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あさのあつこ
ガールズ・ブルー
目 次
第一章 スプラッシュ
第二章 花火と世界征服
第三章 海に還る犬
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第一章 スプラッシュ
頭の真上あたりで鳴っている。なじみのメロディだ。
なんだったかなぁ……。
その時、あたしは馬にのっていた。すごく変な馬で、体が赤、白、青の三色、トリコロールカラーなのだ。サッカーのサポーターのフェイスペイントみたいに塗《ぬ》りたくったのではなくて、もともとそんな体らしい。
トリコロールボディの馬にまたがり、あたしは走っていた。
快走。朝焼けの草原を快走している。気持ちがいい。トリコロールのひづめに蹴散《けち》らされて、露《つゆ》が飛び散る。飛び散るたびに煌《きら》めき、煌めいたあと、空中に霧散していく。
気持ちがいい。ほんと気持ちがいい。
でも、気持ちのいいことって長くは続かないはずだ。すぐに、終わっちゃう。終わるだけならいいんだけど、気持ちいいことのあとには、かなりの確率で、気持ち悪いことが控えている。経験から知っている。
一か月前、六月にしては異様に暑い日曜日、拓郎《たくろう》とデートをした。バイト代が入ったばっかりだと言って、拓郎は、ランチを奢《おご》ってくれて、デザートにチョコパフェまで注文してくれた。けっこう幸せ気分で、カニクリームコロッケとミニオムレツのランチをたいらげ、パフェを食べて、あたしは、にこにこしていた。気持ちよかったのだ。美味《おい》しい食事をすることが、これから夏の始まる感じが、暑いけれどさらっとした風が気持ちよかった。何より、拓郎の傍《そば》にいることが気持ちよかったのだ。だけど、二時間もしないうちに、お腹《なか》が我慢できないほど痛くなり、吐き気がして、しゃがみこんでしまった。
じつは、その日の朝から、お腹の調子はよくなかった。生理痛とは違う、ちくちく鋭い痛みが胃のあたりでしていた。一寸法師をのみこんだ鬼のつらさが、理解できる。そんな痛みだ。だけど、あたしは無理をした。拓郎とちゃんとデートするなんて久しぶりだし、これまた無理をして買ったクレージュの夏ブラウスを着る絶好のチャンスだったからだ。拓郎とクレージュのブラウスのためなら、多少の無理ぐらいする。そういえば、あのブラウスも三色の縞模様《しまもよう》だった。オレンジと黄色と青。細い三色の縦縞《たてじま》で、袖《そで》なしで、裾《すそ》の両脇に水色のリボンがついていた。リボンをきつめに結ぶと、両裾がきゅっとすぼまって可愛い。見た瞬間に気に入って、一万二千円という値段にびびりながら、負けずに買ったやつだ。それを着て、デニムのサブリナパンツを穿《は》いて、アイプチで二重《ふたえ》にして、マスカラを黒と透明の二重塗りして、薄くリップクリームをつけて、気合いを入れて、出かけた。
拓郎とは、高一の終わりからつき合っている。まだ半年ちょっとのつき合いだ。高校が違うので、ふだんはメールと電話でつながっている。それはそれで楽しいけれど、やっぱり生《なま》がいい。生の声を聞いて、生の拓郎を見て、生の声でしゃべる。そっちのほうが何倍も好きだ。だから、気合いを入れて出かけた。楽しかった。美味しかった。気持ちよかった。腹痛が、ぶり返してくるまでは。
自慢じゃないけど、あたしは細身だ。細身のわりに、胃はじょうぶで、何を食べてもどれだけ食べても、腹痛なんかまったく縁がなかった。
なのに、針の剣で胃の粘膜を突き刺されているような痛みが止まらない。コロッケやパフェのせいじゃない。同じものを食べたのに、拓郎は平気なんだから。あたしのせいなのだ。拓郎とのデートや新しいブラウスのためなら、好きなものや人のためなら、強引に無理をしてしまうあたしの性格のせいなのだ。
「胃が痛いのにデートして、クリームコロッケにパフェ食べたぁ? あんた、キューキョクのアホね」
美咲《みさき》なら、鼻に皺《しわ》を寄せて、どうしようもないというふうに首を振りながら言うだろう。だろうじゃなく、実際、言われた。
美咲は、誰のためだろうと何事が起ころうと、絶対無理なんかしない。いつだって、自分を中心に自分のペースで動く。身体《からだ》の調子が悪いのなら、百年ぶりのデートであっても、あっさり中止にしてしまう。
『調子悪いので行きません』
そんなメールを送信して、携帯の電源を切って、鎮痛剤と胃薬を飲んで、ベッドにもぐりこむ。なかなかに見事な女なのだ。
あたしは、美咲のようにはいかない。だから、一寸法師をのみこんだ鬼状態になって、うめくことになる。ランチのあと、拓郎に支えられるようにして家に帰り、休日診療の病院にかつぎこまれ、点滴を受けたりしてしまう。
胃炎だった。かなり、ひどかったらしい。点滴をして、痛み止めの注射も打って、自分の部屋のベッドに寝転んでいた時、携帯が鳴った。拓郎からだった。
「どう?」
と、拓郎は聞いた。
「胃炎だった」
と、あたしは答えた。
「なんか、変なことになっちゃって、ごめんね。迷惑かけたよね」
と、続ける。
「いや」
拓郎が口ごもる。嫌な予感がした。予感は針の先端になり、胃を内側から突く。
痛い。
「あのさ、おれたち、やっぱ合わないと思わない?」
ヤッパアワナイトオモワナイと聞こえた声の、どこに句読点を打っていいのかわからない。意味不明だった。
「なあ」
と、拓郎が言う。
「思わない? おれ、思うんだけど」
あんたが思うんだったら、それでいいじゃない。
痛みは動物を凶暴にする。あたしは、ケガをした野良ネコが、毛をさかだてて牙《きば》をむくように、凶暴になった。
「あんたが思うんだったら、それでいいじゃない」
人は、凶暴な時、感情に素直になるらしい。思ったことをそのまま口にしていた。
「そうか、やっぱ、理穂《りほ》もそうか。よかった、じゃあな」
それで、携帯は切れた。何がそうかなのか、何がよかったのか、何がじゃあななのか、わからない。行き場を失った凶暴な感情は、みるみる萎縮《いしゆく》し、胃痛だけがリアルに残った。
あたしはふられたらしい。鎮痛剤のおかげで、痛みが治まった頃、鎮痛剤のせいで、ぼやけた頭で理解した。
だとしたら、何? カニクリームコロッケとミニオムレツのランチは、最後の晩餐《ばんさん》のつもりだったわけ? いや、ランチだから晩餐じゃないけど、どっちにしても、ふざけんな。六百八十円のサービスランチで終わりにしようなんて、せこすぎない? 終わるのも、別れるのも、幕引くのも、勝手だけど、六百八十円はないでしょう。半年もつき合ったのに、けっこう楽しく時間を過ごしたのに、もうちょっと大切にしてよね。携帯で、じゃあなじゃなくて、本人目の前にして生でさよならって言ってよね。そのくらいの真剣さ、なかったわけ?
胸の内で毒づき、毒づきながら涙が出た。失ったら泣くほどに、好きだったのかと改めて思い、よけいつらくなった。ふられても、ベッドの中で独《ひと》り、泣いたりするもんじゃない。
ふっと、去年亡くなったおばあちゃんの口癖《くちぐせ》を思い出した。
禍福《かふく》は糾《あざな》える縄《なわ》のごとし。
糾える縄がどんなものか、よく知らないけれど、禍と福は交互にやってくるという意味らしい。ようするに、楽しくて気持ちのいい時間のあとには、気持ちの悪い嫌なことが控えてるってことだ。このことわざを考えた人も、デートのあとに胃が痛くなって、恋人にふられたのかもしれない。
メロディが聞こえる。あー、なんだったっけ……。
『森のくまさん』だ。
そう気がついたとたん、トリコロールの馬が跳《は》ねた。大地を蹴って、空へ飛ぶ。背中にのっていたはずなのに、あたしは、草原でその美しい飛翔をながめていた。
目が覚めた。枕元の携帯が鳴っている。
ちょっと間の抜けたくまさんのメロディが、闇の中に響いている。
メールだ。
『十七歳、あけましておめでとう』
如月《きさらぎ》からのメールだった。真夜中の一時十八分。携帯を枕元に放り投げて、目を閉じる。まったく、こいつもいいかげんなやつだ。
バースデーメールは、午前零時きっかりに送信するのが、礼儀ってものだろう。
一時十八分なんて、中途半端すぎる。如月は、いつもどおり夜の十時ぐらいから寝てて、一時十五分ぐらいに目が覚めたのだろう。トイレにでも行きたかったのかもしれない。それで、今日があたしの誕生日だと気がついて、メールしてきた。今頃は、もうイビキをかいているはずだ。なにしろ、藤本《ふじもと》如月のあだ名は、小学校の中学年の時から、変わっていない。眠りネコ。本人に言わせると、一日、最低十時間は寝ないと、生理的能力がいちじるしく低下するのだそうだ。授業中もよく寝ている。あたしの通っている高校で、授業をまともに聞いているやつなんて、半分もいない。それでも、一時間目の始まる前から、爆睡《ばくすい》しているのは如月ぐらいのものだ。
「おー、藤本、今日も健全に眠ってるな」
担任で古典担当の鈴《すず》ちゃんは、朝のホームルームのたびに、机につっぷしている如月の頭をくしゃくしゃにして、喜んでいる。あたしは、如月が二年生になれないんじゃないかと、ひそかに心配していた。うちの高校は、学年が上がるたびに、十人前後が脱落していく。
べつに、授業内容が難解でついていけないという理由ではない。我が母校、稲野原《いなのはら》高等学校には、難解な授業など存在しない。普通レベルの授業というのも存在しないかもしれない。去年、入学して二日目の英語の授業で配られたプリントには、リンゴとバナナと自転車のイラストがあって、横に apple bananas bicycle の各単語を五回書くようになっていた。
「中一の時、同じようなこと、やらなかった?」
隣の席の如月が、あくびしながら聞いてきた。
「まったく、同じよ」
「へぇ、つーことは、おれら中一のレベルかよ」
「中一の一学期レベルよ。しかも、あんたは、その下」
あたしはそう言って、如月のスペルを直してやった。apple のpが一つ抜けていた。如月は、何でも、すぐはしょる。面倒くさがりで、飽《あ》きっぽいのだ。
英語は中一の単語から、数学は三|桁《けた》の掛け算から始まった。それでも一学期の中間テストの学年平均点が、英語三十一点、数学三十六点しかないのだから、すごい。
同じ中学から稲野原を受験した楠道《くすみち》さんは、受験した時、母さまに情けないと泣かれ、入学式の日、お祖母《ばあ》さまに、恥ずかしいとわめかれたそうだ。楠道さんの家は旧家で、金持ちだ。一人娘が稲野原高校では、泣きたくも、わめきたくもなるのかもしれない。お気の毒だねと、あたしが言うと、ころっと太めの楠道さんは、へへっと笑ってから、
「親や婆《ばあ》さんがか? それとも、あたしが? えっ、どっちだよ」
と、旧家のお嬢さまとも思えない口調ですごんだ。
ちなみに、入学式の日、美咲も母親に泣かれたそうだ。こっちは、嬉し泣きだった。生まれた時、超未熟児だった美咲は、きわめつきの虚弱児で、十歳まで生きられるかどうかわからないと医者から何度も言われていた。それが、高校の入学式だ。稲野原の制服は、亜麻色《あまいろ》のブレザーにエンジのチェックのスカート、同色の大きめリボン。外国のナンチャラカンチャラという有名デザイナーのデザインとかで、なかなかしゃれている。十歳まで生きられないはずの娘が、しゃれた制服の女子高校生になった。嬉し泣きもするだろう。この高校に入って、嬉し泣きしてくれるの、あんたとこの母親ぐらいじゃないと、あたしが言うと、美咲はふんと鼻で笑ってから、
「あたしはね、あんたたちとは違うの。生きてるだけで、すっごい親孝行してやってんだからね」
と、虚弱児のなれの果てとは思えない不遜《ふそん》な口調で、のたまった。
そういう高校でも、いや高校だから、年間十人前後の退学者が出る。学年末に二度の追試と二週間の補習が必ずある。成績不振者や授業日数の足らない者をここで、何とか拾い上げようというシステムらしい。
天網恢恢疎《てんもうかいかいそ》にして漏《も》らさず。
これも、おばあちゃんの口癖だったけれど、我が高校の網は、疎にして漏れっぱなしらしい。勉強のべの字を聞いただけで、拒絶反応を起こす連中がうようよしているのだから、退学していく人数を十人前後で止めているのは、あっぱれなのだ。英語担当の釜石《かまいし》が言ってた。でも、あたしは、納得できない。というか、嫌なのだ。あっさりしすぎている。有名私大出で、それしか自慢の種のない釜石は問題外として、他の先生もあっさりしすぎている。そんな気がする。
去るものは追わずじゃ、あんまりだと思う。一年の時、同じクラスになって、けっこう気が合った綾菜《あやな》が、成績不振と授業日数不足のダブルパンチで進級できなかった。ダブったのだ。それで、やめた。
綾菜も眠りネコで、授業中よく寝ていた。英語の単語も三桁の掛け算も、あまりと言うかほとんど理解できず、眠くて仕方なかったらしい。早退も遅刻も、日課だった。でも、やめたくはなかったと思う。追試の前の一週間、家にこもって勉強していた。
「理穂、進行形って何?」とか「因数分解って、生まれて初めて聞いた気がすんだけど、何語?」とか、やたらメールが来た。たぶんメールしている時間のほうが、教科書読んでる時間より長かったろう。それでも、綾菜は勉強していた。あたしもそうだから、よくわかるけど、勉強するのって大変なのだ。嫌いなことを無理してやるのって、つらいのだ。単語も数式も地名も古語も、みんな頭の中を素通りしていく。あたしの中に何も残さない。それを力ずくでせき止めて、記憶しようとする。すごい疲れる。へとへとになる。綾菜は、一週間、それをやって疲れきって、顔に湿疹《しつしん》まで出した。それでも、だめだった。追試の英語は十六点で、合格ラインに五点届かなかったのだ。
顔の湿疹と、目の下の隈《くま》と、限界ぎりぎり勉強に挑《いど》んだ綾菜のがんばりを五点と見てくれないだろうか。
あっさりと見捨てないでほしいよね。あたしは、呟く。美咲は、肩をすくめる。
「しょうがないじゃない。今さらじたばたするぐらいなら、もう少し早く、手を打っとけばよかったのよ。せめて、授業ぐらい出ればよかったじゃん。義務教育と違うのよ。世の中、なめたら痛い目にあうの当たり前じゃないの。ねっ、如月」
「おれ? おれ、なめてねえよ。ぎりぎり合格。追試一回でOKだもんな」
「うちの高校レベルで、追試受けること自体、甘いのよ」
ぽきりと折れてしまいそうなほど細い手首を振って、美咲は如月からあたしに視線を移した。にやりと笑う。
「なんで、そんなマジ顔してんのよ。あんたは、進級できたし、追試も受けなかった。一日もガッコ休まなかったって、皆勤賞もらったじゃない。悩むこと、なーんもないでしょ」
「けど、綾菜が……」
「綾ちゃんのことなんて、すぐ忘れるよ」
机に腰掛けて、やはり折れそうなほど細い足首を美咲は、軽く揺らした。
「二年はさ、進路別にクラス分けあるし、バイト見つけなきゃいけないし、修学旅行あるし、カレシとデートしなきゃいけないし、忙しいよ。いないやつのことなんか、すぐ、忘れちゃうよ」
あたしは、返事につまった。美咲の言うことは、正しい。的を射ている。あたしは、忘れるだろう。綾菜とは気が合ったけれど、しゃべってて楽しかったけれど、一緒に二年生になりたかったけれど、傍にいなければ、いつか忘れてしまう。しゃべって、お弁当食べて、コンビニでジュース買って、きゃあきゃあはしゃいで……そんなことを一緒にしていなければ、簡単に褪《あ》せてしまう。あたしたちにとっては、傍にいて一緒に時間を過ごす、同じものを見て、感じて、言葉にして確認する、そのことが、何より大切だった。
「あの人、洋服のセンスかなり悪くねぇ?」とか「駅の捨てネコさ、誰か餌《えさ》やってる?」とか、昨日のドラマのこととかファッション雑誌の最新号のこととか、他愛ない話題ばっかりだけれど、話題なんかどうでもいい。口と耳と皮膚と目と匂《にお》い。五感を確かにくすぐるほど傍にいることが、大切なのだ。傍にいなければ忘れてしまう。
「理穂の欠点だね。お利口さんのいい人ぶるの」
もう一度、美咲が笑う。とどめを刺すように、あたしに指を向けた。
「忘れるよ。傍にいないやつのことなんか、すぐに忘れて楽しくやれるって」
美咲は、机から降りて、カバンを抱えた。帰るつもりらしい。教科書の入っていない薄いカバンさえ、美咲が持つと重そうに見える。
「美咲」
如月が、机に足をのせたまま、呼んだ。美咲が振り向く。
「おれな、おまえがいなくなっても、そう簡単に忘れないと思うぞ」
美咲の顔は小さい。小さくてソバカスの散る白い顔に不釣り合いな大きさの目が、瞬《まばた》きもせず如月を見る。鼻の頭に皺が寄った。
「ばっかみたい」
一呼吸置いて、
「覚えててほしいなんて、誰が頼んだのよ」
そう言い捨てて、教室から出ていった。
「ありゃ、決め台詞《ぜりふ》だと思ったのに」
如月が、頭をかく。
「決め台詞なんて、如月には似合わないよ」
「ありゃ、理穂まで言うか。まいるね」
如月は、あたしの目の前で、喉《のど》の奥まで見えるような、大きなあくびをした。
あれから、三か月たった。もう夏服だ。綾菜は、就職先を探している。短期のバイトで、コンビニの店員をやったが、二日続けて遅刻したらクビになったとメールが来た。如月は、相変わらず眠りネコをやっている。美咲は、二か月以上体調を崩《くず》していない。新記録だそうだ。あたしは、拓郎にふられた。そして、七月、十七歳になる。
雨が降っていた。梅雨《つゆ》の末期の雨はいつも激しく、地を叩《たた》き、雷鳴をとどろかすものなのに、やけに静かな雨だった。音もなく、城下町の黒瓦《くろがわら》の屋根や城址《じようし》の桜木を濡《ぬ》らしている。蛙《かえる》の声だけが喧《やかま》しい。
あたしたちの街は、人口六万足らずの地方都市だ。出雲《いずも》街道の要所にあり、温暖な気候と肥沃《ひよく》な土地に恵まれ、たたら製錬による鉄を豊富に産し、小藩ながら江戸末期まで栄えたと郷土史にある。雨の多い街でもあった。
「よし、やろうぜ」
如月の視線が、ぐるりと四人を見回す。あたしと美咲とスウちゃんとケイくんだ。
「よし、やろう」
ケイくんがうなずく。金髪短髪のケイくんは、えらく真剣な眼差《まなざ》しをしていた。あたしは、腕を組んで、ファミレスのイスにもたれる。
美咲が、黙って携帯をテーブルの上に置いた。電源は、入っていない。スウちゃんもケイくんも同じことをする。如月が自分のも含めて、五台の携帯を丸く並べた。それから、メニューをあたしにさし出す。あたしは、鷹揚《おうよう》にうなずき、トンカツやサラダのカラー写真が散乱する、やたらビジュアル系のメニューを広げた。
「カルボナーラとオニオンサラダ。税抜きで八百二十円」
「あたしは、コンビネーションサラダとミックスジュース」
美咲が、首を伸ばしメニューをのぞきこむ。
「いくらになる?」
「六百円ちょうど」
他の三人は、七百円の中華ランチを注文した。
「それでは、しめて三千五百二十円。どちらさんも、よろしゅうござんすね」
如月の指が、素早く、各携帯の電源を入れていく。ケイくんが、ふーと大きく息を吐いた。
あたしたちは、誰かの誕生日には必ずこのゲームをする。ルールは簡単。携帯が鳴った者から順に、料理の代金を払わなくてよくなるのだ。最後まで、鳴らなかった者が全員の分を支払う。料理を食べ終わるまで誰も鳴らなかったら、その日の主役、誕生日の者が支払う。単純だけれど、わりにどきどきする。R・K・R。ロシアン携帯ルーレットと名づけたゲームだ。
スウちゃんが、水の入ったグラスを持ち上げた。
「ともかく、理穂ちゃん、誕生日、おめでとう」
「ありがとう」
グラスがカチッと音を立てる。他の三人は、携帯を見つめている。
「ねえ、せっかく理穂ちゃんのお誕生日してんのに、みんな、もうちょっと、お祝いとか言えば」
スウちゃんが、唇をとがらせた。スウちゃん、長原好絵《ながはらよしえ》はクラスで一番太っている。学年で一番成績がいい。
「長原なら、他の高校でも充分、通用するぞ」
釜石は、試験の答案を返すたびに言う。スウちゃんは、にこにこしながら、「ここが、いいです」と、そのたびに答える。
「おまえ、もう少し野心ていうのを持て」
釜石は、溜め息をつく。それから声をひそめ、「いずれ後悔するぞ」と、眉《まゆ》までひそめるのだ。
今日もそうだった。単語テストの答案を返しながら、釜石の眉と声が、ひそめられる。
「若いうちに、力いっぱい努力してないと、必ず後悔するぞ。長原」
「若いうちの後悔って、取り返しがつくもんねぇ」
ぼんやり黒板を見つめ、さも独り言のように、美咲が呟く。呟きだけど、釜石のひそめた声より大きい。美咲の席は、真ん中の最前列。手を伸ばせば届く位置に教卓がある。
「なんだ? 師岡《もろおか》、何か言ったか」
「いえ。若いうちに後悔しとかないと、大変らしいですから」
「何が大変なんだ?」
「三十過ぎのオジサン、オバサンになってから、ぐずぐず後悔するようになるって習いました。そうするとやたらいばって、他人に教訓を垂《た》れるようになるんですって。みっともないでしょ。そういうの。やっぱ、大人は潔《いさぎよ》くないとかっこ悪いもの」
今年、三十六歳になるらしい釜石が、真正面の美咲を見下ろす。
「誰に教わった? そんなこと」
「鈴井《すずい》先生です。古典の授業で習いました。ねっ」
美咲がふいに、振り向く。机の下で爪《つめ》を磨《みが》いていたあたしは、正直、少しあわてた。
振るなよ、急に。
目でそう伝えたけど、美咲は表情も変えず、あたしを見ている。覚悟を決めた。振られたら、避けるか受けるかだ。高校生は、潔くないとかっこ悪い。あたしは、できるだけ、かっこよく在《あ》りたいのだ。整えて磨いた爪がつやつやと光る。軽く息を吹きかけて、立ち上がった。
「習いました。『小さな事に熱中しすぎる人は、概して大きな事ができなくなるものだ』って」
「は?」
釜石の両目が瞬《またた》く。奥二重《おくぶたえ》の細い目だ。
「『年寄りは、悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、よい教訓を垂れたがる』とも習いました」
「なんだ、それ? 古典でそんなこと習うか」
机につっぷしていた如月が、顔を上げる。絶妙のタイミングだ。
「ラ・ロシュフコー。先生、知らねえの?」
奥二重が、瞬き続ける。その口元が、妙な具合に曲がった。
「まさか、おまえらの口からフランスモラリストの名前を聞くとは、思わなかったな」
あたしと美咲と如月は、素早く目を見合わせた。ロシュさまの名前を知っているとは。さすが、有名私大出を鼻に掛けるだけのことは、ある。しかし、あたしたちのパンチはかなり効いているはずだ。なにしろ、あたしたちは、受験科目五教科五百点満点中百十点が合格ラインと言われ、地域のダストボックスと呼ばれている稲野原高校の生徒だ。その口から、ロシュさまの名前が出るなんて夢にも思わなかっただろう。無防備なあごに、一撃を受けたボクサーよろしく、釜石は気勢をそがれ、それでも、
「鈴井先生は、なかなか身になる授業をしていらっしゃるようだな。このクラスは、優秀な生徒が多くてうらやましい」
と、イヤミを言った。なかなかの根性だ。あたしは、肩をすくめてみせた。
「先生、『われわれは、自分と同じ意見の人以外は、ほとんど誰のことも良識のある人とは思わない』というのもありますけど」
「わかった。もういい。吉村《よしむら》、座れ。授業に入る。古典同様、英語も力入れろ」
美咲が振り向き、親指を立てる。如月は、再び眠りネコにもどった。古典の授業で、ラ・ロシュフコーの箴言《しんげん》集を教わったわけじゃない。鈴ちゃんには悪いけど、あたしたちのでまかせだ。
拓郎にふられた時、あたしは、髪を切った。肩まであったのをばっさりショートにした。
「失恋したから、髪を切った? ちょっとわかりやすすぎない」
美咲は笑ったけれど、毛先を梳《す》いて動きの出たショートヘアーは、予想外に似合っていて、あたしは満足し、少しだけつらいのを忘れられた。自分のことをかわいいとか、何かいいなと思えたら、元気が出る。しかも、そこでロシュさまに逢《あ》った。女性週刊誌やスポーツ新聞の間に、茶色のカバーの本が、はさまっていたのだ。地味だった。いつものあたしなら、絶対かかわり合いにならない地味さだった。でも、半年つき合ったカレシにふられて、嗜好《しこう》が一時的に変化していたらしい。ブランドもののドレスを着た女優がニッコリしている週刊誌の派手な表紙より、惹《ひ》かれた。そして、はまってしまった。あたしが、げらげら笑ったり、真剣にうなずいたりしていたら、美容院のお姉さんが、あっさりくれた。一年も前のお客さんの忘れものらしい。
「いらないからあげる」あっさりした一言とともに、あたしのものになった箴言集を、次の週、美咲と如月に貸してあげた。如月の反応はイマイチだったけれど、美咲は、かなり気に入ったらしい。英単語や数式は、さっぱりだけど、自分の気に入ったことなら、素直に的確に迅速《じんそく》にあたしたちの脳は受け入れる。
一撃を受けた釜石は、いつもよりおとなしく、やや臆病になっていた。勉強ができないということが、いかに将来の可能性を閉ざすかということも、高校生の就職率の悪化についても語らず、我が高校の進学率の低さも嘆《なげ》かず、チャイムと同時に教室を出て行った。
そして、今、あたしたちはファミレスにいる。
着メロが鳴った。みんなの身体が、いっせいにぴくりと動く。
くまさんのメロディ。
あたしだ。
他の四人から、ふいっと力が抜ける。
「もしもし、リィ」
懐《なつ》かしい声がした。あたしのことをリィと呼ぶのは、一人しかいない。
藤本|睦月《むつき》。一人だけだ。
「うわっ、懐かしい。久しぶり」
「うん、元気?」
「元気、そっちは?」
「おれ? うん、今日、勝ったから……」
「へ? 勝ったって、何に?」
「え? あ……地区予選」
如月と目が合う。誰としゃべっているかわかったらしい。
「地区予選って……うわっ、勝ったの睦月。じゃあ甲子園に行けるんだ」
「は? えっ、いや、違うって。まだ、一つ勝ったばっかだから……なんだ、少しは気にしてるかと思ったのに、全然だね」
受話器の向こうで、睦月が苦笑している。見えなくてもわかった。
「ごめん、ほら、あたし、新聞とか読まない人だから」
如月の手が伸びて、携帯を奪い取った。
「睦月!」
叫ぶ。
「おまえ、理穂にケータイする間に、おれにかけてこい。ばっかやろう。おれが、どのくらい気にかけてたか、わかってんのか。試合の結果が気になって、授業どころじゃなかったんだぞ」
「嘘《うそ》つき」
あたしは、フォークを如月の顔の前に軽く振った。
「ほんと、いつだって授業どころじゃないくせに」
美咲が、肩をすくめる。
「ともかく、いいか。ちゃんとかけてこいよ。おれにだ」
スウちゃんが、ホイッスルを吹くまねをした。
「反則。イエローカード」
「イエロー、イエロー」
あたしと美咲が続く。
「藤本選手、反則。意図的な誘導をしたということで、五分間、電源OFFします」
スウちゃんのふっくらした手が、如月の携帯に伸びる。
「そんなぁ、待てよ。兄貴だぜ。弟が兄を激励して、どこが悪《わり》ぃ」
「激励ではありません。誘導及び強制です。明らかな違反行為です」
如月は、がくりとうなだれると、無言であたしに携帯を返してきた。
「相変わらず、にぎやかだな」
「うん。毎日、にぎやかに遊んでるよ」
睦月が、今度は声を出して笑った。ぼやけた笑い声だった。
「睦月、疲れてんの?」
「まあね。暑かったから」
「打ったの?」
「けっこう」
「どのくらい?」
「ホームラン二本、打率十割」
「すごいじゃない」
「初戦だからな」
「あっ、そうか。相手がショボかったんだ」
笑う気配だけが伝わってくる。睦月のいる繰州東《そうしゆうひがし》高校がシード校で、初戦とはいえ、かなりの相手と対するのだと、あたしはずっとあとで知った。
「ねえ、あと、いくつ勝って甲子園に行くの?」
「リィが言うと、遊園地にでも行くみたいに聞こえるな」
「そうかな、フツーにしゃべってるつもりだけど。ねっ、いくつ?」
しばらく黙ったあと、睦月は、たくさんと答えた。曖昧《あいまい》な答えだ。
「甲子園なら観に来る気ある?」
ぼやけた口調のまま、問うてくる。
「甲子園て八月だよね」
「うん」
八月なら、甲子園より海に行きたい。山に囲まれた小さな城下町に十七年も生きていると、海が恋しい。さえぎるもののない水平線を見たい。水平線から直接|湧《わ》き上がるような雲が見たい。地球が丸いと実感したい。クラゲなんか見つけて、騒ぎたい。新しい水着がほしい。バイト、がんばらなくっちゃ……。
「来いよ」
睦月の口調が、くっきりと強くなる。けれど、すぐに失調し、もごもごと不鮮明にくぐもる。
「最後の甲子園だし……来れば」
「睦月が出るんなら、行ってもいいけど」
「おれが出なきゃ、観に来る意味ないだろうが。リィ、野球の試合なんて、興味ないだろう」
「だよね。あっ、でもないか」
「うん?」
「甲子園いい男ウォッチングてのも、ありかも」
バカだねと、睦月が溜め息をつく。
「甲子園に、いい男なんて、いねえよ」
「そっかあ。残念。あのね、睦月、あたしさ、カレシにふられちゃったよ。それで髪切ったの。如月より短いぐらい」
睦月は、小さい頃から、無口で、話し下手で聞き上手だった。あたしは、ブランコやジャングルジムの上で、川辺の道で、居間のソファの下で、睦月相手に、ずっとしゃべっていた。如月みたいに面倒くさがることも、美咲みたいに無視することもなく、睦月は、黙って真剣に、話を聞いてくれた。あの頃のはずみを思い出す。今でも、睦月は、無口な聞き上手だろうか。
「へぇ」
と、睦月が息を吸いこんだ。
「リィ、カレシがいたんだ」
「うん、冬休みにガソスタ(ガソリンスタンド)で三日だけバイトしたの。そこで知り合ったんだけど、ふられた。睦月、カノジョは?」
「んなもの、作るヒマもガソスタでバイトするヒマもねえよ」
じゃ、と一言つけ加えて、電話は、唐突に切れた。一方的に切られたあと、耳に残る音が嫌だ。ツーツーと無機質に響く。拒否とか否定とか、あたしの一番苦手なものを連想させる。
「何よ、勝手にかけてきて、勝手に切って、睦月のアホ」
毒づく。美咲と如月が、ちらりと視線を合わせた。
「理穂、頼むから、睦月にカレシの話なんかすんな」
「カレシじゃないよ。元カレ」
「どっちでもいいけど、男の話はすんな。全面禁止」
「なんで?」
美咲が、けっと唇をゆがめた。
「どーでもいいけどさ、睦月は、あんたが寝っ転がって漫画読んでる時も、男とデートしてる時も、眉毛の手入れしてる時も、ラブホにしけこんでる時も、ずっと野球の練習ばっかしてたんだから、せめて、地区予選の間ぐらい、動揺させないぐらいの気をつかいなよ」
「ラブホなんて行ったことないよ。あたし、そんなのしたことないもん」
「ウッソー」
美咲は、大げさに頭をのけぞらせた。
「男と半年もつき合って、やってないわけ?」
「うん」
「理穂、そりゃあ、あんた、ふられるわ」
「何よ、それ。だいたい、あたしが何したって睦月に関係ないでしょう。それにね、えらそーなこと言ってるけど、美咲、人に気をつかったことなんか一ぺんもないでしょうが」
「あたしは、他人に気をつかわすほうのキャラだもん」
ケイくんが、手を上げて質問の意思表示をした。
「はい、森次啓志《もりつぐけいし》くん。どうぞ」
「えーっと、さっきから名前の出てる、ムツキってやつ、もしかして、繰州東高校の藤本睦月……じゃねえよな」
「そうだよ」
あたしの答えに、ケイくんものけぞった。
「マジ?」
「マジ」
「それ、すごくねぇ?」
「なんで?」
「なんでって、有名人じゃん。けっこう騒がれてるっしょ。二年生の時から、強豪繰州の四番で、超高校級のすげえバッターだとか、去年の夏は惜《お》しかったけど、今年は甲子園出場まちがいないとかって新聞に出てるし……あっ、そういえば、このあたりの出身だとか書いてあったような……」
あたしは、まじまじとケイくんの横顔を見てしまった。
「ケイくん、すごい。新聞読むんだ。えらいね」
「いや。スポーツ新聞だけな。それに、おれ、一応、野球部だから」
「ええ!」
あたしと如月が、同時に声を上げた。
「知らなかった。ケイくん、部活なんてやってたの」
「それより、うちのガッコに野球部なんてあったか?」
「そういえば、ユニフォーム着て、部室の裏でタバコ吸ってたの見たことあるような」
スウちゃんが、くすりと笑う。
「あのね、うちにも野球部あるの。軟式だけど。ケイくんは、めったに練習に行かないけど、一応部員。それと」
スウちゃんの顔が、ケイくんに向き合う。
「睦月さんは、あたしたちの中学校の一こ先輩。あたしは、あんまり親しくなかったけど、理穂ちゃんたちとは、幼稚園の時からずっと一緒なの」
「如月なんて、生まれた時から一緒よ」
美咲が、ピとも鳴らない携帯を突つく。
「なんせ、兄弟なんだもの」
「ええっ」
再び、ケイくんがのけぞる。料理が運ばれてきた。みんな手を合わせて、いただきますのポーズをする。早く携帯が鳴りますように、心の中で祈っているのだ。ケイくんだけは、それどころじゃないらしい。黒目がうろうろ動いている。被写体を絞《しぼ》り切れない下手なカメラマンのように、あたしたちの間を視線が泳ぐ。
「藤本、今のマジ話?」
「マジ話。年子《としご》の兄ちゃん。あんまし似てないけどな。血液型は一緒」
「有名人の兄弟がいたんだ」
「まぁ、これから有名人になるかもなぁ」
「プロとか、なるのかな」
「さぁ、どーでしょう」
サインもらっといてくれよと、ケイくんが如月を突っつく。如月は、曖昧にうなずいた。
この春、睦月のいる高校は、甲子園に出場した。二回戦で負けたけれど、睦月はホームランを三本も打った。あたしには、野球のことなど何もわからない。でも、ホームランを二試合で三本というのは、すごいことなのだ。と、そのくらいは、わかる。そこらあたりから、睦月は、がぜん全国的注目株になったらしい。高校入学以前から騒がれてはいたけれど、テレビ局が実家を映しにくるなんてことは、なかった。だから、
「天賦《てんぷ》の才能がここにきて大きく開花した、藤本選手の……」
なんて、真っ赤なパンツスーツのキャスターが満面笑顔で、藤本家を指さしたりしているのを目にすると、なんとなく変な気分になる。見慣れた青い屋根瓦《やねがわら》の住宅が、ゆがんで映る。
睦月とは、もう長いこと会っていない。この街から、はるか遠い県庁所在地の高校に進学した睦月は、ずっと寮生活をしている。美咲の言うとおり、野球|漬《づ》けの日々らしい。
「教えてくれればよかったのに」
ケイくんが、スウちゃんの腕を軽く叩く。ケイくんは隣街の住人だから、何も知らなかったのだ。スウちゃんは、表情を硬くして、黙っている。
「そんな有名人の知り合いがいるなんて、自慢できるよな」
「バッカじゃないの」
美咲が、鼻を鳴らす。
「自慢というのは、自分で自分のことを誇るって意味なのよ。睦月なんて、ケイくんに何の関係もないでしょ」
ケイくんの表情がこわばる。眉毛を剃《そ》っているので、目つきが鋭くなると、ちょっとすごみのある顔になる。ケイくんは、スウちゃんのカレシだ。つき合って、またひと月ぐらいだけれど、二回、みんなでカラオケに行った。うちの高校は、普通科と機械科と農林科があって、ケイくんは農林科だ。二回目にカラオケに行った時、実習ハウスのトマトをカバンにつめて持ってきてくれた。もちろん、無断で盗《と》ってきたのだ。土耕栽培《どこうさいばい》といって、有機肥料を土に練りこみ一年かけて土を作り、育てるのだそうだ。時間と手間を贅沢《ぜいたく》にかけたトマトは、びっくりするぐらい美味しかった。これに比べるとスーパーのトマトなんて、乾燥野菜みたいだと思った。
ケイくんは陽気でおもしろく、ケイくんといるスウちゃんは、ほんのり紅《あか》い頬《ほお》をして、楽しそうだった。だけど、今、美咲をにらんでいるケイくんには、微塵《みじん》の陽気さも感じられなかった。鼻の下にポツポツはえた髭《ひげ》が、老《ふ》けた印象を与える。
こういう時、なんにも知らないんだなと感じる。けっこう仲よくしゃべったり、遊んだりしていても何も知らない。知らない面が、くるりと顔を出す。
昔、怖いテレビドラマを見た。川面《かわも》を大きな板が流れていて(戸板というのだと、おばあちゃんが教えてくれた。あたしって、かなりのおばあちゃん子だったのだ)、それが突然ひっくり返る。血だらけの女の人が現れる。板の裏にくくりつけられていたのだ。
今見れば、笑っちゃうだろう。B級ホラー映画が好きなあたしは、血や内臓がドバドバ溢《あふ》れる映像をビーフシチューを食べながらでも観ていられる。だけど、あの時はまだ小学生で、ずぶ濡れの血だらけの白目をむいた女の人が怖くて怖くて、大泣きしてしまった。
ドラマの題名も筋書きも覚えていないけれど、あの|くるり《ヽヽヽ》だけは、忘れていない。くるりと変わる。思わぬ面がのぞく。刺激的ではあるけれど、怖い。
陽気でおもしろいケイくんが反転する。くるりとだ。何が現れるのか、あたしには、まだわからない。
「ついでにいっとくけど、如月に『おまえ、野球しねえの』なんて、アホの極致《きよくち》の質問しないでよね。あたしの知ってるだけでも、如月は、百回以上聞かれてんだから」
美咲が、さらに突っこむ。美咲に怖いものはない。ケイくんがにらもうが、雰囲気が変わろうが、反転しようが、旋回しようが関係ない。
自分の感情のままに突っこむだけだ。ケイくんの目がしばたく。視線をそらせる。つけ合わせのキュウリを口に放りこんで、不味《まず》いと顔をしかめる。
「おれらの作ったキュウリのほうが百倍、うめえな」
あたしの知っているケイくんの言い方だった。
とたん、携帯が鳴る。SMAPの『オレンジ』だ。スウちゃんがきゃあと声を上げる。
「二抜け。うわっ、迷惑メールだ。『長い夜を退屈させない濃厚なおつき合い』だって。うわっ、嬉しい」
「あたしも嬉しい。これで、あたしたち、おごられ役だよね」
スウちゃんと握手する。美咲が、ぷいと横を向く。如月が自分の携帯に電源を入れ、拝む。ケイくんは、胸の上で十字を切った。
あたしの着メロが流れる。メールだ。睦月からだった。
『言い忘れた。誕生日、おめでとう』
画面に、文字がつらなる。
「へぇ、藤本睦月ってマメなんだ」
ケイくんが、酢豚《すぶた》を口に放りこむ。
「理穂に惚《ほ》れてるからな」
如月も同じことをする。
「マジ!」
「つーか、他に女、知らねーんだ、あいつ。美咲は、やたらとんがってるし、今は男子校で野球ばっかだし、女ってイメージ湧くの、理穂ぐらいしかいないんだと思う」
あたしと美咲が、同時に、如月の膝《ひざ》を蹴る。
「何、それ。あたしがとんがってるって、どーいう意味よ」
「理穂ぐらいしかってのは、何よ。ぐらいしかってのは」
如月がうめいた。ローファーの先で思いっきり蹴り上げられたのだ。痛いだろう。あたしはそれでも手加減した。美咲は容赦しなかったらしい。
「うわぁ、おまえら、マジ、バトルっぽいな」
ケイくんは、大げさに体を震《ふる》わせた。スウちゃんがくすくす笑う。
「この三人は、いっつもこうなの。じゃれてるの、ねっ」
「お仕置きしてんのよ」
美咲があごを上げる。携帯が鳴らないので機嫌が悪い。あたしは、余裕の笑みを浮かべ、カルボナーラを口に運ぶ。
「美咲と如月は、SとMで、いいコンビなんだ。そのうち、傷だらけの如月の死体が、川に浮かぶかもね」
「いいわね、それ」
美咲の唇がめくれる。薄い形のいい唇。美咲は色彩に恵まれていない。肌も髪も、色素が乏《とぼ》しいのだ。瞳の黒さだけが際立《きわだ》つ。儚《はかな》げで、危うく、あたしが親なら『壊《こわ》れもの注意』のレッテルをべたべた貼りつけたくなるだろう。実際、美咲の両親は、壊れもののように娘をあつかっている。儚げで危うく、手荒くあつかえば砕《くだ》け散ってしまいそうな少女は、しかし、唇をゆがめて、
「爪なんか一枚、一枚はがしちゃって、歯も全部抜いちゃって、もち麻酔なしで……うーん、案外快感かも」
と、どぎついことを平気で口にする。
「如月、やってみっか?」
「考えとく」
如月は、真顔で答える。その横顔をちらっと見て、ケイくんがもごりと口を動かした。
「藤本、おまえな、うざくねぇ?」
「こいつらといるの? まぁ、慣れたっちゃ慣れたけど。もし、おれの死体が浮かんだら、犯人、こいつらだからな、覚えててくれ」
「いや、そっち方面じゃなく。兄貴方面」
「睦月? いや、別に一緒にいねえし、あんまし関係ないけど」
「ふーん」
ケイくんが少しうつむく。首筋がきれいだ。余分な脂肪がついていない。如月もそうだった。あたしたちと違って、男の子は筋肉だけでできているように思える。脂肪分ゼロ、カロリーゼロのダイエット飲料みたいだ。柔らかさも豊かさも感じさせず、ただ堅く引き締まっている。
あたしは、男の首筋に見とれていたけれど、美咲は、そんなものに興味はなかったらしい。
「何? ケイくん」
薄笑いのまま、尋ねる。
「そっちにも、優秀な兄貴がいるわけ?」
ケイくんの顔が上がる。
「うん。チョウ優秀。今年、リョッコウから国大の医学部に入った」
「すごくねぇ? それ」
「如月、疑問形にしなくても、すごいに決まってるでしょう」
「だよな。すげえな」
如月が幻《まぼろし》をさがすように、天井を見上げた。美咲が、さらに笑う。
「国大の医学部って、地球上にあるよ。何も宇宙にあるわけじゃないんだから、見上げなくていいの。リョッコウのトップにいれば、余裕で射程距離内だよね」
リョッコウとは、瀧野緑西《たきのりよくさい》高校のことで、このあたりでは、有名な進学校だった。あたしのいた中学からも、トップクラスの数人が入学していた。リョッコウとうちの高校とでは、ダイヤモンドと石炭くらいの差がある。二年生になった時、一応進学クラスに進んだあたしたちに、釜石がそう言ったのだ。激励のお言葉は、
「そういうことを頭に入れて、諸君らは一歩でもダイヤモンドに近づき、輝くべく努力してほしい」
と、続いた。石炭が努力でダイヤモンドになったら、ダイヤモンドの価格は大暴落してしまう。それとも努力できる石炭の価格が、急騰するのだろうか。どちらにしても、石炭じゃダイヤモンドに太刀打《たちう》ちできない。硬度が違う。光の屈折率が違う。価値が違う。
と、えらそうに言ったけど、あたしは、石炭というものを知らない。目にしたことがないのだ。ダイヤならある。持ったことも身につけたこともプレゼントされたこともないけれど、誰かの指や首に、ショーウインドウの中に、見たことぐらいはある。石炭は謎だ。一度、見てみたい。つややかに黒くて、燃えるなんて、なかなかにミステリアスな存在だ。ただ、兄貴がダイヤだと石炭の弟は、かなりつらいかもしれない。
「まっ、よくあるパターンじゃないの」
美咲がそれ以上言う前に、あたしはケイくんに同情の意を表した。
「大変だね」
「まぁ、別にいーけど。親父が、『兄弟平均したら、ちょうど人並みになる』とか、言いやがんの。キレそうになった」
「『自慢できる子が一人いるんだから、おまえのことは、あきらめる』とか言われなかった?」
「いや、そこまでは……吉村、言われたのか?」
「あたしじゃなくて、同じクラスの市邨《いちむら》さん。やっぱ、お姉さんがリョッコウから国大へのパターンだったって。市邨さんは、マジキレて、プチ家出繰り返してるって。卒業したら、二度と帰らないって力《リキ》入ってたよ」
「うちの高校だもん。優秀な兄弟姉妹に比べられる悲劇なんて、ゴミ箱の中のゴミぐらいあるわよ。めずらしくも何ともないよね」
「美咲、たとえが悪い。せめて、天の星ぐらいって言いなよ」
「うちらが、星なわけないでしょ」
「うぜえよな。マジでうぜえ。高校行ってトマト作って、何が悪いんだって言いたいけどな、言うのも、うぜえ」
如月が中華ランチを食べ終え、グラスの水を一息に飲みほした。
「おれ、うざくねえぞ。睦月みたいになんなくてよかったって思うもんな」
ケイくんが、眉をぴくりと動かした。
「大変だよ。睦月、高校入って、しばらく調子悪くて、レギュラーなれなくて、何か監督と相性悪かったみたいでさ。二年になってその監督が急死しちゃって、代わりの監督来てからだよ、あいつが伸びたの。三年になってやっと甲子園行けて、今、みんな大器だ大物だって騒いでんけど、打てなかった頃にはブーイングすごかったもんな。よくノイローゼにならなかったと我が兄貴ながらソンケーする。みんなの期待背負ってさ、やって当たり前とか言われてさ、おれ、勘弁だよ。青春返せって叫んじゃうね、たぶん」
「睦月が? そんなの知らなかったよ」
「理穂は知らねえよ。睦月にキョーミねえんだから。おれは弟だから、やっぱわかるし。あっ、睦月は言わねえよ。泣き言グチるキャラと違うから」
「言わないから、しんどいんじゃない。溜めこむタイプは、損よね」
美咲が、さらりと笑う。
「おまえは、少し溜めこめ。ほんと睦月と美咲を平均したら、人並みになるよな」
「如月、今度は股間《こかん》を蹴り上げるわよ」
「うわっ、子どもができなくなる」
「二人とも余裕こいてる時じゃないよ。あと、十五分で時間切れでーす。このままだと、三人でワリカンでーす」
あたしは、再び余裕の笑みを浮かべ、ケイくん、如月、美咲の順に見回した。
「ジョーダンじゃないわ。他人の食った分まで払うなんて、絶対嫌!」
美咲が拳《こぶし》を握る。
「じたばたしなさんな。ルールはルール。しかも、自分たちで決めたルールなんだからね。従ってもらうわよ」
「くっそう、このボロ携帯。とっとと鳴らないと塩漬けにするわよ」
忠実な犬が主人の恫喝《どうかつ》に怯《おび》え従うように、美咲の手の中で、携帯が震えた。鈍《にぶ》い振動音を出して震える。
「はーい……あっ、何? 雨? ……あーそうね、今、理穂たちといるから、また連絡するから、迎えに来て……うん、そう……じゃあね、はーい」
携帯を置いて、美咲が微笑む。あごのとがった小さな顔の線が、ふるっと緩《ゆる》む。目の中に優しい光が煌めく。めったに見せない極上の笑顔だ。美咲のこの笑顔に接するたびに、あたしは花を見る。ほころびかけた小さな花の蕾《つぼみ》だ。美しくて、清々《すがすが》しい。胸の奥が熱くなる。こんなふうに、花のように微笑むことのできる人を、あたしは美咲より他には、まだ知らない。
「やったぜ、三抜け。親に感謝」
「おばちゃんから?」
「そう。雨が降ってるから迎えに行こうかだって。ふふん、うちの親、雨に濡れると娘が溶《と》けるって思ってんのよね」
「溶けないけど、熱出すじゃん。去年、それで二回も入院したでしょ。雨の日、傘をささずに歩くくせ、直しなよ」
「熱出したからって、理穂にメーワクかけたわけじゃないし、ほっといてよ。少しうるさいんだよ、理穂は。リップの重ね塗りするより、接着剤で引っつけときな」
極上の笑顔を引っこめて、美咲が露骨に挑発してくる。煽《あお》ってくるならのってやろうじゃないか。
「あんたが入院しようが、病気になろうが、死のうが、殺されようが関係ないけどね。おばちゃんがかわいそうでしょ。あんたが気まぐれで、雨の日に傘もささずに歩いたりするから、はらはらして、しなくていい心配までしなきゃいけないんじゃない」
「うわっ、何それ? 親の気持ち考えろってかい? 理穂って、すぐ、そーいうお利口さん発言するよね。やだね、教師の子って、これだもんね。気分悪い」
「親の職業、持ち出さないでよ、関係ないでしょ」
「殺したのかな」
ぼそっと低い声がした。スウちゃんだ。一瞬、テーブルの周りが静まった。
「スウちゃん……何か言った?」
中華スープをすすっていたスウちゃんが、あたしを見つめ瞬きする。
「殺したのかなぁって、ふっと思ったから」
「誰を?」
「監督」
「監督って、どこの?」
「睦月さんの監督。急死したって如月くん言ったでしょ。誰か殺したのかなって、思っちゃった」
「フツー思うか、そんなこと」
ケイくんが、煙草《たばこ》を取り出す。あたしと美咲がにらんだので、そのままポケットにしまった。
「だって、嫌な監督だったんでしょ。殺してもいいんじゃない?」
「嫌なやつ殺してたら、おれら、みんな連続殺人犯だよな。睦月の監督、脳の血管が切れたのか心臓発作なのか知んないけど、やっぱ病気だったみたいよ。別に、殺人事件じゃないでしょ」
「そうかなぁ」
スウちゃんは、如月の言葉に首をかしげた。
「あたし、春の甲子園、睦月さんの試合をテレビで見たよ。ベンチに監督の写真が置いてあった。『前監督の志《こころざし》のためにも、がんばります』ってキャプテンの人が言ってたし……新聞も『遺影を胸に健闘』って見出しだったもの。うちの母さんなんか、その見出し読んだだけで、うるうるしてた。でも、もしその監督が、すごく嫌なやつで、みんなから嫌われてて、誰かが殺したなら」
中華スープをすすり、スウちゃんは恥ずかしそうに笑った。
「何かおもしろいかなと思って」
「だからフツー、おもしろがるか」
ケイくんは、金髪の頭を振った。残りの携帯は二つ。どちらも沈黙したままだ。
「まっ、少なくとも、睦月は運がよかったよね。監督が代わったおかげで、伸びたんでしょ。ホッとしてるよ。睦月にすれば、前監督のためより、今の監督のためにガンバリマッスって気分が強いんだけど、亡き監督の遺影を胸に健闘する選手っての演じなきゃしょうがないもんね。本音言えるほど、強くないからね、あの人」
美咲が、ストローでグラスの中をかき回す。氷がカリンと涼《すず》やかに鳴った。ケイくんが、頭を抱える。
「おまえら、変」
「何が?」
あたしが尋ねた。
「なんか、ゆがんでるって。急死した監督のためにがんばるっての、なんか、うるって来ねぇ?」
「来ない」
美咲が、一言で片づけた。
「なんで? カンドーだろ。いい話だと思うけどな。おれ」
「いい話なんて、信じない」
信じたら怖いよ。そうつけ加えて、美咲がにやっと笑う。
「ケイくん単純すぎ。感動の物語なんてのにうるうるしてたら、やられるよ」
「誰に?」
「さあて誰にでしょ。ともかく油断なさらないことね」
お嬢さま言葉で締めくくって、美咲はまた、にやりとした。ケイくんが、如月の肩を突っついた。
「おれ、こいつらの言ってること解《わか》んないけど、通訳たのむ」
「まっ、よーするに、他人にのせられるなってことでっしょ」
「ど下手な訳《やく》ね」
そう言ったけれど、下手なだけで的外《まとはず》れの訳ではなかった。他人にのせられると、怖いのだ。あたしたちの周りには、感動的な物語も、心温まる話も、いくらでも転がっている。その逆の物語だって溢れている。
一年生の時、あたしは、ばりばり張り切っていた。勉強にではない、きれいになることにだ。アイプチを使って二重にすることを覚え、アイラインやマスカラの上手な使い方を覚え、髪を均一に巧《うま》く染める方法を覚え、少し有頂天になっていた。お化粧すると、一枚ずつ薄皮がはがれて、きれいなあたしが現れてくるようで嬉しかった。一重でチマチマした目の吉村理穂じゃなくて、派手やかな、きれいだと自分で思える自分を鏡の中に確認して、あたしは満足していた。今思えば、かなりケバかった。思わなくても写真を見れば、わかってしまう。一目瞭然《いちもくりようぜん》ってやつだ。ケバい。色の白さには自信があったから、ファンデはつけない。よけい、目の周りの黒塗りが目立っていた。その写真をひらりと振って、
「みっともない」
と、美咲は言った。認める。教室の窓からさしこむ自然光の中で、厚化粧のあたしは、きれいでも何でもなく、ただケバいだけだった。
認めて反省して、今はかなり薄化粧だ。それでも、まぁきれいかなと満足している。
ともかく、あたしがまだケバかった頃、学校の帰り、近くのスーパーに寄った。全国チェーンの大型店で、衣類から雑貨、食料品までずらりと揃《そろ》っている。美咲と綾菜も一緒だった。何を買いたかったのか、もう忘れた。どの棚にも、コーナーにも、物が並んで、溢れていた。あたしたちは、きゃあきゃあ騒ぎながら、買う気もない雑貨だの衣類のコーナーをぐるぐる回っていた。
一番に気がついたのは、美咲だ。
「ちょっと、誰かに見られてない?」
「は?」
視線を感じないかと美咲は、言ったのだ。あたしは、あたりを見回し、あたしたちを見つめる視線にぶつかった。
青い制服を着た店員のおばさんだった。昔風のチリチリパーマで、鼻の横に大きなほくろのある人だった。
「見張ってるよ」
美咲がささやく。あたしは、棚の上にある防犯カメラをあごでしゃくった。
「ウッソ、あれ役に立たないわけ? 店員のおばさんが、がんばってんの」
「要注意人物には、おばさんが一人、つくんじゃない?」
なぜか、美咲はあたしにウィンクなんかする。綾菜が、ぷっと頬をふくらませた。
「むかつく。あたしたちが、万引きすると信じてんだ」
「綾菜。そういうとこに信じてるなんて言葉、使わないの」
「じゃ、なんて言うのよ」
「あたしたちのこと疑ってるって言うの」
「そうか。さすが理穂。国語の成績だけは|○《マル》なことは、あるね」
綾菜が、感心している間も、そのおばさんは、あたしたちのほうをちらちら監視していた。露骨にではなく、いかにも棚の商品を整理していますというふうに、ヘアカラーの箱を動かしながら、見ている。露骨じゃないけど滑稽《こつけい》だ。笑える。むかつくより先に笑える。美咲が肩をすくめた。
「制服と理穂が悪いのよ」
「何それ? どーゆう意味よ」
「この制服。稲野原の生徒なら万引きぐらいやりかねないってこと。おまけに、あんたのケバい顔なら、×2でやりそうに見える」
「顔と制服で、万引きできるんなら苦労しないよね」
綾菜が、真面目《まじめ》な顔で呟く。これは、かなりおかしかった。あたしたちは、けらけら笑いながら、おばさんと遊ぶことにした。商品棚の間を急ぎ足で通り抜け、ときどき立ち止まり、品物を手に取ってみる。おばさんは、しっかりついてきた。他の高校の子もけっこういたのに、おかまいなしだ。稲野原のケバい女子高校生を見張るように、特別任務をおびているのかもしれない。あたしがそう言うと、綾菜は、ついに吹き出してしまった。
お菓子のコーナーに来た時、あたしはお腹がすいていた。本気で、食べ物を買う気だった。ポテトチップスの袋を手にして、ちらりとおばさんを探した。おばさんは、棚に体半分隠して、あたしたちを窺《うかが》っていた。ドアから初対面のお客をのぞく子どものように、そっと、でもじっと窺っている。限界だった。それでなくても、あたしたちは笑い上戸《じようご》なのだ。たいした理由もなく、笑い転げてしまう。毎日、やたらおかしい。人がしりもちをついても、床にお弁当のおかずだろうタコ形に切ったウィンナーが、転がっていても、農林科で飼っている山羊《やぎ》が逃亡してグラウンドを走っているのを見ても、ものすごくおかしい。大笑いしてしまう。まして、チリチリパーマのおばさんが、体左半分だけのぞかせて、真剣にこちらを見ているのだ。おかしいなんてものじゃない。限界点をあっさり突破する。
あたしは、顔を覆《おお》ってしゃがみこんだ。おもしろすぎて声も出ない。美咲でさえ、あたしの横にぺたりと座りこんで、笑っている。綾菜は、泣いていた。涙を出しながら、股《また》の間を押さえる。
「やばいよ。笑いすぎて漏れそう」
そこで、あたしたちは、さらに笑った。息ができなくて、このまま笑い死にするんじゃないかと思ったほどだ。
一番最初に、正気に戻ったのは、もちろん美咲だった。目尻の涙を拭《ふ》き、笑ったことなど一度もないというような真顔になると、制服のポケットから小型カメラを取り出した。
「記念写真、いきます」
小さなカメラを構える。美咲は、カメラが好きだ。ポッケクンと名づけたカメラをいつも持ち歩いている。写るのが好きなんじゃなく、撮《と》るのが好きなのだ。
風景、人物、お弁当の中身、野良犬の後ろ姿、桜の枝からぶら下がっている毛虫、あたしと農林科の山羊とのツーショット……何でも撮る。撮らないのは、自分自身だけだ。写真の中の自分が嫌いなのだそうだ。プリクラさえも嫌だという。なんでと聞いたことがある。写真は、魂《たましい》を盗られるからと、明治初期のおばあさん風の答えが返ってきた。
ともかく美咲のおかげで、あたしの日常スナップ写真は、溜まりに溜まり、りっぱな成長の記録となっている。
「いくよ」
「あいよ」
ポテトチップスの棚の前で、あたしと綾菜はVサインをして笑う。ポッケクンのフラッシュが光る。二度、三度。撮り終えた時、おばさんは、もう隠れていなかった。通路に体全体で突っ立って、ぽかんとあたしたちを見ていた。美咲が、ポッケクンを向ける。
「すいません、一枚、撮らせてください」
フラッシュ。
「あっりがとっございましたー」
おばさんに手をふって、背を向ける。綾菜は、まだ笑い続けていた。この時の写真は、なかなかのデキだった。お菓子のパッケージって、ものすごくカラフルなのだ。赤、黄、青、緑、色分けされずらりと棚に並べられたポテトチップスは、肉眼ではただ並んでいるだけなのに、写真のバックになると、オモチャの王国の城壁みたいに、チャチでけばけばしくて、おもしろい。オモチャの城でVサインをしているあたしと綾菜。今でも、部屋の壁に貼ってある。
「まったくね」
あたしの部屋に来るたびに、美咲は、その写真を指ではじく。
「万引きするほど、ガキじゃないっつーの」
「退屈もしてないしね」
あたしが続ける。万引きなんて、退屈したガキのやることだ。あたしたちは、そこまでガキでもないし、退屈もしていない。
あたしたちは、制服のスカートを短くして、ルーズソックスを履《は》いて、ローファーの踵《かかと》を踏みつぶすくせがあって、勉強しないで、コンビニにたむろして、きゃあきゃあ騒ぐけれど、万引きも売春もしない。煙草は嫌いだ。夜は十一時には眠たくなる。青少年健全育成母の会から、表彰してもらってもいいくらいだ。でも、そういう「よい子」は、あたしたちの役回りではないらしい。
「みんな、見た目どおりの役を押しつけられんのよ」
そういった。いったのは、むろん美咲だ。いつだったか、よい子のあたしたちは、駅のゴミを拾っていた。
ケイくんたちがパンの袋や煙草を投げ捨てたのだ。スウちゃんが怒った。あたしだって怒ると思う。自分のカレシが、焼きソバパンの袋を平気でポイ捨てするのなんて嫌だ。かっこ悪い。ケイくんは、素直にパンの袋に手を伸ばし、一緒にコーラの缶も拾い上げた。
「あっ、これ昨日捨てたやつだ。なんだよ、ここ掃除《そうじ》しねえのか」
そう言われてみれば、駅の構内は、汚い。あたしの部屋も汚いけれど、一月に一度、徹底的に掃除をする。あたしの掃除魂がふっと刺激された。転がっていた缶を集め、ゴミ箱に持っていった。
ついでに、ゴミ箱の横の紙くずも拾った。スウちゃんも同じことをした。それだけだった。別に構内を徹底清掃するほどよい子でもないし、ヒマでもないし、義理もない。なのに、誉《ほ》められてしまった。構内にいた見知らぬおばさんにだ。「感心ね」と言われた。頭までなでられそうな気がしたから、あたしたちは、とっとと退散した。そしたら、地元の新聞に投書されてしまった。
『駅で見た心温まる若者』とかいう題だった。
『駅の構内で、ゴミを拾う若者たちを見た。みんな、誰に言われるでもなく黙々《もくもく》と清掃していた』で始まり、『若者たちは、ある高校の制服を着ていた。荒れている、非行が多いと、とかく悪いうわさの多い高校である。その生徒が、黙ってゴミを拾っている。感動した。わたしたちは、外見だけで人を判断しがちだが、どこにでも心のまっすぐな若者はいるものなのだと、思わせられた』と続き、中略して『受験と偏差値、点数の高低に汲々《きゆうきゆう》としている進学校の生徒より、もしかしたら豊かな心を持っているのかもしれない。そう、これからは、学力より豊かな心こそが必要なのだろう』と結んであった。なかなかの名文だ。でも大笑いである。投書したおばさんにも、載《の》せた新聞にも笑える。あたしたちは、黙々と清掃なんかしなかった。缶を拾っただけだ。あたしたちが稲野原の制服を着ていなかったら、この投書おばさんは、こんなにも感動しなかっただろう。あのスーパーの店員おばさんだって、体半分隠してまで、見張らなかっただろう。万引きも売春も、いかにもやってそうな女子高校生のゴミ拾いは、感動的な心温まる話になるらしい。みんな、そんな話が好きなのだ。優しかったり、泣けたり、勇敢だったり、癒《いや》されたりする美しい物語が好きなのだ。
だから、油断するな。美咲はそう言ったのだ。睦月じゃないけど、みんなが期待する美しい物語に嵌《は》めこまれたら、逃げ出せない。
睦月は、亡き監督に勝利を誓う選手の役から、あたしたちは、勉強はできなくとも豊かな心を失わない若者の役から、進学校の生徒諸君は、受験と点数競争に明け暮れ、疲れ果てたエリートの役から逃げ出せなくなる。捕《つか》まりたくない。演じたくない。あたしは、主役を張りたいのだ。演出も脚本も主演も、全部あたしがやる。あたしに役を与えて、演じろと命じるものを、かたっぱしから蹴っ飛ばしたい。他人の物語の中で生きていくことだけは、したくない。
だから、油断しない。
携帯が鳴った。ケイくんが、歓声を上げガッツポーズをする。如月が、天を仰《あお》いだ。
「はいはい、あっ、おれ……あっ、うん、わかった行く行く」
スウちゃんの顔が曇《くも》る。
「誰から?」
「ダチ。あっ、これで四抜けだよな。じゃっ、ちょっと、おれ失礼っす。藤本、ごちそうさま」
スウちゃんに手を振り、如月に深々と頭を下げて、ケイくんが出ていく。
「ケイくん、この頃、遊び癖ついたのと違う」
美咲が、スウちゃんを見ないで、スウちゃんに呟いた。
「うん……なんかねえ。遊び癖っていうか、イラついてる感じ」
「カノジョより友だち取るなんて最低っ、ねっ、理穂」
「なんで、あたしに振るのよ」
「だって、理穂も拓郎くんと別れる前、キレてたじゃん。友だちとばっかつき合うって。あんた、ぎゃあぎゃあ言いすぎて、ふられちゃったんでしょ」
「美咲、そっちこそ、もろ言いすぎ。怒るよ」
「怒れば。あんましうるさいと、男に逃げられるよって忠告してあげたよね。あたし」
「まぁね。でも、うるさくは言わなかったよ。言いたいことちゃんと言っただけ」
「それがうるさいっていうの」
「うるさくてもいいもの。言いたいこと言えなくて我慢しなきゃいけないなら、ふられたほうがまし」
「へぇ、そのわりには悩んでたじゃん。胃が痛くなるほどね」
ほんとに、こいつだけは、見事なもんだ。人の一番痛いところを的確についてくる。才能だ。何の役に立つかわからないけど、それこそ天賦の才だ。たぶん、何の役にも立たないだろう。
如月が、ふらりと立ち上がる。伝票を手に取って深い溜め息をついた。美咲が、薄く笑う。
「負け犬よね」
「五分のペナルティが致命的だったよね。惜しい試合を落としたって感じ」
あたしが解説する。
「如月くん、また、チャンスがあるからね」
スウちゃんが慰《なぐさ》める。如月は、サイフの中身を数えながら、前より深く息を吐き出した。
雨がやんでいた。朝から途切れなく降っていた雨はやんで、雲は切れ、夏の光が降りそそいでいる。それでも、空気は心地よい。ここは緑の豊かな街だ。夏、生い茂った木々は、市中のあちこちに木陰《こかげ》をつくり、涼《りよう》を保つ。気の早い蝉《せみ》が鳴いている。光とともに降りそそぐその声が、どこかぎこちなく響くほど、涼やかな風が吹き抜ける。
あたしたちの街を、夏はいつも駆け足で過ぎていく。まだ、夏休みも来ていないのに、今日の空はすでに秋を想わせて澄んでいた。
「卒業したら、どうすんの?」
ふいに、スウちゃんが聞いた。誰に聞いたのかわからない。あたしたちは、城山の石畳《いしだたみ》を歩いていた。ここに城閣《じようかく》はない。苔蒸《こけむ》した石垣だけが残っている。
燕《つばめ》が、地面すれすれを滑空し、舞い上がり、高く空に消えた。おれたちは飛べるのだと、羽根のない動物に見せつけているようだ。
「進学? それとも就職?」
足が止まる。羽黒トンボが一匹、スウちゃんの肩で羽根を広げている。これからは、トンボの季節なのだ。
「スウちゃんは?」
と、あたしは聞き返した。卑怯な方法だ。答えが見つからない時、答えたくない時、この方法を使う。卑怯なごまかし方だった。美咲が、肩をすくめた。
「わかんない」
スウちゃんは、あっさり首を振る。
「スウちゃんなら、進学できるでしょ。頭いいし」
「うーん、けど、国立とか無理だし、私立はお金かかるからダメだって言われたし」
スウちゃんの家、長原製作所は、昔、百種類以上のネジを作っていたそうだ。従業員も二十人近くいたらしい。今は、スウちゃんの両親と今井さんという男の人の三人だけしかいない。
「うち、今やばいんだ。工場、いつまでやっていけるかわからないって、親、言うんだもの。進学、無理かなぁ」
「就職も無理よ」
美咲が、燕の飛行を追うように視線を空に向けた。
「今、高校生の就職なんてむちゃくちゃ厳しいよ。特に、うちみたいな学校、求人なんて来ないし。今まで高校生の職場だったとこに、大学生とか専門生とか、ばんばん入りこんでんだって。今年の卒業生なんて、仕事なくてプーの人、いっぱいだよ」
そこまで言って、さすがに言いすぎたと思ったらしい、
「でもスウちゃん、うちのトップだし、なんとかなるんじゃない」
と、美咲らしからぬ穏《おだ》やかな口調になった。
「けどさ、あたし、夢とかないし。特になりたいものとかないし、就職とか言われても困るよね。あたし、ずっと稲野原の生徒でいたいなあ」
スウちゃんに向かって、あたしは、うなずいた。今がいい。今が楽しい。ずっとこのままでいたい。時が、還流すればいいと思う。流れ去っていくのではなく、ぐるぐるとただ、巡り流れてくれればいい。あたしたちは、いつまでも今のあたしたちだ。
ときどき、本気でそう思う。同時に、突き抜けたい、遠くに、高く、この街を突き抜けて、今までと全然別の自分を見つけたい。そうも思う。真反対にある二つのものを、同時に手に入れる魔法ってないだろうか。
あたしは、あごのとがった美咲の横顔をちらりと見た。
美咲は、どうなのだろう。脆《もろ》い薄い弱い身体と頑固で強靭《きようじん》な精神を抱えて、どう生きていこうと思っているのだろう。
「如月は?」
くるりと踵でターンし、美咲は後ろの如月に向き合った。
「おれ?」
「あんた。将来のことなんて考えたことあんの?」
「ばりばり」
美咲の大きな目が、さらに見開かれた。あたしの目も同じ状態だ。驚いた。如月が、将来のことを、真面目に考えていたなんて、驚きだ。見つめられて、如月は、頭の後ろをがりがりとかいた。如月は、不細工《ぶさいく》ではない。どっちかというと、いい男、イケメンに入るかもしれない。本人が自覚して、もう少し自分に投資すればだ。髪は、気まぐれに中途半端に染めるものだから、根元が黒くて毛先が茶色のプディングヘッドのうえに、手入れをしないからぼさぼさだ。髭だって、いつも剃り残しがあって、見苦しい。
一度、如月を押さえつけて、髪をカットし染め直し、顔中泡だらけにして洗ってやろうと、美咲と相談している。
見かけだけでなく考え方も、生き方も、どこか半端でいいかげんなのが、如月だと思っていた。それなのに……。
「へぇ、そりゃあ、ぜひ聞かせてほしいもんだわ」
美咲が腕を組む。
「うーん、まぁしゃべるほどのもんじゃないけど」
「はい、みんな集合」
あたしは、如月の傍に立ち、口笛を吹いた。女の子三人に囲まれて、如月があとずさりする。その肩に手をかけて、引っ張る。
「りっ、理穂。やめてくれ。おまえと何かあったら、睦月に合わす顔がなくなる」
「あたしと何する気なのよ。どうせ、たいした顔じゃないでしょ。さっ、白状しな。何考えてんの」
「いや……だから、将来のことなんだろ。あの、睦月がらみなんだけど」
「睦月?」
「そうそう。あいつ、もしかしてというか、かなりの確率でプロ行きそうじゃん。そしたら、契約金とか、ごっついでしょ。一億とか」
「睦月の契約金が、あんたに関係あるわけ?」
「あるよ。おれら約束してんだ」
「何を?」
「どっちかがプロになって、大金入ってきたら、山分けしようって」
「いつの話、それ?」
「小学生の時」
あぁと、あたしは思い当たった。小学生の頃、如月も睦月も地元のスポーツ少年団にいたのだ。睦月は、その頃から野球に夢中だった。如月は、サッカーをやっていた。思い出した。小学校の校庭で、如月にリフティングを見せてもらった。サッカーボールが、生きもののように肩や足の先で跳ねていた。夕焼けだった。
六年の文集に睦月は、『将来の夢、プロ野球の選手』と書いて卒業していった。一年後、如月は、卒業文集に将来の夢を何と書きつけたのだろう。覚えていない。自分がどう書いたかさえ、忘れてしまった。
「睦月は、ウソとかつかないから、絶対、契約金を半分くれると思うわけ。そしたらその五千万を資金にして」
「うん」
「冒険旅行しようと思ってんだけど、いかが?」
「は? 何、それ。冒険旅行って?」
「まっ、いろいろあるけど、グレートジャーニーから、始めっかな」
あたしたちは、顔を見合わせた。如月の口から、英語が飛び出すとは意外だった。
「あたし……聞いたことある。お医者さんで探検家の人が、何年もかけて、南アメリカからアフリカまで自転車や徒歩で行ったんでしょ。なんか、人類が誕生して、世界に広がっていったルートを逆からたどったとか……違った?」
スウちゃんが、自信なげに首をひねった。如月が、パチンと指を鳴らす。
「正解。さすが、学年トップ。そうなんだ、グレートジャーニー、大いなる旅路だぜ。五万キロの旅。かっこいいでっしょ」
「だって、もう先にやった人がいるんでしょ。二番|煎《せん》じじゃあねえ」
「二番煎じって……理穂な、おまえ古くさすぎ。今日びの高校生が二番煎じなんて使うなよ。ばあちゃん子の悪いくせだね」
あたしは、顔をしかめ、チッチと舌を鳴らした。
「ほっといて。あたしマジに聞いてたのに、何が大いなる旅路よ」
「えっ、おれもマジだぜ」
「あんたいくつよ。もうちょっと、現実的な話してよね」
「いいかも」
美咲が指を鳴らす。如月よりいい音がした。
「それ、いいかも。人類誕生の旅ね。あたしも、のった」
「美咲、バスじゃないのよ。勝手にのらないの」
「でも、いいよね。旅か……どっか行きたいなぁ」
スウちゃんは、何かをつかむように空に手を伸ばした。
「まったく、三人とも、ばりばり現実逃避してる。情けねぇ」
「うわっ、理穂って、ほんとリアリスト。あんた、やばいよ」
「何がよ」
「あんまり、現実べったりだと潰《つぶ》れるよ。うちのガッコからじゃ、大学受験なんてほぼ無理だし、就職もやばい。特別な才能もないし、すっごい美人でもない。夢もないし、努力するのも嫌い。八方塞《はつぽうふさ》がりじゃん。マジに考えたら、気が滅入《めい》って死にたくなるでしょ」
美咲は、樹齢ン十年という桜の幹を軽く叩いた。
「この枝。首|吊《つ》るには、手頃な太さだよ、理穂」
「ありがとう。美咲がやる時は、足引っ張ってあげるね」
「なぁ、グレートジャーニーの話、聞けよ。しゃべれって言ったのは、そっちなんだから。パタゴニアから出発して東アフリカのタンザニアまで五万キロだぜ。五万キロ」
「睦月って、ほんとに一億円も、もらえるのかなぁ」
リアリストのあたしは、現実に近い話題に固執していた。
「一億ってことないんじゃない。睦月なら、裏金《うらがね》合わせて三億が相場ね」
美咲が指を三本立てる。美咲も充分、リアリストだ。あたしたちが、ふわふわした夢の世界の住人ではないと、知っている。
「いいな。じゃっ、睦月から一億だまし取って、作るかな」
「何を?」
今度は、如月が質問者になった。
「逆ハーレム。いい男どっさり集めて、侍《はべ》らすの。どう?」
「疲れる」
美咲は、嫌そうに首を振った。
「あっ、それで妊娠したら、それこそ人類誕生じゃない」
スウちゃんが、お腹をぽんと叩く。
「なぁ聞けって、冒険家って憧れねぇ? おまえら、ボリビアのウユニ塩湖《えんこ》って知ってる? 知るわけないか。すげえんだぜ、一二〇キロ、真っ白な世界が広がって」
「三億ってさ、百万の束でいくつ?」
「あたし、三千円でいいから、ほしい。今月ピンチだよ」
「だから聞けって、真っ白だぜ。地平線までずっと真っ白」
あたしたちは、口々に好き勝手なことを言い合いながら、桜の木々の下を歩き始めた。風が吹く。燕が飛ぶ。枝から滴《したた》り落ちたしずくが、煌めいて散る。
「あっ」
あたしは、短く叫んだ。スウちゃんも、すぐに気がついた。
「虹だ」
くっきりと鮮やかな虹が、空にかかっている。しかも、その上に幻のようにうっすらと、もう一つ、浮かんでいる。
「二重の虹だ」
美しいものを見た。美しい虹を見ても何も変わらない。あたしたちの現実は、やっぱり八方塞がりだ。ここが、夢の世界でない限り、二重の虹は、幸せの兆《きざ》しにはならないのだ。それでも、なんだか、ちょっとだけ嬉しい。
睦月に教えてやろうかな。
ふっと考えた。
虹が出たよ。いいことあるかもしれないよ。
そんなメールを送ってみようか。
「よっしゃ」
如月が両足を揃えて、飛ぶ。数メートル前の、水たまりに着地する。水しぶきが上がった。スカートにかかる。足にも腕にもかかる。冷たい。あたしも、飛んだ。水たまりは、いくらでもある。
スプラッシュ!
スウちゃんが、笑いながら悲鳴を上げる。美咲は、桜の木にもたれ、虹を見続けている。
夏が来る。肌を焼こう。十七歳の夏の記念に、肌を日にさらしてみよう。水しぶきを上げて、海辺を走ってやる。日焼けして皮が剥けてもかまわない。シミの予備軍ができてもかまわない。将来のことは、とりあえず放り投げておけばいい。
「海に行くぞ」
拳をみんなに突き出す。
「賛成、行こう」
スウちゃんが一番に、反応した。拳を合わせて来たのだ。
「おまえらの水着、見てもなぁ」
如月が、あたしの拳を平手で叩いた。
「美咲は?」
美咲が、ゆっくり振り向く。血の気のない人形のような顔をしている。
「行かないよ。海なんて大嫌い」
あたしたちを見つめたまま、足を後ろに引く。後ろは、草の茂る斜面になっていた。その下に民家の屋根が広がっている。かなりの高さだ。美咲のローファーが夏草の中に埋まる。雨に濡れた草は、濃い緑だ。スウちゃんが、息をのんだ。
「美咲、危ない!」
手を伸ばしたあたしを押しのけて、如月が飛び出す。腕をつかんで、引き寄せる。美咲の手からカバンが転がり落ちた。
「何やってんだよ。ここ危ねえんだ。滑《すべ》ったら下まで落ちるぞ」
美咲が如月にしがみつく。美咲の薄い身体は、如月の腕の中にすっぽりと納まり、そのまま溶けて消えてしまいそうに思えた。如月の肩に顔を寄せて、美咲が目を閉じる。ほんの一瞬だった。その一瞬で、美咲は立ち直り、自分を抱える腕から身を離した。カバンを拾い上げる。斜面に向かって、あごをしゃくる。
「ネコ……死んでるよ」
如月が瞬きし、緩慢な動きで斜面をのぞきこんだ。うっと声がもれる。あたしとスウちゃんも、同じ行動をした。のぞきこむ。
夏草は猛々《たけだけ》しい。日にさらされ、雨に打たれ、夏の熱を存分に吸いこんで、猛々しく生い茂る。濃緑色の草の中に、小さな白い塊《かたまり》が見えた。目をこらす。
「もう一匹、いる」
美咲が抑揚のない声で言った。灰色の縞ネコが、斜面の上に頭を向けて横たわっていた。口から赤い泡を吹いている。だらりと垂《た》れた白い舌と、鈴のついた首輪を確認して、あたしは目をそらせた。
「二匹……殺されてるよ」
美咲がうめく。口を押さえ、桜の木の根元にしゃがみこんだ。
美咲を迎えの自動車に押しこむと、あたしたちは、歩いて帰ることにした。二十分近くかかるけれど、焦《あせ》ることはない。
「美咲ちゃん、大丈夫かな? 真っ青だったけど」
スウちゃんが、呟く。大丈夫だよと、あたしも如月も口にしなかった。
美咲は、衝撃に脆いのだ。特に死体はダメだった。虫の死骸にさえ過剰に反応する。牙をむく犬だろうが、とぐろを巻いている蛇だろうが、ゴキブリだろうがムカデだろうが、生きて動いているものは、平気なくせに、それらが死んで動かないとなると、怖《お》じ気《け》をふるう。血の気が引き、吐き気を訴え、さっきのように嘔吐《おうと》してしまう。もっとも、美咲でなくても、さっきのネコには、怖じ気づくだろう。あたしも、怖い。血の泡を吹いたネコが、自然死とは考えられない。誰かが毒殺したのだ。だとしたら、ネコの死骸そのものより、誰かが殺したという事実が怖い。そこにある意思や感覚が怖い。怖じ気づく。
顔を上げ、空を見る。虹はまだ、二重のままだった。草むらの死骸もあの虹も、あたしの中の怖じ気もみんな、現実だ。
西の小京都と呼ばれ、城址を中心に広がる穏やかな街は、空に虹をかけ、殺害されたネコを草むらにのみこみ、いつもと変わらぬ夕暮れを迎えようとしている。
あたしは立ち止まり、大きく深く息を吸いこんだ。
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第二章 花火と世界征服
学期末の試験が終わったとたん、美咲は倒れた。ずいぶん無理をしていたのだと思う。
城山でネコの死骸を見て以来、ずっと身体《からだ》の調子を崩していたのだ。ますます痩《や》せて、皮膚は青白いまま血の気を宿さない。
「師岡、おまえ、大丈夫か」
鈴ちゃんは、一日のうち、何度も尋ねた。そして、
「保健室で、寝てたほうがよくないか。そうしろ」
何度も促《うなが》す。美咲は、がんとして拒否し続けていた。三十人の高校生の体温とざわめき、湿気を含んだ空気、熱風、ゴミの散らばる床……教室は、決して快適な場所ではない。夏のこの時期は、特にそうだ。頑強な若い肉体にさえ、疲労は徐々に沈殿する。
「休みなよ」
夏ブラウスの上から触《さわ》れば、鎖骨を感じられるような美咲の胸元を見下ろして、あたしは言った。
「ガッコなんか来たってしょうがないじゃん」
「家にいたって、しょうがないでしょ」
声だけは元気だ。いつもの突っ返すようなものの言い方に、なぜかホッとする。
「あんたが、そんなにガッコ好きだとは意外だったね」
「家が、うざいだけだよ」
美咲が横を向く。少し脱力した声で、
「けっこう事件じゃん」
と、呟く。
「ネコのこと?」
「そう、連続だよね。親とか、けっこう騒いでない?」
毒殺されたネコは、二匹にとどまらなかった。あれから四匹、計六匹のネコが、草むらや川原や側溝の中で発見されていた。みんな口から赤い泡を吹いていたそうだ。あたしの家の近くでも、野良ネコが同じ死に方をしていたと聞いた。警察が動き出したといううわさもある。親とか、けっこう騒いでいる。
「親が騒ぐのと、ガッコ休まないのと関係あんの?」
「ない」
美咲は、あたしに向き直り、ゆるゆると笑った。
「家よりここのほうがマシってだけのこと」
「死ぬわよ」
「ネコが?」
「あんた」
イスに腰掛け、あたしを見上げ、美咲はまた、ゆるゆると笑う。
「理穂ぐらいのもんだね。本人に向かって、そんなえげつない口のきき方すんの」
「だって、あんたエネルギーほとんど残ってないでしょ。エネルギー切れたら、死ぬよ。ガッコをなめたら、えらい目にあうよ。けっこうエネルギー使うとこなんだから」
「あんたは、口に使うエネルギーを少し頭のほうにまわしなさいよ」
「まわんないよ。回路がないんだから」
美咲が、くすっと笑い声を漏らした。
「ひどいね。それこそエネルギーの無駄遣いだよ。頭から放射能とか漏れてない、理穂」
「もう垂れ流し状態」
美咲の笑い声が、わずかに大きくなる。うつむいた首筋と薄い肩が揺れる。丁寧にアイロンをかけられたブラウスの背中が、白く目にしみる。
「美咲ちゃん、アイスクリーム食べなよ。如月くんの奢《おご》りだって」
スウちゃんが、アイスクリームの入った袋を下げてくる。バニラとチョコレートのカップだ。うちの売店で一番高いやつだった。
「ウッソー、如月、どうしたの。やってくれるじゃない」
如月は、あたしにウィンクし、肩をくるりと回した。
「昨日、パチンコで大儲《おおもう》けしたんだって」
スウちゃんが、指を二本立てる。
「二万? すごい」
「まったく、兄貴が炎天下、甲子園目指してる時に、弟は試験中にもかかわらず、パチンコで二万、かせいでんだからね」
美咲は、カップを頬に引っつけ、目を閉じる。あたしは、舌の上で、バニラのアイスをそっと溶かした。
「パチンコ二万と甲子園出場、どっちが、すごいかな?」
「睦月に決まってるでしょ。そんなこと聞くの、ほんと理穂ぐらいのもんだよ。マジで脳みそ、汚染されてるね……。如月」
「あいよ」
「試験中にパチンコなんて。ばれたら、謹慎《きんしん》、一週間の停学だよ」
「そしたら、一週間、パチンコに通えるじゃん」
あたしたちは、顔を見合わせ、笑った。笑った拍子に、スウちゃんの鼻の下に、アイスが白くついて、髭《ひげ》になった。それが、おかしくて、また笑う。何でもないことが、どうでもいいことが、何でこんなにおかしいんだろう。泣くためじゃない、怒るためじゃない、嘆くためじゃない、笑うために、あたしたちは生まれてきた。そうとしか思えない時がある。抑《おさ》えても、抑えても、笑いがこみ上げて、精神が笑いに共鳴し、震える。
「エネルギー満タン」
美咲が、半分以上残して、あたしにアイスを渡した。
「もう、いらないの?」
「充分」
「じゃ、もらうけど……こんなに食べたら、デブらないかな」
「理穂は、いいんじゃない。ご自慢の胸につくんだから」
「だよね。この頃、Eカップがちょいきつい」
「じゃあFなの。すげえ。小池栄子《こいけえいこ》クラスじゃない。胸でものを考えられるなら、あんた、学年トップだね」
「そうだよ。惜しいことした」
「でも、リレーの時とかいいよね。理穂ちゃん、胸の差で一番だったじゃん」
「スウちゃん、あれは、あたしの足の速さ。競馬じゃあるまいし、胸の差で勝ったなんて、言わないでよ」
「理穂、教えてあげるけど、競馬は鼻の差っていうの。馬に胸の差なんてないでしょ」
「そりゃそうだ。馬がブラ着けて走ってたら、変よね」
「ねえねえ、馬ってオッパイいくつあるのかな? やっぱ、形とかサイズとかあるのかな?」
スウちゃんが真顔で、自分の胸を押さえるものだから、また大笑いできた。
つまらない話題だ。軽薄で意味のない会話だ。あたしたちのおしゃべりを聞いて、大人は、たいてい、眉をひそめる。でも笑えるのだ。つまらなくとも、軽薄でも、笑える。笑って、息をついて、そこから、あたしたちは動き出す。もし、誰かがあたしたちに笑うことを禁じたら、その誰かとあたしたちは、本気で闘うだろう。
そう思う。
五日間の学期末試験の日程をのりきった夜、美咲は、倒れた。高熱を出して病院に運びこまれたのだ。
試験が終われば、終業式まで補習がある。うちの学校でさえ、普通科は一応進学を視野に入れて補習をするのだ。
「美咲ちゃんのお見舞い、行く?」
補習の一日目、スウちゃんから英語のノートを借りた時、尋ねられた。
「まさか」
と、答えた。
「行かないの?」
「行かないよ」
スウちゃんの目が、瞬《またた》く。意外だという表情だった。
「行かないの?」
ノートを返した時、また聞かれた。
「行かないよ」
「どうして? あんなに仲がいいのに」
あたしは、肩をすくめて黙っていた。説明するのは面倒くさかった。
お見舞いなんて行ったら、美咲に笑われる。花とかお菓子なんて持っていったら爆笑ものかもしれない。入院なんて、美咲にしたら定例行事みたいなものだ。騒ぐほどのことじゃない。
小学六年生の時、風邪をこじらせて入院した美咲を見舞ったことがある。本意ではなかった。師岡さんの入院が長引いているので、お見舞いに行きましょうと、学級会で決まったのだ。みんなの書いた手紙とみんなで折った千羽鶴と花束を持って、先生と学級委員の友迫《ともさこ》さんと一緒に、のこのこ病室に出向いた。あたしの肩書きは、友人代表。
「幼稚園の頃から、ずっと一緒なんだもの。理穂ちゃんと美咲ちゃんは、親友だよね」
というのが選出理由だった。今のあたしなら、一蹴《いつしゆう》する。親友なんて、しらじらしくも美しい言葉を美咲にだけは、使いたくない。でも、当時、あたしは十二歳で、十二歳のあたしは、親友を見舞う優しい子の役を蹴っ飛ばすことができなかったのだ。
妙に白っぽい病室の真っ白なベッドに美咲は、横たわっていた。黄色い点滴の液が、チューブを伝い血管の中に落ちていく。十二歳の美咲は、茶パツのショートではなく、黒い長い髪をしていた。髪の黒さと唇の紅さが、顔の青白さを引き立て、ベッドの少女は周りの白さの中に今にも消えてしまいそうなほど、儚《はかな》げだった。
腕には、注射の痕《あと》がいくつも、赤黒い不定形な文様《もんよう》を作っていた。
「師岡さん、早く、元気になってね……」
みんな待っているからとお見舞いの言葉を続けられなくて、友迫さんが泣き出した。
「師岡さん、かわいそう」
嫌な予感がした。ひどく落ち着かない気分だった。
こんなになって、痛いでしょと、友迫さんはしゃくり上げ、先生も少し涙ぐみながら、その頭をなで、美咲のお母さんは、
「ありがとう。優しいのね。でも、もう少しの辛抱なの。二学期からは、学校に通えるから仲よくしてやってね」
と、エプロンで目頭をぬぐった。あたしは黙っていた。美咲は、目を閉じて動かない。指先だけが、シーツを握りこんでいた。
涙やら、思いやりの言葉やら、お見舞いの品やら、お礼の挨拶やらが、清潔な白い病室の中を行き来し、それが一段落し、わたしたちは辞することになった。
「理穂ちゃん」
急ぎ足で病室を出ようとした時、美咲は目を開け、弱々しい声であたしの名前を呼んだ。ちゃんづけで呼んだ。嫌な予感は確信に変わり、あたしは、覚悟を決めた。
「もう少し……います」
そう、師岡さんを疲れさせないようにね。理穂ちゃん、あとでおばさんが、お家《うち》まで送って行くわ。師岡さん、さよなら。ほんとに、待ってるからがんばってね。じゃ、そこまでお見送りします。いえ、もう、よろしいですよ。先生、出席日数のことで……。
頭の上や体の横を、言葉は漂《ただよ》い、消えていく。みんな出ていく。閉まる寸前のドアの向こうで、友迫さんが目を赤くして微笑み、手を振った。
最悪な展開だ。あたしは悟《さと》り、もう一度覚悟を決め、美咲のベッドまで大股で近づいた。美咲が起き上がる。
「理穂」
美咲は、あたしに構えるヒマを与えなかった。バシッと頬が鳴る。鋭い痛みが走る。よろめかないように、足を踏ん張るのが精一杯だった。
「よくも、こんな恥ずかしいこと、してくれたね」
息を荒くして、美咲がにらむ。点滴のチューブが揺れた。
「理穂、あんた、最低!」
「わかってる」
「わかってない」
「わかってる!」
わかっている。これは屈辱だ。美咲にとって、安易な同情ほど屈辱的なものは、ない。千羽鶴の束が、ベッドの下に滑り落ちる。
千羽鶴はいい。お見舞いの手紙も花束もいい。でも、友迫さんの涙だけは、まずかった。自分が、かわいそうな少女にされてしまったことに、美咲は蒼白になって怒《いか》っている。怒りながら、耐えていた。
「何よ、なんで、あたしが泣かれなくちゃいけないのよ。あんなふうに……」
美咲の目から涙がこぼれた。噛みしめた唇から、うめきが漏れた。
悔しい、悔しい、ちくしょう。
他人に対し、かわいそうと泣くことに、人はもう少し慎重でなければならないのだろう。助力できるなら、救えるのなら、最後まで支え続ける覚悟があるのなら、泣けばいい。友迫さんの涙は、無責任だった。勝手に泣いて、かわいそうがって、自分の気持ちだけ浄化して、微笑んでサヨナラなんて、あまりに無責任だ。無責任な覚悟のない優しさは、ただの憐れみにすぎない。あたしが美咲から学んだことだった。
憐れまれて、たまるもんか。
シーツの上で、美咲の涙がシミになる。
「わかってる」
あたしは、呟いた。あたしも美咲を侮辱した。優しい親友の役を拒否できなくて、のこのこついてきた。最低だ。わかっている。
スリッパの音がする。おばさんが帰ってきたのだ。あたしは、台の上の洗面器から、タオルをつかんだ。しっとり、濡れている。
「美咲、これ、きれい?」
「そうだけど、何を?」
美咲をベッドに押し倒す。顔にタオルをかぶせ、拭く。骨の手ごたえしかない肩を押さえ、力をこめて拭く。拭けば、少しは涙の跡が隠せるだろう。美咲の泣き顔を誰にも見せたくなかった。たとえ、親にでもだ。
タオルを放り投げ、ドアを開けたおばさんの横をすり抜けて、あたしは、曇り空の下を家まで走った。一度も、立ち止まらなかった。
スウちゃんが、友迫さんのような真似をするとは思わない。かわいそうなんて台詞を露骨に口にするほど、あたしたちは、もう幼くないはずだ。でも、お見舞いになんか行かない。
「それより、明日、お祭りじゃん。スウちゃんどうすんの?」
「あたし……ケイくんと……」
「あっ、そうか。おバカな質問でした。いいなー、浴衣《ゆかた》着て、カレシと夏祭りか」
「なんか、いかにも定番って感じだよね」
「贅沢言わないの。くそーうらやましいぜ」
スウちゃんは、何か言いたそうに口を動かしたけれど、こくりと息をのみこんだだけで、黙った。夏に祭りに浴衣にカレシ、楽しさ満載の話題をふったのに、浮かない顔つきだった。
ケイくんと何かあったのかもしれない。あたしも黙って、机の中にノートを突っこんだ。
言いたければ言うだろう。言いたくないなら訊かない。口ごもってのみこんだ言葉をどうするかは、スウちゃん次第だった。あたしは耳を持っているから、聞くことぐらいはできる。小さなピアスを二つつけた耳たぶに、そっと触ってみた。耳たぶには自信がある。小ぶりで形がいいので、金のピアスがよく似合うのだ。
「なんかさ、嫌なこと多いんだよね」
スウちゃんが、眉を寄せて息を吐く。拳を作って肩を叩いたりする。頬のふくらんだ丸い顔は、そんな仕草《しぐさ》をするとすごく老けて見える。二十歳を過ぎたおばさんみたいだ。
「嫌なこと?」
「うん」
「例えば?」
「その一、また太っちゃって、この夏の水着はやばい」
「うーん、それはまぁ努力次第で解決。まだ間に合う」
「その二、仕事がうまくいかないから、親の機嫌が最悪。ぴりぴりして、ケンカばっかやってる」
「うっ、かなり、きついね」
「その三、家がそんなだから、お小遣いがもらえない。テスト中でバイトもできなかったから、今月、サイフは大ピンチ」
「うわっ、来た来た来た」
「その四、昨日、駅でボケッとしてたら、知らないおっさんが声かけてきてさ……『いくら?』だって」
「何、それ」
「背広着たフツーのおじさんだよ。ほんと、そんな嫌らしい感じじゃなくて、ちょうフツー。そんな人が、真っ昼間から『いくら?』だって。頭来るより怖かった。男って、何? やることしか頭にないわけ?」
「それは、男に聞いてみないとね」
「その五……」
スウちゃんは言いよどみ、目を伏せた。
「ケイくんが、おかしいの」
「おかしいって?」
スウちゃんがブラウスの袖《そで》をまくり上げ、二の腕をさらした。スウちゃんの肌は白くてきめが細かい。餅肌《もちはだ》ってやつだ。そこに、赤黒いアザができていた。
「昨日ね、ケイくんにそのおじさんの話したの。気持ち悪くてすごく嫌な気分だったから、聞いてもらったらすっとするから……そしたら、急に、拳《こぶし》で……」
「殴《なぐ》ったの?」
「うん……ここと頭。おまえが、売りふうに見えたんだって」
「むちゃくちゃじゃん」
驚きと怒りとで、あたしは、勢いよく立ち上がっていた。
「それでスウちゃん、どうしたのよ?」
「びっくりして、カバン抱えて、逃げた」
「抱える前にカバンで、ぶっ叩いてやればよかったのに」
「だって英語の辞書が入ってたんだもの。そんなので、ぶっ叩いたら、かなり痛いよ」
さすが、学年トップだ。辞書の入ったカバンなんて、あたしは持ったことがない。
「でさ、あとでメールで、謝《あやま》んの。悪かったって、なんかね」
スウちゃんが泣き笑いの表情になる。その表情のまま黙りこむ。
「気味|悪《わり》ぃよ、そんなの」
あたしは、自分の腕をそっとなでた。気味が悪い。女子高校生に『いくら?』と声をかけてくる男も、カノジョを殴る男も気味が悪い。鳥肌が立っていた。
「ケイくん、イラついてんだ。この頃、ずっと……ガッコやめたいとか言うし……」
「イラついたら、カノジョ殴っていいわけ。最低じゃん、そんなの。わけわかんないよ」
「最低か……」
ふいに、スウちゃんの顔から表情が消える。平べったい、何の感情もない顔になる。唇だけが、ひくりと動く。
|くるり《ヽヽヽ》だ。反転。あの怖いドラマに出てきた戸板のように、反転したスウちゃんは、あたしの見知らぬ人になる。
「うちのオヤジもやるんだよね」
「は?」
「オヤジ。殴るんだよ」
「スウちゃんを?」
「お母さん。ちょっとしたことで、顔が腫《は》れ上がるぐらい殴んの。オヤジは、あとで謝ったりもしない。まだ、ケイくんのほうがましだよ」
「比べる問題じゃないでしょ」
「そうだけど……」
スウちゃんは、カバンの中からトマトを二つ取り出した。一つ、手渡される。内側から赤く発光しているような実は、ずしりと手ごたえがあった。今朝、ハウスの栽培実習に来たケイくんからもらったのだという。夏野菜の収穫期なのだ。
「けっこう、嬉しそうに水|撒《ま》いたりしてね。今年は、すごく野菜のデキがいいって笑うんだよ」
ケイくんは、くしゃんと笑う。かわいい笑顔ができる人だ。あたしは、トマトの果肉に歯を立てた。確かな歯ごたえと瑞々《みずみず》しい甘さとすっぱさ。なるほど、新鮮とはこういうことなのだと改めて納得する。美味しい。こんな美味しいトマトが作れて、あんなふうに笑う人が、殴る? あたしの心を見透かしたように、スウちゃんが呟いた。
「オヤジもそうなんだよね。一生懸命仕事して、むちゃくちゃ優しい時もあるんだ。それなのに、殴るんだよね」
どう答えていいかわからないから、黙っていた。スウちゃんの手のひらは、壊れものをあつかうみたいに、トマトを柔らかく包んでいる。あたしの慰めや励ましや、そんなものが欲しくて、スウちゃんは、ぼそぼそしゃべったんじゃないだろう。金のピアスを光らせながら、あたしは無言でトマトをかじる。
「マジ、痩せよう」
スウちゃんの背中が、くっと伸びた。
「できることから、やってみようっと。八月までに二キロ減」
「二キロは、ちょっと厳しくない?」
「やる」
「スウちゃんの場合、ダイエットより部分痩せだよ。腹筋|鍛《きた》えたら、お腹《なか》周りがすっきりする」
「だよね。ぷにぷにお腹よ、さようならの夏だ」
「じゃ、本気で海に行こうよ」
「八月に?」
「うん」
「すごく行きたいけど。八月に水着ってのは……ビミョーに勇気いるなぁ」
「そのビミョーなのが大切。目標があったほうが絶対いいよ。クリスマスに水着着るわけにはいかないんだからさ。がんばれ」
「がんばる。お腹引っこめる。水着着る。海に行く。美咲ちゃんも行けるよね」
「ダメだったら置いていく」
「クールだね、理穂ちゃん」
「あんたがかわいそうだから、海に行かなかったなんて言うと、美咲にぶっとばされる」
「確かに。ふざけんなって、右ストレートが来るね」
「いやいや、一撃めは、強烈なアッパーカットだと思いますね」
下から突き上げるあたしの拳を片手で受け止め、スウちゃんが笑う。見慣れた、いつものスウちゃんだった。
乾いた音が遠くに聞こえる。花火の空砲の音だ。夏祭りを告げる音だ。小さい頃は、あの音を聞くたびにわくわくした。城下町の例に漏れず、この街の祭りも古い歴史を持つ。秋祭りのように、神輿《みこし》もだんじりもないけれど、夜空に花火が咲く。花火は好きだ。色とりどりの光を空にぶちまけて咲く、あの一瞬がいい。消えたあと、しんと静まり、いつもより黒く広く感じる空がいい。好きだ。今でも、わくわくする。拓郎と別れ、独り身のあたしは、『彼氏と一緒に過ごす浴衣です。夏の夜』てわけには、いかないけれど、やっぱりわくわくする。
今夜七時、如月をタコヤキ一パックとイカの串焼きで買収して、迎えにくるように手配してある。如月は、かなりしぶった。
「理穂と祭り行ってもなぁ」
と、言うのである。
「じゃ、誰と行くのよ。美咲は入院中よ」
入院していなくても美咲は、祭りの夜、浴衣を着て男と歩くようなマネはしない。
「いや……おれ的には、家で、テレビ見てようかと」
「如月! 睦月が、甲子園目指してがんばってる時に、弟のあんたが、のべのべテレビ見てたりしていいの?」
「のべのべって何語だよ。睦月を引っ張り出すなよな。おまえと祭りデートするより、テレビで睦月の試合の結果を確認してるほうが、まだ弟っぽくねぇ?」
睦月の高校は、順調に勝っているらしい。今月の終わりには、甲子園出場校が決まる。
「理穂」
「何よ」
「決勝戦ぐらいさ、観に行って、睦月の応援してやろうとか思わねぇか」
「うーん、野球ってルールとかさっぱりだし、暑いし、日に焼けるし、高校野球っていかにも青春って感じで、ちょっと恥ずかしいし……」
如月が、鼻に皺を寄せて横を向く。
「はぁ、睦月もえらい女に惚れちゃったな。しみじみ、かわいそうな男だ」
如月は、しみじみそう言って、溜め息をついた。それでもタコヤキとイカの串焼きに、あっさり釣り上げられ、迎えの騎士の役を引き受けた。
光のある空に響く音を楽しみながら、公園を通り抜ける。夏の昼下がり、人影はない。白い地面に、くっきりと影が伸びる。ここでも気の早い蝉が声を張り上げている。
ふいに、腕をつかまれた。悲鳴を上げようとしたけれど、口が開いただけで声が出ない。カバンを振り回す。手ごたえがあった。
「いてぇ」
真央《まお》が、頭を抱えてうずくまっている。白の半袖シャツに学生服の黒ズボン。中学校の制服だ。
「真央、あんた何やってんの。いくら飢えてるからって、姉貴を襲わないでよ」
「誰が襲うか。理穂を襲うぐらいなら、染子《そめこ》と寝る」
真央は立ち上がり、膝のあたりをはらった。今年十五歳になる弟は、百五十八センチの姉より、頭一つは、ゆうに高い。染子というのは、うちの飼い犬の名前だ。メスで雑種で年寄りだった。
「あんたが年上好みだとは思わなかったわ」
「理穂が、ここまで強いとは思わなかった。チカンの心配なしだね」
「声もかけずに、女の腕をつかむようなこと、しないの。確実、チカン行為で引っ張られるよ」
「引っ張るやつが、来てんだよ」
真央が、南の方向にあごをしゃくる。我が家の方向だった。
「何が来てるって?」
「警察」
サツキの植えこみの傍に腰を下ろし、真央は前髪をかき上げる。落ち着かない時のくせだった。
「警察って……あたし、何もしてないよ」
「理穂、黒目がうろうろしたぞ。心当たり、あるでしょ」
「ないよ……あっ、この前、自転車の三ケツしたけど……」
真央が指を鳴らす。
「それだ。自転車の三人のりは、りっぱな道路交通法違反だ」
「マジ? やだ、罰金もの?」
真央が、笑う。鼻筋が通って唇の形がいい。顔立ちが整っているので、実年齢よりかなり、大人びて見える。よく言えばだ。悪く言うと、雰囲気が暗い。これはあたしの持論だけど、なまじ顔の整った男は、よっぽどアホじゃないと暗く見える。
「理穂じゃないよ、おれ」
「あんた? なんで?」
真央の細い指が、何度も前髪をかき上げる。
「ネコらしいよ」
「ネコ?」
思い当たった。
「例のネコ惨殺《ざんさつ》事件」
「そうそう」
あたしは、まじまじと弟の顔を見つめた。舌をだらりとはみ出し、血の泡を吹いたネコがその上に重なる。重なっただけで、消えていく。何にも結びつかない。
「真央さん、あたしにも、よっくわかるように説明してもらえます?」
「理穂さん、こういう時は目の玉をくるくる回して、口を押さえて、あとずさりしながら『あんたが犯人なの』って叫ぶもんですよ」
あたしは、黒目を動かし、手で口を覆って、
「あんたが犯人なの」
と、言ってみた。そんなこと、あるわけはなかった。真央に動物は殺せない。よくやって、蚊《か》、蠅《はえ》、なめくじまでだ。獣医になるのが目標で、来年、リョッコウの数学科を受験するらしい。頭の中も整っているのだ。我が弟ながら逸材である。
「おれ……ネコなんか殺せねえよ」
グッドタイミングで、ニャアと声がした。サツキの茂みから、薄汚れたネコが顔を出す。
「りほ、来たか」
「あたしが、どうしたって?」
「いや、このネコ。りほって呼んでんだけど」
「野良に姉貴の名前なんかつけないでよ。あんた、シスコン?」
「かなり。けど、こいつのせいなんだ。警察」
ネコは、あたしを警戒しながら、真央の足に体をすり寄せている。茶色の縞ネコで、あたしの髪の毛から『りほ』と名づけたらしい。我が弟ながら単純な発想をする。
「こいつ野良でさ、首んとこケガして、にゃあにゃあ鳴いてたんだよな」
「それで、ここで、ずっと餌やってたわけだ」
「うん。染子、ネコアレルギーだから家に連れて帰れないし、コンビニでネコ缶買って、二日に一度、餌やってた」
染子は、子犬の時、近所のボスネコに耳をかじられ鼻先をひっかかれた。陽だまりで昼寝をしていたボスに果敢に挑戦して、簡単にひねられたというわけだ。それ以来、子ネコがにゃあと鳴いても、震え上がる。
「野良ネコに餌をやるのは、いろいろ問題があるって聞いたけど……警察沙汰になるようなこと?」
「ネコに餌やって捕まるんだったら、自転車三ケツなんて、禁固刑だぜ」
真央は、通学用のデイパックから、マグロの缶詰めを取り出して、りほの前に置いた。りほが、がっつく。あたしと同名なら、もう少しお行儀に気を配ってほしいものだ。
「こうやって、餌やってるの誰かに見られたらしくて、しかも何度も。それで、通報されたらしいよ。ちょっとおかしな中学生がいる。ネコを殺してる犯人じゃないかって」
「ウッソ、誰よ、そのとぼけたやつ」
「わかんない。おれ、今日早引けして勝手口から帰ったんだけど、ちょうど警察が来て、おふくろと話してるの聞こえて……別に、おれのこと特に怪しんでるわけじゃなくて、続けてネコが殺されるものだから、みんな、ぴりぴりして、けっこうチクリ電話あるってさ。無視するわけにはいかないから、一応、調べてるとか言ってたけど、どーだかな」
「どーだかなって、音を伸ばしてる場合じゃないでしょ。ちょっとおかしな中学生って何よ、どっから見たっておかしくない中学生じゃない。あんたが、おかしいなら、如月なんてどうすんのよ。変態の極《きわ》みの高校生じゃない」
「理穂、如月さんはこの際、関係ないから。あのさ、おかしいのは、格好じゃなくて、時間」
「時間?」
「そっ、おれ、この頃、あんまし学校行ってないっしょ。今日も早引けしちゃったし……」
真央が、このところ学校を休みがちなのは知っている。金魚が水面で口をパクパクさせている状態だろう。酸素が足らないのだ。だいたい、中学校なんて、慢性酸素不足の危険地帯なのである。
命令、規律、集団、秩序なんて、時代遅れの二文字がけっこうな勢いで闊歩《かつぽ》している。自由、快楽、個人なんて言葉は、かなり劣勢だ。それでも、あたしたちは楽しかった。三年間、担任が大当たりだったのだ。一年生の担任の瀬尾貴恵《せおたかえ》先生は、ひょろりと背が高く、「背が高え先生」と呼ばれるたび、恥ずかしそうに笑ったりしていた。読書が趣味で、中学生のあたしたちに毎日、読み聞かせをするような人だった。おかげで、あたしは、この時期かなりの数の本を読んだ。ミステリーが中心で、文学全集とは縁のない読書傾向だったけれど、今でもちょっぴり、本は好きだ。
二、三年生の担任の菅野《すがの》先生、通称スガリンは、体育会系のごっついおっさんだったけど、間が抜けてるというか、いいかげんというか、おもしろいキャラだった。「まっ、いいか」が口癖なのに、あたしたちを相手に本気で笑ったり、怒ったり、泣いたりできるのだ。卒業式の日のスガリンの大号泣は、あたしたちの中に伝説として語り継がれるだろう。
エアーポンプのような担任のおかげで、あたしたちは、わりと楽に息ができた。でも、真央には、そんな運がなかったらしい。三年になって、休みが目立ち始めた頃、担任だという神経質そうな男が母さん相手に、
「吉村くんは、優秀ですから、多少休んでも授業についていけないなんてことはありません。その点は心配ないですが、どこか、塾に通ってますか?」
などと、のたまっていた。エアーポンプどころか、水槽の飾りにもならないというタイプだ。
真央の指が、りほの汚い喉をなでる。
「フツー、学校に行ってる時間に公園でネコに餌をやってる中学生って、おかしいのかも……おかしいっていうか、ネコ事件の今、不気味なのかもなぁ。それに、おれ、人と話すのって苦手だから、下向いて歩くし、よけいに得体《えたい》の知れないやつみたいに思われるんじゃないの」
真央は、淡々と語る。この子には、そういう癖があった。自分のことをまるで他人事《ひとごと》のように話す。分析して、説明する。冷静と言えば冷静、知的と言えば知的なのかもしれない。感情に溺れず、おのれを客観視するなんて離《はな》れ業《わざ》、あたしの周りでやれるのは、真央だけだ。あたしは、自分の弟の冷静で知的なところが、嫌いだった。
他人のことなど、どうでもいい。でも、自分のことなら本気になれ。もっと固執しろ。そう怒鳴りたくなる。学校に行かなくて、ネコに餌をやっていただけで、疑われる。密告される。そのことを平静を装って語るな。あたしは、腹が立つ。
真央が生まれた時、あたしは、二歳だった。まだ二歳だったけれど、ふわふわしたミルクの匂いのする赤ん坊が、ものすごく愛《いと》しかった。こんなきれいな子のお姉ちゃんなんだと誇らしかった。十五年たって、姉より頭一つ分背が高くなった弟は、ミルクの匂いもしないし、ふわふわと可愛くもない。でも、やっぱり、愛しい。好きだ。だから、腹が立つ。
「どこ行くの?」
勢いよく立ち上がったあたしを真央が見上げる。りほは、あわててサツキの茂みに逃げこんだ。
「帰る」
「まだ、いるかもしれねえよ」
「いたら、どうだっていうのよ。自分の家に帰るのに、警察の許しがいるわけ。そんなに、えらいわけ?」
「理穂、何|怒《おこ》ってんだよ」
「あんたは、なんで怒ってないのよ」
「怒ったってしょうがねえだろう」
あたしは振り向き、真央をにらんだ。美咲なら、頬を力いっぱいぶっ叩いただろう。あたしは、美咲ほど暴力的ではないので、にらむだけで我慢した。
「たかだか十五のガキが、しょうがねえなんて、えらそうなことぬかすな」
興奮すると、つい言葉遣いが乱暴になる。声がもともと低いので、かなりの迫力らしい。理穂、頼むから落ち着け。おまえは、自分の怖さを自覚しろ。そのまま極妻《ごくつま》映画の主役が張れるぞと、如月から何度も勧告を受けている。怒っているのだ。怖くて上等じゃないか。
あたしは、大股で、公園を横切り我が家に向かう。
「姉ちゃん」
真央が、横に並んだ。
「おれ、ネコなんて殺してないよ」
「当たり前でしょ、ばか」
「うん」
なぜか真央は笑い、首を倒すようにしてうなずいた。
家の前に立った時、計ったように、玄関のドアが開いた。小太りで、髪の毛がかなり寂しい感じの男が出て来た。にこにこ笑いながら、家の中に向かっておじぎをしている。セールスマンのように見えた。男は、後ろにいたあたしたちに、すぐに気がつき、引っこめようとした笑顔をもう一度、巻き戻した。
「きみたちは、吉村さんのとこの?」
「娘と息子です」
「そうか、あっ、じゃあ、そっちが真央くん?」
真央が、黙って頭を下げる。男の視線をさえぎるつもりで、あたしは、真央の前に立った。
「真央は、やってませんから」
「は?」
「誰がどんな電話をしたか知りませんけど、真央は、ネコに餌をやっていただけですから。変ないいがかりつけないでください」
男の黒目が、くるんと動く。ひどく愛嬌《あいきよう》のある顔だ。
「あっ……いやいや、そんなんじゃないんだ。まいったなぁ。聞かれてたのか……いや、ほら、このネコの件については、住民のみなさんが、けっこう不安なようでね、うちの署にも毎日のように、いろんな電話が来るんだ。まぁ、それを無視するわけにはいかないから、仕方なくね……これも仕事なんでね」
愛嬌のある顔をほころばせて、男は快調にしゃべる。あたしの中の怒りは、固まり縮《ちぢ》んでいく。
「不愉快だったら謝るよ。ただ、真央くん」
「はい」
「きみ、あんまり学校行ってないみたいだけど……」
「警察の仕事って、そんなことまで調べるんですか」
あたしは男の前に立ったまま、胸を張った。
「いや、ぼくは少年課にいたもんで、そういうこともちょっと気になるんだよ。やはり、みんなが学校に行っている時間にふらふらするのは、よくない。気をつけなさい」
男は、あたしに笑いかけ、真央の肩に手を置いて、去っていった。家の前に、白い乗用車が停まっていた。パンダみたいな白黒のパトカーではない。ちょっと古い型の、ごく普通の車だ。その助手席にのりこむ。
車にのりこんだ瞬間、男の横顔から笑みが消えた。前を見据える目が、きつくなる。あたしは、肩をすくめてみせた。真央を促して、家の中に入る。玄関には、甘ったるい香りが充満していた。ニナ・リッチの香水だ。
「うわっ、母さん、玄関中に香水、撒き散らしたのね」
真央が鼻の前で手を振った。小さなクシャミをする。
「かなり、頭にきてるってことだよな」
「まったく、フツー塩撒くんじゃないの。ニナ・リッチなんて、もったいなさすぎ」
警察の男は無臭だった。整髪料の匂いも体臭もなかった。少なくとも、あたしの嗅覚には、引っかかってこなかった。母は、ニナ・リッチの香りで、男の存在自体を消したかったのかもしれない。
あたしは、わざと大きな音を立てて、ダイニングのドアを開けた。
「おかえり」
アンパンを口にくわえた母が、あたしをじろりとにらんだ。
「言っとくけど、八つ当たりしないでよ。警察のおっさんの件については、あたしも真央も無実なんだから」
先手必勝である。
「わかってるわよ、それぐらい」
母は、あたし目がけて、チョコレートドーナツを袋ごと投げてきた。片手で受けとめる。
「理穂、なかなか、腕を上げたじゃない」
「まあね」
あたしは、真央にドーナツを渡し、冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出した。なみなみとついで、母に渡す。
「いい子ね」
母は、後ろで束《たば》ねたセミロングの髪をかすかに振った。あたしの母は美人である。和風のこぢんまりした顔だけど、一つ一つのパーツの完成度が高い。派手な造りでない分、老《ふ》けが目立たなくて、あたしといるとときどき、姉妹にまちがえられる。城下の総菜屋《そうざいや》の娘だった母に、一目惚れした父は、北海道出身にもかかわらず、この県の教員採用試験を受けて、合格し、地元の高校に就職し、毎日、総菜屋『しろした』に通いつめたという。
「小野小町《おののこまち》に恋した深草の少将《しようしよう》の気分だったな」
父は、時折、しみじみと若い日の情熱を振り返ったりする。父の専門は、鈴ちゃんと同じ古典なのだ。あたしは、古典の成績も知識も、さっぱりである。なにしろ、この前まで「枕草子《まくらのそうし》」は、「まくら くさこ」という人名だと信じていたぐらいだ。でも、父と母の恋物語のおかげで、小野小町に恋|焦《こ》がれて百夜《ももよ》通ったにもかかわらずふられ、落胆のあまり死んだという深草の少将の伝説や、小町の『うたたねに 恋しき人を 見てしより 夢てふものは 頼み初《そ》めてき』などの美しい歌は知っている。
真央は、母に似て生まれた。
「まったく、悔しいったらないわ」
母は、麦茶のカップをわしづかみにすると、一気に飲みほした。威勢はいいが、麦茶では、さまにならない。
「いい飲みっぷりだね、理沙《りさ》さん、もう一杯いくかい」
ボトルをさし出す。理沙子というのが、母の名前だ。父は、いまだに、理沙さんと、妻を呼ぶ。
「まったく、ほんとに悔しい。ひとの息子を犯人呼ばわりして。どこのどいつよ、言いたいことがあるなら、ちゃんと言ってこいって。卑怯者。豚の角煮《かくに》より劣るやつだ。そう思わない、理穂」
「母さん、豚の角煮って、低脂肪だし美味しいしコラーゲンいっぱいだし、優れものなんだよ。こんな時に、引き合いに出したら、豚の角煮に悪いよ」
「そうだよね」
「謝んなよ」
「誰に?」
「豚の角煮に」
あたしのつまらない冗談に、母は笑い、角煮さんごめんなさいと頭を下げた。目が赤い。悔しくて、アンパンをかじりながら、泣いたらしい。母親というのは、子どもという自分以外の者のために、本気で悔し泣きができる種族だ。時に、命をかけて守ろうともする。
「基本的に、母親ってすごいのよ」
と、美咲が言ったことがある。
「赤ん坊って、普通、三百キロとかあるじゃん。そんなのを産むんだよ。あんなちっちゃいとこからさ、産むんだもの。ちょっとすごくない?」
「美咲、キロじゃないでしょ。ゴジラの赤ん坊じゃないんだから。グラムだよ。三百グラム」
「理穂ちゃん、三百グラムって小さすぎ。牛肉買ってるんじゃないんだから。三千グラムだよ」
スウちゃんが訂正してくれる。
美咲は、わずかに白けた口調になって続けた。
「すごいけどね、やっぱ、うざいよね。いいかげん、ほっといてくれって感じ。あたしは、あんたの持ち物じゃないよってね」
尽きることのない愛情と所有欲は、お手軽なセットになるらしい。愛してる、愛してる、愛してる。だから、おまえは、わたしのもの。男と女の間なら、百夜通いつめる執着も愛の物語になるけれど、親子では、そうはいかない。自分に献身することを生きがいにしている母親を、美咲は疎《うと》ましがり、重荷に感じ、愛してもいる。
母は、真央に何も言わなかった。この二人は、なぜか、ぎくしゃくと相手に対する。自分を開け広げられない。あたしといると、愉快で奔放で可愛らしい母が、真央には、妙に神経質に気をつかう。
真央もまた、母の視線や想いをそらし、かたくなに黙ってしまう。今も、何も言わず、ドーナツを持ったまま二階の自室へと引っこんでしまった。
「理穂……大丈夫よね」
「真央?」
「うん、まさかね、やってないよね」
「当たり前でしょ」
「だよね、だよね」
「しっかりしなよ。親にまで疑われたら真央、行き場がないじゃん」
「疑ってなんかいません。けど、あの年頃って、ほら、よく騒がれるでしょ。危ないとか得体が知れないとか、うちの子だけは大丈夫って思ったらダメだとか……真央って何も言わないし、学校のことについても、ほとんどしゃべらないし、よくわかんなくて。わかんないと不安じゃない」
母の美しい顔が、ゆがむ。歳《とし》相応の皺が口元によった。
「十四、五の男の子が、母親と楽しい会話なんてするわけないでしょ。べらべらしゃべってる男のほうがおかしいよ」
「けど、如月くんて、けっこうしゃべるみたいよ」
「如月は、特別。あんなのと比べたら真央がかわいそう」
「あら、あんた知らないの?」
母が瞬きして、にっと笑った。笑うと若い。この人も、笑って生きたほうがいい。笑顔が似合うのだ。
「真央って、如月くんのこと憧れてるみたいよ」
「は? 睦月のまちがいでしょ」
「如月くんのほう。本人が言ってたもの。いつだったか忘れたけど、如月さん、憧れだなぁって。絶対、そう言った」
「アンビリーバボー。真央、一度、病院に連れていったほうがいいよ。やばいよ、それ」
冗談めかして笑ったけれど、如月に憧れるという真央の真意は、理解できる気がした。睦月ではなく、如月なのだ。真央にも睦月にもないものを、如月は持っている。それが何か、説明できない。よく解らない。優しさとか勤勉さとか才能とか学力とか容姿とか、世間がもてはやすものじゃなく、真央が手に入れたいと望むものを持っている。それだけは感じる。でも、あたしはいらない。もっと違うものがほしい。くっきり二重《ふたえ》もダマにならないマスカラも香水もほしいけれど、何より、如月も美咲も真央も持っていない、求めもしないあたしだけの何かが、ほしい。いつか、手に入れたい。
その如月が、我が家に来た時、時計はとっくに七時を過ぎていた。
あたしは、大いにむくれている。当たり前だ。準備は、一時間も前から整っていたのだ。今年は、和裁の専門学校を出ている母が、浴衣を縫ってくれた。淡いピンク地になでしこの花が散っている。帯は白。小さなウサギが跳ねている模様だ。黄色い鼻緒《はなお》の下駄《げた》まで新調してもらった。三十分かけて、髪を外ハネヘアにして、飾りピンをつけた。
「理穂、おまえ」と言ったきり、父は絶句し、「きれいだなぁ」と、しばらくして呟いた。父は感情表現が素直なのだ。あたしも素直に嬉しい。ピンクの浴衣姿のあたしを、きれいだなと思えた。なのに、騎士の遅刻である。
「悪《わり》ぃ。テレビ見てたら、いつの間にか寝てた」
「緊張感がない。ときめきがない。だらしがない」
「理穂と祭りに行くのに、なんで、ときめかなくちゃいけねえんだよ」
「あんた、この浴衣姿見てもときめかないわけ。女に興味がないの」
「ばりばりあります。ありすぎて、やばいくらいです。この前なんか、テニス部の女子更衣室を盗み撮りする中年のおれってバージョンの夢、見ちまったよ」
「あほくさ。なんて、くだらない夢を見るのよ」
「つまりだ。如月くんの女の範疇《はんちゆう》に、理穂は入ってないんだ」
父が、あけすけに言う。ほんと、素直な人だ。如月は、にこにこしながら、
「理穂とは親友ですから」
などと、答えている。
「なるほど、親友に性的興奮は覚えないからな」
「そうそう。理穂なら、目の前で素っ裸で踊ってても、おれ、全然、感じないと思います」
「うーん、父親としては、複雑な心境だが……まっ、友情というのは、尊い。それに、男と女の間に友情が成り立つのは稀有《けう》なことだ。如月くん、がんばりなさい」
「はい」
父は、完璧、教員口調になっている。あたしは、如月の耳を引っ張った。
「行くわよ」
「イテ、ますます力持ちになったな、理穂。あっ、真央、おまえも行こうぜ」
二階から降りてきた真央に、如月が声をかける。真央は、帰ってから、ずっと部屋に閉じこもっていた。夕食も食べてないはずだ。
「祭りに……ですか」
真央が逡巡《しゆんじゆん》したのは、ほんの一瞬だった。
「行きます」
そう答え、如月にうなずいてみせた。あたしと母は、顔を見合わせる。
真央は、人込みが嫌いだ。群集を生理的に受けつけない。小さい頃から、そうだった。幼稚園のお遊戯《ゆうぎ》会も小学校の運動会も、真央にとっては、苦痛以外の何物でもなかった。同じ制服を着て、同じ行動様式を強《し》いられる中学校で、酸欠状態になるのは、当たり前だ。だから、今、あたしも母も驚いたのだ。人でごったがえす夏祭りに、真央が自分の意志で出かけたことは、一度もない。
「じゃ、行こうぜ」
如月が、下手くそな口笛を吹く。母が、美しく微笑んだ。
完全に暮れきっていない空は、濃い紫で、西の山際《やまぎわ》は、まだほのかに明るかった。
浴衣は暑い。凪《な》いでいる時は、特にそうだ。あたしの夏の普段着はキャミソールと短パンという、きわめて省エネなファッションなので、全身を包む着物は、やはり暑い。それでも、時折、顔見知りのおじさん、おばさんが、「まぁ、理穂ちゃん、可愛い」とか「見違えた。すっかり娘さんだな」とか声をかけてくれるのは、なかなか心地よかった。そのたび、あたしは、にっこり笑い、金魚模様の団扇《うちわ》で口元を隠して、会釈《えしやく》する。
「なんか、今日の理穂は、ビミョーにぶりっこしてねぇ?」
後ろを歩いていた如月が、横に並んでいた真央に話しかけている。真央は応えて、忍《しの》びやかに笑い、
「姉貴は、自己愛の権化《ごんげ》だから」
などと、ほざいた。振り向き、二人をにらむ。
「外野、うるさい。黙ってついておいで。それから、真央、如月に自己愛だの権化だの、こ難《むずか》しい言葉、わかんないから」
「理穂、あんましバカにすんな。よーくわかります。おまえ、毎日、授業中だろうがかまわず、鏡のぞきこんでるだろうが。白雪姫の意地悪|継母《ままはは》みたいにさ。けっこう、自分にうっとりしてねぇ? まさに、キューキョクの自己愛女だなって、感心してました」
「ありがとう」
母の行きつけの美容院のおばさんが、あら、理穂ちゃんと目を細めて、手を振ってきた。
「見違えちゃった。なんか、しばらく会わないうちに、ずいぶんきれいになったね」
「あっ、そうですか。ありがとうございます」
半分お世辞かもしれない。社交辞令かもしれない。でも、半分は本音のはずだ。あたしは、ちらりと視線を流し、如月と真央を見る。
自分を愛して何が悪い。十七歳のあたしは、シミも皺もない、つややかな肌を持っている。どんな高級なファンデーションでもかなわない光沢があるのだ。淡いピンク地になでしこ柄の浴衣なんて、今じゃなければ似合わない。今のあたしだから、似合うのだ。薄く眉を描き、薄くリップを塗っただけの、ほとんどすっぴんのあたしを、なでしこの浴衣が華やかに演出する。それを愛して、何が悪い。
十七歳のあたしたちに、均等に与えられている今を、愛するのも憎むのも疎むのも受け入れるのも自由だ。睦月のように、目指し、励み、やがては到達する夢も目標もないけれど、あたしは無条件で今のあたしを受け入れ、愛している。
「まあな、理穂のいいとこだもんな」
如月が、いつの間に買ったのか、リンゴ飴《あめ》をなめながら、言った。真央まで、嬉しそうな顔をしてなめている。
「どこが?」
「自分を好きなとこ。そういうやつって、潰《つぶ》れないでしょ。失恋しても、めげなかったもんな、おまえ」
「こういうとこで、失恋の話なんかしないでよ」
「けど、フツー、落ちこむでしょ」
「落ちこんだわよ。髪まで、切ったんだから」
「いや、それは、単に髪型を変えたかっただけだろうが。けっこう、似合うとか言われて、きゃあきゃあ騒いでたじゃん」
「あんたみたいに、ガサツなやつには、乙女心なんてわかんないのよ」
「乙女だって」
吹き出したのは、真央だった。ほんとに、あたしの周りには、ろくな男が生息していない。
嘆くつもりで顔を上に向けた時、星が瞬き始めた空に花火が咲いた。一つ、二つ。九時から予定されている本格的な打ち上げの、前座みたいな花火だった。赤一色だけの火の花は、すぐに萎《しお》れて消えた。
「うぉっ、花火だ」
如月が口にリンゴ飴をくわえて、拍手する。つられたのか、沿道の人々の中からも、まばらな拍手がおこった。
「ちょっと、恥ずかしいでしょ。幼稚園児じゃあるまいし、このくらいで喜ばないの」
「なんで? せっかくの祭りだぜ。喜んだほうが勝ちじゃん」
「勝ち負けの問題じゃないって。如月は、タイガースが優勝したら、裸で道頓堀《どうとんぼり》にダイブするってタイプなの?」
「いや、せめて海パンぐらいは、穿《は》くな。おれ、行儀いいんだ」
「ふふん、自信がないだけでしょ」
「理穂、おまえな、見たこともないくせに、そーいういいかげんなこと言うな」
「嫌になるぐらい、見てます。何回も一緒にお風呂入ったし、裸で寝たことだって、いっぱいあるし」
「何年前の話してんだ。おれの成長ぶりを知らねえな。でかくなったのは、おまえの胸だけじゃねえんだぞ」
「まっ、口じゃ、どうとも言えるからね。どんな成長してるもんだか」
「あっ、何、試してみたいわけ? また、おれと裸で寝たいとか」
「絶対、嫌。あんたと寝るぐらいなら、一生、バージンで過ごす」
「おれだって、理穂とやるぐらいなら、真央のほうを選ぶ」
「ちょっと、うちの可愛い弟に手を出したら、許さないからね」
傍を行く人が、くすっと笑った。少し声が大きかったらしい。
真央は、耳たぶまで紅く染めて、立っていた。手に持ったリンゴ飴みたいな色だ。
「真央、如月の下劣なジョークなんかに、素直に反応しないの」
「いや……いい勝負だなと思って」
真央が頬を染めたまま、笑った。笑うとますます、母に似てくる。
巾着《きんちやく》の中で、携帯が鳴る。綾菜からのメールだった。お祭りで逢おうと約束していたのだ。
「『魚と一緒に待ってます。ただいま、バイト中』だって、魚と一緒って何?」
「水族館でバイトしてんじゃねえの」
「うちの街に水族館なんてないでしょ」
「じゃ、金魚すくいか」
如月が言い終わらないうちに、名前を呼ばれた。
「理穂」
二、三十メートル先の屋台から、綾菜が手を振っていた。真っ赤なタンクトップにジーンズ。豆絞《まめしぼ》りの手拭《てぬぐ》いをきりっと絞って額に巻いている。首にも真っ赤なタオルをかけていた。
あたしは、駆け出した。
「綾菜!」
「理穂、チョウ久しぶり。あたしのこと、忘れてなかった?」
「忘れてた」
「薄情者。で、思い出したか」
「うん。元気だった? 何してんの?」
「鮎《あゆ》焼いてる。帆立貝《ほたてがい》も焼いてる」
炭火のはじけるコンロの上で、綾菜は、竹串に刺した鮎を焼いていた。網の上では、帆立が口を開けて、ジュウジュウと音を立てている。いい匂いがした。
「近所の魚屋のおじさんに鍛えられちゃってさ。今日は、出張バイトで屋台のお姉ちゃんだよ」
「魚屋で働いてたんだ」
「そう。最初、仕出しのほうのバイトで入ったんだけど、何かお魚と相性よくってさ。あっ、藤本くん、お久しだね」
「おうっ、竹下、サマになりすぎじゃん」
「へへぇ、あれ……こっちの人、誰? 理穂のカレシ?」
真央が、手を横に振って否定する。立ちのぼる煙に目を細めた。
「弟だよ」
「えー、理穂にこんなイケメンの弟がいたんだ。あっ、これ食べてみて。あたしの奢り」
綾菜が、竹串の鮎をさし出す。炭火でこんがりと焼かれた魚の匂いが、鼻腔《びこう》をくすぐる。
「あっ、いただきます」
綾菜は、汗の吹き出た顔をほころばせた。そういえば、線の細いきれいな男の子は、綾菜の好みだ。
「竹下、おれにも」
如月が手をさし出す。
「三百円。帆立は二つで二百円におまけします」
「竹下──。そういうの、ありか。ひどくねぇ?」
「綾ちゃん、いいよ。友だちだろ。ふるまってやりなよ」
丸顔できれいにはげ上がったおじさんが、帆立に醤油《しようゆ》を垂らしながら、綾菜に声をかけた。豆絞りの鉢巻が、ぴったり決まっていた。
「社長、そんな甘いこと言ってたら、だめですよ。高校生、なめてたら食いつくされますよ。あっ、いらっしゃーい」
綾菜の声は、よく通る。耳障《みみざわ》りな濁《にご》りがなくて、すっきり耳に届いてくるのだ。
「はい、鮎の串焼き二本と帆立一つで、八百円いただきます。はい、千円で二百円のおつり。ありがとうございました。はい、こっちのお客さん、お待たせしました。焼き立ての鮎です」
口と手が、よどむことなく動く。鮮やかなものだ。
「プロじゃん」
如月が、真央から取り上げた鮎にかぶりつき、焼き方もプロじゃんと唸《うな》った。あたしは、サイフの中から千円札を出して、鮎を二匹注文した。すごくお腹がすいてきた。
「お代はいいよ」
おじさんが、手を振る。
「だめです」
綾菜は、首を振る。
「きついね、綾ちゃん」
「あっ、でも、あたしもそのほうがいいです。せっかく綾菜が焼いた魚だもの、ちゃんと、買います」
「だよね。理穂なら、そう言うと思った」
おじさんは、帆立を一つ紙パックに入れて、「じゃ、おまけ」と、渡してくれた。
「美咲は?」
綾菜が、あたしの後ろに視線を巡らせる。
「入院してる」
「また?」
「定例だよ」
「美咲も、生きていくの大変だよね」
「ああいうやつに限って、ギネスにのるくらい長生きするんだよ」
「相変わらずだね、理穂」
綾菜は、竹串をくるくる回しながら、みんな元気? と聞いた。
「うん」
「いいな、あたし、勉強嫌いだけど、学校は好きだったよ」
「うん」
「この頃、制服、すごく着たくなる。一度ぐらい図書室とか行っとけばよかったって思った」
「うん」
「理穂、けっこう図書室とか訪問してなかった?」
「してたよ。あそこ涼しいし、手塚治虫《てづかおさむ》の漫画とかあって読んでた」
「そっかぁ。漫画もあったんだ。惜しかったな。それに、お弁当とか、もう一緒に食べられないしさ、学食のカレーうどんとか、不味《まず》いけど、もう一度、食べたいなとか思うしさ」
「うん、けっこう独得の味だもんね。だけど、学校にいたらあと二年は、英語とか数学とつき合わなくちゃいけないよ」
綾菜の顔が露骨にゆがんだ。ものすごく嫌いな食べ物を無理やり口に押しこまれたような顔だ。
「そうだよね。それは嫌だなぁ……じゃ、ま、仕方ないか」
「仕方ない」
綾菜は、汗を流しながら、くすくす笑った。軍手をはめた指で|○《マル》を作る。
「農林科の山羊も元気?」
「子ども産んだ。農林科でお乳しぼって、チーズ作るんだって」
「やるじゃん」
綾菜の誉めたのが、子どもを産んだ山羊なのか、チーズ作りに挑戦する農林科なのか、わからなかった。
鮎にかじりつく。うちのグリルで焼いたものより、格段に美味しかった。骨まで食べられるような気がした。
くまさんのメロディが、巾着の中で響く。メールだ。画面に美咲と表示されていた。思わず如月の顔を見上げる。美咲から、メールが来るなんて思ってもいなかった。幼稚園の頃から十年以上のつき合いだし、お互い携帯を持ってから二年になるけれど、ただの一度もメールのやりとりなど、したことはなかった。美咲にとって、携帯電話は、誰かとつながるための道具ではなく、発作とか眩暈《めまい》とかの緊急時、家族や病院に連絡するための必需品だった。不特定多数の誰かと、曖昧なつながりを持つことを、美咲は嫌っていた。数式や英単語以上に、生理的に受けつけないのだという。そのわりに、携帯ルーレットには、欠かさず参加していた。そして不思議と、オニにならない。親だったり、医師だったり、まちがい電話だったり、迷惑メールだったり、必ず、誰かから連絡が入るのだ。もしかして、身体の頑強さと引き換えに、神は強運を、あの痩せた意固地な少女に与えたのかもしれない。
『理穂、来て』
画面に浮き出た文字をあたしは、しばらくにらんでいた。携帯を持った指先が、かすかに震えている。もう一度、如月を見上げる。
「何、これ……」
「行けよ」
如月が、すっと息を吸いこむ。
「美咲が呼ぶなんて、よっぽどだ。行けよ」
あたしはうなずき、走り出した。鼻緒が指の間に食いこんで痛い。
ちくしょう。こんなことなら、スニーカー履いてくるんだった。
下駄を脱いで手に持つ。その前に、浴衣の裾《すそ》をめくり上げて帯の上で結んだ。膝上五センチ。制服のスカートより、ずっと長い。みっともないけど、これで走れる。
「理穂──」
綾菜が、後ろからぶつかってきた。
「あたしのスニーカー、履いてきな」
ナイキのスニーカーが、足元に転がる。ほとんど反射的に足をつっこんだ。綾菜はすばやくあたしが放り出した下駄をはく。
「綾菜、感謝」
「いいよ、スニーカーぐらい。それより、これ」
鮎の入った、ビニール袋が渡された。
「美咲に。魚の中で、鮎だけは食べられるって言ってたから」
「うん」
横に自転車が止まった。
「理穂、のれ」
如月が、サドルにまたがり、後ろを指さす。その肩に手を置いて、ステップに足を置いた。
「行くぞ」
「うん」
綾菜が手を振る。真央は、どうしたろう。まぁいい。姉にいちいち気をつかってもらうほど、十五歳は、子どもじゃない。
「如月、この自転車は?」
「借りてきた」
「誰から?」
「知らない。誰かが、あの辺に停めてた」
「じゃ、ぱくったの?」
「あほか。おまえを病院まで送ったら、ちゃんと返しとく。大丈夫、真央を置いといたから。持ち主が来たら、事情を説明するって」
「うっそー。真央にそんなことできるわけないでしょ」
「なんで?」
「だって、あの子、頭いいけど、人間を相手にするの苦手なんだよ。見知らぬ人に、自転車ぱくった言い訳なんか、できないよ」
「できるさ」
如月が前かがみになる。上り坂だ。あたしの手の下で、肩の筋肉が強く張る。
「おまえが考えてるより真央は、ずっと大人だし、何だってやれる。理穂」
「何よ」
「真央を守ってやろうとか、そういうこと、あんまし考えんな」
「考えてないよ、そんなこと」
弟に限らず、誰かを守ってやろうなどと不遜《ふそん》なことを、考えたことはない。
「じゃ、できないなんて言うな」
上り坂が続く。如月の筋肉は張りつめ、かすかに熱を持つ。
「おれたちって、しょっちゅう、できないとかダメだとか言われるけど、そーでもないだろ」
「うん」
「おれたちがやれることって、思ってる以上にいっぱいあるとか、思うだろう」
「うん」
「真央だって、一緒だろうが」
「うん」
「第一、このチャリ、カギかかってたんだぜ。それを解いたの、真央なんだから。あいつ、見込みあるよな」
「うん……て、何の見込みよ」
如月の首筋に汗がにじむ。スピードが衰《おとろ》えぬまま、自転車は坂を登りきり、下りに入る。風が、真《ま》っ向《こう》から吹きつけてくる。袂《たもと》がはためく。むき出しの膝上五センチから下の脚が、風の力を感じる。
道行く人が振り返る。自転車二人のり、後ろの女の子は、浴衣をまくり上げ、スニーカーを履いている。振り向いて、眉をひそめたくもなるだろう。気にしてなんかいられない。
ふいに、背後で威勢のいい音がした。花火が打ち上げられたのだ。昼間から続いていた軽い、気の抜けたものでなく、お腹の底に響いてくるような揺るぎない音だった。
「始まったな」
振り向きもせず、如月はペダルをこぐ。あたしたちの後ろで、花火はつぎつぎと夜空に咲いた。
病院の夜間出入り口は、常夜灯《じようやとう》の灯りにぼんやりと浮き上がっている。あたしを降ろすと、如月は自転車を百八十度方向転換させた。
「じゃ、おれ、これを返してくる。また迎えにくるから」
「美咲のとこ、行かない?」
「美咲が呼んだのは、おまえだろう。おれに来てほしいなら、こっちのケータイにするでしょ」
「だね」
「病室、知ってんか?」
「知らない。何号室?」
「知らない。五階じゃなかったかな」
「確か?」
「まるっきり確かじゃない」
「行ってみる」
病院の内部で、携帯は使えない。あたしは、薄暗い非常階段を五階まで上った。膝が笑う。その言葉の意味が、身体で理解できた。膝に、力が入らない。太ももが重くて、身体中を汗が流れた。確実二キロは痩せたと思う。スウちゃんに、非常階段駆け上がりダイエット法を教えてやろう。
五階に続くドアを開けたとたん、あたしの膝は、ぴんと緊張し、あえいでいた呼吸器は、一瞬、酸素を吸いこむのを忘れた。汗が、瞬時に引っこむ。
白いリノリウムの廊下に、看護師さんたちが行き来している。一番|端《はし》の病室だ。そこの病室からだけ、灯りがこぼれ、白い制服の人たちをのみこみ、吐き出している。名前も知らない器具が、運びこまれていた。近づくと、泣き声が聞こえる。口元を押さえ必死に耐えている声だ。
『理穂、来て』
文字が言葉になって、美咲の声となって、頭に響く。あたしは、何をしていたんだろう。もし、今、美咲があの病室の中にいるなら、あたしは今まで何をしていたんだろう。足がすくむ。あたしの人生から、美咲が抜け落ちてしまったら、何が残る? 残るものは、たくさんある。如月じゃないけれど、思っている以上にたくさんのものをあたしたちは、持っている。それでも、穴があく。こんなに唐突に美咲を失うようなことになったら、あたしに穴があく。修復できない。突然、暴漢に襲われるようなものだ。太刀打ちできない。
「どうしたの?」
立ちすくんでいるあたしに、看護師さんが声をかけてくれた。
「あの……あたし」
「お身内《みうち》の方?」
「あっ、いえ……」
「中に入る? ……だいじょうぶ?」
「あ……あの」
あたしは、十七年の人生の中でこの時ほど、自分を幼く感じたことはなかった。言葉も行動も、自分で決定できないほどに幼い。
うわっと泣き声が高くなる。せき止められていた感情が溢れ出る。「おじいちゃん」「お父さん」二つの単語が聞き取れた。
おじいちゃん? お父さん?
病室のプレートに目をやる。マジックの太い字で『北原大造』とある。
「どうする? 病室に入る?」
「あ、いえ。すいません、けっこうです」
たぶん白衣を着ているからだろうが、どことなく観月《みづき》ありさに似て見える看護師さんに、頭を下げる。混乱していた時、静かな優しい言葉をかけてくれた。
「ありがとうございました」
お礼を言って振り向くと、階段の壁から美咲がのぞいていた。
手招きしている。あたしは、のろのろと足を運んだ。
「理穂、早かったじゃない」
「おかげさまで、ジェット機に空席があったもんで」
「やだ、あんた、すごい格好。何テンパッてんのよ。笑える」
窓ガラスにあたしが映る。頭はぼさぼさ、浴衣の前ははだけ、白いキャミがのぞいている。裾は帯にはさんだままだし、お文庫に結んだ帯はだらしなく、崩れていた。おまけに素足にスニーカーだ。二、三日、夢に出てきそうな姿だった。
階段を降りる。
「ちょっと理穂、どこ行くのよ」
「帰る」
「来たばっかじゃない」
「でも、帰る」
あたしは、美咲に鮎の袋を押しつけた。
「綾菜から。綾菜が焼いたんだからね。暑いのに、炭火の前でだらだら汗かいて焼いてたんだからね」
「うん。鮎、大好き」
「バカ」
あたしは、ぐすっと洟《はな》をすすり上げた。
「テンパってて、悪かったね。もう少し、マシなメールよこしなよ。バカ」
美咲は、ちらりと北原さんの病室に目をやった。
「あたしが死んだと思った?」
「思ったよ。香典《こうでん》どうしようって悩んでた」
黄色いチェックのパジャマを着た美咲が、にやりと笑う。
「あたしは、死なないよ」
「わかってる。喜んだあたしが、バカだった」
美咲の指が、あたしの手首をつかんだ。
「こっち」
手首をつかまれたまま、階段を上る。灰色のドアを開けると、屋上だった。
「もうすぐ、本格的な花火でしょ。ここ特等席なんだ」
屋上には風が吹き抜けている。闇に目をこらすと、あちこちに数人の人影が、見てとれた。
花火が上がる。人込みにも家並みにもさえぎられることなく、視界いっぱいに広がった。
「うわっ、きれい」
不覚にも歓声を上げてしまった。
「ねっ。理穂、どうせ独り身だし、如月引っ張りまわして、人込みの中うろうろして、ろくに花火も見なかったってことになるの見え見えだからさ、招待してあげたの。去年、ここで花火見て、けっこう|○《マル》だったからね」
「あんた、去年の夏も入院してたっけ?」
「そう」
美咲は、ビニール袋をのぞきこみ、ウーロン茶の缶を取り出した。
「ちゃんと、お茶まで入ってる」
「綾菜だよ。気配り満点じゃん」
「うん、すごいね。学校にいた時は、どっちかつーと、ぼけっとして、気なんか全然まわんなかったのに」
「一歩リードされたって感じだね。鮎、食べてみなよ」
美咲は、一段と痩せていた。頬がこけて、半袖からのぞいた腕は、骨と皮とわずかな肉しかないようだった。
「うまい」
鮎にかじりつき、歯で食いちぎる。脆《もろ》い外見には不釣り合いな、豪快な食べっぷりだ。
「美咲、もうだいじょうぶなの?」
「来週、退院」
「家に帰っても、ちゃんと静養するんだよ」
「それ、あたしに家から出るなって言ってんの?」
「ビンゴ。檻《おり》に入っててもらいたいぐらいよ」
美咲は、瞬く間に鮎をたいらげた。口をぬぐって、息をついた。空は、束の間、静まり返る。星が煌《きら》めく。
「海、行くか」
ふいに、そんなことを言った。あたしがだ。星が煌めく空を見上げていたら、海原《うなばら》が浮かんだのだ。
「いいね」
「あんた、海、嫌いじゃなかったっけ」
「あたしが嫌いなの知ってて、誘ったわけ?」
「誘ってみなきゃ、わかんないからね。行くかい?」
「うん」
「よし、みんなで海に行こう!」
「ビーパラ持っていってよ。あたし、日ざしに負けるんだ。発疹《ほつしん》が出ちゃうから」
「如月に言っとく」
「それと、バスはだめだよ。酔うから。電車にしてよ」
「のり換えあるから、面倒くさい」
「いいの。それと」
美咲の注文を断つように、花火が広がった。一呼吸遅れて、音が響く。開いて消えて、開いて消えて、いくつもいくつも広がる。重なり、響き、色を散らして、大輪の火の花が咲く。拍手と歓声。子どもの声もまざる。
「ちっちゃい子も、入院してんだ」
「当たり前。病院が、年齢制限したら大変だよ。百歳の婆さんから、ゼロ歳児まで、揃ってる」
ふっと、さっきの病室を思い出す。北原さんという人の家族には、今夜の花火は、葬送の風景となるのだろう。よかったと思った。とても利己的な嫌らしい想いだけれど、よかった、死んだのが美咲でなくて。夏祭りが来るたびに、喪失感にうめくなんて、つらすぎる。
「美咲」
「うん?」
「死ぬなら、何でもない日にしてね。忙しかったり、騒いでいたりして、いつの間にか過ぎていたね、みたいな日」
花火を見上げたまま、美咲は、屋上を囲むフェンスに指をかけた。
「あたしは、死なないよ」
「さっきも聞いた」
「死んでたまるかって思う。あたしは強いんだ。簡単に負けてたまるかよって」
あんたは、負けないよ。負けたことなんて、一度もないじゃないか。美咲だけじゃない。あたしたちは、負けないのだ。しょっちゅう酸素吸入器や点滴のお世話になっていても、万引きを疑われても、「いくら?」と、おじさんに尋ねられても、高校を退学させられても、負けてしまうわけには、いかないのだ。
「やるか?」
あたしは、美咲に向かってファイティングポーズをとる。美咲が、くっくと小刻みに笑った。
「バカだね。理穂は、敵じゃないよ」
つぎつぎと、絶えることなく花火が上がる。不況にあえぐこの街は、年に一度の夏祭りに、かなりの予算を使う。半分|自棄《やけ》のように、花火を打ち上げるのだ。
「ほんと、特等席だね、ここ」
「でしょ。ここにいると、あたしのために、花火を打ち上げてるって気分になる」
「だね」
「世界征服でも、簡単にやれそうな気、してくる」
今度は、あたしが笑った。
「世界征服して、どうすんのよ」
美咲は黙り、フェンスをわずかに揺らした。
「どーしようかな、うん、まずは、この街にチョウでっかいファッションビルを建てる」
「あっ、いいね、それ賛成。|109《イチマルキユー》の十倍とかあるやつ」
「|1090《イチマルキユーマル》ビルだね」
「いいな。服だけじゃなくて、アクセも靴も化粧品も、ほしいもの、何でも揃うんだ」
「で、稲野原の生徒は、どれも半額とかにすんの。ただでもいいか」
「美咲、あんたえらい。愛校精神、満載じゃん。そうしたら、うちの高校に志望者が押しかけるぜ」
「そう、あと、山羊のチーズを輸出する。どの高校も最低十頭の山羊の飼育を義務づけんの」
「いいかも」
「理穂はどうする? やっぱ、逆ハーレム作る?」
「うん、白雪姫のお城みたいなの建てて、男を侍《はべ》らす。城の周りは自然の森で、野生の動物がいっぱいいるの」
「城で山羊を飼おう」
「うん、山羊の赤ちゃんて、可愛いもんね。あっ、ペット保護条例も出そうよね。ネコを殺したら終身刑」
「犬なら」
「島流し」
後ろで、人の気配がした。振り向くと、頭にネットをかぶった少年が、あたしを見上げていた。屋上には、常夜灯がところどころに、取りつけてある。その灯りの中でも、少年の皮膚が、抜けるように白いとわかる。十歳ぐらいだろうか。
「なあに?」
と、あたしは尋ねた。少年は、首を横に振り、ごめんなさいと謝った。意味がわからない。
「なんで、謝んの?」
少年が半歩、あとずさりする。怖がられたらしい。子どもとはいえ、男は男だ。怖がられたりしたら、後味《あとあじ》が悪い。
「なあに、お姉さんたちに、ご用事?」
とっておきのネコなで声を出す。美咲が、小さく吹き出した。
「あの、ぼく聞いてたの」
「何を?」
「お姉ちゃんたちのお話。すごく、おもしろかった」
あたしと美咲は、常夜灯の灯りに照らされて、顔を見合わせる。子どもが喜ぶような話、してたっけ?
「あのね、ぼく、動物園を作ってほしい」
「どこに」
「お城の中」
「おう。そこんとこの話かい。よし、作ってやろう。で、何を飼う?」
「ワニ」
「ワニって、皮をカバンやベルトにするやつ? もっと、可愛い動物にしてよ」
「ううん、ワニがいい。卵とかも産めるようにしてね」
「えっ? ワニって、卵から孵《かえ》るの」
少年の目が、瞬く。あたしが本気なのか、ボケただけなのか、判断に困ったらしい。
「ワニも亀も、卵だよ。イルカや鯨《くじら》は、赤ちゃんを産むけど」
「ええっ、魚のくせに、卵じゃないの」
「魚じゃないよ、哺乳《ほにゆう》動物だよ」
「ええっ、あんな格好して、おっぱいがあるの」
美咲が、あたしの袂を引っ張る。
「理穂、あんたのアホさを公開するの、そこまでにしといてよ。あたしが恥ずかしいでしょ」
「そっ、そうだけど。驚きの新事実だよ。ありがとう、少年。きみのおかげで、利口になれた」
「うん、おねえちゃん、またお話、聞かせてね」
「いいよ。世界征服の仲間に入れてあげる」
「ありがとう」
律儀にお礼を述べて少年は、身を翻《ひるがえ》し、ドアの向こうに消えていった。素早い動きだった。花火のように、あっという間にいなくなった。あたしは、なぜワニが好きなのか、聞きそびれてしまった。
美咲が咳《せ》きこみ始め、咳きこみながら、もう花火なんて見飽きたと言うものだから、病室に帰ることにした。病室は、五階の階段の傍だった。如月のカンは、めずらしく当たったことになる。
北原さんの病室は、もう真っ暗で、一筋の灯りさえ漏れていない。白い廊下にこぼれ出ていたすすり泣きも、あわただしい足音も幻のようにかき消えて、欠片《かけら》も残っていない。
美咲の病室は個室で、ベッドにパッチワークのカバーが掛けてあった。おばさんの手作りらしい。
「個室って、あんた、贅沢すぎ」
「常連客だもん。サービスしてもらわなくちゃ。他人と一緒の部屋なんか、ごめんだよ」
ベッドにもぐりこんだ美咲の目の下は、ほんのり赤かった。
「熱、あるのと違う?」
美咲の額に手を置く。意外にも、そこはひんやりと冷たく、陶器のような感触がした。
「理穂、泊まってくか?」
美咲が、掛け布団を持ち上げる。
「一緒に寝てあげるよ」
「あほくさ。美咲とレズってどうすんのよ。帰る」
ドアの向こうで足音がした。
「あっ、やばい。理穂、ここ」
美咲の指さしたベッドの下にもぐりこむ。紙袋や箱がごちゃごちゃ置いてあった。その陰で腹這いになる。
「師岡さん。お熱、計りますよ。それと、就寝前のお薬ね」
「はーい」
紙袋のすき間からのぞくと、白いストッキングのきれいな脚が見えた。足首がきゅっとしまって、何だか色っぽい。あたしは、変態ののぞき魔みたいな気分になる。
「あら、ちょっと熱があるね。身体だるくない?」
「平気です」
「そう。解熱《げねつ》するほどじゃないけど、おとなしく寝とくのよ。花火に浮かれたりしないでね」
美しい脚の持ち主は、美咲の行動を見透かしたような注意を口にした。
「あっ、そんな子どもじゃないから」
美咲が答えている。しらじらしいやつだ。
「それより、五一〇の北原さん、死んじゃったんですね」
「さっき、お亡くなりになったわ」
美咲のあまりに直截《ちよくせつ》な言い方を、やんわり言い直してから、美脚の看護師さんは、小さく息を吐き出した。
「まだ六十歳なのにね、若すぎるよね」
「はぁ?」
美咲が、間の抜けた声を出す。
「六十歳って若いのかなあ」
「そりゃあ、師岡さんからみたら、すごい歳だろうけどね」
死ぬには若すぎる。そういう意味だとは、わかる。でも、あたしも美咲も、六十歳と若いという単語が並ぶことに、違和感を感じてしまう。六十歳が若いなら、あたしたちは、あと何十年も若いままだ。
「すごい歳。もう充分て感じるくらい」
「なんの、なんの。すぐですよ、六十なんて。もう充分なんて、なかなか言えないよ」
「村本《むらもと》さんていくつ?」
「あたし? 三十一」
「けっこう歳なんだ」
「若く見えた?」
「わりに」
「ありがとう。いい子ね」
くすくすと忍びやかに笑って、白いストッキングの脚は、あたしの視界から消えた。ベッドの下から這い出す。浴衣は、もう崩れきって、胸も裾もだらしなく開いていた。帯を解いて、着直す。
「理穂、浴衣、自分で着られるんだよね」
「できるよ。帯も結べる」
「浴衣を自分で着られる高校生って、希少価値じゃん」
「そうかも。特技の欄に記入できるね」
帯は、もう簡単な蝶々結びにしておこう。花火の音が、している。壁一枚、隔《へだ》てられただけなのに、屋上に響いた音よりはるかに遠く聞こえる。
「理穂」
「うん?」
「六十になるまでに、いろんなこと、やれるかな?」
「当ったり前。時間はたっぷりだもん。世界征服だって、ばりばりOKさ。でも、まっ、手はじめは」
「男でしょ」
「ワニの飼育方法の研究」
「真面目じゃない」
「さっきの男の子、可愛かったもん。あと十年もすれば、けっこうイイ男になるかも。今から、唾《つば》つけとこうかなって」
「やっぱ男じゃない。逆|光源氏《ひかるげんじ》ってとこか」
「は? 光源氏って、すっごく昔のアイドルだっけ」
美咲は、掛け布団を肩まで引き上げ、大きな溜め息をついた。
「一学期の終わりに『源氏物語』習ったばっかでしょ。あんたと如月、マザコンだロリコンだって騒いでたじゃない」
「そうだっけ。やだな、急に勉強の話しないでくれる。指が震えて、うまく結べないよ」
帯を結び直すと、しゃんと背が伸びる。
「きれいな浴衣だね」
美咲が、誉めてくれた。
「今しか着れないね。そんなきれいな浴衣」
「うん、来年は、藍《あい》だとか淡い山吹《やまぶき》だとか、もうちょっと地味なもの、着たくなるかもしれないね」
あたしたちの前には、長い長い時間がある。それなのに、今しか着れない浴衣も、今しか感じられない歌も、今しか愛せないものもある。今だけがよければいいなんて、思わない。でも、過ぎていく時を惜しむことも、これから来る時に怯《おび》えることもしたくない。したくないのだ。
あたしは、ベッドに座り、美咲の額にもう一度手をやった。
「おやすみのキスしてあげようか」
「ごめんだね。悪夢にうなされるよ」
微熱のある美咲の目がうるむ。あたしは、身をかがめ陶器のようになめらかな額に、キスをした。
「帰るよ、おやすみ」
枕元の灯りを消す。病室の薄闇《うすやみ》の中で、美咲の白い手がひらりと振られた。
外に出ると、如月と真央が壁にもたれていた。何か愉快な会話でもしていたのか、真央は下を向いて、笑っている。
「お迎えご苦労です。二人とも苦しゅうない、近《ちこ》う寄れ」
「親分こそ、オツトメご苦労さんでした」
如月が、頭を下げる。
「如月、設定キャラが違う」
「理穂に姫君キャラは、厳しいでしょ。美咲は、どうだった?」
「世界征服の野望を語ってた」
「そりゃあ、祭りの夜っぽいな」
ひときわ大きな音がする。
「最後の打ち上げだ」
真央が、顔を空に向け、大きく息を吸いこんだ。
「祭りも終わったか」
如月が腕を腰に当てて、首を回した。
「竹下がさ、スニーカー、履いて帰ってもいいって。また、下駄持って遊びにいくからって伝言」
「うん」
あわてていたから、気がつかなかった。オレンジの線の入ったナイキのスニーカーは、綾菜が一年の冬休みに、バイトして買ったお気に入りの靴だ。進級できるかどうかの瀬戸際《せとぎわ》だったのに、試験勉強もせず、授業をさぼって、回転寿司の店でバイトして手に入れたやつだ。綾菜は、今、あたしの黄色い鼻緒の下駄で、仕事をしているのだろうか。
「明日、晴れるかな」
あたしも空を見上げてみる。花火ではなく星を見るためにだ。明日が晴れたなら、このスニーカーを洗おう。丁寧に洗って、木陰に干そう。綾菜が、いつ来てもいいように、きれいにしておこう。
「如月」
「うん?」
「ワニの飼い方って知ってる?」
「ペットショップに売ってんじゃないの」
「買うんじゃなくて、飼育方法」
「知らねえよ、そんなの。ワニの肉って案外うまいとか、聞いたことあるけど」
「ワニって、卵から孵るんだよ」
「当ったり前でしょ。赤ん坊に乳やってるワニなんて、いるかよ」
「知ってたの。じゃ、イルカや鯨が魚じゃないって知ってた?」
「知ってた。彼らは、りっぱな哺乳動物です」
「くそっ、すごく悔しい。じゃあさ、光源氏って何の主人公か知ってた?」
「は? 源氏って……あっ、蛍《ほたる》の種類か」
真央が、顔をそむけるようにして、笑う。
花火が終わった。あたしたちは、暗い道をいつもより少し、無口になって帰った。家の前で如月と別れてすぐ、約束したタコヤキもイカ焼きも、奢っていなかったと気がついた。真央に自転車のことを聞こうかとも思ったが、やめた。疲れていた。真央も何も言わない。金魚すくいをしたらしく、赤い金魚を三匹、水槽の中に放していた。
美咲の退院は、予定より二日延びたらしい。
蝉が、本格的に鳴き始め、祭りが終わり、あたしたちの短い夏が始まった。
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第三章 海に還る犬
染子は、あたしが五歳の時、海で拾った。
家族で海水浴に来ていた海岸の波打ち際に、白い箱に入れられて鳴いていた。その箱が、『えひめミカン』の箱だったことをはっきり覚えている。
染子は、真っ黒な小さな犬だった。箱から出してやると、よたよたと歩き、あたしの足の指をなめた。染子が、あたしの足の指をなめている時、ざぶりと大きな波が来て、えひめミカンの箱を沖に持っていってしまった。ぷかぷかと波に浮かび、水平線に消えていこうとする白い箱を見ていたら、真央がふいに泣き出した。泣きながら子犬を抱きしめ、さらに泣き声を高める。父と母は、顔を見合わせ、母がうなずき、父は海の家に牛乳を買いにいった。
山に囲まれた城下町では、決してお目にかかれないぎらつく太陽と、白い波頭《なみがしら》と、砂の熱さと、それとは異質の犬の舌の熱さと、箱にくっきり記されたえひめミカンの赤い文字を、あたしは、はっきり覚えている。
吉村家に拾われてから避妊《ひにん》手術を受けるまでの三年間に、染子は二度、出産した。計九匹の子どもを産んで、六匹を育て上げた。そのうちの一匹は、如月の家にもらわれていった。母親似の真っ黒な犬は、メスなのにソメタロウという、ふざけた名前をつけられて、今でも元気だ。あたしが藤本家を訪れるたびに、吠えかかる。
吉村家で、十二年以上を生きた染子は、今年の春頃から、急激に老いた。大好きだった散歩にもボール遊びにも関心を示さず、ただひたすら眠っている。庭の小さな陽だまりでうずくまっていると、色あせた古い絨毯《じゆうたん》のようだ。暑くなってからは、食欲も極端に落ちた。牛乳を一日一本、飲むのがやっとだ。
もう長くないな。
口には出さないけれど、家族の誰もが覚悟している。染子は、賢くて従順だ。家庭犬としては、二重マルに花がつく。ネコが苦手なことと寂しがりやなところをのぞけば、欠点らしい欠点もない。逃亡癖のあるソメタロウに手を焼いている如月が、吉村家は、母親に比べて娘の質《たち》が悪いと、時折、文句を言う。
七月の終わり、あたしたちは海に向かって出発した。
駅まではバス、そこから電車にのる。
あたしと美咲と如月とスウちゃん。ケイくんは、来なかった。来ない理由はわからない。スウちゃんは、何も言わない。誰も尋ねなかった。
「二キロ、痩せなかったよ」
スウちゃんが、青いキャミソールのお腹をつまんだ。
「予定が早まったからね。八月だったら、イケたかもよ」
「うん。でも、もういいや。ダイエットやめた。現状維持でいく」
「うん、現状維持がいいよ。今のスウちゃん、青いキャミが似合ってるもん」
「ありがとう」
大きな麦わら帽子をかぶった美咲が、薄く笑う。帽子は、大きいだけで飾りの花もリボンもない。美咲は、いつでも実用第一主義だ。
「やめたほうがいいよ。スウちゃんみたいなタイプは、のめりこむから……怖いよ。ダイエットにはまったら、痩せるのがおもしろくて、ちょっとでも太るのが怖くて、何も食べられなくなって、骨と皮になって、それでも痩せたい、まだ太ってる、痩せたいっていうの。多いんだよ、そういう人」
けけけと美咲は、山姥《やまんば》みたいな笑い方をした。スウちゃんが、泣き笑いの表情になる。
「美咲ちゃんが言うと、迫力だね。あたし、現状維持。今のままでいいや」
バスが来た。のりこむ。
スウちゃん何があったのかな。
あたしの中で好奇心がもぞりと動く。ケイくんに殴られた日から今日まで、ダイエット宣言をした時から、現状維持を決めたこの時までに、スウちゃんに何があったんだろう。
今のままでいいという台詞は、潔《いさぎよ》いとも自棄《やけ》ともとれる。肯定にも否定にもとれる。スウちゃんは、にこにこと笑い、顔に日焼け止めクリームを塗ったりしている。いつもと変わらない。でも、変わらないところしか、あたしたちに見せてないんだとわかる。一緒にいて、しゃべったり笑ったりしていても、自分を全部、さらすことなんて、なかなかできない。屈辱や羞恥の想いは、なおさらだ。固くカギをしめて、心の奥に埋めておく。あたしの心が疼《うず》く。好奇心だ。カギを開けてのぞき見したいと疼く。同時に、自分も他人も尊びたい。卑《いや》しいことをしたくないとも疼く。尊ぶこと、貶《おとし》めること、潔いこと、卑屈なこと、肯《がえ》んずること、否《いな》めること、あたしたちの振幅は大きい。両極端の間を大きく動く。
あたしはバスの座席に座り、軽く息を吸いこんだ。
ともかく今は、黙っていよう。好奇心に負けて、
「スウちゃん、しゃべったら楽になるよ。聴いてあげるから」
なんて陳腐《ちんぷ》な台詞をしゃべらないようにしよう。そんなこと言ったら、美咲に大笑いされる。笑われて軽蔑される。
「あっ、ちょっと、止めてください」
一番奥の座席にいた如月が、大声を出して立ち上がった。バスが急停車する。
「何よ、何か忘れ物したの。今さら遅いよ」
「あれ、染子じゃねえか」
「え?」
街路樹の葉の茂る歩道を染子が走っていた。散歩用の革ひもを引きずって、走っている。後ろから、真央が追いかけていた。
「染子、このバスを」
如月が言い終わらないうちに、あたしは、運転手さんに頭を下げて言った。
「すいません。降ります」
「どうしたの?」
「犬が追いかけてきてるみたいで。すいません」
「いいよ。よくあることだから」
犬が追いかけてくるなんてことが、よくあることなのか聞いてみたかったけど、会話の時間はなかった。もう一度、頭を下げて、バスから降りる。
あたしたちを降ろして、ドアを閉めたバスは、何事もなかったように行ってしまった。髪の毛をポニーテールに結った女の子が、窓から精一杯顔を出して、走ってくる犬を見ようとしていた。
染子は、あたしの前に来ると、鼻先をミュールの先に押しつけ、ワンと吠えた。ひさびさに聞く染子の吠え声だ。息を切らして、真央が追いついてくる。
「どうしたの?」
「理穂が出ていったら、急に鳴き出して、うるさいから散歩にでも連れていこうとしたら……ちょうど、バス停のとこで、理穂たちがのりこむのが見えて……そしたら、急に走り出して……」
真央は、街路樹の根元に座りこんで、額の汗を手で拭いた。あたしたちは、顔を見合わせる。
「あんたが、そこまで犬に慕《した》われてたなんて思わなかった」
美咲が、真顔で呟く。
「慕われてないよ」
あたしは、いい飼い主ではない。動物は大好きだけど、面倒な世話は嫌いだ。餌やりも散歩もブラッシングも、律儀にやっていたのは真央だ。真央の手を振り切って、あたしを追いかけることなど考えられない。
「じゃ、海か」
如月が、染子の頭をなでる。驚いたことに染子は、お座りの格好で、ワンと答えた。
「だってよ」
「海に連れてけってこと?」
「それっぽいな」
染子を見下ろす。丸い目が、じっとあたしを見つめている。まだ食欲旺盛な頃、おやつをねだった時の目だ。期待と興奮とわずかな哀しみの色がある。
「でも、なんで海なんか行きたいわけ」
言葉の途中で息をのみこみ、あたしは真央と視線を合わせた。
「まさかね」
「けど、そうかも。必死で、バスを追っかけてたから……今まで一度もそんなこと、なかったし……」
「死ぬ前に、もう一度だけ、海に……ってこと?」
スウちゃんが、あたしのタンクトップの裾を引っ張った。
「理穂ちゃん、連れていってやろうよ」
「けど……犬だよ」
「何とか連れてってやろう。こんなに一生懸命でかわいそうだよ」
スウちゃんの両目が、うるんでいる。
「犬の心配より、人間のほう、心配したら。さっきのバスにのらないと、電車に間に合わないんじゃなかったっけ」
美咲が、樹にもたれて腕を組む。白いサブリナパンツの上で、街路樹の葉影が揺れる。
「どうすんの。海行き中止なら帰るけど」
ううっとあたしは唸《うな》った。決断がつかない。どうしていいか、わからない。
「すいません」
真央が、頭を下げる。
「染子、連れて帰ります。あの、タクシーなら、まだ間に合うと思うから、行ってください」
「それも一案。どーすんの、理穂」
「嫌」
「なんで?」
「美咲、あたしにタクシー代を出せって言うつもりでしょ」
「当然、この危機的状況は、あんたとこの犬のせいでしょ。責任取りな」
染子は、あたしを見つめ続けている。
真央の案は、一番現実的な解決方法だと思う。タクシー代は痛いけど、致命的な額ではないだろう。でも、置き去りにされる染子の期待と興奮と哀しみを真央一人に、預けてしまっていいだろうか。
クラクションが鳴った。数メートル先に、ホロつきの軽トラックが止まり、ベースボールキャップをかぶった男が、運転席からのぞいた。ニューヨーク・ヤンキースのマークだ。
「あれっ、どーも」
如月が、片手をひらひら振りながら、男に近づく。
「誰?」
美咲が、軽トラに向かってあごをしゃくる。
「さあ」
どこかで会ったことがある。おぼろげな印象が、具体的な名前に結びつかない。如月はずいぶん親しげな様子で、男としゃべっていた。くるりとこちらを向くと、左手の指で|○《マル》を作った。
「のせてってくれるってさ」
「どこまで?」
「海の近くまで」
あたしとスウちゃんは、歓声を上げた。如月が、荷台を指さした。美咲、スウちゃん、あたしの順番でのりこむ。
「さっ、おまえもだぞ」
如月が、染子の背中を軽く叩いた。染子は一声、勢いよく吠えた。勢いのよいのは声だけで、体は動かない。前足は荷台にかけたまま、威勢のいい一声は、すぐに悲しげな鳴き声に変わった。飛び上がれないのだ。真央と如月がお尻を押して、あたしとスウちゃんが前足を持って、何とか引っ張り上げた。
「ほんと、この犬、手がかかりすぎ」
何もしなかった美咲が、染子の横腹を軽く蹴った。
「じゃっ、おれたちも行きますか」
如月が、今度は真央の背を叩く。
「は? おれも?」
「とーぜん。ここまで来たんだから、一緒に行こうぜ」
「いや、でも、海なんて……おれ、何の準備もしてないし」
真央はハーフパンツに綿シャツという、普段着の王道を行く服装だった。
「このメンツで海に行くのに、何の準備がいるんだよ。いいから、行くぞ、ほれ」
如月に背中を押され、真央は、あたしの顔を見た。
「おいでよ」
そう言ったのは、美咲だ。
「男は多いほうがいいよ」
「美咲、あたしの弟に手を出さないでよ」
「あんたの弟なんかに、土下座されても手を出さないね」
真央は、用意周到な子だ。小さい頃からそうだった。明日の用意は、今日のうちにすませておく。計画を立て、実行する。思いつきの行動はしない。だから、こんな時、ひどく戸惑《とまど》う。
「おまえの犬だろ。理穂一人に任せるなよ」
如月の言葉が理解できたように、染子が大きく尾を振る。
「何よ、染子、あたしじゃ頼りないっていうわけ」
「ワン」
美咲が吹き出した。
「この犬、最高」
真央も笑う。その笑い顔のまま、身軽に飛びのってきた。あたしの携帯で、母に事情を説明すると言う。
踏ん切りが早くなったな。
もうとっくに柔らかさも丸みもなくなった弟の横顔に、思った。
何の準備もなく、思いつきで踏み切ることを覚えたら、真央は、少しだけ高く飛べるかもしれない。
ホロの中は暑い。下がめくれて、あちこちから風が吹きこんではくるけど、暑い。それに、どことなく生臭《なまぐさ》い。それが、魚の匂いだと気がついた。同時に、ニューヨーク・ヤンキースの帽子の下の顔が、具体的な記憶と結びつく。
「如月、あの人、綾菜の?」
「うん、社長さん。あれ、理穂、気がついてなかったのか」
「気がつかないよ。ちらっと会っただけだし、雰囲気違うし、なんで、あんた、あんなに親しいのよ」
「だって、おれら、理穂を病院に送ったあと、屋台の手伝いしたもんな」
真央がうなずく。
「手伝いといっても、串の本数数えたり、炭を団扇であおぐぐらいだけど、けっこう働いて、焼きソバとかき氷奢ってもらった。竹下は、すごかったぜ。本気プロってた。火の熾《お》こし方とか、半端《はんぱ》じゃなかった。今日は仕出し弁当の配達、手伝ってるってよ」
祭りの次の日、綾菜は下駄と生の鮎を持ってきてくれた。少し話をして、話の終わりに、
「やっぱ、高校生にもどりたい」
と、ぽつんと言った。眉を寄せた暗い顔つきだった。
あたしも綾菜も勉強は嫌い、苦手なことを克服する努力も苦手、真摯《しんし》に懸命に何か一つに打ちこむこともできない。いいかげんで、怠け者で、中途半端だ。でも、自信はあった。あたしたちは、何とかやっていけるという自信だ。何の根拠もないけれど、潰れてしまわないという自信だ。なのに、あの日の綾菜は、心細げで自虐《じぎやく》的だった。祭りの夜の、仕方ないかと笑った強さは、どこにもなかった。ここでも、振幅だ。揺れる。あっちとこっち。向こうとこちら。振り子が大きく行き来する。たった一日の一夜の一時間の間に、何度も揺れ惑う。たぶん今頃、綾菜は、高校への未練などさらりと忘れて、弁当をいくつも運んでいるんだろう。
「でも、綾菜ちゃん、得したよね」
スウちゃんが、ぼんやりした口調で言った。髪を二つにくくり、半端丈のデニムパンツを穿いたスウちゃんは、中学生みたいで可愛い。
「得って?」
「だって、このままがんばったら、アルバイトから正規の就職できるかもしれないでしょ。そういうのすごく運よくない? うちのガッコだけじゃないけど、地元での就職なんて、むちゃくちゃ厳しいらしいもん」
三年生への求人票受付は、七月一日開始だった。地元企業からの求人は、年々減り続け、今年は、就職担当の先生が貧血を起こしたぐらいの惨憺《さんたん》たる状況だったらしい。
「他人事《ひとごと》じゃないぞ」
と、鈴ちゃんは、珍しく渋面《じゆうめん》をしてみせた。
「来年には、自分たちの問題になる。たとえ進学したって、数年後の就職事情が好転する見込みは、ほとんどない。都会での就職もさらに厳しくて、企業は、採《と》るための試験じゃなく、ふるいにかけるための試験だと、明言している」
渋面にふさわしく、鈴ちゃんの語調も暗く脅すような響きがあった。その語調のまま、現実は厳しい、だから励め。そう締めくくった。他人事じゃないと念を押されたにもかかわらず、あたしは、他人事のように担任の言葉を聞き流していた。窓もドアも閉めきった小さな真四角の部屋に閉じこめられるような話だ。耳が受けつけない。鈴ちゃんが、あたしたちを脅しているのでも軽んじているのでもないことは、わかる。本気で心配し憂《うれ》いているのだ。でも、鈴ちゃんの言葉をそのまま受け入れたら、あたしたちは閉じこめられる気がする。ここまでだと自分を見切ってしまいそうになる。だから、耳が閉じる。でも、スウちゃんの耳は、ちゃんと開いて、鈴ちゃんのいうことを捉《とら》え、頭は厳しい現実をのり切るべく、考えを巡らせているらしい。
「綾菜はいいけどさ、その社長さん、なんで海になんか行くのよ」
美咲が、耳の上の髪をかき上げる。退院してすぐに、たっぷりミルクを入れた紅茶の色に染めた髪だ。こいつの耳も、自分に都合のいいことしか受け入れないような機能になっている。
如月が、違うと首を振る。
「海じゃない。海の近く」
吹きこむ風に、ミルクティーの髪をなびかせて、美咲は如月をにらんだ。にらんだまま、言い直す。
「社長さんは、平日のこんな時間に、何をしに海の近くにお行きになるのですか」
「知らねえ。聞かなかったもん」
道路はすいているらしい。車は、快調に走る。街中の生ぬるい風にかわって、肌に快い涼風《すずかぜ》が吹きこんでくる。
「女だね」
美咲の言葉に、あたしは、肩をすくめてみせた。
「軽トラで愛人宅を訪問?」
「車なんて関係ないでしょ。好きそうな顔してたもん」
「社長夫人が、助手席にいた」
如月が、荷台に寝転ぶ。染子が、その顔をなめた。
「染子、勘弁。夫人は、花束持ってたぜ。誰かのお見舞いにでも行くんじゃねえの」
「それか、お墓参り」
そのあと、どーでもいいか、他人のことなんてと、美咲はあくびをもらした。
「だけど、運がよかったよね。海まで連れていってもらえるなんて、ウソみたい」
スウちゃんの言葉を如月は、即座に訂正した。
「海の近く」
「近くって、どのあたり?」
「わかんない。でも、帰りも時間が合えば、のせてくれるってよ」
「けど、海水浴場から離れてたら、どうすんの?」
スウちゃんの顔が、あたしに向く。
「なんとかなるでしょ。ヒッチハイクとかしてもいいし」
「人間五人と、大きな犬一匹、のせてくれるような車がある?」
スウちゃんは、あたしから美咲に視線を移した。美咲が答える。
「限りなく可能性は低いね」
「あっ、でもいいな。犬連れて旅すんの。おれ、憧れ」
「如月一人で、染子を連れて歩けばいいでしょ」
鼻の前にさし出された美咲の手を染子は、ゆっくりとなめる。染子の舌は温かい。幼いあたしが感じた温かさを、美咲も皮膚の薄い手のひらに、今、感じているはずだ。
「あの、おれも、一緒に歩きます」
真央が、真面目な顔で会話に参加してきた。
「うちの犬だし、染子、途中で動かなくなることもあるし」
「真央」
あたしは、顔をしかめて弟を呼んだ。
「美咲や如月の会話をマジに受け取るんじゃないの」
「あっ、おれ、ちょっと本気。いいよな、夕暮れの空を背景に犬と人間が歩いていく。はるか長い旅の始まり」
「映画にありそうですよね。ロードムービー」
「わかる? さすがだね。真央、一緒に行こうぜ。グレートジャーニー、五万キロの旅」
「如月、あたしの弟に手を出すなって言ったでしょ」
「そうよ、あんたは宇宙にでも帰りなさい。宇宙人なんでしょ」
ふいに、美咲が声を出して笑った。あたしも、つられて笑う。今年の春、カラオケの帰り、如月は大道の易者に手相を見てもらった。みんなでお金を出し合って、ジャンケンで勝った者が占ってもらおうと、あたしが提案し、如月が勝ったのだ。
ひどく痩せているくせに、褐色《かつしよく》の肌をした易者は、ファラオの墓からよみがえったばかりのミイラのようで、どこか神秘的な雰囲気がした。如月は、手相を見てもらうのは、生まれて初めてだという。
「ついに、おれも初体験」
なんてふざけ半分で、手のひらをさし出した。それをじっと見つめ、口の中で呟き、しばらくして、神秘の易者はおごそかな眼差しを如月に向けた。
「きみは、地球の人ではないね」
「は?」
「気がついていないのか」
「はぁ?」
「きみは、この地球に千人降り立った宇宙人の一人だ」
「はぁ?」
「この街には、三人の宇宙人がいる。その中の一人だ」
「三人も……ですか?」
「地球に千人で、この街に三人て、むちゃくちゃ多くない」
美咲が、傍でささやく。あたしは、たまらず吹き出してしまった。そのあと、如月は、仲間の二人を探し出すために、夜、空に向かって手を伸ばし交信を試みていた。易者に勧められたらしい。一日で飽きてやめた。
そういう事情を知らない真央とスウちゃんに、説明する。スウちゃんは、荷台の上でけたけたと笑ったけれど、真央は、首をかしげただけだった。
「いいんだよ、おれは、地球人として生きることに決めたんだ。故郷の星は、M78星雲のかなたに輝いている」
「あんたウルトラマンだったの」
「宇宙人ていったら、そういうイメージでしょ」
「えー、やっぱつるつる頭のETでしょ」
あたしは、人差し指を如月の目の前に突き出す。
「あたし、かぐや姫のイメージあるよ」
と、スウちゃん。
「かぐや姫って月でしょ。近すぎ」
「かな?」
「うん。せめて、太陽系の外には出たくない?」
「だから、M78星雲だって」
「あほくさ。海に行くのにも一苦労してんのに、太陽系どころの騒ぎじゃないよ」
美咲が、トングを脱いだ素足を染子の背中にのせる。腹這いになったまま、染子はおとなしくしていた。目を閉じて、時折、大きく息をつく。
「染子」
真央が呼ぶと、薄目を開けて三度、尾を振った。
「こりゃあ、海岸に墓穴《はかあな》を掘るなんてことに、ならなきゃいいけど」
「美咲、つまらないこと言わないでよ。それと、足引っこめてよ。染子は足置きじゃないんだから」
「ふふん」
あたしたちの街から海まで、車だと一時間で着く。のり継ぎのある電車より、よほど早い。快適にはほど遠いのり心地だけれど、贅沢は言えない。社長さんに拾われたのは、奇跡のような幸運だったのだ。そして、禍福《かふく》は糾《あざな》える縄《なわ》のごとしである。福のあとには禍が、でんと控えている。あたしは、染子の頭に手を置いた。硬い頭蓋骨《ずがいこつ》の感触がする。その硬さが、なんとなく心細い。
「ねっ、潮の香りがする」
スウちゃんが、風の中で鼻を動かした。
「ほんと?」
あたしが、目を閉じて風の香りを嗅《か》ごうとした時、車が止まった。荷台と運転席の間にあるガラスを太い拳が、叩く。指の太さに似つかわしくない優しい叩き方だ。
如月が、荷台から飛び降りる。ここまでらしい。あたしたちは、車から降りると、一列に並んで、社長さんに頭を下げた。
「二時間ほどしたら、また、ここ通るから」
社長さんは、口下手らしい。短く、ぼそぼそと不鮮明に、必要なことだけを口にする。花束を抱いた夫人を助手席にのせて、さっさと行ってしまった。
海は、すぐ傍にあった。犬とともに歩く旅もヒッチハイクも必要ない。すぐ傍だ。砂浜と白い波頭が広がる。海だ。
「寒くない?」
美咲が自分の身体を抱く。腕に鳥肌が立っていた。
「うん……だね」
あたしもしぶしぶ認める。寒い。砂浜も波頭もある。ぎらつく太陽だけが、欠けていた。
あたしは、海に合わせたサーフプリントのタンクトップとカプリパンツというファッションだから、太陽の欠けた海岸は、正直寒い。
「クーラーもついてないのに、荷台、けっこうガマンできたもんね。今日、寒いんだ」
スウちゃんは、海に向かう風に顔を向けた。くしゃみをする。
「そういやあ、天気予報、上空に寒気が入って不安定な天候になるって言ってたな」
「寒気って……如月、なんで、それを早く言わないのよ」
如月は、クラッシュデニムのポケットから、携帯ラジオを取り出した。耳からイヤホンをはずす。
「今、聞いたばっか」
染子が吠える。苛立つように、前足で道路をかいた。
「行こう」
真央が、珍しく断定的な言い方をする。染子を先頭に、あたしたちは、憧れの浜辺へと歩いた。波の打ち寄せる浜は、海水浴場ではないらしく、海の家もなく海水浴客もいなかった。海水浴場であっても、この天候では、人はいないだろう。
革ひもをはずすと、染子は、波打ち際を走り、匂いを嗅ぎ、あたしたちに向かって尾を何度も振った。
「嬉しそうじゃん」
如月が、真央の肩を叩いた。
「あたしたち、犬を喜ばせるために来たわけ?」
美咲が、長袖のパーカーに袖を通しながら、皮肉を言う。準備のいいことだ。
「犬だろうが、スッポンだろうが、喜んでくれたほうがいいだろうが」
「宇宙人の言いそうなことだね」
「ね、お弁当食べよう」
スウちゃんが、カゴバッグの中から、コンビニの袋を取り出した。
「おにぎりと飲み物と唐揚げで、一人六百円。あっ、真央くんの分もあるよ。よけいに買ってるから」
「さすが。用意がいい。食料係、スウちゃんに頼んだのは正解だよね」
「あっ、おれ、金持ってきてないけど……」
「真央の分くらい、理穂が払うよ。形だけとはいえ姉貴なんだから」
「美咲、形だけって何よ。正真正銘の姉貴です。真央、立て替えとくからあとで六百円、返してよ」
「ケチでしっかり者の姉貴がいて、真央は幸せ者だ」
「あたしも、あんたみたいな皮肉屋の悪友がいて、幸せだよ」
あたしと美咲が、いつもの調子で言い合っているうちに、スウちゃんと真央は、ビニールシートを広げ、お昼の準備をしてくれた。如月は、耳にイヤホンをつけたまま、ぼんやりと海原を見つめている。染子は、波とたわむれていた。
風が、ふいっと強くなる。陸から海に流れる。美咲の麦わら帽子が、その風にさらわれた。あっと叫んだ時には、もうかなり高く舞い上がり、そのまま、海へと運ばれていく。波の上に、ふわりとかぶさった。
「ちょっと、やだ。日に焼けるとマジ発疹が出んのよ」
美咲が、あわてて日傘を取り出す。ほんとうに自分のことに関してだけは、準備の怠《おこた》りがない。この能力を他人に対して使えたなら、美咲は、気配りと慈愛の人になれるだろう。
「如月、帽子、取ってきてよ」
「あきらめろよ。海に入んのやだよ、おれ」
「泳ぎに来たんでしょ。海に入んなくてどうすんのよ」
「海ってのはな、見てるだけでいいもんなんだぜ」
「何、格好つけてんのよ。帽子が……」
染子が海に飛びこんだ。波に漂う麦わら帽子に苦もなく追いつき、口にくわえ、浜辺に戻ってくる。そういえば、染子は水遊びが大好きで、散歩のたび、近くの川に飛びこんでは、あたしや真央の投げるビニールボールを嬉々として取りに行っていた。忘れていた。古い絨毯のようになってうずくまる染子ではなく、犬であることを誇っているような、堂々とした染子がよみがえる。
帽子を口にくわえたまま、体を震わせて海水をはじくと、染子は、美咲の足元にそっと帽子を置いた。お座りをする。
「いい子ね」
美咲がしゃがみこみ、濡れた染子の首を抱いた。
「宇宙人より犬のほうが、よっぽどステキだよ」
「ごほうびに、おにぎりあげようよ」
スウちゃんが、みんなから徴収したおにぎりのかけらと唐揚げを、ぺろりとたいらげ、染子は、また、波打ち際で遊び出した。
太陽は顔を出さない。地元の子だろうか。真っ黒に日焼けした男の子が二人、釣《つ》り竿《ざお》を持って、砂浜を走っている。ふと、祭りの夜、ワニを飼いたいと言った少年を思い出した。
「ねえ」
美咲が、タラコのおにぎりを頬張りながら、みんなの顔を見回した。
「誰も泳がないの?」
「ここ、海水浴場じゃないっしょ。海に入るの危なくねぇ?」と、如月。
「寒い」と、あたし。
「如月くんじゃないけど、海見てるだけで、満足」と、スウちゃん。
真央は、一口、唐揚げをかじり、「海パンがありません」と、答えた。
「あんたたち、何でそんなにいいかげんなの。海に来たら泳ぎなよ。理穂、十七歳の夏のメモリアルはどうしたのよ。真っ黒に焼くんじゃなかったの」
「寒い」
「意気地なし」
「どーとでも、お言い。お金なくて、水着も新しいの買えなかったし、来年、十八歳の記念に肌焼きする」
「ほんと、出たとこファイトの性格だね。むちゃくちゃいいかげん」
「あんただって、似たようなもんでしょ」
「あたしは、はじめっから泳ぐ気なんてないよ」
美咲が鼻に皺を寄せる。美咲の荷物の中には、水着は入っていないのだ。日傘をさして、帽子をかぶって、長袖のパーカーを着て、美咲は、あたしたちが泳いでいるのを、ずっと見ているつもりで、海に来たのだろうか。
「オットセイだ」
少年の声がする。釣り竿を手にした少年たちが波間を指さしていた。
「オットセイって? こんなとこに、オットセイがいるの?」
あたしの問いに、まさか、と美咲が笑った。
「ガキの言うことなんか、本気にしないの」
真央が、はじかれたように立ち上がる。
「染子は?」
染子の黒い姿は、波打ち際のどこにもなかった。
「染子!」
真央と如月が同時に走る。あたしも続いた。ミュールを脱ぎ捨てて、裸足《はだし》で走る。
「染子!」
波が来る。空を映して灰色の波が、あたしの素足を濡らす。足の下で砂が動く。遠く雷の音がした。
「染子!」
波間に黒い頭が漂う。その頭があたしたちのほうに向けられる。染子だ。まちがいなく染子だ。
「染子、帰ってこい。バック!」
真央が大声で叫ぶ。
「そめこー」
あたしも、身体を折り曲げて力いっぱい名前を呼んだ。
染子は、ちらりと浜辺に並ぶ人間を見た。それから、くるりと向きを変え、沖へと泳ぎ出す。
「うそ。何、何やってんのよ」
寄せてくる波に足を取られ、あたしはふらついた。細い腕が、後ろから支えてくれる。
「美咲……染子……何?」
「人間なら、入水《じゆすい》自殺ってやつじゃないの。犬の自殺なんて、初めて見るよ」
「そんなわけ、ないでしょ!」
怒鳴ったつもりだったけれど、ほとんど音声にならなかった。
「染子」
真央が呟く。
「あれ、犬? オットセイ?」
釣り竿の少年たちが、真面目な顔で聞いて来た。
「犬よ」
犬よ。あたしの犬。海を泳ぐんじゃなく、大地を走る生き物なんだよ。黒くて、賢くて、十二年も一緒に生きてきた動物なんだ。
「染子」
真央が、また呟く。まっすぐ、沖を見つめている。強いな。そう思った。あたしは、だめだ。波の間に消えていく染子を注視なんてできない。目を閉じ、座りこむ。波の音が、耳の奥に響く。
それは、染子を拾った真夏の海岸の音だった。染子は、あの海に還《かえ》ろうとしている。
誰かの手が、背中をなでてくれる。この柔らかさ、優しさはスウちゃんだろう。美咲は、他人を慰めることなんて、絶対にしない。
『海に還る犬』という題名が、ふっと浮かんだ。そうだ、この夏、染子のことを書きとめよう。染子の十二年間をちゃんと、書き残してやろう。作文だけは得意だ。あたしの知っている染子を丁寧に、物語にして……。
ぴしゃりと背中を叩かれた。背骨にまでこたえるほど強い、遠慮のない叩き方。美咲だ。
「痛いなぁ、なんで、叩いたりすんのよ」
「帰ってきたよ」
「は?」
「おたくの犬」
「え?」
顔を上げたあたしの目の前で、真央が、水しぶきを上げて海に入っていく。両手を広げた真央に、染子が飛びついた。
「ちゃんと、帰ってきたよ」
立ち上がったあたしに向かって、美咲が独特の皮肉な笑顔を向けた。
「海に消えていく犬なんて、ちょっとかっこいい物語っぽかったけどね。惜しかったね、理穂」
「人生、物語じゃないわよ」
あたしは、うろたえを隠すために、横を向いた。
「犬生でしょ。なかなか、おもしろがらせてくれるじゃない、染子って」
美咲の手が、もう一度強く、あたしの背中を叩いた。
「たいしたもんじゃない」
「そっ、そうかな?」
「安っぽい物語になるような犬生じゃないってことだよ。あんた、作文得意でしょ、染子のなかなかの犬生、書いてやったら」
あたしの考えたことを見透かしたうえでの皮肉なのか、本気の勧めなのか、美咲はやけに優しげな口調になっている。
染子が、口にくわえていたものを真央の手の中に落とした。
「ボールだ」
少年の一人がのぞきこんで、小さく叫んだ。白い野球ボールだった。軟式用のゴムのボールだ。
「おまえ、こんなもの、捕《と》りに行ったのかよ」
真央が、言葉をつまらせる。染子の頭には、茶褐色の海藻《かいそう》が、のっかっていた。流行《はや》りのエクステを着けているようで、少し笑える。
「それ、いらないなら、ちょうだい」
少年が手をさし出す。真央は、その上にボールをのせた。
「やったー、ありがとう」
釣り竿を揺らして、少年たちが遠ざかる。
「いいね、ガキは。ボール一つで喜べて」
美咲が腕を組んだ時、ボールを受け取った少年が振り向き、空を指さした。
「雨、降るよ──」
空を見上げる。灰色の雲は、ところどころ黒に近い色となり、あたしの見上げた空を厚く覆《おお》っていた。
「やばい」
如月が唸《うな》る。
「崖のとこ、雨宿りできる」
少年の指が、今度は、松のはえる崖をさす。なるほど、ぽかりと開いた暗い場所が見える。
「ボールのお礼に教えてくれたみたいだぜ。いい子だな」
「サッカーボールだったら、もう少しマシなとこ紹介してくれたんじゃない」
美咲が、溜め息をついた瞬間、雨が落ちてきた。大粒の雨が頬《ほお》に当たる。みるみるあたりは暗くなり、はるか水平線に稲妻が走った。
「急げ」
海面が沖から白く煙《けむ》る。スウちゃんが手早く、シートを片づける。しっかり者のお母さんて感じだ。
「なるほど、大気が不安定になるってのは、雷が来るってことなんだな」
「如月、気象予報士にでもなるつもり? まったく、雷ってのは、もっと暑くて、蒸《む》し蒸ししてたまんないって時に来てほしいよ」
「理穂、文句言ってる間に、走りな」
あたしたちは、口々に叫びながら、でも、けっこう楽しみながら砂浜を走り、崖の穴に飛びこんだ。
風なのか波なのか、自然の力で穿《うが》たれた穴は、洞窟と呼ぶにはあまりにお粗末だけれど、高校生四人、中学生一人、犬一匹、雨宿りできるぎりぎりの広さがあった。
雷鳴がする。稲光りが空を走る。雨脚《あまあし》が激しくなる。
「まさか、ここ、浸《つ》かったりしないよね」
素足に感じる砂の湿《しめ》りが、ちょっと怖い。
「満潮時には、海水上がってくるみたいだぜ。ほら、海藻とか貼りついてるもん」
真央が、きれいな薄緑の海藻をつまんだ。
「やだ、そんなの、溺れるじゃん」
「理穂、あんた、潮が満ちてくるまでここでぼけっとしてるつもり? すぐそこに道路があんのよ。この状況で溺れ死んだら、一生笑い物だね」
「死んでるんだったら、一生も何もないよ」
染子が吠える。穴から出て、雨の中に立つ。気持ちよさそうに、目を細めていた。真央が、笑った。
「あいつ、シャワーのつもりかな」
「おれも、真似しようかな。昨日、風呂入ってないし」
如月が、プディングヘッドをがりがりとかいた。
「不潔」
あたしと美咲の声が重なる。
「るせえな。いいだろ、風呂ぐらい」
如月は、ロゴTシャツを脱ぎ捨てると、飛び出していった。
「だめだよー、如月くん、雷が落ちるよ」
スウちゃんが、本気で叫ぶ。
「理穂ちゃん、とめたほうがいいよ。海岸て雷、落ちやすそうじゃない」
「いいの、いいの。電気ショック受けたら、少しはまともになるかもしれないし」
「ねえ、雷が落ちてケガとかしたら、謹慎《きんしん》かな」
美咲が、如月と染子を見つめて言った。
「まさか。なんで、雷で謹慎なのよ」
「だってバイクで事故ったら、無期停《むきてい》じゃん」
「バイクと雷は、全然別物でしょ」
「うん、まあね。けど、如月、楽しそうじゃん。楽しいことって、謹慎なりやすいでしょ」
「そりゃあね」
「雷落ちたら、死んじゃうよ。如月くん、やめなよ。楽しくたって、ダメだよ」
スウちゃんは、雷が苦手らしい。心なしか、顔色が青くなった。
「あたしも行こうっと」
美咲がパーカーを脱いで、あたしに渡した。雨の中を歩くのは、美咲の奇癖の一つだ。
「風邪引くよ」
「ほっといて」
「ほっとくけど……じゃあ、あたしも行く」
スウちゃんに、荷物を押しつけて、あたしと美咲は雨の中に踏み出した。
「だめだって、雷、落ちるって」
スウちゃんが泣き声を出す。
「でも……音、しないですね」
真央が空を仰《あお》ぐ。いつの間にか、雷鳴は遠のいていた。あとを追うように、雨脚も急速に勢いを失っていく。
「何、これ? ショボすぎ」
美咲が、空に向かって拳を突き出した。あたしも同調する。
「降るなら、降れ。晴れるなら、びしっと晴れろ」
雲が覆い、ちらりとも青ののぞかない空に悪態をつく。
「そうだ、中途半端野郎め」
美咲は、さらに拳を高く突き上げた。
スウちゃんと真央が顔を見合わせ、くすっと笑った。
その後、一時間、あたしたちは浜辺で遊んだ。雨のあと、さらに涼しくなった海は、泳ぐのには不適切でも、駆け回って遊ぶには手頃だった。海にも走ることにも興味を失ったのか、染子だけは、伏せたまま目を閉じていた。
二時間後、あたしたちは、また、社長さんの軽トラにのりこんだ。
「楽しかった」
スウちゃんが、膝を抱えて呟いた。
「来年も来たいな」
「来年の夏か」
一年も先のことなんかわからない。でも、今日は、確かに楽しかった。それで、いい。
「あっ」
如月が小さく叫んだ。ふっと息をつき、イヤホンをはずした。
「何、ラジオ?」
「うん」
「また、天気予報?」
「いや、県営球場」
「え?」
如月は、あたしの前に、可愛らしいほど小さなラジオをさし出した。ボリュームを上げる。張りつめたアナウンサーの声がもれて来た。
「試合終了。五対三。──高校、甲子園出場。繰州東、敗れました。春夏連続出場の夢が断たれ──」
歓声と雑音が混ざり、よく聞き取れない。それでも、何があったのか、理解はできた。充分すぎるほど、できた。
「睦月……負けたんだ」
「睦月が負けたわけじゃないでしょ。一人でやってるわけじゃないんだから……うるさいね、これ。頭が痛くなる」
美咲がラジオを切った。静かになる。染子の息づかいだけしか聞こえない。
今日が地区予選の決勝だったなんて、知らなかった。今の今まで、如月は何も言わなかったのだ。
「睦月の夏も終わったか」
そう呟いた如月を、美咲が笑い飛ばした。
「何、かっこつけてんのよ。甲子園なんて関係ないでしょ。夏はまだ続くよ。睦月に言っときなよ、少しぐらいなら遊んであげるって」
「もう一度、海に来れないかなぁ」
スウちゃんは、海にこだわる。
「今日、マジで楽しかったもの。来ようよ。もう一度」
「お金ないよ。バイトしなくちゃ」
「だよね。高校生のバイトも厳しいよね。全然、ないもんね」
スウちゃんが嘆く。
あたしは、小さなラジオにそっと触れてみた。
睦月、泣いているだろうか。悔しいだろうか。悲しいだろうか。安堵《あんど》しているだろうか。もう少し、あと少し手を伸ばせば届くはずだった夢が、身を翻し去っていった。その一瞬に、睦月は何を考えたのだろうか。問うてみたいとは思わない。知りたいとも思わない。ただ、あたしには、決して経験することのできない一瞬を、睦月は、今、味わっている。
睦月も如月も美咲も、幼なじみだ。よくある言い方だけど、よちよち歩きの頃から、一緒にいた。いつも四人、一緒にいた。なのに、睦月だけは遠い。離れている距離ではない。会わない時間の長さじゃない。そんなものなら、越えてみせる。何だろう。何が、あたしと睦月を隔てているのだろう。
夕焼けを思い出した。そうだ、あの時も夕焼けだった。中学一年の時だ。睦月の試合を観に行ったことがある。中学校のグラウンドだったから、公式の試合じゃなくて、練習試合みたいなものだったと思う、よく、覚えていない。どうして、野球の試合なんかを観に行ったのかも覚えていない。
睦月は、ピッチャーをやっていた。
「睦月って、球投げる人なの?」
あたしが聞くと、スルメの足をかじりながら、如月が首を横に振った。
「エースの調子が悪いから、やらされてるんじゃないの。あいつ、何でもできちゃうから、けど……」
「何よ?」
「嫌だろうなって思って。むっちゃ緊張してるもんな」
「そうなんだ。よく、わかるね」
あたしたちのいる場所から、マウンドは遠くて、睦月の表情を窺《うかが》い知ることは、不可能だった。
「バッターボックスにいる時と、全然、感じ違うじゃん」
「そうかなあ。違うように見えないけど」
あたしの言葉を無視して、グラウンドを向いたまま、如月が呟く。
「打たれるな、あいつ」
それから、スルメをかじり、あたしの顔をのぞきこんだ。
「理穂」
「うん?」
「球を投げる人って何だよ。おまえ、明治生まれか。ピッチャーって単語くらい、フツーに使え」
指摘されるとおかしくて、声を出して笑った時、キンと耳障りな金属音がした。高く空にあがった白球が、グラウンドのフェンスを越えて、消えていった。
「うわっ、何、あれ。あんなところに打ったら誰も捕れないよ」
「ホームランだよ」
「知ってるよ、そのくらい。ねっ、睦月、打たれたよ」
「だな」
ふいに、如月があたしの腕を引っ張った。
「帰ろう」
「帰るの? もう、観ないの?」
「観なくていいよ」
「けど」
「睦月の負けるとこなんて、見たくねえだろう」
今より幼い、まだ少年の面影《おもかげ》が充分に残っていた如月が、唇をとがらせて言った。すねた子どもの表情だった。あたしの返事を待たずに、さっさと歩いていってしまう。何となく、あとを追った。
学校近くのコンビニで、ジュースとサンドイッチを買った。店の前に座りこんで食べたあと、隣接する本屋で、雑誌を立ち読みして、新曲のCDを聴いて、過ごした。名前も顔も忘れたけど、同じクラスの女の子がいて、髪を染めてみたいねなんて、可愛いおしゃべりをした記憶がある。
本屋を出ると夕焼けだった。空を行く鳥の姿が、漆黒《しつこく》の影に見えるほどの、濃厚な赤い空だった。
睦月がお腹をすかしている。
何の根拠もなく、あたしは、そう思った。もう一度、コンビニに入り、有り金をはたいて、ドーナツと牛乳パックを買った。
「何それ? 差し入れかよ」
「つもり。睦月、まだいるかな」
如月は、何も答えなかった。あたしは、駆け足で、グラウンドまでの坂道を上った。
グラウンドも夕焼けだった。薄紅《うすべに》のオーガンディを纏《まと》ったように、どこも美しく赤い。
試合はとっくに終わったのだろう。グラウンドには、睦月以外の人影はなかった。睦月だけが、立っていた。バッターボックスのあたりだろうか、一人、何をするでもなく立っていた。影が長く伸びていた。コンビニの袋を下げたまま、あたしも立っていた。近づけなかった。
夕陽をあび、地に影を伸ばして立つ睦月は、あたしのまったく知らない人だ。そう感じた。確かに、はっきりと感じた。ひどく寂しげに見えるのに、決して他人を寄せつけない。美咲の拒否とは異質の何かがあった。
傍に走り寄って、ぽんと肩を叩いて、「試合、惜しかったね」なんて笑って、コンビニの袋を渡す。それだけのことが、できなかった。
「理穂」
後ろで如月が呼ぶ。その声に、なぜかほっとした。如月はあたしの横に並び、バッターボックスに一人立つ兄を見つめていた。
それから、乱暴に、袋をひったくると、まっすぐに赤いグラウンドを突っ切っていった。
「睦月」
睦月が振り向く。走ってくる弟に身体を向けた。
「ほらよ」
マウンドの手前から、如月が袋を投げる。夕焼けの中、白い袋が弧《こ》を描く。
「リィからだぞ」
伸ばした睦月の手の中に、袋はすっぽりと納まった。
それと同時に、あたしはグラウンドに背を向けた。あたしは、何も知らないのだ。睦月のことを何も知らないし、これからも理解できない。大切なものを一つ、なくしたような気がした。
もう四年も前のことだ。あたしは、説明のつかない喪失感に涙ぐむような年齢ではなくなった。それでも睦月は遠いと感じる。そして、ちょっぴり寂しい。
「理穂」
美咲が、あたしの投げ出した足を蹴った。
「メールしてやりなよ」
「睦月に?」
「あたしにメールして、どうすんのよ。あんたがどう思ってるか知らないけどね、あいつ、たぶん、あんたに忘れてほしくないと思ってるよ」
「忘れてないよ」
「嘘つき」
あたしは、息を吐いた。美咲相手に、言い訳しても始まらない。
「そうだよ、嘘つきだよ。忘れてた」
「素直に認めたじゃん。そう、あんたは嘘つきで忘れっぽい」
「うう……」
「大食いで、男が好きなくせに、恋愛には鈍感だ」
「くそっ……」
「それでも睦月には役に立つ。同情とか慰めなんか、ブラのストラップほどにも役に立たないけどさ。相手によっては、たまに嬉しかったりするんだよ」
「ブラのストラップは役に立つよ。ないと、困るよ」
スウちゃんが、肩にかかる透明ストラップを引っ張った。
睦月、海、楽しいよ。泳げなかったけど、楽しかった。遊んであげるって、美咲が言ってるよ。
メールをしてみようか。他愛ないメールを送ってみようか。
荷台にトンボが入ってきた。淡いオレンジの夏アカネだ。七月も終わりになる頃、このトンボは、あたしたちの街のあちこちに、群れて飛ぶ。夏の盛りと秋の始まりが、もうそこまで来ていた。
あたしたちは、少し疲れていた。行きほどはしゃぎもせず、高揚もせず、車の震動に身を任せていた。荷台には、あたしたちについてきた潮の香りが、消えずに漂っていた。
驚いたことに、あたしは熱を出した。美咲ではない、あたしがである。海から帰った次の日発熱して、三日間、唸った。四日目の夕方、美咲が、鰻《うなぎ》の蒲焼《かばや》きを持って見舞いに来た。
「ふふっ、いいザマね」
あたしの部屋に入り、壁の写真を指ではじき、ベッドに腰掛けたとたん、美咲は不遜な笑い方をした。
「優しいお言葉をありがとう。涙が出るよ。やっぱ、持つべきものは、心優しい友だちだね」
「そのくらい口が回るなら、大丈夫だね。心配して損した」
「誰が心配したって?」
美咲は肩をすくめ、母があたしのために買ってきた温室ミカンを、断りもなく全部食べてしまった。
「ねえ、例のネコの件、犯人、捕まったらしいよ」
「ネコ?」
「理穂、頭の接触、ますます悪くなったね」
どこかまだ鈍い痛みの残る頭に、草むらに横たわるネコが浮かんだ。
「捕まったの?」
「うわさ。受験ノイローゼの予備校生説と畑を荒らされた農家のおじさん説が入り乱れてる。毒入りの餌を無差別に撒《ま》いたんだって。信じる?」
「信じない」
「だよね。どっちも、いかにもって感じだもんね」
あたしの携帯が鳴る。耳に当てると、低い声が聞こえた。
「もしもし、リィ?」
「睦月」
「久しぶり」
「うん」
ちょっと間があく。お互い、会話のテンポがつかめない時、こういう不意の沈黙におちいる。
「あの、明日、帰るつもりだから」
「ほんと、久しぶりに逢えるじゃん」
口の中がかわく。唇もかさかさだ。
「逢いたいんだけど……都合とかある?」
「それ、デートの誘い?」
「そうとも言える」
「いいけど。あんまし体調よくないんだ。だるくて」
「うん」
「おしゃれとかやる気、出なくてさ」
「重症だな」
「うん。かなり。すっぴんのあたしでよかったら、つき合う」
くっくっくと笑い声が伝わる。記憶にある睦月の笑い方だ。小さい頃、如月は上を向き、けたけたと空を突くように笑ったけれど、睦月は、いつも笑みを隠すように視線を地に向けて笑っていた。
「リィのすっぴんも久しぶりだな」
「見たい?」
「すげえ見たい。明日、家に行く」
「わかった、じゃあね」
「あっ、うん」
何かを言いよどみ、結局何も言わず、睦月は電話を切った。
「睦月とデート?」
「明日、うちに来るって。デートってほどのもんじゃないね」
「甲子園の夢破れた若者を慰めてあげるわけだ」
「他人を慰めるほどの気力、ありません」
美咲は、ちらりとあたしの顔を見て、眉を寄せた。
「理穂」
「うん?」
「エッチは、まだ無理だよ。体力快復するまで、やめときな」
「美咲、あたしね、昨日まで三十八度も熱があったんだよ。それでもやりたいほど、好きじゃないよ」
「睦月はやりたいかもしれない」
「あたしの家で、すっぴんで髪ぼさぼさで、たぶん、よれよれのパジャマ姿のあたしとエッチ?」
「惚れてるからね。なんでもよく見える」
「たいした度胸《どきよう》じゃん」
「だね」
美咲の手があたしの額をなでる。
「まだ微熱、あるね」
美咲の手は冷たく、心地よかった。
「もう少しぐっすり寝たら治るよ。明日は、髪ぐらいちゃんとしとくんだよ」
美咲が笑う。花びらが開いていく。極上の笑顔だ。こいつは、どうしてこんなに美しく微笑むことができるのだろう。
「ぐっすり、おやすみ」
美咲の唇があたしの額に触れる。それも、ひやりと冷たかった。
庭で蝉が鳴いている。ヒグラシだ。
カナカナカナ……
澄んだ高い音調は、窓に映る夕映《ゆうば》えの色とよく似合って美しい。
たぶん、椎《しい》の樹で鳴いているんだろう。あたしが小学校一年生の時、埋めたドングリが樹になった。その幹でヒグラシが鳴いている。木陰《こかげ》には、染子がうずくまっているはずだ。海から帰って丸一日、元気だった染子は、二日前ぐらいから、うずくまったまま何も食べなくなった。牛乳さえ飲もうとしないのだそうだ。真央が、教えてくれた。
染子の体、もう潮の香りがしなくなったよ。
真央は、そうも言った。夏と一緒に、染子は逝《い》ってしまうつもりだろうか。
わからない。
美咲の足音が遠ざかる。
ヒグラシが鳴く。
ふと思い立って、手鏡をのぞいてみた。
熱で目がうるんでいる。頬もほんのり赤い。美咲の唇が触れた額だけが、白くなめらかだった。
すっぴんのあたしも、悪くないか。
目を閉じる。
あたしの夏の一日が、ヒグラシの声に送られて、過ぎていこうとしていた。
単行本 二〇〇三年十一月 ポプラ社刊
〈底 本〉文春文庫 平成十八年十一月十日刊