つかこうへい
龍馬伝 野望篇
目 次
1 長 州
2 浦賀沖
3 武州日野(一)
4 武州日野(二)
5 二ツ川
6 京 都
7 吉 原(一)
8 伊豆下田
9 吉 原(二)
10 月が里
11 京都へ
12 赤 坂
1 長 州
長州《ちようしゆう》(今の山口県)の目あかし八兵衛《はちべえ》は長命で、没したのは七十二歳の時であった。
八兵衛は、明治になって警察官として登用されたが、なぜか職を辞し、県北部の和田《わだ》村という片《かた》田舎《いなか》にひっこんでいた。
妻のお豊《とよ》は既になく、臨終は一人|息子《むすこ》の尾崎容之助《おざきようのすけ》がみとった。
容之助は、東京|新橋《しんばし》で日本最初の理容室として有名なバーバー『ヤマザキ』の主任理容師である。
臨終の間際、尾崎は八兵衛の口から恐るべき事実を聞いた。
今をときめく参議、木戸孝允《きどたかよし》こと桂小五郎《かつらこごろう》は、殺人を犯したことがあるというのであった。
尾崎は、東京から伴ってきていた妻や子供の手前、あわてて制した。
「滅多なことを言うもんじゃありませんよ。私も髪をいじらせてもらったことがありますが、木戸様は人格高潔にして清廉なお方ですよ」
実際、桂小五郎は、幼いころ丁稚《でつち》奉公をしていた恩ある米屋の未亡人を妻にし、宮中に参内したという美談をもっていて、真面目《まじめ》で義理堅い人物という評判だった。また、児童園という身寄りのない子供たちを引き取る施設を貧しかったころから作り、いまも勉学を励ますために木戸奨学金を与えているのだ。
「さっ、お父さん、おやすみ下さい。身体《からだ》に毒ですよ」
「いや」
八兵衛は静脈が青く浮きでている骨だらけの手でふとんを握りしめ、キッと恐ろしい目で尾崎をにらみつけた。
「確かに殺したんじゃ、わしはこの目で見たんじゃ。どしゃ降りん雨ん中、小五郎が出刃包丁で、米屋の主人|大造《だいぞう》をぶっ刺すのを」
父の頑固さに、さすがの尾崎の声も険《けわ》しくなった。
「だったらお父さんは、目あかしでしょ。なぜ、捕らえなかったんです!」
「そのとき振り返った小五郎の目がこわかったんじゃ。見つかったら、きっとわしも殺されとる」
と、目やにのついた目から涙をこぼしてオイオイ泣く。
「なあ容之助、聞いてくれ」
「でも」
「このこと、誰《だれ》かにしゃべらんと、わしゃ死んでも死にきれんのじゃ」
家の梁《はり》は傾き、すすけてまっ黒になった天井から下がった小さな電灯は心細げに揺れ、風が障子のすきまから吹きつけてきた。十一月の木枯らしはゾクッとするほどの冷気だった。
父の脈をとっていた医者がかぶりをふり、しゃべりたいだけしゃべらせてやれと尾崎に目で合図をした。
八兵衛もまた、これだけは言っておかねば死にきれんという風に尾崎の手を強く握りしめ、
「わしは坂本龍馬《さかもとりようま》に会ったことがある」
「ほんとですか!?」
「長州にいたのは一日だけで、会ったのはわしともう一人じゃ」
「それはいつのことです」
「確かあれは慶応《けいおう》三年、二月二日のことじゃ」
「そんな馬鹿《ばか》な。坂本龍馬は三月三日には近江《おうみ》屋で殺されているんですよ」
たしかに長州から江戸《えど》までは十日もあれば十分戻ってこれるのだが、二月二日は幕府から朝廷に大政奉還のなされた日である。そんな大事な時に維新の大立て者というべき龍馬が長州などにいるはずがない。尾崎は噛《か》んで含めるように言った。
「いいですか、お父さん。幕府側にも朝廷側にもにらみの利く坂本龍馬の存在があってこそ、とどこおりなく大政は奉還されたといっても過言ではありません。そんな時に――」
しかし、八兵衛はがんとして譲らず、坂本龍馬に長州を案内したのは自分だと言い張った。
八兵衛が無口で、大言壮語する人間でないことは、尾崎も知っている。しかし、
「じゃ、坂本龍馬は何のために長州に来たんです」
「ドロを食うためじゃ」
「ドロを食う?」
「そうじゃ。ドロを食うためにだけ長州にきたんじゃ」
「ドロって地面の泥のことですか。馬鹿馬鹿しい」
八兵衛は、尾崎の言葉など耳に入らなかったかのように、目を細め遠くを見つめていた。
「その時あん人の身体はもう労咳《ろうがい》にむしばまれちょった」
「労咳に?」
「ああ、まっ赤なきれいな血を吐いとった。わしが大丈夫ですかって聞いたら、惚《ほ》れた女にうつされたもんじゃからうれしいんじゃと、子供のような顔して笑っていなさった」
と八兵衛は、白髪《しらが》まじりの眉《まゆ》を少し動かし、薄く笑った。
「そして、坂本先生を殺したんもその女じゃ」
今年小学校に入学した詰襟姿の尾崎の一人息子の竹雄《たけお》が、牛乳瓶の底のようにレンズの厚い眼鏡《めがね》の奥の目をまんまるくし、
「え、坂本龍馬は女に殺されたの?」
「ああ、沖田総司《おきたそうし》という女じゃ」
と、八兵衛は震える手をのばし、湿った布団の枕元《まくらもと》から黄ばんだ一葉の写真を取り出した。
八兵衛の葬儀を終えて、尾崎容之助は萩《はぎ》のホテルに妻子を宿泊させた。煉瓦《れんが》でできたホテルは、小さいながらもまだ新しく西洋の香りを漂わせていた。板張りの部屋に入ると竹雄ならまだしも、妻の佐和子《さわこ》までがベッドに飛び乗りキャアキャアはしゃいでいた。
「しかし、お義父《とう》さんが、もと新選組《しんせんぐみ》山崎五助《やまざきごすけ》だったとは知らなかったな」
尾崎は懐から八兵衛から渡された新選組の記念写真を取り出した。
右端に写っているのが、バーバー『ヤマザキ』の主人であり、自分の義父の山崎五助だった。
いまは英国製のパリッとした背広を着て、大臣などの頭をカットしているやさしい山崎が、まさか人斬《ひとき》りとして忌《い》み嫌われていた新選組の一員だったとは。
そして、山崎だけではない。だんだら模様の羽織に刀を差し、まげをキッチリと結い、写真の中央にどっかと腰を降ろしているのは、レストラン『勇《いさみ》』のマスターだった。
「まさか、あのマスターがな」
尾崎は自慢のコールマンひげをなでながらしみじみつぶやいた。町内会の催し物では人気者のマスターが、無情の人斬りとして名高い近藤勇《こんどういさみ》だったとは。
「あっ、私、母からそんなこと聞いたことがありますよ」
山崎の一人娘の佐和子はおっとりとした口ぶりで言った。
「でも、どうだっていいじゃありませんか。ずいぶん昔のことですよ」
「昔ったって、たった二十年前のことじゃないか」
「でも、どうして男の人ってこう歴史好きなんですかね」
「好きなわけじゃない。坂本龍馬は特別なんだよ」
「そうですか」
佐和子は手を口にあて大きなあくびをした。
猫足のソファから立ち上がり、尾崎は背広を着こんだ。
「じゃオレ、二、三日|石川島《いしかわじま》に行ってくるから」
石川島は、桂小五郎の生家がある島だった。
「何を調べに行くんです」
「桂小五郎のことだよ。木戸孝允が本当に殺人を犯したかどうかということと、坂本龍馬が維新前夜山口にいたかどうかを確かめようと思って」
「あなたの坂本龍馬びいきは正気の沙汰《さた》ではありませんからね」
「男はだれだってそうだよ。一介の土佐《とさ》の質屋のせがれが明治維新の基礎を築いたんだからな。あの人がいなかったら日本の開国は百年遅れてるんだ。いや、開国どころではない、いまごろアメリカかイギリスの植民地になっていたかもしれないよ」
「まっ、どんなお偉い人か知りませんが、女にはとんと縁のない人ですね」
「えっ?」
「なんか、細かそうで、一緒になったらネチネチ責められそうで息がつまる人ですよ」
「バカなこと言うんじゃないよ」
「いえ、きっとそういう人だったんですよ」
「おまえたち女には千年かかったって男の価値というものが分かりゃしないよ」
吐き捨てるように言うと、ホテルを後にし石川島に向かった。
船に乗る前に役場に行き、電話を借り東京のバーバー『ヤマザキ』にかけた。
山崎は、相変わらず陽気な声で、いまちょうど木戸孝允が調髪を終えて帰っていったところだと自慢気だった。尾崎は、
「マスター、うちの田舎で新選組の沖田総司が女だったって噂《うわさ》があるんですよ」
山崎は一瞬電話の向こうで絶句していたが、とりなすように、
「尾崎君、変なこと言うんじゃないよ」
「いえ、ほんとです。それもとても高貴な生まれの女の人だっていいます」
山崎はまた絶句し、電話は切られてしまった。
石川島は萩の港から船にのって三時間もかかるところだ。日本海の荒波に尾崎が船酔いでフラフラになったころ、霧に煙る小さな島が見えてきた。
「お客さん、着きましたよ」
まっ黒に日焼けした船頭が足元のおぼつかない尾崎の手を取った。
この島には山肌に段々畑がすきまなく作られ、植えられているのは殆《ほとん》どがヒエやアワだ。石ころだらけのひからびた畑だった。耕している百姓たちの足もやせている。彼らの顔のシワの深さがこの土地の貧しさを物語っていた。
尾崎はさっそく畑の中にある粗末な木造の役場に行ってみた。
「桂小五郎?」
黒い眼鏡をずり上げた若い職員はさも面倒くさそうに聞き返した。
「そんなもん、この村にはおらん」
「木戸孝允のことです」
「ああ、だったら在の小五郎じゃ」
「どういう人だったか、教えてくれませんか」
「わしはよう知らん」
職員はつっぱねるように言った。そそくさとその場を離れようとするのを尾崎は腕をつかんで、
「知らんといって、参議木戸孝允を知らんはずはないだろう」
「知らんもんは知らんのじゃ」
尾崎の腕を振り払うと、
「小五郎は偉うなってもこの村に道路一つ作ってくれん、橋一つかけてくれんかった」
まるで木で鼻をくくったような態度だ。他《ほか》の職員もしらん顔を決めこんでいる。
と背後から、
「尾崎さんじゃありませんか」
「あ、円朝《えんちよう》さん」
新作、『牡丹灯籠《ぼたんどうろう》』で大当たりをとった落語家|三遊亭《さんゆうてい》円朝が赤、黒、緑の派手な縦縞《たてじま》の着物でニンマリしていた。
正体のわからない男で、年は六十とも七十ともいうがまだ四十過ぎにしか見えない。ツルツル頭でシワひとつない面長の顔の血色が良かった。
「ちょうど新作の仕込みで津和野《つわの》に行ったもんですからね、帰りにこの辺でおいしい魚でも食べようと思っておりました。尾崎さんはどうして」
「実は」
一部始終を話すと、懐手した円朝はニヤニヤして、
「あの時代は何があったっておかしくない時代でしたよ」
「しかし、沖田総司ってのは無類の人斬りと恐れられ血も涙もないやつだったと言われているのに、それが女だったなんて信じられますか?」
「みんな必死に生きたってことですよ」
円朝は目を細め、しみじみとした笑いを浮かべた。
「そこの岬に喜助《きすけ》という人がいますから聞いてみたらどうです。昔、吉原《よしわら》に坂本さんが逗留《とうりゆう》してたとき、そこの女郎屋の下足番をやってたといいます。じゃ、あたしはこれで」
そう言うと円朝は、風に吹かれるような足取りで去って行った。
尾崎が岬めざして曲がりくねった坂を登ると、小さな灯台の下に、言われた通り、ヨボヨボの老人が海を見ていた。海草がビッシリとついた磯《いそ》の岩に暗い波がぶつかって、泡が高く散っていく。ドーン、ドーンというその音が海の底から遠い太鼓の音のように聞こえてくる。吹きつける風は激しく、老人の粗末な服がバタバタとあおられていた。
尾崎が用件を告げると、喜助は喜んで岬の大きな松の下にある粗末な掘っ立て小屋に案内した。
「小五郎が人殺しをした? あいつはそのくらいする男じゃ」
「くわしく話してくれませんか」
「そうじゃな」
喜助はハゲた頭をツルリとなで、遠くを見てなつかしむように、
「池田屋《いけだや》騒動も小五郎がしくんだことじゃて」
「えっ?」
「わしゃ、江戸は吉原で下足番をしとってな。坂本先生を追いかけて京にいっとった」
「はあ」
「わしはよう覚えておるが、池田屋で会合がはじまるのは八時ごろだった。そのちょっと前に小五郎が池田屋に来た。けど、だれも来てなかったので皆が揃《そろ》うまで時間をつぶそうと対馬《つしま》屋敷に行くと言い残して去ったというんじゃ。しかし、そげな大事な会合、どうしてほんの半刻《はんとき》(一時間)くらい待てなかったんじゃろな。そして集まりがはじまり、新選組に襲われたのはおまえさんも知ってのとおりじゃ。しかし、その時間がどうもおかしいんじゃ」
「と、言うと?」
「襲われた時間は十時じゃった。おかしいとは思わんかね。ちょっと対馬屋敷で時間をつぶすと言った小五郎はとうとう戻ってこんかった」
日本海の波がザーッと大きな音を立てて引いていった。ギョッとするほど鋭い鳴き声をあげてカモメが飛び立った。
「…………」
「池田屋で死んだ人間は、吉田松陰《よしだしよういん》の愛弟子《まなでし》の吉田|稔麿《としまろ》、吉田松陰の親友じゃった宮部鼎蔵《みやべていぞう》、久坂玄瑞《くさかげんずい》の親友の杉山松助《すぎやままつすけ》――長州のおもだった人材をほとんど失ってしもうた。もし、吉田たちが生きてりゃ、小五郎なんて石川島出の小物がデカイ顔できるはずがない。人を殺したって? 人間必死に生きてたら、そのくらいはする」
そして喜助は、涙でグシャグシャの顔をこぶしでぬぐい、
「が、そんなことはどうでもいい」
と、吐きすてた。
「あいつら一番許せんのは、土壇場で坂本先生を裏切ったことじゃ。わしは最初から小五郎に気いつけて下さいと先生に言うとったんじゃが、先生は疑うことを知らんお人じゃったからな」
「あいつらというと?」
「桂や西郷《さいごう》や勝《かつ》たちじゃ」
「しかし、彼らは明治の……」
「なにが明治じゃ! 年号は『自由』に決まるはずだったんじゃ!」
「『自由』?」
「そうじゃ。どいつもこいつも坂本先生に恩を仇《あだ》でかえすようなことしおって」
喜助は目やにのついた目からボロボロ涙をこぼして話を続けた。
「とにかく、坂本先生にあれだけ世話になったんじゃ、せめて年号ぐらい坂本先生の顔をたて、『自由』にしてやったらよかったに」
「…………」
「先生は楽しみにしとった。『新しい時代の年号は、自由元年じゃ。こん土佐の坂本龍馬が命名するんじゃ』とわしみたいな下足番にまで毎日のように話しかけてきてな。『自由ってなんですか』と聞くと、子供のように笑って、『自らをもって由となす。武士もない、町人もない平等の時代がくるんじゃ。自由はええぞ』ちゅうてな。『早く来たらいいですね』と言ったら、ほんとうにうれしそうな顔で、『まかしとけ、わしが作るき』とゴシゴシ頭かいてなあ、ほんに剛毅《ごうき》でやさしいお方じゃった」
尾崎は喜助の激情が静まるのを待って、恐る恐る聞いた。
「あのう、もう一つお聞きしたいんですが」
「なんじゃ」
「沖田総司が女だったってのは本当ですか」
「ありゃ、女じゃない。女だったらあれほど好きだと言われれば坂本先生の心を汲《く》んどるはずじゃ。それを坂本先生に手の一つも握らせんといて。まったく女は分からん。坂本先生が日本にとってどれだけ大事な方か分かっとったら、おなぐさめするのが筋じゃ」
と、背後から、
「また愚痴が始まった」
腰の曲がった小さな老婆が声をかけた。少し目つきがおかしいのはボケているからか。
「おっ、玉乃《たまの》さん」
玉乃は、江戸吉原の女郎屋『桔梗《ききよう》』で女将《おかみ》をしていたという。
「愚痴じゃなか。坂本先生の無念を思うと、かわいそうでかわいそうで」
「さっ、泣かんと。お客さんに酒もすすめんで。さっ、お客さん、一杯おやりなさい。寒いじゃろ」
「はあ」
玉乃はしみの浮きでた細い手で酒をついだ。
尾崎は湯呑《ゆのみ》をとりあげ、飲もうとしてギョッとした。
「あっ」
湯呑の底の、まっ赤な歯茎にくっついた黄色い歯が目に飛びこんできた。入れ歯だった。
「入れ歯酒じゃ。坂本先生がよう飲んでくれた」
玉乃はしみじみ言った。その口元に、かつて吉原の女郎屋をしきっていたという女の色香がかすかにうかがえた。
2 浦賀沖
群青色の海に、一隻の小舟が漂い、夜明けをじっと待っている。
と、水平線が空との境界を分かち始め、波間の彼方《かなた》に金色の太陽が姿を見せ始めた。同時にさわやかな風が立ち、夜の間たちこめていた乳白色の濃い霧を少しずつ吹き払っていった。
キリリと口を結んだ若者が手をかざし、その水平線の彼方を見、吐き捨てた。
「フン、アメリカ合衆国がどれほどのもんですかいのう」
帆を立てた小舟には、十人ほどの若者が乗っていた。しゃべっている言葉から長州藩の者たちだということが分かる。その着ているものは、若いながらも藩の重役であることを示していた。
「しかし、アメリカの手を借りずとも、我が長州藩で十分|徳川《とくがわ》を倒すことはできるのではないですか」
「それはそうじゃ。が、薩摩《さつま》藩と手を組まれるとまずい、という殿の御判断だ」
このときの長州藩に、徳川をなくし、藩そのものをなくし、デモクラシーという新しい政治形態を取り入れるという坂本龍馬の発想はない。徳川にとってかわり、長州藩主|毛利敬親《もうりたかちか》を征夷《せいい》大将軍として幕府を開くことを考えていたのである。
「薩摩の芋侍《いもざむらい》ごときに何ができる」
「そうじゃ、そうじゃ」
と、船尾で腕組みし、一人静かに目を閉じていた男が、
「めったなことを言うでない。薩摩には西郷|吉之助《きちのすけ》がいる」
西郷吉之助、のちの西郷|隆盛《たかもり》は一介の下級侍でありながらその人望を藩主島津|忠義《ただよし》に嫉妬《しつと》され、うとまれて離れ小島に流されていたが、赦免され、今は薩摩の代弁者とも言うべき存在である。
「山脇《やまわき》殿、あのギョロ目、デブダヌキがそれほどのものですか」
「ああ、人物じゃ」
「わたしら、ただの女好きな男としか聞いておりませんが」
「それが、西郷の大きさよ。西郷から目をじっと見られ、ものを頼まれたらもう、断ることなどできぬ」
山脇といわれた男は、何を思い出したか、おかしそうに笑った。
「しかし、山脇殿、人材なら長州だって負けはしません。吉田松陰はじめ、久坂玄瑞、高杉晋作《たかすぎしんさく》、吉田稔麿と、キラ星のごとく精鋭が出ております。そして、なによりわが山脇|藤助《とうすけ》がおります」
「いっ、いや、それは買いかぶりじゃ」
山脇藤助の家は代々|浜松《はままつ》の漢学者であった。藤助は『論語』の専門家で駿河《するが》の沼津《ぬまづ》で塾を開いていたが、その講義は明快なことで世に知られていた。
噂を聞いた江戸の長州屋敷に請われて講義をしたことがあった。ときの藩主、毛利敬親がそこにいて感心し、ぜひ長州に来いと誘った。その厚いもてなしに、藤助は代々の研究の成果がやっと日の目をみたと喜んだ。
長州で藤助の塾は繁盛し、毎日たくさんの人が講義を聞きにつめかけた。屋敷を与えられ、藤助は妻子を浜松から呼びよせた。
講義だけではない、あまたいる長州の天才や秀才を取りまとめる才能が藤助にはあった。吉田松陰と親交を結び、その弟子たちの面倒をみた。真面目な学者肌でおだやかな性格の藤助は、激情に走りたがる長州の若者にとってまさに孔子《こうし》のような存在だった。
西郷隆盛とは江戸薩摩屋敷で知り合っている。聞き上手の西郷とはたちまち意気投合した。年上の西郷が山脇の言うことを素直に聞く様子はあちこちで評判になった。
「いずれは薩摩と長州が手を組んでことに当たらねばならぬ時がくるだろう」
「そんなバカな」
「たしかに長州一藩でも徳川を倒すことができる。しかし五年はかかる。その時間がおしいのだ。薩摩と手を組めば、二年、いや一年ですむのだ」
「薩摩とだけは手を組むことはないと思われますが」
「だから西郷吉之助がいるというんだよ。彼なら長州の顔を立てて手立てを策してくれるだろう。なあに、島津公に長州に出向いてもらい、毛利公の前で頭を下げさせればすむことよ」
「なるほど。さすが山脇殿」
「さすれば徳川幕府など、何ほどのことはなくなる。ハハハ」
後に大久保利通《おおくぼとしみち》をして、『山脇、小物なれど薩摩、長州に人望厚き男にて候。そのとき双方等しく付き合えるのは稀《まれ》なることにてござ候えば、生きておれば薩長連合の功少なからじと存じ候』となげかわしめた長州の逸材、山脇藤助の命運は、しかし、この浦賀《うらが》沖で尽きている。
山脇は目を細め八文字ひげをなで、あたりを見回し、
「徳川からの船は来てないか」
「はい。何も見えませんが」
「おかしい。あの男が動かぬはずがない」
「誰です」
「勝|海舟《かいしゆう》だ」
おう、という声が上がった。
勝海舟。江戸|赤坂氷川坂《あかさかひかわざか》に在し徳川幕府の最後の切札といわれるこの若者の見識の高さは、日本中に知れわたっている。
「勝は徳川の最期を知って、大政を朝廷にお還《かえ》ししようと思っているえらい男よ」
「なにがえらい男です。ただの腰抜けではありませぬか。私なら、最後の一兵となっても戦います」
「バカなことを言うな。徳川が大政を奉還すれば、勝自身も職を失い、ひいては六十万徳川武士が路頭に迷うのだぞ」
「しかし」
「落ちぶれたとはいえ六百万石を有する徳川が最後まで戦う覚悟をすれば、いかに長州、薩摩たりとも無傷ではいられぬぞ」
「なるほど」
「勝のえらさは、ここは帝《みかど》に政権をお還しし徳川は一大名として忠誠を誓うしか、徳川の生き延びる術《すべ》はないと読んだことだ。その勝の策の深さを我らも知る必要があるというのじゃ」
「帝はそれを受けられますか」
「受ければ徳川は錦《にしき》の御旗《みはた》を持って、長州、薩摩征伐にのりだすことができる。つまり我らは賊軍になるということじゃ」
「それは」
「心配するな。なんのため、長州にこの山脇藤助がいると思う。京に手は打ってある」
「さすがは山脇殿」
「ハハハ」
「しかし山脇殿、勝はまだ二十七歳と聞きます。その者がよく徳川御三家をおしのけ、徳川の全権を預かれたものですな。それほど徳川|慶喜《よしのぶ》の覚えがめでたいのですか」
「覚えがめでたいのは土佐の龍《りゆう》じゃ」
「土佐の龍」
「土佐の脱藩浪士、坂本龍馬じゃ。あやつはどのような宝をもって徳川慶喜公にとりいったか、江戸城の本丸まで出入り自由じゃ」
「フーン」
「慶喜公だけではない。近頃《ちかごろ》は京の帝にも近づいているそうな。あの、男芸者が」
山脇はその顔を歪《ゆが》め悔しそうに吐き捨てた。が、ふと顔を赤らめると、
「それに勝には、美しい弟がいてな」
「ほれ、また山脇殿の稚児好きが始まった」
「なっ、なにを言う。稚児をはべらせるは武士のたしなみじゃ」
「戦国時代ではあるまいし」
戦国時代、戦場に女を連れていけない武将たちは代わりに稚児を置き、美しい稚児を手に入れようと競ったのだ。
「この弟が、美しい顔だちをして、いや、美しいだけじゃない。男を誘う妖《あや》しい色気がある。そして剣が滅法強いときている」
「すると、山脇殿のその眉間《みけん》の傷は、言い寄ってはねつけられたときつけられたのでは」
「いや、お恥ずかしい」
「ハハ」
「しかしなあ、あれは男ではない。女じゃ」
「はっ?」
「なぜ勝家ともあろうものが女を男として育てているのか」
「はあ」
「女と知られるのがまずいからか」
と、戸村《とむら》という若侍が、
「おう、その話は私も聞いたことがございます。その弟、胸の病持ちだとか。労咳持ちは江戸市中に入れぬのご法度ですから……」
「バカな。勝家|直参旗本《じきさんはたもと》三千二百石をもってすれば、町奉行所に無理を通すくらいはすぐできる。もっと深い理由があるのじゃ」
「…………」
「まっ、その話はいずれゆっくりするとして」
山脇は彼方の海を睨《にら》み、
「さて、アメリカは、どの程度の艦隊で来るか」
と、五十トンの長州自慢の『朝日《あさひ》丸』の船体を頼もしそうに叩《たた》いた。山脇藤助ほどの男でも、時の趨勢《すうせい》、アメリカがどのようなものであるかを知らなかった。
「まだ来ぬか」
「はあ」
と、山脇の横にいた男が、
「腹ごしらえでもしとくか。米屋、にぎりめしと酒を持て」
「はっ」
米屋と呼ばれた猫背の男が答えた。オドオドと立ち上がり、船の舳先《へさき》に用意してあるにぎりめしを取りに行った。足音一つ立てず人の間をぬっていくのが、薄気味悪い。
「おい、いくらなんでも米屋はひどいぞ。ちゃんと桂小五郎と名前で呼んでやれ」
「しかし、桂家というのは長州でもれっきとした家柄だろ。米屋、いや失礼、小五郎殿のその顔が桂家の血を引いているとは思えないが」
「だから、遠縁と言っているではないか」
だれもが、その米屋と呼ばれた小男が桂家の家督を買った成り上がり者だと知ってはいたが、コマネズミのようにクルクル働き、女の手引などもするので重宝され、面と向かって蔑《さげす》む者はいない。
山脇が小声で言った。
「おう、忘れていた。米屋、土佐の龍じゃ。坂本龍馬を殺してくれたら藩の重役として取りたててくれるよう殿にとりなしてやってもいいぞ」
「はっ?」
米屋はキョトンと口を開けた。山脇ほどの人格者から、人を殺せという言葉が出るとは。
山脇は、心底龍馬を憎んでいた。
ある日、江戸に出張し、長州の江戸屋敷で殿の御前で講義していたとき、
「それはおかしいぜよ」
と止めた者がいた。ボサボサ頭の若者だった。汚い服をまとい、懐手をして草履《ぞうり》のまま上がりこむと、坂本龍馬と名乗った。龍馬は目をキラキラ輝かせ、山脇の解釈を完膚なきまでに論破し、うろたえた山脇を前にカラカラ笑うと、
「ま、わしは学はないがこれくらいのことは分かるぜよ。西洋の弁証法ちゅうてな、向こうじゃ子供でも知っとる」
言い捨てて、去っていった。
「見事じゃ、さすが龍馬殿じゃ」
と殿を始め、満座がどよめいた。山脇はその場で腹を切ろうとしたが、
「そんなことで腹など切るな。奥方やお子が泣きますぞ」
と止められた。山脇はガバと土下座すると、
「何とぞこのことは内密に」
涙ながらに畳に頭をこすりつけた。山脇はそれを生涯ただ一つの恥辱として龍馬を憎んだ。
そのときのことを思い出したか、山脇の握りしめた拳《こぶし》が震えていた。横を向いた目に涙がたまり、口が醜く曲げられた。
と、霧がすっかり晴れ、朝の陽《ひ》ざしがカッと照りつけると思いきや、『朝日丸』の船体はまっ黒な闇《やみ》に封じこめられた。
「なっ、なんだこれは」
その闇が船の胴体だと気づくまで、小半刻もかかったように思われた。
「あっ!!」
不気味に静まりかえった海上に、突如として四隻の黒船がその堂々とした体躯《たいく》を現したのだった。黒い船体が真夏の朝日にキラキラと輝いた。
長さ九十メートル、三百人乗りの大型蒸気船二隻、もくもくと煙を吐き、船体の中央にある直径八メートルの大きな水かき車が回転し、大量の水をかきだしている。
滝のように落ちてくるその水が波を立て、その余波を受け、『朝日丸』は木の葉のように右に左に激しく揺れた。
『朝日丸』の船上の誰もがその黒い怪物にどぎもを抜かれ、腰をぬかしていた。「アワワ」と一人が声ともつかない声で叫ぶと、それが合図のように皆一斉にかけだし、船底に突進した。
黒い怪物は、いっとき煙を激しく吹き出すと、五十トンの小舟をあざ笑うかのように一声、天をも切り裂かんばかりの音を吐いた。
怪物の横にピッタリ寄り添う帆船は二隻。それさえ長さ七十メートルはあろうかと見えた。怪物たちは、この浦賀沖に初めて現れた艦隊だった。
四隻揃って三本のマストを持ち、その華麗な三角形のてっぺんに大きなアメリカの国旗が風になびいている。
身体を丸め、耳をふさいでいた男たちがおそるおそる船底から顔を出しその正体を知るのに、また半刻ほどもかかった。
その黒い怪物、旗艦サスケハナ号、左舷《さげん》前方の船室で、米国総領事タウンゼント・ハリスは、革張りの椅子《いす》に座り、朝の紅茶を楽しんでいた。ゴブラン織りの布を張りつめた壁の丸窓をのぞいた。
「あれは日本の若者たちか」
「はい。しきりに自分たちは長州藩士と叫んでおります」
紅茶を運んできたデービス士官が答えた。
「夜は薩摩の西郷吉之助というギョロ目の大男が、帝からの親書を携えて面会を申しでてきておりました」
「帝の?」
「贋物《にせもの》らしく、ペリー総督が追い返しました」
「貢物を持ってこなかったからではないのか」
「実はその通りです」
「あの人らしい」
ハリスは苦い顔をした。居丈高のペリーとはソリが合わず、この航海中、ほとんど口をきいていない。
「徳川暮府からは誰も来ぬか」
「はい」
幕府はまだ意見の調整ができないのだろうか。
デービス士官が首を傾《かし》げながら、
「ハリス総領事、日本とは一体どのような国なのです」
「と、言うと?」
「ものの本によれば、日本には政治を司っている幕府というものがあり、もう一方には統治者である朝廷というものがあるということですが」
「うん」
「では、アメリカは一体どちらと交渉をすればいいんですか」
「筋としては幕府を開いている徳川なんだろうが」
「フーン、そもそも幕府って一体何なんです」
さかんに首を傾げるデービスに、ハリスは一口紅茶を飲み、腰を落ち着けると諭すように、
「つまり、日本で一番武力のある者に、帝から征夷大将軍という称号が与えられるのだ。その者が幕府を開き、国を治める権利があるんだよ」
「おかしいな。帝という人がそんな称号を与えるほど力があるのなら、自分で征夷大将軍になればいいじゃないですか」
「その力が帝にないから、いま日本は混乱しているんだよ」
「帝とは一体、何なのです。それはイギリスの王とは違うのですか」
「日本には万世一系という言葉があってね」
「万世一系? どういうことです」
「つまり、日|出《い》ずる国、日本は神代の昔からずっと同じ血を引く統治者に統《す》べられてなければならない、なぜならそれは神だからという思想だ」
「神?」
「ああ。キリスト教とは大分違う神の概念だ。現人神《あらひとがみ》と日本人は言うね」
「わからないなあ、いま帝はどうしているのです」
「徳川から政治に手を出さぬように釘《くぎ》を刺され、歌舞や音曲《おんぎよく》をやらされている」
「フーン。お飾りなわけだ。じゃ、我々は徳川と交渉すればいいわけですね」
ハリスは分厚い絨毯《じゆうたん》の上をせわしげに歩き、まるで講義でもするような口調で、
「徳川は三百年もこの日本を統治している。しかし三百年ともなると当然その屋台骨は疲弊し、緩んで統率力がなくなってくる。そこで水戸《みと》学派の藤田東湖《ふじたとうこ》の説だが、日本の歴史をひもといていくと、もともと日本の国は朝廷のものではないか、征夷大将軍というのはその神ともいうべき帝をお守りする立場なのではないかという考えが出てきたんだ」
「つまり、徳川が今まで帝をないがしろにしすぎたんだと言ってるんですね」
「そうだ。だが、それはたてまえだ。幕府の目を盗んで外国との貿易をして力をつけてきた薩摩藩や長州藩が帝を立てて自らの正義を唱え、徳川を倒し、将軍にとってかわろうとしているだけだ」
かといって、アメリカが徳川を無視して一気に朝廷側と組めば、落ち目とはいえ、徳川も黙っていまい。きっとフランスかイギリスと手を組み、向かってくるだろう。
となると、日本中が混乱の渦に巻き込まれてしまう。
「もう、戦はいい」
アメリカは独立戦争からまだ八十年しかたっていない。今、国でリンカーンが声高に黒人奴隷解放を叫び、南部の連中の怒りをかっている。いつまた戦争が始まらないとも限らない。
「まっ、いい。この話はよしにしよう。私も頭が痛くなる」
「はい」
ハリスはポットからもう一杯お茶を注《つ》ぎ、それをゆっくり飲んだ。
「おう、いいものを見せてやろう」
と、黒檀《こくたん》でできた重厚な本箱の扉を鍵《かぎ》で開けると、オランダ人のルーディック博士が編集した写真集、『日本の刀』を取り出し、拡《ひろ》げた。
「どうだ、これが日本刀だ。美しいだろう」
「はい」
「いつ見ても美しい」
ハリスは目を細めて言った。
デービスは、長身を折り曲げ、食い入るように写真に見入った。
「これは関《せき》の孫六《まごろく》という男が作ったものだ」
「はあ」
刀身に白く光る美しいさざ波模様の刃文がハリスの心をとらえて放さない。形の美しさは何に譬《たと》えればいいのか、西洋の剣とは違い、かすかにカーブを持ち、それでいて豪放さがある。刃文から反射する光は柔らかでいて残忍である。刃をじっと見ているとめまいさえする。そして凝った細工の柄《つか》の美しさ。柄に巻かれたヒモの間から美しい自然の景色が見え隠れする。
「日本人の手先の器用さは天才的ですね」
「ああ」
ページをめくるたび、デービスは美しいと感嘆の声をあげた。
「しかしデービス君、日本にはもっと美しい刀があるんだよ」
「えっ?」
デービスはページをめくってみた。
「どれですか」
「写真はない」
「えっ?」
「銘を、菊一文字《きくいちもんじ》という」
「菊一文字?」
「あいにく写真は残っていないが、ルーディック博士はその美しさと妖艶《ようえん》さは、筆舌につくしがたいということを特別に書いている」
「へえ」
「言い伝えではね、菊一文字は代々、帝に女の第一子が生まれたとき、その子に授けるものだと言う」
ハリスは紅茶を口にふくみ、最後の解説のページをひらき、オランダ語の解説を読んでやった。
本の著者、ルーディックはその菊一文字の中の最高のものとして、なぜか生まれてからすぐ捨てられた帝の第一皇女、菊姫《きくひめ》に下しおかれたといわれる『菊一文字|宗春《むねはる》』を挙げていた。
「なぜ、菊姫という人は捨てられたんです」
「帝の取り巻きの占術者たちが、この子が生きていると国に災いをなすといいつけたらしいんだ」
「ルーディック博士は、その刀をどこで見たんです?」
「二ツ川の河原と書いてある」
「二ツ川?」
「そこの河原というのは、日本の河原|乞食《こじき》の発祥の地でもあり、また河原乞食の多くは肺病という業病を背負っているという。だからそこは日本人には忌み嫌われる場所だそうだ」
「菊姫という人はそこに」
「多分、そうだろう」
ハリスは本のページをめくり、
「ルーディック博士は菊一文字宗春を、河原乞食を束ねる岡田《おかだ》宗家で一度だけ見たと書いてある」
「そこに行けば見られるんですね」
「いや、四つのとき、その女の子は江戸に住む人に引き取られたというんだ。当然、刀も一緒だ」
「フーン」
「だから、今は江戸のどこかにあるはずだ」
「まさか総領事はその刀を見るために日本行きを志願なされたのでは」
「実は、そうなんだ」
とハリスは色白の顔をまっ赤にし茶目っ気たっぷりに頭をかき、また本に目を落とした。
「その刀の由来がここに書いてある」
後世、『母殺し』と異名を取る菊一文字宗春は美濃《みの》の国、八須《はちす》の刀匠、蜂須賀《はちすか》家十三代目の宗春二十歳の時の作である。
菊一文字は代々、この家の当主だけが作っていた。
蜂須賀家は万一不慮の事故で嫡男を亡くした時のことを考えて、男の子二人を必ずもうけることにしていた。
宗春は、十二代目の宗仲《むねなか》と、武家から嫁いできた妻|百合《ゆり》との間に生まれた。しかし、弟は生まれなかった。
それを苦にした宗春の母百合は夫に女を持つことをすすめ、宗仲はひでという若い女を妾《めかけ》にした。妻妾《さいしよう》同居の生活が始まり、宗春に腹違いの弟が生まれた。しかし、父は次第にひでにひかれ、百合はたまらず家を出ていってしまった。宗春、十四のときだった。
宗春は母恋しさをまぎらわせるため、ひたすら刀匠として精進していた。
父が死んだ。
義母ひでは巧みに宗春を誘い、自分との結婚を迫った。そうなれば、自分の実の息子が十四代目を継げるとの算段からであった。
宗春は菊一文字を作れとの書状を受け取るため街に出、そこで偶然実母百合と再会した。身を堕《お》としていてもいい、ただ自分のことは忘れないでいてくれと願った宗春が見た母は、豪華な着物をまとい、女の子の手を引く立派な武士と一緒だった。
「母上」と呼んでも百合は首を傾げていた。
宗春は母への思いのたけをこめて菊一文字を打った。打ち上がったとき、百合が家に来た。自分のことは忘れろ、早くひでと祝言をあげろと言った。
「義母《はは》と縁を結べとは。私は畜生ではございませぬ!!」
逆上した宗春は菊一文字で母を斬り、あわてて逃げようとした義母と弟をも斬り、菊一文字を役人に献上したあと、いずこともしれず出奔したという。
菊一文字は宗春で最後の物となった。
デービスは、やりきれなさそうに首を振り、
「かわいそうな話ですね」
「ああ」
「宗春は、それからどこに行ったかわからないんですか」
「多分」
とハリスはもう一度写真集をめくって指さし、
「この男のことではないかと思う」
「えっ?」
写真のその男は丸顔で、大きな二重の目がにこやかに笑いかけている。粋《いき》に羽織を着こんで軽く腕を組み、その余裕ある様子は満ち足りた商人を思わせる。
「穏やかな紳士ではありませんか」
「名前を和泉守兼定《いずみのかみかねさだ》と変えている。日本を代表する質実な刀を作る男だ」
「なぜこの人が宗春と同一人物と思うのです?」
デービスは怪訝《けげん》な顔をした。ハリスはまた本のページをめくり、刃文を拡大してあるペン画のところを指さし、
「ルーディック博士は二ツ川で見た菊一文字宗春の刃文だけは書き写したんだ」
「ほう」
「和泉守と菊一文字の刃文を見たまえ。微妙なところで類似点があるのだよ」
「ヘエ、私には分かりませんが」
「兼定はきっと菊一文字を作った慙愧《ざんき》の念から、良刀を作ろうとしたのだろうが、その美しさにおいて菊一文字にはとても及ばない。デービス、人間というものは、善の力より悪の力の方がすごいのかもしれないと思うよ」
ハリスの話に耳を傾けていたデービスは立ち上がり、マホガニーの机の上にある美しいブロンドの女の写真を取り上げた。
「この話を聞いたら、姉も喜ぶでしょうね。ホラ、伝奇物が好きですから」
「ああ。彼女は人一倍、好奇心の強い女だからね」
「ハハハ。わがままとはっきりおっしゃったって結構ですよ、ハハハ」
ハリスの妻メアリは、デービスの姉だった。学生時代、デービスの家に一室を借りていて、それでメアリと知り合ったのだった。
「ハリス総領事、一度、姉をガッツーンとやったらどうです。医学の研究、研究といって総領事の世話など一切しないで、父や母たちも総領事に申し訳ないと嘆いていました」
「いや。彼女には医師としての夢があるんだよ」
「しかし、度が過ぎてます。母は、ハリス総領事が他の女の人に心を奪われたとしても文句は言えないと言っておりました」
「そんなことはないさ、私に限って」
「総領事がそういうことをおっしゃるから、姉がつけあがるんです」
「そこを愛したから仕方ないじゃないか」
「もう」
あっけらかんとしたハリスの言いように、デービスが今度は頭をかいた。
と、ドアがノックされた。
「日本が見えました」
東洋人らしき男が興奮した赤い顔で言った。
「そうか。彦次郎《ひこじろう》、なつかしいだろう」
「はい」
「日本は何年ぶりだ」
「五年と四か月ぶりです」
この小川《おがわ》彦次郎という男は土佐の漁師で、出漁中難破し、漂流していたところをそばを通りかかったアメリカの捕鯨船に助けられ、そのままアメリカに渡った男だった。利口な男で、半年で英語をマスターしてしまうと大学に入った。法律学に興味を示し、世界各国の外交政策に精通している。いまではアメリカ人を妻に持ち、二人の子もいる。
ハリスは彦次郎に聞いた。
「ペリー提督は」
「甲板上にいらっしゃいます」
「やれやれ」
あの熊《くま》のような粗野なペリーとはソリが合わない。
「ではデービス君、持ち場に戻りたまえ」
「あっ、これは長居しました。彦次郎、行こう」
「はっ」
ハリスは甲板に出た。光のまぶしさに目をしばたいた。波がキラキラ光っている。日本の海は見慣れたカリフォルニアの海よりおだやかな表情をしていた。暗い緑色がかった青い色で波は穏やかで、豊かさを存分に秘めた海だった。
「おう、きれいだ」
ハリスの美しい金髪が風になぶられ、舞った。と、白い帆を立てた『朝日丸』が見えた。若者たちが懸命に手を振っていた。
と、突然、大砲の音がした。舟が海にめりこむかと思われる揺れがしたあと、小舟はこっぱみじんになっていた。
「あっ!!」
見ると、提督マシュー・ガルブレイス・ペリーが部下たちに戦闘態勢を整えさせている。勲章をたくさんつけた軍服を着こみ、胸を張ってズラリと並んだ九基の大砲を指さし、吠《ほ》えるように笑った。
「一体、何をするのだ!」
「フフ、当てないように、威嚇射撃のつもりだったが」
「生存者を助けろ!」
「よせ。この大砲をくらっては助かりっこない。ハハハ」
ハリスは怒りで胸が張り裂けんばかりだった。
「あなたがた軍人は武力を誇示することばかり考える」
ペリーは赤鬼のように顔を紅潮させ、
「フン。清《しん》の国を見ろ。ほうっときゃフランスだの、イギリスだのが利権を争ってますますわが国の入りこむ余地はなくなってくる。とにかく、この国の絹と石炭だけは、わが合衆国のものとしなければなるまい」
「あなたはトーマス・ジェファーソンの『独立宣言』でも読んで、アメリカの建国の理念をもう一度勉強する必要がありますな」
「なに」
「アメリカがどのような思いで独立戦争をし、勝利を得たのかを思い出して欲しいと言ったのです。もし日本を植民地にしたら、やがて独立戦争が勃発《ぼつぱつ》するにちがいありません。その時、どれほどの血が流れると思うのです」
日本と対等に交渉し、対等につきあうことが、かつて植民地の悲惨さを経験したアメリカが世界に示すべき立場だとハリスは言いたかった。
「ま、待て」
うろたえるペリーを無視し、ハリスは反対側の右舷《うげん》の甲板に向かった。
彦次郎は、波間に浮かぶ小舟の残骸《ざんがい》を見て、泣いていた。
「彦次郎、心配するな。私は、決してこの美しい国を植民地などにはしない」
「はい」
と、海上に小島が見えた。海は暖流と寒流が交わるところなのか、二つの潮の流れが色の違いではっきり分かった。
浜に人が群れていた。この大きな黒船に驚いているのが分かる。
彦次郎は爪先《つまさき》立ちして大きく身を乗り出した。大きな声で、
「会いたいなあ」
「待たせてる女でもいるのかね」
「いえ、そんなんじゃありません」
「じゃ、誰に」
「龍馬さんです」
彦次郎は燃えるような目をしていた。
「リョウマ?」
「いい人です。あの人には、己をむなしゅうして人に尽くす徳というものがあります」
言いながら彦次郎は笑った。あの豪放|磊落《らいらく》さを徳と呼んだ自分がおかしかったのだ。しかし、龍馬が持っているものは、間違いなく徳だ。
「徳――」
ハリスは恥じた。
彦次郎が言いたかったのはきっとこうだ。
その国の徳をつちかうには、すくなくとも百年から二百年の歴史が必要なのではないかと。建国してわずか八十年たらずのアメリカは、国益を追求するあまり、すべてを犠牲にしているのではあるまいか。そんなアメリカに独自の文化が育つには、人が潤い、豊かな暮らしができるようになる時を待たなければならないと。
ハリスはせめて矜持《きようじ》を保とうと笑いを作り、
「会ってみたいですな、その男に」
「ええ。あなたもきっと好きになりますよ。龍馬さんは会う人をすべて幸福にします」
彦次郎は燃えるような瞳《ひとみ》で海の向こうの日本を見つめた。
ハリスはその端整な顔を紅潮させ、澄んだ青い目を輝かせて、
「私も日本は五年ぶりだ」
なつかしそうに目を細めた。
「えっ、ハリス様は日本にいらしたことがあるんですか」
「ああ。学生のころ、オランダ船に乗ってオランダ人に化け、長崎にいたことがある」
ハリスが日本びいきになったのはこのとき以来である。
「そのとき、友だちになった勝海舟という人に誘われ、江戸にも行ったことがある」
「へえ」
「海舟は思慮深く、立派な紳士だった。が、それにもまして勝家の人たちは、みな義に厚く、礼儀正しい人たちだった」
ハリスは彦次郎ににっこり笑った。今ごろ、どうしているだろう、あの海舟の家の人たちは。
長崎から二十日余りをかけ、江戸の勝家に行った。直参旗本三千二百石という立派な家柄だった。大きな武家屋敷で、立派な門の前には門番が槍《やり》を持って立っていた。
通されたハリスは勝家の庭の造形の素晴らしさに驚いた。木々や庭木はキチンと刈り込まれていたが、自然の美しさをそこなうほどではなかった。雑草のような草花を大切に活《い》ける姿に、海舟の母親のやさしさがうかがえた。父親の小吉《こきち》は武士らしい忠義を重んじる人だった。無口だが、ハリスに向ける質問は鋭く、夜遅くまで一緒に酒を酌《く》み交わしたものだった。
その家族が一番愛していたのが、海舟の妹だった。まだ十二、三のほんの娘だったが、なぜか総司と男名がついており、いつも男の格好をしていた。あんなに美しい東洋の女をハリスは見たことがなかった。大きな目で見つめられたときはドキドキしたものだ。
「さて、徳川には誰がいるか。誰が出てきてくれるだろうか」
ハリスは、日本側の交渉相手が勝海舟であればと祈った。
あの紳士なら、無益な血を流さなくてすむ。あれほどの文化を持った国に武力を行使するのは胸が痛んだ。
3 武州日野(一)
そのころ、坂本龍馬は武州日野《ぶしゆうひの》(現在東京都日野市)の姉のおよねの嫁ぎ先に遊んでいた。
龍馬二十九歳。
その器量の大きさで土佐の龍とあだなされるこの男の身の丈は五尺七寸、引き締まった筋肉質の身体に彫りの深い顔立ちをしている。その顔は赤銅色に日焼けし、濃い眉がきりりと輪郭を引き締め、ときおり目が鋭く光る。決して女が振り向かない顔ではない。
「本当にわしが生まれた時、空に龍がのぼっていったんじゃろか」
土佐の家に龍馬を取り上げるため産婆が来たとき、姉たちは外に出され桂浜《かつらはま》に行った。波打ち際で遊んでいると水平線に雲があがり、海から一匹の龍が天めざして駆け昇っていくのを見たという。それはまぼろしだったかもしれない。けれど、姉は確かにそれは龍だったと言っている。
「それにしちゃ、わびしい生活ぜよ」
龍馬は右の腕を袴《はかま》の裾《すそ》につっこみ、股間《こかん》をいじりだした。いっとき腕を激しく動かしていたが、ガバと起き上がると、
「やめた、アホらし」
髪をかきむしり、
「それにしてもむなしいのう。天下の坂本龍馬ともてはやされとる男が。このむなしさはなんじゃろ」
龍馬の立つ藁葺《わらぶ》き屋根の軒下から緑濃い高尾山《たかおさん》が穏やかな曲線を描いているのが見え、そのはるか先には紫色にけむった富士山《ふじさん》の稜線《りようせん》がかすかに望める。
「龍馬さん」
奥の暗い六畳で寝ていたおよねの婿、安兵衛《やすべえ》の母親ツナが声をかけてきた。
「なんじゃい、婆《ばあ》さん、薬か」
「いや、薬はさっき飲んだ」
「じゃ、男のエキスばぶちこんじゃろかいのう。中風なんて一発で治るき」
「ヒヒ。まったく龍馬さんは安兵衛と違うて年寄りを喜ばせることばかり言うて」
ツナはグシャグシャの顔に笑顔を見せた。
「なあ婆さん、安兵衛は大事な跡取り息子じゃろうが。もうすこし仲良うできんのかね」
「フン、実の子かて、キライなもんはキライじゃ」
「いくらキライでも、親子は仲良うせないかんぜよ」
「安兵衛の愚痴聞いとったら、うちの寿命が縮まるんよ」
「寿命て、婆さん、いまいくつじゃ」
「六十五じゃ」
「じゃ、もう死んでええ年じゃ」
「グヒヒ、龍馬さんったら」
「なっ、なんじゃ。わしはイヤミを言うとるんじゃ」
「それが思いやりに聞こえるんよ、グヒヒ」
そしてツナは龍馬をじっと見るとくぐもった声で、
「今夜は二ツ川の祭にはいかんのか」
「祭?」
「こりゃ年寄りのカンなんじゃが、そこに龍馬さんのラブがありそうな気がするんだよ」
「婆さん、ラブが分かるんか」
「よう分からんが、龍馬さんにラブが足りんことだけは確かじゃ」
「ラブが足りんか」
「そうじゃ。身を焦がすような女との恋じゃ」
「フーン。二ツ川になあ」
と、龍馬は左手の山あいを見た。
日野からしばらく多摩《たま》川沿いに山道を上っていくと、川が二つに分かれるところがある。それを村人たちは二ツ川と呼んでいた。
「森に流れる川を親殺し川、森をグルリと回っている川を子捨て川というんじゃ」
「だれがそげなバチ当たりな名前つけたんじゃろな」
「さあな。だが、今日は一年ぶりに総司ちゃんが舞台に立つと言うとった」
「なんじゃ、また総司かいな」
十五年ほどまえ、江戸の講談師|神田水楽《かんだすいらく》が作った『天保《てんぽう》美剣士伝』という作品が、沖田総司というめっぽうきれいで剣に強い女を登場させ評判を呼んだ。街では武家の娘どころか町人の娘まで競って男の格好をし、沖田総司を気取って歩いたという。
「あの人は、そげなまがいもんの総司とは違う。正真正銘の沖田総司じゃ。赤ん坊のとき、労咳持ちの捨てられる二ツ川の河原に捨てられとったというが、なんか高貴な生まれのお方のような気がするんじゃ」
「フーン」
「とにかく、一度あの手裏剣投げをみたら驚くよ」
ツナは、パッパッと手裏剣をよける真似《まね》をした。
「婆さん、やめな。腰違えるぜよ」
「あっ、いて!」
「大丈夫かいの」
「ああ」
「婆さん、そん女とわしがラブするちゅうんか」
「そうじゃ」
「イヤじゃ。わしは、そげな刀さしとるようなきつか女は好かんぜよ。やっぱ女はやさしゅうて、おとなしゅうて男を立てる女がよか」
「これは龍馬さんらしくもない」
「いや、これが男の本心じゃ」
「そうかの」
「当たり前じゃ」
「わしゃ、龍馬さんを見損のうたわ」
「わしのなんを見損のうたんじゃ」
「だって、龍馬さんは言いよったじゃなか。デモクラシーになったら、女は男に寄り添い包み込まれて生きようとしたらいかん。夢も男も自分のほしいと思うもんは、自分の手で勝ち取るようにならにゃいかんと」
「ま、それはたてまえじゃからな」
「もう、なさけない」
襖《ふすま》をピシャリとしめてツナは出ていった。
「そうか、わしにはラブがたりんか」
と、突然稲妻が光った。遠くで雷の音がしたかと思うと、急にあたりが暗くなった。あっというまに雷鳴が近づくと同時に、ものすごい勢いで雨が地面を叩きつけた。龍馬はあわてて土間に駆け込んだ。
と、姉のおよねが桑《くわ》の葉を入れた大きなザルを持って畑から走ってきた。姉さんかぶりにした手拭《てぬぐ》いが雨で濡《ぬ》れている。
「龍ちゃん、何が足りんのじゃと?」
「婆さんがラブだと言うとった」
七か月の身重のおよねは、その大きな腹を大儀そうにさすって、
「けど龍ちゃん、ラブならようしとったんじゃなかね」
龍馬は思い出すのもイヤというように顔をしかめ、
「お梶《かじ》のことか。フン、あげなもんラブじゃなか」
「ウフ、お梶ちゃんからふられたもんじゃから」
みるみる龍馬は赤くなった。
「姉ちゃん、ありゃ、ふられたんじゃなか。わしがふってやったんじゃ」
「うそばっかり」
「うそじゃなか。お梶みたいなアバズレにとっつかまった徳次《とくじ》がかわいそうじゃ。徳次んとこの船宿はじきつぶれるぞ」
目の大きい小柄なお梶は、いつのまにか船宿をやっていた徳次とできていた。
「龍ちゃん、やさしすぎるんよ」
「やさしすぎると言うても、あんとき、わしが身を引かんかったら二人で死ぬと言いよった」
「ハハ、あれは狂言よ。あのしたたかもんの二人が死ぬかいな」
「もう、女はどいつもこいつも嘘《うそ》つきじゃ」
「ハハハ」
「しかし姉ちゃん、わしはなんでこうもてんのかいのう。お梶だけじゃなか。お孝《たか》もお富《とみ》もみんなわしから離れていった」
「さあ、なんでじゃろな」
「お富なんか、二人でよう花見とか海に行ったんじゃ。しかし行っただけじゃ。わし、好きで好きでたまらんじゃったけど手も握れんかった。でもな、一年たって、わしの一番の親友の伊作《いさく》が、あのときのお富とやってやりまくったと言うんじゃ。『おとなしい顔して後ろからやってくれとせがむんじゃ、龍馬、おまんもやったじゃろ』と言われてな」
「ハハハ」
およねは吹き出した。龍馬はすがるような目をして、
「笑わんでくれち。これはわしには大切なことぜよ。わしは三日三晩泣きとおした。なんでじゃろ。どうしてわしはもてん? わしのどこに魅力がないんじゃろ」
「なんでじゃろなあ」
「わしゃ、結構二枚目じゃろ」
「そうじゃな」
「性格も明るいぜよ」
「そうじゃな」
「それでも女の中心を捕らえられん」
「そうか」
頭をゴシゴシかくと、
「いくら勉強しても、いくら偉うなっても、女にもてんかったら生きとる意味がないわな」
「また、大げさに」
「大げさじゃないき。しかし、女もいかん」
「なんがいかんとね」
「ええか。この日本をデモクラシーにすることができるのは、恐らくわし一人じゃろ。わしが死んだら、恐らく日本の開国は百年は遅れる。言わば、わしは日本にとってかけがえのない男じゃ。だったら女の方から近づいてこないかん」
「ハハ、龍ちゃんのうぬぼれには負けるわ」
雷は遠くに去っていった。雨がやみ、カッと日がまた照りつけると、それを待っていたのか、セミがわんわんといっせいに鳴き出した。
「あっ、忘れとった。龍ちゃんに手紙がきとるんよ」
胸から封書を取り出し、手拭いで紙にしみこんだ汗を拭《ふ》くと龍馬に手渡した。手紙は、江戸の勝海舟からだった。
勝海舟は龍馬より二つ下で、龍馬を師とも兄とも思って慕っている。京都に龍馬がいたとき、その塾に来て意気投合したのだった。
「ふうん、黒船が来たか」
手紙には、黒船に右往左往する江戸城の様子や、蜂《はち》の巣をつついたようになった街の様子が書いてあった。
「山脇が死んだ? 誰だったかの。ああ、あの山脇藤助というイカサマ学者か」
とつまらなさそうにつぶやいて手紙を放《ほう》り、両手で顔の汗をぬぐうとその手を袴で拭いた。
七月の強い日があちこちの水たまりに照りつけ、ギラギラ反射した。風はそよとも吹かず、まっ赤な鶏頭《けいとう》の花の色が暑さをいや増している。
「しかし、日野は暑い」
「内陸じゃからね」
「氷水が飲みたいのう」
「氷水などぜいたく言うたらいかん」
「なにがぜいたくじゃ。姉ちゃんの好物だったじゃなかか」
「ここじゃ、逆さになってもそげんもんは飲めん」
土佐の坂本の家では地下に氷室《ひむろ》があった。長州の鍾乳洞《しようにゆうどう》の奥から取り出してきた大きな氷をむしろで巻いて地下の塩の山にいれておくと真夏になっても氷水が飲めた。土佐では一、二を争う大きな質屋である龍馬の家だからできた贅沢《ぜいたく》だった。
およねは大きくため息をつき、
「安兵衛の家がこげん貧乏百姓とは知らんかったわ」
龍馬はまた汗を拭い、
「やめんか。聞こえたらどうするんじゃ」
「心配せんでいいよ。婆さん、耳が悪い」
「悪うないぜよ」
「えっ?」
「しかし、たしかに姉さんを嫁にもらいにきた時と、話が違うわな」
龍馬はその特徴のあるアゴをなで、目をパチパチさせてあたりを見回した。
たしか、この家が二番目の姉のおよねを土佐にもらいにきたときは、三町歩はある大きな農家だという話だった。小作人も何十人かいて、蔵は四つか五つと言ったはずだ。女中もいるから何もせんでええということだった。日野は土佐からあまりにも遠かったが、遠縁にあたるので坂本の家でも安心して嫁に出したのだ。ところが、ここに来てみて驚いた。家は五人も入ればいっぱいという二間しかない小さなもので、そこに姑《しゆうとめ》、小姑《こじゆうと》あわせて八人も住んでいる。
「そろそろ、江戸城にいる慶喜公に会《お》うとかんといかん。京にも行って帝と会うとかないかん。将棋の相手がいのうなって、さみしがっちょるやろ。忙しいことじゃ」
「帝が?」
およねは目をむいた。が、龍馬はこともなげに、
「ああ、まだ十二じゃがわしと仲良うてな。龍馬といるのが一番楽しい、龍馬と将棋をしたい、相撲《すもう》をとりたいと言うてくれる。まあ、誰だってあんな京都の公家のバケモンどもからとり囲まれとったら、わしんごたる裏表ない男と話がしとうなるのも無理はなか。しかし、わしゃ男にはもてるんじゃがな、女はダメじゃ。近頃の女は努力がたりんのじゃないかなあ」
およねもさすがにこのホラには呆《あき》れ返り、
「龍ちゃん、そういう話は姉ちゃんの前だけでしいや。他の人の前で言うたら、気がふれたと思われるき」
「なんでじゃ」
「なんでじゃなかろうが! このホラ吹きが!」
いい加減にしろとばかり、持っていたザルを叩きつけた。
龍馬はまたボリボリと頭をかくと、
「姉ちゃん、わしはホラ吹きじゃないき。フリーダムはわししかできんき」
「なんね、フリーダムちゃ」
「平等の時代なんじゃ」
「平等?」
「つまり、なんというたらいいか。武士も町人もないちゅう時代なんじゃ。そんな時代が来る言うんじゃ」
「どういうことね」
「つまり、人間は生まれながらに平等ということなんじゃ」
「フン、ほんまかいの」
およねは疑わしそうな目で龍馬を見、縁側に尻《しり》をおろしてつぶやいた。
「彦次郎さんもアメリカのフリーダムを満喫しとるのかね」
「ああ、アメリカはフリーダムのメッカじゃきのう」
「男は薄情じゃ」
「彦次郎は薄情者じゃなか。難破したからしゃあない」
「助かったんじゃったら、なぜ戻ってこんの」
彦次郎はおよねの婚約者だった。
「日本は鎖国をしとるんじゃ。この日本には帰って来れん。見つかったら、その場で首はねられるき」
「首はねられたって、うちのこと本当に愛しとったら帰ってこれんわけない」
「そげな無茶な」
「無茶じゃなか。アメリカのその金髪女っちゅうのに入れあげてうちのことなんか忘れてしもうたんや」
「金髪女? なんでそんなこと知っとんじゃ」
「龍ちゃんが夜中、フトンの中で彦次郎が送ってきた金髪女のポルノ見とるの知らんと思っとるんか」
「あっ」
龍馬の顔がまっ赤になった。
「フン。男はまったくいいかげんじゃ。そのうち、女も開き直るようになりゃ、泣きをみるき」
「開き直る?」
「だれが好きで炊事や洗濯をしとると思っとんじゃ」
「好きでやっとるんじゃないのか?」
「アホ言うたらあかん。女だって外で侍やりたいんじゃ。商いだってやって金をあちこち動かしてみたい。漁船で難破してアメリカに行きたいわな。たまたま女だっちゅうことで、えろう損なことじゃ」
およねは今まで胸にたまっていたものを吐き出すようにしゃべっている。
いつのまにか、青い空に入道雲がむくむくとわいていた。
「ああ、うちも京都に行ってお国のために働きたい」
「行けばいいじゃなかね」
「そうはいかん」
「なんでじゃ」
「女は我慢せなしゃあない」
たしかに女は我慢している。そして百姓は武士に我慢し、武士は藩に我慢している。藩は幕府に我慢している。世の中そうなっている。しかし、その先はどうなるのか。そして逆に我慢させているものの正体は何なのだろう。
龍馬はアゴをなでながら、
「なんで女は我慢せないかんのかいの」
「昔からの決まりじゃ」
「決まりか」
「決まりじゃ」
「誰が決めたんじゃ」
「そんなこと、知らん。母ちゃんもその母ちゃんも、そのまた母ちゃんもみんながそうしとったんじゃ」
「フーン」
と、「先生!」と叫んで若い男が飛び込んできた。弥一《やいち》だった。ヒョロリと長い身体の上のうりざね顔がまっ赤になっている。むき卵のような額に小さいとき喧嘩《けんか》した傷あとがあった。
「どうした、弥一」
「大変です」
どもりがちに答えた。
弥一は、ここによく来る仲間の中でも一番龍馬に傾倒していた。いつか教師になり、世の中の役にたちたいと思って、夜遅くまで勉強をする努力家だ。
「だから、何が大変なんじゃ。水でも飲んで落ち着かんかい」
弥一は土間の瓶《かめ》から水を汲み、ゴクリと飲み干すと、
「留吉《とめきち》が女の子裸にして写真を撮って、村の皆から袋叩《ふくろだた》きにされてます」
「あん?」
「まったく、このへんの百姓どもにはアートとポルノの差が分かりません。先生、一度じっくりアートについて講義してやって下さい」
龍馬はやりきれなさそうな顔をした。
「バカにアートとはよく言ったもんじゃ」
「はっ? 先生、どういう意味ですか」
「なんでもなか。さっ、助けに行くかいのう」
と龍馬が立ち上がろうとした時、
「ホラ吹きがまだおるんかいの」
背中に桑の葉をいっぱいしょって野良仕事から安兵衛が返ってきた。
その声におよねがゾッとしたような眼差《まなざ》しを向けた。
安兵衛は目つきが悪く、性格もこすっからい男だった。しかし、そんなことはどうでもよいと龍馬は思っている。人間、長く生きていればこすっからくもなるし、そうでなければ生きられない人間もいる。安兵衛は手拭いで汚れた手足をふきながら、
「龍さん、わしゃ困っとるよ」
「なんですか」
「近藤寺の勇たちに教えるのはヤットウだけにしてくれや」
「ヤットウだけ?」
「とにかく、龍さんがこの村に来て、若い者どもが落ち着きがのうなって困ると庄屋《しようや》さんが弱っとる」
「そりゃ、すまんこって」
「ここは土佐とは違うからして」
その安兵衛の言葉におよねがキッとなって、
「土佐と違うってどういう意味ね」
「なんじゃ、その言い方は。亭主に向かって」
「フン」
「まあまあ」
龍馬は割って入った。
多分、安兵衛は南国の土佐人が持つ明るさや、坂本家のような裕福な家に育った者の屈託のなさに負い目を感じているのだろう。
「姉ちゃん、安兵衛兄さんも疲れとんじゃ。もっとやさしい気持ちになってやれや」
笑いながら言う龍馬を弥一はじっと見た。どうしてこんな安兵衛のようなゲスな男にまで機嫌よく話すことができるのか、不思議だった。弥一の父などは、そんな人間など見向きもしないに違いない。これが龍馬のえらいところだ。人に対して心が開いている、というか寛容の心が並みはずれて大きいのだ。
龍馬はとぼけた顔を弥一に向けると、
「おまん、先に行っとれや」
「はっ」
弥一は龍馬に礼をすると、駆け出していった。安兵衛は舌打ちし、
「とにかく、若いもんに変なこと吹きこまんでくれや」
「変なこと?」
「この前、徳川がなくなると言うたろ」
「ああ」
「そんな、徳川がなくなるなんてことあるものか」
日野の田舎からみれば徳川は江戸である。その江戸が蚕《かいこ》を買ってくれる。養蚕《ようさん》と稲作以外に食べていく道のない百姓にしてみれば、徳川がなくなるなど、思ってもみないことだった。
「龍さん、ここは日野じゃ。世の中がどうこうとか、アメリカがどうこうとか言うてみても、こんな田舎でそんなことしょうもない」
「田舎だからわしゃしゃべっとんじゃ」
「純真な田舎もんをたぶらかすなということじゃ」
「いや、国を憂う気持ちは都会におる人でも、田舎もんでも同じじゃなかか」
安兵衛はうさんくさそうに龍馬を見て、
「あんたが来て皆、国を興すんじゃと京都に行きたがって困っとると庄屋さんから言われたぞ。留吉は女を裸にして写真を撮りよる。あいつはまだ十九だぞ。桑も刈らんとアートちゅうのをやるんじゃと言いよって。特に勇には困ったもんだ。寺つぶしてレストランちゅうのをやりたいと言い張ってからに」
「いいことじゃ」
「よかない。そんために自分の寺の賽銭箱《さいせんばこ》から金盗みよった」
「ハハハ」
龍馬は木に吊《つ》るされた近藤の姿を思い出し、笑った。賽銭泥棒がバレて仕置きされたのだ。
太った身体が逆さになり、ブラブラ揺れていた。まっ赤になった近藤の顔がますますふくれあがり、助けに行った龍馬は吹き出さずにはおれなかった。
安兵衛はそんな龍馬に腹を立て、つかみかかるように、
「第一、レストランってのは何なんだ」
「つまり、洋式の料理屋じゃ。そこじゃ、ステーキとかスープとかを料理して食わせるんじゃ。料理長はシェフちゅうてな、白い大きな帽子かぶって、糊《のり》のきいた白い服着て料理するんじゃ。近藤はそれがきっとよう似合うじゃろな。あいつのことじゃ、友だちが来たら金なんか受け取らんで、あれ食え、これ食えちゅうて御馳走《ごちそう》するに決まっとるき」
龍馬は嬉《うれ》しそうに説明した。近藤は太っ腹な男で、金を盗んで菓子を買ってもそれを一人で食べてしまうなどとは金輪際考えない。それが龍馬には痛快だ。そしてそんなことを考えているとき、龍馬の目は一段と輝いた。
「またホラ吹きよる」
安兵衛はわざと大声で言った。聞こえたのか聞こえないのか、龍馬はまだニヤニヤしている。およねがかまどに薪《まき》をくべながら、心配そうに龍馬を見ているのがわかる。安兵衛はまたチッと舌打ちして出ていった。
およねは立ち上がると、
「龍ちゃん、あんなんの言うこと気にせんでいいき」
「ああ、けどそろそろいとまする時期かいの」
「すまんね」
「いや。姉ちゃん、わし、京に行って時代を変えるき」
「楽しみにしとるよ」
「ああ。新しい時代はフリーダムじゃ。平等な時代じゃ。それはわしが作るき」
と立ち上がった。
およねが送ってくれた。
薄暗い土間から出ると、外はクラクラするような強い陽ざしだった。
土手にのぼったところで、
「うっ」
龍馬は頭を押さえた。
「また頭痛かいの」
およねが心配そうな声を出した。小さいときから頭痛持ちで、それは頭を抱えてその場にしゃがみこんでしまうほどひどいものだった。
まさに錐《きり》で頭をほじられているようだ。龍馬は目の前がまっ白になった。唇が紫色に変わっている。こうなると、小半刻ほども収まらない。
「大丈夫かの、龍馬」
「ああ。なんか今日は頭が割れそうじゃ」
痛みは丸太で頭の中をかきまわされるようにひどくなった。たまらず、龍馬は土手のまん中で転がり回った。空が落ちてくるような恐怖に襲われた。真夏の日を受け、ギラギラと金色に輝く川の流れにのみこまれるようだった。一瞬、龍馬は白昼夢を見た。それは男の格好をした色白の女が、「やってらんねえよ」と口走りながら男たちに斬りつける映像だった。龍馬はガバと立ち上がった。およねが不思議そうな顔をして龍馬の顔をのぞきこんだ。
「まさか!!」
「どうしたん」
「姉ちゃん、もしかしたら女にも『やってらんねえよ』ということがあったんか」
「何言うとんじゃ」
「『やってらんねえよ』って言いたいことがあったんか。なあ姉ちゃん」
「…………」
「なあ姉ちゃん、教えてくれ」
龍馬はおよねの肩を揺さぶり、必死になって聞いた。
「そんな大それたこと口走る女なんておらんわ」
「本当か」
「本当じゃ」
「じゃ、安兵衛から殴られても当然じゃと思っとるのか」
「あたりまえじゃ」
「なんでじゃ」
「そうするもんじゃ、女は」
「わしゃそうは思わんぞ。そんなもんじゃなか。安兵衛だって殴る理由はあるじゃろ。何かつまらないことがあるかもしれん。それで姉ちゃんを殴る。そして姉ちゃんは我慢じゃ。こんな亭主と一緒にいるのがおのれの運命《さだめ》だと思いこんどる。けどな、姉ちゃん、わしは人間はそげなもんじゃないと思うき」
「何言うとんじゃ、龍馬」
「もしかしたら、酒飲みのとうちゃんに殴られてもいつもニコニコしていたかあちゃんも『やってらんねえよ』と言いたいことがあったんか」
およねはコクリとうなずいた。龍馬はおよねの肩をつかみ、
「女だって人間じゃ。『やってらんねえよ』と言いたいことがあったんじゃ。それを我慢しとったんじゃ。しかし、女が『やってらんねえよ』と言葉に出したら、男は、それは一体何じゃったのか、皆で考えてみなきゃいかん。そして、女が『やってらんねえよ』と言わんでいい時代を作らにゃいかんのじゃ」
龍馬の額から汗が吹き出てきた。目を血走らせ、頭をゴンゴン叩きながら歩き回った。
と、向こう岸の竹藪《たけやぶ》に巣があるのだろう、たくさんの小さな鳥たちがにぎやかに鳴きながら飛び立った。龍馬ははたと足を止めるとその音に振り返り、また急におよねに向かうと、
「そうじゃ。平等とは武士も町人もない時代ということだけじゃなか」
龍馬の目がギラギラ光る。
「男も女もない時代ということじゃ」
「へー」
「よし、わしのやることが分かった! よし、これでわしが何のためこの世に生を享《う》けてきたのか分かったぜよ! 女の心の解放じゃ!」
大声で叫んだ。龍馬の全身にフツフツと沸き上がるものがあった。身体が震えだし、汗が背中を濡らした。
龍馬は畦道《あぜみち》を駆け出しながら、叫んだ。
「姉ちゃん、フリーダムとは自由じゃ。自由とは、自らをもって由となすということじゃ。男も女もないということじゃ。女も心のままに生きることができるということじゃ。よし、こん土佐の坂本龍馬が新しい時代、自由元年と名付けたぞ!」
およねはむくむくと盛り上がる入道雲の空を見上げ、そこにかつて龍馬が生まれた時と同じように龍が天高く駆け昇っていくのを見た。
一方、老婆ツナは縁側に立ち、手をかざしてその雲を見ていた。ツナは、祈るような思いだった。駆け去ったその男が二ツ川に向かう左の道に行くことを。あの女と出会うことを。
あと一刻もすれば、その道にある小さな社に龍馬の生涯の伴侶《はんりよ》となるべき女が入っていく。そして、その社で女は、押し倒され、操を奪われるだろう。そして、それがあの愛すべき男でないことを、ツナはその白い雲に見た。
4 武州日野(二)
日野のだだっ広い桑畑《くわばたけ》から青々とした田んぼに続く畦道を龍馬は走って行った。
その道を見下ろすお椀《わん》形の小さな山の途中に、近藤寺があった。そこの台所から、昼飯時はとうに過ぎているというのに、白い煙が上がっている。見ると、かまどに顔をつっこむようにして目鼻のひらいたヒラメのような顔の太った男が火かげんを見ている。
この近藤寺の一人息子、勇である。
空を見上げ、
「しかし、すごい雷と通り雨じゃったのう。きっと二ツ川の労咳持ちどもが乳くり合っとったんじゃ」
とイヤな顔で二ツ川の方を見た。手をこすり合わせ、
「透明ちゅうたら、このくらいのもんかいのう」
鍋《なべ》から鳥の骨を取り出し、残ったスープを布でていねいに濾《こ》した。
「よし」
皿のスープをなめてみた。
「色はまあまあ琥珀《こはく》色になったが、こげん、濾したらコクがなくなるがな」
と不服そうに唇をつきだし、スープを惜しげもなく流しに捨てた。
「坂本先生、わしにウソ教えとんじゃなかろうな」
懐から坂本龍馬から書いてもらった『コンソメスープ』の作り方の説明書を出して見た。龍馬は長崎のオランダ商人の家で飲んだことがあるという。
近藤勇は料理が得意で、包丁さばきは玄人はだしだった。
「大体、スープというのはなんじゃ。味噌汁《みそしる》とどう違うんじゃ」
新しい鳥の骨をタワシでゴシゴシ洗い、沸き立った湯に入れた。
「大切なんは、火かげんと言うとった。そうだ、沸騰させたらいかんのか」
目を皿のようにして火かげんを見つめる。かまどから焦げた薪を引っ張り出し、首をかしげると、また新しい薪をくべた。
父の烈《きよし》が、起き出してきた。烈は、去年卒中で倒れほとんど寝たきりである。
「どうじゃ、勇」
「うまくいかん」
「勇は完全主義じゃからのう」
「ちがう。ただ、わしは料理人としてベストをつくしたいだけじゃ」
「そうじゃ、それが大切なことじゃ」
「父ちゃん、わし、京に行ったらいかんかのう。レストランちゅうもんをつくりたいんじゃ」
「わしは賛成じゃが、母ちゃんがな」
烈は近藤寺の婿養子で、女房のトメには頭が上がらない。
「わしは、坊主なんかなりとうない」
「当たり前じゃ。大の男が坊主なんか、誰がなりたいものか」
「父ちゃんは何になりたかったんじゃ」
「決まっとるがな、二本差しの侍じゃ」
「父ちゃん、これは弥一が言っとったんじゃが、新しい時代になったら刀なんて差して歩いてる奴《やつ》はおらんようになるってよ」
烈は顔をまっ赤にして、
「バ、バカなこと言うな。侍がなくなってたまるか」
「まあ、そう怒らんと。わしが言うとるんじゃない。弥一が言うとったんじゃ」
「弥一のバカタレに何がわかる」
「まあまあ、あんまり気を立てたら身体に毒じゃ」
「ああ。ま、レストランのことは父ちゃんにまかせとけ。近いうちに母ちゃん、説得してやるけ」
「ほんとか」
「ああ。いくら養子だからっちゅうて、男がそうそう女のいいなりになってたまるか」
烈はやせた胸を叩き、奥にひっこんだ。
勇は真剣にスープの出来を見てみたが、また失敗だ。
「やめた、やめた」
とまた鍋の中身をぶちまけ、外に出た。昼八ツ(午後二時)だ。この時間は誰も遊び仲間がいない。
大あくびをすると、後ろの田んぼで、土方《どかた》の歳三《としぞう》が泥の中をはいつくばるようにして草を抜いている。
「おい歳三、まだ終わらんのか」
「うん」
勇の声に、水をかきだしていた与作《よさく》が手をとめた。歳三の雇い人だ。渋い顔をしている。歳三が仕事をしていると、勇がいつも誘いにくるからだった。
「与作、いいかげんで歳三を離してやれや」
「まだ草取りが終わっとらんです」
与作は背丈が低いので、勇を睨む奥まった目が上に向いて、三白眼になっている。
勇はその目が気にいらないという風に、畦を蹴《け》り上げ、
「よし与作、おまえんとこの墓守は近藤寺ではせん」
「そっ、そんな」
「だったら、歳三をはなしてやれ」
「まったく何のため土方を雇っとるんか」
関東には歳三のような土方と呼ばれる田畑を持たない雇われ百姓がいた。いつもはあっちこっちの家の土盛りをしたり、台風が来るたびに決壊する川の堤防工事に土を運ぶ人夫として働く。田植えや刈り入れの時期になると、牛や馬のように泥にまみれて働いた。
ようやく全身泥だらけの歳三が這《は》い上がってきた。肩幅の広い馬面の男だ。勇はブスッとして、
「土方は田んぼ持てんからつらいのう」
「はあ」
つらいだろうと言われても、生まれてこのかた土方だ。歳三は土方というのはこういうものだと思っていた。
「田んぼ欲しいとは思わんのか」
「はあ」
「はあって、おまえには夢はないのか」
夢とは何だろう。
歳三の父はずいぶん前に死んだ。三日間続いた土砂降りの雨に川があふれた。土手が崩れ、その土砂の下敷きになったのだった。明るく、たくましい父だった。つらい仕事でもいやな顔ひとつしなかったから、皆にずいぶん重宝された。そんな父だったのに土方だからといわれて、葬式も出せなかった。母が泣いていた。
夢とは葬式を出せることだろうか。
「坂本先生も言っとったろうが。デモクラシーになったら土方にも田んぼをもらえるって」
「勇さん」
「なんじゃ」
「デモクラシーとは田んぼの名前ですか」
「ちがう。何度言ったらわかるんじゃ。デモクラシーとは考え方じゃ」
「考え方って何ですか」
一体、考え方とは何だ。武士も百姓もなくなるというが、では武士も百姓も一体何になるというのか。新しい時代とは何だ。生まれてこの方、お日様が朝東の空から上がり、夜西の空に沈むのしか見てこなかった。デモクラシーは、お日様のあがるところがちがうとでもいうのか。
近藤も首をかしげ、
「ほんとのところ、デモクラシーちゅうの、わしにもようわからんのじゃ」
「はあ」
「さっ、歳三、坂本先生のとこでも遊びにいこ」
「うっ、うん」
「先生が京に行くときは、わしらを連れて行ってくれると言うちょった。楽しみじゃのう」
「わしは京には行けん」
「なんでじゃ」
「わし、旅費がない」
「バカ。何度言ったら分かるんじゃ。わしがまた、賽銭箱から金盗んで出しちゃるがな」
勇の良さはこのおおらかなところにある。お経一つ満足に読めず、寺では厄介者だが、親分肌で、人を喜ばせることならなんでもやる男だった。
「歳三、とにかくだ、おまえはデモクラシーになったら田んぼもらえると思っとけ」
「はい」
「そしてわしはシェフじゃ」
「シェフ?」
「レストランのマスターじゃ」
「マスター?」
「あるじじゃ。わしのレストランの入口は、つたのからまったれんがのポーチで、中には背の高い椅子を置くんじゃ。ナイフとフォークは銀で揃えるぞ。テーブルクロスは糊をきかせて、まっ白よりも少し色が入ったもんがええな」
「ヘー」
「それでな、テーブルん上に花を一本だけ差した花瓶と小さなローソクを置くじゃろ。これが女の顔をきれいにみせるんじゃ。周りの照明は間接照明じゃ。そのほうが店に温かみがでるからな」
「でも、高そうだなあ」
「いや、誰もが気軽に入れるような店じゃ。大体、決まったメニューというようなものは置かんぞ。そんとき、そんときに入ったネタで料理作るから値段も安くできるじゃろ。わしがあんまり一生懸命安くていいネタを仕入れるから、市場でも評判が上がるぞ」
勇は夢見ごこちでアゴをなでた。
と、ドスドスと音がして畦道を太った大男が歩いてくる。相撲取りになろうと、両国《りようごく》の部屋に弟子入りしたが、褌担《ふんどしかつ》ぎにもなれず、戻ってきた四郎《しろう》だった。
「おう、四郎、どうしたんじゃ」
「母ちゃんから家を出てけって言われて」
「なんでじゃ」
「わしがよう食うんで」
太った頬《ほお》に、涙がポロポロこぼれた。
「しゃあないな。じゃ、おまえ、うちの寺の小僧になれ。そして、わしのかわりに坊主になれ」
「わしゃ、坊主はいやじゃ」
「なんでじゃ」
「寺はおばけが出るき」
「おばけなんか出やせん」
「わしゃ、見た」
「まったく、でっかい図体《ずうたい》して弱虫じゃき」
「でっかい図体はよけいじゃ」
「さっ、坂本先生んとこ行こ」
「坂本先生、わしが関取になったら化粧まわしを買《こ》うてくれると言っとったが、その金くれんかのう」
「図々しいこと言うな」
「だって、わし、おしゃれじゃき」
「だからそれは、おまえが関取になってからの話じゃろが」
「はあ」
と、さっきから首をかしげていた歳三が、
「勇さん」
「なんじゃ」
「新しい時代になったら、相撲なんかあるんですかのう」
「えっ」
「武士も百姓もなくなったら関取もなくなるんじゃないですかのう」
勇は腕を組み、
「いや、それは困る。うちの父ちゃん、相撲だけが楽しみなんじゃ。坂本先生、わしらをペテンにかけたんかな」
「とっ、とにかく、物知りの弥一に聞いてみなきゃ」
と、その弥一が土煙を上げ、畦道を走ってきた。
「大変です。先生が、坂本先生が江戸に帰られました!」
「何? 坂本先生がお帰りなさったと? 日野を離れるときは、わしらを連れて行ってくれると約束してくれたのに。まったく、気まぐれな先生じゃ。弥一、なんで止めなかったんじゃ」
「止めたんです。が、先生は足が早くてたちまち見失ってしもうたんです」
「まったく役に立たんやつじゃのう」
「すいません」
「まっ、仕方がない。おう弥一、一つ聞きたいことがあるんじゃがな」
「なんです」
「四郎が心配してるんじゃが、新しい時代になると、相撲もなくなるんかいのう」
「さあ、それは」
弥一は困って口を曲げた。
「なんじゃ、それもわからんのか。そんなことでティーチャーになれるのか」
「すっ、すいません」
「しかし、なくなるんなら新しい時代も問題じゃのう」
「まっ、どんな時代でも善《よ》し悪《あ》しはあると思うんですよ」
「またおまえはもっともらしいことを言って」
「すっ、すいません」
「が、実際のところ、新しい時代とは何じゃ」
弥一はふところからメモ帳を取り出しページをめくりだした。
弥一は水戸藩の脱藩者だった父の塾で教師見習いをしている。塾とはいっても、来るのは四、五人の子供たちである。父は、その子供たちに教えるというよりはいばりちらすだけに見えた。弥一はそんな父を軽蔑《けいべつ》していた。教育とはそんなものではない。坂本龍馬は言った。自らの意志と情熱によってものの本質を見極める力をつけてやる、それが教育だと。
弥一は咳《せき》ばらいを一つし、
「まず、女の自立があるらしいんです」
「自立って、女が立つのか」
「そっ、そうなりますね」
「恐ろしい時代じゃのう」
と、青い顔をした歳三が、
「勇さん、わし、新しい時代なんか来んでいいです。女が立てとるとこなんか見とうないです」
「まったく土方は気が小さくてダメじゃのう。立ったとこ見なきゃわからんじゃろうが。しかし、女が立つというのは本当だろうな、弥一」
「えっ、まあ」
「じゃが、女の何が立つんじゃ」
「ですから、その」
「まったく、頼りないやつじゃのう」
四郎が、
「勇さん、女のことなら、五助に聞くのが一番です」
「そうじゃの。五助はどうした」
「この前の女のことがバレて、家から出してもらえんとです」
「またか」
髪結《かみゆい》の息子、山崎五助は、女に手が早いので有名だった。
「迎えに行こう。こういうときは、人数が多いほどいい」
四人はいちょうの林を曲がり街に出た。広い通りに面して二十軒ほどの店が並んでいる。その中ほどの井戸の横に、五助の髪結の店があった。
勇はのぞきこんでみた。五助が三、四人の女たちに囲まれて、大声で笑っていた。得意そうに何か話しているのはきっと龍馬から聞いた話だろう。
「おい、五助」
勇が声をかけると、五助は入口に手を振った。
「こっち、来いや」
見ると、五助の着物の裾を女たちがしっかり握っている。
「仕方ないな、もう」
勇は小銭を取り出すと、女たちに与えた。五助を誘うときはいつも金が必要だった。
「ああ、助かった。女どもがうるそうて」
五助はみそっ歯をむきだしにしてニガ笑いをした。この男は店に来た女の客、二人ほどにハラませている。如才なく笑うと愛嬌《あいきよう》があり、年上の女たちが五助目当てに店に来て、結構店は繁盛していた。ハラませても恨まれもせず、五助はこりずにまた次の女に手を出した。
「まったく、こんな猿顔がなんでもてるのかのう」
「勇さん、もうすぐデモクラシーになるんじゃ、男は顔じゃないき」
「ほんとか、弥一」
「さっ、それはどうですかね」
弥一はあいかわらず自信なげに答える。
「まったく、たよりない奴じゃのう」
「いや、僕は確信のあることしか言わない主義ですから」
「フン」
「でも一つだけ言えることは、時代が変わっても嗜好《しこう》だけは変わらないと思います」
「しこうって何だ」
「好みです」
「ヘヘ」
五助はみそっ歯をむきだして笑う。五助の頭に気づいた勇が、
「なんじゃその髪型は。髷《まげ》はどうしたんじゃ」
「フン、髷なんか結ってられるか。これが新しい時代のファッションっていうんだ」
五助は髷を取った頭を自慢そうになでつけた。もとからあまり多くない髪の毛で、それも細いのでいつも雨に濡れた後のようにペッタリしている。
「男がファッションなんて」
「その考え方はおかしいぞ。新しい時代になったら、男もキチンと化粧して女と腕を組むようになるんだ。ほら、これを見ろよ」
五助はふところから本の切れっぱしをとりだした。
「坂本先生からもろうたアメリカのビューティサロンの写真なんだけど」
「なんじゃ、ビューティサロンってのは」
「髪結の店のことじゃ」
五助の差し出した写真には着飾った家族が笑っていた。
「この人たちの髪型見てくれよ」
こちらに笑顔を向けている男の髪は短く切られ、きれいに分けられていた。近藤たちはうなった。
「ほう。女たちの髪も短いのか」
「クルクルしとるじゃろ。パーマネントちゅうんじゃ。しかしこりゃきれいなおなごじゃ。色もまっ白じゃ」
「おいおい、この窓の外に黒いのが写ってるぞ。汚い格好で馬引いてるぞ。いったいなんじゃろな、この人間は」
「アメリカの土方かな」
歳三がポツリと言った。弥一が手を振って、
「アメリカに土方はいません。フリーダムの国ですから」
「日本もフリーダムの国になるんかの」
「それを坂本先生がつくってくれるんです」
「でも、坂本先生はこうも言いよった。所詮《しよせん》、人間は階級闘争じゃと。いくら時代がかわっても、人間の性根ってのはそう変わらんと」
と、「あっ」と弥一が叫んだ。
「どうした」
「しまった。留吉が鎮守の森で縛られとるの、忘れとった」
「バカ! それを早く言わんか。さっ、助けに行こ」
勇たちは走り出した。五助が、
「勇さん」
「なんじゃ」
「今日、二ツ川の祭じゃろう」
「それがどうした」
「芝居が終わって客が河原者たちとなんするか、知っとるか」
「何するんじゃ」
「金出してくれた客とあれやるんじゃがな」
「あれ?」
「男と女のあれじゃがな」
五助は下卑た笑いを浮かべた。
「五助、おまえは女のことばっかり考えとるなあ。坂本先生が言うとったろうが、男は天下国家のためにどげなことが出来るか考えちょれと」
「勇さんは女に興味はないのか」
「いや、わしに興味があるのはレストランのことだけじゃ」
「なんじゃ、そりゃ」
「おまえらに言うても分からん」
と、木の影が揺れ、前に立ちはだかった者がいる。腰に木刀をさし、ギョロッと目をむいたのは関東の河原者を束ねる二ツ川の岡田家の七男、以蔵《いぞう》だった。この辺には勝てる者がいないほど剣が強い。
「あっ、以蔵」
「おまんら、どこ行くんじゃ」
ドスの利いた声で聞いてきた。
「そんなこと、なんでおまえら二ツ川の河原乞食に教えないかんのじゃ」
「なにい」
以前、以蔵に勇たちはしたたかやられたことがあった。
「あっ、いや、その」
「まっ、今日のところは堪忍しちゃる。わしは人を探しとるんじゃ。おまんら、この辺で男の格好をした女、いや若い侍を見んかったか」
「見とっても、二ツ川もんには教えん」
「なんじゃと、二ツ川の河原者が何か悪いことしたんか。好きで労咳持ちになったんじゃないじゃろが。おまんらの迷惑にならんように生きとる河原者のどこがいかん」
「…………」
以蔵の目の涙を見て、さすがの勇たちもシュンとした。
「すまん」
「いや、分かってくれたらいいんじゃ。侍姿の女、いや男、見なかったか」
「知らん」
「ほんとか」
「ほんとだ」
「困ったことじゃ。総司はどこに行ったんじゃろなあ」
「総司ちゅうのは名前か?」
「おまんには関係ない」
そう言って去ろうとした以蔵が振り向いて、
「今日は二ツ川の祭じゃ。おまんら、遊びに来い」
五助は、
「そげん、労咳持ちのいるところに行ったら父ちゃんに叱《しか》られる」
「フン。その父ちゃんたちは去年も見に来とった」
「えっ、本当か」
「本当じゃ。特に留吉の親父《おやじ》なんか、毎年違う役者のケツおいかけまわして嫌われとる」
「えっ」
「クッ、わしらには労咳がうつるから行っちゃいかん言うとって」
「労咳なんか、おまんらぐらいの元気があったらうつりゃせん」
「そっ、そうか」
「来いよ、待っちょるけ。河原者も一生懸命生きとるところをおまんらに見てもらいたいんじゃ」
と言うと、以蔵は走り去った。
鎮守の森に行くと、桐《きり》の木の下で、ひっぱたかれて半殺しにされた傷だらけの留吉がおかっぱ頭の顔をクシャクシャにして泣いていた。
「大丈夫か、留吉」
「わしの大事なカメラ、壊されてしもうた」
壊された箱型の写真機をいとおしそうに持ち上げた。
「レンズは大丈夫か」
「ああ。これだけは死んでも手出しさせん。このレンズは、十年間磨きこんだわしの命じゃ」
ひしゃげた鼻を得意そうにひくつかせた。箱の木片を拾っていた五助が、
「こんなもん、直すのは簡単じゃ。ワシ、器用じゃけん、直してやる」
と胸を張った。
勇は渋い顔で、
「留吉、小さい子を裸にしたのは悪いぞ」
「なんが悪いんじゃ。わしゃ、まじめにアートやっちょるんじゃ。この世の中で、女の裸以上に美しいもんはなか」
と食ってかかってきた。
「そっ、そうか」
「もうこげん村にはおられん。わしはこの村、出てく」
四郎も、
「勇さん、わしもこの村出ていこうと思っとる。わしも食いすぎて、家出てけって言われたことやし」
腕組みをしていた勇が胸を叩き、
「よし、わかった。みんなでこの村、抜けよう。いい潮時じゃ」
「えっ!?」
「まず江戸へ行って、坂本先生を探すんじゃ」
「じゃが、勇さん、みんなの旅費はどうするんです?」
「心配すんな。わしが本堂の仏像を持ってくる。あれじゃったら、みんなで江戸でも京都でも行ける。今夜、二ツ川に集まってくる商人に売ればいい。そしてわしはレストランちゅうのやる。今夜五ツ半、みんな二ツ川口に集合じゃ」
勇は腰に手をやり、日野の大地に向かって叫んでいた。
「勇さんはああ言うけど」
皆と別れ、弥一と二人になった歳三はつぶやいた。
「うちには身体の弱い母ちゃんと、妹や弟たちが四人もおる。わしが土方やめたら飢え死にするしかない」
「大丈夫ですよ。どうにかなるもんですよ」
「弥一はおやじの面倒みなくていいのか」
「ええ。ざまあみろです。おやじのやつ、おふくろに出ていかれて、僕を召使い代わりに使ってますから。僕がいなくなったら、どんなに困るか思い知らせてやりたいんです」
「でも、おやじさん、足がだいぶ悪いんじゃろ」
「知ったこっちゃないですよ」
「フーン、よほどキライなんじゃのう」
「見栄《みえ》っぱりで、イバリ屋で、水戸学を修めたなんて言ってますが、怪しいもんです。手紙一つロクに書けないですから。おふくろが出ていったのも、毎日殴る蹴るされて、耐えきれなかったんです」
「いま、おふくろさんは何しとるんじゃ」
「さっ。何をしてるんでしょうね。きれいなおふくろでした。もともと家柄が良くて、あんなおやじなんかと一緒になる人じゃなかったんです。歳三さん、会ったら美人でびっくりしますよ」
「そうか」
「じゃ、僕これで」
歳三は、家に向かった。日が西に傾き、雷雨に濡れた道はもう、カラカラに乾いていた。うすいワラジを通して地面の熱が足を焦がすほどだ。
道々、歳三は考えた。デモクラシーとはなんだろう。それは一体、どんな形をしたもんだろうか。
日野村のはずれの社で、二ツ川に向かうのだろう、旅役者の一行と会った。色鮮やかなのぼりを立て、荷物を積んだ大八車を唄《うた》を歌いながら押している。おしろいの匂《にお》いやきらびやかな着物の色に、歳三の胸が甘くうずいた。
と、木陰で、細面の若い男がうずくまっているのが見えた。顔に血の気がなく、乾いた唇をきつくかんでいる。歳三はその様子に思わず駆けよった。
「どうした!」
「へびに」
「頭は三角じゃったか?」
「ええ」
「まむしじゃ。どこを噛まれたんじゃ」
「足を」
「いつじゃ!」
「いま」
「足袋《たび》を脱げ!」
「でも」
「でもじゃない。足袋の上からでも歯があたったら毒がまわる。足を出せ。わしが吸いだしちゃる!」
「あの」
「はよ、せえ。間に合わんかったら、どうするつもりじゃ」
歳三は足袋を脱がし、足の甲に唇をあて、噛みつくように激しく吸った。
「あっ」
足をひっこめようとする。
「静かにせんか」
歳三は、何度も血を吸いだしては吐いた。
「よし、これでいい」
毒をみな吸い出し、血がついた口をぬぐう歳三に、相手は上気した顔で礼を言った。
「あっ、ありがとうございます」
と、歳三はフラリとよろけた。
「どっ、どうしました」
「しまった。きのう、歯をひっこぬいとったんじゃ。そこから毒が回ったかもしれん」
「えっ?」
「嘘じゃ」
「えっ、冗談はやめてください」
と、歳三はガバと相手の足首を掴《つか》んだ。
「おまえ、女だな。こんな華奢《きやしや》な足の男がいるか」
「ちっ、ちがう」
「嘘を言わんでいい」
「あ、あの」
「女の一人旅は危ないから、男の格好をしとるんじゃろ」
「あっ、はい」
歳三は手を離して、
「そうして素直になりゃいいんじゃ」
「すいません」
女はきれいな澄んだ声で言うと、コクリとうなずいた。
「おまえの目、なんか色っぽいのう」
「はっ」
「こう目をあわすと、おまえの目の色がだんだん深くなっていくんじゃ。で、その澄んだ深みに吸い込まれそうになって、こう胸がドキドキするんじゃ」
「そうですか、今までそんなこと言われたことありませんよ」
「……おまえ、名前はなんだ」
「沖田総司といいます」
「おまえか、以蔵さんが探しとった男は」
「以蔵を知っているんですか」
「ああ。あいつはわしの子分じゃ」
「子分?」
顔を近づけてきた歳三の歯は黄色いし、口はくさい。
「おまえ、なんで男の名前をつけたんじゃ」
「さっ、女として育てるには僕がジャジャ馬すぎたんじゃないですかね」
と、総司という女はゴホゴホと咳《せ》き込み、鮮血を吐いた。
「なんじゃ、おまえは労咳持ちか。二ツ川の河原者か」
「よらないで下さい。うつりますから」
総司は白い喉《のど》を見せ、横を向いた。
「わしら、土方じゃ。うつりゃせん」
「えっ」
「百姓に労咳はうつりゃせんと言うとるんじゃ。うつったかて、すぐに治る」
「ありがとう」
総司の目がうれしそうに輝いた。
「礼なんか言わんでいい」
「でもうれしいんです、僕」
「僕?」
「いや私、小さい時から人にうつしちゃいけないと思って、あまり友だちと遊んだことなんかないんですよね。嘘でもそう言ってもらえるとうれしいです」
「嘘じゃない」
歳三は、照れ臭かった。
「おまえみたいなきれいな女が労咳なら、うつされてみたい」
「まっ、お口がお上手だこと」
「わしは口べたじゃ」
「フフ」
と、歳三の様子がおかしい。額から汗をにじませ、「ヒーヒーッ」と馬のいななきのような声を発しだした。
「しかし、おまえ、きれいじゃのう。村の百姓女とは大違いじゃ」
「そっ、そうですか」
「肌なんかまっ白じゃのう、ヒーヒーッ」
「近よらないでください。あんた、なんか臭いわ。お風呂《ふろ》に入ってないんじゃないですか」
「ヒーヒーッ」
「そのヒーヒーッてのは一体なんなんです。気味が悪いわ。あら、目もおかしいですよ」
歳三の充血した目が寄っている。
「あら、どうしたんですか?」
「いや、わからん。身体の芯《しん》がジーンと熱うなってしもうた」
「はっ?」
「どうしたんじゃろ、わしは一体」
蝉《せみ》の声が歳三の耳にわれんばかりに響いた。
「大丈夫ですか。マムシの毒がまわったのかしら」
「ちがう」
「でも」
「おまえ、デモクラシーって知っとるか」
「えっ、まあ」
歳三は「どうだ」とばかり、ニヤリと笑い、
「田んぼの名前じゃないぜ」
「それぐらい、分かりますよ」
と、歳三の鼻から血が噴き出した。
「ちょっ、ちょっとこの人、なんなの」
「わからん」
「大丈夫ですか、目がおかしいですよ。どっち見てるんです。わっ、きたねえ」
目だけではない。口からも牛のようにヨダレがたれていた。
「わしゃ、わかった。きっとデモクラシーとは、おまえのことじゃ」
「はっ?」
「わしゃ、おまえに一目|惚《ひとめぼ》れしたと言うとんじゃ」
歳三は襲いかかった。
「や、やめて」
「河原者のくせに、百姓に逆らうんか。おまえはわしの女じゃ、わしのデモクラシーじゃ」
「やめろって、バカヤロウ」
「何がバカヤロウだ。女のくせしやがって。黙って、わしの言うこと聞け」
「やめろって。わっ、こりゃとんでもないことになっちゃったな。よっ、寄らないで。臭いんだから」
「わしは馬んかわりに働いとるで、力自慢なら誰にも負けん。これ以上さからったら、五体満足に帰れんぞ」
よだれがいっそうダラダラ出てきた。着物にたれて、もうグチョグチョになっている。
「あんたの身体、どうなってんの」
「静かにせえ。わしが女犯しとるってことが知れたら、村んもんに殺されるき。わしも命がけじゃ」
「なっ、何言ってんだ、おめえ。あっ、寄るな。よせって気色悪いんだから」
「さっ、口をあけて、わしの舌いれさせや」
「やっ、やめろって」
「うるせえ」
歳三は総司をつかまえ、頭突きをかました。
「あっ、いて!」
「静かにしろ!」
総司の着物を引き裂いた。あわてて襟をかき合わせる総司の細い手首を取ると、力いっぱいそれを払った。
「あ、やめろ」
総司は道に倒れた。歳三は女のまっ白い太ももにむしゃぶりついた。
「なっ、なんだ」
総司の太ももによだれか鼻汁かわからない跡がベッタリとついた。
「きっ、きたねえ。やっ、やめろ。いてえ」
「静かにしろ!」
「噛むなよ、いてえんだから」
愛撫《あいぶ》するというより、噛みつくようだった。興奮し、震える声で、「気楽にしてわしに任せとけ」と言いざま、太ももにかみついた。身体を裏がえすと、背中にも噛みついてきた。あちこち、痛くてしょうがない。
「もう、イヤ」
総司は必死で道をゴロゴロと転がると、田んぼの中に転げおちた。
「待て!」
「イヤだって」
「待て!」
歳三は泥の中の総司にむしゃぶりつくと、したたかひっぱたいた。
「あいた」
総司は泥に足を取られてふらついた。歳三は総司の胸をはだけた。
「よっ、よせ」
「言うこときかんと、本気でひっぱたくぞ」
歳三はそう叫び、馬のような口で総司の胸を噛みつかんばかりに吸い、夢中でその身体を開いていった。
その頃《ころ》、赤坂氷川坂の勝邸では、江戸城から帰ったばかりの海舟が、裃《かみしも》を叩きつけるように脱ぎ捨てると、その美しい切れ長の目を吊り上げ、わめき散らしていた。
「父上、総司はどこに行ったのです! まさか二ツ川ではありますまいな」
その凜々《りり》しい目は血走ってさえいる。
「い、いやその」
父の小吉が、小太りの身体を縮ませている。海舟がこんなに怒るのを見たのは初めてだった。
「母上、総司はどこに行ったのです」
父とおそろいの笹《ささ》の模様の着物を着た母の千代《ちよ》は、恐れ入る小吉とはちがい、ふてくされ口をとがらせて答えた。
「ですから、今日は二ツ川の祭で、岡田座の座元がどうしても手裏剣投げの的は総司でなければつとまらぬと……」
「バカな。総司は直参旗本三千二百石の一人娘ですぞ。町方の娘ならいざしらず、そのような場所に出入りしていると世間に知れたらどうするのです」
と、小吉がおっとりと、
「海舟、おまえはふたこと目には直参旗本三千二百石というが、わしらはかわいい総司を自由に育てたいだけじゃ」
「自由? そうして父上が甘やかしたから、あんなにわがままになってしまったのです。あれでは嫁のもらい手がありませぬぞ」
「ふん、嫁になど行かぬでもよい、なあ千代」
「はい、あなた。むしろ私たちは海舟をどこかに養子に出して、総司に婿を取り勝家を継がしたいと考えているのです、ねえあなた」
「ああ」
海舟は語気荒く、
「愚かなことを」
「なにが愚かなことじゃ。親をこんなに怒鳴りつける息子など勝家にはいらぬわ」
「なんですと!?」
「海舟、総司がわがままと言うが、わがままがどうした。わがままに育てて悪いか。おまえのように格式張った子などより、よっぽどかわいいわ」
この開き直りには、さすがの海舟も黙った。
と小吉が、
「ハハ、海舟心配するな。男の格好をしているし、万一、女と見破られて胸にいきなり手をつっこまれたとしても、総司のヤットウの腕なら相手を払いのけるぐらい朝飯前じゃ。なあ千代」
「はい、あなた」
総司は、通っている千葉《ちば》道場でも一番の腕前だった。三、四人の男がいっぺんにかかってきても、汗ひとつかかず打ち負かしてしまうほどだ。
しかし、海舟のいらだちは収まらない。
「とにかく、私があとを追います」
と、小吉がきまり悪そうに、
「あの、海舟」
「なんですか」
「わしらも行っちゃいかんかのう。久しぶりに総司の『道成寺《どうじようじ》』の舞を見たいんじゃ。なあ、千代」
「そうそう、それにあの手裏剣投げ、もう命が縮まりますわ」
「バカなことをおっしゃらないで下さい」
海舟の怒鳴り声に、とうとう、母の千代が泣きだした。
「私は、かわいい総司が労咳持ちと世間に知られたってかまいやしませんよ。ねえ、あなた」
「そうとも。それで直参旗本の家禄を召し上げると言うなら、この三千二百石、いつでも捨ててやるわ」
「まあ、あなた、頼もしいこと」
「まったく海舟は慶喜様のおぼえがめでたいといってかさにきて。親に意見するのが気に入らん。さっ、わしらも二ツ川に行こうぞ」
「な、なりませぬ!」
と海舟は二人を押し止《とど》め、自分は厩《うまや》に走った。
勝家は、豪壮な造りの武家屋敷である。小さな家ほどもある門がこの家を訪ねる者を傲然《ごうぜん》と見下ろし、直参旗本三千二百石の力を示している。庭の植木はよく刈り込まれ、苔《こけ》が敷きつめられた庭には落葉ひとつない。
「馬をひけ」
馬番の新之助《しんのすけ》があわてて、
「しかし海舟様、老中の青木《あおき》様からいそいで登城せよとの呼出しがございましたが」
「うるさい! 今はそれどころではないのだ」
「はっ」
と、三十年出入りしている庭師の源治《げんじ》が、大きな鋏《はさみ》を持ってつげの木を刈り込んでいる。ゴマ塩頭の源治はもう七十近い老人だった。馬を引き出した海舟を見ると、ニコニコして、
「どうしました、海舟様」
「これは源治さん。父や母がまったく無責任に総司を甘やかして困ります」
「ハハハ。海舟様、そんなに総司様がご心配ならいっそ奥様にしてあげたらいかがです」
「親方までバカなことを言わないで下さい」
源治はその大きな顔をシワくちゃにしてムキになって言った。
「どうしてバカなことなんです。お二人は兄妹といっても血のつながりはないのですし」
そこで源治は一呼吸おき、真顔になった。
「総司様だってそのおつもりなんじゃないですか」
「総司が?」
「うちの女房にそう言ってたそうです」
源治の女房は源治の弁当を持ってよく勝家にくる。
「本当に総司が、そんなこと言ったんですか」
「あたしゃ江戸っ子で、嘘は嫌いでして」
「しっ、しかし」
総司を妻にしたいと一番思っているのは、海舟自身だ。源治はそれを察し、やさしい口調で、
「まっ、ご兄妹であってもこんなに二枚目でおもてになる兄上がいたら嫉妬の一つもしたくなりますよ」
実際、海舟は女によく好かれた。街を歩く度に誰かしらに見初《みそ》められ声をかけられた。総司もよく付け文を頼まれ、そういう日は一日機嫌が悪く、海舟に当たり散らしていた。そんな総司の心を海舟が知らぬわけがない。
「じゃ、こうしたらいかがでしょう。一旦《いつたん》、総司様をうちに引き取って、うちから嫁に出すということでしたら。それなら問題はないでしょう」
「……とにかく今は総司を追います」
「総司様がお帰りになったら、海舟様もそのおつもりだって申し上げてもよろしいんですね」
「あ、あの」
「これは父上様、母上様も承知のことなんですよ」
「えっ?」
「そうでなければ、さっきのように海舟様をおからかいになるはずがありませぬ」
海舟は振り向いた。と、してやったりとニヤリとしている父と母がいた。
「よろしゅうございますね。この植木屋源治、しっかと約束しましたよ」
源治のそのことばが、海舟には何にも増して頼もしかった。
「はい」
と、まぶしい七月の光の中、目を輝かせ馬に飛び乗り、海舟は総司の名を胸の中で叫びながら激しくムチをいれた。
歳三に犯された総司は、草むらにうっぷし、泣きじゃくっていた。
「すまん」
「なにがだよ」
「おまえが初めてとは知らんかったんじゃ」
「ワーン!」
総司のまっ白な背中が砂ぼこりの中、にぶく輝いていた。しゃくりあげるたび、薄い肌からうきでた背骨が生きもののように動いた。胴のくびれからの曲線が見事にうねり、丸い小さな尻に続いている。その尻も、総司の呼吸に合わせてひくひく動いていた。
「さっ、着物着ろよ」
「知るか」
まっ白い足で蹴りつけてきた。歳三は蹴られるままだった。
「だれかに見られたらどうするんだ」
「見られたってかまわねえよ。オラ、もう嫁にいけねえ身体になったんだ」
「すまん」
「すまんですむか。ホラ見ろ。頭突きされたとこ、コブになってるよ」
「すまん」
「すまんですむかって言ってんだよ、この!」
また蹴りつけてきた。
「わしがもろうてやる」
「おまえなんかキライだ。チキショウ」
総司は足で歳三の脇腹《わきばら》をイヤというほど蹴った。そしてまたオイオイ泣き出し、草をむしって歳三の顔にぶちまけた。歳三は立ち上がり、
「……とにかく、着物を着ろ」
「着せてくれ」
「えっ」
総司はあおむけになると、白い足を高々と差し出した。歳三は目のやり場に困り、下を向いた。鼻にかかった甘い声で総司は、
「身体がだるくて、起き上がれないんだよ」
今度は両手を上げ、アゴを突き出し歳三をじっと見た。
歳三はオロオロと膝《ひざ》をつき、着物の袖《そで》を通してやった。
「こっちも」
片手を突き出す。歳三は震える手で襟をかきあわせ総司の裸の胸を隠した。総司はジロジロ歳三の顔を見ていた。
「立たせて」
目の前でかわいい頬をふくらませ、すねたように言う。歳三は総司の脇《わき》の下に手をかけ、立たせてやった。帯をその細い胴に巻いた。
「さ」
「うん」
「歩けるか」
「うん」
と、また血を吐いた。
「大丈夫か」
「ああ。このくらいの血だったら、いつもだよ」
「熱があるのか」
「朝と晩にな」
「……気をつけて行けよ」
「ああ」
しおらしく頭を下げ、歩いていく後ろ姿に歳三は胸がしめつけられた。
「大丈夫か」
「ああ」
その声に力がない。歳三は走っていって抱きしめてやりたかった。
遠く、歩いては立ち止まる総司の姿が、砂ぼこりの中、かすんでいた。やがてその影も、夕闇《ゆうやみ》に吸いこまれ消えていった。
歳三は熱をさまそうと川に飛びこんだ。
「なんか、女は甘い匂いがするのう」
何度頭を水につけても、白い裸身が離れなかった。
濃紺の空に星が散らばり、丸い月がぽっかりと浮いていた。
ようやく人心地がついた。川の流れに身を任せ、歳三はホッとため息をついた。
「しかし、相手が村ん女だったら、わしゃ半殺しにされるとこじゃった」
と、土手から声がした。
「何してるの?」
浴衣《ゆかた》姿の女がうちわをあおいでいる。隣村から嫁いできた、桑問屋|新兵衛《しんべえ》の後妻、志麻《しま》だ。
ふだんはその厚い唇を不機嫌そうに曲げ、ツンと取り澄まして歳三などには目もくれないのが、
「暑いねえ。まったく眠れやしないわ」
と土手に足を投げ出して座った。浴衣の裾が割れ、そこからまっ白なももが暗闇《くらやみ》にボウッと浮かびあがる。
歳三は答えず、ゆっくり身体を洗っている。
歳三をじっとのぞきこむ志麻の目が妖しく光った。
「いい身体してるねえ。うちの亭主なんか、やせててあばら骨が見えるくらいじゃ」
「…………」
「あたしも水浴びしようかねえ」
「えっ?」
志麻は歳三の目の前でスルスルと浴衣を脱いで裸になり、前も隠さず入ってきた。
「よっ、よして下さい。こんなとこ、新兵衛さんに見つかったら大変なことになるき」
「大変なことになるって? あの人はあたしには何も言えん」
身体をすり寄せてきた。志麻の乳房はたいそう大きかった。総司のそれは、手にすっぽり収まるほどで少し硬かったが、志麻のは手でつかみきれないほどだ。そして、餠《もち》のように柔らかかった。それが水の中でゆっくり揺れていた。腰の肉はたっぷりしてくびれがあまりなく、豊かな尻は垂れている。
「な、なんも言えんとは?」
「満足させてくれんということよ」
と鼻声で言い、志麻は歳三の乳を噛んできた。
「やっ、やめて下さい。こんなとこ見られたら、わしら土方はもう村にいられんようになるき」
むりやり引きはがそうとしたが、志麻の肌がからみついて離れない。ねばりつくような三十女の肌が総司とは違うと歳三は感じて、また頭がカッとし、おもわず抱きしめた。
「まあ、若いねえ。やさしくしておくれ」
「あっ、ああ」
歳三の身体は尽きることを知らなかった。ようやく志麻の肌から離れ、家に戻ったのは五ツ刻だった。近藤たちとの約束の時間まで半刻しかない。
家を見下ろす崖《がけ》の上を急ぎ足で歩いていると、木陰から大きな風呂敷《ふろしき》包みをしょった四郎の押し殺した声がした。
「歳三、こんな時間まで何してたんだ」
「あっ、いや」
「大変だ、勇さんが仏像盗もうとしたとこを見つかったんだ」
「なに」
四郎は半泣きになって、
「どうしたらいいんじゃ」
「そりゃ助けなきゃ、わしら京に行けん」
「じゃ、わし、五助を呼んでくる」
「ああ。四郎、家族にちゃんと別れを言うたか」
「別れも何も、せいせいした顔しちょった」
「そうか」
「いまに見とれというんじゃ。京に行って大関になって見返してやるんじゃ」
「ああ、がんばれよ」
四郎を見送り、歳三はけもの道を下りて家に入った。
四人の妹と弟たちは掘っ立て小屋の土間にむしろを敷いて寝ていた。小屋のすぐ後ろは崖なので、風が通らず、むし暑い。歳三は汗をジットリとかいた良雄《よしお》をつつき、
「起きろ」
「ああ……?」
良雄は歳三にそっくりの馬面で、ねぼけまなこをこすっている。
「兄ちゃん、京都に行くんだ。母ちゃんたちのこと、頼むぞ」
「ああ」
「ちゃんと聞いとんのか」
「ああ」
と、壁に顔を向けて寝ているとばかり思った母がむっくり起き上がった。まだ四十五だというのに、すでに老婆のようだった。
しゃがれた声で、
「京に行くんか」
「ああ」
「いい田んぼ、もらってこいや」
「母ちゃん、もしかしたら田んぼもらってこられんかもしれん」
「なんでじゃ」
「デモクラシーは田んぼのことじゃないようじゃ」
「何? じゃ、なんで京都になんか行くんじゃ」
「だから、夢のためじゃ」
「土方がなんの夢じゃ。調子にのるのもいいかげんにせえ」
「調子になんかのっとらん」
母は顔を皺《しわ》くちゃにして泣き出した。
「すまねえ、母ちゃん。じゃ、行くぞ」
「歳三、おまえが土方ちゅうこと、忘れちゃいかんぞ。人を信じちゃいかんぞ」
「人を信じんでどうするんじゃ」
「勇さんなんかと遊んどるから、そう思いこむんじゃ」
「あの人たちは、土方じゃといってわしを差別したことは一度もなか」
「待て。待て、歳三。父ちゃんもそうやってだまされて堤防の代わりにされたんじゃ」
「父ちゃんは後悔しとらん」
「死んだら後悔も何もないじゃろが」
「もう、わしは行く!」
母を振り払って表に出ると、満月がこうこうと夜道を照らしていた。昼間あれほど騒がしかったセミの鳴き声もやみ、気の早い秋の虫たちが一匹、二匹、涼やかな声で鳴いている。桑の葉が風に揺れて、小さな音をたてた。
歳三は日野村が見渡せる坂道をのぼっていった。月はまんべんなく村を照らし、藁葺き屋根が夜目にもはっきり見えた。小さな窓からは、かすかな明かりがチロチロ見えている。夕飯も終え、何やら楽しくしゃべっているようだ。見慣れた光景だった。毎夜ここを通って自分の家にも窓が欲しい、ろうそくが欲しいと思ったものだった。歳三はいとおしいような、なつかしいような気持ちになった。きのうまでの自分がずいぶん遠くに思えた。
「兄ちゃん」
その声にびっくりして、歳三は振り返った。
「どうした、お絹《きぬ》じゃないか」
「うちも、ついていく」
大きな目がじっと歳三を見つめている。土方の意味も知らず、いつもニコニコ働いている元気な妹だ。歳三はあわてて手を振った。
「だめだ、だめだ。どこに行くと思ってるんだ。京だぞ」
「留吉さんが一緒につれていってやると言うた」
「あのカメラ屋か」
「うん」
「好きなんか」
「うん」
恥ずかしそうにうなずいた。
「どうしても行くんか」
「行く。カメラ屋になるんじゃ。留吉さんが主任でうちが助手じゃ。二人で白い小さな写真館作るんじゃ。ベレー帽かぶって、チェックのチョッキと乗馬ズボンはくんじゃ」
お絹の愛くるしい大きな目が希望に輝いていた。
「さっ、とにかく勇さんを助けよう」
「うん」
二人は生い茂った草の間を走り出した。月の光が長い影を作っていた。
近藤寺の境内に松明《たいまつ》が焚《た》かれ、グルリと村人たちが囲んでいるそのまん中に、勇がクイにくくりつけられていた。勇の母親のおかつがはちまきをして竹刀《しない》を手に本堂から出てくると、その殺気に皆後ずさった。
おかつは、勇を叩き始めた。
「痛いよ」
「うるさい。賽銭箱から金盗んどる間は我慢しとったが、大事な仏像に手出すようじゃ、許せん」
「すっ、すんません」
「今日という今日は許さん」
赤鬼のような顔で勇を打つおかつを村の衆が止めに入った。
「まあまあ、おかつさん。そんなに責めなくても」
「何を言うとる。わしゃおまえらみたいに自分の子供野放しにはさせられん」
「子供いうたかて、勇ちゃんはもう三十過ぎとるんじゃ」
「三十過ぎても子供は子供じゃ!」
おかつはますます勇を殴り出した。誰も止められない。
と、父の烈《きよし》が台所から這うようにして出てきて、
「もう、いいじゃないか、おかつ」
「何がいいんじゃ」
「こんな寺なんかつぶれたっていい。わしは勇にやりたいようにやらせたいんじゃ」
「つぶれていいとはどういうことじゃ。やっぱ、養子は使いもんにならんのう」
「なんじゃと、おかつ、それが亭主に言う言葉か」
「なに!」
おかつはあっという間に烈も縛り上げて、したたか殴った。
烈は殴られながら、
「もうじき、デモクラシーというもんになるんじゃ。そんとき、おかつ、おまえがいの一番に死刑じゃ。吠え面かくな」
「こんバカが。勇のホラ話真に受けて、将軍様のお膝元《ひざもと》で日本がデモなんとかになるわけないんじゃ」
五助が草の陰でゴクリと唾《つば》を飲んだ。
「強い母ちゃんじゃのう」
「どうやって助けたらいいんじゃ」
弥一も緊張した顔で言った。四郎が、
「あと半刻でみんな帰る。そしたらわしがあのクイ、引っこ抜いちゃる」
「抜けるか」
「わしゃ、末は大関になる身じゃ。あのクイぐらい抜けんでどうする」
「でも、あの母ちゃんに見つかったらわしらまで半殺しにされるぞ」
「そっ、そうじゃの」
やがて夜が更け、村人たちは一人、二人と境内から去っていった。
「よし、四郎、頼む」
「任せとけ!」
四郎は上半身をはだけ、二、三度しこを踏み、歯を食いしばるとクイを抜いた。
「よし!」
歳三たちは勇の縄をといた。
「勇さん、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃ、行こう」
勇は縄の跡がクッキリ残った腕をさすりながら力強く言った。
仏像を背にくくりつけようとしていると、家の奥にひっこんだとばかり思っていたおかつが出てきた。
「勇!」
「母ちゃん」
「京都行ったら、耕造《こうぞう》という男を探せ。板前やっとるそうじゃ」
「え?」
「おまえの兄じゃ。父ちゃんが若いころ、江戸の女に生ませた子じゃ。じゃ、元気でな」
おかつは背中を向けるとピシャリと戸を閉めた。
5 二ツ川
日野村からしばらく山道を歩くと多摩川の支流がさらに分かれているところがある。二ツ川口である。
背中に、重箱を二つ重ねたほどもあるカメラをしょいこんだ留吉が言った。
「本当に労咳はうつらんのかいのう」
「わしらぐらいの体力がありゃあうつりゃせんって、以蔵さんが言っとったろうが」
「でも」
「じゃ。今から村に帰って笑いもんになるか」
「いっ、いや」
「さっ、行こう」
うっそうとした闇に吸い込まれるように川の流れが消えていく。
よく見ると、川は森の前でまっ二つに分かれている。その一つは『親殺し川』、そしてもう一つの川は『子捨て川』と呼ばれていた。
『子捨て川』は森のまわりを迂回《うかい》するように流れ、森を抜けたところで『親殺し川』とまた合流し、大きな流れを作って山をくだっていく。
カラスが飛び立ち、獣が走る度に勇たちは立ち止まった。
「気味悪いとこじゃのう」
「こんなとこで殺されたって、死体も見つけてもらえんじゃろうなあ」
「なっ、なんじゃ、あの音は」
「心配するな、水車の音じゃ」
森の手前に水車小屋があり、『これより二ツ川 禁裏地』と書いてある。つまり、ここから先は京の朝廷の直轄地となるのである。
薄暗い提灯《ちようちん》をぶらさげた村役人が、二人立ち、ぞんざいに聞いてきた。
「どこへ行くんだ」
「二ツ川の祭じゃ」
「鑑札は」
五助が、
「今日は無礼講じゃ。鑑札なんかいるかい」
「…………」
村役人はくやしそうに顔をそむけた。
「フン、こっからは帝さんの土地じゃからのう。村役人はここから先は入れんのじゃ。ザマアミロ」
「フーン、なんか、ええ気分じゃのう」
「でも弥一、なんで京都から二百里も離れた二ツ川が帝さんのものになったんじゃ」
「つまりですね、以蔵さんのご先祖がいい舞をして帝をおなぐさめしたとき、ごほうびに京都に土地くれようとしたんです。でも河原者は労咳持ちですから、京から離れてこの武州の土地をいただき、隠れ住むようになったんです」
「フーン、以蔵さんのご先祖様はえらかったんじゃのう」
「なにせ、二万とも三万ともいわれる関東の河原者を束ねる家ですからね。以蔵さんのお兄さんの吉蔵《きちぞう》さんが一声かければ、その二万の人たちがすぐ集まってくるそうですよ」
「へー」
歳三が、
「河原乞食がなんで偉いものか」
勇が、
「歳三、そげんこと言うのはよせ。坂本先生が人を差別することは人間として一番いかんことじゃと言ったろが」
「あっ、ああ」
と村役人の提灯が見えなくなるとお絹が泣き始めた。
留吉がやさしく聞いた。
「どうした?」
「もう、日野に帰ってこれんのかと思って」
お絹は、土方の娘にしては色の白い娘だ。少し上を向いた鼻は低いが愛嬌がある。いかにも働き者らしいよく光る大きな目をしていた。その目からポロポロと涙が落ちている。留吉は、
「バカ。皆偉うなって故郷に錦を飾るんじゃ」
「留さん、私捨てたら承知せんからね」
「ああ、わかっとる」
「ほんとかいの。留さん、ムッツリスケベなところがあるから」
「なっ、なに言う」
ひしゃげた鼻を赤くした留吉は、お絹に怒鳴った。
「ほんと、捨てないでね。あたし、留さんのためだったら何でもするから」
「ああ」
口もきかずにしんみりと歩いていた勇がつぶやいた。
「わしに兄貴がいたとはなあ」
五助が前髪をなでつけながら、
「しかし、人はみかけによらんもんじゃのう。あのなまぐさ坊主が女に子供まで生ませていたとはのう」
「わしの親父じゃ、なまぐさ坊主はひどいぞ」
「すまん、すまん」
「兄貴も京都で板前やっちょるとは、わしの料理好きも血じゃったんかいのう」
「そうじゃな」
「会うたらなんて言うたらええんかいのう」
「素直に兄さんでええじゃないか」
「そっ、そうだな。わし、せめて兄貴に誉《ほ》められる料理つくれるようがんばらんとな」
と、五助が、
「ロールキャベツを作ればいいんよ。あれ食うて、ほっぺたが落ちん奴はおらん」
「五助、おまえわしの料理けなしてたじゃないか」
「あんまり誉めたら、勇さん精進せんようになると思うて、いつもけなしとったんじゃ。なあ、留吉」
「ああ。勇さんのロールキャベツは日本一じゃ」
「なっ、なんじゃ、そうじゃったんか。ありがとう、ありがとう」
勇はいつまでも目に涙を浮かべ、頭をかいていた。
「しかし、京はどんなところじゃろのう」
弥一が熱っぽい声で答えた。
「とにかく、なんでもあるところです。努力しだいでどんな夢でもかなうんです」
「そうか」
「いいですか、言葉づかいに気をつけるんです。田舎もんとなめられたらいやですから。ダベはいかんです。ドスエです。なんか言ったらそのあとに必ずドスエと言うんです」
「ああ、わかった」
「弥一は江戸で、お袋さんに会うんか」
「はい」
「楽しみじゃのう」
「はい。みんなも会って下さい。きっと歓待してくれると思うんですよ」
と、山の下の畦道を二ツ川の祭を見に行くのか、村の人たちが一列に並んで手に手にちょうちんを持ち、足早に歩いていく。
「きっと、わしらの父ちゃんたちもおるぞ。クソッ」
みんな、自然に足が早くなった。
子捨て川はうっそうとした森に囲まれ、時折|狼《おおかみ》の遠吠《とおぼ》えが聞こえてくる恐ろしいところだった。川の水は黒く見え、せせらぎの音も獣の叫び声に聞こえてくる。
歳三は急いだ。
二ツ川につけばあの女にまた会えると思った。
「五助さん」
「なんじゃ」
「みんなには内緒じゃが、わし、今日、男になった」
「そりゃ、めでたいのう。で、相手は」
「河原者じゃ。雪んような肌をしとった」
「ほう、床上手じゃから、ええ気持ちじゃったろ」
「それが、夢中でようわからんかった」
「リードしてもらわなかったんか」
「どうも、そん河原者も初めてじゃった」
五助があきれた声を出した。
「何、そんな河原者がいるんかいの。河原者は早《はよ》うから男知っとる」
「わしもおかしいとは思っちょったが」
「きつねにバカされたんじゃないのか」
「そうかのう」
しかし、あの吸いつくような白い肌と甘い匂いは幻ではない。歳三はそれを思い出し、めまいがしそうだった。
と、五助が立ち止まった。
「そういや、出がけに聞いたんじゃが、新兵衛んとこの志麻が離縁されたそうな」
「どっ、どうして」
「川で男と乳くりあうところ、近所の爺《じい》さんに見られとったらしいんじゃ」
「そっ、そうか」
歳三は生きた心地がしなかった。
「そ、その男は誰じゃ」
「暗うてよう見えんかったらしいが、新兵衛は殺しちゃると大騒ぎしとるらしい」
「はあ」
歳三の背中は汗びっしょりだ。五助は身をすくめると、
「わしもあん女には二、三度世話になったことがあるけん、もう村には帰れん」
「そっ、そうか」
「おまえにもやらせてやりゃよかったのう」
「やらせてやるって?」
「弥一も四、五日前、わしが頼んでやって、やらせてもろうたんじゃ」
「あの弥一が?」
「ああ、弥一のやつ、皮っかむりでよ、志麻が痛うてたまらんと言っとった」
「そ、そうか」
「それとな」
「なっ、なんじゃ。わしゃ、何もしとらんき」
「何言うとんじゃ。お絹のことじゃ。お絹のやつ、さっき吐きよった」
「えっ」
「腹に留吉のややが入っとるんじゃなかか」
「まだ、お絹は十四じゃ」
「十四は立派な女じゃ」
「ああ」
「お、着いたか」
森を抜けると、真昼のように明るい河原に目がくらんだ。
「ウワ、すごい」
河原にはやぐらが組まれ、そこに提灯がたくさんつけられていた。曲芸師が宙を飛び、口から火を噴く大男が皆を驚かせ、短刀使いがきらめく刀をクルクル回す。浴衣姿の男たちが、即席に組まれた芝居小屋をのぞいたり、すれ違う化粧の濃い女たちをからかったりしていた。あちこちで女たちの嬌声《きようせい》があがっている。
右手の山肌にはりつくように、ひなびた旅籠《はたご》が二、三軒建っている。祭目当ての商人たちも物珍しそうに窓から河原を見下ろしていた。
近藤が上気した顔で、
「はよ、この仏像買うてくれる商人探さんと。あげな痛い思いしたんじゃ、買いたたかれてたまるか」
「近藤さん、そんな無粋なこと言うたらあかん。まず、祭を楽しまんと」
五助が勇の背中を押すようにした。
すべてが物珍しかった。小屋の前の台の上では、きらびやかな羽織袴《はおりはかま》をまとった女が、あざやかな手つきで扇から水を噴水のように出している。
「あれは水芸ちゅうんだ」
五助が得意そうに説明するのを聞きながら、皆、口を開けて見ていた。
「すごいのう」
五助は、キョロキョロするとはしゃいだ声を出した。
「ほんとに今夜は無礼講になるんかいのう」
「五助、よさんか」
「勇さん、こんなチャンスは二度とないですよ」
「まったくおまえって奴は」
「だって、坂本先生も言うちょった。男は女の肌の上でしか、人生は悟れんて」
「そりゃ、坂本先生ぐらい偉い人の話じゃろが」
「女の身体《からだ》ん上に乗ったら、偉いも何もあるか」
そして、みんなが自分の見たい芝居を探してちりぢりになると、歳三はお絹を呼んだ。
「お絹、腹に留吉のややがいるってほんとうか」
「ああ」
お絹はふくれっ面で吐き捨てた。
「なんでそんなことを」
「うちは留吉さんに惚れとるから仕方ないじゃろ」
「なんちゅう情けなかことじゃ」
「兄ちゃんには関係ないことじゃ」
「まっ、待て」
お絹は留吉の後を追っていった。
「フー」
大きなため息をついて、歳三は河原に立ててある錦絵《にしきえ》の看板を見た。そして、まん中の絵に釘づけになった。それは、『道成寺』を舞う少女の絵だった。
振袖《ふりそで》姿のお姫様が桜の散る下、大きな鐘の横で舞っていた。
「あっ」
歳三は思わず声をあげた。あの面影は、昼間、マムシに噛まれた女、沖田総司だ。
戻ってきた勇がいぶかしげに、
「歳三、どうした」
「いっ、いや、何でもない」
「何でもなかったら、首まで赤くなることはない」
と、後ろから太い声がした。以蔵だ。
「よう、やっぱ来たんか」
「ああ」
以蔵は顔をクシャクシャにして笑いかけてきた。
「わしん女の十んときの錦絵じゃ。どうじゃ、きれいじゃろ」
「……あ、ああ」
「総司というんじゃ」
「えっ」
「ええ女じゃろ」
以蔵は目をギョロつかせ、自慢気に錦絵をさして、
「くれぐれも言うとくが、こん総司はわしの女房になる女じゃ」
「へー」
「小さい頃から一緒に育ったんじゃ。おたがいによう知り合うとる。あいつは剣のスジがえろうええんじゃが、それを伸ばしたのもこのわしじゃ」
以蔵はうれしそうに笑った。笑うとエクボができて人の良さそうな顔になる。
「しかし、総司が女じゃと里に帰って絶対口外しちゃいかんぞ。総司は年に一度、こんときだけ女に戻るんじゃからな」
「ああ」
「とにかくジャジャ馬で、わしも苦労しとる。ハハハ」
「…………」
「どうした、歳三」
「いっ、いや」
「おまんも一目惚れか。ハハハ。じゃが、手出したら承知せんぞ。分かっとるな」
「そっ、そんな。めっそうもない」
「ああ。おまんはジェントルマンじゃき、その点は安心じゃ。さっ、みんな呼んでこい。総司の踊り以外は見たってしゃあない」
みなを呼び集めてくると、以蔵は勝手知ったとばかりズンズン歩いていく。
「やっぱ、総司の『道成寺』は一番の人気じゃのう」
以蔵は『岡田座』と染め抜かれた垂れ幕のかかった入口にあふれる客を見て、満足げにつぶやいた。
四つ五つ並んでいる他の小屋と比べても、一番大きな小屋だった。
と、自慢げに歳三たちを案内していた以蔵の足が止まった。
「ほら、あの男が三遊亭円朝じゃ」
以蔵は、茶屋の長椅子《ながいす》に腰かけている男を指さした。松明《たいまつ》のあかりに、その特徴のある顔がはっきり見えた。
長い顔に長いわし鼻がぶらさがるようについている。ギョロっとした目ははれぼったく、唇が紅でもつけたように赤い。円朝はテラテラに光った顔を手拭いでつるりとなでた。凝った羽織にキチンと結い上げたまげが粋である。
「あの江戸で有名な咄家《はなしか》か?」
「ああ。江戸じゃえらい人気じゃ。が、わしは好かん」
三遊亭円朝は、人妻との刃傷沙汰《にんじようざた》のあと、ここ二ツ川にしばらくの間隠れ住んでいた。もともとは武家の出である。人妻と見れば高座から流し目を送り、くどいた。そういうやりようがかえって人気をあおり、円朝の出る小屋はいつも満員御礼だった。
「食わせもんでよ。まだ二十七、八歳にしか見えんじゃろ。あれで四十越えとるという噂じゃ」
と、ひづめの音がし、美しい栗毛《くりげ》の馬が長いたてがみをなびかせ走ってきた。茶屋の前で手綱を強く引かれ、馬は前足を宙に浮かして一声いななくと止まった。
以蔵は憎々しげに唇をとがらすと、月明かりに下り立った男を見て吐き捨てた。
「あれが、徳川様から全権を委任されて京都とやりあうお人じゃ。今売出し中の勝海舟じゃ」
「えっ、あの人が」
海舟の高名はこの日野にも届いていた。以蔵は胸をそらし、
「フン、わしの恋仇《こいがたき》よ」
見事な横顔だ。秀でた額からまっすぐな高い鼻が続いて、薄い、大きめの唇が結ばれている。遠目にも、品の良さが感じられた。そして全身から固い、あたりを緊張させるような気をかもしだしていた。海舟の動かぬ瞳がときおり、光を放った。
「二枚目じゃのう」
「なにが二枚目じゃ。わしゃ、あの人格者面が好かん」
「しかし、ああいうのを育ちのいい顔と言うんじゃろうな」
「わしとどこがちがうんじゃ」
「顔の整い方がちがうんじゃ」
腰をかがめて円朝があいさつをし、二人はいずこともなく消えた。以蔵はせいせいしたとばかりむしろをはね、
「さっ、はよはいれ。今日はタダで入れてやる」
歳三たちは前の方の桟敷に通された。
ギッシリ埋まった桟敷は一度座ると身動きがとれなかった。
「すごい人気じゃのう」
「一年に一ぺんしか総司の姿を見れんからのう。無理もない」
と、以蔵は、
「おっ、あの丸に白く岡の字を抜いた草色のはっぴを着たんが、わしの兄ちゃんたちじゃ」
六人の男たちを指さした。関東の河原乞食を束ねる岡田兄弟たちだ。にこやかな顔で客を迎えているが、その目は油断なく光っている。役人などが入っていないか探しているのだ。以蔵はこの兄弟の末っ子のせいか兄たちに比べると顔つきが甘かった。
歳三は隠れるように背を縮めて舞台を見つめていた。胸がドキドキ高鳴っていた。
「さっ、そろそろ始まるぞ」
以蔵のその言葉が終わるか終わらないうちに、出のお囃子《はやし》が鳴り一条の明かりがさし、客席から待ってましたとばかり拍手がわいた。
その明かりの中、はっぴを着た男が出てきた。
「一番上の吉蔵兄ちゃんじゃ」
以蔵が胸をそらした。
そして、吉蔵に手をひかれ、黄色の菊《きく》の模様を袂《たもと》に描いた若衆姿の女が出てきた。
「あっ!!」
歳三は息をのんだ。紛れもなく昼間の女、総司だった。
「どうしたんじゃ、歳三」
以蔵が顔をのぞきこんだ。
「いっ、いや」
歳三は目を合わすまいと必死にうつむいた。
総司は、ニコニコしてペコリとおじぎをし、舞台のまん中に置いてある大きな板の前に歩みよった。総司の大きな瞳がキラキラと輝いている。
吉蔵は慇懃《いんぎん》な口調で、
「では皆様。どなたか、太夫《たゆう》の目にこの目かくしをして下さる方はありませんか」
目かくしが終わり、
「では」
と、吉蔵は手に持った手裏剣を総司を的にして投げ始めた。総司は笑っている。手裏剣が総司の身体すれすれに突き刺さるたび、息を殺して見ていた客たちはどよめいた。
「すっ、すごいのう」
「ああ。あんなもんはおちゃのこさいさいじゃ」
と舞台の吉蔵が、
「では、私も目かくしをします」
懐から黒い手拭いを出し、目かくしをした。
以蔵が首をかしげた。
「おかしいなあ」
「どうしたんだ」
「今までこげん見せ場はなかったんじゃが」
目かくしをした吉蔵は、「では」と、手に持った五本の手裏剣を一気に投げた。的になっている総司の笑みはかわらない。
「アッ」という客席のどよめきが引くと、手裏剣はまた、総司の身体すれすれに突き刺さっていた。
「うん?」
歳三は首を傾げた。
総司の身体の周りに突き刺さっている手裏剣が六本あるのだ。
以蔵を見ると、汗びっしょりの顔で吉蔵を睨みつけている。
「何があったんじゃ」
「おまんらは知らんでいい。さっ、次は早変わりの『道成寺』じゃ」
と以蔵は押しつぶした声で言った。
舞台が暗転し、突然、三味線の音が割れんばかりに鳴り響いた。すると、幕がサッと左右に割れ、まん中に早変わりした娘がこちらに背を向けて立っていた。桃色の藤《ふじ》の花を大きくあしらった振袖を着ている。頭をきれいに結い上げて、キラキラ光る大きなかんざしをつけている。
「いつ着替えたんじゃ」
と、三味線の音がさらに大きくなった。ゆるゆると娘が細い首をかしげてこちらに向いた。その艶《あで》やかさに歳三は女を食い入るように見た。二人の目があった。総司は、
「テメエ! よくもおめおめと!」
と、ものすごい目をして歳三をにらみつけた。
歳三は逃げだしたかったが、総司の美しさに釘付けになったまま動けない。
総司は人を誘いこむような物腰で、艶やかな流し目をしきりに歳三たちの座っている一角に投げて舞った。
以蔵はいまにもヨダレがたれそうな恍惚《こうこつ》とした顔をしている。そして隣の五助をつつき、
「五助、何度も言うようじゃが、惚れちゃいかんぞ。総司はわしのフィアンセじゃき。惚れたらブチ殺しちゃるき」
「わ、わかっちょるがな」
「約束じゃぞ」
「しかし以蔵さん、あん女とわしがラブしたら、もう誰もとめられん」
「なに」
「デモクラシーの時代になるんじゃ。ラブは自由じゃというぞ」
「キサマ、五助!」
「静かにしいや。他の客に迷惑じゃ」
「クッ、クソー」
と、カメラ箱をもたげ、留吉が以蔵の耳元に囁《ささや》いてきた。
「以蔵さん」
「なんじゃ」
留吉は箱をいとおしそうになで、
「わし、写真ばとっていいかいの。あげな美しか人見て、わしの芸術家としての情熱がおさえられんのじゃ」
「まっ、他の客の迷惑にならんようにな」
留吉はひしゃげた鼻を一層広げ、
「ああ、もちろんじゃ。それと、以蔵さん」
「なんじゃ、もう」
「あとでヌードばとらしてくれんかいのう」
「ヌード? おまん、死にたいんか」
「以蔵さん、あげな美しか女の人のヌードは、青春の記念にのこしとくのが芸術家のつとめじゃ。な、お絹」
「うん」
「フン、裸にする前に、おまんら総司から脳天割られとる」
「えっ?」
「まっ、舞台を見といてみ」
歳三は肩をいからせ、食い入るように総司が踊る姿を見ていた。光の中の総司は抜けるように色が白かった。まだ幼さの残る顔立ちだが、その大きな目は人を吸いこんでしまうかと思われるほど力強く輝いている。小さな唇は赤く朱をおき、光っていた。その口が歳三に妖しく何かをささやきかけているようだ。
以蔵が首をかしげ、歳三に囁いてきた。
「総司は、なんでおまんに色目をつこうとるんじゃろ」
「さっ、さあ」
歳三は汗びっしょりだった。
「おまんら、どこぞで会ったことがあるんか」
「いっ、いや」
「しかし、あの目は男を誘う目じゃ。もう、どこで覚えたんじゃ」
五助が、
「フン、女の男を誘う目は生まれつきじゃ」
「違う。総司は違う。そげな女じゃないんじゃ!!」
太棹《ふとざお》の三味線の音が一段と大きくなり、腹に響いてきた。大きな鐘の周りを娘が恋する男を探して狂ったように舞っている。髪は乱れ、振袖も乱れてゾッとする色香がただよった。舞がいよいよ激しくなった。娘はヘビになったのだ。男を鐘の中から誘い出すと、その切れ長の目がつり上がり、獲物をにらみすえた。へたりこんだ男は身動きができずに本当に震えているようだ。総司の長い首がますます伸びて男をおいつめていく。歳三は、自分が舞台の上の男になり変わったような気がして目をつむった。
気がつくと、その娘の姿は消え、『道成寺』は終わっていた。
「もう終わったんか」
「いや、今日は特別の余興をやるらしいんじゃ」
お囃子の調子が急にかわり、また総司が、木刀と槍を持った吉蔵と一緒に出てきた。
「さあさあ、お立ちあい。木刀でもようございます。真剣でもようございます。この太夫の身にふれることができましたら今宵《こよい》はこの太夫、思いのままでございます」
客が「ウォー」と叫び、我先にとかけあがっていく。
こういうことにかけてはすばしっこい五助が、一番にかけだすかと思ったが、一番最初に立ち上がったのは弥一だった。
「ぼっ、僕がやる!!」
勇はあわてて、弥一の襟首をつかんだ。
「弥一、頭が狂うたとか」
「僕は、もう我慢できんのじゃ」
ハーハー、息が荒い。
「弥一、聖職を志そうとするもんが、あげんとこ上がってよかとか」
弥一は鼻血をドッとふきだしながら、
「教師は神様じゃなか。血も涙もある人間として生徒を導いてこそ、真の教育はあるんじゃ」
「バッ、バカ」
「はっ、はなせ」
以蔵はニヤニヤして、
「かまわん、近藤。やらせとけ。肋骨《ろつこつ》の二、三本折られるのが関の山じゃ」
弥一は、舞台に飛び上がると木刀を持ち、かかっていった。ヒラリヒラリときれいにかわされ、木刀は合わさりもしない。
「クソッー」
ムキになってかかる弥一だが、結局したたか腕を打たれて引っ込んだ。
次に、五助が、
「よし、わしがやる」
と、威勢よく立ち上がったが、手もなくやられ運び出された。以蔵は大笑いしながら、
「どうじゃ、五助まいったか?」
「あ、ああ」
頭のこぶが赤く腫《は》れ上がっている。
次に好色そうな商人風の男が真剣で挑んだが、かすりもしない。十数人の客が木刀と槍をつかったが、誰一人として娘にかすりもしなかった。
留吉は憑《つ》かれたように、ひっきりなしにシャッターを切っている。
「さっ、もう他にいらっしゃいませんか」
と呼びかける吉蔵の声に応《こた》える者は、さすがにいない。
と、総司は吉蔵に耳打ちした。吉蔵が、
「そこのお方」
と、歳三を指さした。
「どうしても太夫が一番お手合わせしたいと申しておりますので」
「えっ、わし、だめだ」
「そうおっしゃらず」
歳三は手をひっぱられ、舞台に上がらされてしまった。無理やり渡された木刀をへっぴり腰で構えた。その途端、いままでやさしげな笑みを絶やさなかった総司の顔が一変し、目を吊り上げていきなり打ちこんできた。
「あっ」
「このバカヤロウ! ふざけやがって!」
と歳三だけに聞こえるように低い声でうなった。
「まっ、待て!」
「待てじゃねえんだよ。おう、どう責任取ってくれんだよ」
「まっ、待て!」
「何が待てだ、バカヤロウ!」
としたたか腰を打ちすえる。が、あまりの鮮やかな手さばきに、客にはそうとはさとらせない。
「『気持ちいいか、気持ちいいか』って、いいわけねえだろ。最初、どこにつっこんでいやがると思ったら、地面のモグラの穴だよ。気持ちいいわけないだろうが」
「すっ、すまん」
「すまんじゃねえ。『まかしとけ、まかしとけ』って、変な格好させるもんだから、腰をおかしくしちゃって、さっきまで揉《も》んでもらってたんだよ」
「すまん」
女は、容赦なく打ちこんでくる。目がすわって、異様なほど光っていた。歳三は、心底こわくなった。
「まったく横着な奴だよ、終わるとオレの袴で拭きやがって。そんな男がいるか?『もう、おまえはオレの身体が忘れられない女になったんだ』って? ほんと、忘れられないよ。おう、どうしてくれるんだ。おまえみてえな馬面の百姓に、大事な操を奪われるなんて思ってもみなかったよ」
「すっ、すまん」
「すまんじゃねえんだって! このバカッタレが」
と力一杯刀を振り下ろした。
ゴキッと歳三の腕から音がした。
「たっ、助けてくれ!」
歳三は舞台中を転げ回った。
嘲笑《ちようしよう》のなか、歳三がやっとのことで立ち上がった。勇に背負われ、舞台の袖に寝かされた。
「あ、いてて」
「歳三、おまえなんかあの女に悪さしたことがあるんか。まるで仇のように打ち込んどったなあ」
「しっ、知りません」
と、お絹が泣きじゃくりながら飛び込んできた。
勇が、
「どうした、お絹?」
「留吉さんが一足先に江戸に行くっちゅうんじゃ」
「なんでじゃ」
「撮った写真をすぐ現像したいから、江戸で現像液さがしたいって」
「無理じゃ。五助も弥一も歳三も今夜は動けん」
三人とも寝かされてウーウーうなっている。
「もういい、私も行く」
「まっ、待て」
お絹は勇の止めるのも聞かずに留吉の後を追った。
歳三がお化けのように腫れ上がった顔で、
「勇さん、わしらも今夜中にここ発《た》ちましょう」
「そげな身体で無理じゃ」
「じゃが、わしはあん女に殺される」
歳三が這い出ようとすると、以蔵が肩をいからせ、すごい目つきでやってきた。
「なっ、なんじゃ、以蔵さん」
「歳三、総司がおまんを連れてこいとよ」
「ケッ、ありゃ女か。オラ、男と思った。その総司がなんの用があるんじゃ」
「話したいことがあるんだってよ」
「えっ」
「おまんら知り合いだったんか」
「いや、知らん」
以蔵は歳三の胸ぐらをつかんで、
「だったらなんで、呼んでこいなんて言うんじゃ」
「知らんのじゃ、わしは何も」
歳三は以蔵を振り切り、小屋を抜け出した。
「待て!」
「イヤじゃ。あんな女なんかもうたくさんじゃ」
歳三は吊橋《つりばし》がかかっているところまで夢中で崖道《がけみち》をよじ登った。
一息つくと、
「ああ、怖かった。なんちゅう女じゃ。結構自分だってよがって、腰動かしたくせに。あっ、いて!」
最後に打たれたときゴキッという音がした。骨にヒビが入っているのだろう、左腕が上がらない。
と、後ろの草むらからおしろいの匂いがしてきた。
「あっ」
木刀を持ち、浴衣姿の総司が歳三を見下ろしている。
「そうだよ、オレだよ。何がたくさんなんだって? 誰が腰動かしてたんだって?」
「お、お前、聞いてたのか」
「聞いてたよ、このっ!」
総司は手に持っていた木刀でまたビシッ、ビシッと打ってきた。
「もう、ぶつなって」
歳三は頭を抱えころげ回った。
「あっ、ヤベ」
と、いきなり総司が歳三の頭を押さえた。
「なっ、なにすんだ」
「こっち来いよ。兄上が来たんだよ」
「兄上?」
「とにかく、かくれんだよ」
二人は草むらに身を隠した。
「たっ、助けてくれ」
「なら黙ってろって。しゃべるんじゃないぞ」
総司は歳三を抱きかかえるようにするとその耳を押さえた。
海舟が円朝と吊橋を渡って来るのが見えた。
海舟は先ほどの凜《りん》とした武士らしい様子とは違い、河原の様子を楽しんでいるのか余裕がみえる。円朝もおだやかな顔をしてゆったりと歩いていた。円朝は懐手をすると、
「江戸は黒船で大変ですってね」
「そのことで坂本さんと相談したかったんですけど」
「海舟さん、坂本さんにお会いになれなかったんですか」
「はっ。入れ違いで江戸に戻られたそうです」
「まったくせっかちな人だ」
「でも、ステキな人です」
「あれで本人はコンプレックスのかたまりですよ」
「あの方は幕府側、朝廷側のどちらにおつきになるんでしょうか」
円朝はいたずらっぽい目をし、
「どっちにもつきませんよ。強いて言えば、ハハハ、日本につくんです。ハハハ……」
海舟もまっ白な並びのよい歯を見せて、楽しそうに笑い、
「でも坂本さんは、どうして奥様をおもらいにならないのでしょうね」
「もてないんですよ」
円朝はあっさりと答えた。海舟は驚いたように眉をあげ、
「えっ、あの人がですか」
「情が濃すぎるんですよ。今時、そんな男が流行《はや》るわけがない」
「私などから見て、あの男ぶりは嫉妬の対象ですがね」
「そう考えてるうちは、あんたも女には縁のない人生になりますぜ」
「はっ」
「いや、冗談です」
「はあ」
「で、黒船のことはどうします」
「ああ、そのことですか」
海舟は考えていた。
問題は黒船だ。三日とあげず大砲をぶっぱなし、威嚇して開国を迫っている。ペリーは待機させている黒船を江戸湾に送りこみ、力ずくでもアメリカと和親条約を締結させると言っていた。
しかしいま、アメリカの政治形態をこの国に持ちこまれるのはなんとしてもまずい。日本には天皇がいて、徳川という大きな家がある。きこりの子でさえ大統領になれるというアメリカの思想を持ち込まれても、それを受け入れる土壌がない。やはり、日本は万世一系の天皇の歴史をふまえ、「象徴」として「国王は君臨すれども統治せず」といったイギリスの議会制民主主義を取り入れるべきだろう。
円朝は顎をなでると、
「大政を奉還することに決めたんですか」
「いえ、慶喜公の御心中を察し、表だってはそうは決めておりませんが、老中の青木様を京に向かわせております」
「京都は受けますかね」
「はっ?」
「いえ、大政奉還を受けますかねって言ったんです」
「これは異なこと。どういうことです。京都の公家どもは政《まつりごと》にたずさわりたくて、うずうずしてるのではありませんか」
「さっ、そうですかね」
「そうですかねって、円朝さんともあろうお方が、おかしなことをおっしゃらないで下さい。青木様に聞いたのですが、いままでも、ことあるたびに政に参画させてくれという申し出が多々あったそうです」
「いや、あたしはね、仲間から物くれるって言われたとき、機嫌が悪くていらねえって言ったことが何度もありましてね」
「はっ?」
「一度、どうしても欲しい落語本がありましてね。いくらでも金を出すから、あたしに売ってくんないかって言ってたんですが断られましてね。ある日、そいつが金に困り今度は買ってくんないかって頭下げてきましてね。あたしゃさんざんじらした後、ただ同然で買い取ったことがあるってことですよ」
「言ってる意味がよく分かりませんが」
「いや、この話、もうよしにしましょう。頭が痛くなります、ハハハ」
この時代、京都で大政奉還をつっぱねるであろうと読んでいたのは、おそらく、坂本龍馬だけであったろう。
と、円朝は話題を変えるように、
「しかし、総司ちゃん似合いますね、着物姿も。いつも江戸で男の格好した姿しかみたことがないですから、あんな着物姿を見たらめんくらっちゃいました。しかし、色っぽい、やっぱ女なんでしょうね」
海舟はさも不愉快そうに横を向き、
「一体どこで覚えたのか」
「何がです」
「あの身のこなしです、小悪そうな目です」
「女はみんなああですよ」
「あの目は街の性悪女の目です」
「ほう、海舟さんは性悪女にひっかかったことがあるんですか」
「いっ、いえ」
海舟は首までまっ赤になると懸命に首を振った。真面目な海舟は、いくら円朝が女遊びに誘ってものってきたことがない。
円朝は大きくためいきをつき、
「海舟さんも、女で一、二度泣く思いをしといてくれたらね。そしたら世の中の仕組みってものが分かってもらえるんですがね」
「はっ?」
「いえ、こっちの話です」
河原の中央で燃やされる大きな篝火《かがりび》を見ていた海舟が思いつめた口ぶりで言った。
「円朝さん、私は総司を妻にしようと思ってるんです」
「妻に……?」
木の陰の草むらで聞いていた総司が一瞬、ビクッとしたように身を固くし、歳三の耳を押さえていた手が離れた。
「どっ、どうした」
「だ、黙ってろって」
「うん」
「おい、どこ触ってるんだよ」
「すっ、すまん。つい」
「ついじゃねえんだよ、このドスケベが」
「我慢できないんだよ。おまえのことが好きなんだ」
「よっ、よせって」
歳三の手は総司の下腹部をさすっている。
「や、やめろって」
「いやだ」
「なっ、なんかおまえうまくなったな」
「えっ?」
「あのときとずいぶん違うぞ。何かあったのか」
「わしゃ何もしとらん。女はおまえ一人じゃ」
「とっ、とにかく静かにしろって」
海舟の、「総司を妻にする」というこの言葉に答える円朝の声は、驚きでしゃがれていた。
「正気ですかい、海舟さん。自分が誰をお嫁さんにしようとしているのかおわかりになってるんですかい」
「はい。総司の労咳は、私がきっと治してみせます。もしお上《かみ》からお許しが出ないときは、勝家三千二百石は捨ててもいいと父も母も言ってくれてます」
「いや、そういうことじゃないんです。海舟さん、あんたら、死んだうちの親父が勝家に総司ちゃんを連れて行ったとき、一緒に持っていった刀袋を開けてみたことないんですか」
「はい。先代の円朝師匠から、決して開けるなと言われておりましたから」
「こりゃ、話にならねえや」
円朝はあきれかえり、大きく頭を振った。海舟は、
「一体、どういうことです?」
「とにかく、総司ちゃんを奥さんにするなんてことはおやめなせえ」
「何故《なぜ》です」
いつも江戸っ子の粋にふるまうことを信条としていた円朝は、ヤボな男だとばかり海舟をにらみ、
「第一、労咳持ちの女もらったら、海舟さんの今のお仕事に支障をきたすんじゃないですか」
「…………」
「あなたには、新しい時代を作る夢があっていいんじゃないですか」
「いずれ徳川慶喜公にお願いするつもりです」
「そんなこと徳川の将軍様が許してくれるわけないんじゃないですか」
「はっ?」
「まっ、とにかくやめにして下さい」
「イヤです。どういうことか教えて下さい」
「総司ちゃんの生みの親が八卦《はつけ》に見てもらったそうなんです」
「八卦?」
「総司ちゃんを十七までに殺しとかないとこの国に災いが起こるって出たんです」
「バカな!」
「バカな、じゃねえんです。あのねえ海舟さん、私も芸事をやってる人間ですからね、八卦占いってのも信じるんですよ。人は木の股《また》から生まれてきたわけじゃねえんだ。親から生まれてきたもんだ。そして、その親もまた親から生まれてきた。不思議といや、こんな不思議はありませんや。世間じゃ、霊や前世のことなんか信じないかもしれませんが、この世の中、人間の力じゃ動かせないもんがあるんですよ」
「だからと言って殺していいってことはない。一体、誰が殺すのです」
「さっき吉蔵さん、手裏剣投げで殺そうとしてましたよ」
「なっ、なんですって!?」
「以蔵さんが止めましたけどね」
「そっ、そんな!」
「だから、あたしゃ死んだ親父にいらんお節介なんかすんじゃないって言ったんだ。ところがエエカッコしいの親父だもんだから」
海舟は断固とした口調で、
「円朝さん、何があっても、私は総司を守りますよ。総司は、絶対私の妻にします」
海舟が、総司を女として愛し始めたのは、総司が勝家にひきとられて八年目、伊豆《いず》の山で遊んだとき、一面を黄色に染めた菜の花畑を走ってくる総司の姿を見て以来だった。
「兄上、あたし、絶対負けませんから」
と、長いまつ毛にふちどられた黒い瞳で顔をのぞきこまれてからだ。
「が、相手は強いぞ」
「兄上のためですもの、任せといて下さいな」
うっすらと汗に濡れた首すじから漂う芳香に、海舟はめまいさえ覚えた。
「あれ、兄上、何を見ているのです?」
「いっ、いや」
「ああ、空気のおいしいこと」
潮風を受け、白い襟足の後れ毛がかすかにゆれ、そのさらしで巻いた胸のふくらみに、海舟はいてもたってもいられなかった。
「だって、あたしが負けたら、兄上はなみ殿とご結婚なさらなければいけないのでしょう? そんなの、イヤですわ」
父の小吉が酒席で、隣家の小笠原元行《おがさわらもとゆき》の口車に乗せられ、双方、腕達者を出し剣術の試合をし、負けたらなみを妻にするという約束をしてしまったのだ。
総司の剣は天才的で、千葉道場免許皆伝の海舟でさえ、三本に二本は負かされる。万に一つも後れを取ることはないだろう。
「でも兄上、なみ殿はほんとうに兄上のことがお好きなんですよ」
「オレは嫌だ」
「なぜですの? あんなにおきれいな方なのに」
「どこがきれいなんだ。あんなのに比べたら総司の方が百倍はきれいだ」
「まっ」
「ほんとだ。オレは本当にそう思ってる」
「…………」
「あの家は、何かといっては小笠原家はと家柄ばかり自慢する。何が家柄だ。所詮、旗本といっても元をたどればどこの馬の骨か分かったもんじゃないじゃないか。それはなみも同じだ。あんな女と結婚するくらいだったら……」
「するくらいだったら?」
「…………」
ヒバリがパッと空に舞い上がった。
「するくらいだったら、なんですの?」
「なんでもない」
「おっしゃいましな、早く」
「なんでもないってば」
総司は顔を近づけ、
「さあ、おっしゃいましな」
「しっ、知らん」
「あっ、いけない」
「どうした?」
「なみ殿から、あまり兄上に顔を近づけるなと言われたことがあるんです」
「なぜだ」
「労咳がうつるからと」
「バカな。お前のセキは労咳ではない。良庵《りようあん》先生もそう言ってただろ」
「でも」
「たとえお前が労咳であろうと、それで世間体を気にする勝家ではない」
「はい」
「しかし、うちは父上も母上も、お前のことになると見さかいがなくなるから困る。せんだっても、陰口を言っていた魚源《うおげん》はお出入りを禁止されるわ、横目でお前を見たという、ただそれだけの理由で木村《きむら》家には怒鳴りこんでいくわで、オレも苦労するよ」
「はい……」
「いいか、これだけは覚えておけ。オレたちはお前のことを誇りに思い、かけがえなく思っている」
伊豆の暖かい海の風が吹くたび、豊かに丈を伸ばした草がさんざめき、たおやかに揺れていた。
また、ヒバリが舞い上がり、風の流れに身をまかすのを総司は首を長く伸ばしてみとれていた。
「兄上、あたし、こんな労咳持ちですから、誰も貰《もら》い手がないって思うんですよ。もし誰も貰い手がなかったら、兄上、貰って下さいね」
いとしい女にそう言われ、肩に頭をもたせかけられ、心が動かぬ男がこの世の中にいようか。
「…………」
河原では、祭が終わり、次々と屋台が焼かれている。
海舟はキッと円朝の目を見据えると、きっぱりと言った。
「いや円朝さん、私はどのような犠牲を払おうと、総司を妻にします。私は総司のような労咳持ちの女が肩身の狭い思いをしないですむような日本を作りたいのです。河原者もない、労咳持ちもない、そんな美しい日本を、総司のために作ってやりたいのです」
歳三は、耳をおさえていた総司の両手を払った。海舟の言葉は聞こえなかったがその燃えるようなまなざしに、なぜかたまらない嫉妬を感じた。歳三は河原の炎に照らされた海舟の凜とした顔を憎々しげににらみつけ、
「総司は、俺の女じゃ!」
両手で総司の浴衣をはだけ、胸のふくらみを跡がつくほど噛み、届かぬ声で叫んだ。
勝海舟もまた、押さえることのできない青春のほとばしりをきつく握りしめた拳に秘め、
「私は総司のために美しい日本を作ってやりたいのです!!」
と叫んだ。
「こりゃまた、とんでもねえことになっちまったな」
と、ぶっきらぼうにつぶやき腕組みをした円朝は、その輝く海舟の瞳に悲劇の始まりを見た。
「坂本さん」
その生母が自殺をした時でさえ薄笑いを浮かべていた円朝が、祈るような思いで龍馬の名を呼んだ。
朝の光が二ツ川の河原を照らし、流れる川の温度を吸い、その面から濃いもやを立ちのぼらせている。
一年に一度の祭が終わり、屋台の焼け跡からまだ煙がくすぶっている中、河原者たちがむしろをたたんで帰り支度をしていた。気が抜けたようにゆるゆると後片づけをする者たちの表情には、どこかもの哀《がな》しさが漂っていた。
小さなかけ声と共に、四つほど残っていたむしろ小屋が、一つ一つ壊されていく。
遠く、木崎《きざき》山に紫色のもやがたなびいている。きっと、早出のきこりたちの下草を焼く煙に違いない。
「また来年会おうな」
「ああ」
「お前はこれからどこへ」
「北陸の方だ」
「おれは九州だ」
昨夜、あれほど生気に満ちていた河原者たちは皆、背をかがめ、血の気の失《う》せた白ちゃけた顔をしていた。そして荷車にそれぞれの色模様ののぼりを立て、草履を脱ぐと裸足《はだし》で山道を歩き始めた。
河原者たちが市中を通るときは、薦《こも》をかぶり道の端を裸足で歩く決まりになっていた。
「じゃ、またな」
「また来年」
「来年も総司は来てくれるかなあ」
「ああ、来てくれるさ」
「でも、総司にだけは幸せになって欲しいなあ」
きのうは聞こえなかったが、あちこちでセキばらいが聞こえてくる。赤ん坊の泣き声がした。
「また捨てられとったか」
「かわいい子じゃのう」
「ああ」
「じゃ、岡田の座元に言って、うちの一座で連れていく。角兵衛獅子《かくべえじし》の子が足りんのじゃ」
と、一人、以蔵が走り回っていた。
「総司を知らんか」
「知らん」
「総司、知らんか」
「ああ、総司なら明け方帰ってきて、中村《なかむら》座の小屋ん中で寝とる」
「明け方? クッ、クソー」
以蔵は、赤地に黄色で中村座と染め抜いたのぼりが下がっている小屋に走りこんだ。
「こら、起きんか!」
よほど疲れているのだろう、総司は枕を抱えぐっすり寝こんでいた。以蔵が枕を取り上げようとすると、「イヤーン」とやけに甘い声で身体をくねらした。
「……まったく、何の夢見とるんじゃ」
以蔵は寝ている総司の周りをグルグルし、たまりかね、総司を揺すった。
「起きろ、おい総司、起きろ。いつまで寝とるんじゃ」
「なっ、何だよ」
目をこすり、起き上がった。
「おまん、歳三となんかあったんじゃないか」
「誰だよ、歳三って」
「馬面の男だよ」
「なっ、なんにもないよ」
「おっ、赤くなったな」
「赤くなんかなってねえって」
「じゃ、今朝がたまでどこに行っとったんじゃ」
「そっ、それは」
「わしはずっと寝ずに待っとったんじゃ」
「なっ、なつかしかったから、山歩きしてたんだよ」
「ほんとか」
「ほんとだ。出ていけよ。イヤラシイなあ。おまえ、ずっとオレの寝顔を見てたのかよ」
「おまんのうわ言もみんな聞いとった」
「なっ、なんて言ってたんだよ」
「後で教えてやる」
「汚ねえぞ、以蔵」
「フン、おまんはわしの女房になるってこと忘れちゃいかんぞ」
「知るかよ、そんなこと」
「約束をたがえるつもりか。おまんは小さいときからわしの女房になると約束したんじゃ」
「約束って、三つのときの話だろうが」
「三つだろうといくつだろうと、約束は約束じゃ」
「そんなのあるか」
「じゃ、わしの女房にはならんと言うんか?」
「ああ」
「じゃ、勝先生と一緒になってくれ」
「おまえ、兄上のことキライだったんじゃないのか」
「嫉妬しとったんじゃ。わしは、おまんが勝先生の女房になるんじゃったらおまんのことバサッと諦《あきら》める。が、他の男だったら許さん」
「……兄上と?」
「ああ。勝先生じゃ。おまんも勝先生じゃったら不足はなかろう」
「でっ、でも」
「なれるんじゃろな」
「なれるんじゃろなって、どういう意味だ」
「わしゃ、知っとるぞ」
「何をだ」
「今朝方まで、おまんが何しとったかじゃ。おまんは、きのう女になっとる」
「何バカなこと言ってるんだ」
「じゃ、その胸元のキズは何じゃ。男に吸われた後じゃろが」
「あっ」
「あっ、じゃねえ。まったく、この尻軽女《しりがるおんな》が。相手は誰じゃ。歌舞伎《かぶき》役者か、村の百姓か。まさか、あの土方じゃないじゃろうな。どうもおまんら、おかしいと思っとったんじゃ」
「しっ、知らねえ」
「どっちにせよ、おまんが誘うたに決まっとる」
「なに」
「おまんとわしは同じ乳を飲んどったというに、なんでそう淫乱《いんらん》な女になったんじゃ。それは血じゃ。おまんの血じゃ!」
「なっ、なんだと?」
以蔵は泣いていた。
「勝先生には黙っちょってやる。あん人は、わしら河原者でも分け隔てせん立派なお人じゃ。わしら、あん人のためならなんでもする。なっ、頼む。あん人はこの日本に大切なお方じゃ。しっかり尽くせ」
「尽くせって、このバカが! 女が男に尽くしてばかりいられるか!」
以蔵は刀を抜き放ち、
「まったく、この女! 性根叩き直してやらないかん!」
「おっ、やろうってのか」
「いくら時代が新しゅうなったって、女が男に尽くさないかんことは変わらんのじゃ、この!」
斬りかかろうとした以蔵の目に、総司の浴衣の裾が割れて白い太ももが見えた。
「来ねえなら、こっちから行くぞ!」
さらしを巻いた総司の胸元がチラチラする。盛り上がったまっ白な胸が大きく息づき、その谷間にはうっすらと汗がにじんでいる。
「どうだ、どうだ」
と総司は打ちこみ、払いのけながら、裾をひっぱり白い太ももをあらわにし、胸のさらしを下にずらす。以蔵は目がくらんでガクッと膝を落としてしまった。
「やめだ、やめだ」
「ザマアみろ」
「そんなの、剣じゃねえや」
「フン、勝ちゃいいんだよ」
「勝ちゃいいって、おまえも女だな」
「おい以蔵」
「なんだ」
「きのうの手裏剣、ありがとうよ。でも吉蔵兄いはなぜオレを殺そうとしたんだ」
「なんかなあ、おまんを捨てにきた男から十七になるまでに殺せって言われてたらしいんだ」
「フーン」
二ツ川で、総司は抗《あらが》う歳三を押さえるのが精一杯で、海舟と円朝の話を聞くことはできなかった。
「でも吉蔵兄いは本気じゃなかったぜ。本気だったら、わしの手裏剣なんかでスジ変えられねえからな」
「うん、オレもそう思う」
総司はあの時、このまま刺されてもいいと思った。自分に非があるわけではない。が、自分を大事にしてくれた吉蔵ほどの人間が殺そうとするからには、それなりの理由があるのだろうと思った。
「でも、まあ訳ぐらい知りたいよ……」
一声かければ、二万もの関東の河原乞食を集めることができるという岡田七兄弟の長兄吉蔵は、背こそ高くはなかったが筋肉のひきしまった厚い身体と、いつもしっかりと前を見据える一重の目は意志の強さと器の大きさを感じさせた。人は吉蔵に強さとやさしさを見、慕っていた。山のような大きさのある男だった。
「オレが捨てられたとき、どうだったんだろうな」
総司の捨てられた河原には狼どもがうろついていたが、不思議と総司には襲いかかってこなかった。二つのとき、手裏剣の的として舞台に立ったが恐がりもせずニコニコしていた。三つのときに太刀筋を教えると天性のカンの鋭さ、特にその跳躍力に驚かされた。打ちこむ刀に引き寄せられるように身体を持ってくるがいつも紙一重のところでサッとよけてしまう。そしてその瞬間、総司の身体は三間も先のところにあった。以蔵は、
「捨てられた時から、他の子とはどっか違っとったって聞いたぜよ」
「どこが?」
「品とかさ」
側にいる者に膝をつかせ敬語を使わせるような総司の気高い気品は生まれながらのものとおもわれた。飯の食べ方にしても誰が教えたわけでもないのに箸《はし》の上げ下げ茶碗《ちやわん》の持ち方どれ一つとっても上品だった。相手の話を聞くときも、背筋をピンと伸ばし目をしっかり見る仕草がおのずから身についていた。
「まっ、手裏剣のこと、わしが一度じっくり吉蔵兄いと話してみるからよ。それが筋の通らねえ話だったら、わしゃ、こんなとこ出ていってやる」
「しかしよう、なんて親なんだ。こんな淋《さび》しいとこに捨てといて、また殺そうっていうのか。オレが一体何したっていうんだ。それによう、こんな労咳持ちだから殺さなくたってそう長く生きてられりゃしねえよ」
「…………」
「何するにしても生まれたばっかりで、何もしようがなかったと思うんだよね」
「もういいじゃないか」
「よかねえよ。生みの親からは捨てられるし、四つまで育ててくれた吉蔵兄ィからは手裏剣投げられるし。今度は勝家の母上から殺されるんじゃないのか。ケッ、バカにするんじゃねえや」
総司の声は涙声になっていた。
「…………」
「すまん、すまん。あっ、なんか湿っぽくなっちゃったな。おもしろい話しようぜ」
「うっ、うん。でもおまん、その男言葉よせ」
「そろそろ変えなきゃと思ってたんだ。ほら、オレだって年頃だからな。この前一度、母上が着物着せてくれたんだ。でもよ、正直な話、着物着てシャナリシャナリ歩くの、つらいぜ」
「いつまでも男の格好はしてられないだろうが」
「しかし、何で男の格好して育てられたんだろ、オレ」
「女だとバレるとヤバイことがあるからだよ」
「フン。それはそうと、おまえ、坂本龍馬って男のこと知ってるか。うちの兄上の友だちらしいんだけど」
「ああ。ちょっと頭が足らんちゅう話だな」
「足りねえんじゃないんだ。あいつ、色情狂なんだよ。オレよ、一度お琴の稽古《けいこ》の帰り、見たんだ」
「お琴なんかやってたんか」
「だから、やらされたんだって」
「そうか」
「あいつよ、城の石垣ん中によ、つっこんでんだぜ」
「つっこんでるって、何を」
「ナニをだよ」
「なんで」
「手ですんのが面倒臭かったからじゃねえのか」
「ほんとかよ」
「ほんとだよ。まったく、横着な野郎だよ」
「へー」
「でよ、オレ、考えたんだ」
「何を」
「もしよ、その石垣ん中によ、蛇でもいてよ、かみつかれたらどうなるんだろってな」
「そっ、そりゃそうだな。石垣ん中によくいるもんな」
「で、オレ、じっと見てたんだよ。と、突然、坂本がギロッと振り向いたんだよ。で、オレびっくりしちゃって、後ろの土手に落っこっちゃって泥だらけよ」
「ハハハ」
「それだけじゃないんだ」
「フーン」
「あいつよ、石垣から引っこ抜いてオレんとこ来て、おい、どうだって、こうだよ。オレ、腰抜かしたよ」
「変わってんな」
「それがよ、ちっこいんだ」
「ちっこいって、誰と比較してちっこいと言ってんだ」
「比較なんかしてねえよ。オレ、まだ生娘なんだからよ」
「嘘をつけ、もう」
「まっ、その話はおいといて。ほんと、ちっこいんだよ、このくらいしかねえんだ」
「坂本龍馬のはデッケエって、馬並みだって噂だぞ」
「嘘だよ。だってオレ、見たんだもん」
「そうか」
「それによ、ホーケーだったぞ」
「いいじゃねえか、そういうことは」
「なんだ、おまえも心当たりがあるのか」
「男ってのはよ、大きくても小さくても、そういうこと気にするって」
「フーン」
「おまんは、すごくいいとこの生まれらしいんだよな。だからそういうイヤラシイ話はするな」
「なんだ、いいとこって」
「知らねえよ、わしゃ」
「フン、いくらいいとこだって捨てられりゃ世話ねえや」
「おい、親のことそう悪く言うたらいかんぞ。親があるだけいいじゃないか。わしら、いるのかいねえのか分からねえんだぞ」
岡田宗家の兄弟たちは、皆捨て子だった。
「わしら、ただ捨てられたんだ。たとえ殺すとしたって親の気持ちが入ってんだ。ありがたいことだよ」
「まっ、そうは言うが、オレの身にもなってみろ。大変だぞ」
「でも親の悪口は言うな!! 親が生んでくれなかったらこの世にいないんだろうが」
「オレの母親って、どういう人だったのかな」
「きれいな人だったんじゃないかな」
「なんで分かるんだ」
「親だから、おまんに似てるだろうが」
「オレ、きれいなの? 魅力的なの?」
「知らねえよ」
以蔵は勝家の千代のことを案じた。総司は母親の腹を食い破り、その母の命を吸い取ってこの世に出て来たと二ツ川では噂されている。そして、総司が母と名のつく者の命を奪い取っていく宿命があるということも。
「千代さんはいい人だよな」
「ああ。なんか腹がすわってるって感じだもんな」
以蔵は、時折、勝家に遊びに行く。二ツ川の河原者は、道を歩くとき、道の端を歩かされるのだがそれでも街の人は袖口《そでぐち》を口にあて、イヤな顔をする。まして出入りしていることが近所の噂となれば大変だ。河原乞食は本来なら庭にひれ伏して食事をするのだが、千代は以蔵を座敷にあげ、一緒に食事をした。
「あの人はいい人だよ」
「うん。でもそろそろ、オレ、家を出ようと思ってるんだ」
「なんでだ?」
「だって、兄上もそろそろ嫁さんをもらわなければいけない年だし、オレみてえな労咳持ちがいるとまずいんじゃないかと思って」
「おまん、勝先生の嫁さんになりたかったんじゃないのか」
「そりゃ、小さいころの夢だよ。考えてもみろよ。兄上は徳川を代表して大事なお仕事をなさってる人なんだぜ。こんな労咳持ちが許されるわけがねえ」
「そんな人じゃないよ、勝先生は」
「そりゃ分かるけど、それに甘えてもいられないだろう」
「…………」
「どんな人が兄上のお嫁さんになるのかなあ。せめて婚礼の式ぐらいには出たいなあ」
「…………」
「あっ、いかん、また湿っぽくなってきた。でよ、それからも坂本によく街で会うんだ。会いたくないな、会いたくないなって思ってたら、会うんだよ」
「おまんが気にしてるからじゃないのか」
「違うって。オレ、ああいうタイプは大キライなんだから」
「そうか」
6 京 都
京の禁裏召しかかえ占術師|岩倉次郎丸《いわくらじろうまる》が、浦賀の沖合にペリー率いる四隻の黒船の到来を見たのは、京都の岩倉村にある家の離れの御堂で焚いていたごまの白い煙の中だった。
「来たか」
次郎丸の目には、四隻の黒船の甲板に一糸乱れず整列している紺と白のセーラー服姿の水兵たちの姿が見えた。
「しかし、もう一つのこの煙は」
いく度次郎丸が気を入れても、白い煙を囲むかのように上がる紫色の煙の謎《なぞ》は解けなかった。
ひとしきり風が激しくなり横なぐりの雨が六角の御堂の扉を叩いた。
「フー」
次郎丸は、また気力をふりしぼり祈った。
美しいうりざね形の顔が見るかげもなくやつれて、激しい疲労に胸の鎖骨も浮き上がっていた。
ごまを焚き、眉間に気を集めるたび次郎丸の身体は上下に揺れ、あまりの緊張に何度も失神した。
と、人の気配がし、御堂の扉が静かに開いた。小柄だがスラリとした女が入ってきた。
「次郎丸、すこし休まねば身体に毒ですよ」
「あっ、姉上」
「もう三日も座りづめでしょう」
「はい」
次郎丸には生後すぐ死んだ兄のほかに、四人の姉がいる。次郎丸は、出戻りのこのすぐ上の姉の妙子《たえこ》と一番気が合った。
岩倉家の女がみなそうであるように、妙子もわし鼻で目は引いたように細い。が、妙子の陽気さ、ほがらかさがそのキラキラ輝く目に表れていた。
教養のある女で、和歌をよくし、また読書家で、『伊勢《いせ》物語』など丸ごとその文章をそらんじているほどだった。
妙子は、蜂蜜《はちみつ》をとかした湯を差し出した。
「せめてこれを飲んで精をつけねば」
「はっ」
次郎丸はまだ二十五だが、妙に老成した低い声でゆったりとしたしゃべり方をした。ごまを焚くその手は、妙子のそれよりも白く華奢だった。
「次郎丸、黒船が来たようですね」
「姉上もおわかりになりましたか」
「フフ、私も岩倉家の娘ですよ。多少の占術ならできます」
濃い緑色の質素な着物を着た妙子は、おどけて胸をたたいた。
「ハハハ、それはそうだ」
姉の明るい声を聞いたためか、次郎丸の眉間から少し皺がとれ、穏やかな顔になった。
「さっ、湯を」
「はっ」
「あとで粥《かゆ》でも作ってきてあげます」
「すみません」
妙子は立ち上がり、小窓を少し開けると、煙を出した。雨足が弱くなっていた。雨の向こうに京の山並みが墨絵のようにかすんで見えた。天井から壁を伝って雨が漏り、煙にすすけた壁には大きな染みができている。占いをする大事な所だというのに、貧しくて十分な修繕ができなかった。
妙子は次郎丸の着ているつぎはぎだらけの装束を指さし、哀しそうに、
「私に力があれば、次郎丸にもっと立派な六角堂や護摩壇《ごまだん》や着物をつくってあげられるのにね」
「姉上、そのお心だけで十分ですよ」
「でも」
「やがて、よい時も参るでしょう」
「そうですね」
次郎丸は湯を大切そうにすすり、
「そういえば、姉上、中納言殿が戻ってくれるよう言っておいででした」
「いやです」
「一体、なにが原因で家を出たのですか。十分な暮らしができたでしょうに」
「何もかも、いやになったのです」
「中納言殿がおかわいそうです。婚礼二日でまだ手も握っていない妻に出ていかれたとお嘆きでした」
「そんなふうに言いふらしているあの人の根性がいやなのです」
「しかし、二日では」
「殿方を嫌いになるのに二日もあれば十分です」
「それはそうだ」
「一日でも、いえ、一時でもあんな男と同じ屋根の下で暮らしたかと思うと、思い出してもむしずが走ります」
「あれあれ」
「あんな男と一緒になったなんて魔がさしたのです」
「ハハハ」
「あの男がいかにゲスな男か、三日はあなたに話して聞かせられますよ」
「嫁いでいたのは二日だというのに」
「四日でも五日でもできます」
「はいはい、わかりました」
次郎丸は湯呑を膝元に置き、
「姉上には、だれか好きな人がいるのでしょう」
「えっ?」
次郎丸はクスリと笑い、
「いつか、厠《かわや》に入って身体を求めた男ですか」
「なっ、なぜそのようなことを知っているのです」
妙子は慌てた。
「姉上。私は占術師ですぞ」
「もう」
「姉上をこのように夢中にさせるとは、どのようなお方でしょうな」
「お方ではない。あの男はケダモノじゃ」
「ケダモノ?」
「そうじゃ。思い出しただけでも汚らわしい」
「やれやれ、さっきはゲスで、今度はケダモノですかな」
「あいつは特別です」
「あいつとはゲスの方ですか、ケダモノの方ですか」
「ケダモノの方です」
「そんなにおいやでしたら、呪《のろ》い殺しておやりになればいいのに」
「あの男にはそれができぬのです!」
次郎丸はちょっとした戯事《ざれごと》のつもりで言ったのだが、できぬとは穏やかでない。
「なぜです」
「神仏を信じぬ者に呪いが通じますか」
これには、次郎丸も笑った。
「ハハハ、それはそうだ」
「次郎丸、そんなに大口をあけて笑うでない。はしたない」
「こっ、これは失礼。ではその男、何を信じておるのでしょう」
「きっと、自分自身です」
「自分自身? ほう」
「ああいう男にこそ神仏の信仰が必要なのです」
「では、姉上が導いてやればよいではありませぬか」
「それができるくらいなら、苦労は致しませぬ。あの男はやることしか考えておらぬのです」
「やる?」
「やるです。あの男は、やることしか頭の中にないのです。とにかく、私とあったときも会話の半分はやる、やるです」
「やるとはなんですか」
「ですから、やるですよ」
「うむ?」
「頭のまわりが悪い。それで、あなた占術師ですか」
「あっ、そうか。ハハハ」
「次郎丸、大口をあけて笑うでないと言ったでしょうが」
いつも穏やかな妙子が顔を紅潮させ口をとがらせて怒っているのが、次郎丸には何とも言えずかわいらしかった。
「ハハハ、こんなかわいい姉上を見たのは初めてだなあ」
「なにがかわいいです。私は出戻りでもう二十九です」
「いや、かわいいですよ」
「次郎丸、怒りますよ」
「そのケダモノ、今どこにいるのです」
「そのようなこと、知るわけないじゃありませんか」
あれは妙子が、慶喜公に嫁がれる前の美賀子《みかこ》に侍女としておつかえしていた時のことである。
その男は、汚れた袴にボサボサの髪を振り乱して、屋敷中をかけずりまわっていた。
「厠を教えて下され」
と切羽つまった顔で言ってきた。妙子が案内すると、
「いや、助かった。朝から腹がしぶっておったんじゃ。ちょっと待ってて下され。もう一つ頼みがあるんじゃ」
妙子はまっ赤になった。厠の前で男を待つなど信じられないことだ。誰かに見られたらどうしようといたたまれなかった。
男は入るなり、ウッとうなり、ビリビリとすごい音を立て始めた。妙子は泣きたくなった。男はさっぱりした顔で出てくると、手を汚れた袴で拭きながら、
「いや、助かったぜよ。もう少しで洩《も》らすところじゃった」
「はあ、あの、用というのは何でございますか」
妙子はもう、気を失いそうだったが、ようやくのことで言った。
と、男はガバと土下座した。
「どっ、どうしたのでございます」
「実は、そこもとに一目惚れした。というより、わしは土佐から京に来るまで一度も女とやっとらん。つまり、飢えとるんじゃ。どうしても一発やりたいんじゃ。なっ、頼む、一発やらして下され」
「はっ?」
妙子には、言ってることがよく分からなかった。飢えているとは、何に飢えているのであろう。
「頼む、この通りじゃ」
男は地面にすりつけんばかりに頭を下げ、哀願した。
「いや、中までは入れん。先っぽだけじゃ」
「先っぽ?」
「そうじゃ。先っぽだけじゃったらそこもとも貞操を失のうたことにならん」
「はあ?」
狂っているとしかいいようがなかったが、常人の真剣そのものの目だった。卑猥《ひわい》な言葉を連発しているのに、なぜか下品さがなかった。むしろ、愛嬌さえ感じられた。
「じゃ、こうしよう。わしも土佐の龍といわれた男じゃ。腰も動かさんでええ。先っぽだけで動かさんかったら、こうなるともう、セックスじゃない。スポーツかリハビリのたぐいじゃ。そなたも身分のある女じゃったら、男がここまで頭下げてる心情をお汲み下され」
「はっ」
「あんた、はっ、じゃないき」
「すっ、すいません」
「なあ、さっさとやらせてくれんか。人に見られて恥かくのはあんたじゃろ」
「はあ?」
「さっ、脱ぐんじゃ。すぐ済むき」
それから妙子は気を失ったのでどうなったのか分からない。気がつくと紫宸殿《ししんでん》の廊下に寝かされていた。あのときのことを思うと、妙子は怒りと恥ずかしさで死にたくなる。
「先っぽだけ?」
次郎丸は吹き出しながら聞き返した。
「ええ。先っぽだけじゃ、と。もう女を愚弄《ぐろう》するにも程があります」
次郎丸の笑いがおさまらず、妙子が怒った。
「次郎丸、いつまで笑っているのです」
「すっ、すいませぬ。おかしくて……」
「何がおかしい。私は死ぬほど恥ずかしかったというのに」
「いっ、いや、これは失礼。腰も動かさんと」
「次郎丸!」
「失礼。で、その後はどうなったのです」
「どうなったって、私は失神したって言ったでしょう」
「いや、ですから、その男は姉上のことを、つまりやったのですか」
「バカ!」
やられていないから、こんなにも切ないのに。
「姉上、その男の名は何というのです」
「知りませぬ。名を聞く暇などあるはずがないではありませぬか」
「それはそうだ」
「名など知りとうもない。ただ」
「ただ?」
「今度会ったらただではすまぬ、ということじゃ」
「ただではすまぬとはどうするのです」
「それがわかれば苦労はせんわ」
「斬り殺しますか」
「斬り殺しはせん」
「困りましたなあ。呪い殺すこともできず、斬り殺しもせず」
「そのうち、考えます」
「でも、姉上、中納言様にかわいそうなことをしましたね」
「なぜです」
「だって、姉上はその方のことが忘れられず家を出たのでありましょう」
「……いえ、その」
「女とは、げに残酷なもの」
「しっ、知りませぬ」
「私が占ってしんぜましょうか」
「なっ、なにをですか?」
「相手の男がわからなくとも、姉上の顔を見れば占えますが」
「よっ、よしなさい」
「本当にいいのですか」
「あっ、あのう」
妙子は正座している膝をきつく寄せ、上目づかいに次郎丸を見た。
「どうします」
「では、次に会えるかどうか……。それ以上は見てはなりませぬ」
「はいはい」
次郎丸の占う様子をじっと窺《うかが》っていた妙子が尋ねた。
「……どうです」
「ほう、次に会うのは祇園《ぎおん》ですな」
「祇園?」
「おっ、二人はむつまじく抱き合うていますぞ」
「まっ」
妙子は首までまっ赤になった。
「二人の相性は……、ほう」
「なっ、なんと出ているのです」
「まっ、姉上落ち着いて下さい。占いの気が散ります」
「はっ、はやく」
「相性はよく……」
と、次郎丸の声をかき消すような大きな足音が聞こえてきた。
「次郎丸、次郎丸」
ガラガラ声で呼んでいる。妙子は眉をひそめた。父だ。
赤ら顔の父、具福《ともふく》が扉を開けた。背の低い、太った下品な顔立ちの男だ。そのひしゃげた顎《あご》が、その顔をより下品に見せていた。
「次郎丸、黒船が来たぞ」
そんなことはとうに知っている。妙子は、なぜこのような凡庸な男から次郎丸のような者が生まれたのか、あきれを通りこし、腹立たしかった。
具福は後ろの、でっぷり太った派手な着流しの男に向かい、
「さ、蜂須賀殿、こちらへ」
「はっ。おう、これは妙子殿。また一段とお美しい」
と男は妙子の身体をなめまわすように見た。
蜂須賀|改二《かいじ》は、母の遠縁にあたる男だったが、跡取りが絶えた刀匠蜂須賀家にいやいや養子に入っていた。バクチ好きで江戸のヤクザに大負けしたあげく、その借金のカタに一人娘の梅香《うめか》を遊郭に取られても、気にも止めないほど自分勝手な男だ。
妙子は無理に笑顔を作り、
「蜂須賀殿、刀の出来はどうですか」
「ああ、今度はなかなかの名刀が出来そうじゃ」
ウソをつけ。キサマが刀を打つ槌音《つちおと》を一度として聞いたことはないわ。次郎丸は、心の中で改二をののしった。蜂須賀家に、あの菊一文字宗春を作った宗春さえ残っていれば、あんなに落ちぶれた境涯にならずともすんだのに。こんなだらしない男が、天下の刀匠蜂須賀家を継ぐとは。
具福は大声で、
「しかし、我が岩倉家の出番が来たぞ。宇気陰陽学《うきおんようがく》が日の目を見るときが来たのだ。思えば長い年月だったな」
昼間からまた公家どもが集まり、詮《せん》ない政を語り酒をくらっていたのであろう、息が酒臭い。
黙りこくった次郎丸の眉間にまた深いシワが刻まれた。具福は次郎丸の肩をつかんで揺らした。
「所詮、関東の荒夷《あらえびす》どもに政は分からなかったのだ。やつらには政の基本という、有職故実《ゆうそくこじつ》がなかったのじゃ」
改二が言った。
「ですから具福殿、ここは薩摩か長州を立てて、徳川と戦わしめ、その力が尽きたところで漁夫の利を狙《ねら》おうじゃありませんか」
「そうじゃ。蹴鞠《けまり》、和歌で育ったわしらに血の匂いをかがせるのは無礼というものじゃ」
具福は胸を高鳴らせていた。部屋の中をぐるりと見渡し、
「よし、わしは大きな屋敷を構えるぞ。山をならして庭も見事なものにしようぞ。そこに池を作ろう。そして、盛大な歌会をするのじゃ。花散る桜の木の下で琴を奏でようぞ。妙子は舞が上手じゃ、さぞ、きれいなことであろうな」
「わしもそのときは是非、見たいものですな」
改二が含み笑いして言った。
「次郎丸、どうしたのじゃ」
と、具福は次郎丸が目を剥《む》き、たえまなく上がる煙を見つめているのに気がついた。
次郎丸の額に汗がにじんできた。と、その顔の色がさっと青くなったかと思うと、次郎丸の身体がこれまでになくワナワナと激しく震え出し、苦しげなうなり声を上げ始めた。切れんばかりに唇をかみしめている。
「父上、菊姫様は生きておられますな」
苦しい息の中からくぐもった声で言った。
「あっ、それは」
具福は後ずさった。次郎丸とは普段でも目を合わせるのが恐ろしい。まして、いま、具福をにらみつけるその目は怒りもあらわに、つり上がっていた。具福は口が乾き、恐ろしさに震えがきた。
「なぜ、占いに出た通りお命を奪わなかったのです」
いくら朝廷五百年のお抱えの占術師の進言といえど、どうして生まれたばかりの赤子の命を奪うことができよう。
「なぜです!」
次郎丸の視線に具福は息が苦しくなった。
「いや、わしはしっかと申し渡したのじゃ。しかし、わしも人の子じゃ。そう強くは言えん」
「人の子? 岩倉家に生まれた者は人の子ではないとおっしゃっていたのはあなたではありませぬか」
「しっ、しかし」
具福は次郎丸の気迫に腰をぬかしていた。
「菊姫様はどうしたのです」
答えねば、具福の息の根は止まっていたであろう。
「次郎丸、聞いてくれ。あんまりやや子がかわいうて殺すには忍びなかったのじゃ。あの子は、川に捨てたのじゃ」
「川に?」
「そうじゃ」
「どこの川です」
「あっ、あれはどこじゃったかのう、蜂須賀殿。そなたも同行してくれたではないか」
改二も次郎丸の気迫に腰をぬかしていた。
「あっ、あの、狼が出るというあの二ツ川の河原じゃ」
「そっ、そうじゃった」
「しかし次郎丸殿、心配はござらぬ。菊姫様は生まれつきの労咳持ち。それに、二ツ川は狼の巣。生き延びられるはずがない」
次郎丸はごまをたたきつけ、かん高い声で叫んだ。
「この煙を見てください。菊姫様は、まだ生きております!」
「なっ、なに!?」
「父上、万世一系の帝の血を引くものが、狼などに食われるものですか」
「い、生きておるのか」
「生きております」
次郎丸は夜叉《やしや》のような顔で、
「そしてやがて、菊姫様は京に攻めのぼってこられますぞ。京都に災いをなすお子なのです」
「まっ、まさか!」
「だから、お命を奪えと出たのに」
具福はあられもなくうろたえ、失禁した。
とそのとき、次郎丸をこの三日悩ませていた紫煙がまた異様に立ち昇ってきた。
「姉上、この煙は何なのです。私が祈れば祈るほど、立ちはだかってくるのです」
「…………」
「姉上、お答え下され。この男は京を焼きます。京の街中に油がめを置き、御所の喉元《のどもと》にあいくちを突きつけてきますぞ」
妙子は知っていた。それが空を駆け昇る龍だと。あの男を意味するものだと。
「この男も始末せねばならぬ」
次郎丸は、再びごまを叩きつけガバと立ち上がった。
「次郎丸、どこへ行くのじゃ」
具福がすっとんきょうな声で聞いた。
「奈良です」
「奈良?」
具福が怪訝な顔をして尋ねた。
「奈良? 妙子、奈良に何があるというのじゃ」
せつない恋心が溢《あふ》れだし、妙子は泣き伏した。
「坂本様」
故知らず愛《いと》しい男の名が妙子の口をついた。
次郎丸は言った。二人は仲むつまじく抱き合うことがあると。そのむこうがたとえ地獄に通じる道だとしても、妙子は愛しい男との逢瀬《おうせ》を望んでいた。
妙子が見上げる比叡《ひえい》山は濃霧に覆われ、また雨脚が強まっていた。まるでこの世の終わりを告げるかのように降る雨が、京のすべてを包みこんでいた。
改二が、御堂を飛び出し走り去る次郎丸を揶揄《やゆ》するように、
「恐らく、奈良お化粧谷《けしようだに》に走るのでしょうな」
衰弱しきった顔の具福が、
「そのお化粧谷になにがあると言うのじゃ」
「死間の衆がおります」
しゃくれた顎をなで、じっとりと唇をなめた改二は鼻で笑うと、ねめまわすような目で、
「妙子殿、坂本と申されるのか、この紫の煙の男は」
護摩壇から立ちのぼる紫煙に煙そうに顔をしかめた。そして、
「フン、死間衆を呼ぶほどのこともあるまいて。二ツ川の岡田家には十七になるまでに殺せと言ってあるに」
次郎丸は、がむしゃらに走った。
激しい雨に打たれながら、次郎丸は姉の妙子を思い泣いていた。時が違えば、二人は幸せな夫婦になったであろうに……。
槍のような雨は一寸先も見えなくしていた。
振り返ると、四条《しじよう》の河原町《かわらまち》は洪水のようになっていた。
「クソ」
と、雨の中、四、五人の無精髭《ぶしようひげ》の食いつめ浪士たちが立ちはだかった。
「そんなに急いで、どこへ行くのじゃ」
「どけ」
「かわいい顔して、きつい言葉じゃのう。わしらの酌をせんか」
「どけ」
「なんだと。こしゃくな貧乏公家が」
四人の浪人たちが刀を抜こうとした。その瞬間、宙に飛んだ次郎丸の刀が光り、血しぶきをあげて浪士たちの首が飛んだ。
「クズめらが!」
次郎丸は返り血を拭い、吐きすてた。
どこから湧《わ》き出たか、浪士たちが続々と集まってくる。
「京を汚す不逞《ふてい》の輩《やから》が。みな一人残らず成敗してくれる」
次郎丸はまた飛び、斬りに斬りまくった。
「次郎丸さん、気がつきましたか」
「あっ、伯父《おじ》上」
意識を取り戻した次郎丸が振り仰ぐと、坊主頭の巨体がにこやかな表情で、次郎丸を見下ろしていた。
「いや、そのままで」
岩倉|具視《ともみ》は、丸太のような太い腕で次郎丸を抱き、神社の長い階段を上っていた。
具視に抱かれて見る空は、雲が風に流され、みるみる青い空が広がっていった。日の光に喜んだ小鳥たちが飛び立ち、そのさえずる声が木々に響いていく。木々の葉が風に細かく揺れ、その間から日がチラチラ洩れて次郎丸の頬をかすめた。緑の葉が初めてみるほど美しかった。雨の後の芳《かんば》しい木の香りが疲れを吸いとってくれるようだ。次郎丸は大きく息を吸いこんだ。あらゆるものがみずみずしく息づいていた。
「ごらんなせえ、いい景色でしょ」
目を向けると、四方を山に囲まれた京の街が一望の下に見渡された。
ひときわ目立つ金閣《きんかく》寺は雨に磨かれ日の光に目を射るほどまぶしく輝いている。正面の山の中腹にあるのは清水《きよみず》寺だろう。高い梁が何本もそそり立ち、寺を支えているのがよく見えた。横に、小さな滝が糸のように落ち、だらだら続く坂の下の八坂《やさか》神社の大きな鳥居の朱の色が鮮やかだ。街を二つに区切るように、その面を銀色に光らせ、鴨《かも》川がとうとうと流れていた。そこからふわりふわりと舞い上がる白いものはきっと都鳥だろう。小さな川もよく見えた。河原町のあるところだろう、派手な色の着物を着た女たちがたくさん歩いているのが小さく見える。
左手の山は昼なお暗いといわれる比叡山だ。高い杉の生い立つうっそうとした山から濃い霧が右に流れ、それが日に反射して大きな虹《にじ》を作っていた。
岩倉具視は自慢気に、
「親父が死んだ時、あたしが財産をみんな弟たちにくれてやったのは、この景色が欲しいためでさあ。でも私の放蕩《ほうとう》がたたって、お参りに来る人はだれもいないんで、神社は荒れほうだいですがね、ハハハ」
「あの、街で私は……」
「二十人は斬ってましたぜ。でも、危ないところでした」
「助けていただいたのですか」
「あたしも、十人ほど足腰立たねえようにしときました。なあに、かまやしません。食いつめ浪士どもですから」
「…………」
「でも、あんなに急いで、どこ行くつもりだったんです」
「奈良です」
一瞬、ギラリと具視の目が光った。
「奈良へ? そりゃ穏やかじゃありませんね」
「それしか京都を救う手立てはないのです」
「まっ、あんたの占いに出たんだから間違いはないでしょうが、あいつら死間衆が出てくるとなると、それこそ京都は血の海になりますぜ」
「やむをえぬことです」
「もう用がすんだから奈良に帰ってくれっていったって、通用する相手じゃないですぜ」
「…………」
具視は、次郎丸のまばたきせぬ目の中に決意を見てとったか、
「まっ、好きにおやりなせえ。つべこべ言う公家どもがいたら、私が抑えときます」
「ありがとうございます」
「あっ、といけねえ、人を待たせてたんだ。一緒に来ますか。ハッタリを一つかませてあるんで見物《みもの》ですぜ」
そして具視はいたずらっぽく笑い、
「相手は徳川の青木っていうお偉いさんなんです。さっ、食ってくれたか、くれなかったか」
具視は、賽銭箱の後ろの破れた障子をガラガラと開け社の中に入った。正面に神具一式取り揃えてあったが薄汚れ、生けた榊《さかき》の枝は枯れている。暗い床にはホコリが積もっていた。
ふと、次郎丸は本殿に異様な匂いが漂っているのに気づいた。鼻が曲がるほどくさい。見ると、膳《ぜん》の上に腐った鯖《さば》が置いてある。ハエがぶんぶんたかっていた。
具視がすっとんきょうな声を上げた。
「あれ、食ってくれなかったんですか」
「いっ、いや、その」
待っていた三人の紋付袴《もんつきはかま》の武士たちは、汗を流している。
「さっ、青木さん、食いなせえ。これ食ったら帝に話を取り次いでやらんこともねえ、と言ってるんです」
老中の青木|隆行《たかゆき》はまっ青な顔で具視をにらみつけていたが、箸で魚をつまんだ。
「どうしました」
「いや」
「食べねえんですか」
「いや、食べる」
青木は目をつぶり口に運んだ。が、吐いてしまった。
「もう一口くらいいかがです」
「もっ、申し訳ない」
青木は平伏した。
「食えねえのか」
具視が膳をひっくり返した。
「ふざけんじゃねえ。オレら公家は三百年腐った魚や豆腐しか食べさせてもらえなかったんだ。えっ、あんたら京都に月々いくらわたしてたと思うんだ。公家は歌と踊りやっとけ、もし政に手を出すようだったら打ち首か島送りだって言ってたのは、あんたらだろうが。それをいまさら、徳川が困ったから帝に大政をお還ししたいじゃ、話が通らねえんだよ」
「は?」
「分からねえのか。大政なんかいらねえと言ってんだよ。京都は受けねえと言ってんだよ」
「おっしゃる意味がわかりませんが」
「だから物返すって言われ、間に合ってるからいらねえって言ってんだよ。それともあんたらなにか、大政を還すって言ったら、オレらが喜んでノコノコ貰いに行くと思ってたか。あんたらさあ、もし京都が日本の代表になってだよ、今アメリカは和親条約を結ぼうとしてるからいいが、これが気がかわって戦争やるって言いだしたら、それを京都がうけてたたなきゃいけないわけか?」
「ではこの日本はどうなるのでありますか」
「こんな日本なんかなくなっても知ったことかと言うんだ。上に立つやつが徳川からアメリカに変わるだけだって言ってんだよ」
青木の青ざめた顔がみるみる赤くなっていき、
「話にならん!!」
と立ち上がり帰っていった。
「何が話にならんだ。そんなバカな話があるかって言ってんだよ。とっとと失せやがれ!」
具視はひとしきり大笑いした後、
「しかし、少納言の位のあたしんとこになんで来たんですかねえ。金握らしゃあどうにでもしてくれる公家は京都にゃゴロゴロしてんでしょうに」
「はあ」
「それとも勝海舟って男、あたしをいの一番に抑えようと考えたってのはかなりの切れ者かもしれませんな。いや、いけねえ、また自慢しちゃった。あたしのいけねえとこだ」
次郎丸は伯父をまじまじと見つめた。
「なんです、あたしの顔見て。なんかついてるかな」
「いえ」
筋肉の盛り上がった具視の腕が頼もしかった。入道頭のまん中にある目には気負いのないやさしい光があった。
雨漏りの滴が本堂の床にはねる音がピチャピチャと響いた。
「こっちへ来なせえ。そこは濡れます」
具視は汚れた手拭いをさしだした。
「あの、伯父上は朝廷をお助けして下さるのですか」
三百年の間、月々わずかとはいえ徳川のお情けを頂戴《ちようだい》している。高貴な家柄という矜持などもはや無く、政を自分たちで勝ち取ろうという気概も失せ、禄《ろく》をなんとかふやしてもらおうと徳川や長州、薩摩に取り入ることしか考えていない者たちの中で、このような公家がいたことが次郎丸にはたのもしく、誇らしかった。
が、次郎丸の気持ちに反し具視は大きくかぶりを振り、
「いやなこった。あたしゃ政ってのが嫌《きれ》えでしてね」
「では、なぜさっき」
「ハハハ。ですから、あんまり京都をなめられたら困ると思ってハッタリかましてやったんですよ」
「……男子と生まれてきたからには、政にたずさわってみたいと思うのが普通のはずです」
「そうでしょうね」
「では、なぜ」
「あたしゃ臆病《おくびよう》で。自分の本質ってものを知るのが嫌えなんです」
「どういうことです」
「人間ってのはそう上等には生まれついてねえんでさあ。初めは人のため、世のためと決心はするが、やがて自分のための利権争いになっちまうんだ」
「…………」
「革命ってのは、それにたずさわった人間はみな身を引かなければなりません。それは、革命を起こした人間と、政治をやる人間とは同じではいけないからです。そうでないと必ず、不正がはびこります。でもそれができねえんだなあ」
具視はいかにもいやそうな顔をすると、ガーッと酒を飲んだ。次郎丸はさわやかな気持ちになって笑った。
「何がおかしいんです」
愛嬌のある大きな目をグリグリさせて次郎丸を見た。
「いや、私は伯父上を誤解しておりました」
「あたしゃ、人からどう思われようと知ったこっちゃありませんから。少し飲みますか」
「はい」
具視は杯になみなみと酒を注いだ。
「でも、次郎丸さんから誉められてうれしいです」
「はい」
具視は本当に嬉しそうに身体を左右に揺すった。
「あたしゃ、よく小さい頃の次郎丸さんのおしめかえさせられてたんですよ」
「いや、知りませんでした」
「かわいかったなあ。ほんと、女の子みたいでした」
「…………」
「次郎丸さんはもういくつになりました」
「二十五です」
「そりゃいい。あたしはもう四十一だ」
「でも伯父上は若く見えます」
「人様が苦労しなきゃいかんとこで苦労してませんからね」
「なぜ苦労しなかったのです」
「つまるところ、臆病なんじゃないですか、あたしは」
「…………」
具視の顔がさわやかだった。その相撲取りのように太った身体に親しみがもてた。具視は次郎丸に笑いかけた。次郎丸は何故か顔を赤らめた。
「どうしました」
「伯父上を美しいと思って」
「美しい?」
「もっと早く、伯父上とお話ししていればようございました」
岩倉本家でありながら、祀《まつ》っている岩倉神社を捨て、江戸で十年ゴロゴロしていたという。戻ってきて何をするかと思ったら、鯖街道で鯖担ぎをやっている。ふんどし一丁で神社をうろついていると、親戚《しんせき》中の鼻つまみものだった。
「伯父上、この先日本はどうなります」
「まっ、なるようにしかなりません」
「ハハハ、それじゃ答えになってませんよ。例えば黒船はどう出てきます」
「ありゃ、心配いりません。お付き合いをしようってきっかけを作りに来ただけですから。そう無茶はしません。無茶したら、フランスやイギリスが黙ってません。それに徳川には勝海舟って切れ者がいます。日本の大勢が決まるまで、ごまかしといてくれるでしょう。それにまた、勝のうしろには土佐の龍がいます」
「土佐の龍?」
「坂本龍馬っていうんです」
なつかしそうに目を細めた具視に次郎丸はカッとなった。その龍馬こそあの煙であり、姉の妙子を苦しめている男だ。
「一体どういう人間ですか」
「いや、あの人はどう言ったらいいか、愉快な男ですよ。出は土佐の質屋のせがれなんですが、あの人の周りにいると楽しくなります。世界で初めての血を流さない政権移譲、つまり無血革命ってのをやりたいといってる男でしてね。できたらあたしはその夢、かなえさせてやりたいんです。でもね、徳川三百年、そろそろ戦争があってもいいころなんですよ。人間ってのは戦いをしたい動物なんですよ。それを坂本さんは、万事丸く収めようと、徳川慶喜公も助けようとなさってる。でもね、どんな歴史書をひもといたって、政権が変わるとき、前の統治者はみんな死んでんでさあ。それをなんとか慶喜公を助けようとしていなさる。無理なんです。が、その無理を通そうとしてるあの人が、あっしゃ、好きなんです」
心底そう思っているのだろう、淡々とした語り口だったが、聞いている次郎丸の心にしみてくる。
「でも、坂本さんほどの人間だって、この革命成就したあかつきには、勲章をいっぱいつけて宮中に参内したがります。人間ってのは、愚かなもんです。でも、それが人間かもしれません。坂本さんはそういうことを知っているくせに、そのことできっと苦しむ男なんです。だからあの人は面白《おもしろ》いんです」
「それほどの男ですか」
もう不愉快を通りこし、次郎丸はぶっきらぼうに言った。
「これをご覧なせえ。この前送ってきた書状です。あの顔で、どうしてこんな巧みな文章が書けるのか不思議でしょうがないんです。しかも達筆だ」
次郎丸は読んでみた。新しい国家の体制について八つの要項が書かれていた。
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令|宜《よろ》しく朝廷より出づべきこと。
一、上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛せしめ、万機宜しく公論に決すべきこと。
一、有材の公卿《くげ》・諸侯および天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜《たま》ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべきこと。
一、外国の交際広く公議をとり、あらたに至当の規約を立つべきこと。
一、古来の律令を折衷し、あらたに無窮の大典を選定すべきこと。
一、海軍宜しく拡張すべきこと。
一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべきこと。
一、金銀物価宜しく外国と平均の法を設くべきこと。
みごとな文であった。
「そして凄《すご》いのは、坂本さんの人事です。国とは経済ということを知っています。三岡八郎《みつおかはちろう》っていうのは福井藩士だが、つかまって今|牢屋《ろうや》につながれている人間ですぜ。それを財政に明るいから抜擢《ばつてき》しろと進言できるのは、並みの見識じゃありません」
「その坂本龍馬という男が、朝廷の敵にまわるとしたらどうします。あの男は京都を焼きます」
「だったら事ですね」
「坂本と戦ってくれますか」
「……いや、お断りします。あたしゃ、勝ち目のない博打《ばくち》はしない主義でして」
「チッ」と吐き捨て立ち上がる次郎丸に、
「それはそうと妙子さんのことですが、うちに来てくれませんかね」
「えっ?」
「ずっと惚れてたんでさ」
「姉のことをですか?」
伯父は姉の婚礼のとき、一番喜んでくれた。夫の中納言を褒めあげ、皆が驚いたほどうまく舞を舞った。声を張り上げて唄を歌ってニコニコしていた。
「では、なぜあの時」
「相手は中納言様でしたし……。それに、しがない鯖担ぎのあたしなんかが申し込む権利なんざないと思いまして」
「…………」
「でも、お戻りになったと聞いて……。いや、怒らないで下さい。こういう言い方は別に妙子さんをおとしめて言ってるわけじゃないんですから。今だったらあたしのような者でも、申し出る権利があるんじゃないかなと思いまして」
「…………」
「まっ、あたしも四十一ですから、今まで浮いたことの一つもなかったとは言いません。が、根はまじめな男ですから。どうか一つ、次郎丸さんからもお口添え願えませんか」
具視は赤くなった頭をピチャピチャ叩くと、
「この通りの貧乏公家で幸せになんざしてあげられねえんですが、静かな二人の生活はできると思ってるんです。まっ、一緒になったら若狭《わかさ》にでもひっこんで二人で漁師でもやりたいんでさ。身体には自信がありますから、一生懸命はたらきます」
「…………」
「妙子さんに、一緒に若狭に行ってくれるよう言ってもらえませんか。それとも妙子さんには誰か好きな人がいるんですかね。だったら、あきらめます。あたしゃ、争いごとが嫌いでして」
岩倉具視は、まるで初めて恋をした少年のような目をして、恥ずかしそうに笑った。
7 吉 原(一)
その土佐の龍は、日野を出、吉原の『桔梗《ききよう》』という遊郭に逗留していた。
吉原は、江戸の北、隅田《すみだ》川沿いの浅草《せんそう》寺の裏側に位置している。
残暑の強い陽ざしが、道の両側に立ち並ぶ遊郭の瓦《かわら》に照りつける。
表から、瓦版《かわらばん》売りの声が聞こえた。
「これからの日本は、徳川の将軍様じゃむりだ。やはり、長州の久坂玄瑞か薩摩の西郷吉之助に将軍様になってもらって、アメリカとやりあってもらうべきだ」
龍馬はガバと立ち上がり、窓の外に向かってわめいた。
「このバカたれどもが! その将軍様っちゅうもん自体がのうなるんじゃと、何度言うたら分かるんじゃ」
実際、進歩派の土佐の藩主、山内容堂《やまのうちようどう》でさえ、毎日のように龍馬にいつ将軍にしてくれると催促してくる。
「分かっちょらん、だれも分かっちょらん」
しかし、龍馬の怒りの一つに、だれも龍馬の名前をあげないこともあった。
「クソッ。なんが西郷じゃ。肝心な男を忘れてはいませんか、と言うんじゃ」
またゴロリと寝ころがり、勢いよくモクモクとわきあがる雲を見て、龍馬はつぶやいた。
「なんとか慶喜公をお救いできる方法はないものか」
徳川は末期的な症状をあらわにしている。参勤交代制の改正は徳川の命取りとなった。もともとこれは、幕府の目を諸藩にゆきとどかせるとともに、大名たちの財産を増やさないための制度だったのだ。それを変えるとなると、大名の力は強大化する。
「はめられたんじゃ、西郷に。あのギョロ目のデブダヌキに」
もちろん、それは諸藩から経費がかかりすぎると押し切られた結果ではあり、それをはねつけることができないほど、徳川の力は衰えているということなのだが、仕組んだのは西郷だ。
「気をつけんとな、わしも」
二階の窓から下を見ていると、下足番の喜助が、ぼんやりひなたぼっこをしている。また龍馬は起き上がり、腕組みをして唸《うな》った。
「うーむ、なにか方法はないものか。あの人だけは」
徳川慶喜公は、この日本の行く末を真に憂いていた。
龍馬が意見を求められ、政権をお還しすることを進言すると、その上品な美しい顔を蒼白《そうはく》にしたが怒らず、「しばらく考えさせて下さい」と言っただけだ。いくら心酔する龍馬の進言とはいえ、三百年つづいた徳川幕府をつぶす決断は、そうそうできるものではない。
「さて、徳川慶喜、どう出るか」
もし、慶喜から「京都に大政をお還しする」との言葉が出れば、白装束で宮中に出向き、帝の前で腹を斬り、慶喜公助命の嘆願をするつもりでいた。
しかしもし、慶喜公が徳川の意地を通し大政をお還しせず、京都と一戦を交えることになれば、この日本は焼け野原になる。
「慶喜公、判断をお誤りなさるな」
龍馬は祈るような思いだった。
慶喜の妻美賀子と一粒種の一郎丸《いちろうまる》のことも思った。美賀子は大納言|藤原兼末《ふじわらかねすえ》の娘だったが、老中が進言した公武合体策のいけにえとして、慶喜と政略結婚させられたのだ。いつも慶喜に寄り添いうつむきかげんに歩いていた。徳川が危機にさらされ、慶喜が京に帰れと言っても、決して帰ろうとはしなかった。
龍馬は、その美賀子のあまりのいじらしさをからかったことがある。
「美賀子殿、いいですか、デモクラシーというものは、男と女が目と目を見つめ合うだけじゃ心が通じなくなるということです。好きなら好き、愛しているなら愛していると、ちゃんと言葉に出して言える女にならないと、生きている資格がないということです」
そういうと、美賀子はそんな時代には生きていけない、出家するのだといまにも髪を下ろしそうだった。
龍馬は美賀子からの手紙を懐から取り出した。淡い香の匂いがした。かつての侍女の妙子から知らせがあったという。
「妙子とは、誰じゃ。わしが会うたことがあるというが。はて、どこで会うたんかいな」
美賀子はよほど急いでしたためたのか、字にいつもの優雅さがない。
『死間衆にお気をつけなさいませ』
と言ってきた。死間衆とは一体何なのだ。
文は続く。
『死間衆とは奈良のお化粧谷に住む、死の間諜《かんちよう》のことでございます。その任に就いた者は、まず自らの腹を斬り、瀕死《ひんし》の状態で敵方に赴きます。敵方に味方を装って嘘の情報を伝えると、そのまま息絶えます。敵方は、まさか死にゆく者が嘘を伝えることはなかろうという油断がありますから、その情報をまことと信じるのです。かつて桶狭間《おけはざま》の戦いで織田信長《おだのぶなが》の死間衆を信じた今川義元《いまがわよしもと》はそのために滅びたといわれます』
「バカバカしい。そんなもんがいまどきあるかいな」
とつぶやき後ろを見ると、瓦版の紙に料理を包み、女郎のお鶴《つる》がふところにつっこんでいる。
「でも先生、お江戸はたかが三百年、けど、京は千年以上の歴史がおます。どんなことがあっても不思議はない所でっせ」
「しかし、はなっから腹斬っていく人間がおるんかいな」
「そこが京都の歴史の深さですがな」
「フーン」
「お江戸の方が、京に上っていくら粋がっても、相手にされませんのは、その文化の違いですねん。わて、上方《かみがた》生まれやさかい、よう分かりま」
「フン、おまんにどんな文化があって料理胸につっこんどるんじゃ」
お鶴は、あわてて胸をかきあわせた。
「あ、これはその、あとでみんなで食べようと思うて」
お鶴は、年は三十というが、そのシワくちゃな顔は、どう見ても五十より若くはない。
「それだったらそんなコソドロみたいな真似せんでも、わしが後で折詰めにしちゃろうが。わしはそういう気のつく男じゃろが」
「はあ、すんません。もし残すともったいないと思うて」
「残すも残さないも、わしゃまだ食うちょらんがな」
「はあ」
「はあじゃないき、もう」
龍馬は首すじをポリポリかき、表で子供が騒ぐ声にうるさそうに顔をしかめた。
「あの表でいつもチョロチョロしてるガキはなんじゃ」
「お滝《たき》姉さんの孫ですねん」
「孫? お滝はいくつじゃ」
「さあ、三十をちょっと出たとこですかな」
「三十でなんで孫がいるんじゃ。ほんとはいくつじゃ、六十か七十か?」
「いくつでも、ええじゃおまへんか。女郎は年じゃありません」
「そうかもしれんが、孫なんか座敷に連れてくるな、もう」
「すんまっせん」
「わしがおまんの年を聞かんのも、その文化じゃと思うてくれ」
「はっ、あの」
龍馬は彦次郎が届けてくれた葉巻を口にくわえ、
「まったくわしの座敷に来る女郎、来る女郎、みんなバケモンばっかりじゃ。わしは女郎を買いに来とるんで、ボランティアに来とるわけじゃないぜよ。もう少し、まともなんはおらんのかいのう」
バケモンと言われて、お鶴も開き直った。
「帰ってもいいんでっせ。今売り出し中の坂本龍馬がこんなババア芸者に帰られたら笑いもんになりまっせ!!」
「分かった、分かった。そげな大きな声出さんでもいい」
「フン、まったくセコイ先生じゃ」
「何がセコイんじゃ、もう」
「セコイから、誰もつぎの将軍様に坂本さんになってもらおうなんて言う人がおらんのや」
「なに=」
「わてが言うとるのやおまへん。みんなが言うとりますのや」
「みんなが言うとるということは、おまんも言うとるということやろが」
「あっ、そうか」
「もういい。おう、そういえば、日野のカメラ屋のフィアンセのお絹は退院したか」
「はい。ややは助からんかって、かわいそうなことでした」
「まっ、若いんやからこれからいっぱい作れるやろ。なんせ百姓は生殖能力が優れとるからの。バンバンガキを産むからよ」
お鶴は、その目を斜《はす》からうかがうようにして龍馬を見、
「ほんとは先生がハラましたんと違いますか」
「何度言うたら分かるんじゃ。わしゃ、天下の坂本龍馬ぜよ」
「はいはい。先生の天下は耳にタコができるくらい聞きました」
「いいか、わしはハラましたと言われるのは我慢する。が、じゃ、入院費出させといてカメラ屋もお絹も挨拶《あいさつ》のひとつもしに来ん。それが腹立つんじゃ」
「でも、費用は一両もかからんかったんどっせ」
「ゼニカネの問題じゃないんじゃ。要はハートの問題じゃ」
「ハートですか」
「わしゃ、いつもこげな運命じゃ。表見てみい」
「はあ?」
お鶴は龍馬の指さす方を見た。
「防火用水の桶《おけ》の陰じゃ」
お鶴が身を乗り出すと、そこに、赤鼻の上に黒い眼鏡をつるした、やせこけた小男がビクリとして隠れた。
「誰です?」
「日野の桑問屋の主人の新兵衛ちゅうやつじゃ」
「何しとりますねん」
「わしを殺そうとしとる」
「また、なんで」
「どうやら、わしがあいつの女房を寝取ったと思いこんどるんじゃ」
「そら、難儀なこっちゃ」
「わしゃ、その女房の顔も見たことがないんじゃ」
「なんで、そんなことになりましたんや」
「それが分からんのじゃ。分かることはただ一つ、わしはそういう運命の男じゃということじゃ」
「ほんとにやっとりませんのんか」
「当たり前じゃ。いいか、常識で考えてみい。天下の坂本龍馬が間男したちゅうて歴史に残ったらどうなるんじゃ」
「でも、そう思われて刺されるんやったら、いっそやっといて刺された方が得なんじゃないやろか」
「まっ、そりゃそうじゃのう。もう、わしはあまり考えんことにした。死ぬときは死ぬときじゃ」
そして龍馬は、酒の入った茶碗を持ち上げ、
「が、お鶴、さっきから飲んどるこの酒、今日は格別にうまいんじゃ。なんでじゃろと思うて茶碗の中見てみたら、入れ歯が入っちょるんじゃ。誰の入れ歯じゃ」
「すんません、わてのですねん。さっき洗っとって忘れとりました」
「酒で入れ歯を洗うな!!」
「そんなに怒らんでもええでしょが」
「いっ、いや。これがわしだから怒らんぜよ。他のやつだったら、ブチ殺されちょるぜよ」
お鶴は居直り、目を三角にして怒りだした。
「わてかて、この年でお座敷なんか出とうはないんや。それをちょっと入れ歯洗うただけでそないなこと言われるんなら死んだ方がましや」
「わかった、わかった」
「ほんとに分かってくれとるんなら、入れ歯酒もう一杯飲んでもらいまひょ」
「また飲むんか」
「フン、やっぱ土佐の龍は口ばっかりの男じゃった」
「なにい」
「悔しかったら飲んでみんさい」
「よおし、飲む。なんせ老人福祉問題はわしのテーマじゃき」
龍馬は目をつぶると、一気に飲み干した。
「どんな味がします?」
「うまい!!」
「?」
「虐げられた老人たちの涙と怒りの叫び声が聞こえてきた!!」
「さすが、坂本先生じゃ。気に入った。この日本、まかせられるお人じゃ」
「おまんにほめられてもうれしかない。わしと裸でぶつかり合うてくれる、共に明日を夢見てくれる若く美しい女にほめられたいんじゃ、わしは」
と、龍馬はふと、血煙の中、「やってらんねえよ」と叫ぶ女の姿を思い出した。
あの女とは、いつ巡り合えるのだろう。
「おう。なあ、お鶴、一つ聞きたいことがあるんじゃが、おまんもやってらんねえよと思うことあるか」
「そんなん、ありませんがな」
「なんでじゃ。男から一緒に逃げてくれと言われたことがあるじゃろ」
「そりゃ、ありますがな。でも、逃げてもしょうがおまへん」
「しょうがおまへんか」
「はい」
「おい、お鶴、わしはここ一か月、女部屋にいて分かったことじゃが、客がいくら惚れて足抜きして一緒に逃げてくれと頼んでも、女郎は行かん。なぜじゃと思ったわしは聞いてみたんじゃ。そしたらどんないやな客でも、足を広げていればいい着物が着れて、白い飯を食べられると言う。たとえ一時の恋に燃えたとしてもそれはすぐさめるもんと言うんじゃ。そしてもし、吉原の暴れ者に見つかったら半殺しの目にあわなきゃいけない。また田舎に帰ったって、白い飯なんか食べられん。だから逃げんのじゃ」
「そうですな」
「そんなんだったら、いつまでたっても女の解放はできんぞ」
「仕方おへんやろな」
「仕方おへんじゃなか。これからデモクラシーになるんじゃ、一人一人選挙権が与えられるんじゃ」
「なんですか、それ」
「殿様は誰にしたらええか、名前書いて投票できるんじゃ」
「へ」
「おまんら女がヘラヘラしとったら、女に選挙権やらんでもええということになるんじゃ」
「そうどすか」
「ちょっとこれ見てみい」
と部屋の隅に置いてある、彦次郎が届けた油紙の包みをほどき、
「あっち向いとけ。わし、着替えるから」
「はい」
振り向いたお鶴は腰をぬかした。裸の龍馬が胸にまっ赤なブラジャー、腰にもまっ赤なパンティをつけ、黒いレースのガードルから黒いストッキングを吊るしていたからだ。
「な、なんですかいな、それは」
「アメリカの女っちゅうもんはこんな格好しとるんや」
「まあ、バチあたりや」
「なにがバチあたりじゃ。これはブラジャーちゅうてな、女が自分の乳を大きく見せるもんじゃ」
「そんな、恥ずかし」
「よう見い。これがパンティというもんじゃ。垂れた尻をひっぱり上げるもんじゃ」
「ヘー」
「なぜアメリカの女はこげんもん着とるか分かるか。自分とは美しかもんです、もっと美しくなりたかですと主張したいからじゃ」
「あわわ」
「あわわじゃないき。日本でもデモクラシーになったら、みんな女はこれはいて街を歩くんじゃ」
「まっ」
目を丸くしていたお鶴はついに気絶してしまった。
「まったくだらしない女じゃ。こんなんじゃ女に選挙権やれんがな」
そして龍馬は袴をはき、羽織をひっかけると、
「さっ、近藤たちんとこの様子でも見てくるかの」
と階段を下りた。
下足番の喜助は不思議そうな顔をして、
「坂本先生、刀は」
「そんなもん、いらん。斬られるときは斬られるんじゃ」
そう言って龍馬は上がりかまちに腰をおろし、彦次郎からの包みをほどくと、おかしな物を取り出した。
「先生、なんですか、そりゃ」
「ブーツじゃ。革でできとる」
「はあ」
「これなら賊から追いかけられても、よう逃げられる、ハハハ」
と、防火用水桶の後ろから、新兵衛が出刃包丁を突き出し、飛び出してきた。
「坂本、覚悟!」
「このバカが。何度言うたら分かるんじゃ。わしは何もしとらんと言うたやろが」
「いいや。女房のお志麻が、おまえじゃと言うた。水浴びしとったら、おまえから押し倒されたと言うとった」
「女なんか押し倒したりせんがな」
「うるさい!」
「それはおまんの女房が誰かをかぼうちょるからじゃなかか」
「おまえ、天下の坂本龍馬が、わしら善良な市民の女房寝取って恥ずかしくないのか!」
「寝取ってらんて。なっ、頼むから大声出さんでくれ。はずかしいき」
吉原の客たちも、何事かと集まってきた。
「おい喜助、何しとんじゃ。岡《おか》っ引《ぴき》呼んで、こんアホ、連れて行かせろ」
「はい」
喜助が番所に走る間に、新兵衛は出刃包丁をふりかざし、「チキショウ!」と刺してきた。
「や、やめろ」
ヒョイとよけると新兵衛は一人ですっ転び、その出刃包丁でどこかを切ったらしい。
「イタタ」
「おい、大丈夫か」
「くやしい」
と地面を突き刺している。
「とにかく、一度、女っちゅうもんの本質について会話ばじっくりしよう」
ようやく、岡っ引が来て、新兵衛を連れていった。
「毎日、これやられとるんよ、もう。さっ、みんな、解散、解散!」
そして龍馬はやりきれなさそうに頭をかき、はす向かいの宿に向かって、
「おう米屋、米屋、出かけるぞ。下りてこい」
「…………」
「顔出せっちゅうに!!」
龍馬はゲタをつかむと投げつけた。
二階の窓から、どんより鈍い目つきの桂小五郎がのそっと顔を出した。
「さっ、行くぞ」
「…………」
桂が下りてき、黙って龍馬に並んで歩き出した。
「はよ、わしを殺さんと、あのアホに先をこされるぜよ」
桂の顔は、浦賀沖のときよりもかなりやせていたが、のっぺりした顔のまぶたが垂れ下がり、肌もカサカサしている。
「わし殺さんと、長州屋敷に出入禁止と言われたか」
「…………」
「が、山脇たちが死んだんは、おまんのせいじゃないじゃろが。黒船の大砲食ろうて、おまん一人が生き延びただけでもめっけもんじゃ」
「しかし、黒船を見に行こうと山脇先生たちを誘ったのは自分ですから」
「そげなこと関係ないぜよ」
「…………」
「しかし、長州の吉田稔麿、久坂玄瑞もケツの穴の小さか男じゃのう。わし一人殺したって、時代の流れは変えらりゃせんに。これじゃ山脇のインチキ学者が生き延びといた方がよっぽどましじゃ」
と、龍馬はツバを吐き散らし、
「わしを誰だと思うちょるぜよ。天下の坂本龍馬ぜよ。それをおまんごたる米屋の丁稚あがりをよこして殺させようとは。なめちょる!」
思いきり地面を蹴った。
そしてスッキリした顔になり、
「つきあえ。日野の百姓の悪ガキどもんとこじゃ。売ろうとした仏像を盗まれよって行き場に困っていたところを拾われ、人足小屋に入れられちょる。いつも遊びほうけていた奴らじゃけ、いい薬じゃ。しかし、今日という今日は、あいつらに徹底的に意見せないかん。新兵衛の女房寝取ったのは誰か、言わせてやるき。そうでのうてもあっちこっちでわし殺そうというのに、あのアホまで加わられちゃたまらん。こん坂本龍馬、間男して殺されちゅうたらたまらんぜよ」
龍馬は、ずんずん歩いていく。その後ろ姿はスキだらけである。
桂がしわがれた声を出した。
「坂本さん、もし今、私が斬りかかったらどうします」
「そんときはそんときじゃ。天がこんわしを必要としとらんということじゃ」
「大した自信ですね」
「うぬぼれられるっちゅうのも才能ぜよ、ハハハ」
「坂本さんがうらやましい」
「わしもおまんがうらやましいがな。おまんだけじゃなか、世界中のみんながうらやましい」
「あなたみたいな勝手きままな人でもそう思われますか」
「何が勝手きままじゃ。こん国の行く末を思うて、おちおちラブもできんのに」
「…………」
吉原を出ると、浅草橋《あさくさばし》に出た。蔵が並び、たくさんの商人たちが忙しげに行き交っている。
黒船だ、黒船だと騒いでいるのは武士だけで、抜け目ない商人たちはもう黒船まんじゅうだの、天狗《てんぐ》せんべいなどを売っている。
「すごいな、庶民のパワーは」
「ええ」
「皆、精一杯生きたいから、自分だけは助かりたいと思うとるんじゃ。そん人間をかわいいと思う度量が政治家には必要だぞ」
「…………」
「で、なんでおまんは政治家になりたいんじゃ」
「いえ、別に意味はありません」
「アホぬかせ。意味がないことはなか。おまんでしか変えられん世の中があると思うとるはずじゃ。だから米屋の主人をブチ殺せたんじゃ」
「殺した?」
「殺して女房寝取って米屋乗っ取り、それで桂家の家督買ったんじゃろが」
「…………」
「いずれ殺したか殺しとらんか、その歯が教えてくれるじゃろ」
桂の三本しかない前歯は牙《きば》のようにとがり、歯茎もどす黒く、裂けた傷跡があった。
「そん歯は、ただ殴られたり蹴られたりして折れた歯じゃないきの。なあ、なんで殺さないかんかったんじゃ。わしに言うてみ」
「……坂本さん、殺した、殺したとひどいじゃありませんか」
桂は目を血走らせ、刀に手をかけた。
「よさんか桂、おまんがわしに勝てると思うちょるんか」
坂本龍馬は北辰一刀《ほくしんいつとう》流の免許皆伝の腕前である。
「わしがおまんを目にかけとるのは、おまんにピープルの代表になってもらいたいからじゃ」
「ピープル?」
「大衆のことじゃ」
「大衆?」
「そうじゃ。が、これがむずかしいんじゃ。わがままでずる賢くて自分勝手で、かわいい存在じゃ。皆、坂本先生、坂本先生と慕うてくる。そん大衆どもも、わしが必要なくなったらわしの屍《しかばね》を蹴りにくる。そういうもんじゃ。大衆とは残酷なもんじゃ、そげな、わがままで、甘ったれの大衆をひっぱっていくのはきれいごとで生きてきたやつにはできん。おまんのように、這い上がってきた人間にしかできん。わしゃ、おまんに酷《ひど》い口のきき方して、おまんは気い悪くしとるかもしれんが、わしはおまんのことを買っとるということだけ、覚えといてくれ」
そして龍馬はギロリと目をむき、
「しかし、わしは口では大衆のためにいい世の中をと言うとるが、正直言って大衆なんぞ好かん。好かんというより、根本的に嫌悪感をもっとる。やっぱわしはナポレオンになりたか」
「ナポレオン?」
「ナポレオンじゃ。ナポレオンは田舎者で小男じゃったが、その才覚だけで皇帝にまでなった男だ。フランス革命の後、戦争や恐怖政治に疲れきって革命への情熱が冷めてしもうた大衆が待ち望んだ男だったんじゃ」
龍馬はナポレオンにひかれていた。磨きあげられたブーツに軍服をぴたりと着こなし、金ピカの勲章をつけた肖像画を見たことがあった。右手をそらした胸に入れ、青い目がこちらを射るようだ。それは、まぶしいほどだった。
「やっぱ、男はナポレオンじゃ」
憑《つ》かれたようにしゃべる龍馬を桂は奇異の目で見ていた。坂本龍馬は、ナポレオンなんかではない。英雄は羨望《せんぼう》と憎しみを受けてたてる人物だ。大衆を押し退《の》け、その頂点に立って輝く人物だ。龍馬は英雄になりたがっているが、違う。龍馬といると、まるで観音様に抱かれるような気持ちになり、安心して知らず知らず正直になれる。龍馬はそういう男だった。
「桂、どうした」
「いえ。ただ、先生はナポレオンではなくダントンだと思いまして」
「ダントンを知っとるとは、なかなかの博識だのう。が、わしがナポレオンに劣るというのか」
「いえ。先生が嫌ってる大衆というのが先生をお守りのように思ってるんじゃないかなあと」
道は深川《ふかがわ》を抜けて溜池《ためいけ》に向かっていた。
「おまんのやっとる児童園というとこに寄ってみようか」
桂はまっ赤になりあわてて、
「いえ、園といいましても、掘っ立て小屋でして」
「かまわん」
畑が多くなってきた。日はまだ高く、ヒグラシがわめくように鳴いている。白茶けた道を金魚売りがのんびりと歩いていく。
少年たちが畑仕事をしているのが見えた。桂はニコニコ顔になって、屋根の傾いた家を指さし、
「これが我が児童園です」
垣根にそってたくさんのひまわりが勢いよく伸び、その周りでボロを着た子供たちが飛び回っていた。
「みんな、孤児か」
「親に捨てられた子もいます」
「公金をくすねていても、食わせていくのは大変じゃろな」
「はっ」
「女もいるな」
スラリとした格好の割りには幼い顔立ちの女が、ニコニコと子供の後を追っている。
「いや、身寄りがなくちょっと頭も薄いので引き取ってるんですよ」
「フーン、おまんも物好きじゃのう」
龍馬はしみじみと桂の顔を見、哀れに思った。きっといいやつなんだろうが、このこすっからい目やみっともない歯や卑屈そうに丸めている背のため、そうは見られない。年がら年中一張羅の浴衣を着て、真冬だろうと素足に草履だ。何かの願でもかけているのだろうか。
人というものはそういうものではない。志高ければ、天を仰いで歩くものなのだ。
「まっ、おまんにもいい時代が来るき」
と、龍馬は街のあちこちに新選組募集の雨ざらしの立て札を見つけた。
「桂、新選組とはなんだ」
「はっ、庄内《しようない》藩の清川八郎《きよかわはちろう》が幕府のうしろだてで京の不穏浪士を成敗するために隊員を募っているものです」
「清川ちゅうたら、目先の利く男で有名じゃ。その男がいま、徳川のために働こうとするちゅうんか。なんか、裏があるんじゃないのか」
「はい。私もそう思っております」
「しかし、近ごろは、火事場泥棒みたいのが多くなって困る。おまんのとこの高杉が、上海《シヤンハイ》から帰ってきて奇兵隊ちゅうもんを作っとるちゅうが、あいつも食わせもんじゃ」
「はっ? 高杉さんは立派なお方だと聞いておりますが」
「バカ言え。上海で外国の軍隊見て、日本にも軍隊作らないかんと思ったというが、おまん、浦賀で黒船見て、百姓ん集まりに竹槍《たけやり》持たせて勝てると思うたか」
「いえ」
「それをなんだ、奇兵隊? 笑わせるなっちゅうんじゃ。てめえが名売りたいために、竹槍持たされて死んでいく百姓どもはどうなるんじゃ」
そして龍馬は大きく天を仰ぎ、
「今の日本に人はおらん。いや、一人いるか」
「誰です?」
「わしの先生じゃ。京の岩倉具視さんじゃ。岩倉具視、あの人が、立ち上がってくれたら外国と五分でやりあえる。が、あの人は世捨人じゃ。惜しいことじゃ」
「…………」
「どうした。わしに先生がいるということがおかしいか」
「はい」
この、生まれっぱなしの男に先生がいるとは。
「しかし、万が一にも岩倉さんを敵に回すようなことがあれば、幕府も大変じゃ。一度、赤坂の勝んとこにも顔出しとかないかんな」
勝海舟に徳川の全権を委任しろと慶喜公に進言したのは龍馬である。
と、龍馬は何か思い出し、
「おう、おまんの顔の広いところで、一つ頼みたいんじゃが。どこか相撲部屋を紹介してくれんか」
「相撲部屋?」
「日野の悪ガキん中に、四郎という男がいてな、相撲部屋に入りたいと言うとるんじゃ。一度、両国の部屋に弟子入りして戻ってきとるんで、どうせ、長続きせんからやめとけと言うたんじゃが、どうしても関取になるちゅうてきかん」
「心しておきます」
「頼む。まったく、この忙しいときに、天下の坂本龍馬が相撲部屋を探さないかんとは、情けなか」
「…………」
と、向こうからもみあげを伸ばした馬面の大男が走ってきた。桂は思わず後ずさった。人斬り半次郎《はんじろう》として有名な、薩摩の中村《なかむら》半次郎だった。
「坂本先生、西郷どんが大変でごわす。助けてつかあさい」
「また女か」
「はっ、その、西郷どんの女癖の悪さには、わしらもホトホト困っておりもうす」
「案内せえ」
「はっ」
半次郎は龍馬たちを飯倉《いいくら》の料理屋まで案内した。
と、その前に転げ出てきた褌姿《ふんどしすがた》の山のような大男を見て、桂は声をあげた。
「あのお方が西郷吉之助さんですか」
「ああ」
西郷を追いかけて、狐《きつね》のように目を吊り上げた女がゲタを持って飛び出してきた。西郷の女房の千津《ちづ》である。
「まったくあいつの女好きは困る」
西郷は顔をまっ赤にして、千津からゲタで殴られている。と、もう一人の女が子供の手を引いて泣きじゃくりながら出てきた。この女も千津と同じようにやせていた。西郷は自分が太っているせいか、どうやらやせた女が好みらしい。
龍馬を見つけた西郷が、
「あっ、坂本どん、助けて下され」
龍馬が割って入った。
「いや、薩摩から女房殿がきておって、妙な因縁をふっかけてくるんでごわす。わしは無実でごわす。女房殿ひとすじでごわす。坂本どん、誤解を解いて下され」
まったくいい加減な男だ。
「西郷さん、今アメリカは、開国せねば大砲をぶっ放してくると言うとんですよ。その大事なときになんをしちょるとですか」
「まっ、いずれその話は片をつけるとして、今はこのお千津殿をなだめてくだされ」
「分かった、分かった」
龍馬は女房の千津をはがいじめにし、
「まあまあ、お千津さん、落ち着いて」
千津はキッと龍馬を睨みつけ、
「あんたに関係ないでしょうが」
「こんな街中で騒がれちゃ、天下の西郷さんが笑いもんになるぜよ」
「笑いもんになろうと、なるまいと、関係なか」
目をさらに吊り上げた。
と、後ろに隠れていた西郷が、
「ほら、坂本どん、これじゃ冷静な話はできもうさん」
「何が冷静じゃ。わしまでひっぱたかれたじゃなかか、もう」
「う、すまんでごわす」
「まあまあ、お千津さん、ここはわしの顔を立て……」
「あんたの顔を立てたって、屁《へ》のつっぱりにもならん」
「なんじゃ、言うに事欠いて屁のつっぱりとは」
「屁のつっぱりを屁のつっぱりと言うて何が悪い」
そして千津は、泣いている女を指さし、
「わしはこんロクデナシがあの女と一緒にふとんに入っとるとこ見たんじゃ」
ヘッピリ腰の西郷がドングリ目をいっそうクルクルさせ、
「だから、カエが腹が痛いと言っとったから、揉んでやっとったんじゃ」
「じゃ、なんであんたも裸だったんじゃ」
「いや、暑うて。わしゃ脱いじゃっただけじゃ」
「ウソを言え」
「ウソは言わん。わしはそげな人間じゃなか。なあ、坂本どん」
「なんじゃと」
また千津はゲタで西郷を音がするほどひっぱたき、
「ウソばっかり言うんじゃない」
「あいてて、ほんとでごわす」
「じゃ、あの子は誰の子じゃ。あんたそっくりじゃなかか」
西郷にまとわりついている子供を指さした。
「いや、知らん。わしは知らん」
「知らんで、ああ似とるか」
うりふたつだ。と、西郷は何を思ったかその子供の首をねじあげた。
「このガキ、わしと似とるんでわしがあらぬ疑いをかけられるんでごわす。まったく憎たらしいガキじゃ。どっか行け」
と蹴飛《けと》ばした。子供が泣き出した。
「まっ、待て。西郷さん、子供に当たることはないじゃろが。あんたは一体どういう人じゃ」
龍馬はあきれかえった。
が、西郷は、
「このガキがわしに似とるというだけで!」
とまた蹴りつける。
半刻ほど争ってようやく千津の怒りがおさまり、西郷は、千津を連れて宿に帰った。
半次郎が、大きな背中を丸め、
「ありがとうござんした」
「しかし中村、西郷も子供を突き飛ばすことないんじゃないのか」
「そこが先生の偉いとこですたい」
「どこが偉いんじゃ、もう。しかし、西郷はあっちこっちガキを生み散らかして、人望は衰えん。そこは見習わないかんな」
「はあ」
「しかし半次郎、わしのように手を汚してなんかする人間と、西郷みたいに周りが手を汚させんようにして祭り上げる人間がいる。まったく、わしは損な性分じゃて」
半次郎は「ガハハ」と大笑いし、カエを伴い去っていった。
龍馬と桂は麻布《あざぶ》に向かった。
近藤たちは、麻布町のはずれで井戸掘り工事をしていた。土を運ぶモッコといわれる道具を肩にかつぎ、まっ黒になって働いていた。
龍馬は手を上げ、声をかけた。
「おう、悪ガキども、元気にやっちょるか」
「あ、先生!」
と叫び、顔中泥だらけにした近藤たちがバタリと倒れた。
「大丈夫か、もう」
龍馬は、皆を近くの『食い処《どころ》』と書いてある一膳飯《いちぜんめし》屋に連れていった。
「まっ、食え、ほら。留吉とお絹はどうした」
「おっつけやってくるでしょう」
「おい勇、あいつらにな、わしんとこに菓子折りの一つも下げて挨拶に来いと言うとけ」
「はっ、はい」
「全くもう、おまんらと知りおうたことがわしの運のつきじゃ」
と、奥の座敷に西郷と、先ほどの女、カエと子供がいた。
「ほんと、あの大きな図体ですばしっこいやつぜよ、西郷というやつは。おい桂、西郷のやつ、今度はメカケの方を連れてきたぜよ」
西郷はカエの手をまるでなめんばかりに取り、これ以上はないという哀しげな顔で、
「何言うとんでごわす。惚れとんのはカエ一人じゃ。さっきの千津のやり方見て、わしが薩摩でどげな仕打ちされとるか分かったろ。ああ、痛い。なあ、太郎《たろう》、さっきはすまんなあ、ああするより仕方なかったんじゃ」
さすがの桂も開いた口がふさがらないといったふうに西郷を見ている。
「もうほっとけ、ほっとけ」
「はあ」
「あれでまた、宿に帰っちゃったら、女房に愛しとるんはおまえだけじゃって囁くんぜよ」
「へえ」
「わしがいつか、おまんなんでそんなにモテるんかって聞いたら、『わしは舐《な》め上手でごわす』だってよ。天下の西郷吉之助の言う言葉か」
近藤たちはまるで餓鬼のように、出されたものをガバガバと食っていた。
三杯目をおかわりしてようやく人心地ついた近藤が、
「先生、どうして早く助けてくれなかったんですか」
「まっ、おまんらに労働の大切さを知ってもらうためじゃ」
「まったく坂本先生はひどいなあ」
「まあ、許せ、許せ」
「ああ。おっ、皆に紹介しとこう。長州の桂小五郎じゃ。仲良うしてくれ。わしが目をかけとる男でな、いずれ一働きしてもらわないかん男だ」
「よろしく」
「こいつ、こんなこすっからい顔しとるが、なかなかいい男じゃ。今、わしを殺しに来とんじゃ」
「はっ」
「驚くことはない。他にも出刃包丁持ってわし殺しに来とる鳥ガラみたいなアホがいる。心当たりのあるもんはおらんか。ああん?」
と、そこへようやく、留吉とお絹が現れた。お絹はこざっぱりした顔をしていた。
「どうじゃった、お絹、ホスピタルは。あすこはわしのかかりつけじゃけ、ようしてくれたじゃろ」
「あのホスピタルは、飯がまずくて、ナースも意地悪で」
口は相変わらず悪い。
「意地悪にもなるがな。十四で子をハラんどったら」
「フン」
「まったく、可愛《かわい》げのない女じゃ」
そして龍馬は姿勢をただし、みんなを睨みつけた。
「でじゃ、今日という今日はおまんらに話がある。事と次第によっちゃ、わしはおまんらとロンググッドバイば、せないかん。コラ、歳三、何キョロキョロしとるんじゃ。わしの話をきかんか」
髪結の五助がふくらんだ腹をさすり、ゲップすると、
「歳三は女難の相があるらしく、女から命狙われちょるとです」
「女? なんじゃ、そりゃ、穏やかじゃねえぞ。わしにくわしく話ばしてみい」
歳三は二ツ川のことを一部始終話した。
「なっ、なんじゃと?」
龍馬は生唾《なまつば》をゴクリと飲みこみ、
「そっ、それで、相手の女は、抗《あらが》わんかったんか」
「そりゃ、抗いましたが、なにせわしはバカ力じゃき。相手も観念したんじゃろと思います」
「しかし、相手は女ながらも男の格好して刀差しとったんじゃろが」
「そりゃ、そうです。あん女、わしに一目惚れしとったんかな?」
龍馬は目を丸くしていたが、フッと息をつき、
「しかし、百姓はうらやましか。こんわしにはできん。もし、わしがそげんことしたら、天下の坂本龍馬が女を犯したなんて歴史の一ページに残ると困るでなあ」
五助が頭を振ってペロリと舌を出し、
「坂本先生はそげんことばっかり言うとるから、もてんとです」
「なっ、なに?」
「なんでもありません」
「フン。で歳三、二ツ川の舞台じゃどうだったんじゃ」
「舞台に上げられ、したたか殴られたんです」
「よしよし、悪の報いじゃ。ついでに半殺しにされたらよかったんじゃ。なあ、みんな、ハハハ。まだ日本の女も捨てたもんじゃなか。ああ、今日は気分がよか」
「まだここに、こんなキズが残ってます」
とあちこちミミズ腫れになっている肩を見せた。
「ほう、そうか。腕の一本も折られればよかったんじゃ、ハハ」
「その代わり、後でわしも思いっきり乳を噛んでやりました」
龍馬の目玉がハタと止まった。
「後でってなんじゃ」
「実は、舞台がはねた後、呼ばれたんです」
「なっ、なに、呼ばれた?」
「はい」
「おい歳三、いくら土方《どかた》だって嘘はいかんぞ。強姦《ごうかん》された女が、もう一度やってくれっておまえを呼んだちゅうのか」
「はい」
「そげな話、世界中探したってないわ」
「でも、呼ばれたことは確かです」
「どうじゃ五助、女に詳しいおまえならよう分かるじゃろ。犯された女がもう一度その男を呼ぶなんて、ロジックに合わんじゃろ」
「いや、うちのじいさんが女好きじゃったんだが、女ってのはそんなものじゃと言うとったことがある」
「おまんのじいさんも変わっとるなあ」
「いや、女とはそんなもんです」
「ほんとか。わしゃ、そんな話、聞いたことがないぜよ」
と、歳三が天井を見上げ、なつかしむように、
「やせとったが、よう張った胸してました」
「こん嘘つきが!!」
「嘘じゃありません。草むらん中で朝まで離してくれんかったとです」
「な、なんじゃと!? 朝まで離してくれんかったと!!」
龍馬の目がうつろになってきた。
「でも先生、あん女、初めてじゃちゅうに腰を動かしちょりました」
「ウソこけ、なんで生娘が腰を動かすんじゃ。いい加減なこと言うな」
「いい加減じゃありません」
「なっ、なに!」
龍馬の目はロンパリになり、どもりさえしている。
「おう、ならまた五助に聞こう。おう、五助」
「はい」
「おまえは生娘が腰動かすという話を聞いたことがあるか」
「いっ、いいえ」
「ほらみてみい!! こん土方のホラ吹きが! いいか、よう覚えておけ。わしがデモクラシーにしたって、おまんら土方にだけは選挙権はやらん。おまんら一生土方で田んぼの中這いつくばってろ。ザマミロ!」
「でも、ほんとです」
「しつこい男じゃのう。じゃ、多数決の原理で近藤に聞いてみようか。正直者の近藤の言うことじゃったら、おまんも信じるじゃろ。どうじゃ、近藤」
「わしはまだ童貞じゃき」
「童貞でも、そげなこと信じられんじゃろが」
「はっ、はい」
「ほら、どうじゃ。まったく田んぼ持たん土方はどうしょうもないな。田んぼに這いつくばっとるのが似合うとるんじゃ」
そこまで言われ、さすがの歳三もムッとして、
「ですから!」
「ですから、なんじゃ!」
「わしもその女に聞いたとです。なんで腰を動かしたかって」
「そしたら、なんちゅうたんじゃ、そのおなごは」
「動かした覚えがないというとです」
「ホラ、矛盾が露呈したろうが」
「で、わしは試したとです」
「試した?」
「ですから、もう一回やってやったとです。やっとる最中で、ホラ、腰動いちょるじゃろと教えてやったんです」
「おまんもう、何回やったんじゃ、このドスケベが!」
「何回か分かりません」
龍馬の貧乏揺すりが激しくなり、ちゃぶ台の上の茶碗がガタガタいうほどだ。
「なに? まあ、いい。一体、何と言うたんじゃ、そのおなごは」
「動かした覚えはないと言い張るとです」
「でも、自然に動いちょったという訳か」
「はい。女もテレとりました……」
爪楊枝《つまようじ》で歯をシーシーやっていた五助が、
「つまり先生、それだけ感度のいい女だったというわけですな。一万人に一人しかおらんミミズ千匹っちゅう女です」
「うっ、うるさい! なにがミミズ千匹じゃ」
龍馬は頭を抱え、グルグルうろつき、
「クッ、クソッ。どうせ不細工な女じゃろ。そうに決まっとる。ブスは普段やってもらえんからしつこいからのう。ここぞとばかりやるんじゃ。なっ、そうじゃろ、弥一」
「いや、すこぶるつきの美人でした」
「ほんとか」
「留吉が、写真を撮ってますから見て下さい」
「留吉、見せてみい」
留吉はカバンを開けると、大切そうに風呂敷にくるんだ写真を取り出し、龍馬に見せた。龍馬はしげしげとそれを見ていたが、
「うーむ」
うなったきり、その場にへたりこんだ。
「どうです、美人でしょうが」
「うーむ。修整しとるんと違うんか?」
これには留吉のプライドが許さない。
「わしゃ、アーチストです。そげなインチキはしません。返して下さい」
「まっ、待て」
どこかで見たことのある女だ。
「うーむ」
思い出せない。
頭を抱え、うなる龍馬に歳三が諭すように、
「しかし先生、こういう女は知らん方が幸せじゃ。わし、あげな女に関《かか》わり合ったんで、取り殺されるんじゃないかと思うて」
龍馬は急にシュンとなった。写真を返すと、さみしそうに口を突き出し、
「うらやましかなあ。正直言うて、わしはまだ生娘を抱いたことない。生娘どころか、ブス抱き、ババア抱きのボランティア人生じゃ」
と、くやしそうに髪をゴシゴシかいた。
「いいな、土方《どかた》は。わしみたいな男が一生懸命国作って、何の努力もせんおまんごたる男がその上に乗っかっていい思いするんだ。きっとそうじゃ。ほんと、わしは損な役回りじゃて」
「いや坂本先生、その」
「なあ留吉、お絹を医者に連れていってやったときもそうじゃ。天下の坂本龍馬がこげな毛も生えそろわんような子供みたいな女をハラませて恥ずかしくないかって、半刻も説教されるしな」
「うっ、すいません」
「まったくわしという男は、つくづく損な役回りじゃ」
「ですから、その」
「さっ、帰ろう。勘定はいくらじゃ。三両? おう、よう食うたな。放っときゃおまんら、日本中の食いもんみんな食い散らかすんじゃないか。あれ、これもわしがみんな払うんかいのう。まっ、ええ。ねえちゃん、領収書ちゅうもんくれ。できたら白紙でな。さっ、行こ。おまんら、ここにおったらこの店まで食うかもしれんからな。そしたらいくらなんでもわしは払いきれん」
外に出ると、近藤たちは「アワワ」と叫び、蜘蛛《くも》の子を散らすように逃げ去った。
「なっ、なんじゃ、刺客か? みんなわしを助けろ!」
と振り向くと、新兵衛が出刃包丁を持って恨めしげに立っている。
「このアホ、もう釈放されたんか。江戸の治安は一体どうなっとるんじゃ。まっ、待て、新兵衛、誤解じゃ、わしじゃない」
「グルル」
新兵衛の目が飛び出している。
「なんじゃ、グルルて」
「グルル」
「おい桂、なんとかしろ。つかまえろ!」
「はっ、はい」
「グルル、お志麻を返せ」
「大きな声出すなって」
通りがかりの人たちが、何事かと立ち止まっている。
「グルル、坂本龍馬、間男野郎」
「やっ、やめろって。みなさん、誤解なんです。私は無実です」
龍馬がいくら弁解しても、鳥ガラのようにやせて貧相な新兵衛の哀れさが人の同情を誘う。
「おい桂、なんとかせんか」
「はっ、はい」
桂がようやく新兵衛をはがいじめにし、連れていった。
それを見て連中が戻ってきた。
「おう、なんでおまんら、わしを置いて逃げるんじゃ」
「すいません」
「人間、土壇場にならんと本心ちゅうもん分からんな」
「いや、先生を助けようとしてたんですが」
「嘘をつけ! わしの背中の足形見てみい。誰か踏みつけにして逃げたということじゃ。ああん? どこ助けようとしたちゅうんじゃ、こんバカタレどもが!」
龍馬は精も根もつきはてたというように首をうなだれ、
「で、おまんらこれからどうする。日野に帰るか」
近藤が、
「レストラン作るまで日野には帰れません」
「わしだって、ビューティサロン作ります」
「じゃあ、どうする」
「新選組に入って京都にでも行きます」
「新選組? あんなもん、入ったってしゃあないぞ」
「でも、一人十両の支度金がもらえます」
「しかし」
と弥一が、
「実は、うちのおふくろが京都に行ったらしいんです」
「ああ。弥一は江戸でおふくろさんと会えんかったんだってな」
「はい。でも京都に行けば、会えると思います。母も、僕と同じ教育関係の仕事をしているらしいんです」
龍馬は知っていた。弥一が江戸で母に会ったことも、どのようなもてなしを受けたかということも。
龍馬は、それでも笑顔をつくる弥一のいじらしさが不憫《ふびん》で声がつまった。
「そうじゃな。おまんら、新選組に入って京に行け」
「はい」
近藤が、
「それに京都には、わしの腹違いの兄貴がいますし」
「兄貴が?」
「名前を耕造と言います」
「耕造? ハテ、どっかで聞いた名だな」
「し、知っとるとですか、先生」
「あっ、あいつだ」
「だ、誰です」
「おまんにソックリの太った四角い顔の男じゃ。口の大きいところもよう似とる」
「どこで会ったんです?」
「河原町の『天味《てんあじ》』という料理屋の板前やっとった」
「はあ」
「腕はひどいが、口がうまくて結構人気があった」
「まさに、兄貴じゃ」
「すごいのう」
歳三が、
「で、先生、一つ頼みがあるんですけど。わしの苗字《みようじ》つけて下さい。新選組に志願書出すとき、苗字がいるんです」
「苗字?」
「わし、土方じゃけ、苗字がないんです」
「そうか。おまんは本百姓じゃないから苗字なかったんか。じゃ、土方にしとけ」
「えっ、土方ですか」
「土方と書いてひじかたと読むんじゃ」
「そんな。もうちょっと偉そうな名前つけて下さい」
「バカ。名前なんてなんだってええじゃろが。さんざんっぱら女抱いちょったんじゃから。このドスケベが」
「でも、土方なんて苗字にしたら、自分が土方出身ちゅうて言いふらしとるみたいなもんじゃないですか」
「生娘抱いといて贅沢言うな。いいじゃないか。土方出身でも恥ずかしいことはないという時代を作ろうと考えりゃいいじゃろ。そう考えると、志の高い名前じゃ。まったく、このドスケベが」
そして龍馬は真顔で留吉に向かい、
「おうカメラ屋、吉原でひとつ写してもらいたいもんがあるんじゃ」
「吉原?」
「米国総領事タウンゼント・ハリスが来るんじゃ」
「何を撮るんですか」
龍馬は意味ありげにニヤリとすると、
「アートじゃ。男と女の、くんずほぐれつのアートじゃ」
「はあ?」
「写真を撮ったら、わしが紹介状書いといてやるから、しばらく下田《しもだ》でアメリカ人の生態ば観察しとけ。これからのフォトグラファーには大切なことじゃ」
「わしらは、今すぐにでも京都に行きたいんです」
「そのレッスンに下田に行くんじゃ。おまんはアートのメッカ、マンハッタンブロンクスのことを知りとうないのか。な、五助、やがておまえも外国人の髪をカットせないかんときが来るじゃろが」
「はい」
「四郎だってそうじゃ。アメリカ人に相撲ば見せて日本の国技の神髄を見せつけてやるんじゃ。それから京都に行ってもおかしゅうないじゃろ。京都にはええ相撲部屋があるというぜよ」
「はい」
「近藤、アメリカはフランス料理の本場じゃ。レシピじゃ、アペリチフじゃ」
「はい」
「坂本先生、そのハリスって人、どういう人ですか」
「知らん。まだ会うたことがない。ハハハ」
龍馬の人を食った笑い声が、江戸の街に響いていった。
8 伊豆下田
米国総領事、タウンゼント・ハリスは伊豆下田に居を構えた。
大統領からハリスに任せられた期限は一年。一年で日本という国が紳士としてつきあうに足るだけの国か、植民地として隷属されるべき国か決めなければならない。
「私は、後者でないことを祈る」
ハリスは浜に打ち寄せる波を見て一人ごちた。
冬でも霜の降りたことのない温暖な土地である。漁港には小さな漁船がびっしりと停泊し、魚問屋がズラリと軒を連ねていた。活気あるかけ声が朝早くから聞こえてきた。
海からすぐに山になる。急な坂を少し歩けば、美しい白浜が見おろせた。遠くに三宅《みやけ》島がのぞめ、山から煙が上がっているのが分かる。誰か外国人が持ちこんだのだろう、ヤシの木がグングン育って、この浜に情緒を添えている。
白浜のやさしい感触と、磯の荒々しい表情の両方を持つ下田の海をハリスは愛した。
「こんにちは」
海辺をゆったりとした表情で散歩するハリスは付近の人と顔なじみだ。まっ赤なほっぺたをした子供たちがいっせいに頭を下げた。クッキーを出すと、少しはにかんでうれしそうに食べる。それにもハリスは感心した。
子供たちの親はほとんどが半農半漁で、珍しいお菓子のお礼といって、とれたての魚や野菜を持ってきてくれる。
日本人というものは、人を疑うことがない。毒でも入っていたらどうするのだ。彦次郎は言う、人を信頼する心というのが文化だと。
下田奉行の山南敬助《やまなみけいすけ》が十人ほどの武士を連れ、こわいような殺気を放ち、遠くから見ている。ハリスの護衛をしているのだった。
うるさいペリーは、南北戦争のため米国に帰った。
ハリスは日本の文化も吸収しようという気持ちだった。
ハリスの住んでいる領事館は、アメリカ文化そのものである。小高い丘の上に立つ館《やかた》は白く塗られている。門に続く道には煉瓦が敷かれ、そのまわりは色とりどりの花で飾られていた。
その領事館を建てるとき、設計図を渡したところ、日本の大工は英語も読めぬのにフムフムと二、三度うなずいていただけだったが、いざ工事が始まるとたちまちにして作りあげてしまい、ハリスは舌をまいた。
朝は清国からつれてきたボーイの陳《ちん》が出す紅茶で目をさます。
ゆっくりと朝食をとり、柿《かき》の木がたくさんある里に小さな家を借りている彦次郎を待つ。彦次郎は毎朝、八時きっかりに訪れてくる。
彦次郎の説明で瓦版を読んだりする。日本人が見た自分が描《か》いてあった。恐ろしい顔をしているのがおかしかった。
彦次郎と、ビスケットを二枚ずつ添えて紅茶を飲むのが十時すぎだ。
ハリスは、陳が裏山から摘んできた菊の花を花瓶にさした。見ると、窓の向こうにすすきが風に揺れ、銀色に光っている。空は青く、どこまでも澄んでいた。
「彦次郎君、龍馬という男に会ったかね」
「はい」
「どうだった」
「相変わらずでした」
彦次郎は帰国してずいぶん太った顔を輝かせた。
「相変わらずとは?」
「雲を見て寝転がっていました」
「それだけか?」
「ええ。寝転がっているだけでした」
「だから、寝転がって何をしてるのかね」
彦次郎は思い出し笑いをしながら、
「ラブを探していらっしゃいました」
「ラブを?」
「ラブです。ラブこそが国じゃとおっしゃってました」
「おかしな男だな」
「はい。おかしな人です。でも、あの人と会うと元気になります」
「元気に?」
「はい」
「ハリス様も会えば元気になりますよ」
彦次郎はサスケハナ号の甲板で言ったことをまた繰り返した。
ハリスは、誕生日のプレゼントに妻のメアリから贈られた銀鎖の懐中時計を見、
「さて、今日は江戸へ行くぞ。今度はあの刀が見つかるまで帰らないぞ」
「また刀屋回りですか」
彦次郎は顔をしかめた。菊一文字|宗春《むねはる》を探しての刀屋まわりは今度で五回目だ。刀屋たちは口を揃えて菊一文字宗春などという刀は存在しないと言っていた。
ハリスは横浜《よこはま》の刀屋で書いてもらった地図を見ながら、
「今度は日本橋《にほんばし》の『宝来堂《ほうらいどう》』だ」
日本橋の宝来堂なら二百年来の老舗《しにせ》で、どんな刀のことも知っているということだった。
「護衛の山南様たちはどうします?」
「ほっとけ」
「でも、大騒ぎしますよ」
「どこへ行ってもあのジトッとした目で見られてみたまえ。私は気が狂うよ」
「でも、いい人なんですよ。どうやってハリス様をもてなしたらいいのか、悩んでいらっしゃるんです」
「あの目がもてなそうという目かね」
「生まれつきそういう目をしてらっしゃるんだから仕方ないじゃありませんか」
「とにかく、あの目で監視されるのはもう、いやだ」
「ハハハ」
「彦次郎君、この前、山南は婦人というのを連れてきたんだが、あれは一体何だったんだね」
「夜伽《よとぎ》をさせようとしていらっしゃったのです」
「夜伽とは何だね」
「ですから、ハリス様の夜をお慰めしようとして」
「私の何を慰めようというのだ。私は敬虔《けいけん》なクリスチャンだぞ」
「でも、悪気はないんですよ」
「悪気があったら、それこそ私は国に帰れなくなるよ」
「はあ」
「さっ、行こう」
「もし、行き先を告げずに出かけたら山南様は切腹なさいます」
「バカなことを言うな」
「ほんとうです」
「では、山南を呼びたまえ」
「はい」
山南が来た。頭をこれ以上はないというくらい鬢《びん》付け油で光らせ、亀甲《きつこう》模様の凝った袴をはいている。六十くらいでかっぷくはいいが、三白眼の動かない目が気味悪い男だ。
これこれしかじかと日本橋に出かける説明をすると、山南はその鬼瓦《おにがわら》のような顔をひきつらせ、歯をガチガチいわせ、江戸に問い合わせるから二、三日待ってくれないかと言う。それができぬなら一札入れてくれと迫ってきた。
彦次郎がしたためた誓約書にサインをしていると、山南は顔を突き出し、「十日以内に帰ってこないと拙者は切腹いたします」と言う。
恨めしげな山南の視線を背中に、ハリスは庭に建てられた厩舎《きゆうしや》から栗色の馬を出し、それにまたがった。彦次郎も後に従った。
「ほんとに山南は私が十日して帰ってこなかったら腹を切るのかね」
「試してみます?」
「いや、いい」
あわてて手を振った。とにかくとんでもないところに来てしまったものだ。彦次郎が明るい声で、
「龍馬さんがですね。ハリスさんを是非一度吉原に案内したいと言ってるんですが」
「吉原とは何をするところだ」
「女郎がいるところです」
「彦次郎君、私は敬虔なクリスチャンだと言っただろう。女など買えるわけがないだろうが」
「そうは言いますが、ここは日本ですからね」
「日本だから、どうした」
「旅の恥はかき捨てという言葉もあります」
「バカな。国に戻り、メアリにそんなことが知れたら、私が生きていられると思っとるのかね」
「ハハ、それはそうですね」
「それを知っていたら、君もおかしな誘いはしないで欲しい」
ハリスは懐中時計を握りしめた。
「しかし、デービスさんの例もありますしね」
「デービスは真のクリスチャンではない!!」
ハリスは九月の風が立ち始め、その色を濃くした伊豆の海に向かって吐き捨てた。
デービスは、いつしか下田の女郎屋に入りびたりになっていた。日本女の情の細やかさ、男の立て方にデービスはぞっこん惚れこんでしまって、とうとう宿舎に帰ってこなくなり、職を捨ててしまった。
「デービスのことは本国に報告書を書かねばならないな」
「いいじゃありませんか。放っておけば」
「バカなことを言うな。仮にも私の妻の弟だ」
「そっ、そうですね」
伊東《いとう》で馬を休めた。
「しかし、日本の女というのはそれほど情が細やかなのかね」
彦次郎はハリスの目が好色そうに光ったのをすかさず見てとり、
「ご自分でお確かめになったらどうです」
「何度言えば分かってくれるんだ。私はいやしくも米国総領事だ。そのようなことができるわけないだろう」
東海道に抜け、小田原《おだわら》に一泊し、翌日の夕方日本橋についた。のんびりした下田とは違い、多くの商人たちが通りを忙しそうに走っていく。
「何かあったのかね」
「ええ。どうやら皆、店を閉めるんであっちこっち金策に駆け回っているんじゃないですかね」
「そうか」
もしかしたら徳川と朝廷の間で戦が始まるかもしれないという噂に街中が浮き足だっていると彦次郎は説明した。
「せっかちな国民性だね」
「はあ」
「まだ、何も決まっていないはずだ」
第一、いくら徳川慶喜に謁見の申し入れをしても返事を濁すばかりだ。
と、街の見かけが違ってきた。
「道は正しいのかね」
「はい」
「本当に正しいんだね」
「はっ、はい」
女たちがずいぶん増えたような気がした。ゾロリとした着物姿の女がニコリと挨拶をする。下田の漁師の娘たちと違って、化粧が上手できれいだった。
「どうです」
「なにがだ」
「日本の娘も捨てたもんじゃないでしょう」
「彦次郎、娘さんたちのことはいいが、道は正しいのかね」
「実は吉原へご案内しようと思って」
「なに?」
ハリスは馬上でわめいた。小男が来て、勝手知ったとばかり、馬の手綱を引いていく。
「なっ、なんだ」
「ハリス様、日本には、『郷に入れば郷に従え』ということわざもありまして」
馬を降り彦次郎に手を引かれるように大門まで来ると、あたりはちょうちんの明かりで真昼のようだった。
通りは客引きの声と、女を見定める男たちの笑い声で謝肉祭のときのようににぎやかだった。通りに面した遊郭は二階建てで、一階では客が好みの女郎を待っていた。
格子戸の向こうから、女たちが襦袢《じゆばん》姿であからさまにハリスを誘う。目を伏せているが、その実ジロジロ上から下まで見ている。
「彦次郎、さっ、早くこの街から出るんだ」
「もう遅うございます」
「なに?」
「吉原で女郎も買わず帰ったとなると忘八《ぼうはち》者から、簀巻《すまき》にして川に放りこまれます」
「バカな」
「ここはいわゆる治外法権なのです」
見ると、はっぴ姿の目つきの悪い男たちがあちこちで目を光らせている。
「忘八者とは何です」
「仁、義、礼、智《ち》、信、忠、孝、悌《てい》の八つを失くした者でございます。恥も嫉妬もご法度の身分でございます」
「日本には、おかしな身分制度があるな」
「国ってのは、その身分制度のことじゃないですかね」
「なに」
「いえ、昔、坂本さんがそうおっしゃっていました」
と、歯のない口を開けてハリスを見上げていたやりて婆《ばばあ》が、その手をひっぱると、部屋に上げた。
隣の部屋に、派手な柄の布団が敷いてある。
「まっ、待て、困る。私はクリスチャンなのだ。国に愛する妻がいる」
「まあまあ、野暮《やぼ》は言いっこなしですよ、異人さん」
丸々太った女将が来て、
「まあまあ、これは異人さん、ようこそお出で下さいました。どうぞお楽にして下さいな。吉原一の太夫をお呼びしますさかい、楽しみにしといて下さい」
「いや、その、マダム、困るんです」
「まっ、これはなんとウブな異人さんやろ。まっ、私にお任せ下さい」
とポンポンと手を打った。たちまち、酒や肴《さかな》がどんどん運びこまれてきた。
「いや、困る。これ、彦次郎、どこへ行く」
「いや、なじみの女がいまして。じゃ、ごゆっくり」
「まっ、待て」
ハリスは汗だくになった。と、女郎たちが来て、ハリスは浴衣に三人がかりで着替えさせられ、風呂につれていかれた。ここでもまた三人がかりでハリスの全身を洗ってくれ、ハリスは生きた心地もしない。怒鳴っても、ニコニコ笑うばかりだ。
すっかりのぼせ、風呂からあがって部屋に戻ろうとすると、大声がした。その声に彦次郎と同じなまりがある。見ると、愛嬌のある顔が見え、首から下は恐ろしいことに赤いブラジャーとパンティだけの格好だった。
なんだ、あいつは。
その男は雷のような声を出し、
「こら女将、もうちょっと、若いおなご寄こさんか。どこが若いんじゃ。くすんだ顔色してからに。しかし、よくもこれだけシワくちゃのババアを揃えたのう。なんでわしにはいつもこうババアばっかりが寄りつくんじゃろ」
「ハハハ」
「しかしおまんら、ほんとは若いんじゃなかか。わしんとこ来るのがいやでババアの格好しとるんじゃなかか」
「ハハハ」
「まあええ。ババアに慕われるのも男の華じゃ、なあ」
「ものは言いようでんな、ハハハ」
口ではののしり合っているようだが、楽しそうだ。
「そうじゃ、ほら、だれか三味線ばひいちくれ」
「できまへん」
「ほな、踊りば踊っちくれ」
「できまへん」
「芸者が三味線も踊りもできんかったら、何できるんじゃ」
「あれだけですけん」
「気持ち悪いこと言わんでくれ。あれはええ。今日はちょっと体調くずしとる」
「ほんまでっか」
「ほんまじゃ。後でやっちゃるき」
「いつもそうやって逃げるんやから」
「逃げはせん。ほんとじゃき。言っとくが、もし賊が襲ってきたら、おまん、身を挺《てい》してわしを守れよ。この前の近藤たちみたいによ、踏みつけていくなよ」
「分かりました」
「ほんとに分かっとるのかな。おまんらは、わしがこの日本にとってどれだけ大切な人間かよう分かっとらん」
ハリスは、もしかしたらこの男が龍馬という男ではないかと、ゾッとした。
と、正面から美しい女が急ぎ足で廊下をこちらに歩いてくる。紺地にやまぶきの花を散らしたあでやかな芸者姿である。障子をすかしたあかりに浮かびあがった姿がこの上なく美しい。絹のような肌をして、長いうなじが目にまぶしかった。
と、その男が、
「おう、梅香、わしが来てるのに素通りはなかろう」
「大切なお客さんをもてなすように言われとりますんで」
「わしより大事な人間がこの日本のどこにおるんじゃ。わしが、つむじ曲げたらこん日本はアメリカの植民地になるぜよ」
梅香は冷たい笑いを浮かべ、
「先生は、おもてになりまへんやろな」
座敷の女たちがドッと笑い、一斉に拍手をした。
笑い者になっても、その男はニコニコしている。
「なあ梅香、わしの嫁にならんか。わしの嫁になったら、歴史に名前が残るぜよ。おまんとこのおとうもおかあも泣いて喜ぶぜよ、ハハハ」
その男は大口をあけ、屈託なく笑っていた。
ハリスは梅香と呼ばれた女の美しさに見とれていた。ただ美しい女ならアメリカにも沢山いたが、こんなしとやかな美女は初めてだった。まるで胡蝶蘭《こちようらん》のようだ。闇夜《やみよ》に白く咲く美しい花だ。
ハリスが部屋に戻ると、その梅香が着物の裾を広げて座っていた。
「あっ」
「お待たせいたしまして」
「いえ」
「梅香と申します」
「ハリスです。米国総領事、タウンゼント・ハリスです」
「まっ、おひとつどうぞ」
膝をすべらし、ハリスの横にぴったりと近寄ると、酒を注ぎ、さすがのハリスのかたくなな心も溶かしてしまう笑みを浮かべた。ハリスが杯をあおると、「まあ」と言ってまた注いだ。
「ほな、このお料理を」
と箸で食べさせてくれた。
ハリスにとって夢のような夜だった。
目をさますと、梅香はいなかった。恥ずかしさにハリスは身も心もなかった。ポケットから小さな聖書を取り出し、神に懺悔《ざんげ》をした。
と、あっさりした粋な茶色の小紋に着替え、化粧も薄くした梅香がスルリと部屋に入ってきて、にこやかに、
「お目ざめですか」
「あっ、あの」
「朝のお支度ができてます」
とまっ白い手拭いを差し出した。顔を洗うのにもついてきて、桶に水をくんでくれた。ハリスは塩で歯を磨いた。
「ヒゲをあたってさしあげましょうか」
と言って、ヒゲを剃《そ》った。
昼は昼で膝枕《ひざまくら》だ。いろいろな和歌をたてつづけに詠《よ》んで、ハリスを驚かした。茶の造詣《ぞうけい》も深く、日本の『わび』や『さび』について色々教えてくれる。可愛い口から出てくるとろけるような声で聞かされると、ハリスはいつまでもこうしていたいと思った。とうとう、その日も次の日も泊まった。
酒の席で、梅香は自作の和歌に節をつけて歌いながら舞った。恋する男を慕う歌だと恥ずかしそうに説明した。
「その歌をもらって、心が動いた殿方は、同じように歌を作って返すのです」
座敷の明かりに浮かびあがった梅香の舞い姿は凜《りん》としてすがすがしく、また妖艶でハリスはその和歌に返すすべを知らないのが残念だった。
控えめな梅香は、ハリスが聞いたことにしか答えない。夜はハリスが寝入るまでじっと待っていた。朝は、ハリスが目ざめるともう起きている。一体、いつ寝るのだろう。ハリスは不思議だった。
ハリスが日本刀に興味があると言うと、梅香は目を輝かせ、刀の話をしてくれた。
刀鍛冶《かたなかじ》は刀を作る前に、必ず白装束で禊《みそぎ》をするのだと言った。
「魂をこめるのです」
「魂をこめる?」
「ですから、刀鍛冶の思いが残るのです。願いも、そして恨みも」
「恨みも?」
「ええ」
恨みなどというものの存在さえ信じたくないのだろう、梅香は恥ずかしそうに目を伏せた。
「菊一文字宗春という刀には、どんな思いがこめられているのでしょうね」
「宗春?」
梅香の顔色がサッと変わり、ハリスがこの四日で初めて見る険しい目をした。
「知っているのですか」
「いえ」
「では、その顔色はなんです。あなたのそんな怖い目を見たのは初めてだ」
梅香はうつむいたきり、答えなかった。
それっきり、梅香はハリスの部屋に姿を見せなかった。
彦次郎が戻ってきたのは、五日目だった。
「いかがでした」
「ああ」
彦次郎のニヤニヤした顔をハリスはまともに見られなかった。
「さっ、行こう」
女将が通りまで送ってくれた。梅香の姿はなかった。
「坂本さんがよろしくと言っておいででした」
「よろしく? 私が来ていたのを知っていたのか」
「もちろんですとも。坂本さんからご案内しろと言われたのですから」
「なに? では梅香という女も」
「もてなすように言われていたのです」
「では」
ハリスはくやしさで歯ぎしりした。梅香がやさしくしてくれたのは、決して自分をいとおしく思ったからではない。すべてあの坂本という男からやれと言われたことをやっただけなのか。
「クソッ」
大声でわめこうとしたハリスに彦次郎が後ろを指差した。
振り向くと、梅香が白い二の腕がすっかり見えているのもかまわず、懸命に手を振っていた。
「どういうことだ」
「梅香さんはハリス様を好きになったんですよ」
「バカな」
「ほんとです。梅香さんは、ハリス様はおやさしい方だとおっしゃってました」
「私には、メアリがいる」
「ハリス様、野暮はおよしになって下さい。ここは色街、吉原です」
残暑の強い陽ざしの中、彦次郎がピシャリと言った。
ハリスと彦次郎は下田に向かって馬を進めた。
「怖い国だね、日本は」
とハリスは言い、梅香からわたされた菊一文字の謎を書いた書付けを入れたポケットに手をやった。
「なんと野蛮な国だ。占いに出たからといって、生まれたばかりの子供を捨て、殺させる親というものがいるのかね。その親というのが……」
ハリスはその女の子を思い、あわれになった。たとえ、その子が難産で生まれ、母親の命を奪ったとしても、それはアクシデントであって、魔性の子であろうはずがない。
「誰か父親を諫《いさ》める者はいなかったのかね」
「悪い公家たちが周りについていたのですよ」
アメリカでもそうだ。植民地政策を大統領に焚きつけているのは、取り巻きの奸臣《かんしん》どもだ。
「大統領に報告せねばならんな。この日本を紳士の国として扱うべきでないと」
と、彦次郎が怒ったように、
「ハリス様、梅香さんを見て野蛮などと思いましたか」
ハリスは急に馬を止め、困った顔で、
「いっ、いや」
彼女こそレディだ。
彦次郎はうれしそうに言った。
「だったらいいんです」
「なぜいいんだね」
「ハリスさんが梅香さんをレディと思われるのなら、梅香さんもハリスさんをジェントルマンと思っているはずだからです」
「彼女がそう言ったのかね」
「ええ。女郎屋の女将たちが、あんな生き生きした梅香さんを見たのは初めてだと言っていました」
「…………」
「梅香さんはあの四日間、ほとんど眠ってなかったのじゃないかな」
「なぜだね」
「ハリスさんがお休みになったあと、私の部屋に来て、英語を勉強していたんです」
「……私のために?」
「はい」
「…………」
「さっ、急ぎましょう。今日が山南様と約束の期限の十日目ですから」
「なんだね、その期限とは」
「ですから今日中に戻らねば、山南様は腹をお斬りになるということです」
「斬れるものなら斬ってみろと言うのだ」
「試してみますか」
「彦次郎君、その言い方とその試すような顔は少なくとも使用人が主人に対してすることではない」
ハリスは、不愉快そうに舌打ちし、馬の腹を蹴った。
下田の浜では山南とその夫人が白装束姿で刀を持ち、いまにも腹に突き立てようとしていた。ハリスは肌がカサカサになり頬の痩《や》せ細った二人を見て顔色を変えた。
駆け寄ると、山南がハリスの手を取ってボロボロと涙を流した。
「ありがとうございます。これでシワ腹を切らなくてすみます」
夫人と抱き合ってオイオイ泣いた。聞くとこの十日間、白装束のまま浜で、ずっとハリスの帰りを待っていたという。
「本気だったんだね」
「はい」
彦次郎が大きくうなずいた。
「もしアメリカが戦争をしかけてきたら、彼らは最後の一人まで戦うだろうね」
「もちろんです」
「ううむ」
「生きて虜囚《りよしゆう》の辱めを受けることは何よりつらいことですから」
山南を奉行所に送り、ハリスが館に戻ると、妻のメアリからの手紙が届いていた。
『親愛なるタウンゼント、アメリカは南北戦争が始まり、ここにも大砲の音が聞こえてきます。大事なお仕事をなさっておいでですからあなた様も大変だろうと思います。私も研究が一段落したら、日本を訪ねるつもりです。かわいい弟デービスは元気ですか。何か大事な話があるそうなのですが、そちらに伺ったときにゆっくり聞くつもりです』
ブルブル震えるハリスの手から手紙が落ちた。
「大変だ、彦次郎。メアリが日本に来る。どっ、どうしよう」
「どうしようと言われましても」
さすがの彦次郎も青ざめた。
「彦次郎、梅香さんのことがバレたら、とんでもないことになる」
「しかし、ハリス様がおっしゃらなかったらわからないでしょう」
「君はメアリという女がどういう人間か知らないから、そんなことが言えるんだ。彼女は、朝私が役所に出かけて何杯コーヒーを飲んだか、何人の秘書と会話をかわしたか、みんなお見通しなんだよ」
「そっ、そうですか」
「あのブルーの瞳で見られたら、私はすべて白状してしまうんだ……すべて君の責任だ」
「そ、そんな」
ハリスは憎々しげに彦次郎を睨みつけ、
「私は吉原など行きたくはなかったんだ」
「でも、五日も逗留したのはハリス様ですよ」
「君はなんと卑怯《ひきよう》な男なんだ。責任を転嫁するな」
「いえ、そんなことしてませんよ」
「君ねえ、アメリカからペリー君に来てもらって大砲を撃ちこんでもらってもいいんだよ」
「来てもらえばいいじゃないですか」
「何だね、その口の利き方は。日本人とはみなそのように恩をアダで返すようなことをするのかね。君が漂流してたとき、どこの国の船に助けられたとおもっているんだね。あの時のボロの半纏《はんてん》に汚れたフンドシという汚い格好から、まがりなりにも三つ揃いのスーツを着れるようになったのは誰のおかげだと思っているのだ。それを来てもらえばいいとは、なんたる言いぐさなんだ」
散々、彦次郎を言い負かしたあと、ハリスは激しく床を蹴りつけ、
「それにあの坂本という男だ」
「あの、坂本先生に相談してきましょうか」
「なにを相談するというのかね。相談したら私のしたことが許されるとでも言うのかね」
「でも、きっと坂本先生はいい知恵を貸してくれるはずです」
「いい」
「じゃ、どうするんです」
「我々にできることは二つしかない。一つは、私の任務が終わるまでメアリが日本に来ないように祈ること。そしてもう一つは、その坂本という男を八つ裂きにすることだ」
と、そこへ、白いチャイナ服を着、長く弁髪を垂らしたボーイの陳が眉を寄せ、弱りきった様子で来客を告げた。
「誰かね?」
「さあ……」
「さあじゃ困るんだよ。何のために君をやとっていると思っているんだね」
「ですから」
初めて見るハリスの剣幕に、陳もオドオドしている。
「どういたしましょう」
またハリスは人差指を陳に突きつけ、
「陳君、君にできることは三つある。一つはもちろん祈ること、もう一つはその客を叩き出すこと。そして最後の一つは、君自身が辞表を書くことだ」
「はっ、はい」
と、通しもしないのに日本人たちがズカズカと応接間に入ってきた。すすけた格好の六人の男と一人の女だった。
「なっ、なんだね、君たちは」
「気にせんでいい」
とあちこちキョロキョロと無遠慮に見回している。
「気にせんでいい!!」
「ほう、なかなかいい部屋だ。よし、あっちの部屋は歳三と弥一だ。そして向こうの部屋は五助と四郎だ」
「まっ、待て。なんだ、君たちは」
「あん?」
「君たちは何者かねと聞いているんだ」
「まっ、これを見てもらおうか」
と、ニコニコ顔の大男が書状を差し出した。
「なんだね」
ハリスはムッとした顔でひろげてみた。
『彼らのことをよろしくたのむ』
との由、みごとな英語で書かれている。最後に『親愛なるハリス殿、坂本龍馬より』とある。
ハリスはギロリと彦次郎を睨みつけ、手紙を叩きつけ、
「彦次郎、私はこの坂本龍馬という男から、親愛なるなどといわれる筋合いはないんだが」
「まっ、いいじゃありませんか」
「よくない!!」
「龍馬さんはハリスさんのことをフレンドと思ってらっしゃるんですよ。こりゃ、人に自慢できることです」
「彦次郎君、私が友人を作るとき」
「また三つあるんですか」
「そうだ。その第一番目は、その男と面識があるということ、これは矛盾しているかね」
ハリスが彦次郎の胸倉をつかみ、わめきちらしていても、男たちは相変わらずニコニコしている。物珍しそうに時計をなでたり、勝手にサイドボードをあけてワイングラスを取り出したりしている。
「でも、会えば好きになりますよ」
「私は自分の人生の中で、礼儀知らずを好きになったためしはない」
ハリスは、その六人の男と一人の女に向き直り、
「とにかく諸君ら、帰ってくれたまえ。いま私はとても疲れてるんだ」
と、四角い箱を首からぶらさげたはす目のチビが、
「あんまりいやがられたらこれをお見せしろと言われました。わしが撮ったんです」
と一葉の写真を突き出してきた。
それを見たハリスの全身から血が引いていった。
「こっ、これは」
そのチビに寄り添っている女が、
「よく撮れてるでしょう? 留吉さんは天才だわ」
そこに写っているのは、吉原で梅香とたわむれている自分のあられもない姿だった。
「おお、神よ」
そう言うなりハリスは失神し、ドサリと倒れこんだ。四十度近い熱を出し、一週間も寝こんでしまった。
ようやく起き上がったハリスは、また唖然《あぜん》とした。
部屋が荒らされていた。なんと、目の前に机の引出しをひっくりかえしている馬面の肩幅の広い男がいるではないか。
「なっ、何をしているんだ」
「デモクラシーを出せ」
男はギロリとハリスを睨みつけた。
「デモクラシー?」
「以蔵が、おまえが持っとると言った」
「なんのことだ」
「労咳の特効薬だ。どこに隠しとる」
「そんなものは、まだアメリカでもできていない」
「本当か」
「ああ」
「もし嘘ついたら承知せんぞ。わしの女の労咳を治してやりたいんじゃ」
と引出しをかきまぜるのをやめない。
「本当だ。まだ、アメリカでもできてないのだ。私の妻……」
そこまで言って、ハリスは言葉がつまった。いまはメアリのことは考えないでいたい。
「とにかく、ないのだ。さっ、出ていってくれ」
「わしを土方と思うてナメたらいかんぞ」
「なんだね、その土方ってのは」
「心配すんな。いずれ、本百姓になる」
「何を言っとるんだ、君は」
「わしの女の話をきかんか」
「なに?」
「わしと総司のラブストーリーを聞きたくはないかと言うとるんじゃ」
「総司?」
「いつか、会わせちゃるから楽しみにしちょけ」
「なっ、何を言っとるんだ」
と鏡を見るとそこに映った自分を見てハリスは愕然とした。
「なっ、なんだ、これは」
「いえ、絶対にその方が似合いますって」
鏡の中のハリスの後ろに、ペッタリ頭の男がみそっ歯をむきだして笑っていた。
「君はなんの権利があって、私の髪をいじったのだ。あっ」
「ヒゲもそっときました」
「ヒゲ! このヒゲは、私が五年もかけて整えたものだ」
「気に入らんかったら、また生やせばいいきに」
「なにい!?」
また失神しそうだった。
と、横では、デブの男が口をもごつかせていた。ハリスの大好物のチョコレートを勝手にあけて食べているのだ。しかも、楽しみにとっておいたナッツ入りのチョコレートをだ。
「おい、キサマ、何を食ってんだ。この野郎」
と、敬虔なクリスチャンの言葉も荒くなる。
「だって」
「だってじゃねんだ。このデブ、失せろ!」
「デブ?」
「デブじゃないか。やろうってのか」
ハリスはボクシングの構えを取った。が、そのデブは分厚い唇で「フフン」と笑うと、懐から、
「なんなら、もう一枚写真を見せてやってもいいんだぞ」
「なっ、なに!」
「ほら」
とまた別の写真を取り出した。
「ジーザス!」
デブはチョコレートをわしづかみにし、
「みんな一枚ずつ持っとるから、わしらに対しては言葉づかいに気をつけや」
「オー、マイ・ゴッド!」
とハリスは叫び、よろけ、かろうじて椅子につかまった。
「おう、このカーテンええなあ。これ貰って化粧回し作るか」
とデブは、フランス製のびろうどの重厚なカーテンを引き裂き、腰に巻いた。
ハリスは髪をかきむしり、応接間でトランプをしていた彦次郎のところに怒鳴りこんだ。
「彦次郎! これは私を脅迫しているのかね」
「いえ」
「では、なんでこんな写真を撮ったんだ」
「それはその……」
「私は日本人の本性を知った。坂本は一体私になにを求めているのかね。アメリカにどうしろと言うのかね。言いたまえ。私にできることは何でもする。が、私にできることは二つしかない」
「一つは、祈ることでしょう」
「そうだ。そしてもう一つは、坂本龍馬を殺し、私も死ぬことだ」
「まあ、落ち着いて下さいよ」
ハリスは膝をつくと彦次郎にすがり、急に気弱な声で、
「お、教えてくれ彦次郎、坂本はなぜこんな写真を撮らせたんだ」
「あの人の茶目っ気ですよ」
「茶目っ気で私の人生は台無しにされるのかね」
「いいじゃないですか。日本の記念だとおもって」
ハリスは彦次郎の手を振り払い、
「記念? この写真を日本のみやげにして、メアリに見せろというのかね!?」
「いや、さすがにそこまではできないでしょう」
「当たり前だ。私はフィラデルフィアの士官学校を首席で出た男だ。その名誉も誇りも、すべてなくしたんだ。さっ、今すぐ彼らに出てってもらえ。でないと、私は狂う」
彦次郎はいたずらっぽく笑うと、
「写真をみんな取り上げてからでも、遅くないんじゃないですか」
「なっ、なに、まだあるのかね」
ハリスは立っているのがやっとだった。
居候となって住みついた七人は、やたら明るい連中で、よくハリスに話しかけ、勝手に納得している。
一番、驚いたのが下田奉行の山南だ。護衛中とはうって変わった明るさで、手を後ろに組み、我がもの顔で家の中をのし歩いている。
「いやハリスさん、これで打ち解けました。いや、異人さんはとっつきにくくてな」
と入れ歯の口でフガフガ言って、馴《な》れ馴《な》れしく肩を抱いて来る。そして、片目をつぶり小指を立て、
「いや、まったくの堅物と思ってさ。最初からこれが好きだと言ってくれれば、こうまで苦労することはなかったのにさあ。この、スケベ野郎が」
「あっ、あの」
「うちのワイフが怒っておりましたぞ。女としてのチャームが足りないのかと。一度、ワインを持ってあやまりに行って下され。ガハハハ、まあ、飲みましょう。ああ楽しい。今日はとことん、飲み明かしましょう」
とまた、ハリスの肩をグイと引き寄せ、ワインを無理やり飲ませる。そして、
「まっ、吉原であんな美人を抱いとったら、うちの婆さん抱かんのは無理もないが」
「君の夫人もあの写真を見たのかね」
「下田の町で見とらんものは誰もおらんて。ハハハ」
「し、下田中の人があの写真を見たのかね」
「お絹が一枚二文で売り歩いておる」
「なっ、なに」
「まっ、兄弟、飲もう」
他の武士たちも押しかけてきた。目が合うとニヤニヤ意味ありげに笑いかけてきては、自分の家のようにワインをガブガブ飲んでいる。
不愉快になって一日中部屋から出ないでいると、五助が顔をのぞかせた。ハリスはイライラし、
「なんだね用は。今度はどんな髪にしてくれるんだね。いくらスケベな私だって、そう早くは髪は伸びない。それぐらい分るだろう、君も。よろしく頼むよ」
「まっ、髪は髪でも違うとこの髪の話をしにきた」
「なにい?」
「アメリカの女は、下も、やっぱ金髪かな」
と気味の悪いみそっ歯を出しニヤついて肩を抱いてくる。
「教えろや、なあ」
「知らん」
「じゃ、わしの持っちょる写真を出すかのう」
「知らん」
「おい、弥一、お前の写真も持ってこい」
「分かった、分かった。金髪だ」
「じゃあ、あっちの動きはどうだ」
「何のことだ」
「腰の方だよ」
「よく動くよ」
「そうか、クソッ。アメリカには何手あるんじゃ」
「なにが」
「あのカタチじゃよ。日本には四十八手じゃが、アメリカはデモクラシーじゃき、百や二百はあるんじゃろな。けど、わしら負けんき。絶対負けんき」
ハリスは本当に後悔していた。あの時、ペリーの言うとおり大砲をぶっぱなし、日本を木っ端みじんにしておくべきだったと。
すべてこれも坂本龍馬という男のせいだ。
「クソ、ただではおかんぞ」
と、ハリスの部屋が揺れた。
「あっ、地震だ!!」
外に飛び出すと、庭で、「相撲取りになりたい」と言っていたデブがふんどし一丁で玄関の柱を叩いている。行司の格好をしたお絹が仕切っている。デブは尻を丸出しにし、ハリスは恥ずかしくて目のやり場がなかった。
デブはそれをどう勘違いしたのか、ハリスに気に入られたとでも思ったか、その日から四六時中ふんどし姿だ。
「四郎君、食事のときぐらい着物を着てくれんか」
と言うと、意味ありげにニヤリとし、
「アメリカ人は両刀使いが多いと聞くが、わしも気をつけんとな」
風呂に入ったかと思うと、「背中を流せ」と呼びつける。
ハリスはもう、彼らに抗《あらが》う気は失せた。生きてアメリカに帰れることだけを願っていた。
しかし、紳士もいた。弥一という男だった。向学心が旺盛《おうせい》で丸テーブルの上で一生懸命メモをしている。見ると、聞き覚えた英語を書きこんでいた。ハリスがちょっと発音を教えてやると、「ヘヘヘ」と笑って赤くなっている。
母も京都で教師をやっているという。
「教育一家だね」
と言うと、恥ずかしそうにうつむいた。そして目を輝かせ、
「私は子供たちに生きること、愛すること、そしていつも心に太陽をもつことを教えたいのです」
そして言った。
「『いつも心に太陽を』というのを英語では何と言うのですか」
本来なら、『Stay your heart with the sun』だろうが、ハリスは、
「To sir, with love と訳した方がいいだろう」
と弥一はけげんな顔で、
「それは、『先生に、愛をこめて』という意味ではないのですか」
「卒業の時、子供たちからそう言われる先生になって欲しいからさ。そして、君の教育に対する情熱をもってすれば、必ずそう言われる先生になれる」
弥一は感動し、身を震わせ、
「はい! きっとそういう先生になってみせます!」
そして、スクールを作ったら、校門のところに飾っておきたいと、木を削って持ってきた。これに『To sir, with love』と書いてくれという。書いてやると、顔をクシャクシャにして喜んだ。
「まず、この言葉を坂本先生に捧《ささ》げたいです」
「坂本に?」
「はい」
純真な弥一の目をここまで輝かさせる坂本という男は、ハリスが思うほど悪い人間ではないのかもしれない。
一番興味をそそられるのが歳三だ。二言目には、
「デモクラシーの薬を早く作らせろ」
と、メアリに手紙を書かせる。でも、この男も悪い人間でないことは確かだ。
なにやら土方《どかた》という下層階級の出ということだが、明るい。これはハリスにとって特筆すべきことだった。
彼らは新しい時代の夢をそれぞれ語り合っていた。ハリスはその無垢《むく》な魂にいじらしさを覚えた。
そして一番の楽しみは近藤が作る食事だった。アメリカから連れてきたコックはイタリア人で一通りの物は作るのだがセンスというものがない。料理は何といってもセンスだ。
近藤は、洋風の皿にどこで覚えたのかうまく盛りつけた。
ハリスが、「おいしそうだ」と言うと、本当にうれしそうな顔をした。
ハリスがガラス戸のある大きな本箱からフランスで出版された貴重な料理の写真集を与えると、フランス語の辞書をひいて勉強していた。
「君は料理の天才だね」
と言うと、
「いや、兄貴の方がもっと上手《うま》いです。プロですから」
と言う。
「ほう。兄さんはどこで働いているのかね」
「京都です。オヤジが女に生ませたものですからまだ会ったことはありません」
近藤は一人っ子で育ち、ずっと兄さんが欲しかったと言う。そして夢は、兄さんと一緒にレストランを開くことだという。そのレストランも、安くて誰でも気楽に入れる家庭的なところにして、アラカルトはなく、定食だけにしたいと言う。そうしないといろんなものを仕込まねばならず、材料費が高くなり、どうしても割高になってしまうからだと言う。
「ほう、是非とも私も行きたいものだ」
と言うと、近藤はテレて頭をかいた。そして腕まくりをしながら、庭でガチョウを飼っているから、太らしてフォアグラを食べさせてくれるという。
ハリスは、フォアグラを食べる日が楽しみだった。
一番驚いたのは、山南が詩人になりたいと言ったときだった。筆でしたためた紙を持ってハリスに見せた。
「秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し……」
とうとうと読み上げた。なんのことはない、ハリスの本棚にある、ヴェルレーヌの詩を訳しただけだった。
しかし、もう六十に手が届こうというのに詩人になりたいという山南のその心意気は、何かハリスの心を浮き立たせるものがある。
留吉とお絹はいつも連れ立って、山や海に写真を撮りに行く。シャッターチャンスといい、アングルといい、見事なできばえだった。
しかし本当はキャパのような報道カメラマンになりたいと言う。
「ロバート・キャパを知っとるのかね」
「ああ」
アメリカ人でもよほどの専門家でなくては知らないカメラマンだ。
「なぜだね」
と、留吉はハリスの本棚から写真集を取り出し、
「これ見て下さいよ」
それは銃弾を受け、前のめりに倒れようとする兵士の死の瞬間を撮った写真だった。
「つまり、これは倒れる兵士よりも前にいたということです」
「そうだね」
「キャパは、命をかけて戦争の悲惨さを訴えようとしたんです」
そして留吉は言った。決定的瞬間を撮るためになら、誰よりも危険を冒して先に行く、恐ろしいほどの気概がなくては撮れはしないだろう。そういう写真家になりたいのだと。
「そんな写真家になったら、フィアンセのお絹さんは心配だろう」
「いえ、あたしも一緒に行きます」
「こいつは最高の助手ですから」
「そうか、そうか」
ハリスは次第に連中に心が傾いていった。
秋が深まった。
宿舎を出て以来顔を見せなかったデービスが、女を連れてやってきた。名をお福《ふく》と言った。もと漁師の妻で、亭主は海で死んだという。デービスより七つも年上だった。両頬がふくらんでいて、マンガのベティさんによく似ている。
デービスは幸せそうに、
「お久しぶりです」
と言い、
「実はこの人と結婚しようと思っています」
と隣の女の手を握った。
「お母さんが悲しむと思うが」
「しかし、私は彼女を愛しています」
「彼女はカソリックの洗礼を受けているのかね」
「そうさせます。来月来る船で彼女をアメリカに連れて帰ります」
「彼女が異国での生活に慣れてくれることを祈るよ」
「僕ら、愛しあってますので」
と、お福そっくりの男の子と女の子が恥ずかしそうにやってきた。二人とも、デービスの着ていたセーラー服を縫い直した洋服を着ていた。
「私になついてくれます」
輝いたデービスの顔に偽りはない。子供たちは、「父ちゃん、父ちゃん」と言ってまとわりつき、デービスもずっと相手をしてやっていた。
夕食が終わり、仲睦《なかむつ》まじく坂道を下り帰っていく四人の後ろ姿を見送りながら、ハリスは幸せとは何だろうとしみじみ考えていた。
十月も過ぎ、十一月になった。あちこちの柿の木に色づいた実がたわわに生《な》っている。下田の穏やかな陽ざしや芳しい磯の香りが散歩するハリスを楽しませる。
ハリスは今では、この七人との生活を楽しんでいた。最初はヒヤヒヤしていたが、この頃では今日は何がおこるかと楽しみになっていた。
メアリからの手紙が届いた。その内容はハリスを少しホッとさせた。研究が遅れて、日本には行けそうにないとのことだった。
「彦次郎君、メアリが来られないそうだ」
「そうですか。でも万が一来られることになってもご心配いりませんよ。坂本さんがなんとかしてくれます」
「そうだね。私も一度坂本という男に会いたいと思ってるよ」
「はい」
「歳三に言ってくれたまえ。例の肺病の特効薬、デモクラシーができる日は、そう遠くないのだと」
「ほんとですか」
「私はメアリを信じている」
「歳三さん、喜びますよ」
「それに、山南から聞いたんだが、横浜に教会ができたんだってね」
「はい」
「一度、案内してくれないか。懺悔したいことがあるんだ」
「梅香さんのことですか」
「うん。罪は罪だからね」
本当のところ、ハリスは梅香のことをメアリに打ち明けようと思っていた。もしそれでメアリが激怒し、離婚を申し出てきてもそれはそれでいいのではないかとさえ思った。
あのとき、吉原で自分は本当に梅香を愛したのだ。たった四日だったが、そして離れてずいぶん経《た》つというのに、忘れるどころか、毎日毎日いとしさが増していった。それに抗うことはできなかった。ハリスは気持ちの整理をしたかった。
彦次郎が顔をくもらせて、
「元気を出して下さいね。みんな心配していました」
「ありがとう。彦次郎君、私は彼らを好きになったよ。彼らとの生活が楽しくてしかたないのだ」
「皆も喜ぶと思います」
「公務など捨てて、彼らと一生この下田の地で暮らしたいものだ」
その教会は、元町《もとまち》の上の、港を一望できる丘の上にあった。神父は日本人だという。まだできたばかりのその教会は、まっ白ですがすがしく、青い空にくっきりと建つ様は美しかった。
ハリスは懺悔室の小さな窓に語り始めた。
「じつは、私は不貞を犯し妻のメアリを裏切りました」
「相手はどんな人ですか」
「吉原の太夫です」
「それでは不貞ではありませんよ」
「でも、どうも愛してしまったようなのです」
「大丈夫。愛することは罪ではありません。メアリさんも愛し、太夫さんも愛する。結構ではありませんか。愛は大きければ大きいほどよろしい。神も祝福なさってくれますよ」
とつとつと語る神父の言葉がハリスの心にしみていった。
「ありがとう。これで心が安まりました。以後、二度とこのような過ちは犯しません」
「ハリスさん、それを過ちと思う心が、邪悪なのです」
「はい」
「心のおもむくままに、時の流れるままに生きるのです」
「はい」
「ハリスさん、これだけはお忘れにならないで下さい。人は幸せになるためにこの世に生まれてきたのですよ」
「はい」
「自分が幸せになるため、人を幸せにするのです。あなた自身が幸せと思う道を選びなさい」
「ありがとうございます」
ハリスは心が洗われたような気分になって外に出ると、ホッと深い息をもらした。ピンと背を伸ばし思いきり空気を吸った。横浜の港を見下ろし、改めて日本の風景を美しいと思った。
彦次郎が表で心配そうに待っていた。
「ハリス様、いかがでした」
「最高でした。日本のカソリックは世界でも先端をいっています」
「そうですか、よかった」
「でも、あの方におかしなナマリがありましたが、どちらの地方の方なのです?」
「どんなナマリでした?」
「君と同じようでした」
「あっ!」
「どうしました」
「多分、それは龍馬さんですよ」
「なっ、なに!」
「これは土佐なまりです」
ハリスはまた目の前がまっ暗になり、失神した。
日本の秋は、木々の葉が濃く色づき、空がどこまでも澄んで美しかった。その落ち着いた秋の景色やさわやかに吹く風はしっとりと心にしみいるようだ。
しかし、ハリスの梅香への思いは日ごとに募るばかりだ。会いたくて会いたくていてもたってもいられなかった。だが相手は吉原の太夫だ。自分のことなどとうに忘れて、男と仲良くしていいない。それでも一目会いたい。この気持ちばかりはどうにもならない。おちこんだ日々が続いた。
皆、心配してくれ、近藤は毎日手のこんだ料理を作ってくれたが、ためいきをつくばかりで料理に手がつけられなかった。ハリスの憂いに、食卓もかつてのにぎやかさはなかった。
雲を見ればそれが梅香の姿に見えた。山を見ればそこから梅香の声が聞こえるように思え、夕日を見れば梅香の笑顔が浮かんでくる。
と、一日姿を消していた五助と留吉がニコニコ顔で帰ってきた。
「どうしました」
「ハリスさんがあんまり淋しそうな顔をしていたので、吉原に行って来たんじゃ」
「吉原に」
「梅香さんの手紙もろうてきたんじゃ」
「えっ」
と、五助はかすかに梅香のおしろいの匂いがする手紙を差し出した。
「あ、ありがとう」
そして留吉が写真を差し出した。
「これ、梅香さんの写真。撮ってきたんだよ」
「…………」
「ハリスさんの写真も渡してきました。梅香さん、とっても喜んでいましたよ」
ハリスは言葉も出なかった。
梅香の手紙はうれしかったが、それ以上に、ハリスには五助と留吉の心づかいがうれしかった。
梅香の控え目な文章から、梅香のあふれる心が読み取れた。
ある日、庭のガチョウの姿が見えなくなっていた。
「どうしたんだね」
と食堂に行くと、全員が揃ってあわただしく働いている。
「どうしました」
丈の高いシェフ帽をかぶった近藤が、
「実は、ハリスさんとお別れをしなければならなくなりました」
「そ、そんなこと。どこに行くのです」
「新選組に入って京都へ行くのです」
「京都へ」
「ですから、今夜はフォアグラを食べていただきます」
ハリスはあわてた。
「もう少し、ゆっくりしたらどうです。まだまだ一杯、フリーダムのことを教えてあげたいですし、歳三とその女性のラブストーリーもまだ詳しく聞いていません」
「いえ、ご迷惑ばかりおかけして申し訳なく思ってました。なあ」
「ああ」
と皆、うつむいた。
「なにが迷惑なもんですか。私は十分楽しかったんです。何か私、あなたたちを不愉快にさせたことがあったのでしょうか。だったら許して下さい。私の日本語はまだつたなく、そう聞こえただけです」
「……これ」
と留吉が小さな箱を差し出した。
「なんですか」
「あの写真のネガです。ほんとに卑怯なことしてすみませんでした」
「どうしろと言うのです」
「燃やして下さい」
ハリスは言った。
「何を言ってるんだ。留吉君、君はアーチストじゃなかったのかね。アーチストがそうそう自分の作品を焼けるものかね。君を見損なったよ!」
とネガを叩きつけた。
「…………」
翌朝、近藤が、
「今朝は、オムレットを作りました」
と運んできた。オムレツは単純な材料だが、一番難しいものだとハリスが教えていたのだ。
精魂こめて作ってくれたオムレツは、見事なものだった。中は半熟で、外側は薄く焦げ、ほどほどの固さだった。牛乳を少しいれた黄色がとても美しかった。
「いかがです」
「デリーシャスだよ」
「ありがとうございます」
朝食の後、四郎は、カーテンを切って作った化粧まわしで、土俵入りを見せてくれた。そして五助は無理やりハリスを椅子に座らせ、丁寧にヒゲを当たってくれた。
「本当に行くのかね」
「はい」
「では明日から、誰が私のヒゲを当たってくれるんだ」
「下田村のはずれの、尾崎理髪店のおやじにやりかたは教えてあります」
ハリスの怒りが爆発した。
「ふざけるんじゃないよ、君は。私はいやしくも大統領閣下から全権を委任された米国総領事タウンゼント・ハリスだよ。そんな下田村の理髪店のおやじごときに髪などさわられてたまるか」
「……あ、ありがとうございます」
「君たちが京都に行くのはいい。私の方から出向いてやる。米国総領事のプライドは、君に髪を切ってもらいに月に一度、五百キロの道のりを越えていくということを忘れないでくれたまえ」
「ハリスさん、玉子リンスにしますか」
五助考案の玉子リンスをボウルに溶いていた歳三が言った。
「リンスなんかいい」
「でも」
ハリスは髪をなでつける五助の手を払いのけ、
「歳三君、君のラブアフェアについてようやく私なりの結論が出た。門出を祝って話してあげよう。君にとっては残酷な結末になるし、私も、このような論理を組み立てた卑しさを恥じている。しかし、勝手に入ってきて、勝手に出ていくという君たちの残酷さに比べたら、私の残酷さなど、かわいいものだ」
「はっ」
「多分、その沖田総司という女が手裏剣をよけるほどの敏捷《びんしよう》さを持ちながら君から押し倒され、抗わなかったということは、マムシの毒を吸ってやったという君の男気もあるだろうが、決定的なことは、君が『百姓には労咳はうつらない』と言ったその一言にあると思う。不治の病、労咳は、ドイツの医学用語でテーベーというが、私は妻の病院でテーベー患者を何人も見てきた。彼らは世間からも家族からも一切隔離され、咳一つ、息一つ人にかかることを恐れ、哀れな人生を送っている。家族に一人テーベー患者がいるというだけで、その家に嫁の来てはないし、女の子がいれば嫁にいくこともできないくらいだ。総司という君の彼女は、たとえ君が一発やりたい一心で『百姓にはうつらない』と言ったとしても、その言葉にテーベー患者としての光明を見たと思う。これは、詩人の山南君ともすでに話し合い、ほぼ正しい推測だという結論が出た」
「…………」
「でなければ、君のような土方に、女が身など任せるものか」
近藤が、
「ハリスさん、言葉がすぎますよ」
「近藤君、私は真実を教えてくれという歳三君の願いに答えたまでで、他意はない。彼女が操を奪われ、今どんな思いをしているか、この土方に考えてみろと言っているのだ」
「しかし、土方という言い方はないでしょう」
「いいんだ、近藤さん。わしあんとき女に飢えてただけなんです。一発やりたかっただけなんです」
「そうだ、君は獣だった」
「…………」
「時として獣になるその性癖を土方として差別しているのだろう」
「はい」
「労咳女に土方、お似合いの取り合わせではないか」
弥一がいたたまれず、
「ハリスさん」
「うるさい」
ハリスは弥一をはねのけ、歳三につかみかかるように、
「君は江戸にとどまり、そのいじらしい女を探し、幸せにしてやることが押し倒した男としての務めではないのか」
「…………」
「それでも、君は京都に行くと言う。逃げるつもりか」
歳三がわめいた。
「わしゃ京都で田んぼもろうて帰らんといかんとです! 弟や妹が待っとるんです」
「だからと言って、哀れな娘の操を奪っていいという法はない。君はクズだ! 君らもみんなクズだ! 行きたければ京都へでもどこへでも行きたまえ!」
ハリスは、自分がなにを言っているのか分かっていた。が、淋しかったのだ。この七人と別れるのが、たまらなく淋しかったのだ。
ハリスは研究室で一心に試験管をふるメアリを思った。メアリは抗生物質三〇六号をストレプトマイシンと名付けたという。
歳三が言った。
「あんたなんかに土方のなにが分かる。カンカン照りのお天道《てんと》さんの下で泥にまみれて馬の代わりんなってブヒン、ブヒンと働かされてる土方のなにが分かるっちゅうんじゃ! いいか、総領事さんよ、それだけ働いても、米の飯が食えんのじゃ、わしら土方はよ」
「…………」
「ハリスさん、あん女は、操を奪われたくらいで舌噛み切る女じゃなか。きっとあの女は坂本先生の言う、選挙権という一票を日本で初めて手に持つ女じゃ」
と、下田の抜けるような秋の空の下、山南が「高砂《たかさご》や〜」とうなり、紋付袴姿でやって来るのが見えた。
その後ろに梅香がいた。
ハリスを見て恥ずかしそうに手を振った。
「梅香さん」
「おしかけ女房ですわ」
山南の、「高砂や〜」という低い声が浜に流れていく。折りからの野菊《のぎく》が下田の岬をうずめ、その薄紫色の花に梅香の姿が映えた。
ハリスは梅香をかき抱き、去りゆく七人の萌葱《もえぎ》色のだんだら模様の羽織を見ていた。
憎悪と裏切りの街に、彼等はなぜあえて入っていこうとするのか。
ハリスの涙でくもった目に、弥一の、背中に板をしょった姿が見えた。
どんなときでも希望を失わないと、『いつも心に太陽を』と。『To sir, with love』と。
9 吉 原(二)
龍馬は廊下のひだまりに寝転がり、下田に行く梅香の細い後ろ姿と、それを迎えるハリスの驚きの顔を思い浮かべ、腹を抱えて笑っていた。
「まっこと、わしは策士じゃて、マキャベリじゃて。これで日本も安泰じゃ。歴史は女によって作られるってほんまじゃったようじゃ。なあ、喜助」
「は、はい」
龍馬は、首のまわりに白い襟飾りがついた黒の神父服の裾をからげ、
「しかし、この神父の服はわしに似合うなあ。わしゃ、もしかしたらキリストの生まれかわりかもしれん。ガハハハ」
十字架をグルグルふりまわしはしゃぐ龍馬とは対照的に、喜助は苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。
「クリスチャンじゃカソリックじゃいうても、女抱かせるのが一番じゃ。今度ハリスに会うたら、ほら、ウエスタンの保安官が胸につけちょるバッチ持ってきてもらおうかのう。わしゃ、あれ一度つけてみたかったもんな、ハハハ」
「先生、もうそんなのお脱ぎになったらどうですか」
「なんでじゃ、わしこれ着て吉原中の罪深い者共に説教してまわらないかんと思うちょるんじゃが」
「先生以上に罪深い人がこの世の中にいますか」
「なに」
「ほら早く、みっともないからお脱ぎなさいって」
喜助は、龍馬の服をはぎとるようにして、
「先生は少しはご自分のことをお考えになったらどうですか」
「自分のこと?」
「あたしゃ梅香さんと先生が一緒になればいいって考えてたんです」
「わしも何度も言い寄ったんじゃが受けつけてくれんからしゃあないじゃろが」
「だからそりゃ、先生のやり方が悪いんでしょうが」
「やり方もへったくれもあるか。女は男のあとを黙ってついてきたらええんじゃ。それを梅香のやつ、ちょっとばかり学のあるのをいいことにして、わしに説教しおって」
「説教じゃないでしょう」
「説教じゃ。わしを、女から説教されて、はいそうですかい、っていう男じゃと思っとるのか」
「あんな気立てのいい人、滅多にいないのに、まったく先生というお人は」
喜助は神父服をたたきつけ、くやしそうに吐き捨てた。
「何しとるんじゃ。こん、罰当たりが」
「こんなの縁起でもない。どっかに捨てちまいなさいよ」
「なにをそんなに怒っとるんじゃ」
「あたしゃ、くやしいんですよ」
「梅香はハリスんような男と一緒になった方が幸せじゃ」
「どうしてです」
「ありゃ、父親が悪かったき、あいつの亭主になる男は、夫と父親の二つを兼ね備えちょかないかん。その点、ハリスんようなやさしい男が一番じゃ」
「…………」
「もういい、梅香ん話は。それはそうと、桂はまだか」
「はい」
「何しとんじゃ。近頃、わしの将棋の相手もせん」
「ほら、例の桑問屋の新兵衛という人の相談にのってやっているらしいですよ」
「それで近頃あのアホもわし刺しに来んのか」
「ここんとこ三人でよく飲みにいくんですが、新兵衛さんってのもかわいそうな人なんですよ」
「わしの方がかわいそうじゃよ」
「そこんとこは私と桂さんで重々説明したんですが、どこをどう取り間違えてるのかわかってくれないんですよ。先生、本当に新兵衛の女房のお志麻とはやってねえんでしょうね」
「おまえまで、なんちゅうこと言うんじゃ」
「お志麻って女は、根っからの男好きなんでしょうね」
「わからん。わしは、会うたこともないき」
「まっ、私と桂さんでじっくり時間をかけて新兵衛さんを説得します」
「頼むぜよ」
そして、喜助はハゲ頭をかき、
「あたしゃ、桂さんていう人、好きじゃありませんでしたが、近頃いい人だなと思うようになりましたよ」
「人間、生まれついての悪いやつはおらんて。環境がそうさせるんじゃ」
「あの人、政治家として見込みはあるんですか」
「ある。ずば抜けとる」
「どういうところがです?」
「あいつの欠けた前歯がじゃ」
「欠けた前歯が?」
「あいつは地獄を見ちょる。米屋の主人、ぶち殺しちょる」
「えっ?」
「しかし、そういう地獄を見ちょるやつじゃなきゃ、これからの日本を導いてはいけん」
「……どういうことです」
「わしゃのう、ここんとこフランス革命ちゅうのを勉強しとったが、真の革命ちゅうもんは、おまんみたいな下足番や女郎のような底辺の中から沸き上がってこないかんもんじゃとわかった。が、日本の場合はイニシャチブを握っとんのは武士じゃ。こりゃ将来、こん革命が成し遂げられた時、なんか問題がおこってくる。所詮、人間は階級闘争じゃき」
そして龍馬は、「所詮、人間は階級闘争じゃき」と、もう一度つぶやき、
「みんな、武士もない、百姓もない、男もない、女もない時代を作ろうと口では言うが、ほんとの百姓の苦しさが分からんやつに、ほんとの女の苦しみが分からんやつに、どげな時代が作れるっちゅうんじゃ。だから、桂みたいな苦しみから這い上がってきた人間にしか時代は変えられんのじゃ」
「…………」
「わしゃ、勝にも、その心配をしとる。勝は所詮直参旗本三千二百石のボンボンじゃ。どっか人間を見る目に甘いところがある。勝は生まれるのが十年早すぎた。あいつは、こん革命が終わるまで出てきちゃいかん男じゃった。わしゃ、神様は勝になんか試練を与えとると思う」
「勝さんのいいとこはどこなんです?」
「ああ、政治は弁舌と策じゃが、最後には人間性じゃと思う。勝は不器用じゃが、その人間性がええんじゃ」
「先生はどうなんです」
「わしか、わしは、かごに乗る人、かつぐ人、そのまたわらじをつくる人……て言うてな、わしはそのわらじのわらをつくるタイプの人間じゃ、ハハハ」
と、その時、トントンと足音がして、桂小五郎が階段を上がってきた。
「どうした」
「はっ、岩倉具視様が帝から全権を委任され江戸に来ました」
「なに! 桂、そりゃなんかの間違いじゃなかか。嘘つけ、あの人は表に出てくることはせんお人のはずだ」
「いえ、いま岩倉様が江戸城へお入りになり、慶喜公が門までお出迎えになっているのを、私この目で見て参りました」
「なんじゃと、天下の将軍様が帝の勅使をお出迎えだと」
「慶喜公がお出迎えになるまで、岩倉様はかごを門の前に止めておいででした」
「クソッ、なめさらして。まだ大政はお還ししたわけじゃない!」
「…………」
「よし、わしが江戸城へ行く」
と、立ち上がろうとして、
「いや、いかん。岩倉なら相手が相手じゃ、わしも迂闊《うかつ》なことはできん」
と、座り直し、両手でバチバチ顔をたたいた。
「おい、おかみ、飯じゃ。桂、おまんも一緒に食え。まっ、飯でも食って気を落ち着けんとな」
「はっ」
「まっ、なんにしてもメシを腹一杯食うてからのことじゃ、ハハハ」
「…………」
龍馬はひと笑いし、
「そうか。岩倉が出てきたか。こりゃ、ラブ探しとるヒマのうなったのう」
と、哀しそうに言った。
女将の玉乃がブツブツ言いながら持ってきたのは、冷えた御飯と冷めた味噌汁にタクアンだけだった。龍馬は顔をしかめ、
「おい、女将、桂が来とんじゃ。もちょっとおかずはなかか」
「フン、ありまへんがな」
「ありまへんじゃないがな。メザシかなんかないんか」
「台所にあるよって、自分で焼いて下さい」
「わしら、忙しいんじゃ。メザシなんか焼いとられるかい。もういい。桂、まっ、食え」
「はっ」
「まっ、これも試練、レッスンじゃて。ハハハ」
龍馬は味噌汁を御飯にぶっかけ、かっこみ、三杯も食った。
「おう、桂。新兵衛の様子はどうじゃ。だいぶ、おまんをわずらわしとるようじゃのう」
「いや、少し落ち着きましたが」
「まだわしを恨みに思うとるんか」
「はい」
「なんか、わしゃ土壇場であのアホに刺されるんじゃないかと思うとる」
「いや、私がなんとか説得します」
「頼むぜよ。女の腹の上で死にゃ、話のタネにもなるが、あのアホに殺されりゃ、笑い話にもならんじゃろ」
「ハハハ」
「笑うな。わしにとっちゃ笑いごとじゃないんじゃ」
「もっ、申し訳ありません」
「ハリスんとこ行かしとった日野の悪ガキどもは新選組に入れたか」
「入れたもなにも、応募してくる者は、彼らだけでして」
「なに?」
「落ち目の徳川に今の時代、与《くみ》する者などおりません」
「そうじゃろなあ」
「武士など気位だけで、何の役にもたたないものだと皆、噂しております。幕閣たちも、口では薩摩や長州とやりあうと言っていますが、その気はありません。こんな時に役にたたないなんて、旗本とか直参とか、一体なんのために徳川の禄を食《は》んでいたんでしょうか。みんな我先に隠居をし、二歳ぐらいの子供に家督をゆずって、戦おうにも戦えないようにしてるんです」
「ダメだな、徳川はもう」
「私もそう思います」
世の中の大勢は徳川三百余藩の三分の二が徳川幕府を敵とみなし、帝を頭に頂き国を再編成すべしという風潮になっていた。
龍馬は、徳川を守ろうと一人必死で奮闘している海舟があわれになった。
「よおし」
龍馬は箸をたたきつけ、
「おまんは、先に京都に行け」
「はい」
「そして上方の油をみんな買い占めとけ」
「油を?」
「いざとなったら京都を焼く」
「そっ、そんな」
「そんな覚悟がなきゃ、岩倉とやりあえんのじゃ」
「はっ、はい」
「わしは、朝廷は大政奉還を受ける最後の条件として、政府を京都に置くことを言ってくると思うちょる。その方が幼い帝を操りやすいからのう」
「…………」
「公家どもは、三百年ぶりにきたこん好機に食いっぱぐれるわけにはいかんと必死じゃ。公家だけじゃなか。商人どもも坊主どもも同じじゃ。政府が京都に置かれたら儲《もう》かるやつは皆、敵と思うてまちがいない」
「はっ」
「だから、京都はいかん。名古屋《なごや》でも仙台《せんだい》でもどこでもいい、京都だけはいかんのじゃ。それは、西郷もわかっちょる。だから、奴もそれ言い出されるのがいやで、なかなか京都に行かんのじゃ。長州の久坂もそのことはわかっとるとみえて、玉を盗んで長州に首都を置こうとしとる。がな、恐れ多くも帝に向かい、玉という言いぐさはあるか。あいつらは、帝という地位を自分らの野望達成のために利用することしか考えとらん。帝かて、好きで朝廷に生まれたんじゃなか。生まれたのが、たまたま朝廷だったんじゃ。そういうお方を哀れみ敬う心を持ちこそすれ、利用しちゃいかん。さっ、行こう」
外に出ると、浅草『め組』の組頭、そして江戸八百八町の火消しを束ねる頭領、新門《しんもん》の辰五郎《たつごろう》がいた。まるで浮世絵から出てきたようないい男だ。
「よっ、辰五郎。相変わらずいい男振りじゃのう」
「いえ」
いつも街の女たちが辰五郎に群がっているのに、今日は一人だ。龍馬に何か言いたそうにしている。
「辰五郎、油は仕掛けたか」
「ええ、親父がやりました」
江戸八百八町には二百の湯屋があり、そこに女郎たちの下の毛を刈り揃える下剃《したぞ》り稼業の男たちがいる。辰五郎の父|斎藤宗介《さいとうそうすけ》は下剃り者三十人を束ねる湯屋の頭領だった。
「おやじが火つけて息子が消すか、ハハハ」
桂は愕然《がくぜん》とした表情で、
「坂本先生、京だけではなく江戸までも焼こうというのですか」
「そうなると、立場は逆転するぜよ。焼かれて困るのは長州や薩摩の方じゃ。博打なんてのは先に開き直った方が勝ちじゃ、ハハハ。さっ、京都に行かんか」
桂が出ていったのを確かめて、辰五郎は、
「坂本先生、お気をつけなさって下さい。なにやら江戸に不穏な動きがあります」
「不穏だらけじゃ、わしの周りは」
たしかに、江戸の街角から物乞《ものご》いやお薦衆が消えていた。芝居小屋も閉鎖されている。辰五郎は腕組みし、落ち着きなくキョロキョロし、
「でも、親父たちが先生の周りは固めていますんでご安心なさっていいんですが、今度の敵は一筋縄じゃいかないらしいんです」
「なに?」
「あんな顔した親父見たの、初めてでして」
「寝取られ宗介が歯が立たぬ相手だと言うのか」
「そう言っておりやした」
そのカミソリ技は抜く手を見せぬといわれる宗介が、辰五郎と水盃《みずさかずき》を交わしたという。
「まっ、親父のことですから間違いはないと思うんですが、なにせもう年ですから」
と辰五郎は首を振り、通りで待っている『め組』と白く染め抜いた半纏をまとった火消衆のところに戻っていった。
吉原から江戸城に行くには、隅田川を舟に乗り、両国橋の手前を右に曲がって神田《かんだ》川に乗り入れる。江戸城二の丸から、きっと慶喜公が自慢の遠《とお》眼鏡《めがね》で見ているにちがいない。龍馬は手を振った。
二の丸では、その遠眼鏡をのぞきながら慶喜が声を上げた。
「おい美賀子、坂本さんがおいでになったぞ」
「まっ、本当ですの?」
「さっ、もてなしの準備じゃ。今日は京都からの勅使の相手で肩がこった。せめて坂本さんと語らいでもしてスカッとリハビリとやらをしなければ」
「はい。あの、私、着替えて化粧も直します」
「まったくおまえは坂本さんの名前を聞いただけでソワソワしだして」
「殿も同じではございませんか」
「お、一郎丸、坂本さんがおいでになったぞ。あの人こそ、フリーダムじゃ、自由じゃ、自由元年じゃ」
慶喜はさも嬉しそうに一郎丸を高々と抱き上げた。
そして、後ろに控えている老中の青木隆行に、
「青木、ゆうげの支度をさせよ。せめて今度は四、五日いてもらわんとな」
「上様、岩倉様の申し出、いかがなさいます」
「捨てておけ。今年十七になる江戸の労咳女を皆殺しにしろとは度が過ぎておる」
「しかし」
「くどい!! 東照権現《とうしようごんげん》様以来三百年の徳川幕府をつぶし、六十万徳川武士、その家族を入れれば二百万からの人たちを路頭に迷わせるだろうこの徳川慶喜、京の八卦に出たからといって労咳女は殺せん。どうしても差し出せと言うのなら、六十万を率いて京に上ってやり、最後の決戦をしてやる!」
徳川慶喜、せめてもの矜持であった。
龍馬が大手門から江戸城に入ろうとすると、槍を手にした門番に呼びとめられた。
「何をしてるんだ」
「慶喜公に会いに来たんじゃ」
「なんだと?」
「土佐の龍が来たと言うたら分かる」
「バカなこと言うな」
「わし、時間がないんじゃ。はよ、慶喜公に取り次がんか」
素足に草履を履き、汗で汚れた汚い羽織をはおった男がまさか幕府の頂点に立つ人間に会いに来たとは思えない。
「何しとんじゃ。はよ取りつがんか」
「こいつ、気が狂っておる。さっ、帰れ、帰れ!」
門番は突き飛ばした。
「なっ、何するんじゃ」
龍馬は尻もちをつき、腰をしたたか打った。
と、
「おう坂本先生、お待ちしておりました」
と老中の青木隆行が、二台の駕籠《かご》を送って出てきた。
「おう、青木さん。この門番に話が通じんで困っちょる」
「それは申し訳ない。さっ、中に。慶喜様がお待ちしております」
「その駕籠、誰が乗ってるんじゃい」
その声に、扉がスッと開いた。公家の衣冠束帯の衣装がチラリと見えた。
「お久しぶりですな、坂本さん」
なつかしい岩倉具視だった。
「……岩倉さん」
龍馬はなつかしさで胸がいっぱいになった。岩倉はやせたせいか、きつい目をしていた。
「岩倉さん、少しおやせになりましたか」
「ええ。近頃、恋わずらいで」
「はっ?」
「あたしがこんな冗談言うなんておかしいでしょう」
「そっ、そう思います」
「でも、ほんとなんですよ」
「はっ、はい」
十年前、龍馬は土佐から勘当同然で江戸に出てきた。十九のときだった。二十五まで岩倉と遊んでいた。飯場暮らしでゴロツキまがいの生活だった。バクチが大好きで、二人で賭場《とば》を渡り歩いた。それも楽しかった。博学の男で、物の考え方の順序を教えてくれた。そしてまた、国とは何か、人生とは何かを教えてくれた男だった。文化も教えてくれた。文化とは、恥の方向性である。なにを恥じるかで、その国の行方は決まると。龍馬は敬服した。自分は仏の手のひらで遊ばせてもらっている孫悟空《そんごくう》のようなものだった。
しかし、今、わしに向けられているこの憎しみのこもった目はなんなのか。わしが一体、何をしたというのか。
「岩倉さん。人間、人のかつぐ駕籠に乗るようになっちゃおしまいだと教えてくれたのはあんたじゃなかったですか」
「フフ、少し生き方を変えましてね」
「ですが、あんたにゃ似合いませんよ。駕籠も、そんなキラキラした着物も」
「乗ってみるとなかなかいいもんですよ」
「だから、そげんもんに乗っとったら、人が見えんようになるって教えてくれたんはあんたじゃったと言うとるんじゃ!!」
「フフフ、人を人だと思うたら、政はできんと教えたのもこのあたしでしたな」
「……そうでした」
龍馬は袴をきつく握りしめ、つい高くなる声を必死に抑えた。
「とにかく岩倉さん、この維新から手を引いてくれんかのう。わしゃ無血による、世界で初めての政権移譲ちゅうのをやりたいんじゃ」
「さて、それは徳川の出方次第でしてな」
「出方? 出方もなにも大政はお還しすると言うとるじゃろが」
「フフ」
「しかしなあ、ちったあ、徳川の顔も立つようにしてくれな、困るぜよ。慶喜公に腹斬れなんて言うたら、わしが黙っとらんき。人間、土下座しとる者の頭を蹴るようなことをしちゃいかんとあんたが教えてくれたんじゃ」
「坂本さん、なんか勘違いなされてるのではありませんか。今日はあたし、慶喜公に女を一人探してくれと頼みに来たんです」
「女を?」
「まっ、見つからなかったら、江戸中の今年十七になる労咳女をみんな殺してほしいと言いましたが」
「なんのことじゃ」
「いえね、その女が十七まで生きてたら、日本に災を起こすって八卦に出ましてね」
「八卦? 岩倉さん、これからデモクラシーの時代になるっちゅうのに、八卦はないじゃろ」
「八卦にでも頼ってウサ晴らししねえことには、あたしのやるせない恋心は収まりがつかないんでさあ」
「恋心? あんた、一体さっきから何を言うとんじゃ」
「フフ。それと坂本さん、あんた死相が出てるそうですぜ」
「死相?」
「残念なことに、あたしが手を下すんじゃなく、色白のめっぽうきれいないい女から斬られて死ぬそうです」
「あん?」
「斬られるにしても、おもてになる方はうらやましい」
「何言うとんじゃ。わしがもてんことは、あんたが一番知っとるじゃろうが」
「おう、そういえば妙子という女がよろしゅう言うとりました」
「妙子? 誰じゃ、それは」
「今度、あたしの女房になる女でして」
「その女がわしと何の関係があるんじゃ」
「あんたのことが忘れられなくて、手の一つも握らせてくれねえんでさあ。じゃ、また」
とピシャリと戸を閉め、駕籠を出させた。
「岩倉は何を言うとんじゃ、一体。青木さん、あんた妙子って女知っとるか」
「は?」
「知っとるはずないよな。わしも知らんのじゃから」
岩倉の駕籠を見送る龍馬の背後から、
「坂本殿、おまちしておりました」
憂いを含んだ声がし、ジャリジャリと玉砂利をける音がした。
「おう、慶喜さん。久しぶりじゃのう」
「さっ、さっ、中へ。みな、おまちしておりました」
徳川慶喜の横には、美賀子も子供の一郎丸もいた。
「これは美賀子さん。お元気にしちょりましたか」
「はい」
龍馬は卑猥に手を動かし、
「おう、いい肌艶《はだつや》ですのう。毎晩やってもろうとりますか」
「まっ、そんな」
「そんな? そんなにやってもろうとりますか。慶喜さんは研究熱心ですからのう。仕上げはバックからですか」
「さっ、坂本殿。一郎丸もいますし」
慶喜の秀でた額に冷汗がにじんでいる。
「なんば言うちょるんですか。アメリカなんぞ、小学校一年から性教育しちょります。なあ、一郎丸殿」
「はい」
「よし、良い子じゃ」
と抱き上げ、ズンズン城内に入って行く。
西の丸の座敷に通された。堀の向こうに見える吹上御庭《ふきあげのおにわ》の景色が見事だった。坂本が来たと聞き、腰元たちも集まってきた。あぐらをかいた龍馬をニコニコ見ながら慶喜が、
「日野からずいぶん前にお帰りだったというではありませんか。なぜ訪ねてきてくれなかったのです。私どもに何か落度がございましたか」
「いや、ラブをさがしておりました」
「ラブを」
「人間にとって一番大切なことです」
「そうすると、私も探さなければいけませんか」
「そんな必要はなか。慶喜さんには過ぎるラブがある」
「はっ?」
「美賀子さんのことじゃ」
美賀子はやさしい顔をして品よく笑った。
「いい笑顔じゃのう。美賀子さんのその笑顔こそ徳川じゃ。そうじゃ、国とは女のことじゃ。日本とは、女のことじゃ。のう、慶喜さん、国とは、男と女の愛のことじゃ。男と女が強く引き合う意志があれば、国は滅びることはなか」
「ありがとうございます」
「美賀子さん、どんなことがあっても取り乱したらいかんぜよ」
「はい」
「心配せんでええ。慶喜さんはこんわしがどんなことをしても守る」
龍馬はテレ臭そうに頬をボリボリかくと、
「美賀子さん、今日はいいみやげを持ってきました。わしん友だちの彦次郎という男がアメリカから持ち帰ったポルノ写真じゃ。黒人と金髪女がもう、くんずほぐれつじゃ」
と、懐から取り出し、美賀子に手渡した。
「キャッ!」
と、美賀子はそれを放って逃げ出す。
「ハハ。慶喜さん、男と女はこうしてケダモノになって抱き合わないかん。それが夫婦円満の元じゃ」
「はっ、恐れ入ります」
龍馬は胸をボリボリかくと、
「ときに、海舟はどうですか」
「はっ、よくやってくれています」
「まだ青くさいところがあって、何かと迷惑をかけとると思いますが、育てるという気持ちで見とって下さい」
「はっ、もちろんです。が、近頃、登城してこないのです」
「えっ? なぜです」
「海舟に妹がいるのはご存じですか」
「はい。会ったことはありませんが」
「実は、幼いとき拾われてきた二ツ川の労咳女でして」
「そういう噂らしいですな」
「ところが海舟がその女を妻にしたがってるらしいんです」
「ほう」
「しかし、海舟はあのような固い男です。三千二百石の家柄で捨て子の労咳女を妻にすればお家断絶されると思っているのです」
「フーン」
「それが水臭いというのです。申し出てくれば、私が仲人でもしてやるのに、なあ美賀子」
「はい」
龍馬はイラつき、
「しかし海舟はバカか。この大事をなんと心得とるんだ。今は、女にうつつをぬかしている暇などないはずじゃ」
「いや、海舟もまだ若いので」
「わしは仕事一筋で女っ気などこれぽっちもない」
「えっ?」
「わしには、嫁の一人も世話してやるという友人もおらん」
「あっ、いや、常々私どもも心にかけているのですが、その、何と言ってよいのか。坂本殿は理想が高く」
「どこまで低くすれば紹介してもらえるんですか」
「まっ、そういわれても。坂本殿はどのようなタイプがお好みですか」
「ま、強いてあげれば、美賀子さんタイプかな」
「しかし、美賀子は私の妻ですし」
と、思案していた美賀子が、
「妙子がいます」
「妙子? はて、どこかで聞いたような名じゃな」
「京で私の侍女をやってくれてた娘なのですが、気立てがよくて申し分のない人なのですが……」
「何か問題があるのですか」
「一度結婚に失敗しているのです」
「美賀子さん、わし、こう見えても潔癖性で、あっちこっち男からいじくりまわされた女は困ります」
「で、でも」
「わし、遊ぶのはそういうんでもいいが、やっぱ嫁にするのは処女がいい。ちがいますか、慶喜さん」
「しかし、坂本殿ともあろう方が、そのような些細《ささい》なことにこだわりなさるとは」
「処女もろうたあんたには些細なことかもしれんが、わしみたいな純粋な青年には大問題なんじゃ」
「でも、日頃坂本殿は」
「だから、そりゃ建前を言うとったんじゃ」
「はあ」
「あんただけ処女をもろうて、わしにはそげなアバズレもらえと言うんですか」
「いや、そんな意味では」
「ねえ殿、ならば妹はどうです」
「妹?」
龍馬は身を乗り出した。
「なっ、なに、美賀子さんに妹さんがいらっしゃるのですか」
「はっ、はい」
「なんでそれを早くおっしゃらないのです」
「すっ、すみません」
「で、どういう人です」
「どういうと言われましても」
「美賀子さんと似てるのですか」
「それはまあ、姉妹ですから」
「なら文句はありません。よし、きっとその女だ。わしと燃えるようなラブする相手は。おう、京に行くのが楽しみになりましたな。おっ、そうと決まればこんなとこに長居はしておれん。下田のハリスんとこ行って、五助にひげあたってもらわんといかんし、留吉に写真ばとってもろうとかないかん」
と立ち上がる龍馬のその背中に、慶喜が声をかけた。
「坂本殿」
覚悟のほどがうかがえる凜とした声だった。
「この徳川慶喜、年が明けたら京にまいろうと思います」
「なっ、何!?」
驚きで、龍馬の膝が崩れた。
「大政をお還しする決心がつきました」
「よう決心なさいました、慶喜公。それでこそ、名君でございます。たとえ後世慶喜公のお名がどのような扱いをうけようとも、この坂本龍馬だけは……」
慶喜は、ひとつニヤリと笑い、
「それには一つ条件がございます」
「条件?」
「私を救うために、あなたの腹を斬らないでほしいのです。そして、帝から私にどのような沙汰《さた》が下っても、坂本殿には生き延びていて欲しいのです。生き延びて、美賀子と一郎丸の行く末を見守って欲しいのです」
「殿」
と、にこやかに微笑《ほほえ》んでいる美賀子の膝の上にチョコンと座っていた一郎丸が立ち上がり、
「坂本、きっと申しつけるぞ。腹は斬るな」
とまだよく回らぬ舌で、慶喜の言葉を反芻《はんすう》した。
「ははっ」
龍馬は額を畳にすりつけんばかりに土下座した。この土佐の龍と言われた豪気な男の見開かれた目から、涙が滝のように流れ、噛みしめるその唇ににじむ血が乾くことはなかった。
10 月が里
奈良と三重の県境に月《つき》が里《さと》というところがある。そこから深いすすき野原を抜け、原始林に覆われた広大な湿地帯を越えると、昼なお暗いお化粧谷が眼下に見えてくる。
「これは次郎丸殿。お噂にたがわぬ美しさじゃな」
次郎丸を迎えたのは、五月《さつき》と呼ばれる鈍色《にびいろ》の地に蓮《はす》の花を描いた狩衣《かりぎぬ》を着た若衆だった。目尻《めじり》に墨を入れ、頬にはほのかに紅を掃いていた。
その赤いおちょぼ口を開き、まだ声変わりもしていないかん高い声で次郎丸に、
「わらわは五月。死間衆、第五番目の男でござる」
「第五番目?」
「死んでいく順番じゃ」
「…………」
「ようやくわれらの出番がまいりましたか、オホホ」
と、五月は振り向きざまお茶を運んできた十位の小姓の一人をこともなげに斬り捨てた。
「オホホ……」
笑ったのは斬った五月ではない。斬られた小姓がさもうれしそうに傷口に手をやり、ベットリとついた血を見て五月にいとおしそうに笑いかけ、倒れていったのだ。
「…………」
「オホホ……」
後に控えていた男たちが皆、いっせいに笑った。蝶《ちよう》が笑えばこんな風か。ふわふわした、しかしどこまでも届く笑いだった。
と、五月は熱い息で次郎丸にささやきかけ、
「坂本龍馬という男一人にわれらが全員かりだされるとはな。が、帝の大事とあればやむをえまい。オホホ」
「お願いいたします」
「では皆様、あの世で会いましょうか」
といっせいに小刀を抜き、腹を突くとすばやくさらしを巻いた。
「われらがお役をまっとうできずとも、月の花はつきることがござらぬ。オホホ……」
と、庭で蹴鞠や琵琶《びわ》に興じているお小姓たちを指さした。
11 京都へ
吉原。建ち並ぶ遊郭の軒先から、雨粒がしたたっている。夕刻から、晩秋の冷たい雨が降っていた。
雨はしだいに激しくなり、通りはけむって店の明かりがうすぼんやりと浮かんでいる。
冷たい雨に来る客もまばらで、『桔梗屋《ききようや》』はひっそりとしていた。
丸に桔梗の紋を抜いた薄茶色のはっぴをきた下足番の喜助が所在なげにきせるをくわえ、玄関先に座りこんでいた。
二階から旅姿の龍馬がおりてきた。と言っても、ふろしき包み一つ持ったきりである。
「よう喜助、長い間世話になったな」
「先生、ほんとに京なんかへ行くんですか」
「ああ」
「刀はどうしたんですか」
「おう、忘れちょった」
「しっかりしてくださいよ、もう」
「持ってかんきゃいかんかのう。あんなもん差しとると、重うて肩こってしゃあないんじゃ」
「まったくズボラなんだから」
「ああ」
「女将がいま、にぎりめしを作ってますから。旅立ちは、もう少し待ってください」
「すまんな」
「にぎりめしは一口でほおばれるやつを作るように言っときましたから。先生は一口食って犬でも寄ってきたらやっちまう人なんだから。ちゃんと自分で食べるんですよ」
「わかっちょる」
「先生は何もわかってません。座敷の料理だってそうです。女郎たちに食べろ食べろちゅうて、自分はなにも食べんで、夜中腹すかしてお茶漬け用意してこいって言うのがしょっちゅうですから。あたしがいなくてそういう時、誰が面倒見てやるんですかねえ」
「心配すんな。女はいっぱいおる」
「嘘おっしゃい。先生みたいな手のかかる人のところに来るような奇特な女なんていやしませんよ」
「ハハ、そうか」
「もう、しっかりして下さいよ」
「しっかりしとるよ」
「なんですか。近頃、妙に悟りきったようなことばっかり言って、あたしゃ嫌いですよ」
「ハハハ。喜助、元気でな。これで最後になるかもしれんぞ」
「先生、縁起でもねえことおっしゃらないで下さいよ」
龍馬は手で首筋をポンポンと叩き、
「いや、どうにもわしが腹斬らんことには収まりがつかん」
「だけど、慶喜公は先生に死んではならぬと言われたのでしょうが」
「そう言われて、生きてられるわしと思うか」
「じゃ、美賀子様と一郎丸さんはどうするんです」
「いざとなったら、土佐の母ちゃんとこに行かせて面倒みてもらう」
「母ちゃん母ちゃんって、先生、年はいくつですか」
「またあ。心配するな。ただじゃ、死なん。慶喜公も殺させん。なんとしても京都に行って帝に会うて慶喜公の助命を願うてくる。それでも慶喜公に腹斬らせるちゅうたら、帝だろうがなんじゃろうが、ただじゃすまん」
龍馬は血がにじむほど唇を噛んで言った。
「しかし、岩倉はわしを帝に会わせてくれんじゃろな」
岩倉が動き出してきた以上、帝だけではない、長州の毛利敬親も、薩摩の島津久光も、土佐の山内容堂もみな手なずけられてしまっているだろう。京は、龍馬にとって敵だらけと思ってよい。
「しかし喜助、嫌われもんのわしが吉原からいのうなったちゅうことで、女郎どもはせいせいするじゃろうのう」
「淋しがりますよ」
「なんでじゃ」
「みんな悪態ついてますが、心ん中じゃ、先生のこと好きなんですよ」
「ほんとか。みんなわしの座敷来るのいやがっとったじゃないか」
「テレたんですよ」
「フーン、女郎がテレるようになったか。まっことデモクラシーじゃ」
「で先生、例のこと、どうします」
「ああ?」
「蜂須賀って刀鍛冶のことですよ。梅香さんの居所教えろって言ってきてるんです」
「おう、あいつか。しつこい男じゃのう」
「ありゃ、実のおやじですか」
「らしいな」
「でも」
「ほっとけ。娘をバクチのカタに吉原に売るような男は親じゃない」
「でも、蛇みたいな男ですよ」
「いくら出せちゅうとるんじゃ」
「百両です」
「ハリスに出させるわけにはいかんしなあ。土佐の母ちゃんに手紙書いて金送らしとくから、渡してやれ」
「でも、一度渡したら、一生しゃぶり続けられますよ」
「そんときはそんときじゃ」
龍馬は外を見て、
「おっ、雨が小降りになったか。行くか」
「女将がにぎりめしを」
「もういい。こげんとこでウロウロしとったら、いつあのアホが出刃包丁持って飛びこんでくるか分からん」
「あの人は、桂さんと一緒に京都に行ったらしいですよ」
「えっ。わしゃ京でも狙われるんか。難儀なこっちゃのう」
喜助はしぶしぶ傘を取り出し、
「そこまで送っていきます」
「すまんな」
「あたしもいつか京都に行きます」
「なんでじゃ」
「先生のお側にいたいんです」
「いたってしゃあないぜよ」
と出かけようとすると、西郷吉之助が飛びこんできた。
「坂本どん、お助けくだされ」
龍馬はうんざりした顔で、
「どうしたんじゃ」
「千津に一言だけ、愛しとるのはおはんだけじゃと言うとったと言って下され」
「またかいのう」
「頼みもうす」
もう、龍馬は、鳩《はと》が豆鉄砲を食らったような顔の西郷の首をしめあげてやりたかった。
「分かった。旅先からわしが手紙を書く。これで許してくれ」
「しかし、直《じか》に会って坂本どんの口から言うてもろうた方が助かるんでごわす」
「それができんと言うとるんじゃ」
「じゃ、わしは破滅でごわす」
「西郷さん、おまん、たいがいにせいや。この大事に女がどうこうはなかろうが。おまんも岩倉のことは知っとるだろうが」
「はあ」
「はあじゃないき」
「いや、岩倉どんのことはわしがなんとかします」
「なんとかするちゅうて、岩倉に大政奉還受けてくれるように言ってくれるんか」
「言います、言います」
「ほんとか」
「わしも西郷隆盛、二言はござらん」
「隆盛? いつ名前変えたんじゃ」
「いや、女が、その」
「おまん、女によって名前使い分けとるのか。マメな男じゃのう。一体、いくつ名前持っとんじゃ」
「いや、その。とにかく、お願い申す」
「分かった。千津さんに、愛しとるんはおはんだけじゃと西郷さんが言っとったと言えばいいんじゃな」
「はっ。そしてカネんところにも」
「カネっちゅう女もいるんか」
「面目ない」
龍馬は頭をかきむしり、
「ようし、分かった、分かった。まとめて面倒見ちゃる。さっ、一緒に行こう」
「いや、それが、わしは他に用があって」
「なに、わし一人で行けちゅうんか」
「はっ、その」
「分かった」
「で、カネは臨月でごんす。付き添うていてやらんと、あとで何言われるかわからんで。これがまた、きつかおなごでごわす」
「お産? わしに付き合えっての?」
「はい」
「はいって、わし、人の女のお産にまで付き合わねばならんのか」
「申し訳ない」
さすがの龍馬もあきれはてて口もきけない。
「西郷さん。おまん、あっちこっちにガキ生み散らかして一体何考えとるんじゃ」
「子供は何人いても、かわいいもんでごわす」
「そん子供の教育はどうすんじゃ」
「そげんこと考えてたら、子供は作れん」
「そういうもんかのう」
「坂本どん、これだけは言うて下され。愛しとるのはおカネだけじゃ、二心はないと」
「愛しとるというのは千津の方じゃろが。分かった、分かった。とにかく帰ってくれ。頭痛うなったから、わしゃ薬一服飲んで行くから」
「はっ。ではよろしく」
西郷は大きな図体を揺すぶるように帰っていった。
「しかし参ったなあ。わしゃ、お産なんかに付き合うたことないぜよ」
「はい」
喜助も撫然《ぶぜん》としている。
「産婆が来んで、まさかわしが取り上げないかんようなことにはならんやろな」
「そっ、そんな」
「喜助、わしととことん付き合いたいと言うたな。そのくらい覚悟してもらうぞ」
「いや、その」
喜助はしきりにハゲ頭を叩いている。
と、台所から、女将の玉乃が竹の葉に包んだおにぎりを持ってきた。
「遅れまして、すんまへん」
「おう、女将、えろう世話になったなあ」
「なんか、淋しゅうなりますなあ」
玉乃は相撲取りのような身体でため息をついた。
「何言うとるんじゃ。はよ出ていってくれといつも言うとったじゃなかか。清々しとるくせに」
「あれは冗談ですがな」
「いや、わがままのし放題させてもろうたき、感謝しとる。そうじゃ」
懐から財布を取り出し、放ると、
「これで女郎どもになんかうまいもん食わせてやれ。ずいぶん無理聞いてもらったき」
「こんなもん、いりまへんがな。わてらはもう十分、ようしてもらってま」
と泣き出し、つっ返してきた。
「そうか」
「まったく、先生は女心ちゅうもんが分からんお人じゃ。だからもてんのや」
「すっ、すまん、すまん」
「手紙、書いて下さいよ」
「ああ書く」
「なんかもう、会えんような気がして」
「そうじゃろな」
「そうじゃろなって、バカ言わんで下さい」
「うん」
「ああ、わてがあと十若かったらなあ」
「十て?」
「十です!!」
「分かった、分かった。で、十若かったらどうするつもりじゃ」
「先生と地獄の釜《かま》ん中でも飛びこむんやけど」
「そりゃ、ありがたいこっちゃ」
「先生」
と玉乃は龍馬に抱きついた。
「おう、ちょっとやめてくれ」
「好きどした!」
「なっ、なんだあ? ホラ、寄るなって」
「好きどしたんや」
「だから、それはありがたいって。おい、よせって。金玉なんか掴むなよ」
「いやや。わては先生と別れとうない」
一層強く握ってオイオイ泣き出した。
「おいやめろ。つぶれたらどうすんじゃ」
と、暖簾《のれん》をくぐり、女郎たちが大勢やって来た。
「みんな、先生のことが好きで意地悪しとりました」
女たちも龍馬に抱きつき、玉乃を押し退けオイオイ泣き出した。龍馬は困りはて、
「もう泣くな」
「わてら、淋しいんですがな。毎晩先生をからかうのが生きがいどした」
はじき出された玉乃が太った身体で女郎たちに体当りし、また龍馬に抱きついてきた。
「やめんか、もう。みんなが見とる。ほら年を考えろや」
「女に年がありますかいな。正直に言います。わて、先生に惚れちょりました」
「やめ、やめ!」
「いやや。これっきり会えないなんて、いやや!」
「やめろって」
玉乃は万力のような力で龍馬をあがりかまちに押し倒した。
「わて、こげん化け物みたいな顔しちょりますさかい、こん年まで男の人にまともにやってもろうたことがおまへんのや」
「そうか。そりゃ、災難だったじゃろな。どけって。重いんだから」
「ですから、冥途《めいど》の土産《みやげ》に先生に一度抱いてもらいたいんや」
「わしゃ、冥途の土産にバアさん抱かないかんのか」
「何言うとりまんねん。先生も天下の坂本龍馬でっしゃろが」
「まっ、そりゃ天下は天下じゃが。おい、どこつかんどるんじゃ」
玉乃は片手で龍馬をしっかりつかみ、片手で帯をほどこうとしている。
「よっ、よせよ」
他の女郎たちも我先にと帯をほどこうとしている。
「わて、先生にやってもらわんかったら、一生女の喜びを知らんで死んでいくんや」
「それは分かるが、ちょっと待て」
「それが分かってて、天下の坂本龍馬がほっとけますのかいな」
「そういうときに天下は使わんぜよ」
「なんやて!?」
「それに第一、わしにも好みがあるぞな」
「顔に袋かぶしてやったらよろしおま」
「いや、こういうことじゃ。わしはこれから旅に行くんで身体を休ませなあかんと思うちょる。なんせ、長旅じゃからな。今度、京から帰ってきたらやっちゃるき」
「ほんとでんな」
玉乃はようやく身体を離した。
「ほんとじゃ。天下の坂本龍馬じゃ、嘘は言わん。それにわし、この前医者からエイズちゅうもんの気があるちゅう言われとってな、ここんとこ、女断っとるんじゃ。エイズは怖い」
玉乃は帯を締め直し、泣きじゃくりながら、
「お鶴さんが死んだときなあ」
「お鶴さんって誰じゃ」
「先生に入れ歯酒飲ました女郎ですがな」
「おう、あのバアさんか。そうか、死んだんか。そりゃかわいそうなことしたな。さっ喜助、行こ。ああ、痛かった」
「お鶴さんの話だけ、聞いていって下さい」
「わっ、分かった」
「にこやかなええ顔しとりました。ほんに先生は仏様みたいなお人やて。こん人に会っただけでも生まれてきたかいがあったとうれしそうに息をひきとりました」
「そうか、わしは仏様か」
「お鶴さんも、先生から一度抱いてもらうんやと言うとりました」
「いくらわしでも死んだもんは抱けん。ハハハ、いっ、いや、すまん。さっ喜助、行こうか」
「お鶴さん、東北の水呑《みずの》み百姓の娘で売られてきたんどすが、あの顔じゃ、だれも客がつかんかった。まともに口きいてくれた男の人は先生一人だったんです」
「だから、わしんとこに入りびたっとったんか。京都行ったら、気をつけなあかんな」
「なんですって?」
「いや、その京都の祇園に行っても、お鶴のような女は大切にしてやらないかんなあと言うとんじゃ。喜助、何しとんじゃ、行くぞ」
「お鶴さん、先生が立派なお仕事できるようにって、毎朝お百度参りして水に打たれておりました」
「なに?」
「息を引き取るその朝も、お医者さんの手を振り切って冷たい水浴びとりました」
「……わしんためにか?」
「はい」
そして、玉乃は奥から風呂敷包みを持ってきてほどき、
「こん着物、お鶴さんが一針、一針、先生が立派なお仕事ができるように心をこめて縫った着物です。どうぞ、着てやって下さい」
「…………」
龍馬は、着物を手に取り、食い入るように見ていた。
「あん婆さんが。水が冷たかったろうに……」
龍馬の目から涙がボロボロこぼれていた。そして言った。
「よう女将、酒もってこいや」
「はっ?」
「それにお鶴の入れ歯じゃ」
「はっ?」
「供養に入れ歯酒、腰が抜けるほど飲んじゃるき」
「先生」
玉乃の目に涙があふれた。
お鶴のあの顔、あのシワには、女の哀しみが刻まれていたのだろう。それを思うと龍馬の涙が止まらない。
「喜助、今日はおまんも一緒に飲め」
「はっ、はい」
喜助はグチョグチョになった顔をこすって答えた。
「ようし!!」
用意してきた酒を入れ歯の入った杯になみなみと注ぎ、一気に飲み干した。口元をグイと拭い、
「ああ、うまか。入れ歯酒、こん土佐の龍、中毒になるぜよ。ハハハ」
「さすが天下の坂本龍馬じゃ」
「日本一じゃろ」
「日本一でおます」
「もう一杯つげ」
涙を拳でゴシゴシ拭い、またグイと飲み干し、叫んだ。
「女将、吉原中からババア女郎ども集めてこいや。わしがエクスタシーを教えてやるき。五十人でも百人でも構わん。わしのパッションは底無しぜよ。ほら、はよ呼んでこんか」
「はい!」と叫ぶおかみの元気いっぱいの声が、吉原中にこだました。
12 赤 坂
「だから千代は総司を男として育ててきたと言うのか!?」
勝小吉、この三千二百石の主《あるじ》は、総司の素性を知り、あられもなく泣き崩れた。
「わしゃ知らん。連れてきたのは先代の円朝じゃ。わしゃ、何も知らんかったんじゃ」
「父上、お静まり下さい」
海舟は、お役を捨て総司を連れて逃げろと言ってくれない父がうらめしかった。
「父上!」
海舟の深く澄んだ目からも涙があふれ、止まらない。
「うるさい。わしゃ知らん。なにも知らん。なんであのような労咳女に勝家三千二百石がとりつぶされねばならん」
「父上」
「うるさい!! わしがどんな思いでこの三千二百石を築いてきたと思うのじゃ!!」
小吉が賄賂《わいろ》を使い下司《げす》な手段でようやく三千二百石の地位を手にしたのを、小さいころから見ていた海舟だった。酒席で愚弄され、街で小突かれる父を見たこともあった。この三千二百石を得るためどれほど死ぬような思いをしたことだろう。
小吉は海舟を振り払い、菊一文字をしまってある左手の白塗りの土蔵を指さし、震える声で、
「あの刀が、まさか菊一文字|宗春《むねはる》だったとは。確かに、総司を連れて来た円朝に、この刀袋は絶対に開けるなと言われたおぼえはある。だが、わずか四つの子がそのような尊きお方の子とはどうして信じられよう」
「…………」
「岡田宗家の吉蔵はそう言ったのか。もし、総司を十七まで生かしておけばこの勝家、七身まで累が及ぶと」
無論、総司が生きておれば、岡田宗家の者も生きてはおられない。
「はい」
「はいじゃと? なぜ二ツ川で殺してこなかったのじゃ」
「父上、何をおっしゃいます。妹をどうして殺せましょう」
「妹ではない。あいつは勝家とは何のかかわりもない女じゃ」
「父上!」
「わしの弟たちは皆、それぞれの藩の重役の身じゃ。姉たちも皆、要職についている男に嫁いでおる。千代の家もそうじゃ。老中にまでなった横井《よこい》家が取り潰《つぶ》されたら、わしはなんとお詫《わ》びすればよいのじゃ」
あの日、二ツ川の祭のあとの朝、総司が起き出す前に海舟が岡田宗家を訪れて総司を妻とする旨を伝えた時、吉蔵は冷たく言った。
「総司が持たされし刀は、菊一文字宗春でございます」
「でっ、では、総司」
「帝に弓引く魔性の子にございます」
「そっ、そんな!」
海舟の驚きは、立っていられないほどだった。
「私共河原者は、朝廷の御加護を受け、この地を賜わりし者。私共のような二ツ川の労咳持ちが生きながらえさせていただいているのは、ひとえに朝廷の御加護の賜《たまもの》なのですから」
「だから総司を殺そうと言うのか」
「はっ」
そして吉蔵は言った。もし海舟が総司を妻にし戦うというのなら、関東河原乞食二万も死を覚悟して共に立つと。
小吉は、
「なにが戦うじゃ。そのようなことができるわけがない。ましてや勝家の嫁にするなどと。とにかく総司を殺すのじゃ。ええい、何をしている海舟!」
「…………」
「とにかく、総司を千代に近づけるではない。あの刀を持った者は、母親を殺すという。千代が死んだら、わしは生きてはおれぬ」
「父上!」
「さっ、早く殺すのじゃ。お化粧谷から死間衆が出てきたら、ただではすまぬぞ」
妖刀《ようとう》、菊一文字宗春は、赤坂勝海舟家の土蔵で十七年間の眠りを解く者の到来を待っていた。
刃長は二尺三寸、ゆるやかな反りは先に至ってピンと鋭くなり、銀色の刀身に浮かぶ刃文は、華麗な波頭を思わせ見事である。美濃の国、八須の刀匠、蜂須賀宗春が母への怨念《おんねん》をこめて打ちし業物《わざもの》であった。
――いよいよオレの出番がきた。
土蔵の湿った空気の中で、武者震いする菊一文字に、二ツ川の殺戮《さつりく》が見えた。
美しく化粧した若衆姿の男たちが、逃げまどう女子供を血に飢えた猛獣のように襲っていく。わめきちらしているのは袂に月に菊の花を描いた着物を着ている五月だ。美しい顔をゆがめ、
「菊姫様の居所を言え。どこに引き取られた。言わぬと二ツ川、火にかけ、みな殺しにするぞ」
焼け落ちる小屋が地獄絵のようだ。逃げまどう女、子供たちまでもが無残に殺されていく。
「労咳持ちがどなたのご慈悲をもって、二ツ川に住まわせてもらっていると思うのだ。言え!!」
炎に目をランランと輝かせ、五月は子を食らう悪魔のようだ。
五月は口が裂けんばかりの声で言った。
「吉蔵、菊姫の首を持ってくるか、河原乞食二万、死に絶えるか、どちらかにしろ!」
――さて岡田吉蔵どう出る。楽しみなことじゃ。
と、土蔵の重い扉があけられ、男姿の女が入ってきた。総司である。
――この女こそオレを持つべき人間だ。血を誘い、血をしたたらせ、血をむしゃぶるこのオレを。
しかし、総司はチラリと黒い布袋に包まれた菊一文字を一瞥《いちべつ》しただけで蔵の地面に座り、ため息をついた。
――この女、何をしておる?
と、総司は左肩をはだけた。
その白い乳房に、歯形がアザとなってついていた。
「あの馬面野郎、今度会ったらただじゃおかねえ」
――ならばなぜ、払いのけなかった。おまえほどの力があれば、男の一人ぐらい容易に払いのけられたであろうに。
総司は歳三のなまあたたかい大きな唇とヌルヌルした舌、荒々しい大きな手を思い出し、鳥肌が立った。
「でも、兄上のこと、困ったなあ」
兄の妻になることを、小さいころよりどれほど夢見てきたことだろう。それがこんなことになるとは、それもこれも、みな馬面の土方のせいだ。
「チキショウ! もう、今度会ったら絶対殺してやる」
と、ようやく総司は菊一文字を取り上げた。
「フーン。これが、あたしが捨てられたとき、持たされていたという刀か」
抜いた。
「あっ」
その美しさに、総司は思わず声を上げた。
反り気味の太刀が、持つことさえはばかられるような青白い冷厳な光を放って妖しげに輝いている。刃先から小乱れに乱れていく刃文を見ていると、胸苦しくなる。
つるを伸ばした葡萄《ぶどう》の木にからむ胡蝶《こちよう》を、金色で描いた細身の朱鞘《しゆざや》も見事だった。振りおろしてみると、それはまるで身体の一部のようだった。
「この刀、一体どういう銘だ?」
と刀袋を見た。裏返すと、小さな字が刺繍《ししゆう》してある。その文字を読み取ろうとしたとき、
「総司」
母の千代が扉を開けた。
「あっ、母上」
「さっ、外に出ましょう。こんなところにいたら陰気になっちゃうわ」
「でも、兄上に蔵からしばらく出てはいけないと言われてますから」
「まったく海舟のやることはわかりません」
「でも、兄上のやることに間違いはありませんから」
「またおまえの兄上びいきが始まった。男なんて信用できるものですか」
「母上」
「教えておきますよ。結婚したって、三度三度、キチンとおさんどんなんかしたら駄目ですよ。男ってものは、ほっときゃいつもそうしてもらえるものだってつけ上がるんですから。そこのとこ私は失敗したものだから、お父上なんて、一人で着物も着られやしない。デモクラシーになるんですから、これからは女も家庭にひっこんでいては駄目ですよ。外に出て働かなくちゃ」
「はあ」
「女は飾りものじゃないんですから」
「はい」
「それと、子供は早く産まなきゃダメ。それを知らなかったものですから、私の場合、海舟に手がかからなくなった時はもうおばあちゃんよ。もちろん孫は早く見たいけど、孫かわいがるんなら猫かわいがれって言いますもんね」
「母上ったら」
「さっ、外に出ましょう。今日はかんざしを買ってやります。もう、あなたは男の格好などせずともよいのです」
「でも、兄上が私にここにいろと言ったのは、何かお考えがあってのことです」
「だから今言ったでしょう。男は自分のやりやすいように女を操ることしか考えないんですって」
「もう、母上ったら」
「さっ、着物に着替えて街へ行きましょう。こんなかわいい娘を持っていながら、表立っていっしょに街も歩けないなんて、ほんと、苦しかったわ。さっ」
「でも」
「でもって、あなた、何かあったのですか。二ツ川から帰ってきてから、あなた、様子がおかしいじゃありませんか。妙にぎこちなく、私たちと目を合わせることを避けているみたいで」
「いえ、何もありません」
「海舟の気持ち、聞いたでしょう」
「いっ、いえ、何も」
「何も? まったく海舟ったら、なんて人でしょう。ああいうドンな子には、やはりあなたのようなしっかり者がついていなくちゃダメ」
「あのう」
「でも、あなたは何も心配しなくていいのよ。庭師の源治さんのところに一旦養女として入って、それからうちに嫁いでくればいいんだから」
「あの、母上。実はお話があるのですが」
総司は、あの土方の男のことを言いたかった。でもそれを話せば、どんなに母が傷つくことだろう。
千代は大きなため息をつき、
「でも世間の口に戸はたてられぬと言いますからね。あなたを勝家の嫁にすることで、海舟は今のお役を免ぜられるでしょう。また、この勝家もおとりつぶしになるでしょう。でも、私たち後悔なんかしませんからね」
「いえ、ですから母上」
総司は、もう海舟の妻になれぬ身体になったと言いたかった。が、千代は、
「海舟はその刀のことを気にしているんですかねえ」
「この刀?」
「菊一文字です。ほら、代々、帝に最初の女の子が生まれたとき持たせるっていう菊一文字って刀ですよ」
「えっ?」
「あなたが捨てられたとき、持たされていたんですよ」
総司は声も出なかった。
「ですから帝のお子ということになりますね。でもそんなこと関係ありませんよ。あなたは私の子ですから、ハハハ」
青ざめる総司を尻目に、千代は豪気に笑った。そして、
「あなたはきっと何かをなすためにこの世に生を享けたのですよ。あなたの持って生まれた生命力は、並みではありません。それが私には海舟たちの言う選挙権というものじゃないかと思えるんですよ。海舟は小さいころからあなたをじっと見つめていました。総司はジャジャ馬だ、わがままだと口では言っていましたが、もしかしたらあなたは自分の心のおもむくままに生きているのではないかと考えているようでした。あなたの奔放さが海舟をしてあなたを女としてではなく、人間として見さしめることになったのです。海舟は必ずや普通選挙法を制定します。女に、総司に一票与える決断をします。それには多くの反対や障害があるでしょう。その時、あなたに勝ち取って欲しいのです。女も人間であることを」
「……母上」
「生きるんです。どんなことをしてもあなたは生き延びなければなりません。フリーダムです。『自らをもって由となす』です。歴史はあなたにそれをさせるため、この世にお遣わしになったのです」
「でも、私が生きていれば」
「海舟は、破滅します。しかしそれも時の宿命であれば仕方ありません」
母はひきつった顔で笑っている。口には出さずとも、なにより海舟の立身を望んでいた母である。
「前《さき》の帝が私の父なら」
「今の帝はあなたの弟さんということになりますね。まだ十二だといいます」
「私が京に行き、話をすれば」
「あなたは魔性の子。会ってもいただけますまい」
姉と呼ばれなくともよい、恨みごとを言うのでもない。人の上に立つ者は、人の心の哀れさを知れ、とたった一言言ってやりたい。
「さっ、出ましょう。今日は街に行ってパーッとお買い物しましょう。街はいいですよ。ほら、またいつかの頭のおかしな人、石垣の中に突っ込んでた人、坂本って言いましたっけ、あの人と会えるかもしれません。フフ」
と、手を引っぱられ外に出ると、険しい目の海舟が立っていた。
「総司、どこへ行く」
「あっ、兄上」
かつての澄んだ瞳はなく、海舟の目は充血し濁っていた。
「総司、蔵に戻っておれ」
「はっ、はい」
「待ちなさい、海舟」
「母上!」
「なんですか。親に向かって、そんな大きな声を出して。あなたは、何をそう怒っているのです」
「総司を蔵にお戻し下さい」
「蔵に閉じ込めたって何も始まらないんじゃありませんか。つらいのはあなたより総司の方が何倍もつらいのですよ」
「私に帝の御意に逆らえと言うのですか」
「帝は、『日本の象徴』として統治はせず、としようとしてるのはあなたではありませんか。それがなんの御意ですか。さっ、総司を妻にするとおっしゃい。愛する女のために世界中を敵にし戦うという気概を持ってくれなくては、私はあなたを男として生んだ甲斐《かい》がありません。二人で逃げるのです。たとえ逃げても、時代が勝海舟を必要とするときがきます」
海舟は泣き崩れ、
「母上! 私はどうしていいのか分からないのです。私は総司を愛しています。何よりもかけがえないと思っています。しかし、私には徳川慶喜公の命と六十万徳川武士の命運がかかっております」
「ならば総司を殺し、お役をまっとうしなさい。総司はあなたに殺されたって文句を言う女じゃありません。そんな女に私は育てています」
「…………」
総司はうれしかった。ただ、うれしかった。
と、廊下に小吉が立っていた。その目は狂っていた。
「千代、よさんか。海舟の言うことをきけ」
「あなたまでなんですか」
「まったく二ツ川の労咳持ちなど、家に入れるのではなかった」
「なっ、なにを言っているのです、あなた。恥ずかしくないのですか。一体、総司が何をしたと言うんです」
「わしがどんな思いで勝家三千二百石を築いたと思う」
「まだ分からないのですか。新しい時代にはその三千二百石がなくなるのです」
と、タタタ……という足音が近づいてきた。海舟は腰の刀に手をやった。
「さっ、母上、中に入って下さい。総司、おまえは蔵に入ってろ」
と、総司は刀袋のヒモを口でくわえ、朱鞘の菊一文字を出すと、
「お下がり下さい、兄上。これは兄上が勝てる相手ではありません」
「なに」
鯉口《こいぐち》を切る総司の目はランランと輝いた。その白い肌がみるみる生気を放ち、桜色に上気していく。
「さっ、お下がり下さい」
菊一文字を抜き放った総司の全身が、まるで光り輝くようだった。
「うぬら、われを皇女と知っての狼藉《ろうぜき》か!」
われ知らず、口を割って出た。
「弟が、われを殺せと言うたか。弟に伝えよ。たとえ幼き弟でも、奸臣どもの手にかかるな、甘言にまどわされるな、と伝えよ。そして国家百年の大計を成す者は、人の心の誠を知れと。人の心のあわれを知れと」
総司は押し殺した声で言った。
と、男の声で、
「死間衆の太刀筋をお教えいたしまする」
「なに」
その声に聞き覚えがあった。
吉蔵だ。
「一人が死に、その屍を越えて一人が打ち込んでまいりまする。彼らは死を恐れることはありませぬ」
「吉蔵、死間衆とは何だ。まっ、待て!」
「では!」
地面を蹴った足音と同時に、総司の体も宙に飛んでいた。
足を地につけると、すぐさま左から刀が振りおろされた。菊一文字は吸いつくようにガッチリと刃を合わせた。まるで、命を持っているようだった。青白い光を放ち、うなりをあげんばかりだった。吉蔵が楯《たて》になる形をとり、塀からもう一人の頭巾《ずきん》姿の男が刀を光らせ、総司めがけて飛びおりてきた。総司は柄で男の手を払い、サッと刀を振りおろすとその男を斬った。男は断末魔の叫びをあげドウと倒れた。
「見事!」
「あっ、茂蔵《しげぞう》兄ィ!」
「総司、生きよ。われら河原者のために」
総司は吉蔵に振り向き、
「吉蔵、なぜ、このようなことを!」
「…………!」
吉蔵は左手の三蔵《さんぞう》の肩から飛び降り、総司に飛びかかってきた。総司は垂直に刀を突き上げた。
吉蔵は血しぶきを噴き上げ地に落ちた。
「見事!」
「吉蔵兄ィ!」
吉蔵は総司の手を取り、
「おまえが河原に捨てられていたとき、それはそれは愛くるしかった。殺そうとすると、おまえは恐がりもせずわしらに笑いかけてきた。いずれこのようなことになると知ってはいたが、われら、後悔などないぞ。では、さらばじゃ」
しっかりと総司の手を握って吉蔵は息絶えた。
背の高い男がやさしく見下ろしていた。五蔵《ごぞう》だった。
「五蔵兄、もうおよし下さい!」
と今度は五蔵、六蔵《ろくぞう》、信蔵《しんぞう》の三人が一度にかかってきた。
「斬って飛び、斬って飛ぶのじゃ。でないと奴らはおのれの血しぶきをおまえにかけ、目を惑わす。奴らはおまえを殺そうとはせぬ。勝とうと思ってはおらん。相討ちにすることが目的なのじゃ。じゃから、こわい。行くぞ!」
宙を飛ぶ三人の動きが止まると、血しぶきが上がった。血煙のなか舞うように斬る総司の残像が鮮やかに三人の網膜に焼きついた。
「兄ィ!」
「おまえを渡したとき、つらかった。おまえはなぜ私は遠くに行くのと聞いた。すぐ帰ってくるからきっと待ってとおまえはわしらに笑いかけた。帰ってくるはずもないおまえの声が聞こえぬかと、江戸に向かって耳を向けた。おまえの櫛でも流れついてはこぬかと川をさらった。われらが死すとも淋しく思うな!」
「五蔵兄ィ!」
「総司、見事じゃ」
「信蔵兄ィ!」
信蔵は兄弟のなかでも一番無口だったがやさしく、いつもわがままなあたしを言葉少なに叱ってくれた。二ツ川の思い出が総司の脳裏を走馬灯のごとく過ぎていった。
「おまえが年に一度二ツ川に帰ってくるたびわれらは男手で料理を作り、男手でボロのほころびを繕った。おまえの明るさがうれしかった。それは残りの三百六十四日をすみずみまで照らしてくれた。総司、運命に負けるでないぞ。我ら二ツ川の河原者のためにも」
兄の血しぶきを浴びながら、総司は泣いていた。
血煙は霧雨のように空を漂い、月光に鈍くきらめきながらゆっくり降りてくると、庭の木々をまっ赤に染めていった。地面は飢えた怪物がむさぼるごとく血を吸い、あたり一面ドス黒くなった。
と、海舟の身体が崩れ落ちた。その指さす方を見て、総司は愕然とした。
父、小吉が、白装束で腹をかっさばき、前のめりに果てていたからだ。
千代が「キャーッ!!」と叫んで飛びのいた。
「この労咳女が!! このような魔性の女を家にいれたのが間違いだったのじゃ。海舟斬れ、斬るんじゃ!!」
灰色の空から落ちてくる雨が小降りになり、銀の糸のように光っていた。
龍馬はつらそうに腰を曲げたりのばしたりすると、
「しかし参ったぜよ。わしゃババアども、何人やった」
傘を差しかけた喜助が、
「さあ、フフフ。しかし、皆、喜んでおりました。たとえ日本中から先生が後ろ指さされようと、この吉原だけは先生を応援します」
喜助は、これまでの人生の中で、こんなにうれしかったことはない。フラフラになりながらも、必死でババア芸者を相手にする龍馬は、まさにお鶴のいう仏様だと思った。
「お鶴さんも成仏できたと思います」
「まったく、成仏はいいが、なんかサウナっちゅうもんでも行かんと身体がベタベタじゃ。年寄り抱くと、身体が芯から腐るようじゃな」
「ハハハ」
「さっ、行こう。西郷から頼まれたカネちゅう女のお産に立ち会わないかん」
と二人は歩き出した。
カネの住んでいる四谷《よつや》村が見えてきた。
「ほら、あそこじゃ」
藁葺き屋根の百姓家で、カネは鉢巻きをしめ、布団の中でうんうん唸っていた。ヨボヨボの産婆が土間で湯を沸かしている。
「ごめん。わしは土佐の坂本龍馬っちゅうもんじゃが」
入っていくと、カネは起き上がり、幅の広い肩を張ってジロリと龍馬を見た。これが女かと思うような馬面のおかしな顔をしていた。毛深いのか、濃い眉がたれ下がり、鼻の下にはヒゲまで生やしている。太い首は黒く、のどぼとけがあるのではないかとさえ思える。西郷はやせた女が好きだと思っていたが、カネは筋骨隆々とさえいえる身体つきだった。
「西郷さんは来んのかね」
野太い声をだした。
「いや、ちょっと忙しゅうて」
「フン、なにが忙しいんじゃ」
土間で裸で飛び跳ねている二人の子供を物憂そうにアゴで示し、
「二人子供がいて、その上もう一人出てくるちゅうに」
「みんな西郷の子か」
「ああ。それなのに、あの人は生活費もくれず忙しい忙しいとかけずりまわっておる」
ギロリと龍馬をにらむ目が怖い。
「西郷もやるのう」
「金は持ってきてくれたんか?」
「西郷はわしが金持ってくると言うとったんか」
「ああ」
「もう」
龍馬はしぶしぶ懐から自分の財布を取り出した。
「フン。あの薄情男に言ってくれや。半月後にまた金持ってこなかったら、この子供らと一緒におしかけるってな。さ、帰れ、帰れ」
帰ろうとすると、
「あ、痛、痛!」
カネの目が寄っている。腹をおさえて布団にひっくり返った。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃないよ。子供が出てくる。あっ!」
「よう産婆、はよ取り上げんか」
龍馬はあわてて産婆を振り返った。と、産婆はかまどの前でひっくり返っている。
「ど、どうしたんじゃ」
「あ、あの婆さんは病気持ちなんじゃ」
カネがあえぎあえぎ言った。その間もものすごい形相で痛みに堪えている。たまらず柱にしがみつくと、涙声で、
「痛、痛い! あんた、赤ん坊取り上げてくれ」
「わ、わしがか?」
「心配せんでもええ。いつも一人で産んどるんじゃ。わしがリキむけ、あんた、あのハサミで臍《へそ》の緒《お》切ってくれ。あっ、痛!」
「ハサミで切れって言われたって。おい、喜助」
と表で入るのを怖がっていた喜助を呼んだ。
「先生、どうしたらいいんでしょう」
「まず、湯をたらいに入れるんじゃ」
「はっ、はい」
喜助は、カネのすさまじい声に腰が抜けたらしく、這ってかまどにいった。
カネは大股《おおまた》を開き、オウッ、オウッと獣のように叫び始めた。そして柱も折れろとばかりに身体をエビ反りにする。
「ウワー、すごか格好じゃの」
「感心しとらんで、引っぱり出さんか」
汗だらけで力む顔はまるで仁王様だ。
「さっ、あんた、ひっぱりだして」
「あっ、ああ」
「しっかりせえよ。あんた男じゃろが」
「ああ」
「キエーッ」と一声叫び、カネはドウと身体を投げ出した。
「よし、生まれた。あんた臍の緒切って」
そう言うと、またひっくり返った。
息を吹き返した産婆に後を任せ、カネの家を出た龍馬は、しばらくボウッとして、四谷口の地蔵の横にあった石の上に座りこんだ。
腰を抜かした喜助も、ようやく口がきけるようになった。
「喜助はまったくだらしないやっちゃ」
「はい」
「はいじゃない。肝心なとき役に立たんで。わしゃ湯をたらいに入れたり、臍の緒切ったりテンテコマイじゃったぞ」
喜助もかまどの前で失神していたのだ。
喜助はしきりにハゲ頭をなでると、
「でも女はあんな思いして子供産んでるんですね」
「おまえ、女房がおるのか」
「いますよ。ずっと、ほったらかしにしてますが」
「子供は?」
「まだ三つですがね」
「三つ?」
「あたしゃ、こうハゲてますが、まだ四十前なんですよ。そうだ、ちょっと女房んとこ寄ってやるかな。今浅草で飯炊き女してんですよ。じゃ、これで」
「達者でな」
「ええ。今度子供見せにいきます。抱いてやって下さいな」
「ああ」
「じゃ」
張りのある声で言うと、喜助は背筋をピンと伸ばし、浅草めざして歩きだした。
雨はすっかり上がった。あたりはもやがたちこめ、暗い道に犬の影もない。
江戸の見納めだ。龍馬は坂の途中で振り返り、江戸の街並を見た。
と、木の陰から裾に浜千鳥を飛ばした着物を着た女が、ちょっと鼻にかかったあだっぽい声で、
「何してるんですか」
と声をかけてきた。
「いや、江戸を離れるんで、よう見とこうと思うてな」
「どちらへ行かれるんです」
「ああ。京都にな」
「ヘー、京都ですか」
「おまんも京都の人間か」
「え? どうして分かるんです」
「無理して江戸弁使うとるが、京なまりがある」
そこまで分かるなら、なぜ私のことを思い出せない。妙子は唇を噛んだ。
「わしなあ、さっき子供を取り上げてきたんじゃ」
「へえ」
「ええもんじゃの、子供は。まるまる太って西郷そっくりの顔しとった」
龍馬が取り上げた赤ん坊は、最初、ぐにゃぐにゃのまっ赤な土塊《つちくれ》のようだった。小さな拳を握りしめ、目を固くつぶっていた。シワだらけの老婆にそっくりだった。火がついたように泣き出した赤ん坊を湯につけると、夢中で手足をバタバタさせた。
「わしが産湯《うぶゆ》につからせてやると、気持ちよさそうな顔しとった。わし、子供に好かれるんかいの」
「好かれるんじゃないですか」
「なんじゃ」
「子供は正直だから、人間を見ますからね」
「わしゃいい人間ちゅうんか」
「そうですよ」
「なんか、そう言われると身体がむずむずしてくるよなあ」
「ハハハ、ほんと坂本さんはおかしいですね」
「おまえ、なんでわしの名前知っとるんじゃ」
「…………」
「わしもあげな子供が欲しいな」
「お作りになればいいじゃないですか」
「子供なんかいたら欲が出る」
「欲?」
「ああ。今でも欲だらけじゃ」
「そうですか?」
口をとがらすと、妙子はエクボができてかわいい。
龍馬は、しきりに頭をかき、
「母ちゃん父ちゃんだけでも新しい時代になったら勲章つけてるとこ見てもらいたい。喜んでもらいたいと思うとるんじゃ。それがあさましい。まして、子がいたら」
「勲章つけていいじゃないですか。それだけのお仕事をしたんなら」
「バカ、そげなみっともないことできるか」
「なにがみっともないですか」
「わし、新しい時代が来たら、どっか山ん中でも引っこむつもりじゃ」
「…………」
「それに、わしはまだ子供つくらせたい女に出会わん」
「そうですか」
「いや、一人いるか。日野でみた夢の中に出てきた女じゃ。ああいう女じゃったら強そうじゃき、わしがいのうなっても子供育てるじゃろのう」
「誰なんです」
「内緒じゃ」
「教えて下さいましな」
「いや、フラれたとき恥ずかしいき」
「でも、そんなに子供がお好きならどっかに作ればいいじゃありませんか」
「わしゃ小心じゃき、そげん無責任なことはできん」
妙子はあだっぽい目で龍馬を睨み、
「あたしも子供欲しいんだ。どう、あたしじゃ」
「バッ、バカなこと言うたらいかん」
「本気ですよ」
「なにが本気じゃ。今会うたばかりなのに」
「昔、会ったことがあるんですよ」
「えっ?」
「やらせろ、やらせろって、あんときやらせとけばよかった」
「すっ、すまん。あっちこっちで言うとるもんじゃき、気にせんでくれ。この通りじゃ」
「あっちこっちで言ってたんですか」
「ああ。それで人を傷つけてばっかりで、すごい罪悪感に悩まされとる」
「なあんだ」
「しかし、人間どこで恥かくかわからんなあ」
龍馬は冷汗を拭き、
「まっ、わしのことは忘れてくれ。悪気はなかったんじゃき」
「忘れてくれって言われたって、困りますよ」
「いや、その……。まいったなあ、もう」
「いつも悪気がなくて女口説いてるんですか。女がもし真に受けたら、どうするつもりだったんです」
「だからその、そん時は笑ってごまかすしかない」
「なんですって」
「そう、怒ることはないじゃないか。わしの言うことなんか真に受ける女はおらん」
「いますよ」
「姐《ねえ》さん、アホなこと言うたらいかん。わしゃ自分がどげな人間か、よう分かっちょる」
と龍馬はブルブルと武者震いし、
「わしはなあ、ほんと言うと、京都に行くのがこわいんじゃ」
龍馬は思う、唐の都|長安《ちようあん》に似せた京の街には一千年以上の歴史がある。千年も住んだ公家たちが妖怪《ようかい》のごとく徘徊《はいかい》している。そんな恐ろしいものに土佐の質屋のこせがれが太刀打ちできはしない。
「それに奈良の死間衆ちゅうオカマの化け物どもが出てきとるという。わしゃ、口じゃ、人間、男じゃ女じゃと言うとる間は大成せんと言うとるが、オカマはどうも性に合わん。いや、どうしてもケツ貸せっちゅうたら貸さんこともないが、基本的には勘弁してほしいということじゃ」
「だったら、京都なんか行かなきゃいいじゃありませんか」
「そうもいかんき」
「なぜです!? 帝に会わせてもらえると思ってるんですか」
「でもな」
龍馬は、江戸の街を指差した。
「見てみい。あそこは金持ちが住んどるが、こん時勢に夜じゃというのにおしあいへしあいして荷物運んどる。こん時勢じゃ、皆逃げ出すつもりなんじゃ。けど、大衆というのはすごいぞ。吉原では相変わらず放蕩息子が太夫の機嫌をとろうと懸命になっていることじゃろうし、長屋では女房がグチを言い、飲み屋では亭主がクダを巻いているんじゃ。あいつらには時勢もなんもなか。わしは、そんなあいつらをいとおしいと思うとる。こげん人間たちを火あぶりにしちゃいかん」
薩長をとりまとめることができず、大政奉還がうまくいかなくなれば、戦が始まる。何も知らない女たちが乳飲み子を抱えて亭主の死体を血まなこになって探すことになるのだ。
「男一匹、そうはさせられんのじゃ。じゃ、またな」
龍馬は凜々しい顔で妙子に軽く笑いかけ、それから力強く歩き始めた。
と、風が吹き白粉《おしろい》の匂いが漂い、
「ホホホ」
と笑い声が聞こえた。
「なんともまあ、豪気なことよ、オカマは好かんと」
「目にもの見せてくれぬといけませぬな」
「今日は十一月、では霜月《しもつき》殿から死んでもらいましょうかのう、次郎丸」
次郎丸が姿をあらわした。おぼろな月明かりに、その鈍色《にびいろ》の地に曼珠沙華《まんじゆしやげ》を描いた狩衣をまとった姿が浮き上がった。
妙子は言った。
「次郎丸、きっと約束しましたぞ。私は具視様の妻になります。そのかわり、あの男にだけは手を出してはなりませぬぞ」
「姉上、あの男のことはお忘れ下さいませ」
「いやじゃ」
「坂本の言う、子を成したいという女は姉上のことではございませぬぞ!!」
「分かっておる」
「分かっておるならなぜ」
「そなたらに女心が分かってたまりますか」
そなたら、と言われて、お化粧をした十二人の若衆の顔がひきつった。
「姉上、死間衆を怒らせてはなりませぬ! ぬっ!!」
と、月の光にキラキラとカミソリが無数に光っている。
そしてひときわ高くカミソリをかかげた男の野太い声が聞こえた。
「あっしは、江戸の湯屋を取り仕切る、下剃り宗介と申します。死間衆がどういう御用でお江戸に入られたのか、伺いとうございます」
「フン。女の股に顔を突っ込み、毛をあたる下剃りふぜいに、答える返事は持たぬ」
「ですから無理に、とは言っておりませぬ」
「ほう、怒ったか。恥も悋気《りんき》もご法度のおまえたちが」
下剃りに堕とされる男は、心中の生き残りである。三日三晩、さらしものにされ、市中をひきまわされ、女郎に小水をかけられても恥と思うことを禁じられた者たちである。
「怒る? そういうふうにお耳に入ったとなると、あっしらも意地が出てきやす」
「やるか」
「……では、行きやす」
「来い!!」
その一瞬、双方とも闇に飛んだ。
龍馬が耳をつんざく地鳴りのような足音に気を取られていなければ、十間ほど後ろで十人ほどの下剃り衆に霜月が切り裂かれ、ドサリと倒れたのが聞こえたはずだ。
「なっ、なんだ、この足音は」
龍馬は走った。その地鳴りはだんだん大きくなり、足元が揺れているのではないかと思えるほどだ。街中を捕方たちが十手片手にバタバタ走っていた。あちこちで、ひっきりなしに呼子が鳴っている。
「何があったんだ。長州、薩摩連合軍が攻めのぼってきたか。いや、そんなはずはない」
と、顔みしりの北町奉行所の吉田玄妙《よしだげんみよう》が馬に乗って駆けてくる。
「おう、どうした吉田、盗賊でも出たか」
「いえ、河原乞食どもが徒党を組んでいるんです」
「何?」
奉行所は夜、五人以上徒党を組んで歩くのを禁じていた。まして、河原者の通行が許されるはずがない。
「この足音は、十人や二十人じゃないぞ」
「ええ。百から二百はいます」
「いや、それ以上だ」
地を這う足音は、だんだん大きくなり、「ウォーッ」という銅鑼《どら》を鳴らしたような声が聞こえてきた。江戸の街の人々も「なにごとか」と、表に飛び出してきた。
捕方の三人が走ってきた。
「大木戸《おおきど》の検問所が破られました!」
と、その大木戸の方からもウォーッという地響きがしてきた。
「三千はいるぞ」
「内藤新宿《ないとうしんじゆく》の詰所が破られました!」
地響きが大きくなり、地が割れるほどだった。
と、『め組』の火消衆と辰五郎が走ってきた。
「先生!」
「辰五郎、一体、何があったんじゃ」
「二ツ川の河原者たちが赤坂に向かってるんです」
辰五郎の顔から血の気が失せ、冷汗をびっしょりかいている。
「赤坂?」
そこは、勝海舟の家のあるところだ。
「あっしらも、どうしたものか困っておりやす」
「奉行所はなんと言ってるんだ」
「奉行所で取り締まれる数じゃございません」
関東の河原乞食たちが二万集結すれば恐ろしい力となる。
辰五郎は震える声で、
「ねっ、先生、どうしたらいいんでしょうね」
「まず、街の者どもに家から外に出るなと言え」
「へい」
「おまんらの手にいよいよ負えんかったら、江戸城に行ってわしん名前言って徳川慶喜公にご出陣を仰げ」
「はっ!」
辰五郎は突っ立ったままだ。
「どうした」
「ヘエ、さっき親父が死間衆にやられました」
「なに!?」
そして辰五郎は口を一文字に結ぶと、「行くぞ!!」と走り出した。
「あの宗介が」
下剃り衆は二十を失ったという。宗介ほどの手練でもかなわぬ死間衆とは一体何だ。
走る龍馬の胸が高鳴り、地面に足がついている気もしない。
耳をつんざく河原者たちの足音は、確実に勝家に向かっている。
と、後ろから三遊亭円朝も走ってきた。
「円朝、海舟の家で一体何が起こったんだ」
「労咳女がとうとう狂っちまったんです」
「気の狂うた女一人殺すのに、関東の河原者、二万を集めたっちゅうのか」
「その女は滅法強く、二万で殺せる相手じゃないんでさあ」
「なにい!?」
江戸を揺るがす足音は、二人を追いかけるように背後に迫ってくる。
勝家の大きく瓦屋根が張り出した特徴ある門の前まで来ると、
「あっ、これはどっかで見た家じゃ。そうじゃ、日野じゃ」
龍馬の頭の後ろがズキンズキンと痛くなってきた。そうだ、あの幻を見たときも頭痛がひどかった。頭の中を走った閃光《せんこう》に映された光景がまさにここだ。
この家から「やってらんねえよ」と叫び、女が血しぶきをあげていまにも飛び出してくるのではないか。
「この中にわしとラブする女がいるんじゃ! その女こそ、わしの女房になるために生まれてきた女じゃ!」
と叫び、龍馬は門を蹴破《けやぶ》り、中に入った。
「ようやく、見つけたぜよ」
その女、総司は素足で庭の玉砂利の上にひれ伏していた。
と、かがり火に、凍りつくような冷たい目をした老女の顔が浮かび上がった。
「総司、今すぐこの家を出て行け! 海舟は新しい時代をつくるという大望ある身。おまえのような二ツ川の労咳女を妻にはできぬわ」
能面のような顔に、一瞬、やさしい表情を見せて、母は目で、自分を殺せと言っている、と総司は思った。
「母上!」
「おまえから母上などと呼ばれる筋合いはないわ。犬じゃ、犬畜生じゃ。失せろ、汚らわしい」
千代は黒漆《くろうるし》の鞘《さや》におさまった刀を放り投げ、
「海舟、この犬を斬れ! ええい、何をしておるのだ!!」
母は海舟に、総司を連れて逃げろと言っているのだ。
「犬だと!?」
総司は、キッと千代を見据え、立ち上がった。
「オレが犬ならテメエは何だ!!」
「ほう、ええ母娘《おやこ》じゃのう」
龍馬は一人悠然とアゴをなでている。
「犬がどうした! そうだよ、オラ、二ツ川の労咳女だよ。それを養女にしたのはテメエらだろうが」
と、うなだれていた海舟が、
「よせ、総司」
刀を拾って言った。と、その柄をパッと握った総司がスラリと刀を抜き上段に構えると、
「まったく、やってらんねえよ!!」
とふりおろした。
「あっ!! 母上!!」
血しぶきが噴水のように上がった。龍馬は傍らの円朝に、
「円朝、あん母親は正気じゃ。わざと斬らせたんじゃ。そうじゃろ」
「まあね」
「見てみい、安らかな死に顔しとる。よっぽどあの女のことが好きだったんじゃろな」
「母上!!」
海舟は母の遺骸《いがい》にすがって泣き伏した。
「しかし、この筋書きは海舟には読めん」
返り血をあびた総司の顔が哀しくゆがみ、
「クソッ」
とわめき、何か言おうとして咳きこみ、口から鮮血をほとばしらせた。
「円朝、待っとれや。あん女にプロポーズばしてくる」
海舟の手をとろうとして振り払われ、愕然として走り去ろうとした総司の前に、龍馬が仁王立ちになった。
「待てや」
「なんだ?」
荒い息をした総司が龍馬をにらんだ。間近に見ると、女の色っぽさが迫ってくる。その肌の白さにおもわずゴクリと唾を飲みこんだ。龍馬は、
「これを見い」
といいざま、着ているものを脱いだ。まっ赤なブラジャーとパンティが総司の目に飛びこんできた。
「なっ、なんだ、おまえ」
「ブラジャーとパンティちゅうもんじゃ。どうじゃ、参ったか」
「何言ってんだ、おまえ」
龍馬はにじりより、
「しかし、いやええ女じゃのう。わしゃいっぺんにおまんにラブしたぜよ。おまんはこん土佐の龍の天地生涯ただ一人の妻になるんじゃ。よう覚えとけや。わしが土佐ん坂本龍馬じゃ」
「おまえ、頭おかしいんじゃねえか」
血糊《ちのり》のついた刀を龍馬に突きつけた。
「ウオー、たまらんきつさぜよ。やってられねえよか。こん土佐の龍、座右の銘にさせてもらうぜよ」
「なんだ、こいつ」
と総司は斬りかかった。龍馬は軽々と腕を取り、
「ウオー、たまらんな、この色の白さ」
「はっ、放せ」
「いいか、おまんはわしの女房になる女じゃ。地獄の底まで追いかけて行くぜよ」
「放せ」
「かわいい女じゃ。ウンと言うまで放さん」
「放せ」
「おまえとわしはわれ鍋にとじ蓋《ぶた》ぜよ」
「何言ってんだ、おめえ」
「やめんか、こら、男ことばは」
「あ、よせ!」
総司の袴を引きずりおろし、まっ白いその尻をひっぱたいた。
「あ、痛!」
「あ、いた、じゃないき。この天下の坂本龍馬の妻になろうちゅう女ならしとやかにせえ」
「うるせえ」
「この女、性根叩き直してやらんと分からんらしいな」
龍馬のどこにそんな力があるのか、松の木をメリメリと引っこ抜いて総司に殴りかかった。
「やっ、やめろって」
「男ことば使うな!」
「わっ、分かった」
「分かったじゃない。分かりましたじゃ」
「分かりました」
「言うとくが、わしゃ口じゃ女は自立せないかんと言うとるが、ほんとはかわいい女がタイプじゃ」
「はあ?」
「よし、今とりこんでるんでなんじゃが、ま、落ち着いたらわしとデートばしてくれ」
「デートってなんだ?」
「デートってなんです、じゃ」
「はっ、デートってなんです?」
「今度男ことば使うたら、後ろからわしのデカマラをズッコンズッコン入れちゃるけの。分かったか」
「分かりました」
「デートは、ラブの潤滑油じゃ。ええな」
「は、はい」
「よし、行ってよか」
「はっ」
「ありがとうございます、じゃ」
「あ、ありがとうございます」
思わず頭を下げて総司は走って行った。
「かわいい女じゃ。女はやっぱり男の言いなりになってこそかわいさも増すっちゅうもんじゃ」
母の死骸《しがい》にすがりつき泣いていた海舟が夜叉のように恐ろしい顔をし、刀を手に飛び出してきた。龍馬は両手をひろげ、
「よう、海舟。久しぶりじゃのう」
「はっ」
「総司を許してやれや」
「なんですと!?」
「落ち着かんか、海舟」
「母が殺されたというのに落ち着いていられますか。父が死んだのもあいつのせいなんだ」
「海舟、そげん浅い考えで京都とやりあえると思っとるのか」
「うるさい!」
「そげなことで徳川六百万石の屋台骨をしょえると思っとるんか。おまんの判断一つで六十万徳川武士が路頭に迷うことになるんじゃ! あげな女はほっとけ。おまんには他にやることがあるじゃろが。わしの夢の『自由元年』を開くことがじゃ」
「どけ!!」
逆上した海舟は龍馬に斬りかかってきた。龍馬は激しく平手打ちし、海舟を叩きつけた。
龍馬は表に出、そして、押し寄せてくる黒い山を睨みつけ、
「どうじゃ、円朝。ほんにわしらは似合いの夫婦じゃろ。二人の愛ば見守っちくれ」
「フフ。どうですかね。坂本先生は総司ちゃんのタイプじゃないと思うんですがね」
「タイプじゃない? 女が笑わせるな。タイプは男が決めるもんじゃ。円朝、あの女にお茶とお花ば教えちょってくれ。なんせ、天下の坂本龍馬の女房になるんじゃ。えらかお人をいっぱい接待せないかんことになる。そんとき、恥ばかかせられん」
「あんたって人は」
「待てよ、京都行って美賀子さんの妹と見合いもせないかんな。どっちかを妾にせないかんということか」
そして、龍馬は総司が切り殺していった岡田家の兄弟たちの死骸から刀を四、五本拾い、
「どっちが妾になるにしてもじゃ、本妻は妾になにげなく気を使い、妾は本妻んとこに盆暮れには付け届けをし、二人してこんわしをもり立てていくという気にさせないかん」
ギョロ目の男が、「総司!!」と叫んで走ってきた。
「おまん、誰じゃ」
「二ツ川の以蔵じゃ。総司はどうした」
「もう、ここにはおらん」
「なに」
「どうじゃ、おまん、わしん家来になれや」
「なに」
「おまん、わしを先生と呼べや」
そう言うなり、龍馬は、
「斬って、斬って、斬りまくるぜよ」
と井戸から水をくみ、刀の刃に吹きかけた。
黒い山が近づいてきた。手に手に鎌《かま》や鎖を持ち、ヒタヒタと忍びよってくる。龍馬は五本の刀を地面に突き刺し両手を広げ、
「待たんか。おう、河原乞食ふぜいが、街中をいつから走れるようになったんじゃ」
「…………」
一言も発せず無数の表情のない目が龍馬を睨み、押し寄せてくる。
「さっ、河原に帰らんか。二万じゃろが三万じゃろが、こん土佐の龍が相手しちゃるき」
龍馬の怒声にも黒い山はひるむことなく、押し寄せてくる。
「クソーッ!!」
龍馬は刀を抜き七、八人斬りすてた。血糊がついた刀は使えない。また一本抜いては斬っていく。斬っても斬っても、物言わぬ河原乞食は押し寄せている。
刃がボロボロになり、手がはれた。五十人、いや百人は斬っていた。しかし、全く手向かってはこない。
龍馬の顔に焦りの色が濃い。
「こいつら、なんで手向こうてこんのじゃ。関東の河原者、滅ぶ気かあ」
と後ろから、何百頭もの馬のひづめの音があっという間に近づき、黒い山を蹴散らした。
馬上から刀や槍でひとつきにされ、河原乞食たちは将棋倒しのごとくバタバタと倒れた。
「チェスト! チェスト!」と薩摩|示現《じげん》流独特の叫び声がする。その中でひときわ大きな馬にまたがった中村半次郎のもみあげを生やした顔がニヤリと笑った。
その後ろの白馬には西郷吉之助が、黒い帽子をかぶり、肩に白いモールのついた軍服を着て、胸をそらしていた。
「坂本どん、これで借りば返しましたぞ」
西郷は馬上から親しげに笑いかけてきた。そしてその笑いも消えぬうちに、
「撃て!! 皆殺しにしろ!!」
と狂ったように背後の鉄砲隊に怒鳴ると、百はあろうかという銃が一斉に火を噴いた。あたりは真昼のようになり、あっという間に河原者の屍の山となった。三味線引きの年寄り女もいる。幼い角兵衛獅子もいる。水芸姿の女もいた。河原者たちはなにひとつ手向かうことなく、むしろ笑みさえうかべて自分から銃の前に飛びこみ、死んでいった。
この日、関東河原者死者五千。
この時鉄砲隊を指揮していた大久保利通が、後に、『我が拙《つたな》き腕、情け無くも二度と持ち上がることはあるまいと思へ候。それほどに撃ちに撃ち候へども、相手は一声も発せず、ただバタバタと倒れるのみにて候。立ち向かひくる気配など何一つ無きにて候。我輩悪夢の中にゐる心持ちにて心底恐ろし。今なほ一人寝床にてうなされることままあり候にて、不可思議なるあの手応《てごた》へのなさ、今だもつて謎なり』と書き残している。
総司は氷川坂から神社に通じる裏道を抜けて、ひたすら走った。
こんもりした森の中にはたくさんの小道がある。それがどこに通じるのか、総司にとっては自分の庭のようなものだ。ここを兄と二人でよく歩いたものだった。総司は涙が出てきた。
総司はそこに小さな墓を作った。ほんとうの子供以上にかわいがってくれた母だった。買い物に総司を連れて歩くのが楽しみだった。
手を合わせると、母が笑いかけてくれるような気がした。
生きなければ。生きて新しい時代を見ることが、それがなにより母の供養となるような気がした。
「あの野郎、今度あったらただじゃおかねえ。ああ、痛かった」
総司は裾をめくってみた。お尻に大きな手形がまっ赤になってついている。
「跡になってるよ、もう。何なんだよ、あいつはよう。あっ! あいつ、いつか石垣につっこんでた野郎だ!」
遠くから捕方が吹く笛が聞こえてきた。ハッとした総司はまた走り出した。森を出て、小さな街道を走った。途中、胸が苦しくなり、何度も血を吐いた。しかし、立ち止まると追いかけてくる足音が聞こえてくるような気がする。
「総司」
声をかけられ総司は立ち止まった。男が木の陰から手招きしている。
「以蔵さん」
「こっちじゃ」
「あたし」
「兄者たちは、おまんに斬られて本望じゃった。わしにおまんを守れという書置きを残しとった」
なぜ、私を愛してくれた人は皆死んでいったのだろう。一体、私は前世でどんな罪深いことをし、こんなにも深い業を背負わされたのだろう。
「総司、もう少しの辛抱じゃ。新しい時代になったら投票箱っちゅうのができるらしい。そして札に願いを書いてそこに入れると、どんな願いもかなうそうじゃ。な、もう少しの辛抱じゃ」
と、背後で、死に化粧顔の若衆たちが、手を口にあて「ホホホ」と笑っていた。彼らも下剃り衆との戦いでかなりの痛手を受けているものの、その不気味さは変わらない。
「この女かえ、沖田総司という帝にあだなす女は」
「色が白くて透き通るようじゃのう」
「ほんにうらやましい。こういう女こそわらわたちの敵じゃ。斬れ!!」
以蔵が叫んだ。
「総司、兄者たちから教えられた通りにやるんじゃ!!」
「クソーッ!!」
死間衆の一人が袖を泳がし飛び上がってもう一人の肩に乗ると二人一緒になって倒れかかってきた。その間わずか数秒、まるで曲芸師のような鮮やかさだ。
しかし総司は、総司の菊一文字は血に飢えた蛇がむしゃぶりつくように死間衆に食らいついていく。
若衆たちは、斬られながら笑っている。
素手で総司の刀を受け、自らの心臓に突き立て、噴き出した血をすすると総司の目をめがけて吹きつけた。
その間にまた一人が飛びかかってくる。
「総司、逃げろ、ここはわしがやる」
総司は逃げた。江戸の街を血を吐きながら走った。走りながら、やさしい兄のことを思った。
幼い頃、小さな総司の手を取って、「おまえのために美しい日本を作るのだ」と言ってくれた。
「兄上、よい時代をおつくり下さいませ」
総司は涙が流れてしかたがなかった。やがて時がたち、なぜ二人がめぐりあったのか、なぜ二人がいとおしく思い合わねばならなかったのか、殺し合わなければならなかったのか、きっとわかる日がくる。
せめて、その時まで生きていなければ。
どのくらいたっただろう、総司は抱き起こされた。六人の男と一人の女が心配そうに総司の顔をのぞきこんでいた。
「大丈夫か」
「だ、誰だ」
大きな男が自慢気に答えた。
「それがし、新選組局長、近藤勇でござる」
「同じく、土方歳三」
「同じく、山崎五助」
「同じく、大川《おおかわ》弥一」
「同じく、高野《たかの》四郎」
「同じく、カメラ屋留吉」
「同じく、土方絹」
連中の真新しいだんだら模様の羽織のまぶしさに、その罪のない笑顔の中に、総司は眠るように倒れこんだ。
発表/「野性時代」一九九〇年六月号に一挙掲載
単行本/一九九一年一月、角川書店刊
なお、この物語はフィクションであり、氏名・地名などが実在のものと一致する場合も含めて、実在の人物等とは無関係であることを、おことわりいたします。
(著者・編集部)