TITLE : 道徳を否む者
道徳を否む者
――山村慎一の手記に依る――
きだ・みのる
私の毎日の日課は大体次のように始まる。私は離れになっている八畳――部屋の襖や壁には本棚が天井まで本を並べ、並べ切れない新しい本は床の間や、中央にある大きな紫檀の机のまわりに塁積している――であさ眼をさます。床から起き出すことなく、コーヒーを飲む。これは食慾のためでなく、頭をはっきりさせるためなので、ブラックだ。それから煙草に火をつけ、枕もとの新聞を一枚一枚拡げて眺める。それが終る頃、目がすっかり醒め、そこで仕事にかかる。長い年月の習慣なので、何処にいても、戦争があっても、変りなくこうして新らしいよき或は悪しき日のカーテンが私の生活に向って開かれるのだ。
ある日、これは五月下旬のはじめだった。私は同じ日課をくり返しはじめていた。新聞の一面から次々に無感動な眼をさらしているうち、私は心臓を強く握りつぶされたようにはっとなった。
――しまった、と私は自分自身に向って呟き、悔いが心の上に拡がり、それを圧しつけた。私は水の底に深く沈んで行くような気がした。
小さな一枚の肖像写真が私の眼を捉え、不動にしたのだった。それは知名の人物や自死の使用人の訃を知らせる欄に押しこまれ、周囲に七十五年の生涯の半ば以上を東京で過したこのフランス人の略歴が記されていた。読むまでもなく、私はそれをもっとよく諳んじていた。私は彼を一番好く知っている一人であったのだから。私は急いでほかの新聞を次々に披いてみた。多分通信社提供の配給ニュースを採用したのであろう、孰れも同じ写真、同じ記事が同じような欄に載っていた。写真はそういう欄に見受けられるもののように極く小さいものであった。彼はそこで私の見慣れた彼のように若く、内気で、つつましやかでやや斜めにポーズしていた。写真の彼が若く見えるのは、彼は写真嫌いである上に、老《ふ》けた自分を見ることを好まなかったので、近影が無かったためであろう。斜めのポーズは彼の好みだった。それは私の思い出にもつながっていた。
ずっと昔、私が五年制中学を出て間もなくの夏だった。A... F...の夏休みに彼は私に中国を一周して来るようにすすめた。そのとき彼は私に写真を求めた。私は手許にあった分を渡すと、彼はそれを眺め、笑いながらいった。
―― Tiens ! 《おや》 耳が二つあるじゃないか。
この言葉は多分日本人である誰れにでもそうだと思うが、私を驚かせ、私は訝りの眼を彼の方に向けた。
実際、写真屋の美学に指導された私のポーズは形式的で、成るほど私の顔の両側に一つずつ耳が喰み出していた。彼にとって、そのポーズには私がいなかったのだ。それは兵隊写真か鑑識写真でしかなかった。彼は両耳のある写真には、そんな偏見を持っていた。新聞の小影で片耳しか見えないのは、この偏見の現われだ。
そのうちにひょっとしたらこの写真は私の写したのではないかと思いはじめた。――そうだ。もしそうなら、と私は私にいった。あの時の写真かも知れない。いやそれに違いない。
するとその日の情景が鮮明な視像になって来た。その年の春の終り、私はフランスに三年滞在した後、東京に帰って来た。駅に著いたのは朝早くだった。金を費い過ぎた私は三等客車からプラットホームに吐き出された。家に著くと、そのまま――私の家は彼の家でしかなかった。私はそこで先ず彼の子であり、次で弟子であり、友であった――私はオーバーも脱がず真直に客間に入って行った。そこではガスストーブは前のように若干の悪臭を放っていた。欄間には「顔覧哉不更其楽」の筆者不明の見慣れた横額があった。すべては何等か前の雰囲気そのままだった。その横額の下で、彼は朝食の牛乳コーヒーを飲んでいた。私の突然の出現に、驚愕《プールヴエルセ》したかのように、言葉も出さずに私を見つめていた。彼は自分の眼を信じられないような表情を浮べていた。
――やっと《アンフエン》、と彼は嘆息するように呟いた。そしてつけ加えた。おまえは帰って来たね。
そう云って彼は立ち上り、私の頬に接吻し、私はそれを返した。私はそこに旅に出して待ち兼ねた子を迎える父、修業に送り出した弟子の戻りを待つ師《メートル》、長い別離の後で再会する友を感じた。
彼はコックを呼んで私のために新らしくコーヒーを用意させ、昼食の献立を豊富にするように云いつけた。コーヒーを終った彼はナプキンをたたんで食卓に戻し、安楽椅子に深く腰を下ろし、私にもも一つの安楽椅子をすすめたが、思い返したように云った。
――立って、も一度好く見せなさい。
私が彼に対い合って立つと頭から足まで眺め、向うを向いてと一回転させた。
――ずい分、長い間見なかったね。と彼は呟いた。
コックはコーヒーを持って来ると、彼は安楽椅子のそばの小卓におかせた。私がそれを飲んでいる間も彼は視線を私からはなさなかった。彼は長い間失われておぼろになった面影をも一度よく瞳と心に刻みつけるのに倦きないかのように私を眺めていた。
――少し肥ったのかね。
私は特にそうは思っていなかったが、三十日の船旅では運動ができないので或はそうかも知れないと思って“多分《プーテトル》”と答えた。
――少し身長《せ い》も高くなったんじゃないか。
――私はそれは信じません。
彼は立ち上っていった。
――来て、ここに立ってみなさい。
彼は縁に沿う部屋の角の柱に私を立たせた。その柱には小さいマークがついていた。赤いのは彼の身長だった。それは一つしか印されていない。青いのは私の身長だった。それは赤のマークの下に五つ、その上に三つあった。赤の上に最初の青いマークが記された日、彼は憤慨の語調で云った。
――これはスキャンダルーだ。そう思わないかね。身長が低いと世界に定評のある日本人が、そんな定評を持たないフランス人より高くなるのは? いや確かにスキャンダルーだよ。
私は元来が背丈の高い方ではなかった。しかし成長期に私が親類から勘当されこの家に引き取られたので、ここの食物が私を育てたに違いない。それに日本人の家では躾の煩わしさが、少年たちに気をつかわせ、精神的に彼等を小さくする。それのないこの家の自由さは私の体の発育を助けたに違いない。彼は彼を追い越した私の身長について苦情は云っていても満足していることはその頬笑みと慈しみの眼が語っていた。
その日計ったとき、私の身長は伸びていなかった。それは一七八と記された青いマークの通りだった。
――パリジャンは、と私は安楽イスに戻り向い合って坐ると云った。あなたのようでした。私をスペイン人かイタリア人だと思っていました。それで私が日本人だというと、両親はどっちも日本人か、どっちかがアメリカ人ではないかというんです。彼等は身長が高いと日本人と認めません。
彼は満足そうに聞いていた。私の声が欲しかったのだ。
時間はこのような雰囲気の中で過ぎて行った。彼は忘れていたことに気づいたように時計を出した。それはフランスに行く前、彼の精工舎の時計と引き換えに贈物にしたナルダンだった。彼は時間を知ると叫んだ。
――ああ、十分遅くなったよ。散歩の時間が。おまえが不意に現われて驚かしたからだ。電報を打つべきであったね。
電報はこのようなときには私には何時も大ゲサに見え人騒がせに思われた。自分が自分の家に帰るとき私は隣りから帰るように家に帰るほうが好きだった。
彼はつけ加えた。
――一緒に散歩しないか? 疲れていなかったら。
――よろこんで《ヴオロンチエ》、と私は答えた。
私は東京に帰ってキモノの伝統の中に再び私を見出したことで興奮していた。私の眼も長い間留守にした町々を歩き廻ってこの都と人とを眼で貪り食いたい慾望にかられていた。きのうなど神戸に上陸したときには誰れでも行き合う人々の肩をたたいて今日はと挨拶したい強い慾望に負けまいとどんなに骨折ったか。
彼は雨さえ降らなければ、朝のコーヒーをすますと毎朝七時半から四十五分間散歩した。ドイツ人やイギリス人と違って「腹を持つ」ことはシックを傷けると考え厭がるフランス人の慣わしのように彼は運動で肉体の線を整えるために違いなかった。散歩のコースは近くにある墓地までの往復であった。途中の家の人や、行き合う勤め人にとって、彼の姿は普通は時計の針の正確さで時間を教えた。
私たちは外へ出た。朝は冷たかったので、私は何時もそんなときするように外套の襟を立てた。彼はそれに気がついて指摘した。
――外套の襟がいたむよ。そうしちゃあ。
私は従順に襟を折った。彼は背の方を折るのに手を添えた。
――この方がずっと立派《ボ ー》だよ。
彼は几帳面で、規則的なことを好む性格を持っていた。私は乱れの中にもそれを見た。
街路に朝の澄んだ光が満ちていた。時間が早いので人通りは未だ少なかった。私たちは病院のある広い白い坂を登って生垣の多い裏道に入った。道々私は彼の紹介状を持って訪ねた画家の友人や市民大統領のルーベの娘の一族から私がどんな歓待を受けたか話した。彼はもう十数年も会わないそれらの知人の近況を聞き、私の話し洩らしたことを訊ねた。
――彼女はもうすっかり白髪だろうね。
とか
――あの絵描きは未だどもりどもり話していたか?
とか、或は
――彼の細君はどんな女かね。子供は何人いた?
とか。そしてから最後に彼は云った。
――みんなおまえを満足させてくれるような歓待をしてくれたかね。
――ウイ。みんな度々僕を昼飯や晩飯に招待してくれました。
そう云いながら、私はしかし……と思った。パリの生活の中で私に一番親切だった人々を別のところに私は見出していた。私の答えに彼は云った。
――そうか。では未だ私をすっかり忘れ切っているわけではないね。
彼の日本の滞在が五年、十年、十五年とフランスに帰ることなく長びくに連れてパリからの便りも段々と少なくなり、最後の今では昔の知り合いとのつき合いもクリスマスのような儀礼的な名刺の交換のようなものに限られてしまっていた。それも年々数は減って来ていたので、彼はパリのことを考えると、いつも置き去りにされたような孤独の感じを持っていたのだ。私の訪問のとき与えられたそんな人たちの歓待の物語は、丁度私が彼の代理であるかのような風に彼には考えられたに違いない。しかし……
私たちは墓地の入口にさしかかった。三四人の幼い小学生たちが北風の蔭になった陽溜りで話し合っていた。彼等は私たちが近づくのを見ると歩き出し、すれ違うとき云った。
――異人さん、にゃあにゃあ。
彼は微笑を以て彼等に答えた。
――こんにちは。
小学生たちは満足の笑いと共に朝日の光の中を駈けて行った。私は子供たちの言葉の意味が解らなかったので訝りの眼を彼に向けた。
――小日本人たちの挨拶だよ。私の眼は猫のそれのように青いね。だからにゃあにゃあだね。今日は少し遅くなったので、子供たちはここで待っていたのだ。
私たちは再び私たちの会話に戻った。
――何がおまえに一番印象深かったかね。今度の旅行で。
この問は私には答えるのにたやすかった。
――今度の旅行で、私が激情《エモーシヨン》で涙を流しそうになったことは四度ありました。一度はパリに著こうとするとき、もう二時間も前から私の胸はふくれ上って何にも考えられないくらいでした。パリは私のふる里のように私を感動させました。
私は私の話を聞いている彼を見た。彼は心の中でああ、もう十五年も私はこの都を見ないと嘆息していたことだろう。彼は多分この回想を逃れるため、私に急いで云った。
――それから。
――それから去年、雪解けの赤い水をダニューブに奔流させていたヴァルタール河沿いに汽車がギリシャの国境に迫っていたとき、……
――ああ幸福者《ヴエイナール》よ、と彼は云った。私は未だパルテノンは見ないのだ。あれを見たのはA... F...ではおまえだけだよ。パルテノンは美しかったかね?
――僕はパルテノンに行って円柱の下に腰を掛けていました。僕は仕合わせを心から感じましたね。それは僕に随分いろんなことを考えさせました。
――ギリシャ語は忘れなかったか?
――ノンと私は答えた。私はギリシャの神々の発展と日本の神々の発展の相違を解く鍵を見つけたと思っています。
――それは結構《タンミユー》だ。
――第三はテイジン・ゼストの峠、これは二千二百メートルの高度だったのですが、ここまでバスで北側の海岸寄りから登ったとき突然南の方に、サハラまで続く死の土とその間に細長いオアシスが幾らかの霞にぼかされて見えたときです。あれは見事だったです。山という山は太陽に威圧されて峯をなぎ倒されて卓子状でした。この新らしい景観は私を死と光の音楽の中に誘っているようでした。
――おまえは旅行家になったね。
――第四の感動は、これは奇妙ですね。関門海峡の南でカフェのネオンサインがついたり消えたりしながら近づいて来たときです。私にはどうしてだか解らない!
私はその感動を意識したとき私に云った。何故だろう。カフェか赤線かのこんな安手の原色のネオンサインがただ単に日本のどこかのそれであるということのため――何となればこんなネオンサインが何処か外国のものであったら、私はそれほど興奮することはなかったであろうと私は考えたから――こんなに感動するのはいわれが無いように思われた。それに私は中学の四年のとき、東京にすみ、私を育てていた親類から勘当され、その後、彼の家で育てられ、日本的な生活は一度もしたことはなかった。パリの私の生活でも、私の不幸を作ったのはフランス人ではなかった。
――憶えていますか、と私は云った。私が共産主義者になったという噂のとき書かれた手紙を。私があの手紙をパリで読んだとき、私がどんなに呆然としたか。パリでは誰れも私にそんな批判はしなかったですからね。すべてはサツマ会館の館長だったサロパール《はじしらず》のYの仕業でした。
Yは私の記憶ではサロー《汚れびと》の典型として何時までも消える日はないだろう。これは吉田茂と同期の外交官だったが、中国で総領事をしていた時代ポーカーにこって公金を費消して退職を余儀なくされたという如何わしい噂を持っていた。彼とともに彼の手馴ずけていた手下、美術史の松原と新聞の特派員の松田の名を思い出すと私の体はいつも激昂でふるえずにはいない。
彼は私の拳のふるえを見て云った。
――もう過ぎたことだ。それにおまえが共産主義者になっていたって、私はおまえに信頼するよ。
――しかし、と私は立ち止って、彼を真直に見て云った。彼等は余りにも非道《ひどう》過ぎます。私の中に競争者を見、そして私をパリから退去させるために、あんなことをしたのですから。
この事の起りは極めて単純なことだった。当時社会党に属していたパリの労働総同盟の文化部の楽しい知識の会は日本に就ての知識を労働者たちに与えるため、私に十回講演を頼んで来た。私は前から楽しい知識の会の指導者のHを知っていたので承諾し、第一回をサツマ会館の見学と日本の神に関して話す予定だった。この講演はモースの民俗学、シミアンの庶民の経済学史の次に行われる分だった。私としては分に過ぎていた。私がサツマ会館の見学を館長に頼むと、館長は大使館と相談した上でと答え、次で相談の結果拒否ということになった。私はこの講演の何処が悪いのか見当がつかなかった。講演場は止むなく、他の講演と同じく総同盟の会館で行われることになった。私は講演の前に大使館に呼ばれた。そして会った参事官は私の交際範囲は社会党までに限り、それより左の人々と接近しないように、また講演は日本の天皇に就て行ったら日本に帰れなくなる危険があると語り、Y氏が私を共産党員と云っていたが、そうでなくて大使館も安心だとか、また私のフランス人の交遊範囲が広いことがパリの日本人を驚かせているばかりでなく、自分も驚いているとかつけ加えた。それには彼の紹介状が大きに役立っていたであろうが、その外に私は親類から勘当されていたということのため、日本の家族主義から除かれ、血縁者と無関係になってしまったので、私の誠実は専ら友情に向けられていたためこのテンペラメントが私をよりたやすくフランス人の間に多くの友情を作りその社会に入りこむことを許したに違いない。
彼は苦い記憶から私を外らすために云った。
――フランス人はおまえに親切だったかね。
――非常にさえ。彼等の友情は外国人に母国を忘れさせます。
彼は頬笑んだ。
――僕は屡々国籍ということにどんな意味があるか疑いたくなったくらいです。今の僕に大切なのは友人です。国籍は何処でも。
私の考えは彼を楽しませた。彼も大使館や在東京のフランス人の多くと不和の状態にあった。彼が最初日本に来たとき、当時のG大使は頻繁に彼を食事に招いた。このことは館の他の幾人かの常駐吏僚の嫉視を買った。次の大使のときから彼は招かれなくなった。彼は何段か大使館の眼に格下げされたように感じ、大使館に行かなくなった。こうして大使館と彼との間には確執が始まった。
大使館の常駐吏僚たちは彼のフランス語の学校が成功を結実するのを見て、エコール・フランセーズを設立しようとした。彼は大統領だったポアンカレーに手紙で抗議した。ポアンカレーは彼に親切な返事を書いて国家の権力が個人の善き企ての芽をつむことを阻むようにする旨を告げた。私は時の大統領が遠い日本で小さな夜学を経営している同国人へ手紙に几帳面に親切な返事をよこしたことにびっくりした。何時かポアンカレーの話が出たとき、私は彼が「鋳物組合《コミテデフオルジユ》」――これはフランスの製鋼組合で、フランスの一番強力な資本家の組合だ――の顧問弁護士であることを指摘し、非難したことがあった。すると彼は抗言を許さない語調で私に云った。
――彼はオネットム《ただしいひと》だ。
こんなこと或はそんなことの結果、彼は東京のフランス人とは稀な例外を除いて交際はなかった。
――日本人はフランス人より誠実だ。私はフランス人より日本人に信頼出来るね。
彼はそんな言葉を洩らしていた、私は丁度その逆の気持でパリから戻って来たのだった。何れにしても国籍を問題にしていないことは一致していた。そのような気持でパリを日本人に逐われて戻って来る私が門司のネオンサインで感動することは論理的には不可解だった。
私はも一つの挿話を彼に話した。何時かフランスの新聞に求められたので、日本について書いたことがあった。そのとき極めて国家主義的な会社であった満鉄の社員が指摘した。
――君の文章は日本を好く書き過ぎている。
私は気質として心にもないことを書いたり宣伝で他人を誤まらしたりすることは好まない。私は私の文章に欠点があれば、私が日本人らしい暮しを長い間しなかったためだろうと思って答えた。
――日本を愛するには、日本人的な生活をしない方が好いというのは残念なことだよ。
私たちの散歩は、こんな話やあんな話で幸福と満足に満ちていた。家に帰ったとき、私は荷物を開いて、彼の前に私のプレゼントを並べた。パリで求めた金のカフスボタンが彼を喜ばせた。それは彫はなく、形のよさにひかれて私は買ったのだった。
――おまえは何時もボン・グー《よいこのみ》を持ってる。
――何故モン《わたしの》・グーでないのですか。
彼は慈父の頬笑みを浮べた。彼は私の中に私は彼の中にも一つの自分《アルテールエゴ》を見出すことに喜びを感じていたのだ。そのとき私は卓子の上にドイツで買ったレフレックスをおいた。彼は私に訊ねた。
――それはうまく写るかね。
――非常に好く。もしお望みなら……
―― Jeveuxbien.《いいよ》
私は安楽椅子を縁に持ち出した。彼は、日本製の洋服によくある袖口の短かさを気にして引っぱり、斜めのポーズを取った。三枚角度を変えて取り終ったとき、彼は私を椅子にかけさせ、操作の仕方を教わった上で、シャッターを切った。
新聞に掲げられた写真はあのときの写真に違いない、私はそう思ったのだった。
見慣れた顔、思い出の中でとった写真の顔は私の心ににじみ入り、想起をゆすぶり、数々の映像《ヴイジオン》は多くの感情と聯想を伴って心の上を静かに自働的に流れた。私の心は回想の雨に濡れて、重たく膨らんだ。一瞬私のエモーションは嗚咽に高まりそうになった。だがそれはこのような生理的表現は取らずに過ぎた。
そのうちに私は別な奇異な、そして私としては全く不本意な感情が生れるのを意識した。何か私は解放され自由になり、明るい空が私のものになったかのようであった。
彼は私の傍で、私を見守る巨大な樹に擬えて差し支えなかった。私はその蔭で風雪を凌ぎ、私の精神はそこで形を取り、彩どられ、香りをつけた。私の人生の実験は彼の慈愛が描く半陰翳の圏の中で展開して来たのだった。慈愛は肉体的には微温の風呂に似ていた。中にいれば温いが外に出れば寒さを感じた。それは精神には縛る縄のようでもあった。自由な行動はそれに阻害された。彼と共にあるということは、私にはA... F...で語学を教えることを意味した。そして私が身を入れれば私は悪い教師ではなかった。しかし語学の教師には一つの業《ごう》と云えるようなものがあった。毎年の生徒は毎年同じ質問をした。これは私の頭のネジを狂わせるような印象を与えた。その質問は去年もあった。一昨年も、またその前の年にも……。それは私の頭が発展を止め、毎年同じ軌条の上を繰り返し走り廻っている玩具の汽車のように思われて来ていた。私は人生に気むずかしい註文はしたことはない。貧しさでも苦しみでも自分で蒔いたことには正直に耐えしのぶことが出来る。しかし私にはどうしても我慢出来ないことが一つある。それは模倣とか繰り返しの印象を与えるものだ。人生がルーチンの道をたどる、それが所謂賢明な道であっても私には我慢出来ないのだ。それは生《せい》の味《サヴール》を消してしまう。私の中には何か別な人生を望み、その方向につつかれるものを持っていた。私にとって一日一日が発展と成長を感じさせ、今日のカーテンを開けば太陽は新らしい光と香りのある展望を見せてくれることが必要だった。でなければ生《せい》の感情は私には湧かないのだ。
ずっと前のある日、私は絶望的に彼に云ったことがあった。
――私は決して好い教師にはなれないでしょう。
そのとき彼は云った。
――そんなことはない。おまえは好い教師になれる。
私は疑わしい表情を浮べた。すると彼は私に云った。
――おまえは毎朝二十度ずつ、こう云うんだよ。 Je serai bon professeur, 《わたくしは好い教師でありましよう》je serai bon professeur.……と。動詞変化の諳誦みたいに。
彼は自分の神経衰弱を自己暗示療法のクーエ法でなおした経験から、私にそのクーエ法を実行させることにした。私は何カ月かの間毎朝、彼の前でこの言葉を二十回ずっ諳誦せねばならなかった。しかし動詞は未来形におかれていたので、私は本日現在よき教師であったことはあまりなかった。
そうしたことから、私の精神は大半潜在的ながら彼の慈愛に過度の重圧と束縛を感じていて、そのため彼の訃に私は無意識のうちにより大きい独立と自由と、そしてそれに伴う冒険の展望を感じ取っていたのかも知れない。
その写真を眺めながらこのようにさまざまな感情が私の心の上を漂い流れ、消えまた姿を現わしていたが、それらの感情は始めから悔いと自責の基調の上にあった。
私が彼の病気を知ったのは一週間ばかり前に来た妻からの手紙でであった。それに依ると数学のI教授は私の留守宅に立ち寄り、彼から食慾不振のため内科医の紹介を頼まれたので大学の教授を紹介したが診断の結果、病気は十二指腸壊瘍であると解ったこと、ただ彼の年齢が七十五という老齢であるので今度は危いかも知れないから私も見舞いにいった方がよいとI教授は附言したと書いてあった。妻は直ちに見舞いに行ったが、病人を疲労させないため面会は謝絶中であった。彼の家にいるMは衰弱が加わりさえせねば生命の危険はないと彼女に伝えたと記されていた。
私は山の仕事部屋から東京に帰った。面会謝絶中でもI教授がわざわざ知らせてくれた好意を無にしないため一応見舞いに行くつもりにしていた。しかし終戦後、私は彼と疎隔していて、気易くは帰りにくい蕩児のようであった。そのため、見舞いに行こうとは決心していても、心の他の隅では、もし容態が急変したり、或は彼が私に会いたいと意志を表示したら、彼の家にいるMが私に知らしてくれるであろう。その時、行ったらよいではないかとも思ったりして時を過した。私は行く待つというこの二つのいずれにも心を決めることなく、その間を果しなく往復していた。
明くる日、私は心に咎めを感じながら、他所で酒を飲んで暮した。次の日の夜、私は明日は必ず見舞いに行こうと決心して床についた。しかしその日は日曜で空は稀なほど澄んでいた。私はある若い女の、友達からピクニックの誘いの速達を受け取った。二つに分れて低迷していた私の心は救われたようにその誘いに応じた。私は彼女と共に外洋の見える海岸のホテルに行った。水平線で区切られた海には小舟が浮び、かもめが長い翼を拡げて岸近くを飛んでいた。水平線には黒い煙があった。何処か外国へ行く汽船の残したものであろう。私にとって海は何時もその神秘さのため、女を思い出させた。そして女たちの白い胸は屡々深い海を感じさせた。二つの締った乳の穹窿の間に額を埋めると、私は疲労も世間で受けた汚辱も悔いも、すべて女の胸の中に丁度捨てられた汚穢が海にのみ込まれ、沈むようにその姿を消してしまうのだ。そして私の苦悩は拭い消され私は女の胸の情熱の中で再生するよう感ずる。
私は海の見えるその部屋で愛撫に時を過した。
葬儀は翌々日の午前十時にローマ公教の教会で行われると記してあった。
教会は目白の丘陵の入口にあったように、朧ろ気ながら私は覚えていた。江戸川で都電を降り音羽通りを経て広い坂道を私は登って行った。定刻十分前であった。出勤者たちの出てしまったこの時間には通りには人影は稀だった。ただ南側にあるパン屋、ローマ公教の奉仕者たちが製法を移し植え、配給制度がはじまるまでは香ばしいフランス・パンを作っていた店の前にはトラックが止まり、二人の若者が黙々と配給パンを積み込んでいただけだった。
この人気のない坂道はその広さのため私に余計に空虚を感じさせた。告別式の時間が迫っていることと思い合わせると道は不思議なほどうつろな感じだった。私はもっと数多くの人々が徒歩や自動車でこの道を登って行くことと考えた。彼は四十年以上も日本にいて、その間日本を一度も離れなかった。そしてこの四十年は日本の青春の教育に捧げられていた。彼が最初日本に来たのは当時の帝大の文学部でギリシャ文学を英語で講義するためで、その後外国語学校でもフランス語を教えていた。次で大学や語学校と不和になるとA... F...を創設し、フランス語とギリシャ語、ラテン語を教えていた。教室で直接に教わった学生だけにしても数千名、いや万を越す筈だった。それであるのに広い坂道のこの淋しさはどうしたことであろうと私は訝った。何年か前に東京で一番良心的と云われていたI書店主の告別式に私は行ったことがあった。あの時には焼香者たちは五つの縦列を作り、何時間もの間、巨大な築地本願寺の高い階段を登って行った。そしてその附近の道路は行く人、帰る人で混雑していた。それに引きかえこの坂道の淋しさは! それは生前彼を孤独にしていた一国《こく》な性質と焦立ち易い《シユセスチブル》彼の神経をも一度私に思い出させた。
坂の上の道にはすずかけの並木が新緑の葉を五月の朝の光に拡げ、歩道に影を落していた。葉の蔭を花のような三人の洋装の乙女たちが別々に行ったり来たりしていた。青春の乙女たちの唇は新緑の下で印象的だった。私は中の一人に教会の所在地を訊ねた。彼女は門、というよりも塀の破れ目のような入口を白い指をあげて指した。
――あちらでございます。
私はそこから中に入ろうと歩き出しながら、その乙女を何処かで見たことがあるように思った。
教会はこの言葉を聞いたとき私たちが普通にその姿として思い起すように、高い尖塔で空を指し、天にあこがれる悩みの多い地の姿は持っていなかった。そこにはステインド・グラスの絵模様のある窓も、屋根を支える円柱の並びもなかった。その敷地の上に、私は地を匍う大きな芋虫形のバラックを見出した。東京と共に戦災に遭ったこの神《デウス》の家は、アメリカの兵隊屋敷に使う半円トンネル状のトタンの蒲鉾《かまぼこ》小屋であった。この小屋は神の家を荘厳なカテドラルの外観で包むローマ公教の伝統を無残に裏切って荒れた敷地の上に横たわっていた。
その小屋の低い入口のところに一つの卓子と何脚かの椅子が並び、多分A... F...の事務員であろう、私の面識のない青年が腰かけていた。私が近づくと、その中の一人が立ち上り卓子の上に開かれた大学ノートに記すためにペンを取りながら訊ねた。
――お名前は誰方でしょうか。
この問は私の心に傷みを与えた。私がA... F...で教えなくなってから、もう何年か経ち、終戦後、戦禍に会ったこの私塾の再建には専らOが当り、私は全く別な生活圏で暮していた。このことは真実であるにしても、私の青春はすべてA... F...の創立時代のうち、彼と共に費されていたので、そこの事務員から改めてこのように名前を訊ねられると、私はA... F...との間の関係のうすれを、深い淵のように感じ、忘れられた者、或は無視された者の持つであろうわびしさが私を捉えた。私は誰れか知った人物と昔の親しさの雰囲気を見出すため強い日射の中にある周囲を眺めまわした。そのとき前から勤めていたAが駈け寄って来て、声をかけた。
――ああ、Y先生でしたか。
この言葉の懐し気な語調と昔と変りなくいくらか揉手をしながら話す彼の動作とは、私の気持を昔に引き戻し、心の歪みを忘れさせた。彼は言葉をつづけた。
――好く来て下さいましたね。亡くなられた校長もきっと喜んでいられるでしょう。……あの何ですか山からですか。
私は真実の答えをためらい、確信のない肯き方をしながら、煙草を出して彼にすすめた。彼はその一本を取り、私はライターをすって彼と私のたばこに火をつけた。
――本当に久しぶりですねえ、と彼は感慨深そうに云った。もう何年になりますかね。五年もお会いしなかったでしょう。
――もっとかも知れないなあ、と私は云った。
――校長に最後にお会いになったのは何時でした? と彼は訊ねた。
もしも私の逡巡や迷いがなかったら臨終の日にと云えた筈だった。それだけにこの問は私の心につき刺さった。
――去年の秋、新聞賞を貰った時が最後だったなあ。
前年の秋、私は新聞社の年次賞を貰った。新聞社は授賞式の日講演会を催し、私も講演者の一人だった。私の作品はいくらか諷刺と笑いを持っていたので、多分私の精神に風発する談論を期待していたのであろう。
しかし私は生れつき内気で神経質であったのに、この傾向は、同じ性質を嫌人症状的にまで持っていた彼の許で育てられているうちにずっと高まっていた。私は新らしい雰囲気、馴染まない大勢の前では屡々、そして容易に心の安定を失った。演壇に登る前、私の精神が独白していた美しいパンセも、興味ある話題も、そこに登る一段ごとに不安のため形を崩し、晴れて行く霧のように消え、壇上に立ったときには、独白の間あれほど輝かしく見えていたパンセも話題も私を見捨て、私の頭は空虚になり、語るべき何物も持たないことがよくあった。多分何かを語らねばならないというこの強制は私を不自由に感じさせ、私に落ちつきを失わせ、それだけ余計にあせらせ、そのための一種の病的発作が起るものに違いない。このため私は講演やラヂオの依頼には多く尻込みした。しかしこの講演会を否まなかったのは、これを彼との和解の機会にしようと考えたからだった。この疎隔は既にパリの共通の友人たちからも解消を慫慂されていたことだった。私は講演会では、彼に私の眼の前の席に坐って貰い、彼に語りながら聴衆に語ろうと決心したのだった。そうすれば私は私の子供染みたはにかみから救われ、同時にそれは私たちの和解に役立つであろうと考えたのだった。私は彼に招待の手紙を書き、長い沈黙を詫びた後、もし新聞社から差し廻す自動車でご来駕願えればこの上もなき幸福云々と比較的長文の手紙を出しておいた。そして私自身も彼を訪ね、出席を懇請した。床に横わってはいたが衰えは少しも見られなかった彼は「健康状態が好かったら」と答えた。しかしその日彼は来なかった。運転手は「病気のために行かれない。おまえの成功を心から祈る」云々と見慣れた文字で記された手紙を持って帰った。私は翌日再び病気見舞いに行った。
Aは思い出したように言葉を続けた。
――ああ、そうでしたよ。あのとき校長は大変喜ばれましてね。私たちが行ったとき、あなたの手紙を皆にお見せになって、それからパリからのあなたの手紙まで出していらして、こんなフランス語の手紙が書けるのだから、あんな作品も出来るのだと、それはご自慢《フイエール》でしたよ。
私の心はもっと深く疼きを感じた。
――校長は昔通りだったんだね。語学さえ上手なら、何に就ても聡明だという妙な偏見を持っていられたね。昔のままだったんだね。
――そうですよ。ちっとも変られませんでしたね。一途で一こくなところまで。
入口からはA... F...の若い学生たちにまじって、校長であった彼の古い学生や協力者たちが段々と入って来、それぞれ知人を見つけて、そこここに小さな群を作りはじめた。
――N中将ですね、とAが私に云った。
前中将は黒い地味な詰襟服を著ていた。彼は私が最初に知った大尉時代のように温顔で、その時代のように眼尻に三つの深い皺がよっていた。ただ髪はひどく白くなっていた。敗戦が彼にこたえたに相違ない。彼は私に云った。
――Yさん。あなたは私のことなんかもう忘れてしまったでしょうね。あんたはあの頃紺に細い縦縞の入った洋服を著ていましたね。あの美しい姿は未だ眼に見えるようですよ。
私は彼の言葉をあわてて遮った。
――いいえ、私もあの頃のあなたのことはよく覚えていますよ。あの時代の教室はよかったですね。
実際私はあの時代のA... F...の前身のことは鮮明に覚えていた。彼のフランス語の私塾は最初「高等仏語」という名を持っていた。それは神田橋際によった和強楽堂という変な名の建物の中の汚ない一室から始まった。教室は八畳ほどの狭さで壁も机も床も汚れ、学生は十人位だった。過半は外国語学校の学生だった。私は中学四年でアーンのファースト・フレンチ・ブックを一月くらいで読み上げさせられた後、これらのフランス語専修学生の中に入れられたのだったが、私は私の未熟な発音をどれだけ恥かしく思ったか知れない。
次で「高等仏語」は美土代町の青年会館の中に移った。教室は三階の小さな北向きの部屋であったため、窓からは小川町の店の灯火やニコライの緑青のドームが夕方の空を限っているのが眺められた。月の終りから次月の始めの十日ばかりの間は、私は多分地下室だったと思うが、廊下に卓子を出し、月謝を徴収していた。授業は週三回だった。当時大尉だったNが初めて学生の中に姿を見せたのはそこだった。学生の中には整形の田代博士とか眼科の山口博士とか外国に何度か行った当時の医学の泰斗や外交官たちがまじっていた。丁度第一次世界大戦が始まってドイツ軍がフランスに侵入していた。これらの年とった学生たちは灯火のつきはじめた通りの家々や丘の上のニコライの巨大な丸屋根が残光に照らし出されているのを眺めながら語り合っていた。
――ランスの教会が砲撃されて壊されたそうだな。君はあのカテドラルを見たかね。
――いや、あそこは通っただけだよ。残念なことをしたよ。
――独軍はポンタルチエに迫っているというが、どの辺かね。
――パリの直ぐ北だよ。豚の足の料理が名物でね。あれはうまかったなあ。
――フランスがなくなったら世界は淋しくなるね。
――そうだよ。外のどんな国が無くなったより、世界は物足りなく感じるだろうなあ。
そのような話を交わしながら、学生たちは彼の来るのを待っていた。私にはこんな話を教室の隅に坐って聞いているのがどれだけ楽しかったか知れない。私はだから時間より前に教室に入ってこれらの先輩と一緒に待っていた。
彼は時間通り几帳面に、そして服装もきちんと整えて教室に入って来た。彼は教室を見まわし、十人ほどの学生の出席数が多いと嬉しそうだった。少ないと淋しそうな顔をした。それから彼は教壇の椅子に腰を下ろし、鞄から閻魔帳を出し、鉛筆で出席を取った。
―― Monsieur 《ムツシユー》 Tashiro《タシロ》
すると肥った田代博士は子供のように答えた。
―― Present.《プレザン》
彼は年取った学生を見、眼で挨拶し、次に移った。
―― Monsieur 《ムツシユー》 Yamaguchi《ヤマグチ》
身長の低い爺むさい同博士も同じように答えた。
―― Present.《プレザン》
閻魔帳の名前は、月謝も納めず、一カ月授業に出ないと次の月には抹消されるので、リストの上部を占めているのは長期間熱心に通っている学生の名だった。
出欠を採り終ると、彼は帳面の出席マーク数と学生の数を数え、それが一致すると、始めて授業が始まった。教材はフランスの古典文学の中から選ばれ、紫インクで書いてこんにゃく版で複写され、前日学生の自宅に郵送されたものであった。彼はそれを学生に読ませ、教室の中を歩きまわりながら文字の意味を質問し、文章について会話した。学生が適当に読めないと、或は質問に答えられないと彼は如何にも疳癖らしくじりじりして来て、鉛筆の頭を噛りながら待っていた。
その時代にN大尉は参謀肩章をつった軍装で私たちのクラスに入って来た。しかし彼は長くは止まらなかった。半年ほどすると彼は英軍のベルギー戦線とイタリアの戦線の観戦武官として出掛け、一年ほどして帰朝すると彼は教室に戻った。そして授業前の雑談の時間に彼の視察談の一部を披露した。
――イギリスの軍隊じゃあ、将校と兵卒じゃあ食物から下著までひどく違うですなあ。将校は絹のシャツを著ているのに兵卒は木綿で、食事は将校は酒だの肉だの野菜だの贅沢しているのに兵隊のは粗末なものです。私は兵隊に将校の生活を話して君達は不平に思わんかねというと、将校は学校を出ているからと、それが当り前だという顔をしているですね。日本の軍隊じゃ戦地であんな差別は出来んですよ。
――イタリア人は勇敢だったですか、と誰れかが訊ねた。
――それはね。イタリア人にも勇敢な者はありますよ。こんな話を聞いたですがね。ある小隊長が戦闘のとき、時機好しと見て、塹壕から飛び出し、剣を抜いて、突撃と号令をかけたと思って下さい。すると兵隊たちは隊長の勇敢なのにすっかり感心しましてね。拍手を送って喝采し、塹壕から飛び出して隊長の後に続くことを忘れていたと云いますよ。だから勇敢な隊長は一人で突撃し、一人で戦死してしまったのです。
その後でもう一人が、彼のフランス語は好いフランス語で訛はないかどうか訊ねた。N大尉は「そう云えばいくらかあるようですね」と答えた。この問と答えは彼を信奉していた私の敵意を刺戟した。
当時のN大尉は学生たちにそんな話をした。私はそんなことの一部を話して、N中将に云った。
――そうだったですね。
――好く覚えているんですね、とN中将は感心したように云った。しかしあの当時の学生で生きている人は少ないでしょうなあ。田代さんも山口さんも亡くなられたし、日疋さんはどうです。
これは日疋信亮氏のことだ。青年会の会長もやり、またA... F...友の会の会長でもあった。
――亡くなられました。と傍にいたAが答えた。
――当時の学生で銃殺された人もありますよ、と私はN中将に云った。
――はあ、とN中将は驚いたように云った。誰れですか。
――陳独秀氏です。あなたはあの教室の陳君が中国の革命家の陳独秀氏だとは知られなかったでしょう。中国に帰ってから蒋政権に銃殺されていますね。
――そうだったですか。陳独秀氏もいたのですか、とN中将は深い印象を受けた人のように呟いた。
このキリスト教青年会館《Y M C A》時代は私のキャリエールにも大きな変化のあった時代だった。私は後でその経緯は述べるであろうが、東京のすべての親類――父の兄弟姉妹の家に立ち寄ることを禁止された。父の家は台湾にあったが、この親類勘当は私にとって名誉でないことが原因であったので父の救いを求める気にはなれなかった。私は月島の工場に入って自転車のバルブのネジの面取りをやっていた。三日後私が病気になり、彼の招待に応ぜられないと断わると彼は私の泊っていた一膳飯屋に訪ねて来て、私に救いの手をのばしたのだった。私は学生の月謝を受取って、それを授業後、彼の家に届け、それだけの仕事をして中学の勉強を続けることになった。私は五年生だった。私は友人のHの家に暫く寝泊りすることにした。しかし仕事の始めに当惑すべきことが起った。工場に通っている時、日給は五十銭だったが、一日四十銭の飯代は借りて食い、工場から金を貰ったときその借りを払っていた。彼の学塾の手伝いではそんな飯代はなかった。Hは近くの親類の家で飯を食っていたので、そこで食事をさせて貰うことも出来なかった。月末までは五日ほどしかなかった。私は不安があると人間は四五日絶食すると死ぬが、不安がなければ三四週の絶食に人間の体は耐えるということを何かの本で読んだことを思い出した。そこで私は五日の絶食を自分の体で試してみようと考えた。青春は自分の体を虐待することに冒険的な喜びみたいなものを感ずるものだ。それが道徳的な喜びに類するものと云うには、伝統が欠けているだけだ。
彼は六時十五分の課業が終ると私に電車の回数券を二枚渡して音羽の鼠坂の上の家に徒歩で帰った。私は中等科が七時半に終るのを待って計算書を作り、電車に乗って、八時頃彼の家についた。食堂で計算書通りの金を渡して帰った。
その日の計算に行くと、彼は私の顔を見て訊ねた。
――好い顔色でないね。病気ですか。
―― Non, 《ノン》 monsieur.《ムツシユー》と私は笑って答えた。
――熱はない?
――いいえ《ノンムツシユー》。
私はそう云って帰った。
次の日、彼は私に同じことを云った。
――顔色はもっと好くありませんね。あなたは病気です。
――いいえ、病気ではありません。
――医者を呼びましょう。
――それには及びません。
彼は不安な表情を浮べていた。私はそのまま帰った。
その次の日計算が終ると、彼は全く心配そうに云った。
――あなたは病気です。元気もありません。ボーイさんに医者を呼んでもらいますね。診て貰いなさい。
そう云って彼は呼鈴を押そうとした。私は彼を止めて白状した。
――僕は病気ではありません。絶食の練習をしているだけです。後二日絶食を続けてみるつもりです。
これは彼を甚だしく驚かした。
――何という考えですか。止めなさい。今までで幾日ですか。
――三日です、と私は答えた。
――七十二時間、何にも食べませんかあ、と彼は声を立てた。聞きなさい。それは体にいけません。コックさんに食物を作らせます。
そして彼はベルを押した。
私はその日小さな給料を貰った。そしてそれから金を届けたとき、私には簡単な夕食が赤いテーブル掛けの卓子に用意されることになった。
そのうちに、少ないながら会葬者は集まって来た。ずっと向うの遠くの群の中にその詩と会話とを最上級の形容詞で飾る癖のあるYや文法学者のジミなWがいた。私は若い日この二人の影響を受けた。旧陸軍大学の語学教官でもあったJも入って来た。彼は昔のように陸軍大将たちが好んでつけていた太いそして端のはね上った口髭を持ち、やはり昔に変らず軍司令官のように周囲を睥睨しながら歩いていた。自分に如何にも満足しているようなこんな態度は最初会ったときから、私に烈しく反撥した。かれはA... F...の副塾長の名も持っていたので、この外形の下にあるものを会得しようとしたこともあったが、何時もこの外見に遮られた。私は王が王らしい、軍人が軍人らしい恰好をしていることに少しの異存もないが、フランス語の教師がそのような恰好を示すとき、それはアイソーポスの語る虎の皮を著たロバを思わせる悪い趣味のようで耐らなかったのだ。彼とは職場では長い間のつき合いだったが、別れれば忘れる程度の交渉しかなかった。
入口に一人の女性が青年に伴われて現われた。
―― Elle! 《かの女だ》と私は心に叫んだ。一つの戦慄のようなものが私の体を走った。別れてもう長い間経過していても見忘れる気遣いはなかった。彼女は和服を昔のようにきりっとした著方で著ていた。彼女の頬はやや豊かさを失い髪には白髪《はくはつ》がまじっていた。全体のポーズは昔のように気高さの印象を与えた。いやその上、年月と私を原因とする不幸のためであろうが、浄らかさ或は澄みと呼ばれる何かを加えていた。私は低さを加え、彼女は高さを加えたのだ。
彼女が気づかない間、私は彼女を凝視しながら私自身に云った。
――彼女はなお私の理想的女性の型だ。
私の凝視を浴びているのを感じたのであろう、彼女は眼をあげて私を見、そして見つめた。私は眼を外らした。
彼女は途中の知人の群の中に加わった。青年は別れて私に近づいて来た。
――Papa は好く間に合うように来られたねえ。山から来たの?
――ああ、と私は漠然と答え、そしてつけ加えた。君は時々校長の家に行っていたのかね。
――行ってたよ。食事によく招かれてね。僕が行くのを校長はひどく喜んでくれていたよ。
――そうだろう。と私は続けた。ママと僕とは、ずっと昔のことだが、校長のクラスの学生だったんだよ。それで校長は君のことをA... F...の子とよく呼んでいたね。君は小学生の時分、東京都の全都のテストで一番か二番になったことがあったろう。あのとき僕はパリにいたんだが、校長は僕だけでなくいろんな人に知らせたんだよ。だから僕は何人かのフランス人からそのことを聞かされたよ。校長は余ほど嬉しかったんだね。君をA... F...に引き止めておこうという努力はしなかったかね。
――しなくはなかったよ。この前行ったときもA... F...の教師になるようにすすめられたさ。しかし僕は断わったよ。A... F...の教師の給料じゃあ、僕は生活が出来ないもの。
――可哀想に! 校長は悄気たろう。
青年はフランス人がよくするように肩をすぼめた。
――Qu'est-ce que tu veux! だって仕方がないだろう。暮せなくちゃあ。パパだってあそこの給料だけで暮したことはないのだろう?
――それはそうだ。
私は私の給料のことを問題にして彼と話したことは一度もなかった。彼が私に約束したことを忘れても思い出させることもしなかった。生活の金が足りなくなれば私は外の仕事をして補うことにしていた。私には私の給料がクラスの月謝の総額より多そうな気がしていた。また彼はA... F...の重要な問題をすべて私に相談していたので、私もいくらか創設者の助手のような気になっていたためであろう。しかし私の給料はそれでも幾らかずつは多くなっていた。それは後からの教師、特にOが時々増給を彼に頼んでいたので、Oの昇給は自働的に私の分も昇給させていたのだ。
青年は言葉を続けた。
――パパは未だ知らないだろう。A... F...は今度財団法人になるんだぜ。理事長はMさん。理事は四五人だよ。だがその中にパパやDさんやOさんの名が指名してないので、気の毒がっている人もあるんだよ。
――僕としては気の毒がられることはないね、と私は答えた。理事になれば学校の運営を見たり、教室に引っぱり出されたりしなければならないだろう。そんなことはもう沢山だ。教師としては僕は気分に紛《むら》があって不適格なんだ。僕はもう縛られたくないのだ。自由でありたいよ。案外校長は僕のこの性格を見抜いていたかも知れないね。僕は僕のコースを行くよ。
――パパにはその方が向いているかも知れないな。と青年は考え深そうに云った。多分家庭の束縛さえ我慢出来ないんだからと考えていたことだろう。
――しかし、と私は綿布問屋のDや実際的で質実なOの顔を思い出して言葉をつづけた。DとOの両君は違う。D君は十何年かの間A... F...の財産を巧みに管理した功労者だ。Oは戦災の後でA... F...を復興した功績があるんだから。この二人が理事に加わっていないのは変だよ。僕には解らないな。新らしい理事長がうまくやるだろう。
青年は暫らく沈黙した。私は煙草を出し、彼にすすめ、私も一本抜いた。そしてライターをすって、彼のと私のに火をつけた。
――僕の過《あやまち》は繰りかえさないことだ、と私は呟くように青年に云った。
青年はそれには答えないで云った。
――校長も矢っ張りカトリックのお葬式になっちまったね。無神論者だったんだろう。
――そうだ。無神論者だったね。少なくとも僕の知っている彼は。しかし、その彼はもう前にいなくなって、カトリックに復帰した新らしい彼がその後に続いたと考えても好いよ。彼の個人的な問題だよ。或は……君は言葉を忘れる愚者がどんな言葉から忘れるか知っているだろう。
青年は好奇心に輝く眼を私に向けた。
――最近覚えた言葉で、特に抽象的な言葉から忘れて行くんだ。そしてパパとかママとか感情が一番しみ込んだ言葉が一番最後まで残るんだ。彼はカトリックの盛んな南フランスのヴァランスで育ち、ジェズイットのリセを出ている。彼の無神論は当時の革新思想の急進社会党のものだ。彼は青春時代にその思想を取り入れたんだろうが幼年時代の感情を培《つちか》った感情的カトリシスムが最後には勝ったんだよ。
急に私は一つのことを思い出した。
――納棺の時、君はいたのかい?
――いたよ。
――屍臭はあったかね。
――暑いからひどかったよ。
――そんなら好かった。
――何故?
――ずっと前に頼まれたことを思い出したんだよ。彼は当時、ときどき死の恐怖に捉えられていた。サー・オリヴァの霊魂論を読んだり、早過ぎた埋葬の話を読んだりしていた。そのとき、彼は僕に頼んだんだ。納棺する前に足の平を切って血が出るか出ないか調べて本当に死んだかどうか確かめてくれってね。しかし屍臭がひどかったら、それで好いね。
青年はちょっと考えた後で私に訊ねた。
――パパは最後に何時校長に会ったの?
――去年だ。
私は同じ心の傷みにまた連れ戻された。
霊柩車が入口から入ってきた。集まった人たちの間にざわめきが起った。みんな柩車の方に眼を向けた。それは門から少し入ったところで止まった。
青年は柩車の方に眼を向けながら云った。
――校長はどうして mysogyne《おんなぎらい》だったんだろうなあ。
――女性の本質以上に高い理念で女性を崇拝していたためだろう。
――そんな論理ってある?
――あるよ。だからそれを充たさない女性を嫌ったんだよ。
青年は誰れか知り合いを見つけたか、また後でと云って立ち去った。
柩は若い四人の人夫たちの手で柩車から出され、その肩に担がれ、弔問者たちの注ぐ視線の中を通って、教会の入口に運ばれ、そこの台の上に置かれた。それが運ばれるのを眺めているうちに私には、彼の重さを肩に感じたい切々とした感情が胸を占領し、溢れた。人夫に彼を運ばせるということは機械的で商業的で無性格で殆ど彼に対する冒涜のように感ぜられた。
――ああ、と私の心はうめいた。あの柩は四人の者の肩に担がるべきだった。ロンドンから一緒に来たカナダ人のMと私と新らしい理事長のMとそれから彼がA... F...の子と呼んで慈んだあの青年と。新理事長を除けば他はすべて父を殆ど知らないで育ち、彼はこれらすべての上に父としての愛情を注ぎ、希望をかけ、失望し、また希望をかけて来たのだから。担ぐべき肩はこの四人の肩の外であるべきではなかった。その肩の上でしか、彼の永久の眠りは安らかでない。
私がそんな風の感慨に耽っているとき、A... F...の新理事の一人である葬儀委員長のIが近づいて来た。I氏はすっかり美しい白髪になっていた。長い官吏の経歴を持つこの円転滑脱の紳士は私に云った。
――好く来てくれたね。いやほんとによく来てくれて有難う。
この言葉は私に奇妙な印象を与え、私の心に侘びしさを加えた。それは私がIよりも彼から遠くにいるエトランジェのように感じさせた。
葬儀委員長は屈託もなく、そして愛想よく言葉を続けた。
――いや、昨晩の通夜でもみんなで君のことを話したんだよ。そして校長さんに一番世話をやかせたのは君だということになったんだよ。
――僕に関しては本当かも知れないなあ、と私は率直に答えた。
――それから校長を一番世話したのはMということになったよ。
葬儀委員長はふいに思い出したようにつけ加えた。
――ああ、そうだ。棺の顔のところは硝子になっていて、対面出来るようになっているから、蓋を開けて、早く最後のお別れを云って来たまえ。
交際の多い彼は私にそういうと、そそくさ別の人群の方に歩き去った。
彼の言葉にも拘らず、私は同じ箇所に立ち止っていた。日射は烈しく、私はいくらか汗ばんでいた。私は何もしたくなかった。私は死骸を見ることを好まなかった。精神を欠いた肉体に対しては、私は彼が生前持っていたと同じように殆ど未開人の恐怖を持っていた。そこにあるのはも早や、彼ではないのだ。現在完了形で表現されるそこの何かに対し訣別を告げることは何らかの意味があるようには私には感ぜられなかった。その上、彼との決定的な訣別は私には不可能であった。私の精神の形成に支配的な役割を持っていた彼は、いま私の中に現在しているのだ。すべての父、すべての師が、恐らくその子の心、その弟子の心の中でそうであるように、彼は私の中で、私を引きつけると同時に私の反撥する一つの中心をこれまで通り作りつづけているのだから。形式的な訣別は私には意味がなかった。
葬礼が始まるらしく、人々は教会の中に入りはじめた。私もその間にはさまって中に入り、一番後ろの席に腰を下した。
ローマ公教会のカテドラルの内部、この文字は我々の心に一群の美しいイマージを呼び起してくれる。並んで立っている幾列かの石柱の並び、その柱列と尖弧状に高く延びた天井の線とで出来た船形の空間《ネ ツ フ》の見通し、厚い色硝子のモザイック絵の窓から濾過され投影する外光、それに依って内部全体に漂う静かな神秘的なほのかさ、すべてこれらのものはカテドラルに入った者を無限に小さく感じさせ、そして偉大なる存在にすがりつかせ、祭壇の蔭に跪いて人々に祈るように導いている。
だがこのトタン屋根の蒲鉾型教会の内部では歴史を匂わせるこのような香気もあの大きな空間も見出されなかった。天井は低く白いペンキで塗られ、粗末なカフェテリア、カウンターで金を払って一皿料理を受け取り自分で空いた食卓に運ぶあのアメリカ式のレストランを思わせるものだ。それは合理的で明るく健康と能率が支配し、いわば人間が自分に浅薄に満足している姿を見せていた。そこには勿論、神秘的な感情の働く余地はなかった。僅かに奥の方に立ったキリスト像とその前に横に並ぶ大きなローソクの並びが、この部屋を神の家であると特徴づけているだけであった。通路はこの蒲鉾型の中央を縦に貫いて祭壇に通じ、その両側に粗末な腰掛が並んでいた。
会葬者たちは通路の入口に置かれた柩の傍で、あるものは黙礼し他のものは十字を切って最後の腰掛にいる私の脇を通って前に進んだ。男性も女性も人々は恰かも死者の眠りの安らかさを紊すのを怖れるかのように足音をひそめて影のように前列の方に動いて行った。青年とその母親が過ぎて行った。彼女は席につく前、片膝をついて祭壇に向って十字を切るのが見えた。二人の教授が通った。若い男女の学生たちが何人か前に進んだ。花のような三人の乙女たちは、通路から自分たちの席に入る前に、跪坐《ジユヌフレクシヨン》し、十字を切り、そして席につくと揃って薄い布を頭から被った。席はこうして少しずつ埋められて行った。
――何か足りない、と私はこの葬礼についてずっと前から感じていた。
そうだ。そこには鐘塔からディン・ゴオンと響くべき、あの鐘の音楽がないのだ。そうだ。周囲に住む信者たちに同宗者の一人の死を触れると同時にその美しい響きは空に舞い上って天使たちに一つの魂の昇天を知らせる鐘がないのだ。
彼のための葬礼の淋しさをこのように私は感じながら、通路を影のように通る人々に眼をさらしていた。私の心は重たく沈んで、現在については殆ど反応を示さないかのような曇った状態になっていた。人々は次々に私の傍を通って奥に進んだ。中には私の人間遍歴の遠い昔に邂逅し、私に大小の影響を与えてから私の視野から消え去った人々もあった。昔の私の姿を思い起させる青春の学生の姿もあった。それらの人の姿は私には想起の標識点となって、忘れていた過去のそれぞれの時の香りや音を喚び起し、瞬間のうちに当時の生活のすべてを心に再現するかのようなサンサシオンの起伏を私の中に感情させた。こうして人々の姿は私の心の上を音もなく歩き回想を目醒ますファントムの列のように見えた。
柩はやがて人夫たちに依って祭壇の前に運ばれた。背丈の低い日本人の司祭が白い袍衣を著て姿を現わし、祭壇の前をあちらこちら歩きながら、ラテン語に堪能であった死者のために、日本語の多くまじった葬礼をはじめた。
入って来る会葬者の数は稀になって来ていた。
私が最初、彼に会ったのは入江の向うに函館の市街の黒い屋根が小さく見える高原であった。そこには沈黙の行と労働と祈りに一生を捧げ、それを通じて神に仕えると同時に人の社会にも仕える――というのはこの修道院の創設者たちは人の一番望まない荒れ地を所望し、それを開拓し、酪農を経営し、日本で味える最良のバタを生産して、死んだ土地を人を養う生きた土地にしたのだから――修道者たちの一団の館が建っていた。
想起は私は中学の黒いボタンのついた黒いヘルの制服を著、その上に同じく黒いボタンの外套を身に纏った十五の少年の姿を意識に浮ばせる。早熟的で読書好きのこの少年は腺病質者の敏感さを持ち、人生を知らないこの年齢の者に見受けられるように多分に空想的で、生々《いきいき》とし、動き易い瞳は周囲に対して強い好奇心を持っていることを告げていた。
少年はその日の午前の湾内汽船で、修道院の断崖の下の発著所に降りた。そして修道院への嶮しい坂道を登りはじめた。少年の心は弾んでいなければならなかった。願望の館への道を歩いていたのだから。しかし少年は見つかった家出人として、函館の警察署長に次の日の午後の汽車で東京に帰ると誓約していた。このことは少年の心を深く傷つけていた。四月の半ば過ぎではあったが、春の訪れの遅いこの地方の気温は南の方で育った少年には冷たく、彼は外套の襟を立てて坂道を登って行った。
坂の上に出たとき背に山をひかえた沈黙の館が光の中に沈まり返っているのが眼に入った。少年は声が罪であるこの家の入口に入って行った。奥から赤ら顔の外人僧が出て来た。その僧は頭のてっぺんを丸く剃り、茶色の粗毛の織物で出来た袍衣を身にまとい、胴を紐でしばって余りの紐は前に長くたれていた。この僧は訛のある日本語で少年に尋ねた。
――あなたは天主公教信者ですか。
――いいえ、と少年は答えた。
少年は天主公教がカトリックの訳語であることは知らなかったが、それがキリスト教に関係のあることは知っていた。彼が育った南の都市の賑やかな町角には倉のような石造の建物があって、通りに向いた正面の屋上には粗朴な石の十字架が立っていた。少年は毎朝、いくらか鈍重な感じのこの十字架の前を通って小学校に、次で中学に通っていた。正面の上部の中央には大きな丸い菊花形の採光窓があり、その上に弧形に天主公教々会と記され、フランシスコ・サヴィエルの献詞が記されていた。少年は教会の内部に入ったことはなかったが、日毎に仰いで眺めていたこの文字は覚えていた。
赤い顔の粗毛衣の僧は少年を一室に案内し、少年が荷物をそこに置くと、修道院の内部を見学させた。二つの食堂、その奥の無人の礼拝堂《シヤペル》など、次で外へ出た。そこには牛舎と酪農の工場があった。牛舎は空だった。牝牛たちは牧夫に連れられて放牧場に行っていたのだ。工場ではクリームの採集、バタの製造機械があった。横に小さな機械があった。これは遠心力に依る脂肪の検定器だった。僧はハンドルを取ってそれを回転させて見せた。
――農家が牛乳を持ってくると、これで脂肪の多い少ないのを調べて、金を払うのじゃ。
少年は淡々とこんな説明を聞いていた。
廊下や外で同じ服装をした他の僧にあうことがあった。そんなとき僧たちは沈黙したまま会釈した。
案内僧はやがて「ルールドの奇蹟」「テレジャ聖女」と題する紙装の本を持って来、それを少年に渡して云った。
――もう直ぐ、お祈りの時間じゃ。部屋にいなさい。
少年は白い壁の部屋に戻り、椅子に腰かけて、窓から外を眺めていた。
午後、少年は居室で暫く休むと貰った本を開いたが興味がないので、外へ出て館の後ろを山の方に歩いてみた。少年は凝としていられなかった。ここは何処でも彼のこれまで知っていることとは違った新らしい雰囲気に満ちていた。少年はそれを出来るだけ吸い込んでおきたいような気になっていた。小高く丘のようになった箇所には落葉松が生えていた。もっと先の山際には聖処女の像が立っていた。少年は何処でも誰にも会わなかった。あの祈りをしていた修道士たちは一体何処にいるのだろうと訝ったほどだった。少年は孤独を感じた。いくらか疲れたので彼は戻った。途中、本館の裏の小屋で、案内の僧が仕事をしていた。近づいてみると僧は木靴を作っていた。傍には小さな仔熊がくいにつながれて遊んでいた。楽しい生活だなあ、と感じながら少年は無細工な木靴が段々と形をなして行くのや、熊の子の無限の動作を見倦きないもののように黙って眺めていた。沈黙の誓いを立てた人々のこの館では、案内の僧は言葉を許されていても、少年には話しかけることが冒涜のように憚られた。しかし黙っていても新らしい風景の風が心の上を吹くように楽しさを感じていた。
小屋の前面に一本の高い竿が空に向ってつっ立っていた。少年はそれを眺め、次で僧を眺めた。
――あれはな、と僧は木靴作りの手を休めて云った。白い旗をあげて遠くに行っている牛飼いたちに戻って来る時間だと知らせるんじゃ。
丁度そのとき本館から背広を著た外人が姿を現わし、小屋の方へ近づいて来た。僧は彼に近づくと敬意を以て語った。
――あの方はな。大学の先生じゃよ。グレキア文学を教えていなさるフランスの方じゃ。病気でいま保養に来ていられるのじゃ。
グレキアという言葉は彼に異様に響いた。僧はイギリス人でないのかも知れないと少年は思った。
背広の外人は右手でステッキの中央を支えて輪に廻しながら、神経質である人に見受けられるように、せかせかした歩き方で近づいて来た。彼は案内の僧のように柔和ではなかった。嶮しさと鋭さがあった。これは少年をいくらか畏怖させた。傍《そば》に来ると、彼は僧と話しはじめた。二人はときどき少年の方に眼をやることから、少年は二人が自分のことを話しているのだと考え、顔を赤くした。最後にフランス人は少年に向って云った。
――散歩しませんか。
少年は肯き、そして二人は丘の白樺の林の方に歩き出した。
――英語を解りますか、とフランス人は訊ねた。
――少し、と少年は英語で答えた。
――あなたは東京から来ましたか。
――そうです。
――トラピストになるつもりで。
少年は肯いた後でつけ加えた。
――しかし今度は明日の朝、帰ります。
そしてこの家出少年はその理由を説明した。
――あなたはカトリックですか。
少年は首を振った。
――ここで何をしたいのですか。
――ここで必要な仕事をし、祈りをして、その後は自由に本を読んでいたいのです。他人の邪魔をしないで、他人に邪魔もされないで、静かに暮したいのです。
フランス人は少年の返事の中に既に矛盾を気づいていた。カトリックでもないのに祈りを語る少年は、信仰からこの沈黙の館に来たのである筈はない。
――ここでは本は自由に読めないね。
この言葉は少年にへきれきのような響きを持っていた。
――僕は読みたい本を買いましょう。
――買うことも出来ません。ここでは法王が読んで好いといった本しか読めないね。ここの人たちは信仰のために自由を捨てた人たちです。
少年は自分の胸を満たしていた美しい幻影が心の上にくずれて行くのを感じた。烈しい失望が彼の顔に浮んだ。ここも駄目だと心の中で彼は呟いた。フランス人は言葉を続けた。
――あなたは体が丈夫そうでないね。丈夫でないとここでは続きません。ここにいる日本人はみな先祖から信者の天草の人たちです。あそこの人たちでなければ信仰は信用されません。
こんな話のうちに二人は白樺の林をぬけ、落葉松の林に入って行った。フランス人はこの小さな聖人志願者に興味を持ちはじめた。そして社会とか権力とかについてさまざまの質問をした。少年は真実にはそれらのものを知らなかった。しかし反抗の不安期に入った青少年がそうであるように、われらの少年もまた少年の論理で社会の不平等や権力の否定について語った。彼の言葉は読んだ本で知った他人の言葉であることが多かった。
少年は話題を変えた。
――先刻の修道士は何処の国の人ですか。
――オランダ人です。オランダは乳の国ですね。あの人はオランダに牝牛を買いに行くことになっています。
落葉松の林を過ぎると白いマリヤの像が見えた。
――あれを知っていますか。
――マリヤです。
――そうです。しかしあのマリヤはルールドの奇蹟のマリヤです。
少年はルールドの奇蹟を先刻貰った本の一冊で思い出した。少年はフランス人に訊ねた。
――あなたはカトリックですか。
――そうでないですね、と外人は答えた。私は無神論者ですね。
これは奇妙な印象を与えた。フランス人の彼がカトリックでなくなり、日本人の少年がカトリックになるかも知れないということは、役目があべこべのように思われた。外人は訊ねた。
――あなたの東京の家、何処ですか。
――牛込です。
――私、一週間して東京に帰ります。手紙あげます。家に遊びに来なさい。
夕方は段々と迫って来た。風は冷たくなった。遠くの方で鈴の音が聞えて来た。少年は訝し気に外人の青い眼を覗いた。
――あの音、知らない?
――ええ。
――戻って来る牝牛の鈴だね。
少年は館の裏の旗竿の方を振り向いた。残光の残った空に何時の間に揚がったか白い旗が風になびいていた。二人は牝牛の鈴の音を聞きながら帰りはじめた。間もなく祈りの鐘の音が林の上、丘の上に拡がった。海の上にはガスがかかった。対岸の町に一つ二つ三つとつきはじめた灯火がぼやけて濡れたように見えた。少年は少女の眼を思い出して戦慄した。少年の心の上には夕暮が愁いのように拡がって行った。
部屋に入ったとき、少年は閉ざした窓際に立って夕闇が丘をすっかり包むのを倦きずに眺めていた。この館にあるもの、そこで行われ、起ることを少年は忘れる危険のないほど深く胸に刻み込んでおきたい慾望に捉えられていた。山際の落葉松も手前の白樺も段々とぼんやりし、夕闇に溶け合って来た。何処からか牛の啼き声が聞えて来た。牝牛たちは仔牛と一緒に夕べの飼い料《ば》を貰っているのであろう。夕闇の中では沈黙の館は世の中の流れから置き去りにされ、切りはなされ、もっと孤立しているように少年は感じた。疎らな星が冷たい空からこの絶壁の館を瞬きながら見ていた。少年は閉ざされた窓の際に立ちつくしていた。
扉にノックの音がした。振り向くと入口にオランダ僧とフランス人が立っていた。食事の時間が来たのだ。夕食はフランス人と一緒だった。
食事の間に少年は知った。修道士たちには動物の肉は禁ぜられているので食卓には出されない。それは他の動物の生命を奪って自分の生命をつなぐことだからだ。牛乳やバタのように他の生命を奪わないものは差し支えない。ただ日本の海には魚類が豊かで、日本人にとって魚類は常食であるので、この動物の肉を食うことは日本人の修道士に黙許されている。しかし、魚類を食うには本食堂でなく副食堂で食事しなければならない。
食事の後で、彼は訊ねた。
――あなたの東京の家は何処か教えて下さい。
少年は自分の住んでいる叔父の家の所番地を云った。フランス人はポケットから小さな帳面を出して、四角な丹念な漢字で記しはじめた。少年は彼の鉛筆の下に自分の名が漢字で書かれて行くのを不思議そうに眺めていた。
書き終ると外人は帳面を示した。
――間違いないですか?
少年は肯き、そして「しまった」と感じた。この場合否定する方が外国の語法に合うのではないかと思ったからだった。外人は名刺を出して少年に渡した。
――これ私の名刺ね。上野の桜木町にあります。東京に帰ったら手紙上げるね。遊びに来なさい。
――ええ、と少年は答えた。
少年は名刺にJ... C...の名を読んだ。
――ここは、とフランス人は言葉を続けた。あなたのような小さい人の来るところでないですね。東京で勉強を続けなさい。本が読みたかったら家に沢山あるね。英語の本もフランス語の本も。それ読みなさい。
彼は昼間の散歩のときの会話で、聖人志願の少年の家出の原因は信仰と少しも関係のないことが分ったので、それに適応した助言を少年に与えたのだった。
その夜、二人は互に好き夜を祈り合って各自の部屋に戻った。扉を閉ざし、低燭の電球に照らされた小さな部屋に一人ぼっちになったとき、少年の心の上には漠然とした憂愁と孤独の感情が再び拡がった。昼の間それは外部の目新らしい事物や人物にすっかり惹きつけられて、自分の本当の姿、家出人を忘れていた。いま孤独になると、それが戻って来た。明日の展望が少年の魂を暗くした。叔父の家に送り帰されるという考えは不安と烈しい屈辱の感情を掻き立てた。少年はそんな考えを追っ払うように頭を振った。不幸はそれが来たときその苦い汁を味えば好い。その前のよい時を不幸の前味で濁すことは要らない。そう考えながら少年は質素ではあるが真白いシーツのかかったベッドに潜った。彼は一夜を汽車の中で、一夜を叔父の知人であるという署長の家で過したので、肉体的にも神経的にも疲れ切っていた。それに沈黙の館は少なくともいまだけは確実な避難所の安心があったので、間もなく少年の瞼の上には眠りが重くのしかかって来た。
ベッドがそれに沿うて置かれている壁には茨の冠をつけた受難のキリストの小さな像が掛っていた。それは眠りに落ちて行く少年の顔を眺めていた。
最近二十五カ月のうち、最初の十カ月に少年の住所は二回変った。幼い時から母親と共に育った南国の都市から父親の勤務地である南の植民地へ、次で東京の叔父の家に引き取られた。
少年が生れ、育ったのは九州の南端の市《まち》であった。それは海が陸地に深く食いこみ、陸を二本の脚のように分けた湾の奥の方にあった。市《まち》の前面、湾の中央には円錐形の典型的な火山で出来た島が横わって、煙を噴いていた。住民たちは自然が彼等に美しい景観と豊かな恵みを与え、そのお蔭で美しい精神と肉体とを育てていることを誇りとしていた。事実南国の太陽は土地をさまざまの稔りで恵んだ。ザボンや文旦やびわは人家の庭で芳香のある果実をつけ枝をしなわした。花は太陽の熱に鮮明な色彩で答えた。湾は内海の静けさと深度の変化のため多種の魚類を育み、夥しい漁獲は人々の胃袋に安価な蛋白を提供した。住民の生活は貧しくても栄養的であり得た。
しかしこの都市は景観の美しさや物資の豊かさ以上に、精神生活の面で際立った特徴を示していた。そこには伝統が深く住民の心の中に根を下していた。封建社会が特に愛撫していた幾つかの美しい徳、名誉或は矜持の感情、その雰囲気の中で築かれた勇気、正直、節操、交《つが》えた言葉を変えぬことなどが他の時代錯誤的な信仰や習慣と一緒くたに保存され、特に生活上の妥協の要らない少年たちの素朴な世界を支配していた。この伝統は社祭や武者行列などのような行事と他国で育った耳には解らないほど特殊なこの地方の方言で守られていた。そしてこの言葉を語らない者は他所者として仲間外しにされていた。
少年は弟妹と共に母親に育てられ――父親の任地は遠くて一年か二年に一度、二週間ばかり帰ってくるだけであった――数多い従兄弟姉妹と遊んで大きくなって行き、その間にいろいろのことを覚えた。
くさいちごや山いちごやぐみを取りに行く山には山の神さまがいた。捕えたら胸のはり切れるほど嬉しい鮒や取りたてに醤油をつけて食うとうまい小えびの住んでいる川には河の神さまがいた。だからそんなところで小便をするときには、山の神さま、或は河の神さま、勘弁して下さいと云ってからしないと後で祟りがあった。鰻のいる川の淵や沼には子供たちと遊びたがっている河の童子《か つ ぱ》がいて水の中に思慮の足りない子供を引き込んで溺れさしていた。
他人の庭に実《な》った果物は持主に知られずに盗んだら、これは子供仲間で威張ってよい手柄だった。
男の子は物干し竿の下をくぐってはならなかった。長男は特にそうで、また女の後の風呂には、それがよしんば母親であっても、入ってはならなかった。次男以下は長男の不幸のときの用心子と呼ばれていた。男の子は女の子に構うことは柔弱という評判を取って仲間外しになるほど排斥されていた。忍ぶべきを忍んだ後では喧嘩はしなければならなかった。小学校に行く年齢になると長男は父の代理として親類の大人たちの間に坐り、弟や母たちはずっと末の方の席についた。殆ど古典的な父権型といってよい長男尊重のこのような社会は、偶々長男に生れたわれらの少年に楽しいことだけを用意してはおかなかった。美しくそして文学的傾向のある母親に育てられた少年は内気ではにかみ易く、また涙もろかった。そのため大人の間に袴をつけ、長い間正坐していることは苦行のようだった。
中学に入ると、そこにはも一つの大きな危険が待っていた。この南の市《まち》では若い娘たちは夜でも自由に歩くことが出来た。しかし少年たちは、美しければ特に、そうはできなかった。ある日、われらの少年は町に出て本屋の店頭で雑誌を読みふけっていた。帰る時にはもう日が暮れていた。賑やかな通りから暗い通りに曲ると家のある小路の入口に何人かの人の姿が見受けられた。少年は電撃を受けたようにハッとした。少年たちをさらう青年たちだと思った。彼は元に戻り明るい通りを迂回して家の前の小道の向う端から帰ろうとした。しかしそこにも人の影が幾つかあった。少年は再び明るい通りに戻って、どうしたら安全に家に帰られるか思案した。少年は涙が出て来た。そして長い間考えた末、彼は戸を締め始めた車屋に行って車に乗って帰った。
門の前では暫くの間青年たちのざわめきと口笛の音がしていた。
次の日中学に行ったとき、同級の美しい少年が一人欠席していた。前夜十六人の青年たちがこの少年を河原に担ぎ出して暴行したという噂がクラスに広まっていた。
われらの少年は戦慄した。
兎も角も父のいないその家は少年にとって楽しく平和であった。少年は明るく伸び伸びと育った。幾分虚栄的で手紙で子供のことを親類中に語りたがる母親も、この少年の学業成績と行状により以上を望む必要はなかった。
台湾で自分の運命を試していた医者の父親は、官吏として一応安定的な地位になったので家族を呼び寄せて暮そうと決心した。丁度同じとき父親の弟は大学時代に受けた援助に酬いるため、少年を引き取って東京で教育しようといって来ていた。しかし父親は十年振りで揃って暮す家族から少年が欠けることを望まなかった。少なくとも一、二年の間は自分の傍において育てたかった。そこで母親とその子供たちは千トンに足りない小さな汽船に乗った。船は波の高い海に点々としてつながった大きい或は小さい島々に寄港しながら、一週間の間、南へ南へと下って行った。少年は植物の景観と著物や言葉が嶋毎に違うのが珍らしかった。
南の植民地の自然と光は深い明瞭な差のある姿で少年の心に強く刻み込まれた。この自然とそこでの生活は、幾年、幾十年、齢を重ねても少年は鮮明に思い出すことが出来たほど強烈な印象を少年の記憶に残した。それが強烈に過ぎるので、それ以前の記憶はずっとおぼろになっているほどであった。このことは、この植民地での生活が少年の将来に大きな感情的な影響を与えていることを示すと云ってよいであろう。
父親の家はキールンの港の入口、丘陵が海との間に残した吝くさい平地に立った役所の構内にあった。家は丘陵を幾らか削って庭にしていた。波打際からは四十メートルほどしか離れていないで激しい波の日にはしぶきが客間の窓硝子にたたきつけられた。巨大な榕樹、空中から太い根を出す奇怪なこの植物が家の風除になっていた。周囲にはその外龍舌蘭、猩々木、相思樹、芭蕉など光と熱の大好きな植物が恣まに繁茂し、豪奢の印象を与えた。丘を削いだ庭の絶壁には幾番いかカワセミが穴を掘って巣を作り、ヒスイの翼を拡げて交る交る飛び出し、雛に食物を運んでいた。椅子と卓子のある客間の窓からは五六町の距離にある港の入口が見えた。そこの断崖の上には白い灯台が空を背景につっ立って、夜になると海に覆いかぶさる闇の中に光の瞬きを投射した。
灯台の下の断崖と満潮の時には水の下に隠れる広い暗礁の間に港に入る狭い水道があった。その入口を通って入ってくるいろんな形の船は検疫を受けるため窓の前の外港で停船した。ジャンクはそれまで張っていた渋色の帆を下した。汚れたこれらの小船は対岸の福州から龍眼肉やライチーなど季節の果物やゴロと呼ばれる服地などを運んで来た。内地通いの定期の貨客船や不定期の貨物船は水道にかかると、汽笛をならした。すると役所の突堤にあるランチは少年の父親或は次席をのせて波を蹴立てるような勇ましさでそれらの汽船に向って行き、一緒に内港に消えて行った。時々少年の父はそのような船から神戸牛の肉を分けて貰って来て子供たちを喜ばせた。
港にアメリカや日本の巨大な外洋汽船がウールン茶を積みに入って来ることがあった。そんな大きな船は内港の岸壁にはつけないので外港に錨を降ろし、荷役が終るまで停泊していた。夜、船に灯がつくとそれは一層美しかった。船は明るい灯火の光芒に包まれて静かな海の上に浮き、夢幻の城のように見え、光を映す波のゆらめきは窓から弟妹と一緒に眺める少年の感情をあやした。船からは夜、遅くまで音楽が流れて来た。
この植民地が少年の心に一番深い感銘を呼び醒ましたのは、亜熱帯の自然の荒々しさとその変化だった。ここでは植物は烈しい日射の下で樹液をみなぎらせて成長し、強烈な色彩と香りで花弁を飾った。土人の娘たちが髪を飾る白いパチュリの花の烈しい匂いは少年の吐き気を誘った。果物は少年に未知の味覚を発見させ、早熟な幼童たちが渚の蔭で体を見せ合って交わす猥らな会話は少年の感情の場を拡げた。
海はある日静かだった。しかし次の日海は烈しい怒りに捉えられて陸地と人に襲いかかった。南から北にのぼる低気圧の中心はよく少年の住む辺りを通過した。襲来前の無気味な静けさの間に港の人力車であるサンパンやジャンクもランチも波の蔭に隠れた。海は交通機関のない沙漠のようになった。人家でも戸外の物を片づけ、雨戸は吹き破られないように太い孟宗竹で補強された。そして人々は宿命の不幸のように颱風の来るのを待っていた。
先ず電線と木の枝が悲しい叫びをあげた。窓から見える海は白く泡立って来た。低気圧の中心が近づくと家はきしみ声を立てた。そして、雨は瓦の傾斜に従って流れないで、風の力で瓦と瓦の合わせ目の間から逆流して、家の中に漏りはじめた。中心が過ぎるに連れて、屋根の反対側の斜面から雨は家の中に漏った。家人は家具や畳を雨の洩らない部屋に移さねばならなかった。
そんな日少年は窓から灯台の方を倦きずに眺めていた。暴風の威力を恃んだ巨大な波浪が暗い沖から陸地を目がけて突進して来た。それは後から後からとリズムをなして続き断崖に打つかって、白い飛沫を高くあげ、灯台を洗った。
少年はスリルに似たものを感じた。夜半を過ぎて枝を吹き折る嵐の叫びに混って汽笛が断続して聞えた。
――何処かのランチが錨を切ったに違いない。と父は、不安に脅える少年に語った。
一度、もっと闇の濃い嵐の夜のことだった。少年はもっと強い号笛が断続するのを聞いた。号笛は少年の心に絶望的な悲痛の感情を誘った。彼は窓に鼻を平たくおしつけ、光の城のように見えていた巨大なアメリカ船の灯火が嵐の闇の中に消えて行くのを見ていた。対岸には灯火が星のように動きはじめていた。救援は距離の近い対岸から行われているのに違いないと思った。
明くる日空は拭ったように晴れ、海には風はなかった。ただ外洋からは巨大なうねりが灯台の下の岩を噛んでいるだけだった。
港口の暗礁よりの対岸近くに二本のマストと三本の煙突の上部を現わして外国の汽船が沈んでいた。窓から見える静かな海で幼児を抱いた金髪の若い母親の屍が浮いていた。
海の静けさは嵐の夜の悲劇を記憶の中の夢魔のように思わせた。しかし嵐の過ぎた痕は何処にも見られた。庭には嵐にもぎ取られた小枝や葉が散乱し、少年のカンナもダリヤも吹き折られていた。生々しい破壊の痕は少年を新らしい烈しい印象の魅力で捉えた。彼は灯台に行ってみようと思った。道には枝や葉が撒かれ、海では破壊されたサンパンや怒濤が陸からさらって行った塵芥が、潮目のところに長い界域を作って漂っていた。灯台では朝までに海鳥が二十羽も死んでいた。闇と暴風と荒海の中で、これらの海鳥は灯台の光を救いの光明と信じてまっしぐらに飛んで来たのだ。しかしそこには救いはなかった。彼等は厚い硝子の偽瞞に激しく衝突して死んだのだ。不運な海鳥たちの運命についての若い灯台看守の話は少年の胸に複雑な感情を湧き上らせた。
父の家に移った始め、少年には直ぐ幾人かの友だちが出来た。役所の前の渚の横には突堤がつきだしていて、そこにランチと和船が繋留されていた。海のハイヤーであるランチは船長と機関手と水夫が乗り込むと波をけたてて走った。その姿は勇ましく少年に映った。ランチには少年は何時でも乗せて貰えた。船長は操舵機のある船長室にいて、天井からぶら下っている紐を引いた。すると機関室で引いた度数だけ鐘が鳴って、スクリューが回転をはじめた。
水夫が船首でゴースターンと叫ぶと船長は紐を引いてチンチンチンと鳴らした。すると船は後退した。ゴーアヘッドと叫ぶと鐘がチンチンと鳴って前進した。万事OKのときには水夫は両手をあげてオーライと叫んだ。岸壁につけるとき片手にタンポンを持っているときには片手をあげてオーライと云った。少年が驚いたことに水夫は外国船に行っても同じことをした。両手をあげてオーライと叫ぶと、その意味が外国の水兵に解った。この国際信号は外国船に行っても理解されたのだ。
船にはも一人水夫がいた。それは痘痕の一杯ある陽灼けのした逞しい男で、ランチや和船の掃除をしたり、水垢を汲み出したりしていた。和船をランチが引いて行くとき、この水夫は和船のともに艇長のように腰を下して舵を取った。これは福建省から出稼ぎに来た王《ワン》という三十四五の男だった。肩幅の広いがっしりした精悍な体格は水夫の中で一番男性的で、どんな荒海でも乗り切れるような印象を与えた。少年に会うと、彼はその怖ろしい顔に頬笑みを浮べて、人の好い性格であることを知らせた。
ある休みの日少年は突堤に行って、つながれた和船に乗った。ランチにいた王は首を出して訊ねた。
――汝《リー》、漕ぐあるか。
少年は潮風の中で首を振った。すると王はランチから出て和船に乗って、ともづなを解き、櫓を押した。小舟が小さな入江の中ほどに出ると、
――漕ぐよろしい、と云った。
少年は細い腕で櫓を押してみた。しかし小舟は前進する代りにぐるぐる廻った。それに櫓はへそから外れ勝ちだった。眺めていた王はともに腰かけて片手を櫓にかけて、少年を助けた。小舟は真直に進んだ。こうして少年は櫓の押し方を幾らか覚えた。少年が疲れて中板に腰を下すと王は小舟をランチに漕ぎよせ、そこから小さなざるを持って来た。
――これ、ライチ、うまいある。食うよろしい。
それは龍眼肉を大きくしたようなものだった。王に倣って、少年はそれを食った。果肉は龍眼肉より厚く、特有な味を持っていた。この果物は彼の舌を喜ばせた。少年は幾つも食った。
――うまいあるか、とそれを眺めていた王は云った。
少年は頷いた。彼は王の親切に対して、何か云う義務を感じた。
――汝《リー》、小輩あるか。
王は頷いた。
――何処、あるか。
彼は夕日の中に海の彼方を指した。
少年は王の子供も彼があったと同じ運命の中にあるのだと思った。
学校は少年にとって楽しいとは云えなかった。それは余り遠すぎた。徒歩十五分、サンパン三十分、汽車一時間、徒歩三十分、これが片道に必要だった。毎日五時間を往復のため費している勘定だった。このために少年は朝早く起きなければならなかった。目醒し時計は午前四時半に、コンピラ・フネ・フネの曲をけたたましく鳴らした。少年は目覚めを強制する、このメロディを憎みながら起きねばならなかった。そして母親の用意しておいてくれた朝食を電灯の下ですまして、五時に家を出た。土民の部落では放し飼いの黒い豚がもう道を歩きまわって餌を探していた。そこを抜け十五分ばかり海沿いの道を歩くと、小さな船着場があって、そこから外に二人の通学生をのせると土人の船頭がサンパンを漕いだ。船頭は舳の方を向いて立ったまま両手で二つのオールを押して巧みに船をあやつった。港の波の上に夜が明けて行った。船が駅の前に著くと六時の一番列車はもうプラットフォームで待っていた。汽車は一般に空《す》いていた。
通学生たちは汽車の中でその日の課業の下読みをしていた。しかし少年は疲れて車窓から外をぼんやり眺めていることが多かった。民家の生垣の扶桑の花や朱色の花や田圃の水牛が列車の速さのうちに過去に過ぎて行った。時々日本の国力を見学させるための生蕃の一隊が車室を半分ばかり占領した。彼等は広い多彩の厚手の織物を纏い、腰に弦月形の蕃刀をつけていた。少年は車室の隅から痩せた精悍な生蕃の風貌を気味悪く眺めていた。そして時々父を訪ねに来る警察のB氏が酒を呑んで陽気になると話す蕃界勤務時代の挿話を思い出していた。
――生蕃の馘首は悪い気でするのではなかですたい。馘首してくると奴らは部落中で集まって儀式をして、口から酒をつぎ、首から流れ出た奴を受けて皆が飲むですな。そしてその首にこんなことを云うですたい。「これでおまえは俺らの仲間になった。おまえは仕合わせ者だよ。おれらの天国に行けるようになったのだから」と。奴らは自分の部族のいるところが一番好え国だと思うとるですな。だから自分たちの行く国が一番上等の天国と思うとるですたい。愉快ですな。
少年の父は無理強いの幸福者という生蕃の論理に抗議した。
――そんな仕合わせ者になろうという志願者は誰もあるまい。
B氏は別な話もした。
――首を切ると一口に云うですが、あれも腕の要るものですたい。あるとき、人がいなくて私が切ることになったです。わけはないと思って引き受けたです。わしは後手に縛って目隠しした生蕃を前に据えて、切りよいように首をぐっと下げさせましてな、そして気合諸共やっと刀を振り下すと、首は切れいで、生蕃がギャアギャア喚くですよ。あんまり首を下げさしたもんで刀が顎の骨につかえたですたい。顎の骨は堅いものですなあ。それでわしはあわてて、やっと三太刀目に首を打ち落したですよ。
B氏は話を終ると傍にいた少年に云った。
――坊っちゃん。これはよう覚えときなさい。首を切るときには、あんまり頭を下げさしちゃいかんですたい。顎の骨は切れんですからなあ。
少年はこんな大人の野蕃な物語を冒険小説を読むような気持で聞いていた。汽車の中で彼はそのような話のあれこれを思い出しながら生蕃を眺めていた。トンネルに入ると生蕃たちは何かの陥穽と思い違いして叫声をあげた。
中学は町を挟んで駅と反対の側にあった。汽車が台北の駅につくと、通学生たちは駈け足で町を横切った。朝が早いので相思樹の並木のつづいた広い通りには爽やかな風が吹き、人通りも疎らだった。美しい毛並の馬に乗った総督の馬丁はも一匹の馬の手綱を持ち、二匹の馬の首を並べながら並木のあるこの通りをトロットを駈けさせて調教していた。馬丁は中学生たちを追い越すとき、微笑を投げて駈け過ぎた。走っている学生たちは何て仕合わせな奴だと馬丁を羨んだ。
課業や体操が終って帰るとき――体操は大概最終の時間にあった――、早い汽車に間に合うためには、通学生たちは同じように駈け足で駅に急がねばならなかった。少年にとってこの汽車に乗ることは他の通学生よりもっと必要だった。というのは定期ランチ便に間に合うにはこの汽車を外してはならなかった。亜熱帯の午後の太陽は無慈悲だった。少年は日蔭を選びながら汗を拭き拭き疲れた足に鞭うって町を横切った。彼は最後の体操の時間がなかったらと、この時間を呪いながら走った。
帰りの列車では台湾生れの通学生たち、特に商業学校に行っている生徒たちは同じ汽車で帰る女学生たちの美醜を語り合っていた。新らしく大阪から来た鉄工所の所長の娘はその美しさのため、彼等の噂の的になっていた。中学は官吏の子弟が多かったが、之に反し商業学校は商人の子弟が集まっていたため、この自由さがあったのであろう。
しかし授業が当番で遅くなったり、或は疲れて駈ける元気がないとき、少年は五時の汽車までの二時間の間町をぶらぶら歩きながら費した。アルジェリア・モロッコに範を取ったと云われる台北の町は美しく、そして歩道は張り出した二階の下になって、日射が遮られていた。少年はそこここの陳列棚を眺めながら、駅の方に歩いた。土人の金銀細工屋の前では長い間立ち止っていた。そこの職人たちはアルコール・ランプの炎を吹管で金に吹きつけ、きゃしゃな槌を使って器用に細工しながら指環や簪を作っていた。
駅についても時間があると、ベンチに腰かけて、駅前の広場を飾っているあおぎばしょうを飽きずに眺めていた。巨大な扇を開いたように放射状に鮮緑の大きい葉を揃えたこの植物は女性的な美しさで広場を充たしていた。
こんな日キールンの駅の前にはもうランチはなかった。彼は海に沿うて曲折しているコンクリートの狭い道を歩かねばならなかった。時間が遅いので通りは人から見捨てられ、歩くに連れて遠ざかる港町の灯火は少年に淋しさを感じさせた。海の上では稀なサンパンがカンテラの灯を水に映して心細く通った。闇の夜には昼と反対に水は道より白く見えた。疲れて機械的に歩く少年は時には錯覚から海に歩み入ろうとしてはっと意識を取り戻すのだった。風の強い日にはこの一里半ばかりの道は所々波に洗われた。そんな日には低い峠を越える丘の道を通らねばならなかった。昼間だと丘の麓の田圃の傍では逞しい角をおし立てた水牛が泥水の中に横わっていた。もしあの水牛が夜までいて、そして人の気配に驚き襲撃して来たらと少年は怖い思いに包まれて、土人しか常には通らない丘の道を登って行った。
時として遅い汽車の帰りには喜びの驚きが少年を待っていた。制服を著、小さな剣を腰につった父親が公用や私用の次手に駅で少年を待っていてくれた。そんなとき少年は駅長と話している猫背の父親の傍に走って行った。公用のときにはランチのキャビンに入って帰った。私用のときにはサンパンだった。父親は二人になると見飽きないように少年を視線で包んだ。少年は父親の眼の中にいつくしみを見、信頼の安心を感じた。
ある夕方、父親は駅に来ていなかった。先に歩いていた鉄工所長の娘は歩速を緩めた。少年が追い越そうとしたとき、彼女は云った。
――一緒に帰りましょう。うちのランチで。
少年は微笑で感謝を表わした。余所の女性と話したことのない少年はどぎまぎして適当な言葉が唇に出なかったからだった。
ランチの中で一つ上級のこの少女は少年に云った。
――あんたは何時も一人ぽっちね。
――転校生だから未だ友達がないのだよ。
――私もそうよ。仲好くしましょう。
少年は少女との会話を楽しく感じた。ランチから降りると同じ道の少年は少女を鉄工所の入口まで送って帰った。
家に著くのは普通の日で六時前、遅い日には七時半から八時の間だった。夕食の後少年は直ぐに床についた。宿題のある日母親は傍で繕い物をしながら少年の苦労を分ち合った。
少年の体には夜の短かい睡眠で抜け切らずに残る疲労が重なって行った。少年は瘠せて元気を失いはじめた。教科書を開いても注意は集中しなかった。それに疲労や嵐や寝坊のため欠席が多くなり学校の成績は低下して、少年の自尊心を傷けた。父親は少年のこの状態を見て、東京に出す方がよいのではないかと時々考えるようになった。
ある夕方、遅い汽車の迎えに来たとき、父親は動き出したランチのキャビンの中で、脇に腰かけた子供を視線で包みながら訊ねた。
――どうだ。学校に行くのは疲れて、苦しいだろう。
――ううん、と子供は首を振った。友達が出来ないのは厭だけれど苦しかあないよ。いろんな面白いことだってあるよ。疲れるのも、そのうち慣れるよ。そしたら勉強もよく出来るように屹度なると思うよ。
この返事は子供を手放したくない父親を喜ばせた。実際父親は少年を他の二人の弟妹より愛していた。休みの日には少年を傍から放さなかった。道楽の蘭類の鉢の世話のときも少年を傍に呼んで手伝わせた。来客のときも少年は傍に坐って客の世間話を聞かされた。夕方のいか釣りにも父のお供は少年だった。病気のとき弟や妹は父親が診察して薬を調合した。少年の病気のときも父親は診察したが、次席の医官にも来て貰った。深い愛情が診断を不安にしたからに違いない。
二学期になって、主任教師の国語教師は生徒たちが交代でクラス日記をつけるように定めた。少年の番が廻って来たとき、少年はクラスのこと、それから通学の途中の商業学校の生徒たちの話、最後に掃除当番の日帰りがどんなに遅れるか、また通学生にとって体操の時間は不要であるなどということを遅くまでかかって書いた。
しかしこの日記は主任教師を喜ばさなかった。女学生たちの容姿を批判する商業学校生の描写は少年の精神の柔弱と取られ、掃除当番制や体操の話は精神の不規律と判断された。だから二三日して教師は国語の授業を始める前に、この組には剛毅と規律の精神に欠ける者があるように思うが、という前置をして、この二つの徳を称揚した。少年は始め何のことか判断がつかなかったが、そのうちに自分の日記のことが問題になっていることを悟ってびっくりした。
翌日図師という組で一番体格のよい生徒が昼食後の休み時間に少年の傍に来て云った。
――君は女学生のことや当番のことを書いて神聖なクラス日記を汚した。クラスの者は怒っている。そして明日の昼休みに君に制裁を加えることに決めたんだ。制裁が厭ならその前に詫り給え。
図師は二十四時間の猶予を持つ最後通牒を云い終ると少年を離れて仲間の所に帰った。
少年にはこの最後通牒は意外であった。彼は自分の文章がこんな問題になろうとも、また問題にされるような性質を持っているとも思えなかった。彼は通学の途中汽車の中で見られることと当番について当り前のことを書いただけだった。それはすべて真実のことだった。それの何処に制裁を受けねばならぬような悪い点があるのか理解出来なかった。彼は転校生である上、遠くから通学していたので登校も帰りも時間一杯で友達を作る時間を持っていなかった。彼は組では孤立し、相談相手がなかったので、独りで制裁のことを思い煩わねばならなかった。
彼は自分で悪いと思っていないことを皆に詫ることは自分と他人を騙すことだと感じた。それは彼にとっては卑怯な、為すべからざることだった。彼の自尊心が傷けられないためには、負けるにしても出来るだけ抵抗して、無力になった自分を多数の者の満足の行くまでその暴力に委ねることだった。しかしそう決心するには勇気が要った。その上それは負けることだった。少年は採るべき方法に迷いながら帰りの汽車に乗った。
制裁という言葉を聞いたときから少年の胸には一つの先例が記憶の中でちらついていた。それは郷里の中学で起ったことだった。寄宿舎に入っていた一級上級の谷はある日若い娘と歩いているのを見つかった。真実ではそれは田舎から出て来た親類の娘で、市内を見物させるために案内したのだった。しかし娘と一緒に歩くということはこの士風の盛んな土地では少年たちの名誉の掟《コード》に叛くことだった。そこで谷は制裁を受けることになり、土曜の午後七時、月明の城山が制裁の場所に定められた。
組の者たちが城山の指定の場所に登ったとき、谷は既にそこに来ていた。彼は松の大きな幹を後にし、白い鉢巻姿で、手には柄《つか》を白木綿で巻いて血糊の滑り止めをした白刃を持ち、必死の形相で立っていた。彼は納得出来ない制裁に抗議していたのだ。クラス会は柔弱という彼に対する非難を撤去した。
少年はこんなことを思い出しながら他の生徒たちの戯れ合うのを見ていた。彼の今日の問題の原因になった商業の生徒たちは相変らず年かさの生徒の周りに集まって、女学生の容貌や服装や髪の形を品評していた。少年は制裁を受けるか、谷のように対抗したものかぼんやり考えていた。
ランチから降りたとき海沿いの道はもう夕闇の中に包まれていた。対岸には灯火がつき始め、曲折しぼやけた白い道は少年に無限《インフイニ》の感情を与えた。これは人々が感傷的になる時間だ。制裁という言葉は絶えず少年の心の上に戻って来た。孤独感が少年を捉えた。問題を両親に告げるということは少年の頭には浮ばなかった。少年にとって自分の仕出かしたことは自分で始末せねばならなかった。告げ口は彼の育った故郷の環境では名誉の掟に反することだった。それは女々しい行いであった。少年は悲壮になっていた。
彼は家の床の間に飾ってある父親自慢の大小刀のうち、小刀の方のことを考えた。少年は最後に自分に云った。
――あれで自分を守ろう。
そうすれば負けるという屈辱も、心にもなく詫びるという不面目からも救われるであろう。
少年は小刀を持ち出すことの重大さは漠然として感じた。しかし少年たちの心には一つの行為はそのすべての現実的価値を以ては映らないものである。何らかの面に空想的な遊戯的な感情要素が加わってそれを誇張し、他の面を忘れさせる。少年にこの決心がつくと、彼の心は、迷いから脱け出たすべての心のように軽くなった。後はこの計画を順序よく運ぶことだった。白木綿の代りに、彼は押入れにある繃帯を寝る前に出して鞄に入れておこう。刀はもっと難かしいが、何とか工夫して応接間の本棚の後に隠して、朝玄関から出るとき持ち出そう。万事それで順調に行く、と少年は思った。
食事のとき母親は少年に訊ねた。
――顔色が悪いようね。体の工合が悪いんじゃないの。
少年は首を振った。
食事の後、寝るまで彼は両親の眼を盗んで計画通りに事を運んだ。繃帯は鞄に入れられ小太刀は書棚の裏に隠された。
翌くる日少年は何時ものように半ば眠りながら海沿いの道を歩き、サンパンに乗った。朝の光が港の上に差しかける頃、彼は刀を忘れたことに気がついた。彼は取りに帰るわけには行かなかった。それは汽車に乗り遅れることだった。学校を休むことは危難を前にして逃げる卑怯の印象を彼に与えた。彼はそのまま学校に行った。
昼休みに少年は図師とその仲間に詫った。一つの組み立てた計画が食い違ったとき、彼の心からはすべての抵抗がなくなったからだった。ただ、彼はつけ加えた。
――しかし、僕は本当のことを書いただけだよ。
少年は制裁を免れた。しかしこの偽装的な詫りは、少年の内側にある卑怯な自分を見せることになった。彼は自分の中にあるそれを許しがたく憎んだ。
この日遅い汽車で著くと駅には父親が駅長と話していた。少年が列車から降りると父親は歩み寄って来た。少年は父の眼にほっとしたような異常な喜びが満ちているのを見て小太刀を隠したことを思い出した。
――ああ、よかった。と父親は云った。
ランチのキャビンに入ったとき父親は煙草に火をつけてから何気なく訊ねた。
――きょう学校で何かあったのかい。
――ううん、と少年は首を振った。
――床の間の小太刀が見えないのでお母さんも心配していたんだよ。
――あれは本棚のところにあるよ。抜いて見たかったんだよ。
父親はそれ以上に何も云わなかった。その夕方ランチは渚の突堤まで来た。
夕食にはスキ焼があった。父親は珍らしく酒を盃に二三杯のんで顔を赤くした。食事の後で少年は両親に応接間に呼ばれた。
母親は訊ねた。
――きょう学校で何かあったのでしょう。
――ううん。と少年は父親の問のときのように首を振った。
――ねえ。本当のことを云って頂戴ね。小太刀も本棚の裏に置いてあったでしょう。何かあったんだとしか思えないわ。隠さないで云って頂戴。でないとお父さんもお母さんもあんたの中に余所の人がいるような気がするんだから。
いくらか酔った父親は煙草をのみながら眼を注いでいた。母親の眼には不安と辛さが充ちていた。少年はこの表情に敵することは出来なかった。彼は制裁のことを話し、最後に詫ったことを話すとき涙を流した。
――解ったわ。と母親は云った。
父親はその後で笑いながらつけ加えた。
――そんなときには親に相談するんだよ。
雨期が始まると通学の困難は、それだけ増した。少年の肉体には残った疲労が積み重なって行った。不安の眼で少年の健康の衰えを見守っていた父親は強壮剤を少年に与えはじめた。その頃少年の学業の低下と日誌事件のため父親は学校に呼ばれた。
父親と母親とは少年をどうするか幾晩も相談し合った。そして三つの案を立て、その中の一つを少年に選ばせることにした。少年は台北の父の友人の家から通学するか、故郷の母親の家から元の中学に通うか、東京の叔父の家で勉強するか。
未知が少年を誘惑した。彼は第三の案を選んだ。
少年はこうして東京に赴くことになった。彼は台湾には八カ月しかいなかった。
故郷で古風な武士的なものを植えつけられてこの植民地に来たわれわれの少年は、亜熱帯の自然の中で、美、壮大、恐怖、スリルなど、内地の中学生たちが冒険小説で架空的に感情するものを、現実を通じて経験し、培《つちか》ったと云ってよい。なお植民地に漂う異種文化は少年の中にエキゾチスムに対する嗜好《グ ー》を芽生えさせた。
東京に著いたとき少年は以上のような伝統と感情経験の幅を身につけていた。
首都には父の兄と弟とが住んでいた。結婚した或は未婚の姉や妹も住んでいた。兄の方は弁護士だった。弟の方は銀行員で、家は牛込で、外濠に沿う大通りの裏の道にあった。それは石の門を持っていた。少年が引き取られることになっていたこの家には叔父夫婦と五人の子供――少年と二つ違いの娘以下、息子三人、娘二人が住んでいた。叔父は出張や宴会で少年と顔を合わせることは少なかった。叔母と子供たちは奥に住んでいた。少年には玄関の脇、廊下を距てて応接間と向い合った三畳の書生部屋があてがわれた。電話のあるその部屋には小さな窓が二つつき、外側にはまった鉄捧はその部屋を牢屋のように感じさせた。夜、床を敷いて寝ると、谷底にいるようだった。カーテンのない窓からは、隣り屋敷から伸びている葉のない柿の枝の間から星が瞬いていた。始めのうち少年は昼間忘れていた両親や王や海ぎわの家や海を思い出して、腹の底が落ちつかなかった。
さて少年が東京に著いて二三日すると東京の親類は叔父の家の二階の十畳に集まり、少年はみんなに引き合わされた。席上、一番上座にいた弁護士の伯父が少年に向って発言した。
――ご一新以後、藩の祐筆を勤めていたわが吉村一族は没落の一途を辿っていた。我々三人の兄弟はもはや故郷にもいられなくなったわが家を何とか盛り返そうと、志を立て、東京に出て来たのだった。我々は苦学したのだ。我々兄弟は人力を曳いたこともある。新聞を配達したこともある。そしてこの苦しみの間で我々兄弟は死ぬまで仲好くしよう、と何度兄弟愛を誓い合ったか解らん。女房を貰っても子供が出来ても、それに煩わされずに何よりも兄弟仲好くすることを第一にすることにしたのだ。幸いにして今日我々は人に後指をさされないほどの人間になった。吉村一族は今日では繁栄の道を歩んでいる。ただ気の毒なのはおまえの父親の次郎じゃ。あれは温順なしいよく出来る子で、わしらの犠牲になってくれた。次郎は徴兵逃れのため山村家に養子に行き、医学の簡単な学校を出て方々の病院につとめ、わしらの勉強を助けてくれた。わしらはどれほど次郎のお蔭になっているか解らん。おまえを世話するこの家の三郎は特に次郎の援助で大学まで出ることが出来たんじゃ。それで、そのときの恩返しにおまえを引き取って教育することにしたのじゃ。だがこれは次郎に対する恩返しで、この点、おまえは三郎の気持に甘えてはならん。
次でこの弁護士はつけ加えた。
――なお、断わっておくが、親というものは子に甘いものだ。いま、おまえは良い子であるかも知れん、しかし東京で育てられているうちどんなになるかも解らん。もし悪くなったとき次郎が三郎を恨むようになったら、これは我々兄弟の仲にひびが入ることになる。我々が苦難のときに誓い合った兄弟愛は生仲なものではない。子供の一人や二人に代えられるものではない。だから次郎が三郎を恨むことのないように、始めからおまえのことは次郎によく書かないでおく。
伯父は吉村一族の代表者の貫禄を以てそう宣言した。少年は伯父が語るのを黙って聞いていた。話し終ると伯父は財布から二十円小遣いにしろと云って出した。少年は金を貰う習慣の中で育っていなかったので、「好いです」と断わった。伯父はそれでも受け取らせようとしたので、少年は叔父の顔を見た。叔父は「貰っておけ。預金しといてやる」と云った。少年は金を請け取って叔父に渡した。
少年には伯父の言葉の内容とそこから起り得る結果を十分に具体的に感じ取る力はなかった。しかしその悪い結果は段々と現われることになった。両親から来る手紙には少年の行状に対する不満の文字が記されはじめた。
少年のいる書生部屋には電話が取りつけてあったので、家人の誰れ彼れや女中たちが入って来た。外からかかって来ると彼は家人を呼びに行った。用のないとき少年は日の当らない灰色の部屋でじっとして、本を読んでいた。叔父の留守勝ちのこの家や親類の雰囲気は両親の家とも郷里の親類のそれとも何処か勝手が違っていた。少年は違った世界を手捜りして歩いているようであった。それ故、食事やおやつに呼ばれない限り母屋には行かなかった。部屋にいることに倦きると、少年は外に出て、濠に行き、松の下に腰かけて水を眺めた。水は濁《よご》れていた。空は晴れていても空気は汚れ、太陽は生温るかった。
そのうちに少年は一つの遊びを覚え、それに夢中になった。それは電車に乗り廻ることだった。少年は乗り換えの多いように路線を選んで、一枚の切符で何回も乗換券を貰って乗った。そして飛び降りと飛び乗りのけいこをした。稀には転ぶこともあったが、殆ど何時も成功した。この小さな冒険に少年は暫くの間熱中した。
ある日少年は九段の伯母の家に寄った。伯母はこたつに蜜柑を一箱持って来て、自分の独り息子と少年の間に置いて云った。
――好きなだけお食べ。
蜜柑は南国の味を持っていた。牛込の叔父の家は非常に倹約で、そしてこの倹約は主として食物に向けられていたので、果物には乏しかった。箱ごと出された蜜柑を前にしたとき少年は故郷に戻ったような気がした。少年はそれを貪り食いながら、故郷の果物の文旦や九年母やたちばなや山桃や、台湾のパイナップル、ライチなどの話もした。伯母は少年の果物に対する食慾に驚嘆した。
――あんたは蜜柑がすきだね。
――果物は何でも好きです。
――家じゃあ、あんまり果物は貰わないの?
――少しです。と少年は率直に答えた。父の家のようではないです。
少年は故郷の果物盗みの話をした。買い喰いを卑しむそこの子供たちは、果物が欲しくなると持主の目をかすめて、それを盗みに行った。これはスリルに満ち、果物の味を引き立てた。持主に見つかると折檻されるので敏捷に果物を懐にして逃げねばならなかった。多分少年たちを機敏に育てる昔からの慣習の名残りであったろう。
――でも、と伯母は諭すように云った。盗むというのは果物でも悪いことだわねえ。
――子供のうちだけは好いのです、と異った道徳の伝統の中で育った少年は答えた。
数日して少年が三畳の部屋にいるとき、叔母はみかんを五っ持って来てくれた。そして云った。
――余所の家であんまりがつがつ食べない方が好いわ。如何にも私が何にも食べさせないようだから。
少年は顔を赤くした。彼はこの都の親類では互に告げ口をしていると感じた。同じような経験が何回か繰り返されると、彼は親類の者の前では敵の中にいるように言葉を警戒した。
四月から少年はニコライの下の中学に通うようになった。苦労した叔父の求めるように少年は毎日徒歩で通うので、家を早く出た。そのため、朝食は一人で食うことが多かった。上の従妹は同じ方向の女学校の一年に入ったが、彼女は電車で通っていたので、もっと後から家を出た。朝食の菜には、年取った女中は、朝鈴を鳴らして売りに来る煮豆屋から豆を買い、それに沢庵をそえて食卓に出した。甘く煮た豆をおかずにして食うことは少年にとっては始めてだった。彼は豆は嫌いだった。彼は沢庵で茶漬飯を胃袋に何杯か流し込んだ。ミソ汁のある日には、それの好きな少年は自分の家でやった通り三杯かえた。三杯目には年寄りの女中は「阿呆三杯汁」と呟きながら椀を持って来た。少年は聞えない振りをして、規則的に三杯かえた。
叔父には妹があった。色は浅黒く顔の輪郭も醜かったので、三十を過ぎても未婚だった。彼女は時々叔父の家を訪れたが、叔母からはあまり歓迎されなかった。所在なさに彼女はよく三畳の灰色の部屋にも入って来た。少年は彼女の唇の両端が胃病のため何時も白いのと、話すとき唾を飛ばすのが汚なくて厭だった。彼女はよく少年に云った。
――ここの叔母さんはね。卑しい家柄の家の人なんだよ。この家《うち》にお嫁に来られるような身分の人じゃないんだよ。家は、藩の歴っきとした祐筆だったのに叔母さんの家は小さな百姓なんだよ。
夏の始めに、小学五年生だった叔父の長男は外濠にとんぼ取りに行き、足を滑らして濠に落ちて死んだ。少年が夕方帰ったとき、小さな屍はもう棺に納められていた。
棺の傍で悲しみ嘆いていた叔母は少年を見ると改めて嘆いた。
――あんたでも早く帰っていたら、泳ぎがうまいのだから、助けて貰えたのにねえ。
少年はそう云われると、或は助けられたかも知れないと思った。そして遅く帰ったことを後悔した。少年は学校の帰りに古本屋に寄りそこの親切な番頭が見せてくれる外国の美術の本を、お茶菓子を貰ったりして見ているうちに二時間ばかり経ってしまったのだった。
彼が三畳の部屋に戻ると醜い小さな叔母が入って来た。
――ここの叔母さんはああ云うがね、あんたがお濠に飛び込んでみなさい。二人とも死んじまうよ。遅く帰ってよかったんだよ。この家にはね、私は仕合わせが続き過ぎたから、いまに何か不幸が起ると私は考えていたんだよ。あんたは遅く帰ってほんとに好かったよ。
彼女はこの家の繁栄と、その繁栄の中に暮す叔母を嫉んでいたのだ。
少年は家に風呂が立っても入らないことが多かった。
ある夕方従妹が風呂があいたと呼びに来た。
――僕は入らないよ。と少年は答えた。
――どうして? とっても好いお風呂よ。
――僕入りたくないんだよ。
――でも入らないと汚ないわよ。
――汚なくっても好いんだよ。朝、冷水摩擦をするから。
――そのくらいなら、いま入ったら好いじゃない?
――好いのだよ。と少年は云い張った。
――じゃあ、あんたお風呂は嫌いなの? と少女は訊ねた。
――嫌いじゃないよ。
――じゃあ、どうして入らないの?
――云ったって仕方はないよ。ここは僕の家じゃないのだから。
この答えは少女の好奇心を刺戟した。彼女は部屋に入り、少年の傍に坐って質問を重ねた。少年は少女に嘘を云いたくなかったので、云った。
――ほんとはね。僕は女の人の後で風呂に入ったことはないのだよ。だから入らないんだ。入ろうとしても白粉やクリームの匂いがして気味が悪いんだ。
――まあ、と少女は驚きの声を発した。
――だけど、と少年は念を押した。このことを人に云っちゃあ駄目だよ。
――好いわ、云わないわ、と少女は答えて出て行った。
しかし間もなく叔母が入って来て云った。
――あんたは女の人が入った風呂に入ったことがないって本当?
――そうです。と少年は坐り直して答えた。
――お家《うち》ではお母さんがあんたの前に入ったことがあるでしょう。
――ありません。
――まあ、と叔母は声を立てた。
それは真実だった。
叔母はつけ加えた。
――でも、それじゃ家では困るわね。
――好いんです。僕は風呂に入らなくてもそのうちに慣れるでしょう、と少年は漠然と答えた。
夜になって予習の解らない箇所を訊ねに来たとき、少女は少年に詫った。
――ごめんなさいね、約束を破って。お母さんがあんたをお風呂に呼びなさいと云うでしょう。だからあんたは入らないと云うと、どうしてってしつこく訊くんだもの。だから云わなければならなかったの。ほんとにごめんなさい。
次の日曜日の昼飯のとき叔父は少年に云った。
――叔母さんにもっと馴染みなさい。
――はい、と少年は素直に答えた。
――そして欲しいものは叔母さんに強請《ね だ》るんだよ。
――はい、と彼は同じように答えた。
しかしそれは少年にはどうにもならないことだった。彼は叔母に敵意を持っているわけではなかったから。叔母は少年が何か強請りに来るのを待っていたが、少年は何も強請らなかった。
少年は三畳の生活に退屈した。彼は少年たちを夢中にするどの慰めも遊びも持っていなかった。少年は自分で慰めを案出せねばならなかった。少年はのみを捕えると、それを砂を敷いたインクの空瓶に入れて飼ってみた。そして時々こっそり出して電灯に透かして眺めた。瓶をゆすぶるとのみは跳ね、瓶が狭いので跳躍のチャンピオンも硝子に打つかって砂の土俵の上をころがった。少年はそれを眺めて笑った。
少年の生活には何か足りないものがあった。それまでの生活にはあったが、現在の生活には失われているものが何かあった。それは家族的の雰囲気、少年が自分の家《うち》と呼べる家《うち》、幼年時代から植えつけられ育て上げられた道徳を受け入れてくれる世界、他の子供だったらそれだけで欠けているすべてを云いつくせたであろう。しかしわれらの少年が、最初に欠けていると無意識のうちに感じ取ったのは家族ではなかった。それは、熱帯の自然、強烈な太陽の光と熱とその下で育てられている生活意欲の烈しい生とその荒々しい変化だったに違いない。
三畳の灰色の壁の居間の生活には南の光の輝きも自然の豊かな色彩も香りもなかった。そこには違った言葉を話すエキゾチックな人間もなかった。少年はそれを既に知っていた。少年の感情は前にはそれらの自然や人に刺戟され、消費されていた。しかし今ではそれに代るものがないので少年の心の中に消費されないままで残って行った。少年の屈託は真実にはこれが原因であった。彼は太陽の烈しい刺戟の不足から萎む植物に似ていた。
少年は自分に欠けているものが何であるか明瞭に感じていたとは云えないが、漠然とそれをつかんでいた。彼は叔父に学修品として写生の道具を買ってもらい、休みの日は写生のためと云って武さし野を歩きまわった。しかしそこの自然は単調で平凡で間色的だった。そこには荒々しさも豊かさもまた変化もなかった。少年はそこにはぬるま湯のような自然しか見出すことは出来なかった。ただ、農家を含めた景色を描いている時など、食事どきには家の者が出て来て家に招き入れ、茶や菜を出したり、おやつに呼んだりした。少年は東京では知った者より知らない者の方が親切だと思うようになった。これは故郷や父の家の生活とは逆だった。真実ではこの印象は少年の心が小さな親切にさえ敏感になっていただけのことである。
六カ月の後、この環境の中で少年は生活の意力《グ ー》を失った。彼の口からは何時も漠然とした投げやりの返事しか引き出せなくなった。
叔母が食卓の肉と魚を皿に分けるとき「あんたはどっちが好い」と訊ねても、少年は「どっちでも好いです」とぼんやり答えた。
ある日曜日叔父は珍らしく昼食のとき家にいた。
――おまえは可笑しな子だな、と呟くように叔父は云って、つけ加えた。のみは今でも飼っているのかね。
――はい。
――面白いかね。
――外に面白いことがあまりないのです。
――おまえは訳の分らん子だよ。写生にはもう行かないのかね。
――面白くなくなりました。景色がつまらないです。
――おまえは倦きっぽいんだな。絵具や写生の道具を折角買ってやったんだから、もっと続けなさい。そう倦きっぽくちゃあ、無駄になるよ。もっと続けなさい。
――はい。
――あんたは、と叔母が云った。倦きっぽいわね。
叔父はそのとき提案した。
――きょうは家中で浅草に行って、晩ご飯にすき焼を食べよう。
その提案の後で彼は少年に云った。
――お前も、一緒に行くだろう。
――僕はどっちでも好いです。
もっと歓喜の返事を予期していた叔父はこの答えに不満足だった。
――男の子はもっとはきはきするものだよ。
――はい。と少年は無感動に答えた。
春になって少年の健康は障害を起した。苦労して大学を卒業し、金に苦労した覚えから銀行に入った叔父は、二十年の行員生活の間に五十万の金を残した。彼は秀れた蓄財家というより非常な倹約家だった。このために家族の食物も極端に切りつめられていた。農家の出である叔母は米と野菜しか好まなかった。肉や魚は器物をぬるぬるさせるので厭がった。こうして男三人女二人の子供たちのうち長男は水死だったが他の二人、三男は結核で死亡し、次男は精神耗弱による癈人になった。このようにして男はすべて死ぬか癈人になり育ったのは体質的に粗食に耐える二人の女児だけであった。叔父の五十万円は男の子たちの墓標と云ってよかった。
物資の豊富な地方で育って来たわれらの少年は、このような食物で急速に元気を失った。少年は食事のことを云々するのは恥ずべきことだという郷里の子供たちの信条を守っていた。ニコライの下の学校に少年は毎日徒歩で通った。しかし少年にとって埃に満ちたこの道は無限に長く、何時まで行っても果しがないように見えた。ニコライに著くと少年はほっとした。疲れ過ぎた少年は屡々学校へ行かずにそこで本を読んで暮したり或は直ぐに家に戻って床に就いた。少年は何人かの医者の診断を受けた。最初の医者は脚気、次の医者は肋膜、第三の医者は脊髄の故障と見立てた。叔父の友人の医科教授が来たとき、少年はもっと丹念に診察を受けた。この年とった教授は聴診器をしまいながら叔父に云った。
――これは極度の栄養不良の症状に違いないのだがね。君の家の食物がそんな粗食とは考えられんしな。
教授はそう云って首を傾げた。
少年が東京に著いたとき、弁護士の伯父の云った言葉は悪い結果を現わした。両親から来る手紙は何れも少年の行状に不満足だった。少年はある時はおしゃべりであった。ある時は怠け者だった。ある時は不従順だった。ある時はかるはずみだった。ある時は不勉強だった。ある時は食いしん坊だった。親たちは東京からのそんな便りを読むときの辛さを少年に訴えた。少年は弁明しても抗議しても、両親はそれを信じていないように見えた。少年は絶望した。ということはすべてを打っちゃらかすことだった。少年は両親に自分を解らせようという努力もしなくなった。
少年は特に自分を不幸だと意識することはなかった。幸福とか不幸とかいう観念は少年の中になかった。少年というものは与えられた運命を自然だと感じ、その運命の引いてくれた線の上を歩くものだ。
誰れでも外見的にひどい人生或は幸福な人生を送っていても、自分の身丈《みたけ》に合った小さな世界を紡ぎ、そこに慰めを見出すものだ。少年は親類という血縁者の外に、自分の性情に合った小さな交友範囲の中にそれを見出した。それは三人のメンバアで出来ていた。一人は神田の古本屋の清どんと呼ばれる中年で独身の番頭だった。いが栗頭で顔のでかい入道のようなこの番頭は少年を弟のように愛し、好きな本は何でも自由に貸してくれた。外国で出版された画集や美術書でも家に持って行って見ることを許してくれた。あまり重たい本だと、座敷に上げて何時間でも鑑賞させた。店主の寡婦は少年に茶菓子を出した。少年にとってこれは奇蹟的な番頭であった。後の二人は級友のAとCだった。Aの父親は台湾の高級官吏で、Aは母親と二人で本郷の高台で暮していた。Cは高名の実業家の庶子で、母親と妹と三番町に住んでいた。多分、母親育ちであるという暗合は、この二人に、少年と何か共通な感情を育て、そのために互に惹きつけられたのに違いなかった。Aの家には紅茶や洋菓子や洋食があった。Cは自分の生れのために悩みはじめていた。そしてそのことを打ち明けるのにわれらの少年を選んでいた。要するにこの三人と少年とは、大人でも稚くても魂が孤独を感じていたのだ。
Aは大逆事件の大石の甥であった。Aはその伯父が碁を守勢的遊びと排斥して、攻撃的な将棋を褒めていたと話したり、退屈な授業の時には社会主義的な文字を書いて少年に廻し、少年がそんなことは穏健でないと書いて返すと、穏健とか不穏とは一体何であるかと書き返して来た。
清どんは、幸徳秋水のシンパだった。大逆事件の前、秋水が尾行をまいて失踪したのはこの古本屋の裏口からだったので、清どんは警察に引っぱられたりした。時々清どんは秋水の話をした。
少年は社会主義とは何か知りたくなった。それ故美術の本を見る間の時間に大橋図書館に出掛けた。しかし幸徳秋水とその一党の本はすべて閲覧禁止になっていた。少年は河上肇の貧乏物語を借り出した。この話を清どんにすると、彼は少年に発売禁止の自蔵本を出して貸してくれた。
――持って行って好いですよ。と清どんは云った。
しかし少年は自分の灰色の壁の部屋にそれを持って行くのは危険に思われたので、座敷に上って、頁をくった。少年には社会主義は好く解らなかったので、その熱情は前のように美術書に集中された。しかし別なもっと好い、そして平等の原則に立脚した社会があり得るということだけは少年の頭に残った。
ある日の学校の帰りに少年はCと外濠の土手を歩いていた。秋の始めだった。土手から見える町のところどころでいちょうが黄色く見えていた。
Cは突然少年にいった。
――君は幸福だなあ。
少年は驚いてCの方を向いた。少年はCがどうしてそんなことをいうか解らなかった。Cに較べたらその逆が本当のように見えた。
――どうして? 君の方がそうだよ。
Cは少年を見つめてからゆっくりした語調で云った。
――いや、僕は不幸なんだ。
――どうして? と少年は訊ねた。そんな筈はあり得ないよ。君は蓄音機でも写真機でも本でも何でも買って貰えるじゃないか。お母さんだって優しいよ。それでどうして不幸なんだい。
――それでも僕は不幸なんだ。僕は一人で考えているのが、とてもやり切れないんだよ。怒りっぽくなって、母親に当ったりして厭なんだ。それで君に云って、重荷を失くなしたいんだよ。しかし誰れにも云っちゃいけないんだよ。好いかい。
少年は肯いた。
――僕には父が無いんだ。
――亡くなったのかい?
――そうじゃない。始めっから無いのだよ。僕の戸籍の中に父親はいないのだ。
少年にはCの言葉が十分に呑み込めなかった。
――戸籍なんてどうでも好いじゃないか。
――君はそう思うかい。
――そうさ。
Cはその後でつけ加えた。
――この話は秘密だよ、母にも。母は辛がるからね。
その日、新見附の上でCに別れてから、少年は自分と両親との血縁の確証を掴もうと考え始めた。しかし確証は何処にも見つからなかった。
次の日少年はCを誘って土手の道を歩きながら云った。
――昨日ね、君の話の後で、僕は戸籍とう本を引出しから出して考えたんだぜ。そしたら僕が本当には誰れの子か、誰れが本当の親か少しあやふやになって来たよ。確かなことは何にも云えないね。
――だって、と彼は抗議した。戸籍とう本にちゃんと書いてあるだろう。
――それはそう書いてあるさ。しかし赤ん坊のとき貰われて、親の子として届けたら、そう書かれるよ。それは確証にならないよ。
――そう云えばそうだな。
――変だぜ。これまで僕は両親が僕の両親だということは、世の中で一番本当のことだと思っていたんだよ。しかし疑ってみると果てしがないよ。
少年とCとは土手の草の上に腰を下して、どんな確証があるか話し合ってみた。何処まで行っても確証はつかめなかった。血液型でも、型の数が少ないので確証にはなりそうもなかった。二人はびっくりした顔を見合わせた。
――僕がつまらないことを云って悪かったね、とCが云った。
少年はそのとき別な考えが湧いた。
――じゃあどうだろう。何処かの人間が僕たちの前に現われて、僕たちの父だとか母だとか云い出したら。
――それは矢っ張り駄目だよ、同じ理由から。確証がないもの。
――どんなに親切でも?
――そうさ。親切、不親切は関係がないもの。
――そうだよ。外の誰れも親として受けつけないというのなら、そして僕たちは誰れかの子なんだから、信じていることを信じて考えないことだよ。戸籍なんてどうでも好いよ。
少年はそんな風に結んだ。Cと少年とはこの時からそれまでよりずっと友達になった。
叔父の長女は女学校の一年だった。小学校時代から声がよく、学芸会では何時も独唱をしていた。家の中では少年は彼女と一番自由に話すことが出来た。しかしこの自由さは少年が郷里で植えつけられた女性観のため、大きく制限されていた。女学校は少年の中学の近くにあったが、少女は少年と違って電車で通っていたので朝食は別々になっていた。時に依ると少女は少年と一緒に食事をした。そんなとき、少女は電車で一緒に行くように誘った。少年はそれをことわって矢張り徒歩で行った。
あるとき少女は学校を休んで床についていた。少年がその部屋に見舞いに行くと、少女は少しも病気のようではなく、顔をほてらしていた。叔母はその日赤飯を炊かせた。少年は叔母や女中の話を聞き噛って、何か神秘的な感じを持った。
ある晩、叔父は珍らしく夕食の前に帰って来た。そして夕食のとき少年に、少女の学校の行き帰りに不良みたいな者が尾行するそうだから、一緒に行くように云いつけた。
明くる日、少年と少女とは連れ立って門を出た。少年は気まり悪さを感じ、人々の眼が自分に集中されているように思った。少女は楽しそうであった。
――ほんとはね、と彼女は打ち明けた。不良なんかいやしないのよ。あんたは私が何度誘っても一緒に行ってくれないでしょう。だからお父さんに云って貰ったの。それに私の学校の生徒は送り迎えして貰う人が多いのよ。
少女は暫く黙って、次でつけ加えた。
――あんたに送り迎えして貰ったら直きに評判になるわ。
少年は気まり悪さで当惑していた。しかし少女と一緒にいる時間が前より多くなり、混んだ電車の中では体を押しつけられたり、皮ふが接触したりしているうち、少年の心理的な距りは急速に小さくなった。少女もずっと勉強を見て貰うという或は電話をかけるという口実で、頻繁に少年の部屋を訪れた。
――あんた学校で評判よ、と少女はあるとき云った。
――どんな、と少年は訊ねた。
――きれいなんですって。
――僕はきれいじゃないよ。
――でも、みんなそう云ってるわ。学校じゃみんな送り迎えの人たちの誰れが一番きれいか噂をするの。そしてあんたが一番きれいということになって、みんな私を羨しがっているわ。それで多津子さんも幸子さんも、あんた知ってるでしょう。電話をよくかけてくる人たちよ、今度紹介してって云ってるのよ。家に遊びに来るかも知れないわ。でも紹介するのは止そうかな。
少女はそんな話をした。
少女は電話をかけ終っても灰色の部屋に留った。一度少女は押入れの中から覗いている美術の原書を見つけた。
――あの本何あに?
――借りた美術史の本だよ。
――見て好い?
――好いけれど、これは秘密だよ。解ると僕は怒られるからね。学校の本を読まないでって。此間みたいにしゃべっちゃあ駄目だよ。
――きっと云わないわ。今度は。
少女は少年の秘密の共犯者になることを嬉しいと思った。二人はその美術史の原色版を眺めた。風景や肖像や裸体が次々に現われた。
叔父が出張で不在で、叔母が所用のため遅くなることが解っているときには少女は夜晩くまで、少年の部屋にいた。時に依ると疲れたといって横になることもあった。そして眠った。或はその振りをした。少年は自分の勉強がどうにか終り、眠たくなると、少女を抱いて母屋との仕切り戸のところまで運んだ。少女は少年の腕の中で眠った振りをして静かにしていた。時にはあんた強いのねえと云った。時には下そうとすると、私あんたが好きなんだわと云ったりした。そんな日少年は床に残った彼女の匂いに包まれて寝苦しかった。少女と少年の中には人性の神秘に就ての好奇心が眼覚めたのだった。少年は少女に一つの動作でそれに応えることが出来た。しかし少年は自分の中にそれを阻むものを感じた。彼は世の中は窮屈であると表象した。しかし真実ではそれは少年自身にかかっていた。少年は人性の不思議についての好奇心がもっと強くなって、少年の持っている伝統的な感情を破砕されるか、或は自分の伝統的な感情をもっと堅固に持するかの岐路に立っていたのだ。少年は肉体的にも精神的にも不安定な季節に入った。
栄養の不足はこの不安定に拍車をかけた。
少年は頻繁に夢にうなされるようになった。眼が覚めたとき寝巻は汗で冷たかった。彼はせきをしはじめた。見る夢は決っていた。少年は高い崖から限りなくころがり落ちた。切なさが少年を捉えた。下の方には海の渦があった。時には猛獣がいた。
この夢の苦しさのため少年は夢の中でそれが夢だと気づけたらどんなに楽になるだろうと考えその努力をしてみるつもりになった。彼は毎夜そうするよう自分に云い聞かせて眠った。幾夜かの失敗の後、少年は計画に成功した。少年が高い崖からころがり落ちはじめ、切なさが彼を捉える前、も一人の彼が崖の上に立って夢だ夢だと手をたたいて、夢を嘲笑した。これで夢の怖ろしさは空虚にされた。少年は苦しみの前で自分の掏り換えを完全に成し遂げたのだ。
しかしも一つの夢では、夢はこの掏り換えに復讐した。少年はその夢の中で大人を殺し、屍を巧妙に隠しておいた記憶があった。少年は巡査を警戒して道を歩いていた。しかし巡査は何処にでもいた。最後に少年は追跡された。切なさが始まる前に、少年は夢だ夢だと叫んだ。ふいに現われた刑事が「夢だというのなら、それは記憶があるからだろう」と云った。そう云われた途端に、少年は明かに殺人を犯した記憶が蘇った。そこで手錠をはめられ、苦悶のため、寝巻は汗ですっかり濡れるほどだった。この夢は自分の掏り換えを失敗させただけではなかった。それは夢と覚醒時との区分をあい昧にし、眼が覚めても犯罪を真実に行ったかのような悔いの味を残していた。
少年は学友のAの家で夕食のご馳走になり、暗くなってから帰った。少年は疲れていたので直ぐに寝るつもりで床を取った。そのとき、少女が入って来た。
――きょうね、お父さんもお母さんもお芝居におよばれよ。遅くなるわ。
――君はどうして連れて行って貰わなかったの。
――およばれだもの。それに私は頭痛がするんですもの。風邪かも知れないわ。
――勉強があるのなら直ぐしようよ。
――少し頭痛が癒ったらね。直ぐなおると思うわ。
少女はそれから眼頭を押さえて動かした。
――ほらこうすると何か音がするでしょう。あんたに聞える。
少年はその音を聞くために顔を近づけた。少女の呼吸がある香りを以て少年の鼻を包んだ。妙な音が幽かに聞かれた。
――あんたもこんな音がする?
そういうと少女は指で少年の眼頭を動かしてみた。音はしなかった。
――しないわね。私片輪なのかしら。
次で少女は静かにしててねと云って、眼を少年の頬に近づけ、何度かまばたいた。
――くすぐったい? と彼女は云った。
少年は新らしい烈しい感覚が体中を駈け廻るように感じた。そして体が熱くなった。少年の中で少年を窮屈がらせていたものはこの突然の感覚の前で、殆ど意識にも上らなかった。少年は少女の小さい頭を抱いて唇を合わせた。そして片方の手を腹の方にのばした。少女の動作は少年の動作を助けた。そして半ば口を開き眼を閉じながら、体に流れる新らしい感覚を味っているように見えた。
間もなく門の外に警笛が聞え、叔父夫婦の帰りを知らせた。
夜、興奮で少年は頭が冴えて長い間眠られなかった。彼を窮屈にするものが心の一方で眼を醒ました。僅かなまどろみの間に少年は夢を見、寝汗をかいて眼を覚ました。すると前晩のことは夢のように思われた。
朝食のとき自分の体の秘密を知った少女はその共犯者に頬笑みかけた。少女はずっと大人びて見えた。少年も大人になったように感じていたが、少女の頬笑みにはあわてて無器用にしか答えられなかった。少年はその朝何時もより疲れていたが少女は晴れ晴れとした表情を浮べ、はずんでいるようにさえ見えた。
少年は何時ものように少女を送って行った。電車の中で前夜のことは忘れたように少女は話した。このことは少年に不思議であった。その後で少年はニコライの下の学校に行った。彼には級友たちが子供のように見えた。しかし罪の意識はもっと烈しく心の中で疼いた。
少年は溝《どぶ》泥の霧の中で生活しているような気分になり、これは少年に我慢のならないことだった。彼はもっと光のさし込む澄んだ生活の場所が何処かにあるに違いないと考えた。少年は何時か何かの本でトラピストのことを読んだ。そこでは修道士たちは神に祈り、勤労していた。少年の知っているのはそんな僅かばかりのことだったが、欠けたところは自分の想像で補った。そこは自由で平等で、少年はそこに行ったら本を読み、労働しよう。それは彼に一番気に入った生活であるに違いない。そこの生活が美しく想像で描かれれば描かれるほど現在の生活はもっとつまらなく感ぜられた。
少年はトラピストに行くことに決心した。
――今度月謝と小遣いを貰ったら、そのお金と、それに清どんから金を借りて、旅費にしよう。
しかし少年には一つの心残りがあった。少年の写真を弁護士の伯父や寄宿先の叔父の家などに残して行くことは厭だった。少年は自分の姿を親類に残さないで、消えてしまおうと思った。
計画が決まると少年には実行より残っていなかった。少年は親類を次々に訪問し、自分の写真を取り戻し、それを破って捨てた。
この仕事は一週間ばかりかかった。その時叔母は少年に月謝と小遣いを渡した。その朝少年は清どんに頼んで二十円貸して貰った。そして学校に行く代りに函館に向けて出発したのだった。
人が深い眠りに捉えられ、それから醒めるのに時間のかかるとき起るように、少年は何かの音楽が夢のように自分の傍を流れて行くのを聞いていた。それは徐々に高まるかと思うと徐々に低くなり、また高まった。この高まりと低まりは音そのもののものというより、少年が目醒めに呼び戻され、覚める途中で眠りに誘われ、次でまた眠りから遠ざかる往復運動にも原因していた。長い間少年は夢うつつと呼ばれる状態を彷徨しながら、その音の流れを聞いていた。彼は「ここは何処だろう」という疑問と一緒に明瞭に目醒めた。彼は電気をつけようとして思い止まった。その必要はなかったのだ。彼は闇の中に眼を開いて鐘の響きを聞いていた。そこは灰色の壁の三畳ではなかった。汽車の中でもなかった。警察署長の家でもなかった。トラピストの館だ、オランダ僧、フランス人が思い出された。鐘の響きは続いていた。それは豪華と形容出来るほど鳴り渡り、鳴り乱れていた。どんなつんぼの天使だって聞えるに違いないと少年は思った。鐘の音にまじって修道士たちの祈りが低音《バ ス》の力強い斉唱となって流れて来た。何の祈りか少年には解らなかったがそれは心にしみ通るものを持っていた。少年はカーテンを開いて外を眺めた。丘は黒く横わっていた。その稜線で区切られた空では、春がこの北国の大気にも潤いを齎したのであろう、星が和かな清浄さできらめいていた。構内の旗竿は黒くつったって空を指していた。
祈りは続き、鐘の音も鳴り乱れていた。少年は祈りの中でくり返されている言葉を闇に向って呟いた。
――キリエ・エレエソン
少年にこの言葉の意味は解らなかった。後年ギリシャ語を学んだとき少年は、それが「主よ、憐れみ給え」と日本語に訳されている文字であることを知った。
少年は電気をつけた。未だ三時半を少しまわったばかりであった。
少年は再びベッドに潜った。
部屋での朝食がすむと彼は外に出て、山の方に歩いて行った。暫く落葉松の林を歩いたり海を眺めたりしていると、搾乳を終った牝牛の群が丘をゆっくり歩いて行った。僧衣の牧夫が傍を歩いていた。少年は鈴の昔を聞きながら、ここのすべてが気に入っているのに何故本が自由に読めないのか残念だった。もし知識の自由さえあれば少年はこんなところで暮したいのにと感じていた。
散歩を終ったフランス人が林の向うから出て来た。彼は昨日と同じようにステッキの中央を指で支えてくるくる廻し輪金が廻る度に日に光った。傍に来て一緒に帰りながら彼は少年に云った。
――今日、帰りますか。
少年は肯いた。
――ここ面白かった。
――面白いです。しかし私は本が自由に読めるところと思っていました。
――それ、ここはないです。東京に帰ったら家に来なさい。本は沢山あります。東京で勉強するのが好いね。
少年は東京に帰ったらそうしようと考えた。フランス人は次で少年の家庭の事情や好きな学課について訊ねた。
少年はその日の昼前オランダ僧とフランス人に門まで見送られてトラピストの館を出た。彼はこの僧に贈られた二冊の本を外套のポケットに入れていた。少年が函館通いのランチ発著所に著いたとき、一人の男が少年の名を訊ね、一緒に乗った。署長が迎えに出したのだった。
――そうだ。随分長い知り合いだったなあ。もう何十年前になるだろう。
私は蒲鉾形の見すぼらしい教会の祭壇の前に、そのフランス人の納まっている柩の方に眼をやりながら思った。短躯の司祭は低い祈祷の文句を呟いていた。トラピストの館で聞いたあの豪華さはなかった。もう細部がおぼろになった私の記憶は次々に私の心の上に浮んだ。
――このフランス人だ。その少年の人生の危機に何時も姿を現わしてくれたのは。彼は少年にとっては守護の天使のように優れた人生案内者の役目を果してくれた。これは少年にとって貴重なことだった。何となればそれから後、この少年の歩かねばならなかった道は平坦な人生街道ではなかったのだから。
私はそんな風に考えた。
トラピストの館の記憶で頭を一杯にした少年が一隅に座をしめている列車は東京に向けて夜の中を走りつづけていた。少年にとって東京は宿命の刑罰の都のように段々と重く心に感ぜられはじめた。人生の喜びと悲しみの種類や濃淡を知らない者にとって、初めての喜び悲しみはいつも極端な形を取るものだ。それに喜びも悲しみもそれが現実となったときより想像の中にある時の方がずっと烈しさを持っているものである。丁度何でもない手術のため手術室に運ばれる患者が、外科道具の音を聞いただけで未経験の手術に就て不安と焦慮に喰われ、心を苦しめ、また単純な注射でも苦しみの経験のない小児は注射針を見て死の叫びをたてる。そのようにわれらの家出少年の心は東京で起ることに就て比較のない極端な不安と焦慮に噛られはじめていた。少年は別のことを考え心を落ちつかせるように努めたが甲斐はなかった。心は何時も同じ焦点に惹きつけられ苦しみの強さは東京が近づくにつれて増大して行った。最後には肉を噛られるように感情した。少年が死の刑場に引かれるとしてもこれ以上の心理的な苦しみは味わなかったであろう。少年は心に感じ得る限りの苦しみを想像の中で嘗めていたのだから。幾度かこうした感情が生れ、消滅し、再生して少年の心を呵責しているうちに汽車は上野に接近していた。少年は猛獣に追われ、追いつめられ、殆ど食われそうになるまで迫害されて醒める何時もの怖ろしい夢のときの自分の姿をそこに見た。
――ばかっ! と少年は自分を低い声で罵った。
こんな罵りは精神の狂いを現わすというより、烈し過ぎる感情から精神を守る安全弁である。この罵りの独語をいうと少年は夢の中でのように自分が二重になり掏り換えられ、一人の自分が親類の前に羊のように引き出されるのをも一人の自分が冷笑しながら眺めているように感じた。
少年は落ちつきを取り戻した。しかし肉体的にも特に精神的に疲労し萎《な》え切った自分を意識した。
少年は上野駅に待ち受けた出迎え人に連れられて叔父の家に戻った。門口で学校に向う少女と行き違った。少年の家出に何か自分が関係していることを敏感に直覚して、少年に行き会うよう時間を塩梅したのであろう。二人の眼は合った。しかし少年は表情を崩さずに家に入った。少年は刺戟に反応を示す力を失っていた。運命の流れの行くままに身を委せた受動的な動きしか出来なかった。
叔父の家の二階の広間には伯父その他の縁者たちが集まっていた。少年が首の座に引き出されたようにそこに坐ると、族長である弁護士の伯父は云った。
――俺が云った通りだ。おまえは不良少年だ。伯父はそう云って先見の明を誇った。
――おまえが家出してから、此処の叔父さんは夜も眠らずに心配していられたのだぞ。
――月謝の金を持って出るなんて不届千万だ。泥棒じゃないか。
少年はこれらの怒りの言葉の嵐をじっと頭をたれて耐えた。少年はそのうちにかく耐えている少年を見守っている少年であるようにも思われた。それらの怒りを盛った言葉は少年の耳の傍を通り過ぎた。彼はそれらの言葉に何の反応も示さなかった。心は凍りついていた。少年が何かを考え得答え得るためには理解ある暖かい言葉でこの無感動《インセンシビリテ》を溶かす必要があったであろう。
――だが何であんな僧院に行ったのだ。坊さんになるつもりだったのかね。
――おまえの写真を捜索願のとき捜したが親類中に一枚もなかった。おまえがみんな取ったのだろう。おかしな奴だよ。此奴は。
――ちゃんと覚悟を決めていたのだな。何て馬鹿な奴だ。
――おまえは意志薄弱なんだ。いや意志がちっともないのだ。
――学校の成績をみろ。何時も終りの方じゃないか。ここの叔父さんだって世話の仕甲斐がないじゃないか。
――郷里で優秀生徒だっておまえのお母さんはよく威張って手紙を呉れていたが、空威張りだったんだろう。
――ともかくも此奴は意志が弱いのだな。女親育ちは仕様がないものだ。
少年は涙が頬を伝わるのを感じた。それをとめようと努力したが不可能であった。涙は後から後からと出て来た。侮辱を受けたと感じ、その侮辱に対して無力であることが涙を誘ったのだ。しかしこの夜は伯父に依って違った風に解釈された。
――何かと云えば直ぐ泣く。女親育ちの子の癖だ。
――だが、どうして此奴は修道院に入ろうと思ったのかなあ。
これはその場の誰れでもが持った疑問だった。
そのとき叔母が口を出して少年に云った。
――ねえ、ちょっと行ってみたくなって行っただけだわね。謝ってしまいなさいよ。
少年は誰れにそして何をと胸の中で考えた。大人たちは事実の外で怒ったり罵ったり侮辱したりしているのだ。しかも大人たちは何処にその原因があるかそんなことに思い及んでいない。この考え方は少年に一種のゆとりを与えた。叱られているのは少年自身ではない。大人たちが作っている、少年だと思い込んでいる少年の虚像だ。真実に対する大人たちのこの無能力《アンピユイサンス》は少年の心に小さな優越の喜びを与えた。少年は叔母の助言通り詫ることに依ってこの屈辱的な場面《セーヌ》を打ち切る決心をした。
――私が悪かったのです。許して下さい。
少年のこの表現を伯父は好むように解釈して、叱るのを止めた。伯父はそのとき少年に宣告した。
――ここのおまえの叔父さんにもこれ以上世話は頼めないから、おまえをそのうち寄宿舎に入れることにする。そのつもりでいて貰いたい。
――はあ、と少年はやはり無表情に答えた。
少年は自分の部屋に帰って部屋に鍵をかけて布団に横わった。疲れていたが神経が冴えて眠りはなかなか来なかった。頭の中では走馬灯の影のように母、少女、友だち、親類、トラピストがぐるぐる回転していた。
三日後少年はトラピストで会ったフランス人から英語の手紙を受け取った。二日後の昼飯の招待だった。
最初行ったときそのフランス人の生活は少年に少なくない驚きを与えた。家は音楽学校と谷中墓地の間の桜木町にあった。二階建の六間の日本家屋で、質素な家具が置かれていた。客間の八畳には二つのソファと卓子と椅子、次の六畳が食堂になっていた。家には若いカナダ人と男のコックがいて、女は誰れもいなかった。日本の家で育った少年は家には大人の男と女がいて子供がいるものと思い込んでいたので、これはひどく奇妙に見えた。家の装飾にも何か欠け優しさがなかったが、粗い爽かさに似たものを少年は感じた。
――帰って叱られましたか。
と彼は少年の前に小さなグラスにキュラソーを注いで云った。
――大変叱られました。しかしもう平気です。
キュラソーは少年の舌に甘かった。コックが食卓の整ったことを知らせに来た。
食卓にはすべての料理が並んでいた。フランス人は四枚かの皿を取り、部屋の隅に下っている吊し計器で目方を計った。
――私、胃が病気です。ご免なさい。
と彼は少年に云いわけしながら目方を計り、卓子の上の帳面に記し、次でそれらの皿に料理を取り、計器から下った四段の金網の段にそれを入れて目方を調べ、その数字を記した。料理は外国風の精進料理だった。
少年は驚きの注意を以て、それを眺めていた。
――こうすれば食べ過ぎないでしょう。後で胃が痛かったら、何が原因か解るね。あなたは驚いた?
少年は素直に肯いた。
スープの後でコックは少年の前にビフテキを運んで来た。外人は少年のコップにブドー酒を注いだ。
――少し、と少年は遮った。彼は少量のキュラソーでもう顔の赤くなった自分を感じた。
――私、菜食主義です。肉食べません。肉を食べることは屍を食うことですね。
胃の弱い彼は神経質だった。料理に使った油が気になるとコックを呼んで、人造バタを使ったのではないかうるさく念を押した。
――人造バタを使うと、私、胃が痛むね。
彼は卓子に出ている白いバタを少年にすすめた。
――これはトラピストのバタだね。一番上等です。信用出来ます。
次で彼はオランダ僧は牝牛買いにオランダに行くため東京に来ていると少年に教えた。少年はあの僧が東京でも粗毛のカーキ色外套を著て歩いているのだろうかと考えた。少年は道で会ったら話をするつもりだった。
食事の途中で少年はしゃっくりを始めた。それは水を呑んでも納まらなかった。すると彼は「よいことがある。ちょっと待ちなさい」といって隣りの部屋に行き、一冊の本を持って来た。そして頁をめくって云った。
――これ、プラトンの饗宴だね。これにしゃっくりを癒す方法、書いてあるね。
彼はその箇所を見つけ、読み、訳しはじめた。――舌を出し、手を延ばし……
少年のしゃっくりは、プラトンの方法をやる前に納まった。
少年はプラトンが神武天皇頃のギリシャの哲学者であることは知っていた。しかしこんなに身近に感じたのは始めてだった。
帰り際に、彼は客間の三つの本棚に詰った本の中からライダー・ハガードの冒険小説とH・G・ウェルズの科学小説を出して、少年に選ばせた。少年は科学小説の方を取った。
――出来るだけ毎日読みなさい。とフランス人はトークニック版の本を渡しながら云った。字引を引いたら英語とその訳を並べて書きなさい。解らなかったら、その先を読みなさい。毎日何時間で何頁読んだか帳面に書きなさい。そしてその帳面を時々私に見せなさい。ああ、忘れました。毎日二十行ずつ読んだところを写しなさい。
この日の後、少年は毎週、一回昼食に招待されることになった。
彼の胃病は日本の風土から起ったものに違いない。一般に外人は日本のように草木の繁茂する湿潤な空気の中に引き続き長い間暮していては、健康を害して来る。そのため二年に一回は母国に帰って、母国の空気の中で暮して来ることが必要なのだ。
彼は日露戦争のとき始めて日本に興味を感じた。彼は日本に勝たせたいと思った。フランス人の中にはこの戦争の時から日本の友になった人たちが少なくない。多分日本の小ささ、本に依って伝えられる日本の神秘さが日本への同情となったのであろう。彼の日本に対する興味は東洋一般へのあこがれとなった。そこでリオン大学を卒業し、パリで大学教員適格免状を取ると、日本に少しでも近づくため、先ずペルシャの王室《シ ヤ》の王子の教育掛りになった。王城のある首都のイスパハンはその乾いた空気と暑さのため、色の鮮明な、そして香りの高いバラが出来るので昔から有名だった。このバラの美しさは彼に強い印象を与えたに違いない。ずっと後、少年に詩が分る年齢になったとき、彼は詩稿を持ち出し、他の幾つかのと共にイスパハンのバラ売り娘のソンネットを読んで聞かせた。彼は王子の教育の余暇に、町角で回教の娘として頭から布を覆り、眼と手の外は隠してバラを売る娘の眼に詩情を唆られたのだ。彼のソンネットはジョゼ・マリア・ヘレディヤの格風と彫琢を持っていた。彼は内気だったのでそれまで誰れにも自分の詩は見せなかったのだ。彼は読み終ると少年に意見を求めた。少年は考えた通りに評価した。
二年後ペルシャの契約が切れると、丁度帝国大学の文学部に空席が出来たので、ギリシャ語、ラテン語、ギリシャ文学、ラテン文学の講師として日本に来た。日本では最初のうち幸運であるとは云えなかった。勿論文学部の講師の給料では二年に一度帰国する余裕はなかった。
こうして彼は神経衰弱になった。病勢が昂ずると彼は築地の外人経営の病院に入院した。外科を得意としていた院長は、彼が重態で命は長くないであろうと云った。このために病勢はもっと悪くなった。彼にとって死の恐怖が始まった。死後に就て読んださまざまな本の記憶が彼を苦しめた。病気の始めの頃、彼は好く霊魂学の本、特にオリーバー卿の死後の生の本を読んでいた。神経衰弱の弱りから死後の霊の存在は二重に彼を苦しめたように見えた。棄教して無神論者になった彼には霊魂が肉体と一緒に亡びてしまえば、それは何でもなかった。しかし霊が存続していては、棄教者のそれは長い間煉獄で苦しまねばならない。
次で職業の問題があった。律儀で内気な彼は病気になり欠席勝ちになると、それまで教えていた外国語学校を辞職し、大学にも同じ理由から俸給を半減するように申し入れた。大学は月給を半分にした。
しかし病気の方は院長の言にも拘らず、自宅で自己暗示療法を施しているうちに、気にならない程度に癒った。ただ神経性の胃弱が残っているだけになった。しかし収入は三分の一以下に減っていた。彼の生活はひっ迫して来たので、「高等仏語」をはじめ生活の補いにしようとしたのだった。しかし始めのうち、彼のように秀れた教師の教室も生徒は少なかった。生徒の数は十人くらいで、ある月は一度だけ生徒数が一名のことがあった。
彼はそのために仏文で発行されていた蚕糸会月報の訂正を月々やらねばならなかった。
すべてこのような事態は、彼にとって、病院長が患者の命数を本人にいうという医者らしくない言葉が原因であった。このために彼はこの外科医に激しい憎悪を抱くようになった。この憎しみは何が仲介に立っても消えなかった。
その病院では患者が死亡すると、次のような発表の仕方をよくした。患者は病院で治療を受け、退院出来る程度に癒ったので自宅で療養していた。しかし突然、病状は悪化して死亡した、と。
彼はそのような死の疑いのあるときには、それを調べ、疑いが真実だと「一つの虚言」「第二の虚言」「更に新たな虚言」という烈しい題をつけて英字新聞に投書した。この投書が度重なると病院長は大使館に和解の斡旋を依頼した。彼は大使館の仲介を拒否した。彼が大使館の下僚と不和になったのは、ここにも原因があった。病院長の年老いた母親はよき慣習に背いて独身の彼の家を訪ねたが、彼は投書を止めなかった。院長に対する彼の憤りは少年を驚かすほどの徹底さを持っていた。それは偏執狂のそれに似ていた。少年は彼のこの憎しみを見ると、その反対である人を愛するということも、あの憎しみの深さが無ければ可能でないのではないかと感じた。少年は弁護士の伯父を先ず憎んでみることにした。しかし少年の憎悪はよろめき勝ちだった。
ある日の昼餐のとき、彼は少年にラフカディオ・ハーンの話をした。
――ハーンの本は日露戦争のとき沢山日本の友達を作ったね。ハーンは日本に大変功績があった。彼は日本が好きになって日本人になったね。そのとき帝大文学部はハーンの日本への愛に何を報いたと思う? 井上哲次郎部長は彼の帰化を確かめると月給を半分にしたね。これ、日本人らしいですか。
多分、彼は自分の申し出とはいえ月給を半分にした学部がいくらか不満になったのかも知れない。いや、もし不満だったとしたら、それほど彼の生活は危機だったのだ。
J... C...の家に行き、彼の生活に接し、彼の話を聞いているうちに、少年は、自分を包んで締めつけている躾とか行儀とかについて漠然とした疑いを感ずるようになった。
トラピストから戻ってからは少年に対する叔父一家の空気は前とは違っていた。少年は刺のある植木のように、或は疑わしい花のように扱われていると感じた。彼はも早、少女を学校まで送ることはなかった。朝最初の食卓に就き、年取った女中が出してくれる甘い煮豆と沢庵で、或はミソ汁で朝飯をすますと、学校に歩いて出かけた。少年の鞄の中には借りて来た英語の本が何時も潜んでいた。家を出ても時に依るとニコライ堂に行った。そこは冬は日溜りで温く、夏は高台のために涼しかった。少年は丸いドームをつけたこのギリシャ公教会の巨大な建物の蔭で字引を引きながらその英語の本を読んだ。そんなとき、出来れば友達に代返を頼んだ。下の段の庭にはバラの大きな株が幾何学的な間隔をおいて植えてあった。ある日、人の気配に見ると、Cが女学校の制服の少女と熱心に語りながら下の石段を上り、真昼間の静けさの中にある花園に入って来た。大きな繁った、そして白い花をつけたバラの株が通りからの眼を遮っている蔭にくるとCとその制服の少女は頬に接吻し合い、それからCは石段を降り、少女は横の出口の方に歩いて行った。学校からは午後の始業の鐘が鳴った。少年はCが学校の裏塀を乗り越えるのを眺めていた。少年は淋しさを感じた。
学校の帰りに少年は神保町を通り、何時もの古本屋を覗いた。清どんは家出の後も親切だった。新らしい画集が入ると、それを少年に見せた。
最初クラスで社会主義的な急進的思想を少年に教えていたAは、その後仏教に興味を持ち、「出家とその弟子」「歎異抄」などに夢中になっていたが、その頃には文学的傾向に著しく傾いていた。彼は新聞や雑誌に投書して好く賞を貰った。彼は一度少年にはっきりと文学志望を表現した。
――僕は作家になるよ。文章で美に仕えるんだ。
少年はAのように文章に確信もなかったし、また文芸論をすることも出来なかった。彼はAに答えた。
――僕は美を生活する仕事を見つけたいなあ。
ある日少年はAとニコライ堂の構内を通り抜けつつあった。Aは少年を自宅に誘った。
――今日うちに遊びに来ないかい。母がご馳走をこしらえとくと云ったから。
――ああ、行こう、と少年は快活に答えた。
Aは歩きながら続けた。
――君がトラピストに行ったとき、母はずい分心配したんだよ。君の叔父さんの家から一頭はじめに君が来ていないか僕のところに電話がかかって来たんだよ。それからCの家だ。
――悪いことをしたね。しかし、僕はどうしても行ってみたかったんだよ。行ってみずにいられなかったんだ。
――どうしてあそこに行きたくなったんだよ。
――それは僕にもはっきり云えないなあ。一つ一つのことを数えたって、あんなことをするだけの原因になるものはないと思うよ。ただいろんなことが重なりあって僕の頭の中がもやもやして来てね、どうしても行かずにいられなかったんだ。
次で少年はAを振り向き同意を求めるように云った。
――ねえ、そうだろう、僕が本当だと思ったことは僕には本当で、僕が好いと思ったことは僕には好いことだね。そして僕は実際にそれをやって見て好いのではないだろうか。
――そうかなあ? とAは同意をためらった。だけど君の頭の中でそう思うものの外に、君も僕も母もみんながそう思う本当とか好いこととかあるんじゃないかい。
――それはそうかも知れないな。しかし僕は僕の知らない本当や好いことを待っているわけに行かないだろう。僕はやっぱり僕の「本当」や「好いこと」で動かなければならないだろう。それは考えが足りないで間違っているかも知れない。だが僕にやれることはそれだけだよ。……僕は前にね、未だ郷里にいる時分、何でも自分で経験してみなければ、それが善いか悪いか、好きか嫌いか解らないと主張してね、じゃペストでもチフスでも自分で経験しなければ解らないのかいと叔母に笑われたことがあったんだ。僕は頭が悪いのだと思うなあ。
――そんな風に考えちゃいけないと思うな。君は頭は悪くはないよ。ただ学校の本を読まないだけだよ。
――それからこの頃変な気がするんだ。何かに縛られているようだよ。僕は頭の中でいろんなことがしたいのだ。しかしそれはみんなしていけない、叱られる事のように思われるのだ。何だか窮屈なんだ。郷里にいるときしつけが厳しかったためなのかも知れないね。
Aの家の門を入ったとき、Aは表玄関から入ろうとした。少年は内玄関から入ろうと云った。
――どうして! とAが訝った。
――だって、あそこはあんまり綺麗だろう。僕の靴が見すぼらしくって厭なんだ。それに表玄関はあんまり四角張っているようだろう。僕はそんなとこは困るんだよ。
ご馳走はスキ焼だった。Aの母親はガス焜炉でそれを用意しながら少年に訊ねた。
――あなたはスキ焼が好きだったわね。
――好きです。
――この頃学校の成績はどう?
――悪いのです。大変悪いのです。
――でもあんたは悧巧そうじゃないの。
――東京に来るまではトップだったのです。郷里《く に》を出てから駄目になったのです。
――じゃあ、お母さんと別れて暮すようになってから駄目になったのね。
――そうでもないんです。こんなこともありました。僕の母は僕が成績表を持って帰るたびに遠くに住んでいた父に威張って知らせ、親類や知り合いに、僕のいる前でも、僕のことを自慢していましたよ。僕は大変羞かしかったですよ。
――あなたのお母さんはあなたを崇拝していらしたのね。
少年は母親が子供を崇拝するという表現は始めてだった。彼は新らしい発見のようにびっくりした。
――そうですかねえ。兎も角、あんまり自慢するので僕は辛くなって、ある時、外の本ばかり読んで成績を悪くしてみたんです。そうしたら機嫌が悪いのです。変でしょう。
――変なことはないわ。何処のお母さんだって子供の成績が悪くなったらがっかりするわね。
――そうかなあ。変だなあ、と少年は訝った。しかし出来る僕も出来ない僕も同じでしょう。出来る僕だけを愛して出来ない僕を愛しないのはおかしいでしょう。それに出来ても出来なくても、それは僕のことで、別段母が偉くなくなったりするのではないでしょう。だから母が自慢したり機嫌が悪くなるのはおかしいと感じたのです。僕が母の虚栄の道具のような気がして。
――でもあなたの場合は出来ないということは怠けたことでしょう。怠けることは悪いことよ。
――僕は怠けてはいません。外の本を読んでいたんですから。
――でもねえ。あなたはそう思わない? 人を喜ばせることは悲しませるより好いことだと。
――それは、そう思います。
――では喜ばしたら好いわ。成績を好くして。出来ることじゃないの? あなたには外に皆を喜ばせる方法はないのよ。
それから彼女はちょっと考えてつけ加えた。
――じゃあ、こうなさいよ。今学期は英語だけは誰れにも負けない成績を取ったら? それは出来て?
――出来ます。
――じゃあ、私にそう約束してくれる?
――約束して好いです。
少年はこんな約束を食事の始めの方でしたのだった。
ある日少年は晩食によばれて、上野の家に行った。帰るとき玄関で「彼」は云った。
―― Bonne 《ボンヌ》 nuit, 《ニユイ》 mon 《モン》 petit.《プチ》
少年が怪訝な眼を彼に向けると、そのフランス人はそれが「お休み、わが子よ」というフランス語であると教えた。そして「そんなとき、私の国では互にこうします」と云いながら、少年の両頬に接吻した。少年は少し狼狽した。接吻が日常の習慣に取り入れられていない文化の中で育った少年は、「互にそうします」と云われても、どうしてよいか知らなかった。少年は活動で見たような動作で唇を相手の両頬につけた。
――そうではないね。こうです。
そして再び彼は少年の両頬に接吻した。少年は幾度か工夫して相手の頬に接吻を試《ため》した。最後に彼は云った。
――そうです。
少年はも一度「おやすみなさい」と云って門を出た。
少年はこの外人も淋しいのだと感じた。不幸な人間の魂は互に相手の不幸を感じ易いのだ。
しかし少年に接吻のことは奇妙な印象を残した。少年は接吻という文字はずっと前から飜訳文学を通じて知っていた。またその動作は映画を通じて何度も見て知っていた。だからして少年が接吻とは何か、或はどうしてするものか問われたら知っていると答えたに違いない。だが本当は少年はそれを知らなかったのだ。文字と形だけを知っていたのだ。
少年は動物園の塀に沿う暗い道を電車通りに出るために歩いていた。不意に獅子の咆哮が森を圧して響いた。少年は猛獣に追われる夢を思い出して、ひやっとした。少年は明るい通りへ大急ぎで歩いた。
ある雨上りの日、少年はAと一緒に弥生町のその家の方に歩いていた。初夏は新緑でこの都会を装飾し、雨に洗われた光の中でニコライのバラは、白、黄、赤の色彩をきわ立たせ、街路樹からは濡れた鋪道に緑が降っていた。少年はAに訊ねた。
――叔父たちはね、僕に意志がないとか、意志が薄弱だとか云うんだぜ。僕は一生懸命に考えて、随分僕の中を捜してみたんだよ。だけどそんなものは見つからないんだ。探し方が悪いのかなあ。それで叔父たちの云うことが本当かも知れないと思いはじめているんだ。君はそんなものを持っている?
いくらか年上のその友だちは笑って答えた。
――それはあると思うよ。君にだってあるのだよ。
少年はちょっと立ち止って友だちの顔を見た。
――ほんとにそう思うかい。そしたら叔父たちの云うのは間違っているんだね。僕はね、母親に甘やかされて育ったので、そんなものはないのだと思ったよ。だけど意志って何だい。
――それは厭な嫌いなことでも我慢してやる力だと思うなあ。
――じゃあ、やっぱりないんだ。と少年は嘆息した。僕は厭な嫌いなことはどうしても出来ないんだ。やっても好い加減にしか出来ないな。だから例えばね。叔父が庭を掃けと云うだろう。僕は掃くんだけど厭なんだ。だから好い加減にしか出来ないのだ。それで叔父に叱られるんだ。家《うち》にいるときには庭を掃くのは厭じゃなかったんだがなあ。家《うち》じゃ僕が掃かないと母親か妹が掃くんだ。叔父の家じゃ僕が掃かないと女中が掃くんだ。だから僕は女中みたいな気がして、あの仕事はとても厭だと思うときがあるんだ。
Aは少年を優しく眺めながら云った。
――それは意志のあるなしとは少し違うようだなあ。
――だけど本当なんだよ。僕は気の向いたことしか出来ないのだ。気の向いたことって好きな楽しい又は僕がよいことと思うことだ。そして押しつけられたり無理強いにされたことはとても厭なんだ。それをやると何か自分に嘘をついているような気がするんだ。ただ僕がやりたいと思ったことをやり、やりたくないことをやらないことが何時も楽しいと決まらないので困るんだ。頭が悪いのだよね。こんなことがあったよ。郷里《く に》にいるとき、僕が親類の家に夕方遊びに行っているとね。母親が弟と来て、張物板を持って行くから一緒に持って行ってくれと云ったんだ。僕に断われないような状態のときそう云ったので、僕は何か無理に押しつけられるようで厭だと云ったんだ。すると母親は「じゃ好いわ」と云って、弟に手伝って貰って持って行ったのさ。しかし後で僕は厭な気がしてちっとも楽しくないんだ。それでその晩帰ってから母親に詫びたんだ。母親はその時こう云うのだ。「好いのよ。そんなことをあなたが気にしなくったってね。あなたは悪い子でも馬鹿な子でもないのだし、それどころか好い悧巧な子でしょう。だから何でもあなたに自然なように正直にやる方が好いわ。やって見て楽しくなかったら二度とそんな事をやらなければ好いのだから。それに私も少し悪かったんだわ。あなたが出かける時そう云っておけば、あなたの気持の準備も出来ていてあんな事にもならなかったのだろうからね。」母親はそんな風に云うんだ。そこで僕は二度とそんな目に母親を合わすことはなかったんだ。僕の母親はね。穢《きたな》いことさえしなければよかったんだ。穢いことと母親が云うのはね、卑しいこと、羞かしいこと、不正直なことで、やったら自分が下等になるような感じのすることだよ。
二人の中学生は三丁目を通り過ぎて青木堂の前まで来た。Aは少年に云った。
――母がね、君の好きな菓子を頼んで来いと云ったんだよ。君が自分で選んだ方が世話がないね。
二人は青木堂に入った。少年はエクレールとキャラメル・カスタードを選んだ。菓子は店員に自転車で届けて貰うことにして二人は外に出た。
――さっきの意志に戻ろうよ。未だ解らないのだから。
――じゃあこう云ったらどうだろう。君はこの頃、英語の本ばかり読んでいるだろう。ちっとも倦きずにね。上手になろうという意志がそこにあるんだよ。
――だけどねえ、あれは楽しいから読むんだよ。上手になろうとして無理に読んでいるわけじゃないよ。だからこれは感情だね。僕にはね。意志って続いた感情のようなものじゃないかと思うよ。
門を入ると二人は内玄関から入った。そして客間の方に行った。卓子にはもう青木堂の菓子が並んでいた。Aの母は紅茶を運んで来た。
――この頃英語がよく出来るんだってね。わたしも嬉しいわ。
少年は顔を赤くした。褒められるとき、少年は何時もそうだった。少年は急いでエクレールを取った。
この小さなティーパーティが終る頃Aの母親は少年の洋服のボタンが一つとれているのに気がついた。
――まあ、ボタンが取れているのね。つけて上げましょう。
――好いのです、と少年は断わった。
――だって先生に怒られるでしょう。
――ううん、坐っているときは解らないし、質問されて立つときには手をあてて答えれば大丈夫解らないのです。体操のときは上衣は脱ぎますから。
――何でもないからつけてあげるわね。
――でもね。そんなことをされると変な気がするんです。何か悲しいようで妙なんです。
――それはおかしいわね。どうしてでしょう。
――僕は母を思い出すのですよ。僕いくらかセンチな子かも知れないんです。僕の母もやっぱり綺麗なんです。
――まあ、と友達の母は感動して暫く少年の顔を見つめていた。そしてつけ加えた。じゃあこう出来る? あなたはねこれまでうちでお招きした時でないと来ないでしょう。
――東京では、僕は何処でも邪魔者のような気がするのです。
――そんなことはないわ。私はね、あなたが来てくれると嬉しいのよ。だから自分の家のように好きなときにいらっしゃいね。何か食べたかったらそう云えば用意して上げるわ。ここであなたの自由になさいね、泊っても好いし勉強しても好いのよ。お部屋もあるんだから。勉強で解らないところは毎日大学生が教えに来ているから訊ねても好いでしょう。
少年は困ったような表情を浮べてその言葉を聞いていた。そして暫くするとAとその母の留めるのを断わって帰った。少年は他人の心が自分の心の中に侵入しすぎて心の平衡が乱れ易くなるのを感じ、その乱れが外に現われるのを嫌って独りになりたかったのだ。外気の中に出て太陽の下に立ったとき、少年は青葉をゆるがす微風のように自由を感じた。
ある夜、少女は少年の灰色の部屋に入って来た。そして戸口に立ったまま毒草であり得る花を眺めるように警戒しながら、しかし決心した語調で云った。
――あんた私に怒ってるの!
少年は真面目な表情をくずさずに答えた。
――ちっとも。僕が怒っているとすれば僕にだよ。
――そんな云い方じゃ矢張り気になるわ。怒ってるのね。
――怒ってはしないさ。と彼は笑った。
――じゃ安心したわ。と彼女は傍に坐った。私あんたが怒ってるんだと思って辛かったわ。だってあんなにふいにいなくなっちまうんですもの。パパだってママだってあんたの居所《いどこ》が解るまで眠らないのよ。あんたのお父さんに申し訳がないって。私まで眠られなかったわ。
――でもね、ある朝みんなが起きてみたら、僕と云うものが消えていて、そしてこの家は家族だけで楽しい日が始まり、僕はトラピストで黙って牛乳でも搾っている。そんな風にしたかったんだ。僕はこの家で少し余分な人間のような気はしない?
――そんなことはないわ。ただね、あんたは学校の勉強をしないでしょう。だからみんないろんなことを云うのだわ。
――これは云いたくないことなんだ。食物のことを云うのは卑しいことだからね。だが君の家の食物は僕の性に合わないのだよ。いくら食べても直ぐお腹《なか》が空くんだ。それで体に力がなくて勉強の根気がないのだ。直ぐ厭になっちまうんだ。胃拡張かも知れないね。郷里《く に》じゃずっと食物が違うんだ。朝早くからお魚《さかな》売りが来るんだ。お客が来ると僕が家の鶏をつぶして皆で食うのだ。
――あんたは鶏を料理出来るの?
――出来るさ。殺すときは少し気味が悪いけれどもね。それからも一つ厭なことがあるんだ。親類はみんな僕をスパイしているようだよ。来い来いというので行くだろう。ご馳走があると食べろ食べろというので僕はうんと食べるだろう。すると僕がうんと食べたと君のお母さんに云いつけるんだ。お母さんは家で何にも食べさせないようで羞かしいから気をつけてくれと云うだろう。僕は羞かしくって耐らなくなるよ。騙し討にされるようで、それから親類には何処にも行かないことにしたんだ。東京の親類の暮しは曇天みたいだよ。
――そんな話私も聞いたわ。あら、私、用を忘れていたわ。昨日日曜だったでしょう。パパはうちにいたのよ。少し私にあまい顔をしていらしたからお小遣いをおねだりしたら、うまく行ったわ。半分あげるわね、あんたに。
――いらないよ、女の子からお金を貰うなんて、そんなことは出来ないよ。
――だって私、あんたが好きなんですもの。好いでしょう。それに本を買うお金がないでしょう。私置いて行くわ。どうしても。あらその本は何なの。
少女は少年が机の下に隠した本を指した。
――ロダンだよ。だけど僕は随分卑しい子になったものだと思うな。君が来るとき見ていたんだけれど、他の人が来たんだと思って隠したんだ。また文句を云われるのが厭だからね。ロダンは素晴らしいよ。
――見て好い?
――好いさ。
二人は机の前に並んで坐り、ロダンの豪華な本を開きはじめた。一人の手が自然に他の手を求め、互に相手の体温を感じ合った。右の手の自由な少年が頁をくった。少女は云った。
――こんな本買ったの?
――違う。本屋の番頭が貸して呉れたんだよ。
――随分親切な番頭さんだわね。あんたに会うとみんなあんたが好きになるのね。私心配だわ。
――そんなことはないさ。
――だってそうよ。番頭さんの外にだって、あんたのお友だちの家はとてもあんたに親切だと思うわ。それからあんたのフランスの方だって。随分度々《たびたび》食事に呼ぶでしょう。
取り合っていた二人の手は何時か互に脇腹《タイユ》にまわって体を引き寄せ合っていた。少年の右手が頁をめくると「考える人」の深さや「黄銅時代」の荒さの後で「接吻《ベーゼ》」が現われた。
――まあ素てき! と少女は叫び、それに見とれ、頁をめくろうとする少年の手を抑えた。
――ほんとに素晴らしいわ。わたし歌が唱いたくなるくらい。
二つの若い魂は真白な大理石の中で抱き合っている二人の姿を眺めていた。少年は訊ねた。
――接吻の仕方知ってる?
――それは知ってるわよ。
――じゃあやってみたまえ。
少年は頬を出し、少女は唇を押しつけた。
少年は云った。
――それじゃ駄目なんだって。僕はね、言葉が解ったらことがらが解ったつもりになってたんだ。だが言葉で解ったと思ってもことがらは解らないことがあるんだよ。この間フランス人のところで解ったんだ。
――まあ、呆れた。と少女は泣き出しそうな顔になった。その人があんたに接吻したの? 私あんたみたいな人は嫌いよ。
少年はそれがお休みなさいというときのフランスの習慣であることを説明し弁解した。
少女は機嫌をなおした。
――そんなら好いけど。……じゃあこうするの。
――違う。
少年は少女の小さな頭を抱えて生毛の生えた右と左の頬に接吻した。小さな乾音がした。少女は少年の両頬に幾度も試みた。最後に少年は乾いた声で云った。
――そうだよ。
頬に接吻しているうちに二人は興奮して来ていた。二人は大理石の二人のように抱き合って唇をつけていた。……
――私ね、度々あんたの部屋に来ちゃいけないのよ。あんた不良少年かも知れないからだって。
――僕が不良少年なら、君は不良少女さ。
少女は一瞬厳粛な顔になり、考え深そうな眼差しになった。
――じゃ、何でもないことなのね。
――そうだよ。大人だって僕たちのような時代があったんだと思うよ。ただ大人になって子供が解らなくなったんだよ。時々子供と違った動物じゃないかと思う大人がいるね。
門の外に自動車の止まる音がして警笛が鳴った。
――お父さんだわ。
少女はそう云いながら急いで扉を開き外に出た。少年もその後に続いた。奥からは叔母と女中が出て来た。
叔父は敷石の上をやや乱れた歩調で歩いて来た。玄関に来ると彼は式台にどかり腰を下した。彼は赤い顔をしていた。叔母は降りて行って彼の靴を脱がせた。
叔父は奥に行きかけて少年の部屋の前で立ち止った。少年はハッとし、すり抜けて扉の前に立った。叔父はそれに構わず把手《ハンドル》に手をかけて開きながら云った。
――どうだ、きょうよく勉強したか。
少年は開かれた扉の間から部屋にすべり込んだ。叔父は部屋に一瞥を投げ、そして机の上にロダンを見た。開かれた頁には「接吻《ベーゼ》」があった。
――何だ? その本は。と叔父は呶鳴った。
少年はあわてて本を閉ざして云った。
――ロダンです。
――学校の本も読まずに、そんな本を見とるのか! 寄越せ。捨てっちまうから。そんな穢《けが》らわしい本は。
少年は死地に陥った者のように自分を感情した。そして明瞭に云った。
――厭です。
これは少年が叔父に云った最初の反抗の叫びだった。叔父は少年の眼差しに必死の表情を見た。
――俺に反抗する気か?
――します。
叔父は平生温和な少年からこんな返事を期待していなかった。少年はいま郷国《く に》の少年たちを支配している道徳の雰囲気の中にあった。同年以上の者の侮辱或は理不尽に対しては最後まで反抗せねばならない。力で負けると解っていても、反抗せずに屈服することは面目を失うことである。相手が強かったら殴られながらも、相手の指一本でも噛み切れ。脚の肉一片でも食い切れ。これが少年たちの名誉に就ての典範《コード》だった。
少年は凝と叔父を見つめていた。叔父は少年の全身の力が眼に集まっているように思った。視線に籠った必死の表情の中には、今にも飛びかかりそうな勢があった。少年はいくらか青ざめていた。少女は少年が塑像のように美しいと思った。叔父は怒号した。
――何を、この恩知らず。
暴力が今にも叔父を支配しそうだった。少女は机の下に置いた金を見た。それに気づかれないため、少女はいきなりその父の前に出て金への視野を妨げて云った。
――お父さん、止してよ。酔っぱらって小さい子を虐めちゃいけないわ。
――いや勘弁ならん。
少女に誘われて、それまで呆然としていた叔母も口を出した。
――ほんとにお止しなさいよ。云うことがあるなら酔わないときにして頂戴、余所から預っている子を酔って虐めたと云われちゃ近所に見っともないじゃないの。奥に行きましょう。
――お父さん、その方が好いわ。
そう云って少女は素早く扉を閉ざした。
叔父はなおいろいろ云っていた。最後に彼は「じゃあ、酒を持って来い」と云いながら奥の方に行った。
少年はそれまでと違って何故あんな反抗を示したのか。多分少女がそこに居合わせたので、屈辱を受ける自分を示したくなかったためであろう。それは彼の自尊心にとってあまりに重圧であった。ということは少年は既に少年期の終りに近づき、青年期に入ろうとしていたことを示すものである。
少年は寄宿舎に入れられた。
それは北陸のある県の在京県人会に属する二階建の大きな家で、灰色の壁と頑丈な障子を持つ二十幾つかの部屋が植木のない内庭を囲む凹字形の荒れた廊下に面していた。寄宿しているのはその県出身の大学生と専門学校生でわれらの少年のような中学生は他にはいなかった。少年の室は六畳であった。舎監は宮内省に務めている年とった官吏で、何時も眼をしぱしぱ瞬いていた。この老官吏は出勤の前に各室の障子を無遠慮に開き、寄宿生が学校に行ったかどうか調べてまわった。これが彼の監督の全部に近かった。
青春のこの共同生活には統一はなかった。そこには少なくとも二つに分れた大きな群があった。一つはその県の農村出の人の好い学生たちで、これは農業関係の学校に通っていた。他はその県の都会型とも云える学生で、東大の建築科に籍のあるボートの選手、商大の助手、歯科医専の学生など、より知的な要素で構成されていた。前者は少年に親切であった。後者の雰囲気は少年により慣れた居心地を提供した。
年長のこれらの学生たちは少年にさまざまのことを教えた。そこでは学校を怠けたかったら、舎監の巡視のとき、押入れのふとんの中に潜り込んでいたらよく、保証人の印は同姓の寄宿生から借りたら好かった。彼等は少年に煙草をすすめ、そのむせるのを面白がった。少年はここで自涜を覚えた。寄宿生たちは毎月一回会合をした。そのとき彼等は酒を飲み、そして郷里のぼん踊りの歌を唱った。大きい学生たちは酔ってくると少年に酒をすすめ強いた。少年は日本酒の匂いを好まなかった。しかし我慢して飲んだ。やがて少年は蒼白になって吐いた。
寄宿舎に入って間もなくのある日曜の朝、少年が食堂で食事をしていると、商船学校の受験生が裾の広いセイラーパンツをはいて入って来て、隣りに坐った。少年が何処へ行くか訊ねると、彼は答えた。
――きょうは一日中ヨットを走らせるんだ。よかったら君も来いよ。面白いぜ。
海! 少年は随分久しく海を見なかった。南の碧い海が彼の心に浮んだ。少年は一緒に行くことにした。食事が済むと少年は部屋に帰って大急ぎで支度をした。二人は銀座に出て昼飯のサンドウィッチと缶詰と果物を買った。受験生はその他《ほか》にコニャックのポケット瓶を買った。
――海の上で夜遅くなったり、海水で濡れて寒くなったとき、これを飲むと暖かくなって好いんだぜ。ヨットにはこれを離せないよ。
二人はそこから芝浦に行って小さな二人乗りのヨットを借りた。始めのうち二人はオールで漕いだ。陸地に近い遠浅の海は濁り、塵芥や油を浮べ、悪臭を匂わしていた。それは少年の記憶にある澄んだ青い海とはちっとも似ていなかった。帆走の出来る水深の箇所に来たとき、受験生はレストを下《おろ》し補助帆と主帆をあげた。
風が帆を乳房のようにふくらませ、舟の下で掻き分けられる水がひたひた音を立て、ヨットは強く傾きながら水平線に向けて快走しはじめたとき、少年の胸には強い歓喜が生れた。低い人家も、人間の貧しい生業のソダもぐんぐん後ろに引きはなされて行った。小舟の舳には海と空が拡がっていた。少年の心は抒情的な水の音にあやされ、速力と空間の拡がりは少年に自由の印象を与えた。海が碧りの色を取り戻すと共に少年の歓喜は頂上に達した。少年は急速に自分が大きくなるように感じた。この内海は静けさのうちにもなお威厳を包むあの怒り易い南の海のようではなかったが、しかしそれは慈母の眼のように愛情をたたえていた。
――どうだ。海は好いだろう。と受験生はいった。
少年は肯いた、受験生は言葉を続けた。
――僕はね。船乗りになるんだ。そして世界中の海を乗り歩くんだ。方々の珍らしい国に寄りながら。
――僕もそうしたいなあ。と少年は応じた。僕は何時も旅行していたい。一つところにいるのは何か窮屈で垢がつくようで、厭だなあ。
少年は新らしい風物《ペイサージユ》で何時も心を洗われ、新鮮になっている生活を望んでいたのだ。少年はそういうところにしか自由を感じなかった。停滞は少年の心を水のように腐らした。
受験生はコニャックの瓶を取り出して、盃になった蓋から飲み、次で盃を少年に渡した。少年はそれを飲んだ。それは日本酒のような厭な匂いを持っていなかった。
この日から少年のパッションは海に移った。閑のあるとき、また閑のないときには閑を作って受験生と一緒に時には一人で芝浦に出かけた。少年はヨットを一人で操《あやつ》られるようになった。
上野のフランス人は規則的に少年を食事に招き、そして少年の勉強について指導した。少年の英語は、H・G・ウェルズからディケンス、スコットに移った。しかし少年の心はイギリス文学の正統派のこれらの作家たちより、オスカー・ワイルド、シングなどのアイルランド作家により多くの魅力を感じた。
あるとき少年は寄宿舎生活の酒と煙草の話をした。外国人と話すということは少年にとって日本の道徳を担っていない人間と話すことであった。そこには自由があった。だから少年は話の間に屈託なくそんなことを語った。するとフランス人は書棚からラルース医学辞典を持って来てアルコール中毒患者とニコチン中毒患者の内臓の疾患の原色写真を見せて、そのような悪癖に染まるとどんな害があるか見せた。
時によるとこのギリシャ語の講師は少年にギリシャの話をした。あるとき彼はソクラテースが如何に市場《アゴラ》で通り掛った美しい少年アルキビアデースの足にステッキをからまして知り合いになり学問に導いたか話した。他のとき彼は大学で教える英語のプリントを見せて読むようにすすめた。それはヘロドトスに関するものであった。
英語がある程度読めるようになったとき、彼は少年に英語で書いたフランス語の独習手引を渡した。少年は彼にフランスで少年くらいの年齢の生徒は学校で週何時間くらい課業に出るのか訊ねて見た。彼は「十八時間くらい」と答えた。少年は学校で週十八時間の課業を受け、その外は自宅で勉強することにした。ということは一週に三回学校に行くことを意味した。その他の日少年は朝戸棚のふとんの中に潜り込んで舎監の眼を逃れた。
学期末に少年は友だちの母との約束を果すことが出来た。彼女は少年に、万年筆を褒美に贈った。
夏休みが来て寄宿舎はガランとして来たが少年はそこに止まらねばならなかった。トラピストへの家出の罰として両親の住む南の植民地に戻ることを許されなかった。外洋の航海、酷暑の下で植物の繁茂している島、低気圧のとき陸地に対する海のあの憤怒、数々の珍らしい果物の記憶はこの禁止を少年に残念がらせた。しかし少年は寄宿舎に止ってはいなかった。夏休みがはじまると上野の外人は駿河湾に面した静かな漁村で夏を過すことにした。コックは留守番に残して置かれた。少年はその間上野の家で暮すように招かれた。少年は洋風の食事をし洋風に暮した。外人は時々帰って来た。
あるとき少年は何かの話のとき答えた。
――それは嘘です。
すると彼は急に顔色を変えた。
――それなら私、嘘つきですか。
少年にはこの激怒の理由が解らなかった。
――何故そんなに怒るのですか。
――それはあなたが私を侮辱したからです。私を嘘つきと云って。
少年は当惑して云った。
――それなら真実でないときどう云ったらよいのですか。
――それは真実でないだろうという方が好いね。
――それは私には同じことのように思われます。
――違います。嘘つきというのは侮辱です。真実でないというのは侮辱でないね。
少年は表現の技術の問題に触れたのだ。
彼は帰って来たとき、食事を一緒にしながら少年の過去の歴史を聞くことを好み、少年を理解する材料に興味を持った。そして云うのだった。
――私はあなたの性質を表わす言葉を発見したね。
そう云つて彼は prime 《プリム》 sautier《ソーチエ》と云うフランス語を発音した。これは最初の衝動、興味、決心が意識され、捉えられると、心は忽ちそれに全的に支配され、他の反対や異議を顧慮するところなく実行する一つの性格を指す言葉である。
少年は自分自身を勇気のある実行家とは表象していなかった。学校の同輩も少年を内気で臆病で何か愚図であると考え、少年の面前でそう公言することを憚らなかった。ただ少年は追いつめられると自分を忘れて拮抗した。
――だから、と彼はつけ加えた。あなたには叱言は役に立たないね。叱言を云っているとき、あなたは一生懸命に注意して聞いているように見えます。しかしあなたはこの外見にも拘らず、ただ叱言が終るのを待っているだけね。じっとしているのは口答えすれば、それだけ叱言の時間が長くなるので、そうしているのです。そして叱言を云われていることも一応は公然と或はこっそりやはりやってみるね。あなたは小さいとき、もっと叩かれて矯正さるべきでした。
時によると彼は少年の上に遠い幻影を築いた。
――あなたは何になるか。代議士になれるね。あなたは有望《プロミツシング》な少年だな。
少年はびっくりした。少年は代議士など政治に携わっている連中は人種が違うくらい偉い人たちであると思っていた。それに少年には演壇に立って人前で演説することなどは考えただけでもぞっとするくらい厭なことだった。少年は本を読みながら静かに暮せる生活を望んでいた。
この二つの存在はこうして互に理解を深めながら接近して行きつつあった。
秋になると共に少年は海への熱情の外に短歌や詩にパッションを注ぎはじめた。冬になって海の季節が過ぎると少年は一層後者に熱中した。白秋、啄木、牧水等の詩人やヴェルレーヌ、ボードレール等の飜訳が少年の書架を飾った。そして少年自身が稚拙な詩歌を作った。そこに盛る感情の泉としては少年は従妹の少女しか知らなかった。詩行の中で少女に対する少年の感情は強さに於ても広さに於ても多くの誇張を以て表現された。それは少年が意識的に誇張するというより、同じ系統の感情経験がないので、このような淡いものでも心のすべての鳴音《レゾナンス》を喚び起すからだった。しかしこの誇張は逆に少女の姿を拡大し、少女は少年の心の中で段々と大きな投影を作る役目を果した。
寄宿舎の中で少年がよく訪れるのは舎生代表であった工学部の建築科の学生であった。彼はボートの選手にふさわしい立派な体格を持っていた。同じ室に歯科医専の学生もいた。後者は少年を誘ってよく近くの汁粉屋に連れて行った。室に訪ねて行くと、何時も薬品をいろいろ見せて少年に説明した。彼は白い粉の入った小さな瓶を大切そうに机の抽出から出して、それがコカインで、半瓶量が致死量であると教えた。
大学生の方は夏休みの帰郷以来、郷里に恋の対象が出来ていた。しかしこの恋愛は両方の家で反対がなくはなかった。大学生の姉も娘の母も結婚に就ては異った相手を胸に持っていた。娘からは大学生によく手紙が来ていた。それらの手紙に依って起る心の干満《みちひ》を大学生は自分の胸にだけ納《しま》ってはおけなかった。彼の感情は他に伝えられることを求めた。新年会のとき大学生は酔って少年の部屋に来てこの恋愛のすべてを語った。少年は素直な聴き手であった上に、口数が少なかったので、大学生はその時々の成り行きと自分の心を少年に伝えるようになった。時によると著いた手紙を読んで聞かせたり、見せたりした。三月の始めになるとその恋人は母親に強いられる結婚を避けるため、家出して大学生を頼って上京して来た。
少女の像は内部的にはすでに作詩を通じて少年の心に明かに固定され、大きな場所を占めていた。いま外部からこの大学生の恋愛の刺戟を通じてその像は心の全体を占めるほど大きく成長して行った。少年は少女を思慕すると信じはじめた。この思慕は少女との接触が叔父一家に依って禁止されていただけに、それだけ烈しさを獲得した。少年は思い悩む日を持つことになった。しかし時に依ると少年にはこの思慕があやふやのように見えてびっくりすることがあった。そのようなとき少年は自分が人を憎めないから深く愛せないのだと、フランス人のことを思い出して考えた。彼は憎愛は同じ木の上下のようで根が深くなければ幹も高くないように表象した。そして彼は本気で伯父を憎もうと決心したりした。少年は少女に対する感情を盛った詩を毎日書いていた。不吉な春が来ると共に、少年の思慕は一層昂まった。少年はこの未決定の状態を脱け出るため、自分の感情を少女に知らせねばならないと考えた。しかしそこには抵抗がないわけではなかった。恋愛を告白する手紙はラヴ・レターであった。そのようなものを女に送ることは不良しか行わない最も恥ずべき卑しい仕業《しわざ》であった。少なくとも少年の道徳はそう断言した。しかし道徳がパッションに勝つのは道徳の強さであるよりもパッションの弱さである。パッションが烈しいとき道徳は何時も敗退する。
春の戻りは少年の熱情に最後の拍車をかけた。少年は少女にラヴ・レターを書いた。内容は詩一篇、短歌数首で出来ていた。
詩は「愛する乙女」「大切な乙女」「私の乙女」を冒頭とする六節から成っていた。
「愛する乙女よ。
君のためにしか打たない
私の貧しい心を
捧げ持つこの掌から受けよ。」
少年はこの第一節を書いているとき、少女の前に跪坐し、生も死も少女の自由に委ねた自分の姿と、どのような強い言葉もなお少年の感情の強さを表白するのに不満で、自分の胸を切り開いて鼓動する血の心臓を掌にのせて差し出す自分を表象していた。
最後の節は、
「私の乙女よ。
かつての契いをくり返し
私の乾いた心に
生命の泉を注げ。」
その後に少年は、歓びはさして経験しなかったが、甘美な感情のうちに自分を忘れた夕べに少女の語った言葉を思い起すままに記した。
手紙は、翌々日の日曜の朝九時にニコライの塔の蔭で落ち合ってヨットに乗ろうと云う誘いで終っていた。
少年は自分の手紙に興奮していた。少年は次々とポストの前で長い間ためらった。投函しようか、しまいか、この賭は少年にとってスリルだった。そこには少年の全体が賭けられていた。少年の心は何時までもいまはこの方に次には反対の決心の方に傾いていた。それは果てしのない心のシーソーだった。最後にこの迷いに腹立たしくなり、少年は簡単な動作をポストの前でやった。悔いに似たものが少年の心をかすめた。しかし手紙は投函されポストの底で音を立てた。少年は一つの懸案を果したような気になって、四月の微風の中を神保町の方に歩いて行った、清どんは新らしく店に入った原色版の多いモネの画集を出してくれた。少年の興奮は段々と鎮まり、そしてふと「もしも……」という危惧の表現が露見したらという警察的用語を伴って少年の心にぽつりと浮いた。それは心の上に落ちた一滴のインクのようであった。危惧は段々と心の上に拡がって行った。
少年の頭には一つの不幸な出来事がつき纏って来た。
少年の郷里の中学に入ったとき、彼は最年少の二人の一人であった。ある日組担任である国語の教師は授業が終ると少年を呼び一通の手紙を示し、差出人の名を見せて訊ねた。
――この人を知っていますか。
少年は知らないのでその旨を答えた。教師は言葉を続けた。
――これは君宛になっているが、私が開封してよいですか。
少年はそれを承諾した。教師は手紙を持って行った。暫くして少年は教員室に呼ばれた。その部屋に入ると廊下との境の窓際に知らない一人の上級生が頭を垂れ、肩をすぼめて立っていた。その前には予備中尉である体操の教師が立ち、その平手は音を立ててその生徒の頬を叩いていた。上級生の眼からは涙が床に落ちていた。少年はこの上級生がどんな悪いことをしたのか訝った。
担任教師の傍に行くと彼は少年に二枚の書翰箋に細かく記された手紙を見せた。それは少年に宛てたラヴ・レターであった。教師は立たされている上級生を眼で指してつけ加えた。
――書いたのはあの生徒です。
少年はそのときまた平手打ちの音を聞いた。その音に少年は恰かも自分の魂が平手打ちされたように感じた。
翌朝、教員室の前にはその上級生を退学に処すという掲示が貼られていた。
少年はこの事件には能動的には少しも干与してはいなかった。しかしあの平手打ちの音は脳に傷痕となったように何時までも少年の耳につきまとっていた。
この事件の回想は少年の心を一層暗くした。少年は手紙が著くのは翌朝と考えていた。で最も不安なのは翌日の午前中であった。しかしその午前は無事に過ぎた。少年は午砲の音を聞くとほっとした。
日曜日の朝少年はニコライの塔の蔭に長い間佇んでいた。少女は指定の時間を一時間過ぎても現われなかった。少年は不安と待ちぼうけにすっかり心を疲らせてそこを立ち去り、弥生町の友だちの家に向った。露見の危惧が再び少年を餌食にしはじめた。そしてそれは殆ど確実のように思われて来た。そのために寄宿舎には電話の云い置きが来ていそうで、帰るのを出来るだけ遅らせたかった。少年は漸く夕食に間に合う時間に帰った。
果して電話が掛って来ていた。
舎生長の大学生は四時頃叔父の家から電話があって、帰り次第少年に来るようにとのことであると告げた。これを聞いたとき少年は万事は終ったという気がした。少年はいまにも少年が少女にラヴ・レターを送った卑しむべき不良であることが食卓にいる寄宿生たちに暴露されそうで凝としていられなかった。少年は胃をいくらか塞ぐと急いで自分の部屋に帰った。叔父からは再び電話があった。
少年は外へ出た。外はもうすっかり暗くなっていた。少年は叔父の家まで徒歩で三十五分かかることを知っていた。そしてこの三十五分の後、少年の矜持はすべて叩きつぶされ、面皮は剥がれることになるのだ。少年は夢遊病者のように歩いていた。彼の心は嗚咽していた。少年は暗い場所を選んで歩いた。というのは行き会う人々はみなこの卑しむべき不良少年を見知り指弾の言葉を囁き合っているように思った。
叔父の家は低い生垣で囲まれていた。そこに著いても少年は中に入って行く勇気を持たなかった。少年は生垣の外に佇んで家の方を眺めた。応接間には灯がついていた。そこで叔父は少年を待っているに違いない。生垣に一番近い母屋の八畳も明るかった。そこには叔母や少女がいるのだ。少年の心は依然として嗚咽を続け、行動を麻痺さしていた。少年の想像《イマジナシヨン》が少年に被せている汚辱が大きいだけに、少年が新らしい行動に出るにはその汚れにマッチし得る大きな決心が必要であった。少年は空を仰いだ。そこには千の星があった。少年にとってそれは指弾する千の眼のようであった。少年は何を以てこの指弾に答えてよいか解らなかった。「死のう」と少年は呟いた。少年は佇んだままだった。少年は奥の八畳から叔母の低い、しかし力のこもった声がもれてくるのを聞いた。それは云った。
――ほんとにおまえはそんなこと云ったのかい。
少女の泣声が続いた。
瞬間的に少年には一つの決心が形を取った。歯科学生のコカインが眼に浮んだ。海が手を拡げていた。この決心はどのような恥かしさでも忍び得るようなバランスを少年に授けた。心は嗚咽を止めた。何か静かな鈍いすがすがしさが少年に心の上を横切った。緊張してやや蒼ざめた顔をして少年は真直に門を入り、長い敷石の列を通り、玄関を自分で開いて応接間に入って行った。そこには叔父が険しい顔をして待っていた。叔母も門の開く音を聞きつけたのであろう、少年の後から入って来た。
少年は叔父の前に行き、お辞儀をし、そして一気に云った。
――あんな卑しい手紙を書いて大変羞かしいと思います。お許し下さい。あの手紙の中で彼女が云ったように書いたことは本当ではありません。私の悪い読書の影響です。心からお詫びします。
叔父に以上の言葉を云い終ると少年はまたお辞儀をして部屋を出て行きそうにした。
――待て! と叔父は叫んだ。少年は振り向いて答えた。
――もう好いのです。僕は十分に自責しましたし、またもっと自責することは解られるでしょうから。
この言葉を云うとき少年は危く涙の発作に捉えられるところだった。叔父は繰り返した。
――待てというのに。
少年は懇願の眼を叔父に向けた。
――今日はもう何にも云わないで下さい。僕は十分に苦しんでいるのですから、どうぞ。
叔父は、抑え切れなかった涙でいくらか濡れた少年の眼を見た。少年はつけ加えた。
――さようなら。
そして靴をはくと馳けるようにして門の外に出た。一度通りに出ると、緊張が弛んで少年は涙の発作に捉えられた。涙は多量に出て来た。しかし少年は直ぐにそれを抑えた。少年は涙を流す自分の顔も他人の顔も好まなかった。生垣の端に来たとき、奥の部屋からは少女の忍び泣きが前よりも高く断続していた。
少年は真直に寄宿舎への道を歩いた。彼の心は静かな落ちつきで支配されていた。通る人も家も灯火も何か遠い世界のもののように感ぜられ、現実性《リアリテ》を失った影のように見えた。寄宿舎に帰ったとき、少年は受験生の部屋に行った。それは興奮を鎮め、熟眠するために、また咽喉も渇いていたのでコニャックを飲まして貰うためだった。受験生は部屋にはいなかった。大学生の部屋から彼の話し声が聞えて来た。少年はその部屋に行った。
――何かあったのかい。と大学生は蒼ざめた少年の顔を見ると云った。
――何にも、と少年は微笑んで答えた。
――そうか。だがさっき君の叔父さんの家から電話がかかって、君の挙動に注意するように頼んで来たんだよ。
――何でもないことです。ただ少し興奮しているので、受験生にコニャックを飲まして貰ってよく眠りたいと思ったのです。
――酒ならここにウィスキーがあるよ、と大学生は云った。やろうか。それで好かったら。
――下さい、と少年は答えた。
少年は半分程残っているウィスキーの瓶からコップに三分の一ほどついで貰い、それに水をうめて一気に飲んだ。
――これで一晩ぐっすり眠られましょう。どうも有難う。
少年が出て行くと大学生はウィスキーの瓶を持って後を追って来た。彼は少年の落ちつきと平静が何か装われたもののように感じた。
――もっと後で飲みたくなるといけないから持って行けよ。
そしてつけ加えた。
――君は何か隠しているね。
――ええ、と少年は自室の障子を明けながら淡々と答えた。
――事件は何かね。恋愛か?
――いいえ、叔父は僕が金使いが荒いというのです。小遣いが少ないので僕がまかないの物を取り過ぎるというのが今日の事件の発端です。僕は郷里に帰ろうと思いつめたほどでした。しかし一晩よく寝れば、明日は落ちつきます。安心して下さい。
大学生はウィスキーの瓶を机の上に置いて行った。少年はもう一杯ウィスキーを飲んでから床についた。アルコールは少年の緊張を和らげ、眠りに誘って行った。
あくる日少年は平生通り寄宿舎を出た。しかし少年は学校に行かずに、古本屋の清どんのところに行き金を借りた。清どんは「また家出じゃないでしょうね」と云って金を数えて渡してくれた。少年はそれから寄宿舎に戻り、大学生の室が留守なのを確かめてからその室に入り、歯科学生の机からコカインの瓶を出し、その半量以上を小さな紙に包み、瓶を元通りにしまってから自室に戻った。少年は自分の荷物を簡単に整理し、文学書は一纏めにして「清さん行」の札をつけて、再び外に出た。午後二時過ぎに少年は銀座にいた。コニャックの小瓶とサンドウィッチを仕入れるためであった。四時過ぎになって少年は芝浦の船宿から住所を偽ってボートを借りて海に出た。少年は喜びも悲しみもなく淡々と機械のように前夜少女の忍び泣きを聞いて決心したことを実行しつつあったのだ。少年は休み休みオールを動かし、魚の泳ぐのを眺めたり、戯れに煙草をくゆらしたりサンドウィッチを食ったりした。日暮れ方に少年は隅田川の水流に乗り入れた。干潮であったのでボートはずんずん流された。少年はボートの上に仰向けになった。空には星がきらめきはじめていた。東京の空はほのかに明るくなりはじめていた。流れに十分に乗っているかどうかも一度確かめた上で、少年は二本のオールを海中に捨てた。オールは暫くボートと一緒に流されていたが、そのうちに別れ別れに薄暮の中に消えた。次で彼はコカインをポケットから出し、コニャックの蓋になっているアルミの盃に全部移し、それにコニャックを一杯につぎ、一気に飲んだ。飲もうとする瞬間、少年の頭を母、妹弟、父、少女、その他の親しい人々の顔を含む過去の主要な時がフィールムのように速かに鮮明に通過するのを感じた。少年は一瞬のうちに過去の重要なすべてを尽したように感じた。干潮が一杯になりはじめたか、流れは低い重たい音を出しはじめた。少年はまた盃に酒をついで飲んだ。コカインが残っているのを恐れたのだった。それからコニャックの瓶から直接に液体を流し込んだ。少年は唇から舌へそしてもっと奥の方に麻痺が拡がって行くのを感じながら、空で見失いそうになる淡い星を凝と見つめて死の来るのを待っていた。
寄宿舎では大学生が帰らない少年を待っていた。学校にも行っていない事が解ったので少年の室を調べてみた。「清さん行」の本の重ね積みの外は普通であった。夜遅く帰った歯科学生は金入れを納うときコカインの量が半分以下になっている事に気がついて大学生に云った。
――誰れかコカインを持って行った。
――何! コカイン? 少年が持って行ったんじゃないかな。分量は?
――半分以上、十分の致死量だ。
――じゃ死は、と大学生は歯科学生を見た。
――確実だ、と歯科学生は断言した。
大学生は少年の叔父の家に電話をかけた。叔父は未だ帰っていないで叔母が電話に出た。大学生は少年が帰って来ないこと、十分の致死量の劇薬が紛失していることを知らせた。大学生は前夜の事が何であったか訊ね、云い渋る叔母からそれが恋愛に関することを知った。少年の死はもっと多くの公算を持って来た。
――だが、何処に行ったのかなあ。と大学生は室に戻ってつぶやいた。
来合わせた受験生は云った。
――それは海ですよ。海に違いない。あの少年は海を故郷のように恋しがっていたのだから。
そう云い終ると受験生は立ち上ってつけ加えた。
――僕は調べに行って来ます。
――解ったら、と大学生は云った。電話で知らせてくれよ。もう手遅れだろうが。
一時間後大学生は受験生からの電話を聞いた。
――矢っぱり、そうでした。少年は四時にボートを出しています。偽名していますが、少年に違いないです。
少年は寒さで眼を開いた。白みはじめた空が眼に入った。太陽は未だ上っていなかった。彼は周囲を眺めた。何処にも陸地の影もなかった。青い海が眼の届く限り四方に拡がっていた。少年はまた仰向けになった。白い空に星が一つうすく残っていた。
――死ななかったのだ。
このことに少年は喜びも悲しみもなかった。彼にはどうして致死量で死ななかったのか解らなかった。一つの方法で失敗したいま他の方法で自殺を遂行しようという気持も湧いては来なかった。何か虚脱のような心理であった。
少年は運命を自然の成り行きに委せることにした。彼は寒さを感じた。空腹でもあった。少年は残ったコニャックを飲んだ。奇怪なほど大きい太陽が赤色をして水平線にゆらめいて上って来た。海の面が光りはじめた。太陽はぐんぐん空に上って行つた。少年はそれを無感動な眼で眺めていた。二時間ほどして少年は一隻の小さい帆船が近づいてくるのを見た。十分に接近したとき少年は合図をした。帆船は速力をゆるめて近づいて来た。ボートは曳航することにして少年は帆船に移った。船頭は朴訥そうな頑丈な男であった。
――好くまあ、助かったなあ。昨夜《ゆんべ》はちっと荒海《し け》ていたのに、こんなボートでなあ。
少年は位置を訊ねた。
――横浜と木更津のまん中だよ。この船も木更津に行くだ。
話し好きの船頭は少年がどうしてこんなところまで流されたか訊ねた。少年は芝浦からボートを出したが隅田川の流れに流されてオールを失って漂流していたのだと答えた。
船は木更津に著いた。少年は宿屋の名を訊ね宿屋に落ちついてから礼に行くと云って別れようとしたとき船頭は云った。
――ちょっと一緒に警察に行って貰いてえよ。
――何しに? と少年は怪訝そうに問うた。
――人命救助賞を貰わにゃならんからな。
そう云って船頭は警察のある方に歩いて行った。少年はその後について行った。
少年は一晩木更津の宿屋に泊った。そして翌日の昼前に両国に著いた。彼は親族が集まっている叔父の家の二階に連れて行かれた。
上席には弁護士の伯父が例に依って坐っていた。彼は如何にも始末に弱ったような語調で少年に云った。
――おまえはこんな結構な家の世話になっていて、有難いと思わんのか。
少年は黙っていた。こんな風に親族会議という儀式張った空気は少年の素直な答えを阻んだ。伯父は追及した。
――有難いと思わんか。
――有難い、と少年は呟いてから云った。感謝しています。
――じゃあ何故、家出したり、死のうとしたりするんだ。ここの叔父さんに心配ばかりかけて悪いと思わんか。
――心配をかけたことは悪いと思います。しかし僕はそうせずにいられなかったのです。
――どうしてだ。
――どうしてか解りません。
――自分のことが自分で解らんのか。
――解りません。
――死のうなんて、皆への面当だろう。
――伯叔父さんたちのことは考えていませんでした、と少年は答えた。そしてそれが事実だった。
――じゃあどうして途中で止めたんだ。
これは少年にも解らなかった。ただ死のうという新らしい努力をしなかったというだけのことだった。それ故少年は答えた。
――解りません。
――おまえはおまえを不良少年だと思わんか。
――不良少年みたいなところはあると思います。
――どうも弱ったものだよ、と叔父が横から云った。おまえを相手じゃ、何をしでかすか、俺等は何時もひやひやしていにゃならん。おまえの中には何かわけの解らん烈しいものがある。温順《おとな》しそうな子のくせにな。何で外の子供のように温順しくしていられんのかなあ。
真実では春が少年にいけないのだ。少年の失敗はこの前のときも春だった。春になると少年は何かにつっつかれているように落ちつきを失い、じっとしていられないのだ。そうだ。少年の体には悪魔が巣を喰っていて、それは何時も春眼を醒ますのだ。
伯父は再び発言した。
――学校の方も調べて見たが、おまえは半分も授業に出ておらん。学校じゃあ今年は学業不良で、三月の卒業は見込みはないという。おれたち、おまえの親類はもうお前のような不良少年の世話は出けん。明後日おまえは台湾に帰すから、そのつもりでいてもらおう。そして今後東京に出てきても、親類には一切出入りしてはならん。
少年は勘当という文字を思い出した。
――解ったな、と伯父は云った。
――はい、と少年は答えた。
帰るとき叔父は玄関まで少年を送って来た。少年は朴歯の下駄をはくと叔父にお辞儀をして、「さようなら」と云った。
――偉くなってまたここにやって来るんだよ。と叔父は答えた。
二日後少年は叔父の家人に連れられて門司行の列車に乗せられた。
しかし少年は門司には行かなかった。彼は品川で下車した。二日の間少年はこの後どうするか独りで考えていた。彼は自分でやった不面目を恥じて誰れにも会いたくなかったから。このように親類から出入りを禁止された不良少年という不面目に包まれて父と母の許に帰る気にはなれなかった。彼は自分のことを知った人々から離れ、伯叔父たちのように苦学して東京に残ろうと決心したのだった。手荷物を駅の一時預けに預けると少年は上野行の電車に乗って、銀座で降りた。鋪道の柳は未だ芽を吹いていなかった。少年は長い間ためらった後、一軒の店に入った。それは食料品を並べた店であった。少年は帳場に坐っている主人の方に歩いて行き、丁ねいに学帽を取ってお辞儀をして云った。
――私を使って頂けないでしょうか。私は働かねばならないのです。
主人は一瞬ぽかんとした顔で中学の制服を著た弱々しい少年を眺めて答えた。
――いま人は要らないね。
少年はそうですかと答え、お辞儀をして外に出た。
少年は一軒一軒店に入って行って、同じことを頼んだ。煙草附属品店、布屋、陶器商、絨毯商店、電気器具屋、洋品店、洋服屋、菓子屋、しかし見知らないこの中学生の申し出は何処でも拒否された。ある店では少年は若過ぎた。他の家では小学校卒業生が必要だった。更に他の家ではこの中学生は力が弱そうに見えた。実際を云えば夕方近くに自分で自分を売り込みに来た少年をみんな胡散くさく感じたのだ。時々雇人たちは薄笑いを浮べた。これは主人の拒絶よりも少年には刺が感ぜられた。少年は行人の眼を恥じ、ひるみそうになる心を励まして、次々に店に入った。そして拒絶の次に拒絶がつづいた。このような拒絶の連続に少年は心を挫かれそうになった。そのとき彼の心にはずっと昔の一つのシーンが浮んだ。彼は小学校の三年だった。彼の家へ曲る小路の角の家では若い主人が死んだ。少年は葬儀を見るために、角に立っていた。その家は通りから石段を昇って行くようになっていた。石段の上の門の傍にはざくろが実っていた。その下に棺が出るのを見送るため若い寡婦が現われた。少年はそのような場合、女たちは泣くことを知っていた。棺が石段を降りかけたとき、少年は彼女を見上げた。彼女は泣いていなかった。ふいに少年の胸に一つの好奇心が湧いた。
――あの人は泣かないのだろうか。
少年は棺を送る寡婦が何時泣くかその正確な瞬間を捉えるためじっと見つめていた。彼女は仲々泣かなかった。彼女はそれを耐えていることは表情で少年にも解った。棺が石段を降りかけたとき、彼女は悲しみに危うく負けそうになった。少年は彼女が泣くと思ったほどだった。しかし彼女は踏み止った。少年は少年時のしつこさで彼女の眼しか見ていなかった。それは彼女には当惑的であったに違いない。少年は何時までも、云わば瞬きもせずに見ていた。最後に彼女は両手で眼を覆い、よろけてざくろの幹に躯を持たせた。周りの者が駈け寄って彼女を支えた。
少年はほっとした満足のようなものを感じた。見ると葬列は形作られ、棺は担がれて歩き出すところであった。
この挿話を思い出すと、少年は何時自分は躓いて絶望の中に倒れるか好奇心を以て自分を眺めはじめた。この心のポーズは拒否を落ちついて彼に受け取らせることが出来た。
彼は遍歴を続けた。新橋についたとき銀座からは陽が落ちていた。橋の袂に立って少年は一つ一つの拒絶を心の上に受けた鞭打のように感じた。そしてその傷痕は涙で膨れているように感じた。
少年にはこの一致した拒絶は夢にも予想されないことだった。少年にはわけは解らなかった。少年は世間は親切なものとばかり思っていた。度々の旅行のとき、汽車ででも汽船ででも知り合った世間の人は何時もあれほど親切だった。お菓子や果物を分けてくれたり、ご飯を食べに連れて行ったりした。だから日本で一番金持の商人の並んだ銀座に行けば必ず自分を雇ってくれる店がいくらでもあるに違いないと確信し切っていたのだった。
少年は自分の間違いに落胆した。しかし絶望はしなかった。絶望は少年の考えに辛すぎることであった。彼は親切な人は彼の探し当てない何処かにいるのだと考えた。
それ故少年は新橋の下の黒い河水を眺めながら暫く休むと、品川の方に歩き出した。そして店員入用、或は職工見習募集と貼り出しのある店や工場を訪ねた。何処でも少年は不適格だった。三田の近くの小さな工場の塀に同じく職工見習募集の貼り札が出してあった。少年は其処の事務窓の前に立って訊ねた。
――私を使って貰えませんか。
少年はもう何度繰り返したか解らない言葉を此処でも繰り返した。
事務所の内側には三人いた。
中の一人が答えた。
――君じゃ年を取り過ぎてるよ。うちの工場で欲しいのは小学校を出たばかりの子供だよ。君じゃあ駄目だろう。
――そうでしょうか。
少年はそう云うと深い溜息をついた。もう彼は疲れ切っていた。咽喉も渇いていた。少年にはこれ以上仕事探しを続けられるようには思われなかった。それにもう日は暮れて、少年はそれだけ感傷的になっていた。それ故彼はもう一度押し返して尋ねた。
――どうしても駄目でしょうか。
――君みたいな人のする仕事じゃないよ。雑役だからな。こちらも使いにくいよ。
深い溜息が少年の唇から洩れた。そして彼は重い足どりで外へ出て行こうとした。そのとき違った声が呼び止めた。
――ちょっと待てよ。一緒に出よう。
出て来たのは三十くらいの職人風の男であった。彼は少年と並んで停留所の方に歩き出しながら云った。
――俺は仁木という旋盤工だ。用があってあそこに来ていたんだが、君は本当に働きたいのかね。
――そうです。働かねばならないのです。僕は山村慎一という者です。
仁木と名乗るその職工はゆっくり歩きながら少年に云った。
――俺の仕事場の近くの工場で見習を一人探しているんだ。働きたかったら其処に紹介して好いよ。見習だから高くは払わないぜ。四五十銭だが、それで好かったら連れて行ってやるよ。出来るだけ五十銭払うようにしてもらおう。
――それで好いです。お願いします。
少年はほっとして、ものが考えられないくらいだった。彼には職業を選り好みする余裕はなかった。いや、職業とはどんなものかも知りはしなかった。ただ職業が欲しかったのだ。
――尤も食事や寝泊りには、俺の巣の飯屋にいれば一日三十七八銭で暮せるんだから、生きては行けるよ。
慎一は仁木が彼の考えていた親切な人間であると思った。それが労働者であったことは不思議であった。
銀座の方向に向う電車に乗ったとき少年は職業が見つかった安心のため、それまで気がつかずにいた空腹と渇きを烈しく感じた。
仁木の宿は月島を縦に貫く中央大通りの鉄工所と向い合っていた。それは見窶らしい飯屋で、入口に四枚の硝子戸が嵌まり、下の方の三段はかりに貼った半紙は埃に汚れていた。出入口と貼紙してある硝子戸を明けると三坪の土間で、二つの大きな卓子とそれの周りに背のない丸椅子が並んでいた。南は板壁で、そこには古い映画の広告が貼りっ放しになっていた。板壁と反対の側に三尺幅に料理場があり、そこで皺のある老婆が料理を拵え、丼飯や副食物を台の上に並べた。老婆は歯が一つもなくなっていたので顔の寸が縮まり、福助のような顔をしていた。
奥は腰硝子の嵌った障子を隔てて六畳間になり、宿泊人はそこに雑魚寝をした。
仁木と少年が硝子戸を明けて入ったとき、土間では二人の職工が暗い電気の下で丼飯を掻き込んでいた。
――おい、番頭。と仁木は二人の一人に云った。今日も夜業か。
顔の丸い三十過ぎの肌の白い番頭と呼ばれた男は顔をあげた。
――そうだよ。今日も夜中までだ。疲れらあ。毎日だから、なあ百姓。
百姓と呼ばれた相手の男は顔をあげて、仁木の方を振り返った。二十六七の屈強な男で、畑仕事、山仕事で鍛えた筋肉は引き締っていた。
――疲れらあ。右の肩が凝って仕方がねえが、だけんど率の好い仕事だから逃がせないのよ。客かね。
――いや、仕事をしたいと云うから連れて来たんだ。明日T工場に連れて行ってみるんだ。入《はい》れば俺らの仲間よ。
二人は制帽制服に外套のボタンをきちんとはめた少年を眺めた上で、工場に急いだ。
――君も腹が空いているんだろう。何を喰うかな。と仁木は少年に云ってから、料理場に声をかけた。おかずには何があるんだい。婆さん。うめえものは。
――いわしの煮肴と柳川だよ。煮魚は八銭だが柳川は十五銭だ。玉子が入ってるからね。
――何にする、と仁木は少年に訊ねた。
――僕は柳川にします。
――俺も柳川だ。
少年は仁木の眼を見て云った。
――酒を一本どうですか。ご馳走させて下さい。
――いや俺も飲もうと思っていたところだよ。
そう云って彼は酒を二本頼んだ。
食事の間に仁木は少年に教えた。
――先刻の二人もここに泊ってるんだ。番頭は呉服屋に奉公して番頭にまで出世して店の切り盛りをやっていたのだが、芸妓に入れ上げて、去年の暮、お払い箱になったんだ。そしてここに流れて来て働いているのさ。百姓の方は秩父の農家の三男で、畑が狭くて三男の働き場がないので、ここへ来て稼いでいるのだ。
少年は柳川を更に二つ註文して、その一つを仁木の前に置いて、自分の銚子を彼の盃についだ。一合では少年に多過ぎるのだ。
腹がくちくなると、酒で既に頬を赤くしている少年は眠くなった。仁木は立ち上って、婆さんに、勘定は俺につけとけと云った。少年はそれに抗議したが、仁木はもっと君が金持になったら奢ってもらうよと云って聞かなかった。彼は老婆に少年のことを頼んだ後で外へ出て行きながら云った。
――学生、ここじゃあ、おめえあんまり丁ねいな言葉を使うなよ。
少年は頷いた。
老婆が蒲団のあり場所と敷き方を教えた。
――枕が足りないね、と老婆が云った。
――いいです。と少年は云って、外套を丸め、その上に手巾を拡げた。
彼は上衣とズボンを畳んで枕許に置き、その上に靴下をのせると蒲団に潜った。間もなく少年は静かな規則的な寝息を立てて眠りに入った。
明くる朝、仁木は起きるとき少年に声をかけた。
――学生、起きるんだ。
少年は少し前に快かった眠りから目を覚ましていた。彼は「学生」という呼び掛けに一瞬戸惑いしたが、自分のことと解ると直ぐに飛び起きた。
ミソ汁と香この朝食の後、仁木と連れ立って少年は外に出た。人造の埋立陸地の上には春の陽光が漲っていた。微風は強い海の香りを送っていた。空は広く明るかった。広い空地には雑草が生えていた。建築物の疎らな大通りには高い電柱が殺風景な影を長くひいていた。いくらか野蛮なこの展望は少年の心に喜びを与えた。少年は今朝この人工陸地で誕生したかのように感じた。ここの人間は誰れも彼のことを知らない。彼は東京の親類からは勘当され、彼をそこにつなぐ紐は断ち切られている。家族も他の親類も何百里の彼方にしかいない。少年はロビンソン・クルソーのようにひとりぽっちだった。しかし広い空、海の香り、波の音はこの孤独を少年に最大限の自由のように感じさせた。
工場は飯屋から二丁ほどの距離で、大通りから少し引っ込んだ露地に沿っていた。社長は仁木の先輩の旋盤工だった。門を入るとき仁木は云った。
――前から知った家の子供ということにしとくよ。
少年は頷いた。
事務所に来た社長は少年の骨組の細さや女のように細長い指に職工見習に採用することを渋ったが、結局仁木の顔を立てた。少年は次の日から働くことになった。日給は五十銭だった。
事務所を出ようとするとき社長は少年に云った。
――辛抱して働くんだよ。そのうちに事務と製図を手伝って貰うから。仕事に慣れたら日給も上げるよ。
少年は丁ねいに社長にお辞儀をした。彼は自分のコースが決ったように感じ嬉しそうに頬笑んでいた。仁木はそれから少年を骨組のがっしりした職工長に紹介して頼んだ。
仁木と大通りで別れてから、少年は午前、海岸を一廻りした後、母親に東京で自立する旨の知らせを書いた。午後は品川駅に預けた荷物を取りに行った。
次の日から少年は工場に通った。
少年に当てがわれた仕事は自転車のバルブのネジの面取りだった。職工長は少年に機械の使い方を教えてくれた。彼は動力で回転する半球形のヤスリの下に雌ネジを置いて、上の把手を軽く押し下げた。ヤスリはネジ孔の端を削った。幾つかネジを仕上げたとき、彼は中の一つを取って少年に示した。
――なあ、コバがきれいになっているだろう。これを見本に置いとくから、このようにやれば好いよ。なあに仕事は簡単だから造作なく出来るよ。ただあまり強く押してコバを深くえぐらないようにしな。オシャカになるからな。自分でやってみな。
少年は自分でやってみた。最初の奴は深くえぐり過ぎた。しかし二番目から及第した。
――それで好いよ。
職工長は自分の機械に帰って行った。
こうして少年は仕事を始めた。一本立で仕事が出来るということは少年に自由と成長の喜びを感じさせた。少年は熱心に注意深く仕事をした。
二日目の晩、少年は脛《すね》がふくらんでいるのを発見した。三日目には膨れはもっと進行していた。しかしその後、膨れはひいた。
左手でネジを台の凹みに入れ、右手で把手を軽く押し下げる、仕事は単純なこの動作の繰り返しであったので、少年は慣れるに従って、機械的にやれた。そしてそれだけ精神は閑になった。この閑になった精神は記憶の中から何時の間にか問題を取り上げて反芻していた。
左手で凹みにネジを入れ、右手でハンドルを押し下げている彼の頭に浮び、宿った問は次の形をとっていた。
――僕に自殺を企てさせたのは真実に、破れた恋の悲しみであったろうか。
少年はそう信ずることを好んだ。それは彼を大人のように思わせ、文学的な幻影で彼の行為を彩ることを許した。しかし彼には未だ以外のものがあるような気がした。彼はそこに傷けられた自尊心或は面目、故郷が彼の中に植えつけた士風の躾が全く無関係であるとは思えなかった。
その日、彼はそれ以上のことは分らなかった。
別の日に同じ問は違った形で現われた。
――もしもラヴ・レターを出すことを僕が恥ずべき行いと思っていなかったら、僕は自殺を企てたろうか。
――否、と少年は簡単に答え、その答えにびっくりした。何となればこの答えは自殺を破れた恋の悲しみでなく、傷けられた自尊心に真直に結ぶものだった。
――そうだ。と彼は機械のハンドルを押し下げながら自分に云った。恋愛告白風に書いた詩を送った自分に、も一つの自分は傷けられたのだ。そしてこのも一つの自分は自己を救う最後の道として自殺を選んだのだ。
この問題を考え倦きると別の問題が現われた。それは勘当ということだった。
――親の、或は親の世代の一番大切な役目は何だろう、と少年は考えた。
――それは、と彼は自分の中で答えた。子供や子の世代を立派に育て上げることだ。それ以上に価値のあることが親にある筈はない。そうだとすれば親類勘当ということはどういうことになるだろう。
少年には勘当されたということは善良になれない、育てる値打のない人間だということだが、しかし逆に云えば父に代って育てると云って引き取った伯叔父たちも大切な役目に不適格だったと告白したということでもあるように思われ、これは少年の敗北だけでなくて伯叔父たちにも敗北のような気がした。少年が一人前になって叔父の家に行ったときには、叔父たちの子の世代に対する役目はもう無くなっているのだから。
そう考えたとき、少年は楽しく頬笑んだ。この頬笑みは少年の中にある悪魔を忘れていた。現在のような少年なら勘当されているかどうか疑問なことに彼は思い及ばなかった。しかし彼は知ったすべての人に顔を合わしたくないほど汚辱の底に沈んでいた。生きて行くために少年は自分の自尊心を取り戻すことが必要だった。それ故この考え方は少年を慰めた。
自活と自由の新らしい環境の中でこうして彼の自尊心は徐々に回復されて行った。
ある日終業間際に少年に新らしい仕事が追加された。工場で作った部分品を積んだ荷車の後押しをして三田の親工場に届けることだった。引き役の職工は勝どき橋を渡って、築地の電車道に沿うて進んだ。少年は知り人に会うことを望まなかったので、銀座に出ないように祈った。しかし職工は道のよいためと銀座の賑いを見たかったため、この道を選んだ。彼は帰りにも同じ道を通った。四丁目を曲るまで少年の気持は落ちつかなかった。
飯屋に帰ったとき、少年は派手なしごきを締めた若い娘が働いているのを見た。彼女は料理場の窓口に老婆の出す飯やおかずを運びながら、客の職工たちと猥らな戯談を云い合っていた。一人の若い女性の存在は暗い殺風景な土間を明るく賑やかに感じさせた。
その夜、店は早く仕舞った。老婆は料理場から土間に出て来て椅子に腰かけ、煙管で刻みをすいながら話し出した。
――皆んな、この娘が来ていることは内証にしておくれよ。あれは可哀想な身の上なんだからね。
老婆はそう云うと料理場に眼を配り、そこで片づけものをしている娘に聞かれるのを憚るように声をひそめて続けた。
――あれはタミという末っ娘《こ》でね、親爺は腕の好い仕立職で、稼ぎも好いんだよ。その親爺はあの子に眼が無くて、五十近くになって出来た娘《こ》だから無理も無いには無いのだよ。赤ん坊のときから親爺が抱いて寝ていたし、タミの方も親爺の方に馴ついていたのだよ。ところが今から四年前、あの娘が十四のときさ。どんな天魔に魅入られたものか、酒でも飲んでいたんだろう、娘と間違いを起したんだよ。始めは誰れも知らなかったが、そのうちに解って、かみさんはヒステリーを起して、家で騒ぎが毎日のようにあってね。わたしは好く知っているんだ。妹が隣りに住んでいるのだから。そこであの娘を神楽坂のお酌に出すことにしたが、親爺は娘のことが忘れられないでね。始終娘を呼び出しに行ったんだよ。
居職の者はあの方が強いというが本当だよ。六十過ぎた爺さまに始終来られたのでは、娘は朋輩の手前、工合が悪く、親だと他人に解ったらどんなに畜生のように云われるか解るまい。居ても立ってもいられはしないよ。そこで四谷にそっと住み変えしたんだ。爺さまは気違いのように捜してとうとう見つけたんだよ。そして三日にあげず呼び出したのさ。娘はそこで浜町の大正芸妓に出たんだが、何処をどう訊ねて知ったか、そこにもやって来たんだよ。娘は居たたまれずに、そこを飛び出して、ここに隠れているんだよ。だから老人が来て若い娘がいるかと訊《き》かれても、いないと云っておくれよ。お頼みしますよ。
その夜、雑魚寝の床の料理場寄りの端には老婆、次に娘、それから少年、彼の隣りは百姓、番頭、仁木という順だった。
床について間もなく百姓は寝かかった少年に云った。
――俺はやりてえんだ。娘にそう云ってくれよ。
少年は娘の方に顔を向けて機械的にささやいた。
――僕の隣りの百姓がさせろと云ってるよ。
――いくら呉れんの、と娘は少年をじっと見て答えた。
金という答えは少年の心の不意をついた。彼はびっくりしてタミを眺め、それから百姓の方に向いた。
――娘はいくらくれるかと云ってるよ。僕はもうご免だ。直接に交渉しろよ。寝るんだから。
天井を向いた少年の耳に娘はささやいた。
――あんたなら無料《た だ》でも好いわ。
少年にはこれが不幸な娘の示すことの出来る一番大きい厚意の表現であるとは解らなかった。彼は昼間の労働と三田までの重たい荷物運びの疲労からそのまま寝入った。
夜、彼は夢を見た。股が彼の上に重たくのしかかっていた。ぶよぶよなほど柔かい唇が彼の唇に感ぜられた。少年は長い間快い性感にゆすぶられていた。そして最後に射精の感覚があった。
朝早く目がさめたとき、少年の夢うつつの頭は射精の記憶の羞かしさでハッと明瞭になった。彼は急いでメリヤスの猿又を探ってみた。濡れてはいなかった。床にも何の異状もなかった。射精はなかったのだと彼は安心した。
誰れも目を覚ましてはいなかった。老婆も娘も眠っていた。いくらか唇を開いている娘の顔は神経が働いていないので、筋肉が前夜よりもっと締りなくだらしなく見え、顔全体を大きく醜く見せた。この変化は少年を驚かせた。やがて老婆は眼を覚ました。彼は眠りを装った。
その日少年は面取りのハンドルを動かしながら、タミのことを考え続けていた。少年はタミの父に烈しい憎悪を感じた。タミが父親の犠牲になった十四の年に少年は叔父の家に引き取られたと思い浮べた。少年の考えは再び自分のことに戻った。
彼は何時か郊外に住んでいる級友の一人の家に行ったときのことを思い出した。級友の父親は狩猟家だったので、美しい猟犬が二匹柵の中に飼ってあった。顔の柔和な毛並の房々したイギリス・セッターだった。
ある日曜に遊びに行くと、級友は少年に犬の芸を見せようと、鞭を持って、犬を柵から芝生に引き出した。ヴェランダで日に当りながら新聞を読んでいた半白の父親は外に出て来て息子に何をしようとしているか訊ねた。
――犬の芸を見せるんだよ。
――君じゃ犬が云うことをきかないかも知れないな。
――聞くと思うよ。鞭があるから。
――鞭や叱言だけでは駄目だね。と父親は云ってからつけ加えた。犬に叱言を云ったり、鞭を使ったりするには、その人間に犬の方で愛情の確信を持っていないといけないね。そうでないと犬は叱言や鞭を怖れてその時は云うことを聞くかも知れないが、犬の性格が悪くなる。だからもし君が鞭を使いたかったら、食事の世話やブラシをかけてやって犬に君に対する愛情の確信を植えつけてからにしないといけないよ。
そう云って父親は運動旁犬の芸を少年に見せてくれた。
把手を上下しながら少年は考えた。
――人間だって犬と同じだ。
天井から小さいくもが一匹糸にすがって降りて来た。それは少年の眼の前で微風にゆれた。彼はハンドルの手を休め、糸を指でつまんで機械の軸に下してやった。
少年は長い間この工場に勤めることはなかった。二カ月後、フランス人は少年の風邪見舞いに来て、少年がどんな生活をしているか見た。
少年は「高等仏語」の受付に坐ることになった。本を読む生活が、彼にまた戻って来た。
少年はフランス語に夢中になった。
しかし少年の中の悪魔はすっかり消えてしまったのではなかった。
第一次世界大戦はもう始まっていた。上野のフランス人は食堂の壁にフランスの地図を鋲で止め、侵入したドイツ軍の前線にピンをさして記し、毎日の新聞報道で、前線が進むとピンを挿し変えた。ピンはパリの極く近くまで挿してあった。
五年で落第したのは試験を受けなかった慎一と級友のC、それにDと永井と佐渡だった。永井と佐渡は三年からの編入生だった。
慎一が工場を止めて、学校に戻ったとき、九州生れの永井と佐渡とはもういなかった。
――彼奴らは、とCが説明した。満洲に行ってしまったよ。馬賊になるって。
――すごいなあ、と慎一は喧嘩に強かった永井の顔を思い出して感嘆した。彼は四年のとき生意気だと五年生から擲られると、一週間の間、放課後毎日その五年生と喧嘩を続けて相手を最後に負かしたことがあった。
残りの三人の落第生たちはクラスの孤島をつくって急速に仲好くなった。級友Cは前に述べたように母親と暮していたが、早くから人生に疑いを持ちはじめていたので「生活と芸術」や「近代思想」を読んだり、荒畑寒村や土岐善麿を家に訪ねたりしていた。
大戦が始まると聯合国側に加わった日本はドイツに宣戦して青島のドイツ守備軍と戦った以外には、戦争の直接圏外にあって専ら聯合国の生活及び軍需物資の補給団となった。このため日本は空前の好景気に見舞われた。
Cは出入りの株屋のすすめで株をやり始めていた。株は戦争景気で上り、誰れが買っても儲かる時代だった。
Cは少年にいった。
――永井と佐渡は満洲に行って馬賊をやっているが、僕たちは南方でゴム園をやろうよ。もう直ぐ、それをやるだけの金高になるよ。二十万になったら、やれると思う。一緒にやろう。
少年はCの計画を聞くと南の国の海を思い出して興奮した。
ある日慎一が上野のフランス人の家に行ったとき、後者は蚕糸会月報のゲラ刷りを振りまわして憤った。
――こんなことを云うこと可能なことですか。彼はそう云うとゲラ刷りを見せた。そこには「日本の蚕業界にとってたった一つの危険は戦争が終り、平和が来るということだ」と記されていた。
――フランスではいま激しい戦闘をしています、ね。フランス人もイギリス人も戦死しています。味方の日本ではお金儲けのため、平和が来なければよいというのです。わたし、この雑誌をもう手伝うこと出来ないね。
彼は彼の収入源の一つであったこの仕事をその号限りで止めた。
冬になってCはニコライ堂の日溜りでDと少年に云った。
――僕たちは僕たちの友情をずっと続かせよう。そのためには僕たちの友情を、僕たちに恒定的なものの上に築かねばならないと思うよ。そうだろう、トン公。
トン公と云われたDも、少年もそれはそうだと思った。
――そこで僕は僕たちに共通で一番長続きするものは何かと考えたんだよ。そしてそれは性慾だと結論したんだ。だから僕たちの友情を性慾の基礎の上に置こうよ。この間丸善に行って、あそこのNさんにきいたら、エリスというイギリス人の書いた好い本があるんだよ。何冊も書いているんだ。僕等はあの本を研究して、この共通の話題の上に僕たちの友情を築こう。本は英語だから勉強にもなるよ。
この考えは如何にも自然で論理的のように見えたので他の二人は賛成した。制服の外套を著、ズックの鞄を肩からかけた三人の中学五年生は、そこでニコライの石段を降りて須田町に出、電車で丸善の二階に行った。Cはもう目的の本がどの棚にあるか知っていたので真直ぐそこに二人を連れて行った。彼は棚から背に地球のマークのついた厚い本を取り出した。
――これだよ。とCは云って、慎一とDに一冊ずつ渡した。その本の表紙にはSexual psychologyと金文字で印してあった。慎一はその本を手にしたとき、外の客が見ているようで羞かしかった。開くと丁度そこに挟み紙が入っていて十何円という当時の金では高い値段がついていた。慎一は少し頁を繰ってCに返した。
次の年、CもDも慎一も中学を卒業した。Dは北陸の高等学校に入学し、慎一は慶応に入った。Cは学校に入らずに相場の本とゴム事業の本ばかり読んでいた。時に彼はゴムに関する洋書を丸善から買って来て、慎一に渡した。
――この本が面白そうだよ。読んでみないか。そして面白いところを話してくれよ。
慎一は承知した。慎一は何時の間にか語学では他の二人の仲間をずっと引き離していた。彼は英語は比較的楽に読め、フランス語は話しはじめ、ギリシャ語を始めて、奇妙な形をした文字に興味を持った。Cはそれを知ると慎一に云った。
――ギリシャ語は面白いかい? 南アフリカのダイヤモンド鉱山を発見したセシル・ローズはプールタルコスの英雄伝を読んでいたってねえ。
フランス人は慎一の進歩に満足し、もっと好くその勉強を指導するため、小日向台町に移ると自分の家に寄寓させることにした。
夏休みの前のある土曜の昼慎一はCとウールン・ティで落ち合うと後者は慎一に要求した。
――そろそろ金は出来るよ。君は一度ゴム園を見に現地に行って来ないか。そのために先ずピストルの稽古を始めろよ。それから君は今のままじゃあきっと女で失敗すると思うよ。だからこの夏休みの間に女を卒業しておいてくれよ。僕は君のために取っといた金があるんだ。その金を一カ月のうちに女のために費い切ってくれ給え。女は素人は駄目だよ。商売女でなくちゃあ。
慎一はこの提案を承知した。彼は自分の中に南国と野性の荒々しい喜びを感じた。
ウールンを出るとCは洋服を作るから一緒に行こうと慎一を誘い資生堂の前の三沢の前に来ると、立ち止まり、広い硝子を通して内側を眺めて云った。
――これが東京で一番よい洋服屋だよ。
二人が中に入ると頭の禿げた主人が、布尺を首にたらして出て来た。Cは夏服と合服を自分と慎一のために作ってくれるように頼んだ。夏服はリンネル、合服はポーラの上衣にフラノのズボンにした。
主人はCの寸法を計り、それが終ると慎一を計り、次で彼を眺め直すと思い出したように云った。
――いや、あんたにはあれが好い。あれを著せたいなあ。
主人はフランス製の空色のジャージを持ち出した。
――あんたはこれが似合いますよ。
こうして夏服二著ずつ、合服一著ずつ、ワイシャツを三著ずつをCは註文した。
二人はその後で日本橋の銃砲店に行き、ピストルを見せて貰った。慎一は猛獣用の大型コルトを選び、購入と所持のため警察に出す許可願書の用紙を貰って外に出た。そこで二人は別れた。Cは茅場町に行き、慎一は一つ橋に移ったA... F...の事務所に急いだ。「高等仏語」は青年会館時代の終り頃にはもう、A... F...と改名し、初等科、予備科、中等科、高等科と学級を完備していた。
警察は慎一にピストルの購買と携帯を許可した。日曜には慎一は大森の射撃練習所に行って練習した。彼はピストルがなかなか標的に当らないものだと知った。
夏休みにフランス人は静浦に避暑に行った。慎一は誘われたが東京に残ることにした。慎一にはCに果すべきも一つの用があった。
Cは夏休みの中に性的生活のために使い切るようにと慎一に三千円渡した。これは彼にとっては大変な事業であった。慎一は昼前は毎日ウールン・ティの二階の特別室に現われた。いくらか猫背のキミが彼の脱ぎ棄てた肌著類の世話をした。銀座にはカフェの数が少なかったので、午後は映画で費い、夜は東京の方々の性の市場を歩きまわり、朝になるとウールン・ティに戻った。
この不規則な生活は夏休みの終りに近い頃には慎一を甚だしく疲れさせた。
その頃のある日ウールン・ティに行くとキミは大衆雑誌を持って来て慎一に見せた。
――ここを読んでごらんなさい。
慎一は自分のことがゴシップに取り上げられているのを読んだ。
彼はその日限り銀座に姿を現わさなくなった。それに慎一はこの実験ですっかり疲れ、この疲れた慎一に女を卒業したという誤った印象を与えた。というのは人は自分の無能力以外では決して女を卒業しないものである。
次の年の春、慎一はセレベスに行ってみることを決心した。彼は自分を好い教師になれるとも、また机の前で仕事をするのに適した人間であるとも考えなかった。彼はそれには健康過ぎると思った。彼の体内には活動と冒険を通じて消費されねばならないエネルギーに満ちていると感じ、このために静かな生涯よりも荒い生活を選ぶべきだと決心したのだった。
慎一はそこで親切であったフランス人に自分がどのくらい教師に向かない人間であるか説明した。しかし彼は慎一のギリシャ語とフランス語の進歩に満足していたので、慎一の考えを否定した。
――あなたはよい先生になれるね。
そして慎一の考えは心理の病気であると思いこみクーエの自己暗示療法をやるように云いつけた。
――毎朝、昼の食事の前「私はよい教師になるだろう、」と二十度、私の前で云って下さい。あなたはよい教師になります。
慎一は自分の申し出が、こんな奇妙な結果になったことに大変びっくりした。慎一はそれでも彼の前で毎日二十度ずつ「私はよい教師でありましょう」と繰り返した。
幾日かして慎一は彼に自分の夢であるゴム園経営の話をした。彼は驚いた眼差しで慎一を眺めた。
――あなたはそんな仕事、永く続かないね。あなたは本を読む人です。
慎一は二日後に置き手紙して家出した。Cはその頃佐渡にいた。彼は吉原に売られて来た醜い女に同情し、人道主義的感情から引き取って同棲していた。その女の故里に行っていたのだ。慎一は相川の宿屋でCに会い、セレベス行を打ち合わせ、東京に戻って旅行免状を取るため相川の砂浜沿いの道を夷港に向け徒歩で急いでいた。家出してから一週間目だった。そこのカーヴのところで慎一は人力車に行き合った。乗客はステッキで梶棒を叩いて止めさせた。慎一はその人力車を見た。幌の中にはフランス人がいた。彼は車から降りるとじっと慎一を見た。その眼の中に安堵と喜びと慈愛の感情が溢れていた。慎一はその眼になぎ倒された。彼は一切の抵抗はもはや不可能であると心の底から感じた。
慎一の中の悪魔はこの時以後、口を噤んだ。慎一は勉強の生活から再びはなれることはなかった。
尤もフランス人は慎一のような奔放な性格に旅行がどんなに有効か知って、勉強に旅行をまじえることを忘れなかったからでもある。同じ年の夏、慎一は中国に旅行した。
何かの理由から精神が極度に鋭敏になって、例えば死の直前のように切迫と緊張の中にあると、過去は相次ぐフラッシュに照らされてそれを経験した精神の中で迅速に流れるものである。そのとき想起された事件はどんなに小さくても、一本の花、一つの匂い、一つの歌詞、曲の断章であってもそれは関係したすべての事実、いやその時期全体を極めて短い時間の流れの間に明瞭に浮び上がらせ感情させて消え、次で他のフラッシュと点滅するものである。そのような状態に私はあった。
儀式は終った。小さい白いガウンの司祭はキリストの代行者であることを止めた。
儀式は死をすら党派化する、私は慣れない儀式を前にしてそんなことを思った。
弔問者たちは腰掛から立ち上り、外への流れを作った。私はそれらの人々の間に挟まった。
強い日射の中に立ったとき、葬儀委員長の銀髪が再び私の傍を過ぎた。
――最後の対面はしたかね。
私は漠然とした動作で答えてつけ加えた。
――矢張り僕が一番世話をやかしたのかなあ。
――そうだよ。
――時に帝大の古い連中は誰れも来ていないのはどうしたんだろう。TもSも。
――通知を出さなかったからね。
委員長はそう云い捨てて行った。
母親と一緒に青年が現われた。青年は傍にやって来て云った。
――貧弱だったなあ。そう思わないかい。パパは? ヴォルテールの場合ほど、教会は拒否的じゃあないにしても。
――教会規則と聖書との矛盾だな。
私は墓地の方に歩き出した。
Aが私の横に並んだ。
――校長とはどうして不和になられたんですか、とAは訊ねた。
――不和というわけじゃないよ。終戦の後でカナダ人のMに会ったんだ。
――あの人も戦争中は気の毒でしたよ。大宮に監禁されていましたからね。
――校長が疎開先から帰ったかどうか訊ねたら帰っているという返事でね。じゃあ僕も近いうちに行くよと云ったんだ。校長は僕を待ってたようだな。
――待っていらっしゃいましたよ。
――ところが僕には心配が一つあったんだ。A... F...にまた勤めろと云われるのが怖かったんだ。僕はもう教壇に立つ気はなくなっていたからね。それで行こうか行くまいか迷っているうちに何となく気拙くなったのさ。しかしA... F...に叛いたということには変りはないね。消極的であるにしても。
――パパは、と青年が云った。その方が好いよ。
墓地には会葬者たちが集まっていた。真昼の烈しい日射は墓石を焼いていた。人々は稀な木蔭の下に集まっていた。乙女たちは派手な日傘を開いて明るい色彩で、葬礼の印象を柔らげていた。私はまた孤独になった。柩の来るのは手間取った。私は埋葬の場所に近づいた。それは赤い粘土の中に長方形に掘られていた。穴は深く三十尺もあった。それを見たとき、私はも一度遠い過去に連れ戻された。
彼が死の恐怖に捕われている頃だった。彼は繰り返して云った。
――わたくし、死んだら、踵を切って血が流れなかったら、埋めて下さい。
そしてその日はこの言葉につけ加えて云った。
――そして、あなたも、死ぬとき、わたくしの傍に埋めるよう、遺言しなさいね。
その日の言葉を部屋のデコールと一緒に思い出したとき、最後の別れを告げなかったことが、如何にも無道な子の仕打ちのように、私の心を咎めた。私は彼に最後の対面をしなければならない、その隙《ひま》はあるに違いないと思った。そしてこの願望は一瞬毎に烈しくなって私の心を包んだ。
柩は穴の前に運ばれた。後について来た司祭は最後の祷りの言葉を始めた。
柩は太い綱で縦に一カ所、横に三カ所廻してあった。硝子の嵌った部分の木蓋は縦綱で抑えられていた。
司祭の祷りは終った。私は傍を通ったカナダ人に訊ねた。
――最後の対面はもう不可能かね。
彼自身、校長の死で烈しい感情に包まれていたカナダ人は、私の問に素っ気なく答えて云った。
――もうおそい。
人夫たちは四本の綱で柩を下ろしはじめた。それは徐々に下って行った。
私は銀髪の委員長が云ったとき、云うことを聞いておけば好かったと思った。私の中には悔いと烈しい感情がせき上げて来た。私は心に彼のさまざまな表情を描きながら、柩が地の底に遠ざかって行くのを見つめていた。発作的にこの地の底に飛び込んで、あの蓋を開けたい誘惑を感情した。
柩は地の底についた。人夫たちは綱を解くと、どんな結び方にしてあったのか、柩を縛ったすべての綱はなくなった。
人々は土の小塊を取って柩の上に投げた。私は柩の蓋の部分を見つめていた。人夫がシャベルで土を投げ入れた。その土が柩の上に鈍い音を立てたとき蓋は動いた。
「アッ」と低い叫びが私の横にいた乙女たちの唇から洩れた。
蓋は柩に当った土の反動で開いたのだ。
私は彼の眼が地の底から私に迫って来るのを感じた。相川の砂浜で見たような不安と喜びと慈愛に満ちた眼が。
私はアーメンと低く叫び、土屑を取り、口に近づけ、それを穴に投げた。
私は彼の眼を見つめていた。私は涙が流れはじめるのを感じた。
人夫は綱にすがって降りて行った。そして蓋を閉じた。
私は教会に戻るためそこを離れた。彼の安らけき眠りと土が彼の上に軽からんことを祈るために。
教会の一隅に坐って私の口からは一つの言葉が洩れた。
――キリエ・エレエソン。
それは彼のため私のためであるかのように響いた。トラピストの館での壮大なあの合唱の祈りが私を包んだ。
本作品中、今日の観点からみると差別的ととられかねない表現が散見しますが、作品自体のもつ文学性ならびに芸術性、また著者がすでに故人であるという事情に鑑み、原文どおりとしました。(編集部)
この作品は昭和三十年三月新潮社より〈一時間文庫〉の一冊として刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
道徳を否む者
発行 2001年5月4日
著者 きだ・みのる
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: olb-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861086-2 C0893
(C)Ky冖o Yamada 1955, Corded in Japan