TITLE : 傷つくことだけ上手になって
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目 次
この恨み、この屈辱忘れまじ―― まえがきにかえて
*
力まないやさしさに、男は弱いのです――女性への手紙
ヒロインたちの宿命――なぜかブス
やさしさ地獄
志の高さ――女性の美
男と女のライフスペース
男の友情
愛がいっぱいの時代のなかで
第一私がそうだった
〓“不遇〓”乗り切りのテクニック
新しい〓“ひけめ〓”を探して
ヒーローの条件
わがライバル――ヒーロー「エガワスグル」
*
パロディーと現代
媚の売りかた
努力しない客たち
私と〓“石油文学〓” ――パロディー再説
私の文章修業
話し言葉の世代
戯曲の中の方言
下手なイイワケ
中 毒
スレッカラシ
ひかれものの小唄
つまらない映画
名セリフは男の履歴書
トシのオールドって、どんな味
翔び駆けるサントラ
ぼくの「七年目の浮気」
〓“よい子〓”幻想
前略 ヒッチコックさま
映画の殺人者
善人なおもて往生を遂ぐ
バカな子ほど可愛い
花ひらくエネルギー
今、中年映画
ラジオと意志
*
〓“したたかな目〓”で見るぞ
若者の生命力をスポイルするな
拝啓 日本共産党殿
選挙長寿法――私の世代交代論
〓“ハングリー魂〓”に幸あれ
異説文化論
はきちがえ機内サービス
恐怖の一対一
街には〓“やさしさ〓”があふれて
はかなし〓“悪の巣〓”のイメージ
読まない見ない勇気!
放射線有情
かけおち
偏見1
値上げこわい
悪場所
虚礼死守
戦後必勝法
平和体験
演劇のススメ
無実の罪
電話
花の東京
ヤバイ感じ
杞憂
正義感
お手上げ
憂国
忠臣蔵
吉良上野介
ビバ弾圧
忙中閑あり
秋深し
逆算
留学
二・五枚
入場料
*
俗っぽいからこそ神秘
タバコと照れ
オモチャに魅せられて
「味ごときもの」
人格の生き分け――夢のまた夢
転校生
思い出を食べて
〓“わが町〓”を求めず
おやじの空
のばしのばしの哀しみ
ボタ山――ふるさとの記憶
初出誌紙一覧
この恨み、この屈辱忘れまじ――まえがきにかえて
去年、借金までして払った税金が、あろうことか今年は、八万円ばっかり返ってきた。
そういえば、芝居ばかりして、仕事などしていないのだから無理はない。さすが、腹にすえかねて税理士を呼びつけ、どういうことだとつめ寄ると、私の心も知らず、「いやあ、苦労しました」と酒の一杯も飲ませろとの態度である。
そのデリカシーのなさに、さすがの私もハラが立ち、「俺をなめるんじゃねえ、税金が返ってきて何でうれしいことがあるんだ」と怒鳴りつけてやると、何のことかわからず、ポカンとしていた。
いくら河原《かわら》者《もの》だといっても、プライドはある。税金をふんだくられるのは頭にくるが、そんなものは真の怒りではない。
好きな芝居をやっていて、思いっきりやって下さいと税金をかえしてくれたのならいいが、とるにたらないと思われたことがくやしい。
その税理士をクビにしたことは言うまでもない。私はかえってきた八万円を神棚に飾り、この恨み、この屈辱忘れまじとの思いをつのらせている。税理士に、「おまえも男ならこのことは決してひとに言わないでくれ」と固く言っておいたが、あいつのことだからわからない。
ムシャクシャして劇団の事務所に行くと劇団員のSが青い顔をしていた。
Aという渋谷にある大学のチンピラ学生に教室につれ込まれて殴られ、あげくは五十万円金を出せと恐《きよう》喝《かつ》されたという。
理由を聞くと、用事で私の車を運転していると、後ろから二人乗りの五十CCバイクがぶつかってきて、うしろに乗っていた女の子が怪《け》我《が》をしたそうである。
Sはくやしそうに歯ぎしりしながら、「うちの劇団の名前が売れてるからと思って、五十万円出せと脅しをかけてきたんです」
「警察に届けなかったのか、相手が悪いんだろ」と言うと、
「だって、つかさんの名に傷が……」
「バカ!」
とひっぱたいてやった。とにかく困ったもんである。いい若いもんが、傷がつくだの、メンツだの、河原《かわら》乞《こ》食《じき》の言う言葉ではない。
「五十万とはケタがひとケタちがうんじゃないか」と私が言うと、鬼の首でも取ったように、「でしょ〓 五万円にしろって僕も言ったんです」「バカモン〓」私はくやしくて、かなしくて、けっとばしながら、めまいがしてこめかみの血管から血が吹き出すのではないかと思った。
いくら税金がかえってきたからといって、五十万円のはした金しか恐喝されないわが身が情けない。私が十年間営々と築き上げたわが劇団が、たかだか五十万円の値しかつけられなかったとは情けない。
とにかく私は、今年こそ、仕事の鬼となり、金の亡者となり、来年こそはウソの申告をして、かゆをすすっても、石にかじりついても、ありったけの金を税務署にもっていってもらうんだ。
きっと、乗ってた車がいけなかったんだ。見栄をはって、そして殊勝なところをみせていちばん安い外車を買ったからいけないんだ。よし、来年こそはベンツを買ってボンボンぶつけてバンバン恐喝してもらおう。そうでなければ、河原者としてひとからうしろ指をさされ、晴れの日でも道を裸足で薦《こも》をかぶってはじを歩いていた私の立つ瀬がない。
あまり腹のたつことばかりで巻頭文にまでグチってしまった。が、早い話エッセイ集というものはグチの羅《ら》列《れつ》である。かつては、グチって印税をもらうことに心を痛めていたものの、もう私は負けない。
かゆをすすり、石にかじりついて……。
力まないやさしさに、男は弱いのです――女性への手紙
ゆかたを着てマンションのエレベーターに乗るだなんて勇気がいりましたよ。管理人さんから「お仕事ですか」と聞かれ、「いや日常です」と、ふくれっつらしてやりました。
今日は五のつく日で、広《ひろ》尾《お》の商店街の縁日です。短《たん》冊《ざく》買って、俳句ひねって、そして花火でもやって、ちょっとした風流をきどってみようと思います。
ゲタをカラコロいわせ、懐《ふところ》には、普段使ったことのないおさいふを入れて、腹をつき出しとっても姿勢がよくなっている気がしました。今日、僕は、広尾の健康優良児です。
金魚すくいやさんは、もう昔のような針金のわっかに薄い紙をはったやつじゃなく、モナカの皮にせんたくばさみをはさんだものを渡してくれます。でも、そんなことでは、僕の自《じ》嘲《ちよう》はひるみません。久し振りのお休みです。心ゆくまで夏を堪《たん》能《のう》しなくては。
着物はいいです。行儀を悪くしたら、てきめんシワになりますし、うしろ姿に育ちの悪さまで出るような気がします。
辛くなって、よほどGパンに着換えようと思いましたが、これもより良き社会人になるための試練です。
暇にまかせ、茜《あかね》色《いろ》の夕焼けなんぞ見つけてやろうと、ベランダに陣取ってスイカを食べます。「プロ野球ダイジェストの野球」だけでなく、今日は奮発してラジオとテレビをいっしょにつけて、野球をいちぶしじゅう見届けてやろうと思います。王が打席に立つと、手に汗握る情熱がまだ残っていることに、我ながらびっくりしています。
暇になるのはいいことです。こまめに、みんなにやさしくしてあげられそうです。
昔、おおみそかのギリギリまで、スナックの止まり木で飲んでいたきみが、お正月の朝早くから年始の御挨《あい》拶《さつ》に行きたいなどと殊勝なことをいいます。お正月やお誕生日などという大それたものは、僕のような芝居など書いているヤクザ者にとって逃げ出してしまいたいものなのに。
正直な話、毎年お正月はホテルにかん詰めになって原稿を書かされています。紅白歌合戦でも見なきゃ年など越せないほど滅入っているのです。
何の因果でこんな商売始めたのか悔まれてなりません。
そんな時、きみは着物を着てシャナリシャナリ現われましたね。背広姿のボサッとした男の子を連れて。
小さな重箱に〓“おせち料理〓”を詰めて、しとやかに割《わり》箸《ばし》を折ってくれるきみは、まるで女の子です。パジャマ姿ではち巻きしてる僕はとってもみじめでした。ほんと言うと、僕もいいとこのお坊っちゃんで、家には母が送ってくれた紬《つむぎ》の着物や帯や足袋、桐《きり》の下《げ》駄《た》まで自前があるんですよ。
きみの連れて来た不細工な男は、かわいらしい重箱のカズノコから箸を出します。確かに僕もいい年になって、〓“最近の若い奴は〓”と嘆いてもおかしくない年になりましたが、きみが元旦から美容院に行って髪を結って来たことを考えると、許すことはできません。この僕でさえ、カマボコとか黒豆など安いやつからおそるおそる手を出しているのに。図々しいったらありません。
きみは少しばかり気がついて、バツの悪そうな顔をしていましたね。それがとても嬉《うれ》しかったです。どんな小さなエッセイでも、机についていれば書けるというわけではありません。正直な話、あぶら汗タラタラ流し、締め切りをおびえて待つのです。そんな時、なんだかんだ言いわけつけて晴れ着を人に見せたいきみの〓“女の子〓”ぶりとグズな男のかばい方はとてもさわやかで、男にやる気を起こさせるものです。
つい酔っ払ってしまい、「てめぇ、それで男か。カズノコから先に食べるとは。ほんとは俺だって食いたかったんだ。なんちゅう非常識な男だ。この子はおめえとは一緒にさせねぇ」と、きみの親父のつもりで怒鳴りつけてしまいました。きみのやさしいかばい方が、とても日本の女の子みたいでけなげでしたよ。
今朝、きみからの御中元が届きましたよ。これはふつうの人のふつうの生活で、きっと大切なことです。
ヒロインたちの宿命――なぜかブス
いつの間にか、スターというのは庶民的でなければならないという公式が世間一般に通用するようになってしまいました。かつてスターというのは、サングラスをかけ、マスクをして、女性ならばネッカチーフで顔をかくしてでしか街を歩けない人たちのことを意味していました。たとえ街ですれ違うという僥《ぎよう》倖《こう》にめぐり会っても、声をかけることはおろか、サインをたのむことさえためらわれ、遠くからソッと合掌するほど神々しい、文字どおりのキラ星でした。いや、銀幕のヒロインたちはごはんを食べることも、トイレへ行くということすらも人からは信じられてはいなかったのです。
ところが今では、その辺で遊んでいた中学生が、翌日にはテレビに出ているということが当り前になってしまいました。抜きん出て容姿に秀れていなくても、また、演技や歌がうまくなくても、そんなものやってるうちにうまくなるよと、テレビや映画に出演させます。サムシングエルス、これさえあればいいのだそうです。
たしかに今は、だれもがスターになれる時代です。街に出かけてみると、着飾った女の子たちがまるで女王様のようにカッポしています。いつだって、ファッション雑誌やテレビや映画から抜け出して来たような、ちょっと気取ったヒロインたちがあちこちで見うけられます。けれど、あなたも私もヒロインになれるという時代は、とどのつまりが、だれ一人としてヒロインがいない時代と言い換えることもできるのです。街に氾《はん》濫《らん》する安っぽいヒロインを見ていると私にはそう思えてならないのです。
ヒロインと聞くと、私たちはどうしてもアタマに「悲劇の」ということばをつけたくなってしまいます。太宰治ではありませんが、ヒロインということばは、それ自体悲劇的な要素を含んだ「悲劇名詞」といえるのかもしれません。
実際、ヒロインというものは、ジュリエットにしてもオフェリアにしても、古い因習や考え方のなかで悲劇的な最期を迎えています。しかし、今の自由な世の中では、そんなヒロインにはとてもめぐり会えそうにありません。運命の糸にたぐり寄せられるように破滅へとのめり込んでゆく美《び》貌《ぼう》の女主人公を、私はなつかしく思い出すばかりです。
これは言いすぎかもしれませんが、たとえば、戦争が一つあれば、どんな女性でも簡単に第一級のヒロインになることができます。
あなたが若い女性ならば、召集令状一枚で「りりしい若者との恋を裂かれる悲劇のヒロイン」になれます。あまりりりしくない不細工な若者でも、こと戦争という極限状況のなかではりりしく見えてくるものです。もし主婦の方だったら、「上野のガード下でロマンチックなパンパンになっているあなたと、復員して来た御主人との劇的対面」も可能なのです。そうなったら、昼メロなんかかったるくて観てられません。セールスマンと浮気するなど、B級のヒロインのやることです。
けれども残念ながら、世の中そんなおいしい話がめったやたらところがっているほど甘くはありません。毒にも薬にもならない平和な日常が続くだけです。石油危機だって、一人のヒーローもヒロインも生み出すことなくスンナリ終わっちゃったし、今の日本ではだれが逢《あ》おうがだれが別れようが、他人の色恋沙《ざ》汰《た》など知ったこっちゃないと言われるのがおちです。
シェークスピアの「ロミオとジュリエット」にしても、なにぶん十六、七世紀の設定です。だからこそ、若い二人が我を忘れてあれほど燃えたのです。今の世の中、そんなやすやすと悲恋に終わらせてくれません。だいいち、死を賭《か》けて対立するような、そんな真面目な家柄など、今存在するわけがありません。わざわざ危険をおかして、夜中にバルコニーに忍んでいかなければならないお隣さんなんかありゃしません。
「カギかけて、お願いしますお隣さん」この標語は、すべてのロミオとジュリエットの可能性の芽をつんでいます。
駈《か》け落ちしたって、もうだれも反対してくれない時代です。心中したって、並のやり方じゃ新聞にのっけてもらえない時代です。親の出番といったらせいぜい世間体ですが、こんなものも、とうの昔にふっ飛んでしまっています。もはや、あの古典劇の世界で哀《かな》しくも美しく咲いていた、その燃えるような一《いち》途《ず》な瞳《ひとみ》でロミオの心臓を射抜いた永遠の名花、ジュリエットの姿を見ることはできません。だれしもジュリエットになる素質はあるのですが、周りが真剣に反対してくれないため、どこにでもある色恋沙汰にひきずりおろされます。
イプセンの「人形の家」のヒロイン、ノラが、
「私はあなたの人形だった」
と、名ゼリフを吐けた時代は幸いでした。ウーマンリブという運動はきっと、このセリフを言えない屈辱のために、「女性よ、家を出て行きなさい」というのが主旨なのでしょう。
私は戯曲を書き始めて七、八年になります。その間、何度も何度も古典的なヒロインに挑《ちよう》戦《せん》しているのですが、いつも失敗してくやし涙にくれるばかりで、いまだかつて一人として登場させることができません。
やはり、私の書く「ロミオとジュリエット」は、夏の暑い日、シュミーズ一枚でいぎたなく眠りこけるジュリエットを、ツルハシかついで土方から帰って来たロミオが、まず寂しそうな妻の姿を見つめ、やがてワナワナと震え出し、
「コラ、起きんか! メシのしたくせんか! それでも女か!」
と、蹴《け》飛《と》ばすところから、どうしようもなく始まってしまうのです。なぜこのような、みじめにも滑《こつ》稽《けい》なヒーローやヒロインしか登場させられないのか、我ながら不思議でしようがありません。
バルコニーによじ登って来たロミオの首っ玉に、我を忘れて飛びついて行ったジュリエットの可憐で一途なヒロインぶりに、そしてそれを可能にした時代ぶりに、私はいつも遠く羨《せん》望《ぼう》の想いを馳《は》せるのです。
私は、そこいらにいるなんでもない男と、なんでもない女を劇的に高めることを、使命としています。そして、男のための男の演劇を目標にしている以上、どうしてもまずヒロインがやり玉にあがります。
たとえば、「熱海殺人事件」の場合ですと、犯人大山金太郎に殺されたヒロイン山口アイ子がブスな女工であったればこそ、芝居が展開をみせるのです。もしアイ子が目のさめるような美人であれば、刑事さんたちから事件が甘やかされ、ふやけた殺人事件になっていたでしょう。
「あんなブスしか殺せなかった」
とのうしろ指をさされることを知っていながらも、どうしてもブスの首を絞めざるを得なかった犯人の、プライドを守ってやろうとする心やさしい刑事たちのガンバリの中に、物語は成立するのですから。
私に言わせれば、被害者山口アイ子のブスとしての殺され方は、ヒロインとしてあっぱれなものだといえます。その部分を引用してみます。
……女は目をカッと見開き、うつろに宙を見据えていたが、これを死人の顔というのだろうか。俗に目が飛び出るというが、もともと白目がちの目が半分以上露出し、その白目もどんよりと濁り、バセドウ氏病にかかったようなギョロ目をして、それはおぞましい写真であった。
あんぐりと開けた口は、アンコウのそれを思わせてもいた。断末魔の苦しみからか、 両手は宙をさまよってもがき、生への生々しい執念をまざまざと見せつけていた。この上半身の力強さに比べ、その下半身はというと、あろうことか、ミニスカートが、後で手を加えられたかのように不自然にまくれ上り、太ももに喰い込んだフリルのついた唐草模様のパンティが丸見えになっている。ゆるんだ両足はもともとO脚だったのが、これでもかこれでもかと誇示しているかのように開きっぱなしだ。よく見ると、股の間には岩が突出していて、両足がそれをくだかんばかりに締めつけている。
今読み返して、自分でもびっくりしますが、ずいぶんドギツイ描写をしたものです。これでもかこれでもかという調子でブスの描写が続きます。事実、私はこういうところだけはなぜか上手なのです。筆がスラスラ進みます。年がら年中、坊っちゃんで育ち、ブスにとりたてて怨《うら》みはないのですが、時々、こりゃタタミの上じゃ死ねないなと思います。
ふつう、ナントカ殺人事件とくれば、すこぶるつきの美女が絞め殺されるという発端で、刑事たちも、死体には貴《き》賤《せん》はないといいながらも、どうしても美人のほうにファイトを燃やしてしまいます。しかし、「熱海殺人事件」では、殺されたのがブスの女工、凶器はあろうことか腰ヒモというていたらく。まったく捜査のしがいのない殺人事件だと嘆きつつ、刑事たちはこのどうしようもない犯人を一人前の美的な殺人犯にするべく奮励努力をするのです。実際刑事さんだって、新聞記者の人だって言ってました。美人が殺されたほうが奥がありそうでファイトが湧《わ》く、と。
私が作品の中で、その登場人物たちに、「ブスを放し飼いにするな」だの「ブスに市民権があるか」だのと声高に言わせているため、私のことを女性を蔑《べつ》視《し》していると決めつける人がいますがそれは誤解です。純粋に作品を成立させるために書いているのですから、私は無罪潔白です。むしろブスをヒロインにしようとあくなき努力をしている私は、ほめられこそすれ、中傷の矢おもてに立たされる覚えはこれっぽっちもありません。その証拠にこのセリフがあります。
刑事 そりゃ、ブス放し飼いにしといて法治国家もあったもんじゃねえが、法の網かいくぐってブス殺していいってことにはなんねえんだぞ。ブスの存在自体が罪だという法のあるべき姿にたち戻るには、善良な市民の長い忍耐と時間が必要なんだ。だから現時点では、おまえの「ブス殺し」は前衛的な試みでこそあれ、建設的とはいえないんだ。しかし、ブスを憎んでやまないというおまえの志は、見るべきものがあり、よしとしなければならん。しかし、この日本からマシンガンでブスを一掃してしまうというほどの哲学を持っていないからおまえはダメなんだよ。それともなにか、「ブスの始末屋」という金看板しょって、一匹狼 として一生をまっとうする正義感がおまえにあるか?
犯人 ……ひどすぎらあ。アイちゃんだって、街を歩いててショーウィンドーの前なんか来て顔が映ると、うつ向くくらいの礼儀は知ってたんだ。おれだってそこんとこはなるだけ触れないようにして、二人して生きてゆこうとしたんだ。二人して歩いてゆこうとしたんだ。
刑事 なに誤解してんだ。おれは基本的にはブスだからいけないと言ってるんじゃないんだぞ。ブスがブスったれて、喜怒哀楽をあらわにするだろう。それが許せねえんだよ。よく聞け。そのアイちゃんってブスもだな、東京近郊の団地で内職でもしててもらってだ、あんまり人目につかないようにして円満に処理することもできたんだぜ。ブスが人並みに選挙権を欲しがりさえしなければ、狭い日本だけどアイちゃんの坐る椅《い》子《す》のひとつくらい用意してやれたんだ。おまえもだ、人間の原点に立ち戻って考えてみるとな、殺すんなら整形手術でもしてから殺してくれりゃあよかったんだよ。民主主義はおまえにその誠意を求めてたんだ。おまえが、また国民の一人一人が、そこんとこキチッと押えようとしないから、何か世の中が帝国主義みたいに殺伐となってきちゃうんだ。
私とて、初めからブスばかりを作品に登場させようと思っているわけではありません。何度も言うようですが、常に古典的ヒロイン像をめざしているのです。しかし、稽古の過程で、あれほど手塩にかけて可愛らしく可愛らしくつくったつもりのヒロインが、戯曲や小説にすると、とたんブスったれたり、すねたり、すれっからしになったり、ときには暴力的に狂暴になったりさえし、我ながらあわててしまうのです。それに、文章にしてみると改めてよくわかるのですが、なぜか私の芝居の骨組ともいうべき論理は、すべて男優がしゃべっています。
私は、かねがね、芝居でチョイ役だの通行人だの群衆だのを出してはいけないのではないかと思っていました。それは、出るかぎりは、役者の一人一人全部にそれぞれ見せ場を作ってやるべきだと考えているからです。そのため、ふつうの芝居に比べると登場人物が極めて少なく、せいぜいが五、六人といったところです。
そんな中で、ヒロインの役割はというと、これがまたあいまいで、私も少しずつ努力してはいるのですが、それがかえってアダになり、どういうはずみか愛すべきヒロインたちは、ブスだの差別だのという表相的な偏見と中傷のウズに巻き込まれてしまうのです。
どうも私のヒロインたちは、一個の独立した自我などとはおよそ縁遠いところにいて、その場その場の状況で、どんな女にもなるという傾向があるようです。きっと私には、ブスだの美人だのというキャラクターを支えるだけの意志の力が欠けているのでしょう。もちろん他の男の登場人物もはなはだ主体性のないのが多く、オレがこの芝居を背負って立つという気構えはあっても、一般的な意味での一貫した主義主張を持っているものは少ないのです。それでも、一人一人がある生理、または論理に基づいて行動していることは確かです。全体としては、芝居の流れとしてもヒロインもそういう論理の中にいるのですが、ヒロイン自身の持っている論理は、やはりどうしても男に比べるとバラエティーに乏しく、詰まるところは「女」そのものが論理になっているような気がします。つまり、男の論理のもとに、観念的な「女」を演じているわけです。
しかしそれは反面、うらやましいことでもあるのです。女でありさえすれば、その存在は確保されているからです。男はいつも、今の自分ではない何者かになろうとし続けなければなりませんが、女はそのままであり続ければよいのです。そうしていれば、時代や状況の流れが女にいろいろな性格をひとりでに植えつけてくれます。それは、ある時代ではジュリエットでしょうし、またある時代では山口アイ子なのです。
できれば私も、いつか、愛すべきヒロインたちに、ノラやジュリエットやスカーレット・オハラのように、なりふりかまわず生きさせてやりたいと思います。けれども残念なことに、女性たちが現実の場で、数々の自由や権利や立場を輝かしい栄光と共に獲得すればするほど、フィクションの世界ではヒロインの定義が「ただの女」になり下ってしまうのです。
すでに世の中に縛られたり、圧迫されたりしたヒロインの姿はなくなり、ヒロインに投影した甘い感傷は打ち砕かれ、私たち男の挫《ざ》折《せつ》感《かん》はいっそう深いものになりました。
再びヒロインが、なみいる男たちを蹴《け》散《ち》らし、いいところを一人占めするような芝居をやりたいものです。しかし、現実にそれが世間でまかり通っている今、そんなヒロインばかり次々登場させたら、それこそ観念的だと言われそうです。そして縁の下や草葉の陰で怨《うらめ》しそうに泣いている、心やさしい力のない男たちに石をぶつけられそうです。
今のところ、私のヒロインたちは、ときにはブスったれたりすねたりしても、いつか古典的ヒロインになれる日を夢見て、可愛らしく私の言うことを聞いてくれます。けれども、潜在的に欲求不満の彼女たちが、いつ私に叛《はん》旗《き》をひるがえすか、それだけが恐ろしい毎日なのです。
やさしさ地獄
世の中には、あいまいにしておかなければいけない言葉がたくさんあります。いや、その意味をあいまいにしておいてこそ初めてリアリティーを保つことのできる言葉があります。
たとえば、政治の世界での「遺憾である」という常《じよう》套《とう》句《く》です。この「遺憾である」とはどういう意味なのか、解き明かしたり深く追及しないことで国会の権謀術策は成り立つのです。もし「遺憾である」という言葉を定義づけたり、使ってはならないとのとりきめをすると、確実に国会は混乱を起こし、内閣の一つや二つすぐぶっとぶと言っても過言ではありません。なにせ政治というくらいですから、法案の裏側をいちいち国民に説明してる暇がないこともあるでしょうし、説明してかえって業務がとどこおり、国民の不利益になるという政策もあるでしょう。
が、ここまで我々が、「遺憾である」を初め、「衿《えり》を正す」「善処する」なんて言葉にだまされたふりをしてやっているのですから、「遺憾である」の連発を、もう少しテレてやってもらいたいと思う時があります。万《ばん》止むかたなくなり、涙ながらに「遺憾である」とやられたら、その偽善さに庶民は感動さえするでしょう。また、その時こそ、このようなあいまいな言葉は効力を発するのです。
もう一つ、「性格の不一致」という、夫婦が別れる時にすぐ使われる言葉があります。「性格の不一致」とはなんなのか、はっきりさせないことにおいて安心して離婚でき、その存在価値があるのです。もしかしたら「性格の不一致」という便利な言葉が市民権をもったため、最近の離婚率は増えているのかもしれません。これが問題なのです。ふんばればふんばれるものを、手近に「性格の不一致」という怪物みたいな言葉があったばかりに、ついふらふらと離婚してみようかというはめになってしまっているのではないでしょうか。
言葉とはこわいものです。慣れ親しんでも、使い慣れても、気をつけないと足元をすくわれてしまいます。「遺憾である」「性格の不一致」などという言葉を、「現代における一種の必要悪としてある」との確固とした見解をもっておかねばならないでしょう。
「旅に出ます」という言葉が、はしかみたいにはやった時期がありました。
日本のフォークが華やかなりし頃、芝居の稽《けい》古《こ》をしていてちょいと役者をどなりつけようものなら、女優さんはつつと窓辺に走り寄り、「私、旅に出ます」と言われるのでこわかったものです。台詞《せりふ》の一つをトチって、「すいません」で済むものを、すぐ「旅に出ます」です。「アホンダラ、いいかげんにせんか〓」とどやしつけても、他の劇団員たちがバックギターを弾いて合唱するものですから、ほんとやりづらかったのです。
その頃は若い女性が、白いギターとフォークの歌集を嫁入り道具として嫁ぐのがはやったらしく、世の旦《だん》那《な》さんたちは、茶《ちや》碗《わん》一つ割ってもすぐ「旅に出ます」とくるので、ほとほとまいっていました。茶碗たって夜店で買った百円ぐらいのもので、「ごめんなさい」で済むことなのです。アイロンをかけていてシャツをこがして、すぐ「旅に出ます」、みそ汁がちょっとまずくても「旅に出ます」。
実際、今どき信州信濃路なんて、行けば新聞紙やコーラのあきビンで汚れ放題です。どこかの週刊誌のタイトルにありましたが、アンアン、ノンノの京都なんてありゃしないのです。
旅なんてものは、かつて青雲の志というサブタイトルかついだ男たちの武者修行だったのです。コートの衿を立て、背中で故郷に別れを告げ、一旗あげて故郷に錦を飾るという言葉の裏打ちがあったのです。
今まで男たちが、どれほどの犠牲を払って「旅」という言葉をかち取り、そのニュアンスをあいまいにしてきたかと思うとなさけなくなりました。いつの頃からか、女子供のおもちゃにまでなり下ってしまい、ギターとフォークの歌集を携えてないと旅人だと思われなくなり、男たちは意地でも旅に出られなくなりました。
そしてようやく「旅に出ます」という熱もさめたかと安心し、早いとこ旅のもつ基本的なニュアンスを復権させようと思ったら、今度は「やさしさ」です。
最近、女性誌のインタヴューではスキあらば「やさしい人ですね」と決めつけてくれます。あまり「やさしい」「やさしい」と言われると、なにか「バカだ」「バカだ」と言われているような気持ちです。
いったい、いつから「やさしい」のが、男のほめ言葉になったのでしょう。
だいたい「いい人」とか「やさしい人」というのは、飲み屋のツケを踏み倒せない、ホステスにまで愛嬌をふるアホのことだったのです。
この「やさしさ」の押しつけはとどまるところをしりません。私のところにきている原稿依頼の八つのうち六つは、「やさしさ」についてです。二、三年前に比べますと、「やさしさ」が「やさしくしてほしい」という感覚から、「やさしくされるのが当然だ」というふうに変わっているようです。
実際飲み屋のママからまで電話がかかってきて、「最近、やさしくないじゃない」とおどされます。「やさしくない」と言われると、なにか国賊みたいで、こまめに義理欠かないようにしていますが、ほんと憎たらしい言葉です。このままいくと野球など、王に敬遠をしたら球場全体から「やさしくない」とシュプレヒコールされるんじゃないかと思ったりします。
これからは、「おはようございます」「お元気で」と言わずに、「おやさしい」というふうに変えたらと思うのです。ちょっと油断していると、「やさしさか死か」と突きつけられて、いやな毎日です。
一億総「やさしく」しといてどんな魂胆があるのかと聞きたくなります。これ以上「やさしさ」をもてはやし、特権を与えることは危険です。今に「心やさしき殺人」なんてタイトルが堂々と新聞紙上を飾ってもおかしくないようになります。
ともあれ、「やさしさ」に限らず、一つの言葉がたやすく価値基準になってしまう現代というものを、私は恐怖します。
志の高さ――女性の美
女の美しさとは、強《きよう》靭《じん》な意志に裏打ちされたかたくなさであり、魅力とは、志の高さに武装されたやさしさです。
円熟するということは、自分の若さを一度つきはなして勝ちとれるといううぬぼれのことでしょう。
メロウという言葉の発明は、死よりも恐い老いさえ手なずける自信が、女にできたことの証左なのです。
女と書いて「ひと」と呼ばれることだけにがまんしきれず、女性はここ数年で「いい女」という粋な言いまわしを発想しました。
この守備範囲の広い言葉は、脅威として男に突き刺さります。腕まくりして、「いい女でありたいの」とつめよられると、かなりの遠出を認めないわけにはいきません。まさか、言葉を組み立て、「世渡り」の策をめぐらすおもしろさを知られてしまったのではあるまいか。
もはや、男は「近親憎悪」することでしか、女へのいとおしさを発揮できなくなるでしょう。
ともあれ、女性のボキャブラリーが、おそろしい勢いで増えていることだけは確かです。
いや、ようやく、つつましくあることが、長い歴史のなかでどのような説得力も持てなかったことを思い知ったのかもしれません。
舌を出して「ごめん」の言い方や、そのときに応じて心の引き出しから、哀《かな》しみや憂いを引っぱり出し、いつまでもかわいらしくふるまえる術など、嫁入り道具の一つになっています。
男と女のライフスペース
私は、家に帰り靴《くつ》を脱ぐとそのまま廊下を歩きながら靴下を脱ぎ、ズボンを脱ぎ、シャツを脱ぎ、甚《じん》兵《べ》衛《え》を着て坐ったところが書斎だという毎日である。玄関から書斎までは歩く位置まで決まっているので、じゅうたんが足の形にくぼんでいる。
先日酒を飲もうと思い女房に、
「おい、氷買ってこい」
と言うと、
「あります」
と冷蔵庫から出してきた。私は自分の家に冷蔵庫があったのにびっくりしてしまったが、女房の、
「男だなぁ」
と見上げる目を、
「当然だ」
とにらみ返してやった。
またある日、応接間に大きな植木があったので、
「で、ありゃあなにするんだ? なんか実がなるのかぁ?」
と聞くと、
「あれはレンタルの観葉植物です」
といまにも泣き出しそうだったのは、私の無《む》頓《とん》着《じやく》ぶりがたび重なり、あまりにも情けなかったためだろう。
ことほどさように、私は〓“住まい〓”とか〓“男の空間〓”などというものに関心がない。
十数年前、大学受験のために上京したとき泊めてもらった親類の家で、男より先に女が風《ふ》呂《ろ》に入るのを見てビックリした。ウブで真面目だった私は、女が先に入った風呂がなんだか不潔で入ることができず往生した。
私の田舎は九州の山奥のカタイ家だったので、風呂はもちろんのこと、母や妹とはメシも一緒に食ったことがなかった。母は、父や兄の食事の世話や片づけの済んだあと、いつもひとりで冷たくなったものをかき込んでいた。また、私と弟は、父と長男が庭に面した明るいタタミの部屋で尾頭つきを食べているとき、薄暗い土間に続く板の間でちゃぶ台を囲んでありあわせのものを食べていた。しかし私は、そういう生活はごく普通の、当然のことと思っていた。
しかし最近は、ひとり暮しの男の下宿などでも自分の空間を楽しむためのさまざまな工夫をこらすようになっている。四畳半で焼ソバを食べるだけでも、ちゃぶ台に小びんのワインをそろえたり、トイレにサン・ローランのスリッパを置いたりと趣味的になっている。家具にはやたらに小引き出しがついていて、またその中に入れる小物もたくさん持っているのだ。しかし、どうして男にそんなにいっぱいの小物がいるのか、どういう生活にたくさんの小物が必要なのか、私にとって永遠の謎《なぞ》であろう。
また、同《どう》棲《せい》している知人などの部屋へ行くと、これは女性的、中性的な雰《ふん》囲《い》気《き》で、男がソファに坐りパンダのぬいぐるみを抱きながら話をしていても違和感がないくらいだ。
その一方で女は生活からどんどんものを省いていって空間を拡げ、男っぽい住まいを作っていっている。
もともと、男と女は日常の別々の領域を分担して責任を持って生きてきたものだ。台所は女の持ち場であり、書斎はいつも暗く重たい空気の漂う、女の入ってはならない場所だった。
しかし女は、外の世界に目を向け、仕事を持ちその仕事によりよい生きがいを見つけたりするようになって、家庭での空間を機能的、能動的に生かすことを覚えはじめた。さらに、私の周囲の女性たちが十人のうち八人までが妊娠しても途中で流産していることなどは、女性の身体が働くため、遊ぶため、ファッションのための身体になっていって、子供を守り育てるものではなくなってきているということでもあろう。だから、これからの男と女の住まいも、安らぎくつろぐための家庭というより、夫婦それぞれの友人たちが集いプレイするための空間にと変わっていくのだろう。
しかし、昨日までひとり暮しのときにはトイレにサン・ローランのスリッパを置いていた男が、おいそれと女の作る空間になじめるはずはない。そんな女を危っかしくて見ていられないということなのであろう、男の中には、インテリアなどに口出しをし、いまや自分の手で家を建ててしまう素人まで現われだした。
私は、男は台所へ入るのさえもはしたないと育てられてきた。だから東京へ来て予備校に通い始めた当初は父が、「男のくせに洗《せん》濯《たく》なぞするな!」と週一回、下宿に家政婦をよこしてくれていた。さすが友達ができてきてからは恥ずかしくてことわってしまった。また結婚してから、女房が熱を出して唸《うな》っているのでおかゆを作ってやろうと、台所で土《ど》鍋《なべ》や米を探しているとき父の顔を思い出し、がくぜんとして鍋をたたきこわした。女房は床をはうようにして飯のしたくをし洗濯をすることになり、熱はなかなか下らなかった。しかしそれ以来、ウカウカ病気になれないとの戒めを体得した女房はいたって丈夫である。
現代は、男が疲れると外でヤケ食いをし、女が酒を飲んでストレス解消をする時代である。
男というのは、本来女の所有する物理的空間を拒否していくことで、メンタルな空間を維持していくべきものである。物理的なものをどんどん捨てていくということは、ときには自分の書斎さえもくれてやろうという自信がなければならない。そしてそれが男の生活である。
いまは、男が物理的なものにこだわり、それを守っていこうとしている男の悲劇の時代なのである。
男の友情
かつて友情とは、男にとってはマリファナ以上の「翔《と》」び道具だったのです。
そして友情を美学にまで押し上げていたのは、他ならぬ女性の生活に根ざした俗っぽさであった。銃後の守りをする女の人が、家庭にこだわればこだわるほど、男は遠くに翔べたのです。
が、女の人が自立し、やたらものわかりがよくなり、「友だちと私とどっちが大事なの」と詰め寄ることをカッコ悪いことと断定し、ついに男の友情は風化させられてしまいました。男が、いかんなく友情を発揮できるには、女が友情なるものを忌《い》み嫌《きら》う、ものわかりの悪さが必要なのです。
かつてよき時代、女房が嫁入り時に持参した親の形見の品とか着物は、夫が友情のために質入れするためにあったのです。妻は乳《ち》呑《の》み児の顔を見ては、理解しようにも到底理解できない友情なるものに、ただただ怯《おび》え、しかしミルク代まで持っていく男の後ろ姿に、いけないと知っていながら故《ゆえ》知れずしびれ、頼もしく思っていました。そのけなげさに、女房を身売りさせて、男は友情を貫き、そして妻の愛にこたえていたものでした。そして女は「必ず迎えに来るからな、愛してるよ」の言葉に、またいけないと知っていながら故知れずしびれていたものでした。
男同士の理不尽な友情とは、いわば妻の愛をはかる物差しでもあった、と言っても言い過ぎではないでしょう。
なぜ、女の人が故知れずしびれていたにもかかわらず、この状況に甘んじていられたかというと、それは女のボキャブラリーの中に「友情」という言葉がなかったからです。(もちろん男は、自分が翔ぶために教えなかったのです)ただひたすら目に見えるものや日々の生活しか信じられなかった女の人にとっては、UFOや天皇陛下のお言葉みたいなものだったのです。
世の中が裕福になり、女の人の価値基準が「明日食える、食えない」が「生活をエンジョイするか、しないか」の時代になり、守るよりも「壊す」ことに興味を持つようになったのです。
男にしろ、女にしろ、誰《だれ》だって後ろ髪ひかれ、家庭なんか省みず、スジを通してみたいものなのです。「愛していながら」遊《ゆう》廓《かく》に相《あい》方《かた》を売りとばしてみたいものなのです。
女だって浮き世の意地を通すため、幼《おさな》児《ご》を捨て、男と別れてみたいものなのです。
そのためには、まず「友情」なる不可思議な言葉を解明しなければなりません。そしてそれを解明するためには、男たちが長い間培《つちか》ってきた義理だの人情などのボキャブラリーを女性のものとしなければなりません。
そして、それが成功しつつあるのです。たとえば「つきあい」という言葉も男女平等に使われ、会社から腹をすかした亭《てい》主《しゆ》が帰っても、「今日つきあいがあって」とさえ言えば夕食をつくっていなくたってわかってもらえる時代になっています。
「したたか」という言葉は、政界の大物を意味していました。「伊藤博文は非常にしたたかな男だった」という用いられ方で、一般社会の中でも「あの課長はしたたかだ」というように男性の器量や仕事の手腕を評してのことで、使用範囲は限定されていました。
が、今は「今度来た事務の子はしたたかね」というふうに、ごく当り前に女の子たちの会話の中に登場します。確かに、したたかな女も太っ腹な女も出現して来ており、もう女の言葉だけでは女の生活は支えきれなくなってきているのでしょう。つまり、女の人の物の見方、考え方が生活というものを基盤にしていないという証拠です。きっと「男っぽさ」という言葉でさえも違和感なく女性名詞になる日がくるでしょう。
男の友情どころじゃありません。女の人が子を捨て夫を捨て義理人情に生きることをカッコよく思い、その快感を知る前に、なんとかしなきゃいけないと頭を抱える今日この頃です。
愛がいっぱいの時代のなかで
親という動物は、夢を語ることをせず、自分が経験してきた恐怖を通してしか、子に物を言わないものなのです。自分たちの失敗を繰り返させまいと、すこしばかり成功した型を押しつけてきます。イヤなことの反対が幸せだと思い、親の成功は、子の成功にもあてはまると信じたいのです。早い話、朝起きる時間から、夜、床につく時間まで自分たちのペースを最良と思い込みがちで、早起きの親と同居する低血圧の子供は悲惨の極みです。遺伝でなくても低血圧の子は生まれるのです。
いまは、愛が一杯の時代で、誰もが愛されることに慣れ過ぎています。何でも、愛されることを前提に、物事を考え、組み立てています。愛だって、きっと石油なみに限りのあるもので、愛のムダづかいを戒めるべきですし、愛せば何でも肯定されるってもんじゃないでしょう。
今は充《み》たされ、ハングリーであり続けることが難しい時代です。何が欠けているのか漠《ばく》然《ぜん》としすぎていて、何を求めているのか具体的になかなか見当がつかず、飢えるという感覚が物珍しいのです。
きっと、この時代を生き抜くためには、一番やさしい人、愛してくれる人を意識的に遠ざけ、裏切っていく必要があるのではないかと思います。やさしさに食傷気味の人は、裏切ることによって精神的高揚が得られるでしょう。
たとえば、親という動物に悪気があるなら子はそれを批難し、世に理不尽さを訴え、思いっきり反抗できるのでありますが、いかんせん良識ある親が多すぎます。
だから、若者は、そのやさしさ地獄、泥《どろ》沼《ぬま》のやさしさを振り切る勇気を持たねばならないのです。親そのものを頭から否定するぐらいの意気込みも必要なのかもしれません。
ひたすら「おまえのためだ」を力説する親の思いやりや、無関心を装う親の寛容さは、暴力的ですらあります。「おまえのため」はとりも直さず、それを望む「親のため」であることに気づくことはなく、たとえ気づいたにしても親のため、親孝行という大義名分はもちだしてきます。
私の場合でいえば、親父の時代は、手に職を持たなければ喰いっぱぐれるとの恐怖があり、そのせいか、芝居を始め、賞を貰《もら》ってからでさえ、私に「せめて運転免許だけでも取ってくれ」といつも言っていました。
だから、田舎に帰る時は、ありったけの金を銀行からおろし、ポケットに入れて帰っていました。が、どこから借りてきたのだろうと疑われるばかりでした。親父にとっては免許の一つもなければ、銀行預金もできないらしいのです。
おふくろが泣き、親父もそんなにまで言うならと、本気になって運転手になろうかと思ったこともあります。今は歯医者になっている弟の時にしても、医者になると言いだす前は、私より手先が器用なせいか、すんでのところで大工さんにさせられそうでした。
親父は死ぬまで私のことを恥じていました。親父の考えているように、実際昔から、芝居をやる人間は蔑《さげす》まれ、到底、街の真ん中など歩けやしなかったものです。カンカン照りの中、筵《むしろ》をかぶり背を丸め、道の端っこを歩いていくより仕方なかったのです。住まいにしても間借りが普通で、貸家に住んでもすぐ夜逃げ、息をひそめて隅《すみ》の方にいたものです。
国の方もしっかりしていて、大正時代まで役者から税金はとれぬという姿勢でいた程です。いまは、芝居というと見た目がハデに映るのか、税務署さんは大変丁寧にいろいろな税金の払い方をこまめに教えてくれるので、いい勉強になります。
そして、このように進路相談の原稿依頼が来ますし、あちこちで〓“先生〓”と呼ばれ、りっぱな〓“文化人〓”と呼ばれており、変われば変わるものです。
でも、これは、親父の言葉どおり喰っていけない長い年月を経た後の、つい最近のことであり、三十二歳になった今でも、相変わらずのGパン姿でいます。街を歩く同年代のスーツ姿を見ては、自分も定期券を持って、きちっとした規則的な生活をしたいとの思いがチラリと頭をよぎります。が、どうしても芝居との関わりを捨てられません。
何をひきかえにして自分の道を選ぶかは、人それぞれ違うでしょうが、それに対してはいさぎよく腹をくくり、自分なりの覚悟を決めて立ち向かっていくより仕方ないと思われるのです。犠牲にしたものを後生大事に反《はん》芻《すう》するより、犠牲そのものを次の段階の踏み台にしてしまうのです。人は、他人の愚痴を親身に聞くのではなく、自分の生活の何ものかを確かめるために、相手の愚痴に耳を傾けるのです。
このご時勢、昔みたいに、手に職がなくても飢え死にすることはありません。家出した者が人買いに売られたり、かけおちをしたばかりに喰いつめるということもありません。そのつもりになれば、一生喫茶店のアルバイトで充分喰っていけます。喰いっぱぐれることがないのであったら、「決して、飢え死にすることはない」と逆手にとって、冒険してみるのもいいし、大胆に職業を選択していけばいいと思います。
大きな望みではなく、ちっとばっかりの楽な生活を望んでいるから、世の大人どもからは覇《は》気《き》がないと言われるのであります。大人だって、自分たちのことを棚《たな》にあげ、今の若者はだらしない、活力に乏しいと、ただ文句だけを言っているのではありません。かつて喰いっぱぐれる恐怖のもと、多くの欲求を抑圧してきた大人は、喰うに困らない今でも、サラ金地獄など別の欲求の落とし穴をあみだし、涙ぐましい恐怖づくりをしているのです。
人は、やさしさに慣れ過ぎ甘えることが当然だと勘違いしています。やさしさだの、あたたかさだのも度が過ぎれば有害です。しめきった部屋で長時間、練炭をたけば中毒をおこします。ときには窓をあけ、空気の入れ替えが必要です。裏切りも、やさしさに窒息しないための一つの方法です。親を裏切り、すべてを裏切り、律儀さなんてほったらかして、冗談で進路を決めてみるのも、オツなものです。
私なんか、まじめでやさしいもんだから、二十五で若手で、三十二になったいまも若手で、きっと四十すぎまで若手をやらされるでしょう。親なんて、若いモンを心配したふりをして活力をたくわえていくのです。
昔とちがって、いまは民主主義の時代です。四度や五度のやりなおしはきくもんです。
第一私がそうだった
いよいよ受験生諸君は、今まで見たくなかった知りたくなかった自分の実力をはっきり認識しなければならない辛時期だと思う。だれしも自分の力を知るというのは屈辱的なことであり、できれば、知らずにいつまでも夢を見ていたいものである。
私にしても、能力的にも体力的にも自分の力の限界を知るのが怖さに、いつもギリギリまであがいている。女房には常に「天才だ、不死身だ」とほめ続けてくれと頼み、書いたものはすべてに「すごい〓」と言ってくれと言い続けている。ことに芝居の幕のあく前一週間の不安はひどく、たとえ「へ」をこいたときでも「すごい〓」と言われたいくらいなのだ。そのくせ初日があいて好評の時には「ああ、俺は天才じゃ」とわめき散らし、うまくいかない時は、「やっぱり俺はにせものだった」と節操なく揺れ動いている。
おち込んでいるときはややもすると過去に評判のよかった芝居の批評や切り抜きを読み返してみたり、ビデオを映したり、蝶《ちよう》よ花よともてはやされた時のことを思い出してしまう。しかし、ひとたび立ち直ると「こんなもんふり返ってすがってちゃ人間としてダメになる」とビデオも切り抜きもすべて焼き捨て、あとになって資料がなんにも残ってなくて困っている。
昔、血気盛んな頃、「赤いベレー帽をあなたに」という芝居をやったことがあった。これは、私の作品の中で最高のものだとの根強い評価があって、今でも時折「ぜひ再演を」との手紙をもらうことがある。
ところが芝居の楽日に役者を全員集めてクビにし、劇団を解散し、台本を全部集めて燃やしてしまった。今台本は一冊も残っておらず〓“幻の処女作〓”と惜しまれている。若さゆえの自己嫌《けん》悪《お》とはいえ後悔はない。いまだにこれほど揺れ動いているのだから受験期は日々「天才だ」「能なしだ」とひどいものだった。
私も螢《けい》雪《せつ》時代も高三コースもあらゆる受験雑誌を毎月とっていた。本が届くと「合格体験記」ばかりをむさぼり読み、「男はやはり、一年ぐらい浪人しても長い人生においては貴重な人生経験となる」とか、「東大だけが大学といった狭い考えを捨て、大学を人間形成の場と考えることだ」などの文章を見つけては一人得心していた。
そして親には、「いやぁ、やっぱり一年ぐらいは人間形成のために予備校へ行った方がいいんだって」とおおらかに言ってたら、ほんとに浪人してしまった。(これは、私が小学校の頃からの知能テストが異常によく出来て、〓“オレは頭がいいんだ〓”とのうぬぼれで勉強しなかったのが最大の原因なのだが)
私の体験からはっきり言わせてもらうが、この手の体験記はまったくの嘘《うそ》である。まず大学は、有名な一流大学ほどいいのだし、なにがどうでも東大が一番なのだ。
げんに私の劇団では、劇団員を募集すると三千人からの応募があるので一人一人会っていられないため、履歴書をみてバカな大学の奴から落としていっている。芝居は頭が悪くてはやっていけない。実際私の劇団では東大落ちて早稲田の政経へ入った者、京大落ちて早稲田の文学部へ入った者、その他慶応、早稲田の教育学部と、皆現役合格のものばかりである。私のところのようにたかだか七、八人の小さな組織でさえこうなのだから、三井や三菱などの大きくて立派な仕事をしている会社が、本気でしちめんどくさい面接試験なんかするはずがない。
だからもちろん、新聞で「学歴無用論」など論じている批評家など必ず一流大学出身者であり、万一アホな大学を出た評論家の言うことなどを世間の人は見向きもしない。この、名もあり実もある私でさえいまだにコンプレックスが根強く、先日あこがれの東大から講演会の講師として呼ばれた時は、足がすくんで声が出ず、時間いっぱいとうとう頭を下げっぱなしで正面を見られなかった。(意外にバカ話がうけたのでアホくさくなったが)
二つめは、浪人の時の苦労など、なんの人格形成の役にも立ちはしないということだ。声を大にして言いたいが、ヘンな苦労をした人間に豊かな人間性などが育つはずはないのだ。人間形成など大学卒業間際になって始めりゃいいもんで、予備校時代カンニングばっかりで試験をこなしてきた私にして、今では人格者としたわれ、文化人ともてはやされている。体験記を真に受けて浪人した私は、今でも、「浪人生活のあの一年を返せ〓」と叫びたい。あの合格体験記書いた奴らに会ったら殺してやりたいくらいだ。だから諸君はバカな浪人などせずに、一刻も早く一流大学へ入って、やりたい放題の楽しい生活に突入して欲しい。いい大学へ行けば、有名女子大から合ハイ、ダンパ、コンパの誘いが山ほどだ。これが名もない大学などへ行ったら、女子大なんかから相手にされないばかりか、そのためどんどん人間がいじけ、目もあてられなくなりすさんでしまう。
もちろん受験勉強中は、とかく、今自分のやっていることにどんな意味があるのだろう――とか、これが将来自分のやりたいこととどうつながるのだろう――などと考えて虚しい思いにとらわれがちでもあろう。しかし、今、自分のやりたいことを存分にやっていて、石投げりゃ飛んでる鳥を落とすこともできるこの私だって、虚しく思うことなどしょっちゅうなのだ。つまらん受験ひとつ乗り越えられなかった奴など、なにやっても同じことである。
先日も私のところへ、劇作家になりたいと男の子がやってきた。聞いてみると、高三で、虚しく受験勉強してるよりも早く劇作家になるための勉強をしたいという。「ばか! 大学も通らないような奴に劇作家になんかなれるか!」と一《いつ》喝《かつ》し追い返した。こんなもの受験こわさの言い逃れに決まってる。
今、すでにここまできてしまったら、とにかく自分をできるだけギリギリの八方ふさがりの状態に追いつめることだ。たとえ人から気ちがいと言われようと、自分を追いこめるあらゆる方法を試みることだ。若くて体力のある緊張状態で二、三日眠らなくても死ぬことなどない。くれぐれも、「一月までクラブ活動やってた」など体験記の甘言にのせられないで自戒してほしい。男が大仕事を決めるにはそれなりの腹のくくり方が必要なのだから。
私の芝居もばくちのようなもので、毎日の本番が試験の発表日と同じである。生身の人間のする仕事だから結果はすぐ表われ、客もそれにすぐ反応する。私は常日頃から、芝居の内容はともかく、批評家、新聞記者へのお中元、お歳暮のつけ届けは怠りなく、決して悪い批評ののらないようにとの周到な配慮をめぐらしていく。私の仕事の場合は、確実に〓“食いっぱぐれる〓”のだから日々命がけである。
また、人間は弱いもので、すぐ楽をしたい方向でものごとを考え、あきらめがちだが、常に足もとをすくわれないようにとの警戒心を捨ててはいけない。よくいう「受験勉強は教科書に始まり教科書に帰る」などのごろ合わせにのってると痛いめにあう。なぜなら、私が試験問題を作る側の大学教授だったら、自分のライバルの教授の作った教科書に出てることなど試験問題にするはずがない。むしろ、ライバルの知らないことを問題にして、「そんな教科書やってたって俺んとこの大学は受かりっこないんだ」という意地悪をするに決まっている。
大学の先生たちだって仕事なのだから、ガキと一緒に遊んでくれようという殊勝な人などいるはずがない。ラジオ講座での、ナウな人生訓話や駄《だ》ジャレでいっぱいのおもしろおかしい講義を真に受けて、大学に夢などもったら大間違いだ。大学教授は自分の研究が忙しくて、何千人からの学生のことなど考えてる暇はない。
私の出た高校は、創立二十年目にしてやっと初めて慶応に一人合格したと村中大騒ぎするほどの山奥で、発表のその日は校長先生が家に挨《あい》拶《さつ》に来たほどだった。
その時は、去年亡くなった親父が大喜びで、「いや、このバカが行くとこなくてとうとう慶応ですもんね」と人ごとにふれ回って、浪人中「いや、うちにゃ息子はいません」とかたくなに言いはってた時のことなどつゆほども覚えてない。客が来れば「いやあ男は学歴じゃありません」、そばで母が「能がなくて慶応ですわ」とあいの手を入れるうちエスカレートして、「結局ウチのは東大ですわ」「大学なんて、入っちまえばどこでも同じですが、息子は東大です」と言い出し、私も聞かれると「東大です」と答えるようになっていた。しかしそういうことで親を満足させられるというのもいいことだと思うのだ。
ともかく、受験生諸君は、嘘だらけの「合格体験記」には目もくれず、素直な心で名誉欲や金銭欲というものをバネに一流大学に合格してほしい。「本当の勝負は社会に出てからだ」などといったところで、社会はこれからだってこの学歴社会が続くのであり、変わらない方がよいのだから。
人から「どちらの大学ですか?」と尋ねられて「モゴモゴ」答え、「え?」と問い返された時「東大です」と答えられる快感を思えば、少々虚しかろうが眠かろうが、そんなもんなんでもない。
私でも、あの時東大に受かってさえいたら、世に出るのがあと五年は早かったろうと、いまだに自分の歯ぎしりに目がさめて飛び起きるのだ。
〓“不遇〓”乗り切りのテクニック
私のところへよく若い人が、
「御一読を」
と、自分で書いた戯曲を送ってきたり持ってきたりするのであきれてしまう。そして、いやこいつらは私のことをバカにしてるんじゃないかと考え、くやしくなる。私の本を読んでいれば、そんなことはできないはずなのだから。
だいたい、どこの世界に、これから自分の商売仇になるかもしれない奴《やつ》のめんどうをみる人間がいるものか。私は受け取った戯曲は、読んでみて才能のありそうなものだったらごみ箱へ投げ捨て、ていねいに道を変えるように手紙を書いてやり、どうしようもないものだったら、さしさわりのない出版社へ紹介してやることにしている。
私だって、売れない頃は何度そういう目にあってきたことか。あの不遇の時さえなければ十年早く世に出られたのにと思うと、くやしさに未だに夜中飛び起きて壁に頭をぶっつけ、わら人形に五寸釘《くぎ》を打ちつけることもたびたびである。しかし、その屈辱や仕打ちに巧妙に振るまい、ごまをすり取り入って生き残ってきたのである。
ステイタスができ、パーティーに出たりすると、昔私がごまをすり込んだ評論家が親しげに、
「いやぁ、あの時はコーヒーごちそうになっちゃって」
と、十年前の一杯のコーヒーをいかにもかりがあるのだとしつこく言う。だから大きな声で、
「いえ、あれはごまをすっただけです。しかし、今《こん》日《にち》私があるのは、私の個人的な実力です。うせろ〓」
とどなり返している。
これはその評論家よりも偉くなってこそ言えることなのだ。まぁ、それでまた敵を多くしているので生きがいがある。
ごまをするのが卑しい行為であり、人の道にはずれていると言われるのは時や場所を選ばなかったからである。戦争中や、どさくさの大変な時にチョロチョロ立ち廻っていればダメな奴と思われるのは当り前だ。しかし、現代は妙に世間が安定しているので、取り入ったりごまをすったりすることが卑屈でない時代である。それが今日的な野性であり冒険心である。
そして社会に出たら、どう純情をとりつくろったって底が知れてるので、まずうまく取り入り、立ち廻るテクニックを身につけていって欲しい。外の世界が安定しているときには、戦争や危機のときには目が向けられなかった人間関係がより問題になってくる。誤解や中傷のうず巻く中で、ネクタイの趣味や髪型などの些《さ》細《さい》なことできめつけられたりすることがあるので、注意を怠らず気を配って欲しい。
そして一度会社に入ったのなら、仕事の他になにか趣味を持とうなどと思わずに、ごまをすったり取り入ることを楽しみにしていくほうがいい。サラリーマンに向いてる人も、向いてないと思う人もサラリーマンを演じていくことである。
さりげないミステリーを感じさせ、秘密を匂《にお》わせるサラリーマンとして、髪型やネクタイなどとは別個の敵と、戦っていってほしい。来たるべき男っぽい時代に備えて。
新しい〓“ひけめ〓”を探して
私は最近「愛読書は?」と聞かれて「サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』です」とためらわずに答えてしまうのが自分でも不思議でしようがない。もちろん「ライ麦畑でつかまえて」を読んだときには、そのみずみずしさに、ゆきずりのやさしさに出会った思いがして嬉《うれ》しくてならなかった。しかし、サルトルやニーチェでも読んでるというのがはばかられ、結局必死でひねくれたあげく「大《だい》菩《ぼ》薩《さつ》峠《とうげ》」を愛読書と決めていた時期には、こんなにあからさまに本音を言いたい放題にした、全篇男の泣き言やぼやきややつ当りの甘ったるい感傷を、まさか口に出して〓“好きだ〓”と人に言うなど考えられなかった。
これは、「ライ麦畑でつかまえて」を好きだと言っても私が何のはじらいも感じなくなったのか、それとも時代がそうなったのだろうか。
長い間私は、自分がやっている演劇などはんぱもののやるものだとのひけめ意識をもっていた。だからどんなに誘われても実家のある福岡で演劇公演をしたこともなければ、出版した本を田舎に送ったこともなかった。父は私の顔を見るたびに、「いつまで水商売やってるんだ」と嘆き、親《しん》戚《せき》の連中からも私は不浄の金で暮すやくざを見るようにそっぽを向かれた。兄の子供たちにおもちゃを買っていくにも、高価なものをやればうさん臭い目で見られ、遠慮して安手のものにすると「派手にやっててこの程度か」とイヤミを言われ続ける。たまにテレビに出てアップに撮られようものならすぐ電話がかかってきて、「隅《すみ》っこにいろ、恥さらしが!」と怒鳴りつけられた。普通こういう親子関係では陰でこっそり母がとりなし、父親が本を読んだり新聞の切抜きをしたりしているのが図式なのだが、私の家の場合は母も嘆き、私のために喫茶店を開く準備をするほどで、なおさらタチが悪かった。考えてみれば、この不肖の息子であるというひけめと「一族から恥かきが出た」という意識が私には芝居をつくるエネルギーになっているのだろう。
最近は、若い女の子からサイン帳出されれば「俺《おれ》は芸術家だ!」と蹴《け》散らしていた日々が嘘のようで、求められればテレることなくすらすらペンを走らせ、「先生」と呼ばれなければ返事もしたくなくなっている。NHKや朝日新聞などともおなじみさんで、ホイホイ仕事引き受けてはこまめにビデオに撮ったり、切抜きにして田舎に送っている。
しかしこちらの気のゆるみはすぐに客にさとられるのか、先日は芝居の最中舞台を突っ切ってトイレに行くアベックまで現われた。小さな劇場で込んでいたためなのだが、他の客も騒ぎもしない。たしかに劇場は説教を聞く場所ではなくデートの場所にしてくれとか、芝居は臨場感だ、舞台と客席の一体化だと言い続けてきたのは私だ。しかし、それにしても最近の客は本当にまっさらで、ドリフターズや漫才を見に来るのと同じに楽しんでは帰って行く。十数年前、私が芝居を始めた頃の観客は、空疎な日常を埋めるために悪場所へと足を運ぶという内的な必然性を持ってきていたように思う。そして、正業を持てないひかれものの〓“業〓”としか言えないエネルギーで、演ずる役者を支え、一緒に育っていこうとの共犯幻想があった。
劇場はもはや悪場所ではなく、河原《かわら》乞《こ》食《じき》もいない。私にしても、〓“不肖の息子〓”としてのエネルギーをかりたててくれた父も今はいない。流行のマル優探しで銀行と郵便局を使い分けようと孤独な日常に流されそうになる今、自分自身に危機感を植えつけ、新しい〓“ひけめ〓”をつくって突き進んでいこうと心を新たにする今日この頃である。
ヒーローの条件
世相はヒーローを生む。新しい世相は新しいヒーローを生み、育てていく。
十年間を一区切りでみると、最初の一年、二年は、前から引きずってきたヒーローを淘《とう》汰《た》する作業が続き、新しい世相は、古いヒーローを封じ込める作業から生まれる。
たとえば、六〇年代、七〇年代のヒーロー〓“安保・三里塚の学生さん〓”を、ひとつの思い出として定着させることも封じ込めになる。そして、それを思い出にするためには、縁日で金魚すくいやタコ焼き屋が並ぶ横にヘルメットを置いて、「これが全学連」と、売物にすればよいのだ。私が、八〇年最後の公演に、「初級革命講座飛龍伝」を置いたのにはそういう意味もある。
長島前監督の問題が後を引いているのは、単なる感情論でそうなっているにすぎない。読売新聞のコンピューターは、〓“藤田〓”で一時的に部数が落ちるにせよ、必ず盛り返せるという計算をしているはずであり、無能な管理職をクビにしただけなのだ。
八一年の世相が、ヒーローとして長島をシンボライズするには、形を変えねばならない。それが、悲劇の男になるか、ピエロになるか、わからない。
山口百恵の場合は、マスコミが結婚という形で封じ込めていったが、八一年に入れば、マスコミ、世相が、山口百恵をどう形を変えて育てていくか、という見方が生まれるだろう。
八〇年になって、長島、王、山口百恵に象徴されるヒーローたちが総崩れしていったが、これは、世相が潔い引退をしいたわけである。しかし、新しいヒーローを早急につくるのが不可能であるなら、まだ彼らにこだわって演技させていくかもしれない。いずれにせよ、八一年は過渡期にあって、新しいヒーローを生みながらも、古いヒーローを完全に抹《まつ》殺《さつ》する作業をすることになるだろう。
これから世の中は、プチブルジョワとしての認識、発想が強まる。
労働者の団結は、その昔、生活資金のアップのためであったが、現在は余裕の時代である。「クルマを買いたい」では団結しづらいのはわかるが、発想を変えて、家やクルマが欲しいということを、照れずに団結して要求しなければなるまい。「食いっぱぐれる」という団結のしかたでは余裕の時代に合わないからだ。
八〇年中に、日本の近海でソ連の原子力潜水艦が原因不明の事故を起こしたことがあったが、マスコミはそれほど騒がなかった。十年前であったら、核アレルギーで国をあげての大騒ぎになっていただろうことが、今は「たいしたことないよ」との余裕である。
また、現在、最もパワーのある集団は暴走族である。彼らは「ダサい」などという新しい言葉をつくり、風俗をつくってきた。彼らのような〓“悪〓”に対しても、社会、世相は決して全面否定せず、「走ってもいいからスピードをおとしてくれ」とか「夜だけちょこっとやってくれないか」と、鷹《おう》揚《よう》であり、寛容である。
家庭でも、十年前の父親は、「何やってんだ。オレの学生時代は勉強したくともできなかったんだぞ!」と怒り、それで息子は何もいえなくなっていた。しかし、今の父親は、「いや――、何やってもいいんだよ」というていたらくである。
何でも取り込むふところの深い日本になってしまったのだ。そして、それは逆に、アウトローが出にくい時代なのである。
山口百恵は最後の〓“河原《かわら》乞《こ》食《じき》〓”だったのだと思う。余裕の世相、余裕の発想。こういう余裕の時代には、また新しいヒーローたちを生み出していかなければならない。
江川はその器ではなかったとしても、新しい余裕の時代のヒーローには、知的で冷静、かつ冷血さが要求されるであろう。
わがライバル――ヒーロー「エガワスグル」
「たかが野球である。ただ、人よりも球を速く投げることができるだけである」
このことだけ、彼は謙虚に力説しつづけた。
しかし、その素《そ》朴《ぼく》なしたたかさを持つ天才の存在を許すほど、日本の民主主義は成熟してはいない。いや、もともと良識などというものは、凡人どものヒステリックな叫びを擁護するためにあるものである。いまは、庶民の良識とやらの前には、英雄は畸《き》型《けい》であり、天才は間引かれる時代なのである。が、たかだか速く球を投げることのできる青年の存在を許す度胸のないものは庶民とはいえない。
法は、庶民のこの勇気のなさこそ、律するべきである。
もし、この天才を育てることができなかったら、いつの日か日本の民主主義は世界中のもの笑いになるであろう。
江川卓は、絶えず無感動に薄ら笑いを浮かべ、自らの〓“天才〓”を必死でカモフラージュしていた。
「私は、ただ二十三歳の野球好きの青年にすぎない。静かに生きていきたいだけ」だと。
凡人は彼に、若者らしい覇《は》気《き》を持てという。が、どれほどか、
「ゲスどもが、ゴチャゴチャいうな。とにかくオレに投げさせろ〓 王貞治でさえ三振にとってやれるのに」
と、若者らしく気負いたかったことであろうか。
しかし、日本の天才はどうして、「計算高い!」や「思い上がっている!」などという中傷の言葉にビクつかねばならないのだろう。
計算高くなく、思い上がらぬ天才などいるはずはないのに。したたかでない天才などニセモノのはずなのに、二十年に一度の天才と評される江川をもってしても、ひらきなおれなかったことは哀しむべきことである。
この魔女狩りを見、江川以上の素質、才能を持った若者が静かにボールを置き、野望をすて無名の人としてひっそりと生きていく決心をする事態が始まることを、私は深く憂う。
新聞のコメントで、ある女流作家の、
「これだけ騒がしといて、プロに入ったら使いものにならなかったらおもしろい」
という発言を読んで絶句した。
おもしろいとはなにごとであるか〓
私を含め、心の一部に誰もがそれを願っていることは確かだが、断じて口にすべきことではない。そしてなによりも、本人がそれに一番苦しんでいるというのに、なんとはしたない女なのだろうと呆《あき》れかえるとともに、これが正直な庶民感覚なのだろうと思い知らされた。
人々は、「使いものにならない」江川を待望している。いや、のたれ死にする以外、庶民の夢としての江川は存在してはならないのである。そのときこそ、思いっきり同情してやろうと、手ぐすねひいて待っているのである。
江川は、バッタバッタと打者を三振に打ちとることを考えてはならない。予想した落下地点に十センチも狂わず、ホームランを打たせるべきである。そして、マウンドに崩れ落ちたふりをし、したたかにほくそ笑めばよい。
アーチストとしてのスポーツマンが出現してもいいころである。
演劇において、かつて、オイディプスの死はテーバイという都市国家の死であり、ハムレットの悩みはデンマークという国家の悩みであった。男の生きざま、死にざまは、そのまま歴史として刻印され、巨大なロマンのうねりを作りあげた。ドラマとは、本来そのような成り立ち方をもって、正統となされていた。
が、アーサー・ミラーの「セールスマンの死」の出現によって、この概念は根底から覆されてしまった。一介の名もないセールスマンの死が、舞台の上でドラマとしてとりあげられたのである。一介の給料取りふぜいが主役になるとは、これは画期的な事件であった。そしていつしかロマンはついえ、無味乾燥なリアリズムが、ひからびた現実の隈《すみ》でうごめく小市民のしみったれた生きざま、死にざまにスポットライトは当てられるようになったのである。
個人の力が失われたのか、国家が巨大になりすぎたのか、たしかに現代ではどうあがいたところで、個人の生き死にが国家の存亡にまでかかわることはありえない。また国家などと大上段にふりかぶらずとも、現在どのような組織を想定してみても、そのなかの一個人の死が直接その組織の死につながってゆくなどということは、ほとんど考えられない。
若者は、名もなく貧しく死んでいくのだということを知りすぎている。しかし、心の内には、「坂本龍馬が生きてさえいれば日本の開国はもう十年早まったであろう」とか、「山本五《い》十《そ》六《ろく》さえ生きていれば太平洋戦争は……」と類することを自分も言われたいと思っている。
男と生まれた以上、世界の存亡をかけた国家の密命をうけ、世界中またにかけてあるきたいものだ!
が、いま、江川卓というひとりの天才が、失われてしまったはずの、われわれの内なるロマンを甦《よみがえ》らせた。魔女狩りめいた無責任な江川批判の渦《うず》に彼が屈することは、そのままプロ野球の死を意味するのであり、なによりもロマンの失墜につながるであろう。
江川をとれなかったら、巨人軍はプロ野球機構を脱退するという。これは、歴史に残る美談である。個人のために、資本金何十億かの企業に、存亡をともにするとまで言わせるなど前代未聞のことである。男たちは限りなく彼に嫉《しつ》妬《と》する。
嘘でもいい、たとえば月刊PLAYBOYが、
「つかこうへいの〓“原稿〓”を取れなかったら、廃刊にする」
などと言ってくれようものなら、オレは狂喜し、なんとかその心意気に応《こた》えようと、手みやげにライバル会社に放火しかねないだろう。PLAYBOYを非難するものがいたら、たとえ親であろうと殺しかねないだろう。それでこそ男である。だが、そんなことはありえるはずがない。
それを、王貞治がいて長島茂雄がいる、あの読売ジャイアンツが江川と心中するという。うらやましいやら、くやしいやら……。契約金だの給料だの、そんな段じゃないはずである。そんなもん返上し、朝夕、新聞配達して生活費を稼ぎ、夜は後楽園で豪速球を投げ込む。この気概を持ち誠意に答えてくれ、エガワスグルよ。
パロディーと現代
純文学が〓“いかず後家〓”の表現方法とうがたれて久しい。このデンでいけば、パロディーは出戻り女のそれであろうか。
そして出戻り女の開き直りがこれだけもてはやされているということは、パロディーという色メガネを通してでしか超えられないほど日常が異形化しているということであろうか。
かねてから私は喜劇などという下世話なものを書いているつもりはないと力説し続けているのにかかわらず、これでもかこれでもかと喜劇作家のレッテルを貼《は》りつけられ、情けなくて死のうかと思ったこともある。不徳のいたすところとしばらく謹慎していた。もうそろそろほとぼりもさめたかと、のそりのそりと顔を上げてみるとまたぞろ「パロディー作家だ〓」とレッテルを貼ってくれた。喜劇以上にうさん臭《くさ》い響きがあって、またこれもやりきれない。
が、こうまで氾《はん》濫《らん》している「パロディーする」ということは、どのような保身術であるのだろうか。
飲み屋などに行って時たまサインを頼まれることがある。品のいい旦《だん》那《な》さんや板前さんから「センセイ」と呼ばれ、いい若いもんが気持ちのいいものである。が、私は無類のテレ性でおまけに字が下手で、自分の本でもお世話になった人に進呈する時は事務所の女の子に代筆を頼んでいるほどで、真新しい色紙をさしだされると困ってしまう。
まあ、最近、芝居に客も入り少しは売れる劇作家となってからは大らかに「筆がないからね、サインペンじゃどうも」とやんわり断われるようになったが、かつて実力だけあって不遇の時代はひどかった。私は歌手ごときでもない、タレントふぜいでもない、芸術家なんだ、バカにするな、とテーブルをひっくり返していたものだ。そして最近は、もう一まわり大きくなってか、色紙を出されるとヒョイと無意識にサインペンを握ってしまう。
が、私の名前はひらがなだし、サラサラ書き終えてしまうので相手もありがた味がないだろうと思いやるとやりきれなくなってくる。それでもいじけることなく度胸をきめて、すみっこに小さく名前だけ書いて返すと、「なにか好きな言葉を一言」とおしかえされる。
しかたなく年月日を書いても許してもらえない。ここまでくると私は恥ずかしさで血が頭に上り、やがてそれが怒りに引っくり返り色紙の中央にまるで甲子園の高校野球の選手みたいに「闘魂」と書いてやる。相手のあっけにとられた顔をみると妙に安心し、わきに「根性」と書き、これでもかと「一文字入《じゆつ》魂《こん》」と決めつける。そこまでくるともうこっちのもんで、もう一枚色紙をひったくって、舞台に仁王立ちになり腕を組み竹刀を持った私の足元に役者たちが土下座しはいつくばっている絵を描き、墨《ぼつ》痕《こん》あざやかに「舞台には銭が埋っている〓」と書き、おもむろにタバコを吸い一仕事終えた後の満足感に目を細め、色紙を見やっている。
相手は唖《あ》然《ぜん》とし、呆《あき》れ返った表情しか作れずオロオロするばかりである。
私は正直言って、相手をおちょくったりバカにして「闘魂」としたためたわけではない。私は大真面目なのである。
むしろ私ほど「色紙」という偽《ぎ》瞞《まん》性に敢然と立ち向かった者はいないと自負してもいいくらいである。
そもそも演劇人というのは、昔は河原乞食と言われ、昼日中から雨も降っていないのにこもをかぶり、道の端っこを裸足で歩かねばならない卑しい人種なのだ。色紙はおろか、形として後に残るものは一切残してはならないのだ。その野垂れ死に志向こそが、一回性の舞台において異常なエネルギーを獲得できるのである。色紙などというものは現役で戦っている者がしたためるべきものではない。
また、そもそも色紙などというものは、第一線から退かれた先生が、値段の高そうな着物を着、黒《こく》檀《たん》の机の前に端然と坐り、皿《さら》には柿などが二つほど盛られ、庭先の笹《ささ》が風に揺れる音がして、かけいの音に静けさを決めつけられ、そこで涼しげに墨をすり、おもむろにしたためるものだ。「色紙」に書いてある文字など読めず、だからこそ重さがあり、そういうのが壁に掛けられ、客が見たら「ほー、ここは由緒正しい店なんだな」と酒もうまくなる。これが色紙の色紙たるゆえんである。
私とて芝居やっていて客商売であるから無下に断れるものではない。が、あくまで芸の道を究めようという気持ちは、だれにも負けないつもりだ。しかし、私ごとき駆け出しがおそれおおくて「芸一筋」などとは書けるものではない。そのしがらみの中でフッと出た「闘魂」の悲しい響きを誰が責めることができよう。また相手にムッとされる以外どの生きざまがあろう。
私は色紙をしてパロディーにしようと企んだのではない。色紙のもつ社会性とその切実な私を有機的に拮《きつ》抗《こう》させただけである。そしてまた私は「闘魂」と書くことで、野においてそのエネルギーが初めて育《はぐく》まれる河原乞食ふぜいがもてはやされるという世を憂いているのだ。
正直な話、若気の至りとして、真夜中サインの練習をしたことがある。「芸一筋」と書きたい気持ちはやまやまである。しかし「闘魂」と書き続けることで、そのゲスな根性を克己しているのである。
そしてその時、色紙は正統に存在したと思われる。
昨年暮れ、牟田悌三氏を女形にして芝居をやる機会があった。ストーリーは、舞台をはねた女形が薄汚ない楽屋に帰って来て、女房相手に落ちぶれた身の不幸を嘆くところから始まる。
「なんて楽屋だこと。女便所がほら、そばだよ。臭《くさ》くってしようがない」
女房が「はぁ」と受けて、
「あんたたち女はなに食ってこんなに臭いわけ? ついていけない臭さだわ」
とくる。
三、四日たっても、この「ついていけない臭さ」になると牟田氏はセリフを忘れてしまう。思い出そうとしてもどうしても思い出せないという。つまり牟田悌三氏の年代の人が育った言語の土壌に「ついていけない」という言いまわしがなかったのであろう。まして、「ついていけない」と「臭さ」がつながる感覚は身につきようがないわけである。しかし若い者には「ついていけない臭さ」という単純感情はもの心ついた時からあって、むしろ他に置き換えようがないのである。結果的には、女形の特殊言語としての牟田氏の信じこみ方がおもしろかったわけであるが。世代によってのボキャブラリーの差を目のあたりに見せられて考えさせられた。
人にはそれぞれ得意なセリフやぴったりくる言いまわしというのがある。
私は十九まで九州で育ったからものを考える時九州弁ですることが多く、それを標準語に移し換えるという作業を無意識のうちにしていることがある。どうしても標準語に翻訳できないものはそのまま台本に九州弁で残ってしまう。東京育ちの役者たちもけっこう標準九州弁でうまくやってくれる。
芝居の稽古場において私の演出家としての作業は、その役者の一番リアリティーのあることばや動作を選んでやり、一番舞台の上で輝かせることである。たとえば私はよく例に出すが、ハムレットの練習で「死ぬべきか、生きるべきか、それが問題だ」という言いまわしがあるが、これがどうしようもなく嘘っぽい。しかたなく「ひよるか、ひよらめぇか、オレは知らねぇ!」とドテラ姿でケツまくらせたりするとリアリティーが出てくる。
もちろん、シェイクスピアをあがめ奉る気持ちは他のどの演出家にも負けない自負があるからこそ、そのようなせこい、公団アパートの抽選に何度も落ちているウマ面のハムレットを作り出してしまう。
それは、父を殺され母を叔《お》父《じ》に寝取られさえすれば、自分だって悲劇の人で生きることができるという庶民の憧《どう》憬《けい》があり、そうなれば、だれだってハムレットにぐらいなれらいというシラけかたに裏打ちされているのである。
必要なのは「To be or not to be, That is the question」の本質である。そしてその本質への迫り方はパロディーも何もないはずである。
また、「湯島の白梅」をエチュードで稽古することがある。「別れろ切れろは芸者の時に言うものよ。蔦《つた》には死ねと言って下さいましな」とか「死ねなら〓“はい〓”と言いますわ」とか「柳橋の蔦吉は、男に焦がれて死んでみせるわ」などと、ヨダレのたれそうな言いまわしがいっぱいあり、舞台の上で、役者がこの台詞を気持ちよく言うかと思うと腹が立ってしようがないほどである。
芸者さんなど見たこともないスナック育ちの若い男でさえ情感たっぷりで、目にいっぱい涙までためて絶叫する。そしてサウナに入ったあとみたいにスッキリした顔になる。が女の子にやらせると、下《へ》手《た》というよりも、外国語を喋《しやべ》っているみたいである。なんのことだかさっぱりわからないという。情操教育の違いであろうか。蔦吉の心情を支える情感がないのである。がどんな男も、素《そ》朴《ぼく》に、こんな女がいて欲しい、こんなセリフですがって欲しいという願望は確固としてあるらしく、それを手がかりにうまく演じることができるのだろう。
女の子の、こんなバカな女なんか信じられないという評価で演じられては身もふたもないので、「やりやすい方法でやってみろ」と言うと、青森の八《はち》戸《のへ》の漁港の、腕の太いお尻《しり》のデッカイ、笑うと歯茎が見え気持ちの悪いほどおしろいを塗った田舎芸者みたいにして、
「死《ス》ねなら、ヨッシャと胸たたくべ」
「オラ、ヤダ。離さねぇ。オラの屍《しかばね》さ超えてけ」
などと斜にかまえた男へのすがり方をする。こうでもしないとまずもたないという。そしてこの現代的したたかさが、泉鏡花が狙《ねら》った「芸者のまこと」であったかもしれないと思わされる時がある。
ハムレットでも蔦吉でも特別の人でなく、自分にとって何なのか、アパートのお隣さんとどう違うのか、一番親しい言葉で素朴な問いができる柔軟な姿勢こそが「パロディーする」というのであろう。
媚の売りかた
パチンコ台は半年に一度とか三か月に一度新しい台と変わる。ただ玉をはじくだけという単純な作業に、より潤いを持たせようという思いやりであろうが、チューリップが動物になったり野球選手になったり、その変わりようは、見ているだけでもけっこう楽しい。そして時にはドキリとさせられるものもある。去年渋《しぶ》谷《や》のパチンコ店ではやったものであるが、ロッキード台といって、右はしのコーチャンという穴に入れば丸紅のチューリップが開き、丸紅のチューリップが開いてる間に全日空の穴に入ればピーナッツがどっと満開になる台があって、汚職ルートの実体が勉強になった。
しかし、デザインが変わってもその機能自体それほど変わるものではない。玉が入れば開く。玉が入らなければ開かない。これである。そのくせパチンコ店は、黙って坐れば玉があふれんばかりの美辞麗句を並べたて、新装開店の軍艦マーチを鳴らし必死に客をつなぎ止めようとするその切実さは、同業の水商売をやっている私などは頭の下がる思いがする。しかし、どのようなこけおどしの新台を装備しようが、どのようにけばけばしく新装開店の花輪を並べようが、玉が穴に入らない限りは決してチューリップは開かないという毅《き》然《ぜん》としたルールがあったからこそ、パチンコというギャンブルに真《しん》摯《し》に取り組めたのである。
が、今日出会った中《なか》目《め》黒《ぐろ》のパチンコ店ほど客をあなどったものはない。パチンコ台の脇《わき》に「打球が連続四十五個入賞がない場合チューリップが一回開きます」とのただし書きがあったのである。
最初はその思いやりの深さに感動したものだが、しばらく打っているうちにたとえようもないむなしさに襲われていた。我々は百円玉一つか二つで一《いつ》攫《かく》千《せん》金《きん》を夢見ているのではない。セブンスター七つか八つほどの小市民的ないじましさを求めているのである。それだからこそむきになって「タマが出ないよ〓」とパチンコ台をたたき、受け皿からこぼれ床にころがった玉を便所のわきまで追いかけることができたのである。
そのパチンコ店を出た時の後味の悪さはなかった。パチンコは、もはや小市民のささやかなかけでなくブルジョワの遊びになってしまったのであろうか。たかだかパチンコだからこそ、電車代の最後の百円玉までかけることができたはずなのに。
思えばそのパチンコ屋の客の顔は暗く屈辱に満ちたものであったし、店員たちの愛想笑いの中にも「どうだ」とばかりのおごりがあったような気がした。このパチンコ店は近い将来確実につぶれるであろう。客は同情されたくなどないのである。勝負してほしいのである。うまくだましてほしいのである。そのだまし方が納得できるものだったら快くだまされる懐ろの深さはある。
最後の百円玉までスッて肩をおとして帰る客の後ろ姿にだまされてはならない。むしろ落し穴でも店の前に作っておいてつき落してやるほどの不敵さが客には快いのである。
むちゃな話であるが、もはや演劇で残された分野は観客論でしかないと言い切れるほど観客論ばやりの昨今である。
たしかに観客の意識や思考がどのようなものであるか探り当てることは、演劇を創造すること以上にむずかしくなっている。
知的に解釈をしようとか、説教されたがっている啓《けい》蒙《もう》人種や、「わからない」ことが恥と思う観客をとらえるのは、赤児の手をひねるほどたやすいことである。こわいのは、芝居を観るのをまるでカラオケスナックやディスコティックに踊りに来たみたいに、自分も汗を流してのたうち回りたいというような客達を真正面から受け止めなければならないことである。彼らはオートバイを飛ばす快感と同じものを演劇にも求める。それを当然のこととしてパンフレットの解説や言い訳など意に介さない。
本来一人で読むものである小説でさえも、「こんなに面白いのだから恋人と一緒に読みたい」が価値基準となり、「好きな子に読ませたい」から、ひいては「これならオレにも書ける」と言わせるぐらいの小説が本当にいい小説と言われる時代なのである。ともかく、最近の客は行動的であり、目立ちたがりである。
すべては、「見られる」ということが恥ずべきことではない時代になったせいであろうが、ハイジャックされた人質たちは、乗っ取り犯たちの制止も聞かず手記を書き始めるというし、救援物資を頼むにも水や食料よりもまず「テレビカメラ」をと連呼するそうである。
演劇においてもしかりである。悲しい場面になると泣くし、ちょっとおかしな時には笑うというその慎みのなさといったらない。その客の節操のなさに、全くカメラを持って舞台の上から十分おきに客席を写してでもやらないことには、芝居を見てくれないし、オチオチ芝居もやってられないと、役者たちが嘆くほどである。とにかく隙《すき》あらば舞台の役者よりも目立ってやろうと狙《ねら》っている客が多すぎる。
三月三十一日の成《なり》田《た》空港開港を目前にした日曜日、テレビを見ていると、過激派が管制塔をのっとるのが生中継されていた。この騒ぎを独占中継していたテレビ局のスタッフ達は大喜びだったらしいが、またそういう場面に立ち会えたことに、私自身も僥《ぎよう》倖《こう》に思うのだがどうもしっくりこない。
過激派の連中は、さすがテレビカメラに向って手は振らなかったものの、私のように古い人間は、管制塔をぶち壊す前にどうして中継車をぶち壊す潔癖さが憂国の士たちになかったのかと腹立たしくなる。彼らは朝刊のテレビ欄を見て、中継に合わせて決起したのではないかとさえひねくれたくなるほどである。
革命でさえ、他者にその働きぶりを見せる要素が必要になってきた時代であろう。いや自分の革命の理念に自信が持てず、アップを何回撮られるかにおいてその正しさを検証しているのであろう。古き良き時代のように革命という言葉が、大衆の根源が希求する甘さを持たない現在、それはもっともなことかもしれない。舞台もそうである。客が役者の一挙手一動作に目をこらす時代は去り、役者をして客の鼓動を観察せしむる高さをもって演劇という時代である。
客と戦い感動を共感することをして、現代の観客論という。
努力しない客たち
私たち芝居をしているものにとって、初日の緊張ほどみじめで嬉《うれ》しいものはありません。役者たちはキリキリして、リポビタンDを二ダースも買ってきて大きなやかんにあけ、カーッと飲んではカーッと楽屋の床に吐き散らします。興奮は受付にも伝わって切符切りの女の子も役者からやかんを奪い取り「今日は燃えるわ!」とカーッと飲んでカーッと吐き散らします。
とくに、地方公演で初めての劇場でやる場合など、緊張はいっそうひどくなります。それぞれの劇場には必ず音の死角というものがあってその空間には音がこもってしまうのですが、その死角を探して役者たちは開場の寸前までクマのように客席をウロウロして歩くのです。下手に口出ししたらかみつかれるのではないかと思うほどの形相です。
また、舞台の大きさ、客席の広さ、客の質なども考えて芝居の微妙なニュアンスを変えなければなりません。地方での公演は一回だけということが多くドジは踏めないと思うと、ついハッタリに陥りやすくなります。
照明では床やじゅうたんの色を考慮し、音響は建物の中の劇場の位置によって、開演前、終演後の音をつくらなければなりません。劇場が一階にあれば、客はすでに芝居をみるための準備ができているので開演前の音楽はいりません。終演後の音楽の方は、ビルの上にある場合、エレベーターで外に出るまでの臨場感を長続きさせるため長めにするわけです。
さらに演出家は、役者の家庭のもめごとや夫婦仲、女優の生理やら客の状態を推しはからねばなりません。前夜、ホテルでマージャンに負けた役者が尋常でいられるはずはないのですから。
役者の芝居は、それからが勝負です。
福岡に公演に行った時、終演後楽屋に来た母が真剣な顔で、「おまえ、書けなくなったのかい」と詰め寄り、「ハングリーじゃなくなったんだって」と泣き伏したので私は往生しました。聞けば、客席で開演を待つ母に男がやってきて、「かつは最近筆が乱れている。あいつはステイタスが欲しくなったんだ。初心に戻らねばいかん。それになんだ〓 バカもやらなくなった」とまくしたてたのだそうです。さすがの私も頭にきて、「オレはかつじゃぁないっ。つかだ〓」と叫び、母に「男が三十すぎてバカばっかりやっていられるか。しかし、あいつはバカやるもんだと期待されていてバカをやるのも大変な才能なんだ」と納得させるのが苦労でした。
(とは言うものの、私は三十すぎてからは能、歌舞伎志向のところをチラチラ見せ、姑《こ》息《そく》に歌舞伎や能の専門家に招待状を送ったりしている。しかし次の公演になると、「いや俺は間違ってた、バカやるぞ〓」と送らなかったりするのでもらう方も戸惑っている)
母に文句をつけた男はそれだけでは飽き足らず、旅公演の行く先々に出没してはロビーやら受付などで、私の芝居の筋や評論家の劇評、芝居のテーマなどベラベラ喋り散らし、あげくは本番になると「お、平田トチった」「風間! 声が出てないっ」とわめき、ほとほと困り果てました。
むかし、私も気合いの入っていた時にはカーテンコールなどしなかったし、役者たちにも、ファンが花なんか持ってきたら蹴《け》っ飛ばすように言ってあったのですが、適度なステイタスももった最近ではまろみを帯びてきて、プレゼントをもらっている役者たちを横目に「まあいいじゃないの」と鷹《おう》揚《よう》になり、気がつくとどさくさまぎれに私も花束など押しつけられたりしています。
そしてあろうことか、時には色紙など頼まれて墨《ぼつ》痕《こん》鮮やかに「ガッツ」としたためたりすることもあります。それにつけても「つかこうへい」というひらがな六文字はなんともバランス悪く重たさに欠けるので、サインするたびに、なぜこの日のことを考えてもっとしっかりしたペンネームをつけておかなかったのかと悔やまれます。しかしこういうダレはすぐ客に通じるらしく、土足で楽屋に上りこんで、メイキャップのダメ出しをする奴も現われだしました。
少し前まで、私はテレビに勝ちたいと思っていたので、よく「私の芝居で若い男の子と女の子がデートしてくれるのが夢です」と書き、また喋ってきました。ところがこれが私のあさはかなところで、客はハナからそのつもりで来ていたのです。最近の客は本番中さんざん笑ったあとで隣の男のネクタイを直したり、しみじみと泣いたかと思うと女の耳に息を吹きかけたりで忙しく、みんなリラックスしているのです。もちろん役者と一緒にセリフをトチってくれたり、親身になってくれる育ちのいいひと握りの客はいるのですが、客席の端にうつ向きかげんで坐っています。
幅を利かせているのは、さんざんリラックスしておいて、そのくせ帰る時、「なに見たんだっけ?」みたいな顔をして出ていく客や、「もっとおもしろい映画やマンガがあったのに来てやったんだ」との脅しとも思えるほどのこわもてに、こわくて文句も言えないような客です。かと言って、途中で「つまらない」と立ち上って帰るわけでもなく、見届けてやろうというつもりか腰を据《す》えているのです。しかしそういう客は、「おもしろくない」とふれ回って歩きもしないかわりに、二度と来ません。
むかしの、役者と闘おうという気概にあふれた客は、「あんなつまらないもんは存在してはいかん」とふれて回って、次の公演にまた「さぁ、今度はどうだましてくれる」としつこく見に来てたものです。
私と〓“石油文学〓”――パロディー再説
おかしな話なのだが、本《ほん》郷《ごう》あたりの古本屋の主人が、
「マンガ本が売れているので儲《もう》けはあるのだが、どうもむなしい。近頃の東大生は万引しなくなった」
と嘆いているという。
万引されなくて困るというのもおかしな話だが、昔は真《しん》摯《し》なまなざしの苦学生が、毎日書棚の上の和辻哲郎の「古寺巡礼」をじっとながめては帰り、翌日も、またその翌日もやってきてはその背表紙を見上げては帰って行く。「今日はまだかな」あいさつこそ交《かわ》したことはないが、もうお互いに意識はしており、学生の来る時間を店主が気にし始めた、そんなある日、ふと例の書棚を見ると和辻哲郎がない。「しめた!」犯人はもちろんさっきまで店内にいた例の学生だ。大急ぎで追っかけ、涙ながら若い学生を警察へつき出す。言葉こそかけてはいないが、店の中で毎日会ってはその互いの存在を確かめ合い情も湧《わ》いてきた前途有望な学生を前科者にしてしまうのだから、その快感はこの上もない。
一方、手ぐすねひいて待っていた警察官は「しめた」と、殺人を犯したものよりも厳しい罪を科すが、身銭をきって買った「古寺巡礼」を留置所の学生にそっとさし入れることは怠らない。ここには、本屋の店主には店主の、警察官には警察官の、若い苦学生をつかまえてつき出す快感と、向学心に燃えた苦学生が買いたい本も思うように買えない社会への怒りとのギャップに、それぞれ苦悩の日々を送ったものだ。
ところが、最近の学生は美人コンテストだの、「〇〇ちゃんを守る会」だのばかりにうつつをぬかしているので、当然本など読もうはずはなく、古本屋は古本屋としての胸の高まりを久しく味わえず嘆いているのだ。当時のあかじみた学生服に身をつつみ、書棚をながめ、手にとって、しかし、ついに買うことのなかったハングリーな学生の面影は、みじんもうかがえない。
しかし、古本屋の店主にだって問題はある。再び、かつての胸躍る、万引する人間とされる人間どうしのヒューマンな緊張感と快感をもちたいのなら、店頭には、それ相応の本を厳選して並べておくべきなのだ。ところが現実は、マンガやエロ本を山積みしているこの無定見さで、再びあの日々の高揚をとは虫がよすぎる。そういう緊張感は、しっかりと本を読みそうな、苦学生の集まっている地域を捜して店を開き、また、そういう学生が万引してくれそうな本を用意することだ。ある日突然気づいて「万引してくれない」と、嘆いてもとり返しはつかない。しかし考えてみれば、いまはみんな金持ちになっていて、苦学生なんかいやしないのかもしれない。
だからこそ、今私たちは、はっきりと自分が身を置く社会の豊かさを見極め、その悲劇について、考え直さなければいけない時なのだ。
先頃の長島解任についてもそうである。
あれは、読売という会社のコンピューターが、今長島をやめさせて、読売は人情がないのか、と攻撃されて二、三年人気が落ちることよりも、このまま続けさせて、将来減る客の大きさの確率の方を選んだだけのことである。つまり、解雇してもいい観客動員ができる余裕ができたということである。
しかし、冷静に思い直せば、その長島を監督として飾っておけなかったという、日本の民主主義の豊かさが恐《こわ》い。さらに大げさに言えば、私はこれが〓“徴兵令〓”につながる恐怖さえ感じるのだ。マスコミはこれから、民主主義における「悲劇の主人公」としての長島を作り上げる作業をすることなく、一個人として抹《まつ》殺《さつ》していくだろう。
私は、今年八月の中旬から、むりやり休みをとって、大《おお》島《しま》に運転免許を取りに行っていた。休養もかねて、電話も容易にはかからないようなところで、毎日八時間コースというのにだまされてしまったのだ。
学校といっても、高校出てから十四年の間、出席とられたりする機会もなかったので、高校時代はただの苦痛だったことが楽しくてしかたなかった。毎日早起きし、自動車学校で「つか君」と呼ばれ「はい」と返事することは心地よく、一時限が六〇分の授業をものともせずこなした。
普段の私の生活は、まず芝居ならやりたいときから始めて、したいだけ真夜中まででもやるし、原稿など依頼されてもきちっとした締め切りのあるものなど「書けません」とことわってるためか、規律の中での新しい生活が、発見もあり新鮮だった。
それにしても、私たちが子供の頃は、まず自動車に対する恐怖があったが今の子供たちには全くなく、むしろ母親の一部ぐらいに思っているところがある。「あーあー、おかあさん」とスタスタ車に寄って行ってひかれる例もよくあると聞かされ、絶句したものであった。
そういえば、私がテレビなるものを知ったのが小学四年のときで、「テレビからは頭を悪くする電波が出るので一日一時間以上見てはいけない」と言われていたが、今の子供にとってのテレビはビタミンTVであって、生活の一部となっている。
自動車だって、小学校入学前の祖父の法事に乗ったハイヤーが最初で、ずっと自動車をハイヤーと言ってたくらいだ。
その記憶はいまだに続いており、また、もともと朝食にトースト食べたり、鉄の塊《かたまり》が空を飛んだり、道路をころがったりすることが信じられない人間なのだ。その上もともとあがり性なので、いざ教官が隣に坐ったとたん、目がかすんでドキドキして、ただ、
「キイをさし込め」
と言われただけなのに、ありかがわからず、なかなかさしこめない。
そのくせ信号機にさしかかり、赤や青に変わるのを「うむ」とみとれて怒鳴られたりする。どうも、ハイヤーに迎えに来てもらったりの、いつも誰かが運転してくれている生活に慣れてしまった悪い習慣だ。つくづく自分には運転なんて向いてないのだとの深い自己嫌《けん》悪《お》に陥り、東京を出てくる時にディーラーを呼びつけて車を買う約束をしてしまっていたので、手ぶらでは絶対帰れない。また十六日間で取って必ず帰ってくると言ってるので、事務所では翌日からビッシリ仕事の予定も組んでいる。一日のびればホテル代も授業料もかさんでくるので死ぬ思いであった。
実際、教習所では、「たかが免許」など間違っても言えず、私だけでなく他の受講者も皆オロオロしていて、タチの悪い教官にいびられて全人格を否定された気になって、自殺さえ考えた人まで出たくらいだ。
当初は、東京から来た先生ということで島中あげてワイワイちやほやしてくれていたのが、実地が進むにつれて、
「東京じゃあ、なにやってんのか知らねぇけどよー」
と、露骨に私の不手際ぶりに文句を言い始める。となると私のおだてられないと励めない性格上、いよいよ技術が身につかない。学校側も、「能がないのであげられない」と言うわけにもいかず、
「どうかわかってくれ」
と、ある日とうとう校長に泣きつかれた。
「実は、はっきり言いますが、ドキドキしているのはあなた方よりも私です。〓“自分はもう免許なんかとれないんじゃないか〓”と途中でほっぽり出す人が一人出るたびに身の縮む思いをしているのです」
と言う。
つまり、教習所を開くには国から認可をうけることが必要である。そのための条件として、受講者の最低九割に運転技術をマスターさせる義務があり、教習所としてその能力をもたねばならない。しかし百人の教習生のうち、その中の五人はもともと運転に向いてない人であり、受講途中で不幸があったりとかの事情で十人はやめてしまっても仕方ないだろう。しかし、残りの九十人はどうしても合格させなくてはならない。教習所存続の問題で、教官たちの死活の問題なのだ。自動車産業界からの圧力もあり、是が非でも卒業させねばならないのだという。だから教官たちの「九割合格〓」の入れ込みの激しさにもやっとうなずくことができ、
「十六日間で帰れるかしら」
との私の心配など、校長の話の前にはいっぺんに吹き飛んでしまった。
そして「私がその九十人めかもしれない。私が落ちたらこの教習所は国から免許を取られてしまう」と考えたら翌日からは驚くほどのスピードで上達してしまった。大義とか、お上とかを相手に考えたとたん発揮される私の底力は、自分でもほれぼれするほどだった。
東京へ戻って車を買う段になり、知人にいろいろ相談したあげく、ステイタスもあり、将来も実力もあるので格好のつくベンツが一番ということになった。
ヤナセに行って乗りこんだとたん、
「おい、あの丸いの、いつも前にあるあれがないじゃないか」
と聞いたら、社員に、
「ハンドルなら隣にあります」
と言われたのが大きな発見だった。金がなくて買えなかったが、かえってよかったと思っている。
そんな中での唯一の楽しみといえば、半日遅れの新聞とテレビで、滞在中、対馬《つしま》沖でソ連の原潜が故障し放射能が洩《も》れたのではと騒然となったことがあった。
原潜が日本の領海を通過するまで、自衛隊の巡洋艦がついて回っていたが、新聞では連日ソ連の傍若無人ぶりを糾弾し、特殊な計器によって、かりに放射能が洩れることがあれば、すぐにでもソ連に申し入れするとの論調であった。しかし私はその新聞の字づらから、「放射能洩れなど決してあってはならない」との記事が実は建て前にすぎないことを感じとっていた。
しかし、もはや現代は左翼であることがカッコイイ時代ではなく、右翼であるふりをすることの方がカッコイイと思われる時代である。今、日本の政治を考える上で、放射能洩れのないように望むことが確かにいいことなのだろうか。
日本の国民や真の政治家は、本当はソビエトの原潜から放射能の洩れることを望んでいたのではないか。
もし対馬沖に放射能が洩れていたとしたら、たとえば北方領土を返してくれないまでも、何年後にはお返しします、との暗黙の了解ができていたのではないか。さもなくば、いつものサケ、マス漁業交渉の場でも、もっと強気に出ることができるのではないかと考えてしまう。
人の家のちゃぶ台に土足でのっかってきて、いくら「毒はない、毒はない」と言われたところで、そんなことは通用しない。だから、特殊な計器で測定した結果、全く放射能の出なかったことに歯ぎしりし、くやしがった人達がたくさんいたに違いないのだ。
その記事の出た八月は、甲子園の高校野球の優勝決定戦の、まさに愛甲ブームの終わった翌日だった。しかし、対馬沖での放射能洩れの事件は、実はもっと以前から事件として起こっていたのではないか。政府が時期を選んで意図的に発表させたのではないかと思うのだ。
つまり、高校野球の白熱した空気に日本中盛り上がり、翌日ソ連船の横暴さを見れば、冷水をかけられた思いで、憎しみが常よりも増すことは確かなのだ。それにしたって、日本という国だって、なぜ今こんなにソビエトに強気に出られるかというと、中国と仲よくしているという自信があるからである。(まだ仲たがいしてた時期だったらほんとにどんなに恐ろしいことか)十年前の日本だったら、ソビエト船から放射能洩れがあったりしたら、国民全員で赤十字の白ハチマキでアレルギーになっていたのだが、今のプチブル生活は「少しぐらいはいいじゃないか」の余裕ができている。
さらにまた、石油危機というのも、石油がなくて値段が上がったのでなく、石油をふんだんにもっている大国のソビエトやアメリカが、上げていただけのことである。ソビエトはシベリアの奥地に、アメリカも砂漠の中に石油資源を見つけていたのだ。しかしそれを開発しても、現在の値段では採算がとれず、採算をとるために値を上げ続けていたのである。
これがパロディーの構造である。
私は、万引する苦学生であり、放射能をまき散らす原潜である。
八〇年代の本当の政治家というのは、放射能を自分でまき散らしておいて「放射能が出た! 放射能が出た!」と大騒ぎしておき、「北方領土を返せ!」というほどの策士でなければならない。それが八〇年代の政治家というものだ。
八一年、私の演劇はいよいよ石油をテーマにした舞台づくりに励むつもりである。これからの演劇は、石油なくしては語れない。
私の文章修業
作家のくせに原稿用紙の枡《ます》目《め》に字が書けず、何年も劣等感にさいなまされている。まず縦書きができないのだ。別段テレることはないと思うのだが、毎度編集者に横書きの大学ノートを渡すと露骨にいやな顔をされることがやりきれない。とにかく原稿用紙を見るだけでもジンマシンが出るくらいイヤでしようがないのだ。しまいには、たとえ原稿用紙であろうと、雑誌社と印刷所のおしきせ型にはまりたくないという高貴な精神が、今日の私のオリジナリティーをあらしめるのだとうぬぼれたりする。
しかし考えてみれば、小学校から大学まで十六年間、ノートにそれも国語のノートを取る時でさえすべて横書きに字を書いてきたのに、作家になったとたん原稿用紙に縦書きに字を書かねばならないなんて、ずいぶん理不尽な話である。
実際、ボールペンで、大学ノートの切れっぱしにねずみ年生まれらしくちょこまかした字で書き綴るとすらすらアイディアが出、思考もまとまる。四百字詰め原稿用紙などに向かうと肩に力が入って、やたらにむつかしい言い廻しをしたり、日頃使ったことのない漢字を使ったりする。きっとこれは私の貧乏性のせいであろうか。そういえば、マイナーな雑誌にはひらがな七、漢字三ぐらいのわりあいで軽く面白いものが書け、有名出版社や新聞社からエッセイなど頼まれると、その比率がひらがな一漢字九ぐらいまでになり、あとで自分で読んでもわけがわからず、己のあさましさに自己嫌《けん》悪《お》に陥ったことが何度もある。
万年筆もそうである。先日出版社から見るからに重そうなモンブランの万年筆を贈られ気が重くなってしまった。立派な原稿は、でっかい万年筆と黒《こく》檀《たん》の机の脇《わき》にチンチンと音をたてる南《なん》部《ぶ》鉄《てつ》瓶《びん》、そして着物姿の中からできると相場が決まっているらしく、私のように喫茶店の喧《けん》噪《そう》の中でしか落ち着いて書けない現代っ子にとっては酷な話である。
「一字一字あぶら汗を流しながら原稿用紙に刻みつけろ〓」と編集者から注文されるが、芝居の稽《けい》古《こ》場《ば》の片《かた》隅《すみ》で役者達と雑談しながら「ほれ、一ちょう上がり」との性癖は一向改まる様子はない。どう転んだところでちょいとした思いつきに鎧《よろい》兜《かぶと》を着せてるだけだ。今さら処女面はできない。
大学の時は小型のテープレコーダーが流《は》行《や》っていて、真面目にノートを取ることなどしなかったせいか私の字はとてもきたない。新しく本が出来て贈呈する時は、やむをえず劇団の字のきれいな女の子にサインの代筆をしてもらっている。正直な話「つかこうへい」というペンネームをつける時、なぜ将来サインをする時のことを考えなかったかと今でも悔いている。もっと字画の多い漢字だったらどさくさにまぎれてくずしようがあるものを、いかんせんひらがな六つでは字の落ち着きのなさを隠しようがない。悪筆を編集者に見られるのがいやで作家をやめようと思ったことが何度もある。市井には才能がありながらモンブランを使いこなせなかったばかりに、また、着物姿に自信がなく、志半ばにして倒れた人も多いだろう。それを、自筆原稿を公開する人がいるというから負ける。
先日「ぼくらの時代」で江戸川乱歩賞を取った中島梓氏との対談が予定され、ゲラが間に合わず氏の作品を生原稿で読まされたが、人の本《ほん》棚《だな》盗み見るように恥ずかしく、実にワイセツな感じであった。
もともと私は演劇人であって、小説など書くことを夢にも思っていなかった。が、根がお調子ものであるし、おだてられるとすぐその気になるという、現代を生き抜くにはもってこいの性格ときているのでついのせられただけである。
最初の小説の時、締め切りギリギリ、私は名作が出来たと自信満々出版社に持って行くと、小説作法とやらがメチャクチャで担当の編集者がまっ青になったことがある。ちょろいもんだとホラ吹いてた私もいけなかったが、編集者から「小説じゃない」と頭ごなしにどなりつけられても「ああそうか」とは思いきれなかった。書き言葉でなく話し言葉で育った世代、小さい頃からテレビの前に坐らせられていた世代にとっては、編集者の言う、〓“小説作法〓”なるものがピンと来なかった。
たとえば、「……俺は酒場で一人祝杯をあげるのだった。しかし、彼は背後に狙《そ》撃《げき》者《しや》が近づいているのを知らなかった……」というところを指し、編集者は口から泡《あわ》を吹いていた。
「メはどこにあるんですか! メは」
ほんとに彼の目は虚ろであった。私には何のことかさっぱりわからず、
「オマエ、大丈夫かぁ。なんのメだ?」
と彼をさとすものかは、彼は私の手を振り払い、
「締め切りが、締め切りが……」
とうわ言のようにつぶやいていた。かと思うと急に観念したかのように坐り込み、目を据《す》え、
「作者の目ですよ。視点はどこにあんですか」
と二百枚からある原稿を壁に投げつけた。
「〓“俺〓”と〓“彼〓”は同一人物なんでしょ〓」
その目は血走り、私の胸倉をつかんだ。
「あたりめぇじゃねえか」
「正直白状しなさい。今ならまだ間に合います。あんた、今まで小説読んだことないでしょ」
「…………」
「サギじゃないですか、あんた。一人称も三人称も知らないんですか」
「好きに書けって言ったのオメェじゃねぇか。今さらイチャモンつけるなんてキタネェぞ」
ゴクリと大きく息を飲み彼は天井をあおいだ。
「いいですか。よく聞いて下さい。小説はね、俺か彼かどっちかに統一しなきゃいけないんですよ」
「このままでわかんねぇか」
鷹《おう》揚《よう》に問う私に彼はつっかかるように言った。
「わかりますよ」
「じゃいいじゃねぇか」
「視点はどうするんです」
「……客席にあんだよ」
「劇画なんだよ、あんたのは」
一事が万事こうで私も逆上し、「なんで主語とか述語がいるんだ」と本棚からフォークの歌集をもちだし反論したのも、私の文章修業としていい思い出である。
ほんとの話、いまでこそ笑い話になるが、打ち合わせといっては劇団員を十人近く連れて行き飲んだり食ったりし、ホテルにカンヅメにしてもらっては原稿書くのそっちのけでホテルのバーにボトル入れて飲んだり、
「いやぁ、出版社からカンヅメにさせられてねぇ。売れっ子はつらいよ」
と田舎の同級生に電話しまくり、担当の編集者は会社に辞表を提出しようと思い詰めていたらしい。
でも何度も言うようだが本職は演劇人で私の視点は客席にしかないのだ。
「俺は酒場で一人祝杯をあげるのだった。しかし、彼は背後に狙撃者が近づいているのを知らなかった」
で何一つおかしいところはない。
「彼は」と統一して失われるニュアンスの方が大きく思えたのだ。だが、テレビから一方的に話しかけられて育った私たちは、それ以外の臨場感の出し方を知らない。
話し言葉の世代
マンガの登場人物たちが喋《しやべ》る、言葉の入ったかこみをスピーチバルーンというが、その字面を追って読む人はいないだろう。バルーンの中の言葉は、ページをめくった瞬間に音となって、絵と同時に人の目に飛びこんでくる仕組みになっているからである。しかし絵が言葉を捉《とら》え、言葉が絵を打つ拮《きつ》抗《こう》関係の中で、想像力をやしなうことは現代において不可欠のことである。また、それをよみとるには相当の力量がないことにはできるものではない。マンガというと、まるで亡国の書のように言う手合いがあるが、とんでもない話である。時代の要請に素直に順応するための一手段として若者が選びとった媒体は、マンガとテレビであった。
このマンガを読む姿勢というのは、絵と音の同時伝達性という点において、テレビを見る態度と非常に似かよっているように思う。
私の家にテレビが侵入してきたのは、たしか小学校四年の時であった。いま考えると、テレビがない時代、どういう「間《ま》」のもたせかたで食卓を囲んでいたのか見当もつかないほどである。見当がつかないというより、ゾッとする。
しかし最初は、テレビというもう一人の家族を突然おしつけられ、その饒《じよう》舌《ぜつ》さや慎みのなさに随分戸惑っていたと思う。そのせいか、一人旅に出てもその土地の喫茶店のざわめきでしか安らげない私たちの世代の人恋しさと人煩わしさの入り混った奇妙な性癖が、できあがったのではないかと思われる。
その点いまの子供たちは、ものごころついた時からテレビに話しかけられている。そして、テレビをつけたまま食卓を囲むことは、正統な食事作法であり、もしかしたら〓“ビタミンTV〓”という消化促進剤が体内にできていて、テレビを消して食事をしたら子供たちは消化不良や下痢をおこすのではないだろうか。
絶えず誰かに話しかけられ、とりあえず即答していかなければならない時代の児の運命として、決して静寂さの中での孤独を望んではならず、喧《けん》噪《そう》の中で孤独に耐えるすべを獲得しなければならないのである。
また、テレビにしたところで多人数で見られ、レコードにしても仲間同士で楽しめるというのに、恋人と肩寄せあってできない読書などに魅力があろうはずがない。楽しいお喋りの中にこそ明日の時代を射抜くエネルギーがひそんでいることは、若者にとって信じて疑わないことなのである。
つまり私たちは書き言葉で育った世代ではなく、話し言葉で育った世代なのである。
たとえば、手紙を若い者が書かなくなったといわれるがそうではない。ただ活字だけで表現できる心情に慣れていないだけなのである。絵面をともなわない文字など、現代では伝達方法ではないのである。伝達したい心情の数も大幅に増えているために、書き言葉は話し言葉の速度についてはゆけない。現代における表現は、口から泡を飛ばし、身ぶり手ぶりを加え、喋り続けることによって成立しているといってもよいだろう。私が表現者として演劇という手段を択《と》るのもこのためであり、劇を構築する課程において、台本も使用せずに口立てでセリフをいれてゆくのも、このためである。
人は街を歩く時でさえ、言葉だけではもの足りず、おどけた表現をつくり、テレコをしょってバックグラウンドミュージックを流しながら歩いている。心の奥底に言葉だけでは表現し得ない何かが漂っているからこそ、彼らはそうするのであろう。
戯曲の中の方言
飛行機でその日のうちに往復ができるので、九州で仕事があっても、飯《いい》塚《づか》の実家に寄ることさえなくなっている。わびしいかぎりである。
今は、雑誌の正月号の締切日がかさなり、この原稿もホテルにかんづめにされて書いている。
無論、某雑誌の小説を書くあいまに書いているのであるが、編集者はとなりの部屋におり、かくれて書くというありさまである。私が根がいいかげんなものだから、他社の原稿を書くのではないかと、口にこそ出さないが、十分おきくらいに顔を出す。
自分の事務所に用があって電話でもしようものなら、
「どこに電話してんだ、ダイヤル回す時間があったら手をうごかせ〓」とどなりこんでくる。
夜こそっとぬけ出して飲みにいった時、一晩中寝ずに待たれていて、大変な目にあったことがある。
こんな状態が、もうかれこれ一か月以上もつづいている。私は芝居の最中、書きものはいっさい引き受けないことにしているから、公演がおわると死ぬ目にあう。
いつも、今度仕事がおわったら、もう止めようと思うのだが、妙な義理にしばられて、引き受けざるを得なくなってしまう。
それにしても、九州にはもう三年以上も帰っていない。ゆっくり中《なか》洲《す》などで遊んでみたいものである。でも、上京して十年以上になるから、すっかり様子が変わってしまったろう。
しかし、妙に九州弁がなつかしく、たまらなくなる時がある。秘密であるが、戯曲を書くときは、正直な話、一度、九州弁で組み立ててみて、あとで標準語になおすという作業をしている。そのほうが、発想も飛躍するのだ。そして、どうしても標準語になおせないニュアンスのところは、九州弁のままにしておくのである。
だから、私の戯曲などに使う九州弁は、標準九州弁というものである。よく誤解されるのだが、決して私は方言の強みをもって組み立ててはいない。
私の作家としての修業が成ったら、私の戯曲からは九州弁はなくなるはずである。その時こそ私は、郷里というものを明確にとらえることができるであろう。
よろこばしいといえば、よろこばしいことかもしれないが、これもまたわびしいかぎりである。
下手なイイワケ
演劇界ではつかこうへいブームといわれ、幕を開けさえすれば客はすずなりで、劇場の前には、切符が手に入らず泣き出す客さえ出る始末である。
それなのに、私はあっちこっちかけずりまわって、
「タダでもいいですから、見にきて下さい」
と、頭を下げまわっている。
日ごろ、私を先生と呼び、
「来月、うちの雑誌におひとつ七十枚ばっかのやつを。なあに、ちょろちょろとあそんでやって下さい」
と平身低頭する編集者も、
「こら、つか。銀座のバーの女が見たいといっとるから、チケット二、三枚用意しとかんか、ついでに俺《おれ》も目をよごしにいくわ」
と、とたん横《おう》柄《へい》になる。私もなぜかもみ手して、
「はっ、お二人さんですね、どうもありがとうございます」
と、帰りぎわにおみやげお車代まで渡してしまう。それでも、見てくれたことにひたすら感謝するばかりなのである。つくづく演劇の成り立ちのみじめさを痛感する。
演劇には、「一回性を生きる」という言葉がある。最近はビデオ装置が発達して、その意味合いはうすれてきたが、依然、演劇の特性として死語になることはない。単に記録に残っている残っていないで、その劇的さが損なわれることはないと思うが、落語や演劇をフィルムに残そうという魂胆には、亡国の感がある。
私が演劇をつづけたいと思うエネルギーは、あの、千秋楽の日の舞台装置をとりこわすむなしさから始まる。見てない人の胸ぐらをつかまえ、いかにすごい舞台であったか力説してもどうしようもない。まるで、双葉山がどれだけ強かったか口角泡《あわ》を飛ばす老人に似ている。芝居を見たこともない評論家に、ああだこうだと言われるとしめ殺したくなる。こっちには芝居さえ見せりゃの自負があるから、なおさらくやしい。ふと病気などして消極的になると、舞台写真集でも編んでおこうかと思ったりする。が、元気になると気をとり直して、ふんばれるだけ「一回性」の中で討ち死にしつづけようと、かたく心にちかう。
その点、本なんてもんは人間をだめにする。インゼイなんてのはおめかけさんのおてあてにも劣る。
そのくせ恥ずかしげもなく今度、何年も前に書きちらしたエッセイを集めて本をつくった(第一エッセイ集「あえてブス殺しの汚名をきて」角川書店刊)。われながらよくもまあ節操もなく、あっちこっちに愛想をふりまいたものである。思うに、そのころの私の収入源は三、四枚のエッセイにこそあったのだろう。だからその一つ一つに、「ああ、こりゃ、あの芝居のポスター代の一部だな」とか、「これで電話料金払ったおぼえがある」とか、鮮明に思い出される。
やはり、前書きで書いているように、有名出版社や有名新聞社から依頼されたものは、まめに辞書を引いていて漢字が多い。あげくは入れこみすぎて、支離滅裂になっているのもある。それが見すかされるのがこわく、前書きで開きなおった。
しかし、おそろしい話である。何年も前のタレ流しで食っていけるとは。そして、これが私のどの作品よりも売れているというから度しがたい。
芝居だとこうはいかない。昔いい芝居やったからといって、誰も相手にしてくれない。明日つまらない芝居をやると、確実に食いっぱぐれてしまう世界である。演劇のエネルギーは、肉体が滅びるのと比例する。芸なんて保険を私は否定しているので、のたれ死ぬしかない。活字の世界は、年くって体力がなくなり、ろくでもないものしか書けなくなればなるほど本がふえて食えていける仕組みになっているから、おぞましい。
ああ演劇!
私の愛すべき演劇は……。
中毒
深酒が続き、起きぬけの水がこんなにおいしいものかと思います。
そのうち、朝の起きぬけの水が忘れられなくてお酒を飲むようになるのでしょう。そして、きっと、これをアル中と呼ぶのです。
競馬だって府《ふ》中《ちゆう》のおけら街道を、はずれ馬券をちぎりながら歩くあの快感は、バクチ打ちみょうりに尽きるというものです。
芝居の初日は、胃が痛み、役者が交通事故にでもあって公演中止にでもなってくれないかなと真剣に考えます。小道具を隠したり、照明のコンセントを抜いたり、あらん限りの抵抗を試みます。楽屋のモニターからお客さんのざわめきが聞こえても、ウィスキーをらっぱ飲みして、「だいたい、俺《おれ》はこんな形で初日を迎えたくなかった。おまえらのような能なし役者ばっかり使いたくなかった」などと往生際が悪いったら、ありゃしません。
もし失敗し、不評であっても、役者に責任をなすりつけるべく、十分前になって突然、リハーサルの時と段取りを変えたり、覚えきれないぐらい長い台詞《せりふ》を付け加えたり、なんとか責任のがれをしようとします。
自分の書いた台本なんか、自分では絶対信じていやしませんから、スナックの有線放送みたいに音楽を流しっぱなしにして、ボリュームをいっぱいに上げます。いつもお客さんから、音楽が大きすぎて台詞がよく聞き取れなかったと苦情がきますが、当り前です。おっかなくて台詞なんか聞かせられるもんですか。
もう少し自信を持って、デンとふんぞり返っていたらとたしなめられますが、たとえば、自分の娘にストリップやらせるのに落ち着いていられるもんですか。まして、受付でニコニコ顔でお客さんを迎えるなんて、そんな人非人みたいなまねなんか出来ません。
いよいよ幕があきます。正直な話、芝居など見ていません。後のダメ出しにそなえてちらっと見るだけです。どろぼう猫《ねこ》みたいに、客の顔色ばかりをうかがっているのです。意図するところのテーマが通じたか、演劇空間がどうこうなど、かまっちゃおれません。受けたか、受けないか、笑うか、笑わないかだけです。
こむずかしいことは、客がいっぱい入って、好評という劇評が新聞にのったあと、にがにがしく、「どうも客が下品で困る」とか、「キミィ、客が入るかどうかなんて二の次だよ」なんて芸術家顔《づら》するのです。本当は、客の頭数だけで、毎日、神経すりへらしているのです。
芝居がはねて、女学生が楽屋口に役者に花束を持って来たという知らせがくると僕は、とたんに不《ふ》機《き》嫌《げん》になります。そして、ダメ出しを長くして困らせてやります。「あくまでこの芝居がいいのは、私の演出のすごさと、戯曲の優秀さに他ならない」ということを、完膚なきまでに役者に知らしめとかなきゃいけません。花束を持ってこられた役者には嫉《しつ》妬《と》心《しん》をもろ出しにしてどなりつけます。「おめぇが見すかされるような芝居するから、ミーハーの女の子から花束持ってこられるんだ。テメエのおかげで、俺たちゃ三流になり下るんだ。俺たちゃ芸術家なんだぞ。この、バカタレが」と、そいつの台詞まで削ってやります。大体、役者が、作家や演出家よりめだとうなんてとんでもない話です。そして役者全員に、日課としている楽屋の中央の貼《は》り紙に拍《かしわ》手《で》打って、うやうやしく朗読させてます。「つかこうへいさんのおかげをもって、この舞台に出させていただき、拍手をいただいております。自分が今受けているのではなく、つかこうへいさんの作劇術が受けております」
役者なんてのは横着なもんで、舞台に上がりゃ、こっちのもんだとばかり、はめをはずします。一度、本番の途中で舞台の袖《そで》からどなりつけてやったことがあります。僕の演劇によせる執着はみさかいないのです。
役者が台詞を忘れるなんて、嘘《うそ》です。客に受ける台詞は絶対忘れません。相手役から台詞をとばされても、なにくわぬ顔でもとに戻《もど》してやり直します。
原稿用紙十枚ばかりのセリフでも、自分がかっこよく見えるとわかったら、一時間もありゃあアドリブ加えてまで覚えこみます。それでも、台詞や演出のせいではなく、自分がいい役者だから受けているのだと客に知らしめようとするのです。
でもこんな余裕は幕があいて三日目ぐらいからです。役者だってそれなりに初日は胃けいれん起こしたり、吐き気がしたり、大変なのです。
僕は、初日のあの、女のくさったみたいにヒステリックな自分を思い出すと、いやでなりません。あのみじめさだけは、二度と味わいたくないものです。卑屈になって、客の顔色ばかりうかがっているのです。終わるたびに、二度と芝居なんかやるまいと、心に誓うのです。でも、三日もすると、またぞろ、落ち着きがなくなります。
心配なことに、三日もするとまた会場探しや、稽古場の手配をしだしていたのが、一週間になり、一か月してもあせらなくなっています。
そういえば、昨日は明け方、夢の中で、のどがカラカラにかわいて、水を飲みたいのに身体がいうことをきかず、起き出せませんでした。
いやな予感がします。芝居は体力だとわかったのは、確か僕でした。
スレッカラシ
芝居をやっておりますと、やっぱり自分以外の人はみなお客さまで、三波春夫さんが「お客さまは神様です」と言って心ない人から笑われていましたが、私なんかほんとに三波さんに人《ひと》柱《ばしら》になっていただいているように思えて、己の不《ふ》甲《が》斐《い》なさを恥じたものです。
「客にコビを売るな」と先輩たちからよく注意されます。でも、コビを売れることを芸というのではないでしょうか。
銭湯にいって見知らぬ人に会っても、妙にオドオドしてしまい、すっかり河原乞食ぶりが身についてしまいました。
やはり芝居は客がいっぱい入らないと活気が出ませんし、第一役者がうまくなりません。さらされ続ける時間の長さこそが役者を育てるように思えます。時折「あいつの芝居は客層が悪い」と言って先生方に敬遠されますが、暗い客席の、どれがいい客か悪い客か探そうったって無理なのです。それに僕は、オートバイよりもマリファナよりも面白い芝居をつくるのが夢ですし、第一、女子供の足もとをすくってやることはとてもむずかしいのです。いまは教養として文学全集を本棚に飾らなくても芝居見物しなくても恥ずかしくない時代です。僕自身、本を買うと言って金をもらい、ビートルズのレコードを買っていた時期があります。
「テレビは所《しよ》詮《せん》テレビ」とほっかむりしている時代じゃなく、テレビも750《ナナハン》もドストエフスキーもみな並列なのです。とにかく勝たねばなりません。テレビの前から劇場にひきずり出さねばなりません。「熱海殺人事件」のライバルは「太陽にほえろ!」です。
本は、本屋さんが勝手に売りやがって、とほっかむりできますが、芝居の切符は直接手渡さなければならない場合が多く、サイン会どころの恥ずかしさではありません。
せめて原稿の内容のひどさをせめられるのはがまんできますが、字の汚なさをいわれると死にたくなるのだというツッパリ方だけは忘れないようにと思ったりします。
僕の芝居に客を入れてくれたのは、女性週刊誌とスポーツ新聞とミーハーの女の子たちが騒いでくれたおかげ、と胆《きも》に銘じていますから、相当私は育ちが悪くなっているのでしょう。でも「芝居みせりゃ、こっちのもんだ」といううぬぼれだけは大切にしようと思います。
ともあれ、いまさら処女面はできませんし、お金と売名行為のために芝居やってるのだと宣言すると、劇団員たちは妙にみんなスッキリした顔をしてました。くさっても、芸術のためなどと口にできない僕らでしたから。
新聞で歌舞伎俳優が脱税してそれが発覚し、開演中の舞台を降りて謹慎をしたいなどということを言っています。思いあがった話です。芸のためなら人でも殺すほどのスレッカラシしか役者なんかになれやしないのに。社会的な立場なんて、はなっからありゃしないのです。最近は畳の上で死にたいと大それたことを思ってる役者や、小金ためるととたんにかたぎになりたいとほざく役者が多くなってこまりものです。先日、ある銀行の偉い人から「どうです、稽《けい》古《こ》場《ば》でもつくったら」と言われ、腰ぬかしました。
芝居をはじめた時、親から勘当もされずに、実家に帰りゃあむしろ色紙を書かされてる、この過保護ぶりで、私はもうダメです。
スピルバーグ監督の「未知との遭遇」という映画をみました。日本ではUFOを目撃した人はいわくありげな立派な人ばかりですが、やはりアメリカの民主主義というのは本物らしく、一介の電気屋ふぜいがUFOを目撃し、最後には宇宙船にのりこんでいきました。
そして今まで善悪でしか捉《とら》えられなかった宇宙人がテレ性なのはうれしいものです。
そうですよね、宇宙人だって初めて会った地球人に人見知りするのは当然です。別に宇宙人ったって、犬畜生じゃないんですから。
最近UFOばやりで、宇宙人を目撃していないと市民権がないみたいにいわれ、私のように幽霊もみたことのないボンヤリには、生きづらくってしようがありません。かといって「昨夜飲み屋の帰りにちょっと」では済むものでもないし、「ありゃしない」とツッぱねるのも大人げないし、困った話です。
マリファナだって「もしとばなかったら」と心配でやれず、何人友だちを失ったかしれません。とばなくったって恥かかないなら、マリファナなんてイチコロですよ。
今度「サロメ」という芝居をやることになって、主役を公募しました。とってもデキそうなお嬢さんが出て来てくれてうれしかったのですが、記者発表の時、記者の人から「裸になりますか」と訊《き》かれ、「いといません」とかるくうっちゃります。
横に坐っていた私は泣きたくなりました。いいですか、オスカー・ワイルドの台本には、サロメが前バリする所などありはしないのですよ。それを……。
そして「どうします」と質問は私に向けられ、ドンドンやってもらいます、とも言えず、困ってしまいました。なんとかしようと、かねてより持論の、女の子が裸になんてならなくて済むように私の作劇術と演出術は頑《がん》張《ば》っているのです、とカマトトぶった逃げ方をしたら笑われてしまいました。
私も演出家ですから、イザとなったら裸でもなんでもやらせますが、本を読んで見に来る人たちに申しわけなくて、頭がいたいです。しかし、女の裸に「必然性があった」とか「芸術性のためなら」というキオイがなくなってしまい、さみしいかぎりです。
ひかれものの小唄
二階の応接室に通され、ある銀行から、劇場をつくりたがっている人がいるから話に乗らないかといってきた。私がその劇場を常打ち小屋にするなら融資するという話である。
劇場や稽古場は喉《のど》から手が出るほど欲しいが、「芝居なんてもうかりませんよ」というと、「またまた、ご冗談を」とその課長さんは自信たっぷりである。「もし、いいのが書けなくなったら申し訳ないし」と、せっかくの好意に対して素直にいうと、首を傾《かし》げる。
芸術家は納得のゆく仕事ができないとき、いつでも身をひけるようにしていなければならないと思う。ヘタな常打ち小屋などもって、経済的にも精神的にもアップアップするなら、百害あって一利なしと思われる。
そして、芝居は現在、最もぜいたくな表現方法である。コピーがきかないし、体力の問題もあって、興行は土曜日曜の昼夜二回が精いっぱいである。単純計算しても、もうからないのはすぐわかる。
「いや、採算は度外視しても」
さすが「日本の演劇のため」とは口に出さなかったものの、実際その人はもうけはなくとも劇場のオーナーになりたいという。
「金つかっていいとなると、あたしゃ見境がないですよ」
と脅しておいたが、実際毒にも薬にもならない「小金」ばっかりためてるやつらが多くて困る。
大学を中退して芝居を始め、末は医者か弁護士かと期待をいだいていた父や母を「一族から恥かきが出た」と嘆かせたことを思うたび、畳の上では死ねない人生を選んだのだと感慨を深くする。そしてまた、この気持ちを大切にしようと思う。
もともと、河原《かわら》乞《こ》食《じき》というものは「悪場所」の産物であって、市民権などある方がおかしいのだ。時折、区の成人式などに呼ばれたりすると、われながら「こりゃ世の中まちがっとる」と切実に思う。
ある芝居で、すでにマスコミに発表したスタッフやキャストが、稽古を重ねてゆくうち力量がないことがわかり、役を下ろそうとしたらプロデューサーから真っ青になって止められた。
「社会的責任はどうするのか」ということである。さすがにまいってしまった。
オレたちはもともと、社会的責任をとれない人種だからこそ芝居なんかをやっているのである。もし、そこんとこちゃんとやれるなら、いいトシしてGパンなんかはいていないで、しっかり定期券持って、いまどきガッチリ課長ぐらいにはなっている。
役所に入った大学の友人なんか、ときたま私の芝居を観に来たりして、昼近くに起きだしてそれから夜までマージャン、酒という私たちの生活を聞いて、「いいなあ」とため息をつく。
冗談じゃない、人間そうそう昼過ぎまで寝てられるもんじゃない。グータラやるのも大変なのである。正直なところ、一度窓を開けて、「額に汗して働くゾー」と叫んでみたいものである。
学生運動家たちが、ちゃっかり日《ひ》和《よ》って公団に入り、友人たちが気の遠くなるような長期ローンのマンションをせっせと買っているのをみて、やはりオレが一番マジメに、ひかれものとしての道をまっとうしているなと思う。
でも、オレももう三十である。そろそろ妙なこだわりを捨てるときかもしれない。
とりあえず人間ドックに入り、異状がなかったら、銀行なんかとせっせと仲良くして一から出直そう。
またもし、どこか悪かったら……もうこのままやるしかない。
つまらない映画
先日、銀座の映画館の指定席で、ちゃちなミステリー物を見ていました。あんまり評判になっていない映画で客はまばらです。
ストーリーは、とりたてて目新しいものではなく、退屈な映画でした。
となりの席に若いカップルがすわっていましたが、男性のほうが、ときおり、
「チェッ、くだらねえ」
「きっとつぎはこうなるんだ」
「あの女が死ぬと、おもしろくなるんだけど」
「ほら、あいつが犯人だぜ」
などと、小声でささやきます。そして、そのとおりそうなり、あの女は死んで、ストーリーはおもしろくなり、あいつが犯人なのです。そのたび、女性のほうは感心したり、うなずいたりするのです。
さびしい話です。
ときどき、すわり直したり、スカート気にしたり、つまらなさそうにする女性の横顔を私は盗み見て、なんだかせつなくなりました。
はじめてのデートだったのかもしれません。ようやく承知してもらえたデートだったのかもしれません。きちんとネクタイをした細おもての男性は、この日のためにと、あらかじめ映画を見ておいて今日は二度めなのでしょう。
決して、映画の「通《つう》」ぶりたくて、自分の推理力の優秀さを誇示したくて、解説してたのではないでしょう。
たしかに、恋人どうしが、映画を見たあと別れたって、責任とらなきゃいけないほどくだらない映画でした。そして、そんな映画が多い昨今、その男性の、前もって映画を見ておく用心ぶかさは、女性を誘ううえでの礼儀なのかもしれません。
ほんとに、いい映画を作ってくれないと、男ってのは、たいへんです。
ようやく映画が終わって、となりの席の男性の奮闘が終わって、ボクもほっとしました。物書きとは、さもしいもので、その二人がどうなるのかと、あとをつけてみました。(いや、どうにかならないかとの悪意をもって)
なんのこともありません。映画を見たあと、なかよくおきまりの喫茶店にはいっていっただけです。
ほんとに頭にきました。こっちは映画も見ず、二人のことに心を痛めていたというのに、喫茶店でむかいあって、仲むつまじくやるつもりでしょうか。
第一、あんなひどい映画を作った監督に恥ずかしいと思わないのでしょうか。きっと、あのバカな監督だって、
「オレの作った映画見て、まとまった話はねえ」
と、自負しているはずです。
ボクも喫茶店に飛びこんで、
「君たちはまちがっている。あんなひどい映画を見ておいて、仲むつまじくできるはずがない。君たちの愛はギマンだ、偽りの愛だ、やがて破局がくるぞ。さあ、別れなさい」
といってやろうかと思いましたが、ボクも来年はもう三十になりますし、年です。やさしさの押し売りはいけません。
ともあれ、おたがい、つまらない映画だけには、ぶちあたりたくないものです。運が悪かった、交通事故だと思わなくてはなりません。
たまの休みの日、なんとかいい映画にあたるよう、お百度ふみたい、地《じ》団《だん》駄《だ》もふみたい気持ちです。
名セリフは男の履歴書
イラストレーターの和田誠さんの「お楽しみはこれからだ」という本は、いろんな映画の名場面や名セリフが集めてある。見開き二ページで一つの映画についてふれているので、寝る前など、ときおりアトランダムに好きなところを広げて楽しんでいる。一読をおすすめする。
私自身、映画の名セリフについては、いろんなことが思い出される。「緋《ひ》牡《ぼ》丹《たん》博《ばく》徒《と》」で、娼《しよう》婦《ふ》が世をはかなみ、藤純子扮《ふん》するところのお竜《りゆう》さんに泣きつくところがある。
お竜さんは、やさしくだきあげ、「女は、身体じゃなかとよ」とさとす。そのつつみこむようなやさしさに、身がふるえたものである。
そのころ、大学受験に疑問をもっていた私は、「そうだ! 男はスポーツじゃない、頭だ!」と、迷いがふっきれ、どんなガリ勉とのそしりを受けようと、内申書よくしてもらおうと、先生にゴマをすっていたものである。
最近の映画では「合衆国最後の日」で、核基地をのっとった犯人が、「なにが望みだ」と聞かれ、すこしも騒がず、「ミスター・プレジデント。人質はあなただ〓」と言明する。
そのとき、いつも歯ぎしりさせられている渋《しぶ》谷《や》の飲み屋のママをクドく方法を開眼した思いがし、すぐさま映画館を飛び出したら、まっ昼間で、あぜんと立ちつくしたことがある。
最近、マージャンをやっていて、役満(ポーカーでいえば、ロイヤルストレートフラッシュのこと)をあがっても、あまり喜ばないそうである。むしろ不成功を望み、そして、グッと天井を見上げ、「天はわれわれを見放した!」といいたがるそうである。
むろんこれは、予告編でおなじみの「八《はつ》甲《こう》田《だ》山《さん》」で、北大路欣也が万策つきはて、死を決意するところのセリフである。過保護で育てられた腹いせかどうか、近ごろの若いもんは、やたら見放されたがっているらしい。男どもは、このセリフをいおうと、あちらこちらで網を張っているので、ゆめゆめ引っかからないように気をつけてほしい。
かつては、デートで三十分待たせても、鼻の下を長くして待っていたのに、このごろでは五分おくれても待っていないということがないだろうか。新宿などの喫茶店では、五時半とか六時とかの待ち合わせの時間をすぎると、とたん、男たちが血走らせた目で一点空《くう》をにらみ、嬉《き》々《き》として総立ちになり、「天はわれわれを見放した〓」と合唱し、さっといなくなるそうである。
時間どおりに行き、「オレはおまえとデートなんかしたくなかったんだ。おまえなら時間にルーズだから、あのセリフいえると思ったのに」と、どなりつけられても、ハシカみたいなもんだと聞きとばしといたほうがいいですよ。
トシのオールドって、どんな味
軍国キャバレーに行くと、まず軍歌集が渡され、好みにあわせて軍服と帽子を貸してくれます。
従軍看護婦さんのホステスもつき、小一時間も飲んでいると、目の前にジャングルが開けて来、「だいたい五《い》十《そ》六《ろく》があんとき開戦はばんでたら……」となり、五、六度は特攻隊で突っこんで戦死した気持ちになります。
街の飲み屋では男たちが、有線放送で「〓なんとわびよか、おふくろに〜」と「唐《から》獅《じ》子《し》牡《ぼ》丹《たん》」が流れてくると、「おっかさあん、申し訳ねぇ、これも渡《と》世《せい》上《じよう》の行きがかりで」と、肩をいからせ、人のヤキトリまでつまんでしまいます。
そのくせ「白いブランコ」にかわると目を細め、「〓君は覚えているかしら……」と、合唱しはじめます。
流しなんかじゃなまぬるいと、スナックはアスレチッククラブと化し、マイク持って走り回る中年男ばかりです。これでもか、これでもかと思い出をおしつけてきます。
「旅路の果て」という映画では、養老院で老人たちが自分あてに手紙を書き、ポストに入れに行きます。
「サンセット大通り」では、栄光を忘れられぬ老女優に執事がファンレターを書き、そしてそれを知ってか知らずか老女優は、「ファンは私がスクリーンにカムバックしてくる日を待っている」と叫びます。
これらの「なまぐささ」はたしかに絵になります。
よかれあしかれ、一度劇的な瞬間を生きた人は、それにひきずられて生きていくのでしょう。そして、映画は、それを追《つい》体《たい》験《けん》させてくれます。
映画は、そのように形が残りますが、舞台の楽《らく》日《び》のわびしさといったらありません。ややもすると、ビデオテープに残しておこうかという誘惑にかられますが、それをしないことだけが演劇人の誇りのように思い、あと一歩のところでふみとどまっています。
年をとって身体が動かなくなり、部屋に閉じこもり、「かつて自分がどのようであったか」「どんな仕事をしたか」をなつかしくたどるなんて、男のやることじゃないような気がします。いや、そう思うことにしています。
そのためにも、早く「蒲《かま》田《た》行《こう》進《しん》曲《きよく》」という芝居を書きあげ、老醜さらけだしとこうと思ってます。
翔び駆けるサントラ
ひと夏かけて書きこんだ三百枚の原稿が、
「選曲が悪かったね」
のひと言でボツ(採用してもらえないこと)なんてしょっちゅうです。三枚、五枚のエッセイでも、ひどい時はLP十枚は聞きます。やはり締め切り間近になると、ベートーベンの第九や軍歌をかけて、意気を昂《こう》揚《よう》させて原稿用紙に向かいます。
正直な話、ラジオを聞きながら受験勉強をした後遺症なのでしょうか。バックグラウンドミュージックのかからない喫茶店では、いまだ満足に人と話ができません。そのせいか、適当なざわめきがないと原稿もよく書けません。そういえば、喫茶店のバックグラウンドミュージックがないことには、いい曲が作れないと嘆く、という有名な作曲家もいました。
映画「ロッキー」を見て、エレベーターをやめて階段かけ上がる人ばかりでなく、自分の受験期と比較して歯ぎしりした人も多いでしょう。
あの威勢のいい、予備校の応援歌みたいなロッキーのテーマミュージックさえあれば、誰《だれ》だって東大ぐらい楽に入れたはずです。
ところが、私たちの時は甘い「卒業」のサウンド・オブ・サイレンスでした。いい気持ちになって、受験勉強どころではありませんでした。
おまけにフォークソングなんぞがはやっていて、身の程知らずに世界の平和を願ったり、「小さな日記」なんて歌があり、勉強しないで日記ばかりつけていました。
また「ブーベの恋人」という映画音楽で、女子校とフォークダンスすることばかり考えさせられ、つぎは「太陽がいっぱい」を見せられ、
「受験なんてむなしいなあ」
という気持ちにさせられました。ほんと、いい映画がいっぱいあって、災難な時期にあたったものです。
しかし、かくいう私も数学の難問なんぞ、「史上最大の作戦」のテーマをぶっかけて取っ組んだ、なつかしい思い出があります。
確かに、英単語や歴史の年号を暗記するのは、「日本の受験勉強は腰である」という体質上、今でもやはり、都はるみのこぶしまわしに頼らざるをえないらしいが、物理や化学まで、ビューティーペアの「かけめぐる青春」かけて、部屋中、走り回って問題を解くことはないでしょう。まっ、それだけろくな映画音楽がないということになるでしょうか。
バックグラウンドミュージックは、受験や映画の画面の為《ため》にだけあるのではありません。
試しに「ロッキー」のテーマでもかけて台所に向かってごらんなさい。大根の千六本なんか包丁の一《ひと》振《ふ》りですよ。おかずはアジのひらきとタクアンだけでもいいのです。
「風と共に去りぬ」のタラのテーマをバックに流すけなげさが、安月給取りを亭主に持つ、身持ちのいい女っちゅうもんです。
ぼくの「七年目の浮気」
九州の山奥で、僕《ぼく》はボンヤリ育ちました。授業には山イモ掘りや栗《くり》拾いの時間があって、いま考えると信じられないくらいのどかなものでした。
高校を出て、東京へ大学受験にきたとき、東京は地獄みたいなところで、風邪でもひいては大変だと、親《しん》戚《せき》のおばさんたちは、せんべつにカイロをくれたり、はらまきをくれたり、ああだこうだと綿入れのチャンチャンコを着せられ、ラクダのももひきまではかされ、ダルマさんみたいに着ぶくれして、受験に臨んだものです。
ところが、試験場は万年筆からボトボト、インクが落ちるくらい充分、暖房がきき、陽《ひ》当《あ》たりのいい窓ぎわに坐った私は、暑さで倒れてしまい大学の医務室に運び込まれました。
その医務室には、めったに患者がこないらしく、医者や看護婦さんは、「もう逃がさない」とばかり、注射を何本も打ってくれました。
僕もつい甘え、お茶やお菓子を食べ長居をしてしまい、気がついたら二科目めの英語の試験が始まってしまい、あせったことがあります。
そのときから、九州男児のつき合いのよさは、こりゃ将来、命取りになるかもしれないと、自戒しました。
なにしろ、うぶで、無菌の環境で、高校時代、喫茶店になど入ると、すぐ不良といわれるところなのです。
正直な話、喫茶店にトイレがついているなんて、大学に入ってから知りました。(今では原稿まで喫茶店で書き、喫茶店のプロになりましたが)
もう一つ正直な話、外人をはじめて見たのは、中学校の修学旅行で法《ほう》隆《りゆう》寺《じ》に行ったときで、青い目や赤い髪の観光客を見て「あぁ、あれがウワサの外人か」と知ったのでした。
英語の試験では、「自動車に乗っていて映画を観《み》るところを何というか、英語で答えよ」というのがあり、今ならすぐ メDrive-in theaterモ と答えられるのですが、なにせ僕の田舎は映画館さえ一時間に一本くるバスで、二時間はかかるところなのです。ドライブイン・シアターなんて想像のつきようがありません。試験問題集ばかりやっていた田舎もんに、わかるはずがありません。これは、差別だと思いました。
その帰り、新宿に寄って、おそるおそる映画館に入りました。
すると、マリリン・モンローがパンティーを冷蔵庫で冷やしているのです。これには腰を抜かし、世の中はどうなってるのかと、その夜、熱が出たものです。
そして、家の人にこのくやしさと世間の広さを話し、東京の予備校に通う許しを得ました。
そして、予備校行くより、まずメモ帳持ってキャバレーまわりから、競輪、競艇と、実学から始めました。
むろん、もともと頭はよかったのですから、次の年は、もう鬼に金棒です。
〓“よい子幻想〓”
子役というと、まず最初に思い浮かぶのは、なんといってもルネ・クレマン監督の名作「禁じられた遊び」で、いたいけな少女を演じたブリジット・フォッセーでしょう。
戦争によってひき裂かれ、傷つけられる幼い少女の姿が、ナルシソ・イエペスの流麗なギターの調べとともに、たくさんの人たちの胸をうちました。
戦争孤児となったブリジット・フォッセーが純真であればあるほど、人々は戦争の悲惨さを改めて思い知らされます。つまりそれによって、天使のように汚《けが》れのない子供の世界と、戦争という邪悪な大人の世界とのコントラストがあざやかに浮かびあがってくるのです。
ブリジット・フォッセーに代表される一九四〇、五〇年代の映画の子役たちは、「無《む》垢《く》」のシンボルとしてありました。
「可《か》憐《れん》で罪がなく、素直で無邪気でいたいけない」役まわりが、スクリーン上の少年や少女にたくされていたのです。
名子役といわれたシャーリー・テンプルやジュディ・ガーランド、マーガレット・オブライエンなどが演じる子供たちは、純真を絵にかいたような「よい子」ばかりでした。
スクリーンのなかでは、子供たちの世界は、大人たちが決して侵《おか》すことのできない聖域だったのです。
それから二十年以上たった今、「タクシー・ドライバー」のジョディ・フォスターや、「ペーパー・ムーン」のテイタム・オニールを観ているとブリジット・フォッセーたちのころに比べて、映画のなかでの子役の役割が、ずいぶん変わってきているのがわかります。
彼女たちは、こまっしゃくれて小生意気で、むしろわざとブスったれたりして、大人をケムに巻いてしまいます。けれど、それでいて嫌《いや》味《み》のない、とてもさわやかな愛すべき子供を演じなければならないのです。
そしてなによりも彼女たちは、積極的に大人たちの世界に入りこんでいき、大人たちと対等の立場で物を考え、行動するのです。
彼女たちは幼い娼《しよう》婦《ふ》になったり、慣れた手つきで煙草《たばこ》に火をつけ、うまそうに煙をふきあげたりします。大人たちの行動を冷静にみつめていて、辛《しん》辣《らつ》な批評を下したり、またときには、失意の底にある大人たちを慰めてやったりもします。
だからといって、彼女たちを、ひねこびていて、子供らしさが、まったくないと感じる人は少ないでしょう。
むしろ、汚れきった大人たちの世界で、純粋さを守って生きるためには、大人たちと同じようにふるまい、語るしかないと知ってしまった、小さな傷つきやすい魂の精いっぱいの抵抗に、胸をしめつけられるはずです。
彼女たちだって、いつも哀しそうな、しかめっつらをしているより、にこにこ笑って「よい子」でいたほうが、どれほどか楽でしょう。
すべてを、幼い子供の心さえも、複雑に屈折させてしまうのが、今という時代なのかもしれません。
いや、もしかしたら、スクリーンのうえで、純真さをふりまいていたブリジット・フォッセーたちもまた、その時代の子供なりの屈折をしいられていたのかもしれません。
子供は大人の心を敏感によみとります。大人の望む「よい子」像を、そのまま演技するということが、彼女たちの屈折のしかただったのかもしれません。
意地悪な見かたかもしれませんが、キャメラの前で大人の望むように「よい子」ぶって、ごほうびのキャンデーをせしめる幼いなりの処世術もまた、一つの時代的な屈折なのかもしれません。撮影のあいま、スタッフにかくれて煙草をふかすブリジット・フォッセーがいなかったと、誰がいいきれるでしょう。そしてたあいなくぬいぐるみと遊ぶジョディ・フォスターも。
前略 ヒッチコックさま
アルフレッド・ヒッチコックという映画監督がいます。一八九九年生まれといいますから、今年で七十八歳の高齢になるはずですが、今なお、かくしゃくとして映画を撮《と》りつづけています。
ユーモアスリラーからホラー(恐怖映画)まで、バラエティーに富んだスリラー映画を堪《たん》能《のう》させてくれる、私のごひいき監督の一人です。
このヒッチコックという監督は、自分の映画には必ず一回は顔をだすことでも有名です。
「バルカン超特急」では、奇術一座の看板の似顔絵で、「汚名」では、あるパーティーで最初にカクテルを飲みにくる客、「北々西に進路をとれ」では、マジソンアベニューでバスに乗り遅れる男、といった具合です。
人は、それをヒッチコックの愛《あい》嬌《きよう》からだというかもしれませんが、私はそこにヒッチコックの役者に対するうらみの深さを感じてなりません。
何年もかけて、考えに考えぬいてつくりあげたセリフや筋立てを、役者が一瞬のうちに気持ちよさそうにやってのけるのが、ヒッチコックは、くやしくてしかたないのではないでしょうか。
ヒッチコックの役者に対する考えは、辛《しん》辣《らつ》をきわめ、「俳優は家畜である」と発言して話題になったことがありますし、来日したときに、「お気にいりの俳優は?」と聞かれ、「わしにとって俳優たちは、ことごとく問題児みたいなものだ。ときどき、ウォルト・ディズニーがつくづくうらやましくなるよ。彼は、気にいらんキャラクターがあれば、破り棄《す》てちまえるから」と答えたりしています。
私も、日《ひ》頃《ごろ》から役者の思い上がりには、ほとほと手を焼いているので、このヒッチコックのことばを聞いたときは、「我《わ》が意を得たり」と感動しました。
私など、芝居の本番中、つねに舞台ソデに待機していて、役者が客にうけているのをみるたびに、いちいち呼びよせては、「このヤロウ、バカッタレ! なにのぼせてんだ〓 いいか、おまえがうけてるんじゃなくって、オレの書いたセリフがうけてんだからな、勘ちがいするんじゃねえぞ。セリフが一つおわるたび、心の中で、これは、つかこうへい様のおかげですと、手を合わせてろ〓」と、役者に私の偉大さをたたきこみます。
たとえそのために、芝居が中断しようが、はしたないとか、そこまでしなくてもとかいわれようが、おかまいなしです。
役者をソデにひっぱりこみ、脅《おど》しをかけることのできないヒッチコックのくやしさは、私などとは、比べものにならないほど激しいものでしょう。
役者へのつもるうらみを晴らすために、ヒッチコックは自作に顔をだすのです。
そして、映画のなかで、役者がどんなにカッコよくセリフをしゃべり、行動していても、それをやらせているのはこのオレだと、観客に向かってニヤリと笑ってみせるのです。
私にとってこの一瞬は、ヒッチコック映画のどんな場面より、もの哀《がな》しく、また、スリリングなものなのです。
映画の殺人者
若い映画の主人公たちが、「走る」こと、「叫ぶ」ことを忘れたのは、いったいいつの頃からなのでしょうか。
力の限り「走る」ことと、大空に向かって「叫ぶ」、という基本を忘れたら、映画も斜陽といわれるはずです。
最近の映画を見ていると、薄暗い地下道や穴倉のような喫茶店で、けだるげにたむろしている若者が、きまって目につきます。
やたら悩んで、やたら傷つきたがる主人公たちに、もう食傷気味です。
カッコつけてる本人たちは、そりゃ気持ちがいいかもしれませんが、見るほうは、たまりません。
区役所に就職できなかったはらいせに世をすねた、チンケなアウトローたちの〓“青春映画〓”を見るたびに、私は太陽の光を浴びて、元気いっぱい浜辺を「走っ」た、青春まっ盛りの日活映画を、なつかしく思いだすのです。
先日、偶然テレビで日活版の「泥《どろ》だらけの純情」を見ました。ついこのあいだ、山口百恵と三浦友和で再映画化された、あれです。
日活版では、外交官令嬢に吉永小百合、相手役のチンピラには浜田光夫という、これまたかつてのゴールデンコンビが配されていました。
この映画を見て私は、ひさしぶりに〓“気恥ずかしい青春〓”を満喫しました。外交官令嬢の小百合ちゃんが、その箱入り娘ぶりを真面目に演ずれば演ずるほど、そして、どうみても世間の裏街道を歩くヤクザとしての、かげりや屈折のみあたらない浜田光夫が、意気がれば意気がるほど、二人の許されざる大時代的恋が、信じられてくるのです。
スクリーンてのは、やはりこうでなきゃいけません。映画は「走っ」て「叫ぶ」、これにつきます。〓“青春〓”ということばに、一片の疑問をさしはさむ余地すら与えぬ二人の純情に、テレビをみつめる私の気恥ずかしさは、うれしくつのるばかりでした。見終わって、窓をあけ、「青春〓」って、勇気をだして叫んでみました。
私は、吉永小百合と浜田光夫の映画で育ってきたせいか、いまだに映画館で日活のマークを見るだけで、条件反射的に赤面してしまいます。
当時、高校生だった私は、陽《ひ》のまだ高いうちから、愛だ恋だと大声で叫び、目があっただけで手に手をとって浜辺を走ることのできる、スクリーンいっぱいに描かれたその〓“青春〓”ぶりに、きまって恥ずかしさのあまり、「ギャッ」と叫んで、うつむいてしまうのでした。けれど、その反面、「高校三年生」や「愛と死をみつめて」のレコードを、ひそかに買いに行ったのも事実です。日活映画は、〓“青春〓”とは、美しくもなければ純粋でもなく、ただただ気恥ずかしいものだということを、私に教えてくれました。
私が〓“青春〓”ということばを、丸腰で使えなくなったのは、じつにこのときからなのです。
いまや、深夜テレビでしか相まみゆることのできない、あの懐かしい日活映画に胸をときめかせ、また、そんな自分に赤面しつつ、私はテレビのスイッチを入れるのです。
やはり、日本の映画をダメにしたのは、あのアートシアターの、やたら深刻ぶることの好きな、また、深刻ぶらなきゃ芸術と思っていない、おりこうさんたちのせいなのでしょう。
善人なおもて往生を遂ぐ
チャップリンの映画を見ていて、いつも感心するのは、決してやさしさが押し売りになっておらず、笑いに持ちこむ伏線の張り方のみごとさです。
たとえば、頂点に達する笑いがあるとすると、そこに至るまでの、なにげないカメラの視点や、小さなくすぐりや間《ま》のとり方の絶妙さは、さすがチャップリンといわざるを得ません。
主役としての自分を際《きわ》立《だ》たせるための傍《わき》役《やく》の選び方や、その演技に対するきびしい眼は、ともすれば笑いの砲列の前に見落としがちになるのですが、作家としてのチャップリンのしたたかさは、寒けがするほどのものです。
私たちが、チャップリンの映画から感じる、あふれんばかりのやさしさは、彼の冷徹なまでの観察眼と偏見によって、支えられているのではないでしょうか。
また、そのような底意地の悪さがなければ、人間あれほどやさしくなれるものではありません。
観客の反応や傍役のリアクションまで、すべて計算しつくした上で、笑いとペーソスのないまぜになったスクリーンの向こうから、ちょっと哀しそうにほほえんでみせるチャップリンのずるさは、天才的なサギ師のそれとしか、いいようがありません。
先頃、来年のお正月に封切られるはずの「放浪紳士・チャーリー」という、チャップリンを描いたドキュメンタリー映画を見ました。
アメリカ議会の非米委員会によって国外追放されたチャップリンは、それ以来、スイスを定住の場所としているのですが、この映画でも、スイスで子どもや孫たちに囲まれて、悠《ゆう》々《ゆう》自適の生活を送るチャップリンが、紹介されます。
いまや、好《こう》々《こう》爺《や》然《ぜん》としたチャップリンを見ながら私は、彼の才能の前に倒れていったであろう、たくさんの役者や新進監督を考えずにはいられませんでした。
チャップリンほどの完全主義者です。自分の演技や作品を成り立たせるためには、不必要になった役者の首を、つぎつぎに切っていったことでしょう。
そして、彼の非情な嗅《きゆう》覚《かく》で、ライバルとなるべき芽を摘みとってきたことでしょう。現在のチャップリンの名声は、むしろその野心と努力を認めるとしても、なおそれら無名のまま消えていった、多くの人たちの怨《おん》念《ねん》の上に築かれたもののように思えます。
もし、少しでもそれらの人たちのことを思うなら、チャップリンは穏とスイスでなど暮らしてはいられないのではないでしょうか。やはり、ギラギラ脂ぎった目つきで、のたれ死にしてくれなければいけません。
私自身、正直な話、これまで芝居の世界で生きてきて、その才能に見切りをつけ、切り棄ててきた役者が何人かいます。
しかし、そういった人たちを切り棄ててきたからこそ、私は、いい加減な仕事だけはできないと、肝《きも》に銘じているのです。私にとって切り棄ててきた人たちは、喉《のど》元《もと》につきつけられた匕《あい》首《くち》です。
もし、私が仕事に疲れ、マンション買ったり、定期預金をつくったりして、老後のことを考えでもしたら、その匕首は確実に私の喉をかき切るでしょう。
私は、その匕首に追われるようにして、今日も芝居を書き続けているつもりなのです。
たとえ、駄《だ》作《さく》を作っていようと、なりふり構わず映画作りをしているチャップリンを見たいのです。
秋の夜長のつれづれに、今週は妙にきばってみました。チャップリンの幸せを見せつけられ、なんだか淋《さび》しくなっております。
せめて、チャップリンの目の黒いうちは、バカな映画はつくるまいと、がんばっている人たちは、泣いているでしょう。
惜別チャップリン〓
バカな子ほど可愛い
映画を見終わったあとの解放感は、格別です。腹をかかえて笑いころげた映画のときも、思わずジーンと感動した映画のときも、それぞれの趣があって、いいものです。
たとえ、胸クソの悪くなるほどひどい映画のときにだって、それはいえます。馬鹿な子ほど可愛いものなのです。
ところが、往々にして、そんな余韻を楽しんでいるところに水をさす、無神経な人たちがいます。もったいをつけてロビーにたむろし、こっちがうっかり感想をもらそうものなら、待ってましたとばかりに人の無知を鼻先で笑う人たちです。
あそこのカメラがどうのこうの、あの場面はもうちょっとなんのかのと、とにかくペラペラペラペラと、よく喋《しやべ》るのです。
あげくは、批評なるものを一席ブタれ、なんだ、いま見た映画は、そんなつまらないものだったのかと、聞かされたほうは、とたん興ざめしてしまうのです。
そういう人はよく、「映画は出演者ではなく、監督で見るものだ」などと、したり顔でいいます。そんな人たちの前で、いまスクリーンでバラの花をくわえていた、映画スターの話などしたら、それこそ冷たい一《いち》瞥《べつ》を投げかけられるのがオチです。いっぺんでミーハー扱いされてしまいます。
また、やたらと映画を見ていて、やたらと細かいことを、たくさん知っているのです。彼らの話を聞いていると、テーマだの主張だの、むずかしい専門用語が入り乱れて、ホントに映画を楽しんでいるのかしらと、いつも思ってしまいます。
たとえば、カメラが横に動くのをパン、たてに動くのをティルトというそうですが、そんなこと知らなくても、充分映画は楽しめます。
あまり、撮影方法やら編集技術やら、チマチマしたことを、ほじくり返すようにいわれると、かえって手品の種明かしを得意げに披《ひ》露《ろう》されたような、不愉快な気分になります。
映画なんておもしろきゃ、女優なんて可愛いきゃ、それでいい、などといおうものなら怒鳴りつけられます。でも、映画評論家の人たちは、よほど育ちがいいのでしょう。それでなければ、ベストテンにあれだけひねこびた映画を集められません。
ほんといいますと、一年前から、私もある映画賞の選考委員をやっているのです。
映画を見ているのではなく、感想を聞かれたときのために、映画館へ行ってるみたいです。
こんな小《こ》 舅《じゆうと》みたいなことはイヤだイヤだと思いながら、いまはもう、すっかり板についてしまいました。
正直な話、私はもう映画を語る資格がないと思います。
ここだけの話ですが、可愛いだけで、演技があぶなっかしくて、映画なんか見ていられない女優さんが少なくなりました。
マリリン・モンローという女優さんは、ヘタっぴいだといわれていましたが、客席からスクリーンに飛びこんで助けてあげたくなるような人でしたよ。
花ひらくエネルギー
歌舞伎のきらびやかな衣《い》裳《しよう》は、私のような貧乏演劇をやっていると、ときおり鼻についてしまうものです。
衣裳にしろ、仕掛けにしろ、私に、あれぐらい金をつかわせてくれたら、あれ以上のことをかるくやってみせる自信はあります。
私は、装置や衣裳などいらない、金のかからない芝居をつくってきました。いつの日か、金のたくさんつかえるような、ここで回り舞台がまわって、噴水が上がって、照明が変わって、などという芝居をしてみたい。それだけが夢でした。
が、いったん好きなだけつかっていいといわれたら、それだけいい芝居ができるかというと、疑問です。
そうなったとき、金をつかえないことからわきでる、あのエネルギーが出せるでしょうか。あの、ナマの緊張感が生まれるでしょうか。
私の芝居は、衣裳や装置がつかえないぶん、汗でつくってきたといえるのかもしれません。
貧しいからこその、ギリギリのところでがんばって、花ひらくエネルギーというものは否《いな》めません。
ロマンポルノに路線変更してからの日活も、つぎつぎとすばらしい作品をつくりつづけ、たくさんの秀れた才能を輩出しています。
「ポルノ」とカッコつきで世間から白眼視され、低額の製作費に加え、撮影日数の短縮など劣悪な条件のなかから、よくあれだけの才能が巣立ってきたものだと感嘆してしまいます。
いや、不況の嵐のさなか、劣悪な条件だからこそ、登板のチャンスが回ってきた若手が、エネルギーを爆発させたためなのでしょう。聞けば、ロマンポルノの撮影現場が、いま映画界で最も活気があるとのことです。
監督は、バット片手に、「さあ、いってみようか」と、半ば八方破れのエネルギーで撮影がはじめられるそうです。会社の経営危機のなか、スタッフもキャストも一《いち》丸《がん》となって、映画づくりに取り組んでいるのでしょう。
日活の映画監督たちはきっと、予算や製作日数という手かせ足かせをはめられるから、逆にその才能をのばしてきたのかもしれません。
世間の目や劣悪な条件に、がんじがらめに縛《しば》られながらも、なお、映画に対する情熱を、フィルムの一コマ一コマに封じこめることで花開いたといえるでしょう。
けれども、舞台の私もふくめて、そんな監督たちに一《いち》抹《まつ》の不安をおぼえることがあります。
手かせ足かせがとり払われた場合でも、同じように秀れた作品をつくれるだろうかという不安です。はたして、悪条件のなかでたたきあげられてきた監督たちが、金と時間を十分に使って映画を演出できるだろうかと考えてしまうのです。
彼らがワクの中で小さく固まってしまったのではないかと、私はいちばん危《き》惧《ぐ》します。
たとえば、エッセイを頼まれるにしろ、名もない小さなミニコミ誌には、サラリとおもしろいものを書けるのですが、有名出版社や大新聞社から頼まれると、肩に力がはいって、漢字ばかり多くなって、持ち味が出せなくなってしまいます。
無論、これは育ちの悪さからくる悲哀でしょうが、役者さんだってそうです。脇《わき》役《やく》をつづけていた人は、いくらうまくたって決して主役になれません。
一千万円の映画に咲く花と一億円の映画に咲く花は根本的に違うのです。これは相《あい》容《い》れるものではないのです。
今、中年映画
私は映画を見に行った時に、決して外人のそばに坐らないようにしている。たまたまあいていた近くの席に外人のグループが坐ろうもんなら、映画が終わるまで生きた心地がしない。
必死で日本語の字幕を読んでヘラヘラ笑っていると、彼らは冷やかな目で私たちを見、彼らが大笑いしてるところではオロオロしてしまう。もちろん、英語には英語のユーモア、慣習など、英語を解する人だけに通じ、字幕には表わせないものがあるためだろうが、そんな時は自分が〓“ダサイ〓”という言葉そのものに思えて情けなくなる。
かと言って、私の立場上、外人の真ん中でただボンヤリもしていられず、外人の目から目をはなさず外人が笑う時一緒に「ダハハ……」と笑っている。だから周りの人には、
――ああ、あの人は英語のわかる教養の深い人だ――
と思われてはいるが、ヘタに虚名を背負ってしまうとこういう苦労もしなければならず、映画もゆっくり楽しめやしない。
ある時、また外人の顔を見て映画を見ていたら、一瞬顔をゆがめたので、「お、ここだ」とばかりに自信たっぷりに「ダハハハ……」と笑ったら、その外人はクシャミをしただけだったので周りから笑われて大恥をかいた。
最近「グッバイ・ガール」「第二章」とニール・サイモンの作品が、若い女の子たちに圧倒的な好感をもたれてヒットしている。映画館では、女の子たちがかたずを呑《の》んで中年男女のラブストーリーを暖かく見守っている。それは、ニール・サイモンの作品がどことなく上品であり、シャレた会話や手法のうまさがストレートに伝わってくることが魅力になっているのだろう。
しかし今、中年話専門のニール・サイモンの映画にこんなに若い人たちが集まるというのはどういうことなのだろう。
そもそもニール・サイモンの映画というのは、あかのついた人生を、もう後《あと》戻《もど》りすることも二度とはい上ることもできない中年の大人が、メルヘンを捜し、自分のやさしさを再確認しようというのが図式である。若い子が見たところで、夢もなければ生きる希望が湧《わ》き起こってくるとも思えない。
それは、たしかに今、昔のように若い男女が夢中になれる映画はないかもしれない。日本の青春映画は、なにかというと皮ジャン、オートバイでガードレールにぶちあたって死んでるようなものばかりなので、飽き飽きするのは当然である。
私たちは昔、若い肉体がガラスのような傷つきやすい感性で社会に押しつぶされそうになる、そのひたむきにあらがう姿に胸打たれ涙したものである。「ロミオとジュリエット」とか「ウェストサイド物語」とか「俺たちに明日はない」とか、ジェイムス・ディーンの「エデンの東」でも、私たちは映画の中のヒーローやヒロインと共に泥《どろ》にまみれ、破滅したり傷つくことにつき合ってきた。
ところが、ニール・サイモンの映画はたとえ破滅をしても節度ある破滅であり、その破《は》綻《たん》のなさも、人生の時間をある程度経てきた中年にこそわかるはずのものだ。
しかし、今、若い女の子は一度めの人生で幸せになることなどハナから信用せず、一度めの恋をする前からもう第二、第三の人生のやり直しをする準備をしている。そして一方の中年男はなかなか一度目の人生をふんぎれずに、過去をずるずるひきずりながら、おどおど第二の人生に踏み出せないでいる。
だからこそ「第二章」でのヒロインの「いまが大切なのよ、あなたを放したくないの〓」という迫力が支持をうけてるのだろう。
ラジオと意志
私は、一つの意志を持ってラジオを聞いたことがない。――考えてみると、ラジオといえば、今一番楽しみなのは、どんなデザインのラジオが新発売されたかということぐらいである。――まず、私がラジオを聞くことのできる最も多い時間は、深夜のタクシーの中であり、これはラジオを聞いているという感覚ではなく、タクシーの運転手さんに、おつきあいしているだけなのである。そして、たまにFMを聞くぐらいになってしまった。理由は簡単である。あのパーソナリティとかいう輩《やから》のおしゃべりなるものに耐えられないからだ。かつて、深夜放送全盛期の彼らの果てしない軽薄さには、恐怖すら感じていた。
パーソナリティたちが
「埼玉のなんとか君!」
と連呼するには、そう呼ばれてよしとする層があって、そのようになってきたのだろうし、今日におけるラジオの方向性は、ラジオ局と、聴取者との間のギャップを埋める作業であり、そして、若者たちに、パーソナリティたちを「隣のアンちゃん、隣のネエちゃん」と身近に感じさせることなのだろう。しかし、マイクの前で、背広を着て、ネクタイを締めて、正座して、
「埼玉県〇〇郡〇〇町におすまいの、〇〇〇雄さんからのお便りです。お便りどうもありがとう……」
から、ラフなスタイルでお茶を飲み、せんべいをかじり、鼻くそでもほじくりながら、
「きのうの酒がまだ残っててなあ、さっきむかえ酒入れてきたよ、さあ、やるか、えーと今日は、埼玉の、なんて読むんだこりゃあ、こいつも、埼玉だなんて、何好きこのんでこんな田舎に住んでんのかね、えーと、山田太郎、太郎だなんて、親も親だよな、変な名前だな、こらタロ、聞いてるかよ、ちゃんと起きてんだろうな、まず最初におまえのリクエストやるよ、うれしいだろ、うれしいか、コンネヤロウ……」
までに至る、聞かせる者と聞く者の、位置の推移を、必然的なものとして受け取るだけでなく、ネクタイからGパンに変わることで、失われてゆくラジオの要素もあることを深く省みなければならないと思う。どのように、聴取者参加のラジオとか、アットホームなラジオとか、とりつくろってみたところで、伝達するものと、伝達されるものとが、相殺し合ってはならない。いくら、慣れ合いの風を装っても、そこに、確固とした見識がなければ、文字通り堕落の途をたどる他ない。
深夜のパーソナリティは、ラジオを変えた。それは、ラジオの全盛時代となったけれども、その反面もたらした罪の部分は、そう簡単にぬぐいされないものがあるのではないか。
ラジオドラマは、非常にむずかしい。
テレビは、まず絵で説明してそして音で説明することができる。ラジオの場合は、音だけで説明しなければならない。こちらで、その絵を創造しなくてはならない。
「新聞に現場の写真ひとつ載せるのに気がひけるこういうブスをどうしておまえ殺したんだ!」
という場面がある。「こういうブス」という女の子が、舞台なり、テレビでは、具体的に登場することができる。ラジオは、それができない。それで「ブス」の感覚を出さなければならないラジオのつらさ、主体性をもって、こちらで「こういうブス」を創《つく》り出さなければならない。
しかし、今のラジオは、どんどん説明してくれる。こう説明されると、頑《がん》張《ば》って聞く必要がない。聞きもらさずにということがない。いや、今、もう聞きもらすところがない。音だけのラジオなのだから、所《しよ》詮《せん》、伝達しようとするところの六〇パーセントしか伝達できないだろう。そこを聞きもらさずに、相手が何を伝達したいのかわかろうとせりだして聞くということが、今のラジオにはない。
九回裏
2アウト満塁
バッター王
投手江夏
一打逆転
テレビは時間切れ
必死でラジオのスイッチを入れ、ラジオにかじりつく。今まで見たテレビの画面を思い浮かべながら、王はまたバットでスパイクの泥《どろ》を落としただろうか、つばを右手につけただろうかとか、江夏はキャッチャーのサインにどんな相《あい》槌《づち》の仕方をしたのだろうか、長島は、どんな顔をしているだろうかとか、こちらでイメージを作り上げる。その楽しさはたとえようもない。何も見えはしないのだから、耳だけに全神経を集中させて、想像力を広げていく。しかし、この場合でも、アナウンサーたちの説明のしすぎは、腹が立つ。
「長島選手、苦悩に満ちた顔をひきつらせております……」
人間、そんなにいつも苦悩に満ちてなぞ、いないのだ。
「王打った! 大きい! 大きい! 入るでしょう! 入った! 入った! ホームランホームラン! 江夏、グラブをたたきつける」
ばかりでなく、たまには、
「江夏投げた(沈黙か、または瞬間的なコマーシャルを入れる)今、王ホームベースを踏みしめました」
ぐらいのことをやってくれると楽しいだろうにと思う。
アイツらは、解説者二人とアナウンサーの三人で野球をやっているんじゃないか、ほんとに江夏が投げて、王が打っているんかなあと感じることもある。
アナウンサーは、説明しよう、説明しようとする。が、――
たとえば、私が誰かを愛しているとして、「愛してます」とは言えない。たとえ、「愛してます」と言って、そのことばで愛している実体が伝達できるかというと、そうとは限らない。かえって、
「おまえ、ブスだから、どいてろ!」
なんて言っておいて、
「赤いチョッキがきれいですよ」
とサッと言う。
などということで、「愛している」のことば以上のリアリティが通じるようなことがあるだろう。そういうしゃべり方の方法論もある。まず、ラジオは、アナウンサーがしゃべらないことなのだ。
ラジオ局は、意識的に、ラジオの聞き方、聞かせ方というものを含めて、ラジオ作りをする必要があるんじゃないかと思う。確かに、優秀なパーソナリティを集めることも大事だろうが、それ以上に優秀なラジオの聞き手を育てる必要があるのではないだろうか。
十八歳になっても二十歳になっても三十歳になっても四十歳になっても、この時間だけは、ラジオを聞くという聴取者の育てかた、聞かせ方にラジオ局は、ナイーブでなければならないだろう。
十三歳の男の子からのリクエストのおたよりがある。それに対して、パーソナリティは、その十三歳の層にあわせて答える。それでは、どんなにその層が聞いている人の中の多数を占めているとしても、他の層は、あきてしまう、聞けないのだ。その時に、見識をもって、他の層にまで耐えうる答え方をしていれば、ラジオの聴取者は、自然に育ってゆくのではないだろうか。
しかし、電波とて、現代において使い捨てになっていいという法はない。一番使い捨ての危険性のある電波こそ、聞き捨てのならないものとさせるパーソナリティたちの意志の確かさが必要なのかもしれない。
「これからの一時間は、ダラダラ、このラジオを聞いてもらっては困る。漫画を読みながら聞いている奴《やつ》とか、寝っころがって聞いている奴、まして受験勉強をしながら聞くような真似はよしてほしい。途中でダイヤル回したり、スイッチを切ったりするのも、やめてもらいたい」
ぐらいの自信があってしかるべきものだと思う。その思い上りさえあれば、ラジオを主体とした「ナガラ族」の存在を許すこともできるのだから。
「相当な覚悟して、辞書でも片手に持って聞かないことには、ラジオつけてもわからない」
なんて、ことまで考えてもおもしろいではないか。
というようなことを書いていながらも、今ラジオに用いられている「たたみこみの話法」が最良の策ではないかという気もするのは否めない。なぜなら、舞台はその日の客層や客の入り具合によって、役者の生理というものの揺れ動きを、ある程度、操作できる。そして、役者は舞台に上ったとたん、瞬間的にその日の客席との距離を正確に測り、武装し攻撃を始めることができるからである。
おまけに、芝居を見るという「意志」を持って劇場に来てくれるのだから、「芝居を見せる」という側の論理と、「芝居を見る」という受け入れ側の論理は、ある程度の、いわば良識といい切ってしまっていいのかもしれないが、その種の秩序はある。それは、いわば芝居を見せるという「うしろめたさ」と、芝居を見に来たという「うしろめたさ」、そして、絶対的に役者が優位に立てるのは、「見に来た」という客のうしろめたさの中にである。しかし、うしろめたく来た客が開き直るのは、入場料を払ったという意志を放棄するときである。もっとわかりやすくいえば、五百円の入場料だとすると、最低往復の電車賃を払って五百円+α分、楽しんで帰ることを目的としている。そして、それを放棄し、トイレに行くのさえ我慢しているテレ性の現代人の中で、席を途中で蹴《け》る客の意志は、寝っころがって足の指でチャンネルをひねったり、ダイヤル回したりするのと、おのずから意識を異にする。客が席を立つ時は、舞台への毅《き》然《ぜん》とした挑《ちよう》戦《せん》を意味していることである。
しかし、ラジオの場合、おもしろくなくても聞くことができる習慣が現代人には、でき上っている。それは、喫茶店においても、いや応なくバックグラウンドミュージックを聞かされるデンと同じである。この恐さを引き延していけば、現在この原稿を書くのに、シーンとした部屋では書けず、喫茶店のざわめきの中で、ようやく落ちついて書いているということであり、原稿のみならず、有名な音楽家があるところで、しみじみ語っていたのだが、曲を作るのに、喫茶店のバックグラウンドミュージックを聞きながらでしか、作ることができなくなってしまったということである。
私自身、ラジオの意志などと振りかぶっていながら、この状況に、なす術《すべ》なく、手をこまねいて、今日もまた、タクシーのラジオをあたりさわりのない雑音として、聞き捨てにしていることも確かである。
〓“したたかな目で見るぞ〓”
昨年の新聞はマリファナ合戦であけくれた。
その異常さは、絶対量の決まっている新聞の紙面の中央のかなりのスペースを取り、よほどのバカでもない限り、あのどさくさにまぎれて国会ではなにか重要法案を通されているんではないかと勘ぐりたくなるほどであった。
マリファナがいい悪いの問題ではない。たかだかマリファナごときに、大事な新聞の紙面をあれほど取られてたまるかと、腹立たしくさえあった。
今日はだれもつかまってないなと、ポイと新聞を捨てたあと、あわててまたゴミ箱をあさったことが何度もあった。そのせいか、この頃新聞を読まなくなった。ほんと、これこそマリファナの後遺症である。ハナっから我々に新聞を読ませなくさせる戦術だったのかしら。
どこへ行っても、だれに会っても、不況だ不況だと顔をしかめるので、仕方なくこっちもつき合って暗い気持ちになってしまう。そのうち一人でいても「こりゃ腰据《す》えてかからなきゃ」と念仏みたいに口走り、必死で悩むことにおいて社会参加しているみたいになっていい気持ちになってしまうから困る。
しかし、不謹慎であるかもしれないが、この先、餓死するほどの不況など来はしないと、暗黙の了解のはずである。いくら庶民だってそれほどバカではない。不況だと吹《ふい》聴《ちよう》することにおいて、だれがどのように得するか、なにをたくらんでいるのか、もう少し我々がだまされがいがある仕組み方をしてもらいたい。
生かされず殺されずとのデモクラシーの原理を破ろうとも思ってはいない。庶民は、万博騒ぎとか、オリンピック騒ぎで、ただ浮かれていたのではない。浮かれたふりをして、どさくさにまぎれて何やらかすか見張っていたのである。さすがテレてか、デノミも小選挙区制もやれなかった。その庶民のしたたかさにおそれ入ったか、この頃どうもやり口が小ぢんまりしていていただけない。
かつての土地ブームの時の恥知らずさが懐かしい。土地をさんざん買い占めたあと、好況だ、高度成長だと騒ぎ立てておいて、しこたまもうけ、それでも足りずか、とたん不況にし、またもうけるという念の入ったやり口は見事としかいいようがなく、庶民は永久に庶民にすぎないと思い知らされた。
また、ベトナム戦争でさんざんもうけて、もうもうけるところがなくなったなと思ったとたん平和論を持ち出す。もうあきれ果てたとしかいいようがなかった。しかし考えようによると、不況だ、好況だでだまされたふりをし、右往左往しとかないと、行き場に困ってまた戦争持ち出されちゃかなわないし、本当に苦々しい限りである。
正月早々あくたれをついたが、おとそ気分に酔ったふりをしながら、今年もいっそうしたたかな目で社会を見据えていこうと思う。
若者の生命力をスポイルするな
十五歳の少年が司法試験の第一次に受かったという。俗世間のことには一切関知せず、一心不乱に勉強していて合格できたと、したたかなことを言う。だがピンクレディーのアホらしい色気に胸ワクワクさせることなく、また王の七五六号騒ぎに歯ぎしりすることなく合格できるほど司法試験は甘くはないし、裁判官たちが、マグロ買い占めに憤ることなく、江川ドラフト問題に心痛めることなく、死刑など決断できるはずもないことは彼も百も承知であろう。
巷《ちまた》にはデモ・シカ殺人が横行し、殺し屋だってカセットを肩から下げてバックグラウンドミュージックをかけて仕事するという現在、今どき六法全書の中だけで解決できる事件などありはしない。
このシャイな少年はすべてを了解しているのだ。王選手やピンクレディーを知らずしても司法試験に通る可能性があるというゆがんだ制度を告発してくれているのだ。いたいけな少年のこの気概を思うと涙が出る。が、我々は、心を鬼にしてスーパーカーにも浮かれず、マンガも読まずして司法試験第一次に通ったこの少年の暴力を断固糾弾するべきである。なによりも、この偉業は「あの暴力団」でも「タレントふぜい」でもなく、一市民の手によっておこなわれたものであるから、なおさら始末が悪い。いかに明朗活発などという言葉が死語と化していても、とりあえず子供らしさという言葉に封じ込められない少年を抹《まつ》殺《さつ》しなければ、我々庶民の社会生活の安穏さは望めないであろう。彼も、それでこそ本望のはずであり、次なる爆弾を仕込むハリがあるというものだ。
弾圧が激しければ激しいほど、若者の正しい反抗心と野心が育《はぐく》まれる。将来ある犯罪の芽を無視し、闇《やみ》に葬り去った例はいくつでもある。街は早急な弾圧の手を必要としている悪タレどもばかりである。
つい先だって社会不満にかけては老舗《しにせ》の暴走族たちと会う機会があった。今は、哀《かな》しいことにテレビや映画のエキストラになり下がってしまっているが、昔はかなりのもんだったらしい。
「ワッパ」だとか「ころがす」だとか、よだれが出そうに楽しい言葉を聞かせてくれた。ねちっこい母音が極端に削れていて、その歯ぎれのよさは聞いていて快感である。彼らの生み出す言葉は、標準語に対する方言みたいなもので、どれも即効性がある。どの言葉が社会性を獲得してリアリティーを失うことなく残っていくか楽しみである。
リーダーのO君のテカテカのリーゼント頭を見て、「グリス(ポマードのこと)一かんか」と聞いたら、「まァ、ノッてる時は週に二かんは使います」と、うしろのポケットからステンレスのくしを出す。どういうノリ方をするとポマードの量が増えるのか不思議でしようがないが、彼らの価値基準には一種のすがすがしさがある。「カネがかかるのはかまいませんが、重くてね」。おどけて重そうに頭を持ち上げてテレ笑いする。こってりポマードを髪に塗ってヘアスプレーで固めているので枕《まくら》が汚れ、ほんとに洗たくする母親に申しわけないと言う。「まァ、どの世界でもツッパリ続けるのは大変なんでしょうけどね」。妙に所帯じみたことを言う。免許獲得には、倒れたオートバイを起こす体力が必《ひつ》須《す》になっているから若い隊員たちは750《ナナハン》めざしてマラソンや腕立て伏せのトレーニングを続けている。
風は冷たく、髪の生えぎわが痛くなり、ハゲるんじゃないかと心配になるという。ハゲてもヘルメットをかぶるB級の暴走族になりたくないという。「寒いだろう」と聞くと、ムッとしたような顔をしながらも、細身のジーンズの下からももひきを見せてくれた。
「オートバイは冬場がいちばんですわ。世をすねてんですからね、冬だ夏だとぜいたく言っちゃいかんのですよ」と、鼻をすすって歯をガチガチ言わせながらも胸をたたき、たのもしい限りである。
十分ほどハデにブルンブルンとデモンストレーションをしたあとO君は、「あの連中頭来るんだよ。連中さえちゃんとやってくれりゃあねえ。オレたちだって頭に血が上っちゃってて、モモヒキなんかはかずにやってけるんですよ」。遠くの交番を見やり、うらめしそうな目をする。取り締まりの警官なんて横着で、夏場は信号ごとに鋭い目で待ち伏せているのに、冬はどう挑《ちよう》発《はつ》しても交番の中で火《ひ》鉢《ばち》に手をかけて追いかけてもくれない。警官から取り締まりをくわない暴走族もわびしいものだという。世間知らずの国家権力相手に暴走する若い者も気苦労の絶えないものである。
実際、彼らは他愛もない不良であって、それ以上の何者でもない。それを社会のひずみのどうこうなどと押しつけられ、アップアップしている。になわされた危険な人種としての役割をまっとうしようとけなげですらある。
三月である。暖かくなると警官たちがまたゾロ弾圧の腰を上げる。「なんだか、過保護な暴走族になってしまいそうな気がすんだよね」とうそぶいて寒風の中を去っていく彼らの後ろ姿を見て、私は、まじめで危険な若者たちが安心して暴走できる時代にしてあげなければならないと思う。
六法、七法、八法とエスカレートさせ、彼らの腕っぷしではささえきれないほどにオートバイの排気量をあげ、体制側は迎えうつべきである。たとえ若者のエネルギーのいきつく先が悪であっても、性根をすえた弾圧でもって、いきつくところまでいかせるべきであろう。人間の尊厳として、無視し、過保護し、その生命力をスポイルしてはならない。
拝啓 日本共産党殿
どれほどの理想に燃えてソ連は、サハロフを幽閉し、ソルジェニツィンを国外追放したのでしょうか。そしていままた彼らは、いつの日か歴史がアフガン侵入を正義と記す時が来ると信じ、オリンピックを泥《どろ》沼《ぬま》へと引きずり込んでおります。
やはり、本場モンの共産党は根性が違います。しかしこうまで徹底してガンコをやられるとこっちがどこか間違ってるんじゃないかと心配になってしまう。決して、女、子供にウケようとしない、これでこそ、〓“男の政治・男の政党〓”です。きっとクレムリンの政治家なんかも気合いが入ってるでしょうから、みんなスリムな身体つきで間違っても糖尿病なんてなりっこないのでしょう。
拝啓、日本共産党さま、思い出して頂けませんか、共に起とうと叫んだあの日々を。いま一度、語り聞かせてくれませんか、見果てぬ夢を……。見せてくれませんか、二の腕にくっきり浮かんだ、あの「マルクス命」の刺《いれ》青《ずみ》を。
いいじゃありませんかあっちこっちにウケなくっても。
「やはり、女に選挙権やってダメになったのは共産党だ」と陰口されて、悔やしくありませんか〓 女だってバカじゃありません。誰がイメージばっかり気にしてるヤツに一票を投じるものですか。汗です。ガッツです。
昨今の貴党の選挙ポスターを見ていると腹が立ちます。腹芸自民党にいいように弄《もてあそ》ばれて、よくもああニコニコと笑っていられるもんですね。いいじゃないですか苦虫噛みつぶしたみたいんで。思想がシャンとしてりゃ男はみだりに歯ぐきを見せるもんじゃありません。
背広といえば、いかにも小銭をためて買ったブルーでみっともないったらありゃしない。赤でいいじゃないですか、闘う赤で。アカって呼ばれてきたんだから。初心を忘れるもんじゃありません。
それと差しのべたあの真白い手袋。本来ならマルクス全集を突き出しているつもりなのだろうが、財界の手をつなぐ用意はいつでもある、というふうにしか見えないから情けない。
以上、うがち過ぎたきらいもあって心苦しいが、要は今度の選挙において可もなく不可もなくという政治姿勢をやめて共産主義の土性骨をみせて欲しいということである。
チャラチャラしていると「関白宣言」は、日本共産党の党歌という噂《うわさ》をふりまきますゾ!
選挙長寿法――私の世代交代論
正直な話、電車に乗っていて、前に立っている老人と席をかわってあげる時、それは私の誠意や思いやりからではなく、かかわりたくないという気持ちから、というのが本音である。老人の顔と比べて確実に私の方が疲れているという自信はあるけれど、下手に居眠りをしているふりをすると何をされるかわからないから仕方がない。
ある時、白髪の老人が、シルバーシートに坐っていた青年をこっぴどく叱《しか》りつけているのを見たことがある。ガラスが割れんばかりの物《もの》凄《すご》い声で神《かん》田《だ》から新《しん》宿《じゆく》まで怒鳴りっぱなしで、よく喉《のど》が続くものだと感心させられた。乗客たちは、老人にはかかわりたくないと、見て見ぬふりであった。きっとこの老人は毎日電車にのり、シルバーシートにすわっている若者をさがし求めることを生きがいにしているのだろう。
老人の中でもとりわけ政治家は、誰を見ても気味が悪いくらいタフである。老人は若者をスポイルする悦びに長寿するのである、と憎まれ口のひとつも叩《たた》きたくなる。
それにひきかえ、どうして私たちはこうも〓“体力〓”のない世代なのであろうか。私たちだけではない。新宿の縄《なわ》のれんに行けば、坊っちゃん面《づら》の四十男が腕を見せたり、背中を見せたりして、
「これが、六〇年の国会前のときの傷」
「いや、俺の方がもっとすごい。この背中のあざがアスパックの時、警棒で」
と、過去を懐かしんでいたりする。どこへ行っても、安保よりもっと凄い戦争体験者たちから首根っこを押さえつけられ、場末の赤《あか》提《ぢよう》灯《ちん》でしか愚痴れないのだろうと思うと、気の毒になる。が、どこかで老人たちがこの光景を見て、
「こいつらを縁日あたりでゴザに坐らせ、ヘルメット前に見世物にしたら、もうかるだろう」
ぐらいは考えているのじゃないかと思うと、また背筋が寒くなる。
とにかく人間というものは、百歳になろうが不治の病に冒されていようが、金輪際、後進に道を譲ることはしないものらしい。最近は老人の方でもまた、敬ってなどほしくはないらしく、いつまでも現役としてナマ臭《ぐさ》くあり続けたいのであろう。自民党の中でも世代交代論なんていってるけれど、悠《ゆう》長《ちよう》なお伺いを立てても、蹴《け》散《ち》らされるのが関の山である。
とにかく、齢《とし》をとるべき年寄りが齢をとらないから困る。
やさしさの泥《どろ》沼《ぬま》で育った私たちは、他の人にやさしくすること、敬うことに飢えているのである。手を引いてやるべき老人を探しているのである。それを、盆栽とハサミを差し出してもつっかえされ、仕方なく自分でいじっているだけのことである。
東京のある候補者の事務所びらきをのぞいてみたら、選挙カーの上で立ちっぱなしの候補者を尻《しり》目《め》に後援会の老人たちがマイクの奪い合いをしていた。
私など目眩《めまい》がしそうな炎天下である。安保から始まりエネルギー問題まで、いい年寄りが、一家言ありすぎる〓 そして、最後にお決まりの「老人に福祉を」と叫ぶが、目は血走り、マイクをかみちぎりそうなその形相を見ていると、小銭を渡すだけの福祉なんか必要じゃなく、もっとドロドロした修《しゆ》羅《ら》場《ば》を用意してやるべきだと思う。
だらしがないのは若い秘書さんたちで、テラテラつやっぽい老人たちとは違い、皆一様に青白い。
「ほら、今エコーが利いていないっていちゃもんつけてるバアさん、ありゃ昨日まで寝たっきりだったんですよ。見ててごらんなさい、この二十日間で見る見るうちに若返ってきますから。今度は来なくていいからって言うと、殺す気かって言われましたよ。……孫抱いたり、生きがいがどうのなんて、のあれ流行だったんですね……そのくせ、すげなくされるのにだけ敏感で、わたしらの態度が悪いと露骨に票ちらつかせてきますもんね。ほかに楽しみのない年寄りの一票ってのは、考えようによっちゃ暴力ですよ」
若い秘書氏の愚痴はともかく、老人にとっては選挙は長寿法のひとつかもしれない。
それから、ある下町の候補者の事務所びらきを見に行ってみると、福田前首相が応援に駆けつけていた。私は、人《ひと》垣《がき》の一番前に立っていて握手をされてポッとなったということもあるが、この暑さだから早くマイクを渡してやればいいと思っていたのに、後援会の人たちの挨《あい》拶《さつ》はなかなか終わらず、福田さんは四十分近く立ったままであった。
それ以上にハラハラしたのは、自民党の内輪もめをこきおろすその内容である。よほど私が出て行って、「まあまあ、その福田さんも来ていることだし」と、諭《さと》そうかと思ったが、彼らの毒舌は尽きることはない。
挙句は名指しで福田さんに反省を迫る始末である。一方では、各自まるで自分が解散に追い込んだ主役であるかのように、胸を張る。
さすが、福田さんは大人で、「俺の手柄だ〓」と、下町の世話役さんたちと、はしたなく張合いはせず、「これで二、三年は長生きできるでしょう」といわんばかりであった。
とにかく、「気をつけ」していた私に比べ、老人たちはみな、腹の中のものを全部さらけ出さないことには納まりがつかない、という気持ちらしく、演説を終えただれもがスポーツをしたあとかサウナに入ったあとのようにすがすがしい顔をして演壇から降りてくる。
しかし、さすがの私も「若い人の未来のために捨て石になる」という言葉には、そのしらじらしさに耳をふさいでしまった。
各事務所をまわり、老人たちのタフさを見せつけられ、自分の無気力さを棚《たな》にあげ、腹立ちまぎれに寿司屋で、
「こりゃ、年寄りには選挙権をやらん、と法律で決めてもらわないことには、とんでもないことになるぞ」
と、言うと、つるっぱげの板前さんが、
「実際は年寄りの方から放棄を申し出るべきなんですけどね」とため息をついた。
私たちは理想に燃え、外に戦うことよりも、内なる〓“寛容の暴力〓”と戦うのに必死であった。なにかを勝ちとることよりも今あるものを守ることを教えられてきた。
たとえば私の父は、私が学生時代にどんな悪タレをやっても決して勘当はしてくれなかった。ただ面倒くさそうに、「卒業だけはしろよ」と言って、必要な金をくれた。
そのものわかりのよさを術だと知っていても、私たちは妙に小市民的な生活に慣れ切っていて拒むことができなかった。考えるに、父は子供のことなど眼中になく、自分だけの精神生活のために余計な波風が立つのがいやだったのだろう。その策略も知らず、私たちの方は父の社会的な立場や面子を重んじ、無鉄砲な行動を自制していた。父は去年死んだが、さんざん土地ころがしみたいなのをやっておいて、突然虚しくなったのか、ある選挙のとき「おい、共産党は駄《だ》目《め》か?」と言い出し、皆を困惑させた。とにかく波風立てずに一生を送ろうと思っている私たちは、「お父さんは年とってるんだから自民党でいいじゃないですか〓」と、なだめる毎日であった。
「おまえらさえいなきゃ、俺は好き勝手できたのに」と、恩着せがましく露骨に口にしていた。いくら戦争体験のほとぼりがさめたとはいえ、ちょっとのびのびしすぎるのではないかと思っていたが、ただただ面白くなさそうにうつむくばかりであった。
私たちは気がついたら目の前に食べ物がいっぱいあって、
「どうだ、感謝しろ、この幸せもんが〓」
と、それを失うことの恐怖ばかりを叩き込まれ、おかげで飢餓感への恐れは戦争体験者よりも強い。
実際、私は二十五歳の時から若者として意見を言わされ続けてきたが、三十二歳になった今でも相も変わらず若者である。この調子だと、死ぬまで若者をやらされてるんじゃないかと思う。とにかく中年の期間が短いだろうということは確かなことである。
動けば傷つき、動かないと病み、妙な潔癖さばかりが頭をもたげ、元自衛隊の統幕議長が革新を旗印とする政党から出馬したと聞いてはオロオロし、その昔、社会党から自民党に移った候補者もいると聞いては腰をぬかし、さりとて、投票所に行く無謀さも持たず、ただただ傷つくことのみ上手になる今日このごろである。勇気をもって投票所にいっても、「四十歳以下選挙権なし」といわれたって反論のしようもないし、死ぬまで待っても、こっちが先にくたばりそうで、一体私たちはどうしたらいいのだろう。
美濃部さんが参院選全国区に立ったのにも驚いた。
老衰防止のためか、また権力の持つ快感が忘れられずしてか。清潔な学界から魑《ち》魅《み》魍《もう》魎《りよう》の政界へと引っ張り込まれ、十二年間さぞかしお疲れになっているだろうから、穏やかな老後を送っていただきたいと願っていただけに、その驚きはひとしおだった。たしか、政治の世界は汚い、耐えられないといっていたのはこの人だったはずである。
新宿駅前の社会党の第一声の選挙カーに乗ると聞き、見に行くと……やはりこの人も元気いっぱいである。応援の落語家から、
「いちがいに自衛隊がいかんと言ったら話にならんでしょうが。いい若いもんが固いこと言うんじゃないよ〓」
と、説教されたのにはあいた口がふさがらなかった。非武装中立なんかはむし返しもしないが、そのトーンは、田中角栄が使う「大事な新潟県民に工場の濁った排液の混じった水を飲まされますか」と、同じトーンである。
そして次は飛鳥田委員長が、
「ほっときゃ徴兵制やられるんだ。鉄砲もたされるんですよ。構わないんですか、あなた方若い人は〓」
と、迫ってくる。その芸達者ぶりは、
「……あんな重いもん持っておまえら行軍できるか。できやせんのだよ。第一戦争になっても俺たちゃやれるが、おまえらにその度胸はないだろうが〓 だったら俺たちにまかせておけ。悪いようにせんから……」
というふうに私の耳には聞こえてきた。自民党から「最近の若いもんは」と言われても仕方ないと思うが、革新の党から「若いもんは」と怒鳴りつけられると腹が立つものである。しかし、いつから野党に切実さがなくなったのだろう。かんじんなところがせっぱつまっていないものだから、言葉だけが勝手にエスカレートし、うさん臭《くさ》くみえるのだ。候補者にやたら愛《あい》嬌《きよう》があって、社会党はもはやかつて労働者の代表だった政党というイメージしかない。
みながみな、
「ソ連はそこまで攻めて来てんだ、ソレ」
と、餠《もち》でもばらまきそうな余裕である。
石油危機と叫ぶにしても、石油をダシに私たちは恐《きよう》喝《かつ》されているとしか思えない。私たちが無理してしゃしゃり出なくても、年寄りだけに任せてさえおけば、石油なんてどうとでもなるのだろう。それでなければ、ああおおらかに日本の危機を叫べないはずだ。
みながみな、昔の自民党代議士みたいな顔つきだ。そして誰もが白い手袋をつき出したケネディで、必要とあらばいつでも財界とでも手をつなぐ余裕もあると、ふところの深いところを見せて、もう頼もしくさえある。
どの政党も政策のやりくりが上手で、明日、自民党と共産党の連合政権ができたとしてももう驚きはしない。
が、今一度、共産党がアカであり、社会党が必要悪であり、自民党がどうしようもない政党であるという虚構に触れたいと思う。ふと、誰か歯の浮くような理想論を説く一枚岩の政治家に票をあずけ、思いっきりだまされてみたいものである。
今は、若者が「自民党支持」を明言しても恥ずかしくない時代であり、そして明日くいっぱぐれることのない日本で、一票の余裕はかなり出てきたはずである。
国会を老人たちのスポーツクラブ、リハビリテーションセンターとせず、若い政治家の現実処理能力のなさばかりをあげつらわず、
「三年ばかり石油を輸入せんことにしたから、それで政治をやってみろ」
との、遊びの精神をもって若者に試練を与えてほしい。
〓“ハングリー魂〓”に幸あれ
私たちは、気がついた時には左手にコーラ、右手にテレビのチャンネルを握っていて、ガチャガチャいうチャンネルの音にハッとしてものごころがついたようなものだった。ものに囲まれ続け、四六時中満腹の状態で暮してきた。これでもかこれでもかと食わせられ、見させられ、あげくが「ハングリー精神がない」とメチャクチャ言われてきた。ハングリーさを装うために、私たちはなみなみならない努力を重ねている。いつも「ハングリーでなければならない」と考えながらビフテキを食い続けてきたので食った気がしなかった。とにかく「ぜいたくは敵だ」となにごとも「ハングリーでなければならない」のお題目をかかげ、一度ビフテキをつき放してみるために、味や調理法にどんどんうるさくなってきてはいる。
いま、「ものがなくなる」「資源の確保」などさかんに言われているが、私の日常生活にそれを実感させられることはない。ものはいったいいつなくなるのか、それはどこまでなくなるのかをはっきりしてほしい。そうすれば、それを思いきり使うなり楽しむなりの対応のしかたが決まるのだ。
今のような中途半端な「省エネルギー」など狼《おおかみ》少年の話のようで、〓“ものがない〓”というのが、〓“軍隊がない〓”と言ってるように聞こえる。
ものがなくなるということは戦前戦後を体験してきた人たちには恐怖なのだろうが、いまの私たちはその飢餓感を一度楽しんでみたいと変わってきている。暴走族の無軌道ぶりも、自らの手でつくり出した危機感に身を任せ楽しんでいるのだろう。
しかし、こうしてテクニックとしてのハングリーさを修練してきているものの、それがいざ本番に通用するかどうかの不安はある。確かに私たちの世代は、平和体験の中で生きたとの強《きよう》靱《じん》な生命力をもってはいるものの、奪い取ってきたものがなんにもなくいつも与えられてきた。本来奪い取ってくるはずの〓“やさしさ〓”さえも、いまは分ち合うものになってしまっている。
が、こういう時代だからこそ、なおさらビフテキを味わっても、牛を育て、殺し、食うことのなかったハングリー魂が生き残れるであろう。
異説文化論
はきちがえ機内サービス
私は取材旅行というものをほとんどしない。こっちの欲しい情感など消え失せてしまっているだろうし、実際なんども裏切られてきた。
たとえば、坊さんがゴーゴー踊っているのは冗談にもならないし、競馬場で馬券にぎりしめて念仏唱えているのにも出くわした。
イメージどうこうというよりも、世の中万事、そういうものだ、とあきらめが先に立つ。
パリでラーメン屋の看板を見たとき、してやったりと思った。さすが日本人である。
一人ヨーロッパを旅するエトランゼに、オペラ座を睨《にら》みつける〓“マージャン屋〓”の看板ほど心強いものはない。
海外旅行は外国の航空会社を利用したほうが良い、という忠告をうけていたが、あいにく日本航空であった。
実際、飛行機の狭いシートに縛りつけられて、週刊誌も全部読み終え、変に乾燥した空調で眠れやしない。
七時間くらいして、給油のためにアンカレッジに着陸し、客は一時間ほど空港の待合室で待機する。長旅の疲れで客は全員顔がむくみ、ゲンナリしている。そして、再び給油の終わった飛行機に乗りこみ、出発するわけだが、そこに、
「搭乗員が交代しました」
とのアナウンスがあり、風《ふ》呂《ろ》上がりのすがすがしいスチュワーデスが登場する。
「おっ、安全のため、元気いっぱいなのと交代するんだな」
と客は安《あん》堵《ど》し、目をくぼませて納得したのだが、それからまた七時間ばかりたち、次のコペンハーゲンで、また元気いっぱいなスチュワーデスと交代した。
さすがにもう、いままでネクタイをきちんとしめて紳士的に標準語をしゃべっていた客も、お国なまりをもろに丸出しにし、目を血走らせ、閉所恐怖症になる寸前である。
十五時間近くも、シートに縛りつけられ、時差とかなんとかで、朝になったり、夜になったり、変な睡眠不足といら立ちに気分が悪くなっているのは承知のはずである。そこへ、たっぷり睡眠をとったにこやかな顔で、
「ようこそ、日本航空を」
と愛《あい》嬌《きよう》をふりまかれると、たまったものではない。
彼女たちはサービスをはきちがえている。機長も、スチュワーデスも、ともに目的地まで髪ふりみだし、目にクマをつくり、気に入らない客をどなりつけたり、人間性をもろ出しにして、乗客と共に闘ってもらわなきゃ、と思う。
その連帯感が、十五時間、客と共に闘う姿勢を見せることが、本当のサービスというものだ。
それが外人のスチュワーデスだと、はっきり、顔の色つやなんかわからないし、アナウンスが外国語で、交代したことさえ、はっきりしないし、なにせ外人なので、そうむやみに怒る対象にはできない、というわけである。
スチュワーデスは愛嬌がありゃ、いいってもんじゃない。
これが、今度の旅行で取材できたことである。
恐怖の一対一
私はアパートの五階に住んでおり、上がり下がりにはエレベーターを利用している。無神経な大家らしくただ上がり下がりするだけで、何の細工もほどこされていない。
たまに誰かと乗り合わせて、二人きりになる時がある。その気まずさといったらない。なぜかあいさつするわけにもいかず、はやく目ざす階に到着してくれないかなあと、階を示す表示ランプを、歯をくいしばり、にらみつける。
乗りあわせた人が女性となったら、もう地獄である。
チラ、チラと互いに牽《けん》制《せい》しながら、
――おれに襲われると思ってるんじゃないだろうか、困るなあ。
またチラ、チラと相手の様子をうかがってしまう。すると相手も落ち着きがないように見える。
――あたしを襲おうと思ってんじゃないかしら、ってあたしが思ってると思ってるんだわ。困るなあ、あたしはそんな女じゃないんだから。
――おれに襲われると思ってるんじゃないだろうか、とおれが思ってるのが見すかされたんじゃないだろうか。おれは潔白だ。
無理に平静を装おうとすればするほど、喉《のど》が乾き、冷汗がにじみ出てくる。決して、これは妄《もう》想《そう》のなせる業ではない。この取り越し苦労は、むしろ現代人として、健康で正統のものと言える。
かくして、深夜のエレベーターは、筆舌に尽くしがたい恐怖の密室となるのである。
こういう体験を味わった人は少なくないと思うが、依然、ビルの管理者もエレベーター会社も、いっこうに改善の努力をしようとしない。エレベーターこそが、コンクリードジャングルと言われる一因をになっている。
エレベーター内に、週刊誌、雑誌等の、肩のこらない、いつでも気軽に手にとれるものを常備するのだ。そうすれば、あの耐えがたい緊張がいくらかでも和らぐと思うのだが、どうだろう。
残念ながら、私はまだそういうエレベーターに乗ったことがない。あの近代建築の粋ともいえる、新宿の高層ビルにすら、その配慮が見られないのはどういうわけだろう。てっぺんまでの何十秒間、一対一で何をしていろというのだ。その拷問にも等しい哲学的な時間に耐えられる人間が、果たしているのだろうか。のほほんとできる奴《やつ》は、人でなしである。
エレベーター内が禁煙である以上、せめてさりげなく週刊誌のページを繰る紳士の身だしなみぐらいは許してもらいたいものである。そしてゆくゆくは雑誌だけでなく、ギターなども備えつけ、エレベーターから下宿人が降りなくて困るとの苦情が出るくらい、対話の場としてもりたてていくべきである。
街には〓“やさしさ〓”があふれて
街にはやさしさがあふれている。風や木立まで、なにやらやさしげである。歩く人の幸せぶりは、私にはいら立たしいほどである。
ニューファミリーについてコメントを求められる。ニューファミリーというのは、おそろいのGパンで、スーパーマーケットに買い物に出かけたり、料理や洗たくなどを分担して行なったりして、お互いの人権を尊重し、女性もひとつの人格として認めて対話することだという。
なるほど論理的だ。しかし、そうあからさまに宣言されると、なにかやりきれない。どこまでやさしくしてやったら、気が済むのだろう。これでもか、これでもかとやさしくしてやっているのに、まだ足りないらしい。これ以上やさしくしたら、会社にも行かず、仕事もせず、一日中べったりとくっついて奉仕しなきゃならなくなるのではないだろうか。
新聞で、こんな記事を読んだ。思わず笑ってしまった。スイスの准将が、十三年間もソ連に軍事機密をもらしていた動機が、「ソ連武官のほうが、スイス軍の上官より、軍事問題の話に熱心に耳を傾けてくれた」という。なんとも、ばかばかしく、リアリティーのある話である。
これからは、井戸端会議などと、たやすく軽《けい》蔑《べつ》してはならないだろう。人間には、食欲や性欲と同じように、根強いおしゃべり本能があり、適当に発散しなければならないものなのだろう。
しかし、このスパイ事件は男であり、まして厳格な軍人である。いや、決して軍人が厳格であらねばならないということはない。しかし、本質的には、厳格であるがゆえに、はじめて軍人という言葉は成立するものである。この人は、十三年間ももらしていたというから、もうかなりの年であろう。いい年した男が、軍事裁判で、「だって、だれもかまってくれなかったんだもん」と、ひらき直ったという。
この過保護な兵士こそ、まさに本物のスパイよりもこわい存在である。現代は敵と戦う前に味方と戦わなければならない。一歩敷居をまたげば、七人の敵がいる、ではない。八人めの敵が一番こわい。
しかし、この場合、「さみしかった」は、このやさしさ時代には正当な理由となりえ、共感を呼ぶであろう。
むしろ、ステキな人間味のある兵隊で女性間の支持を受けていいはずである。
この手合いは、いまのところ、説得の手段がない。原爆のボタンだって、「ぼくちゃんさみしかったんだもん。ちょっと押してみたかったんだもん」と押されたって、文句も言えなくなるだろう。
はかなし〓“悪の巣〓”のイメージ
あるテレビの取材で、岩手県の漁港へ行ったときのことだ。これから北洋に出かけるという若者たちにインタビューしたところ、彼らは口裏を合わせたかのように、将来、金を貯めてスナックをやりたい、という。その、あっけらかんとした健康さが、どうも気に入らない。
確かに今、スナックは若者の広場であろう。しかし、
「お店持ちたい」
とは、もうすこし、いわくありげな〓“過去〓”のある言葉のはずである。世間に負け、スイもアマイも噛《か》みわけた、年の頃なら三十二、三の色っぽい女性が、カウンターで酔いつぶれ、ふと吐く台詞《せりふ》である。
また、日に焼けたいい若者が、マスターなどにふんぞり収まりかえっていいもんじゃない。マスターなんて並の人間にできるものじゃない。ママとの間に何かあるんじゃないか、と客に思わせるだけの、人間としてのかげりや深さが必要なのである。
客などというのは、正体不確かで、飲む理由がそれ相当にあったはずである。それが、いつからだろう、マイク片手に客が店の中を走りまわるようになったのは。かつて酒を飲むことは、ひとつの情緒であり、人は酔いに従い、それぞれの思いを胸に溜《た》めこんでいったものだ。が、昨今のスナックではどうだろう。酔うにしたがい、汗を流して大声はり上げ、胸の思いを発散しつくす。私はあえて断言しておきたい。スナックはアスレチッククラブではないのだ。
が、それもみな、あのいまわしいボトルのせいである。客は、いわば名刺のかわりのように、あっちの店、こっちの店で、こぞってボトルを入れる。そして、ネコのようにおとなしかった客が、ボトルを入れた途端、愛嬌たっぷりにはしゃぎまわる。冗談をいえば笑ってくれるし、手持ち無《ぶ》沙《さ》汰《た》にしていれば話しかけてくれる。
ボトルというのは、現代人の哀しい存在証明なのかもしれない。
近頃では、どこの店でも、二か月、三か月という期限つきのボトルになっている。つまり、三か月以上たったらあなたのことはすっかり忘れますよ、という警告なのだ。これでは運転免許証のようなものだ。
かつては、客というのは、無名性の中に生きていたものである。カウンターの片《かた》隅《すみ》こそが、ロマンをはぐくんでいたものである。そして、スナックというのは、鷹《おう》揚《よう》に構えて、客を現実から遊離させてくれたものである。だから、スナックで飲む客は、誰がなんといおうと、ギャンブラーである、殺し屋であり、ギターを抱いた渡り鳥であったのだ。
ところが、今のスナックはと言えば、さわがしいガキと女房の待つ公団のほうが、まだましだろうにと思う満員電車のような喧《けん》騒《そう》の中で、ペチャペチャしゃべくり合い、マイクの奪い合いをする客ばかりである。そして、三か月に一回、定期を書きかえるように、ボトルを置いていくのだ。
さすらいの客と、過去を語らぬママの、静かな対決の場であり、怪しげな、あのなつかしい悪の巣であったスナックは、今、太陽の光をサンサンと浴び、希望に輝いている。
読まない見ない勇気!
かつては、
「マンガなんかはお読みにならないでしょうね?」
と遠慮がちに聞かれて、
「読みます。あれは勉強になります」
と、自信たっぷりに胸を張り、現代マンガ論なるものをのたまわっていたのだが、近頃は、
「どうかなあ……」
と笑いながら頭をかいている。
実際、私は、あの読み方を読んだといっていいのかどうか自信がないのである。
昔はマンガといえども、いや、むしろマンガこそ、しっかり一字一句活字を拾っていたものだが、最近では、飛ばすというか、流すというのか、読むというよりは、ただページを繰っているようなものである。ほんとに、このまま、バカになるんじゃないかと思う。
なるべく活字の多いマンガは避け、たまにあってもフィーリングで読みこなすという感じだ。喫茶店で読んでいる時は、活字の多いマンガを飛ばしていることを周囲に悟られやしないかヒヤヒヤしている。そういえば、昔、電車の中でマンガを抱えているのを、恥ずかしく思った時期もあったっけ。
一冊平均十分もあれば読んでしまうだろうか。それでも、絵だけは見ているのだ。
人間、訓練次第である。だいたい私が絵で汲《く》み取《と》ったものは、そのまま台詞と一致しているのだ。あれはまあ、いってみれば、絵の翻訳みたいなものだろう。
しかし、それでも、絵を流れるように見せてくれるマンガ家はなかなかいない。それで、私は仕方なく、今では、絵の拾い読みを覚えている。
確かに人間、どこまで横着になるかわからない。
週刊誌は昔、電車で遠出する時、読んでいたものだが、今、国電で新宿―渋谷の十分あまりで買って、読み終わってしまう。どうせグラビアと、かこみ記事に目を通すだけで捨ててしまう。内容など、電車の中づり広告でみんなわかってしまう。
そしてまた、テレビがそうである。夜の八時台から九時台になると、一分おきぐらいにチャンネルをカチャカチャ回し、三つから四つは一度に見る。チャンネルが擦《す》り切れてしまって、ゆるゆるになっているほどだ。
そればかりか、今、巨人はホームラン打ってるんじゃないかとか、そろそろヒロインが死ぬところだろうとか、他局のことばかり気にかかって落ちついて見たためしがない。
こんな無茶苦茶な見方でも、結局、最後には、全部理解できてしまうということは、私がせっかちなのか、あるいは、テレビとは本来、そういうものなのか。
気が付くと、のみこみばかり早くなって、落ちつきのない今日、この頃である。
面白くなきゃマンガを読まない勇気、面白くなきゃテレビを見ない勇気、そして、面白い事がない時は、沈黙し、じっと待つ勇気が、確実に今の私たちには必要に思われる。
放射線有情
かけおち
L君が、京都の八ツ橋をもって、かけおちから帰って来た。かけおちに手みやげもないだろうが、L君は照れ笑いをしながらも、「どうも、ぶしょうで薄情な奴ばかりで」と嫌《いや》味《み》を言う。本人たちは、かなり思いつめてかけおちしたつもりなのだが、周囲があまり無関心で、真剣に追いかけてくれなく、ボルテージが上がらず、なんともしまらぬかけおちになったという。
「悲壮感がまるでなく、B級のかけおちになりましたわ」と、旅先の安宿で緊張感がなくなり、しっくりいかなくなったと、相《あい》方《かた》との仲を嘆く。友人たちが必死に捜索願を出したり、家族が取り乱したりしてくれなくては、自分たちのかけおちという純なる行為が成就しないということなのであろう。
つまり、どろぼうが警察にどなりこみ、「こんなに一生懸命汗流して逃げ回っているのに、なぜまじめに逮捕しようと追っかけてくれないか」と、談判するようなものである。どろぼうは逃げたくて逃げているのではなく、必死で追いかけてくれる警察官の熱意にこたえようと、逃げているという論理である。
そうなら、お風《ふ》呂《ろ》屋《や》さんの壁などに張ってある指名手配の写真にもれて、哀《かな》しい思いをしている凶悪犯などが、奮起してもう一つ殺人をおこすようなものである。
現代における価値観が、このような関係性で成り立つ部分が多くないだろうか。
それにしても、L君は無責任と言わざるを得ない。
やはりかけおちという偉業を成しとげようとすれば、それ相当の追い詰められ方なり、あとで、友人や家族が大騒ぎするに値する幕のあけ方もあるだろうに、事前にそれをしていない。せめて、月末の忙しい時は避けるというだけの誠意がないし、じっとしてるだけでも寒さでわびしくなる真冬を避けて、春先の陽気のいい時期のかけおちなんて、虫がよすぎる。
「頭に来て、みせしめに何度死んでやろうかと思ったかしれない」とL君は脅《おど》す。そのたびに私は平身低頭して「いやあ、気にはなってたんだが、仕事がたてこんでて……」と妙な弁解をする。
心中に至るほどの燃え方だと、振り向いてもらえると思っているらしい。これからは、かけおちの末心中という新聞記事が出ても、決して二人の、あまりある情熱が彼らをして死に至らしめたと思ってはならない。
かけおちしても、だれもかまってくれないのに悲観しての心中ということに認識を変えなければならないだろう。
偏見1
日本人の平均寿命が年々のびて、何歳からを〓“老人〓”と呼んでいいものか、放送局や新聞社は見出しをつける時困っているらしい。せめて「いい年」とか、「近ごろの若い者はと小言を言われなくてすむ年」とか、「バスで席を譲られても文句を言えない年齢」ぐらいは添えて発表してもらいたい。そして上手な年の取り方や、ステキな老い方を教えてもらいたい。「記憶にございません」といったセリフは、頑《がん》固《こ》を通りすぎ幼すぎるとしかいいようがないし、選挙カーの上から、派手なブレザーで手を振る候補者はあきれるくらいに若々しい。肌《はだ》は脂ぎってVサインをつくる健康さは、気味が悪いくらいだ。
一時代前、いやいや部下に連れられ、ゴーゴー喫茶で踊ってる中年層のほほえましさが目立ったが、今では、駅のコインロッカーの独占率を女子高校生と二分しているのではないかと思わせるほど、てらいがなくなっている。
単なる胃炎という診断に憤慨し、胃ガンと宣告されるまで病院をかえて回り、「胃炎じゃ立場がない」と、わけのわからないことを口走り、医者の胸倉をつかんで詰め寄る話など、しょっちゅうである。老いらくの恋など、ほほえましさを通りこしてすごみがある。
すきあらば、ねじ伏せて、足腰でもさすってやろうとすると、「まだお前なんかの出番じゃない。危ないから表で遊ぶな。家で盆栽でもいじってろ」と逆にはね飛ばされる。正直な話、どんな敬い方をすれば気に入っていただけるか、右往左往という状態である。
電車で快く、席のひとつも譲らせてほしい。「もうそんな年に見られるのか」と古典的に傷ついてくれればよいが、「年寄りだと思ってバカにしやがって」と、いつひっぱたかれるかわからないというのが現状である。疲れていなくても、少しは若い者に花をもたせるということで、息ぎれしたりよろめいたり、席を譲りやすいようにしてくれる寛容さを見せてほしい。
年をとっても、なかなか大人にはなれない時代なのだろう。老人たちが魅力ある「枯れ方」を見せてくれる日まで、恥をしのび、シルバーシートを占領し、さらしものになり続けなくてはならないのだろう。
クーラーのきいた喫茶店から見る選挙演説に、つくづく老人とは「どこまで若くなるか」という可能性を秘めた怪物であると実感させられるきょうこのごろである。
値上げこわい
先の値上げから、はや二か月。いまだ値上げのネの字も出て来ないタクシー業界の見識のなさには、あきれかえる。もはやタクシーのシートカバーで靴《くつ》みがく客もいなくなったろうし、一万円札出す横着者もいなくなったはずである。いまさら「今でも十分採算が取れ、これ以上の値上げの必要はない」などと、きれいごとは言わせない。
駅のタクシー乗り場で、後ろに並んでいる子供連れの女性客の順番が個人タクシーにあたるようにと、列を離れて小細工するばかりでなかなかタクシーに乗れないでいたところ、先日、叔《お》母《ば》危篤の僥《ぎよう》倖《こう》に恵まれた。
「叔母が危篤で、君の運転いかんで死に目に会えるかどうかというとこだな。乗車拒否されたら、はってでも行くつもりなんだけど、どうかね」と、まず、こっちの立場の優位を示し、「愛嬌振りまくほどもらっちゃいない」との不気味な沈黙は許さない。
「右曲がらんか。左行け。行き先いちいち言わなくちゃいけないからタクシーはだめだよ。高《たか》田《だの》馬《ば》場《ば》に決まってるじゃないの。おっ、ほらほら、黄色は突っ込むんだろうが。見ちゃおれん。どけ、俺が運転してやる。なんせ叔母が危篤なんだ。文句あるか。危篤なんだぞ。免許証いるか。福田呼べ、総理の福田をよ。死ぬか生きるかの瀬戸際なんだぞ。ざまあみやがれ」とまあ虎《とら》の威を借り、大変なプチブルぶり。
こわいものなどありはしない。なにせこっちは、叔母危篤という大義名分葵《あおい》の印《いん》籠《ろう》がある。
しかし、親族殺してでしか満足にタクシーに乗れない小市民は哀れである。ここまでさもしくさせといて、「そのうち値上げします」とは無責任すぎる。
今でも思い出す、あの値上げ直後の日々。百万運転手さんのあのサービスのよかったこと。
前方不注意を省みず、たばこに火をつけてくれたり、箸《はし》がころげなかったといっては共に嘆き、政治をダベり、日本の将来を憂い、行きずりの人と人とのふれあいを楽しんだものである。
夏風邪を危篤とあざむく、大和おのこの哀れさよ。
照れることないこまめな値上げが、健全な市民の生活をやすらげることを忘れないでほしい。
悪場所
「流し」は、客がグラスを傾けるそぶりや、タバコを震わす手つきを読み取り、ギターをつまびく。リクエストなどを聞かないのがプロという。声のもうひと伸ばしで、客がカウンターに泣き伏すのを感知し、声を抑え「おかわり」と涙を隠すスキを与えてやる。喜怒哀楽を抜かりなく、最後は「荒《あら》鷲《わし》の歌」でまとめる気の配りようである。
いつのころからか、歌手志望の流しが出てき、客がなにゆえ酒を飲むのかおかまいなしに声を張り上げ、自分の思いを客にぶつけるようになった。昨今、流しは飲み屋街で激減しているらしいが、当然である。客と駆け引きを忘れた流しなど、ジュークボックスにも劣る。
しかし無理もない。かつて飲み屋は、悪場所として毅《き》然《ぜん》としていた。ボーイは何やら世をすねて、ママは何やら過去ありげ、そしていわくありげな客がとまり木で「世が世であれば」と人生を嘆き、「男〇〇ともてはやされて」とのうらみ言をはぐくみ育てるところであった。客との色恋ざたも出刃包丁で、間違ってもアイスピックは出てこない。そうして心ある人は、悪場所を守ってきたのである。
ところが、昨今のスナックは、ズバリ言ってアスレチッククラブである。人生の無常を知るべき中年男どもが日暮れと共に出勤し、マイク片手に、スナック狭しと走り回る。そのレパートリーの広さといったら「俺は河原の枯れススキ」から「これっきり、これっきりですね」まで、あきれるくらい器用にこなし、視座というものがまるでない。これはゆゆしき問題である。青年時代、どの辺でどう傷つき、どう挫《ざ》折《せつ》したか、まるで見当がつかない恐るべき世代である。戦争には遅すぎて、安保には早すぎた怨《うら》みつらみでマイク握りしめ、気味が悪い。一汗かき「そこの旦《だん》那《な》おたくもどう」と、歌集を投げてよこす。いいとこみんな歌っといてカスしか残ってないのに、この無神経さには腹が立つ。勘定には歌いもしないのにマイク代請求され、踏んだりけったりである。
ボーイは、グラスだなから後ろがないというストーリーのなさ。ママは、カウンターから上だけの着物で下はGパンはいてるとしか思えない軽薄さ。流しの質の低下に起因したことでもあろうが、若者の巣食うべき悪場所に日を当て、およそ人生の陰影もなければうるおいもない場所にしてしまった責任はまぬがれようもない。
虚礼死守
劇作家ピランデルロの作品にはよく美男と美女が出てくる。が、この二人が登場する必然性は、はなはだ稀《き》薄《はく》である。意地悪くみれば、制作者からかわいこちゃんじゃないことには客が入らないと責められ、しぶしぶ書き加えたものに違いない。
シェイクスピアも人間である。あれほどたくさんの「その他大勢」をつくっているところをみると、よほどお中元やお歳暮をもらった口であろうと思う。そのしがらみを逆手に取っていくつもの大作を後世に残したのだから、お中元やお歳暮もバカにしたものではない。
私などダメである。役者の田舎から家族が出て来るといえばセリフくらいは増やしてやれるが、裏方にまわり、それでも笑顔でソッと衣装のつくろいなどしている者にむりやり出番をつくってやる力量は今はない。しかし素養はある。どうも最近の若い役者は鷹《おう》揚《よう》で、袖《そで》の下、つけ届けと、座付き作者を追い込む気概がない。私は色じかけなど、演劇発展のためなら受けて立つ自信がある。
人は皆、電車で足を踏まれても「すみません」と踏んだ相手を気づかい、またいたたまれなさに、関係のない次の駅で降りてしまういくじのなさである。痴漢でないことの潔白証明に、左手につり革、右手に新聞を細かく折る姿には、痛々しいものがある。
だれしも、家族さえいなければ、立場さえなければ、バスで乗り合わせた相手でさえ胸倉つかまえて言ってやりたいことは山ほどあろう。それを抑えての「お粗末なものですが」、「お口に合うかどうか」のしたたかさを、虚礼と軽々しく言ってはならない。「若気の至り」とか「酔った勢いにまかせて」という言葉が使えない年になり、お中元とかお歳暮とかにかこつけてでしか訴えられない心情というものもある。
「遺憾である」という言葉が日本の政治を支えているように、虚礼こそがまじめな日本の礎《いしずえ》となっているのである。人は皆、控えめに、つつましく生きていこうとし、そのよりどころとして儀式や慣習で武装するのである。虚礼廃止など、第一、日ごろ、あの野郎この野郎とわめき散らし、暑中見舞いや年賀状でアリバイ証明する私のようなアクタレには迷惑な話である。
戦後必勝法
「ゼロ戦」とはチューインガムの名前で、「大和」とはチョコレートの名前だと思っていた。
戦争に勝った国の者が、ジープを乗り回し、負けた国の子供たちを蹴《け》散《ち》らし、ガムとチョコレートをバラまくのは、常識であり、礼儀である。乞《こ》食《じき》みたいにはいつくばって、むさぼり食う。これこそ、敗戦国の子らのあり方である。戦争といえども勝ち負けはある。しかし、負け方までトチることはない。大学だって、落ちた時のことを考えて、予備校のパンフレットをたずさえ、盲腸やったからだの、クラブ活動に精出したためなどと、卑屈な言い訳を用意してでしか試験場にはのぞまない。女にだって、別れの場面を想定してしか声をかけやしない。これが社会のルールである。
ところが、言語を絶する無知な負けぶりに、アメリカだって、あきれかえったろう。上陸してきたGIたちも メgive meモ という言葉にはじまり、ガムの噛《か》み方まで、手とり足とり教えなければならなかった労苦は、いかばかりのものだったろう。せっかく勝ったのである。本来こうした場合の メgive meモ という言葉は、はかりしれないほどの誇りと引き換えに発せられるはずのもの。それを乗り越えて、はいつくばる敗戦国の子らのあり方をまのあたりにしたかったのに、あまりにも安直で機械的な メgive meモ でしかなかった。もう、ほんと、二度と戦争なんか誘ってくれないのじゃないかしら。
実際、「ガムは食うもんじゃなく、ふくらますもんだぞ」とすら教えることもなしに宣戦布告するなどとは、不謹慎すぎる。
それじゃあ、勝つつもりだったのかというと、ガムもチョコレートも用意してないときた。あげくは、ゼロ戦は戦闘機で、大和は戦艦だという。ペテンもたいがいにしろと言いたい。
むずかしいことではない。十、戦艦や戦車や爆弾を作る工場があったら、なぜ、その内二つぐらい、ガムやチョコレートを作る工場を造っておいて、戦争を始める誠意がなかったのか。
一事が万事、こういう横着きめといて、戦争体験だの、焼け跡闇《やみ》市《いち》だの能書きをたれる権利はない。
戦争というものを、私たちは知らない。開き直るつもりも、これを卑下するつもりもない。せめて、よりよい戦後のおくり方だけは後世に伝えたいと思う。
平和体験
あの戦争のおかげで我々がどれだけ苛《か》酷《こく》な平和体験をしいられているか、簡単なテストを楽しみながら考えてみよう。
問題。食卓の場面である。次の文章を読んで問いに答えよ。
――私がトンカツ食ってたら、子供が食い入るように私を見つめるんです。
「お父さん、お父さん、俺、今日思いきって言う。聞いて。あのね、今日学校でケンの奴《やつ》ったらさ、放課後みんな集めてこんなこと言うんだよ。『今日さ、俺が算数の試験百点取れたの、これ俺一人の力じゃねえんだぞ。うちの親《おや》爺《じ》の過去が、俺をして百点取らしめたんだ。うちの親爺はよ、戦争中な、南方で人の肉ガバガバ食ってたんだぞ。その親爺の劇的な戦争体験が俺をして百点取らしめたんだ。ところがどうだ、山崎んちの親爺の過去のなさ。あの親爺、戦争素通りして来たんじゃねえのか。だから、山崎三十点しか取れねえんだよ』
確かにお父さんたち、クラブ活動で知り合い、買いおきがないばっかりに俺が生まれたんだけど、たかが子供社会のことなんだけど、ひくにひけなかったんだよ。悔《くや》しくってね、お父さん、言ったんだよ。『馬鹿野郎。そんなことが放課後みんな集めてする話か。笑わせちゃいけねえよ。戦争中だぞ。人の肉食ったなんて当たり前じゃねえか。うちの叔《お》父《じ》さんなんか六〇年安保で一人食ってんだ。人の肉食ったことが自慢になるなんてB級の戦争だよ。俺んちの親爺はな、人の肉なんか食い飽きて食わないよ。ガリガリよ。ガリガリ。金玉しか食わなかったんだ』
宇《う》都《つの》宮《みや》師団の金玉野郎って言われてたんだ。お父さん、食ったよね、食ってくれたよね、人間ならば、人の親なら食ったと断言して」
問い。この息子のキラキラ光る目見て、食ってないなんて言えるか。
今度戦争があったら、スケジュールが大変である。一応特攻隊で死にぞこなっていなくちゃいけないし、「史上最大の作戦」にはまず参加しなくてはいけない。香《ホン》港《コン》の夜景を見下ろし、丘の上で女医さんと恋をしなくてはならないし、ゼロ戦乗って大和に乗ってないという言い草は通じないと思うし、両方関係持ちたいため、ゼロ戦で大和に突っ込まなきゃいけないだろう。手記は書かなきゃいけないだろうし、鉄砲捨てても原稿用紙は手放しちゃいけない。ほんと、体が持つかしら。
演劇のススメ
さて、わが愛すべき演劇界は、カツ丼《どん》も上《じよう》をとったら堕落、土用丑《うし》の日でさえ、うなぎを食っていると芸が乱れると言われます。常時、質札の二、三枚ポケットにしのばせておかないと、演劇理念がないとのそしりを受ける見上げた世界です。そのせいで、飯《いい》田《だ》橋《ばし》にある私の事務所はけなげに貧相で、演劇の殿堂として人にうしろ指をさされることはありません。トイレのドアなどベニヤ製の安手のもので、よほど度胸のある人しかトイレを使えず、前の喫茶店に借りに行きます。
この夏は、来年から始まる芝居の準備とか、校正ゲラがたまってしまい、しかたなく毎日赤エンピツを持って奮闘しています。夏用のステテコスタイルのパジャマ姿でイスにあぐらをかいて、暑ければ暑いほど私は仕事の鬼になり、あっぱれ日本の青年ぶりです。しかしこらえ性なく、くやしまぎれにあっちこっち電話をし、
「お前、山行ったか。海行ってないよな。よしよし、それでこそ人間だ」
と、夏を制するものが受験を制するとばかり、うだってる友人と慰め合っています。
時折、夏休みを利用して上京した演劇志望の女子大生が顔を見せます。
「芝居のためなら裸でもなんでもやります」と、若いみそらではしたなくド根性まる出しです。
「おっぱいはいくつありますか」
「二つです」
「アー甘い。あなたは世間を知らない」とシケモクの煙のすき間からジロリと値踏みをし、しばらくはやり手婆《ばば》あみたいになってつき合ってやれるのですが、とにかく暑いのです。部屋の中は蒸し暑く、クーラーじゃないと知っていても、ストーブの栓《せん》をひねってみたくなるほど息苦しいのです。
ほんと、田舎もんは困ります。そりゃ、むやみに数が多けりゃいいってもんじゃないが必然性があったらぬぐだの、芸術のためだの能書きばかり、そんなわがままな裸は東京じゃ使いものになりっこありません。
地方の親御さん達に言っておきますが、娘さんが演劇をやるなら麻薬の一つもと、
「おらっち、マリファナ植えてねえだか」なんて言い出したら、
「こくでねえ。裏の牛舎につないであるベコだって四つ五つあるべえ。人気劇作家でなく実力劇作家のつか先生が言っとったど、乳二つじゃ東京じゃ通用しねえだと」
と鍬《くわ》持って追いかけまわしてでも、かたぎの道に進ませなさい。
夏はとにかく暑く、私はまだ海へも山へも行ってないのです。
無実の罪
先日エレベーターに見知らぬ女性と乗り合わせ、手を握ろうとしたらひっぱたかれた。実際、災難はどこから降りかかってくるかわからない。これでキスでもしようとしたら頭突きを食わせられ、半殺しにされたろう。とにかく女というものはここまで堕落しているのかとあきれかえった。無論、エレベーターの中という、未開発の時間帯をさりげなく過ごせる方法を身につけていない未熟さ、という責任は当方にもあるが、日本おもいやり文化が崩壊寸前といわれるのもうなずける。
私はマンションの五階に住んでいる。持ち主がなかなかの野蛮人らしく、エレベーターにはスロットマシーンもないし、間《ま》を持たせる週刊誌もないし、小鳥を飼う余裕などさらさらありはしない。
住人たちは一階にあるスナックで浴びるように酒を飲み、前後不覚になって「突撃!」のかけ声をかけてエレベーターに飛び込む。スナックが臨時休業の日など、カバンを持ったサラリーマンが家に戻るふんぎりがつかず、マンションのまわりをグルグル廻っている。あげくのはてに、ベランダで手を振る妻や子をうらめしそうに見上げ、歯を食いしばりエレベーターへ向かう悲痛な様相は正視できるものではない。
見知らぬ人と乗り合わせ、
「この女は、俺が襲うんじゃないかと思っているのじゃないかしら。そう思われたらいやだな」
「この男から襲われるんじゃないかしらと、私がこわがってるなんて思われたらいやだな。私そんな女じゃないわ」と、まあ思惑が入り交じり、階を知らせるランプをにらみ続け生きた心地がしない。
わずか五階に上るのでさえこれほど知識人を苦悩させるのに、何が近代建築の粋を集めた高層ビルというのか、四十階近く上るのに親類でもないエレベーターガールと二人っきりにさせる無策ぶりである。
急ぎ足で京都を回ってきた。嵯《さ》峨《が》野《の》にある宿は、女中さんが夕食を持って歩いて来ると廊下がミシミシと音がし、寝ころがって読んでいたマンガ本をお堅い本に取り換える時間を与えてくれる。このような廊下は京都には珍しくはない。日常というものに文化が深く根づいているのだろう。
電話
電電公社に、私の自宅の電話を三分きりしか話せない赤電話にしてくれと言ったら、だめだと言われました。そうしないと、ほんと私はダメになるからと懇願してもつれない返事です。
私たちは、ものごころついた時からコカコーラを握らされ、テレビから一方的に語りかけられ、絵本だってソノシートがついていました。受験勉強だって、間近になるにつれラジオのボリュームを上げないと集中できないものでした。そのせいか、現在の仕事も喫茶店のざわめきの中でしかはかどらなくなっています。たまの休みの時だって、だれかと話をしていなければ疲れがとれません。きっと絶えず喋《しやべ》り続けていないと、考えをまとめることすらできなくなっているのでしょう。
私たちは書きことばでなく、話しことばで育った世代なのでしょう。確かに文章には様式が確立されていますから、その形の中で手を抜いたり、潤いを探したりはできますから疲れる率が少ないのでしょう。しかし話しことばは、いまだ未開発でなにをどう喋ってもいいのですから、かえってその自由であるがゆえに消耗するものが多いのかもしれません。
たとえば、喫茶店での起承転結という法律でもあって、注文を取りに来た時話を始めなければいけないこと、コーヒーを持って来た時終わらなければならない話などと時間制にしていたら、かえって楽なのかもしれません。
公衆電話をかける時、ほんの二言三言喋れば済む用件でも、十円玉をたくさん用意しておかなければ安心できません。
どうせ酒もたばこもやめられないのですから、電話だけはやめようと思います。アランだったか、「今日は時間がないので長い手紙を書きます」と言ったとか、聞いたことがあります。せめてどうでもいい用事の電話は自宅からかけ、大切な電話は、外の十円玉一個っきり入らない公衆電話を使おうと思います。ピカピカにみがいた十円玉一枚握りしめ、駅前の公衆電話まで走って行くのです。そして手に汗して受話器を握り、刺しちがえる気持ちでダイヤルを回す真《しん》摯《し》さが今の私には必要と思われます。三分の中ですべて処理するいさぎよさこそ今一番男らしいことなのです。
花の東京
おとっつぁん、田舎ではもう裏山にアケビがなっただか。クリは落ちてきただか。
おらあ根っからのボンヤリだかもしんねえ。ガキのころから世界名作全集ばかり読まされていた、オール「5」人生、今はネクタイしめて電車の中でマンガ本読む勇気できただども、肩身の狭い思いばかりしているだ。覚えてるだか、昔UFOを見なかったといって級長になれなかったおらの少年時代を。かあちゃんに「〓“空飛ぶ円盤なら毎日見ているだ〓”とどうして嘘ついて人気とりをしねえだ」とどなりつけられたが、空飛ぶ円盤見ねえと人間でねえだが。バカと言われようが、アホと言われようが見てねえもんは見てねえだ。
東京に来たらそんなわずらわしいことねえと思ったけんど、大まちがいずら。
この間、でれくたあだの、みゅうじっしゃんたち、いっぱしのマリファナ男たちが、パーティーやるべと言ってきただ。おらあ、マリファナひとつやってねえかいしょなしと思われたくなかっただ。だども、一、空を飛べる。二、万引ができる。三、痴漢ができる。四、女を捨てられる。とマリファナやるときの心構えを聞いて、おらあ自信なかっただ。
やつらふくさから銀色の粒出して「ホレ飛んだか、ハレ飛んでみろ」と、なめるそばから耳もとでさいそくされ、飛ぶ暇なんてありゃしねえだ。
――これはジンタンでねえのか?――と言おうと思ったけどバカにされたくなかったから、
「知っとるずら。この銀色のが上もんのマリファナだべ。舌にころがすようにしてなめるだど。オッ、飛ぶ飛ぶ」とオラ、きばっただ。するとみんな出遅れてなんねえと〓“飛んだ飛んだ〓”と部屋中走り回っただ。見えはりすぎて二階から飛び下りた奴もいただ。こりゃ気違いざただべ。オラたち気苦労の多い田舎もんにはつらい試練だべ。
――もし空を飛ばなかったら、いい音楽作れなかったら、いいもの書けなかったら――と心ん中じゃみんな生きた心地がしなかっただ。
おとっつぁん、ジンタンなめて空飛ばなきゃなんねえ都会のつき合いに、オラ、耐えられねえだ。この先何なめさせられるか心配だ。
豊年祭りはすんだだか。
村のあの娘《こ》はよめこさ行っただか。
おとっつぁん、花の東京は、花の東京は〓
ヤバイ感じ
街の片すみにある名画座と呼ばれる五本立ての映画館は、着飾った往年の老優たちでいっぱいです。場内はトイレの臭《にお》いと、彼らがふりまく安手の香水の臭いが入り混じり、息もつけないほどです。彼らは、スピーカーも途切れ途切れで雨の降ってるスクリーンに見入り、「あれが俺だ」「私が出た」と臭《くさ》い息を吐き散らし、よだれをたらし、わななく手で指さしながらせっせと昔を懐かしんでいます。
芝居に行き詰まると、私は決まって名画座に顔を出し、そのおぞましい光景を冷ややかに眺《なが》め、〓“やはり世界を変えるのは映画ではなく演劇だ〓”との確信を深め、稽《けい》古《こ》場に戻るのです。
芝居の千秋楽のわびしさは、たとえようがありません。半年もかけて準備したものが、一瞬のうちに消え去ります。その一瞬に消えるさわやかさが好きで、芝居を始めたのです。そして、死んでも上演したものをテープレコーダーやビデオテレビに残さないことが演劇人の誇りだと思っていました。
ところが、最近テレビでダイジェスト版をやる機会があり、終わったあとテレビ局の人が親切にそのビデオテープをくれました。別段気にもとめてなかったのですが、この長雨のせいか、気がつくとビデオのスイッチを入れているのです。あわてて消して、冷や汗をぬぐって、一日中自己嫌《けん》悪《お》に悩まされます。そのくせ、ゴミ箱に捨て去る勇気もないのです。こりゃもしかすると、年取って身体が動かなくなり、猫みたいに自分の「本」を膝《ひざ》に抱き、ビデオテープに見入っている陰惨な生活を送るんじゃないかと考え、死ぬ思いです。
かつて、関係者がだれも台本を残していず、二本も戯曲を失ってもものともしなかったこの私がこのていたらくです。机の上には、地獄に堕《お》ちろとばかり、美しく意味ありげに装丁された戯曲集が一冊一冊増えていきます。しかしまだ、抱いて寝るほど卑しくはなっておりませんが。
芝居の現場を離れて半年になります。ちんたら原稿用紙に向かい、「。」や「、」を増やすのと行変えばかりに頭を悩ましているからこうなるのです。だいたい、あいうえお四百字書くだけでも疲れるのに、ああだこうだとマス目を字で埋める作業はめめしいことに決まってます。やはり、愛嬌たっぷりの生き物相手の稽古場の方が健康的です。
杞憂
かつて刑務所では、受刑者が栄養失調にならないように気を配っていたが、現在では三割にものぼる肥満受刑者に手を焼いているらしい。それでも、思いやりある日本法治国家は、醜いブクブク太りも、一種の身体刑として、受刑者の人権問題になりかねないと心配しているらしい。というふうな新聞記事を読んで大笑いしたことがある。いくら反体制運動でも、囚人の太り過ぎを国家権力の弾圧のせいとは言うまい。やはり囚人は囚人らしくやせ細っていてくれて、「おいたすると牢《ろう》屋《や》に入れてもらいますよ」というお母さんたちの台詞《せりふ》を奪ってはならないし「悪徳看守と善良な受刑者」という私たちの判官びいきする心を満たしてくれなきゃ困る。刑務所に入って太るという性悪な受刑者には、美容体操や絶食を義務づけてもよいだろう。しかし人ごとではない。
去年三か月ほど微熱が続き、医者に行くと「カゼだよ」と軽くいなされた。「よく食ってよく眠って」なおる、安っぽい病気じゃないと力説しても、注射も打ってくれない。頭に来て、大学病院で精密検査を受けた。するとレントゲン写真に異常があったらしく、
「肺炎の疑いがある。念のため来週もう一度撮り直しておきましょう」
と診断してくれた。持病ひとつなく、日頃肩身の狭い思いをしている私は嬉しかった。
私は、作品なんて二の次であり、要は肺病になれるかなれないかの根性であるという文学論を持っている。ゴボゴボと胸を押え、時折、たんに血を混じらせ、原稿用紙に向かうなんて、私はなんという真面目な作家だろう。やはり、私は、才能はあったのだ。肺病がゴロゴロころがってる楽な時代でなく、すきあらば糖尿病におびやかされる現代である。相当の力量がないことには、肺病などという病気になれるものではない。
次の週、信州のサナトリウムでの俗世間から遊離した生活を思い、意気揚々と大学病院に出かけると、レントゲンの故障だったからもう安心しなさいと言われ、目の前がまっ暗になった。あっちこっち電話しまくり、これで一人前の作家になったと吹《ふい》聴《ちよう》した手前、引くに引けず、夜中雨の中、パンツ一つで街中を走りまくったことであった。
正義感
妹から、大学の演劇部に入ったと聞いた時、私は目の前がまっ暗になった。妹を殴りつけ、「貴様はズベ公になりたいのか。芝居なんてのは人間のクズのやるもんだ。それは、おにい様が一番良く知ってる。名刺も持てず、まともにお天道様拝めないんだぞ」と、あらん限りの誹《ひ》謗《ぼう》の言葉を使い、ののしったものである。すぐさま両親に電話し、座敷牢に隔離するように頼み、劇《く》団《み》の命知らずなところをよりすぐり、妹の大学の演劇部に乗りこみ、二、三枚色紙を書き、突然豹《ひよう》変《へん》し、「おのれら、なんが不足で、極道やらないかんのや。大学生は黙って勉強しとったらええんじゃろが。二度と芝居なんか思い出さんようにかわいがったろうやないけ」と、若い劇団員《も ん》に命じ、翌日の初日を前に飾りつけられた舞台をめちゃくちゃにしたもんである。
せめて卒業証書だけはという父や母のささやかな期待を裏切り、大学を中退して河原者ものになり下がった私なりの潔癖さのあらわし方であり、父や母を裏切り続けた、ひかれ者の意地でもあった。
しかし、ハイジャックの釈放犯、泉水博の盗っ人たけだけしさには負ける。なんで行くのだと聞かれると「人命救出のためです」と叫んだというし、「自分が行かなければ大勢の人質の生命が保証されない。どういう人間が赤軍の最高幹部か知らないが、会ったら、あなたたちと活動するために来たんじゃないと伝える」と断言したという。そして特別機のタラップをかけ上りつつ、ほんのわずか振り返り、日本への未練を見せる程の千両役者ぶりである。
これはどういう素性の鞍《くら》馬《ま》天《てん》狗《ぐ》の台詞かというと、殺人犯人のそれである。最近の人殺しも言うことは言うもんである。スネに傷もつ男だからこそ、かえって純粋な正義感に燃えられるのであろうか。しかし、人間ほっときゃ何言い出すかわからない。
来週は、立ち小便を注意されてカッときて殺人をおかし、はたまた革命家にまで出世したもう一人の釈放犯、仁平映にふれたいと思うが「立ち小便から革命」に飛躍するこの図式に対抗する自信はない。
お手上げ
朝、まだ明けきらぬうちに目をさまし、新聞少年から新聞を奪い取る。小中学生の「おねだり自殺」や「売春」が載っている日は、留守番電話をセットし、近くの公園で老人たちと日がな一日すごすことにしている。「どう思いますか」のコメントを求められるのが怖いからである。マリファナや不正入試だと修身の教科書持ち出せばこと足りるところがあるが、正直な話、幼児の自殺や売春にはお手上げである。
また、ハイジャック事件の最中、ダッカにクーデターが起きた時の、あのだれもが予測し得てだれもが予測し得なかったドラマツルギー(作劇術)には、頭をハンマーでぶんなぐられたような気持ちで、筆を折ろうかと思った。その日芝居の初日をあけた劇団もあるらしいが、いい度胸しているとしかいいようがない。私とてよく臆《おく》面《めん》もなく劇作家の肩書をつけているものである。まあ、私はこうして懺《ざん》悔《げ》しているのでまだ救いがあるというものだ。
でも、これから寒くなるので、そうそう公園でほおっかむりをしておれない。なんとか私なんかにでも理解できる怨《えん》恨《こん》関係のもつれとか、痴情の果てのやさしい殺人事件とか、単純に正義感に燃えられる汚職事件に統一してほしい。
そしていま、恥の上塗りよろしく忠臣蔵に取り組んでいる。資料を探れば探るほど、その奥深さに驚かされる。伏線のはり方がみごとで、どこを切り取っても絵になる。シェイクスピアと違い、忠臣蔵にははっきりした作者がいず、作品を忠実に演じることよりも、その時々の演出家や役者の生きたエネルギーを吹き込むことができたのであろう。
興行師たちには、忠臣蔵をやりさえすれば当たるという自信があり、たしかに、どこの小屋でも、新作の不入りの時には、忠臣蔵をピンチヒッターにたてている。
元禄十五年(一七〇二年)十二月十四日夜半赤穂浪士が吉良邸に討ち入り、翌年の十六年二月四日に赤穂浪士が切腹するのを待ちかねたとばかりに、わずか十二日後の二月十六日には、江戸中村座で中村七三郎一座によって「曙《あけぼの》曾《そ》我《がの》夜《よ》討《うち》」と、曾我兄弟の仇《あだ》討ちにたとえて上演されている。一人だけ切腹をまぬがれた寺坂吉右衛門は、現実を上回る事件の広がりや、その構成の深さに、さすが世に顔を出せなかったという。
憂国
親《しん》戚《せき》の五つになる子供が「額によっちゃ考えるところがあるぞ」みたいな、大人を見くびった目つきで小遣を請求してくる。その親は後ろで「なにとぞ事を荒立てないように」と、卑屈な目をして手を合わせている。私はその世紀末の様相に我慢できず、おもいきりひっぱたくと、子供はタンスの角で頭をぶつけ血を出して泣き出したが私の怒りはおさまらず、ねじ伏せて首を絞め半殺しにしてやった。目には目を、である。こっちが匕《あい》首《くち》振りかざすほどの愛情見せたら、敵だってそうそうのぼせ上がれないだろう。今日もまた善行をしたとさわやかな気分になるはずなのだが、どうもスッキリしない一日であった。
最近、新聞も読めないガキどもに新聞を占領されてホントくやしい。新聞に、ラジカセ買ってくれなかったのを苦に中学生が自殺した、とある。ふざけた話である。人間が、ラジカセ欲しさに死ねても新聞の見出しになれるはずがない。また売春も、新聞の片すみの見出しから中央に飛び出た時、それは売春でなくスポーツである。どのような下劣な娼《しよう》婦《ふ》も、小遣銭欲しさぐらいじゃ売春などするものではない。春を売ると書いて売春と読ませるニュアンスさえ知らない鼻たれ娘どもに街に立たれ、ホント立つ瀬がない。
女性週刊誌より毎朝の新聞の方が楽しみな昨今、小説よりも新聞がおもしろいのを苦にして自殺する作家、政治政策に自信喪失して自殺する政治家とか役者はいっぱいいるはずである。嘘でもいいから、大人も負けていない、新聞代払っているのは俺達だとの気概を見せたらどうか……と、まあ、いうようなことを先日コラムで身の程知らずに説教をたれてみたところ、読者から手紙をいただいた。
「ロースだのカルビだの恥ずかし気もなく大声を張り上げ、『大作家ほど糖尿病になりやすい』と真顔で議論している最近の焼肉屋文化人の生態を嘆き、あの古典的な肺病になる真摯さをもって時代と対《たい》峙《じ》しろとは暴言とは思いませんか。十八の時から十年間闘病生活を送っていた者の気持ちもお察し下さいまし。肺病のために青春を奪われ、婚期を逸した者の苦しみもお察し下さいまし……」切々とした文章が続く。正直言って辛かった。
窓辺に座ってタバコをくゆらせ、秋の風を感じ、ともすると殊勝な気持ちになってしまいますが、まだまだ女子供の感傷に屈せず私の目の黒いうちはとイキがって、正義のために働こうと思います。
忠臣蔵
シェイクスピア作「ハムレット」は、亡霊の父との会話から始まる。いくら慣れ親しんだ父親だとて、相手は幽霊である。ハムレットも、よく腰を抜かさず話を聞いていられたものである。いくら芝居だからといっても、嘘はいけない。
赤穂浪士とて同じことである。家来の中には、浅野内匠頭の顔さえ見たことのない者もいよう。よく一年以上も志を持続させたものである。むろん、目先のきく奴は夜逃げしたりしているが、日頃、たてまえで「御《おん》殿《との》のために」きばってた者のこと、引くに引けなくなったのではないだろうか。
家では女房相手に「大石のおっちょこちょいが、一人でがんばってるんだよ。みんないいかげんにしてくれっていってんだよ。まったく、ついてけないよ」と、ぐちっている奴に限って、全員集合の会議では「なにはなくとも、まず仇討ち〓 キサマら、殿の御無念を晴らしたくないのか」とイキまいていたのだろう。
百科事典で調べると、殉死には、その方法として、立ったまま切る「立《たち》腹《ばら》」や切口から腹をつかみ出す勇壮な「無念腹」というのがある。またその形式として「義ぎ腹」と「論腹」があり、「義腹」は、真に亡君を慕って死ぬのだが、「論腹」は、朋《ほう》輩《ばい》の手前、やむなく切るものだという。
そしておもしろいことに、もう一つ「商《あきない》腹《ばら》」というのがあったらしい。これは、残された家族たちの、後の保証を約束させる殉死で、なかには、ちょうどその時、中風や疫痢で死んだ者に、これ幸いと刀を握らせ腹を切ってやり、追い腹を切ったとして報償を求める家臣もいたという。
また病弱の者や、老い先の短い老人、身分の卑しい家来などがこぞってこれを行い、子孫の優遇を求めたり、丈夫な老人が肩身の狭い思いをし、畸《き》形《けい》のうば捨て志向が広がるようにもなったそうである。また、家々でその数を誇るようになったりの弊害が表われだしたために、寛文三年(一六六三年)五月二十日、殉死が禁じられたということである。
そして、切腹作法というものまででき上がっており、ふだんから練習しておくべきものとされていた。
浅野内匠頭が、大向こう受けする新手の切腹作法をあみ出すことに苦悩していたり、また「由良之助はまだか」の叫びを背中に聞きながら、大石内蔵助が、女子供の涙を誘う辞世の句を頼みに、街の代筆屋をかけずり廻っていたとしたら、むしろ信じられる。
吉良上野介
元禄十四年八月十九日、吉良上野介は江戸城の「内郭」丸《まる》の内《うち》呉《ご》服《ふく》橋《ばし》内から、「外郭」にも入らぬ本《ほん》所《じよ》松《まつ》坂《ざか》 町《ちよう》二丁目に移転させられている。
江戸城内郭とは、内堀の内側をさす。本丸、二の丸、三の丸、西の丸と紅葉山、北の丸、吹上の各部分からなり、軍事施設がつくられていたため、警備は厳重をきわめていた。だから、あれだけ目につく派手な討ち入り衣装では、呉服橋の吉良邸に赤穂浪士が討ち入る前に検問にひっかかり、吉良邸に近づくことはおろか、内郭の中に入ることすら不可能であった。
公儀は、内匠頭に切腹させ、吉良には何の咎《とが》めもしなかったのをひけめに思い、また、内匠頭の刃《にん》傷《じよう》沙《ざ》汰《た》以来、赤穂浪士の討ち入りを当然のこととして心待ちにしている江戸の人々の心情を鑑《かんが》みて、江戸城の外郭にも入らない、つまり浪士たちが思う存分戦える本所という場所に、吉良邸を移転させたのであろう。
が、一向に赤穂浪士の動きだす気配はなかった。しかし、タイムリミットはあった。それは内匠頭の養子、浅野大学の閉門が免ぜられる日までであった。つまり、大学の処分が解かれたのち討ち入るということは、大学が背後で指図したのではないかという憂いを残すため、ありえないと思われていた。
この間、赤穂浪士は何をしていたかというと、就職運動に奔走していたにちがいない。しかし、討ち入り一つできない者たちを、どこの藩とて雇うわけがない。かくして、元禄十四年七月十八日、大学は芸州浅野宗家お預けとなり、お家は断絶し、完全に赤穂浪士たちは食いっぱぐれたわけである。
哀れをきわめたのは吉良上野介である。グチ一つ言わず、仇役としての役まわりに徹し、ホモの修業までしたのに、なしのつぶてでは寝込むのも無理はない。
食いっぱぐれて、ようやくその気になりましたと言い出されても、「デモシカ討ち入り」につきあってはいられない。いっそのこと、風邪をこじらせて肺炎にでもなってポックリ逝《い》ってやろうか。そうすれば、仇討ちもへったくれもないだろう。そういえば、討ち入りする日まで長生きして下さいと、朝《ちよう》鮮《せん》人《にん》参《じん》の一つも送ってきてもよさそうなものなのに。そんな考えが、吉良の頭をよぎったにちがいない。
ビバ弾圧
NHKはダメだ。過日「戦争で死ねなかったお父さんのために」という、題名からして悪意に満ちた芝居を教育テレビでやった。放送コードを逆手に取り、後に「むしろ禁止用語をふんだんに使ってもらったほうが、まだやわに仕上がった」と、国家権力の手先どもに吠《ほ》え面《づら》かかせるように仕組んだ。正当な論理の裏に隠された毒、日常的な言葉に組み立てられたワナ、ヘラヘラ笑っていても一瞬凍りつき、画面からの衝撃に声も出ない。
気がついた時には常識や価値が根底から覆されて、明日から会社に行くのがばかばかしくなるように作った。だれもが最低警察から事情聴取は受けるだろうとの太鼓判を押してくれた。
その放送日「つかは死すとも自由は死せず」と、悪の巣にも似て異様にそびえるNHKビルを指さし倒れられるのかと思うと眠れなかった。が、放送終了後苦情の電話の代わりファンレターが届く。ある高校からは教材に使いたいとの申し出もあり、死ぬかと思った。
自慢じゃないが、私の芝居は麻薬や暴走族より危険であるともっぱらの評判。それにしてこのテイタラクだ。どんな番組でも、苦情がきて始めて公共放送としての存在価値があるのである。民放だって巨人が負けると苦情がくるというのに。
だいたい国家権力も怠けている。週刊誌受けするとこばっかり、甘い汁吸わせようとするんだから。ワイセツだのマリファナだのそういう下《げ》賤《せん》なやからを弾圧する前に、いるでしょう。見回せばテキトウなのが。真にその根底に流れているものが大衆のものとなれば、政党の一つや二つは吹っ飛ぶ芝居やってるところが。高《こう》邁《まい》な精神と不屈の魂を持ち戦っている危険な思想家が近くにいるでしょう。ほら。
おかげさまでこのコラムは評判がいい。が、面白いなどということは作家にとってほめ言葉ではない。もっと、不謹慎だとかヤメサセロだとかどんどん投書をしてもらいたい。圧力をかけてもらいたい。そうすると私も遊び呆《ほう》けていないで「やってやろうじゃないの」とキバを研ぎ、またいいものを書く。
もちつもたれつという言葉もある。夜家に帰っても刑事一人見張っていず本当に寂しい。ああその恐るべき作劇術は右翼から、その華麗なる台詞術は左翼から。突然楽屋に踏み込まれ、シベリア送り。ビバ弾圧。
ほんと、あっちこっちから頭なでられ、ツッパリで売ってる私がツッパレなくなったらどうするのよ。
忙中閑あり
平田満君は、時《じ》習《しゆう》館《かん》高校時代ラグビー部で、早大文学部に入って、一日も授業に出る間もなく私にたぶらかされて、今は役者さんです。豊橋の家はうなぎの養殖場をやっていて、愛嬌ある顔が時々うなぎに似ています。
以前焼肉屋さんでアルバイトをしていたことがあります。私も毎日通ってダメ出ししていたのですが、ガスに火をつける時こわそうな顔をするものだから、お客さんもこわがってしまい、店も商売にはならずやめさせられたこともあります。
はじめてテレビの仕事をする時、私にお金を借りに来ました。「何に使うんだ」と聞くと、「通勤着がないものですから」とおかしなことを言います。どうせ衣《い》裳《しよう》があるのだし、通勤着はないだろうと思いましたが、デパートに一緒に行ってやると「できるだけめだたないのがいいですから」と地味なものを選び、私のしつけの良さを再確認させてくれます。ですから私も、先日プロデューサーに会いに行って、「持ち慣れない金を持つとろくなことがないから」と、ギャラの半分を定期預金に組んでくれるように頼んであげました。
彼の出る「晴れのち晴れ」がある火曜日には、メモ帳片手にテレビの前に坐ります。下手なのは仕方ありませんが、いくら工員の役だといったって、オレだのオマエだの、言葉使いがまるで工員みたいで顔から火が出そうです。あぐらを組んだり、くわえタバコしたり礼儀作法がなっていません。終わるとすぐ電話して呼びつけ、「テレビに出てあんまりニヤニヤすんな。あんなに画面いっぱいに顔を写されて恥ずかしいと思わないのか。もっと控えめに、写らないようにしてろ。はしたない」
万事こうやって横《よこ》槍《やり》いれて私が邪魔するものですから、平田君をはじめきっとみんな大変なのでしょう。でも健康保険も、失業保険も加入させてあげられない中小企業の社長のつもりですから、あっちこっち気を配って芸術やってる暇がないのです。
劇団の芝居がないので、女の子がスナックでアルバイトを始めたことがあり、自分の原稿断って、悪い虫がつかないように毎日飲みに行ってやって、ボトルを二本ぐらい入れてやります。彼女の受けがいいように時にはボーイの真似までしてやります。こんなことなら、私が身売った方がまだましだと思ったりします。いくらアングラ芝居だといっても、大事なお坊ちゃんやお嬢ちゃんを預かっているのですから、品性卑しくなく育ってほしいのです。
秋深し
むかあし、まだ私が今みたいに円熟していず、やたら殺伐としていてまろ味がなかったころのことです。芝居の稽古場で、私は「君の人生はなっとらん!」「君は人間をなめてる!」などとあらぬことを口走ったり、「役者のくせしてオマエらどうして空飛べないんだ。飛べ、飛べ」と役者ひとりひとりを稽古場の二階から突き落とす情熱のあったころ、一部の心ない人の間では、横紙破りのこうへいとあだ名されていたものでした。しかし、どんな時でも、演出家は弱腰になってはいけません。はったりでもなんでも、とりあえずスタッフやキャストを納得させなきゃいけないので、世界中の本全部読んだふりしたりして必死なのです。
その言葉を真に受けてか、田舎に帰って百姓してるO君が先日上京してきました。「その節はお世話になりました」とO君は久しぶりの対面に顔を赤らめ、礼儀正しくおじぎする、あいかわらずの好青年ぶりです。一男一女をもうけているそうで、縞《しま》の背広を着てゆったりソファにくつろぐ姿を見て、相も変わらずGパンはいている私はとても恥ずかしく思えました。そして、その若い無謀なころを思い出し、私は顔をまっかにして「若気の至り」を連発してうつ向いたのですが、「やめちまえ! と怒鳴られた時は辛かった。……でも早く芝居から足を洗えてよかったです」と、自慢の温室栽培の話をする口調はなんとも穏やかです。が、言葉のはしばしに、演劇への未練と私への恨《うら》みつらみがうかがえます。いくら今幸福だといっても、O君にとって「若気の至り」ではすまないものがあるでしょう。O君は、私ののど元に突きつけられた匕《あい》首《くち》です。私がだらしなくなったり、手を抜いた芝居づくりをする時こそ、匕首は確実に私ののどを切り裂くでしょう。気をつけないといけません。
季節の変わりめに、ふと、殊勝な気持ちになってしまいます。内緒の話ですが、朝起きると、新聞に折り込んである建て売り広告のちらしを見る時間が、めっきり長くなっています。そして時折、大《おお》磯《いそ》で白足袋はいて葉巻でも吸いたいとの考えがチラリと頭をよぎったりしています。降ったりやんだりのはっきりしない毎日で気が滅入っております。
が、これははしかみたいなもので、そうそう悟り開いてなるものですか。
逆算
制作者は、決まって「おもしろい芝居をやってくれ」と注文をつける。私は根は地味で真面目さに自信があるものだから、「おもいっきり派手なのやりましょう」と軽薄にも胸をたたいてしまう。
昔、制作者の甘言に悪のりして「ストリッパー物語」というタイトルだけを刷り込んだポスターを作り、台本もプランもなにも出来ていず、オロオロしていたことがある。
おかしな話だと思われるかもしれないが、これは、絶対量の少ない劇場をホラ吹いてでも事前におさえないことには芝居がやれなくなっているからだ。
するとチラシを見てか、新聞社の人から電話がかかってきて「脱ぐの?」と聞かれた。初日が近づいているのになにも出来ていず、むしゃくしゃしていたので、「オレぐらいの演出家になれば、女の一人や二人脱がせなくとも芝居はできるんだ」とつい言ってしまった。「じゃ、脱がないのね」とガッカリしたような声が返ってきたので、申し訳ないと思い「そのかわり男が脱ぎます」と言ってしまい、また困った。
私が頭をかかえていたところ「私のおとうさん警察官ですが先生のためなら果てしなく脱ぎます」と主役の女の子から先に引導渡された。私も男だし「バカを言うな」と言わざるを得ない。ついにどこにも逃げ場がなくなって、本気で「脱がないストリップ」をつくらざるを得なくなったのである。
その時の舞台が、私の作品の中で一番評判がいい。思うにそれは、テーマだのドラマツルギーなどと血迷わず、嫁入り前の娘を脱がせないぞという根性と執念でがんばったためだろう。
来年「サロメ」をやることになった。主役はまだ決まっていないというのに、どういうサロメ像をつくるのかと聞かれる。早い話が、男に首をくれなどという突拍子もないことを言ってハリタオされた小娘の話である。「あの女なら首とられても、しかたないや」と、あきらめのつく女にすればいいだけの話である。
演出家のプライドとして私は、背筋のシャンとした、健康そうな女の子であればいいと言わざるを得ない。もし、その女の子がどうしても「サロメ」に向かず、旅がらす姿が一番チャーミングだったら、知らん顔して「瞼《まぶた》の母」をやればいいのだろう。すべては、舞台に立たせたナマ身の役者から発想しなければならない。要は、男の子か女の子か、子どもが生まれてからベビー服を買えばいいのである。
これが通じない。
留学
二年ほどフランスに演劇留学していた友人が帰って来て、「なにか主役をやらせろ」と鼻息の荒いこと。さぐりを入れてみると、ただパリにいただけで会話ひとつ満足にできた気配がありません。無論、原書なんて読んではいません。今はどこに行っても日本人が多くて、食べ物屋もいっぱいあって、無理して言葉を覚えることはないのでしょう。
ジャン荘だけはヒマラヤの奥地までもあるらしく、帰って来る奴は、やたらマージャンだけがうまくなって、これはゆゆしき問題です。また、いくら芝居だからといって、日本語ができなきゃどうしようもないので、フランス語ができたって日本でやる芝居では使いものにならないのです。
彼は、その辺を察してか、おもしろくもためにもならないところに二年間踏んばったという根性を買ったらどうだと、変な開き直り方をします。「洋行帰り」というハクのつき方も変わったものです。
取材のため外国に行く機会があれば、日本人バーをハシゴしています。それもできるだけ場末を選んで。ニューヨークにもピアノバーという、マイクの置いてある飲み屋がありました。こっちは、どうしようもなくなった留学生くずれや、不遇をかこっている商社マンの生態を見たいのです。だからそういう、いかがわしい場所で、恨みつらみをこめて「大利根月夜」や「人生劇場」を合唱してくれなくては困るのです。赤ちょうちん日本の、ベトついた傷のなめ合いを見せてくれなくては取材に来たかいがないのです。それを、なんだか陽気で、遠慮がちにマイクを握り、英語の歌なんかをやってくれ拍子ぬけしました。
しかたなく私が音頭を取り、お国自慢の「黒田節」から始め、「異国の丘」、あげくは「高校三年生」まで、郷愁のヒットパレードを繰りひろげ、「ひと旗あげる」だの「錦を飾る」だの、さんざん鼓舞したのですが、一時代前の遺物のように、うさん臭そうな目をされてしまいました。
これじゃ、モノになるイビツな孤立感は、生まれ出っこありません。ま、本人たちは、ちょっとした「がまん会」のつもりで異国にいるのでしょうが。
二・五枚
私は原稿を横書きの大学ノートに書いている。芝居の稽古のあい間に、チラシの裏とかにチョコチョコ走り書きし、字が汚いのであとで自分で何を書いたかわからなく、困ってしまうこともある。変な話だが、何日か後に解読できて「へぇ、こんなことを考えていたのか」と感心することがしょっちゅうである。
どうしても原稿用紙に字が書けず、きっと後悔する時がくるからと編集者に叱《しか》られ、時折試しているのだが、いまだ、あのマス目だけの区切られ方にだけはなじめない。
考えてみれば(小学校から大学までの十六年間の授業を、字はノートに書いていたのであって、作家になったとたん原稿用紙に書かなければならないなんて、やりきれない話である。事実、横書きの大学ノートにボールペンの方が考えがまとまりやすいのだ。編集者から、「それじゃ、海の見える書斎で着物を着て、和机に向かい、でっかい万年筆と自分用に作らせた原稿用紙を前に瞑《めい》想《そう》する大作家の道を捨てるのですね」とおどかされ、困ってしまった。一生、Gパン姿で大学ノートをかかえて、喫茶店をうろつくのだろうか。
なぜ四百字詰め原稿用紙に書かなければならないかというと、編集者や植字工の便の良さのためじゃないかと、しまいには腹を立ててしまうが、これは直りそうにない。
このコラムは、原稿用紙二・五枚で書かねばならない。半年も二・五枚の中で一つの考えをまとめていくと、時折イラ立ちがこうじて、気が滅入りそうになることがある。そのうち、何か美しい風景を見ても、何かいい考えが浮かんでも、二・五枚の中におさめるという習性がついてしまうのではないかと怖くなることがある。これは毎週水曜日の午前中に書いている。もしかすると知らないうちにテレビのスイッチを入れてるみたいに、水曜日の午前中になると二・五枚の中でコーヒー飲んだり、タバコ喫ったりする生活をするようになるのかもしれない。もちろんこれは穿《うが》ちすぎであり、それほど私も殊勝ではない。
しかし、なにがなんでも二・五枚にまとめるという作業を半年もやりおおせたとなると、考えようによっては、私もかなりの大人になれるのかもしれないと、秘かに期待しているのだが。
入場料
「よその芝居を見ますか」と聞かれて、「見ない」と答えると、決まって不勉強だとののしられる。どうしてだろう。招待状でも来なきゃ、よその芝居など見られるわけがないのに。
たとえば、有《ゆう》楽《らく》町《ちよう》の劇場に行くとする。私の住んでいるところから、電車賃がまず片道百円かかる。喫茶店で女の子と待ち合わせて、コーヒー代六百円。入場料が大体一人三千円から五千円。二人で切符代だけで八千円ふっとび、そのうえパンフレット代を五百円ふんだくられる。さらに、幕間にまるで食堂や売店と提携しているみたいに二十五分休憩時間があり、幕の内二つで二千四百円。帰りにちょっと一杯やって、女の子をタクシーで送ってやって五千円。一日一万五千円かかる、今日この頃の芝居見物である。これを受けてたたなきゃ不勉強といわれるのだから頭に来る。
先日サウナへ行ったときのことである。ウイークデーで、まだ陽《ひ》が高いというのに、どう見ても高校生としか思えない悪ガキどもが、三、四人ワイワイ入ってきた。私が高校生の頃は、学校をサボっても、せいぜい裏山で弁当を食うのが関の山であったが、近頃の悪たれどもといったら、授業をエスケープしてサウナに入りびたり、マッサージにかかっている。この天をも恐れぬ無軌道ぶりに比べたら、暴走族など罪はない。
私はこの悪ガキどもの横っ面をひっぱたいて警察に通報してやった。明日の日本を背負って立つべき若者が、昼の日中から、自分の父親ぐらいの年のマッサージ師から身体もんでもらうとはなんたることか。それ以上に私が驚いたのは、「授業をサボってちょっとサウナに」という発想を支える彼らの経済力の豊かさである。
私にとって高校生とは、観客として敵にまわした時、最も脅威となる存在である。彼らには「〇」と「×」しかない。料金分、笑ったり泣いたりしていても、「おもしろくなかった」「ああ、つまらなかった」と、二度と来ることはない。その無《む》垢《く》な残酷さに、何度足もとをすくわれたかしれない。
「何かおもしろいことないか」と、目を光らせている貧しい日本の若者のために、私の劇団では高校生料金をもうけていたのだが、サウナでハメをはずす高校生を見るかぎり、来年からは廃止せざるを得ない。
俗っぽいからこそ神秘
思えば、わずかばかりのことに心を乱し、つまらぬことでいさかう、寒々とした日々です。宇宙の神秘も、生活に追われ、考える暇はおろか、今の私にはもて遊ぶ余裕さえありません。ひじかけ椅《い》子《す》に座り、右手にブランデー、左手に神様をもて遊ぶ、最も卑しむべき罪を犯すのは、いつのことなのでしょう。陰《かげ》のある女も見飽きましたし、自分をミステリーに演じるのにもいいかげん疲れています。今の私の神秘さは、いつも生活感を伴います。
さだまさしさんの「雨やどり」という歌は「〓――それはまだ、私が神様を信じなかった頃――」で、少女にとって必然の出会いが始まります。彼女たちにとって、「――九月のとある木曜日」に「すてきな彼」が現われるのは、当然のことなのです。「すてきな人」に思い焦がれる平凡な少女の祈りは、素《そ》朴《ぼく》で愛らしく、そしてなによりも、軽率で移り気です。「〓――夢かと思ってほっぺつねったら痛かった――」そして恋する少女は幸せを見つけ、幸せに浸り、やがて幸せに飽きます。神様と言葉にしながらも、すべて願いは日常的でわがままです。そのあまりの俗っぽさであるからこそ、少女たちは神秘なのかもしれません。
そういえば、いつのころか、罪悪感に悩みながら、震える胸を押さえて妹の少女雑誌を盗み読みしたことがありました。そして、小鳩くるみの表紙をめくったとたん、少女の新しい存在を知りました。あの鼻たらしのハナ子も、寝小便たれのカヨ子も、キラキラと瞳《ひとみ》の奥を輝かせて王子様に連れ去られる「夢見る乙女」であったことに思い当たり、愕《がく》然《ぜん》とした思い出があります。
それ以来、私は内気な少年になってしまい素直にハナ子と相撲を取ったり、カヨ子とお医者さんごっこをできなくなったことを、今楽しく思い浮かべています。しかし、少女たちをあまりに神秘と思いやってやることも罪なことなのかもしれません。彼女たちを人格として扱いはじめて、急に少女たちは、そのベールを脱ぎはじめるものなのです。
ヤクザな生活に飽きたのか、このごろ、建て売りの家でも買ってマイカーを乗り回そうかと思っています。なぜか、今、このことがいちばん僕にとって神秘的なことなのです。
かつて、税務署と張り合っても、神秘的でいられるとのドラマツルギーを私は持っていたはずなのに。
タバコと照れ
私は小説のテーマとか演劇論というものを人に話したり文章にしたことがない。そんなものは、見た人読んだ人が勝手に謎《なぞ》解《と》きをやってくれればいいことで、声高におしつけるものではないと思っている。だいたい、男のくせに「どういうテーマの芝居をやっている」とか「どういう生き方をしている」など口にすべきものではない。どれだけ執念深くテレ、恥じ入ることができるかが、男の価値を決めるのだ。
いま、私がタバコを吸うのも、少しでも本当のことを喋《しやべ》りたいという欲求のテレかくしのためである。人間生きていることさえもテレくさいというのに、初対面の人に会ってシラフでいられようはずはない。だから、人に会ったとき、マッチをすり、その気まずさにタバコをくわえ、話の途《と》切《ぎ》れた時にタバコを買いに立つといったあんばいで、悲しい話だが本当においしいと思ってタバコを味わうことなどめったにない。だからタバコを吸う行為そのものよりも、吸うための作業の方が大切なので、ライターも電子ライターのように、触れただけで火がつくなどというものより、フタをあけてネジをひねって火をしぼりだすという段取りのいる昔ながらのものが好ましい。タバコもカンピースなどというのは、丸いカンをゴソゴソ取り出し、両切りの一方を吸い口にするために、ひねったりぬらしたりの準備がいり、かえってよいのだ。
また私の家では、両親のいるところではタバコを吸わないというしきたりがあった。親の前でなんの気詰まりなことがあるのか、緊張などせず心を開けよということなのだろう。しかし、いくら親子だからといってどこの成人した男がテレずに親と対座することなどできようか。だから私は、一人で旅行していても、緊張がほぐれているためだろう、ほとんどタバコを吸うことはない。
以前、私はハイライトを吸っていたのだが、あるとき芝居のポスターのデザインや本の装丁をしてもらっているイラストレーターの和田誠さんがハイライトのデザインをしたと聞いて、以来ハイライトを吸うのをやめた。和田さんには打ち合わせなどでたびたび会い、そのたびにハイライトを吸っていることがわざとらしく見えるんじゃないかと気になったからだ。それがきっかけで、別のタバコに変えたが、どうということもない。もともとくわえられるものなら、つまようじでもよかったのだろう。
また、舞台における喜怒哀楽を表わす手法に、タバコを使うこともある。私の芝居「熱海殺人事件」では〓“くわえ煙草伝兵衛〓”という男を配し、タバコにまつわるいろいろなセリフを吐かせている。
取調べ中、犯人が若刑事にタバコをねだり、刑事が国産のライターで火をつけてやると、犯人は「俺がマルマンで吸えるかよ!」と刑事をなぐり倒す。なぐるという行為は刑事への怒りなのだが、より気高く犯人になるべく励んでいる取調べ中に「俺が国産のライターなどで安っぽく火をつけたタバコなんかが吸えるか」という怒りは、犯人としてのダンディズムが正統性をもち、上司の部長も文句が言えない。
また最後の場面で、事件が落着し、犯人が出て行ったあと、部長刑事とその若い刑事が立っている。それぞれ感慨に思いをはせ、気詰まりな空気が流れているところで、部長が部下にタバコをすすめる。部長の「私は部下にタバコをすすめるのは初めてなんだ」というセリフは、一つの事件を通して部下に心開いた彼の愛情表現なのである。
犯人になぐられたあと、成長した若刑事は、部長の自分のタバコに火をつけるようにとの催促に「私のはマルマンですし……」と遠慮するが、部長に「君のやさしさがガスを変えるのだよ」と言われ、嬉しく火をつける。
タバコを大きく吸いこんで煙を吐いたあと「いい火かげんだ」との部長刑事の声で幕が降りる。これは男のダンディズムを表わすのに、ひとつの事件が解決し、かといって万歳三唱や胴上げしたりされたりなどがかなわぬ部長の最上の歓喜の言葉である。
たかだか、マッチをすって吸いこみ、吐き出すだけのタバコであるが、私にとっては使いようによってはその限りない奥の深さを思わせる。
オモチャに魅せられて
いい年をした男がオモチャが好きだなどと書くと、途端に馬鹿にされそうですが実際好きなのだから仕方ありません。オモチャと聞いただけで、デパートのオモチャ売り場を連想して胸がときめいてしまいます。思えば、子供の頃からデパートは私の格好の遊び場でした。日曜日ごとに目を輝かせてオモチャ売り場に通いつめ、店員に顔を覚えられることもたびたびで、それが後を曳《ひ》いたのか、今になっても暇をみつけては、新しい珍しいオモチャはないかしらとアレコレ売り場を物色して歩いています。
私が子供の頃に比べれば、現在のオモチャは目を見張るほど高度で多様なものばかりで驚かされます。テレビゲームやマイコンを応用した野球ゲーム、そしてマイコン自体もキットとして売り出されているといった状況で、かつてゼンマイ全盛時に目にしたリモコンのロボットのオモチャに、感動を通り越し畏敬の念をすら覚えた私は、ただただ科学技術の長足の進歩とその普及の幅広さに恐れ入ってしまいます。
テレビゲーム一つとってみても、やたらあれこれスイッチがあり、幾種類ものバリエーションが楽しめるのです。それは、子供たちのオモチャの構造や原理に対する素朴な疑問をうけつけぬほどに精密化され複雑化されています。私たちが子供の頃、ゼンマイ仕掛けのオモチャの構造を遊びを通じてある程度知り得たようには、現在の子供たちはテレビゲームやマイコン応用のオモチャを知ることはできません。余りに複雑な構造を応用したオモチャは、子供たちに〓“結果としての部分〓”にのみ目を向けさせ、その原理的な部分を厚いベールで覆いつくしてしまっています。そのことが今の子供たちにとって幸なのか不幸なのかはひとまずおくとして、ただそのように高度に精密化されたオモチャが氾《はん》濫《らん》するなかにあって、子供たちが充足しているかといえば、決してそうではないような気がするのです。最近の子供は一つのオモチャに飽きやすいと聞きます。それは決して子供たちが贅《ぜい》沢《たく》になったからではなく、オモチャの構造の〓“結果としての部分〓”だけを、切り取った形で与えられることと、次から次へと開発され発表される新製品の洪水による慢性的な飢餓感に起因するのではないでしょうか。
今でもよくデパートのオモチャ売り場で遊ぶ子供たちの姿を見かけます。しかし、オモチャを見つめる彼らの目に、かつて私がそれにたくした夢見るような輝きよりも、何かに追いたてられているような怯《おび》えを感じるのは私だけなのでしょうか。私が子供の頃に経験した、あの胸高鳴る紙芝居の拍子木も、虫の音を聞きながら、まとわりつく蚊《か》を追いつつ、夢中になって食い入るように見つめた野外映画の夏の日も知らず、乱塾時代の真っただ中で受験受験と馬車馬のように追いたてられる現代の子供たちに、私たち大人は、夢見ることすら贅沢だと決めつけているのではないでしょうか。
それとも、すべての情報が、コンパクトにまとめられたテレビという魔法の箱から送り出される現代においては、子供たちの夢もせいぜいがアニメの主人公に自己を投影するといったテレビ的なスケールでしか生まれてこないのでしょうか。私を含めた大人たちが、かつて自分たちの生きていた少年時代は素晴らしかったとタメ息混じりに回想するのは、あながちノスタルジーのせいばかりではなく、時代は、一見華やかに氾濫する物質の翳《かげ》で確実に暗黒に向けて進みつつあるのかもしれません。
「味ごときもの」
私は芸術家のはしくれとして、日頃から食べることなど大変下品なことだと考えている。まして食ってるところを人に見られるなど考えただけでゾッとする。だから、たまにパーティーなどに出たり、料理屋で対談があったりしてもものを食べたことがない。
私が故柴田錬三郎氏が好きなのは、その痩《そう》身《しん》に芥川・太宰らのあの白黒写真以来の、作家としてのあるべき姿をみるからである。
むかし、まだこんなに売れなかったころ、劇団員とウルトラマンのぬいぐるみを着て東北を廻ったことがあった。町のデパートの屋上などで子供相手に怪獣と一緒に戦ったりするのだが、日に何回かのショー以外、宿へ帰って飯を食って寝るしかすることがなかった。東京のまずい米を食っていたせいかササニシキやコシヒカリの白い光がなんともおいしそうで、毎回どんぶり飯をおかわりしていた。そうやって米どころを廻っているうちにだんだん太ってきた。冗談のような話だが、ある日とうとうゴムのぬいぐるみのチャックがしまらなくなって、元締めの社長からクビを言い渡されてしまったのだ。私の下腹の肉をつまんで、「こんなバカな話があるか」とあきれかえっていた社長の顔とあまりの情けなさにうつむいたままの自分を思い出すと、今でもあぶら汗が出るほどだ。その時以来、太ることへの恐怖は筆舌に尽くしがたいものがある。
しかし考えてみると、私は生来ものを「おいしい」と食べ過ぎるような下品な子ではなかったはずで、ぬいぐるみショーという屈辱的なアルバイトをしていてヤケクソになっていたのかもしれない。
子供の頃私の家では、よく父が「こんなもの食えるか!」と母をどなりつけたり、おぜんをひっくり返すのを目撃していた。台所の暗い三《た》和《た》土《き》の隅《すみ》で泣いている母をかわいそうに思っていたので、私はいつも料理を「おいしい、おいしい」と食べてやっていて、子供のくせに好き嫌《きら》いなどひとつもなかったのだ。当時父が商人だったので母も手伝いで忙しく、私などもダンボールに入れられて遊んでたほどで味どころではなかったのだろう。また家には、商売を手伝う親戚の人がいつもたくさん出入りしており、食事は叔《お》母《ば》や叔《お》父《じ》の嫁が作ったりの千差万別、とても〓“家庭の味〓”などの落ちついたものではなかった。さらに兄に嫁がきてからは、帰省するたびにサバの腹にチーズを詰めて煮たものなど食わされては死ぬ思いをしながらも、私のためにと作ってくれているので「おいしい、おいしい」と食べていた。それが人間というものだ。
そして、出されたものを「おいしい」と言って食べてやるのが男の甲《か》斐《い》性《しよう》であり、たかだか味ごときものに頓着してああだこうだとごたくを並べるのは女々しいことだと思う。料理の味などというものは最終的には作り手が誠意をもって作ってくれさえすればほんとにおいしそうに食べ、「うまい」とほめてやるのが礼儀である。
料理を味わうのではなく、相手の心を味わうのであるから。
人格の生き分け――夢のまた夢
喧《けん》噪《そう》の中であればあるほど、ふと私は何者だろうかと思うことがある。もしかしたら、私はただ単に「つかこうへい」という人格を演じている男にすぎないのかもしれない。意識的に「つかこうへい」をどう操縦していこうと、思うつもりはない。ただ状況の中で流されるままである。でも、このペンネームでこだわっていたことは、イサギよくあろうという意志である。
この情報過多の時代、人間は役割としてでしか存在できなくなっている。その何者かを演じているという意識が、何者かに成り変わるという夢をたやすくしてくれる。「つかこうへい」というペンネームは、どこまで可能なのだろうか。たとえば、イラストレーターやカメラマンには成り得るのだろうか。その距離を測ることにおいてでしか夢みることはできない。
いつの日か「つかこうへい」というペンネームを捨て去り、「本当のことをいおうか」とケツまくるのが夢である。これは、もとのもくあみであろうが。
舞台をやっているせいか、何者かに成り変わりたい、という欲求は強いものがある。
うぬぼれていえば、金原峰雄という本名と「つかこうへい」というペンネームは、器用に生き分けられるようになった。せめて、もう一つもう二つの人格を生き分けたく思う。
これが私の夢のまた夢である。
転校生
私が小学校へ通うようになった昭和三十年代に入ると、世の中は石炭の時代が終わりにかかり、私の育った飯《いい》塚《づか》の町でも、その炭鉱事務所が石油ストーブを使うようになったとの記事が社会面に出るようになった。そして、かつては繁栄のシンボルとしてそびえていたボタ山が、興隆をきわめた当時の名残となりたくましい炭鉱夫であふれかえるようだった町が日ごとにひっそりしてくるのが子供心にも感じとれた。
暑い夏休みがあけたある日、学校へ行くと東京から転校生があった。父親が東京の本社から、炭鉱の管理職として赴任してきたのだ。
その女の子は、色白のぱっちりした黒目がちの、前髪を目もとで切りそろえたお人形のような子だった。
ほどなく転校生はクラスになじんだ。休み時間になると女生徒は転校生を取り囲んで、東京のあれこれを聞き出しさんざめいていたが、男の生徒たちは授業中にチラッと盗み見るのがせいぜいで、うっかり目でも合おうものならあわてて顔を隠す始末だった。私たちは皆、転校生が歯切れのよい透る声で教科書を朗読するのをうっとりと聞き入った。
また、転校生にもらったとピンクの透きとおった紙石《せつ》鹸《けん》を見せびらかす隣の席の女の子がたまらなく妬《ねた》ましく、その子から、転校生は香水の匂《にお》いのするケシゴムを持っていると聞いては胸が高鳴った。昨日までボタ山のどろスキーでどろだらけを競っていた子供達が少しずつこざっぱりしていくようだった。町も家も人々も不況で沈んだ空気の中にいるのに、私達を取り巻く空気だけが妙に明るくはずんでいて後ろめたい思いだった。
しかし、男の子たちは毎日のように転校生をいじめた。それは、炭鉱の不況のための組合側と会社の争いが子供にまで及んでいたのだろう。転校生は、炭鉱夫の首を切る会社の上役の娘なのだから。
ある放課後、女の子を待ち伏せて大勢でこづいたりはやしたりした。一人が肩を突き飛ばしたはずみで、女の子のランドセルが飛び埃《ほこり》だらけの道端に教科書やノートがバラバラと投げ出された。その時、一緒にきれいなバラの花の描いてある赤い筆箱が飛び出してきた。それはいつも盗み見をしている時の目の端にやきついていた筆箱だった。私達は、女の子が泣きながらランドセルを引きずって山の上の社宅へ帰って行くのを、歓声を上げながら、なんだか悲しく見送った。
もともと、炭鉱育ちで気の荒い乱暴者達だったのだが、美しい都会的なものへのはにかみやてれが子供っぽく裏返ったまま、ついきっかけがつかめずいじめ続けたのだろう。
不況はいよいよすっぽり町を包み、炭鉱労働者が次々に首を切られていったある日、突然女の子が転校して行った。いじめ続け、一言も親切な言葉をかけなかったことを私達は悔んだ。
その日の抜けるような空を思い出す。
思い出を食べて
三年ほど前、神戸三《さん》の宮《みや》の飲み屋で、某有名会社の上役と部下とおぼしき二人が言い争っているのを見たことがある。
最初は、部下が上役から仕事の失敗か何かをこっぴどく叱《しか》られていたのが、何時間かたち酒が回るにつれ、どうしたことかその地位は逆転し、今まで正座して、いたみいってた部下があぐらをかき上役をひっぱたき始めたのである。
「たるんどる!」
とひっぱたかれるたびに上役は嬉《き》々《き》として、
「どうもありがとうございました」
と、きをつけし最敬礼する。飲んでいた他の客は唖《あ》然《ぜん》とし見入っていたが、その騒ぎは止むどころかエスカレートしていった。どうやら二人は、軍隊の時は同一部隊で、同じ会社に入り、その地位は逆転した関係らしい。
閉店の頃《ころ》になると、二人は戦争を知らない私達の方を見て「ザマーミロ」と言わんばかりに誇らしく仲良く肩を組んで出て行った。
彼らが毎日このようにして飲み歩いていると考えると面白いものだと思った。きっと彼らは、良き夫であり父であり、社会では虫も殺さぬ人種なのだろう。
二人はゲームとして二人の関係を楽しんでいるのではない。むしろ軍隊の中で垣《かい》間《ま》見《み》た真実を思い出そうと必死なのである。今の日常がどうも嘘《うそ》っぱちでもどかしくさえあり、かつて劇的に生きた時代を懐かしんでいるのであろう。そしてそこにこそ彼らの真実があったと、無意識にも確信しているのだろう。そして彼らにとって、戦争は、善悪を超えた生きがいとさえなっている。私は、この初老の二人連れが、哀《かな》しくもまたうらやましくもあった。
だが、みそっかすのように言われていた私達平和体験者にも学生運動体験がある。石油ショックや円高騒ぎもあるが、やはり学生運動が一番であろう。
あの頃は、ギターが弾けないと(反戦歌を歌うため)「戦争に賛成してるのか」とつるし上げられるわ、安全保障条約締結の日、たった一度しか会ったことのない女から喫茶店に呼び出され、
「私を選ぶか、デモを取るか」
と詰め寄られるわ、安保反対の大義名分さえあればなんでも無理が通ってた時代であった。
先日、旧学生運動家の友人から、公団住宅に当たり、引っ越しをするので遊びに来てくれと言われた。
彼は律儀な反体制運動家であったし、いくら女房子供のためとはいえ、さぞかし屈辱の日々を送っているのだろうとわびしくなった。かつて私がデモ開始の時間に間に合わずタクシーで現場まで行き彼からひっぱたかれたり、デモの最中「いい女いねえか」とキョロキョロしていると、彼に「不謹慎な奴《やつ》だ」とはり倒されたこともいい思い出だ。
もちろん公団などというものは学生運動家などスネに傷もつ人間を真っ先に当選させ、ひけ目を持たせとこうという政府の懐柔策である。こんなこと、彼は十分肝に銘じているはずである。
たかが河原《かわら》乞《こ》食《じき》の私でさえ、この年になって嫁さんももらわずがんばっているというのに、公団住宅とは何ごとかと説教してやろうと出掛けると、間取りがどうだの、日当たりがこうだとすっかり好《こう》々《こう》爺《や》になってマルクスのマの字も出ない。
私が子供に持ってってやったプラモデルの航空母艦を見て、
「ほら〇〇ちゃん、大和だよ、大和だよ」と相好を崩す。さすが私もカッと来て、
「言うにこと欠いて大和とは何だ。エンタープライズじゃねえのか、佐世保で原潜帰れって叫んでた奴だろうが」
と怒鳴りつけるとキョトンとしている。そして、酔っ払っては隣近所の奥さん連中まで呼び集め、もろ肌《はだ》脱ぎ、
「ほらほら、これが国会前、機動隊にかしの棒でこづかれた傷だよ、お立ち合い」
「これが佐世保で原潜を追撃した時の傷」と、はしゃぎ回る。
耐えきれなく、私は席を立った。
お隣さん達の拍手喝《かつ》采《さい》を浴びる彼は、あの神戸の二人連れの上気した表情に似ていた。
すべては懐かしく、もはやかつて劇的に生きた思い出を食べて生きるしかなくなってしまったのだろうか。
〓“わが町〓”を求めず
もともとが飽きっぽい性格でもあるのですが、予備校へ入るために東京へ出て来てから、年に一度は決まって引っ越しをしています。
新しい町に移ると(それも、駅に近いところという条件で選ぶためか、いつも商店街のそばなのですが)、初めのうちは肉屋の隣が魚屋で、風《ふ》呂《ろ》屋は洋品屋の二軒先で郵便局は……と近所の商店を発見したり確認したりしては、ひとりほくそえんでいるのですが、それもひととおり町のからくりがわかってしまえばもうつまらなくなります。
そのうち行きつけの喫茶店ができ、店名を覚えこむと、もうそこのウエートレスの常連扱いの愛想笑いが鼻についてきます。そのうえ、二、三度みかんなどを買った八百屋の主人に店先で、
「若旦那、仕事はかどってます? 今日はなんにします?」
など声でもかけられようもんなら、恥ずかしさで死にそうになります。そして、スーパーで品物の配置を覚えてものを買うのにまごつかなくなり、薬屋に行けば店員より先に棚《たな》の目的の薬を指せるようになるともういけません。次の日からは、また不動産屋へ足を運んでは新しい町を夢見、心はずむのですが、何度引っ越しをしても、そこにあるのは似たような肉屋や魚屋の商店街なのです。
十年以上も前、知り合いのつてで下《げ》駄《た》屋の二階に下宿していたことがありました。後楽園球場近くの小《こ》石《いし》川《かわ》のすずらん通りという商店街の中にあり、隣が昔ながらの、自家製のつけものや惣《そう》菜《ざい》を店先に並べて売っている乾物屋でした。昼過ぎになると、毎日隣から煮たきの匂《にお》いや煙が一日中絶えず、初めはめんくらいました。その下駄屋も老夫婦でやっている小さな店で、盆、暮れ、正月に近所の人でちょっと出入りがあるのがせいぜいで、ふだんはつっかけや急な雨のビニール傘《がさ》を買いにくるくらいでした。
しかし、当時はもの珍しさも手伝って、七五三のぽっくりを売ったり、成人式のぞうりを売ったりと忙しく手伝い、二階の自分の部屋にいる時よりも店に立ってる時間の方が長い日もあるほどでした。そのうち、店に入って来た客を見ただけで、
――お、正月用のぞうりだな。
――つっかけサンダルだ。
とわかるようになり、ある日、着物を着てうで組みして店番をしている自分が家主より堂に入っているのを発見し、
〓“俺は下駄屋になるために東京に出て来たのではなかった!〓”
と、あわてて下駄とぞうりを振り捨てて、逃げるように下宿を変わりました。
いま、自《じ》由《ゆう》が丘《おか》というところに住んでいますが、ここはうつ向いて歩こうとしている街、あるいは歩ける街のような気がします。慶応大学など学校が近いせいか、テニスウエアに身をつつんだ若い男女や、ゴルフ道具をかかえた紳士などとすれ違うことも多く、所帯じみた雰《ふん》囲《い》気《き》の薄い町です。路上で立ち話をしている人もめったに見かけず、こちらから話しかけないかぎりあちらからも話しかけないという、積極的に連帯を求めないという暗黙のルールのようなものを感じて気に入っています。
ところが、どこで私のアパートの所在を聞いてくるのか、ひところ、しきりと銀行員が訪ねてきました。小《こ》金《がね》をためてるのだとの勝手なうわさでもあったのか、熱心に定期預金の勧誘をするので、生まれてから一度も電車の定期券さえ持ったことのない私は吐き気がしそうになります。
私は、芝居をやっているというひかれ者のひけめで、特定の場所に定着してはいけないとの強迫観念をジャンピングボードにして日々戦っています。定期だのなんだの相手にしてる暇はないのです。
そして一瞬の緊張が勝負で、どんなかたちにせよ定着するという姿勢はとれません。
「活字」というかたちで定着することも好ましくありません。ですから自分の書いた本など二度と読み返す気にはならず、本を開くのはサインする時だけです。
「定着しない」ということは、恐怖と背中合わせのギリギリの一種のダンディズムなのです。
私はこれからも、街や人々と決して馴《な》れ親しみすぎず、人が生活するために社会的に作られた〓“街《まち》〓”というものから常にはみ出た状態を維持しようと心がけています。それは、たとえば引っ越し先で引っ越し祝いをくれるような環境なら、翌日には次の引っ越し先を探すという行為へつながります。そしてそれが、一瞬に消え去る「演劇」を選んだ私の業《ごう》のようなものだと考えるのです。
おやじの空
私を医者にすることそれだけを楽しみにしていた父は、私が芝居に関わることなど思い及ぶはずもなかったことである。文学部へはいってからも、芝居をやりだしたことにうすうす感づきながら物知らぬ父は、「いつ博士《はかせ》になるのか」と、そればかりを楽しみにしていた。にもかかわらず、大学を中退してしまった私は、卒業証書を見せることができず、またしても、父の想いを裏切ることになってしまったのである。私がどのような価値ある仕事をしていたにしても、父母のすべてであった卒業証書をもらうことができなかったことは、子として二度と顔向けのできぬことであった。
それ以来、九州へは帰っていない。少なくとも、父にはそうなっていた。ただただうしろめたい気持ちが、私をそうさせていた。九州での仕事を依頼されたところで、父の住む地と思えば、もはや近寄りがたく、岡山、広島あたりでもおっくうなものであった。それでも、やむをえぬ事情から講演が決まり、小さな声で少しだけしゃべり逃げ帰ろうとすると、父から、一泊していかないかと声をかけてきた。東京で重要な仕事があるからと理由をつけては、私は電話口にもでなかった。が、父もまた、講演会担当者からの会場へ来て頂きたいという申し出を、かたくなに断わっていたという。父は、「家から恥かきが出た」という姿勢を決して崩しはしなかった。それが、長男の家に生まれた長男としての父の役割だったのであろう。好きな絵を断《た》って家を継いだ兄や、私のかわりに何年も浪人してやっと医学部に入った弟からの日頃私に向けられた批難の声を耳にしていた父の立場としては、そんな兄弟に対するひとつの償いとして、そうせざるを得なかったのだろう。
いつもいつも、飛行機から見る九州の空は重く鉛な色であったが、私はその中に父と子の快い緊張感を、楽しんでいた。父は私の芝居を見たことがなく、戯曲すらも読んだことがない。また私からも父へ、新刊を送るということもしなかった。ただ母だけが、かくれて一喜一憂を繰り返していたものである。
私も三十を過ぎ、決して親孝行のつもりではないのだが、ようやく昨年の七月に、九州で芝居を上演することを決意し、興業主と契約を交わした。が、そのとたん、病にふしていた父は、意識不明になってしまった。夏の暑い日であった。稽古場からいったん自宅にもどり背広にきがえ、あのどすぐろい空をおもうと武者ぶるいするほどであった。が、倒れた父のもとに急ぐ時の空は青く、抜けるような空であった。とりかえしのつかない哀しみが、ゆっくりと私の身体全体をつつみこんでいった。
もうこれからは、九州に下りたつ時、私を絶えず脅かしていたあの罪悪感によいしれることはないであろう。ただ、おだやかな崩れることのない空が拡がっていることであろう。が、いつの日か、父を殺したのは私だとの思いをつのらせ、また空を黒くしなければ……。それが私の業《ごう》のはずである。
のばしのばしの哀しみ
父が脳卒中で倒れたのは、芝居の初日をあと二十日にひかえたというときだった。
稽《けい》古《こ》場《ば》から、着のみ着のままで九州にとんで帰ると、父はすでに昏《こん》睡《すい》状態であった。
私はただただあっけにとられていた。医者に容体を聞いてみると、もう手のくだしようがないという。
「もうちょっとがんばれなかったのかよ。あと二十日で初日なのに」
情けなさを通りこして、無性に腹だたしく、思わずそう口に出してしまった。
いつも、そうだった。初日さえあけば、この芝居さえやり終えれば、卒業証書ももらってやろうし、受験勉強し直して、期待どおりカタギの医者にでもなんでもなってやるつもりであった。芝居のたびに、何度もそんな決意をくり返していた。
それがズルズル十年もヤクザな生活を続け、父とまともに言葉をかわしたこともない。
ずうっと伏せたままで、いずれはこうなると、わかりすぎるほどわかっていたはずなのだが。
「こんな大事なときに倒れるなんて……」
私はもの言わぬ父をなじり続けた。
やがて親《しん》戚《せき》や知人が勢《せい》揃《ぞろ》いし、まんじりともせず三夜が過ぎた。みな睡眠不足と看病疲れでイラだち始め、言葉にはしないものの、「死ぬか生きるかはっきりしてもらわないと」というようなことを、露骨に表情にだしはじめた。そして、父に代わってと言っては、三十になっても嫁ももらわず、収入も一定せず、スキャンダラスなことで週刊誌沙《ざ》汰《た》になっている私を次々といたぶりだした。とにかく彼らはどさくさにまぎれて入れかわりたちかわり言いたいことを言う。
私としては、「遠路より父のために」という気持ちがまずあったし、これから先のことを考えると、長男であるすぐ上の兄をその連中の矢面にたたせるわけにもいかない。すすんでいけにえになってやるしかしようがなかった。
ふだん評論家や演劇記者を相手にまわして、芸者みたいなことばかりやっているせいか、自分でも本当にいい〈あたられ役〉だったと思う。
四夜が過ぎ、一進一退する病状に、みな舌うちさえはじめ、私は少々なぐられてもしかたないと覚悟さえしていた。みかねた弟が交代を申し出てくれたが、弟は歯医者で、将来ある職業であるし、なによりもあたる方だってあたりづらいだろうからと説得すると、泣きながらわかってくれたようだった。
うちの親戚が特殊なのか、みな揃いも揃って芸能通で、
「AとBはいったいどうなっちょるとか」
「やっぱりスターも落ち目になると、クイズ番組の司会しか仕事がこんちゃろね」
しまいには
「で、おまえはなにしよるとか」
と、こうである。いまだに私の手元には、そのときサインをもらってくるようにたのまれた色紙が三十枚ほどある。
しかし危篤の病人をもった家族は悲惨なものである。母などはまるで父を殺そうとしている張本人のように言われ、家族のものが一人一人呼びつけられては、見ず知らずの人にまで説教され、あげくは、「病院をかえろ」「なに治療費ケチッてんだ」「財産を公開しろ」とまで言われるのである。
そして、これもうちだけの特殊な例なのかも知れないが、手から出る「気」のようなもので病気をなおすという人が来たかと思うと、今度はあやしげな祈祷師がきておはらいをしだす始末である。
すべてが誠意でやってくれているものとひたすら耐えて、あっちの地蔵さんに水をかけに行き、こっちの社《やしろ》にまいり、庭の北側の木をひっこ抜けと言われれば、スコップを手に一日がかりで土と格闘し、もう気が狂いそうであった。
つい四日前までディレクターズチェアにふんぞりかえり、サインもらってこいと言われたその役者たちをつかまえて、「バカが」「アホが」とどなりつけていた売れっ子演出家が、金貸しや不動産屋どもからタバコを買いに行かされるのである。しかし私は私なりに必死でタバコを買いに行っていた。それが私にとっての親孝行だと思っていたのである。
親戚連中からなじられ、父がいかに私のことを心配していたか聞かされるたびに、父との距離が近づいていくように思えたのである。
ついに六日目、終始かわらぬ明るさで、はっぱをかけていたにもかかわらず、みな、精も根もつき果てたという風情で散会しようとする。
演出家を失ない、刻々と迫る初日をおもい、東京では役者たちが心を痛めているというのに。
耐えに耐えていた私もさすがに頭にきた。私の父は、親戚や知人たちが徹夜の十日はしてもおかしくない人物だったはずである。二、三人追腹切ってもおかしくないほどの人物だったはずである。
「何が帰るだ。俺の親父が死にかけようとしているのに他に何の仕事だ。こっちは芸術ほっぽらかして、てめえらのタイコ持ちやってやったんだ」
と、ひとりの従兄《いとこ》の胸ぐらをつかまえなぐりつけようとした時……父が逝《い》った。
「さあ、これで家族のもとに帰れる、仕事に戻れる」
と、危篤の病室はまるで歓声があがったかのように私には思えた。ここぞとばかり、手ぐすねひいていた連中が枕元を独占し、どこにそんな余力があったのか、実に見事な泣き方をしていた。私たち家族は、ただただ唖《あ》然《ぜん》とするばかりであった。その夜親戚どものやすらかな寝顔を見て、怒る気力さえなかった。
正直いって、意識不明に比べたら、葬儀は通夜から始まり、骨を納めるまでの段取りがはっきりしていて、あたりちらされるのを我慢するのも先が見えるので楽であった。
とりあえずは、父の恥にならぬようだけ心掛け葬式を済ませ、なんとか芝居をでっちあげ、楽日を迎えさえすれば、あとはゆっくり哀しみにひたることができるのだ。それまでは父の死は初日を迎える為の一過程にすぎない。むしろ、役者たちが頑《がん》張《ば》らねばと、自覚を出してくれると、もっけの幸いである。それよりもこの私こそが、この出来事を逆手にとり、緊張感のある舞台を作ればいいのである。
東京に帰り、稽古を再開した時、感覚がニブっていないように、葬式を利用して、私のドラマツルギーを再確認していた。
私は、花輪や香典のひとつひとつをチェックし怨《おん》念《ねん》をつのらせていた。確かに、うちの親父はたいした男ではなかったが、「あいつから、この位の香典じゃ幕はあげられない」
「仲人までしてやったこいつから花輪がこないとは、客がだまっちゃいないぜ」
今に見ていろ、いい芝居やってきっと見返してやるんだ、と見当はずれな怨念をつのらせていた。不幸を重ねたがあまり、父に対する孝行はきっと純度の高いものになっていたのだろうし、ケイコ不充分で初日を迎えねばならない不安感で錯乱し、お焼香に来た人の線香のあげ方ひとつにもダメ出しをしてやりたい程であった。
あれから十か月がたった。初七日が過ぎれば、もう一つやりたい芝居が終われば、とのばしのばししていた父の死に対する哀しみは、今でも、このエッセイさえ書き終えればということでかわることはない。
父が死んだ以上もう、父の期待を裏切り続けたひけめを武器として生きていくことはできない。反抗すべき対象がもうないのだから。
「どうしようもない奴だ」、その隠れみのの中で自由を満喫することもできない。
まず、早急に私は、純粋な子として父の死を哀《かな》しまなければならないと思う。
父の死まで演劇的に処理することはない。何よりも、死それ自体はしずかなものだったが、今は自分の仕事である演劇というスライドを通してしか、死をみとれなかった自分を、ただ、哀しく思うだけである。
ボタ山――ふるさとの記憶
父の一周忌で帰省したが、田舎に一週間いられたのは、東京に出て来て以来初めてのことだった。忙しさにかまけ、父のこともふるさとのこともゆっくり想ったことはなかった。弟に運転してもらい、昔、通った学校や遊んだボタ山を、車のシートに身を沈めて隠れるようにして見て回った。妙に気恥ずかしかった。私の親不孝は、田舎不孝でもある。
私の家は、私が大学に入った時に福岡県嘉《か》穂《ほ》郡嘉穂町牛《うし》隈《ぐま》から飯《いい》塚《づか》に引っ越した。私は、父の期待に背いて大学も中退し、芝居を始めて勘当同然の身でもあったから、大学時代もほとんど帰省することはなく、まして幼いころ遊んだ牛隈に行くことはほとんどなかったのである。私は今三十二歳でほぼ十五年ぶりである。
まずボタ山を見ようと思った。が、かつての久恒炭鉱のボタ山を探してみたけれども、草木に隠れ、ほとんど昔の面影はなかった。必死に父のことあのころのことを思い出そうとしても、気があせり、とぎれとぎれに絵面が変わるだけだ。ただ父にああしてもやりたかった、こうしてもやりたかったとの想いばかりが頭をよぎり、あの黒いつやつやした石炭の光さえ思い出すことはままならない。
日ざしは、まぶしく、射るような光と、どんよりした重い光の二つがある。私が小学校低学年の時は、炭坑は好景気で日ざしは明るく、町には活気があふれていた。炭坑の社宅には大きな風《ふ》呂《ろ》があり、天に届くほどの煙突が三本そびえていた。坑内からあがってくる黒光りした坑夫たちが、絶えることなく風呂に入っていた。カンテラをさげ、ヘルメットをかぶり、上半身裸の坑夫たちのたくましさは子供心に恐怖ですらあった。
ボタ山は火を吹き、新しく出されたボタの煙りが立ちのぼっていた。毎日毎日子供たちはボタスキーで遊んでいた。箱を作り、竹を火にあぶって曲げてスキーを作り、まだ熱いボタの上をすべっていく。ボタ山につくったスキー道は、次の日には新しいボタがかぶさり、かき消されてしまうが、私たちはこりずにまた道をつくるという繰り返しで、毎日真っ黒であった。
その頃、新しい消しゴムやきれいな下敷きや絵のついた筆箱を持った都会っ子たちが、どんどん転校してきた。中でも、東京から転校してきた会社の偉いさんの娘は、泥《どろ》だらけの私たちから見れば、整ったきれいなお人形のようだった。空は曇りの日などない明るさであり、カミナリでさえ心はずませるものであった。
ところが炭坑が不景気になると空は遠く暗くなっていった。会社側と組合の争いが子供たちの間にまで影を落とし、その子は何かと組合員の子がいじめる的にされていた。そうする間に、次から次へと友人が転校していった。もっとやさしくしてあげればとの後悔の念だけが、いつも子供の心に尾を引いていた。
しかも、炭坑の事務所でさえ燃料費の安い石油ストーブを使い始めたという噂《うわさ》が広まり、もう取り返しのつかない事態にまで追い込まれていると思い知らされた。
隣の子や前の席の子が一人いなくなり、また転校していく。また一人ブラジルへ移民するとの送別会があり、「あいつ、かわいそうだな」と言っていた子が、次の日にはいなくなり、大《おお》袈《げ》裟《さ》に言えば、死刑台に連れていかれるのを待つ死刑囚の集まりのようなものだったのだろう。ボタ山はかつての心はずむ遊び場ではなく、おぞましさの象徴となり、いつも私たちはうつむいて歩いていた。
一段落して、誰も転校することもなく転校してくることもなく、ようやく落ち着いたところで、ガランとした教室で初めてさみしさをかみしめ、「別れ」の哀しさを楽しんでいたのだろうか。
炭坑が閉鎖され、無人の社宅の前を通ると、引っ越しの時にトラックに乗せてもらえず、ほっぽり出された犬たちが、いつも吠《ほ》えていた。飼い犬が野犬に変わる数は、炭坑がさびれるにしたがって増し、女子生徒が犬に襲われるという騒ぎにまで発展した。私たち男子生徒は、女の子たちをガードして登校下校した。手に手に棒っきれを持ち、どんよりした空の下、私たちは悲壮な面持ちで隊列をつくっていた。
昨日まで人になついたかわいらしかった犬が、翌日には野良犬になっている。保健所の人たちが、キャンキャンと鳴く犬の首に針金の輪をかけ、車に乗せて行くのを目撃して、私たち自身をうつしかえ、その心はすさんでいった。
私のふるさとの思い出には、忌むべきボタ山と連れ去られる野良犬の叫び声が、消しがたくある。
そしていま、日ざしもボタ山も泣き声も父も失った。感傷の中にまるで静物のように動くことはなく、私の心をとり乱すことはない。プロのもの書きとして「ふるさと」を解き明かすことは、せめて一周忌が済んでからにしようと思う。
初出誌紙一覧
力まないやさしさに、男は弱いのです
あいん 昭和53年3月号
ヒロインたちの宿命
婦人公論 昭和53年1月号
やさしさ地獄
PHP 昭和53年5月号
志の高さ
資生堂PR誌 昭和53年2月21日号
男と女のライフスペース
週刊住宅情報 昭和55年12月17日号
男の友情
第一勧銀'80ハートの新聞 昭和55年9月号
愛がいっぱいの時代のなかで
リクルートブック'80就職関東版 昭和55年
第一私がそうだった
(未発表)
〓“不遇〓”乗り切りのテクニック
週刊求人タイムス 昭和55年11月13日号
新しい〓“ひけめ〓”を探して
中央公論 昭和55年12月号
ヒーローの条件
週刊ダイヤモンド 昭和55年12月26日号
わがライバル
月刊プレイボーイ 昭和54年3月号
*
パロディーと現代
東京新聞 昭和53年3月15・16日
媚の売りかた
展望 昭和53年6月号
努力しない客たち
ハイファッション 昭和55年12月号
私と〓“石油文学〓”
平凡パンチ 昭和55年12月29日号
私の文章修業
週刊朝日 昭和53年9月15日号
話し言葉の世代
公明新聞 昭和53年4月8日
戯曲の中の方言
那の津 昭和54年1月15日号
下手なイイワケ
新刊ニュース 昭和53年1月号
中毒
青春と読書 昭和53年6月号
スレッカラシ
小説現代 昭和53年6月号
ひかれものの小唄
財界展望 昭和53年12月号
つまらない映画〔以下、11篇〕
ヤングレディー 昭和52年7月26日号〜同12月27日号
今、中年映画
流行通信 昭和56年2月号
ラジオと意志
文化放送PR誌 昭和52年
*
〓“したたかな目〓”で見るぞ
スポーツニッポン 昭和53年1月1日
若者の生命力をスポイルするな
読売新聞 昭和53年3月4日
拝啓 日本共産党殿
朝日新聞 昭和55年6月11日
選挙長寿法
朝日ジャーナル 昭和55年6月20日号
〓“ハングリー魂〓”に幸あれ
週刊文春 昭和55年10月23日号
異説文化論
信濃毎日新聞 昭和53年10月3日〜同25日
放射線有情
東京新聞 昭和52年7月1日〜同12月23日
*
俗っぽいからこそ神秘
あけぼの 昭和52年11月号
タバコと照れ
Half Time 昭和56年1月25日号
オモチャに魅せられて
教育の森 昭和54年5月号
「味ごときもの」
ハイミー講座 昭和55年
人格の生き分け
エコノミスト 昭和53年1月3日号
転校生
一枚の繪 昭和55年11月号
思い出を食べて
東京新聞 昭和53年8月15日
〓“わが町〓”を求めず
東京新聞 昭和56年1月9日
おやじの空
ジェットロード 昭和55年8月号
のばしのばしの哀しみ
日本経済新聞 昭和55年4月27日
ボタ山
朝日新聞(西部本社版)昭和55年8月30日 傷《きず》つくことだけ上《じよ》手《うず》になって
つか こうへい
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平成13年4月13日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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Kohei TSUKA 2001
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角川文庫『傷つくことだけ上手になって』昭和57年8月30日初版発行