つかこうへい
愛人刑事
愛人刑事
女の肌は雪のように白かった。
しかもそれは吸盤のように鮫島《さめじま》の黒びかりする肌をしめつけてくる。
見事な腰のくびれと、挑むような乳房の強い張りは芸術品のそれといってよかった。
この女の身体《からだ》には、恥というものがない。それが男を狂わせる。
「……冷静にならねば」
鮫島は必死に自制しようとするが、女のその大理石のような艶《つや》やかな肌は潤《うるお》いを増し、鮫島を一層強くあおりたてる。
細い首すじをのけぞらした。浮きあがった鎖骨《さこつ》のあたりのホクロが目を射る。まっ白な肌に、一点の黒い宝石のようだった。
鮫島は荒々しく女の長い髪を払って、乱暴に口を吸った。女は激しくそれに応《こた》える。鮫島はしゃにむに女の歯を舌でこじあけた。
女も両手で鮫島の髪をつかみ、激しくその柔らかい舌をからませてくる。
「オレが関東|鬼心会《きしんかい》の鮫島と知って近づいてきたのか!」
女は答えず、鮫島の唇をむさぼる。
「答えろ! おまえは何者なんだ!」
鮫島の彫《ほ》りの深い顔が険しくなっている。背中一面の唐獅子《からじし》の彫物が波うっている。
「言え!!」
鮫島がこれほど大きな声を出したのは初めてだった。冷血と恐れられた鮫島が、いま自分をコントロールできなくなっている。
兄弟分にあたる木田良二《きだりようじ》が全裸で死んでいたのも、このホテルだった。
この女か。
まさか。
「クソーッ」
女は鮫島の首から胸、乳を音がするほど吸った。吸っては舌で円を描き、それは脇腹《わきばら》に進む。
「……もういい」
耐えきれず鮫島は女のあごをぐいと自分に向かせると開いた唇をまた吸った。女はうるんだ目で鮫島のなすがままにされている。
女の黒く長い髪が乱れて、紅潮した頬《ほお》にひとすじ、ふたすじ影をつくる。
「もっとやさしくして」
唇を離して甘えたように鮫島を見上げると、形のいい白い歯をのぞかせた。鮫島は狂ったように乳房に手をあてもみしだいた。
「ああ……」
女のあごが上を向き、目は妖《あや》しく輝き視線がさだかでなくなっている。鮫島は女の耳に息をふきかけ、噛《か》むようになめた。
「ああ」
女の目がいっそう貪欲《どんよく》な光を放った。
鮫島は、その透きとおるような耳たぶをかみながら手を伸ばし、女の柔らかな茂みをなでて、手にあたった尖《とが》ったものをこすりはじめた。それは、たちまち硬くなっていき、女は頭を小さくゆすりはじめた。
「ああ……」
両の手首をつかみ、鮫島は乳房を口にふくんで吸った。ピンク色の大きな乳首が充血している。
「ああ……」
見事に引き締まった艶やかな太股《ふともも》を大きく開いて、女はいまにも鮫島を迎え入れようとする。
「まだだ」
鮫島は身体をずらすと、後ろから女を抱き、長いうなじに唇をはわせ、なめまわし、もう一つの手は熱い花びらをなぞった。あふれるほどの蜜《みつ》が指を濡《ぬ》らし、腰を動かすと男の指を吸い込んだ。
「ああ……」
そのたびに吐息とも、叫びともいえない声をもらし、女の両足が鮫島の腰にからみついてきた。
「おまえは何者なんだ」
鮫島は、指で花びらをまさぐりながら女の背中に唇をはわせた。白い肌がうっすらと上気して、ピクピクと痙攣《けいれん》している。わきの下の薄い肉を吸うと、女は耐えきれないように身体の向きを変え、乳房を鮫島の胸に押しつけた。
「言え!」
女のしなやかな指は鮫島の背中を撫《な》でさすり、鮫島の唇を胸の豊かな脹《ふく》らみから、汗で湿った谷間へ、そしてたっぷりしたひろがりから、腰をグッともちあげて黒い翳《かげ》りへと誘っていく。
「ねえ、お願い」
切なく、かすれた声で、まるで飢えた女のように哀願した。
「まだだ」
しかし、耐えきれないのは鮫島だった。
「お願い」
「まだだ!!」
この女はいったいなにものなのだ。
昨夜、ホテルのバーで初めて会った女だが、この胴のみごとなくびれ、この肌の汚れのなさは娼婦《しようふ》のそれではない。
バーでは、女のほうから目線《めせん》を送ってきて、そろそろ帰ろうとしていた鮫島のテーブルに、ボーイがブランデーを運んできた。ボーイの言葉にふりむいて見ると、テーブル二つむこうの若い女が、グラスを右手でちょっと持ちあげた。濡れたような大きな瞳《ひとみ》が吸いつくように鮫島を見つめた。
彫《ほ》りの深い理知的な顔だちだったが、妖《あや》しい魔性を感じさせるような光を瞳の奥から放っていた。フッと短く笑うと、それは胸を突かれるような清純な笑みだった。
女は鮫島の返事を待たず立ち上がり、頬に笑みをうかべ、エレベーターに向かった。オレンジ色の胸の大きくあいたドレスが、身体にはりついたように女の曲線を強調している。鮫島は、女の長く伸びた足とひきしまった足首に吸いよせられるように、後を追わずにはいられなかった。
「ねえ、お願い」
しかし、この女は、何の目的で近づいてきたのだ。
「クソーッ」
鮫島は女の下腹部に唇を這《は》わせた。女は思いきり足を広げて腰をつきだし、「あっ、あーっ」と叫びとも悲鳴ともつかない声を切なげにあげた。鮫島はいったん唇を離すと、女の両足を持って、その太股の内側を唇でなぞった。
「ああ……」
耐えきれず、女は、
「ねえ、欲しい!」
叫ぶような欲望の声だった。
むっちりとした女の腿《もも》にはさまれた顔をあげて、鮫島は女の翳《かげ》りをのぞきこむ。濃い翳りはうねり、女の濡れた花びらが鮫島を挑発する。
鮫島は唇を押しつけ、花びらをくまなく愛撫《あいぶ》した。
「ああ……」
「いいか……」
「ああ……ああ……」
鮫島の唇の動きに合わせ、女は腰を突き上げ鮫島への愛撫をさらに強めた。
鮫島は身体を起こした。
「…………!」
女の中に深くわけ入ろうとする鮫島のものに柔らかくあたるものがあった。それが門のようになっている。
その門をこじあけると、狭い道があった。
鮫島は右ひざに力をこめた。
その道は、まるで鮫島をいたぶるように締めつける。
女は頭をのけぞらせると、ほてった下腹部をさらにぴったりと締めつけた。鮫島の堅くとがったものは、女の熱く濡れた中で、強くやさしく、早くゆるやかに、うねり、また突きたてる。
「あっ、あっ」
女はうっすらと額に汗を浮かべ、声を出すたびに鮫島はさらに締めつけられ、苦痛と快感が波のように繰り返し襲った。
「あっ、あっ、いい!」
女の腰がピクリピクリと動く。すすり泣くように声をもらしはじめた。鮫島の筋肉質の浅黒い肩を噛《か》んだ。そしてますます強く鮫島の身体にしがみつき、せつなそうに喉《のど》を鳴らす。しっとりと汗ばんだ女の身体からにじんでくる甘い体臭とまじって、シャネルの薄い香りがあたりに漂った。
「いいか」
「いいわ!」
小さく叫び、のけぞらした首が驚くほど細く、白い。揺れる豊かな乳房と対照的だ。腕も華奢《きやしや》なほどだった。女は飢えているとしか思えないほど、鮫島を貪《むさぼ》っている。
鮫島は耐えられなかった。女の身体にこめた力を抜こうとした。
「いや、いや」
女は鮫島の首にまきつけた手をいっそう強めて、少女のように首をふってしがみつき、激しく腰を動かした。鮫島は、もう耐えられなかった。
「す、すまん」
高層ホテルの窓の外に広がる街の灯が、果てた鮫島の目にぼんやりと見えた。
白いシーツの上の美しい女がほのかに浮かび上がった。
「よかった」
そうかすれた声で言うと女は起き上がり、タバコに手を伸ばそうとした鮫島の下腹部にまた顔をうずめた。
「あっ!」
頭に血がのぼってくるほど強烈な快感だった。鮫島は「ウッ!」と声をもらした。こんなに舌使いの上手《うま》い女は初めてだった。気がつくと、鮫島は肩であえいでいた。強い自制が必要だった。
鮫島は右手を動かしシーツの下の拳銃《けんじゆう》を確かめた。
鮫島はサイドテーブルに手を伸ばして、スタンドの明りをつけた。
「いや」
と言いながらも、女はやめない。
白い背中と形のいい尻《しり》が上下した。
女は両手で鮫島のものをやさしく包み、飽きることなく顔を上下させている。
この女はただものではない。しかし、この無防備ぶりはなんだ。
いま銃をこの女の頭につきつけ、引金を引けばそれで済むことだ。しかし鮫島はそれができなかった。
「もうよせ」
「もっと」
女の喉《のど》はどれほど深いのか鮫島のものは根元まで飲みこまれていく。女は舌の裏を使いだした。
鮫島の額に汗がにじんだ。
「後ろを向け」
鮫島は女のくびれた胴をもちあげうつ伏せにし、シーツの上にひざまずき、女の腰を両手で抱えた。
豊かな乳房が、つり鐘のように垂れている。それを強くもみしだいた。
女の背中が快感に耐えられないように小刻みに震えた。まっ白い艶《つや》やかな尻が目の下にある。それは柔らかく、豊かで唾《つば》を飲みこむほど美しかった。
女は両手をシーツにつき、その尻を突きだしてきた。その陰からのぞく花びらが、蜜で濡れて光っていた。
「来て」
悶《もだ》えながら、女は白い尻を振った。
鮫島は思いっきり尻をもちあげ両手でそれを分けると自分をつきたてた。
「ああ」
充足した女の声が、ゴブラン織りのヘッドボードにはねかえる。
シーツをかきむしって快感を訴える。
「ああ!」
鮫島の筋肉質の身体が激しく前後に動き、女の長い髪がライオンのたてがみのように揺れた。
女の背中にふきでた汗は、すぐさまその若い肌にはじきかえされる。
女は両手を壁につき、思いっきり激しく腰を左右に上下に揺らした。
「うっ」
しめつける女のそれに鮫島はまた耐えきれなくなっていた。それは、かつて味わったことのない快感だった。
「ああ」
女のあえぎがいっそう高まり、鮫島が歯をくいしばろうとしたそのとき、ベッドサイドの電話がけたたましく鳴りだした。
「なっ、なんだ!」
鮫島はとっさにシーツの下の銃に手を伸ばした。
「チッ」
と女は軽く舌打ちし、手を伸ばした。
受話器の向こうから、警視庁捜査一課の課長、飛岡為五郎《とびおかためごろう》の少し重い声が流れた。無味乾燥な警視庁の一室で、三つ揃《ぞろ》いのスーツを着て、しかめっつらで受話器を握っているのだろう。
「あっ、私だ。飛岡だ。鮫島のアリバイが崩れた。すぐに逮捕に向かってくれ」
女はつながれたままの男を離さず言った。
「いまむかってますわ」
「な、なんのことだ」
飛岡がすっとんきょうな声を出している。そばで部下の味川《あじかわ》が飛岡の顔をけげんそうに見つめていることだろう。
鮫島は撃鉄《げきてつ》を上げ、女のこめかみに銃口をつきつけた。が、女はつながれたものを離そうとはしない。
「あっ、あたし、あたし……」
「どっ、どうしたんだ!」
「もう、あたし!」
女はいっそう腰をふり受話器を置いた。その美しい顔がゆがみ、唇から甘い声が絶えずもれている。
「なんの電話なんだ?」
「気にしないで」
そう言うとあお向けになり、形のいい唇を鮫島の筋肉質の胸におしつけ、きつく噛《か》んだ。そして豊かに張った腰を鮫島の硬い下腹部に深くあてがい、きれいな歯並びを見せて鼻をならした。両足をしなやかに鮫島の腰にまきつけ、座位をとった。
「ねえ、もっと」
うねるように腰を使い、鮫島の動きを助ける。
鮫島はたまらず、女の胸に顔をうずめて、腰を動かした。
「早く、早くきて」
女の声がすすり泣くように高く切なくなってきた。その声がトーンを上げるたびごとに、鮫島をいっそう締めつける。波のように女が痙攣《けいれん》する。ゴムマリのように弾む女の白い肌の上で、背中一面の唐獅子《からじし》が激しく上下した。
うねりの頂点を迎えた女の爪《つめ》が背中の唐獅子をかきむしった。
「ああっ」
女が一段と激しく痙攣すると、鮫島に気が遠くなるような快感がおそってきた。
女は、鮫島が果てたあとも、余韻を楽しむように腰のつながりを回した。ピクンピクンと強い鼓動が、鮫島の身体をまた刺激しはじめる。
「よかったわ」
十二分に堪能《たんのう》した女の身体が止まった。
湯のはじける音がバスルームから聞こえてくる。
鮫島は寝乱れたベッドに身体を投げ出し、紫煙を吐き出した。
薄闇《うすやみ》の中に、たよりなげな白い煙の輪が消えていく。
鮫島は、めずらしく陶然《とうぜん》として、盛り場のネオンが反射してほんのりと明るい窓の外に目を向けた。
バスルームの音に異状はなかった。
だが、さっきの電話はなんだ。
鮫島は、バスルームに油断なく目を走らせた。
「お先に」
ほんのりと桜色に上気した肌にバスタオルを巻きつけ、女がベッドルームにもどってきた。
女は艶然《えんぜん》と鮫島にほほえみかけると、バスタオルをはらりと床に落とした。きめの細かい肌に、濃い翳《かげ》りがまぶしい。
「フフ」
女は少し笑い、ソファに脱ぎすててあった下着を手にとった。
「久しぶりだわ、こんなの」
鮫島が自分を見ているのを十分意識しながら、薄いベージュのスキャンティをゆっくりとはく。それから同じベージュのキャミソール。下着はそれだけだった。豊満な形のいい乳房はキャミソールの下で揺れ、乳首がピクンと上をむいている。
鮫島はサイドテーブルのライトを女に向けた。
「あら、こういう趣味もあるの?」
黒い艶《つや》やかな髪が、ややいかり気味の肩にかかり、豊かな胸もとからくびれた胴、日本の女にはめずらしく張った腰が鮮やかに浮かびあがる。深いカットのスキャンティが、女の長い足をいっそう長く見せた。
女はライトの中で、見せつけるように腕を上げて髪をはらった。白い肌が輝いた。
鮫島は苦々しくタバコをもみ消した。
「もう一度聞く。オレを関東|鬼心会《きしんかい》の鮫島と知って近づいてきたのか」
女は答えずに、テーブルの上のブレスレットに手を伸ばした。かすかにとがった細いあごをうつむけ、愛らしい口元に謎《なぞ》めいたほほえみを浮かべただけだった。
ピンク色の唇がめくれて白い歯がチラリとのぞいた。
鮫島は耐えきれず、サイドテーブルを拳《こぶし》で叩《たた》いた。
「おまえはいったい何者なんだ!?」
「…………」
「愛してもいいかと聞いているんだ!!」
鮫島は思わず口をついて出た自分の言葉にたじろいだ。こんなことはかつて一度として言ったことがなかった。
と、鮫島は女の右手に銀色に光る38口径、M60チーフスペシャルの短い銃身を見た。
「あなたのアリバイが崩れたそうよ」
「おまえだったのか」
鮫島の額に脂汗《あぶらあせ》がにじんだ。
警視庁でこの銀色のスナップノーズを持つ女は一人しかいない。
自分に向いた銃口を見つめる鮫島の頭に、女のつい先ほどまでの様々な痴態《ちたい》がよみがえった。あの唇が俺《おれ》を嘗《な》め、あの腰が俺をしめつけ、あの指が俺をまさぐり喜ばせた。その同じ手が、いま銃を握りしめている。
「悪い女だ。ヤクザを夢中にさせるとはな」
「あなた、ステキな人よ」
そう言いながら女はベッドに近づいた。
「その言葉は、オレの身体を堪能したと解釈してもいいのか」
「フフ。重宗《しげむね》ファイルについて教えて欲しいんだけど」
「重宗ファイル!?」
鮫島の顔がきびしくなり、サッと白くなった。身体をブルブルふるわせ押しつぶしたような声で、
「それに触れるのはよせ!」
と鮫島は拳銃に手を伸ばした。が、撃鉄《げきてつ》を起こす瞬間に男の世界は最後を迎えた。
額のど真中に穴があき、鮫島は銃に押し当てられた枕《まくら》から白い羽毛が無数に舞いあがるのを見ながら倒れた。羽根は、ゆっくりと落ちて鮫島の身体を覆い、まっ赤に染まっていった。
その時、ドアを蹴破《けやぶ》るようにして飛岡為五郎《とびおかためごろう》捜査一課長が警官隊を率いてなだれこんできた。
飛岡は一瞬にして部屋の状況を見てとった。
「村井《むらい》君、なぜ撃ったんだ!」
「正当防衛ですわ」
女は振りかえり、甘えるような口調で言った。
飛岡は心底から怒りがこみあげてきた。その八十キロの巨体をふるわせ雷のような声で、怒鳴った。
「正当防衛で君は一体何人の命を奪えば気がすむのかね!!」
女は答える代わりに、瞳の奥から妖《あや》しげな光を放ち、凄艶《せいえん》ななまめかしい表情を作った。
飛岡はたじろいだ。かろうじて、
「村井君、服を着たらどうかね。それとも裸を見せるのが好きなのかね」
「あらっ、ごめんなさい」
女はソファの上に散らばったものをあわててかき集めると、バスルームに消えた。
「おい、おまえら、なにボヤボヤしてるんだ。さっさと片づけろ!」
ほんの数分で女は出てきた。オレンジ色のドレスを着て、きちんと髪をアップにしている。その威厳《いげん》のある顔立ちに、飛岡はすぐには言葉が出てこなかった。情事のあとを残す寝乱れたベッドと、その傍《かたわ》らにころがる血だらけの男の死体とはおよそ無縁に見えた。
「まさに君は刑事の鑑《かがみ》だね。捜査のためなら、容疑者とでも平気で寝る」
皮肉まじりの飛岡の言葉に、一瞬女の黒い瞳に媚《こ》びるような優しい光が映った。
「それをほめ言葉と受けとってもいいのかしら」
女は敬礼し、ケリーバッグを取りあげるとあどけない笑いを残して部屋を出ていこうとした。
「まっ、待て」
「あら課長、送ってくださるのかしら」
「なにい!?」
飛岡のこめかみがひきつったまま動かなかった。
エレベーターホールに向かう女の耳に、飛岡の怒鳴り声が聞こえてきた。
「オイ、なにしてんだ、早くかたづけろ! こんな死体がめずらしいのか! まったくどいつもこいつも役にたたねえヤツばっかりでよ!」
飛岡の部下の味川《あじかわ》がムッとした口調で、
「あの、課長、このことを警視総監に報告しないでいいのでしょうか」
「なにをだ」
「ですから鮫島を殺したことを」
「おまえ、耳がないのか。正当防衛だって言ったろうが!」
「しかし二度も続きますと」
女は先月、関東鬼心会幹部、木田《きだ》組の組長木田|良二《りようじ》も、このホテルで殺している。
「二度だろうが、三度だろうが、本人が正当防衛だって言ってんだから、仕方ねえじゃねえか」
飛岡は大きな声を出し、顔を鬼瓦《おにがわら》みたいに赤くしてこぶしを振り回した。
「しかし、あのアマ、今度会ったらひっぱたいて押し倒してズカンズカン言わせてやるからな」
「ほんとですか」
「オレが冷たいもんで欲求不満になってるんだ」
「はあ」
「惚《ほ》れてんのよ、あの女がオレに」
クスリと笑みをもらし、エレベーターに乗りこんだ女の名は村井|玲子《れいこ》。警視庁捜査一課刑事、二十五歳、独身。
女のマンションは代々木《よよぎ》にあった。静かな住宅街の中の瀟洒《しようしや》なレンガ造りのマンションである。
ゆるやかな坂道の両脇にポプラが植えてあって、夜になってようやく涼しくなった九月の風にサワサワと揺れた。
女はマンションの前の駐車場に、メッキの剥《は》げかかっているグレーの六五年製ムスタングを止めた。
カセットの調子が悪く、あちこちいじっていると、車の電話が鳴った。
「村井さん、味川です」
間のびした味川の声だった。
「あら、どうしたの」
「実は……」
この育ちのいい味川は長身のひ弱そうな感じがする男だが、玲子は妙に頼もしいと思っている。味川は、銀座《ぎんざ》の老舗《しにせ》の日本料理屋の長男なのだが、跡を妹の亭主にゆずって刑事になった。
「アメリカのデンバーでリチャード・キリングストンを殺したのは鮫島《さめじま》たちであることがわかりました。死体から摘出した弾丸の旋条痕《せんじようこん》が、鮫島の持っていたコルト・ハイスタンダードのものと一致しました」
「そう」
「驚かないでくださいよ」
「なあに?」
「リチャード・キリングストンはアメリカ軍のB29爆撃機、エノラ・ゲイ号が広島に原爆を投下したときの搭乗員の一人だったんです。正確にはコックピットに乗りこんでいた航空士でした」
「やはりね」
「知ってたんですか」
「ちょっと気になったことがあって」
「いま、ファイルを取り寄せていますが、先日、スペインのバルセロナで交通事故でジム・スターンという老人が死んでおります。この男もエノラ・ゲイに同乗していたと思われます。この男も、鮫島がやったんですかね」
「でしょうね。他《ほか》にエノラ・ゲイに乗っていた人は?」
「なにぶん四十年も前のことですから、ほとんど生きておりません」
「うん」
「噂《うわさ》では中国人が一人乗りこんでいたということです。真偽《しんぎ》のほどは定かではありませんが、その中国人は生きております」
「だれ?」
「驚かないでくださいよ、李正元《りしようげん》です」
「…………」
李正元は、今年七十五になる香港《ホンコン》の政財界をも意のままに動かせるという暗黒街の大ボスだった。が、その姿を見たものはいない。
「そして、李正元は日本人だとの噂もあります」
「韓国人《かんこくじん》という噂もあるんじゃない?」
「とにかく、ファックスを送ります。受け取ってください」
「わかったわ」
「香港警察に照会してもらったものですから、あてにはなりませんが」
ダッシュボードを開けると、グリーンの光がもれて、小型ファックスから通信文が吐き出されてきた。
李正元、一九一〇年、中国|黒竜江《こくりゆうこう》省に生まれる。蒋介石《しようかいせき》の信《しん》厚い懐刀《ふところがたな》として若くして中国国民党軍の第三八師団の将軍。江西《こうせい》省|瑞金《ずいきん》の革命根拠地を襲い、毛沢東《もうたくとう》が率いる中国共産党と紅軍を長征に追いやった人物だった。
その後も蒋介石の参謀として何度も毛沢東の暗殺をはかったが失敗。一九四五年、八路《はちろ》軍が攻勢に転じたときに捕虜《ほりよ》となってテニアンの収容所に入れられていた。
「テニアン?」
「おかしいでしょう。なぜ、中国から三千キロも離れたテニアンの収容所に連れていかねばならなかったのでしょうね。しかも終戦間近になって」
テニアンは当時はアメリカ軍の前進基地であり、エノラ・ゲイが飛び立ったところだ。
「李正元と鬼心会……。一度、私も香港へ行ってきたほうがよさそうね」
「でも、どうして李正元に近づきます?」
「これから考えるわ」
月に雨を知らせる輪が薄くかかっている。湿りをおびた風が少し出てきたようだ。
「飛岡さんは」
「警視総監から呼ばれています。辞表を書かされてるんじゃないですかね」
「フフ。とにかく、香港に行く手配をして」
と、突然ムスタングのドアが開かれ、杖《つえ》を持った小男の老人が顔をヌッと出した。皺《しわ》ばんだ茶色の皮膚がなめしたように輝いている。ソフト帽をとるとにこやかに玲子に笑いかけ、
「私どもが準備いたしましょう。明後日、横浜《よこはま》港から出航するクイーンエリザベスU世号なら香港に行きます。そう急ぐ旅ではないのでしょう、ゆっくり船旅をお楽しみください」
「…………」
「お初にお目にかかります。私、関東鬼心会の弁護士をしております川崎《かわさき》と申します」
慇懃《いんぎん》に名刺を押しつけた。
銀杏《いちよう》が風にサワサワと揺れた。道の向こうに川崎を待っている、スモークガラスの黒い大型リムジンが見える。
「鮫島には一番安全なところをと思い、留置場に入っていてもらおうと思っとったんですが、手遅れでした」
「いい人でしたわ」
「そのいい人ってところが、いつかあいつの命とりになるだろうと思っていました」
川崎はにこやかな顔を一転させ、凍りつくような笑いを浮かべると、
「ものは相談ですが、もう、勘弁していただけませんか。今夜の鮫島といい、先月の木田といい、組織はもう参ってます」
「……お断りします」
「ではあなたが私どもに関《かか》わりあいになる理由はなんでしょう」
「フィアンセを殺されています」
「ああ、大東《だいとう》新聞社の田辺《たなべ》良介《りようすけ》君でしたかな」
「そうです」
「あの人には私どもも手を焼かされました。あの人から脅《おど》しとられた金は五千万や一億ではありません。実に卑劣なヤツでした!!」
自分の大声を恥じたのか、急に声を落として、
「あなただって彼のために随分《ずいぶん》不愉快な思いをなされたというじゃありませんか。それに、田辺君は痴話|喧嘩《げんか》の末、ホステスに刺されたこともあったんですよ。女と見ればひっかけて後は冷たい仕打ちということなら、刺されもします」
「死ぬとき、良介は重宗《しげむね》ファイルと口走りました」
「たとえその名前を口走ったにせよ、我々にも誇りというものがあります。あのゲスに手をくだすほどおちぶれてはいません」
「……でも、愛した男に変わりはありません」
「参りましたなあ」
と川崎はハンカチで額の汗をぬぐった。
「どうしたら、手を引いていただけますか」
「……無理です」
「あなたの後ろにいるのは寺岡《てらおか》総理ですか。でないと、一刑事がこう自由には動きまわれませんものね」
そして川崎は、はったりのない口調で、
「寺岡は昔からエエカッコしいのところがありましてね。おかしなことやりだすんじゃないかと心配していたんですが。総理大臣を消すわけにもいきませんしね」
「…………」
「しかし、何とか話しあいで解決しときたかったんですけどね、残念ですなあ。じゃ、我々も本気でかからなきゃいけませんな」
「…………」
ゾッとするような笑いを浮かべ、ソフト帽をかぶると、
「とりあえず、今夜もう一度御|挨拶《あいさつ》にまいります。できるだけ早くあなたには白旗《しろはた》をあげていただきたいのですが……。もう、私たちは無益《むえき》な殺生《せつしよう》をしたくはないのです」
また笑いかけ、礼をすると、小さな身体《からだ》を折るようにして近づいてきたリムジンに乗りこんだ。
「いまお帰り?」
車を駐車場に入れて、マンションに行こうとする玲子に、隣のスーパーの吉沢《よしざわ》さんが声をかけてきた。
「若い女の子があんまり夜遊びしちゃだめよ」
「はあい」
「ひじきを煮《に》たんだけど、お食べよ」
「まあ、ありがとうございます」
吉沢さんは去年亭主に先だたれたわりには陽気なおかみさんだ。元|八百屋《やおや》の亭主はこの店をスーパーにしたとたんぐうたらになって寝て暮らしていたそうだ。この死んだ亭主の悪口と嫁の悪口が大好きで、嫁が泣きながら実家に帰る話を嬉々《きき》としてしゃべったりする。
「ここんとこよく、あんたのことを聞きにくる人がいるけど、やっぱ縁談かね」
「さあ」
「あたし、いいことしか言わないからね」
「よろしくお願いします」
「あんたみたいなんがうちの息子《むすこ》の嫁だったらいいのにねえ」
「アラ、あたしそんな女じゃないんです」
「なに言ってんだよ。あたしにはちゃんとわかってるの」
「本当ですよ」
「あ、あとで預かりものを届けるから」
「預かりもの?」
「またあの帽子をかぶった年寄りの人が届けてきたのよ。例のごとく黒い封筒。でもさ、あの人新聞に載ってる寺岡って総理大臣に似てるね」
「本物の総理大臣なんですよ」
「えっ!?」
「冗談ですよ」
五、六歩で玲子のマンションだ。玲子はエレベーターに乗った。五階だての四階に玲子の部屋がある。
広さ四十平方メートルくらいの1LDKの部屋だった。この女の部屋としては質素で、テーブルにチェスト、ソファが一つずつ、それと小さな固いベッド。装飾品といったらカンディンスキーのポスターがピンで白い壁にとめてあるだけだ。
上着を脱ぎ、冷蔵庫から缶ビールを取り出して一口飲んだ。窓をあけると、すぐ近くにそびえたつ西新宿《にししんじゆく》の高層ビルの明りが華《はな》やかだ。その下に無数にネオンがまたたいている。
チェストの上の壁に男の写真がかけてある。ラグビーの選手だったころのだ。左手にボールを抱え、彫《ほ》りの深い整った顔が笑っていた。
ほんとうに私のことを愛していたのか。それを問いただすこともなく死んでしまった。この人の写真をまだはずすわけにはいかない。
と、電話のベルの音がした。
「もしもし」
弟の浩一《こういち》からだった。弟といってもみなし子だった玲子とは血のつながりはない。
「浩ちゃん、どうしたの?」
「姉さん、たまには家に帰ってくれよ。母さんがさびしがってた。四年も行方《ゆくえ》をくらまして、帰ってきたと思ったら全然寄りつかないじゃないか。数えるほどしか家に帰ってないんだろ」
「うん。でも、いまちょっと忙しいんだ」
「忙しいったって、三十分もあれば家まで来れるじゃないか」
「うん」
おととし、アメリカから帰ってきて以来、家に寄ったのは二度しかない。母に会うのがつらかった。いつもやさしく微笑《ほほえ》んでいるような人だ。母は安川《やすかわ》財閥の末娘として育ち、疑うことを知らない。
そしてこの弟もそうだ。つつましく、控え目な男だ。大学もアルバイトで学費をかせいで出た。就職した小さな商社も自分で探してきた。
「それに僕も姉さんに相談したいことがあるんだ」
「なあに」
しばらくためらうような沈黙があって、やっと、
「結婚しようと思ってさ」
「まっ、よかったわね」
「きっと、母さんたち反対だと思うから、姉さんに説得してもらいたいんだ」
「どういう人?」
「普通の子だよ」
「なに、普通の子って。言ってくれるじゃない」
「そっ、そんなんじゃないよ」
純情な弟が電話の向こうでまっ赤になっているのがありありとわかった。
この弟だけは幸せになってほしい。
玲子のマンションとは通り一つへだてた甲州《こうしゆう》街道の交差点を右に三、四歩行くと「丹兵衛《たんべえ》」という居酒屋がある。飛岡為五郎《とびおかためごろう》はその戸をあけて入ろうとした。が、あかない。
「まったく、戸ぐらい直しとけや」
思いきりけりあげて開けた。
店の中は昔の民家風だ。中央にいろりがあり、その周りに客が腰かけて思い思いに酒を飲んでいる。カウンターの客の前には備前《びぜん》焼きの大皿に色々な煮物が盛られていた。
「飛さん、こわさないでよ」
いつものおやじが声をかけた。
「こわれてるじゃないか、もう」
と入るなり椅子《いす》をけりつけた。
「よう、きげん悪いね」
栗色《くりいろ》の髪の毛の人なつこい顔が笑っている。ソ連KGB極東工作員、アンドレイ・ヌレーネフだった。
「おう、ヌレさん、元気か。いつ帰ってきた」
玲子の正当防衛の件で警視総監にどやしつけられ、くさっていた飛岡は相好《そうごう》を崩した。
「きのうだよ」
「そうか、そうか。ヌレさんがいないと東京も楽しくないよ」
ヌレーネフの隣に腰かけると、飛岡はカウンターの上にある保温器から熱いタオルを自分でとりだし、
「おやじさん、オレにこの冷ややっこと、さといも、切干《きりぼし》大根をくれ」
「へい」
おやじは顔に似合わない高い声で返事をした。
ヌレーネフは、箸《はし》を上手に使ってサバの煮付けを食べている。
「ヌレさん、あんたがそうやってサバを食べてくれてる間は、日本とソ連の間に戦争は起こらないと思うよ」
おやじは楽しそうにそんな会話を聞いていたが、パンを出して、
「飛さん、ヌレさんが特上のキャビアを持ってきてくれたんだ。食うかい」
「おう、食わしてもらおうじゃないか」
飛岡はズボンをゆるめ、ピストルをカウンターの上に無造作《むぞうさ》に置いた。
と、ヌレーネフは顔をしかめ、
「けっ、そんなものをありがたがって食ってるから日本人から義理と人情がなくなったんだ。やっぱ、納豆《なつとう》が一番よ」
ヌレーネフの日本での身分はソ連大使館の一等書記官だ。十年前に来日して、警視庁の飛岡と知り合いになった。何の目的で近づいてきたのか、飛岡は気にかけなかった。二人は意気投合し、今ではヌレーネフは飛岡から日本人の心情をそっくりいただいている。もともとそういう気質だったのかもしれなかった。
一緒に旅行することもある。飛岡の家がある岩手にも行った。朝早くから、馬車馬のように畑仕事を手伝ったかと思うと、一日中|五右衛門風呂《ごえもんぶろ》に入っていたこともある。貴族的な繊細《せんさい》な外見からは想像できないほど豪放な男だった。
「そんなに怒って、なにがあったんだ」
「またあの女だ。あの女がまたしでかしやがったんだ」
飛岡はコップ酒を一気にあおった。
その村井玲子という女が赴任《ふにん》してきて以来、飛岡の口から玲子の話が出ない日はない。ヌレーネフはその女に会ってみたかった。
おやじに目くばせをして、
「飛さん、そうとう惚《ほ》れてるね」
おやじがフフと笑った。
「バ、バカ言うな! 怒るぞ!」
「まっ赤になってるよ」
ヌレーネフは、日本酒をチビチビやりながらポツリと、
「もう、こうして飛さんともゆっくり飲めないかもしれない」
「どうして」
少し照れて、
「オレも本来のスパイ活動をしなければならない」
「おまえってヤツは、スパイだったのか」
ヌレーネフは大笑いした。
「だから、あんたのことが好きなんだ。日本に来ているソ連人でKGBの息のかかってない者はいないさ」
「そうか」
「でもオレたちの友情は変わらないけどな」
「もちろんだ。義理がすたればこの世は闇よ」
「ハハハ」
ヌレーネフの笑いは乾いて、淋《さび》しさが残った。
たしかに、このところソ連は屈辱を強《し》いられている。チェルノブイリ原発事故でも、救援活動を条件にその詳細をアメリカにむりやり公表させられた。ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を推し進めたゴルバチョフにしてみれば、好都合かもしれなかったが、軍人たちの不満は大きく、ゴルバチョフの失脚を願う声は日増しに高くなっている。
「オレ、スパイなんかやめて岩手に行って飛さんとこで百姓でもやりたいよ。オレは日本が好きなんだ」
「ヌレさんみたいなんがうちの妹と結婚してくれたらいいんだけどな」
「玉子《たまこ》さんか」
「ああ。でも、ああ太ってヘチャムクレだし、もらってくれるヤツなんかおらん。おまえの好みには合わんと思うが」
「オレ、あの人好きだよ」
「よせよ、冗談は。村で女|相撲《ずもう》やってるんだぜ」
「いや、好きだよ。ロシアの黒い大地を感じさせるもの」
「バカ、そんな黒い大地なんて上品なもんじゃないんだ。黒いモチなんだ」
実際、ヌレーネフは玉子に好意を持っていた。日本にいられるという条件でなら、玉子と一緒になってもいいとさえ思っていた。女に不自由はしないこの二枚目は、ロシア女の気の強さにへきえきしているのだろう。
「ヌレさん、あんたもスパイなら一つ聞くが」
「大きな声でスパイスパイ言うなよ。オレにだって立場があるんだから」
飛岡はまっ赤になってあたりを見回した。小声で、
「すっ、すまん。いや、重宗《しげむね》ファイルってなんだ?」
ヌレーネフの頬がピクリとした。そして小声で、もうあきれたというようにクスクス笑いだした。
「だから飛さんのこと、オレ好きだよ。でもそういうことを日本の公安に教えたりすると、オレは生きていられないんだけどね」
「え? そうか。すまん、すまん。村井に調べてもらえないかと言われたもんだから。ホラ、オレ女に頼まれると弱いんだ」
飛岡は日本酒をグイとあおった。
「KGBってのは恐ろしい組織でね。例えばオレにある命令をするだろ、けどオレを信用できなくて、もう一人オレの監視役がつくんだ」
「へえ」
「その監視役がこのおやじさんだってことも十分ありえるんだ」
「えっ?」
「まっ、それは冗談にしても、そういう組織なんだ。だからあの国は成り立っていってるのだろうが、伸びない理由もそこだ。つまり、人員が倍いるということだ。麦の検査一つとっても、検査するヤツをまた検査する。キリがないんだ。そのうち、人間がまじめに働くのがアホらしくなるんだよ」
「ふーん」
そして、ヌレーネフは力強く、
「しかし、これからのソ連は変わるぞ」
そのためにも、重宗ファイルは抹殺《まつさつ》しなければならない。もはやアメリカのあげ足とりをもってことたりる時代ではない。
店の客は二人だけになり、おやじが片づけを始めた。
「飛さんとの友情のために教えようか、重宗ファイルのこと」
「よっ、よせよ」
「構わんよ。君の好きな人のためだ。重宗ファイルとは、一九四五年にルーズベルトと日本の外務大臣重宗|伊作《いさく》との間に交わされた終戦に関する秘密条約書だ」
「ふうん」
「あのとき、アメリカは執拗《しつよう》に日本に無条件降服を要求し、その代わり日本の領土も分割せず、賠償金《ばいしようきん》もとらないということを主張した。これはどう考えてもおかしい。古今東西、勝って戦利品のない戦さなんてないからな。ソ連、イギリス、フランスが怒った。が、アメリカはそれを抑《おさ》えつけたんだ。だから何かアメリカと日本の間に裏契約があったと当時言われてた」
「それはなんだ」
「日本からアメリカに、原爆を一つ落としてくれって頼んだらしいんだよ」
「なっ、なに!?」
「冗談だよ、冗談」
「フー、びっくりさせるなよ。で、重宗ファイルはどこにあるんだ?」
「香港《ホンコン》だ」
「香港?」
飛岡は腕を組んだ。
「なあ、ヌレさん、そんなもんが公表されたらどうなるんだ」
「日本は大恥をかくだろうね」
「じゃ、さっきの話は」
「まんざら冗談でもない。アメリカは当時国防費の三分の二を費《つい》やして、原子爆弾を開発していた。一方、日本は戦争をやめたがっていた。利害関係が一致したんじゃないのかね」
と、表にギシギシという音がして、二十トンはありそうな大型トレーラーが動いているのが見えた。
「なに積んでんだ。あの音は重い戦車でも積んでんじゃないのか」
飛岡は一瞬、イヤな予感がし、表に飛び出した。
ようやく、スーパーの吉沢さんが帰っていった。まったくよくしゃべる人だ。八十九と七十八になる義理の両親がすっかりぼけてしまって、週二回はタクシーに乗って今はもうない地名を探すのだという。そのタクシー代が月に二十万ぐらいかかると嘆いていた。
吉沢さんも大変だわ。玲子は缶ビールの栓《せん》を抜き、吉沢さんの持ってきた大きな角封筒を開けた。
李正元の写真が出てきた。セピア色になった若者の写真だ。こちらをまっすぐに見て、何か思いつめたような顔が凜々《りり》しい。
この男から重宗ファイルを取り返してもらいたい。寺岡の添書《そえがき》があった。
突然、ギシギシと何かを踏みつけるような大きな音が近づいてきた。
外を見た玲子は目を疑った。
大型トレーラーに積まれた74式戦車が砲頭を回転させ、こっちに砲門を向けるといきなりぶっぱなしてきた。
九月の陽《ひ》ざしに、キャンパスの片隅に建っている礼拝堂をおおうツタの緑が映えていた。
良家の子女しか入れないと評判の、ここ蘭花《らんか》女子大では、手入れのゆきとどいた芝生《しばふ》の上で、女子学生たちがおもいおもいに空き時間をすごしていた。ときおり起こるはじけるような笑い声に、草の実をついばんでいた小鳥たちがいっせいに飛びたっていく。
レンガ造りの校舎の三階にある一年B組の三時限目は、英米文学である。テキストはサリンジャーの『フラニー』。
長い髪をひっつめてゴムで束ねた女教師が、紺色のブレザーにエンジのネクタイをした制服姿の学生の間を歩きながら読み進めている。学生たちの白いソックスはキチッと二つ折りである。校則が厳しく、シャツのボタン一つとれていても始末書を書かされる。
「つぎ、十八行目でつかわれているI guess I'm gonna miss you≠ヘ、あなたを失うという事実を単に説明するのではなくて、あなたがいなくて淋しい、だから早くわたしのところへ戻ってきてほしい、という願いをこめて言っている言葉です」
いちばん後ろの席の坪田京子《つぼたきようこ》が手をあげた。身長一メートル六十五のスラリとした学生だ。その美しい顔立ちとプロポーションで、街を歩くと振り向かない男はいないほどだ。
「はあい」
「?」
京子は利発《りはつ》そうな目をいたずらっぽくクルクルとさせ、
「先生、訳をとばしてますけど」
「えっ?」
教室のあちこちでガヤガヤと声があがる。
「十五行目のfuckin' you≠ナす。どう訳すんですか?」
「いえ、あの、その」
女教師は首までまっ赤になり、それが白いスーツでますます際立った。
「この in' はたぶん、進行形の ing を縮めたものだと思いますが、どうしてgが消えるんですか?」
「そっ、それは口語を発音どおりに記《しる》したからそうなっているんです」
学生たちは私語《しご》をつつしみ、興味深そうな目がいっせいにこの女教師のうろたえる姿にむけられた。
「意味はどういうことですか」
「あの、その」
強度の近視らしく、黒縁のレンズの厚い眼鏡《めがね》をかけた女教師は、教壇の上でまっ赤になって立ち往生《おうじよう》した。
「こっ、これは別に訳さなくてもいいんです」
「なぜ訳さなくてもいいんですか」
他の学生たちがいっせいに机を叩いた。京子もハラリとおちてきた前髪をかきあげながら、自分の質問の効果を確かめるようにじっとこの清楚《せいそ》な女教師を見つめる。ハート形の美しい顔をした森岡涼子《もりおかりようこ》が、協力するわよとばかりに京子に目くばせをした。それを合図に、教室がいっせいに騒がしくなった。となり同士でコソコソ耳うちし、笑いをこらえながら女教師の様子をうかがっている学生もいる。
「しっ、静かにしなさい」
「先生、どうしてそんなに赤くなっているんですか。fuckin' you ってのはなにかおかしな意味なんですか?」
「あの、その……」
学生たちは、意味などとうに知っていた。目的はひとつ、この二十五になっても男の噂《うわさ》ひとつたたないウブな女教師をからかってみたいだけだ。
「こっ、これはスラングです」
「だからどういうスラングですか」
「ですから……」
しゃがみこむようになってしまった。
いつもならひやかしで終わるのだが、今日の京子は粘《ねば》る。
昨夜は、京子の家の月に一度の外での夕食会だった。食事のあと立ち寄ったホテルのバーで見たのは、たしかにいま、目の前でしどろもどろになっている女教師、村井玲子であった。
落ち着いた色調で統一されたバーには、渋いスーツの男性客が多かったが、マホガニーのテーブルに目をやって京子は「あっ」と声をあげそうになって口をおさえた。
目のさめるようなオレンジ色のワンピースの女性がひとりでグラスを傾けている。身体《からだ》にぴったりそったヴァレンティノのドレスは、いつもの地味な姿からは想像もできないが、ぬけるように白い肌、ツンと先のほうが上に向いた鼻、形のいい小さな口元、少しとがったかわいらしいアゴは、確かに先生だった。
すらりと伸びた長い足を組み、大きなゴールドのイヤリングとおそろいのブレスレットがダウンライトの光にきらめいて、大輪の花のようなあでやかさだった。
声をかけようとしたとき、角刈りの背の高い男とエレベーターに消えた。
「……まったく、正体のわからない先生なんだから」
そのとき、終業のベルが鳴った。
「あっ」
救われたように女教師は、軽いため息をもらした。
「じゃ今日はこれでおしまい。トーマス・ハーディの『メイヤー オブ カスターブリッジ』のレポートは来週までですよ。今度はお預けはありません。私は、少し長い間旅に出ますが、代わりは坂本《さかもと》先生にお頼みしてありますから、期限厳守ですよ」
「いや、ずるい」
「またにげるんだから」
学生たちが口々に非難の声をあげる中、女教師は出席簿を小脇《こわき》にかかえ、身をひるがえして廊下に走り出た。
「先生、村井先生」
「待ってください。たまには私たちとゆっくりお話しする時間もつくってください」
先を争って女教師の後ろ姿を追った。
学生たちは、このひっつめ髪と眼鏡を取れば、先生がとびきり美人だということは皆知っていた。なにか質問すると桜貝のような耳を赤く染めて恥じらう、謎めいたこの村井先生が大好きだった。
校舎の外では、濃い緑色の銀杏《いちよう》の葉が一枚一枚、風に揺れている。
まだ動揺を残したまま校舎から出た玲子は、強い陽ざしに一瞬まぶしそうな表情をみせた。アライアの白いスーツがその光を反射した。
校舎とは少し離れた礼拝堂の大きなドアから、ドイツ人のジェイド神父が、太った身体を揺らし足をひきずりながら出てきた。神父の青みがかった灰色の瞳が女教師に笑いかけた。
つつみこむような笑顔には不釣《ふつ》りあいなほど深い皺《しわ》がきざまれ、頬には大きな傷跡がある。
「学生たちが騒いでいたようですが、またからかわれたのですか」
神父はヘッセン地方の生まれなのだろう。金髪にふちどられた顔の輪郭は鋭くその皮膚は青白い。削ったような鼻と薄い唇、禁欲的なまなざしや少し憂鬱《ゆううつ》そうな広い額がゲルマン的特徴をあますところなく示している。
「ほんとおませさんばかりで困りますわ」
玲子は大きな留め金のついたジャンマリアのセカンドバッグからハンカチを取り出し、額の汗をおさえた。
「厳しすぎるんですよ、この学校の校則が」
「そんなことありません。大事な娘さんたちをお預かりしているんですもの、当然ですわ」
「しかし、門限が九時というのは、神もお許しにならないでしょう」
神父は、講堂の隅にある尖《とが》った屋根をのせた白い学生寮を指さした。
学生たちが監獄というように、窓には鉄格子がはまり、いたるところにビデオカメラが設置してある。
「九時だって遅すぎます。わたしは八時で十分だと思ってます」
「オー マイン ゴット(オー マイ ゴッド)!」
神父は手のひらを上に向け、オーバーに太い腕を持ちあげた。そして赤い唇の端に笑いをうかべ、肩をすくめてみせた。
また始業のベルが鳴り、キャンパスが静かになった。
ジェイド神父はそれが合図のように声をひそめて、玲子に言った。
「ちょっと地下室におよりになりませんか。おもしろいものが出来あがりました」
「またですか」
玲子に顔をしかめられ、神父は狼狽《ろうばい》した。
「いえ、きっとお気に召していただけると思います。見るだけ、見てくれませんか」
「フフフ、神父さまこそ神から見放されてしまいますわよ」
「いいえ、私はただ冷たく美しいものが好きなだけです。さっ、どうぞ」
「私、持ち物に興味ないんですよ」
「そうおっしゃらず、一流の人間は一流のものを身につける義務があります」
「それもイエス様がおっしゃったことですの」
「と、私が解釈しているだけですが」
「フフフ」
礼拝堂の分厚い樫《かし》のドアを開けると、ステンドグラスを通った光が美しい色彩を作っていた。中はシンと静まりかえり、木の長机が整然と並んでいる。
玲子は、燦然《さんぜん》と輝くマリア像を見つめながら、
「私、お祈りしていきますから先に行って下さいな。長くはかかりません」
「そうか、今日は良介君の命日でしたか」
「ええ」
「早いものですね。あれから六年ですか」
神父は、祭壇のろうそくに火をつけながら目を細めた。
大学を卒業して新聞社に入った良介は、アメリカの出張から戻ってこの大学の門を入ってくるところを狙撃《そげき》された。玲子は良介の額に穴があいて、顔が歪《ゆが》んでいったのをまるでスローモーション・フィルムを見るように思いうかべた。倒れた良介の死体にとりすがって泣いていた。
「もう良介君のことはお忘れになったらどうです」
「そうはいきませんわ」
神父はあきれたように手を上げ、
「女というものは分からないものです。あの人は……」
「神父様までそんなこと言わないでください。私にはいい人だったんです」
キッと言い切る玲子の顔に、大きな十字架に反射されたステンドグラスの光が当たっている。祈りを終えて、玲子が振り向いた。
「あっ!!」
ジェイド神父は思わず声をもらした。四十年前だ。あのお方があの浜にゴムボートで降り立った。振り向いて海の中に火柱をあげる潜水艦を見たときのあの方の目だ。
「どうしました、神父?」
「いえ」
「さっ、まいりましょうか」
そうだ。あのときのあのお方もそう言った。『さっ、まいりましょうか。ヒットラー閣下《かつか》がお待ちですわ』何と凜々《りり》しかったことか。
ふたりは、祭壇の裏の階段から、地下室におりていった。
ひんやりとした冷たい空気がふたりを包み、靴音だけがコンクリートの床に響いた。明りをつけると、二十畳ほどの、防音装置が完璧《かんぺき》にほどこされた灰色一色の空間があらわれた。深々《ふかぶか》とした絨毯《じゆうたん》の隅々まで、チリひとつ見えない。
神父は、大きなガラスの陳列ケースのカギを慎重にあけた。そして黒いびろうどの上に冷たく光る真新しいアーマライトM16Aを取り上げた。
「いかがです」
「ライフルなんて、どれを使っても同じですわ」
「まっ、そうおっしゃらず。いかがです」
玲子は細く白い指で、黒光りする銃を持ちあげた。
「ロングマグナム弾が使えるように改造しておきました。破壊力は抜群ですぞ。分解して持ち運べるようにもしておきました。最高のカスタムガンです」
「はいはい」
「まだまだ、改造したところはございますぞ」
「もう、結構ですわ」
「しかし」
「撃ってみましょうか」
「お願いします」
神父はうれしそうに顔を紅潮させ、部屋の隅に行くと、スイッチが並ぶ小さな卓の前に腰をおろした。
灰色の壁がスッと上方に消えると、二十メートルほど先に標的が見えた。
玲子はレシーバーを耳にし、試射台にのった。
M16の銃床を肩に当てると、前方の標的に向けて速射した。轟音《ごうおん》がコンクリートの部屋いっぱいに響きわたった。
弾《たま》は、吸いよせられたようにすべて標的のまん中に集まっていた。
「いかがです。これならターゲットライフルにひけはとらないと思いますが」
「完璧ですわ」
「ありがとうございます」
神父はその温厚な顔をほころばせ、このうえなく嬉《うれ》しそうな顔をした。
「香港《ホンコン》には、十九日には届くように手配しておきます。上海《シヤンハイ》街にセントソフィアという教会があります。そこにハインツという牧師がおります。私の甥《おい》っ子です。そこを訪ねて下さい」
「そこもナチのアジトですか」
「そうです。我々はいまだにヒットラー閣下のおっしゃった第三帝国の夢を捨ててはおりません」
神父は胸をはった。
そしてケースの下の引きだしから、黒い女用の高級バッグを取り出した。
「それと、ケリーバッグの底に、ナイフを仕込んでおきました。バック≠フマシンメイドですが、限りなくカスタムメイドに近いものです。見てください。このカーブ」
神父は自慢気に鈍く光るナイフを見せた。柄から刃先を指でゆっくりとなぞるようにしている。銃やナイフについて語るとき、このナチの残党の表情は、喜びに満ちる。
「そういえば、お父様が学長室に寄ってくれということです」
「なんでしょう」
「さあ」
ジェイド神父は目を伏せた。
あのとき、正門を駆けてくる良介を狙撃できたのは、学長室からだけだった。
「父と娘、絆《きずな》というものは固く強いものです。それを大切にしなければなりません」
「時と場合によりますわ」
「そんなことでは、あなたがたはどちらかが死にます」
地下室から礼拝堂に上がった。と、坪田京子が両手を腰にあて、そこにいた。背中に夕日をうけ、肩にふりかかるしなやかな髪が金色に輝いていた。スッキリと立っている様子は塑像《そぞう》を見ているようだ。
「先生、いつもこんなところで何をなさっていらっしゃるんですか」
「いえ、ちょっと神父様とお話があったものですから」
クリッとした目がいじわるそうに光った。
「あたし、きのう、見ました」
「なっ、なにを?」
「ホテルで。先生がセクシーな格好をして座ってらしたとこ」
風に舞ったまっすぐな髪の毛を払いながら、京子の目は玲子に注がれていた。
「私、知らないわ」
「いえ、あれは絶対、先生です。ねえ、何をしていらっしゃったんですの。髪の短いステキな殿方《とのがた》とエレベーターにお消えになられたでしょ」
そして、京子はニヤリと笑うと、
「うそをおっしゃってもだめ。あのホテル、父のものですのよ」
「えっ?」
玲子はドギマギして二、三歩あとずさった。
「何をなさっていらしたんですか。あたし、先生のいろんなこと知りたいんですの」
「い、いえ、私は何も」
「いいんですよ、おっしゃらなくても。でも、イトコの竜一《りゆういち》さんに、あることを頼んだんです、あたし」
「あることって?」
「ないしょ」
意味ありげに笑うと、風にスカートをひるがえして駆けていった。
学長室は、礼拝堂の横を通りすぎたところにあった。正面玄関に植えられた大きなプラタナスの木が涼しそうな影をつくっている。
螺旋《らせん》階段を上がって、
「入ります」
ドアを開けると、銀縁《ぎんぶち》眼鏡をかけた白髪《しらが》の上品そうな村井|誠一朗《せいいちろう》が、マホガニーのデスクの上の書類からおだやかな顔をあげた。
「昨夜は驚いたろ」
「ええ、驚きました」
「大東映画の吉村《よしむら》君が撮影に戦車を一台貸してくれっていうんでね」
「ウソばっかり。あれは陸上自衛隊のもっている74式戦車ですわ」
「その気になれば、我々は自衛隊でも動かせるということを、君にわかってもらいたかったんだ」
「お話ってなんですか」
「お話もなにもないだろう。四年もプイといなくなったままで、帰ってきても家には寄りつかない。まともに話をしたのも、これが初めてじゃないか。そんな親子があるか!!」
ドンと机を叩いて髪をふり乱した。
玲子は、いつか確実にこの人に銃口を向けるだろう。
玲子の目のふちにわずかに涙がたまった。みなし子の自分を何不自由なく育ててくれた父だった。
「浩一には好きな女の子ができたらしい。私たちは紹介してくれるのを待っているのだが、妙にあいつ一人が気おくれしてなかなか会わせてくれない」
「きのう、電話で話しました」
「そうか。なにか足が悪いらしい。大森《おおもり》の八百屋《やおや》さんの娘さんでとてもやさしいお嬢さんらしい。早く会いたいもんだ。あいつは私たちを誤解している。あいつが好きになった人ならどんな人だって私たちは歓迎するのに。私たちはいつだっておまえたちの自由を尊重し、見守ってきた。が、私のことはいい。母さんにだけはやさしい言葉をかけてやってくれ」
と窓の外に目をやった。乱れた白髪が老いを感じさせた。
「……良介さんをなぜ殺したんですの?」
「彼は知りすぎた」
「なにをです」
「この日本のことをだ!!」
おだやかな顔に似合わず銀髪をかきあげ、大声をあげた。
「見てごらん、この日本を! 第二次世界大戦であれだけの打撃をうけたのに、何でここまで繁栄したと思っているのかね!」
「どういう意味です」
「それは言えない」
乾いた風がカーテンを揺らした。玲子は父親から目をそらさず、
「それを教えていただくまで、この事件から手を引きません。家にも帰りません」
「母さんは何も知らない。たまにはやさしい言葉の一つもかけてやりなさい」
「私、明日|香港《ホンコン》に発《た》ちます。李正元《りしようげん》と会います」
「……李閣下に私は命を救われたことがある。私だけじゃない、この日本もだ。たとえ君であろうと、閣下に楯《たて》つくものは許さない」
そして、誠一朗はすがりつくような目をした。
「君は、どんどん私たちから遠いところに行ってしまうんだね」
「重宗《しげむね》ファイルの謎を解き明かしてきます」
「…………」
「私の本当の父はだれですか。李正元ですか」
「それは違う。李閣下はあのお方以外の人を愛したりしない」
「あのお方?」
「もう、遠い昔の話だ。それに本当の父はだれですかという聞きかたをするような育て方は、私たちはしていない」
玲子に背を向けると、誠一朗は、
「ジェイド神父からM16を改造したと聞いたが」
と言いながら、ロッカーから銃床が象牙《ぞうげ》で飾られた長い銃身のヘンメリーワルサーを取り出した。大事そうになで、
「君にはまだ私の得意技を教えていなかったね。ターゲットシューティングだ。まだまだ君にひけはとらんよ」
玲子の顔を凝視するその笑顔が娘への挑戦だった。
飛岡《とびおか》と味川《あじかわ》は、正門のそばの道路脇に止めた六五年製のグレーのムスタングによりかかり、眠そうにタバコをふかしていた。装飾をほどこした門扉《もんぴ》の中央には、この大学のシンボルである蘭《らん》の花が彫刻されている。
門衛がときおり二人をうさんくさげに見る。
味川が眠そうに目をしばたかせ、言った。
「どうして村井刑事は、こんな古いのが好きなんですか」
「昔の男が乗ってた車なんじゃないの」
「昔の男ってだれです」
「知らないよ、オレは」
「すっ、すいません」
「すまないじゃないよ。オラ、あいつのこと何も知らないんだ。突然オレの課に配属されてきて、男と寝ちゃ殺してんだ。分かれって方が無理だろうが」
「まっ、いいじゃありませんか」
「よかないよ。新宿へんに戦車なんて来るか。警視総監に聞いたら、深入りはするな、こうだよ。こういうもんに深入りしないで何をやれってんだよ。オレは一介《いつかい》の平凡な捜査一課の課長で停年を迎えたかったんだ。それがよ、あいつが来てから人生が狂ってきたんだ」
授業の終わった女子学生たちが、けげんそうな視線をふたりに投げつけて通りすぎていく。ふたりの風体《ふうてい》に異様な感じをうけるらしい。
それも当然だ。ヒゲもそらず、くたびれたネクタイはずれ、ワイシャツは汗じみている。車の屋根に両肘《ひじ》をついてあごを支えている様子はこの学校にはふさわしくない。
「しかしよ、信じられるか。昨夜|鮫島《さめじま》殺しといて今日は講義してるなんて」
「僕は彼女が明日から宇宙飛行士になりますって言っても驚きませんよ」
「変わってんな、おまえ」
「変わってませんよ」
味川は口をとがらしたが、すぐに目を輝かせて、
「しかし、きのう美しかったですね」
「なにがだ」
「村井刑事の身体《からだ》です」
「おめえは女っての知らねえな。あんなの普通だよ」
「そうですかね」
「おめえの新婚の女房はあんなんじゃねえのか」
「いっ、いや」
「とにかく、裸が好きなんだ、あの女は。男なしじゃいられねえんだ、あの身体は」
飛岡は大きなため息をついた。しょぼくれてでっかい図体《ずうたい》が所在なげに見えた。
「しかし、鮫島を殺《や》ったとなると、関東鬼心会も黙っちゃいねえし、おまえも気をつけるんだぞ」
「そうですね」
「そうですねじゃないよ、まったく。オレなんか、正当防衛の件で警視総監にさんざん油をしぼられてあやうく辞表を出させられるとこだったんだぞ」
「ハハハ」
「笑いごとじゃねえ!」
突然、捜査一課に配属されてきてから、玲子はもう二人も殺している。きのうはきのうで、空き地といってもマンションと隣合わせのところに戦車が攻撃してくるし、一体、あの女は何者なんだ。
「ああ課長、先週の見合いどうでした」
味川の母が世話好きで、いつまでたっても結婚しない飛岡に強引《ごういん》に見合いをさせたのだ。
「どうでしたって?」
「いい娘さんだったらしいじゃありませんか」
「そんなこたあ、しらねえよ、オラ」
飛岡はつまらなさそうに頬のヒゲをなでた。
「相手は課長のこと気にいってるみたいなんですよ」
「オレって男は女から見ると、結婚を考えやすいタイプなんだ。根がまじめだからよ」
「でもいい話ですよ。家は宮内庁|御用達《ごようたし》の大きな海苔《のり》問屋さんで、一人娘。願ってもない話ですよ」
「オレに養子になれってのか」
鼻の穴が大きくふくらみジロリと味川をにらんだ。
「い、いや」
「たしかにオレは岩手の百姓のせがれよ。オラもう四十だよ。しかしだからって養子にいくこともないだろうが」
「そうですよね。村井刑事も課長の見合いの話をしたら、淋しそうにしてましたよ」
飛岡はギュウとタバコを踏んづけると、味川に飛びかかるように、
「なっ、なに。一体、どこで、どういうこと言ったんだ」
「いや、おとといです」
「オレのことホレてんのかな」
「さっ、どうでしょう」
「ホレてなかったらなんで心配するんだ」
たしかに玲子は飛岡に対し、あだっぽい目線を送ってくる。
「そうですよね」
「まっ、オレがはっきりプロポーズしてやりゃいいんだけど、そうもいかんしな」
「どうしてです」
「部下に手をつけたとあっちゃ、この飛岡の名折れだよ。しかし、どうしてもっていうなら話は別だがよ」
「そんなこと関係ないですよ」
「関係あるんだよ。オレみたいな古いタイプの人間は」
飛岡は目を細めて、急にやさしい顔になると、
「でもよ、オレ、いずれは岩手帰って百姓やんなきゃいけないんだ。弟たちだってみんな東京に出てきてしまってるし、おふくろたちも困ってるらしいしな」
「…………」
「まさかあいつに百姓やらせられんしよ」
「でも、意外とやるんじゃないですか」
「バカ言うな。ファッションと男のことしか頭にないあの女が野良《のら》仕事をやるか」
「そうとは思えませんけど」
「それにおまえ、オレの生まれた岩手の飛岡村ってのを知らないんだ。とにかく、すごい村なんだ」
「どう、すごいんですか」
「何もかもすごいんだ。土地がすごいんだ。そこに住む人間が、またすごいんだ。まだ明治の維新のまっ最中だと思ってんだ」
「はあ?」
「うまくいくわけねえ」
眉間《みけん》にシワを寄せ、そむけた顔が淋しそうだった。
扉の向こうの広々としたキャンパスから、芝生《しばふ》に長い影を作って、玲子がうつむきかげんに歩いてくる。その後ろから神父が大きなヴィトンのアタッシェケースを持ってついてきた。
「やあ、ミスター飛岡、いつ以来ですかな」
飛岡を見る神父の目がとろけるようになった。
「これは神父、お元気ですかな」
「一度、私の部屋に遊びにいらして下さいな。おいしいシャトーマンディを用意しておりますから」
スッと飛岡のそばにその太い身体をピッタリとよせた。
「神父、この際はっきり言っておきますが、私にはその気はありませんから」
「が、私はあきらめませんよ」
「いいかげんにしてください」
「フフフ、神父ったら」
玲子はいたずらっぽく微笑《ほほえ》んだ。
「何がおかしいんだ。言っとくが村井君、オレはオカマに興味はない。はっきりいってオレは女好きなんだ」
「わかってますわ」
「なら笑うな」
「ただ神父は、課長のことをからかっているだけですよ」
「だったら言っといてくれ。オレみたいなまじめな人間をからかうと、必ず神様のバチがあたるとな」
校舎の角からカタカタと靴音が響いて、明るい声で学生が数人走ってきた。
「先生、また行っちゃうんですか」
さっき玲子を困らせた一年B組の学生たちだ。
「ごめんなさいね」
「今度はどちらにいらっしゃるんです?」
「あっ、あの、香港《ホンコン》に」
玲子は坪田京子の含みのある視線にあわてた。
「いいのよ、みんな。今度面白いビデオ見せてあげるから」
「えっ、なに?」
「先生がきのう、どこにいて何をしてたかビデオにとってあるのよ、フフ」
「いやだあ、京子まで秘密持っちゃってえ」
「ねえ、教えて、教えて」
玲子の顔色が変わったのが気にいらないのか、頬をふくらました学生たちは、ムスタングの脇で待っているふたりの刑事に気がついて八つ当たりする。
「失礼ですが、あなたたち、いつも先生を迎えにいらっしゃいますが、いったいどういう方なんですか?」
「いえ、その、私たちは」
さっと玲子が割って入って飛岡の腕を取ると、
「私のフィアンセよ」
「えっ!?」
学生たちは騒ぎはじめた。
「まっ、やだ、こんな人!」
「きらい」
「あたし、泣いちゃう」
飛岡は茫然《ぼうぜん》としている。
「さっ、行きましょう。さっ、私の車に乗って」
「はっ、はい」
ムスタングは一瞬の間もおかずスタートした。腰の低いグレーのムスタングが、街の雑踏の間をぬうように走り去った。
「おい、京子」
と、見とれていた京子たちのすぐそばに、赤いポルシェがスッと止まった。中から声をかけたのは、オレンジ色のポロシャツを着た京子のいとこの竜一だった。
「あっ、竜一さん。何のビデオだったの?」
黒いサングラスの下の陽にやけた顔が、白い歯を見せながらニヤニヤ笑っている。
「ああ。あの先生、ただもんじゃないぜ」
とムスタングの去っていった方を睨《にら》んだ。
ムスタングの調子は悪く、オーバーヒート気味だ。カセットもこわれたままで動かない。黒い革のシートもすりきれていた。
フィアンセと言われてずっと赤くなっていた飛岡が、
「暑いな。これ、エアコンはきかないのかね」
「ええ」
「味川が言ってたんだが、なんでこんな旧式のオンボロ車なんかに乗っているのかね」
「車なんかどれに乗ったって似たようなもんですわ。女はそうはいきませんけど」
とバックミラーを通して味川に目くばせをした。味川は、こんなときの玲子の少し下卑《げび》たいいまわしがたまらなく好きだった。
車が揺れるたびに、玲子の膝《ひざ》が割れる。それをチラチラ見ながら、飛岡は、
「香港には一人で大丈夫かね」
「あら、一緒に行ってくださらないんですか」
「そっ、そうはいかんよ。こっちの仕事だって山積みなんだ。まず昨夜の鮫島《さめじま》のことであっちこっちに頭下げて回らなきゃいかん」
「まあ、残念ですわ」
味川が、後ろの座席から身を乗り出し、
「しかし村井さん、どうやって李正元《りしようげん》に近づくんですか」
「どうしたらいいんでしょうね」
「一応、香港警察のチャン部長に連絡をとってはいますが」
「助かるわ。知りあいなの?」
「三年前の商社マンの誘拐事件のときに助けてもらったんです。いい人ですよ」
「そう」
玲子はひっつめた髪を解きながら、
「あの、課長。坪田京子のいとこの竜一という人がいますの。その別荘が伊豆《いず》の伊東《いとう》にあるそうですけど、ヘンなビデオを撮ってるみたいなんです。とっちめてくださいな」
「えっ?」
「どうやら、きのうのこと、撮られたみたいなんですの」
「きのうのことって?」
「ホテルでのことですよ」
飛岡は昨夜のベッドのシーツの乱れを思い出し、顔がまっ赤になった。
「なっ、なに、困るじゃないか、君」
「しかたないじゃありませんか、撮られたものは」
「しかたないって、そんなもんがビデオなんかにされて売られちゃ困るだろうが」
「そこなんですよ、あたしが心配してるのは。近ごろの大学生って商売っけがあるでしょう。でも、そのビデオ見たら、あたしが正当防衛だったってことわかりますけど」
「すっ裸で正当防衛もなにもないだろうが」
「大嫌い、そんな言いかたする人」
ムスタングは原宿《はらじゆく》にきた。竹下《たけした》通りから人があふれ出ている。早くも秋を感じさせる茶色やワインレッドのファッションが通りをうめつくしている。
飛岡はいらだたしげに貧乏ゆすりをし、
「まったくよ、女どもが。まっ昼間から遊びほうけやがって。こういうアバズレどもはよ、穴にでも放《ほう》って埋めてやりてえよ」
「いいじゃありませんか、若いんですから」
「若きゃなんでも許されるってもんじゃないんだよ。ほら、先月結婚した捜査二課の新井《あらい》の女房よ。もう、家をおん出ちゃったってよ。夕方の五時に刑事は家に帰れませんよ」
「あら、あたしだって結婚したら五時には帰ってきてもらいたいですわ」
「あんた、結婚するつもりなの」
「えっ? いけないですか」
「できないでしょう。ああ、あっちこっちですっ裸になってちゃ」
「ひっ、ひどいじゃありませんか」
玲子はブレーキを踏んで止め、泣きだした。味川も困りはて、
「まあまあ、課長」
「まあまあじゃないよ、味川。きのう、村井がはいてたパンツ見たろ、あんなの素人《しろうと》のはくパンツじゃねえぞ」
「な、なんですって!」
「ああいうのどこで買ってんだ。通信販売か」
「な、なっ」
「あんなもん、普通の神経もってたらデパートで買えんだろ、なあ、味川」
「課長、もうよしましょうよ」
「なんだ、おまえも女房にああいうの買ってやってんのか」
「えっ!?」
玲子はさっきから怒りのあまり、「な、なっ」としか声が出ない。
「な、なっじゃねえよ。朝からの会議に出席してくれっていうのに、出てくるのはいつも昼過ぎだ」
「授業があるからしかたないじゃありませんか」
「どこの刑事がバイトで学校の先生やってんだ」
後ろの車が渋滞し、クラクションを鳴らしている。カッときた玲子は、
「味川さん、屋根にライト載っけといて。今日という今日は頭にきたわ」
「はい!!」
味川も女房のことを言われてカッときたか、外に出てライトを取り付けた。
飛岡はそしらぬ顔で、
「なにが頭にきただよ。着てくるもんていったら、派手なギ・ラロッシュだのアルマーニだの警官の給料でどうやって買えるんだ。警察はファッションショーやってんじゃねえんだ」
「なんで着るもののことを課長に言われなければならないんですか」
「婦人警官は地味なもんなんだよ」
「だれかなんか言ってるんですか」
「言ってないわけないじゃないか。赤や黄のヒラヒラしたの着て、アーパー娘が飛びはねてんだもん」
「なんですって」
「さっ、出せよ。車つかえてんだから」
「出しますよ、キーッ!!」
カッとして、原宿の交差点をつっきろうとした。
「いまのアーパー娘って言ったのは、絶対覚えておいてくださいよ」
「おまえを見てりゃ、忘れるわけがねえだろうが。もっとスピード出んのか、昔の男の車はよ」
「グギーッ!」
と目いっぱいアクセルを踏もうとしたその瞬間、ムスタングの目の前の車があっというまにかき消えた。
「あっ!!」
ムスタングは寸前のところで止まった。
「こっ、これは!?」
交差点に、二十メートル四方くらいの大きさの穴がポッカリとあいていたのだ。十メートルはある深さの穴の中に尖った鉄の杭《くい》が数本立って、消えた車がそれにつきささっていた。ガラスが大破し、串刺《くしざ》しにされた人間の断末魔《だんまつま》の叫びがこだましている。
「見るな!」
飛岡が恐怖にゆがんだ玲子の顔を抱きしめた。
村井誠一朗の家は、西麻布《にしあざぶ》二丁目の屋敷街にある。六百坪はある屋敷に妻と二人きりの生活だった。砦《とりで》のような大きな鉄の門から延びる小道は、アスファルトで固く舗装されている。かつては花々が咲き乱れていたところだった。庭にはうっそうと竹やブナが根を張り、昼でも暗い。かつて玲子や浩一が歓声を上げて乗ったブランコは庭の片隅にあった。
黒いベンツが止まり、誠一朗が下り立った。新しくきたお手伝いのノリが走ってきて、細身のゴルフバッグとカバンを取った。
「あ、それはいい。重いだろう」
「いえ、旦那《だんな》様、私が持ちます」
ノリは香川県の与島《よしま》の漁師の家の生まれだ。中学を出たばかりで、この家の手伝いをしながら高校に通わせてもらっている。
「藤子《ふじこ》は?」
「お身体《からだ》の具合がさえなくてリビングでお待ちになってます」
「季節の変わり目はいつもこうだ。心配することはないよ」
「はい」
ノリは村井の顔がいつもより光り輝いているのがわかった。
「旦那様、うれしそうですね」
「実は今日、玲子と会ってね」
「まあ、よろしゅうございましたね」
ノリは会ったことはないが、一日として玲子の話の出ない日はない。
「藤子には内緒だよ。何言われるかわからないからね」
「はい」
長い廊下のつきあたりの二十畳はあるリビングルームに入った。
品のいいあずき色の綸子《りんず》の着物を着た藤子が弱々しい笑顔でソファに座っている。
「おかえりなさい」
「ただいま。具合はどうだい」
「相変わらず身体がだるくて。なんにもやる気がしないんです」
「浩一が来てくれてたんだろ」
「浩一なんかちっともかわいくありませんわ。玲子の顔を見なきゃ直りません」
「またそれだ」
「あの子を連れて買物に行くのが私の生きがいだったんですよ。あたしたち二人があるのも、みんな玲子のためなんですよ」
「わかった、わかった」
しとやかな藤子だが、家ではわがままなお嬢様そのものだ。玲子とは姉妹みたいに仲が良かった。今も玲子に似合いそうな服を見つけると、せっせと買ってくる。
「ねえあなた、玲子はなぜ家に寄りついてくれないんです」
「仕事が大変なんだろう」
「寄ろうと思ったら、いつでも寄れますよ。あしたこそ、こっちから代々木《よよぎ》のマンションに押しかけてやります」
「明日から香港《ホンコン》に行くそうだ」
「またそんなことばっかり。あなたは玲子が何かこの家にいられないようなことを言ったんじゃありませんか」
「言うわけないじゃないか」
「言ってるんですよ、あなたは」
「ふう」
「飛岡ってなんなんです」
「玲子の上司《じようし》だろう」
「牛みたいな顔してんですって?」
「さっ、私は知らんが」
「玲子にちょっかい出してるらしいんですよ」
「なにい!?」
これには村井も顔色を変えた。
「本当か、それは」
「本当ですよ。あなたがしっかり監督しとかないから、こういうことになるんですよ」
「監督は母親のおまえの役目だろうが」
「またいつもそうやって私のせいにして」
「とっ、とにかく、警視総監の徳大寺《とくだいじ》に電話して、どうなってるか聞きなさい。玲子は男好きのする顔してるんだよ。男が放っとかない顔してるんだよ。男のなんとかってのをくすぐるんだな」
「なんですか、あなた。イヤラシイ言い方をして」
「いっ、いやその。とにかく、電話をかけなさい」
今にもダイヤルを回そうとしたとき、興奮したおももちのノリが来客を知らせた。寺岡総理だという。
藤子はキッとその薄い唇をかみしめ、
「あたしもお会いします。玲子が変わったのは寺岡さんの口車に乗せられてアメリカに留学させたのが原因なんですからね」
「いや、今日は二人っきりにしてくれ」
「また私だけのけものにして、もうイヤ」
ワッと泣きながら、居間を飛び出していった。
とりのこされたノリは腰をぬかしていた。旦那様は島一番の出世者と聞いていたが、まさかテレビでしか見たことがない総理大臣がこの家に来るとは。
「久しぶりだな、村井」
ダブルの背広を着、やせ細った寺岡がニコリともせず言った。顔色が悪い。口からきつい仁丹の匂《にお》いがした。
村井はソファに座ることもなく憤然といきりたって、
「一体どういうつもりだ」
「それを言いたいのはこっちの方だ」
「五十億ぐらいの金はおまえの一存《いちぞん》でどうにでもなるだろうに」
「五十億? ふざけるな。少佐殿に要求された金は五千億だ。オレの一存でどうにかなる金ではない」
村井は愕然《がくぜん》として、
「なに、五千億?」
「出さねば、重宗《しげむね》ファイルを公表すると言ってきた」
「しかしそんな金、なんに使おうというのだ。香港の独立のためか」
「だったら正式に申しこめばいい。我々だって香港の共産化は困るんだ」
イギリスから香港が中国に返還されるのは一九九七年。以前、中国は華僑《かきよう》の財産を没収し、迫害して大陸から追い出したことがあり、人々は香港もまた共産化されるのではないかと戦々恐々としている。実際、台湾やアメリカ、カナダに財産を移動する準備をするものもでている。たしかに、中国はここを経済自治区とすると約束していた。しかし、そんな約束などあてにしている者はいない。
「では、なぜ少佐殿は五千億もの金を要求してきたんだ」
「人間、年をとると金が欲しくなるんだろう」
「バカな。少佐殿に限って」
寺岡は大きな手で疲れた顔をぬぐい、
「そんなもんだ、人間ってのは。オレは政治の世界にいてよくわかる。じゃ、帰る。ああ、幕僚長の片山《かたやま》をクビにした。もう、おまえらの勝手にはさせん」
寺岡はさらに激昂《げつこう》してわめいた。
「夜中の戦車一台ならどうにでもなる。が、原宿にまっ昼間、穴を開けられちゃ、マスコミに申し開きができん!!」
「なんだと。それは、オレたちは知らんぞ!」
「なに? 開けたのは鬼心会じゃないのか!?」
雨が叩きつけるように降りだした。
朝鮮民主主義人民共和国、平壌《ピヨンヤン》。
短い夏が終わり、秋があっという間に訪れた。長く暗い冬を早くも感じさせる風が吹き始めている。
その風はモスクワの赤の広場を模したようなだだっ広い広場にも吹き渡るが、そこには人影がない。たまにライフル銃を下げた軍人が足音高く通りすぎるだけだ。世界中で見かける看板というものも見えない。その広場を囲む灰色のコンクリートの壁に貼《は》られた、政府の赤い宣伝ポスターがはがれかけ、風に躍っている。
その向こうにそびえるビルには人々が住んでいるというが、この壁と同じ色の無機質なビルは廃墟《はいきよ》のように見えた。
風が雨に変わった。
この灰色の都市は孤立していた。慢性的な食糧不足とインフレに、国民はあらがう気力さえ失っている。停電はいつものことで、電話は夜には切られる。
しかし、一戸だけ例外があった。不夜城と呼ばれる金正日《キムジヨンイル》書記の家だ。
「雨か」
「はっ」
金正日は常に白い軍服を着ていた。猫背が低い背をますます低く見せている。頑丈《がんじよう》な軍靴は底が厚く、歩いても音がしない。金正日の顔はいつも異様なほど腫《は》れていた。まぶたが覆いかぶさり、その小さな目は糸のようだ。短い鼻が顔を長く見せて、厚い唇は黒ずんでいた。髪ははえぎわがはげあがっていた。
「よし、後半を回せ」
カラカラと三十五ミリの映写機のリールが回り始めた。この、たった一人の観客のための映写室は、二十メートル四方の周囲をすべてピンクの色で塗りこめられていた。スクリーンの両サイドには、JBLの大型スピーカーがセットされ、ど真中に置かれたピンクの革のソファはボディソニックという、身体《からだ》で音を感じられる特別仕様のものだった。映画のキューが出ると、姿勢をただし、金正日は身を乗り出した。
金正日は映画狂だった。『風と共に去りぬ』をもう何百回見たかわからない。あの、挑《いど》むようなビビアン・リーが好きだった。葬式の場面で、お尻をぶたれて踊るところも好きだった。そして、スカーレット・オハラがタラの土をつかみ、
「もうこれからは家族を飢《う》えさせはしない」
そう宣言するときは、立ち上がり拍手をした。
男らしいレット・バトラーを真似《まね》て一人|扮装《ふんそう》するときもある。この二人が最後に別れるシーンになると、決まっておいおいと泣いた。陽気なアメリカ、自由なアメリカに金正日はたまらないあこがれを持っていた。
ソファに座るのと同時に、第一秘書の金白威《きんはくい》がおどおどして、
「ソ連大使のゲーリングがもう一時間近くも待っておりますが」
「会わん。なにがペレストロイカだ。ふざけるな」
「しかし、ソ連大使を怒らせるのはよくないと思います」
金正日は立ち上がってかたわらの小さなピンクのテーブルをけりつけた。
「オレを本気で怒らせるのはもっと悪い!!」
アメリカと手を握り、核廃棄条約に調印し、ソウルオリンピックに参加するとは。何よりの裏切りだ。
「もう、ソ連など相手にせん。我が国は一団となって共産主義の教義を守る」
ヒステリックに叫ぶと、シートのほこりを払い、座り直した。
小柄な金鶴頭《きんかくとう》が、いやしげなその顔をほころばせ、すりよってきた。
「金書記、日本からフィルムが届きました」
「そうか、出来はどうだ」
「ファンタスティックというところでございましょうか」
「こいつめ、敵性《てきせい》言語を使いよって」
「はっ、申し訳ございません」
「ハハ、まあいい。監督はだれだ」
「伊洪光《いこうこう》でございます」
「おお、ラングーンを撮ったヤツか」
「はい」
「あのカメラワークは見事だった」
「はっ、お言葉を伝えておきます」
「さっ、回せ」
残暑のまぶしい陽差しの中、スクリーンは都会の街並みや、色とりどりのファッションを見せたあと、突然あいた原宿の大きな穴を映しだした。
二十メートル四方はある穴に、三十台の車が次々と落ちていく。断末魔《だんまつま》の叫びと、それを見る人々の驚きの表情が恐怖に変わっていくさまもはっきりとわかる。
手に汗を握って見ていた金正日は、
「フフ、日本の資本主義者どもが驚いたろうな」
「もちろんでございますとも」
「伊洪光にマッドマックスを撮らせたいもんだな」
「いえ、もっと適任の者がおります」
「だっ、だれだ」
「私の目の前にいる金正日書記でございます」
「よっ、よせ。オレはプロデューサーで十分だ」
金正日の腫《は》れた顔がムスッとしてますますむくれた。
と、後ろの大きな壁の前に音もなく人影が立った。一瞬、空気が張りつめた。
「来たか」
金正日のヒステリックな声が少し低くなった。
「はっ」
「会うのは久しぶりだな。が、ラングーンでの活躍はフィルムで見せてもらった」
「はっ」
ビルマのラングーンで、韓国政府の閣僚たちが爆弾テロに遭《あ》って死傷した。それを仕組んだのが、この男、『ピョンヤンの闇』である。
「香港《ホンコン》の李正元《りしようげん》の持っている重宗《しげむね》ファイルを手に入れてもらいたい」
「はっ」
と答えた男の背は二メートル近くもある。いまにも爆発しそうな強靭《きようじん》な筋肉を持っているのが黒いぴったりとしたセーターごしにはっきりわかった。切れ長の細い目に、ものすごい殺気をただよわせている。
「四六師団を連れていけ。ついでにゲーリング、ソ連大使を殺していけ」
「はっ」
「よし、次は、『明日に向って撃て』だ。なんたって、あのポール・ニューマンは最高だからな。どうした、行けと言ってるのだが」
「はっ」
今しばらく、この『ピョンヤンの闇』は立ち止まり、スクリーンの端に映っているグレーのムスタングの女の並々ならぬ面がまえを見届けるべきであった。
外は雨。『ピョンヤンの闇』を待ちうける世界最強といわれた北朝鮮第四六師団、三十人は一糸の乱れもみせず、頭を傲然《ごうぜん》とあげ降りしきる冷たい雨の中に立っていた。
一瞬の雷光が、その全容をかいま見せた。黒い帽子に黒いサングラスをし、両手を後ろに回して身じろぎもしない。三十人の濡れそぼった全身から水滴がしたたり落ちていた。
横浜は薄くヴェールをかけたように霧がたちこめていた。クイーンエリザベスU世号、この白い貴婦人と呼ばれる船が出航するのにふさわしい夜だった。
船首には、ギリシア彫刻のミューズの女神が晴れやかに虚空《こくう》を見つめ、翼を伸ばしていた。それは七万トンの豪華客船を象徴していた。
客に乗船を促《うなが》す汽笛が小さく鳴った。船室の丸窓にはすべて明りがつき、デッキもこうこうと明るい。そこを優雅な足どりでゆっくり歩く男女は腕を組み、霧にけむる横浜の街明りを見渡している。
ムスタングが桟橋にガクンと止まった。赤に金の線が入った服を着たポーターがかけより、たくさんの荷物を下ろしている。
デッキの手すりから、スヌーピーと呼ばれる陽気な黒人の殺し屋がスニーカーに革ジャンといういでたちでタラップを見下ろしていた。そのかたわらに杖を持った小柄な日本人がいた。川崎だ。
「Does that fuckin' baby have to be done by me?」
耳のヘッドホンに合わせて身体を揺らしていたスヌーピーはあきれた顔をした。
「What?」
スヌーピーのハーレムなまりが聞きとれなかったのだろう、川崎は背のびするように聞き直した。
「あのベイビーを殺せというのかと言ったんだ」
スヌーピーはわざとらしく大きな身ぶりでゆっくりと言った。
山ほどの荷物をがっしりした男に抱えさせてあがってくる、小さな帽子と同じ色の赤いワンピースを着た女をじっと見ていたスヌーピーは、もう一度顔を左右に振った。
「まいったね、こりゃ」
縮れ毛を短くカットし、そのしゃくれた顔とひょうきんそうな目はエディー・マーフィーによく似ている。
黒いあごを突き出し、
「あの女一人|殺《や》るのにオレをわざわざニューヨークから呼び十万ドル払うというのか」
「安すぎるかね」
川崎はニコリともせずに言った。
「それもジョークのつもりかい」
「私は日本人だ。ジョークは好まない」
「あのベイビーがそれほどの女だというのか」
「正直言って、君の手におえる相手ではない」
スヌーピーはウォークマンのイヤホンを耳から抜き、真顔になった。ロックのビートが大豆ほどのイヤホンからシャカシャカと漏れている。
「では、なぜオレを呼んだ」
ハーレムでは三本指に入る殺し屋と呼ばれるクレージースヌーピーの眉《まゆ》がピクリと動き、川崎を正面から見下ろした。
「万に一つの可能性に賭《か》けたのさ」
川崎は目線《めせん》を女からはずすことなくこともなげに言った。スヌーピーは血走った目で憎々しげに唇をゆがめると、
「死んだばあさんがよく嘆いていた。東洋の黄色い猿たちの考えることだけはわからないってね」
「私は、三千ドルで殺しを請けおう君に十万ドルの殺しができるとは思わない」
「それは黒人差別と受け取っていいのかい」
「いや、ビジネスの話をしているのだ。三千ドルの報酬《ほうしゆう》は三千ドルの殺しに与えられるもんだ」
スヌーピーの黒い肌が憤怒《ふんぬ》で赤黒くなった。
白い制服の船員たちが忙しそうに二人の横を通っていく。客たちがディナーを取るために正装して、さんざめきながらゆっくりとレストランに入って行った。ロングドレスの柔らかな裾《すそ》が風に舞った。
女がタラップを昇りきった。
「隠れていたまえ」
川崎は手でスヌーピーの背中を押しやると、帽子を取って玲子を迎えた。
霧が一瞬晴れ、明りのなかに女のシルエットが見事に浮かびあがった。
「お待ちしておりました」
赤いハイヒールが立ち止まった。間近で見る玲子は瞳が輝き、あざやかだった。まっ赤なスタンドカラーのワンピースは七分|袖《そで》で、黒のレースの長手袋がよく似合った。
「まあ、お見送りしていただけますの」
「船旅の退屈しのぎに殺し屋を一人、いえ二人送りこんでおきましたので、お伝えしておこうと思いまして」
「まっ、ハンサムな方ですの」
「さっ、お気に召しますかどうか」
「でも、おとといは驚きましたわ」
「私としては、実弾を入れておきたかったのですが」
「きのうの原宿もあなたがたのしわざですか」
「いや、違います」
「でしょうね。あなたがたは紳士ですもの。では、だれが……」
「それが今ひとつ、読めないのです」
としきりに首を振り、タラップを降りていった。
玲子の部屋は特等船室でスイートルームほどもあった。ゆれもほとんどない豪奢《ごうしや》な部屋だった。エンジ色の地に黒と金のロココ調の模様の壁に太い紫檀《したん》の梁《はり》が天井を飾っていて、その中央に大きなシャンデリアが下がっている。シャガールの絵がさりげなく飾られ、グランドピアノはスタインウェイだ。バスルームは黒の大理石でできていた。
ノックの音があり、飛岡《とびおか》と味川《あじかわ》が入ってきた。
ネクタイをゆるめ、ほとんど寝ていないのか土気色《つちけいろ》の顔をした飛岡が、
「すまん、遅れて」
「原宿の穴はいつ開けられたんですって?」
「午前中にガス工事があった。そのとき掘ったものだろう」
「恐ろしいことをしますね」
「鬼心会《きしんかい》に踏みこんで代貸《だいが》しの大隅《おおすみ》をしめあげたんだが、知らんと言っている。あいつはウソをつくようなヤツじゃないし」
「こういうやり方はKGBがやってたんですよね」
「いや、最近ソ連も変わったぞ」
「はっ?」
「友だちがいるんだよ。なかなかいいヤツでな。あいつも香港《ホンコン》に行くっていってたから、おまえのことを頼んでおいた」
「フフ」
「なんかおかしいか」
「KGBに助けてもらえますか?」
「いや、なかなかいいヤツなんだよ。武士道にあこがれてな、『葉隠《はがくれ》』なんかよく読んでんだ」
「で、京子さんのこと、手配していただけました?」
「伊豆南署の署員がようやく二人のいるところを見つけて、踏みこむと言っていた」
「間に合えばいいんだけど」
自分が鮫島と抱きあっているビデオを見たら、京子はヤケっぱちになってどんな無茶なことをするかわからなかった。玲子は不安になった。
「一応、伊豆南署には、押収しても中を見るなと言ってあるが」
出航を知らせる銅鑼《どら》が鳴った。
飛岡は立ち上がると、
「では、これで。原宿の後始末もあるし、新井が女房と正式に離婚するんでおちこんでんだ」
「私もおちこんでいますわ。なぐさめて下さいな」
「君は一人で大丈夫だろ」
「そんなことありませんわ、私だってか弱い女です!!」
「か弱いということはないだろう。あんなパンツはいてんだからよ」
「パンツは関係ないでしょうが」
「それに、パスポート持ってきてない」
「そんなのどうにでもなりますわ。別れたはずの夫が出航ギリギリに駆けつけてきたとでも言っておきますわ。ここはクイーンエリザベス号です。それくらいのジョークの通じるところですわ」
「オレ百姓だから、そういう冗談の通じるところって、慣れてないし、好きじゃない」
あきれた顔で聞いていた味川が言った。
「課長はお残りください。ちょっと心配なこともあるんです」
「なんだ」
「妙な黒人を見かけまして」
「え?」
「あれはハーレムのスヌーピーと、もう一人は片耳のジョーだと思います」
「え?」
そして味川は決めつけるように、
「課長、日本の領海の外に出るとき、海に飛びこんでください。ヘリコプターを用意させときます」
と言うと、飛岡の返事も待たずに出ていった。
「まっ、待て」
玲子はバスルームに行ったのか姿が見えない。
霧を裂くような汽笛が鳴り、滑るように船が岸壁を離れた。
「まいったなあ」
飛岡はソファにドンと座ると頭をゴシゴシかいた。
丸窓から外を見た。七色の無数の紙テープが舞っている。霧はすでに晴れていて、横浜の山の上の公園の明りが見えた。恋人たちが互いに肩を組み、船に手を振っている。空には満天の星がまたたいていた。
「さっ、もう帰れませんよ」
玲子がいたずらっぽく笑って出てきた。
Vネックのブルーのタップリしたコットンのセーターに、黒い革のミニスカートに着替えている。少女のように新鮮だった。靴を投げ出すと、はだしになった。
「何かおいしいものを食べましょうね」
「いっ、いや、オレあんまりお腹《なか》がすいてないんだ」
「付き合ってくださいな。課長と二人で食事するなんて、初めてじゃありませんか」
「そっ、そうだったっけ。オレたちが飲むのは薄汚い縄のれんだから、君には合わないと思って誘わなかったんだ」
「私、好きですよ、そういうとこで飲むの。今度誘って下さいな」
「いや、あんなパンツはいて飲むとこじゃないんだ」
「やけにパンツにこだわりますわね」
「いや、印象がキョーレツだったからさ」
「今日はもっと派手なのをはいてますよ。見てみますか」
「いや、いい」
「とにかく、おいしいワインでも取ってお食事しましょう」
「うっ、うん」
と、玲子は受話器を取り上げ、ディナーのルームサービスをきれいな英語で頼んだ。
飛岡は頭をかきかき、部屋中をうろつきまわっていた。
「課長、あたしと二人っきりになるのがそんなにおいやですの」
「いや、そうじゃない。新井んとこの女房を説得してやるって約束したんだよな。オレが行かないとあいつ、本式に離婚届にハンコ押しちゃうんじゃないかと思って」
飛岡のいかつい鬼瓦《おにがわら》のような顔に汗が噴きだしている。
「まっ、お座りになって」
「あ、ああ。すごいソファだな。オレこんなソファになんか座ったことない」
「たかがソファですよ」
「そっ、そうだな」
玲子が足を組みかえるたびに、ミニスカートから太股《ふともも》がドキリとするほどあらわれる。飛岡の目はそこに吸いついたようになった。
「お見合いした方、とてもおきれいなんですってね」
「オレはようわからん」
「ねえ、どうなさるおつもり」
「なにが」
「お見合いですよ」
「もうオレもいい年だからな、いい加減なところで妥協せんととは思っているんだが。タバコ吸ってもいいかな」
「どうぞ」
「すまん」
「あたし、妬《や》けるわ」
「妬けるって?」
「妬けますよ、あたし。課長のこと好きだったんですもの。あの日、悲しくて一日中ベッドの中で泣いていましたのよ」
飛岡はギロリと目をむいた。
「本当か」
「は?」
「ほんとに妬けるのか。いいかげんなこと言わんでもらいたい」
「いいかげんじゃありませんよ。会ったときから飛岡さんって頼りになる人だなって思っていたんですもん」
「なんの頼りになるんだ。銃の扱い方だって、身のこなし方だっておまえのほうが数段上だ。オレは足元にもおよばん」
「そんなこと、関係ありませんよ」
「男には関係あるんだ」
「ねえ、結婚しても、ときたま付き合ってくださいます?」
「なんだよ、付き合うって」
「ですから、ときたまデートなんかしてくれないかなって」
「そんなことはできん」
「どうしてです。愛人が一人できたって思ってくださればいいんです。あたしもその方がラクだし」
「オレはそういうのキライなんだ」
「わたしはちっとも構いませんのに」
「何が構わないんだ!!」
両手でテーブルを叩きつけ、立ち上がった。
「嫁を貰《もら》やあ子供もできる。子供ができりゃ幼稚園にも行く。幼稚園に行きゃ父親参観日とかある。女の子ならオレだっていい父親でいてやりたいと思う。そんなときに、他の女とデートなんかできゃせんだろうが!!」
玲子はオロオロして、
「いや、冗談のつもり」
「あんたはいつもそんな冗談ばかり言う。それで男がどんなに傷つくか考えたことがないのか」
「いっ、いえ、その」
飛岡はもう一度バンとテーブルを叩きつけ、
「よし、オレも聞く。ほんとにオレが見合いしたのが妬けたのか。オレは味川が顔を立ててくれって言ったから見合いしただけなんだ。ほんとに妬けたのか」
「はっ、はい」
「なぜ、妬けたんだ。オレのこと好きだからか」
「あの」
「違うだろ。おまえはオレみたいな百姓をからかってるのがおもしろいだけなんだ。バカにすんじゃないよ」
飛岡は椅子をけりつけデッキに出た。
空を見上げると、星が手に取るように近かった。船の窓あかりを反射して、静かな海がきらめき、揺れた。
船の底部にある調理室からワゴンを押し、エレベーターに乗ったイタリア人のボーイ、ニーノは、その幅の厚い胸をそらして身なりを整えた。
ノリの利いた高いカラーの、身体にピッタリしたまっ白なシャツに黒の蝶《ちよう》ネクタイと、ハイウェストの黒いズボンがいかにも高級ギャルソン風である。
ニーノは、これからあの赤いワンピースの女の部屋までディナーを届けにいくのだった。
あんな優雅な女は見たことがない。連れの男はヤボだ。亭主だとしたらなおさら滑稽《こつけい》だ。見計《みはか》らって忍びこもう。何度もやっていつも成功している。ニーノはニヤリと笑った。あいつら女どもは皆尻《しり》を振って狂喜したぜ。まったく女ってのはかわいいもんだ。次の日からは女の方が亭主のいないスキを教えてくれるんだからな。ああ、胸がワクワクする。あの女の誘いこむような目とまた会えるのだ。ニーノは肩のチリをしゃれた手つきで払うと、「蝶々夫人」のアリアをバリトンで口ずさんだ。
オレにはあの女を抱く価値がある。唇は何の花の匂いだろうか。あの身体はどんな味がするんだろう。思わず、
「たまんねえなあ」
ため息が出た。
エレベーターを降りると、
「どこへ持っていくんだい」
スヌーピーのぬいぐるみを抱いたイカレた黒人の男から声をかけられた。
「一〇二三号室だ」
黒人がヒューッと口笛を吹いた。
「うらやましいね、代わってくんない?」
「そりゃ願いさげだね。あのレディ……」
と振り向いたニーノの頭に残った最後の映像は、なにかキラリとした光の線だった。
その瞬間、ニーノの首が半分ちぎれていた。
気を失わせ、ボーイの衣服をはぎとるだけで十分だったのだが、今夜のスヌーピーは怒り狂っていた。川崎がもう一人の殺し屋と言ったのは、同じハーレムの片耳のジョーだ。スヌーピーは甲板でチラリと見覚えのあるジョーのアポロ帽を見かけたのだ。
「あの黄色い猿め、煽《あお》りやがって! バカにするな!」
スヌーピーは死体を乱暴に革ぶくろに入れると、エレベーターわきの大きなダスターシュートに押しこんだ。
伊豆南署の巡査、栗田憲二《くりたけんじ》と松本明彦《まつもとあきひこ》は別荘めざして伊東をパトカーで走っていた。
トンネルを抜けて、森の中のひときわ大きな別荘についた。
九月のリゾート地は静まりかえっている。遠くで波の音が小さく聞こえた。
松本は無線を入れた。
「ポルシェが見つかりました」
「ったく近ごろの大学生どもはぜいたくにできてやがるな」
栗田が吐き捨てた。
「ビデオを押収しろと言われたんだけど、何が映ってるんだろうな」
二人とも二十二歳だ。高校を出てすぐにこの職についたから巡査歴はもう四年だ。二人は千坪はある別荘の門をあけ、中に入った。
なだらかな五百メートルほどの坂道が洋館風の建物まで続いている。道の両脇の花壇はきれいに手入れされていた。家の右にゴルフコースとして利用しているのだろう、ひろびろとした芝生が目にあざやかだった。左側にはプールとあずまやがある。そのあずまやのサウナ室に入った二人はギョッとした。
裸の射殺死体が床に転がっていたからだ。キャビネットにあった服から死体は右川《みぎかわ》竜一とわかった。
クイーンエリザベスU世号の廊下はホテルほど広くはないにしても、そこに敷かれた複雑なアラベスク模様のペルシャ絨毯《じゆうたん》の深々とした踏みごこちはどんな客をも満足させる。天井から下がるランプがゆっくりと揺れることでここが船の中だとかろうじてわかる。
ドアはマホガニーでできた重厚なものだった。
一〇二三号室のドアの前までくると、さすがのスヌーピーも胸の動悸《どうき》をおさえることができない。手がかすかに震えていた。
川崎は、「かなう相手ではない」と言った。スヌーピーは大きく深呼吸して、なんとか緊張を解く努力をした。
人を殺すんだなんて思っちゃいけないのだ。遊びあきたおもちゃを一つ壊すと思えばいいのだ。電気スタンドのコードをひっぱるのと同じだと思えばいいのだ。死んだ婆《ばあ》さんがそう言ってた。
「オレはスヌーピー、いつもスヌーピーのぬいぐるみを抱いている陽気な殺し屋さ」
と口ずさんで、ノックしようとしたとき、そのノブに彫《ほ》られた螺旋形《らせんけい》の模様を見て、スヌーピーの身がすくんだ。
あの女の周りにも、この螺旋模様がいっぱいあった。イヤリング、ブレスレットだ。そうだ、あの中米のニカラグアのジャングルだった。スヌーピーの悲劇は、それ以上思考が進まないうちに手がドアをノックしていたことだった。
ブルーのセーターの女がうなだれて出てきた。
何かあったのか。殺気がまるでない。
「ディナーを持ってきました」
「ありがとう」
女はうちひしがれたように髪を乱し、化粧もとれている。
「おや、お一人ですか」
「フィアンセがすねちゃってかまってくれないの」
涙をいっぱいためた女がスヌーピーを中に入れた。
やはり、あの女だ。スヌーピーは全身を硬直させて小さく震えていた。
「クソーッ」
スヌーピーは、腕にさげたナプキンの下からピアノ線を取りだすと、後ろを向いた女の首に巻いた。
「あっ!」
スヌーピーはそのまま思いっきり引けばよかったかもしれない。
が、言葉が先に出た。
「教官!」
ニカラグアのジャングルに、傭兵《ようへい》の最終テストの日、試験官が来たことがある。その試験官は、突如《とつじよ》、垂直に着陸してきた複座のハリアーから降りたった。迷彩《めいさい》服に帽子を目深《まぶか》にかぶり、濃いサングラスをしていたが美しい顔かたちの東洋の女ということがわかった。
三十人の男たちを前に、その女は両手を後ろに組み、
「一回きりのチャンスだ。一週間後にD地点に到達してもらいたい。私のアタックを阻止したければ、私を攻撃してくることだ」
それだけを言い残し、女はファイティングナイフを持ってジャングルに消えた。
D地点に到達し生き残ったのは、八人しかいなかった。みなあの女に殺されたのだ。あんなに怖かったことはなかった。
「あなたたちが合格よ」
女はそう言ってニコリと笑ったかと思うと、迎えに来たハリアーで去っていった。
星を見ていた飛岡《とびおか》の耳に、男の笑い声と、女のうめき声が聞こえた。
全裸の玲子が首をピアノ線で縛《しば》りつけられ、黒人のボーイがズボンを足もとまでおろそうとしていた。
「あっ!」
スヌーピーは残忍そうな顔で、
「ほら、もっと口を動かしてくださいよ、教官!」
「…………」
「ニカラグアのジャングルで、みんなあんたのこと考えてマスをかいてたもんだ。オレがあのジャングルでどうやって生き延びたか教えてやろうか。オレが一番|臆病《おくびよう》だったからだ。こわくってマスかこうにも立ちゃしなかったからだ。それが今、教官がオレのコックをくわえるなんて、なんとも言えないなあ」
「キッ、キサマ!!」
「おっと、動くんじゃないよ」
スヌーピーはギロリと大きな目で飛岡をにらむと、首のピアノ線をひっぱり玲子のあごをつついた。
飛岡はデッキにはりついたまま、動けなくなった。
スヌーピーは身体を離し、
「教官、舌動かしな」
玲子はスヌーピーのブリーフを取り、なすがまま男の股間《こかん》に顔をうずめた。
玲子は固く目を閉じ顔をゆがませあえぎながら愛撫しはじめた。
スヌーピーは怒りをぶつけるように燃えるような目で飛岡を見た。
ジャングルで水を飲みに行ったとき、後ろを歩いていた仲間が突然スヌーピーの肩に倒れこんできたことがある。恐怖に大声をあげて森に迷い、沼にはまりこんだこともある。空腹に泣き、喉《のど》の渇《かわ》きにあえいだ。地面を這《は》うゴキブリさえ食ったのだ。また他の仲間が殺されたとき、ナイフがスヌーピーの面の皮をかすったこともあった。
玲子は両手でコックを支えると、頭を上下に振りはじめた。喉の奥をつつかれて、低いうめき声がくぐもって聞こえる。
「うまいねえ、教官」
快感のためか、男のあぶらぎった黒い顔がゆがんだ。厚い唇がめくれ、かみ合わせたまっ白な歯が見えた。
釘《くぎ》づけになっている飛岡に、
「あんたも毎日してもらっているのかね、うらやましいよ」
スヌーピーは飛岡に向けてイスを動かすとドカッと腰をおろし、下腹部を突き出した。
「さっ」
玲子は大切そうにそのコーラのビンほどもあるコックを両手で持ち強くこすりあげた。するとそれは角度をますます鋭くした。玲子は甘く深いためいきを吹きかけ、頬ずりするようにして口に含んだ。身体は上気して、ピンク色になっている。スヌーピーは玲子の見事な乳房に横から太股を押しつけ、しごいた。乳房が重たげに揺れると玲子のうめき声が太くなった。スヌーピーは右手にピアノ線を持ち、左手で玲子の背骨を丹念になで始めた。性感帯を探し求めているような手つきだ。長い手が腰のあたりまで届くと、玲子は目を開けあごをのけぞらした。尻を高々と上げ、左右に激しく振った。腹が波うち、濃いかげりが濡れているのがわかる。瞳は紗《しや》をかけたようにうるみ、また髪を乱してスヌーピーをさらに深く求めた。
玲子が軽く歯でかむようにすると、そのたびにスヌーピーは大声で歓声をあげた。
「飛岡さんといったね、こっち来なよ」
飛岡は二人の前に立ちはだかった。両手の拳を握りしめてスヌーピーをにらみつけた。怒りに全身が震えた。
「どうだね。こんなのを見せられる男の気持ちは」
「クッ」
「しかし、教官もマジだね。なんて舌だ。イキそうだ」
右手にピアノ線を握ったまま、スヌーピーは目をむいてゲラゲラ笑い、上体をくねらした。
玲子はコックを口に含んだまま、目をチラリとテーブルの上のケリーバッグに向けた。
「…………?」
そして頭をいっそう激しく動かした。一瞬、スヌーピーはつんのめった。
飛岡はその瞬間、飛び込むようにケリーバッグの底をまさぐりナイフを取りだすと、スヌーピーの筋肉で盛りあがった胸に思いきり投げつけた。
血と白いものが飛び散るのが同時だった。
玲子はピアノ線のくいこんだあとがはっきり見える首をさすり、ひざまずいたまま飛岡を見上げると、
「ありがとうございます。助かりましたわ」
飛岡は玲子の視線を避けるようにスヌーピーの死体をかつぐと、
「ジェイド神父から聞いていたが、そのハイヒールにもナイフが仕込まれていたはずだ。やろうと思えばやれたはずだ」
玲子はまっ赤になった。
「えっ、でもあなたから嫌われたかと思ってどうにでもなれって気持ちだったんですわ」
「それはちがう。君は一日でも男なしじゃいられない女なんだ」
「まっ」
「じゃ、オレは行く」
玲子はオロオロして、
「まだヘリが迎えに来るには時間があるんじゃないですか」
飛岡は、「フン」と鼻先で笑い、
「ここにいるよりはましだ」
「鮫《さめ》がいますよ!」
「鮫がどうした!! 太平洋には色狂いの鮫がいるとでもいうのか!!」
いいざま、海に飛び込んだ。
月はこうこうと銀色に輝き、星はあくまでも美しかった。
女心がひとつ、星のまたたきのように震えた。
クイーンエリザベスU世号のダンスフロアから、船の専属バンドが演奏する、媚薬《びやく》のようにけだるいコンチネンタルタンゴが流れてきた。今夜も、南米の亡命《ぼうめい》政治家夫妻がフロアを独占して、ありし日の栄光をしのびながら踊っていることだろう。
大きな丸窓から、月に輝く銀色の海が見えた。太平洋の降るような星の下、ひとつ小さな音がしたあと、海はまるでなにごともなかったように、波ひとつなく静まりかえっていた。
「まったく、あのイタ公はどこに行きやがったんだ」
ルーレット場の入口のウェイティングルームで、チーフマネージャーのアラン・スフナーは吐き捨てた。
顔だけはにこやかに、大きなソファに座っている紳士たちに笑いかけている。が、心はあのニヤついたニーノのために煮えくりかえっていた。
ボーイのニーノは持場を離れてどこにいるのだ。
「さっきだれか海に飛びこむ音を聞いたとミシェルが言っていたな。もしかしたらそれがニーノか」
ギロリとあたりをうかがうと、
「そうだとすりゃ、オレもうれしいが。あの種馬《たねうま》がどっかの部屋のベッドに飛び込んでいるんじゃないかってことが心配だ。もし、そういうことだったら、イタ公はすべて首だ」
とアランは立ち止まった。
若いレディが一人声をかけてきた。横浜で乗船してから、ハンサムなアランに盛んにモーションをかけてきていた成金の娘だ。アランはとっておきの笑顔で答えながらも彼女の身体にはノンだった。
レディは鼻をツンとさせ、
「まっ、クイーンエリザベス号に乗れば最高のサービスを受けられると聞いていたんだけど」
「レディ。最高のサービスを受けるには、最高の器が必要となります」
「なんですって」
「あなたが今着ていらっしゃるそのシャネルがお似合いになるお年になられてからでも、遅くはありません」
まったく日本人は金さえ出せばなんでもできると思ってやがる。シャネルなんざ、うちのお袋の年だってまだ早いくらいのもんだ。
アランのウェーブのある褐色の髪はていねいになでつけられていた。長いあごと整った鼻の美男子だ。キリッとした眉の下の濃いブルーの大きな目、少し厚い唇が甘い印象を与えている。パリジャンではないのが、強いアルザスなまりでわかる。
「どこへ行ったんだ、まったく」
B甲板に出るために階段をあがった時、くらやみからヌウッと人かげが出てきた。東京で雇いいれたボーイのヌレーネフがモップを持って立っていた。
怠け者ばかりのロシア人には珍しくこのヌレーネフは忠実でよく働くボーイだ。
「何してるんだ、こんなところで」
「汚れていたものですから、掃除してました」
「よう、感心だな」
「いえ。マネージャー、あれを」
ヌレーネフは電話ボックスを指さした。
アンチックな電話ボックスの中で、涙を浮かべ必死になにかを訴えている女が見えた。
マドモアゼル・レイコだ。乗船してから一度も部屋を出てこないのが心配だった。メイドに聞くと、部屋で泣いてばかりいるという。
玲子は黒いシフォンの胸が深くあいたジバンシーのドレスに、ティファニーのチョーカーをつけている。アランはその美しさに目をみはった。玲子の抜けるような白い肌が輝いている。肩にかかる髪が切なげに揺れ、受話器にささやきかける赤いルージュをつけた唇がなまめかしく濡れてゆがんでいた。
「味川さん、あたし飛岡さんに嫌われちゃったみたいなの」
女は受話器を置くと、目をおさえクイーンエリザベス号自慢のピンクの大理石でできた化粧室に走った。
ヌレーネフが、
「マネージャー、なぐさめてあげたらどうです。ニーノのことだったら私が探します」
「しかし」
「おや、あのお方は、クイーンエリザベス号の最高のもてなしを受けるにはふさわしくない御婦人ですかね」
「そっ、そんなことはない」
「ミスター・スフナー、我がクイーンエリザベス号で最高のサービスとは、あなたのおやさしい言葉なのです」
「わっ、わかった。感謝するぞ、ヌレーネフ」
アランは化粧室の方に行った。ヌレーネフはホッとして、血のついたナイフを拭《ふ》き、片耳のジョーの死体を海にけりこんだ。
「ふう、あやうく見つかるところだった」
と大きな息をついたヌレーネフの背後に人かげが動き、女の声がした。
「殺しの嫌いなあなたが、あの飛岡《とびおか》という男のためだったら職務以外の殺人までするのね」
ヌレーネフは振り向きもせず血まみれの手をふいていた。
「それとも、あの女の人に惚《ほ》れたのかしら」
濃いグリーンのサテンのロングドレスのナターシャ・アリチコワだった。外灯のあかりに、ロシア女としてはきゃしゃで背も小柄な女の姿が映し出された。上品な丸いあごに手をやり、やさしげなグリーンの目がヌレーネフに注がれている。豊かな金髪が柔らかく揺れた。
「それは違う。オレはおまえたちのような強い女はたくさんだ。オレがいなきゃ生きていけない、か弱い女が好きだ」
「あら、お言葉ね」
ヌレーネフは振り向き、静かな声で言った。
「それに、これは職務以外とは思えない。あのマドモアゼルが李正元《りしようげん》に近づき、重宗ファイルを手に入れてからでも遅くはない。クレムリンからもそうしろと言われている」
「ヌレーネフ、そんなこわい顔しないでよ。イルクーツク第二十三訓練所で会ったきりだから、二年ぶりよ。もっとやさしくしてよ。あたしの気持ちは知ってるくせに」
「それは命令かね」
ナターシャは裸の肩をピクリとさせた。ピンク色の唇をふるわせ、目から涙があふれている。
「私がいつ、そんな言い方をしたことがあって?」
ヌレーネフは、このいつも待っている女に与えるべきやさしいまなざしを海に向けた。
アラン・スフナーは化粧室の前で、玲子が出てくるのを待った。玲子は首に巻かれたピアノ線の跡を隠すために、チョーカーを穴一つきつくして化粧室を出た。
「マドモアゼル、ひどくお悲しみですが、私にできることならなんなりとお申しつけ下さい。ま、コーヒーなど御馳走《ごちそう》させて下さい」
玲子の目にまだ涙がたまっている。
「ありがとうございます。私の話を聞いてくださいな。だれにも相談できなくて気がめいって死んでしまいそうなんですの」
「それは光栄です、マドモアゼル」
この四十五になる自分、マルセイユに幸せな家庭も築いた自分がこんなに心を騒がせられたのは初めてだった。
ティールームの小さなテーブルをはさんで、玲子は、
「ボーイさんと少し話をしただけなのに、あの人からひどく疑われてしまったんですの」
「オウ、あなたは無実ですよ。ボーイがそれ以上のことをしたとあったら、私が黙っていません」
「そう言っていただくとうれしいわ」
「しかし、あなたのようなきれいな御婦人と一緒にいると、嫉妬《しつと》を感じないほうがおかしいですね」
こんな饒舌《じようぜつ》な自分にアランは驚いた。
「私があなたのアマンだったら、あなたが花束に顔をうずめただけで、そいつを引きちぎってしまうでしょう」
「フフ」
玲子の顔がようやく晴れた。
「そうだ、ルーレットをなさったらいかがです。いい気晴らしになりますよ」
「そうですわね」
あどけなく笑うしぐさがとてもいじらしい。
今夜の十五番テーブルには、チーフディーラーのカトウがいる。カトウに頼んでこのマドモアゼルに大勝ちさせてやろう。カトウにはこの前酒をおごったことがあるから言うことを聞いてくれるだろう。ルーレットの玉を自由に操《あやつ》れるのはカトウが一番だ。
「さあ」
アランにエスコートされてルーレット場に現れた玲子にあちこちからため息がもれた。そのたびにアランは誇らしく思った。
アランに対して御婦人方から嫉妬の顔が向けられた。アランは知らん顔をきめこんだ。
アランは、十五番のルーレットテーブルに案内した。
「さっ、ここでお遊びください」
玲子はアランの引いてくれた椅子に優雅な身のこなしでフワリと腰をおろした。
テーブルの左隣には二人のアメリカ人がいて、玲子に慇懃《いんぎん》な挨拶をした。右側では二組の中年のカップルがフランス語で声高にはしゃぎながら相談している。
そして玲子の前に、日本人と思われるサングラスをした男。
「まずは、赤と黒の確率二分の一でしばらくは遊んでください。そして機が熟したら一気に仕掛けるんです。だれか……」
アランは黒の蝶ネクタイのパーサーを呼び、ブランデーを一つ持ってくるように言いつけた。
「カトウ、私のつけだ。チップをこの美しい御婦人に……」
と言いかけて、アランの顔がけげんそうになった。
カトウが額に汗をにじませていた。
「どうした」
こんなにうろたえているのは初めてだ。
カトウは目くばせをしていた。アランは玲子の前のタキシードを着たサングラスの男を見て、その男の前に積まれたチップに驚いた。千ドルチップで五万ドルは勝っている。
「カトウ」
とアランが声をかけた。それに手もとを乱されたのか、玉は、赤の36に止まった。
「ウォーッ」という歓声があがり、男の元に十二倍のチップが集まった。
ルーレットは偶然性のゲームではない。ディーラーを半年もやっていれば出す目はどうにでもなる。客を適当に勝たせ、そして最後には負かす。これがいいディーラーなのだ。たとえば、3という数字が出ると、そのつぎは3を出すかそれ以外の数字を出すかの確率になる。つまり、客とディーラーとの心の読みあいのかけひきなのだ。
カトウの額に汗が流れた。カトウが出す目はすべて読まれているのだ。
彫《ほ》りの深いサングラスの男は眉ひとつ動かさずに悠然《ゆうぜん》とウイスキーグラスを口にし、ルーレット盤が回るのを待っている。玲子もその様子を察したか、
「いいの? ここで」
「えっ、ええ」
この美しい御婦人に目を奪われることもなく、カトウはハンカチで汗を拭った。
芳香とともに玲子の元にブランデーが運ばれてきた。ブランデーグラスはボーイの手で程よく温められている。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ルーレット場は天井が低く、シャンデリアがすぐ頭の上までおりてきている。十五番テーブルの幸運な男の周りを五、六人の男たちが興味深げに取り囲んだ。でっぷりと太ったその男たちが吐きだす葉巻の煙と共に、緊張した空気が流れた。
カトウは唇を噛《か》みしめてルーレット盤をさわった。その指は長く、繊細《せんさい》な動きをした。カトウは意を決するように盤を見つめた。
盤が回り始めた。すかさずサングラスの男は、赤の32に賭けた。青ざめたカトウが、玉を慎重にシュートした。カラカラと乾いた音をたて長い間|逡巡《しゆんじゆん》していた玉が対角線上の黒の8に止まった。男は白い歯を見せて、ディーラーを見た。
「フーッ」
カトウの表情はこわばったままだ。汗を拭おうともせず、コップの水をゴクゴクと飲みほした。勝ちはしたものの、この男はいつか大きくしかけてくる。そのとき、自分は破綻《はたん》してしまうだろう。
グラスにそっと口をふれて喉をうるおすと、玲子は黒いサテンのバッグから千ドル札を二枚取り出し、百ドルチップ二十枚ととりかえた。そしてその一枚をテーブルのほぼ中央、黒の20に賭けた。
カトウは、その額の少なさに唖然《あぜん》としたように玲子を見た。玲子は表情を変えず、ツンと鼻の先を上に向けたまま、すましてテーブルに目をやっている。
その金額の少なさが、カトウをリラックスさせた。やっと笑いが浮かんだ。長い指が生き物のように的確に動き始めた。
「さっ、ゆっくりお遊び下さい」
こんどは男が負け始めた。
カトウは余裕を持ってテーブルの客の顔色をうかがった。自信を取り戻したのだ。
水を得た魚のようにいきいきとしてきたカトウを横目にアランは心配だった。これはなにか巧妙な罠《わな》ではないか。みるみるなくなっていく男の前のチップに、どうしようもないあせりを感じた。
十回続けて勝つと、カトウは軽口をたたくようになった。
「さっ、回りました」
玉は、カトウのそんな気持ちが乗り移ったのか、赤の12に止まった。ディーラーの予想どおりである。
カトウは得意そうに玲子に、
「あなたは幸運の女神ですよ」
ゆるんだ笑みを投げかけ、無造作《むぞうさ》に盤を回して玉を放った。
「あっ!」
アランは強く舌うちした。
タキシードの男は、きっとこれを待っていたのだ。
「さっ、どうぞ!」
カトウはまるで気がついていない。
ブランデーをもう一口かぐように飲むと、玲子は迷うことなく財布から五千ドルを出し、今度は赤の12に一気にそのすべてを賭けた。サングラスの男がそこに手を伸ばすのと同時だった。あわせて一万五千ドルはある。
「し、しまった!」
アランは手で顔をおおった。
カトウは歯をくいしばった。薄い唇が一文字になっている。
カトウは12を二回出す癖を読まれていたのだ。そして男は、その時が来るのを辛抱強く待っていたのだ。
ルーレットの玉は、魅入《みい》られたように赤の12に止まった。
「ワッ」
まわりのギャラリーから、思わず吐息がもれ、歓声がわいた。
玲子と男の前に、チップの山が積まれた。
三十六倍だから、玲子と男はあわせて五十四万ドルを一挙に手にしたことになる。
玲子が男に笑いかけようとしてもサングラスの男は無表情のままだ。
「あっ、あの」
カトウは完全に自分を失い、オロオロとアランを見た。アランもパニックにおちいっていた。カトウ以上のディーラーは船にはいない。と、血走った目のアランの背中に、
「代わりましょうか」
アランが振り向くと、いつのまにか蝶ネクタイをしたヌレーネフがいた。アランの返事も待たず、ヌレーネフはルーレット盤を回していた。
「さっ」
ヌレーネフはシュートし、
「他のお客様が動揺していらっしゃいます。どうか一度だけの勝負にしてくださいませ。赤か黒の二分の一でも結構です。三十六倍にかけていただきますと、この船は確実にあなたがたのものになります」
玲子が、ヌレーネフが指さした方を見ると、濃紺の上着の袖に三本線が入っている英国人の船長がそのとおりだとばかりににこやかに会釈した。
サングラスの男が初めてニヤリと笑った。
玲子は積まれたばかりのチップをすべて赤の12に置いた。男もゆっくりと赤の12に置いた。
ヌレーネフの顔がひきつった。三度続けて12を出すつもりだったのだ。
ルーレット盤の回転が減速してくる。カラカラという音をたて、玉が止まりそうになる。ルーレットの回転が止まった。目は12をかろうじてよけて黒の8にとまった。
ギャラリーからいっせいにため息がもれた。
サングラスの顔を玲子に向け、男は照れたようにニヤッと笑った。陽やけした浅黒い肌のせいか、歯がやけに白く見える。
玲子はちょっと首をかしげ、
「やられましたわ」
「ああ、残念でした」
男はうなずきながら短く日本語で答えた。
「やるわね」
「ありがとうございます。ラッキーでした」
ヌレーネフは丁寧《ていねい》に頭を下げた。
「ほんとはいくつを出すつもりだったの?」
「ルージュ・ドゥーズ(赤の12)です」
「あら」
軽くたしなめるように、玲子がディーラーの顔をのぞいた。サングラスの男は人なつこく顔を崩して笑う。子供のように屈託のない笑い声だった。
「でも、私の場合、狙《ねら》ったところが出たためしがありません。フフフ」
にこやかに笑ったが、ヌレーネフの顔は汗びっしょりだった。男が言った。
「君の陽気さに神様が奇跡を起こしてくれたのだ」
男は、「さっ」と言って立ちあがろうとした。そのとき、
「あやうく船を乗っとられるところでしたな」
満面に笑みを浮かべた背の高い船長が近づいてきた。細面の品のいい顔立ちが上気している。
「ええ」
玲子と男が同時にうなずいた。
「一杯おつきあい願えますかな? とっておきのコニャックを御馳走しますよ。マドモアゼルもどうぞ」
船長は大きな手をさしのべて、カジノの隅に設けられたバーカウンターに案内した。
磨きぬかれたローズウッドのカウンターに三人並んで腰を下ろし、玲子と男は船長秘蔵のレミーマルタン・ルイ十三世の深い香りと柔らかな舌ざわりを楽しんだ。
「なるほど、素晴らしいコニャックだ」
「お気にいってくださって幸いです、ミスター・オカノ」
「どうして私の名を?」
「それが私の自慢でして。一度乗船していただいた方は、ちゃんとこの薄くなった頭に記憶しています」
船長は、広い額をたたいてふざける。
「それに、ミス・ムライ、私は美人の名前はすぐ覚えるよう、海軍士官だった父から訓練を受けています。でもミスター・オカノ」
と首をかしげた。
「今夜は一体どうしたのです。あなたがあのようにディーラーを追いつめる姿など見たことはありません」
と、岡野は大きく照れて、
「日本人のいけないところです。美人の前でいい格好をしたかったのです。まことにお恥ずかしい限りです」
「でも、そのおかげで私はあなたを船長と呼ぶ練習をしていました」
「もう、そんなにいじめないで下さい」
とガッシリした肩を小さく縮めた。
明りを落としたシャンデリアが投げかける柔らかな光が、ほんのり桜色に染まった玲子の頬をほの白く浮かびあがらせている。
「岡野さんはこの船には何度もお乗りになっているんですか?」
「ええ、たびたび。子供のころからの大の船好きでしてね。だからこんな船にいつも乗れる船長がうらやましいですよ」
船長は胸をそらし岡野の声にうなずきながら、広いカジノのホールをまるでわが子を見るように愛《いとお》しげなまなざしで見渡していた。
「本当に私は幸せものだと思います。私は、この船の船長に就任してからもう十年になります。その間、幾度となく世界一周クルーズをしましたが、いまだにこの船の魅力のすべてをつかむことができません。それほど奥の深い船なんですよ。これほど力強く、優美で、謎めいた魅力を秘めた船は、もう二度と造りだすことはできないでしょう」
船のことなら一晩中でも話していられそうな船長だった。
と、青ざめたボーイ長が近づいて、なにやら船長に耳打ちした。
船長は軽くうなずくと、立ち上がった。
「それでは、お二人をご紹介したところで、この邪魔者は消えましょう」
両足のかかとをピシリとつけて挨拶すると、待っていた数人の船員たちと部屋を横切って出ていった。
静かな波の音とともに、バーテンダーの背後にある開いた丸窓から、かすかにフロアのざわめきが聞こえてくる。
と、ダンスフロアの演奏は、いつのまにかワルツに変わっていた。
岡野は少し眉をひそめ、
「なにかありましたね」
「えっ?」
「この曲は乗組員たちに緊急事態を知らせる符牒《ふちよう》です」
なるほど、ボーイたちの表情は、笑ってはいるものの目が険《けわ》しい。
「なにがありましたの?」
と玲子が聞いても、ひげのバーテンダーはにこやかに笑って答えない。核戦争が起きてもこの船だけは安全だとでもいいたげだ。
岡野も、
「この船には最高のスタッフが乗っています。ご安心なさって結構ですよ」
と言うが、通常のトラブルとは違うことは岡野のせわしげな目くばりが示している。
コニャックをなめた玲子は、
「岡野さんはなにをなさっていらっしゃいますの?」
「ヤクザです」
白く長い指でグラスをさすった。
「クスリの方ですか?」
「いえ、女を売ってます」
「女を?」
ほのかなライトに岡野の唇がかすかにゆがんだのがわかった。
「ベトナム戦争で、前線のアメリカ兵に要請されて女を送りこんで以来の仕事ですから、もう二十年くらい続いています」
「あまり楽しいお仕事じゃありませんでしたでしょうね」
「でも、国のためでしたからね」
「国のため?」
「兵隊を送らない国は女でも送らないとおさまりがつきませんよ」
「あら、国ってこわいですね」
「あたしらヤクザなんていきがってますが、いいように使われているだけです。でも、あきらめていた子供が生まれましてね」
と胸のポケットから写真を取りだした。ルミ子です、と岡野は言った。
「もう可愛《かわい》くて、目の中に入れても痛くないってのは本当だなと思いますよ」
やさしい目をすると、大切そうに写真をさすった。
「いいお父さんですわ」
「娘のために早く足を洗いたいと思っています。今度の香港《ホンコン》の仕事が済めば、そうします」
「今度の仕事って?」
「恐喝《きようかつ》です」
「恐喝?」
「日本政府相手の恐喝なんです。私も人並みの愛国心はあるのですが、このとてつもなさが気に入りましてね。話に乗ったのです。まっ、義理もあります」
楽しそうに笑うと、
「鮫島を失ったことは残念です。私の弟でした」
「では、あなたが」
「鬼心会《きしんかい》の組長をしております」
「そうでしたか」
「私は先代の養子になりましたから、名前は違っていますがたった一人の弟でした。いくども足を洗えと言っていたのですが」
「申し訳ないことをしましたわ」
「いえ、しょせん、その程度の男だったのです」
ボーイたちの様子がますますおかしい。顔がひきつっている。いつもとは違う緊張感があって、客たちもけげんそうにその様子をうかがっていた。
「そういや、片耳の黒人が殺されていました」
「じゃ、私はゆっくり旅を楽しめるということですね」
岡野は玲子に身体を向けると、
「私の部屋にきていただけませんか。見ていただきたいものがあるんです」
「あら、なんでしょう」
二人は、一等船室の岡野の部屋に入った。ダークブラウンの落ち着いた感じの部屋だ。低いモダンなライトが目にやさしい。チーク材の重厚なデスクがあり、その上に妻と子供の写真が置いてあった。
玲子に壁ぎわのソファをすすめた。
丸窓をすりぬけてくる夜の海の匂いが、広い部屋を満たしていた。
突き当たりの壁にそってダブルベッドが置いてある。それだけが玲子の部屋と同じものだ。薄いグレーの光沢《こうたく》のあるベッドカバーの上には、ペーズリー模様の男物のパジャマがキチンとたたんであった。岡野はデスクの引き出しをあけると、ビデオを取り出し、妻子の写真を裏がえしにした。
「あら」
「娘に見せたくないんです」
照れたようにそう言うと、岡野はビデオのスイッチを入れた。
「部屋の明りを暗くします」
玲子がうなずいたのを確かめて、岡野は天井の明りを消した。デスクのそばのフロアライトだけが、あたりをぼんやりと照らしだしている。
「音は消します。こういうのは私の趣味ではないので」
サーッという音が急にやむと、男と女がソファで話している光景が映しだされた。男は、オレンジ色のポロシャツを着て、陽にやけた顔がニヤニヤ笑っている。女は脅《おび》えた顔で何か叫んでいるようだ。
「坪田京子だわ」
と、いきなり、竜一が京子に抱きついた。京子は逃げまどっている。竜一は顔をゆがめると、いきなり京子を殴りつけた。フラッと倒れそうになるのを引きよせると、暴れる京子を押さえつけながら、スカートの裾《すそ》に手をつっこみ、パンティをむりやり引きはがした。器用に自分の着ているものを脱ぐと、京子の足にからんだパンティはそのままにして、ひきずるように身体を椅子まで持っていった。竜一の下半身はすっかり裸で、異様なまでに猛《たけ》り狂った身体が不気味だった。竜一はドンとそのまま腰かけると、京子をひざにのせ、白い尻をつかんだ。京子は、あまりの驚きにもはや抵抗も忘れ、茫然としている。竜一は、慣れた手つきで一気に京子に突き立てた。あまりの激痛に、京子はまた暴れだした。竜一は片手で腰をつかんで押さえつけ、もう一方の手で京子の頬をはりたおした。ぐったりとした京子の尻を両手がくいこむほどつかんで、上下に激しく動かしている。ニチャニチャ、ガムをかんでいる竜一が京子のブラウスに手をかけた。
そこで画面が急に止まった。
「どうしたのかしら」
「これからが本番です」
顔をそむけたまま岡野は答え、再びビデオをスタートさせた。また画面が動き始めた。
玲子は、はじめ喧嘩をしているのかと思った。ベージュ色の絨毯《じゆうたん》の上で、男が数人もつれあっている。
でも、何か変だ。
下に押さえこまれたものが、その上にのりかかった男のひきちぎれた黄色のシャツをなおもひっぱっている。その手があまりにも華奢《きやしや》すぎるので目をこらしたとたん、サッと上にのった男が、他の男と代わった。その瞬間、玲子は何が起こっているのかはっきりと理解した。
「うちの組のもんです」
「らしいですわね」
上にのった男は、殴られてぐったりした京子の白いブラウスをひきちぎった。ボタンがふっとび、白いブラジャーが破られ、陽やけのあとがうっすらと残った小さいが形のいい胸があらわになる。悲鳴をあげた京子の顔がアップになった。
長いサラリとした髪がかかった額には、ひっかき傷が無数についている。左の目の下が青黒く腫《は》れあがっているのは、相当強い力で殴られたのにちがいない。
「もう、止《や》めましょうか」
「いえ、大事な生徒ですもの。私が目をそらすわけにはいきませんわ」
京子の助けを求める顔が、さらにゆがんだ。
泣きじゃくりながら抵抗する京子の白い足が宙を蹴《け》った。半ば裸の男たちがニヤニヤ笑いながら、ジーンズの男が京子の身体に馬乗りになって腰をうねらせているのを見ている。
カメラマンが注文したのだろう、男の腰が激しく動き、京子の身体が放り出されたように無抵抗になった。男たちは京子の身体のすみずみにカメラを向けている。
涙に濡れた顔は、アザとひっかき傷で、もう正視できないほどだ。
細い首すじとなだらかなカーブをえがく肩から胸、そして薄い翳《かげ》りの部分が、念入りに画面にうつしだされる。
何度京子の身体をもてあそんだのだろう。もう京子は抵抗する力を失い、男の腕の中でグッタリしている。
京子のライトブルーのスカートが部屋のすみに投げ捨てられ、白いブラジャーとパンティが京子の長い髪のかたわらでもみくちゃになっている。
「この女の子、どうなりますの?」
「売ります」
「いくらで」
「さあ」
「どこで競売は行われるんですの」
「香港島です」
「私もうかがっていいかしら。彼女は私の大事な教え子です。ちゃんと見届けてやりたいんですの。この程度のことで世をはかなんだりしないよう一言アドバイスしてあげたいんですの」
「ここであなたにお売りしてもいいんですが、私共にも仁義があります」
「わかっています。どのくらいで落とされるんですの」
「多分、一億以下だと思いますが」
「クレジットカードでいいかしら」
「フフ、ヤクザはいつも現金商売です」
「困ったわ」
突然、画面の竜一がふっとんだ。銃弾が当たったようだった。
と、船内にアナウンスが流れた。
「皆様、おくつろぎのところまことに申しわけありませんが、お静かにお聞きください……」
一語一語ゆっくりと発音する、船長の声が聞こえてきた。
「この船に時限爆弾が仕掛けられている恐れがあることがわかりました。ただいま、救命ボートを用意しておりますので、ご婦人やお子様を優先し、すみやかに避難してください」
アナウンスの途中から、客たちが口々に騒ぎはじめたのが聞こえてきた。
「どうしたんだろう」
岡野は、しきりと首をひねった。
ふたりが甲板《かんぱん》に出ると、客たちが混乱を極めていた。救いは乗組員たちの沈着な態度だった。よく訓練されているらしく、顔色ひとつかえず、テキパキと客を誘導していく。その一方で、残りの乗組員たちが船内をくまなく捜索してまわっていた。さすがに彼らの額には、汗が浮かび、目は血走っていた。
岡野はまた首をひねった。
「どうしましたの?」
「いや、ちょっと気になることがあるものですから。お逃げになりませんか」
「少し待ちましょう。ボートにたどりつく前に海に落とされちゃいますわ」
大声をあげて逃げまどう客を必死になだめるかのようにワルツの曲が流れている。
十六くらいのボーイがオロオロして、
「最後になりました。避難してください」
「バンドの諸君は」
「あなたたちが避難なさるまで演奏をやめるわけにはいきません」
「あなたは」
「我々乗組員は、この栄光の船と運命を共にします」
青ざめた顔で、唇を震わせながら泣いていた。
コツコツと反対側のデッキから靴音が響いた。
岡野がふりかえると、船長がアラン以下部下を数人ひきつれてこちらに近づいてくるところだった。まぶしそうに目を細めているが、顔の表情や物腰はいつものように落ち着いている。
「まだ爆弾は見つからないんですの?」
「ええ。手をつくしているのですが、なにしろ広すぎます」
「正確な情報なの?」
「ええ、このポラロイドをご覧ください。ロシアの御婦人が写されたものです」
写真は、中国人らしい男たちがタラップを上がっているものだった。バッグのファスナーが少し開き、ボンベ型のTR爆弾の信管らしいものが見えた。
「あっ」
岡野が声を上げた。
「お知り合いですの?」
「知り合いというわけじゃありませんが、心当たりはあります」
玲子の目が、船長が手にした船の構造図に止まった。
「それ、見せていただけますか?」
「ええ、どうぞ」
食い入るように見ながら、
「このベッドの下のバルブは?」
「通気孔です」
「そこを調べてくれませんか」
有無《うむ》を言わせないきっぱりした口調だった。
「わかりました」
アランの目くばせを受け、乗組員たちが駆けだした。
「この部屋はだれの部屋ですか」
「ミスター・オカノの部屋です」
乗組員が答えた。
「私の!?」
岡野の彫《ほ》りの深い端整な表情が大きくゆがんだ。
あたふたと靴音高く、さきほどの乗組員が血相変えて駆けもどってきた。
「キャプテン、見つかりました!」
船長を先頭に、その場に居合わせた者は皆、岡野の部屋に走った。
爆弾は、岡野の部屋のベッドの下の通気孔にガムテープで固定されていた。
TR爆弾とダイナマイトと目覚まし時計を組み合わせたもので、赤と青の二本の接続コードが伸びていた。船長は手を伸ばし、一気にそれを抜こうとした。
玲子が止めた。
「待って」
「えっ?」
「どちらか一本が信管につながっているわ。そして間違った方のコードを引くと、一気に爆発するしかけになっているのよ」
「そ、そんな!」
船長の顔色が変わり、額に脂汗がにじんだ。
岡野がベッドの脇にかがみこんだ。
「みなさんはボートに避難してくれませんか。これは私の責任ですから、私が引っぱります」
すわりこんだまま、岡野は目覚まし時計の文字盤をにらみつけるように言った。
爆発まであと二分しかない。
「もう無理ですな。十キロのTR爆弾なら、この船の半分は吹っ飛びます」
「あのディーラーを呼んできて!」
玲子が叫んだ。
部屋の入口付近で、心配そうにのぞきこんでいたアランが怪訝《けげん》そうな顔をした。
「早く!」
アランははじかれたように駆けだした。
すぐさまヌレーネフが、アランにせきたてられるように姿をあらわした。
「この赤と青のコード、どっちかひとつ選んで」
「はっ?」
「早く!!」
時間はあと十五秒しかない。
「早く選んで!!」
「はっ、はい」
「早く!!」
「クソーッ!」
ヌレーネフは、力いっぱい赤のコードを引き抜いた。
二秒を残し、時計は停止した。
「やっぱりついてるわね、あなた。まさか今度は青をひくつもりだったなんて言わないでしょうね」
「しかし、自分の持分の運をすべて使ってしまった気分ですよ」
この決して動じたことのないKGBのエージェントは汗びっしょりになって腰をぬかしていた。
岡野はくやしそうにこぶしを握りしめ、
「あいつらはこのオレを信用できないというのか。オレは約束は必ず守る男だ」
「私を殺すという約束ですか」
玲子は平然として言った。
「ええ」
「こう考えたらいかがです。あなたが私の魅力に負けて部屋に誘うことまで考えていたと」
「フフ」
岡野は、その粋《いき》なジョークに笑いを返したが、そのきびしい顔は変わることはなかった。
クイーンエリザベスU世号は、鯉魚門《レイユームン》を抜け、九竜《カオルン》半島を大きくまわりこむようにして半島西南の|海運大厦《オーシヤン・ターミナル》に静かに着岸した。
彫刻をほどこした銀の縁で飾られた丸窓から差しこむ日ざしのまぶしさで玲子は目を覚ました。身体《からだ》の奥深いところに、まだ昨夜の痺《しび》れるような快楽の残滓《ざんし》がとどまっている。
帆を上げた小舟が窓を横切った。その向こうに大きなタンカーも見える。ビクトリア湾はすでに日が高く、静かな海はキラキラと光っていた。
すぐには起きだしたくない気分だった。寝返りをうって隣を見ると、白い枕のへこみが残っているだけで、すでに岡野の姿はなかった。
「あら」
一瞬、やるせないさびしさに襲われたが、岡野のたくましい胸を思いだし、玲子は思わず顔を赤らめた。
昨夜、ベッドライトの小さな明りの下で玲子は言った。
「一億で、私を買っていただけませんか」
が、岡野は胸をまさぐり、そこに熱いくちづけをしながら、
「私は女を金で買ったことはありません」
「でも……」
「よしてもいいんですか」
「いやっ」
岡野は、すべてを心得ているかのように振る舞った。やさしく愛撫するかと思うと、荒々しく音をたてて玲子の身体のあらゆるところを吸いつくした。玲子はそのたびに、不思議な陶酔を覚えて身体をよじった。そんな長い時間のあと、身体を起こした岡野と目が合うと、玲子の身体はそれだけで、またどうしようもなく熱く燃えた。むずかるように欲しがる玲子に岡野は強くうなずくと、全《すべ》てを与えた。フワリと身体が浮くような快感に玲子は岡野の胸にしがみつき、その肩に歯をあて涙を流した。
「もうっ!」
岡野への怒りがこみあげてきた。
と、電話のベルが鳴った。玲子は飛びつくように受話器をとると、
「あ、あなた、ひどいわ。目がさめたらいないんですもの。あたし淋しくって。ねえ、コーヒーぐらい一緒に飲めないかしら。あたし、ほんとに怒ってるんだから。あっ」
ジーという雑音が聞こえた。船内の電話ではない。
「どっ、どなた?」
「オレだ」
その重い声になじみがある。
「あっ、その。飛岡《とびおか》課長。もう東京なんですか」
めまいがして受話器を落としそうになった。
「また男を連れこんでいたのか」
「いえ、その、あたし。これには訳があるんですの。昨晩、船に爆弾がしかけられて、あたし、怖くて怖くて……。で、船長さんがあたしのこと心配して。あの、聞いてます?」
長い沈黙のあと、飛岡は沈痛な声で、
「今日の晩、あけといてくれないか。オレも香港に行く」
「えっ?」
「実はうちのおやじとおふくろが農協の旅行でそっちに行ってんだ。妹がなんかしゃべったらしい。おまえを紹介してくれって言うんだ。どうにも田舎《いなか》もんで、なんでもないって言ってもききゃしない」
「あ、あたしどうしたらいいのかしら」
「また男を連れこむところを見せてやれば、それで済む」
ガチャリと受話器を置く音で耳が痛いほどだった。
「どういうことよ、もう。なんであたしがあんな人の両親なんかに会わなきゃいけないのよ」
そのとき、ボーイがドアをノックする音が聞こえた。
玲子は裸にシーツを巻きつけただけの姿でドアを開けた。
ボーイは玲子の姿を見て、一瞬息をのみ、顔を赤らめた。
「あの、他のお客様はみな船をおりられましたが」
「あら、ごめんなさい」
誘いかけるような笑みをボーイに向け、ドアを閉めた玲子は、一人途方にくれた。
ビクトリア湾を見おろす、オーシャン・センターの最上階から覗《のぞ》くヘンメリーワルサーの緑色のスコープに、オーシャン・ターミナルに停泊していたクイーンエリザベスU世号をドックにひき入れるため、曳航船《えいこうせん》が近寄ってきたのが見えた。
海は静かだ。クイーンエリザベス号の船体をきわだたせる金色の帯が朝の日を受けてまぶしいほど輝いている。
最後の客が降りてゆうに一時間は経過している。ヘンメリーワルサーはじっと標的を待ち続けていた。
と、マスカットグリーンの麻のスーツを着た玲子が出てきた。
玲子はエスコートするフランス人のマネージャーの腕にすがって、ガックリと肩を落としている。
李正元《りしようげん》は周りを書棚に囲まれた部屋の革ばりの茶色のソファにもたれて、双眼鏡を見ていた。
「あんな小娘に、木田と鮫島はやられたのか」
あきれたような声を出した。
スコープを覗きこむ村井誠一朗が銃身を下ろし、額の汗を拭いた。
「村井、どうした。撃て!」
たとえ射程距離六百メートルを越えるライフルであっても、今撃てば風で流される。風速が五メートルとしても、ヘンメリーワルサーの〇・一ミリの誤差は標的についたとき、四メートルになる。
「このくらいの風ならおまえには計算できるはずだ」
「いえ、私はもう年ですから」
「ふざけるな。キサマ、オレに受けた恩を忘れたのか」
「いえ、忘れません」
李正元は目を細めて村井を試すように見やり、
「あの女は、六年前に失踪《しつそう》したというおまえの娘に似てるんだってな」
村井はキッとした顔で、
「私も六百年からの家柄を誇る村井宗家の人間です。たとえ娘であろうと、恩を受けたお方の意に逆《さか》らうようなことはしません」
「その言葉を信じていいのだな」
「二言はありません」
村井は唇を固く結んだ。
「長男を家から出したそうだな。刺客村井家をつがせたくなかったのか」
「身体の弱い子でしたから」
「一朝《いつちよう》事ある時は、なんとするつもりだ。平沼《ひらぬま》が生きていたら泣くぞ」
太った身体をもてあますように北窓のデッキチェアに座っていた人民服姿の朱燕維《しゆえんい》主席が、フッフッと笑った。ポケットからハバナ葉巻を取り出すと、ゆっくりとデュポンのライターで火をつけ、
「まあ李閣下。あんな女一人になにができます」
「鮫島と木田が女にたぶらかされて自分を忘れるような男か? 黒人の二人の殺し屋がなぜああも簡単にやられたんだ。それに、船も爆発しなかった」
とテーブルを叩きつけた。
「ハハ、中国にはそんな奇跡はよくあることですよ」
「では、一九九七年は来ないというのか。|※小平《とうしようへい》がそれほど甘い男だというのか。人間に必要なのは、奇跡を待つ心ではなく、奇跡を起こす意志だ」
大きくため息をつき、
「岡野を怒らせたことはまずい。オレの人生の最大の失策だった」
さっきタラップを降りた岡野がこちらをにらみつけたその顔は、怒りに張り裂けんばかりだった。
と、天井まである両開きのドアが開き、白い麻の服を着て、黒ぶちの丸眼鏡をかけたマニラ人が入って来た。太って頬がたれさがった顔に薄い口髭《くちひげ》をたくわえ、スペアリブを手に持っている。
「おう、チェか」
李正元からチェと呼ばれたマニラ人は最敬礼すると、
「閣下は岡野を買い被《かぶ》りすぎておられるのではないですか」
ジロリとチェを睨《にら》み、
「おまえらに、ベトコンのまっただ中に女を売りにいくような勇気があるのか」
「またそれだ。岡野には、私から話をつけます」
「頼む」
チェは脂だらけの手をハンカチで拭き、
「どうも李閣下は日本人というものを信じすぎるのではありませんか」
「おまえたちは日本人の団結の怖さを知らない」
「それは中国人もマニラ人も同じです」
「中国に、あの第二次世界大戦を引き起こす度胸、いや無謀さがあったかね。このビルを見ろ。三分の一は日本の商社に買われている」
朱主席は、葉巻の煙を吐き出し、
「しかし李閣下、いざとなったらアメリカが守ってくれますよ」
李正元は、背筋を伸ばし、キッパリと言い放った。
「オレはアメリカなどという国を信じてはいない」
あのときだって、日本は戦争にひっぱりこまれたのだ。今だって、第二次世界大戦の前夜と同じだ。ろくすっぽ走れもしない車ばかり作っといて、日本車を売りすぎるなはないもんだ。日本が出方を一歩誤れば、いつだってアメリカは口実をつけて日本を戦争に引きずりこむにちがいない。あの国は世界のリーダーという顔をしているが、自分の都合でしか動かない。核配備を半減しようともっともらしく言っているが、いままでNATO条約を信じていた国を唖然《あぜん》とさせたではないか。もし、INFを撤廃した後、ソ連が攻めてきたら、ドイツなどひとたまりもなかろう。その点、フランスは最初からアメリカなどという国を信じてはいない。アメリカは必ずこういうことをやらかすと思えばこそ、NATOにも加盟せず、独自に中性子爆弾を開発している。
「では、ソ連に重宗《しげむね》ファイルを渡しますか」
李正元は、かつて凜々《りり》しかったであろうその眉をピクリと動かすと言った。
「北朝鮮だ」
「北朝鮮!?」
愕然《がくぜん》とする村井を尻目に、チェが狂喜して椅子を蹴倒し立ち上がり、
「北朝鮮が出すとしたら、六千億ですか、七千億ですか。そうなったら、我々の分け前も増やしてもらいませんとな、ハハハ」
李正元は答えず、眼下の香港警察のパトカーに乗りこむ玲子の後ろ姿をじっと見てはしきりに首をかしげていた。
「あれは……」
いとおしい思いがよみがえってきて、胸がかきむしられるようだった。そうだ、オレはかつてあれと同じ背中を見守っていたことがある。おびただしいサーチライトに照らされた中でだ。あれはどこだ。
「では、分け前は百億はいただけるでしょうか」
チェの、両手を拝むように合わせ、白い歯をむきだしにしたマニラ人特有の笑いに、李正元のその思いは中断された。
タラップを降りた玲子をにこやかに迎えたのは、香港《ホンコン》警察のチャン部長だった。
「長旅、お疲れさまです」
「…………」
「味川刑事から聞いてはおりましたが、これほどおきれいな人とは思いませんでした」
「…………」
お世辞を言いつつも、チャン部長は、禿《は》げあがった赤ら顔をほころばせ、大きな身体を玲子に寄せんばかりにしてパトカーに乗りこんだ。
玲子はよろよろとやっとのことでシートに座った。
パトカーは日本製のスカイラインだった。
「昨夜は大変だったそうですね」
「いえ、それよりも今朝の電話の方が」
「はあ?」
「どこかデパートに案内していただけませんか。ある方の御両親とお会いしなければなりませんの。それなのにあたしったら、こんな街の女みたいなハデな服しか持っていませんの」
「じゃ、いったんホテルにチェックインして、それから御案内しましょう」
「お願いします」
気の毒なほどしょげかえっている玲子を見て、チャン部長は少し失望した。今、目の前にいる女は、単なる小娘だ。
「あの、私の前に彫《ほ》りの深い顔だちの男の人が降りてきませんでした?」
「さあ、何分、人が多かったものですから」
「でも、いっぺんでわかります。とても二枚目で、ほれぼれするようなスタイルなんですから」
「私たちは女の方を待っていたものですから」
「あっ、そうでしたわね」
「その男の人がなにか」
「いえ、ただ私を待ってくれてるんじゃないかと思いまして」
「ですから、私どもが待っていたじゃありませんか。ホン、車を出せ」
チャン部長は不愉快そうに運転席のホン刑事の背中をつついた。
香港は、六月から九月まで気温が三十度以上に上がり、湿度が九十パーセントもあって、毎日蒸し暑い日が続く。開けはなったパトカーの窓から、すえたような独特の街の匂いを含んだ重たい風が吹きこんできた。
「これが香港の匂いなんですよ」
チャン部長は汗でテカテカと光っている頭をつるりとなでた。
「ああそうですか」
風でおくれ毛が頬や首すじにかかるのを気にもかけず、玲子はしょげたままだ。
パトカーは警笛を盛んにならしながらかなりのスピードで走っていく。人があふれているのに、たくさんの車は信号なぞ無視して縦横無尽《じゆうおうむじん》に走りまわっている。玲子は香港では人間より車の方が大事なんだと言った味川のことばをぼんやり思いだした。
「ごらんなさい、東京よりすごいでしょう」
チャン部長が金色に輝く高層ビルを指さした。国際都市香港だけあって、金融街には世界中の銀行の高層ビルが立ち並び、海に面した通りには巨大なホテルが多かった。極彩色《ごくさいしき》の英語と中国語の看板を下げたスーベニアショップがひしめき、歩道にはカメラをぶらさげた多くの観光客が行きかっていた。
「香港はまだまだこれからですよ。どこもかしこも建設中だ」
高いやぐらを竹で組む独特の工事法で建てているとてつもないビルがあちこちに見えた。
「中国人の生活力もたいしたもんでしょう」
東京のビジネスマンに劣らず忙しい足どりで歩いている。人々の顔つきは皆真剣で、脇目もふらず仕事をしている様子が頼もしい。
「それから、ホラ」
見上げると、ビルのてっぺんに崩れたような家が必ずある。土地が狭いので、追いつめられた人々が巣を作るように住みはじめるのだという。
「あのう、チャン部長、お願いがあるんですが。岡野という男の人の泊まっているホテルを探してくれませんか」
「はあ」
「それに、ゆっくり語りあえる雰囲気《ふんいき》のいいレストランを紹介していただけませんか」
チャン部長は薄くなった頭から湯気を出さんばかりに、
「香港にホテルは星の数ほどあります。岡野という名前だけで突き止めるのは不可能です!!」
村井誠一朗は、ダウンタウンの市場にいた。狭い路地に牛や豚の頭を吊《つ》るしている肉屋や、乾燥した木の根や動物の骨を並べている漢方薬の店、ヘビが軒先でうごめく薬屋などがゴチャゴチャと並んでいる。
その間を埋めているのが、五人も入ればいっぱいという小さな料理屋だ。それらが渾然《こんぜん》として一種異様な甘ずっぱい匂いがあたりにたちこめている。ここにくると、人はそれに酔ったようになって、急いで歩くことはむずかしくなる。
「やっぱりここにいたな」
「おう、村井、久しぶりだな」
いとおしそうに店の前でヘビを見ていた、竹で編んだ帽子をかぶったベトナム人らしい小柄な男が顔を上げた。粗末な黒いパジャマのようなものを身につけ、ゴムゾウリをつっかけている。その男が話しかけるとマニラコブラは男を慕うように前に集まり、鎌首《かまくび》を揺らした。男は、コンコンとガラスケースを叩くと、
「お茶でも飲まないか」
「ああ」
隣の汚い飲茶《ヤムチヤ》屋に入った。薄汚れた形ばかりのウインドーに手製のクッキーや饅頭《マントウ》が乱暴に積み重ねてあって、その上をハエが飛び交っていた。男は、ハエを載せたまま手づかみで饅頭を皿に取り、村井に渡した。慣れた手付きでお茶を注《つ》ぎながら、
「狙撃に失敗したんだって?」
「ああ」
「おまえにはあの娘を撃つことはできないよ」
「バカ言え。これでも宮内庁|御用達《ごようたし》の殺し屋稼業で六百年の家柄だぞ」
「おおげさだなあ」
「そうでもないさ」
村井は銀髪をかきあげ、男の格好を見て、
「今度はベトナム人に化けているのか」
「どうがんばっても、アメリカ人にはなれないからな」
細い目にぶ厚い唇の男が笑った。
「そうだな」
そう答えた村井をみやる男のまなざしが厳しくなった。
「でもあの女は無理だ」
「オレの腕を疑っているのか? 今だって、あのハエを撃ち抜くことができるんだぞ」
「でも、無理だ。勢いの問題だ」
「勢い? おまえ、占いでもやるようになったのか」
「いや、ヘビ占いだ」
「ヘビ占い?」
「臆病な動物でな。勝てないと思ったら、絶対|籠《かご》から出ない」
「そうか」
村井は男の腰の籠にじっと目をやった。男はポツリと、
「老兵は消え去るのみよ」
「オレもそう思う」
「それが少佐殿にはわからん」
村井は手を組んだ。
「一つ気になることがある。少佐殿はファイルを北朝鮮に売ろうとしてる。なぜだ」
「単純な話さ。名誉が欲しくなったのさ」
ベトナム人に変装したヘビ使いの男はそう言うと、ニコリと笑って、
「しかし、百合子《ゆりこ》様とベルリンにいたころは楽しかったなあ。ユダ公を斬《き》って斬って斬りまくったものな」
「おまえたちがうらやましかったよ。でも、オレには玲子がいる」
「百合子様とどちらが強い」
「まっ、五分と五分だろうな。しかし射撃と格闘術は五つのときからオレが教えている」
村井は胸をそらして、悠然とジャスミンの匂いのする茶をすすった。
ソビエト領事館は、チムサツィのチャタム・ロードに面していた。
その二階の会議室で、ナターシャはいらだたしげにうろつき回り、暗号の解読の結果を待っていた。
四人のスタッフが朝からかかりきりになっている。
「まだなの?」
「もう少しです」
「本国からの暗号文なのに、そんなに時間がかかるの」
「いや、特殊な暗号文みたいですから」
「それだけ急を要しているということでしょう」
「はあ、まあ。でもこう毎週乱数表が変わると、解読に手間がかかるんですよね。それに大した事件があるわけでもないのに毎週変える意味はないと思うんですがね」
「なんですって」
ナターシャはヒステリックになった。
「とにかく、あなた、そのシャツをちゃんとズボンの中に入れてちょうだい。レディの前なんだから」
ナターシャは思わずわめきちらした。
ペレストロイカもいい、グラスノスチも結構だ。しかし、かつて世界を震撼《しんかん》させたKGBの工作員がいまニヤついた顔で手にしているのは、ハンバーガーとコカコーラだ。
ヌレーネフは所在なげにドアにくくりつけた的を使って、ダートをしている。クイーンエリザベス号でも自分のことをずっと放りっぱなしだった。ナターシャはそれも気にいらない。
ナボコフが帰ってきた。盗聴器を玲子のホテルの部屋の花瓶にしかけてあったはずだ。
「そのテープレコーダーはヌレーネフが持っとくといいわ。あの女との睦言《むつごと》を他人に聞かれたくないでしょう」
ヌレーネフは、的から矢をひっぱり抜くと、
「何度言ったらわかるんだ。私は、あの女には興味はないんだ」
「そうかしら」
九月半ばを過ぎても照りつける陽ざしは真夏のままだ。高層ビルがひしめき、無数の極彩色の看板が頭すれすれに突き出しているチャタム・ロードには、やりばのない熱気がたちこめている。人々は小さな窓から顔を出し、ぼんやりとあごをついている。道の脇では裸の子供たちが歓声をあげながら水道の水を派手に出し、シャワー代わりに浴びていた。
「解読できました」
ナターシャはそのブルーのペーパーを見て、震えた。わずか二行の文だった。
『ピョンヤンの闇、香港に侵入す』
カン・マンスーが来る。
恐怖の震えと、官能のうずきがナターシャを同時に襲った。ナターシャの女体のすべてを変えた男だ。それを知っている下半身がもう、熱くなっているのがわかる。ナターシャは思いだしてめまいがした。
「ヌレーネフ!」
とすがるような声を出したが、ヌレーネフは時計を見て、外に飛び出そうとしていた。
「あっ、待って。どこへ行くの?」
「空港だ。飛岡を迎えに行ってくる」
玲子がビクトリア・ハーバーからホテルについたのは、その二時間前だった。イギリス植民地時代に建設されたビクトリア調の格調の高い美しいホテルだ。道をへだててプライベートビーチが広がり、海に浮かぶ豪華なヨットや貝がらのような帆船が美しい。その向こうの香港島のビル街の夜景はさぞきれいに見えることだろう。
と、驚くほど天井の高いティールームで、
「パパ」
かわいらしい女の子の声がした。
玲子はビクリと立ち止まった。岡野の船室にあった写真の子供だ。
数人の用心棒にかこまれ、グレーの背広を着た岡野が子どもを抱きかかえ頬ずりした。そばでしとやかに二人を見ているのが彼の妻なのだろう。グレーのツーピースを着て、意外なくらい地味だった。
岡野は玲子に気がつくと、
「あっ、さっき話した船でお世話になった村井さんだ」
「ありがとうございました」
さわやかな、満ちたりた笑みだった。昨夜《ゆうべ》あんなに狂わせておいて、あんな幸せそうな笑いをするなんて。玲子はイライラした。
と、髪をポニーテールにした娘が、
「ルミはこのお姉さん、キライ」
「まっ、ルミちゃんなんてこと言うの」
「だってママよりきれいなんですもの」
「まあ、当たり前じゃないの」
スカートの裾《すそ》にまとわりついたルミ子をそっとあやしながら、妻の美恵子《みえこ》は玲子にほほえみかけた。と、ルミ子が、
「あっ、おじちゃん」
パタパタと走っていった。黒い帽子に黒い制服を着たボーイがドアを開けたまっ赤なベンツ450SLCから、白い麻の服にメッシュの白い靴をはいた男が降りてきた。
「やあ、このおませさん、元気だったかい」
ヒョロッとした背をかがめ、人なつこそうな笑顔でルミ子を抱きとめた。
チャン部長は声をひそめ、
「香港の暗黒街を牛耳っているチェの息子のアキョンです」
根は悪い人間ではないのだろう、ルミ子を抱きあげ、頬ずりするとうれしそうに笑った。
と、ロビーの柱のかげに消えた男を見て、岡野の顔がひきつるのを玲子は見た。
「…………?」
岡野ほどの男をそれほど恐怖させる人間とはだれなのか。
チャン部長からエレベーターの前でキーを渡された玲子は、
「私は背中しか見えなかったんですが、さっき柱のかげに隠れた男、御存じですか」
「いえ」
「そうですか」
チャン部長はうんざりした。この女は香港に着いてから、男のことしか聞いてこない。
「じゃ、我々はロビーでお待ちしております」
ホテルの部屋は濃紺とベージュで統一されていた。磨きあげられたアール・ヌーボー風の調度品が美しい。大きな花瓶に活《い》けられた南国の花が玲子を歓迎していた。
玲子は部屋に入った。岡野の顔がちらついた。昨夜のことが思い出され、玲子は喉《のど》が渇いてきた。じっとソファに座っていると、下半身がうずいて、腰が自然にくねるようになる。玲子はいたたまれず、化粧室に入り化粧を直した。色白の肌がすっかり上気して桜色になっていた。
と、トントンとドアをノックする音が聞こえた。
「ま、まさか」
岡野か? あわてて何度も鏡を見た。
「どうぞ……。ん?」
開けると、鳶《とび》の職人がはくようなふくれたズボンに地下足袋《じかたび》をはき、麦わら帽子を手にした、六、七人ばかりの老人がいた。泥だらけの長靴をはいているもの、ランニングシャツ姿のものもいて、肝をつぶした玲子の目の前に、色の黒い牛のような老人が顔を突き出して言った。
「あんたが村井さんかね」
「はい」
「ワシが為五郎《ためごろう》のおやじじゃ」
そっくりかえった。
「為五郎?」
「飛岡じゃ。わしは為蔵《ためぞう》。こいつらみんな親戚《しんせき》のもんじゃ。ヨシオとトオルとハナじゃろ、それからタカシにツネ。そして為五郎のかあさんのトメじゃ」
「あっ、あの」
老人たちはズカズカと部屋の中に入ってくると、じろじろあたりを見回して、
「いいとこに泊まってるの。あんたもパックできたんか」
「いえ、その」
「同じパックでもどうしてこうも待遇が違うんかいの。添乗員に文句いわんといかんな」
と、後ろからまたヌッと、まっ黒で飛岡にそっくりの鬼瓦《おにがわら》のような顔をした母親が、
「大丈夫かの、父ちゃん。こんなキャシャな身体で」
大声で言うと、いきなり玲子の背中をバンバン叩きだした。
「あっ」
為蔵が玲子に詰めよって、
「まったく為五郎のバカが、東京の女にだまされくさって」
と、親戚の一人が、
「おっ、この部屋は果物まで用意してある。ワシの部屋には何もなかったぞ。百姓をバカにしとんのか。クソー、香港ちゅうとこは正しい人間をコケにしおる所じゃ!」
七人の老人はそれぞれ部屋を点検しはじめた。為蔵はトイレをのぞき、ベッドカバーまでめくっている。
玲子の着ているマスカットグリーンのスーツの上着をまくりあげると、
「えらく地味な服着とるの。若いもんはもっと派手じゃなきゃいかん」
「地味ですか」
「そんな服、飛岡村じゃ田植えんときに着るもんじゃ」
「はあ、そうですか」
「化粧ももっと濃いめにしたほうがいい。そんなんじゃ、村を連れて歩けん」
そしてあっけにとられている玲子に、
「まっ、今度刈り入れがあるから手伝いに来いや。それで合格したら嫁にせんでもない」
「はあ」
「運転免許は持っとるか」
「はい」
「うちの耕耘機《こううんき》はターボ搭載しちょるで。並のテクニックじゃ通用せんで、ハハハ」
「はっ、はい」
「ちょっとワシの肩もめや」
「ワシらも、もんでもらおうかいの」
みんなが一斉に言った。
飛岡を迎えに啓徳《カイタツク》空港までベンツを走らせているヌレーネフは、何度も小型テープレコーダーをもどしては聞き、そのたびに笑っていた。
ホテルのフロントでエレベーターからおりてきた異様な風体の老人たちの一行を思いだした。飛岡の父親は、あきれかえった客たちを尻目に、得意そうに麦わら帽子をかぶっている。玲子はうつむいて引き立てられるように歩いていた。ヌレーネフは、また笑った。
テープレコーダーから会話が聞こえた。
――ほら、もっと強う、もまんか。
――はい。
――今度はワシじゃ。ワシの肩は鉄みたいになっとるで、ようくほぐしてくれ。
――はい。
ヌレーネフはハンドルを叩いて大声で笑った。
――ちょっと裸になってみいや。
――はっ?
――十人は子供を産んでもらわんといかんでな。それには、まず乳と尻じゃ。なあ、母さん。
――ああ、飛岡村の風習じゃ。花嫁は、まず親族親戚の前で裸を見せるんじゃ。はよ脱がんか。
――はっ、はい。
――ブラジャーもパンティもみんな取るんじゃ。
――はっ、はい。
空港の駐車場に停車して、ヌレーネフは何度も笑った。
――はよ、脱がんか!
と、裸にさせられたのか、みんなでバチバチ尻や背中を叩いている音がした。
オレはこういう人間が好きなんだ。いまさら何を望もうか。
柱の向こうでナターシャが手配した熊《くま》のようなワレコフがオレを見張っている。構うもんか。飛岡はオレの大事な友だちなんだ。
と、ゲートから大きなトランクをさげた飛岡がブスッとした顔で出てきた。なるほど、これに地下足袋をつけ、麦わら帽子をかぶらせたら、おやじそっくりじゃないか。
「ヌレさん、なに笑ってんだ」
飛岡の顔色が変わった。
「いや、ハハハ」
「おい、うちのおやじたち、おかしなことやってねえだろうな」
「ああ」
ヌレーネフは笑いが止まらない。
「一体、玲子はどこにいる」
「おやじさんたちを観光に案内してるよ」
「なに!?」
その顔が赤黒くなった。
「なかなか親孝行な花嫁さんだ」
「一体なにがあったんだ!!」
飛岡はヌレーネフの首をしめあげた。
ヌレーネフはイヤホンを差し出した。
「このテープ、聞いてみないか」
「はあ?」
飛岡の顔がみるみるまっ赤になった。イヤホンをむしり取ると、
「どこにいるんだ、今」
「さあ、ショッピングに付き合わされてるんじゃないか」
「どっ、どけ! オレが運転する」
飛岡は駐車場に走り、ヌレーネフのベンツに飛び乗ると、前後の車にバンパーをガツンガツンとぶつけて、しゃにむに発車させた。
岡野は妻と娘を部屋に残したあと、アキョンの車で、悪の巣窟《そうくつ》、九竜《カオルン》城近くのヤウマティにあるチェの家に向かった。
「李閣下といえども、ただではすまんぞ」
アキョンは岡野の怒りにただオロオロするばかりだ。
岡野は電話を指差して、
「その電話は東京にもかかるのかね」
「ああ」
「組の大隅《おおすみ》を呼びだしてくれ」
「わっ、わかった」
電話がつながった。
「大隅か、オレだ。若い者を二百人ほど香港によこせ!!」
車がチェの屋敷についた。あたりは、古い民家が多い。チェの家も、中国特有の瓦屋根の大きな平屋だ。広い中庭にはさまざまな瓶《かめ》がおかれ、漬物や得体のしれない地酒のにおいがただよっている。池ではアヒルが騒いでいた。そこを歩きまわっていた八人ほどのチェの部下が手を上げた。
「やあ、岡野さん」
岡野は返事もせず、ズカズカと入っていった。
大きな背中を岡野に向け、テーブルにうつぶすようにしている六十がらみの男がいた。チェは昼食の最中だった。でっぷりした身体にナプキンを首からさげ、スペアリブに食らいついている。
黒い丸眼鏡をずりあげると、
「よう、岡野、なんて顔してんだい。まっ、座れよ。おれと一緒に食おうぜ」
岡野の顔のひきつりが消えていない。
「どういうことか、説明してもらおうか」
「なにがだ」
「なぜオレを殺そうとした」
チェは、サラダボウルの山のように盛り上げられた野菜を取り、
「おまえが、あの女をやれるという保証はなかった」
「なに、なめるな、オレを」
「げんにおまえは、あの女を殺さなかった」
「……とにかく、オレはこの仕事から下ろさせてもらう」
「まあ、待て。李閣下がそれだけ追い詰められているということを理解してくれ」
チェはオレを本気でひきとめる気はない。となると、李閣下に船を爆破させるようにそそのかしたのは、こいつか。
「よし。ではオレも、矛《ほこ》を収《おさ》める。そのかわり、本当のことを教えてくれ」
「本当のことってなんだ」
「オレはさっきホテルのロビーでカン・マンスーの姿を見た」
「だれだ、それは」
「とぼけるな。『ピョンヤンの闇』だ。北朝鮮の工作員、第四六師団の隊長だ」
彼等は人間ではない。たった一人の人間を殺すために、五百人乗りのジャンボジェット機を落とすやつらだ。
ベトナムでもそうだった。サイゴンから八十キロ北のジャングルにアメリカ軍がキャンプを張ったとき、岡野は一緒にいたのだった。カン・マンスー率いるたった三十人の北朝鮮四六師団によって、白旗をかかげたにもかかわらず、二百人ものアメリカ兵が一夜のうちに喉をかききられたのだ。
二メートルのカン・マンスーが岡野の前にあらわれたとき、生涯であんなに恐ろしいことはなかった。カン・マンスーがナイフをかざしたそのとき、そのキャンプに売られてきていた女が錯乱してカン・マンスーに抱きつき、岡野はかろうじて助かったのだった。
「まさか李閣下は重宗ファイルを北朝鮮に売りつけるつもりではないだろうな」
「さっ、わからん」
「国を脅《おど》すのと国を売るのは、訳が違うぞ」
「さあ、金になりゃ、どこだっていいんじゃないのか」
そう言ってチェはゆっくりと口をぬぐうと、
「岡野、よしんば北朝鮮に売られようと、おまえが文句の言えるすじあいじゃないだろう」
「北朝鮮にあのファイルが渡れば、どういうことになるかわかってるのか」
西側銀行のデフォルト(債務不履行)宣言による貿易の落ち込みや軍事独裁による北朝鮮の孤立化は深刻で、ソ連さえ口出しできないほどだった。これが一番怖いことだ。
チェは小さなコーヒーカップに入れたエスプレッソをかきまぜながら、
「岡野、ヤクザがそういうことに頭を使うようになると、長生きはせんぞ。分け前は百億。それでいいじゃないか」
「そういうのは、オレの主義に合わん」
「ヤクザがなんの主義だ。まったく日本人ってのは訳が分からんことを言う」
「オレとやりあおうっていうのか」
「そうは言っていないよ、岡野。ただ、李閣下も、もう年だ。さみしいんだよ。もっと祖国というものに大事にされたってバチはあたらんと言ってるんだよ。ソウルオリンピックだってそうだ。招待ぐらいしてくれてもよさそうなもんだ。日本だって、その口をきいてやってもよさそうなもんだって言ってるんだよ」
チェは、ラークに火をつけ、深く吸い込むと、煙を吐き出した。
玲子たち一行が入ったカンスー通りに面した店では、歯切れのいい中国語や英語がとびかい、店主と客たちとの虚々実々のかけひきがはじまっていた。
「なに叫んでんだ?」
為蔵が玲子を振り返った。玲子がいちいちそれを訳さないと気がすまない。
「父さん、あれ近所のみやげにいいんでないかい」
トメが指さした先は、イミテーションのハンドバッグの専門店や、時計店が並ぶ通りだった。すっとんで行って食い入るように見ていたトメが「ギャッ」と悲鳴をあげた。
店の横に一升|瓶《びん》がずらりと並んでいて、そのひとつひとつの瓶の中で蛇がとぐろを巻いていたのだ。全員が思わず後ずさったところに、前歯がぬけ、あばら骨の見えるランニングシャツ姿の男が玲子に早口で何かまくしたてた。
「なんて言ってんじゃ」
「知りませんよ、もう」
玲子はクタクタになって立ち止まった。
「父ちゃんになんちゅう口のききかたすんじゃ」
トメにひっぱたかれた。
「まあまあ、母さん。暑いな、玲子」
煮しめたような手拭で汗を拭った。
「すみません。あの人はイミテーションの店ならもっと安いとこがあるって言ってました」
「うん、うん」
ヨシオが汗を拭きながら、
「ステテコ姿になっちゃいかんかな」
言うより早くズボンのベルトをゆるめ、ジッパーをおろした。
白人の背の高い女がそれを指さして何か叫んだ。
「それ、まずいんじゃないでしょうか」
ツネがすが目になって、
「口答えすんな」
もう、無茶苦茶だ。
為蔵が、
「ったく、香港ちゅうところは外国のくせして黄色い顔ばっかしだな。苦労してパスポート手に入れることはなかったなあ」
「じゃ、次はアメリカとかにいらっしゃれば」
「毛唐ばっかりのところに行かせるつもりか?」
玲子はこめかみに手をやった。
「ホテルにはレジャーセンターも露天風呂もないし、浴衣《ゆかた》で歩いてると怒られるし、ワシら何しに来たんじゃ」
「浴衣で歩いたんですか」
玲子はため息をついた。後ろを見ると、チャン部長たちのパトカーだ。皆何事かと息をつめ、あきれかえるのを通りこし、怒っている。
窓からつきだされた竹ざおに洗濯物がいっせいに翻《ひるがえ》っている路地を通り抜け、上海街に来た。
さすが歩きっぱなしは疲れる。しかも、風がなく蒸し暑い。人いきれと道路の照り返しに玲子は足がもつれそうになった。
老人たちはまったくタフだ。大きな荷物をけさがけにしてキョロキョロしては目を丸くし、嬌声《きようせい》をあげている。
玲子はあごを出し、ハンカチで汗をぬぐっていると、為蔵が、
「おっ、あの教会にでも入ってお茶でもごちそうしてもらおうか」
「あっ、あそこは」
ゆるやかな坂のつきあたりにあったのはジェイド神父が言ったセントソフィア教会だ。
「ワシらんとこじゃ、神社や寺には必ず寄ることになってんだ。必ずお茶が出るからな」
為蔵はそう言ってどんどん路地に入って行く。
「ちょっとだれかおらんかの」
大きな割れ目のある木のドアをドンドン叩いた。
そこは石で造られた古い小さな教会だった。祭壇も小さく、マリア像は毒々しいほどの極彩色で塗られている。祭壇の前の木の机や椅子は祈る人もいないのだろう、うっすらとホコリが積もっていた。
ジェイド神父の甥《おい》、ハインツは、ゲンナリするほどの豚のような大女、スーを抱いていた。
「あっ、亭主じゃないのか」
ハインツは、その音にビックリして裸のままドアに耳をあて、様子《ようす》をうかがった。
ハインツはスーの亭主が来たのではないかと脅えているのだった。
「大丈夫よ。亭主は仕事で夜まで帰ってきやしないから」
「でも」
カーテンを敷いた長椅子に裸でゴロンと横たわっていたスーは、太いすねに食いついた蚊を左の足でピチャッとつぶすと、そのまま掻《か》いた。足の指のペディキュアが剥《は》げている。
「寄付だけさせておきながら、なんにもお返しがないなんてイヤ。さっ」
とスーは大股《おおまた》をひらいてハインツの頭をつかんだ。
「フフ」
九十キロ近くある脂肪と汗でスーの腹はつるつるすべる。
「さっ。あんたがティナとペギーともやってるって知ってるんだから」
スーは、頭をもたげてものうい声を出した。
また、ドンドンドアが叩かれた。もしかしたら玲子じゃないかしら。
今度はドアが破れるのではないかというくらい激しく叩かれた。
「ほら、あけんか!」
飛岡は香港中を走りまわっていた。あのおやじたちは何をするかわからない。
ヌレーネフが、
「大丈夫だよ。あのマドモアゼルならうまくあしらってくれるよ。オレは、心底《しんそこ》おまえら二人に一緒になってもらいたいと思ってんだよ」
「バカ、おまえは日本の百姓の怖さを知らないんだ」
「なんだ、花嫁を裸にしといてまだすることがあるのかい」
「飛岡村ってのは父親が新郎よりも先に花嫁を抱くんだ」
「えっ!?」
さすがのヌレーネフもこれにはあきれた。
「弟たちはそれがいやで家を飛び出したんだ」
「まさか、今どき」
「あのおやじならやるんだ。現に弟の嫁に襲いかかろうとしたことがあるんだ」
「えっ!?」
飛岡がウォータルー・ロードからひょいとのぞくと、教会の前に人だかりがしていた。
「なんだろう」
「おりて聞いてみようか」
群がっている人に聞くと、若い牧師が人妻と昼寝としゃれこんだので、そこを訪れた人が皆で袋叩きにしているのだと言う。飛岡が伸びあがって人々の頭ごしに教会の中をのぞくと、農協のバッグが見えた。
「おやじだ」
コンクリートで固めたようないかつい飛岡の顔が、ハンマーで殴られ、ひびが入ったようになった。
カオルーン・パークの北にある香港警察でチャン部長がげんなりしている。丸顔のひげのない顔を両手でこすった。天井の扇風機は人をからかうようにプスンプスンとゆっくり回り、熱気をかきまぜるだけだった。
一体、この村井という女は何しに香港くんだりまで来たんだ。それにしても日本人ってのは一体なんなんだ!
今日は女房のおふくろの誕生日だ。そのプレゼントをまだ買ってない。イヤミをネチネチ言われる。それを考えただけでもゾッとする。
「まったく山東《さんとう》省の中国人ってのは、誕生日だなんだと祝いごとが多すぎる」
胃薬をバリバリとかみくだいた。
使い走りの呉《ご》少年が、
「部長、コーヒーです」
「ああ」
「どうしましょうか」
「とにかく、やるだけやらせとこう」
「はあ」
「これがおまえたちのあこがれているゼロ戦を作ったやつの子孫ってことだけはよく覚えておくんだな」
やりきれなさそうに耳の掃除を始めた。
と、パチンと音がし、部下のホン刑事がひっぱたかれた。
「なんでワシが警察に呼ばれなきゃならんのじゃ。悪いのはあの牧師じゃ!」
あの牛みたいな男が飛岡のおやじだろう。実によく似ている。
「ですから」
ホン刑事は老人たちにくってかかられオタオタしている。
「香港じゃ、坊主が人妻と寝とってもいいんだか、ああん? うちの村じゃったら村八分じゃ」
飛岡は、汗だくでなだめている。
隣の部屋ではハインツがスーの刺青《いれずみ》だらけの亭主から首をつかまれている。この騒がしさはまるで鳥小屋か豚小屋だ。
飛岡が来て、
「すまないな、チャン」
なにがチャンだ。おまえとははじめて会ったんだ。
チャンはおもむろに耳掻きのアカを吹き飛ばしながら、
「飛岡さん、あの人たちは一体なにが不満なんだ」
「あの、感謝状をもらえないかって言ってるんだ」
「なんです、その感謝状ってのは」
「ですから、その」
もともとあの牧師の女好きから始まったことだが、もう、だれがいい、悪いという問題じゃない。あの牧師はこのうるさい日本人どもが帰ってからじっくりしめ上げてやる。そういや三番目の娘がセントソフィア教会の牧師はステキだなんて言っていた。この助平野郎が、とんでもないこった。
「飛岡さん、香港では感謝状というものは、こちらがどうぞ頂いてくださいといって貰ってもらうものだ。あなたのお国では催促して貰うものなんですか」
「いっ、いえ」
「さっきから話を聞いておりますと、村井さんはあなたのフィアンセですね」
「いや、まあ」
「で、あの牛みたいな顔した人があなたのお父さんですね。ところが、あのお父さんは息子のフィアンセである村井さんと一夜を共にしたいと言ってる。これは、どういうことです」
「ですから」
「ですからじゃないんだ、もう!」
チャン部長は手帳を叩きつけて立ち上がった。もう、我慢できない。壁際でぐったりしている玲子に向かうと、
「あなたは特命をうけて香港にいらっしゃったとばかり思っていましたが、こういう特命だとは知りませんでした」
「申しわけありません」
「とにかくお帰り下さい。香港警察は、あなたへの協力は今後、一切《いつさい》拒否します」
はげあがった額に青筋が浮き出ている。
と、
「なんじゃ、おまえは」
為蔵に胸ぐらをつかまえられた。
「おのれはこの坊主が間男《まおとこ》するのも止められんで玲子にあたり散らすことないじゃないか」
いきなり頭《ず》つきしてきた。グジャッと音がして、チャン部長の鼻がつぶれた。
玲子たちが香港警察からホテルに戻されたのは夜の九時を回っていた。
ロビーにパトカーがサイレンを鳴らしながら着いたので、ボーイたちが何事かとよってきた。
為蔵がひとあし先に来ていたヌレーネフを見つけ、
「おうヌレさん、久しぶりじゃな。外国はわからん」
「ハハ」
ヌレーネフは、笑った。そして、意気消沈した玲子に、
「あっ、私、アンドレイ・ヌレーネフと申します」
「あっ、あなた、あのディーラーじゃないの」
「その節はどうも」
「なにがその節よ。課長の友だちなの? あなたたち私にどこまで恥かかすのよ」
玲子も相当頭にきているのか、にらみかえす目がきつい。
「まあまあ。何か私にお手伝いできることは?」
「あるわよ、いっぱい。まず、あなたのニヤけた顔を私の見えないところに持っていくこと!」
フロントにまで八つ当たりする。
「キーちょうだい」
「何号室でしょうか」
「忘れたわよ、そんなの。早くしてよ」
「はっ、はい」
肩をいからした玲子にボーイがおそるおそる近寄ってきて、
「あちらのお客様が金髪の女を、四、五人用意してくれっておっしゃってますが、どうしましょうか」
「知らないわよ、あたしは」
「でも、当方としても困っているんですよね。添乗員の人が熱だして寝こんでいらっしゃるんで」
「あたしの場合、鍛えてるからね。熱が出ないだけなの」
「あの、それと山形の農協の方が十人ほどいらっしゃったのですが、どなたも英語がおわかりになる方がいなくて」
「あたしゃ、通訳じゃないわよ!」
為蔵は玲子の肩に手をやり、
「気は強そうだけど、これはなかなかいい嫁さんでねえか。とうちゃん気にいったぞ」
胸をさわってきた。
「とうちゃん、やめなよ」
飛岡はむりやり手を離させた。
玲子はその手を振り払い、キッとなって、
「課長、ちょっとお話があります」
「す、すまん」
母親が分けて入り、
「為五郎、今から尻に敷かれてどうすんだ。おまえもなんて口のききかたすんだ」
と玲子をひっぱたいた。
「かあちゃん、よせよ」
為蔵が玲子の背中をつるりとさわると、
「今夜、玲子の部屋に行くから。いいな」
「そうだ。とうちゃんに味見してもらうのが一番だ」
「バ、バカなこと言うんじゃないよ」
「なにがバカなことじゃ」
「今どきそんな話があるかよ。一体なに考えてんだよ」
「玲子はどう思う?」
玲子は開き直って、
「私、構いません」
「ほら、為五郎見ろ。玲子の方がさばけとるがな。さっ、玲子行こう。ワシ、スッポン食っとるんだ」
「ちょっ、ちょっと待て」
「待たん。ワシゃ権利があるんじゃ」
「なんの権利だよ!」
ロビーにいた人たちが遠くで笑っている。
「とうちゃん、恥ずかしいよ」
「なにが恥ずかしいんじゃ。そんなヤワなこと言っているから日本人は卑屈になるんじゃ」
飛岡は頭をかかえた。
飛岡がやっとのことで父親から隔離して、部屋まで送り届けてくれた。玲子は髪をかきあげ、
「とにかく疲れましたわ」
「田舎もんばかりで申し訳ないな。絶対この部屋に来るようなことはさせないから」
「あたりまえですよ。どうなってんです、あなたの田舎は」
「すっ、すまん」
「あたし、すっぱだかにされたり、胸さわられたりしたんですよ。あげくが、なんであなたのお父さんと寝なきゃいけないの」
「すまん」
「すまんじゃないわよ」
飛岡も開きなおり、背広を叩きつけて、
「なんだよ、その言い方は。オラずっとあやまりっぱなしだよ。一体どうしたらいいんだよ」
「ずっとあやまっててよ」
「だからあやまるよ。悪かった、申し訳ございませんでした!」
「大体、あなたが私のことをだれとでも寝る尻軽女みたいに思ってるから、お父さんからあんなこと言われるのよ」
「思ってないよ」
「思ってるじゃない。今朝の電話のときだってそうじゃないの。あたしはただ夢を見てただけなのよ。それを男を連れこんだなんて」
「連れこんでたんだろう」
「連れこんでなんかいないわよ」
「じゃ、なんで朝っぱらからあんな鼻にかかった声出すんだ」
「女は朝はあんな声なのよ」
「じゃ、きのうの黒人のときはなんなんだ」
「なによ、黒人って。そうやって人を差別するような言葉使う人なんか大嫌い!」
と、ドアがドンドン叩かれた。
二人は顔を見合わせた。大きな太い声が、
「玲子、ワシじゃ、とうちゃんじゃ」
「ほ、本気なの、あの人!」
玲子はあわててベッドの後ろに隠れた。
飛岡が廊下に飛び出して、つかみあいの大げんかを始めた。
「とうちゃん、もう、やめろって。オレもう怒るよ」
飛岡ははがい締めにした。
「為五郎、親になにすんじゃ」
ホテルのボーイが来て必死に二人をなだめている。
「ホラ、うるさいってよ」
「うるさいのは為五郎じゃないか」
「とにかく、自分の部屋に戻ってよ」
「いやじゃ、玲子の部屋だ。ワシは玲子抱かんかったら、村で笑いもんになる」
飛岡はボーイと二人で暴れる為蔵の腕と足を持って、部屋に戻っていった。
ため息をついた玲子にベランダの窓からハインツが力なく手を振っているのが見えた。
「まあ、ハインツね。よく抜け出せたわね」
「ああ。チャン部長に、三番目の娘さんが今どこでどうしてるか聞きたくないかって言ったら、すぐだよ」
スーの亭主にも殴られ、顔中傷だらけでブスッとしている。
「しかし、今日という今日は、日本の農協の恐ろしさがしみじみ骨身にしみたよ」
「みんなあなたの女好きが悪いのよ」
「寄付を取りつけるのがむずかしいんだよ。あすこらへんに住んでいる男はたいてい船乗りで、お祈りの意味ってのは女房たちのご機嫌とりなんだ」
ドアの外では、大声で助けを呼ぶ為蔵の声が聞こえる。
「私もここを抜け出したいんだけど」
「ここから下りるしかないな」
部屋はホテルの十八階にある。百万ドルの夜景と言われるように、ビルの明りが無数の宝石をばらまいたように美しく輝いているのが見えた。
「でも、変装でもしていったほうがいいな。なにせ、香港の暗黒街のどまんなかに入りこむんだから。顔を覚えられないほうがいいだろう」
「そうね」
と化粧室に消えた玲子は、十分もたたないうちにまた姿を見せた。
「どう?」
ハインツは唖然《あぜん》とした。
「驚いたね、こりゃ。ほんとに玲子かい?」
どう見てもイカれたヤンキー娘だ。まっ黄色のミニスカートをはき、金髪を大きくカールしている。トンボグラスをかけた顔にはソバカスをつけ、目にもブルーのコンタクトをしている。
「さっ、行こうか」
「うん。でもハインツ、久しぶりね」
「六年ぶりだよ」
「うん」
「でも、きれいになったね。驚いたよ」
「ありがとう」
「浩ちゃん、結婚するんだって」
「うん」
「式は僕が挙げてあげるよ」
「いいわよ。あんたがやったってありがたみがないわよ」
「ハハハ。そういや、きのう藤子さんから電話があった」
「お母さんから?」
「うん。玲子のこと心配していた。僕あの人のおっとりしたしゃべり方、弱いんだ」
「…………」
ハインツは玲子の肩をポンと叩くと、
「あの雨どいを伝って下まで行くんだ」
ビルの隅を指さした。
「OK」
玲子は、ベッドの下の箱を開け、緊急用ロープを取り出した。ベランダにロープをきつく巻きつけると、地面にたらした。
ハインツは手袋をして最初におりた。玲子も続く。
北側の芝生に二人が飛び下りたとき、
「ヒエーッ」
ハインツが腰をぬかした。ガマのような飛岡の母親が目をランランと輝かせていたからだ。どこから持ってきたのか、スコップを持ち、
「どこさ、行くだ! 玲子の部屋に夜這《よば》いかける男がいたらいかんと見張っちょったが。やっぱ、このスケベ坊主が」
「あっ、あの」
ハインツはしたたかにスコップで殴りつけられていた。玲子は走って、ハインツのポルシェに隠れた。
ようやくポルシェに乗りこんできたハインツの頭には大きなコブができていた。
「あたしが運転しようか」
「いいよ」
「ごめんね」
「…………」
ハインツは玲子とも口をききたくないような顔をした。
ネイザン・ロードの中ほどで、ハインツは、
「少し飛ばすよ」
「どうして?」
「ワゴン車とベンツがずっとつけてるんだ」
バックミラーを見ると、スモークガラスの二台の車が同じスピードでピタリとつけてくる。
「まさか為蔵さんじゃないだろうね」
「ハハハ、違うみたいよ」
アクセルを踏んだとたん、ワゴン車から身を乗り出した覆面の男が、いきなりグレネードランチャーをぶっぱなしてきた。
大きくハンドルを切ったハインツが、
「だいぶ、違ったな」
「どうしたのかしら。変装しているから面が割れることはないと思っていたのに」
「ユダヤかもしれないね」
「大変なのね、あなたたちも」
「まあね」
が、ワゴン車は特別|仕様《しよう》なのだろう、減速したベンツを抜き、すごいスピードで追いかけてきた。バックミラーにまた口径六センチメートルの筒が出たのが見えた。
「あっ」
ワゴン車はまたものすごい音をたて、ランチャーを発射した。
「こんな街中で。やつら、本気だぜ」
ハインツがあきれた声をだした。
ハインツはグッとアクセルを踏みこむと、左にハンドルを切ってジョーダン・ロードに曲がった。ワゴン車は行きすぎ、タイヤをきしませて、バックする。
目の前に川があった。
「しっかりつかまって。飛ぶよ」
「飛ぶ?」
「ニトロを積んでるんだ。こうしてガスに混ぜる」
赤いボタンを押した。
「なんで、そんな危ないもん使うの」
「だからオレたちはユダヤと戦ってるんだって」
「もう!」
ボワッと音がして、ポルシェは七メートルほどの幅の川を一気に飛びこえた。
振り返ると、ワゴン車は川につっこんでいた。
「フー」
ロータリーをグルリと回ってホンチョン・ロードを抜け、海底トンネルに入った。
と、正面からベンツがやってくるのが見えた。
「あっ」
それたランチャーの爆弾がポルシェ911ターボのサイドミラーを吹き飛ばした。
「ウワー!!」
「なんかないの?」
「なにが?」
「あたしはチーフスペシャルしか持ってきてないから、どうしようもないのよ」
「ダッシュボードの中にコルトパイソンがある」
「弾は」
「フルメタルジャケットだ。でも、オレうまく撒《ま》けるよ」
「昔、あなたに自転車乗せてもらって、川に突っ込んだこと忘れたの。まだ足んとこにキズがあるのよ」
「ほんとかい」
「あんときはもう、ほんとにお嫁に行けなくなったって一晩中泣いてたんだから」
「僕がいつだって貰ってあげるのに」
「あたしはハンサムな男の人って好きじゃないのよ」
「やっぱ、あの牛みたいな男が好みかね」
「牛もなかなかいいところがあるのよ。さっ、あたしが合図したら減速して」
玲子は手早く止め金をはずし屋根をはね飛ばした。
「1、2、3!」
身をのりだし、両手で狙《ねら》いを定め、発射した。
フロントガラスにヒビが入り、ランチャーの砲門が天に向かった。狙撃手がやられたにちがいない。
トンネルを出た瞬間、ハンドルを力一杯右に切り、反対側の道路に乗り入れたポルシェは、今度は今出たトンネルに再び入った。
玲子は振り返った。標的を失ったベンツのテイルランプがたちまち消えていくのが見えた。
「こんなこと、よくあるの?」
「まあね」
「大変ね」
ハインツは明るく笑いかえした。
タイヤをきしませ、ポルシェを波止場に止めると、
「さっ、ここだ。香港《ホンコン》島にはフェリーで行くのが正統派さ」
ハインツは玲子にウインクした。
ハインツは香港島へ渡るスターフェリーのキップを買い、振り向いて玲子にチラリと合図し、回転バーを通って乗船した。
おおぜいの乗船客にまじり、デッキに立ったまま風にふかれていると、半島や香港島の赤や緑のネオンが輝き、香港の夜景が目の前に広がってきた。
フェリーのすぐそばを小型の船が通りすぎていく。
七分ほどで、香港島に着いた。
「こっちだ」
ハインツは、オフィスビルや官庁のビルが並ぶ通りに折れていった。海が近いせいか、ツンと潮の香りが鼻をくすぐる。もう人影はハインツと玲子の他にはなかった。
「こんなところで競売が行われているの」
「ああ」
ハインツが少し照れた。
「何度か来たことがあるの」
「アキョンが遊び仲間なもんでね。一、二度来いって言われて」
「大体いくらで売られてんの」
「いろいろあるさ。でも今日はとびっきりの上物が入ったという噂《うわさ》がある」
「京子のことだわ」
「だろうね」
見上げても、遠くに小さな四角い星空が見えるだけのビルの谷間だった。街灯のぼんやりとした明りがシャッターのおりたビルの入口やゴツゴツしたコンクリートの壁を浮き上がらせる。ときおりベンツやジャガーがゆっくりと通りすぎていき、テイルランプが道ばたにころがった空き缶やタバコのすいがらを照らしだした。にぎやかな大通りからさして離れていないはずなのに、車の近づく音がするだけで、不気味な雰囲気《ふんいき》があたりを満たしている。
ハインツがビルとビルの間の細い路地を曲がった。玲子はハイヒールの音をできるだけたてないように、あとを追った。
ムッとするような汚物の匂いがする。
ネズミがチョロチョロッと玲子の足元を通りすぎた。
「ねえ、あたしならいくらで買われるかしら」
「バカなこと言うんじゃないよ」
「なにがバカなことよ。女ってのは一度ぐらいそういう値ぶみの仕方をされたいものよ」
「田辺良介は、君を五百万で売ろうとしたそうだ。僕にも、百万でどうだと言っていた」
「……もうあの人のことは言わないで」
「なぜ? 初めての男だったからか。そんな昔のことにこだわるなんて、君らしくないぜ。今はとにかく、その京子って子を助けることを考えなきゃ」
「うん」
玲子はコクリとうなずいた。
「よし、いい子だ」
ハインツはダンボールや水たまりを器用によけながら、スイスイと暗がりを進んでいった。
目が慣れてきた玲子の前に、小さな運河におりる石の階段があった。
小さくなっていく玲子の姿を、その階段の下の桟橋に止まっている黒く塗られた小船のへさきからじっと見ている二つのかげがあった。
マニラコブラがキィキィと鳴いた。
「よしよし」
黒むくのカンフー服姿のベトナム人に化けたヘビ使いの殺し屋が高い声を出した。
一重の細い目が残酷そうに光った。
「あの女はむつかしいな」
「変装しているのか」
そう聞いたのは、李正元《りしようげん》だ。
「オレにはわかるのさ。こいつらが教えてくれるんでね」
ヘビ籠《かご》に手をつっこむとネズミを与えた。ヘビはカッと口を開け、それをまるごと飲みこんだ。ヌルヌルしたその腹をなでながら、ヘビ使いは、もう一度、
「あの女はむつかしいな」
「オレがじきじきに出向いてきたんだ」
李正元はイライラした声を出した。
「それはわかっている。が、あれはやめた方がいい。かないっこない」
「なぜだ」
「歩く格好や顔に勢いがある。オレらがどうしようったってどうなるもんじゃない。若さからくるツキを持っている」
ヘビ使いは頼もしそうに玲子の後ろ姿を見て、
「村井にまかせたらどうだ」
「あんなヤツ、あてになるもんか」
「あいつは娘だからといって手加減するような男じゃないよ」
「じゃ、オーシャン・センターで狙撃したとき、なぜ失敗した」
「あんたが失敗させたんだよ」
「どういうことだ」
「人を殺すときは、だれもが自分だけの正当な理由が欲しいもんさ。あんたはそれを見出《みいだ》してやらなかったんだ」
「なにが言いたいんだ」
「あんたに情というもんがなくなったと言ってるんだよ。でも、村井は今度はやるよ」
「なぜだ」
「だれだって自分の育てた弟子がどれほどの力をつけたか、見たいものさ」
「……しかしあの女、どこかで見たことがある」
李正元はこめかみに手をやった。どうしても思い出したくない記憶を、必死に掘り起こそうとした。しかし、それは濃い霧におおわれ、もうろうとしている。
生ぬるい風が吹き、まっ黒な運河の、鼻をさすメタンガスの匂いが李正元の思考を断ち切った。その匂いにむせて咳《せき》こんだ李正元は、
「が、おまえも殺《や》ってくれ」
「どうしてもっていうならやるがね。ほら、見てみろよ。ヘビたちが脅えてる」
またヘビの膨れた腹をなで、
「しかし、あんたも変わったね」
「オレは変わりはしない」
「いや、変わったよ。岡野が来て嘆いていた」
李正元の目が冷たく光った。
「岡野のような若僧になにがわかる。第一、雪の中、日比谷《ひびや》のガード下で行き倒れになっていたあいつを助けてやったのはだれだと思ってるんだ。鬼心会の二代目にしてやったのはオレじゃないか」
「あいつは本物だよ。それに若いころのあんたに似てる」
「似てない。オレはだれにも似てない。じゃ、オレがやったことを岡野にできると思うのか!?」
「そりゃできんさ。あんたの他には世界中のただ一人としてできやしないよ」
「おまえに何がわかる!!」
李正元は叫ぶように言った。そして、
「なぜ北朝鮮がファイルを欲しがってるかわかるか。オレの悲劇を世界に知らしめてくれようとしているのだ」
ヘビ使いは、鼻で笑った。
「バカを言いなさんな。年とって感傷的になったか。政治がそんな甘いもんで動くことはないことはあんたが一番よく知ってるじゃないか」
「じゃ、なぜだ」
「自分で考えてみることだな」
ヘビ使いはさびしそうに肩をすくめた。
「もう少し長生きしたかったんだけどな、オレもこいつも」
と籠の中のヘビをいとおしそうになでた。
ハインツと玲子は急な階段の前に出た。
「まっすぐ降りて、つきあたりを右にまがり、三番目のドアを開けると、めざす市場だ」
ハインツが玲子の手をとった。
そこは、目もまばゆい極彩色《ごくさいしき》をほどこしたナイトクラブだった。中央のステージでは一メートルそこそこの背丈しかないピエロが、ノッポの燕尾服《えんびふく》の男と組んで妙な手品をやっている。そのステージを見下ろすかたちにゆったりとしたソファが十数組置かれ、客たちが酒をくみかわしていた。
「よう、ハインツ」
手を上げて親しげに笑いかけ、近よってきたのは、アキョンだった。玲子は思わず身を固くした。
「牧師がこんなとこ来ちゃいかんな」
「いや、なにごとも神のおぼしめしですよ」
「おぼしめしが過ぎるんじゃないかね。昼間の話を聞いたよ」
人なつこい笑顔でアキョンがからかった。
「参ったなあ、もう」
「他の信者さんたちが大騒ぎらしいよ」
「えっ?」
「スーにえこひいきしてるのかね。それとも、ああいう豚が好みだったのかね」
「じょ、冗談じゃないよ」
ハインツは汗だくになった。
「きれいな御婦人を連れているね」
「ああ。アメリカのオレの友だちで、エミーってんだ」
「また、人妻かね」
アキョンは玲子の香水にくすぐられたように鼻をうごめかしたが、玲子の顔を見ることもしない。
「フフフ。もう、女はこりてるようだね」
「ああ。願いさげだね」
アキョンは女房にエジプト人と逃げられたばかりだ。女のことはうんざりしたという顔をするだけで話したがらない。
「早く足を洗ってアメリカにでも行って、牧場でもやって静かに暮らしたいよ」
澄んだ目で憧《あこが》れるように言った。
独特の匂いがあたりを支配していた。マリファナ、ハッシシ、コカインだ。
タイの民族衣装を着たボーイが、酒瓶と煙のたつケトルをのせたワゴンを押してきた。
「なににしますか?」
「マリファナだ」
ハインツはこともなげに言った。
「あなた、ここ来たの、一度や二度じゃないでしょう」
玲子がにらんだ。
一見してすぐアラブの金持ちとわかる一団が真中の上席を占めている。左隣が目つきの鋭い東洋系の風貌《ふうぼう》をした三人の男たち。その隣が、もう目がトロンとなっているラテン系の太った男。連れはいないようだ。
と、岡野がいるのに気づいた。目のさめるほど美しいプラチナブロンドの若い女性が岡野のがっしりとした身体によりそって座っていた。
岡野は玲子の変装を一目で見抜いたのか、ニコリと会釈をしてきた。玲子の目線を感じて、プラチナブロンドの女はムッとしたように、これみよがしに岡野にしなだれかかった。
一瞬カッとした。が、京子を探さねば。
ステージが暗くなると、ざわついていた客席は一転して、静かになった。
スポットライトがステージにすっくと立つ女にあたった。まだ十二、三のあどけない少女だ。腰まで伸びた黒髪が緊張と恐怖で揺れている。オレンジ色のアオザイが形のいい胸とくびれたウェストを際立《きわだ》たせ、身体はもう少女ではないことを示していた。
遠くの客たちはオペラグラスで少女の全身をつぶさに見ている。
「さあ、お目当てのショーが始まります。今夜のお客さまは幸運です。これからとびきりの美女が登場いたします。どんどんお声をかけてください」
セリが始まった。
少女はラテン系の太った男が買った。
金髪の、胸と腰がばかでかい女も出てきた。自慢気に乳房を片手で支え、腰をつきだすと、客席からゴクリとツバをのみこむ音が聞こえてくるようだった。挑《いど》むようなブルーの瞳であたりを見、まっ赤に塗った唇をなまめかしく動かした。
美女の中には、女装したギリシア彫刻のような少年もいた。
もうもうとたちこめる煙と麻薬の匂いが妖《あや》しげな雰囲気をいやがうえにも盛りたてる。欲望に目をはらした客たちのセリあう声が大きくなってきた。
ここでは金の力がどんなに強いか、目のあたりに見せつけられる。アラブ人がどんどん値をつりあげていった。
ハインツは玲子の肩を抱きながら、女が登場するたびにいちいちピューッと口を鳴らし、感嘆している。
「静かにしなさい」
ハインツは肩をすくめると、にっこり笑って玲子の唇を求めてきた。
「よしなさいよ」
「僕さ、あの飛岡ってヤツにむしょうにライバル意識を燃やしてるんだよ」
「ハインツったら」
「僕さ、藤子さんから、もし玲子に手を出したら承知しないわよって脅かされてたんだよね。それでジェイドおじさんが、オイラを香港に飛ばしたのさ。でも、あんな牛みたいな男じゃ、僕もあきらめきれないよ」
と、アキョンが頭をかきながらやって来た。
「おやじが、こちらの御婦人とお知り合いになりたいんだとよ」
チャン部長から話に聞いたチェの大きな姿がアキョンのかたごしに見えた。
「まったく底なしの女好きなんだからな」
チェは悠然と葉巻をくゆらせながら、こちらを見ている。
「断ってくれ」
「そうするよ。それと岡野さんからこちらの御婦人にこの封筒を渡してくれと言われた」
玲子はその厚い封筒の中の小さなメモを見て愕然とした。父、村井誠一朗からの伝言だった。
ハインツが心配そうに玲子の顔を見た。
「どうしたの?」
「父が明朝会いたいんだって。ハインツ、モーターボートを波止場に一隻都合してくれないかな」
「おやすい御用だよ」
とメモをのぞきこんだハインツは、顔色を変えた。そして、かすれた声で、
「モーターボートで向かいあったって、ヘンメリーワルサーは静止銃だし、連射できるM16に勝てるわけないのにね」
「昔から娘にいいところを見せたがる人だったから」
まわりのセリの声がひときわ高くなった。
顔を上げて、二人はステージを見た。
司会者に引きずられるようにステージの中央に連れてこられたのは、坪田京子だった。
京子に自分の値をつけるあたりの声が聞こえているのかどうかわからなかった。ただ、力のない目で客席をみまわしている。スポットライトが京子の頭からつま先までなめるように浮き上がらせた。
「横を向いて!」
「胸をもうすこし見せてくれ!」
白いすきとおるような肌に人気が集中している。
司会者の言いなりに、京子は白い紗《しや》のガウンを脱ぎ、滑《なめ》らかな肌をあらわにした。明るいライトを浴びながら青ざめた顔で、裸の胸を両手で押さえて立ちつくしていた。まっすぐに伸びた白い足が震えているのがはっきりとわかった。
今夜最高の値がアラブ人からついた。
さまよっていた京子の黒い瞳が玲子のところで止まった。玲子を認めたらしく、黒い瞳が記憶を必死にまさぐっている。
一瞬、よみがえったのか、京子は、「先生」と叫ぼうとしたが、玲子のきびしいまなざしにたじろいだ。
ハインツがけげんそうに、
「どうしたんだい」
「あの娘には、少しおしおきしてやりたいの」
「おしおき?」
「ほんと、ウチの学校の恥さらしったらないんだから」
「はあ?」
黒いステージ衣装の司会の男がもう一度声をはりあげた。
「さあ、さあ、これで決まりですか!」
「その上に十万ドル!」
歯ぐきのまっ茶色なモロッコ人が叫んだ。
玲子とハインツがホテルに戻ったのは、午前三時ごろだった。
「少し眠るわ。明け方に起こしてちょうだい」
「そうするといい。M16は僕が組み立てておこうか」
「うん」
ハインツはヴィトンのアタッシェケースから、パーツを取り出し、黙って組み立て始めた。そしてポツリと、
「おじさんと話し合うことはできないものかね」
「いずれはこうなると思っていたことよ」
「藤子さんが悲しむだろうね」
「あの人、何も知らない人だから」
玲子はテーブルの上のブドウを取ると、食べるでもなくただ触っている。
「なぜ、李正元《りしようげん》の言いなりなんだ」
「昔、世話になったらしいのよ」
「娘と殺し合いするほどかい」
ハインツは組み立て終えたM16の試し撃ちをするように、スコープを覗《のぞ》きこんでつぶやいた。
「わかんないな、日本人は」
「そのわかんないところと組んで戦争してたんでしょう」
「そりゃ、そうだけど」
封筒にはもう一枚のメモが入っていた。玲子はもう一度それを見なおした。
「重宗《しげむね》ファイルって恐ろしいものね」
「ああ。でも日本がドイツに原爆を落とさせようと工作してたなんて、腹が立ってきたなあ」
「もう、昔の話じゃない」
「だって、ドイツと日本は同盟国だったんだよ」
一九四四年、アメリカは国防費の三分の二を使い五年の歳月をかけて開発した原子爆弾を使用する機会を待っていた。しかし、一瞬のうちに四十万もの人間が死傷するこの爆弾を使うには、世界の世論を味方にできる大義名分が必要だった。となると、ユダヤ人|虐殺《ぎやくさつ》をしているドイツがその標的だ。
「歴史というものはおもしろいものね」
「ああ。でもこれで、ドイツ人の優秀さってのがわかったろ」
「フフ」
アメリカはベルリンに原爆を落とせなかった。なぜなら、一つは、味方のフランスに風で流される恐れがあったことと、もう一つは、百万分の一の確率で、不発の可能性があったからだった。そのとき、ドイツはそれを解体しなおし、逆にアメリカに投下する科学力を持っていた。
しかし、最終的には、同色人種の白人の国には落としかねたというのが本音であろう。
「しかし、日本が、それなら自分の国に落としてくれと提案したとはね」
問題はここだ。
「多分、提案させられたのよ」
「その代わり、日本の戦後の繁栄を約束するという条件をつけたのか。こんなものが公表されれば、どうなるんだ」
「人間てものがどんな残酷な生き物かわかるってことよ」
そしてどんなに強い復元力を持っているかということも。
坪田京子がそうだ。女があの程度のことで参りはしまい。救い出されれば、東京に戻ってからも明るく生きていくことだろう。
電話のベルが鳴った。
オペレーターは岡野の名を告げた。
「どっ、どうしましょう」
ハインツはけげんそうに、
「なんだよ、うろたえちゃって。出なよ」
「うっ、うん。あの、私ですけど」
「岡野です」
「はい、昨夜はどうも。いえ、さっきはどうも」
「用件は、坪田京子のことです。買ったのはモロッコ人のアブダン・ハハという男です。荷を渡すのは二十日後ですが、それまでチェの屋敷にいます。どうなさいます」
「どうなさいますって、どうしたらいいんでしょう」
「あなたには、船での借りがあります。殴りこむんなら手伝いますが」
「そんなことしたら鬼心会《きしんかい》も困るんじゃありませんか」
「それはそうですが」
「それとも私のためにそうしたいって言って下さるのかしら」
「いえ、それは私の生き方としてありえません」
「そうだと思いましたわ。私一人でやりますわ」
「そうですか」
「あっ、あの、明日の夜はあいていらっしゃいます? ヒルトンにいいお店があるらしいんですの」
「明日の朝、村井さんのモーターボートの運転をしてあげて、夜は女房子供を連れてモルジブ島に行かねばなりません」
電話が切れた。受話器を持ったまま、上気した顔の玲子に、
「いつから男を平気で食事に誘えるようになったんだい」
プンプン怒って、ハインツは隣の部屋に行った。
シャワーでも浴びてすべてを洗い流してしまいたいとでもいうように、玲子は首を振って大きく息をすると、モスグリーンのダイヤルを回し、浩一を呼び出した。
「浩ちゃん、あたしよ」
「ああねえさん。いまどこ」
「香港よ」
「そう。おやじと会った?」
「明日会うの」
「母さんが怒ってた。なぜ一緒に連れていってくれないかって」
「お母さん、元気?」
「うん、元気だよ」
「結婚したら、面倒見てくれるわね」
「僕もそう言ったんだけど、一緒に住まないっていうんだよ」
「なぜ?」
「なぜって、姉さんと一緒に住みたいからさ」
「できたら浩ちゃん、お母さん説得して一緒に住んでくれないかな」
「それはいいんだけど、無理なんじゃないかな」
「…………」
「どうしたの。姉さん、泣いてるの? 一体なにがあったの」
玲子はカーテンを開け、夜景を見た。遠くに見えるのは、アバディーンの水上レストランの明りだろう。城を象《かたど》ったイルミネーションがおとぎの国の城のように浮かびあがり、きらびやかだ。その明りが涙でにじんで見えた。玲子は泣きながらベッドにもぐりこんだ。
幼いころ、父と一緒に遊んだ夢を見た。と、玲子の太股《ふともも》に、ひんやりした感触があった。
「やめてったら、ハインツ」
寝返りを打とうと目を開けた。
「…………!!」
黒と黄色の二メートルはあろうかという大きなマニラコブラがゆっくりと腿の上を這《は》っている。二色のうろこが粘っこく光り、湿った環状の白い腹が気味悪くうねっている。そのゾッとする感触に総毛だち、玲子は声にならない声をだしてガバと上半身を起こした。
「!!」
ヘビはひしゃげた鎌首《かまくび》をもたげると左右に振りはじめた。玲子のピンクのパンティを狙って噛《か》もうとしている。玲子はヘビを凝視したまま動けなくなった。汗だけがいやおうなしに吹き出してくる。
ベッドの横に立っているハインツの額にも汗が流れている。
ハインツは押し殺した声で言った。
「動くな」
「うん」
「マニラコブラに噛まれたら、四十秒ともたない」
「うん」
ヘビがチロチロとその二股に分かれた赤い舌を出した。玲子のパンティの端から少しずつなめるように出していく。マニラコブラはきっかけを待っていた。
ハインツの額から汗が滝のように流れた。
「あの牛のことだけど、好きなのか」
「まだわかんない」
「それが玲子のいけないところだよ。いつもおもわせぶりな態度ばかりとって、『わかんない』と言うんだから」
「うん」
「ほんとのこと言うと、僕が玲子にちょっかい出しそうなんで、ジェイドおじさんから香港に飛ばされたと言ったけどウソなんだ。僕が頼んだんだ」
「?」
「だって、玲子のこと好きになったって、いつもおもわせぶりな態度で苦しかったんだもの。ああ、すっきりした。よし、来い!!」
その声にマニラコブラは「シュッ」と音をたてハインツに飛びつき、喉笛に噛みついた。
「ハインツ!」
ハインツは鎌首《かまくび》をおさえたがもう遅い。
「そばによるな!!」
ハインツのその目は悲しそうに玲子に注がれている。
「撃てるか」
「だめ」
最後の痙攣《けいれん》が訪れる直前に、ハインツは全力をふりしぼって立ち上がると、ヘビに身体を巻かれたままフラフラとベランダに出た。
「なあ、ドイツ人って頼りになるだろう。今度、戦争やるときはドイツと日本だけでやろう。前はイタ公をくわえたのがまずかったんだよ」
チラリとドイツ人特有のいたずらっぽい横目で玲子を見ると、ハインツはコブラの鎌首を持ち、飛び下りた。
ブロンドの柔らかい髪が闇に輝いたのを玲子は見た。
港の潮風を長年にわたって受けて黒ずんだビルの壁がしらじらとしてきた。犬が残飯をあさる通りにはまだ人の姿はない。霧が低く流れていた。
ヌレーネフの階段を降りる足音がした。ドアを開けたナターシャが、
「ヌレーネフ、行かないで。怖いの」
「なにが怖いんだ」
二年前のベオグラードの一夜の過ちをヌレーネフはまだ許してくれない。が、好んでした過ちではない。黒い闇に襲われたのだ。あらがうすべなどなかったのだ。
「モーターボートの運転を頼まれたんだ」
「あたしはどうなってもいいと言うの?」
「そうじゃない。飛岡からあの女を守ってくれるように頼まれたんだ」
ヌレーネフは、階段を駆けおりていった。
ペレストロイカ以来、すべてのロシア人は友情というものにあこがれていた。でなければ、たとえ過ちを犯したとはいえ、このいたいけな女の哀願を捨てて行けるわけがない。
湾に立ちこめていた霧の中から、モーターボートが波を立てて現れた。ウェットスーツを着た玲子が長い髪をなびかせM16ライフルを手にして立っている。ヌレーネフがハンドルを握っている。
「ナターシャの側にいてやらなくていいの?」
「飛岡から君の力になってやってくれって言われてる。僕は友情を最優先する」
モーターボートの音が聞こえた。村井誠一朗は仁王立ちし、重いヘンメリーワルサーを構えた。ハンドルを握る岡野は、それを見るとエンジンをかけた。
その様子をビルの屋上から双眼鏡で見ていたチェが、好物のスペアリブをかじりながら、ヘビ使いに聞いた。
「村井は勝てるかな」
「さっ、無理だろうな」
ヘビ使いは目を細め、玲子を見た。
スペアリブを屋上から放ると、チェは、
「おまえの失敗を閣下はお怒りになっていた」
「このへんが寿命というもんだ」
ヘビ使いはあたりを見回した。チラリと人影が動いた。ヘビ使いは低い声で、
「おまえ、オレをユダ公に売ったな」
「あのとき、ベルリン刑務所で処刑から逃れた人間がいたと、ユダ公どもが驚いてた」
「チェッ」
「おまえたちが戦争中にドイツでやっていたことを聞かされてな、義憤にかられたんだよ。実際、日本人ってのは恐ろしいことを考えるな」
アメリカで原爆完成間近ときいて日本は昭和十九年、平沼|平八郎《へいはちろう》率いる北関東血盟団をベルリンに渡らせた。この殺し屋集団に、ユダヤ人を一人でも多く殺させ、ドイツを原爆投下にふさわしい国にするためである。しかし、アドルフ・ヒットラーの自殺ということで、功を奏さなかった。
と、チェはヘビ使いの口から黒い血がゴボゴボとあふれでるのを見た。
「どうした!」
「オレは、ユダヤにさらしもんにされるなんて、真平《まつぴら》なのさ。それに家族が殺されりゃ、ヘビだって怒るさ」
ヘビ使いは、ヘビ籠のなかに左手をつっこんでいた。
「少佐殿にはあまり長生きしないように言ってくれ。年寄りが長生きすると、おかしな欲がでる。ユダ公たちに言っといてくれ。おまえらにヒットラー閣下の爪の垢《あか》でもせんじて飲ませてやりたいとな」
男の目にベルリンの青い空がだぶって映った。アドルフ・ヒットラーは、その病魔と戦いながら、愛する女のために国を滅ぼそうとしていた。そして、その女の愛した男、犬子恨一郎《いぬこはんいちろう》が、原爆投下後、腹を切ろうとしたとき、このヘビ使いは止めたのだった。
このヘビ使い、大沢竜造《おおさわたつぞう》。北関東血盟団、平沼平八郎の片腕ともいわれたこの男は、今、その選択が何よりも悔やまれた。
海上は風が強い。
村井の目に、仁王立ちした玲子の姿が見えてきた。キリリと唇を結んだ顔がかえって子供っぽかった。
「岡野君、どうだね、うちの娘は、スタイルが抜群だろう」
「はい」
「なんか飛岡という男がちょっかいを出しているらしいが、あの娘と並んで釣り合うのかね」
「いい男ですよ」
「そうかね。おかしな顔をした男だと藤子が言っていたがね」
「ハハハ、男は顔じゃありませんよ」
「二歳のときだったよ、あの娘がうちにきたのは。前髪が眉のところまであって、その下の目がクリクリしてとてもかわいらしかった。私たちはそれがうれしくて、ずいぶん神様にお礼を言ったものだ。私はあの娘が自慢でいつも一緒に手をつないで歩いていた」
村井は、ヘンメリーワルサーの銃床の象牙でできた飾りをいとおしげになでた。
「少し、スピードを出します」
二つのモーターボートの距離は、四百メートルに迫った。
「そういや、きのう、久しぶりに大沢竜造と酒を酌み交わしてね、ベルリン時代の話に花を咲かせたよ。あのホラ吹きは、さも百合子様に一番信頼されてたようなことを言っていたが、つきあいの長さが違うんだよ。なにせ、私のうちは六百年|髪《かみ》家にお仕えしていたんだからね」
岡野は聞いた。
「玲子さんは少佐殿のお嬢様ではないのですか」
「それは違う」
「ではだれの」
「今にわかるさ、ハハハ。私しか知らないことなんだよ。なにせ、信頼のされかたが違うからね」
と言って引金を引いた。
娘は、十字に仕切られたスコープの中の、こめかみに黒い穴のあいた父の顔を茫然と見ていた。
「おう、玲子、どこに行っとった。父さんたち、もう帰るで」
老人たちは皆しょげていた。よほど飛岡に怒られたのだろう。
「悪く思わんでください。どうも田舎もんはいかん」
為蔵はゴマ塩頭をかきながら、
「みんな今朝までワシの部屋で話しおうとったんだが、郷に入っては郷に従えちゅうでな、悪いことをした。菓子折りを持ってあの部長さんの入っとる病院に会いにいったんだが、鼻は折れちょらんかった」
「そうでしたか」
「ワシらみんなあんたのことが好きになった。ぜひ嫁に来てくれや」
「はい」
「ふつつかもんのセガレじゃがよろしく頼む」
「はい」
「それに例の父親と嫁の話じゃが、早速帰って村の役員会にかけることにした。ワシらも世間というもんをもうちょっと勉強せないかん」
「…………」
為蔵の荷物を持った飛岡が、
「残りたいんだが、オレもおやじたちと一緒に帰らなきゃいかん。寺岡総理の護衛を頼まれているんだ」
為蔵はシワだらけの黒い顔をほころばせ、
「一度、あんたのお父さんたちと会いたいんだが」
「父はいないんです」
「え?」
「今朝、亡くなりました」
父の弾がかすった頬から、うっすらと血が流れた。
悄然《しようぜん》と立ちつくす玲子に、ホテルのロビーの大ガラスごしに、朝日があたった。そのとろけるような金色の光は、玲子の濃紺のブラウスに全て吸いこまれていくようだった。
「川崎さん、私は、あのヘリポートを見るたびに吐き気がするんです。あれは逃げ出すためのもんだ。男はいくつになっても攻撃を仕掛けることしか考えちゃいけないと思うんです。それが守りに入るとは」
岡野が吐き捨てた。
川崎は杖をさすりながら苦笑いして、若いなあと思った。
李正元の家は、香港一の暗黒街と言われる九竜城から一キロも離れていない閑静な高級住宅街の九竜|塘《とう》の丘の上にあった。香港の人々はここを指さし、成功というものの実体を見ては自らを励まし、その下の九竜城をまた指さして、人間の暗黒の部分を思い知らされるのだった。まさに天と地だ。李正元の館《やかた》は、その地獄を冷たく見下ろし、まるでヨーロッパの古城を思わせる威容を誇っている。石を積みかさねた高い砦がその周りをガッシリと囲んでいた。
ベンツに先導されて、シルバーグレーのロールスロイスが入っていった。ベンツから降りた男が検問所に入った。
ガラガラと滑車の音がして、鉄柵《てつさく》の門が開いた。
「大げさだな。まるで中世だ」
「本人は本気だ」
五百メートルほどの石畳の道を行くと、赤みがかったレンガ色に塗られた館の前についた。白い窓枠がそれに映えている。
鬼心会の幹部、倉林《くらばやし》、遠井《とおい》、加藤《かとう》、本村《もとむら》らが降りたち、そのサングラスであたりを見回した。
五十人はいる迷彩服を着た完全武装の男たちが、カービン銃をかまえて岡野の部下たちとにらみあった。
見上げると、砦の四方に備えつけられた大砲がこちらを向いている。
岡野がそれを見てまた吐き捨てた。
「なんだ、これは。あの年になってまだ生きたいのか」
小柄な川崎がロールスロイスから降りたった。李正元と会うのは二十年ぶりといってよい。
続いて降りようとする岡野を倉林が制した。
岡野は軽くうなずくと、
「じゃ、川崎さん、よろしくお願いします」
「お会いしないんですか」
「女房子供をモルジブに案内することになってますんで」
「少佐殿と仲直りしていただけませんか」
「もう無理です。私が狙われたのはいい。が、村井さんをあんな形で死に追いやるなんて、人間のやることじゃない」
「クイーンエリザベス号の件に関しては、私がなんとしてもおわびいたします。私も気がつきませんで、恥ずかしいことです。しかし、少佐殿もそれだけ追い詰められているということを分かってやってください」
「たかが女一人です」
「髪島《かみじま》の女ですよ」
岡野はビクリとしたが、すぐにプイと横を向いた。
「船でお話ししましたか」
「だれとです」
「玲子さんとですよ」
「ええ。少しだけ」
倉林たちがクックッと笑った。
「なにがおかしいんだ!?」
「親分、少しだけってのはないでしょう。なあ、遠井」
「あたしらが聞かされただけでも、三時間はあったもんな。で、ディーラー呼んでコードを引き抜いたあと、どうなったか空白だもんな」
「そうだよ、オレら、おまえらにもいざとなったらあの度胸があるかなんていわれて、いい迷惑だよ」
「バ、バカ、よせ!」
大きな暖炉の前で、李正元は、いらだたしげに川崎を待っていた。壁に飾られた大きな鹿《しか》の頭が李正元を見下ろしている。高い天井からは、大きなシャンデリアが下がっているが、その光も十分でないほど、部屋は広かった。黒と白の大理石を市松模様に並べた床の上を、コツコツと杖をつく音がして、川崎があらわれた。
李正元は坂をおりていくロールスロイスを指さし、
「岡野はなぜあいさつに来ん」
「奥さんと子供さんを観光に連れていくんだそうです」
「フン。どいつもこいつも恩知らずどもが! オレは財産のすべてをあいつに残してやってもいいと思っていたのに」
「組長は、ファイルをほんとに北朝鮮に渡すつもりなのか心配しておいででした」
「そうだ。あのファイルは北朝鮮に渡すことになる」
川崎はソフト帽の縁をなぞりながら、
「少佐殿、理由を聞かせていただけませんか」
「オレは少佐ではない。大佐になっているはずだ」
「失礼」
「金正日書記は祖国統一なったあかつきには、オレを建国の父としてあがめてくれると言ってるんだ」
「あのファイルでどうして祖国統一ができます」
「おまえらは、金正日の読みの深さを知らん。オレを頼りにしてるんじゃよ。まっ、オリンピック開幕日を楽しみにしておくことだな」
ハンカチで汗を拭いながら川崎が、
「寺岡総理が五千億で買うといっておりますが」
「フン、もう遅い。金なんかもういい。オレは祖国統一に尽力して建国の父となるんだ」
憑《つ》かれたような李正元の目の輝きが無残な老いを露呈していた。
「…………」
窓を見た川崎の目にすぐ近くの九竜城の迷路が見えた。一千とも二千ともいわれる娼婦街だ。まさかあの犬子恨一郎がそれを束ねる大元締になろうとは。
床を歩き回っていた李正元は、
「あの女は何者なんだ」
「お知りにならない方がいいでしょう」
「なに?」
「では、これで」
川崎はドアに手をかけた。
「オレにそういうものの言い方をして、ただで済むと思うのか」
川崎は凄《すご》みのある声で、
「少佐殿、北関東血盟団に、そういう脅しが通用するとでも思っているんですか。あなたから死ねと言われりゃ死にます。しかし、殺されはしません」
ていねいに頭を下げると、そのまま出ていった。
チャン部長の家は香港郊外の新界《しんかい》地区にあった。子供が八人に野菜の路地売りをしている女房とその両親。自分の母親も同居しているので大家族だ。給料で食わせていくのが精一杯だった。
女房のマオマオが、朝飯のときに言う。
「あんたもワン部長みたいにワイロをもらえばいいのに」
マオマオの両親までがいっせいにその言葉にうなずく。テーブルでつらそうに小さくなっているのは自分の母親だ。いつものことだ。
女房の母の福徳《ふくとく》がキツネ目で、
「駐車違反をつかまえても、署に来るように言うんじゃなくて、半分でも現金でもらって放してやりゃいいんだよ。その方が運転手だって助かるんじゃないか」
「そうはいきませんよ」
「ねえ父さん、嫁にやるところを間違えましたね。マオマオはこれだけの器量なんだから貰《もら》い手はいっぱいあったんですよ」
鼻の絆創膏《ばんそうこう》がまだ取れていないせいか、少し鼻声で、
「いや、警察官というのもなかなかいいもんですよ」
家族が驚いていっせいにチャンを見た。二十年間で初めて見せたチャンの自信に満ちた顔だった。
「あっ、あんたどうしたのさ」
「いや、どうもしない。いいからいいと言ったまでだ」
勢いよく立ち上がった。
チャンは自分の職業を今こそ誇らしく思っていた。村井という日本から来た女刑事の強靱《きようじん》靭な意志に触れたからだった。
「じゃ、行ってくる」
外に出てチャンはなだらかな坂道をおりていった。道の両脇にトタン屋根の汚い家が軒を並べている。共同の水道を使うため鍋《なべ》をさげた貧しげな女たちが列を作っていた。なじみ深い顔ばかりだ。機嫌よく手をあげて挨拶をすると、チャン部長はバス通りに出た。
「よう、チャン部長。うれしそうだね」
角を曲がったところで、まっ赤なベンツ450SLCが止まり、アキョンが中から声をかけた。高価なイタリア製の麻の紺と白のチェックのスーツをピタッと着こなしている。腕に巻いた喜平型《きへいがた》の太い金のブレスレットが光った。
「なんか楽しくなることでもあったのかね」
「いや、オレが刑事という職業を選んだことに間違いはなかったと思ってさ」
「へえ、そりゃいいことだね。オレはいつになったらヤクザになった自分に誇りを持てるようになるのかな。乗っていかないか」
アキョンはドアを開けて誘った。
「乗せてもらおうか」
「ヘエ、珍しいね」
「長い人生だ。こんな気持ちになることもあるさ」
「どうだね、オレたちと手を組まないかね。こんな車何台だって買えるようになるぜ」
「ハハ、アキョン、こんな車乗ったって人間ってのは生きがいってのを失っちゃおしまいさ」
「今日のチャン部長にはまいるね、どうも」
「フフ。で、なんの用だい」
「日本から来た女刑事のことだ。もう一週間も姿を見てないってオヤジたちが心配してるんだ」
「もう、日本に帰ったんじゃないかね」
「いや、それはないよ。空港も港もみんな調べた。あんたがかくまっているんじゃないかね」
「さあ、オレはいまひどいヤク中の女にかかりっきりで女刑事とデートしてるヒマはないよ」
チャンは喉元まで出かかった言葉をやっとのことで飲みこんだ。
村井という女刑事の準備が整ったとき、キサマら香港の暗黒街は根絶やしにされるんだと。
「じゃ、ここでいい」
「えっ?」
九竜《カオルン》女子刑務所の前だった。
「そのヤク中の女を見ていかないかね」
「願いさげだね。商売でたんと見てるんでね」
「残念だな。人間の希望ってものを見せられたんだが」
「ええ?」
「いや、こっちの話だ。じゃ」
チャン部長は刑務所の中に入った。
玲子は三階の独房にいた。
「やあ、どうだね」
ホン刑事が額の汗を拭きながら、感極《きわ》まった声を出した。
「すごい人です」
ホンの指さす薄暗い鉄格子の先に、玲子はいた。
「大丈夫ですか」
「ええ」
玲子はけだるそうな顔で答えた。
玲子は薬をとかした液を自分の腕に注射し、じっと目を閉じてヘロインが血液にめぐってくるのを待った。
「本当に中毒になってしまいそうですわ」
ほっと深い吐息をつくと、玲子は力のないまなざしで自分の腕を見た。肌はますます透《す》きとおるようになって、静脈が浮きでている。たくさんの針のあとをゆっくりとなぞった。ゆるやかな快感がじわっと押しよせてくる。玲子の目がトロンとして焦点が定まらなくなった。
「男が欲しくなりますわね」
と玲子はしきりに唇をなめた。
すでに重症の中毒者の顔だ。反応のない無表情の顔が不気味だ。しかし、玲子の右手の親指を除く四本の指だけは絶えず動いていた。撃鉄《げきてつ》をあげる必要のないチーフスペシャルには親指の力は必要ない。
ホン刑事は鉄格子をきつく握って叫んだ。
「部長、これ以上、体内へヘロインを入れると、元の身体に戻れませんよ」
「かまわん!!」
中毒から抜けだすとき、この女は、また鉄格子の中に入り、何日かを過ごすつもりだ。そのときも、オレたちは頭をかきむしり、絶叫しながら床を転げ回るこの女をじっと見守ってやらねばいかんのだ。そのときも、オレは決して目をそらすことはしない。
死んだ父親が言っていたことがある。
日本の広島の近くに髪島《かみじま》というところがある。そこには強靭な精神力を持ち、風より早く走る女たちがいると。村井玲子はきっと髪島の女にちがいない。
ホン刑事はたまらなくなって、
「部長、この鍵《かぎ》を開けてください」
と、玲子がうるんだ目をあげ、力なく笑いかけ、
「じゃ、ホン刑事、相手をしてくれるのかしら」
「はっ」
「バカねえ。誤解しないで。反射神経を試してって言ってるのよ」
ドアが開き、ヌレーネフが入ってきた。
「僕がやりましょうか。まともにやると、この刑事さんは死んでしまいますので」
「えっと、ヌレ、ヌレーネフね」
玲子は口を開けたが、うまくしゃべれない。
「大丈夫かね」
「舌がうまく回らないのよ」
肩で息をしてやっとのことで言った。
「チャン部長、鍵を開けてください」
「わかった」
ヌレーネフはアンプルを折り、アドレナリンを注射した。
「近ごろ、飛岡《とびおか》と遊び歩いていたせいか、なまっちまってね」
一分もたたないうちにヌレーネフの目が血走ってきた。
ヌレーネフは上着を放って上半身裸になると、パチンと音をさせ、ゾーリンゲンの飛び出しナイフを持った。刃渡り三十センチはあろうというとがった刃先が青白く光った。
「行くよ」
「ええ」
よろよろと立ち上がった玲子は壁によりかかった。ヌレーネフは腰をかがめてジリジリと近寄っていく。玲子は壁づたいに這うようにして逃げた。
シュッと音がして、ヌレーネフがナイフを横にはらった。玲子はかろうじてよけた。服が脇腹のところでパックリと裂かれた。
ヌレーネフは、ナイフを持ちなおすと唇をなめ、
「じゃ、本気でいくよ」
「ええ」
ヌレーネフはナイフをかざして玲子を狙《ねら》った。玲子は前よりノロノロとした動きで鉄格子を伝っていく。が、その目は焦点が合ってきて輝き始めた。
「キェーッ!!」
と叫び、ヌレーネフがナイフを突き立てようとしたとき、腕が取られ、ねじりあげられた。
ポキリとヌレーネフの右腕が折れていた。
「よし!!」
玲子はくぼんだ目で叫んだ。
チャン部長は、鉄格子の中に拳銃を放り投げた。
「反射神経は正常だが、目はどうかね」
そう言った瞬間、チャン部長はボタンの取れかかった袖をかかげた。硝煙《しようえん》の匂いが強く鼻をついた。
チャン部長は袖のボタンを見たまま、玲子たちが乗りこんだ車にいつまでも手を振っていた。その太った身体を満足気にゆすると、はげた頭をツルリとなでた。女房にももっとやさしくしてやらなきゃと思った。あいつは、十二人の家族を抱えてきっとつらいことがあるのだろう。今度の休みはショッピングにでも連れていってやろう。
「あれ?」
空、というより家の屋根スレスレにジェット機が二機こちらに向かってくるのだ。
「危ないことするなあ」
米軍の訓練だろうか。いや、機種が違う。なんだ、あれは。そうだ、ミグだ。それもミグ17という十年も前のソ連製戦闘機だ。あれがまだあるとすれば、キューバか北朝鮮、それにエチオピアだ。
目の細い大男が窮屈そうに操縦桿《そうじゆうかん》を握っているのが肉眼で見えた。
マレー野球のバットのようなものが発射された。
啓徳《カイタツク》空港からジェット機で五時間飛ぶと、インド洋の宝石といわれるリゾート地モルジブに着く。
白い砂浜が島を囲み、世界で最も美しいとされる遠浅の海は、エメラルド色に深く澄んでいる。太陽の光が幾重にも屈折するその中をネオンのような美しい熱帯魚がたくさん泳いでいる。魚たちは大胆だ。その上を小船が通り過ぎても、隣で人が水中眼鏡でじっと見つめていても、すましている。ここでは原始のままの海を守るため、魚の捕獲は禁止されているのだ。青と黄色の魚、オレンジ色の魚はその美しさを誇るかのようにゆったりと泳ぐ。
ヤシの葉を葺《ふ》いてマッシュルームの形をした丸い屋根のコテージの前で、ルミ子がうれしそうに飛びはねて白い砂をけ散らしている。
四人の男たちがそれを遠まきにしていた。
サンゴでできた道に走りだそうとする娘にデッキチェアに座った岡野が、
「ルミ子、遠くへ行っちゃだめだぞ」
ルミ子は返事をしない。
「フー」
ルミ子はあのホテルで玲子に会って以来、顔もろくに見てくれない。大きな帽子をかぶった妻の美恵子が笑いながらジュースを差し出した。
「ルミ子は嫉妬《しつと》しているんですよ」
「嫉妬?」
「女ってほんと、困った動物ですわ」
「だってまだ五つだよ」
「五つだって同じですよ、女の考えることは」
「こわいね」
「もっとこわい方にのめりこもうとしてらっしゃるくせに」
「どういうことだ」
美恵子のやさしく笑っていた顔が少し真面目《まじめ》になって、
「あなた、あのお方と関係があったでしょう」
「いや」
「隠したって分かりますよ」
「すまん」
汗が吹き出してきた。
「仕方ありませんよ。あんなおきれいな方と船に乗りあわせたんですから」
「つい、酒も入っていたし。けど、おまえと一緒になってから初めてなんだ」
「ええ?」
「いや、その。何度かある」
美恵子はやさしくにらんだ。
「気にしてませんよ、あたしは。私がどこで育ったと思ってるんですか」
「いや、決してそういうことに甘えているというわけじゃないんだ」
「あなたにはほんとに申し訳ないと思います。父がワガママだったばっかりに。あなたにはヤクザは合っていませんものね」
「バカなことを言うな」
「でも、私、幸せなんです」
ルミ子が走ってきて、
「ねえ、アキョンおじちゃんは来ないの?」
「うん。明日あたり来るかな」
「ほんと?」
「ねえ、ルミ子、そろそろお昼寝の時間じゃないの。パパと寝ようか」
「いや!!」
と周りの客がびっくりするほどの大きな声で言った。
「まいったね、こりゃ」
「フフフ、じき直りますよ」
赤道直下の熱い太陽を受けた海が金箔《きんぱく》を塗りこめたようにキラキラと光っていた。ウインドサーフィンに飽きた若者たちが笑いながらコテージに引きあげていくと、浜辺に、小さな波音以外は何も聞こえない静寂が訪れた。ヤシの木の下、岡野は飽きもせず海をながめていた。
かたわらの砂に直《じか》に腰を下ろした美恵子に、
「しかし、年を取るということは哀《かな》しいことだな」
「犬子恨一郎《いぬこはんいちろう》様のことですか」
「ああ」
「日本も韓国も、もっと大切にしてあげるべきだったんですよ」
「なにが大切だ。男のくせに! 生きていることだけでも、おぞましいことなんだ。あのとき、立派に自害すればよかったのだ」
「…………」
「男のくせに」
岡野は唇をかみしめ、もう一度言った。
岡野|宏文《ひろふみ》こと朴永昌《ぼくえいしよう》。この韓国|慶尚南道《けいしようなんどう》出身の帰化人は考えた。なぜ、北朝鮮は、ああも執拗《しつよう》に重宗《しげむね》ファイルを手に入れようとしているのか。それを公開して、日本に恥をかかせたとて何の得があるというのだ。
と、二つ離れた椅子の上のラジオから、オリンピックまであと一週間というニュースが流れた。テロを警戒して、アメリカ第七艦隊が日本の潜水艦を率いて対馬《つしま》海峡に向かっているという。
「あっ、そうだ!」
思わず、膝を打った。
重宗ファイルをソウルオリンピックの開幕日に公開しようとしているのだ。
と、コードレステレフォンを持って、倉林たちが走ってきた。
「どうした?」
「大隅たちが明後日、香港《ホンコン》に入ってくるそうです」
「よし」
倉林は、そのニキビの跡だらけの顔をしかめ、
「香港の女子刑務所が爆撃されました」
「なに!!」
美恵子は涼しげな顔でこともなげに、
「あの方は死にはしませんよ」
と自信に満ちた声で言った。
そのニュースを飛岡為五郎《とびおかためごろう》は、ホノルルに接近しつつあるJAL72便の中で聞いた。まさか。玲子は大丈夫か。心配でいてもたってもいられなかった。
紺碧《こんぺき》の空を背景に、眼下に浮かぶ銀色の雲が目に痛いほど輝いている。飛行機は東をめざし、揺れひとつなかった。
「どうした飛岡君」
隣の紺色の背広を着た寺岡総理が、老眼鏡を取って書類から目をあげ、けげんそうな顔をした。
「いえ」
「村井君のことだったら、大丈夫だよ」
「だと、思いますが」
「あの子に私は賭《か》けている」
「はっ」
「でも、大変だろう。あの子の側にいると」
「いえ、別に」
「顔にそう書いてあるよ、ハハハ」
「もっ、申し訳ありません」
寺岡は座りなおして姿勢を正すと飛岡に向かった。
「村井に髪《かみ》一族の後継者が見つかったと言って紹介されたのは、あの子が十のときだったんだ。どこかの孤児院で二つのときに貰って来たと言ってたんだが、身のこなしも、ナイフの使い方もそれは見事だった」
「はっ、どこか天才的なところがあります」
「そうだろう。しかし、村井は恋というやつを教えなかった。頭も良く、強い女にはなったが、つまらない男にもてあそばれてね、かわいそうで見てはいられなかった。それで、アメリカに渡らせたんだが」
まぶしそうに目をしばたいて窓の外を見た寺岡の脳裏に、すべての弾を標的の真中に正確に撃ちこんでいく玲子の真剣な姿と、良介に捨てられ、うちひしがれていた玲子の顔がフラッシュバックのように浮かんでは消えた。
「…………」
「もし私に何かあった場合でも、あの娘から警察手帳を取り上げることはしないように言ってある。幾代、警視総監が変わろうともだ」
寺岡はこぶしを握りしめ、力強く言い切った。そして、
「ホノルルに着いたら、新聞記者どもを二時間でいい、撒《ま》いてくれたまえ」
「わかりました」
「しかし……」
そうつぶやいて寺岡は、再び窓の外の雲海に目をやった。
北朝鮮は、重宗ファイルをオリンピック開幕日に公開し、世界をあっといわせようとしているのに、アメリカは、原爆投下の裏約束があったことを否定はしないと言ってきた。これは一体どういうことだ。
そして、あの平壌《ピヨンヤン》を離れたがらない金正日《キムジヨンイル》がなぜ、香港に向かっているのだ。モスクワに行くときでさえ、あの親子は汽車を乗り継いで行った。親子? そうだ、金正日は、主席の世襲を正当化しようとしているのだ。それに重宗ファイルを使おうとしているのだ。
国連だ。北朝鮮を国連に加盟させようとしているのだ。
飛行機は、高度を下げ、いよいよホノルルに近づいた。濃紺のママラ湾を囲むようにして、白いビルが立ち並んでいる。砂糖キビ畑の緑が、目にあざやかだ。寺岡たちを乗せた特別機は、ホノルル空港に到着した。
新聞社のカメラマンが群がる出口とは反対のタラップを降りた寺岡は、待ちうけていたヘリコプターでオアフ島西海岸のマカハリゾートにあるシェラトンホテルに向かった。東側には、岩肌だらけの切り立ったコオラウ山脈が紫色にけむっている。十分もたつと、複雑に入り組んだポカイ湾が見えてきた。車もまばらなハイウェイ沿いに進み、ヘリコプターが高度を下げると、シェラトンホテルの駐車場で男が手を振っているのが見えた。
ブックマンアメリカ副大統領が、ヘリコプターの強い風を受け、細い身体を飛ばされそうになりながら、にこやかな表情で迎えに出ていた。
握手をした寺岡がけげんそうに、
「大統領はいらっしゃらないのですか」
「アメリカは、この問題に深入りしたくないと言っている」
「なんですと?」
「戦後の高度経済成長は約束したが、これほど繁栄するとはだれも思っちゃいませんでした。少し、恥をかいた方がいいんですよ、日本も」
ブックマンがこれほどの顔をするからには、アメリカの貿易赤字は極限まできているといってよい。
ホテルのVIPルームに入ると、ブックマンは、
「代わりにいいお方をお連れしました」
「国連のシェネラー事務総長ですかな」
ブックマンは天井を見上げて「Jesus Christ !」と叫ぶと、
「どうしてお分かりになりました」
「私もだてに四十年も政治家をやってはおりません」
寺岡の必死の矜持《きようじ》だった。
ユダヤ系と一目で分かる長い顔に長いわし鼻、腹の突き出たシェネラーが、にこにこして両手を差し出し、寺岡を抱きしめた。その厚い手は牧師のように柔らかく、暖かかった。
「実際、寺岡さん、北朝鮮が国連に加盟してくれることになりましてな。これは大変なことです。祝福していただけますね」
「…………」
「寺岡さん。世界は一つになりますよ」
ウソをつけ。おまえたちユダヤ人が世界のことを一日でも考えたことがあるのか。
もう一度、シェネラーは笑いかけると、
「祝福していただけますね」
寺岡は仁丹を口に放りこむと、皮肉たっぷりに言い返した。
「で、北朝鮮に何基、原発を設置することで話がついたのですか」
ウランシンジケートはユダヤ人最大の金脈だ。かのソ連までユダヤのいうなりになっている。チェルノブイリ原発事故を探査衛星ランドサットで撮影され、公表させられて、ロスチャイルド鉱山のユダヤウランの使用をやむなくされていた。
シェネラーの目がずるそうに光った。
「どういう意味ですかな、寺岡さん」
「あなたがたユダヤ人が、アジアの小さな一国を国連に加盟させるために平和主義者の真似をするとは思っておりません」
シェネラーはわざととろけるような笑みを満面に浮かべると、
「フフ、寺岡さん。少しお疲れになったようですな。そろそろ首相を代わったらどうです」
「なに」
「福井《ふくい》原発設置工事で、あなたは多額のワイロを貰っておりますな」
「キサマ!」
席をけり、ホテルの庭に向かおうとした寺岡の目の端を何かがよぎった。そこから見える海辺の墓地に黒いベールの年老いた女がいた。
「失礼」
寺岡は我を忘れ、走りよった。
「お久しぶりでございます。寺岡でございます」
老婆は答えず、鼻の下を軽く押さえ、咲き誇るヒマワリを見ていた。
くもり空が続いていた香港《ホンコン》は久しぶりにいい天気になった。ラジオで女子刑務所が爆撃され三百人の女囚全員死亡といっていた。洗濯の手を休め、まがった腰をさすりながらやり手のフェイ婆さんは、そこに入っていなくてよかったと思った。
フェイ婆さんは、昼すぎ、背の高い二枚目のロシア人が売りにきたエミーという日本の女の取引がわずか三千ドルから始まったとき、狂喜した。
チェのところに売りつけに行けば間違いなく一万か一万五千ドルはもらえる。
「脱いでみな」
腕にはヤク中特有の注射針の跡があるが、身体は恐ろしくきれいだ。
フェイ婆さんはエミーを後ろむきにさせて床に四つんばいになるよう命令した。ひどく従順だ。フェイ婆さんはしゃがんで女の尻の穴をしげしげと観察した。鮮やかなピンク色をしている。たっぷりと汁を含んでゆっくりと息づいている。
フェイ婆さんは、エミーの尻をピチャリと叩いて、
「四千五百というところでどうかね」
「そんな、あんまりじゃないか」
右腕を真新しい包帯でつるした男が渋い顔をした。
「あんたがそんなことを言えた義理じゃないだろ」
片目の顔をひしゃげた。
「そうか、わかった」
ヌレーネフはわざとらしく大ぎょうにうなずいた。
九竜《カオルン》城の私娼窟《ししようくつ》は、もともとは清《シン》朝の高官が駐在した立派な城壁に囲まれた城だったと言われているが、いまではすっかりスラム化し、昔日《せきじつ》の面影はない。
城内には無数の小さな路地がクモの巣のように張りめぐらされていて、一種の治外法権地帯と化し、麻薬の密売や売春、賭博《とばく》が公然化している。
昼でも日がささない魔窟《まくつ》の一室で、フェイ婆さんの持ってきた麻薬を打ちおえ、玲子は注射器を腕からゆっくりと引き抜いた。
「あんまり無理しちゃいけないよ」
「ええ」
「こんないい女をどうして捨てちゃったりするんだろうね、男は」
黒いスリップ一枚の玲子は、長い髪を乱し、目にクマをつくり、肌はカサカサに乾いていた。が、それは崩れた雰囲気《ふんいき》よりも、玲子の天性の美貌に、さらに凄艶《せいえん》な美しさを加えていた。フェイ婆さんは、
「私はさ、最初あんたがサツのまわしもんだと思ったのさ」
「えっ?」
「でもあんたの客の取りっぷりを見てると、本物だ。あんた、生まれながらの淫売《いんばい》だ」
フェイ婆さんは、この女にあきれていた。病気持ちのギリシアの船乗りたちだろうが、ムチとハイヒールを持ったイギリスの老人だろうが、いやがることなく抱かれる。どんな男たちもこのエミーに満足してチップをはずんで帰っていった。
「あんた、いつもその右手を動かしているけど、なんかのまじないかね」
「中には、手だけで行かしてくれっていうお客さんもいましてね」
「へえ、感心なことだね」
「ちょっと、そのリンゴ放ってくれませんか」
「あたしがむいてあげるよ」
「いいんです。投げてください」
「わっ、わかった。あんた、怖い目をするね。ほれよっ」
「ありがとう」
「よく、つかめたね」
「あら、ほんとだわ」
玲子はリンゴにかぶりついた。たちまち、むかついて吐いた。
「ホラ、だからむいてやるって言ったのさ」
と、部屋のドアを激しくノックする音が聞こえた。だれかが、早口の広東《カントン》語で何かわめきたてている。次の客がしびれをきらしているのだろう。
「おっ、またお客さんだ。ゆっくり御飯も食べさせてくれないんだからイヤになっちゃうよ」
「入れてください」
「これじゃあんたの身がもたないよ」
「いいんです」
「まったく、あんたって女は一体どういうんだろうね。いいかい、一人一人に気をやっちゃだめだよ。フリすりゃいいんだから。あんた見てるとかわいそうでさ」
とブツブツ言いながら立ち上がり、ドアをひきちぎるように開け、怒鳴《どな》った。
「さっ、お入りよ!」
入ってきたのは、ホン刑事だった。
「あんたら、この子とヤルことばっかり考えてないで、会話を楽しむことも覚えてもらわなくちゃ困るんだよ」
「ああ」
ホン刑事は刑務所爆撃で片足を失っている。
「この子に一日でも長くここにいてもらいたかったら、大事に扱ってやるんだよ。身体こわしたら、元も子もなくなるんだからね。わかった?」
フェイ婆さんはドアをバタンと閉めた。
ホンは、松葉杖を使って玲子に近よると、人の気配を確かめて、
「救急病院に収容されていたチャン部長が亡くなりました」
「そう」
「あなたにくれぐれもよろしくとおっしゃっていました」
「そう」
玲子は鼻の下を軽く押さえて、ボンヤリ聞いている。
「坪田京子はまだ無事です。チェの屋敷にいます。この騒ぎで近日中にモロッコに売られていくという噂《うわさ》ですが、そこに連れていかれると救い出す手だてはありません」
「…………」
と、ホンがズボンを脱ごうとした。
「なんなの。それも仕事なの」
「いえ、プライバシーです。あなたのこと抱けないなら抱けないでいいんです。でも、他の男が金さえ出せば抱けると思うと我慢できなくて」
「そう」
玲子は少し笑い、ホンを立たせたままジッパーを下ろし、股間《こかん》のものを両手で支えて口をつけようとした。
と、白い麻のスーツを着た男がズカズカと入ってきた。
「オレの方が先だ」
アキョンだった。ジロリとホンの格好を見ると、
「ホン、一物が使いものにならなくなったと聞いたが、リハビリかね」
「……金は払ってある」
「そんな身体だと警察バッジもつけられないだろう。どうだ、うちで働かねえか」
「断る」
「家族が困るんじゃないのか」
「が、オレたちには希望がある」
チャン部長が死ぬ間際《まぎわ》まで言っていたことばだ。
「いつか、おまえたちを葬《ほうむ》り去ってやるんだ!!」
「聞いたふうなことをぬかすな!」
アキョンはホンの襟首をつかむと、かつぎあげ、ドアの外に放り出した。
「近ごろの香港の警察はどいつもこいつも頭がおかしくなったんじゃねえのか。どいつもこいつも奇妙なことを口走りやがる」
胸のポケットからセーラムを一本つまみあげながら、
「まったくここは豚小屋だなあ。暑くってたまらねえ」
いまいましそうに額の汗を拭った。部屋には冷房はなく、天井でノロノロと回転する扇風機はまるで用をなしていなかった。
ドッカリとベッドに腰をおろしタバコをくわえると、女が火をつけてくれた。
「オラ、ここの娼婦からタバコの火を点《つ》けてもらったなんてのは初めてだぜ」
しげしげと玲子の顔を見た。
「…………」
玲子は渾身《こんしん》の力をふりしぼって、アキョンにあだっぽい目を送った。
「うっ」
それが通じたか、アキョンは赤くなって汗を拭った。
「おめえ、日本人か」
「ええ」
「ロシア男に売られたそうだな」
「……ええ」
アキョンの太股《ふともも》に置かれた玲子の手が動いた。
「憎いか」
「いえ」
「なぜだ」
「あの人が助かるって言うんですもの」
「三千か四千ドルでなにが助かるんだ。おまえはだまされたんだ」
「そうでしょうね」
フェイ婆さんが茶を持って入ってきた。
「アキョンちゃん。女の過去は聞かないってのが決まりだよ」
「アキョンちゃんはよしてくれや」
「小さいころから九竜《カオルン》城を遊び場がわりに走り回ってたあんたをボスだなんて呼べないよ」
「とにかく、出ていってくれ」
「あら、ボスも首ったけになっちまったみたいだね」
と含み笑いをしながら出ていった。
「さっ、脱げ」
「はい」
玲子は黒いスリップを脱いだ。何もつけていない白い肌がアキョンの目の前にあった。
「金の交渉はしないのか」
「フェイさんがやってくれるんじゃないですか」
「おまえってやつは。あいつからいくらピンハネされてると思ってんだ」
「…………」
「いくら貯《た》まった」
「さあ……」
「変わった女だな」
女はアキョンの上着をたたみ、シャツのボタンをはずし始めた。
「オレはいい」
「えっ、あたしじゃ駄目なの?」
「そっ、そうじゃない」
女の飢《う》えて落ち着きのない目がテーブルの上に置かれた注射器に止まった。
「ヤクが欲しいのか?」
玲子はあごを突き出し、犬のようにうなずいた。
アキョンは、丸めて捨ててあった、フェイ婆さんが玲子に与えた麻薬の包み紙をすかして見て、
「こんなカスを打ってるから身体がおかしくなるんだ」
上着を引き寄せると、ポケットからビニールに包まれた白い粉を取り出した。そしてスプーンに少しとって水さしの水で溶き、ライターの火で熱し、注射器で吸い上げた。アキョンは玲子の細い腕を取り上げると、器用に静脈に注射した。純度の高いヘロインがいつもと違った効果をもたらした。玲子の身体に、火照《ほて》ったようなしびれがゆっくりとひろがっていった。
「が、これで最後にしろ。これ以上、ヤク打ったら死ぬぞ」
「…………」
玲子の目は欲情に濡れてきた。腰をくねらすのが、たまらない色気だ。
「おい、しっかりしねえか。おまえはヤクなんかやる女じゃないんだ」
アキョンは立ち上がると、床に脱ぎちらした玲子の夏服をひとまとめにして投げつけた。
「もう客をとるのはやめろ。オレの女になれ。ヤクもやめるんだ」
「だって」
「フェイ婆さんにはオレから話をつける。十万も渡しゃ、文句は言わないだろう。いいか、一つだけ言っておく。決してオレを裏切るな。おまえが裏切らないかぎり、オレはどんなことをしても守ってやる。オレがキライになったらはっきりそう言ってくれ。男ができたときもはっきり言ってくれ。そんときは、オレはおまえを祝福して送りだす。が、裏切ることだけは、やめてくれ」
アキョンの涙をためた懇願するような目を玲子はとまどいとともに見ていた。
十月一日。
飛岡為五郎は、成田にいた。岩手の母が送りにきている。白いものがチラホラと母の頭に混じっている。少しの間に、ずいぶん老《ふ》けこんでいた。
「母ちゃん、老けたな」
「おまえが苦労ばっかりかけるでな。早く母ちゃんを楽させてくれや」
UN58便|香港《ホンコン》行きの搭乗案内のアナウンスが流れた。
「じゃ、母ちゃん、行ってくるで」
隣に座った母親に言った。
「ああ、気をつけてな。一応、来年の春ごろを予定してるからと言うといてくれ」
「まだ決まったわけじゃないよ」
「村の役員会で父ちゃんとの床入りの風習はヤメになったと言うといてくれ。まったく、難儀なこっちゃ」
「もう、遅いよ」
「なにが遅いんだ。あれから父ちゃん、すっかり老けこんでしもうて、寝こんでしもうた」
「なんで老けこまなきゃなんないんだよ」
「あれだけ恥かかされて老けこまん方がおかしいじゃろうが。長男の嫁も抱けんで、村の笑いもんじゃて。もう、長うはない」
「フー」
「とにかく、玲子になんもいらんから身一つで嫁に来てくれって言うてくれ」
「だからまだ結婚するって決めたわけじゃないんだって。プロポーズもしてないんだから」
「なんでプロポーズもしとらんのじゃ」
「玲子はただの女じゃないんだって」
「家柄のことじゃったら、うちも負けんぞ」
「違うんだって。つまり、そのなんだ、あいつは生娘《きむすめ》じゃないんだ」
「それがどうした。あんないい女、男がほっとくわけないじゃないか。あんないい女を嫁にもらおうと思う男は、そんな料簡《りようけん》の狭いことじゃいかん。いいか、為五郎、結婚式ちゅうもんは嫁と関係のあった男を全部呼んでやって、これからこの女は、オレのもんになるんだと宣言してやる日じゃ。近ごろの若い者はその甲斐性《かいしよう》がないから、すぐ女に逃げられるんじゃ」
「すごいね、おふくろの考えてることも」
「普通のことじゃ」
「一人や二人じゃないんだよ、あの女の場合は」
「いいじゃないか」
「男がいなきゃだめな身体なんだ」
「その分、野良《のら》仕事をちゃんとやってくれればいい」
「私娼窟《ししようくつ》に入って男に抱かれてるんだよ」
「それも仕事じゃろ」
「そりゃ、仕事だけどさ。困るだろ」
「なにが困るんじゃ」
「もう、おふくろと話はできないよ」
「じゃ、この話はなかったことにするんか」
「いっ、いや」
「そうれみろ。母ちゃんたちの気持ちも知らんで、勝手なことばかり言いくさって」
空港中に響くような大きな声でオイオイ泣きだした。
搭乗手続きをしてくれた味川《あじかわ》が戻ってきた。
「課長、鬼心会《きしんかい》の若いもんが二百人ほど姿を消しました」
「香港か」
「多分、そうです」
「ヤツラだけが頼りだ。こんなときに、日本は自衛隊も出動させられんのか」
と、飛岡を呼ぶアナウンスがあった。カウンターの受話器を取ると、香港のヌレーネフだった。
「飛さん、金正日《キムジヨンイル》がまた平壌《ピヨンヤン》を出発した」
「李正元《りしようげん》と話がついたのか」
「らしい。シェネラーも上海に向かってる。そこで合流するつもりだろう」
「玲子は」
「まだ抜け出せないでいる」
「大丈夫か」
「チャン部長が息をひきとるとき、警察官とはなにか、玲子に教えられたと言っていた。今のオレはそれを信じるしかない」
「ヌレさん、オレ、あいつに結婚申し込もうと思ってんだよね」
「それがいい、あんたは玲子のこと惚《ほ》れてるもんな。男ってのはさ、度量だよ」
「でもさ、あのパンツは困るんだよね」
「なんだい、パンツって」
「すごいのはいてんだよ」
「いいじゃないか、そんなの」
「ヌレさんはさ、うちの村来たの一度だけだろ。まだすごい秘密があるんだよ」
「なんだよ、秘密って」
「言えないよ、そんなの」
「なんだい」
「なんだいじゃないんだよ。この話するとみんな腰抜かすんだから」
「飛さんは、いつもそれだから」
「ほんとなんだって」
「どこのうちも一つや二つはそういうことはあるよ」
「うちは特別なんだって」
「今度会ったとき、ゆっくり聞くよ。で、いつ来れるんだい」
「台風でちょっと出発が遅れるみたいだ」
「おいおい、大丈夫かよ。女ってのはさ、しっかりつかまえておかないと、糸が切れた凧《たこ》みたいにどっか飛んでいっちまうもんなんだよ。おい、聞いてんのかよ」
ヌレーネフは女心を熟知した伊達男《だておとこ》のごとく、自信たっぷりに言った。
アキョンから身請《みう》けしたいと告白され、フェイ婆さんは手を打って喜んだ。わずか五日ばかりのことだったが、満足気に出てくる客の首を一人一人しめあげたいほど、玲子のことをいとおしく思っていた。玲子のために自分の職業を初めて恥ずかしいと思った。アキョンが差し出した金を突き返し、瓶の底に隠してあった金を出すと、
「みんな、あんたのもんだよ。あたしゃ一銭もピンハネしてないからね」
「はっ、はい」
「あたし、あんたのことが他人とは思えなくてさ。あたし、今日かぎりでこの仕事から足を洗うよ。そしてお粥《かゆ》の屋台でもやるよ。料理は嫌いなほうじゃないからさ」
「はっ、はい」
「でもさ、明日もここにいても軽蔑《けいべつ》しないでね。あんたに軽蔑されるの、なんか怖いんだ」
「はっ、はい」
片方だけの目に涙をため、玲子の手を取って、
「幸せになるんだよ」
「はっ、はい」
「アキョン、頼むよ」
何度も何度も、わずかばかりの灰色の髪をひっつめた小さな頭を下げた。アキョンも困りはてたほどだった。
「これで、オレを裏切った女どもをみんな見返してやれる。なあ、婆さん」
アキョンはそっくりかえった。
「もちろんだとも。この子に比べたら、いままであんたを捨てていった女どもはゴミさ。ほら、なんとかいったね、エジプト人とトンズラした女。いるとこ、知ってるんだよ。あんた、新婚旅行にそいつらんとこ行って、この女をみせびらかしておやりよ」
「馬が合うねえ、婆さん。オレもそう思ってたとこなんだよ。ハハ」
「でも、薬は早くやめさせた方がいいよ」
「やめなかったら、オレは耳を落とす覚悟がある」
「そこまで惚れちまったのかい」
「ああ」
「いいことだ。今のあんたなら香港の女はだれだって惚れるよ」
「ありがとう」
「サンフランシスコのチャイナタウンに、あたしの姉さんが『西海《シーハイ》飯店』という中華料理屋を開いている。しばらくそこにかくまってもらいな」
「わかった」
「おやじさんには言うのかい」
「いや。言ってわかるような人間じゃないから」
「そうだね。その方がいいよ。あの人は、人生で一番大切なものは金だと思ってる人だからね」
「それを見てきたから、オレみたいなまともな人間が育ったのさ。感謝しなくちゃ」
「ハハハ。でも、どうする。外は子分ばかりで逃げようもないがね」
「そこなんだ」
とアキョンは頭をかかえた。
フェイ婆さんは自信たっぷりに、
「心配することないよ。このフェイ婆さんが何十年この九竜《カオルン》城に巣くっていると思うのさ」
裏口から二人を出した。ボロボロにはがれたしっくいの壁穴を指さし、
「さっ、こっちだよ。『自由になりたかったら、進んで迷路に迷いこめ』ってのが我が九竜城のことわざさ。このトンネルの切れたところに階段がある。そこを下りていくと、女を囲ってある部屋につく。そこを曲がると鉄の扉がある。その階段を登っていけば、李《り》閣下のヘリポートに出る」
「ありがとう」
「幸せになるんだよ」
フェイ婆さんは玲子をきつく抱きしめた。
壁穴をくぐり抜け、二人は岩がゴツゴツと突き出しているすえた匂いのトンネルに入った。靴の音だけが気味悪く反響した。
「あのう」
玲子は立ち止まった。もう、本当のことを言ってしまいたかった。
「どうした。急がないと」
「十日ほど前、買われてきた日本人の女を探したいんだけど」
「えっ、おまえ、まさか」
アキョンの顔がひきつった。
「その子逃がしてくれたら、あたし、あんたと一緒になるよ。アメリカにも一緒に行くよ。広い牧場で牛をいっぱい飼って放牧するんだよね」
アキョンは腰のベルトに挟んでいたピストルを引き抜き、振り回すと、
「一体、おまえはなんなんだ。本当のことを言え!」
「私の教え子なの」
「教え子? おまえはその女を救い出すためにヤク中になって男を取っていたというのか」
「そういうことになるわね」
「オレを裏切るなって言ったはずだ。オレは随分《ずいぶん》女に裏切られてきたから、もういやなんだよ」
アキョンは頭をかかえてへたりこんだ。
「裏切ってないって。あたし、あんたのお嫁さんになるよ。フェイ婆さんにも約束したんだもの。あたしはお父さんの顔も、お母さんの顔も知らないの。一人ぼっちなの。だから、信じてくれた人のことは裏切りはしない」
玲子は目に涙をためて、必死に訴えた。
アキョンの目が憐愍《れんびん》に満ち、柔らかいものになっていった。
「つまり、日本の先生と生徒の絆《きずな》はそれほど深いものと解釈したらいいのかな」
「ありがとう」
「その代わり、結婚したら日本の、そのなんだ、『亭主関白』ってのをやらせてもらおうか」
「わかってるって」
二人は手をつないで走った。
「ここだ」
なまぐさい苔《こけ》が生えてヌルヌル滑《すべ》る階段を降りると、風が頬にあたった。ドブを隔ててドアが並んでいる。人の気配がした。二人は足音をしのばせて歩いた。
小さな部屋を小窓からのぞいてみると、一人ずつ女がベッドの上にくさりでつながれている。
「日本の女の人も多いわね」
「ああ。日本の親ってのは薄情だね。いなくなっても捜索願いも出さない」
一番端に、ひときわ豪華な部屋があった。赤い絨毯《じゆうたん》が敷きつめられ、小さなバーまで揃っている。
「ここが李《り》閣下の専用の部屋だ」
「えっ?」
「月に一度、女を抱きにくる。抱くといっても昔話をして聞かせるだけだが」
その前で立ち止まると、
「李閣下は変わられた」
「知ってるの?」
「オレを自分の息子のようにかわいがってくれた。まあ、オレはおやじと違って箸にも棒にもかからない男だから、安心してしゃべってくれるんだろうが、あの人の話は若いオレの心を躍《おど》らせてくれた」
「どうして変わったの」
「変わったんじゃない。年を取っただけなんだ」
「えっ?」
「年を取るというのは、きっと哀しいことなんだな。やはり、健全な精神は健全な肉体に宿るんだよ」
「あっ、京子だわ」
その声に京子が振り向いた。痛々しいほどやせ細っている。
アキョンは京子の足の鎖をはずし、せきたてるように歩いた。
角を左に曲がると、階段があった。その上に大きな鉄の扉が閉まっている。開けようとすると、二、三人の足音がして、チェの部下の陶《とう》と易《い》が叫んだ。
「おぼっちゃん、ここに入るのは御法度《ごはつと》って言われてるはずですぜ」
「見逃してくれ」
「それはいけません」
追ってきた部下の数がさらに増え、三人を囲んだ。
アキョンは必死で、
「頼む!」
「おぼっちゃん、なんです、その女。あんた、まさか」
「うるさい!」
アキョンのピストルが火を噴き、ガァーンという轟音《ごうおん》がトンネル内に幾重にもこだました。
十月一日、午後十時。香港《ホンコン》、ソ連領事館。
夕方に降り出した雨は、夜半近くになって雨足を強くしていた。
天地を切り裂くような稲妻が走ったのと同時に、カミナリが耳を聾《ろう》するようなものすごい音をたてた。まるで、それは女子刑務所爆撃でも、村井玲子をしとめられなかった『ピョンヤンの闇』の怒りのようだ。
ナターシャはその五階の部屋でウォッカを浴びていた。
ヌレーネフは自慢気に話していたけど、私にはあの女の真似《まね》はできない。ヤク中になりきり、汚らしい男と寝てまで、使命を果たそうとするなんてなぜだ。でも、ヌレーネフの憑《つ》かれたような話し方にたまらない嫉妬《しつと》を感じた。ナターシャはグラスを叩きつけた。
簡素な客間だ。部屋の真中に大きなテーブルと椅子が二つある。無愛想な壁にはレーニンの写真がかけてあった。
またウォッカをゴボゴボと飲み、ナターシャはフラフラと立ち上がると、よろけながら窓際に歩みよった。昼からなんども繰り返している行為だった。
外は激しい雨だ。ナターシャは手でガラスを拭き、目をこらした。窓をたたく雨粒で外の様子ははっきりとはわからない。地面に叩きつけられ、はねる雨を、庭の外灯が照らしだしている。遠くの街の明りが、ボーッとにじんで見えた。
「ああ、ヌレーネフ!」
脳裏に「『ピョンヤンの闇』が来る!」という直感がよぎり、ナターシャはブルブル震えはじめた。
下の部屋に行って警戒を強めるようにわめいた。が、ビールを片手にポテトチップスを食べていた宿直員は、
「大丈夫ですよ、ナターシャさん。ペレストロイカですよ」
テーブルに足をのせ、テレビのカンフー映画に釘づけになったままで、相手にしない。
ナターシャは膝がガクガク震え、階段も上がれない。
「ヌレーネフ、助けて!」
座りこんだ。
十月二日、午前零時。香港島、清水湾《クリアウオーターベイ》二キロ地点。
大日《だいにち》石油所属のタンカー大日丸は、ここにさしかかった。その甲板の面積が東京ドームぐらいの広さの三十万トンのタンカーは、たった八人の船員で動いている。
カモメが群れをなして騒いでいる。その声も風雨でかき消されがちだ。台風がいよいよ近づいてくるのか、波がうねりを増してきた。
香港の海上パトロールの巡回サーチライトが正確な間隔でまっ黒な海を照らしだす。時計の針がキッチリ12をさした。
「これで巡回は終わりです。御用意ください。そろそろです」
レインコートを羽織った松田《まつだ》船長のしゃがれた声に、甲板の長椅子の下から、関東|鬼心会《きしんかい》代貸し、やさ男風の大隅|洋三《ようぞう》がはい出してきた。
「すまなかったな。突然乗せてもらって」
松田船長は笑いながら、
「いや、船は人が多いほどいいんですよ。だって、八人じゃ話もつきましてね。楽しい旅をさせてもらいました」
「すまない」
容赦《ようしや》なく叩きつける雨の中で、大隅はもろはだぬいで昇り竜の刺青を見せ、大声で、
「よし、ボートを下ろしてくれ!」
岡野のそばにいる倉林たちがうらやましかった。が、もうじき会える。
倉林の電話では、親分は恋をしているらしい。それも重症の恋わずらいで、あねさんのいないところでため息ばかりついているらしい。どんな女なんだろうか、その村井玲子というのは。ルミ子ちゃんが来年は小学校に入るので身のまわりをきれいにすると言ったばかりなのに。
松田船長が電話で副機関士の武田《たけだ》を呼びだしながら、
「香港ギャングとやりあうんですか」
「さっ、わからん。親分からやれと言われれば、どことでもやる」
「やれやれ、大隅さんたちの親分好きにも参りますね。ずっと組長さんの話ばっかりですもんね」
「フフフ、それがうちの組のいいとこよ」
大隅の雨に濡れた顔が輝いた。
「とにかく、頑張ってくださいよ」
「しかし、タンカーっつうのはムショよりひどいね。女っ気もなくてアラブまで行ったり来たり、よくできるね」
「つまり、サラリーマンも結構《けつこう》大変だってことですよ」
「いやあ、勉強になりました」
深々と頭を下げた大隅に松田船長は大声で笑った。
うねる海を見ながら、
「もし、ボートが転覆《てんぷく》したって、波にまかしてりゃ浜まで流れ着きますから」
「すまんな、気をつかってもらって」
「いえ」
風がますます強くなってきた。この巨大なタンカーさえ、揺れ始めた。大隅は、デッキの手すりにつかまり、目をこらした。
「どうした、なぜみんな出てこないんだ」
タンカーの舳先《へさき》から次々に出てくるべき二百人の人間たちのだれひとりとして顔を出さなかった。
武田が蒼白《そうはく》な顔で走ってきた。
「みんな、死んでます!」
「なに!?」
「喉をかっ切られてます」
叩きつける雨の中、大隅のポマードで固められ黒々とした髪が、一瞬のうちにまっ白に変わった。
午前一時。香港《ホンコン》、ホンハム浜辺。
京《ケイ》理髪店勤務の王尊義《おうそんぎ》は、ゴムの雨がっぱを着て夜釣を楽しんでいた。立ちっぱなしのつらい仕事を終えたあとのたった一つの楽しみだ。
「ひどい雨になっちまったな」
けれど、五人の家族が住む一間の狭いアパートに帰る気はしない。
王は釣針に餌《えさ》をくくりつけた。と、ヌッと顔を出した大男から声をかけられた。
「釣れるかね」
「ダメだね、今日は」
「もうじき大きな魚が上がってくる」
「何言ってるんだい。この天気じゃ魚はみんな眠ってるさ」
雨がひどくなり、遠くで雷も聞こえた。
「チェッ」と舌うちして、王は大男に声をかけた。
「仕方ないから九竜《カオルン》城に女でも買いにいかないかね」
「オレは遠慮しとく」
「残念だね、日本人のいい女が入ったって評判なんだけどね。じゃ」
王が竿《さお》を上げ、ビクをひきよせようとしたとき、ザワザワと音がし、海が割れ、大型トラックほどもあろうという上陸用|舟艇《しゆうてい》があらわれ、ザッとばかりに砂浜に乗りあげた。すぐに、三十人近くの黒ずくめの大男たちがおりてきて、浜辺に整列した。踏みしめられた砂がたちまち雨で崩れ、軍靴が埋まっていく。
王は、竿を投げ出した。
「なっ、なんだ」
と、その大男に、
「ごくろう」
そう言われ、一番端の男が強い調子で答えた言葉は、よく市場で聞く「カムサンシダ」、ありがとうございますというハングルだった。
「あわわわ」
腰をぬかした王を見下ろしてその大男は、
「今日は戸締まりをして家から出ない方がいいな」
ニヤリと笑い手を上げると、一瞬にして降りしきる雨の中に消えた。
午前一時十五分。ソ連領事館。
ナターシャは、やっとヌレーネフと連絡がとれた。飛岡を迎えに空港に行くという。
「お願い、帰ってきて!」
「ダメだよ。こんな台風の中、飛岡にタクシーをつかまえさせるわけにはいかないよ。九竜城だって、玲子が大変なんだから」
ナターシャは、受話器にしがみついた。
「怖いのよ」
「君は一人で大丈夫だよ」
「『ピョンヤンの闇』が来るのよ」
「だれですかね、それは。昔の男かい」
いいざま、プツンと電話が切られた。
ナターシャの耳に、何かが続けざまにはじける音が聞こえてきた。
「ハッ」
ナターシャは錠をもう一度確認して、ドアに耳を押しつけた。
「ウゲッ」と奇妙な音がした。宿直員の首がへし折られたのだ。そしてそのあとに、むかつくような静けさが訪れた。
窓から外を見ると、闇を切り裂く稲妻の光の中に、三十人の兵隊が整列しているのが浮かびあがった。揃って目深に帽子をかぶっている。北朝鮮四六師団だ。ナターシャは声も出なかった。
震える手で水さしからコップに水を注ぎ、一気に飲んだ。口が震えてむせこんだ。と、肩で息をしているナターシャの耳に、階段を上がるかすかな足音が聞こえてきた。
ナターシャはゴクリと唾を飲みこみ、赤いトカレフを構えた。
「こっ、来ないで!」
ガチャリと音がして、ドアのノブがひきちぎられた。
「あ、あなたね」
二メートルはあろう大男のいかつい肩があらわれた。その男は、細い目で小さく笑うと、ゆっくりと手袋を取った。
髪は短く揃えられ、ヒゲの剃《そ》りあとが青い。ガッチリとしたアゴが野獣のような途方もない野性をうかがわせている。太い首は、まるで肩から生えてきたようだった。
ナターシャは引金が引けない。引いてもこの男の鋼鉄の身体に通じるわけがない。
そうではない。渇《かわ》ききった女の身体がこの牡《おす》を求めていたのだ。
男は眉間にシワを寄せ、薄い唇をゆがめると、
「後ろ向きになれ」
「!」
トカレフを握った手が震えた。男はなんなくトカレフをねじり取ると、床にけとばした。
ナターシャは腕をさすって、オドオドと男を見上げた。雷のような大きな声が降ってきた。
「後ろを向け!」
言われるまま、壁に手をつき後ろを向いたナターシャのワンピースのボタンがぶっ飛んだ。ナターシャは固く目をつぶった。
男はナターシャの身につけているもの全てを破りとった。ナターシャは全裸にハイヒールをはいただけの姿になった。
突然、火の棒をさしこまれたような快感がつらぬいた。
「ああっ」
男の大きな両手がナターシャの豊かな白い乳房をすっぽり包み、荒々しくもみしだき始めた。
ナターシャの首すじに男の頬が押しつけられている。ヒゲを剃《そ》った後がこすりつけられた。そのゾッとするような感触から逃れようとして、ナターシャは身体を大きくくねらした。しかし、男の大きな肩がナターシャをはがいじめするように、ガッチリと抑《おさ》えこんでいる。ナターシャの両手は空《むな》しく壁に爪を立てるだけだった。
その苦しさと快感に、ナターシャの腹はヒクヒクと痙攣《けいれん》し始めた。全身が桜色に染まってきた。身体の底から嵐《あらし》のような欲望が噴き出してくるのをナターシャは感じた。
「ううっ」
うなるような声を洩《も》らすと、乳房への愛撫をさらに求めるかのようにナターシャの身体が大きくねじれた。
男の腰が激しく動き始めた。その動きに合わせたナターシャの白い尻が円を描くようになり、さらに深く追い求めて突き出されていく。
と、ナターシャは前むきにされた。男は太股《ふともも》をがっしりと押さえつけると、その足を高く持ちあげた。ナターシャは深く男を受け入れた。男は口を大きくあけてナターシャの舌を息もつがせないほど激しくむさぼった。二人の唾液《だえき》が混じりあってナターシャの乳房を濡らし、腹まで流れた。ナターシャの両手が男を思い切り抱きしめた。
男はナターシャをぶらさげたまま、テーブルの上に押し倒した。コップや花瓶が壁に叩きつけられ、割れた。
ナターシャは大きく足を広げた。グリーンの目が懇願《こんがん》するように男を見る。男はその足を持ちあげて、肩にかつぎあげた。際限もなく押しよせる煮えたぎるような快感に、ナターシャは動物が吠《ほ》えるような大声をあげ続けた。
「あの女はどこにいる」
ナターシャは答えなかった。それは女の最後の自尊心かもしれなかった。
「どこにいる」
二度目の声がしたあと、このロシア皇帝の血をひく女の細い首はひきちぎられていた。
午前二時。香港《ホンコン》、ヤウマティ。
黒い革手袋をはめたチェの拳《こぶし》が、くさりで壁につながれた玲子の頬に情け容赦《ようしや》なく飛んだ。
窓の鉄格子が稲妻に青く光った。雨がそこから激しく吹きこんでき、そのしずくがコンクリートの壁を伝わって流れた。
チェは返す拳でアキョンを殴りつけ、
「オレは何度も言ってるはずだ。商売物に手を出すなとな」
「…………」
「あげくが易《い》まで殺しやがって。キサマは一体何を考えてやがるんだ!」
また狂ったように玲子とアキョンを殴った。
失神するたびに浴びせられる水で、玲子は全身濡れネズミになっている。その顔は赤紫色に腫れあがり、鼻や口から血をたれ流し、見るかげもなかった。
京子は脅《おび》えた目で、玲子がよろめくのを見ていた。
血だらけのアキョンは、必死でチェにすがりつき、
「今度は本気なんだ」
「キサマ、何度女で失敗したら気がすむんだ!!」
「ヤクをやめさせて女房にするつもりだ」
「一度ヤクの味を知った人間が直るもんか!」
また殴られた。
「父さん、わかってくれよ」
「なに寝言をぬかしてんだ。いまがどんな事態か知らんのか」
アキョンをけりつけ、玲子の髪をわしづかみにし、後頭部を壁に打ちつけた。
チェは狂いそうだった。李正元《りしようげん》は重宗《しげむね》ファイルを北朝鮮にタダで渡すというのだ。一体、なんのために三十年間も尽くしてきたというのだ。
玲子は細い腕を伸ばして、
「ク、クスリを……」
「おまえが何者かを答えれば、いくらでもやる。マカオのワンから探ってこいと言われたのか。言え! それとも岡野か。オレの組織を乗っ取ろうとしているのか!!」
「クスリを……」
「まったくしぶとい女だ」
部下の一人が玲子の腹に拳《こぶし》を叩きこんだ。玲子の身体は一瞬、宙に飛び、床にたたきつけられた。おびただしい血が玲子の唇から流れた。
「うむ?」
チェは、この女がもしかしたら李正元の探せと言った村井という女ではないかと思った。そういえば、港でチラとみかけた女と背格好が似ている。
しかしこのヤク中は本物だ。
と、部下のチューが、
「ボス、もしかしたらこの女、李閣下が言っていた村井という女じゃないですか」
「もう、閣下ではない!!」
とチェはチューまで殴りつけた。
「この女の顔を上げてみろ」
「無理ですよ、ボス。こんなに腫れちまっては、だれだかわかりませんよ」
チューは、あごを押さえつけながら言った。
「それもそうだな」
「それにいくらなんだって、刑事ならこうはヤクを打てんでしょう」
と腕の斑点《はんてん》をつまみあげた。
「それもそうだ」
部屋の隅にある椅子に座っていた朱《しゆ》主席が、不愉快そうに人民服のすそを払って、
「そんな女のこと、もういいじゃありませんか」
「ええ」
「しかし、困りましたな。どうしたもんですかな、チェさん」
「ファイルを奪い取るだけですよ」
「奪い取る?」
「そしてオレたちが日本と交渉する」
主席が、わが意を得たとばかりに破顔した。
「私もそう思っていたところです。しかし、李の要塞《ようさい》は攻撃できますかな」
「あそこを守っているのは五十人です。オレが一声かければ二十人はこっちに来ます。それに」
とかぶせてあった布を取り、バズーカ砲を五基見せた。そして憎々しげに、
「ヤツには帰る国があるからいい。しかし、オレたちはこの香港が中国に合併されたら帰る国がないんだ」
チェは尖った靴で玲子の下腹を思いきりけりあげ、
「楊《ヤン》、チュー、さっさとこの女を片づけちまえ!」
と出ていった。
アキョンはうちひしがれていた。しかし、アキョンは知っていた。この女は殴られるときも少しだけ急所をはずし、体力の維持をはかっている。女のかすかな目の光が、十分戦う心積もりを示している。小指から人差指までの四本の関節をかすかに、そして絶えず動かしているのは、獲物《えもの》をとらえたときにはいつでも的確に射止められるようにするためだ。
京子の口がやっとのことで開いた。
「先生」
と叫ぼうとしたとき、玲子がニヤリと笑い、
「シーッ」
と指を口にあてた。
午前三時。台風で飛行機が着くのが七時間遅れた。レインコートの襟《えり》をたて、ずぶ濡れになった飛岡はようやくつかまえたタクシーを飛ばした。おかしい。こんなことは初めてだ。ヌレーネフは空港で、ずっと待っていてくれるといっていた。約束をすっぽかす男ではない。飛岡は、強い風雨でワイパーが用をなしていないフロントガラスを睨みつけた。
タクシーがソ連領事館の前に止まった。クラクションを鳴らしたが、だれも出てこない。飛岡はピストルを抜くと、ドアをけやぶり、中に入っていった。階段を上がっていくと、男の低いくぐもった声が聞こえた。ヌレーネフだ。部屋に飛びこむと、血の海の中、ミサ用の蝋燭《ろうそく》を立て、ヌレーネフはナターシャを白い布にくるんでいた。
「女ってのは、ちゃんとつかまえとかなきゃな、とオレが言ったばかりなのにな」
唇を震わせたヌレーネフの言葉は、最後は嗚咽《おえつ》に変わっていった。
同時刻。東京、首相官邸。
駐日韓国大使、金国強《きんこつきよう》は、三日後に迫ったオリンピックの最終準備にてんてこまいだった。寺岡総理の突然の呼び出しに眠い目をこすりながらも、車の中で開会式の手順をもう一度繰り返した。聖火の最終ランナーに決まったあの林春愛《りんしゆんあい》という女子高生の反響もすごい。これで韓国は世界に認知されるのだ。
「北朝鮮の傀儡《かいらい》どもが、地団太《じだんだ》を踏んで悔やしがってるだろう」
金国強は大笑いした。そしていつの日にか、この日本にも目にもの見せてやるわ。
大粒の雨が車の窓を叩きつけるように降っていた。三宅坂《みやけざか》のゆるやかな勾配《こうばい》を、雨水をはね飛ばしながら車は登っていった。
首相官邸の周りに、公安の姿があちこちに見える。灰色のずんぐりした装甲車の数もずいぶん多い。ヘルメットをかぶった機動隊員がジュラルミンの楯《たて》を手に、ずらりと並んでいた。
花崗岩《かこうがん》で造られた大きな門のところで、指揮官らしい男が手を上げて車を止めた。のぞきこんだその男に、金国強は自分の身分証明書を提示しながら、
「なにがあったんですか」
と聞いたが、男はジロリと金を見ただけで、アゴで運転手に入れと命じた。
「あの、待っていましょうか」
「あたりまえだ」
青ざめた秘書に迎えられ、金は接客室に入った。寺岡が背広姿で顔を緊張させ、待ちかまえていた。
「総理、一体どうなされたんですか」
それには答えず、寺岡はいきなり土下座《どげざ》した。
「李正元《りしようげん》こと犬子恨一郎《いぬこはんいちろう》を、ソウルオリンピックに招待していただけないものでしょうか」
報いられぬ思いに胸をかきむしらんばかりの犬子恨一郎のプライドを傷つけずにすむ方法はそれしかない。
「総理、どういうことです。犬子恨一郎とは一体何者です」
「実は」
寺岡は手短に説明した。
「なっ、なんですと。広島の原爆投下のボタンを押したのが韓国人? しかも原爆投下を依頼したのが当の日本政府ですと!? そんなことがもし、オリンピックの開会式当日に暴露されたら、とんでもないことになる」
金《きん》がそう叫んだとき、ドアが開き、グレーの背広のやせた目の丸い男があらわれた。
「東京地方検察庁の田所《たどころ》と申します。寺岡|義徳《よしのり》を収賄《しゆうわい》容疑で逮捕します」
「クッ!」
寺岡は、くやしそうに田所を睨みつけると、灰皿を窓に叩きつけた。
午前三時半。香港《ホンコン》。
チェは九竜《カオルン》塘の丘に建つ李正元の館に向け、バズーカ砲を一斉にぶっぱなした。
砦のはるか上を飛んだ砲弾は、一階の窓を吹き飛ばした。
チェはそこに向かってハンドマイクで、叫んだ。
「おう、こっちに来たいヤツはこい!!」
寝こみを襲われた李正元の部下たちが転げんばかりに駆けこんできた。チェは、ガハハと笑い、
「おい、おまえら、ファイルを渡しやがれ!」
と叫んだ。
と、ドサッと音がして部下たちが次々と倒れていく。
「む?」
振り向いた。皆が殺されるまでに一分もかかっていない。
カン・マンスーは、わめきちらした。
「こんなヤツら何人殺したって同じなんだ。女はどこにいるんだ!」
この香港で、外国の女が一人でいておかしくないところはどこだ。
「うむ」
月あかりが、いらだつカン・マンスーのそげた頬を照らしだした。
カン・マンスーの足がピタリと止まった。
浜辺で釣をしていた男がいた。
「そうだ、あの九竜城にいるんだ」
門に向かって飛び出そうとすると、
「隊長、李閣下がお呼びです」
「クソーッ」
午前四時。南シナ海。
北朝鮮の港|南浦《ナムポ》から二日前に出航した総排水量四万トンの空母、「赤い希望号」は香港近くのトンルン島で風雨をしのいでいた。
台風は通り過ぎたのか、時折激しい雨が叩きつけはするが、風は生暖《なまあたた》かいものに変わっていた。
空母のコントロールルームでは、コンピューターが忙しく働き、パネルにズラリと並んだ様々なボタンが点滅していた。蛍光灯の光が、そこにいる機関士たちの顔を青白く照らしている。
空母のてっぺんにある対空レーダーがゆっくりと回っている。大口径16インチ砲が天をあおぎ、十二機のミグ戦闘機が整備を終え、船内の格納庫で出番を待っていた。
金正日《キムジヨンイル》は、ミサイル攻撃を受けても平気な、中央のセイフティ構造のピンク色に塗られた映写室にいた。ピンクの長い毛足の敷物をなでつけながら、スクリーンに見入っている。
映画はジョン・ウェインの『駅馬車』。馬に乗った男たちの高らかな笑い声を聞きながら、
「なあ、金日威《きんにちい》、どうしてハリウッドはジョン・ウェインにもっと早くアカデミー賞をやらなかったのかね。映画はね、芝居がうまい、下手《へた》じゃないんだ。客に夢を与えるかどうかなんだよ」
陶然《とうぜん》とした声で言った。側で立ったままの金日威は腰をかがめ、
「資本主義に毒されたやつどもには、そういうことはわかりませんよ。とにかく、我が国では考えられないことです」
金正日は深くうなずき、
「スピルバーグの『E.T.』だってそうだ。アカデミー委員会は完全に彼を無視した。こんなことがあってもいいと思うか。あの自由の国、アメリカでだよ」
「しょせん、アカデミー賞など映画会社の利権争いでございます。やはり、金書記がお決めになればいいのです」
パッと顔を赤らめたが、まんざらでもなさそうに、
「バッ、バカなこと言っちゃいかん。ただ私は、いいものはいい、と正当な批評をしてやるべきだと言ってるんだ。たとえば、いい例がゲーリー・クーパーだ。あれほど御婦人方の胸を熱く焦《こ》がしたのに、あの扱いはなんだ。のたれ死にだ」
「だからこそ、金書記が審査員長にならなければいけないのです」
金日威はキッパリと言った。
五時五分過ぎに、国連軍に守られたシェネラー事務総長が乗船してきた。
台風一過の夜が明け始め、空はバラ色に染まっている。金正日は、上機嫌で甲板に出た。
「やあ、御苦労ですな」
薄いグレーの背広に、ジュラルミンのスーツケースを持ったシェネラーは、眠そうな目をしばたいた。
「いや、遅れまして。少々とりこみがございまして。日本の首相が逮捕されましてな」
「なんと」
「急激に伸びた国には、それなりのリスクがあります」
「我が国は、経済発展こそ遅れていますが、そのようなリスクはありません」
金正日は胸をそらした。
「もちろんでしょうとも」
二人は、あらためて固い握手をした。
金正日は、エレベーターでシェネラーを応接室に案内した。ピンクの絹のカバーでおおわれたソファに座ると、シェネラーは濃いコーヒーを飲みながら、
「金日成《キムイルソン》主席はお元気ですか」
「父は、相変わらず体調がすぐれません」
「しかし、あなたがいらっしゃるから御安心でしょう」
「いえ、コミュニズムの国で世襲などマルクス理論に反します」
シェネラーは、わざとらしくドンとテーブルを叩き、
「そうおっしゃいますが、じゃ、あなた以外にだれがお国の国連加盟を可能にするというのです」
「えっ?」
「必要な過半数は確保してまいりました」
「はっ」
「北朝鮮の国連加盟は我が人生の最大の喜びとなります。いえ、我が人生だけではありません。世界の喜びとなります。あなたは北朝鮮の最高にして唯一の指導者の地位をつぐべきです。だれにも世襲とは呼ばせませんぞ」
「ありがとうございます」
金正日の太って腫《は》れた目から、ポロポロ涙がこぼれ、白い軍服にシミを作った。
「で、李正元《りしようげん》閣下は」
「もうじき、まいります」
「世界は、あの人をないがしろにしすぎました」
「もちろんです」
「あの人が、原爆のボタンを押してくれたおかげで、世界に原爆の恐怖を知らしめ、二度と使用できなくしたのですからな」
「いわば、人類の恩人です。事務総長、映画はいかがですかな。最新の『ロッキー5』が届いております」
得意そうに笑みを浮かべた金正日の目に、遠く朝日にきらめく香港のビル街が映った。
関東|鬼心会《きしんかい》組長、岡野宏文は、ホンハムの浜に打ち上げられたおびただしい死体の前で、頭を垂れていた。みな、喉をかき切られている。たくさんの人々がその周りをかこみ、口に手をやり恐ろしげにのぞきこんでいた。パトカーがサイレンを鳴らして次々と到着した。
濡れネズミの大隅は、死人のような顔をしていた。片ひざをつくと、
「申し訳ありません。海に投げ入れなければ、タンカーも処置に困るので」
「わかってる」
倉林たちも砂浜に土下座して泣いていた。
「オレをいれて六人か」
岡野はひきつった目で上着を脱ぎ、
「さらしはあるか」
「はい」
「やっぱ日本人はこれがねえと腹が冷えていかん」
大隅が、手を上げた岡野の腹にさらしをきつく巻いた。
「ドスを出せ」
「はい!」
備前国秀守《びぜんのくにひでもり》を受け取ると、鯉口《こいぐち》を切りスラリと抜きはなった。朝日輝く中、その刀身が青く鋭く光った。
「行くぞ!」
岡野の叫びは、ホンハムの松林にこだました。
午前九時。ヤウマティ、チェの家。
殴られ、蹴《け》られていたが、玲子の白い肌は、しっとりとして男を誘っているようだった。
耳のつぶれたボクサーくずれと思われるカニのような顔をした男が、ヤクの入った注射器を玲子の目の前にチラつかせた。
「おい、これが欲しかったら、ケツを出しな」
玲子は、コクンとうなずくと尻を差し出した。
「ようし」
アキョンは立ち上がり、
「まっ、待て」
「すっこんでろ」
蹴りつけられた。
壁に両手をついたまま、いざなうように微《かす》かに動いた玲子の白い尻が男を挑発する。
ボクサーくずれはピストルを玲子の頭に押しつけ、ジッパーを下ろすと玲子の腰をかかえた。
「こいつ、もう濡れてやがる」
京子は決して目をそらそうとしなかった。女の生き方を見届けなくては。
玲子が少し腰を回すと、目を白黒させて、あっという間にボクサーは果てた。
「次はオレだ」
「ク、クスリを」
「よし、早くやれ。オレのはチューより長いぜ」
玲子は男の手からひったくるように注射器を奪うと、震える手で静脈に針を刺し、ゆっくりとピストンを押した。
「ああ、いいわ」
蝋《ろう》のように白かった玲子の頬にうっすらと赤みがさし、全身の震えが嘘《うそ》のように消えていった。
「さあ、ケツを出せ」
口をニヤリとさせると、
「出してもいいけど、さっきみたいに短かったら、ただじゃ済まないわよ」
「なっ、なに?」
生気のもどった黒い瞳がうるんだように濡れている。二人の男はゴクリと唾をのみこんだ。今までやつれはてていた、そして今はぽおっと赤みを帯びた肌の変わりように声もでなかった。殴られ叩かれたあとがかえって女の凄《すご》みのある美しさを引き立てていた。
玲子はつかつかと京子のところに歩みより、思いきりひっぱたいた。
「あなた、処女じゃなかったわね」
「え、あの」
「絶対許しませんからね。東京に戻ったら、半年間寮から出されることはありませんから」
「そっ、そんな」
と、玲子は、
「キサマ!!」
と殴りかかってきたボクサーくずれの腕を逆関節にかかえこむと、一気に力をこめてへし折った。男はカエルを踏みつぶしたような声をあげ、床を転げまわった。もう一人が血相を変え、拳銃を抜くのが見えた。玲子はつづけざまに、まわし蹴《げ》りをその男の腰に叩きこんだ。男は血へどを吐いて壁まで吹っとび、崩れおちた。
玲子は腕を押さえてのたうちまわるボクサーくずれの後頭部に手刀で一撃を加え、黙らせると、男が取り落としたリボルバーを拾いあげ、シリンダーの弾数を確認し、部屋を飛び出そうとした。
「私が戻ってくるまで動いちゃダメよ」
「はい」
「待て」
アキョンがよろけながら立ち上がり、両手で持った銃を玲子に向けた。
「オレに一緒に行ってくれと言わないのか」
「あっ、あの」
「オレはおまえのためになんでもすると言ったのに」
「で、でも、あなたには無理よ。そんな身体だし」
「前の女が出て行くときも、『あんたには無理よ』って言ってった。オレはその意味がわからなかった。オレは、『何が無理なんだ』って聞いた。すると女はオレの顔に唾を吐きかけて、『あんたの小さな一物じゃ、私を満足させられないのよ』って言いやがった。でも、オレはその女を愛していた。なんでもするから行かないでくれって土下座《どげざ》して頼んだ。けど、あいつは行っちまった」
泣きながら叫んだ。
「オレは本当におまえのことを愛してた!」
「その話はこの仕事が終わるまで待っててくれないかな。あなたのこと、真剣に考えたいから」
「うるさい!!」
「ほんとなんだって。あたしもあなたのこと好きになりそうなんだって」
「ウソだ」
「ウソじゃないよ」
「どいつもこいつも、オレをバカにしやがって!」
顔をまっ赤にさせて、引金を引こうとした。
と、銃の音がして、アキョンが吹っ飛んだ。玲子が振り返ると、飛岡がいた。
「危ないとこだったな」
「いいところだったのよ」
玲子は、アキョンの最期《さいご》を悲しそうな目で見下ろしていた。
「この子を安全なところへ連れて行って」
「わかった、君は」
「私はどこにもいかないわよ。少しの間だけでもこの人と一緒にいてやりたいの。この人を弔《とむら》ってやんなくちゃ。この人、私のことをほんとに愛してたんだもん」
と子供のようにポロポロ大粒の涙をこぼした。
同時刻。香港、九竜塘《カオルンとう》。
重宗《しげむね》ファイルには、黒い革表紙がついていた。ルーズベルトの癖のあるサインと、重宗|伊作《いさく》の毛筆のサインが並んでいた。
李正元《りしようげん》こと犬子恨一郎《いぬこはんいちろう》は、パタンと表紙を閉じた。何かが間違っている。
犬子恨一郎は必死に、村井玲子の背中を思い出していた。
だれに似てるのだ。
それさえ分かれば、このいらだちから逃れられる。
長椅子を回転させ、
「本当に金正日《キムジヨンイル》書記は私を建国の父にしたいと言っているんだね」
「もちろんでございます」
「このファイルを渡すのは、祖国統一が条件だよ。私は一度だって祖国のことを忘れたことはないんだ。やむなく日本に連れていかれたが、私の身体には朝鮮民族の熱い血が流れているんだ」
と、カン・マンスーの息づかいが荒い。
「どうした」
「伏兵《ふくへい》が現れたもので」
窓の外を見た。庭の芝生が血に染まっている。黒眼鏡をかけたチェの死体が転がっていた。
「岡野が来たのか」
「はっ」
「何人失った」
「七人を」
「やるもんだな、岡野も」
ソ連領事館の地下にテレックス室がある。
世界中の共産国から、昼夜を問わず情報が流れてくるところだ。
この日も、十台のテレックスが休むことなく長い紙を吐き出していた。ほとんどの館員が『ピョンヤンの闇』に殺されてしまった今、その紙を取り上げる者はいない。テレックス室の床は、紙で埋まっていた。
その部屋の隅に、ガラスで区切られ、IDカードで入らなければ開かない電話室があった。クレムリンと結ぶホットラインだ。
そこで、無精《ぶしよう》ヒゲをはやし頬のこけたヌレーネフが必死に本国と連絡をとっていた。
「どうして援軍は来ないのです」
どうしてだ。なぜ、国は守ってくれない。ヌレーネフはそう叫びたかった。
KGBのブレンスキー議長が、さびた声を出した。
「事故ということで、穏便《おんびん》にすませられないか」
「なんですって? こっちは八人も殺されてるんですよ」
「今はまずい。なにせ、ペレストロイカだ」
違う、今こそ名乗りをあげるべきなのだ。
「なにがペレストロイカですか。もういい加減にして下さい。ナターシャが殺されたんですよ。あなたの娘さんが」
ブレンスキー議長は一瞬声をつまらせたようだったが、ヌレーネフの耳に聞こえてきたのはいつもと同じ事務的な声だった。
「そんなことは関係ない。北朝鮮から非公式に、謝罪が来ている。これ以上、ことをあらだてたくない」
ヌレーネフは受話器にわめきたてた。
「議長、一体どうしたんですか。本国はどうなってるんですか」
だれかの足音が聞こえ、電話の声が変わった。
「ヌレーネフ君、ゴルバチョフだ」
「えっ、書記長!?」
「私は孤立している。今動けばクーデターが起こる。アフガンから帰ってきた兵隊の不満が一触即発《いつしよくそくはつ》なんだ」
ペレストロイカをやってから、ソ連経済はますます悪化している。
ヌレーネフは、力なく受話器をおろした。
足をひきずるように階段を上がり、事務室のデスクで、ヌレーネフはこぶしから血が出るほど机を叩いた。
「オレは何をしてやれるんだ!!」
と、京子を抱いた飛岡が飛びこんできた。ソファに崩れこむように座った京子は、飛岡が与えたジュースとサンドイッチをむさぼるように食べた。
「ヌレさん、頼む。清水湾沖合に大日丸というタンカーがいる。それにこの子を乗せてくれ」
「玲子は」
「一人にしてくれって」
「なんか、あったのか」
「また例の病気が始まったんだ」
「病気?」
「男だよ。じゃ、頼んだぞ。オレは李正元の家に行ってくる」
と、走り出した三人の目に、舞い上がったジェットヘリの足に飛びつく玲子の姿が映った。
「あっ!!」
「大丈夫か」
「大丈夫じゃない!」
ぎっしりと建ち並ぶ高層ビル街を、ヘリコプターはその羽根を窓にぶちあてんばかりにスレスレに回して、ユラユラと舞い上がっていく。出勤したばかりの会社員が驚いて、窓際から逃げていくのが見える。
そのヘリにぶら下がった、Tシャツにミニスカートの玲子の白い足がブラブラ空中をさまよい、レースのパンティが見えた。
「なんだよ、あのパンツは。日本人の恥さらしだよ、もう!」
「あっ、あのヘリ、まずいぞ。あのビルにぶつけるつもりだ」
「なに!?」
ヘリはすごいスピードで直進し、できあがったばかりの高層ビルに突っこんだ。
「玲子!!」
飛岡は狂ったように叫び、走った。
燃え上がるその炎に、降りかかる火の粉を浴びた二人の男の顔があかあかと照らしだされた。
「久しぶりだな、岡野」
「ああ」
「おまえとだけは決着をつけておきたかった」
「コミュニストってのも、意外と義理堅いもんだな」
「オレたちが紳士だということはわかってもらえたと思うが」
「ほざくな!」
背中一面の牡丹《ぼたん》の刺青《いれずみ》を見せ、鍛《きた》えられた岡野の胸の筋肉が一段と盛り上がった。チラと炎を見上げ、
「つまり、あのヘリには李正元は乗っていなかったということか」
「フフ」
岡野は、舞い上がったもう一台のヘリをくやしそうに見ながら、
「あの子がこの程度のことで参ると思うな」
「なに?」
炎はあたり一面を焼き、岡野の自信にみちた言葉に驚愕《きようがく》する『ピョンヤンの闇』の狼狽ぶりを容赦なく照らし出した。
「広島で原爆を正面きって受け止めた人のお嬢さんだぜ。めったなことでくたばるかよ」
「なに、髪百合子《かみゆりこ》は生きていたのか?」
「でなきゃ、娘が生まれるわけないだろうが」
「なに!?」
カン・マンスーの驚いたスキをついて、岡野の備前国秀守《びぜんのくにひでもり》の刃先が光った。
すべてが元の静けさに戻るのに、三時間かかった。
十月五日。東京地検取り調べ室。
むきだしのコンクリートの壁のあちらこちらにシミがある。大きな木の机の上の電気スタンドが、無精《ぶしよう》ヒゲを伸ばし、ささくれた茶色の肌のやせこけた寺岡の顔をくまなく照らしだしている。何日も着たきりの紺色の背広はしわだらけになり、ワイシャツの袖口は薄汚れていた。寺岡総理はソウルオリンピックが開催されたことを田所検事から聞いた。
「なにも起こらなかったのか」
寺岡は狐《きつね》につままれたような顔をして、アングリと口を開けた。
青松観《チンチユンクウン》の墓地にアキョンを埋めると、フェイ婆さんにすがり玲子は二日二晩泣いた。
「ヤクをやるかい」
「ううん、いいの。あの人にやめるって誓ったの」
「そうかい。苦しいよ」
それから三日三晩、浴びるように水を飲み、のたうちまわり、四日目の朝、玲子の目にやっと明るい輝きが戻った。
フェイ婆さんが、
「あんた、やっぱりみんなが噂《うわさ》してた日本から来た女刑事だったんだね」
「すみません」
「いや、今度こそこの仕事から足を洗えるって気がしてきたんだよ」
フェイ婆さんは、香港の抜けるような青い空を見上げ、カラカラと笑った。
広島から髪島《かみじま》が見える。秋の澄みきった空気を通して、緑におおわれた小さな島が、群青《ぐんじよう》の海にポッカリと浮いていた。
「母さん、ほら、見えるよ」
「あ、あれ」
海から強い風が吹いて、岬に立つ三人の髪が乱れた。
藤子が、浩一の指さす先を爪先《つまさき》立ちで見ている。浩一の傍《かたわ》らに、おとなしい妻の好子《よしこ》がそっと立っていた。
「お父さんは、あの島にいればよかったのかもしれない」
浩一がつぶやいた。
「…………」
風が、一段と強く吹きつけた。
淡い草色の地に、桔梗《ききよう》を染めぬいた友禅《ゆうぜん》を着た藤子が、裾を押さえながら、
「私は先に行くわよ」
ススキの生い茂った細い道をスタスタと下りていった。
「お母様、大丈夫?」
好子は心配そうに言うと、そっと浩一の腕を取った。
浩一はフッと笑って、
「やっといつもの母さんらしくなった」
「えっ?」
浩一は、妻の乱れた髪をやさしくなでながら、
「今度は姉さんと来ような」
ススキが風になびいて、銀色に輝き、その下に咲いたまっ赤な彼岸花《ひがんばな》が姿を見せた。
岬の料亭の座敷に座った三人の前に、広島名物の料理がズラリと並んだ。開け放たれた障子からも、髪島がのぞまれる。
挨拶に来たおかみが、
「そうですか。村井の誠ちゃんが亡くなったんですか」
おかみの目には、戦前、髪の毛を焼いたといわれる髪島の周りに、当時のその煙が立ち昇っているように見えた。
藤子はひざを崩すと、
「あの人が玲子とやりあって生きて帰れるもんですか」
好物のあわびを口に放った。
味川は、東北線を乗り継ぎ、飛岡《とびおか》線の車中にいた。
各駅に停車する時間が恐ろしく長い。それでいて、乗ってくるのは大きな荷物をしょった二、三人の行商《ぎようしよう》のおばあさんたちだけだ。
声高にしゃべる言葉がほとんどわからない。味川は所在なげに、たわわに揺れる黄金の稲田を見ていた。
汽車はゆっくりと走っていく。味川は時計を見て、
「飛岡村ってのは、あと、どのくらいかかりますかね」
周りの乗客はみな、けげんそうに味川の顔を見て、だれも口を利いてくれない。
「なんかあるんですか」
「フン、あいつら、ロクでもねえ!」
飛岡村は、盛岡《もりおか》から北へ七十キロの山の中にあった。山の頂上めざして延々と段々畑が続き、その奥にさらに入ると、木のつるで編んだあぶなっかしい吊橋《つりばし》がぶらさがっているところだ。
と、野良《のら》仕事をしている玲子の姿が見えた。
「まったく都会の女は腰が弱くていかん」
ぶつくさ言う母親に、畦道《あぜみち》でタバコをふかしていた飛岡は、
「母ちゃん、無理だよ。突然野良仕事なんかやらしちゃ」
「いいんですよ、課長。あたし、こういうの好きなんですよ」
汗を手の甲で拭った玲子が白い歯をみせた。
遠くの岩手山《いわてさん》がすっかり色づいている。
「でも、野良仕事っていったって、畑が少ないですね」
あわせても、一反歩《いつたんぶ》しかない。
庭に戻ろうとした母親が振り返ってニヤリと笑った。
「ありゃ、玲子を試してみただけじゃ」
「試した?」
「ほんとはこの村で野良仕事なんかやるヤツ、おらん」
「やっ、やめろ!!」
飛岡がまっ赤になって叫んだ。
かまわず、各農家の庭の、ビニールで覆われた池を指さし、
「ここは市場なんかにおろさんで、直接買いにきた人だけに売る、知る人ぞ知る飛岡スッポンの産地じゃ」
自転車に乗った駐在が、ニヤリと脂っこい笑いを浮かべて畦道を走っていった。そういえば、犬までが脂ぎった感じがする。
「はあ?」
「一匹、五千円、一万円のスッポンが三千匹はいる」
「だから?」
「精力がありあまっとるんじゃ」
縁側で、五十インチはある大画面のテレビでオリンピックを見ながら餠《もち》を食っていたヌレーネフが、
「なるほどねえ、これが秘密だったわけ」
「為五郎は、スッポンの養殖やっとるのを、なぜか恥ずかしがってのう」
「なんか、すごい秘密があるようなこと言ってましたもんね」
飛岡はまっ赤になって、
「バカ、おまえ、うちがスッポンの養殖やってるもんで、小学校なんか恥ずかしくて行けなかったんだぞ」
母親が水道で手を洗いながら、
「父ちゃんがよ、村の皆の手前もあるで、一晩だけでも一緒にいさせてくれんかと言うとる。いや、なにもせん。形だけじゃ」
「だめだよ」
「なぜだ」
「あのおやじが何もせんわけないじゃないか」
「そりゃ成り行きで、そうなることもあるかもしれん。玲子も承知した」
「えっ!?」
「玲子はほんと、いい嫁じゃ」
見ると、寝こんでいるはずのおやじが襖《ふすま》を開け、ニコニコしてチロチロ赤い舌を出している。
「ほんとかね、村井君」
「しかたないでしょう、風習なんだから」
ようやく傷もいえて、血色のいい玲子が答えた。
飛岡は吹き出した汗を拭って、
「ダメダメダメ、オレこいつと結婚しない」
「えっ。為五郎、今さらなんてこと言うだ」
「いや、オレ、こいつのこともともと好きじゃなかったんだ」
「えっ、課長、そんな」
「いや、オレ好きな娘が別にいるんだよ」
「だっ、だれですか、キーッ!!」
手を拭いていたタオルを叩きつけた。
「ホラ、交通課の江波《えなみ》君さ」
「あんな人! キーッ!!」
「ちょっと待てよ。なんだよ、あんな人って。そりゃ不細工《ぶさいく》だよ。それと人間の価値となんか関係あんのかよ」
「すっ、すいません」
「すいませんじゃないよ。そりゃ、あんたはさ、きれいだよ。いつも高そうな服着て、昼ぐらいに出てくるよ。文句も言えないよ。でもさ、それであんな人って言い方ないと思うんだよね」
「ですから、すいませんと謝ったじゃないですか」
「なんだよ、その態度は。君は日ごろからそういう目で人を見てんだよ。ちょっと目鼻立ちが整ってるってイバるんじゃないよ」
「いつ私がイバりました」
もんぺをはいた腰に手をやった。
「イバッてんですよ、あんたは。君がみんなからなんて言われてるのか、知ってんの?」
「なんて言われてるんですか」
「あいつは嫁さんにするタイプじゃない。愛人にするタイプだって」
これには頭に来たか、
「だ、だれが言ってんですか、そんなこと。名前を教えて下さい」
「名前とかそういうことじゃないんだ。しょうがないよ、言われてんの確かなんだから」
「あたし、今の課長の言葉、絶対忘れませんから!」
目に涙をため、裸足《はだし》で庭に飛び出した。
「為五郎、なんちゅうことを言うんだ、おまえ」
「なにが為五郎だ。ヘンな名前つけやがって。もっとましな名前なかったのかよ。どれだけつらかったと思う。オラ、長男なんだ。もっとましなのがあったろう」
「またそうやって母ちゃんばっかりいじめる。文句あるなら父ちゃんに言えや!」
「あのエロじじいには言ったってわかんねえんだよ」
「親子が会話せんでどうする」
「もう、スッポンなんか飼うのやめちまえ」
遠くから、これまた血色のいいガキどもが、ニヤニヤして見ている。
「なに見てんだ。このエロガキどもが!!」
餠《もち》を盆ごと投げつけた。ヌレーネフがテレビを消して、
「飛さん、一体どうしたんだい。香港から帰ってきてずっと機嫌が悪いじゃないか」
「どうしたんじゃない。ほんと気の多いヤツでよ。アキョンって男ともなんかあったらしいんだよ」
「ああ、あのやさ男か」
「あいつに撃たれそうになったときに、オレが助けてやったんだよ。それなのにものすごい顔でオレのこと睨《にら》んだんだぜ」
「いいじゃないか、もう終わったことだよ」
「よかないよ。なんか人の恋路《こいじ》を邪魔したみたいな言い方されて、立場なかったぜ」
「タイミングが悪かったんだろう」
庭で、スッポンがキーキー鳴きだした。それを中腰で見ていた玲子がヌレーネフを呼んだ。
「ヌレーネフ、三沢《みさわ》基地からF14トムキャットを、盗みだしてもらいたいんだけど」
「ウグッ」
餠がのどにつまって目を白黒させた。
「途中で給油してもらわなきゃいけないしね。あなたの国の方でどうにかしてもらえないかな」
ヌレーネフはむせるのも忘れて唖然《あぜん》とした。
関東鬼心会組事務所は神田《かんだ》にあった。ビルが建ち並ぶ中の数少ない純日本式の家屋だ。隣に小さな神社があり、そこからパンパンと柏手《かしわで》の音がさかんに聞こえる。事務所の軒先にも大きなちょうちんがくくりつけられた。いつもの、たくさんの印刷所が輪転機を回す音は、今日は笛や太鼓のにぎやかな祭ばやしに変わっている。浴衣《ゆかた》の赤い袖にたくさんの鈴をつけた少女たちが綿あめにかじりつき、歓声をあげている。
背中に鬼心会と染め抜いたはんてんを羽織り、結城紬《ゆうきつむぎ》の着物を着た美恵子が、ゆっくりと茶碗《ちやわん》を置いた。
「オリンピックの開幕日にあのファイルを公開すると思ってたんですがねえ」
「どういうことなんですかな」
背広姿の川崎は、しきりと首をひねった。
「私もさっぱりわかりませんわ」
と、襖《ふすま》があき、はちまきをして、花笠《はながさ》を背中にしょった、はっぴ姿のルミ子が飛び込んできた。鼻すじに白粉を塗り、小さな口に紅をさした顔がとてもかわいい。
美恵子にまつわりつくのを目を細めて見ていた川崎が、
「京子さんって方、大丈夫ですか」
「大丈夫なんですよ、あの人も。元気に学校に通っていらっしゃいます」
「しかし、つくづく思い知らされました。女ってのは強いもんですな」
「あら」
「私も一度は結婚しとくべきでした」
「どうしてなさらなかったの」
「右翼ってのは、女子供に弱みを見せるのがイヤなタイプが多いんです」
しわばんだ茶色の顔を赤くして、ゴシゴシ頭をかいた。
「まっ」
「でも、これからあねさんに頑張ってもらわないと」
「そうですね」
美恵子は立ち上がって、部屋の隅にある神棚の下に行くと、御神酒《おみき》をささげた。神棚の横の壁に、岡野の写真が飾ってあった。
「でもあの人、わざと死んだんですよ」
「わざと?」
「これ以上、岡野として生きてたら、玲子さんにのめりこむって思ったんじゃないですか」
美恵子はサラリと言うと、川崎に笑いかけた。清々《すがすが》しい目だった。
大通りから神輿《みこし》をかつぐ男たちの威勢のいいかけ声が近づいてきた。
そのころ「赤い希望号」は、ハワイ北西のミッドウェイ島に停泊していた。
甲板にはアロハを着た金正日《キムジヨンイル》がいる。海に目をやったままの犬子恨一郎《いぬこはんいちろう》こと李正元《りしようげん》に、
「そろそろ、参りますかな」
四六師団を探すかのように、伸びをした。
しかし、世界最強といわれる四六師団にも、動揺の色があった。岡野に刺されたカン・マンスーの腹の傷が直らないのだ。
どんな傷でも一日で立ち上がってくるはずだ。日本刀の切れ味はそれほどのものだったのだ。
四六師団は甲板の片隅に、じっとひとかたまりになって座っていた。他の乗組員たちは、上半身裸になってのんびりとキャッチボールをしている。照りつける太陽は、あくまでも高い。
ラジオでオリンピックの中継が始まった。ものすごい歓声の中、興奮したアナウンサーが七十六キロ級柔道で、朴永昌《ぼくえいしよう》が金メダルを取ったと告げた。濃いサングラスの一人が、少し口元をほころばせ、
「朝鮮戦争のとき別れた、オレのイトコなんだ。日本に行って帰化したと聞いたが、帰ってきたんだな」
こんな思考が入りこむとは、弛緩《しかん》している証拠だ。
「暑いな」
「脱ごうか」
「隊長に見つかると怒られるぜ」
李正元は、甲板に立ち、じっと一点を見ていた。
と、プールからあがってきたのか、海水パンツのシェネラー国連事務総長がすっかり陽焼けした顔で金正日の隣に腰かけた。
「オリンピックを邪魔しないというあなたの英断を、アメリカ大統領はことのほか喜んでいました。国連での演説は、十八日午後四時と決まりました。フランスが北朝鮮国連加盟の提案国として名乗りをあげてくれました」
「お手数をかけます。これで祖国統一に一歩近づきます」
シェネラーはジロリと見て、
「それは、あなたのお心しだいですな」
ロスチャイルド鉱山のウランは余っている。それをなんとか売りさばかねばならない。ソ連は買いつけを今になって拒否してきた。
「しかし、世界はこの事実を知ったら、驚きますぞ」
金正日は手すりにもたれている李正元の背中に声をかけた。
「李閣下、お願いしますぞ」
振り返った李正元は、うつろな目を向けた。その姿は見るかげもなくやつれていた。
シェネラーは、満面に笑みを浮かべ、
「私からもお願いいたします。そのとき、あなたの名は永遠に語り継がれるでありましょう」
「では、一筆書いておいてもらいましょうか」
李正元が低い、くぐもった声で言った。シェネラーは大きく手を広げ、
「同胞の言葉が信じられませんかな。一筆書いておけとは。やはり、日本育ちですかな」
「しかし」
金正日はえたりとばかりにうれしそうに、
「御心配なく。カメラを回しておきました」
「えっ?」
「いっ、いや、私はこんな顔ですので、チラリと写ってるだけですが、李閣下と事務総長のはかなりの数のアップを撮っております」
「そっ、そんな!」
「こんな歴史的なことをフィルムに撮っておかない法はないと思いまして。もちろん、編集はお二人に立ち会っていただいて、お気に召さぬところはカットしていただければよろしゅうございます」
シェネラーと李正元は顔を見合わせた。金正日は無邪気に笑うと、
「あの、一つお願いがあるのですが。十八日まで、かなりの間がありますので、船をロスアンジェルスに着けてもようございますかな。一度、ハリウッドというものを見学してみたいのです」
「もちろんですとも」
シェネラーはもみ手をして、
「金書記、ハリウッドは来年のオスカーのプレゼンテイターとしてあなたを特別に迎えることを決定しました」
「な、なんですと」
「どなたをエスコートされたいですかな。ブルック・シールズでもフェイ・ダナウェイでもだれでも我々の力をもってすれば、できないことはありません」
金正日の腫《は》れた顔に、陶然《とうぜん》とした笑みが浮かんだ。
三沢基地。
広い基地の周りには、三メートルの高さの鉄条網がはりめぐらされている。ほこりっぽい風が「スターズ・アンド・ストライプス」の新聞紙をクルクルと舞い上げた。
オリンピックをテロから守るために米軍はみな対馬《つしま》沖に出払っていて、基地の中はガランとしていた。
「まるで、スイカ泥棒だね」
「ヌレさん、大丈夫かね、こんなことして」
「しかたないだろう。玲子が言ったんだから」
鉄条網に穴があいた。長い滑走路を横切って、カマボコ型の兵舎の前を左に曲がった。
ヌレーネフがささやいた。
「大丈夫かね、日本はこんなんで。こんなとき、ソ連が攻めてきたらどうするんだい」
「攻めちゃこないだろう。ペレストロイカだからな」
「オレはロシア人だよ。ロシア人がどういうものかは一番よく知っている」
「えっ?」
監視塔の下をかがんで通り抜けると、ポツンポツンと建っている灰色のオフィスが見えた。窓という窓にはブラインドが下がっている。電話のルルー、ルルー、という音がだれもいないオフィスに長い間鳴り続け、やんだ。
「あいつ操縦ってのできるのかね」
「できるんだろう」
「オレはね、あいつに出来ないことは掃除と洗濯だけだと思うよ」
前を行く玲子が振り向いた。
「えっ、なんですって?」
「いっ、いや、なんでもない」
飛岡は首を縮めた。
「ハハ。でもさ飛さん、交通課の女ってのと結婚の約束してるってほんとかね」
「怒るよ、もう。オレがこの年まで一人でいたのは、メンクイだからなの」
「ハハハ」
「しかし、あんとき、怒鳴《どな》りつけられたのはくやしいな」
だだっ広い枯れた芝生を走り、格納庫に向かった。
めざすF14トムキャットはなかった。代わりに、練習用に使われているのだろう、ずんぐりした格好のペンキのはげた中古のファントムが一機あった。
「大丈夫かね、これで」
飛岡は不満そうに頬をふくらました。
「仕方ないでしょう」
ヌレーネフは機体のホコリを払った。
ファントムの操縦席に乗りこんだ玲子から合図が来た。
「よし、格納庫を開けろ」
「よしきた」
飛岡はトレーラーの運転席に飛び乗り、ファントムをひっぱり出した。
玲子がフェイドを開け、叫んだ。
「ねえ、課長、ちょっと来てくれません」
「なっ、なんだ!」
「このパンツ、どうです」
と腰まで深くカットされた超ハイレグのピンクのスキャンティをはいていた。
ファントムは機首を垂直に持ち上げ、あっという間に雲の上に上昇していった。
うすもやの中に、遠くサンフランシスコのゴールデンゲート・ブリッジが見えてきた。明るい陽ざしが、船室までさしこんだ。
ようやくカン・マンスーが目をさましたと聞いて隊員たちは安心した。
ベッドのカン・マンスーは、ゲッソリと痩《や》せていた。が、出血は止まらない。包帯を取り換えた医者に、
「金正日書記は」
「甲板で事務総長とお話をしておいでです」
ガバと起き上がった。
「セイフティルームから出るなと言ったはずだ!」
天井に届かんばかりのその二メートルの巨体が立ち上がった。
「まだ、起きてはいけません」
「どけ!」
カン・マンスーは、甲板に出て、愕然《がくぜん》とした。
戦闘機が用意されていないのだ。
「攻撃を受けたらどうするんだ」
整列していた四六師団の中から一人が一歩前に出て、
「書記が必要ないとおっしゃっていますので」
「バカ! キサマらはあの女を知らんのだ。すぐ出すんだ!!」
金正日書記が、手をあげ、にこやかに近よってきて、
「カン、いいじゃないか。こっちで一緒にお茶でも飲もう」
「なにをおっしゃいます、金書記。セイフティルームにお戻りくださいませ」
「いい」
カン・マンスーは、この小さな男の前に立ちはだかり、恫喝《どうかつ》した。
「なにをおっしゃいます。あの女が何者か御存じないのですか。髪百合子《かみゆりこ》の娘です」
「なに!?」
そう叫んで、李正元が立ち上がった。
シェネラーに姿を変えていた『赤いトナカイ』は、
「あの光で死ななかったのか、髪百合子は」
とへたりこんだ。
犬子恨一郎の愛を受けとめんがため、その指で投下された原爆の光を一身に浴び、灰となったはずの髪百合子が生きていたとは。
李正元は目の前がまっ暗になった。
と、そのとき、レーダー室から男が走ってきた。
「ジェット機が一機、こちらに向かっております」
「なに!? なぜ今まで気づかなかった!!」
「水面スレスレを飛行していたと思われます」
「クソッ!! あの女だ!! 書記をセイフティルームにお連れしろ!」
空母後部の飛行甲板からグイーンと音がして、外側に傾斜した二枚の垂直尾翼を持つミグ31が現れた。このソ連製最新鋭機は、今、カタパルトに乗り、発艦命令を待つばかりになった。
金正日がうろうろと、
「なんなんだ、髪百合子の娘って。カン、話せばわかる。我が国はもう野蛮国ではないのだ。国連にも議席を持てるようになる!」
カン・マンスーは血のにじむ下腹を押さえ、ミグ31の繰縦室に駆け込んだ。
「来たのはF14トムキャットか」
トムキャットの翼は、攻撃に最適な速度、角度を瞬時にコンピューターではじきだし、可動することができる。いまだ手動で操作するミグ31に勝ち目はない。
「いえ、あれはファントムです」
「よし!」
ファントムなら勝てる。
操縦席に座ると、スロットルを回して思いきり引っ張った。
「クソーッ!」
水平飛行に移り、『ピョンヤンの闇』はファントムに向かいあった。枠《わく》なしのフェイドを通して、女が笑っているのが見えた。
「なっ、なぜ笑っているのだ!?」
『ピョンヤンの闇』は、かつてないほどの恐怖を感じた。
「クソーッ」
ファントムは、ミグ31から発射されたミサイルをひょいとよけた。
「ホホホ」
なるほど男というものはハインツの言ったように傷つきやすいものだと分かった。『為五郎』という名前で、飛岡はあれほど悩んでいる。それを思い出して玲子は笑っていた。
イントルーダーに乗り込んだヌレーネフと飛岡は、玲子のファントムの機影を不安そうに見ていた。
「お父さんから行けって言われたのよ」
ヌレーネフの隣に座っている女が言った。
『ロシアの金色の猫』だった。姉のナターシャよりも鋭角的な輪郭の顔だちで、薄い唇もきつめだ。
「きれいな人ね。あの人なら、お姉さんが妬くのも分かるわ」
「…………」
「でも、あんな中古のファントムで大丈夫かしらね」
「大丈夫だよ」
ヌレーネフが力強く言った。
飛岡は、
「パンツ一丁で戦闘機に乗ってんですよ、あの女は。見てください。ピンクの腰まで切れ上がったパンツなんですよ」
飛岡は顔をしかめた。
『ロシアの金色の猫』は不愉快そうにその美しい眉をあげると横を向いた。
見ると、ファントムはいいようにミグ31をもてあそび、止《とど》めのミサイルを撃ちこんだ。そして、もう一つのミサイルを、「赤い希望号」の甲板で両手をあげた男、李正元の心臓めがけて撃ちこんだ。
ホノルル、パンチボウル。ここは、戦争犠牲者が葬られた広大な墓地である。すりばち状の死火山の山頂は、緑の芝生でおおいつくされ、どこまでも整然と並ぶ白いクロス形の墓標は、ハワイの明るい太陽のもと、輝かんばかりだ。
そこから見下ろすアラモアナのヨットハーバーには、帆をおろしたたくさんのヨットが静かに浮かんでいる。人影の少ないビーチに、ヤシの葉が風に揺れている。
今日はカーチス・ルメー将軍の十三回忌である。
その墓標には、赤いプルメリアと白いジンジャーで編まれたかぐわしい花輪が飾られていた。
この愛すべき猛将は、今ヴェールをあげた老婆をことのほか、かわいがっていた。
広島でこの老婆を救い出したジェイド神父がにこやかに笑って言った。
「犬子少佐がおなくなりになりました」
「そう」
振り向いたその黒く焼けただれた顔が、ハワイに注《そそ》ぐ、明るく乾いた光にさらされた。
発表/「野性時代」一九八九年一月号
一九八九年四月、カドカワノベルズとして刊行
なお、この物語はすべてフィクションであり、氏名・社名などが偶然に実在の人物・団体等と一致する場合も含めて、実在の人物・団体等とはいっさい関係ないことを、おことわりいたします。
(著者、編集部)