つかこうへい
つか版・忠臣蔵
目 次
長 屋
再 会
辞世屋
評 定
切 腹
稽古始め
暑い夏
テーマはオレだ
討ち入りまで
春へ向かう
長 屋
手に手に重箱やむしろを持って行きかう花見客をやりすごし、茅場町《かやばちよう》のはずれの蛙坂を左に折れ、薬師《やくし》長屋の木戸口を抜けると、じめじめとしたうす暗い路地が続き、その両側にいまにも崩れ落ちそうな安普請の貧乏長屋が向かい合っている。
路地に沿うドブ板はほとんどがはずれかけており、鼻をつく悪臭がたちこめて、風向きによっては吐き気にさえおそわれる。
雨風にさらされて墨の色がうすくなった「赤児堕《あかごお》ろします」の木の札が春風に揺れ、その前で腰の曲がったもぐりの産婆のくまが、中条流《ちゆうじようりゆう》であろう、歯の抜けおちた口をモグモグさせながら、広げたむしろに椿《つばき》の葉を干している。
くまの他に人の気配がなく閑散としているのは、長屋の者たちが今朝早く連れだって上野へ花見にくり出したせいだ。背を丸めすわりこんだくまが、やたらとつばを吐き、不服そうに何かぶつぶつ言っているのは、長屋の連中から誘いの声をかけてもらえなかったからであるが、誘われたところで素直に仲間に入るくまでもない。
と、町人姿の若い男に案内され、こんな裏小路にはおよそ似つかわしくない羽織袴《はおりはかま》の侍が、あたりをはばかるようにそっと木戸口をくぐった。
歳《とし》は三十の半ばといったところであろうか、顔をしかめてクンクン鼻をならし、小太りの身体を大儀そうに揺すって歩いてくる。よく見れば、着ている物はあかぬけない、いかにも田舎くさい野暮ったいものだ。
案内する背のひょろりと高い瓜実顔《うりざねがお》の若者も遊び人の姿はしているものの、その足の運び、目のくばりは武士のそれである。が、江戸での放縦な生活も長いのか、どこか崩れた雰囲気をただよわせている。
「この長屋です」
若い方が言うのをうけて、羽織袴の武士が、
「しかし、ここはどういう人間が住んでるんだ。見ろ、『赤児堕ろします』なんて看板出してるぜ」
くまにギロリとにらみつけられるのもものともせず、
「なんだあのババアは。何かのまじないでおいてるのか」
とすっとんきょうな声を出した。若い方は、ドブ板をガタガタと踏み鳴らし、しきりにあちこち窺《うかが》っていたが、腰高《こしだか》障子に「辞世つくります」との破れかけた貼《は》り紙をみとめ、
「御家老、どうやらこの家です」
御家老と呼ばれた男はポッチャリとした顔立ちで、つかみどころのない茫洋《ぼうよう》とした表情だが、糸をひいたように細い目は、時おりぬけめなく光らせている。上目づかいに見上げるまなざしは、狡猾《こうかつ》な商人のそれをおもわせた。
この男、播州《ばんしゆう》赤穂《あこう》藩城代家老、大石《おおいし》内蔵助《くらのすけ》である。
そしていまひとりの若者の方は、同じく赤穂藩士、大高源吾《おおたかげんご》という。
「はたして先生はおいでになるかな」
「中に人の気配はしておりますが」
「しかし、あんまり繁盛していない辞世屋みたいだな。妙なの作られて、これ以上殿に恥はかかせられんぞ」
「表通りの辞世屋にみな断わられました以上、我慢してもらわないと」
「それはそうだが、あんまり的《まと》はずれな歌をつくられても困る。あくまで幕府のお慈悲をいただけるやつをつくってもらわねばな。お涙ちょうだいが一番だ。人間、死に際さえうまくとりつくろえば、どうにかなるもんだ」
と憂鬱《ゆううつ》そうに渋面《じゆうめん》をつくる。
あちこち頼みまわったのであろう、源吾はいらついた様子で、
「今は内容どうこう言ってる場合じゃないでしょう、五七五七七あれば、多少のところは我慢してもらわないと」
「そうだな、この際、中味より早いのが一番だ。あとで都合のいいようにこじつければいいんだしな。なんたって切腹まで時間がない」
そのとき、上野寛永寺《うえのかんえいじ》の鐘楼がときを知らせた。浅野内匠頭《あさのたくみのかみ》切腹の刻限、六つまであと三時間ほどしかない。
二人は怨《うら》めしそうに鐘の音の方角をにらみつけた。
「とにかく、うちの殿様もアホなことやってくれたもんだよ」
内蔵助は大きくため息をついた。
「原因は一体何だったんですか」
「一応、武士の面子穢《メンツけが》されたってことになってるが、恥ずかしくって人には言えないよ」
「聞かしてくれないと辞世だって作りようがありませんよ」
「しかし、これから切腹しようってのに誰《だれ》が歌なんかつくれるかよ。まったくバカな決まりがあったもんだ。誰か今まで落ち着いてつくったヤツいたか」
「たいていは前から用意しているもんでして」
「なんかやらかす人だってわかってたんだから、用意しときゃよかったな」
内蔵助は顔をビチャビチャたたきながら、また大きなため息をつき、遂《つい》に路地に座りこんだ。
「しかしなあ、ここは家老であるオレの腕の見せどころだろうし、頑張らなくっちゃなあ」
「はい」
元気よく返事したものの、源吾はすぐに額《ひたい》にシワをよせ、これまた大きくため息をついて座りこんだ。
――うちの殿様ってのはいったいどういう人だったんだ。やたら落ち着きのない短気な人とは聞いていたのだが……。やっぱり公式の席上に出すべきじゃなかったんだなあ。
今朝、赤穂藩江戸屋敷に、内匠頭が殿中《でんちゆう》松の廊下で高家筆頭吉良上野介《こうけひつとうきらこうずけのすけ》に刃傷《にんじよう》におよんだと伝えられると、居合わせた一同全員、「やっぱな」「いつかやると思ってた」と声を合わせて大笑いになった。が、次に、即日切腹と聞いた瞬間、そのあまりの酷《きび》しい処置にみんな背中が凍りつく思いであった。源吾を含め、家来の中には内匠頭の顔すら見たこともないものも多い。
「どういう人だったんですか」
「変わってたよな。背が低いってこともあったなあ。それに髪が細いし、量が少なかったから頭洗うとぺっちゃりしてたもんな」
「しかし、いくらなんでも五万三千石の殿様ですもんね。もう少し思慮ってもんがなかったのかな」
「やっちまったことを今さらグジグジ言ったって始まらないだろうが。これでへたしたらオレたち食いっぱぐれるかもしんないなあ」
ポツリともらした内蔵助のひと言に、源吾はあられもない声をあげた。
「食いっぱぐれるって、どういうことなんです」
「だから赤穂藩はつぶれちゃうんだよ」
「だっ、だって話はついてるんでしょう。御家老、さっきみんなを前に言ったじゃないですか、お家のお取りつぶしはないって。お、お……」
「どもるなよ、おまえは」
「だ、だ、だってわたしら困りますよ」
「ああ言わなきゃ、家中のおさまりがつかねえだろうが」
「吉良様にもお会いになったって言ったじゃありませんか」
「だからその吉良様が問題なんだよ。喧嘩両成敗《けんかりようせいばい》の御政道でうちだけ腹切るのは悪いから自分も切るって言いだしたんだよ」
「なるほど」
「なるほどっておまえ、分ったような口ぶりするんじゃないよ」
「だって理屈は立派に通ってるじゃないですか」
「バカ、世の中、理屈が通ってうまくいったためしはないの。いいか、吉良様まで腹切ってみろ、『ああそうか』って、両方ともお家お取りつぶしになっちゃうじゃねえか。だからオレが、悪いようにしないからって、なんとか方策を考えるからって、必死にお止めしたんだよ……でも偉いのよな、あの人。一言の弁解もしないもんな。オレ、恐縮しちゃったよ」
「御家老、もしですよ、万が一のことになったら私たちはどうすればいいんですか」
「知らないよ、人のことなんか。みんな自分のことで精一杯なんだから」
もともと煩わしいことが何より嫌いな内蔵助は、ほんとうにやりきれなさそうに吐き捨てた。
「あっ、きたねえの、どっか天下り先があるんだな」
「バカを言うな、オレも白紙の状態だよ」
思いあたるところでもあるのか、内蔵助はまっ赤になった。
「まったくあのウスラが、残された家臣のことをちったあ考えなかったのかよ」
しまいには源吾も、華やかな江戸の生活が終わりを告げるかもしれないという恐怖で、口ぎたなく内匠頭をののしり始めた。
「で、退職金はもらえるんでしょうか。他の藩に仕官するっていったって当座をしのぐ分もないもんですから。僕ら、断固戦いますからね」
「どいつもこいつも火事場泥棒みたいなやつばかりだよ。少しは殿様がかわいそうって気持ちにならないのかよ」
「かわいそうに思われたかったら、ドジふむなってんだ」
たしかに自分も主君の尻《しり》ぬぐいに追われてムカッ腹を立てていた内蔵助ではあったが、余りに自分勝手な家臣たちを見せつけられると、内匠頭が憐《あわ》れになってきた。
とにかく一刻も早く辞世を手に入れて、内匠頭を安心させなくては。取調べ宅の蘇鉄《そてつ》の間での、つかの間の逢瀬《おうせ》のおり、「歌を頼む」とすがってきた目をおもうと不憫《ふびん》でならなかった。
「源吾、おまえだって芭蕉《ばしよう》の弟子だろ、サラサラってできないのか」
「私は、どうも歌や句は苦手で」
「じゃ何しに通ってたんだ」
「まっ、いいじゃありませんか、それよりも御家老、お早く」
「わかってるって」
が、いざ目の前の腰高障子に向かうとどうしても気おくれしてしまう。第一、辞世を作らせるためには松の廊下の一件を説明しなければならない。勝手にすっ転んどいて、きまずさ隠すために手近な人に斬《き》りかかったなどと言えるものではない。うらぶれたこの長屋に住む宝井其角《たからいきかく》という男、ほんとうに信用できるのだろうか。源吾の話では相当気難しい男という。内蔵助はまた大きなため息をついた。内蔵助の前の腰高障子一枚隔てた中では、一時期、芭蕉のあとを継ぐのはこの者をおいて他にないとまで言われた宝井其角が、今は尾羽《おは》打ち枯らし、垢《あか》じみた寝間着をまとい、綿のはみ出た粗末な座布団を枕《まくら》に、ひとときしか射《さ》さない陽だまりをむさぼりながら、いぎたなく眠りこけていた。
ツバをつけた指が障子に丸い穴をあけ、そこから内蔵助の細い目が中の様子をのぞきこんだ。
「どうします、入りますか」
「まっ、待て。様子を見てみよう。……いるいる。しかし、宝井其角といえば、俳句の世界じゃ名を売った人だというが、どうしてこんなゴミ溜《た》めみたいなところに住んでるんだ」
「どうしてでしょうかねえ。兄弟弟子だったといっても私の場合は、女と知り合うために句会に通ってたようなもんですから」
「この先生もそのくちか」
「忌み嫌われる河原乞食《かわらこじき》に惚《ほ》れましてね。添いとげられなかったことをくやんでるんですよ」
「なぜ、添いとげられなかったんだ」
「そりゃ、どんな家だって反対しますよ。だって、あいつらは……」
「……よほど悪い夢を見てるんだろうな、すごいうなされ方だぜ」
内蔵助は障子の破れから、もう一度其角をのぞき見た。かつては整っていたであろう目鼻立ちも今は鋭さを失《な》くし、油揚げのような皮膚の色つやも悪い。殿中松の廊下の刃傷沙汰のあったこの日、元禄《げんろく》十四年三月十四日は奇しくも其角二十七歳の誕生日であった。
ときおり苦しそうに寝返りを打つのは、いつもの夢を見ているのであろう。其角を悩ます夢は一つしかなかった。
「チクショウ、近松門左衛門《ちかまつもんざえもん》! このオレをコケにしやがって」
其角はうめき、痩《や》せた腕で宙をかきむしる。
その夢というのは、美形の、いかにも色男ぜんとした近松門左衛門が其角をのぞきこみ、
「あんたにはものは書けまへん……」
胸にのしかかり、侮蔑《ぶべつ》の笑いをあびせるというのであった。寝返りのたびに其角の額にはびっしりと汗が吹きだし、苦しげに顔をゆがめる。
そして、
「志乃《しの》ーッ!」
引き裂かれんばかりの声で女の名をさけぶと、大きく身をよじるようにしてまた寝返りをうった。
其角は何ものにもかえがたくいとしくおもう女の名を呼んで、泣いていた。眠りながらすすり泣いていた。
話は二年前にさかのぼる。
早熟な才気で江戸蕉風の第一人者と言われていた其角、二十五歳の年である。
前年、数多い門弟をさしおいて蕉門の句集「虚栗《みなしぐり》」の選者をまかされ、いままた惣年寄《そうどしより》大野屋新兵衛の開く句合わせの会に、芭蕉の名代《みようだい》として判者《はんじや》を務めるべく、大坂《おおさか》の地に赴き、其角は得意の絶頂にあった。
が、一方で其角は、貧に徹しわびを口にする芭蕉に絶えず物足りなさを覚えていた。そして芭蕉を「草庵の人」として演出していかなければならない自分の立場にも、やりきれなくなってきていた。
そんなとき、大坂で爆発的な人気を誇り、天才の評判をほしいままにしている近松門左衛門の「曾根崎心中《そねざきしんじゆう》」、「心中天網島《しんじゆうてんのあみしま》」を手にし、受けた衝撃は筆舌に尽くし難かった。
読みすすむうち胸が高鳴り、肌が粟粒《あわ》立ち、背筋が震え、それが遂《つい》には怒りのように身体全体にひろがり、その行間からにじみでる人間観察の目の鋭さとあふれんばかりの才能に激しい嫉妬《しつと》の炎が燃え上がってくるのを止めることができなかった。そして、この男は自分の知らない地獄を見て来ているという直感が、まだ見ぬ近松という人物をとてつもなく巨大に思わせた。
が、其角は、近松の素材の斬新《ざんしん》さや、それを料理するための度胆《どぎも》を抜くような手法には魅せられたものの、決して自分の才能が近松に劣るとは思わなかった。現実に起こった事件を題材に作品を書くことなど、コツさえつかめば自分にもできないはずはないと思っていた。近松のことは、しかし、大坂ゆきの理由の一部でしかなかった。なによりも其角の心を大坂へと傾かせたのは、この春みまかった鴻池《こうのいけ》の大旦那《おおだんな》の追善のため、日本中から泣き女と弔《とむら》いババアを集め、盛大な「泣きくらべ」が堂島《どうじま》で行なわれると聞いたからである。もしかしたら志乃に会えるかもしれない、そう考えただけで其角の胸は期待に高なった。
其角が大坂に入ったのは十二月の初めであった。
丹波《たんば》山系から吹きおろす風は息も凍るほどだったが、街並みはさすが商人の町らしくきらびやかな色彩に満ち、度重なる大火でスラム化しつつあるくすんだような江戸とちがい、すべてが異様な明るさをもっていた。行きかう人々は活気にあふれ、目は獲物を追う者のように輝き、そのせわしない物言いや、足早に歩く様は、別の人種のような生命力を感じさせた。辻々《つじつじ》に集まる物売りが商う商品も多種豊富で、其角はバナナというものをそこで初めて見た。ある辻では、破れ衣を着た乞食《こじき》坊主が、どこから連れてきたのか生まれたばかりの赤ん坊を売っていた。売る坊主もそれを見る通りすがりの者たちも気味が悪いくらいの明るさで、其角は大坂の町の持つ底抜けなバイタリティーに少なからず興奮させられた。
田岡のあたりの奥まった村に着いた時、人だかりにぶつかった。近づいてみると、小さな商家の玄関先から線香の煙が流れ、誦経《ずきよう》と哀しげにすすり泣く泣き女の声が聞こえる。一瞬、其角は胸がしめつけられる思いがした。が、もちろんそれは志乃ではなかった。
あの人の泣き声は、高く透きとおるようにすみきり、あるときは吹き荒れる嵐《あらし》のように激しく、あるときは葉を伝う朝露のようにかそけく、哀しみをただ哀しみとしてではなく、聞くものが死の尊厳とその彼方《かなた》にあるものにまで思いをはせずにはいられない、そんな、魂の根幹を揺さぶるような響きをもっている。
「なんや心の底から哀しゅうなってきまんな。よっぽど惜しまれていかはりましたんやなあ」
人だかりのなかで、ヤジ馬たちがヒソヒソささやきかわす声が其角の耳にもとどいてきた。
「御主人はんが亡くなったんやろか、あんなに元気にしてはったのに」
「御隠居さんかて昨晩会うた時にはピンピンしてはったで」
家の奥から、
「食いたい食いたい言うたが、食わすりゃよかった、カンショバのたかの南瓜《かぼちや》を」
との嘆き声の繰り返しが聞こえた。
「きっとあの泣き方は奥さんが亡くなられたんでしょう」
其角はだれともなしに言った。
「へーっ、泣き方でわかりますのんか」
「ええ、あれは三升泣きです」
「ありゃりゃ、三升も涙を流すんでっか」
「いや、三升というのは謝礼の米の量で、それによって泣き方が変わるんです。きっと七尾《ななお》の弔いババアと泣き女たちがやとわれてきてるんでしょう」
「へえーっ。商売で泣いとる女たちがおるんでっか」
「ええ。たいていは旅回りの河原乞食がやとわれてやってるんですけど」
「なるほど、そういわれりゃなんや、こっちまで悲しゅうなってくるような声やな」
「そやそや、なんかここんとこがもぞもぞして悲しゅうなってきた。中入ってお線香あげさしてもらおやないけ」
泣き女の声に誘われるように、ヤジ馬たちがつぎつぎと続いた。
志乃ならもっと哀しく泣くことができる。志乃が泣けば人だかりもこのようなものではない。
其角が志乃とはじめて出会ったのは十九の時、父の葬儀の日であった。直参《じきさん》の身でありながら小金を貯《た》めては高利で貸し、あくどく儲けてあちこちでうらみをかっていた父が亡くなり、葬式の客の数もおぼつかないのではと案じた親戚《しんせき》が旅回りの中村座に頼んで連れてきたのが志乃だった。
白く細いうなじ、華奢《きやしや》な肩の上で波うつ長い黒髪、そして絶えず何ものかに怯《おび》えているような伏目がちな横顔。口元に差した鮮やかな紅が葬儀に不釣合で、それでいてその紅が哀しみを際だたせているのが印象的だった。
あの日、志乃は、その小さな身体を震わせて、通夜から葬儀まで疲れることなく慟哭《どうこく》の声をあげつづけた。その声を耳に、其角は甘酸っぱい唾《つば》を飲み込み、胸にいたみを覚えた。
志乃のおかげで無事葬儀が終わったのだ。だが、母親や親戚たちは、汚いものでも見るような目で志乃を見、いくばくかの金を投げ与えて、そそくさと家から追い払ってしまった。庭にバラまかれた銭を拾いながら、志乃は柱の陰に隠れる其角にほほえみかけてきた。其角はその時の胸のときめきを忘れていない。志乃が笑いかけた時の陽の光も、風の音も、父の死を越えるあの甘さも、脳裏にやきついて離れないでいる。
翌日から其角は日本橋|堺《さかい》町でむしろを上げている中村座に通いつめた。が、芝居がはねたあと何度楽屋を訪ねても応対に出る志乃の父親七五郎は慇懃《いんぎん》にふるまい、答えは決まって、「むすめは会いたくないと言っている」の一点張りだった。しかし其角は、目をまっ赤に泣きはらした志乃がむしろのすき間から二人のやりとりをじっと見ていることを知っていた。
其角はきっかりひと月の間、欠かさず志乃を訪ねた。
その日、いつもはいくらこちらが話しかけてもまともに応じてくれさえしなかった志乃の父が、珍しく自分の方から其角に尋ねてきた。
「お侍さん、あんたが本気で志乃に会いたがっているのはよくわかったよ。で、会って一体どうなさるおつもりですかい」
「むろん、夫婦になってくれるよう頼みます」
聞いたとたん、志乃の父は笑いだした。身体を海老《えび》のように折り曲げ、苦しそうにあえぎさえしながら腹をかかえて笑いつづけた。
「何がそんなにおかしいんですか!」
自分がからかわれているようで、其角が思わず声を荒げると、志乃の父はピタリと笑いを止め、真顔にもどった。
「あんた、侍と町娘が一緒になるんでさえ身分違いって言われるんですぜ。ましてやこちとら、|鈴ケ森《すずがもり》の首洗いにも劣る賤《いや》しい身分の泣き女だぜ。バカも休み休み言いなよ」
「けれど私は志乃さんを本気で愛しております」
「頭を冷やしなよ。聞きゃあ、あんただって直参の跡取りだってえじゃねえか。その将来ある身で本気で志乃と夫婦になるって言うのかい」
「はい」
「よし、それなら今日限り、スッパリ侍は捨ててもらって、河原乞食に身を落としてもらおうじゃねえか。そうすりゃ身分違いってことにはならねえ。さぞかし、あんたの御母堂はお喜びになるだろう」
「…………」
「わかるだろ、人にはそれぞれ生まれついての身分ってのがあって、それはどうしようもないもんなんだ。悪いことは言わねえ、もう二度とここには来ねえことだ」
志乃の父は其角の心を見透かしたように言うと、そのままくるりと小屋の方に踵《きびす》をかえした。
「待って下さい! 捨てます」
かすかに声が震えた。だが、自分でも不思議なほどキッパリと言い切れた。
志乃の父は肩をゆっくりと上下させ、大きくため息をついた。
「負けたよ、あんたには。だが今の言葉は胸にしまっといてくれ。今夜一晩だけだぜ、明日になったら志乃のことはスッパリ忘れて、立派なお旗本《はたもと》になるんだぜ。志乃にこれ以上悪い夢は見せたくねえんだ」
志乃の父はそう言うと、振り返ろうともせず足早に去っていった。
其角ははじかれたように小屋に駆けより、めざすむしろをはねあげた。そこには、頬《ほお》を朱に染めた志乃がいた。
翌日、志乃と過ごした一夜の興奮が冷めやらぬまま、中村座を訪ねてみると、すでに志乃と父親の姿はなかった。
その日以来、志乃たちの行方はようとして知れない。しかし、今、其角はいそぐ、はやる胸を押さえて。堂島に行きさえすれば、鴻池に着きさえすれば、志乃に会える。心はすでにそう決めてかかっていた。
堂島|界隈《かいわい》は、「泣きくらべ」を一目見んものと集まった陽気な上方の町人たちと、その人出目当ての屋台の物売りたちでごったがえしていた。聞けば、坂田藤十郎《さかたとうじゆうろう》が、泣き女や弔いババアに伍して「泣きくらべ」に加わるとかで、町はその話題でもちきりだった。
「なんぼなんでも坂田藤十郎が出てきたらかなうもんはおらんやろ」
「アホぬかせ、七尾の弔いババアを知らんからそう言うんじゃ。わいは七尾のババアに有り金みんな賭《か》けるで」
「わしゃ絶対に藤十郎や」
「そんならわいは穴ねらいで高山の泣き女に一両や」
一杯機嫌の町人たちは、「泣きくらべ」の取組表を手に、賭けの下馬評に花を咲かせている。
近隣で葬式が続いたときなど、泣き女を雇い、どちらの泣き女が人を集められるか、陰で金を賭けることはどこにでもある。だがそんな場合も、列席者にそれと知れぬよう縁者を装わせなどして末席にまぎれこませておくのが普通で、このように昼日中から大っぴらに、それも大名さえも一目《いちもく》おくという上方きっての札差《ふださし》鴻池のような大店《おおだな》が、先代の徳を偲《しの》ぶべき「泣きくらべ」を木戸銭《きどせん》を取って公開し、バクチの対象にするなどということは考えられないことだった。
其角は瓦版屋《かわらばんや》から買った取組表にもういちど目を落とした。さきほどから何度見直しても、そこには志乃の名前がない。が、名前をかえている可能性はある。其角はそこに一縷《いちる》の望みをたくし、人ごみをかきわけながら鴻池へと急いだ。
さすが豪商鴻池、堂島川を背にしたその店構えの豪壮さは想像を絶した。「泣きくらべ」の会場からして、母屋《おもや》をブチ抜きにした三百畳はあろうかという大広間で、そのうちの三分の二が桟敷《さじき》席になっていて、最前列に身分の高そうな武士や豪商たちが居並び、少しさがったあたりに茶人や絵師などの席があり、名を明かし案内をこうた其角はそこへ通された。うしろをふりかえると、次々につめかける見物客で、さしもの大広間も狭く見えた。
正面には祭壇が設けられ、金色に燦然《さんぜん》と輝く巨大な大日如来《だいにちによらい》が鎮座し、左右には日光月光菩薩《につこうがつこうぼさつ》、金糸銀糸も鮮やかな曼陀羅絵《まんだらえ》が並べられ、それらに囲まれるように、ハスの花を象《かた》どった台座の上に故人の木像が安置されている。御幣《ごへい》を垂らした細い綱で四方を囲まれて、比叡山《ひえいざん》の高僧たちが護摩《ごま》をたき、おごそかな読経の声がながれているなか、取組表の順番どおり、全国から集められた泣き女や弔いババアが二人ずつ向かい合っている。しかし、其角はそこに志乃の姿を見いだすことはできなかった。
木枯しが、降りしきるみぞれを巻きあげ、横なぐりにたたきつけてくるなか、ようやく探しあてた近松の屋敷を前に、其角は底冷えのする寒さも忘れてしばしあっけにとられていた。
それは、佃島《つくだじま》の佃煮成金でさえ裸足《はだし》で逃げだしそうなほど露悪趣味に充《み》ちたシロモノだった。門構えからして、金にあかせてどこかの寺から運ばせたのだろう、金ピカの楼門づくりの大仰なもので、正面には「近松寓」と大書した扁額《へんがく》がうやうやしくはめこまれ、二間はあろうかというまっ赤な仁王《におう》様が両脇を固めている。何より驚いたのは、楼門の屋根から垂直に一本の棒が伸び、その先端に、五色の吹き流しとともに、鯉《こい》のぼりがみぞれまじりの木枯しの中を泳いでいることだった。
その人を食ったような楼門をくぐると、内玄関につづく前庭がひろがっている。これもまた、やたら値の張りそうな石燈籠《いしどうろう》がゴロゴロした下品なつくりで、石畳の蘚苔《せんたい》と思えたのはただ朱色を塗っただけのものであり、築山《つきやま》は富士山を模し、その前の、海に見立てた池には太鼓橋ならぬ吊り橋がかかり、気色が悪くなるようなけばけばしいまだら模様の錦鯉が泳ぎ、できそこないの鹿《しし》おどしがボコンボコン耳ざわりな音をたてている。
しかし、成金趣味をここまで見せられると、あきれを通り越し、近松のもつ異常なまでの人間臭さに共感させられさえする。そして、根は派手好きで強欲なくせに、社会的な評価ばかりを気にして、「世捨て人」を演じるため、わざわざ江戸の町中を離れ、しじゅう雨漏りのする貧しい草庵を深川《ふかがわ》にかまえる、師芭蕉とは対照的なそのあけっぴろげさに、人間の大きさの違いを思わせられもした。
内玄関では南蛮《なんばん》渡来の珍鳥、白いオウムが籠《かご》の中で妙な鳴き声をあげている。西洋|甲冑《かつちゆう》が無造作に飾られた板張りの廊下を家人に案内されて歩くうち、其角は次第にあせりはじめていた。この成金趣味は近松の擬態ではないのか、ほんとうは師芭蕉よりもむしろ近松の方が物に対して執着しないたちなのではないか、と思えてきたのだ。其角の胸はなぜか不自然なほどの昂《たか》まりをみせていた。
長い廊下を何度も折れ、家人に教えられた離れの一室の襖《ふすま》を開けると、
「待っといてくれやす。じき済みますさかい」
ふりむいた顔がニヤリと笑った。
其角より五つ年上というから、すでに三十を過ぎているというのに、痩せぎすで彫りの深い端正な顔立ちのせいか、どう見ても二十代の半ばにしか見えない。意志の強さを示すくっきり太い眉《まゆ》と、その下でキラキラ光る理知的な瞳《ひとみ》に、なぜか其角の頬は赤らんだ。
近松は派手な大輪の花を織りこんだ着流し姿で、壁にへばりつくようにして息をはずませている。
「隣の部屋はええ眺めでっせ。こっち来て一緒に見まっか。毛唐《けとう》のおなごに相撲とりが二人がかりですわ」
そう言うと、もう振り向こうともせずに右手を下腹部に当ててしきりに動かしている。しだいに息遣いが荒くなり、最後に「ウオッ」と短く叫びを洩《も》らし、近松は果てた。そしてハーハーと大きな息遣いのまま、
「驚かしてすんまへん、なんせこういうことは途中でやめるわけにいきまへんよって。色気もいきつくところまでいったら、楽しみはのぞきだけだんねん。まあン、人間の業《ごう》ちゅうもんは果てることはおまへんで」
悪びれる様子もなく、はだけた裾前《すそまえ》をなおそうともせず、長いすねで立て膝《ひざ》をついてカサコソ音を立てて懐紙を使う。
――これが天才といわれる近松門左衛門か。
そのやさしげな長いまつ毛と、包みこむような笑みに、また其角は頬を赤らめた。猜疑《さいぎ》心のかたまりのような芭蕉が決して見せることのなかった、心安らぐようなその笑みに、である。
近松は丸めた懐紙をポイと部屋の隅に放ると、ようやく着物を直し、其角を正視した。
「おまっとさん、で、あんた誰《だれ》でんねん。わて物忘れが多いよってに堪忍しとくれやす」
「はっ、わたくし、宝井其角と申します。江戸で俳句をたしなんでおります」
「おう、あんたでっか、知っとりまんがな。若いのにええ句作らはるらしいでんな。わても二、三読ましてもらいましたで」
「はっ、ありがとうございます」
「が、売れまへんな」
「はっ?」
「あんな売れんもん、何が楽しゅうて作ってまんねんて言いましたんや」
近松はこともなげにそう言うと、懐《ふところ》から螺鈿《らでん》細工の煙管《キセル》を取り出し、火をつけて大きく吸いこみ、フワリと煙を吐いた。
「売れまへんな。少なくともあんたの書くもんにゼニ出す酔狂《すいきよう》は、この上方《かみがた》にはおりまへんで」
「いえ、売れる売れないと申されましても……」
「なにカッコつけとりまんねん。物書きはカッコつけるようになったらおしまいでっせ。え? 売れへんもん書いてどないしまんのや。売れへんかったらメシ食えへん、女も抱けまへんで。考えちがいもたいがいにして欲しいわ」
「……ですからわたくしは句をたつきの道にしようなどとは思っておりません。十七文字の中にわたくしの世界が出せさえすればよいと」
「俳句詠みが俳句をたつきの道にせんで、どやってメシ食うていきまんのや。アホなこと言うとったら笑われまっせ。それともお江戸じゃそれで食うていけまんのんか。第一、世間なんちゅうもんはゼニについてきよりますがな」
そう言うと近松は軽蔑《けいべつ》したように薄ら笑いを浮かべ、
「あんさん、よう覚えときなはれ。ゼニにかえられんもんは本物やおまへん。人様がゼニをなんぼ積んでも欲しがるような、そんな物を書かなあきまへん。早い話、あんたのお師匠さんかて、わびさびをゼニにかえとりますやろが」
遠く大坂の地に居ながら、芭蕉の本質を的確に見抜いている近松に、其角の顔はみるみるこわばった。
「ま、よろしおま。あんさんはまだ若い、ゆっくり考えてみたらよろしおま。で、今日はわざわざお江戸から何の御用だす?」
近松はうってかわった穏やかな口調で声をかけてきた。
「はっ、はい、たまたま大坂まで足をのばす機会がございまして、わが師芭蕉が是非、御挨拶《ごあいさつ》にお寄りするようにと」
「ほう、さすが芭蕉、たいした商人《あきんど》だす。わてと組んでひと儲けしよう思てまんのかな。それとも、どこぞの女房にいれあげて、色恋沙汰《いろこいざた》のおもしろさに気イつきましたんかな。年取っての女狂いはタチが悪おまっせ。……どないしやはりました、師匠の悪口言われても怒りまへんのか? ほんまのこと言いなはれ、あの気位の高い芭蕉がわてに挨拶に人をよこすはずがおまへん」
「……失礼いたしました。実は先生の『曾根崎心中』を拝読しまして、大変感激いたしました。さぞや苦心の調べ物をなされたことと思い、その御苦労話をお聞かせ願おうと思いまして」
「どういう意味でっか? わて調べもんなんてしたことおまへんで。自分の書いたもんかて二度と見とうないのに、人の書いたもんなんかアホらしゅうて読んでられまっかいな」
「はっ?」
「いちいち調べて書いているようじゃ、この大坂じゃ間に合いまへんのや。第一、そんなことしとったらせっかくのナマ物にカビが生えてしまいまんがな」
「しかし、あれは実際に先年、曾根崎で起こった事件を参考にしてお書きになられたものだと聞き及びますが」
「まあ、そうだすな。しかし、参考にしたっちゅうよりも……」
どう説明したらいいものかと困惑の表情を見せながらも、近松は口元に薄笑いを浮かべて其角を値踏みするような視線を向け、それがまた其角の神経を逆撫《さかな》でする。
「私が感動いたしましたのは、お初《はつ》と徳兵衛《とくべえ》の人となりや道行《みちゆ》きへの追いつめ方、そして細部までゆるがせにしない書き込み、曾根崎にいたるまでの張りつめたような緊迫感にです。読んでおりまして、ゾッとするくらい文章が生き生きしていて、目の前に心中の模様が髣髴《ほうふつ》とするほど臨場感にとんでおりました。まるで近松殿が実際にその場に居合わせたかのような錯覚すら覚えたほどで」
「そうだす、そのとおりだす。おりましたんや、そこにわてが」
「はっ?」
「なかなか二人が言うように動かんで、難儀しましたで」
「おっしゃっている意味がよくわかりません。どういうことでしょう」
「わからへんお人やな、わてはお初と徳兵衛が心中するそのわきにくっついておりましたんや」
どうにも近松の言う意味がわからず、其角はポカンと口を開けたままである。
「つまり、こういうことだす、わてが仕組みましたんや、あの心中。お初と徳兵衛を曾根崎まで連れてって、二人に刀を持たせて胸を突かしましたんや」
「ま、まさか……」
「そのまさかやるのを上方では物書きと呼ぶんでっせ。あんた、いくら好きおうてても今どきの若いもんに心中してまで添いとげようっちゅう根性なんかありますかいな。わてが筋書き全部書いて二人をおだてあげて、その通りに運ばせましたんや。次の日すぐに幕開けたさかい、おかげさんで客がようけ入りましたで、ハハハ」
「…………」
得意気にしゃべる近松に其角は声も出ない。
「けど、断末魔のくだりなんぞ、よう書けとりましたやろ。苦労しましたで。が、実際はああやおまへん。『死んであの世で一緒になるんや』と言うた口の端から、ののしりあいは始まるわ、とっくみあいの喧嘩は始まるわ、『あんたのせいや』『おまえのせいや』で、しまいには恨みつらみで刺しおうとりましたで。ほんま恐いで、人間は。けど曾根崎のときはまだええ方でっせ。今年の『心中天網島』の小春《こはる》、治兵衛《じへえ》のときは往生《おうじよう》しましたがな。あんまりわからんこと言いよるんで、しまいには腹立ってきて、わてと藤十郎と二人で、胸突き刺してやりましてん。わてら人殺しや。人間、能がないと、こんな真面目《まじめ》な物書きを人殺しにしてしまいよるで」
「まさか」
ようやくそれだけ言葉にすることができた。口の中が渇いて仕方なかった。
「ほんまですがな。心中なんか待ってたら百年たっても使いものになるもんなんか出てきまへん。お客さんの喜びそうな心中沙汰をこっちでつくるんだす」
「…………」
「こら内緒でっけど、『心中天網島』のときは台本がすっかり出けとりましたんや。前売りの売れゆきがあんまり悪いんで、景気づけに見ず知らずの二人探してきて心中させましたんや。これも入りましたで、客が。わてら客入れるためやったら、親でも殺しまっせ」
あっけらかんとした口調だったが、その裏には実際親でも殺しかねない凄《すご》みが隠されていた。
「いつまでびっくりした顔してますんや。当り前のことでんがな。わてらええもん書かんとメシの食いあげだす。あんたらお江戸の人みたいに、出来が良かろうが悪かろうが、ひいきの旦那衆に金めぐんでもろたらええいう人たちとは、わけが違いますわ。江戸はよろしおまんな、ひとりよがりに書きなぐっとりゃええんやろから」
近松の言葉に込められた毒はひとつひとつ其角の肺腑《はいふ》を衝《つ》き、そのたびに冷たい汗が背中を伝う。
「其角はん、あんたかて侍を捨て、覚悟はしとりますのんやろ、わてら決して畳の上では死ねん河原乞食でっせ。お客さんが見たいと思うもんを、人を殺してでも持って来る、それが物書きだす。自分の手を汚さんで他人様の心を打つことなんかできまへん。あれだけ仰山《ぎようさん》お客が拍手してくれたんや、立派に成仏《じようぶつ》しとりまんがな、お初も徳兵衛も」
其角は、赤く濡《ぬ》れたような近松の唇が、まるで別の生き物のように動くさまを、魅入《みい》られたように凝視していた。
近松はそんな其角を見て、「クックック」と嬉《うれ》しそうに喉《のど》を鳴らして笑い始めた。美しい顔立《だち》をわずかにゆがめ、それが息を呑《の》むほど仇《あだ》っぽい。
「さっ、今日は固い話はこれくらいにして、パーッといきまひょ。せっかく寒い中遠いとこを訪ねて来てくれはったんや。楽しんでもらわな」
其角の気負いをはぐらかすように、そのしなやかに伸びた手をポンポン、音高に鳴らした。
「酒や酒や、誰ぞ酒持って来い!」
「いえ、あの、私は酒はたしなみませんので……」
「ほう、飲めまへんのか」
近松の切れ長の目がキラリと輝き、好色そうな笑みがこぼれた。チロリと赤い舌先で唇をなめると、
「やっぱこっちの方だすか。お江戸のお方はムッツリスケベが多いで、ククク」
と小指を立ててみせる。
「まかしときなはれ、といってもすぐ用意できるといったら……」
意味ありげにうなり声をあげ腕組みし天井をにらみ、
「まっ、ええか、せっかく江戸から来てもろたんや」
ブツブツ独りごち、
「そや、決まりや。まっ、商売女ほどの腰の動きはできまへんが、楽しんでおくれやす。育ちは江戸でおますが、上方の男衆に鍛えられとりますさかい、腰抜かさんように気ィつけなはれや」
「いえ、私はまだ修業中の身ですので」
其角は必死に辞退したが、近松は許さない。
「何言うとりますねん、修業中やから女遊びせないけまへんのや。できあがってから女遊びしたって何もおもろいことありまへんで。最前のわてを見ましたやろ、もうキチガイでっせ。恥もなにもあらしまへんで。物書きが恥ずかしがったらいけまへん」
「いえ、本当に結構ですから」
「据膳《すえぜん》食わぬは男の恥という言葉、お江戸にはありまへんのか」
言葉の調子とは裏腹に近松の手は二、三度逡巡《しゆんじゆん》し、が、思いきったように勢いよく襖を開けた。
「気に入ってもらえるとよろしおますが、わての女房だす。煮るなり焼くなりしとくんなはれ!」
再 会
女は暗がりの中まばゆいほどに赤く、真新しい夜具を背に三ツ指をついていた。
無造作に束ねた湯上がりのつややかな髪が白い襦袢《じゆばん》の肩で波うち、細いうなじのおくれ毛がなまめかしくゆれていた。女は薄桃色に頬《ほお》を染め、伏目がちに其角を見つめながらゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、其角は驚きのあまり全身が凍りついた。
「其角様、お久しゅうございます」
その妙《たえ》なる声も、やさしげなまなざしも、まぎれもなく志乃だった。
六年の歳月は、清楚《せいそ》な面影だけを残し、志乃を匂《にお》い立つような熟れた女に変えていた。
近松が得意気に言った。
「さっ、わての女房ですねん、抱いてくれなはれ」
しかし、其角には何も聞こえていなかった。
「お志乃、今さら何を照れとんのや。わてと抱きおうとるときでさえ、其角はんに会いたい会いたいとむずかってたやないか。ほんま、こんなきつねみたいな男のどこがええねんやろ、わての方が目パッチリでいい男やで。ホレ、なにしとんのや、はよ愛《いと》しい其角はんの胸に飛びこまんかい」
そう言うと、近松は其角の反応をうかがうように目をギラつかせながら顔を近づけてきた。
が、其角の目にはもはや志乃の姿しか映ってはいなかった。
「其角はん、あんた若い頃《ころ》、志乃とわけありだったそうでんな。さあ、ここは二人っきりで昔を懐かしんでしっぽり濡《ぬ》れなはれ。あれ? どないしはりましたんや、其角はん、聞いとりまっか。あかん、この人、完全に頭に血ィが上《のぼ》ってはる、こらお志乃、おまえまでどないしたんや、二人ともしっかりせんかい」
志乃は、必死に何かを訴えかけてくるような其角の目に見つめられるうち、少しずつ、まだ初々しかった頃の自分にもどってゆくような気がしていた。
ふいに、其角の目からひとつぶの涙がこぼれた。それは何よりも雄弁に志乃への思いを語っていた。
志乃の胸には、こみあげてくる熱いものがあった。それがなんであるか、志乃は知らなかった。泣き女は、葬儀以外に涙を流すことはない。河原乞食に、人をいとしいと思う気持ちが残ってるはずはなかった。が、二人はいつまでも見つめあっていた。
「其角はんも志乃も、わてに気ィつかうことないで。ここでじっくり見せてもろて、元とりかえすさかい。しかし、何かゾクゾクするで。わて我慢できるやろか。ふたりともいつまでお不動様みたいににらみおうとるんや。ああやったこうやったって、話せんかい」
ただ見つめあうだけの二人に近松はかなり苛立《いらだ》った様子で、独り言ともつかぬ言葉を発しながら、あたりをぐるぐる回り始めた。
「わての大事な志乃が本気で気ィ入れたらわてこらえることができるやろうか。こら、志乃、聞いとんのか。が、ここやで、ここがわての物書きとしての正念場《しようねんば》や。ほら、其角はん、聞いとりまっか、ここは男と男の勝負でっせ。あんたが勝つか、わてが勝つか、志乃があんたについて帰ろうがどうしようが、わては文句言いまへん。其角はん、聞いとりまっか。わても上方じゃあちっとは売れた男だす、わざわざお江戸から来てくれはった客人に女が欲しいといわれて、いないとは言えまへん。女房差し出して筋通すのが上方の物書きだす。さっ、あんじょう間男《まおとこ》しなはれ」
そして、今まで自信をみなぎらせていた近松が、不安そうな表情を見せ、ヒステリックに叫び始めた。
「こら、お志乃、おぼこ娘やあるまいし、はよう裸になって乳くりあわんか。其角はん、何カッコつけてまんねん。男と女はきれいごとやおまへん、ドロドロしたもんだす。はよわてにそれ見せてえな。あんたにお志乃を抱かして、それをわてが書くんや。ほれ、紙も矢立ても用意してあるんや。わては近松や、濡《ぬ》れ場《ば》が欲しかったら女房を間男させてでも書いたる。わては日本一の物書きや!」
其角は身体の奥底から衝きあげてくる激情に、必死になって耐えていた。言葉を発しようにも胸につまって声にならず、涙だけがとめどもなくあふれ、両の頬を伝ってゆく。その涙をぬぐうこともせず、其角はいつまでも志乃を見つめていた。
あたりはすでに暮れかかっていた。
其角の涙がボトリボトリと畳に落ちる音だけしかなかった。
すでに小半時ちかく二人は無言のまま見つめ合っていた。
近松は紙と矢立てを放り出し、毒気を抜かれたように部屋の隅にへたりこんでいる。
「お元気でしたか」
ようやく、其角は声にすることができた。
志乃はそれには答えず、ゆっくりと立ち上がると、行燈《あんどん》に灯《ひ》を入れた。
つとめて、其角は言葉をついだ。
「志乃さんはどうして近松殿と?」
「あれから、東海道を流れ流れて、上方芝居の一座で働いているところを見染められましたんや」
「なぜ私に一言もなしに、突然いなくなられました。あなたと添いとげようと思う私の気持ちは知っていてくれたはずです。残された私が今日までどんな気持ちであなたを思いつづけたか」
「嘘《うそ》です、あんたはんに葬儀場まわりの賤しい泣き女を女房にする度胸はありまへん」
「なぜです、私はあなたに再びめぐり会える日のために、この通り武士を捨てたのですよ」
恨みつらみを身体じゅうからしぼり出すように其角は言った。
「たしかに今はお侍の格好はしてはりまへん。けど、あんたはんの心はお侍の時のままだす。ほんとうに私と添いとげたいと思うてはるんやったら、惚《ほ》れていたら、なんでなりふりかまわず抱いてくれへんのだす」
思いがけない志乃の言葉に其角は色を失った。
「さあ、来なはれ」
志乃は立ちあがると、其角の目を見据えたまま帯を解きはじめた。白い襦袢が肩からすべり落ち、行燈のほの暗い灯《あか》りの中に志乃の裸身が浮かびあがった。
「亭主からあなたのお相手をするよう言われてますんや。さあ、抱いとくなはれ」
志乃は夜具に身を横たえ、目を閉じた。形の良い乳房が大きく上下している。
部屋の隅の近松の目がキラリと光り、
「志乃! おのれ、それでも女房か、フフ、いかんいかん」
と額の冷や汗をぬぐった。
が、其角は動けない。
志乃がせめる。
「どないしやはりました、さあ、脱ぎなはれ。あんたはんも物書きのはしくれだっしゃろ、ひとの女房一つ盗めなんだら笑いもんになりまっせ」
「…………」
「さあ、どないしやはりました、近松かて本気でっせ。私があんたはんから抱かれて気ィやるかやらんか、命賭《か》けとりまっせ」
「…………」
「私はあんたはんが思うてるような女とは違います。泣き女の仕事は、ただ葬式で泣くだけやおまへん。通夜に来てくれはったお客はんの夜伽《よとぎ》もせんならんのです。あんたはんのお父はんの通夜のときも、私はお客はん一人一人に抱かれとったんだす。あんたはんが聞いてはったのは、死人に対する葬いの泣き声やおまへん。次から次へと見ず知らずの男衆のなぐさみものにされる、私ら泣き女の、血ィ吐くような恨みの泣き声やったんだす。私ら、心からも股座《またぐら》からも血ィ流して、その血の海を這《は》いずりまわるようにして生きていくんだす。それが河原乞食っちゅうもんだす。そやから自分から血ィ流そうとせんあんたはんは、やっぱりお武家はんだす」
「お志乃! わてのお客人にちいと言葉が過ぎるんとちゃうか」
勝ち誇ったような近松が、余裕たっぷりに声をかけた。
志乃の言葉にうちひしがれ、今すぐにでもこの場を逃げ出したい其角を、近松はあくまでもいたぶるつもりらしい。
「困りましたで、其角はんには。おもてなしの仕方がわかりまへん」
芝居っ気たっぷりに頭をかかえ、その場にしゃがみこんだ。
「酒もダメ、女もダメ、あんた何を楽しみに生きとりまんねん。わての立場も考えてくれな困りまっせ。お江戸に帰られて、近松は遠路を訪ねて来た客人に何のもてなしもせなんだと陰口たたかれたらたまりまへんで」
舌なめずりしながら其角の顔をのぞきこみ、
「あ、そうか、こりゃぬかった」
とすっとんきょうな声を出して膝《ひざ》を打ち、「クックック」と喉を鳴らし、下卑《げび》た笑いを洩らした。
「そや、そや、人は見かけによらへんもんやな。あっちの方でっか」
「…………」
「そやけど困りましたな、この家に男はわて一人ですさかい……。もうこなりゃヤケクソだす。よっしゃ、ほなこれ使うておくなはれ」
いうが早いか、近松はクルリと背中を向け、着物の裾をまくると、キュッと引きしまった尻を其角の目の前に突き出した。
「ま、わても初めてやさかい塩梅《あんばい》はようないかもしれまへんが、とりあえずわてのおいどで間にあわせてんか。じきキレイどこの男衆を呼ばせますさかいに」
近松の言わんとする意味がわかったとたん、其角は屈辱でまっ赤になった。
「どないしましたんや、さあやっとくなはれ。ホレ、遠慮せんと。なんや胸がドキドキしてきましたがな。わて突かれるの初めてやさかい、やさしゅうたのんまっせ。待っとくれやす、尻の穴大きしますさかい。ウーンウーン。しかしみじめな気持ちでっせ。女も最初はこんな気持ちでっしゃろか、スースーと胸を冷たい風が通りぬけていきまっせ。わて、味が忘れられんようなって病みつきになったらどないしょ。ま、何事も経験や」
そう嘆きながらも、楽しそうにクネクネ腰をくねらせてみせる近松の顔はテラテラ脂ぎり、目は異様につり上がり、口元はだらしなくゆがんでいる。そのおぞましさと、受ける屈辱の堪えがたさのため、其角の身体は小刻みに震えだし、握りしめたこぶしが腿《もも》にくいこまんばかりに力んでいる。
「さあ、恥ずかしいこと何もおまへんで。人それぞれ生き方がおますがな。どないしましたんや、さあ、突いてきなはれ」
「…………」
「きゃん、いやん、やさしくして。ホレ、どないしましたんや。きゃん、いやん、突いてきなはれ。ああん、あたしはじめてなの、やさしくして……。気ィ入れて突いてこんかい。それとも何だすか、この近松に尻まで出させといて恥かかせるつもりだっか。さっ、やりなはれ。大丈夫だす、わて我慢しまっさかい。どないしたんや、この近松の尻じゃやれんと言うのかい。ワレ、のぼせあがるんやないで!」
近松の顔色がみるみるうちに変わり、目に残忍な光が宿った。そのままガバと立ちあがり、其角の胸を力いっぱい蹴《け》りつけた。ドサリとあお向けに倒れた其角の胸倉をつかんで引きずり起こすと、今度はそのまま足払いをかけ横ざまになぎ倒した。白面痩躯《はくめんそうく》のやさ男らしからぬ力強さで其角の胸元をギリギリと締めあげ、身動きがとれなくしておいて、近松は息がかかるほど其角に顔を寄せると、低い凄《すご》みのある声を吐き出した。
「馬鹿《ばか》にするのもええかげんにせえや。わても大坂じゃ、ちっとは名の通った男や。それが気ィ遣うて、喜んでもらおう思てんのに。酒もあかん、女もあかん、ならあとは男しか残ってへんやないけ。そう思うのが人間やろ。この近松がケツまで出してもてなしとんのや、おのれも男やったら腹くくって突いてこんかい!」
近松は立ちあがり、狂ったように其角をなぐりつけ蹴りつけた。
みるみる顔が青暗く腫《は》れあがり、唇が切れ血がしたたり落ちても、其角は抗《あらが》おうともせず、されるがままにされていた。が、うめき声一つあげない其角にさらに逆上した近松は、襟首をわしづかみにすると力まかせに投げ飛ばした。今や意志を失った、人形同然の其角は、障子をブチ破り、濡れ縁からもんどりうって庭に転げ落ちた。
「其角はん、あんたあかん、あんたに物は書けまへん」
近松は、庭先にボロ布のようにうずくまる其角に、憎々しげに吐き捨てた。
「だいたいあんたとわてでは人間に対する執着の仕方が違いま。突っつきゃおもろいもんでっせ、人間は。お志乃、来んかい。ゲン直しに一発やろ。目開けてよう見ときや!」
身も心も打ちひしがれ、ズタズタになった其角の耳に、志乃の抗う声がぼんやり響いていた。いつしかその声は荒い息遣いに変わり、やがて愉楽のすすり泣きへと変わった。
庭石にでもぶつけたのか、額から流れ出る生暖かい血を感じながら、其角は志乃のよがり声を聞いていた。それはまぎれもなく、父の葬儀の夜、其角が初めて耳にした、聞くものの心を引きさくような哀しくも美しい泣き声ではあった。
が、これは志乃ではない。
其角は顔に冷たいみぞれをうけながら、いつか志乃を、生きている自分のために泣かせたいと思っていた。
辞世屋
芭蕉の辞世の句が大坂の質屋に入れられたという噂《うわさ》が江戸に届いたのは、年が明けた一月の半ばのことだった。
その日、夜半から降りつづいた雪が江戸の町を白一色に変え、寒風吹きすさぶ深川の葦原《よしはら》を切り拓いて編まれた芭蕉庵はことのほか底冷えのする寒さだった。
いろりには火が赤々と燃え、自在鉤《じざいかぎ》の鉄瓶《てつびん》はチンチン湯気を吹きあげている。
そのまわりには、芭蕉を中心に一門の高弟たちが緊張した面持ちで座し、あるものは瞑目《めいもく》し、あるものはせわしげに煙管《キセル》をふかし、上方《かみがた》から訪れたという、ガマのような首の落ちくぼんだ旅装束の男の話に聞き入っていた。
「ひと月という約束で入れましたんで、もう流れそうでんねん。で、どないしたもんかと、こうしてはるばる大坂から御相談にあがりましたんや」
旅装束のその男、大坂は天満橋《てんまばし》、天満天神の参道わきで質屋を営む重蔵は、ほとほと困り果てたというふうに何度もため息をついてみせ、相手の出方をぬけめなく窺《うかが》っている。
「どうでっしゃろ、お引きとり願えませんやろか」
「…………」
年末にひいた風邪がいまだに治らず、綿入れを重ね着してダルマのように着ぶくれた芭蕉は、ハナ水をすすりあげながら渋面をつくって貧乏ゆすりをしている。
「わてら大坂商人だす。この句はゼニになると思うから其角はんにお貸ししたんだす。お引きとり願えんのならようおます。この場で破り捨てまひょ」
「ちょ、ちょっと待て。で、其角はいやオレはどのような句を作ったのだ」
「読みまひょか」
「聞いて、オレの句じゃないと言ったらどうする」
「それは、わての目利きの違いであきらめますがな」
「よほど自信があるのだな」
「さあ、バクチでんな、違うと言われれば、わては大坂で恥ずかしゅうて商いできまへん」
「読め」
言葉と裏腹に重蔵の態度は自信に満ち、芭蕉は癖の貧乏ゆすりが一層激しくなった。
「旅に暮れて夢は枯野をかけめぐり」
一瞬、芭蕉の顔が赤らんだ。門弟たちからも「オウ」という感嘆の声があがった。重蔵はそれをのがさない。
「流すには惜しい句でっせ。夢は枯野をかけめぐる、ええ句や。なんや手離すのがおしゅうなりましたで」
上の句の「旅に暮れて」とまでは出来ていたが、下の句ができずに門人を総動員してからもう一年近くになる。
芭蕉は、自分の作ったどのような句よりも臨場感にあふれ、必ずやこの見果てぬ無常が後世に残るであろうという気持ちのしみじみ伝わるこの句に、身震いさえした。
芭蕉のただならぬ様子に、「さすが其角」と内心絶句していた門人たちの間に動揺の色が走った。
「どないでっしゃろ、芭蕉はんの辞世にはぴったりやと、わてらでも思いまっせ。これが利息を加えてたったの五十両!」
重蔵は芭蕉や門人たちのあまりにあからさまな狼狽《ろうばい》ぶりに、大坂商人らしく値をつりあげた。実際其角に用立てたのは五両たらずで、江戸を往復する旅費を加えてみても、法外な利息であることにかわりはない。
「わかった、請けだそう」
芭蕉は即座に答え、床の間の手文庫から金庫をとりだした。
「へえ、ありがとうございます」
重蔵はしてやったりとばかりに相好をくずし、懐からうやうやしく証文と矢立てを取りだすと、「利息、旅費を加え五十両、右、間違いなく受取り候」としたためた。
「ああ、ええ商いがでけた。それから師匠、どこぞに小金貯めとる落語家はおりまへんやろか。わて、大坂の松鶴《しようかく》師匠の『馬のこし』を預っとりまんねん。これはいい落語や。松鶴はんの奥さんが、からだを売ってまで請け出そうとしたシロモノや。誰《たれ》ぞお江戸の噺家《はなしか》のなかで請け出してくれまへんやろか。あれっ、みなさんどないしました、恐い顔して。くわばらくわばら、ほなおおきに、さいなら」
重蔵は懐に金を放り込むと、逃げるように庵を去っていった。
「あのゼイロク、こちらの足元を見て、五十両とはふっかけたもんだ」
芭蕉はこめかみを震わせ、ふるえる手で証文をビリビリに引き裂き、いまいましげにいろりにくべた。
――わしは其角の才能を愛《め》で、そしてその才能に怯《おび》えていた。が、わしは天下に広くその名を知らしめ、必ずや後世にまで語りつがれるであろう芭蕉だ! その最後の画竜点睛《がりようてんせい》ともいうべき辞世をなんびとたりとも汚すことを許してなるか!
芭蕉はゆっくりと門人たちを見まわし、
「よいか、この辞世はこのわしが作ったものだ。それを其角が勝手に質入れした」
やにだらけの充血した目をつり上げ、狂ったように叫んだ。
この処世術にたけ、ライバルをおとしめることで俳諧《はいかい》の頂点にまで昇りつめた希代のマキャベリスト、そして今は自らの保身のみに汲々《きゆうきゆう》とする老人は、芭蕉の名の下に庇護《ひご》されつづけてきた門弟たちの中に誰一人として名乗り出、今から追いかけてでもあのゼイロクを葬りさって、この屈辱をはらしてくれるものがいないことを腹だたしく思った。が、すべてはうまくいったのだ。弟子たちを遠ざけ一人になると、芭蕉はほくそえみ、頬《ほお》ずりするように短冊を撫《な》ぜていた。重蔵とて大坂商人だ、このことは口が裂けても口外することはないだろう。そして其角も思い知るであろう。代筆の時ののびのびとした作風にくらべ、其角の名で出した句集がどんなにつたないものであるかを。代筆ばかりしていた人間が、自分の名を表わした時よい仕事ができるわけがない。いきつくところは所詮|瓦版《かわらばん》書きだ。
皮肉なことに、焼津《やいづ》で行き倒れ寸前になっている其角をひろい、江戸に連れかえったのは中村座の七五郎であった。
それから二年。今、世の憂さを酔いにまぎらわせて惰眠《だみん》を貪る其角に、かつての情熱と自意識をもてあましていた青年の面影はない。ほのかに赤みを帯びていたつややかな肌は酒焼けで浅黒く変わり、ふっくらとした、育ちの良さを感じさせた頬はすっかりこけ、希望に輝いていた瞳《ひとみ》は光を失い、顔一面の不精ひげが、そのやつれをいっそう際立たせていた。
「おい、さっきから寝言に出てくる志乃って女は何なんだ」
内蔵助が言った。
「だから、ふられた女のことでしょう」
「女だよなあ、男の道をあやまらせるのは」
「女と言えば、阿久利《あぐり》様にはお知らせしたのですか」
と源吾が言った。
「うん、気丈な方で、播州赤穂浅野五万三千石の当主に恥じぬ立派な最期を遂げられるよう、くれぐれもよろしく申し伝えてくれって、頭を下げられたよ」
「まだ殿に嫁いでいらっしゃったばかりで、殿の顔をまともに見たことないんじゃないですか」
「見なくてよかった」
ふと、人の気配に目をあげると、花見から帰ってきたらしい長屋の連中が、ひとかたまりになって不審げにこちらを見ている。
「いいなあ、花見かよ。それにひきかえこっちはお家断絶だ」
内蔵助がいまいましそうに舌打ちし、一声「ガオーッ!」と吠《ほ》えると、長屋の連中はクモの子を散らすように自分たちの家へ飛びこんだ。
「あのう御家老、一身上のことでお話があるのですが」
源吾が言いにくそうにボソリと洩《も》らした。
「なんだ、突然」
「実はわが父が、殿のこのたびの御無念に、自らも腹かっさばいてお仕えしようと言っておるんです。殉死は武士の美徳。で、花代を少々いただければと思いまして」
「おい、とってつけたようなこと言うなよ」
「いえ、さっき家を出て来る時に、確かに父が」
「もう殉死は認めないの。今朝からもう二十人目だぜ。まったく、火事場泥棒みたいなやつらばっかりだよ」
「いや、わが父は他の者たちのようにやましい気持ちはありません。ひたすら殿とお家のことを思っての殉死です」
岡場所《おかばしよ》によほどの借財でもあるのか、源吾はしつこく哀願してくる。
「だって昨日は、『うちの親父《おやじ》はあと十日ももたない』って言ってたじゃないか。無理して死ななくてもほっときゃ死ぬだろ」
「それじゃ伯父《おじ》の方だけでも認めてくれませんか」
「伯父さんっておまえ、おまえに伯父さんなんかいたか?」
「母方の伯父が」
「嘘《うそ》つけ」
「ほんとです。それはそれは殿のことをお慕い申しあげていて、殿なき人生は考えられない、かくなるうえは腹かっさばいてと」
「待て、母方の伯父は先月葬式したばかりじゃないのか。墓ん中から掘りおこして腹切らせるつもりか」
「あ、そうだった、惜しいことをしたもんだ」
「しらじらしいんだよ。どいつもこいつも死んだやつ墓場から掘りおこして報償金くすねようって腹だからよ、たまらねえよ。商腹《あきないばら》は認めないからね、もう」
内蔵助はやりきれなさそうに吐き捨てた。
商腹とは追腹《おいばら》の一形式で、残された家族たちの後の保証を約束させる、計算ずくの殉死である。ほとんどは中風《ちゆうぶう》や疫痢《えきり》で死に瀕《ひん》した者に、これ幸いと刀を握らせて腹を切らせ、追腹を切ったと称して報償を求めた。病弱な者や老い先短い老人、身分の卑しい家来などがこぞってこれを行ない、子孫の優遇を求め、家々でその数を誇る風潮が生まれていた。
浅野の家中でも、好機到来とばかりの申し出が朝から相次ぎ内蔵助も頭を悩ませていた。
「とにかく金勘定は殿が立派な最期を遂げられてからだ」
「はい。それにしてもまったく、あとさきを考えないハタ迷惑な殿様だよ」
源吾はまだブツブツ言いながら、いまいましそうに立ちあがった。
「もう言うなって、オレだってつらくなるから。おまえはヒラだから責任なんてないけど、オレは家老だぞ。もう泣きたいよ。さあ、開けろ」
源吾がそろそろと戸を開けると、そこには布団にくるまり、うめきながら身をよじる其角の姿があった。あたりには脱ぎ捨てた衣類や書き損じの反故《ほご》紙が散らばり、空になった徳利や湯のみ茶碗《ぢやわん》がだらしなく転がっている。そのうえ部屋には、吐き気を催しそうな異様な臭いが充満していた。
「なんだこりゃ、臭えなあ。魚が腐ったような臭いだぞ。たまらんな」
「兄さん、まだおやすみですか、源吾です。入りますよ」
「おい、あんなにうなされててよ、自分のうめき声でよく目が覚めないもんだな。おい、起こせ。寝てる場合じゃねえって」
「はあ」
内蔵助は鼻を押さえて部屋の隅に腰を下ろすと、壁一面に貼《は》り出された辞世の見本を興味深そうに眺めた。
「辞世、松が二両で竹が二朱か、オレは歌や俳句のことはわからんが、どちらも似たようなもんだがな。どうした源吾、まだ起きねえか」
源吾に肩を大きく揺すられ、其角はようやく目を開いた。一瞬人の気配にびくりとしたが、それが源吾だと気づくと、いぶかしげにしながら身体を起こした。
「源吾じゃねえか、どうした一体」
酒臭い酸っぱい息を吐きながら、其角は額にびっしょりかいた汗を手の甲でぬぐった。
「勝手に上がりこんで申しわけございません」
「かまわんよ」
「だいぶうなされておいででしたね」
「そうか……」
「実は今日は兄さんにお願いがあって参りました」
「今さらおまえがオレに何の用だ。オレは見ての通り、こんな貧乏長屋に住むはぐれ者の辞世屋だ。オレがおめえらんとこに金をタカリに行くことはあっても、おめえらから頼みごとはないはずだ」
そう言って其角は自嘲《じちよう》的に笑うと、そばの黄表紙《きびようし》を破り、タンを切って土間に放った。はだけた胸にはあばら骨が浮きあがり、うなされている時に思わずかきむしったのであろう、爪《つめ》の跡が赤く残っている。酒ばかりでロクな食事をしていないのにちがいなく、腕には吹き出物が吹いていた。
「まあいい、せっかく来てくれたんだから話ぐらい聞かないとな。ゆうべは徹夜で、寝たのはついさっきなんだ。オレの身体、魚臭くないか? きのう中村座で七五郎が三幕目でどうしてもカラスの鳴き声が欲しいって言いやがるんで、オレは魚の臓物を桶《おけ》いっぱい持って、頃合《ころあい》を見はからって中村座の屋根に登って、合図を待って臓物ぶちまけカラスを呼んだわけだ。客はびっくりしたぜ。さすが何でも屋の其角と拍手|喝采《かつさい》よ。ところが、次の幕になってもカラスはまだ屋根にとまって臓物つっついて去りゃしない。おかげで芝居ぶちこわしで、近所からうるせえって苦情は来るわで、今朝方まで屋根の掃除よ」
訪ねて来る人とていない貧乏長屋暮しの長い其角は、源吾に会えた懐かしさか、いつになく饒舌《じようぜつ》になっている。
「どうだ、師匠は元気か」
「御齢《おとし》のためか近頃めっきり弱られ、床につく毎日が続いておられます」
「相当悪いのか?」
「医者の見立てでは、端午《たんご》の節句まではもつまいと」
「オレを憎んでおいでだろうな」
「いえ、たいそう心配しておいでです。門弟たちも独立し、一人去り二人去り、この一、二年はすっかり気弱になられて」
「そうか」
「誰もいなくなってみると、やはりかつて一度は自分の後継者にまで選んだ兄さんのことがいちばん可愛《かわい》くなってくるんでしょうね。毎日床の中で兄さんの作った辞世の句を眺めちゃあ、『さすが其角だ、これがあるからわしはいつ死んでも思い残すことはない。これだけは絶対に後世まで残る句だ』そう言って涙しておられるそうです」
不覚にも其角は涙をこぼした。
師芭蕉が今、死に逝《い》こうとしている……。
其角の脳裏に、初めて相《あい》まみえた日の芭蕉の姿が浮かんできた。あの頃は小柄で小枝のように痩せていて、流れる雲のように飄々《ひようひよう》としていた。なによりも自分の父親と違う生き方をしていることが嬉《うれ》しかった。
武士の身でありながら小金を貯め、近在の町人たち相手に高利貸しまがいのことをしていた父を其角は嫌っていた。幼い頃から武芸よりも書物に親しむことを好んだ其角は、談林《だんりん》派の句集の中に芭蕉を見つけ、たちまち心魅《ひ》かれた。軽妙さを第一とした当時の俳壇にあってすでに枯淡の境地を確立し、その孤高の精神と生きとし生けるものの無常必滅にたいする憐《あわ》れさを基調とする芭蕉は、十四歳の其角には父親とは対極にある純粋な精神世界に生きる人に映った。
迷うことなく芭蕉の門をたたいた其角に、俳句とは花鳥風月を愛で、それを着飾った言葉で表現するものではなく、それら一つ一つが自分のはかない人生とどうかかわり、それらの持つ趣がどう芸術的に洗練されるかを表現するものであることを、芭蕉はわかりやすく説いてくれた。
メキメキその頭角を表わし、早熟の天才ともてはやされる其角を、芭蕉はまるで我が子のように可愛がってくれた。
父が亡くなったとき、これからは自分を父と思って俳句の道に精進せよと励ましてくれた芭蕉だった。
志乃を失って失意のどん底にあったとき、その気持ちを俳句にたくせよと叱咤《しつた》してくれたのもやはり芭蕉だった。
貧しい庵に住み、冬は木綿の綿入れ、夏は麻の単衣《ひとえ》、朝夕の食事は一汁一菜と、あくまで超俗的であろうとした芭蕉。
たとえ芭蕉が権力を得てどのように変貌《へんぼう》したとしても、貧乏長屋で百姓町人相手の辞世屋にまでなりさがった今の其角には、それを批判する資格などなかった。破門を伝えられたときも、なぜ句で芭蕉に挑戦しようとしなかったのか。芭蕉と近松の影におびえ、あせり、とどのつまりは何一つ成し遂げられず、おちぶれ果てていった自分が、其角は情けなくてたまらなかった。
が、其角はまだあきらめていなかった。いつの日か近松と芭蕉を越えるのだ。
「兄さん、ぜひ一度、深川の庵に師匠を訪ねて見舞ってあげて下さい。きっとお喜びになられますから」
「ああ」
そう答えたものの、其角はもう二度とこの世で生きた芭蕉に会うことはなかろうと思っていた。
「それより源吾、おまえさんが今日やって来たのは師匠の容態を伝えるためじゃないだろう。誰だい、あのお武家は」
其角は、二人の話もそっちのけで、其角の書いた黄表紙、尼寺もののエロ本に食いいるように見入っている小太りの侍にアゴをしゃくった。
内蔵助はその声に弾《はじ》かれたように居ずまいを正し、
「拙者、播州赤穂浅野五万三千石城代家老、大石内蔵助と申します」
と深々と頭を下げた。
「その城代家老さんが一体何の用だい」
そう言いながらも、其角はなぜか胸騒ぎがしていた。
「実は、今朝方、わが当主浅野内匠頭が城内松の廊下で吉良上野介様に刃傷《にんじよう》に及びまして、お取調べ吟味の後、即日切腹を申し渡されました」
「その忙しいときにお家を守んなきゃならねえ城代家老さんがオレに何の用だい」
「ええ、それで其角殿に、内匠頭の辞世を作って頂きたいと思いまして」
内蔵助は悪びれる様子もなく、細い目をなおいっそう細め、むしろ愛嬌《あいきよう》のある顔つきでいった。
「なんだって」
其角の目があきれ返ったように大きく開かれ、しばらくはポカンと口を開けたまま返事にならなかった。
「なにバカなこと言ってるんだ。オレの句や歌なんざ、そこらへんの小金貯めた百姓がカッコつけて辞世のひとつも詠んで葬式盛り上げようってときのためのもんだ。それに第一、仮にも五万三千石のお殿さんが辞世のひとつも詠めないわけはあるまい」
「それが、何と申したらよいのか、作れないんです。が、もしそんなことがバレたら大変ですもんね、アハハハハ」
他人事のように笑う内蔵助に、其角はあきれかえった。
「おいおい、本当かよ」
「本当なんです、まったく困ったもんです。あの人、字なんかろくに書いたことないんじゃないかな」
と今度はわざとらしく顔をしかめてみせたかと思うと、急に真顔になって其角に向きなおった。
「刻々と切腹の刻限が近づいております。ですからぜひお願いいたします」
そう言うと壁を振り返り、
「あれなんかどんなもんでしょう」
と辞世の見本を指さした。
――かへらじとかねて思へば梓弓《あずさゆみ》亡き数に入る名をぞとどむる
「いや、実にいい。よくはわかりませんが、死にゆく者の哀れさが実によく出ています。あれ、譲ってもらえませんか」
「なに言ってんだ、あれは、楠木正行《くすのきまさつら》の出陣のときの辞世じゃねえか」
「ああ、やはりそうだったのか、楠木だって感じはしてたけど。しかし、昔の人は教養があったんだな」
内蔵助はまっ赤になって、照れかくしにしきりに感心したふうをしている。その様子の無邪気さに、其角の心はなごんだが、胸騒ぎ一段とはげしくなってくる。
「まあいい、で、いくら用意してあるんだ」
「で、いかほどお払いすれば……?」
「まっ、仲間うちの決まりで一応松竹梅とあるんだが」
「中味は相当かわるんですか」
「まっ、正直なところ似たようなもんだ。が、こういうのは気持ちの問題だな」
「でしょうね。が、ここは奮発して特上の松でカマしましょう。とにかくサラサラとお願いします」
「おい、おい、そうすぐっていう訳にはいかねえよ」
「えっ? でも早いのが取り柄《え》って聞きましたが……」
「言いにくいことをはっきり言うね、あんた。たしかに早いのが取り柄だが、なにせ五万三千石の御大名となると筆もちぢこまるぜ」
「大丈夫ですって」
「じゃこうしよう。ひとつ、いいのがあることはある」
「出来合いでいいのがありゃ、それにこしたことはありません」
「出来はいいんだけど、この歌は句運が悪いというか、執念深い句というか。今まで二度ほど買い手があったんだが、枕元《まくらもと》まではなかなか届かねえ。届いても、まともな死に方できねえんだよ。残された方も財産争いやらなにやらで、ひっちゃかめっちゃかになっちゃうんだよ」
「へェー」
「これなら、すぐもっていってもらうことはできるが、今から作るとなると……」
「どうする、源吾?」
「この際、いいんじゃないですか」
「そうだな、ぜいたく言っていられないもんな。もともとろくな死に方じゃないしな、ハハハ」
「御家老、不謹慎ですぞ。ハハハ」
屈託のない二人を見て、其角もなんだかやりきれなくなってきた。
「それでいいんなら、銭はいらないからもってってくれよ」
「えっ? そうですか、それは有難い。で、どういうんです、聞かしてくれませんか」
「うん」
ゆっくりと其角は、一節一節区切りながら、そらで詠んで聞かせる。
「風さそう、花よりもなお、我はまた、春の名残りをいかにとやせん」
「いい! それ買った! ピッタリだ、うちの殿様に。実にいい! タダってのがまたいい。いや、内容はよくわかりませんが、よさそうです。それにします」
内蔵助は腰を浮かし、手を打って喜んだ。
「が、ダメなんだ。今ここにねえんだ」
「えっ?」
「質に入ってるんだよ」
「歌が質に入るんですか。流れるとどうなるんですか」
「流れたときだよ!!」
「よくわかりませんけど」
ガッカリした顔を見せる内蔵助に其角はニヤリと笑いかける。
「正直言うと、こいつはオレ自身のために作った辞世だ。ここまで落ちぶれ果てりゃあいつ死んだっていい。いや、物書きとしてのオレはもう死んだも同然だ。そう思って作ったのよ」
「では、それをなぜ質屋に」
「遊ばせとくテはないからよ。それに本当にオレが死にゃあ、質屋も香典代わりに返してよこすだろうと思ってな」
其角は黙って懐《ふところ》から黒ずんだ木の札を取り出すと、放り投げた。
「これが、質札だ、持っていきな」
「よろしいのですか?」
「ああ、あんたたち見てるとオレ、もう一度生きてみたくなったんだ」
内蔵助は飛びつくようにしてそれを拾うと、あわてて羽織のたもとに入れて立ち上がった。
「出してきます。どこです質屋は?」
「そこの角を曲がったところだ」
「さっ、行こう源吾!」
内蔵助が腰を浮かせようとした瞬間、
「仇討ちはやるんだろうな!」
其角の声が凜《りん》として響いた。内蔵助の丸めた背中が一瞬|強張《こわば》ったように見えた。が、
「はあ?」
間の抜けた声で振り向いた顔は、相も変わらずヌーボーとしていてつかみどころがない。
したたかな目で内蔵助をにらみつけ、其角はゆっくり言葉を刻んだ。
「事情はどうであれ、自分のところの殿様が涙を呑んで切腹するんだ、仇討ちぐらいやるんだろって聞いたんだが」
「やっぱ、やらなきゃいけませんかね」
「聞きゃあ切腹仰せつかったのはおまえんとこの殿様だけで、相手の吉良上野介は何のおとがめもないっていうじゃないか。このままじゃ引くに引けめえ」
思いがけない其角の口調に、内蔵助は一瞬ギクリとした。
「だって悪いのはうちの殿様ですもん。いやね、くわしいこと言いますと、長い袴《はかま》に慣れてなかったもんだから、自分で裾《すそ》踏んづけて転んじゃったんですよ。それで恥ずかしいのごまかすために、刀抜いて傍にいた吉良様に斬《き》りかかったんです。ほら、よくあるでしょう、道で転んで、恥ずかしいもんだから石けとばしたり、犬に当たったり。いえ、そういう性格の人で私たちも困ってたんです。ほんと、横紙破りな性格なんです。おまけにテンカンの気もあるんです。ほんと、付き合いきれない人だったんです。いつかはやると思っていましたから、あたしら別段驚いちゃいないんです」
内蔵助の顔を、其角は見つめ返した。
「お家がお取りつぶしにでもなったら家臣が路頭に迷うだろうが」
「いや、そういうことはないんじゃないですか。殿には浅野大学《あさのだいがく》という弟|君《ぎみ》があられますし、お家お取りつぶしはしないという条件で、切腹で丸くおさめようってことになったんだと思うんですよ。私自身もここに来る前、吉良様にお会いしてきたんですが、それはもういい方で、助力は惜しまないと約束してくれたんですよ」
「が、仇討ちはやってもらうぞ」
「わかんない人ですね、誰を討つんですか。吉良様の方が被害者なんですよ、第一、やるかやんないかは私たちが決めるんですよ」
「オレがやらせる=」
先ほどまで黄色く濁っていた其角の目に、青年の輝きがよみがえっていた。近松が心中を仕立てたのなら、オレは仇討ちを仕立ててやる。
「だから、やらせるったって、話はもうまとまってるんですってよ。それに他人のあんたに、そんなことできるわけがないじゃありませんか」
「オレがさせる」
其角の目はかつてないはげしい光りと気迫に満ち、自信にあふれていた。さすが内蔵助の声も、とまどいを通りこし不愉快な口調になっていた。
「させるったって、あたしら石にかじりついてもやりませんよ。ほら、源吾のアホ面みてごらんなさい、仇討ちできるようなタマじゃないですよ。|関ケ原《せきがはら》からもう何年たってると思ってるんですか。重い刀なんか腰にさして、それでギックリ腰になってるやつがいくらもいるんですよ」
内蔵助がいくらちゃかそうとも其角はにらみつけて目を離さない。
「中村座で芝居にかけさせてもらうよ」
「またあなた、おかしなこと言って、びっくりさせないで下さいよ」
内蔵助は其角の顔をまじまじと見つめた。
「いいですか、芝居になるのはもうちょっとまともな題材ですよ。うちの殿様の顔見たことがありますか。チビで、酒も飲まないのに赤っ鼻で、鼻のよこにホクロがあって、モデルになんかなりゃしないですって。とにかく私としてはもうこれ以上、こんがらからしたくないんですよ」
「承知しねえなら、その質札おいていきな」
「いやな人ですねあなたは、人の弱みにつけこんで」
「承知するのか、しねえのか」
「わかりましたよ、やれるもんならやってみなさいよ。うちの殿様は辞世さえ作れないんだし、芝居になるようなタマじゃないって。笑いもんになるのがオチですよ」
「だからやりがいがあるんじゃねえか」
「はいはい、わかりました。好きにやって下さい。おい、源吾行くぞ」
内蔵助はゆさゆさと身体をゆすりながら出て行った。
其角の目に、五年という歳月の流れに結ぶうたかたのように、志乃が、近松が、芭蕉が次々と浮かんでは消えてゆく。そのたびに全身にゆっくりと活力がみなぎり、武者震いが生まれてきた。今、宝井其角は、二年という長い雌伏《しふく》の眠りから目覚め、静かに胎動しはじめていた。
評 定
「よくぞやったり浅野内匠頭《あさのたくみのかみ》殿!」
高家筆頭吉良上野介《こうけひつとうきらこうずけのすけ》と御|馳走《ちそう》役浅野内匠頭の松の廊下|刃傷《にんじよう》の報をうけるや、目付|多門伝八郎《おかどでんぱちろう》はピシャリと膝《ひざ》を打ち、その筋骨隆々たる体躯《たいく》から発する野太い声で快哉《かいさい》を叫んだ。
――これであの小姓《こしよう》あがりに一泡吹かせることができる。
そう思うと、われ知らず、伝八郎のいかつい顔に好色そうな笑いが浮かんだ。そして、
「ワシをその気にさせてもて遊んできた、今日こそ目にもの見せてやる」
と舌なめずりまで始めた。
伝八郎の言う小姓あがりとは、いま幕閣に並ぶもののない強大な権力を手中にした側用人《そばようにん》、柳沢出羽守吉保《やなぎさわでわのかみよしやす》のことである。
吉保は日頃《ひごろ》から、徳川の御政道も定まり、安穏な日々の続くこの泰平の世に、戦《いくさ》道具の刀など必要のないものであり、これからの幕府を動かすのは剣術や軍略にたけた武人ではなく、政治経済に明るい自分ら実務派だと信じていた。が、治にいて乱を忘れず、一朝事あらば死して徳川を守らんの意気に燃える武人派の伝八郎は、
「男が銭勘定なんかしたってしょうがないのだ。倒すか倒されるか、奪うか奪われるか、二つに一つしかないのだ」
普段から吉保の考え方をニガニガしく思っていた。
そんな折、武士の意地を刀にかけてまで通そうとしたと聞く内匠頭の刃傷|沙汰《ざた》は、吉保を窮地に追い込むことは必定である。
「これで少しは、オレみたいなタイプの偉さがわかっただろう。それをナヨナヨしたやつらとばかり遊んでやがって。よし、四の五の言わせず、押し倒してやろう。いやこういう時だ、かえってやさしくしてやった方がいいのだろうか」
伝八郎は湧《わ》きあがってくる妄想を打ち消しながら、ひとり赤面していた。そして、今日こそは柳沢吉保を完膚《かんぷ》なきまでに叩《たた》きのめしてやるのだと、必死に自分に言い聞かせていた。
今までも幕閣の会議で吉保と意見を対立させたことは何度もあったのだ。が、そのつど、女にしたいような吉保の優男《やさおとこ》ぶりがまぶしくて、どうしても正面きって、堂々と反駁《はんばく》できない伝八郎だった。それも今日までである。
――それにしても鯉口《こいくち》三寸抜いただけで切腹断絶に価する殿中で抜刀、しかも刃傷にまで及ぶとは、浅野内匠頭には、よほどの仔細《しさい》と覚悟があったにちがいない。
吟味取り調べのため伝八郎が、蘇鉄《そてつ》の間に行くと、神妙に控えているものとばかり思っていた内匠頭は、ようやく事の重大さに気づいたのか、顔面|蒼白《そうはく》でオロオロしていて、伝八郎を見るなり膝《ひざ》にすがりついてき、あられもなく泣きじゃくり始めた。
一瞬、ほんとうにこのチビの赤鼻が武士の面目のため上野介に斬りつけたのかとの疑いをもったが、きっと上野介に手傷を負わせたにとどまったことがくやしくて泣いているのだろうと思いなおした。それにしても、いかにも女々《めめ》しすぎる。だがとにかく、吉保を意のままにするには、なんとかこのチビに凜々《りり》しく立ち振るまってもらわねば困る。
「浅野殿、気を確かにおもちなされ。浅疵《あさで》といえど相手は老人、回復のほどもいかがかと思われる」
なぐさめてみたが、内匠頭はカン高い声で「ヒックヒック」しゃくりあげるばかりで話にならない。内匠頭にしてみれば、すっ転んだ拍子に刀を抜いていたなどとは、恥ずかしくて言えやしない。ここは泣くしかないわけだった。
「わかった浅野殿、泣きやまれい。ほれ、そんなところで泣かれると拙者の袴がびしょびしょになる」
が、内匠頭は泣きやまない。
「これ、やめんか、これ。あっ汚ねえ、ヨダレなんか垂らすなよ!」
軽く払ったつもりだったが、なにせ力自慢の伝八郎のこと、軽量の内匠頭はひとたまりもなく吹っ飛び、そのまま屏風囲いに頭から突っこんだ。あわてて警護の御徒目付《おかちめつけ》が引き起こしたが、内匠頭はとっさのことに何が起こったのかわからず、脳震盪《のうしんとう》でも起こしたのか、しばし泣くのも忘れてポカンとしていた。自らの意外な破壊力に気をよくして、グルグル満足そうに腕を回していた伝八郎も、そんな内匠頭を見て、あわてて現実に立ち戻った。
「これは失礼つかまつった。しかし、ようやく泣きやまれた様子。さっそくですが、浅野殿、本日場所柄もわきまえず刃傷に及ばれたのは、いかなる理由からでござるか」
「はっ、それが」
「あいや、みなまで申されるな。この多門伝八郎、上野介の高家をかさにきての日頃からの無理無体、すべて承知しておるゆえ。今日は今日で登城の際、ひとりだけ長裃《ながかみしも》であったとか。それもこれも、吉良殿に賄賂《わいろ》を請求され、それが少なかったばかりに意地悪をされたのでござろう」
「いえ、長裃の件は、ついうっかり」
「いやいや、みなまで申されるな。本日の大切な式典と御馳走役という役目のため、度重なる意地悪にも耐えていたが、遂《つい》に堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》が切れて、家名も捨て命も捨て、ただただ武士の面目を守らんがため吉良殿に斬りつけたと、そうなのでござろう。浅野殿の胸中を忖度《そんたく》するのに、拙者、あふるる涙を禁じえませぬ。みなまで申されるな」
そう言うと今度は、伝八郎の方が内匠頭の手を取ってオイオイ泣きだした。とにかくここは早いとこ片付けて、目指すは吉保だ。
「浅野殿、かくなるうえは立派に腹かっさばき、武士として潔い最期をお遂げ下され」
切腹と聞くと、内匠頭はまた、身も世もないふうに泣き始めた。
二人して手をとりあいひとしきり泣きあったあと、伝八郎はガバと顔を上げ、
「それにしても憎っくきは吉良上野介め」
いかつい顔を歪《ゆが》めた。
「このうえはあっぱれ辞世を残し、見事腹かっさばきめされい」
「辞世って何ですか?」
「歌でござるよ」
「私がつくるんですか」
「いかにも」
「はあ」
「それでは拙者、お役目により吉良様を吟味してまいる」
決然と立ち上がり、伝八郎はスタスタ大股《おおまた》で蘇鉄の間を横切ると、内匠頭と向かい合う部屋にしつらえた屏風囲いに控える上野介に対座した。
逆上した内匠頭にわけもなく斬りつけられた上野介は傷が浅疵だったこともあり、伝八郎を迎える頃にはようやくショックからも醒《さ》め、落ち着いた態度で一礼した。
が、日頃から上野介をよく思っていない伝八郎には、それが名家の出を鼻にかけ、取り澄ましているようにしか映らない。もともと身分の低い足軽《あしがる》だったのが、祖父の代に関ケ原で武勲を立て、それで目付役に取り立てられたという家柄の伝八郎は、ことさら憎々しげに上野介を見据えた。
「吉良殿、いかに泰平の世とはいえ、礼儀作法で身は守れぬようですな」
皮肉たっぷりに言っても、人のよい上野介はまるでそれに気づかず、
「いやほんと、ひどい目にあいました」
と真顔で答え、伝八郎をいっそう苛立《いらだ》たせた。
「なんですかその無責任な言い方は。儀式典礼をつかさどる御高家のお方が、その儀式を血で穢すとはいかなることでござるか」
「いや、その段についてはわが不徳のいたすところでござる」
争いを好まない上野介はまた深々と頭をさげた。
「この上は、いかなるおとがめを仰せつけられましても、一言の申しのべる理由もございません」
「殿中《でんちゆう》で抜刀した浅野殿の切腹は避けられぬもの。そして公儀の定法《じようほう》は神君家康《しんくんいえやす》公以来、喧嘩両成敗《けんかりようせいばい》。となれば吉良殿の御処置もおのずとわかろうというもの」
「お待ち下され。あれは内匠頭が勝手に逆上して私に斬《き》りつけてきたもの。もし私が刀を抜いてそれに応じたのなら、喧嘩といえまするが、私はこのとおり無抵抗のままでござったのだ。言ってみればこの傷は、抜刀を禁ずる御公儀の定法を守ったうえの、名誉の負傷というものでござろう」
上野介の、若い頃、よほどの美男であったと思わせる上品な顔立ちが気に入らなかった。伝八郎はギラリと目を光らせた。
「見苦しい言い訳はおやめなされ。御定法を守ったなど片腹痛いわ。お手前は浅野殿に斬りつけられたことで狼狽《ろうばい》して、刀を抜くこともかなわず逃げまわっておっただけでござろう」
言われてみるといかにもそのとおりで、上野介には返す言葉もない。とにかく、突然倒れかかった内匠頭を助け起こそうとすると「ガオッ」と飛びかかってこられて、わけもわからなかったのだから。
「それでもお手前は武士でござるか。自らの身を守らずして、何のために腰に大小をたばさんでおられるのか。まったく口先だけの侍ばかりふえ、武士道も地に堕《お》ちたものだわ」
さすが育ちの良い上野介もこれだけイヤミを言われて、ようやく伝八郎が自分に悪意を抱いていることに気づきはじめた。
「それに抵抗しなかったから喧嘩ではないと申されるが、浅野殿の話によれば、高家の身分をよいことに露骨に賄賂を要求し、清廉潔白の人、浅野殿がそれを容《い》れぬと知るや、陰で日向《ひなた》で浅野殿をイビり、意趣を返し、お手前の方で遺恨《いこん》の原因を作ったというではござらぬか」
「はあ? それはどういう意味でしょう、ワイロを私が取ったと言われるのですか」
「だまらっしゃい、吉良殿、この期《ご》に及んでもなおしらを切り、命乞《ご》いをなされるというのか! おぬしは武士としての恥をカケラも持たぬというのか!」
鬼瓦《おにがわら》のような怖ろしい形相《ぎようそう》で怒鳴りつけられ、上野介はいっぺんで縮みあがった。
伝八郎は、白髪頭をうなだれて意気消沈する上野介を前に厳しい表情を作りながらも、腹の中ではしてやったりと手を打っていた。
――いつまでもこんなきたないジジイにかかずらわってはいられない。次は吉保に一泡吹かせてやる番だ。
伝八郎は蘇鉄の間を出て大きく深呼吸をして息を整えた。
「オレのことを一体どう思っているのか、今日こそ問い詰めてやる。好きなら好き、嫌いなら嫌い、男ははっきりしなきゃいかん」
と思わず口に出してしまった伝八郎は、あわててまわりを見回し、誰にも聞かれなかったことを確かめると、ホッとため息をもらした。なぜか動悸《どうき》が高まり、息苦しさを覚えた。
伝八郎は、剛毛のびっしりと生えた太い腕を撫《な》でながら、その腕に細身の吉保を抱いたときの感触を想像し、胸を熱くしていた。
色白のロウ細工のようなキメ細かな肌をもった吉保の美しい横顔が浮かんだ。小姓時代の妖《あや》しい魅力に今は知的な磨きが加わり、かげのある端正な風貌《ふうぼう》をつくりあげていた。あの小生意気な男に、オレの腕の中で思いっきり恥ずかしい声をあげさせてやる。そう思うと、伝八郎の下半身は熱くうずいた。
柳沢出羽守吉保は、二度たてつづけにくしゃみをし、ブルッと小さく身体を震わせた。
大事の式典を前に湯殿で沐浴《もくよく》をしている最中に今回の事件の報告をうけ、あわてて御用部屋に戻ったので、湯ざめをしたのかもしれない。
それにしてもさきほどから、吟味の報告にかこつけ、バカの一つ覚えのように「武士として」「武士として」を臭い息を吐きながら繰り返す多門伝八郎にはいいかげんうんざりしていた。それにあの潤んだような流し目。今までも城内の柱の陰から、いやらしい目でこっそり自分を見つめている伝八郎の姿に気づき、何度寒気を催したことか。用もないのに吉保の御用部屋のまわりをウロチョロし、あとに差出し人不明のつけ文が置いてあったり、ちょっとかわやに行った隙《すき》に、着替えのフンドシがなくなったりしたこともあった。オカマのくせに直情径行型で思慮分別に欠け、ことあるごとに祖父の代の関ケ原の軍功を自慢げに持ち出す伝八郎を普段から快く思っていなかったが、今日はことに言葉の端々に吉保に対する敵意が露骨に出ている。まるで、おまえのような小姓あがりに武士の道はわかるまいとでもいいたげである。
鼻毛の飛び出した鼻の穴を思いっきり広げ、ヤニだらけの黄色い乱杭歯《らんぐいば》を歯ぐきまで見せて口角泡を飛ばす伝八郎のむさっくるしい体臭の強さに、吉保は思わず顔をしかめた。
追いうちをかけるように、伝八郎の赤い舌が目の前でチラチラするものだから、吉保は吐き気さえしてきた。そのうえ、「オレのことどう思ってんだ」とか「一度くらいつきあえよ」とか、あらぬことを口走り、膝でじりじり詰め寄ってきて、気色が悪くて仕方なかった。
伝八郎は、殿中の作法を守り、刀の柄にさえ手をかけず無抵抗だった上野介を武士の風上にも置けぬ腰抜けだと決めつけ、女々しく命乞いをしてきたとまで付け加えた。そして、御法を破った内匠頭を、殿中で鯉口切ったはもとより死は覚悟、そこまでして武士の意地を通したのはあっぱれ武士の鑑《かがみ》と誉めたたえた。
「いかがなされる柳沢殿=」
さしもの切れ者、吉保も、
「このめでたい席でなんということを=」
と言ったきり絶句してしまった。伝八郎はここぞとばかり、
「柳沢殿、どのような御裁きをなされるつもりか、お聞かせねがいたい」
高飛車に出、吉保は額に脂汗を浮かべている。伝八郎は返答に窮した吉保を勝ち誇ったように見つめた。精神的には完全に追いつめた。次は肉だ。肉体的にも完膚なきまでに蹂躙《じゆうりん》し、武士道の前に屈服させてやるのだ。
ふと気がつくと、伝八郎の毛むくじゃらの手が吉保の手を握っている。吉保はおどろいて振り払ったが、なおも力ずくで襲いかかってきた。あまりのおぞましさに逃げまどい、だが吉保をひきずり倒し、伝八郎は全体重をあずけてのしかかろうとする。
「わしに恥をかかすつもりか」
とヨダレを垂らして遮二無二吉保の唇を奪おうとした。
吉保はコッテ牛のような伝八郎の巨体に圧せられながらも、なんとか相手の股間《こかん》を蹴《け》りあげて捨て身の脱出を試みるが、いかんせん非力でいたずらに体力を消耗し、相手の欲情をかきたてるだけだった。伝八郎は、はかない抵抗をくり返す吉保の頭をムンズとつかむと、そのまま力まかせに傍にあった脇息《きようそく》にガンガンぶちつけ、戦闘意欲をそいだ。伝八郎の異様にぶ厚い唇が、ヌラヌラ濡《ぬ》れた二腹のタラコのように吉保の唇に迫った。吉保は意を決し、思いっきりそのタラコにかみついた。「ギャー!」という叫びとともに伝八郎が一瞬ひるんだ隙をのがさず、
「誰か、誰か出会え!」
苦しい息の下から必死で声をふり絞った。
「チキショウ、覚えてろ! メチャクチャにしてやるからな」
と捨て台詞《ぜりふ》を残して、伝八郎は血のしたたる唇を押さえ、逃げるように去っていった。
吉保はそれでもしばらく、伝八郎の突然の激情にあっけにとられたようにその場に座《すわ》り込んでいた。そして、ようやくのろのろした動作で着物の乱れを直すと、伝八郎のバカ力でつかまれ、シビレの残る二の腕をもみほぐしながら、松の廊下の刃傷沙汰をどう綱吉《つなよし》に伝えればよいものか、ぼんやり考えはじめていた。なによりも大事な儀式の前である。この不祥事を伝えるのはどうにも気が重かった。
もとはといえば、綱吉の生母、桂昌院《けいしよういん》の出生が京の八百屋の娘であり、それにコンプレックスを抱いて朝廷に官位を賜るように申し出たのがすべての始まりだった。吉良上野介を京に行かせ、多額の賄賂を使って有力な公家《くげ》に根回しをさせ、将軍の生母は従三位《じゆさんみ》と決められているところを、従一位という高い位を任ぜられるというところまでこぎつけた。そのこと自体、京都には、幕府の力を認めることであり、いい気持ちのものであるはずはなかった。が、八百屋あがりと大奥ではさげすまれている母のためにも従一位をうばいとることに、綱吉は必死だった。今日の式典もそのことに対しての答礼のものであったが、ここにきて勅使の柳原前大納言資廉《やなぎわらさきのだいなごんすけかど》が桂昌院の従一位叙任に難クセをつけはじめたので、綱吉の機嫌はすっかり悪くなっている。
――しかし、早々に浅野、吉良の両名にお沙汰を伝えねば、武人派に時を与えることになる。
吉保は何かよい思案はないものかと頭をかかえた。
吉保がようやく立ちあがったのは、小半時過ぎた頃だった。
急遽式典の会場に振りかえられた黒書院の、その脇《わき》にある御勅使御休息の間で柳原資廉と官位について膝詰め談判していた綱吉は、吉保の耳打ちを受けるとたちまち曇り顔を一変させ、ことのほか上機嫌になり、小さな声で、「でかした吉保!」と叫んだ。
長いビンには白いものが混じりはじめているが、その目はあくまで鋭くぬけめない。五代将軍の座を権謀術策を尽くして手に入れた策士としての面影がその酷薄そうな横顔にはりついている。
「御勅使殿」
綱吉は、二人がヒソヒソささやき交わすのを不審そうに眺めていた柳原前大納言資廉に向き直り、呼びかけた。
「ただ今、この柳沢の報告によりますと、江戸城中松の廊下に於《おい》て刃傷沙汰が発生いたしました」
「ほう、大事の式典の前に刃傷とは、関東の荒夷《あらえびす》のやることはわかりませんな」
資廉は、そののっぺりとした顔を手の平でツルリと撫《な》で、皮肉タップリに言った。
が、綱吉はそんなことは気にもとめず先を続けた。
「なんでも御勅使殿の迎え方の作法について言い争いになったのが原因と申します」
さきほどまで額を畳にこすりつけんばかりにして従一位を懇願していた綱吉の、うって変わった余裕のある口調に、資廉は不吉なものを感じた。この男には、切れ者柳沢吉保がついている……。
「その刃傷、播州赤穂城主浅野内匠頭|長矩《ながのり》が作法について言い争ううち、乱心して相手に斬りつけたものでござる」
「その相手とは?」
「高家筆頭、吉良上野介|義央《よしなか》でござる」
「なんですと!」
資廉の上品に取り澄ました顔がにわかにひきつった。そういえば、上野介は京に来るたび、「作法を知らない侍が多くなって困る」としきりにこぼしていた。資廉と上野介は昵懇《じつこん》の間柄である。
「で、吉良殿は」
「傷は浅疵《あさで》にて、もう落ち着いている頃であろう」
綱吉は予想以上の資廉の狼狽ぶりに満足したようにうなずき、最後の一矢を放った。
「元はといえば帝《みかど》を畏敬《いけい》するあまり、作法をとりちがえてはと言い争いになったものでござるが、御勅使殿を迎えての儀式を血で穢《けが》したとあってはこの綱吉、朝廷に対して面目が立ちませぬゆえ、両名には即日切腹お家断絶を申し渡しました」
「ちょ、ちょっとお待ちを。上野介殿も抜刀して応戦なされたのか」
「いえ、刀の柄に手すらかけなかったとか」
「ならば御公儀の定法を守った立派な態度、なにも切腹を仰せつけなくとも」
「いや喧嘩両成敗もまた公儀の定法でござるゆえ」
「そこをなんとか綱吉殿の力で」
「できぬこともありませぬが……」
「お願いでござる、この資廉、いかような御礼もいたします」
資廉は平蜘蛛《ひらぐも》のように平伏して慈悲を乞《こ》うた。
「その言葉、帝のお心と思ってよろしいのでござるな」
「はっ?」
「帝が、吉良上野介の命乞いをなされたと考えてよろしいのだな」
「いや……」
資廉の瓜実顔《うりざねがお》がひきつった。
勝ち誇ったように吉保に目くばせする綱吉は、これで母桂昌院の従一位は決まったものとばかり、莞爾《かんじ》とほほえんだ。
切 腹
礼式どおり、素襖《すおう》から長裃《ながかみしも》に着替えさせられた浅野内匠頭は、まだ青竹の匂《にお》いのする唐丸駕籠《とうまるかご》に乗せられ、外から錠をおろされ、さらに綱をかけられた。これより、前後を護送部隊に守られて、「不浄門」と呼ばれる平川門をくぐり、お預け先の愛宕下《あたごした》、奥州《おうしゆう》一の関城主|田村右京大夫建顕《たむらうきようたいふたけあき》の上《かみ》屋敷へと向かうのである。
隊列の先頭で自ら指揮をとりながら、右京大夫はテカテカ光った脂性のまん丸顔に渋面をつくり、なんで血迷った田舎侍の尻《しり》ぬぐいを自分が引き受けなくてはならないのか、いかに公儀の申しつけとはいえ、どうにも釈然としない心持ちだった。
一方そのずんぐりむっくりした豆タンクのような身体を駕籠の中で窮屈そうに縮めた内匠頭は、辞世のことしか頭になかった。
――噂《うわさ》どおり切腹ということになって、辞世一つ詠めないことがバレたら……
そう思うと恐怖で顔面は蒼白《そうはく》になり、カン高い声で狂ったように叫びはじめた。
「わが家臣、大石内蔵助の姿は見えませぬか! もし切腹となれば、武士として恥ずかしくない辞世をしたためねばなりません。そのとき、わが愛用の筆と短冊をとどけるようにと言い渡しております。まだ見えませぬか、内蔵助の姿は!」
そのたびに先頭の右京大夫は隊列を止め、肥満した体でずり落ちるように馬を降り、駕籠に駆けより、
「まだその姿は見えませぬ。が、御安心めされ、必ずお会いできますようとりはからいまする」
とハアハア息を切らして答えるのであった。
が、すぐその後から前にもましてヒステリックに、
「内蔵助はまだでございますか! 言い残しておきたいこともございまする、筆と短冊を!」
と、駕籠を食い破らんばかりの叫び声が聞こえ、律義な右京大夫はまた汗をふきふき駆けより、
「まだでございまする。来たら来たと申します。私はそういう人間です。それにおおかたの予想では、軽い謹慎処分だけで切腹までは、と言っております。ご安心めされい」
と、いちいち説明するものだから、隊列は一向に前に進まない。
だが、さすがの右京大夫も、度重なってさすがにうんざりし、そのうえ、道行く者たちが二人のかけ合いに「何ごとか」という目で振り返るのが恥ずかしくもあり、あとは一切無視して先を急ぐことにした。
が、無視されたと知るや、内匠頭の性格で、
「オイ、答えろ、答えねえかこのヤロウ、オイ、ハゲ、答えろと言ってんだ!」
と下馬先《げばさき》から八重洲河岸《やえすがし》、日比谷《ひびや》門、桜田《さくらだ》郷と口きたなく右京大夫をののしり続けた。さすが愛宕下の田村邸に着くころには静かになり、声も嗄《か》れたのかと駕籠をのぞくとイビキをかいて、大口をあけて眠りほうけており、あきれさせられてしまった。
離れの襖《ふすま》をすべて釘《くぎ》づけにし、外周りを白紙を貼った板で囲った「預り部屋」に内匠頭を幽閉し、右京大夫は何はともあれ無事役を了《お》えたことにホッと胸を撫《な》でおろした。
が、それもつかの間、狭い駕籠から解放されて力を得たか、内匠頭が、
「内蔵助はまだ来ないのか! わざと会わせないのではないか!」
また叫び始めたのである。
さすがの温厚をもって鳴る右京大夫も、その執念深さと神経を逆撫《さかな》でするキンキン声には我慢ならず、顔をまっ赤にして、
「うるせえ! この赤っ鼻が、サルみてえなツラして何の筆と短冊だ。てめえら早くあのバカを黙らせんか!」
と警護の家臣に当り散らした。
右京大夫は、気持ちを静めるときにいつもするように、自慢の庭を見ようと廊下を引き返した。
浅春とはいえ、あたりには快い微風の運ぶ桜の香りが匂《にお》いたち、玉砂利が敷きつめられた白州《しらす》には、あでやかな枝ぶりの松の緑が照り映えて……。
あら! なんと自慢の庭で、検使の下役たちが小書院の前の白州をがさつな足運びで乱し、白縁《しろべり》の畳を敷き重ね、無神経にも大事な苔《こけ》を踏んづけながら周囲に幔幕《まんまく》を張っているではないか!
一瞬、心臓が止まるかと思った。
「おいおい、まだ切腹と決まったわけじゃないんだろう」
泣き出しそうになって止めに入ったが、
「いや、本決まりだそうですよ」
と下役たちはとりあわず作業を進める。
右京大夫は二十年丹精こめた苔が踏みにじられるのをただ呆然《ぼうぜん》と見ているだけであった。そして庭をこれ以上血で汚すことのないことを祈った。
多門伝八郎は屈辱をかみしめ、いつまでも蘇鉄の間で一人泣いていた。この毛むくじゃらの大男は幼い時、浜の人足に犯されて以来自らにひそむ忌まわしい血にたえずおびえていた。そして、生まれて初めて本当に心を寄せた男にその思いを拒絶された今、吉保をいとしくおもう気持ちは百倍の憎しみに変わっていた。蛍侍と先頭になって陰口たたいても、すべては吉保を愛するあまりである。吉保が犬になれといえば犬になったろう。土下座しろといえば土下座もしたろう。が、恥を忍んで思いのたけを打ち明けた結果がこのざまだ。オレはもう一生人を愛することはないだろう。そう思えば思うほど、とめどなく涙があふれた。
いくら不意をつかれたといっても、吉保のかたくなな拒みようは、この男の純情を踏みにじり、その心に大きな傷跡を残した。醜男《ぶおとこ》ほど傷つきやすいものなのだ。
その時、笑みを浮かべた吉保が、老中たちを率いて入ってきた。そしてさっきとはうってかわった猫なで声で、
「吉良、浅野、双方、おかまいなしと相《あい》決まったぞ、そちもゆるりと休んだらよかろう」
やさしく耳に息を吹きかけてきた。
桂昌院の従一位が決まれば、浅野だ、吉良だは問題ではない。が、伝八郎は身震いし、キッと吉保を見据えた。吉保のやさしい言葉は憐《あわれ》みであって愛ではない。伝八郎は二重の屈辱を味わっていた。赤穂藩がいったんうけた屈辱は死を賭《と》してでも晴らさねばならない。伝八郎には、内匠頭と自分とが二重映しになっていた。
「お上の御慈悲は誠にありがたいことでございまするが、きっと浅野内匠頭は腹をかっさばき、お仕えするでありましょう。それが男でござる。かくなる屈辱を受けて、女々《めめ》しく生きのびようとは思わぬわ。男に抱かれ、女も抱く、うぬにはわからぬことじゃて、ケッケッケ」
伝八郎は完全に錯乱して、ひきつったような笑い声を洩《も》らした。
老中たちもわけがわからず、どうにも気味が悪いといったふうで、
「どうなってんだ、伝八郎が吉良を好きで浅野にとられたくやしさで切腹すると言ってるのか」
「いや切腹するのは浅野だろ」
「だって本人が死ぬみたいなこと言ってるぜ」
「三角関係だったのか」
「いやよく聞いてると柳沢のこと好きだったみたいだぞ」
「誰《だれ》が?」
「伝八郎がだろ」
「じゃ、なんで浅野が切腹しなきゃいかんのだ」
「そこなんだよ、わかんないのは」
首をひねる老中たちをあとに、伝八郎は奇怪な高笑いを残して田村邸に向かった。伝八郎の理不尽な怒りは、なぜか浅野内匠頭に向けられていた。
そうとも知らず内匠頭は、メシでも食わせれば静かになるだろうと田村家の家臣たちがあてがった一汁五菜の食事をガツガツ食いちらかしたうえ、湯漬けを二杯もおかわりするほどの食欲を見せていた。ひとしきり食い終わると、ようやく少し落ち着いたか、楊枝《ようじ》でチューチュー歯をせせり、ゴロリと横になった。
――ま、イザとなったら雪月花でいきゃいいんだ。しかしどうするんだろう。まさか、雪降った、月が出た、花咲いたでいくわけにもいかんだろうし……ククク、第一、すっ転んで、かすり傷負わせただけで死ぬことはないだろう。そのうち誰《だれ》か助けに来てくれるだろう。
と一人陽気に笑いころげていた。
警護の家臣から内匠頭の様子を報告された右京大夫はそのあまりのイケ図々しさに腹が立ち、めまいさえしそうだった。が、次に、今日の検使役の正使が大目付、多門伝八郎と聞かされたときには、こみあげる怒りにそのめまいさえ吹っ飛んだ。
通り一つ隔てた向いに住む伝八郎の父親と右京大夫はたがいの庭自慢でいつも反目し合っていたのだ。
――これは陰謀だ。いかに殿中《でんちゆう》で刃傷《にんじよう》におよんだとはいえ、五万三千石の大名が庭先で切腹するなんておかしい。検使のお役目を利用して伝八郎の親父がオレをハメたにちがいない。
ただの殺風景な切腹場所に変わり果てた庭を見て、右京大夫は唇を血がにじむほどかみしめ、衝《つ》きあげてくる怒りで脂肪太りの身体をプルプル小刻みに震わせていた。が、丹精した庭を踏み荒され、このまま泣き寝入りするなんてできるものではない。何とか復讐《ふくしゆう》する方法はないものかと考えあぐねていると、ふいに背後から、
「おじさん、おはようございます」
バカ陽気な声がして、またもや目の前が真っ暗になった。
――やっぱ介錯人《かいしやくにん》は甥《おい》っ子の磯田武《いそだぶ》太夫《だゆう》になったのか。どこまでツイてないんだろ。
振り向くと、下まぶたの皮のたるんだギョロ目、異様にぶ厚い唇の、不細工きわまりない武太夫が、何がそんなに嬉《うれ》しいのかニコニコ笑って立っていた。
「おじさん、任しといて下さい。今日はビシッと決めますから。一発で首はねますから安心して下さい」
そう言うと袴《はかま》をはしょり、丸太のような腕をブンブン回してみせた。
「まだ切腹と決まったわけじゃないだろう」
「いや決まりました」
「決まりましたって、オレの庭はどうするんだ」
「えっ?」
「畜生、やっぱり多門ちの親父のさしがねだったんだな」
「はあ?」
「よっし、オレも覚悟した、そのかわり一発で決めろよ。庭をあんまり汚すな!」
右京大夫は哀願する思いで甥っ子の胸倉をつかんだ。
「任しといて下さいよ、ここんとこよく切れてんだから。今日は少し身体を開きぎみにして、流す感じでやってみようと思ってんですよ」
武太夫は刀を抜いて腰をひねり、軽くスイングしてみせる。が、甥っ子の調子のいいのはいつものことで、どこまで信じていいやらわかったものではない。
切腹の介錯人をつとめるだけあって武太夫はたしかにがっしりした体格だし、父親ゆずりの剣さばきの評判もいい。が、もともと度胸のあるほうではなく、いざ本番の切腹となるとあがって剣先が鈍り、一の太刀で絶命させたためしがない。
普通、介錯といえば、血しぶきもあげず、切腹人に恐怖や苦痛を感じさせないようにと、三方《さんぼう》に手をのばすやいなやの一瞬のうちに斬《き》りつけるものである。その斬り口はカミソリでそいだようになるはずなのだが、武太夫が介錯人に任命されたときは誰もそんなことは期待しない。
たいてい一の太刀は急所をはずれ、二度三度と所かまわず斬りつける。切腹人はたまらない。首を半分ブラブラさせたまま血だらけの身体をひきずるように逃げまどい、のたうちまわる。切腹に立ち会う誰もが、飛び散る血しぶきをかわしながら、新調の袴をつけてめかしこんできたことを後悔するのである。
そのうえ、介錯人は辞世に対して一言感想を述べてから斬るのが作法になっているのに、武太夫はいつもトンチンカンなことばかり言って物議をかもしている。これは別に頭が悪いのではなく、ただ、あがってカーッとなるとわけがわからなくなる性格のせいである。
そんなこんなで、地力はありながら本番ではノミの心臓の武太夫は、公儀介錯人の十年選手のくせにいまだに代打専門である。今日もおそらく誰かの代役なのだろう。そのせいで年俸、いや禄高も低く、見合いのたびに失敗し、三十五歳にもなって汗臭い独身生活から脱け出せないでいる。
「さあて、今日の辞世はどんなかな? いやあ、燃えるなあ」
右京大夫の心も知らず、武太夫はやたら素振りを繰り返して張り切っている。この入れこみがいちばん怖いのだ。
と、そのとき、右京大夫の頭に一つのアイデアがひらめき、目がギョロリと光った。
「おい武太夫、おまえ今日の介錯うまくやれたら嫁さん世話してやるぞ」
「ほんとですか!」
嫁さんと聞いただけで、武太夫は興奮して鼻息を荒くしている。
「が、そのかわりな、介錯した首をボーンと検使の多門のとこに飛ばして、ヤツを血だらけにできるか」
「嫁さんのためだったらボク、なんだってしますよ」
「もしそれが難しけりゃ、スッポ抜けたふりして刀を飛ばしてもいいぞ」
「いいんですか、そんなことをして」
「いい、オレが許す! もしできたら、向いの多門とこの庭に放り込め。そしたら二人でも三人でも紹介してやるぞ」
決然と言い放つ右京大夫のその胸には、復讐《ふくしゆう》の二文字が青白く燃えさかっていた。
田村邸に急ぐ道すがら、さすがの伝八郎もいささか冷静さをとりもどし、頭をかかえ、
「浅野に悪いことをしたなあ」
と、しきりに舌打ちを繰り返していた。が、あれだけ大見栄をきった手前、今さらどうにもなるものではない。もとはといえば吉保が悪いのだ、素直に抱かれてればいいものを、こんな片手落ちの評定をして世間が黙っているわけがない。ザマアミロ、うらむなら吉保をうらめ、えいままよと対座すると、内匠頭は屈託なく、昼寝でもしていたのか、腫《は》れぼったいねぼけたまなこを向けてきた。
「浅野殿、あっぱれ。赤穂藩の意地を通して下され」
と伝八郎が深々と頭を下げると、さすが、
「えっ、どういうこと?」
と顔がみるみる蒼白になっていく。
「見事、腹かっさばき、御政道のあやまちを正しなされ!」
破《わ》れ鐘のような伝八郎の声に内匠頭は、
「えっ=」
一声叫んで気を失った。
午後五時、浅野内匠頭は、無紋の麻裃に着がえさせられ、切腹場所に着座させられていた。さすが観念したか、震えて声も出ないのか、ほうけたような顔をしている。どうにも、いまだに自分の置かれている立場がよく理解できていないようだった。
その内匠頭のすぐわきでは、紅潮した面持ちの武太夫が、
「肩の力を抜く。斬るのは左手だけ。右手はむしろ添えるだけにしてみよう。腰のひねり、つまりインパクトが大事だ。ひきつけて、斬る!」
ひとつひとつ自分に言い聞かせるように小声でつぶやきながら素振りを繰り返している。
切腹場正面の、伝八郎の席との距離を目測しながら首の軌跡を想像し、刀を打ち下ろす角度をあれこれ変えてみている。と、ヒョイと横を向いた内匠頭と目があった。さすがこれから首をはねるのかと思うとバツが悪く、照れ隠しにニヤリと笑うと、何を思ったか内匠頭もニヤリと笑い返してくる。
「はよ、やれ」
目を落ちくぼませた伝八郎が午後五時十五分、目くばせを送ると、受けて武太夫がつと進み出て、黒く太い眉《まゆ》をピクリと震わせた。
「拙者、本日御介錯をつかまつる磯田武太夫でござる」
と作法どおり名乗りをあげたが、相当あがっているのだろう、その声は明らかにうわずっている。右京大夫はそんな甥っ子を見て、神に祈りたい気分だった。
武太夫は愛蔵の佩刀《はいとう》、備前金虎《びぜんかねとら》の柄《つか》にゆっくりと手をかけ、大きく深呼吸した。散らし蒔絵《まきえ》が見事な朱色の鞘《さや》を握りしめたまま足で地面をならしてスタンスを決めると、大きく腰を回してそのキレを確かめる。
「なにやってんだあいつ」
伝八郎が隣りに座《すわ》った右京大夫を見てこばかにしたように声をかけた。が、右京大夫は庭を台なしにされた怒りで終始うつむいたままだ。
武太夫は伝八郎の言葉にはじかれたように、内匠頭の短い首を見据えた。茶筅《ちやせん》に結い直された髪は切腹のためにうなじを刈られていたが、それでも首は普通の人間の半分ほどしかなく、的がしぼりにくかった。
内心のあせりを悟られぬよう、武太夫はことさら大胆をよそおって金虎を抜きはなった。物打から切尖《きつさき》にかけて脂肪が浮き、肉の厚い上作の刀である。両の足に力を込め、剣先を舞いあげて上段にふりかざした武太夫の目の先で、内匠頭の短首がゆらゆらしている。
「どうした、何をしておる! さっ、おもいきりやらんか」
イラついた調子の叱責《しつせき》が伝八郎から飛び、隣の右京大夫がわがことのように首をすくめる。
武太夫は、「わかってます」というふうにそちらにうなずき、内匠頭を見据えて重々しく言った。
「では辞世を! 下の句にかかったときに刀を振りあげ、詠み終えたときに私が感想を一発入れてスパッとはねますので」
が、内匠頭は「はあ」と困り果てたような顔をするばかりで、目の前の筆と短冊に手をのばそうともしない。目前に迫った死への恐怖で筆と短冊が取れないというのはよくあるが、こいつのはどうもそうではないらしい。
「刻限にございます、内匠頭殿。辞世を読みあげられ、赤穂五万三千石の藩主として、御家臣にその意地をお見せ下され」
武太夫は小菊の懐紙の短冊を手ずから差し出した。
それを見て目をパチクリさせていた内匠頭は、
「オレ、歌とか作れないんだよな」
とさびしそうにポツリともらした。
「えっ= ご冗談を」
「ほんとなんだよ、字だってあんまり書いたことないんだ」
思わず絶句した武太夫の頭の中から、「嫁さん」の文字がみるみるかすんでゆく。
「浅野殿、ご冗談がすぎまするぞ」
内心の動揺を隠してようやくそれだけ言うことができた。
「ほんとだって、オレはだめなんだよ、そういうの」
一向に進まない切腹の段取りに業《ごう》を煮やした伝八郎が、
「どうした武太夫、辞世は!」
と声を荒げて立ち上がりかけた。元はと言えば伝八郎が切腹に追い込んだようなものである。内匠頭には申し訳ないが、こんな寝醒《ねざ》めの悪いことは、早く済ましてしまうに限る。
武太夫はあわてて伝八郎を手で制し、内匠頭の耳元に声を寄せた。
「オイ、頼むよ。オレの立場も考えてくれよ」
「だって作れないんだもん」
内匠頭は完全に開き直り、ふてくされている。
「作れないっておまえ、今さらそりゃないぞ」
「だから愛用の筆と短冊を用意してくれって言ったんだよ」
「なに、わけのわかんないことゴチャゴチャ言ってんだ!」
武太夫は半べそをかき、内匠頭の襟首をしめあげた。
「オレの幸せはどうなるんだ。この年で嫁さん貰《もら》うなんて、オレだって照れくさいよ。でもな、貰うは一時の恥、貰わぬは末代の恥なんだぞ!」
「あんたこそわけのわかんないこと言わないでよ。あんたの嫁さんのことなんか知らないよ、オレ」
「キサマ!」
武太夫は怒りのために両|膝《ひざ》をわなわな震わせ、うっせきした怒気のためにこめかみに青筋を立て、目の下から頬《ほお》にかけてはゆであげたみたいに真赤にしている。
「殺す!」
怒りにまかせて刀を振り上げると、とたん、
「あいやしばらく、しばらくお待ち下され!」
凜《りん》とした声が響きわたった。
庭の木戸を蹴破《けやぶ》るようにして転がり込んできた大石《おおいし》内蔵助《くらのすけ》である。よほど急いで駆《か》けつけたのであろう。小太りの身体じゅう汗びっしょりで、肩でハアハア息をついている。喉《のど》が渇ききり声が出せないのか、ゼーゼーあえぎながら、しっかり右手に握りしめた短冊を差し出した。
「こ、ここに殿が御愛用の筆と短冊を持参いたしました。これを殿に」
「オウ、待ちかねたぞ内蔵助!」
内匠頭は生気を取りもどし、いそいそと愛用の筆を受けとった。そして今までとうってかわった落ち着きを取りもどし、ゆっくり武太夫を見あげた。
「磯田殿、武士たるもの最期の最期まで風流心を失《な》くしてはならぬものですぞ。やはり辞世は愛用の筆と短冊を用いねば、会心の歌も詠めませぬ、ホッホッホ」
「チッ、もったいつけずにサッサとやれよ」
武太夫は、内心の安堵《あんど》をおし隠し、鼻白んだふうにして言い、それに内匠頭もカッときたらしく、聞こえよがしに、
「フン、オレだって五万三千石の大名だぞ、歌ぐらいホントはいつだって詠めんだよ」
とブツブツつぶやき、内蔵助の、
「あっ!」
というわざとらしい声にみなが気を取られているスキに、書くふりをして短冊をクルリと裏返した。そこには其角作の辞世の歌が墨痕《ぼつこん》鮮やかにしたためられていた。が、
「…………」
読みあげようとして、内匠頭は絶句した。
武太夫のほうも、あまりの手の早さを不審に思いつつ短冊をのぞき込んでみて、思わずその名句ぶりに「おお」と感嘆の声をあげた。
――風さそう花よりもなお我はまた春の名残りをいかにとやせん
散りゆく花にその身をひき比べる無念さが胸を打ってくる。武太夫は内匠頭をまじまじと見つめた。
「浅野殿、さきほどの失礼、平にお許しを。お心、お察しいたします。さ、さ、朗々とお詠みあげなされ」
「…………」
「いかがなされた、さ、さ、早く。武門の誉高き名歌、方々に御披露されよ」
短冊を渡して一安心し、汗を拭《ふ》いていた内蔵助は、「しまった」と心中で小さく舌打ちをした。
其角の書いた流れるような達筆の文字が内匠頭に読めるわけがなかった。なぜカナを打たなかったのかと思うといても立ってもいられず、どうにかせねばと、近づいて耳うちしようとした。が、武太夫から「おさがり下さい」と制せられ、前に出ることはできない。
内蔵助は、「この役立たずが」と言いたそうなうらみがましい内匠頭の目にあせり、やおら「ゴホゴホ」咳き込み、聞かれもしないのに、
「拙者、風邪をひいておりまして。カゼ!」
と、なんとか内容を伝えようとした。
短冊を持つ手に脂汗をにじませていた内匠頭も、初めの一文字が「か」ではないかとあたりをつけ、次は読めなかったが、その次は「さ」だろうと青くなって震えながら考えていた。
「殿、拙者、風邪をひいておりまして、カゼ!」
それでようやく内匠頭にも内蔵助の意図が読め、
「かぜさ……」と弱々しく歌い始めた。
「では」
と武太夫はスタンスを決め、刀を大きく振りかぶるが、「かぜさ」と言ったきり次が出ない。
辞世を詠み始めた内匠頭に注目していた検使人たちも、一向に進まぬ切腹にざわつき始めていた。
武太夫はあせり、苛《いら》ついていた、次第に表情がこわばりだし、目に白目が多くなっている。
「オイ、みんな待っているからサッと次読めよ」
鼻息荒く言う武太夫の気持ちを逆撫でするかのように、内蔵助がまたツツッと内匠頭に近づこうとする。
「おい、大石、おまえも寄ってこないであっち行ってろよ」
武太夫は神経質そうに刀で地面に丸く線を引き、
「こっちから入っちゃだめだぞ」
と内蔵助をにらみつけた。
「はは、これは失礼」
としぶしぶ元の位置にもどりはしたが、気が気ではない。
内匠頭は相変わらず短冊をためつすがめつしながら、まるで字が読めないでいる。
「さっ、どうした。いい歌ってのはわかるよ。だからもったいつけずに次サッと読めって。素直にオレは誉めたいんだから」
「かぜさ」
「かぜさはいま聞いたから次だよ」
「かぜさ」
「しつこいヤロウだね、かぜさは済んだんだって、次だよ。オレ今日はスパッと斬りたかったのよ。おちょくってんじゃないの、怒るよオレも」
武太夫の目がつり上がり、刀を持つ手がブルブル震え始めた。
目の前でチラチラする白刃に内匠頭も気が気でない。いつかんしゃくを起こした武太夫が斬りつけてこないともかぎらない。が、読めないものは読めないのだ。
「かぜさ」
「おまえオレをバカにしてんのか。なんかうらみでもあんのか。オレたち今日、初めて会ったんだぞ。仲良く気持ち良くやろうよ。おまえ、自分で書いたんだろ。第一『かぜさ』なんて言葉ないんだよ、かぜだろ、こう吹いてる風!」
「かぜ」
「そうだよ、風だよ。ホラ、さっと次いかんか、その風がどうしたんだ」
「かぜさ」
「だからさ、『さ』で切るなって。気持ち悪いんだよ、オレ、なんなんだよ、そのかぜさってのは、かぜで切れって」
「はあ」
「どうしたんだよ、あんまり緊張するな。腹切りなんてポンポンスポーンっていきゃいいんだよ。わかってくれるね、オレの気持ち」
「へえ」
内蔵助は、「早く次、教えろ」とばかりにチラチラこちらをうかがう内匠頭に気ばかりがあせっていた。
――さそう、か。さて、何がある。カサをさすか。
内蔵助はカサをさす格好をした。
が、武太夫がそれを目ざとく見つけ、
「おい大石、妙なマネすんなよ、なんのつもりなんだ」
刀を振りまわして追い払いにかかる。
「さあ、腹くくって次、読んでもらおうか」
「……ああ」
「ああ? どこに書いてあるんだそんな字が。大石、おまえ何してんだ、手をゆらして。チョロチョロすんな、座っとれ。何度言ったらわかるんだ」
「かぜさ雨がふりカサをさす」
「何言ってんの、めちゃくちゃ言うなよ。尻取《しりと》り遊びしようってのか。そんな暇ないんだよ。五だよ、五。五七五七七だよ。最初は五つなんだよ。ハハーン、大石、おまえがやってたのはカサをさす格好をしてて『さそう』をひっぱり出そうとしてたんだな。わかった、おれが教えてやるよ。最初は風さそうだよ」
「かぜさ、そう」
「変なところで切るなよ。風だよ、風、風に誘われたんだよ」
「風が誘うんですか?」
「風は誘わないよ」
「じゃ誰が誘ったんですか」
その時検使人席から、
「オレが誘ったんじゃないよ。日頃からあいつがその素振り見せてたんだ」
と伝八郎の奇怪な声があがり、みないっせいにそちらの方をふり向いた。満座の注目を一身に浴びてしまった伝八郎はハタと我にかえり、一人まっ赤になっている。それを見て武太夫が露骨に顔をしかめた。
「また多門伝八郎のヤロウ、男にちょっかい出してふられたんだぜ、どうしようもないよ。あいつ自分じゃ隠してるつもりらしいけど、他の男を見る目つきでみいんなバレてんだよ。いいか、よく聞け。オレの場合は女好きでまだ一人もんだけど、あいつの場合はそうじゃないからな、オレと一緒にしないでくれよ」
「はあ、ねえ誰が誘ったの、教えて」
「そりゃ一般的には風は誘うわけじゃないけど、これは文章上のレトリックなんだよ。オレに聞いてどうするんだよ、おまえが自分で書いたんだろうが。いちいちオレをわずらわせず、さっさと自分で読めよ。オレだって、これから死のうってやつに歌詠ませる神経は理解できんよ。だがこれは決まりなんだ。約束ごとなんだ。だからサッとやってくれよ、サッと!」
最初は検使人の手前、ひそひそ声で話していた武太夫も、もう完全に開き直り、キンキンかん高い声をうわずらせてがなり立てていた。目は血走ったまま完全にすわり、もはやまわりの状況などまるで眼中になく、ただ内匠頭に辞世を詠ませることだけに偏執的にこだわっていた。
「さっ、次いけ、まわりを気にせず」
検使役の自分を完全に無視して内匠頭と二人だけで切腹をやらかそうという勢いの武太夫に伝八郎は腹を立て、検使人席でニガ虫を噛《か》み殺し、右京大夫は予想どおりのことが予想どおりに展開していることに頭をかかえていた。
もはや切腹所は武太夫の独壇場だった。
「ほらまた大石、チョロチョロすんなよ。なんだ、わざとらしく鼻なんか押さえやがって」
「はな」
「ほらまたおまえも変なとこでブツブツ切るな、気持ち悪いんだから」
武太夫は怒りにまかせて白州の玉砂利を拾っては内匠頭に投げつけ、めくらめっぽう刀を振りまわした。
「かぜさそうはな」
「はじめが五だから、次は七なんだって。かぜさそうで切れて、はなで始まるんだよ。おまえが朗々と読みあげたところでスパーッといきたいんだよ。もう、腹立つなあ!」
そう言うと武太夫は、右京大夫が止める間もなく、三十年丹精した庭の松の枝を「キエーッ!」という裂帛《れつぱく》の気合いとともに一刀のもとにきり落とした。
「大石、今度はなにしてるんだ、ほんとにおこるぞ。なんだ、目を寄らして」
「よりめ」
「なんだよ寄り目って」
「はなよりめ」
「はなより目ってどういう意味だ」
「どういう意味でしょう」
内匠頭はオウム返しに内蔵助に聞いた。
「人に聞いてどうすんだよ、これは『も』だろ、『め』じゃないだろう。しつこいようだけど、自分で書いたんだろ。いまオレの目の前で書いたんだから」
そのとき、あまりの手際の悪さに我慢も限界に達したとばかり伝八郎が立ち上がり、
「磯田、いい加減にしないとお役御免にして多摩川に放り込むぞ!」
と憤然と言い放った。お役御免と聞いては、さすがの武太夫も自分の置かれた立場を思い出さずにはおられない。さきほどまでの元気はどこへやら、いっぺんに小声になってしまった。
「おい頼むよ、おまえしっかりやってくれよ。オレここんとこ打率三割わってんだから。ホラ、次の字はここに出てるじゃないか。ここは花だから、こっちは『な』だよ」
「よりもな」
「よりもなって何だよ。コラ大石、おまえは何も言うなって。次の字でひと区切りでしょ。わかった、おまえ字が読めねえんだな。おい、耳貸せ、オレが教えるから。『お』だよ、『お』」
「はなよりもなお」
「そうだ、そうだ。次は何だ」
「何でしょう?」
「オレに聞くなって。オレが教えたりしてるのがバレたらまずいだろう。ホラ、あそこで股《また》開げている人いるだろ、あれ見て何とも思わないか? 股だよ。オレを見るなって、他人なんだから。初めて会ったんだから。オレが教えてんのバレたらまずいからさ」
「またひろげ」
「うーん、いいとこまでいった。ひろげるというよりも、ここは気持ちよく割れてるってふうに解釈したら?」
「われまた」
「ニブイ野郎だよ、まったく。われまたは四つだよ。五つだよ五つ。まん中にひとつ足りないだろうが」
「われたまた」
武太夫は胸の内にフツフツと沸きあがる怒りを力ずくでねじ伏せた。少しでも声を荒げるとそれがいっぺんに爆発しそうだった。二、三度大きく深呼吸し、つとめて穏やかな調子を保ち、だが、ひきつるこめかみの青筋はおさえようがない。
「オレはね、はっきり言うけどね、一発で首を落としたことないからね。この前なんかね、頭のまん中斬っちゃって脳ミソが飛び出しちゃったんだよ。それでも死ななきゃ首つかんでねじ切るんだよ。わかってくれよ、オレの立場も。つらいんだぞう」
武太夫は、いよいよせっぱつまっていた。
「『われ』ときて『また』とくりゃ、まん中には『は』が入るだろう」
「われはまた」
「よおし、その調子でサッと次いけ。腹切りはテンポ、テンポ」
「…………」
「どこ見てんだよ、おまえ、ちょっと頭おかしいんじゃないか。短冊の白いとこ見てどうすんだよ、行がかわってんだよ。おまえ、あぶり出しで出てくるんじゃないんだよ。字は黒いとこでしょ、ホラ」
内匠頭は、こんなことならもう一刻も早く腹を切って果てたかった。が、自分の辞世にこれほどまでに真剣になってくれる武太夫には何としても応えなければならない。しかし、いかんせん、次もやはり達筆すぎた。
「いちいちオレをすがるような目で見るなって。みんなが見てるから。耳出せ、『はるのなごりを』だよ」
「はるのな、ごりを……ごりって何だろう?」
「おまえ、ごりって日本語あるか、言ってみろ」
検使人たちの席がまたぞろ騒がしくなっている。あまりに待たされるので退屈してアクビをしたり、私語を交わしたりしているのだ。武太夫は目をつりあげてそれを一喝《いつかつ》した。
「おい、みんな真剣に聞いてやれよ、こいつだって一生懸命なんだから。アクビなんかするやつがいたら、そいつからまず首はねるぞ! さっ、次は『いか』だよ」
「いか」
「『に』だよ」
「いかにかに、かにですか? いかとかに?」
「いかにとかに? 『いかに』だよ。このバカ、耳も悪いのかよ、もう。『と』じゃなくて『に』だって」
「いかにかに」
「カニはないの」
「いかにかにかに」
「三匹も出しやがってこのバカ」
「あ、バカだって。いかにかにかにかに」
「五匹も出すことはないだろう、バカが」
内蔵助がヤバイと思ったのもつかの間、バカ、バカを連発された内匠頭はたちまちヘソを曲げ、黙りこんでしまった。
「ふてくされやがってこの。わかったよ、あやまるよ。悪かった、バカって言って」
武太夫も内匠頭の性格がわかってきたか、素直に頭を下げた。
「オレが悪かった、勘弁してくれ。な、だからこういうふうに考えてみろ、海の中にはカニはいない。イカだけだよ。いいか、漁師がイカつって来てそれを煮て食うとうまいだろう?」
「イカ煮?」
「それ、それ、イカ煮。ほら大石、オレが責任持って悪いようにしないから、おまえもチョロチョロ教えるなって。いまようやくこいつが自力で読もうとしてるんだ、暖かく見守ってやろうよ。おまえがそうやってすぐに横から教えるだろ、だからこいつがいつまでたっても成長しないんだよ。よし、もう検使人なんかかまうな。どうせ読めねえんだから、もっともらしく短冊のぞき込まなくたっていいんだよ。しかし世の中に自分で書いといて読めねえなんて人間いるのか? いいか、イメージでいくぞ。イカ煮のおかずがあったら何して食べたい? 三文字!」
「いかにかにかにかにいかにのダンス」
そのまま武太夫は棒を飲んだように身体を硬直させ、泡を吹いてうしろにぶっ倒れた。しばらくの間、四肢を細かくけいれんさせていたが、突然ガバと跳ねおき、哀しそうに内匠頭を見つめた。起きあがった武太夫の額にあぶら汗がにじんでいる。
「好きだ、オレはおまえが好きだ! 兄弟みたいな気がしてきた。でも、はぐらかすな。イカ煮は何と食べたらおいしい?」
「ごはんですか?」
「うん、近い。『ん』だけね。いまオレが言いたかったのは、『ん』がいちばん最後に来るってことだけ。で、第二ヒントね、食いもんとか動物は捨ててくれ」
「おい、おまえら、クイズ合戦やってるときじゃねえだろうが!」
もうたまらんといった表情で、伝八郎が裸足《はだし》のまま庭に降りてきた。
「とにかく、どうなってんだ。おまえら二人、できてんじゃないのか。おい、武太夫、何がどうなってんだ」
「……まったく男二人見りゃできてんじゃないかと思うんだからやりきれねえよ。はっ、イカ煮が」
「イカ煮てどうすんだよ、イカは塩辛だよ」
「イカ煮と塩辛?」
とますます混乱する内匠頭。
「だから食いもんじゃないって」
と武太夫。
「だっていまこの人言ったもん」
「オレが何を言ったんだ」
伝八郎の顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「えっ、オレが何て言ったのよ。あたしが何をしたって言うのよ。憎ったらしいわね、この赤っ鼻が。あんたなんかさっさと腹切っちゃえばいいのよ」
「まっ、伝八郎殿、ここはこらえて。私におまかせ下さい」
と、武太夫があわてて二人の間に割っていった。
「おぼえていろ、このチビ」
「なんだよ、オカマ」
「あっ、ちきしょう、殺す、殺してやる。オカマだって一生懸命生きているのよ。なにが悪いのよ」
よほどの思いがたまっていたのか、伝八郎は武太夫の刀を奪い取ると、「キエーッ!」と怪鳥のような叫び声をあげて内匠頭に斬りかかった。が、チビで身の軽い内匠頭は、すばしっこくそれをかわしながら庭狭しと逃げまわり、伝八郎は刀をブンブン振りまわしながら、それを追いかける。自慢の苔を踏み散らかし、玉砂利を蹴立てる二人に右京大夫が泡を吹いてぶっ倒れた。
武太夫と内蔵助があわてて止めようと大男の伝八郎の腰に次々とタックルを試みるが、それをものともせず、腰に二人をぶら下げたままズンズン進んでゆく。が、二人が手を放した瞬間、勢い余ってつんのめり、庭の池に頭から突っ込んだ。すさまじい水しぶきがあがり、打ち上げられた錦鯉《にしきごい》が白州でピクピクはねている。伝八郎は腰まで水につかったままオイオイくやしそうに泣きくずれた。田村家の家臣に両わきを支えられるようにして湯殿に連れていかれる伝八郎を見送りながら武太夫は、うんざりしたように、
「おいおまえ、あんまり人を傷つけるようなこと言うなよ」
と、ようやく切腹の座に戻った内匠頭に言った。
「でも、あいつチビって言ったから」
「そうだな、人間誰しも一つはふれてもらいたくない欠陥があるもんな」
「うん」
「まっ、機嫌なおして。さっ、あと少しだから元気出していこう。いいか、食いもんと動物は捨ててくれ。イカ煮と何だ?」
「イカ煮とリボン?」
「んーっ! また遠くなったね。オレを兄貴だと思え。お前が字も読めなかっただなんて絶対誰にも言わない。オレを信じろ。ごはんはいらないと言った意味はな、人間ごはんを食わなくなったらどうなる?」
「やせます」
「そ、やせる。ダンス、ごはん、リボン、はい、もう連想ゲームだ!」
内匠頭は額にシワを寄せ、必死で考えた。
「あせるな、落ち着いていけ。オレがついてるぞ」
まるで本物の兄のように暖かく内匠頭を励ます武太夫に、内蔵助は心の中でそっと手を合わせ、自らも祈るような心持ちで内匠頭を見つめた。
一瞬、内匠頭の顔が輝いた。
「ん= いかにとやせん」
「出来た= よかったぞ、おまえもこれで立派な武士だ」
武太夫は内匠頭の手を取り、ガッツポーズをつくって、あたりをピョンピョン飛び跳ねた。
「オレ、モーレツに嬉しいよ。もうこの歌の意味がどうこうなんて問題じゃないね。聞いたか、アホだのヌケだの言われたこいつが、自分の力で最後の三文字を読んだんだ。オレ、モーレツに感動してるんだ。人間っていいなあ。オレ、よく誤解されるけど、ほんとは、感激屋なんだ」
目頭を押さえる武太夫を見て内蔵助も胸が熱くなっていた。
武太夫にバシバシ背中を叩《たた》かれながら、内匠頭も感涙にむせんでいた。今まで何一つとして自分の手でやり遂げたことのない内匠頭だった。家臣からさえバカ殿呼ばわりされ、またそうされることが自分のもって生まれた運命だとさえ考えていた。が、短い人生の最後の最後に来て、自分自身の力でなにかができることがわかって、内匠頭は嬉しかった。
「よーし、じゃ最初からやってみるぞ。おまえがスラスラ読みきったところでストンと首を落としてやる。安心しろ、ポンと首を宙に舞わせて一回転してから落とすくらいのことはしてやるよ。オレを信用しろ。オレ、力いっぱいやるよ。オレ、おまえのこと一生忘れられないよ。さっ、みんな待ってるし、そろそろいってみるか」
内匠頭は居ずまいを正し、うって変わった穏やかな表情で深々と頭を下げた。
「磯田殿、この御恩、決して忘れません。内蔵助、あとを頼むぞ」
まるで別人のようにキリリと言い放つと、辞世の歌を朗々と詠みあげた。
――風さそう花よりもなお我はまた春の名残りをいかにとやせん
その顔は武士としての面目をほどこし、晴れ晴れと輝いてみえた。
せつな、浅い春を切り裂くように武太夫の備前金虎が一閃《いつせん》した。「ズン」と鈍い音が響き、朱に染まった玉砂利に桜の花がハラハラと舞い落ちた。
胴体を離れ、宙空に軽い軌跡を描いた内匠頭の首は、薄れゆく意識の中で妻阿久利《あぐり》のことを思った。嫁いで二日、顔さえろくに見たこともなく、ましてや閨《ねや》を共にすることさえなかった阿久利。
――どうやら誰かの膝の上に着地したらしい。
生首をかかえた男のあげる悲鳴が、内匠頭がこの世で聞いた最後のものだった。
武太夫は泣きじゃくり内蔵助に詰め寄った。
「おい、いま見てたろ、こいつはバカだが、バカなりに一生懸命だったんだよ。これから死のうってんだ、たいてい恨みつらみの一つも言うもんだよ。それがこのバカは歌詠むのに必死で、死んでいったんだよ。偉いじゃないか。おまえ、このまま済まそうなんてしたら、オレが絶対許さないからね。バカがバカなりに一生懸命やったんだ、なんとかオレたちで報いてやろうよ」
別の間にしつらえられた瓦版屋《かわらばんや》たち相手の記者会見では、磯田武太夫のいつもの気負った話ぶりとは違う淡々とした口調が聞く者の心を打った。たあいもない大名同士の喧嘩《けんか》というせいか記者の集まりも悪いし、たいした質問も出ない。内蔵助がホッと胸を撫《な》でおろそうとした時、其角が手を上げた。
「吉良様はおとがめなしで浅野様は切腹、どうみてもこのお裁きは片手落ちだと思うんです。このままでは武士として引くに引けないと思うのですが、仇討ちは考えていらっしゃるんですか」
場内は騒然とし、内蔵助は息をのんだ。なおも其角は執拗《しつよう》に続ける。
「この辞世の表の意味は、散りゆく花の憐《あわれ》さをたとえてありますが、裏の意味は、必ずやこの恨みをはらしてくれと、とれますが、どうでしょう大石さん」
一度去りかけた記者たちが、ワッという歓声とともに振り向いた。うつむく内蔵助にかわって目にいっぱい涙をためた武太夫が立ちあがった。
「あたりめえだ、あんないい奴に腹切らせといてオレがこのままひきさがれるか= オレたちは義兄弟の契りをむすんだんだ。最近の男どもは大体家庭を大事にしすぎる。女房がなんだ、子供がなんだ、大切なのは友情だよ」
伝八郎も静かな炎を燃やした。
――そうだ、このままひきさがれるものか、かなわずとも押して押して押しまくろう。いつかはわかってくれる日がくる、それが愛だ。
稽古《けいこ》始め
着物の裾《すそ》をからげて走りながら、其角は内蔵助のひきつった顔を反芻《はんすう》していた。
――これであの男は動く。
そう考えるとむしょうに嬉《うれ》しかった。近松が心中屋ならオレは仇討ち屋だ。紺地に「たつみ版」と白抜きされた瓦版屋の暖簾《のれん》を勢いよく跳ねあげ、下駄を脱ぐのももどかしく座敷に駆けあがると、おりしも今夜分の刷りにかかろうとしている作業場に飛び込んで大声で叫んだ。
「藤《とう》右衛門《えもん》さん、今夜の分刷るのやめてくれ! いいネタ仕入れて来たから」
雑然ととり散らかった殺風景な部屋で職人たちにまじって版下の点検をしていた藤右衛門は、勢い込んだ其角の声にいぶかしげな目を向けた。
髪にそろそろ白いものが目立ちはじめた藤右衛門は鶴《つる》のようにやせた老人で、「たつみ版」のオーナー兼編集発行人である。其角は契約ライターとして月に何本かルポルタージュ記事を藤右衛門のもとへ持ち込んでいた。
刷り損じた瓦版で足の踏み場もないようなうす汚れた床に座りこんだ其角は、藤右衛門の当惑など委細かまわず、絵師に向かって、
「浅野内匠頭が腹かっさばいているところの絵を一枚描いてくれ。顔は水もしたたる美男子の大名ってことにして、血しぶきをパーッとあげてくんな。それと、吉良上野介はできるだけ強突《ごうつく》ジジイってふうにな」
と注文をつけるや、巻紙に向かい恐ろしいほどの勢いで筆を走らせ始めた。頭の中をぐるぐると駆け回るあふれるような構想を一気に吐き出す、力強い筆運びである。この目論見《もくろみ》が成功すれば必ず近松に勝てるという予感に其角は身震いする思いだった。
まだ墨も乾ききらぬ試し刷りに目を通した藤右衛門のシワだらけの顔は、困惑の色が濃かった。
「たしかによくできた記事だ。だが、あんまり事実と違いすぎる。浅野の殿様のアホウぶりは、この江戸中で知らねえもんはいねえし、城代家老の大石内蔵助だって飲み代を踏み倒したり、町の娘に手をかけたり、誰も味方してくれるやつはいねえぜ」
「そこをやるのが瓦版書きよ」
「いや、あんたの筆は信用してるが、すれっからしの赤穂の家来どもが仇討ちするかね」
「そこをオイラたちが尻たたくのよ」
「無理だと思うんだがね、あの連中は。仇討ちどころか金目の道具類をゼニにかえて、早えとこトンズラしようってことしか考えてねえよ」
腕組みし、白髪まじりの無精ヒゲをなでながら、しばらく思案していた藤右衛門も、執拗な其角の言葉についにはおれ、仕方なさそうに笑った。
「よし、あいつらが仇討ちしなきゃ、オイラたちが仇討ちすりゃいいんだ。みんな、刷りにかかっておくれ!」
「オウ!」
活気に充ちた声が作業場に響きわたり、職人たちが大車輪で印刷にかかった。十枚、二十枚と、刷りあがるはじから売り子たちがそれをかかえ、辻々《つじつじ》へと駆け出していった。
二回以降の連載の大筋を藤右衛門と打ち合わせ、「たつみ版」をあとにした其角は、その足で日本橋の中村座へ向かった。
陽はすでに暮れかかり、茜色《あかねいろ》に染まった夕焼け空をバックに、江戸の町並みが黒くシルエットになって浮かびあがっていた。
すでに人通りも少なくなった日本橋のたもとに、中村座はひっそりとムシロをあげていた。いつもならばこの大川端《おおかわばた》で、役者たちが夕餉《ゆうげ》の仕度の鍋《なべ》や釜《かま》を洗っている頃《ころ》なのに、今日は影も見えない。そのかわり、日暮れとともに木戸を閉じるはずのむしろ小屋に明りが灯《とも》り、人の気配がする。
怪訝《けげん》に思いつつ木戸をくぐり、むしろの中をのぞいてみると、ローソクの明りに照らされた舞台の上で、七五郎が「待ってました」とばかり、ニッコリほほえんで其角を手招きした。見れば庭の書き割りをバックに、今朝方の大石内蔵助とそっくりの羽織と袴を身につけている。
「其角さん、待ってたよ」
「おう」
「いい目の濁りかたしていなさる。どす黒い盗っ人の目だ。いまのあんたなら近松に負けやしねえ」
「いまなら志乃さんもなびいてくれるかね」
「そうとも」
「まあ、そんなことは今はどうでもいい。どうしてオレが来るとわかった」
「こんなおいしい事件、あんたが見逃がすわけないと思ってね、フフフ」
七五郎は、どうだと言わんばかりに胸を張った。
「さっ、用意はすっかり整ってるぜ。あんたの好きなようにやりなせえ」
そう言ってアゴをしゃくる方を見ると、幔幕《まんまく》を張り切腹所に見立てた前に三方を置いて、長裃《ながかみしも》をつけた侍姿の美しい顔立ちの役者が座っている。長いまつげをまぶしそうに伏せて其角に会釈《えしやく》したのは、やつれた坂田藤十郎《さかたとうじゆうろう》だった。薄化粧で隠しているものの大坂《おおさか》で見た時とはうってかわってオドオドとした様子で落ち着きがない。
その向こうの袖《そで》には、中村座の役者たちがそれぞれの衣裳《いしよう》をつけて勢揃《せいぞろ》いしている。どこで調べたか、それとも当てずっぽうなのか、猫背の上野介《こうずけのすけ》もいるし、着流しの大高源吾《おおたかげんご》もいる。
「ひとつ面白い仕掛けができやしてね」
七五郎は、其角をいたずらっぽい目で見て藤十郎の傍に歩み寄り、
「こいつを見てくんなせえ」
と藤十郎の、袴から出ていた糸を引き抜いた。すると長裃がハラリと落ち、切腹の白装束へと早替わりした。
仕掛け好きの七五郎は会心の笑みをもらし、其角に言った。
「どうだ、うまくできているだろう。『命|乞《ご》いだの自省致しませぬ』と大見栄切るところだ」
「好きだね、七五郎さんたちは、こういう男っぽさが」
「根が女々しいもんで、せめて芝居くらいは凜々《りり》しくしなきゃ、やってられませんぜ」
「そういうもんか」
「ハハ、もちろん台詞《せりふ》はあんたがつけてくれなきゃ困りやす」
「ああ、江戸中ひっくりかえしてやろうじゃないか」
「さっ、其角さん台詞を入れてもらおうか」
「さあて、口立てでやるからしっかり覚えてくんな」
それを聞いて、すでに七五郎から役をふりわけられていたのだろう、役者たちはそれぞれの持場に板付きし、其角の指示を待った。
「まず、その引き抜きからいこう。切腹の場だ。浅野が『一つお願いの義がござりまする』。すると目付が『殿中を騒がせ、この上命乞いをするつもりか』と言う。『なんと』と受けたところで引き抜きをやる。白装束に変わった浅野が居ずまいを正して、『もとより切腹は覚悟でございます。が、もしや吉良上野介めを討ち漏らしし折の無念、御推察下され。吉良殿のお命、奪いせしか否かお聞きするまではこの浅野、死んでも死にきれませぬ。武士の情けでござる!』浅野の悲痛な叫びに目付も吉良の浅疵《あさで》を伝えるには忍びなく、『御安心めされ浅野殿、吉良殿が傷は深く、何ぶんにも御老齢ゆえ、一命のほどはどうかと存じます。今日明日のお命とうけたまわっております』。それを聞いた浅野は、嬉し涙にくれる」
七五郎は、
「いいんですよ、こういうのが。あっしら河原《かわら》もんで、性根が腐ってますから、なおさら忠だの孝だののために死にてえんでござんすよ。はやい話、ねえものねだりでござんすよ。あっしら恥も悋気《りんき》も御法度《ごはつと》の、喜怒哀楽をとうの昔に失っておりやすが、あっしらだって人間でござんす。人並みの心は持ち合わせているんでござんすよ」
「…………」
「其角さん、いままで黙っておりやしたが、お志乃は娘じゃござんせん。あっしの女房だったんでございます。が、近松に出逢《であ》って、こりゃかなわないと思いましてね、あきらめるしかなかったんでござんすよ」
其角は愕然《がくぜん》として七五郎を見た。が、女房を寝盗られたというこの男は、能面のような表情をくずすことはない。
「この世界のおもしれえとこは、力のあるやつだけが、何をしても許されるってとこなんですよ。あの人は舞台の上のつくりもんの喜怒哀楽を本物に変える才能をお持ちだ。そしてなにより、それが面白いから客もつくんです。面白きゃいいんですよ、この世界は」
「…………」
「一言いっときますが、たとえお上《かみ》からこの出し物中止にしろって言われたってあたしら引き下がりませんからね。たとえ打ち首になったって、やりたいことやりまさあ。それでこそ本望でさあ。あっしもさらし首になって、この藤十郎も近松をみかえすつもりでござんす。其角さん、あっしらあんたにかけてるんでござんす。あっしら、生きててもこれ以上、落ちるところはないんでございますからね」
薄暗いムシロ小屋の中で、其角をとりまく河原乞食《かわらこじき》たちの目が異様な光をみせた。
暑い夏
播州《ばんしゆう》赤穂《あこう》藩は表向き五万三千石であったが、良質の塩を産し、実質は七、八万石はあった。瀬戸内海の温暖な気候のせいか、人の気質は大雑把《おおざつぱ》にできあがっており、そのため、きびきびとした行動と気っぷの良さを第一とする江戸の人たちの目には、何ごとにつけのんびりおっとりした赤穂の浪人たちは、どこかだらしなく映り、不評をかっていた。
そのうえ、当時貴重品の塩を産することを鼻にかけ、「すもうとりまで塩で買い」と歌われたように、女郎への代金の払いに塩をつきつけるという日頃《ひごろ》の傲慢《ごうまん》な振舞いは、江戸の人々から愛想づかしされており、仇討ちなど待たれてはいなかった。そんなわけで、一部には盛りあがりをみせるかと思われたこの松の廊下事件も、二日後、日本橋全域を焼きはらった大火事のせいもあって、二度と瓦版《かわらばん》の紙面を飾ることはなかった。
中村座のムシロ小屋でさえ、しばし家を焼けだされた者や負傷者の慰安所としてあてがわれ、稽古《けいこ》どころではなかったのである。
さらに、松の廊下の一件を舞台に上げようとする河原者《かわらもの》たちが風紀を乱すものとして次々と狙《ねら》いうちにされ、所払《ところばら》いに処されるということもあった。
風紀をひきしめるための河原乞食狩りが、世の習いとはいえ、裏方合わせて十人足らずの中村座にまで町役人が見廻りに来るというほど熾烈《しれつ》をきわめたことはかつてないことだった。それだけ幕府は、この片手落ちの評定《ひようじよう》に神経質になっていたのであろう。
其角はこれだけおいしい事件に近松門左衛門《ちかまつもんざえもん》がなぜ名乗りをあげないのか不思議でならなかった。やはり、まず損得を考える大坂の人間には、一銭にもならない主君の仇討ちなど客が飛びつくはずがないと思えるのだろう。
しかし、この大火事はどういうことだ。多門伝八郎に似た男が、女ものの襦袢《じゆばん》に薄化粧で、目をひきつらせ、たいまつをかざして深夜江戸の町を走り回っているという話は別にしても、河原者たちが噂《うわさ》するように、松の廊下事件の風あたりをかわすために御側用人柳沢吉保《おそばようにんやなぎさわよしやす》の手下の者が火をつけさせたということはありうるのかもしれなかった。しかし、それだけのために三十人もの死者を出すか? 其角はまだ見ぬ柳沢吉保に底知れぬ恐しさを覚えた。
四月も半ばになると、奉行所にひったてられていた団十郎、菊五郎が解き放たれた。が、その後彼らもまた松の廊下の一件を舞台にのせることはなかった。やれといっても、できるものではなかった。客はすでに忘れさっている。なによりも、演《だ》しものとして、咲きこぼれる桜の花の明るさに、恨みつらみは似合いはしない。
それでも堺《さかい》町の河原では、中村座が稽古を続けていた。
そして、ギリギリまで城を枕《まくら》の討ち死にの姿勢を保っていてくれと頼んでいた内蔵助がスンナリ開城に応じたとの知らせが入った日、決して泣きごとを言わない七五郎が、売れゆきが悪く回収された前売りの切符を破り捨てながら、ポツリと言った。
「この演しもの中止にしませんか」
「なぜだい」
問い返す其角の声も心もとない。第三幕の赤穂城で、開城か籠城《ろうじよう》か、思い悩む大石内蔵助の場から、一向に先に進まない台本の余白をにらみつけていた。
「あたしらお武家さんになんだかんだ言えた義理じゃありませんが、実際赤穂の方々、特に主税《ちから》さんなんか見ていると、討ち入りしそうな感じじゃないんですよね」
と七五郎は、毎日稽古の見物にきている大石内蔵助の嫡子、主税を指さし、
「主君が討たれてどうしてああ太れるもんですかね。丸々太っちゃって、仇討ちするより相撲取りになったほうがいいんじゃないですかね」
言いつつ、慣れぬ中傷の言葉に自ら赤面するのである。
「あっ、いや、僕そんな」
主税もまた薄皮まんじゅうのような顔をまっ赤にしてうつむいた。
元服前の若衆姿はしているものの、小太りの父内蔵助をひとまわりもふたまわりもふくらませた超肥満体で、太鼓腹と太い足が邪魔して正座ができず、だらしなく両足を投げ出し、壁によりかかるようにして座っている。目は肉と肉に埋まり一本の細い線になり、意地汚なそうなぶ厚い唇のまわりには、うっすら青カビのような不精ヒゲさえのびている。
七五郎はよほど我慢していたのだろう、堰《せき》を切ったように喋《しやべ》りだした。
「主税さんだけじゃないですよ、片岡《かたおか》さんも堀部《ほりべ》さんもあまり街歩いてほしくないって感じなんですよね。この人たちが街歩くたびに前売り券がつっ返されるんですから」
ムシロ小屋の隅で車座になって酒盛りしていた浪士たちが、いっせいに首をすくめた。
「大高さんなんかいい役まわりだと思うんですよ。討ち入りをひかえた十二月に、煤払《すすはら》いの笹売《ささう》りに身をやつしているところを両国《りようごく》橋のたもとで昔なじみの俳諧《はいかい》師とバッタリ出くわし、その昔なじみが『年の瀬や水の流れも人の身も』って大高さんの零落を哀れんで詠みかけるのを『あした待たるるその宝船』と受け、仇討ちを打ち明けることのできないその苦しい心中を句にたくすんですからね。おまけにその昔なじみは、大高さんの心を察して、寒さしのぎにって着ていた羽織を差し出すって段取りなんですから」
むろん書いたのは其角で、やりきれなさは同じだった。
「それに早野勘平《はやのかんぺい》さん、討ち入り決行と聞いて、その仕度のために惚れて惚れぬいた恋女房を女郎に出して金を工面するんですよ、泣けるじゃありませんか。だからみんなもストーリーに合わせて少しは節制してほしいんですよ」
七五郎の怒りは他にもあった。予定していた春の演しものをつぶしてこの「忠臣蔵」に賭《か》けたのだ、このまま盛りあがりをみせなければ、中村座の命とりになる。
そのうえ、次の公演まで食いつないでいかなければならないところなのに、夕刻になると赤穂の浪士たちが三々五々集まってきてはメシを食っていく。それも、最初はおとなしくしていたのが、このごろは「オレはもうちょっといい男だ」とか、「オレの見せ場をつくれ」とかグダグダ言いがかりをつけ、勝手に台詞《せりふ》を加えたりするのである。
一座の役者たちも最初は、「オレたちが世の中ひっくりかえすのだ」との言葉に共感していたものの、今ではこの演しものをもってきた其角を厄病神のように言い始めていたのである。
立ち回りの振り付けにきていた気のいい磯田武太夫もさすがに愛想つかして、
「おまえら、ここにきて油売ってる暇があったらチラシでもまいてこい。オレだって一生独り者で生きてくことを決心して手弁当で応援に来てるんだから。おまえらだって捨て身になってくれよ」
声を嗄《か》らして訴えるのだが、シュンとするのもその時だけで、夕刻にはまた女房子供までひきつれて、メシをたかりに集まってくる。こそこそとムシロ小屋を出入りする浪士たちの後ろ姿を見ながら、七五郎は顔をしかめた。
「とにかく、前売りを買ってくれるのは吉良上野介さんだけらしいですよ」
「へっ」
其角は驚いたように顔を上げた。
「よほど松の廊下じゃ嫌な目にあったんでしょうね」
「何があったんだろう」
「あっしもまだ御本人には会ったことはないんですが、噂によりますと毎晩、赤鼻の猿《さる》から糞壺《くそつぼ》にひきずりこまれる夢を見て、眠れないそうですよ。頬《ほお》はこけて目は落ちくぼみ、見ちゃいられないって言いますから。なんかこの芝居で厄払いできるって思ってるんですかね」
「でも吉良さんの役は憎まれ役にしかならねえぜ」
「それは本人も覚悟してるみたいですよ。それがよけいいじらしくて」
「今さら吉良さんをいい役まわりにするわけにはいかないからな」
「でないと役者が言うこと聞いてくれません。ここんとこの立居振舞を見てて、もう誰《だれ》も赤穂の浪士の方々のために役づくりする気はねえですぜ」
「しかし」
「いや、ムリは承知でござんす」
浪士たちから、「河原乞食ふぜいが」と二言目には罵声《ばせい》を浴びせかけられている役者たちが、よほどひどい屈辱を受けたのだろう。酒盛りのあとかたづけをしてながら、一歩も譲らないといった顔つきである。
「それじゃ芝居にならねえぜ」
が、七五郎は初めからムチャは承知とばかりに、
「どうでしょう其角さん、この演しもの、しばらく中止にしといてくれませんか。もうすぐ夏になりやす。あっしら祭を追いかけて旅に出なきゃなりません。正直言って持ち金が底をついたんでさ」
其角も仕方なく、
「一気に仇討ちしてくれりゃボロも出なくてすんだのにな」
「赤穂の方々のやる気が出ないことには、どうにもなりませんわな」
七五郎はすっきりした顔つきで、そそくさと旅仕度にかかる。
「田村右京大夫って御老人はまだ飛び込んでくるかい?」
「ええ、切腹の場面になると飛び込んできちゃあ、庭が、苔《こけ》がってわけのわかんないこと言って、舞台の飾りものぶち壊して、あっしらほとほと困っていやす。が、飛び込んでくるのは田村さんだけじゃありません。多門伝八郎という方なんぞ、女ものの襦袢を着て前をはだけてヨダレを垂らし、誰彼の見境いなく飛びかかってきやす。大男で力の強い人ですから、二、三人で飛びかかったって止められやしません。あっしら河原乞食には怖いもんなんかありゃしませんが、あの人だけはどうにも気色悪くってかなわねえ」
まだ四月の終わりだというのに、七五郎たちは、夏が過ぎたら帰ってくるとだけ言い残し、小屋をたたんで大八車に分散し、ハタハタのぼりをはためかせ、北へ向かった。
日本橋のたもとには、中村座のあったところだけ土がむき出しのガランとした空き地として残っていたが、それもいつしか雑草が生い茂り、ただの草っ原に変わってしまった。
近松の言を借りれば、討ち入りは待つものではなく、させるものだということになるが、今の其角にはなすすべがなかった。あの男は何を考えている? 決して自らは、中村座に姿を見せたことのない大石内蔵助の細い目の奥のしたたかな光を其角は思った。
五月になり、紙で作ったカブトや鯉《こい》のぼりを持った子供たちのはしゃぐ声が、掃き溜《だ》めのような貧乏長屋にもこだましていた。
品川寺の鐘供養も過ぎて端午《たんご》の節句を迎えた江戸の町は、行く春を惜しむ間もなく夏を待っていた。
すでに松の廊下の一件は人々から完全に忘れさられてしまっていた。
ここにきて其角の生活は急に楽になっていた。それぞれの辞世を懐に討ち入りするという段取りだったので、三十ばかり作ってあったのを惜しむことなく片っ端から叩《たた》き売ったのである。其角はその金で酒びたりの日々を送っていた。
あれだけ仇討ちに熱心だった武太夫にも縁談話がもちあがり、最近はちっとも蛙長屋に顔をみせない。ついこのあいだまでは、お互いに独身という身軽さのせいで、其角と武太夫はよく互いの家を行き来していたのだ。気さくでひょうきんな性格の武太夫は、ぶらりと蛙長屋に訪ねてきては、
「おっ、まだ嫁さんもらってませんね」
と其角を牽制《けんせい》する。かと思うと其角を夕食に招き、こまごました家庭用品を買いそろえるのが趣味らしく、一式そろった台所用品を自慢げに見せ、ピカピカに磨きあげた鍋《なべ》や釜《かま》を手に料理を作りながら、
「これでいつだって嫁さんもらえます」
と胸を張ってみせる。そして、自分が独身なのを棚に上げて、
「其角さんは女にやさしくしてやらないから嫁が来ないんだ」
と臆面《おくめん》もなくモテるための秘訣《ひけつ》とやらを伝授してくれるのである。其角はそんな武太夫を思い、くすりと思い出し笑いをした。
七五郎からは、浅野家がお家再興されるという噂を聞いたが本当だろうかという打診の手紙が一度きたきりで、あとは音信不通だった。
こうして其角は、昼間から綿のはみ出たセンベイ布団にゴロゴロ横になり、ときたま思い出したように枕元《まくらもと》の徳利に手をのばしては一気にあおるという生活にひたりこんでいた。身体を動かすたび、開け放った入口から差し込むまぶしい陽差しの中に細かな塵《ちり》や埃《ほこり》が舞い広がった。あたりには書き損じた反故《ほご》紙が散らばり、部屋の隅の文机《ふづくえ》の上には、吉良上野介から贈られた水菓子が籠《かご》に入ったまま手をつけられることもなく、しなびて茶色く変色している。
この上野介というのはよほど律儀な人らしく、其角が時おり「たつみ版」にのせる松の廊下の後日談についても、一人だけまめに感想を書いてくる。そしてどういう性格なのか、上野介は討ち入りを恐れ、秘密の抜け穴をつくっていると書けば本当に穴をつくりにかかり、目がつりあがり、ワシ鼻とかけば、それに似せようとメイク術を研究しているそうである。
また、夕暮れどきになると、中村座のムシロ小屋のあとにぼんやりと立ちつくしているという噂を聞いて、其角が様子を見に行くと後ろ姿があまりにいたましく声をかけることができなかった。家人からでさえ「ワイロ取っておとがめないのはおかしい」と愛想つかされ、いまは一人暮らしをしているという。今日も遠くで見ていると、原っぱで子供たちから棒でつつかれ、抗う力もなくなすがままにされていた。
日々は其角の上を無為に通り過ぎて、季節は梅雨を迎えた。
そんなある日、
「こんにちは、其角さんいますかあ、勝手に入りますよ」
うっとうしい梅雨空を吹き飛ばすかのような、どこまでも明るい屈託のない声がして、入口の腰高《こしだか》障子の陰から内蔵助《くらのすけ》がヒョイと顔をのぞかせた。細い目を一段と細くして人なつっこそうな笑いを浮かべ、手土産がわりに下げてきた西瓜《すいか》を持ち上げてみせる。
「まだお休みですか、結構な御身分ですな。あたしら仇討ち暇なしでてんてこまいですわ、ハハハ」
カン高い笑い声がガンガン耳ざわりに響いた。が、其角はその細い目の奥にあるものは三月に初めて訪ねて来たときよりも一層冷たい光を帯びているように思った。
「まあ、入んなよ」
腕枕で横になったまま、其角は起きあがりもせずに言った。
「いやあ暑い暑い。まだ六月の初めだっていうのに、この蒸し暑さはどうしたもんでしょうかね。これじゃ仇討ちもうだっちゃうというもんだ、ハハハ」
「変わらないね、あんたのその人を食ったような話ぶりは」
「ハハハ、梅雨知らずの気候に育ったせいですかな」
「何だい今日は。話があるなら早くしてくんな。オレは身体中カビが生えちゃって、起きあがるのも面倒なんだ」
「いえね、ちょっと吉良さんとこに将棋さしにいってましてね」
「将棋?」
「いや、吉良さんとすっかり意気投合しちゃいましてね」
「ほう」
もうこの男のやり方にいちいち驚いてはいられない。
「そのついでに寄ってみたんです。そうそう、あなたによろしくって言ってましたよ」
「よろしくって?」
「あきらめずに書きつづけろってことですよ」
「あんたらが動いてくれなきゃ、書きようがないんだがね」
「そこですよ、今日相談にあがったのは」
「…………」
「いやあ、吉良さんってのは出来た方で、話してると心が安らぐんですよ」
「しかし、あんたという人は誰とでも仲よくできるんだね。大した才能だよ」
「何言ってんです、弱いもんは助けあっていかなきゃ、いわばあたしら被害者同盟ですからね。ここは心を一つにして難問にぶつかっていかなきゃ。其角さんも他人ごとのように思っちゃだめですよ」
「負けるよ、あんたには」
「吉良さんという人、根はいい人なんですよ。悪気はないんですが、まわりで陰気にさせるんですな。生まれあわせが悪いというか、いるんですね、ああいう悪い星の下に生まれた人が。じっくり話を聞けばわかる人なんですが、今はじっくり話を聞いてくれる世の中じゃありませんからね」
言いながら取り出した手ぬぐいでしきりに汗をぬぐう。その汗のにおいさえも其角は不愉快で鼻をつまみたくなった。
「とかなんとか言って吉良さんとこに小遣いせびりに行ってるんじゃないのか」
「そんな、濡《ぬ》れぎぬですよ。なんかのたしにって先方が勝手にくれるんですよ」
当たっているのだろう、内蔵助は耳まで赤く染めて否定する。
「じゃ、なんかのたしにしたらどうかね。ほらあるだろう、かたき討ちとか仇《あだ》討ちとか」
其角は憎々しげに吐き捨てた。
「困るな、そういうふうに見られちゃ。これでも武士ですよ、やるときになったらやるんです」
「いつやるんだ=」
たまらず其角はガバと起きあがった。
「いつと言われても、どうも江戸の人はせっかちで」
「仕官先が決まらなかったときか=」
「そこを衝《つ》かれると弱いなあ、江戸の人は本音と建て前のあうんの呼吸がわからないからやれませんなあ、ハハハ」
内蔵助は傷つく様子もなく、醜い歯ぐきをむき出して笑う。
「とにかくオレはあんたという人が嫌いなんだ。さっ、用がなきゃとっとと帰ってくれ」
不愉快さを眉間《みけん》のシワに刻み、其角はゴロリと寝っ転がって背を向けた。
「まあ、そうとんがらず、スンナリ開城に応じたのは、わけがあるんですよ。そこでしょ、怒ってる原因は」
「どういうわけだ、聞かせてもらおうじゃないか」
「まあそれはおいおいお話するとして」
「……また始まったよ、あんたの、のらりくらりが」
「それよりも、其角さん、『たつみ版』、最近書いてないじゃありませんか。中止になっちゃったんですか? どんどんやって下さいよ、楽しみにしてたんですよ、こりゃ討ち入りも捨てたもんじゃないって。読むたびに、あっ、オレたちこう行動すればよかったんだなって、勉強になってたんですよ」
そう言って内蔵助は少し顔を赤らめた。
もともと討ち入りなどする気は毛頭なかったのだが、はじめの頃《ころ》、瓦版のせいか、内蔵助自身、往来を歩いていると、「くらさん」「くらさん」と見ず知らずの人から声をかけられ、まんざらでもない気持ちだった。
「討ち入りがんばってね」と職人さんに肩をたたかれたり、「瓦版の方がいい男だねえ」とおかみさん連中に冷やかされたり、そのたびに赤面しながらも、ニコニコ愛想よく返事をし挨拶《あいさつ》をかえし、しまいには調子にのっていわくありげに顔をしかめたり、芸達者なところを見せもしたのだが、ここんとこ、とんとそういう場面に出くわすことがなく、そうなると少しさみしくもあった。
が、今日はそれどころではない。おとなしく開城すれば全員に仕官の道を約束するようなことを匂《にお》わせておきながら、まだ幕府からは何の連絡もないのだ。
――オレたちがおとなしくしているのをいいことに、幕府はほっかむりするつもりなのではないか。こっちは松の廊下の騒ぎが大きくならないように放火までして世間の目をそらしてやったというのに。このままじゃ再就職を願う浪士たちに会わせる顔がない。
ほとぼりがさめるまで待てというが、もう六月である。開城のときに分けた持ち金も、もう全員使い果たしていた。なんとか手を打たねば。内蔵助もあせり始めていたのである。
「で、どうです、赤穂浪士は討ち入りできそうですか?」
「何言ってんだい、やるのはあんたたちだろう」
「そう言われると身も蓋《ふた》もありませんけど。正直言いまして、どうも箱根の山から向こうの人間ってのは主体性がないっていうか、世間の動向で動くところがありまして」
「…………」
「でもほんとに仇討ちしたってそうおもしろいもんじゃないですよ。それよりもやっぱ芝居ですよ。私の役、和事《わごと》の七五郎って人がやるっていうじゃないですか。どういう人なんですか? みんなが言うには、風格がないというか、旅館の丁稚《でつち》みたいな感じだって言うじゃないですか。大丈夫なんですかね。どっちかっていうと、荒事《あらごと》の団十郎でやってもらいたいと思ってるんですよ」
「…………」
「いや、七五郎って人がいけないというわけではないんですけど、いっそやるんなら、やっぱり名の売れた人にやってもらいたいってのが人情でしょう」
「何が言いたいんだ=」
其角の大声が長屋中に響きわたった。
「まあまあ、そんな大きな声出さずに、穏やかに話し合いましょうよ。いや、つまりこの事件がいまいち盛り上がりに欠けた原因ってのは女が噛《か》んでないせいじゃないですかね。やっぱりこういうのは色恋沙汰《いろこいざた》の一つもあって、艶《つや》っぽくいかないとねえ」
そう言って好色そうに口元を歪《ゆが》める内蔵助に、さすが其角も鼻白んだ。
「で、今日は何なんだ。ゆすりたかりか? おとといもあんたんとこの片岡ってやつがきて、金目のものがねえんでタンスをかついでいったよ。どういう神経してんだ、あんたらは」
「いかんなあ、なにせお国柄、塩ひとつかみすりゃ何でもできると思ってる連中ばかりでして」
「とにかく中村座も秋まで帰ってこないというし、オレも、もうこの芝居あきらめた」
「そんな殺生な、あたしらを見捨てる気ですか!」
「ふざけるんじゃねえよ! 表じゃ、討ち入りだ、討ち入りだともっともらしいこと言っといて、裏であんたが何を細工してるか、オレが知らないとでも思ってるのか」
実際、内蔵助は、遠林寺の住職祐海に命じ、将軍生母の桂昌院《けいしよういん》の信仰を一心に集める護持院隆光《りゆうこう》という僧を動かし、「柳沢吉保に仕官ならずばお家再興を」との嘆願書を提出していたのだ。
事実を衝《つ》かれ、内蔵助は一転して開き直ってきた。
「こうなったら私も言いますけど、みなさんは、二言目には討ち入りだ、討ち入りだとおっしゃいますがね、あたしらだって寝たっきりのおやじがいりゃ、三つの娘もいるんですよ。あたしだって山科《やましな》に土地買ったばかりで、ローン払い始めたとこなんですよ。みんなそういう家庭の事情を多かれ少なかれ背負い込んでるんだ。確かに殿様が切腹させられて悔しいと思いますよ、でもそれだけじゃ動けないんです」
「まっ、じき殿様の弟君の浅野大学様があとを継いでお家再興するんだろ。そうすりゃ、シャンシャンシャンで文句ねえだろう」
内蔵助は急に真顔になり、低く笑いをもらした。足を崩してあぐらをかくと、其角の方にグイと身を乗り出してきた。
「そこなんですよ、そのお家再興というのがあやしいもんで、あんたにもっと騒いでくれるように頼みにきたんですよ」
「オレはあんたたちのために危い橋を渡ってんじゃねえんだ」
「どう書いて危い橋ですかね、フフフ」
「なんだと!」
「大丈夫ですよ、其角さんはまだマークされてませんから」
これにはさすが其角も返す言葉がなかった。松の廊下のとき、主だった江戸の芝居書きでしょっぴかれなかったのは其角ひとりといってよい。それは、其角が自分のつくった辞世かわいさに、その解釈から事を始めようとしたことと、武士道の解釈に終始したため即物的な面白さに欠けることになり、団十郎たちがうちあげたような、曾我《そが》兄弟の仇討ちにかこつけて「御政道のあやまりを正す」という大向こう受けがなかったためである。
内蔵助は猫撫《ねこな》で声でもちかけてきた。
「どうです、もう一度、一から出直してみませんか。私たちも心を入れかえてやりますから。それにもう、あっちこっちに上演権売ったりしませんから」
「オレはもうあんたと組むつもりはない。中村座だって前渡しした金は返してもらわなくてもいいと言ってる。恥ずかしくないかね、河原乞食からここまで言われて」
「はあ、困ったなあ、どうしてもダメですかねえ」
「あんたがあっちこっちの一座にうまいこと言って金をくすねて、オレたちがどれだけ尻《しり》ぬぐいをしたと思うんだ」
「私も会わせる顔がないと思って大坂の近松さんにお願いに行ったんですよ」
「なに?」
「もちろんあくまでお家再興が目的ですが、もし、やらなきゃならなくなったとき、お家再興しなかったから悔しまぎれに討ち入りしたって言いふらされたりしたら、たまりませんからね」
「いいじゃねえか、その時は職探しに仇討ちするんだろうが」
「まっ、それはそうなんですが、あたしらだって武士の面子《メンツ》がありますから、そこんとこうまく書いてくれる人を探してたんですよ。それならやっぱ近松だろうって話になりまして、其角さんには悪いと思ったんですけど、頼みに行ったんですよ。金を積みゃ、どうとでも書いてくれると言いますし、其角さんや中村座からの前渡し金に手をつけずにあったもんですから」
其角は屈辱に青ざめた。
「ところがあの人、筆おさえになっちゃって、会えなかったんですよ」
「いつからだ!」
近松が筆をおさえられているとは……。またしても一歩先んじられたことに愕然《がくぜん》とした。
「『心中宵庚申《しんじゆうよいごうしん》』を書いてかららしいですよ。実際に心中するやつが増えちゃって、よくないってことでおとがめくらってるらしいですよ」
「…………」
「しかし物書きも筆取りあげられるくらいになると本物ですね。お上《かみ》を名指しで批難したわけじゃないんですよ。私も読みましたけど、なんとも奇妙な感じで、女と心中するのも悪くないなって、思わされるから凄《すご》いです」
其角の頭の中で、思わず耳をふさぎたくなるような近松のカン高い笑い声が渦巻いていた。鼓動が強く早くなり、顔が熱く火照《ほて》っておさえようもない。
内蔵助は大きくあくびを一つして、其角の胸中をもてあそぶかのように、図に乗って畳みかけてきた。
「正直言って、其角さんはいまいち物足りないって感じがしていましてね。……あたしら、討ち入りしようが、このままほおかむりしようが、どうだっていいんですよ。もっと私らを乗せるようなものを書いてくれなきゃ。討ち入りするように追い込んでくれなきゃあ。いつだってあたしら受けて立ちますよ」
「…………」
「見返してやりなさいな近松を。好きな女盗られたんでしょ。人間、私怨《しえん》、私憤がなきゃいい仕事できないもんですよ。借金返済するため――立派な仇討ちの動機じゃないですか、ハハハ」
其角には言い返す言葉がない。
「まっ、これからもちょくちょく遊びに来ますから、頑張って下さいよ。百か日の供養のあたりまで待って、それでもお家再興しないようなら、派手にブチかましましょうや」
其角は饒舌《じようぜつ》に喋《しやべ》りつづける内蔵助の声を、どこか遠くで聞くようにボンヤリと聞いていた。
いつからか雨垂れが軒先でリズムを刻みはじめ、湿気を含んだ冷たい風が、建てつけの悪い柱の隙間《すきま》から吹き込んできていた。遠くでかすかに雷が鳴るのが聞こえた。
「じゃあ、これで。私らこれから討ち入りの衣裳の仮縫いがあるものですから」
「えっ」
「あ、知らなかったんですか? 近松さんのとこ行ったとき、応対に出た志乃《しの》さんって人が、見かねて衣裳つくってくれるって約束してくれたんですよ」
其角の目が倍ほども見開かれ、みるみる青ざめてゆく。
「中村座の役者は旅に出ちゃっていないし、私らがかわりに仮縫いしといてやろうと思いまして。でもいいんですかね、私らの体型に役者が合わせてもらわなきゃならなくなりますが」
「…………」
「でも、小さめに作っときますよ」
其角は突然の志乃の名に狼狽《ろうばい》しながらも必死で冷静さを保とうと、何度も生唾《なまつば》を飲み込んだ。
志乃にまで憐《あわれ》みをかけられるとは……
この借りは必ずや筆で返してやる。其角は血が出るほど唇を噛《か》みしめた。
内蔵助も其角の表情に堅い決意を読み取り、満足げにほくそえんだ。仕官であれ、お家再興であれ、名分はどうあろうとも、赤穂の浪人たちの生活が成り立っていけばそれでよいのだ。人々から仇討ちをせきたてられるのも恐かったが、忘れさられ、見向きもされなくなるのはそれ以上に怖ろしかったのである。
「まっ、私らだって一応武士ですから、やるときはやりますから」
が、この老獪《ろうかい》な策士は言葉とは裏腹に細い目をより一層細くして、また一つ大きくあくびをした。
テーマはオレだ
討ち入りを恐れての吉良《きら》邸の改築工事にたずさわった大工たちが皆殺しにされ、埋められたという噂がひろがった。
上野介が風呂場《ふろば》ですべって転んで頭を打ち意識不明になったという知らせが源吾によってもたらされたのは、七月の初めの暑い午後、ちょうど内蔵助が息子の主税とともに品川海岸に浜遊びに行っている時だった。
ひと泳ぎして、葦簾《よしず》張りの海の家でまさに西瓜《すいか》にかぶりついていたところで上野介倒れるの報を聞かされ、思わず食っていた西瓜を岩場に叩きつけた。
「あのジイさん、何んてドジすんだ! あれほど大事をとってくれって言っといたのに。いま死なれたら、もともこもなくなるぞ。お家再興も仇討ちもあのジジイが生きてての話だ。源吾、ありったけ金出して朝鮮人参でもマムシの黒焼きでもリキのつくのを買ってこい! 主税、早駕籠《はやかご》の手配! 今死なれたら、お家再興も仇討ちもあったもんじゃねえぞ。とにかくあのジジイには長生きしといてもらわなきゃ。おい急げ=」
血相変えた内蔵助たち三人は、早駕籠を駆って江戸|呉服橋《ごふくばし》の吉良邸へ駆けつけた。そして、改築された吉良邸を見たとたん、「おっ、何だこりゃ!」と三人|揃《そろ》って声をあげた。ムリもないことで、討ち入りに備えて新たに塀が高く接ぎたされ、四方に見張小屋が設けられ、厳重な監視体制が敷かれていたのだ。そしてときおり、目付きの鋭い黒装束の男が、屋根伝いにパトロールする姿が見えた。
「気合いが入ってるなあ」
内蔵助は、いつまでものらくらしている自分たちが急に恥ずかしくなり、こそこそ裏口から邸内に入った。
屋根のいちばん奥まった場所にある寝所に床をのべ、上野介は頭を包帯でグルグル巻きにして寝ていた。が、内蔵助たちの顔を見るや、意外と元気そうに身体を起こした。人のよさそうな顔に、照れ笑いを浮かべている。
「どうもこのたびはご心配おかけしまして」
小柄な身体をより一層小さくして頭を下げる上野介を見て、内蔵助もようやく胸を撫《な》でおろした。
「いや、大したお怪我でなくて幸いです。しかし何分ご高齢ゆえ、お身体には充分お気をつけ下さい。お大事なお身体ですから」
「大事って、どういう意味でしょう」
気の弱い上野介にとって、精一杯のイヤミだった。
「いや、健康が一番だと」
あわてて内蔵助が言い直した。
「しかし、わたしももうこのトシですから、いつポックリゆくかわかりません。討ち入りやるならやるで、なるべく早めにお願いしますよ。夏の暑さがこたえて、秋までもちこたえられるかどうかって医者からもいわれました」
上野介はそう言うと、また気弱そうに咳込《せきこ》んだ。
「まあ、そうおっしゃらずに。朝鮮人参を買ってきましたんで、あとでせんじて飲んで下さい、精がつきますよ」
「精をつけてどうするんです」
「なんか今日は吉良さんらしくなく、からみますなあ。おっ、そうそう、マムシも買ってきましたから」
「ありがたいやら、情けないやら」
身体全体からため息をもらす上野介は、その小さな身体がますます小さくしぼんでゆくようだった。
「あらっ、大石さん、あんたえらく陽に焼けてますが、まさか」
「はあ、ちょっと海で来たるべき日にそなえまして身体を鍛えておりました」
「いいですなあ。わたしはこのクソ暑いのにあんたの言いつけ守って家から一歩も出ずにいるというのに。そう言えばあなた、日増しに男前にみがきがかかってきますね」
「いえいえ、ご冗談を」
「わたしなんか、日に日に悪党ヅラになっていきますもんね。瓦版にあれだけ悪く書かれつづけると、みんながわたしにどんな像を求めてるかわかるでしょ。なんかそのままやらなきゃ悪いような気がしてきてね、自然とそんな気持ちになりますもん。不思議ですよね、なんかもう瓦版に人間形成してもらってるって感じですよ」
「世の中とはそんなもんです」
その言い方にカチンときたか、上野介はキッと眉《まゆ》をつりあげた。
「でもほんとにわたしもそう長くはないだろうし、討ち入りするのかしないのか、ハッキリして下さいね」
「そんな、弱気にならないで下さい」
「だったら言いますけど、討ち入られるわたしが強気になったって仕方ないんですよ」
「ごもっともです、みんな吉良様を討ち取りたいっていう気持ちはやまやまなんです」
「だったら今夜にでも来て下さい。待つ方の身ってのもたまらないもんですよ」
「突然、今夜といわれましても」
「じゃ明日」
「うーん困ったなあ」
「あんたら、ほんとにやる気あんの=」
のらりくらり逃げをうつ内蔵助に、さすがの上野介も声を荒げた。
「なあオレらやる気はあるよな」
急に相槌《あいづち》を求められ、主税と源吾はあわててうなずいた。
「なんか嘘《うそ》っぽいんだよね。あわよくばお家再興、となれば食いっぱぐれがなくなる、なんてこと考えて討ち入りと両|天秤《てんびん》かけてるんじゃありませんか」
「私どもは武士ですぞ。そのような卑怯《ひきよう》なことはこれっぽちも考えておりません」
が、力めば力むほどその言葉は軽くて嘘っぽく聞こえてしまう。
「これだけは言っておきますが、ここまでその気にさせといて、お家が再興になりましたからハイやめましたは通用しませんからね。絶対にやってもらいますからね。抜け穴つくったり塀を改築したり、見張りの忍者雇ったりで、いくらかかってると思います」
「はあ、そういわれましても」
「よし、いっそ今やるのやらないのをはっきり決めて下さい。そうじゃなきゃこの場でわたし、舌噛みきって死にます」
「やっ、やります。おい、主税あれを見せろ」
「主税って、じゃこちら関取りじゃなかったの=」
「はあ、関取りじゃなくうちの跡取りの方で」
内蔵助は照れて頭をかくが、主税はもう相撲取りに間違えられるのには慣れっこで気にもならない。
「実は衣裳がもう決まってるんですよね」
内蔵助は、主税が脇に置いたフロシキ包みを指さした。
「衣裳ってあんた、あたしたち芝居やるわけじゃないでしょ」
あきれ顔の上野介を手で制し、
「まあ、堅いことは言わず」
「どういうの? 関取り、ちょっと着てみてよ」
「はい」
フロシキ包みをほどき、主税は素直に衣裳をつけた。
「派手だね、しかし」
浅黄《あさぎ》の羽二重《はぶたえ》に鎖帷子《くさりかたびら》、黒小袖《くろこそで》の火事場装束に大|真田《さなだ》のたすきをかけ、火事|頭巾《ずきん》をかぶってクルリとひと回りしてみせた。
「とにかくね、逆なんだよ、受けることばっかり考えちゃってさ。第一、そんなの着たら戦えないでしょ」
「もうちょっと飾りが増えるかな」
主税は独り言のように言う。
「えっ」
「いや、地味なもんですよ、この程度は」
「少しちっちゃいようじゃない?」
「ええ、ずいぶん前にあつらえたもんですから」
「太ったの= ふつう痩《や》せるよ。主君が辱しめを受け、そのうえ切腹させられてるんですからね」
「努力はしてるんですけどね」
主税は恥ずかしそうに頭をかき、上野介は大きくため息をついた。
目には情けなさそうに涙さえにじませている。
「でも、吉良様のやつもあるんですよ」
「私はいいですよ、普段着で立ち向かいますから。それに形より心だと思うんですよ」
そうは言いながら、内蔵助が取り出した絹の小袖を見るや、上野介はもろ不満げに鼻を鳴らした。
「これ=……地味ね。白いだけじゃない、衣裳じゃないよ、下着だよ、これ」
だだっ子みたいにすねられ、内蔵助は困り果てた。
「いや、これは稽古着《けいこぎ》で、本物はキンキラのやつですよ」
「うそでしょ」
「いやほんとです」
「来週一緒に仮縫いに行きましょう」
「一緒ってあんたたち、もう一着つくるわけ?」
「はっ、泉岳寺《せんがくじ》までのパレードん時に上に羽織るやつを」
「これ以上どこ羽織るのよ」
開いた口がふさがらないといったふうに、まじまじと内蔵助を見上げている。
「ホラ、足まであるマントみたいなやつがあったらカッコいいだろうなって、みんなが言うもんですから」
そう言うと、もう上野介そっちのけで、内蔵助と主税は衣裳をひろげて、二人してキャッキャ言いながらデザインについてあれこれ楽しそうにあげつらっている。
「で、いつ頃になるわけ。ちょっと聞いてんの、討ち入りはいつ頃になるんですか」
「そこですよ、衣裳が冬物でしょ」
「冬まで待つんですか、私はもちそうにないよ」
「いや、大丈夫です。最後は何が何でも生き抜くという根性です」
「ケッ、生き抜いた果てに斬《き》り殺されりゃ世話ないわよ」
二人のやりとりに主税がおろおろ割って入った。
「あの、雪なんか降る中で討ち入りしたらいいだろうなって案もでてるもんですから。この衣裳にしたのは、その、雪映えを考えてのことなんですよ」
上野介はガバリと立ち上がり、もうこらえられないとばかりに目をむいて、
「雪まで降らせろっての、わたしに=」
「いや、降ればいいなと」
「わかりました、降らせましょう、降らせりゃいいんでしょ。雨ごいだって雪ごいだってしますよ。もしこれで討ち入りしてくんなきゃ、あんたら呪《のろ》い殺してやるからね。わかった。雪は絶対降らせる。で、冬のいつ? いつなの!」
狂ったようにわめき散らす上野介をとりなすように内蔵助、
「前売りが早くても十月のあたまっていいますから。だから遅くとも十一月の一日までにはやりますから。やっぱり遅らせられませんものね」
「ほんとだろうね」
「ほんとですよ、だってもし初日の幕があかなきゃお客さんは怒りますよ」
「仇討ちしないと大変だというふうには考えられないの」
「いや、もちろん考えてます」
「十一月の一日まで待ってるから、必死で生きてるから、頼むよ。芝居の稽古いつからかしら。わたしも見に行っとかないとね。任してらんないから、あんたたちだけには。どこで変な小細工されるかわかったもんじゃないからね。わたしはもうどうなってもいいんだ、もうワルなら徹底してワルにしてもらわないとね」
上野介の言葉の端々に、老い先短い老人が希代の仇《かたき》役に賭《か》けた最後の情熱のほとばしりを感じ取り、内蔵助は少し背筋を寒くした。
「さっ、帰ってちょうだい。わたしは石にかじりついても冬まで生きのびなきゃなんないんだから。あんたたちの顔みてると頭に血が上ってぶっ倒れそうになるのよ。言っとくけどわたしが討ち入りする前にポックリ死んじゃったら忠臣蔵もへったくれもありゃしないんだからね。わたしがテーマなんだから。大切にしてもらいますからね」
「ふーん、この人がテーマかあ」
主税が間の抜けた声をあげ、内蔵助は思わずゴクリと唾《つば》を飲んだ。
「そっ、私がテーマなんだ= 大事にしてもらわなきゃ」
上野介はすべてのカラクリを看破したというふうに毅然《きぜん》として叫んだ。
風呂場で転んだだけで大石内蔵助が血相変えて飛んで来たことに味をしめたのか、上野介はそれ以来、なにかにつけて「死にそうだ」「もう長くはない」を連発し、赤穂の浪人を屋敷に呼びつけては肩をもませたり、かわやを掃除させたりと、勝手放題するようになった。そして二言目には、
「なにせわたしが死んだら討ち入りもなにもパーだもんね、わたしが『忠臣蔵』の主導権を握ってるんだからね」
と内蔵助らに脅しをかける。
もはや、かつて柔和な目で物静かに有職故実《ゆうそくこじつ》を語った上野介の面影はなかった。確かに、吉良家の辞《や》めていった家臣が噂し合うように、人間が変わってしまったと言ってよいほどの横柄さで人に接していた。普段、生真面目《きまじめ》な人間が、いったん一つ事を思い込むほど怖いことはない。上野介は今や完全に仇役としての、別個の人格をつくりあげてしまったのだ。そして何よりも始末が悪いのは、本人がその性格を大層気に入ってしまっていることだった。
江戸城に登城しては、高家筆頭《こうけひつとう》の地位を利用して下役や出入りの政商たちに公然とワイロを要求し、ひとつでも気にくわないことがあれば、額《ひたい》に青筋立ててあたりかまわず怒鳴り散らす。まさに強突《ごうつく》ジジイそのものの上野介のふるまいには、目を覆いたくなるものがあった。
吉良邸に呼びつけられた赤穂の浪人たちが少しでも文句や不満を洩らそうものなら、
「くどいようだけど、わたしが死ねば仇討ちも何もあったもんじゃないんだからね、文句あるの。あんたら一生笑いもんになるでしょうな。討ち入りをしようとした相手がポックリ死んじゃったなんていったら、笑い話にもなんないですな」
と、残忍な笑いを浮かべてジワジワいたぶり、弱みを握られて反抗できない浪士たちを小突きまわしては、
「ガハハハ、あの赤鼻に鮒《ふな》侍と言ってやったのよ、この田舎侍と。ほれ、何じゃその手は、殿中で鯉口《こいくち》三寸抜き放てばお家は断絶、それでも抜きやるかとな」
と勝ち誇ったように高笑いするありさまだった。
身の回りの世話はすべて赤穂の浪士たちにタダ働きさせて、自分は縦のものを横にもしない。フンドシ洗いにドブさらい、風呂場でのアカスリから鼻毛切りに耳掃除、はてはかわやで尻まで拭《ふ》かせ、気に入らないとすぐにゲンコツを飛ばす。そんなときは決まって上機嫌で、
「ケケケ、無理へんにゲンコツと書いて仇討ちと読むのよ」
サディスティックに笑い転げる。
酒をつがせてはつぎ方が悪いと鉄扇で思いっきり撲《なぐ》りつけ、座興の裸踊りなどまだいい方で、鵜飼《うか》いの鵜になれといっては首に綱をつけて池に飛び込ませ、魚をくわえさせる。あげく、浪士たちの女房や娘を抱かせろと無理難題をふっかけ、少しでも反抗的なそぶりを見せれば、
「何だその目は、死んでやる」
と刀を抜いて首に突き刺そうとして、そのたびに浪士たちはひたすら土下座して慈悲をこう。すると、ひとかかえもあるようなでかい盃《さかずき》になみなみと酒をつがせ、そこに表面がまっ赤になるほど七味唐がらしをぶち込んだものを全員にまわし飲みさせ、みなが悶《もだ》え苦しむ様子を肴《さかな》に、また酒を飲む。
気の短い堀部安兵衛など、何度|激昂《げつこう》して、
「あのジジイ殺す!」
と上野介につかみかかろうとして逆に仲間から袋叩きにされたかしれなかった。
この夏、吉良上野介に恐いものはなかった。そして赤穂浪士たちは、二言目には「死ぬ、死ぬ」と言って、自分の手で鼻と口を押さえ、息をとめて目を白黒させる上野介に忍従の日々を強《し》いられていた。ただ「お家再興まで」を合い言葉に、ひたすら耐えていた。
江戸城本丸天守閣から打ち鳴らされる登城を告げる太鼓の音が、入道雲の彼方《かなた》に空高く吸いこまれていった。
いま、将軍綱吉から浅野家再興の許しを得た柳沢吉保は、胸のつかえがおりたようなすがすがしい顔で空を見上げていた。久しぶりにその美しい口もとには笑みがもどり、口元のほくろが濡《ぬ》れたように妖《あや》しく光っていた。どこからかゴクリと唾を飲み込む音がして、一瞬身体をこわばらせたが、考えてみればもう何一つ怖いものはないのであった。
「あのカマ野郎、今日こそは目にもの見せてくれん」
すでに浅野家再興の内定は遠林寺の住職祐海に伝えてあり、あとは幕閣のコンセンサスをまとめるだけであった。
老中たちがこぞって自分の失脚を願い、内匠頭切腹を片手落ちと説いて陰口をたたいていることなど、吉保の力を持ってすればへでもなかったが、今日の今日まで吉保の胸を曇らせつづけていたのは、他でもない多門伝八郎の、ガマガエルのような醜いアバタ面であった。
この一件にかかずらって以来、何かにつけて「これじゃあ浅野家の顔が立たん」と、月面クレーターを思わせるアバタ面を近づけ、臭い息を吐きながらインネンを吹っかけてくる伝八郎に対して、いまや嫌悪感というより恐怖心さえ抱き始めていたのである。
突然背後から抱きついてきては「浅野家が、武士道が、愛が、青春が、オレの気持ちがわからぬのか」とわけのわからないことを言い、吉保が必死でその丸太のような腕から脱け出すと、何を思ってのことかガンガン柱に頭をぶちつけ、一人オイオイ泣きじゃくる。苦しんでいるのはわかる、好かれているのもわかる。が、それ以上にこちらが迷惑しているのをわかってくれないのである。
「オレがこれだけ愛しているのに、なぜ愛してくれない」
という伝八郎のデリカシーのなさが、吉保は鳥肌立つほど嫌だった。たしかに餠肌《もちはだ》のせいか、そのケもないのに昔からやたらとオカマから言い寄られ、一度など突然|膝小僧《ひざこぞう》に噛みつかれたり、迷惑な思いばかりしていた。が、今度ほど醜く、しつこいオカマは生まれて初めてで、ついには伝八郎の気配を感じただけで手首がかゆくなるというアレルギーにまで罹患《りかん》してしまった。
さらに、この何か月間というもの、
「人のいないところで押し倒されたら最後だ。もし自分に潜在的にそのケがあったら」
という恐怖にさいなまれていたのである。
――もし自分の中にもそのケがあったら、オレはあのおぞましい伝八郎との愛欲に溺《おぼ》れてしまうかもしれない。
吉保は、そのことを百パーセント否定しきれないのであった。が、それを打ち消すためにも、今日という今日は伝八郎に厳しく言い置いておかねばならないのである。すでに浅野のお家再興は決定した。これで伝八郎が言いよってくるネタはなくなる。恐れる必要はないのだ。よし、こうなったら満座で笑いものにしてやらねば気がおさまらない。そうすれば自分も将来カマをやりたくなっても立場上やれなくなり、そのケの歯止めにもなるにちがいない。
吉保は肩をいからせて勢い込み、目付《めつけ》部屋を訪ねた。
「多門伝八郎殿はおられるか」
吉保の低いがよく通る声が目付部屋に響き渡った。
飛び出してきた伝八郎は、初めて名指しされ何を勘違いしたか、毛むくじゃらの無骨な手で吉保の手を握りしめ、感激のあまり声をひっくり返し、
「ようやく拙者の気持ちに気づいて下さったか、吉保殿、すべては愛から始まるのでござるよ、大石殿にしたって同じでござる、主君を思う気持ち、つまりは愛が世を動かすのでござる。復讐《ふくしゆう》は士たるものの道。さっ、この上は二人でじっくり武士道について膝をまじえて語り合いましょう」
と腰を抱きかかえるようにして隣の部屋へ連れ込もうとする。荒い息でおおいかぶさってくる伝八郎を死にものぐるいでなんとか跳ね退け、吉保は叫んだ。
「本日は浅野家再興の御報告に参りましたのじゃ! これで多門殿も気がお済みめされたろう」
小気味よく言い放った吉保の顔を見つめ、ようやく事の次第を理解した伝八郎は、ムッとした表情で鼻の穴をふくらませた。
ケッ、多門のヤロウ、キョトンとしてやんの、ざまあみやがれ。武士だ武士道だと、なにかにつけて言い寄ってきやがって、これで問題ねえだろう。オレはおまえなんか大嫌いなんだ。
「おわかりもうしたか? 上様はこのたびの御評定を深く反省され、浅野家の顔を立てたのでござる。浅野家はお家再興、したがって貴殿と拙者はこれ以上、議論することは何もござらん」
そして今日こそははっきり言っておかなくてはと、今まで胸にしまっておいた言葉を一気に口にした。
「多門殿、わたくし、カマに敵意はござらぬが、そなただけは嫌いなタイプでござる。言い寄ってくるそなたは、わたくしにははっきり言って迷惑でござった。わたくしにはまったくそのケはござらんゆえ、この浅野家再興もなったことですし、今後一切、私的な感情でわたくしに言い寄られることのないようお願いいたしたい。一言注意を述べさせてもらえば、カマも少しは慎みをもったほうがよいということでござる」
吉保は刀の鞘《さや》で伝八郎の肛門《こうもん》のあたりをつっついてはいたぶる。
あまりに気合いが入りすぎたためか、吉保の声は次第に高まり、ついには殿中いっぱいに響き渡り、なにごとかと集まって来た者たちが、伝八郎の顔から状況をみてとり一人がプッと吹き出したのを機に全員いっせいに笑い出した。
吉保はますます調子に乗り、集まってきた者たちに向かい演説口調で喋《しやべ》り始めた。
「皆様方説明します。わたくしこれまで多門殿より浅野家再興にかこつけて言い寄られ、さんざん困惑しておりましたが、本日、上様より浅野家再興のお許しが出、これにて無事落着いたしました。しかし、近頃はこの城中にも悪ガマがのさばって困ったもんです。一日も早くカマ狩りをせねば、殿中の風紀が乱れて収拾がつかなくなりますぞ」
伝八郎はその巨体を柱の陰でちぢこめるようにして、まっ赤になっている。
「何か不満でもござるか。お得意の武士の誠をつらぬかれるか、カマの誠をつらぬかれるか」
吉保は追撃の手をゆるめることがない。さすが若年にして将軍に次ぐ地位を手に入れたにふさわしい執念深さだった。
「しかし、近頃の武士道も地に堕《お》ちましたな。討ち入りくらいはするものと思えば、いまだその気配もなく、ほれこの通り、お家再興の嘆願ばかりこのように山積みになっておりますわ。これが浅野家城代家老大石内蔵助からのお家再興の嘆願書、多門殿、そなたが浅野家を思うのは横恋慕というより深情け、このとおり内蔵助殿は嘆願書を出しているのでござるよ。それを浅野家思いにかこつけて、なにかとわたしに言い寄り近付くでない。わたしはそなたのようなアバタ面は嫌いなのだ」
伝八郎は満座で笑い者にされ、顔から火でも吹き出そうな思いだった。
「これっきりにして下され、浅野家のことも、わたしのことも。気持ちはわかる。が、いかんせんタイプでない。皆様方、醜女《しこめ》の深情けってのはあるが醜男の深情けってのはありますかな、ガハハハハ」
よほど鬱積《うつせき》していたのだろう、冷徹といわれていたはずの吉保のいたぶりはとどまることを知らない。それどころかますますエスカレートし、いたぶること自体に快感を感じているふうであった。
と、そのとき、
「何を申される柳沢殿、赤穂の家臣は幕府にたてつくまいとひたすら再興を願い、断腸の思いのはずでございます。ひたすら耐え忍ぶのが武士の道でございましょう!」
大広間を圧する大音声が響きわたった。
吉保が振り返り、あっと声をあげた。なんとその声の主は浅野内匠頭に斬《き》りそこなわれた当の吉良上野介ではないか。
「そうだ多門殿、武士の意地を今こそ見せてやられい」
上野介はけしかけるように言って、泣き崩れていた多門を立たせた。吉保はその光景を夢でも見るかのようにぼんやりながめていたが、急にハッと我にかえり、
「何と申された」
と語気強く上野介に詰問した。
「お家再興はこの上野介が許さぬと言っておるのでござる」
上野介は不敵な笑みをもらし、悠然と吉保に対峙《たいじ》した。
「なに……」
吉保は耳を疑った。
「柳沢殿、そなたに武士の心があるならばお家再興などと世迷いごとは吐かれぬがよい。誠の慈悲とは浅野家を断絶にしてやること」
「…………」
吉保はあまりのことに声も出なかった。
「赤穂の誰ひとりお家再興を願うものなどおらぬわ」
「な、ならば吉良殿、お家再興かなわぬとなれば、赤穂の浪士はそなたを仇討つと申されるのか」
「いかにも、それが武士たるものの道でしょうぞ。小姓あがりには分らぬことぞ」
日頃《ひごろ》の、吉保の傍をうつむきかげんにこそこそと通り過ぎるのとはうって変わった堂々たる態度で、上野介は仁王立ちしていた。
飼い犬に手を噛《か》まれるとはこのことである。あのとき、何のとがめも下さなかった恩も忘れ、なんという口のききかた。吉保はギリギリ音がするほど奥歯を噛みしめた。
「いかがなされた柳沢殿、武士道を一から教えてつかわそうか」
「今一度聞く、お家再興ならずんば、討ち入りがあると申されたな」
「くどい= なんのために拙者が生きながらえていると思う。赤穂の浪士がこの首を叩き落とし、あっぱれ主君の怨《うら》みをそそがんがため。それがわからんか、このうつけ者」
「その言葉に偽りないな」
と、そのとき、
「小姓あがりの側用人の分際で何たる物言い! おのれごときに武士の誠が分ってたまるか!」
そう叫んで顔を上げたのは多門伝八郎であった。その顔はおよそ人間の造作とはかけはなれた屈辱と悲しみの入り混じった、身の毛もよだつようなおぞましいものだった。その場の誰もが息を呑み、吉保はそれを見たとたん「ヒッ!」と短く恐怖の叫びをもらし、じりじりあとずさって目付の部屋を出ると、振り向きもせず、脱兎《だつと》の如く駆け出した。
その夜、柳沢吉保邸を窺《うかが》う黒い巨大な影は意外なほど身軽に屋敷の塀《へい》を乗り越えると、音もなく庭に着地し、そのまま疾風のように床下にもぐりこんだ。
吉保は、昼間目にした伝八郎の形相が脳裏から離れず、いつまでも寝つけないでいた。寝所の戸という戸には魔除けの札が貼《は》られ、外側は完全武装の家臣たちに固めさせていた。そのうえ、護寺院隆光を呼んで、身体じゅうに般若《はんにや》経の経文《きようもん》を書き込んでもらっていた。が、まだまだそんなことでは安心できなかった。
すべての戸を閉めきっていて蒸し暑いはずなのに、なぜか冷や汗がにじみ、悪寒がした。どこからか誰かがじっと見つめているようで息苦しかった。
かわやに立とうと布団を脱け出したとたんであった。足元の畳がコトリと音をたてたのだ。吉保は恐怖のあまり、目は畳に釘《くぎ》づけになり、声を出すこともできない。動きが激しく、しきりと喉が渇いた。
畳がゆっくりと持ち上がり、荒い息遣いが聞こえ、その奥の闇《やみ》から燃えるような二つの瞳《ひとみ》がじっとこちらを見つめていた。
「誰かいるのか」
が、それにつづく巨大な怪物の咆哮《ほうこう》と「ギャーッ!」というこの世のものではない、地獄の底から響いてくるような叫びは、折りしも隅田《すみだ》川の花火大会で打ち上げられた鍵屋《かぎや》の三尺玉の大地を揺るがすような響きにかき消され、誰一人として聞いたものはいなかった。
翌日、祐海からお家再興の内定をうけた内蔵助は天にも昇る気持ち、狂喜して、国元への旅仕度もそぞろに蛙長屋の其角を訪ねた。すでに噂が届いているのだろう、其角は容赦なく照りつける西陽の中、流れる汗をぬぐおうともせず、ニガ虫を噛みつぶしたように酒をあおっていた。内蔵助はほころぶ顔を引きしめようともせず、だらしなく口元をゆるめ、
「こうなると、お家断絶になって討ち入りの一つもしたいものですな、ハハハ」
と上機嫌で、連れてきた瓦版屋の絵師に向き直り、お家再興はつつしんで受けるも、亡き主君の無念を思い複雑な心境の家老といったポーズをつくってモデルになっている。
「まっ、これで四方丸くおさまったんだからいいじゃありませんか」
神経を逆撫《さかな》でするその声に、其角は悔しさのあまり、盃を壁に叩きつけた。内蔵助は横目でそれを見てニヤリと笑うと、
「まっ、あなたに才能がなかったんですよ。あればお家断絶になっています。物書きは運を呼び込むのも才能なんですよ。その点近松という人は、ついついまわりの者に突飛なことをさせてしまうような人柄なんですよ」
其角は、ともすればあふれそうになる屈辱の涙をじっとこらえていた。
そこへ、血相変えた主税が、その超肥満体をゴムマリのように弾ませ、息せききって駆け込んで来、内蔵助は一転、奈落の底へと突き落とされた。
「そんな馬鹿な!」
そう言ったきり絶句した内蔵助とは対照的に、其角の顔には血の気が戻り、みるみる口元がほころんだ。
その日、浅野内匠頭切腹より四か月後の七月十八日、腰から尻にかけて包帯でグルグル巻きにして、まっ青な顔で息も絶え絶えになり、家臣に両わきをかかえられるようにして登城した吉保は、一夜にして落ちくぼんだ目をしきりにしばたたかせ、幽閉されていた浅野大学を、芸州浅野宗家お預けとすると正式発表し、これにより、お家再興は絶望的となったのである。
武士の意地があるならば、残る道は仇討ちしかないはずである。
大石内蔵助はよほどショックだったのだろう、口もきけないほど落胆し、夢遊病者のような表情で、主税にかかえられて帰っていき、そのまま寝込んでしまった。
十日ほどたち、そろそろショックも薄らいだ頃だろうと、其角が訪ねてみると、
「討ち入りすりゃお家再興してくれるというなら話は別ですが、ぜいたくしなきゃなんとか食っていける世の中ですから、そうそうみんなに強制できませんよ」
無精ヒゲの中から相も変わらぬへらず口をたたいた。
「実際のところ、討ち入りしようにも、三、四人しか集まらないんですよ」
「やる気さえあれば、三人でも四人でもいいじゃないか」
「いやいや、吉良さんの住んでいる呉服橋は警護が厳しくて、まっ、いろいろ問題があるんですよ」
「なにを言ってるんだ、今さら。真っ昼まっからよく金たかりに行ってたくせに」
「でも討ち入りとなると、やっぱ夜ですからね」
「どうすればいいんだ、酒と女をつけて、討ち入りを待ってろというのか」
「まあまあ、甘ったれてるとは思いますけどね。いくら仇討ちしてもらいたくっても、あたしらが武器もって徒党を組んで歩いてるの見たら、役人だってつかまえないわけにはいかんでしょう」
内蔵助のいうには、呉服橋は、江戸城の「内郭」に位置している。江戸城内郭とは内堀の内側をさして、本丸、二の丸、三の丸、西の丸と紅葉山《もみじやま》、北の丸、吹上《ふきあげ》の各部分からなり、軍事施設があるため、警備は厳重をきわめている。だから、太鼓鳴らし鉦《かね》鳴らし、あれだけ目につく衣裳では、呉服橋の吉良邸に内蔵助が討ち入りする前に検問で押さえられて、吉良邸に近づくことはおろか、内郭の中に入ることすらおぼつかないというのである。
「何度も言いますけど、私ら武士ですから、やるときはやるんです」
内蔵助の身勝手な言い分を聞きながら、其角は我慢だ、我慢だとしきりに自らに言いきかせていた。
――さあ、一刻も早く七五郎たちに江戸に戻ってもらわねば。
煮えきらぬ内蔵助のもとを辞し、町をゆく其角の背を真夏の太陽がじりじりと焼いた。
あまりの暑さに人通りさえ途絶えがちな往来に、蝉《せみ》しぐれが降りそそぎ、生類憐《しようるいあわれ》みの令以来、やけに目立つようになった野良犬が、わがもの顔で日陰を占領し、赤い舌をだらしなく出してハアハアあえいでいる。
打ち水をした商家の玄関先から陽炎《かげろう》が立ち昇り、江戸の町がユラユラ頼りなげに揺れて見えた。
――いくら内蔵助が逃げを打とうとも、いつか必ず討ち入りに追い込んでみせる。
そう心を新たにする其角の、身の内は苛烈《かれつ》な真夏の陽差しすら感じないほど激しく燃えあがり、目はまぶしく光り輝いていた。
風鈴売りや金魚売りでさえ音《ね》をあげて、めったに往来に姿を見せなかったほど、この年の江戸の夏は暑く、亡くなる者も多かった。其角は必死で辞世を作り、それを売りまくった。そして、そうやってこしらえた金を、無心に来る主税に惜しげもなく与えた。なんとか内蔵助にやる気を起こさせるため、腫《は》れものに触わるように接していた。
が、この頃になってもまだ中村座は江戸に帰ってこなかった。
八月も終わりを迎えた頃、ずっと寝たっきりで、起き出そうともしない内蔵助をようやくうながし、主税を伴い三人で、浅野家再興ならずの報告をするため、泉岳寺に内匠頭の妻、阿久利《あぐり》を訪ねた。主税は醜いほどに太った身体がつらいらしく、石段を登るたび一段一段大きくハアハアと息をつく。
「主税さんの太り方を見ていると討ち入りは遠いなあと思いますよ」
其角の皮肉に、主税はその育ちの悪そうな目を三角にした。
「大丈夫だよ、最近みんなも太ってきたから。そのうち目立たなくなるよ」
親も親なら子も子で、主税は他人事のように言う。
「主税さん、女にも手が早いんですって」
「まあね」
「一座の女の子に土下座して頼むんですって。こんな太ってて、誰《だれ》も相手にしてくれないから、一生の思い出にするから一発だけでいいからやらせてくれって」
「女はほろりとするらしく、なかなかきくんですよ。三人に一人はおちますよ」
自慢げに鼻をピクピク動かしている。
主税には、「美少年で売るんだから、外に出るな、大衆の前にさらすな」と言い含めていた以上、行き場を失って中村座に遊びに来るのを拒むわけにもいかず、スケベで、大飯食いで、稽古中でも平気でイビキをかいて寝る主税を七五郎たちもほとほとあつかいに困っていたものだった……。
「やはり討ち入りはしませんか」
「する理由がないしなあ」
内蔵助は例によってとぼけたように答える。が、今日の其角は心に期するものがあった。もし内蔵助が阿久利の前でまだのらりくらり逃げをうつようなら、あのてでいけばいい。
「お家が再興ならず、それでいて仇討ちもないとなれば哀しむでしょうね」
「まあね、あの人は一途《いちず》なところのある人ですからね」
内蔵助の口調は相変わらずだったが、阿久利の胸中を推し測る其角の心は痛んだ。
「大石さん、今日ぐらいは仇討ちやるって言って喜ばせてやったらどうですか」
「そのつもりなんだが……」
表門をくぐり、階段を登り始めた頃、内蔵助は「ククク」と下卑た笑いを洩《も》らした。
「其角さん、まあ見て下さい。これがなかなかいい女なんですよ。まあ十八っていったら一人前の女ですからね」
其角は答える気もなさそうに遠くを見ていた。
「でもこれが、なかなか操が固くて、このあいだも源吾が言い寄ったんですけど軽くソデにされちゃって、ケケケ」
超肥満の身体をユサユサ揺らせながら、うしろからついてくる主税も下品な口元をニヤニヤさせている。内蔵助は、階段のわきを飾るもみじの木に向かい、ときおり無遠慮にツバを吐き散らかしながら、
「早いとこシャバに帰してやりたいんですがね、尼さんにしとくにはちょっともったいない女ですからね」
と鼻の下を伸ばしている。
細い愛嬌《あいきよう》のある目に騙《だま》されそうだが、其角は、内蔵助にはじめて会った時から根は下品なやつだと思っていた。そして今あらためて、その異様に大きい耳や、脂でテカテカ光る毛穴を見て、気色悪さに憤りさえ感じるのだった。なぜ、このような下劣なヤツらを美しく飾りたてた台本を書かなければならないか? そう思うと、悔しくさえあった。
寺へ入ると、広い板の間に阿久利はちょこんと座っていた。
線香の匂《にお》いの中に内蔵助の臭い息が広がった。部屋に入るなり、先刻までとはうってかわった態度で内蔵助は床へ突っ伏し、大声で突然ボロボロと泣き出した。
「阿久利様、申し訳ございません。力尽きて、無念にもお家再興はなりませんでした」
あまりの豹変《ひようへん》ぶりにあきれはて、其角は口もきけないほどだった。阿久利は穏やかな透き通るような声で、
「私に子が授からなかったばっかりに。子があったならお家再興もあったかもしれませんのに。残念です……」
嫁いですぐに松の廊下の事件が起き、内匠頭の顔さえ見たことがないという。その痛々しいまでの一言一言に其角の胸は痛んだ。
「阿久利様、こちら宝井其角殿でございます」
さめざめとむせび泣くばかりの内蔵助にかわって主税が其角を紹介した。
「其角と申します」
「このたびはいろいろと御力添えをいただきまして、ありがとうございました」
はじめて見上げたその美しくすんだ阿久利の瞳に、其角は息をのんだ。品のいい瓜実顔《うりざねがお》に清らかな微笑をたたえ、阿久利は其角に深々と頭を下げた。
間違いなく取り乱し、悲嘆にくれるであろうと思いこんでいた其角は、この清純で愛らしい阿久利の穏やかな表情を見ながら、あまりのあどけなさを憐れに思った。
ひとり泣き叫びながら興奮した内蔵助が、
「この上は吉良家に討ち入り、上野介の首級をあげて、殿の墓前に捧《ささ》げる覚悟でおります!」
と阿久利の手をとり、肩を抱き、どさくさまぎれに胸にまで手を差し込もうとする。
「もとはと言えば夫の短気から起こったこと、あなたがたがそのようなことを気に病むことなどございませぬ」
阿久利はなすがままにされ、じっとうつむき、唇をかみしめていた。内蔵助の背中ごしにちらりとのぞく唇は色が失せ、細い華奢《きやしや》な肩はカタカタと小さく震えている。
其角は懐から刷りあがったばかりの瓦版の見本刷りを取り出し、阿久利の前にかざした。それは今日、江戸市中に売り出される予定のものだった。そして、それが売り出されれば世論の沸騰は必至だった。言わばそれは、太平の夢に酔う元禄の世に投ずる紙の火薬だ。
「討ち入りは十二月初めと決めました」
「えっ」
内蔵助の手を払い、阿久利は瓦版を手にとるとむさぼるように読んだ。
其角は内蔵助をにらみつけ、
「その頃までにやっていただかねえと、お江戸の方々から袋叩《ふくろだた》きにあいますぜ。あっしらも、やっていただかねえと幕が上げられねえんでござんす」
と言い放った。
内蔵助の顔から見る見るうちに血の気が引いてゆく。
「そうなると赤穂のお方は末代までの笑いものになりやすぜ」
ここまで搦《から》め手で外堀埋めてやりゃあ、討ち入りしないわけにはいくまい。其角は内蔵助の歯ぎしりする顔を尻目《しりめ》に興奮にうち震えながら席を立った。
蝉の声を聞きながら、其角は泉岳寺の鬱蒼《うつそう》とした裏道をゆっくり降りていた。いずこかの地で、この瓦版を七五郎が手にすることを其角は祈っていた。
高台になった泉岳寺の裏道からは、江戸市中が一望のもとに見渡せた。そのとき、町並みを縫うようにゆるく蛇行する大川が陽の光をうけ銀色の帯のように見えるそのほとり、ちょうど日本橋のあたりに、小さくかすかに色とりどりののぼりがはためいているのが目に飛び込んだ。
「まさか!」
次の瞬間、其角は弾《はじ》かれたように裏道を駆け下りていた。其角は走った。八重洲河岸《やえすがし》から愛宕町《あたごちよう》を抜け、日本橋へと急いだ。間違いない、中村座が帰って来たのだ。オレのことを見離してはいなかったのだ。其角は高鳴る胸をおさえて走りつづけた。
「其角さん、いい上野介を見つけて帰ってきやしたぜ」
建てられたばかりのむしろ小屋の前で七五郎が手を振りながら嬉しそうに叫んでいる。橋を渡りきり、河原に駆け降りるのももどかしかった。其角は目頭の熱くなるのを覚えた。
「帰ってきてくれたのかい。オレが書いたものでいいのかい」
「もちろんですとも」
日焼けして一層たくましくなった役者たちが口々に叫んだ。
「オレら其角さんと一緒にこの世の中、ひっくり返すんですぜ」
討ち入りまで
内蔵助は苦虫をかみつぶしたような顔で石段を降りていた。振り向くと、阿久利はまだ手を合わせている。
瓦版《かわらばん》を一読し、紅潮した面持ちの阿久利に手を引かれ、内匠頭《たくみのかみ》の墓前に連れてゆかれた内蔵助は、
「お喜び下さい。内蔵助たちが殿のご無念を晴らしてくれるとのことです」
と墓前にぬかずき報告する姿をぼんやり眺めていた。そして、
「今まで茶屋で遊びほうけているとの噂《うわさ》を聞き、腹立たしく思っていましたが、それも世を忍ぶ仮の姿と知って、嬉《うれ》しく思います」
深々と頭を下げられ、やっと現実に立ち戻り、今さら否定することもできず、ニガりきっていた。
部屋に戻ると酒の用意が整っていて、話を聞きつけた尼たちが入れかわり立ちかわり、激励にやって来る。そして別れ際、内匠頭のかたみの小刀を渡され、
「この刀で見事ご無念をお晴らし下さい」
と念を押された。
「あのネズミ、はめやがったな」
いったんはそう吐き捨てたが、なおも虚勢を張るかのように不敵な薄笑いを浮かべ、瓦版をこまかく引き裂いた。が、反面、ここまで自分たちを追い込んだ其角《きかく》の執念に空怖ろしいものを感じもした。
が、問題は仇討ちをしたあとだ。もし獄門打首《ごくもんうちくび》にでもなるとしたらどうしてくれる! ろくに話もしたことのない殿様のために誰《だれ》が仇討ちなどするものか。しかし、考えてみれば、浪人の生活もいまが限度だ。忠臣として迎えられるか、暴徒として葬りさられるか、さっ、どうなる!
内蔵助は遂《つい》に訪れた決断のときを思った。
――どうして生きのびる? 吉良《きら》を討ちとって、どうしたら罪を問われなくて済む?
内蔵助は自問し、武者震いした。やるなら、後に憂いを残さぬよう、十全の準備をせねばならない。
その夜、一晩中まんじりともせず、目が落ち窪《くぼ》むほど考えつくし、内蔵助は翌日、自ら旅仕度を整え、単身|加賀《かが》に赴いた。討ち入りを正当化し、あっぱれ武士道の鑑《かがみ》として迎えられるように、前田家に仕える儒学《じゆがく》者、室鳩巣《むろきゆうそう》に「赤穂義人伝」二巻の執筆依頼をするためであった。派手好きで、なんとか中央の学界にうって出たいと思っていた野心家の室にとって、この話は渡りに船で、快諾を得ることができた。
が、この男だけでは心許ない。加賀からの帰路、内蔵助はもう次なる策を練っていた。
「よおし、あとは綱吉おかかえの儒学者、林大学頭信篤《だいがくのかみのぶあつ》だ、あの男をおさえておけば大丈夫だろう」
内蔵助はほくそえんだ。
幕府の御用学者として昌平坂《しようへいざか》学問所をあずかり、その権勢で学界に君臨しつづけてきた林大学頭は、鶏ガラのように痩《や》せて、長身で、およそ学者とは思えぬ、因業《いんごう》な金貸しを思わせるような老人だった。
林大学頭は設けられた席の上座にすわるやいなや、権力欲にとりつかれた亡者のような顔で、
「いくら出す」
単刀直入に切りだした。内蔵助は内心ホッとした。こういうのが話が早くてよい。
「仕度金を全部」
と自信たっぷりに答えた。
「仕度金?」
大学頭はうさん臭そうにおうむ返しに尋ねた。
内蔵助はニヤリと笑い説明した。もしこの仇討ちが成功して、世論が自分たちの行ないを誉《ほ》めそやすことになれば、各藩からあっぱれ忠義者として仕官の誘いがあとをたたないであろう。そのときの契約金を全部渡すというのである。
さすがのすれっからしの林大学頭も落ちくぼんだ目を見開き、ゴツゴツ骨ばった手の細い指を神経質そうにこすりあわせながら、
「へー、先の先までよんでるんだね」
とあきれ顔で、それでも感心したような声をあげた。
「死ぬとわかっちゃ、だれも集まりゃせんから」
内蔵助はことさら卑屈に首をすくめてみせた。
「なるほど。で、おれが、将軍家の治政が実をむすび、このような忠義のものが出、これを厳罰に処すことはよくない。と、しゃべりまくりゃ、何人ぐらい集まるんだ」
「生きのびられるとなりゃ、五十人は集まるでしょう」
「ふーん」
「一人、五十両から百両の仕度金が出るとして、しめて四千両はかたいでしょうな。何卒お願いします」
「でも、考えてみりゃあ、関ケ原から百年もたってるんだ。五十人もの人間を一度に殺す度胸のあるやつなんかいやしないだろう。どう考えてみたってあんたらについた方が得だよ」
勝った、と、内蔵助は思った。幕府の評定を左右するのは世論である。それは先の内匠頭切腹の折に、世論の反対を怖れて即日切腹を申しわたしたことでもわかる。ならば、その世論を左右できるオピニオンリーダーを押さえるに限るのである。内蔵助は自分の読みに自信をもっていた。
金沢の室鳩巣から「赤穂義人伝」が届いたのは十一月の末であった。
内蔵助はそれを読み、必ずやこの討ち入りは世論の支持を背景に成功裡《り》に終わるにちがいないことを確信した。
討ち入り発表の瓦版が出て以来、犬がのさばる「生類憐《しようるいあわれ》みの令」に辟易《へきえき》していた世論は再び沸騰し、討ち入り待望の声があがり、内蔵助のところにもおもしろいように人が集まり出した。そのたび内蔵助は、
「お上の御定法を犯すなどという、天をも恐れぬことをする気はござらぬ」
と、口では慇懃《いんぎん》に否定する。が、その含みのある物腰のせいか、「助力は惜しまぬ」と名乗りをあげ、さらに「仇討ち成功のおりには当藩に」と非公式に打診してくる大名や老中があとをたたず、内蔵助は一人ほくそえんでいた。
七五郎は人数が増えるたびに役者をそろえに駆けずりまわっていたが、余り増えすぎると、衣裳代や小道具に金をとられるため、いろは文字にちなんで、その数は四十七人でうち止めということを内蔵助に申し出た。
新しく来た上野介《こうずけのすけ》役者は、声の張りも、立居振舞いも申し分なかった。なによりもその憎々しげな風貌《ふうぼう》がいい。特に松の廊下で内匠頭をいたぶるところは、そのしわくちゃな顔に見る見る生気がよみがえり、楽しんでいるとしか言いようがない。七五郎でさえ、くやしくて歯ぎしりするほどである。つられて七五郎の内蔵助もよくなり、其角も毎日|台詞《せりふ》を増やすほどのいれこみようであった。
さぞや名のある役者だろうと名前を聞いても、静かに笑うだけで答えようとしない。普段は無口で、暇さえあれば、首をハネられる場面のために、紙を切って雪を作っている。赤穂の浪士たちが呉服橋に攻め入る難しさに頭を悩ませていると知ると、
「たしか吉良様には本所松坂町《ほんじよまつざかちよう》に別邸があったはずだから、あっちに移ってくれるよう、あたしがちょっと掛け合ってきましょう」
とフラリと出てゆき、次の日、実際に上野介が引越したというニュースが伝わってくる。
どうにもとらえどころのない不思議な人物で、其角は以前どこかで見たような気がするのだが、どうしても思い出せない。しかし、芝居は期待以上のことをやってくれているのだから、あれこれ詮索《せんさく》する必要はない。なによりも、今では欠かせない役者なのだ。
「もう少し出番を増やせませんかね。松の廊下とむしろ小屋で首斬《き》られるだけじゃもったいないと思うんですよ。中盤あたりにもう一場面あると、引き締まると思うんですがね」
舞台の隅で黙々と柔軟体操をする上野介役者に目を細めながら、七五郎が其角に声をかけた。
「欲張りだなあ七五郎さんは。そう言って、あんたがやりあいたいだけだろう」
「へっ、図星で。ねえ、何とかなりませんか」
七五郎は甘えた口調で其角の袖《そで》までひっぱっている。
「そうだなあ、討ち入り前夜の、阿久利様へいとまごいに行くときにからますか」
「そいつはありがてえ」
「いいか、吉良上野介から阿久利様がお家再興をとりなしてやるからと言い寄られているところに内蔵助が入ってくる」
「へっ、何だかゾクゾクしてきますね」
「すがるような阿久利様に対して、上野介に計りごとをさとられてはならぬと、そ知らぬ顔の内蔵助だ」
「おいみんな集まれ! 今夜から夜っぴて稽古《けいこ》だ」
七五郎の声に役者たちが威勢よく応えた。
実際やらせてみると、上野介役者に手を突っ込まれた女形《おやま》の梅之助が本気で顔をそむけるほどで、そのいやらしさにみな思わずゴクリと生唾《なまつば》を飲み込んだ。
「『おお、これは大石殿、このたびはお家再興ならず、お国元へ帰られるか』――断絶になったとは知らず、甘い言葉に騙《だま》された阿久利が、屈辱のあまりすがるような目で内蔵助を見るが、それでも平然といとまごいの言葉を述べて去ろうとする。無念の気持ちを腹におさめ背を向ける内蔵助に、『腰抜けが、それでも武士か』と嘲笑《ちようしよう》を浴びせかける上野介」
と、そのときみなが口々に異議をさしはさんだ。七五郎が代表する形で、
「仇討ちやるって、ちょっと阿久利様に知らせるほうがいいんじゃありませんか。このままじゃあんまりかわいそすぎますよ」
抗議したが、其角は、
「何言ってんだい、いつもは女をきれい事で書きすぎるとバカにしてたくせに」
とそれを突っぱねる。するとまた、みないっせいに不満の声をもらし、口々に意見を述べたて、しばしいさかいが起きるほど稽古は熱烈さをきわめていた。そしてそういう折、
「どう思います、平蔵さん」
といつも最後に意見を求められるのが、上野介役者の平蔵なのだが、ニコニコ嬉しそうに、
「まっ、それは全体ができあがってのお楽しみということにして、それよりも『腰抜け、それでも武士か』という台詞は阿久利様に言わせたほうが、なお一層内蔵助の苦しみが出るんじゃないですかね」
となみなみならぬ読みの深さをみせ、其角は何度も恐れ入らされるのであった。
十二月に入り、寒さは身を切るほどに酷しくなった。師走の町を行きかう人も、吹きすさぶ木枯しから身を守るように背を丸め、誰《だれ》もが足早に家路を急ぐ。
金竜山浅草寺《きんりゆうざんせんそうじ》の境内が恒例のガサ市で賑《にぎわ》う頃《ころ》、内蔵助の使いの手によって、「赤穂義人伝」と林大学頭の答申書原案が堺町に寝泊りしている其角の元へ届けられた。芝居づくりに没頭し、内蔵助の動きについて何も知らなかった其角は、その内容を一読して顔をこわばらせた。
人物論中心の「義人伝」はともかくも、林大学頭が心血を注いだと一目でわかる答申書は、
――亡主の志をつぎ、一命を捨て、上野介宅へ押し込み討ち取り候だん、真実の忠義にてござあるべく候や。御条目に文武忠孝をはげみ、礼儀を正しくすべしとの趣に的中つかまつるべきやにござ候。
と一分の隙もない名文で、幕府の教えを守ったからこその快挙であり、亡主の志をついだ真実の忠義であるという論法には、其角でさえ酔わされた。
おそらく幕府もこれを読めば、赤穂浪士を安易に処罰することなどできはしまい。もとより其角とて、吉良邸で四十七士が勝鬨《かちどき》をあげて緞帳《どんちよう》を降ろすつもりであったが、あまりにもやりかたが汚なすぎる。あの内蔵助たちはもうすでに討ち入り後の青写真でも広げて悦に入っているのだろうと思うと胸クソが悪くなった。それでなくても、このところ七五郎を呼びつけては、わがまま放題、勝手な要求ばかり突きつけてきている。このままでは、四十七人のゴロツキどもの犠牲になって一人で悪を背負って死んでゆく吉良上野介という老人が哀れではないか。が、今さら引きかえすことはできない。それに、上野介役者の憎々しげな演技と役づくりは絶品だ。稽古をしていて何度その芝居に見惚《みほ》れてしまったことか。反面、見学に来た浪士たちが満足げに帰ってゆく姿を見て、何度台本を破り捨てようとしたかしれないのでもあった。
内蔵助たちの要求は日に日にエスカレートしてきていた。
内蔵助と打ち合わせを済ませ、ムシロ小屋に帰ってきた七五郎の話を聞き、其角は目をつり上げた。
「討ち入り当日、雪が降らなきゃ赤城山から雪を運べだと=」
「ええ、できなきゃ討ち入りは中止すると言っておりやす」
「バカな」
「いくら恥知らずの河原もんでも、あの人たちにはかないません」
その声は弱々しく、目にはうっすらと悔し涙さえ浮かべている。
「赤城山からなんて運べるわけがねえじゃねえか、本所の吉良邸から芝《しば》の泉岳寺《せんがくじ》まで雪まいて歩いてたらどれだけの量がいると思う」
其角の目もつり上がり、握りこぶしがぶるぶる震えていた。
「二言目には、菊五郎が挨拶《あいさつ》に来たの、団十郎がやらせてくれと言ってるだの、言いまして……」
七五郎は能面のように顔をこわばらせ、何度も力のないため息をついた。
「やつらの出してきた条件ってのはそれだけかい。よし、こうなりゃ雪だろうが槍《やり》だろうが何だって降らせてやろうじゃねえか、あとは何だ」
「あたしらが吉良邸を襲ったあと」
「あたしら=」
其角は耳を疑った。
「あっしらが吉良邸に討ち入ることになったんでさあ」
確かにあの男ならばそれくらいのことは言い出しかねない。が、余りに理不尽すぎる。
「どういうことだ=」
「内蔵助さんたちは討ち入ったあとの泉岳寺までのパレードの方に主力をおきたいとかで、討ち入りの方はあたしらがやることになったみたいです。討ち入りやってあんまり体力を消耗したくないって言って」
「だからオレたちに代われってえのか」
「へえ」
「オレら吉良さんに怨《うら》みもなにもありゃしないんだぜ」
「そうは言ったんですが、もしケガ人でも出たらとおっしゃいまして」
「そりゃ出るよ、討ち入りなんだから」
七五郎はこらえきれずに目頭を押さえた。
「そしたらあいつらは何するんだ。高みの見物でもしようって腹か=」
其角は有田《ありた》焼の湯のみ茶碗《ぢやわん》を粉々に握りつぶした。しゃくりあげながら七五郎は、
「当日は、吉良邸の炭小屋の裏で衣裳の受け渡しをして、あっしらはすぐにこのムシロ小屋へとって返して初日の幕を開けるって段取りでござんす」
「そんなバカな話があるかよ」
「あっしもそう申しあげたんですが」
「……それだけだな」
悔しさの余り、其角の額には脂汗さえ浮かんでいた。
「はあ……」
「何だ、まだあるのか」
「初日を一日遅らせてくれと」
「なぜ」
「吉田さんの実家が所沢にあるそうで」
「それとオレらの初日が何の関係があるんだ!」
「ですから本所からその所沢をまわって、そのあと片岡さんとこの奥さん方の実家が川崎なんでそこで晴れ姿披露して、結局泉岳寺へ到着するまでには二日あまりかかっちゃうっていうんですよ」
「何考えてんだヤロウどもは!」
稽古を中断して耳をそば立てていた役者たちも、さすがにいきり立った。
「それだけは何とかかんべんしてもらいましたが、そのかわり、二日目は休演日にして欲しいって」
「なんでだ」
「その日は小屋を貸し切りでドラフト会議をやりたいとか」
「ドラフト= 何だそれは?」
「討ち入りしたあと、たぶんあっちこっちの藩から入藩の依頼が殺到するだろうから、契約金だの年俸だののトラブルを避けるために、この日公明正大な抽選会を行ないたいっていうことで」
「あのヤロウら= どこまで性根の腐ったヤロウだ」
「腹も立ちますが、もうあっしの内蔵助と、あのお方とは別物だと思っておりますから」
あきらめきったような七五郎の表情に其角も仕方なくうなずいた。
「しかし、討ち入るったって、吉良邸の警護に当ってるのは上杉《うえすぎ》家の腕利き揃《ぞろ》いだぜ」
「大丈夫です、あっしら舞台の上でしか死にゃしません」
「しかし相手は本物の刀を持った武士たちだぜ」
「……ここにいる河原もんは、元をただせばみな侍でござんす」
「えっ!」
「上役の女房寝盗ったり、金くすねたりで、二度と世間に顔向けできず、こもをかぶって裸足《はだし》で道のはじを歩くしかねえようになっておりやす。侍でなきゃ、ここまで堕《お》ちれませんや」
七五郎の言葉に、まわりの役者たちが不気味に笑った。
「其角さん、阿久利様にお知らせしておかなきゃいけませんね」
「ああ、楽しみにしてたからな」
「ですが」
七五郎は顔色をくもらせ、
「妙な噂が広がっており心配しております」
と一枚の瓦版をさし出した。長い浪人暮しで、討ち入りの着物や刀を揃えられない赤穂の浪士たちが続出し、奥方たちが健気にも自らの身を売って討ち入りの用意をさせているという美談仕立てである。其角はその瓦版を握りしめ顔をひきつらせた。
「バカな、あのゲスの女房どもにそんな真似《まね》できるわけがねえ。それでもやる人がいるとしたら……阿久利さんだ!」
と声をあげ、表情をひきつらせてたちまち泉岳寺へ向かった。
山門をくぐり、石段を駆け上がろうとすると、人だかりでなかなか前に進めない。そばにいた町人らしい男をつかまえ、
「いったいこの騒ぎは何だ」
怒鳴るように聞くと、
「なに、尼さんが身体売ってるらしいんですよ」
とこともなげに答える。
背筋の凍る思いで人ごみをかき分けて行こうとすると、一番先頭で順番の木札をにぎっている男に呼びとめられた。
「ちょっと、そこの若い人、順番でっせ」
見ると、好色そうに口元を歪《ゆが》めた内蔵助の勝ち誇ったような顔があった。
「あんた、何やってんだ!」
「今日は客ですよ、私たち」
と、すぐ後ろで主税《ちから》が屈託なく答え、歯ぐきをむき出して例の下卑た笑いを洩《も》らしている。
「何てことさせるんだ、おまえらそれでも人間か!」
其角は情けなさに声が震えているのが自分でも分った。
「今日の一番客は吉良さんだよ」
「なに」
内蔵助を突き飛ばし、其角は駆け出した。心臓が喉から飛び出しそうだった。駆け上がり、同時に戸を蹴《け》り破って入っていくと、か細いよがり声をあげる阿久利の白い裸身を組み敷いた男がゆっくりと振り向き、ニンマリ笑った。
「見ておれまへんよってに、わてが出て参りましたで」
「近松!」
忘れもしない、その声と顔は近松門左衛門だった。
「シィーッ。今は吉良だす。その方がこの話おもしろなりまんがな」
「…………」
「どないだす、これで決心がつきましたやろ、ええ女ごや、討ち入りの費用稼ぐために身を売る大名の奥方、ええ人情話になりまっせ」
相変わらず人を食ったような物言いをしながら、近松は荒々しい手で阿久利の乳房をまさぐっている。阿久利はそのたびに小さくあえぎ声をもらし、近松の背中に爪《つめ》を立てる。近松のチロチロ動く赤い舌が阿久利の全身をなめまわした。女のように細い指が白い肌を這《は》った。
其角はつとめて明るく言った。
「もうあなたのすることに驚きはしません」
事実、初めて近松に会ったときの畏敬《いけい》の念に変化はなかった。其角の表情は初々《ういうい》しくさえあった。
「へえ、あんたもちっとは大人になったちゅうことかいな。オッ、なかなかやでこのおなご、生娘やったくせにもう腰を使いよる」
近松の臀《しり》が激しく上下する下で、阿久利の華奢《きやしや》な身体が弓なりにそりかえった。
「なぜ、この『忠臣蔵』、あなたが書きませんでした」
「志乃に頼まれたんや、あんたに書かしてやってくれ、て。そしたら気ィ入れてよがって泣いてみせるって言いよりましてな。あんたは罪なお方やで、能登《のと》の七尾《ななお》の泣き女を本気にさせてしまうのやさかい」
近松は腰の動きを止めることなく、嫉妬《しつと》に狂った目を其角に向けた。
「初日は二十四日です、観ていただけますか」
「ほう、ええもん書けたんでんな」
「はい、私も中村座の宝井其角です。せっかく大坂からみえられた方を、手ぶらじゃ帰しません」
「そうだす、所詮《しよせん》絵空事やっとんのや。そう言ってもらわな、見る気がおきまへんやろ?」
「はっ」
「初めて会うたときから、あんたの筋の通し方が、すれっからしのわてには恐《こ》わおました」
近松は一転して優しげなまなざしを其角に送ってきた。
「死にゆくもんに筋通させることができんのは舞台の上だけだす。其角はん、ええ筋通しておくれなはれ」
なぜに近松はオレに優しくする。阿修羅《あしゆら》となって四十七人、みな殺しにしようというこのオレに。
泉岳寺を出たあと其角は深川へ廻っていた。そこに、どうしてももう一度会っておきたい人がいたのだ。
背丈ほどもある葦《あし》の原を抜けると、吹きすさぶ寒風の中に、芭蕉庵《ばしようあん》は忘れ去られたようにポツンと建っていた。
半分傾きかけた戸を開けると、垢《あか》じみた布団にくるまり、骨と皮ばかりになった老人が、その落ちくぼんだ目をゆっくりと見開いた。
「師匠、御無沙汰《ごぶさた》しておりました」
「……其角か、やっと来てくれたな、待っていたぞ」
芭蕉はゼーゼー喉を鳴らし、死臭を思わせる臭い息を吐いた。その身体は見る影もなくやつれ果て、渋紙のような色をしたその肌には、いたるところ醜いシミが浮き出ている。
「おまえが訪ねてくれるまで、わしは死んでも死にきれなんだ。聞いてくれ、其角」
すでに俳壇での力を失い、世話をするものとていない尾羽打ち枯らしたその身ではあったが、最後の力をふり絞るように細い腕でその身をささえ、上体を起こそうとし、あわてて其角はそれを助けた。
「其角、辞世『旅に暮れて、夢は枯野をかけめぐり』だがな、あれは『暮れて』ではなく、『病んで』の方が正しいと思わぬか。『旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる』どうだ、なっ、いいだろう、いいだろう」
なるほど「暮れて」よりも「病んで」の方がより寂寥《せきりよう》感がつのる。
「『病んで』が正解だと思います」
「それだけじゃない。『り』じゃない、『る』だ。かけめぐる、だ。『旅に病んで夢は枯野をかけめぐる』だ。これだ、これなんだ、わしの求めつづけたものは。な、そうだろ、そうなんだ! これこそわしという人間の臨終にふさわしい句だ」
芭蕉は興奮した面持ちで、どこにこれほどの力が残っていたのかと思うほど強く、其角の手を握りしめた。
「『旅に病んで夢は枯野をかけめぐる』。すばらしい、実にすばらしい。これでわしは遂《つい》に西行《さいぎよう》を越えることができたぞ。わしの名は永遠に語りつがれることだろう。芭蕉の名は不滅のものになったのだ」
自ら終生の目標と定めた西行を越えたという確信に、芭蕉はヤニだらけの目に涙さえ浮かべ、何度も「西行、西行」と繰り返し、そのひからびた身体をうち震わせていた。
人生の終焉《しゆうえん》を迎えてもまだ西行を越えることのみに執着しつづけるその姿に、其角は鬼気迫るものを感じた。
が、それが生命の最期の高揚だったのだろう、次の瞬間、
「オレは西行に勝った!」
一声叫ぶと、満足そうな表情のまま、其角の腕の中でこときれた。
あまりにも軽い師の骸《むくろ》に比べ、その死にざまはあまりにも重かった。其角の胸に万感迫るものがこみあげてきた。
――そうだ、オレは引くに引けぬところまで来ているのだ。
春へ向かう
十二月十四日午後十時、朝から降りつづいた雨はみぞれに変わっていた。羽織に首を埋めるようにして七五郎たちの待つ中村座へと向かう其角に、一人の女がそっとカサをさしかけた。
志乃だった。
厚く雲が垂れこめた夜空から落ちてくる白い絹糸のようなみぞれが、二人の肩をやさしく濡らす中、一つのカサに身を寄せあうようにして、其角と志乃は黙りこくったままいつまでも歩きつづけた。
こうして二人で歩いていると、はじめて会った時からの八年という歳月さえも見失ってしまいそうなほど志乃には其角が近くに感じられた。一歩一歩あゆみを重ねるごとに過ぎていった日々が埋めていかれるようで、肩が触れあうたび哀しいほどに胸がこがれた。
日本橋に近づくにつれ、雨足が早まり、カサに打ちつけるみぞれの音の激しさはひとかたでなかった。
「志乃さん」
ふと其角の声を聞いたような気がして、志乃は脇から其角の横顔をのぞき見た。いつもの幻聴らしかった。其角のもとを去って以来、幾度、この懐かしく、いとおしい声を耳にしたことか。
――このおひとはいつだってこうして遠くを見つめてはる。わてには思いもつかへんような、ずっとずっと遠くの先を。
町並は闇《やみ》の中にひっそりと息づき、来たるべき殺戮《さつりく》劇を静かに待ちうけていた。その中を、二人のちょうちんの明りだけが、真冬に舞う蛍のようにユラユラと光の尾をひいて進んでゆく。
吹きすさぶ北風の中で、まだ薄手の着流しだけの其角は、身体の芯《しん》まで凍らされ、唇の色を失い、それでも心の底深く煮えたぎる情熱のほとばしりに胸を熱くうずかせ、時代をゆるがす殺戮劇をつくり出すのはオレだとの自負で、全身をたぎらせていた。
昼のさかりの頃には市を出すものの呼びこみの声や瓦版売りの声でガヤガヤと賑《にぎ》やかな日本橋も、雨の夜ともなるとひっそりと静まりかえり、人っこひとりいないありさまである。
橋を渡りきってすぐのあたりのひなびた待ち合いの茶屋の前で志乃は立ち止まり、
「どっちがお客が入るんでっしゃろ」
じっと正面を見つめたまま、つぶやいた。闇にほの白く浮かびあがるやさしい曲線を描いた横顔が美しかった。
「はっ?」
「四十七士が切腹するのと、せんのでは」
「もちろん切腹した方が入ると思います」
「だったら切腹させたらよろしおへんか」
かわらず強い口調だった。其角の腕の中で小さな肩がかすかに震えていた。
「しかし、あいつらはせんでしょう」
「させたらどうどす。あの火事|衣裳《いしよう》、裏返せば、死に装束になってますえ」
志乃はゆっくりと歩みを止め、初めて其角の顔を正面から見つめた。吐く息が白い霧になって其角の鼻先をかすめた。
「先に役者が浅野はんのお墓の前で腹切ったらどうどす」
「そのつもりです」
「そうでしょうな。四十七人もの役者が死んで、赤穂の浪士さんたちは生きてられまへんもんな」
志乃は笑みをふくんだ凜《りん》とした表情でそう言うと、朱色の蛇の目ガサを其角の手に押しつけ、はにかんだような一礼を残して茶屋へかけこんで行った。
其角は十歩ほど進んでからもう一度だけ振り返り、カサを握りしめて中村座へと急いだ。
舞台ではちょうど、火事装束の衣裳に着替えた七五郎たちが最後の台詞あわせをしていた。其角が楽屋の入口を開けると、役者たちは押し黙り、淡々と身づくろいをしていた。
「さあ、其角さんも来なすったことだし、みんな出揃《でそろ》ったとこで水盃《みずさかずき》でも交わそうや」
七五郎の低く静かな声が、楽屋の静寂の中を突然響き渡り、其角はドキリとした。
「たとえ四十七人殺すことになったって、わてら舞台の上で華咲かせられりゃ本望でんねん。生きるためには夢が必要なように、死にゆくもんにも夢がいるんだす。其角はん、ええ夢見せたっておくんなはれ」
黙々と取り交わされる盃をながめながら、其角が、
「相当な数の怪我人が出ると思いますが……」
と声をかけると、
浅野内匠頭と主税の二役をやる辰之助《たつのすけ》が、
「あっしら、立ち回りで慣れてますから」
ゾッとするほどの美しい微笑を返してきた。
「かすり傷一つしてたまりますか、大事なお客さんに見せる身体だ。あっしら舞台の上以外ではくたばりゃしません」
いつも暗い楽屋でうつむき、顔をあげることも少ない辰之助の顔に改めて見入る其角に、
「なーに、ほんとに討ち入った方が舞台にも華が添えられるし、客の入りも良くなるってもんでさ。ここにいるやつらはみんな河原乞食《かわらこじき》に身を落とすまでには、ひとつふたつ地獄を見てきたもんばっかりです。死ぬよりひでえ目見てきた者に、死ぬことなんざどうってことありゃしねえんです。それにあっしら、意地のために死にてえんでござんすよ。ハハハ、おかしなもんですねえ、其角さん、人間てやつは落ちていけばどこまでだって落ちてくもんですが、やっぱり義のために死にてえもんでござんすね」
七五郎の淡々とした言葉には、河原者の悲壮な決意が込められていた。
「でもね、其角さん、ここまで来たからにゃ、犬死にさせねえで下せえよ。あっしら河原もん、一度でいいから思いっきり笑ってみたいんでさあ。思いっきり泣いてみたいんでさあ」
あふれる涙をぬぐおうともせず、七五郎は其角の手を取って力強く握りしめた。其角もそれを力いっぱい握りかえし、大きくうなずいた。そのとき、
「とうとう舞台に乗れないんだなあ。どうでしょう、舞台が先ってわけにはいきませんかね」
上野介役者がポツリと言った。
「本所松坂町の討ち入りが先だと、わたし、あらぬことを口走らないかと思いまして。嫌な思い出がいっぱいありましてね。いま思い出しても、わけのわかんない人だったなあ」
こちらに向けた背が淋《さび》しそうである。
「あんた、まさか」
肩を落とした背中に其角は見覚えがあった。それはまぎれもない、中村座跡の河原で、子供たちに棒っきれでつつかれていた吉良上野介本人であった。
「仕方ないですねえ、もうあきらめます。すみません、みなさんの士気を削《そ》ぐようなことを言って」
上野介は弱々しくほほえんで見せると、
「では本所でやりあいましょう。手かげんしませんよ、わたしらも」
深々と頭を下げ、代役を言い置いていったのだろう、五助に目くばせし、五助の大きくうなずくのを確かめると、ひとり小屋を出て行った。
外の寒気は一段とすさまじく、吐く息でさえ凍らせるほどであった。期せずして、むしろ小屋から出た役者たちから「オーッ!」という喚声がもれた。みぞれがやんで、雪がちらつき始めたのである。しんしんと降る雪のまぶしい白さを心地よく感じながら、其角はこの悲愴《ひそう》なまでの雪の美しさを目に焼きつけておかなければと思っていた。
七五郎たちは整然と隊列を組み、本所へと向かった。物音一つしない暗闇《くらやみ》の中を歩いてゆく河原乞食たちの後ろ姿が、そのときの其角には、あたかも花道をきらびやかに駆けぬけてゆくあで姿のように感じられた。
本所松坂町の吉良邸前には、深夜だというのに討ち入りの様子を一目見んものと黒山の人だかりができ、その騒ぎは尋常ではなかった。
普段は人通りさえほとんどなく、たまに野良犬が通るくらいの吉良邸前の細い道が、人出をあてこんで軒を連らねた屋台の物売りや、幕府の密偵《みつてい》らしい目つきの悪い男たち、物見高い武家屋敷の腰元たちや、ねんねこばんてんに子供をおぶった近所のおかみさん連中、仕事を早めに切りあげて帰ってきた職人たち、その他江戸中の有象無象《うぞうむぞう》でごったがえしていた。
討ち入りの主戦場、庭に面した塀側には木のやぐらが組まれ、桟敷《さじき》では見物客が今や遅しと四十七士の到着を待ちわびていた。
其角が人ごみをかきわけるようにして前に進み出てみると、
「さあさあ、こっちだこっちだ。急がないと良い席がなくなるよ。旦那《だんな》さん、ここはよく見えるよ。私の予想だと、あの庭のはじの炭小屋あたりで首がハネられるとふんでるんですよ。さあ、この辺が一等席だよ、ハイ、つめてつめて!」
内蔵助がダミ声を張りあげて呼び込みをしている。両のたもとは見物料の小銭でふくれあがり、生地が破れて抜けそうになっている。
内蔵助のわきでは息子の主税が、「貸しバシゴ」と書かれた紙を首からつるし、薄気味悪い笑いを浮かべ、しきりに愛嬌《あいきよう》をふりまいている。
見れば、桟敷に上るだけの金のないものはみな、このハシゴを借りて空いた塀に立てかけ、鈴なりになって吉良邸をのぞきこんでいる。中にはちゃっかり、塀の外に伸びた松の枝によじ登っているものもいるが、すぐに赤穂の浪人に、「タダ見はあかんで」とひきずり降ろされ、袋叩《ふくろだた》きにされている。
其角はそれらの光景を前に呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。そうしながら、おおいかぶさってくる四十七の影とうめき声をふり払うのに精一杯だった。其角はかつて虫でさえあやめたことはない。これからのことを思うと、身体中の震えが止まらないのである。わずかに、塀の向こうから身体を乗り出す吉良邸用人の中で、目ざとく其角を見つけ、照れた顔で小指を立て、両手でバツ印のサインを作ってよこす磯田武太夫を見かけたときには、たまらない安らぎと懐かしさを感じた。そのとき、
「当りますよ、この芝居」
振り向くと、勝ち誇ったような内蔵助がいた。
「討ち死にした者の名前はすぐに教えて下さいね。すぐトンズラさせないと具合が悪いですから、ハハハ」
「大丈夫だよ、こっちだって初日があるんだ、誰も死にゃしないよ」
「相手は武士ですよ」
「こっちは河原もんだ」
これ以上話すことはないとばかりに背を向けた其角に、
「ねえ、団十郎だめですかね」
と、未練タップリな内蔵助の声が飛んだ。
続々と詰めかける見物人たちが我がちに桟敷に上り、内蔵助も今日一日|儲《もう》けるだけ儲ける魂胆か、際限なく人を詰め込み、なかには丸太で組んだ支柱がかしぎ、半分落っこちかけているものもいる。
吉良邸のまわりは見物人たちの熱気で、冬だというのに汗ばむほどであった。人いきれと汗の匂いと屋台の食物の匂い、それに便所の設備もないものだから、見物人たちが入れかわり立ちかわり垂れてゆく小便や野グソの臭いが入りまじり、吐き気を催しそうだった。
あちこちで人いきれで気分の悪くなった腰元たちがまっ青な顔でバタバタ倒れ、ケガ人が続出し、赤ん坊がむずかり、子供が火のついたように泣きじゃくっている。
上野介はそういうのを放ってはおけないタチなのだろう、自ら先頭に立って気分の悪くなった者やケガ人を邸内に設けた救護所へ運び込んでいる。
吉良邸の門が開き、上野介が見物人たちに深々と頭を下げた。むしろ小屋であれほど生き生きしていたのが嘘《うそ》のように、今は緊張した面持ちで唇まで青ざめている。
「では、つつしんで始めさせていただきます」
震える声で言ったのをきっかけに、山鹿《やまが》流の陣太鼓が鳴り響き、討ち入りは始まった。
七五郎たち中村座の役者たちが扮《ふん》した四十七士は、きびきびとそれぞれの持ち場に散っていった。その誰もが本物の四十七士とは似ても似つかぬ美形ぞろいである。沿道の町娘や腰元たちが黄色い声をあげ、色とりどりのテープや花吹雪がいっせいに舞い散った。
「四十七人勢揃いの初日を開けなきゃ、せっかく切符買ってくれてるお客様に申し訳ねえ」
との言葉に、異様な熱気に包まれた七五郎たちの気合いはすさまじく、迎え撃つ上杉、吉良の連合軍をバッタバッタと斬り捨てていく。一糸乱れぬ統率に向かうところ敵なしの勢いであった。
池にかかった眼鏡橋の上で美しい辰之助に相対した多門伝八郎は、女ものの襦袢の裾《すそ》をひるがえし、勇猛に闘っている。二の太刀、三の太刀をうけながらも、それでも舌なめずりしながら辰之助に抱きつこうとする。血だるまになりながらも男を求めるそのあくなき執念に、誰もが怖気《おじけ》をふるい、さしもの河原者たちも最後は逃げだすほどだった。
闘いは一刻を費やし、赤穂の浪士は、軽い手傷を負うたものが二、三名いるだけで、全員無事であった。
吉良邸で衣裳の着替えを終えた浪士たちは、沿道を埋めつくした江戸庶民たちの万雷の拍手と歓呼の声に送られて内匠頭の墓前に上野介の首級を捧《ささ》げるため泉岳寺までパレードした。河原で返り血を洗い流しながら、それを見送った七五郎は、
「御立派な最期でした」
と、自ら手にかけた上野介のことを思い、耐えていたものがいっぺんに吹き出したように、これまで決して流したことのなかった涙をあふれさせた。
四十七士は、幕命により、細川、毛利《もうり》、松平、水野の四家に分散して預けられた。
内蔵助が狙《ねら》ったとおり、各大名家は浪士たちを忠臣として暖かく遇し、内蔵助がお預りになった細川家では当主綱利《つなとし》自ら出向いて、
「亡主の志をつぎ、誠の忠義であるぞ」
自らの家来を叱咤《しつた》するほど誉めたたえ、
「許しが出たおりは、ぜひとも当家へ」
とまで言い添えてくれた。
老中|阿部豊後守《あべぶんごのかみ》までが時世に遅れじと、
「老中一同が大慶と存ず」
との見解を出し、こうなるともう誰も彼もが快挙と誉めたたえた。
が、内蔵助はどのような申し出にも決して物欲しそうな顔はせず、
「あとは御|沙汰《さた》を待つだけでござる」
とひたすら幕府に対して恭順の意を表わしていた。
この一両日が勝負だと思えた。早ければ明日にでも幕府の大勢は決まるだろう。つつしみ深くあればあるほど、状況は自分たちに有利に展開してゆくはずである。明日になれば、林大学頭が答申書を呈出し、幕府の命を守ったがための仇討ちであることを声高に主張してくれることだろう。それまではひたすら謹慎していればよい。
が、気がつくと、足はひとりでに堺町の中村座へと向かっていた。まずいとは思いつつ、七五郎たちが自分らをどう演じ、観客がそれにどう反応するかを知りたいという願いを抑えることができなかった。
途中、魚屋の小僧が、魚がおいしくないと主人を愚弄《ぐろう》された仇討ちと称し、包丁をふりまわして客を追いかけている光景にぶつかった。それを見て、内蔵助は自分たちの影響力を誇らしく思った。実際、そのようなにわか仇討ちが今朝から江戸の町にあふれていた。が、踏みとどまる冷静さを選ぶよりも、この興奮にしばし酔っていたかった。
中村座に着いてみると、誰にも内緒で来たはずだったのに、四家に分散され、みな淋しかったのでもあろう、四十七士全員が顔を揃えていて、みながみな「ヤア」「ヤア」とにこやかに、晴れがましく、手を上げて客の歓声に応えていた。観客の暖かい拍手に包まれ、有頂天になって笑顔を返す内蔵助は、緞帳《どんちよう》の陰から送られる其角のなまりのような冷たい視線を知るよしもなかった。
立錐《りつすい》の余地もないほど中村座を埋めつくした善男善女たちは、四十七士が亡君の墓の前に首級をかざし、勝鬨《かちどき》とともに、葵《あおい》の紋をつけ、馬を駆り、駆けつけた将軍綱吉から「あっぱれ忠臣」と誉めたたえられ幕が降りるものとばかり思っているのであろう、客席の内蔵助たちに割れんばかりの拍手である。
その拍手の音をハネ返すように、七五郎の渾身《こんしん》の力を込めた台詞は続いていた。
「義はおのれを潔くする道にして、法は天下の規矩《きく》なり。われら四十七士がその主の為に仇を報ずるは、おのれを潔くする道にして、そのことは義なりといえども、その党に限ることなれば、私の論なり。士の礼をもって切腹に処せらるるものならば、われらの忠義を軽んぜざるの道理、もっとも公論というべし。もし私論をもって公論を害せば、この後天下の法は立ちませぬ!」
一瞬にして青ざめ、乾いた唇をせわしなくなめまわす大石内蔵助を、其角は見た。
――聞いているか、いさぎよい行ないをしたからこそ死ぬというのだ。が、その正しい行ないが法を破るときは、潔く罪を受けねばならぬという論理なのだ。聞こえるか、士の礼をもって切腹させよと訴えている七五郎の声に涙しているこの客たちの歓声が。
より一層大きな拍手が舞台の上の四十七士に向けられ、客席の四十七士の中に動揺の色がひろがった。
「まさか!」
内蔵助が思いがけない裏切りに驚愕《きようがく》の声をあげる間もなく、舞台の上の四十七士は次々と、其角が精魂傾けて作った辞世を詠じ、白装束の胸元を押しひろげ、腹かっさばいて果てていった。
舞台は一面血で染まり、次々と命を絶つ河原者たちの血しぶきで、客席までが真紅に染まった。吹き出る血の嵐《あらし》と断末魔の叫び声で、むしろ小屋はあたかも一枚の地獄絵をながめるような体裁であった。
「嘘《うそ》だ! これは嘘だ!」
客席の四十七士が口々に叫び、役者たちの血しぶきを浴びながら、オロオロと立ちあがった。
河原者たちの凄絶《せいぜつ》な死にざまと内蔵助たちの狼狽《ろうばい》ぶりを舞台袖《そで》で食い入るように見つめながら、其角はこれでおまえたちも腹かっさばかなきゃおさまりがつくまいと、背筋を凍らせるような冷たい笑いを唇の端に浮かべていた。
客たちの拍手は、彼らにも切腹を求めるかのように、客席の赤穂浪士たちに向けられていた。
「勝った」
小さく叫んで、其角が全身の緊張を解いたとき、不意に黒い影が走り、何者かが其角の背中に体当りをくれていた。一瞬、焼け火箸《ひばし》を押しつけられたような痛みが走り、生暖かいものが背中から腰を伝わってしたたり落ちた。
振り返ると、憤怒に全身を震わせた大石内蔵助が、血だらけの短刀を両手で握りしめ、顔面をひきつらせて其角をにらみつけていた。其角はゆっくりと身をしずめるようにその場に倒れこんだ。顔をくしゃくしゃにした志乃が駆け寄り、其角の肩を抱きしめ、狂ったように泣き叫んだ。その慟哭《どうこく》の叫びは血を吐くほどに激しく、その表情は、かつて何人も見たことがないほどの哀しみの色を帯びていた。
志乃には、生まれて初めて、他人のために流す熱い涙だった。
「その声が聞きたかったんだ」
ニヤリと笑う其角は、薄れゆく意識のなかで、
「へえ、江戸の物書きは粋なことやりまんなあ」
という、呆《ほう》けたような近松の声を聞いたような気がしていた。
発 表/「野性時代」昭和57年12月号発表作品に加筆
単行本/昭和57年11月、角川書店刊
つか版《ばん》・忠臣蔵《ちゆうしんぐら》
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