かんべむさし
かんちがい閉口坊
目 次
かんちがい閉口坊
活 火 山
出入星管理事務所
雪のなかの四季
休 火 山
礼 状
夏の終りのデケイド
死 火 山
岩ちゃんのギター
臨機応変位
俄じゃ俄じゃ
文庫版のためのあとがき
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かんちがい閉口坊《へいこうぼう》
珍しく都心の一流ビジネス街にきたので、昼飯を食う場所に困った。
店はいくらでもあるのだが、変に気どりやがって、グリルだのビストロだの、入る気がしないのだ。それに第一、値段が高い。
俺は自分の金で昼飯を食うときには、四百円以上は使わないことにしている。肉じゃがとライスで三百八十円、にぎり飯二|箇《こ》とソバで三百七十円、これが昼飯というものなのだ。
それを何だと、サービス・ランチが六百円、舌ビラメのムニエルにサラダとパンとコーヒーがついて八百五十円だと。
てめえら、どうせ広く明るいオフィスで、机にむかって書類に数字を入れたり判を押したりするだけだから、そんな上品な物を食べて満腹ぶっていられるのだろう。
おまけに組合があって身分は保証されていて、月給だのボーナスだのは毎年必ず上るから、それだけの金を払って平気でいられるのだろう。ちぇっ、何が春闘だ。
俺みたいに、固定給は八万円であとは歩合制、朝から晩まで歩きまわってそれで一件の注文が取れれば御《おん》の字という、個人会社の契約セールスマンをやってみろ。大判小判の額だとか赤富士の絵だとか、あるいは七福神のブロンズ像だとか、そういうかさばって重いばかりの品物をかかえて、てくてくてくてく歩いてみろ。昼飯にムニエルとパンなど、食ってはいられないんだぞ。糞《くそ》おもしろくもない――
腹をたてつつ段ボール・ケースに入れた額をかかえて歩きまわり、俺はようやくビル街の裏手に小さなソバ屋を見つけて入った。
カレー丼四百三十円也。予算オーバーだが仕方がない。まあ、交通費伝票を切るときに八十円くらいはごまかせるからいいだろう。
思いながら番茶を飲み、レジの上の棚《たな》に置かれたテレビをぼんやりと見ていると、スタジオ番組のゲストに、俺の知っている奴が出てきた。ただし、直接にという意味ではない。
正確には、俺の知っている男が、そっくりだよく似ている美男子だと言われていた、その「似られた」方のテレビ俳優が出てきたのだ。
やさ男で眼が大きくて少し子供っぽい顔。
俺の元同僚だった須崎考次、名刺の上では考仁、通称コージンは、このテレビ俳優に似ていることを利用して、随分《ずいぶん》いいめに会いうまいことをしつづけたのである。
考仁と書くと俳優の本名と一字違いになる。それをネタに、実は僕は養子に行ったので姓は違っているが、彼の弟なのですと言う。
これで、馬鹿な女がひっかかる。
ああ、ゴルフがお好きですか。いや、僕は駄目だけど兄貴がシングルなもので。えっ、なるほど。じゃあ一度お手合わせをと、僕から兄貴に電話をしておきましょう。
それで、成り上りの不動産屋の親爺《おやじ》が、金メッキの鷹《たか》の置物を買ってくれる。
コージンは公私ともにこの俳優を利用して、懐《ふところ》をあたためていたのである。
だが、その彼は、一カ月ほど前に突然姿を消してしまった。
「妙な事件だったな……」
思い出して首をひねりながら、俺は運ばれてきたカレー丼を食い始めた。
二カ月ほど前だった。
俺とコージンが事務所の近くにある定食屋で昼飯をすませ、さあ昼からは東と南にわかれたことにして西か北の雀荘《ジヤンそう》にしけこもうかと表に出ると、むこうから坊主が歩いてきた。
坊主といっても、法事に出かける上等の坊主ではなく、色あせた破れ衣に網代笠《あじろがさ》、首からズタ袋をかけ、手には托鉢《たくはつ》用の金《かね》の鉢を持った乞食《こじき》坊主である。
そいつが、俺達の前でぴたりと足をとめ、だぶだぶだぶと経《きよう》を唱《とな》えだした。
場末とはいえ、そのあたりは一応はオフィス街で、問屋だのサラ金事務所などはあっても民家はほとんどない。
だから、なぜそんな所を托鉢坊主が歩いているのか不思議に感じ、それ以上に、なぜその坊主が俺達の前で足をとめたのかも見当がつかず、俺とコージンは立ちどまって顔を見あわせた。
わかるか? わからない。
金が欲しいのかな? さあ。
眼で話しあっている間も、坊主の経はつづいている。
「坊さんよ」
仕方なくコージンが聞いた。
「俺達に金をくれと言ってるのかい」
坊主はこたえず経を読む。
「相手を見てから頼んだ方がいいぜ」
今度は俺が言った。
「俺達は三流セールスマン、こっちが十円でも欲しいくらいの安月給なんだからな」
だが、坊主はひたすらだぶだぶと唱え、俺達が右によければ右、左によれば左へと動いて道をふさぐ。あきらかに、俺達をカモにしようとしているのである。
「やい、坊主」
ムカムカとして俺はどなった。
「てめえ、ゆすろうってのか」
「ふん」
コージンも鼻を鳴らし、ポケットからパチンコの玉をひとつつまみ出して言った。
「そんなに欲しけりゃ、これをやるぜ。朝一番で打ってきた残りだ。あんたも、自分の腕で金を稼《かせ》いできな」
カチン。投げ入れられた玉が鉢の底にあたって硬い音を立てる。するとそのとき、坊主は経をやめて網代笠の顔をゆっくりとあげ、大層感心したという声をあげたのだ。
「おお、おまえさまは善人じゃ」
顔を見ると眉毛《まゆげ》も白い爺《じい》さん坊主で、歯などはほとんど残ってはいない。そのじゃが芋爺《いもじじ》いが、しわがれた声をはずませ、心底|嬉《うれ》しそうに言うのである。
「ああ、また一人善人を見つけた。ありがたやありがたや。ナマンダブナマンダブ」
「ちぇっ」
コージンは舌うちをした。
「人間ができてるってとこを見せたいのかよ、人格者ぶりやがって。俺はこういう奴が一番嫌いだ。おい、行こうぜ」
俺をうながし、そのまま歩きだした。
ところが、坊主はくるりとむきをかえて、そのあとについてきた。
「ナマンダブナマンダブ」
唱えながら、俺達について事務所のある古い三階建てのビルの前まで来たのである。
そしてそこでまた、だぶだぶだぶと経を読み始めている。
「糞坊主カス坊主」
コージンはその足元にペッと唾《つば》を吐《は》いた。
「好きなだけそこに立ってるがいいや」
坊主はこたえた。
「はいはい、それではそういたしましょう。ああ、ナマンダブナマンダブ……」
勝手にしろ。思って俺達はビルに入ったのだった。
それから一週間ほどが過ぎたある夕方――
俺がセールスから戻って事務所に入ると、コージンが浮かぬ顔で机の上に肘《ひじ》を立て|※[#「月+咢」]《あご》をのせていた。
アルバイトの事務員兼電話番の女の子はすでに帰り、社長はここしばらく本業の株相場が忙しくて証券会社に通いつめているため、薄暗く狭《せま》い部屋のなかには彼しかいない。机とソファ以外のスペースは、商品見本でいっぱいである。
「どうしたんだ」
俺が聞くと、コージンは立ちあがって窓際《まどぎわ》に寄り、下を見て首をかしげた。
「おかしいな。もう帰ったのかな」
「誰が」
「坊主だよ。あの乞食坊主だよ」
えっ。声をあげると彼はふりむき、腹立たしげに言った。
「あいつがまた来やがったんだ」
あの日、坊主はどれだけの時間立っていたのか知らないが、俺達が午後のセールスと称して雀荘へしけこむべく外に出たときには、すでに姿を消していた。
へっ、驚かしやがって。あれはひょっとして頭のおかしい坊主だったのかもしれないな。
俺達はそう言いあって笑い、そのまま忘れてしまっていたのである。
しかるに、そいつが今日また現われたという。
「いつ、どこに」
「ついさっきだよ。俺が国電で帰ってきたら、駅前に立ってやがった。そうして、また表までついてきたんだ」
コージンは思い出して頭に血が昇ったのか、握り拳《こぶし》でゴンと机をひとつ叩《たた》いた。
「先日は失礼をいたした。考えてみればずっと立っているよりは、折にふれてお顔を拝見させてもらう方がよい。愚僧《ぐそう》もこれでなかなか忙しく、あちこちへまわらなければなりませんのでナ……」
坊主の口|真似《まね》をし、靴の先でソファを蹴《け》った。
「忙しけりゃ、来なくてもいいだろうと言ったら、いやいや善人は一人残らず拝ましていただきたいのじゃとぬかしやがって。俺に対して手を合わせて、頭を下げやがったんだ」
「何のためにだ」
「知るもんか」
コージンは吐き捨てるように言い、ソファにどしんと尻を落として、内ポケットから千円札五枚をひっぱり出した。
「あああ、せっかく小遣《こづか》いを儲《もう》けていい気分になっていたのにな。いらいらするったらないぜ」
どうやら、女と会って金をせびったか、学生相手に賭麻雀をしてふんだくってきたらしい。彼はその札でぴしりと自分の膝《ひざ》を叩き、ぶるぶるっと頭をふって声をあげた。
「酒でも飲まなきゃ、やってられねえや」
そして、それからまた一週間後の朝――
俺とコージンがセールスに出かけようとビルを出ると、坊主が立って経を読んでいた。
「あ、またてめえか」
コージンは声をあげ、詰《つ》めよって聞いた。
「いったい何だというんだ。俺に怨《うら》みでもあるのか。それとも、金をやるまでは消えねえって覚悟《かくご》なのか」
ポケットから小銭をつかみだし、乱暴に鉢の中に投げ入れた。
「じゃあこれだけやらあ。どうだ、これで文句はないだろう」
「お、これはこれは御奇特《ごきとく》な。やはり、おまえさまは善人じゃ」
坊主は軽く頭を下げ、ゆったりとした口調で言った。
「御喜捨《ごきしや》をいただきました上からは、ささやかなる御礼の印として、本日一日、おまえさまについて歩いて、念仏申し上げましょう」
「よしてくれっ」
コージンは飛びすさり、初めて気弱な、つまり薄気味悪そうな声を出した。
「俺は商売に出かけるんだぞ。おまえなんかについてこられたら、俺も客も気が滅入《めい》って仕事にならないじゃないかよ」
「いやいや、案ずることはない」
坊主はにこにこと笑った。
「御商売になるもならぬも、すべて人と人、人と仏の縁のなせるわざ。愚僧はただ、おまえさまのために念仏申し上げるのみじゃ」
「お、おい、何とかしてくれよ」
コージンは俺にささやいて逃げ腰になり、逆に俺は一歩前に出て坊主に言った。
「なあ、坊さん」
「はいはい」
「こいつは嫌がってるんだぜ。人の嫌がることをするのは、坊主の道に反するんじゃないのかい」
「それはいかにももっともな考えに思えるけれども」
坊主は平気な顔でこたえた。
「実は小智《しようち》小胆《しようたん》、いわゆる分別智《ふんべつち》の働いたこざかしい理屈じゃな。大智大胆無分別智《だいちだいたんむふんべつち》の世界には、そもそも好きも嫌いもないわけじゃ」
「勝手なことをぬかすな」
俺はカッとしてどなった。
「じゃあ聞くが、おまえはいったい、何のためにこいつにばっかりついてまわろうとするんだ。好きも嫌いもないのなら、俺についてまわったっていいじゃないか」
「おやおや」
坊主は笠をあげて俺を見つめた。
「それでは、おまえさまは、愚僧について歩いてもらいたいとおっしゃるのか」
「勘違《かんちが》いするな」
俺はなぜかドキッとし、あわてて相手の言葉をうちけした。
「俺はただ、物のたとえとして言っただけだ。誰がついてきてもらいたいものか」
そのまま方向を変えて早足に歩き出した。
そうでもしなければ、本当に俺のあとについてきそうに思ったからである。
「お、おい、待ってくれよ」
コージンの声を背に角を曲がり、曲がる直前にふりむくと、彼は俺のあとを追おうとして、坊主に上着の裾《すそ》をつかまれていた。
「ひどい奴だよ、おまえも」
翌日、コージンはぼやいたものだった。
「とうとう一日中ついてまわられて、気味が悪いったらなかったんだぜ」
で、真面目にセールスにまわったのかという問いに、彼は口をとがらせてこたえた。
「仕方がないじゃないか。まさか、坊主と二人連れでストリップ見にいくわけにもいかないだろう」
「じゃあ、何か売れたか」
「売れるもんか。第一、客がなかに入れてくれない。気味悪がってな」
「殴《なぐ》ればよかったんじゃないのか」
コージンは声を落とした。
「殴ったんだよ。あんまりしつこいから、道の真中でぽかぽか殴ってやったんだ。だけど」
彼は肩も落とした。
「にこにこ笑ってるんだよ。そうして、殴って気が晴れたのち、愚僧とともに西へと旅立ちましょうなんて言いやがるんだよ」
彼はつぶやいて、ため息をついた。
「西ってどこのことだろう。ひょっとして、俺、もうすぐ死ぬんじゃないのかな……」
背筋がもぞもぞとして、俺は黙りこむばかりである。
それからさらに一週間が過ぎたとき――
遂《つい》に坊主は、堂々と事務所のなかにまで入ってきた。例によって社長は電話でしか指示をよこさず、バイトの女の子はいわば素人だから、これさいわいと俺達は商品横流しの相談をし、伝票をごまかしにかかっていた。
そこへ坊主が、晴ればれとした顔をして入ってきたのである。
「いやあ、喜んでくだされ」
あっけにとられている女の子にはかまわず、何だこのと立ちあがりかけた俺にも気をとめず、坊主は心底|嬉《うれ》しそうに言った。
「いままで、あちこちの善男善女方を拝んでまわっていたので失礼をしたが、本日よりは、ひたすらおまえさまのお顔を拝むことができる。夜も昼も、家でも会社でも、常に愚僧がおともをいたしますぞ」
「ま、待ってくれ」
一度立ちあがったコージンは、ふたたびよろよろとソファに腰をおろし、今度ははっきりと気弱な声を出した。
「俺は死ななけりゃならないのか……」
「呵《か》・呵《か》・呵《か》・呵《か》」
坊主は笠を取り、じゃが芋頭をふりたてて大笑した。
「死ぬなどとはとんでもない。おまえさまのような善人には、人一倍の長生きをしてもらわねばならぬのじゃ」
「人を一倍したって、人と一緒《いつしよ》じゃないか」
「いやあ、これは一本参ったわい」
コージンは落込んでおり、坊主はあくまで上機嫌である。
「とにかく、全国津々浦々の善男善女とともに、いつの日か西へと旅立ってもらわねばならぬ。そのためには、まず、日々《にちにち》の己《おの》が勤めをしっかりと、真面目に果すことが第一じゃ。さ、外は天気もよい。春はもうすぐそこまで来ておる。こういう薄暗い部屋にくすぶっておらず、ささ、仕事に出かけよう」
「あ、あのなあ」
コージンにかわり、俺が立ちあがって進み出た。何だか無性に腹が立ってきたからである。
「そういういやらしい物の言い方はするな。日々の己が勤めをしっかりと、真面目に果せだと」
周囲に積んである商品見本を指さした。
「俺達はこういう物を売ってるんだよ。その勤めを真面目に果せとは、いったいどういうことだ。おだてたり騙《だま》したりひっかけたりするのはやめろと、はっきり言ったらどうなんだ、え。第一、俺達はいま」
横流しと言いかけてあやうく口をつぐみ、俺は坊主を睨《にら》みつけた。しかし敵は動じない。ただもう、上機嫌でコージンをせかすのみである。
「いや、おだて結構ひっかけ結構。それらも、真面目に誠実にやれば御仏《みほとけ》のわざとなる。
さ、立って立って。ほれ、品物を持って持って。さあさあ、愚僧とともに街へ出て、人のなかへと入ろうではないか」
コージンの背中を押し、呵呵呵と笑い声を残して出て行ってしまった。
「何なの、あれ」
「知るもんか。気違い坊主だ」
俺と女の子は、顔を見あわせて首をひねるしかないのだった。
そして翌日から、坊主は本当に四六時中コージンに密着するようになり、彼は泣きそうな眼をして俺を見つつ、セールスに出かけていくことになった。
「夜もついてくるのか」
「そうなんだ。アパートの部屋にあがりこんで、勝手に畳の上で寝てしまうんだよ」
会社で言葉をかわせるのは、坊主がトイレに入っている間くらいのものである。
「仕事中は?」
「表で待っている。裏から逃げようとしても、なぜだか見つかって追いつかれるんだ」
彼は、いままでとは別種のため息をついた。
「それが気になって、カモの前でも弁舌に身が入らないし、テレビ俳優の弟だとも言えないんだよ」
「どうして」
「何となくさ……」
街角の交番に駆けこんでも相手にしてくれず、坊主と二人連れでは女とホテルへ行く気にもなれず、密着開始以来一週間、遊びらしい遊びもしてはいないという。アパートで飲む酒だけが、息ぬきといえば息ぬきだというのである。坊主も少しは飲むらしい。
「でも、それだってあいつと差しむかいだからな。すぐにまわって、眠ってしまう」
コージンは泣き笑いの顔をした。
「そんな健康的《ヽヽヽ》な毎日だろ。いまは気が重いから大丈夫だけど、何かの間違いでポンと抜けたら、俺、太って顔なんかつやつやしてくるんじゃないだろうか」
そうなっては、やさ男の二枚目も形《かた》なしであり、本当に善人風になってしまう。
「困るんだよね、実際」
そしてそれが十日間ほどつづいた土曜日の朝、珍しく事務所に顔を見せた社長は、同じ言葉をストレートな意味に使ってどなったのだった。
「何でおまえは坊主なんかとくっついているんだ。頭がおかしくなったのか」
小太りして、つやつやではなくてらてら顔の社長は、伝票の束をつきつけて怒ったのである。
「しかも、この十日間何ひとつ売っていない。困るんだよ、実際」
坊主がとりなそうとした。
「まあまあ、この善人をそう怒ってやりなさるな」
「うるさいよ、この糞坊主。何が善人だ。善人がこんな所で働いているものか」
彼は断言した。
「第一、善人だけで、いまのこの世の中が成り立つわけがないじゃないか」
「それも真理じゃ。だが、善男善女がどこにもいることも、これまた真理じゃぞ」
坊主はゆっくりと経を唱えだし、コージンが俺にささやきかけてきた。
「ひょっとして、俺、善人なのかな」
「………」
そのあと二人は例によって連れだって出かけ、そしてそのまま帰ってこず、翌週になっても事務所に姿を見せはしなかった。
コージンと坊主は、俺の前から消えてしまったのである。
本当に西の旅に出かけてしまったのかな。
まさか。多分コージンは相手の勘違いに困りはててどこかへトンズラし、坊主は坊主で勝手にあちこちを巡《めぐ》っているのだろう……
そんな風に考えてカレー丼を食べ終り、俺は金を払って荷物をかかえ、外に出た。
さあて、午後からは映画館にでもしけこむとするか。どうせこんな物、このあたりで売れるわけはないんだからな。
だが、歩き出そうとした瞬間、俺はドキッとして小さく声をあげ、眼を見ひらいて身体を硬直させていた。
路地のむこうから、坊主が近づいてきていたからである。
「観自在菩薩《かんじざいぼさつ》 行深般若波羅蜜多時《ぎようじんはんにやはらみつたじ》 照見五蘊皆空《しようけんごうんかいくう》 度一切苦厄《どいつさいくやく》 舎利子《しやりし》 色不異空《しきふいくう》……」
破れ衣を着て網代笠をかぶり、手に托鉢用の鉢を持ったそいつは、俺の前でぴたりと足をとめ、きりのいいところまで経を読んでから、ゆったりとした口調で言った。
「これはこれは、おなつかしゅうございます。その後、お元気でお過しかな」
何だとこの糞坊主。言いかけて、相手の声が少し違うと感じ、俺は網代笠の下の顔を覗《のぞ》きこんだ。そして、今度こそ大きく声をあげていた。
「あっ、おまえはコージンじゃないか」
彼は例のじゃが芋坊主ではなく、ついいましがたまで思い出してあれこれ考えていた、俺の元同僚の須崎コージンだったのである。
「どうしたんだ、コージン。おまえ、いつから坊主になんかなったんだ」
「はいはい」
彼は笠をとり、青々とした坊主頭を見せて、いかにも嬉《うれ》しそうに眉《まゆ》をさげて笑った。
「いまよりおよそひと月ほど前、御仏の導きによりまして発願《ほつがん》をいたしましてな」
太って顔などもつやつやしており、眼は輝いて、言葉遣いまでが変わってしまっている。
「じゃあ、あの日、いなくなったときに」
「はいはい。あのまま寺へと誘《いざな》われ、そこにてめでたく仏門に入りましてな」
「何でまた」
彼はチラリと俺のかかえた段ボール・ケースに眼をやり、かすかに口元をほころばせて言った。
「それを売るのも勤めならば、経を読むのもこれもまた勤め。同じ勤めであるならば、自らに少しでもむいた勤めをと思いましたのでな」
この野郎、以前の仕事を馬鹿にしやがるのか。思ってムッとしかけたが、コージンがそういう気持などこれっぽっちも持たず、本気でふたつの勤めを同等に比べていると感じられたので、俺は別の心配をして質問した。
「おまえ、大丈夫か。少し頭がおかしくなったんじゃないのか」
「いやいや」
彼はにこにこと首をふった。
「別におかしくもならなければ、洒落《しやれ》や冗談でこういう姿をしておるわけでもない。愚僧は、ただひたすら、御仏《みほとけ》の教えをおひろめいたそうと、そう考えておるばかりでございましてな」
「あのなあ」
俺は声を変えた。
「随分と偉そうなことを言ってくれるけど、その教えというのはどんな物なんだよ」
「はいはい」
コージンは心底嬉しそうにこたえた。
「教えと申しましても、愚僧などに難しいことはわかりませぬが、聞かされたとおりを申しますなれば、悪をなさず善を積み心を清らかにすること、仏の教えはただそれだけじゃと申しますなあ」
「ちぇっ」
俺は靴先でアスファルトの道を蹴り、ぺッと唾を吐いた。
「おまえのどこを押したら、そんな言葉が出てくるのかね、まったく。おまえ、自分がつい一カ月前まで、どんなことをしていたのか忘れたのかよ」
「おやおや」
彼は眼を丸くして俺を見つめた。
「それではおまえさまは、ああいうことどもを悪事と思っておられるのかな」
「悪事じゃないかよ。伝票ごまかして商品を横流ししたり、交通費を水増ししたり、女を騙して金を取ったり、あれが悪事じゃなくって何だというんだよ」
「ほほう。それではおまえさまは、それを悪事と知りつつやっておられると……」
これだから坊主は嫌いだ。人に誘導|訊問《じんもん》をしかけて決っている答を無理矢理言わせ、愚僧はそれに気づいた瞬間からすっぱりと善人に戻ったのじゃなどと言うつもりなのだ。
そうして、一|日《じつ》の長を誇って自分を偉い人間だと思わせようというのだろう。
そう言うと、コージンは額に筋を入れ、眼を悲し気にしばたたかせてゆっくりと首をふった。
「いやいや、そうではない。愚僧はああいうことどもを悪事とは思っておらず、また実際、あれは悪ではない。あれは性《さが》。人間がかくかくの境遇にあるときはしかじかのことどもをせざるをえぬようになるという、あれは人間の性なのじゃ。そして性には、悪も善もない。利己心も、元をたどれば動物の自己保存本能なのじゃからな。犬が電柱に小便をかけるのを誰がとがめられよう。飢《う》えた猫がカナリアを食うを、誰が悪じゃと責められよう」
「詭弁《きべん》だよ、そんなのは」
これでは、言うことが逆じゃないか。心のなかで若干《じやつかん》困りながら、俺はまくしたてた。
「安月給の安サラリーマンでも、伝票をごまかさない奴だっているじゃないか。性《さが》か何だか知らないけれども、それを理性で押さえるのが人の道、まっとうな人間のやることではないのか。また逆に、性を出す必要のない人間でも、わざわざ金をごまかす奴だっているだろう。そしたら、それは悪じゃないか」
「さ、そのことじゃて」
コージンはじゃが芋坊主譲りらしい爺さんめいた言葉を吐き、笠をかぶった。
「そこのところを何とかいたそうと、全国津々浦々の善男善女が日夜苦心をしておられるわけでな。老師の曰《いわ》くは、一朝《いつちよう》 一夕《いつせき》の考えや工夫でその世界からの解脱《げだつ》はむつかしかろう。そこでとりあえず」
ゆっくりと歩きだしたので、仕方なく俺もそのあとについて歩き始める。
「とりあえず、三年五年十年ばかりはこの世界から身を退け、西の地へ行って坐ってみようではないかと、こういう御提案。そのために老師は、あちこちを歩いて同行の者を募《つの》っておられたのじゃ」
「西ってどこだ。西国か、それとも高野山か」
「いやいや、もっとずっと西」
大通りに出る直前、コージンは足をとめてふりむき、もごもごと言った。
「本朝を出《い》でて、唐《から》から天竺《てんじく》の地じゃ」
「へっ、三蔵法師じゃあるまいし」
さすがに馬鹿馬鹿しくなって、俺は言ってやった。
「そんなに行きたけりゃ、爺さん坊主と二人、どこへでも行くがいいや」
「いやいや、二人ではありませんぞ」
コージンはゆっくりと足を踏みだし、大通りに出て言った。
「同行の者は、ほれ、あのとおり」
「あっ」
つづいて大通りに出た俺は、高層ビルのたち並ぶ春の都心の明るい一流ビジネス街に、異様な光景を見て思わず立ちすくんでいた。
一直線につづく大通りの彼方《かなた》、東の方向から、墨染《すみぞ》め衣に網代笠、手に鉢を持った坊主の集団が、ゆっくりとこちらにむかって歩いてきていたのである。
そしてその両側のビルからは、同じ姿の坊主や白布で頭を覆《おお》った尼達が、ぞろぞろぞろぞろと出てきている。
銀行からも商社からも、鉄鋼メーカーからも新聞社からも、同行者が次つぎに出てきて列に加わり、左右の歩道を埋め、一部は車道にまではみだして、だぶだぶだぶと経を唱えながら、こちらにやってくるのである。
それにつれて、俺達の立っているすぐ横のビル、電力会社の本社からも、坊主の列が出てき始めた。
「………」
物も言えずにつっ立っていると、坊主集団は早くも俺の眼前に迫り、すると先頭の一人が列から離れて俺に近づいてきた。
「おお」
彼は笠を手であげ、歓喜の声をあげた。
「おまえさまは善人じゃ」
それは、二カ月前にコージンに同じ言葉をかけた、あのじゃが芋坊主だった。
「以前は何とも思わなんだが、いま突然はっきりとわかった。おまえさまは善人じゃ」
集団はその間も西へ西へと進んでいき、むこうの区画のビルからも、続々と新参坊主が出て列に加わっている。
「どうじゃな、おまえさまも」
老坊主が言い、コージンも勧誘した。
「あそこで会ったも何かの縁。いかがかな、いまならまだ間にあうが」
「よしてくれ」
俺は叫んで飛びすさった。
「誰が行くもんか」
しかし、そう言いながらも、俺は瞬間、頭のなかにこういう光景を思いうかべていた。
すなわち、自分がインドの川べり、照葉樹《しようようじゆ》の林のなかで、ゆったりと坐って眼を半眼にしている光景をである。そしてそれは、なぜか非常に魅力的なイメージだった。
「それでは、まあ」
「またの機会にいたしましょうかな」
去っていく集団とその最後尾についた二人の後姿を見つめ、俺はいまにも駆け出そうとする自分の心と、必死に戦いつづけていた。
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活 火 山
ん、何だ?
おっ、わかった。Aの件だな。
よし、そうしてくれ。かまわん。儂《わし》がかまわんと言っとるのだからそれでいい。気にするな。人に相談する時間はもう残っとらん。
電話で先方を呼び出せ。出たら儂が出る。
出たか。貸せ。もしもし。おお。いやいや。何の何の。大丈夫。わはははは。
そうだ。その件だ。面倒見るぞ。結局いくらあればいいのか? 遠慮するな。はっきり言え。片手か両手か。そうか。それでいいのか。わかった。口座は何番か。どこでもいい。スイス? 結構。すぐ手配する。了解。何、礼? それはまた別の形で頼まんといかんこともあるだろう。ま、いずれな。OK。
次は何だ。Bの件か。どうしとるか、あのBなる女は。ふん。ふんふん。つまらん。そんなことで泣きごとを並べとるのか。つまり何だ。何が欲しいのか。そうか。
Cに電話だ。出たらかわれ。出たか。会議中? 呼び出せ。つながせろ。早くしろ。まだか。急がせろ。よし。
ああ、儂だ。おまえBをどうするつもりか。泣いとるぞ。おまえが助けんで誰が助けるか。わかっとる。その噂は儂も聞いとる。しかし、いまは眼をつむれ。助けてやれ。功徳《くどく》だ。悪いようにはせん。おまえの顔はつぶさん。そうか。助けてやるか。それでこそおまえだ。ひとつ借りを作ったな。必ず返す。何がいいか。別にないか。そうか。
それはそうと、Dとの間はどうなっとるのか。トラブルは収まったか。何、人は人、我は我? 何を青いことを言うとるか。あれとは結んどく方がいいぞ。儂が言うてやろうか。
ただし、五分は譲れよ。いや、四分六ではいかん。それでは儂が笑われる。五分と五分で手を打てば世間がおまえを六分に見る。そういうものだ。わかったか。それでは、これをBの件の礼にさせてもらうぞ。よし。
Dは今日は来とるか。呼べ。
D! 貴様いったいどういうつもりか。
Cと反目して、儂の顔にドロを塗る気か。
それならそれで考えがあるが、どうだ。
何、Cがしかけてきた喧嘩? 馬鹿者。先にしかけられたときこそ、どうして先に折れんか。先にやられても先に納める。それでこそ、世間がおまえを上に見る理屈だ。子供の喧嘩ではないぞ。儂にまかせろ。五分と五分で手を打つのだ。いや、四分六はいかん。そこをもう一分譲るのがおまえの度量だ。わかっとる。儂はよくわかっとる。
五分と五分で納めて、儂はおまえを六分に見る。それでよかろうが。わかったか。わかったら今晩Cと飯を食え。おまえが先に行って待っておれ。それでいい。よし。下がれ。
それから何だ。Eからの手紙か。どこからだ。そうか。あいつ、そんな所へ入っとるのか。なかなか気合がみなぎっとるな。
で、用件は何だ。全部読まんでもいい。要は何を言ってきとるのか。ふん。ふんふん。つまり軍資金だな。わかった。Fに頼もう。手紙がいい。後に残すためだ。要点を言うから、案文して出しておいてくれ。用紙はこれだ。サインを先にしておく。これ一枚に収まるようにまとめてくれればいい。言うぞ。いいか。
ひとつ、事態のこのまま推移せんか重大なる緊張を招くの恐れあり鎮静行為を要す。
ひとつ、奮闘中なるEは小生の旧友にして無私の人物なりその真情は信頼するにたる。
ひとつ、Eに最も必要なるは軍資金にして名声人望にあらず人望あに緊張を緩和しうべけんや。軍資金のみよく鎮静剤たりうべし。
ひとつ、F資金の有効なる投入はこの局面をおいて他になし御助力を乞う。勿論《もちろん》小生これを依頼したるの責任上鎮静後の手当ては胸中にあり貴台を最優先となす心算なり。
以上だ。時間はまだあるか。ないか。そうか。では出かけるぞ。そうだ。Gの件だ。要点は車の中で聞く。行こう。乗ったか。よし。
ふん。ふんふん。するとGは|重 力《グラビテイ》の略か。
それでどうした。なるほど。実験をな。人間はどうなっとる。ああ、あの連中か。学者が多いな。論客は誰だ。そうか。ははあん。
早く降りんか。ちぇっ、ここのエレベーターはいつもこうだ。えいくそ。まだか。馬鹿者、誰だ三階なぞから乗る奴は。駆けおりればいいのだ。時間の無駄だ。エネルギーの無駄遣いだ。昼飯は出るのか。会議中には出んのか。出んのなら運転手に言って、弁当を買っておかせろ。とりあえずの押さえだ。
やあやあやあやあ。いやこれはどうも。おうおう、そういうことをおっしゃる。先生もこれでなかなかのおだて上手で。いやいや。
Gの件。そう。それですな問題は。議長、定数に達しとりますからそろそろ。結構。
ふんふん。ふん。ふんふんふん。ちょっと待った。いまの御発言にあったH教授任命の件。それは若干問題がありはしませんか。
H教授は専門外の人物だ。しかも、評判があまりよくない。はっきり言えば悪い。G問題という重大問題に彼を加えて、それがために国家的。いやいや。ならば結構。先生が保証されるのならば結構。ただし、先生はこういう事実を御存知か。第一回の実験のあと、データが早くも外国に流れたという。それについては、H教授が技官を操ってそのデータを。いや、御存知ないのも無理はない。先生は人格者だから人を疑わん。それ自体は結構だが。しかしこういうプロジェクトにおいては。いや。いやいや。左様《さよう》。そういうことです。あえてH教授をという理由がないのなら今回は。そう。それが先生のためでもある。
ふん。ふんふんふん。ふん。ああ、それはそれでいいでしょう。金? なるほど。金ね。最終的にはどれくらいを。ああ、その程度。ならば私が責任を持って。了解。
あとの議案は? なるほど。それと、それと。ふん、それね。そのふたつめは私は賛成します。ひとつめとみっつめはペンディングだな。いや、次回までに資料が揃《そろ》うのなら反対票を入れてもいい。そうします。OK。
失礼。I大臣から呼び出しがかかっとりますので、これで中座を。どうもどうも。あ、先生。また電話します。H教授の件。少し補足しなけりゃならんことがあるから。失礼。
I大臣か。I公めが突然何の用だ。前からの予定か。昨日急に入った? ははん、I公め新聞を恐れとるな。えいくそ、エレベーターまだか。おい駆けおりるぞ。何、十階分くらいどうってことはない。行くぞ。来い。
おまえ、儂より若いのに何だ。心臓でも悪いのか。医者に診てもらえ。マラソンでもしろ。それとも儂と一緒に剣道やるか。
よし。弁当くれ。ワインもあるな。おまえも食うか。いらんか。それでは儂が食う。
I大臣と昼食? あのケチどうせ大した物は食わさん。で、用件は何だ。わからん?
言わんのかI公。やっぱり新聞だな。いや、プライバシーだ。ふん。ケツの穴の小さい奴だ。あ、それからH教授の件、フォローしといてくれ。そうだな、I公の件を消すかわりにHのネタを提供してもいい。新聞にな。
かまわん。HとIなら、国家的に見てIが重い。Hは所詮地ゴロだ。あれはH伯爵の息子だが、その割には風格がない。H伯自身が成りあがりだったからな。昔の話さ。
よしここでいい。おまえ残っておれ。儂一人で行く。昼飯を食っておけ。いいな。
どうしたI公。新聞が恐いのか。ふん。大したことはない。バーターで助けてやる。Hという教授だ。勿論おまえには火の粉はかからん。そのかわり儂にもバーターで何かよこせ。そうだな。Aという男を知っとるか。
あいつもがんばっとる。少し出してやってくれ。スイスだ。官房費が動かせんか。いいだろう。それで手打ちだ。飯にしよう。
胃炎だと? 神経性か。おまえも線が細いな。それでは総理になれんぞ。おまえが食わんのなら儂が食う。鯉か。洗いもいいが中華もいいな。うまい物はうまいからな。
それで思い出した。この前Jと飯を食った。そうだ横綱のJだ。やはり違うな。いかに儂でも負けたぞ。儂とJとあと取的《とりてき》が三人と女が五人で、寿司屋を一軒店じまいさせて。
そのあとサーロインを二十三人分食った。
化物だなあれは、うん。うんうんうん。
ほほうそうか。Jの後援会長がKか。あのKか。そのときにはそんな話は出なかったが。なるほど。前の会長が死んだからか。
で、Kは何を狙《ねら》っとるのか。いや、相撲ではなく本業でだ。ははあん。つまり民営移管だな。しかし再建できるか。おまえはどう思う。無理か。無理だろうな。どうしてもというなら、大分切らなければならんからな。儂? いや駄目だ。儂はその方面には興味ない。
本当は大いにあるが、Kでは駄目だからな。興味ない。Kが死んだら興味を出す。死なんか。死なんだろうな。わはははは。
おっ、もうこんな時間だ。帰る。わかっとる。まかせておけ大丈夫だわかっとる。
次は何だ。L学院大の集会か。LLLと。アドリブでいいわけだな。相手は? そうかそういう奴らか。
ここだな。なるほど立派なホールだ。
はいそれでは何なりと御質問を。ああ、その件ね。それは高校の頃にね、教師が言ったんだよ。いまは関係ないですな。うん。その件はだね。あれはアフリカだろうね。儂はアフリカだと睨《にら》んどる。南米? 南米でもかまわんけど、グアテマラだけは除外しといた方がいい。ホンジュラス? いいでしょうな。
ああ、そういう質問が出ますか。なかなか勉強家だな。有効成分はシロサイビンで、神の肉とも称したはずだよ。規制? うん、それは難しい問題だが。ま、ここ十年間が勝負どころではないかな。少し待てばいいんだよ。
体重? 七十三キロ。家? 家はアビタだったかな。はい。はいはい。はい。おもしろいね。その考え方はユニークだ。すると、トリマラン型でいくわけだね。君の専攻は?
ほほう。門外漢でも立派なものだ。がんばりなさい。儂はカタマランだと考えていたが、トリマランの方がね。なるほど。いやいや。
他に質問は? うん。うんうん。簡単だよ。無水アルコールを使えばいいんだ。ガソホールか。その手もある。いや、ありがとう。
おい、Mは今日はどうしとるか。予定にない? 馬鹿な。LとくればMだ。電話をしろ。ここはサービス・エリア内だろう。
ギリギリか。とにかくかけてみろ。かかったか。貸せ。Mちゃん? ボクでちゅよ。いまそっちにむかってまちゅよ。待っててくだちゃいね。はあい。ばいばい。じゃあねえ。
Mには幾ら渡しとるか。そうか。来月から倍にしてやれ。あいつは苦労しとる。しかも他に目をそらさん。いい奴だ。倍にしてやれ。着いたか。時間はどれくらいあるか。わかった。すぐ戻ってくる。あ、その間にNにも電話をして、行くと伝えろ。首を洗って待っとれとな。いや駄目だ。あれは駄目だ。
はあいMちゃん、来まちたよお。五日もあけてごめんなちゃいねえ。用意はいいでちゅかあ? ハッ、すっとこすっとこ。ドスコイと。おうら、おらおらおら。ヨッ、すっとこすっとこ。すととこすっとこ。ドスコイっと。大丈夫でちゅかあ? じゃあねえ。ボクちゃん忙しいからねえ。また今度ねえ。
Nはおったか。何と言うとった。何、そんなことを。くそったれめが。急げ。あのドアホ。儂にそんなことを言えた義理か。今日という今日は。いや許さん。くそっ。ええい腹の立つ。
やいN! 貴様という奴は。黙れ。黙れ黙れ黙れ。儂の眼は節穴ではないぞ。この野豚提灯フグ米俵石地蔵のドテかぼちゃめが! うるさあい。何だこの。貴様、腕力で。えいくそ。あ、離せ。離さんとこうだぞ。でやあああっ。やい、思い知ったか。こいつめ。こいつめ。こいつめ。くそ、まだ白《しら》を切るか。ええい。この。この。このこのこのお。
次は何だ。Oのオープンか。ふんふん。そうか。そういう美しい物を集めてな。よし、買いまくってやるぞ。しばらく暴れ買いをしとらんからな。欲求不満がたまっておったところだ。何、N? ああ、ドクターに電話して行かせておけ。肋骨《ろつこつ》の二三本は折っとるかもしれん。治療代を出して、それで打ち切りだ。
やあやあやあ。これはまた随分立派な店ができましたな。ほう。ほうほう。ほほう。なるほど。
ようし、買いますぞ。それではまず、このバレクストラ。このガスパリーニ。
こっちのロエベ。それからこのヴァン・クリフ&アペル。いろいろあるなあ。むらむらとしてきますなあ。このブシュロン。このデルバ。ついでにそっちのナチュラル・ファーズ。フレンドリッシュ。それとだな、そのレールデュタン。むこうのあれ。そう、コルム。
くそおっ、歯止めが効かんわい。あんたも儂に招待状などと罪なことを。ジラール・ペルゴー。そのクリストフル。マッピン&ウェッブ。そっちのピュイフォルカ。あ、スチューベンがあるな。そのスチューベン。
ジャガー・ルクルト。S・P・ドレスデン。わああ、これはショーメではないか。このショーメ。ううう、こんちくショーメ。
ああ、スッとした。や、いずれまた。
次はどこへ行けばいいのだ。ん? Pか。
Pの見舞か。Pの見舞な……で、はっきり言ってあいつはどうなのだ。ふうむ、そうか。気の毒になあ。あいつはまだやりたいことがいろいろあるはずなのだが。どうもこの。いや。とにかく気の毒としか言いようがない。望みの大なるを知るがゆえに……だな。
失礼いたします。P君は……あっ。P!
P! おまえとうとう……うおおおおお。
P、こんなことになるのならあのとき。わあああああ。うわあああああ。おまえの言っとった改造案を儂がかわって。うわあああああ。おおおおん。うおおおおお。どうして死んだあ。どうして、どうして、どうして死んじゃったんだよお。あああああ。あああああ。
ん、ん、ん。わかっとる。わかっとるよ。
Qダムの視察だろう。わかっとるよ。ぐっぐっぐっ。失礼。いま少しだけ泣かせてください。 うわあああああ――
うおおおおおお――
まことに何ともはや。はい。はいはい。わかりました。それでは私が委員長に。はい。
仕事がありますので、いまはこれで……
Qか。Qへは何で行く。飛行機かヘリコか。そうかヘリコか。ああ、あそこの庭にな。
や、すまん。待たせたか。そうか。では飛んでくれ。しかし何だな、Pのことでどうも気が沈みそうでいかんな。仕方がない、薬をくれ。二錠か。三錠くれ。かまわん。
儂の強心臓は折紙つきだ。三錠が四錠でもびくともせん。よし。よこせ。
Qにはいつ着くのか。そんなにかかるのか。
それでは、その間に次の件を片づけるぞ。
Rの介入はどうなっとる。ふん。ふんふん。何を心配しとるのかRくらいで。大丈夫だ。まかせておけ。三百億? 馬鹿な。その倍の六百億だして、相手の頬《ほお》をひっぱたいてやれ。算段はどうでもつく。儂だ。儂が口をきくのだ。算段のつかんわけがない。千億でも集めてやる。何だと。薬のせい? はっ、それは並の人間だ。儂にはあれはビタミン剤くらいにしか効かん。元気がでればそれでいいんだ。中毒性? 儂の意志の力を知らんか。
Rの件、即決だ。無電を打て。現ナマで決済する。条件は抵当権の放棄と儂の取締役就任だ。イエスかノーか。Qに着くまでに決めて、そこへ宛てて電話をよこせと言え。無電で知らせろ。いますぐにだ。その件終り。
S計画のネックは何だ。財団と総研とのトラブル? それはわかっとる。そのトラブルの根本は何だと聞いとる。試験使用の時期。
それがどうして。そうかその方面とのかねあいな。カルテックスだな。アメックスは関係ない。それは銀行だ。わかった。S計画は一時中止だ。かまわん。中止にして、連中の出方を見るのだ。そうしておいて。
お、Qだな。よし着いた。御苦労。
んどにまあ立派なのがでぎで儂も喜んどるでよ。んずよ。でっごいちゃあ世界一でよ。
わあっはっはっ。儂がはでえじょぶだどもが、ぐろがみげえのごとがまさあがよ、だおれればえれごとべしでて、わぎわぎいうどるでっで。儂がはぐうじんざあのどんどろざあでも、いっべし、だっからべくべな。ま、そげがどこだべしや。わはははははは。いやあ、懐がしやら嬉しやら、ぐるぐるばいとるげな。まあま、どっぢもどっぢがな。わはははははは。よみべしで。わはははは。
さあ戻るぞ。Rの件、電話はあったか。あったか。OKか。よし。それなら次はT作戦だな。Tはいまどの段階だ。78か79か。ほう、83まで進んどるのか。やるな、奴らも。
Tが85まで進めば安心だ。あの地区にはチタンがあるからな。チタンを取れば。侵略?
心配せんでもいい。クーデターが起きることになっとる。腹が減ったな。何かないか。
救急レーションの箱。それでもいい。よこせ。とにかく奴らがTの84に達した時点で。
ほう、これは七面鳥だな。フルーツ・カクテル。キャンデーにガムか。84で発火だ。戻ったら、Tの件でテレックスを打っておいてくれ。そうだ。アルカンだ。
Uはどうするか。あのUなる女史は天狗《てんぐ》だからな。恥をかかせるのが一番いい。公衆の面前でヒマシ油でも飲ませるか。ビチビチうんちで権威は失墜だ。ぐはははは。
さあ着いたぞ。あと何と何が残っとるか。
そうか。よし行くぞ。Vの祝賀会だな。元気に飛び込めばいいんだな。そおれえい!
何だ何だ大勝利だったじゃないか。え、人が悪いな君も。儂を心配させるだけさせといて。いや、とにかくおめでとう。諸君おめでとう。お、儂も胴上げを。ありがたい。嬉しい。さあ、やってくれ。うわああい。勝った勝ったあ大勝利。VだよVだよ大勝利! どんどん飲もうぜ。どんどん食おうぜ。んぐんぐんぐ。んぐ。むしゃむしゃむしゃ。んぐ。
いやあ愉快だ愉快だ。万々歳だあ!
イベントWか。一回だけだな。暴れればいいんだな。タイツを貸せ。よし、やるぞォ。そおれえ、特別出場だあ。ええい、バック・ドロップだ。どしんばたん。ギュウ。痛い。わあ。これはどうだ、ヤシの実割りだ。人間風車だ。メガトン水爆だあ。うっ、レフェリー、チョークだチョークだ。チョークじゃないかよ。
ああ腹が減った汗かいた。シャワーだ。シャワーを浴びるから、飯持ってこい。
で、次はXの勉強会か。ふむ。小噺《こばなし》でもやるか。羽織を貸せ。客の入りはどうだ。結構。Xも新人賞を取ってから、人気が出て来たな。エエ、皆様方、Xは必ず伸びる男ですから、どうぞごひいきに。私が御祝儀に小噺をひとつ。私がこの男に、皆様方への御挨拶《ごあいさつ》を命じるという、ごく短いやつで。X、礼!
さて、Yが来て待っとるだろう。戻ろう。
すっとばせ。早くしろ。まだか。よし。
Y。どうしとったか。元気か。それはよかった。ふんふんふん。ふんふんふん。そうか稼いどるのか。飯を一緒に食わんか。よし、そうしよう。あと十分だけ待っとってくれ。十分だけ待っとってくれたら、その後は徹夜でつきあうぞ。サウナに入って、飯を食って、それからくり出そう。おお、いいとも。儂も抜か六と言われた男だ。今夜はひとつ、ワーッとな。ただし、明日の朝は五時に解放してくれよ。六時に空港へ行かんとならんからな。何。いや。マダガスカルへ飛ぶんだ。
十分間、十分間だけな。すまん。
ZZZZZ……
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出入星管理事務所
「つまり、誰が何をしたというんだよ」
受付開始時刻が近づいたので、控室から出てトンネル通路をぬけ、全面透明プラスチック張りのドームに入って、俺はふりむいた。
[#2字下げ]ここからは、演劇の舞台を想像してお読みください――
「誰というのは、その者の名前のことですか。何というのは、それは何の何ですか」
数歩遅れてチョコチョコとついてきたキンクが立ちどまり、あいかわらずのきんきら声で問い返して、左手で右の耳を押さえた。
「いやあ、困ったなあ」
そのまま首を右に倒し、考え込んでいる。
「ちぇっ」
俺は舌うちをし、キンクが次に何かを言うまでただ待つのは、たとえ一分間といえども|いらいら《ヽヽヽヽ》の元だから、受付カウンターに入って出入星記録機器の点検を始めた。
ドームの外には赤ちゃけて穴ぼこだらけのこの衛星の大地がひろがり、さらにそのむこうの黒いビロード空間には星くずが散って、左半分だけをぼんやりとひからせた巨大な惑星がうかんでいる。俺の眼でいえば、それは右から左へとゆっくりと移動していくのであり、無論《むろん》科学的事実としては、こちらの星があちらの星のまわりをゆるゆると、音もなくまわっているのである。両者間の距離は平均約七十万キロ。
俺は歓楽惑星チャンドウムの衛星上につくられた宇宙空港の出入星管理官、もう少し詳しくいうなら、星間連絡船出入管理共同機構の数少ない地球人職員の一人なのである。
「あのですね、名前はわからないのですよ」
そして、ようやく口をひらいたキンクは、キンケニア7番惑星から来ている同僚職員であり、身長は俺の半分ほどで横幅は二倍ほど、質疑応答にいやに時間のかかる思考遅速人間なのだ。
「バーストが入って電波が乱れたから、名前の部分も聞こえなかった。だから、それもまたわからないのですよ」
「それじゃ、何か」
点検の手を止め、俺はキンクを睨《にら》みつけた。
「宇宙警察機構から犯罪者拘束要請が入ったが、それが今日現われることは確かでこの星であることも間違いないけれど、出る奴か入る奴かわからず、星籍もわからず名前もわからず、そればかりか身体の特徴もわからない。おまけに何をした奴なのかもどうやらわからず、かつ、電波障害がつづいているから再照会することもできないという、そういうことをおまえは俺に言っているわけなのか」
「あの、そう一度に言われると理解に時間がかかりそうだけど、そういうことになりますか」
「なるじゃないか、さっきから順に聞いたことをまとめれば。つまり、逆からいえば、そいつの顔だけはどんな顔であるかわかっているから、それを頼りに拘束してくれと、こう言っているのだろう、おまえは」
「ううむ」
キンクはうなり、両手の平をあわせて胸の前で二三度左右に倒してから声をあげた。
「そうですそうです、そのとおりです」
そして手をひろげ、一歩前に出て得意そうに言った。
「そいつの顔には、大きな丸い眼がふたつあり鼻がひとつあり、耳はピンと立っていて、そして口がラッパのように突き出ているという、あきらかなる特徴があるのですよ」
「何があきらかなる特徴だ」
そんなの珍しくも何ともない顔じゃないか。吐き捨てるように言ったとき、ドームの外に銀色が見え、玉子の形をした宇宙船が降りてきた。トンネル通路のむこうにある出星者待合ドームからもそれは見えたらしく、搭乗予定者達のざわめきが聞こえてくる。
「さあ、とにかくゲートをあけるとするか」
「あの」
俺のつぶやきに、キンクが言った。
「今日はいつもとは反対に、出星者のチェックを先にしてはいかがでしょうか」
「なぜだ」
「なぜって、昨日私がそこに立ってチェックをしたら、つまりその、時間がかかって……」
また|積み残し《ヽヽヽヽ》をやりやがったな。宇宙船の運行は、時間にうるさいパクチラ4番惑星人がやっていることを忘れたのか。
俺はもう一度舌うちをし、出星者待合ドームに通じているボタンを押した。
受付開始を知らせるチャイムがむこうで鳴り、ついで、トンネル通路をこちらに近づいてくる大勢の足音が聞こえてくる。
「おい、よく見てろよ出星者の顔を」
命令すると、キンクはがくがくと首をふり、そして復誦《ふくしよう》を始めた。
「眼がふたつあり、鼻がひとつで耳はピンと立っていて……」
「ええ、恐れいります、私を先に」
ピンク・イエロー・オレンジ・グリーン・スカイブルー。色とりどりの出星者がどやどやとドームの入口に現われ、そのなかの一人が演説口調の声をあげた。
「私を先に通していただきませんと、ゲートがふさがってしまう恐れがありますので。ええ、何とかひとつ、私を先に」
見るとパフ色の肌をしたプロセテ星人が、第一身だけ人より先に出て、大きな耳をぱたぱたさせ、犯人ではありえない穴ぼこ型の口を縦長にして、俺に願っているのだった。
「私を先に、いつものように……」
「やれやれ、またあんたか」
俺は肩をすくめ、仕方がないこっちへ来いと手で合図をした。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
口をまん丸にあけて礼を言い、彼が|ぞろぞろ《ヽヽヽヽ》と進み出る。さきほど大勢の足音と聞こえたのは耳の錯覚で、実はこいつの足音だったのだ。
「今日はどれくらいの長さなんだ」
「さあて、それは私にもはっきりとは」
第一身が首をかしげるのも無理からぬことで、このプロセテ星人は、雌雄連結人間なのである。男体は眼や耳や鼻を持ち、女体はそれら一切を持たずただレモンの形をした胴体に足が二本ついているだけ。その胴体の前後に吸着器官があって、他の男または女にぺたりとくっつき、栄養分をやったり取ったりして生きている不完全個体なのだ。
したがって、第一身は必ず男であり、以下どれだけの女がつづくかは場合場合によって異なるが、男プラス女達で動くこともあり、男プラス女達プラス男で生きていることもある。
とにかく、ひとつなぎになっていればそれをもって一人と認めざるをえない、生物学的にいえば雌雄同体の生き物なのである。
以前は男体女体のひとつずつを一人と判断していたのだが、本当に分割すればどちらもその活動力を急激に低下させてしまうので、一連一人とみなすことになった。
男体一女体一でも一人。男体一女体二十三でも一人。その二人が合体して男体一女体二十四男体一になっても、やはり一人なのである。
「あんた、こないだ入ってきたときには、男一の女十四だったな」
記録器でデータを出して聞くと、移動好きの相手はこたえた。
「はい。でも、滞在中にかなりくっつきましたから、さあて、いまはどれくらいになっているか」
「最後に男はついているのか」
「確か、ついていたような」
「それはやっかいだな」
データ・ファイルに連結数訂正信号を入れ、俺はため息をついた。
「となると、一応そいつの入星記録とあんたの物とを、一緒にして出星処理をしなければならないからな」
「どうもいつも恐れいります」
「まあ、それはあとでやるさ。ここで処理したら、時間がかかって仕方がない」
俺はボタンを押してゲートの背後にある貨物用の扉をあけ、プロセテ星人に言った。
「さあ、他の者の邪魔にならないように、そっちから出てくれ」
「ありがとうございます」
第一身は耳をぱたつかせ、眼をくるくるとまわして歩き出した。それにつづいて、連結胴体もぞろぞろと進み始める。伸びあがって見ると、パフ色の帯はトンネル通路から待合ドームにまでつながっており、滞在中にどれほどくっつけたのか見当もつかない。
「まあ、止まらずにがんばって進んでくれ」
俺は言いおき、次の出星者を呼んだ。
「お願いいたします」
「チキパ星人です」
ピンクの体毛をふさふさと揺らせて、デブ猫のような二人が前に立つ。そのまわりには、まだ白いチビが七人である。
「ええっと、チキパチキパと……」
データを照合し、二人の姿形を確認して、俺は思わず声をあげた。
「おい、おかしいじゃないか」
「あ、犯人ですか」
プロセテ星人の行進を感心したように見つめていたキンクが飛びあがり、チキパの二人に駆けよって、じろじろとその顔を見つめた。
「あ、眼がふたつある。鼻がひとつある。耳もピンと立っている。犯人だ犯人だ」
「馬鹿、口をよく見ろ、口を」
「あ、ラッパじゃない。こら犯人、口を整形したな。こら、犯人二人……」
そこまで言って勘違いに気づき、うなだれてキンクはひきさがった。
「どうもすみません……」
「あの、何がおかしいのですか」
チキパの一人が聞く。データによれば、チキパ貿易省三等書記官のパレチキパ男爵である。
「何がって男爵、あなたは入星のときは一人の申告でしたでしょう。それから、そちらの、ええ、と、ピリチキパ嬢、あなたも単独入星だった。しかるに、男爵は入星後三宇宙日、ピリチキパ嬢は二宇宙日しかたっていない今日において、合計九人の出星申告とは、これはいったい何たる早技何たる絶倫」
「いやあ、あっはっはっは」
男爵は口をぐにゃりと曲げてからカッとひらいて笑い、手で腹をさすって言った。
「いいではないですか。こういうことはよくあることだ。いや、御苦労さまです」
「御苦労さまじゃありませんよ」
俺は記録器をぺたぺたと叩いて泣声を出した。
「入星時の申告によると、あなた方は二人とも不活性期証明を持っていて、だからこその出張であり、だからこその旅行許可証だったのでしょう。それを何ですか。こういうことをしてもらうと、チキパ星人口抑制条約違反の罪がうまれ、そのとばっちりがこちらに来るではありませんか。不活性期証明があればこそ、当方は滞在者短期避妊処置を省略して入星させたんですよ。本当は、チキパ星人に対しては、いくら証明があっても処置は施す規則になっているんだ。それを男爵、あなただからというので好意で省略したのに……」
[#2字下げ]このあたり、舞台では延々と規則の説明がつづくのですが――
「そうですそうです」
キンクが進み出てピリチキパ嬢を見あげ、金切声を出した。
「私だって、あなたがお土産にチキパ金貨三枚をくれたからこそ、あれを省略」
言いかけてあわてて口を押さえ、ひきさがった。
「どうもすみません……」
金品を貰《もら》うことは、かたく禁じられているのである。
「ま、ま、何かと御不満はあろうけれどもですね。ひとつ今回は」
「ええ、お願いいたしますわ。私達の間に芽ばえ、急速に育ち、そして激しく燃えあがった愛に免じて」
チキパの二人は交互に言い、手をとりあって声をそろえた。
『この七人の愛の結晶に免じて』
「おお、いとしきピリチキパよ」
「ああ、たくましき男爵さま」
見つめあい、また声をそろえた。
『両方にヒゲのあるなり猫の恋』
「あのですね」
馬鹿馬鹿しくなって、俺は聞いた。
「それで、あなた方は結婚なさるんですか」
『えっ』
同時に顔をのけぞらせて、二人は聞き返した。
『結婚て何です?』
[#2字下げ]結婚というのはですねから始まり、あれこれ問答がつづくのですが――
「……どうぞ」
手で合図をし、俺はため息をついた。
「どうぞお通りください。業務を停滞させるわけにはいきません」
彼らに結婚の何たるかを説明しようと思えば、少なく見つもっても八十宇宙日が必要なのである。人口抑制条約違反。ええ、ええ、そのとばっちりを受けた方がまだましですよ。
母星に戻ればバラバラに生きていく九人を通し、俺は仕事を進めた。
「次の方どうぞ」
「お願いしますわ」
スカイブルーの肌を大胆に見せつけ、フレミド星人が申告に立つ。
「フレミド・パッチョロリーナです」
「はいはい。ええっと、フレミド・パッチョロリーナと……」
データをチェックし、俺はまたもや声をあげた。声のあげづめである。
「おかしいじゃないですか」
「あ、犯人ですか犯人ですか」
連結胴体のひとつをくすぐろうとして蹴とばされたキンクが、あわてて駆けよってきた。
「あ、眼がふたつある。鼻もひとつだ。口もラッパ状だ。あ、こいつこそ犯人だ犯人だ」
「よく見ろ、耳を」
「ああ、耳は穴があいてるだけか。おまけに、眼は複眼だ。何だ、犯人じゃないな」
「どうもすみません」
パッチョロリーナに言われ、ガクッと片膝《かたひざ》を落としてよろめいている。
「私、入星のときにはフレミド・パッチョロールで申告しているはずですわ」
「そうですそうです、それがおかしいんです」
パッチョロリーナの申訳なさそうな声に、俺は記録器を指さしておかしい点を並べたてた。
「おまけにあなたは、入星時には肌はインディゴ・ブルーで、身体ももっと大きかった。しかも、その、失礼ながら、腰のあたりに鉤《かぎ》状突起さえあったではありませんか」
「うっうっうっ」
パッチョロリーナは顔を両手で覆《おお》い、身もだえして叫んだ。
「ああ、やめてください。インディゴ・ブルーの肌で大きな身体で、おまけに腰に鉤状の突起だなんて。いや、やめて、言わないで」
あえいで、身体をくねらせている。
「私、せっかく滞在中に前期人生が終って、あこがれの、待ちに待った、美しくも気高く誇り高い後期人生に入ったというのに。やっとやっと、ようやくようやく、女になれたというのに。そんな不様な醜い、いやらしくもきたない、臭く脂《あぶら》ぎったスカタンな男の特徴を並べたてるなんて。ひどいひどいひどい」
「後日データ一切を改正のこと」
肩を落としてつぶやき、俺はパッチョロリーナに言った。
「失礼いたしました。フレミド星人の雌雄転換人生を忘れておりました。どうぞ」
「ありがとう。あン」
途端に彼女はすっと背を立てて|※[#「月+咢」]《あご》をそらし、片方の複眼をぴかりとひからせて、ツンツンとゲートを抜けていった。
「次の方、どうぞ」
俺は仕事を進める。
「よろしくお願いします」
背中の、白に赤い水玉模様の入った羽根をふわりふわりと動かして立ったのは、プルプロン星人だった。腰のくびれたイエローの胴体、足は細く手も細く、顔はウサギ型である。
「ええっと、プルプロン星人のあなたは……」
データを調べ、みたび声をあげかけて、俺はキンクがじろじろと相手を見つめているので、平静をたもつべく一度大きく深呼吸をしてから言った。
「あのですね、あなたの入星記録という物が見あたらないのですがね」
「眼がふたつだ。ふたつとも大きくて丸い。おまけに鼻があって、耳がピンと立っている」
キンクが叫んだ。
「しかも入星記録が見あたらないなんて。わあ、犯人だ犯人だ犯人だ」
猛烈な速度であたりを駆けまわり、大声をあげている。
「見つけた犯人だ犯人見つけたとうとう見つけた」
「何ですか、失礼な」
プルプロン星人が羽根を立て、口をとがらせて抗議をした。
「私が何をしたというのです」
とがった口がぐっと伸び、先端がぱっくりとひらいてラッパの形になる。
「あ、ああ、あああっ」
キンクが腰をぬかしてぺたんと床に尻をつけ、指さしてあえぎだした。
「こここ、こいつの、くくくく、くち……」
俺もさすがに緊張し、すばやくボタンを押してゲートを閉めてから、プルプロン星人にいささか切口上で質問した。
「あなたはどなたですか。まず、名前をおっしゃってください」
「名前ですか」
相手は口を元に戻し、羽根をふわりと一回動かしてから、誇らしげにこたえた。
「私、プルエルプロンです。入星の届けにはジニエルベノンと記録していましたが、おかげさまで滞在中にプルプロン星人になれましたので、改名をいたしましたの」
「えっ」
俺は眼を見ひらき、あわてて記録器のボタンをパチパチパチと押した。
「そ、それでは、身体は濃いグリーンで葉巻型で、脚が十六|対《つい》あってもぞもぞのたのたうにうにと歩いていた、頭の先っちょと胴体の各所にはオレンジ色の斑点のあった、あのジニベノン星から来たジニエルベノンさんが、あなただというのですか」
「そうです。変態を遂げましたので、星籍も名前も変えましたの」
「しかし、データによればジニベノン星は一面のニンジン畑、いや失礼、ニンジン人間の住む星だと。だから私は、あなたもニンジンの一変種かと思っていたのに」
「まあ、古いデータをお使いだこと」
プルエルプロンは口をすぼめてほほほと笑い、いまはあの星も私達プルプロン星の植民地、上流家庭の子供は、まずあの星に里子に出されて育ちますのよと、得意そうに耳を動かした。
「だけど犯人だ。けれども犯人だ」
キンクがようやく立ちあがり、指をつきつけて詰め寄った。
「眼も耳も口も鼻も、すべて犯人的だ」
「おあいにくさま」
彼女は片手で自分の鼻をつまみ、ぐいとねじって、それを取りはずした。
「くぉのふわなはつくぅりむおのれすぅよ」
「犯人じゃないよ、キンク」
ゲートをあけて、俺はうなずいた。
「プルプロンの人には鼻はないんだ。鼻みたいに見えるそれは、身分を示す飾りなんだ」
どうぞと身ぶりで示し、馬鹿馬鹿しくなって、俺はやけ声をはりあげた。
「出星の方、もうおられませんかあ。おられなければ、これで〆切りますよお」
プルエルプロンが出ていき、背後の貨物扉では、まだプロセテ星人の行進がつづいている。
「ええ、お願いをいたします」
出星者の受付を〆切り、入星者待合ドームのチャイムを鳴らすと、いままでとは逆の方向から、実に派手な奴がやってきた。
「私はペチョネムラ星人です」
身体がどぎついイエロー・オレンジで頭がけばけばしい紫で、髪はピンクの放射状直毛群。おねおねやわやわと動く数十本の触手などは、これすべて色が異なっているのである。
華やかといえば華やかだが、下品で強烈、おまけに触手の先はネバネバの透明液でひかっており、その液が猛烈に臭いのだ。
[#2字下げ]このとき場内には、本当に臭気がただよっているのです――
「お、おい、キンク」
俺は顔をしかめてささやいた。
「まさか、こいつが犯人じゃないだろうな」
「ううむ、待ってくださいよ」
キンクはゲートのこっち側から恐る恐る相手を観察し、両手を腰のあたりでひらひらさせてドームの天井を見つめた。
「眼が小さい。鼻もあるかないかわからない。口も小さな穴だけで、耳はない」
ぴょんと飛びあがって断定した。
「違います違います。犯人ではありません」
「そんなことは、ひとめ見ればわかる」
俺は顔をしかめたまま言った。
「もしこいつが犯人だとしても、俺はこういう奴はとてもつかまえることができないという、そういう意味で言っただけだ」
「何ですか何ですか」
ペチョネムラ星人がぐいと近寄ってきた。
「あなたはこの私を馬鹿になさるのか。この私の姿形、色、そしてこの香りを軽蔑されるというのか」
『香り?』
俺とキンクは同時に声をあげ、相手は触手をゆさゆさと揺らせて演説を始めた。
「そうだ、香りなのだ。我がペチョネムラ星人にとって最高の価値をもつ、これは聖なる香りなのだ。それをくさいだの何だのと顔をしかめる者は、私を馬鹿にし我がペチョネムラ星人を馬鹿にし、ひいては植物系宇宙人全体をも馬鹿にする、かの宇宙相互平等門綱目科属種均等機会条約の精神を踏みにじる、下劣な犯罪者なのだ。私、ペチョネムラ捕虫軍下士官大将ペチョペチョデンネンは、ここにおいて植物系宇宙人を代表し……」
[#2字下げ]このあたり、弁舌さわやか、立板に水ですが――
「おい、あれを持ってこい」
「え、何ですか」
演説がつづくので、俺はキンクに合図をし、手で円筒形を示した。
「ほら、植物系宇宙人用休憩装置」
「ああ、はいはい、わかりました」
キンクは控室へと走りさり、大きな容器をかかえて、ふうふう言いながら戻ってくる。
「はい、持ってきました。植木鉢」
「馬鹿、その名前を言っちゃいかん。差別用語だと指弾されて、俺達が吊るしあげを食うじゃないか」
「何、差別用語?」
演説を中断してこちらを睨んだので、俺はあわてて言ってやった。
「どうぞ、どうぞお通りください。そして、あれにてしばしの御休息を」
「ん? おお。おお、おお」
ペチョペチョデンネンは装置を見つけて触手をぱっとひらき、ゲートを通過していそいそと装置に足を入れた。直立し、安堵のため息をついている。
「ああ、なぜとなく、こうしていると心が安まるのだなあ」
そのまま、触手を閉じて眠ってしまった。
植物系には植木鉢、地球人には鉄の檻《おり》。もめかけたときには、これを出すのが一番なのだ。勿論、地球人は百人中九十九人までが檻の中に入って鉄柵を握り、ゆさぶってニヤアッと笑うからである。
「次の方、どうぞ」
ほっと息をついて、俺は仕事に戻った。
「よろしく願います。私はカクラカクリ星人です」
出てきたのは、大きな岩のような奴だった。灰色と薄紫の混じった色をし、そこから同色の手と足が、ギクシャクとそれぞれ十二本ずつ伸びている。手はまだいいが、足のうちの四本は、後むきになったり横むきになったりしているのである。
「カクラカクリ星のハギカクリ一族です」
「一族ですって」
「そうなのです。私達は一族であの星この星を旅行しているのです。けれども、もし手続きがややこしくなるのなら、いま喋《しやべ》っているこの私、ハギカクリモモ一人として登録していただいても結構ですよ」
「どうも、おっしゃっておられることの意味がよくわかりませんが」
俺が腕組みをして首をかしげると、どこに眼や鼻や口があるのか見当もつかないごつごつとした相手は、ため息のつもりかゴーッと音をたて、声を落としてこたえた。
「ああ、あちこちの星と同じく、この星においても、我われ鉱物系宇宙人はまだよく知られてはいないのですねえ」
「鉱物系宇宙人!」
キンクが嬉《うれ》しそうに飛びあがり、俺に言い残してばたばたと控室へ走っていった。
「心配御無用。必ず喜んでもらえる歓迎用具を捜してきます」
「つまり我われは」
ハギカクリ一族を代表して、ハギカクリモモの声が言った。
「一にして多、多にして一なのですよ。こういう具合にね」
べりばり。べりばりぼりばり。べり。
途端に音が響いて相手はふたつに割れ、足七本と五本の二個体となった。そしてさらに音がつづいて、四と三と五。四と三と二と三。二と二と一と二と、一と一と一と二。遂には一と一と一と一と……で、十二人の小岩石人間にわかれてしまった。
「なるほど、そういう事情でしたか」
俺は納得し、うなずきかけた。
「ならば皆さん、もう一度結集してもらって、個人として入ってもらっても結構ですよ。識別データは、足の数で入れておくから」
「ありがたい。そうしてもらえると、面倒がなくていい」
ハギカクリモモが喜び、他の十一人も身体をすりあわせてギシギシと喜び、彼らはゲートを入ってふたたび大岩石に戻りかけた。
「ありましたありました、歓迎用具」
だがそのとき、キンクがどこで見つけたのか大きな玄能《げんのう》を持って走り込んで来、いきなり一人の身体をそいつで直撃したのだった。
ゴン!
鈍い音が響いて彼はこなごなになり、残りの小岩石人達はごろごろと逃げまわる。
[#2字下げ]舞台上、本当にこなごなになり、客席からは悲鳴さえあがります――
「な、な、何たることを」
ハギカクリモモは叫び、キンクはまだ玄能をふりかざして次を狙《ねら》い、俺が飛び出して必死に押さえ、大騒動である。
「何ということをするんだ。これが元で惑星間戦争でも起きたらどうする」
「だって私は、植物に植木鉢なら岩には玄能だろうと。歓迎の意を」
「我われハギカクリ一族は、このことを決して忘れませんぞ。いきなり、何の理由もなく、小石にされてしまった私の息子。ああ、その無念さたるや、いかばかりであろうか」
「どうぞどうぞ。どうぞ、とにかくお通りください。この始末は後日あらためて」
俺はハギカクリモモに平身低頭して頼み込み、キンクからは玄能を取りあげ、ようやくその場を収めたのだった。
[#2字下げ]本当は、甲論|乙駁《おつばく》、キンクの行為は異人種迫害第一級犯罪にあたることを認めさせられるのです――
「あああ、早く地球へ帰りたいよ」
泣声をあげ、仕方なく俺は仕事を進める。
「次の方、どうぞ」
「お願いいたします」
やってきたのは、声が頼りなく、身体もはっきりとはしない奴だった。
「私、フワガ星人のフワガフワガスです」
薄青い色をした雲形人間なのである。
「なあ、キンク」
俺は、さきほどの騒ぎなど早くも忘れたらしく、行進中のプロセテ星人にまたちょっかいを出しているキンクに言った。
「入星者もどうやらこの人で終りらしいが、このフワガフワガスさんには、眼も鼻も口も、ぼんやりとした物しかついてはいない。犯人はどうやらいなかったようだなあ」
「えっ、犯人?」
キンクは戻ってきて聞き返し、そして両手を頭のてっぺんにあてて言った。
「ああ、犯人。はいはいはい。そうですねえ。見あたりませんねえ」
ゲート越しにフワガフワガスを観察し、天井を仰いでキンキン声を一層高くした。
「おかしいなあ。この人も違うし、どうなっているのかなあ……」
「ええっと、フワガフワガスさん」
俺は記録器にデータを入れ、雲形人間に声をかけた。
「特に問題はありませんから、どうぞお通りください」
「は、はあ」
相手は困ったようにこたえた。
「そうおっしゃられても、あちらの方が前へ進む、その風圧で進みにくくて。ここまで来るのもやっとであったわけでして」
「え、あの連結胴体の進む風圧で?」
「わあ、それはおもしろい。あはははは」
キンクが飛びあがって笑い、それがまた風を起こして、フワガフワガスは床から浮かびあがりスーッと後退して行った。
「ひゃあ、そんな意地悪をしなくても」
声が遠ざかり、しばらくしてから、また頼りなく姿を現わす。
「わかりましたわかりました」
俺は口を手で押さえて笑いをこらえ、もう一方の手をのばしてプロセテ星人の連結胴体を軽く叩いた。
「おい、しばらく待ってやってくれ」
声は聞こえないが合図の意味を了解したのか、行進がぴたりと止まる。
「さあ、いまの間に」
「ありがとうございます、ありがとうございます」
フワガフワガスはゲートの上を通り、キンクの身体をつつみ込み、そしてそのまま通過していった。キンクは気味が悪かったのか、眼をぐるぐるまわして、首を九十度に傾けている。
「さあ、となるとだよ、キンク」
ゲートを閉め、まだ貨物扉から出星をつづけているプロセテ星人を指さして、俺は言った。
「犯人が見つかるか見つからないかは、この胴体の最後尾が現われたときにはっきりすると、こういうことになるな」
「ううむ」
キンクは右手を斜め上にあげ、左手を激しくふって考えたのち、大きくこたえた。
「そうですそうです、そのとおりです」
「じゃあ、仕方がない。待つとしようじゃないか。最後の男がラッパ状の口を持っているかどうか」
「ううむ」
「待てばそのうちわかるし、待つしか仕方がないんだからな」
「ううむ」
うなるだけうなり、キンクは言った。
「でも、待たなくても、こっちから最後尾を見にいけばいいのではありませんか?」
「じゃあ、おまえ見てこい」
俺はトンネル通路の方を|※[#「月+咢」]《あご》で示した。
「ここから見えているが、胴体はトンネル通路から待合ドームにつながり、そのもひとつむこうの空港ゲートから出て、はるか彼方までつづいているんだぞ」
キンクは駆け寄ってきてゲートによじのぼり、遠くを眺めてから、ゆっくりと降りてつぶやいた。
「待ちましょう」
「それにしても……」
俺はふりむいてドームの外を見、宙空に浮かぶ惑星を示して言った。
「どれほど待てばいいのかなあ。チャンドウムは、もう中央にまで来ているというのに」
右手に見えていたそれが、いまはすでに真中にまで移動してきているのである。
「そうですねえ」
キンクがこたえた。
「どれくらいでしょうかねえ……」
[#2字下げ]ここで舞台はゆっくりと暗くなり,そのうち二人のいびきが聞こえてきます。勿論、継続している足音をバックにして……
「ふわあああ」
「ああ、眠ってしまってたんですねえ」
[#2字下げ]そして、明るくなり――
「見ろよ、キンク。チャンドウムが左に移ってしまっている」
「いやあ、本当ですね。もうそろそろ、宇宙船の出発する時刻ですよ」
だが、プロセテ星人の行進は、まだつづいているのだった。まったく同じ形をした連結胴体が、単調な足どりで、止まることなく休むことなく、進みつづけているのである。
「なあ、キンク」
俺は聞いた。
「で、その犯人というのは、いったい何をしたんだい」
「さあ……」
「どこの誰なんだ」
「さあて、何しろバーストで電波が……」
彼は床に坐り込み、つぶやいた。
「顔の特徴しかわからないのですよ」
「うん」
俺もその横にいき、腰をおろす。
「それにしても、いつまで待てばいいのか」
「いつまでですかねえ」
その背後で、行進はなおもつづいているのである。ただもう、次から次へと胴体が通過するばかりなのである。
[#2字下げ]一定人数がつながって輪になり、舞台裏を通って下手から上手へ……ですから当然です。そして、あたりが徐々に暗くなり――
「なあ、キンク」
「はい」
「もう、あきらめようか」
「そうですねえ……」
俺達は、遂に根負けしたのである。
[#2字下げ]突然スポット・ライトが一条伸び、場内は大爆笑です――
立ちあがって、俺は言った。
「どこかで笑い声がするけど、何なのかねえ」
坐ったまま、キンクがこたえた。
「さあて、何ですかねえ……」
[#改ページ]
雪のなかの四季
冬の平野を走る列車のなかで、窓に頭をもたせかけて、渡辺は考えている。
……世の中に出て、もうすぐ十年目が終ろうとしている。自分では脇目もふらずに働いてきたつもりなのだけれど、上司から小言をくう回数はいっこうに少なくならない。
「君ねえ、あと一カ月もすれば新入社員の研修が始まるんだよ。君も卒業前の三月には、それを受けた覚えがあるだろう。なのに、なぜ十年たったいまでも、同じようなことを注意されなきゃならんのだい。え」
「………」
俺は唇を噛《か》んでうつむき、声に出して言ってしまいたいことを心のなかで並べたてる。
なぜだか僕にもわかりません。一生懸命にやってはいるのです。ああ、この仕事はこの点に注意しなければ。あのお得意さんには、こういう面に気を配らなければ。精一杯考えて動いているのです。でも、なぜか、失敗をしてしまう。どういうわけか、状況が悪い方へ悪い方へと進んでいってしまう。僕自身にも、どうしていいのかわからないのです。
「ああ、渡辺の秀《しゆう》スケかい」
同僚が噂しあっているであろう声が聞こえてくる。
「あいつはまあ、ぼんやりしているというかボケているというのか、何しろずれているんだよな」
「がんばればがんばるほど、おかしな方向へ行ってしまうらしい。ひょっとして、仕事がむいてないんじゃないのか」
「なに、本人の自覚の問題さ」
本人の自覚? 何をどう自覚しろというのだろう。研修を終えて入社し、工場に二年地方支店に二年、そして本社に今年で丸六年。
製造管理・営業・納入計画と、俺は会社が命ずるままに動き、要求するままの役割を果たそうとしてきた。現在も、香椎特機社員としての立場をわきまえ、産業機械部品全般の知識を吸収しようとし、やる気を持って事にあたっているつもりなのだ。
なのにこれ以上、俺に何をどう自覚しろというのだろう……
「いやあ、私にはそういう仕事のことはよくわからんけれど、別にあなた、身体はどこも悪くはないですよ」
思いあまって先日相談に行くと、医務室の老医師はこう言った。
「まあ、休暇を取って旅行でもしてきたらどうです。旅行はいいですよ。気晴しになるし、あれこれ考えたりもできるし」
そしてその言葉に従って届けを出すと、課長はつぶやいたものだった。
「ふん、正月休みから一カ月で、また休暇か……」
「ふうっ」
渡辺は重くため息をつき、そこで初めて気づいたように顔をあげて、窓の外に眼をやった。空は低く鉛色であり、地は畑もちょっとした森も、こんもりと白い物におおわれている。スッスッと後方に流れる架線柱にも、それはまだらになって付着している。
「雪か……」
ようやく現在《ヽヽ》に戻り、彼は思った。
「やはり、ここに来てしまったな」
ちょっと旅行に出てくるよ。明日の夜には帰ってくる。突然どこへ? 別にどことも決めてはいない。何かあったの? 何もないさ、気晴しだよ。ほんと? 本当だとも……
朝、二年余り前平凡な見合い結婚をした妻との間にこんな会話があり、まだ喋《しやべ》れない息子にはお土産を買ってくるからねと言って、とりあえず家を出た。そのときには本当に行先を決めず、毎朝の出勤と同じ時刻に、服装だけはラフな物にかえて駅へとむかった。
そして東京駅でキャッシュ・カードを使って金を出し、どこで降りるかわからないから「こだま」に乗り、眠り、ビールを飲み、弁当を食べ、また眠った。眠たくはなかったけれど、「あれこれ考え」てしまうのが嫌さに無理に眠った。浅く、断続的に眠った。
そのあと、気がつくと米原で降りており、次に気がつくと北陸線の特急に乗っていた。
さすがに、もはや眠ろうとしても眠れず考えにふけり、ふと我に返れば、列車はすでに彼のうまれた街へと近づいていたのである。
「四時過ぎか」
渡辺はちらりと腕時計を見、網棚にあげたコートを見あげてつぶやいた。
「着いたら、寒いだろうなあ」
それにしてもと、彼は考えた。
やっぱり|ここ《ヽヽ》にとさっき思ったのは、どういうわけだろう。俺は無意識のうちに、ここへ来ようと決めていたのだろうか。
なるほど、あの街で俺はうまれ、幼稚園を終えるまではそこにいた。といって、そこが本籍地であるというわけではなく、父親がたまたま転勤で戦中から戦後にかけて赴任していたという、ただそれだけの土地なのだ。小学校からは東京に戻り、以来今日まで訪れたことはなく、したがって幼《おさな》馴染《なじ》みが待ってくれているという可能性もない。
なのに、そんな街へ、俺はなぜ行こうとし、来てみると|やはり《ヽヽヽ》と思ってしまうのだろうか。人は戦いに敗れると故郷《ふるさと》へ、母親の胸のなかへと戻るというが、俺はひょっとして自分が負け犬だと、無意識層のどこかで自覚してしまっているのだろうか。
母親も東京で死に、本籍地にはいまはマンションが建っており、だから俺は自分にただひとつ残された休息の場へ行こうと、行って傷をいやそうと、そう考えているのだろうか。
「俺は負け犬か?」
渡辺はもう一度思って首をかしげ、いやそうではない、ただ何となく懐かしくて行くだけなのだと自分に言いきかせた。
「とはいえ、やはり……?」
その間にも列車は走りつづけ、彼を思い出の街へと運んでいく――
「人生には四季があるのよ……か。なるほどね」
渡辺がつぶやき、少し足元をふらつかせながら、雪の積もった繁華街を歩いている。時刻は午後の九時少し前であり、普通の商店やオフィス・ビルはとうにシャッターを降ろしているため、人通りとてあまりない。
タイヤにチェーンを巻いた車がコンクリートを噛むように鳴らして往き来し、ネオンがくっきりとひかり、しかしそれ以外は雪につつまれて白い静かな街となっている。
その、鮮明すぎるがためにかえって超現実的に感じられる世界を、何本かの熱燗《あつかん》によって方向感覚を鈍麻させられた男がうろついているのである。
夕方この街に着き、駅前のビジネス・ホテルに部屋をとって、ふらりと外に出た。
雪は降りやんでおり、風もなかったため、寒さが「刺す」ようではなく「包みこむ」ようであったのが嬉しかった。
「まず、何はともあれ酔うことだ」
彼はそう決め、初めて眼についた小料理屋に入ろうと思い、そのとおり実行して気持よく酔ったのだ。
そしてその店で、大学生らしい三人連れと女将《おかみ》との会話が耳に入ってきた。アルバイトで得た金で豪遊《ヽヽ》しているつもりらしい若い男達。彼らはこの先の自分達について何とも楽観的な予想を並べ、すると女将が言ったのである。
「人生には四季があるのよ。あなた方はいまは春。でも、それがずっと続くかしら?」
そうとも、続くわけがない。そのとき渡辺は思い、こう考えた。
人生には春夏秋冬があり、また現実の春夏秋冬も、繰り返しめぐってきて人の一生に一年単位の区切りをつけていく。つまり、俺の言いたいのは、四季のつみかさねでできあがる人の一生を、大きく区切って別の眼で見れば、そこにも四季が現われるのだという……いや、まあそんなことは単なる物の言い方に過ぎないのだけれど……しかし俺はこの四季というもの、春夏秋冬というものが、なぜか突然嬉しくなってきたわけで……
彼は、酔いがまわるにつれてその気持が急速に強くなっていくことを自覚し、ならばとことんそれを強くしてやろうと考え、|出来上り《ヽヽヽヽ》本数に加えること二本の銚子《ちようし》を注文した。
「二日酔いで、明日、どこも見てまわれなくてもかまわない」
思い決めて、身体をあたため、心をゆるめにかかったのである。
「四季、それはありますよ。ええ、ありますとも……」
したがっていま彼は、寒さを忘れ、現実も忘れ、上機嫌の笑みを口元にうかべて、ふらりふらりと歩いているのである。
「このまま歩けば、どこか別の世界に行きつけるのではないかな」
そうも思い、気のむくままに右折し、左折し、また右折したりして……
「丸越《まるこし》。ああ、確かにこういうデパートはあったなあ。丸越と、もうひとつ何だったか。そう、大和《だいわ》」
「北国新聞。ふむ、北国ね」
ネオンを見あげ、看板を読み、記憶の反芻《はんすう》を行ってみたりして……
「………」
そして、随分と長い時間がたったと感じたときには、彼は夜がすでに明け、そればかりか冬さえも過ぎさった街に立っている自分を発見していたのである。
すなわち渡辺は、この街の春の開始に立ちあうことになったのだ。それは、神社の石段前で始まった。しかも、はるか昔の――
陽の光が明るく、空は晴れており、風もないためあたたかさが身体をやわらかくつつむ日曜の午後である。
秀治は母親に手をひかれ、尾山神社へとむかう人の流れのなかで、あちらに眼をやりこちらに注意をむけ、うきうきしながら歩いていた。周囲には同じく大人に手をひかれて眼を輝かせた子供達がおり、道の両側には、綿菓子売りが出ている、おもちゃ屋が出ている、射的屋が出ている。
サーカス見物の人出をあてこんで、まわりは屋台店の博覧会になっているのである。
鬼の面はセルロイドで赤。綿菓子はふわふわと大きく薄桃色。射的のキャラメル箱には白熊の絵が描いてあって、濃い青の地から浮き出ている。それがずらりと並んで、射たれるのを待っている。
「甘いだろうな、あのキャラメル」
秀治は思い、綿菓子は埃《ほこり》をかぶっているから駄目よと言った母親の言葉を思い出して、あれなら箱に入っているから大丈夫だろうなと考えた。でも、僕はお金を持ってないから買えないや。こないだ五円貰ったけど、あれはテレビ・ガムを買って使ってしまったものな……
テレビ・ガムは箱に四角い窓が開いていて、その内側に四|齣《こま》ほど絵の描かれた円形の紙が入っており、まわすとお伽噺《とぎばなし》が楽しめる仕掛けなのである。
「テレビって、何のことかな」
秀治は眼をラムネの屋台に移して思い、そうだビー玉のあの大きい方のやつが欲しいなとも考えて、あいている手の親指と人差指を曲げ、玉を投げる恰好をした。
「ほら、石段だから気をつけなさい」
母親の声がし、手を強くひかれ、途端に秀治は恐ろしいと感じて眼を見ひらいた。
広く長く急勾配でそそりたつ石段がではなく、その両側にずらりと並んで立っている男の人達が恐ろしくてである。
なぜなら彼らは揃って白い着物を着ており、草色の兵隊さんの帽子を被《かぶ》っており、マスクをしたり黒の色眼鏡をかけたりもしていたからなのだ。しかも、片方の足が膝までしかなくて松葉杖をついている人もおり、片手が鉄の鉤《かぎ》になっている人もいる。
そしてそのうちの何人かは肩からアコーディオンを吊り、弾きながらうたっているのだ。
「今日も暮れゆく異国の丘に……」
伴奏の音色が物悲しく、はるか石段のてっぺんにまでそんな人達の並び立っているのが気味悪く、ために、秀治はべそをかいてしまった。
「そばに寄るとつかまえられるんじゃないかな。だって、サーカスは子供を拐《さら》って、酢を飲ませて芸を仕込むというんだから……」
石段をのぼりきるまで、母親の手を強く握り、決して左右を見ないようにして進んだのである。しかし、それでも、アコーディオンの音色だけはしつこく耳に入ってきていたが。だから秀治は、それ以後小学校の高学年になるまで、その音が恐くてたまらない子供になってしまったのだが……
けれども、いまは春である。
サーカスでは、空中ブランコの飛び移りに失敗したピエロが上手な女の人にズボンの裾をつかまれて赤いパンツを丸出しにし、オートバイは鉄の地球儀の内側を物凄《ものすご》い音をたてて宙返りした。そして、場内をまわる物売りから、母親は金ピカの象のバッジを買ってくれた。
帰りに寄った公園には、大きな籠《かご》の中にリスがいっぱいいて、木から木へ枝から枝へと飛びまわっていたのである。
「チョンチョン、チョンチョン」
「根《こん》のいいこと。チョンチョン、チョンチョンって、いつまでもやってるのよ」
近所の農家の小母さんが笑って言うのは、梅の木の絵を描く話なのだ。
旅の絵師がやってきて、襖《ふすま》か障子に絵を描かせてくれないかと頼んだのだという。
「墨絵でね、梅に鶯を描くってね」
そこで小母さんは庭に面した縁側の障子を提供し、絵師は大方一日もかけて仕事をした。梅の花を描き、幹には濃淡をつけ、その濃淡のつけ方が筆先のチョンチョンなのである。
「まあ、ああやって日本中を旅してるのかしらねえ。春になったら、おもしろい人がくるわ」
その絵もその絵師も秀治は見なかったけれど、おもしろい人が来るのは知っている。
「聞かん子、おらんかね」
まるで大黒さんのように大きな布袋を肩に背負い、田んぼぎわの道をゆっくりゆっくりと歩いてくる小父さんだ。
「聞かん子、おらんかね」
あの人はクズ屋さんでね、ああ言いながらまわってるの。言うことを聞かない子がいたら、貰ってこの袋に入れて帰りますってね。
母親に聞かされ、秀治が庭先に立って見ていると、小父さんは陽の光を浴びて半分眠ったような顔をし、おかしな節をつけて同じ言葉をくり返しながら近づいてきた。
僕は言うことを聞くから大丈夫だ。
秀治は思い、その姿を見つめている。
それに、いくら子供でも、あんな袋に何人も入れられるはずがないしさ……
「聞かん子、おらんかね」
小父さんはニヤッと笑って通り過ぎ、そしてゆっくりゆっくりと遠ざかっていく。身体を左右に振るようにして歩くため、背中の袋がのたりのたりと揺れている。
声が次第に小さくなり、遂には消える。
――聞かん子おらんかね……。なるほど、あの頃には、ああやってまわるだけで飯が食えていたのだなあ。もっとも、その頃にはその頃なりの貧乏をしていたのかもしれないけれどな。
渡辺は昔の春に現在の思考を重ね、それにしてもいま自分はどこにいるのだろうかと考えた。どこにって、この街にじゃないか。ほら、米原から特急に乗り、小料理屋で酒を飲んだだろう。ああ、そうか、そうだったな。で、それはわかったとして、いま俺はどこに……。何を言ってる、くどい男だな、秀スケ、おまえかなり酔っているな。ふっふっ、酔ってますよ。僕はね、酔っているんですよ。だからほら、こんなに身体があたたかく、いや、これは春だからかな。ね、春になるとね、田んぼのそばの小川にさ……
「蛙《かえる》のタマゴを取りに行こうよ」
新ちゃんが誘いに来たので、秀治は鯨《くじら》の大和煮の空缶を持って飛び出した。新ちゃんの家は牛をたくさん飼っていて、牛乳を絞っている。幼稚園のある寺町にパン屋さんもひらいていて、一緒に帰る途中、店番をしている新ちゃんの小母さんから、秀治はジャムパンを貰ったことがある。
「家に牛乳の缶はあるけど、小さいのがないんだよ」
新ちゃんがそう言ったため、秀治はジャムパンのお返しのつもりで、大和煮の空缶を持ち出したのだ。
「蛙って、何蛙かな」
畦道《あぜみち》を歩きながら秀治が聞く。
「蟇蛙《ひきがえる》か殿様蛙だよ。道で予備隊のジープにひかれてる奴、大きいものな」
田んぼがあって道がうねっており、その手前に秀治達の家が並んでいて、そのまた背後は竹藪《たけやぶ》の斜面。斜面をどんどんのぼって竹藪を越せば、野田の山に予備隊がいる。その予備隊のジープがよく田んぼぎわの道を走り、蛙をひきつぶしていくのである。
「予備隊って、本当は警察予備隊っていうんだよ」
「違うよ、本当は保安隊だよ」
言いかわしながら二人は進み、小川のふちでしゃがみこんでタマゴを捜す。
「流れているところは駄目だよ。こっちの、水の溜っているところじゃないと」
「ふうん」
秀治は少し恥をかいたような気持になり、新ちゃんのそばに寄って水の中を覗《のぞ》き込む。
「ほら、そこにある」
「………」
初めて見た秀治には、それが蛙のタマゴだとはとても信じられない。にょろにょろとした細長い半透明の紐《ひも》。その紐が白黒まだらになっていて、何だか気味が悪いのだ。
「すくってよ」
僕はさわるのは嫌だな。思って秀治は言い、新ちゃんが土の上に腹這いになって片手を水の中に突っ込むのをじっと見ていた。
「ほら」
器用にすくいあげ、空缶の中に入れて、すると空缶はにょろにょろで一杯になった。
「水を入れてくれよ」
「うん」
それくらいなら自分にもできると秀治は安心し、缶の縁を持って水の中に手を入れる。
するとその水のぬるさが、なぜか無性に嬉しい。
しかし、その嬉しさもすぐ消える。
「明日、それを幼稚園に持っていこうか」
「駄目だよ。先生、恐いから」
お寺の幼稚園でお釈迦様の花祭りがあり、初めて暗い本堂に入った秀治は、そこで唾《つば》を吐いて先生に怒られたのだ。
本堂から走り出て、廊下を逃げて、教室の机の下に隠れたのだけれど、すぐ見つかってしまった。そしてもう一度本堂に引っぱっていかれ、ハンカチでその唾をふかされた。
「藤沢先生は恐くないんだけどな」
「藤沢先生って?」
「お医者さんさ」
「よしよし、よく泣かなかったな」
禿頭《はげあたま》で丸い眼鏡をかけた藤沢先生は、注射針を秀治の腕から抜き、アルコールを浸ませた脱脂綿でそこを押さえて言ってくれた。
「さ、そしたら褒美《ほうび》をあげようね」
貰ったのはアンプル薬の空箱で、蓋《ふた》をあけると、中箱にはアンプルを収めるための穴がいくつもあいていた。
――春はよかったなあ。注射に泣かなければ、褒美が貰えたんだものなあ。いまは、必死にやっても文句を言われてばかり。ああ、それにしても、身体がやけに熱くなってきたな。俺はいったい、どこにいるんだろう。どこにって、ほら、この街じゃないか。冬に来て酒を飲んで、そしたら春になった。俺がちらりと考えたとおり、人生が四季で四季が人生だという、その始まりを体験させてくれるこの街じゃないか。秀スケ、何を言っている。おまえの言うことはさっぱりわからんぞ。
わからなくても結構。僕はね、もはや君達とは違う世界に入っているんだからね。身体が熱い。そうさ、だってほら、夏が来たんだもの。その証拠に、あの人の背中は汗でぐっしょり濡れて、シャツがはりついている……
広くて長くて急な坂道を、シャツを汗で濡《ぬ》らして自転車を押し押しのぼっていくのは、アイス・キャンデー屋の小父さんだった。
荷台にキャンデーの入った青い箱をつけ、小旗を立てて、いつもはゆっくりと自転車をこいでいる。麦藁《むぎわら》帽子をかぶり、首に手拭いを巻きつけて、ハンドルに吊るしたベルを鳴らしながらやってくるのだ。
でも、いまは坂道を自転車を押して、のぼっている。どうしてかな?
「もう、全部売れたんで帰るんだよ」
新ちゃんが言い、虫とりの網をふりまわして、つまらなそうな声をあげた。
「あああ、鳴声は聞こえているのに、一匹もとれないや」
大人の言葉でいえば、けだるくものうい真夏の日曜の午後。坂の両側には背の高い木の繁った御屋敷が並び、人通りは彼ら二人とキャンデー屋の小父さん以外にはなく、耳を澄ませば蝉《せみ》の声があたりに充満していることがわかる。澄まさないとわからないのは、声が多すぎて切れめがなくて、耳が慣れっこになっているからなのだ。
「上へ行って、ラムネを貰おうか」
新ちゃんが言い、秀治はうなずく。坂をのぼりつめると寺町の市電通りに出、そこにパン屋さんがあるのである。
「そうしようそうしよう」
二人は蝉とりをあきらめて歩き出し、するとどこの御屋敷からだろうか。重く暑苦しい浪曲の声が聞こえてきた。レコードだろうかラジオだろうか。あれはラジオだな。だって、幼稚園の帰りにこのあたりを通ると、いつも何か聞こえてくるんだものな。
「引揚者のお知らせです。舞鶴港……」
いつか、こんな声も聞こえてきたものな。
「引揚者って、シラミだらけなんだとさ」
秀治は母親から聞いたことを思い出して言い、新ちゃんは先刻承知らしくそうだよとこたえた。
「だから、発疹《はつしん》チフスになるんだよ」
そして、うたいだした。
「あああ、もう駄目だ。|はっしん《ヽヽヽヽ》チフスになっちゃった。両手を合わせて、ナムアミダブツ……」
「………」
ナムアミダブツ南無阿弥陀仏なむあみだぶつ……唱える声が遠くから聞こえてきて、それが急に大きくなったと感じたとき、秀治は眼を見ひらき、ついで大声で泣きだしていた。
「ああ、よかったよかった、気がついた」
隣りの家のお婆さんの声がし、彼は自分がバスタオルにくるまれて母親の腕に抱かれていることに気がついた。
はて、これはどういう……
渡辺は思い、そうか俺は坂道の下の方、田んぼの端にあった溜池へ落ちたことがあったのだと気づいて、考えた。
確か新ちゃんとふざけていて、竹の棒か何かの取りあいをしており、あっと思った。その、あっと思った瞬間までは覚えているのだが、それからの記憶は何もなく、次に気がつくとバスタオルにくるまれていたというわけだ。そう、あれも確かに真夏の午後だったっけ。
何しろ夏は暑かったなあ。勿論《もちろん》、だからいまも暑いわけだが、それにしても俺はいまどこに。何を同じことばかり言ってるのだ。秀スケ。おまえはね、俺達とは別の世界に入ってしまったんだろう。ああ、そうか、そうだったな。だから、時間の順序もきちんとしてない、パノラマ館の展示物を順不同で見物しているような、そういう体験を俺はしていると、こういうわけなのだな。
それにしても、いまふと思ったのだけれど、溜池に落ちたあのときもし死んでいたら、いま頃俺はどうなっていただろうかな。
あのとき死んでいたらいま頃どうなっていたかだって? それはおまえ、いまもずっと死んでるさ。
そうか、やっぱりなあ。となると、あの夏の暑い午後に、仕事で二人で山手線に乗っていて、あれは新宿のホームだったか、観光ポスターを見てあの子が言った。
「あなたのうまれた街を見てみたいわ」
ああいう言葉も聞けなかったというわけだな。というよりも、ああいう女にめぐりあうことさえなかっただろうと、こういうことなのだな。夏に会って、夏に別れたあの女。正確には、夏に去っていったあの女。
「さようなら。でも、変な日に言うことになったわね。終戦記念日だわ」
「嘘だ。日本が負けるはずがない」
秀治が寺町通りに立っていると、防暑衣姿で長靴《ちようか》を履いた将校が、汗まみれの顔で眼を血走らせ、どなりながら歩いてきた。
その姿を、彼が実際には見たはずもないのだが、聞いた情景は経験した世界に変じ、ゆえに秀治は、いまや彼がうまれる以前の街に立っている。
「無条件降伏などという、そんな馬鹿なことがあるか」
将校は図嚢《ずのう》を肩から斜めにかけ、左腰に吊った軍刀の柄を握って大股に歩いていく。市電の線路があるのもかまわずに歩き、後から追いついてきた電車が、仕方なく速度を落とす。年老いた運転手が、困りきった表情で将校の後姿を見つめている。それら一切を見あげる秀治の眼に映ったのは、濃い青の空。
「我が軍は絶対に降伏はせんぞ」
なぜなら我に精鋭の兵あり……
ラッパの音が聞こえ、道路の両側に並んで日の丸の小旗をふる人びとの前に、行進する部隊が姿を現わした。ラッパ手・旗手・乗馬の将校・銃を肩にした歩兵部隊。そしてその後には自動車部隊。
「兵隊さん兵隊さん」
突然、まだほんのよちよち歩きの男の子が見物の列から飛び出し、自動車部隊の先頭トラックが急停止をし、しかし一瞬遅く、子供は転倒して泣きだした。ひかれはしなかったが、頭を打って血を流している。
「馬鹿者ッ」
路上に降りた運転兵に将校が駆け寄り、いきなり拳《こぶし》で顔面を殴打。そして帯革《ベルト》を抜くなり、それで叩き始めた。ピシッピシッと鋭い音が響き、身体を揺らせながらの兵の精一杯の声がつづく。
「悪くありました。大切なる男児に傷を負わせ、私が悪くありました」
「でもねえ、あれはあの兵隊さんがかわいそうだったわねえ」
夜、笠に黒い布を巻いて暗くした電灯の下で、将校が届けに来たという赤チンの小瓶を前に、新ちゃんの小母さんが言っている。
「研は、本当に手のかかる子なんだから」
新ちゃんの兄さんである研ちゃんはすでに寝ており、秀治はその寝顔を見ながら、ここに新ちゃんがいないのは、まだうまれていないからなんだなあと考えた。
――ということならば、俺だってうまれてはいないのだけれどな。ふむ、俺はいまどこに。夏だよ、夏の街、夏のこの街にいるんだよ。ほうら、その証拠に、空襲警報が聞こえてきた。すると皆は防空頭巾をかぶり、寺町からどんどん走って、練兵場へと逃げるんだ。そう、野田の練兵場。予備隊がいる所で、なぜ予備隊がいることになるかといえば、いま連隊がいるところだからなのさ……
それにしてもと、渡辺は思った。
よくもまあ、あの戦争で父親も母親も死ななかったものだな。ま、B29はこの街の上空を素通りしたというのだから、戦災で死亡ということはありえなかっただろうけれど。
しかし、万が一にもそのときに死んでいてみろ、俺という人間はそもそもこの世にはうまれ出てさえいなかったということになるではないか。でも、ひょっとしてその方が。
おい秀スケ、おまえ、夏になると必ずその話をするねえ。何かい、あの失恋がそんなに痛手で、考えがそっちへ行くわけなのかい……
「渡辺君ねえ」
上司どうしで語りあっているであろう、彼の人物評が聞こえてくる。
「あの男もね、工場とか支店にいた頃にはそれなりにやってたらしいんだよな」
「うん、本社に来てからだな。あれはほら、結婚話がおじゃんになってからだろ」
「逃げられた一件ね」
「蛙を取りに行こうよ」
新ちゃんが誘いに来て、二人は出かける。
そら、あそこにいるぞ。よし、あいつをつかまえてやれ。おっ、じっとしているぞ。そうら、ほれっ。あ、しまった。もうちょっとだったのになあ。逃げられちゃったよ。
「逃げられたのかね、あれは」
「らしいよ。だってほら、彼、どことなく頼りないというか、何か危なっかしいところがあるだろう」
「どうしてかね」
「さあて、どうしてかな。僕の印象では、なぜかこう、現実の世界に適応できていないという気がするんだけれどもね」
「でも、工場や支店では」
「それも、無理して無理して合わせていたんじゃないかな。で、いつしかその無理が限界に達してだな。あの逃げられた一件を機会に心がどこかへ……」
「どこへ行っちゃったのかな」
新ちゃんが水の中を覗き込んで言い、思い出したらしくつぶやいた。
「前に取った蛙のタマゴ、やっぱり置いとけばよかったなあ」
「あれ、どうしたの」
「いつの間にか、無くなったんだよ」
いつの間にか。そう、季節はいつの間にか移り、楽しい春から、見あげれば青空が眼に痛い夏になる。あんなこともあり、こんなこともあり、なぜか俺は。そして俺は。
おや、少し肌寒くなってきた。そうか、いつの間にか秋なのか。なるほど、雨ね……
雨が細い糸になって降っている。
周囲の山はその雨にけむって輪郭を失い、空も灰色になってしまって、高くにあるのか低くにあるのか、まばたきをしなければすぐ頭の上にまで降りてきているようにも感じられる。
グラウンドの隅に張られたテントには、町内の人達がぎゅうづめに入って空を見あげ、無論《むろん》秀治もその一人なのだけれど、彼だけは別の方向を見あげている。
「チュウレイトウか……」
巨大な石碑が山の頂上に直立しており、それが雨に濡れて暗灰色になっているのである。
「午後からの部は中止だな」
「まあ、もう少し待ってみようよ」
町内会主催の運動会。野田山のグラウンド。
大人達の相談を聞きながら、秀治はただじっと忠霊塔を見あげている。
――恐かったのか? そう、恐かったんだ。というより、わけもない不安を感じていたといった方がいいかな。秋で、雨で、巨大な石碑で、どうやらあれが俺のネガティブな面での原風景……。秀スケ、おまえ芸術家かい……
秀治はそのとき、前夜、自分がうなされたことを思い出していた。夜半に眼を醒《さ》ますと周囲は深く重い闇で、身体をかたくしているうちに、その闇が自分を押しつぶしにかかってきた。頭上からも、闇は大きな塊となってのしかかってきたのである。
「で、僕はぎゃあぎゃあ泣いて」
しかし母親はそれを夢だと言い、明日の運動会が楽しみで興奮したんでしょうと笑った。
「だから、うなされたのよ」
そうではないのだけれどなあ。僕はもっともっと恐い目に会ったのだけれどなあ。
「恐いんだよお、本当に」
新ちゃんが言ったのは、幼稚園の帰り道だった。
「家の玄関のところに、大きな額がかかってるんだ。そしてその額には、悪いことをしても、仏様が見てござるって書いてあるんだ」
新ちゃんの家の近くにある、|見てござる《ヽヽヽヽヽ》の家の話なのである。
「それでね、泥棒が入ろうとして、その額を見て逃げて行ったんだって」
見てござる。僕が田んぼの藁束におしっこをかけたのも、見られていたのかな。それで、仏様が罰をあてて、あんな恐い目に会ったのかな。思いながら、秀治はなおも、忠霊塔を見あげている。雨は次第に本降りになる。
「ちょっと、先生の家に寄っていこうかしら」
雨がどんどんと激しくなることに閉口し、母親が言った。丸越へ買物に行った帰り道、市電の寺町で降りて、歩きだしてから決めたのだ。風はないけれども、雨が冷たい。
「先生って」
ひとつしかない傘の半分以上をさしかけてもらい、秀治が聞く。
「幼稚園の先生よ。お母さんの友達なの」
幼稚園か。僕は来年から行くんだな。でも、どんな所だろう。恐い子がいないかな。
「さ、ここよ」
母親が足を止めたのは、道に面した窓に格子のはまった古い家で、玄関のガラス戸をあけると、いきなり恐ろしい人が見えた。
「………」
上り口の板の間に坊さんが坐っており、その奥には顔中にタンコブをいっぱいつけた爺さんがいて、二人が同時に秀治を見たのである。薄暗い室内。薬品の強い臭い。
おびえた眼で見つめる秀治には声もかけてくれず、二人はすぐにそれぞれの作業に戻る。
坊さんは出前を頼んだらしい饂飩《うどん》の鉢の木の蓋を取ろうとし、コブの爺さんは細い銀色の金属棒を何十本も束ねて、薬液の入っているらしい大きな缶の中に放り込んでいる。
「ええい、ドタ福め」
坊さんが焦《じ》れてどなったのは、木の蓋がくっついてしまって、どうしても取れないからなのだ。坊さんの怒った顔。真赤になって怒った顔。秋で、雨で、薄暗くて、恐い。
「秋が恐いって言う人、初めてだわ」
彼女は不思議そうに、あるいは不審気に言ったものだった。
「物悲しいとか寂しいとかならわかるけど。ねえ、渡辺さん、あなた来年の秋にもそう言うのかしらねえ」
しかし、その来年の秋は来なかった。秋は来たけれども、そういうことを言える秋は来なかった。ふん、まあ、世の中なんてそんなものさ。おやおや、秀スケ、おまえ悟ったようなことを言ってるじゃないか。詩人だねえ。
「おい、渡辺君、何をそんな所で突っ立ってるんだ。みんな、もう改札を出て待ってるんだよ」
秋の慰安旅行。私鉄の支線の終着駅で、俺は幹事役の課長から怒られたっけな。
「何をボサッと立ってるんだよ」
「は、はあ。この、線路の終る部分がいいなあと思って、それで見つめていたら……」
秋の慰安旅行。私鉄の支線の終着駅。そうか、あれは町内の婦人会の旅行で、一緒に連れていってもらったわけか。で、その駅のホームに立って俺は……
秀治がじっと立ちつくして見とれていたのは、市電の終点とは全然違う物がいっぱいあったからだった。レールが伸びてきてそこで終って、だからその先端はぐにゃりと曲げられている。両方ともまったく同じ形に曲げられて、枕木から五十センチほども高くなっている。そしてその二本のレールの中央には、大きなガラス玉のはまった信号灯だ。おまけに、プラットホームには鉄骨柱が立っていて、そこにも信号灯がついている。
「電車の運転手になりたいな」
運転手になって、このホームにゆっくりゆっくりと入ってきたら、どんなに気持がいいだろう。信号が緑に光って、プシューッと僕は電車を停めて。終点、しゅうてええん。
「線路の終る部分がそんなにいいかね」
「はあ……」
「詩人だねえ」
そして俺は課長にせかされ、皆が待っている観光バスへと走ったのだった。ああ、ああいうときの俺は、何とのろまな男に見えたことだろう。
「あんたね、のろいんだよ」
同僚が忠告してくれたこともある。
「そりゃいまは読書の秋ですよ。だけどね、日本の産業構造なんて本をいま読んでてどうするの。そういう大所高所のことは上がやるんだから、我われはまず動的な情報から取らなくっちゃ仕事にならないじゃないの」
「でも、その基礎知識として」
「研究やってるんじゃない、商売やってるんだからね。第一、そんな知識を伝えたってお得意さんが喜ばんだろう。週報読みなさいよ、月報読みなさいよ」
それから話がひろがって、俺は同僚達の間で、学者だとか研究家だとか言われるようになってしまった。だから秋は嫌なんだ……
「心理テストの結果が出ましたがね」
そうだ思い出した。社内の健康診断で、そういうややこしいテストを受けさせられたのも秋だった。
「あなた、何か心のなかに不安を持っているんじゃないですか。重心点が定まらぬというような」
あれはいまいる老医師ではなく、その前の若い奴だった。あいつ、自分の専門が精神科だというので、研究データを集めるために全員にあんなテストを課したんじゃないのか。
「空洞があるという、そんな気持になることはありませんか。つまり、心のなかに」
「秋だからですか?」
「いや、そういうことではなく。性格形成の過程において、何かそんな体験を……」
「親父が亡くなったことかな」
「ほう、いつです」
「幼稚園のとき」
「秋ですか?」
「いいえ」
「あなた、ひょっとして一人っ子?」
「はい」
「なるほどね」
あいつは訳知り顔にうなずき、断言したものだった。
「上位自我、いわゆるスーパー・エゴというやつが形成されないまま大人になってしまったんですな。つまり、捕捉し、乗り越えてやるぞと思い決める、その相手がいなかったから」
なるほどね。あのときには何を馬鹿なと思っていたけれど、いまこうやってこの街の秋に肌寒さを感じつつ考えてみると、案外そうかもしれないという気もしてきたな。
なぜって、俺はこの街に来て春夏秋を体験しているというのに、親父は一度も姿を見せないものな。何を言ってるのだ秀スケ、おまえの言っていることは……
わかってる。わかってるよ。聞いてくれ、みんな。俺はね、俺はこの街で……
「さあ、秀治、何が欲しい」
家族で行った秋の片山津温泉。土産物店の前で立ちどまり、父親が言った。
「何がいい。あの木刀か、それともお面がいいか?」
秀治は長いこと迷い、ようやく決めて、飛行機の形をした瓶に入っている七色の金平糖を買ってもらった。
そのとき聞こえてきていたのは、ラジオから流れる歌謡曲。
「あなたのリードで島田も揺れる……」
聞いてくれ、みんな。俺はね、俺はこの街で……。おや、何だか急に寒くなってきた。ああ、早いなあ。もう冬じゃないか……
朝になると雪は降りやんでいたので、秀治は蜜柑箱に竹を打ちつけて作った橇《そり》をひっぱり、裏の竹藪の坂道へ滑りに行った。
橇は父親が作ってくれた物で、新ちゃんの持っている橇と比べれば、はるかに恰好がいい。でも、新ちゃんは今度のお正月には子供用のスキーを買ってもらえるのだと言っている。僕はどうかな、買ってもらえるかな。だって、お父さん、ついこないだ死んじゃったものな。お母さんは毎日泣いているし、だからクリスマスにも、何ももらえないかもしれないものな……
「おおい、早く来いよお」
思いながら坂道にかかると、新ちゃんが上の方で待っていた。
「凄いぞ、きんかんなまなまだ」
ふっふっ、きんかんなまなまか。雪が固まってツルツルになったとき、確かにそう言ったものだが、あれはしかし、どういう意味かな。きんかんなまなまね……
「もう、手がかじかんでしまったよ」
そう、手がかじかんで、俺は大変な失敗をしたこともあったっけ……
「そりゃね、君には大変な失敗という例はないよ。だけどね、本気で仕事に取りくんで、それでもって大変な失敗をする方が、まだましだという場合もあるんだよ」
いいですよ。もう、そういうことは聞きたくもない。僕は現実の世の中には適応できていない人間だと、こうおっしゃりたいんでしょう。結構、それで結構。だって僕は……
あああ、こんなことはもうどうでもいいや。いまは冬で、雪が積もってるんだ。そしてそのなかに僕がいる。こっちの方が僕にとっては現実なんですからね。たとえば、大変な失敗ということとかね……
幼稚園の帰り道、寺町の電車通りから坂道を下りかけた頃、秀治はオシッコがしたくてたまらなくなってきた。
きんかんなまなまの坂道を、滑らないように注意しながら、早く家へ帰ろうと焦りつつ降りる。しかし坂は広く長く、とても橇で滑《すべ》るようには降りられない。
「ええい。ここでしてしまえ」
途中で立ちどまり、毛糸の手袋をはずし、両手にハーッと息を吐きかけてから、ズボンのボタンをはずそうとする。だが、手はかじかんでしまっており、小さなボタンはどうにもはずすことができない。焦れば焦るほど、オシッコがいまにも出そうになってきて、泣きたくもなり、馬鹿馬鹿しくもあり。そして、遂にそのまま……
ま、いま考えれば、それほど大変な失敗でもなかったか。ズボンの中にそのまま放尿してしまったなんてことはな。でも、そのときの俺は、いわば絶望的になったわけで……
「あいつ、何だか絶望的なことを言うんだよ。このまま歳をとっていくのが恐いなんてね。まだ三十過ぎたばかりなのにな。それに、そう思うのなら、自分で何とかすればいいのにな」
そうだよ。だから、何とかしようと休暇を取り、何とかなるかとこの街に来たんじゃないか。そして確かに、何とかなった。
どうなったかって? それはね、俺にとっての「現実」はこの街での暮しのみであり、ここから出たそれ以後の生活は、夢とか幻とか別世界とか、そういう場での虚ろなものに過ぎなかったのだといまわかった、そのことにやっと自分で気がついたという、そういう変化があったわけですよ。わかりますか。
「あいつ、ときどきわからないことを言うんだよな」
「ま、一種の変り者だね」
結構、それで結構。俺はこの街でうまれ、この街で四季を味わい、この街で生きていくべき人間だったんですからね。君達がいう現実のではなく、俺における現実、俺の世界におけるこの街でね。そう、それに気づかず、そこから別の街へ出て行ったのがそもそもの間違いだった。だから、何かちぐはぐな、どこかずれているような、そういう生き方しかできなかったというわけだ。
俺はこの街から出るべきではなかった。父親が亡くなったのはこの街なのだから、俺はずっととどまり、そして同じくこの街で死ぬべきだったんだよ。え、理屈が通らない。ふん、俺はいまこちらの世界に入っているからね。こんなこと、理屈じゃないんだよ。安心感、安堵できるか否かの問題なんだよ。だからほら、いまや安堵した俺は、冬で雪が積もっているというのに、身体も心もふんわりとあたたかくなってきている。
「ほら、あたたかくなりましたよ」
先生が言い、ストーブのそばに置かれた棚から、皆の弁当箱をひとつずつ取り出してくれた。はい、新ちゃん。はい、秀ちゃん。
白いハンカチで包まれた弁当箱は、両手で持つと少し熱いくらいになっている。ハンカチの結び目をほどくと、アルマイトの蓋に描かれているのは仔鹿のバンビの絵。蓋をあければ、ほうら、おかずは玉子焼とホウレン草だ。いただきまあす……
クリスマスには、大和デパートから、サンタクロースの恰好をした人が車に乗って、オモチャを届けに来てくれた。
大きな大きな消防自動車……
そして、お正月には、また別の大きな自動車をもらって、そのとき父親が言ったっけ。
「幼稚園へ行くようになったら、今度はお金でお年玉をやるからな」
一緒に河原で見ていた出初《でぞめ》式。消防車が赤や青や黄色の水を空高く放水し、あちらでは竹梯子《たけばしご》の上で逆立ちをしたり、片足でぶらさがったりする人がいて、僕はもう、冬が無性に嬉しいという気になって見あげていた……
「秀ちゃん、帰ってきなさい」
でも、ある朝、橇で遊んでいた俺は、いきなり母親から金切声で呼び戻され、迎えに来ていたタクシーに乗せられて……
「お父さんがね」
「お父さんが?」
「………」
冬。雪。十二月。
ああ、あそこでこの街の四季は終ったわけだったのだな。だから、俺は。そして、俺は……
おい、秀スケ、お前はいまどこにいる。
どこにって、ここさ。この街さ。俺はね、この先ずっとこの街にいて、春夏秋冬、四季の移り変りを、何度も何度も楽しむことに決めたのさ。なぜって、俺はもともと、この街からは出ては行かなかった人間なのかもしれないんだからね。え、どういうことかだって? うん、それはね……
「もしもし、もしもし」
おや、誰かが俺を呼んでいるぞ。
「あなた、こんな雪の中で寝ていると、凍死しますよ」
何だ、親父に言ってるのか。聞いた世界が見た世界というやつだね。
「もしもし、もしもし」
雪の降り積もった尾山神社の石段前、パトロールの警官が秀治の父親を揺り起こしている。
「あなた、こんな雪の中で寝ていると、凍死しますよ」
だが、泥酔して眠り込んでしまった男には、その声は聞こえない。
「もしもし、もしもし。あ、これはいかん。冷たくなりかけている」
「秀ちゃん、帰ってきなさい」
「お父さんが?」
「………」
パトロールの警官は、雪の降り積もった尾山神社の石段前で、だらりと身体を伸ばして眠り込んでいる渡辺を発見していたのだった。
「もしもし、もしもし」
だが、揺り起こそうとしてもその声は耳には入らないらしく、何の反応も示さない。
「あなた、凍死しますよ」
警官は彼の上体を抱え起こし、胸をさぐって替上着のポケットから黒の定期入れを取り出した。なかを調べ、身分証明書を見つけて、懐中電灯で照らす。姓名、そして顔写真。
姓名、そして顔写真。
「渡辺秀治……」
警官はつぶやき、首をかしげ、それから叫んだ。耳元に口を寄せて叫んだ。
「秀ちゃん、秀ちゃんじゃないか。しっかりしろ。俺だよ、新二だよ」
俺だよ、新二だよ。ああ、新ちゃんか。遊びに行こうぜ。春だから、田んぼの小川で蛙のタマゴを取ろう。え、うん、サーカスはおもしろかったよ。だけど白い服の人は恐かったなあ。先生も恐いしねえ。
夏だよ。蝉取りに行こうよ。でも、もう溜池に落ちるのは嫌だな……
新二はトランシーバーを使う。
「こちら尾山神社前」
「司令室」
「救急隊に連絡願います。泥酔者……」
溜池に落ちたあのときに、俺は死んだわけなのだな。だからそれ以後は別の世界で暮していたんだよ。そしてその世界では、秋は恐くて冬には親父が死んで、俺はどうしても周囲の「現実」には適応できなくなっていったという、そういうパノラマが……
「秀ちゃん、しっかりしろ。すぐに救急車が来るからな。秀ちゃん、新二だよ」
ああ、新ちゃんか。秋だよ。見てござるの家を見に行こうよ。ん、あの夜のうなされた体験、ひょっとして、あのときに俺は死んで別の世界に入ったのかな。そしてそれ以後その世界では親父が死に、俺はこの街を出て、次第に「現実」に適応できなくなっていくという、そういうパノラマが……
「秀ちゃん、どうしてこんな所に。遊びに来たのかい。それとも出張かい。おい、秀ちゃん、新二だよ」
新ちゃんか。雪だよ。きんかんなまなまだよ。でも、お父さんは死んじゃったよ……
けれども俺は、いまこの街に戻って、ようやく気がついたぞ。つまり、戻ったというのは時間的にも戻ったということだから、俺はもう一度、この街の四季を経験しなおせるというわけだな。な、そうだろう。だから、そしたら今度は俺は、夏にも秋にも死なないようにする。そして、別の世界へなんか行かないようにする。この街のこの世界にずっととどまって、冬には親父が死ぬなんてことを体験しなくてもいいようにする。そうすれば俺は……。え、わからない? いいよいいよ、わからなくても。俺にはよくわかっているんだから。そうすれば、自分がどういう大人になるかってことが、ちゃんと見えてきたんだから……
「秀ちゃん、聞こえるかい。ほら、救急車が来たよ。秀ちゃん、しっかりしろよ」
しっかりしてるよ、新ちゃん。俺はね、もう一度やりなおして、力強くずんずんと進んで行くんだ。ほら、春が来た。尾山神社の石段前から、この街の春は始まるんだよ……
救急車が到着し、隊員が渡辺の身体を担架に乗せた。しかし、そのときには、彼はすでに別の世界に入る寸前なのだった。
「秀ちゃん」
新二の絶叫にも|ふり返らず《ヽヽヽヽヽ》、むこう側へと足を踏み入れていたのである。
――ほうら、春だ。なあ、俺の息子、おまえも早くこの街においでよ。いい街だよ。蛙のタマゴも取れるし、運動会もあるし。お父さん、電車の運転手になって、はりきって働いているしねえ……
雪がまた降り始めている。
そしてそれは、渡辺が積雪のうえに作った人の形のくぼみを、少しずつ、しかし確実に埋めていっている。静かに、やわらかく――
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休 火 山
え、何?
ああ、アの件、アの件ねえ。
さあて、どうしたものかなあ。あれは、まだしばらくは止めておいた方がいいんじゃないかと思うんだけどな。違うかなあ。
いや、確かに僕もそう言ったよ。あの頃はそれがいいと思ってそう言ったけれど、こうしてじっとしていると、別にそう急いで動かさなくてもと、こう考えだしたりもしてねえ。
あの、君ね、悪いけど長官に電話をしてみてくれないかな。出られたら僕がかわるから。うん、頼むよ。ああ、かかったかい。
もしもし。あ、長官ですか。はい、そうです、私です。ええ、おかげさまで何とか。
実は他でもない、アの件なんですがね。いかがでしょうか、いましばらくは止めておくというのは。といいますのが、いまあれを動かすとなると、世界的な反響が。
そうなんですよ。私も、こういう生活をするようになって初めてそのあたりのことが。
……でしょう。ええ、ええ。……ですね。
ですから、長官からの提言ということにしていただけましたら、関係者も納得をしてくれるのではないかと。はあ、そうなんです。
あ、それでよろしいですか。それはどうも、ありがとうございます。ええ、それは勿論《もちろん》、連絡はきちんといたしますから。はい、はい。では、しばらくは止めると、そのように。どうも、失礼をいたします。はい。
ああ、よかった。これで国民も何とかひと息つけるだろうよ。やはり、緊張のしつづけはよくないからねえ。たまにはゆるめなければ、個人にしても国にしても。ねえ。
それに第一、アの件を動かすといったって、いまはまだ蓄積期なんだからな。もう少し長い眼で見まもってやらなければ、連中が気の毒だよ。三年や五年じっとしてたって、別にどうってことはないじゃないか。なあ。
あ、カ先生。おや、もう回診の時間ですか。え? いやあ、そう言われると面目ないですが、慣れてしまうと案外平気なもので。
以前は五分待たされても焦《じ》れて怒りましたが、いまはもう、二時間か三時間、天井を見つめていても平然たるもので。ふと我に返って時計を見て、かえって自分で驚くくらいでしてねえ。あれ、もうこんな時刻かなんて。
ああ、測定ね。右の耳でいいですか。
はい、それでは。いやいや、大丈夫です。
どうですか、値は? え、ゼロ? ゼロというのは、それはまた極端な値ですけど。
あ、何だ、その差がゼロか。じゃあ、平衡状態ということですね。まあ、静かにしてましたからね。で、例の値は微増。なるほど。
いや、それはやはり、あれこれ考えたりもしますから。
え、散歩? かまわないんですか。いやあ、それはありがたい。じゃあ君、少しつきあってくれるかな。カ先生、ちょっと行ってきます。
……ゆっくりゆっくりと。いい気持だねえ。空が晴れていて、空気があたたかくて、風がない。静かだしねえ。むこうの踏切りまで行ってみようか。大丈夫だよ。
一旦停止。
そう書いてあるからというので、そのとおり立ちどまるのも僕の変化だね。
以前は駆け抜けたものだけど。あ、ランプがついた。おやおや、ランプはついているのに鐘が鳴らないね。故障かな。列車がスピードを落として、あれあれ、停止してしまった。
この線も古いからねえ。ここも新幹線並みに定期運休して、線路も何もじっくりと検査した方がいいな。今度、君からそう伝えておいてよ、総裁に。うん。
さてと、じゃあ、あっちの商店街へでも行ってみるかな。ゆっくりゆっくり……と。
あれまあ、とはいうものの、来てみるとほとんどの店がシャッターを降ろしている。静まり返ったアーケード街。定休日なんだね。
でも、そこの寿司屋はあけてるようだが。
ははあ、準備中。そうか、まだ昼前だからね。でも、なかでは職人が、あれこれ忙しく働いてるんだろうな。僕、そこまで見えるようになってきた。大した変りようだよ、本当に。
少し疲れてきた。戻ろうか。戻って、ちょっと眠ることにするよ。ああ。睡眠第一だ。
……ん、何? サ?
え、サ禅師が来てくださった? それはそれは。どうぞ入っていただいて。あ、これはどうも、わざわざ遠い所を。ええ、おかげさまで何とか毎日を淡々と、静かに。いまも眠っておりましたようなことで。
そうなんですよ。まったくあのときサ禅師がおっしゃったとおりで。やはり人間、ときには自らを省みるという機会が。
私も少し動きすぎたかなと思いまして。動くことそれ自体は別に悪いことではないにしても、そこに禅味が欠けていたのでは、これは何にもならないのではなかろうかしらと、こう気づいたような次第でして。はあ。
あの、サ禅師、これは間違っているかもしれませんが、禅味というのは、あれはひょっとして、そういう味が人間の内奥《ないおう》からにじみ出るというよりは、何か別の者からあるとき突然与えられるものなのではないでしょうか。つまり、墨絵の幽谷に朱の一点を……
いや、お恥しい、とんだ野狐禅《やこぜん》を申すところでした。お笑いください。
は、もうお帰りですか。なるほど、はあはあ。それではおひきとめするのはかえって失礼ですね。では、どうぞお気をつけて。ありがとうございました。皆様にもよろしくお伝えのほどを。はい。
ん? ああ、そうか、タ規制の件に関しての問い合わせがねえ。タ規制か。つまり、放出か備蓄かというやつだろう。そうだなあ、それも難しい問題だからなあ。
アの件を止めてもらった以上、タだけレッセ・フェールというわけにはいかないだろうしねえ。といって、備蓄一本槍だと、日常生活にかなりの影響が出てしまうだろうし。難しいねえ、これは。ふうむ。
あちら側の動向はどうなの? そうか、バリクパパンがねえ。ほほう、タンピコも。
となるとこれは、一触即発だね。世界中に嵐の前の静けさがみなぎっているということだね。一見静寂が保たれていて、その実、ドロドロふつふつのマントル対流か。
ふうむ、難しいねえ。どうしたものかねえ。即決? いやあ、それは無理だよ。時間が必要だ。
例の基地はどうなっているの。ああ、まだ未完成。それはどうして? ふむ、ふむふむ。
なるほど、ためらいがねえ。それはまあ、いま完成させるとパワー・バランスが崩れるものねえ。未完成のままひっぱっておく方が、心証を害することもないからね。まあ、態度保留が妥当なところなんだろうねえ。
とすれば、タの件、やはり備蓄かな。仕方がないよな。基地が未完成なんだから、しばらくは我慢してもらわなければ。上も下も、団体も個人も。やむをえないよ、これは。
ゼロ成長だね、この先しばらくは。まあ、考えようによっては、それもいいかもしれない。長篇大スペクタクル映画にはさまる、数分間のインターミッションだと思えばいいじゃないの。トイレに行ったり背伸びをしたり、欠伸《あくび》をしながらあたりを見まわすのも、ときには必要だろうじゃないか。どうせスペクタクルは、すぐまた再開されるんだもの。
タの件、そう伝えておいてくれるかな。しんとした東京も、また一興でしょうってね。
さてと、もう少し眠るとするかな。おやすみ。
……ん、おや、もうこんな時間か。よく寝たなあ。いやいや、これが極楽さ。うん。
ええっと、ところで、ナ君の件がどうとかこうとか言ってたね。ああ、出てもいいかどうかということね。彼は出たがっているわけだな。若いからなあ、早く飛び出して存分に活躍したいんだろうよ。うん、なかなかのバイタリティーだからねえ。
でもね、まだ少し早いよ。もうちょっと待った方がいいよ。こういうことはタイミングが大事だからね。それを誤ると、せっかくのエネルギーが空費されてしまうからねえ。
ナ君、いましばらく待機だな。がっかりしないように、データを示して説明してやってくれたまえよ。気を抜かず、力を貯えておくようにってね。
ハ将棋でもしようか。なあに、大丈夫。これくらいなら頭の体操にちょうどいいんだ。さ、君からどうぞ。僕もなかなかこれで。ほほう、まずそこから来るか。なあるほど。じゃあ、こういくよ。ふむ、そう来れば、こう返しまして……
おや、これはまた凄い手を……
いやいや、何の何の……
とはいうものの、ねえ……
考える。考えますよ。黙考するから、しばらく待ってくれよ。ふうむ、突撃待ちねえ。
……………
……………
……………
眠ってるわけじゃないさ。
……………
……………
そう見えてもね、これで頭の中は。
……………
……………
もう、大変な高速演算なんだから。
……………
……………
……………
……………
……………
ふわあああ。失礼、やっぱり眠くなってきた。勝負はおあずけにしようよ。ね。
――ん? ここはマ街道。何でまた僕はこんな街道を歩いているのかしら。あれ、侍になっている。ははあ、夢を見ているわけだな。松並木。田んぼ。むこうに茶店がある。少し休んでいくとしようかな。許せよ。茶を所望いたす。おお、すまぬのお。いやいや。
ん、何と申すか。拙者がその方に無礼を働いたと申すか。何、わざと足をかけた? 馬鹿な。なにゆえに馬方ふぜいにそのようなことをいたそうか。ははあ、さてはその方ども、因縁をつけて酒手をゆすろうという魂胆だな。拙者を誰と思うか。天下に名高き浅……
いやいや、大望ある身じゃ。我慢をいたさねばならぬ。ここで怒ってはいままでの苦労も水の泡。こらえよう。いや失礼をいたした。
これこのとおりじゃ、許してくれ。
何、土下座をしろと。犬になって股くぐりをせいと。その方ども、天下のマ街道において武士たる拙者に。ううむ。もはや我慢がならぬ。斬《き》り捨ててくれるから、それへ直れ。
いや、待て。大望ある身じゃ。ならぬ堪忍を、するが堪忍じゃ。失礼をいたした。土下座をいたす。殿、御覧下され。拙者は殿のためには、このような我慢をも。ううう。くくくく。い、犬にもなり申す。股もくぐり申す。ワンワン。ワンワン。うっ、いまに見ておれ、ヤ連合の首領。貴様に出会いし暁には、この恥辱いっときに晴らしてくれるぞ。おのれ、ヤ連合の狼めら。ワンワン。ウウ、ワンワン。キャイーン、キャイーン――
ああ、嫌な夢だった。どうも、ああいう夢は寝醒めが悪いなあ。いや、ヤ連合のボスが出てきてねえ。そう、あの男だよ。
ということは、これはやっぱりあれかなあ。僕はいまだに無意識層では、彼を許してはいないということなのかなあ。ふうむ、長びくものだねえ、怨念というやつは。
となると何だね、彼に対しては、いっそはっきりと宣言した方がいいのかもしれないね。言葉だけで許した忘れた水に流したと言っていても、これじゃあ、いつ無意識層の留め金がはずれて、怨念の濃いやつが噴き出さないとも限らないからねえ。そのうち決着をつけるか。
え、ラ学会の人が来ている? ああ、あの件のフォローだな。ま、入ってもらって。
いやあ、どうも。ええ、例の件。それはよくわかっておりますが。でもねえ、私も、いまは単なるモグラモチですからねえ。せめてもう少し歳の功を経て、同じモグラでも土竜といわれるほどにならないと、とてもその件に参加は。かえってそちら様に。また、社長夫人も、遂には鵬となるならばいいのですが、そのためにはいま鯤《こん》でなければならぬから、ひとつそのあたりを御推察いただきたいと、かように言っておられたし。
まあ、蝉《せみ》でも蚕でも、雌伏《しふく》の長い物ほど雄飛の姿は美しく、しかし短いと、こう相場が決っておりますからねえ。ま、そういうことで、私は今回は御遠慮させていただきたく。はい。はいはい。まことにどうも。
それはそうとワ計画はどうなっていたっけ?
なるほど、他日を期すということで。ふむふむ、なるほどね。ま、あれも微速前進にしておいた方が安全だものね。ああ、そうか、まったく忘れられるのも困るから、ときどき小出しにね。うん、それもいいだろう。
ま、僕もね、この先の自分自身の動きに関しては、その線で行こうと思っているんだよ。いまはまだ以前のようには活動できないけどね、そのうちだんだん良くなって、力がみなぎってくるだろう。ボルテージが高まってくるだろう。そしたら、少しずつ活動を再開してね、次第に元に戻してやろうと思うんだ。
それこそ、ワ計画みたいに、ワッとね。
いや、それは勿論、何から何まで以前のままというわけにはいかないだろうさ。正直言って、前の奮闘で、エルネギーを出しきった感もあるからね。ま、若干は勢いも弱まるさ。でも、急がないことに決めたからね。
休み休みでもいい、しぶとく活動してやろうと思うのさ。君、三年や五年くらい、何ということもなく過ぎるよ。焦らなくても、十年も待てば、また僕の時代がくるよ。勝海舟が、そう言ってるじゃないの。ねえ。あがいても仕方がないときには、膝《ひざ》を屈して十年じっとしていればいいってね。うん、本当。
さあて、あらためて眠らせてもらうとしようかな。世の中に、寝るほど楽はなかりけり、浮世の馬鹿が起きて働くってね。僕も変わったものだなあ。え、歳? それはまあ、歳のせいもあるかもしれないけどね。
険が取れて、やわらかくなってきた?
ふっふっ。とはいえ、内に秘めたバイタリティまでは、失ってはいませんけれどもね。
さ、眠らせてもらうよ。食事の時間になったら起してくれたまえ。じゃあ、お休み。
……え、何? 食事?
ン。
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礼 状
七月も終りに近づいた土曜日の午後、下村由紀は会社からまっすぐアパートへは帰らず、私鉄のターミナル駅にあるデパートにたちよった。
別にこれといった買物があるわけではなかったが、珍しく定刻の二時にオフィスを出られたのが嬉《うれ》しかったし、給料を貰《もら》ってまだ間がなく財布は分相応に豊かだったし、何よりも、クーラーのない部屋へ帰るにはまだ暑すぎると思ったからだった。
「ワンピースとジューサーはボーナスで買っちゃったし」
彼女は心のなかでつぶやきながら、ゆっくりと売場を見て歩き、でもまあ、何かちょっとしたいい物があれば買ってもいいなと考えた。
「だって、ボーナスが予想より二万円も多かったんだもの。少しくらい使ったって大丈夫なんだわ……」
ファッション、電化製品、家具売場。フロアを順にまわり、しかしそのちょっとしたいい物はみつからなかったので、口をとがらせて催物会場へとあがった。
「こっちが大丈夫のときには何も見つからないんだから。うまくいかないわねえ」
そして会場に入ったとき、現在の自分には関係のなさそうなゴルフ用品のバーゲン・セールとともに、私鉄沿線の観光物産展もこぢんまりとながらひらかれているのを発見した。
江ノ島・箱根・伊豆。どうやらそれは、夏休みの家族旅行を狙《ねら》った、まあ、しないよりはした方がましだろうという程度の展覧会らしかった。その証拠に、アルバイトの学生が二人、気のなさそうに番をしているだけで、客の数もあまり多くはない。
「降りようかな」
由紀は思ったが、そのとき芦ノ湖の遊覧船が写っているポスターが眼にとまり、突然ある人物のことを思い出したので、立ちどまった。
「出羽《いずは》さん、元気かしら」
それから、こう考えた。
そうだ、すっかり忘れていたけど、結局今年の社内旅行、箱根へは行かなかったんだわ。出羽さんがあれだけ熱心にこまかく計画を立ててくれていたというのに……
一泊二日の社内旅行はちょうど先週の土曜日曜に実施されたばかりであり、それは由紀の属する総務課の若い社員の発案で、浅間山へ行ってきた。小さな運輸会社にしては思いきった特例で土曜日を臨時休業とし、創業二十周年並びに前月の扱い高新記録を祝ってきたのである。
「それはそれで楽しかったけど、そして私もすっかり忘れていたんだけれど」
由紀は展示品を眺めて、ほっと息をついた。
「でも、それでは出羽さんがかわいそうだわ。何だかとっても気の毒だわ」
去年の秋に停年で退職した元の上司の顔を思いうかべ、彼女はしばらく展示品に眼を走らせてから、ひとつうなずいて絵葉書に手をのばした。
「嘘でもいいから、礼状を出してあげよう」
そう決心したからだった。
総務課長の出羽邦雄は、高校を出て上京し就職したばかりの由紀にとって、最初はさっぱり見当のつかない存在だった。
トラックの運転手を除けば十数人しか社員のいない小さな会社で、彼は明らかに孤立していたのだ。第一、社長以外に、彼ほど年齢のいっている社員がまずいない。四月に由紀が入って九月に出羽が退職し、聞いてみればその先数年間は停年になる人がいないという。
また、仮にそれらの人が停年に達したとしても、創業時に転職してまで社長を助け会社を大きくしてきた仲間なのだからという理由で、そのまま残ることになるだろうとの噂《うわさ》もある。
なのに出羽だけは、誕生日がくると同時に退社ということになってしまった。
「あの」
由紀は、出羽が辞めてから、課長に昇格した元の係長に聞いてみたことがある。
「出羽さんて、どういう人だったんですか」
「どういう人って……」
普段は陽気でよく喋《しやべ》るその上司は、困ったような表情でぼそぼそとこたえた。
「まあ、ああいう人さ。半年も一緒に仕事をしていたら、大体の見当はつくだろう」
「ええ、それはまあ」
由紀はつぶやき、自分が何とか見当をつけたあれこれを、頭のなかで並べたててみた。
姿形はあまりスマートじゃなかった。私が見たスーツは三着だけで、それはみんな古びてよれよれだったわ。カッター・シャツは真白でパリッとしてたけど、あれはクリーニング屋さんに出してたのね。だって奥さんが病気がちで、あまり家のことができないとか聞いたことがあるもの。
顔は一応は整っていたけど、何て言うのかしら、眼鏡の奥の眼がおどおどしていて、ときどきあきらめたような表情で黙ってかすかに笑ったりして。あれはどうしてかしら。社内であまり相手にしてもらえないことを仕方がないとあきらめたのか。それとも、いつか聞いたことがあるけど、この会社に来る前に何かお店をやっていて、そのとき一緒にやっていた友達に騙《だま》されたとか何とか、そういうことで人を信じるのをあきらめたのか。
仕事は正直言ってあまりできなかったみたい。その証拠に、私が入ったとき段取りを教えてくれたのは係長さんだったし、慣れてからよく見ると、結局出羽さんがやっているのは、伝票に判を押すことと、備品の購入手配とか社内旅行のプランを作るとか、そんなことばかりだった。あのときの旅行は日光へ行ったんだけど、誰も本気で出羽さんの相談には乗らないから、私がいろいろと聞かれたものだわ。会社の運転手さん達にバスのなかで配る酒は、ビールがいいと思うか日本酒がいいと思うかとか……
それらを由紀が思い出して上司に話し、でもつまりどんな人だったのかはわからないんですと言うと、相手は首をふってつぶやいた。
「まあ、言ってしまえば弱い人だね」
「弱い?」
「というより、弱いと判定されても仕方のない人だね。サラリーマンの世界では」
「どうしてですか?」
少し気色ばんで由紀は聞き、すると上司は苦笑しながら、まあ由紀ちゃんにはまだ難しいかもしれないけどねと教えてくれた。
「そりゃ確かに、出羽さんは気の毒な人かもしれない。公平に言って、気の毒な人だったんだろうさ。でもね、それを本人が売物にしちゃいけないんだよ」
「売物だなんて、そんな」
「その言葉がきつければ、話題にと言いかえてもいい。第一、昔商売をやってて人に騙されたなんてこと、入社したばかりの女の子に言ってどうなる。由紀ちゃんだから、まあ気の毒にと思ってもらえるけど、普通のサラリーマンに言ってごらん、私は馬鹿ですそう見なしてくださいって、自分で宣伝してるようなものだよ」
「………」
「まあ、だからこそあの人は、気の毒にと思ってくれる人を見つけては、言ってたのかもしれないけどね」
新入社した人間はほとんど全員、彼からその話を聞かされ、奥さんの病気の話も聞かされ、そしてそのうちうるさくなって彼を敬遠するようになるのだという。由紀は半年のつきあいだったからそこまでには至らなかったが、話相手になれば際限なくうちあけ話をつづけるしつこさに、皆うんざりしてしまうからだというのである。
「例は悪いけど、乞食に自分は何故に乞食にならなければならなかったかを延々と訴えられたら、いらいらするだろう。それと一緒だよ。確かに気の毒だ。しかし、だからといって、ではこの俺にどうしろと言うんだという気になる。そしてあの人は、乞食ではなく同じサラリーマンなんだからな。しかも、こっちにはやらなければならない仕事がある。自分に仕事がないからって、人の仕事の邪魔をするのは第一失礼だよね。怒るか無視するしかない」
随分冷たい言い方をする人だと由紀は思い、上司の顔をじっと見つめたものだった。
「冷たい言い方だと思ってるだろう」
すると相手はその心を読みとり、さらにつけくわえたのである。
「ま、そういう態度をとらざるをえんわけさ。弱味を陳列して人の気をひこうとする人にはね。だって、会社ってのは戦う場所で、慰めあいをする所じゃないんだからね」
それにしても、あそこまで無視しなくてもよかったんじゃないかしら。
絵葉書を買ったあとパーラーに入り、ジュースを飲みながら由紀は考えた。
あれからいろんな人に折にふれて出羽さんのことを聞いてみたけど、皆が皆、鼻の先で笑うような返事をしたものだったわ。
「え、なぜこの会社に入ったのかって?」
ここでフンがあって……
「社長の恩人の友人の何とかだとさ」
あるいは、どうして仕事を与えられなかったのかという質問には、まずフンがあって……
「まあ、少なくとも仕事をしなけりゃ、月給以上の損害は出ないもんねえ」
結局のところ、いない方がいい人物、いるのならせめて静かにしていてほしい厄介者と思われていた。そして本人もそれを認めたのか、判を押し、旅行の計画を一カ月ほどもかけて立て……
「そういえば、確かに際限がなかったわ」
由紀は上司の言葉を思い出し、退職の日を待つばかりの出羽が、自分は参加するはずもない翌年の旅行のプランを、いやに熱心に立てていた様子を思いうかべた。
「箱根なんかどうですかねえ」
気弱な微笑をうかべて私に聞く。
「さあ、いいんじゃないですか」
書類整理の合間にこたえると、急に元気づいて顔を突き出すようにして……
「箱根でいいですか。皆はどうでしょうね。行った人が多ければ困りますし。ねえ」
それからは、ほとんど毎日と言っていいくらい、その話ばかりをしていたものだった。
バスを借り切って行くのがいいと思いますか、それとも電車がいいですか。
土曜の午後から出るとして、途中で軽い食事の用意をした方がいいでしょうか。それとも、ビールとおつまみくらいにしておいて、着いてからの楽しみにおなかを減らしておいた方が皆が喜ぶでしょうかねえ。
昼休みには他の部課の人をつかまえて質問し、しかしそれらに対する答は苦笑または冷笑だったため、そして総務課の他の人達も適当にあしらってまともにこたえなかったため、質問はもっぱら私が受けることになった。
そしてある午後、出羽さんがいないときに、係長さんが言ったっけ。
「由紀ちゃん、あまり本気で返事しない方がいいよ。どうせ机上プランなんだから」
「でも」
こたえようとした私に、声をひそめてつけたした。
「放っておくのが思いやりってこともあるんだよ」
あのときはまだ例の「弱い人だ」という説は聞いていなかったから、私は係長さんを冷たい人だとも思えず、何のことかさえ見当がつかずに黙り込んでしまった。
だけど、やっぱり出羽さんが気の毒だと思ったから、できるだけ相談には乗ってあげた。そしてそれでよかったのだと、いまも思うわ。係長さんも他の人達も、やはり冷たすぎるのよ。だって、弱い人なら、なおのこと気を配ってあげるべきだもの。それを、放っておくのが思いやりだなんて……
「でも、まあ、確かに際限がなくって、私もさすがにうんざりしたけれどねえ」
ジュースを飲み終え、帰る仕度をしながら、由紀は思い出してうふっと笑った。
日曜の昼食は弁当にして外で食べた方がいいでしょうかね。それとも、どこかレストランで好きな物を注文してもらった方が。
救急箱をやはり持っていった方がいいと思うのですが、下村さん、あなたその係になってくれますか。
一年ほども先のことを、よくそこまで細かく考えられるものだ。彼女はあきれ、珍しく素気ない返事をしたことがあったのだ。
「そんなの、そのときになってから決めればいいんじゃないですか」
そして、言ってからしまったと思った。そう言ってしまえば、いま出羽のやっていることすべてが、そのときになってから決めればいいことなのだ。
「あのときは気まずかったなあ。出羽さん、顔を真赤にしちゃって。悪いことをした」
その申訳なさをふり払うように由紀は立ちあがり、レジへと歩いた。
「とにかく、礼状を出してあげよう」
住所は、アパートに帰って年賀状を調べればわかる。
それに、会社の人は誰もつきあってはいないから、今年箱根へは行かなかったってこと、出羽さんが知ってるはずもないものね。
でも、もし私の礼状を見て会社に電話でもかけてきたらどうしよう。いいわ、交換手の小母さんとうちの課長さんにはわけを言って、かかってきたらうまく話を合わせてもらうようにしておけば……
由紀は自分の計画に満足し、人を喜ばすことのできる嬉しさに、うきうきとしてデパートを出、駅へとむかったのである。
いまから帰っても、アパートはまだまだ暑いにもかかわらず。
「何だって」
それから一週間ほどが過ぎたある日、昼食をとったあとの喫茶店で、課長は由紀の言葉に声をあげ、飲みかけたコーラのグラスを宙にとめて彼女を見つめた。
「君、本当にそんな礼状を出したのか」
眼を見ひらき、声を少しとがらせている。
「わざわざ箱根の絵葉書を買って、あの人に出したというのか」
「出しました」
由紀はこたえ、課長の表情と口調に、彼女には珍しくこう考えた。
驚くのはわかるけど、何もそんなに不愉快そうに聞き返さなくてもいいじゃないの。出すのは私の勝手でしょう……
「放っておくのが思いやりってこともあるって、以前に僕が言っただろうが」
だが課長はますます表情を険しくし、なじるように聞いてきた。
「君は僕が、ただ冷たくて放っておいたと思っていたのか。旅行の件も、ただもううるさいから知らんふりをしていたと考えていたのか」
「………」
「あのねえ、由紀ちゃん」
黙り込んだ由紀に、相手はふっと肩の力をぬき、いつもの口調に戻して言った。
「君は思いやりのつもりで、実はあの人に恥をかかせるようなことをしたんだよ」
「なぜですか。私はただ」
ただ出羽さんが喜んでくれればと思って。
それに、あれが嘘だってこと、出羽さんがわかるはずもないし。もしわかるとすれば、それは会社に電話でもかけてきたときだから、それで私はこうして課長さんにお願いを……
しかし、そうやって自分なりに理路整然と説明する由紀を制し、課長は言った。
「じゃあ聞くけど、出羽さんが、そのときの写真を送ってくれと言ってきたらどうする?」
「えっ」
「話を詳しく聞かせてくれと、会社までやってきたら、どうするつもりなんだい」
「それは……」
ぐっと詰まった由紀を見つめ、課長はふうっとため息をついてつぶやいた。
「やるなら、そこまで考えてくれなくちゃ、親切にも何にもならないよ」
由紀はさすがに自分の行為を軽率だったと思い、顔を赤らめておろおろと質問した。
「あの、出羽さん、会社まで来るでしょうか。来たら、どうしましょう」
「来ないよ」
課長はむしろ淡々とした調子でこたえた。
「来ないさ。来なくても、その礼状が嘘だってこと、調べればちゃんとわかるものな」
「……どうしてですか」
「あの人が、なぜ箱根箱根と言ってたと思う」
彼は、遂にこらえきれなくなったように怒りの声を出した。
「出羽さんはね、今年の春から箱根の旅館で働いているんだよ。奥さんの親戚を頼って、二人で住み込んでるんだよ」
「………」
眼を大きく見ひらき、口をあけたままの由紀に、課長はまくしたてたのである。
「君の絵葉書、いま頃は転送されて箱根へ行ってるよ。それを読んだときの出羽さんの気持はどんなだと思う。放っておかれるのと、二十歳前の女の子から憐れみをかけられるのと、どっちが辛いと思う。しかも、放っておけば、来年でも再来年でも、ひょっとして社内旅行は箱根ということになったかもしれない。そうなればなったで、お互いにやあやあやあですむんだ。なのに君が礼状を出したばっかりに」
がぶりとコーラを飲み、トンとグラスを置いた。
「もう箱根へは行けないじゃないか。行けば残酷だから、仮に皆が出羽さんとは関係なく箱根行きを提案しても、僕がその手配をできるわけがないじゃないか」
投げた小石の波紋が大きすぎ、どうしていいのかわからなくなって、由紀は涙をぽろぽろとこぼし始めた。
「私はただ……、私はただ……」
「そりゃ悪気はなかっただろうさ」
課長は静かに言った。
「確かに善意でしたことだろう。それはよくわかる。でも、結果として、それがこういうことにもなるんだ。放っておけば、少なくとも恥をかかせることにはならなかった。由紀ちゃん、サラリーマンの世界は、これでなかなか難しいんだよ」
彼はつぶやいた。
「その礼状、何かの間違いで戻ってこないかなあ。転居先不明とか何とかで……」
そして、それからさらに一週間後――
アパートに帰った由紀は、郵便受けに絵葉書を見つけ、それをつかんだまま部屋に駆け込んで、畳に突っ伏してわあわあと泣きだしたのだった。
『絵葉書ありがとう。私も来てみました。大変気にいったので、ここで何か仕事を見つけようかと……』
それは、出羽からの礼状だったのである。
泣きながら由紀は、自分こそが実は出羽を一番馬鹿にしていたのではないかと思い、こんなことで辞めるなんて言いだすなよという課長の言葉を思い出して、考えた。
辞めないわ。せめて人を放っておくことができるようになるまでは……と。
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夏の終りのデケイド
小学校五年の甥《おい》が、絵入りの日記帳をかかえて遊びに来た。
父親の転勤でアメリカへ行き、ニューヨーク郊外のチャパカという街に住んで約一年。
夏休みを利用して、いま日本へ帰ってきているところである。
陽に焼けており、身長が少し伸びて、短く刈っていた頭はウルフ・カットに変わっている。
「英語|喋《しやべ》れるようになったか」
「うん」
日本人学校ではなく現地の公立小学校に入り、初めは四歳児程度の会話力と判定されたということを聞いていた。人ごとながら気になり、大丈夫かなと思って質問したのだが、答を聞いて驚いた。半年目に、小学校五年のレベルと認めてもらえたというのである。
では試しにと喋らせてみると、手におえない発音をする。ハピー・バースディはハッパステーであり、友達のギルバート、動物園でみたヒポトトマスなど、こちらが真似することさえ不可能な口の動きである。
そして、日記帳にもいくらも英語がちりばめられている。キャンプに行って木の枝で家を作って遊んだ。その建築手順の図解には、生意気にも、How do we made a stick house. とタイトルをつけている。完成して友達と喜びあった言葉は日本語で記されているが、それは「これは世界の中で一番いい家だと言いあった」である。世界中ではなく世界の中でと書いているのが、いかにも直訳風でおもしろい。
さて、そうやってあれこれ質問しながらページをくっていくうちに、学校で発表会があった日の、こういう記述が眼に入った。
「僕達は Decade をした。Perfect だった」
ディケイドかデケイドか、発音は見当がつくが、意味がわからない。
「これは何をしたんだ」
「劇だよ。この十年間のことを語るんだ」
劇の種類をいうのか、十年間のことを語るのが元来の意味なのか。重ねて聞いても、デケイドはデケイドとしか言えない様子だったから、立ちあがってリビング・ルームを出、仕事部屋に入った。机にむかい、コンサイスを引いてみる。
Decade=十年間、十、十から成るひとくみ。
なるほどと納得し、十年間という長さを一語で表わす単語があるということに、おもしろみを感じた。いじくれば何か出てくるのではないかという、試考への誘惑である。
対応する日本語で思いつくのは「ひとむかし」だが、この言葉には何も感じない。デケイドと聞き、十年間の出来事を語る劇と聞いて、じわじわと頭が働きだしたのである。
「劇はどれくらいの時間でやったんだ」
後について仕事部屋に入って来、SF図鑑のたぐいをひろげている甥に聞いてみた。
「三十分くらいだよ」
「それで十年間を語ったわけか」
「そうだよ」
そのまま図鑑に熱中し始めた。
ふうん、三十分で十年をね。僕はつぶやき、これは俺の好きな|仕掛け《ヽヽヽ》だなと考えて、メモ用紙を用意した。
「デケイド。十年間を短くか……」
そして、頭を遊ばせながら、思いつくままにメモをしていった。
たとえば『すっとばしニッポン史』という短篇を書きたいとは、以前から考えていた。
縄文から原子力までを五十枚ほどで、アッという間に。波瀾万丈のサーフィン感覚。
だが、まだ書けないでいる。なぜなら、すっとばしてもそれが単なる羅列に終らないだけの日本史に対する視点、大仰にいうならば自分なりの史観というものができてはいないからである。
しかし、全史は無理でも十年史はできるのではないか。たとえば六〇年代あるいは七〇年代のデケイドは。世相・風俗・大事件。
いや、これも駄目だ。やはり視点がいる。
第一、それがなければ、雑多な断片のどれとどれとを抽出すればいいのかさえ、決められないではないか。ふむ、どうしたものか。
「ねえ、時間旅行って本当にできるの?」
顔をあげて甥が聞いた。
「いや、いまの段階では仮説だから……」
待てよと、そこで考えが飛躍する。
視点にこだわらず、時間旅行者の眼によるデケイドをやればいいのではないのか。
たとえばパック旅行の参加者は、決められたコースを決められた時間内に移動する。その経験だけをもって行った土地を論ずるのは無謀なことだろうが、とりあえずそれは「見る訓練」にはなっているであろう。対象に関する視点をつくるのはその先のことだ。
そもそもが視点というものは、多くの事実を検討して、そこから帰納的に抽出するものなのだからな。まずは手近なところでその作業をやってみて、うまくいけば次へ進むというのが、妥当なやり方なのではないかな。
ニッポン史はそのまた先の、先のこと。
手近といえば自分。自分の七〇年代。
いまは八月二十七日だから、仮に七一年の八月二十七日を旅の出発点とし、そこから現在に至る八月の三次元カレンダーを重ねておいて、|縦に《ヽヽ》一年|横に《ヽヽ》一日ずつ移動してくるというコースはどうだろう。
これを時空間上に残るパック旅行者の足跡としてみるならば、積層世界を過去から現在へと通過する、バイアスのかかった十段跳びということになるはずだ。勿論途中で九月にも入りこむが、それは別にかまわない。
要は、任意に定めた枠のなかに何が現われてくるかを見るのが、この旅の目的なのだからな。そう、別のたとえをあげるならば、主観をもたぬ探査カメラの時空間移動ともいえる。
何かを考えるのは、それが送ってきたシーンを見ながら、あるいは見てからのことなのであって、とりあえずは……
そこまで考えて僕は心を決め、甥に言った。
「ちょっと叔父さんはデケイドをしてみるからね。その本持っていってもいいから、しばらくむこうの部屋へ行っていなさい」
そしてカメラを自分の大脳内に送り込み、七一年八月二十七日からのバイアス十段跳びを開始したのだった。
[#地付き]-10
大手前の合同庁舎3号館建設現場を撮影し、昼食をとったあと、小巻さんの車に同乗して、安治川河口の工場地帯にある汽車製造大阪製作所へむかった。
小巻さんはフリーのカメラマンで、いままでにも何度も、一緒に仕事をしている。髪の毛の硬そうな、眼玉の大きい、背は低いが肩幅の広い人である。年齢は僕よりひとまわり以上も上。だから、学校を出て一年余りの僕としては、乏しい知識を補強してもらいながら、かつ、広告代理店の制作部員としての指示や注文を出すという、あやうい綱渡り的な立場に「つらさ」を感じることがある。
小巻さんがていねいな言葉遣いをする人だけに、なおのことつらいのである。
「そんなにディレクター扱いしないでください。実は駆け出しの半素人なんですから」
言ってしまいたくなり、言って甘えてはいかんのだということもわかり、言わなくても相手は先刻承知さとも思って、中空に張った薄紙の上を歩いているような気になるわけなのだ。
それに加えて、いま進めている仕事は、建築会社から受注したビル建設の新工法PR用スライド制作であり、僕は他の仕事数件をこなしながらの担当だから、じっくりとそれについて勉強する時間もない。とりあえず上司と一緒に先方へ出かけていって話を聞き、わからない用語は建築用語辞典を引いて調べる。
そのくり返しでのろのろと進行させているため、ときにどっと不安感に襲われる。
「あるとき突然、俺は実は何もわからぬままこの仕事をしているのだと、小巻さんに見透かされてしまうのではなかろうか」
大きな眼玉で見つめられると、背中にスーッと冷たいものが走るのである。
「次は熔接現場ですね」
運転しながら小巻さんが聞く。
「そうです、鋼管の熔接です」
助手席で、僕はあわてて撮影台本をひろげてこたえる。そして心のなかで暗誦する。
なぜ熔接のカットが必要かといいますと、この工法は基礎工事に特徴があるわけで。最初に地下三十メートルまでボーリングし、その穴をひろげて鋼管を埋め込み、それも大口径小口径の二本を二重に埋め込み、内管から地盤強化用のベントナイト混合液を送り込みつつ、外管から地下水を吸い上げるという。そしてそれが完了したならば、大口径管はそのままパイルとして利用するという、それが売物であるわけですので……
だが、そうやって答を用意した僕の予想に反し、小巻さんは全然別のことを言った。
「汽車製造には以前にも別の仕事で撮影に行ったことがありますが、あそこは凄いですよ。あれこそ生産の現場、男の職場ですね」
「そうですか……」
それはさっきの建設現場でも感じましたと、僕はこたえる。
組みあげられた鉄骨の五階まで登ったでしょう。ヘルメットをかぶって命綱をつけて。
あの命綱、太いナイロン・ロープを腰に巻きつけ、その先端のごついフックをがちりと安全索にひっかけたとき、僕は噴き出していた汗がすうっと引くような快感を覚えましたよ。
ああ、こういう所こそが「生産」「産業」「職場」という言葉に値する場なのだな。
机にむかい、紙と鉛筆をあやつって、新発売だの秋のニューモードだのすてきな貴女への贈物だの、空虚な言葉を並べている俺なんか、こういう所で働く人の前では小さくなっていなければならんのではないかなと、本心からそう思いましたよ。結局、僕達のやっていることなんて……
つい考えがそこに行きかけたとき、車が汽車製造の現場に着いた。係の人を呼んでもらい、小巻さんと一緒に機材をかついで熔接工場へと歩く。
ストロボ用のバッテリー・ボックスは重いが、その重さがかえって嬉《うれ》しいという気持になる。
「ま、俺だってこうやって身体を動かして働いているんだからな……」
しかし、その程度の「正当化」は、工場へ入った途端にふっとんでしまったのだった。
広く天井が高く高く、そのくせ薄暗い棟の内部は、黒びかりする肉厚大口径鋼管の山だった。油と赤錆《あかさび》ときらりとひかる金属粉におおわれたコンクリートの床の上に、何十トン何百トンの鋼鉄管が横たえられ、積みあげられ、その質量の緻密さと体積の巨大さを見せつけていたのである。しかも、無造作に、平然として。
こんな物の前では、人間の身体の何と壊れやすい華奢なことか。この鋼管を思いきり蹴ってみろ、折れるのはこちらの足で、むこうには傷さえつかないではないか。両者を全速力で激突させてみろ、ぐしゃぐしゃの肉塊と変じるのは俺の身体であって、相手はそれを付着させたまま、微動だにせず存在しつづけられるではないか。
「………」
不意にかん高いサイレンが天井で鳴り響き、見あげると棟の奥から、巨大なホイスト・クレーンが大口径管を吊り上げて移動してきていた。天井の全幅にわたる鋼鉄のビーム。その片隅にはボックス型の運転室を懸吊《けんちよう》し、中央部に管を吊って、それはサイレン音で熱く乾いた空気を切り裂きつつ、轟々とこちらに迫ってきた。そして中央部で停止し、管を熔接機械の上に降ろす。降ろしておいて、するすると後退していく。途端に――
バリバリバリバリ。物凄い音がして電気熔接の火花が噴き上り、それは確実に五メートルの高さにまで達して、八方に砕け散った。つづいてもう一度、さらにもう一度の火の噴出。火山弾の如き火花の軌跡。
圧倒され、呆然となって、僕はその場に立ちつくしていた。轟音と震動のなかで、立ちつくして、ただ見つめているしかないのだった。
小巻さんが耳元で何か言った。
「えっ?」
聞き返すと、今度は叫んだ。
「ねっ、物凄いでしょう!」
「ええ」
叫び返しながら、僕は、自分の声の何とかぼそいことかと感じていたのである。
[#地付き]-9
「もうあと三日だ。あと三日たてば、俺は自由の身になれる」
梅田新道近くのビルの地下にある録音スタジオ「アート・ボン」、そのミキシング・ルームで、僕はタレントの女の子が来るのを待ちながら、ぼんやりと考えていた。
痛む左眼に眼帯をかけているため、調整卓の上に置いたラジオCMの原稿が、変にくっきりと片眼に入ってくる。
ファッション・ブティック「エルメ」初秋篇二十秒。録音日八月二十八日。放送開始日九月一日。放送局ラジオ大阪。
これをいまから録音してそのまま局へ届ければ、明日からの三日間は雑件処理のみ。
九月一日には、僕は好きなだけ朝寝を楽しめる身分になっているのである。といって、では朝寝から醒めてのちはどうするのか。それはまだ決めてはいないが、何とかなるだろう。社内のU次長はビデオ制作のプロダクションに行かないかと話を持ってきてくれ、Y主任は某大企業直系の制作スタジオを紹介すると言ってくれている。また、社外ではアニメーターのF氏が、中堅代理店の制作部を受けるならば口をきくとささやいてくれた。
さらに、それらがすべて駄目であったとしても、いまのこの会社に入ったときのように新聞の求人広告を丹念に見ていれば、募集はいくらでもあるだろう。制作で経験三年ならば、まずは「買われやすい」経歴なのだ。
「もう耐えられない。これ以上ここで働いていると、人間がいじけてしまう」
「飛び出したって、何とかなる」
ふたつの考えが半年ほど前から次第に強くなり、遂に八月初めに辞表を出してしまった。
それから今日まで、もうすぐだもうすぐだと自分をなだめつつ、無茶苦茶な仕事をこなしてきた。だが、それももう終りなのだ。
「ざまあみろ」
僕は思い、よくもまああれだけ俺を使いやがったなと、この一カ月のことを考えた。
入社以来担当している送稿管理や単発の文案作成に加えて、ラジオCMを三社分作ってディレクトし、テレビの生CM台本を四本書いて、うちあわせや立ち会いで局に通った。
使用する小道具類やフリップ・カードも、すべて一人で手配し、運び、伝票を切った。
木材商社が系列販売店に月一回郵送する、カセット・テープによるSP講座一時間物の台本を書き、講師の手配をし、録音と編集のディレクションをして、テープ約二百本に特製のラベルを|貼った《ヽヽヽ》。
そして、さらに、これと並行して、大阪ミナミの商店街の連合広告用十五秒フィルムを、一店分の予算十五万円で、十店分を、実質二週間で完成させた。いや、させられた。
制作費の相場は、大阪において秒十万円といわれており、この十分の一の値段で完成品をでっちあげるために、まず上司が削ってきたのは人件費。したがって僕は、社外コンテ・マンのFさんに助けてもらいながら、昼間は炎天下の御堂筋や道頓堀でディレクター兼助手兼進行役を勤め、夜はコンテの再検討をし、そして帰宅してから前記の原稿や台本を書いてきた。日曜出勤三回残業百数十時間で、真実、ふらふらになった。
「このままでは倒れます。早く次の人を入れて、仕事を分担させてください」
「まあ、もう少しやってみろ」
このくり返しで時間がたち、さて、左眼を真赤に充血させて昨日ようやく完成させると、相手は軽くこう言った。
「な、一人でもできただろ」
くそ、殺してやろうか。嘘でもいいから、本当に部下掌握用の甘言でもいいからカメラマンの爺さんのように、こうは言えんのか。
「何から何まで、あんたも一人で大変だな」
しかも、先輩社員の耳うちによれば、後任は二人であり、かつ、生CM台本は外注に出す予定であるという。
「人が文句を言いながらも、仕事は何とか恰好をつけると思って、いいように使いやがったな。忘れんぞ、このことは」
しかし、まあ、それもあと三日で終り。実質的にはこの録音で終るのだ。ざまあみろ。
俺は「負け」て「音をあげ」たりはしなかったぞ。哀願をせず、要求のみをしつづけたのだぞ。それを入れなかった罰に、俺が辞めてのちは、二人分プラス外注の人件費を払うがいいさ。社長賞一万円、それで俺がすべてを水に流すと思っているのか――
考えているところへ、タレントの女の子、桜井嬢が入ってきた。ころころとした身体でミキシング・ルームのドアを押しあけ、僕の顔を見るなり、彼女は言った。
「どうしたの。おととい、局ですれ違ったときには、何もなかったのに」
「部長と殴《なぐ》りあいをして、やられた」
「本当?」
「嘘嘘。過労で充血ですよ」
「ああ、びっくりした。本当かと思った。ときどき、いまにもそうしそうな顔をしてたからね」
彼女が原稿の下読みを始め、ミキサーも入ってきて、あとはクライアントの担当者が来るのを待つばかりとなった。
「実は僕、これが最後の録音でして」
この言葉をいつ出そうか。思いながら僕は、心のなかでつぶやいていたのだった。
「とはいうものの、少し残念だな。このエルメのCM、遊びの気分で作れて、それなりに評判もよかったのにな」
[#地付き]-8
妙な慣習で二十八日が月給日だから、月末月初は毎日でも飲みに行ける。昨日貰ってさっそく飲みに行き、今日も六時に社を出て、そのまま桜橋の地下街へと直行した。
本当は早く帰って風呂にでも入った方がいいのだろうが、疲れている自分をもっと疲れさせてやろうという、マゾヒスティックな、あるいは自分自身に対するサディスティックな感情がおさまらないからである。
プランナーとしての仕事は、いくらでも出てくる。ステレオ拡販の企画が収束段階に入ったと思う間もなく、エレクトーン教室秋の生徒募集キャンペーンを、大阪と神戸の二支店分担当しなければならなくなった。春の募集と同様、企画内容が決って動き出すまでに、時間と労力の空費に近い、会議と根まわしと試案の連続提出にまたつきあわなければならないだろう。
今日、六時に社を出られたのは、たまたま営業の担当者がまだ帰社していなかったからであって、これは逃亡と言ってもいい退社なのだ。
疲労|困憊《こんぱい》と精神のいらつきは、実に一週間ほど前から自覚していた。そして僕はそういう場合の癖で、読みきる時間もないのに本を手あたり次第に買い込み、発作的に通信販売でシアーズ・ローバックの一九〇八年版商品カタログを購入し、さらに、いますぐ必要だというわけでもないのに万年筆を一本買っていた。
発散とうさ晴らしのための暴れ買いである。
だが、それでどうなるものでもなく、昨日からは無茶飲みの段階へと入った。
普段の酒の求め方ではなく、とりあえず自分に対して無茶をして、いまのこの状況をばらばらにし、マイナスもプラスもないゼロにし、そこからひらきなおろうという、切実な求め方、必死の求め方である。
昨夜はデザイナー連中三人と飲みに行き、立ち呑《の》みの岡田屋から始めて、お初天神横の焼鳥屋初鳥、どこかのビルの三階にあるスナック、そして最後はほとんど天神橋に近い場所にある安物のバーへとなだれ込んだ。
七時過ぎから十二時過ぎまで、桜橋から天神橋までのはしごである。
タクシーで帰り、数時間眠ってまた大阪へ。八時間会社にいて、また岡田屋へ。多分、今夜も電車はなくなるだろう。
相棒はデザイナーの滝さん。こちらが帰ろうと言わない限り、小柄ながら日本酒ならば一升が二升でも飲む人である。
「今夜はどういうコースで」
「ワッと飲んで、どうですか、西九条へ飛びませんか。ひさしぶりに一発」
「ふん、西九条ね」
「気が進みませんか」
「進まんことはないけど、それよりもじっくりと腰をおちつけて、今夜はサウナに泊るというのは」
「ああ、それもよろしいなあ」
そして約六時間後、僕と滝さんは飲み屋三軒及び西九条を経由してふたたび桜橋に戻り、市街地改造第一ビルの地下を歩いていたのだった。
「サウナの締切は何時でしたっけ」
「まだまだ大丈夫、午前三時まで」
「じゃあ、もう一軒か二軒」
かなり飲んで酔いはまわっているはずなのだが、自分でははっきりしたものだと思い、物足りなくなって僕は言った。
「何かこう、無茶苦茶がしたいですね」
「ふん」
滝さんは立ちどまり、まだ動いている前方の無人のエスカレーターを見つめ、それからシャッターを降ろした喫茶店の前にある、自分の背の高さほどもある大きな鉢植えの木に眼をやって提案した。
「あの植木をエスカレーターに乗せてやるというのはどうだ」
「ああ、それはおもしろい。無茶苦茶ですね」
それから僕達は力を合わせて植木鉢をかかえあげ、よろめきながらそれをエスカレーターまで運んだ。タイミングをはかって、ステップの上に降ろす。
「ははあ、やっぱり上っていくな」
植木は人間と同じように直立して上まで運ばれ、しかし、降りることはできないのでしばらく揺れて立っていたあと、どさりと前方に倒れた。黙ってそのまま、じっとしている。
「わはははは」
笑い出してエスカレーターを駆けあがり、一階の誰もいないフロアに立った僕は、倒れたままの植木を見おろして突然愉快がきわまった感となり、その場で踊りだしていた。
「滝さん、どうですかこれは。タップ・ダンスです」
「おっ」
つづいて駆けあがってきた滝さんは、植木鉢を跳び越えて僕の横に立ち、コサックのダンスを開始した。半袖カッター・シャツ姿の僕は革靴をドタドタと鳴らし、ジーンズにテニス・シューズの滝さんは、軽がると、音もなく跳躍して足をひらいている。
大笑いに笑いながら、僕達は深夜の無人のフロアで、汗を流しつつ延々とそれをつづけていたのである。
[#地付き]-7
ちょっとした事情があって四月から一年だけ住むことにした、大阪国際空港近くの四畳半とキッチンのアパート。家賃は一万二千円でトイレは共同。すでにその生活にも慣れたので、そろそろまた原稿でも書き始めようかと、僕は考えている。
八月三十日。今夜は銭湯から帰ってきたあと、ウイスキーを飲んであれこれ考えた。
NULLの例会で知りあったエンジニアの堀という人は、しきりにドタバタを書けドタバタを書け期待しているからと言う。同じくNULLの人で微生物の研究をしているという山本氏は、送っておいた「逃げる」について、おもしろいから次の号に載せようと思っていますと言ってくれている。
また、去年応募したままになっていたSFコンテストの「決戦・日本シリーズ」も、結局落選してしまったが、書きなおせば参考作品として掲載してくれそうな雰囲気である。
仮にSFマガジンが無理ならば、NULLに分載してもかまいませんとも、初対面のときすでに、筒井康隆さんが言ってくれた。
「ひょっとして、俺は鉄棒をつかんだかな」
サントリー・レッドを水道の水で薄めた生ぬるいやつをがぶ飲みし、僕は思った。
自分のいままでの希望達成法をふり返ってみると、まず高い所にある鉄棒を見あげてあこがれ、そのまわりをうろうろし、人にもあれに飛びついてたとえば懸垂逆上りがしたいのだと話すところから開始していた。
そのうちに半気違い的にそればかり考える時期がきて、その圧力が高まりに高まったとき、意外に簡単に飛びついて棒を握ることができていた。握ってしまえば、その先は落ちないように気をつけ、精一杯力を込めて、じわじわと懸垂をすればいいわけなのである。
高校で落研をつくったときもそうだった。
大学の四年間広研におり、どうしても広告の仕事がしたいと考えつめていたときにも、結局この方法でそれを実現させた。
ならば、いつか自由業になりたい、なってやると思いつめている現在の俺も、このやり方でそれを果すことになるのではなかろうか。
なぜなら、自分では知らぬままにやっていたが、これは潜在意識を利用する「マーフィーの成功法則」にかなったやり方だったのだからな。
「しかし、まあ、実現するとしても、それはまだまだ先のことだろう。三十歳くらいが目途ではないのかな」
僕は畳の上に寝転がり、ジョセフ・マーフィーの教えに従って、自分がそういう仕事をしている姿を想像してみた。
こういう四畳半ではなく、どこかオフィス・ビルの一室に事務所を持てたらいいだろうな。机があって本棚があって。そうだ、デザイン・オフィスによくあるような、壁全体につくりつけられている多目的棚、ああいうのもいいな。そこにカセット・レコーダーを置き、ウイスキーを置き、船の模型を置き……
そのとき、吹き抜けになっている廊下で話し声がし、隣室のドアのひらかれる音がした。
「あ、また男と一緒に帰ってきやがった」
上半身を起こして耳をすます。隣りはハイ・ミスのOLであり、どうやら特定の相手がいるらしく、週に二三度は一緒に帰ってくる。
ときには畳をギシギシと鳴らし、Que・Queという声をあげて、僕を興奮させてくれるのである。
「まあ、物好きな男もいるものだな」
僕は彼女の鈍重そうな身体つきを思いうかべ、しかし興味は興味であるので、音を立てぬようにして壁際ににじり寄った。
案の定、しばらくの話し声のあと、ジッパーを降ろすシュッと鋭い音がした。
「俺は、この方面の鉄棒は全然つかめないんだよな」
思いながら僕は、耳を壁に押しあてたのだった。
[#地付き]-6
午後、会社を抜け出して中之島の阪大病院へ行き、精神科の福永さんを訪ねた。
福永さんは学校時代の先輩で、カウンセラーをやっている女性である。
「どうしたの?」
「いや、何となくいらいらしましてね。どうも本調子じゃないから、カウンセリングをしてもらおうと思って」
医局の控室で、彼女がいれてくれた茶を飲みながら僕は言った。
「どうもね、仕事のミスは続くし、上司の顔を見てると腹が立ってくるし、ギャーッと叫びたくなったりもするので、ひょっとして頭がおかしくなったんじゃないかと……」
「本気?」
「いや、冗談ですよ。でも、机にむかっていてギャーッと叫びたくなるのは本当ですよ。いつ終るともしれない会議中とかにもね」
「それはまあ、よくあることだわね。二時間も三時間もつづいたら」
「二十分三十分でもそうなるんですよ」
「へえ」
福永さんは小さな眼で僕を見、それから思い出したように言った。
「あれ何ていう本だった? あなたの野球の小説が載ってる新書判の本」
「日本SFベスト集成、七四年度版」
「そうそう。あれ読んだけどね、ああやって写真も出て、会社では文句言われないの」
「社内では、口の固い仲間にしか言ってないから。でも、知れてるかもしれない」
「どうして?」
「勤務時間中に、宣伝会議とか光文社とかから電話がかかってくるから。まあ、広告代理店だから交換手は不思議にも思わないだろうけど、僕が席をはずしていて上司がそれを受けたら、やっぱりね」
「その上司とはうまくいってないの?」
「むこうはこれでいいと思ってるかもしれないけど、こっちはどうもね。変に見込まれて開発部って新しい部にまわされたんだけど、企画部の方がよかったですよ。先方は成績をあげようとシャカリキになって、資料は家で読んで会社ではプランニングと外まわりをなんて言ってるけど、そこまで熱中する気はもうないし」
「どうして。小説を書きだしたから?」
「じゃなくって、広告の仕事が何だか馬鹿馬鹿しくというか、むなしくなってきましたのでね。プランナーをやってるうちに」
大量生産は大量消費を前提としており、しかしその大量消費にはおのずから限界がある。
もしそれが限界に達したならば、いやすでにいくらかの分野では過飽和状態になっていると思うのだが、そうなったならば生産を縮小するのか。
マクロの面ではそれもあるかもしれない。
しかし、ミクロのミクロの、俺の耳にはこういう要求が聞こえてくるばかりだ。
「いい工夫はないか。新しい策はないか。仕掛け、知恵、手段。何かないか」
ありませんよ。あるわけがないですよ。別に画期的でもない商品を大量に製造して、それをすべて売れなんて、そもそも根本が間違っている。百人中八十人はすでに持っている品物を、さらに二百売れなどと。仮に奇策を弄して売ったとしても、そんなことは一回限り。次からは通用しませんからね。
「ノルマを達成するためという理由だけのキャンペーン、そのくり返しが空虚に思えてきましてね。そのために鉦《かね》や太鼓を叩いて買わせるのは、これはマチガイではないかと」
「癖が出てるわね」
福永さんは笑って言った。
「あの野球の話のなかに、世間の人が騒いだり喋ったりしてるのを、主人公が横で見てニヤニヤする場面があったでしょう。あれがあなたなのよね。つい横から斜めから見てしまうんだわ」
「でしょうかね」
「そうよ、変に冷静なんだわ。ま、それはともかく、そんなにいらついているのなら、試しにロールシャッハとボウム・テストをしてみる?」
「ええ」
そしてそれを終えてのち、彼女はため息をついて言ったのだった。
「全体として、焦って気持が走ってるみたいね。こまかい部分にこだわり過ぎでもあるし。ボウム・テストの方では、攻撃的とか不適応とか敵意とか、そんな推理もできるかもしれないわ」
僕はロールシャッハでは二十八秒で十箇の連想をし、樹木《ボウム》の絵では、先端の鋭く尖った太短い幹と枝とを、繁みを省略して書いてしまったのである。
「対人関係、仕事への疑問、原稿を書きたい書かなければという焦り。この三つが一度に押し寄せてきてますからね」
「それは少し表面的過ぎる解釈ね。でも、わかってるんなら何とかすればいいのに」
それが何ともならないから、いらついているのである。実際どうすればいいのだろう。
業界動向だの日本経済だのはとりあえず論じなくてもできる、つまり空虚を感じることの少ない、制作の現場へ戻るかな。
戻って広告物《ヽヽヽ》を作りながら、趣味で原稿を書いていこうかな……
決断は、まだ下せないのである。
[#地付き]0
「この本、もう読んでしまったよ。他に何かない?」
甥が入って来、机にむかったまま眼を閉じている僕を見て言った。
「寝てるの。それとも、くたびれたの?」
「少しくたびれた」
僕は眼をあけてこたえた。
「デケイドはくたびれる。何しろ、嫌なこととか、少しおかしいことばかり見せつけられるのだからね」
「?」
甥は解せないという顔をし、本棚から勝手に別の図鑑を抜き出して、行ってしまった。
「結局俺は、不安と不満と焦躁感を常に抱いて仕事をしてきたというわけか。ここまでをまとめるならば、自分の場《ヽ》を持たない男の悪戦記ということにでもなるのかな」
ならば例のニッポン史においても、この見方を使用してはどうか。そう、誰だったかの唯幻論を拡大解釈し、俺の歴史を敷衍《ふえん》すればそれがそのままニッポン史になるのだという、そういう前提をでっちあげて。
いやいや、それではあまりに飛躍をし過ぎている。社会人になってからのたかだか五年間で何千年を裏打ちしようとは、それは君、いくら何でも……
「ま、とにかく次を見てみよう」
何かが顔を出しかけた気がしたがそれを無理に押さえ込み、僕はふたたびデケイドに戻るべく眼をつむった。
こういうことをやって、そこに何か意味があるのか。視点をもたないカメラとはいいながら、脳はそのカメラに対して意志や感情を働かせ、ある日あるときの自分を都合よく写るように変えているのではなかろうか。
だとすればそれは欺瞞《ぎまん》というものであって、このデケイドはそれこそ意味のないものになるが……
考えながらも、とにかく見てみようと、カメラを七六年九月一日に降ろしたのである。
「郵便が来たよおっ」
遠くに甥の声が聞こえている。
[#地付き]-5
雨のなかを朝五時の電車で帰ってきてそのまま眠り、次に眼を醒ますと午後二時だった。雨は小降りになったが、まだ降りつづいている。
カーテンだけをひらいてカーペットの上に寝転がり、暗い空を見あげながら、僕は今日《ヽヽ》のことをぼんやりと思いうかべた。
昨夜、いつものように原稿を書こうとしたところ、なぜか頭の中でエレキ・ギターが鳴り始め、その猛烈な演奏がいつまでたっても終らないので困ってしまった。
茶を飲み、トイレに立ち、煙草を吸い、寝転がって深呼吸をする。そして何とか収まったと思って机にむかうと、またそいつが聞こえてくるのである。
先月は短篇の仕事をし、今月はエッセイをひとつ書いてから、長篇「笑撃空母アルバトロス」にかかる予定になっている。
注文が途切れることなくくるのはありがたいことだと思い、最初が肝心だとも思うから、ほとんど休みの日をとらずに書きつづけてきた。それが裏目に出て、頭がオーバー・ヒートしてしまったのだろうか。
「駄目だなこれは。今夜はあきらめよう」
うじうじとした数時間があったのち僕はようやくあきらめ、すでに十二時前であったにもかかわらず堀さんに電話をして、家を出た。
阪急に乗って十三《じゆうそう》まで行き、乗りかえて次の南方《みなみかた》で降りる。駅前の売店でおにぎりを買い、日清食品ビルのそばにあるマンションへ行く。堀さんはこの六階の2Kに、一人で住んでいるのである。
「こんばんは」
入っていくと、すでに飲む用意をして待っていてくれた。ウイスキー、水、氷、ハム。
「どうした」
「ちょっとオーバー・ヒートしましてね」
「ふうん」
飲み始めて雑談をし、何のきっかけでか話が仕事の方に移って、途端に僕はエレキの謎が解けたことに気づいていた。演奏者は寺内タケシであり、先日ある人の紹介で出会った寺内という編集者の言葉が、頭の片隅にひっかかっていたための妨害演奏だったのである。
「何か気になることを言われたのか」
堀さんの言葉に、僕はうなずいてこたえた。
「聞いてるときにはナルホドと思ってたけど、いま考えたら糞味噌に言われてたんですね。それで、八月の仕事を終えてほっとした途端に、それを思い出したらしい」
「たとえばどんなことを?」
「たとえば……」
文章が硬いですなあ。それに消化不良というか、アイデアに文章がついていけてない。
アイデアあれどもイメージなしというか、結局、何が書いてあるのか判然としないわけで。地の文も少し多過ぎるんじゃないですか。
「………」
「そんなにガタガタだと思うなら、別にわざわざ僕に会わなくてもいいと思うんですけどねえ。まあ、下手であろうことは認めますけど」
「で、注文があったわけ?」
「いいえ。とりあえず御挨拶をとか言うだけで」
「ふうん」
堀さんは※[#「月+咢」]《あご》をなで、そのあと僕は、どんな話をしていてもその言葉が耳に聞こえてきて、いつものように大笑いに笑うことができなかったのだった。
そしてそれは明方までつづき、電車に乗ってもまだつづき、雨のなかを濡れながら帰ってくる途中にも、なおつづいていた。
「仕方ないさ、駆け出しなんだから」
「だけど、そんなにひどいかなあ」
このふたつの考えの間を往復する振り子は、眼が醒めたいまも、強く大きく揺れつづけているのである。
「えいくそ」
僕は起きあがり、ステレオのそばに寄って寺内タケシのLPをかけた。学生の頃に買ったベンチャーズのヒット曲集。パイプ・ライン、ダイヤモンド・ヘッド、キャラバン……
ボリュームをあげ、ベースをぐっと効かせて、僕は狭い部屋のなかで一人で踊り出した。
踊りながらチラッと時計を見ると、午後の三時少し過ぎ。
「滝さん達も堀さんも、いま頃働いているんだな」
そう思い、こうも考えて無茶苦茶な踊りをつづけたのである。
「そのかわり俺は夜働く。今夜エッセイを書きあげて、明日からは長篇にかかるぞ」
[#地付き]-4
例のお爺さんが来ているから飲みにおいでと電話をもらい、友人の杉本君の家へ遊びに行った。
ちょうど机にむかおうとしていたところだったが、以前から会わせてほしいと頼んでいた人だから、仕事は放棄して飛んで行ったのだ。手土産はサントリー・オールド一本。
「超能力の根本は何ですか、真言密教ですか」
初対面の挨拶がすむなり、僕は質問にかかった。杉本君の言葉によると、透視をしテレパシーを感じ、自分に害を及ぼそうとする人間を念力で転倒させたりもできる人物であって、相談役として会社の社外役員をしてもらっているのだという。その話から、どうも仏教関係ではないかと考えていたのである。
「そうだ、真言密教だ。僕の親爺《おやじ》が修行をして、死ぬときにその力を僕にくれたんだ。人の役に立てるようにと言ってな」
じっと顔を見ると、鼻の形が非常にいい。
スッと筋が通って、小鼻がぐっと張っている。血色がよく、眼も鋭いのである。
「そういう力があると、君は思うか」
「思います」
「神は存在すると思うか」
「思います。ただし、形は無いと思う。何というか、意志みたいな存在ではないかと……」
「ふむ。まあ、近いな」
お爺さんは言い、それから僕の顔を見つめて、ぽつりぽつりと教示をしてくれた。
「君のいまの仕事は天職と言っていいな。で、いまから三年間は昇り調子だが、それに体力がついていくかどうかだ。三十五歳のときが、ひとつのわかれめだな」
「なぜ、そういうことがわかるのですか」
「なぜと言われても困る。頭にふっと浮かんでくるのだ。予備知識があり過ぎるとかえって何も浮かばない。だから自分の家族のことはさっぱりわからない。君は初対面だから、割によく出てくるのだな」
友人が言っていた「特徴《しるし》」が現われてくるかな。思いながら、僕は次の言葉を待つ。
「いまはまだ自信を持ってないな。何かの拍子に出ただけだと自分で思っているだろう。それはその通りで、たまたま他人が書かない珍しいタイプの話を書いたから出られたのだ。この先、甘くなるか辛くなるかは努力次第だな」
横から杉本君がささやいた。
「あんたのこと何も言ってないよ。『決戦・日本シリーズ』のことも、俺、教えてないよ」
「しかし、あんたは」
お爺さんの教示がつづく。
「自己というものが勝ち過ぎている。そのくせ、普段は喜怒哀楽を押さえ過ぎている。
怒ることを押さえると身体に良くないな。小心で、つまらぬことを気に病み過ぎるだろう。一日一回は無になる時間をつくらなければいけないな」
それから、話が突然飛躍する。
「心はエネルギーとなって空中に漂っている。四次元には時間がない。だから、未来のことも過去のこともわかるのだ。お月さんには、実の月と虚の月とがある。わかるか?」
「わかるような気がします」
杉本君が驚いた顔で聞いてきた。
「本当にわかるの。僕にはわからないけど」
「だって、SFにはそういう考え方がいくらでもあるから。その類推で……」
お爺さんが口をはさむ。
「いまは奇型が受けているのだな」
「僕の小説のことですか?」
「でもあるし、そのSFというやつもな。だから、それだけでは受けなくなってからが難しい」
「そうなの?」
「まあ、そうとも言えるね。小説全体のなかで見れば」
突然、お爺さんは、僕の吸っていたセブンスターを指さして言った。
「一服吸って、味をよく覚えておきなさい」
「は?」
「こっちの味を変えてみせてやる」
袋から新しいやつを一本出し、右の人差し指の腹でこすり始めた。口のなかで何か唱えているようにも見える。やがて、
「これを吸ってごらん」
「はい」
受け取って火をつけ、吸って――
そして僕はまったく驚かなかった。そういうことがあると信じていたとはいえ、うまれて初めて、しかも眼の前で不思議を見せられたのに、自分の予想にさえ反して、ああやはりこういうことはあるのだなあとしか思わなかったのである。セブンスターはスカスカになっていたのに……
「それの重さを覚えてごらん」
お爺さんがウイスキーのタンブラーを指さし、僕はそれを手の平にのせて重さをはかる。
「………」
お爺さんは今度ははっきりと呪文を唱え、タンブラーをこすった。
「さあ、どうだ?」
「なるほど……」
それは明らかに重くなっていたのだった。
あまりのあっけなさに笑い出しながら、僕は、この話を堀さんにしたら必ずこう言うだろうなと考えた。
「信じられない性質なんだよ、俺は。あんたが催眠術にかかったのだとも思うし。第一それを認めたら、俺が学校で習ってきたこと一切が崩れるからな。その辺が恐いという気持もあるかもしれなくてね」
「ねえ、すってんころりんと倒すのを見せてくださいよ」
杉本君が言い、お爺さんは笑って首をふった。
「いや、あれは力の悪用だからあまりやってはいかんのだ。神さんに怒られる」
そして僕に言ってくれた。
「海音寺潮五郎を読んでみるといいな。ユーモアのある話を|飄 々《ひようひよう》と書いて、そこに一本筋が通っている。そういうのがいいのではないかな」
はいとこたえて顔をあげ、そのとき僕は友人の言っていた「特徴《しるし》」が現われているのを見たのだった。お爺さんの額の中央には、血液が集まってきたためだろうか、直径二センチほどの赤い丸印が出来ていたのである。
[#地付き]-3
妙に秋めいたひんやりとした夜なので、自然と物を想い、仕事にかかる気が起きてはこない。だからカーペットの上に胡座《あぐら》をかいて坐り、一人で日本酒を飲みだした。
「読書日記」「挨拶状」、ふたつの短篇を送り終え、いま書いている途中の「ちょいと息ぬき」を完成させて、それでようやく八月締切分が終了となる。今月は短篇をふたつと連載エッセイ「むさしキャンパス記」の書きだめ四回分、さらに加えて文庫の解説を二冊分やらねばならないのだが、すでに三日間のくいこみが発生しているため、先月以上にきついスケジュールとなるだろう。
「どうも自分のペースを見失っているらしいな」
僕は思い、右手の甲を見つめた。八月初め頃から出てきた発疹《ほつしん》が、まだ消えずに残っており、薬を一回飲み忘れると、それがてきめんにどっとふえる。右手だけではなく左手にも首筋にも腰のあたりにも、ぷつぷつといくらでも現われてくるのである。
「薬疹だろうな、やっぱり」
考えたのは、六月下旬に血圧が異常に下ってふらふらとなり、自律神経失調症と診断されて、そのための薬三種を二カ月間飲みつづけていたからなのである。
すると突然発疹が出てかゆくてかゆくて仕事にならず、あわてて医院へ飛んで行った。そしてとりあえず薬三種を中止するようにと言われ、今度は別の薬をこれまた三種飲まなければならなくなった。
それを一カ月つづけているのに、まだ症状は消えないのである。
「ひょっとして、俺は駄目になるのではなかろうか」
冷や酒をぐいとあおり、僕は、考えてはいけないと思いながらも、そういうことを考えた。
「右腕は全然よくならないし」
筆圧の強いまま二年余り原稿を書きつづけた結果、腕は萎《な》えたようになり、指先はしびれ、背中から腰にかけての筋肉もつってしまっている。週一回の鍼《はり》に通って、すでに一年近いのである。
「それに、いったいどういう物を書けばいいのかも見当がつかなくなってきたし……」
気持の沈むのは、これも大きな理由なのだ。これは大丈夫、よし次はこれ、こんなのはどうだ。そういう気分で書けていたのは最初の一年足らず。あとは恐くなり心配になり、最近では根本的な部分に不安が出てきている。
「結局、|おはなし《ヽヽヽヽ》を破綻《はたん》なくつくりあげれば、それでいいと思うのだが。しかし、言うは易くだからなあ……」
僕は手を伸ばし、机の引出しから一覧表をとりだした。何かつかめないかと期待してジュディス・メリルのWhat is S=F? という文章をばらし、SFマトリックスと仮称する表を作ってみた。
だが、完成させてみるとかえって泥沼の深みにはまったように感じ、そこから得られる物など、何もなかったのである。
「ま、いつか役に立つこともあるだろうから、とりあえず置いておくか」
ええいくそと破りかけて思いなおし、僕はそれを机の上に投げ戻して、酒を飲んだ。
自律神経失調症で薬疹持ちで、頸腕症候群にとりつかれていて、しかも迷っている。そんな男が、いったいどれだけの年月原稿を書いてきたかというと、独立してまだ僅《わず》か二年余りなのである。先は二十年三十年と長い。
「ひょっとして俺は……」
えいくそと首をふり、僕はラックから新聞を取ってひろげた。飲みながら、見るともなく記事に眼を走らせていく。
「ん?」
そして僕は、いつもなら見落してしまうような小さなコラムに眼をとめ、ひきつけられるようにして読み始めたのだった。
それはある放送作家の紹介記事で、彼は交通事故か何かで右腕を失い、左で字を書く訓練をして、みごとにそれをなしとげた。
しかし次には頸腕症候群に襲われ、ペンさえ持てなくなったという。そのとき彼はどうしたか。和文タイプを買って練習を始め、自在に打てるようになるまでは、左手にペンをくくりつけて書いたというのである。
「………」
ガツンとした衝撃を受け、カッと頭を熱くして、僕は冷や酒の入ったコップを持ったまま立ちあがった。狭い部屋のなかをぐるぐるとまわり、つぶやいた。
「鬼だな。鬼にならなければならないのだな」
少しの病気や迷いくらいで気を滅入らせるような奴には、こんな仕事をつづける資格はない。手にペンをくくりつけ、遂には腕が動かなくなってもかまわないという気持で事にあたる鬼でなければ、いい仕事のできるわけはないのである。甘ったれるな、馬鹿者めが。
「和文タイプを買おう。そして上達するまでは右手で書き、そのために右半身が麻痺してもかまわない。やってみよう」
決意して酒を飲み、僕はニヤリと笑った。
そのとき右半身の麻痺した自分の姿が頭にうかび、ならば杖は、ジーン・バリー演じるバット・マスターソンが使っていた、ああいう気障《きざ》なやつにしてやろうかと考えたからである。
「こういうことを考えられるくらいならば、まだ大丈夫だ。気落ちしきってはいない」
自己診断をして坐り込み、一升瓶を持ちあげたのである。ただし、やはり右をかばうつもりか、無意識のうちに左手をのばしてではあったが――
[#地付き]-2
桜橋にあるラジオ大阪のスタジオ。
「ではアバでサマーナイト・シティです」
アナウンサーの中西さんが曲名を紹介してカフを降ろし、声を日常会話用に戻して聞いてきた。
「じゃあ、そういうことは誰にでも起きるわけなのね。別に頭がおかしくなくても」
「そうですよ。疲れてるときなんかによく起きると、本には書いてありましたからね」
二月からつづいている「サタデー・イン・クローバー」という一時間番組の録音で、僕と彼女は不思議な現象について喋りあい、いまは既視感《デジヤ・ヴユ》について話をしていたところなのである。
「私もそれよく起きるから、心配してたのよ。たとえば、こうやってこのスタジオでむかいあって坐っていて、こういう話をしている。これは確かに以前にも経験したってね」
眼をくるくるさせて中西さんは言い、そのとき僕は、いまだによく感じる自分の既視感を思い出して彼女に言った。
「僕のはね、ちょうどいま頃の時間、午後の三時過ぎで、仕事はやたらに忙しいわけですよ。広告の仕事ね。で、机のそばで立ったままうちあわせをしていて、周囲でもわいわいがやがやとやっている。するとそこへ経理の女の子が伝票持ってやってきて、この制作原価はまだ計算できてないのかと聞く。できるわけがない、僕は内実を知らされてないんだからと思う。これをよく経験しましたよ。あれっ、まったく同じことが以前にもあったぞってね」
「で、それをいまも思い出すわけ?」
「そうそう、既視感を思い出して、あれっ、まったく同じことを前にも思い出したぞって思うわけですよ」
「それは、最初の会社? それとも二番目の会社?」
「最初の会社。いろいろとひどい所だったからな」
「で、そこはいまも発展してるの?」
「さあてねえ……」
僕は口をつぐみ、当時の同僚が教えてくれた情報を思い出した。
「専務が大怪我したんだよ。プールに飛び込んだとき心臓発作を起して、それで頭を底のコンクリートに打ちつけて首の骨を折ったんだ」
「死んだのかい?」
「いや、生命はとりとめたけど、神経を切って動けなくなった。で、入院してさ。僕らは社員だから見舞に行ったんだけど、以前勤めていた連中にも知らせて、見舞に行かないかって誘ったら、誰一人行こうと言う奴がいなかったんだ。おまえには連絡なかったか」
「ああ、なかったよ」
「ふん。まあ、そうだろうなあ」
「で、結局、誰も行かなかったのかい」
「うん」
相手はうなずき、ニッと笑った。
「ま、仕方ないな。因果応報というやつだ」
それは随分ひどい言い方だ……とは思わず、僕もこたえたのである。
「俺だけじゃなかったんだな、そう思っていたのは」
「それから、制作部長だけどな。あの人は別れて自分で会社をやってるよ」
彼は今度はニヤニヤと笑った。
「あれをからかうとおもしろかったぞ。新聞におまえの本の広告と顔写真が出るだろう。で、それを見せて、あいつもがんばってますよって言うとな、絶対にその写真をおまえだとは認めないんだ。違うだろ。別人だろ。彼にそんな才能ないよってな」
「まあ、そういう人間だったな」
「ところが、どうにも否定しきれなくなるとさ、今度はこう言うんだ。仮に彼がどんなに認められるようになっても、僕は認めないよ。だって君、彼がどんな人間だか知ってるかってね」
「認めてなんかいらないよ。あんなのに認めてもらったら、自己嫌悪に陥ってしまう」
そして僕はなぜとなく「勝った」「ざまみろ」と思い、でもまあ、もういいかとも考えて、話題を別の方向へとそらしたのだった。
「ま、過去を正当化するわけじゃないけど」
僕は現実に戻り、マイクのむこうの中西さんに言った。
「自分が、上司よりも同僚がずっとつきあってくれるようなサラリーマンであってよかった、逆だったら実にいやらしい人間になっていたんだろうなと思いますよ」
「?」
何のことかしらという眼をし、そのとき曲が終ったので、中西さんはあわててカフを上げて業務用の声を出した。
「アバでした。さ、それでは次に本の紹介を……」
「はい、今週の本は……」
こたえながら、僕はもう一度思っていた。
「でもまあ、もういいか。いや、しかし……」
[#地付き]-1
午後から大阪に出て雑用をすませ、堂島の地下街を歩いていると、ばったりと滝さんに会った。あいかわらずのジーンズ姿である。
「おう」
「あ、お茶でも飲みませんか」
誘ってプランタンに入り、すると席につくなり滝さんは言った。
「俺もとうとう独立することにしたぞ」
「へえ、いつから」
「まあ、冬のボーナスを貰ってからだけどな。だから、あと四カ月足らずか」
「事務所は?」
「土佐堀に借りることにした」
「なるほどねえ。結局、みんな独立していくんですねえ」
僕はつぶやき、他の元同僚や友人のことを思いうかべた。フリーになって東京へ行き、手びろく仕事をしているデザイナー。退社してソバ屋を始めた学生時代の友人。「笑撃空母アルバトロス」の取材旅行で知りあった商船三井の船員も、いまは陸《おか》にあがって、旅行添乗員をやっている。そういう知人が多いのである。
「あんたの方はどうだ」
「ええ。まあ何とかやってますがね……」
「やってるけど、何だ」
「五年近く家で仕事をして、完全な夜型をつづけてくると、何となく世間に戻りたくなってきましてね」
「世間とは? 会社という意味か」
「じゃなくって、ビジネス街で昼間仕事をして、六時なら六時にそれを切りあげて、夜はみんなとワッと飲んで遊ぶという生活ね」
実際、夜型の生活はもう堪能したし、それが健康のためにも人づきあいのためにも、あまりいいパターンではないとも実感し始めているのである。
「人間はもともと昼型の動物なんだからね。夜型をつづけると、必ず身体に無理が出てきますよ」
例の薬疹以来通いつづけている内科の先生にはこう言われ、友人知人にはときにこう叱られる。
「仕事だ仕事だって、じゃあおまえ、いつなら飲めるんだよ」
そして自分自身の気持としても、六年間過したビジネス街への懐かしさ、テンポの速い騒がしさに対する憧れがふたたび起きてきていることは確かなのだ。
「だから僕も、そのうち外に仕事場をつくろうかなと思って。いろんな人に心当りがないか聞いてるんですよ」
「ああ、そうしろそうしろ。そうしてさ」
コーヒーを飲んで滝さんは言った。
「また、大阪の街へ出てこいよ」
大阪の街へ出る。ああ、魅惑的な科白《せりふ》だな。僕は思い、こたえたのである。
「いずれにしろ、お互いに長期戦ですからね。しっかりと場を固めて、短期極大よりも長期安定成果をめざさなければ」
「うん」
滝さんはうなずき、それからニヤリと笑って言った。
「あんたが家にひっこんでる間に、飲み屋の地図も変りましたよ」
[#地付き]0
デケイド。
あっという間の十年間。
とりあえずのそれを終えてカメラを脳からひきあげ、僕は考えた。
時間というものは、ひょっとしてコイル状に流れているのではあるまいか。
なぜって、本当に|とりあえず《ヽヽヽヽヽ》任意の日付を写し出しただけなのに、その流れのなかには同じ人物が現われ、よく似た話題が語られているではないか。勿論、少しずつ内容は変化し、まずは望ましいと言っていい方向に動いているようなのだが、自分としてはもっと振幅の大きい、激烈なる変化を予想していたのだ。
実際、もっともっと多くの人と会い、さまざまな経験をし、行動範囲もこれよりは広かったはずの十年間なのである。
「なのに、こういう像が現われたということは」
時間が、この場合は僕自身にかかわる時間がコイル状に流れ、一定の間隔を置いて、よく似た「地点」を通過しつつ未来にむかっているということではないのか。
望みを抱き、不安になり、年長者に教えられ仲間に助けられ、えいくそとがんばって、そしてまた過去を思い出して、形は戻りつつなかみは先へ進もうと考える――
ならば、もしこのくり返しが自分の路線であるのなら、この先はそのパターンを顕在意識のなかにとり込みつつ、進んでいった方がいいのではないのか。
それとも、これは単にこの十年間に現われただけの「傾向」であると判定し、法則などは気にせず思うがままにやっていった方がいいのだろうか。
「このもうひとつ前のデケイド、さらにもうひとつ前のデケイドを試し、三つのデケイドがほぼ同じ様相を示したならば、前者とみなして未来を見る方がいいのかもしれないな」
不意に『すっとばしニッポン史』を思い出し、同時に昔習った歴史家の業績、イブン・ハルドゥーンやトインビーの「歴史に法則あり」とする考え方をおぼろげながらに想起して、僕はこうも考えた。
「例の唯幻論とこの二人の論とをかけあわせ、そこに現われる仮説を、自分や友人やあるいは過去の人達をデケイドすることによって検証してみるというのはどうだろう」
「多くの人達をデケイドすれば、個々のレベルでは種々雑多な法則が出るだろう。しかしそれを各世代ごとにまとめて大把《おおづか》みすれば、そこに時代の相が現われ、それを幾世代分も重ねることによって、日本史の相が出てくるに違いない。それをすっとばして書けば……」
あ、また似たことをくり返している。
業界動向チェックを重ねて日本の経済構造を覗《のぞ》いてしまい、その図と己の位置との対比にむなしくなってしまった自分。
具体《ヽヽ》の集積ともいえるSFマトリックスを作り、かえって泥沼にはまり込んでしまった自分。
その「癖」に思い至り、僕は苦笑した。もしこの方法でデケイドをつづけて、万が一そこに歴史の相を見たときには、僕はまた泥沼のなかでむなしくなってしまわなければならないのである。
「ま、そこまで自分が侵入《ヽヽ》できるとは思えんがね」
「郵便だよ、ねえ」
そのとき、甥が片手に葉書もう一方の手にゲーム電卓を持って、部屋に入ってきた。
「ありがとう」
受けとって、見るとそれは杉本君からの物だった。そしてその内容は、少し恐いくらいの偶然で、このふたつだったのである。
……以前ちょっと聞いてた仕事場の件、もしまだ当てがないのなら、知人で、転勤だからワンルームを貸したいという人がいるよ。場所は大阪市内……
……例のお爺さんからの伝言。彼は近頃、少し頭の使い間違いをしているのではないかなとのこと。僕にはわからないけど、そう伝えるようにと電話を貰ったのでお伝えします……
「頭の使い間違い」
僕はギクリとし、しかしこう考えた。
そうかもしれない。だが、それならそれでもいいではないか。使い間違いをつづけ、脳細胞をねじれにねじれさせ、遂に全反転させることができるのならば、それでもかまわないのではないか――
とはいえ一方、四次元には時間がないと言ったあのお爺さんのいる世界、たとえば「平安」とでも称すべきものがありそうな世界に対する憧れも、勿論、心のなかにはありそうなのである。
「そのベクトルをどう処理するか……だな」
それをするのは、大阪市内のワンルームにこもり、鬼になってだろうか。そして考え疲れた午後の三時頃、ふっと例のデジャ・ヴュを見ながらなのだろうか。
デケイド。大変な言葉をこいつは俺に教えてくれたものだ――
ため息をついて甥を見ると、彼は笑ってゲーム電卓を差し出し、やってごらんと言った。パラシュートで降りる男を救うゲームである。
そして僕が試して失敗し、男が海に落ちた途端、彼は叫んだのだった。
「オウ。ユー・ミスト!」
僕はこたえた。
「イエス。アイ・ミスト……」
まさしく、このデケイドは、アイ・ミストであったのかもしれないのである。
[#改ページ]
死 火 山
あ、何だったっけ?
ああ、ヒイの件か。うん、ヒイの件……
あれはね、順序としては、まず行動があり、それから思索があり、そして回想があると。まあ、こういうパターンなんだよな。
たとえばこの私にしたところで、あらましその過程をへてきたわけだから、世間一般の人びとも、まあ、そんな具合にこっちへ近づいてくるんじゃないのかな。と思うよ。
儂《わし》が儂がと唯我独尊でカッカとし、そのうちフッと立ちどまって、はたして僕は……なんて考え始め、遂には、そもそも私という者はなどとつぶやきだす。ま、人間のやることだからね、賢も愚も大して変らないと思うんだよ。
フウ? うん、フウの言葉ね。あれは確かこうだったと覚えている。
悠久何億年という宇宙の歴史にくらべれば、右をむいて左をむけばもう終りという一瞬のことでありますが……とね。
あああ、それを考えると嫌になるねえ。儂が儂がとはりきっていた、あれはいったい何だったのか。いろんな人間にいろんなことを指図し、どなり、笑い、泣き、そして走りまわっていたあの時代。あれは本当に何だったのかねえ。長いように思っていたが短くて。
Bなる女もH教授も横綱のJも死んでしまったし。T作戦なんて、いまの人間にはお笑い草だろうし。Yもいつの間にかどこかへ……
ま、あの頃の私は、ただもうがむしゃらに走っていたから、猪《いのしし》だと言われても仕方がなかったのだけれど。それにしても、猪なら猪で最後まで突進をつづけるべきだなんて、いま頃そんなことを言われても、ねえ。
いや、愚痴じゃないよ。愚痴じゃないけれども、ついそう言いたくもなるじゃないか。
ミイがそうだよ。ミイの一件がそうなんだよ。
私が、ほら、途中で病気になって、それで入院して、そのときから少しは物を考えるようになっただろう。こちらとしては、それがいわば、進歩だと思うよね。人間に深みとまるみがと、これはまあ自画自賛のうぬぼれではあるけれども、そう考えるよね。
実際、あの頃はカ先生だのサ禅師だのがそう言ってくれたし、それゆえにこそ、タ規制の件とかワ計画なんかも、何とかうまくいったんだ。考えて、ブレーキをかけたればこそね。そうでなければ、あれを昔のF資金やS計画みたいに進めていれば、無茶苦茶になったであろうことはわかりきっているんだから。
ところが、公的記録であるべきミイ文書には、その頃の私の言動、病気ゆえの優柔不断が間々みられたと、こう書かれてしまっている。
みじめなものじゃないか、不要と判断された老兵の立場なんて。その記述を訂正させるだけの、何の力も持たされてはいないんだからねえ。歴史は残酷だね。そして、個人の存在なんて、はかないものなんだねえ……
ヨウの件? ああ、あれもねえ。
あれもひどかった。ヨウ協会といえば、これはいかなる政治的宗教的立場にも偏《かたよ》らず、ただひたすら自由と平和のために活動する組織だと、そう思っていたんだけれどね。
私の、猛進時代のG問題、あれがいかんというんだろう。そんなの、妙に政治的な判断だよね。偏ってますよ、あの判定は。
それから、休止期のラ学会の件、あれが駄目だというんだろう。あれなんか、逃げたんでも何でもない。ただ、時期尚早だと言っただけなのにねえ、私の本意としては。
なのに、ヨウ協会除名だからね。それも、いまになってだよ。本当に駄目なのなら、なぜそのときに言わないのかと、こう言いたくもなるよ。こっちが力を失ってからだなんて……
まあ、その辺のことはあきらめてるけれどね、私は。
停年は諦念なりで、それでいいけれどね。
でもまあ、イツの説を聞けば、確かにいま自分がこういう境遇におちいるのも無理はないなとは思う。うん、あのイツ老師の説ね。
まあ、いろいろと悪いこともしてきたんだろうからねえ。いや、自覚はしていなかった。自覚して悪いことをするほど、私は悪人ではなかったからね。無自覚であって、そのときどきでは、自分が正しい、これは世のため人のため国のためになると思ってやったことなんだけれどね。でも、それが悪いことだったという、結果としてはそうであろうことも、やってきたに違いないからねえ。
Nなる女には随分ひどいことをした。ナ君も、私がよかれと思ってしたアドバイスが裏目に出て、結局、処を得ずに終ってしまったし。
反省はしなければいけないんだろうねえ。
いや、だろうねえじゃなく、ねばならないし、現にしている。イツ老師は、私の最後の師なんじゃなかろうかなあ。いいことも言ってくれたしねえ。
活火山ソノ勢ヒ猛《たけ》シトイヘドモ、長クハ続カズ。休火山ソノ姿|安《やす》シトイヘドモ、真ノ静寂ニアラズ、マダ再起ノ欲残リタリ。
ねえ、普通ならば再起の念とか志とかいうだろう。それを再起の欲と断ずるんだからね。私は、あの言葉で眼が醒めたんだよ。
ムウの説というのもおもしろかった。
そう、編集者のムウ君だけどね。彼、自分の仕事になぞらえて、いいことを言ってくれてね。あなたのこれまでの道程を、たとえば雑誌に掲載される、あるいは短篇集に収録される、連作だとみなしましょう。さてこの連作、いまの分を読んでいる人が、以前のことがわからないからといって、わざわざ先月号先々月号を取り出し、あるいは、短篇集のページをめくり返して、確認してくれると思いますか……と、こう言うんだよね。
そんなことは誰もしてはくれません。ただ、自分でかすかに記憶している情景や言葉や雰囲気を思いうかべ、ああそういえばそんな場面もあったなあと、かすかに感じてくれるだけなのです。そして、その記憶も次第に薄れ、そのうちそういう連作もあったなあという記憶だけになり、遂にはそれすらも消え去ってしまう。それだけの物です。
だから、いまさらああだこうだと言っても仕方がないし、意味もない。いま、以前こうだったからと自分だけで納得をし、内的必然性をもって話を進めていけば、それでいいのです。だって、あなたの人生の読者は、つまりはあなた一人なんですからね……と、こういうわけさ。
イツ老師の話で反省をし、ムウ君の説で光明が見えてきた。老師風に言うならば、
死火山ノミ安ニシテ静ナリ。悠久ノ時コレヲ磨シテ平地トナス。タダ座シテ待テ。
私は、いま、これなんだよねえ。
人がページをめくり返してくれなくても、確かにああいうこともあったし、こういうこともあったんだ。それを思い出しながら、じっとしていようじゃないか。ねえ。
ナナ? うん、ナナの話ね。あの計画。
あれは私はもういいよ。十年といい二十年といっても、所詮は瞬間のことだからね。
そういう話に加わったところで、天がどうなるものでもなく地がどうなるものでもない。
駄目なら駄目でいいじゃないか。
私に私の連作があるごとく、古今東西、人には人の連作があった。そしてその無数の連作が集まって一大長篇を形づくり、それはいま、いよいよクライマックスにさしかかっているんだろうからね。いまさら、その大きな流れを変えようとしても無理がある。
こざかしい知恵を働かせても、それは大長篇の均整美を崩すだけだよ。作者は多分、この長篇をドンデン返しの大団円なしで、美しく終らせようと決めているらしいからねえ。
いや、それは個々のエピソードは美醜混合で、各場面は雑多だろうさ。でも、必然性やバランスの観点から見れば、それがつまり美しい終り方になるわけでね。
舞台は宇宙のなかのこの星だが、さあて、作者は誰なんだろう。神かね、仏かねえ……
ヤアの騒動。あれも行くつく所まで行って、いまはあのあたり一帯、音もなく動く物もなく、ただ陽が射し月がひかっているだけだというじゃないか。
そうやって、ひとつひとつゆっくりと終っていって、遂にははるか未来に、この星そのものが、ただ静かにまわりつづけるのみという、そういうエンディングを迎えるんだろうねえ。
そうそう、ココノツの映画がそんなラストだったじゃないか。シネラマでさ、引きに引いたロングでさ。左下隅に太陽がひかっていて、公転するこの星が、手前から中央、そして奥へむこうへと遠ざかって消えてしまう。画面が溶暗して、そこでEndだったじゃないか。
ココノツという人も、同じようなことを考えていたのかもしれないね。いまから十年も前に、あの若さで。偉い人だなあ。
さてと、トオの契約だが。
あれは先方の言うとおりにしてやってくれたまえ。もはや、あの権利だの何だのを私が持っていても仕方がない。どうぞと言って、いいようにさせてやればいいからね。
私が死んでからゴタゴタがあったら嫌だろう。だから、いま譲ってしまうよ。
身ひとつとなって、タダ座シテ待テだ。
もっとも、私が一人、何とか食えるだけの分は残しておいてもらいたいけれど……
あの、これは欲かねえ? 欲じゃないよねえ。
だって、それすら放棄して、わざわざ餓死するのも、変だものね。
それにしても、ムウ君のたとえ話でいえば、人は私の連作を、活火山のときには噴火する山を、休火山のときには一見静かだけれども沸々と内で湧いている山を、思いうかべながら読んできてくれたのかねえ。
それがやはり少し気に……
いやいや、これこそ欲と執だな。
ま、こういう連作もあったという、それだけのことだものね。空空空、いつしか空だよな。
君、長い間ありがとう――
[#改ページ]
岩《がん》ちゃんのギター
やあ、よく来てくれたな、ま、入ってよ。このビル、すぐにわかった? ああ、角の煙草屋で聞いて。なるほど、それはよかった。
まあ、立ってないで、そこのソファに坐っててよ。いま、このスクリーン・トーン貼ってしまうから。
いや、気にしないで気にしないで、別に急ぎの版下ってわけじゃないんだから。ちょっと半端な時間ができたもので、何かしてないと|ひぼし《ヽヽヽ》になっちゃいそうな気がして、これやりかけてるだけなんだから。
うん、そう。勤めてるころには、時間があくとすぐお茶を飲みに出たりしたけど、こうやってスタジオなんか構えちゃうと、何かこう追われる気がしてね。やっぱり、フリーってのは、そのあたりがなんとも……
え、作家だってそうだって?
そうかなあ。こっちから見てると、楽らく書いてるように見えるけどなあ、そうでもないわけか。ん? FMなんか聴きながら書けるものじゃないって? いや、それは、君がたまたまそういうタイプだということでしょ。だってほら、喫茶店で書いたり、新幹線とか飛行機の中で書いたりする人だっているっていうじゃない。
ルルル、ルーラリリ、ルウ……か。
いいね、フラメンコ・ギター。これ何て曲だったかな。憂愁のペテネラスだったか、確かそんなふうな名前がついてたと思うんだが。
いや、それほど詳しくはないけどね。
でも、こういう曲は大好きなんだ。曲というより、このフラメンコ・ギターの音色がと言ったほうがいいかな。聴くと必ず思い出すことがあってね。それで……
え、恋の思い出だろうって?
違う違う。そんな甘い話じゃなくて、もっと切羽つまったというか、下手をすれば怪我人、死人が出たかもしれないという、そういう話さ。ああ、それは勿論《もちろん》、教えろというのなら教えますよ。それを材料に小説を書くなりなんなり、あっ、しまった、写植まで切ってしまった。いや、大丈夫大丈夫、予備があるからなんということもない。チョイチョイチョイと。
ま、ひとやすみしてコーヒーでも出すとしますかね。何を言ってる、インスタントじゃない、ちゃんとコーヒー・メーカーが用意してあるんだからね。といっても、買ったんじゃなくって、広告のパンフレット作ったときにひとつ宣伝課から貰《もら》ってきたやつだけれどさ……
さて、その思い出だけどね。
あれは、いまからもう何年くらい前になるのかなあ。なにしろ十年以上前で、確か中東戦争が、第一次のやつが始まってた年だったと思うんだけれど。その年の前半、およそ半年ばかり、僕はヨーロッパに行っててね。
美大を出てデザイン事務所に勤めてたんだが、なにやら無性にむこうへ行きたくなって。
いま、この年齢でパリだのローマだのを見ておかなければ自分は駄目になる、もっと先に行ったとしても自分の肥《こや》しにはならないなんて思いつめてしまって。とうとう事務所を辞めて、貯金をはたいて、足りない分は親から借りて、おまけに新婚半年目の女房を放ったらかしにして、出かけてしまったんだ。
で、そのヨーロッパで僕が何を見たか、どういう栄養分を身につけてきたかは別の話として。それから、留守の半年間、女房が一度も実家には帰らず家を守り、しかしさすがに寂しくて毎晩枕を濡《ぬ》らしていたという美しい話もあるけれども、それも詳しくはまた今度ということにして。へへへ、いやいや……
帰り路での話なんだけどね、肝心なのは。
なにしろ金が無いもんで、帰りは船ということにした。フランスのM・Mという船会社、正確にはメッサージュ・マリティムだったかな、その会社の貨客船に乗ったんだよ。
いまはもう無くなってるだろうけど、当時は極東航路があって、フランスのマルセーユから横浜まで大きな船が来てたんだ。
ラオス号、ベトナム号、カンボジュ号って三隻でね、僕の乗ったのはラオス号。一万三千トンくらいで、途中、本当ならばスエズを通ってアデンからボンベイ、コロンボ、シンガポール、バンコク、マニラとこう寄って、それでもって神戸、横浜に入るわけなんだが、例の中東戦争でスエズ運河が通れない。
仕方なく南アフリカのケープ・タウンをまわってね。いやもう、大変な長旅だった。
ツーリスト・クラスの、船底みたいな六人部屋で。一緒に行った美大時代の友人、名前も忘れたけれどドイツ人とかフランス人の若い奴ら、それから岩田だったか岩村だったか、とにかく岩《がん》ちゃん岩ちゃんと呼んでた三十過ぎの人、そういう連中と一カ月半ほど寝起きをともにしたわけだ。
で、つまり、この岩ちゃんという人が、フラメンコ・ギターをよく弾いて聞かせてくれたんだけれどね――
ああ、それにしても、こうやって話をしていると、いろんなことをありありと思い出すなあ。船底のペンキの匂いなんて、もわっとこもっていて、ちょっと海が荒れて窓やデッキのドアを閉めきると、それが沈澱する感じでねえ。その匂いだけで吐きそうになったものだった。真昼間でも寝てしまうしかなかったな。
海って凄《すご》いよ。インド洋に夕陽が沈む。凪《な》いでるときなんか、それはもう、全身に鳥肌がたつくらいに美しい。ところが荒れたとなると、空は灰色で海も鉛色で、なんというか原始本能が恐怖を訴えるという具合。絶望的になって、いっそわあわあと泣きだしてしまいたくなるものねえ……
いや、そういうことはどうでもいい。その岩ちゃんのギターの話をしなければな。
船の旅ってのは、なにしろとじこめられた集団がゆっくりと移動しているわけだから、一週間といわず三日もたてば皆が親しくなる。
まして、貧乏旅行の同室メンバーとなると、一日二日で仲間づきあいでね。
岩ちゃんは僕みたいな騒ぎ屋ではなく、口数の少ないおとなしい人だったけど、気持のやさしい、それでいて芯のつよそうな男だった。聞いてみると、本職はお菓子づくりの職人さんでね。高校を出て修業をして、なんなら自分で店をやっていけるってところまで上達したんだそうだ。
でも、子供のころからなぜかフラメンコ・ギターが好きで好きで、どうにかして本場のスペインへ行きたい、行って奏法を本式に習って、自分用のギターも作ってもらいたい。そう考えて何年も何年もお金を貯め、ようやく三十を過ぎてから、その夢をかなえられるだけの貯金ができたのだという。偉い男で、店を出すよりも音楽の修業をとったんだな。
で、スペインへ行って、名前は忘れたけれどもアンダルシアの辺の街に腰を落着け、一年ほどの間、その街からは一歩も出ずに、ただただフラメンコ・ギターの勉強に熱中した。
先生について習い、酒場で聴き、あるいはジプシーの辻音楽師について歩いたりして、とにかく吸収に努めたんだという。
その街ではちょっとした有名人になったというんだけれど、話を聞いていると、大変な気迫だと思うだろう。単なる趣味の域を越えているなと思うだろう。な。
まさしくそのとおりでね。実は岩ちゃんをそれだけの気持にさせた原動力は別にもうひとつあって、彼、左手の薬指だったかが無いんだよな。子供のころに事故で切断したらしいんだけど、右手ならまだしも、左では困る。弦を押える指だからね。弾きたい弾きたいと思いながら自由に弾けない、その悔しさが随分たまってたんだろうなあ。
それだもんで、自分用のギターというのは、指一本無くても弾ける特別製の物という意味でね。見せてもらったけど、弦と弦との間隔が不規則になっていた。むこうのギター作りの職人さんが、いろいろ工夫して作ってくれたんだそうだよ。
あり金を全部はたきました。
岩ちゃん、実に嬉《うれ》しそうにそう言って、船底部屋で、あるいは夜のデッキで、覚えた曲をいっぱい聴かせてくれたもんだった。
グラナダの夢、エスパニアカーニ、君去りしなんとか……。中庭のセビリアーナスなんてのもあったっけ。月が輝いている静かなインド洋、デッキで皆が車座になって聞くフラメンコ・ギター、胸が甘酸っぱくなるほどいいものだったよ。うん、本当に。
ところが、そういう日々がつづいていれば、ただもう美しく懐かしい思い出ということになるんだけれど、突然いやな事件が起きてしまってねえ。
というのが、ボンベイに入る一週間ほど前、夜、岩ちゃんがなんの気なしにそのギターを船底船室の通路に置いて別の部屋に入って、出てみるとそいつが無くなっていたんだよ。いや、ほんの数分の間にだよ。壁に立てかけ部屋に入って、出たら無いというわけで。
三分か五分かという間の出来事だから、岩ちゃんもまさか盗られたとは思わない。
誰か仲間が弾いているんだろうと考えて僕らの部屋に戻ってきたんだけれど、誰も弾いてはいないし、行方を知る者もいない。
彼、真っ青になってしまってねえ。でも、ひょっとして……とは思うものの、僕たちだって、まだそのときには盗られたとは考えなかった。なに、別の部屋の誰かが借りて行ったんだよ。明日の朝、食事のときにでも聞いてごらん。そう言ってその夜は眠ってしまったんだけれどね。
もっとも、さすがに岩ちゃんは眠れないらしくて、夜中に僕がトイレに起きたら、カイコ棚ベッドの下の段でなんともいえない悲しそうな顔をして眼を見ひらいていたけどね。
そして翌朝、食事のときに皆に聞いてまわったところで、その眼から涙がポロポロこぼれてきたんだけれどねえ……
え、うん、そうだよ、ツーリスト・クラスの船客全員、誰も知らないって首をふったんだよ。日本人は勿論、フランス人もドイツ人もアメリカ人も、皆が一様に驚いてね。
盗られたのか? どうもそうらしい……
とうとう僕らもそう考えざるをえなくなって、その日は一日、全員で手わけして、船内のあちこちを捜しまわったものだった。バーやラウンジや図書室や、とにかく自由に入れる場所はすべてね。
だけど、やっぱり見つからないんだ。
岩ちゃんはもうしょんぼりしてしまって、一度見た場所に何度も行き、あちらのテーブルの下を覗き、こちらの棚の上を見、とてもじっとはしていられないという様子だった。
そこで僕らは部屋に集まって話しあい、なんとかしてやろうと決めたのさ。だって、あんまり気の毒じゃないか、あり金はたいて作ってもらった特製のギターが無くなるなんて。
持って行った奴だって、そんなギターだと知ったら、後悔するに決まってるじゃないか。
だから、とりあえず船長に要望書を出し、掲示板に張り紙をしてくれるよう頼んだんだよ。
かくかくしかじかのギター、もし無断で借りている者がいたら、すぐ返してくれるようにってね――
でも、しかし……
その張り紙にはなんの効果もなかった。次の日になっても、その次の日になっても、ギターは戻ってはこなかったんだ。
さすがに僕たちも怒り、これはもうはっきりと意図して盗んだに違いないと考えて、船長にまた要望書を提出した。同室のフランス人が書いてくれてね、仲間になってるドイツ人もアメリカ人もみんな署名をしてくれた。
船の中での盗難で品物は必ず船内にあるはずだから、一等の人も含めて船客全員のロッカーを船長の権限で調べてほしい……ってね。
ところが、腹立たしいことに、答はノンだった。
フランス人の船長、背の高い銀髪のスマートな人だったけど、その人の言い分はこうなんだ。ロッカーという物は船客が乗ってから降りるまでその人の所有物なのであって、これはつまりプライベートな器具である。したがって私にはそれを調べる権限がない――
これで大変な騒ぎになった。
それはまあ、いま考えれば確かにそのとおりで、強いて調べれば、個人主義で権利意識の強いフランス人船客から船長は吊るしあげをくっただろうと思うけれどね。でも、なにしろそのときにはこちらも気がたっている。なんたる石頭かと怒り狂ったものさ。特に日本人はね。
で、また皆が集まって。
これだけ騒ぎが大きくなったのだから、次のボンベイに着いたとき、犯人はそのギターを持って降りて売りとばしてしまうかもしれない、それを防ごう……とこう決めて。
ボンベイに入港して二昼夜だったか停泊したとき、日本人仲間が交替で舷門に立ち、じっと見張りをつづけたんだ。勿論、岩ちゃんはずっとそこに坐り込み、とうとう一歩も上陸しなかった。僕らは上がったけれどもね。
でも、結局、誰も何も持ち出さないまま、船はボンベイを出てコロンボにむかってしまったのさ。まるで何事もなかったようにね。
さあ、そうなるとこっちも次の策を考えなければならない。友人が推理してさ、これはどうやら下級船員のしわざではないかということになった。
なぜって、一等の客はわざわざ狭くるしい船底にまで降りてはこないだろうし、ツーリスト・クラスの人間はすでに全員が顔なじみになっているから、そのなかに犯人がいればわからないはずがない。だから多分……とこういうわけなんだな。
そこでまた船長に要望書で船員を調べてくれ。だけど、それもノンということで。もう頭にきてしまってねえ。考えることもだんだん極端になってくる。そうそう、ひょっとして夜中に海にでもそのギターを捨てるかもしれないから、不寝番を立てようということになったっけ。
日本人の男が時間を決めて交替で、キャビンからデッキへ出るドアの所に立ったんだ。
そうして、犯人がもし大男のフランス人船員で乱闘になったらやってやれという気で、それぞれが武器を用意していた。僕も革のベルトを抜いて右手に巻きつけ、いつでもそいつをムチに使えるようにして立番した。バックルの金具を先にして、顔を狙《ねら》ってやると思い決めていた。もし本当にそういうことをしていたら、いまごろは腕の一本くらい折れて元に戻らない体にされていたかもしれないけれど、そのときは本気だったのさ。
つまり、それほど岩ちゃんに同情し、オーバーにいえば、日本人の根性を見せてやると考えていたわけなんだな。
けれども、つまるところ、それも徒労に終わってしまった。誰も何も捨てには来なかったんだ。
そして、コロンボに着く直前、船長からの指示が出て、高級船員が二人、交替で舷門に立ち、夜も立番をするから諸君たちはいま行なっていることを中止してほしいと言ってきたのさ。自分の名誉にかけて約束は守るとその船長は誓ったのだけれど、そうでもしなければ、日本人船客が反乱を起こすとでも思ったんだろうな。
だって、皆、血相変えていたものね。そして、ツーリスト・クラスのドイツ人、フランス人、アメリカ人たちも、完全にこちらの味方になっていたものね。
降りてから騒ぎを大きくされたら、M・M社は勿論、フランスの名にも傷がつくと考えたんだろうよ。そのとき船長、こう言ったっけ。
必ずそのギターを戻してみせる――
さて、それで、その後どうなったかだ。
どうなったと思う?
船はコロンボを出、ゆっくりゆっくり進んでシンガポール、バンコク、マニラと寄港していく。さ、どうなったと思う?
え? 現実はドラマのようには進まないから、結局ギターは出てこなかったんだろうって?
ふうむ、そう考えるかなあ、やっぱり。
いや、それが正解なんだけどね。船長は約束を守って高級船員の立番をつづけさせ、さすがに立派な人物だと思わせたんだけどね。
でも、ギターは出てはこなかったんだけどね。
つまり、その、船を降りるまでは……
ふっふっふっ。そう、そういうこと、降りてから出てきたということで。そりゃそうさ、本当に最後まで出てこなかったら、話が暗すぎて救いがない。僕だって、思い出だなんて言って、いまFMを聴いたりはしていられないよ。
そう、結局出てきたのさ。
降りて一年以上たってから、意外な所からね――
岩ちゃんが手紙をくれたんで知ったんだけど、ある日いきなり家に大きな荷物が届いたんだそうだよ。船便で、発送地はなんとマルセーユ。
あけてみると例のギターで、M・M社からのメッセージが入っていたそうだが、その文章がおもしろいじゃないか。
貴殿の荷物をマルセーユ出港時に積み忘れていたことが判明したため、船客名簿を調べてここにお送りいたす次第です。なお、この荷物が貴殿の物であるとわかるまでには、ラオス号船長のたぐい稀《まれ》なる記憶力が動員されたことを申し添えます……だって。なんとまあ――
いや、そうじゃない。そうじゃなくって、船長が岩ちゃんや僕らから聞いたことを思い出し、スペインのアンダルシアの、なんとかいう街の職人に特製ギターをもうひとつ作らせたわけなのさ。さいわい図面でも残っていたのか、まったく同じ仕上りだったって手紙には書いてあったからね。船長、必ずギターを戻してみせるという約束を守ったわけなんだよな。
ああ、それは勿論、そういう覚悟で立番交替を言ってきたんだろうよ。だって、そのとき、どこの街で作ったか、ギターを教えてくれた先生はなんという名前かなんて、何気ないふりで聞いてきたっていうものね。
それを手帳にメモでもして、そこから職人の名前まで割り出したんだろうよ。ひょっとして、船長が自分で出かけていったのかもしれない。ま、なかなかの人物だよね。
え、なんだって? そのギター、元のやつじゃないとどうしてわかるのかって?
うん、それはね、胴体に刻んでおいたイニシャルが、きれいさっぱりと消えてしまっていたからさ。さすがの船長も、そこまでは記憶になかったのだろうって、岩ちゃん、手紙に書いていた。そうして、こちらも嬉しいから茶目っ気を出して、まさしくマルセーユで積み忘れたギターです、メルシィ・ボクなんてM・M社に礼状を出したんだとさ。
まあ、こういう事情で一件落着、めでたしめでたしというわけなんだけれど、実はこの話、まだおまけがついててね。
次にラオス号が横浜に入ってきたとき、岩ちゃん、得意のお菓子をいっぱい作って船長をたずねて行ったんだが、そしたら船長公室に連れていかれて、とんでもない物を差し出されたというんだな。それは何かというと……
そう、元のギター、無くなったギターさ。
これはまたどうしたわけですって聞いたら、船長がいわく。帰路、神戸を出てから、これがツーリスト・ルームの廊下に置き忘れられているのを発見した。あなたは、積み忘れた物を置き忘れるという、実になんとも不思議なことをする御方だ……。
言いながら船長、なんともいえない照れくさそうな顔をしていたというから、実際に見つけたのは、もうひとつを発送してからなんだろうね。うん、結局のところ、犯人はわからずじまい。
それは、もういいやってことでね――
ジャジャジャ、ジャジャジャーンか。
これもいい曲だなあ。え、ひょっとしていま弾いてるのが岩ちゃんじゃないかって?
いやいや、それは君、小説家の考え過ぎってものだよ。この世の中、そう何もかもうまく合いますか。
岩ちゃんは、いまもお菓子の職人さんさ。
さあて、さっきの版下に戻るかな。
あ、そうだ。君、いまの話、書くなら書いてもいいけど、いくらなんでも、ギターがクローン分裂してふたつになったなんて書かないでくれよ。まったく、SF作家なんて、何を考えるやら見当もつかないんだから。
たまには、素直に書いてみな――
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臨機応変位
この話は、途中で予告なく無茶苦茶になることがありますので、あらかじめ御了承ください――
1
九時十分前に、指定された駅に着いた。
七時半起床でもつらいのに、今朝はそれより三十分早く起き、コーヒーだけ飲んで家を飛び出してきたのだ。
つい二カ月ほど前までは、午前中の電車になど乗ったことすらなかったのに、社会人になったらいろいろとくだらぬ苦行をしなければならない。
研修期間が終りに近づいたせいか、今週は外に出る実習が多く、今朝など、九時に私鉄の終点に集合せよという命令なのだ。
都心から放射状にのびている何本かの私鉄。そのそれぞれの路線に数人ずつ割りふり、俺が指定されたのは、なかでも最も遠い、家からならわざわざ都心を通過しなければ行けない線だったのである。
「セールス実習をやらされるのかな」
考えながら改札を出ると、正面は一直線にのびるバス道路、左はパチンコ屋と喫茶店。右手にずらりと自転車の並べられた一画があり、そこに同僚が二人立っていた。
一人は大木という、俺と同じく都内の私立大を出た痩《や》せぎすの男。もう一人は、地方の県立大学からきた、横尾という背の高い人物である。
「やあ」
声をかけて近寄ると、大木はニッと唇をゆがめて軽く首をふり、横尾はにこにこと笑っておはようと言った。前者は何となく神経質そうでいつもピリピリしているようであり、後者は朴訥《ぼくとつ》というのか、おっとりのんびりとしている。
研修期間中同じ班になり、あれこれ喋《しやべ》ったりしているうちに、その程度のことはわかってきたのである。
そしてもう一人、まだ来てはいないけれど亀丸というデブ男もおり、こいつは地方私大の相撲部出身で、どうも入社と入部とを同じレベルで考えているような節がある。
しゃちほこばってオースと言うのが新入社員の心得第一条であると、そう思い込んでいるらしいのである。
「亀丸君は?」
煙草に火をつけて俺が聞くと、横尾は首をかしげて心配そうにまだなんだよと言い、大木はその表情を見てふんと鼻を鳴らした。
「寝過ごしてるんじゃないのか、あの馬鹿」
「馬鹿だなんて言っちゃ悪いよ」
「馬鹿なんだから仕方がないだろう」
大木に言わせれば、亀丸は馬鹿であり横尾はグズであり、俺は変人だということになる。
なぜ変人であるかというと、確かめなくてもいいことまで確かめ、問いつめなくてもいいことまで問いつめるからだそうだ。
「車のセールスをする人間が、何も熔接ロボットの生産効率まで根掘り葉掘り聞かなくてもいいんだよ。どうせむこうだって、研修のカリキュラムに入ってるから、義理で説明してるだけなんだからな」
だから俺は、俺が変人ならばこいつは生意気な小利口者なのだと思っている。
縁故で入社試験を受けたと言い、一人っ子だと言っていたから、ますますそう思えてきたのである。
「遅刻しなけりゃいいんだけど」
「放っとけばいいんだよ」
二人が対照的なことを言っていると、むこうの喫茶店のドアがひらいて、研修の世話をしている大柄な係長が出てきた。そしてその後から、噂の亀丸もそれより大きい姿を現わした。
「何だ、もう来てたんだよ」
「ちぇっ。あの馬鹿、やたらに早くから来てやがったんだな」
係長は駅の売店で煙草を買い、その間に亀丸が近づいてきたので聞いてみると、やはり三十分前から改札口に立っていたのだという。
係長は二十分前に来て、彼にコーヒーをおごってくれたというのである。
「早いから感心したんだね」
「馬鹿馬鹿しくって、あきれたんだよ」
「で、今日のこと何か聞いたかい」
「いや、何も聞いとらん」
紺のスーツの四人が喋っていると、係長が来て、挨拶ぬきで言った。
「今日は融通性《ヽヽヽ》のテストをする。臨機応変、どれだけその場その場で融通をきかせることができるかだ」
そして脇にかかえていた社名入りの大型封筒をあけ、それを俺達に突き出した。
「さあ、このなかに所持金一切と定期券、それから社のバッジ、もし持っているならキャッシュ・カード、クレジット・カード、そういう物を一人分ずつまとめて入れろ」
「………」
顔を見あわせた俺達に、なかから小型封筒をひっぱり出してせかした。
「百円玉一枚ずつ渡す。それをタネ銭にして、どんな方法でもいいから会社まで戻ってこい。誰が早いか、各終点からの新入社員一斉競争だぞ」
あっ、やはりそういうテストをやるのか。思った瞬間、俺はカッと頭に血が昇り、眼の前が真暗になるのを感じた。
「………」
「早くしろ」
「オース」
かろうじて亀丸がこたえ、しかし気の毒に、どなられている。
「オースはやめろと言っただろう。社会人にそんな挨拶はない」
2
「あの、質問してもいいですか」
持物を封筒に入れてあずけ、百円玉一枚をもらったあと、思うところがあって俺は係長に聞いた。
「何だ」
またおまえの質問癖かという顔で、係長はチラッと腕時計を見て言った。
「要領よく聞かないと、おまえの損になるぞ。出発時刻は全員九時ジャストということになっているのだからな」
「は、はあ」
一瞬、それでは質問はせずにそのまま行動に移ってやろうかと思ったが、移って会社に帰りついてから、ああ、その方法は無効だと言われたのでは労力の無駄だから、俺は一番肝心なことだけを聞くことにした。
他の三人も、情報《ヽヽ》は取っておくに越したことはないと思ったのか、そばに立って俺と係長との顔を見くらべている。
「つまりこれは、要はできるだけ早く会社に戻ればいいという、そういうテストですね」
「そうだ」
「で、そのとき、そこに何かルールはありますか」
「ルール?」
「そうです。たとえば、いくら早く帰れるといっても、そんな方法をとってはいかんのだとか、そういう制限です」
「どんな方法を考えてるのかは知らんが」
係長は若干ムッとした口調でこたえた。
「こちらから別に制限は加えない。しかし、おのずから、善良なる一市民としての、あるいはビジネス世界に生きる人間としての、暗黙の制限というものはあるはずだろう」
じろりと俺を見、少し考えてから、思いついたらしいことをつけくわえた。
「無賃乗車をしたけりゃすればいい。パトカーを呼んで会社まで走らせたけりゃ、そうしろ。しかし、そういうことをして、そのあとどうなるかも当然考えてくれよ」
亀丸が、どんぐりまなこをぐるりとまわして、ああそうかとつぶやいた。ということは、どうやら彼は、そういう単純にして乱暴なる方法を考えていたものらしい。
「な、そうだろう」
係長は、自分の言葉が効力を発したことに満足したらしく、ニヤニヤと笑って言った。
「世の中には、常識というものがあるんだからな」
「あのですね」
横尾が、思いつめたように質問した。
「腕時計やら上着やらを質に入れるのはかまわんのですか」
「そりゃかまわんさ。自由だ」
係長は、横尾の朴訥さに対する好感半分、だけどもう少し考えてみろよという意地悪な気持半分の口調で言った。
「自由だけれども、定期券も身分証明書もないんだぜ。それで質屋がうんと言うかい」
「はあ……」
「なかなか、学生下宿街でやってたようには、やれませんよ」
「できるだけ早くということだけど」
大木が口をとがらせて聞いた。
「各私鉄の終点に散らばってるから、仮にすぐ電車に乗ったとしても、会社まで着く時間に差が出てくるはずだ。その辺はちゃんとハンディをつけてもらえるんですか」
俺達のようにゴールに至る手段の心配ではなく、至ってからの評価の心配をしている。
そしてその心配を、早くも不満に置きかえている。
「ここは一番遠そうだし……」
「そういうクレームは、まず会社に到着してから言え。ハンディをつけろだと」
係長は表情を厳しくし、そっぽをむいてつぶやいた。
「仕事はゴルフと違うんだよ」
趣味ゴルフ、腕はもうすぐシングル。大木の、その事実によって想像のつく学生生活に、あまり好感がもてないらしい。
「あの、もうひとつ質問しますけど」
その場の空気が嫌なものになりそうだったので、俺は話をそらせた。
「世の中には常識というものがある。それはそのとおりなんですけど、仮に非常識な方法でも、世間に迷惑をかけないやり方だったら、それでいいですか。あとでその方法のみをとりあげて、非常識だから駄目だということにはなりませんか」
「おまえらな」
しかし、係長はますますいらついたように俺達を見まわし、腕をつき出して時計を示した。
「うだうだと質問ばかりしてる時間に、少しでも動こうという気にはならんのか。臨機応変、こういうときには走りながら考えなきゃ駄目なんだよ。
まったくもう、ああしてもいいかこうしてもいいか、幼稚園の子供みたいなことばかり聞きやがって。おまえら、自分の判断というものがないのか」
「わかりました!」
亀丸が直立不動の姿勢で大声をあげ、ぴょこんと頭を下げた。
「誠心誠意、がんばります」
係長はそれにはこたえず、改札口に戻ろうとした。俺がもう一度声をかける。
「あの」
「何だ」
ふりむいた顔が、今度ははっきりと怒っている。しかし、念には念を入れなければならない。
「どうやって帰ってもルール違反だと怒りませんか」
「………」
「それだけを保証してほしいんです。無茶苦茶だと言って怒らないで……」
「くどい」
とうとう、どなられた。
「できるものなら、やってみろ」
そのまま、俺達に背をむけて行ってしまった。券売機で切符を買い、チラッとこちらを見て、改札口を通過していった。
「ちょっと、しつこかったんじゃないかな」
しばらくの沈黙の後、横尾が気の毒そうに言った。
「念を押したい気持はわかるけど、怒らしてしまったのはまずいよ」
大木が鼻を鳴らした。
「だから変人だというんだよ」
係長にやりこめられた鬱積《うつせき》を、俺にむけてき始めた。顔が青白くなり、額に静脈が浮き出ている。
「第一、何かそういう物凄《ものすご》い方法が頭にあっての質問じゃないんだろう。ただもう、あれこれ聞いていれば、相手が何かいい方法を教えてくれるんじゃないかと思って、それで真面目ぶって質問しつづけていたんだろう」
憎々しげに俺を睨《にら》み、ぺっと唾《つば》を吐いてバス道路の方へ歩きだした。
「どこへ行くの」
横尾の問いに、ふりむいて言った。
「そんなこと言えるか。いまからは競争なんだからな」
ちょうど客を運んできたタクシーをつかまえ、乗り込んでUターンさせ、たちまち俺達の視界から消えてしまった。
「タクシーか……」
横尾が首をふってつぶやいた。
「あの人のことだから、家へまわってお金をもらって、そのまま会社まで乗りつけるんだろうねえ」
「しかし、それは安易なやり方だと思うな」
亀丸が並べられた自転車を見、むこうのシャッターを降ろしたパチンコ屋に眼をやり、手の平の百円玉を見つめて言った。
「いくら早く帰れると言っても、やはりこのテストには、自分の工夫で何とかするという、そういう要素も含まれていると思う。だから、人にお金を出してもらってタクシーで帰るよりは、少しくらい遅くなっても、自分の力で帰った方が……」
もう一度視線を三点移動させ、彼は何か期するところのある者のごとく、よしっと胸を張って宣言した。
「俺は、まずパチンコで電車賃を稼いでみる。そして、それが駄目なら自転車で帰る」
「自転車、盗むのか」
「いや、駅長に頼んであそこのあれを貸してもらう。あれなら、ひょっとしてくれるかもしれない」
指さした方を見ると、植込みの陰に、銹《さ》びついたボロ自転車が倒れているのだった。チェーンは切れかけており、おまけに前輪がパンクしている。もう、持主も取りにはこない物なのだろうか、鍵もかかってはいない。
「だけど、あんなので走れるかい。ここから会社まで三十キロくらいはあるんだぜ」
「かまわない」
亀丸は巨体をゆすって言った。
「途中で壊れたら、その先はマラソンして帰る」
そして、パチンコ屋へと歩いて行った。そこで十時の開店を待つらしい。
「体育会系らしいね」
その後姿を見て横尾が笑った。
「乱暴な考え方だけど、でも悪い人じゃないね。だって、あの自転車乗り逃げするなよとも言わずに行ってしまったもの。全然、僕達を疑ってないんだ」
「大木なら、そう言うだろうよ」
「多分ね」
横尾は軽くため息をついた。
「何となく、それぞれ将来どういう部署につきそうかが、わかってくるね」
「亀丸君は?」
「営業課長か拡販部長、前線指揮官だね」
「じゃあ、大木は?」
「ああいう人が、案外、人事部長なんかになるんじゃないのかな」
「それじゃ、君はどうなるの」
彼は首をふった。
「見当がつかないんだよ。だって、これからどうやって帰るか、まったく案がうかばないからね。グズの万年平社員かな」
「二人で一緒に帰ろうか」
ふと思いついて提案すると、ううむとうなってから申訳なさそうな顔をした。
「いや、やっぱり別々がいいと思うよ。この先、セールスも一人ずつなんだから」
意外にこの男が出世するのではなかろうか。なぜとなく、俺はそう思った。
3
横尾と別れて改札口へ行き、駅員に聞くとトイレはホームの端にあるということだった。
一区間八十円也の切符を買って入ろうかと思ったが、もし事情が変わって自分のやろうとしていることが失敗した場合、残りの金額は二十円となってしまう。
「予備のために取っておく方がいいな」
俺は考え、駅前をぐるりと見まわして、バス道路を少し行けば銀行の支店があることを発見し、そこのトイレを拝借しようと歩きだした。
パチンコ屋の前にはまだ亀丸が立っており、バス停の横にある公衆電話では、横尾がどこかに電話をかけたものかどうかという顔で首をかしげている。
もし一緒に帰ることにしていたら、俺もああしてあれこれ考え、首をかしげなければならなかっただろう。さあて、それで果していい知恵がうかんだだろうかな。
思いながら歩道を進み、銀行のドア前に立って、俺は大きく深呼吸をした。
「おちつけよ。まちがっても怪しい人間だとは思われないように、ごくさりげなくトイレに入るんだぞ」
自分自身に言いきかせて行内に入り、いきなりトイレに直行するのはいくら何でも不自然だから、キャッシュ・ディスペンサーの前へ歩みよって、金を出す客のふりをした。
といって、カードもなければ通帳もない。
第一、俺はこの銀行に預金すらしていない。
仕方なく説明パネルを読むふりをし、スーツのポケットに手をつっこみ、あれっおかしいなという顔をしてから、あらゆるポケットを探ってみせた。
すなわち「金を出しにきてカードを忘れたことに気づきあわてている客」の真似である。
そしてロビーに立っている案内員をチラッと見る。本当はこちらを見ているか否かを確かめるためだが、「わあ恥ずかしい照れくさい誰も俺のことを見てないだろうなと周囲に眼をやるうっかり者」の顔をして見る。
さいわい案内員は他の客をカウンターに誘導しており、カウンター内の行員も、それぞれ自分の仕事に追われている。
「よし、それでは」
俺はあくまでうっかり者のふりをしてニッと笑い、頭をかき、もう一度ポケットに手を入れたりしてから、ゆっくりとロビーの奥にあるトイレにむかった。
気になるのは防犯カメラで、もし今日強盗が入りビデオ・テープを警察がチェックした場合、朝一番でトイレに入った不審な男として、俺はリスト・アップされるかもしれない。
しかし、いまはそんなことを心配していても仕方がない。
俺は努めて自然な表情をつくり、カメラの方を見ないようにしてトイレに入った。
なかには誰もいなかったので、そのまま個室の方に入り、ドアを閉めた。いつもの癖でつい鍵をかけかけたが、それでは後からくる人が困るであろうと気づき、そのままにしておいた。俺が入っているのは数分間のことだから、まず誰もこないだろうし、万一来たとしても、そのときにかければいいのである。
ついでにつけくわえるならば、なぜ俺がわざわざトイレに入ったかというと、そこが人の眼を逃れる最良の場所だからなのである。
「しかし、むこうのトイレに人が入っていたら大騒動になるな」
その点が大いに心配だったので、俺はしばらく考え、最も人の入っている可能性の少ない、重役室フロアのトイレを思いうかべた。
「まあ、あそこなら大丈夫だろう」
そして眼をつむり、呼吸を整えてから、ムッと下腹に力を入れて両手の拳《こぶし》を握りしめた。
一瞬のめまいを感じたあと――
そろそろと眼をあけ、ほっと肩の力をぬいて、俺は個室を出た。どうやら成功したらしい。
期待どおり誰もいなかったので、鏡にむかって髪をなおし、手を洗い、ネクタイをちょっといじってから、トイレを出た。
静まりかえった廊下を歩き、エレベーターで五階から二階まで降りて、俺は自分の机のある営業部のフロアに戻った。壁の時計を見ると、九時三十二分である。
「おはようございます」
挨拶すると、営業一部から四部まで、つまり新入社員が数名ずつ配属されている部の、部長課長および先輩社員達が、いっせいに顔をあげて俺を見た。
勿論各係長はそれぞれ私鉄の終点に出かけているため、一人もいない。
「少し早過ぎたかな」
俺はチラッとそう思い、しかし帰ってきてしまったものは仕方がないので、そのまま営業二部の自分の席に着いた。
「………」
全員の無言がしばらくつづいたあと、先輩社員の一人が、周囲をぐるりと見まわしてから俺に聞いた。
「君、どうしたんだ」
「はっ?」
「いや、あのねえ、君、今朝の指示を忘れてるのか。新入社員は全員……」
「いえ、忘れてはいません」
にっこりと笑って俺はこたえた。
「九時にスタートして、いま帰ってきたんです」
「えっ」
相手は眼を見ひらいて声をあげ、同時に視線が八方から俺に集中してきた。叱られるのなら知らんふりをしておいてやろう。そう思って一度は顔を伏せた人達が、俺のひとことでナニッとばかりにそれをあげたのだ。なかには、椅子から腰を浮かせている人もいる。
「君、本当に帰ってきたのか」
「はい、本当に帰ってきました」
「し、しかし」
髪の毛の濃いその先輩社員は、次に何を言えばいいのか咄嗟《とつさ》には見当がつかないらしく、ばりばりと五本の指で頭をかいてうなった。
「それは、つまり、ううむ」
まわりからは、係長もまだ帰ってきてないのにとか、これが本当なら三年ぶりの新記録だとか、ささやきあう声が聞こえてくる。
「君ねえ、ええっと、何君だったかな」
三部の席から、部長が声をかけてきた。
俺の上司である二部の部長は、ひょっとして俺が隠し金を持っていたのかもしれないと疑っているのだろうか、難しい顔をして沈黙を守っている。下手に感心して、もしそうだったら自分の立場がなくなるとでも思っているのだろう。割合、気の小さい奴だ。
「君はその、どうやってこんなに早く帰ってこれたんだね」
三部の部長は、ずばりと言った。
「まさか、別にお金を持っていたとか、そういうことではないだろうね」
「そういうことではありません」
俺はポケットから百円玉を出してこたえた。
「所持金はこれだけで、あとは全部係長にあずけました」
「えっ、それじゃあ君は」
ようやく次の言葉がうかんだのか、先輩社員が早口にまくしたてた。
「その百円玉さえ使わずに帰ってきたのか。ということは、車かオートバイか何かだな。あのね、君、三年前にオートバイを借りて百二十キロですっとばしてきた奴がいたが、そいつは大金持の息子で、ダイヤの入ったタイピンに18金の腕時計、それを預けてオートバイを借りたという、何とも乱暴な無鉄砲なダイナミックな、うらやましくも腹立たしい奴だったが」
「何を言っとるのかね、君は」
三部の部長がそれを制し、好意的な表情で俺に質問した。
「いったいどういう方法で帰ってきたのか、それを教えてくれないかね」
「は、はあ」
言ってもいいけど、いまの段階では、そう簡単に信用してはくれないだろうしなあ。思ってためらっていると、さっき駅前で別れた係長が帰ってきた。
「あっ」
至極単純な声をあげ、数秒間俺を見つめてから、いままで他人が質問した項目を、余さず一度に並べたてた。
「本当に帰ったのかどうやって帰った隠し金か車かオートバイか」
「まあまあ、落着きたまえ」
まさしく俺が本当に帰ってきたのであると、そこで初めて納得したらしく、部長が口をひらいた。顔なども、君なかなかやるじゃないかという具合に、ちゃんと笑顔に切りかえている。
「そういうことは、もう僕達が聞いてしまったよ。彼は本当に帰ってきたんだ。しかも、一銭も使わずにな」
「そ、それでか……」
係長はふうっと息を吐いて俺を睨みつけ、俺が念を押した言葉を復誦した。
「それで君は、非常識な方法とかルール違反とか無茶苦茶とか、そういうことをくどくどと聞いていたわけなんだな」
指をつきつけ、声を高くした。
「こら、何をやったんだ。社会人としての良識というものが必要だと、僕があれほど」
「僕は誰にもどこにも、迷惑はかけていません」
俺はもういいだろうと思い、事実をありのままに喋った。
「僕はテレポートして、つまり、あそこからここまで、自分の三次元空間内座標点を変位して戻ってきたのです」
オフィス内の空気がカチッとかたまり、人が一瞬で人形になって静止してしまった。
4
「嘘だろう」
「本当です。しかし、嘘だと思われるのなら、そう思っていただいても結構です」
「しかし、いくら何でも信じられん話じゃないか」
「でも、本当なんだから仕方ありません」
俺と係長との間に、押問答がつづいている。
周囲の全員がその推移を見まもっており、営業活動に出かける者もおらず、仕事は完全にストップしている。
時計の針は十時半過ぎを示しており、「普通」の方法で帰ってきたのは、まだ二人だけなのである。それも、一人は一区八十円区間内にある知りあいの家へ行って電車賃を借り、もう一人は乱暴にも腕時計を見ず知らずの他人に二千円で売りつけてきたのだという。
金も使わず自分の持物を犠牲にもせず帰ってきた者は、まだ誰もいないのである。
「だけど、君な」
係長は、普通ならば当然言うであろうことは言わず、すなわち、じゃあ君そんなに言うのならここでその能力を見せてくれたまえよとはこれっぽっちも言わず、どうでもいいようなことで俺を問いつめにかかってきた。
「君がそんな特殊な能力を持っているなどと、いままで聞かされたことはなかったぞ。
身上調書の特技欄にも、そんなことは書いてなかったじゃないか」
誰がそんな欄に、特技テレポートなどと書いたりするものか。
「そんなことを書いたら、それだけで変な人間だと思われてしまうじゃないですか」
「思うも何も、君はまさしく変な人間だ」
係長は決めつけ、彼なりの理詰め攻勢に追いうちをかけた。
「また、もし変な人間だと思われるのが嫌なのなら、なぜ今日突然その能力を示したのだ。しかも、黙っていれば知られないものを、そこらで時間をつぶして適当に姿を見せ、オートバイで帰ってきたとか何とか言っておけばそれですんでしまうものを、なぜテレポートしてきたなどと言ったのだ」
「それはですね」
説明しかけたとき、大木が帰ってきた。オフィスに入って異様な雰囲気を察し、その原因が俺であるらしいと知って、ニヤリと笑っている。大方、俺がルール違反をやって責められていると思ったのだろう。
「大木君、君はどうやって帰ってきた」
「はい。タクシーで家まで行き、そこでお金を払って、そこからは電車で来ました」
普通の方法としては最も安易なそれを、さも得意気に披露している。
「ふむ。まあ、それほど大した方法ではないが……」
係長は顔をしかめ、俺をじろりと睨んでから大木に言った。
「こいつみたいに、無茶苦茶な手を使うよりはましだ。少なくともルール違反ではない」
「僕のはルール違反ですか」
俺は問い返した。
「家が割合近くにあったという偶然、そしてそこで金を何とかできるという条件。それを利用してもいいのなら、僕がこんな能力を持っていたという偶然、それを自由に使えるという条件。それを利用してもかまわないはずでしょう」
「理屈はそうかもしれない」
三部の部長が口をはさんだ。二部の部長は、またもや|だんまり《ヽヽヽヽ》を決めこんでいる。
「だけど、何となく納得できないんだよな、その論は。なぜかというと……」
腕を組んで首をかしげ、ううむとうなっている。俺は助け舟を出してやった。
「こちらの話は非現実的だからですか。つまり、拠《よ》って立つ場が大木君と僕とでは違っているからですか。現実世界を基準にすれば」
「そう、そういうことだね」
部長は大きくうなずいた。
「それを認めるとだな、空を飛んで帰れる者は空を飛び、時間を操れる者は操って帰ればいいということになる。だが、そこまで認めると、現実の世の中の|きまり《ヽヽヽ》というものが無茶苦茶になってしまうからねえ」
「お言葉を返すようですが、それはつまり、現実には空を飛べる者や時間を操れる者などいないのだという、その前提に立ってのお話でしょう」
「そうだ」
「しかし、僕は実際にテレポートできます」
え、と大木が声をあげ、小馬鹿にした口調で先輩社員に聞いている。あいつテレポートしてきたと言ってるんですか。嘘でしょう。何かずるいことをしたんでしょう。ね、そうですよね……
「仮にできるとしてだ」
係長が質問を再開した。
「さっきの件だ。なぜ、それを隠しておかなかった。変な人間だと思われたくないのなら、なぜずっと隠しておかなかった」
ようやく頭が普通に働いたらしく、まともな疑問もぶつけてきた。
「第一、なぜそんな人間がサラリーマンになった。それで身を立てれば儲《もう》かるじゃないか。なぜだか説明しろ。そして、何よりも論より証拠、そのテレポートとやらを見せてもらおうじゃないか」
「ただいま戻りました」
横尾が帰ってきた。
「百円玉をくずし、十円で友達に電話をして八十円で電車に乗り、ターミナルに着いてからその男に入場券を買って入ってきてもらいました。キセルをしました」
一応の報告を終えてから、何かを言いたげに顔をこわばらせている。
「帰りましたあっ」
亀丸も戻ってきた。
「パチンコで金を稼《かせ》いで電車に乗りました。本当はもう少し早く帰れたんですが、玉がよく出て止まらないもので」
ポケットから千円札を数枚つかみだし、いかにも嬉しそうに係長に見せている。
十一時近くなり、九時からはかればこのあたりが平均的な所要時間なのだろうか、他の部の新入社員達もつぎつぎに姿を現わし始めている。
「それはですね」
俺は、ここらが汐《しお》どきだろうと説明を始めた。
「なぜサラリーマンになったのかは、サラリーマンにならなければ、主人公たる僕がこういうテストを受けるなどということはなかったであろうからです。勿論、こういうテストの例でなくともテレポートは示せますが、目的はテレポートを示すことではなく、こういうテストが僕は嫌いであるということを表明することだったからです。だから、テストを受けるべく、とりあえずサラリーマンの新入社員ということになった」
「………」
「なぜこういうテストが嫌いかというと、馬鹿馬鹿しいからです。なぜ馬鹿馬鹿しいかというと、こんなことをしても何もならないからです。このテストに限らない、寺で座禅を組んだり、どこかに合宿してどなりあったり、ゴミ箱をかついで街を歩いたり、駅前に立ってカラスなぜ鳴くのとうたったり、そういうことをしても人間の本当の能力というものはひき出せない、伸ばせない、粗野で無神経で視野の狭い猪突人間しかつくれないからです。本当のファイトは柔軟な精神からうまれ、本当の粘りは広い視野と長い時間をかけてつくった計画からうまれてくる。三日座禅をし一週間どなりあい一日ゴミをひろって一流の営業マンができるのなら、誰も日夜苦労苦心を重ねたりはしません」
全員が口をあんぐりとあけて俺を見つめ、長広舌を止めることすら忘れている。
立ちあがり、並べられた机の間を歩きまわりながら俺は作者と一体化して演説をつづけた。
「なぜ僕が自分の能力を突然に示し、ずっと隠しておかなかったのか。それは、最初から示して身上書に書いておけば、そこで騒ぎが起こってしまい、話がこのテストを受けるまでには至らなかったであろうから。また、ずっと隠しておけば、僕がこの種のテストが嫌いであるということを、効果的に示せなかったであろうからです。つまり僕は、こういうテストを馬鹿にし、からかってやろうと思ったわけでして」
君は……と言いかけた係長を制し、俺はぐるりと周囲を見まわした。
「話が進むうちに新入社員のなかで、一人くらいはこのテストを拒否する人間が出るかと思ったのだが、どうやらいなかったらしい。先輩社員の皆さん方も、全員おとなしくこれを受けてこられたものらしい。まことに残念です。こういうテストは、一人の人間に対する侮辱だとは思わなかったのですか」
「異議あり」
そのとき鋭い声があがり、ふりむくと横尾が珍しく厳しい顔をして立ちあがっていた。
「君の言うことはもっともだ。実をいえば、僕も駅前でじっと考えて次第に腹がたってきた。よっぽど拒否して、それこそタクシーに乗ってアパートへ帰り、そのまま辞表を出しに会社へ戻ろうかと思った」
彼は、やはり根が温厚な人物らしく、次第にいつもの表情に戻って言った。
「しかし、僕はこう考えた。ただ拒否したら、僕の真意が伝わらずに、あいつはできないから放棄して、それを隠すために大層な理屈を言っているのだと思われるかもしれない。あるいは、無理矢理、そういうことにされてしまうかもしれない。何か言う以上は、やってから言おう。ちゃんとできるということを実際に示して、さてそれから、しかし私はと言わせてもらおう。そう考えて、それで悪いことだけれどもキセルという方法をとったんだ……」
横尾は少し気の毒そうにつけくわえた。
「……だから、君もそれを言うのなら、まず普通の方法で会社に戻ってから言うべきだったと思う」
「現実世界の枠内で考えるならば」
俺はこたえた。
「君が一番立派だし、男らしいと思う。僕もテレポートの力がなければ、そうしたかもしれない。しかし幸か不幸か」
ニヤッと笑ってウインクしてみせた。
「ここは現実と非現実のいりまじった虚構世界なのでね。それで、ああいう手を使わせてもらったんだ。なぜなら、その方が読者がびっくりして何だ何だと思ってくれるであろうからね」
ぱんと手を叩き、右手の親指と人差し指をパチンと鳴らして、俺は声をあげた。
「さあ、もうこれくらいでいいだろう。あとは非現実オンリーの世界にする。みんな、思いつくままの方法でテストを馬鹿にしてくれ」
途端に時間が元に戻り、俺達は午前九時の駅前に戻っていた。
5
「こんなの、テストになるかなあ」
改札口に消えた係長から視線を戻し、横尾は手の平の百円玉を見つめて言った。
「要は電車賃があればいいわけだろう」
彼は申訳なさそうに駅の方をチラッと見、俺に確かめた。
「で、俺達は好きなように状況を変えられるわけだろ」
「ああ、そうだよ」
「じゃあ、こうすればいいんじゃないのか」
手を握り、エイッと気合をかけてひらくと、百円玉は五百円玉に変っているのだった。
「で、これで切符を買えばそれでいいんだよね。簡単過ぎて、テストにならないよ」
亀丸がスタート・ダッシュの恰好をして言った。
「もし音速以上で走れれば、会社まで二分くらいで帰れることになるな」
ビュッと風を起こして消え、しばらくしてから、また風を起こして現われた。
「試しに帰ってみたら、朝礼やってたわ」
彼は巨体をゆすって笑った。
「車のセールスマンが、車より早く走ったんでは商売にならないな。あっはっはっ」
「タクシー」
大木がタクシーを呼び、運転手に命令した。
「早く行け。空を飛んで」
「へっ」
乗り込みながら、運転手の頭をぽかりと殴《なぐ》り、眼をぎらぎらひからせてどなった。
「空を飛んでいけというんだ。俺の言うことが聞けないのか、この野郎」
いきなり後から首を絞めにかかった。
「い、行きます行きます」
運転手はあえぎながら車をスタートさせ、十メートルほど走ってからそのまま中空に浮かんでぐんぐん高度をあげ、上空で一度旋回して、都心の方角へと消えていった。
「ね、いくらでも馬鹿にできるだろう」
俺はニヤニヤと笑って言った。
「もっと簡単な帰り方もあるよ。つまり、空間位相を変化させて、あっちとこっちをくっつけてしまうんだ。ほらね」
ピュッと口笛をふき、俺は眼の前の空間に穴をあけた。そこから覗《のぞ》くと、すぐそこに会社のビルが見えている。
「これなら百歩も歩かずに帰れる」
穴を大きくして二人を誘い、くぐりぬけかけて俺は言った。
「といっても、くぐりぬけた途端にハッと我に返るのかもしれないけどね」
そして実は、我に返った途端に、自分は途方にくれて駅前に立っていたのであると、わかるのかもしれないけどね――
首をかしげて、俺はつぶやいた。
「その方が、読者は納得するかな」
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俄《にわか》じゃ俄《にわか》じゃ
※[#歌記号]あ、えらいこっちゃえらいこっちゃ、
事件や事件や。
えらいこっちゃえらいこっちゃ、
騒ぎや騒ぎや。
「もし。人が仰山《ぎようさん》走ってますが、何かあったんですか」
「詐欺《さぎ》です」
「えっ」
「詐欺師がつかまったんです。何でも、酒を売って歩いてる男やということですが、口のうまい奴でナ。計り売りしながら、立て板に水でべらべらとべんちゃら言うて、客がエエ気持になってる隙《すき》に、量をごまかしたという。いまも、ジン、あの洋酒のジンをごまかそうとして、それでつかまったらしいでンな」
「何でそんな物をごまかしました」
「昔からよう言いまっしゃろ、|巧言令色 鮮《こうげんれいしよくすくな》しジンちゅうて」
「俄《にわか》ですか」
「俄ですがナ」
※[#歌記号]あ、えらいこっちゃえらいこっちゃ、
事件や騒ぎや。
えらいこっちゃえらいこっちゃ、
騒ぎや事件や。
「もし。人が走ってますが、何かあったんですか」
「人面瘡《じんめんそう》です」
「えっ」
「人面瘡をもった男が、侍《さむらい》に斬《き》られました。何でも、腹におできがでけて、それを放っといたらどんどん大きなって。しまいにそこに眼鼻がついて物言い出したという」
「何や、落語の『瘤弁慶《こぶべんけい》』みたいでンな」
「さ、瘤弁慶は土食うたら出てきましたが、こっちはカビ食うて出ました。それで、その男が腹の人面瘡を見せつけるように出して歩いてて、奇ッ怪なる奴め、ズバッですヮ。気の毒なことをしましたが、まあまあ、考えてみたら自業自得《じごうじとく》ですナ」
「それ、ひょっとしてあんた、身から出たカビちゅう俄しようと思てなはる……」
「そっちから言いなはンな、ややこしい」
※[#歌記号]あ、俄じゃ俄じゃ、
えらいこっちゃえらいこっちゃ。
軽口俄じゃ、
えらいこっちゃえらいこっちゃ。
「もし。人が走ってますが、どうしました」
「仏像が現われました」
「えっ」
「何でもな、木彫《きぼ》りの古い仏像で、どういう具合かは知りまへんが、夜になると御《お》身体《からだ》がひかるという。昼間はぼんやりとしてますが、夜になると輝く仏様やということで。それが、不思議なことに、昨日の夜はあっちのお寺、今日の夜はこっちのお寺というように、次から次へと居場所を変えはるそうで。人の知らん間に、皆が寝静まってるうちに、あちこちへお移りになる仏様で。それが、ついそこのお寺に昨日の晩、御出ましになったという。それで、こないして皆が騒いでます」
「ははあ、そうですか。しかし、世の中には不思議なことがおますナ」
「いやいや、考えてみたらそれほど不思議なことでもないンで。ほれ、よう言いまっしゃろ」
「何ちゅうて」
「晩仏は流転《るてん》する」
「何ですか」
「晩仏は流転するちゅうてね……」
「俄ですか」
「俄ですがナ」
※[#歌記号]えらいこっちゃえらいこっちゃ、
俄じゃ事件じゃ。
えらいこっちゃえらいこっちゃ、
俄じゃ騒ぎじゃ。
「もし。これ皆、何で走ってます」
「御番屋《おばんや》に京の女がたてこもりました」
「えっ」
「京の女が仰山《ぎようさん》、御番屋にたてこもったんです。何でも、そのなかの一人がお上《かみ》にお願いの筋があるちゅうて、とりあえず御番屋へ出かけたんですがナ。下っ端役人にケンもほろろの扱いを受けたんで、それが気にいらんちゅうて親類やら近所の者を呼び集めて、それでたてこもりました。そやからいま、御番屋は京の女でいっぱいです」
「そしたら、その女連中、何か過激なこと叫んでますやろナ」
「いや、案外静かなもンでナ。何やしらん好きな男への挨拶《あいさつ》の言葉と、御番屋のなかの状態を知らせる科白《せりふ》とを一緒にして、歌うてます」
「何ちゅう歌を」
「番屋混んでおす」
「何ですか」
「番屋混んでおす、マイダーリン」
「そらあんた、バイア・コンディオスと違いますか」
「俄ですがナ」
「俄ですかいナ」
※[#歌記号]えらいこっちゃえらいこっちゃ、
騒ぎじゃ騒動じゃ。
えらいこっちゃえらいこっちゃ、
俄じゃ俄じゃ。
「もし。どんどん人が走っていきますが、何があったんですか」
「臭《くさ》い臭い侍です」
「えっ」
「周囲一町四方は臭《くそ》うて鼻が曲がろうかという、そういう侍がおるんです。何でも、貧乏な侍やということでナ。俸禄《ほうろく》だけでは食えんので、内職をしとる。それが何の内職かというと、雑喉場《ざこば》、魚市場ですナ、そこで手伝いをしとる。ところが、ちょうど北の方、エゾとか松前とかいうあたりの海から魚が着いて。それが仰山|獲《と》れたちゅうんで箱やら樽《たる》やらにギュウ詰《づ》めにして運んできたもんやさかいに、なかで腐って魚の皮と皮やなんかくっついてしもて。それでその侍が、それをば一匹ずつはがすように、皮をむくようにして別《わ》けたところが、その臭いのが身体にしみ込んでしもたという。そういう騒ぎです」
「ははあ、そうですか。しかし、その侍、臭いのが取れなんだら困りますナ」
「いや、それは心配ない。ちゃんと樟脳《しようのう》を人からもろて、それを身につけてますさかいに、まあまあそのうち臭いのも消えますやろ」
「はあ、樟脳をね。しかし、よう樟脳がエエと気がつきましたナ」
「それは何でもないことで。そういう侍には樟脳がつきモンになってます」
「そうですか?」
「へえ、鰊《にしん》むく侍樟脳付ちゅうて」
「何ですか」
「鰊むく侍樟脳付。西向く|士 《さむらい》小の月……」
「俄ですか」
「俄ですがナ」
※[#歌記号]あ、えらいこっちゃえらいこっちゃ、
えらいこっちゃえらいこっちゃ。
騒動や騒動や、
えらいこっちゃえらいこっちゃ。
「もし。次から次へと人が走っていきますが、この先で何かあったんですか」
「大人二人が子供を殺しました」
「えっ」
「大人二人が一人の子供を殴る蹴るで殺してしもたんです。何でも、その大人二人というのは友達どうしで、おかしなことに二人ながら痔《じ》持ちやった。一人はイボ痔で一人は切れ痔やとか聞いてます。で、この二人が並んで歩いてたら、餓鬼《がき》大将がその後から近づいて、二人の痔をばポンポーンと蹴りあげたんですナ。痛いっちゅうてふりむいて、大人二人が顔を真赤にして怒りましてナ。さあ、それから逃げる餓鬼大将を追いまわして、とうとうつかまえて踏む蹴る殴るの責め折檻《せつかん》。かわいそうにその子供、死んでしまいました」
「で、その大人二人は?」
「まわりで見てた者が取り押さえて、役人にひきわたしましたが、平気な顔やそうで」
「人間やおまへんナ、そうなると。子供も痛い痛いちゅうて泣き叫んだやろに」
「さあ、役人もそれを言うて、おまえら死罪じゃと宣告したけど、そいつらは、あの餓鬼が死んだとて我われは死なんちゅうて叫んでるそうでっせ」
「何ででっしゃろか」
「さ、昔から言いまっしゃろ。痛餓鬼《いたがき》死すとも痔友は死せずちゅうて」
「は?」
「痛餓鬼死すとも痔友は死せず」
「俄ですかいナ」
「俄ですがナ」
※[#歌記号]あ、えらいこっちゃえらいこっちゃ、
事件や騒動や。
えらいこっちゃえらいこっちゃ、
俄や騒ぎや。
「もし。まだまだ人の波がとだえまへんが、ほんまは何があったんですか」
「米騒動です」
「えっ」
「米騒動です。というのが、今年は夏があんまり暑いことおまへなんだ。さあ、それが祟《たた》ったかして、米の出来がどうも思わしない。いわゆる冷夏という、あのおかげで、米が不作なんです」
「これはどうもほんまらしいな。で、それでどうなりました」
「どうなったて、あんた。米の出来不出来にかかわらず、年貢米《ねんぐまい》の量は決められてますのでナ、それを出してしもたら来年の種モミすら残らんちゅうて、それでお百姓達が騒いでるんです」
「無理のないことですナ、それは。で、役人は何とかしてくれそうなんですか」
「それが全然聞く耳を持ってまへンねや。
そういうことはようある、不作というのはようあるこっちゃいうて。何やしらん平気な顔で、それが世の中の慣《なら》いじゃ、不作があればこそ豊作がある、不作がなければ豊作もないとか、ごちゃごちゃ言うてますヮ」
「何でそんなこと言いまンねン」
「冷害のない豊作はないちゅうて、昔からの言い伝えやそうでっせ」
「何ですか」
「冷害のない豊作はないちゅうて……」
「やっぱり俄ですか」
「俄ですがナ」
※[#歌記号]えらいこっちゃえらいこっちゃ、
やっぱりえらいこっちゃ。
それいけやれいけ、
事件や事件や。
「もし。ここに立って聞くだけでは埒《らち》があきまへんよって、ぼちぼち私も走りかけてまンねンけど、いったい何があったんですか」
「女の断食《だんじき》です」
「えっ」
「女が断食して、いまにも死にそうなんです。何でも、物凄《ものすご》いデブの女やったということですがナ。このままでは嫁にも行けんし身体にも悪かろうというので、一念|発起《ほつき》して断食を始めたんです。ところが、えらい長いこと断食をつづけたがために、頬《ほお》はこけるわ身体はガリガリになるわ。とうとう、いまにも死にそうになってしまいました」
「女の頬がこけてというたら、見方によっては別嬪《べつぴん》に見えんでもおまへんねやが。その女、別嬪さんですか」
「いやいや、これがえげつない顔の女で。
あれで太ってたときには、日が暮れると近所の者が誰一人として表へよう出なんだという、そういう恐ろしい顔です」
「うわあ、それは断食なとせなしょうおまへんナ。しかし、そこまでやったら腹へった腹へったちゅうて泣いてますやろ」
「何の何の、本人はそれでも我慢《がまん》するちゅうて、がんばってますヮ」
「それはまた、えらい気丈《きじよう》な女ですけど、大丈夫ですか」
「大丈夫かどうかは知らんけど、放っとかな仕方おまへんヮ。なんせ、ひらきなおって言うてますさかいにナ」
「何ちゅうて」
「ブスは食わねど高|楊枝《ようじ》ちゅうて」
「何ですか」
「ブスは食わねど高楊枝ちゅうてね」
「俄ですか」
「俄ですがナ」
※[#歌記号]あ、えらいこっちゃえらいこっちゃ、
それいけやれいけ。
えらいこっちゃえらいこっちゃ、
どんどんいけいけ。
「もし。とうとう私も一緒ンなって走り出しましたんやが、何があったんですか」
「時空の混乱です」
「えっ」
「時空の混乱で、シーザーが現われたんです」
「シーザーて、あのシーザーですか」
「あのシーザーもこのシーザーも、シーザーいうたらあのシーザーでンがナ。何でも、古代ローマから戦《いくさ》に出かけて、途中で道に迷たなと思たら、ここへ出てしもたということですヮ」
「そしたら、シーザーはん、びっくりしてウロウロしてますやろ」
「シーザーはんて、友達みたいに言いなはンな。いやいや、シーザーくらいになると、さすがに肝《きも》の坐った英雄ですさかいにナ、別にうろたえもせんと、あちこち歩きまわってるということです」
「歩きまわって、何をしてますンで」
「人からこの世の中の様子を聞いたり、街を見物したりしてるらしいでっせ」
「そんなことして、どないしますのンで」
「さ、何でも元の古代ローマへ帰ったら、それを書いて本にするつもりらしい。旅行記というか見聞録というか、そういう本にね」
「そうすると、その本の題名は、やっぱりシーザーの旅行記とか、そんな具合につけますのかナ」
「そんな|もっちゃり《ヽヽヽヽヽ》した題名はつけまへん。もっとシュッとした題が、ちゃんと考えてあるということで」
「何ちゅう題ですか」
「聞いた見た書いた」
「何ですか」
「聞いた見た書いた」
「へっ」
「わからんかいナ。来た見た勝ったのもじりですがナ」
「俄ですか」
「俄ですがナ」
※[#歌記号]えらいこっちゃえらいこっちゃ、
走れや走れや。
えらいこっちゃえらいこっちゃ、
進めや進めや。
「もし。こないして私も走ってまンねンけど、いったいこの先で、何があったんですか」
「また、時空の混乱です」
「えっ」
「時空の混乱で、三蔵法師《さんぞうほうし》が現われました」
「三蔵法師というたら、あの、西遊記の」
「そうです。もっとも、西遊記ではお伴に孫悟空《そんごくう》と猪八戒《ちよはつかい》と沙悟浄《さごじよう》、サルとブタとカッパを連れてますがナ。時空の混乱にまぎれてブタとカッパはどっかへ消えてしもて。法師と悟空と、それから法師の乗ってはった馬だけが出てきてます」
「やっぱりそれ皆、ひとかたまりになってですか」
「いや、一人と二匹が一列になってトボトボと歩いてるそうです」
「どういう順序で」
「どういう順序て、こういう組み合わせのときには、順序は決ってますがナ。最初が人間、次にサル、それから馬でっせ」
「何でそないに決ってます」
「何でて、昔からよう言いまっしゃろ。人間パンジ最後が馬ちゅうて」
「何ですか」
「人間パンジ最後が馬……」
「あの、そのパンジというのはチンパンジーのことですか」
「へえ、そうです」
「しかし、それではチンが抜けてますナ」
「これは女形《おやま》の孫悟空で……」
「ようそんな阿呆《あほ》なことを。俄ですかいナ」
「俄ですがナ」
※[#歌記号]えらいこっちゃえらいこっちゃ、
走れや進めや。
えらいこっちゃえらいこっちゃ、
まだまだ進めや。
「もし。もうかなり走ったように思いますけど、何も見えてきまへんねやが、いったい何があったんですか」
「公害問題です」
「えっ」
「地球から他の星にまでひろがる公害で頭のおかしなった人が、自分の名前を変えると言うてるんです」
「どういうことですか、それは」
「何でもな、杢兵衛《もくべえ》さんとかいう人らしいですヮ。その杢兵衛さんが、広い地面を持ってなはった。ところが近所の工場から水銀を垂《た》れ流されて、そのためにその地面の値段がガタッと下がってしもた。杢兵衛さん、ウロが来てしもて、これは名前が悪いからこういう目にあわないかんねや、名前を変えるちゅうてナ。それで騒ぎになってるんです」
「ははあ、そういうことですか。しかし、それでは他の星にまでというあたりが、別に関係してきまへんナ」
「さ、ここまでは関係してまへんけど、この騒ぎを縮めて言うてもらいますと関係が出てくる仕掛けになってます」
「この騒ぎを縮めて? どないにですか」
「水銀地価杢動転改名」
「何ですか」
「水銀地価杢動転改名」
「ようそんなややこしいことを。俄ですかいナ」
「俄ですがナ」
※[#歌記号]えらいこっちゃえらいこっちゃ、
だんだん無茶苦茶。
えらいこっちゃえらいこっちゃ、
どうなるわからん。
「もし。どういうことがあったんですか」
「仙人です」
「えっ」
「久米の仙人が現われたんです」
「久米の仙人て、あの、女の脚を見て空から落ちたという、あの久米仙ですか」
「そうです。その久米仙が、また墜落したんです。というのが、そこの空地で女歌舞伎の一座が興行してた。何でも、五代目出雲の阿国《おくに》とかいうてますヮ。で、その阿国さんが芝居をしてたんですけどナ。何しろ、空地に小屋がけするくらいやから、楽屋なんかもぐるりに幕を張っただけ。上からはまる見えですヮ。で、ちょうど阿国が着がえてるところへ、上空に久米仙が通りかかって、上から覗《のぞ》いたんですナ。途端にくらくらっと来て、ドスーンですヮ」
「懲りん仙人ですナ。そんなことなら、もうちょっと注意をしときゃええのに」
「さ、注意はしてました。雲に乗って飛んでて、今度は落ちんようにと太い縄、太い縄で自分の身体を縛って、もう一方を雲の出っぱりのところに結んどいたんですけどナ。何しろ、雲てな物はふわふわしたモンですさかいに、身を乗り出した途端に、スッと縄が抜けてしもて。仙人、アッというなり縄握ったまま墜落、そのまま死んでしもたんです」
「で、阿国はどないしました」
「どないもこないも。徳の高い仙人様を死なしたのは、私が殺したようなものやちゅうてナ。このままでは私も申訳が立たんいうて、短刀で我が胸を突いてそのまま死んでしまいました」
「それはまた、えらいことをしましたが。
しかし、そうやって後を追うて死んで、それで阿国さん、極楽往生ができますかナ」
「それは大丈夫。極楽往生は間違いおまへン」
「そんなことがわかりますか」
「わかりますがナ。何でて、昔の偉い坊さんが言うてますやろ」
「何ちゅうて」
「仙人縄持って往生を遂ぐ、いわんや阿国をや」
「何ですか」
「仙人縄持って往生を遂ぐ、いわんや阿国をやちゅうてね」
「俄ですか」
「俄ですがナ」
※[#歌記号]えらいこっちゃえらいこっちゃ、
口から出まかせ。
えらいこっちゃえらいこっちゃ、
責任持たへん。
「もし。走ってますけど、何でンねン」
「SF作家です」
「えっ」
「有名なSF作家が、おかしなことをしたんです。何でも、大きな犬、セント・バーナードとかいう大きな犬を飼《こ》うてた人やそうですヮ。ところが、その犬が死んでしもたんでナ、その人ウロが来てしもて。自分の子供を雨降りの日に物干し竿《ざお》にひっかけたという、そういう騒ぎです」
「雨て、いまは雨なんか降ってまへんデ」
「さあ、そやから大分以前の話で。それを思い出して、その人が歌を一首つくったんでナ。その発表会やいうて、それでこないして人が押し寄せてます」
「歌て、どんな歌ですか」
「筒井筒、犬死にけらしうろたえの、子供干すちょう雨の降るなか……ですヮ」
「何ですか」
「何ですかて、あんた、こんな歌二回も私に言わせなはンな。ああ、恐《こ》わ」
「俄してて恐がりなはンな、怪体《けつたい》な人やナ。しかし、それにしても、最前から大分に走ったような気がしますねンけど、皆目《かいもく》、何も見えてきまへんナ」
「実はわたしも不思議に思てるんやけど、皆さんが走っててやからねェ」
「やっぱり気になりますわなあ」
「そらそうでっせ。そやけど、なかには何の関心もないちゅうて、そんなことに騒ぐようでは万物の霊長たる人間とはいえんちゅうておさまってる一族もいてるそうでっせ」
「何で、騒いだら人間やおまへンので」
「平気にあらざれば人にあらずちゅうてね」
「何ですか」
「平気にあらざれば人にあらず」
「俄ですか」
「俄ですがナ」
※[#歌記号]えらいこっちゃえらいこっちゃ、
人人人人。
えらいこっちゃえらいこっちゃ、
混雑混雑。
「もし。走ってるうちに見たこともない場所へ来てしもてますが、ここはどこですか」
「さあ、私にもわかりまへんねやが、何でも無茶苦茶な世界やということですナ。そやから、ある人やなんかは、俺はもう知らんちゅうて便所行ってしまいなはった」
「催《もよお》してきたからですか」
「いやいや、走ってるより知らん顔で坐ってる方が楽やちゅうてね。そこで坐って、月やら太陽やらへ行く方法を考えてますヮ」
「そら、いったい誰ですねン」
「知らんのと便所楽」
「何ですか」
「知らんのと便所楽。あの、ほら、鼻の大きい……」
「そらあんた、シラノ・ド・ベルジュラックと違いますか」
「俄ですがナ」
「俄ですかいナ」
※[#歌記号]えらいこっちゃえらいこっちゃ、
あいつもおるおる。
えらいこっちゃえらいこっちゃ、
こいつもおるおる。
「もし。ほんまに、いったい何があったんですか」
「天才です」
「えっ」
「天才科学者が、この宇宙の秘密を明らかにしたんです。何でも、その人は天才にあり勝ちな変わった男でナ。学校の授業中でも、考えが浮かんだら早びきして家へ飛んで帰って計算を始めたらしいでっせ。いまも麻雀してまして、上りの役がついて点が倍になった途端に、宇宙の秘密に気がついたということで。さっそく飛んで帰って理論を作ったという」
「どういう理論を」
「一翻《イーハン》早退生理論」
「何ですか」
「一翻早退生理論ちゅうてね。あのほら、アインシュタインの……」
「そらあんた、一般相対性理論やがナ。俄ですかいナ」
「俄ですがナ」
※[#歌記号]えらいこっちゃえらいこっちゃ、
先いけ先いけ。
えらいこっちゃえらいこっちゃ、
どんどん先いけ。
「もし。何があったんですか」
「輪廻転生《りんねてんせい》です」
「えっ」
「輪廻転生です。親がアメリカの宇宙科学者やったんですが、その子供がうまれ変わって星になりました。それで皆、不思議なこともあるもンやと、こないして騒いでるんです」
「どういうことですか、それは」
「何でも、その子供が死にましてナ。親が航空宇宙局に勤めてる男やから、かわいそうに宇宙葬にしてやるちゅうて、ロケットに死体を乗せて宇宙の彼方《かなた》に送ってやったんやそうですヮ。そしたらあんた、宇宙というのは不思議な所で、子供がうまれ変わって、意識を持った星になったんです。その子供、後から来る人間にいろいろ幻影を見せたりしてるそうでっせ」
「どういうわけで、そんなことになりました」
「昔から言いまっしゃろ。親はNASAでも子はソラリスちゅうて」
「何ですか」
「親はNASAでも子はソラリスちゅうてね」
「俄ですか」
「俄ですがナ」
※[#歌記号]えらいこっちゃえらいこっちゃ、
SFSF。
えらいこっちゃえらいこっちゃ、
映画じゃ映画じゃ。
「もし。まだ何も見えまへんが、何があったんですか」
「靴下です」
「えっ」
「宇宙に、化物みたいに大きな靴下が漂うてるんです。そらもう、その大きさというたら、馬場の十六|文《もん》やなんか及びもつかん。千文二千文以上はあるという」
「あんた」
「へ」
「それ、ひょっとして、二千一文宇宙の足袋《たび》ちゅうて、俄しようと思てなはる」
「わかりますか」
「わかりますわいナ。第一、それやったら、2001年|忌中《きちゆう》の旅ちゅうて、漫画家の高信太郎がもっとエエのン描いてまっせ」
「ああ、実はあれは私が考えて、あの人に譲ってやったんです」
「ほんまですか」
「へえ、コーシンに道を譲った」
「俄ですかいナ」
「俄ですがナ」
※[#歌記号]えらいこっちゃえらいこっちゃ、
疲れた疲れた。
えらいこっちゃえらいこっちゃ、
走れん走れん。
「もし。私もう、息が切れて走れんようになってきたんですけど、何があったんか、ほんまのところを教えてもらえまへんやろか」
「ブラック・ホールです」
「えっ」
「ブラック・ホールに突っ込もうとしてるんです。大体が、私らは地面の上を走ってると思てますけど、それはずっと昔の話で。実は、いまは巨大な宇宙船、球形の巨大な宇宙船のなかにおるんです。何でも、恒星間宇宙船とかいうて、新しい星をめざして進んでるんやそうで。ところが、行く手にブラック・ホールが現われたんですナ。で、このままでは我われは、この宇宙船ごとそのブラック・ホールに一直線に呑《の》まれてしまうというので。それで皆、それを確かめようとコントロール・センターにむかって走ってるんです」
「えらいことですナ」
「そら、えらいことです」
「呑み込まれたら死にまっせ」
「そら、生きてはおれまへン」
「そないなったら、地球に残ってる人間、管制センターでその様子見てる人間は、悲しみますやろナ」
「いやいや、手ェ叩《たた》いて祝いを言います」
「祝いを言いますか」
「へえ。そうして、我われもそれにこたえて、その人らに何かプレゼントせないかんという、そういうことになってるそうです」
「そらまた、何でですねン」
「ブラック・ホール・イン・ワンや、めでたいなあちゅうてね」
「やっぱり俄ですかいナ」
「俄ですがナ」
※[#歌記号]えらいこっちゃえらいこっちゃ、
苦しい苦しい。
えらいこっちゃえらいこっちゃ、
いよいよへたばる。
「もし。私はもうとても走れまへんねやが、ほんまのほんまは、何があったんですか」
「何もないんです」
「えっ」
「別に何もないけど、どっかに別の世界がないかと思て、それで皆がいっせいに走り出したんです」
「何でまた急に」
「レミングと一緒で、人間の数が多なり過ぎましたんでナ。それで、この世界のなかだけで生きてたんでは息苦しいてかなわんというので、別世界を求めて走り出したんです」
「ははあ。それで、その別世界というのは見つかりそうなんですか」
「あきまへんやろナ」
「あきまへんか」
「まあ、私の見るところでは、どこまで走ってもやっぱりこの世界で。下手《へた》したら、果ての果ての果てまで走って気がつくと、元の場所に戻ってるということになるかもわからん。何やしらん、そんな気がしまっせ」
「それやったら私ら、何や、ド壺《つぼ》にはまってるようなモンですナ」
「いやいや、それも言うなら、夜の夜中に野原の肥溜《こえだ》めにはまったようなと、こう言うた方が正確ですやろ」
「と言いますと」
「よう言いまっしゃろ、この三次元は暗い野壺のような世界であるちゅうて」
「何ですか」
「たとえて言うたら、暗い野壺みたいな世界やとね」
「それはあんた、クラインの壺と違いますか」
「俄ですがナ」
「俄ですかいナ」
※[#歌記号]あ、えらいこっちゃえらいこっちゃ、
俄じゃ俄じゃ。
えらいこっちゃえらいこっちゃ、
地口《じぐち》じゃ駄洒落《だじやれ》じゃ。
「もし」
「何ですねン、ちょいちょいと」
「ほんまは何が……」
「何もおまへん言うてますやろ。あるとしたら、南の方角に扇《おうぎ》があるだけですヮ」
「南の方角に扇。それは何ですか」
「これがほんまの」
「へえ」
「南扇子《なんせんす》でおます」
(上方落語「さぎとり」桂枝雀師口演のテープを参考にさせていただきました)
[#地付き]〈了〉
[#改ページ]
文庫版のためのあとがき
「かんちがい閉口坊」というタイトルは、無論「段違い平行棒」の地口である。それを発想のきっかけにしてストーリーを考えていったら、こういう話になったのである。
「活火山」「休火山」「死火山」は、それぞれその火山の示す雰囲気を人間に当てはめてみればと考えた物で、すると勝手にこういう話になってしまったのである。
「俄じゃ俄じゃ」は、本文末尾の注釈にあるごとく桂枝雀師匠の落語に笑い転げた経験が元になっており、話の大きな流れだけを定めておいて、あとはアドリブで書いて行った物なのである。
とまあ、こんな「おかしな」書き方ばかりしているもので、御当人もよほどおかしな人間であろうと思われやすい。けれども、自分でも困ったことに、僕は緊張の勝った、否定的思考の多い、なかなかワッと発散できない男なのである。そこで、これではいかんと先日大いに反省し、マーフィーの潜在意識活用法則にのっとって、心をリラックスさせつつ、何事をも肯定的に考える訓練をしていこうと決心した。
「すべて、うまくいく。自分のやることは、どんなことでも必ずうまく進むのである。なぜなら俺様には、宇宙の意志という強い味方がついているのだからな」
こう考え、その思念を内に向けて凝らし、その証拠となる「良き事」の訪れてくるのを、わくわくしながら待ち始めたのである。
すると、地下街でデブの中年女につきあたられ、ウォーク・マンを壊された。駅のホームで、ひたすらニヤニヤ笑う男にすりよられた。コロッケを食べて、下痢をした。
「なぜだ?」
怒りを押さえて考えたら、その理由がわかった。実は僕はこうも思っていたのである。
「何か、おもしろいネタはないかな……」
ま、そのようなわけで、あいかわらず馬鹿なことを考えておる次第。しかし、良き事も確かに起こりつつある。たとえば、あなたがこの文庫を買ってくれた。読んだらおもしろかったので、友達に勧めてくれた。それでまた一冊売れちゃった……
「で、その先はどうなります?」
その先は良いことづくめのハッピー路線。人様が突然小切手をくれるわ、薄くなりかけている髪は黒ぐろと復活するわ、長編は誉められるわ短編は感心されるわ。もう、そうなることに決まっているのである。なぜなら僕が、すでにそう決めてしまったのだから。
そろそろ、そう決めてもいいですよね。だって「夏の終わりのデケイド」から、さらに五年もの歳月が流れたのですから――
単行本 昭和五十七年十月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和六十一年十月十日刊