かんべむさし
建売住宅温泉峡
目 次
建売住宅温泉峡
しつこい宇宙船
田吾作モッブ
氷になった男
方角ちがい
新じゃぱん蚕
斬  る
赤ちゃんをどうぞ
旗本御多忙男
早朝特急クラブ
あ と が き
[#改ページ]
建売住宅温泉峡
日曜の朝、俺はブルーの水泳パンツ妻はレモン・イエローのセミ・ビキニの水着姿で、首まで湯につかりながら食事をしていると、二階の窓が開いて声がした。
「おはようございます。もう、やっておられますか」
「雑貨屋のお爺さんだわ」
妻が湯のなかから腕をぬくようにしてテーブルにのばし、コーヒー・カップをつかんで言った。俺とむかいあって坐っているため身体はテーブルに隠れて見えず、首から上と右腕だけが、俺の眼の前にぬっと出ている。
「どうしよう、待ってもらおうか」
妻から見れば|さらし《ヽヽヽ》首が喋っているように思えるであろう姿勢で、俺は視線を水平にして妻を見た。
「でも、悪いわよ」
コーヒーをひとくち飲んで彼女は言った。
「せっかく楽しみになさってらっしゃるのに」
カップを置き、トーストに手をのばした。
「それに早く入れてあげないと、すぐ混雑してくるわ。あのお爺さん、それが嫌でわざわざ一番にいらしたのよ」
「それもそうだな」
俺も手をのばしてトーストをとり、うなずいた。食事はもうすぐ終るのだ。まあ、いいだろう。そう思い、二階に陽気に声をかけた。
「どうぞどうぞ、お入りください」
「それでは失礼いたしますよ」
ぎくしゃくと階段を降りてくる音がして、バス停前で雑貨屋をしている爺さんが、軽いリウマチで痺れたという左半身をかばいながら入ってきた。俺の返事を待つ間に二階で着物を脱いでいたらしく、黒の水泳パンツ一枚で肩に手ぬぐいをかけている。
「やあ、これは申訳ない。お食事中でしたか」
階段の下から二段目、湯にひたされているセメントの上に立ち、俺達を見おろした。
「言ってもらえば待ちましたのに」
「いえ、かまいませんのよ、もう終りましたから」
妻が湯をテーブルにかけないようにゆっくりと立ちあがってこたえた。
「どうぞどうぞ、いま片づけますから」
俺も言って立ちあがり、テーブルの上のカップや皿を、すぐ横の流し台に移した。妻が高さ六十センチのテーブルの脚を上体をかがめ湯のなかに腕をつっこんでおりたたみ、天板を縦にして壁と流し台との隙間に収納した。
「さあ、どうぞ。狭い所ですが」
「いや、これはどうも。それではひとつ」
爺さんは階段を降りて湯に足を入れ、手でパシャパシャと胸や腹にかかり湯をして言った。
「極楽ですなあ、こうして朝から温泉に入れるなんて」
「ははは、いやなに」
俺はあいまいに笑い、身体の表面がうっすらと寒くなったので、もう一度坐りこんだ。
「いやあ、ナマンダブナマンダブ」
爺さんはゆっくりと身体を沈め、湯念仏をとなえている。
「お身体の具合、いかがですか」
妻もあらためて首までつかり、爺さんに聞いた。
「いやあ、おかげさんでな、どうにかこうにか。まあ、これというのもこの湯のおかげじゃと、婆さんとも常づね言っておって」
爺さんはこたえ、それからぐるりと部屋のなかを見まわして言った。
「うん、何かおいりようの物はありませんかな。言ってもらえばすぐ届けますで」
「いえ、そんなこと気になさらないで」
「いやいや、やはり御礼はせんければ」
「そうですかあ」
妻は少し考えてからこたえた。
「じゃあ、あの、カーテン・レールをいただこうかしら。二階の部屋のがプラスチックだもので壊れちゃって。できれば金属のレールにつけかえたいんですけど」
「ああ、お安い御用ですわい」
爺さんはうなずいた。
「それでは明日にでも早速」
「ごめんください」
また二階で声がして窓が開いた。
「お邪魔してもよろしいでしょうか」
「どうぞどうぞ」
俺はその申訳なさそうな言い方に苦笑し、安心させてやるのがエチケットだと思って、陽気にこたえた。
「ちょうど雑貨屋のお爺さんもこられてますから。御遠慮なく、どうぞ」
「いつもお世話になりまして、どうも」
ひと足ひと足踏みだすように階段を降りて、やせた小男が姿を現わした。肋骨の浮きだした身体にバスタオルをかけ、紺の水泳パンツをはいている。
「あ、おはようございます」
俺達に頭を下げ、バスタオルをきちんとたたんで階段の五段目に置き、そろそろと入ってきた。
「どうですか、調子は」
「はあ、あいかわらずでして」
俺達と同じように首だけ出し、視線をキョロキョロさせている。
「会社が決算期に入りましたもので、毎日バタバタしておりまして」
せっかく湯に入っているのにそれが忘れられず、気持を楽にできないらしい。俺の家から歩いて五分ほどの所に住んでいる人で、どこかの会社の経理係長なのだが、生来気の小さい性格らしく慢性の神経過敏症なのである。
「日曜くらい、そんなこと忘れた方が身体のためですよ」
笑いながら言うと、眼をパチパチさせてうなずいた。
「ええ、私もそうしようと努力はしてるんですが、やはりこの」
言いかけて突然妻の方をむき、おろおろ声を出した。
「あの、御礼の方は明日にでも女房が」
「ほらほら、それがいけないんですよ」
俺は身体があたたまったので、立ちあがりながら言った。
「そんなこと心配せずに、まあ、ゆっくりしていってくださいよ。もっとも、昼からは騒がしくなるだろうから、かえって逆効果でしょうけどね」
「まったくなあ、静かなのは朝だけじゃ」
爺さんが腹だたしそうにつぶやいた。
「奴ら、そもそも温泉というものを何と思っとるのかなあ。実に不愉快じゃて」
「本当にねえ」
妻も爺さんの意見に賛成した。
「そりゃ、家計の助けにはなりますけど、ここまで俗化するとどうもねえ」
「そうじゃ。わしの店でも、そのために売りあげが増えとることは確かじゃが、わしは別に増えんでもかまわん。静かな街のままの方がよほどありがたいわい」
「ま、そのうち客足が遠のきますよ」
俺は言い、湯からあがった。
「いまの状態じゃ、僕が勝手に客を断わるわけにもいきませんからねえ」
「早く遠のくといいんですが」
経理係長が、眼をしょぼしょぼさせてつぶやいた。
「最近じゃ、うちの女房までが、私にも何かアルバイトをしろと迫るんで、本当に困ってるんですよ」
そもそも怪体《けつたい》な家だったのだ。
私鉄の終点からバスで二十分、川をはさんで両側からせり出すように山が迫っている。
昔は夏休みの林間学校がひらかれていたような場所が、いまでは住宅地になってしまっている。
山の斜面を切りひらき、そこを階段状に整地してコンクリートで固め、その各段にずらりと同じ型の家が並んでいるのである。
そして、そのなかで一軒だけ外観の異なっているのが、俺の家なのだ。
『新築分譲格安底値ローン可電乞早勝』
こんな広告を見たのが一年前。その頃、俺と妻は賃貸マンションに住んでいた。
駅から遠く部屋は狭く、家賃だけが高いという、踏んだり蹴ったりの2Kだった。
少し無理をしてでも何とか分譲マンションか建売住宅を――そう話しあっていたとき、その広告が眼に入ったのだ。
「あなた、これなら買えそうだわ」
「ああ、返済が少しつらいけど、不可能という数字ではないな」
俺連はうなずきあい、間取図を眺めた。
「あらあ、ちょっと変だわ」
妻が首をかしげて言った。
「この家、一階が六畳ひと部屋で二階が六畳と四畳半。それに、キッチンは下の六畳に|こみ《ヽヽ》で、バス・トイレは上にあるんだわ」
「ははあ、下にカーポート用地を取ってるんだな」
それまで何十何百という不動産広告を見ていっぱしの住宅通になっていた俺は、すばやくその家の外観を想像して言った。
「狭い土地にコンパクトに収めようという工夫だよ、それは」
「じゃあ、二階のはみ出している部分は鉄骨か何かで支えてあるのかしら」
「多分な」
ともあれ、翌日俺は業者に電話をし、次の日曜に現地を見学に行く段取りをつけたのだった。
「いやあ、あの家は買得でおます」
その日、私鉄の終点から車で現地へ連れていってくれる途中、でっぷりと太って金壺まなこの案内員は力説した。
「あの広告出して以来、問いあわせの電話がひっきりなしでしてな。実をいうと、今日もお宅さんらが帰りはってから、もう三組見にきはることになっとります」
「ヘヘえ、じゃあ本当に早い者勝ちだね」
「へえ、それはもう、格安ですさかいに」
案内員は妻に言った。
「ええ所でっせ。静かやし空気はきれいし。
先にお子さんができたときのこと考えたら、こらあほんまに一等地や」
「ねえ、あなた、決めましょうよ」
早い者勝ちという言葉とお子さんのことを考えてという口説に、妻は家も見ぬうちにその気になっていた。
「うん、まあ、決めてもいいな」
俺だって、若干その気になっていたのである。
やがて分譲地に着いた。見わたすばかりのヒナ段に、無数の家がびっしりと並んでおり、そのすべてが同じ型である。
「ひゃあ、これじゃ、どれが自分の家か迷っちゃうんじゃないかな」
車の窓から眺めて声をあげると、案内員は首をふった。
「いえ、それは大丈夫でおます。いまから案内する家だけは、型が違《ちご》うとりますので」
「ははあ、やっぱり一階がカーポート用地なんだな」
並んでいる家にはそれがないので、俺はそう思った。これはひとつ、がんばって車も買わなきゃならないな――
「さ、ここでおます」
車が止まり、俺は外に出た。途端に立ちすくんで叫んでしまった。
「何だ何だ、この家は」
それはなんと、巨大な岩に二階を乗せて建っていたのである。
「ちょっと変ってますけどもな」
案内員は指さして言った。
「ま、これはこれで、住めば格別の趣きがあるんやないかと思いますがな」
山をけずって階段状に整地し、それを細かく区切って一戸分の区画とする。そのそれぞれに一階二間二階二間の箱状家屋を建てたのが、この建売分譲地である。
ところが、どうやらここで見あげるばかりの大岩を掘り出してしまったものらしい。とはいえ、普通の業者ならそんな区画には家を建てるのをあきらめ、放置しておくか周囲にベンチでも置き、『奇岩絶景・やすらぎの小公園』などと宣伝材料に利用するのが関の山だろう。
しかるに、恥知らずにもこの業者は、それをそのまま家の土台として利用してしまったらしい。
その苦心の結果が、一階ひと部屋二階ふた部屋の変型住宅なのである。
正面から見ればごく普通の二階建て。横へまわれば、背後のコンクリート壁からせり出したような大岩が、一階の半分を占有してそびえているというわけだ。
「道理で安いと思ったよ」
肩を落としてつぶやくと、案内員は小馬鹿にしたように、へらへら笑って言った。
「そらそうですがな。いまどき、あんな値段で普通の家買えると思うのが間違いや」
ぐるりと周囲の家並みを指さした。
「ま、その倍ほど出してもらえば、ああいう家を世話させてもらいますけどもな」
「あなた、いいじゃないの、岩ぐらいあったって。ね、決めちゃいましょうよ」
妻が、それだけの金を用意できない悔しさに意地になったのか、俺の腕をひっぱった。
「これだって、高い買物よ」
「そらそうでおます」
カモにしやすいと思ったのだろう、首をかしげる俺を無視し、案内員は相好をくずして妻を攻略にかかった。
「物は考えようや。お子さんが遊べてよろしいがな。近所で遊び友達できてみなはれ、岩の家《うち》の坊《ぼ》ンやいうて、人気絶頂や」
結局、妻はその一種催眠術的な男の弁舌におしきられ、妻と彼の連合攻勢に俺も寄りきられ、とうとう契約書にサインをしてしまったのである。
「あなた、大変よ」
ところが、入居一カ月目にえらいことが起きた。一階六畳の岩に面した壁から、いきなり湯が噴き出してきたのである。
「あ、これはひどい。おい、雑巾を持ってこい。バケツを持ってこい」
会社から帰ったばかりでまだ背広にネクタイ姿のまま、俺は右往左往した。
「くそ、安普請をしやがったんだな」
上の段の家から、風呂の排水が流れ込んできたと思ったのである。きっと排水管の接続部分がいいかげんで湯が土中にあふれだし、コンクリート壁から岩をつたってこの薄壁を浸透してきたに違いない。何しろこの壁ときたら、板一枚にモルタルを吹きつけただけ。指で押してもペコペコするんだからな――
ところが、妻を上の家にやって聞いてみると、そうではないという。別段、どこにも異常はないという。
「おかしいなあ」
首をひねる間にも湯はどんどんと湧き出し、部屋を湯びたし水びたしにして玄関から流れ出ていく。カーペットも何もぐしょぐしょである。
それが翌日もその次の日もつづいて、いっこうに止まらない。業者に電話をしても要領をえず、仕方なく俺は雨どいを三本はずしてきて部屋のなかに懸樋を渡し、応急処置をしておいた。玄関から外に流しっぱなしである。
すると三日目に、下の段の家から苦情がきた。流れた湯で花壇の花が全滅し、おまけに地面がゆるんだのか、柱が傾きだしたというのである。
「あれくらいで傾いたんですか?」
あんまり粗末な話なので思わず聞き返すと、相手の奥さんはきんきんとまくしたてた。
「あたりまえですよ。何しろこの土地は、岩山に土を盛ってあるだけですからね」
「えっ、何ですって」
驚いて俺は叫んだ。
「この階段状の土地は、山をきりひらいたんじゃなく、岩山に盛土をしてコンクリートで固めただけなんですか」
「おや、御存知なかったの」
彼女は、ふんと鼻で笑って言った。
「あんな大きな岩の出っぱりがあるのに」
初めてわかった。俺がいままで大岩だと思っていたそれは、実は岩山に突き出た|こぶ《ヽヽ》だったのだ。考えてみれば当然で、もし独立した岩なら、いくら巨大でも下の土を掘れば楽に斜面を転がし落とすことができるのである。
「でも、そんないいかげんな土地なら、水でも出ればすぐ崩れちゃうじゃないですか」
「だから、こうして怒鳴りこみにきてるんです。何ですか、いけしゃあしゃあと」
素朴な疑問をつい口にしたため彼女はますます怒りだし、俺と妻はぺこぺこ謝って善処を約束した。
「ははあ、これは温泉ですな」
喧嘩腰で電話をした結果、ようやくやってきた例の太っちょは、平気な顔でそう言った。
「温泉脈があるかもしらんとは聞いとりましたが、ほんまでしたんやな。これはまた、ええ買物をしなはった。うらやましいな」
「何がうらやましいだよ」
俺の怒声にも平気の平左、へらへら笑って彼は言った。
「この部屋改造して風呂にしなはれ。風呂代いらずで、入り放題の家庭温泉やがな」
いきなり壁に近より、男は手にさげていたバールを隙間に差し込んで、ぐいとこぜた。
ばりばりばりばり。物凄い音がして壁が破れ、そこからいままで以上に大量の湯がどっと流れ込んできた。湯煙もうもうである。
「見なはれ」
そのなかに立ち、男はむしろ得意そうに言った。
「温泉脈がこの下を通ってて、出口求めて岩の裂け目にあがりこみ、もろい部分を突き破ってとうとう噴き出してきよったんですわ。
こらあ、この部屋全体を風呂にして湯をいったんプールせなんだら、この土地全体がふやけて崩れてしまいまっせ」
じろりと俺を見た。
「そないなったら、損害賠償が大変でっせ」
「そっちの責任じゃないのか」
「え、何でですねや」
男はわざとらしく眼を見ひらいた。
「これはあんた、契約完了後の自然現象でっせ。地震や台風と一緒やがな。その結果家がどうなった土地がどうなったと言われても、我社《うち》はそこまで責任持てまへんで」
地震や台風がくればたちまち倒れ崩れるような杜撰《ずさん》な工事をしているくせに、まだその実例がないものだから、強気でつっぱっている。こういう奴に限って、実例が出たときには会社を解散して雲隠れしているのである。
「だけど、排水設備はちゃんとしておくのが義務だろう」
そう言うと、彼はますます人を馬鹿にしたような口調でこたえた。
「ちゃんとしてますがな。バスやらキッチンやら、正規の排水管は立派に通してある。
そやけど、壁から出る温泉までは、そら一級建築士でもよう考えまへんで」
彼は部屋の隅の流し台を指さして言った。
「な、悪いことは言いまへん。この部屋風呂にして湯を貯めて、あの流し台から排水しなはれ。それが一番ええ方法や」
仕方なく俺達は改造に同意し、すると男は翌日電光石火作業員を連れてきてバタバタと動きまわり、床から壁から階段まで、たちまちセメントで固めてしまったのである。
「湧口には獅子の顔つけときまひょ」
安っぽい金ピカの獅子が壁につけられ、その口から湯が流れ出ている。
「家具は全部、二階へあげた方がよろし」
言われなくても、そうしなければ仕方がない。湯がたまってくれば、冷蔵庫も食器棚も使い物にならなくなってしまうのである。
「玄関を封鎖しましたよって、二階の窓から出入りできるように、鉄梯子つけときましたで」
かくして俺の家は、大岩を背にした風呂の上に二部屋があるという、泣くに泣けない妙てけれんなものになってしまったのだ。
しかも情けないことに、家具を二階に集中して置いたため食事用のテーブルを置くスペースがなくなり、勿論流し台を置く場所もなく、それに関しては湯殿《ヽヽ》を使わざるをえぬ状態になったのだ。
三度の食事を俺達は、定位五十五センチの湯に肩までつかりながら、底にぺたりと尻をつけてとっているのである。
「調べてみましたら、湯の温度は38度。遊離炭酸やら固形成分はほとんどおまへんよって、微温単純温泉というやつですな」
男はそう言って俺の肩をたたいた。
「よろしいなあ。ほんま、うらやましいわ」
土地の崩れる心配がなくなったからか、上機嫌である。
「ま、改造費はボチボチ払うてもろたらよろしいでっせ」
ローンの支払いに改造費まで付加され、なかば茫然としているうちに、ずるずると俺達はこの怪体な家での生活に慣らされてしまったのである。
一カ月ほどすると、近所の人が噂を聞いてやってくるようになった。
「あの、お宅の温泉に一度入らせてもらえませんでしょうか」
「どうぞどうぞ、二人だけで入っているのは勿体ないですから」
俺達はそう言い、夜七時から九時までの間に限って温泉を開放することにした。近所づきあいがうまくいくのは結構なことだし、それまで妙な家に住んでいるというので何となく感じていたひけめが、これで優越感に変化しそうに思ったからである。
「でも、洗い場がないから、あたたまるだけですよ」
「はいはい、それで充分で」
「裸というのも、ちょっと何ですから、男女とも水着姿ということにしてくださいな」
「あら、それはいいですわね。実は私、こちらの御主人の前で裸になるのは――なんて心配してたんですの。いえ、私はかまいませんけど、宅の主人が嫉妬深いもので」
こんな具合に話が決まり、いろんな人がやってくるようになったのだ。
雑貨屋の爺さんはリウマチに効くだろうからと言い、経理係長は慢性の神経過敏症が少しでもよくなるならと、毎日のように姿を見せだしたのである。
「温泉がいいんですかね」
「ええ、持続浴といいまして、微温湯に三十分から一時間ほど入っていると、神経がやわらぐそうでして」
そのためかどうか、入浴にやってくる近所の人達も和気あいあいとし、善男善女の性質を示してくれた。
「あの、これ田舎から送ってきた自家製の味噌なんです。どうぞ、少しですけど」
「御主人、酒はいけるんでしょう。いやあ、ジョニ黒をもらったんですがね、僕は下戸なんですよ。さしあげますから、どうぞ」
無料入浴は申訳がないと、いろんな物を持ってきてくれるようになり、遂には、各家からいくらかでも会費を集め、俺の家に収めようという話にまで発展した。
「そんな心配は御無用ですよ」
「いや、ほんの気持だけです。その気持さえ受けていただけば、我われも気兼ねなしに入れてもらえますから」
「……そうですかあ。まあ、そこまでおっしゃるのなら」
――と、そこでスケベ心を出してその金を受けとったのが間違いの元だった。
来客の数が見る見るふえだし、三カ月もせぬうちに俺の家の温泉は、近所の主婦達の寄合場所になり社交場になり、子供の遊び場になってしまったのである。
「ヨーグルト、おいてないかしら」
「小さい子供のために、浮袋が欲しいわね」
「あら奥様、また新しい水着買ったの。大胆なデザインねえ」
人の家を公衆浴場と温泉プールとファッション発表の場にしてしまい、それが曜日時間無関係につづくのである。
「そうか、君はあの会社に行ってるのか」
「へっへっ、ひとつ機会がありましたら」
湯から顔だけ出して、深夜の商談を始める奴まで現われた。
「お金をお払いしてるんですから」
善意の謝礼だったはずが、いつの間にか皆そう思いだしたことは確実で、こちらもそれを受けとっている以上強いことも言えない気になり、するとますます彼らは我物顔にふるまい始めたのである。
親類を呼んでくるようになった。会社の同僚を案内してくるようになった。得意先をひっぱってくる、上役を招いて点数をかせごうとする。まるで俺の家を、マル秘の穴場のように宣伝しだしたのだ。
『水着姿で人妻と混浴OK・嬉しい住宅温泉があるゾ!』
とうとう週刊誌の記事になってしまった。
こうなると無茶苦茶だ。いきなりこの分譲地が温泉峡にされてしまい、問い合わせの電話や手紙がひっきりなし。
土曜日曜などは、押すな押すなの遊山客ラッシュ。車がひしめきあうわ子供は泣くわ団体は騒ぐわ、まるで日本各地の温泉発達並びに俗化史を、そのままなぞる有様になってしまった。
そしてその過熱状態に拍車をかけ、火に油をそそぎだしたのが近所の奴らなのだ。
最初からの暖かみのある近所づきあい=週に何回か入りにきて御礼にちょっとした品物をくれるという、本来の意味での湯治客は、いまでは雑貨屋の爺さんと経理係長だけになってしまい、それ以外の人間はこの馬鹿な人気を利用しようと考え、眼の色を変えだしたのである。
変えてどうするのか。まあ、今日の日曜、午後からの様子を見てみるがいい。
「はい皆さん、一列に並んでください。ここがいま全国的に評判の建売住宅温泉でございます」
爺さんと経理係長が帰り、少しの間ゆっくりとして、さてそろそろ昼食をと思っていると、家の表で携帯スピーカーの声がわんわんと響いた。
「あなた、もう来たわよ」
妻が泣きだしそうな顔で言った。
「また昼御飯食べられないわ。これで十三週連続よ」
日曜ごとにこうなのである。
「まったく、嫌になるな」
俺は立ちあがり、窓をあけて表の道路を見おろした。
「ええ、いま顔を出されましたのが、この温泉住宅の御主人でございます。苦みばしった、なかなかの男前ですねえ」
十人ほどの客が俺を見あげ、ワーッと歓声をあげた。なかには拍手する奴もいる。なぜ拍手されなければならないのか、さっぱりわからない。
むこうにマイクロ・バスが停まっており、連中は中年から若いのまでの混成だから、多分町工場か商店の慰安旅行なのだろう。
全員揃って赤い顔をしているのは、ここへ来る車中でしたたか飲み、すでに酔っぱらっているに違いない。まったく下品な奴らである。
「それにまた、ここの奥さんという方がお美しい方でして。そもそも二人の馴れそめは」
酔っぱらいを相手に、負けず劣らずくだらぬことを説明しているのは、三軒先の旦那である。旅行代理店に勤めており、その知識とコネを利用して、日曜ごとに客集めとガイドをアルバイトにしているのだ。
「それでは、まず隣りの家で脱衣していただきます。私は次のお客様方をお出迎えにいかなければなりませんので、御主人、ひとつよろしくお願いいたしますよ」
「はいはい、よくいらっしゃいましたあ」
ドアが開いて、隣りの旦那がにこにこ顔で飛び出してきた。
「ええ、脱衣所はこちら脱衣所はこちら」
市役所の文書課長が、勤務中にはとても見られぬエビス顔でもみ手をしている。まあ、部屋を開放するだけで一人頭五百円取っているのだから、これくらいの顔をしなければ罰があたるだろう。
「おい、外に出よう」
俺は部屋のなかをふりむいて妻に言った。
「こんな所にいると、頭がおかしくなりそうだ」
「そうね、駅まで出ましょうか」
これまた十三週連続で日曜ごとに言っていることを俺達はくり返し、外出の仕度をした。
これから夜にかけて、農協だの老人会だの会社だのの団体が次つぎに押しかけてくるのは眼に見えている。ガイドが家の前まで連れてきて脱衣所の旦那にひきつぎ、水着姿になった彼らは、続々と鉄梯子を昇って俺の家に侵入してくるのである。
げらげら笑い、わあわあ騒ぎ、湯をかけあったり潜ってみたり、好き勝手なことをしてはしゃぎまわるのである。
それを二階のひと部屋にこもって聞かされてみろ。まったく頭がおかしくなってくる。
テレビも見られず本も読めず、我家が我家でなくなるのだ。だから俺達は家を出てバスに乗り、私鉄の駅前に避難するのである。
お茶を飲んだり映画を見たり夕食をとったり、必死に時間をつぶして、夜になるのを待つわけだ。
「それが、かえってよくないのかもしれないな」
そう思ったことがある。なぜなら、俺達が家をあけるということを近所の奴らはただもう自分に都合よく解釈し、どうぞ御自由に――という意思表示だと判断してしまっているのかもしれないからだ。
それが多分あたっているであろう証拠に、客のこの分譲地に滞在する時間は次第に長くなり、最近では土曜の夜から泊まりがけできて、日曜の深夜までぶっ通しで騒ぐ連中さえ現われているのである。
「ちゃんと鍵をかけておけよ」
外に出る前に俺は念をおした。以前、酔っぱらった客が二階の奥の部屋=俺達が避難していたところにどたどたと入ってきて、制止するのも聞かばこそ、冷蔵庫をあけてハムを食べビールを飲み、箪笥をひらいて妻のパンティ取り出し、頭にかぶって踊り狂ったことがあるのだ。それ以来、ドアに厳重かつ岩乗な南京錠をかけることにしたのである。
「うわあい、美人だ美人だ」
「温泉住宅の美人妻、バンザーイ」
俺達が鉄梯子を降りると、さっきの連中がそれぞれ水泳パンツ一枚になって隣りの家から姿を現わし、勝手なことをわめきだした。
「行ってらっしゃあい、お元気で」
酒の臭いをぷんぷんさせ、足をふらつかせている奴。妻に抱きつこうとする男やいきなり直立不動の姿勢をとり俺に敬礼する男。
鉄梯子の途中で片手片足をあげ、出初め式の真似をしている奴もいる。
「行こう」
見ていると腹がたつばかりだから、妻をうながして歩きだすと、むこうからまた携帯スピーカーの声が近づいてきた。
ぞろぞろと角をまがってやってきたのは、揃いの赤ダスキをかけた爺さん婆さんの一隊だ。多分、どこかの老人会だろう。
「わしゃあ恥かしいのう、水着姿になるちゅうのは」
婆さんが色気を出して声高に喋っている。
「娘時分から、かれこれ四十八年ぶりじゃもんのう」
「ひとつ、とっくりと拝ませてもらうで。
えっえっえっ」
爺さん連中も浮かれている。
「腰巻きじゃあ、いかんかいのう」
「いけませんいけません」
ガイドがスピーカーでがなりたてた。
「この建売住宅温泉峡は、静かで上品なベッド・タウンです。皆さん、品位と礼節をたもって行動していただきたい」
自分が品位と礼節を欠いているくせに何という奴だろう。そう思い、怒るよりもあきれる気持が先にたって、俺はガイドとその集団を見送った。
バス停まで行くと、ちょうどバスが着いたところで、またぞろ団体が降りてきた。今度は若い女ばかりである。デバートか化粧品会社の慰安旅行らしい。
「何だ、意外に静かな所じゃん」
「ディスコもゲーム・センターもないんじゃないの」
ガムをくちゃくちゃ噛みながら、あたりを見まわし、小馬鹿にしたように鼻を空にむけている。
「ありますよ、何でもありますですよ」
ガイドの女房が、旦那が戻ってくるまでの代役をひきうけ、客の御機嫌を損じては一大事と、歯ぐきをむきだして営業笑いをしている。
「そういう場所は、夕方四時からいっせいにひらきますから。その前に、まず湯に入ってさっぱりとしてくださいね」
「若い男は来てるの?」
「ええ、それはもう」
「でさ、うまくいったらさ、二人で行く場所はあるんだろうね」
「ええ、ええ、ありますとも」
「うん、それじゃ用意しとかなきゃ」
一人がそう言い、雑貨屋の店先に立って大声を出した。
「ねえ、コンドームちょうだい」
「………」
爺さんがあきれはてたように大口をあけてつっ立っている。
「コンドームよ、聞こえないの」
「そんな物は置いとらん」
ボソリと不機嫌にこたえた。
「何だ、気のきかない爺さんね。それくらい置いときなさいよ、人がせっかく買ってあげようと思ったのに」
「たとえ置いてあっても買っていらん。売りとうもないわい」
爺さんは顔を真赤にしてどなった。
「下卑た温泉町と間違うな」
「だって、ここ温泉町じゃない」
仲間をふりむいて、女は言った。
「変な爺さんよ。温泉町で商売してるくせに、そこでよく売れる品物は売らないんだって」
「頭が固いのよ。あれ、薬局じゃなきゃ売れないと思ってるんじゃない」
「そうじゃなくって、自分だけは町の雰囲気には染まらない偉い人間だと思ってるのよ」
「はっはっ、温泉のおかげで商売できてるくせにねえ。馬鹿なんだわ」
「黙れ黙れ」
爺さんは自由な右腕をふりまわして怒った。
「わしは正常じゃ。お前達や近所の奴らがおかしいんじゃ。みんな、狂っておるんじゃ」
まったく爺さんの言うとおり、正気の沙汰ではない。俺の家を中心にして周囲何十軒、ヒナ段に並んだ各家が、てんでに温泉客の財布を狙ってアルバイトを始めているのだ。
初めは頼まれてトイレを貸したり、お茶を飲ませたりする程度だった。それが、客の数が増加するにつれて欲を出しエスカレートさせ、公然と金を取りだしたのである。
酒を飲ませる家、料理を出す家、温泉住宅こけしなどという愚にもつかぬ土産品を売り出す家。それぞれの家で亭主と女房が額をよせあい、自分達の趣味や特技や適性をいかして、勝手な能書きを並べたてているのだ。
「当家特製温泉ラーメン」「我家自慢の建売寿司」「雀卓貸します温泉荘・八名様までなら宿泊もOKです」
亭主が将棋好きで街頭に台を持ちだし詰め将棋を始めた家、女房が絵を描くので絵ハガキを売り始めた家。応接室に安物のウイスキーを二三本並べてスナック、ステレオをかけてディスコ、玄関の三和土《たたき》に中古のパチンコ台を据えつけてゲーム・センターである。
最近では子供達までがその気になり、日曜ごとに近くの公園に集まり、歌をうたったり芝居をしたり、落語や物真似をやり始めている。それがまた、結構な小遣い稼ぎになるというのである。天下泰平、愚者の天国だ。
「こんなことが、いつまでも続くものか」
バスに乗り、その窓からひっきりなしにすれ違うタクシーやマイクロ・バスやマイカーを眺めて、俺は言った。
「あの温泉が止まれば、それでおしまいじゃないか」
「おしまいじゃないかもしれないわ」
妻がつぶやいた。
「もうこうなったら、湯なんてどうでもいいのよ。建売住宅温泉峡へ行ったという、その事実だけで客は満足するんだわ」
そうかもしれなかった。押しかけてくる客は、ごく普通の住宅街が温泉地の雰囲気=俗悪下劣なそれを漂わせていることを喜び、サラリーマンやその女房子供が番頭客引き商売女の言動をとることに意地の悪い満足感を覚えて帰るのであって、俺の家の温泉になど、別に入らなくてもいっこうにかまわないのである。
「じゃあ、もう来客を断わろうか。馬鹿な団体はいっさい断わって、雑貨屋の爺さんや経理係長のような、本当に湯に入りたい人、入った方がいい人だけを入れてあげることにしようか」
そう言うと妻は首をかしげ、放心したように窓の外を見てつぶやいた。
「でも、私達だってお金が欲しいわ」
ローンの返済と改造費の支払い。それに何とかもう少しゆったりとした家に移りたくて始めた積立貯金。俺達はたとえ百円でも多く金が欲しいのだ。
そしてその貯金は月給だけではとてもできず、周囲何十軒のアルバイト家庭から届けられる「寸志」と称するバック・マージンで充当しているのである。
温泉客から金を取ろうと思えば、これは営業行為になるから県や保健所の許可がいる。
それは面倒だし、第一俺達にそんなことをする気はないのである。来客お断わりを宣言しかけたことも、二度や三度ではない。つまり、迷惑しているのだ。
しかし近所の奴らはそんな俺達をなだめすかし、いつ頃からか寸志を持ってきはじめ、ずるずると現在の状況にもちこんでしまったのである。
だからこそ、俺達はいまや自分の一存で温泉廃止を宣言しにくくなったのだ。
ローンや学費で金のいるのは各家庭お互いさま。俺が宣言したことで、ひょっとしてこの温泉峡がすたれれば、俺は何十世帯の副収入源を奪うことになり、それはそのまま我家の家計にもはねかえってくるのである。
「でも、もう温泉が関係なくなっているのなら、廃止を宣言したって客は減らんだろう。
お前の説なら、そうなるじゃないか」
俺が言うと、妻はこたえた。
「あれば関係ないけど、なくなれば関係してくるのよ。だって、温泉へ行くという名目が使えなくなるでしょう。シンボルのない観光地へなんか、誰も行こうとしないし、実際、出かける大義名分が立たなくなるんだわ」
「それじゃだな」
思いついて俺は言った。
「もし、本当に温泉が止まったらどうなる」
「さあ、どうなるかしら」
妻は、わからないわという顔で首をかしげた。
駅前で時間をつぶし、深夜、もうとうにバスはなくなっているので、タクシーで帰ることにした。
「いまから温泉峡に行かれるんですか」
行先を告げると、運転手はそう言った。
「ああ」
そこの住人であることを説明するのも面倒なので、俺は生返事をし、窓ガラスに頭をもたせかけて外を見た。
川沿いの道を山にむかって走っているので、前方にも左右にも明りは見えない。真暗闇である。
快調に飛ばすエンジンの音だけが聞こえ、それがかえって周囲の静けさをきわだたせている。
「こんな薄気味の悪い所と思われるでしょうがね」
運転手は、俺達を初めての客だと思ったらしく、説明を始めた。
「あと五分ほど走ってカーブを曲がってごらんなさい。そりゃ、びっくりしますから」
「そんなに凄いのかね」
「凄いの何のって」
彼は首をふり、断言した。
「不夜城ですよ、あそこは」
「人気があるんだね」
「そりゃそうですよ。何しろどの家もアルバイトだから、素人っぽくってね。そのうえ値段が安いときちゃ」
「でも、脱衣料五百円なんだろう」
「おっと、いけね」
首をすくめ、バック・ミラーのなかでニヤリと笑って舌を出した。
「お客さんは奥さんと一緒だったんだね。
つい、若い男に言うようなこと言っちゃったよ」
「何、それ。何の話だい」
彼はしばらく黙っていて、興ざめたようにポツリと言った。
「いえ、私、三軒ほどから頼まれてましてね。紹介料を貰えるもので」
俺と妻は顔を見あわせた。いくら温泉峡とはいえ、そこまで本場風《ヽヽヽ》になっているとは思わなかった。いったい、どこまでエスカレートするつもりだ。
「そういえば」
妻がささやいた。
「――さんの奥さん、こないだゴムをグロスで買ってらしたわ」
「亭主がよく許してるな」
「お金がいるのよ。御主人の会社、景気が悪くて今年は昇給がストップしたらしいもの」
「ほら、そこのカーブですよ」
声とともに車が右折した。その瞬間、俺の眼の前に、不夜城が出現していた。
見わたす限り見あげる限り、灯火が規則正しく並んでヒナ段をつくり、暗黒の背景から浮き出している。
そしてそのなかでも、ひときわ明るい一画が、俺の家を中心とするアルバイト歓楽街なのだった。
近づくにつれその明るさは、庭に立てたナトリウム灯、軒先に吊った大提灯、門前に出した電飾看板であることがわかってきた。
聞こえてくるのは、嬌声笑声喊声怒声、酔っぱらいと女達のじゃれあいもつれあうかまびすしさだ。
「さ、着きましたよ」
車を降りると、わっとばかりに音が俺達を襲ってきた。風に乗って俺達をつつみ、そのまま夜空に消えていく。
「おや、今晩は」
通りすがりに挨拶され、見ると近所の奥さんだった。派手な色柄の着物を着て、三味線を小脇にかかえている。
「どうもお座敷が多くて、やんなっちゃうわ。失礼」
急ぎ足で行ってしまった。
ヌード・スタジオと、下手くそなマジックの殴り書きポスターをブロック塀に張り出している家がある。
「誰が脱いでるんだ。嫁さんか」
「まさか。ここの奥さん、もう五十八よ。きっと娘さんだわ、女子大へ行ってる」
「旦那さん、エロ写真買わない?」
電柱の影から声がかかった。見ると、新聞社に勤めて写真部長をしているという五軒先の旦那だった。通りかかったのが俺達だと気づき、頭をかいて苦笑した。
「いや、これは面目ない」
「エロ写真って、モデルは誰なんです。あなた方御夫妻ですか」
「滅相もない」
彼は、二重になった顎をがくがくと動かして言った。
「高校生の息子とね、そのガール・フレンドですよ。なに、エロ写真といっても、ただ抱きあってるだけでして」
「そんなのが売れますか」
「意外にね。まあ、おっぱいくらいは見えてるし、第一、客は酔っぱらいですからね、何だって買っちゃいますよ」
演歌のレコードが鳴っている。三味と太鼓の音が聞こえてくる。どっと起こる歓声は、我家の一階から飛び出してきた。女の声もまじっている。
「馬鹿馬鹿しい」
立ちつくして、俺はつぶやいた。
「まったくもって、度しがたい」
時刻はすでに午前二時になろうというのに、騒がしさはますますつのる一方なのだった。
さて――
それから二カ月ほどたったある日、俺の家の温泉は、噴き出したときと同様、突然ピタリと止まってしまった。湯が涸れたのか脈の方向が変ったのか、それはわからない。
しかし、いつか妻が言ったとおり、そんなことは客足に何の影響も及ぼさなかった。
あいかわらずの、品性下劣などんちゃん騒ぎが継続し、周囲何十軒かは副収入を確保しているのである。
ただ、以前と違うところは、俺達に支払われるバック・マージンが三倍にはねあがったということだ。
なぜなら、「シンボル」を守り「大義名分」を与えるために、近所の奴らは温泉のいままでとかわらぬ開放を要求し、妻にアルバイトをもちかけてきたからだ。
だから妻は、毎朝部屋に水を入れ、壁の裏側に隠して設置したボイラーに火をつけるのを日課にしている。
建売住宅温泉峡、全国から善男善女を集めて、いやましの賑わいをみせているのである。
ア・ホ・ク・サー
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しつこい宇宙船
七時四十分。目覚し時計が、嫌がる俺を無理やりめざめさせた。まったく毎朝、意地になっているように正確に鳴りやがる。
俺は腕をのばしてベルを止め、腹這いになった。枕元に置いたままになっている灰皿をひきよせ、煙草に火をつける。つけたやつを一服吸って、ゆっくりと吐きながら左手をのばし、テレビのスイッチを入れる。
眼がさめるとまずこうするのが俺の日課。
もう何年もこれをつづけて、無意識に手が動くようになっている。布団のそばのマイクロ・テレビ、これも長らくその場所を移動したことがない。
四十五分からのニュースを見て五十分に布団をぬけだし、八時ジャストにアパートを出て駅まで七分。十二分発の電車で有楽町まで四十分。そこから歩いて事務所に着くのが九時三分前、あるいは二分前。これだって無意識でできるようになっている。何ということもない、サラリーマンの毎朝だ。今日もそうなるだろう。ほら、ニュースが始まった。
「定刻まであと一分ありますが、とりあえず始めさせていただきます」
おや、何か事件かな。アナウンサーの緊張した顔と声に、俺は頬杖をついて画面に注目した。列車事故かな、それともハイジャックかな。
「今朝六時頃、日比谷公園上空に未確認飛行物体が現われたと、早朝マラソンをしていた人から通報がありました」
何だ、くだらん。それくらいのことで何を興奮しているのだ。俺は思い、煙草を吸った。
「警察が現場に急行しましたが、そのときすでに飛行物体は姿を消していたということです。目撃者の話では、物体は円盤型ではなく葉巻型だったということですが」
ふん、宇宙人の来襲か、よくある話さ。よくある話だけど、俺には関係ないな。
「ところが先程、同じ物体だろうと思われる巨大な飛行物体が羽田上空に出現し、現在も」
さて仕度をしようか。画面片隅の白文字が7・50に変ったので、俺は煙草を消して布団をぬけだした。アナウンサーの言葉より、この数字の方がはるかに情報としては重要だ。
だって、こんなニュースで遅刻でもしてみろ。怒られても弁明できないからな――
手早く俺は仕度をした。朝食ぬきだから勝負は早い。とりあえず出社し、さてそれからゆっくりとモーニング・サービスのコーヒーを飲みにいけばいいのである。要領要領。
「現在、カメラが現場にむかっておりますので、到着次第その巨大な飛行物体の」
テレビを消して、部屋を出た。
いつもとまったく同じ時間が経過して、九時三分前に事務所に着いた。
「おい、見てごらんよ。凄いぜ」
壁に並んだモニター・テレビを見あげていた何人かが、入っていった俺に声をかけた。
「羽田の事件だろう」
俺は、あくびまじりに言った。
「何ということもないさ、そのうち消えるよ」
見ると、NHKと民放五局、七台のテレビがすべてその飛行物体を映していた。青空がバックだから比較物がなく、どのくらいの大きさなのか見当がつかない。
「局の連中も、朝っぱらから御苦労さんなことだな」
俺は言い、デスクにむかった。
「坊や、例の素材は入れてくれたろうな」
「ええ、昨日の夕方に両方とも」
テレビを見ていた送稿アルバイトの大学生がふりむいてこたえた。
「夕方のバッグ便に必ず入れるって言ってましたよ」
「OK」
彼は自分のデスクに戻り、リールに巻かれた三十秒フィルムを一本持ってきた。
「予備の素材、返しときますよ」
「うん」
うなずいて受けとり、小さな赤いリールに貼られたラベルを見た。途端に俺は声をあげて立ちあがっていた。
「あっ、何てことをしやがる」
テレビを見ていた同僚が、何事だろうといっせいに俺に注目した。その視線のなかで、俺は頭にどっと血がのぼるのを感じ、半分眠っていた脳細胞がたちまち覚醒し、その思考速度を最大限にまで上げるのを意識してつぶやいた。舌うちをした。
「チョンボだ、大チョンボだぞ」
このフィルム一本で、今日一日が大変な日になることを俺は直感したのだった。
くそ、これは本当に朝飯ぬきだぞ――
朝礼が始まり、フロアのいちばん奥のデスクで社長が何か喋っている。皆、椅子を横にむけたり後にむけたりして、その一点を注目している。いつもと変らぬ、朝の儀式だ。
しかし、いまそれを聞いている余裕が俺にはない。一刻も早く処置をしなければならないのだ。そうしなければ、社員数五十人余りのこの小さな放送代理店の、一カ月分の利益くらい軽く飛んでしまう事態に陥らぬとも限らない。いや、最悪の場合には、一カ月分の売上げ相当額すらふっとんでしまうだろう。
俺はいらいらして社長の訓示が終るのを待ち、終った瞬間、立ちあがってテレビ課長の席へ行った。
「ちょっと、応接室へきてください」
「どうした」
色黒で一見やくざっぽく見える課長は、その顔形にはにあわぬやさしい眼で、俺に笑いかけた。
「また、前借りの相談かい」
「いえ」
俺は周囲に聞こえぬように、課長の耳もとに口を近づけた。
「デパートのCF、送稿ミスが出ました」
「なに」
聞くなり課長は笑いを消し、俺を見つめて物凄い眼をした。一瞬で事の重大さを悟って緊張し、頭を全速回転にあげた眼である。チラッと連絡部の席を見、奥の社長に視線を移し、それからすぐ近くの媒体部長を見て立ちあがった。まず最初に打つ手を計算したらしい。
「わかった。坊やを呼んでこい」
それだけ言って、受付横の応接室へと歩いていく。俺は自分の席に戻り、バイトの大学生に声をかけて、その後を追った。
「大変なミスをしてくれたな」
俺達が腰をおろすと、課長はつぶやいた。
「何ですか、僕、何か失敗しましたか」
坊やは、合点のいかぬ顔で課長と俺とを交互に見ている。まったく気づいていないのだ。
「これだよ、ラベルを見てみろ」
俺は彼にリールを示した。
「記念セール用三十秒Bタイプ。見ろ、Bタイプだぞ、大阪用だぞ」
「あっ」
ようやく気づいて、彼は声をあげた。俺の手からリールをもぎとり、立ちあがった。
「すぐ行って、取りかえてきます」
「あわてるな、バタバタするんじゃない」
課長は言い、坐れというふうに手をふった。
俺の会社は、さまざまな得意先《クライアント》とラジオ・テレビ局との間に入り、その広告業務を代行する放送代理店である。ここが本社であって、全国どこにも支社支店はない。そんなものがなくても、各局の東京支社を通せば、北海道でも沖繩でもその放送枠が取れ、素材と称するコマーシャル・フィルム(CF)やテープを送稿することができるからである。
連絡部がクライアントをまわって仕事を取り、俺の所属する媒体部がそれに関する局側との折衝をする。逆に俺達が局から放送枠の「出もの」を仕入れ、それを連絡の連中に売ってきてもらうこともある。とにかく、十五秒とか三十秒とかの放送時間枠を売り買いしている会社なのである。
そして先日、あるテレビ局から出ものが売りに出され、それを受けた連絡部が、飛び込みセールスで某デパートに売ってきたのだった。金曜日午後九時五十九分から三十秒、東京大阪こみで放送《オン・エア》され、両局別素材も可能という枠である。専門用語で言えば、三十秒ステ・ブレ東阪差しかえというやつだ。
「タイミングがよかったよ」
セールスを決めてきた連絡マンは言った。
「ちょうど入学入社記念セールをやるんで、レギュラー枠以外のスポットを捜してたらしいんだ」
「東阪両店の共通セールかい」
俺の問いに彼はこたえた。
「いや、催事《イベント》とかプレミアム・セールは共通だけどな、半額奉仕コーナーは東京でしかやらないらしい」
全売場の商品から二千点を選び、期間中は半額で奉仕するという企画である。
「じゃ、素材は差しかえだな、それ、いつ貰えるんだい」
東阪別々のCFを受けとり、各局に送稿しなければならない。昔と違って、オン・エアはすべてコンピューターで管理されているので、その組み込み作業の関係上、素材は通常で放送日の一週間前、ぎりぎりでも四日前に送稿しなければならないのである。それも、日曜祭日を勘定に入れずにだ。
「それなんだけどな」
連絡マンは困った顔をした。
「素材をプリントする日数を計算すると、早くて四日前の午後、下手すると三日前の朝になってしまうんだ」
レギュラー枠の放送必要本数しかプリントしておらず、いまから制作会社に発注するらしい。レギュラーのクライアントなら、出入りの制作代理店やプロダクションともツーカーで話ができるのだが、初めてのところだからそうもいかない。先方が発注し、あがってくるのを待って受けとるしか仕方がないのである。
「それは、かなりきついな」
「そこを何とか頼むよ」
連絡マンは手を合わせ、何とかしなければどうしようもないので、俺も局のCM課に頼みこんだのだ。
「四日前の深夜でもいいから入れてよ」
「さて、三日前となるとしんどいなあ」
東阪の担当者とも同じようなことを言い、それを拝みたおして、ぎりぎりに送稿したのだった。東京には四日前の夕方。大阪には同じ夕方に支社に持ちこんでバッグ便に乗せてもらったから、三日前の朝、つまり今朝到着しているはずである。
「綱渡りだったな」
坊やに送稿完了を確認し、そう思ってほっとした途端、このミスを発見したのである。
東京用一本大阪用一本、予備として東京用をもう一本、三本受けとったCFの、大阪用を残して、他の二本を送ってしまったというわけだ。それがそのまま放送されたら――
「いいか、これがどんな結果を招くかもしれないか、よく聞けよ」
課長は、青い顔をしてかしこまっている坊やに言った。
「金曜の夜、大阪で何百万もの人があのCFを見てしまう。半額奉仕コーナー特設――これで、セールの始まる土曜の朝は、開店前から押すな押すなの人混みだ」
「訂正のポスターをはるとか、店内放送でおわびを言うとかできませんか」
おろおろと坊やが言った。頭が混乱してしまっているらしい。
「駄目だね、それは考えが甘すぎる」
課長は首をふった。
「客はそんなことでは納得しない。テレビで予告した以上、それは客にとってはすでに獲得したメリットなのだ。間違いでしたではすまされんのだ。商売とはそんなものだ」
「有名な話がある」
俺も言った。課長の狙いがわかったからだ。
「昔、あるデパートで土用に鰻の売り出しをした。ところが、それを知らせる新聞広告で、価格にミスがあった。ゼロがひとつ落ちていたんだ。千円が百円という具合にな」
「………」
「どうなったと思う。予告したことは果さなければ店の信用問題になる。売りましたよ、十分の一の値段で。損失百数十万だ」
「………」
「そして、その損害は広告を作った代理店がかぶらざるをえなくなってしまった」
「鰻どころではないからな、今度は」
俺と課長の言葉に、坊やは泣きそうな顔になった。ビジネスの恐さがわかったらしい。
「しかも我社《うち》は信用を失い、業界の笑いものになり、俺達媒体部員は減俸降格必至というやつだ。悪くすれば首もありうる」
「ど、どうすればいいんですか、僕は」
「どうもしなくてもいい。逆に、下手に騒いでもらっては困るんだ」
課長はニヤリと笑い、声を明るくした。
「後始末は俺達がやる。これから気をつけてくれればそれでいい。ただ、社内的に俺達の立場があるから、他人には黙っていてくれ。俺達だって、首は嫌だからな。いいな」
坊やの肩をたたき、腕時計を見た。
「十時だ。そろそろ局の連中が御出勤だろうから、こちらも動くとしようか」
「僕は飛行機の手配をしますから」
「ああ、そうしてくれ」
課長は立ちあがり、坊やに言った。
「なに、よくあることさ」
俺も言ってやった。
「心配するな、俺はこれでも事故処理のプロだからな」
少し薬が効きすぎてしょげてしまった坊やがかわいそうになり、心配するなと言ったのだが、実を言えば俺自身心配で仕方がない。
処理の手順はわかっている。大阪の局に電話をして直接CM担当者を呼び出し、素材の変更と新素材の持ちこみを連絡する。同時に飛行機を予約し、取れ次第飛べばいい。
こんな綱渡りを、俺は何度も経験してきたのだ。やってしまえば簡単なことなのである。
しかし、いらいらし、ヒヤヒヤする気持は、場数を踏んだからといって軽くなるものではないのだ。
CM担当者が不在だったらどうなるか。いてもそいつが杓子定規な人間で、「もう無理です、そんなこといちいち聞いてたら際限がありません」と突っぱねてきたらどうなるか。本当のことを言いにくいから、その可能性は充分にあるのだ。
あるいは、飛行機が取れなければ。新幹線も駄目なら。乗っても事故に出会ったら――
どの場合でも、送り間違えたCFがそのままオン・エアされてしまい、その瞬間、何百万人がそれを正しい情報として受けとめてしまうのである。混乱→損害→責任追及→俺。
また、すべてがうまく運び、無事に正しいCFが流されたとしても、まだ心配は残るのだ。大阪の担当者から東京支社に電話が入る。
「あんたしっかりしてくれな、土壇場でやいやい言われたらかなわんがな」
「えっ、そんな話、聞いてないよ」
「ははあ、スポンサーの予定変更とか言うて、ほんまは素材送稿でミスりよったんやな」
ばれてしまい、局の営業がそれを喋り、まわりまわってこちらにくる。
「何だ、あいつそんなに雑な仕事をしてるのか。何年、媒体マンやってるんだ」
サラリーマンとして、評価は明らかに下落するのである。噂→嘲笑→不信感→俺。
クライアントにも局にも平身低頭しなければならない弱小代理店の、俺は一介の平サラリーマンなのだ。
「いやあ、間違って送っちゃったんだ。正しいのを持っていくから頼むよ」
巨大代理店のように、笑いながらというわけにはいかないのである。
「というわけでですね、クライアントから急に変更指示が入ったんですよ。申訳ない」
課長が媒体部の隅の机にむかい、あたりをうかがいながら、送話口を手でおおうようにして頼みこんでいる。相手からは見えるはずもないのに、愛想笑いをうかべている。
俺もその隣りに坐り、航空会社の予約センターに電話をした。自然と声が小さくなる。
「は、もしもし、何でしょうか」
じれったそうな声が耳元できんきん響いている。正規の出張なら、堂々と予約できるのだが、本来不必要なそれだから他人に聞かれるとまずいのだ。小声で何度もくり返す。
「現在、飛行機は一機も飛んでおりません」
ようやく通じたらしく、相手の女性はこたえた。むこうも何かいらいらしているらしい。
「上空に停止している宇宙船が消えるまで、出発の許可がおりないのです」
あっと俺は思った。あの飛行物体、まだいやがったのか。俺は投げだすように電話を置き、応接室とは反対側の壁に並べられたモニター・テレビの前へ走った。総務だの経理だのの内勤社員が全員集まり、画面を見あげている。そうか、何か社内がざわざわしていると思ったが、これを見ていたのか。
「羽田ですか」
俺が聞くと、経理課長がふりむきもせずこたえた。
「何を言ってる。あれが新宿、あれが玉川、こっちが世田谷、それが赤坂だ」
どうやら、俺の知らない間に、東京中に宇宙船が現われていたらしい。大変なことになってきた。東京にとってという意味ではなく、いまのこの俺にとってだ。
「騒ぎが起こってるんですか」
俺の問いに、経理課長はふりむき、眼鏡ごしにあきれたような眼で俺を見た。
「あたりまえじゃないか、これで起きなきゃどうかしてる」
「何とか話はつけたぞ」
課長が傍にきて、俺の肩をたたいた。
「今日の夕方六時までなら待つとさ」
言ってからテレビ画面に気づき、緊張した声になった。
「行けるか?」
そう聞かれてもこたえようがなく、俺は経理課長に質問した。
「都内の交通状態はどうですか」
「新幹線、国電、高速道路、すべて大混乱だよ。事故続出らしい」
彼は何となく嬉しそうに言った。
「馬鹿が慌てて逃げまどうからさ」
俺は課長に眼で合図し、その場を離れた。
「どうしましょう、羽田は現在閉鎖中です」
「ふうむ」
課長は腕を組み、眉をよせた。
「六時までに入れなきゃアウトだ。ということは五時には大阪に着いてなきゃならん」
腕時計を見た。
「十時半だ。あと六時間半」
くそ、よりによってなぜこんな日に宇宙船なんか出てきやがったんだ。俺は地団太を踏みたい気になり、舌うちをした。あれさえ出現してなければ、飛行機といわず新幹線でも充分間にあうというのに。
「新幹線は危険だな」
課長は俺の顔を見つめ、自分自身に言いきかせるようにつぶやいた。
「もし途中で停止すればそれで終りだ。高架上なら、降りて在来線に乗りかえることさえできないからな」
「………」
「となると、やはり飛行機だ。いつ飛ぶかしれんが、飛んでしまいさえすれば一時間で着く。つまり、四時に出ても間にあうわけだ」
「飛行中に宇宙船から攻撃されないでしょうか」
チラッと画面を見てつぶやくと、課長は吐きだすようにこたえた。
「知るもんか。落ちたら落ちたときのことだ」
一瞬俺の葬式の情景が浮かんで消えた。遅れてアウトになるくらいなら、いっそその方がさっぱりしていていい。そう思った。それならクライアントも強いことを言いにくいだろうし、言っても俺には関係ないからだ。
切羽詰まるとかなり自虐的になるな――自分で自分の思考に驚き、俺は思いなおして言った。
「とにかく羽田へ行ってみます」
「金はあるか、何なら経理に」
「いえ、大丈夫です」
ふりきるようにこたえて、俺はリールをポケットに入れ、オフィスを飛び出した。
経理から金を借りようと思えば、仮払い伝票を切らなければならない。そして課長の印を貰い媒体部長の判を受け、さてそれから経理課長経理部長なのだ。
「え、三万円? 何だい突然に」
その質問を何度も受け、そのたびに最も通りやすい理由を考えて説明しなければならない。間違っても本当の理由は言えないのである。ならば自腹を切って処理し、あとでゆっくりと大義名分を考えて取り戻した方が、時間的にも保身上からも得策なのだ。
ビルの外に出て、タクシーをと思い、すぐそれは危険だと気がついた。
経理課長は、事故続出だと言っていた。Uターン禁止区域でUターンし、制限速度は守らず、信号も無視して突っ走る奴が多いのだろう。逃げなければ、とにかく逃げなければ。
皆そう思っているに違いない。自分の真上にあれが現われれば誰だってそう思うはずで、社内で経理課長達が妙に落着いていたのは、遠くの他人事をブラウン管を通して眺めていたからに過ぎないのだ。もしいまこの上空に現われてみろ。我勝ちに逃げ出すに決まっている。俺だってそうするだろう。いまはただ、このCFを大阪に届けなければ大変なことになると焦っているから、自ら宇宙船のいる羽田へと向かう気持になっているだけなのだ。そうでなければ、誰がわざわざ――
俺は有楽町にむかって小走りで急ぎ、途中気づいて、銀行のキャッシュ・カードを財布からぬき出し、外壁コーナーに駆けこんだ。
三万とボタンを押しかけ、五万円に訂正した。何でどれだけ必要になるかわからないのだ。余分に持っていた方が心強い。
札をポケットにねじこみ、駅へ走った。車道も歩道も、それほど混雑していない。まだ宇宙船が攻撃を始めたわけでもないので、混乱が都内全域にひろがってはいないのだろう。
ただ、遠くの方からパトカーのサイレンの聞こえてくるのが、不気味といえば不気味である。きっと各現場は戦場のように沸きたっているのだろう。ふん、俺の知ったことか。
俺は走った。改札をぬけ、ホームに駆けあがり、ちょうど発車しかけていた国電の、閉まりかけたドアに飛びこんだ。
これで浜松町まで行き、そこからモノレールに乗りかえて羽田へという目算である。ただし、モノレールが正常運行していればだ。
止まっていればどうなるか――そこまでは考えないことにした。そのときはそのときだ。
のろのろと電車は動き、新橋駅の構内に入りかけて停車した。アナウンスが入る。
「前方に電車がつかえておりますので、しばらくお待ちください」
くそ、新宿の混乱で山手線が団子になっているのだな。早く動け、早く動いてくれ。遠くまでとは言わん。新橋から浜松町、次の次まで行ってくれれば俺はそれでいいのだ。
時計を見た。十一時を少し過ぎていた。あと六時間だ。大丈夫、何とかなる――
俺は自分自身にそう言いきかせ、しかしもし駄目ならという恐怖をおさえきることもできず、いらいらと片足を貧乏ゆすりさせた。
他の乗客がどんな顔をしているか、そんなことはどうでもいいことだった。たとえ焦っていようが、それはたとえば人との待ちあわせとか書類を届けるとか、謝ればすむ程度の約束に過ぎないのだろう。しかし俺は、謝ってもすまない事件をかかえているのだ。
早く動け。宇宙船が何だ。そんな物が五つや六つ出たからといって、何をそんなに騒いでいる。動いてくれ、頼むから浜松町まで行ってくれ。それから先は、山手線を全面運休しようが何しようが、好きにしてくれればいいのだから――
時計を見た。十一時二十分だった。
それが三十分になり四十五分になり、とうとう十二時になってしまった。
乗客五時間カンヅメ――そんな新聞の見出しが浮かんできた。駄目だ、このままではアウトだ。ドアを蹴破ってでもこの車内から脱出した方がいい。
そう思ったとき、ようやく電車はのろのろと動きだし、新橋駅に入った。ドアが開くなり俺は飛び出し、階段を駆け降りて改札を飛び出した。歩道を走りながら両手をふりまわし、タクシーを止めようとした。一台、三台、五台目がやっと近づいてきた。
「どこまで?」
「羽田まで行けるか」
俺の声に運転手は首をふった。
「馬鹿言わないでよ、あんな所に行ったら殺されてしまう」
そのまま発車させようとした。俺は窓枠に取りつき、必死に叫んだ。
「浜松町でいい。五千円出す」
運転手は驚いて俺を見つめ、それから仏頂面でつぶやいた。
「モノレール、動いてなくても知らないよ」
乗った。走りだした。すぐ着いた。五千円を放り出すようにして払い、飛び出した。
「羽田まで動いてますか」
窓口で大声をあげると、中年の係員は不機嫌な顔をしてつぶやいた。
「動いてなきゃ窓口は開けておかんよ」
助かった。俺は思い、切符をひったくるようにして改札へと走った。十二時半を過ぎている。あと五時間だ。モノレールが停車している。
とてもじっとしておれず、ホームをせかせかと歩きまわり、ポケットの上からリールを何度も確認し、煙草を吸いかけて投げ捨てた。
三時間ほどにも思える十分間を待ち、発車のベルで飛び乗った。座席はがらあきだったが坐る気にはなれない。ドアにもたれて立ち、貧乏ゆすりをつづけた。
早く、もっと早く走れ。こんなときに途中の駅になんか停車しなくてもいい。とにかく一刻も早く羽田に着いてくれ――
しかし、当然のことながら、モノレールは各駅に停車するのだった。大井競馬場前、羽田整備場ええいくそ、止まるなというのに。
一時十五分、羽田に着いた。俺は飛び出し、階段を駆け降り、国内線のロビーに突進した。出発を待つ奴、キャンセルする奴、怒っている奴、黙っている奴。人混みをかきわけかきわけ、俺は搭乗手続カウンターヘと進んだ。何人もが口ぐちにどなっている。
「宇宙船といったって、何もしやせんじゃないか。こっちは危篤の病人が待ってるんだぞ」
「そうだよ、いつまで待たす気なんだ」
「僕はね、友達の結婚式に出なきゃならんのだよ。どうしてくれるんだ」
カウンターのなかで、係員も喧嘩腰になっていた。どなられつづけて逆上しているらしい。眼を吊りあげて怒っている。
「何です、東京が滅びるかもしれないときに、友達の結婚式でもないでしょうが」
割りこんで俺は叫んだ。
「滅びるなんて、誰が決めた。宇宙人がそう宣告したのか」
「………」
「滅びなかったらどうする。何事も起きず、平穏無事な毎日に戻って、そのとき俺達がいまこうむっている迷惑、あるいはいまから受けるかもしれない損害を、あんたの会社は弁償してくれるとでもいうのか」
そうだそうだと、周囲の皆が同調した。
「友人の結婚式を、そちら持ちでもう一度やってくれるのか」
「死にかけてる親類の爺さんを、そちらの力で生かしといてくれるのか」
負けじと俺も言ってやった。
「何百万何千万円の損害を支払うか」
じろりと俺を睨《にら》み、係員は問い返した。
「飛行機を飛ばせて、落ちたらどうします」
俺達を見まわし、彼は眼をぎらぎらさせてまくしたてた。
「宇宙船に攻撃されて、もし飛行機が落ちたらどうします。無論、あんた達は全員即死だ。それでもいいのか、そうなってもいいから乗せろというのか。だが、そうはいかないぞ。こっちはそんなこといくら言われても、一筆入れてきても、飛ばすわけにはいかないんだ。あたりまえじゃないか」
声をひきつらせて叫びだした。
「いくら一筆取っていても、落ちればこっちが悪者になるんだ。マスコミに叩かれ、遺族からは責められ、無茶だ無謀だ営利追求の犠牲者を出して何とも思わんのかとののしられるに決まってるんだ。うまくいけば何も言わないくせに、一度事故を起こせば、何もかもこちらが悪いということにされてしまうんだ」
顔を真赤にし、同じ言葉をくり返している。
「出すもんか、誰が出すもんか。出さないぞ、絶対出さないぞ」
彼を扇の要にして、カウンター越しにひろがっていた全員が黙りこんでしまった。皆、何となくバツの悪そうな顔をしている。
「わかったよ、そう興奮するな」
一人がつぶやいた。
「つまり、ここしばらくは出発できないんだな。そういうことなんだな」
「あたりまえじゃないですか」
言いたいことを一度に吐きだして感情が高ぶったのだろう、係員は眼に涙をうかべてこたえた。
「こんなときに、誰が出しますか」
「仕方がない、あきらめたよ」
結婚式に出る予定だった男が言った。
「祝電で勘弁してもらうことにしよう」
それがきっかけになり、皆が順に搭乗を断念し、チケットのキャンセルにかかりだした。
「………」
横に立ちつくしてそれを見ながら、俺はまた焦りだした。恐怖感がふたたび湧きあがってきた。駄目だ、このままではアウトだ。あのCFがそのまま放送されてしまう。そしてその先は、混乱→損害→責任追及→俺、なのだ。
時計を見た。もう二時前だ。あと三時間。
ということは、たとえ正常運行していても、すでに新幹線は使えなくなったということだ。ええい、くそ、どうしてくれようか。
俺はいらいらと爪を噛み、そのくせ何をしていいのかわからず、じっとキャンセル受付の様子を見つめていた。頭がどんどん空白になっていく。差し出されるチケットと、払い戻される現金だけが、変にくっきりと眼に入ってくる。この人、はい次の人、その次の人。
いいな、こいつら。キャンセルして家か会社に帰り、ああ災難だった――ですむんだからな。何が結婚式だ、何が危篤の爺さんだ。結局、どうあっても行かなければならないことなんて、ひとつもないんじゃないか。
「俺だけは、死んでも行かなければ」
ふっとそう思い、俺はまた頭を忙しく回転させ始めた。
そうだ、考えられる限りの手は打っておくべきだ。たとえばいまこうしている瞬間にも宇宙船は飛び去り、飛行再開の指示が出るかもしれないのだからな。俺は係員に言った。
「無駄になってもいい。とにかく、大阪までのチケットをくれ」
さっきどなったのとは別の係員が、あきれたように俺を見つめ、それから腹いせをするように馬鹿ていねいに言った。
「往復をお買いになりますと、割引がありますが」
「いらん、片道でいい」
仕事さえすませば、誰が飛行機になど乗るものか。新幹線で、弁当食いながら帰ってやる。俺は駄目押しするように言った。
「とにかく、一番早く出る便をくれ」
係員はニヤリと笑ってこたえた。
「お急ぎなら、国鉄の方が速うございますよ」
五時十分前、俺は伊丹の大阪国際空港に着いていた。
あれから三十分後の二時半、突然東京中の宇宙船が去り、それから一時間後の三時半に飛行場の閉鎖が解除され、四十五分発の一番機に乗りこめたからである。
「世話をやかせやがって」
狭くるしいシートに身を沈め、俺は大きく息をついてそうつぶやいた。
「まったく、何のために出てきたのかさっぱりわからん」
飛行中のアナウンスでも、その後どこに現われたということはまったく言わなかったから、あのままどこかへ帰ってしまったに違いないのである。
「ま、これで何とか首はつながった」
俺は思い、しかし一瞬こうも考えてひやりとした。
「まさか、リールを落としてないだろうな」
ポケットに手をあてると、ちゃんとそこに入っている。あたりまえだよな――苦笑して、次の瞬間、またこう思った。
「まさか、これも東京用じゃなかろうな」
あわててポケットから出してみた。記念セール用三十秒Bタイプ、れっきとした大阪用である。はは、当然じゃないか。これも東京用だなんて、そんな不条理なことがあってたまるか。ニヤリと笑い、しかしまた心配になってこう考えた。
「まさか、ラベルと中身が不一致ということはないだろうな」
現像所かプロダクションがミスをして、東京用を巻いたリールに大阪用のラベルを貼ってしまっていたら大変だ。いま俺が持っているこれが実は東京用で、先に大阪へ送った東京ラベルの中身が大阪用だったら――何のことはない、俺はまったく無駄なあがきをしていることになるのだ。
いや待てよ、それなら笑い話ですむが、その逆だったらどうなる。つまり、いま俺の持っているのが大阪ラベルの東京用で、大阪にあるのが東京ラベルの東京用で、東京にあるのが東京ラベルの大阪用だったら――
「アウトだ」
ぞっと背筋が寒くなり、俺はつぶやいた。
その場合、時間的に考えて東阪両局とももはや素材変更は不可能であり、東京で大阪、大阪で東京のCFが放送されてしまうのである。となるとその損害額は――
俺はあわててリールを持ちなおし、16o幅のフィルムをひっぱり出した。三十センチほどひっぱり、カウント・リーダーが始まる直前の黒ベタ部分を機内照明に透かしてみた。
記念セール三十秒Bタイプ、罫《けい》書きされた文字が白く抜けていた。
「あたりまえだよな」
いくらでもひろがる自分の白昼夢的被害妄想に、我ながらあきれて俺はニヤリと笑った。
どうも俺は、悪い方へと考えすぎる。第一そんな間違いがもしあったとしても、それは現像所かプロダクション、つまりクライアント側が処理した過程でのミスであって、この俺には何の責任もないではないか。
「しかし、中身の確認くらいするべきだろう」
そう言われても、こうこたえればいいのだ。
「送稿に一刻を争ってましたから。それに、まさかお宅様のお取引先がこんな初歩的なミスをなさるとは、思ってもみませんでしたので」
そして損害賠償請求書は、そのままブロダクションヘまわせばいいのである。うん、まわすときにこう言ってやろう。
「困りますよ、局に対しては我社が謝罪しなけりゃなりませんからねえ。これはあなた、我社も無形の損害をこうむっているわけですよ」
弱肉強食、どうも俺もワルになってきたな。
ニヤニヤ笑ってリールをポケットに戻し、俺はシートにもたれて眼をつむったのである。
五時十分前、伊丹に着いた。
ゲートを出て、大阪の局のCM課に電話をした。
「例の変更素材を持って、いま着きました。これからそちらへ向かいますので」
「早よ来てや」
電話のむこうで、あくびまじりに相手はこたえた。
「今日はワシ、早よ帰りたいんやからな」
「何で行けば一番早く行けますか」
「空港バスや、二十五分で大阪駅前に着くわ。そこからタクシーに乗ったらええ」
電話を切り、外に出て、言われたとおり空港バスに乗った。五分ほど待つと走りだした。
インターチェンジから高架の高速道路に入る。時計を見ると、五時十五分だ。駅前に着くのが五時四十分、そこからタクシーで、まあ十分程度か。うん、大丈夫、間にあった。
ようやく俺は安心し、窓の外を眺めた。
「あっ」
その瞬間、俺は声をあげていた。宇宙船だ。斜め前方の空に、またあの巨大な葉巻型宇宙船が現われていたのだ。夕陽を受けているためか異様に眩しく輝いたそれが、いま見えているだけでも三機四機五機、五機編隊をつくってバスと同じ方向、つまり大阪の方へと飛んでいく。俺をあざ笑うように、いやに静かにゆっくりと、だが針路を変えずに飛んでいく。
騒ぎだした乗客の声が、変に違和感を伴って聞こえてくる。走行スピードが、極端にのろくなったように感じられる。
駄目だ、アウトだ。スーッと頭が――いやそうはいくものか。ぶるぶるっと頭をふり、俺は立ちあがって叫んだ。
「運転手、速く走ってくれ。とにかく早く大阪へ着いてくれ」
前方をむいたまま、運転手は片手でマイクをつかんでこたえた。
「騒がないでください。前に車がつかえています。走行中は立たないでください」
そう言われて坐れるものではない。俺は頭に血が逆流するのを感じ、立ったまま叫んだ。
「この道路を早く降りないと危険だぞ」
思いついて、言ってやった。
「東京では、高速道路が集中的に狙われ攻撃されたんだぞ」
乗客のなかから悲鳴があがった。半数くらいが立ちあがっている。東京以外からの客らしい。
「君、それは本当か」
「本当だとも」
俺は嘘の駄目押しをした。
「東京の交通網を全滅させて、いまこっちにやってきたんだ。いまに反転してきて、この道路を攻撃してくるに決まってる」
全員が総立ちになった。パニックはこういう状況で起こるのだな。俺は思い、とにかくいまはその恐怖感をひとつの方向、一秒でも早く大阪駅に着かせるという要求にむけさせた方が得策だと考えた。
ひょっとして、ここより大阪市内の方が危険なのかもしれない。早く到着したために、かえってこの乗客達は災難に巻きこまれることになるのかもしれない。しかし、そんなこと知るものか。他人の心配をして何になる。
とにかく、いまこの俺は、一刻も早く局に素材を届けなければならず、そのためには、宇宙船が向かっていようがミサイルが向かっていようが、大阪市内に一分一秒でも早く突入しなければならないのだ。
そうだ、まさしく突入だ。俺はいまから、何に阻まれ誰に妨害されようとも、それを撥ねのけ押しのけ大阪市内に突入し、六時までに局に駆けこむのだ。
それが義務だ、俺の使命だ。
俺はもう何も考えてはいなかった。恐怖も不安も消え去ってしまい、一種爽快感だけが湧きあがってきていた。
全国津々浦々何千万のサラリーマン。そのなかに、いまのこの俺のように充実し高揚した気持で仕事に取り組んでいる奴が何人いる。
これだけ緊張し、失敗すれば己のサラリーマン生命を剥奪されるのであるというぎりぎりの水際に立ち、混乱のまっただなかへ突入していこうという奴が何人いる。
「早く大阪に着くんだ」
職務遂行の喜びに燃え、俺は叫んだ。
「そうしないと、お前も殺されるぞ」
途端にどっと加速がつき、俺達はいっせいになぎたおされ、背骨を強打し、頭を打った。
突撃兵となった運転手は、クラクションを鳴らしっぱなしにし、荒っぽいSの字運転をして、追い越し割り込みをくり返している。
巨象の突進が始まったのだ。
「坐れ坐れ」
俺は命令した。
「坐って頭を伏せろ、身体の力をぬけ」
その言葉の終らぬうちに、どんと下腹にこたえる音が響き、強烈な衝撃が車体を揺るがせた。チラッと窓の外を見ると、軽四輪が横転しており、それは一瞬で後方へ飛び去っていった。
ぐいぐいと加速がついていく。ライトバンの横腹をごりごりとこすり、オートバイを人を乗せたままガード・レールから宙に撥ね飛ばし、自分自身胴をこすりフロント・ガラスにひびを入れて突っ走っていく。そのひびの隙間から、轟々と烈風が吹き込んでくる。
吹き込んでリア・ウィンドウに当たって逆流し、車内に龍巻を起こしている。網棚の荷物は落下して散乱し、老若男女髪を逆立て、必死でシートにしがみついている。
「進め、進めえっ」
俺は絶叫し、運転手もそれにこたえて秘術をつくし、秘術至らぬ場合は力で押しのけ撥ねのけ、狂走をつづけて十分後、バスは大阪市内に突入した。ビル街の迂回ルートをアクセル踏みつづけで一周し、逆落とし同然でインターを降り、信号無視を二回やって大阪駅前に急停止した。
「逃げろ」
それだけ叫んでバスを飛び降り、俺はタクシー乗場へと走った。助手席の窓を叩いた。
「――テレビ」
「阿呆か、あそこら一帯通行禁止じゃ」
うぬ、あの宇宙船、あくまで妨害する気だな。
「行ける所まででいい、五千円出す」
「あかん、死にとないわい」
俺はポケットから札をつかみ出して叫んだ。
「禁止区域の前まで、一万円」
ドアが開いた。乗った、走った、すぐ着いた。道路標識『梅田新道』、野次馬でいっぱいだ。
「――テレビはどの方向だ」
「ここをまっすぐ、南森町越して右っ側」
車を降り、空を見あげた。宇宙船がはるか上空に音もなく停止している。同じ高さで、間隔を置いて左にも一機、右にも一機。
「どうなってるんだ」
道路を封鎖している警官に聞いてみた。
「どうもなってない、ただ浮いてるだけや」
「――テレビヘ行きたいんだ」
「無理やな」
彼はそっけなく首をふった。
「なぜ無理なんだ。局も通行禁止区域内なのか」
「いや、あそこは違う」
「じゃあ、行けるじゃないか」
「行かれへん言うてるやろ」
警官はいらいらしたようにこたえた。
「宇宙船が五機、間隔を置いて大阪の北から南にかけて並んでるんや。いつ何をしてくるかわからん。そやから、梅田から梅新通って御堂筋を難波まで、扇町から南森町通って松屋町筋を天王寺まで、その二本の道にはさまれた地域は、北から南までずっと通行禁止になっとる」
警察も警察だ。たかが宇宙船の五機くらいで、何ということをするのだ。大阪市内を北から南へ、まるでこれではベルリンの壁ではないか。
「さっき、高速道路は通れたぞ」
「なにい」
警官は眼をむいた。
「お前か、封鎖線突破したバスは」
「俺じゃない、俺はただの乗客だ」
はぐらかして、質問をした。
「地下鉄はないのか」
「四ッ橋線以外、全面ストップ」
「どうして地下鉄まで止めるんだ」
「当然やないか」
眼をむいたままこたえた。
「もし攻撃されて生理めになったらどうする。お前、責任とる言うんか」
「誰がとるものか」
俺はもっと他の責任をとらなければならないのだ。腕時計を見た。六時十五分前だ。
ええい、どうすればいいのだ。北か南をぐるりと迂回し、非禁止区域を通って|あちら側《ヽヽヽヽ》へ入りこむか。いや、そうしている時間はすでにない。地下も駄目、空中勿論不可能だ。
ならば手段はひとつしかない。よし、やるぞ。
「どけどけ、そこをどきやがれ」
俺は警官を突き飛ばし、禁止区域内に飛びこんだ。強行突破、敵中横断約半里だ。
「待て、待たんか」
誰が待ってなどいるものか。俺は走った。
車は通らず、我勝ちに避難したのか人の影ひとつ見えないビル街を、俺は必死に走りつづけた。これも仕事だ、義務だ、使命だ。
チラッとふりむくと警官が追ってくる。車は使わず、二本の足で追いかけてくる。
「この場に及んで、捕まってたまるか」
俺はビルの角を右折した。狭い谷間を、どたどたと靴音を響かせ、次の角で左折した。
酒屋があった。無人の酒屋。店頭に自転車が放置されている。これこそ、天の助けだ。
ひらりとそれにうちまたがり、全速力で走りだした。よし、これで大丈夫だ。
ぐいぐいとこぎ、ずんずんと進んだ。
「!」
前方に円盤が現われていた。葉巻型ではなく、写真でよく見るあの型だ。それがスッと降下して道をふさいでいる。
おのれ、円盤から発進したスカウト・シップだな。どうでも俺を阻止する気だな。
必死にブレーキをかけて左折した。そのまま進み、最初の大通りに出て右折した。
おお、もう少しだ。その証拠に、むこうの封鎖線に立つ警官の姿が見えている。
俺はこいだ。進んだ。突撃した。
「うわっ」
またスカウト・シップが現われた。
「ええい、邪魔だ邪魔だ邪魔だあ」
もはや右折も左折もしてはおれない。俺は覚悟を決めて直進し、スカウト・シップめがけて突っこんでいった。激突――
「!?」
そのままそこを通りぬけた。くそ、実体ではなかったのか。三次元の虚像を使い、俺の眼をくらまそうとしたのだな。
「どけどけどけどけっ」
こちらの封鎖線。パトカーの間をすりぬけ、警官をはじき飛ばして、俺は進んだ。
「待て、待たんか」
その声を背に、ペダルも折れよと俺はこぎ、歩道に乗りあげ見物人をなぎ倒し、その身体を乗り越え乗り越え、ひたすら進んだ。
「あそこか」
テレビ局が見えた。右折したすぐ前に、テレビ局が見えていた。それがぐんぐん眼の前に迫る。
「素材到着、素材到着」
絶叫しながら、俺は自転車に乗ったままテレビ局の正面玄関に突入した。そのままロビーをつっきり廊下を走り、正面奥のCM課に両腕を大きくあげて飛び込んだ。競輪選手のゴール・インだ。
「変更素材、持ってきましたあ」
横倒しにたおれながら、俺は叫んだ。
でっぷりと太った局員が、のっそり立ちあがってこたえた。
「おおきに、御苦労はん」
壁の時計は、六時ジャストを示していた。
とうとう俺はやったのだ。次から次へと現われ立ちふさがった障害を乗り越え乗り越え、みごとに使命を果したのだ。
これこそ男だ、男の世界だ。どうだ、全国津々浦々のサラリーマン。お前ら、こういう離れ技ができるか。したことがあるか。やりぬくだけの根性があるか。
局のフロアに倒れたまま、俺はこみあげてくる満足感をおさえることができず、大声で笑った。笑いつづけた。
「わはは、わははは、わははははは」
それだけが動いていたので、夜行のハイウェイ・バスで東京へ戻り、翌朝、八重洲口前からそのまま俺は出社した。
一日休み、アパートに戻って眠ってもよかったのだが、何食わぬ顔で定刻出社して初めて、離れ技の美学が完成するからである。
「おや、昨日は一日見かけなかったな」
「ああ、代理店会議でさ、局にカンヅメ」
エレベーターのなかで、話しかけてきた連絡マンにそうこたえ、俺は彼の肩をたたいた。
「そうだ、例のデパートのCF、昨日で送稿完了したよ」
「お、それはすまん」
彼は片手をちょっとあげて拝む恰好をし、ついでにお世辞を言った。
「ひやひやしてたんだけど、さすがだな」
「なに、大したことないよ」
実は昨日あったことを、昔の話のように言ってやった。
「三日前に送稿ミス発見して、走りまわったことだってあるんだからな」
ともあれ、これで、記録上この仕事は何の事故もなく完了したことになるのである。
内実を知っているのは、俺と課長と坊やだけ。それ以外の者にとっては、ごくありふれた仕事としてしか、記憶には残らないのだ。
俺の評価、まずは安泰である。
さて、あとは経費の精算だけだ。うん、確か来月、局を招待してゴルフ・コンペをやるといっていた。あの予算のなかにまぎれこませるとしようか。そうだ、それがいい。
俺は何事もなかった顔でオフィスに入った。
「おい、また宇宙船だぞ」
モニター・テレビを見ていた奴が、俺に声をかけてきた。
「へえ、まだ大阪にいるのかい」
近づいてテレビを見あげた。アナウンサーがニュース原稿を読んでいる。
「というわけで、このデパートは東京大阪両店とも、エレベーター・照明・空調関係、その他一切の電気設備が使用不能となり、とりあえず本日から二週間の休店を発表いたしました」
「………」
がんと頭を殴られたように感じ、俺は画面を見つめたまま、その場に立ちつくした。
「今朝早く、例の宇宙船がデパートの上空に現われて、変な光線を発射したんだとさ」
誰かが説明しているその声が、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
「大変だよ、セールのCF止めなきゃ」
さっきの連絡マンの悲鳴に近い声も、まるで水の中で聞いているようだった。
頭のなかには、浜松町・羽田・大阪と走りつづけた自分の姿が浮かんでいる。
くそ、いったい俺は何をしたのだ。昨日一日、あれだけの金とエネルギーを使い、結局何をしたというのだ。
「………」
社内がざわつきだした。連絡マンが飛び出していく。媒体部長が自ら電話にかじりつき、放送中止を局に連絡している。
「知るもんか」
俺はのろのろと窓際へ歩き、遠くの空を見あげた。一度に疲れが出て、それが高揚していた気分を、どん底にまで突き落としたようだった。甘酸っぱく、泣きたい気持だった。
「あの宇宙船、あれはいったい何のために出現してきたのだ」
俺の疾走を止めるため――そう思えた。
「そういえば」
こうも思った。
「なぜ俺は、あんなことに爽快感を覚えたのだ」
そのとき、また宇宙船が一機現われた。遠くの空で、それは俺に合図するようにチカッと一度光り、そしてそのまま消えていった。
だが、こんな毎日をつづけていく限り、あれはしつこく現われるに違いない――
何となくそう思い、俺はつぶやいた。
「この先はもう、皆でやってくれ」
社内はざわついていた。
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田吾作モッブ
枕元の目覚し時計が鳴りだした途端、俺は跳ね起きていた。ベルを止め、立ちあがって電灯をつける。いつもとは比べものにならない機敏な行動である。
いつもは、七時に鳴る目覚しを布団ひっかぶって腕だけつき出して止め、そのまま眠りこんで約一時間、八時頃にようやくもぞもぞと寝ぐらを這いだしているのだ。
それが今朝は、まだ四時過ぎだというのに、いそいそと床を離れている。
「勝手なものだな」
俺は自分自身そう感じて苦笑し、パジャマ姿のまま隣りの事務室に入った。
暗いままの部屋を手さぐりで窓際により、外を覗いてみると案の定明りひとつ見えない。
村中が、まだ眠っているのである。
「ちょうどいま頃が覚めかけのはずだ」
俺はひとりでニヤニヤしながら、部屋の片隅にある机にむかい、簡易放送設備のスイッチを入れた。赤いパイロット・ランプがともり、机の上だけをぼんやりと明るくしている。
「まず、一号だけでやってみるか」
二号スピーカーのスイッチを切り、一号の音量ダイアルを少し低めに調節した。
マイクをひきよせてスイッチを入れ、指先で軽く叩いてみた。窓の外、左手の闇間遠くから、コツコツという音が聞こえてくる。
「よしよし」
俺はほくそえみ、マイクに顔を近づけてささやいた。
「今年は豊作じゃぞ、大変な豊作じゃ」
ゆっくりと、自信ありげにくりかえした。
「豊作じゃ。喜べ、今年は豊作間違いなしじゃ。黄金《こがね》の秋を迎えられるぞ」
俺のささやきが一号スピーカーから流れ出てひろがり、ここまで聞こえてくる。我ながら、なかなか説得力のあるアナウンスである。
「今年は豊作じゃぞ、今年は豊作じゃぞ」
同じ言葉をゆったりとした調子で流しつづけ、十五分ほどかけてから、スイッチを切った。
「さて、これでうまくいけばいいんだが」
効果を期待して胸をわくわくさせながら、俺は窓の外を眺めた。日の出には、まだ少し時間があるようだった。
はっきり言って、俺はこの村の奴らが嫌いである。頑固で古くさくて迷信に凝りかたまった、どうしようもない連中なのだ。
山間の小さな村、住民数五十人余り、稲作と野菜作りによる半自給自足生活。とこう書けば、ははあ典型的な過疎の村だなと思うだろう。爺さん婆さんばかりで、若者は都会に出たまま戻ってこない、気の毒な村なのだなと考えるに違いない。
しかし、それは早合点というものである。
この村には老人もいるがむしろその数は少なく、壮年と中年の人数の方が多いのだ。若いのだって何人かいる。
ほほう、それはつまりいま話題のUターン現象というやつですな――
それも早とちりだ。Uターンも何も、奴らは生まれてこの方、この村を一歩たりとも動いてはいないのである。ここで生まれここで育ち、ここで死ぬのを信じて疑わぬ人間なのである。その集まりなのだ。
その原因は信仰である。古くから山に住む天狗が、彼らにここに住んで自分を敬うように命じ、さすれば我汝らを守るであろうとのたまわれたというのである。
古くからといってもせいぜい江戸時代、どこかの領地から村ぐるみ逃散《ちようさん》してきた連中がここに隠れ住み、希望と連帯をたもつためにそんな話をつくりあげたのだろうと俺は思っているのだが、以来何百年、昭和の今日になってもしつこくそれを信じている奴らがいるわけで、父祖伝来の田畑にしがみついて、彼ら曰くの平和で安楽な日々を送っているのである。
それはそれでかまわないじゃないですか――
そう言う人間がいるかもしれない。しかし俺は嫌いだ。信じきった善男善女が、その実その信仰によって欲求や感情を圧迫され変形され、内心どろどろとした欲望を渦まかせている。
それを見るのが不愉快だし、そんな奴らに俺が三年もつかまっていなければならぬのかと思えば、ムラムラと腹がたってくるのである。
「それは何だな、お前さんの近親憎悪と焦りだな。うん」
大学を出てここに戻ってくるとき、俺の気持を聞いて友人はそう言った。そうかもしれない。だが、そうだからといって、俺のこの気持がやわらぎはしないのだ。理由がわかればなおのこと、嫌悪と焦りは強まるのである。
「皆の衆、何とかこいつを大学に行かせてやってくれ」
死ぬ直前の親心とはいえ、親父もいらぬことを頼んだものだ。俺としては、なに、新聞を配ってでもと思っていたのだが、その言葉のために村中の寄付金を押しつけられるはめになり、おまけにその代償として、卒業後三年間は村の雑務係をしなければならなくなってしまったのだ。
母親も死に、気のきいた若い奴らも次つぎに逃げだし、最も狂信的な連中だけになってしまったこの村へ、だから俺は泣く泣く帰ってきたのである。約束は約束、俺もその辺は律義だからだ。
村の雑務係、こんなにくだらぬ仕事はない。
寄合所に泊まりこみ、その一室を事務室にして、することといえば日用品の買物リストを作って五日に一回やってくる行商人に渡したり、村の両端に設置された街頭スピーカーで時刻を知らせたり、ごくたまにくる郵便物を届けたりするだけなのだ。
大学の友人は商社マンになったり公務員になったりしてバリバリ働いているというのに、三年の期限つきとはいえ、こんなことをしていて俺はいったいどうなるのだろうか。
そう思うと、頭をかきむしりたくなり、即刻逃げだしたくなり、それをできない自分の律義さに、ますます腹がたってくるのである。
その焦りと腹だちを静めるために、代償行為として俺は本を読みだすようになった。
学生の頃はほとんど読まなかった分厚い教科書を、暇つぶしもかねて読み始めた。
そしてある日、社会心理学の教科書をめくっていて、俺は自分のイライラを解消する方法を思いついたのだ。
「村の連中を、東京にひっぱり出してやろう。こんな村なんかなくしてしまうのだ」
そう考えたのは、「群衆行動」の項目を読んでいるときだった。群衆行動には攻撃的・利得的・逃走的などの種類があり、そのひとつとして表出的群衆行動《エクスプレツシブ・モツブ》というものがある。別名「底ぬけ騒ぎ的行動」ともいい、退屈な日常からの解放を求める感情が基盤になっているという。昔の「ええじゃないか」はその一例である。
「ひっひ、これはおもしろい」
俺は思い、群衆行動の一般的特徴をこの村の連中にあてはめて考えだした。
一体感親近感、これはもともと備わっている。無名性無責任性無批判性、これは行動に移ってから現われる特徴だ。では、その行動はどうやって起こさせればいいのか。
欲求の解放・被暗示性、この特徴を利用すればいいのだ。これを逆から考え、欲求を解放させるべく、暗示を与えてやればいいのである。そしてその暗示は、奴らの共通の関心を核心にして、次第に行動へと駆りたてる手順を踏めばいいのだ。
「共通の関心といえば天狗信仰だ。それと、表面的には嫌い軽蔑している都会の生活か」
内心では興味津々である証拠に、奴らは俺に根掘り葉掘り東京のことを聞き、聞いた挙句に天狗に義理立てをして、ふんと鼻先で小馬鹿にするのである。実は自分も体験してみたいのであることを、俺はちゃんと知っているのだ。
「暗示はスピーカーを使えばいい。睡眠学習の要領だ」
こうして俺は、自分の暇つぶしと奴らへの腹いせのためにモッブ計画を練り、その手始めとして、今朝から暗示を開始したのである。
「まあ、一回だけでは無理だから、一週間ほどは豊作暗示をつづけることにしよう」
寝入りばなは眼を覚ましやすいし、暗示がもとで夢を見ても翌朝覚えていないかもしれない。だから時刻は早朝四時頃にしたのだ。
寝坊助の俺でも、目的があると嬉々として飛び起きることができるのである。
はっはっ、いまに驚くなよ――
三日目に、早くも効果が現われてきた。
一号スピーカーに最も近い家に住む源二郎という親爺が、妙ににこにこしだしたのだ。
夕方、寄合所の前を通りかかり、俺の姿を見て、源二郎は声をかけてきた。
「やあ、いつも御苦労さんじゃのう」
この男の狂信ぶりは村でも最右翼に属し、東京に出て働くと宣言した娘に殴る蹴るの折檻を加えたうえ納屋にとじこめ、こういう娘が我家から出たのはわしの責任、御先祖様と天狗様に申訳がないと、自らも懺悔のために一週間断食をしたほどである。
ついでに言うと、娘は隙を見て手荷物ひとつで家を飛び出し、そのままいまだに帰ってきたことがない。源二郎曰くは「信仰を忘れる奴は人間じゃない。どうせいま頃は、獣の道にでも落ちこんどるのじゃろう」ということだ。親でもない子でもないという気らしい。
そんな男だから、たとえ四年間にせよ村を離れていた俺などは半分獣であるわけで、ここに帰ってきてからも、必要以外の言葉をかけてきたことなど一度もないのである。
それが、今日はにこにことしている。
「何か、いいことでもありましたか」
事務室の窓越しに、俺は言った。
「馬鹿に嬉しそうじゃありませんか」
「そりゃそうじゃて」
源二郎は窓際までやってきて、窓枠に腕をつき、五分刈りのジャガイモ頭をふった。
「今年はな、稲の実りがいいそうじゃで」
ははあ、暗示が効果を現わしたな。ピンときた俺は、それがどんな受けとめ方をされているのか探ろうと、何くわぬ顔で質問した。
「でも、いまはまだ五月ですよ。雨も台風もこれからだというのに、そこまでわかりますか」
「そりゃお前、勘というもんじゃ」
彼は自信たっぷりにうなずいた。
「夢にまで見たんじゃ。絶対豊作、そうとしか思えんわい」
「夢にねえ」
心のなかで舌を出しながら、俺はなおも疑問を表明した。
「そりゃ、願望がそのまま出たんでしょう」
「いいや、そうじゃない」
源二郎は真顔になった。
「一度だけならそうかもしれん。じゃが、わしは二晩つづけて同じ夢を見たんじゃからな。これは願いだけではありえんことじゃ」
「なるほど、それは凄いですね」
おつきあいで俺も真顔になり、相手が喜びそうなことを言ってやった。
「ひょっとしてそれは、天狗様のお告げかもしれませんね」
「お前も、そう思うか」
彼は身体を乗りだした。
「実はわしもそう思うとる。というのが、夢のなかでわしは天からの声を聞いたんじゃからな。喜べ、今年は豊作じゃとな」
完全にひっかかっている。スピーカーからの俺の声が刺激になって夢を見、おまけに声そのものまで覚えてくれているのだ。
「やはり、日頃の精進が認められたんですよ。それは間違いなく、天狗様ですよ」
駄目押しをしてやると、源二郎は満足そうにうなずき、窓際から離れた。
「今夜もお告げがあるじゃろう。寝るのが楽しみじゃわい」
翌日の夕方も、彼は声をかけてきた。
「やっぱり見たぞ、声も聞いたぞ」
昨日以上のにこにこ顔になっている。
「おまけにわしの女房も、隣りの爺さんも婆さんも、よく似た夢を見たと言うとる。これはもう、どう考えても天狗様じゃて」
「そうでしょうねえ」
俺は言い、わざとらしく頭をかいた。
「いやあ、そういうことって本当にあるんですねえ。学校じゃ習わなかったけど」
「あたりまえじゃ」
源二郎は、東京と大学を見下せる喜びに舌なめずりをした。
「信心の力は、ふわふわした奴らにはわからんのじゃ」
「それはそうと」
俺は笑いを消し、声をひそめた。
「夜から朝までは誰も起きてないようにした方がいいかもしれませんよ」
「ん? どうしてじゃ」
「だって、ひょっとして天狗様が村の上空を飛んでおられるのかもしれませんからね。
外に出てそのお姿を見ようとしたり、夢ではなく直接そのお声を聞こうとしたりする人が出たら、失礼にあたるでしょう」
「なるほど」
彼は腕組みをして首をかしげた。
「それはもっともじゃな。よし、早速村の皆にそう命じよう」
彼は事務室に入ってきて、マイクを使い放送した。
「皆の衆、源二郎じゃ。天狗様のお告げが聞きたくば、夜から朝までぐっすりと眠れ。誰ひとり、起きていることはならんぞ……」
予防線を張った結果、俺は安心して放送をつづけられるようになったのである。
一週間たった頃には、一号スピーカーの可聴範囲内にある十一世帯二十八人全員が、天狗様のお告げを信じて疑わないようになっていた。噂はすぐにひろまっていたし、我も見たい聞きたい、見えるはずだ聞こえるはずだと思いこんで眠るのだから、集団催眠に自己暗示を加えたようなもので、軒並み俺の声に反応を示したのだ。
おかしいのは二号スピーカーの放送範囲に住む連中で、三日四日目までは誰ひとりそんな夢を見た者がいないというので、一号の奴らから冷笑されだした。
「なあ、やっぱり普段の心がまえが違うから、あの神々しいお声を聞けんのじゃ」
「まったく、奴らは揃って不信心者。大方、義理で拝んどったのじゃろう」
唯一の共通基盤、精神的バック・ボーンへの態度を疑われるのは、この村においては存在を否定されるのと同じことである。二号の連中、必死になって夜は早くから床についたのだが、その義務感と不安感で見る夢は豊作風景とは大違い。
「天狗様が縄持って追いかけてこられた」
「そりゃまだええ。わしなど天狗様にのしかかられ、顔一面かきむしられたわ」
「天狗様が怒っとられる証拠じゃ」
源二郎以下一号の奴らは、夢を共有している優越感と安心感で、ますます二号連中を見下し始めた。
「昨夜は、天狗様がわしらを誉めてくだされた」
「そうじゃ、そのうち良いことがあろうとおっしゃられてな」
「一緒じゃ一緒じゃ、わしも一緒の夢を見たぞ。いひひひ、いひひひ、いひひひひ」
「さて、次にかかるか」
一週間を豊作暗示で進めて一号の奴らをその気にさせ、二週間目に俺は計画の第二段階に移った。
「溜池を調べてみよ。溜池の土手を調べてみよ。わしは天狗なるぞ」
先日、暇にまかせて溜池のあたりまで散歩に出かけたとき、俺は土手に一カ所割れ目の入っていることを発見した。放っておいても何ということはない小さな亀裂だったが、見つけた瞬間、これを利用してやろうと思ったのだ。
「溜池の土手を調べてみよ。さもなくば、田が水をかぶるぞ。われは天狗なり」
今週は一号スピーカーのスイッチを切り、二号だけで放送しているのだ。
今度は二日目にあっさり効果が出た。考えてみれば当然で、何とか天狗様のお声をお姿をとじりじりしているところだったから、たちまち全員一致の夢を見たのだ。
「お告げじゃお告げじゃ」
「溜池へ急げ、天狗様のお告げじゃぞ」
九世帯二十三人の老若男女、夜が明けるなり鋤鍬《すきくわ》かついで家を飛び出してきた。
「おっ、皆の衆、これを見なされ」
マツという、源二郎と肩を並べる天狗かぶれの婆さんが、亀裂を見つけて声をあげた。
「これじゃ。これが天狗様の言われた、田が水をかぶるという原因じゃ」
「おお、何という恐ろしい裂け目じゃ。これがもし破れてみろ、田畑はおろか、村中が水の底じゃ」
入れば腰の高さほど、石を投げれば軽くむこう岸に届く程度の溜池なのに、お告げを受けた嬉しさと、それが本当であった喜ばしさ、おまけに一号の奴らはこれを知らんのじゃろうという立場逆転の快感に、話をどんどん大きくしている。
「な、あんた、どう思う」
笑いを噛み殺し、一応感激したような顔で立っていた俺にまで、同意を求めてきた。
「こういう大切なことをお知らせくださるというのは、天狗様が、わしらこそ本当の信心をしておるとお認めくだされた証拠じゃないかいの」
「そうかもしれませんねえ」
俺は連中の肩を持ってやった。
「先の豊作は、いまこの裂け目を見つけてなけりゃ、ありえなかったでしょうからね」
「そうじゃ、その通りじゃ」
マツ婆さんが、白髪頭をふり乱し、眼だけを若い娘の如くキラキラさせて叫んだ。
「わしらがこの村を救ったんじゃ。天狗様は、わしらのものじゃ。皆の衆ついてきなされ」
彼女を先頭に、一同村へひき返し、一号区域を練り歩きだした。
「天狗様は、わしらのものじゃ」
「土手を救ったのは俺たちじゃ」
「お前ら、そんな夢見なんだじゃろう」
口ぐちに叫び、歓声をあげている。
源二郎を初めとする一号の連中、悔しいけれども実際夢を見なかったのだから仕方がない。土手を見に行き、あんな割れ目など心配するほどのことではないと言う奴もいたが、それではお前は天狗様の御心配を馬鹿にするのか、ああそうか、お前はそういう不信心な男だったのかと逆襲されて黙りこむ。
大義名分は相手方にあるのだから、どうにも反論のしようがなく、悔しそうに爪を噛むしかないのだった。
こうして村は、源二郎派とマツ派に分かれ、双方が正統を称して譲らず、次のお告げがそのどちらに下るか、今日か明日かと待ちかまえる状態に入っていった。
村人全員、夜は八時に寝てしまうのである。
「さて、そろそろ本番にかかろうか」
ニヤリと笑って、俺は思った。
「お前達に頼みがある。わしは天狗なるぞ、わしは天狗なるぞ」
何日間か空白をおいて村の連中をじらせてから、俺はいよいよ本番を開始した。
「山はあきた。東京が見たい。わしは、東京が見たいぞよ」
一号二号の両スピーカーを使い、俺はおごそかに東京東京とくり返した。
今日か明日かとお告げを待っていた連中、それだけで大脳を強烈に刺激され、軒並み夢を見てしまったらしい。
「はて、おかしな夢を見た」
翌日の夕方、その日いっぱい考えたがどうにも合点がいかぬという顔で、源二郎がやってきた。
「ちと、相談をしたいんじゃがな」
いつかのにこにこ顔を消し、といって以前俺を見ていたような冷然としたまなざしでもなく、心底困りきった表情で俺にささやいた。
「いまから言うことを、マツなぞに喋ってもらうと困るんじゃが」
「どんなことでしょう。別に他人に言ったりはしませんが」
「ふむ、実は天狗様のお告げじゃが」
彼は首をかしげた。
「わしは昨夜、新幹線の夢を見た。あれはいったい、何のお告げじゃろう」
うっと笑いだしかけて、俺は必死にそれをこらえた。この男、何を間違って新幹線の夢など見てしまったのだろう。
「そればかりじゃない。わしの女房は東京タワーを見たと言うとるし、隣りの爺さんは恐れ多くも二重橋、婆さんはその何じゃ、浅草とかいう所のどでかい提灯を拝んだそうじゃ」
「へえ、それぞれ違ってるんですね」
こたえながら、俺は合点した。いままでの皆が知っている場所やことがらの暗示と違い、今度は共通体験がまったくない東京という地名を連呼したために、それぞれが自分なりの解釈をしてしまったに違いない。
写真で見たりラジオで聞いたり俺に質問したり、そんな具合にして頭に入れた東京に関する断片知識群の、自分にとって最も印象深かったひとつを思い出してしまったのだろう。
はて、これは失敗かな――
「でな、わしらが集まって話しおうたのじゃが、これはひょっとして天狗様が東京へ行きたいと言うとられるんじゃないかと思うが、どうじゃろか」
肝心の部分は、こちらの思惑どおり受けとめているらしい。
「なるほど、そうかもしれませんねえ」
俺は大仰に相槌をうった。
「うん、そうですよ。きっとそうですよ」
「お前さんも、そう思うか」
お前にさんをつけて、源二郎は俺に顔を近づけた。第三者の確言が欲しいらしい。
「思いますよ。だって、僕も昨夜、久しぶりに東京の大学の夢を見ましたからねえ」
いかにも本当らしくつぶやくと、彼は嬉しそうにうなずいた。
「いや、それで安心した。実は、わしは東京なぞの夢を見たから、こりゃ信心が足りんのかいなと心配しとったんじゃ」
欲望を信仰で圧迫していることに、自分ではまだ気がついていないらしい。無意識には認めていても、顕在意識層では正当化に手続きを必要としているのだ。
信心の不足ではなく、逆に信心深いからこそそんな夢を見たのだと、俺の言葉に力を得て結論を下したらしい。晴ればれとした顔で源二郎は帰って行った。
「ちょいと聞きたいんじゃがの」
まるで物陰に隠れて彼の帰るのを待っていたように、入れちがいにマツが入ってきた。
「あんた、昨夜何か夢を見なんだかいの」
「見ました見ました」
俺は興奮したように言ってやった。
「羽田の飛行場で記念写真撮る夢です」
「おお、やっぱりそうかいの」
マツはへたへたと床に坐りこんだ。
「良かった。わしらの信心が足りんのかと心配しとったが、これなら安心じゃ」
聞いてみるとマツは国技館で自分が土俵入りをし、息子は日劇でライン・ダンスを見、隣りの親爺は上野広小路裏で人妻ホステスから猛烈なサービスを受けたというのである。
「天狗様が、東京へ行きたがっておられるのじゃな」
源二郎と同じパターンで俺の言質をとり、同じように納得して、マツはつぶやいた。
「こうなると、わしらも自分の好みばかりを言うてはおれんの。何しろ、天狗様がお望みなんじゃからな」
天狗様がお望みなのだから――この言葉を俺は待っていたのだ。これさえ言わせればこっちのもの。遂に奴らは東京へ行こうかという気持を表明し、しかもそれは好んで行くのではなく、天狗様のお望みであるからやむをえず行くのであるという、抜け道的大義名分が立ったのだから、自分達の信心の道に何ら支障はきたさない。渋々のふりをして実は喜色満面、その準備に取りかかることができるのである。
「わしが乗り移るための、天狗の面を作れ」
次の夜からは、俺は急ピッチで計画を進めていった。
「源二郎、マツ。村の皆をひとつにまとめ、山の杉にて大きな天狗の面を作るのじゃ」
さあ、そうなると翌朝から村の連中は大はりきり、修学旅行に出かける子供のように、出発を待ちかねてそわそわしはじめた。
源二郎とマツの両人など天狗様から名指しを受けたとて感涙にむせび、畑仕事も放り出して天狗面の図面を描き、良木を検分に山へ走り、伐採運搬鋸引きなどの分担を決めていく。
指名された連中も興奮しだして、水を浴びる奴断食する奴無念無想で坐る奴。酒煙草を止める男が出るかと思うと、行商人に頼んでピルを大至急取りよせてくれと言ってくる女も現われる。何のつもりかと聞くと、面を作る途中不浄の血を流しては不敬にあたる、出発の日までわたしゃメンスを止めまする――とまなじり決して述べたてた。
からすカアと鳴いて朝を告げ、フクロウぼぼうと夜を教えるまで、五十数人躁状態で働きまわる。
「注連縄《しめなわ》をよれ。太く長い縄をよれ」
こうなれば、じらせばじらすほど興奮が高まってくる。俺は思いつくままに注文を出してやった。
「まだじゃ。まだじゃ、焦るでない」
焦れ焦れとけしかけているわけで、村の連中、面と注連縄作りに三交替の徹夜作業を開始した。
無論、そんな夜には放送はしない。布団かぶって眠ってしまう。
「もうすぐじゃ、出発は近いぞよ」
一カ月かかって巨大な面と注連縄が完成し、村人全員ぐたりと疲れて眠りこければ、またぞろ暗示を開始する。
「家にこもれ、家にこもれ。家にこもって合図を待つのじゃ」
出発まさに近しと感じ、村の連中、全員家にこもって戸を閉ざし、コトリとも音を立てようとはしない。しんと静まるその緊迫感は、まさに阿波踊り前日の徳島市内。太鼓ドンと鳴ればガバと立ち、鉦のチャンの音で走り出る。いまかいまかのドンチャン待ちである。
一日、二日、三日目の夜、じらせにじらせてここらが限界と、俺はひと声高らかに叫んでやった。
「出発じゃあっ」
途端にあがる大歓声、村中の明り一瞬につき、戸を蹴破って老若男女、踊り狂って飛び出してきた。
「それ皆の衆、出発じゃ出発じゃ」
「東京じゃ東京じゃ、天狗様の東京入りじゃ」
源二郎は羽織袴に威儀を正し、手にはステッキ頭にシルクハット、先祖伝来の第一種礼装で踊り出る。
マツはと見れば、ただ一着のワンピースを着てワラジばき、何を思ったか防空頭巾、肩のタスキもいかめしく「大日本愛国婦人会」、これまた浮かれて踊り出る。
二人につづいて村の連中、大面かつぎ注連縄を負い、景気づけにと一升瓶のラッパ飲み。
褌一本腰巻ひとつ、松明《たいまつ》かかげて進み出す。歌って踊るは、これが正調|えじゃないか《ヽヽヽヽヽヽ》節である。
「あ、えじゃないかえじゃないか。東京さ行っても、たまにはえじゃないか」
「えじゃないかえじゃないか。鳩バス乗ったらあちこち見られて、一日あったら東京通じゃで、都合がえじゃないか」
「天狗の望みじゃ、東京さくり出し、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎで、帰りとなければそのままおっても、どうでもえじゃないか」
「こんな山奥いつまで住むより、タレント拝んでサインをもろうて、ディスコで踊ってトルコでよがって、OLひっかけ人妻泣かせて、赤坂歩いて青山走って、仕事を見つけて一旗あげたら、素敵にえじゃないか、まったくえじゃないか」
「えじゃないかえじゃないか。その方がえじゃないか、一番えじゃないか」
かくして一行、野越え山越え東京へ東京へ――
到着後三カ月もせぬうちに一千万都民の海に溶け込み、いまでも連日連夜の田吾作モッブをつづけている。
何しろ、先着の同類が八百万もいたのだから、ちょっとやそっとで止まるはずはない。
俺だって、勿論踊りつづけているのである。
それにしても、まあ、東京さというとこ、えらいとこだニイ――
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氷になった男
その朝、ミズコール・サムサが眼をさますと、自分がベッドの上で、五十センチ立方ほどの氷になっていることに気がついた。
理由はわからない。昨夜寝るとき、天窓から隙間風の入ってくることを小母さんに言うと、彼女は、じゃあスチームを強くしてあげようと言い、しばらくすると確かに部屋が暖かくなってきたようだったので、安心して眠ったのである。
ところが、気がつくと氷になっている。
「こんなことって、あるのだろうか」
サムサは、ベッドの上で考えた。もっとも首をかしげようにも首はなく、腕組みしようにも腕はないので、ただ冷たい立方体の、青みがかった透明の身体中に意識を走らせて、自分の現在おかれている状況を、あれこれ断続的に想起し、うろたえだしたのである。
「大変だ。これではヴュステ商会に行けないぞ」
「スチームが故障したんだろうか」
「それにしても、人間が氷になるなんて、学校では習わなかったがな」
矢つぎばやにそんなことを思ったものの、思ってどうなるものでもない。耳も眼も鼻も何もない、のっぺら坊の六面体になってしまったことは、厳然とした事実なのである。
「ふうむ」
サムサはうなった。うなってから驚いた。
「やっ、声は出せるのか」
確かに、どこからか声は出るのだった。おまけに階下で小母さんが朝食の仕度をしているらしい皿やコップのかちゃかちゃいう音も聞こえるし、コーヒーの香りだってちゃんと嗅ぐことができるのだ。つまり、器官がないだけで、五感は正常なのである。
「あたりまえだ」
彼は、そんなことに驚いた自分自身に腹をたててつぶやいた。
「俺は人間なんだからな」
「サムサや」
そのとき、階下で小母さんの声がした。
「そろそろ起きて朝御飯を食べないと、試験に遅れますよ」
「はあい」
彼は、とりあえずこたえた。
「眼はもうさめてるんですよ」
言ってから、その返事が何となくおかしいと思い、うふっと笑った。確かに眼はさめている。といって、それではこれからどうすればいいのだ。俺に何ができるというのだ。
「大変だ。これではヴュステ商会に行けないぞ」
サムサは笑いを消し、最初に思ったことをもう一度考えた。今度は深刻に考えたのである。
「せっかくの機会だというのに、何てことだ。俺のたくましい上昇志向が、早くも挫折させられてしまうのか」
彼=ミズコール・サムサは、今朝九時ちょうどに、この街の中央通りにあるヴュステ商会に行く予定だった。そこで書記採用の面接試験があるからだ。
田舎町の薬局で店員をしているサムサに、手紙でそれを教えてくれたのは小父さんだった。
『商業学校を出て、いつまでも店員でもあるまい。一度試しに受けてみればどうか。採用されて真面目に仕事にはげめば、支配人補助者への道もひらけるだろう』
無論サムサに異論のあるはずもなく、二日間の休暇をとって、昨日の夕方、この街にやってきたのである。
「あそこの支配人は、わしの近衛連隊時代の上官じゃ」
夕食の席で、小父さんは上機嫌でそう言った。
「うむ、そうじゃ。明日の朝、お前が出かけるときに、わしが一筆紹介状を書いてやるから、それを持っていきなさい」
「よかったわねえ、サムサ」
小母さんも、にこにこと笑って言ってくれた。
「きっと採用されるよ、お前」
「ありがとうございます。がんばりますよ、僕」
サムサはこたえ、自分がもうヴュステ商会の書記になったつもりで、あれこれ空想したのだった。
帳簿だってつけられる、貿易のことだって少しは学校で習ったから知ってるぞ。真面目に働いて、書記から支配人補助者に格上げしてもらおう。そうだ、外国出張が多い仕事だそうだが、となると外国語ができなくちゃいけない。うん、スペイン語を習いにいくとしようか――。
ベッドに入ってからも、自分が認められ、支配人のお伴をして汽車や船であちこち飛びまわる姿を想像し、満足しきって眠ってしまったのである。
ところが、一夜明けると氷になっている。
あまりにもひどい話である。
「ええい、畜生め」
サムサは、六面体のまま怒りに身をふるわせ、細かいひびを三カ所、ピシピシと走らせた。
「これくらいで、あきらめてたまるか」
もう一度彼を呼ぶ小母さんの声がしたので、サムサは決心して声をあげた。
「すみませんが、下まで僕を運んでもらえませんか?」
しばらく静かになってから、また小母さんの声がした。今度は階段の真下からだ。
「何だって、サムサ」
「運んでほしいんです」
彼は、つとめて明るい声で言った。
「実はその、僕、氷になっちまったもので」
何を言ってるのかねえ、そんなにその部屋が寒いわけもないのに……つぶやく声と足音が階段を登ってきたと思うと、ドアが開いて小母さんが立っていた。
「おはよう、小母さん」
「………」
「御覧のとおりなんですよ。下まで運んでもらえませんかね」
バタンとドアが閉まり、同時にどどどどっと階段を転がり落ちる音がして、少しだけ遅れて小母さんの叫び声が聞こえてきた。
「あなた、あ、あなた、ベッドに氷が、サムサの声で」
何を言っとるか――そんな声がしたあと、およそ五分ほどもたってから、小父さんがどなりながら階段をあがってきた。
「何を馬鹿ないたずらをしとるんだ。サムサ。そんな軽薄なことでは、ヴュステ商会の書記には」
なれんぞと言いかけてドアを開き、ベッドと衣裳戸棚だけしかない狭い部屋をぐるりと見まわして、さらに声を荒らげた。
「大切な試験の朝に、何のつもりだ」
つかつかと衣裳戸棚に近づき、勢いよく開いた。
「さあ、出てこんか」
中には、サムサが今日のために着てきた一張羅の背広が吊ってあるだけだった。
「隠れているわけじゃありませんよ」
ベッドの上から、サムサは小父さんの背中に声をかけた。
「僕、本当に氷になっちまったんです」
小父さんはふりむいた。
「………」
手入れをしていた途中らしく、片方だけピンとはねあがったカイゼル髭《ひげ》の、まだ垂れさがったままの方をひねって、彼は言った。
「わしの眼の前にある氷、それが甥《おい》であるミズコール・サムサだと言うのか」
「そうですよ、僕、サムサです」
「ね、あなた、本当でしょう」
恐るおそる階段をあがってきた小母さんが、顔だけ部屋のなかに突き出す姿勢で言った。
「馬鹿な」
小父さんは吐きすてるように言った。
「わしは信用せんぞ。飛行機も飛びだしたというこの科学時代に、人間が氷になり、その氷が物を喋るなどという、そんな馬鹿なことがあってたまるか。絶対、わしは信用せんぞ」
「でも、僕がサムサだから、仕方がないじゃありませんか」
「そうですよ、あなた」
小母さんは、おろおろ声をだした。
「たとえどんな姿になろうとも、サムサはサムサじゃありませんか。それを、そんなかわいそうなことを言って」
エプロンを顔にあて、涙声になっている。
「気の毒に、サムサ。せっかくの試験も受けられないんだねえ」
「いや、受けますよ、僕」
サムサは、きっぱりとこたえた。
「こんなことくらいで、あきらめません」
「馬鹿な」
ぐいと髭をねじりあげて、小父さんがどなった。
「そんな姿形で、ヴュステ商会の書記がつとまると思うのか。お前は、ただの氷なんだぞ」
「姿は氷ですけど、僕は商業高校を出たミズコール・サムサです。貿易の知識だってあります。やってやれないことはありません」
「なあ、氷」
小父さんはべッドに近づいて、声を落とした。
「わしはお前を甥のサムサだとは認めんが、ただの氷にせよ、忠告してやるのが親切だと思うから言ってやろう」
彼はペタペタとサムサをたたいた。
「世の中というものはな、自分が思っているからといって、そのとおりにはならんのじゃよ。なるほど、お前は氷には珍しく、労働の意欲がある。知識も上昇志向もあるかもしれん。他の氷と比べれば大した奴じゃ、見あげた奴じゃ。だがな、それだけではどうにもならんのじゃ。お前が自分をどう思っているかとともに、他人がお前をどう考えるかということも、世の中で生きていくうえには大切な条件なんじゃ」
冷たくなったらしく、小父さんは右手をサムサから離して二三度ふり、左手で彼をなでた。
「こんなに冷たくて、角があって、四角ばって坐っているだけ。そんなお前が、どうして世の中で通用するかね、え」
「でも」
小父さんの言葉ももっともだと思い、いくらか不安になったが、サムサはそれをふり払うように言った。
「これが僕なんです。それはそれでいいじゃありませんか。仕事はちゃんとやりますよ」
「世間知らずめが」
手を離し、小父さんは髭をふるわせた。
「まだわからんのか、馬鹿め。手もなく足もないお前が、どうして書記の仕事ができるというんじゃ。少しは身の程を知れ」
「あなた、そんなにどならなくても」
小母さんがとりなすように口をはさんだ。
「この子にだって、できる仕事はあるかもしれないじゃありませんか。そこのところを昨夜言ってらした紹介状に詳しく書いてあげれば、支配人さんだって」
「紹介状じゃと」
小父さんは、ふりむいて小母さんを睨《にら》みつけた。
「お前までが何を言う。こんな氷のために、なぜわしが紹介状を書かねばならん。いったい、こいつの何を、どう紹介しろというんじゃ」
「ですから、かわいそうな子だということをわかっていただけるように」
「情けないことを言うな」
小父さんはどなった。
「かわいそうなら紹介状を書かねばならんのか。かわいそうなら、支配人も氷を採用して書記の椅子に坐らさねばならんのか。仕事が、かわいそうで成り立つと思っとるのか」
小父さんはサムサを指さした。
「第一、この氷がなぜかわいそうだ。氷が冷たくて四角くて、それがどうしてかわいそうなんじゃ。氷に、書記の仕事をさせようと思う方が、よっぽどかわいそうじゃわい。氷には、氷の仕事が立派にあるではないか」
「小父さん」
サムサは声をかけた。
「僕、小父さんのおっしゃることがわかるような気がします。でも、こうも思うんです。嫌がってる氷に書記の仕事をさせるのはかわいそうでしょうけど、自分でその仕事をしたがっている氷なら、その氷の好きなようにさせてくれてもいいんじゃないでしょうか」
「………」
小父さんは黙ってサムサを見つめていた。
「ふん」
しばらく見つめてから、鼻を鳴らした。
「よし、わかった。やりたければ、お前の好きなようにやるがいい。ただし、わしは氷のための紹介状など書かんぞ」
「ええ、それは仕方ありません」
「それから」
小父さんは、指をつきつけた。
「たったいまから、お前はすべて自分の力で物事を片づけねばならんぞ。わしも小母さんも当てにすることはならん」
ドアを指さした。
「できるものなら、一人で降りてみろ」
サムサが小父さんの家を出たとき、彼の身体は傷だらけになっていた。
ベッドから降りるために重心を高くあげ、次に前へと移動させた。六面体の上のへりの一点にそれを集めた不安定な状態で、うんと力をこめると、彼の思惑どおり、ベッドから床へ落ちることができたのだ。
しかし、その代償として、床にぶつかった角がかけてしまった。
「ふん」
かけて飛びちった氷片を見て、小父さんは鼻を鳴らした。
「初めからそんなことでは、ヴュステ商会に着くことさえできんじゃろう」
「あなた、何もそんなことを言わなくても」
小母さんは涙声で言い、サムサに手をかけた。
「大丈夫かい、お前。何なら、階段を降りるのだけでも手伝ってやろうかい」
「かまわないでください、小母さん」
サムサはこたえた。
「僕、自分で全部やりますから」
「何もお前、そう意地にならなくても」
「意地じゃありませんよ」
彼は、淡々とした口調で言った。
「同じ男として、僕、小父さんのおっしゃることはよくわかるんです。これはもう、僕と小父さんとの、男どうしの公正な戦いなんですよ。ねえ、小父さん」
「ふん」
何を生意気なことを言っておるか――そんな顔で小父さんはそっぽをむいた。
「だから、もし僕がすべて自分の力でやって、氷でも書記になれることを実証すれば、小父さんは僕を一人前の大人と認めてくださると思うんです。いくら姿が氷でもね」
「それは、まあ」
小父さんは、そっぽをむいたままうなずいた。
「認めざるをえんじゃろうな」
それからサムサを見おろして、断言した。
「しかし、そういうことにはならんじゃろう。こう見えても、お前よりわしの方が世間というものを知っておる。お前の思っておるように、意志や希望だけではどうにもならんということもな。お前には適性がない」
「でも、あなた」
小母さんが、とりなすように言った。
「サムサはまだ若いんです。あなたとは受けた教育も、育った環境も違いますわ」
「だから、どうだというんじゃ」
小父さんは、小母さんを睨んで言った。
「そんなことは何の関係もない。わしとサム、いや、この氷とは、もっと本質的なことを賭けておるんじゃ。氷が書記になれるか否か。こういう観念的な問題が、お前なんかにわかるものか」
「まあ、とにかくやってみますよ」
二人が口論を始めそうだったので、サムサは快活に言い、床の上をドアの方へと移動しはじめた。
床は古びた木製で、しかし小母さんが丹念にモップをかけているらしく、表面はつるつるに光っている。
サムサは、自分の底面の前あたりに意識を集中し、うんと力んでみた。力がわずかに熱となり、その部分を溶かしだした。薄い水の膜が彼と床との間にでき、それが次第に彼の底面全体にひろがっていく。
「じゃあ、出かけますから」
挨拶をして、サムサは身体を前方向にぶるぶるっと揺らし、そのあとは摩擦抵抗を極少にするため、重心をあげて自分を不安定な状態にした。
スーッと彼は床をすべり、ドアを通りこして階段の踊り場に出た。
「いてて」
止まろうとしたが、ブレーキとするべき床に対する圧迫力が不足し、そのまま進んで手すりに衝突してしまった。ここでまた、彼の身体は三カ所かけた。
ふん――と小父さんの声がする。大丈夫かい、そこからは階段だよ――と、小母さんのおろおろ声が聞こえてくる。
「何、こんな階段くらいでくじけてちゃ、立派な書記にはなれませんよ」
サムサはこたえた。とはいえ、この階段が彼にとって最初の、しかも大変な試練の場所であることはよくわかっていた。
「さて、どうして降りたものだろう」
方法はふたつ考えられた。ひとつは単純明快、覚悟を決めて転がり落ちることである。
痛いのさえ我慢すれば、一気に下に達し、その力を利用してそのままドアまで進めるだろう。ただし、この方法の欠点として、身体がばらばらになってしまう恐れがある。
一辺五十センチの立方体が彼=ミズコール・サムサなのであって、大きいのや小さいのや、尖ったのや凸凹したのや、そんな氷片に分散してしまっては、もう自分というものは無くなってしまう。彼は思った。
「やはり、自己の全体というものは確保しておかなければ」
ふたつめの方法は、全的自己を確保するには適当なやり方である。
まず身体の半分ほどを階段から乗り出させ、残っている半分を底面から少しずつ溶かしていくのだ。バランスに注意し、身体を階段の平面と垂直面にぴったりつけてそれをやれば、一段分の高さだけ半分を溶かした時点で、乗り出した半分は次の段に着いているだろう。その作業をくり返せば、時間はかかるが、ばらばらになることもなく一階に降りられるのである。
もっとも、降りたときには身体が現在の数分の一、十数分の一になっているのが、欠点といえば欠点である。
「自己分裂か、自己縮小か」
サムサは考えた。どちらがいまの自分にとって、得な方法なのだろうか。つまり、支配人がサムサを見て、どちらに好感を持ってくれるのだろうか。
「ふうむ、どちらもよくないようだな」
分裂した自分の、そのどれかひとつだけを示せば、支配人はそれがサムサのすべてだと考えてしまうだろう。
「ええ、当商会としては、円満な常識を備えた青年を求めているのでありましてな」
偏《かたよ》った人間だと判断し、そう言って顎でドアを示すかもしれない。といって、分裂したすべての氷片を出頭させることは不可能である。できたとしても、こう言われるだろう。
「ばらばらですな、あなたは。失礼ながらそのお年では、自分で自分を統御するということくらい、そう難しくはないと思いますがな」
そうかといって、全的自己は確保しているが小さくなった自分を見せれば、ますます印象が悪くなる。
「どうも、まだお若いのに、小さくまとまりすぎですな。その、何ですよ、おもしろみというやつが感じられんようでして」
結局、あれこれ思案したあげく、サムサは最初の方法をとることに決めた。なぜなら、うまくいけば分裂をまぬがれ、全体をいまの大きさのまま確保できるかもしれないからだ。
無論、傷を負うことは覚悟のうえである。
「賭だな、これは」
サムサはそう思い、何となく興奮して階段を見おろした。急な階段である。彼の転落を待っている、固く無表情な障害である。
「えいっ」
呼吸をはかり、サムサは重心を急激に移動させた。ぐらりと揺れて、転がった。
「うわあああ」
気がつくと、数カ所がかけてふっとび、全身ひっかき傷うち傷だらけになって、ドアの前に転がっていた。
「大丈夫かい、サムサ」
小母さんが駆けおりてきた。
「放っておけ、自分で納得してやっておるんじゃから」
つづいて降りてきた小父さんがそう言い、しかし不思議なことに、ドアはあけてくれた。
「どうしてですか」
サムサの問いに、彼はこたえた。
「氷がドアを開くことは、工夫の余地もなく不可能じゃ。わしは、それを知らん顔してまでお前に勝ちたくはない。だから、ここだけは手を貸してやる。ただし、これが最初で最後じゃぞ」
「わかりました、ありがとう」
こうしてサムサは、傷だらけの身体で、寒い朝の街に出たのである。
さて、ここまで読んで、読者のなかには、サムサはヴュステ商会に到着できないだろうと思っておられる方がいらっしゃるかもしれない。何しろ氷のことだ、途中で太陽に照らされてどんどんと小さくなり、ヴュステ商会を目前に消滅してしまうのだろう。ははあ、この作者は、青年の苦悩と挫折を描くつもりなのだな――などと、眉をよせて考えておられるのかもしれない。あなた、そうでしょう。
しかし、残念ながら、それは考えすぎである。彼は、ちゃんとヴュステ商会に到着し、支配人の前に出頭するのである。
なぜなら、作者は青年の苦悩と挫折を描こうなどとはこれっぽっちも考えてはおらず、単に氷になった男のことを書いているだけだからなのである。
したがって、彼=ミズコール・サムサは、途中で消滅したりはしないのである。
もっとも、まったく平穏無事に、何の苦労もなく到達したかというと、そうではない。
あちらで傷つき、こちらで迫害され、満身|創痍《そうい》となって、ようようたどりついたのである。
たとえば、彼が小父さんの家を出て、通りの隅を移動し、ある古ぼけたアパートの前にさしかかったとき、玄関のドアがいきなり開いて、若い娘が飛び出してきた。
「ああ、神様」
この寒い朝にコートも着ず、汚れたセーターと色あせたスカート姿で、娘は叫んだ。
「彼が、彼が死んでしまいます」
「どうかしましたか」
普通でない様子に、サムサは思わず声をかけた。
「お嬢さん、どうかなさったんですか」
「えっ」
娘は立ちどまり、周囲をきょろきょろと見まわした。人通りは少なく、遠くに長い外套《がいとう》を着た紳士が歩いているだけである。
「どなた」
娘は、頬に両手をあてて言った。
「いまおっしゃったのは、どなた」
「僕です、あなたの足もとにいる僕です」
娘は自分の足もとを見おろした。そこに氷があり、彼女に話しかけていた。
「いったい、どうしたのです」
「まあ」
娘はパッと顔を明るくし、いきなりしゃがんでサムサを抱いた。
「神様、ありがとうございます。ありがとうございます」
うわごとのようにくり返しながら、彼女はサムサを持ちあげようとした。
「ま、待ってください」
今度はサムサがうろたえた。
「何をするんです、いきなり。僕をどうしようというんです」
「彼が病気なんです」
娘はなおも彼を持ちあげようとした。
「彼が昨夜から急に高い熱を出して、苦しんでるんです。でも、私達貧乏でお医者様にも見せられないし、薬だって買えないんです。神様、あなたはそんな私達を憐れと思し召して」
「誤解だ、誤解だ」
このままでは自分がカチ割られ、病人の額に乗せられてしまうと直感して、サムサは叫んだ。
「勝手に美談をつくらないでくれ。僕は商業学校を出たミズコール・サムサ、いまからヴュステ商会の書記採用試験に行くところだ。神様なんか知るものか」
「でも、あなたは氷でしょう」
「形は氷だが、僕は人間だ。今朝起きたら、こうなっていたんだ」
「ああ」
娘は歓喜の声をあげ、ひしとサムサにおおいかぶさった。
「やっぱり神様が私の恋人のために、あなたを氷にして」
「都合のいいことを考えるな」
サムサはどなった。
「お前の恋人なんか知るもんか。何で俺が会ったこともない男のために身を溶かさなきゃならん。そんなことをすれば、俺が書記になれなくなってしまう。その責任をどうとってくれるつもりなんだ」
「ひどい人」
娘は身を離し、サムサを睨みつけた。
「あなたは、自分さえ書記になれればいいの。そのためには、私の恋人が死んでもかまわないと言うの」
「知るもんか」
サムサはこたえた。
「そっちこそ、自分の恋人を助けるためなら、無関係の人間をカチ割り、溶かしてしまってもいいと言うのか。俺にそうしなければならん義務があると言うのか」
「悪魔」
娘ははじかれたように立ちあがり、いきなり靴でサムサを蹴りつけた。
「鬼、利己主義者、冷酷無残な極悪人」
金切声をあげ、何度も何度も蹴とばした。
そのたびに、サムサの身体から氷片が飛び散っていく。
「あんたなんか、あんたなんか」
遂には片裸足になり、靴を手に持って殴り始めた。
「痛い、痛い。何をする」
「あんたなんか、割れて溶けて、消えちまえばいいのよ」
ヒステリックになり、殴打に限度がなくなってきたので、サムサはほうほうのていで逃げだした。娘は追いかけ、なおも殴りつづけていたが、街角で立ちどまり、靴をぶらさげたまま、わあわあと泣きだしてしまった。
「知るもんか」
気の毒だとは思いながらも、サムサは腹を立ててつぶやいた。
「俺がたまたま氷の姿をしているというだけで、他人に奉仕すべき存在だなどと決められちゃたまらん」
怒りながら進んでいくと、また災難がやってきた。
「やあ、氷がすべってくるぞ」
「本当だ」
登校途中らしい小学生が、駆けよってきたのである。
「どこからきたんだろう」
「変な氷だなあ」
そんなことを言い、靴の先で動きを止めた。
何か喋るとまたもめるだろう。そう思って、サムサは黙っていた。
「ねえ、おもしろいこと知ってるかい」
一人が聞いた。
「何だい」
「氷ってのはさ、切ってもまたくっつくんだよ」
「嘘だよ。そんなことあるもんか」
「本当だよ」
彼は自慢そうに鼻をぴくぴくさせた。
「鋸《のこぎり》なんかで切るんじゃないよ。糸で輪を作ってさ、それを机と机の間に置いた氷にかけるんだ。それから糸の下に重りをつけるのさ」
「ふうん」
「そうして放っておくとさ、糸の輪が少しずつ氷を切ってって、最後は下に落ちてしまうんだ。でも氷は机から落ちないの。ちゃんとまたくっついてるからだぜ」
「へええ、おもしろいなあ」
相手は感心し、サムサを見おろして眼をくるくるさせた。
「ねえ、これを学校に持っていって、試してみないか」
「ああ、それはいいなあ」
二人の意見が即座に一致したので、サムサは泡をくって逃げだした。
そんなことをされたら大変だ。ヴュステ商会へ行く時刻に遅れてしまうし、第一それは拷問ではないか。相手はただの氷だと思っているが、これでも俺は人間様なのだ。その俺を机と机の間に横たえ、重りをつけた糸でじわじわと切断しようというのか。昨夜までは胃や腸や背骨があったあたりを、腹から背中にかけて糸を横断させようというのか。
「子供のくせに、何てこと考えやがる」
サムサはどなり、二人の足の間をすりぬけて、一目散に逃げだした。
「あ、すべっていくぞ」
「何か喋ったぞ」
二人は追いかけてきた。
「変な氷だ、変な氷だ」
「学校へ持っていって、その特性を科学的に解明しよう」
必死になって、サムサはすべりにすべった。
街路灯にぶつかり、犬の鼻先をかすめ、敷石のつぎ目にガリガリと底面をひっかかれながら、ただもうすべって逃げた。
「あっ」
叫んだときはすでに遅く、彼の身体は石の階段を転がり落ち、勢いあまって河に飛び込んでいた。街なかを流れる河の、橋を渡るのに失敗したのである。
流れはほとんど停止しているようで、氷の彼にとって水はかすかになまあたたかかった。底につくほど潜ってから、ゆっくりと浮上した。
「ふうん」
身体の十分の九を水面下に沈め、わずかに上面だけを出して、サムサは鼻声を出した。
「あああ」
力をぬくと身体中がぐにゃぐにゃになりそうで、体温より少しあたたかい水にやわらかくつつまれ、しかも彼の身体も表面からそれに同化していくことが心地よく、一種の恍惚感を覚えたのである。
至福ってのはこれのことだな――サムサはぼんやりとそう思った。だって、あたたかくてやわらかく、静かで、しかも俺の身体からはザラザラした部分や傷や、きりきりと神経質に鋭い角が消滅していくではないか。
これでいいんだ。そうだとも、こんなにゆったりとした気持で、周囲と同化していくのを待ちさえすればいいというのに、何を好んで書記になんかなろうとする。伝票をくったり、電信を受けたり、汽車に乗ったり船で外国へ出かけたり。そうしてどうなるかというと、身体は一層ざらざらし、傷はどんどんとふえ、しかも次第にすりへって小さくなってしまうのだ。同じすりへって消えてしまうなら、いまのこの状態の方がよほど楽ではないか。
「………」
サムサはそのまま眠ろうとした。そのとき、追いついてきた小学生の声が聞こえた。
「あそこに浮いてるぞ」
「変な氷だ、変な氷だ」
ハッと、サムサは思いなおした。そうだ、俺はあの小学生が言うように、ただの氷ではないのだ。形こそ氷でも、実は人間なのだ。
商業学校を出て、ヴュステ商会の書記になり、支配人補助者にもなろうとする、上昇志向を持ったミズコール・サムサなのだ。
「そうだ、こんなところで身を溶かしてはならないのだ」
彼はそう決心し、自ら水の中を移動して、小学生の待つ河岸へと近づいていったのである。
それから、かかえあげられたサムサはしばらくおとなしくして機会をうかがい、小学生が元の道に戻ったところで、やにわに身体を落下させて逃げだした。
このとき、かなり大きな角が割れてふっとんでしまったが、かまわずに進んだ。
街灯にぶつかり、犬の鼻先をかすめ、敷石のつぎ目でがりがりと底面に傷をつくり、しかし今度は河に落ちることもなく、みごとに小学生から逃げおおせたのである。
九時二分前、彼=ミズコール・サムサは、ヴュステ商会の玄関先に到着し、門番の老人に告げた。
「書記を志望するものです。支配人におとりつぎください」
「なるほど」
左手でチョッキのポケットから出た時計の金鎖をまさぐり、右手で片眼鏡《モノクル》をはめながら、白髪頭の支配人は顎をそらせた。
「御希望はよくわかりました」
「それでは、採用していただけますでしょうか」
「いや」
サムサの問いに、彼は表情を動かさずにこたえた。
「それはそう簡単にはおこたえできませんな。つまりその、採用とは労働の契約であって、契約とは、双方の利益が一致せんことには成立せんものですからな」
「ごもっともです」
あまり話が長びくと、カーペットの濡れがめだって、支配人の印象を損うかもしれないぞ。そんなことを心配しながら、サムサは言った。
「私といたしましては、受けもつ仕事の内容や、週給の額にも満足しているのですが」
「ふむ、それは結構」
当然だという顔で、支配人はうなずいた。
「しかし、だからといって採用を即決するわけにはいかんのです」
「とおっしゃいますと、やはり私が氷であるということが問題なのでしょうか」
「いや、それは別にかまいません」
支配人は抑揚のない口調で言った。
「当商会としては、定められた仕事をきちんと処理する能力だけを求めているわけでありまして。彼が何であるかということには、まったく関心を持ってはおらんのです」
「ありがたいことです」
ホッとして、サムサは明るい声を出した。
「しかしですな」
それとは逆に、支配人は冷たく言った。
「当商会に入ろうとするならば、あなたも自分が氷であることを忘れていただかんと困るのです」
「というと、つまり、どういうことでしょうか」
「つまりですな」
支配人は身をのりだした。
「氷であることを理由に、仕事を嫌がったり、出張を拒否したり、あるいは設備や環境をどうせよなどと要求してほしくはないのです」
「はあ」
「たとえば、夏になって暑いのは苦手だから扇風機を入れてくれだの火を扱う仕事は危険だから他人と交替させてくれだの、そんなことを言われると、当商会としては非常に遺憾に思う。普通の人間を採用しておれば不要である出費を、あなたが氷であるという理由だけで計上しなければならんからです」
「………」
「過去にもそういう例がありました」
支配人は、思い出すのも不愉快だと言いたげに、眉間に皺《しわ》をよせた。
「一度、真空管になった男を採用したことがある。当商会としてはあまり乗気ではなかったのだが、当人がどんな仕事でもすると断言したから、採用したのです」
「はあはあ」
「ところが、いざ採用されてしまうと、ころりと態度が変ってしまった。自分は壊れやすく傷つきやすい身体であるからして、肉体労働はできない。出張の汽車も、三等の固い木の椅子では危険だから特等のソファーにしてもらわねば困るなどと言うわけです」
「………」
「支配人であるこの私でさえ、汽車は一等より乗ったことはないのですぞ。しかも、それにもまして腹立たしいのは、その真空管が、自分が真空管であることによって他にどれだけの迷惑損害を及ぼしているかは少しも考えず、むしろ真空管である自分を大切に扱うのは、当商会及びそこで働くすべての人間の義務であるなどと演説しだしたことなのです」
「で、どうなさいましたか」
サムサの質問に、支配人は首をふった。
「無論、辞めてもらいました。当商会は貿易という業務を手段として、少しでも多くの利益をあげるのが設立目的であり、また、存在理由でもある。真空管を保護し、養うのが目的ではないからです」
支配人は、もう一度首をふった。
「ところが、辞めてもらうについても大変な騒ぎだった。自分の成績不良なことは棚にあげ、真空管に対する迫害だと称して、同じ真空管仲間を呼び集め、当商会の玄関前で気勢をあげたのです」
「………」
「その騒ぎで、一人の真空管男が破裂し、二人がフィラメントを切って再起不能になってしまった。するとどうです。今度は、その責任を当商会に追及し、補償を要求してきたのです」
支配人は舌うちをした。
「当商会が命じた仕事を遂行中にそういう事故が発生したのなら、それは充分の補償もする。しかし、あの場合はそうではない。真空管どうしが興奮して押しあった結果、ああなったのです。それを、なぜ当商会が責任をとり、補償をしなければならんのですかな」
「………」
サムサは、支配人の話を聞いているうちに、だんだんと恐くなってきた。自分にだって、真空管男と同じような状況が訪れるかもしれないのである。
立派な書記にはなりたい。そのためには努力もしよう。しかし、努力だけでは自分を根本的に変えることはできないのである。
「お前には、適性がない」
そう言った小父さんの声を思い出し、サムサは不安になった。
やはり俺は氷で、氷の特性は死ぬまで変わりようがなく変えようもなく、しかもそれは、頭から書記には不適格な性質なのだろうか。
「おうかがいいたしますが」
サムサは、おろおろと質問した。
「現在ここで働いておられるのは、すべて普通の人間でしょうか」
「いや」
支配人はこたえた。
「いくらかはそうでない者もおりますな。特質は違うだろうが、形だけでいえばあなたと似ている者がね」
「失礼ですが、それは何ですか」
「石です」
支配人は、満足気にこたえた。
「当|砂漠《ヴユステ》商会では、彼ら石の方が、なまじっか人間よりもよく働き、利益をもたらしてくれますな」
初めて、支配人は頬をゆるめた。
「石は丈夫で長もちし、しかも、いらぬことを考えぬからです」
「………」
「さて」
事務的な声に戻って、支配人は言った。
「以上で当商会があなたに望むことはすべてお伝えいたしました。この要望がお気に召されなければ、どうぞおひきとりくださって結構です」
ぐいと顎をそらせて、サムサを見つめた。
「どうなされますかな」
瞬間、サムサはこう思った。えい、やってやれ。苦労難儀は覚悟のうえだ。なに、石にできて、氷にできないことがあるものか。
「お願いいたします。ぜひとも」
「それは結構」
無表情に、支配人はこたえた。
さて、それから彼=ミズコール・サムサの、ヴュステ商会書記としての生活が始まった。小父さんの家に下宿をし、毎日苦労しながら通って、仕事を覚え、片づけていったのである。
それはまったく、苦労難儀の連続だった。
たとえば鉛筆で字を書くために、自分の身体に自分で穴をあけなければならなかった。そこに鉛筆をさし込み、身体全体を動かして書類をつくっていくのである。
夏には、げっそりと痩せ細った。五十センチ立方だった身体が、五センチ立方にまですり減り、そのまま消えてしまうかと思われたほどだった。
しかしサムサは持ちこたえ、次の冬のクリスマス休暇で、八十センチ立方に成長した。
「結構ですな、サムサ君」
支配人は満足そうにうなずき、彼に告げた。
「この調子で働いてくれれば、来年くらいには私の手助けをお願いすることになりましょうな」
「どんなもんだい」
サムサは得意になって思った。
「石なんて大したことはない。第一、あいつらは何年たっても同じ大きさじゃないか。俺を見ろ。俺は一度消えかけても立ちなおり、前以上の身体になれるんだからな」
その自信と気力でサムサは次の夏を乗りきり、冬にはまた一段と大きくなった。そして、大きくなればなるほど、夏も安心して働けるのだった。
しかし、終末はあっけなくやってきた。
五年目の夏、支配人代理としてエチオピアに出張した彼は、そこで消息を絶ってしまったのである。
「あっしが見た氷は、ほんの豆粒ほどのもんでしたぜ」
ある現地人は、調査隊の質問にこたえて言った。
「あれがサムサの旦那だとは思えませんがねえ」
彼は首をかしげ、それからつぶやいた。
「もっとも、砂漠に氷じゃ、いずれ、ああなるのがオチでしょうがね」
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方角ちがい
落語でございまして、しばらくのあいだ、おつきあいを願いますが――
考えてみますと、恐ろしい世の中ですナ。
車がぶんぶんと走りましてね。毎日毎晩、交通事故で人が死んでますですね。
だいぶ前に聞いた話ですが、日本全国で一年間に事故で死ぬ人の数は、なんと日清戦争で死んだ人間の数より多いんやそうですナ。
いまなら、ひょっとして日露戦争の死人より多なってるかもわからん。このままその数がふえつづけたら、そらえらいことになりますナ。警察庁やなんかで会議をしましてね。
「長官、満州事変を越えました」
「というと、どれくらいや」
「日華事変とノモンハンをたしたくらいです」
「来年の見通しはどうや」
「太平洋戦争に迫るんやないかと」
しまいにそれも越えてしもてね、
「長官、もう比べる戦争がないようになりました」
「弱ったなそれは。仕方がない、防衛庁に頼んで、でかい戦争ひとつ始めてもらおか」
例をつくるために水爆戦争起こしたりしてね。何してることやらわかりまへんが。ま、何にしても恐ろしいことやと思います。
それに、もうひとつ恐いのが、公害ですナ。
鉛やとか窒素酸化物やとか、えらい問題になってますが、はよ無公害エンジン作ってもらわんと困りますナ。
先日《こないだ》聞いた話では、未来の自動車は水素を燃料にして走るんやそうですね。私ら、水素と聞いたら、なんや恐いですけどもね。運転しながら煙草吸うたら、爆発するんやないかと思いますけど、どういう仕掛なんですかナ。
なんぼ考えてもわからんので、ある大学の先生に聞いたんですわ。爆発しまへんかいうてね。そしたら、先生が言うてはりました。
「心配せんでも、ちゃんと考えてある」
どない考えてありますちゅうて聞くと、偉いもんですナ。あの、水素自動車と水素自動車が、たとえば正面衝突したとしますわナ。
そしたら当然、火事になる。火事になって、放っといたら丸焼けですワ。すると、そこへ、ま、現在《いま》でいうたら化学消防車の役目をする、酸素自動車いうやつを、わざとぶつけるちゅうんですナ。衝突やッと聞いたら、そのうえにまたそれを衝突させるんですってね。そうすると、ボーンと大爆発はするけども、そのあと勝手に火が消えるらしい。
「水素ふたつに酸素がひとつ、H2Oで水ができるからや」
先生、そない言うたはりましたけどもね。
しかし、それにしても、ほんまに車の事故が多いですナ。酔っぱらい運転というのが、いちばんいけませんね。なんせ、一人で歩けんほど酔うた人が、百キロくらい出して飛ばすんですからね。こら、正気の沙汰やおまへん。
本人はええ調子で、
「ちゃちゃら、ちゃ〜ん」
都々逸かなんぞやってて、それでドーンとぶつかりゃ、次の朝、子供も、
「ちゃん」
親子で口三味線。とりすがって、泣かないけませんからね。
私考えました。なんで、酔っぱらうと事故を起こしやすいんかと思いましてね。
そらまあ、難しいに考えれば、血液中の血糖がどうのこうのと理屈はありますやろけど、世の中、別にそない大層に考えんでも、もうちょっと簡単な答があるやろと思う。
で、三日三晩寝んと考えてたら、わかりました。あれは、実は、うちわもめなんですね。
他人どうしの喧嘩より、うちわもめの方が恐いという、あれなんですワ。
というのが、酒ちゅうたら、あれはアルコールですわナ。で、ガソリンというと、ま、難しいことはわかりませんけど、石油をゴチャゴチャいじくって作りますから、まあまあ、兄弟とまではいかんでも、あれもアルコールの親類てなもんですわナ。ま、いわば、伯父と甥の間柄やとしますナ。炭素原子と水素原子が、こうからみおうてね――、ま、あんまり学問的なこと言うて、おわかりにならん方がおられると気の毒なんで、これ以上詳しいには言いませんけども。
ほんまは、私も知りまへんねやが――。
でまあ、あの酔っぱらい運転というのは、いわばその伯父と甥が喧嘩をしてるわけですナ。人間の身体に入ったアルコール、これが、道楽者の甥でね。世の中をこう、斜めに見て生きとる奴で、そのくせエエカッコシイなんですナ。
「我輩は、この高速道路をば、唯今よりジグザグに走ってみせる」
てなことを言うわけですね。
ところが、車のタンクに入ってるガソリン、これがなかなか堅物の伯父さんですから、
「阿呆なことするなよ、おい。第一、わしは外が見えへんねや、あんまり無茶したら、取り返しのつかんことになるぞ」
とまあ、初めはおだやかに意見するんで。
そうするとこの極道者が、酔うた勢いで、伯父さんを馬鹿にするわけなんですナ。
「へへん、何や、恐いんかい」
てなこと言うて、鼻で笑うン。そこまで言われたら、なんぼ温厚な伯父さんでもムッとしますからね。
「そら何を言うねん。わしは、お前のためを思えばこそ、注意したってんねやないか」
「ははん、ちゃんちゃらおかしいわい。おのれは、黙ってエンジンまわしときゃええんじゃ」
「な、何やて、えらそうにぬかしくさって、ボーンといてもうたろか、ボーンと」
「こらおもろい。いてもらおやないか。ボーンといけるもんなら、いてもらおやないか」
ボーンといくわけですナ……
ま、何にしても、御互いに気ィつけないかんことやと思います。
これくらい言うといたら、偉い奴や見あげた奴やいうて、警察から何ぞくれるんやないかと思うンで、それを楽しみにそろそろ噺《はなし》に入りますねやが。
昔はと申しますと、そういうことではのんびりしてましたですナ。江戸時代の乗物はというと馬か駕籠、明治に入って馬車か人力。
大阪の市電でも、明治の三十六年が初めてですから、まして自動車なんというものは、ほとんど走ってなかった。
もっとも、日露戦争の頃には、ごく一部の上流階級、昔の言葉でいえば金満家ですナ、そういう人が自家用車を持ちだしたんやそうですが。ま、大阪の町の連中、あるいは少し離れた農村やなんかに住んでる人は、大正の初め頃でも、自動車なんちゅうものは見たこともないという、そんな時代があったわけで。
その頃のお噺でございますが――
「若旦那、もうお帰りでやすかいな。おい、お袖。若旦那お帰りや言うたはるがな。お履物、あんじょう揃えんかいな」
「へえ、おおきにありがとさんでございました。まあ若旦那、えらいええ御機嫌で。お顔の色やなんか、真赤《まつか》いけでございますがな」
「ふん、そ、そらあ何やで、ワーッちゅうて、ええ具合に飲んださかいにな。ほれ、わしの横についててくれてた芸奴《おなご》、今晩が初めてやったが、何ちゅう名前やったかいな。そうそう、絹千代絹千代。あの子がほんにおもろい子でな、はあ。こっちもええ気持で飲んだがな。銚子が八本や。あいつの糸でな、
※[#歌記号]あがらしゃんせよ、雪はらわずに
どうせすぐにも、とけるもの。
え、どや、どや。わ、わ、わしもまんざらやないやろ。こ、こんなんもあるで、こんなんも。ぐ、ぐ、軍隊都々逸ちゅうてな、
※[#歌記号]臼砲より大きな、大砲はと聞けば、
臼のうえなら、そりゃ重砲。
まだあるで、まだあるで。
※[#歌記号]軍使の役目を、大砲にさせて、
降伏せよとの、攻城砲。
ぴょぴょいのぴょいぴょいで、ひらはれほいほいと。か、勘定は何ぼや、勘定は。あ、そうか。ほな、これで。え、釣。何を言うてんねん、釣はええがな、取っときちゅうねやがな」
「さいでやすかいな、これはえらいどうも済まんことで。ほな、遠慮なしに頂戴しときます。ときに若旦那、もうだいぶに遅そおますけども、お足元大丈夫でやすか。何なら人力呼びまひょか」
「いいや、かまへんかまへん。今日はわし、自分の車できたんや、むこうの、淀屋橋の北詰《きたづめ》に止めてあんねや」
「とおっしゃいますと、お抱えの人力でやすか」
「人力やないがな。お前ら、車やいうたら人力やと思てるやろ、それは間違いやぞ。世の中ちゅうものは毎日進んでるんやからな。車というても、人力と違う」
「そしたら、馬力でやすか」
「あ、あ、阿呆かお前は。何でわしが荷馬車に積まれて、北の新地へ酒飲みにこないかんねん。人を肥桶みたいに言うねやないで」
「そしたら、どんな車で」
「自動車やがな、自動車。なに、自動車ちゅうもの、話には聞いてるがまだ一遍も食べたことない?
古い万才みたいな冗談言うねやないで。
え、ほんまに知らんてか。難儀な奴やな。
エ、エンジンという物がついててやな、勝手にピューッと走んねやがな。
明治の三十二年やったかに亜米利加から入ってきてやな、日露戦争の頃には、タクリー号いうて、国産の車も走ってたんやで。
まあ、数もまだ少ないさかいに、見たことないのは無理ないけども。
しかし、新聞くらいは読んどきや。安治川《あじがわ》の金満家自動車を購入いうて、大きに出てたやないか。それが家《うち》とこや。よう走る車やで。ま、お前らもまた機会があったら乗せたげるわ。
あれ、話してるうちに、外は雨になってるやないかいな」
「もうしばらく休んでいきはったらどないです。ちょっと酔うてはるようやし」
「いいや、大丈夫。銚子の八本くらいで酔うたりするかいな。ほな、また来るわ。さいなら」
若旦那、ポイと表へ出て、本降りになってきた雨の中をば淀屋橋の北詰、車を止めてある所まで走ってまいりましたが、
「う〜い、ひ、ひっひっひっく、げぶう。
何やしらん、一目散に走ってきたら急に酔いがまわってきたみたいやな。げぶげぶう。
ああ、胸が悪い。やっぱり、ちょっと飲みすぎたんかいな。ま、ええわ、しばらく車の中で酔い醒まして帰ろ」
助手席に坐って、じっとしております。
と、何しろ銚子が八本ですから、だんだんとまわってきたんですかね。何やしらん眠とうなってきて、
「ふわああ」
大きな欠伸《あくび》ひとつして、そのまま眠ってしまいました。
「ちぇッ、さっぱりわやや。せっかく大阪まで出てきたのに、親戚中まわっても、誰も金貸してくれやがらへん。足が棒やがな。
おまけに、残ってた端金《はした》で安酒飲んでたら、人足か馬方みたいな奴に臭い息がかかったとかかからんとかで殴《どつ》かれるし、帰ろと思うて歩きだしたら雨が降ってきやがるし、さっぱり、わやや。わやくちゃや。
もうこないに遅いねや、電車もないやろなあ。よしんばあっても、切符買う金がないわ。
ええい、こうなったらやけくそついでや、淀屋橋の下で寝てこましたろ。さっぱりわやや、わやくちゃや。
しかし、何でこないに私《わい》はついてへんのかな。近頃、物事のうまいこといった例《ため》しがないがな。
百姓相手の鍛冶屋、この商売がむいてへんのかなあ。死んだ親爺の跡ついで始めたんやが、どうもうまいこといかん。三十五にもなって、嫁の来手がないちゅうのも、商売がうまいこといかんからやろなあ。来年、親爺の十三回忌、御袋の七回忌やちゅうのに、このままでは、法事する金も貯らんがな。
この前もそうや。ひさしぶりの儲け仕事。
松吉ン所の馬、蹄鉄つけかえてくれ言われて、わい、喜んだがな。ところが、何を勘違いしてたんかいなあ、新しい蹄鉄作るつもりが、どういうわけか、馬に着せるヨロイカブト一式作ってしもたがな。
前の晩に、太閤記の夢見たんが悪かったんかいなあ。千成瓢箪の馬印まで作ってしもた。
松吉えらい怒りよって、金一銭も払わん言いよった。まあ、そやけど物は試しやい一遍着せてみよ。ひょっとして、雨風どころか、少々の嵐にもめげんと働く馬になるかもしれん。そない言うて着せてみたんやが――
あそこの土が柔らかかったんやなあ。重みでズブズブズブ、馬そのままめり込んで見えんようになってしもたがな。
えらい騒ぎになって、巡査が飛んできた。
『大方それは、地下八十尺ほどもぐって岩盤の上に立っておるのじゃろう。それをお前が助けにいくか、それとも金で弁償するか。
どちらかしてやらんければ、懲役に行ってもらわんならん』
人のことやと思て、偉そうにヒゲねじってそない言いよった。
わい、十年以上も前に兵役行ったんや。今度は懲役なんて、いややがな。
懲役兵役一字の違い、腰にサーベル鉄鎖。
こんな歌あったけど、そのとおりや。阿呆らしもない、いややがな。
仕方《しやあ》ないさかいに、家中の金かき集めて、家財道具から何から全部売り払うて弁償したら、すっからかんや。一文も残らへん。
何でこないに、うまいこといかんのかなあ。
さっぱりわやや、わやくちゃやがな。
ぼやいてるうちに、淀屋橋まで来た。
このあたりもひらけてきたな。
両側に、新しい店がぎょうさんできてるがな。ええ、これは何や、提灯屋か。こっちは草鞋《わらじ》売っとる店か。
もうみんな表閉めて、なかで布団にくるまって寝とるんやろなあ。わいだけや、雨のなかをトボトボ歩いとるのは。
盛大堂。ははあ、ここは薬屋やな。洋品店に洋食屋、むこうが写真屋か。世の中が進むと、いろんな商売が出てくるんやなあ。
わいだけや、馬のヨロイカブト作っとるのは。こういうことでは、いかんねやろなあ。
あれ?
あそこに何や妙な物があるな。
何や、あれ。近よってみたろ。
ははあ、車がついてるところを見ると、これは乗物やな。荷車ではないわなあ。
人力にしては梶棒がついてないし、馬車にしては馬がおらんし、何やろかいなあ。
あ、なかで人が寝とるがな。
椅子があって、前から斜めに棒がつき出てて、その先にまた丸い輪がついている。
何やろな、これ。ちょっとさわってみよ。
あ、これまわしたら、前の車が左に向きをかえよるがな。お、こうまわしたら右や。
へ、おもろいな。じっくり遊んでみたろ。
どうせ、今晩暇やねん、こないでもして遊ばんと、阿呆らしてやってられんわ。
よっこらしょっと。ははあ、ここに坐るわけか。なかなか具合がええがな。
これは何かいな。ええっと、これをこう押してみると、あっ、ぶるぶるぶるいうて震えだしたがな。こいつ、怒りよったんかいな。
この下のこれは何や。これもさわってやれ。
それ、ぐいぐい。
ひゃあ、車が前へ進みだしたがな。何やこれ、勝手にどんどん前へ行きよるがな。
あかん、これではぶつかる。ぶつかります。
これをこう、右へ右へまわして、わあっ」
この男、エンジンかけてアクセル踏んだもんやさかい、車は前へ前へと走りだした。表閉めてる店にぶつかりかけて、ようようハンドル右に切ったら、これが梅田新道《うめだしんみち》を北向いて走ることになった。びっくりして強うに足を踏んばったら、スピードまで出てきよったんで。
さあ、その速いこと――
(はめもの=三味線「韋駄天《いだてん》が入る)
「ひゃあ、えらいこっちゃ。ものすごいこと速よ走るがな。あ、大江橋や。と思たら、蜆《しじみ》橋。お初天神が見えてきてるわ。えらいこっちゃ。さっぱりわやや、わやくちゃや」
(「韋駄天」止メ)
この男、わあわあ言いながらハンドルにしがみついておりましたが、そのうちやけくそになってきよってからに、
「ええい、ちょうどええわ。このままで家まで帰ったれ」
無茶な奴がおったもんで、そのまま北へさして車を飛ばしだした。
まあ、何しろ昔のことでございますから、夜遅うに表を歩いてる人間もあんまりおりませんし、まして、車やなんかが正面から走ってくる気遣いはない。
誰を跳ね飛ばすでもなし、衝突事故を起こすでもなし、どこをどう走ったものやら、とうとう自分の家まで帰ってきよった。
十三《じゆうそ》の川、三国《みくに》の川は、それぞれ箕面有馬《みのおありま》電気軌道、ただいまで申しますと阪急電車の宝塚線、その鉄橋を渡ったというんですから、たいがい無茶する男で。
「ああ、おもろかった。こらええわ、思いがけんことで早よ帰れたがな。
そやけど、この横で寝とる奴、どこの誰やろな。えらい酔うて寝とるようやが。
まあ、ええわ。ここに放ったらかしといてやれ。雨もこっちではもうあがってるし、まんざら死にもせんやろ」
ひどい男がおったもんで、車と若旦那をそのままにして、家へ入ってごろっと寝てしまいました。
ただいまでもそうでございましょうが、お百姓というのは朝の早いお仕事。まだ星が残っていようかという頃に、今日も今日とて朝飯前のひと仕事というわけで、鍬をかついでトコトコやってまいりましたお百姓。
「あらッ!」
妙な声をあげましていまきた道を一目散。
「村長さまァ、村長さまァ、えらいことが起きとります。鍛冶屋の鉄吉の家の前に、何じゃら怪体《けつたい》な車があって、なかで見たこともない男が、どえらいイビキかいて寝とります」
「何じゃ何じゃ、朝も早よからバタバタ騒ぎよって。え、何がどうしたちゅうかい。
ふん、鉄吉の家の前に、怪体な車?
なかで、知らん男が大イビキで。
なに、そういうたら夜なかに恐ろしげな吠え声がしたような気がするてかい。
そ、そらあ事じゃ、大事《おおごと》じゃ。
おい、半鐘鳴らせ、早鐘を打てというのじゃ。早よせんか早よ。
ああ、これ、伜。お前はすぐに走って巡査を呼んでこい。それから、村の若い者には、鎌でも鋤でも何でもええ、持って集まるように触れてまわれ。早よ行かんか早よ」
さあ、それから早鐘が鳴りだすわ、触れ役は走りまわるわ。若い連中は皆、むこう鉢巻タスキがけ、尻からげして走ってくる。
女子供は万一のことを考えて、近所の竹藪へ逃げこんで身体まるめて坐りこむ。
お婆ン連中は村長の家に集まって、炊き出しの握り飯をつくりだす。
村長は村長で、日露戦争に着ていったという黒ラシャの肋骨軍服着て、サーベル吊って出てきよる。
村中がえらい騒ぎになってきた。
いまだに寝てるのは、車の若旦那と鍛冶屋の鉄吉の二人だけという、こっちはいたって太平楽で、
「いいや、もう飲めん言うてるがナ」
「さっぱりわやや。わやくちゃや」
お互いに寝言いうてますわ。
そのうちに巡査が駆けつけてきましてナ。
車を遠まきにして鎌やら鍬やらぶりあげてる連中かきわけて、前へ進み出ていく。
「こ、こ、これか。これが、その怪体なる車というやつか」
「そうですねン。こらァ、いったい何でやすやろか」
「何でやすやろかと言うたとて、本官もいまが見始めじゃ。見始めの人間に、その物の名前を問うて、答が得られると思うておるのか。それとも貴様、本官がこたえられんことをば知っておりながら、わざと質問しておるのか。次第によっては大日本帝国刑法に照らしあわせ、厳しく貴様を責めねばならんが、その返答はどうじゃどうじゃ」
「いえ、何もそういうつもりで聞いたわけやないんで。どういう物かということを」
「どういう物かといえば、怪しげなる物じゃ。それくらい、わからんのか。それとも貴様、わかっておりながら本官に。大日本帝国刑法に照らしあわせ、厳重なる取調べを」
「またやがな、難儀な人やな。つまり、どういうところが怪しいのかと」
「それはすなわち、あのなかで人が寝とるじゃろう」
「へえへえ」
「あれは一見寝とるようじゃが、ひょっとしてこの機械に捕獲をばされて、眠らされておるのかもしれん。その点をもって本官は怪しいと断じておる。それが不服か。不服なら不服と言うてみい」
「大日本帝国刑法に照らしあわせ」
「黙れ黙れ。そっちから言うな、ややこしい。それにしても、ふうむ」
「何やら、恐ろしい気がしますな」
「そうじゃ、恐ろしい車じゃ
そういえば、一昨日本庁より通達があり、近頃我国と欧州某国との外交関係必ずしも好ましからず。帝国は鋭意努力して東洋の平和を守りぬく決意なるも、事態の万が一紛糾せしときはひと波乱あるやもしれずとのこと。
これがその、欧州某国より先手を打ってきた、後方攪乱の秘密兵器でないとは、誰にも言いきれんのじゃ」
「というと、戦争でやすかいな」
「考えられることじゃ。
したがって本官としては、ただいまより、この怪体なる車並びにあの男をば、大死一番秋霜烈日、乾坤一擲《けんこんいつてき》七生報国、生者必滅会者定離《しようじやひつめつえしやじようり》、艱難汝を玉にする、それら一切の決意をもって尋問する。
そのなりゆきによっては、地区憲兵隊に通報せんければならんかもしれんのじゃ」
「えらいことですな」
「国難じゃ、大国難じゃ。
もし本官において不測の事態起こらば、村長の責任において、間髪を入れず本庁ならびに憲兵隊に通報をばしてくれんか。
最悪の場合には第四師団の出動を求め、大阪からは歩兵第八連隊を北上せしめ、丹波篠山よりは歩兵第七十連隊を南下させ、後詰めとして大阪の騎兵第四連隊、深山《みやま》の深山重砲連隊、信太山《しのだやま》野砲兵第四連隊、高槻工兵第四連隊、その他第四師団の総力を結集して包囲作戦を取ったのち、総攻撃を開始するように。
不肖、大阪府巡査伊集院徹之進が請願しておったと、かように伝えてくれ」
えらい興奮してますナ。
さあ、その言葉聞いて村の連中、思わず後ずさりして、へっぴり腰で鋤やら鍬をかまえよる。それを見た巡査もびびりだして、いつでも抜けるように、サーベルの柄《つか》を握って近よります。
「お、お、おいッ」
「ふにゃられほあ、ほらはれるら」
「おい、こらッ」
「いや、もう飲めん言うてるがな」
「何を言うとるか。おいこら、起きんか」
「も、もうちょっと寝かせといてえな」
「貴様、本官を侮辱するかッ」
「あっ、びっくりしたあ。何やいな、耳もとで大きな声はりあげて。寝かせといてくれても……あら、何やこれは、どないなってんねン……絹千代、お袖、お銚子八本」
「何を寝呆けておるか。貴様、何者じゃ」
「何者じゃて、何でこんな所に巡査が立ってるの。ええ、ここはいったい、どこでおますねン?」
「ウウム、ますますもって怪しげなる奴じゃ。貴様、己《おのれ》の現在居る場所もわからんのか」
「わからんのかと言われても、こんな所、見たこともない。そもそも何ちゅう所です」
「ここは原田《はらだ》じゃ」
「原田といいますと」
「知らんのか、アーン。大阪府|豊能《とよのう》郡|中豊島《なかてしま》村字原田じゃ。全国津々浦々の国民諸君にもわかるように言えば、のちの世の豊中市原田元町。騒音訴訟で有名な、大阪国際空港のすぐ近くじゃ。もっとも、本官が喋っておる現在は、そういう物は何もない、田舎も田舎、大田舎じゃがな」
「というたら、大阪より北の、池田の方角やおまへんか」
「そうじゃ。池田まではいかんが、ここは大阪の北。服部と岡町のちょうどまんなか。有馬箕面電気軌道でいえば、曾根停留所より歩いて十分。原田城跡のすぐ近くじゃ」
「どういうことや。知らん間に、怪体な所へ来てしもてるがな。何でこんな、大阪の北の、それもいままで一遍も来たことのない村へ来てるねやろ。
わし、以前一回だけ能勢《のせ》の妙見さんへは行ったことあるけど、原田やて、こんなとこ知らんがな。
それも、きっちり車で来てるわ。
これは、狐か狸にでも化かされたんかいなあ。というて、別に草むらで小便した覚えもないやけどなあ」
「何をブツブツ言うておるか。すこぶる怪しい奴じゃ。貴様、某国の軍事探偵か」
「滅相な。私、れっきとした日本人です」
「日本人なら、現住所はどこか」
「どこて、私、家は安治川ですねや」
「何、安治川じゃと。安治川といえば、大阪の西のはずれではないか。そこに住む男が、何の故あってこの中豊島村へ、かくも早朝から来ておるのか。ウロンなことを言うと、為にはならんぞ」
「いえ、決して嘘ついてるわけやおまへん。
確かに私、安治川の人間で。それが何でこんな村へ来てしもてるのか、こっちが聞きたいくらいで」
「ウウム、しからば聞くが、この不可思議なる車は何じゃ。某国の秘密兵器じゃろうが」
「秘密兵器やなんて大層な。これは自動車という物でおます」
「何、これが最近現われたという、あの勝手に走る車か」
「へえ、家で買《こ》うたやつを、私も乗りまわしておりますので」
「ふうむ、その申し立てに必ず相違はないか」
「へえ、違いおまへん」
「しかし、まだ疑いは晴れんぞ。
よしんば貴様が安治川の人間で、家の車を乗りまわしておる男にせよ、なぜにこのような早朝に、知りもせん土地へ来てイビキをかいておるのじゃ。その辺を論理的に説明してみい」
「さ、それがさっぱりわかりまへんので」
さきほどから二人を遠まきにして問答聞いてた村の連中、この頃にはびびるほどの相手やないとわかったもんで、だんだんその輪を縮めてきよって、初めとはうってかわった高飛車な声。
「怪しい奴や」
「他所者《よそもん》や」
「大方、金持の極道息子やろ」
「肥壺に放り込んで、上から皆で小便かけたれ」
無茶苦茶言うてますヮ。
「ふああああ、何や表がえらい騒がしいなあ。せっかく寝てたのに、眼があいてしもたがな。朝っぱらから、さっぱりわやや。わやくちゃや」
家の前でワアワア人の声がするんで、何事かいなと起きだした鉄吉。外へ出てみると、もう大変な騒ぎ。
「ひゃッ」
素頓狂な声あげよって、
「えらいこっちゃ。あれ、昨日の晩、わいが乗ってきた車やがな。村の連中、むこう鉢巻タスキがけで集まって、あ、巡査まで来てるがな。あの男、気の毒に、汗びっしょりかいて弁解しとる……」
かわいそうにとは思うたものの、いまさら、実は俺が――てなこと言うわけにもいかず、仕方なしに鍛冶屋の鉄吉、村の連中のうしろに立って、みんなにあわせて小さい声で、
「縛ってしまえ……、殴《どつ》いてしまえ……」
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新じゃぱん蚕
〔蚕の一生〕
卵からかえった蚕《かいこ》は、発育と脱皮をくり返す。クワの葉を食べて発育する時期を「齢」、食べるのを停止して脱皮準備する時期を「眠」という。この齢と眠を四回くり返し、第五齢の終りで糸を吐いて繭《まゆ》をつくる。この時点の蚕は孵化当初と比べて、体長二十五倍体重一万二千倍にも成長している。以後、蚕はさなぎとなり、変態をとげてカイコガとなる。カイコガは交尾して産卵し、数日後に死ぬ。成長期のみ長く、絶頂期の短い一生である。
「ええ、では次にこちらの部屋にどうぞ」
インペリアル蚕糸研究所の主任技師は、見学にやってきた農場主を案内して言った。
「ここが品種改良実験室です。強く、発育が早く、よく食べてよく糸をつくる蚕を育てようと、さまざまな改良実験をしております。
現在、最も力を入れておりますのは、そちらの人工孵化器に入れてある実験卵でして、荒唐無稽な狙いですが、クワの葉以外の植物でも食べる品種をつくりだそうと考えているわけです」
でっぷりと太った農場主は、明らかに驚き、興味をさそわれた様子で聞き返した。
「そんなことが可能なのかね」
「理論上は可能です」
技師は、少し得意そうにこたえた。
「現に、完全合成飼料で育てた蚕は存在しますし、それが蛾になってから卵をうみ、卵はちゃんと孵化しています。馬鈴薯デンプン・大豆油・セルローズ粉末など、クワの葉をまったく含まない飼料で育てたのにです」
「ふうむ」
農場主は、二重にくびれた顎をなでた。
「すると、この実験が成功すれば、わしはわざわざ桑畑を作らなくても、雑草や何かで蚕を飼えると、こういうことになるんだな」
どうやら、新しく養蚕に手を出そうと思い、相談のためにやってきた男らしい。
「そういうことです。それともうひとつ、この実験では、雑種交配の新しい組み合わせも同時に実施しています」
「それは何のことかな。何しろ初めてなもので、難しいことはよくわからんのだが」
「なるほど、では少し説明いたしましょう」
とまどった顔に、技師はうなずいた。
「蚕には、大きくわけて四つの種類があります。ヨーロッパ種・インド種・チャイナ種、それにジャパン種です。で、現在、糸を取る目的で飼われている蚕は、ほとんどがこれらのうちの二種をかけあわせた一代交雑種なのです。純粋種には、糸質は良いが高温に弱いとか、大きい繭をつくるがそれまでの齢眠が長いとか、それぞれ一長一短があるからです」
「ははあ、それで雑種をつくって」
「そう、我われにとって最も有益な蚕にしようというわけです。いままでの実績では、ジャパン種とチャイナ種それぞれの改良型をかけあわせた一代雑種が、糸長といい量といい、抜群だったようです」
「それで、今度の実験は何と何かな」
人工孵化器を見つめて、彼は聞いた。
「多分、画期的なものなんだろうな」
「ええ、少しややこしいんですが」
技師はこたえた。
「ジャパン種にチャイナ種をかけあわせた雑種を固定し、それに当研究所が開発したヨーロッパ種の改良種=ここではアメリカ種と呼んでるんですが、それを交配させてみたわけです」
「成功すると、どんな蚕になるのかね」
「よく食べて発育が早く、大きく良質の繭をつくる種になるはずです。それと、クワばかりではなく、何でも食べるという雑食性を兼ね備えましてね」
「うまくいきそうかね、そっちの方は」
「大丈夫でしょう。ここに至るまでに各品種に対しては、塩酸人工孵化法・ガンマ線照射・X線照射による人工突然変異の喚起など、あらゆる強化策を施してますから。立派な雑種ができるはずですよ」
「それは何種と呼べばいいんだろう」
農場主はニヤニヤと笑った。
「アメリカにチャイナとジャパンだから、ダウンタウン・ランドリー種かな」
「なるほど、それはいい」
彼は笑い、それから技師らしく真顔に戻った。
「まあ、基本はジャパン種ですから、ニュー・ジャパン種でしょうね」
「楽しみなことだな」
農場主も真顔に戻って言った。
「成功したら、ぜひそいつを大量に分けてもらいたいな」
「所長に頼んでおいてあげましょう」
彼はこたえた。
「まあ、もうしばらく待っていてください。必ずこの実験を成功させてみせますから」
「ふむ」
農場主は満足そうにうなずいた。
「頼むよ。何しろ我われも新しい儲け口を捜さんと、発展が望めんのだからな」
数日後、技師は彼の行なった実験が、みごとに成功したことを知った。
卵は孵化し、そこから新しい蚕がうまれ出てきたのである。
体長わずか三ミリ余り、頭が黒く全身に毛のはえているそいつらは、さっそく稚蚕自動飼育機に移され、とりあえずクワの葉を与えられた。いきなり他の草や葉を与えて生体が拒否反応を起こし、死滅されては困るからである。
「大丈夫だと思いますがね」
飼育機を覗きこんで、技師が言った。
「むしろ、下手に保護して、せっかく獲得したかもしれない雑食性を失われちゃ、元も子もないんじゃないでしょうか」
「ふむ、まあ、それも一理はあるな」
所長は腕組みをして、うなずいた。
「だが、何世代にもわたってクワの葉だけを食べてきてるんだ。そう突然に、雑食性を獲得しているとも思えんしなあ」
「少なくとも、劣等種でないことだけは確かですよ」
技師はポケットからルーペをとり出し、クワの葉にとりついて針の先ほどの頭を休みなく動かしている一匹を拡大してみせた。
「ほら見てください。こんなに旺盛に食べている。身体は小さいが、明らかに強健な種になっています。少々のことではびくともしませんよ」
「なるほど、確かにそのようだな」
所長は感動したようにその一匹の動きを見つめ、そして言った。
「よかろう、雑食性のテストにかかってみたまえ」
「はい、さっそくやってみます」
技師はルーペをしまい、飼育機のそばを離れた。
「それはそうと」
並んで歩きながら、所長が言った。
「例の農場主の件だが、どうしようかな」
「分けてやればどうでしょう」
技師はこたえた。
「彼だけにではなく、誰にでも公開提供するのが正当だと思いますよ」
「そうだな、そのためのインペリアル研究所なんだからな」
所長はうなずいた。
「あれで皆が利益をあげれば、我われも苦労したかいがあったというものだ。世界中の人びとが、その成功をたたえ、あの蚕たちを有効に利用することだろう」
「それでは、第二齢までこちらで雑食性のテストをして、うまくいっておれば、すぐ分けてやりましょう」
技師はつぶやいた。
「何となく、凄いのをつくったような気がしますよ」
技師が予感したとおり、そいつらは確かに凄い蚕だった。その後の実験で、あきれるほどの雑食性を有していることが証明されたのである。
「驚きました」
彼は興奮したおももちで報告した。
「いろんな植物を少しずつ与えてみたんですがね、そのどれもを食べだすんです」
「あいつら全部がかい」
所長は、あまりに話がうますぎると思い、首をかしげて聞いた。
「ごく一部が、|新し物好き《ヽヽヽヽヽ》なのじゃないのかい」
「いえ、その逆なんです」
技師は、彼自身信じられぬといった顔でこたえた。喜ぶというより、むしろ不気味がっている様子である。
「大多数が|新し物好き《ヽヽヽヽヽ》で、何か別の葉を入れるたびに、八方からワッと集まってたちまちそれを食べつくしてしまうんです」
「食べないのも、少数はいるわけか」
「本当に、ごく少数ですがね」
彼はつぶやいた。
「どうも、そいつらの方が死にそうだな」
「というと、こういうことかね」
所長は天井をむいてしばらく考え、言った。
「あいつらのなかでは、雑食派こそ優性であり、クワしか食べられぬやつは適応能力を欠いた劣等少数だと。つまり、落伍者だと」
「どうやらそのようですね。雑食派の食欲と消化力は、見ていて恐ろしいくらいですよ」
「立派な繭をつくるんだろうな」
所長は頼もしそうに言った。
「よく食べて、よく育ってほしいものだな」
その期待にこたえるように、無数の蚕たちは与えられたすべての葉や草にむらがり、食べつくし、まるで意志を持っているようにいっせいに頭をあげて次の葉や草を求めるのだった。
さあ、これは食べた。他にないか。何か新しい味の食べ物は、他にないのか――
仲間どうしでそう言いあっているのかもしれなかった。
「もう大丈夫でしょう」
第二齢期が終りかけ、蚕たちが眠に入るためにその動きを停止しだしたのを見て、技師は報告した。
「ここまでで、不適応の個体はすべて死滅したようです。いま残っているのは、全部旺盛な食欲を持った雑食蚕です」
「例の農場主に分けてやってもいい時期だな」
「そうです。この先は放っておいても、勝手に餌を捜して成長していくでしょう」
「よし、それでは我われの出番は終ったということにしよう。あとは飼主の仕事だ」
所長は言い、背のびをして立ちあがった。
「荒っぽい実験だったが、うまくいったな」
技師はこたえた。
「蚕たちにしても、変異せざるをえぬ時期だったんでしょう。タイミングがよかったんですよ」
「あ、これは大変だ」
ある朝、ずらりと飼育機を並べた建物に入って、農場の小作頭が声をあげた。
「大変だ大変だ」
建物を飛び出し、主人のいる館に駆けこんで叫んだ。
「旦那、旦那、芋虫どもが」
「こっちだ、食堂だ」
奥から農場主の声が聞こえてきた。小作頭がそこへ行くと、彼は朝食をとっているところだった。
「何だ、何をそんなに騒いでいる」
ハムステーキを口に運び、ゆったりとした口調で言った。
「お前、朝飯はすませたのか。もしまだなら一緒に」
「それどころじゃありませんぜ」
背が高く肩幅のひろい小作頭は、主人を見おろして、じれったそうな声をだした。
「芋虫どもが眼を醒ましやがったんで」
「芋虫?」
農場主は言い、むかいに坐っている夫人を見てニヤッと笑った。
「こいつ、まだ芋虫だと言ってる。お前と一緒で、どうしてもあいつらを好きになれないらしいな」
「そりゃそうですわよ、だって見ただけで胸が悪くなるもの。小さくて、たくさん集まってて、うごめいてるの」
夫人はこたえ、その姿を思い出したようにぶるぶるっと身体をふるわせた。
「お前はそう言うがな、あの身体から」
「旦那、落着いてちゃ困りますぜ」
小作頭が、主人の言葉をさえぎった。
「芋虫どもが眼を醒ましやがったんですぜ」
「別に驚くこともないじゃないか」
ミルクを飲んで、彼はこたえた。
「三齢に入ったんだ。これからどしどし食べて大きくなっていく。結構なことじゃないか。餌はたっぷり用意してあるんだろう」
「その餌を、もう食べつくしやがってるんですよ」
「何だって」
さすがに驚いた表情で、彼は小作頭を見あげた。
「あれだけの草や葉を全部食べたのか」
「そうですよ。昨夜見まわったときはまだ眠ってやがったのに、今朝は食いつくしてすっからかん。ありゃあ、化物芋虫ですぜ」
「ふうむ」
食べるのをやめ、ナフキンで口をぬぐって立ちあがった。
「見に行こう。それは少し気になることだ」
食堂を出ていく二人に、夫人が声をかけた。
「だから、私は反対したんですよ」
首をふってつぶやいた。
「いくら食べても、繭をつくるかどうかわかったものじゃないわ」
「ほら、御覧のとおりですよ」
飼育機の前に立ち、小作頭は言った。
「こいつら、葉っぱばかりか、枝から何から全部食べちまいやがったんで」
「恐るべき食欲だな」
農場主はうめき、飼育機を順に覗きこんでいった。脱皮してひとまわり大きくなった蚕たちが、まだ食べたりぬと言いたげに頭をもちあげて左右にやり、仲間どうし接触したり離れたりしている。どの飼育機でもそれは同じだった。無数の蚕たちのそんな動きを見ていると、まるで彼らが声をあげて要求しているように思えるのだった。
もっとくれ。もっと食べ物をくれ――
「大きくなるためには、食わねばならん」
農場主は言った。
「餌を入れてやれ。あれだけでは足りなかったんだろう」
「へえ」
小作頭は不満そうにこたえ、奥に積んである草や葉の束を取りに行った。
「いくら食べても、立派な繭さえつくってくれればいいんだ」
農場主はひとりうなずき、建物を出た。
「だ、旦那」
だが十歩もいかぬうちに、背後から小作頭の泣きだしそうな声が追ってきた。
「どうした」
ふりむくと、本当に顔をゆがめていた。
「あいつら、化物ですぜ」
走り戻った彼に、小作頭は飼育機を指さして言った。
「いまのうちに、始末した方がいいんじゃないですかい」
「だから、どうしたというんだ」
「どうしたもこうしたも」
彼は一台の飼育機に近づき、地べたに置いておいた草の束を取りあげた。「いいですかい、見ていてくださいよ」
彼が草の束を投げ入れた途端、ミシミシと異様な音が起こった。
「………」
蚕たちがいっせいに草束にとりつき、猛烈なスピードでそれを侵食しだしたのだった。
見る見る草束はその量を減らし、そして消滅した。あとには、頭をもたげた蚕たちがうごめているだけだった。
もっとくれ。もっと食べ物をくれ――
「おいら、虫酸が走りますぜ」
小作頭は舌うちして言った。
「こんな化物、踏みつぶしてしまいましょう。さもないと、大変なことになりますぜ」
「何てことを言う」
本能的な恐怖感に襲われながらも、農場主はそれをおさえて言った。
「こいつらは、趣味や遊びで飼ってるんじゃないんだぞ。食べさせておいて繭を取る。
こちらの利益のために飼ってるんだ」
彼は命令した。
「少々食うからといってうろたえるな。食いたいだけ食わしてやればいいじゃないか」
「………」
出口ヘとむかいながら、つぶやいた。
「やつらだって、生きねばならんのだ」
それから数日間、蚕たちはひたすら食べた。
葉でも草でも、食べて食べて、食べまくった。そして満足して、第三眠に入ったのだった。
「だ、旦那」
しばらく静かな日がつづいて、また小作頭が飛びこんできた。
「奴ら、外に出だしやがった」
「外に出ただと。飼育機の外にか」
農場主は驚いて立ちあがり、夫人は気味悪そうに眉をしかめた。
「お前、どうしてそれを元に戻さない」
「戻せるもんですかい」
小作頭は吐きすてるように言った。
「三匹や五匹じゃねえんだ。何千匹何万匹がいっせいになんですぜ」
聞くなり農場主は駆けだし、小作頭が後につづいた。夫人も小走りにドアまで行き、それをしっかりと閉めて身をふるわせた。
「おお嫌だ、そんなのが入ってきたらどうしよう」
「うわっ」
建物の前で、二人は思わず叫んで立ちすくんだ。
第四齢に入って、はっきりとわかるほど大きくなった蚕たちが、何万匹という集団をつくり、地面の上をもぞもぞと進んでいるところだった。淡いクリーム色の胴体の各分節ごとに目玉のように見える模様を浮かし、そいつらが無数に集まって大河となり、黙々と前進しているのだった。
「やっぱり、化物だ」
小作頭は言い、いきなり河に近よって闇雲に蹴ちらし、踏みつけだした。
「ええい、こいつめ、こいつめ」
「やめろ、何てことをする」
農場主が飛びついてそれを止めた。
「繭を取らねばならんことを忘れたのか」
「そんな物を取る前に」
彼は眼を吊りあげて叫んだ。
「こっちの命を取られてしまいますぜ」
「馬鹿なことを言うな」
「いいや、馬鹿なことじゃねえ」
彼は首をふった。
「放っとくと、きっとそうなる。いまのうちに殺しとかないと、必ずそうなりますぜ」
その間にも、大河は流れていくのだった。
「それにしても」
農場主はつぶやいた。
「奴ら、いったいどこへ行く気だろう」
技師が人為的に与えた突然変異は、彼の予想をはるかに越えて、一代のうちに蚕たちを異常な大食漢にしてしまったようだった。
考えてみれば、これは必然的に起きることかもしれなかった。それまで僅かなクワの葉を食べ小さな繭をつくる、そのいわば定量の摂取・製造作業に何十世代にもわたって馴れてきた彼らに、無理やり定量以上の食欲を与えたのである。しかも味覚をひろげてだ。
多く食べたい何でも食べたい。そう思ってそうする。そして眠から醒めてみると、彼らは自分の身体が予測した以上に大きくなっていることを発見するのである。
多く食べねばならぬ、何でも食べねばならぬ。彼らはそう意志せざるをえぬようになってしまった。そうしなければ、自分の身体を養えず、彼ら全体が死滅するに違いないからである。拡大悪循環への突入だ。
「クワの葉時代の方がよかったのかもしれない。しかし俺達はもう雑食種になってしまったのだ。そして、雑食種といえども生き、子孫を残し、発展しなければならんのだ」
彼らはそう考えているのに違いないのだった。
「だ、旦那」
その考えを実行に移すべく、彼ら何万匹の集団は立ちすくむ二人の前を通過し、まず行きあたった巨大な樫の木にむらがった。
「奴ら、木を食べようとしてますぜ」
茫然と見まもる二人の目前で、彼らは黙々と、しかし確実に樫の木を食いつぶし始めた。
根元にとりつく奴、幹をもぞもぞと這い登る奴、枝から葉へと進む奴。たちまち樫の木全体がクリーム色になってしまった。ピシピシと音を立てる生きている大木。
「………」
見る見るそれが細くなり低くなり、ぼろぼろとクリーム色の点が無数に落下して、そしてそれらは河となってまた前進するのだった。
「旦那、やっつけましょう。やらなきゃ、やられてしまいますぜ」
小作頭のひきつった声に、思わずうなずきかけて、農場主は唇を噛んだ。
「どうしたんですかい、旦那」
「まあ、待て」
彼はようやく自分自身の気持を納得させて、小作頭を制した。
「もうしばらく様子を見てみよう」
大群は進んでいた。行きあたるものは雑草も木も花も、すべて消滅させて進んでいた。
「畑にまで侵入したらどうするんです」
「まさか………」
あんな遠くまで行くものか。それまでに腹いっぱいになって四眠に入るさ。そしたら、全部つかまえて元の飼育機に戻せばいいんだ――
農場主はそう思った。
どうも、こいつといい女房といい、蚕たちを生理的反射的に恐れ嫌いすぎる。もっと冷静に考えられんのかな。何万匹集まろうと、たかが蚕じゃないか――
だが、この場合はその生理的な嫌悪感、本能的な恐怖感の方が正しい反応なのだった。
蚕たちは食べても食べても停止しようとせず、緑という緑を根こそぎ消滅させて、刻々豊かな小麦畑へと近づいて行った。
朝から昼、昼から夕方。そして夜になっても、彼らのうちの一匹たりとて停止しようとはしないのだった。
「化物の肩をもつのも、大概にしてくださいよ」
畑の境界柵を背にして立ち、じわじわと近づいてくるクリーム色の流れを懐中電灯で照らして、小作頭は言った。
「おいら、もう我慢ができませんぜ」
彼は足元に置いた石油罐を靴先で蹴った。
「あと一メートルでも近よりやがったら、たとえ旦那の許しがなくとも、これを使いますぜ」
「………」
「旦那は何か考えがあって、奴らを放ったらかしにしておきなさるんでしょうがね」
彼は農場主に、反抗的な眼をむけた。
「おいらは、とにかくいま、この畑に奴らが入ってきやがるのを許しちゃおけねえんでさ。先の繭より、いまの小麦なんだ」
しばらく沈黙がつづき、闇のなかにピシピシという蚕たちの顎の音だけがひびいていた。
それが確実に近づいてくる。
「よし、わかった」
決心したように、農場主は強い声を出した。
「それを使って撃退しろ」
「そうこなくっちゃ」
勇んで石油罐に手をかけた小作頭に、彼は指示した。
「ただし、全滅させるなよ。先頭から三分の一、いや五分の一くらいだけにしておくんだ」
「どうしてですかい」
両腕で石油罐を持ちあげ、いままさに蚕たちにむかってその中身をぶちまけようとしていた小作頭は、気勢をそがれたようにふりむいた。眼が怒っている。
「あんな奴ら、一匹残らず焼き殺した方が世の中のためですぜ」
「いや、いかん」
農場主はこたえた。
「お前はそれで気がすむかもしれんが、わしはこの農場全体の収益を考えねばならん」
彼は蚕たちの大群を指さした。
「あいつらには、すでに莫大な金をつぎこんでいる。だから、その投資にみあう利益をあげさせんといかんのだ。それが奴らの義務だ」
「………」
「いいか、感情的になるなよ」
彼は無表情のままつぶやいた。
「殺すのは、それからでもできる」
「なるほど、そういう考えでしたかい」
小作頭は、満足そうにニヤリと笑った。
「さすがは旦那だ、頭が違わあ」
彼はつかつかと大群に歩みより、石油をぶちまけた。
「それ、お先っ走りめ、これでもかぶれ」
いきなりの攻撃に、蚕たちは大混乱を起こしていた。それまで整然と流れていた河が乱れ、一匹一匹が身もだえし、転げまわり、後退しようとしていた。だが、後から後から押しよせてくる大群にはばまれ、思うにまかせない。うろたえ騒ぐだけなのだった。
「そおれ、蚕のバーベキューだ」
小作頭がマッチを擦って、ぽいと投げた。
ぼっと嫌な音がして、先頭何千匹かの蚕が一瞬で火につつまれた。闇のなかに火炎が立ちのぼり、その海の底では、無数の蚕たちが身をよじり、もがき苦しんでいるのだった。
パチパチとはぜる音がつづき、石油の臭いにまじって、鼻をつく不快な臭いがあたりにたちこめた。
「旦那、奴らが戻りだしてますぜ」
火を恐れてか、後続の蚕たちがおのおのその向きを変え、いまきた方向へと避難しはじめていた。
「ふむ、これでいい。これでいいんだ」
「奴らも、少しはこりたでしょうからね」
二人は顔を見あわせ、うなずきあった。
翌日、蚕たちは第四眠期に入り、またしばらく静かな日がつづいた。だが――
「だ、旦那、旦那」
小作頭が飛びこんできた。
「すぐ来てくだせえ、あの化物の奴ら」
「どうした、五齢に入ったのか」
「入ったも何も」
彼はぜいぜいとあえいだ。
「気がついたら、畑に入って麦を食い荒らしてやがるんですよ」
「畑にだと」
農場主は、顔をひきつらせて立ちあがった。
「とうとう、そこまでやってしまったか」
「だから私が言ってましたでしょう」
夫人も立ちあがり、憎々しげに言った。
「妙な雑種をつくると、ろくなことがないんですよ」
「そんなことは、研究所の技師に言え」
「まったく、とんでもねえ実験をしやがったもんですぜ」
言いあいながら三人が畑に走ってみると、見わたす限りの麦がクリーム色になって、ピシピシもぞもぞとうごめいていた。
「………」
三人は声をのんで立ちすくみ、互いに顔を見あわせた。
「化物蚕だ」
小作頭ではなく、農場主がとうとうその言葉を使った。
「ここまで成長するとは思わなかったぞ」
まったくそれは、常識を超えて巨大化していた。標準体長七センチほどなのが、彼らは軽くその倍ほどになっており、それが何万匹集まって、麦を食い荒らしているのだった。
「どうやら、お前達の予感の方が正しかったようだな」
農場主は、夫人と小作頭に言った。
「こうなる前に、叩きつぶしてしまうべきだったのかもしれん。なぜならば」
彼はほっとため息をついた。
「蚕は五齢期に、その全生涯で食べる餌の八十パーセント以上を取るからだ」
「ということは」
小作頭が、恐怖に眼を見ひらいて聞いた。
「いままで食いやがったあれだけが」
「そう、たったの二十パーセント弱にしかならんということだ」
「やっつけましょう、旦那。いますぐにやっつけましょう」
小作頭は叫んだ。
「そうよ、あなた。畑も何も、農場全体が食べつくされてしまうわ」
夫人の声に、農場主はゆっくりと首をふった。
「もう手遅れだよ。一匹一匹つまみ出すわけにもいかん。それをやってる間に麦畑は消滅するだろう。火をかけても、麦の全滅は同じことだ」
刻々消滅に近づいている麦畑を見つめ、彼はギラリと眼をひからせた。
「ならばいっそ、好きなだけ食べさせてやろう。いまのうちはな」
ニヤリと物凄い笑いを浮かべた。
「どうせもうすぐ繭をつくりだすんだ。そのときには根こそぎに……」
彼は叫んだ。蚕たちにむかい、絶叫した。
「食べろ、もっと食べろ。いくらでも食べてぶくぶくと大きくなれ」
立ちつくす三人の、怒りと反感の視線を知ってか知らずか、化物蚕たちは物に憑《つ》かれたようにひたすら捕食をつづけていた。
まるで、それがいつまでもつづけられる作業であるかのように、喜々として休まず、ピシピシと音を立てつづけていた。
だが、無論それは、短い絶頂期に至るための、自らの死期を早める行為なのである。
新じゃぱん蚕――気の毒な雑種ですなあ。
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斬  る
「軍刀がほしい」
深夜の安アパートで、一人ウイスキーを飲みながら、今日一日のことを考えて、哲男はそう思った。
「なぜ、こんな目にあわなければならないのか」
代理店の男の理不尽な言動を思い出して、彼は拳を握りしめた。
「許せない」
つぶやいて、ウイスキーをぐいとあおった。
哲男は、小さな印刷会社の営業マンである。
様ざまな業種の会社や広告代理店をまわって注文をとり、見積りを提出し、仕事が決まれば、その納品を終えるまで、彼が窓口となって作業を進めるのだ。と書けば簡単だが、実際は繁雑をきわめ、不愉快な思いが連続する仕事である。
たとえば、代理店からパンフレットの印刷を受注しようとする。見積り段階で、すでに不愉快が始まるのだ。
「高いよ。どうしてこんなに高いんだよ」
相手は値切るのが当然のように、そう言って見積り書をつっ返す。いくら紙代や色分解経費や印刷費の説明をしても馬耳東風。
「じゃ仕方ないな、他社《ほか》に当ってみるか」
ひとつ覚えの切札を出してくるのだ。
それを何とかなだめ、目一杯の値引きをして、ようやく受注に成功すれば、すぐ次の無理難題が始まるのである。
「版下の上りは水曜日の予定だ。それをクライアントに見せてチェックを受けて、訂正しなきゃならないから、入稿は早くて木曜の夕方だな」
「写真《ポジ》はいついただけますか」
「ええっと、いまから手配するから、うん、来週の月曜。二十三日だな」
「で、納品日は」
「月末。絶対だよ、これは」
とうてい不可能なスケジュールを、平気な顔で示すのである。
「しかしですね」
哲男は内心ムッとしながら、だが何とかそれを押さえて、そのスケジュールがいかに無理であるかを説明しはじめる。色分解に何日かかり、製版に何日かかり、色校正はこの日あたりが精一杯で、ということは本刷りにかかれるのが早くてもこのあたりで――
「分ってるよ、それくらいのことは」
だが、相手は突然不機嫌な顔で、どなりだすのだ。
「だけど、クライアントが月末にくれって言ってるんだからな。守ってくれなきゃ困るんだよ」
クライアントがどう言おうと、俺の知ったことか。哲男はそう思う。分っているのなら、クライアントにそれを説明してスケジュールを調整するのが、代理店の役目ではないのか。それをせずに、つまり仕事を失うことを恐れて反論もできず、唯々諾々《いいだくだく》受けて帰ってきて、その尻ぬぐいをこちらに押しつけようとしているくせに何だ。
物には言い方があるはずだ――と、彼は思う。
無茶なスケジュールで申訳ないが、何とかやってはくれないだろうか。クライアントに対しては代理店も印刷会社も同じ下請け仲間であるはずで、ならばその辛さは分っているはずで、そういう言い方をするのが普通だと思うのだ。
それを、こちらがミスしたわけでもないのに、嵩《かさ》にかかって要求だけを押し通してくる。
高圧的な態度をとれば思いどおりになると思っているらしい、その態度が嫌いだ。
恐れいって承知するのではなく、単なる営業マンである俺に拒否権はないので、仕方なく何とかしているのであることは、自分がクライアントから無理な要求を呑まされるときのことを考えれば、分るはずなのだ。
なのに頭ごなしに押しつける。人にされたことを、別の人間にそのまま順送りしてくる。
いやらしい。きっぱりとしていない。自分さえよければという、サラリーマン根性丸出しのやり方だ。
そして、何とかその腹立ちを押さえて仕事を進めれば、今度は自分の社の工務の連中から突き上げをくらうのである。
「なに、また訂正。無理だよ、もうできないよ。何だと思ってるんだ。版はもうできてるんだぞ」
「あんた、何でそんな訂正を受けてくるんだよ。印刷を魔法だとでも思ってるのか。それとも、現場の俺達に押しつけりゃ、何とかなると思ってるのか」
上からも下からもどなられ、ののしられ、それが三つも四つも並行した作業で、哲男は頭を過熱状態にし、何もかも放り出してしまいたい気持をだましだまして、毎日を過ごしているのだった。
哲男のストレスがなかなか発散されず、むしろたまる一方であった原因には、環境的な不運も働いていた。小さな会社で、毎年新入社員を採用するということはなく、だから哲男には同期の社員がいないのである。同じ課の人間もすべて彼より年長で、自然と彼は気分的に孤立するようになっていた。学生時代の友人も、初めのうちはよく酒や麻雀を誘う電話をしてきたが、時間が不規則で、残業の多い彼はほとんど断わりづめで、それに嫌気がさしたのか、いつの間にか、誰も誘いをかけないようになってしまった。
だから、たまに仕事が早く終っても、彼には一緒に飲んで騒ぐ同僚や友人はおらず、無論、恋人はおろか、ガール・フレンドさえ時間的に見つける余裕がないままなのだった。
「糞」
哲男は、上着を畳の上に放り出し、ネクタイを乱暴にゆるめたままの姿で、ウイスキーをあおった。
「何が、ああどうもだ」
今日の午後、突然、チラシを納品してくれと電話が入ったのだ。明日の午後という予定で進めているからとても無理です。そう言う哲男に、相手は勝手な理屈を並べて有無を言わさず、とにかくどんなに遅くなっても納めろ、俺も待機しているからと、電話番号を告げた。
十時過ぎにようよう納めて報告の電話をすると、女の声が出た。ついで彼が出て、
「ああ、どうも」
それだけ言って切ってしまった。かすかに聞こえたざわめきは、バーのそれに違いなかった。
「俺に仕事を押しつけて、飲んでやがったんだ」
彼はその情景を思いうかべ、唇を噛んだ。
「軍刀がほしい」
哲男が軍刀をほしいと思い始めたのは、三カ月ほど前のある日曜日、一人で繁華街をうろうろしていたときからだった。
ふと足を止めて見たモデル・ガンの販売店。そのウィンドーに、それが飾ってあったのだ。ひと目みて、
「ほしい」
哲男はそう思い、ウィンドーに鼻を押しつけて、長いことそれを見つめていた。
陸軍軍刀・四万円。鍔《つば》のところに、そう書かれた値札がついている。
「高いな。だけど、ほしい」
哲男は四万円という金額の、いまの自分にとっての価値を考え、まだ終っていない洗濯機の月賦のことを思い出し、次のボーナスの予想額を考えてみたりした。
「買おうか。貯金をおろして買おうか」
ガラス一枚へだてた眼の前にある刀。柄《つか》から鞘《さや》の先までが一メートルほどもある陸軍軍刀。抜いてみれば、多分刀身は六十センチ以上あるだろう。昔でいえば二尺三寸というところか。
鞘は鉄でカーキ色に塗装され、鍔は金色。柄には茶色の緒が菱《ひし》模様に巻かれていて、柄頭《つかがしら》には飾りの房がついている。
武骨な、ほとんど飾り気のない、斬るという機能だけに徹したその姿を、哲男は美しいと思った。
店内には、コルト45やウインチェスターや、あるいはワルサーやスミス&ウエッソンといったモデル・ガンが陳列されている。しかし、哲男はそれらに何の興味も覚えなかった。
男は大抵、武器が好きだ。いい歳をした大人でも、モデル・ガンやモデル刀を持っている者は多く、話を始めると意外に詳しい人物がいたりする。そして、それを大きく分けると、鉄砲派と刀剣派に分れるようである。
なぜある男は鉄砲が好きであり、別の男は刀が好きなのか。子供の頃のオモチャの記憶があるのか、映画か何かで見て好きになったのか、あるいは自分の心にある何かを託すのに、鉄砲または刀が最適だからなのか。理由はいろいろとあるだろう。人さまざまのことである。
そして、哲男は刀派なのだった。彼の考えによれば、武器は持主の誇りの象徴であって、これを行使するという場合がたびたびあっていいものではなく、よほどのことがない限り、持つということだけで激情の暴発をせき止めるべきものなのである。武器を使うことは人を殺すことで、それはやはり大変なことで、だからもうこれ以上は譲れないというぎりぎりの線までは、行使の誘惑に耐えねばならないのである。その耐えるという緊張を現わすのが、哲男にとっては刀を持って立つ男という姿であって、鉄砲やピストルでは断じてないのである。
そして、その刀の中でも、哲男にとって特に悲壮で美しいのは、ヤクザの白鞘や華美な拵《こしらえ》の陣太刀ではなく、軍刀なのだった。
それは、彼の求める条件をすべてみたす刀だった。完全な実用品でありながら、私闘では絶対に抜かず、戦《いくさ》の中でも命令あるまではその力を行使しない。決意を秘めて、ただひたすら握って立つだけである。そして不必要な装飾がない。カーキ色の鉄の鞘、これだけで哲男の思う刀そのものなのである。
もっとも、彼の軍刀に対するイメージはかなり理想化されたものであり、現実の軍刀が常に誇りの象徴であったというわけではない。
鉄の鞘は拷問の道具に使われ、刀身は捕虜あるいは民間人の首を落とす役を果した。
持主には個人の誇りとは無縁の、権力志向者・陰謀家・サディスト・蛮勇男などもおり、大量生産されたスプリング刀は、持つことを望まぬ人間にまで行きわたった。
しかし、哲男はそんなことは知らない。ただ、きっぱりとした誇り高く厳正な軍人が、軍刀を腰には吊らず、左手で握って立っている姿を想像して、それを美しいと思っているのである。軍人は、ときには青年将校であり、飛行士であり、またときには学徒出陣の予備少尉だった。
そのイメージは、ガン・ショップでモデル軍刀を見たときから、急速にふくらみ、明確なものになっていった。彼は、暇を見つけてはその店へ行き、あきることなくウィンドーを眺めた。四万円という額は、哲男に限らず誰にとっても手が出しにくいのだろう。いつ行っても、初めて見たときの位置に、そのまま飾られているのだった。
「斬る」
哲男はそんな言葉を思いうかべて、それを見つめつづけた。そんなとき、彼自身も軍人なのだった。
あいかわらず、不愉快な毎日だった。
哲男は、外では下請けの印刷屋《ヽヽヽ》であり、社内では下っ端の若僧であり、仕事以外では女の子と遊ぶこともしない、いつも疲れた顔と暗い眼をした男だった。たまに一人でバーヘ行っても、何かしら重いその雰囲気が災いして、女の子も仕事以上の言葉をかけてこようとはしないのだった。
「糞」
彼は道を歩きながらでも、何度もそう心のなかで思った。
「斬る」
何のために、誰を斬るのか、明確には分らなかった。得意先や社内の誰かれを斬ったところで、それは単なる欲求不満の解消か腹いせに過ぎないという気はしていた。だから、彼らを斬るのは、その個人や肉体を斬るのではなく、奴らの行動原理を斬るのだ。その場しのぎの、無責任な、男性的でない原理を斬らなければ、正直に、責任感と誇りをもって動くという俺の行動原理が、遂にはその濁流に押し流され、つぶされてしまうだろう。毅然《きぜん》が姑息《こそく》に包囲され、倒されてしまうのだ。
それを許すことはできない。譲ることはある程度できても、それには限度がある。その限度を越えて、俺の原理が危機に瀕《ひん》すれば、
「斬る」
それしかないのだと、彼は頭の中で抽象的な論を組み立てていった。無論、具体的には誰にどういう態度をとるのかということは分らなかった。分ったとしても、実行はできないのだ。
得意先の担当者に、お前は不愉快だから話をしたくはない――と言えるか。
会社の課長に、こんな仕事をつづければ人間がいじけるから辞めます――と言えるか。
世間的には、その内面とは無関係に、哲男は一人のサラリーマンに過ぎないのだ。
だからこそ、それが嫌というほど分っていればこそ、彼は「斬る」という言葉を呪文として唱え、軍刀を握って立つ自分の姿を思いうかべて、毎日を過ごしているのだった。
ガン・ショップに通う回数は多くなり、夢想は日に日に確かなものへと変っていった。
つまり、それだけ彼の周囲の状況は変らず、ストレスは発散の場を与えられずに刻々とその量を増していったということである。
そしてある日、初めてウィンドーで見てから五カ月ほどもたち、多分何百回も「斬る」という言葉を繰り返してから、哲男は遂に貯金をおろしてそれを買った。
もはや、呪文と夢想だけではストレスの水嵩をせきとめることはできず、といって、やはり現実生活での決断と行動はとれず、この上は現物《ヽヽ》を買い、実際にしっかりとそれを握って立たなければ、そして、握りしめたその左手を通して、軍刀にストレスを放流してしまわなければ、精神のバランスが崩れてどうなってしまうか分らない気がしたからだった。
自分の物になった軍刀は、すばらしかった。
ずしりと重く、鉄の鞘はひやりと冷たく、合金製の刀身が少し光りすぎているとはいえ、彼の心を託すには充分の友だった。
夜、アパートの部屋で、彼はそれを握って立った。左手に力をこめて眼をつむり、
「斬る」
そう念じると、確かに気持が楽になるのだった。刀が鬱積を吸いとってくれるのだ。
「断!」
彼は鞘を払って明りの下に刀身をさらし、まばたきもせずに、鍔元から切先までを凝視した。
毎日毎夜、あきることなく、それをつづけた。つづけぬと、すまぬのだ。
日がたつにつれ、軍刀はますます彼と一体になってきた。四万円もしたとはいえ、やはり大量生産されたモデル刀で、拵《こしらえ》が丈夫ではない。握りしめ、抜き、収めしているうちに、まず柄頭の飾り房をとめる金具が折れてしまった。
「構わん。どうせ飾りは不用なのだ」
彼はそう思い、房を捨ててしまった。
次に柄と鍔がぐらつき始め、竹の目釘が折れてしまった。分解してみると、|なかご《ヽヽヽ》の目釘穴がまっすぐではなく、少しゆがんであけられているのだった。だから、素振りをすれば目釘に力が不均等に加わり、そのために折れてしまったものらしい。
「軍刀は岩乗でなければいけない」
彼は思い、刀の作法からは外れるが、太い鋼鉄のボルトを捜してきて、それをねじ込んで柄をとめた。振りまわしても、ぐらつかないようになった。
「これでこそ、実戦むきなのだ」
元来実用一点張りだった軍刀が、なおのこと、哲男の理想通りの実用武器になったのだった。
「斬る」
彼は得意先の誰彼の顔を思いうかべ、社内の上司の権威を嵩《かさ》に着た言葉を思い出し、握りしめた手に力を込めて、右手でカチャリと鍔鳴りをさせた。
街には、一分の隙もないスーツを着こなして、にやけた顔で昼間からぶらついている男が充満していた。哲男と同じくらいの年齢なのに、金と暇があり余っているようなのだ。
そいつらを横目で見ながら、次の得意先へと走った自分を思い出すと、腹立たしかった。
「ぶった斬る」
にやけたその顔や姿ではなく、そのなかにある「矜持《きようじ》の無さ」が不愉快なのだと、彼は思っていた。
そして、そういう男に限って、女を連れているのだった。そういう男を、いい男だと思う、その馬鹿さかげんを許せないと、彼は思った。
「斬るべき」なのだった。
こうして、彼はまたとない盟友を得た気持で、その物を握る、そのかかわりあいにおいてだけ、鬱積を晴らせるという状態に深く入っていった。
いわば、如露《じようろ》の穴をひとつだけ残して、そこから水を噴出させるようなものだった。勢いは強く、内容はどろどろと濃密で、その量も日ごとに多くなっていく。
握り、抜き、振るだけでは心がおさまらず、哲男はそれを使うようになっていった。
ダンボールの空箱を置いて、力まかせに突きを入れる。モデル刀とはいえ硬質合金の刀身は、切先からズブリとダンボールに喰い込むのだった。
「むッ」
片足を箱にかけて、刀を引き抜く。突いて、かけて、抜く。あるいは、上段から振りおろして箱を裂く。アパートの一室で、哲男は毎夜、その動作を繰り返していた。
昨夜からの不愉快が、朝になっても消えなかった。ますます大きくなってきていた。
「申訳ありません」
ひとことこう言っただけで、哲男が全面的に悪者にされてしまったのである。
納品した印刷物に誤植があったのだ。新製品発表会の招待状で、例の通りスケジュールに追われた綱渡り仕事。おまけに途中で会場が変更になり、開会時刻も変更になり、略地図は差しかえねばならず、そのそれぞれがまとめてではなく、ばらばらに指示されたので、開会時刻が無訂正のまま刷られてしまったのである。
訂正の指示は哲男が電話で受け、工務に確かに伝えた。だから、直接の責任は工務にあるといえる。また、訂正後の色校正刷りを出すことは時間的に不可能だったが、文字校正用の青焼きは提出してある。それを代理店の担当者がチェックしてOKを出したのだから、最終責任は彼にあるともいえる。
しかし、だからといって、哲男は自分に責任がないと言うつもりはないのである。ひとつの仕事を複数の人間が受けもって進めた場合、そこに何かミスが発生すれば、責任は連帯して取るべきだと、彼は思っている。
誰が見たとか、誰が進めたとか、そんなことは言うべきではないと思っている。
その仕事に加わった以上、立場や役職で軽重があるとはいえ、責任は全員で取るべきなのだ。ミスが発生した理由を説明し、善後処置を報告し、そのあとは処分を待つ。訓告であれ、減給であれ、あるいは解雇であれ、弁解することなく受けるべきだと思う。理由があっての弁明ならばいい。しかし、弁解はいけない。見苦しく、いやらしく、きっぱりとしていない。進退を明らかにするのが、誇りをもった人間のとる態度だと思うのだ。
「申訳ありません」
だから彼はそう言った。当然、皆もそう言うだろうと思っていた。ところが、彼以外の全員はそう言わず、逆に、彼がそう言ったことをきっかけにして、彼を全面的な悪者として攻撃してきたのだった。
「………」
唖然《あぜん》とした。ただ責任を逃れようとするだけではなく、公然と他人に押しつけてこようとは思わなかった。共同作業において、謝罪の言葉を吐けば、それが自分一人が全面的に悪いのだと認めたと、仲間うちから判断されることになるのだとは思ってもみなかった。卑劣である。心が卑しい。そうまでして保身したいのか。
「斬る。ぶった斬る」
彼は怒り、昨夜はタンボール箱をズタズタにした。だが、鬱憤は晴れず、朝になっても消えないのだった。
「聞いたよ、君」
出社すると、昨日は出張で不在だった課長が、顔を見るなりそう言った。
「………」
「どう責任を取るつもりかね」
彼は言い、顔をあげてじろりと哲男を見た。その眼が突然、大きくなった。
「な、何だ、その恰好は」
「あッ」
気がつくと、哲男は腰に軍刀を吊っているのだった。自分でつけた覚えはない。ネクタイをしめ、背広を着て出てきただけなのだ。
「ど、どういうつもりだ。腹でも切るというのか」
「い、いえ」
哲男はうろたえて、言った。
「いつの間にか、知らないうちに。で、でも、これはオモチャなんです」
安心させようと抜いてみた。
「あッ」
「ぎゃあ」
哲男の叫びと課長の悲鳴は同時だった。
「き、切れた。勝手に動いて、切ってしまった」
鞘を抜け出るやいなや、刀身は自分から動いて横一文字、デスクにむかった課長の首を何の抵抗もなくはねてしまったのだ。
ゴトンと落ちた首が、髪を七三にかため、眼を大きく開き、|あ《ヽ》という形に口をあけたまま、ロッカー横のリノリウムの床に転がっている。椅子に残った胴体は、デスクの上で指を組んだまま、呼吸のかわりに首の断面から血の間歇泉《かんけつせん》を吹き上げている。
そう広くもないオフィスは、大混乱におちいった。悲鳴が高く長くあがり、それが止むと女子事務員が床に崩れて失神していた。
同僚や他の課員は、総立ちになってじわじわと後ずさりを始めていた。哲男が見ると、
「わッ」
あわててぴょんと飛びすさった。
「どういうことだ。何がどうなったんだ」
刀身を見ると、それはすでにモデル刀ではなかった。くすんだ白銀《しろがね》色の、カミソリのように刃の鋭く薄い秋水の名刀だった。
ぶった切るという言葉はおかしい。哲男はチラッとそう思った。あれはよほどの鈍刀で切ったときの言葉だな。その証拠に、いまの横一文字は何の抵抗もなく、まるで吸い込まれるように首を横断していったではないか。
おまけに、刀身には血糊《ちのり》さえ残っていない。
哲男は、じっと目の高さに掲げた刀身を眺めた。眺めるうちに頭がすっと冴えわたり、そこに直接、声が聞こえてきた。
「斬れ」
刀が彼に命じているのだった。
「貴様の憤懣が俺に入って凝り固まり、少しずつ確実に、刃《やいば》を鋭く研ぎ澄ましていたのだ。斬れ。俺は貴様の譲りつづけた誇りの集積なのだ。これ以上譲ってはならん。誇りを守るために、斬れ。斬るのだ」
哲男はしゃんと首をのばし、右手に抜身をさげたまま、つかつかと壁際に立往生している同僚に近づいた。
「や、やめ」
|ろ《ヽ》を言う前に、彼の身体は左右に分かれて開き倒れた。朝食べたらしいトーストとミルクが、未消化のままべとべと落下した。
刀を鞘に収め、別棟の工務へ行った。機械の間をすたすたと歩き、職人気質を自慢にする、実はゴネるのが趣味のような職工のそばへ寄って、物を言わずに袈裟《けさ》がけで斬り倒した。血がインキ・ローラーにどっと飛び、高速で吐き出すB全判の白紙に、赤い花びらを印刷しはじめた。
外へ出ると、鞍《くら》をつけた栗毛の駿馬《しゆんめ》が彼を待っていた。ひらりとうちまたがり、朝の街を駆け始めた。千万人といえども我往かん。
進め、走れ、駆けろ。いまこそ誇りを示すのだ。街を駆けつづけて、出入りの代理店へ着いた。馬を降りて背筋をのばし、つかつかと社屋に入った。
「むッ」
許しがたく無愛想だった受付の女に、近よりざま突きを入れた。胸に深く喰い込み、腹に足をかけて引き抜くと、恍惚の表情で仰むけに倒れ、胸から真紅の噴水を上げだした。
エレベーターに乗り、九階に上った。通いなれたオフィスに入り、見なれた顔を捜した。
席にはおらず、会議室のドアを開けると、そこにいた。連絡と制作の一チーム全員が坐っている。
「何だ、どうしたのだ」
立ちあがってとがめた部長の胴を、体を沈めて横に払った。腰から上がずれ落ちて会議机の上に乗り、乗ったまま喋った。
「そこで、このキャンペーンの目的は」
デザイナーの右腕をはねあげて飛ばした。
腕は宙を飛んで窓ガラスにあたり、そこに指先でミシン罫を引いて落ちた。
連絡マンを唐竹割りにした。右は電話をかけようとして倒れ、左は書類をかかえて走りかけ、ドアにぶつかってくずれおちた。
四つ這いで逃げようとしたコピー・ライターの背を、柄を逆手に持って刺し通した。
『朱雀霊園は魂のやすらうところです』
キャッチ・フレーズを一本つくって息たえた。
会議室を出て社長室へ行き、社長を斬った。
外へ出て馬に乗り、クライアントヘ行って、課長部長重役社長会長と、下から上へ順に斬った。しかし、刀はまだ満足してはいなかった。
「一人の人間からいつしか誇りさえ奪ってしまう、その機構が問題なのだ」
その声にしたがって、哲男は軍刀を抜きはなったまま馬の首をめぐらし、その腹を強く蹴って疾駆を始めた。
ひづめの音が、ビルの街に高く響きわたった。
斬る、斬る、斬る、斬る。
哲男には、そう聞こえた。
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赤ちゃんをどうぞ
総務課の日野係長が、対抗メーカーによって放たれていた産業スパイだったと聞いたとき、私はとても信じられなかった。
すらりと背の高い、坊っちゃん坊っちゃんした顔の、誰からも好かれ信頼されていたあの人が、そんな悪人であるはずがないと思ったのだ。
「そういう風に見せかけていたのよね」
でも、私と同じ秘書課の良子さんがそう言い、昨日一日かかった重役会議の様子を教えてくれたのだから、信じなければ仕方がないようなのだ。
「結局ね、ほら何とかいうやつ、我社《うち》で以前から研究していた対戦車ミサイルの赤外線誘導システムだっけ。あれのノウハウを持ち出したまま行方不明ってことだけどね、実はそれを土産に元の会社へ戻ってるらしいのよ」
勿論それは非公式な情報で、公式的には相手の会社は知らんふりをしているし、人を使って問いあわせても、そんな社員は勤務しておりませんの一点張りなのだそうだ。
「これで防衛庁からの受注はさらわれたって、重役会議は大モメだったのよ」
良子さんは、スターのゴシップをひろめるような気でいるらしいが、私は内心にひろがってきた不安で、居ても立ってもいられなかった。自分が騙《だま》されており、そしていま捨てられたのではないかと、そう思ったからだった。本当にもう、叫びたいような気持だった。
私は、これは口が裂けても人には言えないことなのだけれど、日野係長にその秘密書類の保管場所を教え、それをコピーするにはいつがいいかということを知らせた人間なのだ。
でも、信じてほしいけど、私は産業スパイの片割れではないし、日野係長がそんな人間だと知っていたわけでもない。つまり、恥かしさをこらえて言ってしまうなら、私は彼にそれを言わされてしまったのだ。それをどうしても言わなければ、私が彼を愛してはいない証拠だと思われてしまう。そう自分で思いつめてしまう状態になるまでに、あの係長はじっくりと一年以上もかけたのだ。
エリートコースに乗った、ハンサムな独身係長。社内の女性社員が、あれやこれやと手をかえ品をかえて、彼に接近しようとしている。でも彼は、なかなか陥落しない――。
そんなイメージに酔ってしまい、自ら変な対抗意識でその競争に参加したのが、そもそもの間違いだった。
いまから思えば、彼は秘密を最も知っていそうな女性社員、つまり秘書課の独身女性なら誰でもよかったのかもしれないのだ。
そして、そのなかから私が選ばれた=彼は本当にそうささやいたのだ。「僕は、君を選んだんだよ」と、ベッドのなかで=その選ばれた理由は、私が女として魅力的だからとか何とか、彼が並べたてたようなそんなことではなく、ただ単に、私が一番騙しやすいだろうと狙いをつけた、それだけのことだったのかもしれないのだ。
そう考えると、自分が捨てられたのではないかという不安や、私が秘密を喋《しやべ》ったことが知れたらどうしようという心配とともに、私を利用しオモチャにした彼に対する、怒りの念もむらむらと湧きあがってくるのだった。
でも――
と私は考えた。
彼はそのうち、私に連絡してくるかもしれない。利用したことはしたこととして謝り、私との約束を果してくれるかもしれない。
この世の中で、私と彼とただ二人しか知らないことなのだが、私はいま、普通の身体ではないのだ。多分、三カ月。間違いない。
そして彼にそれを告げたとき、彼はこう言ったのだ。わかった、まかせておいてくれ――
だから彼が私に連絡し、謝ってくれたら私もそれは許してあげようと思う。
だって、私にとってそんなミサイルだの何だのはどうでもいいことで、どこの会社が開発しようとかまわないと思うからだ。
抜きつ抜かれつの厳しい世界なのだから、少しくらい強引な手を使うことだってあるだろう。私は、私に対する責任さえとってくれたら、その他のことはどうでもいいのだ。
勿論、そうなったらこの会社にはおれなくなるだろうし、人から悪くも言われるかもしれない。でも、それは我慢できると思うのだ。
彼と私と、このもうひとつの生命《いのち》とが一緒に暮せるようにさえなるのなら――。
そう思い、私は良子さんの言葉にも、他の人の噂や情報にも、表面上は驚き憤慨しながら、無関係を装って勤務をつづけていた。
そして、二週間が過ぎた。
あの男を、絶対に許すことはできない――
私はいま、そう思った。
一人で住んでいるアパートに帰ってみると、彼からの手紙が来ていた。だんだら模様のエアメイルで、差出地はアメリカの聞いたこともない町になっている。
「事情があってここに来ている。当分帰れない。だから、いままでのことはなかったことにしてほしい。君の口座に金を振り込んでおくから、使ってくれ」
そんな意味のことが書いてあった。
私はやはり、騙され捨てられたのだ。計画的に、あの男の道具として利用されたのだ。
金を使ってくれ――。
これはつまり、処置してしまえということだ。それが、まかせておけという言葉の、あの男なりの具体策だったのだ。
アメリカへ行っているなんて嘘っぱち。あの会社にいることくらい、私は良子さんに聞いてちゃんと知っているのだ。
「高校の同級生があそこに勤めてるんだけどさ、こないだクラス会で一緒になって、それとなく聞いたら、やっぱり戻ってるんだって」
彼女はそう言っていた。
「でも、社員名簿に名前は載せないらしいわよ。それに、オフィスも分室とか何とか、どこにあるのかわからない所なんだって」
だからこの手紙は、駐在員か誰かに頼んで、自分で書いたものを一度むこうに送り、そこから私宛に郵送させたに違いないのだ。
もしこの住所に問い合わせの手紙を出しても、受取人不明で戻ってくるに決まっている。
私は、アパートの部屋に一人坐り、じっと考えこんだ。不思議に涙は出てこなかった。
涙を出したいだけ出せば、それとともに怒りの気持も薄らいでいくに違いない。そんなことで自分を慰めるわけにはいかないし、また、彼に対する憎しみを消してしまうわけにもいかない。きっと、私のなかの|誇り《ヽヽ》がそう思い、涙を出させなかったのだろう。
「思い知らせてやるわ」
私はつぶやき、手紙を三面鏡の引出しにしまった。破って捨てれば、その分だけ憎しみが軽くなってしまう。置いておいて、いつもそれを読み、自分の意志を強く保ちつづけるために使うのだ。
「処置の問題はどうしよう」
私は、その夜一晩、一睡もせずに考えた。
生んでも幸福にはしてやれない生命だ。私だって、生みたくはない。いくらかわいらしい赤ん坊だったとしても、そのかわいらしさ自体が、私にとって憎悪の対象になってしまうだろう。それに、こんな理由でできた生命を、私が生み、育て、守る理由はひとつもないと思うのだ。お金や手間暇がどうということではなく、私が母親にならなければならない理由が、どこにもないということだ。
いわばこの生命は、強姦されてできたそれなのだ。しかも私の場合、その強姦に一年分以上の思い出がくっついている。そしてその思い出は、いまではすべて、私の馬鹿さ加減あの男の悪辣さの証明と姿を変えて、頭のなかにこびりついてしまっている。
それだけならば、長い長い時間がたてば次第に消えていくかもしれないが、それら一切の気持が形となったような子供を生んでしまえば、消えるどころか、それはその子の成長につれ、日に日に大きく深くなっていくだろう。それを押さえてまで、守り育てなければならない理由は、私にはないと思うのだ。
「………」
でも、明方近くなって、私は結論を出した。
生むことに決めたのだ。この先半年余り、一人住まいをしている女が赤ん坊を生もうとすれば、何かと嫌なめにあわなければならないだろう。
会社だって、ここしばらくは大丈夫だろうけど、そのうち気づかれ噂され、辞めなければならなくなることはわかりきっている。
先手を打って私から辞めても、その先は失業保険と僅かな貯金で食べていかなければならない。このアパートだって追い出されるかもしれないが、両親のいる田舎へ帰るわけにもいかない。
何もかもが不利であり、私にとって責苦となるのだろうが、それでも生もうと決めたのだ。
どんな理由でできたにせよ、生命は貴いものだから――。
そんな理由からではない。
私は、復讐のために、赤ん坊を生むのだ。
この先のいろんな噂や中傷や生活上の苦労、それら一切を耐え忍び、耐えることによって憎悪の気持を常にかきたて、あの男に復讐するために=社会的な地位も信用も何もかも破壊してやるために、私は生もうと決めたのだ。もう、後にはひかない。
田舎に帰るからと理由をつけて会社を辞め、アパートも場末の安い所に引越した。
一カ月ほど前から、同じ課の女の子達にそれとなく見合いの話があるようなことを匂わせておき、二日間休んで一度帰ってきたように思わせておいたので、皆、話が決まっての退社だと思ったらしかった。
私が日野とつきあっていたことは誰も知らないから、そのための辞表だとは考えてもみないらしい。課長さんや部長さんも、それぞれポケット・マネーで餞別をくれたほどなのだ。
「あの男、すごく羽振りがいいらしいわよ」
お別れ会を課の皆がしてくれたとき、何気ない様子で良子さんに聞くと、彼女はそう言った。
「ほとぼりがさめたら、本社に戻って昇進していくだろうって、もっぱらの噂なんだって」
なぜ良子さんも、いつまでも日野のことを友達に聞きつづけているのだろう。ひょっとして彼女も――ふっとそう思ったが、ずばり聞くわけにはいかないから、そのままにしておいた。そのかわり、むこうの会社に勤めている友達の名前を、さりげなく質問して聞き出した。何かの役に立つだろうと思ったからだ。
「春頃には、また遊びにこれると思うわ」
私は皆にそう言い、結着さえつければ本当に田舎に帰ってお見合いでもし、それを報告がてら姿を現わそうと考えた。それまでは、どんなことがあっても、顔を見られたくはないからだ。それに、刻々変化していくであろうこの身体も。
で、アパートを移り、何もせずにぶらぶら過ごす生活を始めた。退職金と貯金と、おなかが目立たない間だけだけど職業安定所に通ってもらうお金とで、何とか食べていける目処《めど》はついている。
朝起きて掃除や洗濯をし、午後からは散歩をしたりたまに映画を見たりして、夕方五時頃には必ず部屋に帰っておくようにした。
広い東京だけれど、万が一、会社時代の誰かにばったりと会ったら困る。だから、勤務時間《ヽヽヽヽ》以後は外に出ないようにするのだ。
何しろ、このアパートから十五分ほど歩いた駅前が安っぽい歓楽街で、アルサロだの何だの、よく会社の男性社員の口にのぼった場所だから、突然出会ってしまうかもしれない。そうなると、たちまち噂がひろがり、計画は御破算になってしまうからだ。
それにしても、復讐のためとはいえ、何のためにもならない無駄な日々を送っているのではないかと、ふっと思うことがある。
自分は、いま鬼になっているのだなと考え、我ながら恐ろしくなることもある。
計画のすべてを人に話せば、きっと悪魔だと言われるに違いない。
でも、私は決心を変えるつもりはない。
鬼でも悪魔でも、私がそうなるのは、それ以前に別の鬼、別の悪魔がいたからであり、その鬼に思い知らせるためには、こちらが普通の人間のままでは埒《らち》があかないのだ。
警察に言っても、産業スパイなんてどうせ証拠不十分だと言われるだろうし、民事訴訟を起こしても、法律的には勝つにせよ、実質的に馬鹿にされ損をするのは、日野ではなく私に決まっているからだ。
鬼になって復讐するしかない――。
私は、気持がゆらぎ始めるといつもそう思いなおし、そろそろ目立ち始めた自分のおなかをなで、例の手紙を読み返して、決意を新たにしていた。
さいわいなことに、この安っぽいアパートでは、皆自分のことだけで精一杯らしく、私がどんな前歴を持ったいかなる女であるか、また、なぜ一人住まいなのにマタニティを着ているのかなどということには、誰も関心がないようだった。
管理人もいないぼろアパートに住んでみて、私は、まったく世の中にはいろんな人がいるものだと思った。
お婆さんが一人で住んでいるし、病気の小父さんがいつも咳をしているし、水商売の女の人はいつのまにか居なくなったし、それぞれ曰く因縁がありそうな人ばかりなのだ。
隣りの部屋の若い男は、どうやら警察を恐れているらしい。あまり顔を合わさず、勿論話をしたこともないが、そう思うのだ。
だって、私とは逆に昼間は部屋にこもっており、夜になると出て行ったり、同じような仲間がやってきて遅くまでひそひそ話をしていたりする。その様子は普通ではないからだ。
でも、私はそれを人に言ったり警察に知らせたりする気は全然ない。
皆が私を放っておいてくれるのだから、私も皆を放っておいてあげる。それが、このアパートに住むためのルールだと思うからだ。
良子さんが、いきなりこのアパートヘやってきたときには驚いた。
私が居ることが、なぜわかったのだろうと思った。田舎には住所を知らせてあるが、彼女がそんなことを問い合わせるはずがない。
それに、職業安定所へだって、もうとうに行かなくなっているから、そこから会社へ照会か何かがあったはずもない。
夜、共同のトイレから出かけて廊下のむこうに彼女の姿を見かけ、私はあわてて身を隠した。お願い、見つけないで――。
でも、そっとうかがっていると、彼女は私に会うためにここに来たのではないのだった。
どういうわけか周囲を気にしてキョロキョロし、サッと隣りの部屋に入ってしまったのだ。
「………」
どういうことだか見当もつかず、私は足音を忍ばせて自分の部屋に戻り、薄い壁にコップを逆にあてて、隣りの様子を探ろうとした。
「だから……防衛庁……秘密発注を……」
切れぎれに彼女の声が聞こえてくる。
「我われの……警告の意味で……爆弾闘争」
若い男も、押し殺した声でこたえている。
「専任担当者は日野という男よ」
思わず高ぶったらしく、良子さんが声を大きくし、男にたしなめられている。
「……私をオモチャにした奴……」
ようやく、私は彼女がなぜここに来たのかを理解した。
どの程度かは知らないが、彼女も私と同じく日野に利用され、捨てられたのだ。そして同じように復讐を決意し、私とは違った方法でその準備を進めているに違いない。
つまり、反軍需産業を旗印にしている過激派に接近し、自分の知る限りの業界の内情、そしてあの会社のあの男の情報を教えているわけなのだ。
そうか、隣りの男はその方面の活動家だったのか。それで、あんなにひっそりと――。
「……リベート……東南アジアむけ……」
私が勤めていた頃から比べると、ますます受注競争の泥仕合が激しくなっているらしい。
とぎれとぎれに聞こえてくる彼女の言葉からも、それがよくわかる。
「……警告の実力行使を……の予定で……」
男が決心したように言い、それからしばらくして、良子さんは帰って行った。
「………」
私は考えた。隣りの男に素姓を明かし、良子さんにも連絡をとってもらって顔を合わせ、すべてを打ちあけてその仲間に入れてもらった方がいいのだろうか。
私の計画している復讐をとりやめ、もっと激烈なビル爆破に加わった方が、日野に与える打撃が大きくなるのだろうか。
でも――と、こうも考えた。
それだと、いままでいろいろ嫌な思いをこらえて出産の準備をしていたことが無駄になってしまう。生む意味がなくなってしまう。
それに、いま警察は過激派となると眼の色を変えて追及するということだから、仲間に加わればいつか必ず捕まるに違いない。
捕まらないにしても、全国指名手配で写真が配られ、どこにも出られなくなってしまうだろう。それは、やはり困ることだ。
私は復讐はしたいが、犯罪者になりたくはないのだ。自分がしようとしていることも、世間的には犯罪だろうけど、それはそれでいい。ただ、犯罪者として名前が出るようなことは真平で、私の復讐では、多分その恐れはないと思うのだ。警察だって、よくあることだから、そう本気では捜査しないと思う。
そうしたら、私は田舎に帰り、お見合いでもして、また普通の生活に戻ることができる。
それで、損得なしになる勘定だ。
でも、過激派に加わると、この先ずっと世間的に損な生活をつづけていかなければならない。それは嫌だ。
結局、三日間ほど考えつづけた結果、私は私で単独行動をとることにした。
ただ、良子さんの方の計画も気になるから、それからは毎晩隣りに注意を払い、誰がやってきたときでも、その話を聞くようにした。
それと、日野の情報も取るようにした。
もしも海外転勤などということになったら、いままでの苦労は水の泡だからだ。
水商売の女のふりをして、公衆電話から良子さんの友達に連絡し、それとなく探りを入れてみた。あるいは、交換手に聞いてみた。
その結果、日野は早くも本社に戻っているらしいことがわかった。
所属も住所も知ることはできなかったが、それだけわかれば充分だ。
私はそろそろ、このアパートをひき払う準備にかかろうと思った。
あと一カ月ほどで、予定日だからだ。
もうすぐ帰るからと連絡しておいて、道具だの何だのは田舎へ送り返し、身のまわりの物だけを残してその日を待った。
月に一度だけ姿を見せる家主には、事情でもうすぐ引越すといい、家賃を二カ月分前払いしておいた。
「はあ、そうですか。それはどうも」
家主はそれだけこたえ、ニヤッと笑って帰って行った。きっと、私のことを、あまり上等でない二号さんか、いま流行の未婚の母だとでも思ったのだろう。そんなややこしい女が自分から出て行くと言っているのだから、相手にすれば願ってもないことだったに違いない。こんな狭いアパートで子供を生まれたら困る――そう考え、追いたてにかかるつもりだったのかもしれない。
とにかく、いつでも出ていけるようにしておいて、私は最後の二週間を、かなり緊張しながら過ごしていった。
良子さんは、あれ以来、二度ばかりやってきて、例の如くいろんな情報を伝えていた。
それを盗み聞きしたり、他の仲間の相談を耳にしたりした結果、彼らの計画もいよいよ実施の日が近づいてきていることを知った。
私と、良子さんと、二人からの復讐を日野はもうすぐ受けることになるのだ。
何もかも、自分の思った通りになると思っているのかもしれないが、そうはいかないことを思いしらせてやるのだ。
私は、あの男の個人としての社会的な地位や信用を破滅させてやる。
良子さんは、サラリーマンとしての、あるいは彼が所属する会社そのものの、社会に与えるイメージを下落させようとしている。
ふたつの復讐をつづけざまに受ければ、日野は、個人的にはふしだらな女たらしであり、サラリーマンとしても社の最高機密を他に洩らした男として、有形無形の制裁を受けるだろう。
私は、彼が寄こした手紙と総務係長時代の名刺とを、現場に残してきてやるつもりだ。
そうすれば、警察はまず元の会社に問い合わせ、それからいまの会社へと行くに違いない。そして、あの男を追及するだろう。
でも、日野は、あくまで知らぬ存ぜぬを押し通すはずだ。手紙をつきつけられた瞬間、私の復讐だと気づくだろうが、それを認めれば自分の過去を世間に公表することになるから、無関係を言い張るに違いない。
だけど、新聞や週刊誌に書きたてられるに決まっているから、それだけで彼のイメージは「女を騙した男」として定着してしまうのだ。もし、記事にならないようなら、私が匿名で電話をして、焚きつけてやる。こうなれば、週刊誌でも何でも利用するのだ。
勿論、手紙や名刺はよくふいて指紋を消しておくし、私の名前が書いてある部分は破って捨ててしまう。
だから、どうなっても私の名前が浮かぶことはないのだ。
一方、良子さんの方も、組織の名前で声明を発表し、そのなかで防衛庁との秘密取引やリベートの件、それに日野が産業スパイをしたことなどを公開するだろうと思う。
これはかなり重大な問題だから、ひょっとして圧力が加わって報道はされないかもしれないが、社内的には、あるいは業界内では、日野は情報を洩らした、洩らさないまでも探った男として、その立場を失うだろう。
ひょっとすれば、自殺を強要されるか、密かに殺されるかもしれない。また、会社も取引を破棄され、大損害を被るだろう。
ふたつの復讐で、日野は公私共に破滅してしまうのだ。考えただけでも、いい気味だ。
私は、いよいよその日が近づいてくるにつれて気分が高揚し、浮き浮きとした毎日を送っていった。
そして、予定日の三日前、私はアパートを出て電車に乗り、以前勤めていた頃行ったことのある山へむかった。
そこには夏の間だけ貸し出すバンガローがあり、いまは季節はずれで誰もいないのだ。
勿論、管理事務所に留守番のお爺さんがいるが、耳が遠いから、姿さえ見られなければ大丈夫だろう。
何年か前のことを思い出し、私は早くからそこで生もうと決めていたのだ。
身のまわりの品と食べ物を用意して、夜になってから山に入り、管理事務所からいちばん遠いバンガローに、窓の鍵をこわして忍び込んだ。
もし難産だったら、私自身の生命も危なくなるのだが、そうなったらそれでもいいと思った。それはそれで、またひとつの復讐になるだろうからだ。死による抗議と、人は受けとめるに違いない――そう思ったのだ。
予定より一日遅れて、私は生んだ。
ビニールで何重にも包みショッピング・バッグに入れた物を、私はさり気なくかかえて東京に戻ってきた。生んでから三日目の昼だ。
まだ身体は少しふらついているが、気力でもたせて、実行にかかることにしたのだ。
昔、農家の主婦は、陣痛が起きるまで田んぼで働き、いよいよになってから家に帰って一人で生み、次の日にはもう田んぼに戻っていたという。
その話を本で読んだとき、何て野蛮なと驚き、そんなことは不可能だと思ったものだが、必要となればできることがわかった。
人間の精神力とは、恐ろしいものだ。
「とにかく、今日一日さえ過ぎれば」
私は自分に言いきかせた。今日さえ無事に過ごせば、明日からはゆっくり休養できるのだ。一週間でも、一カ月でも。
電車を乗りついで都心に出て、なるたけ混雑している道路を選んで歩き、地下街に降りた。その方が、タクシーを使うよりも、かえって目立たないからだ。
トイレに入って、ショッピング・バッグを、用意してきたもうひとつの物ととりかえた。
かなり前に、駅のゴミ箱からひろってきて隠しておいたもので、これならバッグを手がかりに捜査されても、私の名前や姿形は浮かばないだろうと思ったからだ。
それから、いままでのバッグを外側にかぶせ、人に見られてもそれが記憶に残るようにして、地下街づたいに日野の会社へむかった。
その会社は、地下街からでも入れるビルのなかにある。ちょうどその出入口の横にコイン・ロッカーがあり、ビルに入るには警備員がいて危険だが、そこなら誰でも使えるのだ。
そのひとつに、このバッグを入れさえすれば、私の目的は果される。三日たって係員がチェックし、ビニールに包まれた物と、一緒に入っている手紙や名刺を発見すれば、その瞬間から、日野の破滅が始まるのだ。
私は歩き、角を曲がろうとした。
「!」
が、ハッと身をかたくして姿を隠さなければならなかった。ロッカーの前に、良子さんがいたからだ。覗いてみると、彼女もショッピング・バッグをかかえ、それをロッカーに入れようとしているのだった。
「………」
私はしばらくためらったが、すぐに結論を出した。彼女は彼女、私は私、二人それぞれ別箇に自分の復讐を実行しようとしているのだ。
彼女は私の復讐を知らず、だから当然、いまかかえているこのバッグの中身が何であるか、この先知ることもないだろう。
私も、だから彼女の復讐を知らず、あのバッグの中身など知るはずがないのだ。
彼女はあそこにバッグを預け、私もあそこに入れようとしている。単なる偶然なのだ。
そして彼女は、明日にでもあれを出しにくるのかもしれず、私もそうするのかもしれない。二人とも、ただそれだけの関係なのだ。
良子さんがロッカーの扉を閉めて鍵をかけ、そのまますたすたと遠ざかっていった。
私は、もう少し早くくればお勤め時代の友達とバッタリ会うことができたのに、タイミング悪く一瞬遅れて角を曲がり、そうであったことなど知ることもなく、コイン・ロッカーの前に立った。
ほとんどが使用中だったが、最上段がいくつかと、私の胸の高さくらいの箇所がひとつあいていた。
私は勿論知る由もないのだが、もし良子さんが使うなら、この高さだろうなと思い、その扉を開いてバッグを入れた。入れておいて、外側にかぶせた方をすばやく折りたたみ、上着の下に隠した。さいわい、誰も見ていない。
そうやってボックスの中に頭を突っ込んでいると、隣りの箱からカチカチという音が聞こえてくるような気がしたが、何も知らない私がそんな音を聞くはずはないから、空耳だろうと思った。
扉を閉めて、鍵をかけた。
そのまま、いまきた方角に戻り、地上に出てタクシーをつかまえた。
電話で予約しておいたホテルを告げ、そこで初めて、私は身体の力をぬいてシートにもたれかかった。
もう私は、普通の女なのだ。
ホテルに着いてチェックインをすませたとき、遠くの方から鈍い爆発音が聞こえてきた。
何だろう、ガス爆発かしら――。
そう思いながら、エレベーターに乗った。
ぐっすりと眠って翌日の昼前に起き、部屋に配られていた新聞を見ると、過激派が反軍需産業闘争の実力行使として、爆弾を使ったという記事が載っていた。
そして、詳細は未発表だが、通行人二人が大怪我をし、赤ん坊がバラバラになったらしいとも書いてあった。
「東京は恐い所だ」私はそう思い、田舎に帰ろうと思って、べッド・サイドの電話をとり、実家の番号をまわした。
三カ月ほどたったある朝、新聞をひらくと、行方不明中だったあるエリート社員が、水死体で発見されたという記事が小さく出ていた。日野という人だった。
ああ、そういえば昔勤めていた会社にも、こんな名前の係長がいたっけ――。
チラッとそう思い、でもまさかあの人がと考えて、新聞を閉じた。
それから自分の部屋に戻り、午後からのお見合いにそなえて、念入りにお化粧を始めた。
きっと決まるわ――そう思った。
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旗本御多忙男
いまから漫画をかく。ただし、作者《ぼく》は絵を描けないから、字を書いてそれをやる。
では、漫画ではなく漫字ではないか。それが連なって文になったら漫文ではないかと言われそうだが、漫字という言葉はないし、漫文というと別の意味になってしまう。
だからとりあえず、字を連ねて漫画をかくと言っておくのだ。
なぜ、こんなことをわざわざ断わっているかというと、無茶苦茶をやりたいからである。
ほほう、それではあなたの他の作品は、まっとうな、どこに出しても恥かしくない小説だというわけですか。そう聞かれると、いやそれはその――としどろもどろになるが、とにかく、心おきなく無茶苦茶をやるためには、漫画に認められている「無責任性」をここでも認めてもらわないと困るので、そのための前口上をのべているというわけだ。
したがって、「何だこれは」「馬鹿馬鹿しい」「ふざけている」などという感想は、こちらとしては、そのままこの作品に対する賞め言葉とみなさせてもらう。まさに、それをやりたくて、やっているからである。
と、ひらきなおっておいて――
「御前、御前、午前十時はおやつの時刻」
着流しに朱鞘の大小落し差し、腕時計を見ながら走ってきた旗本御多忙男|榴《る》門戸之介、いきなり声をかけられてつんのめった。
江戸の街、朝の場面である。背景は大幅に省略され、往来だなとわかる程度だ。
「おお、串助か」
この男、ちょん髷に串団子を三本刺している。
「一本、いりませんか」
「ふうむ、団子をなあ」
門戸之介、しばらく考えてから質問した。
「その団子は、高級品か一般むけか」
「勿論、一般むけです」
串助は、パッと大きな赤旗を出して言った。
「大衆団子ォなんちゃって」
「あ、先に言うなんてひどいひどい」
着流しの袖を噛みしめて涙をうかべ、次の瞬間元に戻って、門戸之介は走りだそうとした。
「いや、こうしてはおれん。さらばじゃ」
「ちょっと待っち、タイトル・マッチ」
ボクサーになって、串助は立ちふさがった。
「何を急いでいるのか、教えてくれないと通さない。宝クジに当った人のリストで、当選簿」
「お前は駄洒落が多すぎる」
ガクッと気勢をそがれ、門戸之介は首をかしげた。
「誰がお前をそうさせる」
画面の左隅がめくれて、白皙の青年が顔を出し、自分で自分の顔を指さした。
「それは私です。かんべむさし」
「何か、また事件でしょう」
「そうなのだ」
好青年が消えると、二人は揃って宙を飛びながら会話を始めた。
「脅迫状が、あちこちの家に舞い込んでいるというのだ。連続ゆすり事件」
「何を脅迫するのです。脅迫されるにはされるだけの、弱味がなければならない」
「お、頭いいな」
「簡単なことだよ、ワトソン君」
ホームズになって宙を飛び、串助はパイプをふかした。
「その弱味というのは、こうなのだ」
門戸之介は、横長の画面の前を上手から下手へ走り、走りぬけることによって、その画面に列記されている各被害者の弱味を読者に知らしめようとした。勿論、人相付である。
・南町奉行所与力|金尾鳥蔵《かねおとりぞう》。小判に目鼻をつけた顔で、羽織の紋はソロバン玉。バクチを見逃し、めこぼし料で私腹を肥やしている。
・絵草紙屋の主人|虻奈江堂好松《あぶなえどうすきまつ》。無修正のポルノ絵巻を出入りの絵師に描かせ、密かに売りさばいている。顔は○○○○に目鼻をつけたようであり、ちょん髷は×××の形をしている。
・舟宿の娘お櫂《かい》。親の決めたフィアンセがいるのに、手代の梶《かじ》三郎と密通し、家の金を持ち出して駆け落ちしようとしている。両名とも、顔形は美女美男。
・老中家来|虎威借衛門《とらのいかるえもん》。主人の名を使って多くの武家や豪商に無理難題を吹きかけ、賄賂を取って豪遊している。紋は国会議事堂、頭はへのへのもへ字で、陣笠をかぶっている。
「というわけじゃ」
「なあるほど」
二人はそのまま宙を飛び、上野寛永寺五重塔をめざした。
「いや、わざわざすまんな門戸之介殿」
五重塔の裏手で、顔を宗十郎頭巾でおおった侍が待っていた。
「なに、事件とあらばこの門戸之介、いついかなる場所へでも参上つかまつる」
三人は絵馬堂に入って腰をおろし、串助の団子を一本ずつ分けて食べだした。
「して、手がかりは」
「いまだに。目付殿も困っておられた」
侍はそれだけこたえ、串を三本集めて筮竹にした。じゃらじゃら鳴らしている。
「どう占っても、見当がつかんのじゃ」
「串助、お前はどう思う」
「そうですねえ」
串助は易者になって天眼鏡をかまえ、ぐるりと境内を見まわした。
「ははあ、これは広い境内だな」
ぽんと膝をたたいた。
「江戸はもっと広い。だから、広域捜査が必要です」
「いかさま左様」
侍はこたえ、江戸市中の地図を示した。
「脅迫を受けた者の住所を調べてみると、東西南北、てんでばらばらなのだ。おまけに、武家もおり町人もおる。管轄からいえば、目付と町奉行の分担捜査をしなければならん」
「ふうむ、それは能率が悪いな」
門戸之介はつぶやき、地図を眺めた。
「このそれぞれの家に、つづけざまに脅迫状が舞い込んだのだな」
「左様、書留速達でな」
「で、受付局はどこじゃ」
「すべて、東京中央郵便局」
「では、そこの窓口の係員に聞けば」
「無論、聞いた」
侍は首をふった。
「だが、一人ひとりの客の顔など覚えてはおらんのじゃ。筆跡を調べようにも、定規をあてて書いてあるし、指紋を検査する知識はまだ我われにはないしのう」
侍は立ちあがり、門戸之介の手を握った。
「門ちゃん、何とか助けてくれよ。さもないと、おいらの責任問題になるんだよう」
「まかせておけ。武家にも町人にも顔のひろいこの御多忙男。早速広域特捜班を組織して犯人を割り出すことにしよう」
「頼んだよ、きっとだよ」
侍はぐいと顔をあげ、串助にも言った。
「町人、そちも頼むぞ」
「………」
「では、拙者はこれにて。御免」
そのまま姿を消してしまった。
「誰です、あのお侍」
「なに、わしの幼なじみで、遠山|鉛《なま》七郎という北町奉行だ」
「えっ、ではあの有名な遠山桜」
「違う違う」
門戸之介は苦笑した。
「あれは金四郎だ。その弟で、銀五郎銅六郎のもうひとつ下、鉛七郎というんだ」
「何か、鈍そうな名前ですね」
「ふん、しかし使いようによっては鉄砲玉にもなるんだがな。いまは、その処を得ずして、馴れない御奉行様をさせられている。兄が偉いから弟も――と思われたのだろう」
「共産党は、弟の方がやり手ですがねえ」
二人はゆっくりと歩きだした。そろそろ昼近くなってきたらしく、画面の左隅がまためくれあがり、作者がカツ丼を食べている。上かと思ったら並だ。
「ふうむ、それではその四人に、何の共通点もないというのだな」
ワインを飲み、黒パンをかじりながら、門戸之介は言った。自宅の一室、壁の本棚には「ピアノ弾きよじれ旅」「ドロンちび丸」「社会主義のジレンマ」それに「知的生活の方法」などが並んでいる。なかなかインテリの御旗本である。
「そうなんです」
串助が手帳をひらいて報告している。
「あれから三日間、友達なんぞに訳を話してそれぞれの身辺を探らせてみたんですがね、別に共通点はないようなんで」
「そうか」
門戸之介はうなずき、本棚から「発想法」という本をひっぱりだした。
「これによるとだな、とりあえず何でもいいからカードを作り、それをグループごとにまとめていくことによって、新しい視点が発見できるということだ」
「はあはあ」
「ひょっとして、何か別の共通点でくくることによってその四人がひとつのグループになるかもしれない。ちょいと、カードを作ってみろ」
「ヘい」
部屋いっぱいにカードが舞い、それが収まると、畳の上にカードがずらりと並んでいた。
「秋の田のォ」
「はい、ありました」
「吹くからにィ」
「はい」
「あ、それお手つき」
ふたコマだけ百人一首をやり、次のコマから真剣な顔になって、門戸之介はカードを睨んだ。
「なるほど、住所でくくろうと思えば、四人とも江戸に住んでいるとしか言えんな」
「そうなんで、四人とも武士であるとも言えないし、四人とも悪人であるとも言えませんしね」
「お櫂は素直な娘だからなあ」
「へえ、あれはむしろ親の勧めるフィアンセが馬鹿な若旦那なんで。梶三郎だって、正直な働き者ですからねえ」
「ふうむ」
二人は頭をくっつけるようにしてカードを見つめた。髷の団子が落ちそうになっている。
「銭形平次なら、ここで膝をたたくんですがねえ」
「あれはフィクションだからな」
門戸之介は憮然としてこたえた。
「ホームズだって平次だって、いつでもパッと正解を出す。しかしこっちは生身の人間だ。そううまくひらめくものか」
言ってから、首をかしげた。
「そうか、ちょいとホームズの真似をすればいいわけか」
門戸之介はうなずき、串助に質問した。
「四人とも、秘密を知られ脅迫されているわけだね」
「そういうことだね」
ワトソン博士になって、串助はこたえた。
「だから、四人とも秘密を持っているという、その共通点はあるわけだ。もっとも、それがそもそも事の起こりだけれど」
「いや」
着流しのままロッキング・チェアーに坐り、パイプをいじって門戸之介は言った。
「それをまず検討した方がいいようだよ」
「そうだろうか」
「そうとも、僕くらいの頭脳になると、普通の人間が疑問を感じない部分にも照明をあててしまうのさ。ごく自然にね」
「………」
また他人を見下し始めたなと思い、ワトソン博士は沈黙した。こうなれば、ホームズのひとりごとを拝聴しておくのが一番なのだ。
「つまり犯人は、その四人の秘密を知っている人間だということになる。では、どこでどうやってそれを知ったのか。武士もいれば町人もいる。裁判にもちこむとすれば、三人は刑事被告になるだろうが、お櫂は民事だ。
しかも、それぞれ思いあまって目付や町奉行に届け出ているが、肝心の自分達の秘密については一切喋っていない。最初に列記したのは、作者が読者に知らせただけであって、こちら側では、まだ誰も知らないというタテマエなのだ。行きがかり上、僕らは知ってしまっているけどね」
「なるほど」
「となると、犯人は、武士や町人、刑事や民事、てんでばらばらの四人の秘密を、同時に知ることができる人間だということになる。
さて、それはどういう人間だろうかね」
「さあ、僕にはわからないな」
「簡単なことだよ、ワトソン君」
ホームズはニヤリと笑った。
「四人がそれぞれ手紙を書いたのなら、それを読める人間。喋ったのならそれをすべて聞ける人間。そいつが犯人だよ」
「てえと、つまりどこのどいつなんで」
「そうさなあ」
頭をくっつけるようにしてカードを睨み、二人はしばらく沈黙した。
「なるほど、そうか」
門戸之介が膝をうち、いそがしくカードを分類し始めた。
「これは品川郵便局。こいつは深川局でこっちが本所、この男が本郷郵便局か。ふむ、同じ郵便局を利用するという共通点はないわけだな。郵便局員の仕業かと思ったが」
「そりゃそうですよ。だって家はそれぞれ離れてるんだから」
串助は馬鹿にしたように言い、言ってからハッとして頭の上に電灯をともした。
「じゃあ、電話ですかい」
「そうらしいのう」
満足気にうなずき、門戸之介は別のカードを四枚まとめた。
「見ろ、この四人の家の電話番号を。四つともユの何番となっている。つまり、同じ問屋の交換台を通しているということだ」
「ユの何番と言えば」
「そうだ」
門戸之介はすっくと立ちあがった。
「回線問屋有線屋の持ち番号だ」
「これはこれは、門戸之介殿」
金尾鳥蔵が、御多忙男を上座に据えて、もみ手をしながらへらへらしている。
「わざわざ拙宅へお越しとは、恐れいりましてござる」
「いや、なに」
門戸之介は悠然とキセルを使い、口を丸めてふうっと煙を吐いた。それが宙空で文字になっている。丁という字だ。つづいて半。
「いや、おみごとおみごと」
手をたたきながら鳥蔵、胸から大きな擬声語を出した。ドキッ。
「どうじゃな、近頃の景気は」
「それはもう、悪うございましてな」
折線グラフを指さし、顔をしかめた。
「実線が物価上昇率、点線が実質賃金で」
襖がひらくと、隣りの部屋で妻君が家計簿を前に算盤を入れ、横で子供が火のついたように泣いており、隅に歯型のついたカボチャが転がっていた。
「なるほど、かなり苦しいと見えるのう」
言ってから、いきなりキセルを投げつけた。
「たわけ者めが」
バリッと音がして妻君子供カボチャが破れ、そのまたむこうで、家来達が木枠をおさえていた。貧乏を絵に描いてあったのだ。
「そんなパネルを立てたくらいで、わしの眼がごまかせると思うか」
「へへえ、恐れいりました」
鳥蔵這いつくばい、必死に弁解している。
「これはこのすなわちしからばわくらばをうかべまして、それにつけてもさどおけさ」
「のう、鳥蔵」
「へへっ」
「その方、バクチを見逃して金を取っておるそうじゃのう」
「いえ、決してそのようなことは」
鳥蔵、冷汗をたらありと流している。
「隠しても無駄じゃ。わしはここへ来る前、いままでの原稿を読み返してきて知っておるのだからな」
「そ、それはずるい」
鳥蔵は不服を申し立てた。
「それではまるで、刑事コロンボが自分の出ているフィルムを途中まで見て、それから犯人の家へ行くようなものではありませんか」
「かまわん、メル・ブルックスだって似たような手を使っておったわさ」
黒人の保安官が悪漢を追って映画館に入り、自分の出ている映画を見はじめた。ブレイジング・サドルだ。
「ともあれ、お前の悪業はすべて目付殿に話しておいたゆえ、いずれ御沙汰があろうぞ」
「それにしても、ルール違反だ」
鳥蔵、アメリカン・フットボールの審判姿になり、コマの左下隅に顔を出した作者をコツンと殴っている。作者はニタニタ笑って知らんふりである。
「ま、それはそれとしてじゃ」
門戸之介は膝を進めた。
「脅迫状には、金五十両を渡さねばお前の悪業を天下に公表すると書いてあったそうじゃが、その受渡し方法はどんな具合なのだ」
「ヘヘっ、それでございますが」
鳥蔵はパッとダッチ・ワイフを出して言った。等身大で、顔はモンローだ。
「これを買うときとよく似ておりますので」
「というと、現金書留で送れというのか」
「いえいえ、そんな単純なルートではございませぬ。つまり、某郵便局私書箱何号宛で手紙を出します。するとおり返し葉書がきて某月某日某時、どこそこの喫茶店へ来てくれと書いてある。行くと男が待ってます」
アロハを着てサングラスをかけた男が、鳥蔵を連れて外に出、あちこちひっぱりまわして方向感覚を鈍らせてから、小さな公園で別の男に彼をひきついだ。
「ちょっとそこまで、へっへっへっ」
そいつに連れられてアパート密集街に入り、公衆便所の影でようやく、代金引換で包みを渡された。厳重に包装してある奴だ。
「兄さん、ここでは開けないようにね」
言われて鳥蔵、ああもあろうかこうもあろうかと頭からいろんな女性像を宙空に飛び出させて歩き、ようやく帰りついて開いてみると、ここで回想シーンが終って元の座敷。
「こんな安っぽいビニール人形。文句を言いに行こうにも、住所も名前も皆目見当が」
「なるほど、つまり私書箱に手紙を出すまでは、どこが指定場所かもわからんのだな」
「左様で」
「ま、それはそれとしてじゃ」
次のコマで虻奈江堂好松を前に、門戸之介は膝を進めた。
「ひょっとして、金五十両を渡す方法はかくかくしかじか、私書箱何号桜田ももえ宛に手紙を出すのがその第一関門ではないか」
「はて」
好松は首をひねった。
「局と名前が違っておりますな」
「ん?」
「手前どもには、別の局の別の私書箱、浅丘淳子宛に手紙を出せと」
好松の前にひろげられたあぶな絵のなかで、のっぺら坊の女の子が男に言っている。
「好きな顔を描いてよ」
「ま、それはそれとしてじゃ」
お稲荷さんの境内でお櫂を前に、門戸之介は言った。
「金五十両を渡す方法はかくかくしかじか、某局私書箱何号」
そこまで言って頭の上に順列組合わせ記号を出し、自信満々右人差指をつきつけた。
「山口めぐみ宛にと!」
「いえ、草刈五郎宛でございます」
ずっこけた門戸之介、左下隅をめくると作者はおらずローマ字で、SOUWAIKANAI。
「ま、それはそれとしてじゃ」
江戸城お濠端で、門戸之介は虎威借衛門に言った。二人の背後には日の丸の小旗をうちふる群衆がおり、そのまたむこうに橋があって人影が二つ見えている。しかし、「不許可」という判がベッタリ押されているので、それ以上細かい部分はつぶれてしまってわからない。
「しばらくお待ちを」
門戸之介を手で制し、陣笠をぬいで最敬礼してから、借衛門はこたえた。
「いかにも、某局某私書箱神楽坂小梅宛にとの指示でござった」
「ほほう、政治家だけに待合風の女性じゃのう」
「拙者としては、秘書を通じて政治経済問題研究雑誌に協賛金を出すと、国の将来を見つめるその主旨に心から賛同してカンパするという、そういう形式にしてほしかった」
借衛門、ツツーッと悔し涙を流している。
「政治家にだってプライドはあるのだ」
その姿を見ようともせず、商社マンがアタッシェ・ケースを下げて通り過ぎて行った。
「さて、次は水産庁か。ああ忙しい」
「というわけでな」
屋敷に戻り、門戸之介は言った。
「その各局各私書箱に張り込みをしておれば、有線屋の手先を捕えることができるのだ」
「なるほど」
串助は、団子を食いながらこたえた。
「あっしの方もいろいろ探りましてね。ナショシタ通信のエンジニアにも聞いてみたんですが、有線屋の交換機はクロスバー自動交換機C400型ってえやつで、すべてエレキのからくりでやるから、普通じゃ盗聴はできねえらしいんですがねえ」
「ふうむ」
門戸之介は首をかしげ、それからハタと膝をたたいた。
「それは多分、世をあざむく仮の姿。有線屋に踏み込んで調べれば、きっと秘密の地下室でもあって、そこで盗聴しておるのじゃ」
「なぜ、そんなことがわかるんで」
「なに」
門戸之介は主水之介になって重おもしく言った。
「映画では大抵そうなっておったわ。ぱっ」
「小説の方では、主水之介は必ず吉原仲之町をひやかして歩いてますがねえ」
「その方、何が言いたいのじゃ」
「いえ別に、へっへっへっ」
「仕方がない」
門戸之介は立ちあがった。
「決戦の前に英気を養うのも、またよかろうて。おごってやる、ついてこい」
「ヨッ、吉原仲之町で」
「贅沢じゃ、新小岩のアルサロで我慢せい」
ネオンの街へ二人が突撃していく後姿、でれでれになってヨタヨタと戻ってくる姿。ふたコマつづいて、作者も酒を飲みだした。
「各郵便局に張込みは完了しておろうな」
有線屋の近くの番屋に前線本部を置き、門戸之介は確認した。
「勿論です」
ヘルメットをかぶり、そのてっぺんから串団子三本を突き出して、串助がこたえた。
「大工の兼公だの左官の茂七だの、みんな仕事を休んで張番してますから、いつ敵が現われようと逃がしはしません」
「よかろう」
門戸之介は壁の警察電話をとり、町奉行所に連絡した。
「おい鉛七郎、大捕物だからな、捕方いっぱい連れてこいよ」
それから彼もヘルメットをかぶった。
「男の眉間に傷でもつけられちゃたまらんからな」
「さあ、とっとと入りやがれ」
そこへ、大工の兼公左官の茂七瓦職人の勘十に畳屋の万吉、四人の男が番頭風の中年男をひきたてて入ってきた。
「おや、敵は一人だったのか」
「へい、こいつ一人で淳子とももえと五郎と小梅、四人分の私書箱を巡回してやがったんで」
「その方、有線屋の番頭か」
机にむかい、門戸之介が調書を取りだした。
「滅相な、手前は決して」
「ならば、仕事は何じゃ」
「手前は無職でございます」
舞台に立った漫才コンビになり、二人はかけあいを始めた。門戸之介が、手帳をひらいてメモしている。
「はあ、あんた無職かいな。無職透明と」
「誰が無職透明や。ちゃんと色はあるがナ」
「あ、色はついてますか」
「ついてるついてる、なんぼでも」
「色気過剰と」
「ええかげんにしなさい」
門戸之介、扇子で頭をたたかれている。
「痛いなあ、頭がこわれるがナ」
言ってからハッと元に戻り、ぐいと番頭の胸ぐらをつかんだ。
「やい、素直に吐きやがれ」
「ゲエッ」
吐くまねをした番頭が上体をかがめたとき、懐からポロリと何かが落ちた。
「何だこれは」
ひろいあげると、ピッピッピッと鳴りだした。携帯用のポケット・ベルだ。
「おい、呼び出しだよ」
「まったく、セールスマンは辛い仕事ですよ。下手に喫茶店にも入れやしない」
番頭は首をふり、机の上の電話をとりあげた。門戸之介が刀をぬき、その背中に刃先をつきつけた。
「いらぬことを喋ると殺すぞ」
「へ、へい」
観念したのか、番頭は有線屋の番号をまわしだした。
「あ、もしもし、へい私で。はあ、四人ともの手紙は回収しました。ええ、それはもう」
フロア・ディレクター姿になり、串助が大きな紙をひろげて見せている。
『すぐに帰ると言え』
チラッと横眼でそれを読み、番頭は言った。
「すみません、もう少し近くへ」
あわてて串助が近寄ると、眼を線にして読みだした。かなりの近視らしい。
「す・ぐ・に・か・え・り・ます」
『Deutsch Rodenstock』
一瞬、眼鏡の広告が出て、すぐ消えた。
「よかろう、それでは乗り込むとしよう」
門戸之介が先に立ち、串助と四人が番頭をぐるぐる縛りにして、一行は有線屋へとむかった。その意志を示す足音がザッザッザッ。
回線問屋有線屋。大きな看板があがっている。間口の広い、豪商風の店がまえだ。
「許せよ」
主人有線屋音兵衛が顔をあげると、そこに旗本御多忙男榴門戸之介が、にやりと笑って立っていた。
「これはお武家様、電話御加入のお申し込みでございますか」
何も気づかぬ音兵衛、いそいそと書類を出して説明を始めた。
「債券は証券会社でひきとってくれますゆえ、ごく僅かな手数料だけでおひきいただけます。これからは左様、プッシュホンの時代でございましてな」
「いやいや、加入ではないのじゃ」
上りかまちに腰をおろし、門戸之介は片手を差し出した。
「二百両のうちから、いくらかでも恵んではくれぬかと思ってな」
音兵衛の頭の上にドクロが出た。不吉な予感だ。しかしそこは大物、顔をエビス様にしてもみ手をしている。
「とおっしゃいますと、政治献金か何かの催促でございますか。それならば当方は、目白越山様が郵政大臣の頃にもビタ一文差し出さなかった硬派企業。その儀はひとつ」
「やかましいやい」
門戸之介すっくと立ちあがり、片足を上りかまちにかけて見栄を切った。さっと片肌脱ぎで見せる桜の――いや、これは間違い。
「数ある膏薬のそのなかで、ホッカホッカの張り薬。肩をこらしてまで探ったてめえの悪業、この御多忙男がすべてお見通しだ」
大きな膏薬を張りつけてあるのだった。
「肩こり症とはお気の毒でございますが、それにしても手前どもには何のことやらちんぷんカプシで」
「ふん、あくまで白をきる気だな」
門戸之介、ふりむいて外に声をかけた。
「串助、そいつを連れてこい」
「あっ、お前は番頭」
ぐるぐる巻きの番頭が突き飛ばされて土間に転がった。
「旦那様、すべてバレンタイン・デーで」
「むむ、あれだけ注意をハロウィンしたのに、それでは計画は洩れてイースターのか」
「へえ、私も理解にクリスマス」
サンタクロースが入ってきて、チョコレートとカボチャとゆで玉子をひろい集め、袋に入れて出て行った。
「見ろ、お前たちの悪運も今日で終りだ」
「そうとも、観念しろい」
詰めよられて音兵衛、ムムムッとうなるなり、身をひるがえして奥に逃げこんだ。
「逃げるか、待て」
門戸之介達、土足のままあがって追いかけだした。座敷、台所、交換機置場。
「おかしい。どこにもおらんぞ」
「はて、面妖な」
「メエーッ」
綿羊が一匹、トコトコと横切って行った。
「おっ、これはおかしい」
畳屋の万吉が、座敷の畳を踏んで言った。
「下に空洞がありそうな音だ」
「そういえば、この壁も妙だぞ」
左官の茂七もつぶやいた。
「一枚板の上に直接塗ってある」
「なるほど、この柱も変に太すぎる」
「俺、部屋の中だから言うことない」
大工の兼公瓦職人の勘十も首をかしげている。
「まさしく、映画にあった通りだ」
門戸之介はうなずき、一方の壁をぐいと押した。ギィッと音がしてそれが開く。
「なるほど、地下室への入口か」
降りて見ると、広い広い地下室だった。
そこにずらりと手動交換機が並び、浪人達がそれぞれ、レシーバーを耳にあてて通話を盗聴しているのだった。
「外務省より羽田税関長へ、韓国の金さん無検査で通してやってくれ」
「ノックアウト大学教授より有力者夫人へ、医学部補欠入学には三千万いるんだが」
「玉川の人妻よりテレビ・ディレクターへ、明日主人出張だからいいわよ」
復誦しながらメモをとっている。
「かんべむさしより出版社へ、原稿料の振込はまだですか。何だ、こんなのゆすっても金にはならん」
メモ用紙をびりびりに破っている奴もいる。
「あっ、曲者だ」
ようやく気づいて、浪人達はレシーバーを捨て、総立ちになった。
「秘密を見られたからには、生かしては帰せん。それ、かかれかかれ」
いっせいに刀をぬいて迫ってきた。画面がぐっと大きくなり、そのすべてが乱闘場面である。門戸之介達一人ひとりが、浪人数名と戦っているのだ。
「諸羽《もろは》流深川くずし、受けてみるか」
「こっちは小原流だ」
「拙者、唯見長江天際流」
返り点を打とうとして考えこんでいる。
「それ、正義の団子を受けてみよ」
串助が奮戦し、両眼と口に団子を受けて手さぐりをしている奴がいる。
「といやッ、いてててて」
瓦十枚を重ねて迫る勘十、浪人が空手で割ろうとして手をぱんぱんに脹らしている。
「どおれ、新入りかあ」
浪人を三人下敷にして畳を十枚重ね、その上で万吉が、牢名主になってふんぞりかえっている。
「もう、これを使ってもいいんだよ」
兼公が竹の物差しで浪人の刀を計っている。
「正宗の名刀が七十センチでは、気分が出ませんよね。度量衡は文化なんだから」
背の高い顎の長い浪人が、傍でマイクを握って解説している。
茂七は、浪人を壁の穴に押し込めて上から塗り込めようとしている。
「俺、猫じゃないんだけどなあ」
浪人は半分泣きかけである。
「はて、鉛七郎め何をしておるのか」
門戸之介が首をかしげたところへ、どっと喚声があがって、遠山鉛七郎が完全装備の機動隊を率いて押し寄せてきた。
「無駄な抵抗はやめなさい。抵抗する者は公務執行妨害で逮捕する」
携帯スピーカーで警告し、小隊長が隊員に命令を下した。
「ガス銃隊前へ。報道がおらんから、水平に射ってもかまわんぞ」
ぽん、ぽんぽん、ぽぽんぽぽん。
たちまち浪人連中、機動隊員に足蹴にされジュラルミンの大楯で殴られ、棍棒によるインディアン・リンチを受けている。
「鉛七郎、ここはまかせたぞ」
言いすてて門戸之介、地下室の奥の扉へと突進した。ノブをつかんでぐいと開いて、
「あっ」
そこは、地下鉄有楽町駅のホームだった。
はるかむこうに、いままさに列車に乗りこもうとしている音兵衛の姿。
「危険ですので、駆け込み乗車はおやめください」
アナウンスにかまわず、門戸之介も飛び乗った。乗客をかきわけかきわけ最前部へ。
次は終点、銀座一丁目だ。
音兵衛、着くなり飛び出して逃げていく。
「おのれ、どこまででも追っていくぞ」
タクシー二台で追いつ追われつ、二人は羽田の空港へ駆け込んだ。
ジャンボ・ジェットが急上昇し、その窓から音兵衛が顔を出して笑っている。
「ヘヘ、追えるものなら追ってみろ」
門戸之介、背中に小型ロケットを背負い、猛スピードで肉迫してきた。
「やると決めたら命がけ」
それから場面はフラッシュ進行だ。
エンパイアステートビルの屋上に音兵衛が立ち、門戸之介、避雷針にパラシュートをひっかけて宙吊りになっている。
大陸横断鉄道最後尾の展望車に音兵衛、馬で追いかける門戸之介。
音兵衛モーターボート、門戸之介ぬき手。
ヤシの木に登る音兵衛、フラダンスを踊る門戸之介。
宇宙から見た地球の表面に矢印線が二本走って、それがぐんぐんのびて地球をぐるぐる巻き、とうとう真黒の毛糸玉になってしまった。
「はあはあ、しつこい奴だなあ」
ようやく地の果てアルジェリア、アルジェの下町でつかまえた。
「貴様、帰りの路銀は持っておるのか」
「いえ全然、そっちはいかがで」
「拙者も使い果したわ」
門戸之介、途方にくれて腕を組んだ。
「仕方がない、非常手段を使おう」
二人が画面左隅をめくりあげると、作者が次の場面を書こうとしていた。
「あのコマに飛び込めばいいのだ」
うなずきあい、揃って白い画面に飛び込んだ。
街かどに瓦版売りが出ている。
「さあさあ、買った買った。旗本御多忙男の大手柄だよ」
周囲に集まっているのは、若い娘ばかりだ。
「素敵ねえ、門戸之介様って」
「ほんと、私、大好き」
きゃあきゃあ騒いで、瓦版を買っている。
『回線問屋有線屋音兵衛、すべてを告白』
大見出しがはねて、その横には赤文字だ。
『十六文作裂、ブッチャー悶死!』
そこへ大江戸テレビの中継車がやってきた。
「え、それでは今回の事件につきまして、街の皆さんの感想を聞いてみようと思います」
マイクを片手に、アナウンサーがにこにこ顔で進み出て、通りかかった男に質問した。
「どうでしょうか、何か御意見は」
「そうですねえ、やはりこの、字で漫画をかくというのは、なかなか難しいですね」
「はあはあ」
「やってるうちに、自分でも真面目なんだかふざけてるんだか、わからなくなってきました」
「なるほど」
「例の四人、鳥蔵とか好松はどうなったんですかね」
「あ、それはですね」
アナウンサーはメモ用紙をひろげた。
「こんなことらしいですよ」
鳥蔵懲戒免職のうえ起訴。好松表現の自由を守るために断固戦うと表明、法廷闘争へ。
お櫂、門戸之介の口ききで晴れて梶三郎とゴール・イン。借衛門うやむや。
「なるほど、そういう予定でしたか」
白皙の顔をもつその男はうなずいた。
「でも、それを最後までやろうとすると、ページがいくらあっても足りないでしょうね」
ディレクターが、横手から紙を出した。
『残りスペース僅少』
途端に彼方で砂けむりがあがり、女の子達が騒ぎだした。
「あ、門戸之介様よ」
「こっちへ来られるのよ」
「お父ちゃん、来やはった来やはった」
着流しに朱鞘の大小落し差し、御存知旗本御多忙男榴門戸之介が、腕時計を見ながら走ってきた。
「忙しい忙しい」
懐中時計を見ながら、ウサギも走ってきた。
「急げや急げ」
「門戸之介様あ、また事件ですかあ」
「いやなに」
駆けぬけて、彼はこたえた。
「後から締切が追っかけてくるのじゃ」
「逃げて、門戸之介様」
「あとは私達が」
女の子達は大手をひろげて追ってくる編集者を阻止しようとし、その間に門戸之介、バリッと画面を破って、そのまま一目散に遠ざかって行った。後姿が豆粒だ。
「どいてくださいどいてください。輪転機止めて待ってもらってるんだから」
「いいえ、どきません」
「そう、私達、門戸之介様の味方」
騒ぎを横眼で見て、若い男がつぶやいた。
「これ、明らかに作者の願望だな」
ディレクターがエンドマークを出し、最後にもう一度画面の左下隅がめくれ、羽織袴姿の作者が平伏して言った。
「杉浦茂様、東海林さだお様、高信太郎様、御作を参照させていただきました」
これで、終りである。
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早朝特急クラブ
「私からもよろしく言ってたって、伝えといてね」
俺の差しだした靴べらを受けとり、妻が言った。何となく寂しそうな顔になっている。
「ああ、伝えとくよ」
俺はこたえ、ドアをあけて外に出た。二、三歩あるいてふりむき、手に持った包みをちょっとあげてみせた。
「いい物を作ってくれたな、森さんも喜んでくれるだろう」
ニコッと笑った妻にあいている方の手をあげて合図し、俺は駅にむかって歩きだした。
なだらかな坂をのぼり、公園の角を曲がって、幼稚園を左に見ながら歩く。国道で信号を渡り、交番の前を右に折れる――
もう八年も通っている出勤の道順である。
毎朝、同じ時刻に家を出て、同じ時間をかけて歩いている。それこそ、目隠しをされても同じ時間で駅に到達できるだろう。
「俺の知らない別の町の別の道を」
歩きながら俺は思った。
「同じように森さんは、何十年間も行き来してきたんだな」
見なれた顔が何人か混じっている通勤の人の列に入り、俺は足早に歩いた。まだシャッターを降ろしたままの小さな商店街をぬけ、駅へとむかった。
「あの人がいなくなると、本当に寂しくなるな」
少し顔をうつむけ、アスファルトを見つめるようにして歩きながら、そう考えた。
「朝のラッシュをこれだけ楽しくしてくれたのは、あの人なんだからな」
顔をあげるとサラリーマンやOLが歩いている。無言で、せかせかと、思いつめたように道を急いでいる。チラッとふりむくと、あとからあとから、同じおももちの定期券人種がやってくる。
「この人達は気の毒といえば気の毒だな」
俺はふっとそう思った。
「きっと、ラッシュを嫌がり、決まりきった毎朝の通勤にうんざりしているんだろうからな」
駅に着いた。自動改札機に定期を通して構内に入り、地下道をくぐってむかい側のホームにあがった。時刻表横の時計を見ると、いつもより一分遅れて着いている。
おやおや、一分間感慨にふけったわけか。
線路上にこぼれそうにびっしりと立ち並ぶ通勤客の隙間をぬい、他人のひろげるスポーツ新聞に顔をこすられるようにしながら、ホームの後部へと移動して俺は苦笑した。
時がくれば去っていく人がでるのは、別に不思議でも何でもないのにな――
普通電車が入ってきた。ホームのスピーカーが事務的なアナウンスを流し、通勤客がドアごとの単位にわかれて一歩前に出る。
ドアが開き、無論誰ひとり降りる者はなく、人の流れがそのまま吸いこまれていく。俺もその一人となって乗りこみ、中吊りを見あげた。今朝から変っている。
『初出勤は明るくフレッシュに』
OLむけのファッション広告だ。そうか、あと一カ月ほどで新入社の季節なんだな。新しいスーツをぎごちなく着た新顔が、ホームにも車内にも目立つ時期。八年前、この俺がそうだったのだ。まったく、年月なんて早く過ぎていくものだ――
考えているうちに次の駅に着いた。何人かに混じって俺も降り、特急に乗りかえるために跨線橋を渡ってホームを移動した。
売店で煙草を買い、一本ぬき出して火をつけながら、特急八輛編成の後から二輛目、中央ドアが開く位置へとむかった。
「おはようございます」
近づく俺に気づき、頭をショート・カットにした女の子が声をかけてきた。先日二十歳になったばかりのOL二年生、食品会社で和文タイプを打っているという彼女は、ハンドバッグをさげた手に、小さな花束を持っていた。
「やあ」
俺が挨拶すると、付近に並んでいた全員がうなずき、目礼し、あるいは声をかけてきた。
「とうとう、今日でお別れですね」
俺と同じことを考えていたらしく、彼女はつぶやいてむかいのホームを見つめるようにした。
「で、その花束を?」
「ええ、うちのベランダで咲いたんです」
視線を俺に戻し、ニコッと笑った。
「本当に気持のいい毎朝でしたから、その御礼にと思って」
「僕も、女房がこれを持たせてくれたよ」
包みを持ちあげると、彼女はうなずいた。
「他の方も、それぞれ何か持ってきてらっしゃるみたいですよ」
やっぱりねと言いかけたとき、特急が入ってきた。俺は煙草をそばの柱に取付けられた吸殻入れに捨て、包みを両手でかかえて列に入った。ドアが開く。何人かが降り、その何倍もの人数が乗り始める。乗車率二五〇パーセント。普通に考えればとても乗りこめないような隙間に、ひとりずつ順に入っていく。背中を押し、俺も押される。とはいえ、乱暴ないらいらした雰囲気は俺達にはない。
さあ乗りましょう、皆が待ってるから――
そんな期待をこめた、親しい者どうしの押しあいなのだ。
さあこれから三十分、楽しくやりましょう――
そんな気持で乗りこむ毎朝なのだ。八時十六分発の特急電車。その後から二輛目は、俺達「特急クラブ」員のサロンであり、教室であり、ときには悩みの相談室でもあるのである。
俺が社会人になってから五年間、つまり三年前までは、何の変哲もない通勤がつづいていた。互いに喋らず挨拶もせず、新聞を読んだり中吊りを見あげたり眼を閉じたり、沈黙の集団を乗せてこの電車、この車輛は走っていたのである。
それがいまのように変化したのは三年前のある朝、ひとつの事件《ヽヽ》があってからだった。
そして、その変化を提唱したのが、今日で定年退職となり、明日の朝からはもうこの車輛には乗ってこない、森さんなのである。
三年前の五月のある朝、こんなことがあった――
いつものように俺がこの車輛のこの位置に乗りこみ、ベルが鳴ってドアが閉まりかけたとき、男が二人駆けこんできた。
一人は俺より年嵩《としかさ》の三十五、六、もう一人はまだ二十歳にもなっていないような若い男。
一見して、サラリーマンではないことがわかる二人連れだった。年嵩は、黒のスポーツ・シャツの上から濃いえんじ色の替上着を袖を通さずに羽織り、頭を角刈りにしていた。
色の黒い小太りした男で、ズボンや靴は混雑していたので見えなかったが、それだけでどんな色やスタイルの物をはいているかが想像できるようだった。多分、黒ズボンにメッシュの靴のはずである。
若い方は真赤なジャンパーを着て、長髪だった。色白で細おもて、きしゃななで肩の少年である。年嵩がぎょろりとした眼を天井にむけているのに対し、彼は何となくおどおどしているような視線をきょろつかせている。
やくざとその付人格のチンピラ――
一瞬でそう思える雰囲気なのだった。
「さあて、ホテルに帰って寝るか」
電車が走りだすと、ドアを背にして――というよりやむをえずその姿勢をとらされ張りついて、兄貴分が言った。遠慮のない大きな声だった。その前、つまり俺と兄貴分との間にはさまれて立っていたOLが、チラッと彼を見て眉をしかめていた。
「とうとう徹夜になっちゃいましたねえ」
チンピラが、兄貴分のとなりで同じような姿勢でドアに張りつき、追従《ついしよう》笑いをうかべて言った。
「でも、強いんで感心しちゃった」
徹夜・強い、はて、この二人は何をしていたのだろう。俺はさりげなく二人を観察しながら、頭のなかで想像した。飲んでいたのかな、それともバクチでもしていたのだろうか。
「あの、むかいに坐ってた人は誰ですか」
チンピラが聞いている。
「誰だい、あの太った親爺かい」
「いえ、その隣りの和服の爺さん」
「ああ、あの人か」
兄貴分は幾分誇らしげにこたえた。
「あれはお前、あそこの商店会の会長さんだ。今度、選挙にも出るんだぜ」
「へえ」
チンピラは驚いたように声をあげ、それから悔むようにつぶやいた。
「酒の世話してたときに挨拶すりゃよかった」
上機嫌で、教え諭《さと》すように兄貴分は言った。
「その辺のことは、きっちりけじめをつけとかなくちゃ駄目だぜ」
「でも、一緒だったからさしでがましいことしちゃいけないのかなと思って」
彼はますます上機嫌になったように大きな声をだした。
「俺と一緒にいたから、かまわないんだよ」
車輪がレールの継目を通過する断続音と、一輛前のモーター音しか聞こえてこない車内に、そのやりとりが変にあっけらかんとした調子でひろがっている。
皆、知らぬふりをしているが、聞き耳をたてているのに違いなかった。
ついさっき起きていまから働きにいく集団のなかに、夜通し起きて遊び、いまから寝に帰る人間がいきなりまぎれこんできたのだ。聞くなと言っても聞き、比べるなと命じても比べているのは明白だった。
「こいつら、何時になったら嫌でも何かしなければならないということがないんだな」
俺だって、そう思った。
「しかも、俺よりずっと金まわりがいいはずなのだ。そうに決まってる」そのくせ、不思議に反感は起こらないのだった。ヤクザ=社会の寄生虫という公式は浮かんでこず、一種うらやましい気にだけなるのだった。
「それにしても、暑いなあ」
兄貴分が言い、押しつけられた右腕を苦労してあげ、スポーツ・シャツの襟首をぐいとひっぱった。ふうっと、そのなかに息を吹きこんでいる。妙に愛敬のある男である。
「何か、むしむししますねえ」
チンピラも同意を示し、首を左右にふっている。
確かにその朝は少し暑かった。明日は雨が降るだろうという天気予報であり、雲が多くて風のない空だったのだ。それにこの車内はまだ冷房が入っておらず、窓をあければそれは逆に寒いだろうというので、駅員も乗客もそれをしていない。だから、気温と人いきれで車内の空気はムッとし、べたついているのだった。
おまけにこの二人は、ホームを走って駆けこんできたので、その汗がまだひいていない。
身体中がほてっているのに違いなかった。その証拠に、兄貴分は顔を赤黒くし、額に汗を浮かせている。浮いた汗の玉がツーとこめかみから頬へと伝い落ちている。
「冷房入れりゃいいのにな」
彼は腹だたしげに言い、それからぐるりと顔をまわして、あきれたようにつけ加えた。
「みんな、暑くないのかなあ」
不思議そうにつぶやいた。
「誰も、汗かいてないよなあ」
つぶやいたとはいえ、それは沈黙の車内にひろがり、全員の耳に到達したはずだった。
誰も汗かいてないなあ。こんなにむし暑いのに、スーツ着てネクタイしめて、汗のひと粒も浮かべてないよなあ――
何を言いやがる、人の気も知らないで――という気持は起きてこなかった。そう言われてみればそうだなと、俺はあらためて自分自身の生理的反応の鈍感さに驚いたのだ。
ひょっとして俺達は、この家畜輸送的殺人ラッシュを強いられ馴らされしているうちに、少々のことでは汗をかかない人間になってしまっているのかもしれないぞ。そう思ったのだ。情けないことながら、どちらが正常な反応を示しているかといえば、顔をほてらせているこのヤクザのアニさんに軍配のあがることは、明らかだと思ったのだった。
「よく、こんな電車で通勤してるなあ」
俺以外の誰もが同じことを考えていたのだろう。聞き方によっては俺達サラリーマンを馬鹿にしているその言葉にも何の反応も示さず、皆それぞれ黙ってつっ立っている。つっ立ったまま、時速何十キロかで集団移動しているのである。チンピラが言った。兄貴分がこたえた。
「俺だったら、月給三十万貰っても嫌ですね」
「あたりまえだ、五十万でも勘弁だよ」
そのとき俺は基本給七万六千円、諸手当加えて額面十二万七千三百円。税金や保険を引かれて、手取り十万九千八百円のために、毎朝この電車に乗っているのだった。
「………」
車内の空気がぎごちなくかたまったようだった。無表情無関心のふりをしつづける皆が、心のなかではげんなりし、情けなくて涙をこぼしかけているのがよくわかった。
二人が見るからに陰険な人相で、俺達を見下してねちねちとからんできているのなら、まだ対処の仕方はある。ヤクザが何をぬかす――これですむことなのだ。しかし二人が妙に陽性で上機嫌で、本当に驚き本当に不思議がり、むしろ感心して大声をあげているのが感じられるだけに、俺達には言葉もないのだった。ひとことで言えば、|負けた《ヽヽヽ》のだ。
俺はそれから十五分間彼らの巧まざるサラリーマン戯評を聞かされ、その日は一日中足元が落着かない気分だった。
「ああ、あいつらいま頃、いびきかいて眠ってるんだな」
伝票をくりながら、ふっとそう思ったりもしたのである。
そして翌朝、同じ車輛に乗ってしばらくしたとき、いつも俺の横に立っている小柄な、しかし上品な小父さんから、話しかけられたのである。
「ねえ、あなた、何とかしようじゃないですか」
それが、森さんだったのだ。
「昨日の二人の話を聞いて、あなた、何とも思いませんでしたか」森さんはそう言い、つぶやいた。「僕は自分が情けなかった」
「それは僕も一緒です」
顔だけをそちらにむけ、少し白髪のまじりかけている森さんの頭を見おろすようにして、俺はこたえた。
「何のために毎朝こんなことをと思いましたよ」
周囲の何人かが、首をまわしたり横眼をつかったりして俺達を見ている。彼らも同じことを感じたのだなと、俺は思った。
「でも、仕方がないですからね。サラリーマンだもの、こうして時間どおり出勤しなくちゃ、食べていけなくなっちゃう」
「それは勿論そうだけれど」
俺の言葉に、森さんはこたえた。
「しかし、もう少し何とかなるんじゃないですかな」
「そりゃまあ、どこの会社でもフレックス・タイムを採用する時代がくれば、少しは楽になるでしょうけど。ここしばらくは夢物語ですよ」
集団行動と規律が好きな日本の会社、プライベートな時間でさえ会社に対する帰属意識を持ちつづけるよう要求する日本の経営者、そして緊急事態なら夜なかでも自宅どうしで電話をしあったりする日本の商取引慣習。
こんな背景を前に、単位期間内の労働時間だけで契約を結ぶ自由出勤制など、おいそれと実施できるはずがないのである。
「彼を頼む。納品場所が変更になったんだ」
こんな電話が入って、当事者が出勤してなかったらどうなるか。
「もう少しだから、全部やってしまおうか」
そう言われたときが、早出早帰りの日の退勤時刻だっだらどうするか。
店頭で品物を売るとか工場でメーターを睨むとか、いつ誰と交替しても支障をきたす恐れのない業務以外では、これはなかなか実現しにくいことなのである。無理に実施すれば仕事のリズムが狂い、生産効率が低下してしまう。そしてそれが収入にはね返ってくる。
「まさしく、そういう種類の仕事を僕らはしているんですからね。たとえ仕事がない日でも、ひょっとしてかかってくるかもしれない一本の電話のために、こうして同じ時刻に出勤しなくちゃ仕方がないんです」
喋っているうちに腹だたしさを感じ始め、俺は少し強い口調でそう言った。
「確かにそうではあるけれどもね」
しかし、森さんは淡々とこたえた。
「だからといって、このままでは、あまりに自分自身が貧しすぎると思いませんか。毎朝押しこめられて、つっ立って、カーブで傾いた身体を元に戻すにも戻せない。みじめじゃないですか」
「じゃ、どうしろと言うんです」
つきはなすように言うと、森さんはふっと恥かしそうな表情になってしばらく黙り、それから決心したように声を大きくした。
「どうですか皆さん、せめて気持だけでも明るく豊かにして通勤しようじゃないですか」
誰も何もこたえなかった。何人かがチラッとこっちを見ただけで、知らぬ顔をしていた。
「混雑をどうこう言っても仕方がない」
森さんはつづけた。
「私達はとにかく、こんな状態で毎朝通わざるをえんのです。それを拒否することはできない。ならば、その中身を変えましょうよ」
どこからも返事はなかった。聞こえてはいるものの、それは他人のひとりごとなのだ。
「皆、この車輛に乗っている人はそれぞれの顔を見覚えているはずです。ならば、挨拶くらいしてもいいじゃないですか。毎朝三十分間、起点から乗る人は四十五分間。それを何年も何年もくり返しているのに、なぜいつまでもお互いが他人なんです。挨拶をして、話をして、気持よく出勤した方が得じゃないですか」
「あなたは、何か宗教関係の方ですか」
皮肉っぽく俺は言ってやった。
「花を飾ったって、牢屋は牢屋じゃないですか。そんな子供だましの少女趣味な……」
「私はそうは思いません」
少し離れたところから若い女の声がした。
「その方の提案を、試しにやってみればいいと思います。駄目でもともと、ひょっとしてうまくいけばすばらしいじゃないですか」
「………」
「牢屋かサロンかは、それから決めればいいことですわ」
「そういうことですよ」
嬉しそうにうなずいて、森さんは言った。
「まあ、気のむかない方に無理にとは言いませんが、少なくともあのお嬢さんとは明日からお話しできるわけですからね。嬉しいことです」
そして二人は翌朝から話し始めた。互いの名前を言い、勤務先を告げ、自分の趣味や家族のことを教えあいだしたのである。
「ほほう、海釣りがお好き。珍しいですな、女性の方では」
「今度、大島へ行こうかと思ってるんですけど、いい船宿ありますかしらね」
「あるよ、俺知ってるぜ」
かなり離れたところから、聞き耳をたてていたらしい若い男の声がした。自分と同じ趣味の女の子がいたので、嬉しくなって思わず参加してしまったらしい。
「ありますか」
「あるよ、俺何度もそこに泊まってるんだ。何なら、明日電話番号教えてあげるぜ」
「じゃあ、お願いしようかしら」
「ああ、明日の昼休みに電話してやるよ。ええっと、あなた加工品一課だって言ってたな。昼休みは社内にいるかい」
「ええ、いますから」
そんな具合に話をし、とうとう駅に着くまでに、大島へ一緒に行く約束をしてしまったのである。
「ね、楽しいことにもなるでしょう」
降りるときに、森さんは俺にささやいてニコッと笑った。
「あなたも、明日はどうですか」
ふむ――、さっきの男をうらやましく感じている自分に気づき、俺は照れくさくなって足早に改札へとむかったのだった。
次の朝は、参加者が五人になっていた。前日の二人の意気投合に刺激され、若いサラリーマンとOLが、積極的になったらしい。
「君、今年から勤めだしたんだろう」
俺の背後で声がしている。
「ええ、あなたとは同じ駅からね」
「そう。僕は君が高校に通ってるときから知ってるんだぜ。毎朝走ってきてたからな」
「あら、じゃあ、あなたいつもそれを見て笑ってたの」
いっぺんに親しくなっている。
「しばらく、朝は乗らなくなってたな」
「ええ、短大行ってて時間が違ったのよ」
「で、卒業して勤めだしたのか」
三年間毎朝出会い、二年のブランクがあり、そしてまた会いだしているわけだ。
「家に遊びにおいで、レコードたくさんあるから」
「ええ、機会があったらね」
どうやら互いに憎からず思いだしたらしい。
俺は胸がむずむずし、口をひらきたい気持でいっぱいになってきた。こいつら二人、俺ひとりぼっち――そんなふうに思ったのだ。
むこうでは、男一人と女二人が喋っている。
「一度にたくさんは駄目だよ」
男が言う。
「まあ、月に二、三点なら従業員割引の範囲内だから、何とかしてあげるよ」
「私、ドレッサーが欲しいの」
「私は、整理箪笥買いかえようかと思って」
デパートか家具センターに勤めている男らしい。うん、出勤時刻からすれば、デパートではないな。女はどんな仕事だろう。
「恋人に口紅プレゼントしたげなさいよ」
「そう、割安で買ったげるわよ」
ははあ、化粧品会社の子か。なるほど、そういえば駅の近くにその寮があったっけ。なるほど、同じ車輛にもいろんな人間が乗ってるんだな。おもしろいものだな――
そこまで考えて、俺はハッと気がついた。そうか、おもしろがることはできるのか。おもしろがって、そのうえ知りあいがふえ、現実的なことだが、そこから利便を得ることもできるのだな。そしてそれは、サラリーマンがどうのラッシュが牢屋だのということとは、別次元のことなのだな。
「すみません、一昨日の言葉を取り消します」
俺は首をねじまげて、森さんに言った。
「やっぱり楽しい押しくら饅頭の方がいいようです」
「そうでしょう、ね」
森さんはニコニコと笑った。
「僕なんか、二日目で朝起きるのが楽しみになりましたからね」
こうしてその翌日から俺は口をひらくようになり、他の皆も次第に参加し始め、二週間ほどで、この車輛に毎朝乗る人間をメンバーとする「特急クラブ」ができたのだった。
規約は何もない。喋りたくなければ、黙って人の話を聞いていればいいし、二日酔で頭が痛く話し声が耳に刺さると思えば、別の車輛に乗ればいいのである。
実際、大勢の人間がそれぞれその周囲の何人かと喋っている、その音量を総合するとかなりの騒音となるわけで、俺達はいわばパーティ会場にいるつもりだから気にはならないが、やはり嫌がる人も出ることは出たのである。そういう人達は別の車輛に移り、こちらには乗ってこなくなった。
それと、クラブをあくまで否定し、問題の本質をすりかえ眼をそらす経営者的発想、労務管理式去勢策だと断定する人達もである。
もっとも、逆に噂を聞いて、別の車輛あるいは別時刻の電車からこちらに移ってくる人も現われたので、乗車率二五〇パーセントは変化なし。あいかわらずの混雑ぶりなのである。しかし、それが苦にはならない。
三年間に、いろんなことがあった。
「転勤になりました。むこうへ行ったら、私が提唱して同じクラブを作ります」
そう言って一人が乗ってこなくなり、しばらくすると別の一人が乗ってきだした。
「彼から申し送られてます。よろしくお願いします」
同じ社宅に入った後任者なのだった。
「おや、しばらく見えませんでしたね」
そんな声がしたこともある。
「ええ、ちょっと病気で寝ておりまして」
「ははあ、どこがお悪いんですか」
「はあ、最近どうも動悸が激しくて」
「それはいけない、サラリーマンは身体が資本です。精密検査をしましたか」
「いえ、まだなんですが」
そんな会話から人間ドックの話になり、すると一人のOLの婚約者が大学病院のインターンであり、彼に聞いて信頼できる所を教えてあげます――という結論になるのだった。
暮のボーナスはどれくらい出るんだろう。
いったい、自分の会社が出す額は、世間一般と比べて多いのか少ないのか――
情報を交換しあい、なかに労組の委員をしている人がいて、彼の経済情勢分析を皆が静まりかえって聞いたこともあった。
「住宅ローンの利用法教えてください」
一人が言うと、銀行員と住宅会社の社員がそれぞれの立場からそれを説明し、公式見解以上の知識を俺達は得られるのだった。
さまざまな職業の人間が乗りあわす、これは一種の情報サービス特急にもなるのだった。
「今日の午後までに広告アイデア提出しなくちゃならないんだけど、何かヒントくれませんか」
家電の広告を仕事にしている男が言い、その商品の特長を聞いて、皆が消費者の立場から思いつきを述べあったこともあった。走るシンク・タンクである。ただし、こうしてクラブが順調に継続しているのは、そこに暗黙の了解があるからなのだ。
ひとつ、クラブで得た知識や情報を、公私ともに決して悪用しないこと。
ふたつ、無名氏でいたい人に氏名職業の公開を強要しないこと。
この紳士協定があってこそ、俺達は毎朝楽しく乗りこめ、安心して喋ることができるのである。
もっとも、俺は一度だけ二番目のそれを破ったことがある。
乗車中ではないが、ある女性に氏名職業住所の公開を迫ったのである。彼女は怒って、しばらくは車内でも口をきいてくれなかった。それをなだめ、すかし、ようやく目的を遂げたのである。それから一年後、彼女は乗ってこなくなり、毎朝俺を送り出す人間になった。
ともあれそんな具合にクラブはつづき、そしてそのきっかけを作った森さんが、今日定年を迎えるというわけなのである。
ドアが閉まり、電車が動きだした。
いつもの場所に俺が立ち、いつもの場所に森さんが立っている。おやっと、俺は思った。
そのとなりに、見なれない女性がいたからだ。誰だろう、新メンバーかな。
「おはようございます」
首をねじって挨拶し、そのまま彼女を観察した。
淡いピンクのワンピースを着、頭はパーマをあてておらず、口紅以外ほとんど化粧をしていない。しかしまだ若いらしく、肌が艶やかで眼がいきいきしている。その眼元が森さんにそっくりだ。
「いや、どうも」
俺の視線に気づき、森さんは照れくさそうに笑ってつぶやいた。
「一番下の娘です」
「ああ、やっぱりそうでしたか」
物馴れぬ様子で緊張している彼女に、俺は軽く会釈した。
「お話はよく聞いてますよ」
「おおい、こっちは見えないぞ」
かなり遠くから声がした。
「間に立ってる人、ちょっと首かたむけて隙間あけてよ」
皆が笑いながら、首を右に左にかたむけた。
細いV字形の隙間ができ、そのむこうで若い男がニヤニヤ笑っている。
「ああ、かわいらしい子だな。森さん、彼女いくつですか」
「十八ですよ」
「十八か。俺、二十三なんですけどね」
V字がなくなり、あちこちから声があがった。
「何言ってるの、あんた月給安いんだろ」
「おまけに残業が多いんだってさ」
「お嬢さん、こんな奴駄目ですよ」
赤くなった彼女の横顔を見つめ、森さんは言った。
「卒業でしてね、四月からあれです」
眼で中吊り広告を示した。
初出勤は明るくフレッシュに――
「ああ、それはおめでとうございます」
俺の言葉に、森さんはつぶやいた。
「私が降りて、こいつが乗るんです」
車内がしんと静かになった。レールの継目を通過する断続音と、前の車輛のモーター音。しばらくそれだけが聞こえていた。
「あの」
言いだしにくかったが、思いきって俺は言った。
「長い間、御苦労さまでした」
「………」
「家内がよろしくと言って、これを渡してくれました」
さげていた包みを持ちあげようとしたが、満員で動かすことができない。
「降りてからお渡しします。春物のカーディガンです。家内が編んだんです」
「どうも」
森さんは小さな声でこたえた。
「どうも、わざわざありがとう」
「家のベランダに咲いた花です」
タイピストの女の子が言った。
「今日一日だけでも、会社の机に飾っておいてください」
乗ったときから腕をあげ気味にして胸のあたりに持っていた花束を、何人かの肩越しに森さんに手渡した。
「僕、パイプ持ってきたんですがね、吸ってくれますか」
むこうでそんな声がした。
「あの、こっちは二人共同でブランデーなんですけど」
「私、ホームズの探偵小説を」
あちこちから贈物が披露された。
「これは大変なことになりましたな」
森さんは明るい声を出して笑った。
「カーディガンを着て、花を飾った机にむかい、パイプをくゆらせてブランデーを嘗《な》めながらホームズを読みますか」
「………」
「まるで老貴族ですな」
車内はしんとしている。皆、知っているからだった。森さんが今日で定年になるとはいえ、それが電車を降りてしまうことではないということを。しばらくゆっくりとして、さてまた別の時刻の別の電車に乗り始めるのであるということを、チラッと聞いて覚えているからだった。
これだけ働いて、まだ老貴族にはなれないのか――
そしてそれは森さんの場合だけではなく、大多数のサラリーマン、その一人である自分自身の将来の姿でもあることを、皆がそれぞれ感じているに違いないからだった。
「いや、失礼」
雰囲気を察して、森さんは話題を変えた。
「ここにいる私の娘、こいつが四月からこの車輛に乗ってきます。その節は、私同様、ひとつ仲間に入れてやってください」
「喜んで」
俺はこたえた。
「何年か先にゴールインなさるまで、毎朝一緒に通勤しましょう」
「僕と一緒になれば、ずっとこれに乗ってられるよ」
さっきの男が陽気な声をあげた。
「だって俺、月給が安いから、当然共稼ぎだもんな」
どっと笑い声が起き、それがすっと消えていった。
「私が降りる、こいつが乗る」
森さんが言った。
「転勤で降りる、転勤で乗りだす。退職で降りる、入社で乗る。考えてみれば、メンバーこそ入れ替っても、特急クラブは何年も何十年もつづいていくんですなあ」
確かにそうなのだ。乗る人降りる人、それが何百回くり返されようと、サラリーマンという職業がなくならない限り通勤電車は走り、申し送りによって、この特急クラブは存続していくのである。老から若へ、世代から世代へ――
「いや、大変なクラブを作っちゃったものですな」
笑う森さんと黙ってしまった俺達を乗せ、電車は終点のホームにすべりこんでいく。
スピードが落ち、停止し、ドアが開く。
「さようなら」
俺は声をかけ、ホームに降りた。立ちどまり、ふりむいた。
「たまには乗りにきてください」
娘の腰に腕をまわして降り、森さんはうなずいた。
「じゃ、急ぎますので」
包みを押しつけ、歩きだした。大時計を見あげると八時四十七分。ここから会社まで地下鉄で八分、階段を駆けあがって四分半。ぎりぎり三十秒前に到着だ。俺はレミングの集団に混じり、足早に歩いた。歩きながら定期をぬき出し、自動改札を通した。
外に出てチラッとふりむくと、森さんはもう見えなかった。別の方向に、急ぎ足で歩いていったのだな。そう思った。
最後の朝まで、律義にな――
八時十六分発の特急電車後から二輛目。
あなた、明日、乗ってみますか。それとも、沈黙出勤をつづけますか?
[#地付き]〈了〉
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あ と が き
四冊目の短篇集である。すべて三十枚から五十枚のものばかり。SFあり落語あり、ドタバタありマジメあり、およそ一貫性のない十本である。
と、こう書いても、それを恥じているわけではない。むしろ逆に、もっともっと散らしたいなと思っているのだ。最近、特にそう考えるようになってきた。なぜかというと――
僕の書くのはほとんどが短いものである。
そして、自分の志向と周囲からの要求がいまのところ一致し、その結果としてある程度の「数をこなす」状態に、現在ある。
そんな環境で仕事をしていると、自分はいわばピッチャーの役割をつとめているのだなと思えてきたからである。
ただし九人対九人でゲームをしているわけではなく、二人対一人の試合なのである。
ピッチャーが僕、キャッチャーが編集者。
そしてバッターは、読者である。
僕は球を投げ、このバッターを三振に打ってとらなければならない。そのためには投げる前から、あるいは投げた瞬間、球筋を読まれては困るのである。
ストレートの次にはカーブを、カーブと思わせておいてドロップを。そうしてこそ初めて、バッターはつづけて打席に入ってくれるのだ。
「入るまでもないや。あいつ、カーブばかりだもの」
新人投手がそう言われるようでは、先が思いやられるわけである。
「一度ストレートを投げてみろや」
キャッチャーがサインをくれるときもある。
新人ピッチャー、照れながらそれを投げる。
「好きな球でどうぞ」
喜び勇み、指にツバをつけて|くさい《ヽヽヽ》ボールを放る。そしてうまく入ればニヤニヤする。
それをつづけているのが、現在の自分であると思うのだ。
勿論、どんな球を投げようと、それがストライク・ゾーンを外れてはいけない。力で圧倒するタイプではないことがわかっているだけに、それは一層厳しい制約となるのだ。
「剛速球一本槍、誰も打てない」
こういうピッチャーは、少々ゾーンを外れても、その速さと重さだけでバッターを|びびらす《ヽヽヽヽ》ことができる。ズシリ、ウームである。
スロー・ボールのすっぽぬけでは、真面目にやれとどなられるのがオチなのだ。
だからいま、僕は、自分がいったいどれだけの球を投げることができるか、その種類をふやそうとしているところである。
奥行よりは間口を。とにかく、それが第一期の仕事だと思うのだ。三年かかるか、五年かかるか。
そうしておいて、第二期にはそのそれぞれの球にみがきをかけていく。ストレートには速さと重さを与えたいし、カーブなら二、三回曲がってスポリとおさまるような、不思議なカーブを投げてみたい。
そしてゆくゆくは、受けたキャッチャーがミットごとうしろに吹っとぶような剛速球を一度でいいから投げたいし、ボールならボールで、往年の金田正一投手がやったような、バッターもキャッチャーもおかまいなしの、バックネットに直接ぶちあてるような、人をくったボールを放ってみたいと思う。
批評家《アンパイア》が苦笑し、一塁側《フアン》が狂喜し、|三塁側 観客《アンチ・MUSASHI》も思わずどよめく、大暴投をである。
無論、夢は誰でも持つもので、実際には来年にも自由契約選手になるかもしれないが。
(その前兆かどうか、このピッチャー、これを書いている現在、肩と腕に炎症を起している。いまから左腕投手にはなれないだろうし、困ったことであります)
ともあれ、そうやって投げたボールのうちの十球、それがこの短篇集なのである。
ストライクもあり、ボールもあり……
初出誌
「建売住宅温泉峡」
「SFマガジン」昭和五十二年五月号
「しつこい宇宙船」
「奇想天外」昭和五十二年六月号
「田吾作モッブ」
「小説現代」昭和五十二年五月号
「氷になった男」
「小説マガジン」昭和五十二年創刊号
「方角ちがい」
「小説マガジン」昭和五十二年八月号
「新じゃぱん蚕」
「青春と読書」昭和五十二年春
「斬る」
「オール讀物」昭和五十一年十月号
「赤ちゃんをどうぞ」
「別冊小説宝石」昭和五十二年夏季号
「旗本御多忙男」
「奇想天外」昭和五十二年九月号
「早朝特急クラブ」
「カッパまがじん」昭和五十二年五月号
単行本 昭和五十二年十一月三十日 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和五十六年一月二十五日刊