暁の死線
ウィリアム・アイリッシュ/砧一郎訳
目 次
〇時五〇分
一時一五分
一時四〇分
二時〇分
二時二三分
二時五五分
三時〇分
三時二五分
三時四五分
四時二〇分
四時二七分
五時〇分
五時二〇分
五時四五分
解説
[#改ページ]
登場人物
ブリッキー……ダンサー、故郷の町に帰りたがって、帰れないでいる女
キン・ウィリアムズ……ブリッキーと同郷の失業青年
スティーヴン・グレーヴズ……金持ちの独身男、自分の邸で殺される
カーター……妻の出産の夜、鼻血を出した男
ヘレン・キルシ……貧しい若妻
バーで会った男……戦争恐怖症
アーサー・ホームズ……株屋、グレーヴズに不渡りの小切手を振り出す
ジョーン・ブリストル……結婚詐欺をはたらく女
グリフ……ブリストルの情夫、寄席芸人
[#改ページ]
〇時五〇分
女にとって、その男は、一枚のうす桃いろのダンスの切符、それも、半分にちぎった使用ずみの片割れ、一枚十セントの中から、自分にもらえる歩合の二セント半、そんな値うちのものでしかなかった。床の上じゅう、夜じゅう、からみ合うように、こっちの脚をあとしざりさせつづける一対の脚、きまりの五分間のすぎるまで、好きなように、こっちのからだの向きを変えさせる、背なかにまわした手の合図。空のバケツの山に砂嵐が吹きつけるように、高みのバンド席から四分の二拍子音符が、雨あられとやたらに降りそそぐ五分間。と思うと、だしぬけにスイッチを切られたような沈黙。一瞬二瞬、つんぼになったような感じにおそわれて、どこの誰とも知れぬ男の腕にしめつけられていた肋骨《ろっこつ》が自由になり、ホッと吐くひと息ふた息。それからまた、同じはじめから終りまでのくりかえし。またもう一度、音符の砂嵐。またもう一枚のうす桃いろの切符。またもう一対のこっちの脚を追っかけまわす男の脚。またもうひとしきり、好きなようにこっちのからだをあやつる手の合図……
誰といわず、男はみんな、それだけのものでしかなかった。こんな仕事がいやでたまらない。ダンスがいやでたまらない。びっこに生れついていたら両脚同じように自由に動かすこともできないし、つんぼだったら、鼻っつらを天井向けて吹き鳴らすトロンボーンもきこえない。ほんとにそうだったら、どんなにいいか、と、つくづく思うことがある。そうだったら、こんな仕事もせずにいただろう。どこかの地下室の洗濯場で、誰かの汚したシャツでも洗っていたことだろう。どこかの料理店の洗い場で、誰かの汚した皿をゆすいでいたかもしれない。どっちにしたって、思ってもしようのないことだ。なんの得にもならない。かといって、思って悪いわけではない。損になることもないのだ。
女には、この街じゅうに、たった一人だけ、友だちがあった。いつもじっとしている。踊りもしない。それがいいところなのだ。来る夜も来る夜も、すぐそこにいて、「さあ、元気をお出し。あとほんの一時間ですむんだ。頑張れるよ。今までだって頑張れたんだからね」と、話しかけてくれるように思える。それからしばらくすると、「しっかりおしよ。もう三十分きりだ。ぼくも、君のために精出しているんだよ」と。そして最後に、「さあ、もうひとまわりだ。すぐに時間だよ。もう一ぺんグルッとまわれば、今晩のお役目はおしまいだよ。たったもうひとまわり。そのくらいやれるさ。さあ、へたばっちゃ駄目だよ。ほらごらん。ぼくの長い針が、短い針のほうへ寄って行く。今晩も、君のためにやってあげたんだよ。こんどこっちへ来るころには、一時になっているよ」と。
その友だちは毎晩、そんなことを話しかけてくれるようだ。どこまでもはげましてくれる。街じゅうで、しあわせをもたらしてくれるただひとつのものだった。自分から乗り出して来ることはないにせよ、ニューヨークじゅうで、味方をしてくれるただひとつのものだった。いつ果てるとも知れぬ夜の世界で、心を寄せてくれるただひとつのものだった。
その友だちは、ステップを踏みながらまわって来るごとに、横町にむかった左手の一番はしの二つの窓からしか見えなかった。表通りに面した正面の窓からでは見えない。左手にならんだ窓でも、役に立つのは、はしっこの二つだけなのだ。ほかの窓は、途中をビルディングが邪魔している。窓は、いつもあけっ放しだった。換気のためと、もうひとつには、派手な騒ぎを下の歩道まで届かせるために。それにひかれて迷いこんで来る風来坊もないではない。いずれにしろ、はしっこの二つの窓から、その友達が見えた。はるかに遠い高空から、やさしくのぞきこんでくれる。ときには、そのもっと向うに、ひとつかみの星くずを背景のようにまき散らして……星はどうでもいいけれど、その友だちは、力になってくれるのだ。星がなんの役に立つというのだ。世の中に、なんのいいことがあるだろうか。女と生れて、なにかいいことがあったろうか。男だったら、なにはともあれ、自分の脚を売りものにすることはない。男は男なりに、みじめな気もちになりもしようが、それでも、こんな工合にみじめになることはないのだ。
ずいぶん遠いけれども、眼がよかった。タフタのような夜空に、やわらかく浮き出たまるくかがやく光の輪。その内側に光る十二の刻《きざ》み目。それぞれの時を告げる一対の輝く針は、決してつかえたりしない。とまってひとをまごつかせたりもしない。いつもたゆまず精を出し、ジリジリと動き続けては、仕事をすませて解放される時刻を引き寄せてくれる。その友だちは、ここからずっと街なみをへだてた向うの、七番街四十三丁目にそびえ立つパラマウント塔の上の大時計なのだ。それが、街から街へ、重なり合う屋根の波をはすかいに、ビルのつくる輪郭のはざ間《ま》をとおして、今いるこの場所からでも見える。人の顔のようだ――時計はみんなそうなのだが――友だちの顔のように見えた。赤髪のほっそりとした二十二歳の女にしては奇妙な友だちだけれども、そのおかげで、忍耐と絶望とのちがいを知らせてもらえた。
奇妙といえば、その時計は、まるで反対の方角の、距離もずっと遠いあたりにある女の借り部屋の窓からも、つま先立ちに首をのばせば見えるのだった。しかし、眠られぬ夜、そこから見る同じ時計は、味方でも敵でもない、ただの傍観者のようだった。しんから力になってくれるのは、八時から一時まで、この仕事場でのことだった。
今も、女はその時計に、知らない男の肩ごしに、あこがれるような眼をむけた。すると、それははげましてくれるのだった。「十分前だ。もう峠《とうげ》はこしたよ。さあ、歯をくいしばってやってごらん。いつの間にかすんでしまうからね」と。
「今夜はひどく混んでいるね」
その現実の声が、どこからきこえて来たのか、しばらくはわからなかった。そんなにうっかりしていたのだ。ちょうどそのとき、背なかに合図がつたわって、向きが変った。それでわかった。
おや、この人、おしゃべりをしようというのかしら。そんならどうぞ、お相手をするぐらいなんでもないことだ。しかし、そこまで来るのが、大がいの人よりも遅かった。つづけさまに、これが三度目か四度目だった。最後の中休みの前にも、これと同じ色の服がいく度か眼の前に来たようにも思うけど、いつものように、相手を誰と見きわめる気などまるきりないのだから、確かではない。今まで口をきかなかったのは、もともと口が重いか、はにかみ屋なのだろう。
「え?」この短い返事を、もっと短くいうには、全部のみこんでしまうほかない。
「いつも、今夜のように混んでいるの?」男は、もう一度やり直した。
「いいえ、ハネたあとは空っぽだわ」
ひねくれた女だと思いたければ、思わせとけばいい。心にもないお愛想などよけいなことだ。こっちの役目は、ダンスの相手だけなんだから。切符の十セントには、おしゃべり代までは入ってやしない。
ラストなので、ホールは暗くしてある。いつもこうするのだ。直接照明は消え、床の上の人かげが、騒々しい幽霊のように動きまわっている。こんなことで、お客たちはいい気もちになるらしい。みんな、ダンサーの誰かと、二人きりのひそやかな語らいをしたような気になったまま、街に出て行かれるらしい。たった十セントと、紙コップに一ぱいの植物性着色オレンジエードで。
相手の男は、頭を少しうしろに反《そ》らせて、女が、なぜそんなとりつく島のないうけ答えをしたのだろう、というふうに、こっちの顔をジロジロ見ているようだった。女は、天井のダイヤモンドボールに反射して、壁といわず天井といわず、はてしもなくグルグルとまわる銀いろの斑点に、眼を向けていた。
どうしてそんなにひとの顔を見るのだろう。答えはそんなところに書いてありやしない。それよりも、ほうぼうの配役周旋所《キャスティングオフィス》をのぞいてみればいいのに。そこになら、いまでも、わたしの幽霊が、戸口に一番近い椅子に坐っている。あの安っぽい酒場ジャマイカの楽屋をのぞいてみればいいのに。そこでは、せっかく職にありついたのに、主人のことばを真にうけて、ほかの連中のあとについてウロウロしたばかりに、まだフロアショーの練習さえはじまらないうちに、逃げ出さねばならなかった。四十七丁目の自動販売《オートマット》食堂をのぞいてみるといいのに。ある決して忘れることのできない日に、そこの料金を落しこむ細長い穴は、わたしのこの世で最後の五セント玉をのみこんで、代りに、粉っぽくふくれたロールパンを二つだけ出してくれた。それっきり、どんなにたびたび物欲しげにその前に立っても、なんにも出してくれやしなかった。穴に落としこむ五セント玉がもうなかったのだ。そんなところよりなにより、わたしの借り部屋のベッドの下に今でもある、うす汚い手さげ鞄《かばん》の中をのぞいてみるといいのに。大して重くもない鞄だが、中味は一ぱいつまっている。今となってはなんの役にも立たない昔の夢が、ギッシリつまっている。
そんなところにこそ答えはあれ、顔にはそんなもののあろうはずはない。だから、顔を見たってどうにもならない。それに、どっちみち顔なんてものは、仮面にすぎないのだ。
男は、もうひと押ししてみた。「ぼく、ここへ来たの、はじめてなんだ」
女は、壁の上をめまぐるしく動く光の斑点から、眼をはなさなかった。「そう? 道理で淋しかったわ」
「君は、ダンスにくたびれているらしいね。やっぱりこんなに遅くなると、参るだろうな」男は、自分のせいで女がすねているのでないことを知りたがっている。男の自尊心がそうさせるのだ。ちゃんとわかっている。
こんどは、にらむような眼を男の顔に向けた。「あら、そんなことなくてよ。ちっともくたびれてやしないわ。まだ足りないくらい。だって、毎晩ここがすんで、部屋に帰ると、|大股開き《スプリッツ》だの|高蹴り《ハイキック》だの、ステージダンスの練習をやるのよ」
そのことばのトゲがじかに触りでもしたように、男は眼を伏せ、やがてまた上げた。「君は、なにかに腹を立てているようだね」それは、質問でなく、やっとわかったというようないいかただった。
「そうよ」
男は、あきらめようとしない。ほんとに、大ハンマーで思いきりたたき出してやっても、察しがつかないのだろうか。
「ここが、気に入らないんだね?」
それは、その男が、なんとかとり入ろうとして、おずおずと口にしたことの中で、一番気にさわった。胸がはげしい怒りにしめつけられるのを感じた。今にも、ひどいことばが口をついて出そうになった。運よく、答えなくてもいいことになった。バケツをたたいたり転がしたりするような騒々しい音楽が、ひどく調子っぱずれな音符ひとつを名残《なご》りに、ピタリと止んで、壁を走りまわる光の斑点も消え、中央の電灯がパッとついた。一本のトランペットが、閉場の合図に、ひとを馬鹿にしたような一節を吹き鳴らした。
男との無理強いされた親密さはおしまいになった。十セントは使いはたされた。
男の腕から自分の手を、ずっと前に死んでいたもののようにダランと落し、それといっしょに、自分の腰から相手の腕を、目立たぬように、しかし断乎《だんこ》として押しのけた。
いいようのない解放感から、思わず出るため息をおさえようともしない。「おやすみ」抑揚のないつぶやきだった。「もう閉まるわ」そのまま、向きを変えて立ち去りかける。
その動作のすまないうちに、ふと男のビックリしたような顔に気がついて、男のほうに半分背なかを見せた姿勢で立ちどまった。男の顔よりもっと気になったのは、相手がほうぼうのポケットから、つながったままグルグル巻きにした切符を、それも両手にあふれるばかり引っぱり出したことだった。男は、それを見おろした。「おやおや、こんなに買うんじゃなかった」つぶやくようなそのいいかたは、むしろひとりごとのようだった。
「いったいどうするつもりなの? ここで一週間キャンプでもしようっていうの? それにしても、どれだけ買ったのよ?」
「憶えていないよ。十ドルばかりだったかな」男は眼を上げた。「はじめは、ここをちょっとのぞいてみるだけのつもりだったんだが、ついなんの気なしに――」そこまでいいかけて、止めてしまった。
「ちょっとのぞいてみるだけだって?」女は、語尾の上るいいかたをした。「それだけあれば、百ぺんも踊れてよ! ここでは、ひと晩にとてもそんなにやらないわ」入口のほうをすかして見て、「だけど、どうすればいいかしら。売場の人は、もう帰っちまったし、払い戻してもらうわけにはいかないわよ」
男は、切符の山を両手にのせたまま、損をしたというよりは、途ほうに暮れた顔をしている。「べつに払い戻してもらわなくたっていいんだがね」
「じゃあ、あしたの晩も、その次の晩も、それのなくなるまで来ればいいわ。そうすれば同じことだもの」
「さあ、来られそうにないな」静かな声だった。ふいに、男は、その両手を女につきつけるようにした。「君、これをいらない? あげるよ。君なら、これで歩合がもらえるんだろう?」
一瞬、思わずその切符の山のほうへ手が出そうになったのを、あわてて引っこめて、男の顔を見た。「いらないわ。気もちはありがたいけど」
「でも、ぼくには、なんの役にも立たないんだ。二度とここへ来ることもあるまいし、とってもらったほうがいいんだが」
歩合にしても大したものだ。濡《ぬ》れ手に粟《あわ》といってもいい。しかし、ずっと昔に、苦い経験から自分できめた規則があった。どんなところででも、どんなことについてでも、たとえその目的がわからなくても、決して負けてはならない。なんであれ、ひとたび負けてしまえば、それにつながるどこかで次のことに、それだけやすやすと負けることになるのだ。
「いらないわ。馬鹿正直かもしれないけど、わたし、踊りもしない歩合なんかもらいたくないの。あなただけでなく、誰からも」こんどは、思いきりよく、クルリとかかとでまわって、そのまま、もう人かげの残っていないしらじらとした床《フロア》を歩いて行った。
ホールの向うはしの更衣室《こういしつ》の入口で、もう一度、男を置きざりにして来たあたりを振りかえって見た。目的があったわけでなく、ドアをあけるついでの反射運動のような振りかえりかただった。
男は、切符の山を両手でこねたり押しつけたりしていた。見ていると、男は、そうやってまるめた紙のかたまりを、無雑作に床に投げ捨て、ブラブラとホールの入口のほうへ歩き出した。
男は、全部で六度ばかり踊ったきりだった。その九ドル以上の値打ちのある切符を、ポイと捨ててしまったのだ。それも、相手をした女を目あての気どりや見栄ではなかった。見られていると知ってやったのでないことはまちがいない。
まるで、金をもてあましているような、大急ぎで捨てたがっているようなやりかただった。わけがあるとすれば、金をもちつけていないせいなのだ。金を少しでも身につけたことのある人なら持てあましたりしないことは、女も、世間を知った今、よく心得ていた。
女は、片ほうの肩をグイと突き上げるようにして、更衣室に入り、ドアをしめた。
これからこの職場を立ち去るまでのひとしきりを、自分で笞刑《ちけい》と名づけていた。それは、もはや現実の責め苦ではなかった。たとえば、通りみちの汚い水たまりをまたぎこすようなものだった。厄介ではあるが、束《つか》の間に向う側にわたり越し、それでおしまいなのだった。
更衣室から出ると、照明はすっかり消えてしまっていた。裏手の一灯だけは、掃除婦の仕事のために残してある。ドアをしめながら、中にいる誰かに話しかける。「じゃあ、もう二度と、あい曳《び》きのおつき合いなどに誘わないでね。あんただって、断られていやな思いをせずにすむんだからさ」女は、ひと気のない暗い洞窟《どうくつ》のようなホールの壁ぎわを歩いて行った。カーペットが敷いてあるので、足音はひびかない。ただ、角《かど》をまわるときだけ、木の床にコツンとかかとを打ちつける音が、うつろにこだました。
ホールの内と外とで、さっきとは明暗が逆になっていた。今では、あけた窓の外のほうが、内側よりもあかるかった。はしっこの二つの窓の前を通った。あの友だちが、味方が、仲間が、空高くクッキリと浮き出していた。急ぎ足に通りすぎながら、ほんの心もち、そっちのほうへ頭を向けた。すぐにまた壁にさえぎられて見えなくなった。その間に、感謝をこめた会釈《えしゃく》が送られた。
スプリングのついたドアを押して、まだあかりのついている廊下に出た。階段の降り口までに、切符の売場と、外套《がいとう》預り場、その前にうす汚れた籐の長椅子が二つある。
そこには、男が二人いた。いつも誰かがいる。誰かがウロウロしている。夜が明けてから出て来たとしても、それでも一人か二人はウロウロしているだろう。長椅子の縁《ふち》から、片脚をブラブラさせている男は、まだ中にいる誰かを待っているのだろう。前を通っても、チラッと名ばかりの注意を向けただけだった。階段の降り口のギリギリのところに立っている一人は、さっき五、六度踊ったあの男だった。
だが、その男は、ホールの入口のほうでなく、階段の下のほうをしきりに見ていた。誰かを待つというよりは、行先がきまらないので帰りそびれたようなふうだった。通りかかったときに、ふと眼をあげてこっちを見た顔のビックリした表情は、その男が、それまで女の近づくのを注意していなかったことを物語っていた。
黙って通りぬけるつもりだったが、向うで帽子――今は帽子をかぶっていた――に手をかけた。「やあ、今帰るんだね」
女は、ホールの中で手ごわかったとすれば、この玄関口では辛らつだった。ここは、いや応なしに敵の領地なのだ。用心棒もいないし、自分で自分をまもるほかはない。「いいえ、今来たところよ。顔を見られないように、こんなふうにして、うしろ向きに階段をのぼって来たのよ」
女は、ゴム板を貼ってスティールの縁とりをした階段を降りて、表に出た。男は、まだどうしていいかわからないように、降り口でじっとしている。あと女は一人しか残っていないし、その女も約束ずみなのだから、その男に、誰か待つあてがあるのではない。女はいつもの癖で、片ほうの肩をグイと――実際にはしなかったが、心の中で突き上げた。あてがあろうがなかろうが、ひとのことじゃないか。自分にはこれっぽちも関係のないことだ。
外の空気は気もちがよかった。あんな場所から出て来たなら、これが空気でなくても、気もちがいいにちがいない。いつも、外に出て最初の一歩を踏み出すと同時に、解放感と疲労感とから、思いきり深い息を吐くのだった。
通りに出たこのあたりは、まったくの危険地帯だった。玄関口をころ合いの距離に両側からはさんで、どっちも口の端からだらしなくたばこをぶら下げた二人の男が、ブラブラしていた。いつもこうなのだ。見かけなかった夜は一度もない。ねずみの穴を見はりする牡猫《おすねこ》みたいだ。少しはなれたあたりをブラブラする男たちは、原則として、誰かきまった女を待ちかまえる連中なのだ。近くにいる牡猫どもは、相手は誰でもよかった。
こういう邪魔ものを、女はすっかり暗記していた。それをたねに一冊の本を書くことだってできる。ただせっかくのまっ白な紙を、そんなことで汚したくなかっただけだ。直接ぶつかって来られるときには、いつも間があった。玄関口を出たところで、いきなりやられることはなかった。きっとしばらく行ってからだった。男でもよっぽど勇気がいるだろうと思うようなことをされることもあった。勇敢な牡猫は、ねずみに真正面からとびかかったりしない。敵がうしろを見せるまで待つときには、餌食が多くて目移りするためにひまがかかるだけなのだ、と思われることもあった。女は、ときには、「なんていやなやつ」と思うこともあった。しかし、まったくなにも思わないことのほうが、ずっと多かった。家に帰る途中のまたぎ越さねばならない汚い水たまりにすぎないのだ。
今晩は、口笛のひと吹きをきっかけに、挑戦をはじめた。これもしょちゅうのことだった。とはいっても、あけっぱなしにひびきわたる素直な口笛ではなかった。いきを殺したうしろ暗い吹きかただった。自分が目あてなことはわかった。その口笛に≪追って書き≫がついた。「いやに急ぐじゃねえか」
女は、べつに足を速めようともしなかった。そんなふうを見せると、かえって相手をあおり立てることになる。こっちがこわがっていると思わせれば、向うはつけ上がって来るのだ。
女の腕に、一本の手がかかった。女は、それを振りもぎろうともしなかった。すぐに足をとめて、相手の顔でなく、その手を見た。
「離してよ」死のような冷たさをこめたいいかただった。
「どうしたね? おれを知らんのか? いやにもの忘れがいいじゃねえか?」
女の眼は、くらやみにクッキリと白い、細い割れ目だった。
「今はもうこっちの時間なんだよ。あんたみたいな人に口をきくなんて、よっぽど運が悪いんだわ」
「だが、おとといの晩、二階のホールじゃ、いやに愛想がよかったじゃねえか、え?」その男は手を前にまわして、女の行くてをふさいでいた。
女は退却しなかった。相手に敬意をはらって、わきへよけようともしなかった。「豪勢な散財だったわね。ひと晩に六十セント使ったからって、今晩はこんな道ばたで、その配当にあずかろうっていうの?」
知らないうちに男が合図をしたのか、一台のタクシーが寄って来て、うながすようにドアをあけた。
「なるほど、手ごわいやつだ。いうだけのことはいうね、立派な度胸だよ。さあ来るんだ。タクシーが待っているぜ」
「タクシーどころか、あんたといっしょなら、五セントの電車にだって乗るもんか」
男は、半分はなだめるように、半分は無理やりに、女をタクシーのほうへ行かせようとした。
女は、身をもがいて、うしろ手にタクシーのドアをしめた。タクシーの車体に押しつけられてしまった。
いつのまにか、前に一人の男が立っていた。ホールを出て来しなに、階段の降り口にグズグズしていたあの男だった。押して来る男の肩ごしに、その男の視線をとらえた。訴えも、助けをもとめもしなかった。こんなときに、ひとの助けをもとめたりしたことは一度もなかった。あとで失望させられないためには、そのほうがまちがいがなかった。なんでもありやしない。一分もすれば片づいてしまうことなのだ。
その男が近づいて来て、おずおずと口をきいた。「ぼく、手を貸しましょうか?」
「なにをそんなところにボヤボヤ突っ立ってるのよ。街頭録音じゃないんだよ。足がすくんで動けないのなら、お巡《まわ》りを呼んどくれ」
「いや、その必要はありませんがね」この場にまるでそぐわない、いやにていねいな奇妙な断りかただった。
その男は、もう一人の男をいきなり自分の前に引っぱり寄せた。見えなかったが、なぐった音がきこえた。肉のうすい部分の骨にゴツンと当ったはげしい音だったから、きっとあごの側面だったのだろう。なぐられた男はうしろざまによろめき、タクシーの|後部泥除け《フェンダー》に倒れかかり、その彎曲《わんきょく》面沿いに地面にずり落ち、片ひじをついた。
三人とも、しばらく身動きをしなかった。
やがて、倒れていた男が身を起し、中腰のままモゾモゾと妙な具合に足をうごかして、もうなぐられる心配のない距離まであとしざりした。
やっとのことで立ち上がると、べつになにごともなかったように、恐れも恨みもひとかけらすら見せずにそのままクルリと向きを変え、ズボンの泥をはらいながら、さっさと行ってしまった。
次に、タクシーの運転手が、新しい連れと乗って行く気があるのかどうか確かめるように女の顔を見て、もう用のなさそうなのがわかると、車を走らせて去った。
女は、それほどありがたそうな顔もしなかった。「あんた、いつもあんなにノンビリしてるの?」
「いや、あの男のことを、君の特別な知り合いかと思ったもんだから」男は、ひどく申しわけなさそうにつぶやいた。
「あんたのいうことをきいてると、特別な知り合いってのは、ひとの帰り道に待ち伏せして、追いはぎをやる権利のある人間ってことになりそうね。あんたもお仲間じゃないの?」
男は、ほんの少し笑って見せた。「ぼくには、特別の知り合いなどないよ」
「あったっていいことよ。でも、わたしは、そんなもの欲しくないわ」女は、そのことばにおまけをつけるような視線を、チラッと男に走らせた。
それっきりで、女は自分の道を歩き続けようとして、向きを変えた。「ぼく、キン・ウィリアムズというんだが」男は、女をどうかして少しでも引きとめたい様子だった。
「お目にかかれて嬉しいわ」ちっとも嬉しそうないいかたではなかった。まるで、トタン板を張ったカウンターに、鉛《なまり》でつくった二十五セント玉をたたきつけたような声だった。
女は、また自分の殻《から》の中に引っこんでしまった、というよりは、今までだって、少しもそこから出て来たわけではなかった。
男は振りかえって、さっきの厄介ものが姿を消した方角を見た。「ブロックひとつか二つの間、いっしょに歩いたほうがいいんじゃないかな」
その提案は、受け入れられもしなければ、あからさまに拒絶されもしなかった。「二度ともどって来やしないわ」そのどっちつかずの返答を、全面的な同意と解釈した男は、さっそく女と肩をならべた。もっとも、作法どおり、数フィートの隔《へだ》たりは置いた。
ダンスホールの入口から一ブロックの間、二人は、ひとこともものをいわなかった。女のほうは、つとめてまで口をきくことはないと思ったからだし、男のほうは――二度か三度口をひらきかけては、また黙ってしまったことから判断すると――自分を卑下《ひげ》し、弱気になり、道連れになることで一応恩を着せられた今となって、さてなにを話したものやら、見当もつかなかったからだった。
交叉点をわたった。女が男をふりかえった。べつになにもいわなかった。
次のブロックも、石のように押し黙ったまま歩きすぎた。女は、連れなどないように、まっすぐ前を見ている。この男に負い目などないのだ。こっちから頼んで、肩をならべているわけではない。
二つ目の、そして最後の四つ角に来た。「わたし、ここから西のほうへ行くのよ」女は吐き出すようにいって、これ以上面倒なやりとりなしに別れようというように横を向く。
その素振りが、男には通じない。おくればせに、女と同じように向きを変える。「ここまで来たんだから、あとはどうせついでだ」というようなことをあいまいにつぶやいて、また肩をならべた。
女は、男をチラッとふりかえった。「さっきのやつなら大丈夫よ。もう行ってしまったのだから」
「誰が?」男は、うっかりしたように訊《き》きかえした。それから、やっと思い出したように、「ああ、あいつのことか。考えてもいなかったよ」
女は、ふいに立ちどまって、最後の通牒《つうちょう》を申しわたした。
「ねえ、わたし、いっしょに来てほしいと頼みやしなかったわよ。ついて来たいなら、勝手にするといいわ。でも、つまらない考えを起したりしたら承知しないよ」
男は、黙って納得した。自分が誤解されていることに、抗議もしなかった。それは、一時間か二時間前、男がはじめて女の軌道に入りこんで以来、最初の好意のある発言だった。しかし女は、この男のように、自分の道に入りこんで来るすべての人に対して、ずっと昔に習いおぼえた一つの偏見《へんけん》をもっていた。はじめから、あまり憎らしく思えない相手は、かえってそれだけ用心したほうがいい。えてして、半分気を許してしまってから、だんだん憎らしくなって来るものなのだ、と、そんな偏見だった。
二人は、また連れ立って歩きつづけた。あいかわらず数フィート離れて、あいかわらず口をきかず、ただ勝手に足をうごかして前に進んでいるその動作だけが一致していた。こんな風変りな連れと歩くのははじめてだった。どうしても連れがいるのなら、こんな連れだといいと思った。
トンネルの中のように暗い横町に入った。そこはむかし、九番街に行く高架鉄道の支線の通っていた路盤だった。いまでは線路はとりはずされていたが、六十年ものあいだ狭窄衣《きょうさくい》にしめつけられていたおかげで、永久にせむしのようにいじけてしまった横町だった。石塀のように窓ひとつない倉庫の横腹・有名なスケート場のセメントのタンクのように見える彎曲《わんきょく》した背なか。建物の列のところどころに、歯の抜けたように空いている空地は、不況時代のせいなのだ。ことに角地にそれが多く、新たに建てられる気配はない。今は駐車場に利用されている。
こうした景色を、数少ない、互いに遠く離れた街燈の光がつかの間《ま》、白っぽく浮き上がらせ、行きすぎると、また暗闇の中にとけこんでしまう。
ようやく、男のほうから口をきいた。よくは憶えていないけれども、タクシーのそばのひと騒ぎ以来、男のことばをはじめてきくような気がした。「すると、君は毎晩、こんなところをたった一人で通るんだね」
「そうよ。でも、さっきのあんな場所にくらべると、たいして物騒じゃないわ。この辺なら、狙われても財布ぐらいのものだからね」そのあとに、「こんどは、あんたのほうがこわがっているのね」とつけ加えようかとも思ったが、それは止めておいた。とにかく、少なくとも今までに男は、そんな皮肉を浴びせていいほどのことを言いも、しもしていないのだし、それに、爪を出しっぱなしにして、しょっちゅう隙《すき》のない身がまえをしているのにくたびれてしまった。ときには気を変えて、あたり前らしくするのも、悪くはなかった。
男は、うしろを振りかえった。これで二度目か三度目だった。たとえ、うしろに気をつけなければならないものがあったとしても、いま通り抜けて来たくらやみの中では、なにひとつ見えるはずもないのだが。
こんどは、男のそんな挙動を見逃がさなかった。「なにをビクビクしているのよ。あいつがナイフを握って、追っかけて来るとでもいうの? 大丈夫よ、心配しなくたって」
「え? あいつって? ああ、さっきの男か」まるでべつのことを考えていたところを、いきなり呼びもどされたように、ビックリ顔になった。照れたようにうす笑いを浮かべて、首のうしろを手でこする。自分の意志でなく、そこのせいでヘマをやったみたいに。しばらくすると、男は、その気もちを口に出した。「ついうっかりしていた。きっと、くせになっちまったんだな」それは、半分ひとりごとだった。
このひと、なにか心配ごとがあるんだわ。女は、自分にそういってきかせた。こんなに、ちょっと歩くごとにうしろを振りかえる人って、あるものでない。それが、さっきの武勇伝とはなんの関係もないことは奇妙によく察しがついた。そんな素振りをとがめるたびに男の示す反応が、それを物語っている。この男のビクビクしている相手は、ここまで歩いて来た歩道の長さとか、どこかうしろのほうに隠れているかもしれない人間とか、そんなもののせいではなく、もっと一般的な、もっとひろがりのある、二人のうしろにある夜の闇全体が気になっているのだ。時間と、街の広さとをかけ合わせた二次元的なものなのだ。
今になって思いあたるのは、ホールで、とほうもなくたくさんの切符を買いこみ、そのあげくそれを、今晩かぎりで値打ちのなくなるもののように、二度と使う機会のないもののように、惜し気もなく捨ててしまったことだった。
ほかにも思い出すことがあったので、きいてみた。
「わたしがホールを出て来たとき、あんた、廊下の階段の降り口に立っていたわね。誰かを待っていたの?」
「いや、そうじゃないよ」
「そんなら、ホールがハネてしまったのに、なぜあんなところに立っていたの?」女にもそれが、人を待っていたのでないことはわかっていた。ホールの内側のほうでなく、階段の下のほうをしきりに見ていたのだから。
「なぜって訊かれても、ちょっと困るなあ。きっと、ぼく――ぼくは、あそこがハネてしまって、これからどこへ行ったものか、なにをしたものか、わからなかったんだ。ぼくは――ぼくは、きっと、行く先をきめようとしていたんだよ」
そうだとしたら、なぜ入口の外にでも立っていなかったのか。そこのほうが、行く先を思案して立ちどまるのにふさわしいのに。しかし、そのことは訊かなかった。訊かなくてもわかっている。しかし、誰かに狙《ねら》われているのだったら、そんな気がするのだったら、階段の降り口にいれば、誰からも見られないから、そこにいるうちは安全なわけだ。
だが、もっとほかにもそれを訊かなかったわけがあった。ちょうどそこまで来て、女の心に、落し戸がピシャリとおりてしまったのだ。もう容赦《ようしゃ》もなにもなく、誰にだってひと足も踏みこませなくなってしまったのだ。なぜそんなことを気にするの? お前さんには、なんの関係もないことじゃないの。本人にまかせとけばいい。お前さん、慈善病院の看護婦にでもなったの? だれかが、少しでもお前さんのことを心配してくれて?
そして女は、苦々《にがにが》しい沈黙のうちに自身を責めた。お前さん、それでも懲《こ》りないの? あんなによってたかって打ちのめされながら、それでも懲りずに、お次の番に手を差しのべるというの? それを頭の中にたたきこむには、どうすればいいのだろう? 鉛のパイプで、思いきりなぐりつけなければならないのだろうか。
また、男は振りかえった。女はかまわなかった。
幅のひろい、うす暗い九番街に出た。流れるように往き交《か》う車の、飾り玉のようなヘッドライトや尾燈も、かえってわびしさを深めるばかりだった。
歩道の縁に立ちどまって、しばらく待った。車の流れがゆるやかになり、やがてとまった。交叉点をはさんで、見わたすかぎり続く飾り玉の列が向かい合っている。すぐにまた、ゴチャゴチャと乱れて流れて行くだろう。
女は、もう車道に踏みこんでいた。男は、ちょっとたじろいだようだった。踏み出しそこない、それだけのことだった。なんでもない。
「さあ、信号は緑よ」女はうながした。
男もすぐにあとを追ったが、そこに、いいようのないたじろぎが、はっきり見てとれた。結果があらわれたのだから、原因はどこかこのあたりにあるのだ。それをさがし出せばいい。男に二の足を踏ませたのは信号灯ではなかった。道路を越した向う側を、次第に遠のいて行く人かげ、パトロール中の警官の姿だった。
男は、まずその警官の姿を眼で追い、女に声をかけられてはじめて、信号灯を見上げたのだった。
女の心の落し戸は、まだかたくなに閉ざされたままだった。
向い側の歩道にとっついて、なおも西へ走る通りへ奥深く入りこんで行った。はてしもなく長く思われるそのブロックに、三つだけ間をおいて立っている街燈の褪《あ》せたような光も、闇をうすめる役には立っていない。かえって、対照の効果で暗さをきわ立たせている。光とはこんなものだ、と、見本を見せているような具合だった。
空気がシットリとして来た。水に近い感じだった。ここまで来る間には、そんなものはなかった。前のほうの闇の中で、|曳き舟《タグボート》のサイレンがさびしくうなった。それに応えるように、もっと遠いジャージー側でべつのサイレンがきこえた。
「もうじきだわ」女が話しかけた。
「こんなところまで来たのははじめてだ」
「週に五ドルの稼《かせ》ぎじゃ、こんな河っぺりよりほかに暮せる土地はないのよ」それから、男が不承不承ここまでついて来たのでないことは百も承知の上で、どうしても嫌味《いやみ》をつけ加えずにはいられなかった。「面倒くさくなったのなら、いつでも帰っていいわよ」
「べつに面倒なことはないがね」男は、一種の外交辞令のようにつぶやいた。
女は、ハンドバッグをあけて、鍵に触ってみた。そこにあることを確かめるための、反射的な準備行動だった。
街燈の光の輪の中で、女が立ちどまった。煙ったような埃《ほこり》っぽい光の束《たば》が、お互いの顔を粉っぽく見せた。「ここなのよ」
女のことばをきいて、男は、相手の顔を見ただけだった。男のそんな仕草が、女には馬鹿のように思えた。牛のようにのろまに見えた。二人がここで別れて、自分がまたひとりぼっちになるというその事実を、一生懸命に頭の中にたたきこもうとしているようだ。なにかそんなふうだった。少なくとも、それ以外のこと――女をものにしようという野心などは、どこをさがしてもないようだった。
二人の立っているすぐ前に、建物の奥へ入る通路の入口があった。通りに向ってあけっ放しになっているが、奥からのレモン色のおぼつかない照りかえしのおかげで、外からの侵入は、辛《かろ》うじて防がれている。その照りかえしも、入口までの隅々をどこも明るく照らしているわけではなく、ところどころに暗い場所が残っている。それでも、ないよりはましだった。前はまっ暗だったので、夜遅く入って行くのがこわかった。ある晩、階段で刺された人があってから、その階段の下のあかりを、ひとつだけ夜じゅうつけっぱなしておくことになった。これで、たとえ誰かにナイフでグサッとやられたとしても、相手の顔を見てやることはできるわけだ。
女は、別れぎわをあっさりと切り上げた。男が、自分のいったことを呑みこみかねて、マゴマゴしている間に、さっさと行ってしまえばいい。腕のとどかぬ距離まではなれるだけのことだ。経験から、そんなやりかたをおぼえた。相手が、未練がましくブツブツいうのに耳を貸すことはいらない。
「失礼するわ」そういったときには、女はもう男を歩道に残して、入口を入っていた。
「またお目にかかれるわね」それは本心にない出まかせのあいさつだった。二度とめぐりあうこともあるまい。これでおしまいなのだ。
ところが男は、女が引っこんでしまわないうちに、またもや歩いて来た暗闇をすかすように振りかえって見ていた。別れを惜しむよりなによりも、男の心を占領しているのは恐怖なのだ。
あの男が、自分にとってなんだというのだ。半分にちぎったうす桃いろのダンスの切符にすぎない。十セントにつき二セント半の歩合。一対《いっつい》の脚。背なかにまわした手の合図。それっきりのものだ。
[#改ページ]
一時一五分
女は、建物の中の通路を入って行った。いまはひとりだった。晩の八時から、はじめてひとりになった。そばに男はいない。背なかにまわった男の腕もない、顔にかかる男の息もない。まったくのひとりぼっちなのだ。天国がどんなところだか知らないけれど、死んでから行ってみれば、天国はきっとこんなふうに、男のいない、ひとりぼっちのところにちがいない。そんな想像にふけりながら、廊下のつきあたりに、ひとつだけポツンとともっている、くたびれたような白っぽい電灯の下を通って、みすぼらしい階段をのぼりはじめた。
最初は、陽気とはいわぬまでも、胸を張り、足を踏みしめてのぼって行くが、二つ目の踊り場をすぎるころには、上体を膝の上にかがめて、あっちへよったり、こっちへよろけたり、壁に手をつっぱったり、手すりにつかまったり、疲れはててしまう。
やっとのことでのぼりつめると、絶え絶えの息を吐きながら、そこのドアにもたれかかって、床の上のなにかを一心にみつめるようにうなだれる。べつに床になにかが落ちているのではない。そんなにもくたびれたのだ。
やがてまた身うごきする。もうひとつしなければならないことがある。ほんのちょっとしたことをやってしまえば、それですっかりお終《しま》いなのだ。あしたの晩、同じ時刻の来るまでは、すっかりお終いなのだ。鍵をとり出して、うなだれたまま、手さぐりで、ドアの鍵穴にさしこむ。ドアを押しあけ、鍵を抜きとり、ドアをしめる。手も使わず、|握り《ノブ》も使わず、倒れかかるように両肩をもたせかけてしめる。
そのままの姿勢で手をのばし、スイッチをさぐって、あかりをつける。スイッチを押しながら、眼を伏せる。すぐには、どうしても見なくてはならぬときまでは、電燈に照らし出された自分の部屋を見たくないのだ。
ああ、ここだ。ここがホームなのだ。ここ……この場所。ここが、お前さんが手さげ鞄を荷づくりして出かけて来た目あての場所なのだ。お前さんがまだ十七のころ、あこがれたのは、ここなのだ。お前さんが美しく優雅に育って、大人になったのも、ここが目あてだったのだ……そこらじゅう、身うごきもできないほど、かけらで一ぱいになっている。眼には見えないけど、足首の埋《う》まるほど、膝の埋まるほど、こなごなに砕《くだ》け散った夢、こなごなに砕け散った希望のかけらが、ギッシリとつまっているのだ。
ここで泣いたこともある。夜ふけにひとり声を殺してそっと泣いたこともある。しかし、べつのいく夜かは、もっともっと切なくて、泣き渇《か》らした眼をうつろにひらいたまま、なんの感情もなく、ただ横たわっていた……齢をとるには、どんなに長くかかるのだろう。とても長くかかるのだったら、いっそのこと――ああ、早く齢をとりたいなあ。
やっとの思いでドアを離れ、帽子をむしりとり、外套を脱ぎすてる。もっとあかりのそばによると――くたびれて青ざめた顔だけど、まだなかなか齢をとりそうにない。齢をとるのがひどく恥かしいような気もする。
椅子に倒れこんで、かかとの|留め革《ストラップ》をはずし、力まかせに靴をもぎとる。いつも帰って来ると、一番先にすることだった。足にはなんの罪もとがもない。踊るのなら、足が踊りたがっているときにだけ、それもほんのしばらくの間、たのしく踊らせてやればいい。がまんのできる限度を越えて、はてしもなく、無理やりに踊らせるなど、もってのほかだ。
それから、くたびれたようなフェルトの部屋ばきに、爪《つま》さきを突っこむ。そのまま、頭を椅子の背にもたせかけ、両腕をダラリと垂らし、しばらくじっとしている。ねむたくてたまらない。まだもう少ししなければならないことが残っているのだが。
向うの壁ぎわに、かたちばかりの寝台がある。なが年ひとを寝かせて疲れはてたのか、使っていないときにでも、まんなかが凹《へこ》んでいる……わたしより前に、この寝台に寝た人たちも、わたしのように泣いたかしら、と、ときどきそんなことを思ってみる。その人たち、いまはどこにどうしているかしら。雨の中を、町かどでラヴェンダーの花たばを売っているだろうか。夜あけに、事務所の玄関の床をみがいているだろうか。それとも、この寝台に似た台の上に、もっとかたい台の上に寝かされ、土をかぶせられて、永遠に安らかに眠っているだろうか、そんなことを思う。
部屋の中央の電燈の下には、背板のまっすぐに立った椅子を一脚だけ寄せたテーブルがある。その上には、切手をはって、宛名も書いた、中味を入れて封をすれば、いつでも出せる封筒がのっている。宛名は、アイオワ州グレン・フォールズ、アンナ・コールマン様となっている。そのそばに、封筒に入れるつもりの白い紙がひろげてある。書いてあるのは、「母さん」と、それっきりだ。
書くことは、眼をつぶってもそらでいえるほど、きまりきっている。今までにも、いく度となく書いたのだから。「母さん――無事でやっていますわ。わたしの出ているショーは大当りで、札《ふだ》どめになるほどです。出しものは――」そこに、新聞の演芸欄からひろい出した評判のショーのタイトルを書きこむ。
「大した役ではなく、ほんの少しばかり踊るだけだけど、次のシーズンには、せりふのある役をもらえるとか、そんな話がありますわ。ですから、母さんも、あまり心配なさらないでね――」と、ザッとこんな工合に書き進めて、それから、「母さんが、わたしに、お金はいらないかなどとおっしゃるのはおかしいわ。かえって、こっちから、ほんの少しだけど送ります。わたし、ずいぶんもらっているのだから、ほんとは、もっと送らなければいけないのですが、こんな商売だと、ちっとは上べを飾らなくてはならないし、いまいる部屋――とてもいいお部屋ですわ――の代金はあがるし、黒ん坊の女中やなんかで、思いのほかいるんです。でも、来週は、もう少しふやすようにしますわ――」この手紙に、眼にこそ見えないが自分の血にまみれた一ドル紙幣を二枚たたみこむのだ。
眼をつぶったままでも書きあげることができる。あしたの朝起き抜けに書こう、今すぐにでも書こうと、そんなことで、もう三日も、その白い紙は、ひろげたままになっている。だけど、今晩は駄目。うそを吐くのさえ大儀《たいぎ》なほどくたびれることだってあるものだ。こんなときには、行と行との間に、なにが忍びこむかわかりゃしない。
立ちあがって、部屋の奥に行く。そこには、壁龕《へきがん》とでもいうのか、壁をくぼませて、食器台をつくりつけにしたような場所がある。その台の上に、ゴム管で上のほうに突き出ているガス管につながったガスコンロがある。マッチをすってコックをあけると、青い炎の輪が燃えあがる。けさ、まだ動きまわるのがそれほどいやでないときに用意しておいた、半分つぶれかけた錫《すず》のコーヒー沸《わ》かしを、その炎の輪の上にのせる。
それがすむと、服のスナップをはずそうとして、両手を肩にもって行った。ふと思い出して、通りに面した窓のほうを見た。ブラインドは上げたままになっている。通りを越した向い側は、平屋根だった。ときどき、そこには、いやらしい男が這《は》いつくばっていることがある。一度、夏だったが、着がえをしていると、そこから、からかうような口笛のきこえてきたことがあった。それ以来、決して用心を忘れたことがない。
着がえのほうはおあずけにして、ブラインドをおろしに行った。ブラインドの紐《ひも》に手をかけたまま、おろすことは忘れてしまった。
下の通りに、まだ、あの男がいる。この建物の前にぐずぐずしている。まちがいなく、ついさっき一緒に歩いて来た男だ。街燈の光をまともに受けたその顔を見あやまりようはない。
とほうにくれてしまったように、こんな遠方に来てしまって、さてこんどはどこに行ったものかと考えあぐねているように、歩道のはずれに立っている。ついて来た相手の女に振られて立ち往生《おうじょう》したかたちだ。じっとしてはいるが、不動の姿勢というのではない。ひとところに立ったまま、小きざみに足踏みをしている。
女にひかれてぐずぐずしているのでないことは、姿勢からわかる。背なかをこっちに向けて、というよりも、ななめに構えて、半分横顔を見せている。見あげて窓を物色しているのではない。女の入って行った通路をのぞきこんでいるのでもない。一緒のときにもよくしたように、ちょっとの間をおいては、しきりに、自分の歩いて来た方角の闇《やみ》をすかすように振りかえっているのだ。なにか心に不安があるらしい。なにかを恐れているらしい。この三階の高さから見おろしても、その男の全身にあらわれている感情はまぎれもない。
その男に、あつかましくつけ上がる気のないことはわかっていても、その男の心の動揺が、自分に関係のあることのためでないのがわかっていても、なにかいらいらさせられる。あんなところで、なにをしようというのだろう。なぜ、よそへ行ってシャドウ・ボクシングのまねをしないのだろうか。よりによって、この部屋の前などでウロウロしなくてもいいのに。今はもう、仕事と関係のある一切のもの、一切の人から逃れたいのだ。あの男も、その一人なのだ。なぜ、自分の世界へもどって行こうとしないのか。
口をすぼめて、両手で、上げ下げ窓の手をかける窪《くぼ》みをさぐった。いきなり窓を押し上げ、身をのり出して大声で、「早くお行きよ! なにをぐずぐずしているのさ。とっとと行っちまわないと、お巡りを呼ぶよ!」と、わめいてやるつもりだった。ほかにも、相手がどんなに気が進まなくてもそこを立ち去らずにいられないようなわめきかたを知っている。それでもぐずぐずしていたら、そこらじゅうの窓という窓が残らずあいて、なにごとかと顔を出す人たちの視線に耐えなければならないのだ。
ところが、窓をあけないうちに、べつのことが起った。
男が、ふと、顔をちがう方角に向けた。肩は、あい変わらず歩道の縁《へり》と平行のままだが、こんどは、西のほう、十番街のほうを見ている。同じ方角ばかり一生懸命見るのにくたびれて、中休みに顔の向きを変えただけなのだ。と思っていると、ふいに身をかがめて、走り出しそうにした。男にそんな格好をさせた原因は、窓からはなにひとつ見えない。
一瞬、男は、なにかわからないが、眼にとまったものを確かめるみたいに、そのままじっと動かなかったが、急に横っとびに飛んで、窓のま下のどこかに見えなくなった。その方向から判断して、この建物の入口に逃げこんだにちがいない。
男をそんなにあわてて逃げ出させたものの正体は、しばらくの間、なんとも知れなかった。窓の下には、青銅《ブロンズ》いろに暗い通りが、死んだもののようにのびている。向いの街燈のわびしい光が、その暗さをいく分白っぽくしている。
顔を窓に押しつけたまま、眼を大きくみはって待った。すると突然、なんのもの音もなしに、ボートをさかさまにしたような形の白いものが、くらやみをかき分けてあらわれた。あまりだしぬけだったので、とっさには、なんだかわからなかった。しかしそれは、夜なかの巡察に出ているパトロールカーだった。悪ものの不意を襲うため、ライトもつけず、警笛も鳴らさずに近づいて来るのだ。目的があるのではなかった。誰かを狙《ねら》っているのではなかった。なにもあの男を狙っているのではなかった。そのことは、そのいかにも気取った走りかたからわかる。ただ遊弋《ゆうよく》しているだけなのだ。ほんの気まぐれにこんなところにまぎれこんで来たのだ。
パトロールカーは行ってしまった。しばらくの間、はじめに思ったとおり、窓を押し上げ、大声をはりあげて、呼びとめてやろうかどうしようかと迷った。「この下の入口に、怪《あや》しい男がかくれているわよ」と、告げ口してやるのだ。だがそれはしなかった。そんなことしてみて、なんの役に立とう。その男は、まだなにもはっきり悪いことをしたわけではない。その男にも、警察にも、なんの義理もないのだ。自分の兄でもなければ、こっちが、あの男の後見人というわけでもない。
いずれにしろ、パトロールカーは、ずっと遠くへ行ってしまった。乗っている連中は、チラッとも、この家の入口を見なかった。流れに乗ったボートのように、音もなく次の角まで滑《すべ》って行き、右に曲って見えなくなった。
そのまま、男がまた姿をあらわすかと待った。待っても出て来ない。家の前の通りは、その男さえいなかったかと思われるほど、寂莫《じゃくまく》とうつろだった。男は、どこか見えないところにいるのだ。どこにいるのかはわからないが、とにかく、あの男の勇気は完全にくじけてしまったのだ。
しまいに待ちくたびれて、もともとそんな事件の起らないうちにしようと思っていたように、ブラインドを引きおろした。窓から離れるには離れたが、途中で止めになっていた着替えは、それっきりにしてしまった。部屋を横切って入口のドアのところに行き、そこに立って、耳をかたむけた。それから、ドアの縁に片手をあてがって、音のしないように、そうっとあけてみた。足音をしのばせて、ひと気のない廊下に出る。
建物の中は、上にも下にも、人の動く気配は少しもなかった。階段のきわまで行き、手すりから身を乗り出して、うすぐらい下のほうをのぞきこんだ。
はじめの位置からは、なにも見えなかった。少し位置をずらすと、あの男の姿が見えた。
最初の踊り場までのぼる中《なか》ほどの段にうずくまって、がっかりしたように手すりによりかかっている。帽子はかぶっていない。どこかそばに置いてあるのだろうが、ここからは見えない。ほとんど身うごきしない。手だけがうごいている。ここから見えるほうの手が、はてしもなく髪の毛をかきあげ続けている。そこになにかが深く咬《か》みついてでもいるように。
そんな中途はんぱなところで、夜じゅうじっとしているわけにはいかない。さっき、窓をあけてわめき立ててやろうと思ったのとはべつの意味で、自分がここにいることを知らせてやろうという気になった。どういうわけだか、気もちが変ったのだ。たぶん、そこにうずくまっている男の、あまりにも絶望しきった、突き放されたような姿にうごかされたのだろう。ほんとうのわけは、誰にもわかりゃしない。自分自身にだってわからない。いずれにしろ、とにかく、密告するのはやめて、ここに自分のいることを知らせてやる気になったのだ。少なくとも、それだけの運をめぐんでやる気になったのだ。思えば、ずいぶん昔から、ひとに運をめぐんでやったりしたことは絶えてなかった。自身が運にめぐまれなくなってから、そんなことをしたおぼえはなかった。
男の注意をひこうとして、下のほうにむかって強く、しかしひそやかに、シーッと声をかけた。
男は、ハッとびっくりして、とび立ちそうな格好でキョロキョロ見まわし、やっとのことで、階段のずっと上の手すりから半分のぞく顔に気がついた。
二度三度あごをしゃくって見せ、ここまでのぼっておいで、と、無言の合図を送ると、男はすぐに立ち上がった。姿は見えなくなったが、二、三段とびに大いそぎでのぼって来る音がきこえる。やがて、階段の最後の曲り角から姿をあらわしたかと思うと、大きな息を吐きながら、女のそばに来た。なぜここまでのぼって来いといわれたのか、そのわけを訊《たず》ねたそうに、また、それが、なにかいいことであってほしいと、半ば期待するような面もちで、女の顔をみつめる。
どうした加減だか、男は、さっきよりも若く見える。ダンスホールで感じたよりも若く見える。ホールの照明が、いやそれよりもむしろホールの飾りつけが、そこへ来る男を、誰でも憎たらしく世なれたふうに見せるのだ。この男にしても、べつに変ったわけでもなんでもなく、こっちで勝手にそんな印象をこしらえ上げていたのだ。おそらくは、さっき見た、途ほうにくれて階段の途中に坐りこんだ男の姿が、その印象を訂正したのだろう。要するに人間は、相手の真実はそっちのけにして、自分勝手なレンズを通した印象だけを、心に刻みつけるものなのだ。
「いったいどうしたというの? なにか悪いことでもしたの?」ひとのことなど放っとけばいいのに、まっさきにそんなことを訊《き》きたがる自分のおせっかいな気もちを隠すように、ことさら高飛車《たかびしゃ》に、きめつけるようないいかたをした。それに、自分できめた規則を自分から破ろうとしているのであってみれば、できるだけしぶしぶらしくしたかったのだ。
「いや、ぼく――ぼくは、べつになにもしやしないよ。なんのことだね?」男のうけこたえは、シドロモドロだった。それから、ようやく気をとり直して、「あそこで、ほんのちょっと休んでいただけなんだ」
「ふうん。午前二時というのに、よその家の階段で休んだりして、それでやましい気もちをもっていない人ってあるかしら」石のように冷たい口調だった。「ちゃんとわかってるのよ。そら、ここへ来る途中、ひっきりなしに後ろを振りかえってばかりいたじゃないの。わたしが気がつかないとでも思うの。ホールから出がけにだって、隅っこのほうで、なんだかウロウロしていたしさ」
男は、じっと、手すりを見おろしている。はじめてそんなものが眼についたというふうに、まるで、いままでなかったものが急に出て来たとでもいうふうに、それから、その手すりをしきりに手のひらでこすりはじめた。そこが、どうしてもきれいにならないというふうに。
男は、一分たつごとに、だんだん若やいでいくようだ。今は、二十三ぐらいに見える。ほんとうは、二十四でもあろうか、ホールではじめて見たときには――いや、ねずみどもには齢などないのだ。少なくとも、そんなことを、ホールで気にする人はいない。
「あんた、なんて名だっけね。さっき教えてもらったようだったけど、度《ど》忘れしちまったわ」
「キン・ウィリアムズっていうんだがね」
「キン? きいたこともない珍しい名だわね」
「母さんの結婚する前の名だったんだ」
女は、肩と眉とをすぼめて見せた。「どうでもいいことよ」それは、しかし、名前のことではなく、その前に話題になった男の不審な挙動《きょどう》のことだった。「どうせ、わたしの知ったことじゃないからね」
ふと、部屋の中のなにかの気配に気がついた。かすかなカタカタカタと鳴る音。その正体は、長い経験からすぐにわかった。なんの断わりもいわずに、男を置きっ放しにしたまま、あわてて部屋に入って行く、ガスコンロにかけ寄って、コックをしめる。青白い炎の輪が消え、カタカタと鳴る音も静まった。
錫《すず》のコーヒー沸かしをとりあげて、テーブルの上に置く、ドアがあけっ放しになっているので、それをしめに行った。
男は、あい変わらず、同じところに立っていた。どうにでもなれといった投げやりな態度が見える。しきりと手すりをこねまわしながら、その自分の手をじっと見おろしている。
女は、ドアに手をかけたまま、心の中で押し問答をした。お前さん、なんて馬鹿なの? いったい学問をしたことがあるのかい? 今お前さんがしようとしているのは、一番いいことだろうか。もっといいことは思いつかないの?――それから、せめてもの申しわけのように――わたしの胸の中には、とっときの友情が、たったひとつだけ残っているわ。ほんとうにたったひとつだけ、この都会が見逃がして残しておいてくれたのが。それを吐き出したからって、どうなるわけでもない。かえってさっぱりするだろう。
もう一度、男に、せっかちに頭をしゃくって見せた。「コーヒーを沸かしたんだけど。ご馳走するから入らない? ほんのちょっとのあいだ」
男は、階段をのぼって来たときと同じように、一生懸命前に進み出た。から元気でもつけないことにはやりきれないのだ。誰でもいい、話し相手がほしくてたまらないのだ。
しかし、女は、部屋に入ろうとする男を腕をのばしてさえぎった。「ひとつだけいっとくわ。あんたを呼んだのは、コーヒーをご馳走するだけのためよ。お砂糖だってないわ。いいこと、ちょっとでも妙な眼つきをしたりしたら――」
「そんなこと、思ってもいやしないよ」男にこんなにも殊勝気《しゅしょうげ》ないいかたができるものなのか、と、まったく思いがけない感じだった。「顔を見れば、どんなつもりでいるかぐらいのことはわかるさ」
「ところが、案外眼の悪い人が多いのよ」
腕はおろされた。男は部屋に入った。
女はドアをしめた。「大きな声を出さないのよ。隣には、うるさいお婆ちゃんがいるんだから。あそこの椅子にかけるといいわ。わたしは、この椅子をそっちへ運ぶわ。運ぶ途中にバラバラになっちまうかもしれないけど」
男は、すすめられた椅子に、かた苦しい姿勢で腰をおろした。
「帽子は、あの寝台にほうり上げときなさいよ」愛想よくうながす。「うまくのっかるかな」
男は腰をかけたまま、テーブルとコーヒー沸かしごしに、おぼつかなく帽子を投げた。うまく寝台の上にのっかった。
二人とも、帽子が無事に着陸するのを見とどけた眼をもとにもどして、お互いにホッとした微笑を見せ合った。それから、女はヒョイと思い出して、せっかく見せた微笑を引っこめてしまった。男の微笑も、おき去りにされた淋しさから、しかたなく引っこんだ。
「どうせ、コーヒーってものは、ひとり前だけ沸かすわけにはいかないのよ」男を招待したことを自分自身にいいわけするようないいかただった。
よぶんのコーヒー茶碗と|受け皿《ソーサー》を出して来て、「ひとりぼっちのわたしが、こんなものを二人分ももっているのは、ウールワースの均一店で、二組五セントだったからなのよ。ひとつでいいから、お釣をくれってわけにもいかないものね」さかさまにして振ると、パラパラとわら屑《くず》が散った。
「はじめて使うのよ。ちょっとゆすいだほうがいいわね」棚の下の流しにもって行く。「待たずに、自分で注いでちょうだい」背なかを向けたまますすめる。
できの悪いコーヒー沸かしが、とりあげた拍子にカタカタと音を立てるのがきこえた。それから急に、ガタンと、テーブルの上のコーヒー茶碗が踊るほどはげしく、途中で手を離したかと思うほど大きな音がして、それといっしょに、椅子の脚がギイーッときしった。
洗ったコーヒー茶碗を高くかざして水を切っていた手を止めて、クルリと振りかえる。「どうしたの? やけどして? 大丈夫?」
男の顔が、少し青ざめているようだった。女の声に頭を振って見せたが、そっちのほうを見るのは忘れるほど、なにかに気をとられている。手はまだコーヒー沸かしの把手《とって》にかかったままだった。もう一ぽうの手に、母親の宛名を書いておいた封筒をもって、呆然とそれをみつめている。それを見て、その封筒の上にコーヒー沸かしをおいたものだから、もち上げたとき、熱のためにはりついたのを無理にはがしとって駄目にしたので、ビックリしているんだなと思った。
女は、テーブルにもどって来て、立ったまま訊いた。「どうしたの?」
男は、封筒を手にしたまま見上げた。口をポカンとあけている。「このアイオワ州のグレン・フォールズに、誰か知った人がいるの? これ、その町に出すんだろう?」
「そうよ。どうして? 封筒に書いてあるでしょう。わたしの母さんよ、その名は」女の様子に、反抗的なものが忍びこんだ。「だけど、それがどうしたっていうのよ」
男は、頭を振りながら、椅子から立ち上がりかけたが、思い直してまた腰をおろした。ありったけの感情をこめた眼で、女の顔をみつめる。「これを見たら、とても黙っていられないよ」そこで絶句したように、しばらく額を手でおさえている。「ぼくは――ぼくも、その町から来たんだ。ぼくの故郷なんだ。出て来てまだ一年と少しにしかならないが――」その声が、あまりの意外にうわずってきた。「君も、この町から来たんだね? アメリカじゅうに、このくらいの町ならなん百とあるだろうに、ぼくと君と二人とも、同じ町の人間だなんて――」
「わたし、その町の出なんだけど――」警戒はゆるめなかった。わざと、「わたしも」とはいわなかった。男の顔をじっと見ながら、向かい側に腰をおろす。男の最初のことばをきいたときから、疑いの気もちが、電流のように身うちを駈けまわった。そういうふうにならされているのだ。どんなときにでも、どんなところででも、どんな人をでも、信用しないことを学んできた。それが、つけこまれないただ一つの方法だった。それにしても、これはどういうことだろう。どういう企《たくら》みなのだろう。町の名は、誰にでも見えるところにおいた封筒を見て知ったのだ。そこまではいい。それをたねに、どうしようというのだろう。どんなペテンを企んでいるのだろう。金だろうか? こっちがうっかりしている間に、同郷という共感に訴えてとり入ろうというのだろうか。残らず知っているつもりだったが、こんな新手《あらて》もあるのだ。
しかし、ちょっと待て、きめてしまうのは早すぎる。
「すると、あんたも、グレン・フォールズから来たっていうのね」さぐるようにじっとみつめて、「なんという通りに住んでいたの?」
指の爪で、テーブルの縁をコツコツとたたきながら、相手の返答のタイミングを測った。コツと一つたたいただけで、もう答があった。「アンダスン街のパイン通り寄りだよ。パイン通りからオーク通りのほうへ二軒目なんだ」女は、男の顔から眼を離さなかった。ちっとも考え考えいっているような様子はない。自分の名をいうときのように、スラスラと出てくる。
「その町で、裁判所広場《コートハウススクエア》のビジュ映画館に行ったことがあって?」
こんどは、少し時間がかかった。「ぼくのいたころには、そんな映画館はなかったな。ステート座とスタンダード館と、その二つっきりだったよ」
「そうだったわね」女は、自分の手を見ながら、やわらかにつぶやいた。「そんな映画館はなかったわ」
女の手は少し震えていた。そっとテーブルの下にかくす。
「鉄道線路を越す鉄でできた人道橋のあるのは、なに通りだった? ほら、低いところを線路が通っていて、その上を、こっちからあっちへ渡るところがあるわね」
この質問なら、その町から来た人、半生をその町で暮した人にしか答えられないはずだ。
「なに通りって、あの橋は、どの通りともつながっていやしないぜ」男は、あっさりいってのけた。「メープル通りとシンプスン通りとの間の不便な場所にあって、渡ろうと思えば、そこまで、ひどく細い道を歩かなければならない。以前から、みんながブウブウいっているのは、君だって知ってるだろうさ」
そう、そのことはよく知っている。けれども、相手がそれを知っているのは大したことだ。
「おやおや、君の顔はまっ青だぜ。ぼくも、さっきは、今の君と同じような気もちになったんだ」
やっぱりほんとうなのだ。
女は、椅子の腕木に手をつっぱるようにして、腰をおろした。やっと口がきけるようになったときにも、その声は低く弱かった。「あんた、わたしの住んでいたところ知ってる? 教えてあげましょうか。エメット街なのよ。どのへんだか知ってるわね。ほら、アンダスン街のすぐ次の通りよ。そういえば、あたしたち、すぐうしろじゃないにしても、背なか合わせの見当に住んでいたわけだわねえ。まあ、そんなことってあるものかしら」口をつぐんで、しばらく考えてから、「どうして、わたしたち、あそこでは知り合いでなかったのかしらね」
「ぼくは、一年前に、こっちへ出てしまったからね」
「わたしだって、もう五年になるのよ」
「アンダスン街に引っこしたのは、おやじが死んでからなんだ。二年とちょっと前だったっけ。それまでは、郊外のマーベリにあった農場にいたんだよ」
女は、いそいでうなずいた。この胸のふくれるようなたのしさが、あんな無情な町の道案内などで台なしにされなかったのがとても嬉しい。「そうなのね。あんたが町に引っこして来たじぶんには、わたし、もうこっちへ来ていたんだわ。でも、今ごろは、もううちの人たちも、あんたのうちの人を知ってるわね。裏の垣根ごしのおつき合いってわけなのね」
「きっと知ってるよ。きまってるさ。なにしろ、お袋は――」いいかけて、いや、そんなことよりも、というふうに、「そういえば、君の名はまだ教わっていなかったな。ぼくの名は、さっきいったけど」
「あら、そうだったかしら、ずいぶん前から知っている同士みたいだのにね。わたし、ブリッキー・コールマン。ほんとうはルスなんだけど、みんな――うちの人まで、わたしのことをブリッキーって、そう呼ぶのよ。子どもみたいでいやだったわ。でも、今になるとなつかしいわねえ。なぜ、そう呼ばれるかっていうと――」
「わかるよ。君の髪の毛が煉瓦《ブリック》いろだからさ」
男の手が、手のひらを上にしてテーブルの上を、そっと女のほうへのびた。知らん顔をされたら、すぐにも引っこめるつもりのように、おずおずとためらいがちに……女の手も、同じようにためらいがちにのびていった。両ほうの手が出あい、握り合い、そしてまた離れた。二人はテーブルごしに、はにかんだような笑顔を見せ合った。ちょっとした儀式がすんだのだ。
「よろしく」男が、臆病《おくびょう》につぶやいた。
「よろしく」女が、小声であいさつを返した。
やがて、このつかの間の他人行儀はあとかたもなく消え去り、二人は、また思いがけなくも発見された共通の話題をはさんで、心から打ちとけ合った。
「ぼくや君の家族たちは、きっともうあの町で顔を合わせているに違いないと思うよ」
「ちょっと待って。ウィリアムズってのは、よくある名だけど、あんた、そばかすの一ぱいある兄弟がいやしなくて?」
「いるとも。弟のジョニーだ。ほんの若僧だがね。十八だっけ」
「そうだわ。その人よ、わたしの姪《めい》のミリーと仲よしなのは。姪だって、まだ十六か七だけど。その子、わたしに手紙をよこして、ウィリアムズとかって男の子のことを書いていたわ。なにもかもいい人だけど、そばかすが玉に疵《きず》だって――いまに消えるのだといいがって」
「ホッケーをやっているやつかい?」
「ええ、ジェファスン・ハイスクールのチームよ!」感に迫ったような高い声になった。
「ジョニーだよ! あいつに間違いなしだ!」
あまりの奇遇に、二人は手を握り合うのがせいいっぱいだった。
「世間ってせまいものねえ」
「まったくだ」
女は、男の顔をしげしげと見た。ただの男。一ダースいくらで、どこにでも転がっている男。キャラコのシーツみたいに、ちっとも変ったところのない男。隣の家から来た男。隣のあの子。小さな町なら、どの家の女の子も一つずつもっている隣のあの子。それがこの人なのだ。わたしのものになっていたかもしれない隣の男の子。あの町にもう少し長くいたら、きっとわたしの男の子になっていただろうに。
まったく、どうってことのない男。隣の男の子は、そんなものなのだ。はっきり見定めるには、あまり身近かすぎる。はでやかさもない。ロマンティックなところもない。そんなものは、遠くから来るにきまっているのだ。しかし、なにからなにまで知りつくしている相手。そこが大事なところだ。それを、どうしてホールで、この人がはじめて入って来たときに、まだ知らないうちからでも、気がつかなかったのだろう。とはいうものの、自分にとって、たかが一枚のダンス切符、一対の脚にすぎない客の男なら、ことさら気にとめようとするはずもないわけなのだが。
二人は声をひそめ、夢見るように眼をとじて、しばらくの間、故郷の町のことどもを語り合った。故郷の町を、窓から部屋の中へもちこんだ。ニューヨークなどは、外の夜のくらやみの中へ、ずっとあっちのほうへ押しやってしまった。
窓の向うの夜空のどこかに高くそびえるパラマウント塔の大時計も、今このときには、二人の間になく、その代りに、広場に近い小さな白壁の教会堂の鐘が、やわらかく甘く時を告げるのが二人の耳にはきこえた。「おやすみ。わたしが見ていてあげますよ。あなたがたの家でおやすみ。心配はありませんよ。いつも見まもっていてあげますからね」と。
二人は、故郷の町のことを語り合った。はじめはおずおずとゆっくり。熱中してくると、早口で流暢に、自分を忘れ、場所を忘れ、もはや語り合うのでなく、めいめい勝手に、勝手なことをしゃべるように。やがて、二人の間にあるのは、ただひと流れの想い出の川だった。ところどころに、めいめいの美しい記憶を、かわるがわるちりばめたせせらぎだった。
「ほら、マーカス百貨店の板張りの歩道ね――あそこには、端っこのほうをうっかり踏むと、ピョンとはね上がる板があったわねえ――きっと、まだ直してないでしょうね」
「それから、グレゴリじいさんのキャンディ屋、おぼえているかい。あのじいさん、いつもご自慢の飲みものには、大げさな名前をつけたもんだよ。『特製|東洋風《オリエンタル》サンデー』とかってね」
「そういえば、|本町通り《メインストリート》のエリート薬店《ドラッグ・ストア》もすばらしかったじゃないの」
「うん、店の入口に、朝顔が植わっていたりしてね」
「どこの家でも、夏の夕方になると、玄関先の露台にハンモックを釣って、下にはじかにレモネードのグラスをおいといて、ユラユラと揺するのね。あんたもレモネード? わたしは、いつもそうだったわ」
「夜は、音楽などなしで、すごく静かだったね。ピンが一本落ちてもきこえるぐらいだ」
「それから、ジェファスン・ハイスクールよ。まっ白な花崗岩《かこうがん》づくりで、長さが一ブロックもあるきれいな建物でさ。わたし、いつも、世界一大きな建物だとばかり思ってたわ。あんたも、学校はジェファスンだったの?」
「そうとも。あそこじゃ、みんなジェファスンさ。正面の階段のわきに磨《みが》いた石が坂になったところがあったね。ぼくは、出て来るたびに、あそこを立ったまますべり降りたもんだよ」
「わたしもよ。ほら、エリオット先生っていらしたわね。あんたも、上級英語は、あの先生だった?」
「うん、上級英語は、エリオット先生にきまっているよ。逃《のが》れっこなしさ」
ほんのちょっとの間、なにかが心をチクチクと刺した。隣の男の子、その男の子に、二千マイルも離れた土地で、はじめてめぐり合うなんて。ああ、五年遅すぎた。知り合っているのが当り前だのに、今の今まで知らなかった隣の男の子――
「通りを歩けば、知らない同士でも、おはようとあいさつをするんだ」
「暗くなっても、音楽などきこえないのね。トロンボーンもきこえないし、こおろぎぐらいのものね。音楽などなかったわ」
「冬になると、ぼたん雪が降って、町じゅう、マシュマロのようにまっ白になってね」
「でも、やっぱり春だわ! 冬も秋も夏も、みんなどうだっていいけど、わたし、春だけは忘れられない! 樹《き》という樹にうす桃いろの花が咲いて、その下を歩くと、まるで夢の国にいるみたい」
「誰もかれも、みんな子どものじぶんから知っていて、病気になれば、ジェリーのお菓子をもってお見舞いに来てくれるし、困っている人には、都合をつけて融通もしてくれるんだ」
「だのに――だのに、いまのわたしたち、どうでしょう――」女の頭が、急に首の骨が折れでもしたように、ガックリとテーブルの上に重ねた両腕の中に落ちこんだ。
両手の拳《こぶし》で、二度三度、テーブルを空しくたたく。「ああ、わたしの家!」しぼり出すような声。「わたしの生れた家! ああ、母さんに会いたいわ――」
眼を上げると、男はそばに立っていた。まだ触ってはいなかったが、自分の肩に触ろうとしていたのがわかった。眼を伏せている間に、手をのばしかけて、そのままどうしていいかわからなくなり、断念したのだ。
女は微笑を浮かべ、涙を見られないように、眼をしばたいた。「たばこをちょうだいな。わたし、いつも泣いたあとでほしくなるのよ。でも、どうしたのでしょう。なん年もの間、こんなふうに泣いたことなどなかったのに。――」
男は、たばこのもち合わせがなかった。女がもう一度やせがまんを張るのに必要なたばこがなかった。
「君は、なぜ家に帰らないの?」こんどは、男のほうが年上らしくなった。いや、女のほうが若くなったのかもしれない。都会は、ひとを老いこませる。故郷では、いつも若くていられる。故郷のことを思い出しただけでも、しばらくは若がえるのだ。
女は、黙っていた。男は、もう一度訊ねた。なにかやりはじめると、どこまでもひたむきに追いつめる性格なのだ。女はそう思った。「なぜ、君は、自分の家に帰らないんだ?」
「わたしが、帰ろうと思ったことがないとでもいうの?」すねたようないいかただった。「旅費がいくらいるかってことぐらい、その金額を逆にだっていえるわ。バスのことを、なん度|訊《き》きに行ったかしら。バスの時刻表もすっかり暗記しているわ。直通は、一日に一本きり。朝の六時に発つのよ。夕方にもあるけど、それだとシカゴで一泊しなきゃならないわ。シカゴでだってどこでだって、途中で泊ったりしたら、もう勇気がくじけてしまうわ。まわれ右して、もう一度もどって来るばかりよ。それが、よくわかってるの。なぜって、そんなこと訊《き》かないでね。わたしにはよくわかっているのよ。一度なんか、わたし、バスの終点まで出かけたわ。すっかり荷造りした鞄をそばにおいて、門のあくのを待っていたのよ。でも駄目だった……あと一分というときになって、座席を取り消したのよ、払い戻してもらって、足を引きずり引きずり、ここへ帰って来たわ」
「だけど、どうしてなんだい? そんなに帰りたくてたまらないのに、なぜ帰れないの?」
「なぜって、わたしがちっとも出世しなかったからよ。故郷ではみんな、わたしのことを、ブロードウェーの大劇場に出ていると思いこんでいるわ。だのに、わたし、しがないダンサー稼業《かぎょう》であくせくしているんだもの。そこの手紙を見てちょうだい。『母さん』としか書いていないでしょう。今までにでたらめを書きすぎたので、帰るに帰れなくなっちまったのよ。いまさらノコノコ帰って行って、みんなに失敗を白状するだけの勇気がないのよ。ずいぶん勇気のいることなんだけど、その勇気が出せないんだわ」
「しかし、みんな、君の生れた町の人じゃないか。わかってくれるよ。その人たち以外には、君をなぐさめたり力づけてくれる人はいないんだぜ」
「わかってるわ。母さんになら、なんでも話せる。でも、友だちや近所の人たちは困るの。きっと、母さんは、わたしの手紙を読んできかせては自慢しているわ。そりゃあ、母さんだって友だちだって、わたしが帰って、ほんとのことがわかっても、なんにもいわないでしょうよ。だけど、今まで欺《だま》されていたと知って気を悪くするのは同じだわ。わたし、それがいやなのよ。しょっちゅう思っていたのよ、町の自慢になるような人になって帰りたいって。それが、今帰ったら、憐《あわ》れんでもらうしかないのよ。大変なちがいだわ」女は、男を見上げて頭を振った。「でも、そんなことは、表面だけのことなのよ。ほんとのわけは、もっとほかにあるの」
「じゃあ、どんなわけなんだい?」
「いえないわ、笑われるばかりだわ。どうせわかってはもらえないもの」
「笑うもんか。わからないことはないさ。ぼくだって同じ故郷から来た人間だもの。君と同じように、故郷を離れて、都会にウロウロしている人間なんだぜ」
「そんならいうわ。あんたの今いった、その都会なのよ。あんたなんか、都会って、地図の上に二重丸をつけた場所としか思わないでしょう。ところが、わたしは、都会を敵だと思っているのよ。思い違いじゃないわ。ちゃんと知ってるのよ。都会は性悪《しょうわる》だわ。誰だって都会には勝てっこないわ。わたし、都会に首ねっこを抑えつけられているのよ。そのせいで、身動きができないのよ。そのせいで、逃げ出しもできないのよ」
「そんなこといったって、都会には家があるだけじゃないか。石とセメントで固めたビルがあるだけで、君を抑えつけるような腕なんかありやしないよ。行こうと思いさえすれば、都会が腕をのばして、君を引きもどすわけにはいかないさ」
「だから、どうせわかってもらえないっていったのよ。わたしをつかまえるのに、腕なんかいらないのよ。こんなに人間がドッサリ集っていると、空気の中になにかが湧いてくるんだわ。うまいこといえないけど、この土地には、よそにないなにかがあるのよ。この都会からは、なにかが立ちのぼっているの。いやらしい、憎たらしい、気味の悪いなにかが。それを、あまり長い間、あまりたくさん吸いこむと、皮膚の下に入りこんでしまうのよ。からだじゅうにしみこんでしまうのよ。そうなったらお終い。もう都会のとりこも同然だわ。そうなったら、じっと待っているよりどうしようもないの。そのうちに、自分が思いもよらないふうに変って行くのよ。いったん変ってしまってから気がついたって、もう手遅れだわ。もうどこへ行ったって――自分の家へ帰ったって、もとに戻ることはできっこないのよ」
男はなにもいわずに、ただ女の顔を見ただけだった。
「こんなことをいったって、本気にしてもらえないのは知ってるわ。でも、いいのよ。自分でそんなふうに感じているんだから。都会には、なにかしら考えることのできる頭みたいなものがあるのね。いつも、ひとのことを見ていて、猫がねずみをからかうように、ひとをからかうのよ。ひとが、ほんの少し逃げ出すまで、知らん顔をしているのよ――わたしが、バスの終点まででも、せめて行く気になったのは、そのせいなんだわ。そうさせておいて、うまくやったつもりでもっと遠くまで逃げようとすると、いきなり手をのばして、引っぱり戻してしまうのよ。みんな、めいめいの意志で引きかえしたつもりでいるけど、ほんとはそうじゃないんだわ。誰でも、途中で気が変ったって、そんなことをいうけど、実は違うんだわ。みんな、都会から立ちのぼる、都会の吐き出す蒸気のせいなのよ。煙のせいなのよ。なにかことばがあったわね――なんていったかしら――そうそう毒気《ミアズマ》だわ。みんな、毒気にあてられているのよ。渦巻きといってもいいわね。逃げ出す気など起こさず、そのまん中でじっとしていれば、なんにも感じないの。だけど、どうかして逃げ出そうと外側のほうに近寄りすぎると、渦に巻きこまれて、元のところに押しもどされてしまうのよ。わたし、ありもしないこといってるんじゃなくてよ。その渦巻をじかに感じた気がしたこともあったわ。泳いでいて、渦波にまきこまれたみたいだったわ。なにもかも見えないの。ただ引きずりこまれることがわかるだけ。そこにそんな渦波のあることに、ほかのひとは、ちっとも気がつかないのよ。それでいて、自分の力では、どうにもならないの。どう、わたしのいうことわかって?」
女は、男がいいはしなかったが、口をひらけばいっただろうと思われることばを払いのけるように、手を横に振って見せた。
「いいえ、わたし、知ってるわ。毎年、わたしたちみたいな女や男が、何千人となく、この土地へ出て来るのよ。向こう見ずに、いきなりとびこんで来るんだわ。ニューヨーク全体が、よそから来た人間ばかりだというわね。でも、そうだからって、わたしのいうことが間違っているとはかぎらないことよ。かえって、わたしの正しいことを証明してくれるだけなのよ。いいこと? 都会は性悪だわ。ほかの人よりちょっと弱かったり、ちょっとのろかったり、ちょっと力が足りなかったりすると、そんな人を目がけて、都会はとびかかって来るのよ。そんな人にだけ、本性をあらわすの。都会は卑怯者だわ。負けている人だけをたたきのめすの。都会は意地悪だわ、ほかの全部の人に親切だとしても、わたしにだけはべつなのよ。わたし、都会を憎んでるの。わたしの敵だわ。わたしを行かせてくれないの。都会のせいなのよ。ちゃんと知ってるわ」
「なぜ、君は帰らないの?」男は、また同じ質問をくり返した。「どうしてなんだ?」
「わたしに、都会の腕を振りもぎるだけの力がないからよ。今すっかりお話ししたつもりだったけど。バスの終点で腰かけて待っていたときに、わたしには、そのことがはっきりわかったわ。なんだこんなものと軽蔑したりすると、それだけ強い力で引っぱり戻されるんだわ。都会の毒気は、いつのまにか、『常識』という体裁《ていさい》のいい姿になって、わたしの頭の中にもぐりこんでいるのよ。わたしを台なしにしてしまうのよ。ビルのてっぺんから朝の太陽がのぼりはじめ、三十四丁目の歩道に、人が押し合いへし合いしはじめると、都会のやつ、馴《な》れ馴れしくひとをからかうんだわ。わたしの耳もとでささやくの。『今日はよして、あしたにすればいいじゃないか、なぜ、もうひと晩がまんしないのか。なぜ、もう一週間がんばってみないのか。なぜ、もう一度ぶつかってみないのか』って。とうとう、いよいよバスが出るときになって、わたし、鞄をブラ下げたまま、夢遊病者のようにフラフラと反対のほうに歩き出してしまったわ。町に入ると、どこかのビルの上のほうで、トロンボーンとサクソフォンが、ひとをからかうように鳴っているのがきこえたわ。『ほうら、勝ったぞ。どうぜ逃げ出せるもんか。勝った、勝った』って、冗談じゃなく、ほんとにそうきこえたのよ」
女は、片手で頭を支えて、考えこむように眼を伏せた。
「わたしが、都会のかな縛《しば》りから抜け出せなかったのも、ひとりぼっちだったせいかもしれないわね。ひとりでは、とてもそんな力が出せなかったのよ。誰かいっしょだったら、誰かが、あと戻りしようとするわたしの腕をしっかりつかんでいてくれたのだったら、わたしも弱気にならずに、帰れていたかもしれないわ」
男の顔が引きしまった。手のひらを横に立てて、テーブルの上に一本の線を引いて見せる。何かと何かとを――たぶん、過去と現在とを、キッパリ分けへだてるような仕方だった。「きのう、君と会ったのだったらよかったのになあ」それは、むしろ自分自身にいってきかせるようないいかただった。「今晩でなく、きのうの晩だったらよかったのになあ」
男のいったことの意味が、女にはわかった。この人はきのうから、なにかいけないことをしているのだ。だから、いまさら故郷に帰れなくなったのだ。口に出してはいわなかったけど、なにかしら心に重荷を負っていることは、ずっと前からわかっていた。
「さあ、ぼくは、おいとましたほうがよさそうだな」
男は、帽子のある寝台のほうに行った。見ていると、片手で枕のはしを少しもち上げ、あいているほうの手で、上衣の内ポケットから、なにかを内証でとり出そうとするような素振りをしかけた。
「よしてよ」女の鋭い声が飛んだ。「いけないったら」それから声をやわらげて、「そんなことしてもらわなくたって、バス代ぐらいあるわ。乗換え場で、ハンバーグステーキをたべるニッケル玉まで用意して、もう八か月も前からべつにしてあるのよ。鳥が卵を抱いているみたいに、大事にしてあるのよ。鳥の卵なら、とっくにひよこになっているころだけど」
男は、帽子を頭にのせてもどって来た。テーブルのそばでも立ちどまらずに、通りすがりに女の肩に手をちょっと触れただけで、そのまま、重い足を引きずるようにノロノロとドアのほうへ行きかける。手を触れたのが、お別れのあいさつだった。口には出さなかったが、その気もちは――同じ悩みをなやみ、お互いに助け合う力すらもたないという共感、運命の海をただよう小舟に乗り合わせた二人という気もちは、のこりなく女につたわってきた。
戸口に行き着いた男の手が、ドアの|握り《ノブ》をつかんだ。
「ちょっと」女が、静かに声をかけた。「あんた、なにかして追っかけられているのね?」
男はふりかえった。その顔には、驚きも不審のいろもない。「うん、夜が明けたら、遅くても八時か九時には、ぼくの捜索がはじまるだろうな」まるでひとごとみたいないいかただった。
[#改ページ]
一時四〇分
男は、ドアの|握り《ノブ》を離して、また女のそばまで戻って来た。なにもいわずに、上衣の裏地をまさぐり、裾《すそ》の近くに、ナイフかかみそりでわざと裂いたらしい裂け目をとめてあるピンをはずした。裂け目に差しこんだ指先を器用にうごかして、なかをさぐった。と思うと、二人の間のテーブルの上に、ゴムのバンドで束《たば》ねた紙幣の束がおかれた。一番上の紙幣の額面は五十ドルだった。べつの側の同じような裂け目をさぐると、二つ目の紙幣の束があらわれた。こんどは、一番上は百ドルの紙幣だった。
ひとところが目立つほどふくれ上がらぬように、上衣の裾まわりに均《なら》して入れてあったので、ぜんぶを取り出すには少し手間どった。ポケットからも出て来た。片ほうの脚の靴下留めにもはさんであった。みんなすっかり出し終ったときには、テーブルの上に、ゴムバンドのかかった紙幣の束が六つズラリと並んだ。七つ目の束は、バンドがなく、使いかけになっていた。
女の顔は、無表情だった。「いくらあるの?」抑揚のない声で訊ねる。
「はっきりしないが、まだ二千四百ドル以上はあるだろうね。はじめは、ちょうど二千五百ドルあったんだ」
女の顔には、まだ表情がなかった。「どこからもって来たの?」
「よその家から盗んだんだ」
それっきり、四、五分の間、会話はとぎれてしまった。二人とも、紙幣の束など眼に入らない様子だった。
しまいに、男のほうから話しはじめた。そんな気になったのは、相手が故郷の町から来た女だったからかもしれないが、いずれにしろ、誰かに話さずにはいられなかったのだ。困ったことのあったときに、まっ先に打ちあける相手は、誰でも、隣の家の女の子なのだ。もっとも、故郷にいたのなら、うちあけなければならないこんな事件も起こらなかったろうが、遠くはなれたこの土地で、それが起こってしまったからには、この女のほかに、打ちあける相手はないのだ。
「少し前まで、ぼくは、電気屋の手つだいをしていた。徒弟《とてい》というのか、助手というのか、名前はどうでもいいが、とにかく、そんな役目だった。大した仕事でもないが、ないよりはましだった。店は、簡単な電気工事ならなんでも引き受ける――ラジオの修繕、電源方式の転換、アイロンや真空掃除機の修理、コンセントの新設、屋内配線の変更、ベルのとりつけ――要するになんでも屋なんだ。
そんな商売目あてに、この土地へ出て来たわけではなかったが、数週間も公園のベンチを宿にしていたころとは、くらべものにならないいい身分だったから、不平を鳴らすつもりはなかった。
そのうちに、ひと月ばかり前に失業してしまった。首を切られたわけじゃない。店のほうがなくなっちまったんだ。年よりだった親方が心臓をいためて、静養しなきゃならんことになった。店を預ける人がなかった。ぼくは、身うちでもなんでもない。だもんで、親方は店を閉めちまった。しょうことなしに、ぼくはほうり出されて、元の黙阿弥《もくあみ》だ。賃仕事でもさがしまわるよりほかない。どうせ浮き草稼業だ。行きあたりばったりなんでもやった。安酒場の皿洗い、料理店のボーイ――不景気なこの土地には、そんな仕事っきゃない。ほんとなら、落ち目になったとわかったら、バス代のあるうちに家に帰ればよかった。手紙を書いて、金を送ってもらったってよかった。しかし、君と同じような気もちだったんだなあ。つまり負けを認めるのがいやだった。自分でとび出して来たんだから、せめて自分の力で一本立ちしたかった。いい気なもんさ。ぼくという人間も」
男は、両手を深くポケットに突っこみ、頭を垂れて、自分の足もとを見ながら、部屋の中をゆっくり歩き歩きしゃべっていた。
女は、椅子の上に横ずわりになり、自分の胴を抱えこむようにして、一心に耳をかたむけている。
「ここで話をもどして、失業する数か月前の去年の冬に起こった出来事をきいてもらわなければならない。君にも信用してもらえそうにない、いやな話だが、実際に起ったことなんだ。ぼくの雇われていた店は、三番街の、それもゴールド・コーストのはずれにあった。そら、七十丁目の東側の豪勢な連中の住んでいる場所だ。親方は、古くからそこに店をもっていて、念の入ったキチンとした仕事ぶりで評判をとっていたので、君などマサカと思うくらいしょっちゅう仕事を頼まれて、そういった連中の邸に出入りしていたもんだ。だからぼくたちは、ニューヨークでもとび切りのすばらしい邸を、ほうぼう見てまわったわけなんだ。
あるとき、東七十丁目の、ある大きな邸から仕事を頼まれた。そこの主人が、わざわざフロリダまで出かける代りに、自分の家で手軽に冬の日光浴をたのしもうとして、紫外線ランプを買いこんだ。そこで、浴室の壁に電源のコンセントを新しくつけなければならないことになった。
その邸の主はグレーヴズというんだが、君になにか心当りでもあるかね?」
女は、頭を振った。
「ぼくもきいたことのない名だった。今だってそうだ。しかし、親方のいうには、新聞の社交欄にもしょっちゅう出る、古い有名な家がらなんだそうだ。その親方だって、自分で社交欄など読むわけじゃないが、そういうことにひどくくわしい人だった。仕事は、いたって簡単なものだった。それでも三日がかりだった。というのは、家の人に迷惑がかからないように、毎日一時間かそこらしか働けなかったからだ。
浴室の壁に、握り拳《こぶし》ほどの大きさの穴を、壁の厚さの半分ぐらいまで掘って、埋めてある配線を引っぱり出し、そこから分岐線をとってコンセントをとりつけるというのが仕事だった。古い家なので、頑丈な、見たこともないほど厚い壁だった。親方は、なにかを取りに店に帰って、そこには居合わせなかった。ぼくが、ひとりで壁をコツコツやっていると、穴の奥で、木の板のようなものに突きあてた。なんだかわからなかったが、そこを避けて掘り進んだ。それっきり、べつになにごともなかった。
その次の日――だったと思うが、浴室の隣の部屋に、誰かが入って来た。そこは、図書室だか、二階裏手の書斎だか、なんでもそんなふうな部屋だった。入って来た人は、そこにほんの一、二分いただけで、また出て行った。
ぼくの穴を掘っている壁の反対側で、かすかなもの音がした。隣の部屋との境のドアはあいていた。頭を反《そ》らして、そっちのほうを見た。ちょうど具合のいいところに鏡があって、その部屋にいる男の姿が映っていた。その男は、ぼくが仕事をしている同じ壁の、ちょうど同じあたりに向って立っていた。部屋のグルリの壁に半分の高さまではりめぐらしてある腰板の一部を開けて、作りつけの金庫の小さなダイアルをまわしている。二フィートに四フィートばかりの小型の金庫だった。そういう金庫を壁にはめこんだ部屋がよくあるんだ。金庫のとびらをあけると、浅い抽斗《ひきだし》をひき出して、金をとり出し、また押しこんだ。
それだけ見とどけると、ぼくはまた仕事にもどった。べつになんの興味もなかった。壁にした音の正体がわかりさえすれば、もう用はなかった。あとになってから、ふと、前の日、穴の奥で木の板にぶつかったことを思い出し、なるほど、あれは、金庫をはめこんだ壁の窪《きぼ》みの内張板だったのだなと思った。それっきり、そのことは忘れてしまった。ほんとだよ。君が本気にしなくたって、それはしかたがないがね」
「わたし、あんたが同じ町から来たといったときには、本気にしなかったけど、それがうそでなかったのだから、こんどだって、本気にしないわけにはいかないわ」
「じゃあ、こんどこそ、とても信じてもらえそうにないことを話そう。ぼく自身、どうしてそうなったのか、さっぱりわからないんだ。ぼくとは、なんの関係もなしに起ったことなんだ。その邸には、玄関を入ってすぐのところに、小さなテーブルがおいてあった。ぼくは、べつにわけもなく、そのテーブルに道具箱をおきっぱなしにして、二階に仕事をやりにのぼって行ったことがあった。仕事の段取りがついてしまえばいらないような道具を入れてもち歩く箱だったが、いるいらないというよりは、うっかりおき忘れたというほうがよさそうだ。仕事をすっかりすました最後の日、店に帰ってその道具箱をぶちまけると、道具や電線の切れっぱしにまじって、誰かがまちがって落しこんだらしいものが出て来た。落しこんだのでなく、テーブルの上にあったのを、使った道具を箱にしまうとき、ぼく自身がうっかりいっしょに入れてしまったのかもしれない。一度か二度、玄関のドアをあけてくれたことのある頭の悪そうな顔をした女中が、テーブルのあたりを掃除するときに、道具のひとつかと思って箱に入れたのかもしれない。ぼくがわざともって帰ったのでないことははっきりしている。店に帰ってはじめて、そんなものの入っていることに気がついたんだ。それは誓ってもいい。今でも、どうしてそんなものが迷いこんだのか、見当もつかないんだ」
「そんなものって、なによ?」
「邸の玄関の鍵なんだ。いくつもある鍵のうちのひとつなんだろうがね」
女は、かたい眼つきで男の顔をじっとみつめただけで、なにもいわなかった。
「どうしてそんなものが迷いこんだのか、さっぱりわからないんだ」男は、またくりかえした。「わざとしたのでないことははっきりしている」両手をポケットから出して、ダランと下げる。「誰にも信じてもらえないかもしれないが――」
「一時間前なら、わたしだって、絶対に信じなかったわ。今はそうもいいきれないけど――とにかく、おしまいまできかせてもらうわ」
「それからのことは、話さなくても察しがつくと思うけど。鍵の出て来たことを、親方に話して、鍵も渡しちまえばよかったんだ。そうしたかったのだが、親方はもう自宅へ帰っちまって、ぼくだけが店の戸締まりをするために残っていたんだ。せめて、自分でその邸にかえしに行けばよかった。しかし、時間はもう遅かったし、腹は減ってくたびれてもいた。一日じゅう働きづめだったので、早く食事にありついてノンビリしたかった。そこで、その晩は、そのまま放ったらかしといた。あしたになったら、忘れずに返しに行くつもりだった。だが、それはしなかった。次の日は、朝の八時から夜まで、少しも暇がなかった。それから後は、すっかり忘れちまった。
数か月|経《た》つと、さっき話したように、仕事がなくなって、路頭に迷うことになった。それから――話をちぢめて、きのうのことだ。一文なしになったぼくは、道具箱を引っぱり出して、なにか質草でもないかとさがしてみた。それまでにもっているかぎりのものは、すっかり質屋にもって行ってしまっていた。道具箱を引っくりかえすと、鍵が転がり出た。それを見て、前のことを思い出した。
ぼくは、鍵をポケットにしまいこむと、少しばかりおめかしをして、邸へ出かけて行った。そのときに頭にあったのは、ひょっとして、電燈のソケットのゆるんだのを直すぐらいのことでもいい、なにか仕事をやらせてもらえるかもしれない、と、それだけだった。
邸に着いてベルを鳴らしても、誰も出て来ない。ずいぶん鳴らしつづけたが応《こた》えがない。午後になったばかりのころだった。あきらめて帰りかけたが、次にどうしようと決めかねて、しばらくぐずぐずしていた。そこへ、なにか品物を配達する小僧が、べつの邸から出て来て、訊きもしないのに、その邸は、家族が先週から別荘のほうに避暑に出かけて、誰もいないのだと教えてくれた。そんなら、なぜ、入口や階下の窓のシャッターをしめて行かないのかと訊きかえすと、たぶん一人だけ、なにかの用があって残っているのだろうということだった。では、その残っている人に会うには、いつがいいだろうか、と相談をもちかけると、大してうまい知慧も浮かばないらしく、夜になって来てみたら、と常識的な返答だった。
そこでぼくは、自分の部屋に帰って、夜になるのを待った。待つうちに、はじめて、その考えが頭の中に芽生えてきたんだ。どんな考えかということは、いわなくたってわかるね?」
「ええ、わかるわ」
「自分でも気のつかないうちのことだった。そんな考えは雑草みたいなもので、いったん芽が出てしまったら、なかなか退治するわけには行かない。それに、なにからなにまで――いわば肥料が揃《そろ》っていた。最後のニッケル玉が残っているきりで、夕飯にありつくこともできかねていたんだ。これっきりというニッケル玉だと、足りたとしても、なかなかコーヒーを飲んだり、軽い食事をしたりはできないものだよ。もっと必要なことが起るかもしれないと思うと、使ってしまうのが恐ろしくてね。それに、もう二週間以上も前から部屋代を責められて、追ん出されるギリギリのところまで来ていた。とにかく、その午後じゅう、ベッドの縁《ふち》に腰をかけて、鍵をほうり上げては受けとめ受けとめしているうちに、その雑草のような考えは、だんだんのびて来た。
七時ごろ、暗くなってすぐ、もう一度その邸に出かけた」男は、うつろな笑いを見せた。「もうこれからのことは、どうあってもいいわけが立たない。君にも同情してもらうわけには行かなくなるんだ。で、邸のある通りの角まで来ると、ぼくは、そこで足を止めた。そこから見ると、階下の窓からあかりが洩れていた。間に合ったなと思った――家の人に会うのが目的で来たのならば、だ。邸の前には、タクシーが一台待っていた。まもなくあかりが消えて、一分ほどすると、男と女とが一人ずつ、玄関からあらわれ、タクシーのほうへ歩いて来た。乗りこむ前につかまえようと思えば、そのひまはタップリあった。べつに急いでいる様子はなかったから、走ってもよかったし、声をかけて待ってもらってもよかったのだ。
ところが、ぼくの足は根が生えたように動かなかった。じっと立ったまま、二人の行ってしまうのを待っていた。二人のうちのどちらがこの邸の人なのか、それは知らなかった。しかし、いずれにしろ、ここ数時間もどって来ないらしいことはわかった。女は、長いドレスだったし、男は、タキシードを着ていた。そんな装いで出かけるときには、まず一時間やそこらで帰って来ることはないものだ。
タクシーは、二人を乗せて行ってしまった。ぼくも、そこを立ち去った。ポケットの中の鍵に触り触り、心の中の考えとたたかいながら、その邸のあるブロックをひとまわりした。もとの場所まで来ると、まわれ右をして、反対の方向から、もう一度ひとまわりした。心の中のたたかいは、ずいぶんはげしかった。だが、今となっては、まだまだはげしさが足りなかったと思える。そのときには、なんといったって胃の腑《ふ》が空っぽだったのだから、しようがなかった。道具箱はもって来なかったが、ポケットには、どうにか間に合いそうな手軽な道具が、二つ三つ入っていた。偶然にそんなものが、ポケットにもぐりこんだのではなくて、自分でえらび出してもって来たのだ。
一度は、誘惑を殺すつもりで、通りがかりにあった屑もの罐《かん》の中に、鍵をほうりこみもした。だけど、二分ほどためらったあげく、弱気を出して引きかえし、また拾い上げた。それからは、もうぐずぐずせずに、まっすぐその邸の玄関まで行った。良心は捨てちまったんだ。邪魔な荷物をおっぽり出したようで、さっぱりした気もちだったよ」
男は、寒々とした笑い声をうつろにひびかせた。「あとは説明するまでもない。念のために、一度だけベルを押してみた。誰もいないのはわかっていた。鍵を鍵穴にさしこんだ。ドアは、わけなくあいた。錠を変えもしなかったのだ。鍵の紛失に気づいていないのかもしれない。
慣れたみちには、あかりはいらなかった。いきなり階段をのぼって、二階の書斎ふうの部屋に入りこんだ。隣の浴室の電燈をつけた。そこには外に向かった窓がないから、つけても大丈夫だった。道具をとり出して、金庫の裏側の壁のところに行った。ちょうど金庫のま裏に当る場所に、もう一度、こんどは前のときよりももっと大きな穴を掘って、木の板をこじはずした。
見たこともないほどお粗末な金庫だった。扉と枠組みだけが鋼鉄製で、ほかはどこも木の板でできている。うしろの板をはずすと、それだけで中味はすっかりさらけ出され、抽斗《ひきだし》も、浴室のほうから引っぱり出せた。正面からあけようとすれば、なかなか手強いだろうが、まさかうしろの壁から穴を掘られようとは考えもしなかったらしい。
いくつかの抽斗には、いろんな書類がつまっていたが、現金のほかは眼をくれなかった。現金だけをとり出し、宝石類や株券などはもとに戻した。抽斗を金庫におさめ、木の板をはめこんだ。床に散らかった漆喰《しっくい》のかけらを拾いあつめ、壁の大きな穴は、シャワーカーテンを引き寄せて隠した。さっきの男――男のほうが、この邸の主人のような気がする――その男が、夜遅く帰って来ても、すぐには異常に気がつくまい。あしたになって、起き抜けに水を浴びるとき、シャワーカーテンを動かして、はじめて気がつくことになるだろうね。
ぼくのやったのは、大たいそんなことだった。あかりを消し、階段を降りて、玄関のドアのガラスごしにしばらく外の様子をうかがい、あたりに誰もいないのを確かめてから、外に出てドアを閉め、いそぎ足に、邸を立ち去った。
ところが、罪を犯した報《むく》いはすぐに来はじめた。ニッケル玉ひとつ使わないうちに、いや、邸から一ブロックも歩かないうちに。
これまでぼくは、道路をわがもの顔に大手を振って歩けた。なにひとつ自分のものがないときにだって、道路だけは自分のもののような顔ができた。職がなくて腹ペコでも、誰の顔であろうと、まともに見ることができた。それが、ふいに道路は自分のものでなくなってしまった。自分のものでない道路にぐずぐずしているのは危ない。向こうから来る人の顔、それがこっちに眼をつけているようなら、用心しなければならない。それに、うしろから来る連中――今にもグイッと肩をつかまれそうな気がする。
そんなことよりもっと悪いことには、せっかく盗《と》って来た金の使いようがなかった。どう使っていいのか、まるっきりわからなくなってしまった。三十分前には、欲しいものが、したいことが、百も二百もあった。それが買えるなら、できるなら、片腕を切って渡してもいいと思っていた。それが今になって、なにひとつ思い出せないのだ。
さっきまでは、空《す》き腹が身にしみていた。一週間もその上も、ろくなものを口に入れていないのだ。ところが、ちっともひもじくなくなってしまった。とびきり豪勢な料理店を見つけてそこに入り、いつか一度はやってやろうと夢見ていたとおりに、メニューの端から端まで、残らず注文した。注文しているうちは、すばらしくいい気もちだったが、さて、料理がはこばれて来はじめると、妙なことになった。なにひとつ、のどを素直に通ってくれないのだ。眼の前に皿がおかれ、ナイフとフォークをとり上げると、どうしたことか、『お前の食おうとしているのは、お前自身の将来なんだぞ』という声が、頭の中でわめきはじめる。
どうにもがまんがならなくなった。五ドルの紙幣を一枚、テーブルの上におき、残りの注文はほったらかしにして店をとび出した。外に出ると、ニッケル玉たった一枚しかもたなかったときのことが思い出されてならなかった。たった一枚だったが、大いばりで使えるニッケル玉だった。それで買ったコーヒーやビスケットなら、わけなくのどを通ったのだ。それがなくなってからでも、決してのどはつかえていやしなかったのだ。
よくわからないが、人間というものは、生まれつきの正直ものが、急に悪ものになったり、悪ものがふいに正直ものになったり、そんな器用なまねはできないらしい。そんなふうに変わるには、大へんな苦しみがつきまとい、何年もかかるもののようだ。
それからしばらくして、行き会う人の顔いろをうかがいながら、うしろの足音にビクビクしながら、通りを歩いているうちに、向かい側のあけっ放した窓から、音楽がきこえてきた。二つ前の角あたりから、いやな眼つきの男が、しつこくあとを尾《つ》けて来ている気がしていたところだったので、その男の見ていない隙《すき》に、すばやくその建物にとびこんだ。そこなら、街のひと目を避けて、しばらく時を過ごすには格好の場所だと思ったのだ。切符をゴッソリ買いこんで、そこらを見まわすうちに、最初に眼にとまったのが――」女の顔をみつめ、眉を寄せて、「君だったのさ」
「それがわたしだったのね」女は、片手をゆっくりテーブルの縁に走らせながら、おうむ返しにつぶやいた。
二人とも黙りこんだ。男が今までのべつ幕なしにしゃべり続けていただけに、その沈黙は実際よりも長く感じられた。ほんとは、ごくわずかな合い間だったのだろう。
「これから、どうするつもり?」女が男を見上げた。
「どうするって――なにができるだろうね。待つぐらいのことかな。つかまるのを待つだけさ。どうしたってつかまるよ。あの男は朝になれば、九時か十時ごろ、水を浴びにあの浴室に入って、壁の穴を見つける。近所に配達に来たあの小僧は、きのうの午後、邸のベルを鳴らしていた男のことを憶えている。前の親方は、ぼくのこと、ぼくの住んでいた場所などを教える。大して暇はかかりやしない。結局、犯人はぼくだということを突きとめて逮捕する。あしたか、あさってか、今週の終りか、いずれにしたって、近いうちのことだ。逮捕されるにきまっているよ。それがちゃんとわかっているくせに、悪いことをする前には、決してそんなことを考えやしない。あとで思い出すんだ。人間ってそんなものなのさ」
男は、捨て鉢《ばち》に、肩をすぼめて見せた。
「この土地から逃げ出そうったって、どこかに身を隠そうったって、なんの役にも立たないんだ。ぼくのような新米のチンピラに逃げ隠れできるもんじゃない。向こうがその気になったら、じっとしていようと、よその土地へ逃《ず》らかろうと、逮捕されるにきまってる。逃げようったって無駄なことだ。だからぼくは、どこにも行かずに待っているつもりなんだ」
男は腰をおろし、当惑した敗北の微笑を浮かべて、床をみつめた。どうしてこんなことになったのか、いまでも解《げ》しかねているようだ。
女は、男のその様子に心打たれた。そこには、すがる藁《わら》一本見出せない、あきらめきった頼りない男の姿があった。そうだ、この人は、隣の家の男の子なんだ。女はそのことを切なく身に感じた。悪い人じゃないわ。ダンスホールの狼なんかじゃないわ。わが家の門の出入りごとに、手を振ってあいさつし合う、隣の男の子なんだわ。垣根に自転車をもたせかけて、上機嫌にしゃべり合うこともある相手なんだわ。この人、でかいことをやってのける気で、都会を甘く見て出て来たのだ。それが、とうとう都会に打ち負かされてしまったのだ。汽車に乗りがけに、そうでなければバスの発着所で、母さんか妹かに、お別れのキスをしたそのとき、きっとこの人も、しばらくは泣きたいような気もちになったのよ。むろん、涙を見せたりはしなかったろうけど。わかるわ。わたし自身がそうだったのだから。それも、ほんのしばらくのことで、やがては前途に大きな希望が、黄金の輝きとなり、そんな感傷など追っぱらってしまうんだわ。人生の戦いに、雄々《おお》しく出陣する若ものの晴れの門出《かどで》なんだもの。乗りものが走り出してから一時間とたたないうちに、すっかり計画は立てられてしまうのだ。名声も、富も、幸福も、なにからなにまで、もはやわがものとなったような気がする。自分のかつての経験から、故郷を離れた最初の日にこの人の胸の中になにがあったか、それこそ手にとるように読むことができるのだ。はるか故郷の町には、この人のことを、すばらしい男だと思っている人たちがいるのだ。そう思うのが当り前なんだもの。この人の家族も、この人の書いた手紙を、垣根ごしに隣の家族に読んできかせ、この人が、都会でどんなにうまくやっているかを自慢したことだろう。わたしの家族もそうしたのだから。
それが、今、ここにこうしているこの人はどうだろう。なぜ、こんな間違ったことになったのか、なぜ、こんなに喰いちがってしまったのか。それは、この人以上にわたしにはもっとわからない。わかるのは、この人がこんなふうに、いつ肩をグイッとつかまれるかとビクビクしながら、ひと目を逃げまわっている、そんなことであってはならないという、それだけだ。隣の家の男の子だもの。陽気に白い歯を見せて笑う、親切な隣の男の子なんだもの。
片手で頭を支えて考えこんでいた女は、顔を上げた。今まで、話し手ときき手の間に引かれていた境界線を越えでもするように、自分の椅子を相手の近くに寄せた。しばらく、男の顔をじっとみつめる。顔を確かめるというよりは、自分のこれから口にしようとすることを考えこむように。
「ねえ」女は、やっと口をひらいた。「こうしたらどう? わたしたち、あんたとわたしとで、故郷の町に帰るのよ。次のチャンスを待って、もう一度はじめからやり直すんだわ。わたし、ひとりではどうしても駄目だったけど、その六時のバスに、二人いっしょに乗りましょうよ」
男は、答えなかった。女はテーブルの上に乗り出して、自分のことばを相手にしっかりとのみこませようとするように、「ね、今をはずせば、二度とこんな機会は来ないわ。ねえ、この都会がわたしたちをどんな目にあわせたか、わからないの? これから一年たったら、いいえ、半年だって、わたしたち、どんなことになるか、わからないの? そうなってしまったら、もう遅いのよ。どんなにもがいたって、助かりっこないわ。名前は同じだけど、まるっきりわたしたちでない別の男と女とになってしまうのよ」
男の視線が、チラッとテーブルの上の紙幣の束に走り、また、女の顔にもどった。「いや、ぼくには、今でももう遅すぎる。ほんの数時間だけど遅すぎる。ひと晩の半分だけ遅すぎる。たったそれだけのことで、一生涯とりかえしがつかないのさ。君と会うのが今晩でなく、ゆうべだったらよかったのになあ」男は、前にもいったことばをまたくりかえした。「なぜ、あんなことが起ってしまってからでなく、前に、君と会えなかったのだろうなあ。今となっては、どうしようもない。バスに乗ったって、終点で待ちかまえている連中につかまるだけだ。そのじぶんには、ぼくの身もとはすっかりわかっているから、この土地にいないとなれば、故郷の町をさがすよ。君といっしょに行けば、君まで巻きぞえにしてしまうだけだ。こんどのことを一番知られたくない故郷の人たちの鼻先で、そんな目に会うことになるのさ」男は、頭を振った。「君は行くといい。ぼくは駄目としても、君にはまだチャンスがある。今晩すぐに、ひとりで出かけたまえ。君のいうように、この都会にいてはよくない。今すぐ、また弱気にならないうちに出かけたまえ。君がよければ、バスまでいっしょに行ってあげよう。君の勇気がくじけて逃げ出さないように、見送ってあげるよ」
「駄目なのよ。さっきも話したじゃないの。わたし、ひとりではどうしても駄目なのよ。すぐ次のジャージーで、バスを降りて、またここへ戻って来るだけだわ。あんたといっしょでなくては駄目なの。あんただって、わたしのような道連れがなければ、それ以上のことはできないと思うわ。わたしたちが二人で力を合わせなければ、どうにもならないことなのよ。わたしたち、お互いに最後の一本の藁《わら》なのよ。めぐり会って、それがわかったのよ。このせっかくのチャンスを、みすみす逃してしまう手はないわ。まだ生命があるのに、自分から死のうとするようなものだわ」女の顔は、死にもの狂いの訴えにゆがんだ。その眼は、ひたすらに男の眼をとらえた。
「連中が待ちかまえているに決まっているんだ。ぼく、でたらめをいってるんじゃないぜ。ぼくの足が、バスのステップを離れない先に、首っ玉をつかまえられるんだ」
「だけど、なにも失くならなかったのだったら、なにも盗《と》られなかったのだったら、そんな目に会うことはなくてよ。そうだったら、あんたは、なんの理由で逮捕されるの?」
「しかし、失くなったものがあるんだからなあ。そら、このぼくたちの眼の前にさ」
「わかってるわ。でも、まだ戻して来る時間があるわ。わたしのいうのは、そのことなのよ。そのお金をもって行こうというんじゃないわ。そんなものから逃げ出そうとしているんじゃないの。都会の悪を、わざわざ故郷までもって帰ることないわ」
「すると君は、できるというんだね? こいつを、もとの場所へ――」男の顔に、脅《おび》えたようないろがあらわれた。自分でもひたすら望んでいながら、実行するのを恐れるように。「だって、その邸には、一人しかないのでしょう。その人が、よそ行きの装いで出かけたのだから、遅くまで帰るまいって、あんた、自分でそういったわ。朝になるまで壁の穴には気がつかないだろうって、そうもいったわ」女は、息もつがずに話しつづける。「あんた、邸に入るのに使った鍵、今でももっていて?」
女のその早口とテンポを合わせたように、男の手は、矢つぎばやに、あっちこっちのポケットをさぐった。希望のテンポは加速度に高まって行く。「はて、捨てたおぼえはないんだが。鍵穴に残して来なかったとすると――」身うごきが自由になるように、椅子から立ち上がる。ふいに、大きな息が口をとび出した。鍵をさぐり当てた。それが合図だった。「あったぞ!」引っぱり出して、「ほら、あったあった。ほら!」二人とも、鍵のあったことが信じられないようだった。「こんなものを、今まで大事にもっていたとは、まったく不思議だ。まるで――なんというか――」
「そうよ、ほんとにそうだわ」女には、男のいおうとしていることがわかったが、二人とも言葉がいるのではなかった。
男は、鍵をポケットに戻した。女がとび立った。「さあ、邸《やしき》の人が帰って来ないうちに、このお金をもとに戻すことができれば、それですっかりなのよ。なにも盗られないのに、壁に穴をあけたぐらいのことで、あんたを追っかけまわす人などないわ」
女は大急ぎで、散らかった紙幣の束をかきあつめ、ひとつに揃えて男に渡した。とたんに、同じ考えが、いっしょに二人の心に浮かんで来て、おたがいに、あわてたように顔を見合わせた。「ねえ、今までにどれだけ使ったの? 盗んだのはどれだけ?」
男は、額を片手でおさえた。「知らないんだ。ちょっと待ってくれ――憶えているかな――食べ残した食事に五ドル。それから、君のホールで、確か十五ドルぐらい切符を買ったっけ。両ほうで二十ドル――それ以上ってことはない」
「待って。そのくらいなら、わたし、もっているわ。それを足しましょうよ、ね」
女は、寝台にかけ寄り、かけ蒲団を引きずりおろし、わら蒲団の縁をもち上げて、その裏に思いがけなく口をあいている裂け目に手を突っこむと、アルバムにはさんだ押し花のようにみじめな形の紙幣を、いく枚か引っぱり出した。
「そいつは困るな。そんなことまでしてもらうわけにはいかないよ。ぼくのことなんだから、君にまで迷惑をかけることはないんだ」
女は、ダンスホール用にとっときの衣裳に着替えて、男のま正面に手を突きつけた。「いいこと? わたしが自分から勝手にすることなのよ。議論などききたくないわ。戻すなら、キチンと耳を揃えて戻さなきゃ駄目。一ドルでも欠けたら、やっぱり、それだけ盗んだことになって、あんたは逮捕されても文句はいえないのよ。それに、わたしに迷惑をかけたらどうだっていうのさ。そのほうが気がすむんだったら、貸すことにしたっていいわ。故郷に帰って、もう一度働き出してから返してもらうことよ。二人分のバス賃ぐらい、ここにまだタップリ残っているわ。そっちのほうも、あんたがしたければ、あとで勘定してもらうわ」その紙幣を男の手に押しつけて、「ほら、これは、しっかりもっているのよ。わたしたちの、あんたとわたしのお金なのよ、まっ正直な」
男は、旅立ちの用意のあわただしさの中に、やっと息のつぎ間を見つけたように、女の顔をみつめた。「これはどうも――ぼく、なんといったらいいか――」
「なにもいうことないわ」女は、以前坐っていた椅子にもどった。「いいわね、わたしたち、どんなことがあったって、この夜明けに、こんな街から出て行くのよ。それが一番大事なことだわ。――ちょっと待ってね。靴をはいて、鞄に少し詰めこむから。たいして暇はかかりやしないわよ」男は、戸口のほうへ行こうか行くまいか、と、もの問いた気に女の顔を見た。「駄目よ。この部屋にいてちょうだい。外に行かないで――あんたが、いなくなってしまいそうな気がするのよ。あんたばっかりが、わたしの故郷へ帰れるチャンスなんだもの」
「いなくなったりするものか」男は、きこえるかきこえないかの声でつぶやいた。
女は、また立ち上がって、片足ずつ靴を突っかけた。「不思議なようだけど、わたし、もうくたびれてなんかいないわ」
男は、女が寝台の下から引っぱり出した古ぼけたスーツケースに、あたりの物をやたらに抛《ほう》りこむのを見守った。
「邸に行くまでに、あの男が帰って来ていたらどうしよう?」
「大丈夫だわ。大丈夫と思いつづけていなければ駄目よ。帰って来ていないようにお祈りするのよ。そうするよりしようがないんだわ。盗りに入るときに見つからなかったのに、戻しに行ってつかまるなんて、そんなことあるもんですか。いっしょだった女とどこかでぐずぐずしているのよ。三時半か四時ごろまで、帰って来ないかもしれないわ。どこに住んでいるんだか知らないけど、女を送りとどけて、それから――」
いいかけたまま、窓のところに行き、ガラスのはまった枠《わく》を押し上げて、からだを乗り出した。壁沿いのほうをすかしてみて、「ほら、時間はまだあってよ。まだなんとかなりそうだわ。やってみるだけのことはあるわよ」
「そんなところから、なにを見てるの?」
女は、頭を引っこめた。「この町じゅうで、やさしくしてくれるたったひとつのものなのよ。毎晩、これ以上どうにもがまんができないと思うときに、わたしを自由にしてくれるの。一度だって、わたしを欺《だま》したことがないのよ。今夜だって、欺しやしないわ。この町に来てからできた、たった一人きりのお友だちなの。そのおかげで、わたしはもちこたえて来たのよ。ずっと遠いパラマウント塔の大時計なの。方角を知っていれば、ここからでも、二つのビルの間の細いすき間から、どうにか見えるわ。その時計が、まだ大丈夫といってくれているわ。いうとおりにして裏切られたこと、一度だってないわ」
女は、鞄の蓋《ふた》をしめた。男が手をのばして、その鞄を受け取った。廊下に出てしまってからも、男はしばらくドアを開けたままにしていた。「忘れものはないね?」
「おしめなさいよ。そんな部屋、二度と見たくないわ。鍵は内側に残しておけばいいわ。もういることもないんだから」
二人は、うす汚い階段を降りた。男の手にしている鞄は、大して重くなかった。つぶれた希望のほかには、なんにも入っていないみたいだった。二人は、足音を忍ばせた。同宿の人たちの耳を恐れるよりは、むしろ、夜の旅立ちにつきまとう、本能的な気がねだった。
階段の途中まで来ると、女は立ちどまって、壁の漆喰が星の形に剥《は》げ落ちたところに、ちょっとの間、自分の手を押しつけた。
「どうして、そんなことをするの?」男が訊いた。
「これ、わたしの幸運のおまじないだったのよ」女は、低い声でささやいた。「出かけるときには、いつもここに触ったものよ。一年ばかり前、まだ配役周旋所《キャスティング・オフィス》みたいなところを歩きまわっていたころのことだわ。なかなか運が向いて来ないと、そんな気もちになるものなのよ。最後に触ったのは、もうずいぶん昔のことだったわ。なんの効き目もなかったわ。でも、今晩は効くかもしれない。効いてくれるといいわね。効いてくれなきゃ困るわ」
女のしゃべっているうちに、男は、四、五段先に降りていた。立ちどまって、しばらくためらった。それから一、二段引きかえし、女のしたように、壁の星形の疵《きず》に手をあてた。やがてまた、二人は降りて行った。
通りへ出るドアの内側で、二人は肩をならべて、ちょっと立ちどまった。女がドアの|握り《ノブ》に手をのばした。ほとんど同時に、男も手をのばした。女の手の上に男の手が重なった。一秒ほど、そのままにしていた。お互いに顔を見合って、ぎこちなく無邪気に笑った。子どもたちのよくするように。「やっぱり、今晩、君に会えてよかったね、ブリッキー」「わたしも、あんたに会えて嬉しいわ、キン」
男は手を引っこめた。女がドアをあけた。なんといっても、今まで女の住んでいたところなんだから……
外の通りは静まりかえって、ひと気もなくのびていた。
[#改ページ]
二時〇分
二人は、眠りこんだ真夜中の寂寞《せきばく》の中に、足をふみ出した。街燈のつくり出す白っぽい光の輪の中に、パッと浮き出したかと思うと、またその向こうのくらやみにのみこまれる。街路の両側にひとつおきにジグザグを描いて、はるか遠くまでならんだ街燈の列も、その非情と、あまりにも規則正しさのゆえに、かえっていたずらに、空虚感と淋しさとをますばかりだった。あたりのどこにも、上のほうにも下のほうにも、人の住んでいるしるしの、窓や戸口からもれるあかりは見えなかった。
巨大な一枚岩にうがった墓穴の中を歩くような気もちだった。ほかには、ひと一人、動くもの一つ見えない。屑もの罐《かん》のにおいをかぎ漁《あさ》る猫のかげさえない。この大都会の町はずれは、さながら死んだものだった。死んだもののようにこわばり、じとじとと冷たかった。二人は、背すじが寒くなるような気がして、お互いに寄り添って歩いた。ふと、無意識のうちに、女は男の腕につかまり、男は、女のその気もちをいたわるように、自分の腕を引きしめた。さっきこっちへ来るときの、間をおいた、自分勝手な歩きかたとは、まるでちがっていた。歩きながら、二人の肩はぶつかり合った。洞穴の上に渡した長い木の踏板を歩くように、二人の足音は、深い静寂の中にうつろなこだまをひびかせた。
「さよなら、マンハッタン」男は、ふざけたように帽子をもちあげ、別れをつげるまねをしてみせたが、それも、大してしんそこからの恐怖を和らげる役には立たなかった。
女はあわてて男の口にふたをした。「シーッ! わたしたちのたくらみを知らせちゃ駄目。そうっと抜け出すのよ。気づかれたら、邪魔されるにきまってるわ」
男は、女の顔を見て白い歯を見せた。「君は、途中から引きもどされるってことを、まじめに考えているんだね?」
「そうよ、まじめよ」女は、沈んだいいかたをした。「そして、ほんとのことだわ」
角まで来ると、男は足をとめて、鞄をちょっと下におろした。大通りには、さすがに、二人の出て来た横町とちがって、動きがあった。しかし、その冷たい、飾り玉のような自動車のヘッドライトや尾燈の流れも、さっきにくらべると少なくなっていた。
「君は、バスの終点で待っていたほうがいい。ぼくはひとりで行って、あのことをすませてから、君に追いつくよ」
女は、男がいなくなってしまうのを恐れるように、男の腕をつかむ指にギュッと力をいれた。「駄目駄目。わたしたち。離れたら負けだわ。性悪《しょうわる》の都会にたぶらかされることになるわよ。わたしは思うわ、『あの人、信用していいのかしら』って。あんたも思うわ、『あの人、信用できるだろうか』って。そして気がついてみると――駄目よ、駄目よ――絶対に離れずにいましょうよ。わたしも、いっしょに行くわ。あんたが中へ入っている間、外で待ってるわ」
「しかし、あの男が帰って来ていたらどうする? 君まで、共犯の疑いで逮捕されるかもしれないぜ」
「そのくらいのことは覚悟の上だわ。あんたはひとりででも、いちかばちかやってみるつもりでしょう? だったら、わたしも一蓮托生《いちれんたくしょう》だわ……その辺にタクシーが見つからない? ぐずぐずしていたら、それだけ危なくなるわ」
「君が払うのかい?」
「だって、生まれかわるのはわたしなんだもの」
二人は、ゆっくり北のほうへ歩きながら、光る二つの眼玉が近づいて来るごとに、立ちどまって手をあげた。やっとのことで一台、急カーブを切って、二人の立っている歩道に乗りあげそうになり、少し行きすぎてからとまった。二人は、その車があともどりするのを待たずに駈け寄り、重なり合って車の中にころげこんだ。
「東七十丁目にやってくれ」男が、行く先を告げた。「大いそぎだ。公園を抜けたほうが早い」
二人を乗せた車は、北へ向けて走った。古めかしく高慢ちきな五十七丁目を七番街まで飛ばす間、信号灯の赤に出会ったとき以外には一度もとまらなかった。その赤信号がまた意地悪く、交叉点ごとに二人をわざと邪魔するように思えた。公園に入ってしまうと、もうさえぎるものはなかったが、道路がクネクネと曲っているので、せっかくそこまでに稼いだ時間を取りかえされるような気がした。
走り出してからしばらくは、二人とも黙っていたが、ある交叉点で停車したとき、男が女に訊ねた。「どうしてそんなに隅っこにちぢこまって、かくれるようにしているの?」
「わたしたち、つけねらわれているんだもの。眼が千もあるのよ。通りを横切るごとに、その向こうのどこかに、眼が一つずつ隠れているような気がするわ。わたしたちには見えないけど、こっちをにらんで、ウィンクするのよ。その眼をごまかすことはできないわ。わたしたちが、なんとかして逃げ出そうとするのをちゃんと知ってるのよ。隙《すき》があったら、しくじらせてやろうと狙っているのよ」
「おやおや、君は、ずいぶん迷信家なんだな」
「迷信なんかじゃないわ。誰だって、敵をもてば、用心深くなるものよ」
しばらくすると、女は車の窓の縁から、こわごわうしろのほうをのぞいた。車の走っている公園から西のほうに建ちならぶ高層建築の輪郭が、街の灯の映る夜空をバックに、無気味な黒いサボテンのように浮き出ている。
「ほら、ずいぶん残酷そうじゃないの。まるでいまにも誰かにとびかかって爪を立てようとしているみたいに、うす気味悪く見えないこと?」
「そりゃあ、どんな都会だって、夜はあんなふうに、どす黒く気味悪く見えるもんだよ」
「わたし、大きらいだわ」女は、熱心にささやいた。「都会は性悪だわ。都会は生きているのよ。自分の意志をもっているのよ。誰がなんといったってそうだわ」
「ぼくだって、都会によくしてもらったことはないな。君の感じがわかるような気がするよ。しかし、君のように、都会を人間みたいに考えたことはないね。それよりも、なんというか……運だめしの相手というふうに思ったよ」
行く手に、新しいビル群のシルエットが浮かびあがって来た。車は、この大都会のまん中に口をあけている中央公園《セントラルパーク》という大きな空隙《ギャップ》を抜け出て、イースト・サイドに入ろうとしている。五十九丁目から百十丁目までのニューヨークは、一つの都会でなく、二つに分かれている。ちょっと考えてみれば、誰にでもうなずけることだ。まるっきり様子のかけはなれた二つの都会――セントポールとミネアポリスと、または、ミズーリ州のキャンサスシティと、キャンサス州のキャンサスシティとより、もっともっとちがっている。
その名も高いイースト・サイド。黄金海岸《ゴールド・コースト》。ヴィクトリア王朝時代の人たちが、優雅と呼びならわし、近代人がスマートさと名づける、いわば都会の付焼刃《つけやきば》は、そのことばどおり、まことに薄っぺらなものである。事実、その全長にわたって、ほんの三ブロック、およそ五番街から公園ぐらいまでの厚みしかない。そして、その後ろに隠された残りの部分には、ずっと河っぺりにいたるまで、この大都会のほかのどの場所ともたいして代わり映えのしない、灰いろの建物がひしめき合っているのだ。
車は、七十二丁目で公園を出て、五番街を二ブロックばかりあともどりした。キン・ウィリアムズは、目的の通りから一ブロック行きすぎた六十九丁目で、車をとめた。行く先をあまり正確に突きとめられないほうがいいと考えたからだった。
二人は、車を降りて料金を払い、鞄を地面におろした。車は、次の客をさがしに、五番街を走り去った。
次の七十丁目の角まで歩き、そこを曲ってすぐの横町のくらやみの中に入った。二人は、そこで立ちどまって、男が邸に入っている間、女は外で待っていることを打ち合わせた。
男が女の部屋に呼び入れられてから、はじめて離ればなれになるのだった。女は気がすすまなかった。たとえどんなに短い間でも、別れるのはいやだった。しかし、無理にいっしょに連れて行ってくれとはいわなかった。そんなことに耳を貸してもらえっこないのがわかっていたからだ。それに、二人とも邸の中に入ってしまっては、盲目同然になる。外で待っていれば、見張りの役にも立つわけだ……とはいうものの、気がすすまなかった。どうしてもいやだった。
「ほら、ここから見えるよ。偶数番地のならんだこっち側、あの二つ目の街燈のすぐ向こうだ」男は、話しながらも、あたりに目をくばって、見られていないことを確かめた。「ここから動いたらいけないよ。鞄の番をして、ここで待っていたまえ。すぐにもどって来る。こわがることはない――大丈夫さ」
こわがることはない、といわれたそのときには、女はもうすっかり脅《おび》えていた。しかし、死んでもそんな素振りは見せたくないと思った。男は、ひとりでいるのをこわがらなくていいといったのだったが、女は、自分のことはちっともこわくなかった。男がどうかなりやしないかと、それがこわかったのだ。そんなふうに、ひとの身の上を気づかって脅えたのは、今までにない、はじめての経験だった。
「危ないことをしたら駄目よ。あかりが見えたら――その男の人がもう帰って来ているようだったら、家の中に入らないでね……お金は、玄関のドアのすぐ内側においておけばいいわ。朝になってから、見つけて拾うようにするのよ。元どおり金庫の中にもどすことはいらないわ。くれぐれも用心するのよ……もしかすると、もうあかりを消して、ベッドに入って寝ているかもしれなくてよ」
男は帽子の縁をグイと引き下げると、女を残して、静まりかえった通りへ出て行った。女は、男のあとをじっと見まもった。男の姿がだんだん小さくなり、しまいに半分よりもっと小さくなるのを、じっと見送った。筋肉ひとすじも動かさなかった。獲ものを狙うポインター種の犬のようだった。心臓は、ひとりでそうやって立っているのに必要なより、もっとはげしく鼓動した。
二つ目の街燈が、男の片側だけをパッと照らし出した。それも束の間、すぐにまた、うごめく黒い影となった。男が注意深くあたりを見まわす様子から、目あての邸の前までたどりついたことがわかった。女のいる場所から見ると、邸は、ほかの邸にはさまれた薄い石の一片にすぎなかった。男は、石段をのぼって行った。玄関のドアのガラスが、夜目にもキラリと光るのが見えた。
男は、邸の中へ入った。
盗んだものを元にかえす行動が開始された。
男が玄関を入ったのと同時に、女は鞄をもちあげ、ゆっくりと男のあとを追いはじめた。動くなといわれはしたけれど、できるだけ男の近くにいたかったのだ。そろりそろりと足をはこびながら、彼女の心は、男を求めてやまなかった。
女はくちびるを動かした。声には出さなかった。「あれに感づかれたら、きっと邪魔されるわ……せっかくまともになろうとしているあの人を、……あれは、やくざ仲間に引きずりこもうとするにきまっているわ」
「あれ」とは、女にとって変わることのない敵――都会そのものなのだ。
女は、自分の空いているほうの手の指を見下ろした。その指は、自分でも気のつかないうちに、二本がしっかり重ね合わされていた。悪い目に会わないおまじないに誰でもがするように――
女は、ダンスホールでしつこい客をこっぴどくはねつけるときのように、くちびるを半分あけて、くいしばった歯の間から、「あれ――都会」に向かって、警告を発した。「いいこと。あの人に余計なことをしたら承知しないよ。やりかけたことのすむまで、あの人を放っとくのよ」
「あれ」は、近くの黒ずんだ灰いろから、濃青色を経て、次第に漆黒《しっこく》に移って行く。トンネルをのぞきこむような街並みの向うで、ねむそうに、女をにらみかえした。
いつか女は、男の入って行った邸の前に来ていた。ひとから不審を抱かれないため、そのまま歩きつづけた。入口の外側と内側と二重になったガラス戸の間には、街燈のあかりにすかして見ても、誰もいなかった。あの人は、玄関のドアまできっちりしめ切って、家の中に入ってしまったのだ。
だけど、家族のうち一人だけ残っているとかいうあの男の人が、二階で寝《やす》んでいるのだったら?……お金をかえしに来るのが、もう遅すぎたのだったら?……あんなふうに、玄関の入口をしめ切ったりして、まるで、自分から逃げみちをふさいだようなものだわ。邸の人が眼をさまして、あの人を見つけたら――
女は、そんな恐ろしいことを考えるのはやめようとした……前に、悪い企《たくら》みを抱いて、この邸に入りこんだときには、なにごとも起こらなかった。だったら、心を入れかえて、いいことをしに入りこんだこんどにかぎって、へまをやるなんてことがあるものか。
しかし、都会だ――性悪の都会が、なにを企むかわからない。
「いいこと。あの人を放っとくのよ、余計なおせっかいをしたら承知しないわよ。わかって?」
もうその邸の前を通りこしてしまった。そっとふりかえってみた。まだなにごとも起こっていない。叫び声もきこえない。二階の窓が、急に明るくなりもしない。だから、あの人は、まだ見つかってはいないのだ。
おまじないに重ね合わせた指に力をこめすぎて、すっかりくたびれてしまった。自分は、あの人をまもるために派遣された歩哨《ほしょう》みたいなものなのだ。都会を近寄せないための見張りみたいなものなのだ。片手にぶらさげた鞄よりほか、なんの武器ももたない、向こう見ずな、忠実な見張役……だが、しばらくすると、心細くなってきた。
できるだけ冷静に落ち着いていようとするのだが、こうしてゆっくりとあてどもなく歩いているうちに、どうしようもない胸のときめきが、いっぱいにひろがってくるのだった。あの人、必要以上に長くかかっているのじゃないかしら? あかりを使えなくたって、二階まで階段をのぼって、またおりて来るだけのことに、こんなに長くかかるはずはないのに。もう出て来ていい頃だわ。もうとっくに出て来ていいころだわ。
いくら盗《と》った金をかえすためだといっても、やっぱり家宅侵入なのだ。かえそうとしているところをつかまったとしたら、盗ろうとしているのでなく、かえそうとしているのだと、どうして証明することができよう。かえしたという事実にまだ効き目のあるうちに、外に出て来なければならないのだ。自分でかえしに来ずに、郵便で送りかえせばよかったのに。あの人もわたしも、それには気がつかなかった。今になって、それがくやまれるのだが。
ふいに、通りの反対側の向う角に、人かげがあらわれた。角から出て来ただけで、それ以上進まず、そこにじっと立っている。はっきりは見えない。建物の輪郭をすかしてみて、どうやらこっちに背なかを見せているのがわかる。パトロール中の警官だ。女は、あわてて手近のものかげに身をかくした。こんな時刻に、荷物をぶら下げてうろうろしているのを見られたら、不審に思われるだろう。
警官が、こっちへやって来たら、あの角に立ちどまっている間にキンが出て来るようなまわり合わせになったら……女の心臓は、もうただドキドキしているだけではなくなった。胸の中で、狂った振子のように、大きく振れたり、グルグルまわりをしたりした。
警察電話をいれてある箱をあける金属性の音が、かすかにきこえた。あんな場所に立ちどまったのは、パトロールの報告をするためだったのだ。静まりかえった夜なかの空気を通して、警官の声もきこえてきた。「ラーセン、報告します。二時五十五分――」そんなことをいっているようだった。電話箱の蓋がしまった。女は思わず、かくれていた石段の根もとの壁のもっと暗いほうへ身をひいた。相手の行くてを見るのがこわかった。こっちのほうへ歩いて来たらどうしよう。耳を澄ましていると、通りを渡って、こっち側に来る足音がきこえた。そのまま足音は遠ざかり、きこえなくなった。
そっとのぞいてみた。警官の姿は見えなかった。こちらへ曲がらずに行ってしまったのだ。女は、詰めていた息をゆっくり吐き、また歩道に降りた。今晩早く、あの人が、ダンスホールから自分の部屋まで来る途中、うしろをふりかえりふりかえりしたわけが、その気もちが、よくわかった。不安はひどく伝染しやすいものだ。
女は、反対の方向へ歩き出した。もう一度、謎をひそめた邸の前にさしかかった。あの人は、この家の中でなにをしているのだろう? こんなに長くかかるのは、なにか間違いが起こったのだろうか? もうとっくの大昔に出て来ているはずなのに。
ちょうど建物の前に来たとき、石段の上の玄関のドアが音もなく開いて、男の姿があらわれた。ドアはまた閉まったが、男はすぐには歩き出さなかった。立ったまま、女を見下ろした。女を見ながら、女がわからないような様子だった。
やがて、男は足を移して、石段を降りはじめた。
しかし、家から出て来た男の様子には、ただごとならぬ気配が感じられた。動作が思ったほどキビキビしていない。のろのろしているばかりでなく、そのほかにも、なんというか、間《ま》の抜けたようなところがある。自分がどこにいるのかわからないみたい――いや、そうじゃない――まるで……そうだ、まるで、家から出て来ようが、中にじっとしていようが、そんなことはどうでもいいみたいだ。
フラフラとおぼつかなく石段を降りて来る途中、二度も立ちどまって、今しがた自分の出て来た玄関のほうをふりかえった。がっかりしてしまったというふうに、ほとんどよろめかんばかりだった。
女は、どうしたのというように、一歩か二歩を急いでかけ寄った。男が石段を降り切るのといっしょだった。
男と女とのへだたりは、今ではインチでかぞえるほどしかなくなった。男の顔は、うすぐらやみの中でも、青ざめこわばっているのがわかった。
「ね、いったいどうしたの?……どうしてそんなに脅《おび》えたような顔をしてるの?」女は、かすれた声でささやいた。
男は、あい変わらず、うつろな眼を女の顔に向けたままでいた。放心して焦点が定まらないようだった。女には、なんのことだかわけがわからなかった。
なにか知らないが、頭の中にいっぱい詰まっていることを整理しかねているのだ。女は、鞄を地面におろし、両手で男の肩をゆすぶった。
「ねえ、どうしたのよ? いってくれなきゃ駄目……ね、そんな顔をしないでよ……あそこでなにがあったの?」
よっぽどひどい目に会ったのだ。ゆすぶられたおかげで、やっと口が開いた。
「中で殺されているんだ。死んでいるんだ。家の中に、死んで転がっている」
女は、身を震わせて、息を吸いこんだ。「まあ。誰が? この家に住んでいる人?」
「そうらしい。今日の夕方、出かけるのを見たといった、あの男だ」男は、帽子の縁《ふち》の下の額を手で拭った。
二人のうち、女のほうが、男よりもひどく脅え、ひどく打ちひしがれていた。というのも、女は、自分たちの敵の正体を知り、男は知らないからだった。
女は、がっかりしたように石垣にもたれかかった。「やっぱり、あれがやったんだわ」女の眼は、男の頭ごしのあらぬかたに向けられていた。「やるってわかっていたわ。わたしたちのしたい放題をさせてくれやしないって、わかっていたのよ。そんなはずないんだもの。これでわたしたち、すっかりやられてしまったんだわ。うまうまとしてやられたのよ」
まったく、ほんのちょっとの間しか、「あれ」は放っといてくれなかった。「あれ」は、戦い抜く方法を教えてくれる……悪いこともたんまり教えてくれるが、一つだけ、いいことを教えてくれる。戦い抜く方法を教えてくれるのだ。「あれ」は、隙《すき》さえあればわたしたちを殺そうとするから、いやでも生きるために戦う方法をおぼえるのだ。
女は、ふいに向きを変えて、石段をのぼって行きそうにした。
男は、手をのばして女の腕をつかみ、女を元通りに向き変わらせようとした。「いけない……君は、入っちゃ駄目だ。ここにいてはまずい」女が一段か二段のぼりかけていたのを、引き降ろそうとする。「ぐずぐずせずに行きたまえ。この邸の前から退《の》かなきゃいけない。もともと君をこんなところに連れて来るんじゃなかった。君は、終点に行って、切符を買い、バスに乗るんだ。今晩ぼくに会ったことなど忘れちまうんだ」女は、身をもがき放そうとした。「ね、ブリッキー、ぼくのいうことをきいてくれ……ここから立ち退《の》きたまえ。急いで。ぐずぐずしていると――」
男は、女をうしろから押して、歩き出させようとした。女は、押されてグルッとひとまわりしただけだった。前よりも男の近くに寄り添うことになった。「わたし、ひとつだけ知りたいことがあるの。ひとつだけいってもらいたいの。あんたじゃないわね? 最初にここに入ったときのことじゃないわね? あんたが殺《や》ったんじゃないわね?」
「うん、ぼくじゃない。ぼくは、金を盗っただけだ。あの男はいなかった。かげも見なかった。それからあとで帰って来たにちがいない。ブリッキー、ぼくを信じてくれ」
うすくらがりの中で、女は悲しげな微笑をうかべた。「大丈夫よ、信じるわ、キン……あんたじゃないこと、わかってよ。そんなこと、きかない先からわかっていたのよ。ね、お隣の男の子が、人を殺したりするもんですか」
「ああ、ぼくは、もう帰れなくなった」男はつぶやいた。「ぼくはおしまいだ。やられたよ。ぼくのしわざと思われるにきまっている。ぼくがあんなことをやった以上、逃《のが》れっこない。故郷の町に着いたら、バスから降りるのを待っているだけさ。どうせ、そんなことになるのなら、ぼくを知っている人たちのいない、この土地でつかまったほうがいい。こうなったら、じっとしているよ。下手にはねまわったって役に立たない。成り行きにまかせて待っているよ。だが、君は――」また、無理矢理に女を行かせようとして、「どうか行ってくれ。ね、ブリッキー、お願いだから――」
こんどは、女は動かなかった。「ほんとにあんたじゃないわね? だったら、わたしを放っといてよ。そんなに押さないで。わたし、あんたといっしょにいるわ」
女は、挑戦するように、キッパリと男と並んで立った。しかし、男に挑戦したのではなかった。眼をあげて、ぐるりを――「都会」を、「あれ」を見渡した。「見せてやるわ。わたしたち、まだ負けてやしないのよ。夜明けまで時間はたっぷりあるわ。まだ誰も知りやしないわ。知っていたら、今ごろ、この辺は、お巡りでいっぱいのはずよ。知ってるのは、わたしたちだけ……それと犯人だけだわ。まだ時間はあってよ。この町のどこかに、わたしのたった一人のお友だちの時計があるのよ。ここからは見えなくても、まだ少しは時間があるって、そういってくれているわ。今までほどたっぷりじゃないにしても、それでも少しは残っているわ。あきらめちゃ駄目よ、ね、キン、あきらめないのよ。最後の時間の最後の分の最後の秒まで、遅すぎるなんてことはないのよ」
女は、男の腕を哀願するようにゆすぶった。さっき肩をゆすぶったときとちがって、こんどは、男からなにかを引っぱり出すためではなく、男の胸になにかを植えつけるために――
「さあ、中に入って、どうすればこの事件から抜け出せるか、考えてみましょう。やってみなきゃ駄目よ。それが、わたしたちのただ一つきりの希望だわ。わたしたち、故郷に帰りたいのよ。わたしたち、自分の幸福を求めて戦うのよ。ね、キン、わたしたち、生命のために戦っているのよ。六時までに、その戦いに勝てばいいんだわ」
「よし、戦おう」そうつぶやいた男のことばは、ほとんどききとれなかったが、自分から石段のほうへ向き直り、先に立ってのぼって行った。
知らず知らず、女の腕は、男の腕と組み合わされた。お互いに勇気を貸し合うために……お互いに支え合わなければならない。脅《おび》えながら、ゆっくりと、ひどく大胆に、その奇妙に礼儀正しい散歩姿の一組の男女は、死の鎮座する場所へと足をはこんで行った。
[#改ページ]
二時二三分
内と外と二重にドアのある玄関は、棺《ひつぎ》の中のようにせま苦しかった。内側のドアの錠に、その晩三度目にさしこまれた不正の鍵は、かすかに震えてカチカチと音を立てた。女の心臓も、それに合わせて打ち震えた。しかし、男の手を震えさせるのが勇気であることは、いわれなくてもよくわかった。出ようとしているのでなく、入ろうとしているのだ。逃げるのでなく、敢然《かんぜん》と立ち向かうのだ。といって、男がこわがっていないという人があったら、それは嘘つきだ。だからこそ女は、男の手の震えに胸を打たれた。それは正直と勇気なのだ。
やっと鍵は正しい位置に納まって、錠ははずれ、ドアがあいた。二人は中に入った。男が、肩先をかすかにグイとしゃくった。寄り添う女にその身振りが伝わった。ドアの自動錠がカチリとしまった。外へ出る道は、二人のうしろで閉じられた。二重のガラスを通して、おぼろげな灰いろのたまご形が見える。それは外の街燈だった。ひと足ひと足、暗がりの中を奥へ進んで行くにつれて、その煙ったようなたまご形は次第に小さくなった。二人のあとを追って来たのが、そこであきらめたように――
ホールには――こういうのがホールなのだろう、と、女は思った――そこには、一日じゅうしめきってあった場所につきもののムッとする空気がよどんでいた。女は、においだけで、家の様子を頭に描いてみようとした。べつに、においの専門家というわけではないが、そのムッとする空気にまじって、ぜいたくな革と木の調度のにおいがするように感じた。かびのにおい、料理のにおい、女の香料のにおい、そんなものはなかった。特にどんな、というのでなく、簡素とはいえるかもしれないが、決して安手でない雰囲気だった。
「二階の裏の部屋なんだ」男がささやいた。「階下の電燈はつけないほうがいいな。外から見られないともかぎらないからね」
男のからだの動かし具合から、男が、手をポケットにつっこんで、なにかをとり出そうとするのがわかった。「駄目よ。マッチも使わないほうがいいわ」女はたしなめた。「あんたが先に立ってくれれば、わたしはついて行けるわ。あんたの袖につかまって……あ、ちょっと待って。この鞄はどこかこの辺においとくわ」
女は、手さぐりに壁ぎわまで歩いて、帰りがけに簡単に見つけ出せるような位置に、鞄をおろした。それから、男のところにもどって、男の袖をつかんだ。二人は、泳ぐような手つきをしながら、そろそろと前進した。まったく泳いでもいいほど、くらやみは濃く、ほとんど液体のようだった。
「階段だよ」やがて、男がささやいた。
男が階段をのぼる気配がした。女は、片足をあげて、さぐりにおろすと、そこは階段の一段目だった。そのあとは、機械人形のように、両足をかわるがわる動かせばよかった。一度か二度、二人いっしょの重さを受けた階段がきしんで、静けさを破った。この家の中には、ほかに誰か生きている人がいるんじゃないかしら?……いないとはいいきれない。真夜中の殺人が、次の日まで発見されないことだってずいぶんあるのだ。
「曲がっているよ」男がささやいた。
つかまっていた男の腕が、左のほうへ離れて行った。女は、そのあとを追って、からだをまわした。そこは踊り場になっていた。
男の腕がまた高くなった。新しい踏板が足に触った。階段は百八十度まわった方向にのぼっていた。最後に、また二人とも同じ高さに足をおいた。階段はもうなかった。二階までのぼりつめたのだ。
「曲がるよ」男の声は、いっそう低くなった。
男の腕が、こんどは右のほうへまわった。女も、それにつれてからだをまわした。二人は、二階の廊下を歩いて行った。
革と木の調度のにおいに、少しばかり個性が加わってきた。どこからか、葉巻のかおりがただよってくる。あるかなきかのかすかなかおりだ。もっと甘ったるいかおりもまじっている。かすかな、というよりもっと淡い、記憶の中のかおりといったほうがいいかもしれない。たとえば、一立方フィートの空気の中に、たった一粒の白粉《おしろい》が浮かんでいるのでもあろうか……それとも一滴の香水が、一年前に、いや、ひと晩前に蒸発したのか。そうだ、いつか、どこかで嗅いだことのある香水のようだが――考えているうちにわからなくなってしまった。
木の敷居を越えたような感じがした。ほんのちょっともち上っただけ――つまずくほどには高くない。
空気がかすかに変わった。二人のほかに誰かがいる。しかし、誰もいやしないのだ。死のにおい――少なくとも時を経ていない死のにおいはわからないといわれる。しかし、そこには、「静」が、「不動」があった――空虚より以上の存在があった。
女は、もう進まなくてもよくなったのが嬉しかった。男の腕がとまった。女もとまって、男とならんだ。男は、空《あ》いたほうの腕を、二人のうしろにのばした。ドアのしまる気配がして、空気がかすかに動いた。
「眼を用心したまえ。あかりをつけるよ」
暗さになれた眼がくらまないように、女は眼を閉じた。長かった暗がりの中の旅路の果てに、電燈の光は、がまんのならないほどまばゆかった。死んでいる男の姿が、その部屋で一番先に眼にとびこんで来た。そのまわりに後光がさしているように見えた。
書斎とか居間とか、そんな特別の名のつけられるような部屋ではなかった。なんでも部屋とでもいえばいいかもしれない。壁にはめ込んで作りつけられた書棚に二、三段、本が並んでいるところからすると、ある程度は図書室でもある。十八世紀のシェラトン風のデスクがあるところからすると、ある程度は書斎といえる。革張りのクラブ型安楽椅子、酒棚、灰皿などがあるところからすると、まずは男性の居間なのであろう。家族全体のというよりは、ある特定の一人の専用する二階の居間――男がわがもの顔にのうのうと手足をのばすことのできる私室《デン》なのであろう。
といって、大学二年生あたりが占領する、部屋とは名ばかりの、ごったがえした殺風景な男臭いしろものではない。とにかく、一応は体裁のととのった部屋なのだ。居間と名づけようが、書斎といおうが、それは見る人次第だ。
壁は、ライムの実のようなうす緑いろだった。それも、電燈の光では白色に見えるほどうすい緑いろだった。まっ白な紙をあてがってくらべてみれば、やっと色のついていることがわかる程度だった。調度の木の部分はくるみ材だった。床の敷物と、椅子の背は濃い土いろ。二つの電燈の笠は羊皮紙《パーチメント》でできていた。
細長い部屋だった。短いほうの壁面には、両側とも窓もドアもない。二人が背にしている壁には、二人の入って来たドアがある。突き当りの壁には、かなり間隔をおいて、寝室へ通じるドアと、浴室に通じるドアとがならんでいる。男は、女のそばをはなれて、寝室に入って行った。あかりがもれないように、家の背後に向かった寝室の窓の窓かけを引く男の姿が、うすくらがりの中にぼんやりと見えた。女の立っている部屋には、窓にしろなににしろ、外に向ってあいている部分がなかった。
男が、浴室のほうは放ったらかしにしているところから、そっちにも窓はないらしい。
女は、男を、男の動作を見まもっているのだが、具体的な視野の外にあるもののように、心の外側にあるもののように、おぼろげにしか見えない。
女は、死んだ人を見るのははじめてだった。そのはじめてだという思いが、混乱した心の中を絶え間なく駈けめぐった。立ったまま、じっと床の上のものをみつめた。気ちがいじみた不健康な興味からではなく、恐怖と畏《おそ》れの気もちでみつめているのだった。ああ、これが、わたしたちのあんなにこわがっているものなのだ! わたしたちすべての人間の、こんなに若い、こんなに元気いっぱいなわたし自身も、キンも、ほかの誰であろうと、いつかはめぐり会わなければならないあの「もの」なのだ。わたしが、ダンスで稼ぎ、小金を惜しみ惜しみ使い、うるさい男に肘鉄《ひじてつ》を喰わせ、理想の人を求め、すべて一切のことの行きつく果ては、結局これなのだ。毎日毎日、自動販売機《オートマット》にニッケル玉を入れて、ロールパンを喰べるのだって、要するに気やすめにすぎない。どんなに一生懸命あせってみたところで、こんな姿になるのを防ぎとめることはできない。ああ、これがそれなんだ。これが――
女は、あらゆることを見たと思い、あらゆることを知ったと思っていた。しかし、こればかりはまだだった。ある夜、一人の女がダンスホールで、「ビギン・ザ・ビギン」の曲のまっ最中、いきなり窓からとび出して、弾丸のように落ちて行った。あとできくと、なにかを飲んでいたという話だったが、誰もほんとうのことは知らなかった。自分の知っているのは、それまでキビキビとまっすぐ立って動きまわっていたその女が、平べったく動かなくなり、ピクピクとひきつけるだけになったという、それだけだった。全部の人が一度にワッと窓ぎわに押しよせて、下のほうをのぞいた。支配人がなんといおうと、どれだけ叱ろうと耳を貸さなかった。その女は歩道から救急車にはこびこまれるところだった。白い担架の上で、おそろしく小さく、おそろしく平べったく見えた。その女は、次の日には現われなかった。それっきり二度と姿を見せなかった。
だが、それですら、そのことの起る前だった。これは、起った後なのだ。死んだ人を見たことは一度もなかった。
顔を見て、それを生きていたときの顔に組み立てなおそうとした。それは、文字が色|褪《あ》せて不鮮明になり、歪《ゆが》んでしまったページを読むようだった。インキで書かれた文字が雨に打たれたページのようだった。そこにはなにもかも揃ってはいるけれども、なにもかもが、少し焦点からはずれていた。かつては顔の特徴だったしわも、今はただの線だった。強そうだったか、弱々しかったか、苦々し気だったか、上機嫌そうだったか、かつては、そんな表情をあらわしていた口もとも、今は顔の表面にあいた割れ目だった。やさしげな、さもなければ冷酷な、かしこそうな、さもなければうすのろな眼も、今は黄いろ味を帯《お》びた灰いろの捏《こね》粉に埋めこんだジェリーのような、生命のない光ったはめこみにすぎなかった。
頭の髪は手入れが行きとどき、いまでも生き生きと輝いていた。毛髪は最後に死ぬ、というよりはむしろ、からだが死んでも死なずに伸びつづけるものなのだ。死のショックも、転倒も、その髪を乱してはいなかった。ほんの一本か二本、長年のあいだ、ブラシでならしにならされた撫で癖からはずれているのがあった。
みごとな黒い眉は、あざらしの毛皮のようだった。グロテスクなほど濃くはないが、充分アクセントとなっていた。それが今は、完全にまっすぐになっている。死んでしまえば、眉をひそめることもないし、いろんな具合に曲げて見せる必要もなくなったのだ。
こういう顔の造作をすっかり寄せ合わせても、生きていたときにどんな顔だったのか、うまく見当をつけることはできなかった。齢は三十五かそこらのように見える。しかし、男の齢は、女の齢よりもごまかされやすいものだ。三十歳かもしれなければ、四十歳かもしれない。一時間前までは、あるいはそのことの起こったときまでは、きれいな顔だちをしていたにちがいない――そこに残されているパテで作ったような死に顔が、それを物語っている――だが、顔の美醜などは、人間のもち得る属性の中で、最もとるに足らぬものだ……天使も悪魔も、どっちも顔は美しい。
この人は、人生の明るい楽しい面を愛したのだろう。死んでからでもなお、夜会服を清潔に着こなし、糊《のり》のきいたシャツの胸にはしわ一つ寄らず、襟《えり》のボタン孔の飾り花もキチンとしている。
靴の底が、床に塗るワックスで光っているのを見れば、ついさっきまで踊っていたのだろう。靴の縁には疵《きず》ひとつない。混み合ったフロアで、ひとにぶつかったりぶつかられたりせずに巧みにリードして行く上手な踊り手なのだろう。今さらそんなことを知ってみたところで、なんの役に立つというのだ? もう踊ることなどありやしないのだ。
男がそばに戻って来ていた。気がつくと、べつに顔を合わせるでもなく、並んで立っていた。男がいっしょにいてくれるのが嬉しかった。肩が軽く触れ合った。
「眼を閉じさせてやったほうがいいんじゃない? こっちの見ていないときにこっちを見て、こっちが見ると、よそを見ているような気がするのよ」
「いや、触っちゃいけない」男がささやいた。「だけど、どうすれば閉じるか、ぼくは知らないんだ。君、知ってる?」
「まぶたを撫でおろせばいいんじゃないかしら?」
しかし、二人とも手を出さなかった。
「どうしたのだかわかった?」女が、息を殺して訊《たず》ねた。「なんでやられたのかしら?」
女は、なにか抵抗しがたい力に引っぱられるように、ソロソロと床にしゃがみこんだ。男は、ほんのしばらくそのまま立っていたが、やがていっしょにしゃがんだ。
「どこかにあるはずだわね」
女は、からだのまん中で上衣の前をとめ合わせているボタンのほうへ、臆病らしく手をのばした。ほかの部分に触らずに、ボタンをはずそうとするように、指をこわごわひろげる。
「待ちたまえ、ぼくがやろう」男は、急いで女をとめて、自分の指を器用に動かした。上衣の前は、はじけるように開いた。
「あ、やっぱりあるわ」女は、息をつめた。
白いピケ地のチョッキの腕あきのそばに孔《あな》があき、そのまわりが赤黒く汚れている。脇の下よりはかなり下のほう、心臓のほとんどま上にあたる。
「ピストルにちがいない。そう、ピストルの弾丸だ。この孔は丸くて、縁が不規則に裂けている。ナイフなら、細長く切れるだろうからね」
男は、チョッキのボタンをはずして前をあけた。その下にも同じような孔と汚点があるが、ずっと大きくひろがっていた。シャツが、赤いものを吸取紙のように吸いこんで、その範囲はわき腹全体におよび、正面のほうにも、二《ふた》ところばかりとび散っている。男は、チョッキの片前をついたてのように立てて、なるべく女に見せないようにした。それから、元のように戻した。
「ずいぶんちっちゃなやつだったらしいな。ぼくは、べつに専門家じゃないが、とてもちっぽけな孔だからね」
「でも、どんなのでもそんなふうなのかもしれなくてよ」
「そうかもしれん。生まれてはじめてお目にかかるんだから、なんともいえんな」
「この家には、この人しかいなかったということは確かだわね。でなければ、射った音がきこえるはずだもの」
男は、部屋の中を見まわした。「もって行っちまったんだな。どこにもなさそうだ」
「なんという名前だったかしら、この家に住んでいる人?」
「グレーヴズだ」
「この人が主人――おやじさんなの?」
「いや、おやじさんは、十年か十五年前に死んだんだ。おふくろはいる。社交界では有名な婦人らしいよ。ほかに息子が二人と、娘が一人。これが兄のほうなんだ。もう一人、まだ学生のがいるんだが、どこか遠くのカレッジに行ってるんだ。娘は社交界に出たばかりで、新聞にしょっちゅう出ているよ」
「なぜこんなことになったかがわかったら――動機がわかったら――」
「しかも、二時間ばかりのうちにだぜ……本職の警察でも、幾週間もかかることがあるのに。それも、いろんなことがすっかりわかってからさ」
「まず、やさしいところからはじめましょうよ。自分でやったんじゃないわね……そうだったら、ピストルが、まだこの部屋のどこかに転がっているはずだのに、どこにもないんだから」
「そう考えてよさそうだね」男はたいして確信もなさそうに、ためらいながら合いづちを打った。
「すると、強盗ということになるのが一番普通だわね。あんたが前に来たときと、こんど二度目に来たときとで、あの金庫から失くなっているものがあって?」
「そいつはわからんな。なにしろ、あかりもなしに入って来て、いきなりこの男につまずいて四つん這《ば》いになったような始末なんだからね」
女は、そのときの男の気もちを思いやるように、息を吸いこんだ。
「まるで、鉄の棒を心臓に突っこまれたみたいだったよ。マッチを擦《す》って、つまずいたものの正体を見きわめると、あとは足をガクガクさせながら金庫に――金庫のうしろ側にたどりつき、金を投げこんで、なにもかも見るひまもなく一目散に逃げ出したんだ」
女は、床から一フィートばかり上の宙に浮いた膝ッ小僧をたたいた。「じゃあ、さっそく見てみましょう。この前来たときにあったものが失くなっていたら、思い出せる?」
「駄目だな」男は、率直にみとめた。「最初のときにだって、かなり夢中だったからね。だけど、思い出せるかどうか、とにかくやってみよう」
二人は、しゃがみこんだ姿勢から立ちあがって、死体にしばし背を向けた。浴室に入って行った。電燈のスイッチの在《あ》りかを知っているキンが先に立った。
男の手がスイッチに触れると、まっ白なタイルの反射が、ひとかたまりになって眼の中にとびこんで来た。突き当たりの壁に作りつけになった戸棚の扉が鏡になっているので、向こうからも人が二人入って来たような、奇妙な感じを起こさせた。……あのいかにも若い、いかにも絶望した、いかにも頼りのない、おずおずした二人は誰なのだろう?……
だが、そんなことに時間を浪費している場合ではない。
浴室に入って一番目につくのは、右手のちょうど外側の部屋の金庫のま後ろに当たる壁の漆喰《しっくい》に、男が掘りあけた真四角な孔だった。壁が――それも家の中の仕切壁が、こんなに厚く作られた時代があったとは、信じられないような気がした。
最初のときには、シャワー・カーテンを、孔が隠れるように、うまく片寄せて垂らしておいたということだった。しかし、今度もう一度もどって来たときには、こわかったのと、急いでいたのとで、そのカーテンを、こんな具合に、壁の孔がまるまる見えるようにあけたまま放ったらかしたのだ。
壁の孔は、手際よく掘ってある。そんなことはべつに自慢にもならない。男だって得意がっているわけでないことは、顔つきを見ればわかる。まるで定規《じょうぎ》でも使ったみたいに、孔の縁はまっすぐだ。上塗りの下の漆喰は、鉛筆で引いた細い線ほどにも見えていない。上塗りには、ほとんどひび割れがない。ほんのひとかけらかふたかけら、剥《は》がれかけている、それだけだ。掘り出した漆喰は、足の先で、浴槽の下の見えないところに押しこんだのだろう……と訊ねてもみなかったが、床にはどこにも見当らないし、浴槽は、床からもち上った足つきの旧式な型だった。
壁の孔の奥に、漆喰で汚れて白くなった木の板が、かすかに見える。男は、孔に手を突っこみ、前にやったことがあって慣れた手つきで、指をその板の縁《ふち》にかけ、やがてとり出して下におろした。その板は、金庫をはめこんだ木のケースというか小室というのか、そんなもののうしろ壁だった。
それから、もう一度手を入れて、こんどは、鋼製の現金箱をそろそろと引っぱり出した。金庫の中味はそれっきりだった。鍵さえついていないありきたりの現金箱が板で内面を張った壁のくぼみの中にいれてあるのだ。なるほど、反対側の向こうの部屋に面したほうには、組合せ錠で開け閉めする頑丈な鋼製の扉があるけれども、背後からだと、中味に手をつけるのは、バターをナイフで切るようにわけのないことだった。
「たいしたことないのね」
「うん、犯罪者が、今みたいに専門家でなかったずっと昔にできた金庫らしいな。家の中に入りこんで来て、道具を使うなど、思いもよらなかった時代に――」
男は、いいかけて途中でやめてしまった。顔が少し赤くなった。女にはわかった……自分のしたことが恥ずかしくなったのだ……自分自身もその犯罪者だったのだ。少なくとも、この金庫に関するかぎりはそうだった……自分の以前の行いを思い出して恥じている。それは本能なのだ……それでいい……隣の男の子なら、そんな気もちになるはずだ……
男は、エナメルを塗った三本脚の腰かけを、足の先にひっかけて引きよせた。二人がかりで、重い現金箱をその腰かけの上におろし、蓋をあけて中味をしらべた。
一番上には現金がのっていた。さっき返したばかりの紙幣だ。それはわきへよけておいて、たくさんの書類をかき分けてさがした。書類は黄いろくなっていた。信じられないほど古いものだった。たいがいは、男や女自身よりももっと歳を経ていた。
「これ、遺言書だわ……こんなもの役に立つかしら?」
「立たんだろうね……事件に関係があるとしたって、今の場合には、とても間に合わないよ」
男が、先を捜している間、女は手を休めて、その書類を拾い読みした。「おやじさんの遺言書ね。指定遺言執行人は、あの人よ」そういいながら、外の部屋のほうへ、頭を振って見せる。「スティーヴンというのが、あの人の名前らしいわ」また先を拾い読みして、「なんの関係もなさそうね……財産は全部奥さんのハリエットに遺贈されているわ。奥さんの生きている間は、どの子供の手にも入らないようになっているのよ。それに、殺されたのは奥さんでなくて、息子のほうだし――」たたみ直して、わきへのける。
「どっちにしろ、今は、動機を捜しているんじゃないからね。盗られているかどうかが問題なんだ」
「宝石類があったといってたわね。まだ見えないようだけど、あればどこにあるの?」しばらくの間、女の期待はふくれあがった。
「この奥の二番目の仕切りに入っているんだよ。順々に蓋が開くようになっている。見せてあげよう。どうせ、たいした値打ちのものじゃないんだ。つまり、値打ちがないというわけじゃないが、ダイヤモンドのようなもんじゃない」
男は、二番目の仕切りを開けて見せた。二人は、いろんな大きさの古臭いビロードの小箱をとり出した。どれも色が褪《あ》せて、うす汚い灰茶色になっている。真珠をつなぎ合わせた紐が一本。黄玉のくび飾り、紫水晶の昔風のブローチ。
「この真珠は、きっと二千ドルぐらいしてよ」
「はじめの時にあったものは、みんな揃っているね。こういったものは全部あったんだ。なんにも失くなっていないよ、ぼくが、この前――」
また途中でやめた。こんどは赤くはならなかったが、しばらくのあいだ眼を伏せた。
女は面白くなかった。せっかくの期待も裏切られた。「すると、強盗じゃなかったんだわ」それから、気をとり直したように、「わたしたち、いよいよむずかしいことになりそうね」
二人は、大急ぎですっかり元に戻しにかかった。最後に紙幣束をしまいこんだ。男は、こんどは憎悪をこめてそれを見た。女には、男の気もちがわかった。なにもいわなかった。
箱の蓋をしめると、男がもち上げて、壁の孔の中に戻した。もうシャワー・カーテンで孔を隠すような手間はかけなかった。そのことで男の考えていることも察しがついた。家の中に、死んだ男がむきだしで転がっているというのに、こんな些細《ささい》な跡を隠したって、なんの役に立とう……それとこれとは罪がちがうというのか?……もはや、べつにしとこうったって無駄なことだ。あっちのほうを見つければ、それだけにかかり切りになってしまうにきまっている。
「やっぱり駄目だったね」男はガッカリしたような声を出した。
もう一度、元の部屋にもどった。いままでいた浴室のあかりは、男が消した。
二人は立ちどまって、顔を見合わせた……こうなると、こんどはどうすればいいのだろう?……
「ほかにだって、単純な動機はいくらでもあるわよ。ただ、強盗などよりちっとばかり個人的になるかもしれないだけのちがいだわ。憎しみとか、恋愛関係とかね……さて、こんどは、わたしたち――」
そこまでいわれただけで、男には女のいおうとしていることがわかった。よし来たというような態度で、死体のそばに歩みより、またしゃがみこんだ。
「まだだったの?」女が訊ねた。
「うん、つまずいてひっくりかえると、マッチを擦って、あとしざりし、額に触ってみただけだったからね」
女は、嫌悪の情とたたかいながら、男のそばに行ってしゃがんだ。ピッタリと寄り添う。「じゃあ、すっかり出してしらべてみなけりゃならないわね。お手つだいするわ」
「君は手を出さんほうがいいよ。ぼくがとり出して渡すから、君はそれをしらべてくれ」
二人は、お互いに、自分たちのこれからやろうとしていることに、決して尻ごみなどしていやしないのだと、そんなふりをして見せるように、物淋しい微笑を浮かべ合った。
「ここからはじめよう。一番上のポケットだ」
胸のポケットだった。そこには、扇のような形にたたんで、ポケットの口から少し現われるように挿《さ》しこんだ上等な麻《リネン》のハンカチのほかなにも入っていなかった。
女は、そのハンカチをひろげてみた。「あら、弾丸がこれに当っているわ。たたんであると、孔は一つだけど、ひろげると、ほら、なにかの模様みたいに三つになるわよ。切り紙細工でこしらえる模様のようだわね」二人とも笑いはしなかった。模様は模様でも、死のこしらえた無気味な恐ろしい模様なのだ。
「それっきりだ……こんどは、左側の外ポケットだが、からだの下になっているね」男は、死体をちょっともちあげて、上衣の裾を引っぱり出さなければならなかった。
「からっぽだ。なんにも入っていないな」黒|繻子《しゅす》の内袋を引っぱり出して見せた。
「次は、右側だ」
右側のポケットも内袋を引っぱり出した。「やっぱりなにも入っていない」死体の腰の両側に、引っぱり出されたポケットの内袋が、半分ふくれて突き出し、小さなひれのようだった。しまい直さずに、そのまま放ったらかしておく。
「さあ、こんどは内ポケットだ」そこに手を突っこむには、死体の胸に触らなければならない。男は、べつに表情を変えもしなかった。どっちみち、身体とは、糊《のり》のきいたシャツや下着で隔てられているのだ。
「なんでもいいから、すっかりとり出すのよ」女は、かすれたような声を出した。
ポケットの中の品物は、男の手から女の手に、女の手からそばの床の上にとリレーされ、女は、在庫品調べをするように、品ものの名前などを呼んだ。
まるで、大きくなりすぎた二人の子供が、砂場で泥のパイを作ったりして遊んでいるようだった。
二人とも、しゃがみこんで、両ほうの膝っ小僧を上に向けている。男は口をきかないが、女には、男の顔つきから彼が、自分たちには万が一のチャンスもないと――残された時間のうちにはないと考えているのがわかった。
二人のうしろの本棚の上には、置時計があった。二人とも、意志の力だけを頼りに、ふりかえらぬようにしていた。しかし、音はきこえた。その音が間断なく、静寂を切り刻んでいた。からかうように、無慈悲に、速く、チクタクチクタクと進んで行く。決して休まず停まらず、どこまでもただ進んで行く……
「シガレットケース。銀製。ティファニーのマークが入っているわ。Bという頭文字の人からの贈物なのね。『BよりTへ』と彫ってあるわ。中にはたばこが三本。ダンヒルね」パチンと音をさせてケースを閉じ、床の上に置く。
「あざらし革の紙入れ。マーク・クロス製。五ドル紙幣が二枚と、一ドルが一枚。ウィンタ・ガーデンの今晩のショーの切符が二枚。使った残りよ。C一一二とC一一四。平土間の前から三列目だわね、きっと。これで、少なくとも、今晩八時四十分から十一時までの居《い》場所が知れたわけね」
「三十五年の一生のうちの、たった二時間半か」男は、捨てばちないいかたをした。
「過去の生涯のことなど、どうだっていいのよ。幕開きから二時間半ばかりのこと、それからあとのことさえわかればいいんだわ。ウィンタ・ガーデンで殺されたのじゃないし、そこを出て来たときには、まだ生きていたんだわ。だからそれだけで、必要な時間はうんとちぢまるわけよ」
「ほかになにかある?」
「名刺があるわ。スタフォード、ホームズ、それから、イングロスビ……誰なんでしょうね。きっと――あら、ちょっと待って……この二番目の仕切りになにか入っているわ。写真よ。この人と、乗馬服を着た女の人と、二人とも馬に乗ってうつっているわ」
「どら、見せてごらん」
男は、写真を眺めてうなずいた。「夕方ここに来て、この男が家を出かけるのを見たときに、この女の人が一緒だったよ。そこの寝室にも、銀の額ぶちに、この女の写真が入っていたっけ。さっき入ったとき見たんだ。バーバラって署名《サイン》があった」
「じゃあ、この女の人は犯人じゃないわね。犯人だったら、寝室の銀の額ぶちに今でもそんな写真が入っているはずがなくてよ。額ぶちだけは残っているかもしれないけど……普通だったら、それが常識だわ」
「このポケットの中味はそれだけだ。こんどはズボンだ。両わきに二つ、うしろに二つある……うしろの左側。なにもなし。うしろの右側、予備のハンカチだけ。左わき、空っぽ。右わき、鍵と小銭だ」
女は、いかにもつまらなそうに、小銭をかぞえた。「八十五セントあるわ」
「ポケットはこれでおしまい……だけど、ちっとも獲ものはなかったね」
「いいえ、そんなこといっちゃ駄目。獲ものはずいぶんあってよ。だって、『関係者に告ぐ。わたしを殺したのは誰それだ』なんて、そんなことを書いた紙きれが見つかると思っていたわけじゃないでしょう?……いままでなに一つなかったところへ、バーバラという一つの名前が出て来たわ。それに、バーバラがどんな人かってことも、その女の人が、今晩この人と一緒だったってこともわかったのよ。どこで一緒だったかもわかったわ。結局、残された空白の時間は、真夜中の前後二時間ほどにちぢまってしまったことになるわけよ。ポケットをさがしただけで、それだけの獲ものがあったら、大したものだと思うわ」
チクタクチクタクと、時計は容赦なく時を刻んで行く。
女は、床を見おろした。自分の手を男の手に重ねて圧《お》しつけた。……男を落ち着かせ、はげますように……「わかってよ。でも、見ないほうがいいことよ、キン。ふりかえっちゃ駄目だわ……わたしたちにやれるわ、ね、キン、やれるわ。わたしたちにやれるのよ、ね、それだけをしょっちゅう思っているのよ」
女は立ちあがった。
「これ、元に戻そうか?」男が相談した。
「放っとけばいいわ。どっちだって同じことだもの」
男も立ちあがった。
「こんどは部屋を捜しましょう」女がうながした。「身の廻りはすんだのだから、こんどは部屋をしらべる番よ。手がかりがあるかないか、やってみましょう」二人は、死体をはさんで、両側にわかれた。「あなたはそっちね。わたしはこっちからはじめるわ」
「なにをさがせばいいのかなあ」男は、背中をこっちに向けたまま、気のりしないようないいかたをした。
わたしだって知らないわ……女は泣きたいような気がした……ああ、神さま……わたしだって知らないんです!……
チクタク、チクタク、チクタク……
眼を伏せて、時計の針を見ないようにした。その前を通るときにさえ、眼をあげなかった。砂の中に頭を突っこんだ駝鳥《だちょう》みたいだ……と、女はそう思った。部屋のこっち側のすぐそこにあるのだ。わたしの顔をにらみつけているのだ……
本棚の書物は、まん中に棚の支柱があるので、両側にわかれていた。
「『緑のともし火』」女は、横しざりにゆっくりと足をはこびながら、書物の標題を読みあげた。「『シナのランプ』、『自叙伝』」そこで眼を伏せた。
チクタク、チクタク……その音ひと刻みごとに、時はなくなって行く……二人の乏しい蓄《たくわ》えから、一刻一刻失われて行く……
それから、また眼をあげて次へ進む。「『北から東洋へ』、『Xの悲劇』……たいして読書家というほどじゃないわね、この人」
「どうしてわかる?」男が、部屋のあちら側から、もの珍しそうに訊ねた。
「そんな気がするだけよ。読書家なら、本棚にならんでいる本がもっと似ているはずだわ。もっと一つの型があるはずだわ。これじゃあ、あれを読んだり、これを読んだり、読みちらかしているだけよ。六か月に一度、夜眠れなかったときなどに本を読むことがあるぐらいなのね、きっと」
そこに行き着いたのは、女のほうが先だった。ふと立ちどまった。
しばらく考えてみてから、男に呼びかけた。「ねえ、キン」
「なんだね?」
「その人、ポケットにシガレットケースをもっていたけど、たばこを喫《の》む人って、葉巻も喫むのが普通かしら?」
「そうだろうね。両ほう喫む人はずいぶんいるよ……どうしてだね?……葉巻の吸い殻でも見つかったの?」
「でも、二本も喫むものかしら?……それも一人で……ここにある灰皿に、吸い殻が二つ残っているわ」
男は、女のいる場所にやって来て、のぞきこんだ。
「ここで、誰かと一緒にいたらしいわね……男の人と……この灰皿スタンドを、どっちの椅子に坐った人が使ったのかわからないけど、両方の椅子から手をのばせば届くわね。灰皿の縁のこっちの凹《へこ》みに一本と、反対側の凹みにもう一本とあるのよ」
男は、からだを折り曲げて仔細に眺めた。「一人で二本|喫《の》んだんじゃないね。こっちとそっち、銘《めい》がらが違っている。違う種類の葉巻を混ぜて喫む人はいないよ。やっぱり、誰かと一緒にいたんだな。もう一つわかったことがあるぜ。その誰かと二人で、なにか知らんが議論をしていたんだよ。さもなければ、二人ともではないにしても、少なくとも一人は、なにかに興奮していたんだ。こっちの吸い殻を見てごらん……吸口が少し湿っているけど、まだちゃんとしている。こんどは、そっち側だ……吸口がグチャグチャに噛んである。二人のうち一人は、なにかのことでカンカンに怒っていたんだ。これでそれがわかる」男は眼を上げて、女の顔を見た。
「こいつは、これまでで一番の獲ものだね」
「だけど、どっちが怒っていたのかしら? グレーヴズと、もう一人の誰かと、どっちかしら?……わからないわね」
「そいつはわからんが、大した問題じゃないよ。ぼくたちにとって大事なのは、ここにもう一人の人間がいた事実がわかったことだ。二本の葉巻の銘がらが違っているというそれだけのことから、二人の会談が友好的なものでなかったことがわかる。一人が、相手のすすめる葉巻を断って、自分のを喫《の》んだのだ……すすめもしなかったかもしれない。つまり、二人は時を同じくして、葉巻を喫みはしたが、決して、心を同じくして共に味わったのではない。空気は緊張し、論争というか、議論というか、そんなことが行われたのだ」
「いいようだけど、まだ物足りないわね……そのもう一人が誰かということがわからないんだもの」
男は、一方の椅子の壁寄りのほうに廻ってみた。椅子は、壁に押しつけてあるのではないが、壁に平行させて向かい合わせにしてあるので、壁寄りの側は、今まで部屋の中央から陰になって見えなかったのだ。
「この椅子の陰に、酒のグラスが、じかに床の上に置いてあるよ」
「もう一つの椅子のほうにもある?」女は、二人が不和であったというせっかくの理論の崩れ去るのを気づかうように、あわてて訊ねた。
男は、もう一つの椅子の向こう側に廻って床の上を見た。
「ないよ」
女は、ホッとしたように息を吐いた。「じゃあ、やっぱり、二人が仲たがいしていたことが証明されるわけね。わたし、ずいぶん心配したわ。それに、その空っぽのグラスの置いてあるほうの椅子に、グレーヴズが坐っていたということもわかるわね。自分で酒を注《つ》いどいて、お客にはすすめなかったのだわ。でなければ、お客が気を悪くしていて、すすめられたのを断ったんだわ」
「そんなところだね。完全に証明されたわけではないが、だいたいそう考えてよさそうだ。逆の場合だって考えられないわけじゃないけど、ちょっとあてはまりそうにないな……つまり、客に好意をもっていない主人が、相手に酒をすすめておいて、自分は仲間入りせずに、それによって露骨に敵意を示すというようなことは、まずやらんだろうね……なによりも、酒をすすめたりしないだろうよ……だから、こっち側に坐っていたのがグレーヴズだということにしておこう」
「問題は、グレーヴズがどこに坐っていたかじゃなくて、一緒だった相手が誰かということだわ」女は、つまらなそうにつぶやいた。
「ちょっと待ってくれ……なにかあるぜ」男は、二人が客の坐っていたほうだと決めた椅子の、肘かけと座席との間の隙間に、手をさし入れた。その手が抜かれると、二人は、つかんで来たものに額を寄せた。
「マッチね」女が、ガッカリした声を出した。それは、厚紙をササラに切って、先に薬をつけたものを二列に並べ、はしからちぎって使う、いわゆるマッチ・ブックだった。
「いや、なにかほかのものだと思ってね……そこからのぞいているのが見えたんだ……グレーヴズは自分のをもっていたね。さっき、ポケットをしらべたときにあったよ。だから、こいつは、もう一人の男のものにちがいない……議論でもしている最中に、そこに落ちこんだんだな」
男は、マッチ・ブックの蓋《ふた》をあけてみて、それからまた閉め、元の場所に投げようとした。ふと思い直して、もう一度あけて見た。額にしわを寄せる。
「おやおや、よっぽど興奮していたんだね……そら、葉巻一本に、こんなにどっさり使ってあるぜ。話をしながら、ひっきりなしにマッチを擦《す》りつづけたのが、眼に見えるようだ……半分ぐらいは、擦ったまま、使うのも忘れたのかもしれない。それとも、話に忙しくて、吸うひまもなかったので、しょっちゅう立ち消えになったのかな」
「議論のはじまる前に、半分ぐらい使ってあったのかもしれないわ。なにも、葉巻といっしょに、新しいマッチを使い出さなくたっていいでしょう」
しかし、男は、すでにその話題は気にかけていないようだった。返事もしない。ただ、そんなものを見るにしては必要以上と思えるほどの時間をかけて、じっとマッチをみつめている。
「ちょっと、これを見てごらん」そういいながら、まだマッチから眼を放さずにいる。「君は、これをどう思う?……ぼくと同じことを考えるかどうか知りたいんだが――」
「強力薄荷《ダブルミント》ガムをご愛用くださいって書いてあるわね」
「いや、表紙じゃないよ……中味のマッチそのものだ」
女の頭は、男の頭とならんで、マッチに近づいた。二人は、小さなマッチ・ブックを、大事なお守りのように手にもっている。「そうねえ、普通なら、二十本ついているはずだわね。十本ずつ二列になって……それが――ちょっと、その親指をのけてみて――前列に二本、後列に三本、合わせて五本残っているのね。つまり、たった一本の葉巻に、十五へんも火をつけたってことになるんじゃなくて?」
「そうじゃないさ……まだぼくの考えていることがわからんようだな。いいかい……残っている五本が五本とも右のはじっこばかりなんだ」
「そんなこと、はじめからわかっていたわよ」
「いや、そんなことじゃないんだ……ほら、これぼくのマッチだよ」男は、ポケットから自分のマッチ・ブックをとり出して、女に渡した。「一本ちぎって、擦《す》ってごらん……なにも考えたりしないで……いつもするように、ただ火をつけさえすればいいんだ……コーヒーを沸かすときにガスに火をつけるだろう……さあ、やってごらん」
女は、マッチを擦って吹き消し、わけがわからないというような可愛らしい顔で、頭をかしげて見せた。
「こんどは、そっちを見るんだ。その一本をどこからちぎったか見てごらん。右のほうだぜ。誰でも、男でも女でも子供でも、こういう型のマッチを使うときには、右からはじめて、順々に左のほうへ一本ずつちぎって行くものなんだ。ところが、この男のマッチは、それが逆になっている。さあ、これでわかったかい?……つまりね、今晩、グレーヴズと向かい合ってこの椅子に坐っていたやつは、左利きだということなんだよ」
女は、呆気《あっけ》にとられたように口をまるく開けて、そのままにしていた。
「その男が、誰だかも、どんなやつだかも、それはわからん、そいつが、グレーヴズを殺したにせよ、殺さなかったにせよだ……しかし、ぼくには、その男についてこれだけのことがわかった……要するに、なにかのことでカンカンに怒っていたこと、一本の葉巻を吸うのに、十五本もマッチを使い棄てたこと、その葉巻を歯でグチャグチャに噛みつぶしたこと、グレーヴズと仲たがいをしていたこと、それに左利きだということ、それだけわかったんだ」
女は、手をマッチのほうにのばした。男は、無意識のうちに、それを手放した。それからしばらく経った。ふと、男は、女の顔に不思議な表情をとらえた。
「ごめんなさいね、キン」それは、心からあわれむようないいかただった。
「ごめんなさいって……どうしたの?」
「せっかくそこまで考えたのに、すっかり駄目になったのよ」
こんどは、男のほうが不思議な顔になった。「どうして?」
「女だったのよ」
女は、男の手をとった。次に別の手で、男の手の上にマッチをのせた。「においを嗅《か》いでごらんなさい。それを上くちびるのあたりにもって行けばいいのよ」
男は、いわれたとおりにする前に、まず議論で行こうとした。
「だって、女が、葉巻をほうれん草みたいに噛みつぶしたりするかい?」自分のうしろのほうに、はげしい身振りをしてみせて、「あの椅子に、女が坐っていたというのかい?」
「葉巻や椅子のことなんか知らないわ……それを、ほんのちょっとの間、口のあたりにもって行ってごらんなさいといっているだけなのよ」
「硫黄《いおう》臭いね、どんなマッチだって――」
「もう少し待つのよ。硫黄のにおいのほうが強いけど、そのほかになにか……どう?」
男は、ガッカリした顔になった。「香水だね。かすかに香水のにおいがするな」
「だから、誰かのハンドバッグに入っていたのよ。一日じゅうハンドバッグに入れてあったんだわ……香水臭いハンドバッグに……厚紙は、入れてあっただけでにおいを吸うのよ。この部屋で、一度か二度、ハンドバッグを開けたのでしょうね。部屋の空気もにおうわ。わたし、ここへ入る途中、廊下のくらやみの中で気がついたわ。今晩、この部屋には女の人がいたのよ」
男は、負けようとしなかった。負けなければならないのだが、負けたくなかった。「そんなら、葉巻のことは、どうなるんだね? 強いのと弱いのと、二本も誰が喫んだんだね、それも一本は落ち着いて、もう一本はひどく腹を立てながら?……君は、グレーヴズがそうしたというの?」
「女の人より前に、男の人がいたのかもしれないわ。女の人のほうが先だったのかもしれない。男と女と二人一緒だったのかもしれないわ」
「そんなことがあるもんか」男は、意地を張るようないいかたをした。「葉巻の吸い殻を見れば、男がこの椅子に坐って、グレーヴズと向かい合っていたことがわかる。マッチからすると、女が坐っていたことになる。二人が同時に、この椅子に坐っていたなんてことは考えられないよ」
「男の人が、よっぽどイライラして自分のマッチを使いはたしてしまったとしたら、女の人から借りたかもしれないじゃないの……男の人は、その椅子でグレーヴズと話し合い、女は、この部屋のどこか別のところで、二人の話をきいていたのよ」
男は頭を振って、女のいい分をしりぞけた。「それじゃあ、つじつまが合わないよ。だって、グレーヴズが、その男のすぐ真向かいで葉巻を喫っていたんだぜ。女がどこにいたにせよ、二人の間のほうがずっと近かったはずだ。手近に椅子などないじゃないか。マッチがなくなったら、グレーヴズから借りただろうよ」
「だけど、男たちは喧嘩をしていたんでしょ?」
「マッチぐらい借りるさ……酒や葉巻とはわけが違うもの。貸してくれと頼むまでもなく、手を出すだけで用が足りるんだからね……いずれにしろ、自分のがなくなって、こいつを借りたとしたら、使いきったマッチの殻がどこかになければならんよ」
男は、椅子の背のてっぺんを握りこぶしでたたいた。「どこにもありやしないぜ」
「そうよ、どこにもありやしないわ。でも、それは大したことじゃなくてよ……男か女か、どっちが先に来たかということだわ。なぜって、あとから来たほうがあの人を殺した犯人なんだからよ」
「ぼくたち、一分ごとに、あともどりして行ってるぜ」暗い声だった。
チクタク、チクタク……ふいに、時計の音が耳についた。二人とも、その音をきくまいとするように、眼を伏せた。
二人は、向かい合った二つの椅子のそばに立っていた。さっきからずっとそうだった。
それだのに見えなかったのは、二人とも時計の音を避けようとして、それだけのために下を向いていただけだったせいかもしれない。それに、見えにくいものだったことも確かである。カーペット自体が茶色だった。女が、ふいに自分の視線に沿って身をかがめた。片膝片手をついた。もう一方の手が、マッチの落ちていた、吸口の噛みつぶされた葉巻の吸い殻のあったほうの椅子の下に、ほんの少し入って、また出て来た。女は立ち上って、手のひらを上に向け、その中のものを指で突っついた。
「またなにかとんでもないものが見つかったなんていわんでほしいな」
「自分で見るといいわ」
小さな、ちょうど五セント玉と同じ大きさのものだった。茶色だった。外側がまるくて、一方がまっすぐに削《そ》げた半月形のものだった。小さな孔が二つあり、あと二つあった跡が、まっすぐな縁に切り欠きになって残っている。螺旋《らせん》のようにちぢれた茶色の糸が、欠けていない孔にまつわりついている。
「ボタンのかけらだね」男が、神聖なものを見るように息を詰めた。「チョッキのかな?」
「いいえ、袖口のボタンよ。こんなに小さなのは、ほかに使いようがないわ」
「前から欠けたままついていたんだね。上着をドライクリーニングに出したときかもしれない。それが、今晩、とうとう落ちてしまったのだ。話しながら身振りをして見せたか、葉巻をいじくり廻したか、いずれにしろ、手を動かしすぎたんだね」
「だけど、どうして、椅子の下に入ったのかしら?」
「いったん落ちてから、怒って立ちあがったかどうかして椅子をずらしたときに、下に入っちまったんだろうな」
「グレーヴズのでないってことは、どうしてわかるの?……前から床に落ちていたのが、蹴とばされて入りこんだのかもしれないわ」
「じゃあ、先へ進む前に、そいつをしらべて、はっきりさせよう。おかげでぼくたち、やれることが一つできたね……きっと、茶色か日焼け色の服から落ちたんだよ。青や灰色の服に茶色のボタンをつけていけない理窟《りくつ》は知らんがね……とにかく、あそこに転がっているかたは、タキシードを着ていらっしゃるから、あれから落ちたんじゃないな」
女は、寝室に入って行って、押し入れをあけると、スイッチの紐《ひも》を引っぱった。「窓は大丈夫?」
「うん、あかりは洩《も》れないようにしてある」男は、女の肩ごしにのぞきこんで無邪気に眼をまるくした。「ほう、たいしたもんだ!……こんなにどっさり着るほど長生きできるやつがあるのかなあ」
二人とも、同じことを考えた。それを口に出しはしなかった……あの人は、やっぱり長生きできなかったのだ……
茶色系統のものは少なかった。一人のもっている服の数が多かろうと少なかろうと、どういうものか、たいがいの場合、茶系統の色は少ないものなのだ。
「この芥子《からし》色のかもしれないわ」女は、その服を、洋服掛けごとおろして、片ほうの袖口をかえし、それからもう一方をかえし、チョッキのボタンの列に、すばやく指を走らせた。
「みんな揃《そろ》っているわ」その服を元に戻して、「ここに、茶色のがあるわ」それをおろして、しらべてみた。
「ズボンのうしろのポケットを忘れちゃ駄目だよ」男が注意した。「左側のやつが、よくとれるんだ……少なくともぼくのはそうだ」
「ついているわ」女は、それも元に戻した。「これっきりだわね……ちょっと待って、あの一番向こうのはしに、上衣だけかかっているわ。ずいぶん古いものらしいわ。あれも、茶系統といっていいわよ」手にとってみたが、すぐに戻した。
「ボタンの種類が違うわ。孔のあいてない、裏側に糸孔《いとあな》のあるやつよ……やっぱり駄目だったわね」
もう一度、スイッチの紐を引いて、女は、ドアを閉めた。
「あの人のじゃないのね。よそから来た、葉巻の吸い口を噛みつぶした、そして、左利きかもしれない人のボタンだったのね」
二人は、急ぎ足で、元の部屋に帰った。「ね、キン、わたしたち、その男の人について、二つばかり余分にわかったことがあるわ。気がついた?……茶色だか、小麦色だかの服を着ていたことと、上衣の袖口のボタンが一つとれているか、半分欠けているか、どっちかだということよ……ああ、わたしたち、本職の探偵だったらいいのに……そうだったら、これだけ材料が揃えば、なんとかなるでしょうにねえ……この半分だって間に合うわね」
「ところが、そうじゃないと来てやがる」男は、下の先でくちびるをなめて、想像の中のものを味わった――あまり嬉しそうにでなく……
「だけど、今晩は、どうしても本職のまねをしなきゃならないのよ」
「ここは、世界一の大都会だぜ」
「だから、かえってやりやすいかも知れないわ。小さな都会だったら、わたしたちの故郷みたいな小ちゃな町だったら、身を隠したって、見つかるに決っているから、もっともっと用心するわ。そうなったら、わたしたちの手に負えないわ……ここみたいに大きな都会だと、かえって安全なような気がして、もしかすると、隠れようともせず、大手を振って歩いているかもしれない」女は、そこでことばを切って、男の顔をうかがった。「ね、そういう見方もあるんじゃない? そうでしょう? 一つの考えかただわ」
「駄目駄目、ブリッキー。自分で自分をからかって、なんの役に立つんだい? なにかのおまじないを唱《とな》えると、願いごとがかなう子供のおとぎ噺《ばなし》みたいなことさ」
「そんなこといわないで」女は、のどのふさがったような声を出した。「ね、お願いだから、そんないいかたしないで……二人で力を合わせなきゃならない仕事をわたしばかりにさせるなんて――」女の頭が垂れた。
「ぼくは、弱虫なんだ……ごめんね」
「そんなことないわ。あんたが弱虫だったりしたら、わたし、あんたと一緒にこの部屋に来やしないわ」
チクタク、チクタク、チクタク――時計の音が響く。
「わたし、もう一分経ったら、振りかえって、あの音のするものを見るわ……あんたもよ……見たら最後、勇気もなにも吹き飛んでしまうかもしれないのよ……だけどその前に、いままでのことをまとめてみましょうよ……人が二人いたのよ。影みたいに正体は知れないけど、いたことは確かなのよ。その二人の中の一人が、あの人を殺したんだわ――二人が殺したんじゃないわ。その殺したほうの一人を捜し出さなきゃならないのよ。それがわからないと、あんたは――」
男が、なにかいい出しそうにした。
「いいえ、おしまいまできいて、キン……そこでわたし、あんたとわたしとで、こうしようと思うの。つまりね、わたしたち、ここを出て、その人たちの行った先をたどるのよ。なんとかして、その人たちを見つけ出して泥を吐かせるの。大へんな仕事だわ。それをやりとげなきゃならないのよ。今晩、ニューヨークの夜の明けないうちに、すっかりしてしまわなければならないのよ。夜が明ければ、六時に、故郷のほうへ行くバスが出るわ。わたしたちにとっては最後のバスよ。忘れないでね。最後のバスだってことを……時刻表にはどうなっているか知らないけど、わたしたちには、それしかないギリギリの最後のバスなのよ」
「わかったよ。バスはいつでも走っているけど、ぼくたちの役には立たないんだね。ぼくたちは、夜明けまでにこの町から抜け出さなきゃならんのだ」
「そうよ」女はうなずいた。「さあ、仕事よ。わたしたち二人一緒に、二人ともつかまえるわけには行かないわ」
男には、女のいおうとしていることがわかって、びっくりしたような顔になった。「ぼくたちいつも一緒にいなきゃいけない、と、君はそういっていたのじゃなかったの?……それだからこそ、バスの乗り場に行かずに、ぼくと一緒に来たんだろう?」
「だって、もう時間がないのよ。気が進もうが進むまいが、二手《ふたて》に分かれなきゃどうにもならないのよ。いいこと……一人の男と、一人の女とが、今晩べつべつの時刻に、ここへ来たのよ。二人のうち、一人は関係がなく、一人はあの人を殺したんだわ。どっちが殺したかというのが問題なの。いちかばちか、どっちかにぶつかってみて、駄目だったらもう一方をというだけの時間はないわ。わたしたち二人一緒にいちどきに二人とも追っかけることはできないわ。だけど二人とも、同じ時間のうちに突きとめなければならないのよ。それだけが、わたしたちに残された運なのだわ。二人一緒にいてしくじったら、それっきりよ。二人でべつべつに一人ずつ追っかけたら、どっちかがうまく行くわ。そこにわたしたちの希望があるわ……あんたの受けもちは男のほうよ。わたしは、女のほうにするわ。
さあ、これからがかんじんなところよ。わたしたち、時間というものがほとんどないのよ。だから、それをできるだけ精いっぱい利用しなきゃ駄目だわ。あんたの追っかける相手は、茶色か、茶系統の色の、袖口のボタンのとれた服を着た、左利きかもしれない人よ。それきりしかわかっていないわ。わたしのほうは、確かに左利きの強い香水を使う女の人を捜さなければならないんだわ。どんな香水だったか忘れたけど、もう一度嗅げば思い出すわ」
「君のほうの相手のことは、ぼくの相手ほどにもわかっていないじゃないか。なに一つわかってやしない」
「そうよ。でも、わたしは女だから、それでいいのよ。少ししかわかっていなくても、男よりは勘《かん》がはたらくから大丈夫だわ」
「だけど、追っかけてうまくつかまえたとしても、それからどうするんだね? 君みたいな、両手以外になんの武器ももっていない女が……その場にぶつかって、どんな目に会うのかわかりもしないのに」
「そんなビクビクしているひまなんかないのよ。うまく行くか行かないか、とにかく、やってみて、やり通す時間しかないわ。それから後のことを打ち合わせておくわ。ここで落ち合うことにしましょうね――そうよ、この家の、あの人が転がっているこの部屋でよ――相手と一緒にでも、一緒でなくても、うまく行っても行かなくても、六時十五分前までにね。六時のバスに間に合わせるには、そうしなきゃ駄目なのよ」女は、死体のそばに行って、かがみこみ、なにかを手にして戻って来た。「わたし、あの人のポケットに入っていたこの鍵を使うわ。あんたには、前のがあるわね」
女は、深い息を吸いこんだ。「さあ、振りかえって、あれを見ましょう」
チクタク、チクタク、チクタク……
「まあ!」泣き出しそうな顔になった。「三時間しかないわ!」
「ブリッキー!」男が、かすれた声で女の名を呼んだ。ちょっとの間、男の勇気はすっかりくじけてしまった。
しかし、そのときには、もう女は暗い階段の降り口まで行ってしまっていた。
男は後を追った。
女は、階段を半分降りていた。
「ブリッキー!」
女のやわらかな声がかえって来た。「あかりを消すのよ」
男は、部屋に戻って電燈を消した。
女のあとから階段を降りた。
女はもう玄関の戸口にいた。ドアを開けたまま、男を待っていた。
「ブリッキー――」
「なにをいおうとしていたの?」
「いや、ただね――」そこで、ちょっと間を置いて、「君のことを、なんて元気な人だろうって……それだけさ。ぼくたち、やれるよ。どこかに、ぼくたちを見守ってくださるお星さまがあるにちがいないのだから、やれるにきまっているよ」
男は、外のほうへ二足か三足歩きかけてから立ちどまり、戻って来た。
「どうしたの?」
「ね、ブリッキー……どうだろう、ぼくにキスしてくれないかな?……ただ、運がいいように、どう?」
二人のくちびるは、キスのまねごとのように、一瞬はかなく触れ合った。「好運をお祈りするわ」女はつぶやいた。
玄関のドアのすぐ内側のくらやみで、一人ずつそっと抜け出すための別れぎわに、女は、訴えるように、最後のことばをささやいた。「キン、もし、ここに戻って来るのが、あんたのほうが先だったら……わたしを待っていてよ。ね、待っていてね。わたしを置いて行ってしまってはいやよ……わたし、うちへ帰りたいわ……うちへ帰りたいわ」
[#改ページ]
二時五五分
女と別れた男は、夜のくらやみに閉ざされた街を歩きながら考えた……ああ、望みなんてありやしない……役にも立たんことだ……なぜ、反対しなかったのだ……なぜ、無駄なことだと考えなかったのだ……もし自分ひとりだったら、公園に行って、ベンチの上に転がり、夜の明けるのを待っただろうに……そんな風にして終りの来るのを待っただろうに……さもなければ、夜明けをまたずに、一本か二本、たばこをじっくりふかしてから、ベンチを離れ、もよりの警察まで歩き、自分から出頭しただろうに……
しかし、今は、女も一緒だ。だから、それをしなかった。女が一緒だから、どこまでもやり通そうとしているのだ。
少なくとも、その点で、女に手つだってもらっている。女のおかげで、ここまで来ているのだ。
人間は、おせっかいな動物だ。それも、相手のためを思えばこそのおせっかいなのだ。時には――今がそうなのだが――相手の気もちなどお構いなしに、ひとの世話を焼く。
女をこんなことに引きずりこんだのを、気の毒に思った。正しいことじゃない。立派なことじゃない。宵のうちに、ダンスホールに行ったことさえ気の毒に思った……しかし、そんなつもりだったのじゃない……第一、あの女を知りもしなかった。それを気の毒に思うなんて、できない相談だ。そこまで自分を捨てきることはできない。
まあいいさ……男は、自分にいってきかせた……仕事にとりかかるんだ。
自分があの男だとしてみよう。
今、ある人を殺して、立ち去ろうとしているところだ。相手は、ぼくのうしろに転がっている。このぼくが殺したばかりなのだ……そうだとしたら、これからぼくはどこへ行くだろう? どうするだろう?……
男は立ち停まって、額をおさえた。……ぼくは人を殺したことがない……だったら、自分がそれからどうするかと考えてみたって、そんなことがわかるはずはない……みんなどうするだろう?……
男は頭を振った。べつに、自分の問いを否定したのではなかった。役に立たぬ先入観を払い落そうとするように、はげしく振ったのだった。
もう一度、やり直しだ。さっきのところからやってみよう。
ぼくは今、ある人を殺したところだ。相手はそこに転がっている。さあ、どうするだろう?
ちょうど街角にさしかかっていた。
どっちに曲がるだろう?
タクシーがある……それに乗るだろうか? ここには、バスの停留所がある……バスを選ぶだろうか? レキシントン街をもう二町ほど行けば、地下鉄におりる階段がある……そこをおりるだろうか? 三番街には、高架線がある……そこの階段をのぼって行くだろうか?……それとも、もっと歩きつづけるだろうか?……乗りものは一切避けて、最も安全な、最善の方法として、自分の二本の脚を頼りにするだろうか?……いや、こんなところまで来やしないかもしれない……相手を殺した場所の一、二軒先の道路に、自分の車を駐《と》めておいたかもしれない……それに乗るかもしれない……
六つの選びかたがある。その一つ一つが、また二つずつの方向に分かれる……山手のほうに行くか、下町のほうに行くか……結局十二の可能性があるわけだ。ちょうど一ダースだ。逃走の迷路……今、そのまっただ中で、途方にくれているのだ。たとえ、偶然に、間ちがいのない一つの途《みち》をえらび当てたとしたところで、それでどうなるというのだ。その途がどこに通じているか、目的地がどこかは、皆目《かいもく》知れないのだ。
そんなことじゃ駄目だ……片っぱしからあきらめてはいけない。あの女に、そんな種類の男だと思われてかまわないのか?……やり直しだ……さあ、あらためてやり直しだ……
ある男を殺したばかりで、ぼくは今、街角にいる。とにかく、この角までやって来たのだ。こんどは、どうするかということは放ったらかしとこう。どんな気もちがするか、それでやってみよう。感じでやったほうが、手っとり早いかもしれない。
さて、どんな気もちがしただろう?……よっぽどのしたたかものでないかぎり、からだじゅうがガタガタ震えている。このあたりまで来て、怒りが去ってしまうと、精神的な反動に襲われる。
総身がガタガタと震える……そうだ、だいたい間違いないところだ。
待てよ、あそこに、まだあかりのついた薬屋があるな。窓の中に、「終夜営業」と書いた小さな看板が出してあるぞ。今も開いているんだから、さっきは開いていたにちがいない。
からだじゅうがガタガタ震えているとすると、あそこの店に入って、なにか気分を落ち着かせるものがほしいというかもしれない……いや、そいつは危ないんじゃないかな……人を殺したすぐ後に、こんなに近所で、そういうことを口にするのは……薬屋は、客の様子を心に留め、後になって思い出すだろう……人殺しをやった直後に、ああいう店に入ったりはするまい……だが、入らないわけにはいかないかもしれない……そんな気をつかうこともできないほど、ガタガタ震いがはげしいかもしれない……とにかく、店に入ってみよう。
薬屋は、ぼくのことを憶えていて、あとでしゃべるだろう……そうだ、そいつを確かめてみよう。
男は、店に入って行った。
店には、奥のカウンターの向こうに、一人いるだけだった。つかつかと入って行って、カウンターの前に立った。
口を開くまでに、ずいぶんひまがかかった。しまいに薬剤師のほうから、お役目だけの無愛想さで訊ねた。「なにか、ご用ですか?」
キンのことばは、ノロノロと出て来た。いままで口の中でひとことずつ練習していたのだった。それをそっくりそのまま、ことばの順序も変えずにいいたかったのだ。「ちょっと訊きたいのだが……実は、頭がどうかして、からだじゅうガタガタ震えるし、イライラしてたまらないんだ……どんな処方がいいだろう?」
「そうですな、まず、グラス半分の水に、ひとたらしアンモニア精を落したのが一番でしょう」
こんどは、用意した二番目の質問だ。「この店では、その処方を普通、誰にでも調合するんだね?」
薬屋は、それが持ち前の癖らしい、甘酸《あまず》っぱいような愛嬌を見せて、クツクツと笑った。「おやおや、自分で飲む前に、正体を確かめとこうというわけですな?……まさにそのとおり、それをいつも差し上げとります」
キンは、息をとめた。
「実を申すと――」いよいよ来たぞ。「つい二時間ほど前にも、あるお客さまに、そいつを差し上げたばかりでさあ。こちらさんが、今晩二人目というわけなんで――」
キンは、やわらかくゆっくり、息を吐き出した。なんとわけのないことだ……なんと簡単なことだ……こんな具合に、最初の一発がもののみごとに的《まと》のまん中をつらぬこうとは、信じることもできないほどであった。……まてよ……あわてるな……一足とびに結論にもって行く前に、もう少しさぐってみなきゃならん……もしかすると、まるで見当はずれかもしれん……そうだと思いこむには、おあつらえ向きすぎる、わけがなさすぎる……
「すると、ぼくと同じ発作を起こした人が、誰かほかにいたんだな?」
薬剤師は、うなずいた。「いましたとも……で、そいつを調合しましょうか?」
「うん、そうしてくれ」ここにぐずぐずしていて、おしゃべりをするには、なにかの口実が必要だった。
薬剤師は、しに行って、グラスに水を注いだ。それから、大きな瓶《びん》から、なにかモヤモヤッとしたものを加えて、少しかきまわした。スプーンをとり出して、そのグラスをキンに渡す。「さあ、やってごらんなさい……十セントいただきます」
悪いにおいはしないが、まるで石鹸水のように見える。どんな味がするのだろう?……
「大丈夫でさあ……グッとひと思いに飲むんです」
べつに、ビクビクしているわけではない。ただ、こんなものを飲まされるのは、これっきりの最後にしたいものだと思っただけだった。
薬屋の主人は、さぐるような眼つきで客を眺めた。「お客さんは、それほど神経をやられていなさるようでもありませんな。それよか、なにかに気を取られて、ぼんやりしていなさるようだ」
キンは、グラスの中味に舌をつけて、急いで引っこめた。そこにできたせりふの空白を埋《う》めるために、すかさず切りこんだ。「そりゃあ、さっきの客とぼくとでは病状がちがうかもしれん……するとその客は、神経をよっぽどやられているように見えたというんだね?」
薬剤師は、またクツクツと笑った。こんどは思い出し笑いのようだった。「まったく、ズボンの中に蟻《あり》でも入ったようでしたよ。じっと立っていられないんでさあ。そこの戸口とこことの間を往《い》ったり来たりして、ヒョイと表をのぞいては、また戻って来るという具合でした。いや、一刻もじっとしとられんという風でしたな」
そのとき、ふとうまいことを思いついた。「ちょっと待ってくれ」さももっともらしく見せるために、棚の一番上にならんだ薬瓶のあたりに視線を置いて、「どうも、知っているやつのような気がするが――」また、グラスの中味の液体に舌を湿《しめ》した。中味の分量は、少しも減らない。「で、どんな様子の男だった?」そのいいかたには、まったく飾り気がなかった。
「ひどく心配しているようでしたよ」
こっちの思い通りの答が出て来ないので、刺激剤のつもりで、そこへヒョイと意味もなく、出まかせの名をほうこんでみた。「きっと、エディのやつだな……どんなやつだったね?」
こんどは、効き目があった。薬剤師はみごとに釣《つ》りこまれた。それほどキンのことばは、巧妙に会話の織物の中に織りこまれたのだった。「やせた人でしたよ。お客さんよかちょっと背の高い――」
キンは、夢中でうなずいた。その客がエスキモー人だったといわれたとしてもうなずいただろう……「そうそう、ぼくよりもちょっと背の高い……そして――」いいながら、自分の頭に手をやって見せた。ただし、そのしぐさに伴って当然期待される、色を表わす形容詞は省略した。
足りない部分は、相手の自動的な返事が補《おぎな》ってくれた。薬剤師は自分が、その知らないから足りない空隙を埋めているのだとは気がつかなかった。ひとりでに舌が動いた。自分では、ひとりでしゃべっているつもりではなく、相手のいったことを裏書きするために繰りかえしているような気でいた。「そして、砂色の髪で――」
キンが、そのあとを追っかけた。「そして砂いろの髪で――」まるで、自分のほうから先に口にしたような顔をしてうなずいて見せる。それから、尻の割れないうちにと急いでいい足した。「その男は、茶色の服を着ていたかい?」
「ちょっと待ってください……そう、着ていましたよ……たしかに茶色の服でしたよ」
「やっぱりエディだ」キンは、息を深く吸いこんだ。さあ、これでうまく行ったぞ……まちがいなく着陸できるぞ……
「そうだ、やっぱりエディだよ」心の中では、きこえない声で、なにがエディだ……死神じゃないか、といってきかせた。
値うちのあるようなことは、もうすっかりしぼりとってしまった。これ以上きき出すことはなさそうだ。
と思ったところへ、また出て来た。栓《せん》をひねって停めた水道口から、余った水滴がポタリと落ちたように……
「そのお客さん、風邪でもひいているみたいでしたな」
「ガタガタ震えていたんだね?」
「いや、ここにいる間じゅう、こんな風に、上衣の襟をキッチリ合わせて、手でつかんでいたんでさあ」薬屋の主人は、自分の上衣の両襟を片手でつかんで、あごの下で引き寄せ、合わせて見せた。
「流感にやられかけていたのかもしれませんな。今晩は、ちっとも寒かありませんや……願ってもないおだやかなお天気でさあ」
人を殺したばかりだったら、さぞや寒けがしたことだろう……キンは思った……零下十四度ぐらいに……
「それで、やつ、どうしたね? また外に出て行ったかね?」
「そうじゃないんで……十セント玉を五セント玉にしてくれといって、それから奥のあそこへ入って行きましたよ」薬剤師は、カウンターのわきの、裏のほうへ通じる廊下を身振りで示した。「電話をかけに行ったんでしょうな。アンモニア精の入った水のグラスをもって行きましたよ」
「店から出て行くのを見かけたかね?」
「見かけませんでしたな。ほかのお客のお相手に忙しかったのでね……しかし、こっちが気がつかなかっただけで、きっと出て行ったんでしょうな」
キンは、手にしていたグラスを薬剤師に返した。すっかり空っぽになっていた。自分では、飲んだのを知らなかった。そんなに夢中になっていたのだ。だが、それだけ値打ちはあった。たとえ、グラスの中味が青酸だったとしても、飲んだだけの値打ちがある、と、そんなふうに感じた。
相手は、まだなかなか自分の思っているところまで追いついてくれない。今までの会話も、サッパリとりとめのない無駄話だったような気がする……「お客さんは、その人をさがしておいでのようですな? なにかぜひお会いになりたいご用でもおありなんですね?」
「うん、ぜひ会わなきゃならんのでね……ひとつ、自分で奥に行ってみるかな」
キンは、細い行きどまりの廊下に入って行った。
そこには、電話室が二つ、片側にならんでいた。反対側には棚《たな》があって、電話帳がのせてあった。その一冊がひろげっ放しになっている。
電話帳のひろげたページの上に、空っぽのグラスがのっている。立ち去るときに、もって行くのを忘れたのだ。
殺人のしおりだ!
それが一番に目にとまった。思いがけない幽霊に、ふいに出くわしたような気もちになった。手で触ったら消えてなくなりやしないだろうか……
ふと、すばらしい思いつきが頭に浮んだ。指紋だ!……こいつには、まだ指紋が残っているにちがいない。ハンカチにくるんで、警察にもって行こう。
だが、やがて、その思いつきは凋《しぼ》んで行った。駄目だ……ひまがかかりすぎる……夜があけてしまう……バスが行ってしまう……それに、警察には誰がもって行くのだ?……こっちがおたずね者の身じゃないか……さもなければ、やがてそうなる身だ……所詮《しょせん》、この未知の人物を犯人と証明することはできっこない……殺人の現場はここじゃない……そこの角をまわったところの邸《やしき》がそうだ……こんなところの電話室じゃなく、あそこで発見されたのでなければ、なんにもならないのだ……
せっかくここまで辿《たど》って来たのに、相手はフッと消え失せた。薬屋の店の奥で、アンモニア精のプンプンにおう空っぽのグラスを残して、煙のように消えてしまった。
しかし、その男は誰かに電話をかけたのだ。電話をかけに、ここまで来たのだ。誰にかけたのだろう?……キンは、手前の電話室に入った。入口はあけっぱなしにしておいた……ああ、この小さなダイアルが口をきいてくれたらなあ……せまい棚のような腰かけに腰をおろして、片手を額にあてて考えてみようとした。
自分が誰かを殺したばかりだったとしたら、誰に電話をかけるだろう?……それは人による……その人の型による。「大将、いいつかったとおりやっつけましたぜ。すっかり始末しときました」こういうのも一つの型だ……「おい、困ったことをやっちゃったんだ。どうしていいかわからん。君の力をかりて、なんとかしてもらわなきゃならん」こんな型もあるだろう……さもなければ、誰かを電話に呼んで、まるっきり関係のないことを話す人だってあるだろう。「君に借りとった例の金ね、どうやら工面《くめん》ができたぜ……どこからだっていいじゃないか……とにかく、すぐにでも片をつけるから、もうガミガミいわんでもいいよ」……もっとちがった、ゾッとするように恐ろしいことを電話で話すやつもいるだろう。「ねえ、お前、だいぶ遅いが、どうだい、ちょっとこっちへやって来て、いっしょに少しばかりお宝をせしめようじゃねえか……おれ、ホッとしたような気もちになっているんだ」
しかし、その男は、この最後の型ではなさそうだ。薬屋にやって来て、神経を鎮める薬をくれなどといったとすれば、そんな型の男ではあるまい。
キンは頭を廻して、電話室の外のグラスを見た。坐っている位置からすると、そこは真横だった。コップの下のページは、とうもろこしの粉のように黄いろっぽい。職業別電話帳だ。
立ち上って、急いで電話帳を見に行った。
ページの一番上に印刷してある見出しは、『病院及びホテル』となっている。
グラスの底を、上からのぞきこんだ。底のガラスをとおして見えたのは、次のような文字だった。
『サイデナム病院、マンハッタン街
ヨーク病院 東七十四丁目一一九
家畜病院――犬及び猫を参照』
病院か……それは考えていなかったことだ……人を殺した後で、病院に電話をかける場合もあるわけだ、もし、その男が……そこで、さっき、薬剤師のいったことばを思い出した……「風邪でもひいているみたいに、こんな風に、上衣の襟をキッチリ合わせて、手でつかんでいたんでさあ」……風邪ではなかったのだ……ほかになにかのわけがあったのだ……
もう一度、元の電話室にとびこんで、マッチを擦《す》り、床の上をグルッと照らしてみた。電話室ならどこにでも落ちているごみ屑のほかにはなにもない。チューインガムの銀紙、吐き出したチューインガムの滓《かす》、たばこの吸いがら……そんなものが、マッチのおぼつかないあかりに照らされては消えて行った。
隣の電話室に入って、もう一本マッチを擦り、床の上をしらべた。
あった! みごとな手がかりのしたたりが……そこのすぐ眼の前に……床の上に寄り添って、四つの大きな黒い水玉模様……落ちたなりに、四つ葉のクローバーのかたちに似て……そして、隅っこに、それを抑えるのに使ったものが……化粧紙を数枚クシャクシャにまるめて投げ捨ててある。かたまった血がこびりついている。縁《ふち》のほうに少し白いところが残っているだけだ。
ここにいる間に、新しい紙ととりかえたのだろう。四滴床に落ちたのは、血止めの紙をとりかえる間にだったのだ。
これで、その男が、上衣の襟を引き寄せて握っていたわけがわかった。おしゃべりのグラスが、職業別電話帳の病院のページの上にのっていたわけもわかった。ここに来てかけた電話の内容もわかった。その男が、グレーヴズを殺したのだ。しかし、その前にグレーヴズから――
その後で、歩きまわれたのだから、たいして大きな傷とは思えない。グレーヴズの胸の傷も、あまり大きくはなかった。多分、同じ一つのピストルだったのだろう……ちょっとかすった程度なのかもしれない。
立ち上って、また電話帳のところに行ってみた。こんどは、グラスをわきに退《の》けた。よくも役に立ったグラスだ……みごとに、その置き手を裏切った。その男は、今この瞬間に、市内のどこかの病院で、傷の手当てを受けているにちがいない。
ところで、病院は、ピストルで射たれた傷は、その筋に報告しなければならない。その男は、そういう危険をおかす気になったのだろうか?……それはその気になったにちがいない、でなければ、あらかじめ電話をかけたりなどしないはずだ。きっと、傷のわけを説明する作り話の用意ができていたのだ。それとも、ピストルの傷ではないのかもしれない……そのことに抜きさしならぬ確証があるわけではない。グレーヴズは、あの現場には格闘を演じた形跡がなかったにしても、なにかでその男をなぐりつけたのかもしれない。そうだったとすれば、自分から手当を受けに行っても、よっぽど安全なわけだ。
問題は、どの病院かということだ。どの病院に電話をかけたのだろう?……どの病院に行ったのだろう? AからYまで、かぞえきれないほどたくさん病院がならんでいる。グラスののせてあった位置には意味がない。恐らくは、これときめた病院の電話番号を確かめてから、手をあけるために、無雑作に置いたにちがいない。
それにしても、なぜ、あらかじめ電話をかけたのだろう?……そこがわからなかった……だがしかし、その男が電話をかけたという確かな証拠は、どこにもない。なるほど、電話室の隅っこに、血|塗《ぬ》れの紙屑が落ちていたのは事実だが、もしかすると、応急の血止めをとりかえるために利用しただけなのかもしれない。電話機には手も触れず、電話帳で、病院の在りかをしらべ、ついでに血止めを替えて、そのまま外に出たのかもしれない。
グラスはどうだろう? その底を虫眼鏡の代用に使って、文字を読んだのではなかろうか? そんなことは、子供の遊びごとだ……考えるだけ馬鹿馬鹿しい……それよりも、差しあたり、このすぐ近所を当ってみればいいじゃないか。とても、電話帳のはじめからおしまいまでの病院をしらべる時間はない。手っとり早い便法を講じなければならない。
キンは、電話帳から、ひろげてあったそのページ全体を裂き取って畳《たた》み、それをポケットにしまいこんだ。簡易便覧というわけだ。そして、外に出た。
その足音をきいて、調剤室に引っこんでいた薬剤師が眼をあげた。「もうおさまりましたかね?」
呼びかけられたそのことばの意味が、しばらくはわからなかった。ついさっき、この店に入りこむために工夫した口実を度忘れしていたのだった。
「ああ、ずいぶんよくなったよ」肩ごしに返事をした。
入口の階段を、ハードルをとび越す選手のように、大またに駈け上った。一階の廊下は、冷えびえと薄暗く、床がピカピカと光っていた。片隅の引っこんだ場所にあかりをつけて坐っている受付のところまで歩いて行った。
「今から二時間ほど前に、男の人が傷の手当てを受けに来やしませんでしたか?」
「救急車でいらしたんですの?」
「いや、自分で歩いてです」
「いいえ、今晩は、一人もそんなかたはお見えになりませんわ」
「茶色の服を着て、ここをこういうふうに、手でつかんで――」自分の上衣の襟を、片手でつかんで見せる。
「いいえ、あの――」
受付け嬢がいいかけるのを構わずに、キンは、ポケットの電話帳から裂き取ったページをさぐりながら、立ち去ろうとした。
「あら、ちょっとお待ちになって――」受付け嬢が、あわてたように呼びとめた。
男はクルリとふりかえって、また戻って来た。あまり急だったので、床に足をすべらしそうになった。
「おさがしになっているの、あのかたのことじゃないかしら――」受付け嬢は、凋《しぼ》んだような笑顔を見せた。「そのかたなら、四階にいらして、呼びこまれるのをお待ちになって――」そこまできいて、行きかける男のうしろから、「エレベーターを降りたら、右のほうに――こっちのほうにいらしてください」
男は、エレベーターに乗った。
四階で降りて、受付け嬢にいわれたとおりに曲がった。行くてには同じような、長い冷やりとした薄暗い廊下が延びていた。人かげは見えない。いくつもドアを通りすぎた。突き当りまで歩いて曲がった。そこは、廊下の幅がひろがって、待合室というか、少なくとも、ベンチの二つ三つ置いてあるそんな場所になっていた。それ以上歩くことはいらなかった。
そこにいた。
遠くから見ただけで、すぐにそれが目ざす相手だとわかった。まだ、診察室に呼びこまれていないのだ。やっとここまで辿《たど》りついたのに、こんな外の廊下に待たされているにちがいない。
その男は、壁ぎわのベンチに、打ちひしがれた様子で坐っていた。今もなお、射たれた場所を手で押さえつけている。いや、少なくとも、その上のあたりで上衣の襟をしっかりとつかんでいる。よっぽど痛むにちがいない。頭をうしろざまに投げたように、壁にもたせかけ、天井をにらみつけているように見える。しかし、自由な片手は顔に貼《は》りついて、両眼を隠している。眼かどこかを、しっかり押さえているのかもしれない。
口を少し開けて息をしている。
そのベンチには、二人ならんで坐れる余裕があったので、キンは、その男の隣に腰をおろした。しばらくは沈黙がつづき、長い廊下を急ぎ足で歩いて来たキン自身の荒い息づかいがきこえるだけだった。
隣の男は、すぐにはふり向かなかった。
ふり向けないほど痛みがひどいか、心の悩みが深いかなのだ。隣に誰が坐ろうが、そんなことを気にかけもしなければ、知ろうともしない。
キンは、たばこをとり出して火をつけた。吸いこんだ煙を、注意をひくために、わざと隣の男の顔に吹きかけた。ほとんど相手の耳のま正面だった。そうした瞬間、あまりにも無情なやりかたかなと考えた。しかし、隣の男に、自分がここにいることを知らせたかったのだ……これでわかったろう……これで、いやでもこっちを向くだろう……そら……
まず、顔から手がはなれ、その顔がまっすぐに向き直り、それからこっちに廻って、キンを見た。
キンは、こんなに絶望的な悲しい顔は、生まれてはじめて見たと思った。衝撃のようなものが、全身を走り抜けた。だが、それは、相手のみじめな様子のせいではなかった。なにかしら、ひどく親しい感情にとらえられたのだ。こういう瞬間に、そんな感情が湧いて来た理由はわからなかった。とても人を殺した人間とは見えない。そこらで偶然隣合わせに坐った人たちと、ちっともちがったところがない。キンは、自分とだって少しも変わらないのはどういうわけだろうと考えた……少なくとも、この自分が、他人にはそう見えるだろうと感じているそっくりそのとおりに見える。害もないが、人から見離されてもいる……齢もこっちより上ではない……ひょっとすると、ほかならぬこの自分が、胸にピストルの弾丸を抱いたまま、こっち側に坐っているやっぱり同じ自分を見ているのではあるまいか……
ふと下を見ると、床の上に血に塗れた化粧紙が落ちていた。電話室で見たのと同じようなのが……
向こうから先に話しかけて来た。「すまんが、一本ちょうだいできませんかね?」
キンは、一本分けてやった。「誰でも、あんたみたいなときには、ひどく煙草を喫みたくなるでしょうな」
隣の男は、陰気な微笑を見せた。「そりゃそうですとも」
キンは、相手が火をつけるのを待った。しかしその男は、自分のマッチを出そうとせずに、キンの手の煙草のほうに顔をもって行って、その先から火を移そうとした。キンは、向こうのするようにさせておきながら思った……今までに、こんなに人殺しに近づいたことは一度もなかったな……顔に、煙のこもった相手の息がかかった。
相手がまたものをいった。「あなたも、ぼくと同じようなわけで、ここに見えたんですか?」
「いや、とんでもない。あんたとはまるで反対のわけですよ」
しばらく、相手の出て来るのを待った。それから、「葉巻を切らしたんですな?」
「そうなんですよ。一本しか残っていなかったのを、だいぶん前に――」そこまでいってから、気がついて、「それを、どうしてごぞんじなんで?」
「なあに、グレーヴズの家に、吸口のリボンをグチャグチャに噛みつぶしたのがありましたからね」静かな落ち着いたいいかたをした。
その男は黙って、キンの顔をみつめた。さあ、いよいよ、来るところへ来たぞ……
相手がなにもいわないので、もう一度、こっちからもちかけた。「例のアンモニア精は、少しはきき目がありましたかな? そら、あんたが、マディスン街の七十丁目近くの薬屋でやったやつですよ」
その男の顔は、妙な色になってきた。横から見たのど元の輪郭が、息をのみこんだようにゴクリと動いた。「どうして、そんなことをごぞんじなんです?」
「それも見たんですよ……店の奥の電話室で、電話帳の上にのっかっていたのをね」
キンの分けてやったたばこが、床の上に落ちた。捨てるつもりではなかったのだが、口もとがゆるんで、ひとりでに落ちたのだった。
キンは視線を据《す》えて、相手の顔をじっとみつめた。相手も、こっちをじっと見つめつづけた。
「ひどく痛みますか? そこの手で押えておいでのところが?」いいながら、曲げた指の背中を、相手の襟の折返しに沿って走らせた。実際に触りはしなかった。
「ずいぶん血が出たでしょうな?」訊いておいて、相手の襟をつかんでいる手を力まかせに、もぎはなした。しかし、それでもなお、あまり手荒なことはしないようにつとめた。
上衣の前があいた。そこにはなにもなかった。腰のベルトまでずっとなにもなく、ただ白いだけだった。
キンは、ギクリとしてベンチに腰を落し、うしろにもたれかかった。
「実は、下着を全然着ていないのでね。こんなふうに、はだかの上に上衣を引っかけて出て来ちゃったのです」
その男は、今ではほとんど第二の天性になっているにちがいない手つきで、また上衣の襟を引きつめた。
キンはもう一度、上半身を前に乗り出した。「すると、あんたのほうは、やられなかったんですね。やられたと思ったのだが……じゃあ、血は、どこから出たんですか?」
「鼻血ですよ。興奮するといつもこうなんでしてね……ひと晩じゅう止ったり出たりなんです」
「いい取り合わせじゃありませんな。殺人犯と慢性鼻血症というやつは。そのおかげで、あんたを突きとめることができたんですからな」
その男のあごがダラリと垂れ下った。「なんだって?」放心したようにききかえした。はっきりきこえなかったみたいだった。
「あんたは、あの男を殺したでしょう? 殺して置きっ放しにして来たでしょう? 自分でちゃんと知っているんだ。そうじゃありませんか?」
相手の男は、ベンチから立ち上ろうとした。キンは、その肩にそっと手を置き、少し押し下げるようにした。「いや、じっとしていなきゃいかん」見せかけだけは、相手の気もちなど気にしないようなふりをした。「急に立ち上がろうとしないほうがいい。しばらくじっとしていなさい」
その男の顔の下半分がブルブル震えた。
「ぼくのいってるのは、グレーヴズのことなんですがね。あんたの葉巻をリボンまで噛みつぶした場所で……憶えていますか?……七十丁目の……」
「いや、六十九丁目だ」その男の声は震えた。「それに名前はきいたが――今ちょっと思い出せない。しかし、グレーヴズというのじゃなかった。ぼくの部屋の下の部屋に住んでいるんです。ぼくは、ひとりでいられないほどイライラしていたので、その人の部屋に行って、十分ばかり一緒に葉巻を吹かしただけです……あの人が殺されたのだったら、ぼくが部屋を出てからのことだ」
その男の顔はこわばった。波紋がゆっくりと顔一面にひろがり、ひろがるあとからそのまま凍りついたようだった。「あなたは嫌な口のききかたをする。ぼくはあっちへ行くことにします」
「そんな勝手なまねをされては困ります」無情ないいかただった。「ぼくの口のききかたが気に喰わんというのはもっともです。しかし、ぼくから離れてはいけない」
こんどは、相手の男は、キンの片手を肩にのせたまま立ち上がった。その片手を振り放そうとするので、キンも立ち上がり、もう一方の手を添えて、両肩をしっかりつかんだ。
「出て行ってください!」その男は、ヒステリーのように地団太を踏んだ。「出て行ってくれ!」
二人は、互いに組み合ったような形で、揉《も》み合い、もつれながら、あっちへこっちへよろめいた。椅子の縁にぶつかった。椅子が床にきしって、少しとび上がった。
「あんたが殺《や》ったんだ、そうだろう?」キンは、喰いしばった歯の間から声を出した。「あんたが殺《や》ったんじゃないか……グレーヴズを……七十丁目の……こうなったら、どうしてもいわせてみせる」
「ひと晩にこれだけ血を出させて、まだ足りないというのか……あッ、そら見たまえ……せっかくとめたのに、また出はじめた――」
ひとつの鼻の孔から、細い赤い筋が下につたわり出した。その男は片腕をもぎはなし、ポケットに手をつっこんで、化粧紙をつかみ出した。その紙を乱暴に自分の顔に押しつける。それをまた離して眺めた。そこに見えた血の色が、その男を怒らせたらしい。今まで、キンに消極的な抵抗を試みていただけだったその態度をあらためた。自由なほうの手を、キン目がけて、猛烈にたたきつけた。はずれた。もう一度、恐ろしいパンチをくり出した。
そのとき、ふいにドアがあいて、看護婦が二人をにらみつけた。
「もしもし! どうしたんですか?……おやめなさい! 二人とも、いったいどうしたんです?」
二人とも、まだ組み合ったまま、荒い息づかいをしながら、しぶしぶおとなしくなった。
看護婦は二人に、はげしい非難の眼差しを投げた。「なんということです。こんなことって、はじめてきいたわ……カーターさん、どちらのかたですの?」
「ぼくです」
キンに引きずられるようになっていた男が、苦しそうな声を出した。鼻から出た赤い筋は、あごまで届いていた。それと並行して、二本目が出かかっていた。キンにつかまれた上衣の前ははだけていた。やせたはだかの胃のあたりが、ふいごのように、ふくれたりしぼんだりした。
「お知らせすることがありますのよ」看護婦が呼びかけた。「ききたくないんですの?」
「なんです?」その男は力が抜けたようになった。
「男のお子さんができましたのよ」
急いで、キンのほうに向きなおって、「しばらく、しっかり支えていてあげてくだすったほうがよろしいわ。きっと気を失いますわ。このごろのお父さんたら、お母さんと赤ちゃんとを一緒にしたより、もっとわたしたちの手を焼かすんですのよ」
[#改ページ]
三時〇分
「どちらまで?」その男は、ドアを大きくあけた。
女は、外に立ったまま、そのドアを自分でしめた。「ちょっと、手つだってもらいたいことがあるんだけど、どうかしら?……今晩は、ずっとこの角にいたの?」
「十二時から、いたりいなかったりでさあ。毎晩十二時にやって来るんだがね……ここにじっとしてるってわけじゃないが、ここをたまり場にしてるんでさ。つまり、ここから出かけて、またここに戻って来るって具合にね」
「じゃあ、十二時すぎに、この角から、女ひとりだけの客を送らなくって?」
「ああ、一人いやしたよ。二時間ばかり前に……ところで、どうしようってんですかね? 誰かさがしていなさるかね?」
「ええ、そうなの」
「そいじゃあ、どんな人だったかいってくだされば、お手つだいできるかもしれんですよ」
「それが、どんな人なのか、さっぱりわからないのよ」
その男は肩をすぼめながら、舵輪《ホイール》のへりから両手をヒョイとあげて見せて、またおろした。「そんなことで、どうしてお手つだいができるかね?」まことに、ごもっともなことだった。しばらく待ってから、「すると、なんか大変なことなのかね?……どうして、お巡りをつかまえないんですな?」
「べつに、大変なことなんかじゃないのよ。わたしだけのことなの」ちょっと考えてみて、「ねえ、料金を貰うときには、よく気をつけていた?」
その男は、情けなさそうな笑顔を見せた。「そりゃあ、金を貰うときにゃ、たいがいそればっかり気をつけていまさあ……いくらあるかって、いくら多く貰ったかってね」
「いいえ、そのことじゃないの……つまりね……じゃあ、どこまで乗せたか憶えてる?」
「乗せて行った場所は憶えてまさあね」
「どれだけ払ったってことは?」
「憶えてまさあ」
「だけど、その女の人が料金を払ったときのことを憶えてる?……いいこと? わたしがその女の人だったとするのよ。その女の人を見ていたように、わたしを見ているのよ。その女の人、こんな風に払った?」女は、右手を使って、車の窓ごしに料金を払うしぐさをして見せた。「それとも、こんな風だった?」こんどは、左手で同じようにして見せた。
「わからねえな……もう一度やってみてください」
女は、もう一度くりかえして見せた。
その男は、頭を振った。「わしの見たのは、その女の人の手ばっかりでさあ。金をのっけた手をね。金を、こうつまめば、あとには手が残りまさあ。その手の上にお釣りをのっけたですよ。それから、そのお釣りの中から、チップをくださる。すると、また手だけが残りまさあ」
「その手の親指が、どっち側にくっついていたか、憶えてない?」
「とんでもねえことだ」愛想をつかしたように、頭をうしろに突きあげて見せる。「そんなものをさがしやしませんよ。親指がどっち側についていようが、そんなこと気にして、なんになるかね?……お役に立つかどうか知らねえが、その女の人の手に指輪がはまっていたことは、気がつきましたよ」
「役に立たないわね、そんなこと……だけど、どんな指輪だった?」
「なあに、そこらでお目にかかるのとちっともちがわねえ、あたり前の結婚指輪でさあ」
女は、タクシーの車体のほうへ一歩近づいた。「それが、料金を払ったほうの手の指にはまっていたの?」
「そうとも……でなきゃあ、そんなことが、わしに知れるはずがねえですからな」
「じゃあ、左の手でお金を払ったわけだわ」
その男は、ひどくビックリしたような身振りをして見せた。
「そんなことですかい、今まで知ろうとしていなすったのは?……わしには、まるでわからなかった」
女は車のドアをあけて乗りこんだ。「その女の人を送った先まで行ってちょうだい」
車は、マディスン街をどこまでも、ほとんど永久に走りつづけるかと思うほど走った。それでも、どんづまりのマディスン広場《スクエア》までたどりついて、そこで西に曲がり、二十三丁目を七番街まで行き、再び南に折れてシェリダン広場《スクエア》に近いあたりまで走った。十四丁目を越してすぐ次の小さな通りの手前で、急停車した。あまりふいだったので、停止信号のせいかと思ったが、前を見ると、信号灯は緑色になっていた。運転手がふりかえった。
「ここです」
「ここ?……だって、ここは町の角じゃないの。どっち側なの? どの建物なの?……番地はいわれなかったの?」
「番地はいわなかったね。ちょうど、今みたいに停めさせたんでさあ。トントンとたたいて、『ここで降ろしてちょうだい』といって、そら、こんな風に、わしとこんな具合にしたんでさあ。そのお客さんは車を降りて、今お客さんの立っている、ピッタリそこんとこに、つまり、歩道の縁《へり》の曲がっている、ちょうどその下水蓋の格子の上に、そんな具合に立ったんでさあ。わしの車も、さっき停まってオイルの落ちたあとのほとんどま上に停まっているね。これ以上なんとかしろっていわれても、そりゃあ、無理でさあね」
「では、その女の人、降りてからどっちのほうへ――」
「どっちへ行ったか、そいつは見ていなかったね。料金が、お客さんの手からこっちの手に引っ越してからは、そればかり見ていたですよ。それから、道があいているかどうか、前のほうをすかして見て、走り出したんでさあ」
「だけど……あ、待って……わたしをこんなところにおっぽり出して、行っちゃっては駄目よ……行かないで!」
しかし、間に合わなかった。車は、排気管からあざ笑うような音を立てて、ガスを吐き出し、女を置き去りにして行ってしまった。四つ辻のまん中にとり残されたのだ。
女は、四つの角を順々に眺めた、近くから時計の針のまわる方向に。その四つ辻は、こんな風だった――
女がいま立っている第一の角は、たばこの売店だった。鍵がかかってまっ暗だった。二つ目の角は、理髪店、これもしまっていた。三番目の角には、ガソリン・スタンドがあった。角はななめに切り欠かれて、セメントでかためた車廻しとなり、薄暗いあかりがひとつふたつともっている。四番目の角は洗濯屋だった。そこもまっ暗だった。
その女が、こういう町角を出はずれたようなところに、タクシーを停めさせたとすると、この四つの場所のどこかに入ったにちがいない。理髪店は、まっ先に落第だ。ガソリン・スタンドも、それに劣らず見こみがない。一番有望なのは、たばこ屋である。車を降りた地点にもっとも近いし、ひと仕事すませた後に、たばこの必要を感じたというのもありそうなことだ。だが、いずれにしろ、どれにしようかと選ぶ自由はなかった。とにかく、今開いているのは、ガソリン・スタンドだけなので、そこへ行ってみた。
係員に訊ねた。「今晩ずっとここに出ていらしたの?」
「そうですよ……夜勤番ですからな」
「じゃあ、もしかして、今から一時間かそこら前に、あそこの――ほら、あそこのあの角で、タクシーから一人だけ降りた女の人に、気がつかなかったこと?」
「気がつきましたよ。あそこのたばこ屋に入って行くのを見ましたがね」
「そらからまた出て来たかしら?」
「知りませんな。ずっと見張っていたわけじゃないからね」
女は係員に背を向けた。ほんのちょっと、一インチばかり先へたどれただけだ。歩道のきわから、たばこ屋の入口まで……
道を越して、もと立っていた場所にもどり、あたりを見まわした。そこから、同じブロックを五、六軒あと戻りしたところの歩道に、細い光の棒が洩《も》れている。こんな時刻には、ほかにほとんど見えないので、それがひときわ目立つ。
少なくとも、誰かの起きているしるしだ。そのほうへ足をはこんだ。もしかすると、こっちへ行ったのかもしれない……また希望が湧いて来た……が、それも、わずかに数歩進む間だけしか保《も》たなかった。
歩いて行くにつれて、その光の洩れ出している窓枠の幅は、次第にひろがった。窓枠に書かれた『食料品』の文字も、だんだん幅がひろくなって行く。
人を殺しておいて、ものを食べたりするだろうか?……向こうの角の理髪店とほとんど同じぐらい、立ち寄る場所としてふさわしくない。考えているうちに、もうその店の前に来てしまった。ほかにはどこにも当てがないというだけの理由で、とにかくその店に入ってみた。どうやら、エネルギーを浪費しているにすぎないらしい。
「あの……ある人をさがしているんですが……一時間ばかり前に、このお店に金髪の女の人が来ませんでしたかしら?……一人だけで……」
「空《あ》き瓶をかえしに?」
「いいえ」……まさか、殺人の現場から空き瓶をかえしには来るまい。
「知らんですな」そういいながら、片手で、ドシンとカウンターをたたいて見せる。
「ああ、あのひとですぜ」一緒にいた店員が口を出した。
「そら、あのうるさいお客さんでさあ。あっしがこういったでしょう……『奥さん、そんな風に、パンに爪で切ってほしい厚さの目印をおつけになったりしちゃ困りますぜ。そのパンをまるまる買ってくださるならともかく、あとのお客さんも、それをお買いになるんですからな』って……たった十セントばかりのサラミ・ソーセージと黒パンしか買わんのに、パンをまるごとつかむんですからな……こんな調子に……」パンのかたまりをもち上げ、粉で白っぽくなっている皮を、自分の爪でコツコツたたいて見せる。「きっとそのお客ですぜ」
「おいおい、お前も自分で同じことをやっとるじゃないか」主人が注意した。
「なあに、大丈夫でさあ……あっしは、この店の人間ですからな」
主人も、ぼんやり思い出したようだった。「ああ、あのお客さんですな……そうそう、そうでしたよ」
ブリッキーは、思わずカウンター越しに、からだを乗り出した。「その女の人の名を教えてくださらない? ね、ごぞんじなんでしょう?」
「名前までは知りませんな。しょっちゅう来るんですがね。この隣の建物のどこかに住んでる人ですよ」そういって、投げやりな身振りで、親指を自分のうしろのほうに振って見せる……もっと正確にいうと、棚に並べたトマト・ケチャップの瓶のほうに……
「まあ、そうですの?」女は、あわてたようにいって、早速戸口のほうに出て行きかけた。「じゃあ、わたし、さがしてみるわ。まるっきり知らなかったけど……すぐに行ってみますわ」
「この隣でさあ」主人が繰りかえした。
ブリッキーは入って来たときより急ぎ足に出て行った。やっぱり訊《き》いてみた甲斐《かい》があった。こんどは、さっきよりも一ヤード追いつめたわけだ。
ブリッキーは、食料品店を出たその足で、すぐ隣のアパートの入口を入った。
左手に、郵便受箱が六つ、ズラリと並んでいる。右手にも六つある。この中のどれだろう?……この建物は、食料品店のおやじのいった『隣』にちがいないけれども――あのおやじの親指は、こっちのほうへ向いていたけれども、このドッサリの『隣』の中の、はたしてどの部屋なのだろう?……どうすればわかるだろう?……名前はまるっきり知らないのだ……タクシーの運転手も行ってしまった……せっかくの足跡も、ふた切れの黒パンにはさんだサラミ・ソーセージの中で行方知れずになってしまった。宝くじの当たりぞこないだ。
郵便受箱の名前を読んでみた。ミラー、キャロル、ヘルツォク、ライアン、空室、バッティパグリア……かがみこんで、眼を壁にくっつけて、ひとつひとつ読む……歪《ゆが》んだ文字のもあって、はすかいに読まなければならない。バッティパグリアの最後の二字は、枠からはみ出ている。金髪なのだから、このギリシャ名前は、一番見こみが少ない。だが、結婚してギリシャ人になったかもしれないし、過酸化水素で髪を染めたかもしれない。まるっきり除外していいというわけにはいかない。
もう一方の郵便受箱の列にも、乱視になりそうな近さから眼を走らせた。ニューマーク、キルシ、ロペツ、シムス、バーロー、スターン。
この中のどれか一つのはずだ。全部ということはあり得ない。どれでもないのかもしれない。十一のうち一つだけが当りくじなのだ。あとの十は、はずれだ。いや、この建物がまるっきり見当ちがいなのかもしれないとすると、十一全部がはずれということになる。『隣』といったって、こことはかぎらない。二軒先の隣だっていい。三軒先でも、いや、間に道路がはさまるまでは、なん軒先だって、『隣』といえないことはない。
どれでもいいから、当てずっぽうにベルを鳴らしてみたら?……あたりじゅうから怒鳴《どな》られるかもしれない……いいじゃないか……その中から見つけ出せるかもしれない……いや、それは面白くない……わざわざ逃がしてやることになりそうだ。床にも、壁にも、耳がないとはいえない。なんの警告もあたえずに、いきなり……それが、成功をもたらすかもしれぬ唯一のやり方なのだ。
どの部屋がそれなのかまるで見当がつかないにしても、とにかく、ここからもっと中に入れないものかと、ブリッキーは内側のドアのところまで行ってみた。ドアの握りは、ピカピカに磨きあげた真鍮《しんちゅう》製だった。安アパートとはいえ、良心的に手入れの行き届いた建物らしい。握りに手をかけ、廻そうとして危く思いとどまった。
それほど小さな、それほどかすかな、それほどあるかなきかのものだった。どんなに軽くでも、手が触りでもしようものなら、駄目になってしまうところだった。光った繻子《しゅす》のような真鍮の表面についた、ほんのちょっとした、しかし白っぽい汚《し》み。細いかけら、指紋の消えのこり、三日月型の貝がらの幽霊。チョークに触ったばかりの誰かの指の先が、このドアの握りをまわしたのだろうか……
「黒パンしか買わない、けちなお客でさあ」食料品店のおやじの声がきこえるような気がする。「機械で切っても、とてもお気に召すほど薄くは切れませんやね。こう、こんな風にやって、切ってほしい厚さを指でして見せるんですがね」黒パンは、どこにでもベタベタくっつくような粉をまぶしてある。
「あの人、このドアを入ったんだわ」ブリッキーは、自分にいってきかせた。「このアパートのどこかにいるんだわ」十一が十一とも駄目かもしれないチャンスが、十対一まで大きくなった。
さあ、入るのよ……お馬鹿さん、どんどん入って行けばいいじゃないの……ドアからドアへ、一つずつ訪ねればいいのよ……さあ……ブリッキーはじっと立ったまま、頭を振った。いきなりぶつかるのよ……不意を襲うのよ……でないとなにもかも失くしてしまうかもしれない。
床の上に、小さな紙きれが落ちている。この玄関は、格別念入りに掃除がしてあるのだから、きっとつい今しがた落ちたのにちがいない。小指の爪ほどのかけらにすぎない。落ちているのは、入って来て右手の六つならんだ郵便受箱の下だが、特にどの箱の下ともつかないあいまいな場所だった。どれから落ちたかを決めるには、下すぎるし離れていすぎる。
それを拾い上げて、つくづくと眺めた。ゆび先でつまめば隠れてしまうほど小さい。そこになにか書いてあることを期待するのは、虫がよすぎる。たとえ、偶然がことさら好運をもたらしてくれようと気まぐれを起こしたとしても、とてもそんな余地はないのだ。事実なにも書いてはなかった。ただのちっぽけな白い紙だった。
しかし、どんなものでも、なにかを教えてくれる。指の爪でこじってみると、蝶の羽根のように、二枚に開いた。二枚分の厚さだったのだ。まん中にキッチリした機械でつけたような折り目がある。
つまり、それは封書の一部なのだ。封をした封筒を急いで開くはずみにちぎれ落ちた、小さな紙片なのだ。封筒そのものは、部屋まで歩いて行く途中、クシャクシャにまるめてしまったが、この小さな切れはしだけが、ちぎれて落ちたのだろう。
だからといって、こんなものが何の役に立とう? ここで開けたのなら、その手紙は、ここにならんでいる郵便受箱のどれかからとり出したのだ。それも、右手の六つの箱のどれかから……すると?……そうだ、手紙をとり出すには、なによりもまず箱を開けなければならない。箱の蓋は、小さな真鍮製の舷梯《タラップ》のように、下のほうに開くようになっている。開けるときには、指で触ったのは、箱の鍵だけだったろう。だが、閉める場合のことを考えれば、鍵を使ったりするよりは、指の先で蓋を押し戻すほうが、もっと自然で、もっと手っとり早いしぐさではなかろうか?
ドアの握りには、小さな白いものがついていた。
こんどは、さっきよりもずっと眼を近づけて、仔細《しさい》にしらべてみた。ベルの押しボタンの下のカードルに書いてある名前だけでなく、箱一つずつの前蓋にはまっているガラスも、そのまわりの真鍮の枠《わく》も、上から下までつぶさに見た。口から吐く息で、ガラスが曇り、次の箱にうつるとスーッと晴れる。ニューマーク、シムズ、ロペツ、キルシ――そこで、ハッとしてひと足さがった……眼を離したばかりでなく、かがみこんだままからだごとひと足さがった。
あった!……箱の外側の継ぎ目のすぐ上に、ほんのかすかだが、白い斑点が……あらかじめ、それをみつけようという心構えがなかったら、とても見つからなかったにちがいないほど、とるに足らぬ斑点なのだ。箱のもち主はキルシ。二階の階段をのぼった右側。
六つの可能性が、一つに圧縮された。その一つも、もはや可能性ではない……積極的な確実性なのだ。
些細《ささい》なことだ。使いみちさえ心得ていれば、誰のまわりにでもいくらでもある些細なことだ。些細なことだけれども手遅れにならぬうちによく考えて、自分を守る手だてを講じないと、身をあやまることにもなりかねない。しかも、手遅れにならぬうちに、そこにそんなもののあることに気がつこうはずもないのだから、自分を守るといったところで、誰にそんなことができよう。
切ってもらう厚さを示そうとして、黒パンのかたまりに爪でつけた目じるし。そこに白い四角なものがガラスをとおして見えたばかりに、深く考えもせず同じ指さきで、開けて閉めた郵便受箱の蓋。広告ビラかなにかなのだろう、いずれにしても、大事な郵便物ではなかったにちがいない。あわててその場で開けてみたのが悪いといったって、手紙が来たら、誰でもそうするのが当り前だ。そして最後に、ドアの握りを廻したのも、自分の住んでいる建物に入ろうとすれば、ほかにしようもないことだ。まったく、どれ一つをとっても些細なことだ。ところが、その些細なことを、全部寄せ集めると?……大破局だ……ここからなんマイルもかなたの、誰からも見られずに無事隠しおおせたと思ったことの発覚、対決、そして告訴となるのだ。
ブリッキーは、反対側の壁にならんだベルの押しボタンのうち、一階の部屋のを一つ押してみた。これなら、間違っても、高いところから、家じゅうにひびくような声でどなられずにすむ。
部屋からボタンを押して、ドアのかけ金をはずした合図のブザーが鳴ったので、ドアを押しあけて中に入った。
階段のほうに行きかけると、左手の部屋の細目にあいたドアの隙間から、一人の男が、けげんな顔をのぞかせていた。ブリッキーは、立ちどまらずに急ぎ足で通りすぎながら、その男になだめるような微笑を投げた。「ごめんなさい。まちがいましたのよ。きっと、手がすべってボタンに触ってしまったのですわ」
相手の男は、いわれたことの意味を正確に理解できないほど夢うつつだった。ただぼんやりと、眼をしばたいただけで、ドアの隙間はまた閉った。そのころには、ブリッキーは早くも階段を途中までのぼっていた。
のぼりつめて、クルリと向きを変えると、ちょうど正面に、それがボンヤリと見えた。棺桶ほどの大きさに……ほんのちょっと前に死神の入って行ったドアが……それは、このアパートのほかのドアと、寸分ちがったところがない。だが、ちがうのだ。その中から、死神の鼓動が、眼に見えない波動となって、出て来ている。それを、なにかの振動のように、自分の顔にほとんど感じることができた。
一歩踏み出そうとしたその爪先を、中途半ぱにおろす。もう一ぽうの足は、後に残ったままたゆたう。
耳をかたむけた。一瞬なにもきこえない。と、ふいに、皿をテーブルの上におろす音がした。早い足音が遠のく。早い足音が、また戻って来る。もう一枚皿をおろす音。こんどは、皿の上に皿を重ねる音だった。いや、それよりも、置き皿の上にカップをおろす音だった。また、早い足音が遠のく。
ブリッキーは、われ知らず身ぶるいした。死神は、早い朝食をとりに帰って来たのだ。
早い足音が、また戻って来た。紙の袋からなにか取り出すらしく、ガサガサと音がする。厚切りの黒パンだ。
また、早い足音が遠ざかる。なんとまあ、忙しそうなことか、ほとんど楽しそうにも感じられるほど、キビキビと立ちはたらいている。その楽しさも、あと一秒かそこらのことだ。死神は、よもや招かれざる客が訪れて来ようとは知らないのだ。
ノックをした。
足音が、ピタリとしなくなった。
もう一度、性急に執拗にノックをした。おぼつかない足音が、ドアのほうへ来た。
「どなた? 誰ですの?」
脅《おび》えているのが、その声からわかる。ま夜中のどんな時刻であろうと、こんなに息を殺したようないいかたで、ノックに応える人はあるものではない。
「ちょっとお眼にかかりたいのですが」
「でも、どなたなの?」
「開けてくださればわかりますわ」この最後の関所を、なんとかうまくごまかして通り抜けようと、ブリッキーは、その声に脅迫がましい調子をつけないようにした。
ドアの握りが、あいまいにまわった。まわるのが見えたけれども、ドアは開かなかった。「あなた、ルースじゃなくて?」
「ちょっとお話がしたいんですの。ほんの一分ばかりですみますわ」
このことばを信用したら最後、もう駄目なのだ。信用したら最後、もう二度と、ひとのことばを信用しなくなるだろう。カチリとかけがねの抜ける音がして、ドアに隙間ができた。
二十八歳ぐらいの女だった。いや、そうは行っているまい……二十六歳か……短い縮れ毛の金髪……生まれつきの金髪だが、幾ぶん染めてあるのかもしれない。砂色の眉毛とほとんど白く見えるまつ毛とが、そのことを物語っている。こわばった顔。しかし、それはまた心そこからこわばってしまっているのではない。顔の表面に防護膜をかぶせているのだ。その膜の下には、子供っぽい信頼感がかくされている。眼尻と、口もとのしわのあたりに、それがのぞいている。だが、出しすぎるのを恐れているのだ。出しすぎてはしょっちゅう裏切られてばかりいるのだろう。一度ならず思い知らされたあげく、今では、世間に対してその信頼感をかくそうとしているのだ。
両頬はやせこけて、一つずつ笑《え》くぼがある。頬べにが濃すぎるし、ひろすぎるので、熱のある顔のように見える。細縞《ほそじま》の入った安っぽい木綿のドレスを着ている。細い縞は、眼に見えない中心線から両側に斜め下に走っている。
ふいの闖入者《ちんにゅうしゃ》に、少し脅えているが、なんとか安心させてほしいと思っている。
すべてこれは、眼で見たスナップ写真を、時の経つにつれて組み立てた印象であった。
「ちょっとお目にかかりたいのですが」
今ではもう、爪先を前に向けた足が、ドアの隙間にはさんである。ドアを閉めようにも閉められない。相手は下を見ていないから、そのことに気がつかない。
「どなたですの?」
「あなたのためにも、わたしのためにも、中に入れていただいてお話したほうがよろしいんですのよ。いつまでも、こんなところに立ちんぼうは困りますわ」
ブリッキーはドアをグッと押して、部屋に入った。どっちかがドアを閉めた。そのときには、どっちが閉めたのだったか、どっちも確かではなかった。
狭苦しい家具付きアパートの小さな居間だった。小ざっぱりしてはいるが、なにからなにまで安ものづくめだった。窓から出る光が、外の灰色の壁に明るい歪《ゆが》んだ四角型を映している。その窓の両側には、色の褪《あ》せた赤いビロード地の寸足らずの窓かけが垂れている。トランプ用の小型テーブルの上に、食料品店から買い求めて来たものが並べてある。二枚の皿の間に橋をわたしたように、キチンと畳んだうす緑色のタブロイド型の新聞がのせてある。封を切らないたばこの箱も置いてある。――外から買って帰ったばかりなのだろう――それに、きれいに掃除した灰皿に、マッチまで用意してある。皿のサンドウィッチには、準備の整うまでのほこり除《よ》けに、紙ナプキンがひろげてかぶせてある。
部屋の奥の、あかりの洩れて来るドアのない通路は、寝室への入口なのだろう。
部屋に入って目にしたこんなものは、すべてどうでもよかった。死神でさえ、家庭生活というものがある。べつに、無からいきなりとび出して来るのではない。
「いったいなんのご用ですの? 夜なかのこんな時刻に、まるっきり知らない人に入りこまれては迷惑ですわ。妙なことなさるかたね」
ブリッキーは、なんの飾りもつけずに、ヅケヅケとありのままをいった。「あなたは一時ごろ、七十丁目とマディスン街との角で、タクシーに乗ったわね。その角から近いある人の家を訪ねたのでしょう?」
相手の女の顔が、その問いに答えた。顔の色が青ざめてきた。
「あなたの訪ねた相手の男の人は死んでいるわ。そうでしょう?」
女の眼は凍りついた。顔の表面から、生きた色がなくなった。見ていて愉快ではなかった。
「あなたが殺したのね?」
「まあ、どうしましょう」その声は、やわらかく低かった。眼の玉が上のほうに廻った。ひとみが上まぶたの下にかくれた。一、二分の間、白眼だけになった。
小さなテーブルの角を、手さぐりにさがし当て、それを頼りに辛《かろ》うじて身を支えている。
叫ぼうとした。それがやっと眼まで出て来た。そこで思い直した。涙がにじみ出た。溢《あふ》れるほどにはならず、眼がガラスをかぶせたようになった。
「警察からいらしたんですか?」
「そんなこと、どうでもいいのよ。わたし、あなたのことを話しているだけなの。あなたは人殺しだわ。今晩、ある人を殺したのだわ」
女の手が、のど元まで行った。そこが苦しいのをなだめるように……むせぶというよりは、咳《せき》のような音がした。「水を飲みに行かせていただきたいわ。わたし、すっかり、のどが――大丈夫ですわ。ほかに外に出る戸はありませんもの」
「ついでに、すっかり支度をして来るといいわ」無慈悲な言いかただった。
女は、あかりのついた通路を入って行った。そこを通るのに、壁に片手をついて、身を支えねばならなかった。
ブリッキーは、立ったまま眼を伏せた。考えているのではなく、耳をかたむけているのだ。グラスの触れ合う音がした。その音でわかったのではなかった。なにか鋭《と》ぎすまされた本能というようなものが、眼に見えない空気の流れに共鳴して、そのことを伝えたのだった。急ぎ足で女のあとを追って、奥の部屋に入って行った。
「そんなもの、飲んじゃ駄目!」ブリッキーは、手の甲を女の顔にぶつけた。相手のくちびるから、グラスがたたき落とされた。割れなかった。厚手の安ものだった。床にぶつかって転がり、水のような液体の尾をひいた。
それからはじめてあたりを見まわし、流し台の上の棚に、栓《せん》を抜いた瓶があるのをみつけた。褐色のガラス瓶だった。『リゾール』と書いたラベルが貼ってある。
女は、両手で流し台の縁《ふち》につかまった。まるで、その流し台がグラグラして、つかんでいなければ、はずれて落ちでもするみたいに……
「そんなことをして、白状してしまったようなものじゃないの」
女は黙っている。流し台につかまった両手が、少し震えているだけだった。
「いいわよ、話してくれなくたって……どっちみち、わたしにはわかっているのだから」
女は黙っている。
「さあ、わたしと一緒に行くのよ。事件のあった現場に、もう一度行くのよ」
女は、いきなりのどを絞められたような声をふりしぼった。
「いやよ! 行くもんですか。誰だか知らないあんたなんかと行くもんですか。行くぐらいなら、あんたを殺してやる。二度死ぬ目に会うのはいや! 一度でたくさんだわ!」
女の手が、流し台の片側にある、ゴムでできた架台《かだい》のようなもののほうへサッと伸びた。なにかがキラリとひらめいた。短い、鋭い刃のついた庖丁が、女の肩のうしろに振り上げられ、ブリッキーめがけてとんで来た。
逃げる余裕はなかった。場所が窮屈すぎた。ブリッキーは、逃げる代わりに相手にとびついた。殺意をこめた手首をつかんで、庖丁を振り落とそうとした。二人の女の空いたほうの手は、互いにたたき合い、つかみ合った。しまいには、両手と両手とをつかみ合ったまま、釘づけになった。
相手の女には、自分を殺そうとする絶望の強さがあった。ブリッキーには、自己保存の強さがあった。いずれは破れ去らねばならない一時の平衡状態が確定された。二人で一緒に少し揺れた。踏まえた足は、二人ともほとんど動かない。流し台の際《きわ》から離れようとしない。一度は、流し台の上に蔽《おお》いかぶさるような姿勢になったが、また二人とも元の姿勢にもどった。髪の毛が垂れ下った。二人とも声を出さなかった。些細なことからの冗談半分の争いではなかった。二人の人間のあいだの死にもの狂いの争いだった。死は性別を超越する。
つかみ合ったまま、二人は少し廻った。それから、また元の位置にもどった。静寂の中に、二人のはげしい息づかいのほかには、なに一つきこえない。疲労は、二人を活人画《かつじんが》の人物のように凍りつかせた。ブリッキーはナイフを防ぐのに、相手の女は同じナイフを突き刺すのに、二人とも精力を使い果たした。
向こうの部屋の外で、ドアに鍵を挿《さ》す音がした。
突然、思いがけなく、二人の役割は逆転した。
女は、絶望的な力をふりしぼって、ナイフを振り捨てようとした。ブリッキーは、なおもそのわけがわからぬままに、相手の手首をにぎりしめ、動かさぬようにしめつけた。相手の手の指が開いて、ナイフは床に落ちた。女の足が、そのナイフを流し台の下に蹴《け》りこんだ。そこには、争い合うたねがなくなった。二人は、互いにあいまいに力をゆるめ合った。
女は、ブリッキーのそばにひざまずいて、ドレスの裾《すそ》につかまり、苦痛にゆがんだ顔で嘆願しはじめた。
「ハリーにいわないでください。ああ、お願いだから、ハリーにいわないで……わたしを、わたしを憐れんでください」
向こうの部屋のドアが開いた。
明るい声が呼びかけた。「ヘレン、もう帰っていたのかい?」
「ねえ、いわないで……わたしはどうされてもいいから、ハリーにいわないでください。すぐにはいわないで……あの人を、わたし、愛していますの。あの人だけが、わたしのものですの。どんなことでも、おっしゃるとおりにしますわ――どんなことでも……」
ブリッキーは身をかがめて、ドレスの裾《すそ》から、相手の執拗《しつよう》な手をもぎはなそうとした。「あそこへ、わたしと一緒に行ってくれるわね? あなたのしたいように、人知れずにでもいいから、一緒に行ってくれるわね?」
女は、かりそめの猶予《ゆうよ》を切望してうなずいた。
入って来た男のかげは、もう入口まで来ていた。ちょっと寄り道をして、テーブルの上に待っている食事を、ひと口つまみ喰いしているらしい。
「いいわ」ブリッキーは、相手が可哀そうになった。「あなたがその気なら、わたしも調子を合わせて、お芝居をしてあげる」
ブリッキーの足もとにかがみこんでいる女には、ただ一つのことをささやくだけのひましかなかった。「わたしが話しますわ、いいように――」
男は、戸口に立っていた。
ブリッキーにとっては、ただのつまらない男だった。愛情の眼だけが、この男を、今自分の足もとにひざまずいている女の見るような男に変えるのだ。そしてその女だけが、この男に対して、そういう愛情の眼をもっているのだ。だからブリッキーには、女にとってこの男がどんなふうに見えるのか、ほんとうにはわからなかった。ただの男なのだ。一ダース十セントで買える安ものの男なのだ。
足もとの女は、男のほうに眼を向けないようだった。「この縁《へり》が、こっち側だけ長すぎるの。だから、スカート全体が歪《ゆが》んでいるように見えるんだわ」そこではじめて男をみとめたようにことばを切った。「まあ、ハリー、お帰んなさい」浮き浮きとした言いかただった。「入ってらっしゃるの、聞こえもしなかったわ」
「どなただね、お客さんは?」
女は立ち上って、男のそばに行き、キスをした。男は、女の肩越しに、不審そうな眼でブリッキーをみつめた。
女は、男とならんで立った。「メリー、ご紹介するわ。わたしの主人なの」
「メリー・コールマンですわ、よろしく」ブリッキーは女に約束したとおり調子を合わせた。
紹介された二人は、お互いに打ちとけない眼顔でうなずき合った。男は、自分の外套とズボンとに眼を走らせ、それから、ベッドのほうを見た。くたびれているらしい。三人は三すくみの態で、ぎこちなく黙り合ったままだった。やがて、男がクルリと踵《かかと》まわりをして、居間のほうへ行きかけた。
「先にあっちへ行って、食べるぜ」無愛想な口調だった。
二人の女も、後にしたがった。「じゃあ、わたし、ご主人もお帰りになったし、失礼しようかしら」
「あら、待ってよ。わたしもご一緒するわ。ほら、型紙をいただく約束でしょう」
男は、腰をおろしていた。シャツのボタンとボタンの間に、紙ナプキンの角をはさみこみ、前に扇のようにひろげた。
「こんな時刻にかい? 明けがたの三時に、服のことで走り廻るってのかい?」男は息をつめて、うなるような声を出した。
「五分で戻って来るわ。この人、すぐそこに住んでるのよ」
「やれやれ、待たなきゃならんのか」男は不機嫌だった。
「くたびれてんだぜ」
「先に召し上がって、お寝《やす》みなさいよ。アッという間に帰って来るわ。外套も着ずに行くほどなのよ」
「外套は着たほうがいいわ」ブリッキーが口を出した。「あけがたの今時分は、だいぶ冷えるもの」
女は、奥に行って外套をとって来た。二人とも――女も、ブリッキーも――顔が少し青ざめていた。男は、そのことに気がついただろうか?……
男も立ち上がって、食べかけのサンドウィッチを頬張ったまま、戸口までついて来た。ずいぶん高価なサンドウィッチだ。
女は、もう一度、男にキスをした。
「それから、ハリー、ドアに内側から鍵をかけちゃ駄目よ。わたしの帰って来たときに、鍵が使えないから。寝《やす》んでらっしゃるのに、ベルを鳴らして起こすのは、わたし、いやなの」
「あまりゆっくりするなよ。もしものことがあると困るからね」
女は三度目のキスをした。
「キスは、もうすんだじゃないか」
「わたしがしたくても、余分にキスしちゃいけないの?」
「君がしたいならいいさ」
女づれの二人を送り出しながら、男は、早くもネクタイの結び目に手をかけ、あくびのはじまりのように、口が半分開きかけていた。
ドアのしまったとき、女は危く声を出して叫びそうになった。声にはならず、顔がゆがんだ。「わたし、外に出るまでに、自分からブチこわしそうになりましたわ。あの人、くたびれているのよ。でなければ、わたしの眼で気がついたはずです。わたし、そんなにも、あの人を愛していますの」
「大丈夫よ」ブリッキーは、突き放すようないいかたをした。
ブリッキーが先に立って、二人は階段をおりた。夜明けに近い、荘厳な青さの街に出た。
女――ヘレン・キルシは、チラッとうしろの戸口のほうを振りかえった。「もう二度と帰って来られないのかしら?」くちびるを噛みしめる。「あの人と一緒にいたここが大好きでした。いい暮しではなかったけど、あの人がいましたもの」
「そんなら、そこにかじりついていさえすればよかったのよ」ブリッキーのことばは冷たかった。「センチになるのはよしてよ。わたし、約束したとおりやってあげたわ。こんどはあなたの番よ」人生は、シーソーのようなものだ……ブリッキーは思った……いつでも、誰かは高くのぼって行き、板のもう一方のはしにいる別の誰かは、低く落ちこんで行く。
二人は、街角まで歩いた。
「タクシーに乗るわ。それが一番早道だからね」
連れ立っていた女が、立ちすくんだ。
このひと、タクシーが見つからなければいいと思っているんだわ、とブリッキーは、自分にいってきかせた。ほんのちょっとでも、旅を遅らせるものにすがりたい思いなのだ。一台見つかった。大声で呼んだ。こっちへやって来た。
ブリッキーは、行先を相手に自分からいわせようとするように、連れのほうに手をしゃくってみせた。
「番地もですの?」
「もよりの街角でいいことよ」
「七十丁目とマディスン街との角ですわ」苦しそうな声だった。
ブリッキーは眼を細めてうなずき、車のドアを閉めた。
タクシーは、山の手に向って走り出した。街燈が、次から次へと近づいて来ては後へ去る。
ヘレン・キルシは絶望したように、両手の指を口の前でからみ合わせている。「あの人のシャツを、誰が洗濯屋にもって行ってやるかしら? あの人、そんなこと、ちっとも気がつかないんですもの。いつも、わたしがもって行ってやったのよ」
ブリッキーは黙っていた。
街から街を走り過ぎる。街燈がきらめいては後になる。
「あの人、わたしがいなくて、日曜日にはどうするでしょう。その日だけがお休みなんです。これからは、一日じゅう一人ぼっちになるんだわ」
ブリッキーはそっぽを向いた。「なんだって、そんなことばっかりくりかえすのよ」あらあらしい声を出した。
交叉点の信号灯にしたがって、車が停まった。待っている間、エンジンの音だけが、心臓の鼓動のようにひびいた。
もっと街を走りすぎた。街燈が、あとからあとからきらめいた。ニューヨークは、そんなに長い町なのだ。とりわけ、その町を縦の方向に――あらゆる希望のさいはてを目ざして走るときには……
「警察って、ずいぶん早いんですのね。以前からそうだと聞いてはいましたけど、今まで本気にしませんでした」
この人は、わたしを警察の人間だと思っている……それはいいけど、ほんとうのことを知ったらどうだろう……
ヘレン・キルシの声が大きくなった。「わたし、信じられません。あの人が、ほんとうに――いいえ、そんなはずはありませんわ」
「死んでいるわ」ブリッキーのいいかたは冷酷だった。「石のように冷たくなって死んでるわ」
そのことばのひびきが、ヘレン・キルシに、なにかの作用を及ぼしたようだった。いきなり、堪えられぬ苦痛に襲われたように、二つ折りに前にかがみこみ、顔を蔽《おお》った。こんどは、熱い涙が、あとからあとから溢れ出た。「わたし、そんなつもりじゃなかったのに!」のどを絞められたような声でむせび上げた。「わたしじゃないわ! ああ、ほんとうに、わたしじゃありません!」
「あの部屋で、あの男の人と二人だけだったの?」
うすくらがりの中で、女が、しぶしぶうなずくのが見えた。
「自分の手に、ピストルをもっていたの?」
もっとゆっくりと、しかし、くりかえして二度うなずいた。
「あの人を狙って射ったの?」
「ひとりでに――」
「たいがいそうなのよ。どうしてだかわからないけど、あなたのような女の人だと、不思議に、ひとりでに弾丸《たま》がとび出してしまうのよ。だけど、たいがい狙いも違わないわ。弾丸が出たとき、あの人、倒れたの?……え? 返事をするのよ……あの人、倒れた?」
「ええ」女は、思い出して身を震わせた。
「あの人、倒れましたわ。わたしも引っぱられて、折り重なりました。一分ほどの間もがいて、やっと離れると立ち上がって逃げました」
「男の人は、立ち上がらなかったのね? 倒れてから、じっと転がったままだった?……それとも、男の人も立ち上がって、あなたを追っかけたの?」
「あの人――あの人、立ち上がって追っかけはしませんでした」
「あなたは、ピストルでその人を射ったのね。あの人は倒れたのね。倒れてそのままだったのね……どんなにごまかそうったって、事実を曲げることはできないのよ。可哀そうだけど、あなたは殺人の罪を犯してしまったのよ」
ヘレン・キルシは、突き刺された豚のように、悲鳴をあげた。さもなければ、まちがって踏んづけられた小犬のように……顔をそむけて車の隅に、そこから外に逃げ出そうとでもするように押しつけた。片手で反射的に、車の壁を打ちたたく。
「わたし、そんなつもりじゃなかったのに! ああ、神さま、おききください! そんなつもりじゃなかったんです!……自分では、あんなパーティに行きたくなかったんです。勤め先のあの女《ひと》に、無理に誘われたんです。わたし、行きたくなかったのに。今まで、ハリーに隠れてそんなことしたこと、一度もなかったのに。行ってみると、四人しか来ていませんでした。男と女と二組だけ……そんな風なのがいやだったので、長居する気にはなれませんでした。気がつくと、いつの間にか、ほかの二人はどこかに行ってしまって、わたしとあの人とだけになっていたんです」
ブリッキーは、相手をはげまそうとした。「それにしても、なにがそんなにこわかったの? ちっとも大げさにいうこといらないわ。ちゃんとした理由がありさえすればいいのよ。そんな場合には、女のいうことが、いつも信用されるわ。それに、あなたの場合、あなた以外に、誰もなにもいいやしないんだもの」
女は、頭を上げなかった。ますます低くうなだれた。
「そんなことじゃないんです……わたし、こうなったら、もうハリーと一緒に暮せませんわ。あの人、わたしを許してくれませんわ」
「あなた自身、なんでもないパーティだと思って出かけたのだったら、許してくれるわ」
「でも、わたし、駄目なんです、駄目なんです――こんなことになってしまって……」
ふいに、ブリッキーには、一切のことがわかった。
「まあ」それは、つぶされたような声だった。「すると、あなたが射ったのは――」
「そうなんです。そのあとで、射ったんです」
車の速度がゆるくなって停まった。
ブリッキーが座席から手をのばして、料金を払った。二人は車をおりた。ブリッキーは、相手の女の手首をつかんだ。「タクシーが行ってしまうまで、ここで待っているのよ」
二人は、身じろぎもせずに立っていた。車は、夜の空気に、青白い幽霊のような排気を残して走り去った。二人のスカートがほのかに揺れた。歩道の際に二人だけが残された。
「これからどうしますの?」ヘレン・キルシが、哀れにも心細い声で訊《たず》ねた。
「ピストルを隠した場所を教えてちょうだい。まずそれを知りたいのよ。あなたが案内するのよ」
女は、そのまま、その通りを東のほうに歩き出した。ブリッキーは、女の影のようにピッタリ寄り添って歩いた。
ブリッキーは思った……はじめに、ピストルを棄てるために、こっちのほうへ行ったんだわ……それから引きかえして、マディスン街の角まで行き、そこで、あのタクシーに乗ったんだわ……ずいぶん気まぐれなやりかただけど……思っただけで、口には出さずに、黙って女について行った。
二人は、ほかの通りの倍の幅のあるパーク街の、人気《ひとけ》のない道路を横断して、中央の安全地帯の島にたどりついた。死んだ世界のような静寂。二十ブロックかそこら、眼の届くかぎり、あかりの見える窓はほとんどない。どっちみち、この辺の家の寝室は、たいがい裏側にあるのでもあろうが……世界中で一番お高くとまっている大通りだ。
二人は歩きつづけた。もっと狭い、もっと人間味のある、少なくとも、もっと生命《いのち》のあるレキシントン街まで来た。二人は、まだまだ歩きつづけた……三番街のほうに。三番街も通り越し、高架鉄道のガードをくぐって、二番街のほうへ歩きつづけた。
とうとうブリッキーが口を開いた。「どうして、こんなに遠くまで来たの?」
「道をまちがえたんです。わたし、はじめ、自分がどこにいるのかわからなかったんです。外に出ると、眼が廻ったような気もちでした」
さもあろう……ブリッキーは思った……誰でも、人の生命《いのち》をうばった直後には、そんな気もちなのだろう……
すぐにまた、ヘレン・キルシが話しかけた。「この辺のビルの間の横町なんですけど……灰捨罐《アッシュキャン》が、ズラッとならべてありましたわ。一番手前のには、蓋《ふた》がしてありました。わたし、その蓋をあけて、底のほうに突っこみました」しばらく間を置いて、「もしかすると、もう集めに来て、空にしてしまったかもしれません」
「夜明け前ごろでなければ、集めに来ないわよ」
「あれだと思います。あの中です。六つならんでいるでしょう」
「いっしょに来るのよ」ブリッキーは念を押した。「わたしがしらべる間、そばにいなきゃ駄目よ」
「どうとでも、おっしゃるようにしますわ」女はそれきりしかいわなかった。
二人は、横町に入りこんだ。建物の影が二人の姿を呑みこんだ。あたりをはばかる低い声だけがきこえる。灰捨罐の蓋をあける、かすかな音がした。
「ありました?」
とがめるような沈黙があった。それから、ブリッキーの声で、「あなた、嘘を吐《つ》いたのじゃないわね?」
「誰かに見つかったのだわ! 誰かがもって行ったのだわ!」
「確かにこの罐だったの?」
「確かに、この横町でした。ここから通りのほうを見たところを憶えています。あの向かい側の窓は、ガラスに細かい割れ目が入って、白く見えますね。この横町の、一番手前の罐でした。石炭殻でいっぱいになっていましたわ」
ブリッキーは黙っている。
「わたし、ちかってほんとうのことをいっています。はるばるこんな場所までお連れして、ごまかそうなんて、そんなこと考えやしません」
「嘘ではなさそうね。いいことよ。そんなものの中に腕を突っこむことないわ。あるとすれば、上のほうにあるはずだわね。どこかの屑拾いが、すぐ後に来て見つけたのよ、きっと。もしかすると、あなたがここに入って、また出て行くのを見た人があったのかもしれないわ」
二人の姿が、ふいに歩道のうす明りの中に出て来た。
「さあ、こんどは、あの家に行くのよ」ブリッキーは、静かにいった。
女は、ハッとしたように足を停め、訴えるようにブリッキーをみつめた。「わたしも行かなくてはなりませんの?」
「行かなきゃならないわ。そのために、あなたをわざわざ引っ張り出したんだもの。ピストルを掘り出したりするよりも、そっちのほうが大事なのよ。ピストルなんか、どうでもいいんだわ」
二人は、同じ道をあと戻りした。三番街を通り越した。女がまた、いきなり立ち停まった。ガタガタ震えている。くらやみの中でも、それがわかった。
「よしてよ……なにをぐずぐずしてるのよ」
女は、ものもいわずに身をひるがえして、二人の立っていたすぐ横手の、妙な臭いのする入口を入って行った。ブリッキーはその瞬間、相手が逃げようとしていると思った。背中をつかんで引き戻そうと手をのばしかけた。それから、その手を引っこめ、口まで出かかった声を押し殺した。不可思議な、ゾッとするような感覚が身内を走り抜けた。
ブリッキーは、女のあとを追った。「なにをするのよ、わたしをからかう気?」その声は落ち着きを失っていた。
通路のほのくらいあかりの中で、このどこへ行くのか見当もつかないトンネルの中で、相手の女が、わけのわからない顔で、なぜそんなことをいわれるのか解しかねる表情で、自分をみつめるのが見えた。
ブリッキーは、自分の質問のことばを撤回した。女は、通路の奥の階段をのぼって行った。ブリッキーも、すぐうしろにつづいた。二人のうち、どっちが脅《おび》えているかはわからなかった。ブリッキーのほうは、狼狽《ろうばい》に似た恐怖に脅えていた。半分までのぼったところで、女はまた足を停めた。「わたし、できませんわ。どうして、そんなことをしなきゃなりませんの?」
ブリッキーは、もっとのぼって行くように、手を振って見せた。「どこへ行くんだか知らないけど、停まらないで、のぼって行けばいいじゃないの」
横の汚れた壁を、二人の影がのぼって行く。
二人はやがて、とあるドアの前に立ち停まった。
ヘレン・キルシは、その長四角のドアを、越えることのできない扉のように、じろじろと見まわした。
「開けるのよ」ブリッキーは、いやな気分を感じながら、ここが二人の目的の場所であることを悟った。
女は、噛みつかれるのをおそれでもするように、おずおずと手を出して、ドアの握りに触った。大急ぎで廻しておいて、手をひっこめる。ドアは少し開いた。
「あなたが、先に入るのよ」ブリッキーがうながした。
先に立ってドアを入る女の顔は、呪《のろ》われたもののようだった。ブリッキーは、この女が、出かける前に、自分のアパートで口にしたことばを思い出した。まったく、二度死ぬようなものだ。しかし、こんどは一人ではない。ブリッキー自身、さっき、この建物の前に立ちどまって以来、同じように殺されるような気もちになっているのだ。
あかりが一つ、ついていた。入ったところは、監房にも似た狭い玄関《ホール》だった。そこを通り抜けた。あけっ放しの戸口を通って、まっ暗な部屋に入った。白塗りの板壁がほのかに見えた。台所らしい。もう一つ、やはりあけっ放しの戸口を通った。そこも暗い。突き当りに、あかりのついた部屋がある。二人は、そこに足を踏みこんで、立ち停まった。
なんともいいようのない部屋だった。その晩だけ、パーティのために、寄り合う場所として借りたものらしい。家具もなにもそっくりそのまま借りたのだ。長く住んだ人があったようには見えない。人を住まわせるつもりもないようだ。いってみれば、そんな部屋だった。
この部屋には、誰一人いなかった。前には、誰かがいたのだ。どっさりいて、大騒ぎをやらかしていたのだ。そこらじゅうに、グラスが林立している。はじめは四つだけだったのだろうが、四つの四倍も、六倍もの数になり、それぞれのまわりに、グラスをとり上げたり下したりして濡れた痕《あと》がどっさりある。椅子の上に、割れたレコードが放り出してある。ブリッキーは、そのかけらをとり上げ、ラベルを読んでみた。『ピストルをもってるお母ちゃん』意地悪くもピタリとふさわしいその題名に、ブリッキーは眉をひそめて、そこらにポイと投げ捨てた。
ヘレン・キルシが立ちどまって、指さした。向こうのドアのない入り口のほうに……女は、根がはえたように棒立ちになっている。そこから一歩も先に進めないのだ。ブリッキーは、自分だけで歩いて行った。
戸口の敷居に立ちどまって、のぞきこんだ。その部屋がどんづまりだった。そこから先には行けないのだ。
窓が一つ、しかし、窓かけが隙間なくかかっている。この部屋にも、グラスが二つあった。一つは、まだ中味が一ぱいある。誰かに押しつけられたものの、それどころでないことが起こって、口も触れずにあわててそこに置きでもしたようだった。
向うの端に、男が、不自然な格好で転がっていた。まったく動かない。
ブリッキーは男のそばまで行って、かがみこんだ。それから、急に顔を引いてわきへそらし、片手を顔の前で扇のように二度ばかり振った。立ち上がって、爪先で男のからだのあちらこちらを突っつきまわした。なんの当てもないただの好奇心からそうするように……
ブリッキーは、戸口まで引きかえした。
ヘレン・キルシは、元の場所で両手で顔を蔽《おお》い、底知れぬ悲劇の中の人物のように、棒立ちになったままだった。ブリッキーは、ただその姿をみつめるだけだった。
しばらく沈黙がつづいた。
女は、見られているのに気がつき、両手をおろして、問いかけるように見かえした。
また沈黙はつづいた。
やがて女は、そろそろと、ブリッキーの表情になにかをみとめた。「どうして、そんなにわたしをじっと見ていらっしゃるの?」
「ちょっとこっちへ来てちょうだい。見せてあげるものがあるわ」
ヘレン・キルシは、おじけづいたように、頭を振った。
ブリッキーは、その女を無理やり引っぱって行って、奥の部屋をのぞきこませた。
部屋の向う端で、なにかが唸《うな》り声をあげた。丸太ん棒のような姿がゆるんだ。二人が見ているうちに、その姿は、長い間|昏睡《こんすい》していた酔っぱらいに独特のよろよろする動きかたで、立ち上がろうとした。
「死ななかったのよ。死ぬほど酔っぱらっただけだったのね。死に損《ぞこな》ったんだわ。あの壁の上のほうに、弾丸の入った孔《あな》があるわ」
ヘレン・キルシの押さえつけたような悲鳴が、その男のおぼつかない注意を、二人に集めた。腫れ上がった眼を女に据《す》えた。ぼんやりと、女のことを思い出したようだった。
「君のお友だちかね?」男が低い唸《うな》るような声を出した。「どうだい、みんなで、もう一度飲み直そうじゃないか」
女は、二人とも立ちすくんだまま、その男が後足で立ち上がった熊のように近づいて来るまで、じっと男をみつめていた。その活人画を破ったのは、ブリッキーだった。
「さあ、ここを出るのよ……また同じことをくりかえさない先に」
ヘレン・キルシは、放っておけば一晩じゅうでも、そこに突っ立っていただろう。全身の力をうばい去られ、凍りついたようだった。ブリッキーは、その女を力まかせに押して行かなければならなかった。女を先に立ててこづきながら、途中の部屋を通り、廊下を抜けて、やっとのことで階段の降り口に出た。
うしろのほうで、重いものが床に倒れる音がした。それっきり静かになった。
ブリッキーは念を入れて、入口のドアをしっかりとしめた。
「さあ、行くのよ。そんなところにぼんやり立っていないで、ここから行ってしまうのよ」二人は、腕を組み合わせて、階段を駈け降りた。一人は、安心感から泣きじゃくりながら、もう一人は、せっかくの苦心の挫折《ざせつ》した苦い思いで……
階段を走り降りた勢いで、そのまま転がるように、二人は歩道にとび出した。ブリッキーが立ち停まって振りかえった。
「あなたは、あの下町の、ジョージだか、ハリーだかっていう男の人を愛しているんだわね?」
ヘレン・キルシは頭を振って見せた。口がきけなかった。涙が溢《あふ》れそうになり、眼がキラキラと光った。
「じゃあ、なにをぐずぐずしてるのよ、お馬鹿さんね」ブリッキーは、通りかかるタクシー目がけて手を振り上げた。
「さあ、帰るのよ。大急ぎで帰るのよ!」タクシーは、方向を変えて停まった。「お乗りなさい」
ブリッキーは、女だけを乗せたタクシーのドアを閉めた。青ざめた顔が、一瞬なにもいわずに、窓の外のブリッキーをみつめた。
「さあ、すっかり無事にすんだのよ。せっかくの幸運を駄目にしないように。いつまでもハリーと一緒にいるのよ――今日のことは黙っていればいいわ。これからは、自分のことに気をつけて、二度とピストルの引き金などに指をかけないのよ」
[#改ページ]
三時二五分
まったく思いがけない幸運だった。キンは、負け犬のように尻尾《しっぽ》を脚の間にはさみこみ、両手をポケットに突っこんで、帽子を目深《まぶ》かにかぶって、病院からの戻り道を歩いていた。こんどは、酒場《バー》をしらみつぶしにあさり歩いているのだった。酒場は見つけやすかった。ブロック二つ三つ向こうからでもわかった。こんな時刻には、あかりをつけて戸を開けている唯一の店なのだから、地図の上に突き刺した色つきの留め針のように目立った。
病院と問題の邸《やしき》との間の、北から南へ伸びる六ブロックばかりの幅の間だけを、ひどくジグザグ型に歩いていた。|大通り《アヴェニュー》との交叉点に来るごとに、一つの方向に三ブロック、酒場をさがしさがし歩き、それから廻れ右をして元の地点を通り越し、反対の方向に、また三ブロックばかりさがすのだった。終点まで行くと引きかえして、こんどは一ブロックだけ西へ進み、次の交叉点で、また同じ往《ゆ》きつ戻りつをくりかえした。酒場は全部、大通りに面していた。大通りと大通りとを結ぶ横町にはなかった。
ある酒場には、自分から入りこんで、店の中をほんのしばらくの間物色した。戸口から頭だけを突っこみ、あたりを見まわし、そのまま立ち去ることもあった。自分では酒を飲まなかった。それは無謀《むぼう》の業《わざ》だったし、時間と知覚の鋭敏さとの両方を潰《つぶ》してしまうことだった。
あからさまな証《しる》しというか、象形文字《ヒエログリフ》というか、なんといってもいいが、とにかく、ある探す目当てになるものがあったからこそ、こんなさがしかたができるのだった。こんな風に簡便法を使うことができるのだった。
つまり、自分自身にこういいきかせたのだった……こんなに遅くまでこんな場所にいるとすれば、その男は誰からも離れて、一人ぼっちでいるだろう。人を殺しておいて、談笑を求めに酒場に足を入れるような人間はあるものではない。そんなことをしでかした後で酒場に入るとすれば、神経をやすめるためなのだ。だから、距離の点でも態度の点でも、ほかの客からかけ離れた、一人ぼっちの男をさがせばいい。
それは、一つの簡便法だった。ほかの方法が駄目だというのではなく、ただただ一番にその方法でさがすだけだった。
この場所に行き当ったときにも、最初は店に入らずに、外からすばやく店の中をひとわたり眼に入れた。それだけで、客の一人として見逃すおそれのないほど小さな店だった。普通の店の半分の間口しかない、うなぎの寝床のような店だった。ほかでなら店の片一方に寄っている感じのカウンターが、ここでは店を正確に中央で二つに分けている。カウンターの外側の客の居場所は、内側のバーテンダーの居場所より広くはない。その上、外から見通しのきかない、いわゆるボックスになった客席もない。正面の窓から、まっすぐカウンターの上を突き当りまで見通すことができた。
カウンターに向かって、八人の客がいた。だいたい三つのグループに分かれ、それぞれほかのグループには眼もくれず、仲間同士だけで飲み合っているが、よく見ないとそれぞれのグループの境《さか》い目がわからない。客同士の距離は役に立たない。こっちから見ると、八人がずっとひとつながりの線になっている。見わける方法は、めいめいの肩の向きだった。それぞれのグループのきれ目では、そこの客の肩が、その向こうのグループの客の肩に対して斜めになっている。グループの中の肩の線は、ちょうど括弧《かっこ》の記号のようになっていた。いいかえると、各グループの両はしの人たちは、正面ではなく、斜めに仲間の内側のほうを向いているのだ。グループ別は、こんな具合になっていた――はじめに三人、次の一人が肩を斜めに、それからまた三人、もう一人肩を斜めに向けたのがいて、最後に差し向いに立つのが二人……
一人の客はいなかった。一人ぼっちで飲んでいる客は見当らなかった。
キンは、そのまま先へ行きかけた。と、ふいに、もう一度のぞき直した。眼をとらえたものが、かれをそこに釘《くぎ》づけにした。眼をカウンターの上に走らせて、機械的にグラスの数と、客の頭数とをかぞえ合せてみた。そこに、なにか妙な事実があるのに気がついた。
グラスは九つ、客は八人だった。飲み手よりも、グラスのほうが一つだけ多い。
もう一度、両方をかぞえて確かめた。客をかぞえるのは、わけのないことだった。グラスのほうは、たくさんの手が出たり入ったりして視界を妨げるので、それほどたやすくはなかった。
一人の客で、水のグラスと合わせて二つ抱えているのがあるかもしれないことを念頭に置いて確かめてみても、やっぱり、グラスは九つだった。水のグラスは、一つも出ていなかった。どうしたわけだか、その時、そこに居合わせた客は、一人残らずビールを飲んでいた。
余分のグラスも、気まぐれにそこに放り出してあるのではなかった。といって、どの客かの前に置かれてあるのでもない。カウンターの一番遠いはずれに、ただ一つ空いた、そのグラスを使った客がいたにちがいない席の前に、ポツンと一つだけ置かれてあるのだった。
それこそは、まさにさがし求めていたものだった。……ほかからかけ離れた孤独のシンボル、それが人でないだけだった。非情のグラスであった。
第一の象形文字《ヒエログリフ》。
店の中に入りこんだ。
ほかの客のうしろを横歩きに歩いて、向こうのはしの、なににもまして雄弁な空席までたどりついた。そこには、一番はずれの客と壁との間に、ひろい空隙があった。そこに入りこんだ。グラスの真正面でなく、できるだけ近くに。
グラスをみつめた。二倍に報《むく》いられた。なんのへんてつもないビールのジョッキだが、それでも、わざわざ確かめに来ただけの報いはあった。
この型のものの常《つね》として、それには柄《ハンドル》がついていた。売り方の儲《もう》けになるように、恐ろしく上げ底になった、厚手のガラスでできた八角形の代《しろ》ものだった。それに柄《ハンドル》がついていた。ほかの客のジョッキの柄は、みんな揃って同じほうを、店の奥のほうを向いていた。それが、これ一つだけは、反対の外の通りのほうを向いている。
第二の象形文字。
キンは、バーテンダーの注意をひきつけ、これから出そうとする質問の潤滑剤《じゅんかつざい》として、自分にもビールを注文した。ふと、また追跡のことがしきりに気になって来た。ひとところをブンブンとうるさく円を描いてとび廻るアブのように。
バーテンダーに訊《き》いてみた。「ここは、誰か客がいるのかね?」
「ええ、ちょっと奥のほうへいらしたんですがね」
するとやっぱりその男は、まだこの店にいるのだ。ジョッキにはまだビールが残っている。そのことと、ジョッキが片づけられずにそこにあることから、訊《たず》ねる前に、だいたいそうらしいとはわかっていたのだが。
ぐずぐずしている暇はない。向こうがどう思うかは相手にまかせて、すぐさま次の質問を切り出してみた。「どんな色の洋服を着た客だね?」
「茶色ですな」バーテンダーは、べつに打ち解《と》けるでなく、訊かれたから答えるという調子だった。妙な眼つきでチラッとこっちを見た。ぶしつけな質問が、気にくわないのだ。しかし、確かに「茶色」という答だった。
第三の象形文字。
一度に、ひとところで、たった一つの粗末なビールのジョッキから、混み合う客の中で一人離れて飲む、左利きの茶色の服を着た男。
三番目の質問。「どのくらいの間、ここにいるのか、憶えていないかね?」
十セント玉が幾枚か繰り出された。返事が出て来るまでにかなり暇がかかった。やっとのことで出て来た。しかし、ありったけの最後のもののようにのろのろと。でなければ、なにかが干《ひ》上がってしまって、これ以上は逆《さか》さに振っても出て来ないというように。
「二時間か三時間でしたかね」
時間の点でも、まちがいはなさそうだ。
第四の象形文字。
「その間じゅう、こいつでねばりとおしていたのかね?」
こんどは、しっぺ返しを喰った。これ以上答えてもらうには、ウィスキーでも飲まなければならないらしかった。
「いったい、こんな店に来て、なにをそんなに根掘り葉掘り調べあげようってんですかい?」バーテンダーはガミガミといっておいて、もっと儲けの多い、うるさい質問のない客のほうへ移って行った。
もう訊《たず》ねなくてもいい。どっちみち訊き出しもできないだろう。うしろの見えないあたりでドアがあいて、問題のジョッキのもち主が戻って来た。
キンは振りかえらなかった。眼の前にカウンターの長さに合わせた、横に長い鏡が張ってある。「あそこに映るのを見てやるぞ」ひとりごとをつぶやいて、鏡から眼を離さずにいた
鏡の中の隣の席は、しばらく空っぽのままだった。やがてその空間が埋まった。うしろから、つまり、鏡の中でいえばキンの顔の下のほうから、一つの顔がせり上がって来た。同じ高さになると、じっと動かなくなった。
その顔は、ゆがんだよれよれの帽子の前を下げてかぶっていたが、顔が隠れてしまうほど深くはなかった。四十五歳ばかりの男の顔だった。しかし、おそらく今晩ひと晩で、二十年ほども老《ふ》けこんでしまったのだろう。髪の色と、頸《くび》のあたりの線と、そういったものが辛《かろ》うじて、この男が実はもっと若いことを物語っている。やつれて、緊張に青ざめたその顔は、帽子の縁から忍びこんだ電燈の光に照らされて、銀色かと思われるようだった。
その男には、なにかおかしなところがあった。キンには、チラッと見ただけでそれがわかった。誰だってわかるはずだ。
その男はカウンターに向かって、まっすぐに立ってはいなかった。カウンターの一番はずれの壁にからだの右側を押しつけて、そっち側を守るように、見られるのを防ぐように、よりかかっている。酔った身を支えるような寄っかかりかたではない。それと知られるのを隠すような、ひそかな寄っかかりかただった。ほとんどわからないが、それでも、からだのあらゆる線にそれがあらわれている。手を出してビールを飲むときにさえ、その男は、からだを少し壁のほうに向けた。それもほんの少し、具体的にどれだけというよりも、心の中でそれとなくそっちへ向くというような向けかたなのだ。
「とうとうつかまえたぞ」キンは、自分にいってきかせた。こんどこそは本物だ。子供が生まれかけて脅えている父親などとは違う、不吉な影がある。
その男は、またビールを飲んで、また壁のほうに少し身をかがめるようにした。いつも出すのは左の手だけだった。右手は決して見せない。かばうようにかがめた身体と壁との間にかくした秘密なのだ。
ピストルかな? と、キンは思った。
なにをそんなにビールをみつめているのだろう? 夢を見るように……殺した相手の幽霊を見ているのかもしれない。そのせいで、つかれたような眼をそれから離せないでいるのだ。
ひとつ、反応を試してやろう……すっかりわかってしまってはいるのだが、その反応を、第五の象形文字としよう。
キンは自分のジョッキを手にして、ブラブラと歩き出し、たばこの自動販売機をさがすようなふりをした。さがすまでもなく、すぐそばの真正面にあった。手にもったジョッキを、販売機の上の危なっかしい場所に置いて、ひとに気づかれぬように、そっと突き落した。
ジョッキは、床の上に落ちて、音を立てて砕《くだ》けた。とび上がるほどではないが、ちょっとビックリするような音だった。八つの顔が振りかえり、なに気なくあたりを見まわし、それからまた元に戻って、自分たちだけのことにかかりきりになった。
だが、九人目だ。その男の肩胛骨《けんこうこつ》は、ビクッとうしろに反《そ》りかえった。頭は、頸筋《くびすじ》のうしろに振りおろされた打撃を避けようとするように、低く垂れ下がった。うしろを向かなかった。向くことができなかった。一瞬、恐怖の狭窄衣《きょうさくい》を着せられたようだった。やがて、その状態がゆるむにつれて、ことさら深い息づかいとともに、背中の両わきがふくれたりすぼまったりするのが見えた。そのすぐあとで、片手をあげたとき、その手はキンの落ち着いた眼にも、輪郭が定かでないほど、ブルブルと震えていた。
立派な陽性反応だ。罪悪感に対する陽性反応だ。罪悪感以外のなにものが、ひとを、この男がたった今して見せたほど、縮み上がらせることができようか? もしかすると、眼には見えなかったが、もっとビックリするような徴候があったのかもしれない。たとえば、ポケットに突っこんでピストルを握っていた右手を出しかけて、途中で思いとどまったとしても、それは壁にしか見えなかったはずだ。キンは、それを見ようとして見逃がした。気がついたときには遅かった。右の手は再び不動に戻っていた。
キンは、ジョッキのかけらを一つ二つ蹴《け》とばしながら、もう一度、ブラブラと自分の場所にもどって来た。
だが、今や二人の間には、お互いにお互いを意識し合う感情が燃え上がって来た。そして、上わべでは知らん顔をして見せながら、内心相手のどんなわずかな動きも見のがすまいとする微妙《デリケート》な闘争が開始された。帽子の縁《へり》が下がった。ずっと下がった。その縁の下にかくされた病的にギラギラと輝く眼は、カウンターの上《うわ》っつらを一心ににらみつけているように見えるが、決してそうでないにきまっている。まともに鏡に向けているキンの眼だって、面白くもないガラスの表面だけを見ているのじゃない。二人が、めいめい眼に見えないアンテナを振りかざして、お互いに相手に鋭く波長を合わせているような具合である。
なにか知らんが、ピリピリと感じられるものがある。ジョッキを落して大きな音をさせたせいではない……キンは思った……こっちが身じろぎ一つしないでいること、相手を意識のうちに入れていないこと、それがこの男を、こうも緊張させているのだ。こっちがあまりにもじっとしているのが、あまりにもまっすぐ正面をみつめているのが、気になるのだ……わなにかかったぞ……無言の脅迫は成功したぞ……
一方から他方へ、眼に見えぬ電流が流れる。充電し直されて、また帰って来る。もう一度充電し直されて流れて行く。すさまじい緊張のやりとりだ。
帽子の縁は、身を護《まも》ろうとするようにますます低くなる。それ以外には、なんの動きもない。鏡にひたむきに向けたキンの凝視は、そこに植えつけられたように、一|分《ぶ》一|厘《りん》動かない。今はもう、二人とも呼吸をしているのが精一杯《せいいっぱい》となった。
この二人をのぞいたほかの客は、そんな緊張を知らぬげに飲み、しゃべり、白い歯をむき出し、時には唾《つば》を吐き散らしている。二人の姿は、せわしなくざわめく酒場の情景のまっただ中に置かれた場違いな静物画さながら、そんなにもかけ離れた空気に包まれていた。距離といえば、ほんの三歩か四歩にすぎないのだが……二人は、カウンターに立てかけられた、生命のない、なにかの標識のようだった。
だしぬけだった。まったくだしぬけに、鏡の中のキンの隣が空っぽになった。まるで、『ファウスト』の中のメフィストフェレスの消えかただった。煙が立ち上がらないだけの違いだ。泡《あわ》を喰ったキンは、まるっきり見当ちがいの方角、相手が一番はじめに立っていた方角に向けた。それから気がついて、あわててグルッと半円を描いて、その頭をまわしつづけた。からだも、それについてまわった。最後に、やっとのことで、全身が店の入口のほうに向いた。
ちょうど、相手の男が入口のドアを素早く抜け出そうとするところだった。濡《ぬ》れたスポンジで、鏡の表面の汚点をサッとぬぐったようなアッという間の早業《はやわざ》だった。
こんな露骨な、こんな厚かましい逃げかたをするとは思いもよらなかった。逃げるとすれば、それとなく空とぼけて、いつとはなしに出口のほうへにじりよる、と、そんなやり方で来ると思っていたのだった。こいつは、オイとか、コラとか呼びとめる暇もあたえぬ、公然たる逃亡だ。顔いっぱいに、犯人でございと大書したようなものだ……自分は犯人だ……なんの必要があって、君がそのことを見つけ出すまでオメオメと待っていようぞ……こっちはこっちの好きで逃げるのだ……と。
キンは、アッとのどが詰まったような声を出した。後を追おうとして、腕や脚よりも、胴体がまっ先にとび出した。
バーテンダーのどなり声がきこえた。キンはポケットから、なんだか知らんが、ニッケル玉らしいものをつかみ出して、確かめもせずに肩越しに投げつけた。それが床に落ちるより早く、店の外にとび出していた。
相手の男は、死にもの狂いで通りを走っていた。「狂気につかれたように」としか表わしようのない逃げかただった。恐怖のあまり狂乱したのでなければ、そんなに無茶苦茶に走れるものではない。だのに、ピストルをつかんだほうの手は、相変わらずポケットに突っこんだままにしている。そんな無理な姿勢で走るので、バランスが崩れて走りながら身体が傾《かし》いでいる。
その男は、よろめくように角を曲がって見えなくなった。キンも後を追って曲がった。また相手が見えた。距離は変わらない。通りを越して、暗いほうの側に移った。影に包まれて、また見えなくなった。キンも同じ側に移って、相手のまだ冷え切らぬ足跡を自分の足で踏みつけるようにして追いかけた。また姿が見えて来た。
こうして、二人はくらやみを縫《ぬ》って、かくれんぼをつづけた。その遊戯は笑いごとではなかった。容赦もなにもなかった。射って来るぞ、とキンは思った。用心したほうがいい、射って来るぞ。だが、追いつづけた。勇気があったわけではない。追跡の情が、ほかのあらゆる恐怖心を熔《と》かしてしまったのだ。
相手の影が、もう一つの角を廻った。キンも遅れじと廻って、相手の姿を視野につかまえた。こんどは距離がつまって来た。脚だけで走れるものではない。両の腕で、自由に空気をかきわけることができなければならない。
追われる者は、狼狽《ろうばい》しはじめた。また別の角を曲がって見えなくなった。キンも曲がってみると、今度は相手の姿がなかった。しかし、キンがうろたえるより早く、相手は恐怖のあまり、自分から姿を現わした。そこらの家の戸口から、ヒョッコリと出て来た。じっとしていれば、あるいは見つからずに済んだものを、フッと不安になってとび出したのだ。また追跡がはじまった。キンのほうが相手を追い越していたので、こんどは、反対の方向への追跡だった。恐怖は、智恵を鈍《にぶ》らせる。
こうしている間、二人を停めるものはいない。邪魔も入らない。無罪ならば、なんだってこの男は、大声で助けを呼ばないのだろう? キンは考えた。なぜ助けを求めないのだろう?
相手は、絶望的に押し黙って、ただひたすらに逃げて行く。
その追跡も、どうやら大詰めだった。キンは若かった。キンには目的があった。夜じゅうでも、町のはじからはじまででも走りつづけることができる。今では、もう相手の姿を見失うことはなかった。曲り角も、家の戸口も役に立たなかった。それほど二人の距離はつまっていた。
速度が落ちて、足音は乱れて来た。やがて足は動かなくなり、その男は、そこに寄りかかって喘《あえ》いだ。壁際に追いつめられたような格好だった。すぐにキンは追いついた。ポケットに入ったままの片手を恐れて、いきなり正面に立たずに、わきから詰めよるような位置に立ちどまった。こうしていれば、相手がどっちにとび出そうが、一緒にとび出すことができる。
相手はとび出さなかった。とび出せなかった。
その男の声は、息が足りないように、かすれたささやき声だった。砂を篩《ふるい》にかけるような声だった。「どうしたというんだ?……なにを君は――近くに寄っちゃいかん!」
キンの声も息切れのせいでかすれたが、なに者といえども、たとえ六発の弾丸が立てつづけに発射されようとも、くじくことのできない目的に張りつめていた。「近くに寄るとも。こんどこそつかまえたぞ」
キンは詰め寄った。二人の顔は触れ合わんばかりとなり、吐く息をお互いに熱く感じ合った。二人ともビクビクものだった。しかし一方のほうが、もっと恐れていた。恐怖心の少ないほうがキンだった。ふいに射たれるかもしれないという恐怖だけだった。だが、相手はまるで恐怖にうちひしがれていた。恐怖に慄《ふる》えていた。タールだかペイントだか、そんなものが、自分のよりかかっている建物の上のほうから、ドッと落ちて来でもするような恐れかただった。口をポカンと開けて、その片隅から、よだれのようなものが長い糸を引いていた。それが、鋏《はさみ》でチョキンと切ったように断ち切れた。
左の手が動いた。キンは、それを押しとどめるひまがなかった。右の手でなく、左の手だった。ピストルだったら間に合わなかったところだ。ところが、ピストルではなかった。
「さあ、こいつか? 君はこいつがほしいのか?……さあ、持って行ってくれ。これっきり、おれに構《かま》ってくれるな」
その男は、手に持ったものをキンに押しつけるようにした。
「さあ、持って行け。持って行け。おれは、訴えたりしない。おれは――」
その紙入れが、下に落ちた。キンは、爪先で、それを蹴《け》とばした。
「君は、なぜ逃げたんだ?」
「君こそ、なぜおれを追いかけたんだ? おれをどうしようっていうんだ? おれは、がまんができん。これでも脅《おど》かし足らんというのか? おれは暗やみがこわいんだ。明るみがこわいんだ。音がこわいんだ。静けさがこわいんだ。おれは、ほったらかしにしておいてもらいたいんだ――」相手はわめき立てた。キンに向かって、さもなければキンの肩ごしに、非情の夜空に向かって、わめき立てた。
「しっかりしたまえ。君はなにをそんなにこわがっているんだ?……君が、誰かを殺したからじゃないか?……え?……返事をしたまえ。君は誰かを殺したんだろう?」
その男はうなだれた。二つに折ったマッチの軸《じく》のように……
「どっさり殺した。二十人だ。いや、どれだけ殺したかわからん……数えようとしてみたが、できなかった。どうしても数えられないんだ」
「で、今晩も、一人――」
その男は、赤ん坊のように泣いている。キンは、大の男がこんな風になるのを見たことはなかった。「行かせてくれ。こんなところに立たせておいてくれるな……お願いだから、行かせてくれ――」
「そっちの手に持ってるのはなんだ?……ピストルか?」
キンは、その男の動かない右腕をいきなり乱暴につかんだ。
キンの指は、深く入りすぎた。骨まで届いたかと思った。つかんでも、まるで手ごたえがないようだった。腕全体がポケットからとび出した。自分から手を出したのではなく、キンがつかんだからだった。空っぽの袖から、巻いた新聞紙が抜け落ちた。袖は肩口まで、板のように平たくつぶれてブラ下がった。
「うん、そうだ、おれは銃を持っていた」奇妙な子どもっぽい声だった。
「連中が、それをおれから取り上げた。用はすんでいたんだ。返すとき、おれは自分の手をのけるのを、うっかりして忘れたにちがいない。それっきり、失くなっちまったんだ。見ても見ても、おれの腕は、もうないんだ。ここんところまで――」
ショックは、キンの心臓のまん中をグサリとつらぬいた。若かったからこそ、その傷口はすぐにまた閉じたが、一分ほどのあいだ、地面が沈んで行くかと思われたほどのショックだった。
「失敬したね、まったく」それだけいうのがやっとだった。キンは正視に堪《た》えぬように、顔をそむけた。「なんといっていいか――」
「じゃあ、もういいでしょう」わけのわからない、打ち勝ちがたい力に直面して、途方にくれた子供のように、すなおな、悲しそうないいかただった。
「君が、人を殺したというのは、一体いつのことだったの?」
「スペインです。二年前……いや、五、六分前だったかな……さっき曲がったあの角で……ああ、わからなくなっちまった。あんなにギラギラと光って、砲弾が飛んで行く……ああ、おれは、どうしていいかわからない」
キンは、クシャクシャにつぶれた帽子を拾い上げて、そおっと、いつくしむように、ぎこちなく、泥を払い落してやった。幾度も幾度も、ゆっくりとくりかえして……この哀れな男に、それ以外、どうしてやりようもなかったのだ。
[#改ページ]
三時四五分
ヘレン・キルシが、板ばさみの苦境から解放されたことは、たとえば、ノヴォカインの注射のような効き目をブリッキーにあたえたが、それもやがては醒《さ》めて、またもや自分自身のジレンマの鈍いうずきが、二倍ほどの痛みを伴って舞いもどって来た。心に罪を犯した人を家に送るタクシーの、赤い尾燈が消え去ると、再び一人ぼっちになってしまった。力と頼むものもなく、たっぷり四十分、いや五十分は空しく浪費され、しかも成功には一歩たりとも近づいていないのだ。
ここは、東七十丁目なのだ――奇《く》しくも一夜のうちに、一つは無害の、一つは人を殺《あや》めたピストルの発射が二件まで行われた、東七十丁目なのだ――そうだとすると、ここから西へ向かってゆっくり足を運びさえすれば、いやでもあのグレーヴズの邸に戻れるのだ。今は、そこへ行ってみるほかはない。もう一度、すっかりやり直さなければならない。どこからか出発し直さなければならない。とすれば、その邸こそは新しい探険行の当然の出発点なのだ。
ブリッキーは二つ目の合い鍵、グレーヴズのポケットにあった鍵をもっていたから、もう一度邸に入るにしても、べつにむずかしいことはないわけだった。もう一度入ってみて、どんな希望がもてるか、それにはなんの確信もなかった。いちかばちか、捨身の運試しであることだけは間違いなかった。しかし、そうかといって、せっかくの糸口がこんな具合に行方知れずになってしまった。今となっては、ほかにどうしようもなかった。それよりもなによりも、犯人を自身の犯罪の現場に引き寄せるという、あの抗し難《がた》い魅力に似たものが、ジリジリと執念深くブリッキーを引き寄せようとするのだ。まるで、彼女自身が殺人犯人であるかのような牽引力《けんいんりょく》だった。
その牽引力の正体はわかっていた。あれが発見されたかどうか、警察の活動している徴候があるかないか、あかりがついているかどうか、何にせよ、あの邸の中の秘密が、二人きりのものでなくなったことを示すなにものかがあるかどうか、それを確かめたかった……確かめなければならなかった。
そこでブリッキーは、ゆっくりと、用心しいしい、窮屈な時間の枠《わく》にしばられてことを急いでいる人らしくなく、レキシントン街を渡り、パーク街を越えて、現場に戻って行った。次第に近くなる。パーク街とマディスン街とにはさまれたブロックの中ほどまで来ると、そこから次のブロックを見わたすことができた。相変わらず森閑《しんかん》としていて、少なくとも外見上はまったく異常がないらしい。その邸の近辺には、一台も駐《と》まっている車はなく、玄関の外に張り番する不動の姿勢の巡査のかげも見えず、人の出入りもない。なによりも、道路に面した窓のどれからも、あかりは洩《も》れていない。窓の灯というものは、ことに、ここらあたりのように他にあかり一つない通りだと、夜ならば、ずいぶん遠方から見えるのだ。
それとも、これは誘いの手なのだろうか? あそこには、何かのわなが仕かけられて待ちかまえているのだろうか?……いいえ、警察の仕かけたわなじゃないわ……人の仕かけたわなじゃないわ。わたしがこうやって、こんな時刻に戻って来ることを知っている人があるわけはない……全然ちがう種類のわななのだ……仕かけたのは、わたしの本当の敵――都会なのだ。
マディスン街まで来ていた。さっきタクシーを拾って出発した筋向かいの角をながめた。一まわりして振り出しにもどって来たわけだ――なに一つ獲物のない空手で……ブリッキーをヘレン・キルシにみちびき、馬鹿らしい無駄足を踏ませるきっかけを作ってくれた例のタクシーの姿は見えなかった。
ここ一年ばかり以前から使われ出した、カッチリと小さくまとまったアルミニウム車体の牛乳トラックが通りすぎた。むかしあった電気自動車のように、音もなく軽快に。もう牛乳の配達される時刻なのだ。夜明けも間もない。
マディスン街を渡って、歩きつづけた。
それは、一層近くなった。
ブリッキーはそれを、一瞬たりとも忘れたことがなかった……その邸の顔を……その顔にとりつかれ出していた。これからも、どんなに時がたっても、どんなに遠くはなれても、その邸の顔を見るだろう。その邸がとりはらわれ、敷地が空っぽになり、やがては敷地さえなくなってしまっても、それでも、邸の顔を見つづけるだろう。ある夜、夢の中で、今ここでのように、その邸の外にいることもあるだろう。ちょうど今夜のように。それは、まっすぐに頭の中にとびこんで来て、また完全な姿となるだろう。そして――運がよければ――いよいよその邸の中に入って行こうとするとたんに、眼が覚めるだろう。
あの人が、お金をかえしに邸の中に入っている間、邸の前の道の向こう側をノロノロと往きつ戻りつしたのも、ずいぶん昔のことのように思える。とても、この同じ晩のことだったとは考えられない……ひと晩がそんなに長くつづくなんて、あり得ないことだ。しかし、ああ、今が今でなく、あのときにかえすことができたらなあ……あのことが進行している間、あんなに苦しかったけれども、あんなに恐ろしかったけれど、少なくともあのときには、まだ誰もあのことを知らなかったのだもの……
ブリッキーは、ため息を吐《つ》いた。ダンスホールでお気に入りだったセリフを思い出した……願ったってしようのないことだ。
あの人は、どこにいるのだろう?……ことの首尾は、どんな具合なのだろう?……自分よりも運がよかったのならいいのだが……どうかそうあってほしい……無事でいてくれるといいが……面倒なことになっていませんように……でも、面倒なことぐらい、なんでもないわ……あの人が、わたしたちが、現在入りこんでいることより、もっと面倒なことに会うなんて、ありっこないのだから……
ああ、こんな自分につくづく愛想がつきる……そんなに望んだって、願ったって、どうなるってのさ……なぜ、どっかから七面鳥の「願かけ骨」をひろって来て、一番はじめに出会わしたお巡りに引いてもらわないの?……それで間に合うじゃないか。
立ち停まった。そこは、ちょうどそのまん前だった。おかしなものだ、とブリッキーは思った……中にみじめな殺されかたをした死体がある家だというのに、外から見ると、ほかのどの家ともちっとも変わったところがない。それを知っているというそのことだけが、この家をほかの家から区別させるのだ。
ブリッキーは、入って行こうとした。その行動を起こさないうちから、自分がその気になったのを感じた。なぜそんな気になったのか、そんなことをしてなんの役に立つのか、それはわからない。だが、わからないからといって、外の道路に途方にくれながら突っ立って、それをにらみつけたからとて、どうなるものでもないのだ。
少なくとも、大胆に接近して行った。足音を忍ばせもしなかった。にじり寄るような歩きかたもしなかった。まっすぐに、かみそりの刃のようにまっすぐに歩いて行って、急な石段をのぼった。コソコソしたまねをするほうが、よっぽど危ない……ひょっと誰かの眼にとまったりしたら、よっぽど疑われやすい。
玄関の外側の風除《かぜよ》けドアが、ひと揺り揺れて閉まった。内と外の二重のドアにはさまれた狭くるしい土間――前のときよりもっと立てかけた棺《ひつぎ》の中にいるような気がする――その土間が、またもやブリッキーを包みこんだ。勇気と原動力――そんなものがあるとすれば――の大部分が、いきなり外に置き去りにされてしまったような気がした。
さっきのときは、あの人と一緒だった。ひとりぼっちで入って行くのは恐ろしい。もしか誰かが中で待ち伏せしていたら?……警察とか、そんなその筋の人でなくても、中にいることがここからわからないような誰かが、あかりをつけることを望まない、わたしたちよりももっと侵入をひとに知られたくない誰かが、忍びこんでいるとしたら?……ぶつかったら最後、どんなにもがいても手遅れだというそんな誰かが、待ち伏せしていやしないだろうか?
先へ進んだ。ほかにどうすればいいのだ? 今さらしりごみしたところで、なんの足しにもならない。
ドアに鍵をさしこんだ。それは、死んだ男のもっていた鍵だった。さっき、あの人が同じことをしたとき、どんなに手が震えたか、ブリッキーは思い出した。だけど、今のこのわたしの手を見せてやりたい……ほんものの手の震えがどんなものだかわかるだろう。実際、ブリッキーの前腕は、肘《ひじ》の関節を中心にして跳《は》ねまわるようだった。少なくとも自分の耳には、それが、まるでブリキ罐《かん》がぶつかり合うみたいにきこえた。
いっそのこと、到着を電報で知らせるように、思い切ってドアのベルを押したほうがよかったかもしれない。
どうせ、中に誰もいないのだったら、同じことだ。
いいえ、希望をもたなきゃ……ブリッキーは、心の中で思い直した。
ドアは開いた。
もの音一つしない。
二度目だから、さっきよりも少しは勝手が知れている。まっすぐ歩けば階段があるのだ。なによりも先に、ドアを閉めた。それから、足を踏み出した。綱渡りをするような、足もとのおぼつかない感じがする。真の暗やみの中を歩こうとすると、たとえ方向の感覚がよっぽど確かであってさえ、いつもそんな感じがするものだ。
こんども、あの革のにおいと、木の家具のにおいとがした。
なんと静まりかえっていることか。家がこんなに静かなことってあるものだろうか? 家になにか悪い企《たくら》みがあって、わざと静まりかえっているような気がするほどだった。
ブリッキーは、さっき壁ぎわに寄せておいた鞄がまだあるかどうか、確かめてみようと思った。それは、ここに誰かが入って来たかどうかを知る手がかりにもなるはずだ。
どっち側の壁だったかは憶えているけど、ドアからどのくらい離れているところだったかは記憶にない。向きを変えて進んだ。壁を見つけて、手のひらでなで下ろした。一番下の幅木までずうっとなで下ろしたが、手に触るものはなにもなかった。
ここじゃないわ……もう少し向こうだ。
壁からちょっと離れて、もっと先へ進んだ。四歩かそこら行ったあたりで、また壁ぎわに寄って、手さぐりを繰りかえした。この辺にあるにちがいない……ここより向こうってことは考えられない……もうほとんど階段ののぼり口のところまで来ているはずだもの。
もう一度手を出し、手のひらをひろげて、壁のありかを確かめ、そのまま下におろして行った。鞄の高さと思えるところまで――
壁が変わっている。
冷《ひ》やりとするなめらかな漆喰《しっくい》ではない……平たくもない。手のひらは、なにかやわらかな、押せば凹《へこ》むものに触った。凹んでも、ほんの少しだけ――しまいには、その奥の嵩高《かさだか》なものにつかえる。粗《あら》い、しかしやわらかなゴワゴワしたもの……ラシャの布地だ……外套のケバ立った布地だ……その中に人のからだを包んだ外套……誰かの着ている外套。
誰かが、そこに立っている……見つからないように背中を壁に押しつけて、息を殺している。その誰かのまん前に、偶然立ってしまったのだ。そして、うす気味悪い目隠し鬼のように、さぐって出した手がその誰かにぶつかったのだ――今のこれが、一時のなぐさみでないだけのちがいなのだ。
手の触った瞬間、はげしく息づかいがきこえた。自分の呼吸ではなかった。自分のは、もうすっかり停まってしまっていた。
そこには、真正面に向かい合って、誰かがいる……生きている誰かが……生きてはいるが、自分に見つかって、壁にピンで留められたように、死人さながら身動きもせずに立っている。
あたり一面に、暗やみが渦《うず》をまいた。崩れ落ちようとする波頭《はとう》のように殺到する。寄せて来る波の中にいるようだった。恐怖という感覚の波のただ中に立っているようだった。あとしざりをしようとして、そのまま波の中に溺《おぼ》れて、意識を失いかけた。口からは、思わず知らずかすかなうめき声が洩れた。
「助けて、キン――」
一本の腕が、なだらかな腰の曲線にまつわった。意識は朦朧《もうろう》として、それが救いの腕なのか、それとも捕獲の手なのか、とっさには判断できなかった。しかし、その腕は彼女を失心の淵《ふち》から助け上げてくれた。
「ブリッキー!」キンの声だった。「しっかりするんだ、ブリッキー!」
女は、また前にのめった。頭がガックリと、男の肩の上に落ちた。男にもたれかかったまま、一分ほどの間、口がきけなかった。
「ああよかった。君とは知らなかったんだ。どうしようかと思って、ここに立っていた。もしか――」
女はまだ、あえぎあえぎにしか、ものがいえない。「わたし、死ぬかと思ったわ」
男は、樽《たる》をかかえるように、両腕を女にまわして、壁ぎわから暗やみの中に連れ出した。
「この階段に、しばらく腰を下ろしたまえ。そら、ここんとこだ」
「いいえ、もう大丈夫よ。二階に行きましょうよ……そこなら、あかりをつけて、こんないまいましい暗やみを追っぱらえるから。あんなこと、まったく暗やみのせいなんだわ」
二人は、階段をのぼって行った。一緒なら、もう大丈夫だ。もうこわいことはない。
「こんな風に、ほとんど同じときに、二人とも戻って来るなんて、ほんとに妙だわね。あんたも運がなかったんでしょう、ね?」
「全然だめさ。もう一度やり直しに戻って来たんだ」
「わたしもそうなの」
お互いに、相手の経験のことを訊《たず》ねはしなかった。二人とも、まだ借金を返してはいないのだから、そんなことを繰りかえしてみたところで、なんの利益にもならない。それに、なによりも、そんな時間がなかった。
あかりがついたときにも、二人とも床にころがっているものには、ほとんど目をくれなかった。今となっては、そこに死体のあることなど、遠い遠い過去のことなのだ。眼の片隅から、白いシャツに黒づくめのものの形を、チラッと見て、それがまだそこにあることを確かめれば、それで充分だった。女は思った……部屋の中に死体のあることに慣れるのは、なんと早いことだろう……だから、ひと晩じゅう、死体と一緒にいて、平気な連中もあるのだ。今まで、そんなことができるなんて、どうしてもわからなかったのだが……
生まれてはじめて見た死体だったのに、こわい気もちなどは、もうすっかりなくなってしまっていた。気がつくと、今では部屋の中を歩きまわっても、無意識のうちにそこだけほんの少し避けて通る、それ以上のことはしなくなっていた。眠っている犬か猫を踏みつけないように避ける人みたいに。
二人は、途方にくれていた。岩盤に突き当った。二進《にっち》も三進《さっち》も行かない行きどまりだった。見合わせたお互いの眼の中に、めいめいがそのことを知っていることが読みとれたが、口に出しては言うまいとした。男は、なにかすることがあるようにセカセカと歩きまわった。二人とも、そんなことのないのはよく知っているのだ。寝室の入口まで行き、そこのあかりをつけ、見るべきなにものもないのに、強《し》いてなにかを見ようとするように見まわした。それから今度は、浴室の戸口に行って、あかりをつけ、同じことをくりかえした。
なんの役にも立たなかった。なんの望みもなかった。二人とも、それを知っていた。この場所にあるほどの物いわぬ証拠は、もうありったけしぼりつくしてしまった。ひからびるまで、しぼり出してしまったのだ。
女のほうの失敗の意識は、もっと受動的な形をとった。女は、身じろぎもせずに立っていた。椅子の背にのせた手の指だけが、女の気もちをあらわしていた。その指は、眼に見えないタイプライターを打つタイピストの指のように、小きざみに動きつづけた。
突然、静寂に異変が起こった。音がきこえる。二人の仕わざではなかった。
「なにかしら?」
恐怖が、氷水が溢《あふ》れて洪水となったように襲って来た。水道の大きなパイプが破裂したみたいだった。逃れる道のない狭い場所で、足もとから、見る見るうちに音もなく潮が満ちて来るようだった。二人は、水の溢れた穴ぐらに閉じこめられて、溺れ死ぬ寸前、渦巻く水面で、おぼつかなくグルグル舞いをさせられている二つの小さなもの――二匹のねずみだった。
その恐怖の源は、押さえつけられたような低い音で鳴るベルのひびきだった。小さく、やわらかく、リリリリと繰りかえし繰りかえし鳴っている。どこか、その辺の見えないところに隠れているのだが、二人にしてみれば、ここにいる以上、なんとかしなければならない。
最初の針で突き刺されたようなショックが過ぎ去ると、二人は金しばりに会ったように、身うごき一つせずに眼だけを、こんどはこっちへ、こんどはあっちへと、音の出どころを求めて忙しく走らせた。じっと立ったまま、源をつきとめようと、正体を知ろうと、一生懸命になっている間じゅう、その音は、頭のまわりをうるさく飛びまわる蜂のように鳴りつづけた。あらゆるところにあるようでもあり、どこにもないようでもあった。リリリリとやわらかく、ビロードのように……しかし、いつ果てるともない。
「なんでしょう?……どろぼうの警報器かしら?」女がささやいた。「わたしたち、どこかいけないところに触ったかしら?」
「そこの寝室からきこえるね。そうだ、目ざまし時計があるにちがいないぞ」
二人は、寝室の入口めがけて走って行った。恐怖の満ち潮に追われたねずみのように。
果たして、化粧台の上に小さな畳みこみの時計が置いてあった。男が、それをとり上げた。てっぺんを続けざまにたたいた。耳の傍にもって行った。
リリリリ――今までよりも、少しも近くならない。悪魔の顫音《せんおん》は、あたり一面に満ちている。
男は時計をおろすと、またもとの場所に駈けもどった。女もあとを追った。
「ドアのベルかもしれないわ。神さま、どうしたらいいでしょう」女は身ぶるいした。
男は走って行って、階段の上で耳をかたむけた。
「ちがう。一どきに二ところからきこえるよ。階下からもきこえるけど、ぼくたちのうしろのほうからも――」
女がさえぎった。「駄目だわ。階下はまっくらだから、見つかりっこないわ。もう一度、こっちのほうをさがしてみましょうよ」
二人は、溺《おぼ》れかかったねずみのように、また寝室にもどった。
「ドアを閉めてみたら?……どの部屋だかわかるかもしれないわ」
女はドアを閉めた。二人で耳を澄ませた。小さくもならず、音色も変わらずつづいている。
「ここよ……わたしたちのいるこの部屋よ。そこまではわかったわ――ああ、一分の間でいいからとまってくれたらなあ。ありったけの智恵をしぼって考えるのに」
男は、けだもののように床の上に四つんばいになって、そこらをさがしまわっていた。
「待てよ……あんなところに箱があるぞ! ベッドの下の壁ぎわに、白く塗って――ここから見えるんだ。電話の箱だ。しかし、受話器はどこにあるんだろう?」
男はとび上がって、ベッドの頭のほうに駈けより、ベッドを壁から少し離した。そして、やにわに手をのばすと、マットレスのあたりまで腕を突っこんで、電話機をひっぱり出した。
「こんな場所にかけてあった。寝たままで、手が届くようにしてあるんだな」
まだ、音の正体がわかったわけではない。
「やかましくないように、低音ベルが使ってあるんだよ。きっと階下にもあるにちがいない。こいつは連接電話なんだ。だから、そこらじゅうで鳴っているみたいにきこえて、ぼくたち、あわててしまったんだよ」
それは、しゃべっている間も、男の手の中で鳴りつづけている。
訴えるように、疲れを知らぬもののように、リリリリ、リリリリと――
男は、困ったように女を見た。「どうしたらいいだろう?」
リリリリ、リリリリ――家畜を追う突き棒のように、決して休もうとしない。
「わけを知らない人が、あの男を呼び出そうとしているんだな。ひとつ、イチかバチか、返事をしてみよう」
女の手がサッとのびて、男の手首をしっかりとつかんだ。その手が、氷のように冷たい。「駄目よ! わざわざ警察を呼びよせるようなもんだわ。あの人の声でないってこと、わかってしまうわよ」
「なんとかやれると思うがね。低い声であいまいにしゃべれば、違いがわからずにすむかもしれない。あの男のふりをすればいい。ぼくたちの唯一のチャンスだ。なにかわかるかもしれない――今までにぼくたちの知っていることよりも、ほんの一つか二つのキレギレの言葉だけだとしても、それだけの甲斐はあるよ。ぼくにくっついていたまえ。心のありったけをこめて祈ってくれ。さあやるよ」
男は、受話器のかけ金を押さえていた指を離した。
受話器を、高圧電流の通じているもののように、おっかなびっくり耳のところへもって行く。
「もしもし」男は、あいまいなのど声を出した。女の耳にも、きこえるかきこえないほど、声をほとんどのみこんだ言いかただった。
女の心臓は、ドキドキとはげしく打った。二人は頭を寄せ合い、耳を交えて、この深夜の呼び声にきき入った。
「ねえ、あなた」女性の声が伝わって来た。「わたし、バーバラよ」
女は、化粧台の上の写真に、チラッと眼を走らせた。バーバラ……あの銀の額縁におさまっている若い女だ。ああ神さま……女は、ドキッとした。ほかの人はだませても、最愛の女性をごまかせるものではない。知りすぎるほど知りつくしている相手なのだ。わたしたち、どんなことをしたって――
男の顔は、緊張に青ざめた。女は、眼の前の男のこめかみに波打つ脈《みゃく》を、ほとんど感じることができた。
「ねえ、スティーヴン……わたし、あそこに金のコンパクトを忘れて来やしなかったかしら? うちに帰ったら、見つからないのよ。心配だわ。あなたがもっていやしないか、しらべてくださらない? もしかすると、あなたがポケットに入れて来てくださったかもしれなくてよ」
「君のコンパクト?」男が、ぼんやりと口ごもった。「ちょっと待ってくれよ」
男は、とっさに送話口を手でふさいだ。
「どうしよう? どういったらいいだろう?」
ブリッキーは、ふいに男から身をもぎ離して、向こうの部屋に走って行った。それから、また戻って来た。なにかをもった手を男に見せるように、高くさし上げている。手の中のものは、あかりを受けてキラキラと光った。
「あったとおっしゃい。声を低くしてね……低くするのよ。今まではよかったわ。ほんとは、こんなものが惜しくて、あの人を呼び起こしたんじゃないわ。用心してもっと話せば、なにかさぐり出せるかもしれない」
女は、また男にしがみついて受話器に耳をつけた。男は、送話口から手を離した。
「あったよ」男はささやいた。「ここにあるぜ」
「わたし、眠れないのよ。ほんとは、だから電話をかけたの。コンパクトなんか、どうでもよかったのよ」
男は、「君のいうとおりだ」というように、ブリッキーに眼くばせした。
電話の相手の声は待っている。今度は、こっちからなにかいう番だ。ブリッキーの肘《ひじ》が、男のわき腹をせかすようにこずいた。
「ぼくも眠れなかった」
「わたしたち、結婚したら、コンパクトのことなどなんでもなくなるわね、そうでしょう? そうしたら、あなたがポケットから引っぱりだして、わたしたちの寝室の、わたしたちのお化粧台の上にのせて置いてくださるだけですむんだわ」
ブリッキーは、ちょっとの間、眼を伏せて、顔をしかめた。……この人、死んだ人に求婚しているんだわ……
「わたしたち、今晩みたいに怒ったままお別れしたこと、一度もなかったわね」
「すまなかったな」
「ペロケのような場所に行かなかったら、あんなことも起こらなかったかもしれないのに」
「そうとも」男は、すなおに同意した。
「あの女のひと、誰なの?」
こんどは、男はなにもいわなかった。
相手は、それを男の強情ととったようだった。怒りをこらえるようないいかたで、「ねえ、スティーヴン、あの女、誰なのよ?……うす緑色のドレスを着た、背の高い、赤い髪の女よ」
「知らないよ」男は、そうよりほかに答えようがなかった。ところが、それがちょうどうまく壺《つぼ》にはまった。
「あなたは、前にもそんなことをいったわね。あれが、ことの始まりだったわ。あなたが知らないのなら、なんだって、あの女、コンガを踊っている列の中のわたしたちの間に、あんな風に割りこんで来たのよ?」
男は答えなかった。答えられなかった。
「あなたの知らない女が、なんだって、あなたの手に、紙っきれをすべりこませたりしたのよ?」
男が黙っているのを、相手は、頑固に否定しつづけているのだととった。
「わたし、ちゃんと見たわ。この眼で見届けたのよ」
二人は、一心に耳をかたむけた。
「それに、わたしたちが自分のテーブルに戻ってから、あなたはなぜ、部屋のこっち端から向こう端に、うなずいて見せたりしたのよ? そうよ、そのことだって、見たわ。見ないふりしながら、コンパクトの鏡に映ったのをちゃんと見たのよ。まるで、『おことばは読みました。おっしゃるとおりにします』っていうみたいなうなずき方だったじゃないの」
こっちにものをいうチャンスをあたえるために、相手はしばらく黙った。男はそのチャンスを、どう利用していいかわからなかった。
「スティーヴン、わたし、自尊心を捨てて、こんなふうにあなたに電話をかけたのよ。あなたも、半分ほど歩みよってくださらないの?」
相手は、こっちが何かいうのを待った。男は、なにもいわなかった。
「ねえ、あなたはなぜ、あのとき以来すっかり機嫌を悪くしちゃったのよ? まるで、わたしの家の玄関で、お別れする暇も惜しいように、振り切って行ってしまったわね。わたし、泣いたわ、スティーヴン。あなたが行ってしまったとき、わたし、泣いたのよ。それから今まで、夜じゅう泣き通していたのよ。ねえ、スティーヴン。わたしのいうこときいてるの? ねえ、あなた、そこにいらっしゃるの?」
「いるよ」
「あなたのお声、ずいぶん遠いみたいだわ。電話のせいなの、あなたのせいなの?」
「電話のつなぎかたが悪いのだろうね」男は、口を閉じたままでいった。
「でも、スティーヴン、まるで、わたしと話すのがこわいみたいに、とても、とても用心しているような声だわ。馬鹿なことをいうようだけど、変だわね、あなたが、そこにひとりでいるんじゃないような気がするのよ。そばに誰かいて、指図してもらっているように、なにかいう度《たび》に、ひどく待たせるわね」
「そんなことないさ」男は、心をこめて哀願するような口調でささやいた。
「スティーヴンったら、あなた、もっと大きな声を出せないの? 誰かの眼を覚まさせてはいけないみたいに、ひそひそ声で話しているわ。あなたが眼を覚ましているのだったら、そこに、眼を覚まさせていけない誰がいるのよ、いったい?」
死んだ人がいるわ、とブリッキーは心に渋面《じゅうめん》を作りながら思った。
男は、また送話口を手で押さえた。「カンシャクを起しそうだよ。どうしよう?」
ブリッキーは、男が絶望しきって、手っとり早く電話を切ってしまおうとしているのを感じとった。「いけないわ。それだけはしないほうがいいわ。そんなことをしたら、自分で自分をあきらめることになるのよ」
男は、手を離した。「スティーヴンン、わたし、あなたの仕かたが気になるわ。いったいどうしたのよ? ほんとにスティーヴンなのね、そうじゃないの?」
男はもう一度、送話口に蓋《ふた》をした。「気がついたらしいよ。困ったな」
「待って……馬鹿なことしないのよ。わたしが助けてあげるわ。その受話器をもうちょっとこっちへ向けて」
ふいに、女が大きな声を出した。酔っぱらってセンチメンタルになった歌うような声を、まっすぐ送話口に向かって張りあげた。
「あなたったら、いらっしゃいよォ。あたい、待ちくたびれたわ。もっと飲みたいのよォ。いつまで、そんなところにつっ立って、おしゃべりするつもりなのさァ」
電話線の向こう端で、ショックがひらめいた。分子が爆発でもしたようだった。音もなければ実体もなかったが、そのショックは猛烈な勢いで線を伝わって、こっちに押しよせて来るように感じられた。そんなにもひどいショックだった。それから、声は消えて行った。物理的な距離でなく、苦しみの層を隔《へだ》てたように……もう二度とつなぎ合わせることのできないほど遠くに、消えて行った。
もう一度きこえたときには、その声になんの怒りもこもっていなかった。その声には、なに一つなかった。怒りの熱っぽさを裏がえした冷たさすらなかった。古くさい、どっちつかずの礼儀正しさがあるばかりだった。
その声は、たった二つのことを伝えただけだった。「あら、失礼しましたわ、スティーヴン」それから、苦しみに堪えるように、ひと息ふた息ついて、「お許しくださいね、わたし、ぞんじませんでしたの」
カチリと音がして、静まりかえった。
「ちゃんとした淑女《レディ》だったのね」男が受話器をかけてしまうと、ブリッキーは悲しそうに、電話の相手の女性を讃《ほ》めるようないいかたをした。「どこまでも淑女《レディ》なんだわ」
男は、悪いことをしてしまったというふうに、手の甲を自分の口にもって行った。「やれやれ、残酷だったな。ぼくたち、こんなことをやらなきゃならん破目に立たされなければよかったのに。誰だか知らんが、あの男と婚約していた女だぜ」ふと、ものめずらしそうな顔を女に向けて、「君は、あんなトリックが効き目があるって、どうしてわかったんだね?」
「わたしが、女だからよ」思いに沈んだ言いかただった。「女って、みんな同じ鎖につながれているんだわ」
二人は、電話の主《ぬし》の写真をふりかえって、しばし、その女性のことを思いやった。「あの女、今晩は、眠れっこないね」男がつぶやいた。「ぼくたちで、あの女の心臓を破裂させちゃったんだ」
「どうせ、そんな目に会わなければならなかったのよ。だけど、妙なものね……あの女、恋人が死んだことを知ったって、今みたいには苦しい思いをしないわよ。なぜって訊《き》かれても困るけど」
二人は、その話題を離れて、自分たち自身の問題に立ちかえった。
「さて、ぼくたち、少しは、今までよりも知識が増えたね。空白だった時間をほんのちょっぴりだけど、埋めることができた。あの二人は、はじめにウィンター・ガーデンで、『ヘルザポッピン』というショーを見た。それから、二人の間にいざこざのあった場所に行った……ピロとか、ペロとか――なんていったっけね?」
「ペロケよ」女はしょっちゅう、指の爪先が触るのもいやなほど憎らしい、この都会の夜の生活を経験していた。
「場所も知ってるわ……五十四丁目だわ」
「しかし、それだけではまだ、男がここへ帰って来て、事件の起こるまでには足りない。まだ埋まらない時間がある。あの女の家の玄関で別れを告げてから――」
女は、そのことを考えてみた。
「その間に、なんかがあるんだわ。なにか、とても大事なことが……夜じゅうかかって、わたしたちの手に入れたことよりも、もっともっと大事なことよ。あの人、なにかの紙っきれを渡されたはずね。それも、大事なことの一つにちがいないわ」額にはまった写真のそばまで行って、「この女は、自分の嫉妬心から、そんな小細工を企《たくら》みそうな顔をしてやしないわね。見てごらんなさい。可愛らしくて、自信がありそうで、とても深刻に悩んだりするようじゃない。この女が見たといったのなら、断然見たんだわ。賭けてもいいほどよ。紙きれも本当にあったんだわ。それがどうなったかということが問題だわ。あの人が、それをどうしたか、わかりさえすればね」
「キレギレに細かく破いてしまったんだろうな」
「ちがうわ。なぜって、この女といっしょだったときに、そんなことしたら、問題の紙きれを受けとったのを認めたことになるわ。この女には知られたくなかったのに。また、この女と別れてしまえば、ガミガミいわれることはないのだから、もう破ったりするわけはなくなるわ。そのまま放ったらかしといたっていいのよ。きっとそうしたんだと思うわ。わたしの知りたいのは、クラブでこの女といっしょにいる間に、どこにそれを隠したかってことよ。どこか自分の身のまわりにもっていたんだわ」
「ぼくたち、ポケットはすっかりひっくりかえしてみたけど、どこにもそんなものはなかったし――」
女は考えこむように、下くちびるのふくれ上がったあたりを、軽くたたいた。「いいこと、キン、あんたは男よ。だから、あんたなら同じ立場に置かれたら、だいたい似たようなことをするだろうと思うわ。あなたは、あるナイトクラブで、婚約中の女の人と楽しんでいるのよ。そのとき、ある見知らぬ相手から紙きれを手渡されたけど、そのことを女の人には知られたくなかったのよ。……そうだとしたら、あんたは、その紙きれをどう始末する? つまり、どこに隠すかしら? あまり考えこまずに、すぐ返事をするのよ。考えたりすると、わざとらしくなるわ」
「小さく丸めこんで、そこらに捨てるね」
「駄目。渡されたときには、コンガの列に入って踊っていたんだから、そんなことをするチャンスなどないわ。パートナーの腰から手を放したら、ステップを踏みはずしたり、列を崩すことになるわ」
「そうだなあ。ちっとも手を動かさずに、そのまま床に落とすのならできるね。落ちるままにしとくんだ」
「それも駄目。そんなことをしたら、紙きれはいつまでも列の通り道に落ちていて、あんたの婚約者は、そこまで来たときに手をのばして拾いさえすればいいことになるわ。そんな動作をするところを、女の人に見られないことが大事なのよ。しかも、女の人は列のうしろの、二組|隔《へだ》てたところから男の人を見ているのよ――ほとんど間違いのないことだわ。渡されたのに、それっきり見えなくなったのよ。ほかには、そこらに捨てたのも、ポケットに突っこんだのも、なにも見なかったんだわ」
「じゃあ、平たくたたんで、手のひらに隠したままでいたんだ、きっと」
「そのとおりだわ。わたし、それをあんたにいわせて確かめようとしたのよ。曲が終わり、踊りの列は崩れて、男の人は女の人を自分の席に連れてもどるのよ。男の人は、二人の間がテーブルで隔《へだ》てられるが早いか、早速その紙きれを始末しなきゃならないんだわ。さあ、もう一度やってみて。あんたは、一つのテーブルに女の人といっしょに坐っているのよ。女の人はもう、今のできごとのことで、あんたを攻めようとしているんだから、あんたも受身になって、相手のしたい放題にさせておくわけには行かないわ。あんたのからだは、半分隠されているわ。ここんところまで――」
男のズボンのベルトのあたりで、横に線を引いて見せて、「紙きれは、コンガ踊りの列からもってかえって、まだあんたの手の中にあって、それを急いでなんとかしなきゃならないのよ。上のほうのポケットは利用できないわ。紙入れも、たばこのケースも駄目だわ。だって、テーブルの高さから上だったら、すっかり見えちまうもの」
「テーブルの下に捨てるな」
「駄目よ。ちょっと見ただけでは、中に書いてあることが読めないわ。ことに、コンガの列の中で足をあっちへ蹴ったり、こっちへ蹴ったりしている最中に、そんなことできやしない。あんたは、もう一度よく見て考えたり、ひとりになってもう大丈夫という時になってから、どうするかを決めたりしたいのよ。あの人は、そのころからソワソワし出したんだわ。さっき電話で、そんなこといってたじゃないの。その紙きれが、なんとか決めなきゃならない問題をその人に与えた証拠だわ。ひと目チラッと見ただけで、そのまま捨てちまっていいようなことじゃなかったのよ。まだ用がすんでいなかったんだわ。だから、とっといたのよ。だけど、どこにとっといたんでしょう?」
「自分の前のテーブル掛けの下に、そっとすべりこませたかもしれない」
女はビックリしたような顔をして、しばらく口をつぐんでいた。それから、「駄目駄目。そんなことしたとは思えないわ。やっぱり、帰ろうとして立ち上がるとき、そのまま残しておくことになるじゃないの。しまいには、よその知らない人間の手に渡ることになるわ。そんなことになるくらいなら、ポイとそこらに捨てると思うわ。それに、テーブル掛けをいじるのを女の人に気づかれずにすむわけはないと思うわ。いいこと、男の人は、気ちがいのようになっている、そしてまた、そんなになっていい当然の権利をもっている女の人を一生懸命なだめようとしているのよ。しかも、その女はすぐ前に坐っているんだわ。ひと目はたくさんあるし、ほかにもいろんな感覚もあるし」
男は、考えてみたが、たいして見こみもなさそうだった。「さあて、わからんぞ――頭がこんぐらかって来た。椅子にかけているあいだに、尻の下に敷いてしまうかな。しかし、それでは、立ち上がったら最後、それまでよりももっと始末の悪いことになるな」
「悲観しなくたっていいのよ、キン」女は、ガッカリしたように頭を振った。「あんたはきっと、いい旦那さまになるわね。確かに、あんたは、悪いことなどできない人だわ」
「うん、ぼくはナイトクラブで、ほかに連れがいるのに、よその人から紙きれを渡されたりしたことはないからね」男は、いいわけをするように口ごもった。
「あんたのいうことだったら、わたし、よろこんで信用するわ」女は、すげない言いかたをした。
二人は、またもとの部屋にもどった。女は立ったまま、死体を見おろした。ひと晩じゅう、そばに立って見おろしていたような気がする。
「そこの小さな、時計ポケットっていうのかしら、ベルトのすぐ下のポケットをさがしてみたら。さっきはさがしたかしら? わたし、憶えていないんだけど」
男はしゃがんで、その小さなポケットに親指をつっこんで、また引っぱり出した。
空っぽだ。
「そんなポケット、なんのためにあるんでしょう?」女は、気もなさそうな訊《き》きかたをした。それから、男が答える前に、「いいのよ。男の服の仕立てかたのことなど、あれこれ勉強しているひまはないわ」
男はしゃがんだまま、膝がしらをおぼつかなく指でつかんで、じっとしている。
「キン、そんなことするのいやでしょうけど――ほんのちょっとの間、その人をころがしてみてくれない?」
「引っくりかえすのかい? だけど、できるだけ触らずにそっとしとくほうが――」
「わたしたち、ポケットを引っくりかえしたりなんかして、もういいかげんいじくり廻しちまったから、そんなことぐらいなんでもないわよ」
男は、なるべく手荒なことをしないように、死体をころがして、うつ伏せにした。二人は、ほんのちょっと良心の呵責《かしゃく》に打たれたが、それもすぐにおさまった。
「なんのために、こんなことするんだね?」男は、うわ目づかいに女を見ながら訊ねた。
「わたし、自分でもわからないのよ」
男は立ち上った。二人は、お互いに途方にくれて、これからどうしたものかわからないように、頼りなく顔を見合わせた。
「きっと、身にはつけていないんだぜ。うちに帰ってから、どこかこの辺にしまったのかもしれん。デスクの中かな――あそこは、まだ調べてみなかったね」
「そんなことはじめたら、ひと晩がかりの仕事になるわ」いいながら、女はデスクまで行ってみた。「こんなにどっさり、いろんなものがあるんですもの。そうね、こうしましょう。あんたは、寝室のタンスを抽《ひ》き出して見てちょうだい。わたしは、大急ぎでここをさがすわ」
チクタク、チクタク、チクタク――二人が、めいめい手分けした仕事に夢中になっているあいだ、その音は、二倍の大きさでひびいた。
「キン!」ふいに、女が呼びかけた。
男が走りこんで来た。
「あったのかい? そんなに早く見つかったの?」
しかし、女は、デスクに背を向けて立っていた。
「そうじゃないのよ、キン。あの人、とてもキチンとした身なりをしていたわね。わたし、なにかの拍子で、あっちのほうを向いたはずみに眼についたことがあったのよ。片方の靴下のかかとに穴があいていて、それが靴のすぐ上のところに見えたの。そこだけが、ほかのところとそぐわないのよ。左の靴下だわ」
男は、もうそこに行っていた。
軽い音を立てて、靴がぬげ落ちた。靴下の「穴」は、それと一緒になくなっていた。
「これだ!」
男は、女がそばに寄ったときにはもう、そのしわくちゃになった小さな紙きれをのばして、読み出していた。二人は、頭を寄せ合って読んで行った。
そこらのなにか手近かなものの上にのせて書いたらしく、タッチの平均しない鉛筆の走り書きだった。
『グレーヴズさんでしょう? わかっていますわ。お連れのかたをお送りになってから、お宅で、お話ししたいことがありますの。それも、ほかのときでなくて、今晩すぐに。わたしをごぞんじではいらっしゃらないでしょうけれど、わたしのほうではもう家族のような気がしておりますのよ。留守にして、わたしをがっかりさせないでいただきたいわ』
署名はない。
女は、自分の手柄《てがら》に夢中になっていた。「ね、この女よ。この女だわ。この女が、あのマッチの主《ぬし》だったのよ――思ったとおりだったわ。そういったのは、わたしたちのどっちだったかしら――」
男は、なにかわけがあって、それほど勢いこんでいなかった。「しかし、あの男が、この紙きれを渡されて、それを靴の中につっこんだということだけでは、その女が実際にここに現われたという証明にはならないな」
「大丈夫、来たのよ」
「どうしてわかる?」
「だって、いいこと? 誰にしろ、ここまでやった女なら、それっきりってことはないわ。これは、しぼみかけのスミレなんかじゃないわ。娘だか、一人前の女だか、それはわからないけど、こんな大胆なことをなぐり書きして、コンガの列の中に割りこみ、知り合いでもないスティーヴン・グレーヴズみたいな立派な家柄もいい男に、それも相手の婚約者の鼻さきで、強引に渡すなんてことをする女だったら、いったんこうと決心したからには、なにがなんでも押しかけて来るわよ。ごらんなさい、『ほかのときでなくて、今晩すぐに』って、そう書いてあるわ。この女がここに来たんだわ。全財産を賭けたって大丈夫よ」
それからまたいい足した。「こんな性格判断みたいな考えかたが納得できないのだったら、目隠ししてものを当てるやりかたでもいいわ」
「どういうことだね?」
「その女はいつも、あのマッチからにおったような香水をつけて歩いているんだわ。一番はじめに、この部屋に入って来たときに、それがわかったわ。こういうことを書いたりするのは、ハンドバッグをそんな香水でプンプンさせているような種類の女だわ。断然、その人が、ここに来たのよ」
「だけど、だからといって、その女が男を射殺したってことにはならないぜ。そりゃあ、その女もここへ来たかもしれないさ。そして、その女がここを立ち去ってから、こんどは、葉巻の吸口を噛みつぶしたやつが来たんだ」
「わたし、その男のことはなにも知らないわ。わたしの知ってるのは、その女の人が、殺された男とたとえ会わなかったとしても、この紙きれに書いてあることの中にだって、人殺しのたねになりそうなことが、たっぷりあるってことよ」
「まったく、脅迫じみたところがあるね」
「脅迫ね? そうよ、はじめからしまいまで脅迫づくめだわ。『グレーヴズさんでしょう? わかっていますわ』とか、『留守にして、わたしをがっかりさせないでいただきたいわ』とか、ほかにどう呼びようがあるっていうの?」
男は、もう一度紙きれの文字を読んでみた。「なにかユスリみたいだね、そう思わないかね?」
「確かに、ユスリにちがいないわ。脅迫は十中八九まで、お金をしぼり取るのが目あてよ。ことに、女から男への場合にはそうだわ」
「『わたしのほうでは、もう家族の一員のような気がしておりますのよ』というのは、どういう意味かな? 男は、このバーバラと婚約していたんだな。すると婚約以前に、なにかのひっかかりのあった人間らしくも思えるね。男がほかの女と婚約したことをきいて――しかし、一つだけ――」
「そうなのよ。わたしもはじめて読んだとき、それを考えたわ。あんたのいうように、一つだけ合わないところがあるって」
「『わたしをごぞんじではいらっしゃらないでしょうけど』って……誰かとひっかかりがあって、それでも、その相手を知らないなんて、そんなことがあるだろうか? 誰かほかの女の代理になって、男に近づこうとしたのかもしれないな。つまりその女は――なんといったらいいか――仲介人なんだな。姉妹《きょうだい》かなにか、そんな関係の女かもしれん」
「いいえ、そんなことないわ」女は、簡単に男のことばを退《しりぞ》けた。「あんたは、女のことがまだよくわからないのよ。恋愛問題がタネのユスリに、ほかの女を仲介に頼んだりする女の人ってあるもんじゃないわ。なぜといわれても答えようがないけど、間違いのないことなの。男だったら、仕事のことでも、なにかインチキ臭いことでも、人を頼むかもしれない。だけど女は、こういう性質《たち》のことだと、決してそんなことしなくてよ。自分で臆面もなくやってのけるか、うっちゃらかしておくか、どっちかだわ」
「そんなら、その女とは、ひっかかりはなかったんだ。しかし女は、なにかタネを握っていたんだな」
「そして、男のほうでも女にタネを握られているのを知っていたか、それでなければ、少なくとも感づいていたんだわ。紙きれを渡されてから後の行動で、それがわかるわね。男のほうでは、そのつもりはなかったのに、女のほうから勝手に出て来たんだわ。ねえ、わたしのいう意味わかって? バーバラは、もっとほかの紙きれと勘ちがいして、嫉《や》いたのよ。男のよく知っている自分に隠れて、コソコソやっている浮気の相手からの、親しさのこもった、こもりすぎた書きつけと思ったんだわ。その婚約者をなだめるには、これを見せさえすれば、これが本当はどんな書きつけだか、見せてやりさえすればよかったのよ。だのに、相手に余計な気をまわさせ、気まずい別れをしてまで、自分だけのことにしとこうとしたのね。なぜ見せたくなかったのかしら? いいえ、それよりも、なぜ、すぐに立って行って、そんなものを渡してよこした相手をつかまえ、『これは、どういう意味ですか? あなたはどなたですか? なんの目的で、こんなことをなすったのですか?』と問いつめて、ことを明るみに出さなかったのかしら?」女は、頭を振った。「きっと、このことのうしろに、キッドの手袋をはめて用心して扱わなきゃならない何かがあると感づいていたんだわ。軽い疑念というよりも、わからないくらい弱い、そんな気もちがあったのね。全面的にとはいわないまでも、少なくとも半分ぐらいは後押しをしている黒幕があるんだと、そして、煙の向こうのどこかに火があると、そう思ったのね。だから、その場ではそっとしときたかったのだわ。なぜ、そんな風にしなければならなかったのでしょう? 普通、そんなことはしないものよ。あんただったら、どう?――」今いったことをあわてて取り消すように、「あら、いいのよ。どっちみち、あんたにそんなこといったってはじまらないんだったわ。うっかりしていたのよ」
男は、媚《こ》びるような顔をしそうにしたが、思い直してそれを止めた。
「いいかえると、そのことが、男の人の胸の中のどこかでベルを鳴らしたのよ。なにもないところから、ヒョッコリ出て来た根も葉もないことじゃなかったんだわ」
女は気をとり直して、外に出かけて行こうとするような様子を見せた。「こんなところで、クヨクヨ考えていたって、どうにもならないわ。大事なのは、その女の人をつかまえることよ。きっとつかまえてみせるわ。これからさがしに出かけるわ」
「しかし、相手の名前も、顔つきも、どこにいるかも、まだわからないんだぜ」
「わたしたち、実物大の肖像写真をもらえるなどと期待するわけには行かないのよ。今までのように、ほんのちょっとした手がかりから入って行って、充分やれると思うわ。少なくともその女の人は、今までみたいに、いるかいないかわからないのではなく、立派に息の通《かよ》った人物になったんだわ。今では、もうわからなくなったけど、この部屋にただようかすかな香りにすぎなかったのよ。真夜なかごろ、ペロケにいたことがわかっているわ。そこに行けば会えるような女にちがいないわ。あの人の婚約者が、その女のことをなんとかいっていたわね。なんだったかしら? 背の高い赤い髪の女で、うす緑色の服を着ているというんだったわ。コンガ踊りの列では、三番目にいたのよ。今晩ペロケにいた女が全部、背の高い赤い髪のうす緑色の服を着た女だったってことはあり得ないわ」女は、はげますように手を大きく振って見せた。「どう、こんなにわかっているのよ!」
「今ごろは、そんな場所、もう閉まっているよ」
「手つだってもらえるような人が、まだぐずぐずしているわよ。給仕だとか、携帯品預り所の女の子だとか、手洗所のボーイだとか、そんな連中が……わたし、そこから跡をたどってみせるわ。更衣室の頭髪ブラシを一つ一つしらべて、赤い色の抜け毛をさがさなければならなくたって――」
「ぼくも、いっしょに行くよ」男は、寝室の戸口に行って、そこのあかりを消し、それから浴室のほうへ行った。「ちょっと待ってくれ。出かける前に、ここで水を一ぱい飲んで行くからね」
女は待たずに、階段のほうへ出て行った。男が、すぐあとを追って来ると思ったのだった。しかし、来ないので、階段を二、三段降りかけたあたりに立ちどまって待った。それでも来ないので、また二、三段のぼって、もう一度、あかりのついている部屋に入って行った。
男は、浴室の入口を入ってすぐのところに、身じろぎもせずに突っ立っていた。そばに行くまでもなく、なにかを見つけたこと、そのなにかを、もちまえの執拗《しつよう》さでみつめていることがわかった。
「どうしたの?」
「君を呼んだんだが、きこえなかったんだね。こんなものが、浴槽の中に落ちていた。今まで、そのシャワー・カーテンのせいで見えなかったんだ。水を飲もうとしたときに、カーテンに肘《ひじ》が触って、奥のほうにずれた。するとこれが、水のない浴槽の底に落ちているのが見えたんだ」
それは、うす青色の紙だった。男は両手でそれをひろげていた。
「小切手ね。誰か個人の振り出した小切手だわ。見せてくださいな――」
スティーヴン・グレーヴズに宛てた、額面一万二千五百ドルかっきりの小切手だった。署名は、アーサー・ホームズとなっている。表面には、斜めに大きな文字のスタンプが、ペタリと捺《お》してある。
不渡り――返却。
二人は、めいめいの片手で、その小切手を引っぱり合うように支えながら、わけのわからないような表情の顔を見合わせた。「こんなものが、どうして浴槽の中などに落ちこんだのかしら?」
「そんなことは、どうでもいいことだが、わけなく想像できるよ。この小切手は最初、あの金庫の中にあったにちがいない。ぼくの壁にあけた穴は、ちょうど浴槽のま上だ。金庫の中の箱を引っぱり出して開けたときに、気がつかないうちに、この小切手が浴槽の中に、ヒラヒラと舞い落ちたんだよ、きっと。それから、シャワー・カーテンを片寄せたもんだから、今まで見えなかったんだ。しかし、それはどうでもいいことだ。君は、肝心なことがわからないかね?」
「わかりそうだわ。そのホームズとかって人は、例の神経質な葉巻の吸い口を噛む人かもしれないわね、どう?」
「賭けてもいいさ。人を殺すことぐらいやりかねない金額だ――一万二千……ああ、目がくらみそうだよ」
「じゃあ、このホームズが今晩ここへやって来て、即座に話をつけようとしたか、近いうちになんとか都合をつけるから、それまで訴訟沙汰にしてくれるなと頼もうとしたのかもしれないわね。ところが、グレーヴズが小切手をさがしても見つからないといったので、ホームズは、相手が自分をわなに掛けようとしていると思いこんだのね。二人でいい争っているうちに、ホームズがピストルを射ったのよ」
「すると、考えようによっては、ぼくにも、あの男の死について責任があることになるね」
「そんなこと、忘れちまうのよ。ホームズは、小切手のことで、ごまかしを責められるとは思ったにしても、殺すほどのことはなかったんだわ。ホームズね」女は、指の関節を口に当てて考えこんだ。「その名前は、今晩、どこかで、きいたか見たかしたわ。ちょっと待って……あの人の紙入れの中に名刺が入っていなかったかしら? たしか、その中の一枚が、その名前だったわ」
女は向こうの部屋に行って、また床の上にひざまずいた。紙入れをとり上げ、その中にあった二、三枚の名刺をしらべた。眼を上げて、男にうなずいて見せた。「やっぱりそうよ。ホームズは、この人の株屋《ブローカー》さんだわ。ほら、ここにあるわ」
男は小切手を手にしたまま、そばに寄って来た。「おかしいね。ぼくにはあまりそういうことがわからないが、お客のほうから株屋に小切手を渡すのが普通で、その逆はあまりないんじゃないかな。それも不渡りのやつなんか」
「そこになにかわけがあったんだわ。ホームズは、グレーヴズから預かったか、売買を頼まれたかした株券を、自分勝手に処分して使いこんでしまったところへ、思ったより早くグレーヴズから勘定を催促されたものだから、値打ちのない不渡りの小切手などを押しつけて、時を稼ごうとしたのよ。それが、銀行から突きかえされ、グレーヴズからは、告訴すると脅《おど》かされたので――」
「その名刺に、住所があるかね?」
「ないわ。証券屋の店の名前が隅っこにあるだけよ」
「よし、それだけあれば、つかまえてみせるよ」男は、ベルトをグッとしめた。「ぼくは出かけるよ」キッパリといい切って、「さあ、君はその間に、バスの発着所に行って、そこでぼくを待っていてくれたまえ――」そこまでいいかけて、女がすぐには動きそうにないのを見ると、「どうしたの、君はホームズが犯人だというぼくの考えに、賛成してくれたんじゃないのか?」
「しないわ」思いがけない女のことばだった。「わたし、賛成しやしなくてよ。わたしはどうあろうと、今でもコンガ踊りの女だと思っているわ」
男は、小切手をヒラヒラさせて見せた。「しかし、なぜだい、ぼくたち、こいつを見つけたじゃないか?」
「あんたなら見逃がしそうなちょっとしたことが、いくつかあるのよ。なによりも、ホームズがあの人を殺したのなら、それは、その小切手のごまかしを隠そうとしたからなのよ、そうでしょう? そうだとしたら、小切手を手に入れずにこの家を出て行くなんてこと、しないはずだわ。それが因《もと》で、殺すまで行ってしまったからには、見つかるまでさがしたと思うわ。なぜって、あとで発見されたりしたら、いや応なしに自分が目をつけられるって知っていたでしょうからね。ちょうど今、わたしたちがそうしているようにね」
「さがしはしたが、見つけ出せなかったとしたら?」
「あんたにだって、見つけ出せたわ」女の答えは、それきりだった。「ほかにもう一つ、最後にここにいたのが女だとわたしが答えるわけがあるのよ――それをいえば、あなたに笑われるってわかっているけど――グレーヴズは死ぬとき、上衣までキチンと着ていたわ」
「やれやれ……ブリッキー、君は――」男は不平を鳴らしかけた。
「まじめにとってもらえないのはわかっているけど、わたしどうしてだか、あの人が、相手が脅迫に来たとわかっていてさえ、女の人に、上衣なしで会ったりしない型の男だって、そんな印象を受けるのよ。最後に居合わせたのがホームズだったのなら、あの人、チョッキ姿で、もしかしたらワイシャツの袖をまくり上げた格好で、転がっていたと思うわ。しかし、これは、わたしだけの感じで、ほかの人に押しつけるつもりはないの。ただ、そんな気がするってだけのことなの。とにかくわたしは、そんなわけで女だと思うわ」
ちょっと間を置いて、男は陰気に笑った。「さっきまでは、ぼくたち、なに一つ考えるたねがなかったのに、今では、あり過ぎるほどだね」
「前にわたしのいったこと、今でも本当だわ。もっと本当だといってもいいのよ……残った時間が、それだけ短くなっているんだからね。やっぱりどっちか一つは誤りで、どっちか一つが本ものなのよ。だけどわたしたち、はじめから本もののほうをとりあげることしかできないんだわ。両方とも一緒に追っかけるわけには行かないわ。わたしたちには、五分五分の賭けだって、冒険すぎるくらいなんだから。万一間違いでもしようものなら、もう一方をどうしようにも、とても間に合わないわ。もしホームズがちがっていたとしたら? そうだったら、それがわかったときには、女のほうを追っかけるだけの暇はないのよ」
「しかし、男のほうにきまっているさ。ここでわかるなにからなにまで、力をこめて、それをいおうとしているじゃないか」
「まったく、ホームズには人を殺すだけの動機があるわね」女は同意した。「ありすぎるくらいだわ。だけど、その人が今晩ここに来たことは、ちっとも確かでなくってよ。小切手だのなんだの、みんな――そんなのなんていったかしら?」
「間接的な証拠っていうのさ」男は、しぶしぶながら助けぶねを出した。
女はうなずいた。「そう……女のほうも、間接的証拠があるだけね。なにからなにまで間接的なことだらけだわ。あの人はナイトクラブで、女の人から、ここへ押しかけて来るという書きつけを渡されたのよ。そして、ここには確かに、女の人が一人来ているわ。しかし、だからといって、それが同じ一人の女だってことにはならないわね。まるっきり別の二人の女だったのかもしれないわ。ホームズという男が、あの人に不渡りの小切手を出したのね。そして、今晩ここには、一人の男が来ていて、口論をしたり、葉巻を噛みつぶしたりしているわ。しかし、その男の人も、二人のまるっきり別々の人だったのかもしれないわね」
「おやおや、こんどは、四人にしてしまったね」
「いいえ、相変らず二人っきりだわ。あんたの受けもちが一人、わたしのが一人。わたしは女のほうをとるわ。あんたは男のほうよ。さっきと同じように、六時十五分前までに、ここにもどって来るのよ」
あかりが消えて、死んだ男は暗やみの中に見えなくなった。二人は、階下に降りた。
こんどは、二人はキスもせずに別れた。心変りせぬ誓いは、一度交した以上、繰りかえすことはいらなかった。
「またね、キン」女は、棺の中に似た戸口に立って、そうつぶやいただけだった。
女は、男の行動を干渉しないために、しばらく待っていた。女があとから外に出たときには、男の姿はもう見えなかった。かつて会ったことのなかった人のように、姿は見えなかった。むしろ、ふたたび相見ることのない人のように行ってしまった。
そこには、不精ったらしく舌なめずりをする都会があるだけだった。
[#改ページ]
四時二〇分
こんどは、さっきのときよりもやさしいはずだったが、それでもキンは一抹《いちまつ》の危惧《きぐ》は捨てきれなかった。こんどは、名前――姓と名と両方とも――と、商売とがわかっている。それを、現在の居場所とつなぎ合わせさえすればよかった。前のときには、欠けたボタンが一つと、左|利《き》きという癖と、それだけしかなく、それさえ自信はなかった。だのに、とにかくなんとかやってみせる気になった向こう見ずの勇気を思うと――いや、まったく、結局雲をつかむような結末に終ったのも無理はない。しかし、こんどの場合、許された持ち時間の乏しさを思えばやっぱり、同じように無駄骨折りになりそうな気がしてならなかった。
電話帳には、同じ名が三つ出ていた。手はじめに、そんなところからとりかかった。しかし、確信があったわけではない。電話帳にはマンハッタン区だけしか載っていなかった。ブルックリンも、クィーンズも、ブロンクスも、ステーテン・アイランドも出ていない。郊外はクロトンまでどうしようもないのだ。いや、もっと遠くに住んでいるのかもしれない。ロング・アイランドだって、奥のほうはポート・ワシントンにいたるまで、手付かずなのだ。それに、株屋だという――連中のことはよく知らないが、わけもなしに、どうも郊外のほうに住んでいそうな気がする。
見つかった三つの番号のうち、一つは十九丁目、一つは十六丁目、もう一つは、きいたこともない名の町だった。電話帳に載っている順に、片っぱしから当ってみた。
交換手は、ベルを鳴らしつづけた。キンもあきらめようとはしなかった。こんな真夜中の、神様にさえ見捨てられた時刻に、すぐに電話に出る人などあるものではない。
やっとのことで、乱暴な音がして女の声がきこえて来た。眠たそうな、朦朧《もうろう》とした声だった。それは、十九丁目の分だった。
「なんですかい?」恐ろしく不機嫌ないいかただった。
「ホームズさん、アーサー・ホームズさんに、お話ししたいのですが」
「へえ……それは、お前さん、ちっとばかり遅すぎたね。もう二十分ばかり早いと、間に合いなすったがね」
今にもガチャンと切られてしまいそうだった。答える口調から、それがわかった。切られたら最後だ。
「どこへ行かれたか、差し支えなければ教えていただきたいのですが」切られてはなるまじと、舌がもつれるほど早口でしゃべる。
「警察に行ったよ。そこへ行けばつかまるがね。いったい、なんだって、こんなところに電話しなさったんだね?」
すると、観念したんだな……警察には、自首しに行ったのだろう……もうすべては終ったのかもしれない。なにもかも余計なことだったのかも知れない……この長かった夜を、自分たちはまぼろしに脅えて、空しく自身を責めさいなんでいたのだったかもしれない……
しかし、確かめてみなければならない。どういって確かめたものだろう? この電話の相手の女さえ知らないことかもしれない。知っているような口ぶりではない。女中か家政婦か、そんな人間らしい口のききかたをする。
「ホームズさんは――そのかたは、証券業をやっておいでなんですな? つまり、株を売ったり買ったりする株屋さんなんですな?」
「へえ! あの人がねえ!」十五年ばかりも抑えつけられたような不満が、その言いかたにこもっていた。その短いことばには、生涯くすぶっていた恨みつらみが詰めこめられていた。電線を隔てたこっち側の受話器までが、その熱でやわらかくなり、段々とけてベトベトのかたまりになってしまいそうだった。「せめてそんなものであってくれたらねえ。なあにね、あの人は二十丁目の第十管区署の内勤巡査部長だよ。商売といやあ、天にも地にも、それっきりやったことはないし、ほかにやろうったって、そんだけの才覚もないのさ。わたしがそういってたと、あの人にいってくれなすったって、ちっともかまわんがね。なんなら、ついでに、そこらじゅうの安酒場に入りこんで、ベラベラうそっぱちをしゃべりまくり、ただ酒にありつこうなんて料簡《りょうけん》は、みっともないから止せと、そういっておくんなさいよ。前には、知事の雇われ用心棒をやったり、諜報勤務《シークレット・サーヴィス》のほうだったこともあるけれど、へえ、こんどは株屋かね。とにかく、ひと晩じゅう、そこらじゅうの酔っぱらいどもが電話をかけてよこすもんだから、頭が痛くなるよ、まったく――」
キンは、電話の器械もこわれよとばかり力をこめて、受話器をかけ金にたたきつけた。
畜生ッ! 警察のやつか! もうこれ以上――電話の線伝いに二マイルかそこら以上に、やつらには近づきたくないぞ……これだけ近づいたことだっていまいましい……やつらから離れていたいばかりに、こんな苦労をしているんじゃないか。
いまいましさを抑えるのには、一分間ほどかかった。しかし、先へ進まなければならない。もうたくさんだといいたかったが、そんなわけには行かない。
十六丁目のホームズ氏だ。
こんどは、ほとんど待つ間もなかった。こんな時刻だというのに。相手は、電話のすぐそばの、ほんの二、三歩のところに腰をおろして待っていたのにちがいない。
若い声だった。二十歳ぐらいかと思われるひびきがあった。あけっぱなしのものの言いかたが、そんな印象をあたえるのかもしれない。決して成長しない声があるものだ。抑えに抑えたがまんが、抑え切れなくなったような声だった。そのがまんは、恐怖に変わっていた。そのせいで息切れしていた。待ち切れなかったのだ。なにがどうでも吐き出さなければならなかったのだ。
電話をかけた相手が誰であろうと、そんなことを構《かま》ってはいなかった。この時刻にかけて来るのは、待ちかねていた相手ただ一人しかないと思い、これがそれにちがいないと頭から決めこんでいる風だった。こっちからものをいうキッカケもなにもなかった。こっちのいうことには半分も耳を貸さず、相手が男性であることを確かめただけでたくさんだというようだった。
その声の流れには、まったく息つぎの区切りがなかった。
「まあ、ビキシー、わたし、もう電話をかけてくださらないのかと思ったわ。どうしてそんなに暇がかかったのよ、ビキシー? わたし、ここでなん時間もシビレを切らしていたのよ。すっかり荷造りをすませて、その上に腰かけて待っていたの。二度か三度、あなたを呼び出そうとしたんだけど、ね、妙じゃないの、その度に混線したみたいになって、どうしてもこっちのいうことがわからないらしいのよ。わたし、一分か二分の間だったけど、すっかり考えこんじまったわ。だってしようがないんですもの」自嘲の笑いを浮かべようとしたが、ものにならなかった。「わたしの宝石やなんか――どうしたらいいのかしら? あとになってから、やっと気がついたのよ。それから、わたし、お別れしてすぐ、あの人に電報を打ったわ。あなたは、そんなことするなとおっしゃったけど、せめてそれだけでもしといたほうが立派だと思ったの。こうなったら、もう後へは退《ひ》けないわ――」
声の流れがハタととまった。感づいたのだ。こっちは、ひと言もしゃべらなかったのだから、どうして感づいたかはわからないが、ふいに感づいた。
「あらッ、ビキシーじゃなかったの?」その声は死んでしまいそうだった。物理的にはそうでないかもしれないが、ひからびてしまいそうな声になった。
「お邪魔して失礼ですが……アーサー・ホームズさんをお願いします」
声は、もう死んでしまった。その死んだ声が、「主人は、カナダに魚釣りに参りました。先週の火曜日に出かけましたの。ご用がございましたら、連絡先は――」
「いや、結構です。先週の火曜日にお出かけなんですね?」
「どうぞ、切っていただけません? 待っている電話がございますの」
キンは、電話を切った。
次は、丁目でなく、名のついた通りに住むホームズ氏だった。
さんざん待たされたあげく、交換手は、相手が出ないと告げた。
「もっとやってみてくれ」
交換手は、ベルを鳴らしつづけた。
しまいに、それがきこえなくなった。交換手があきらめたのかと思った。わけがわかるまでに一分ほどかかった。あきらめたのではなかった。先方で受話器をはずしたのだった。少しもその気配はなかったが、交換手があきらめたのだったら、料金のニッケル玉が戻って来るはずだった。向こう側の誰かが、受話器を耳にあてたまま黙っているのだろう? とすると、相手はなにかを恐れているのか?
それだけのことでしかないにしても、幸先《さいさき》はよさそうだった。
両方が黙ったままでいた。キンは、様子をうかがって待った。どっちかが折れなければならない。キンのほうから先に折れた。
「もしもし」キンはそっと呼んでみた。
向こう側で、せき払いがきこえた。「はい」声でないような声だった。
すべり出しはよかった。こんどはほんものらしい。希望をもつのはまだ早いと思った。これまでに、幾度となくガッカリさせられているのだ。
男の声だった。ひどく低い、ひどく用心深い声だった。「はい」と答えたそれさえ、油断のない声だった。
「アーサー・ホームズさんですか?」
なによりも、相手に逃げられてはならない。相手を確かめた上で、なんとか電話口につなぎとめておくのだ。それがうまく行きさえすれば――だから、出だしからスムースにやらなければならない。
「君は?」
向こうは、ホームズであるとはいわなかった。キンは、相手が、求める当の本人であると決めてかかることにした。
「ホームズさん、わたしは、まだごぞんじのないものですが――」
向こうの声も、そんなことではごまかされなかった。「ホームズと話したいという君は誰だね?」
もうひと押し押してみた。「名前をいっても、そちらではごぞんじのない人間ですがね、ホームズさん」
相手は、またもや身をかわした。「ぼくがホームズだとは言いやしないよ。君の名を訊《き》いたんだ。そっちから先に名乗らなければ、ホームズがいるともいないとも言うわけには行かん。もっとも、時刻が時刻だから、名乗りたくないのも無理はないがね。とにかく、君のほうで、名前と、ホームズになんの用があるのかをいわんのなら、もうこれ以上手間をとらせるのは止めてもらいたい」
その『なんの用があるのか』こそは、待ちかまえていたことばだった。割れ目をひろげるくさびをもらったようなものだ。
「わかりました」そう答えて、相手には言うことをきくように思わせた。「両方とも申し上げましょう。名は、キンです。ホームズさんのごぞんじないものです。用件は――実は、ホームズさんの署名入りの小切手をお返ししたいと思いましてね」
「なに?」反応は早かった。「なんだって?」
「つまり、ホームズさんの小切手をもっているんですが、お返しするについては、ご本人かどうかを確かめなければならないわけです。そちらは、証券業のウェザビー・ドッド商店に関係しておられるアーサー・ホームズさんのお宅でしょうか?」
「そうだ」
「では、ホームズさんに出ていただけませんか?」
声は、ほんのちょっとだったが、ためらった。急に声の調子が変わった。「ぼくがホームズだが」静かないいかただった。
最初のラウンドは勝った。みごとに引っかかった。もう逃がす心配はなかった。これからは、もっと手もとに引き寄せさえすればいいのだ。
キンは、もう二度も口にしたことを、また繰り返した。「実は、あなたの署名のある小切手をもっているんですがね」餌《えさ》を放り出しておいて、相手の喰いつくのを待った。
向こう側の声は、用心深く手さぐりして来た。「理解できないことだが、君は、ぼくの知らん人間だというのに、どうしてそんなものをもっているんだね?」急に早口になって、「君は、なにか思いちがいしているのじゃないかな」
「いや、ホームズさん、現にここに手にもっているんですよ」
声は、また速度をゆるめて、つまずきがちになった。「振り出し先は誰になっているかね?」
「待ってくださいよ」キンは、効果を増すために、しらべてみるほどの時間を置いた。「スティーヴン・グレーヴズ殿となっていますね」口から出まかせをいっているのでなく、実際に字を読んでいるかのように、少し誇張した抑揚《よくよう》をつけた。むろん、意識してのことだった。この段階で相手に、それが底意もなにもなく、偶然に手に入ったものであることを印象づけたかったのである。いきなり本論に入るには、まだ二人の間に距離がありすぎた。
電話の声は、のどの奥にこぶができて、そこにつかえたように、つかえてしまった。ことばはきこえなかったが、そのつかえをなんとか通そうとするような気配が、線を伝わって来た。
この男だぞ、犯人は……キンは一心に思いつづけた……この男だぞ……こんな風に、眼に見えぬところにいながら、ボロを出すのだったら、もし向かい合ってでもいたら――
のどの奥のこぶはなくなった。ふいにことばが出て来た。
「馬鹿をいっちゃいけない。ぼくは、そういう人間に宛てて、小切手を振り出したことはないよ。君のほうにどんな企《たくら》みがあるのか知らんが、よしたほうがいいね、そんな――」
キンは、声の調子を乱さぬように、声に色がつかぬようにした。「小切手帳の切り残しをごらんいただけば、事実であることがおわかり願えると思いますがね。右手の隅にある番号は、第二十号となっていますよ。小切手帳の二十枚目なんですな。銀行はケース・ナショナル、日付は八月二十四日です。額面は一万二千ドル――」
電話線の向こうはしで、相手がひっくりかえったかと思われるような音がした。なにかがうつろな音を立てた。受話器が手からすべり落ちたのを危《あや》うく受けとめたようだった。
勝ったぞ……キンは、有頂天だった。こんどこそは、間違いなくつかまえたぞ。
あとは待てばいい。こっちでは、情況の作り出されるのに応じて当意即妙にあしらって行きさえすればいいのだ。
「で、君はどうして――どうして、そんな小切手を手に入れたんだね?」
「拾ったんですよ」キンは、しごく事務的な言いかたをした。
「どこで――どこで拾ったのか、どうか教えてもらえないだろうか?」
効果はてきめんだった。相手の男は一度だけ、すばやい息を吐いた。それから、当然吐くべき息を、二度か三度忘れて抜かしてしまった。やがて、もう一度、すばやい息を吐いた。その全過程は、受話器の代わりに聴診器を耳にあててでもいるみたいに、手にとるようにわかった。
「タクシーの座席でしたがね。ぼくの前に乗った客が暗やみで紙入れをあけたときに、すべり落ちでもしたような具合でしたよ」その先客がグレーヴズだったと思わせてやれ。
「そのとき、誰かといっしょだったかね?」
「いや、ぼく一人でした」
こんどは相手は、頭から疑ってかかることによって、企みの内容をさぐろうとした。「そんなことはあるまい。こんなことには、たいがい二人、頭を揃《そろ》えているもんだからな。さあ、いいたまえ、誰が一緒だった?」
「誰もいやしませんよ。誰でも、ときにはひとりぼっちでいることがあるもんですよ。ごぞんじありませんか。ぼくはひとりでした」
向こうはそれが知りたかったのだ。それを確かめたかったのだ。そうにきまっている。
「拾ってから、誰に見せたかね? そのことを誰にしゃべったかね?」
「誰にも」
「今、誰と一緒にいるんだね?」
「誰とも一緒じゃありませんよ」
「そんなことで、明けがたの四時半に、ぼくに電話をよこしたというのは、いったい何を思いついたんだね?」
「いや、お返ししたら、喜んでいただけるかもしれないと思いましたのでね」
相手は、いわれたことを考えてみた。べつにごまかそうとしているのではないが、問題の重要さをはかりにかけているという印象を与えようとしているのだ。あたかも、キンの申し出に、一つ以上の返答のしかたがあり得るとでもいうように。「その前に、ちょっと訊きたいことがある……もし――単なる仮定としてだが――もしぼくが、その小切手はなんの値打ちもないものだから、返してもらわんでもいいと、そういったら、君はどうするね? 捨ててしまうかね」
「いや、捨てやしませんよ。そうおっしゃるなら、とっといて支払先のスティーヴン・グレーヴズという人をさがします。みつかるかどうかやってみます」
その一言こそは命中した。たとえ、それまでがみんな外《そ》れだまだったとしても……しかも、それまでだって、たっぷり命中していたのだ。キンの耳には、相手の心臓のひっくりかえってキリキリ舞いしているのが、ほとんどきこえそうだった。
そこで水が入った。よその人間が割りこんで来た。交換手の声で、「五分|経《た》ちました。お時間ですから、もう一度料金をお入れください」公衆電話からかけているキンに話しかけたのだった。
キンは、通話の時間内に話がうまくつかないときの用意に、手に握っていたニッケル玉を見た。
ためしに一分ほどの間、指先でつまんだまま待ってみた。
わめくような声がした。「待ってくれ! 頼むから切らないでくれ!」
キンは、ニッケル玉を落としこんだ。カチリと音がして、通話はつづいた。
とぎれるのを恐れたのは、こっちだろうか?……キンは考えた……いや、向こう側だ。
声は、ひどく怯《おび》えていた。もうとぼけたり、ごまかしたりするのは止めにしたらしい。「よし、わかった。君のもっているというその小切手を見せてもらいたい」相手は降服した。「そいつは、誰にも無価値のものだ。手違いがあって――」
キンは、ハッシと斧《おの》を打ちこんだ。「銀行から突きかえされていますね」
相手は、キンのそのことばを呑みこんだ。隠喩《いんゆ》的な意味でばかりでなく、文字通りグッと呑みこんだ。
「ええと、君はフリンといったかな?」
「キンです。しかし、そんなことはどうでもいいことですよ」
「君自身のことを、少しきかせてもらいたいが……君は、どういう人なんだね? なにをやっているんだね?」
「それが、このことに何か関係がありますかね?」
相手は、もう一度やり直した。「君は結婚しているのかね? 家族を養っているのかね?」
キンは一歩しりぞいて、その質問について考えてみた。なにを求めているのだろう? こっちの口をふさぐのに、どれだけ金を出せばいいか、見当をつけようというのだろうか? いや、もっと腹黒い意図が隠されているにちがいない。もし、このぼくに万一のことがあったら、周囲がどれだけ迷惑するか、それをさぐろうとしているのだ。
頸《くび》のうしろの髪の毛が、ちょっと逆《さか》立つのを感じた。「ぼくは独身ですよ。誰も養ってやしません」
「部屋仲間もないのかね?」のど声になった。
「ありません。まったくの独り身です」
相手は、思いめぐらした。わなのにおいを嗅いでみた。もっとそばに寄った。餌に手をのばした。餌はもはや小切手そのものではなく、こっちの生命《いのち》なのだ……キンは、そう思った。
「わかった。ぼくは小切手を見せてほしい、そして――場合によっては、応分のことをしてあげられるかもしれない」
「結構ですな」
「今、どこにいるんだね?」
キンは、ほんとうのことをいったものかどうか、ちょっと迷った。「五十九丁目です。五十九丁目のボルティモア料理店をごぞんじですか? そこからお話ししているんです」
「じゃあ、こうしよう。差しあたり、着替えをする間待っていてほしい――電話のベルが鳴ったとき、眠っていたんでね。着替えをしてから出かける。場所は――そうだなあ――」
相手は、なにかを考え出そうとしている。しかし、二人の会見場所をえらぶだけのことではないようだった。キンは、勝手に考えさせておいた。「こうしよう。そこからコランバス広場のほうへ行くんだ。中央公園《セントラルパーク》通りからブロードウェーの別れるところに、細長い三角のブロックがあるのを知ってるだろう? そこに終夜営業の、二方に入口のあるキャフェ・テリアがある。そこに入って――ところで、君は金がないだろうね?」
「ありませんな」
「まあ、とにかく入りたまえ。べつになんともいわんだろう。人を待っているんだといえばいい。その店のブロードウェー側の窓ぎわに坐っててくれ。十五分以内に連絡をとる」
キンは思った。別のところへ行けというのは、なぜだろう?……なぜ、この店で会おうとしないのだ?……多分ここだと、わなが用意してあると思ったんだ……見えないところに伏勢があると考えたんだな。また、キンは、相手のことばづかいも思い出してみた。「会いに行く」とはいわずに、「連絡をとる」といった。……なるほど、顔を合わせる前に、トックリこっちを偵察しようというんだな……万事ぬかりなく立ちまわろうってわけだ……しかし、そうは問屋が卸《おろ》さないぞ。小切手を握っているのはこっちだ……向こうはこいつを手に入れなきゃならん。たとえひと晩じゅうかかったって、大ニューヨークの隅から隅まで尋ね歩くとしたって、向こうは、こいつを手に入れなきゃならんのだ。
そんな思いは胸の中にしまっておいて、さり気なく答える。「承知しました」
「十五分以内に行くからな」
会話は終った。
キンは、電話を離れた。便所に入って壁によりかかり、靴を脱いだ。小切手をとり出し、別の紙きれに包みこんで、それを靴の底に敷いた。それからまた靴をはいた。グレーヴズがナイトクラブで、女から渡された紙きれを始末したやりかたのまねをしたのだった。
店の外に出る途中、盆や食料品をしまってある棚のそばに立ちどまった。
そこには、ほかに誰もいなかった。カウンターのうしろにいる店員も見ていなかった。キンは、クロム鍍金《めっき》をしたナイフを一本とり上げて、こっそり刃に触ってみた。たいしていい刃も付いていない。鈍《にぶ》い。だが、たとえ実際に使うというよりは、気もちの上のことだけに過ぎないとしても、なにか身につけていなければならなかった。紙ナプキンでくるんで、外套の内ポケットに斜めにさしこんだ。
公園の幅だけ歩いて、コランバス広場《サーク》まで行き、与えられた十五分のうち十二分ばかりを費やして、指定された店に着いた。ブロードウェー側の窓際のテーブルに腰を下ろして待った。
通りから店の中は見通しだった。たとえば、|中央公園西通り《セントラルパークウェスト》からだと、店の外の歩道からであれ、歩道の際《きわ》に寄せた車の中からであれ、夜の闇にまぎれてのぞきこめば、明るく照明された内部は、反対側の窓際でぼんやりと外を見ているキンのところまで、すっかり丸見えなのだ。
キンは、相手がわざわざこんな店を選んだわけがわかった。
そこで一度か二度、そっちのほうへも眼を向けてみた。一度は、定かでない黒い車の姿を見たと思った。そこに停まっていたのが、見たと思ったとたんに、音もなくすべり出して闇のほうに消え去ったようだった。しかしそれは、べつに他意のない通りすがりの車が、広場の手前で停止信号に会って停車しただけなのかも知れない。
約束の十五分は過ぎた。十八分|経《た》った。二十分|経《た》った。
キンは落ち着かなくなって来た。相手を見そこなったのかもしれない。逃《ず》らかる時を稼ぐ口実だったのかもしれない。小切手をとり戻すことを断念してでも、こっちに近づくのを恐れているのかもしれない。
相手に間違いはなかった。確かに的《まと》は外さなかった。だが、つかみ損《そこな》ったのかもしれない。逃がしたのかもしれない。キンの額に汗がにじみはじめた。拭《ぬぐ》っても拭っても、あとからあとからにじみ出る。
ふいに、レジスターのデスクの側で、電話のベルが鳴った。
キンは振りかえったが、また元の姿勢にもどった。
誰かが、グラスをコツコツといわせた。も一度振りかえってみると、勘定係の男が手招きしていた。
レジスターのところまで歩いて行った。「窓際に一人で坐っているお客に出てもらってくれといっていなさるんだがね……店を電話を待ち合わせる場所に使ってもらっては困るんだが――」文句をいいながらも、受話器を渡してよこした。
その男だった。「もしもし、キン君だね?」
「そうです。どうかしましたか?」
「オウエンという店で、君を待っている。その店のカウンターだ。五十一丁目の通りなんだが」
「いったいどうしたんです? さっきは、ここで待てとおっしゃった。ぼくを引っぱりまわして、どうしようっていうんですか?」
「わかっているよ――とにかく、ここへ来てくれたまえ。タクシーをつかまえて来れば、こっちで料金を払うよ」
「こんどは、からかっているんじゃないでしょうな?」
「からかってやしないさ。先に来て、君を待っているところなんだ」
「わかりました。とにかく、そこへ行ってみます」
[#改ページ]
四時二七分
ブリッキーは、手のひらを握り拳でこすりながら、店の前を往きつ戻りつした。もう入れてもらえそうにない。玄関の上の看板は消えている。ごみで一杯になった屑罐《くずかん》が外に出ている。最後の一人の酔っぱらいも、つまみ出された後だ。店は死んだ。死にはしたが、まだ冷たくなり切っていない。まだ、死の過程をたどりつつあるだけなのだ。今にも、ひっそりとした人影が出て来て、歩き去るだろう。この店の中で稼《かせ》いでいる誰かが……今は、ナイトクラブの従業員にとっては午後の五時なのだ……連中の時計は、世間の時計と逆の方向へ回っているのだ。
なにか手がかりでもと、店を見張って歩きながら、ブリッキーは考えつづけた。……今こうして歩哨《ほしょう》に立っているこの店の中で、今晩もっと早くに、うす緑色のドレスを着た赤い髪の女が、グレーヴズに書きつけを渡したのだ……店も突きとめたし、書きつけも手に入れた。……そこまでは首尾よく行けたのだ……そこで、どういうことになるのか……その書きつけを書くには、なによりもまず、鉛筆と紙とがいる……普通なら、そんな種類の女はそんな物を持ち歩かないものだ……伝えたいことがあれば、たいがいは眼と腰にものをいわせてすます。もしかするとその女は、鉛筆と紙とをもっていたのかもしれない……そうだったら、まったく運が悪いというほかはない。だが、もっていなかったとしてみよう。そうだとしたら、店にいた誰かから借りねばならなかったにちがいない。フロアで踊っているダンサーを呼びとめて、「鉛筆と紙、貸してくれない?」などと頼んだとは思えない……テーブルの客に、そんなことを頼みもしないだろう……すると残るのは?……テーブルに坐っていたのだったら、そのテーブルの係りの給仕《ウェイター》……バーにいたのだったら、バーテンダー……帽子預り所の女の子……化粧室の世話係。
つまり、この店で働いている誰かから借りたということになって、範囲はだいぶ狭《せば》まる。
自分が、こんなところでウロウロしているのも、それが目当てなのだ。
ひとりずつ出て来るところを見れば、たとえふだん着姿に変わっていようとも、少しは見わけがつくはずだ。たとえば……そら、そこに出て来たあのキリッとした生意気そうな美人は、今こそお客とちっとも変わらぬ流行の衣裳をつけているけれども、こういう場所の帽子預り所の女の子以外の誰でもあり得ない。
その女の子は、ブリッキーの手が袖に触ると、つとその場に立ちどまった。それから、自分の腕をつかんだのが、まぎれもない女性であることを発見して、顔じゅうに偽りでない驚きの色がひろがった。ブリッキーから質問を受けるまでは、復讐を恐れている人のように、一瞬|脅《おび》えたような顔にさえなった。
「いいえ、そんなことなくてよ。あたしんとこでは、鉛筆をもってるのは、お客さまのほうだわ」笛のような|赤ん坊声《ベビー・ヴォイス》で答える。「みんな、自分の鉛筆を出して、お使いになるのよ」ハンドバッグをあけて、ひとつかみの名刺や、名前、所書き、電話番号などを書きつけた紙きれを引っぱり出して見せる。
その中の一枚が、ヒラヒラと舞い落ちた。それを足で蹴とばすようにして、「かまやしないわ。一枚ぐらい失くなっちまったって、まだドッサリあるんだから」残りの紙きれや名刺をハンドバッグに戻して、「あたしに鉛筆を借りに来る女の人なんてないわ……第一、貸そうったって、そんなものもってやしないもの」女の子は、小きざみの靴音を遠ざからせながら歩き去った。
こんど出て来た、同じように流行ずくめの装《な》りをした黒ん坊の女は、どう見ても化粧室の世話係りにちがいない。
「エンペツってなんだね?」その女は、とぼけたような返事をした。「あの眉を書くエンペツのことかね?」
「ちがうわ。普通の字を書く鉛筆なんだけど」
「あんなとこに、字を書きに来なさるお客さまはねえだよ……なんかの思い違いをしてなさるんでねえかな」
「でも、ずうっと一度もそんなもの借りた人いないの?」ブリッキーは喰い下がった。
「ねえだな。いろんなこと頼まれるけんど、そればかりは一度もねえだな。そういえば、あすこには、そんなもの用意していなかっただな……いいこと教わっただよ。明日は、ひとつ鉛筆を一本もって行って、備えつけることにするだよ。ひょっとして、そんなもののいる人がねえでもねえだろうからね」
男が一人出て来た。
立ちどまって、頭を振って見せた。「バーでもあっしの受けもちの側には、そんなお客はいなかったな。フランクにきいてみな。あっちの側の受けもちだからね」
すぐあとにつづいて、もう一人の男が出て来た。
「あなたは、フランクさん?」
男は立ちどまって、笑顔になり、ブリッキーに片目をつぶって見せた。「うんにゃ、あっしはジェリだが、あっしだって空いているよ。名前なんかどうだっていいじゃないか」
こんどは、ブリッキーのほうが遠慮する番だった。十ヤードかそこら遠慮して、男が行ってしまうのを待った。
しかし、そうしている間にもう一人現われて、だいぶん遠くに行ってしまっていた。ブリッキーは、小走りに走って追いつかねばならなかった。
「うん、おれがフランクだがね」
「今晩、バーのあんたの受け持ちの側で、鉛筆を借りた女の人がいなかった?……背の高い、赤い髪をした、うす緑色のドレスを着た女の人なんだけど……今晩といっても、ずっと早い時刻なのよ……でも、もしか憶えていないかしら……どう?」
男はうなずいた。「うん、そんなお客があったな。憶えてるよ。十二時ごろだったが、確かにいたよ」
「だけど、そのお客の名前なんか知らないでしょうね?」
「うん、知らんな。しかし、どうもこの辺のよそのクラブで働いている女じゃないかと、そんな気がするよ」
「だけど、どこのクラブか、そこまではわからないでしょうね?」
「そいつはわからん。ただ、誰かが、『こんなところでなにをウロウロしているんだね? 勤め先のほうはもうすんだのかい?』てなことを話しているのを耳にしただけなんだ」
「だけど、その女の人が――」
「うん、おれは、その女がどこの誰だかも、どこで働いているかも、そのほかなに一つ知らんよ。知っとるのは、その女が、おれから鉛筆を借りて、バーの上にかぶさるようにして、腕でかくしながら、なんだかクシャクシャと書いてから、鉛筆を返してよこしたってことだけだ」
男は、なおしばらく立っていたが、二人とも、それ以上話すことがなかった。
「もうちっとお役に立てばいいんだがね」
「ほんとにそうなんだけど」
男は、向きを変えて歩き去った。ブリッキーは途方に暮れたように、歩道を見おろして立っていた。
多分、これ以上追いつめることは、はじめからできない相談だったのだろう。こんなに近くまで来ていながら、まだこんなに離れているのだ。
ブリッキーは、頭をあげた。男はもう一度こっちへ引きかえして来た。
「だいぶん心配ごとがあるらしいね」
「どっさりあるのよ」絶望したようないいかただった。
「じゃあこんなのはどうかな……君自身クラブで働いている女なのかどうか、そいつは知らんが、あの連中には変わった習慣があるぜ。クラブが閉《は》ねてから、連中の寄り集まるドラッグストアがあるんだ。よく知らん人たちはあの連中のことを、常連と連れ立ってシャンパン・パーティーにしけこむと思っているがね。そりゃあ、中には、たまにそんなことをやらかす女もいるだろうが、たいがいはやらんね。君だって信用せんだろうけど、十ぺんのうち九へんまでは、学校のすんだ子供たちみたいに、そのドラッグストアめがけて押し寄せるんだ。そんな場所のほうがお気に入りなんだな。寄り集まって、麦芽《モルテッド》ミルクをのみながらくつろぐってわけだ……君もそこへ行ってのぞいてみたらどうかな……どっちにしろ、行ってみるだけのことはあるぜ」
それだ! ブリッキーは、呆気《あっけ》にとられて見送る男を残して駈け出した。途中を走り通した。短いブロックをわずかに二つばかり行った場所だった。
男の話から想像したほど、カウンターに目白押しに並んでいるというのではなかった。時刻が遅く、大部分は引きあげてしまったせいかもしれない。しかし、カウンターの向こう端に、三人の一団がまだぐずぐずしていた。その中の一人は、ロシア種のウルフハウンドを連れていた。床につく前に、運動に連れ出したのだろう。その犬のまわりにみんなが集って、めいめいの皿からパンのかけらをやったりして騒いでいた。犬の持ち主は、着流しとでもいいそうなだらしのない装《な》りをしている。肩にポロコートを羽織り、その上から寝間着《パジャマ》の裾と、素足のくるぶしと、スリッパがのぞいている。三人の中には、赤髪はいなかった。
三人とも頭をあげた。みんなの注意は、ボルゾイ種の犬を離れて、ブリッキーに集まった。
「きっとジョーニーのことだと思うわ」一人が答えた。ブリッキーに向かって、「そうじゃない?」
自分でも知らなくて、どう返事のしようがあろう。
誰も、その女の苗字は知らないらしい。
「あたし、あの女をここで知ってるだけよ」
「あたしもだわ」二人目の女がいい足した。
「今晩は来なかったわ」三人目が補った。「あんた、どうして、あの女のホテルに行って捜さないの?……この通りをほんのちょっと行ったところよ。コンコードだか、コムトンだか、なんでもそんな風な名のホテルだったと思うわ」それから、いいすぎたのを取りかえすように、「そこに今でもいるかどうか、あたし、それは知らないけど、二、三日前にはいたわ。……スターリンを運動させがてら、あの女《ひと》といっしょに玄関まで歩いて行ったのよ」
三人はそろって肩をすぼめて見せた。ブヨのように移り気な女たちの注意は、またボルゾイ種の犬のスターリンのほうへ行った。
そのホテルは、インチキ賭博師、ペテン師などにお気に入りの、日蔭の宿らしいあらゆる徴候をそなえていた。しかし、ブリッキーは少しもこわくなかった。今までなん年もの間、毎晩のようにダンスホールで、そういう種類の男にお目にかかっていたのだ。退却を予定しない人のように、しっかりとした足どりで、帳場まで歩いて行った。一週間も替えたことのなさそうな汚れたカラーを着けて、アルコールの匂いをプンプンさせた、いやらしい顔つきの、やぶにらみ気味の係員が、ブリッキーをむかえた。
ブリッキーは、デスクに片肘《かたひじ》ついてもたれかかった。「こんばんは」せいいっぱい愛想よく挨拶した。
係員は口をあけて、間に隙のあいた歯をむき出して見せた。どうやら、それが愛想笑いのつもりらしい。
ブリッキーは、空いた片手にかけたハンドバッグをブラブラさせた。「ねえ、わたしのお友だちのお部屋、どこだか教えてくださらない?」相手に無頓着に、かび臭いロビーのほうを眺めながら訊ねた。「ちょっと寄って、いい忘れたことを話したいんだけど……ほら、ジョーニーって女《ひと》なのよ。うす緑色のドレスを着ているわ。ついさっきドラッグストアで別れたばかりなんだけど――」そこでクスクス笑って見せて、「とってもすばらしいことだから、あしたまで待てないのよ」はしゃいで自分の腿《もも》をピシャリとたたく。「きかせたら、死ぬほど喜ぶわ!」大きな声を出した。
「どなたでしょう、ジョーン・ブリストルさんですかな?」係員はそのすばらしい話を自分にもきかせてもらいたいといいたげな愚かな顔つきで訊きかえした。
「そうよ、そうよ、その女《ひと》よ」ブリッキーは、そうにきまっているじゃないの、というような調子で早口に答えた。クックッと笑いを洩らしながら、男の脇腹を突っつく。「ねえ、とっても面白いこときかせてほしくない?」こっそりなにか秘密ごとをささやこうとするように、口を男の耳もとに寄せる。男も、誘われて気安く頭をそっちに傾ける。
ブリッキーはふいに、さも移り気の駄々っ子らしく、気を変えてしまった。「ちょっと待って。やっぱり、あの女《ひと》に先に話すわ。降りて来たら、あんたにも話してあげるわね」いい捨てて、ふっとひと足デスクから離れる。しかしその前に、男のあごの下をチョコッとくすぐるのは忘れなかった。「待ってらっしゃいね、小父さん……どこにも行かないでね」それから、冗談ごとのついでにヒョイと思い出したというように、「どの部屋だっておっしゃったかしら?」
男は、うまうまと引っかかった。ずいぶん苦心の演技だったが、その効き目はあった。「四〇九号室ですよ」愛想のいい言いかただった。男は、ブリッキーの無理矢理につくり出した気分のとりこになって、ヨレヨレのネクタイの曲りを直しさえした。ホテルに人を訪ねるべき時間かどうか、そんなことを考えてもみないなれなれしさ……悪気《わるげ》のない、うわついたはしゃぎよう……
帳場の男は、ボロボロの交換台のほうへ行きかけた。訪問客を部屋に知らすことも、帳場の役目にちがいないのだ。
「あら、そんなこと、よくってよ」ブリッキーは手を振って見せながら、蓮《はす》っぱに呼びかけた。「わたしとなら、あの人、そんなに四角張ることいらないわ。かえってビックリするわ……わかっててよ、あの人、払いが二週間遅れてるんでしょう」
男は、声を出してお追従笑いをして見せ、電話で来客を告げることは止めにした。
ブリッキーは、大げさに腰を振りながら、エレベーターに乗りこんだ。古めかしい機械はキイキイと音を立てて、ゆっくりと昇りはじめる。ドアは鉄格子だった。一階の天井が降りて行って、ブリッキーの姿を男の眼から断ち切るにつれて、それと同じ速さで、その顔から浮わついた作り笑いが剥《は》ぎとられ、入れかわりに、重々しいまじめな表情が戻って来た。
ブリッキーと黒ん坊の運転手をのせたエレベーターは、よろよろと四階にたどりついた。運転手は機械を停めて、ブリッキーを降ろすと、そのまま帰りを待つつもりらしい。遠慮なく追っ払うことにした。「もういいことよ。かなり時間がかかると思うわ」
黒ん坊はガタガタのドアをしめた。ガラスの向こうを、一列の電燈がノロクサと降りて行った。
ブリッキーは向きを変えて、かび臭い、照明の暗い廊下を、まだわずかに織目が残って、敷ものらしい様子をとどめている無惨なカーペットを踏んで、歩いて行った。ドアがいくつもいくつも、うす暗く、謎のように、あいまいに過ぎて行く。ちょっと見ただけで、背筋の寒くなるような気がする。そのどれもから、あらゆる希望が出て行った。そのドアを出入りする人たちから、希望が出て行ったのだ。都会という巨大な蜂《はち》の巣の、これもまた塞《ふさ》がっている一列にすぎない。
人間ともあろうものは、こんなドアを出入りしてはならないのだ……こんなドアの向こう側に住んではならないのだ。そこには、月の光も、星の光も、どんなものも入って来ない。墓穴よりも、もっと悪い……墓穴には、ともかくも意識というものが欠けている。それに墓穴は、神さまが、わたしたちに誰でも行けとおっしゃる行き先なのだ。しかし神さまは、ニューヨークの三流ホテルに並んでいるこんな洞穴《ほらあな》に行けとは、命令なさらない。
ずいぶん長い廊下のように感じるが、それは、ブリッキーの思いがセッカチに駆けめぐるからかもしれない。その思いは、ひと足ひと足、もうすぐそこの大詰めの場に近づきながらも、狂おしく湧き立つ。
……どんな口実で、その部屋に入ればいいかしら?……入ってから、どういう手だてで、その女があの人を殺したかどうかを確かめればいいのかしら?……誰が、ひとにそんなことをいってくれるものか……堂々たるニューヨーク全州がよってたかったところで、そんなことについて口を割らせることができないのが普通なのだ。とすると、このわたしに、誰の助けも借りずに、どうしてそれができよう?……たとえできたとしても、その女を、東七十丁目までの長い道中を、どうしてあの邸《やしき》まで連れて行けばいいのだろう?……そんなことをすれば、大さわぎになり、警官が呼び立てられ、キンまでがまきこまれ、わたしたち二人とも、幾日も幾週間も、容疑者として勾留されるという、今までよりもずっと悪い事態に追いこまれるだろう……
ブリッキーはわからなかった。まったくどうしていいかわからなかった。ただ、もう後には引けない、前進するよりほかない、それだけしかわからなかった。一歩一歩目あてに近づきながら、この大きな町のどこにいても、自分を見まもりはげましてくれる、あのやさしい保護者に、一心に祈るよりほかには、どうしようもなかった。
……ああ、パラマウント塔の大時計さん……ここからは見えないけど……もう夜明けも近いし、バスの出る時刻は迫っているのよ……どうぞ、わたしを、今日のうちに家に帰らせてください……
ドアに書かれた部屋の番号は、だんだん大きくなって行く。こっち側が四〇六、向こう側が四〇七、またこっち側が四〇八。そして、廊下の突き当りにドアが一つ、それでおしまいだ。そのドアの番号は四〇九。さあこれだ。このドア……いかにも素知らぬげに見える……ほかのたくさんのドアと少しも違ったところはないようだ――しかし、このドアの向こう側にこそ、ブリッキーの運命のすべてが、どんな姿であるか、それはわからぬながら潜《ひそ》んでいるのだ。
ブリッキーは思う。……この大きな、古ぼけたザラザラの黒い板一枚に、わたしがもう一度人間に生まれ変わるか、それとも、死ぬまであい変わらず、ダンスホールのねずみのままでいるか、それが賭けられているのだ……たった一つのドアが、どうしてそんなに大きな力をもっているのだろう……
自分の手の甲を見おろした……まあ、あんただったの?……よくも勇気があったわね……この手の甲が、たった今、ブリッキーのほかの部分の用意も待たずに、運命の板をノックしたのだった。
なにも計画を立てるひまもなく、ドアがあいたらどうしようと考えるひまもなく、いきなり、そのドアは大きくあいた。そして、見知らぬ女とブリッキーとは、お互いに眼と眼とを見合って突っ立っていた。こっちの顔と触れ合わんばかりのところに、こわばった、エナメルをかけたような顔があった。毛孔の一つ一つが、網の目のように見えるほどの近さだった。敵意にみちた眼が、赤い血管のひと筋ひと筋が見えるほど近いところにあった。
グレーヴズの邸の二階、あの廊下でのことが、また思い出された。キンと二人でいた暗やみを、どこからともなく這いよって来たあのほのかな匂いの記憶が……意識せずに、あのときと同じ匂いのただようのを知った。その匂いが、こことあそことを結びつけるものだった。
相手の眼つきは変わっていた。風のように早い変わりかただった。敵意をこめた警戒は、すでに露骨な挑戦に変わっていた。どこかからだの奥のほうから、かすれたような声が出て来た。軽はずみに受け答えのできないような気のする、そんな声だった。
「なんだってのさ? お砂糖でも借りに来たっての? それとも、間違ったドアをうっかりノックしたとでもいうの? あたしんとこに、なんの用があるのよ?」
「そうよ」ブリッキーは、やわらかく答えた。「用があるのよ」
その女は、ドアをあけるとき、ちょうどたばこを吸いこんだところだったらしい。鼻の孔から、いきなり二本の太々しい煙の柱が吹き出した。それが、女の姿を悪魔《サタン》のように見せた。近よらぬほうがいいようなものの姿に見せた。ブリッキーだって、なろうことなら近よりたくなかった。女の手が動いて、ドアを、ブリッキーの顔めがけてたたきつけそうにした。
ブリッキーはそのまま背を向けて、サッサと行ってしまいたかった……ああ、どんなにこのまま行ってしまいたかったことか……しかし、それはできない。たとえ、それが身の破滅となろうとも、そこに入って行かなければならないのだ……このドアは、どんなことがあっても、しめさせるわけには行かない。
足と肘とを使って、ドアをしめさせないようにした。
女のくちびるから、血の気がひいた。「そんなもの退《の》けておくれよ」のどの奥でゴロゴロと鳴るような声だった。
「わたしたち、お互いに知らない仲だけど――」ブリッキーは、ダンスホールで使うことにしているすご味をきかせた、とっときのしわがれ声を出した。「共通のお友だちがあるんだから、そんなことはどうでもいいじゃないの」
相手のブリストルという女は、頭をグイッとつきあげるようにして見せた。「ちょいとお待ち、あんたはいったい誰だい? あたしはあんたの顔なんか、生まれてから一度だってお目にかかったことありやしないよ。共通のお友だちって、なんのことさ?」
「スティーヴン・グレーヴズさんのことよ」
女の顔に、サッと狼狽《ろうばい》の色がひらめいた。しかし……ブリッキーは考えた……この女があの邸に、ただ強請《ゆすり》に出かけただけで、ほかになにもしなかったのだとしても、同じ反応を示したかもしれない。……と。
女のうしろの、戸枠と半分あけたドアの縁《ふち》とにくぎられて見える壁に、さっきから、なんだかわからないがボンヤリとした影がうつっていた。部屋の一方からさす光の道に何かの障害物があって、そのせいでできる、輪郭のはっきりしないおぼろな影だった。それが今、ひそやかに動き、わきのほうへスッと移って、見えなくなった。――あたかも、その影を投げていた実体が、位置を変え、気どられまいと隠れたかのように。
女の眼のまん中の、けし粒ほどの光の点が、影の見えなくなったのと同じ方角へ、ほんのつかのまチラッと動いて、またすぐに正面にもどって来た。なにかしら、その女にだけ波長を合わせた信号を受けたようなふうだった。「じゃあ、とにかくちょっとお入りよ。あんたがなにを考えているのか、きかせてもらおうじゃないの」
女は、居直ったように威丈高な言いかたをして、ドアを大きくあけた。とっとと自分で入っておいでよ、さもないと首ッ玉をつかんで引きずりこむよ、とでもいうように、あごをグイッとしゃくって見せる。
ブリッキーは、この瞬間にはまだ自由な身なのだ。うしろには長い廊下が、さえぎるものもなく延びている。さあ、わたしは入って行くわ……生きて出てこられるといいが……そう思いながら、足をふみ出した。
女の前をゆっくりと通りすぎ、身をかわして、たばこ臭い安っぽい部屋に入った。うしろでドアがしまった。その音は、もう二度と出してはやらないぞと、判決を下すように、不吉にひびいた。鍵のカチカチという音が二度した。一度は鍵穴の中で、鍵をまわす音、二度目は、鍵穴から鍵を引きぬく音。
……とうとうこの部屋にとじこめられてしまった……どうあっても、腰をすえて、相手を説き伏せなくてはならない……さもなければ、ふたたび外に出してはもらえないのだ……
戦闘は開始された。ブリッキーの武器といえば、機智と、とぎすまされた神経と、それに、つまらない職業的ダンサーといえども、ご多分にもれずもち合わせている女性の直観力と、それっきりだった。いまこの時から、たとえどんなにひそやかな視線をあたりに投げるにしても、どんなにかすかな身うごきをするにしても、ひとつひとつ、その効果を計算しなければならないのだ。決してやり直しはゆるされない。
部屋には、見たところ、ほかに人かげはなかった。浴室へ通じるらしいドアはキチンとしまっているけれども、最初それに目をとめた時には、|握り《ノブ》がちょうどまわり終ったところだった。ブリッキーが、よけいなことを知っていないようなら、そのドアがもう一度あくこともなかろうが、もし、よけいなことを知りすぎているとなったら――そこに、一つの目安があるわけだ。そのドアのあく、あかないによって、自分の知りたいことを知る急所がどこにあるか、どこまで突っこんでいいかがわかる。まずもって、話の進めかたの手ごろなもの差しが手に入ったのだ。
そのほかでは、すすぼけタンスのひき出しが、どれもこれも今しがた中味をからっぽにしたばかりらしく、てんでばらばらに中途はんぱなしまりかたをしている。ベッドの足もとの床の上には、グラドストン鞄が一つ置いてある。その鞄はいっぱい詰まっていて、いつでももち出せるようになっている。背の低いタンスの上には、いろんなものが散らかっている。部屋のもち主が、なにかとり乱して帰って来るなり、あたり構わずほうり出したように見える。ハンドバッグが一つ、手ぶくろが一対、クシャクシャのハンカチが一つある。ハンドバッグは、あくびをしたみたいに口があけっぱなしになっている。なにかをあわててさがし、心|急《せ》くあまり、しめ忘れた様子だ。
ブリストルという女は、あとからついて来て、なにかをこっそりと爪先で踏みつぶしたが、そのすぐ後で、ブリッキーと顔を合わせたときには、やっぱり指の間に喫《の》みかけのたばこをはさんでいた。ブリッキーはいままで、テーブルの縁《ふち》で、もち主のないたばこがくすぶっていたのを、自分は気がつかなかったふりをした。男だと、よくテーブルの縁とか、そのほかのものの上に、喫みかけのたばこを危なっかしく置きっぱなしにしたりするものだが、女は、めったにそんなことをしない。
そんなものは、いまさらどうでもよかった。ついさっき、ドアの|握り《ノブ》がまわったこと、部屋に入る前に見た、壁のぼんやりとした影の動き、それだけで知りたいことはすっかりわかってしまっていた。この場所には、自分もいれて、三人の人間がいるのだ。
ジョーン・ブリストルは椅子を一つ引っぱって来て、それを、坐った背中が問題のしまったドアのほうへ向くように据《す》えて、「さあ、おかけよ」と、ブリッキーにすすめた。自分は、べつに一つしかない椅子を占領して、ブリッキーがほかのどれかをえらぼうにも、えらびようのないように仕むけた。ブリストルは、そのべつの一つに、まるで今にもパチンとはじけそうなバネの上に乗っているような腰つきでかけた。
つやの消えた口紅の赤いくちびるをしめして、「あんた、なんという名前だっていったかしら? もう一度いってよ」と訊ねる。
「まだ言ってやしなくてよ。でも、キャロライン・ミラーとしておいてくださるといいわ」
相手は、信用できないというようにせせら笑ったが、それにはこだわらずに先へ進んだ。
「で、あんた、グレーヴズとかって男を知ってるんだってね? その男をあたしが知ってるなんて、どうしてそんなことを思いついたのさ? 男が、あたしのことを言いでもしたの?」
「ちがうわ。誰のことも言ったりしなくてよ」
「じゃあ、なんだって、あたしがその男のことを知っているって、そんなことを思いついたのさ?」
これでは、はてしのない繰りかえしになりそうだった。なんとかここを通りこさなければならない。「だって、あなたは知ってるんでしょう?」
ジョーン・ブリストルは考えこむように、また口紅を味わった。「すると、あんたは最近、その男に会ったの?」
「ごく最近会ったわ」
「いつ?」
ブリッキーは、巧みになげやりな口のききかたをしてみせた。「いま、その人のところから、ここへ来たのよ」
ブリストルは、うわべでは素知らぬ顔でいながら、内心サッと緊張した。とはいうものの、それは見てもありありと知れた。視線はブリッキーの肩ごしに、どこか半端《はんぱ》なあたりにさまよった。どうしたらいいのか、絶望的に助けをかりようとする眼つきだった。ブリッキーは、その視線を追って、自分の頭をまわすことを差しひかえた。いずれにしろ、そこには、ドアしかないことはわかっているのだ。
「その男、どうしてた?」
「死んでたわ」ブリッキーの声は静かだった。
ブリストルは、あたりまえの驚きかたを見せなかった。いかにも、それは驚きではあったが、執念のこもった意固地な驚きだった。思わずとびあがるような驚きかたではなかった。いいかえると、驚きのたねは、そのニュースではなく、ニュースの出どころだった。
すぐには、次のことばが出なかった。さきほどの壁にうつった影と「打ち合わせ」たがっているらしい様子が露《あら》わだった。打ち合わせたがっているのは、影のほうだったかもしれない。その合図のように、しまったドアのうしろのどこかで、水栓から水のほとばしる音が、ほんのちょっとの間した。
「ちょっと待ってよ」女は立ちあがった。「あっちの部屋の水栓をしっかりしめるのを忘れたらしいわ」
作戦上の必要を考えに入れてそこに据えたブリッキーの椅子を、急ぎ足にまわって、中を見られないように細目にあけたドアの隙間から、浴室にすべりこんだ。客がふりかえってのぞきこめないように、素早くドアをしめる。
ブリッキーには、チャンスが与えられた。なにかをさがすとすれば、今こそはそのチャンスだ。たかだか三十秒ぐらいしかない。あの部屋で、今後の作戦についてひそひそ声の指図を受けるのに、三十秒はかかるだろう。こんなチャンスは二度と来そうにない。ブリッキーは、うしろでドアのキチンとしまる音のするかしないうちに、椅子から立ち上がった。一つのことをする時間しかない。背の低いタンスの上の、口のあいたハンドバッグをめがけることにした。それなら、あたりをさがしまわることはいらない。そんなことより、ゆるされた時間と距離とから、そこにしか手がとどかないのだ。タンスのひき出しは、その中途|半端《はんぱ》なしまりかたから、中はからっぽらしい。グラドストン鞄もいっぱいに詰まっている様子から、鍵がかかっているようだ。
一目散に部屋を横切って、口のあいているハンドバッグにねらいを定め、手を突っこんだ。あからさまな証拠が期待できないことはよくわかっている。それは無理な注文だ。しかし、なにか、――なんでもいい。……ところが、なにもない。……口紅とコンパクトと、そのほか、ありきたりのガラクタ。バッグの中の内ポケットにそっと差しこんだ指に、紙がカサカサと触れた。素早く引っぱり出してひろげ、眼を走らせる。これもなんでもない。このホテルの未払い請求書、十七ドル八十九セントと記入してある。誰かが、そこにいれ忘れたのだろう。こんなものに、なんの値打ちがあろう? 求めているものとは、なんの関係もない。
それでもなお、なにか説明のできない本能が、声高に呼びかけた。≪それを離すな。役に立つかもしれないぞ≫
もとの椅子に走り帰って、片方の靴下をまさぐったかと思うと、その紙きれは見えなくなった。
一瞬あいだをおいてドアがあき、ブリストルという女が、また姿をあらわした。打ち合わせがまとまったのだ。腰をおろして、ブリッキーの注意がよそに外《そ》れるのを防ぐためのように、眼を据《す》えた。
「あんた、グレーヴズのところに、ひとりでなにをしに行ったの? それとも、誰かといっしょだったの?」
ブリッキーは、十七歳以上の女なら誰でももち合わせている、とぼけたような顔をして見せた。「ひとりにきまってるわ。だって、そんな場合に、おばあさんについて来てもらうとでも思うの?」
話は、相手の思う壺にはまりこんだ。「あら、そんな場合にって、そういったわね?」
「いったわ」
「すると――」また口紅をなめずって、「あんた、玄関で呼びとめられて、どうして見つけたかって訊かれたの? つまり、家の外にお巡りがいたり、人が集ったり、ガヤガヤ騒いでいて、あんたに、どうして死んでいるのがわかったかって、そう訊きやしなかった?」
ブリッキーは、この問いに、本能だけを頼りにして答えようとした。口から出て来るまでは、自分でも、どんなことばが出るのかを知らなかった。高く張った綱《つな》の上を渡るようだった――それも、釣合いをとる棒も、安全のための網《あみ》もなしで……
「いいえ、誰もいやしなかったわ。まだ誰も知らないのよ。わたしが大さわぎのところへまぎれこんだとでも思うの? わたしがはじめて見つけたんだと思うわ。わたし、あの家の鍵をもっていたのよ。渡されていたのよ。入ってみると、家じゅうのあかりが消えていたわ。まだ帰って来ないのかもしれないと思ったので、待つつもりだったの。二階にあがったら、あの人いたわ――ピストルの孔をあけられて」
ジョーン・ブリストルは、夢中で教えられたことばを暗誦するように、両手をこね合わせた。「それであんた、どうしたの? きっと、すぐにとび出して、金切声で人殺しだと叫び、大ぜい呼び集めたんだろうね?」
ブリッキーの中のはすっぱ女的性格が、頭をもたげて、いかにも世なれたらしい顔をして見せた。「わたしが、馬鹿だとでも思うの? そりゃ、あわててとび出したわ。だけど、そんな騒ぎ立てたりしなかったわ。ちゃんと電燈をすっかり消し、玄関には鍵をかけて、見つけたときのままにしておいたわ。ひとことだって、ひとにしゃべったりするもんか。わたしだって、そんなことに係り合いにはなりたくないからね」
「その家に行ったのはいつのことなのよ?」
「だから、今よ」
「そんなら、まだ誰にも知れていないと思うけど、あんたが――」
「そうよ、わたしとあなたとよ」
ブリッキーは、うしろのほうにかすかな気配を感じた。空気がほんの少し動いたのかもしれない。さもなければ、なにかが軋《きし》ったのかもしれない。
「ここには、あんたひとりで来たの?」
「きまってるわ。わたし、なんでもひとりでするのよ。それしかないもの」
化粧ダンスの上の、斜めにこっちを向いている鏡の中に、うしろのドアの蝶《ちょう》つがいが、ゆっくりとひらくのが見えた。鏡の面が狭いので、ドアの反対の端《はし》までは映《うつ》しきらない。
頭をめぐらすひまはなかった。考えるひまがあっただけだった。……うしろのドアがあいたわ……誰かが出て来るのよ……やっぱり、この人たちのしわざなんだわ……わたしのひいたくじが当ったわ……キンのほうは駄目だったんだわ……
今となって、そんなことがわかってみたところで、どうにもなりそうにない。さがしあぐねて、やっとのことでさがし当てるところなのに。
ブリストルは、もう一つ訊《たず》ねた。それも、答えさせる必要があったからでなく、ほんのつかのま、相手を油断させておくために……「じゃあ、なぜあたしが、それと関係があると考えたのよ? どういうつもりで、ここへやって来たのよ?」
それにどう答えるか、気をつかうことはいらなかった。答を期待されもしなかった。もうこれ以上相手のいうことをきかなくても、二と二と足《た》し合わされて、みごとに答が出ている。
なにか厚ぼったい、小さなブツブツのたくさんあるゴツゴツした感じのするもので、いきなりうしろから顔を包まれた。厚手のバスタオルで、包帯のようにグルグル巻きにされたのらしいが、そんなことを確かめる余裕はなかった。思わず電気に打たれたように反《そ》りかえると、強い力で手首をつかまれ、片手をうしろ手にとらえられた。もう一方の手は、いち早くとび立ったブリストルにつかまえられた。両手をうしろにまわして重ね合わされ、そこを、なにか長いもので、多分枕カバーか、麻のタオルかで、痛いほどきつくくくられた。
しばらくは、自由に息ができなかった。荒織りのタオルが顔じゅうをくるんで、息苦しくてたまらない。今この場で、窒息させられてしまうのかと思って、ゾッとした――が、そのつもりなら、なにも手間をかけて、両手をうしろにまわしてしばり上げることもあるまいと、そんなことに、おぼろげながら気がついた。そのせいで、発作的にもがいて、かえって自分から窒息死をまねくことを免《まぬが》れた。そういう例は、今までにもずいぶんあったのだ。
やがて、話相手だった女のよりも重い大きな荒々しい手が、しばらくタオルをいじっていたかと思うと、それを顔の半分までおろし、おかげで、眼と鼻とが自由になった。残りの部分は、それまでよりもっときつくしめられた。頭の骨全体が、いまにも割れてしまうかと思うばかりのしばりかただった。しかし、少なくとも、肺の奥まで空気を吸いこむことができたので、出かかっていた咳が勢いよく出て来た。
視界がはっきりして来ると、ブリストルはあいかわらず正面にいて、うしろの見えない誰かに話しかけていた。「グリフ、この女の口に気をつけなきゃ駄目よ。そのくらいのしばりかたじゃ、なんでもいえるからね」
うなるような男の声がした。「それよか足をしばってくれ――そのハイヒールは、おれの向こうずねをねらっていやがる」
女はかがみこんで見えなくなった――鼻の下に、雪のようにもり上がっているタオルの縁が、下向きの視野をさえぎっているのだ――ブリッキーは、両のくるぶしを寄せ合わせて、細長いもので念入りにグルグル巻きにしばられるのを感じた。両手両足をくくられて、身うごきも思うにまかせぬひと束の薪《まき》の束になってしまった。
ジョーン・ブリストルがまた視野にあらわれた。「こんどはどうするの?」
男の声がした。「そんなことわかっとるだろう、おれたち、この女を――」おしまいまではいわなかった。しかし、ブリッキーは、その未完のことばの意味を間接に、女の顔の突然のこわばりかたから汲《く》みとった。からだじゅうの血が冷たくなった。男はそれを、まるで窓のブラインドをおろそうとか、電燈を消そうとか、そんなことを話すみたいに、こともなげに話したのだ。
女は脅《おび》えた。ブリッキーを思いやってではなく、自分たちのことを思ってだ。男がなにものであるにせよ、この女は、ほかの誰よりも、男の性根《しょうね》を知っているにちがいない。この男が今、眼にものいわせたことを実行する力をそなえていることを知っているのだ。
「でも、グリフ、このあたしたちの部屋じゃ駄目よ」女の声は陰にこもった。「この部屋に、あたしたちのいたことはわかっているもの。自分から罠《わな》にかかるようなもんだわ」
「いや、お前は勘ちがいしているんだ」男の言いかたは、いたって事務的だった。「なにも、ここで料理しようなんて、そんなことをいっているんじゃないさ」男は窓まで行って、用心しながら窓枠を押し上げた。その様子は、こまめに家じゅうを見まわって、修理しなければならない場所をさがして歩く人のようだった。
向かいの建物の煉瓦《れんが》壁にこちらのあかりが映《は》えて、窓枠の形だけ切りとられたように明るくなった。男は頭を少し突き出して、測《はか》るように下を見た。それからふりかえって、静かな声で女に話しかけた。
「四階の高さがあればタップリだよ」片手を意味ありげに動かして見せる。「おれたち、三人でこの部屋で酒を飲んでいたんだ。この女が外の空気を吸いに、窓のところに行って、あけようとした。窓がかたくて、なかなかあかなかったもんだから――そんなことは、そこらじゅうで、しょっちゅう起こっているさ」
ブリッキーの心臓はカッと熱くなって、ブロートーチのように、今にも胸板を焼き抜くかと思われた。
「そりゃそうだけど、それだけではすまないよ。あたしたちの場合、ありがたくないことだわ。だって、何時間もこの部屋に罐詰めにされて、警察の四方八方からの訊問に答えなきゃならないのよ。うっかりすると、根掘り葉掘りのあげく、よけいなことまで言わされて――知らない間に、とんでもないことまでバレてしまうことになるわ」
女は男に向かって、二人の間にだけ通じる眼くばせをした。しかし、その意味のわかる人間は、そこに三人いた。
「じゃあ、どうするね? ここに置きっ放しにしとくのか?」男は、声を荒げた。
ブリストルは、髪の毛をやたらにかきむしった。「あんたのせいで、こんなことになったんじゃないのさ」不平たらしくブツブツいう。「なんだって、あんたは、こんな――」
「黙れッ」男の言いかたは冷たかった。
「この女《ひと》は、もう知ってるのよ。なぜ、この女があたしたちを尋ねあてたと思ってるの?」
「そんなことをいうんなら、お前のほうこそ、なんだって、はじめから打ち合わせといたとおりにうまくやらなかったんだ?」
「だって、あたしには、どうにもならなかったじゃないか。うまく逃げられちまったんだもの。あたしは、あんたが脅《おど》し文句をならべて、いい具合にゆすってくれるものとばかり思って、ドアをあけてあんたを通しただけさ。だからって、なにもあのひとを殺すことはなかったのよ」
「あの野郎に、あんな風につかみかかって来られて、おれが、ほかにどうしようがあったと思うんだ? おとなしく渡しちまえとでもいうのか? お前だって、自分で見ていたはずだ。正当防衛でしようがなかったんだ……いずれにしろ、今さらそんなことを議論してみたってはじまらんよ。なんといったって、こんなことになったのはお前のせいだ。おれたちの考えなきゃならんのは、この女の始末だよ。やっぱり、おれはさっきいったとおり、片づけちまったほうが気がきいていると――」
「駄目よ、グリフ、駄目だってば! なにが気がきいているもんか、愚《ぐ》の骨頂《こっちょう》よ。それよか、あたしたち逃《ず》らかってから、この女に勝手にしゃべらせたほうがいいわ。あたしたちだという証拠なんか、なにもないのよ。この女だって、あそこへ行ったんじゃないの。あたしたちと同じ立場なのよ。とにかく、ここから抜け出すことだわ」
男は、浴室と反対の側にあるクローゼットのドアを勢いよくあけて、のぞきこんだ。「こういうのはどうだい? その女をここへ押しこんで、鍵をかけちまおう。窓もなにもないから、どんなにわめいたって聞こえっこない。そのうちに、うまい具合に頭が狂ってしまうよ。警察がさがしまわって、このドアを押しやぶるまでには、幾日もかかるさ」
ブリッキーは、二人の間に釣り上げられ、両脚を引きずって連れて行かれた。衣裳を詰めこんだ虫除け袋かなにかのように、押し入れにほうりこまれてしまった。
「どこかにしばりつけといたほうがいいね。さもないと、身ぐるみドアにぶつかってこわそうとするかもしれん」男は、シーツの切れっぱしを細長くしごいて、ブリッキーの両腕の下に通し、うしろの衣裳をかける鈎《かぎ》にくくりつけた。足を床につけて、まっすぐ立っていることはできても、押入れの壁から離れることはできない。
「見つかるまでにひまがかかっても、ここで息ができるかしら?」女が、心配するように訊《たず》ねた。
「そんなこと知るもんか」男は、無情にいい捨てた。「息ができるかどうか、自分でやってみて、あとで教えてくれるだろうよ」
ドアがしまった。いきなり幕が降りたように、なにもかも見えなくなった。鍵を抜く音がした。その鍵は外に出てから、どこかに捨てるのだろう。二人が出発の用意をしながら交《か》わす会話が、なおしばらく聞きとれた。
「ハンドバッグは持ったか?」
「階下《した》の帳場の飲んだくれはどうするの? あの女《ひと》の来るのを見たにちがいないわよ」
「あんなやつ、わけなくちょろまかせるさ。おれの今日買って来たウィスキーの小瓶はどこにあるね? おれが帳場で、お別れのひと飲みを進呈するさ。あの男、いつも郵便物の仕わけ棚のうしろに隠れて、グッとやるんだ。その隙にお前は、さもあの女と一緒のように、なにかひとりでしゃべりながら抜け出せばいい」
「じゃあ、エレベーターの黒ん坊は?」
「階段を降りることにしよう。おれたち、エレベーターの上がって来るのを待ちくたびれて、階段を使うことだってよくあるじゃないのか。押しボタンがこわれていて、何度押しても、黒ん坊に聞こえなかったことにするさ……さあ、出かけようぜ」
「どうしたんだろう、ホテルの請求書がないわ。あれを払ってしまわなければ、出られやしない。この部屋のどこかに落としたにちがいないんだけど」
「そんなもの、どうでもいいよ。帳場で新しいやつを作り直してくれるさ」
廊下に出るドアがしまって、二人は立ち去った。
[#改ページ]
五時〇分
三度目の、そして最後の場所にタクシーを走らせながら、キンは、相手がこんなに手間をかけて、あちこち走りまわらせるわけがわかったと思った。ホームズは、わなにかけられるのを警戒しているのだ。それを避けるために、まずキンを、最初に電話をかけた店から二つ目の店におびき出した。そこで自分は姿を見せずに、とっくりとキンを観察した。しかし、どうやらひとりらしく見えはしたものの、そのことに絶対の確信はもてなかったので、念のために、会見場所を三つ目の店に移した。こんどは、自分のほうが先に待ちかまえていて、あたりに異常のないことを確かめることができるわけだ。キンが仲間を配置しようとしても、それを餌《えさ》の眼の前でやらなければならないことになる。
そこまで行くのに七分か八分、それ以上はかからなかった。オウエンの店は二十年の昔の古くさい闇酒場《スピイクイージー》の面かげをたっぷりとどめていた。そこは、茶いろの石造りの建物の地下室だった。目じるしのネオンサインもあったが、規則の閉店時刻をとっくに過ぎているので、消えていた。人かげもほとんどなかった。しかしキンは、構わずに階段を駈け降りた。
一人の男がボックスに、戸口のほうを向いて坐っていた。頭は、裾のほうに白いものがまじっているが、頂上はまだ黒い。縁《ふち》なし眼鏡が、人がらを生《き》まじめに見せている。まったく、明けがたの五時ごろ、安酒場《ビストロ》にひとりぼっちで坐りこんでいるにしては、生《き》まじめすぎている。むしろ、家庭の電気スタンドの下で新聞をひろげ、うなずきうなずき読みふけり、それもギリギリ十一時には切り上げる、といった型のようだ。淡いグレーの服を着て、テーブルの上の壁には、同じグレーの帽子がかかっている。テーブルに載せた片手の近くにハイボールのグラスがあり、もう一つ向かい側に、主のないグラスが置いてある。
キンが入って行くと、その男は遠慮がちに指を一本立てて見せ、それからまた手をテーブルにもどした。
キンはそのボックスまで行き、立ったまま相手を見おろした。男は、坐ったまま見上げた。
へんてこな気分の一瞬だった。口もきかずににらみ合い、それも、お互いの顔が近すぎて、格好がつかない。
テーブルの男のほうから、先に口をひらいた。
「君は、キンというんだろう?」
「キンです。ホームズさんですな」
「タクシー代はいくらかかったね?」
「六十セントです」
「じゃあ、これをとっときたまえ」男の握った手のはしから、なにか液体のもののように小銭が流れ出た。
キンは、タクシーの料金を払いに出て、またすぐにもどって来た。男はあいかわらず、同じテーブルに坐ったままだった。キンもさっきと同じように、そのテーブルの縁に足をとめた。
ホームズは、向かい側のシートのほうに身振りをして見せた。「かけたまえ」
キンはシートの壁から遠い、はしっこのほうに、間に合わせのように腰をおろした。
二十代になったばかりの若者と、四十を半ばすぎた、五十代かとさえ見える男とは、また顔を見合った。ホームズのほうが齢をとっているし、経験もつんでいる。それは一目見ただけでわかる。このような、自分にとっては不利になりそうな場面ででも、ちゃんと主導権をにぎっている。経験というものがなければ、ことの善悪にかかわらず太刀《たち》打ちはむずかしい。
「それは、君の酒だ。閉店時刻をすぎていたから、ここで待たせてもらうには、注文しとかなくてはならなかったのだ」
キンは、なぜということもなく思った……この酒に毒でも入れてあったら面白いな、と。だが、そんなことは一九一〇年ごろの流行だ。べつにまじめに考えたのではなかった。
ホームズは、どうもそのキンの心の中を読みとったらしい。「そんなら、ぼくのととりかえっこしよう。まだ口をつけていないからね」そういって、キンの前のグラスを引き寄せ、口にもって行くとグッと飲んだ。
「さあ、なんなりと、きかせてもらおうじゃないか」皮肉な口をきく。
キンはあたりを見まわした……ここは、この男を脅《おど》しつけるのにいい場所じゃない……ここで渡り合っては損だ……敵に場所をえらばせるんじゃなかったな……
ホームズは、またもやこっちの胸のうちを読んだらしい。
「なんなら外に出て、車に乗ることにしようか?」
「車をお持ちとは知りませんでした。そんならなぜ、はじめから追っかけっこなどせずに、車を廻してくれなかったのですか?」
「まず、君がどんな人間か知りたかったのでね。どんな企《たくら》みがあるのか、見当もつかなかったもんだから」
今でも知らないくせに……と、キンは痛快な気もちを味わった。
ホームズは、自分の酒を飲みほして、立ち上がり、壁から淡いグレーの帽子をとって、明けがたの無理|強《じ》いの会見などでなく仕事上のつき合いで昼飯をすませた立ちぎわのように、寸分の狂いもなく念入りに格好をつけて頭にのせた。帽子をかぶると、それまでの生まじめさがいく分減ったように見えるが、それもほんのわずかだけだ。あい変わらず、どこからどう見ても威厳《いげん》のそなわった、堂々と立派な実業家ぶりである。二人の間の眼に見えぬ主導権をしっかりと手中に握ったまま、戸口のほうへ行きかける。
キンも立ちあがり、一歩遅れてあるき出した。ふと、口をつけないままに残したグラスをふりかえった。これからのことを思うと、酒を入れといたほうがいいかもしれない……だるいような気がする……テーブルにもどって、二口か三口でグラスをあけてから、ホームズのあとを追った。すぐに気分がよくなった。これなら、どうやら眼の前にひかえた難局を切りぬけられそうだ。
車は、二、三軒先に駐《と》めてあった。ホームズがそのそばに立って待っていた。
「君を急《せ》かすつもりはないんだが」と、いいわけをしながら、いんぎんに車をすすめる。
キンは車が走り出すのを待って、「どこに行くんです?」と訊ねた。
「このあたりを走りまわることにしよう。こんな時刻に、道ばたに車をとめて話しこんだりするわけにもいかないからね。たちまちお巡りがやって来て、車の中に鼻つらを突っこむよ」
「お巡りに見つかると、どうして悪いんですか?」キンは切りこんだ。
「どうしてだかね?」ホームズの声は落ち着きはらっている。「君は?」
「こっちが訊いているんですよ」
ホームズは、車の鼻先のバンパーの向こうに延びるアスファルトの路面に眼をむけたまま、なにか面白いものを見つけたように、微笑をうかべた。しかしそこは、ほかのどれとも少しも違わないアスファルト道だった。
五十一丁目は西へ延びる通りだから、当然のことだが、車は西のほうへノロノロと走った。二人とも、口をきかなかった。キンは思った……相手から先に持ちかけさせてやろう……なにも、相手のいい出しやすいように、こっちから手つだってやることはない……遅かれ早かれ切り出さないわけには行かないのだ……こんどは向こうが札を出す番だ……こっちは――多分――この男の監獄行き、絞首台行きの切符をちゃんともっている……ホームズは、なにを思っているにせよ、それを頭の中に厳重にしまいこんでいた。顔には何ひとつあらわれていなかった。
車は北に曲がって、六番街に入った。そのまましばらく走って、いい加減なところでまた東に曲り、偶数丁目の通りに入った。いつも間に合うか合わぬかの瀬戸ぎわになって、グイッと乱暴にハンドルを切る曲がり方から、目あてのない気まぐれなドライブであることがわかった。まっすぐに一番街のあたりまで走って北にまがり、またしばらく行く。ホームズは、やっと心が決ったらしい。とある通りに曲がりこんだ。それはイースト・リバーのドライブウェーの下をくぐって、河岸まで降りて行く坂道だった。突き当りには防柵もなにもなく、航空母艦の飛行甲板のはずれのように、そのまま燈火をちりばめた河面《かわも》のやみの中に落ちこんでいる。
車は、道路の末をくぎる低い縁石《ふちいし》に、ほとんど前車輪のタイヤを押しつけるばかりのところで、やっととまった。
キンは黙っていた。どうせ一人角力《ひとりずもう》というわけには行かないのだ。
ホームズはエンジンをとめ、ヘッドライトを消した。
水にきらめく銀線は見えなくなったが、水はやっぱりそこにあった。息をするごとに河のにおいがした。音もときどき聞こえた。小ちゃな子どもがクツクツ笑いをするようなさざめきが、時をおいてひびいて来る。
「ずいぶんきわどいところに停めましたね」
「舵輪《ホイール》を曲げてあるよ。気になるかね?」
「いや、べつに」キンは、キッパリといってのけた。「そんな顔に見えますか?」
ホームズは、ちょっとわきを向いた。
「なぜ、時計など見るんです?」
「オウエンの店で、君と会ってからどのくらいになるかと思ってね」
「二十分ですよ。もういいかげん片がついてもよさそうなころですがね」
「すぐにも片づくよ。小切手はもっているかね? それでいくらほしいんだな?」
どうも調子が悪いぞ……とキンは思った。手順がまちがっている……こっちのほうが立場が悪いようだ……どの辺で、どういうわけで、この男の手のほうがよくなったのだろう?……
キンは、しばらく自分の鼻の根もとをつまんで考えこんだ。
ホームズは前のほうにかがみこみ、計器盤《ダッシボード》のあかりの近くで、カサカサと紙の音をさせた。「さあ、これで二百ドルある。小切手を渡したまえ」
キンは答えなかった。
ホームズはからだをねじって、キンの顔をみつめた。
「じゃあ、二百五十ドルだ」
キンは答えなかった。
「いくらほしいんだ?」
キンはゆっくりと落ち着いて、ものをいった。こんどはこっちの番なのだ。「なぜ、ぼくが金をほしがっていると思うんです?」
ホームズは、相手の顔を見ただけだった。
「ぼくがほしいのは、あなたが今晩、スティーヴン・グレーヴズを殺したという自筆の供述書なんです。それをくださらなければ、ぼくは小切手とあなたとを両方とも、警察の手に引き渡します」
ホームズは、下あごを上あごに引きつけておこうとしたが、いく度やっても、またダランと落ちてしまう。「いや、待ちたまえ」そのことばを、二度か三度くりかえした。「いや、待ちたまえ」
急に、下あごがピッタリと上あごにくっついて、垂れ落ちなくなった。それは、ことば一つ洩れ出そうにないほど、しっかりとくっついた。
「グレーヴズ氏は、あの家の二階で死んでいます。殺したのはあなたです。あなただって、ぼくがタクシーで街じゅうを乗りまわして小切手を見つけたなどと、本気で思っているわけじゃないでしょう? どこで見つけたとお考えですか? スティーヴン・グレーヴズ氏の死体のころがっている、その場所で見つけたんですよ!」
「嘘だ! 君は、自分の知りもしないことをでっち上げて、ぼくを係り合いにしようとしている」
「いや、ぼくは、そこにいたんです」
「君がそこにいたって? 嘘をつけ!」
「あなたとグレーヴズ氏とは、あの二階の裏手の書斎で、革張りの椅子を向かい合わせて坐っていました。相手は、自分では酒を飲んだが、あなたにはすすめませんでした。葉巻も自分だけ喫《の》んで、あなたにはすすめませんでした。あなたは自分の葉巻を出して喫《の》みながら、吸い口を噛みつぶしました。その葉巻の銘柄だって知っていますよ。コロナです。あなたの服も知っています。茶いろの背広でした。こんど二度目にぼくに会いに出て来られた今は、グレーの服だが、あのときは茶いろだったんです。その服の左袖口のボタンは半分欠けています。いや、手をうしろにまわさなくたっていいですよ。その袖口のボタンは、そのままにしておきなさい。そんなものはどうだって、とにかく、ぼくは知っているんです。どうです、これでもぼくは嘘をついていますか? こうなったら、ぼくがあそこにいたことを信用するでしょう? こうなったら、ぼくがあの人の死んでいるのを見たことを信用するでしょう――あなたが殺したのを知っていることも?」
ホームズは答えなかった。またちょっとわきを向いた。
「時計など見なくていい。見たって、あなたが助かるわけはありません」
ホームズは時計をしまった。「いや、ぼくの時計は、ぼくを助けてくれるよ」やっと、ことばが出て来た。「君も、まだほんの青二才だな。まったく、可哀想な気がするよ、坊や。電話で声をきいたときには、まさかこんな若僧だとは思わなかったな」
キンは、まばたきをした。
「君は、自分の眼がどうかなりやしないかね? 計器盤《ダッシボード》のあかりに輪がかかっていやしないかね? ほら、大きなシャボン玉みたいに?」
「それがどうしたんです?」
「いいかね、君はおしゃべりが過ぎたよ。おしゃべりのおかげで、自分から墓場行きを志願したようなもんだ。君がよけいな口をききさえしなければ、ぼくも、小切手をタクシーの中で見つけたという君の話を真《ま》に受けていたろうよ。君はこの車の中で眠りこんで、二、三時間たって眼をさましてみると、河のそばにほうりっぱなしにされていたってことになる段取りだったんだ。小切手こそなくなっているが、ほかには怪我もなにもなしでね。ひょっとするとポケットには、おみやげに十ドル紙幣《さつ》が一枚ぐらい入っていたかもしれない。どうだね、頭が重いだろう? その首では支えられないほど重いだろう? そらそら、まるで石づくりの頭のように、だんだん前にのめって行くぜ」
キンは、ともすると前にのめって行く頭をキッと立て直した。
ホームズは、いたわるような微笑をうかべた。「君が、自分のハイボールのグラスにかじりついていたら、こんなことにはならなかったんだ。君も一応疑ってはみたが、疑い足りなかった。君は悪いほうのグラスをとった。ぼくのグラスだ。ぼくはチェスをやる。君はやらんらしいね。チェスでは、敵が駒《こま》を動かす前に、その動かしかたを読むんだ」
そこでことばを切って、じっと相手の様子を見まもる。「ネクタイがきつ過ぎるかね? そうそう、結び目を引っぱりおろすといい。シャツの胸も思いきり開けるんだな。そうそう。しかし、たいして役には立たんだろう? ぼくのせいじゃない。そうなる運命だったんだ。もうじき君は眠りこむよ。この車の中でね。それから河の中へボチャンさ。目かくしもなにもしないでね。なあに、心配しなくても、君が河にはまる前に小切手はいただいとくよ。君がもっているのなら、さがし出すよ。まさか、もたずにイカサマをやりに来たわけじゃあるまい。多分、靴の中あたりに隠してあるんだろうさ。君みたいなタイプの小僧の思いつきそうな隠し場所だからな」
キンは、座席に縫いつけられた腰を引っぺがしでもするように、どうにかこうにか中腰になって、前にのめるような姿勢で、ドアの把手を手さぐりした。ホームズは、キンの腹に腕をまわして、頭の重い袋のように、座席に引きもどした。
「車から降りようとしたって無駄だよ。外に出られたとしても、どっちみち、立っていることはできんだろう。地面にぶっ倒れるのが関《せき》の山だ」
キンは片足をあげて、一、二度曲げたりのばしたりした。
ホームズは、小さなハンドルをまわして、キンの側の窓を下げた。「窓のガラスを蹴《け》やぶろうというのかね? そんな力は、もう残っていないだろうよ」ふいに向き直って、キンのもがくような手をつかまえる。「なにをもっているんだね? ほう、食卓用のナイフか。それでどうしようというんだな? そうら、こんなにわけなくもぎ取れるじゃないか。君は、もう眠くて眠くてたまらんのだ」
もぎ取ったナイフを、あいた窓から前のほうへ投げる。
「水の音がきこえたかね? 車の前は、河の水なのさ。そら、黒い線が見えるだろう? 前の車輪のすぐ向こうさ」
片腕を車の側面に突っぱって、気長に待つ姿勢で、動く気力もなくとじこめられたキンのからだを支えている。キンののど奥から、すすり上げるような声とも音ともつかぬものが洩《も》れて来た。
「さあ、もう動くことはできまい。そうら、蚊でも追っぱらうみたいに、ノロクサと手を動かすばかりじゃないか。君には、そのくらいのことしかできないんだ。それだって、一分も経てばできなくなるさ。そら、眼《ま》ぶたが下がって来るぜ――だんだん下がって来るぜ」
とにかく、わかることはわかったぞ……と、キンはおぼろげに思った……まちがいではなかった。……しかし、そのことのわかるのが遅すぎた……
「あなただって、逃《に》げおおせるものか」キンは、頭をガックリと落しこみながら、ねむそうな声でつぶやいた。
「ブリッキーだって知っているんだ。一人じゃなくて、ぼくたちは二人なんだ……」
[#改ページ]
五時二〇分
ブリッキーは、暗やみの中でいましめられたまま、どうしようもなく、壁にもたれていた。もうバスには間に合わないだろう。可哀想なキンは、あのグレーヴズの邸《やしき》で死人と一緒に、夜の明けるまでわたしを待っているだろう……誰かに見つかるまで待っているだろう……見つけた人は急を告げ、あの人は、現行犯容疑で逮捕される……そうなったらおしまいだ……身のあかしのたてようがない……せっかくさがし出したブリストルとその仲間の男とは、キンの破った壁にはめこみになった金庫の半分ほどの形跡も、あそこには残して行かなかったのだ。後になってから――つまり、このとじこめられた押し入れの中で、それまで生きながらえたとしたら――思いのありったけ、あの二人を犯人だといい立ててやることはできる。しかし、そんなことはなんの役にも立つまい。あの男が最初の侵入者であることの目撃者でもないのだ。あの男の仕業《しわざ》をずっと見ていたわけでもないのだ。そんなわたしの言い分には、一文の値打もないにきまっている。……
貴重な時間は、一分きざみに過ぎて行く。その一分は、ブリッキーの心臓の血の一滴にも相当した。もう五時半になったにちがいない。どんなに遅くても、あと十分経てば、わたしとキンとは、バスの終点に出かけていなければならないはずなのだ。今となっては、万に一つの希望ももてそうにない。所詮《しょせん》、二人とも、都会に出しぬかれたのを思い知らされたことになるのかもしれない。いつだって出しぬかれとおしなのだ。ちっぽけな田舎町の男の子と、ちっぽけな田舎町の女の子とでしかない二人が、こんな大敵に立ち向かってどんな勝ち目があったというのだ? あの人は河をのぼって、電気椅子に連れて行かれるだろう……そしてわたしは、心臓もない、希望もない、もはや夢すらもない、あばずれダンサーになりおおせるだろう……
貴重な時間はとどめようもなく、呼びかえしようもなく、一分きざみに過ぎて行った。
ふと気がつくと、廊下のドアがあいて、部屋の中にまた人の気配がしていた。つかの間《ま》、ブリッキーの胸のうちを、狂おしいばかりの希望がかけめぐった。ああ、ついに、物語で読んだような、映画で見たようなハッピーエンドがやって来た! あののんだくれの帳場の男が、二人が出て行ったのに、このわたしが姿を見せないのを不審に思って、しらべに来たのだろうか?……それとも、ひょっとすると、キンその人が奇蹟的な第六感にみちびかれて、ここにたどりついたのかもしれない……
そこへ、怒りを押さえつけたような含み声がきこえた。ブリッキーの希望はあえなく消え去った。グリフだ。ブリストルの仲間のグリフだ。二人が、またもどって来たのだ。わたしを、今この場で片づけるつもりなのかもしれない……
「お前も、よっぽど智恵の足りん女だ……なんだって、もっと早くに思いつかなかったんだね? どうしたってことだ……お前の頭のエンジンから、シリンダーが一本抜けちまったのかい?」
「あたしが、直《じ》かに訊いてみるわ」ブリストルの声は、意地悪くひびいた。「はじめっからそのつもりだったのに、あんたが急《せ》かしたんじゃないの。あの女《ひと》が、あたしんとこに来ることを思いついたには、きっとなにかわけがあるのよ。手品使いみたいに、あたしの名だとか所書きを、帽子から引っぱり出したんではないにきまってるわ」
押し入れのドアが大きくあいて、目のくらむような光線がとびこんで来た。ブリッキーは、しばらく眼を閉じていた。いままでくくりつけられていた衣裳かけの鉤《かぎ》から、はずされるのがわかった。もう一度、二人の間につるされるようにして、ひろい場所に連れ出された。顔をしばったタオルは、口がきけるだけ押し下げられた。
ジョーン・ブリストルは、手の甲をブリッキーの口の前にかざして、いつでもピシャリとやれるように身がまえた。
「大きな声を出してごらん、その口をはりとばしてやるから!」
大きな声など、たとえ出したくても、とても出せそうにはなかった。身を支えてくれる男に、グッタリともたれかかって、大きくあえぐのが関《せき》の山だった。
ブリストルは、ブリッキーの髪の毛の中に手をつっこんで、半分ねじり、グイッと頭をもたげさせた。「さあ、ごまかすんじゃないよ。ちゃんと言っとくれ。あんた、グレーヴズの家でいったいなにを見つけて、あたしんとこに来ることを思いついたのよ? あたしがあの人を知ってるってことが、どうしてわかったのさ? あたしの居どころが、どうして知れたのさ? それをはっきり言ってもらうまでは、いつまでだってこうしていてやる!」
ブリッキーの答える声はこもっていたが、少しもためらいはなかった。「あなたのホテルの請求書が、あの人のそばの床の上に落ちていたのを見つけたのよ」
そのなぐりかたは猛烈だった。水をいっぱい詰めた紙ぶくろを、三階の窓から落としたような音がした。しかし、ブリストルがブリッキーをなぐったのではなかった。ブリストルが、自分の仲間になぐられたのだった。彼女は、五、六歩よろめいて、三人かたまっていた小さなグループから離れた。
「この野郎!」男は、耳ざわりな声を出した。「お前がこんなことをしでかすだろうってことは、おれも知ってるはずだった。まるで、あの男のチョッキのポケットに、わざわざ名刺をつっこんで来たようなもんじゃないか! お前というやつは、どんなにたたきのめしても、まだ足りんぐらいだ!」
「この女、嘘をついているのよ!」女は、金切り声をたてた。片頬が、少しずつ赤くなって来た。ひとところ、ポッチリと血がにじんでいる。「ここに帰って来てから、ハンドバッグに入っているのを、あたし、ちゃんと見たわ、誓ったっていい!」
「お前はそれをとり出して、あの男に見せたのか? 返事をしろ! どうなんだ! 見せたのか、見せなかったのか、どっちだ?」
「見せたわ――あたし――だってそれは、あたしがどんなに金に困ってるかってことを見せるための筋書きだったんじゃないの。それも、あの人が腹を立て出す前のことよ。だけどあたし、自分がまた元のところにしまったのを、よく憶えているわ、グリフ! ねえ、あたし、それをチャンと持って帰ったのを憶えているわ!」
ブリッキーは、大蛇にしめつけられたように身動きのならない姿勢のまま、頭を振って見せた。「それが落っこちたのよ。十七ドル八十九セントの請求書だったわ。むらさきいろのインクで、『支払日経過』と、スタンプがおしてあったわ。あなたがたの部屋の番号も書きこんであったわ」
男は、ブリッキーのからだを無慈悲にゆすぶった。「君は、そいつをもって来たのか? それをどうした? どこにあるんだ?」
「元のところに置いといたわ。なんにも触っちゃいけないと思ったのよ。なにもかもすっかり見つけたままにしておいたわ」
ブリストルが、また詰めよった。なぐられた頬の痛みもうすらいだようだった。「この女のいうことを本気にしたら駄目よ。身体検査をやって、さがしてみるんだわ」
「お前がしろよ。お前は女だから、どこをさがせばいいか知っているはずだ――おれは、この女をつかまえていてやる」
女の手がテキパキと、徹底的に、仕事をすすめた。ほんの数インチのところで見逃がした。いずれにしろ、ブリッキーの両脚は、くるぶしのところで、しっかりとしばり合わされていた。そのままの姿勢をくずさなかった。片方の靴下の上縁の中にかくしてあるのだ、それも、腿《もも》の内側のほうに。ブリストルは、両方の靴下の中に指をつっこんだが、どっちも外側だけだった。
「もっていないわ」
「そんなら、おれたち、あそこへ取りもどしに行かなきゃならん。放ったらかしとくわけにはいかん。死人に口をきかせるようなもんだ。このろくでなしめが……首根っこをへし折ってやるぞ!」
その脅《おど》し文句は、女の顔を青ざめさせた。女は、しばらく考えた。「ちょっとお待ちよ、グリフ。いいことがあるわ」息を詰めたような早口だった。「この女を、いっしょに連れて行って、あそこに置きっ放しにするのよ。この女がやったらしく見せるようにしてね。つまりさ――」いいかけて、ブリッキーのほうへ頭をしゃくって見せる。その意味は、まぎれもなくよくわかった。「あんたが、さっきやろうと思っていたことを、ここでなく、あそこでやるのよ。ピストルをうち合って、どっちも殺《や》られたと思わせるのさ。それであたしたち、なんのかかわりもないことになって、明るみに出られるのよ」
男はおぼつかない眼つきをして、女にいわれたことをしばらく考えてみた。
「ね、グリフ、それが、あたしたちのただ一つきりの逃げみちよ。この女を出発点で片づけちまって、廻り道などしなくてもいいようにしてやるのよ」
男は、うなずき出した、次第に早く。せかせかとうなずき終ると、こんどはいきなり行動に移った。「よしわかった。この女を連れて、うまく帳場の前を通る工夫をしなければならん。いいか、この女は酔っぱらっているんだ。お前は、この女を支えて歩かせてやる。おれは、さっき話したようにして、帳場の飲んだくれの眼をごまかす。おれたちで、この女を家まで送り届けてやることにするだけのことさ。両手はしばったままにして、足だけを歩けるようにほどいてやろう」
その両足は、しめつけられていたために萎《な》えていた。ほどかれてからでも、はじめのうちは役に立たなかった。
ブリストルは自分の外套を脱いで、ブリッキーの両肩に羽織《はお》らせ、くくられたままの両手をかくした。たいして妙な格好でもなかった。女が袖に手を通さずに、外套をそんなふうに羽織って歩くのは、最近ロンドンから伝わって来た新しい流行だった。
「顔のタオルをはずしてやれ。それから……さあ、こいつをその女の背中におっつけるんだ」
男は自分の背中に手をまわして、なにか取り出し、それをブリストルに渡した。なにか黒光りのするものだった。恐らく、グレーヴズに使ったものらしい。
それは、ブリッキーの羽織らされた外套の中に見えなくなった。ブリストルの手がそれを、ブリッキーの背骨にきつく押しあてた。尖《さき》の鈍い針で、脊椎麻酔《せきついますい》の注射をされたような感じだった。
「お前はここで、この女といっしょに待っていろ。おれは先に降りて、車を出しに行き、帳場の野郎を追っぱらっとく。車庫は、ブロック二つばかり向こうだから、十分ほどかかる。階段を降りたほうがいいぜ」
ドアがしまって、女二人だけが残された。
二人とも口をきかなかった。二人の間では、ひとことも交わされなかった。二人とも、おかしいほど身をこわばらせて、その場につっ立っていた。一人が一人のうしろに廻り、その間にはブリストルの手が入っているので、まん中が小さなテントのように高まった外套があった。
ブリッキーは思った……もしわたしが、ピストルの筒|尖《さ》きを避《よ》けようとして、ひょいとわきへ退《の》いたら、この女《ひと》は射《う》つかしら?……べつに恐怖からではなく、なんとはなしにブリッキーは、それを実行には移さなかった。二人は、自分のほうで二人を連れ戻そうとしたその場所に、殺人の現場に、自分を連れ戻そうとしている。相手が男ならなおさら、とてもひとりの手には負えそうになかったたいした手がらを立てることになるのだ。そうだとすれば、ここでジタバタせずに待てばいい。なにかを企《たくら》むとしても、あっちへ行ってからのほうがいいのだ。こういうチャンス、女二人きりというチャンスは、二度とめぐり合えないかもしれない――しかし、待ってみたっていいじゃないか。あそこには、いつもキンがいた。
ブリストルが、少し身うごきして、とうとう話しかけた。
「もういい時分よ。さあ、あのドアまで歩いておくれ。一ぺんこっきりいっとくよ。あんたが階段の途中にしろ、ロビーを通り抜けるときにしろ、外に出て車まで歩く間にしろ、声を出したら、このこいつが一ぺんに火を吐くよ。いいこと、あたし、冗談をいってるんじゃないからね。生まれてから、あたし、一度だって、冗談口をきいたことはないんだ。生まれつき、ユーモアのセンスなど、これっぽっちももち合せないのさ」
ブリッキーは答えなかった。この女ならたぶん、ユーモアのセンスをもちあわせないというのも本当のことだろう。それが、四六時《しろくじ》ちゅうとなったら、やりきれないにちがいない。世間をトコトンまで憎む、危険きわまりない女なのだ。
二人は部屋を出て、来たとき通った汚ならしい廊下を歩いて行った。ズラリとならんだドアの一つの前を、四、五歩行きすぎたときに、部屋の中で目ざまし時計の鳴り出すだらしのない金属性の音がした。つながって歩く一人の女から、もう一人の女に、奇妙なショックが伝わった。まるで、ピストルを導体として流れた電流みたいだった。
うしろで、ブリストルが深い息を吐くのがきこえた。いわれなくても、その不意打ちの物音のせいで、背骨に押しあてられたピストルが、今にも発射される瀬戸ぎわまで追いこまれていたということがわかった。
非常口の目じるしに、濃赤色の電燈のついているところで、方向を変え、あけっ放しの防火扉を通りぬけ、非常用の階段を降りにかかった。ずっと下のほうが、ロビーからさすあかりで、かすかに明るく見えている。階段を降りきらないうちから、なんとなくうつろにひびくグリフの声がきこえて来た。
「さあ、もうひと息、グッとやりたまえ。遠慮するこたないさ。そのためにもって来たのだからな」
「ちょいとお待ち」ブリストルが、背中からきつい声でささやきかけ、階段の足もとで立ちどまらせた。L字形の曲がりがあって、帳場は見えない。通りに出るには、どうあっても帳場のまん前を通らないわけにはいかないのだ。
誰かのひっかかったような咳ばらいがきこえ、またグリフの声がした。「おちついて、おちついて……なにも瓶ごと、まる飲みにしなくたっていいんだぜ」
「行くのよ」ブリストルがピストルを、なにか相手の運動をあやつるハンドルのように扱って、うながした。
グリフだけが、帳場のカウンターに両腕をのせて、もたれかかっていた。前には仕わけ棚がズラリとならんで、そのうしろを視界からさえぎっている。
頭の二つある、脚の四本ある、妙に背中のふくれあがった生きもの、二人の女、いや、二人の女と一挺のピストルとが、足早に通りすぎた。男はふり向きもせず、二人の通るのを気がついた様子も見せなかったが、片手をひろげて背中にまわし、玄関のほうへ幾度も振って見せた。なにかおかしな格好の短い尻尾を振っているようだった。
男の出て来たときには、二人はもう車の中におさまっていた。車は、ホテルの入口からずっと離れたあたりに駐《と》めてあった。ブリストルは、ブリッキーと一緒に、うしろの座席に入って待っていた。
男は、前の座席に乗りこんだ。三人とも口をきかない。ブリストルはピストルを、シートの背もたれに支《つか》えるので、ブリッキーのわきばらに移してつきつけている。ブリッキーはすなおに坐ったまま、少しも逆らうような身動きはしなかった。この連中のしたいほうだいにさせて、そっとこのまま現場まで無事に行き着かせたかったのだ。
あたり一面で、夜のとばりがバラバラにちぎれ出した。そこらじゅうに割れ目や裂け目ができて、光が次第に洩れて来る。
車は、快速で、容赦なく走った。最後の角を七十丁目に曲がりぎわに、ブリストルがべつに男に呼びかけるでもなく、車に乗っているのが二人きりのように、低いあいまいな声で注意した。「気をつけるのよ。大丈夫とわかるまでは、車をとめないほうがいいわ」
車は角をまわると、そのまま、どこか何マイルも先に目的地がありでもするように、素知らぬ顔で、問題の邸の前を走りすぎた。
秘密はよく保たれている。邸の中にも外にも、生命のしるしはない。きのうの朝、同じ夜明けの時刻、つまり二十四時間前と、少しも変ったところはない。
前を通りすぎるとき、三人の顔が調子を合わせたように、そっちを向いた。
あの人、キンは、もどって来ているだろうか? あの家の中にいるのだろうか?……ああ、神さま――今こそ、そして今はじめて、ブリッキーは、ついに恐怖を感じ出した。
グリフは、通りすぎてかなり走ってから、はじめてハンドルを乱暴に切って車の方向を転換し、家の数にして一、二軒元の方向にもどり、ブレーキをかけた。そこでも、目あての邸までは、まだ三、四軒手前だった。車をとめたまま、しばらく監視をつづける。
異常なし。
「もう一度、大急ぎで往復しても間に合うぐらいだな」グリフが、口を結んだままつぶやいた。「さあ、行こう」
車から歩道におろされ、二人のまん中にはさまれて、街を蔽《おお》う濃い灰いろの夜明けの空気の中を、そのほうへ急ぎ足に歩かされながら、ブリッキーの胸は狂おしく騒ぎ立てた。玄関の前の石段を、グイグイとこずかれながら昇った。上手下手《かみてしもて》を素早くすかして見て、見る人のないのを確かめてから、入口の二重になった仕切りの中に入った。誰からも見られてはいなかった。
「よかった」ジョーン・ブリストルは、ホッと息をついた。
「この女のもっていた鍵はどこだ? 早く出せ」
ブリッキーを間にはさんだまま、三人は家の中に入った。ドアがしまった。ああ、やっとのことで、終りの幕までたどり着いた……これでおしまいなのだ。連れこまれて、ドアをしめられてしまったからには、一秒一秒が重要な意味をもつ。あの人が今から五分のうちにもどって来たとしても、それでは、五分だけ間に合わなかったことになる。あの人はわたしを――グレーヴズのようになったわたしを見つけ出すだろう。いや、今の今、この瞬間にもどって来たって、たいした役には立つまい。わたし一人の代わりに、あの人と二人ということになるだけかもしれない。この人たちは武器があるのに、あの人は素手なのだから……
もしかすると――もしかすると、あの人はもどって来ないかもしれない……もしかするとあの人も、どこかよそで、わたしと同じような目にあっているのかもしれない。
家の中は、あい変わらず、一寸先のあやめもわかたぬ暗やみだった。ブリストルは、ブリッキーがはじめてここに入りこんだとき――それは、一年もむかしのことのような気がするのだが――キンに注意したのと同じように、グリフに注意した。
「あそこへ行くまでは、あかりをつけちゃ駄目よ」
しかし、あのときの二人は、暗やみにまぎれて忍びこんだ殺人犯人ではなかった。身のあかしを立てて、新しい出発をしようとする、二人の無邪気な若者たちにすぎなかったのだ。
グリフがマッチをすって、両手でかこい、わずかに針の先ほどのオレンジいろの光だけを残した。それをたよりに歩いて行く。そのすぐあとにブリッキーがつづいた。両手は外套の下に隠され、背なかにはピストルの筒先がこびりついている。ブリストルがしんがりをつとめた。まわりの静けさが重さのあるもののように、のしかかって来る。少なくともブリッキーには、その静けさに、非常な高電圧がかかっていて、そのためにあたりの空気は静電気でいっぱいになり、ひと足はこぶごとに、パチパチと小さな火花が飛ぶように感じられた。
これから行き着く二階のあの部屋に、あかりを消したまま、あの人が待っていたら?……足音をきいて出て来て、「ブリッキーかい?」と呼びかけたりしたら?……あの人のところへ死を案内して行くようなものだ。そして、もしあの人が二階にいないとすると……自分から死を招くことになる。しかし、二つのうちどっちかというのなら、あとのほうがいい。だけど、どっちにしたところで、たいした違いはないのだ……今となっては遅すぎる……どうせ、バスには間に合わない。都会こそは真の勝利者なのだ……いつもそうだったように……
グリフの手でかこったマッチの消えかかった光に照らされて、死の部屋の入口はおぼろげに黒く、空っぽだった。グリフが、マッチを振って消した。一瞬、なにも見えなくなった。やがて、部屋のあかりがついた。ブリッキーは、つき飛ばされた。死の中に……助けてくれるはずのキンの待っていない空虚の中に。
「よし、早くさがせ」グリフが、ブリストルをうながした。「用をすませたら、大急ぎで逃《ず》らかるんだ!」
ブリストルは、床の上をひとわたりさがして、ブリッキーをふり向いた。「どこにあるのさ? ないじゃないか。あんた、どこで見たっていったのよ?」手にはまだピストルを握っているが、ブリッキーの背なかにつきつけるのはやめている。
「その人のそばにあったって、わたし、そういったわ」ブリッキーは、ひとごとのように答えた。「それ信じたのは、あなたがたのほうよ」
「なんだって! するとあんたは、ありもしないことを――」女がほえ立てた。仲間の男のほうに、キッと向き直って、「だから、あたし、いったじゃないの!」
男のひら手が、ブリッキーの顔で大きな音を立てた。「きさまは、どこで手に入れたんだ?」
ブリッキーはヨロヨロとよろめいた。やがてとり直すと、冷たい笑いをうかべた。「知らないわ、そんなこと」
男の声は、ふいに冷静になった。殺気《さっき》をはらんだ静かな声だ。この男は殺意をいだくと、この上なくおち着いた気もちになるらしい。「そいつをよこしな」ブリストルに手を差し出す。「おれがやってやる」
ピストルは、男の手にもどった。
「その女から離れるんだ」
ブリッキーは、いきなり突きはなされてしまった。こうなっては、逃《のが》れるすべはない。
男が近よって来た。近接銃傷をつけようとしているにちがいない。そうすれば、後になって自殺をいいつくろうこともできるわけだ。
近よって来るまでの時間は、ほんの一秒か二秒だったが、ブリッキーには、それが数時間には思えた。今、わたしは殺されるのだ……そのほうがましなのかもしれない……バスには、もう間に合わない――家に帰るバスには……あの時計の針が――
[#改ページ]
五時四五分
その時計の針、それは、ブリッキーの眼にうつった最後のものだった。それっきり眼をとじて、銃殺射手の列の前に立つ囚人のように待った。
その眼を、ピストルの轟音《ごうおん》にハッとして、もう一度開いた。今までにきいたこともないこんなに大きな音というものがあったのかと思った。どんなに大げさなバックファイア〔自動車エンジンの早期着火〕よりももっと大きな、顔のまん前で起こったタイヤのパンクよりももっと大きな音だった。だのに、なぜもっと痛くないのだろう?……死ぬということはいつも、こんな肝《きも》のつぶれるような、つんぼになりそうな感じのするものなのだろうか?……
すぐ眼の前で、二フィートか三フィートのところで、グリフが妙な、踊るような格好でうごめいている。あんなに大きな音を出したのは、この男だったのだろうか、それとも、わたしだったのかしら?……眼の前の男の腕がいく本もあるように見える。脚がいく本もあるように見える。男がいく人もいるように見える――
ピストルはまだ煙をはきながら、筒先を天井に向けて、男の手の中で震えている。その手首を、もう一つの手が握りしめている。男の首に一本の腕がまわり、その肘《ひじ》の先が、こっちを向いている。その腕の上に、苦痛にゆがんだ血まみれの男の顔がある。そのうしろから、べつの顔がのぞいている……同じように苦痛にゆがみ、同じように血にまみれて。しかし、その顔が見わけられないほどではない。
となりの家の男の子が、わたしのために闘ってくれているのだ。となりの女の子のために闘っているのだ――となりの男の子らしく。
ふいに、床の揺れるほどの地響きがした。眼の前には、もうグリフもいない。四本の腕もない。四本の脚もない。二つの頭もない。なにもない。床の上を、二つの肉体がのたうちまわっている。
ジョーン・ブリストルが、部屋の隅からサッととび出して来て、壁煖爐《ファイア・プレース》の前から鉄製の薪架《アンダイアン》をとり上げ、頭の上に高くふりかぶった。
両手をしばられているので、ブリッキーは、つかみかかってそれを止めることができない。だが、となりの男の子が素手《すで》でピストルに立ち向かうことができたのなら、両手の自由がきかなくたって、薪架《アンダイアン》ぐらいに向かって行けないわけはない。
片足を床にすべらせて、のばせるだけのばし、立ちはだかったブリストルの両脚の間にからめた。
ジョーン・ブリストルは、前のめりに倒れた。薪架《アンダイアン》は宙を飛んで、どこかの壁にガチャンとぶつかった。
ブリッキーは、相手に立ち上がる隙をあたえずに、からだぐるみのしかかり、両ひざで相手の背なかをおさえつけた。ブリストルが、身をもがいて、起き上がろうとするごとに、ブリッキーは片ひざを少し浮かせては、全身の重さをかけて押しつけた。
男たちのほうをふり向くひまはなかった。そっちのほうでは一本の腕が、木槌《きづち》のように頭の側面を連打していた。二度、三度。もつれ合ったかたまりが、急に二つにわかれた。一人が、よろめきながら立ち上がった。一人は、のびたままになっている。立ち上がったほうの男の手には、ピストルがあった。
「もう大丈夫だよ、ブリッキー」そっちから、息を切らした声がきこえて来た。
ブリッキーは、はじめてそっちを見た。グリフは、床の上にうつ伏せに倒れていた。けいれんするように身うごきして、片手を頭まで上げたが、それっきり動かなかった。キンは突っ立ったまま、しばらく相手の男を見おろしている。ピストルは、キンの手にあった。
「わたし、この女を押さえきれないわ」ブリッキーが、あえぎあえぎ呼びかけた。
キンは、グレーヴズのデスクに行って何かをとり上げ、ブリッキーのうしろにまわり、両手のいましめを切りはなした。二人とも、息が早すぎて満足な口がきけない。
ブリッキーの手をしばっていた同じ紐で、キンは、ジョーン・ブリストルの両手を背なかにまわしてしばり上げた。
「あの人も――あの人も、しばって」ブリッキーは、声をふりしぼった。
「よし来た」キンは寝室に入り、グレーヴズのベッドから、麻のカバーをはぎ取ってもどって来ると、それを細く裂いて、仕事にかかった。
「ぼくは、君がこの連中といっしょに、外の道をやって来るのを見ていた。二階の正面の窓から見ていたんだ。君が、二人の間にはさまれて歩くそのギコチない歩きかたから、ピストルをつきつけられていることがわかった。そこで、風呂場にひっこんで、じっと待っていると――」
「キン、この人たちだったのよ、犯人は。わたしたち、とうとう見つけ出したわねえ」
「ぼくにも、ホームズでないことはわかったんだ。だけど、いや、まったく危ないところだったよ」キンは立ち上がって、自分の仕事のできばえを眺めた。「これで、充分じゃないにしても、しばらくは保《も》つだろう。さるぐつわの必要はないよ。思いきりわめかせて、そこらじゅうの人を集めさせればいい。そのほうが、ぼくたちの思う壺《つぼ》なんだから」
「ね、キン、もう駄目だわ。犯人はつかまえたけど、なんにもならないわ。ほら――」時計をゆびさして見せて、「六時を二分過ぎているわ」
「とにかくやってみるんだ。終点まで行ってみよう。当てにしていたバスには間に合わなくたって、今日のうちに、もう一本あるかもしれない」
「駄目よ、キン。わたしたち、そのことを話し合ったじゃないの。それより遅いバスに乗るだけの勇気は、わたしたちにはないって。だって、もうニューヨークの街は眼をさましているわ」
「お巡りだって、眼をさましているぜ。こんなところに突っ立っていたら、つかまってしまうよ――さあ、ブリッキー、おいで……いちかばちかやってみるんだ!」ブリッキーの手をつかんで、部屋から引っぱり出し、階段を降りた。
「君の鞄をもって、玄関のドアを開け、そこで待っていたまえ。ぼくは、そこの電話をかりるから……一分もかかりやしないさ」
キンは、受話器をとり上げた。「いいかい?」ブリッキーは、玄関の二重になった仕切りの中に、鞄を手に下げ、すぐにも駈け出せる姿勢で立っている。「位置について……用意……そら出たぞ」
電話のほうへ、「警察を呼んでくれ」それから女に、「そのドアを、ぼくが通れるように、開けて押さえていてくれ」女は、ドアを腕で押して、大きく開けた。
「もしもし、警察ですね? 人殺しがあったんです。場所は、東七十丁目の」――その邸の番地をいって、「スティーヴン・グレーヴズが、自宅の二階で死体になって転がっています。同じ部屋に犯人が二人います。お急ぎになれば、犯人はしばられたまま、お待ちしているはずです。やはり同じ部屋のデスクの上に、速達便の手紙があります。それをごらんになれば、殺人の動機がおわかりになります……ああ、それからもう一つ、犯人の使ったピストルは、玄関の|靴拭き《マット》の下にあります……なんですって?……とんでもない、決してからかっているんじゃありません。こっちにしたって、冗談ごとであってくれたほうがよかったんですがね……ぼくですか?……いや、なあに、ほんの通りすがりの人間ですよ」
男は、受話器を、受け金に乗るか乗らないかにも構わずに、ほうり出した。
「さあ、行け!」大声で怒鳴《どな》って、女の後を追う。
ちょっとかがんで、|靴拭き《マット》の下にピストルを押しこみ、転がるように石段を駈け降りる。
「あの人たちの車があるわ!」女は先に立って走りながら、ふりかえって車を指さした。「鍵は差しこんだままになってるわ」
二人は、車の中にころげこんだ。男は、ドアをしめるが早いか、車をスタートさせて歩道ぎわを離れた。角を曲がるか曲がらないうちに、反対の方向から、まだ見えないながらもパトロール・カーの近づいて来る鋭いサイレンがきこえた。
「畜生ッ、早いやつだ! この車がなかったら、今ごろはつかまっていたね」
二人は、時刻の早いためにほとんど交通のないマディスン街を突っ走った。キンは二度までも、赤信号を、速度はゆるめたが停まらずに突破する冒険をやってのけた。
「どうせ間に合いっこないわよ、キン」女は風にとられまいとして、大きな声を出した。
「やるだけはやってみるんだ」
東の空が、次第に明るくなって来た。また新しい一日が、ニューヨークの新しい一日が、やって来ようとしているのだ。見るがいい。この街では、曙《あけぼの》すら美しいものではない。
お前さんの勝ちだわ……ブリッキーは苦々《にがにが》しく思いつづけた。お前さん、嬉しいのかい?……わたしたちみたいな哀れな男と哀れな女を、たった二人打ち負かして、亡ぼして、どうなるというの?……わたしたち、堂々と闘ったわ、そうじゃなくって?……頭でっかちで馬鹿力のある、弱いものいじめのお前さんとなら、いつだって堂々と闘ってやるわ。お前さんみたいな汚ならしい街でも、夜には、せめて可愛らしく見せかけようとするのね、お前さん――ニューヨークみたいな汚ならしい街でも……
向かい風に吹きとばされて、女の眼尻から耳のほうへ、涙の筋がついた。
男の片手が、ほんのしばらくの間ハンドルを離れて、女を抱きしめた。肌にしわのよるほどきつく抱きしめた。それからまたその手は、二人の生命を衝突から守るためにビリビリと細かく震動するハンドルの縁《ふち》にもどった。
「泣くなよ、ブリッキー」男は、前のほうにのびる道路に眼を据《す》えたまま、息をのみこんだ。
「泣かないわ」女は涙声で答えた。「泣いてなんかやるものか。いじめるだけいじめるといいわ。わたし、がまんしてみせるわ」
前方の建築物《ビルディング》は、次第に高さを増して来た。一ブロックごとに、一インチずつ高くなるように思えた。しかし、それは一軒一軒の屋根の高さではなく、全体として見た輪郭《スカイライン》の高さだった。八階建て、十階建てから十五階に、十五階から二十階に、二十階から三十階に。いよいよ高くのび上がって空を侵《おか》し、空はだんだん狭くなり、しまいには、蓋《ふた》を取ったマンホールの底から、ギザギザになった穴の縁を見上げるようになった。空は高く青く澄んでいる。下界は薄暗い。永遠に薄暗く、出口のないコンクリート造りの迷路だ。
ずいぶん遠くまで来ていた。七番街を三十丁目めざして走っていた。横の通りに差しかかるごとに、右隣のブロードウェーの通りが近くなる。それからふいに、四十丁目を出たところで、ブロードウェーが細長いX字型に交叉する。そこを誰もがタイムズ広場《スクエア》と呼んでいるが、実際は、ダフィとロングエーカーとの二つの広場なのだ。
この広場こそは、地球の表面でどこよりも有名なアスファルトの切れっぱしなのだが、来てみれば、なんのこともないありふれた場所にすぎない。左手には、パレースとステート・ビルディング、正面には、くさび形のタイムズ摩天楼《スカイスクレーパー》、そして右手は、そこまでつづく建物の屋根の線が急にとぎれて、その空隙《くうげき》に、妙な形の角張った塔が突拍子《とっぴょうし》もなく、朝明けのほの青い空にそびえ立っている。
ふいに、女が男の腕にしがみついた。そのはずみにハンドルが切れて、車は危うくダフィ師の銅像にぶつかりそうになった。男が無我夢中でハンドルをもどしたので、前車輪がわずかに歩道をかすめただけで、車はまた車道にもどった。半ブロックほど走って、やっとのことで車を立て直すことができた。
女は、片膝をシートにのせて、からだをねじってうしろを向いている。片手で男の肩をたたき続け、向かい風にさからって、うれしそうな声をあげる。
「キン、ほら! あれを見て! パラマウントの時計は五分前だわ! まだ六時五分前なのよ! あの部屋の時計は進んでいたんだわ!」
「こっちのが遅れているのかもしれないよ……危ない! 落ちるよ」
女は、大時計にキスを投げた。狂おしいばかりの感謝に酔っているのだ。「いいえ、合ってるわ。こっちが合っているのよ! この街じゅうで、ただ一人のわたしのお友だちですもの。わたしを裏切ったりするもんですか。わたしたち、まだ間に合うわ……まだ運があるんだわ」
タイムズ社の尖塔《せんとう》にさえぎられて、大時計は見えなくなった。もう二度と見ることはあるまい。生きているかぎり、こんな街には二度と来ないのだ。しかし、シートの背もたれの上縁にあごをのっけて、ブリッキーは、その時計のあった方向に感謝をこめたお別れのあいさつを送った。その眼は涙ぐんでいた。
「ちゃんと坐りたまえ。ひと曲がりするから」
そのひと曲がりは、かみそりの刃ほどに急角度だったので、片側の車輪が宙に浮いた。車は三十四丁目に入った。すると二ブロック向こうに、八番街と九番街との間に――そら、そこに大型の長距離バスが、早くも動き出している。そこまで行き着いたときには、乗車場からすべり出し、方向を変え、大通りを西のほうへ、河底トンネルのほうへ、ジャージーのほうへ――故郷のほうへスピードをあげはじめていた。
ほんのすぐそこだのに、もう追いつけそうにない。一分早ければ、あのバスの中に坐っていただろうに。ブリッキーは、のどの奥で泣き声を出しかけたが、やっとのことでのみこんだ。女も男も、「どうしよう」などとは言わなかった。
男はあきらめなかった。こっちの車のほうが足も軽く、すばしこいのだ。矢のようにあとを追って飛ばした。距離がせばまった。近づいた。追いついた。十番街にさしかかると、バスはトンネルの入口のほうへ曲がろうとして、重々しく速度をゆるめた。その機を逃さず、キンは車を並行させた。あとは、親切な赤信号がうまくやってくれた。その赤い眼は、大きな車も小さな車も区別せずに、威厳をもってとまらせた。
象のような図体が、ブルブルと身ぶるいをしてとまった。バッタのように身軽な車もとまった。
車のとまりきらないうちに、二人はとび降りて、圧縮空気で作動する自動扉のガラスを訴えるようにたたいた。女は見栄も忘れて、夢中で頭を上げ下げしながら哀願した。
「開けて! のせてください! 連れて行ってください! ねえ、のせてください! わたしたちも行くんです! 置きざりにしないでください!――ね、キン、お金を見せて、早く、お金を出して――」
バスの運転手は、頭を振った。顔をしかめて、ガラスごしに、声のきこえない罵言《ばげん》を浴びせた。しかし、赤信号の続くかぎり、車を出すことはできない。その間は、いやでもじっと坐ったまま、二人の苦しみもだえる顔を見ていなければならないのだ。心臓をもち合わせているほどの人なら、我《が》を折らぬわけには行かない。この運転手も、その血液をからだじゅうに送り出す道具をどこかにもっていたらしい。もう一度、いまいましげな眼をチラッと向け、あたりを見まわして、誰も注意していないことを確かめてから、不承不承自動扉のレバーを引いた。圧縮空気の音がプスッとして、扉があいた。
「あんたがた、なぜきまりの場所で乗らねえんだ?」運転手は、ほえるような声を出した。「長距離バスを、町角ごとにとまると勘《かん》ちがいしちゃ困るねえ」そのほか、バスの運転手が、やさしい人間と思われては具合の悪い場合に言うようなことをわめき散らした。
ブリッキーは、通路を千鳥足《ちどりあし》で歩いて行って、うしろのほうに二つならんだ空席を見つけた。ひと足遅れて、キンが隣に腰をおろした。失敬して来た車は、歩道ぎわに乗り捨てっぱなしにした。手には、二人分の切符をしっかりと握りしめている。通しの、故郷の町までの切符を。
バスは、また動き出した。
河底トンネルを抜け、ニューヨークをあとにして、ジャージーの緑の野原をかなり走ったころ、ブリッキーはようやく口がきけるほど呼吸がおさまって来た。
「キン」と呼びかけた声は、まわりの乗客にきかれないように低かった。「わたしたち、大丈夫かしら? いまごろどうなっているでしょうね? あの二人、なんとか言い抜けることができるかしら? でも、わたしたち、もうあんなところで面倒なかかり合いになることはないわね」
「そんなことはあるもんか。ぼくたちのほかにも、あの連中の企《たくら》みを知っている人間があるんだから、どんなにもがいたって、絶対に逃れることはできないさ」
「わたしたちのほかにって?……目撃者がいたって、そういうの?」
「いや、殺人の目撃者ではないんだ。それを見た人間はいない。しかし、あの男自身の家族に、それだけで、あの連中を有罪とする証言を行うことのできる人がいるんだ」
「そんなことを、どうして知っているの?」
「警察に電話をかけたときに、ぼくがいったろう? グレーヴズのデスクの上に、あの男の弟から来た手紙がのっているんだ。君にも話したように、どこかのカレッジに勉強に行っている弟のロージャーだよ。速達便の手紙だったから、きのうのうちに受けとったはずだ。ぼくは、君の来るのを待っている間に、偶然それを見つけた。その手紙の中で、弟は兄のグレーヴズに、あのブリストルという女が強請《ゆすり》に来ても、相手にしないほうがいいと警告している」
「弟は、どうしてあの女のことを知っているのかしら?」
「弟は、ブリストルと結婚していたんだ」
ブリッキーは、しばらくポカンと口をあけていた。「それで、あのグレーヴズの受けとった紙きれにあった、『わたしをごぞんじではいらっしゃらないでしょうけれど、わたしのほうでは、もう家族のような気がしていますのよ』という、わけのわからなかった文句も説明できるわけね」
「そのとおり。よくある在学中の軽率な結婚なんだね。ただ、それがほんものの結婚でなく、底意のあるイカサマの結婚だっただけなんだ。あの女は、どこかに人なみに結婚した夫があったもんだから、重婚のいいがかりをつけられないために、まねごとの結婚式まであげた。まったくきいたこともない汚ならしいやりかただ」
「弟はまた、どういうわけで、そんなあばずれとかかり合いになったの?」
「女は、カレッジの近くの酒場で唄を歌っていた。グレーヴズの弟は、土曜日の夜ごとに、友だち連れでその酒場に通っていた。それが馴初《なれそ》めだった。子どもみたいな男のことだから、ことの成り行きは知れている。女にのぼせ上がった男は、結婚を申しこんだ。女は、以前|寄席《よせ》で相棒だった男と一緒にしらべてみると、相手が一流の家の出で、金にもなりそうなことがわかった。それがことのはじまりとなった。二人で、芝居の筋書きを書き上げて、男をまるめこんだ」
「だけど、そんなのは、三、四十年も前の古くさい手じゃないの」
「連中は、それをうまくやりとげたのさ。一番古くさい手が、一番いい手だということもあるよ。まあ聞きたまえ。その相棒は寄席の舞台で、田舎の治安判事の役をつとめるのが得意だった。そこで、その田舎判事になりすまして、相手に、合法的に女と結婚できたと思いこませるだけでよかった。ある土曜日の晩、グレーヴズの弟と女とは、証人と一緒に、にせ判事のところまで車を走らせ、イカサマ結婚式をあげた。それから三日|経《た》たなければ、正式に結婚のみとめられないカリフォルニア州の法律も、この芝居にかなり役に立ったようだな」
「すると、べつにボロも出さなかったの?」
「弟の手紙を読むと、それから二か月の間は、ボロも出さずにいたようだね。お互いの申し合わせで、その結婚は秘密が保たれた。男は学業を続け、女は酒場で唄を歌い続けた。女の相棒はニューヨークに戻って来て、身をひそめた。二人の悪党にとっては、たらふく甘い汁の吸えた二か月だった」
「世間には、たいへんな虫けらもいるものね」
「グレーヴズの弟と女とは、結婚した後も別居を続けるという約束だった。二人は、週末だけを一緒に過ごし、その機会に女は男に金をせびることにしていた。二人は、男をしぼれるだけ、トコトンまでしぼり取った」
「それが図に乗って、しぼり過ぎたのね」
「まあ、そんなところだな。いうまでもなく、金はいっさいスティーヴン・グレーヴズから出ていた。だから当然のことだが、弟からの無心が次第に多くなり出すと、兄は水の手を断ってしまった」
「それが、こんどの事件のきっかけになったのね」
「女と相棒とは、互いに相手を信用しなかった。相棒は、ただ儲けの金が来なくなると、女が自分をだまして、とった金を抑《おさ》えているのだと思いこんだのだろう。いずれにしろ、相棒は奥の手を出して、女のいる土地に姿をあらわし、そこらをウロチョロして、ことの真相をかぎ出そうとした。それから後のことは、君にだってつなぎ合わせることができるだろう」
「たぶんね」
「グレーヴズの弟は、女の楽屋のあたりをウロウロしていた相棒の姿を見かけ、それが、自分の結婚を認可してくれた田舎の判事と同一人物であることを知って、とうとう二人のイカサマに気がついた。そんなことのできるチャンスがあったら、弟は、きっと二人を殺していただろうと思うが、二人はほんのひと足ちがいで逃《ず》らかってしまった」
「そりゃあ、そうでしょうとも」
「だが、悪党どもはそれだけでは引きさがらなかった。自分たちの打った芝居がうまく当ったことに、のぼせ上がったかどうかしたんだろうね。弟のロージャーが兄と連絡をとって、自分たちの悪企《わるだく》みを警戒するように告げる前に、同じ芝居の幕切れとして、もうひと山ゴッソリせしめることができると考えた。ところが、グレーヴズに婚約中の若い女のいることは、計算に入れてなかった。そうなると、たとえ二人に悪企《わるだく》みがなくても、そばへよることもできない。そこで、力ずくの強請《ゆすり》ということになった。それよりも、ほんの二時間ばかり早く、弟からの速達便が届いていた。グレーヴズは、二人のあらわれるのを待ちかまえていた」
「それからのことなら、わたし、自分でいえるわ。あの二人の話しているのを聞いたのよ。あの人、筋書きどおり、あっさりまるめこまれたり強請《ゆす》られたりせずに、逆につっかかって行ったんだわ。はじめに、女のほうが男を外に待たせておいて、自分で話をつけに入って行ったんだわ。グレーヴズは女にとり合わず、警察を呼ぶといって脅《おど》かしたのよ。女はカッとなって玄関まで駈け降りて、相棒を呼び入れたの。男がピストルをグレーヴズにつきつけると、グレーヴズはそれにつかみかかったもんだから、射ち殺されてしまったのよ」
「ぼくも殺されるところだったよ。君もそうだったな」
「あの男に、うしろからとびかかったときのこと?」
「いや。ホームズなんだ。あれより前に」
「まあ、どうして? どんな目に会ったの?」
「ホームズなのさ。あの男は事件とは関係がなかった。しかし、あの男、グレーヴズの殺されたことを知り、自分が容疑をかけられそうだとなると、すっかり脅《おび》えちまって、理性もなにもなくしてしまい、かえってそんなにしてまで容疑を逃れようとしていた罪を、自分から犯《おか》しかけたんだ。つまり、このぼくを殺そうとしたんだよ」
「その人が、あなたを殺そうと――?」
「殺そうとしたどころじゃない。ほとんど殺しおおせたところだった。ぼくのウィスキーに何か盛りこんで、もう少しで河の中に転がしこむところだったんだ。ぼくは、もうほとんど車から引っぱり出されていたらしい。自分では知らないんだ。半分意識を失っていたからね。君の名がぼくを救ってくれた。ぼくはひょっと、自分が殺されたって君が知っているから、どっちみちその男は助かりっこない、というようなことをつぶやいたんだ。それが、その男をふるえ上がらせた。恐怖は倍になったようだったが、少なくとも、ぼくを河にほうりこむことは思いとどまった。そのかわりに、十五分ばかりもかかって、ぼくの顔に冷たい水をぶっかけるやら、車のまわりをグルグル歩かせるやら、なんとかして眠り薬をさまそうとした。それから、車にぼくをのせて自分の家に連れてかえり、思い切り濃いコーヒーを、どっさり飲ませてくれた。
どのくらい経《た》ったかしらんが、ぼくたち、お互いにすっかり打ちとけたようなことになっていた。それがなぜだかよくわからない。たぶん、もうひとを疑ったりできないほど、二人ともくたびれはてていたせいだろう。ぼくは、その男が犯人でないことを信じたし、その男はその男で、ぼくが小切手をたねに強請《ゆす》ろうとしているのでないことを信じた。
その男は、自分ではなにも不渡りの小切手を振り出すつもりはなかったのだと、そういった。だれだって、わざと不渡りを振り出したりはしないだろうよ。ただ、金につまったので、それを隠すためにグレーヴズに、黙ってその小切手を押しつけただけなんだそうだ。ところが、それから金ができて、ゆうべグレーヴズを訪問したときには、現金を払えるようになっていた。しかし、グレーヴズがその罰《ばち》あたりの小切手をどこにやったか見つけ出すことができなかったので、決済をつけるところまでは行かなかった。君も憶えているだろうが、ぼくが最初に金庫に手をつけたときに、その小切手は現金箱から外に落ちていたのだ。
いうまでもなく、ホームズは心配になった、というよりは、ひどく興奮した。しかし、グレーヴズも紳士だから、それをたねに賠償金を強要したり、そんなことはしないだろうと思った。グレーヴズも、そういう目に会わされた相手を前にして態度が冷たかったが、それでも二人の間には、露骨な口喧嘩などはなかった。ホームズはグレーヴズから、表沙汰《おもてざた》にはしないとの諒解《りょうかい》をもらい、もう一度訪ねるから、その間にもっとよくさがしてほしいと頼んで、いとまを告げた。そのころグレーヴズは、ブリストルという女のあらわれるのを待っていたのだ。ホームズの予告なしの訪問は、ブリストルの訪れる直前のことだった。
いずれにしろ、ぼくはその男に小切手をかえしてやった。その小切手が、後になってヒョッコリ出て来たりしたら、ホームズは、まちがいなく殺人事件にまきこまれていただろうし――ぼくはぼくで、その男の無罪が明らかになるころには死刑になっていたにちがいない。ホームズはぼくの眼の前で、前のと同じ日付にして、新しい小切手を書き、それを封筒に入れて、グレーヴズに送りかえした。相続人は、それを現金に換えることができるわけだ」
キンは、ポケットから何かをとり出して、それをブリッキーに見せた。
女は、そんなにもたくさんの現金を見て、心もち青ざめた。そのまま口もきかずに考えこんだ。
「いや、ビクビクしなくたっていいんだ」男は、女を安心させた。「こんどは、まっ正直な金だよ。ホームズがくれたんだ。ぼくたちの、君とぼくとの物語をきいて、どうしても受けとってくれと言いはった。ぼくは、自分たちがどんなに故郷《くに》の家に帰りたがっているかってことを話した。ホームズはぼくのことを、知らない同士のような気がしないといった。二人とも同じ晩に、場合によっては大変なことになりかねない過失の罪を犯した――ぼくは金庫の中のものに手をつけたし、ホームズは、不渡りの小切手を出した――しかし、二人とも、運よくもう一度だけやり直すチャンスに恵まれた。めいめい、大事な教訓を学んだわけだ。ホームズは、無事に失敗から抜け出せたうれしさのあまり、ぼくにこれをくれた。この二百ドルの現金を。ぼくたちにとって、故郷に帰って出発し直すための準備金として、少しは足しになるだろうといった。それから、そうしたほうが気がすむなら、少しずつ返してくれてもいいと、そう言い足したよ。
これだけあれば、ぼくたちの再出発には充分だね。ぼくたちの町では、二百ドルといえばたいした金だ。ぼくたちだけの小ちゃな家の、最初の月賦に当てて、それから――」
ブリッキーは、もうその先をきかなかった。その頭は、男の肩にもたれかかって、バスの震動に合わせてやさしく揺れていた。その眼は幸福に酔ったように閉じた。ああ、わたしたち、故郷に帰るんだわ……ブリッキーはうっとりと思った……わたしと、隣の家の男の子と……とうとう、故郷に帰るんだわ……
(完)
[#改ページ]
解説
原作題名 Deadline at Dawn は新聞の早朝におろす版の締切時間という意味だが、「早朝の締切」では邦題にふさわしくないので、デッドラインの意味をそのまま取って「死線」とした。原題も、「締切」と「死線」の両意を含ませているように思われる。
作者 William Irish は、「黒衣の花嫁」の作者コーネル・ウールリッチの筆名だが、この筆名で初めて書いた長篇「幻の女」が非常に斬新な着想の傑作だったので、俄《にわ》かに文名があがり、それにつれてウールリッチ名義の作品もよく読まれるようになった。ここに訳された「暁の死線」は「幻の女」の二年後に出たもので、やはり「幻の女」と同じ特異の手法が用いられ、大いに好評を博し、映画にもなっている。
私のノートを繰ってみると、昭和二十一年の二月に「幻の女」、三月に「黒衣の花嫁」、四月に「暁の死線」という順で原作を読んでいる。そして、この三作を比べて、「幻の女」がずばぬけて面白く、「暁の死線」これにつぎ、「黒衣の花嫁」は第三位という評価をしている。
そのノートには「暁の死線」の読後感が十数行、記してあるが、冒頭に「この人独特の孤独感、なんともいえぬ物淋しさ。これは文体より来るものだ。少年の孤独なる夢のごとき好もしき味」と書きつけてある。アイリッシュは、サスペンス派の驍将《ぎょうしょう》といわれるほどあって、この作もサスペンスは飛びきりである。その点では「幻の女」とまったく甲乙がない。主人公の青年がフラフラと町を歩いて来て、ダンスホールに入り、放心状態でチケットを買い、商売人らしくない少女のダンサーと踊りつづけるまでの、非常に長い冒頭の場面は、青年の前歴も、心持ちもまったく記されていないので、なんとも形容のできない不思議なサスペンスに充ちている。少女ダンサーと互いにうちあけ話をするまでのところは、「幻の女」以上のサスペンスをすら感じさせる。
青年の告白を読んでしまうと、いささかガッカリするが、それはサスペンスがあまりに強いので、告白の内容が平凡に見えるからである。そこで、少女と力をあわせて真犯人を探す決心をするが、夜明けまでにその目的を達しなければならないというところに、再び読者をイライラさせる別のサスペンスが盛り上って来る。それを一層強化するために、各章の初めに時計の文字盤を現わし、刻々に時がたって行くことを見せる手法も面白い。「幻の女」の各章の見出しが「死刑前何日」となっていて、読者をハラハラさせたのと同巧である。しかし、この場合も、サスペンスの強さに比べ、真犯人発見の経路は、やや常套《じょうとう》たるを免れない。この作が「幻の女」におよばぬ所以である。
コーネル・ウールリッチの本名は、アメリカ国会図書館の記録によると、正しくは Cornell George Hopley-Woolrich という。処女作はコロンビア大学在学中、二十才の時に書いた Cover Charge で、その翌年 Children of the Ritz(いずれも普通小説)を出版、同大学の College Humor 賞一万ドルを獲得、その金でフランスに旅行し、パリですっかり遣いはたして帰って来た。一九三二年から収入のために探偵小説を書きはじめたが、一九四二年、アイリッシュの筆名で「幻の女」を発表するや、一躍流行作家となった。その時まではあまり有名でなかったらしく、今から十五年ほど前のアメリカ通俗探偵雑誌「ディテクティヴ・フィクション・ウイークリー」などの定連作家であった。西田政治君によると、同誌にのったウールリッチの短篇は「ニューヨークの真中の殺人」「死と共に起る」「隣室の死体」「空中の死」などであったという。また、ハメットの出身雑誌「ブラック・マスク」(やはり低度の通俗雑誌)にも書いていたらしく、十数年前の同誌にのった短篇が、「クイーン雑誌」に再録されたこともある。
以下、ここには、私の読んだかぎりでは、短篇の最高傑作と思われる「爪」の梗概《こうがい》を記す。これは昭和二十二年に出した私の「随筆探偵小説」の中に収めた文章だが、同書は今では入手困難と思うので、読者のご参考に供するわけである。
兎のシチューが呼びもので、しかも定連には一人一人、その人の好みに合った味をつけるというので、食通に知られたレストランがある。ある退職警部が友人とそのレストランで食事をしながら、≪二十年前≫の奇妙な捕物の思い出話をする。そのレストランに近い町の古物商の独りものの主人が殺され、彼が金庫代りに使っていた東洋製の秘密箱が、無理にこじあけられて、中の紙幣が無くなっていた。手掛りはただ一つ、警部が現場で拾った血まみれの指の爪であった。犯人は秘密箱のあけ方が分からず、指の爪を使ってこじあけたので、生爪をはがしたのである。
ある理由から、犯人は、被害者のところへ毎日食事を運ぶレストランの使用人と推定され、結局、今、警部と友人が話しているレストランの使用人が怪しいときまる。そこで、レストランのすべての出入口に刑事が張りこんだ上、使用人全部の指を検査することになった。
それと知ると、料理場で兎を料理していた一人のコックの顔色が変った。その恐怖の心理描写。彼はしばらく何かゴトゴトやっていたあとで、裏口から逃げ出したが、そこに刑事が張りこんでいて、手を見せろといわれる。彼は包帯でくるんだ片手をさし出した。刑事はさてこそと気負って、その包帯を取り去ったが、むき出しになったその手を見てアッと声を立てた。
そこには生爪のはがれた指があったのか、いや、そうではない。コックの右手の人差指全体が根もとからプッツリ切断されて、影も形もなくなっていたのである。
コックは料理場で兎の肉を切っていてあやまちをしたのだといいはった。それをくつがえす具体的証拠が何もなかった。ふしぎなことに切断された人差指はどこにも発見されなかった。結局犯人は無罪となった。みすみす犯人と分かっていながら、相手の思い切った処置のため、取り逃がしてしまったと、警部は残念そうに話し終る。
そこへレストランの主人が出て来て挨拶したので、二人は『君のところの兎のシチューはすてきだ』とほめると、主人は大いに得意らしく、『ありがとうございます。わたくしどもは二十年間一度もお客さまのお小言をいただいたことがありません。しかし、たった一度だけ、ちょうど今から≪二十年前≫、その晩わたしどもの料理場に、ある事件がありましたので、よく覚えているのですが、そのころのご定連に、ちょっと口やかましい奥さまがありましてね、その晩、兎シチューを召し上ったあとで、わたくしを呼びつけて、こんな風におっしゃったのです。「このシチューの材料は本当に兎の肉ばかりなの? 私の気のせいかもしれないけれど、今夜はなんだかいつもと味がちがっているようね」って、これがわたくしどものいただきました、たった一度のお小言だったのですよ』
以下、ウールリッチ(アイリッシュ)の邦訳書名を記す。ただし短篇の原作題名は大部分不明である。
[ウールリッチ長篇]
The Bride Wore Black(1940)黒衣の花嫁
The Black Angel(1943)黒衣の天使
The Black Path of Fear(1944)恐怖の冥路
[ウールリッチ短篇]
死の九一三号 雑誌「ウインドミル」昭和二十三年五月
さらばニューヨーク 「旬刊ニュース」昭和二十三年九月増刊
死者若し語らば 雑誌「マスコット」昭和二十四年三月
墓場殺人事件 「マスコット」昭和二十四年八月。
翡翠のナイフ 「宝石」昭和二十六年十月増刊(前記「恐怖の冥路」の放送劇化)
[アイリッシュ長篇]
Phantom Lady(1924)幻の女
Deadline at Dawn(1944)暁の死線
[アイリッシュ短篇]
誰が殺されたか 「旬刊ニュース」昭和二十三年五月増刊
危機を救う殺人事件 「旬刊ニュース」昭和二十三年八月
追跡者 「マスコット」昭和二十四年九月
これらの短篇の内では「さらばニューヨーク」が最も優れている。「爪」とちがった意味で彼の代表作といってよいものである。
(一九五三年一二月 江戸川乱歩)