士はおどろいて、一瞬、バーナード卿を見つめた。こんなに検察側が勝利を得ているのだから、きわめて幸福そうな顔つきをしているべきはずなのに、バーナード卿はまったくそうではなかったからであった。ビクリー博士はまた自分の弁護士に注意をむけ、感情は抜きにして理性をもって聞きはじめた。つぎの瞬間、彼は理解した――そしてその瞬間の反動で、するどく小さな笑い声を放った。判事が顔をしかめてみせたが、ビクリー博士は気にもしなかった。こんどばかりはマドレインも、演技をやりすぎて失敗していたのだ。
「ところで、バーン夫人、あなたの最近の大きな悲しみにふれなければならないのは、わたしとして心苦しいのでありますが」とフランシス卿は内気らしい調子で言った(彼の態度には妙に内気らしいところがあったが、それがかえって魅力にもなっていた)。「しかし、責務として、おたずねしなければなりません。あなたとご主人は、数ヵ月前、離婚を考えていたのではありませんか?」
「そんなことはぜんぜんありません」とマドレインは腹立たしげに言った。みんなが聞き耳をたてていた。
「そう断言するのですね?」
「しかし、バナートン卿」と判事がさえぎった。「それは本件に関係がありますか?」
「あります、閣下。すぐそれは明らかになるでしょう。バーン夫人、そう断言するのですね?」
「もちろんですわ」とマドレインは女らしい威厳をみせて答えた。
「しかし――いや、あけすけに申しますなら、あなたとご主人との仲はうまくいっていなかったのでしょう?」とフランシス卿はすまなさそうにきいた。
「主人とあたくしはとても深く愛し合っていました」マドレインは眼をくるりと判事に向けて、無言の訴えをした。
判事は眼をくるりとフランシス卿に向けたが、効果はなかった。
「しかし、世の多くの夫婦のように、あなた方も夫婦喧嘩はなさったでしょう?」とフランシス卿は申し訳なさそうな微笑をうかべて言った。
「あたくしたちの結婚生活はわずか一年半でした」
「おかまいなければ、わたしの質問にお答えくださいませんか、バーン夫人」
マドレインは胸を張った。「ぜひとおっしゃるなら、『否《ノー》』とお答えいたしましょう。主人とあたくしは一度も喧嘩などしたことはございません」
ビクリー博士が笑ったのは、この時だった。ワイヴァーンズ・クロスでは大評判の事実であるのに、一度も喧嘩などしたことがないとは……だが、この女はほんとにそう思いこんでいるにちがいないのだ。この女の自己|欺瞞《ぎまん》の力は、とほうもないものなのだから。そうだ、未亡人になってから、ほんの数週間のうちに、もうすでにこの女は自分の短い結婚生活が、田園詩的なものであったと思いこむようになっているのだ。もはやビクリー博士には、なにをフランシス卿がねらっているかがわかった。
「でも、世の多くのご婦人方と同じように」とフランシス卿は内気らしい調子で追及した。「あなたも嫉妬をなさったことがあるでしょう?」
「そんなことはぜんぜんありません。主人はそんなことの原因をつくったことがございませんでした」
「いや、ご結婚後はそうにちがいありません。でも、その前のことですな。ご主人があなたに会う前に愛しておられた女たちのことで、嫉妬なさったことはないでしょうか?」
マドレインはためらった。判事は落ちつかないようすで書類をめくった。
「お答えねがいたいものですね、バーン夫人」
「いいえ、ぜんぜんありません!」
突然、フランシス卿は内気らしい態度をかなぐりすて、彼女をにらみつけた。「そうすると、おそらくあなたは、ご主人があなたの存在を知りもしないころ愛していた女たちのことで、狂人のようにわめきちらし、来る夜も来る夜も――何週間もぶっつづけに、夜明けの四時まで眠らせず、ついにはご主人にひどく健康を害させるにいたった事実などはない、と言われるつもりでしょうな?」
マドレインは証人席で身をちぢめて尻ごみし、血の気を失った顔が蒼白になった。口はネズミ取り器みたいにこわばっていた。
判事は身をのり出した。「フランシス卿、いまの注目すべき反対訊問を正当とされる理由をうかがわねばなりません。本官は相当な自由を許容してきたのですが、この証人への訊問が本件にどんな関係があるのか――」
「申しあげましょう、閣下」とフランシス卿はこの機会にとびつくように、きびきびした調子で言った。「わたしの反対訊問は、この証人の証言がぜんぜん信頼できないこと――この証人は評判の嘘つきであり、悪意に満ち、心の平衡を失った人物であることを立証するのが目的であります。なお、このことを証明するために、弁護側の証人を召喚するつもりです」
またもや新聞紙上に書き立てられたように、センセーションがまき起こった。
ビクリー博士は歓喜に顔をかがやかせながら、被告席から身をのり出した。弁護士を抱きしめ両方の頬にキスしたい思いだった。生れてから三度目に、彼は肉体的でない狂喜によって、無我夢中の幸福の天空たかく持ちあげられたのであった。
「もちろん、弁護人は自分がどういうことをしているかを自覚されているのでしょうね、フランシス卿?」ほかの連中はともかくとして、判事は落ちつきをとりもどしていた。
「はっきり自覚しています、閣下。被告はどんな個人的性質の反対訊問にも直面する用意があります。隠すべきことは何もないのですから」
判事は時計をちらと見やった。四時十五分前だった。
「それにしてもこれで閉廷し、弁護人にじゅうぶん考慮する機会を与えることにしましょう」
「ご好意のほど、深く感謝いたします、閣下」
ガンヒルもビクリー博士自身に負けないほど興奮していた。「もう裁判は勝ったようなものですよ。フランシス卿はあの女をおびき出し、いくつかの小さな点について矛盾したことを言わせ、思うとおりの気分へひっぱりこんだ。当然、あの女は力演をつづけた。とたんに、フランシス卿はあの女の正体を暴露したんですな」
「でも、あのほうの証言はまだ……」
「いや、もうちゃんと手配ずみですよ。ぜったいに確実です。ほんとにわたしは、あの審問の線をじつに綿密に検討したんですよ。バーン夫人の証言だけが、実際あなたにひどく不利なものだったのですから、あれを信頼できないものとできさえすれば……。ほんとにわたしはあの線にじつに綿密な注意を集中したんですよ」
「でも、あなたの話では――どうもフランシス卿は……」
「最後の瞬間になって方針を変えるかもしれないから、フランシス卿はあなたに告げるのを望まなかったんです。バーン夫人が陪審員たちにあたえる印象を、まず正確に知りたかったんですよ。もうこれでわれわれはぐんぐん進んでいけるわけです。こうなれば、あなたに話せますがね、ビクリー君、バーン夫人があなたに明確な悪意を抱いていることについては言うまでもなく、嘘つきであること、心の平衡を失っていることについても、じつに決定的な証言を、われわれはつかんでいるんですよ」
「あの女は気ちがいだと、いつもわたしは言っているんですよ」とビクリー博士はぐっと胸を張った。「遺憾ながら、証明することはできません。しかし、常人との境界線を越えていることは確かですよ。もう十数回も、そうお話ししてますがね」
「たしかに、そのとおりですよ。あなたがお話しくださっていたので、たいへん好都合でしたよ。これで、われわれの立場のじつに有利な点はですな」とガンヒル氏は言いながら、とても強く両手をもみあわせて音をたてた。「相手側はあなたの個人的な性格を攻撃できても、それをやれば、自分の側が不利になるだけだということですよ。あなたが事実を打ちあけてくださっているとすれば(もちろん、そうしてくださっているでしょうが)、相手側が攻撃できるのは、あなたの――まあ、無差別な女性関係とも言えるもの以外、何もないんですな。そしてあなたが無差別であったことをあばいてみても、相手側にはまるで利益にはならんでしょう。ただ一人の特定の女性に対するあなたの愛情が、この事件ぜんたいの根拠になっているんですからね。女性の数が多くなればなるほど、動機の影は薄くなってゆくわけですよ」
「もちろん」とビクリー博士はにやにやした。「なかなかおもしろくできてますよ」
「とにかく、わたしの思うところでは――そうです、あれでバーン夫人の登場はおしまいでしょうな」
そのとおりであった。
あくる朝、マドレインの代わりに、バーン夫人は神経衰弱とショックのため病臥中で、法廷に出席できる状態ではないという診断書が来た。フランシス卿は意味深長な眼ざしで陪審員たちを見たので、彼らはひどく落ちつかない気分になったほどだった。
ビクリー博士は被告席の椅子にもたれ、チャトフォードの証言を聞きにかかった。もう学究的な興味以外、なにも感じていなかった。ガンヒルが言ったように、もう裁判には勝っているのだった。
チャトフォードは検察側の主張を強化するようなことはあまり話さなかった。その証言は、自分の関係した細菌事件に限られていて、お茶の会、自分の発病、自分にビクリー博士が会おうとしたこと、その結果などで、すべてがきわめてぼんやりしたものだった。ビクリー博士はいよいよ落ちつきはらってきた。まったく、検事側ががんばっても、これくらいのことしかできないのなら……ふん、当てこすりや当て推量ばかりで、はっきりしたことは何も出て来やしない。またフランシス卿も反対訊問でチャトフォードを手ひどく扱った。被告に対するチャトフォードの嫉妬や悪意をほのめかし、その証言の価値を抹殺できるだけの答弁を引き出し、チャトフォードは執念ぶかいお節介な男だという感じをきざみつけた。すべてがきわめて巧妙にやってのけられた。
つぎは、リドストンを先頭とする医学面の証言となった。ビクリー博士はリドストンの証言すら、腹をたてずに聞くことができるのに気づいた――リドストンは例のはっきりした口調で、被告の医者らしくない行動、ぜんぜん診察もしないで診断をくだしたこと、その診察のおどろくべき性質、自分とチャトフォードがしめし合わせて芝居をしたいきさつを述べた。あれが芝居だと――それこそ医者らしくない行動じゃないか! このような証言の終わりちかくなって、ビクリー博士は少し不安を感じはじめた。リドストンの証言には、いまいましいほどもっともらしいところがあるのだった。だが、反対訊問で、チャトフォードの症状について故意に被告をあざむいたのだから、被告がどんな診断をくだしてもおどろくにあたらない、ということをリドストンに承認させたので、ビクリー博士の心もいくらか平衡をとりもどした。
タマートン・フォリオット卿の証言は、この平衡状態を強めた。これはきわめて印象的な証言であったが、たいした内容のものでなかった。しかし、その多少の内容は検察側よりも、被告側に有利なようなものだった。
タマートン卿の後から、いろいろな専門家が続いた。最初に、内務省の細菌学者ライダー博士が現われた――大きな黒いあごひげをはやした大柄な男で、自信満々の口調で話した。検査のために提供された培養基について知った事実を、法廷に話すように、検事長から要求されると、ライダー博士はいかにも楽しそうに話した。
「検査のために、わたしに提供された培養基は、ふつうのジェリー板でした。これには幾つかの細菌群落があって、いずれも腸チフス菌群らしく、細い鞭毛《べんもう》をもち、不規則な形をしていました。いつもの方法によって、わたしは種々な異った菌を確認しました。普通大腸菌、腸炎菌、パラチフス菌B、チフス菌、エアトリック菌、そのほか同じ群の菌でした。なかでも腸炎菌、つまりゲルトナー氏菌が圧倒的に多数をしめていました」
「ありがとう、先生。それから、あなたがやはり検査された、あのカプセルの内容については?」
「カプセルにはジェリーの小片が入れられていまして、これは形も大きさも、前のジェリー板の一方の端の欠けている個所とぴったり合っていました。この小片には、腸炎菌の一群だけがいまして、ほかの菌はいませんでした。また、わたしに検査のために提供されたびん詰肉の残りものの場合も、同様でありまして、腸炎菌だけがふくまれていました」
「なるほど。素人としては、腸炎菌は腸チフスをおこす菌と考えていいんですね?」
「そうであります」
「この菌の主要な特質を陪審員諸君に説明していただけませんか?」
「いたしましょう」とライダー博士は元気よく引きうけて、陪審員たちに向かった。「腸炎菌つまりゲルトナー氏菌は、数多い腸チフス菌群の菌のうちでも、立役者《たてやくしゃ》をつとめる菌であります。形態学上から言いますと、活溌な運動型で、いくつかの鞭毛をもち、胞子《ほうし》をつくらず、グラム染色法によって染色されない陰性の細菌です。この群の他のすべての菌と同様、好気性で、ふつうの培養基でよく繁殖しますから、培養するのは容易であります。培養菌の特質としましては、これはグルコーゼ、レヴローゼ、マルトーゼ、グラクトーゼ、アラビノーゼ、ラフィノーゼ、マニトール、ソルビット、ダルシット、デキストリンを醗酵《はっこう》させ、酸とガスを発生させますが、サッカローゼにも、また大体サリシンやグリセリンにも作用しません。インドールにはほとんど、あるいはぜんぜん反応を示さず、フォーゲス=プロスカウア反応も示しません。リトマス乳液のなかでは――」
この滔々《とうとう》とした熱弁を、どうにか検事長がくいとめた。「けっこうですが、なんとかもう少し専門的でないようにお願いできませんか、先生。特に人体に対する影響について話していただけませんか」
「や、どうも失礼しました。この腸炎菌がじつにしばしば肉中毒の原因になることは、いまや立証されているところであります。これは豚、牛、馬、魚の肉に発見されています。症状は毒素の作用によるものでありまして、発病は急激ではないにしても、だいたい急速であります」
「そしてその症状は?」
「通例は、嘔吐、下痢、腹痛、頭痛、衰弱、虚脱、冷汗、悪寒《おかん》、痙攣《けいれん》、発疹、舌苔《ぜつたい》であります」とライダー博士はいかにも楽しそうに答えた。
「なるほど。では、バーン夫人とチャトフォード氏の症状がこの法廷で述べられたのを、あなたはお聞きになりましたが、腸炎菌による中毒と一致しているとお考えになりますか?」
「まったく一致しています」
「そしてあなたは、チャトフォード氏の排泄物のなかに、この菌を実際に確認されたのですね?」
「そうです」
「チャトフォード氏の病気とバーン夫人の軽い病気が、二人の体内に入りこんだこのチフス菌によって起こされたものであることは、あなたは疑問の余地はないとされるのですね?」
「ぜんぜん疑問の余地はありません」
「ところで、腸詰中毒と言われている病気を起こす細菌、つまりボツリン菌についても、あなたはあのジェリー板で検査されましたね? いくらかでも発見されましたか?」
「ぜんぜん発見しませんでした」
「発見できると予想していましたか?」
「いや、予想していませんでした。ボツリン菌は嫌気性です。言いかえれば、ボツリン菌は空気にさらされると死滅するのです。あの用意された培養基は、好気性の細菌だけに適するものでした。あれではボツリン菌は生存できるはずがなかったのです。排泄物のなかにも、ボツリン菌の形跡はぜんぜんありませんでした」
「腸詰中毒の症状は、腸炎菌すなわちチフス菌によって起こされる病気、つまり腸チフスに似ていますか?」
「もちろん、似ていません。全くちがいます。腸詰中毒の場合は、頭痛、目まい、それにつづいて複視、部分的な眼瞼下垂《がんけんかすい》、瞳孔拡大、顔面筋肉と喉頭と咽頭の麻痺、腸の体液流停止から便秘の症状を起こします。通例嘔吐はありません」
「そうすると、多くの点で、腸詰中毒の症状は、腸炎菌によって起こされる症状と正反対なのですね?」
「そうであります」
「あなたのご意見では、医師が症状だけで判断する場合、腸炎菌による中毒を腸詰中毒と診断することがあり得るでしょうか?」
「正気であるかぎり、あり得ないでしょう」とライダー博士は活気にみちた調子で答えた。
検事長はさらに証人に説いて、さきほどの専門的表現の幾つかを、十人の農民と二人の知的職業の人たちにわかるような言葉に直して説明させた。
ビクリー博士は、自分のやった細菌学上の失敗が、ひどく役に立つまわり合わせになったのを、おもしろおかしく感じていた。彼の場合、ほんの少ししか知識がなかったことが、かえって幸運になったのである。どうやらあのサムフォードの子供には、ボツリン菌のほかに、いろんな菌がいたらしい。そのいろんな菌を培養しないで、ちゃんとボツリン菌だけを培養していたら、おれはひどく困った羽目になっていたかもしれない。また、あのびん詰肉の残りものに菌をうえつけ、こんな讃歎すべき結果をもたらした芸術的感覚に対しても、彼はみずから大いに祝意を表した。
この自己満足を、検事長が追い散らしにかかった。ジェリー板の問題にかえった検事長は、それに繁殖していた培養菌はびん詰肉から得られたものかどうかを、おだやかにたずねた。ライダー博士は強く否定した。びん詰肉には、ただ一種類の菌がいただけだから、それではジェリー板にいたパラチフス菌Bやチフス菌、その他の菌のことが説明できないだろうと言うのだった。では、そのようなジェリー板の菌はどんな方法で培養されたと考えるか、と検事長が質問したのに対して、フランシス卿が異議を申し立て、判事はその異議を認めた。そんな推測的な質問は許されないというわけだった。検事長は、そんな可能性は考えられない、と証人に断定をくり返させて満足した。つまり、びん詰肉の汚染は、ジェリー板に培養された腸炎菌から来たものかもしれないが、ジェリー板のほうがびん詰肉だけから汚染されたようなことはあり得ないというのであった。
もちろん、被告側は自分のほうの専門家たちから、すでにこの事実を明示されていたのであったが、ビクリー博士としては、検事長がそれをひどく強調して扱うのが、どだい気にくわなかった。
反対訊問で、説明が提示されると、ライダー博士は、そういうことも確かにあり得ると認めた。つまり、腸炎菌が圧倒的に多数をしめていたのは、培養菌の大部分が、実際に、びん詰肉から来たことを示している。ほかの菌は相当いても、それほど優勢ではなく、これらのものは、ビクリー博士が土地の隔離病院から得た排泄物によって、同時に同一のジェリー板でおこなっていた実験によるものだという説明であった(運よくビクリー博士は当時その隔離病院に一人の患者を入れていたので、そこへ出かけた説明もつくわけだった)。しかし、再訊問で、ライダー博士は検事長の意見にすっかり同意し、同一の培養基で二種類の異った培養実験をするのは、強力なほうの菌が弱いほうの菌を攻めたてて死滅させるだけだから、無価値とは言えないにしても、きわめて妙なやり方だと話した。そればかりでなく、そうした場合には、培養菌はもっと明確に繁殖の進展しない状態にあっただろうと言った。さらに反対訊問がおこなわれたが、ライダー博士は前言を取り消さず、ただ、それにしても被告側の説明は自分の観察した事実とよく一致している、とくり返すだけであった。
ライダー博士の広い背中が消え去ってゆくとき、ビクリー博士はかなりほっとした気分でそれを見つめながら、だいたい証人は決して被告側の役には立たないものだと思った。不快な二時間だった。
つぎに現われた内務省の病理学者サウアビー博士の証言は、長たらしかったけれど、結局、ビクリー夫人の死体には自然的な病気の形跡を発見できなかったというだけのものであった。もちろん、彼女の頭痛や不健康の原因も解明せず、脳にはなんの腫瘍もなかったというのだった。反対訊問では、死はモルヒネの過量服用によるものと完全に一致しているばかりでなく、自分の聞いた死後の所見からしても、これが死因であることはほとんど確実であると答えた。このサウアビー博士の意見は、内務省の医学顧問ジェームズ・クレリヒュー卿によって確認された。しかし、死因が問題にされていたのではなかったから、これだけでは問題はいずれの方向にもあまり発展しなかった。ビクリー博士はいよいよ退屈してきた。が、退屈していることに、むしろ誇りを感じた。そもそも昔から、自分自身が殺人罪に問われている裁判で退屈した人物があっただろうか? ほとんどなかっただろう。しかし、実際のところ、あんなにみごとにマドレインがやっつけられてしまった今では、なにもめぼしいものは出て来ないようだ。マドレインの証言にくらべれば、ほかのものはどれも本気で問題にするほどのものはない。
ところが、つぎの証人は、公判過程にいささか興味をもたらした。それは内務省の首席分析部員ピム氏であった。サウアビー博士から検査のために提供された器官には、なんの毒物の痕跡もぜんぜん発見できなかったことを、ピム氏は認めないわけにいかなかった。ビクリー夫人が多量に注射していたことが明らかにされているモルヒネは、他の植物性毒物の例にもれず、こんなに時日が経過すると、どのみち消失してしまっただろうが、砒素のような鉱物性毒物の痕跡もぜんぜんなかった。彼が発見した異常な物質は、おどろくほど多量のバナジウムと、ごく少量の金だけであった。この二つの物質は、ごくまれにしか薬品に使用されないのに、どうして器官のうちにあったのか、まったくわからなかったと彼は言った。
ビクリー博士は、内心ひそかに微笑した。バナジウムと金がどこから来たのか、彼は知っていたのだ。
わからなかったのは、つい数日前までのことでした(とピム氏はつづけた)。では、その二つの物質の配合から、何か思いついたのか? そのとおり。
ビクリー博士は用心ぶかく坐りなおした。こいつは何か新しいことだぞ。
妙な切っかけから、数年前に現われた特許薬のことが心に浮かんだ、とピム氏は話した。職務上、分析しなければならなかったのだが、この薬は「ファラライト」と呼ばれ、尿酸特異質の治療用に調剤された多数の特効薬の一つで、その見本が時折り医師間に配布されている。この薬は高価であったのと、はげしい頭痛を起こしたために成功せず、医師たちにとりあげられなかった、とピム氏は言った。
ビクリー博士は、胸がわるくなるような気分におそわれた。やつらは何もかもあばき出し、おれがやった通りのことを示し、あれほど探知できないだろうと考えていた秘密の計画を、専門家の検査のどぎつい光にさらそうとしているのだ。これは災難だぞ。
あらゆる自制力をよせあつめた彼は、その後につづいた怖るべき証言のあいだ、やっと平気な顔つきで坐っていることができた。自分の用いた方法が微細に述べられていた(もちろん、一つの意見として述べられていたのであったが、それが事実であることを少しも疑わない調子で話されていた)。ピム氏はこの特許薬こそ、ビクリー夫人が苦しめられていたような頭痛を起こしたにちがいなく、ほかにそういう薬は考えられない、と不動の確信をみせて言っていた。反対訊問でも、ピム氏は少しも動かされなかった。じっと聞いていたビクリー博士は、自分が「ファラライト」を入手していた証拠にもとづいて、検察側がだんだん主張をすすめてきており、しだいに法廷の気分がこの一つの問題点に強く集中されてきているのに気づいた。ついで、問題の製薬会社の代表者が、帳簿を前において、この日に、さらにこの日に、さらにまたこの日に、ビクリー博士から「ファラライト」の注文を受けたと詳しく話し、検事長がまぎれもない勝ち誇った口調で、この帳簿を証拠物件として提示されたいと言うのを、ビクリー博士は聞いた。
もはや疑う余地はない。検察側はマドレインが断ち切っていた鎖の一環をつないだばかりでなく、さらに鎖を強化したのだ。おれがジュリアを殺すのに用いた方法の最後の秘密は、おれの手からかっさらわれ、手品師のハンカチみたいに陪審員たちの前にさし出されたのだ――引っくり返して種明しをやってみせ、もうごまかしがきかないようにしてしまわれたのだ。ビクリー博士は一瞬、不用意にも困惑した眼を陪審員たちのほうに向け、彼らが彼の視線をさけるのを見てとって、あわただしく眼をそらした。
ピム氏の結論を強化するために、ふたたびサウアビー博士やジェームズ・クレリヒュー卿を呼び出すことは、ほとんど必要もないくらいだった。だが、検察側はいささかも仮借《かしゃく》するところはなかった。あくまでビクリー博士を絞首刑にしようとかかっていた。
やっとのことで医学面の証言が終わった。それとともにビクリー博士の楽天的な望みも消え去った。もうまるで見こみはない。
多少でも重要な証人として、ただ一人あとに残っていたのは――アイヴィだった。身をちぢめるようにして、おどおどした彼女は、被告席の愛人から眼をそらしながら、証人席にあらわれた。ひどく気落ちして、もう体裁もつくろっていられないほどになっていたビクリー博士は、けだるそうに彼女を見た。
検察側は彼女に思いやり深かった。検察官席や弁護人席にある者たちも、いや、法廷内にいるほとんどすべての者たちが、彼女が被告の情婦であったことを知っていたけれど、検察側はその事実にふれなかった。検察側の立場からは、そんな必要はなかったのだ。目的は別の点にあったのである。アイヴィがふるえるような声で、あの宿命的な日の午後、彼に会ったいきさつを話したとき、ビクリー博士の心に恐ろしい予感がひらめいた。突然、すさまじいばかりにはっきりと、自分がおかしたぞっとするようなあやまちを見てとった。おれはチャトフォードの利害関係人としての悪意を示そうと懸命になりすぎて、チャトフォードに不利な証人としてのアイヴィも信用できないことを示したのだ。検察側が主張を通せるか否かは、すべてあの日の午後、おれが道路で二人の村人に会ってからアイヴィに姿を見られるまでのあいだに、フェアローン荘へ引返す時間のあったことを立証できるかどうかにかかっている。おれには引返すことができなかった、と証明してくれそうなのは、ただアイヴィだけだ――アイヴィ自身と、あの時おれに告げた時刻についての証言だけなのだ。ところが、いまではアイヴィは信用できないものとされている。検察側はアイヴィにせまりたて、まちがっているとほのめかし、以前の愛人を助けようとして、故意に時刻を変えているなどということまでほのめかすだろう。
ビクリー博士は、ひどく顔を硬直させて聞いていたので、筋肉が痛んだ。彼はぎゅっと歯をくいしばっていた。
アイヴィは知っているのだ。
おれがジュリアを殺し、チャトフォードとマドレインを殺そうとしたことを、アイヴィは知っているのだ。ビクリー博士は彼女が知っていることを本能的に、はっきりと感じた。アイヴィは知っているのだ。だが――おれのことを暴露しようとしていないのだ。ああ、この女に祝福あれ、祝福あれ。おれが自由の身になったら、もしも自由の身になれたら、きっとこの埋め合わせはしてやろう。おれがどんなことをやったかを知っていながらも、やはりおれを愛している。愛していて、やはりおれと結婚したいと思っているのだ。よし、おれたちは結婚しよう。こんどは〈へま〉をやらないぞ。そうだ、断じて! おれはこの女にそれだけの借りができているのだから、かならず返してやる――みごとにとったチャトフォードの命を盆にのせてな。
彼の顔はやわらいだ。こわばったあごの線がゆるんだ。消え去っていた希望が、まただんだん燃えはじめた。
検事長は今までよりも少し高く、お尻の上にガウンを巻きあげた。そして人差し指で、いとも微妙に鼻の先をかいた。部下が坐りなおした。検事長がそんな神経質な癖を見せるのは、なにか特別の努力をしようとしている証拠であることを、部下は心得ていたのである。
アイヴィ! 絞首綱からのがれる最後の希望をつなぐにしては、なんという弱々しい糸だろう、とビクリー博士は思った。しかも、まだ糸は切れているわけではないのだ。
それからの数分間、ビクリー博士はマスクにも似た顔をして、その糸がこすられ、すりへらされ、ぷつんと切れるのを見つめていた。検事長にしつこく追求されて、涙を頬にながしながら、とうとうアイヴィは、いままで述べていた時刻はあの時に告げた時刻でないことを認めた。じっさいに告げたのは十五分後の時刻だった。ずっと後になって、自分の時計がまちがっていたにちがいない、と被告から言われたことも彼女は話した。
もうだめだ。
弁護人が被告側の主張を述べるために法廷に立ちあがったとき、もうビクリー博士はまるで希望をもっていなかった。つぎから次へ支柱が足元から打ち倒されてきていた。フランシス卿は見こみのない主張を大車輪でやっているのだ。ビクリー博士はまるでなんの感動もなく聞いていた。
だが、さほど長くもたたぬうちに、絶望的であるにもかかわらず、どういうわけか、フランシス卿自身がそれに気づいていないらしいことが、だんだんビクリー博士にわかりはじめた。フランシス卿は確信をもって話していた。あの反対訊問のとき、何も知らずに威張りかえっていた証人たちをおびき出し、後悔のほぞをかむような事がらをしゃべらせた内気らしい態度から一変して、決然とした態度となり、みごとに調節された義憤をみせていた。公訴を裏づける一片の物的証拠もないのに、単に機会があったかもしれぬとか、動機があったらしいとかの理由から起訴され、かりそめにも公判に付せられて、審問に答えねばならないことが、いかにむごたらしく言語道断なことであるかを、ビクリー博士は理解しはじめた。ひどく追いつめられてきていたにもかかわらず、なにも不利な物的証拠がないことを知って、ひどくおどろいた彼は、無感動な状態からのり出しはじめた。
だんだん加速度的に無感動ではなくなっていった。おれに不利な証拠がまるでないのだ。これはおどろくべきことではあるが、ぜったいの真実なのだ。フランシス卿がじつに明快に示している。決定的に立証された最も致命的な事実と考えていたものは、ぜんぜん事実でもなく立証されてもおらず、すべてなんの罪もないばかりか、じつにもっともな事がらとして説明できるのだ。それをフランシス卿はやってのけていた。もちろんビクリー博士は「ファラライト」を注文した――公然と本名で、隠しだてなどせずにである。なぜだったのか? そうすることを隠したりする必要は何もなかったからである。「ファラライト」はビクリー夫人の病気、すなわち尿酸過多症に、じつに目ざましい効能があることを彼は知っていたので、それをもとめたのであった。それが頭痛を起こしたとは、彼は知りもしなければ、いまも信じていない。いずれにしても、けっして彼はビクリー夫人の頭痛と「ファラライト」を結びつけて考えなかった。この頭痛は、タマートン・フォリオット卿ほどの権威すら、まったく別の自然的な原因によるものであることに同意していたのであるから、ビクリー博士としては当然ではないか。結局のところ、そう容易に人間の脳髄をひらいて、腫瘍があるかどうかを見きわめるわけにはいかない。医学で知られているすべての事実が、そこに腫瘍があるものとする場合、ふつうの全科医としては、その決定を受け入れるしかないのである。
アイヴィについては――フランシス卿は思いやり深く、しかも、極めてはっきりと、どちらにしても大した問題ではないことを、手ぎわよく示した。チャトフォード夫人とバーン夫人……利害関係人の証人たちが……このような厳粛な法廷で述べた言葉を、排撃しなければならないのは、はなはだ苦痛ではあるものの、責務上やむなく言わざるを得ないが……アイヴィとマドレインの証言は全く問題にならないのである。
検察側の他の主張について言えば――純然たる当て推量である! 徹頭徹尾、純然たる当て推量である。当て推量、当て推量、当て推量、当て推量、≪当て推量≫、【当て推量】……
第二の容疑のほうは、いやはや……とフランシス卿は微笑した。ほかにどうしようもないようすだった。びん詰肉が菌に汚染されているのが発見された。警察当局自身の手によって――汚染されているのが――発見された――被告の話が真実ならば、そのとおりであったろう――被告の話が真実でなかったならば、そのとおりでなかったろう……汚染されていた――汚染されていた――汚染されていた――≪汚染されていた≫――【汚染されていた】! まったく弁護するほどの訴訟事実は何もないのである。
「被告エドマンド・アルフレッド・ビクリーの証言をもとめます」
ビクリー博士は突然だれかに激しく腹をなぐられたような気がした。
彼は被告席から証人席へ、わななく足で歩いていった。確信に満ちあふれていた時でも、彼はこの試練をおそれていた。解放への不快な序曲の一部にすぎないと考えていた時でも、である。ときおり彼は、挑戦して来た総大将の検事長と剣をまじえ、打ち負かしてやれば、おもしろかろうと考えてみようとした(恐れながらも、打ち負かしてやれる確信を心ひそかに抱いていた)。だが、それは、最後の勝利をまだ疑っていないのに、この戦いを怖れさせる例の奇妙な劣等感の残存勢力と戦おうとする努力にすぎなかった。いまやその試練に直面した彼は、恐怖に胸がわるくなり、気が遠くなるように感じた。
だが、しっかりしていなくてはならない。顔色にも見せてはならない。罪のない人間は決して恐怖を見せたりしないものだ。
彼は証人席のはしをしっかりつかんだので、指の関節が白く浮き出た。
そんなに必死に隠している彼の心の動揺を、フランシス卿は見てとって、しきりに事件摘要書を調べるふりをしながら、彼に落ちつく時間をあたえた。しばらくしてフランシス卿は、きわめて魅惑的な、親しげな調子で微笑して言った。「ビクリー博士、奥さんの死因となったモルヒネ注射は、あなたがしたのですか?」
「いいえ、しませんよ」とビクリー博士は憤ったように言った。その言葉とともに、恐怖がきれいに消散した――ひどくきれいさっぱりに消散したので、自分でもびっくりした。場おくれ――それだったにちがいない。ただ場おくれにすぎなかったのだ。それも、もう消散してしまった。それに、法廷には、おれに対する好意的な気分も、たしかに感じとれる。みんなおれの味方なのだ。陪審員たちまでも。フランシス卿もおれ自身も傍聴人たちも、だれもかれもが、ふらちな言いがかりをつけている検事長を向こうにまわして戦おうとしているのだ。
ビクリー博士は、みごとな証人ぶりを見せて、フランシス卿をよろこばせつづけた。
もちろん、一つ一つの質問は別として、訊問の大筋については詳しく話し聞かされていたので、ビクリー博士の口から、ちょうど適当な口調で適当な答えが、つぎから次へと出てきた。あらかじめ彼は、この証人席での態度を熟慮しながら、幾時間も神経を苦しめてきていた。あまり静かに落ちつきはらっていては、犯罪者らしい鉄面皮と考えられはしないだろうか? 混乱して不安そうにしておれば、良心の呵責《かしゃく》のせいと考えられはしないだろうか? だが、もう今の彼は気をもまなかった。適当な態度が本能的に出てきた。これが適当な態度だと彼は気づくだけだった。
検事長が反対訊問に立ち上ったときでさえ、もう胸が悪くなるような恐怖はおそって来なかった。ぜんぜん恐怖を感じなかった。気力は十分だった。よし、挑戦して来た相手を打ち負かしてやるのだ。こいつは面白くなりそうだぞ。
たしかに、おもしろくなった。
検事長は烈しく追及してきた。マドレインのこと、アリバイのこと、家へ引き返す機会があったかどうかということ、妻の病気のこと、「ファラライト」のこと、さらに、謀殺未遂容疑についてのもっと疑わしい状況(実際、はるかにもっと疑わしい状況)、細菌培養、その他すべてについて追及してきた。だが、ビクリー博士は一瞬も度を失わなかった。恐るべき敵手も、ビクリー博士には勝てなかった。多少のあいまいな表現を避けられなかった幾つかの点を、反対訊問で訂正することができたので、ビクリー博士は検事長に正面きってにやにや嘲笑《ちょうしょう》したいのをこらえて、被告席へもどった。自分の釈放をかち取るために、自分自身も小さくない役割を演じたということは、いい思い出になるだろう。ビクリー博士は自分自身にこれほど激しい満悦をおぼえたことはあまりなかった。
フランシス卿はほかの証人たちを呼び出した。
じつにたくさんの人びとが、ビクリー博士の命を救いたがっていた。彼の人格、温雅さ、人気、妻との愛情ぶかい関係に対する証人たちが登場した。そのなかにはクルースタントン家の人たちまでもいた。誠心こめた証人のミセス・ホーンは、あのサンドウィッチからはほんの一瞬も眼をはなさなかった、と腹立たしそうに証言した。筆蹟専門家も断乎とした調子で、モルヒネの注文書と署名は偽筆に相違ないし、それもじつに明白な偽筆であると証言した。さらに医学、細菌学、病理学の専門家たちが証人に立ち、検察側の医学、細菌学、病理学の専門家たちの意見に、みな確信をもって反対した(もちろん、あくまで検察側の証人たちが誤っていたからであって、決して彼らを被告側の証人たちが嫌っていたからではなかった)。いずれも検察側に劣らず、いや、偏見をもっていなかったから、じつのところ、もっと高名な人たちであった。
つぎには、マドレインの嘘を好む傾向を証明する証人たちがあらわれた。ロンドンとデヴォンシア出身の女中たちであった。彼女たちはマドレインが、夜明けの四時に、夫がまだ彼女の存在を知りもしなかったころ、無分別にも他の女たちに愛情の眼をむけたと言って、泣いたりわめいたりして責めたてるのを聞いたと証言した(「ええ、泣いたりわめいたり――まるで猛獣みたいでございましたよ」と肥った母性型のコックがうなずいた。その容貌からして、ビクリー博士びいきの型であることが証明されているようだった。「ええ、まるで猛獣みたいでございまして、家じゅうに聞こえるんでございますよ。おまけに、金切り声もおあげになりましてね。そりゃもう、どんなに聞くまいとしても、聞かないわけにいかないんでございますよ。あたしもほかの女中たちも、すっかり恥ずかしくなりましてね。ほんとでございますよ」)。ワイヴァーンズ・クロスの人たちも証人席にあらわれた(マドレインよりもビクリー博士に好意をもっている人たちで、それも数が多かった)。そしてバーン夫人が悪意をもってビクリー博士を中傷した話や、彼女の告げた見えすいた嘘八百について証言した。フランシス卿はこの点を証明するだけのために、六十五人の証人を召喚すると申し出たので、とうとう検事長もこの点は証明されたものと認めないわけにいかなかった。
しかし、それでも、さらに徹底的にだめがおされた。別の分野の専門家が呼び出されて、マドレインは異常ではあるが、けっして稀《まれ》ではない神経病患者であって、こんどの場合は過去にさかのぼって狂気じみた嫉妬をするという症状を現わしたけれど、類似の他のどんな症状でも現わし得たであろうし、今後も現わし得るだろうと証言した。狂気じみているというのですか? そう、ある意味では、たしかにそうです。心の不均衡の一形態で、ほとんど狂気の域に達しているのです。しかし、もちろん、精神病患者であると医師は証明できません。やっとその一歩手前にあるわけです。妄想を起こしますか? もちろんです。実際にはなんとも思っていない人たちが、自分を愛していると妄想したりするようなことはありますとも、そういう種類の妄想を一ばん起こしやすいのです。要するに、なにか少しでも自分自身に関係のあるすべての事がらについて均衡が欠け、ある点では真性の誇大妄想狂に近く、真実や事実を完全に無視してしまうことになります。高慢が狂気に発展したものです。まことに気の毒、まことに気の毒です。しかし、もっと気の毒なのは、偶然にこんな狂乱の女と結婚した男でしょう。もちろん、思慮分別のある親たちがいたならば、こんな娘には結婚させないようにするでしょう(ええ、親たちには娘が狂っていることはちゃんとわかりますよ)。しかし、もちろん、こんどの場合は……
それきり、だれもマドレインのことを持ち出さなくなった。検察側の主要な証人がこれほど効果的に片づけられたことはなかったろう。
公判はだらだらとつづいた。
ビクリー博士の確信は、もうゆるがないものとなった。もはや不利な評決をくだすのが不可能であることが、はっきりと彼にわかった。ガンヒルにもわかった。フランシス卿にもわかった。千ポンド以上の経費をかけた一日の公判のあとで、毎夕、ビクリー博士が未決監へ送り返される前に、彼らは控室で会い、強く両手をもみ合わせたり、たがいに微笑し合ったりしながら、数分間をすごした。前祝いであった。フランシス卿はビクリー博士に、自分の弁護士生活ぜんたいを通じて、こんどほど評決に確信が持てる事件はなかった、と率直に話した。
検事長の最終論告も、ビクリー博士の落ちつきはらった楽観をゆるがせはしなかった。あの男はろくでもない公訴を大げさに騒ぎたてているだけなのだ。だれにだって、それはちゃんと見てとれる。陪審員たちにだってだ。フランシス卿のあとで、最後に検事長に発言を許した不公正も、ビクリー博士はまったく気にもしようとしなかった。彼が一人を謀殺し、さらに二人の謀殺を企てたという笑止な非難に対して、ビクリー博士は大っぴらに微笑を向けているだけだった。そんなことはしやしない。
判事はそうわるくもなかった。判事が陪審員たちに事件要点の説示をあたえるのを、ビクリー博士は批判的に聞きながら、そうわるくもないと認める気になった。一つ二つの点では、検察側の主張のばかばかしさを、当然はげしく強調すべきであったのに、そうはしなかったし、またビクリー博士に不利な証言(そんなふうに言えそうなもの)も、有利な証言と同じくらいに重視しているらしかったのは、じれったい気がした。それにしても、ぜんたいとしては、きわめて公正であった。だが、あまりに長すぎる。あまりに、あまりに長すぎる。ああ、つつましやかな、無感情な声が、なんと長々とつづくことだろう。いつまでもおしまいにならないのだろうか?
やっとおしまいになった。陪審員たちが評決を協議するために、ぞろぞろと退廷していった。ビクリー博士は傍聴人たちの視線をあとに退廷した。
待っている時間中、彼は看守たちとさかんにおしゃべりをした。看守たちもわるい連中ではなかった。自由の身になれば、この連中をたずね、みんなでこんどの事件を話し合い、大いに笑わなくちゃなるまい。彼ははっきりと彼らに、有罪の評決などはまったくありようもないことだと話した。彼らも同じ意見のようだった。
陪審員たちが退廷して協議したのは、わずか四十分間だった。
「わたしの話したとおりでしょう」とビクリー博士は微笑しながら、看守たちといっしょに階段をのぼって法廷へ向かった。陰欝な性格の看守が、こんな疑わしい事件で一時間以下の場合は、いつも無罪釈放になると言ったことがあったのである。
ビクリー博士はちっとも気をもんでいなかった。不安の影も感じていなかった。一種の独占者のような眼ざしで、陪審員たちの顔を見まわしたときも、彼の確信は不動だった。十二人の善良で誠実な人たち。
フランシス卿は法廷に来てもいなかった。ほかに緊急の約束があったので、事件要点の説示が終わると、すぐへそちらへ出かけていった、とガンヒルがビクリー博士に話した。ほんの形式にすぎない評決を待っていたりするのは、時間の浪費にすぎない、とフランシス卿は思ったのであった。
「陪審員諸君、評決はきまりましたか?」
「きまりました」
「被告エドマンド・アルフレッド・ビクリーは、ジュリア・エリザベス・メアリ・ビクリーの謀殺について、有罪ですか、無罪ですか?」
「無罪です」
うん、もちろんのことだ。
「それは全員一致の評決ですか?」
「そうです」
それにしてもビクリー博士は、安堵の大息をした。そして判事のほうを向き、正式に無罪を言い渡されるのを待ちながら、ひざのあたりががくがくするように感じた。
うん、これですべてがすんだのだ。まる八日間やってきて、今――やっと自由の身になったのだ。いや、法律的には自由ではない。もちろん、あの笑止な謀殺未遂の容疑で、まだ拘禁されている身だ。もうすぐあれも、ほんの形式的にだけとりあげられるだろう。検察側は主要な容疑で有罪にできなかったのだから、軽微なほうの容疑で被告に不利な評決を得る望みのないことは、だれにでも分っている。いま終わったばかりの公判が、ある意味では、他の容疑に対する公判でもあったのだ。検察側は起訴中止の策をとるだろう、とガンヒルは考えている。いずれにしろ、もう何も心配することはないのだ。
判事は幾つかの言葉をビクリー博士に告げた。一語も聞いていなかったビクリー博士は、ぼんやり微笑して答えた。彼が被告席から立ち出ると、ガンヒルや他の人びとが押しよせて来て握手をもとめた。万歳をとなえようとする者たちもあった。ビクリー博士は英雄になった気がした。ああ、そうだとも、おれは英雄なのだ。人殺しをしておいて、こんなに無罪で切り抜ける人間は、暁天《ぎょうてん》の星のように少ないのだ。そしてもうおれは危険を突破したのだ。もちろん、無一文にされてしまった。持っていただけの金は、みんな弁護費用に消えてしまった。着たきりスズメのすっからかんだ。罪もない人間がこんな目にあわされるのを許すなんて、ごりっぱな制度というものだ。そうだ、たしかに無一文にされてしまった。だが、危険からは永久に脱出したのだ。無一文にされてしまったのは――うん、もとはと言えば、チャトフォードのせいなのだ。だから、チャトフォードにつぐなわせるようにすることこそ公正な道なのだ。よろしい、なんとしても……
顏に微笑をうかべ、うなずきながら、まわりの人たちの祝辞をうけ、八方から絶え間もなく逆茂木《さかもぎ》のように突き出される手を握りつづけながらも、ビクリー博士の意識の奥深くの小さな一点は、チャトフォードへのすさまじい憎悪と復讐の決意に炎をあげて燃えていた。
チャトフォード! チャトフォード、あいつをやっつける用意をととのえて……
だれかが鋭く肩をたたいたので、ふりむいて見ると、アルヘイズ警視の微笑のない顔にぶつかった。「こちらへ来られるのがいいでしょうな、先生。ご注意しなければなりませんが、あなたはまだ拘禁中でありまして……」
「ええ、そのとおりですよ」とビクリー博士は陽気に笑った。「まだあなたの手中にあるわけですな? わたしがあまり好きで、手離せないんですね、え? わかりましたよ、警視」
まだ笑いつづけながら(つまるところ、謀殺が無罪になった今は、こんなことも一興というものだった)、ビクリー博士は警視といっしょに別室へ入りこんだ。内部には二人の巡査と一人の部長刑事がいるきりで、がらんとしていた。
「では、囚人護送車にご案内ねがいましょう」と小柄なビクリー博士はくすくす笑った。「それとも、その前に一ぱい飲ませてくださるつもりですか、警視? ほんとに、一ぱい飲んでもちっともかまいませんよ」
警視の月のような顔は一ミリも表情を変えなかった。「エドマンド・アルフレッド・ビクリー、いまわたしは、一九二九年九月十四日、チフス菌を供与し、デニス・ハーバート・ブレイズ・バーンを謀殺したかどによって、あなたを逮捕します。あなたが言うことのすべては記録され、今後証拠として用いられるかもしれないことを注意しておきます。おい、それをとめろ――部長刑事、その男がつかまえられないのか? それバローズ! スプレイトン! 飾り人形みたいにぼんやり立っていちゃだめじゃないか……」
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エピローグ
四月二十四日、月曜日に、エドマンド・アルフレッド・ビクリー博士の公判がひらかれた。有毒な細菌、すなわち腸炎菌を供与し、デニス・ハーバート・ブレイズ・バーンを謀殺した容疑による公判であった。公判は四日間つづいた。二十七日の午後おそく、陪審員たちは有罪の評決を答申した。
刑を申し渡すとき、判事は述べた。「エドマンド・アルフレッド・ビクリー、本件の犯罪は平凡で卑劣なものであって、ぜんぜん配量すべき情状は認められない。よって本官としては、ただ……」
五月十五日、この公判の評決に対するビクリー博士の上告審が、刑事上告裁判所で英国首席裁判官によって、ダーリントン判事とバーベリー判事の陪席のもとにひらかれた。上告の理由は、(一)判事が誤った説示を陪審員たちにあたえたこと、(二)評決は証拠に比して苛酷であったこと、であった。上告は棄却された。
六月二日、ビクリー博士はデニス・ハーバート・ブレイズ・バーン謀殺の罪によって死刑に処せられた。最後の瞬間まで彼は自分の無罪を主張しつづけていた。(完)
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解説
「殺意」の作者フランシス・アイルズは本名アンソニー・バークリーで知られる有名な推理小説作家の別名義である。
バークリーについては、アメリカの評論家ハワード・ヘイクラフトが、第二次世界大戦前の代表作家として、セイヤーズ、ヴァン・ダイン、ハメットと並べて彼を挙げているほどだから、その地位が窺《うかが》えるのだが、倒叙《とうじょ》推理小説の雄として記憶されている。
バークリーは一八九三年にイギリスで生まれた。彼は自分の背景や生活について語りたがらない。分っている限りでいえば、大戦前の五年間は「デーリー・テレグラフ」紙の文芸部のスタッフの一人で、普通小説の批評を担当していた。また由緒ある漫画漫文雑誌「パンチ」に、ユーモラスな文章を寄稿し、A・B・コックス名義で、この方面の著作が数冊ある。「私は、この国の特殊なユーモア雑誌である『パンチ』に小品をかくことからはじめた。が、探偵小説のほうが払いがよいのを発見した。もし探偵小説よりもっと割のいいものをみつけたら、そっちを書くだろう」と述べたことがある。
その処女作が一九二五年の The Layton Court Mystery で、彼の三十二歳の時である。その後「絹靴下殺人事件」The Silk Stocking Murders(一九二八年)「毒入りチョコレート事件」The Poisoned Chocolates Case(一九二九年)「第二の銃声」The Second Shot(一九三〇年)「試行錯誤」Trial and Error(一九三七年)など十四冊を、アイルズ名義で「殺意」Malice Aforethought(一九三一年)「犯行以前」Before the Fact(一九三二年)ほか一冊を著わした。
バークリーの名で書かれた推理小説は、情景と人物描写の新鮮さで、この世界に生気を吹きこんだ。中でも解決に離れわざを演じて、探偵文学の真の手本と激賞され、世評の高かったのが「毒入りチョコレート事件」である。
バークリーは「第二の銃声」の序文の中で、次のような将来の推理小説観を述べている。
「全重点をプロットに置き、人間性格の面白さ、文体、ユーモアなどの要素を無視した古い型の純粋且つ単純な犯罪パズルの時代は、もはや過ぎ去ったのではないか。過去の探偵小説を、犯罪と探偵の興味を取り入れた文学作品にまで発展させるためには、数学的な手法よりも、心理学的な手法に重点を置くべきであろう。謎の要素はむろん必要だが、それは『いつ』『どこで』『誰が』『なぜ』というような謎よりも、人間の性格そのものの謎解きに進むべきであろう」
このバークリーの見解は、なお古さを失なっていない。
バークリーはこの序文を記した次の年、すなわち一九三一年に、フランシス・アイルズ Francis Ilse 名義で「殺意」を刊行した。
「殺意」は中年の田舎町の医者が妻を殺そうと決意し、綿密な計画をたて、実施に移す過程を克明に写している。絶対に発覚するおそれのない計画も、人間の心の動揺からミスがないでもないが、妻の死は過失として片付いてしまう。だがすくなくとも土地の半数以上の人々は心の底に疑いを秘めてはいる。それから十三カ月経って、犯人の医者はかつての情人から、彼女の夫の弁護士が彼女の秘密を知るとともに、医者への復讐に謀殺の件で警視庁に再調査を求めたことを知る。この後半の医者の心の動きを微細に解剖して余すところがない。彼は一方では策動をはじめた弁護士と、彼が愛し結婚を求めた別な女性、彼の心を弄んだとしか思えぬ彼女の二人に対して新たな殺害計画を練るとともに、警部の探査に対する応酬、かつての情人への甦った愛情などが脳裡をかき乱す。冷静に沈着にと善後策を講じながら、完全犯罪の成功を確信し、泥沼の深みにはいって行かざるを得ない切羽《せっぱ》つまった心境である。
法廷の場面では一々の証言によって、犯人が一喜一憂する状態が鮮やかに浮かぶ。とうとう彼は大きな試練に耐えて、証拠が不充分なため無罪を言い渡される。犯人を承知している読者にとって意外な結果になるわけだが、さすがに作者は最後の切札を隠していて、おしまいの一ページで大胆な背負い投げを食わしている。すなわち犯人は犯した罪によっては罰せられずに、事実無根の罪によって罰せられるという皮肉な運命に従わねばならなかったのである。この判決の理由については何一つ作者は述べていない。本文には地主の息子が犯人が逮捕されてから二週間後にチフスに罹ったとあるだけで、どうして係り判事や警察当局が彼の所業と結びつけたのかは触れていない。ただ「エピローグ」に犯人の控訴の理由として、係り判事が陪審団を誘導した、評決は証拠力の秤量に反して行なわれた、とあるだけにすぎない。意外性を強調した思い切った幕切れである。
犯人の側から犯行を描く推理小説は、倒叙形式と呼ばれ、オースティン・フリーマンが一九一二年に、「歌う白骨」でこの新形式を樹立した。これは犯人の側からの周到な犯罪計画と経過を描き、更にその犯行が徐々に発覚して行く経路のおもしろさを主眼にしているが、その後不思議なことには追随するものがなかった。
フリーマンの「歌う白骨」には犯罪行為だけが描かれ、動機の解剖や心理描写はほとんどなかったのに対し、アイルズの「殺意」は、心理的スリルに満ちて、はるかに文学的にすぐれた作品として、この倒叙形式を利用した異色の犯罪心理小説に成功した。
アイルズ名義の第二作「犯行以前」は、「殺意」の翌年に出版されたが、これはもっと一般の文学に近く、奇妙な持ち味で前作に劣らぬサスペンスがある。
「世間には、人殺しを子供にもつ女もあれば、人殺しとベッドを共にする女もあるし、また彼らと結婚する女もまれではない。リナ・エイスガースもその一人だが、彼女が殺人者と結婚したと感づいたのは、良人と八年近くも暮してからであった」(村上啓夫氏訳)という冒頭の言葉からはじまるこの小説は、女主人公が殺される寸前までの長物語になっているが、その間まず激情的な出来事にはぶつからない。その間の二つの殺人ですら、妻があとになって疑いを起こし、思い当るところがあるにすぎない。プロットの起伏に乏しい点に難はあるが、犯罪心理小説としてこれほど精細に生き生きと、男女二人の性格を描いたものは稀で、「殺意」とともに一読をお薦めしたい。
アイルズ名義の作品を書きながらも、バークリー名義の執筆は相変らずで、一九三七年には「試行錯誤」を出版した。これも彼の代表作で、クイーン、サンドウ、スチヴンスン、スミスの名作表のいずれにも採られている佳作である。
これはまず着想といい、構成といい、風変りである。主人公のトッドハンターは「ロンドン・レヴュー」誌の書評寄稿家であった。彼は主治医から大動脈瘤にかかっているから、二三カ月以上は生きる望みはないと言い渡される。そこで彼に残された時間をいかに使うかについて、慎重に選んだ人々にさりげなく訊ねて忠告を得ようとした。ところがみんなの意見は殺人を行なうことに一致するという意外な結果となる。
これがプロローグで、トッドハンターがようやく決心し、目標人物を探しあてたと思った時には、すでに先を越されてしまった。次の目標は大衆受けのする人気女優でマネージャーを兼ねた人物である。これまで殺人などは考えてもみなかった彼なのだが、「この世を去る前に、どうしたら、世の中のために少しばかりの善事を行なうことができるかと指示されている今、それを回避することは、良心が許さなく」なっている。
「人は、殺人はどんな場合でも正当化されえないと言う。しかし、そうだろうか? 一人の人間を除去することによって、多くの人間に幸福をもたらすより、ダニのような人間でも生かしておくほうがいいというほど、人間の生命というものは貴重なものなのかね?」(鮎川信夫氏訳)
テーマ自体も皮肉だが、犯罪の捜査についても、法廷の弁論についても、どうやら現実にもそういうことがありかねないという不安や危惧を抱かせるに充分である。何事もきちんと割り切って片付けたがる従来の推理小説の行き方を、金科玉条として固守しないばかりか、少々|揶揄《やゆ》している気味がある。バークリーはプロット中心の犯罪パズル式の推理小説を否定し、数学的な手法より心理学的な手法に重点を置くことを主張したが、この作品など心理の微妙な動きを各方面から捉えている点に、独自の風格を呈している。
アイルズ名義の倒叙心理小説の好評に刺戟されて、この領域に関心を寄せた追随者が現われた。しかし、たいていはアイルズに肩を並べるまでもなかった。わずかにハルの「伯母殺人事件」、クロフツの「クロイドン発十二時三十分」などが、その中のすぐれた収穫である。
イギリス作家ニコラス・ブレイクは、推理小説の将来はリアルな性格をアンリアルなシチュエーションの中に表現する方向に進み、一つの風俗小説になるだろう、そうなれば後世の史家はその先駆者としてアイルズとシムノンを挙げるに違いないと述べている。
バークリー自身は、「人間の性格そのものの謎解き」に進むべきだといい、作品の中で実践した。推理小説の発展した形態が、バークリーのいうように犯罪心理小説となるか、ブレイクのいうように風俗小説になるか、またあくまでも本格派は亡びないという保守主義者の言うとおりなのか予断を許さない。しかし自己の推理小説観を明確に表明して、作品に実践したバークリーの熱意と成果に対しては、深く敬意を表したい。(中島河太郎)