C★N25 contents
〈イラスト・ギャラリー〉
鈴木理華/沖麻実也/椋本夏夜/木々/椎名優/由貴海里/ひたき/桃川春日子/金田榮路/三好載克/士郎正宗/安田忠幸/佐藤道明/高荷義之/生頼範義/西口司郎/東雲騎人/獅子猿/Wolfina/小林智美/皇なつき/小島文美/深遊/岩崎美奈子/山本ヤマト/伊藤明十/鹿澄ハル/カズアキ/那知上陽子/高里ウズ/吟鳥子/相沢美良/鳥子/凪かすみ/香坂ゆう/柴倉乃杏/田口順子
〈短篇小説〉
荒巻義雄 花嫁 イラスト:森流一郎
誉田哲也 最後の街 イラスト:藤田新策
定金伸治 黒猫非猫(くろねこねこにあらず)――ユーフォリ・テクニカ0.99.1 イラスト:椎名優
横山信義 闇の底の狩人 イラスト:佐竹政夫
太田忠司 予告探偵 カタコンベの謎 イラスト:エヴァーソンともこ
佐藤大輔 猫たちの戦野――皇国の守護者外伝 イラスト:獅子猿
鯨統一郎 ハードボイルドごっこ イラスト:直江まりも
谷 甲州 高射噴進砲隊――覇者の戦塵 イラスト:佐藤道明
森 博嗣 ナイン・ライブス――スカイ・クロラ番外篇 イラスト:西尾鉄也
花田一三六 帰郷――曙光の誓い後日譚 イラスト:金田榮路
三木原慧一 我等が猫たちの最良の年 イラスト:牧野千穂
千葉 暁 砕牙――聖刻群龍伝 イラスト:三好載克
大石英司 神隠し谷の惨劇――サイレント・コア番外篇 イラスト:安田忠幸
多崎礼 夜半を過ぎて――煌夜祭前夜 イラスト:山本ヤマト
九条菜月 エルの遁走曲(フーガ)――オルデンベルク探偵事務所録外伝 イラスト:伊藤明十
篠月美弥 還らざる月、灰緑の月――契火の末裔外伝 イラスト:鹿澄ハル
海原育人 絶対不運装置――ドラゴンキラーありますその後 イラスト:カズアキ
荻原規子 彼女のユニコーン、彼女の猫――西の善き魔女番外篇 イラスト:桃川春日子
井上祐美子 黒白(こくびゃく) イラスト:佐藤美絵
三浦真奈美 あれから3年――翼は碧空を翔けて イラスト:椋本夏夜
駒崎優 市場にて――バンダル・アード=ケナード イラスト:ひたき
宝珠なつめ 猫と三日月――熱砂の星パライソ外伝 イラスト:柴倉乃杏
柏枝真郷 ノッブスの十戒――PARTNER-EX イラスト:高里ウズ
茅田砂胡 がんばれ、ブライスくん!――デルフィニア戦記外伝 イラスト:沖麻実也
〈25周年祝賀コメント〉
西村京太郎/柘植久慶/森村誠一/今野敏/風間賢二
〈コミック〉
飯島祐輔 いつか金だらいな日々――轟拳ヤマト外伝
鈴木理華 スペインイタリア珍道中
桃川春日子 秘密の女王会議 原作:荻原規子『西の善き魔女』
鈴木理華 シンデレラ――クラッシュ・ブレイズ コメディ・バ−ジョン 協力:茅田砂胡
〈特別企画〉
●C★NOVELSの25年
荒巻義雄インタビュー 私とノベルスの25年
C★NOVELS、その栄光の軌跡
C★NOVELS刊行全点リスト
●特別対談 森博嗣×荻原規子
●C★NOVELS大賞特集
歴代大賞受賞者は語る――C★NOVELS大賞受賞者アンケート
C★NOVELS大賞とるには座談会〜傾向と対策〜
●翻訳ファンタジー特集
翻訳シリーズ誕生前夜 駒崎優氏インタビュー
魅惑の翻訳ファンタジー座談会
INDEX & COMMENTS
ごあいさつ
猫のマークを背にいただいたC★NOVELSが産声を上げてから、25年。
ミステリー、SF、シミュレーション、ファンタジー――さまざまな小説が書かれ、翻訳され、イラストにいろどられ、963点の書籍となって旅だちました。
ご愛読くださった皆様、そして作家をはじめかかわってくださったすべてのクリエイターのかたがたに感謝の気持ちをこめて、この本をお届けいたします。また、この本がC★NOVELSとの初めての出会いになるかたには、お気に入りの作品が見つかりますように。
書き下ろしの短篇小説とイラストレーション、コミックからなるアンソロジーを、どうぞお楽しみ下さい。
C★NOVELSではこれからも、よりおもしろい小説作品を刊行してまいります。
次の四半世紀も、なおいっそうのご愛読をいただけますよう、心よりお願い申し上げます。
[#地付き]2007年11月
[#地付き]C★NOVELS編集部一同
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25周年祝賀コメント
西村京太郎
Kyotaro NISHIMURA
創刊25周年、おめでとうございます。
私の本も、C★NOVELSから、21冊出ていると聞いたが、昨年出した『北への逃亡者』が、丁度、私自身の、著作400冊目となった。これも、何かの、縁かも知れない。
日本のほとんどの場所へ、足を運んだが、人がそこにいる限り、書きたいことは、尽きない。なにしろ、「人生とは、愛と友情と、裏切り」なのだから。
柘植久慶
Hisayoshi TSUGE
C★NOVELS創刊25周年おめでとうございます!! 私のC★NOVELSの作品は、1993年の『逆撃 関ヶ原合戦』に始まり、2007年の『聖槍V』まで実に50冊が刊行されています。
これは私の全著作リストの実に五分の一を数えました。舞台も日本の戦国時代から第二次世界大戦、更にハンニバル戦争やインドシナ、アルジェリア戦争まで、広範な時代にわたって描いてきたのです。その意味からすると、作家として私を育ててくれた苗床であったと言えるでしょう。
森村誠一
Seiichi MORIMURA
つい昨日のことのようにおもわれていた創刊から早くも四分の一世紀経ったと聞いて驚いた。その間拙作を何冊出してもらったであろうか。出版物の歴史は、作家の歴史に照応する。ノベルスは機動部隊でいえば駆逐艦である。単行本が戦艦や空母に相当すれば、軽量の駆逐艦のノベルスはフットワークが早く、小回りがきく。読者も気軽に手に取ってくれる。潜水艦に弱い空母や戦艦の楯となって抜群の戦力を発揮する。私の作品も25年間、中心の駆逐艦となって出版界の荒波で暴れたとおもうと感慨新たなものがある。おめでとうございます。
風間賢二
Kenji KAZAMA
25周年、おめでとうございます! 実は、ぼくも今年で結婚25周年を迎えました。いやあ、よくぞいままで持ちこたえました、というのは我が夫婦のことで、C★NOVELSに関してはノベルス創刊ラッシュのときも少しも心配していませんでした。なにしろ、創刊時にコナン・ドイル未紹介作品集を刊行するほど斬新かつ特異な叢書だったから。ラインナップを見ると、いまでもそのスピリッツを保持しているので、これからも安泰ですね!
今野敏
Bin KONNO
四半世紀というのは、なかなかたいしたものです。私も、C★NOVELSにはずいぶんお世話になりました。ノベルスにはなかなか厳しい状況が続いていますが、ノベルス版でしかできないこともあるはずです。なんとか時代の荒波を乗り越えて、さらに歴史を重ねていただきたいと思います。
逆境を乗り越えるには、湯水のように金を使うか、知恵を働かせるしかありません。金は出せませんが、知恵の相談ならいつでも乗ります。
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荒巻義雄インタビュー
私とノベルスの25年
荒巻義雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)卸屋《おろしや》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)作家|冥利《みょうり》
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荒巻義雄インタビュー
私とノベルスの25年
作家生活37年
C★NOVELS最多の著作数を誇り「旭日の艦隊」シリーズで大ブームを巻き起こした
荒巻義雄先生に
ノベルス界の四半世紀と自著について語っていただいた
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ノベルスの創世記
――C★NOVELSの創刊は一九八二年。荒巻先生の目からご覧になって当時の状況はいかがでしたか?
新書の世界の全般的な状況から言えば、教養新書が主でした。小説については、最初にミステリーで立ち上げたカッパ・ノベルスの独占だったわけ。やがて祥伝社がノンノベルをつくった、ぼくはその立ち上げに誘われたんです。
そのころ半村良さんたちが「伝奇小説」をはじめていました。流れをたどれば『南総里見八犬伝』のような小説ですね。それと松本清張さんに代表される「社会派推理」もあった。それで、次のイノベーションとして、「伝奇推理」っていうのをやりたいというのが編集部の希望だったんですね。そこで一年くらいかかって、『空白の十字架』という話を書き上げたんですよ。松前の千軒岳にあるキリシタンの伝承にUFOをくっつけて。今読んでも密度がすごく高いんですけどね(笑)。書いたらうまくいったので、それからいろいろ書きました。
空白のシリーズはかれこれ八巻書いたのかな。朝日新聞に広告が出て、それで親父も喜んじゃってね。それまで作家なんて認めたがらなかったんだけどね。親父が死んでから聞いたんだけど、神田の卸屋《おろしや》にいって、リヤカーいっぱいぼくの本買って、郷里の水戸でみんなに配ったんだって。生きてるうちはそんなこと一切言いませんでしたね。
で、祥伝社の成功を見て徳間書店がトクマ・ノベルズを出したんですね。SFの作家たちがそこで一斉に書くようになりました。当時、SFの拡散と浸透ということが言われましたけど、新興ジャンルだったSFが新書界に拡がっていったんです。いい時代でした。銀座に連れていってもらったり。そういうのはぼくらがきっと最後の時代ですね。
――そしてC★NOVELSが出ました。
うん。講談社とか、各社一斉に新書界に出てきた、その時期にいよいよC★NOVELSが登場するんですが、独白色を出そうっていうことになったんですよ。なぜなら、作家はみんな忙しいし、既に他社で人気シリーズを持っている。新機軸を出さないと、C★NOVELSとして自立しないんです。それで社内で密かに策をめぐらして……(笑)。編集者のNさんが札幌にきたんです。いっしょに鮨《すし》食いながら、そのときはじめて「シミュレーション」っていう言葉を耳にしたわけです。
当時ぼくは、今では慶大教授になった巽孝之《たつみたかゆき》さんの影響もあって、ポストモダン哲学をやってました。だからすぐ、シミュレーションっていうのは、ポストモダン哲学用語で重要な概念なんだと気づいたわけです。ただ、その言葉はまだ日本ではあまり流布《るふ》していなかったんです。
軍略小説とか、そういうジャンル名も考えたんだけどね、「戦記」といってしまったら、戦争だ! って騒がれて大反対されるのが目に見えてる。そこで「シミュレーション」という迷彩をかけたんですね。これが非常に受けて軌道にのってきた。
新しいものはもともと異端だから、世論や社内事情にあわせる努力も陰ながらしてるわけ。それが成功した理由のひとつだと思いますけどね。
永遠の少年のための「要塞」
――C★NOVELSでは『ニセコ要塞1986』を出版。これが「要塞」シリーズに発展します。
温泉シリーズね(笑)。ニセコも十和田も阿蘇も温泉あるし。琵琶湖にはないけど。
ニセコ要塞なんて大好きだね。ニセコっていうのは一種の箱庭なんだよね。子どものころから箱庭作って遊ぶのが大好きだったから、それを大人になって大規模にやってみたのかな。五万分の一の地図を畳に広げて書いていました。
要塞のイメージも好きだし、おもしろかったですね。まあ子どもって言ったら子どもだよな、ユングが言う「永遠の少年」(笑)。男の子ってのはみんなそうなんじゃない? 子どもの頃、四つ上の兄貴にいじめられてたから、いつも隠れるとこを探してましたね。「要塞」は秘密基地なんですよ。ロビンソン・クルーソーとかね。だいたい男は、家庭の中では女や子どもに押されて居場所がなくて、かわいそうなんですよ。隠れ家がほしいね。温泉つきだよね。SFだから女はいらないんだよな(笑)。
あの作品は深層心理小説でもあるんだよね。冬眠してて、警報が鳴って敵が攻めてくる。こういうイメージって、人間の心理に不安を与える。
日本海の向こうは、当時はソ連だけど、そうは書けないからウォトカからとって「スミノフ」。アメリカは電子計算機からとって「|IBM《イビム》」。とにかく置き換えて迷彩をかけました(笑)。
当時はソ連が北海道に攻めてくるんじゃないかって、みんな真剣に考えてたんですよ。まともに書けないからああいう形になったけど、当時の日本人の無意識が書かれているんだよね。
しかも負けながら勝つというひねりが入っている。どんどん後退していくわけ。
それから連作長篇っていう形、これが好きなんだ。大河巨篇じゃなくて連鎖型で続いていく。イメージとしては、団子を並べて一本の串で刺す、串団子なんだよ。三つ書いて一本、あるいは四つ書いて、って。
――読者参加型という試みもはじめました。
読者をモデルにして作中に出してあげるんですね。みんなの応援で作品ができていったんです。これは大成功でした。
登場人物の一人、釣りマニアの人から、最後に釣りをさせてくれって言われてね。役柄はパイロットなんだけど、世界が消滅していく寸前、アムール川のほとりでイトウを釣り上げている。御当人は読んで感激で涙を流したって。
それから、本物の軍人だったおじいさんで、現世では結婚できなかった女性を登場させてくれ、っていう人もいた。彼が負傷したとき看護婦さんとして出したら、作品の中でやっと会えた、ってすごく喜んでね。
――読者とのインタラクティブな作業。お手紙の整理が大変では?
大変だった。人名カードいっぱい作ってね。けどSFの同人誌やってたしね。同人誌ってそういうところあるでしょ。階級章のワッペン作ったり、カード作ったり。編集部のみなさんもいろんなこと、楽しんでやってた。
「旭日の艦隊」の大ヒット
――「艦隊」シリーズについて伺います。まずは『紺碧の艦隊』がトクマ・ノベルズで大ヒットになりました。書かれたきっかけは?
そりゃ『沈黙の艦隊』がバカ売れして、国会の答弁にもなったからさ。おれもやるか、って最初はかなりいいかげんな動機で(笑)。あっちが沈黙なら、こっちは早稲田卒だから紺碧だ!って。
あれは「姿なき戦略」っていうやつで。紺碧艦隊はその存在すら知らせない。まさに忍軍《にんぐん》、忍者の世界ですよね。そして能ある鷹は爪を隠す、戦果は発表しない。
それにメルヴィルの『白鯨《はくげい》』のイメージもありますね。
はじめは三冊か四冊でやめようと思ったの。ところが……売れれば作家は書くわなぁ(笑)。書店に新刊が入ると、午前中に五十冊が売れて店頭に本がなくなって、大変だぁ!ってことになって。それからすぐ増刷かけて、倍倍倍ですよ。
――続いて姉妹篇ともいえる『旭日の艦隊』をC★NOVELSで開始されました。
かたや忍軍、隠れた軍だから、こっちは表に出る顕軍《けんぐん》になろう、っていうことではじめましたね。
だいたい毎月一冊書いてましたね。暮れなんか印刷所の年末休み前に必死で間に合わせました。当時は今みたいにFAXがないから、フロッピーに原稿つけて航空貨物便で出すんですよ。日曜の朝、車飛ばして投函しにいくというのをやってました。
ワープロなんて当時、二百万もするペンタッチ式のを買って、書いたんだよ。フロッピーが高いから、毎回全部消してまた書くわけ。だから今、原稿残ってないんだよ。シャープのワードプロセッサーだったんだけど、真夏は使ってるうちに熱をもつわけよ、でっかいから。アイスノンで冷やしながら書いたの。十二月なんか年内刊行に間に合わせてくれっていわれて、年末でもうビルの暖房も止まってるから、デロンギ二台つけて書いてたらブレーカーとんじゃって……消えちゃったの。書き終えて帰れると思ったら。もう泣きたくなったけど、しょうがないからまた書いて。そういう時代だったわけよ。いろんな意味で非常に思い出に残ってるね。
「艦隊」シリーズは執筆するのがおもしろかった。約十年やってたけど、作品の時間的経過と、現実の十年がうまくシンクロしてるんだろうね。それで書きやすかった。自分も成長するところがあって、自己組織化しつつ進化してる。なんといってもおれ自身が読みたいんだから、次の巻を(笑)。
とにかく売れて、売れるのが作家にとっては最大のカンフルだよね。自信がつくし。
みんなおもしろいって喜んでくれるし、周りの人もみんな喜んでて、これは作家|冥利《みょうり》に尽きるなと思ったね。
シミュレーション小説の真意とは
――軍事行動や戦争をエンターテインメント小説に仕立てることは論争を呼びました。
敗戦経験というトラウマが、日本人にはあるね。そのトラウマを大半の日本人は消してしまいたい、と思ってる。それがいけない、っていうのが戦後だよな。だから戦後思想との対決でもあるんだよ。
「もしもなんてありえない」って、戦争行った人たちは怒ってたしね。だけど一方では、それをひきずるのがいいのか。子孫はいつまで先祖の犯した罪を背負えばいいのか。日本人そのものを精神分析する必要があると思うんですよ。
民族っていうのは、みんな原罪を持っているんです。アメリカ人ならネイティヴ・アメリカンに対して持ってますよね。そういうコンプレックス構造があって、そこにこういうSF小説が出てきてたら、潜在意識《イ ド》の中に抑圧されてた民族の原罪が、意識化されるね。そのことによって戦争を対象化し、理性的に自己分析もできるんじゃないかな。意識下におし隠すのではなく、意識に上げたほうが真の反省になる。
――シリーズを完結させるのは大変でしたか?
おそらくほとんどの作家が、終わらせ方は最初から考えてると思いますよ。いつでも終われるように書いていると思います。たとえば源義経なら、最後の死を書けばいい。「艦隊」は、世界平和という終わり方をすればいいわけです。
登場人物がみんな天に昇っていく……あの最後のシーンが最初から書きたかった。一部の人は転生したりね、あの作品は生と死の中間の世界を書いたんだよ。これは英霊のために書いたんだから。
うちは小樽《おたる》だったでしょ。戦時中、知り合いの人たちが出征していくわけですよ。それから船乗りの人が……。みんな千島《クリル》とか熱田《アッツ》とかの島沖で沈んでるんです。船が沈むっていったらもう、ものすごくたくさんの人が死んでるんですよ。そのほかにもいろんな形で亡くなった人がいて、そうした英霊に対する鎮魂っていうのが、じつは最大のテーマでした。だから最後はみんな成仏していく。
英霊艦って船まであって、人格を持ってるわけですから。魂があるわけです、艦隊に。
伏線はちゃんとしてあったんだよ。マッカーサーがオーストラリアのブリスベンに行って、副官と話してるとき、ニューギニア戦線で日本兵に助けられるんです。お前はだれだ、って訊ねたら、「A−ray」って。これ、アレイ(電探)のことかって首を傾げるんだけど、実は「英霊」と読むんですよ。英霊が出てきて、困ったアメリカ兵を助けてくれるわけです。
ノベルスが日本文化を守る
――これからのノベルス界、あるいは小説界にはどんなものが求められると思われますか?
何か新しいものを旗印に掲げないと、やっぱり発展しませんね。カッパ・ノベルスは社会派ミステリーだったし、トクマ・ノベルズはSFやスーパー伝奇、冒険もので出てきたわけですよ。ノンノベルだって、「既成概念にノン」っていって、伝奇推理を出してきたし、講談社ノベルスは新本格っていうのを出したら「顔」ができた。そういうのがないとうまく走っていかない。C★NOVELSもテクノサスペンスやシミュレーションっていう新しい概念で軌道にのったし、ファンタジーもくわわって、二輪車ができたけど、三輪車、四輪車にしたい。それにはね、冒険する気持ちがないとダメなんですよ。それをやらないと遺伝子が摩耗して、模倣しかできずに衰退していく。
新しいジャンルっていうのは、神棚からはらっとアイデアが降りてくるようなところがありますね。ぼくはニューウェーブSF、伝奇推理、シミュレーション小説という三つのジャンルに貢献してきたわけだけど、創生期に出くわしたってことは作家冥利、幸せでしたね。後から作家になったらみんな既に書かれてるもん。ぼくもSF界では後発だったから、居場所を作るためにいろいろ考えたわけです。やっぱり新しいジャンルを作るっていうことは絶対おもしろいんですよ。たいがい失敗するんだけど(笑)。
近頃電車に乗ってると、携帯やってる人が多くて、本読んでる人がほんとに少ないよね。楽しみ方が変わってきたんだろうけど。活字でものを考えないでいると、脳は絶対発達しないから。本を読んでイメージを浮かべる、あるいは考える。そういうイメージ喚起力《かんきりょく》を養う訓練をみんなでやっていかないとダメじゃないかなあ。文化とか日本を守るためにね。
新書判ノベルスっていうのはエンターテインメントが前面にあるから、活字を読んで読書に慣れてもらうにはいいはずなんですがね。
[#地付き]【二〇〇七年春 中央公論新社にて】
[#改ページ]
花嫁
荒巻義雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)牛込橋《うしごめばし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)中央線|飯田橋《いいだばし》
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超現実小説
花嫁
[#地付き]荒巻義雄
東京・中央線|飯田橋《いいだばし》で降りたときから様子がおかしかった。ここに来たのは久しぶりだが、妙に陰気くさくて幽霊がでそうな寂《さび》れようだ。後から思いあたったが、わたしはすでに〈結界〉を越えていたのである。
ペンペン草の生えた改札口を出て、目の前の橋の手前で、わたしは、例の採用通知書を見直す。
というのも、橋のたもとに立つ母と小さな娘の話し声が耳に入ったからで、空耳かも知れないが、
「この川を渡ったら、いいこと、二度と戻れないのよ」
と、聞こえたのである。
娘が答えた。
「ええ。知っております、おかあ様。ではごきげんよう」
十歳ぐらいにしか見えないその娘は、目にいっぱい涙を浮かべた母親に向かって、深く頭を下げると、その橋を渡りはじめる。
その光景を目撃してしまったわたしは、いいしれぬ不安に襲われた。
(どうやら牛込橋《うしごめばし》ではないらしい)
だが、娘が渡ったので、意を決してあとについて橋を渡った。
川の名もだ。神田川《かんだがわ》のはずだったが、そうは呼ばないらしい。
無事、渡り終わったが、橋の先には、もう一つ、車道を横断する難関があった。
しばらく、わたしは、信号がかわるのを待ったが、いっこうにかわらない。ままよと、他の通行人に倣《なら》って道を渡ると、そこは映画の映写幕のような次元で、猛スピードで近付いてきた宅配トラックはわたしを轢《ひ》き殺さずに、わたしの体の表面を走り去った。
無事、坂の入口に着く。この先は神楽坂《かぐらざか》のはずだ。だが、やはりちがっていた。標識には〈独身者の坂〉とある。車両進入禁止の標識とともに〈独身者以外進入禁止〉の掲示があった。
商店街はけっこう賑《にぎ》わっていた。わたしにはうまくは言えないが、ここでは単なる商品ではなく〈象徴《シンボル》〉として売られているように思われた。ちなみに、左右の狭い路地の一帯は〈セックスのシリンダー〉という隠語で呼ばれているらしい色街であった。
中程に交番があった。わたしは立ち寄って道を聞いた。
「まっすぐ登って行けばわかります」
と、紺屋《こんや》という名札をつけた若い警官は教えた。
その隣が甘ったるく誘惑的な香りを発散するチョコレート・ショップだ。つぎに葬儀屋とカフェ。奥まった路地に小さな寺、配送センターなどがあり、ウィーク・デーにもかかわらず、独身者たちで賑わっていた。
暑い日だった。上着をとり腕に抱えて坂を上ったが、それにしても長い坂だ。シュシュポスの神話のように未来|永劫《えいごう》つづくのかと思われだしたころは、頭もぼんやりしている。これも、昨夜の夜更かしのせいだろう、眠気がまだとれないのだ。
採用通知にあった就職先の名は、水木《みずき》医院。目印が坂の上にある地下鉄駅で、その隣だからすぐにわかった。しかし、行き違いがあったらしい、錆《さび》と白ペンキが半々になった看板にはなんと〈眼科〉とあった。不思議だ。
しかも、廃屋《はいおく》同然である。わたしは、橋を渡ったときからずーっと抱いていた不安に加え、恐怖心も湧いてきたので引き返そうとした。夢なら早く醒《さ》めたいと思った。
が、突然、玄関脇のガラス窓が開いて、猫が白衣を着たような黒髪の中年女が、ぬぅーと顔を出す。
思わず叫びそうになったのを、やっと飲み込んでいると、
「溝口基《みぞぐちはじめ》先生ですね。どうぞ。院長先生が首をながーくしてお待ちかねですわ。ろくろっ首みたいにネ」
にゅーと笑った。
いつでも逃げ出せるように、腰がひけたまま、わたしは玄関前に立つ。おそるおそる取っ手に手をかけたが、レールが曲がっているらしく、引き違い戸があかない。
すると、先の黒猫女が、
「ちょっと待ってね。今、行灯《あんどん》の油をさすから」
ひょっとすると、化け猫がわたしをからかっているのかもしれないと思いつつ引くと、なるほど、すぅーとあいた。
中にはいると、白髭《しらひげ》の老人が立っていた。わたしを見下ろして、
「先生に来ていただいて援《たす》かりました。早速、勤務していただけますな」
と、水木|平作《へいさく》と名乗った老医師は言った。
どこかで見た顔だが思い出せない。
口ごもっていると、
「さ、上がって」
診察室と隣り合った院長室に通された。
院長室の壁には、大きな展覧会用のポスターが貼ってあった。見覚えのあるもので、わたしも、このエキシビションを見たことがある。
「あれにご興味が?」
院長が訊《き》いた。
「ええ。〈大ガラス〉ですね」
「ええ、そうです」
そう言った瞬間、部屋の空気というか、空間自体というか、が変質したような気がした。
わたしは、目をしばたかせながら、
「ここでインターン研修を受けさせてもらえると思って応募したのですが、わたしには場違いだったようです。来るまでは〈眼科〉とは知りませんでした」
と、言った。
すると、
「君の要望は叶えられます。あくまで、ここの〈眼科〉は象徴ですからな。つまりですな、〈目が眩《くら》んでしまう〉患者のために準備された〈眼科〉ですからな、気にする必要はまったくない……ええ、うちは総合病院ですからご心配なく。あははッ」
うさんくささを感じたが、
「あのう、待遇はどうなんでしょうか。自分なりの生活もありますし」
と、訊いたものの、期待はしないほうがよさそうだった。
「履歴書では独身ですな。なら、この町にお住みなさい。賄《まかな》い付きの格安の下宿屋を紹介しよう。わたしの妹がやっているものでね、独りものには何かと便利だ」
水木院長は言った。
「休日はどうでしょうか。募集条件のとおりでしょうか」
「そうですな、暦どおりとはいきませんが、ここは病院の性質上、比較的自由です。しかし、勤務が楽な分、給料をたくさんさしあげられないが、この町は物価がバカ安い」
「そうなんですか」
わたしが曖昧《あいまい》な顔でうなずくと、
「それではお手続きを」
と、さっきの猫顔の女が、わたしに逃げられるのを阻止する魂胆《こんたん》が見え見えのそぶりで言った。
「ああ、婦長の猫寺《ねこでら》フサ君だ」
院長が言った。
「坂の下に寺があったでしょう、あそこの無縁墓地に縁のある者です」
つづけて、
「もっとも、うちの看護人は、彼女一人きりだがね」
「では、手続きを……」
わたしが鞄《かばん》から取りだした書類一式を受け取った猫顔の婦長は、
「先生のご専攻が精神科ということですが、この町は医師不足でしてね、お産の手伝いをしていただくかもしれませんわ」
「とんでもない。わたしはまだインターンですから、知識も技術も自信ありませんが」
すると、
「経験なんて要りませんわ。ただね、妊婦のお腹の中から何が出てきても、驚いて目を回しさえしなければいいのです」
つづけて、
「ところで、先生は前の住所を覚えておいでですか」
そう言われて、わたしは、なぜか、答えに窮《きゅう》した。思いだせないのである。さっきまで覚えていたのに。
「あらまあ、もうお忘れになった……」
猫寺婦長は嬉しそうに言った。
わたしは、
「ど忘れです、ちょっと待ってください。今、思いだしますから」
すると、
「いいえ。好都合ですわ。坂の下の川を渡れば、みなさん、忘れてしまいますもの。さあ、いやなことはお忘れなさいな、先生。わたしたち、この〈大ガラス〉の町で、楽しくやりましょうよ」
とにかく、そんな次第で、わたしはこの〈独身者の町〉の住民になったのだ。
確かに、ある意味では居心地がよかった。水木医院とは棟続きになる賄い付きの下宿屋のさらに隣には銭湯があり、名は麻利亜《マリア》湯である。早速、ひと風呂浴びたが最高の気分である。
それにしても、掃除・洗濯、三食付きで月三〇〇〇円という下宿代は、今時、信じられない値段である。もっとも、わたしのもらう給料もたったの八〇〇〇円だから、物価としては見合っているのかもしれない。
〈水車館〉と言って、古色|蒼然《そうぜん》とした二階建。旅館のように広い玄関から、まっすぐ上にのぼる階段がある。下宿人の部屋は、よく磨かれた板張りの廊下の左右に並んでいた。
わたしに割り当てられた4号室は日当たりはいいし、夕方など、窓辺に座って夕陽を眺める気分は、まるでわたしの前世の景色を見てるようで懐かしかった。見晴らしの良さは、ここが坂のてっぺんだからである。
朝は七時に一階の食堂に集まるきまりなので、目覚ましで飛び起き、厠《かわや》と洗顔、歯磨きをすませる。食堂には、大きくて頑丈《がんじょう》なテーブルがあり、各自、席も決まっていて、その朝、顔を合わせたのは、わたしを入れて四人だった。
毎日、日本旅館の標準的な朝食のようだ。おきまりの、ハムエッグとか、海苔《のり》とか。自分でよそう七分|搗《つ》きのご飯はお代わり自由であった。
下宿人たちとは、最初の朝だけ自己紹介したが、みな引きこもりタイプのようだ。わたしが、水木医院に就職した新米医師だとわかると、全員が示し合わせたように顔を見合わせたものだ。
最初に、
「部屋はどこです?」
1号室の芥川安治《あくたがわやすじ》が訊いた。剣道|師範《しはん》だそうだ。渾名《あだな》が赤胴である。そう聞かされた時から、わたしは気づいていなければならなかったのだ。
「4号室です」
「じゃあ、上にあがれる隠し階段の隣だ」
「この家には三階があるのですか」
「あるよ」
「外からは三階があるように見えませんが」
わたしは前日の記憶を思い出して言った。
「それがあるんですよ。ないはずのモノが存在する……うふふ……先生、気になりませんか」
「なります、なります。大いに気になります」
わたしは、彼の下手な怪談話に調子を合わせた。
ところが、全員の目に、異様な気配がある……。
「よもや、三階へのぼろうって言うんじゃありませんよね」
「なにか、見られてまずいものが、三階にあるんですか」
すると、2号室の磯村民雄《いそむらたみお》が、
「三階にはね、この町にすむ〈独身者〉たちがそれぞれに恋焦がれる〈花嫁〉が住み着いているのです」
と、教えた。
この2号室の住人は〈独身者の坂〉の途中にあるカフェ〈雀蜂《すずめばち》〉の客引き兼ドアボーイをしているということであった。
「へえッ、ロマンチックですねえ。そう聞くとかえって会ってみたくなります」
わたしは冗談のつもりで言った。
すると、
「およしなさい」
3号室の中年が金切り声で言った。
坂の上にある地下鉄駅〈花嫁〉の駅長をしている俵兵衛《たわらひょうえ》である。
「どうしてですか」
はじめて、わたしは、尋常《じんじょう》とは言えない何かを感じた。
「〈花嫁〉の領域には〈雌《めす》の縊死体《いしたい》〉がある」
「えッ」
背筋に冷たいものが走った。
「女の幽霊が出るのですか」
「幽霊じゃありません」
「じゃあ、何です?」
訊きかえしたちょうどそのとき、代わりのお櫃《ひつ》をもって来たここの女主人が、
「みんな、まだこの町に慣れない先生を不安がらせちゃだめよ」
と、窘《たしな》める。
小太りの五〇すぎでお世《せい》さんとみなに呼ばれている女性だ。
わたしに向かって、
「先生。この町ではなにが起きてもやりすごすことよ」
ますます、わたしは、不安になった。
それからひと月あまりが何事もなく過ぎたその日、院長不在のため、担《かつ》ぎ込まれた妊婦の診察をわたしが担当したが、
「まずいな、もう生まれかかっているぞ」
婦長に向かって、
「急いで院長を呼び戻してください」
「行き先がわからないからできないわ。溝口先生がやってください」
「経験がないのはわかっているでしょう、猫寺婦長」
「わたしはあります」
婦長は落ち着き払っていた。
「どうせ借り腹ですからね、これは……。すぐにすみますわ」
実際、出産は簡単だった。生まれてきたモノの足を掴《つか》んで逆さ吊りにした両手を、片手に持ちかえた猫寺婦長は、あいた手でそのモノの尻をペンペンと叩くと、
「どう、かわいいもんでしょう」
そのモノは、わたしを見てにゅうと笑った。
「さあ、カルテに記録して」
婦長がうながす。
半ば気も動転、戸惑っていると、
「わたしが言うわ。典型的〈異種|受胎《じゅたい》〉――いいわね」
(そんな用語は医学事典にはない)
と、呟《つぶや》きながら、独語でも英語でもなく、とりあえず漢字で書いておく。
それから、体重やら身長やら体液型性別の判定などなどいろいろ手伝わされ、ようやく終わった。
出産の終わった女は、いっときの休憩後、けろっとした顔で、
「あたしの腫瘍《しゅよう》は悪性ではなかったんですね」
と、帰りしな婦長と話していた。
もっとも、彼女自身は、妊娠したという自覚がまったくないらしい。
婦長も婦長だ、
「ええ、そうよ、麻利亜湯の奥さん。奥さんの腫瘍はいつもと同じものよ。きれいに摘出したわ」
わたしは、彼女のカルテを見直してびっくりした。すでに何度も〈異種受胎〉をしているのである。
彼女を見送ってから、
「天使を受胎するなんて信じられません。医学の常識から完全に逸脱しております」
「当然よ、ここは非常識の世界ですもの」
けろりとした顔で応じ、
「麻利亜湯は知っているわね」
「ええ。となりですね」
「高い煙突があるでしょう」
「あります」
「煙を出しているでしょう」
「ええ」
「ほんとうの母親はあの煙よ」
「えッ!?」
「あれがマリア様よ。〈原型樹木〉〈蒸気機関〉〈雌の縊死体〉〈処女〉とも呼ばれる〈花嫁〉よ」
衝撃が走った。
噂は、わたしが着くより早く下宿に伝わり、夕食の席で、下宿人らから〈天使出産〉の一部始終を話すように求められた。下宿人らによると、この町では〈異種出産〉は珍しくはないが、天使が生まれたのははじめてだそうだ。彼らの興味は、天使が卵生《らんせい》ではなかったことだ。わたしは彼らからなんども生まれた状態を訊《たず》ねられた。
「ええ。翅《はね》を折りたたんだ状態で生まれましたよ。濡れておりましたけど、すぐに乾きましたよ」
分類学的にいうと、天使は人間と鳥の異種融合だそうだ。むろん、あまり役にたたない議論であることは認める。しかし、キリスト教美術では夥《おびただ》しい天使が描かれている。むろん、翼は天界に属するモノのシンボルだということぐらいは、わたしだって知っている。しかし、進化の過程で翼を得た哺乳類《ほにゅうるい》がいなかったとは言い切れない。馬は翼を得てペガサスとなり、人類は天に昇って天使となったのだ。
そんな議論をしていると、5号室の住人が食堂に顔を出した。退役軍人の名村昌治《なむらまさはる》で、在籍中は憲兵だったと自称しているが、真偽はわからない。席についた姿は、いかにも制服の権化《ごんげ》と言った感じで、しかし、酒の飲みすぎか血圧が高いのか赤ら顔であった。
一同、白けた感じだが、わたしは一度声をかけてやり、血圧検査に来させたほうがいいと思った。
旧憲兵は、
「諸君、天使誕生の祝いに繰り出そうではありませんか」
と、切り出す。
「いいねえ」
「溝口先生の就職祝いもある」
「いいねえ、わが町へ来た新人歓迎会だ」
「どこへ?」
「われわれの店は〈雀蜂〉と決まっておる」
「むろん、あなたが天使を取り上げた当事者だから、先生のおごりですぞ」
「そんなの、困りますよ」
「赤ん坊が最初に見たのが先生だから、あんたが父親だ。婦長が教えてくれましたぞ。ガラスの保育器の中の赤ん坊の天使は、先生に向かって盛んに笑いかけたっていうじゃありませんか。これこそ、先生がパパだって証拠だ」
「たしかに、とってもかわいいですよ。なんたってエンジェルですからね。でも、身に覚えのない容疑で父親にされては困りますよ」
「いや、証拠はあります。先生が、夜ごと、三階の彼女と交信していることは、下宿のみんなが知っているよ」
そんな根も葉もないことを……ひどい連中だ。が、
「もっとも下宿の三階に残っておるのは、〈花嫁〉の骸骨《がいこつ》だがね、あそこは時空的に隣の風呂屋に通じておる。従って、〈花嫁〉は風呂屋の煙突から昇天して空にたなびきますんじゃ」
――とにかく、一同はカフェ〈雀蜂〉へ繰り出す。
お仕着せ姿のドアボーイの磯村が、一行を迎える。一歩入ると中の光はピンク一色。はなはだ扇情的《せんじょうてき》である。
「弱ったなあ」
と、尻込みするわたしを、連中は、無理矢理、円環状に配置された席の正面に座らせた。
気が付くと人数が増えている。名村が次々と紹介する。
「ええ。坂下の寺の住職、猫寺|法印《ほういん》でございます。ええ、先生のことはフサからうかがっております」
「ええ。同じく坂下の葬儀屋で人足をしております樹下三平《きのしたさんぺい》でござんす」
「わたしは、デパート宅配人の天馬一途《てんばいちず》です」
「ええ、名村憲兵殿の従卒、花木栄治《はなきえいじ》」
まだ一人足りないと思ったら、
「ええ。遅くなりました。もうお目にかかりましたが、坂下交番の警官、紺屋|二郎《じろう》です」
これで、わたしを除く〈この作品の主役たち九人の独身者〉が揃ったことになる。
夢幻の世界である。わたしは、店内に溢《あふ》れる猛烈に甘ったるいチョコレートの香りに酔いしれ、我を忘れはじめていた。
次第に、こんな奇妙な世界を創造した主《ぬし》のもくろみがわかりはじめた。〈雄《おす》の鋳型《いがた》〉と名付けられた九体は、主の企みの罠《わな》にはまり〈エロスの機械〉と化してしまう。
円卓に着いた彼らは、夢中で〈磨砕器《まさいき》〉を回してチョコレートを挽《ひ》き、それが欲望の火を燃やす……。さらに、それぞれの〈毛細血管〉を伝わって七個の〈濾過器《ろかき》〉へ導かれるが、次第に勢いを失って〈不活性ガス〉に変じてしまうのだ。
すでに、わたしにはわかっていた。
ここで演じられる奇怪なドラマはグノーシスの原理に基づく天と地の秘儀的関係に他ならない。
チョコレートに象徴化された男たちの性的衝動が、やがて萎《な》えて不活性化し、〈蝶々の形をしたポンプ〉に吸い取られ、さらには液化されて〈コルクの栓抜き〉の形をした斜面を流れて、〈九つの穴〉に落下、〈飛沫〉となって上方へ飛び上がり、〈検眼図〉や〈眼科医の証人〉と呼ばれる領域を通過するが、水木眼科に就職したわたし自身がまさにその〈証人〉に他ならず、現に、証人となっているのである。
恍惚《こうこつ》の表情で精神的オナニスムを行う九人の制服の鋳型たち……天才によって図式化された異世界にとらわれた自分……。
装置には〈鏡〉の仕掛けがあって、〈意味の中身〉を抜きとられて形骸になった欲望のなれの果ては、花嫁の領域へ輪郭だけが投影されるのだ。
地上の声は天に届くだろうか。
聖霊であるべきマリアは、煙のようにたなびく〈銀河〉と化し、ここは三つ換気弁が付いているのだ。
それにしても奇妙な町だな。
キーワードはあるのかな。
ありますとも、
〈大ガラス〉をつくったのは、
マルセル・デュシャン……
註:〈大ガラス〉はマルセル・デュシャン制作の〈花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも〉の略称。現物はフィラデルフイア美術館にあるが、コピーは東大教養学部美術博物館にある。先年、この作品が横浜美術館で展示された。作者は、このおり買い求めた小さな模型を目の前において、本作を執筆した。
付け加えるが、このガラス製作品は、20世紀最大の暗号といえるであろう。
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COMMENTS
荒巻義雄
あらまきよしお
「旭日の艦隊」「超弦回廊」シリーズなど
ひたすら書いてきたC★NOVELS――合計60巻。自由に書かせてもらいとても楽しかった。物語の醍醐味は新書だと確信しています。次の50周年を目指して、エンターテインメントの牙城になりますように、祈念してやみません。
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最後の街
誉田哲也
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)癪《しゃく》
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若くして、人生を充分すぎるくらい生きてしまった一人の男。
最後に目指すのは、天陸の奥地にあるというこの世の果て
最後の街
[#地付き]誉田哲也
世界は今、ヘッドライトが照らす数マイル先までしか、存在していない。愛車、キャデラック・エスカレードのタイヤが噛んだ分だけ現われる、前方の地面――。
白茶けたアスファルト。その両脇は、雑草が点在する砂地。民家も野生動物も、ここしばらくは見ていない。この世にあるのは、砂と草、道と車、俺、そして暗闇。それだけだ。
国営放送すら入りづらくなり、ラジオはもうだいぶ前に消した。そろそろどこかのローカル放送が引っかかりはしないかとスイッチを入れてみるが、そのたびに乾いたノイズを聴かされる。耳にまで砂が入り込むような気がし、すぐに消す。そんなことを、もう何日も繰り返している。
四、五回、雨も降った。こんな一本道でも、前方が見えないと不安になる。ワイパーを動かせば、扇形にだが視界は得られる。
雨がやんだら車を停め、フロントとサイドの窓だけ拭く。ボディーには触りもしなかった。どうせ綺麗にしたところですぐ砂まみれになるし、そもそも洗車は苦手なのだ。おまけにこの車は、一人で洗うにはあまりにもデカすぎる。
ヒーターを入れるようになったのは、一昨日の夕方だったか。指と爪先に異変を感じ、初めて寒いのだと認識した。試しに窓を開けてみると、いきなり冷気が頬に噛みついてきた。窓はすぐに閉めた。
以来、夜は特に冷えるようになった。今夜も、ヒーターは入れっぱなしになっている。
上り坂に差しかかった。急に雑草の茎が太くなり、あっというまに背が高くなった。どのくらいの広さの森林かは分からないが、抜けるのに小一時間かかった。一度だけ木々の間に明かりを見た気はしたが、それがなんだったのかは分からない。民家だったら用はない。野生動物の瞳孔ならなおさらだ。UFO? 別の星に連れていってくれるのならいいが、妙なものを体に埋め込まれ、元の地点に戻されるだけなら遠慮する。時間の無駄だ。
いや、時間――。それが無駄になるとどんな不都合がある? 別にない。ただ、なんとなく癪《しゃく》なのだ。宇宙人のデータ収集に協力してやる義理はない。そもそも今の俺には、その程度の価値もない。
森を抜け、少し下り、また少し上った辺りで、今度こそ間違いなく明かりを見つけた。
あれが「最後の街」か。
たぶん正式な町名ではない。だが誰もがその名前で呼ぶ。俺も同じだ。おそらくそこが最後の給油地点であり、水や食料の補給地であり、人間と会話ができる最後の場所になる。
気持ちは吸い寄せられるのに、両腕はむしろ拒むように強張《こわば》った。
何を怖れる。魔物がいるわけでもあるまいに。
車は進む。俺の中に生じた躊躇《ちゅうちょ》など、まるで頓着しない快適な走りだ。
明かりの色が見分けられる距離にまできた。点在する民家の窓は、各々のカーテンの色と柄にぼんやりと彩られている。一軒だけある店の看板にはDINER≠フ赤い文字。宿の類はないのだろうか。
街に入る。やはり宿屋はなさそうだった。さっきの店の窓を見ると、なるほど食堂のようにテーブル席がいくつか設けられている。雑貨もある程度は扱っているようだ。向こう隣には給油スペースもある。
俺は店の前に車を停めた。エンジンを切り、運転席周りに散らかした小物をポケットにしまう。携帯は持たなかった。どの道、もう何日も前から電池切れになっている。
車を出ると、もはやこの地方の名物ともいうべき冷気の歓待を受けた。瞬時に顔面と手が痛くなる。あと襟元も。慌てて店のドアに飛びつく。金属ではなく、堅木でできたノブを引く。寒冷地なりの工夫なのだろうが、それすらも冷たいのかどうか分からないほど、感覚は麻痺させられている。
店内の空気は対照的に暖かで、湿っていた。
正面にはバーカウンター。新聞を読んでいた男がこっちを覗く。彼が店主なのだろうか。
「……いらっしゃい」
俺は店内をざっと見回した。テーブル席が右手に三つ。向こうの壁には食品や雑貨がびっしりと並べられている。チョコレート、クラッカーなどの菓子、ビーフジャーキーに缶詰、ミネラルウォーターやソフトドリンク、洗剤、トイレットペーパー、数種類のタバコと雑誌。よく見ると、いずれも一、二ヶ月前の号だ。もしかすると、彼の読んでいる新聞も今日のものではないのかもしれない。
「食事は、できるかい」
新聞をたたみながら店主が立ち上がる。
「……ええ。できますよ」
低い背。耳の上に少しだけ残った白髪。厚手のシャツの赤いチェック。そんなものに、俺はなぜか、ある種の郷愁を覚えた。知人に似た人がいただろうか。親父も死んだ爺さんも、こんな感じではなかったはずだが。
カウンター近くの壁には、メニューの書かれた小さな黒板がかかっている。
「じゃあ……サンドウィッチと、コーヒーを」
店主は薄汚れた白いエプロンをかぶってから答えた。
「……申し訳ない。パンを切らしている」
そうか。今一度黒板を見る。
「じゃあ、ハンバーガーは」
「そのパンならあるが、あいにく肉がない」
苛立ちと溜め息を、俺はいっぺんに堪《こら》えた。
「……なんなら作れる」
「スパゲティなら」
確かに、黒板にもスパゲティと書かれてはいる。ロッソでもビアンコでもなく、ただ「スパゲティ」とだけ。いずれにしても、選択の余地はないということか。
「……じゃあ、それを」
店主が黙って頷く。
「それと、コーヒー」
三秒ほど待ったが、返事はなかった。
俺はカウンターの椅子に腰掛けた。
「コーヒーは、あるんだよな」
「ああ……できますよ」
少し耳が遠いようだ。
店主は、カウンターの下から寸胴鍋《ずんどうなべ》を出して洗い始めた。この分では、いつになったら食べられるか分かったものではないな、と思ったが、別に急ぐ旅でもない。十分が二十分になろうが、三十分になろうが、どうということはない。
鍋とヤカンに水。コンロに火を点ける。
「……なあ。この街に、宿屋はないのかい」
店主はかぶりを振った。
「こんな街に、一体誰が泊まる。旅のもんが、最後の補給をして過ぎていく……それだけの街さ。一泊する必要はないだろう」
確かに。その通りだ。
「……あんたも、その手合いなんだろう」
あまり気持ちのいい言われ方ではないが、図星なので頷いておく。
「ああ。宿があるなら出発は明朝にしようかと思っていたが、ないなら別にかまわない。そのスパゲティを食って、手洗いを貸してもらって……二、三雑貨を分けてもらったら、退散するよ」
店主が壁にあるスイッチの一つをオンにした。換気扇かと思ったが、違った。シーリングファンだった。天井にあるプロペラが、ゆっくりと回り始める。
「……出発をして、どこにいきなさる」
俺はわざと、鼻で笑ってやった。
「決まってるだろう。この世の果て≠見にいくのさ」
それ以外、こんな僻地《へきち》に一体なんの用があるというのだ。
店主は眉間に皺を寄せた。
「およしなさいこの世の果て≠ネんて見たところで、何もいいことなんぞありはせん」
カウンターから出て棚の方にいき、いくつか缶詰を持ってくる。ソーセージと、豆の水煮か何かだろうか。
「何もないって、オヤジさん……じゃああんたはこの世の果て≠見たのかい」
店主は缶詰を調理台に置いた。
「……そんなもの、見なくても分かる。何もないからこの世の果て≠ネんだ。何もない場所を見ても、なんにもならないのは当たり前だ。あんたら若い者は、なぜあんなものを見たがる。そんな、地の果てまで逃げるような真似などせんで、地に足をつけて、しっかり働けばいい」
おやおや。この俺が説教をされるとは。なんとも新鮮だ。
「そんな、いわれるほど若くもないんだけどね」
「私の半分にもなりはしないだろう」
「そんなことはない。こう見えても四十に近いんだ。オヤジさんは、まだ八十にはならないだろう」
店主は黙った。だが決して、納得したという顔でもなかった。
俺は、ミュージシャンだった。
ガキの頃、家の物置に転がっていたギターを見つけたのがきっかけで音楽を始めた。ビートルズかストーンズかといわれれば、ストーンズ派だった。でもどっぷりでもなかった。俺は自分という存在を証明するためにギターを弾き、そして唄った。
十代の半ばからクラブに出入りし、ギターの腕を買われてステージに立つようになった。リクエストされればどんな曲でも弾いた。ブルーズが多かったが、トップ40ものも苦手ではなかった。時代ごとに盛り上がる曲は違った。映画『ロッキー』のテーマだったり、マイケル・ジャクソンだったり。ヴォーカルが男だったのでシンディー・ローパーは勘弁してもらったが、女の客が唄いたいといえば、たまにはそんなものも演奏した。
毎晩五分だけ、自分のオリジナル曲をやらせてもらえた。ウケた曲もあれば、さっぱりな曲もあった。だがそれは、決して曲の良し悪しだけが原因ではなかった。酔っ払い向きか否か。その方が大きかったように思う。
軍人だった父親とは、毎晩喧嘩だった。そんなクソみたいな音楽はやめちまえ。騒音以外の何ものでもない。
だったらなんで物置にギターがあるんだと、俺は言い返した。あんたが買って、でも弾けなくて、結局ほったらかしにしちまったってだけだろう。父親は、あれはお前の爺さんのものだといった。だがそれは嘘だった。サウンドホールの中にあるシールには製造年月日が印字してあった。その年には、すでに爺さんは左腕を失っていたはずだ。海で鮫に食い千切られたと聞いている。
父親はプレスリーが好きだった。音楽ってものは、ああじゃなきゃいけない。お前のはただ騒いでるだけだ。それが、ほとんど口癖になっていた。俺の反論も決まっていた。俺は、プレスリーがチャートの一位にいるのなんて見たことねえ。プレスリーが最高なら、ずっと一位のままのはずだろ。父親は「お前は分かってねえ」と背を向けた。分かってねえのはあんただと、俺はその背中に唾を吐いた。
やがて転機が訪れた。
クラブでの持ち時間が二十分にまで拡大していた俺に、ある話が舞い込んだ。小さなレコードレーベルからだったが、そこが最近売り出したアーティストは、軒並みトップテンヒットを飛ばしていた。
俺は、そのビッグチャンスに飛びついた。
「オリジナル曲は、どれくらいストックしてる」
「五十……いや、百はある」
本当は、四十曲くらいだった。
「よし、早速契約しよう。アルバム二枚、シングル三枚でどうだ。第一弾シングルは、この前演奏していた『彼方に吹く風』がいいだろう」
夢のような話だった。
家に帰って報告すると、母親と姉、二人の妹と末っ子の弟は喜んでくれた。だが、父親と兄貴は烈火のごとく怒りまくった。
「そんな旨い話があるわけがないだろう」
「そうだ。馬鹿かお前は」
父親は、プレスリーに憧れはしたがギターが弾けるようにはならなかった。兄貴はひどい音痴のうえにデブだった。二人は嫉妬してるだけだ。俺はそう思い、その夜のうちに荷物をまとめて家を出た。むろんギターと、自分の曲を吹き込んだテープも持って。
結果からいえば、契約の話は本当だった。早速次の週からレコーディングに入った。調子はバッチリだった。腕利きのベーシストとドラマーがサポートについた。ファーストアルバムは三週間でできあがった。
途中で別のセクションから横槍が入り、デビューシングルは別の曲になったが、却ってそれがよかった。週間シングルチャートでは最高十七位をマークし、直後に満を持して『彼方に吹く風』をリリースした。なんと、これがチャート一位に輝いた。俺は一躍トップスターの仲間入りをし、富も名声もいっぺんに手にすることになった。
家に電話をすると、姉が出た。その後ろで誰かが「替われ替われ」と騒いでいる。誰かと思ったら、兄貴だった。
「俺はずっと、お前の才能を信じていたぜ。『彼方に吹く風』……ありゃ最高だ。俺も毎晩カラオケで唄ってるよ。忙しいとは思うが、近いうち帰ってこられるんだろう? そうしたら、記念写真を撮ろうぜ。それから、Tシャツもいっぱい買っておくから、サインしてくれよな」
いいから別の誰かに替われというと、母親が出てきた。おめでとうと言われた。
父親は、とうとう電話には出なかった。
デビューアルバムも、トップテン圏内に半年以上居座るビッグヒットになった。一発売れると、次の作品の制作予算はぐんと跳ね上がった。俺はスタッフとメンバーで南の島の貸し別荘地を借りきり、三ヶ月かけてセカンドアルバムをレコーディングした。
また、シンガーソングライターとしてだけではなく、ギタリストとしても俺は評価され、別の大物アーティストのアルバムや、コンサートにも多数参加した。
世界が俺を歓迎してくれている。そう実感した。
単独でのワールドツアーも行った。寒い国も、暑いところもくまなく回った。東洋でもヨーロッパでも、俺のコンサートは常に大盛況だった。
サードアルバムは、俺の集大成的な作品にするつもりだった。シンプルなギターロックも、オーケストラとの共演も、ビッグバンドジャズも、全て盛り込んだ。この作品も大ヒットを記録した。この中の一曲が大作映画のテーマソングに採用され、映画と共に、十年に一曲といわれるほどの怪物的ヒットとなった。
結婚したのはこの頃だ。だが、すぐに離婚した。俺がツアーに出ている間に、ワイフが浮気をしたのだ。だが、それを責める気にはなれなかった。俺も、世界中で散々女を抱いて回ってきたのだから。
数年置いて四枚目のアルバム制作にとりかかった。コンセプトは、ファーストに近いものにしようと考えていた。シンプルなギターロック。俺と、腕利きのベーシスト、ドラマーがいればそれでいい。実際、作品はそのようにできた。ヒットもした。ただ、俺の気持ちはなぜか晴れなかった。
離婚が原因ではなかった。それは数ある理由の一つにすぎなかった。ならば、なぜ気持ちが晴れないのか。
答えは簡単だった。
やりすぎたのだ。全てを。
好きな音楽を好きなだけ、好きなように作れる環境。気に入った女をその夜のうちに抱けるだけの名声。欲しいものも、迷ったら両方買えるほど金はあり余っていた。ドンペリのプールで、裸で泳いだこともあった。ドラッグもひと通り試して、中毒症状は最先端医療によって全て克服してきた。
だが、俺ははたと気づいた。そして愕然とした。
次が、ない――。
やりたいと思う音楽が、まずなくなっていた。ロックも、クラシックもジャズも、ラテンも何もたいがいやり尽くした。それが本物か否かは問題ではない。俺がやりたいと思うスタイルと、曲が、なくなってしまったのだ。
俺は放浪の旅に出た。金は、十回生まれ変わってもまだ働かなくていいくらい持っていたから、豪華客船を借りきってもよかったのだが、あえてそうはしなかった。自分で地下鉄を乗り継いで空港までいき、各国を渡り歩き、タクシーやバス、ときには馬車も使い、世界を隅々まで見て回った。
何かを探していた。でもその正体は、杳《よう》として知れなかった。新しい音楽なのか。新しい人生なのか。愛すべき女性なのか。それともこの、腐りきった人生観を根底から変えてくれる宗教か何かなのか。
そんなときだ。この世の果て≠フ噂を耳にしたのは。
それはさる大陸の奥地。「最後の街」を、さらにいったところにあるという。
これだと直感した。自分が何を求めていたのか、そのとき初めて理解できた気がした。
俺は、一人の男としての人生はもう、充分すぎるくらい生きてしまった。寿命の半ばにして、もはや考え得る頂点の全ては極めてしまっていた。
頂点にい続けようと努力するのもまた、一つの生き方であろうとは思う。だが俺は、そういう性格ではなかった。
そもそも、俺の音楽に対するスタンスがそうだった。同じような曲を書くことは、一度としてしなかった。スタイルも常に変化させた。原点回帰をすることはあったが、それは同じ場所に戻るのとは違っていた。同じ方向性の音楽でも、レベルが格段に上がったものを目指した。レベルが高くなれば、それは必然的に別物になった。そしてそれを実現してきた。だがそういったレベルも、もう上げようのないところまできてしまっていた。
何より、音楽を作りたいという欲求自体がなくなっていた。強いて何がしたいのかと問われれば、俺以上の存在になりたい、と答えただろうか。
いや、人間以上の存在、というべきか。
とにかく、俺と他者、俺と世界、そういう関係性にうんざりしていた。驕《おご》った言い方になるが、この世界はもはや俺のものだった。だったら、この世の果て≠見てみたい。限界のギリギリいっぱいのところまでいってみたい。そう思うのは当然ではなかろうか。
自分という存在にとことん飽きてしまったら、もう自殺するほかない。だがそれではつまらない。世界に飽きてしまったら、もはや世界を滅ぼすしかない。しかしそれも馬鹿らしい。さすがにそこまでは、俺も狂っていなかった。
そんな俺に、この世の果て≠ヘこの上なく魅力的だった。
肺魚が陸にあがるように。蝉が地表に出て、やがて羽根を広げて空を飛ぶように。この世の果て≠フ、その先を見ることができたなら、そして運よくそこにいくことができたなら、俺はまったく別の存在になれるに違いないのだ。
「オヤジさん。あんた、自分は何者なんだろうって、そう思ったことはないの」
沸騰した湯に、乾麺が広げられる。
「……ない。そんなことは考えるまでもない。半月に一度、この街の生活雑貨を仕入れ、よく知った街の住人たちに売り分ける。足りなくなったら、近所同士で都合し合ってしのぐ。たまにはあんたみたいな命知らずの旅人の相手をし、できることならこの世の果て≠見にいくだなんて、無謀な行いはやめさせる……それが私の生活であり、その連なりが私の人生だ。何者かなどと問いはしない。強いていうならば、この店の店主。それ以上でも以下でもない」
そういう人生があること自体、否定はしない。
誰もが自分のようにミュージシャンになってしまったら、社会はたちまち硬直してしまう。農家をやる人がいて、加工業があって、運搬が、重工業が、建築が、メディアが、行政があって、それらが円滑に機能して初めて、ミュージシャンなどという腹の足しにならない職業が許されるのだと分かってはいる。
だが、あらゆる人間は前進すべきであるとも、俺は思う。
同じ一日を繰り返すのも、一つの前進ではあるだろう。この店主のように。ただし、俺の前進は違った。二つとない音楽を、楽曲を作り続け、そしてその意欲は尽きた。だったら別のところに進みたい。その前進もまた、否定されるべきではないと思う。
「分からなくはないが、でも、命知らずって……。何も俺は、この世の果て≠ノ、死ににいくわけじゃないんだぜ」
「同じことさ。私らはこの世界で生きている。この世界から出たら死ぬ……なぜそんな簡単な理屈が分からない」
「危ないと思ったら引き返すよ。ちょっとどんなところか、手前から覗いてみるだけさ」
「そんなものではすまない。現にこの世の果て≠見にいって、戻ってきた者などいはしない」
麺が茹《ゆ》であがったのだろう。店主は鍋の中身を笊《ざる》に空け、湯の切れた麺を、今度はフライパンに入れた。
「……別に、ここに戻ってこないってだけで、他の街に抜けてったのかもしれないだろう」
「この街がなんと呼ばれているのか、あんただって知らんわけじゃないだろう」
俺は、小さく二度頷いた。
店主が続ける。
「この世の果て≠ノいくには、ここを通らねばならない。ここに戻ってこないということは、この世の果て≠ノいきっ放しということさ。この世ではない場所にいきっ放しということは、それ即ち死んだことと、どう違いがあるというんだね」
切ったソーセージと、豆もフライパンに入れる。俺はそれを見ながら、言い知れない違和感を、自分の中でどうにか処理しようと足掻《あが》いていた。
この世の果て――。それは大地も空も尽きるような、この世と虚無を隔てる断崖絶壁のような場所だと、勝手にイメージしていた。そこから落ちないよう、ギリギリまで前に出て覗いてみるくらいでいい。向こうの世界がどうなっているのか、分かればそれでいい。何かが変わる。自分の中に別の何かが生まれる。そうなればいいと思っていた。
だが、違うのか。
「……本当に、誰一人、戻ってこないのか」
「ああ。一人として、戻ってきた者などおらん」
「だったら、本当にこの世の果て≠ェ危険な場所かどうか、分からないんじゃないのか」
「戻ってこないのが何よりの証拠だ」
「ひょっとしたら、えらく事故の起こりやすいカーブか何か、あるのかもしれないぜ」
「だったらそこがこの世の果て≠セろう」
「……そんな馬鹿な」
いや、果たしてそういえるだろうか。何か特別な要因があって、確実に人が死に至る場所。それがこの世の果て≠フ正体。そういう可能性だって、あるんじゃないのか。
「でも……だったら、ただの危ない場所として、注意すればいいだけのことだろう。そもそも、ここが最後の街≠ニ呼ばれてること自体がいい証拠じゃないか。やっぱり、この世の果て≠ヘある。この世の果て≠ノいって、戻ってきた者もいる。俺は、そう思うね」
味付けはケチャップのみか。ぐちゃぐちゃと掻き混ぜて、それでできあがりのようだった。
フォークを添えて、店主が湯気の立つ皿を差し出す。
「……悪いことはいわん。これを食べたら、もときた道を引き返すんだ。この世の果て≠ネんて見ても、なんにもならん。ただ全てを失うだけだ。諦めなさい」
俺は肩をすくめながら、スパゲティにタバスコをたっぷりかけた。つんとした匂いが立ち昇ったら、頃合いだ。俺はフォークを真ん中にぶっ刺し、ひと口大きく頬張った。ケチャップとタバスコの味しかしないが、それはそれで美味《うま》い。
「……ここまで……どんだけ苦労して……時間使って、金使ってきたと……思ってんだよ。そんな……ここまできて、急に諦めろっていわれてもね」
店主は、カップにセットしたドリッパーに、ゆっくりとヤカンの湯を落としている。円を描き、湯が一杯になったら、落ちきるまでしばらく待つ。それを三回繰り返し、ドリッパーをはずす。フィルターは金属製。ペーパーフィルターを使わないのは、風味に対する拘《こだわ》りか。それともゴミを減らそうという配慮か。
カップをカウンターに載せる。
「……これだけは、あまり話したくなかったんだが」
店主はエプロンを脱ぎ、胸のポケットからマルボロの箱を出した。ライターはクロームのジッポー。
「確かに……戻ってきた者も、いたことはいた」
大きく柔らかな火に、銜《くわ》えたタバコの先を当てる。ひと口、静かに吐き出してからフタを閉める。
「やっぱり。戻ってくることも……できるんじゃないか」
「話は最後まで聞くものだ。……私がこの店をやるようになってから、かれこれ三十六年が経つ。その間にこの街を通り、この世の果て≠ノ向かった者は数知れんが、戻ってきたのは、たったの一人だった。むろん、私は今あんたに話したのと同じことをいって、その若者を止めたよ。だが彼は聞かなかった。この世の果て≠ノいってしまった……翌朝、いつものように店を開けると、一人の男が道端に倒れていた。……彼だった。息はあったが、意識はなかった。……廃人だよ。体は戻ってきたが、魂はこの世の果て≠ノ、置き去りにしてきちまったのさ」
「……その男は、ここまでどうやって帰ってきたんだ」
「口を利かんのだから、分かろうはずがない」
ぽかりと吐き出された煙が、徐々にほどけながら天井に昇っていく。やがて巨大なプロペラに絡めとられ、煙は千切れ、消えていった。
この世の果て≠ニは、命とは、一体なんなのだろう。
「その男は、そのあと……どうなった」
「さあ。意識が戻ったという話は聞かんね」
最後のひと口を食べ終わった。テーブルにナプキンはない。俺はポケットからバンダナを出し、口を拭った。ちょっと見は牛柄のようだが、広げると黒猫のプリントが現われる。はて、これはどこで手に入れたのだったか。
まあいい。コーヒーカップを手にとる。
「……この世の果て≠ェ、どんなところか……この俺が見て、帰ってきて、オヤジさんに話して聞かせるよ。いい眺めだったぜ、今度連れてってやるよ……ってなもんだと、思うけどね」
ひと口含む。やはり、美味いコーヒーだった。これを持っていけるなら、ポット一杯に入れてもらいたいところだ。
「どうしても、いくのか」
「ああ。そのためにきたんだしな」
「後戻りはできないんだぞ」
おれは両手を広げ、おどけてみせた。
「後戻りなんて、そもそも望んじゃいない。俺は先に進みたいんだ。ただそれだけさ」
「この世の果て≠ノいくことが、先に進むことではないだろう」
「それは、いってみなけりゃ分からない」
「いかなくても分かっている。いくな」
「分からないって。見ず知らずのあんたが、俺なんかの心配をしてくれるのはありがたいが……もう、決めてるんだ。後戻りはしたくない」
店主はかぶりを振り、短くなったタバコをシンクの中に投げ捨てた。
チュッ、と鳴ったきり、新たな煙は立たなくなった。
意外なほど、スパゲティもコーヒーも美味かった。だがもう、ここに長居は無用だ。
「……じゃあ、水と、あのクラッカーを三つずつ、包んでくれ。それからガソリン。ハイオク満タンで」
「ハイオクはない」
「じゃあレギュラーでいい。ああ、それとタバコも。キャメルのフィルターを……そうだな、ワンカートンもらおうか」
店主は無言で頷き、カウンターから出た。棚から注文の品を次々と抜き出し、紙袋に詰める。
俺は表に出て、車を給油スペースに移動させた。相変わらず寒かったが、あたたかいものを腹に入れたせいか、きたときほどつらくはなかった。
店主が紙袋を持って出てくる。俺がリアシートに置いてくれというと、黙ってその通りにする。
給油の間も、店主はずっと黙ったままだった。やがてそれも終わり、店に戻り、レジスターが合計金額を表示しても、それを読み上げようとしない。
「カード……じゃない方が、よさそうだな」
多めに紙幣を渡し、釣りはいいといっても、小さく頷くだけ。礼のひと言くらいあってもいいと思ったが、まあいい。これ以上口を利いて、感傷的な気分まで売りつけられては堪《たま》らない。
「じゃ」
俺は軽く手をあげ、踵《きびす》を返した。
堅木のドアノブに、今度は確かなぬくもりを感じる。
ここに留まる理由は、もう何もないはずだった。この世の果て≠ノいく決心に変わりがない以上、店主と交わす言葉に意味はない。
ノブを引くと、暖気と冷気が激しくこすれ合い、悲鳴をあげた。その音に混じって、気のせいかもしれないが、呼び止める声を聞いた気がした。
振り返ると、すぐ後ろに店主が立っていた。
いい、もう行ってしまえ。そう自身に言い聞かせはするけれど、なかなか足は動かない。
店主が咳払いをする。
「……なあ。帰りにも、必ずここに立ち寄ると……そう、私に、約束してくれんか」
返事は、言葉にならなかった。頷くのが精一杯で、俺はそれをきっかけに、外へと踏み出した。
給油スペースの車に走る。ドアはロックしていない。運転席に逃げ込み、俺は夢中でシートベルトを締めた。
エンジンをかける。サイドミラーに、店から出てくる店主の姿が映った。よせよ、そんな恰好で。心臓麻痺で死んじまうぞ。戻れよ。戻れって。
サイドブレーキを下ろし、すぐにアクセルを吹かす。巻き上げた砂が、リアランプに赤く浮かび上がる。
店主の姿が、ミラーの中で小さくなる。跪《ひざまず》いたようにも見えたが、定かではなかった。
街の明かりが、徐々に一つの固まりになっていく。
最後の街が、過去になっていく――。
闇の中を、ひたすら走っている。
もうすでに、この世の果て≠ノ踏み入っているのだといわれれば、そうかもしれないと思う。店主のいった通り、何もない、ただの闇だからだ。
ハンドル操作もほとんどせず、アクセルも固定したまま、一定のスピードで走り続けている。ラジオは点けていない。タバコも吸っていない。ヘッドライトが照らす数マイル分の地面と、車と、俺。BGMはエンジン音のみ。
ふと、何かが足りない気がして、考えた。すぐに、道の両脇にあった雑草がなくなったのだと気づいた。アスファルトと、砂地。それ以外は闇。そのアスファルトも、ほとんど砂に覆われて見分けがつきづらくなっている。
永遠とも思える闇が前方から訪れては、背後に去っていく。いや、お前は静止しているのだといわれたら、反論の材料はない。でも窓を開けたら、風が吹き込んでくるかもしれない。そうだ、風で確かめよう。そう何度も思いはしたが、ついぞ開けることはしなかった。
怖かった。窓を開けても、風が入ってこなかったらと考えると、怖くてスイッチに手が伸びなかった。
だが、やがて景色に変化が訪れた。
前方の地平が、少しずつ、明るくなってきたのだ。
薄い紫。次第に広がっていくその鮮やかな色に、俺はしばし目を奪われた。
伴って地平も、その姿を明確にしていく。
俺は吸い込まれるように走り続けた。
左右に伸びる地平はやがて山影に繋がり、世界を抱き込み、背後にまで広がっていく。
雲は一つもなかった。空は無だ。
ただ、その紫は青に転ずることなく、いきなり、白み始めた。
雲か。いや、太陽か。
正面に現われたその白は、空を侵し、地表にまで流れ出し、雪崩れのようにこっちへと迫ってくる。
ハンドルを切るという発想はなかった。そんなことで避けられるとは思えなかった。白が肥大化するスピードは人知を超えている。
山影を呑み込み、大地を吸い込み、空にも広がり、もう数マイル先まで迫り、俺は無意識のうちにブレーキを踏み、固く目を閉じた。
太陽にぶつかる。いや、追い越してしまう――。
衝撃のようなものは、何もなかった。
あるのは、背中に当たるシートの弾力と、手の中のハンドルの硬さ。ブレーキペダルも、足の裏に感じられた。あとは、激しい耳鳴りか。
無意識のうちに、下を向いていた。
その姿勢のまま、俺は固まっていた。
前を向こうか。いや、その前にこの運転席がどうなったのか確かめた方がいい。
恐る恐る目を開けると、まずベルトのバックルが見えた。今まで着ていたシャツに、ズボン。靴も見える。
エンジン音は? いや、しない。上目遣いでイグニッションキーを確かめたが、ちゃんとオンのポジションになっている。
なんだ。一体、何が起こったんだ。
この姿勢でできることは、なくなった。もう、前を見てみるしかない。
意を決し、一ミリ一ミリ、顔を上げていく。フロントガラスが視界に入る前に、両目尻の辺りでなんとなく悟ってはいたが、やはりちゃんと顔を上げ、見得るもの全てを見たときは、愕然とした。
全てが、白くなっていた。
大地も、空も、背後も。この世にあるのは、俺と、車、あとは全て白。そういうことになっていた。
どうしよう。予想外の状況だ。これは、つまり、どういうことだ。
とりあえず、ハンドルから手を離そうと考えた。強張《こわば》っていてなかなか指が離れなかったが、顎を使い、額を使い、なんとか、ハンドルから手を引き剥がした。
ドアレバーに触れると、滑稽なほど指先が震えていた。それでもなんとか両手でつかみ、引くと、不思議なほどいつも通り、ドアは開いた。
むろん、地面も白かった。
雪の中に埋没したのに似ている気はしたが、雪も積もれば光を遮《さえぎ》る。だがここには、陰影というものがまったくない。車の下も白。見渡す限り白。前も後ろも、右も左も、上も下も白。
足を出すのは怖かった。だが出さなければ、ずっとこのままになってしまう。
試しに左足から出してみた。地表に影はできない。ひょっとして、地表なんてものはなくて、今まさに落下している最中なのかも、と思いもしたが、そうではなかった。足は、白い地面につくことができた。右足も出すと、同じ地面に立つことができた。車があるのと同じ高さだ。だが相変わらず影はできない。
一歩、踏み出してみる。歩くことは、できるようだった。
ドアを閉めようかと思ったが、途中でやめた。この世界と、元の世界を繋ぐ唯一の連絡口が閉ざされる気がして、怖かったのだ。
ボンネットにつかまりながら、前方へと移動する。大丈夫だ。動ける。だが、車より前に出ると、途端に平衡感覚がおかしくなった。基準にするものがないと、立っていることすら難しい。俺はときおり振り返り、そこに車があることと、水平方向を確かめながら前に進んだ。
地面は硬くもなく、柔らかくもなかった。進むのは苦ではないが、進んでいるという実感は乏しかった。
そういえば、暑くもなく、寒くもない。音もしない。試しに咳払いをしてみたが、それは自分で聞き取れた。だがどこかに響く感じはなかった。
風もない。自分が浮かんでいるのか、落ちていっているのかも分からない。
と、ここにきて初めて思い至った。
ここはこの世の果て≠フ入り口なのか。
それとも、これこそがこの世の果て≠ネのか。
振り返ると、もう車はなくなっていた。
やはり、ここがこの世の果て≠ネのかもしれない。
どうする。これから、どうしたらいい――。
迷った末、結局、前進することにした。
一歩一歩白を踏み締め、今いる場所より、少しでも新しいどこかに辿りつけるよう、足を運んだ。
どれくらい、そうしていただろう。
当てもなく進むことに意味などあるのかと、自問したりもした。いつだってそうしてきたじゃないかと、自らを慰めもした。この世の果て≠ノいけば死んだも同然だという、店主の言葉を思い出した。でも今の自分とは違う、別の何者かになりたかったのだと、己の決断を正当化したりもした。誰に対しての正当化か。それもやはり自身に対してか。俺に「生き急ぐな」といったのは誰だったか。それに対して、人生は短い、急がなくてどうすると反論したのは覚えている。だが急いで進んで、辿りついたのがここ、というのはどうだ。白い虚無――。
生きる意味を、常に真摯《しんし》に問い続けてきたつもりだった。しかしこれでは、人の一生など、つまりは無意味だということになってしまう。それでいいのか。それが答えなのか。
それとも、人の生きる意味は、その到達点にはないということなのか。ではどこにあるのだ。俺の一生の、どこの時点に、どんな意味があったというのだ。あるいは、意味はちゃんとあったのに、見落としていたということなのか。
突然、自分がどこに立っているのか、理解した。いや、見えるようになった、というべきか。
背中――。
足元に広がっているのは、うずくまった人間たちの、無数の背中だった。
みなうな垂れて、肩を寄せ合い、隙間を詰め合い、綺麗に平らに並んでいた。それらは乳白色というよりも、無色の連なりに光が乱反射してできる純白に似ていた。
分かった。もういい。そうしよう。
俺もここで、無の一部になろう。白くなろう――。
その決心は、過去に抱いてきた欲求とは正反対のようでいて、実はまったくの同質であるような気もした。
ただ、そのやり方が分からない。
黙ってここに座っていれば、いつか地面と同化できるのか。それとも、この連なりにもやはり果てがあって、そこまでいけば、最後尾に並ぶことができるのか。
俺は一体、どこまで前進しなければならないのだ――。
肉体的な疲れは、特になかった。ただ、言い知れぬ不安が心に巣食っていた。進め、進め、進め。そう自らに言い聞かせる虚しさに、この期《ご》に及んで気づかされた恰好だった。
そして、ようやく見つけた。
地面に、一人分の隙間を。いや、隙間、ではないようだった。他よりも透明な何かが、そこには埋まっているようだった。
でも、もういい。疲れた。俺はここに入りたい。入れてくれ。ここを、俺に空けてくれ。譲ってくれ。ああ。いいんだ、ここで。もう、戻れなくなっても。戻ったところで、何もありはしない。やり直すといっても、どこから人生をやり直していいかも、分からないんだ。
あんたも、人間だったのか。そうか。でも、他のみんなほど白くないな。だったら、まだ間に合うかもしれないぜ。帰れるかもしれない。いけよ。ここは俺に任せろ。あんたの代わりに、立派に白くなってみせるさ。
心残り? そんなものはない。まあ、強《し》いていえば、そうだな。最後の街で立ち寄った、店のオヤジとの約束が果たせないって、それくらいかな。ああ。それと、ひと言、礼をいえばよかったなって、今は思ってる。でも、せいぜいそんなところさ。
さあ、いけよ。ここは、俺に任せて。
見てみろよ。ぴったりだぜ。
ああ。けっこう、いい気分だ。
ほら、もう白くなってきた――。
夜が明け、いつもの時間に店を開けた。
昨夜のあの男が、途中で気が変わって、戻ってきているのではないか。店の前に車を止め、やっぱりやめたよと、にっこり笑ってくれるのではないか。そんなことを、心のどこかで少し期待していたが、残念ながら、ドアの外にはいつもの、街の朝が広がっているだけだった。
とりあえず、湯を沸かそう。今日は昼頃に、新聞と郵便物が届く予定になっている。それまでに食事をして、掃除をして、奴の世話をすませてしまわねばならない。
使い古したヤカンを、蛇口の下に置いた。だが、そのときだ。
裏にある自宅の方で、突如、重く鈍い音がした。
何か、落ちたのか――。
慌ててカウンターから出て、裏に抜けるドアを開けた。
すると、
「お……お前ッ」
息子が、廊下の床に倒れていた。
二階で寝ていたはずの息子が、この五年もの間、立つことは疎《おろ》か、身じろぎすることも目を開けることもできなかった息子が、まさか、一人で、この階段を、下りてきたのか――。
「おい、大丈夫か。怪我は。どこか折れてないか。だいたいお前、なんだっていきなり……」
私は息子の名を呼び、体を抱き起こし、力いっぱい抱き締めた。
饐《す》えたような体臭が、やけに愛しく感じられた。体温が、いつもより高いことも分かった。痩せ細った左手が、ぎこちない動きで、私の胸にのぼってくる。それを握り、しっかりと握り、私は何度も頷いた。
息子は苦しそうに呻《うめ》き、薄く目を開けると、照れたような笑みを浮かべた。
「……誰だか、知らないけど……僕に、いけって……戻れって、いってくれた人が、いたんだ……彼、何度も……ごちそうさま、ありがとう……って、いってた」
そうか、と答えるのが、精一杯だった。
思いは様々あふれたが、ついぞ、一つも言葉にはならなかった。
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COMMENTS
誉田哲也
ほんだてつや
「ジウ」シリーズ
私の初警察小説は、C★NOVELSの「ジウ」でした。これが、著者も想定していなかったスタイルで3巻まで続き……その節はお世話になりました。今回の短篇のようなジャンルも、たまにはいいんじゃないでしょうか。どうかな、ファンタジアで。ちょっと違うかな?
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黒猫非猫(くろねこねこにあらず)
ユーフォリ・テクニカ0.99.1
定金伸治
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)叡理《エーレ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)毎日毎日|汲々《きゅうきゅう》としている
-------------------------------------------------------
「なんとかして、お金を稼ぐこと!」
真顔そのもので、叡理《エーレ》国の第十三親王たるエルフェール王女は敢然《かんぜん》と発言するのだった。
「あと、実験室のお化け退治!」
敢然。あるいは決然。あるいは猛然――。有無を言わせぬ王女の語気は、会議室の空気を妙な方向に静まりかえらせた。
王立技術院、ビゼンセツリ研究室の定例研究会――
半年後の国際花火大会に向け、研究もいよいよ本格化してきた時期。
そのはずなのだが、王女の発言からして、研究環境はまだまだ万全には程遠い状況のようだった。当然にして、研究の進み具合も芳《かんば》しくない。中身のある経過報告もできるわけがない。王女エルフェールは、怒った口調で最後に締めくくった。
「今後の課題は、以上の二点です!」
いまに限らず、この王女はたいていいつでも怒っている。何かにつけ激怒している。怒って怒って泣いて怒って笑って怒って、を繰り返して一日終了――そんなテンションの高さに充ち満ちた、元気な声。声質や発音は意外に上品なのだが……出てくる言葉は、いつもちょっとばかりどうかしている。
「おまえな……」
研究室を代表するネル・ビゼンセツリは、ため息をつきながら言った。
「どこの世界に、研究課題が金とお化けって研究室があるんだ」
「ここにあるんです!」
机を両手でバンバン叩いて、エルフェールは苛立《いらだ》ちも露《あら》わに主張した。栗色の長い髪が身体の動きにあわせて無造作に跳《は》ねる。年頃の娘だというのに髪を結ってもいないのだ。そんなおしゃれなどしている暇はない、ということだろう。実験に忙しくて研究室で寝泊まりをするぐらいだから、仕方のないことではあった。
「でもな……」
ネルが困った顔で反論する。
「だいたい、金のことなんて下っ端の研究員が考えることじゃないだろ。研究の外のことよりも、中のことを考えろよ」
「実際にお金が足りないんだからしょうがないでしょう!?」
頭突きを入れんばかりに詰め寄って、エルフェールは烈しく言い募《つの》った。その熱気だけで、せまっくるしい部屋の室温が2度ほど上昇。
「そう興奮するなよ、暑いんだから……」
「そんなこと言ってる場合じゃありません!」
この会議室、もともとは叡理調のモダンで優雅な部屋で、そこそこの広さはあったはずなのだが、資料置き場としても使っていることもあり、山と積み上げられた紙束、迷路のように並ぶ本棚、会議用の黒板、仮眠ソファなどなどが詰め込まれ、優雅だった面影は真ん中のテーブルとわずかに垣間見えるカーペットぐらいにしか残っていない。結果、大人四人が入るには狭すぎる空間は、王女が怒髪天をつくごとにやたらと室温が上がっていくのだ。
「フラスコを買うにも試験管を買うにも、お金がいるんです! 1時令《シリング》だって、1便尼《ペニー》だって今は惜しいんですから!」
「どこの世界に心底から1便尼《ペニー》を惜しむ王女が……」
「ここにいるんですっ!」
エルフェールはネルが最後まで話すのを待ちもしなかった。
「言っておきますけど、王室からの援助を期待したりなんてしないでくださいね! 援助どころか、お小遣いだってないんですから」
「ははは、庶民の娘のほうがよっぽど恵まれてるな」
「ははは、じゃありません!」
生真面目にいきり立つエルフェール。
「でもなあ」
手もとの万年筆をいじりながら、ネルは困り顔で小さく反論した。
「そもそもフラスコとか試験管とかは、実験中に割らないようにすればいいことだろ。先に自分のおっちょこちょいの方を治してはくれんもんか」
「う……」
エルフェールは言葉に詰まった。つい三ヶ月ほど前に爆発事故まで起こしてしまった身としては、何も反論できないのだった。
「とにかくっ!」
気を取り直して、エルフェールは続けた。
「先生にもっと甲斐性《かいしょう》があれば、こんな苦労はしなくてすむんです!」
「……豪快に責任転嫁するなあ……」
ぶつぶつ呟きながら、ネルは頬づえをついた。助手のユウがくすくすと口もとに笑みを含む。もう一人の参加者である秘書兼研究員のグリンゼは、無表情で全員の発言をメモしている。義務として記録はしているものの、ばかばかしくてやってられない、といった顔つきだ。
「だって!」
エルフェールは焦《あせ》っている。焦らざるをえないのだ。国際花火大会の開催は、半年後。だというのに、研究は思うように進まない。それどころか、ちょっとした実験器具や試薬を買うのにも予算不足の問題がついてまわって、毎日毎日|汲々《きゅうきゅう》としているありさまだ。自分のことを棚にあげたくなるのも無理はなかった。
「虹の花火を作ろう、というアイデアはいいですけど! まだ紫どころか! 青どころか! ていうか緑もまだ出てないんですよ! 雨の対策もしないといけないし! こんな調子じゃ、間に合うわけないわ!」
間に合わなければ、研究室は廃止される。その後にあるのは、望まぬ結婚その他もろもろ。いま立っているのは崖っぷちなのだ。もう後ろはない状況。でありながら、悩みもせずヘラヘラしている(ように見える)ネルと話していると、なんとも苛々としてくるのだった。
「金については、支援者からの送金もあるし、当面はそれでなんとかやっていくしかないな」
「でも! 薬品が足りないとか、この装置さえあったらもっとスムーズに実験できるのにとか、そういうのがいっぱいあるんです!」
「そのへん工夫するのも、研究者の仕事だろ」
「そのへんって、どのへんなのよ!」
さらに詰め寄り、鼻先に食いつかんばかりになって、王女はネルの顔面いっぱいに唾《つば》を飛ばしまくった。
ネルはいじけた。
「……おれもそれなりには考えてるんだけどなあ……」
言い訳がましい口ぶりで、卓上の小型モーターを手に取る。
「こういうのも試しに作ってみたし」
彼がスイッチを入れると、ヴゥゥゥンと低いうなりをあげてモーターの軸が回転をはじめた。超小型の水気モーター。確かにこれだけ小型の水気モーターは他に例がない。が、いまは金の話をしているのだ。エルフェールは脅《おど》すように声を低くした。
「……これがどうしたって言うんですか」
「前におまえが作った『線香花火』を、商品として売り出せないかと思って」
エルフェールの『線香花火』は、技術院内での花火コンテストで一位を取った作品だ。あれからいろいろあって、ずいぶんと昔のことのようにエルフェールは感じる。
「……で?」
じっとりとした眼をして、エルフェールはネルを睨《にら》む。
「商品として売れたら、研究費の足しになるだろ」
「あのね!」
エルフェールは決壊したようにまくし立てた。
「お金はいますぐ必要なの! それはもうたちどころに必要なの! 商品として売れたらって、特許を取って企業に持ち込んで工場なりなんなり立ち上げて……って、いつまでかかると思ってるんですか!」
ネルの胸もとを掴み、絞めあげるようにしてエルフェールはとがめた。つまりはいつものことだ。ネルも慣れているのか、うろたえもせず遠い目をして、あらぬ方角に視線を漂わせた。
「金、金、金……まったく、この世はいやな世界だな……」
「いきなり現実から逃げないでくださいっ!」
「ま、とりあえず金についてはそのへんで良しとして」
「良くありませんっ!」
「二つめのお化けってのは、なんなんだ」
「そう、それよそれ!」
例によって、あっさりと誤魔化されるエルフェール。
「夜中に実験してたら、呻《うめ》き声が聞こえる時があるんです! すっごく不気味な声! わたし、あやうく漏らしそうになったんですから!」
「……おまえな……一国の王女が、漏らしたことなんて人前で堂々と報告するなよ」
「何言ってるんですか! 漏らしそうになっただけですっ! 漏らしてませんっ!」
「ムキになるなあ。さては一滴ぐらい……」
「いいい一滴も漏らしてませんっっ!」
「ちゃんと床は拭いとけよ。きたないなあ」
「漏らしてないって言ってるでしょ! 殺すわよ!」
ぱたり、とグリンゼがペンを卓上に置いた。いい加減もう筆記する価値さえない、といった仕草。ため息。こめかみのあたりの髪を軽くいじりながら、白い眼をネルに向けている。助手のユウはというと、いつものことながら困ったものですね、といった微笑を口もとに含んだまま、無言で資料を読み進めている。結局のところ、騒いでいるのはネルとエルフェールの二人だけだった。
「ま、今日のところはこんな感じかな」
ネルは締めくくるように言った。まともな研究報告もないというのに、危機感に欠ける声。他の二人も似たようなもので、ユウはマイペースで資料を読んでいるし、グリンゼにいたっては話を聞くのにも飽きたのか、紙に動物の落書きをしたりしている。
まったく、いま落書きなんてしてる場合なの!?
エルフェールはたいそう不満だったが、あれこれ議論していても仕方がないのも確かだった。やるしかない! いつも結局はそうなる。どんな状況でも、やるしかない!
ただ、これでいいとは思わない! ひとこと言ってやらないと気が済まない!
頬づえをついて卓上の小型モーターをいじるネルに、エルフェールはこっぴどく叱責《しっせき》を浴びせた。
「そんな、のんびりまったりしてる場合ですか!」
扉の方を指さし、エルフェールは厳格な女教師のように言うのだ。
「そんなもの、さっさと倉庫に戻してきなさいっ!」
結局、締めくくりも王女の怒声となった。
居室に戻って、エルフェールは一冊の雑誌を手に取った。今日届けられた学術雑誌だが、彼女が真っ先に開いたのは懸賞問題のページだった。毎月出される問題を最初に解いた人に懸賞金が贈られる、という趣旨のコーナー。エルフェールは金を稼ぐために、学術雑誌や新聞、一般向けの科学雑誌に至るまで様々な懸賞問題を解いては応募していた。数学科出身で博士号も持っているエルフェールにとって、クイズ的な証明問題などはお手の物だ。要するに、賞金稼ぎである。
が――
「また、A・マクドウェル!」
エルフェールは地団駄を踏んだ。
「また賞金持って行かれたわ! どうして!? あんなに速攻で応募したのに! キイィィッ!」
いつものように騒々しくテンション高く、王女は奇声をあげて悔しがった。部屋にいるユウとグリンゼは、静かに自分の仕事に手を着けている。いつものこと、といった雰囲気だ。いちいち相手にしていられないのだろう。
「それにしても、いったい何者なのかしら……」
いらいらとしながら、他の雑誌を開く。こちらは、一般向けの科学雑誌。誌名は『サイエンティフィック・エーレ』。最先端の技術を一般の人にわかりやすく紹介するというコンセプトの雑誌だ。
やはり、真っ先に懸賞のページを開く。金金金、と目をぎらぎら光らせるその姿は、もはや金の亡者そのものだ。
「う、こっちも、A・マクドウェルだわ……。賞金ハンターなのかしら。プロかしら。まったく、このわたしを出し抜くなんてただ者ではないわ」
王女のずうずうしい独り言にも、部屋の二人は黙殺。いちいち突っ込みもしない。これだけ人からほったらかしにされる王女というのも珍しかろう。
「まあ、いいわ……今月の問題は、と……。『黒猫は猫ではない、という詭弁《きべん》を論破、あるいは擁護せよ』か……ふん。くだらない問題」
一般向けの雑誌だけあって、専門的に高度な知識を要する問題ではない。出題者はG・グリーンという老学者。いろんな雑誌で名前を見かける有名人だ。この『サイエンティフィック・エーレ』では、雑誌のトレードマークである黒猫を問題に絡《から》めて毎月出題をしている。一般向けの雑誌らしく記事には可愛らしい猫のイラストも添えられていて、このあたりも読者にはなかなか好評らしい。イラストは彼の妻の手によるもので、編集者によると若くてかなりの美人だとか。が、そんなことはエルフェールにはどうでもよく、部数の多い一般向け雑誌ゆえの賞金額の高さが魅力だった。問題のレベルのわりに、賞金がおいしいのだ。で、エルフェールも何度か小金を稼がせてもらっていたのに、とうとうこの絶好の狩り場にまで『A・マクドウェル』が攻め込んできた、というわけだ。
ぶつぶつ文句をつぶやきながらも、エルフェールは解答の作成をはじめた。さっさと応募しないと、またA・マクドウェルに先を越されてしまう。
黒猫は猫に非ず。
古い東洋の思想家が論じた詭弁の一つ。
要するに、『黒』という色の概念と『猫』という動物の概念が結びついた『黒猫』という概念は『猫』という概念とは一致しないから、黒猫は猫ではない、という論だ。
詭弁をさらに進めるなら、「黒猫が猫であるとする。すると白猫も猫であると言える。黒猫=猫。同時に白猫=猫。すなわち、黒猫=白猫。これは矛盾。よって、黒猫は猫ではない」といったところになるだろうか。
もちろん、昔の詭弁家も、本気でそんなことを信じて主張していたのではない。言葉の指し示す概念を明確にすることの大事さを詭弁で逆説的に訴えているのだ。論理学の発展のきっかけとして評価してもいいだろう。
出題者は、記号学や意味論、集合論などの近年の成果を使って、スマートで面白みのある論破なり擁護なりをした解答を求めている。早さも大事だが、面白い解答を考えなければ。あのA・マクドウェルよりも!
――と思ったところで、ふと脳裏にひらめくものがあった。
「謎はすべて解けたわ!」
素《す》っ頓狂《とんきょう》な叫びに、ユウとグリンゼの二人はさすがに目を王女の方に向けた。
「ユウさん!」
エルフェールは目を輝かせてユウに問いかけた。
「さっき、『支援者からの送金がある』って先生は言ってましたよね」
「え……はあ、まあ……」
「それって誰なんですか」
「……さあ?」
「あやしいわ。とってもあやしいわ。だって、うちなんて支援してくれる物好きな金持ちがそうそういるとは思えないんですもの」
「つまり、どういうことですか?」
「つまり、A・マクドウェルは先生なのよ! ネル・ビゼンセツリが賞金稼ぎの正体なのよ!」
「それはまた、ずいぶん飛躍した推理ですね……」
「だって、わたしよりも早く優れた解答を出せる人間なんて、先生ぐらいしかいるはずないんですもの!」
「……よくわかりませんが、とにかくすごい自信ですねえ」
苦笑するユウ。しょうがない人だな、と変わり者を面白がる目でエルフェールを見やっている。
「そう考えれば、実験室のお化けも納得できるんです!」
「……どういうことですか」
「あのお化けの呻き声は、先生なんですよ! 隣の倉庫に籠《こ》もって考え事をしたり問題を解いたりしていたのだわ」
「物置にしている部屋のことですか。なんでそんなところに籠もる必要があるんですか」
「きっと、わたしが実験で大失敗をやらかしたりしないよう、見てくれているのだわ」
以前起こした爆発事故。そういうことが起こらないように、用心してくれているのだろう。ありがたいことだわ、とエルフェールは思うのだ。顔を合わすと、つい首を絞めてしまうのだが。
じつは、隣の部屋にネルがいるのでは、ということは以前から薄々気づいていた。だから、毎晩普通に実験できていたのだ。本当に亡霊の声だと思っていたら、怖くて仕事どころじゃない。
エルフェールは、亡霊や怪奇現象の類《たぐい》が死ぬほど苦手だ。数学が得意なせいなのか、逆に論理で理解できないようなものが本当にダメなのだ。何せ、最初に呻き声が聞こえた時は、しばらく気を失ったぐらいだった。正直に告白すれば、少し漏らした。
「まあ、それですべて解決なら、それでよいではないですか。一件落着、ということで」
「まだ問題はあるんですっ!」
エルフェールは大いに苛立ちながら訴えた。
「なんですか、それは」
「これだけあちこちで賞金をもらってるのに、研究費は大して増えてないことです! 先生、良からぬことにお金を使っているのに違いないわ! 絶対!」
「良からぬことってなんですか」
「それはもう、たいへんにいやらしく、いやらしすぎるほどであり、いやらしすぎるがゆえに口には出せないようなことに決まってるんです!」
ため息とともに筆を置く音。グリンゼだった。無表情のまま部屋を出て行く。聞く気もおきないといったところだろう。だが、エルフェールはそんなことなど気にもかけずに続けた。
「ここはひとつ、尻尾を掴んでやらないといけないわ!」
むしろ張り切っているかのように、エルフェールは意気込んで宣言するのだった。
ややあって、居室にネルが入ってきた。手に一枚の封筒を持っている。目は少しおどおどとしている。あやしい、とエルフェールは直感した。これはもう、たいへんにいやらしく、いやらしすぎるほどであり、いやらしすぎるがゆえに口には出せないようなことを企んでいるに違いない、と考えた。
「ちょっと出かけてくる」
隣国の陰謀に巻き込まれていることがわかってから、ネルの外出はエルフェールの許可制ということになっている。こうしていちいちお伺いをたてにくるのはそのためだ。
「どこに行くんですか?」
「いや……ちょっと」
あやしい。
あやしすぎる。
ついていこうと考えたが、ふとひらめいてエルフェールは思いとどまった。
ここは泳がせた方がいい。自分がついていったら、尻尾を掴ませないに違いない。泳がせて後をつけるのが一番だ。
そう考えた。
「わかりました。わたしは雑誌の懸賞問題を解いてますから、気をつけて行ってきてください」
「懸賞……? なんだ、今月も応募するのか」
「もちろんです。ちょっとでも稼がないと」
「最近はいつもA・マクドウェルに持って行かれてるのに、まだ諦めないんだなぁ」
なによ!
自分がA・マクドウェル本人のくせに、しらじらしい!
と、なじってやりたかったが、なんとか我慢した。
「ふーん、『サイエンティフィック・エーレ』の問題か。なるほど、『黒猫は猫ではない』ねぇ」
雑誌を手に取って、ネルは感心したように言った。
「ええ。くだらない問題ですけど、賞金も高いですし」
「……くだらないかぁ」
「そうですね。この出題者は、たいていこういうタイプの問題を出してますね。先生はお好きなんですか?」
「まあ……結構ユニークで面白い出題をする人だと思うけど」
「えー、そうかしら。わたしは嫌いだわ」
数学者でもあるエルフェールは、論理の美しさにはこだわりを持っていた。逆に言えば、美しくない問いは嫌いなのだった。
「こういう素人受けを狙った問題を作る人、わたし大っ嫌い! きっと、自分のことを博識だと思ってる鼻持ちならないジジイなのに違いないわ」
「……そんなに嫌いなのに、懸賞は出すんだなぁ」
「稼ぐためです! 稼ぐためには、なんでもやらなきゃいけないのよ! 誰かさんのせいで!」
非難が自分に飛び火しそうになって、慌てた様子でネルは雑誌を卓上に置いた。
「まあ、とりあえず出かけてくるよ」
ひらひらと手を振って、ネルは外に向かう。
「懸賞、がんばって稼いでくれよ」
またもしらじらしいことをエルフェールに告げるネル。そのまま彼は、そそくさと居室を出て行った。じつに、じつにあやしい仕草だった。
「ユウさん!」
決行の時!
後をつける!
「ついてきてください!」
ユウを巻き込んで、エルフェールは居室を飛び出した。前方にネルの姿を見据えながら、見つからないように後ろにつく。
「そんなにいちいちあやしんでたら、キリがないんじゃないですか」
相手を落ち着かせるような柔らかい声でユウは諭した。
「だって、持ってた封筒からしてあやしすぎるんですもの!」
「封筒?」
「ええ。あの封筒、グリンゼが居室から持って出て行ったものと同じだった! あやしいわ! あやしい関係だわ!」
「どういう関係って言うんです?」
「それはもう、たいへんにいやらしく、いやらしすぎるほどであり、いやらしすぎるがゆえに口に出せないような関係よ!」
そんなふしだらなこと!
許されていいわけがないのだわ!
と、エルフェールはあたりを転げ回らんばかりの仕草で怒りを表した。
「……相変わらず、やきもち焼きですねえ」
いつもの苦笑とともに、ユウが穏やかに言う。
「ちちちち違いますっ! そんなんじゃありませんっ!」
いきなりおそろしく真っ赤になって、抗弁。
「風紀の乱れは正さないといけないんです! そういうの、研究の妨げになるんですから!」
「まあ、それはそうですけど……」
「こうなったらもう、何が何でも尻尾を掴んでやらないといけないのだわ!」
決意も新たに、エルフェールはネルの後を追う。探偵まがいの行動。いやが上にも興奮は高まった。もともと、探偵小説や推理小説は好きな質《たち》でもあった。どんなことであれ、わからないことをわからないままにしておけない性格。謎はすべて解かねば気が済まないのだった。
技術院の広大な敷地を出て、通りをテーム河に沿って南へ。
帝都の中心街へ向かっているようだった。
(売春街みたいなところに行こうとしたら、とっちめてやる)
そういう場所に足を踏み入れたことはないので少し怖いが、だからユウについてきてもらった。準備は万端。どこに行こうと、すかさずとっちめられる。言い訳なんて聞いてやらない。
が、どうやらそうしたあやしげな場所に行く様子はなかった。
大通り沿いにある銀行。
その回転扉の前で、ネルは立ち止まった。エルフェールはほっとしながらも、注意深く彼の動きを見守った。まだまだ、安心はできない。
ネルは、銀行の入り口の前で封筒の中を確かめている。
そしてすぐに、建物の中へと入っていった。
エルフェールはユウの顔を見上げた。
「封筒の中身、見えましたよね!?」
「ええ……結構な額のお金が入ってたようですが……」
「紙のお金だった! たぶん十|弗《ポンド》はあったわ!」
エルフェールの疑念は膨らんだ。そんな金があれば、いろんな実験器具を買うこともできる。それなのに、こっそり銀行になんて。どう考えてもおかしい。
それに!
「どうしてあんなお金を、グリンゼから受け取ってるのよ! おかしいわ!」
「秘書なんですから、研究室のお金なんじゃないですか」
「研究室のお金を、居室の封筒になんて入れておくわけないわ!」
「はあ……」
「ということは個人のお金なのよ! なんで個人的に二人でお金をやりとりしてるの!? いやらしい! いやらしすぎるわ!」
「……なんでそういう方に考えが行くんでしょうねえ」
「だって!」
エルフェールは訴えるが、ユウは穏やかなままだった。
「まあたぶん、お金は実家に送金してるんですよ」
中を覗く。確かに、預金ではなく他国への振り込み送金の窓口に並んでいた。倭国にまとまった金額を送金するなら、郵便などよりもこの方法が一番早い。
「先生の実家は没落士族ですから」
「士族?」
「倭国では三十年ほど前に、御一新……まあ革命のようなものですね、そういう事変が起こって、国を治めていた幕府が倒れたんですが、そのせいで士族という騎士階級が次々没落していったんですよ」
「先生んち、貧乏なの?」
「まあ、いわゆる『爪に火を灯す』ような家でしたね。下の兄弟を貧乏で亡くしたりもしてますし、大学に入学した時は北の遠い地方から歩いて上京してきましたし、ああ見えてそこそこお金には苦労してるんですよね」
「そうだったの……。あまりお金お金と言って悪いことしちゃったかな」
いちおう、納得。
しておくことにする。
つまり、A・マクドウェルという名前を使って賞金を稼ぎ、それを実家に送金していたのだろう。グリンゼからお金を受け取っていたのは気に食わないが、それも王立技術院の講師が賞金稼ぎをしているのがバレるとまずい、という配慮があったのだと思えば納得できる。賞金はいったんグリンゼ宅に届けられて、それをネルが受け取っていたのだろう。
ネルが送金手続きを終えたらしく、出口に向かってきた。エルフェールらは慌てて物陰に隠れる。
彼が技術院へと戻っていったのを見計らって、エルフェールは銀行の入り口に向かった。
「まだ何かあるんですか?」
ユウが問うと、さも当然のことのようにエルフェールは答えた。
「だって、一応確認はしておかないと!」
「はあ……」
「なんでも、ぜんぶ把握しておかないと、すっきりしないんですもの」
つい先ほど「悪いことしちゃったかな」などと殊勝に反省したことも、もはや見事なまでに素早く忘却中。
「まったく、疑り深いですねえ……」
その後、窓口の銀行員を脅したりなだめすかしたり、ついには王宮警察の士官の名前を出して犯罪捜査と偽ったりまでして、ようやく聞き出した送金先の氏名が――
G・グリーン。
「G・グリーン!?」
懸賞問題の出題者! 実家ではなく、なぜそんな人にネルが金を送っているのか。見当がつかない。
「どういうことなの……?」
考えられることは、多くはない。行き着いた解答は結局のところ一つだった。
「賄賂《わいろ》!」
わたしの解答が採用されるために!
出題者に賄賂を送って不正をしているのだわ! G・グリーンはあちこちの雑誌や新聞などで懸賞記事を書いている。その多くで今後ずっと解答が採用されるようになるのなら十弗もの賄賂も惜しいものではない、ということなのだろう。
見損なった、とエルフェールは思った。怒りが胸をついた。先生を見損なった。こんな不正は、絶対許せない。自分のためにしてくれていることなのかもしれないけれど、でも、こんな手を使って……。
いったい、どうすればいいんだろう。
エルフェールは心底から頭をかかえるのだった。
数日後――
手紙の束を手にしたグリンゼが、ネルの執務室に入ってきた。束を入り口近くの卓上に置いて、執務机で居眠りをしているネルに呼びかける。
「『サイエンティフィック・エーレ』誌の懸賞の解答が、もうこんなに届いてますよ」
「ん……」
「早めに審査しておいてくださいね、G・グリーン先生」
クローゼットの方から、がたりという音。
「その呼び方、やめてくれよ」
寝起きの目で手紙の束をネルはチェックした。エルフェールの名前も、当然ながらその中にはあった。
そしてA・マクドウェルの名前も。
「うーん、今回もまた、この二人のどちらかなんだろうなあ……」
「いつもどちらを選ぶかで困ってますものね」
「でも、エルフェールにはさんざん、くだらない出題者だと言われたからなあ。しかも相当こっぴどく……」
恨みがましくネルはグチをこぼす。
「心情的には、またA・マクドウェル氏を選びたくなるよ」
「だめです! 審査は公正に!」
「わかってるよ……」
本心を言うなら、研究費のこともあるし、ネルもエルフェールの解答を採用したいのだ。が、A・マクドウェルの投稿が、それをさせない。それほど優秀な解答を、A・マクドウェルは毎回送ってくるのだった。
「しかし、審査も骨が折れるんだよなあ……。問題作成もさることながら」
「あら、問題はいつもすらすら作ってるじゃないですか。審査の方はいつもここでウンウンうなってらっしゃるけど」
「まあ、毎回毎回これだけ応募があるからな……読むだけでもほんと苦行だし。今回みたいな一発ネタ物だとまだ楽なんだけど」
「わたしだって、毎回毎回黒猫のイラストを描くの、結構面倒なんですからね」
釘を刺すようにグリンゼが言う。
「これだけやっても、原稿の報酬は賞金の半分以下だからなあ。なかなか研究費の足しにはならんよな」
「名前をお借りしてるグリーンさんにも、一部お渡ししないといけませんし」
グリーン氏というのは、ネルが個人的に懇意にしていた学者だった。いまは引退して新大陸で余生を送っている。その名前を借りて、ネルはあちこちの雑誌で出題者として原稿を執筆しているのだ。倭人の名前ではなかなか出版社からも読者からも受け容れてもらえないので、ある程度名前の通った学者の名前を使わせてもらっているのだった。
ぶつぶつ文句を言いながらも、査読に取りかかる。
『黒猫は猫ではない、という詭弁を論破、あるいは擁護せよ』
むろん、答えは一つではない。解答者の数だけあるような問題だ。そうしたところが『美しくはない』わけで、エルフェールなどの好みに合わない理由でもあろう。ネルも自分の出題が数学王女の趣味に合わないことはわかっているので、この仕事のことは内緒にしている。
さて、黒猫は猫ではない、について――
少し言い方を変えて、『黒猫は黒ではない』としてみるとわかりやすいかもしれない。この場合、『黒猫は黒くない』という文章だとすると『偽』になるが、『黒猫は『黒』という概念とは異なっている』という文章だとみなすと『真』になってしまう。つまるところ、言葉の指し示す概念を明確にしないといけませんよ、ということなのだが、それをどのように解答するか。その面白みでネルは審査をしていた。
結局、最終的に残ったのはエルフェールとA・マクドウェル氏の二解答。
そして二つを較べてみると、やはり洗練度でA・マクドウェル氏が一歩優っていた。いつものことだが、エルフェールは持てる知識を総動員して、壁をぶちこわしながら進むような解答を送ってくる。これはもう、持って生まれた性格的なものなのだろう。実生活においても研究や実験においても、そのあたりはまったく変わらないのだから。
それに対してA・マクドウェル氏の解答は、最低限必要な知識だけを利用して、ひらりひらりと壁を乗り越えるような品の良さを持っている。今回などは「『|黒 猫《ザ・ブラック・キャット》』は推理小説のタイトルなので、猫ではないのは正しい」といった小ネタが解答に付け加えられているのも愉《たの》しい。洗練された論理で論破したあと、小ネタで擁護もしている。しっかりとした知性の感じられる解答だった。
「うーん、やっぱり今回も、A・マクドウェル氏の勝ちかなあ……」
「本当に、いったいどういう人なんでしょうね」
グリンゼの疑問も当然のことだった。
「かなり優秀な方のようですけど……。こんなにあちこちの雑誌に応募しているところを見ると、時間のある人なんでしょうか」
「だね。もしかしたら学生なのかな。学生だったら、社会人よりも時間があるだろうし」
「まあ、エルみたいに、やたら忙しいくせに金に目がくらんであちこち応募してる人もいますけど」
「ははは、金に目がくらんで、はひどいなあ」
グリンゼの毒舌に、ネルはつい吹き出した。
ふたたびクローゼットの方から、がたりという小さな音。
「しかし、これだけ優秀な人が学生だったらすごいな。そういう学生がうちに来てくれたらなあ……」
「いい方に夢を見過ぎですよ」
「でも、毎回解答を見てると、なんとなくエルフェールと相性のバランスが取れてる感じがしたりするんだよな。剛のエルフェール、柔のA・マクドウェル氏みたいなさ」
アーフィン・マクドウェルという名の少女が学生としてネルの研究室に配属されるのは、この一年後のこと――
さて。
執務室のクローゼットにこっそり隠れて聞き耳を立てていたエルフェールは、と言えば。
居室に戻って悄然《しょうぜん》となっていた。しょんぼりとして自分の席に座っている。ズーンという落ち込みの音が聞こえてくるかのような、見事なまでの消沈っぷりだった。
良からぬ疑いを持ったことへの自己嫌悪。
つまりいつものことではあったが。
「だから、言わないことじゃないでしょう。いちいち疑っても、いいことなんて一つもないんですよ」
いきさつを聞いたユウが教え諭すようにたしなめる。エルフェールは反論もできない。
「……でも、どうしてグリンゼからお金を受け取っていたのかしら」
「先生の散らかったアパートにお金なんて置いておけないでしょう。というか、単に金銭関係は秘書がぜんぶ処理してるんですよ。先生は実務能力ありませんし。グリンゼの前は、私がやってましたよ」
「そうだったのね……」
納得顔でうなずくエルフェール。思えば、あの真面目なグリンゼが研究会の最中に落書きなんてしていることですべて気づくべきだったのだ。よくよく思い出してみると、描いていた動物の絵は雑誌にいつも掲載されている黒猫のイラストとタッチが同じだった。
恥ずかしさに頭をかかえる。そんなエルフェールに、ユウが表情も変えずに問いかけた。
「そんなことより、もっと大きな問題を忘れてませんか?」
「え……。って言っても、もう何も……」
少し考えてみたが、思い当たることがない。首を傾《かし》げて、エルフェールはユウの顔を見上げた。
「最初に言っていた実験室の亡霊のことですよ。その呻き声、倉庫に籠もって問題を解いていた先生の声じゃないのだったら、いったいなんなんです? 先生、問題作成は結構スラスラやってるんでしょう?」
さっと顔から血が引くのをエルフェールは感じた。
「あっ……ああっ!」
叡理国の第十三親王たる王女、失禁の上に失神――
呻き声の原因が、倉庫に置かれていたネルの小型モーターが誤動作して棚と共振し、うなり声のように聞こえていたものと判明、そして同時に彼が理不尽な暴力を王女から食らうのは三日後のことだった。
こうした騒々しい日々を約九ヶ月。
正確には二六八日のあいだ繰り返した末に、彼らは『虹の花火と動画の手法』により国際花火大会を制したのだった。
[#改ページ]
COMMENTS
定金伸治
さだかねしんじ
『ユーフォリ・テクニカ』
この短篇は1巻19節と20節の間、主人公達が花火の研究をしていた数ヶ月のありさまの、ごく一部を報告したものです。なのでVer.0.99としました。0.99.1と加えたのは0.99.2もあるかもなあという理由です。備えあれば憂いなし(?)というわけです。
[#改ページ]
闇の底の狩人
横山信義
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)相応《ふさわ》しい
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)軍用|車輛《しゃりょう》
-------------------------------------------------------
その地は、樹木の墓場とでも呼ぶに相応《ふさわ》しい場所だった。
かつては多数の木々が密生していたことをうかがわせるが、今はごくまばらだ。
残っている樹木にも、まともなものは一本もない。枝も、葉も、全てを失い、焼けただれた幹だけが残っている。
地上には、多量の灰が堆積《たいせき》し、半ば炭と化した倒木が、そこここに横たわっている。
元が何の木だったのか、見当もつかない。
爆撃、砲撃が繰り返され、高温の炎が、生きとし生けるものを焼き尽くしたのだ。
樹林に特有の香りなどは、どこにもない。感じられる臭いは、燃え残った油脂の鼻を突く臭気と、燃やされた樹木の焦《こ》げ臭さだけだ。木々の屍臭《ししゅう》と呼ぶべきかもしれない。
許策《ホチェク》は、顔をしかめた。
猟師《りょうし》の家に生まれ、幼い頃から父と共に、山野を駆け巡った身だ。
亡き父はホ・チェクに、猟は山野が育《はぐく》んだ自然の恵みを分けて貰うことだと、繰り返し教えてくれた。
だが、徹底的に焼き尽くされた樹林からは、どれほど小さな自然の恵みも受け取れない。
おぞましき死以外のものは、ここには存在しなかった。
軍は、異臭が漂い、細かい灰が風に乗って舞う中を、黙々と行軍する。
戦車、装甲車、トラックは、エンジン音を轟《とどろ》かせ、灰や泥土を踏みしめながら進む。その脇や後方を、歩兵たちが疲れ切った足取りで、歩を進めてゆく。
軍用|車輛《しゃりょう》の多くは、爆炎に撫《な》でられた跡や弾痕《だんこん》をくっきりととどめている。歩兵たちの多くは、半ばぼろと化した軍服をまとい、顔は埃《ほこり》でどす黒く汚れている。
片腕を首から吊っている者、木の枝を杖《つえ》代わりについている者、顔に火傷《やけど》の跡を残している者も珍しくない。
開戦直後の電撃的進攻で、半島の過半を制圧下に置き、敵を半島最南端の一角に追い詰めた栄光の軍の姿はどこにもない。
そこにあるのは、無惨な敗北を喫《きっ》し、敵の追撃を逃れて退却してゆく軍でしかなかった。
敗軍ののろのろとした歩みが、唐突に止まった。
兵士たちの何人かが、闇の彼方に爆音を聞きつけたのだ。
音は、時間の経過に伴い、大きさを増す。一部の兵だけでなく、全員の耳にはっきりと聞こえ始める。
「敵機だ!」
「『黒猫』だ!」
複数の兵の叫びが飛び交った。
敵の言語で「虎猫」を意味する名前を付けられていることと、夜間迷彩用に黒く塗装されていることから、兵士たちに「黒猫」と呼ばれている双発の夜間戦闘爆撃機が、敗走する軍を更に叩きのめすべく来襲したのだ。
「逃げろ!」
「散開しろ!」
「木の陰や倒木の下に潜り込め!」
指揮官の命令や兵の叫びが、闇の中に交錯する。
歩兵たちは、いち早く軍用車輛の近くから離れ、焼かれた樹林の中に駆け込む。
トラックの乗員も車輛を捨て、歩兵たちと共に逃げ出す。
戦車、装甲車の乗員だけは、車輛を放棄することなく、砲塔や後部キャビンに据え付けられている対空機銃を夜空に向けた。
車載機銃ごとき、敵機に対しては気休めでしかない。車輛を放棄し、避退する方が、まだしも生き延びられる可能性がある。
だが、まがりなりにも戦える武器を有している以上、逃げ出すわけにはいかなかった。
ホ・チェクは、他の兵士たちとは異なる行動を取った。
肩にかついでいた対戦車ライフルを脇に抱え直し、放棄されたトラックの陰に身を潜めた。
対戦車ライフルは、祖国の後ろ盾になっている北の大国から供与された武器だ。正式呼称は、デグチャレフとかいう単語の後に、複数のアルファベットと数字が続く長ったらしい名前だが、ホ・チェクは単に「デグ」とのみ呼んでいる。
半島の北半部に新たな国家が誕生し、軍が編成されたとき、多くの青壮年男子が徴兵され、新しい祖国の守りに就いた。
ホ・チェクは猟師生活で鍛えた射撃の腕と膂力《りょりょく》を見込まれて、対戦車小隊に配属された。猟師のときに使っていた古い猟銃を、大きく重い「デグ」に持ち替え、虎や鹿ではなく、祖国に仇《あだ》なす敵を撃つことになったのだ。
以来ホ・チェクは、片時も「デグ」を我が身から離したことはない。愛用の銃は猟師にとり、身体の一部と同じであり、それと起居を共にするのは当然のことだった。
兵士たちが逃げまどう中、多数の吊光弾《ちょうこうだん》が上空に弾《はじ》け、青白い光が降り注いだ。
その光の中、「黒猫」が一斉に機体を翻《ひるがえ》す様が見えた。
よく研《と》ぎ上げられた剣を思わせる細身の胴体に、二基の太いエンジンを配した特徴的な機体が、地上すれすれの低空へと舞い降りてきた。
戦車の砲塔と装甲車の後部キャビンに、次々と発射炎が閃《ひらめ》く。何条もの細い火箭《かせん》が、迫る「黒猫」に向け、翔《か》け上がってゆく。
だが「黒猫」は、まったく意に介《かい》さない。
胴体下から、黒い塊《かたまり》が次々と切り離される。
それらが地上に達するや、火焔《かえん》が奔騰《ほんとう》し、おどろおどろしい爆発音が轟く。
直撃を受けた車輛は、戦車であれ、装甲車であれ、一撃で爆砕される。生身の歩兵は、飛び散る弾片や破壊された味方車輛の破片に切り裂かれ、爆風に吹き飛ばされ、血飛沫《ちしぶき》の中で絶叫する。
一機の「黒猫」が、ホ・チェクが身を潜めているトラックに機首を向けた。
ホ・チェクは、「デグ」を担いだまま右に飛んだ。
地面に積もった灰の中に突っ込んだ。燃え残った木屑が舞い上がり、ホ・チェクは激しく咳き込んだ。
「黒猫」が、轟々《ごうごう》たる爆音を立てて通過する。
一拍置いて、弾着の衝撃が襲い、ホ・チェクの身体が僅《わず》かに浮き上がった。強烈な炸裂音が耳朶《じだ》を貫き、しばしホ・チェクの聴覚を奪った。
顔を上げたホ・チェクの眼に、トラックの反対側に上がる火柱と、ホ・チェクにのしかかる格好で横転しかかっているトラックが映った。
ホ・チェクは、右に転がった。服の内側にまで、灰が入り込んだ。
地響きと共に、トラックが横転した。多量の灰が煙幕のように舞う中、ホ・チェクは転がり続けた。
負傷はない。
ホ・チェクはトラックを楯とすることで、爆風と弾片から身を守り、横転したトラックの下敷きになることも免れたのだ。
ホ・チェクは、動きを止めたトラックに這《は》い寄り、その陰に身を隠した。
「黒猫」は、まだ離脱していない。
低空を飛び回り、爆弾だけでは仕留めきれなかった戦車や装甲車や歩兵の掃討《そうとう》にかかっている。
両翼に発射炎が閃き、太い火箭が地上に向けて噴き延びる。
この戦争の緒戦《しょせん》において、ろくな対戦車兵器を持たない敵軍を圧倒した戦車も、航空機に対しては無力だ。砲塔上面や車体背面の薄い鋼鈑《こうばん》をたやすく撃ち抜かれ、炎を上げて擱座《かくざ》する。
逃げまどう歩兵にも、機銃弾は容赦なく浴びせられる。
多くの兵は、木の陰に隠れようとするが、焼けぼっくいとなった木は、ほとんど遮蔽物《しゃへいぶつ》の用を為《な》さない。
太い火箭は、燃えかすとなった幹を容赦なく貫通し、あるいはなぎ倒し、背後に隠れている兵士の肉体もろとも粉砕する。
星明かりの下、次々と血飛沫が上がる。「黒猫」の爆音、機銃の掃射音、殺戮《さつりく》されてゆく兵の絶叫が交錯する。
一〇分と経たぬうちに、地上に動くものはほとんどいなくなった。
吊光弾の青白い光と共に、破壊された戦車やトラックから上がる炎が、地上を照らし出している。
「黒猫」の数は、決して多くはない。吊光弾の光の中に確認できた機体は、せいぜい二〇機。
その二〇機が、敗走中とはいえ、二〇〇名以上の地上部隊を、ごく短時間で壊滅させたのだ。
地上には火災煙が立ちこめ、軽油が燃える臭いや人体が焼ける臭いが入り混じった悪臭が立ちこめている。
「黒猫」が、次々と反転した。
ホ・チェクは、このときを待っていた。
通常は、二本の脚を地面に立てて用いる「デグ」を、ほぼ垂直に近い角度に持ちあげた。
「黒猫」の一機に、銃口を向けた。星明かりを背にした黒い機影が、照準線の彼方に見えた。
ホ・チェクは照準をずらし、「黒猫」の未来位置を狙った。
右手の指で、撃鉄を起こした。鋭い音が、耳元で響いた。
ホ・チェクは、「デグ」の引き金を引いた。
銃口から真っ赤な炎がほとばしり、強烈な銃声が耳の奥に食い込んだ。
同時に発射の反動が、両腕から全身に伝わった。身体に、落雷したかのようだった。
ホ・チェクの狙撃が「黒猫」を捕らえることはなかった。
「黒猫」は、火も黒煙も噴き出さなかった。
「黒猫」のうち、四機が機体を翻し、再度の降下を開始した。
ホ・チェクが隠れているトラック目がけ、猛速で突っ込んできた。
両翼からほとばしった新たな火箭がトラックを捉えるや、一撃でタイヤやサスペンションが吹き飛び、引き裂かれた車体の鋼鈑が四散した。
暴風を思わせる機銃弾の嵐がトラックを粉微塵《こなみじん》に吹き飛ばしたとき、ホ・チェクは、既にその場にいなかった。
闇の底を突っ走り、三〇メートルほど離れた場所に擱座している戦車の陰に飛び込んだ。
敵の射撃は、更に連続する。
爆弾で破壊された装甲車の残骸や、履帯《りたい》を切断されて動かなくなった戦車は言うに及ばず、地上に散乱する兵士の惨死体にまで、機銃弾が撃ち込まれる。
太い火箭は大地を抉《えぐ》り、土埃を舞い上げる。それが装甲車や戦車の残骸に達したかと思うと、無数の火花が飛び散り、引き裂かれた鋼鈑や引きちぎられた部品が吹き飛ぶ。
ホ・チェクが身を潜めている戦車にも、多数の機銃弾が撃ち込まれた。
耳の奥に異物をねじ込まれるような大音響が響き、被弾の衝撃に戦車の車体がわななくように震えた。飛び散った火花は、ホ・チェクの頭上をもかすめた。
「黒猫」の搭乗員は、ホ・チェクには気づかなかった様子だ。
敵機は、なお上空にある。
「黒猫」は大部分が引き上げつつあるが、四機だけが低空を旋回している。
ホ・チェクは戦車の陰に身を潜めたまま、「デグ」に二発目の弾丸を込めた。
直径は親指の先ほどだが、銃弾の初速は非常に速く、貫通力が大きい。戦車の正面装甲を破るだけの力はないが、装甲車程度が相手なら、充分仕留められる。戦車や装甲車より遥かに薄い航空機の外鈑《がいはん》など、問題にならない。
欠点は、昔の火縄銃のように単発式であるため、一発撃つごとに弾込めをしなければならないことだ。
その代わり、構造が単純で分解整備がしやすく、滅多に故障を起こさない。
猟師にとり、銃は自分の命を託すものだ。いざというときに弾が出なかったら、虎に食い殺され、鹿の角で突き殺される。
確実に撃てる単発銃の方が、いざというときに故障を起こす危険がある連発銃よりも、遥かに価値が高く、命を預けるに値する戦友だった。
「黒猫」は、先に吹き飛んだトラックがあったあたりを中心に、一定の範囲内で旋回している。エンジン音は、頭上を圧して轟いている。
(俺は虎じゃない。猟師だ)
上空の敵機に向かって、ホ・チェクは呟いた。
猟師は、待つことに慣れている。
灌木の陰や雪の中にうずくまり、何時間でも、何日でも獲物を待つ。
獣たちのように、勢子《せこ》が叩く銅鑼《どら》の音などで追い出されたりはしない。
装弾を終えた「デグ」を構え、戦車の陰で凝固を続けるだけだ。
このまま敵が根負けして飛び去るか、「デグ」の射程内に飛び込むのを待てばいい……。
敵機の爆音が一時遠ざかったとき、上空に青白い光が出現した。
光源は風に揺れながら、地上へと降下してくる。
ホ・チェクは首だけを動かし、「黒猫」の動きを追った。
数は四機。二機ずつ、二組に分かれている。
どちらの組も、地上を舐《な》め回すように、殊更《ことさら》ゆっくりと飛んでいる。
ホ・チェクはほくそ笑んだ。
敵の吊光弾によって、ホ・チェクも光を得た。
ホ・チェクは身じろぎもせず、吊光弾に照らされた「黒猫」の動きを追い続けた。
敵機は、間もなくホ・チェクが潜んでいる戦車の真上を通過する。
そのときが、好機だ。
戦車を仕留めるために作られたこの銃で、お前たちを虎のように狩ってやる。
ホ・チェクは「デグ」の銃口を正面上方に向け、引き金に指をかけたまま、ときを待った。
敵機の爆音は、すぐには近づいてこない。
行きつ戻りつを繰り返している。
やがて、爆音が大きくなり始めた。
「黒猫」は、急速に近づきつつある。ホ・チェクの頭上を通過しようとしている。
爆音が、更に大きくなる。暴風さながらの轟音だ。ほんの数分前、この地にいた兵士全員が聞いた、死と破壊をもたらす敵の咆哮《ほうこう》だ。
だがホ・チェクは、ぴくりとも動かず、敵の通過を待ち続けた。
やがて黒い巨大な影が、後ろから前へと通過した。
ホ・チェクは、まだ撃たなかった。
後続する二機目の爆音が迫った。
ホ・チェクは、この日二発目の射弾を放った。
強烈な反動に全身が痺《しび》れる中、ホ・チェクははっきりと見た。
「黒猫」の右のエンジンに、赤い火点が閃いたのだ。
すぐには、何も起こらなかった。
「黒猫」は猛速で戦車の真上を飛び抜け、強烈な風圧が、ホ・チェクの周囲に土埃を舞い上げた。
数秒後、「黒猫」の右エンジンから黒煙が噴出し、機体が大きくよろめいた。
そのときには、ホ・チェクは「デグ」を左腕にひっさげて戦車の陰から飛び出し、新たな遮蔽物を求めて、全速力で駆け出していた。
「ナンバー4、被弾!」
「ナンバー4、状況を報告せよ」
「被弾箇所は右エンジン。出力、大幅に低下」
「火災は?」
「どうやら大丈夫のようです」
「自力で、基地まで戻れるか?」
「ステーションIまでは無理ですが、ステーションPまでなら、なんとかなりそうです」
「よし、ナンバー4、ステーションPに向かえ。途中不時着がやむを得ない場合でも、極力友軍の支配領域に降りろ」
「ナンバー4了解。幸運《グッドラック》を、隊長」
その一言を残し、四番機は戦場空域から離脱した。
「ナンバー3、近寄れ」
「ナンバー102、聞こえるか? こちらナンバー1」
指揮官は、上空に待機している輸送機を呼び出した。夜間作戦時に、吊光弾を投下する役割を担っている。
「こちらナンバー102」
「もう一度、吊光弾を投下してくれ」
「それは構わないが、これ以上の戦闘は必要なのか? 貴隊の交信を聞いたが、敵は歩兵一人だけのようだ。歩兵一人に、戦闘機一個小隊がかかることもないと思うが」
「歩兵一人でも、我が小隊の猛攻をくぐり抜けた上、視界の利かない夜間に、正確な射弾を放ってきた凄腕《すごうで》だ。放置しておけば、味方にどれほどの被害をもたらすか分からない。危険な敵は、叩けるときに叩いておかねば」
「吊光弾の残りが乏しい。あと五発だけだ」
「それで仕留められなかったら、諦《あきら》める」
「いいだろう」
交信が切られた。
ほどなく新たな吊光弾が弾け、月を思わせる青白い光が、地上を照らし出した。
「小隊散開。敵兵を捜索せよ」
指揮官は、麾下《きか》の二機に命じた。
狭い空域で三機がばらばらに飛べば、衝突する危険があるが、僚機の動きは、後席の偵察員がレーダーによって把握する。
指揮官は操縦桿を前に押し込み、低空へと降下する。
吊光弾のおぼろな光の下に、最初の爆撃で叩いた敵戦車や装甲車の残骸が、散らばっている様が視認できる。
指揮官は両眼を大きく見開き、敵兵の姿を探す。
四番機が被弾してから、三分程度しか経過していない。
車輛をことごとく破壊した以上、それほど遠くには行けないはずだ。戦車や装甲車の残骸を利用して身を隠し、逆襲の機会をうかがっているに違いない。
できることなら、車輛の残骸に片端から機銃弾を叩き込みたいところだが、最初の爆撃と、敵兵に対する掃射で弾を消耗したため、残弾が乏しい。
敵兵を確実に発見し、的確に射弾を撃ち込まなければならない。
一分、二分と時間が経過する。
爆弾を叩き付けられた装甲車の残骸、爆風で横転したトラック、履帯を切断されて放棄された戦車、地上に累々《るいるい》と横たわる敵兵の惨死体――それらが次々と、視界の後方へと消えてゆく。
敵兵を発見できないまま、吊光弾の光が消える。
二発目が投下され、再び光が地上を照らし出す。
おぼろな光の底に、戦闘機三機のエンジン音だけが轟き続けている。
二発目の吊光弾も空しく浪費され、三発目も同様の結果に終わる。
残り二発の吊光弾で敵兵を発見できなければ、これ以上の戦闘を断念し、帰投するしかない。
四発目の吊光弾が投下されてから一〇秒ばかりが経過したとき、突然レシーバーに、切迫した叫びが飛び込んだ。
小隊二番機の機長の声だった。
「ナンバー2被弾! 左エンジンをやられた!」
この夜三発目の射弾を、ホ・チェクは積み重なった死体の陰から発射した。
散乱する死体の間に伏せ、「デグ」の銃身だけを上方に向けて、敵機の通過を待ったのだ。
ホ・チェクの胸中には、猟師の知恵と獲物に対する執念以外のものはない。
猟師は、積もった雪、灌木《かんぼく》、洞窟《どうくつ》等、あらゆるものを利用して身を隠し、獲物を待つ。今回は、それが戦友たちの死体だったというだけだ。
銃弾は、狙い過《あやま》たず敵機の左エンジンに命中した。
その「黒猫」は大きくよろめいた。黒煙を噴き出しながら、空中をのたうっている。
撃墜を確認する余裕はない。
ホ・チェクは、隠れ蓑に使った死体の間から跳ね起き、「デグ」を掴んで走り出した。
「黒猫」は、あと二機残っている。
その二機が来る前に、新たな遮蔽物の陰に隠れねばならない。
残った二機の爆音が接近してくる。一機はホ・チェクの正面、もう一機は右後方だ。
正面から迫る機影が、吊光弾のおぼろな光の下、はっきりと見えている。
(見つかった!)
そう直感し、ホ・チェクは地上に身体を投げ出した。
空襲を受けるのは、これが初めてではない。機銃掃射を受けたときの回避の方法は、身体で覚えている。遮蔽物が手近になければ、地上に伏せて対向面積を最小にすることだ。
正面から突っ込んできた敵機の機首に発射炎が閃いた直後、吊光弾の光が消えた。
太い火箭が闇を裂き、地上に突き刺さった。
土埃が舞い上がり、ホ・チェクの左方をかすめる。多量の土砂が、背中の上に降りかかる。
黒い巨大な機体が頭上をかすめ、風圧がホ・チェクの身体をひっつかんで、二転、三転させる。
一機目が後方に抜けた直後には、右後方から二機目が襲いかかってくる。
太い火箭が、再び地面を抉り、多量の土砂を舞い上げる。
「黒猫」がホ・チェクの背中をかすめるようにして、後ろから前へと飛び抜ける。エンジン音と風切り音が一体となった轟音が頭上を圧し、風圧がホ・チェクの身体を地面から引き剥《は》がし、転がす。
ホ・チェクは立ち上がり、懸命に駆けた。
多量の土砂を叩き付けられた背中が痛むが、それどころではなかった。
爆音は、前と後ろの両方で聞こえている。ホ・チェクが徒歩である以上、遠くには逃げられないと睨んでいるのだ。
新たな吊光弾が投下される前に、どこかに隠れなければ、今度こそやられる。
機銃掃射を二度も受け、風圧にさんざん突き転がされたにもかかわらず、ホ・チェクの左手は、しっかりと「デグ」を握っている。
最後まで、銃は放さない。自分は兵士である以前に猟師だ。猟師が猟の最中に銃を放すことは、即、死を意味する。
新たな吊光弾が夜空に弾けるのと、ホ・チェクが近くに擱座していたトラックの陰に飛び込むのが、ほとんど同時だった。
おぼろな光の下、前と後ろに、一機ずつの敵機が見える。
大きく旋回し、トラックに機首を向ける。
ホ・チェクは、小さく罵声を漏らした。
あいつらは、性悪の人食い虎並に鼻が利く。
「デグ」に弾を込める余裕はない。横に飛んで、射弾をかわすだけが精一杯だ。
正面から来た敵機の火箭が、数秒前までホ・チェクが身を潜めていた場所を貫き、地面に突き刺さって、土埃を噴き上げる。
入れ替わるような格好で、後方から突進してきた敵機の火箭が、トラックの車体後部に突き刺さる。
燃料タンクを撃ち抜いたのだろう、鈍い爆発音と共に巨大な炎が噴き上がった。
ホ・チェクは爆風を浴び、土の上を二度、三度と転がった。
残骸からは、多量の黒煙が噴出し、風に吹かれて漂い流れる。
吊光弾の光が消えても、炎は篝火《かがりび》となって米軍機に目標を指し示すように、赤々と燃え盛っている。
ホ・チェクは風下に回り、地上に伏せた。
「デグ」に新たな弾を込め、匍匐《ほふく》前進でトラックに接近した。
近づくにつれて熱さは増し、黒煙の量も増える。軽油が燃える悪臭に、息が詰まりそうだ。嗅覚が、おかしくなりそうな気がする。
にもかかわらず、ホ・チェクは前進を止めない。自身の肉体が耐えられる、ぎりぎりのところまで接近する。
黒煙が、ホ・チェクの全身を包み込む。ホ・チェクは仰向けになり、動きを止める。
二機の「黒猫」は、トラックからさほど離れていない。
爆音は、ホ・チェクを包囲するように轟き続けている。
時折機銃の連射音が響き、金属的な叫喚《きょうかん》が伝わってくる。
敵機は、トラックの周囲に散らばる戦車や装甲車の残骸を掃射しているのだ。それらの付近にホ・チェクが潜んでいると睨み、片端から銃撃を加えているのだろう。
ホ・チェクは、「デグ」を構えた。
押し寄せてくる熱気と黒煙に耐えつつ、発砲の機会をうかがった。
また、爆音が迫りつつある。
ホ・チェクは、その場から動かない。煙の中で静止し、敵機を待つ。
爆音が更に拡大し、敵機の接近を告げる。二基のエンジンの咆哮と、機体の風切り音が一体となり、威圧するように迫ってくる。
不意に、これまでに倍する熱気と大量の黒煙が襲いかかった。頭上から多量の火の粉が降り注ぎ、燃え上がるような熱さが全身を包んだが、ホ・チェクはなおその場で凝固を続けた。
直後、風圧が黒煙や火の粉を吹き散らし、ホ・チェクの眼前を、黒い機影が通過した。
ホ・チェクの身体は、ほとんど無意識のうちに動いた。
右手の指が引き金を引き、銃口に発射炎が閃いた。
命中の瞬間は、火災煙に妨げられ、はっきりと視認できなかった。命中したかどうかも分からない。
だが発砲の直後、ホ・チェクは確かな手応えを感じた。獲物に致命傷を負わせたときと、等質の手応えだ。
ホ・チェクは、転がるようにして黒煙の外に出た。
星明かりの下、敵機が大きくふらついている。機体の後方に、煙を引きずっている。
「黒猫」を横目に見ながら、ホ・チェクは走った。炎上するトラックから、距離を取った。
敵は、まだ一機残っている。
最後の「黒猫」が攻撃してくる前に、新たな遮蔽物の陰に身を潜めなければならない。
――だが、最後の一機が襲いかかって来ることはなかった。
新たな吊光弾が投下されることもない。
爆音は、次第に遠ざかりつつある。
敵機は、引き上げにかかったのだ。
ホ・チェクは四機の戦闘機と一人で戦い、三機を撃退し、生き延びたのだった。
遠ざかる爆音を背後に聞きながら、ホ・チェクは北に足を向けた。
「黒猫」との戦いには勝ったが、友軍は後退を続けている。
ホ・チェクの、そして祖国の戦いは、まだ続くのだ。
少しでも早く、最寄りの友軍に合流しなければならない。
友軍に合流するまで、どれぐらい歩き続けねばならないのかは分からない。この戦争が、いつまで続くのかも。
だが、祖国が戦い続ける限り、ホ・チェクもまた歩みを止めるわけにはいかなかった。
「デグ」の重みを肩に感じながら、ホ・チェクは闇の彼方に向け、一歩を踏み出した。
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COMMENTS
横山信義
よこやまのぶよし
「海鳴り果つるとき」「遠き曙光」「海の牙城」「巡洋戦艦『浅間』」シリーズなど
1994年に「修羅の波濤」でC★NOVELSにデビューしたとき、考証面のチェックの厳しさに仰天したものです。それで鍛えられたからこそ、作家として成長できたわけですが。とまれ、25周年おめでとうございます。
[#改ページ]
予告探偵
カタコンベの謎
太田忠司
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)木塚東吾《きづかとうご》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)遠路|遥々《はるばる》
-------------------------------------------------------
私――木塚東吾《きづかとうご》がその館を訪れたのは、八月十四日のことだった。
湖の畔《ほとり》に佇《たたず》む館の姿を初めて眼にしたとき、ゆくりなくも私の脳裏にある一文が想起された。
「……そして、なぜかは判らぬけれども――その建物を一瞥《いちべつ》したとたん、耐えがたいほどの憂愁《ゆうしゅう》が心に迫ったのである……」
どこに登場する文章であるのか、咄嗟《とっさ》には思い出せなかった。
「ポオだよ」
私の傍らに立つ男、遠路|遥々《はるばる》この地まで私を引きずってきた友人が言った。
「何を鳩《はと》が豆鉄砲を食ったような顔をしているんだ。君は自分が心の内にある言葉をついつい口に出してしまう癖《くせ》があることを、まだ自覚していないようだな」
「私が? 喋《しゃべ》っていたというのか」
「そのとおりだ。それに、君は大きな勘違いをしているぞ木塚君。あの屋敷はアッシャー家の館などではない。たしかに主《あるじ》は小説の中の人物に匹敵するほどの変人で頽廃《たいはい》しきっていたが、建物のほうはいたって健全だ。なにせ、主人が死んでも崩れ落ちたりはしなかったのだからな」
「この屋敷の主は、もう死んでいるのか」
「ああ、辻宮俊憲《つじみやとしのり》という、業突張《ごうつくば》りの守銭奴だ。そのくせ自分の趣味に関しては金に糸目をつけない所業で同好の士からも忌み嫌われる存在だった。あの世に行ってもおそらく友人ひとりいない寂しい暮らしを送っているだろうよ」
辻宮という名前には記憶があった。化学工業製品の開発で富を成した人物だ。
「あそこは、辻宮俊憲の家なのか」
「なんだ、そんなことも知らずに付いてきたのかい?」
「付いてきたんじゃない。君が強引に僕を連れてきたんだ。しかも事情ひとつ説明せずにな」
いつもそうだった。彼は自分勝手に私を引きずり回し、飛び込みたくもない厄介事《やっかいごと》の中心に放り込むのだ。今回も締め切り目前の原稿書きに勤《いそ》しんでいる私の襟首《えりくび》を引っ掴《つか》んで、何の説明もせずにここまで連れてきた。事情を知らないからといって彼に責められる謂《いわ》れはない。
「事情は、おいおいわかるさ」
彼はしれっとした口調で言う。
「さあ、辻宮俊憲が遺《のこ》したお宝とやらを拝みに行こう」
「それが目的だったのか」
「それも、ある」
「それもって……まさか、また――」
その先を言うことはできなかった。彼がさっさと歩きだしてしまったからだ。私は黙って付いていくしかなかった。
近付いてみると、建物の老朽化《ろうきゅうか》が予想以上に進んでいるのがわかった。もともと白亜であったと思われる外壁は黒ずみ、ひび割れ、ところどころ剥《は》げ落ちてもいた。ポオが創造した頽廃の館を想起したのも、あながち間違いではないようだった。ただそれでも手入れだけは手抜きなく行われているようで、前庭もきれいに整理されている。
我が友人は館の趣《おもむき》に気を取られることもなく門の前に立ち、インターフォンのボタンを押す。
――どなた様でしょうか。
少し間を置いて応答があった。彼は答える。
「客だ」
――本日、ご予約の方はいらっしゃいませんが。ご用の節は、然《しか》るべき手順を踏んで申し込みしてください。
「然るべき手順なら踏んでいるぞ。こうして屋敷の前までやってきて、君に来訪を告げているではないか。これ以上の然るべき手順はあるまい」
たとえ相手がどんなに温厚な人物であろうと、彼の高飛車な物言いを聞けば間違いなく感情を害してしまうだろう。インターフォンの向こうにいる人物が黙ってしまったのも、致し方ないことだった。
「おい、もう少し穏健に話したらどうなんだ」
言っても詮《せん》ないことと知りながら、私は意見した。
「穏健だと? 君は僕に、これ以上穏健になれと言うのか」
「ああそうだ。だいたい君は――」
私が言いかけるのを手で制すると、彼は五月蠅《うるさ》そうに、
「わかった。では穏健になってやろうか。どうすればいい?」
「どうするって、自分の素性と来意を告げて案内を請うんだよ」
「面倒な話だな。君がやってくれ」
「冗談だろう。私は君がなぜここに来たのか知らないんだぞ」
「友達甲斐のない男だな、君は」
「そんなことを――」
またも私の言葉を遮《さえぎ》ると、彼はインターフォンに向かって言った。
「僕の名前は摩神尊《まがみたかし》だ。摩天楼の摩、神仏の神、尊重の尊、すなわち、天に届かんとするほどの徳と神のごとき英知を持った尊《とうと》ぶべき人間だ。わかったら中に入れたまえ」
私は思わず首を振った。そんな言い種《ぐさ》で相手が受け入れてくれるとは到底――。
玄関の扉が開き、黒い背広を着た男がこちらにやってくるのが見えた。こけつまろびつ、慌てふためきながらこちらに駆けてくる。
門扉もまた勢いよく開かれた。あまりに勢いがありすぎて、危うく私の鼻を叩《たた》き潰《つぶ》しそうになったくらいだ。慌ててたじろぐ私に、飛び出してきた男ががっしりと掴みかかった。
「一体どういうことなんだ!? 何が起きているというんだ!? 教えて、教えてくれ!」
頸椎捻挫《けいついねんざ》になりかねないほど肩を揺すられ、物凄《ものすご》い形相《ぎょうそう》で問い詰められた。もちろん私には、何のことだかさっぱりわからない。
「ちょ、ちょっと待ってください。私はその――」
「何もかも知ってるんだろ? だからこんな手紙を書いて寄越《よこ》したんだろう?」
男はポケットから紙片を取り出すと、私に突きつけた。そこには、こう書かれていた。
八月十四日午後十二時、罪ある者は心せよ。すべての事件の謎は我が解く 摩神尊
「さあ教えてくれ。田波《たなみ》さんは、どこに消えたんだ?」
口角に泡を吹いて迫ってくる男の言葉の意味が、私にはほとんどわからなかった。だがしかし、一点だけ明確に理解できたことがある。私は男の追及をかわしながら我が友人――摩神に眼を向けた。
「おい、また君は変な手紙を書いたのだな?」
「変な手紙とは君、人聞きが悪いな。僕はただいつものように必要な事柄について書き記したのみだよ」
やはりそうか。私は喉元《のどもと》にかかる男の指を剥がしながら、必死に釈明した。
「違います違います! あなたに手紙を送ったのは私ではありません。彼です!」
幸いにも私の言葉が耳に届いたのか、男は立ち止まって摩神のほうに眼を向けた。
「あんたが……あんたが送ってきたのか」
「そのとおり」
摩神は頷《うなず》く。
「僕が摩神尊だ」
男はくるりと方向転換すると、今度は摩神に向かって突撃した。まずい、と思う間もない。摩神は闘牛士のごとき身のこなしで男の突進を避けた。男はもんどりうって地面に転がる。
「慌てるな。僕がここに来た以上、事件は解決するのだ」
摩神は高飛車に言ってのけた。そして転んだ衝撃で茫然《ぼうぜん》としているらしい男に訊《たず》ねた。
「それで、僕が解決すべき事件とは、どういうものだ? 子細を説明してもらおうか」
「御存知のように辻宮俊憲氏は辻宮化学の創始者です」
先頭に立って歩きながら男――丸矢年彦《まるやとしひこ》は言った。先程までの慌てぶりが嘘のように、今は落ち着いている。摩神の不遜《ふそん》な態度が逆に彼にとっては鎮静の効果があったと見える。
「辻宮氏はこの国の発展に大きく寄与された方です。たとえば――」
「辻宮俊憲の輝かしき業績なら、教えられなくとも知っている」
摩神は丸矢の言葉を遮った。
「辻宮化学は表向き化学工業製品の開発で有名だが、じつのところ軍事関係で利潤《りじゅん》のほとんどを稼《かせ》ぎ出している。爆薬、毒ガス、なんでもござれだ。辻宮はその富を武器に政財界の深部へと潜り込み、大きな影響力を及ぼすに至った。政変あるところ辻宮の資金あり、と言われるほどにな。陰の権力者気取りであらゆる汚い仕事に手を染め、昨年やっと死神が連れ去ってくれるまで、この国は彼のやりたい放題にされてきた」
「……いささか偏《かたよ》った見解が入っておりますね」
丸矢は眉を顰《ひそ》める。
「辻宮氏ほどの人物ともなれば、根拠のない中傷や誤解を受けてしまうのも致し方ないことです。しかしはっきりと申し上げておきますが、辻宮氏は決して私利私欲に走ることのない高潔な方でした。それは長年辻宮氏に付いてきた私が保証します」
丸矢は辻宮氏の秘書をしていたのだそうだ。雰囲気からすると秘書というよりは執事のようだが。
「辻宮氏|逝去《せいきょ》の後、このお屋敷は辻宮記念館として整備されつつあります。来年には一般公開もできるようになるでしょう」
「記念館だと? 何を展示するつもりだ? 辻宮が売りさばいた武器で死んだ人間の死体か。辻宮との争いに敗れて消えていった政治家や財界人のリストか」
「辻宮氏の功績と人となりを広く理解してもらうための記念館です。たとえば、このようなものです」
丸矢はエントランスの中央に立ち、私たちに指し示すように両手を差し上げた。そこは円形の空間だった。イオニア式の意匠《いしょう》を施した八本の柱に支えられた天井には荘重な天井画が描かれていた。ミケランジェロの「天地創造」を模したものらしい。私の記憶に間違いがなければ、構図といい色合いといい、ただ一点を除けば驚くほど忠実に模写されている。その一点とは、絵画に登場している人間や神たちだ。彼らはすべて、猫の姿に置き換えられているのだ。
天井画だけではない。壁面に飾られているいくつもの絵画――フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」、レンブラントの「夜警」、マグリットの「無限の感謝」、モネの「日傘を差す女」などの模写がすべて、猫の絵になっていた。
「これはみな、辻宮氏が描かれたものです。辻宮氏は画家としても類《たぐい》まれな才能を持っていました。この絵はみな、偉大な文化遺産なのです」
「なるほど、素晴らしいものだ」
摩神は冷笑的に言った。
「パロディはときに物事の本質を見抜く武器となるのだからな。そして描いた画家自身の本質も、そこに表れる。しかしこれを文化遺産だと称する鉄面皮ぶりこそ、後世に遺すべき遺産だろう」
「辻宮氏は猫好きだったのですか」
摩神の毒舌を打ち切りたくて、私は尋ねてみた。
「ええ、猫ほど美しい生き物はいない、というのが辻宮氏の信念でした。ですからこうした絵を描かれていたのです」
「なるほど」
「他にも猫に関するコレクションを多数所有されていまして……あ、いや、今はこんなことを悠長に話している場合ではありませんでした。こちらです」
丸矢はエントランスから伸びる長い廊下を歩き出す。
廊下の壁には写真が掲げられていた。どれにも写っているのは気難しそうな顔をした男だった。
「これが辻宮俊憲氏ですか」
「ええ」
笑っているものは、ひとつもない。どれも険しくて、人を信用する素振りも見せないような、頑迷な老人の顔だった。ただ、どの写真にも何らかの形で猫が登場している。猫の彫刻、猫の絵、猫柄の服、猫脚のテーブル。そうしたものと一緒に写っているのだ。なるほど、辻宮氏はなかなかの猫好きだったようだ。
丸矢は私たちを連れて長い廊下をどんどん歩いていく。どこに行くのかと思えば、そのまま裏口から外に出てしまった。
裏庭も広大なものだった。いや、丘陵《きゅうりょう》といったほうがいいだろうか。まるでゴルフ場のようだ。
その丘の頂あたりに、奇妙な建築物があった。
「あれは?」
私が尋ねると、丸矢はその建築物に向かいながら言った。
「辻宮氏の墓所です」
「墓所?」
近づいてみるとそれは、石造りの塔のような建物だった。
と、塔の入り口から一組の男女が出てきた。若い女性と、私と同年代くらいの男だ。
「丸矢さん、警察には連絡してくださいました?」
女性が尋ねてきた。髪が長く、品のある顔立ちをしている。しかしその表情には拭《ぬぐ》いがたい不安が影を落としていた。
「いや、それが……」
丸矢は口籠《くちご》もる。その態度に女性の表情がまた曇った。
「……もしかして、父のほうから何か言われたのですか」
「……はい、社長から直々に、警察には連絡するなと」
「まあ、なんて……なんてことなの」
女性は手で口許を覆った。
「孝治《こうじ》さんがどこにいったかわからないというのに……」
「まだ警察沙汰にするべきことではない、というのが社長の判断です。もしかして……」
丸矢は言いにくそうに、
「もしかして、田波さんが御自分の意志でどこかに行かれてしまったかもしれない、と」
「孝治さんが私を置いて? そんなこと、あるものですか! そんなこと……!」
女性は塔の石壁に寄り掛かり、嗚咽《おえつ》を漏らした。彼女と一緒に塔から出てきた男が、女性の肩に手を置こうとしたが、途中でその手を引っ込めた。そして気づかわしげに女性の背中を見つめている。
「宮下《みやした》君、やはり田波さんはいないんだね?」
丸矢に訊《き》かれ、その男は頷いた。
「くまなく探してみましたが、どこにも。そんなに広いところではないし、隠れるような場所もないのですが」
「やはりそうか。致し方ないな」
丸矢が頭を振ると、摩神に眼を向けた。
「こんな状況なのです。あなたに田波さんの行方がわかりますか」
すると摩神はあっさりと、
「そんなものは知らんよ」
と言った。
「僕は田波とかいう奴の居所などに興味もない。ただ僕は、謎を解きにきただけだ」
「謎を、解きに……?」
泣いていた女性が、その言葉を聞いて顔を上げた。
「もしかして、あなたが摩神さん?」
「そうだ、僕が摩神尊だ」
「ああ……あの手紙は本当だったのですね。ただの悪戯《いたずら》だとばかり……でも、まるで最初からわかっていたみたいに……」
「わかっていたのさ。だから予告した」
摩神は言った。
「では、これはあなたの仕業なのですか。あなたが孝治さんをどこかへ? どうして、そんなことをしたのですか!? あのひとは、どこにいるのですか!? 教えてください!」
「最初の質問に答えよう」
摩神は言った。
「田波とやらの失踪《しっそう》に、僕は無関係だ。よって第二の質問、なぜそんなことをしたのか、という問いは無効となる。そして第三の質問、田波はどこかという問いに対する答えは、さっき丸矢君に言ったとおりだ。そんなことは知らない。だが、謎が解ければ、わかるかもしれんな」
「あんた、一体何を言ってるんだ!?」
宮下が怒鳴った。
「史織《しおり》さんを混乱させて楽しんでるのか。いや、彼女だけじゃない。我々みんなを馬鹿にしているのか」
「とんでもない。僕はいたって真剣さ。ただ君たちが愚鈍なせいで、僕の真摯《しんし》な態度を理解できないだけだ」
「愚鈍だと!?」
男が摩神の襟を掴んだ。
「言っていいことと悪いことがあるぞ!」
「やっていけないことと、やると不幸になることもな。君がやっているのが、まさにそれだ」
摩神は襟を掴んでいる宮下の手を握った。本人は手加減したつもりだろうが、宮下は情けない悲鳴をあげて体を捩《よじ》った。
「痛い! やめろ! 手が! 手が折れる!」
「最初に手を出したのは君のほうだ。それなのにやめろと言うのか。つくづく勝手な男だな」
摩神が離すと、宮下は手首を押さえて地面に蹲《うずくま》った。
「余計なことで時間を潰させるんじゃない。僕がせっかく来てやったのだから、何が起きたのかきちんと話せ。田波だか孝治だかいう人間に何があった?」
「……先程からどうも、よくわからないのですが」
丸矢が言った。
「摩神さん、あなたは事件を解決すると予告状を送ってこられた。ということは、ここで何が起きるか、前もって知っていたはずではありませんか」
「丸矢君、君も知力に問題があるようだな」
摩神は自分より遥かに年上であるはずの丸矢に向かって言った。
「僕の予告状には『謎を解く』と書いてあるはずだ。『謎を知っている』とは一言も書いていないぞ」
「それは詭弁《きべん》というものでしょう。謎を知らず謎を解くことを予告するなんて――」
「いや丸矢さん、仰《おっしゃ》ることはよくわかります」
私はあえて割って入ることにした。このまま摩神相手に言い合っていても不毛でしかない。
「ただ、問題点を整理することこそが真相に近付く最良の方法ではないでしょうか。ここはひとつ、この屋敷で起きている事態について、あなたのほうから整理して教えていただけませんか。そうすれば、摩神もきっと謎を解いてくれるでしょう」
「しかし……」
「今は謎の解明こそが急務なのではありませんか」
私は再三説得を試みた。その甲斐あって不審顔の丸矢もやっと納得してくれたようだった。
「わかりました。では説明しましょう。先程も言いましたとおり、ここは辻宮氏の墓所です。辻宮氏の遺言により、宮下君が責任者として建設を進めてきました。それが遂に完成し、明後日には落成式が行われることになっております。そして今日、辻宮氏の孫娘である史織さんが内覧にいらしたのです。ところが一緒にいらした史織さんの婚約者である田波孝治さんが墓所に入ったきり、どこかに姿を消してしまったのです。この墓所には他に出入り口はないというのに」
「入ったまま、どこかに消えた……」
私は墓所と呼ばれている建物の入り口に眼を向けた。扉は開いたままで、その奥には暗闇があるばかりだった。
「中は、どうなっているのですか」
「それは、見ていただいたほうが早いでしょう。どうぞ」
丸矢の案内で、摩神と私は墓所に入った。
私たちが中に入ると明かりが灯《とも》った。そこは十畳程の円形の部屋だった。見上げると天井はかなり高い。塔の形はしていても窓ひとつなく、階段もなかった。ただの円錐形の空間なのだ。壁面も素っ気ない石の肌が剥《む》き出しになっている。ただ、その石には幾つもの彫刻がなされていた。
「猫、ですね」
駆けている猫、眠っている猫、座っている猫……様々な猫が壁面を飾っているのだ。
「猫に囲まれて過ごしたい、というのが辻宮氏の遺志なのです」
丸矢は言った。
「それはともかく、今からちょうど一時間ほど前のことです。史織さんが二階のテラスに出てみたところ、田波さんが裏庭を墓所に向かって歩いていくのが見えたのだそうです。史織さんは田波さんに呼びかけたのですが、返事はなかった。そうですね?」
丸矢が確認するように訊くと、史織は頷いた。
「田波さんには、あなたの声が聞こえなかったのですか」
私が訊くと、史織は首を振った。
「いいえ、聞こえたはずです。わたしが呼びかけたら一度振り向きましたから。でも何も言わずにまた歩きだしたのです。わたし、なんだか妙な気がして……予告状のこともありましたし……」
摩神の予告状のことだ。たしかにあんな手紙を受け取れば、不安にもなるだろう。
「それでわたし、孝治さんを追いかけたんです。裏庭に出たとき、ちょうど孝治さんが墓所に入っていくのが見えました。わたし、すぐに墓所に駆け込んだのです。でも、孝治さんの姿は見えませんでした」
私はあらためて墓所の中を見回した。たしかにここには、隠れる場所などどこにもない。出入り口もひとつだけだ。ここに入ったまま消えてしまうというのは、何とも不可解だった。
「棺《ひつぎ》はどこだ?」
不意に摩神が言った。
「ここが墓所なら、棺が収められなければならない。どこにある?」
「この下です」
丸矢は言った。
「宮下君、開けてくれ」
彼が指示すると、宮下が床に手を突いた。と、駆動音がして床の一部が動いた。矩形《くけい》の空間が開き、下に伸びる階段が現れる。
「……地下室か」
私が呟《つぶや》くと、
「カタコンベだな」
摩神が言った。
「入るぞ」
地下室には明かりが灯っていた。ほぼ正方形の部屋だ。こちらのほうが地上の空間よりも広いだろう。中に入った私は周りを見渡し、呟いた。
「墓というよりは、書斎だな」
壁は二面が書架で埋めつくされている。本好きの性《さが》として、私はすぐさま並べられている本を確かめた。
「……『Tales of the Grotesque and Arabesque』、『The Raven and Other Poems』、『Eureka: A Prose Poem』……おい、これは……」
「君が辻宮邸を見た瞬間にアッシャー家を連想したのは、あながち勘違いでもなかったってことさ」
摩神は言った。
「猫マニアの辻宮俊憲は世界有数のエドガー・アラン・ポオ愛好家でもあった。『世界有数』というのは、意地汚いという意味合いだがね。潤沢な資金力を武器に、ポオに関するものなら世界中から一切合切|掻《か》き集めていたのさ。そのへんにあるのはポオが生前に出版した本だろう」
摩神が先程「自分の趣味に関しては金に糸目をつけない所業で同好の士からも忌み嫌われる存在だった」と言っていたのは、このことだったのだ。
見渡してみると、収蔵されているのは本だけではない。ポオの作品を映画化した際のポスターやポオの肖像、その肖像を元に制作されたらしい某文学賞のブロンズ像などもある。確かにここは、マニア垂涎《すいぜん》の的となるであろうポオの一大博物館でもあるのだ。
その博物館の真ん中に、ある意味とても似つかわしいものが横たわっていた。棺だ。
「この中に、辻宮氏が?」
私が尋ねると、丸矢は頷いた。
「眠っております。現代最高の技術によるエンバーミングで完全な防腐処理を施され、永遠に朽ちることなく」
「自分の収集品を侍《はべ》らせて永遠の夢を見るつもりか。どこまでも強欲なことだな」
摩神は容赦なく言った。
「田波氏が入ったとき、ここへの入り口は開いていたんですか」
私は摩神の憎まれ口を無視して史織に尋ねた。
「閉まっていました」
史織が答えると、
「でも、扉は内からも閉めることができます」
宮下が補足するように言葉を継いだ。
「では、ここに降りた可能性が高いのですね。しかし……」
広いと言っても見通しの良い部屋だ。どこにも隠れるような場所はなかった。
「ここに入ったら、出入り口は他にないのですね?」
「ありません」
「では……一体、どこに行ったのやら……」
周囲を見回す私の視線に入ってきたのは、あの棺だった。
「まさか……ここに?」
「それは、あり得ません」
答えたのは丸矢だった。
「棺は木製に見えますが、実際は合金製です。しかも完全に熔接され、空気の出入りもありません。中に入ることは不可能です」
「なるほどね」
頷きつつも、私は実際に確かめないではいられなかった。棺の前に屈み込み、あらゆる箇所を調べてみた。その結果、彼の言うことが正しいと判断せざるを得なかった。棺の蓋《ふた》は完璧《かんぺき》に密閉されており、開けることは絶対に無理だったのだ。私は立ち上がり、史織に尋ねた。
「史織さん、あなたは本当に田波氏が墓所に入るのを見たのですか」
「間違いありません。孝治さんは墓所に入っていきました」
「あなたの他に、それを見たひとは?」
「私が見ています」
宮下が手を挙げた。
「史織さんが裏庭に駆けだしていくのを見て、何か良くないことが起きたような気がして付いていったのです。私も田波さんが墓所に入っていくところを見ています」
「私も宮下君の後から裏庭に出ました。ふたりと同じく、田波さんの姿を見ております」
「なるほどね……」
史織ひとりの証言なら、彼女が嘘を言っている可能性も考えられた。しかし他に証人がふたりもいるとなると、それも考えられないことだ。
「おい摩神、一体……」
一体どう考える、と尋ねようと振り返った。
摩神は部屋を構成している壁の一面に寄り添っていた。書架や陳列棚が壁を覆う中、そこだけ出っ張りがあって、白い壁が剥き出しになっている。
「漆喰《しっくい》だな」
摩神が壁に指を這《は》わせた。
「宮下君、これも辻宮俊憲の指図か」
「え?」
「今どきこんな古風な建材を使うのも、辻宮俊憲の指示なのかと訊いている」
「あ……ええ、そうです」
「随分と細かなところまで指示しているわけだ。つまりこのカタコンベは辻宮俊憲が設計しているのだな」
「……はい」
「そして君は彼の指示に従い、ここを建設した。そうだな?」
「……そうです」
「よくわかった。あともうひとつ質問だ。落成式は明後日だというのに、なぜ史織と田波だけが内覧に来ていたのだ?」
「それは……」
宮下が視線を泳がせた。
「これも辻宮氏の遺志なのです」
答えたのは丸矢だった。
「誰よりも早く、史織さんに墓所内部を見てもらいたいと遺言されていたのです」
「遺言か。辻宮俊憲は彼女を特別視していたのだな?」
「ええ、まあ。お孫さんですから」
「他に孫はいないのか」
「いえ、あと三人ほど。その方々も落成式には出席されますが」
「落成式前に呼ばれていたのは、史織だけなのか」
「……そうです」
摩神の視線が丸矢から史織に移る。史織は何もかも見透かすような彼の視線に晒《さら》され、居心地悪そうに身を竦《すく》めた。
「なぜ田波を連れてきた?」
「それは……わたしの婚約者だからです。それに孝治さんもお祖父《じい》様に可愛がられていましたから」
「田波も辻宮俊憲の部下だったのか」
「はい、孝治さんとはお祖父様の紹介で知り合いました。婚約も、お祖父様の計らいで……」
「何から何までお祖父様の掌《てのひら》の上、だな」
摩神は口の端に薄い笑みを浮かべた。
そのとき、柱時計が鐘を打った。午後十二時だった。
「頃合や、よし」
摩神は柱時計の前に立つ。
「諸君、約束の時刻だ。僕が謎を解いてやろう」
「摩神、本当にわかったのか」
「ああ、わかったともさ。じつのところ、このカタコンベに入ったときから、真相には気付いていた。辻宮俊憲らしい、悪趣味な趣向だ」
「辻宮? おい、辻宮氏はもう死んでいるんだぞ。なのに彼が田波氏の失踪に関わっているというのか」
「そうだ。辻宮俊憲こそが、すべての原因だ。だがそのことを話す前に、田波孝治を見つけよう」
摩神は柱時計の前面にあるガラス窓を開くと、左右に揺れている振り子を取り出した。長さ一メートルほどの立派なものだ。
「それを、どうする気だ?」
私が問うと、摩神は振り子を逆手に持ち替え、
「こうするのさ」
と、漆喰の壁の出っ張りのある箇所に振り子の先端を叩きつけた。
がっ、と鈍い音がして漆喰の一部が剥げ落ちた。
「な、何をするんだ!?」
宮下が悲鳴めいた声をあげる。
「やめろ! せっかく作ったものを……やめろ!」
「漆喰くらい、あとからまた塗り直せばいい」
続けて振り子を壁に打ちつける。と、漆喰が大きく剥がれ、中から煉瓦《れんが》のようなものが姿を現した。
「やはりな、律儀なくらい忠実に作っている」
さらに一撃。積み上げられた煉瓦と煉瓦の隙間に振り子が食い込んだ。
「危ない! やめてくれ!」
宮下が叫ぶ。しかし摩神は手を止めない。
すると宮下は、呆然《ぼうぜん》とした表情で摩神の行動を見ている史織の腕を取った。
「史織さん、早く逃げて! ここは危険だ!」
いきなり腕を引っ張られ、史織は戸惑っている。
「どういうことですの?」
「説明してる暇はないんだ。早くここから逃げないと――」
「逃げないと、どうなるんだ?」
摩神が訊いた。いつの間にか彼は宮下の前に立っていた。その手にはすでに変形してしまった振り子がある。
「やはり即効性の毒物が仕掛けてあるのだな? 毒ガスか?」
宮下は答えない。摩神は彼の肩を掴み、割れ目のできた壁に押しつけた。
「ここから漏れ出てくるものにどれだけの効果があるのか、試してみようか。ほら、思い切り吸い込んでみろ」
「や、やめてくれ!」
宮下は必死に足掻く。しかし摩神は彼をしっかりと押さえつけ、離さなかった。
「おそらく、それほど苦しまずに済むはずだ。そうだろう? きっと苦しめる気はなかっただろうからな。一呼吸しただけで一瞬にして――」
「やめてくれえ!」
宮下は殺虫剤を吹きつけられた蠅《はえ》のように手足をじたばたさせてもがいた。摩神が手を離すと、彼はそのまま床に倒れ伏した。
「どういう、ことですの?」
史織が青ざめた顔で摩神と宮下を交互に見た。
「君にも、もうわかっているはずだ」
摩神は言った。
「君の婚約者≠ヘ、この壁の中にいる。おそらくは、死体でな」
私は地面に突っ伏したままの宮下を見つめた。彼は震える声で、呟いていた。
「君の……君のために……しかたなかったんだ……」
「辻宮俊憲は歪《ゆが》んだ愛情の持ち主だった。すべては、それが発端だったのさ」
摩神は言った。
「その歪みの原因は、彼の腐った強欲と権勢欲にあると考えても、あながち間違いではあるまい。しかし僕はそれ以上に彼を歪ませてしまったものについて推察することができる。猫とポオだ」
「それがどうしたというんだ? たしかに彼は猫好きでポオの愛好家だったようだが――」
私の言葉を手で制すると、摩神は続けた。
「彼の愛好癖をそのまま受け取ってはならない。たとえば猫だ。木塚君、君は本館を通っているときに気が付かなかったかね?」
「何をだ?」
「廊下に掲げられていた辻宮俊憲の写真だ。猫に纏《まつ》わる様々なものに囲まれて、彼は写真に収まっていたな?」
「ああ、たしかに。彼の猫好きを如実に表すものだったよ」
「然り。だがね、あの写真の中には欠けていたものがある。本物の猫だ。彼は猫好きを標榜《ひょうぼう》していながら、生きた猫と一緒に写真に収まってはいないのだよ」
「……あ」
言われてみると、たしかにそうだった。写真の中には生きた本物の猫の姿は、どこにもなかった。
「でも、どうして……」
摩神は答える代わりに、丸矢に向かって問いかけた。
「辻宮俊憲は、猫アレルギーだった。そうだな?」
「……はい、そのとおりです」
丸矢は頷いた。
「辻宮氏は猫の毛に対して、強度のアレルギー反応を示してしまう体質なのでした。くしゃみや皮膚《ひふ》の炎症など、かなりひどいものです。それを我慢してでも猫を愛《め》でようとされたのですが、ひどい場合にはショック症状まで引き起こす始末で、どうすることもできませんでした」
「猫が大好きなのに猫に近づけなかったのか。それはある意味、悲劇だな」
私が言うと、
「そのとおり、悲劇だ。しかしそれは、もっと大きな悲劇の端緒に過ぎない。愛情を注ごうとする相手に拒絶されてしまう。そのことが辻宮俊憲に深刻な歪みを与えてしまったのだよ。愛情と憎悪は紙一重、というのは通俗な表現だが、彼の場合も猫に対する愛情と憎悪が心の内に混在することとなった。さらに悲劇だったのは、彼がポオの愛好家でもあったことだ。木塚君、ポオと猫、何を連想するね?」
「……『黒猫』か」
「そのとおり。ポオの作品中、もっとも悲劇的で恐ろしい短編、それが『黒猫』だよ。筋は覚えているかね?」
「ああ、主人公の男は本来動物好きで穏やかな人物だったが、アルコール中毒の影響で怒りっぽく乱暴な人間に変わってしまうんだ。そして可愛がっていた黒猫まで虐待し、ついには殺してしまった。その後、殺した猫とよく似た黒猫を拾ってきたが、その猫に対しても強烈な殺意を覚え、斧《おの》で殺そうとする。そのとき妻がやめさせようと邪魔したので、怒りに駆られた彼は妻のほうを殺してしまい、地下室の壁の中に死体を塗り込めてしまう。たしか、こんな話だった」
「細かなところが抜けているが、まあそんなところだな」
摩神は書架に歩み寄ると、一冊の本を取り出し、ページを捲《めく》った。『ポー名作集』と題された本だ。
「――泪《なみだ》を流しながら、心の中で激しい悔恨の情を感じながら、私は猫を絞殺した。かつて猫が私を愛したことも知っているが故に、私の気をそこねることなど何ひとつしなかったと感じているが故に、私は猫を絞殺した……このアンビバレントな感情が、辻宮俊憲の琴線に触れたのかもしれない。猫に対する愛憎とポオへの傾倒、そのふたつが重なったとき、彼の中に途方もない妄想が生まれた。その妄想の発露こそが、他でもないこの墓所であり、そしてこのカタコンベなのだよ」
摩神は本を持ったまま、あの漆喰の壁に近づいた。
「おい摩神、大丈夫なのか」
「心配するな。ガス漏れはしていない」
摩神は自分で崩した壁を叩いてみせた。
「さて、歪みに歪んだ辻宮俊憲の妄想は、自分の死後のことにも及んでいた。彼は死んでなお、自分が執着したものと共にいたいと願ったのだ。地上の塔に猫のレリーフが施されているのも、棺の周りがポオの収集品で囲まれているのも、すべては彼の執着心の現れだ。そして、この壁もな」
摩神は再び本を開いて朗読を始めた。
「――地下室は、このような目的には好都合に出来ていた。壁の造りはぞんざいだし、ちかごろ全体に粗末な漆喰を塗ったばかりの上、湿気が多いのでまだ固まっていないのである。のみならず壁の一つには、見せかけの煙突だか暖炉だかを設けた出っ張りがあって、それはもう埋めてあるため、見たところ地下室の他の部分と変わりがないようになっていた……これは『黒猫』の主人公が殺した妻の遺体を壁に塗り込めるときの描写だ。どうだ、見事に作中の壁を再現しているとは思わないか。この出っ張りまで同じだ。漆喰の下には煉瓦があり、その奥には空間がある。人間ひとりを埋め込めるだけの空間がな」
「そこに、田波氏が塗り込められているというのか。『黒猫』のように」
「いささか表現が違うが、それに近いと言えるな」
摩神にしては珍しく曖昧《あいまい》な言いかただった。
「だが摩神、一体誰がどうやって塗り込めたというんだ? 史織さんが田波氏を追ってきたとき、この墓所には誰もいなかったんだぞ。それに人間ひとりを塗り込めるなんて、そう簡単にできることではない。史織さんたちはすぐに地下に入ったんだ。とてもそんな余裕はなかったはずだ」
「だから木塚君、僕が丁寧にも『いささか表現が違う』と言ったじゃないか。わざわざ漆喰でぺたぺたと塗り込めるなんて、そんな面倒なことはする必要もない。ただ閉じ込めてしまえばいいんだ。そうだな宮下君?」
摩神に質《ただ》されると、宮下は頷いた。
「そのとおりです。この壁は人が近づくと自動的に上から降りてくるように作られています」
「そして、壁が降りて密閉されると同時に、毒ガスが閉じられた空間内に充満するわけだ」
摩神の言葉に、史織が顔を手で覆った。
「なんて……なんて酷《ひど》いことを……どうして……?」
「そうだ、どうしてそんな残酷な仕掛けが作られているのですか」
丸矢が狼狽《ろうばい》した表情で問いかけてきた。
「ここは辻宮氏の終《つい》の住処《すみか》で、安息の場所なのですよ。なのにどうしてそんなものを……」
「丸矢君、君は何も知らされていないのか」
「知りませんよ、そんな悪魔の所業など!」
「丸矢さんは、本当に何も知らないのです」
宮下が言った。
「この計画は、辻宮先生から断じて内密にするようにと厳命されていたものです。知っていたのは私と……それから……」
「田波孝治だな?」
摩神の言葉に、宮下は眼を見開いた。彼だけではない、史織も丸矢も、そして私も驚愕《きょうがく》した。
「田波氏が!? どうしてだ?」
「説明は後だ。宮下君、彼は壁の仕掛けを知っていた。なのに自ら罠《わな》に掛かってしまった。どういう手を使った?」
「彼は具体的にどういう仕掛けになっているのかまでは知らなかったのです。だから先にこの部屋に行って、壁のすぐ近くで待機していてくれと言っておきました。前もって開閉装置を起動させておいた上で、です。彼が壁際に立てば感知器が働いて、即座に壁が降りてくるようになっていました」
「なるほど、誘蛾灯《ゆうがとう》のつもりだったのが、じつは自分が蛾であった、ということか」
「誘蛾灯? どういうことだ?」
「田波孝治の役目は、この壁に埋め込まれるべき人物を誘導することだったのだよ。そのためにこそ、彼は彼女に近づいた」
「彼女?」
私は摩神が何を言っているのか、すぐにはわからなかった。
「……まさか……」
声をあげたのは、史織だった。
「わたしが……わたしがこの壁に?」
「そのとおり。この迂遠《うえん》で残酷で悪趣味な罠は、辻宮俊憲が君のために作らせたのだよ」
「お祖父様が……わたしを殺そうとするなんて……」
「そんな馬鹿な!」
丸矢が叫ぶ。
「辻宮氏は史織さんを愛しておられたのですよ。誰よりも可愛がっておられた。なのに――」
「だからこそだ。辻宮俊憲は歪んだ執着心の囚《とら》われ人だった。自分が愛したものを永遠に自分の傍《そば》に置いておきたいという、その妄執だけを怪物のように肥大させてしまった人間なのだよ。だからこそ、彼は溺愛《できあい》する史織君を手許に置いておこうと考えたのさ。『黒猫』の主人公は本来自分がもっとも愛した存在である妻を殺し、壁に塗り込めた。その故事に倣《なら》おうとしたのだろうな。計画は自分の真の腹心である者ふたりだけに伝え、実行を命じた。宮下君は墓所と罠の設計施工を受け持ち、そして田波孝治は決行の日まで史織君の純潔を保たせるために監視役となった。史織君、彼は婚約してからも、おそらく君には手も触れてはいまい。そうだろう?」
史織は答える代わりに、床にしゃがみ込んで泣きだした。
「そんな……酷すぎるわ!」
号泣する史織の姿は、ただただ痛ましかった。
「だが摩神、なぜ史織さんではなく田波氏が壁に閉じ込められることになったんだ?」
私が尋ねると、摩神は肩を竦めた。
「木塚君、君はもう少し男女の機微に敏感な人間だと思っていたのだが、僕の買い被りだったかな」
泣き続ける史織の姿を、宮下は痛ましそうに見つめている。
「私には、どうしてもできなかった。史織さんを殺してしまうなんて……」
宮下は呟く。
「でも田波は、辻宮先生の遺言を実行することしか考えていなかった。だから……」
「と、いうことだよ木塚君」
摩神は言った。
「さて、これで謎は解けたな。僕がするべきことは、もうない。行こうか」
泣きつづける史織、彼女を見つめている宮下、そして呆然としている丸矢を置いて、摩神はさっさと地下から出ていった。
「おいおい、このままにしておくのか」
私も慌てて彼の後を追った。
「言ったろう、僕のすべきことはもうないと」
「しかし殺人事件が起きたんだぞ。警察に通報しなければ――」
「興味はないな。後は彼らが勝手にやればいいことだ。体面を重んじているらしい辻宮化学の現社長、史織君の父君がどんな判断を下すかも含めて、僕にはもう、どうでもいいことなんだよ」
そう言うと彼は墓所を出て、芝生の繁る裏庭に立った。
「やれやれ、今回もまた僕の予告どおりになってしまったか」
「君の能力の勝利だな」
私の言葉に、
「それは厭味《いやみ》かな」
摩神は少々不愉快に言葉を返す。
「自分が何かの謎を解くということだけを予見できる能力なんて、こんな中途半端なものが発揮されたところで、僕が楽しいと思うかい?」
摩神は返す言葉を探している私を置いて、歩きだした。
「おい、どこに行くんだ?」
私の問いに、彼は振り返りもせずに言った。
「どこかで一杯やろう。どうせまた、僕は予告状を送る。それまではせめて……」
その先は、言わなかった。
付記
文中『ポー名作集』(中公文庫・丸谷才一訳)より引用しました。
[#改ページ]
新刊予告
二〇〇八年夏、罪ある者は心せよ。
全ての事件の謎はわれが解く
[#地付き]摩神尊
[#改ページ]
COMMENTS
太田忠司
おおたただし
「予告探偵」シリーズ
C★NOVELSから上梓した『予告探偵 西郷家の謎』は直球に見せかけた魔球のような作品でありました。当初から「これに続篇はあるのか? あり得るのか?」と言われてきましたが、この短篇がその返答であります。いや、予告であります。え? 予告って?
[#改ページ]
皇国の守護者外伝
猫たちの戦野
佐藤大輔
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)背嚢《はいのう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)心|秘《ひそ》か
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あさはか[#「あさはか」に傍点]なもの
-------------------------------------------------------
敵軍の来襲が確実視される海岸へ向けての行軍は日ごと夜ごとに辛さを増した。肩にかけた銃の重さはいうまでもない。背嚢《はいのう》に詰め込んだ雑多なあれこれは人生そのもののごとく肉体へとのしかかる。ついには軍靴《ぐんか》の重さまでが耐え難くなった。全身は垢《あか》にまみれ、強い夏の日差しに苦く灼《や》けたはずの顔は軍靴のたてる埃《ほこり》がはりついて死体のように白ちゃけた。
まだ少年に近い若者はその隊列の中にいた。名は曾場佳二郎《あいばよしじろう》という。
佳二郎は志願して軍に入った。実は軍が受け入れるべき年齢には達していなかった。が、巨大な〈帝国〉の来寇《インベイジョン》によって北領と呼ばれる北の大島を奪われたばかりの〈皇国〉は、生涯最大の決意に基づいて口にしたその嘘《うそ》(はい募兵官殿、おれはもう兵役年齢になってます)を気にする素振りも見せなかった。いや、ただ一度だけそれに近いことがあったといえなくもない。志願のため募兵事務所を訪れたかれへちらりと視線を向けた応召予備役《おうしょうよびえき》であろう軍曹《ぐんそう》が哀れむようにこう呟《つぶや》いたのだった。坊主、御国《ホーム》は喜ぶかもしれんが、おっかさんは喜ばないな。
水をさされたような気分にはなったものの、佳二郎の決意は揺るがなかった。その時までにかれの心は北方での危機を告げる報せにすっかりのぼせあがっており、胸を膨らませる熱いなにかで眠りが浅くなるほどだった。
無論それはあさはか[#「あさはか」に傍点]なもの、女を知らぬ少年の抱く性夢にも劣るおもいこみだった。
募兵事務所の軍曹が呟いたように、母親がいさえしたなら、あるいは軍役を済ませた家族が一人でもいたなら、佳二郎の目を覚まさせたことだろう。
佳二郎は孤児だった。
もちろん、〈皇国〉社会は十数年前のある朝ぼらけ、街頭へ放置されていた乳児に傘をさしかけてはいた。佳二郎はその地方の資産家がさらなる名声を得んがために開設した孤児養育施設(この国では虎養院などとも呼ばれる)に収容され、衣食住、そして教育にはいかなる不足も覚えずに育ったのだった。そこで与えられたものは、同時代の〈大協約〉世界で路端に捨てられた孤児がのぞみうる最良の日々といってよい。
だがこの世に代価を求めぬ楽園などあろうはずもない。〈皇国〉もその例外ではなかった。
佳二郎の場合問題とみなされるべきは与えられた教育の内容であった。虎養院では愛国的にすぎる教育を子供たちへ施す方針をとっていたのである。そしてそれは本当の意味での愛国心とは遥かに遠いものに基づき、定められていた。虎養院を開設した資産家が、愛国教育に熱心である事は五将家のいずれかと関わりを持つ際に有利だと考えていた――それだけが理由であった。
結局のところ資産家の願いは満たされなかったが、かれが自分のために定めた方針が変えられることはなかった。結果、佳二郎は他の子供たちと同様、祖国の偉大さについてありとあらゆることを、すなわち都合の悪い真実以外のすべてを教えこまれながら育つこととなった。〈帝国〉との開戦を知ったかれの中に熱いものが生じたのはむしろ必然というべきだった。
戦争が始まると、意識のほとんどが戦いについての夢想で占められるようになった。おもいえがくのは兵士たちの整然たる隊列であり、一斉に火を吐く火砲の砲列だった。かれ自身はそうした情景のあちこちで、苦境に陥っていった味方の前にどこからともなく姿をあらわし、血なまぐさい戦場で誰もの目を見張らせる活躍をし、勇気をたたえられる。
教育によって裏付けられた夢想に基づいてかれが志願を決意するまでさほどの時間はかからなかった。その意味においてかれは〈皇国〉という一つの機械によって大量生産された兵隊人形、その最も出来の良い製品の一つであった。
何度かの小休止。陽が落ちかけてからの大体止。しかし行軍はなおも続いた。
佳二郎はまともにものを考えることすらできないありさまだった。練兵場や演習場での訓練ですっかり軍靴に慣れたはずの足が痛んだ。
古兵たちは大体止どころか小休止の間ですら脚絆《きゃはん》をほどき、軍靴を脱ぎ、靴下を交換し、足や足指を揉《も》むことを忘れない。しかし佳二郎をその一人とする新兵たちは休止のたびに地べたへくずおれるように休むのが精一杯。かすむ目で、足を揉むどころか冗談口までたたき合うかれらをぼんやりと見ているだけで時が過ぎてしまう。そして、同じだけ歩いているはずなのについ今しがた身繕《みづくろ》いを済ませたようにすら見える軍曹の号令。よろよろとおきあがった佳二郎は肩に食いこむ背嚢の負紐《おいひも》がもたらす苦痛がさらに強くなっていることを思い知る。銃にいたっては、投げ捨てたくなるほどの重さだった。心|秘《ひそ》かに、自分が間違った場所にきてしまったのではないかとおもいはじめていた。
前を進む者の背嚢だけを見つめつつ佳二郎は進んだ。装具の鳴る音を休むことなく響かせながら暗闇の中へ溶けていく隊列。ときたま生じる鈍いきらめきは光帯の輝きを受けた銃身が微かに生じさせる反射光だった。軍隊に入るまで、これほどの人数が夜、灯りもなしに歩けることなど知らなかった。
「そりゃおまえ」笑い声に癖《くせ》のある羽田倉《うたくら》という兵があるとき佳二郎の漏らした疑問にこたえた。「上の方じゃ導術《マジック》で連絡をとりあってる。それに俺たちの歩いてるのは街道で、まだ敵がいるってわけじゃない。夜も昼も関係ないのさ。たとえ夜だって、前を歩いている奴の背中を見ていれば迷うこともない」
「その割にやたらと落伍《らくご》する奴が多いのはどうしてかな。そしてみんな戻ってくるのはなぜだろう」佳二郎はたずねた。自分よりも体格の良い兵が次々と列を離れてしまうことが不思議だったし、かれらのほとんどが大体止や小休止のあいだに隊へ復帰することはなお不思議だった。一度列から遅れてしまえば自分なら二度と元へ戻れまい、そうおもっていたからだ。
「きつい行軍に落伍はつきものだよ。ひどい時は戦闘の損害より落伍で減る頭数の方が多くなるぐらいらしいぜ。戻ってくるのは……落伍は大目に見て貰えても、脱走はそうじゃないからだ。教わらなかったのか? 脱走だと決めつけられた途端に壁の前に立たされて一発、それでおしまいだよ」
そう言い終わったあと羽田倉は佳二郎をまじまじとみつめ、おまえ、妙なこと気にする奴だなとつぶやいた。
本格的な休養をともなわない行軍ははじまってから六日目でようやく終わった。目的地である龍洲《りゅうしゅう》に着いたからではない。
「それが莫迦《ばか》な話でよ」塚見《つかみ》という古兵が宿営地とされた野原に張られた大天幕の前で仲間に話していた。「うちの聯公《れんこう》(聯隊長)、龍洲に縁があるとかで張り切り過ぎてたらしいぜ。で、やたらと落伍兵が出るんで目をつけられて、兵部省陸軍局から転出してきた龍洲軍参謀からこっぴどくやられたそうだ。もちろん導術での伝達らしいけど、見た奴から聞いた同年兵の話じゃ小便漏らしそうだったってよ」
いい気味さ、といわんばかりの口調だった。佳二郎はびっくりした。二等兵、それも新兵にすぎない自分からすれば皇主の次に偉いようにおもわれる聯隊長についてそのように語ることは天罰に値するとさえ感じた。同時に疲労しきったかれの別の部分は、今夜はもう光帯のきらめきを眺めながら倒れこむように寝なくて済むのだという事実に大きな安らぎを見いだしていた。
かれが猫を目にしたのは、それから丸一日が過ぎてからだった。
しばらくぶりに張られた天幕の下で佳二郎は眠った。古兵たちの表現を借りるなら『股のあいだで軽臼砲《けいきゅうほう》を撃たれてもわからない』ほど深く眠りこけた。といっても一晩だけのことだった。新兵は古兵の雑用を押しつけられるからだ。軍規に定められているわけではないが、そうしなければならないのだった。これも佳二郎の知らない戦争のひとつで、ことに洗濯番などを押しつけられた時はそのまま逃げてしまおうかとすらおもった。胸の内ではいまだに戦場の英雄たることを強く望んでいるというのにこれはどうしたことだとかれはとまどい、懸命に自分自身への説明を試みた。
洗濯場として指定された場所に拡げられた防水布製の大きな貯水器(管が近くの小川にさしこまれており、水を用いるものは貯水器から汲《く》んで消費した水桶《みずおけ》の十倍にあたる数だけ喞筒《ポンプ》を漕《こ》げと定められている)。かれもその規則に従った。うまく喞筒《そくとう》を扱うには注意深く力を使いつつ単純な運動をくりかえさねばならず、それはいくらか物を考える習慣を持っているかれにとって辛いことだったが、このときばかりはむしろ楽な仕事だとすら感じた。汗や垢や小便や糞で汚れた他人の下帯を洗うことはそれほどかれの心を痛めつけた。一刻ほどその作業を続けるうち、情けなさに涙が溢れ、何もかも投げだして逃げてしまいたいという気分が抑えがたいほどに高まった。自分と同じ憂き目をみている他の初年兵たちがどうしてこの苦行に耐えられているのか、それどころか汚れた下帯を洗いながら冗談口を叩き、古兵はおろか、時には士官の悪口まで言い交わせるのか理由がわからなかった。
柔らかでありながらヤスリのようにざらざらしてもいるものに左頬をなめあげられたのはその時だった。
異様な感触に悲鳴を漏らし、腰を抜かす。あわててそちらを見る。目にしたのは恐ろしげでありながら優美さも同時に感じさせる生物だった。
気がつけば周囲でかれと同じ苦行をこなしていたはずの初年兵たちが笑い転げていた。近づいていることに気づいていながら、あえて教えなかったのだ。自分が同年兵たちにまで軽い扱いを受けていると感じた佳二郎はますます暗い気分になった。
また、頬をなめられた。笑い声が大きくなる。
「やめてくれよ」同年兵にではなく顔を寄せて臭く熱い吐息を浴びせてきた猛獣に佳二郎はいった。「俺にはやらなきゃいけないことがあるんだから」
大きな口から二本の牙を突きだした猫と通称される猛獣は物問いたげな視線を向けたあと、わびるように小さくにゃあと啼《な》いた。その後もなにかいいたげだったが、佳二郎にも微《かす》かに聞き取れた、千早、おいで、という呼びかけを耳にすると、さっと声の聞こえた方角へと歩み去った。傾きかけた恒陽の鮮やかさを失った光を浴びた夏毛の縞模様はたちまち野に溶けこんでいく。佳二郎はその後ろ姿を見送った。ほっとすると同時に、どこか寂しくもあった。この軍隊という世界で自分を一番気遣ってくれた存在はあの動物であることに気づいたからだ。
背後で同年兵たちが言い交わしている。
「ありゃ野良の猫か」
「ばかこけ、桜花章《サービスメダル》入りの首輪をつけとったわ」
「しかし剣虎兵《けんこへい》で投入されとるのは噂じゃあ第十一だけじゃなかったか。第十一なら何日も前に先へいったはずじゃ」
「いや、そういや確か近衛《ガーズ》で新しい大隊が」
「近衛《このえ》ぇ」
一人が素《す》っ頓狂《とんきょう》な声でそういうと、残りの者はげらげらと笑いながらはやし立てる。
「総員整列」
「気をつけぇ」
「回れー右っ」
「退却!!」
佳二郎も聞き覚えがあった。近衛の、ことに近衛衆兵について語る際に使われるふざけた(そして根拠が皆無とはけしていえない)やりとりだった。ほかにもこういう戯《ざ》れ口もある。
質問・近衛はなぜ常に味方と反対方向へ進みたがるのか
回答・皇主陛下の馬前で死ぬため
質問・ならば味方が後退しているときはどうする
回答・勇んで後退の先陣を切る
ばかにされているのは自分だけではないと佳二郎はおもった。たとえ吐き気を催すほど汚れた下帯を洗わされていても、はなから兵《つわもの》としての価値を認められないよりはまし。そのはず。きっとそのはず。
それから半月も経たぬ夜、佳二郎はぬかるむ道をとぼとぼと歩いていた。進行方向は近衛と同じ。ひたすら皇都を目指している。そこにいってどうなるかわからないが、他に目指すべき場所もなかった。
龍口湾に来襲した〈帝国〉軍を〈皇国〉軍は果敢に迎え撃った。野戦では〈皇国〉軍のはるかに上手《うわて》である〈帝国〉軍の内地侵攻を阻止するため、その上陸直後、態勢が整わぬうちに投入可能な戦力すべてを海岸堡《かいがんほ》へたたきつけ、海に追い落とす。
理屈の上では正しかった。というよりそれが最善の策であり、次善の策は存在しなかった。各部隊の練度と各級指揮官の能力がものをいう野外での運動戦では敵があまりにも優勢だった。
かくして〈皇国〉軍は総力を投じた。当初、それは順調に進展しているものと受け止められた。しかしその成功すら敵の罠《わな》だった。〈帝国〉軍は〈皇国〉軍主力を深みに導いて作戦上の自由度を失わせたのち、手薄な左翼側に騎兵師団と龍兵の大多数を投入、そこを担任していた〈皇国〉集成第二軍を潰乱《かいらん》させると〈皇国〉軍主力後方を扼《やく》した。壮大さすら備えていた全軍逆襲作戦はあっさりと崩壊し、一部の部隊をのぞき、〈皇国〉軍は統制を失った烏合《うごう》の衆と化しつつ後方へと下がることになった。
佳二郎の聯隊もそのうちの一つだった。所属していたのはある意味でもっとも安全な最右翼の龍洲軍だったが、あわただしい後退命令の発令と人と馬と馬車、砲車が入り乱れる街道を負け戦《いくさ》気分で下がるうちに統制が崩れ、ほんの数日で大隊程度の戦力しかもたない状態へと陥った。今度は落伍した多くの兵がそのまま消え去った。
佳二郎に逃げるつもりはなかった。なにしろこの戦いで敵の姿を目にしたのは一度きり、そしてその時は勇気を振り絞って戦い抜いたのだ。かれの所属する中隊はがっしりとした横隊を最後まで崩さずに〈帝国〉猟兵の数度に及ぶ突撃を受け止め、指揮官の号令に従って整然たる発砲を繰り返し、敵を後退させた。退いていく敵兵を目にした時どれほど誇らしい気分になったか佳二郎は覚えている。光帯に向けて拳と筒先をつきあげ勝った勝ったと叫びたいほどの喜びだった。これまでの苦労もあの勝利を味わうための準備だとおもえば「たいしたことはなかった」と口にできる、そうもおもった。実際のところ〈帝国〉軍にとってそれは単なる陽動であり、突破できそうにない場合は即座に後退しろと命じられたうえでの攻撃だったのだが、たとえそうだと知らされても佳二郎の気分は変わらなかったに違いない。かれは確かに敵と相まみえたし、その敵に向けて玉を放ったし、何人かには命中させた――ともかく本人はそう信じた――のだから。
徐々に混乱の度合いを増す敗走がその気分を打ち砕いた。
無惨の一語だった。雨でぬかるみはじめた街道の無舗装部分には轍《わだち》に車輪をとられて動けなくなった馬車や砲車が置き捨てられている。脚を折った馬の悲しげないななきは耳にこびりつくほど。そしてあちこちに背嚢や銃が投げ捨てられている。戎服《ユニフォーム》の上着や軍帽まで捨てられているのは敵に追いつかれたとき、兵ではなく地方人《シビリアン》として見られるために違いない。〈大協約〉は地方人に対して意味もなく荒々しい扱いをすることを固く禁じている。だからこそ、地方人のふりをし、身軽になって逃れる。後方の安全地帯へとさがり、おずおずと原隊へ顔をだせば新しい装備が支給されるからだ。そうであるならどうして重い銃や背嚢を背負い続ける必要があるだろう。
しかし佳二郎は捨てなかった。重い銃と背嚢を軍規どおり背負い続け、時にふらつきながらも歩き続けている。
(捨ててしまえば、近衛と同じになる)
それだけを支えにしていた。自分は〈皇国〉軍で最弱の兵として知られる近衛ではない。御国の危地にはせさんじた志願兵《ボランティア》であり、数限りない惨めなおもいを味わってもなお逃げ出さなかったつわものであり、あの精強な〈帝国〉兵と一戦を交え、これを打ち破った(佳二郎の中ではそうなっている)。もはやどこに出されても恥ずかしくない古兵なのだ。背嚢を、銃を戎服を捨てて逃げることなどできない。
もちろんかれはならばなぜ他の古兵たち、かれよりもさらに過酷な経験をしてきた男たちが装備まで捨てて逃げたのかについて考えはしなかった。というより、自分より優れているはずの連中が近衛と同じところにまで墜ちたのちもなおただ一人本物の兵らしくある自分を誇らしくおもっていた。いうなれば呪わしき教育の成果、それこそが佳二郎であった。
歩き始めて四日後、恒陽が天高くにあるとき、背後から地鳴りにも似た音が聞こえてきた。徐々に、いや、急速に大きくなってくる。
佳二郎は振り返った。さほど目が良いわけではないが、その音の主が何であるかは即座にみてとれた。
緑色の迅雷《じんらい》。
〈帝国〉騎兵。数十騎はいる。
敵を向いたまま佳二郎は凍りついた。どうしたらよいのかわからない。かれの信じる兵らしくあるためには逃げることなどできない。しかしいま、ならばこうしろと命じる上官もいない。
だから、自分で自分に命じた。
佳二郎は銃へ装填《そうてん》し、逃げまどう敗残兵たちをよそに街道上でただ一人|膝射《しっしゃ》姿勢をとった。胸が高鳴っていた。自分はついに思っていたとおりの英雄になれるのだとおもっていた。英雄になった結果どうなるか、もちろん考えてなどない。
〈帝国〉騎兵は百間ほどの距離で停止した。指揮官らしき男が伸縮式望遠鏡を構え、こちらに向けている。佳二郎を見ているのだった。
望遠鏡を降ろした指揮官は頭を左右にふり、やがて気乗りのしない様子で抜刀した。剣を高く掲げる。
佳二郎が発砲したのはその瞬間であった。
火花、反動、轟然《ごうぜん》と噴きだす銃煙。
指揮官は剣を高く掲げた姿勢のまま落馬した。騎兵たちは茫然としている。佳二郎は自分でも呆れるほど落ち着き払って再び装填動作をおこなった。銃を構えなおしたそのとき、かれらは怒りの本流となって殺到してきた。
佳二郎はこのときはじめて気づいた。ようやくのことで、英雄的行為を示した自分はここで死ぬのだと腹の底から理解したのだった。
体内で恐怖という火山が噴火し、あっという間に全身を焼き尽くした。筋肉から力が失われ、脳から思考力が蒸発する。
自分がなにをしていたのか、なぜここにいるのか。いや、そもそもどうして志願などしようとおもったのかわからなくなった。
敵は迫ってくる。
募兵事務所の軍曹がいった言葉がおもいだされた。坊主、御国は喜ぶかもしれんが、おっかさんは喜ばないな。
そうだ。そういう意味だったんだ。
叫びたかった。違います。違うんです。なにもかも勘違いしてました。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
もちろん声はでない。喉奥から、意味を持たない呻《うめ》きが漏れただけだった。
頭上で〈帝国〉騎兵のふりあげた剣が陽光を浴びてきらめいた。
次の瞬間、生暖かいものが大量に降り注ぐ。紅《あか》く重たい液体であった。
〈帝国〉騎兵の上半身が消失していた。
耳慣れた破裂音が立て続けに響く。軽臼砲の砲声であった。たちまちのうちに〈帝国〉騎兵を包み込むように次々と弾着が生じ、人と馬に浅手を負わせていく。損害は小さい。が、それで充分だった。怒りの突撃は方角の定まらぬ暴走に変わっていた。
猛獣の轟吼《ごうこう》が連鎖したのはその時だった。
街道脇の林や放棄された馬車の陰から弾かれたように飛びだす猛獣たち。とてつもない距離を跳躍すると、剣のように突きだした牙の一撃で騎兵の首をもぎとり、馬の腹を引き裂いて腸を飛びださせる。奇襲。完全な奇襲だった。猛獣に続いてあらわれた兵科も所属もばらばらの兵どもが射撃と突撃によってその仕上げをおこなう。〈帝国〉騎兵は瞬く間に鏖殺《おうさつ》の憂き目をみた。
全身血まみれになった佳二郎はその惨劇のなか大口をあけてたたずんでいた。
襲いかかったのは猫――〈皇国〉陸軍|主力戦闘獣《メイン・バトル・ビースト》たる剣牙虎《けんきこ》の群れだった。しなやかで優美で凶暴な獣たち。〈皇国〉の兵どもはかれらを猫と呼ぶ。そしてその猫をほとんどの馬は恐れる。人はいうまでもない。
腰を抜かし、路上に座りこんでいた佳二郎の頬を覚えのある柔らかくざらざらしたものがなめあげた。にゃあという小さな啼き声が響き、鼻面《はなづら》が肩に押しつけられる。
敵を殺戮《さつりく》した猫に促され、ようやく立ち上がることができた。自分の側に寄ってきたのはあの時の猫のようにも思えるが……よくわからなかった。いや、どうでもよかった。
見慣れぬ迷彩柄の野戦服を身につけた禍々《まがまが》しい顔つきの将校が女にしか見えない美形の部下とともに佳二郎を見た。その表情は、まるで排便をすませたばかりであるかのように爽やかだ。
将校は部下になにごとかを命じた。
女にしか見えない部下がかけより、佳二郎に語りかけた。
「あなたは――二等卒ですね。大変な活躍でした。あなたのおかげで奇襲に成功したようなものだと大隊長殿は褒《ほ》めておられます」
「あ、はい」佳二郎はかろうじてうなずいた。
「ところで、原隊は」
「みな、逃げました」
「ならば」冷たくすら見える整った顔立ちに甘い微笑が浮かんだ。「我が大隊にいらっしゃい。大隊長殿は後衛戦闘のため、あなたのように健気な兵卒を求めておられます」
「後衛戦闘、でありますか」
「そう。殿軍《しんがり》となって敵を引きつけ、味方の撤退を成功させるのです。言うまでもなくこれ以上ないほど意義のある役目ですよ。生き残ることができたなら、あなたも英雄の一人として――」
背筋に悪寒がはしった。佳二郎は慌ててこたえた。
「違うのであります」
銃を捨てた。
「そういうのは、ちょっと違うのであります」
背嚢も捨てた。
「自分は、その、ただ」
軍帽を投げ捨て、戎服の上着も脱ぎ捨てた。
「色々と考え違いをしていただけであります!」
さっと一礼すると佳二郎は駆けだした。荷物が無くなったので身体が浮くようだった。ここは自分のいるべき場所ではないとわかった。あの猫たちにでも任せておけばいいのさと思った。
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COMMENTS
佐藤大輔
さとうだいすけ
「皇国の守護者」シリーズ
小説全般のライトノベル化が語られる以前からライトノベル的な作品を出版してきた事が、C★NOVELSがいまも順調に陣容を拡大している要因だと思います。となると次は、ケータイ小説という存在をどのように取り入れていくか。今後が大変に楽しみです。
[#改ページ]
ハードボイルドごっこ
鯨統一郎
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)穿《は》いている
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|共働き《ダブルインカム》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)僕は子供で相手は大人なのだ[#「僕は子供で相手は大人なのだ」に傍点]。
-------------------------------------------------------
殴られたと判ったのは両手をアスファルトについた時だった。
次の攻撃が来る前に男の腰にしがみついた。殴りかかっても勝ち目はないからだ。僕は子供で相手は大人なのだ[#「僕は子供で相手は大人なのだ」に傍点]。
背後から両肩を掴まれた。
敵は二人いたのか。
前の男にしがみついていた手を放して背後の男に肘撃ちを喰らわせた。両肩を掴んでいた手が外れる。
僕は二人に対して垂直になるように身構えた。
二人の襲撃者は顔を目出し帽で覆っている。
腹を蹴られた。ブロックしたつもりだが痛みが走り僕は地面に両膝をついた。
「ちょっとあんたたち」
人が通りかかって声をかけてくれた。中年の太り気味の女性。男二人はその瞬間、訓練された素早さでサッと走り去った。
「だいじょうぶ? 坊や」
坊やか。無理もない。僕は小学三年生。まだ半ズボンを穿《は》いている。もっとも半ズボン派はクラスでも少数だ。その半ズボンに付着した砂と泥を僕は払った。
「家はどこなの?」
「大丈夫です。一人で帰れます。どうもありがとうございました」
僕はおばさんの視線を背後に感じながら歩き出した。
藤原先生が入ってくると、教室の喧噪《けんそう》がピタリと止んだ。
藤原先生はまだ若いが、生徒たちに軽く見られるということは一切ない。美人でスタイルがよいだけでなく、その毅然《きぜん》とした態度が信頼を勝ち得ているのだろう。
「授業を始める前にみんなに言っておくことがあるわ」
二学期の初日、藤原先生は凜《りん》とした声で言った。
「ケンちゃんは、みんなの心の中に生きている」
頷く子もいれば、藤原先生をジッと見つめる子もいる。
「みんな一緒に香港に行けたことがいい思い出よ」
この言葉には誰もが頷いた。
僕たちは学校行事の一環として、春休みを利用して全学年が香港旅行に出かけた。それがケンちゃんとの哀しい思い出になってしまうとは、誰も思いもしなかった。
特に僕はケンちゃんと同じ登校班だった。登校班のメンバーは仲が良く、放課後も連れだって近所の防空壕跡を探検したりして遊んでいた。その登校班のメンバーが、香港でも行動を共にして、先生の目を逃れて、ケンちゃんが見つけた工場跡に冒険に出かけたりした。高木、サヤカ、ワッペイ、もちろん僕も。そんな楽しい思い出が、わずかの間に哀しい思い出に変わってしまうとは……。
ケンちゃんとその両親が八月二十六日に一家三人で自らの命を絶った。健一少年の急性白血病を儚《はかな》んだ両親が、健一君を道連れに心中したと新聞には出ていた。藤原先生は詳しい事情を話してはくれない。
「出席を取ります」
ケンちゃんがいなくなった教室で、いつも通りの授業が始まろうとしていた。
『エンタの神様』が終わると僕は蒲団に入った。
ママとパパは襖《ふすま》一枚隔てた隣の部屋でチャンネルをニュースに変えた。中国の人口がシャレにならないくらい爆発的に増え続けているというニュースが聞こえてくる。このままでは世界的な食糧難を呼び起こし、人類は滅亡してしまいますという、大袈裟《おおげさ》な解説者のコメント。
次は社会保険庁の年金のニュース。これでは国による振り込め詐欺ですよ、とコメンテイターが言っている。スポーツニュースまで見終えると、ママとパパはヒソヒソと話し出した。おそらく僕がもう寝ていると思っているのだろう。
――どうしてあんな事にねえ。
ママの声だ。
我が家は小金井市にある四十五平米のマンション。広いとは言えないが、親子三人で暮らしてゆくには不自由は感じない。
一介のサラリーマンであるパパは五年前にこのマンションを買い、三年前に無理して僕を私立の小学校に入学させた。
当然、|共働き《ダブルインカム》。
ママはレンタル浄水器の集金業務のアルバイトをしている。
――自殺だなんて。
そんな事はありえない。僕はそう思う。たしかにケンちゃんは不幸にも、香港旅行から帰るとすぐに白血病を発病した。だが、今は白血病の治療技術は飛躍的に向上している。うまくいけば将来、ハリウッドでスターになる可能性まである。わずかの間に自殺、それも一家心中とは納得がいかない。
(確かめなければいけない。そしてあれ[#「あれ」に傍点]を探し出さなければ)
僕はケンちゃんに教えてもらった秘密の抜け穴≠頭の中でおさらいしていた。
ケンちゃんのお父さんは獣医だった。
大きな道路に面した表側に動物病院があり、その裏が住居になっていた。住居のドアは裏道に面していて、小さな庭にはアジサイの木が植えられている。
動物病院と住居のドアや窓はすべて施錠されている。
僕はよく、ケンちゃん家《ち》に遊びに行っていた。ケンちゃん家の一階に、物置代わりに使っている三畳間があるが、その畳が外せるようになっていて、そこを通って床下から縁の下まで行くことができる。逆に言えば、外から三畳間に侵入することも可能なのだ。
いま世田谷区などの都心で、ペットが逃げ出して野生化したハクビシンが住宅の天井裏などに出没する被害が多く出ている。あるいは渋谷の繁華街の電線などでもハクビシンは目撃されている。ケンちゃん家にも動物たちの匂いに誘われたのか、縁の下にハクビシンが出没するようになった。そのハクビシンを追いかけやすくするために、三畳間の畳が剥がされた。ハクビシンはやがてケンちゃん家からは姿を消したが、ケンちゃんはその後も三畳間の抜け道を使い続けていたのだ。
僕はケンちゃんに教えてもらった縁の下のルートから、ケンちゃん家の三畳間へと畳を押し上げて侵入した。
靴を履いたまま三畳間に立つと、ぼくは服に付着した埃《ほこり》を払った。
家の中はしんとしている。誰もいない。
僕は動物病院から見て回った。ここでは動物たちの手術もできるし、入院することもできる。だが入院していた動物たちはすべて飼い主に引き取られたようだ。
目当ての物が見つからなかったので住居の方に移動した。
リビングの壁に掛かっているカレンダーの九月九日の欄に図書館返却≠ニいうメモ書きがあった。大人の文字だ。
図書館の本の貸出期間は二週間だから、八月二十六日に本を借りたことになる。一家心中をした日だ。
自殺をしようとする人間がその日に本を借りる確率は、かなり低いと見ていいだろう。まして返却日をカレンダーに書きこんでいる場合は。
ケンちゃん一家は心中したのではなく、殺されたのだ。そしてケンちゃん一家を殺した何者かが、僕のことも襲ったのだ。
僕はその事を確認すると、部屋の中を探し始めたが、目当ての物はどこにもなかった。
(いったいケンちゃんはどこに隠したのだろう?)
めぼしい場所はすべて探し終えたので、諦《あきら》めるほかなかった。
床下ではなく玄関から出ることにした。中からなら鍵を開けることができるのだから。
住居側のドアを開けると、庭の片隅に一匹の黒猫がいた。
ケンちゃんが飼っていた黒猫だろう。遺品整理の時にはおそらく外をうろついていて、親族にも引き取られなかったに違いない。
黒猫は何かを言いたそうにジッと僕の顔を見ている。
「お前はこれからどうするんだ」
僕はそう呟くように言うと、黒猫の頭をそっと撫でた。
三年二組の教室に僕たちはいた。
日曜日だが、今日は最後のプールがあるので教室は開いている。
クラスメイトたちがプールでバタ足の練習をしている間、僕とサヤカは密談をした。
サヤカも僕と同じ変化を来《きた》した者≠フ一人だった。
「ケンちゃんちに忍びこんだでしょ」
「ああ」
僕は胸ポケットからシガレットチョコを出して口に銜《くわ》えた。
「なぜ?」
「ケンちゃんは心中したんじゃない」
「え?」
「誰かに殺されたんだ」
サヤカが息を呑んだ。
「まさか」
「本当だ」
「あなたがウソをつかないタイプの人間だってことは知ってるわ」
「それは褒め言葉だろうね?」
「もちろんよ。でもだとしたら、いったい誰がケンちゃんたちを殺したの?」
僕は手でサヤカの質問を制した。微かに『ごんべさんの赤ちゃんが風邪ひいた』を口ずさむ声が聞こえてくる。
ドアが開いた。
四年生の生活委員、高木が立っている。変化を来した者≠フリストを作り、メンバーを統率しているリーダーだ。僕たちは自分たちの変化を他人には口外しないように高木から言われている。
「プールはどうした?」
高木がパイプチョコのフタを開けながら訊いた。
「今日は生理なんだ」
「二人ともか?」
「いや、僕の方だけだ」
「上級生に対する口の利き方を知らないようだな」
「ごめんなさい、高木さん」
サヤカが謝った。僕と高木の対決を阻止したつもりのようだ。
「入江と二人だけの話がある」
高木が僕を顎《あご》で差した。
「あいにく僕はサヤカと二人だけの話があるんでね」
「なに」
高木が僕の方へ一歩、足を踏み出した。
殴りあいになったら厄介だ。高木は上級生で、しかも三年連続ドッジボールのクラス代表選手だ。僕は現在、生き物係に過ぎない。
クラスメイトたちの声が聞こえた。どうやらプールが終わったらしい。
高木は舌打ちをして教室を出て行った。
和平《ワッペイ》から声がかかったのは僕とサヤカの二人だけだった。
「オレさ、ケンちゃんの死は自殺じゃないような気がするんだ」
むかし、縄文時代の土器が出たことで有名な公園に僕たち三人は来ていた。
「どうしてなの? 入江君も同じことを言ったわ」
「え?」
和平が驚いた。
「本当かい? 入江君」
「ああ」
僕はシガレットチョコを銜える。
「やっぱり」
「ねえ、どういうこと?」
「サヤカちゃん。ケンちゃんはね、俺たちがこうなった[#「こうなった」に傍点]原因を解明して、公表するつもりだったんだ」
サヤカが息を呑むのが判った。
「ケンちゃんはね、最近の中国の国勢調査、香港との関係、日本との関係、日本のポーリン製薬との取引状況、ポーリン製薬のバランスシートなんかを、短期間のうちに調べあげていたんだ」
それだけ聞けば、サヤカにもケンちゃんのやろうとしていたことが伝わるだろう。
「ケンちゃんは真相に辿《たど》り着いたんだと思う。でもそれを公表されたくない連中がいる」
「まさかその人たちがケンちゃんを殺したとでも?」
和平も僕も黙っていた。沈黙は肯定と見なされることを知りながら。
「そんなこと考えられないわ」
「人間の命よりも大事な物があると考える人間はどこの国にもいるものだ」
僕はそう言うと野球帽のつばを押し上げた。
「ケンちゃんは証拠を掴んでいたのか?」
和平に訊く。
「証拠はボクたち自身じゃないか。ケンちゃんはその裏づけをしたに過ぎない」
「なるほど」
僕は頷《うなず》き、サヤカは芝生の上に坐った。パンツが丸見えだ。
「事実なの? ケンちゃんが殺されたというのは?」
「高木に訊いてみるといい」
「高木さん?」
「入江君。ボクも高木が絡んでると思うよ」
「どうして?」
「最初に僕たちのリストを作ったのは高木だ」
「でも、四年生の生活委員だし、それは当然じゃない?」
「あいつは僕たち全員に口止めをした」
「それは集会[#「集会」に傍点]のときに話してくれたじゃない。まだ公にする時期じゃないって。親だって、小学生の自分の子どもがとつぜん自分より知能が高くなったら[#「とつぜん自分より知能が高くなったら」に傍点]戸惑うでしょ」
「だが、ケンちゃんはそうは思わなかった」
普通の[#「普通の」に傍点]小学生たちが缶蹴りをしている。僕も缶蹴りをしたかった。缶蹴りがなぜ面白いのか、その理屈までは考える気にはなれないが。
「いくらなんでも、自分と違う考えを持ってるだけで、殺そうなんて思わないわよね? 高木さんはそんな人じゃないよね?」
「だといいが」
サヤカは不安そうに僕を見ていた。
サヤカに呼び出されていつもの駄菓子屋へ行った。
妻に先立たれた初老の店主が、一言も口を利かないで店を切り盛りしている。物を買ってもお礼を言われない代わりに、店の縁側に何時間いても文句を言われない。
「和平君が監禁されてるの」
「なに」
駄菓子屋のオヤジは何も言わずに煙管《きせる》を吹かしている。
「脅迫状よ」
サヤカが僕にプリント用紙をよこした。
――入江照信へ。
[#ここから3字下げ]
和平の身柄を預かっている。返してほしければ本日午後五時、病院地下の防空壕跡へ来い。
追伸。
必ず一人で来ること。もし他の者に通報した場合には、和平の人生はかなり短いものになる。
[#ここで字下げ終わり]
病院地下の防空壕跡とは、今は使われていないN病院の地下に、戦時中の防空壕が残っているもので、大人が近づかないその防空壕の中を、僕たちはよく探検したものだ。
「これはどこに?」
「高木さんから直接渡されたわ。イタズラだとしたらかなり本格的なものよ」
「行ってみるよ」
「警察か、ご両親に知らせてみましょうか?」
「脅迫状を読む限り、それはできない。和平の命が危険にさらされる。実際にケンちゃん一家を殺した奴らだ」
「じゃあ一人で行くの?」
「それがやつらの要求だ」
「危険だわ」
「今年はまだキモ試しをしていない。丁度いい機会だ」
「たぶん、敵の考えはあなたを殺す事よ」
「そしてワッペイもな」
「そんな所にあなたを行かせられないわ」
「僕が行かない限りワッペイを助け出すことはできない」
「行ったら入江君も和平君も殺されるかもしれないのよ」
「超人[#「超人」に傍点]の僕を見くびってもらっては困る」
「相手も超人よ」
僕は曖昧《あいまい》に笑った。この笑いの意味はサヤカにさえ判らないだろう。
「あたし、入江君と結婚することが夢なのよ。そして……」
「その話は明日にしよう」
「明日?」
「またここで会うんだ」
「どうしても行くの?」
「ああ」
駄菓子屋のオヤジが僕にライスチョコを投げた。僕は空中でキャッチする。
「持ち合わせの小銭がないけど」
オヤジは答えない。餞別《せんべつ》のつもりらしい。僕はライスチョコをポケットにしまった。
「明日、ここで待ってるわ」
駄菓子屋のオヤジが、煙管《きせる》の灰を落とした。
僕は地面に開いた穴から懐中電灯を持って地下に降りた。
防空壕跡である。
細く暗い通路を通って地下広場に出る。
高木はいない。おそらく反対側の通路から来るつもりだろう。
しばらくすると前方から『ごんべさんの赤ちゃんが風邪ひいた』を口ずさむ声が聞こえてきた。
高木が現れた。高木の後ろには目出し帽を被った大人が二人(以前、僕を襲ったやつらだろう)、猿轡《さるぐつわ》をかまされたワッペイを引いて続いている。
「今までお前を勧誘する機会がなかった。ここで最初で最後の勧誘をしてみよう」
「僕はモルモン教には入らないぜ」
「お前を俺たちの夢の計画に引き入れようと言うのだ」
僕はポケットからシガレットチョコを出した。
「俺たちは今後、俺たちのような超人[#「超人」に傍点]を増やしていかなければならない」
「それが人類にとってどれほど危険なことか判っているのか」
「人類はそろそろ飛躍的な進化を遂げなくてはならない時期に来ている。その具体的な答が俺たちなんだ」
「僕たちの進化[#「進化」に傍点]が奇跡的な偶然だということを忘れるな」
「偶然ではない」
「偶然さ。人口削減計画のミスから生まれた副産物に過ぎない」
「なに」
「日本は友だちが欲しかったのさ」
「何の話だ」
「ソ連崩壊後、日本は欧米の新しい仮想敵国としてバッシングされた。そしてその流れの延長として、日本は味方にすべき筈《はず》のアジア諸国からも、経済侵攻をかつての植民地侵攻と重ね合わせて非難されている。政府は靖国参拝などでその流れを助長してさえいる。つまり日本は世界の中で孤立しているんだ。二千年も国[#「国」に傍点]をやっていてお友だちが一人もいないのさ」
「なるほど。世界における日本の立場はよく判った。だがそんな話はテレ朝のスタジオでやってくれ。俺は田原総一朗じゃない」
「深刻な人口問題に悩む中国が、香港のある町である実験[#「ある実験」に傍点]を重ねている。それは細菌を使った人体実験で、その細菌は体内に入ると脳に達し、生殖機能を麻痺《まひ》させる働きをする」
「ほう。その実験が成功したら中国の人口問題に、なんらかの光が見えそうだな」
「その実験には日本のポーリン製薬が持っている技術がどうしても必要だった。中国政府は極秘裏に日本政府に協力を申し入れた」
「友だちのいない日本は、友だち欲しさにその要求を呑んだとでも言うつもりか」
「世界における日本の立場はいま勉強した筈だ。中国と手を組まない限り日本の将来はない」
「メモしておこう。朝日新聞の論壇≠ノ投稿するネタを探してたんでね」
「そして」
僕は間を取った。
「生殖機能抑制細菌に思わぬミスが生じた。香港のポーリン製薬化学工場、これは工場跡に見せかけた秘密工場だったが、そこでその細菌が漏れた。ポーリン製薬と中国政府は急いで、できる限りの処置を施したが、細菌の一部は、たまたま学校行事の一環で日本から香港を訪れていた小学生の数名に取り憑《つ》いた。それが僕たちさ」
「俺たちはこの歳で種なし[#「種なし」に傍点]になったってわけか?」
「ところが、そうじゃなかった。その細菌は僕たちに取り憑いて生殖機能を侵すのではなく、僕たちの知能水準を著しく向上させる働きをしてしまった。原因は判らない。ウィルスが突然変異を起こしたのかもしれない」
「けっこうな話じゃないか。俺たちは超人になったんだ。その細菌をそっちの面から再開発すれば、人類は新しい進歩を体験できるんだ。俺たち超人の間で繁殖を続けていけば、人類全体が超人化して、新しい人類が誕生する」
「どうやら君は現代のヒトラーになりたいらしいな」
「悪いか?」
高木がパイプチョコを出した。
「人類が生きのびて行く道は少数精鋭しかないんだ」
「それは世論に問うことにしよう」
「健一の集めた証拠物件をどこにやった[#「健一の集めた証拠物件をどこにやった」に傍点]?」
高木がパイプチョコを銜える。
「健一の家にはすでになかった。お前が取ったんだろう?」
「預かっただけだ」
「おとなしく出してもらおう。お前も一家心中はしたくないだろう」
「お前に渡すぐらいなら東スポにでも売るさ」
「なに」
「ネタだと思っても記事にはしてくれるだろう」
「どうやら俺とお前とでは意見が合わないらしい」
高木が手を上げると目出し帽の大人二人が懐から拳銃を出した。
「ここなら地上に音は聞こえない」
「待って」
サヤカの声がした。
目出し帽の二人の背後からサヤカが姿を見せた。
「お前は来るなと言っただろう」
高木がサヤカを叱った。
「入江君。もう一度考え直して。あたしと結婚して子供を産んで、超人類の世界を創りましょうよ」
「そういう事か」
僕は銜えていたシガレットチョコを捨て、足で踏みつぶした。
「高木さんの考えは素晴らしいわ。あたしたちがアダムとイブになれるのよ」
「僕は君が好きだった」
「気づいてたわ」
「でもそれは君が超人だからじゃない。教室で、僕が落とした消しゴムを拾ってくれた君が好きだったんだ」
サヤカは顔を伏せた。
「お前を説き伏せられなかったら俺と結婚することになってるんだ」
そう言うと高木が大人たちに二度目の合図を送った。
僕はジャンプした。大人たちの拳銃が火を噴く前に僕の足は拳銃を蹴り落としていた。
「バカな」
高木が叫ぶように言った。
僕は連続技で大人たちに蹴りを入れ、膝をつかせた。僕は高木を射竦《いすく》めた。
「なぜだ……」
「どうやらお前の進化は知能だけだったようだな[#「お前の進化は知能だけだったようだな」に傍点]」
「なんだと」
僕は大人たちに当て身を喰らわせて気を失わせた。
「ここ二、三日で僕の身体能力は異様に進化したんだ」
僕はワッペイの猿轡と縄を解いた。その縄で高木を縛る。
「助かったよ入江君」
「ワッペイ。無事でよかった」
「早く警察へ行こう。証拠を持って。いや、警察よりマスコミの方がいいのかな?」
「どこにあるんだ!」
高木が叫んだ。
「証拠はどこにあったんだ?」
「黒猫の脳内さ」
「なに」
「ケンちゃんは自宅動物病院の設備を使って黒猫の脳内に、データを埋めこんだ。おそらく脳細胞をコンピュータ代わりに使っているんだろう。知能が異常に発達したケンちゃんには容易《たやす》い手術だった。もしかしたら黒猫にも例の細菌を感染させて、知能を向上させているかもしれない」
僕はもの言いたげな黒猫の顔を思い出していた。黒猫は僕の家で引き取っている。
「あたしはこれからどうしたらいいの?」
僕はサヤカを見つめた。
「とりあえずできる事は二度と僕に話しかけないことだ」
「わかったわ」
サヤカは素直に頷いた。
「あたしは人類の未来を手に入れようとして、あなたを永遠に失ってしまったのね」
「安い代償さ」
僕はサヤカを残して歩き出した。
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COMMENTS
鯨統一郎
くじらとういちろう
『ハッとしてトリック!』「作家六波羅一輝の推理」シリーズ
黒猫も25年経つと白髪になって、白猫になるのでしょうか?
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高射噴進砲隊
覇者の戦塵
谷甲州
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)頬《ほお》をゆがめた
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)軍隊|手牒《てちょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ごろつき[#「ごろつき」
-------------------------------------------------------
その言葉を口にするとき、兵はわずかに頬《ほお》をゆがめた。
嗤《わら》ってやがると、打田《うちだ》伍長は思った。言葉の意味は理解できなくても、その程度のことはわかる。兵の態度は不遜《ふそん》なものだった。くわえ煙草のまま視線をそらし、聞きとりにくい声でつぶやいた。なんだ、黒ネコかと。
「何かいったか?」
声を落として、打田伍長は問いただした。兵に喧嘩《けんか》を売るつもりはない。あらたな任地がこの近くなら、相手の兵は隣人ということになる。最初から悶着《もんちゃく》を起こしたのでは、あとの始末が面倒になるだけだ。
かといって、聞き捨てにする気もない。隣人だからこそ、最初が大事だった。ここで対応を誤れば、兵になめられるだけだ。どちらが格上なのか、いまのうちに知らせておくべきだろう。
伍長一人の問題ではなかった。「黒ネコ」が打田伍長の所属部隊を揶揄《やゆ》する言葉であることは、容易に想像がついた。作業の手をとめて休んでいた兵に、部隊配置をたずねたら返ってきた言葉だった。
それを伍長の眼の前で、聞こえよがしに口にした。露岩に腰をおろしたまま、姿勢をただすこともなく。周囲に他の兵はいなかったが、見過ごしにできることではない。こんな噂はすぐに広まるからだ。黙って引き下がったのでは、部隊全体の沽券《こけん》にかかわる。
そう考えて、あえて言葉尻をとらえるような物言いをした。ことさら凄味《すごみ》をきかせたわけではない。反発をまねかない程度に、やんわりと釘をさしたつもりだった。
それでも不機嫌さは、相手につたわっていた。兵の顔から、すっと薄笑いが消えた。戸惑ったような表情になって、伍長の軍衣に眼を走らせている。焦りと不安が、次第に大きくなっているようだ。
それをみた打田伍長は、ほんの少し落胆した。上級者に突っかかってくるほど剛胆《ごうたん》な兵かと思ったのだが、これは伍長の買いかぶりだったらしい。実際には、ただの小狡《こずる》い兵でしかなかった。
おそらく新顔の打田伍長を、速成の「心太《ところてん》下士官」と踏んだのだろう。その上で横柄な受け答えをして、自分の優位さをしめそうとした。兵の階級は低かったが、軍歴だけは長そうだった。心太の伍長など、下級兵も同然と考えているようだ。
ところが思惑ははずれ、伍長に逆ねじを食わされる格好になった。その結果、自分の判断に自信が持てなくなった。伍長が心太である証拠をみつけようとして、躍起になっている。急変した態度の裏には、そんな心根の卑しさが透けてみえた。
嘆息《たんそく》するしかなかった。硫黄島《いおうとう》では軍紀の乱れがひどいと聞いていたが、現実は伍長の想像以上だった。皇軍の伝統など欠片《かけら》もない。盛り場にたむろするごろつき[#「ごろつき」に傍点]が、縄張りを主張しているのと大差なかった。
だが戦場から遠く離れた後方では、こんなことは珍しくないらしい。敵の姿を間近にみることはないが、気配だけは着実に近づいてくる。現にマリアナ諸島のサイパンでは、米軍との激闘が数カ月もつづいていた。
日本軍守備隊は頑強に抵抗をつづけていたが、玉砕は時間の問題だという噂もあった。すでに米軍は占領した飛行場を整備し、航空隊を進出させているらしい。このところ偵察機の飛来が多く、少数機による空襲も頻発していると聞いた。
もしも米軍がマリアナ諸島全域を支配下におけば、次にくるのは硫黄島以外に考えられない。硫黄島は日本本土とマリアナ諸島の中間に位置し、小笠原諸島の中では滑走路の建設が可能な数少ない島だった。双方にとって、重要な戦略拠点なのは間違いない。
米軍の上陸が近いことは、着任の途上にも感じとれた。硫黄島と本土をむすぶ航路に敵潜水艦が出没し、補給路をおびやかしていたのだ。いまはまだ安全が確保されているが、先のことはわからない。
懸念材料もあった。最近は敵の水上艦艇が出没し、夜陰に乗じて島に艦砲射撃をくわえていくという。敵の気配は着実に近づきつつあった。
その中途半端な距離感が、兵たちの心を荒《すさ》ませているのだろう。まだ大丈夫だという思いはあるものの、そのことに確信が持てずにいる。根拠のない期待と漠然とした不安が、心の内でせめぎ合っているのだ。
「どうした。聞こえなかったのか?」
物憂《ものう》い気分で、打田伍長はたずねた。相手の兵は、まだ伍長の正体をはかりかねているらしい。上眼づかいに伍長をみあげて、伍長の全身を無遠慮に眺めまわしている。伍長が心太だという思いを、捨てきれずにいるようだ。
だがそれも、無理はなかった。真新しい軍衣や装具をみれば、内地から着任したばかりの新米下士官なのは歴然としている。実際にその通りなのだから、兵の鑑識眼に間違いはなかった。
問題はその先だった。兵から累進した下士官にしては、打田伍長の外見は若すぎた。実年齢は二〇代のなかばなのに、それより五歳は若くみられる。伍長の階級章がなければ、少年兵と間違えられていたかもしれない。
しかも最近は戦争の激化にともなって、下士官が大量養成されている。満期除隊する兵から志願者をつのり、選抜する従来のやり方では必要数を満たせなくなっていた。このため以前とちがって、若くして下士官になる例がふえていた。
ことに技術系の兵種では、その傾向がいちじるしかった。実戦に投入される部隊であっても、一年あまりの教育で現役下士官を養成する制度が生まれていた。その多くは志願によるものだから、一〇代で下士官になることも珍しくなかった。
だが兵としての経験はないのだから、古参兵にとって頼りない存在のはずだ。いくら教育を受けたところで、歴戦の下士官には遠くおよばない。上級者あつかいする気になれずに、かげで「心太」と呼んでいるのではないか。
ただし打田伍長は、そのような速成の下士官ではない。普通に徴兵されて、満期まで勤めあげている。ところが現役期間が終了しても除隊にはならず、即日応召で軍隊にとどまることを余儀なくされた。
このままでは戦争が終わるまで、除隊の可能性はない。日本の土を踏むこともないまま、各地を転戦することになりそうだ。それくらいならと、高射学校の入学を志願した。兵長に進級した直後のことだった。
三カ月程度の短期教育で砲兵伍長を養成するというから、進級の面で特に有利なわけではなかった。開戦後はどの部隊でも兵の除隊が遅れ、伍長といっても特別な存在ではなくなっている。つまり高射学校に入学しなくても、いずれ伍長には昇進するはずだった。
ただ三カ月だけとはいえ、在学中は内地で暮らせる。この世の見納めだと思って志願したのだが、日程がおそろしく過密で他のことをする余裕などなかった。実は六カ月の課程を半分に短縮したことは、あとになって知った。
卒業と同時に決まった配属先は、硫黄島の部隊だった。島のことはよく知らなかったが、以前の駐屯地であるニューギニアよりは日本にちかい。
それなら武運つたなく戦死しても、たやすく日本に飛んで帰れるのではないか。地図をみながら、漠然とそう考えていた。もとより生還は期待していない。ニューギニアでは何度も死線をこえた。ここが死に場所と考えて、硫黄島に足を踏みいれたのだ。
そんな過去があるものだから、打田伍長の内面は妙に老成していた。少年にしかみえない面貌の奥に、達観したような別人の顔がひそんでいる。野武士を思わせる殺伐《さつばつ》とした風貌《ふうぼう》が、垣間《かいま》みえることもあった。
考えこんでいたのは、わずかな時間だった。気がつくと、兵の視線が停止していた。怯《おび》えたような眼で、伍長をみている。軍衣のどこにも、心太を示す徽章の類をみつけだせなかったのだろう。
そのはずで、最初からそんなものは存在しなかった。伍長が歴戦の古強者《ふるつわもの》だからだ。若くみえるが、実際の年齢は相手の兵とそう変わらないはずだ。軍隊で食った飯の数は、むしろ伍長の方が多いのではないか。
脂《やに》くさいにおいが、鼻をついた。煙草だった。ゆらゆらと煙がたちのぼって、二人の間を漂っている。兵のくわえた煙草は、唇を焦がしそうなほど短くなっていた。その煙草が、ぽとりと落ちた。半開きになった口から、かすかに息が漏れだした。
兵の眼は大きく見開かれていた。あわてた様子で起立し、場違いな大声で「失礼しました」と叫んだ。ぎこちない動きで、不動の姿勢を取っている。だが手拭いの捩《ねじ》り鉢巻きは、そのままだった。
打田伍長は顔をしかめた。兵の豹変を、不快に思ったからではない。単に煙草のにおいが、嫌いだっただけだ。だが兵はそれを、別の意味に取ったようだ。殴られると思ったのか、顎《あご》を引いて歯を食いしばっている。
さすがに伍長は、うんざりした気分になった。眼を伏せてしまった兵に、おなじ質問をくり返した。
「独立高射砲中隊だ。知らんのなら、そういってくれ。勝手に探すから」
「この先であります。踏み跡をたどっていけば、すぐに――」
つっかえながら、兵がいった。そのときには、もう伍長は背をむけていた。みじかく礼をいったが、兵の耳には届かなかったかもしれない。まばらな下ばえをかき分けて、足ばやに歩いていく。
兵の気配が遠くなった。不ぞろいな灌木《かんぼく》の梢《こずえ》こしに、強烈な陽射しが差しこんでくる。
いくらも歩かないうちに、視界が開けた。灌木の林は途切れ、その先が浅い谷になっている。荒れた谷だった。草木はほとんどみあたらず、耕作された形跡もない。
島の住民はほとんどが疎開《そかい》を余儀なくされたが、彼らもこの谷には近づかなかったようだ。露岩ばかりが目立つ谷に、生活臭は感じられない。ガスが噴出しているのか、かすかに硫黄のにおいがした。
それなのに、踏み跡が谷の奥につづいている。ここまで伍長がたどってきた踏み跡の先だった。かといって、硫黄の採掘がおこなわれた形跡もない。つまり踏み跡を残したのは、この島に移駐した日本軍ということになる。
よくみると谷の反対側には、資材搬入用とおぼしき仮設道路も建設されていた。たぶん西海岸の船着き場と、陣地の間をつないでいるのだろう。めざす独立高射砲中隊は、この谷に展開しているようだ。
そう考えた打田伍長は、すばやく谷の地形を読みとった。さして奥行きのある谷ではなかった。どちらかというと、古い時代の噴火口を思わせた。長い年月の間に火口壁の一部が崩壊し、土砂の流出をさそって谷状の地形になったのかもしれない。
いまも火山活動がつづく硫黄島には、ふたつの火山があった。島の大部分をしめる北方高地と、南端に屹立《きつりつ》する独立峰の擂鉢山《すりばちやま》だった。島にある三カ所の飛行場は、すべて台地状の北方高地に建設されている。
コニーデ状の山容を持つ擂鉢山と違って、北方高地は平坦な頂部が連続していた。打田伍長がいるのは、高地の北西端あたりらしい。起伏にとぼしかった踏み跡は、先ほどから降り坂に転じていた。
歩きつづけるうちに、視野が少しずつ変化した。踏み跡は小尾根をからみながら、次第に陣地のある涸《か》れ谷へ近づいていく。海にむかって落ちこむ斜面の一部を、えぐり取ったかのような谷だった。
やがて打田伍長は足をとめた。谷にむけて突出した露岩の下だった。そこからは、谷の全貌がみわたせた。対空偽装のせいでわかりづらいが、何カ所かに砲座らしきものが確認できた。
おそらく四式三〇センチ噴進砲だろう。中高度の標的撃破に特化した高射噴進砲で、地上からの指令で弾体を誘導できる。すでに装備部隊は何隊か編成されているが、実戦に投入された例は少なく評価は定まっていなかった。
ただ、この谷の陣地はまだ完成していないようだ。相当数の人かげが、構造物の周辺に群がっている。建設重機はみあたらなかった。機械力の必要な土工事は、もう終わったらしい。そのせいで砲座をはじめ構造物の位置関係は、容易に把握できた。
みたところ砲の配置は、通常の高射砲中隊と大きく違っていた。谷の側壁や源頭部の斜面を、背負うような格好で砲座が構築されている。在来型の野戦高射砲を見慣れた眼には、不自然に思える布陣だった。
背後の斜面が邪魔をして、充分な射界が確保できないからだ。そのかわり、防御の面では有利だった。直撃弾を食らわないかぎり、谷底の構造物に被害がおよぶことはない。谷全体が天然の掩体《えんたい》となって、爆風や破片から砲座を守っているのだ。
その上に背後の斜面が、避難場所として機能していた。もともと硫黄島には、天然の洞窟が多い。しかも土質の関係で、坑道の掘削は困難ではなかった。砲爆撃にさらされたときには、いちはやく砲座を離れて地下壕に身を隠すのではないか。
気になって海側に眼をむけたが、錯綜《さくそう》した地形のせいで視野はかぎられていた。つまり海上の艦艇からは、死角になっているらしい。少なくとも直接照準による艦砲射撃に対しては、安全ということになる。
消極的な印象を受けるが、これが高射噴進砲隊の戦い方だった。射撃指揮所の視界さえ確保されていれば、砲座は谷底でもいいのだ。極端なことをいえば、井戸の底から打ちあげてもよかった。
初期の弾道が多少ずれていても、離床後に修正することは可能だからだ。どのみち打ちあげられた弾体は、たえず指揮所によって誘導される。在来型の高射砲と違って、発射時の緒元《しょげん》ですべてが決まるわけではなかった。
高射噴進砲隊にとって、砲座は単なる発射装置にすぎない。標的の観測と弾道の設定は指揮所が担当するから、砲側でやるべきことは限定されている。決められた時間に指示どおりの緒元で発射できれば、それで充分だった。
むしろ防御態勢に力をいれて、生存性を向上させるべきだった。実際に高射学校の座学では、半地下式砲座の構築要領も習得させられた。
いまはまだ運用上の制限があるが、誘導装置の性能が向上すればそんな方法も可能になるらしい。将来的には弾体を小型化して、堅固なトーチカから発射することも検討されていた。
それほど防御を重視するのは、噴進砲が構造的な脆弱《ぜいじゃく》さを抱えているからだ。在来型の砲と違って、防楯《ぼうじゅん》や土嚢《どのう》で砲手を防御することができない。噴射ガスを外に逃がさなければ、内圧で砲座が損傷しかねなかった。さらに弾道自体が、ねじ曲げられる可能性もある。
その一方で発射時の噴煙は、敵にとって格好の攻撃目標になるはずだ。中隊が保有する四基の砲座から同時発射すれば、谷全体が噴煙で満たされるのではないか。さらに上空にむかってのびていく四条の噴射煙は、海上からでも容易に視認できる。
この種の情報を、米軍は決して見逃さない。位置を記録して、執拗《しつよう》な反復攻撃をくり返す。たとえ第一撃で四機を撃墜破できたとしても、はるかに多い残存機に反撃されると考えた方がいい。
だが高射噴進砲は、多数機による同時攻撃に弱い。徹底した銃爆撃にさらされて、第二撃は不可能になるのではないか。弾体の再装填どころか、砲座に近寄ることもできなくなる。地下壕から一歩も外に出られないまま、空襲が終わるのを待つしかない。
そして敵機が去ったときには、かなりの確率で砲座は破壊されている。ただ通常の砲にくらべて構造は簡易だから、次の空襲までに再建することは可能だった。段列には予備部品や修理機具が用意されているが、それで問題が解決するわけではない。
陣地全体を移動して、攻撃を回避することはできないからだ。発射時の全長が二メートルをこす弾体だけで、中隊は二〇基以上を装備しているはずだ。その上に予備の砲座や大量の消耗品、さらには補給物資などを輸送しなければならない。
かりに輸送の問題が片づいたとしても、射撃指揮所や地下壕の移転までは無理だった。その結果、この谷は徹底して狙われる。おそらく米軍機は、噴進砲の死角をついて急接近してくるだろう。
四式噴進砲は低空からの攻撃に対して無力であり、機動性や即応性に欠けている。実際の運用にあたっては、低空防御専用の銃座を配置しなければならない。
そういった点を考えあわせると、高射噴進砲は不完全な兵器体系といえた。改善すべき点は多く、運用方法も確立されていない。好条件が重なれば驚異的な命中率を達成するが、弱点をつかれると呆気なく破壊される。そんな本質的な欠陥を、最初から抱えていた。
あるいは先ほどの兵も、その欠陥に気づいていたのかもしれない。構造的な弱点について、知る必要はなかった。部隊配置を考えれば、ある程度の察しはつくはずだ。独立高射砲中隊が展開している谷は、北方高地の北西端にあった。
ここは米軍の上陸が予想される海岸線からも遠く、島ではもっとも内陸部に位置している。守備隊の司令部壕や通信所などの重要施設も、すべてこの谷の周辺に集められていた。つまり守備隊の指揮官も、この中隊の脆弱さを認識していたことになる。
事情を知らない下級兵の眼には、奇異にうつったはずだ。状況次第では地上戦闘にも投入される高射砲中隊が、こんな後方に配置されている。よほど弱い部隊に違いないと短絡的に考えて、初対面の打田伍長を侮《あなど》ったのではないか。
そこには妬《ねた》みもあったはずだ。単なる防空部隊でしかない高射砲中隊が、特別あつかいされて安全な後方に配置されている。他隊の恨みを買うには、その事実だけで充分だった。兵がみせた不遜な態度も、結局はその程度の単純な理由によるものだろう。
妙な部隊に配属されたものだが、命令には逆らえない。余計なことは考えない方がよかった。そう結論を出して、坂を降ろうとした。気配を感じたのは、そのときだった。
踏みだしかけた足が、途中で停止した。後方だった。誰かが物かげから、じっと伍長を注視している。殺気というほどではないが、かすかな敵意を感じた。
しまったと思ったが、もう遅かった。間髪をいれず、誰何《すいか》された。同時に、乾いた金属音を耳にした。銃の槓桿《こうかん》を操作する音に似ていた。
迂闊《うかつ》さに、歯噛みしたい気分だった。伍長の位置からは、陣地の全容がひとめで見渡せる。長く立ちどまっていい場所ではない。警備の兵でなくても、伍長を胡散《うさん》臭く思うはずだ。事情を話せば申しひらきは可能だが、失態であることにかわりはない。
名乗るしかなかった。相手を刺激しないよう注意しながら、そろそろとふり返った。立っていたのは、一人だけだった。銃口をそらしているが、油断はしていなかった。
打田伍長は眉をよせた。相手は中隊の兵ではなさそうだ。それどころか、陸軍の兵ですらなかった。軍衣からして、海軍の根拠地隊か海兵隊の兵らしい。不審に思って、装具や徽章を確かめた。兵の正体は、すぐに知れた。
――海兵隊……なのか?
ニューギニアにも海兵隊はいたから、伍長にとっては身近な存在だった。以前は海軍陸戦隊と呼ばれていたが、開戦の数年前に改編されて現在の組織になった。水陸両用作戦の専任部隊で、島嶼《とうしょ》防衛に投入されることも多かった。
それはいいのだが、こんなところに海兵隊員がいる理由がわからない。予想外の事態に、打田伍長は戸惑っていた。兵はそんな伍長を、無表情にみている。
谷の奥深く入りこむにつれて、硫黄のにおいが強くなった。ときおり鼻をつくほど濃密なガスが、まともに吹きつけてくる。風向きによっては谷にガスが滞留して、呼吸が困難になるかもしれない。
どう考えても陣地構築には適さない場所だったが、兵たちは黙々と作業をつづけていた。建設重機が投入された形跡はあるものの、この谷の陣地構築が重労働であることにかわりはない。地熱のせいで気温は高く、兵たちは裸の背や肩を汗で光らせていた。
だが労働条件が過酷なのは、この谷にかぎったことではない。硫黄島では、どの地区でも状況は似たようなものだった。強い陽射しをさえぎる木々は少なく、大地には熱が滞留している。その上に川や沼地が存在せず、飲料水はいつも不足していた。
打田伍長も上陸の直後に、真水は飲用以外に使わないよう厳命されていた。わずかばかりの住民が暮らしていた島に、二万をこえる部隊が進駐したのだ。水不足は深刻で、水質にも問題があった。劣悪な生活環境のせいで、発病する兵も多いらしい。
その点が気になって、作業中の兵たちをみていった。そして安堵の息をついた。兵たちの健康状態は、それほど悪くなさそうだった。動きが機敏で、肌の艶《つや》も悪くない。少なくとも病的に痩《や》せ細った兵は、一人もみあたらなかった。
たぶん給与がいいのだろうと、伍長は見当をつけた。ニューギニアで苦労したせいか、そんなことには敏感になっていた。他隊の兵が、羨《うらや》むはずだ。この中隊の下士官兵は、いいものを食っている。
――海軍部隊か海兵隊から、糧食の供給を受けているのか。
そう考えるのが自然な気がした。この谷に駐屯しているのは、陸軍の高射砲中隊だけではなかった。谷の警備と低空防御は、海兵隊が担当しているらしい。高台に構築された銃座には、海軍仕様の機銃がすえられていた。
銃座の数と警備体制からして、この谷には一個小隊程度の海兵隊が駐屯しているようだ。海軍士官や下士官の姿も、何度かみかけた。ただしこちらの方は、海兵隊員ほど数が多くない。武器や装具は携行しておらず、全員が作業衣などの軽装だった。
略帽がなければ、徴用された作業員かと思うほどだ。工事に立ちあっているが、積極的に指示を出している様子はない。ときおり中隊の下士官兵に声をかけられて、作業に加わる程度だった。
違和感に気づいたのは、砲座のひとつに近づいたときだった。先ほど遠望したときにくらべて、微妙に印象が違っていた。それなのに、原因がわからない。後ろからついてくる海兵隊員の存在が気になって、砲座を直視できなかったせいだ。
やがて海兵隊員が停止を命じた。谷の最奥部にちかい工事現場だった。大規模な地下壕が掘削《くっさく》されているらしく、ぽっかりと開いた坑口の周辺には大量の岩屑《いわくず》が散乱している。坑道の奥からは、いまも土砂や岩屑が運びだされていた。
二人に気づいたらしく、下士官の一人が近づいてきた。温厚そうな印象を受ける曹長だった。海兵隊員から手渡された軍隊|手牒《てちょう》を開いて、打田伍長とみくらべている。伍長の軍隊手牒を、海兵隊員が預かっている事情は詮索しなかった。
海兵隊員も報告する様子はなく、短く言葉をかわしただけで立ち去った。高台から谷を俯瞰《ふかん》していた件については、不問に付されたようだ。拍子抜けする思いがしたが、現実はこんなものかもしれない。戦地で厳重な防諜対策をする余裕など、ないのではないか。
すぐに曹長は軍隊手牒の検分を終えた。手牒を伍長に返しながら、愛想よくいった。
「ご苦労さん。いま中隊長を呼びにいかせたから、ここで待っていてくれ」
中隊長ときいて、打田伍長は少しばかり緊張した。この中隊の人員構成は不明だが、陣地の規模からして百数十人にはなるはずだ。つまり以前いた砲兵中隊と、規模はそう変わらない。ただし当時は兵だったから、中隊長の顔をみることは滅多になかった。
いわば近寄りがたい存在だったが、この中隊では事情がかなり違うようだ。中隊長を「呼びにいかせ」るのが普通らしい。だがこれは、相当に異例の対応だった。下士官とはいえ打田伍長は、最下級の新米でしかない。
本来なら伍長の方が出向いて、着任の申告をするべきだった。規模の大きな部隊になると、それもない場合が多い。最古参の下士官に、挨拶をするだけで終わりだった。こんな形で中隊長と顔をあわせるのは、恐縮というより奇妙な気分だった。
とはいえ、礼を失してはならない。とりあえず装具や背嚢《はいのう》をおろして、軍衣の乱れを直そうと思った。それから事情をたずねるつもりで、曹長の姿を探した。
だが打田伍長の視線は、すぐに停止した。砲座だった。意外なほど近くに、一基が設置されている。間近にいながら気づかなかったのは、偽装が完璧だったからだ。噴進砲の知識がなければ、野積みされた資材の山と区別がつかなかったのではないか。
上空からだと、識別はさらに困難になる。周囲の地形にとけ込んで、容易には発見できそうになかった。むしろ遠くにある砲座の方が、たやすく見分けられた。
それが結果的に、先ほどの違和感を生じさせた。遠近感の消失が、砲座の規模をわかりにくくしていたのだ。漠然と三〇センチ級の噴進砲だと思いこんでいたが、実際にはそれより格段に大きな砲らしい。
そのことは、発射台の幅をみるだけでわかった。作業中の兵と比較すれば、違いは歴然としている。この幅にみあう弾体は、少なくとも直径五〇センチにはなるはずだ。
発射台が待機状態にあることも、識別を困難にしていた。いまは偽装のために折りたたまれているが、戦闘態勢に移行すれば発射台の全長は倍ちかくになるのではないか。直径五〇センチをこえる飛翔体を射出するには、充分な規模になりそうだった。
打田伍長は首をかしげた。これほど大きな噴進砲が、制式化されたという話はきいたことがない。少なくとも高射学校では、耳にしなかった。単に三〇センチ級の噴進砲を、拡大設計すればすむ問題ではない。誘導方式や推進剤を、根本的に見直す必要があった。
――まさか液体燃料を……。
その事実に伍長は、空恐ろしさを感じていた。この規模の噴進砲を、固体燃料で打ちあげるのは現実的ではない。理論的には可能だが、製造過程に問題がありすぎた。安定した弾道で飛翔させようとすれば、液体燃料を選択するしかない。
だが液体燃料は取りあつかいが困難で、保存にも細心の注意が必要だった。貯蔵施設が条件を満たしていないと、たちまち品質や純度が低下する。漏洩《ろうえい》による自然減も、無視できなかった。しかもここは孤島だから、貯蔵に失敗しても容易には補充できそうにない。
問題はそれだけではなかった。液体燃料を使用する噴進砲の場合、発射の直前に燃料を注入する必要がある。固体燃料にくらべて即応性が劣る上に、発射準備の作業中は攻撃に対して無力だった。
当然のことながら、攻撃が中止になれば燃料を抽出せざるをえない。そしてそのたびに、燃料は劣化し目減りする。これほど厄介な液体燃料を、あえて使用する理由はひとつしかない。性能の向上だ。この噴進砲は、四式よりもさらに高高度を――。
そこまで考えたときだった。ふいに背後で声がした。
「新任の伍長というのは君か」
この場には似つかわしくない穏やかな声音だった。それにもかかわらず、背筋が自然にのびていた。本能だった。考える必要はなかった。あるいは兵だったころの記憶が、そう命じていたのかもしれない。
威儀をただして、声のした方に向きなおった。それと同時に、全身が敬礼の体勢をとっていた。右肘《みぎひじ》を水平に突きだして、指先を略帽の縁にあてた。教範どおりの、よどみない動きだった。あとは声の主に、注目するだけだ。
ところがそこで、伍長の動きは乱れた。注目すべき相手が、見当たらなかったのだ。伍長は戸惑い、視線は頼りなく宙をさまよった。おなじだった。そこにいたのは、長身の外国人だけだった。
しかも金髪|碧眼《へきがん》で、肌の色が抜けるように白い。日焼けしない体質なのか、露出した腕に赤みがさしている。そのせいで、最初は使役に駆りだされた俘虜《ふりょ》かと思った。だが、それにしては様子がおかしい。戸惑っていたら、外国人が名乗った。
「黒尾根《くろおね》大尉だ。よろしく頼む」
よどみない日本語だった。そのときになって、はじめて気がついた。外国人の作業衣には、大尉の階級章があった。するとこの人物が、中隊長ということになる。中隊規模の部隊では、大尉は一人しかいないのが普通だった。
失態だった。通常は上級者が姿をみせたら「敬礼!」の声がかかるのだが、戦地では省略されることも多かった。よくみると周囲の兵は、誰も大尉に注目していない。だから非礼にはあたらないはずだが、それを言い訳にする気はなかった。
「失礼しました!」
それだけいって、敬礼をやり直した。殴打程度の制裁は、覚悟していた。入営したばかりのころは、敬礼の動作が遅れたことを理由によく殴られた。中隊長が手を出すことも、珍しくなかった。
だが黒尾根大尉は、気にする様子もなくいった。
「高射学校では、誘導技術を学んだか。指令誘導方式ではない。地上の指揮所から標的までの間に、電波で道筋をつける方式だ。可能なら装置の保守を、担当してもらいたい」
性急な問いかけに、打田伍長は言葉をつまらせた。誘導方式に関する座学は受けたものの、理論だけで実習はともなわなかった。それどころか、現物の存在すら知らなかった。まして実機の整備や修理を、こなす自信はない。
少しばかり気が引けるが、ここは事実をつたえるしかなかった。できるだけ客観的に、期待にそえないことを説明していった。黒尾根大尉は黙ったまま耳を傾けている。そして伍長の言葉が、途切れるのを待ってつづけた。
「では近接信管技術はどうか。電子回路の整備は?」
「それでしたら――」
ほっとした気分で、打田伍長はこたえた。高射学校では電子回路の実習に、かなりの時間をさいていた。当然のことながら、実用化されたばかりの近接信管技術も学んだ。砲兵にとっては畑違いだと思いながら、連日のように真空管をあつかっていた。
ところが黒尾根大尉の反応は、打田伍長の予想を大きくこえていた。大尉は頬を緩ませていった。
「大丈夫だ。近接信管があつかえるのであれば、誘導装置の整備も可能だ。君は指揮小隊つきとする。そうだな……指揮所へいく前に、実機をみた方がいい。荷物を置いたら、格納庫へきてくれ。その坑道の奥だ」
そう言い残すと、大尉は風のように去っていった。略帽からはみ出した髪が、強い陽射しを受けて金色に輝いていた。
その後ろ姿を、打田伍長は茫然《ぼうぜん》としてみていた。
坑道の奥に格納されていたのは、全長四メートルに達する有翼弾だった。試製六〇センチ噴進砲だというが、実際には海軍が開発した兵器らしい。海軍における名称は「奮龍《ふんりゅう》4型」になるようだ。
予想どおり試製六〇センチ噴進砲は、液体燃料を使用していた。射程距離が二万メートルで到達高度は一万メートルというから、硫黄島に配備された理由は歴然としている。実戦配備がはじまったアメリカのボーイングB-29「超空の要塞」を迎撃するためだ。
地上戦が終結しつつあるマリアナ諸島のテニアンやグァムには、すでに最初の機体が進出したらしい。マリアナ諸島から長駆して、日本本土を空襲するためだ。そして飛行経路の中間点にあたる硫黄島にも、B-29が飛来する可能性があった。
硫黄島に独立高射砲中隊が進出したのは、それが理由だった。日本本土の空襲と並行して、米軍はB-29による硫黄島空襲を開始するはずだ。日本軍機が容易に迎撃できない高高度から、爆撃あるいは偵察をくり返すのではないか。
だが陸軍の保有する高射砲では、能力が著しく不足する。このため、陸海軍が共同開発した試製六〇センチ噴進砲の導入が決まった。ところがこれに、海軍が猛反発した。もしも硫黄島が米軍に占領されれば、新兵器である奮龍4型が敵手に落ちるかもしれない。
陸軍としては、不本意な横槍だった。米軍による進攻は断固として阻止すると突っぱねたが、海軍の意向に逆らってまで計画を強行できない事情もあった。共同開発といっても名目的なもので、陸軍は開発予算と資材の相当部分を負担しただけだった。
したがって噴進砲の運用に関する技術的な蓄積はなく、実戦配備に際しては海軍の協力が必要だった。具体的には技術顧問派遣を、海軍に要請することになる。協議が重ねられたが、結局は協定を楯に陸軍が押しきる形になった。
ただし海軍も、妥協にあたって条件をつけてきた。一個小隊の海兵隊を警備のために常駐させることと、島に搬入する弾体を四基にかぎることの二点だった。
もしも米軍が上陸したら、その時点で海兵隊は残存している弾体を処分する。徹底的に破壊して、残骸《ざんがい》を地中に埋める手はずになっていた。つまり打田伍長が遭遇した海兵隊員は、谷ではなく機密を守っていたのだ。
陣地の構築に海軍士官や下士官が立ちあっていたのも、おなじ理由によるものだ。技術科の中尉をはじめ、古参の下士官数人が中隊には配属されていた。
いわば妥協の産物ともいえる措置だが、現地における陸海の協力関係は良好だった。中隊は内地で編成された直後から、一貫して海軍による技術指導を受けている。しかも技術顧問の顔ぶれは、硫黄島に進出するときも変化しなかった。
自然と風通しがよくなって、意思の疎通も円滑に運んだ。兵科と違って技術系の士官は、人あたりが柔らかいのかもしれない。多少の無理はきいてくれるし、対応もすばやかった。ことに下士官の技能はいずれも名人級で、中隊にとっては頼りになる存在だった。
当の下士官も、それは意識していたようだ。頼まれる前に装置を点検し、不具合を発見すれば修理してしまう――そんなことが、日常的におこなわれていた。いきおい彼らに対する依存度は高くなって、中隊の下士官兵が技術を習得する機会は失われた。
これは中隊にとって、望ましい状況ではなかった。彼らの手を借りなければ、動かせない装置さえあったのだ。通常の運用でさえそんな状態だから、機器の整備や保守は推して知るべしだった。
だがそれも、無理はなかった。中隊の下士官兵は基本的に砲兵であり、電子回路の知識など持ちあわせていない。打田伍長も高射学校に入学するまで、真空管の原理も知らなかった。家にあったラジオが、入営前にみた唯一の電子機器だった。
だから海軍の下士官も、原理的なことは教えようとしなかった。装置の操作方法については指導するが、保守点検整備は自分たちがやるという態度だった。たしかにその方が手っとり早く、間違いも少なくてすむ。
これは現実的な選択に思えるが、実際には不合理で危険なやり方だった。海軍の下士官がいなければ、噴進砲が正常に作動しないのだ。戦闘や空襲の危険ばかりではなかった。生活環境が劣悪な硫黄島では、罹病《りびょう》の可能性は常につきまとっている。
かりに病没をまぬがれても、病で内地に送還されるかもしれない。部隊にとどまったところで、作業ができないのでは意味がなかった。黒尾根大尉が打田伍長を指揮小隊つきにしたのは、そんな状況を打開するためだった。
ただし海軍の協力は期待するなと、最初に釘をさされた。大尉自身は明言を避けたが、あまり彼らを信頼していないようだ。だから教えを乞うのではなく、隙をみて技術を盗んでこいと命じられた。
比喩のつもりで、いったわけではなかった。場合によっては指揮所の制御室に伍長を忍びこませて、装置の回路図を写しとることも考えているらしい。発覚したら自分が全責任を取るから、存分にやれともいわれた。
にわかには信じがたい話だが、それが中隊長の意志なら選択の余地はない。諜者になったつもりで、指揮小隊の勤務をはじめた。
黒尾根大尉の言葉が正しかったことは、数日もたたないうちに判明した。たしかに海軍の下士官は働き者ぞろいだが、それは必ずしも勤勉を意味しない。黒尾根大尉のいったとおり、先進技術が陸軍に流出するのを嫌っている節があった。
打田伍長としては、しばらく様子をみるしかなかった。事情もわからないまま動きまわっても、怪しまれるだけだ。そう考えて、猫をかぶっていた。
他隊の兵が口にした「黒ネコ」の意味は、そんな日常の中で知った。深い意味があったわけではない。単に「黒尾根高射砲隊」を略しただけだった。日本国籍を取得する前の黒尾根大尉は、クローネンバーグを名乗っていたらしい。
だがそんな長閑《のどか》な日々は、長くはつづかなかった。島に設置された電波警戒機が、頻繁に機影をとらえるようになった。
中隊はそのたびに臨戦態勢をとったが、射程内に敵機が進入することはなかった。硫黄島を迂回したB-29が、本土に偵察行をくり返していたのかもしれない。
転機が訪れたのは、着任から半月ほどがすぎたころだった。海軍の技術顧問が全員、内地に引きあげることが決まったのだ。米軍の硫黄島上陸が近いことを、察知した上での処置だった。
突然のことで、打田伍長は混乱していた。まだ時間的に余裕があるものと思いこんで、装置の操作技術しか習得していなかったのだ。ここで海軍の下士官が抜けると、機器の保守などとても不可能だった。
途方にくれていたら、端田《はしだ》兵曹に声をかけられた。技術顧問の中では、最先任の下士官だった。兵曹は一冊のノートを差しだしていった。
「これを使ってくれ。伍長に進呈する」
事情がよくわからないまま、打田伍長はノートを受けとった。そして眼を見張った。表紙には「4型整備日誌」の文字がみえた。公式記録や日報の類ではなく、端田兵曹が私的に書き残したものらしい。
はやる気持ちをおさえて、ノートを開いた。兵曹は几帳面《きちょうめん》な性格らしく、島に上陸してからの出来事が事細かに書きこんである。その大部分が、誘導装置の整備に関することだった。第三者の閲覧を意識したのか、回路図や数表も過不足なく挿入されていた。
「これを……自分に?」
信じられない思いで、打田伍長はたずねた。かすかに笑みを浮かべて、兵曹はいった。
「アメリカさんにとって黒ネコは、縁起の悪い生き物らしいですな。眼の前を横切られると、悪いことが起こると信じている。
……我々の奮龍4型を、よろしく願います。敵機の鼻先で、見事に黒ネコを炸裂《さくれつ》させてやってください」
「全力をつくします」
打田伍長もこたえた。そのとき伍長の眼は蒼穹《そうきゅう》を駆けのぼる四条の噴射炎と、編隊をといて逃げまどう四発重爆の姿をはっきりととらえていた。
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COMMENTS
谷甲州
たにこうしゅう
「覇者の戦塵」シリーズ、『ヴァレリア・ファイル』など
リストをもとに数えてみたら、C★NOVELSの自著は38冊あった(6冊は再刊)。「軌道傭兵」から「覇者の戦塵」まで、17年の間に担当していただいた編集者は3人。長い間、お世話になりました。これからも、おつきあいください。
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ナイン・ライブス Nine Lives
スカイ・クロラ番外篇
森 博嗣 MORI Hiroshi
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)躰《からだ》
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数学者は群れないから、城に立てこもることはしない。だから、上がったきりの跳ね橋の向こうの街に住んでいるわけではない。
[#地付き](都会の孤独/岡本和夫)
彼は、その怠惰な川の堤防のバンクが好きだった。太陽の角度にも運良く一致しているので、そこに寝転がっていると躰《からだ》が自然に温まる。帽子を顔の方へずらして眩《まぶ》しさを防いでいたけれど、それはどちらかというと、目を細くしていることが面倒だったからにすぎなかった。眩しさが嫌いというわけではない。上空に比べれば、地上の光なんて、どうしようもなく鈍いのだから。それでも、神経が覚えているのか、つい眩しいという顔をしてしまうのは不思議なもので、また、そういった惰性を食い止めるためにも、帽子の遮蔽《しゃへい》は必要に思えた。
車の走行音が聞こえてくる。堤防の上にビスケットみたいにひび割れたアスファルトの道路があった。両側を雑草に侵食され、実質よりもずっと幅が狭く見える。そこを車が走ることは滅多にない。躰を起こすと、白いセダンが近づいてくるのが見えた。上流へ五百メートルほど行ったところに鉄橋がある。そこを渡ってから、この堤防の道に入ってきたのだろう。下流はこの先、海まで橋は一つもない。この近くの土地には一般のビルも住宅も存在しない。あるのは、彼が勤務している場所、つまり基地、滑走路とそれに付随する施設だけだった。彼は立ち上がった。車を運転しているのはモナミだ。彼を見つけて、車は停車する。
土手を数メートル上がって、車の横へ。モナミはエンジンを止めて、運転席のサイドから顔を出した。眩しそうだ。ウィンドウは下がっていたが、彼女の場合、相当に寒い日でも、窓を開けて走る。風が新しい空気だと勘違いしているようなのだ。
「ここにいると思った」躰を捻《ひね》り、両肘をドアにかけてモナミは言った。「暇な仕事ね」
「何をしにきた?」
「ちょっと様子を見にきただけ」
「早く帰った方がいい」
「なんで? ここ、立ち入り禁止? 私の自由なんじゃない?」
「赤ん坊はどうした?」
「大丈夫だってば」彼女は笑った。
「どうした?」
「お隣のおばさんに見てもらってる」
「感心しないな」
「あれね、面倒が見たいんだよね、そうに決まっているんだから。煩《うるさ》く言ってくるでしょう? そんなに言うんなら、あんたやったらって」
「そう言ったのか?」
「言わないわよぅ、そんなぁ」モナミは声を高くする。「でも、そういうこと。私、そういうのがわかっちゃうんだよね。だからね、そっちの方が上手くいくのよ、えっと、ほら、あれ、人間関係がさ。とにかく、信頼してますよって、こちらが態度で示せばぁ、まあ、向こうだって、悪くは思わないんだから」
「そういうことに赤ん坊を使うのは、どうかと思うが」
「え? あれ、いけない?」
「いや、俺が口出しすることじゃないが」
「ああ、そうだよ、そうだよ」モナミは口を歪《ゆが》ませる。「ねえねえ、今日は、何時頃に帰ってこられるの?」
「わからない」
「でも、今、暇そうじゃない」
「そう見えるかな」
「見えるわよ」モナミはまた笑った。機嫌が良さそうだ。
機嫌が良いときのモナミは、そうでないときのモナミを引いても、多くが残るくらいの価値がある、と彼は思っている。
微《かす》かに音が聞こえた。彼は、そちらへ目を向けた。低い高度から二機、こちらへ近づいてくるのが見えた。
「あ、飛行機?」彼女もそちらを向く。
「着陸する」
「へえ……」彼女は、目の上に片手を翳《かざ》す。
一機がまず、アプローチし、堤防を越えて、滑走路へ滑り込んでいく。もう一機は、海の方へ一度旋回してから、アプローチした。横風だが、微風。サンダルに足を入れるくらい簡単なランディングだろう。ただ、数時間まえに飛んでいったのは、三機だったので、彼はしばらく同じ方向の空を見つめていた。
「どうしたの?」モナミがきいた。
「いや、なんでもない。もう帰れ」口調が少し強くなったかもしれない、と彼は自覚した。
「うん、わかった」それを感じ取ったのか、彼女は顎《あご》を引き、口を尖《とが》らせる。
モナミがエンジンをかけたときには、彼はもう堤防から下りていく斜めの道を歩いていた。重力のせいで早足になっているのか、と思った。そんなに急いでもしかたがないことだ。ポケットに両手を突っ込んでみた。そうして自分の緊張を緩め、ゆっくり歩くことにした。
それでも、すぐに基地の敷地内に入る。滑走路の手前を真っ直ぐに歩く。格納庫が近づいてきた。さきほどの二機は既に、整備工たちによって、ウィンチで引き込まれようとしていた。彼が近づいていくと、作業の手を止めて、彼らは頭を下げた。
二機のナンバを見る。帰ってこなかったのが、誰なのかわかった。ミズノという新米だ。一度だけ一緒に飛んだことがある。長くはないな、とは思っていた。いつだったか、辞めるような話をしていたこともある。聞き流してしまったが、あのとき、はっきり言ってやるべきだったかもしれない。そんなことを一瞬で考えた。
一機は無傷だが、もう一機には、尾翼と、胴体後部に銃弾の跡があった。主翼の下に回って、ほかの部分も確かめた。幸運な飛行機だ、というのが素直な感想だった。コクピットへ弾が入ったかどうか、それはわからない。角度的に微妙なところだった。主翼の上に乗って中を覗けばわかることだが、しかし、そこまでしたくはなかった。礼儀かもしれない。少なくとも、キャノピィは血で汚れてはいなかった。
整備工たちは無傷の方をさきに格納庫の中に引き入れた。それを見届けてから、中央棟の方へ彼は向かった。走っている男が遠くに見えた。事務棟の前で三人が立ち話をしている。その前を通ろうとすると、一人が彼を呼び止めた。
「あ、ちょっと、すみません。サインが必要な書類がありましたので」メガネの事務員が言った。もちろん顔見知りであるが、名前は知らない。
事務棟の中へ入る。事務員は自分のデスクへ行き、書類をカウンタへ持って戻ってきた。
「ここですね、ここにサインをお願いします」
「何の書類ですか?」彼はきいた。
「誓約書ですね、子供を引き取ったということに対する」
「いや、引き取ったのではない。自分の子供です」
「うん、でも、引き取ったことにした方が、結局は、処理が簡単になると思います。どうします?」
「なんでもいいですが」
「じゃあ、とりあえず、サインを」
これまでに何枚の書類にサインをしたか、と思いながら、彼はそこに名前を書いた。世の中、肝心なことにはサインをする暇はない。どうでも良いことになるほど、サインが必要なのだ。
「はい、どうも……、これで、来月から、たぶん、手当もつくと思います」
「それは、どうも」片手を軽く上げて、部屋を出る。
外でまだ二人が立ち話をしていた。
「誰が墜《お》ちたんです?」一人が彼に尋ねた。
「さあ……」彼は知らない振りをした。
死んだら、誰が自分のための書類にサインをするのだろう。それとも、死んだときのための書類は、もうサイン済みだったか。そうだ、とっくにサインをしたような気もする。
中央棟の前にワゴン車が駐車されていた。建物の中から、二の腕に包帯を捲《ま》いたシマノが出てくる。白衣の医師が車の反対側へ走った。
彼が近づいていくと、シマノがこちらを見て立ち止まり、笑顔になった。プレゼントでももらったような顔だ。
「大したことありませんよ」掠《かす》れた声でシマノが言った。「こんなんで病院へ連れていかれるんですから。ちゃんと歩けるのに」
まだ興奮している。酔っている状態だ。もうすぐ、どっと疲労が押し寄せて、立てなくなるだろう。彼は、シマノの肩を軽く叩いてやった。
「さあ、早く乗って」医師が車の向こう側から叫んだ。
もう一人、医師の助手が乗り込んでから発車した。ゲートの方へ向かって走り去る。方向指示器を出したところで見えなくなった。彼のほかにもう一人、それを見届けている人物がいた。彼の同僚で、この基地のパイロットでは、ただ一人、彼より年輩の男だ。一度だけ目が合ったが、表情を変えることもなく、また言葉もなかった。
建物の中に入ろうとしたが、ロータリィの端で動くものがあったので、彼は振り返った。敵機ではない。黒い猫だった。向こうもこちらをじっと見た。あれが敵機だったら、危ない角度と距離である。猫は視線を逸《そ》らせ、庭木の陰に音もなく消えた。この近辺で、よく見かける奴だ。基地以外には住宅はない。基地の誰か、おそらく整備工あたりが餌をやっているのだろう。パイロットではない。地上の関係は最小限にしたい、とパイロットなら考えるはずだから。
最小限か、と彼は自分のことを一瞬振り返ってから、階段を上がり、中央棟の中へ入っていった。
談話室にパイロットが四人集まって話をしていた。彼が通路から中を覗くと、全員がこちらを向いた。
帰ってきたパイロットはそこにはいない。上司の部屋で報告をしているのだろう。彼は迷ったが、通路を奥へ進んだ。そして、大きな木製のドアをノックする。中から返事が聞こえ、ドアを開けて中に入った。
衝立《ついたて》の手前のソファに、この基地の実務上のボスである少佐がこちらを向いて座っていた。まだ若い。数ヶ月まえ、司令部から転勤してきたばかりのエリート将校である。手前の席には、パイロットのタカシロが座っていた。
「ああ、君か、いいところに来てくれた」少佐が言った。「こちらへ」自分のすぐ横の席を片手で示す。
彼は軽く敬礼をしてから、そこへ行き、腰掛けた。対面に座っているタカシロが上目遣いに彼を見据えた。血走った目だった。彼が今回飛んだ三機のリーダだ。僚機を一機失い、一機は傷ついた。その経緯を説明しているところだ。
その後も、淡々とした口調でタカシロの話が続いた。彼は黙ってそれを聞いた。自分はパイロットとしては最も位が高い。新米の少佐からアドバイスを求められることが多く、こういったケースには呼ばれて、報告を聞くことも珍しくない。自分が加わることによって、なにかの問題が解決されるわけではないが、ただ、自分以外の多くが、それで少しは納得するようだった。おそらく勘違いだろう。それだけのことである。聞いているだけなので、楽な仕事ではないか。
偵察任務であったが、海上で敵機と遭遇。敵も戦闘機が三機だった。タカシロが一機を撃墜していたので、評価としては悪くはない。
「なにか?」と少佐が横にいる彼に尋ねた。
「いえ、特にありません。的確な判断だったと思います」
「私もそう思う」少佐はタカシロの方を見て言った。「以上だ。よろしい、休みなさい」
「シマノは、大丈夫でしょうか?」タカシロがきいた。
「まだ報告は受けていない」少佐はまた横を向いた。
「大丈夫だ」彼が代わりに答えた。
タカシロが立ち上がって、敬礼をする。少し笑おうとしたようだが、まだ、顔が緊張していた。彼はドアのところでもう一度こちらを向いて頭を下げ、部屋から出ていった。
少佐は立ち上がり、デスクへ行く。煙草を一本取り、火をつけた。それから、まだソファに座っている彼のところへ戻り、煙草の箱を差し出した。箱から半分飛び出した一本を彼は指に挟んだ。少佐がライタを貸してくれたので、それで火をつける。
「良かった、三機で行かせて」少佐が煙を高く吐き出しながら言った。「君の言ったとおりだった。マニュアルどおりなら、二機で行かせていたところだ」
「二機だったら、戦わずに逃げてこられたかもしれません」彼は言った。少佐にライタを返す。
「いや、そんなことはしない。そうだろう?」
「わかりません」
「タカシロなら、絶対に逃げてきたりしないだろうね」少佐は口もとを緩めた。「仲間が死ぬかどうかなんて、まったく頭にはない。ただただもう、自分がどう戦って、相手をどう墜とすのか、それだけだ」
「多かれ少なかれ、みんなそうです」
少佐はこちらを向き、片方の眉を上げてから、無言で頷いた。
「もう、よろしいですか?」彼は立ち上がった。
「ああ、悪いが、もう一つある」少佐は対面の椅子に腰掛けた。さきほどタカシロが座っていた椅子である。
彼はもう一度腰を下ろした。片手にはまだ煙草を持っていた。テーブルの上の灰皿へ手を伸ばす。
「扶養手当を申請したそうだね」少佐が脚を組んだ。
「はい」
「結婚をしたのか?」
「いえ、それでしたら、別の手当が申請できます」
「うん。そうだ」
「女と同棲することになりました」
「赤ん坊がいるそうだ」
「はい」
「女の連れ子かね?」
「いえ」
しばらく黙っていた。彼が煙を吐き、少佐も煙を吐いた。
「君の子、ということか?」
「そうです。そのとおり申請しました」
「うん、まあ、プライベートなことに立ち入りたくはないが、あまり、その、なんというのか、君らしいやり方のようには見受けられないのだが」
「そうですか」
「なにか、希望があったら言ってくれ。できるかぎりのことはしたい。たとえば、そう、スクールが指導員として君を欲しがっている。これ、話したんだったかな?」
「ええ、お断りしました」
「情報部も強くプッシュしてきている」
「残念ながら」彼は首をふった。「今の仕事が性《しょう》に合っています」
「楽ができると思うし、その……、子供のためにも……」少佐はそこまで言って、言葉を切った。説得を諦めたようだ。頭は悪くない。
彼は煙草を灰皿で揉み消した。
「明日、飛ぶことになりそうですね」彼は言った。
「え?」
「すぐにその指令が来るかと」
「ああ、つまり、あのエリアになにかあるってことか」少佐が言った。「そうだな、それはありそうだ」
それは情報部が考えることだ。飛行機乗りの仕事ではない。自分たちは単に、そのあたりの空に漂っている空気の甘さを感じるだけだ。飛ぶものが集まってきそうな甘い空気かどうかを。
話はそれだけだった。彼は敬礼をしてから、少佐の部屋を出た。
談話室には、タカシロの周囲にパイロットが六人集まって、話をしていた。彼は、そのサークルに入るつもりはなかったが、通路を通りかかった彼を見つけて、タカシロが出てきた。
「ありがとうございます」後ろから声をかけられる。
「何が?」彼は振り返った。
「いえ、庇《かば》ってくれましたよね」
「俺が? いや、そんな覚えはない」
「僚機を失ったのに……」タカシロが片方の目を少しだけ細くした。「もう少し、早く援護ができていたら、と思うと残念です」
「気にするな」
タカシロはじっと彼の顔を見つめてから、小さく頷いた。そろそろ酔いが醒めてくる。これから、どんどん現実の重さ、この地上の重力を感じることになるだろう。何度も何度も、これを繰り返しているのに、空に上がっている間にすっかり忘れてしまうのだ。まさに、酔っているのと同じ。だから、酔いが醒めると、重い失望感に襲われる。
「今夜は、待機組ですか?」
「いや」
「もしよろしければ、どこかへ」タカシロが言った。
「ああ、悪いが、先約があって」彼は断った。
「すみません。では、またいつか」タカシロは微笑んだ。
「ああ……」
タカシロが部屋に戻ろうとする。
「あ、そうだ」彼は呼び止めた。タカシロがドアのところで振り返った。「報告の最初のところを聞いていなかった。敵機は、プッシャか?」
「プッシャでした、三機とも」
「そうか、ありがとう」
建物から出た。格納庫の方へ歩く。西の空に日はまだ高い。しかし、既に気温は下がり始めている。もう一度、あの堤防まで行くつもりはない。ノルマはなにもないので、帰っても良いのだが、暇なときは堤防の傾斜地で昼寝をするか、滑走路の脇を軽く走るか、それとも、格納庫へ飛行機を見にいくか、といった選択になる。若い頃は宿舎の自室に籠《こ》もって本を読むことが多かった。今は、宿舎には着替え以外に何一つ置いてない。基地の外に住むようになったからだ。生活が複雑になっている、と感じる。歳を重ねると、否応なく複雑になっていくようだ。知り合いも増え、職場の人間関係も増える。増えれば、どうしたって絡み合う。綺麗さっぱり消えてくれるようなものはない。単純に整理できるようなものはない。飛ぶために重量が制限される飛行機とは違って、人生はどんどん重くなっていく。それが許される。重くなってしまえるのだ。
格納庫の側面にある小さなドアから中に入った。彼の飛行機の近くに整備工がいた。台車に座っていたが、彼に気づいて立ち上がり、頭を下げた。
「明日、飛びますか?」向こうから尋ねてきた。
「どうして、そう思った?」
「いえ、なんとなく、そんな気がしただけです」
「それを言いにきたんだ」
「明日、飛ぶんですか?」
「いや、まだわからない。なんとなく、そんな気がしただけだよ」
二十二時過ぎに彼は帰宅した。職務は三時間もまえに終わっていたが、いつもこんな時間になってしまう。通勤には十数分しかかからない。今にもエンジンが落ちそうな黒いセダンを使っている。以前は白いセダンに乗っていたが、調子が良いのでそちらをモナミに与えたのだ。
眠そうな顔でモナミが玄関で出迎えた。子供は寝ているようだ。静かなのでそれがわかる。
「食事は?」
「食べてきた」
この会話はいつものことだ。どうして彼女がそれを尋ねるのか、理解できない。もし食べてこなかったら、どうするつもりなのか。冷蔵庫に缶詰くらいはあるかもしれない。ほかには、ビールがある。
おそらく、そういった会話を彼女が夢見ていたのだろう。だから、もちろん文句は言わない。彼女自身が、いつ何を食べているのかも彼は知らなかった。子供を連れて、どこかへ食べに出かけているのだろう、くらいの想像である。それ以上のディテールを思い浮かべるまえに、シーンを切り換える。
冷蔵庫からビールを取り出し、グラスを持って、窓際の椅子に座った。テレビは消えている。音が出るものは、子供を起こす。夜襲でも恐れているみたいだ。
モナミが近くに来て、新しい折り紙を教えてもらった、という話をした。近所にそれを教えてくれる老婆がいるらしい。何度かその話は聞いていた。絨毯《じゅうたん》の上に座り、テーブルにべったりと吸いつくような姿勢で、彼女は紙を折った。折り紙の作品は、家のあちらこちらにある。彼にはその価値はわからない。お守りに持っていったら、と渡されたこともあるが、車のダッシュボードに数日置いたままになった。
「誰か墜ちたの?」折り紙をしながら、モナミがきいた。
「ああ、若いのが一人」
「困っちゃうよねぇ、朝出ていった人が、帰ってこなかったらさぁ」
「家族持ちは、ほとんどいない」
「でも、お父さんやお母さんはいるわけでしょう?」
「宿舎で一人だ」
「そう……、故郷へは、あまり帰ったりしないの?」
「帰る奴は、そう、あまりいない」
「その死んだ人も、そうだった?」
「いや、知らない」
「ほら、できた」彼女は、折り紙を見せた。「何だと思う?」
「鳥」
「何の鳥?」
「そこまではわからない」
「インコだよ。ほら、ここのところとか」
「ああ」
「見えない?」
「いや、見えないこともない」
「変な職場だよね」モナミは立ち上がって、キッチンの方へ行く。自分もなにか飲もうと思ったようだ。
「何が?」
冷蔵庫から、お茶が入ったプラスティック容器を出す。それを小さなグラスに注ぎ、また中へ戻した。グラスを片手に持って、こちらへ戻ってきた。
「新しく入った人の方が、亡くなることが多いじゃない。どんどん新しい人が来るけれど、これじゃあ、いつまで経っても同じってことにならない?」
「同じだと、なにかいけないかな?」彼はグラスのビールを飲み干した。瓶に残っていた分をグラスに注ぐが、半分にもならなかった。
「いつ辞めるのかなって、考えちゃうよ」
「誰が?」
「私」
「誰が辞めるのを?」
「もちろん、貴方よ。仕事をいつ辞めるのかなって」グラスを口につける。そして、彼女は小さな溜息をついた。「もういいんじゃない? 貴方くらいの歳になったら、もうほかの仕事に変わらせてもらえるんじゃない?」
「ほかにできることがないからな」
「嘘だよ、そんなの」モナミが口を尖らせた。「もしかして、最後は死のうって思っているんじゃない? 私に赤ん坊を押しつけといてさ」
「悪いとは思っているよ」
「思っているかしら、本当に」
「なにか、嫌なことでもあったのか?」
「いくら嫌なことがあってもね、さあ、もう墜ちていっちゃえってわけにはいかないのよぅ、普通の人間はさ。いろいろあるんだからぁ、もう、むしゃくしゃして、死んじゃいたいときだってあるの。でもさ、そんな簡単に死ねないでしょう? だいいち、どうやって死んだらいいわけ? 死に方だってわからないじゃない。馬鹿だもの、私……」
「君は、馬鹿じゃないよ」
「あ、ごめんなさい」モナミはこくんと頷いた。
自分のことを馬鹿だと言う癖が彼女にはある。それをいつだったか、彼は叱ったのだ。そのときは、多少強い口調になっていたかもしれない。彼女の前では感情的にならないように気をつけているのだが、セーブが利かないときもある。
死ねないか、と彼は考えた。
たしかに、簡単に死ねないような仕組みが社会にはある。死なないように教えられ、死ににくいように四方八方から糸で引っ張られている。自分が死んだら、そのあとはどうなるのか、と考えない人間はいない。それを考えること自体が、死ににくい仕組みの効果なのだ。
空に上がることは、その見えない拘束から逃れられること。いつでも死ねる。自分の意志で、自分だけの運命で。そして、死んでも、誰にも咎《とが》められない。大きく悔やまれることもない。憎まれることもない。空で死ぬことは特別なのだ。そういう場所になっている。少なくとも地上から見れば。
しかし、それは違う。
空に上がると、それがわかる。
何がわかる?
それは、生きているか、死んでいるか、ということの無意味さだ。生死など、どちらでも良い、大した差ではない、ということが感覚としてわかるのだ。
特に、相手の飛行機と踊っているときには、躰にその道理が染み込んでくる。それは、道徳とは正反対の、つまり真理。真理だからこそ心地良い。生でも死でもないものに支配される心地良さ。一度でもそれに触れれば、酔い痴れれば、もう一度、そこへ戻ってきたい、と願うだろう。何度も、何度も……。
そして、
一度でもそれを経験した者は、もう生きても、死んでもいない。地上に帰ってきても、しばらくはそのままだ。
彼が座っている足許、絨毯にモナミが座っている。
彼女の背中が、彼の膝《ひざ》を押していた。
人の温かみは、遅れて、じわじわと伝播《でんぱ》する。
女は、生きていることをときどき感じさせてくれるものだ、と彼は考えていた。生きていることを感じたいときには、ありがたい存在だが、それを感じたくないときには鬱陶《うっとう》しい。今はどちらだろう? 視線を上げる。
天井を見た。
ぼんやりとした白い蛍光灯は、まったく眩しくない。
隣の部屋で、小さな声が。
モナミが背中をすっと離す。その反応の素早さが、彼女の優しさだ。舵《かじ》を切るときの素早さも、相手に対する優しさ。それと同じ。
二人は息を殺して、隣の声を聞いた。
泣きだすか、と思われたが、そのまままた静かになった。
モナミが溜息をついてから、振り返って彼を見た。そして、にっこりと笑うのだ。
「生きているな」彼は言った。
「そうね」モナミは白い歯を見せた。
まだ暗いうちに彼は家を出た。モナミも子供も寝息を立てて眠っていた。
息が白くなるほど、外は冷え込んでいる。基地の駐車場に到着する頃、ようやく車のヒータが暖かい空気を吐き出した。しかし、躰はもう充分に温まっている。不思議だが、飛ぶときにはいつもこうだった。
中央棟に顔を出して出勤のサインをした。それから、格納庫へ向かう。一緒に飛ぶ連中がもう揃っていた。彼が近づいていくと、早い敬礼をした。みんな自分よりも若い。なにか言葉を待っているような顔だ。言葉なんて、なんの価値もないのに、縋《すが》りたいときはある。地上にはそんなものが、まだある。
彼は、言葉を考えるために煙草に火をつけた。なにげなく目をやると、格納庫の横の茂みの下に、例の黒猫がいた。こちらをじっと見据える目がグリーンに輝いていた。
「あいつ、いつもいますね」一人が言った。
そいつはベテランだ。彼がここに来るまえからいる男で、何度も一緒に飛んでいる。そいつも、遅れて煙草に火をつけた。
「猫だったら、墜ちても、あと八回は飛行機に乗れますよ」そう言って、そいつは笑った。
意味のわからないことを言う奴なのだ。
ほかの二人は、まだ半年以内の新人。その二人は、猫と同じようにじっと彼の方を見つめたまま。二人とも、彼と一緒に飛ぶのは今回が初めてだった。
「煙草は?」彼はきいた。
「いえ、自分は吸いません」
「自分もです」
「コーヒーくらい、まだ飲む時間はある」
「はい」
もう飲んだのだろう。格納庫の奥を見ると、壁際のテーブルに白い紙コップが見えた。
四機は、格納庫の前に既に引き出されていた。四機で飛ぶという意味は、偵察ではない。また、護衛任務にしても、かなり交戦の確率が高い場合だ。
彼は煙を吐いた。
「特に、言うことはないが、なにか質問は?」彼はきいた。
「いえ、ありません」一人が即答した。
もう一人も黙って頷く。
「綺麗に飛ぼう」彼は言った。
自分のことだけを考えて、
自由に、
楽しく、
なにも考えるな、
といった言葉は飲み込んだ。馬鹿馬鹿しい。
言葉は馬鹿馬鹿しい。どれも、嘘だ。
煙草が短くなるまで吸うことができた。
コクピットに乗り込み、最後のテスト。
キャノピィをロック。
エンジンが始動。軽やかに排気が吹き上がった。
プロペラが見えなくなる。機体の振動が大きくなり、そして細かくなった。メータをチェック。異状なし。
舵を切る。整備工が手を上げて応える。
時計を見た。
片手を上げてサイン。
ブレーキを解除。
機体は動きだす。
アスファルトに接したタイヤが苦しそうな音を立てているだろう。しかし、エンジン音に掻《か》き消《け》されて届かない。
広い滑走路の端へ向かってタキシング。
天候は女の肌のように軟らかい。
彼が最初だ。滑走路の端で向きを変える。そこで一時停止。管制塔からはすぐにゴーサインが出る。
左手がスロットルを押し上げ。
右手は操縦桿に軽く触れている。まだ出番ではない。
ラダーを両脚が。
機体は走り。
尾輪がまず地面を離れ。
主翼が空気を掴《つか》み。
右手がほんの少しだけ操縦桿を引く。
静かになる。機体が浮き上がった。
管制塔の方を見る。
五メートルほど上がったところで、操縦桿を僅《わず》かに左右に。
左右に傾く。
挨拶をしてやった、地上の連中に。
メータをチェック。
脚を引き込む。
そのカバーが閉まる音は、いつ聞いても気持ちが悪い。
右へ少し機首を振って、後方を確認。
二機めが離陸したところだった。
そのまま緩やかな角度で上昇。
地面はしだいに遠景になっていく。
青い空がますます明るくなる。
前方の高いところに雲がある。視界は良好。
しばらく、ゆったりと飛んでいるうちに、残りの三機が追いついてくる。高度を維持し、東へ向かう。すぐに海の上になった。まだ三十分はこのままだろう。
少し寄って、隣のコクピットへ、手でサインを送る。
相手も、それに応える。異状はない。
もう、みんな笑っているだろう。
自分も、うきうきしているのがわかる。エンジンが回っているうちは大丈夫だ、という不思議な感覚が生まれる。この音が鼓動だと。
そして、是非とも誰か、
ここへ来てほしい、と願う。
出会いたい、と望む。
それは、相手を墜としたい、という欲求ではない。
弾を撃ちたい、という気持ちでもない。
戦いたい、という意味でさえない。
では、何だ?
それを示す言葉が、たぶん地上にはない。
言葉は地上のためのものだから。
空には言葉がない。
ここだけにある感覚を表す言葉はない。
一番近いのは、たぶん、
踊る?
それとも、
戯れる?
そう、飛び回って、遊びたい。
走り回りたい。
この広い、美しい、自由な場所で。
尊厳と孤独を懸けて。
ここへ上がってくる奴は、みんな素晴らしい。
ボンネットの黒猫マークが見えるか?
敵も味方もない。
敬意をもって出迎えよう。
みんな、自分に確かなものをくれる奴らだ。
生と死を教えてくれる。
神かもしれない。
そんな神に会える場所。
だから、こんなに心が躍る。
期待と憧《あこが》れに、躰が震える。
今までも。
今でも。
これからも。
ずっと。
もう辞めようと思っていても、ここへ来ると忘れてしまうのだ。辞める? 何を? そう、何を辞めるのかさえ、わからなくなる。
ただ、ここにいられる時間が短いことだけが唯一の不満だ。
こちらの世界の方が本当なのに。
ブルーと振動と空気しかなかった世界に、小さな点が現れる。
パルスの信号もキャッチ。インジケータが点灯した。
この頃、少し視力が落ちたが、大丈夫、ここへ来るとちゃんと見える。彼は主翼を左右に振って応えた。
ゴーグルを一度外し、冷たい新しい空気を入れる。
深呼吸。
首を左右に捻《ひね》った。
肩を軽く上下させる。
力を抜け。
流れるように。
綺麗に飛ぼう。
それだけを考える。
嬉しい。
顔は笑っている。
そっと、
やさしく、
そして、
美しく、
飛ぼう。
限りなく、
いつまでも、
続くことを祈って。
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COMMENTS
森 博嗣
もりひろし
「スカイ・クロラ」シリーズ
25周年といえば、僕は1982年に結婚をしたので今年が同じく25周年(銀婚式)だ。よくもまあこんなに続いたものだと思う。作家になってからはまだ11年だが、絶対に25年なんて無理だろう。でも、そんなの関係ない。
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特別対談
森博嗣×荻原規子
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)空色勾玉《そらいろまがたま》
-------------------------------------------------------
特別対談
森博嗣「スカイ・クロラ」シリーズ
×
荻原規子「西の善吉魔女」シリーズ
C★NOVELSでもご活躍のおふたりは、今回が初対面。
人気作家の頭の中は、はたして……
【引用への思い入れ】
森 デビューされたのは?
荻原(以下荻) 一九八八年。二〇〇八年で二〇年目になります。
森 大ベテラン!
荻 でも、三年に一冊くらいしか書いてないの(笑)。デビュー作は『空色勾玉《そらいろまがたま》』で、児童書として出したも|の《 *1》。児童文学作家というか、童話作家といわれるのは、私すごく嫌いなんですけど。
森 児童書というと、小学生ぐらいが対象ですか?
荻 中学生以上の子も読めるようなものが、日本にはあまりなかったんですね。で、その上限にハマるようなものを書いたかな、と。
森 『西の善《よ》き魔|女《 *2》』は、小学生よりもちょっと上かなと思って。
荻 C★NOVELSでは児童書っていうしばりのことは考えないで書きました。でも『空色勾玉』の方が難しいんですよ、漢字とか(笑)。それを徳間書店で出し直してもらったのが九六年。
森 僕がデビューした年です。
荻 犀川《さいかわ》&萌絵《もえ》シリー|ズ《 *3》から読んでいますよ。森さんはあまり本を読まれないんですよね。
森 そうなんです。とくに小説は今、一年に三冊。以前は一カ月に二冊くらいは読んでたんですけど、書くようになって激減。書店では、昔の……芥川とか、そういうのは買いますね。主に引用のためですけど。
荻 森さんの引用は凄いですよね。海外小説には引用がよくあるでしょう? 私、それが凄く好きで。
森 僕も、小説はもともと外国のものしか読まなかった。
荻 『空色勾玉』では全部の章に和歌を引用したんです。
森 小説には引用がつくものだと思っているから、内容と関係ないところでも引用する。
荻 でも、それが読書の励みになるんですよね、読者としては。完全に内容を表してるわけじゃなく、ちょっとはずして。でもそのニュアンス、引用がもっているアトモスフィアが作品に加味されている、みたいな。
森 ギャップがあるからこそ面白いので、それを除いちゃうと、もう全然引用する意味がないですよね。僕の小説の引用と作品を結びつけた記事を読んだことがありますが……。
荻 当たってなかったんですか?
森 そういう結びつきを考えること自体がね。
【音楽と引用の共通点】
荻 イギリスのミステリーが大好きで。なんでアメリカのものは肌に合わないのか全然わかんないんだけれども。
森 アメリカは映画が台頭したから、エンターテイメントな小説が映画になるのを見越して書かれてるふしがあって、そこが小説としてのバランスを崩しているんじゃないかって気が、ちょっとします。
荻 日本もだんだんそうなってきちゃったような。
森 そう、それはありますね。
編集(以下編) お二人はあまり意識していないように見受けられますが?
荻 だって、文章しか書けない人間が文章で勝負しなくてどうする、みたいな。でも読者から映像が見えますって言われることが多くて、ってことは私が絵をつくってるんだなあって思うことはあるけれど。
森 僕はむしろ、これは映像化できないだろうってくらいのつもりで書いています。
編 そんな思惑と裏腹に、「スカイ・クロラ」シリーズが映画になりますね。
荻 アニメには凄く合いそう。飛行機の方が主役みたいな感じかな。
森 原作がまとまりのないものだから、起承転結もないし。
荻 飛行機の戦闘シーンとか、凄く見たいな。
森 あ、戦闘シーンでこの音|楽《 *4》が流れているのがイメージですとプロダクションにメールを送りました。イメージを伝えたいだけで、これを使ってくれという要求では全然ないんですが。
荻 音楽、思い浮かべますか?
森 そうですね、映画に近い感じで。ここでこの曲が入れられたらいいなっていうのは、小説の中よりも、扉とかに多いです。
荻 オープニングの感じってありますよね。
森 引用もほとんどその意味ですね。入る前にあれだけを読んでくれる時間を置いておきたい、音楽と同じように。音楽もあまりぴったりのものよりは、ちょっと違うものが流れているといいですよね。
【執筆の順番】
荻 引用は後から? 同時進行ですか?
森 いや、先です。引用は先に決めます。
荻 あ、自分でもオープニングが必要なんですね。それはわかる気がする。私も、初めのうちに出てこないんだったら、もう最後までつけないかもしれない。
森 そうそう。あとからつけたことは一度もないです。僕は実際の本の通りの順番で入っていく。まず数カ月タイトルを考えて、これで行こうっていうものが決まったら、書店に行って。引用する本を買ってきたら、あとは書きますね。引用も、五章ある本でも最初の一カ所だけを決めて、書いていって、また探して。
荻 だからキャッチーなんですね、タイトルが。こういう名前の本を作ろうって思うくらいじゃないと推進力にならない気がしません?
森 そうですね、ええ。そうじゃないとぴったりのものにならないですね。
荻 でも、ときどきよそで聞くと、最後までタイトルが決まらないっていう人は結構いる。
森 書いちゃったあとはどんなタイトルも合わないですよね。最初にタイトルを決めれば、それに合った内容を書くだけのことなんで。タイトルを決めずに書くっていうのは、マンガでいったら主人公の顔を決めずに描くみたいなもので。短篇のタイトルはあとから決めることはありますけれど、一冊の小説は必ずタイトルから。
編 この本のためにも短|篇《 *5》を一本いただいたんですけど……。
森 それを収める短篇集のタイトルがもう決まって|る《 *6》。短篇のタイトルは章のタイトルみたいなものだから……。
荻 ああ、章はあとでもいいですよね。
森 うん。書いてみてから決めてもいいな、くらい。本の表紙に来るタイトルに凄く拘《こだわ》るのは、やっぱり「顔」だからなんですよね。
【執筆中の頭の中】
編 映像化の話が出ましたが、執筆中に映像が浮かぶことは?
荻 書きながら見えてたり、聞こえてたりするものは確かにあるんだけど、文字じゃないと見えないものもあるような気がするな。
森 僕は、ほぼビジュアルですね。マンガを描いていたと|き《 *7》も、ビジュアルがあってそれを絵にしてるなって意識で描いてました。
荻 ビジュアルで全部見えてしまうと、文章にするときに困りません? どこを取っていこうかって。
森 見てる情報が一〇くらいあって、そのうち一くらいしか書けないです。追いつかなきゃいけないから。
編 どんどん動いていっちゃうんですか?
森 そうそう。だから速く書きますね。一〇分くらい書いたら、ちょっと待っててくれって言って休憩して。で、あとから文章を直すんですよ。逆に、ゲラを見るときは大変です。一しか書いてないものを読んで、元の一〇を思い出さなきゃいけないから。
【読書の仕方の違い】
森 人の作品でも一から一〇を展開するから、凄く読むのが遅いんです。二日とか三日で一冊の本を読めちゃう人が信じられない。
荻 私、できるだけその日のうちに読みきろうとする人なんですけど(笑)。
森 僕にはとてもできない(笑)。映画とか音楽とかは何回も観たり聴いたりするのに、小説は一回しか読まないのはなぜかというと、ゆっくり読めるからなんです。音楽は、音楽の速度でしか聴けない。映画もそう。
荻 一回しか読まないんですか?
森 一回読んでしまえば、頭に入って自分が経験したことと同じくらいになるから。自分の小説でも本になってから読んだことはない。最近だいぶ複雑になってきて、実社会と同じぐらいには忘れるようになりましたけど……。小説をもう一回読むっていうのは、昨日したのと全く同じことを今日しようっていうのと同じくらいのことだと思うんですよね。
荻 すっごい高い理解度! 私はまず、理解するべきものかどうかを吟味するために読むの。気になる部分が何カ所かある本は、もう一回読もうっていう風に。それから、同じものを読むことで自分が変わったっていうのを確認できるときはありますよね?
森 ああ、それはね、僕の場合、読まなくても思い出せば。
荻 わかるの?
森 うん。推理小説なんかで「あっ、この人が犯人だ」ってわかったら、そのつもりで読み直すって言いますよね? 別に、もう一回思い浮かべれば……。
荻 もっと細かい部分は? 理解度って年齢で変わってきますよね。自分の興味の方向っていうか、「あの頃はこういう人だったけど」みたいな、全体的な把握の仕方がズレてるのがわかるってことは?
森 うん。それも自分が変わったときに「あっ、あの小説はこうだったんだな」っていう風に。
荻 思い出すんですか(笑)。
森 そうそう。あの時のあの小説はこうだったんだなって思い出せば、読む必要はないですよね。
荻 うーん、そこまで読み込んでから一冊の本を閉じるってことなんでしょうね。
森 そうですね。だから読んだあとはどこの何行目に何があったかってことまで割と憶えています。
【メモを取らない理由】
編 複雑な構造の作品をお書きになっているのに、お二人ともメモを取ったりはしていないとか。
荻 名前とか相関図とか時系列とか、そういうものは取らないな。それを忘れるほどでは作品世界をつくる資格がないと思う。
森 忘れたときはそのシリーズを終わらせれば(笑)。
荻 やめればいい(笑)。
森 たまにゲラの時に間違いに気づくことがありますね。矛盾してる部分、思い違いみたいなものが出てくる。でも、そのぶん新しく思いついたんだから得じゃないですか。メモを取ってしまうとそこで思考が止まって一つだけになっちゃう。取らないと、それを思い出したとき、辿りつくまでに他のことを考えますよね。
荻 違うものが拾える。
森 ええ、そっちの方が得だって思っているだけですね。忘れることがまた面白いっていうか。
荻 私、ノートとかも下手だったんですよね。講義を受けていても、上手にメモが取れないんです。
森 ああ、話を聞いて? 僕もそれ、全然しないですね。
荻 でも私、堂々と忘れるから。森さんはきっと憶えてるから取らないだけ(笑)。
【脳のどこを使うか】
編 ノートが苦手だと、学校の授業は大変だったのでは?
森 国語が一番苦手でしたね。漢字が書けないし。大体どんな形かっていうのはわかるんですけど。
荻 大体で済ます?
森 ええ、だから読めって言われれば読めるんです。でも、棒が二本か三本かまではピントが合っていないんですよね。右側はちょっと画数が多かったよなってくらいまでは思い出せるけれど。
荻 ボンヤリだけどその形で読みは覚えちゃうってことですか? 面白い。
森 そうですね。漢字を覚えるときは、大きく書くと一発で覚えます。あの、年号もそうです。年号も形で覚えます。その数字の形で。だから、1192なら、1192って石碑が建ってるような映像を。そうしない限り覚えられない。
荻 そうやって覚える人がいるっていうのは聞くけれど。
森 良《よ》い国つくったのが何幕府なのか全然わかんないじゃないですか。よくそれで覚えられるなっていう。
荻 大体、私は数字そのものが身にそぐわない。数学、全然だめだったの。あれ、空間認識能力っていうか、数字と数字の離れかたみたいなものを立体的に捉えてる人が強いんじゃないかな。
森 数字をテキストで見ている人はいけないですね。文系の人は1とか2っていう文字で見ていますよね。
荻 そうとしか見られない(笑)。
森 例えば7+6っていうと、それぞれの長さがあるわけですよ。7と6を足して、あ、ここまで行ったなって。
荻 私、全然それがないの。小学校のときにもう自覚しました。あ、駄目だ、できてないって。
森 だから九九は僕、計算しながら言ってましたよ。下から順番にいけばいいんだから、6の段だったら6を足していくわけです、どんどん。その方が早いでしょう?
荻 早くない(笑)。
森 だって、4×6いくつっていうのが出てこないから。
荻 語感じゃないんだ。
森 うん。九九っていうもの自体に意味がない。
荻 言語と全く別の場所にあるものなんですね。私、きっと脳が右と左に分かれてないんだ(笑)。
森 大学の友だちが「人間は言葉で考えている」って言うんですよね。言葉がなかったら人間は考えられないと。そんなことは絶対ない。言葉を覚えなくても考えられるはず。そういう発想がない人もいるんだなって思いました。どっちかっていうとテキストの人が多いんじゃないですか、日本は。でも多分、児童書とかを書く人っていうのはビジュアル的。じゃないと子供がついてこられない。
荻 あー、そういうものかな。考えたことなかった、今まで。
【アンチであること】
編 お二人とも、ジャンルの枠を越えた作品を書かれていますね。
荻 どこからもはみ出してるんですよね(笑)。別に越えようとか越えまいとか思ったことはなくて、自分が読みたいものを書いているんだけど。
森 小説って大昔からあるでしょう。名作はたくさんあって、読めなくなるわけでもない。先行するものが劣化していくことがほとんどないから、アンチにならざるをえないんじゃないですか、こんな遅くから書いてたんじゃ。
編 では、これからはさらにアンチな、マイナなところに?
森 世の中はマイナ指向になってるから。メジャというものはもうない。大勢の心を掴むことはもう無理です。貧しい時代にはできたんですけど、今はみんな自分の好きなものがいっぱいありますからね。たまたま出会った人が買ってくれるか、噂が広がって本当に好きな人たちだけが読んでくれるものしか作れない。でも逆に言うと妥協しなくていい。みんなのために公約数的なものをつくらなきゃいけなかったのが、今は割と、自由に書いても好きな人は誰かいるだろうと。そういう愉《たの》しさはあります。
編 C★NOVELSも、「本当に好きな人」に届けたいレーベルですから、時代に合致してきているのかもしれません。
森 小説はどん底ですけど、これ以上悪くはならない。まあ、あの、見通しは明るいと思いますよ。僕の観察では、これ以上落ちるってことはない。底を打ってるから。世代が変わっているし、いいんじゃないですか。
編 これからぐんぐんと……
森 いや、伸びはしないかと思いますけど(笑)、定着っていうか、ね。
【小説の強み】
森 小説の強みはやっぱり一人の人間が書いてることですよ。それが他のジャンルにはない有利な点。経費がかからないとかそういうことじゃなくて、たとえば音楽は、今は歌い手からプロデューサーまでみんなの手が入っていて、これは誰の才能なんだろうって感じる。小説はこの人間が一人で考えたって凄さがダイレクトに伝わる。人の才能がわかりやすい創作なんです。
荻 そういえば、マンガもアシスタントの方が上手だっていうの、ときどきあるみたいで。
森 原作もついていたり。映画もね、どうしても分散しちゃうし。
荻 でも、今は挿絵と五分五分なんじゃないかみたいな作品もありますね。
森 そうですね。
編 読者が選べる時代ですよね。単行本で買う人とノベルスで買う人と、文庫で買う人とがいて。
荻 判型《はんけい*8》によってあんなに買っている層が違うって、全然知らなかったからビックリしちゃいました。
森 ノベルスの読者は、東京に多いですよね。ほとんど関東ではけてるんじゃないかっていう。ちょっと中途半端なところがあるのかもしれませんね。
編 25周年を機に全国区を目指します! より多くの読者に選んでもらえるよう、これからもがんばりますので、よろしくお願いいたします。
*1 デビュー作『空色勾玉』に続き、勾玉三部作として『白鳥異伝《はくちょういでん》』『薄紅天女《うすべにてんにょ》』、最新刊『風神秘抄《ふうじんひしょう》』が刊行中(いずれも徳間書店刊)
*2 「西の善き魔女」シリーズ(中央公論新社刊)。最新番外篇は本書P.540〜掲載「彼女のユニコーン、彼女の猫」
*3 デビュー作『すべてがFになる』につらなる一連のシリーズのこと(講談社刊)
*4 Patti Smithのアルバム「twelve」の3曲め「Helpless」
*5 P.218〜掲載「ナイン・ライブス」
*6 『スカイ・イクリプス』二〇〇八年中央公論新社より刊行予定
*7 森氏はかつて同人出版ジェットプロポストのペンマンとしてオリジナル作品を発表していた。
*8 判型とは、本の大きさのこと。森作品・荻原作品ともに四六判単行本・新書判ノベルス・文庫判の三種の判型で刊行されている。
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映画スカイ・クロラ制作順調!!
ここでは、原作者・森博嗣氏、監督・押井守氏をはじめとする関係者のメッセージを掲載します!
森博嗣公式コメント+|未公開メッセージ《読めるのはここだけ!》を前文掲載!
「スカイ・クロラ」のアニメ化について  森 博嗣
「スカイ・クロラ」のアニメ化のオファがあったのは、もう3年以上まえのこと、2作めを書いた頃でした。
僕はいつも「映像化できないものを書こう」と意識しています。そんななかでも、この「スカイ・クロラ」は、最も映像化が難しいだろう、と自分では考えていました。少々マイナなうえ、誤解されそうなテーマです。映像化すれば、まったく別のものになるのでは、という心配もありました。しかし、飛行機が綺麗な空を飛び回る映像だけでも是非見てみたいものだ、と思い、話を進めていただくことを決心しました。
その後に、監督が押井守氏だと聞いて、とても驚きました。同時に、「ああ、押井守ならば大丈夫だろう」と安心したしだいです。彼の作品をほとんど見てきましたし、特に「アヴァロン」の映像美には感銘を受け、「この人は美を知っている」と感じていたからです。
今は一人の押井ファンとして、楽しみに完成を待ちたいと思います。
以上がコメントです。以下は、蛇足ですが、原作者として一言だけ……。
おそらく、表面的に触れれば、「戦うことは美しい」といった好戦的な物語として、誤解されやすい作品だと思います。その誤解を覚悟して、僕は「スカイ・クロラ」を書きました。けれども、その誤解は、「戦争なんて醜い。頭がおかしい人間がすることだ」と目をそむけてしまうのと、ほとんど同じだと考えます。
小説ではこんなストレートな表現で書くことは絶対にありませんが、僕が訴えたいのは、戦うことを美しいと思える人間がいること、そして、誰もがごく普通にその感覚を持ちうること、それを理解し認めなければ、世界から戦いをなくすことはできないだろう、ということです。この作品によって、少しでも多くの方がその「理解」に一歩近づいてくれれば、世界平和を願う心に欠けている重要な部品が補填されるだろう、と信じています。
僕は今、若い人たちに伝えたいことがある。
[#地付き]押井 守(映画「スカイ・クロラ」監督)
「スカイ・クロラ」の主人公たち「キルドレ」は、生まれながらにして、永遠の生を生きる事を宿命づけられた子供たちです。彼らは寿命で死ぬことがありません。普通に暮らしている以上、永遠に思春期=アドレッセンスな姿のままです。
たとえ、永遠に続く生を生きることになっても、昨日と今日は違う。木々のざわめきや、風のにおい、隣にいる誰かのぬくもり。ささやかだけれど、確かに感じる事の出来る事を信じて生きてゆく――。
そうやって世界を見れば、僕らが生きているこの世界は、そう捨てたものじゃない。同じ日々の繰り返しでも、見える風景は違う。その事を大事にして、過酷な現代を生きてゆこう。
僕はこの映画を通して、今を生きる若者達に、声高に叫ぶ空虚な正義や、紋切り型の励ましではなく、静かだけれど確かな「真実の希望」を伝えたいのです。
奥田 誠治(日本テレビ放送網株式会社 編成局映画センター長)
今回の自分の役割は、その押井監督に、より広い世代にアピールするエンターテインメント作品を作ってもらうこと。そして、それを興行的にも大成功に繋げることの二つだと思っています。
2008年、世界中に大旋風を巻き起こすように、そして押井監督を「男」にするために全力を尽くします。
石川 光久(株式会社プロダクションI.G 代表取締役社長)
押井監督とプロダクションI.Gが、アニメーション作品を作り続けてきて、今年で20年目になります。
私たちは今、21年目の作品にあたる「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」を、新生I.G元年の作品と位置付け、最高のスタッフと環境で制作しています。テーマはひとつ。本作に関わって下さる全ての方々、そして来年、劇場に足を運んで下さる観客の皆さん一人ひとりがみんな、ハッピーになること。日本のアニメーションの歴史に、必ずその名を残すだろう作品が今、現場で生まれようとしています。ご期待ください。
ウィリアム・アイアトン(ワーナーエンターテイメントジャパン株式会社 代表取締役社長)
Mamoru Oshiiが、プロダクションI.Gで制作するアニメーションを日本のワーナーが配給する≠ニいう出来事は、米国バーバンク本社でも大変な驚きと喜びで受け止められています。日本が世界に誇るクリエーターの最新作を配給できることは、我々に与えられたとても名誉ある使命であり、その期待に答えられるよう全力でこの「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」に取り組んで行きたいと思っております。
(映画「スカイ・クロラ」公式サイトより一部抜粋。全文はhttp://sky.crawlers.jp/)
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帰郷
曙光の誓い後日譚
花田一三六
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)便《びん》せん
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)乳茶|粥《がゆ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あの[#「あの」に傍点]草原
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みなさん、お元気ですか。
明日、やっと皇国への引き揚げ船に乗ることができます。今晩は港の船着き場で野宿ですが、とにかく落ち着いたので、手紙を書くことにしました。下手な漢話ですが許してください。
馬賊のみんなが、この手紙を届けてくれるそうです。そのときに、これまでのいきさつを説明してくれるとは思うのですが、きっとランパのことだから、大ボラが沢山まじっていることでしょう。ここに、本当のことを書いておきます。便《びん》せんが足りるといいけれど。
ゲルを発ってから、みんなで帝国にある僕の叔父の家へ行きました。ところが、すでに引きはらわれた後で、家具も一切合切がありません。帝国人のお手伝いさんも、僕に漢話を教えてくれた近所の華人の友達もいなくなっていました。町中では旧帝国軍の兵隊さんたちを、あっちこっちに見かけました。終戦直前に北方の国が攻めてきて、南からは華国軍がのぼってきて、ガカイした帝国の軍人さんたちはその両方から身を守るために必死なのです。僕たちも銃を突きつけられたりしたけれど、そのたびに副頭目の張《チャン》さんや年長の蕭《シャオ》さんが話をつけて、なんとか助かりました。ただ、「大陸にいるかぎり一切皇語を使うな」とランパには強く命令されました。漢話のみです。どうやら戦争に負けてしまった皇国人は、あちこちで襲われたり持ち物を奪われたりしているのです。逃げようとする皇国人の家の前で、出て行くのを待っている華国の人々の姿も見ました。立ち去った後で、それぞれ欲しい物を運び出すのです。叔父の家の家具とかも、きっと同じようにだれかに持ち去られたのでしょう。持って帰国できるとは思えませんから。そこで僕は、口のきけない華国人のフリをすることになりました。服も、ツェベルチさんに作ってもらったデールは脱いで、華人服に着替えました。でも、デールは今でもちゃんと保管してありますよ。これは僕の大切な思い出です。それに寒くなったときに着ると暖かいですからね。旧帝国には他に親類も知り合いもいないので、町を出て南に行くことにしました。ずうっと行くと大きな港があるのです。皇国と帝国を結ぶ定期船が入る港でした。いまでは帝国や華国にいた皇国人が帰るための港になっているのです。僕はランパたちと別れて、一人で汽車に乗って向かうつもりだったのですが、ランパも行くと言い張りました。港までは汽車で十日もかかる距離だし、帝国に住んでいた皇国人がみんな帰ろうとしているので、屋根もない汽車はいつも満員で、とても馬賊のみんなと乗れるとは思えません。僕一人のほうが体が小さいから楽だと思ったけれど、僕を皇国へ送り返すとバートルさんに大見得を切ったので、「ここで放り出すわけにはいかねえ」とランパは言いました。それに、いま生まれ育った村へ帰っても、やることがないそうです。あの[#「あの」に傍点]草原の果てへ旅したときも話していたけれど、保衛団はなくなっているし、「かせぎにならない仕事はしたくない」そうです。でも、僕を港へ送る事だってもうかりません。ランパらしいなと思います。ランパが僕と南へ行くと言ったので、当然他のみんなも行くことになりました。ランパは「劉《リォウ》一家は、ここで店じまいだ」と宣言したのですが、言うことを聞くはずがありませんよね。でも大勢で、それも馬での移動はかえって目立つので、ランパの知り合いの旧帝国軍人さんに譲りました。将校用の馬が必要だったそうで、大変よろこんで代わりに小さなトラックを一台もらいました。トラックというのは、荷物を運ぶための台のついた自動車のことです。運転手以外は荷台に乗って行くのです。途中で、僕と同じような引き揚げの人たちや、北へ攻め上る華国軍の人たちに会いました。ある町ではトラックを徴発《ちょうはつ》されそうになったので、ランパが怒って軍人さんをなぐってしまい、捕まって牢屋で寝起きしました。助かったのは五日目の夜中です。牢番が突然、「小便の時間だ」と僕たちを表に出しました。そんな気はなかったのだけど、みんなが一列に縄でつながれているので、どうしようもありません。先頭のランパが立って歩き出したら、みんな歩かないといけないのです。真っ暗な野原に連れ出されて、僕はてっきり用を足すのは口実で、銃殺されるのだと思いました。恐ろしさと緊張で声も出せません。ところが牢からもずいぶん離れたところで、「ここで小便しろ」と言って牢番は帰ってしまったのです。僕が驚いていると茂みの中から陳《チェン》さんぐらいの若い人たちが数人出てきて、縄を切って、町中にある大きな家へ案内してくれました。家の主《あるじ》は仙人みたいなお年寄りで、その町の実力者だそうです。長老と呼ばれていました。僕たちを連れ出した牢番は、その人の子分なのです。僕たちは、とても歓迎されました。長老はランパのことを知っていたそうです。馬賊というのは大陸中につながりを持っていて、特に劉《リォウ》ランパは広く名が知られていると教えてくれました。びっくりですね。僕はつい、「とてもそう見えない」と言ってしまってランパのゲンコツをもらいました。他のランパたちは保衛団がなくなったときに、軍属になったりしたのですが、劉《リォウ》ランパはそれをしなかったので今のような流れ者になったのだそうです。最初は周りの人たちも「馬鹿な道を選んだものだ」とウワサしていたそうですが、今となってみれば、軍属になった馬賊頭目たちはほとんどが処刑されたり、戦場で死んでしまったり、逆に落ちぶれて行方知れずになってしまったりしてしまいました。「生き残った劉《リォウ》ランパが、もっとも賢明な道を選んだのだ」と長老は言いましたが、僕も本当にそう思います。さすが福子《フーズ》です。それから、そのおやしきに二泊して、また港へ向かって出発しました。ランパの名前とさっきの長老の紹介状で次の町へ行き、そこでまた紹介状をもらい、次の町へ行き、それをくり返して港までたどりつきました。ここのフンイキは暗くて沈んでいます。他の引き揚げの人たちは途中で襲われて怪我をしたり、連れ去られたり、亡くなったりしています。食べるものも満足にありません。どこかの皇国開拓団では、南北からやってきた別々の軍にはさまれて行き場をなくし、村の全員が自決したと聞きました。今、僕の周りには大きな荷物を持った皇国人が沢山うずくまっています。さっきまで赤ちゃんの泣き声もしました。みんな汚れて疲れ切っています。具合の悪そうな人もいます。でも、だれも助けません。助けてあげるゆとりはないのです。だけど僕は、だいたい安全で、ほとんど食事に困ることもなく、ここまで来ることができました。引き揚げ船が着くのは皇国の西のほうなので、そこから汽車に乗って帰ることになるのですが、その乗車賃や途中の食費もランパたちは工面してくれました。センベツだそうです。僕は、本当に幸運です。そして、その幸運をくれたのはランパたちと、みなさんです。ありがとう。また、会える日が来ることを信じています。お元気でいてください。
[#地付き]根岸勝太郎《ねぎししょうたろう》
まさか返事がもらえるなんて思ってもみなかったので、とても驚きました。でも、うれしかったです。みなさん元気そうで安心しました。それにランパは、やっぱり大ボラをふいたようですね。百人も軍人さんをなぐっていません。行く先々で歓迎はされたけれど、大宴会もしていません。そんなことしていたら、僕はまだ、港に着いてもいないでしょう。困ったものですね。ちゃんと本当のことを手紙に書いておいてよかった。
皇国は、いま真冬です。空はくもって雪が降りそうです。冷たい風が家の木戸をゆすっています。この手紙がみなさんのところへ届くのは春でしょうか。お祭りのある夏でしょうか。そうそう、もう皇国ではないのです。新しい国になろうとしています。
僕の住んでいた東都は、引き揚げ船が着く港から汽車で何日もかかります。途中で線路が壊れているところもあって、そこは歩いて行かなければなりませんでした。せっかく草原では馬にも乗れるようになったけれど、この国では乗るより畑仕事に使うので馬の数は少ないのです。歩くしかありません。汽車と徒歩で二十日ほどかけて、やっと帰り着いてみると、東都は焼け野原になっていました。連合軍が空から沢山の爆弾を落としたのだそうです。あの[#「あの」に傍点]怪物がやって来たのかと思ったほど、それはそれはひどい有様でした。幸いにも僕の家は町の外れにあったので、残っていましたが。けれど僕より先に引き揚げたはずの叔父さん一家は、まだ帰国していません。心配です。母方の親せきも空襲で亡くなったか、行方知れずか、疎開《そかい》先なので、家では僕と祖母の二人きりで生活しています。(祖母には父が死んだことしか話していません。草原の果ての、その向こうであったことなど、信じられないでしょうからね。)二人で小さな畑を守ってなんとか生活しています。衣食住のすべてが足りません。僕だけじゃなく、国じゅうが貧乏なのです。でも、みんなといっしょにいた日のことを思い出して、がんばっています。きっと以前の僕なら、すぐに音《ね》を上げていたでしょう。最果ての国での、あの[#「あの」に傍点]冒険は、いつの間にか僕をきたえてくれていたようです。それに、ちょっと楽観的になったかもしれません。なかなか学校にも行けない毎日ですが、それもいいか、と思ったりしているので。
ああ。もう便箋《びんせん》がありません。それに、そちらの手紙を配達してくれた人を、もうだいぶ待たせています。サラン。覚えていますか。なんと配達人は、あの[#「あの」に傍点]兵藤《ひょうどう》に雇われていた大陸浪人の一人なのです。僕の返信も引き揚げ船の船長に渡すよう、ランパにたのまれたと言ってました。船長は華国へ運び、そこでランパに届くよう手配されているのだそうです。すごいですね。
みなさんどうかお元気で。
[#地付き]根岸勝太郎
おかわりありませんか。
また返事がもらえて、とてもうれしかったです。
サラン。子供競馬優勝おめでとう。
手紙を読んで、まるで自分が優勝したかのように喜びました。それから読み書きの勉強も始めたんだね。いつか、サランが自分で書いた手紙が読めるといいなと思います。
こちらは、町も人もどんどん変わっていきます。占領している連合国の軍が色々と新しいことを命じて、戦争前の仕組みをこわしているのだと、学校の先生が言ってました。僕には良くわかりませんが、なんとなく明るくなった気がします。
みなさん、どうかお元気で。
(なかなか便箋も手に入らないので、家に余っていた絵はがきを使ってみました。裏の写真は戦争で焼ける前の東都です)
[#地付き]根岸勝太郎
お元気ですか。
僕は元気です。このあいだツェベルチさんに作ってもらったデールを着てみたら、丈が少しだけ短く感じました。ちょっとだけ背が伸びたみたいです。父も背が高いほうだったから、きっと血筋ですね。最近は、家の畑仕事の他に近所で牛や鶏《にわとり》を飼っている人の手伝いもしています。牛は畑仕事用だけど、練習して乳しぼりもできるようになりました。もっと色々と教えてもらって、いつかそちらへ行くことができたら、今度は少しだけどお手伝いできるようになりたいと思っています。
サランへ。
サランのテガミ、ちゃんとヨめました。ジもキレイでオドロきました。きっと、イッパイレンシュウしたのですね。ヒツジのセワとかでタイヘンだろうけどガンバってね。ボクも、サランにマけないぐらいガンバります。
みなさんどうかお元気で。
[#地付き]根岸勝太郎
お元気ですか。
こっちでは今、裏の彩色写真のように桜という木の花が咲いています。この前の絵はがきの黒い動物は、猫です。考えてみれば、そちらで犬は見たけど、猫は見ませんでしたね。こちらには沢山いて、野良だったり、昔から人に飼われていたりします。山猫のように大きくはありません。
サランへ。
前より、うんと文が長くなっていて、その上達ぶりにびっくりしました。もう僕の漢話も、ほとんど読めるのでしょうね。僕もうかうかしていられません。家にある父さんの本で勉強をやり直そうと思います。けれど、あの[#「あの」に傍点]ハックツゲンバの日の事件以来、メガネが壊れたままなので、すぐ目がつかれてしまって大変です。草原にいたときは、メガネがなくても苦労しなかったのに。フシギですね。
みなさんどうかお元気で。
[#地付き]根岸勝太郎
お元気ですか。
外は雪です。昨日から降っていて、田んぼも畑も真っ白になってしまいました。そちらの冬はきびしいと、以前、本で読んだことがあります。さすがにランパたちも届けられないでしょうから、このハガキが届くのは初夏ぐらいでしょうか。
サランへ。
また、びっくりしました。今度は皇語の勉強も始めたんだね。がんばり屋のサランのことだから、きっと、これを読むころには、ずいぶん読み書きもできるようになっている気がします。せっかくなので、このハガキといっしょに絵本も一冊、持っていってもらうようお願いしました。こちらの昔話です。最近は華国内も色々と大変らしいので、手紙より大きい物は、ちゃんと届くかどうか心配ですが。ランパたちを信じたいと思います。
みなさんどうかお元気で。
[#地付き]根岸勝太郎
お元気ですか。
僕は、毎日元気に過ごしています。今まで手紙を配達してくれていた人が、お役人になるので、前よりやりとりが楽になるそうです。でも一体、どうやって仕事に就《つ》いたのでしょうね。何度聞いても教えてくれませんでした。
サランへ。
ちゃんと本が届いて安心しました。喜んでもらえたので、また送ります。大昔から伝わる話で、頭が八つもある蛇のお話です。ひょっとするとこの国にあの[#「あの」に傍点]話を伝えた人が、ランパみたいな人で、大ボラを吹いたのかもしれませんね。この前送ったハガキの写真は、湖ではなくて海岸です。並んでいるのは松の木で、こちらでは美しい景色とされています。その先は一面の海です。草原より青くて、陽が当たるとキラキラかがやいて、いつも波が打ち寄せます。その海の遠く向こうにある国が、いま僕らの国に軍を進駐《しんちゅう》させているのです。いつか、いっしょに海が見られるといいですね。
みなさんどうかお元気で。
[#地付き]根岸勝太郎
お元気ですか。
返事が早くて驚きました。華国は内戦で大変だと聞いていますが、ランパたちは相変わらずのようですね。無茶しないで、とバートルさんからも注意して下さい。お願いします。
サランへ
本のことなら大丈夫です。まだ沢山あるので、ちっとも気にすることはありません。遊牧民は日頃から物が少ないので、余計な荷物を増やしてやしないかと、逆に僕のほうが心配です。荷物になるようだったら、余裕のある友達にでもあげてください。このハガキが届くころにはお祭りも終わっているでしょうか。競馬の結果が気になります。今年も一位になれるといいですね。夏が近づいてくると、みんなでいた日を、昨日のことのように思い出します。そういえば、このあいだ乳茶|粥《がゆ》が食べたくなって、手伝いをしている農家の牛の乳を分けてもらって、番茶と米を混ぜて、こっそり作ってみました。結果は大失敗。ツェベルチさんの作ってくれた味が懐かしいです。
みなさんどうかお元気で。
[#地付き]根岸勝太郎
お元気ですか。
僕は元気です。そして、こうして便りをやりとりできるのも、たしかにランパたちが元気な証拠ですが。無茶は困ります。
サランへ。
もう子供競馬じゃないんだね。今年は残念だったけれど、子供競馬の倍の距離を、大人と互角に競走できるだけでもすごいことだと僕は思います。それに、いきなり優勝しちゃったら、今後の楽しみがなくなってしまうよ。まだ何回でも挑戦できるのだから、あせらないでね。乳茶粥は、もう作っていません。やっぱり材料がちがうと難しいようです。こちらで食べる物は、お米と野菜。それから、近くの海で捕れる魚がほとんどです。たくましい遊牧民の人たちには、ちょっと物足りない食事かもしれませんね。羊の肉も食べません。僕は夏の祭りの日に、はじめて食べたのです。だから僕にとって羊の肉の味は、草原の味といえるでしょう。もう一度、みんなと食べられる日が来るといいですね。
みなさんどうかお元気で。
[#地付き]根岸勝太郎
お元気ですか。
僕は元気です。驚いたことに、帰国して、まだ一度もカゼをひいていません。
サランへ。
こちらの料理が食べてみたいということは、僕の手料理ということになりますね。ちょっと自信ないので、会えるときまでに練習しておきます。でも、そっちに材料はあるかなあ。祖母と二人ぐらしなので、少しは作れるのですが、あまり料理の手伝いをさせてくれません。こちらでは家で料理をするのは女の人の役目なのです。でも、お店ではたいてい男が作るのですよ。ヘンですね。それと、祖母は家や畑の手伝いをするよりも、勉強をしなさいと言います。戦争で、勉強したくてもできなかった人たちのためにも、これからの人は勉強をしなさいと何度も言います。昔のことを忘れようとしているみたいで、なんだか少し可哀相です。
今年は何度もやりとりできて、みんなが近所に住んでいるような気がしました。来年も、こうだと良いですね。
みなさんどうか、よいお年を。
[#地付き]根岸勝太郎
サランへ
祖母にまでお手紙をありがとう。とくに今年の狼狩りの話は、まるで物語を読んでいるようで、とても喜んでいました。二頭も捕まえたサランの勇姿、目に浮かぶようだったよ。それに、これがきっかけで、サランや、その他のみんなのことも初めてくわしく祖母に話すことができました。いっしょにいたのは半月にも満たない間なのに、いつまでも話が尽きません。そのせいでしょうか。ひとつだけ失敗したなと思いました。話しているうちに、僕自身が、無性にみんなに会いたくなってしまったのです。いまだにハガキを届けてくれる、元大陸浪人さんのように、お役人になれれば一番良いのですが。いまのこの国では、外国へ行けるようになるには、もっと勉強しなければいけません。前途は厳しいですが、父との約束通り、諦《あきら》めずにがんばります。
もう余白がなくなりました。毎度のことながら、ハガキは書く場所が少なくていけませんね。どうかお元気で。みなさんにも宜《よろ》しくお伝えください。
[#地付き]根岸勝太郎
サランへ。
お元気ですか。安物ですが便箋が手に入ったので、今回は長く書けそうです。ところで前のハガキの写真は東都の芸者《ゲイシャ》さんです。宴会のときにシャミセンという楽器を弾いたり、歌や踊りを見せる人です。正装した母じゃありませんよ。ましてや僕のお嫁さんでもありません。こちらでは、もう少し大人にならないと結婚できないのです。それと、女の人のだれもが、あんなお化粧《けしょう》をしているわけでもありません。芸者さんだから、たっぷりお化粧をしているのです。もっと早く便箋が手に入れば、あんなお土産用の絵ハガキを使うことはなかったのですが。何しろ、物不足で他にありませんでした。変な誤解をさせてごめんなさい。それから、もうひとつ謝っておきます。お尋ねの叔父一家のことです。実は、まだ帰国していません。サランやみんなには直接関係ないことだし、余計な心配もさせたくなかったので黙っていました。ごめんなさい。ただ、いままで僕たちが何もしてこなかったわけではありません。僕が家に帰り着いてから、そちらの最初の手紙が届いたときがありましたね。そのとき返信と一緒にランパへ、叔父さんたちを探して欲しいと頼んだのです。けれども、ランパからの返事は良いものではありませんでした。住んでいた家を出て、汽車に乗ったところまでは分かっているのですが、途中からふっつりと行方が知れなくなっているそうです。もう少し調べてみるという手紙をもらいましたが、ランパたちにも自分の生活があるので、人捜しばかりできないでしょう。いまだに華国からの引き揚げは続いているのだから、地道に気長に待つしかないようです。今後は何か分かったことがあったら隠さずお伝えします。なんだか謝ってばかりの手紙になってしまいました。サランと二人で、ゲルを出たあとのことを思い出します。あんまり「ごめん」を言っていると、また怒られそうですね。便箋もちょうどきりが良いので、今回はここまでにしておきます。
どうかお元気で。みなさんにも宜しく。
[#地付き]根岸勝太郎
追伸
そういえば、またお祭りの季節ですね。競馬で優勝できるように祈ってます。
サランへ。
お元気ですか。僕は元気です。競馬は惜しかったね。でも、去年よりもずっと順位があがったのだから、来年はもっと上位に入れるかもしれません。気を落とさないでね。このあいだの絵ハガキの勘違いは、陸《ルウ》さんのせいだったとのこと。お調子者だからなあ、と大いに納得しました。何度も書きますが、こちらでは十五歳ぐらいだと、まだ子供扱いです。ごく稀《まれ》に結婚する女の子もいるけれど。男女とも、早くても、もう一、二年は後です。僕みたいに上級の学校へ行こうとしている人になると、もっと遅くなるでしょう。そもそも、相手のいない人には無縁の話ですね。そういえば、遊牧民の結婚は早いと「世界少年」か何かで読んだ気がします。サランは[#「サランは」に取消線]ランパたちはどうなのでしょうね。奥さんがいても不思議ではない歳だと思いますが、あの[#「あの」に傍点]旅のときも、引き揚げ船の港へ行くまでも、そういった話は一度も出ませんでした。色々と危険なので、結婚しないようにしているのかもしれませんね。
なんだか妙な文になってしまいました。別の話題にします。叔父のことですが、まだ帰国していません。ランパからの連絡もありません。華国はとても広いですし、半島を含むいまの状況では、色々と調べるのも大変らしいのです。たしか引き揚げ船に乗る直前の港で、最初にサランたちへ手紙を書いたとき、僕は幸運だと思いました。それはいまでも変わりません。もっと強く思うようになったぐらいです。ランパのような、元々名の通った馬賊でなかったら、行方不明の叔父の消息など、調べることさえできなかったはずですから。だから、あんまりランパたちを責めたりしないでくださいね。僕の幸運とランパの福運が叔父さん一家にも届くように祈ってください。お願いします。
今度は、しんみりした文になってしまいました。明るい話もあるんですよ。このあいだ、学校に馬が来たのです。進駐軍の将校さんが乗馬遊びをするそうで、馬を運んで、いっとき学校の校庭(勉強をする建物と、地ならしをした大きな何もない敷地で学校はできていて、校庭というのは何もない敷地のほうです。)に繋《つな》いでいました。ところが、そのうちの一頭が機嫌が悪かったのか、逃げ出してしまったのです。校庭をあちこち走り回って、悲鳴をあげる女の子たちを追いかけ回し、好き放題でした。しばらくして隅のほうで足が遅くなったので、僕が背に飛び乗って元の場所へ返したのです。進駐軍の馬は草原の馬とちがって脚が細く、背も高かったのですが、なんとか言うことを聞いてくれました。進駐軍の将校さんは喜んで、チョコレートという、とても甘いお菓子をくれたし、あまり運動が得意ではない僕が馬を乗りこなした姿に、同級生はみんなびっくりしていましたよ。そして何より、自分はまだ馬の乗り方を忘れてなかったと分かったのです。こんなうれしいことはありません。またいつか、サランのいる見渡すかぎりの草の原で、思い切り、馬を走らせたいです。夢やあやふやな希望でなく、本当にそう強く願います。
では、どうか、お元気で。みなさんにも宜しく。
[#地付き]根岸勝太郎
サランへ
お元気ですか。返事が遅くなってごめんね。実は、悲しく残念なことを書かなければなりません。叔父さん一家のことです。サランからの返信と一緒に包みも届きました。中には男物の上着と札入れ、女物の帯と櫛《くし》、鏡、それから硯箱《すずりばこ》が届きました。ランパの知り合いの古道具屋へ華人が売りに来たそうです。その売りに来た人を問いつめたところ、捕りょ収容所のゴミ捨て場から、こっそり持ってきたものだということでした。上着の内側に「根岸」という刺しゅうがあったのと、硯箱の横にあらかじめ教えておいた叔父さんの子供(つまり僕から見たら従兄《いとこ》ですね)の名前があったので、それらをまとめて引き取って、叔父さんの持ち物かどうか確かめて欲しいと送ってきたのです。硯箱は、従兄のものでした。間違いありません。大事にしていた様子を僕は見ています。上着も、おそらく叔父さんの物だと祖母が言いました。帯や櫛、鏡はよくわかりません。でも、まとめて捨ててあったのなら、叔母さんの物である可能性が高いでしょう。もちろんランパたちは、そこの収容者を調べてくれました。収容されていれば叔父さんたちを出すつもりでしたが、残念ながら該当する人は見つけられなかったそうです。よそに移送されたかもしれないし、処刑されたり病気で死んでしまったりする場合もあるとのことでした。よって表面上は生死不明なのですが、持ち物が捨てられていたということは、亡くなっている可能性のほうが高いそうです。というのも、普通、収容所へ入るときには、すべての持ち物を所員に取り上げられてしまうのです。取り上げた物は、たいてい幹部たちが私物化してしまうのですが、叔父一家の物は捨てられていたということですから、つまり私物にならなかったという意味になります。なぜか。叔父たちが、物を奪われる前に亡くなっていたからでしょう。死者の物を奪うのは、どこの国の人も忌み嫌いますからね。収容者に名前がないのも、それで説明できるそうです。正式に収容される前に亡くなってしまったのだ、と。それでも、完全に望みがなくなったわけではありません。辛抱強く待ち続けたいと思います。華国はいよいよ内戦が激しく、大変な時期にあると聞きました。バートルさんは、まだ国境を越えて羊毛を売りにいったりしているのでしょうか。危険ですので、くれぐれも気を付けてくださいとお伝えください。
もしかすると、しばらく手紙を書かないかもしれません。ランパたちが、命がけで手紙を届けることを楽しんでしまうかもしれないから。それでケガや、もっと非道《ひど》い目にあったりしたら、僕は耐えられません。
サラン。どうか、どうかお元気で。君に会える日が来ることを僕は信じています。みなさんの健康をお祈りしています。
[#地付き]根岸勝太郎
サランへ
一通だけ返信しろと、ランパからの手紙をもらいました。先月、祖母が亡くなりました。父と叔父の息子二人を失って、急にがっくり来てしまったようです。家財道具や父の本などを売り払いました。でも、父との約束は、まだ生きています。だから大丈夫。心配しないで。君との、あの[#「あの」に傍点]約束だって守ります。どうかみなさんお元気で。
[#地付き]根岸勝太郎
これを最後に、手紙は届いていない。
サランは、もう幾度となく読み返した鉛筆書きの手跡を指でなぞった。読み書きに不慣れな自分を気遣っての、易《やさ》しい言い回しは、そのまま書き手の優しさを物語っている。そっと折り畳んだ。胸元へ納める。肌身離さずいることで、護《まも》れるのではないか。気休めとわかっていても、毎朝、これだけは止めることができない。
ゲルを出ると、暁暗《ぎょうあん》の涼気がサランの丸い頬《ほお》を撫でていった。背中まで届く三つ編みが、ふわふわと揺れる。いい風だ。
初めて出会った朝も、こんな風が吹いていたな、と思う。あのときは|夏の祭典《ナイル》の前だったが。今年は、すでに終わっている。周囲の国々の騒ぎは、草原の国にも少なからず影響を及ぼしていたが、頑固に祭典だけは行った。誇りある遊牧民の意地だ。
もっとも、サランは競馬に出場していない。
出られなかった。彼女の髪は、もう左右に分けた三つ編みではない。母親と同じく、後ろへ一纏《ひとまと》めにした三つ編みだ。
「よって馬に乗ってはならぬ」
という法はないのだが、間の悪いことに競馬の日とめぐり[#「めぐり」に傍点]が重なった。棄権《きけん》するしかない。それに最近では、同年の男の子との体力の差が目に見えて広がっていた。今後、何年挑戦を続けても、優勝の見込みはないだろう。諦めというよりは、遊牧民だけが悟ることの可能な厳然たる事実だった。それを自覚するたび、新しい三つ編みを撫でたものだ。悔しさと誇らしさが複雑に入り交じった息とともに。
サランは気を取り直すように、ゲルの脇へ置いてある木桶《きおけ》を両手に提《さ》げた。今年の水場は近い。歩いて行く。愛馬も心得ているので、特に催促《さいそく》することもなく草を食《は》んで待っていた。
いつもなら、だ。
今朝は、前脚で地面を掻いている。首を小さく左右に動かし、この忌々《いまいま》しい綱を解いてくれと言わんばかりだった。
「どうした? なにが――」
なだめようと首筋へ手を伸ばしかけたところで、愛馬が横についた眼でもって、前方を確認していることに気づく。視線を追った。南へ。茫漠《ぼうばく》とした地平は曙光《しょこう》に浸り、はるか彼方の緑までも、天空へと続くかのごとく立ち上がっている。
その中で、騎影が揺れていた。東からの陽を受けながら、淡々と進んでくる。
木桶が、サランの手から落ちた。転がる派手な響きを振り払うことさえもどかしげに、走り出す。草原の民だ。彼方の鞍上《あんじょう》が誰であるか、すでに見極めている。
たしかに、最後の手紙を受け取ったとき、父のバートルは馬賊の劉《リォウ》に頼んでいた。こっちへ連れて来い、と。手紙を取り次いでいる大陸浪人は役人になったと語っているが、実際は政治的な集団の一員らしい。華国で優勢な勢力とも繋がりがある。だからこそ、手紙や本までも送ることができたのだ。連れてくることもできるだろう。母のツェベルチも、夫の提案に異論はない様子だった。新しい牧民服《デール》を縫《ぬ》おうとして、気が早すぎると笑われたほどだ。
――でも。本当に。
サランは、にわかに我が目を信じることができない。言葉もなく夢中で草を蹴る。むこうも気づいたようだ。降り立ち、悠長に手を振っている。その姿を見つめているうち、なんだか腹も立ってきた。来るなら来ると手紙のひとつでも寄越せばいいのに。前と同じく、いきなり現れることはないだろう。こっちだって心の準備もあるんだ。話すことが一杯ありすぎるから。それなのに。それなのに。
「馬鹿っ」
目の前にたどり着くなり、見上げて口走ってしまつ。
見上げて?
やっと、驚いた。以前は、ほとんど変わらぬ背丈だったのに。なにが、「ちょっとだけ背が伸びたみたいです」だ。頭ひとつ分も高い。照れたような懐かしむような眼差しを、上から注《そそ》いでいる。
「う……」
サランは思わず目を伏せ、口ごもった。
――なにやってるんだ。
違うだろう。いまだ読み書きはろくにできない皇語だけど、これだけはどうしても覚えておきたいから。わざわざ、馬賊の張《チャン》に正確な発音を調べてもらった言葉があるんだ。言わなきゃ。
息をついた。顎《あご》をあげる。
「おかえり」
ゆっくりと、練習どおり。
返ってきたのは、きょとん、とした表情だった。間違っていたのだろうか。言い直すべきか。不安にかられた次の瞬間、目の前の少年が破顔する。
もう、言葉はいらなかった。
サランが無言で飛びつく。頬を寄せる。足が浮いた。小さな躰を、背中に回った腕がしっかりと支えている。
南からの緑風が、陽気で、半ば囃《はや》し立てるような男たちの声を運んできた。ゲルからの声もする。
そして、サランの記憶とはずいぶん変わってしまった声があった。掠《かす》れ気味で、低い。
しかし、優しい響きはまぎれもない。
あのひと夏を一緒にすごした、少年のものだった。
「ただいま」
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花田一三六
はなだいさむ
「黎明の双星」「創世の契約」シリーズ、『曙光の誓い』
25周年おめでとうございます。記念の本に短篇を書かせていただき光栄です。「書き逃げ御免の本です」と担当Nさんに言われたので『曙光の誓い』のその後を書いてみました。楽しんでいただければ。30周年にも何か書けるといいなあ。
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我等が猫たちの最良の年
三木原慧一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)洒落《しゃれ》た
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)東京都|武蔵境《むさしさかい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)景気[#「景気」に傍点]がよく
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平穏な日々を
おくっていた猫たち
その前に現れたのは……。
わたしの名はマーブル。メス猫だ。
なぜ『マーブル』かって?
以前わたしに関った人間の子供たちが『マーブルチョコレートみたいだ』と言った事から来ている。本当はもっと洒落《しゃれ》た名前がいいが面倒だからこれにした。我が輩≠ニ名乗るだけで名無しのごんべ猫と比べれば名があるだけマシだろう。ちなみにネットで調べるとこのチョコレートは一九六一年に明治製菓が発売した老舗《しにせ》チョコらしい。ただ、疑問なのは色が七つあること。
わたしの色は白と黒。いわゆるパンダ猫なのにどうして『マーブル』なのだ? まったく人間の考えることはよく判らない。
判らないといえば、現在の自称飼い主――三木原《みきはら》という男と出会ったのも不思議だ。
当時わたしが住んでいたのは東京都|武蔵境《むさしさかい》、駅から七分の所にある古びたアパートだった。その一階を住み家としていたら三木原がアパート二階の新住人として現れたのだが……とにかく妙な男だった。自転車で本の山を運び――元住居が近所で、引っ越し代を浮かすため本だけせっせと運んでいたらしい――夕方まで続いたところで私がするりと三木原の部屋に入ったのだ。
なぜ? 軽い好奇心からよ。
誤算だったのは中に当人がいた事。てっきり自転車で元のアパートに戻っているかと思ったら、三木原は清涼飲料水の缶を手に窓辺に立ってぼ〜っとしていた。そこへ私が現れた瞬間の顔つきと来たら『鳩が豆鉄砲を食ったような』という言い回しがぴったりだった。
だが、もっと驚いたのは「にゃあ」と三木原が猫の声色《こわいろ》で挨拶《あいさつ》したことだ。
思わずこっちも「にゃあ」と鳴き返してしまい……今考えるとこれが腐れ縁の始まり。声色なんて無視して最近|流行《はや》りのツンデレな態度に終始すればそれっきりだったのに……思わず返事してしまった。
「あ、鳴いた、鳴いた」
三木原は呑気《のんき》なことを口ずさむやこっちに近づこうとした。
馴れ馴れしいわよ、この馬鹿。
素早くその場を後にした。時は一九九六年二月。まだ寒い冬の日の事だ。
ともあれこれで向こうに顔を覚えられてしまった。以後、外で出会う度に三木原はこっちを見るようになった。さながら鬱陶《うっとう》しいストーカーである。
三木原がアパート周辺に猫が多いと気付いたのはその前後だ。後で本人がぶつぶつ呟《つぶや》くのを聞かされたが確かに多かった。
当時、わたしは一階の母子家庭で飼われていた。そこはわたしを入れて五匹、他に野良猫たちが多数周囲を巡回し、町内における猫横町を形成していた。
が――この時期の三木原と猫たちの接触度はごく低いものだった。本格接触は春以後である。戦記物を書くくせに防犯意識に乏しいこの粗忽者《そこつもの》は、流れる風が心地良いからと扉を開けっ放しにしていた。
そうなると忍び込むのが猫の習性だ。
わたしを始め、同居猫のチビ、ブチ、地域猫のシロが三木原部屋を訪れるようになった。となるとエサなどほいほい出すのが人間の馬鹿なところ。三木原も例外ではなく、ほどなくネコ缶とカツオブシが常備されるようになった。
で、わたしが母子家庭から引き取られた……と思った者は考えが甘い。
三木原が引き取ったのはよりによってチビだった。
チビは先輩猫だ。当時の実年齢が三歳。人間換算で二八歳。ちなみにわたしは一年半だから二〇歳。バリバリの若い娘をさしおいて三十路《みそじ》が近い雉《きじ》シロ混合メス猫を選ぶとはどういう料簡《りょうけん》か? これは嫉妬《しっと》ではない。断じて嫉妬ではない。理不尽《りふじん》な選択に対する疑念と当惑である。まあいい。話を元に戻せば、チビは三木原の元にもらわれ、この人間は当人いわく『猫ユーザーになった』のだった。それにしてもユーザーとは猫をモノ扱いした傲慢《ごうまん》な言い方ではないか。生き物を飼う事に不慣れなのが伝わってくる言い回しだが……三木原の安直さはとどまる事を知らなかった。
なんと二週間と経たず、今度はわたしも引き取りたいと母子家庭に申し出たのだ。理由は、
『チビが一匹で寂しそうだから』
開いた口がふさがらないとはこのことだ。
おまえに猫語が判るというのか、勝手に猫の感情を想像するなとわたしは母子家庭のムッター、独逸《ドイツ》語で言うお母さんに抗議したが、彼女はわたしを三木原に差し出し、『かわいがってもらうのよ』と告げるやさっさと部屋に戻っていった。まさに人情紙風船である。
こうして粗忽者との同居生活が始まった。
猫を飼う――この言い方は心底嫌いだがやむなく妥協してあげる――のが初めての三木原は、ネコ缶の適正量から飲み水その他、あらゆる点において至らず、わたしは何度かブチキレた。三木原いわく『最初のうちはかなり暴れた』のは当たり前だ。猫飼い歴十年以上のベテラン女史から素人の部屋に強制移住させられたらストレスもたまる。ささくれた気持ちを溜め込むのはよくない。発散には壁を引っ掻くに限ると素早く悟った。母子家庭では基本だった外出自由から一転、室内飼いで行くと決めたらしい馬鹿人間への抗議をこめて壁をガリガリ削ってやった。そうして壁を引っ掻くうちに世間は梅雨《つゆ》に入り、ある夜、波乱が起きた。
雨の酷《ひど》い夜、同僚ベテラン猫のシロが子供を産んだのだ。
そこまではいい。お産に関してはチビもわたしも経験者だ。が、よりによって彼女は、産まれた子を三木原の部屋に運んで来たのだ。それも五匹も! 口に咥《くわ》えては運びの反復で実に見事な搬送を前に三木原がぶっ魂消《たまげ》たのは記すまでもない。各所に電話をかけまくり動物病院の院長から情報を貰い、小さな箱にタオルその他を詰め込んだ保育箱を造り、と……滑稽《こっけい》なほどの慌てぶりだった。
問題はその後である。
産まれた子猫五匹のうち三匹を三木原は勝手に動物病院に差し出し、里親を決めたのだ。
なんたる暴挙とムッとするわたしを余所《よそ》にシロは――動物病院|拉致《らち》初日は寂しさからにゃあにゃあ鳴いたが――里親の件をあっさり受け入れた。
この時わたしは『なんて根性のない猫だろう』とシロを蔑《さげす》んだのだが……彼女には計画があった。当年とって一〇歳の知恵は伊達《だて》ではないとわたしですら驚く展開が待ち受けていた。
梅雨が明けた後、彼女は残った子猫二匹を連日連れてきた。朝一〇時を回った頃三匹で現れると、馬鹿なあの男が子猫用のエサを出す。愛らしい子供たちがそれを貪《むさぼ》り喰《く》らい、満腹すると本棚の隅に入って一休み。見届けたシロは独り外に出る。子猫たちは夕方までぐーぐー眠り、五時半を回った頃、階段を上がってシロ様が迎えに来る。
そんな日々が二週間続いたある日――。
その日のお出迎え≠ヘ雰囲気が違った。
部屋に入ったシロは子猫二匹の顔をペロペロ舐め始め、何事か言い聞かせるように鼻をつき合わせ、それから……独りで下に降りていった。
子猫たちは階段で母猫が下りるのを見送り、そのままいつもの本棚に戻った。
三木原が事態に気付いたのは小一時間経った頃であった。
「なんでここにいる、おまえら?」
子猫たちに問い詰めるも返事は「にゃあにゃあ」の鳴き声だけ。茫然自失の馬鹿人間は急いで階段を下り、周囲を探すが、シロの姿は影も形もない。
作戦は成功した。シロは三木原に子猫二匹を押しつけることに成功したのだ。
「ウソだろ。今度は猫四匹か……どうしよう」
どうしようと慌てても既にこの場にいるのだからどうにもならない。あきらめて現実を受け入れるのだ。貴様がこの二匹に情を移してしまっているのは判っている。なにしろ猫のわたしから見ても二匹はメガトン級に可愛らしいのだから仕方ない。色は白黒模様の俗に言うパンダ猫だが産まれてから一ヶ月前後の猫は愛らしさの塊《かたまり》なのだから抵抗は無意味だ。英語で言う Resistance is futile. なのだから抗するだけ無駄なのだ。さあ飼え。飼ってしまえ。飼うのだこの馬鹿人間め。
それでも往生際《おうじょうぎわ》が悪い三木原は、
「これは何かの間違いだ。明日、シロが来たら引き渡すからね」
が――翌日になって現れたシロは、独り悠々とメシを食うや、子猫二匹のお見送りを受けつつ姿を消した。
「ちょっと待て!」
結局、三木原は子猫二匹を飼うことになった。
名前は……安直の極みと言うか、アスカとシンジである。まあ、兄妹猫だし、アスカは明らかにシンジを尻に敷いているから別にいいけど……そういう名前をつけると後でろくなことにならないわよ、と思った。
わたしの懸念は的中し、あれから一一年経ってもアスカはじゃじゃ馬、シンジは事ある毎に馬鹿をさらけ出し、バカシンジと呼ばれている。彼のどこが馬鹿か列記しよう。
まずは自分より強い猫にケンカをふっかける。
そして負ける。負けると三木原のところに逃げこむ。よしよし、とやってもらえないと暴れ出してカーテンにスプレーをする。スプレーとは臭いおしっこの事だ。ちなみにシンジがケンカで勝ったことはこれまで一度もない。三年ほど前はそれで続けざまに負傷し、後記するノヤ動物病院の治療を受けた。それがあまりに繰り返されたものだから最後には獣医さんにまで『またシンジちゃんですか?』と言われる始末。これを馬鹿と呼ばず何と呼ぼう。彼は文字通りのバカシンジなのだ。
というわけで、三木原部屋は猫四匹体制になったのだが、台所までいれても一五畳の部屋で四匹はさすがに狭い。わたしが壁を引っ掻く頻度は倍加し、アスカとシンジも不満を口にし始めた。
さて、この状況を人間はどう打開するか? わたしは様子をうかがった。同時に三木原の行動パターンを調べ上げ、隙あらば脱走してやろうと考えた。
出口は一カ所。残りは窓とベランダ。窓は普段閉まっているか、ナイロン製の網戸で仕切られる。これは案外と突破可能ではないかと網戸をガリガリ引っ掻いてみたが、けっこう手強《てごわ》い。ぶち破れる代物《しろもの》ではない。それでは横に引くのはどうか? と試していたら、三木原に見つかってしまった。
「こら!」と怒られ、やむなく一時撤退したら……三木原はガムテープで網戸を固定してしまった。なんて奴だろう。引き戸開放作戦は封じ手となった。
やむなくわたしは壁を引っ掻く行為を反復する。暫《しばら》くそれを(珍しく止めもせず)眺めていた三木原は、やがてぷいと姿を消した。
戻ってきた奴は金網束を抱えていた。そのままベランダへ出ると格子部分に金網を張り始めた。唖然と見るわたしを余所に周辺を完全に金網で覆った後『はい、どうぞ』と馬鹿人間は窓を開いたのだった。
アスカとシンジは素早く窓からベランダに飛び出し、フェンス越しに外の景色を眺めた。続いてにゃあにゃあ鳴きつつごろりと寝っ転がり、ひなたぼっこを始めた。彼らはこれである程度の満足を得たのだ。
結局、わたしたちは現実を受け入れた。
一日の大半をベランダで過ごし、外をうろつく野良猫たちと『こんにちは』と挨拶を交わす環境に落ち着いた。
むろん、不満はある。半年前のわたしは町内を自由に散歩し、深夜の猫集会で様々な仲間と顔を付き合わせ世間話に興じ、ネズミやスズメを捕らえ、狩猟本能を満たしていた。それが今は籠の中の鳥と同じなのだ。食事の質は向上したが、代わりに自由を喪《うしな》った。哲学/経済学者ジョン・スチュアート・ミルの言葉じゃないが『満足な馬鹿よりも、不満足なソクラテスの方が良い』のだ。猫の本質は自由|闊達《かったつ》かつアバンギャルドな点だ。飽食に身を委《ゆだ》ね精神の鈍磨を招いてはならない。
その点の想いはチビも同じだった。わたしたちは金網の弱点を見つけるべく全力をあげた。季節は夏を過ぎ、九月半ばを越え、一〇月を迎えた。残暑激しい帝都郊外にもようやく秋の香りが漂い始めたある日……。
わたしたちはついに目的を果たした。
金網の防壁を破り、外に出たわたしは、駐車場にてかの馬鹿男に『にゃあ』と挨拶してやったのだ。
三木原の顔が驚愕《きょうがく》に歪んだ。
『マーブル、なんでここにいる!』
怒鳴り声すら心地良い音楽だ。人間ごときに檻の中に閉じこめられた猫の気持ちがわかるものか。ああ、せいせいした。
かくしてわたしと三木原の追いかけっこが始まったが、運動不足で鈍くさい物書きと敏捷《びんしょう》なわたしの駆けっこの勝敗など記すまでもない。
二時間ほど揶揄《からか》って遊んでやった後、奴の部屋に戻ってやった。メシを食ったら再脱走と思い、台所に行くと、そこには――。
皿に盛られた刺身を前に満足げに舌鼓を打つチビがいた。思わずわたしはチビに言った。
「あんた、なに満足げに食っているわけ? 少しは猫のプライドって奴を……」
「だって、おいしいんですもの。今夜はご馳走よ」
三十路メス猫はにやりと笑うや、マグロの刺身をほおばり、満足げに嚥下《えんか》した。頭上では三木原が『今夜のお菜《かず》を……なんだってこうなる?』とつぶやくのが聞こえる。狡猾《こうかつ》にも彼は自分の主菜を差し出し、こちらの懐柔に動いたのだ。チビはあっさりそれに乗ってしまい……なんていい加減な奴だろう。思わずにらみつけるわたしをよそにばくばく食べたチビは満足して床についてしまった。
やむなくわたしも出されたマグロを食べた。
味は……確かにネコ缶よりはマシだ。
以前魚屋で食べたホタテの貝柱と比べたら落ちるが、廉価量産型ネコ缶よりは、美味《うま》い。
とりあえず今夜はこれで矛を収めてやるか……思いつつ寝床に向かうと、工具を持った三木原が素早くベランダに出た。
我々を部屋に閉じこめ、破れた金網を修理するつもりなのだ。この辺は抜け目ないというか、敵ながら侮《あなど》れぬと思う部分だが……完璧な防御など存在しない。我が猫族の研究心にかかれば修繕箇所の突破は可能だ。三木原が奏《かな》でる工具の音をBGMにわたしは眠りに落ちていった。
季節は移ろい、秋から冬へ、そして年を越した。
平穏な日々が続いた。時折発生する『金網破り』が最大の祭りだった。わたしとチビ、アスカはそれから二度脱走に成功した。シンジは体が大きすぎて金網に引っかかってしまい、一度しか脱走できなかった。シンジの体格は異様だった。生後三ヶ月で成年猫と同等の大きさに成長し、半年後その体重は実に六キログラムに達した。この大きさを思えば彼が野良猫にケンカをふっかけるのは自然に見えるが……これが全然弱い。まったくお話にならぬほど弱いのはなぜなんだろう。
ともあれ、脱走劇を定期行事にわたしたちはアパート内で暮らした。
そんな二月のある日、事件が起きた。
三木原が新猫を連れてきたのだ。
「動物病院で里親募集していたので引き取りました」
籠から現れたのは雉虎のオス猫だった。むっつりした顔つきで胴体がやたら短い。尻尾も短い。犬のコーギーを寸詰まりにさせたような短躯《たんく》なオス猫が不機嫌な顔を向けていた。
「一年ほど余所で飼われていましたが、飼い主のおじいちゃんが亡くなったそうで、動物病院扱いになりました。仲良くしてやってね」
わたしたちに相談なく勝手なことを……と思ったが、来てしまったものは仕方ない。
で、名前は?
「カオルといいます」
あきれた。いつか絶句させてやるから覚悟せよ。
命名の感想は兎《と》も角《かく》、幸いにもカオルは性格のいい猫で、周囲にすぐ順応した。が、しかし、一五畳に猫五匹ではさすがに狭い。三木原もこの点は悩み抜いたらしく、それから一年半ほど経ったある日、とうとうアパートから引っ越すことになった。件《くだん》の母と子に見送られつつ、我々猫たちは旅だった。そこから先の展開はちょっと端折《はしょ》ろう。
引っ越し先はこれまでの五割増しの広さだったが家賃が半端じゃなかった。加えてまたまた動物病院から猫がやって来た。雉メス猫のメイ。五月生まれだからメイ――Mayという事らしい。実に安直だ。
ここでの生活は短期に終わった。高すぎる家賃に音《ね》を上げた三木原は、埼玉の山中に中古の家を買ったのだ。話を聞いてみると月々の支払いは確かに家賃より安いが……いったいどんなところだ?
疑念を余所にわたしたち猫は移動用檻に閉じこめられ、ひっこし車両に揺られつつ新天地へと強制移住させられた。
で、移住先の感想は……確かにアパート時代より快適だ。何より、外出がある程度自由なのが大きい。
むろん、条件はある。
朝方のトイレを猫砂で済ませること。門限は外出からおおむね六時間以内。土日祝日等、近所の人たちがくつろいでいる時は出ない、云々……まあまあ我慢できる条件が提示され、快適猫生活が始まった。
新居は狭いが庭付きはいい点だ。外出しても三〇分ほどで庭に戻ってしまい、そこでごろりとくつろぐのが日課になった。自分たちの縄張りでゴロゴロするのは気持ちが安らぐ。わたしたちは一定の質を保った食べ物と自由を手に入れ、時に自由な冒険を行う権利も得た。ボロアパートから数年、我が猫集団は安寧《あんねい》の地を手に入れた。たとえそれが人間世界でいう僻地《へきち》の山中であろうとそれは人間の価値基準に過ぎない。
猫基準の『いい場所』は明確だ。
自然が豊富で自動車事故の確率が低く、天敵のいない場所。これが理想である。新居は確かにその条件に合致していた。
一方、三木原の『新猫迎え』は未だに続いていた。
九九年のクリスマスにはオス猫のクロが加わった。これは近所の子供たちが『運動場で怪我しているのを見つけた。飼ってくれませんか』と持ちこんだ猫だ。三木原は治療の上、飼い主を写真広告その他で探したが見つからず、結局我が家の猫になり、クロと名付けられた。
理由はこれまた安直なことに色が黒いからだ。胸の一部が白い以外、ほぼクロ猫と言っていい。
この話、このままだと美談になるが、まだ先があった。
クロは性格の悪い猫だった。他の猫のドライフードまで勝手にむさぼり食い、あっという間に巨大化し、よりによってわたしの盟友、チビを追いかけ、いじめはじめた。
三木原家の猫階層は、チビ、わたし、アスカ、シンジ、カオル、メイ、最後に三木原の順番だ。本来ならクロなどメイにも劣る最下層(三木原より上かどうかだけは議論の余地がある)なのに、たちまち巨大化した彼は小規模猫世界のトップになると決めたらしい。下から順番に恫喝を重ね、カオルを屈服させた後、一気にチビを狙った。
いかんともしがたいが体格が違いすぎた。チビは敗北し、クロがトップになった。愚かな三木原は小学生たちの情にほだされた挙げ句、とんでもない猫を家に招き、我が家の基礎階層を破壊した。かくしてクロは最近の言い回しでいう『新世界の神』になった。
斜め上で見れば、家一軒内の猫階層を巡るただの闘争である。そこで神様になってどうするつもりだと小一時間問い詰めたいものだが……そういう彼もこの地域最強の巨大オレンジ猫と戦えばあっさり負けたのだから、世間は自分が考えているより遥かに広く、強い奴は幾らでもいて、自分の存在などちっぽけなものなのだ、という猫哲学を彼も少しは学んだ事だろう。と、一応『黒猫を出せ』との編集者要望に添ったところで本題を語ろうと思う。
それはわたし、マーブルが罹《かか》った病気のことだ。
発症は今から四年前。西暦二〇〇三年二月とカルテにあるが、実際には遥か以前から罹っていた病だ。
その兆候はわたしの異様な食欲にあった。
若い頃のわたしは、ネコ缶四缶完食など当たり前。それに同量のドライフードをむさぼり食い、食い付きに驚いた三木原が『食欲魔猫』と呼んだほどの大食漢だった。
では、わたしは太っているのか?
とんでもない。体重四・三キロのスリム猫だ。胴体が適度に長いためこの体重で理想体形なのだ。食っても全然太らない体質である。大食漢でありつつ理想体型を維持できる我が素晴らしさにだれもが羨ましがる事だろう。人間世界にはセレブなモデルとかいう生き物がいるそうだが、その体形維持は過酷と聞く。中にはダイエット目的で腹の中に回虫の類いを飼っている人間もいるそうだが、一応三木原はわたしたちに定期的に虫下しを飲ませているのでその心配はない。生まれながらの完全スリム猫。それがこのわたしなのだ。
と、心から信じていた。そう。忌むべき知らせが来るその日までは――。
二月某日、三木原はわたしを見て言った。
「マーブルさん、どうも口臭が気になるんだが……なんかあるの?」
この人間はわたしを複数の呼び名で呼ぶ。基本はマーブル。他にマーブルさん。マー君。なぜか知らぬが一つに統一できないらしい。困った奴だが、口臭の件は実はわたしも気にしていた。相手が猫語を理解するなら、
「歯槽膿漏《しそうのうろう》かもしれないわね。それとも歯石かな」
と言い返した事だろう。
そう考えたのにはわけがある。数ヶ月前、近所で歯石がたまって除去に至った猫がいたのだ。
地域最長老猫、アイである。
彼女は当年とって一六歳、人間換算九三歳の地域重鎮ババ猫様であり、わたしですら一目置く相手だ。その容姿はババ猫に相応《ふさわ》しい。本来は洋猫との混血、雉虎模様の長毛種だが、経年変化で毛が脱色され、灰色にしか見えない。が、決してよぼよぼの年寄り猫ではない。体重は五キロを超え、動きは機敏、匂い付けのスプレーも未だに収まらない。闊達おばあちゃん猫だが――ある日、ものを食べられなくなった。口の中に潰瘍《かいよう》と傷が出来たのだ。
それを近所の子供たちが三木原家に担ぎ込んだ。子供たちの間で彼は『猫おじさん』と言われているらしい――当人はおじさんでなくお兄さんだといっているが抵抗は無意味だ――三木原はアイをノヤ動物病院へ搬送した。
埼玉県日高市のここは、地域で最も腕のいい動物病院として知られる。獣医は『レーザー治療で傷を焼いて歯石を取れば完治』と診断。治療は成功し、アイは餓死を免れた。財布は軽くなったが三木原はこれで経験値を得た。
「なるほど……歯石除去は大切で、口内炎との関連も無視できないのだな」
その記憶が醒めやらぬ時に激しい口臭を察知したのだから三木原の推測が『歯石でもたまっているのかな?』となったのは、責められまい。
わたしはノヤ動物病院からの迎えの車に乗せられた。車を持たぬ三木原は病院の送迎サービスを利用していた。呑気な奴は自宅で結果を待った。順調にいけば、血液検査後に全身|麻酔《ますい》、歯石除去、口内炎完治のはずだ。
暗転は午後だった。電話を取った奴の耳に獣医の声が響く。
『マーブルちゃんは肝臓の数値が異様です。他の病気にかかっています』
「え? それはどういうことでせうか?」
自称飼い主はまぬけな声を発した。予想外の展開に唖然とする当人に若手獣医は言った。
『つまり、肝障害です。ASTとALTがそれぞれ高く……』
「お待ちください。記号の意味を教えてください」
『ASTとは肝臓や心臓、筋肉、赤血球等に含まれている酵素です。ALTは主として肝臓に含まれる酵素。この数値が高い場合、肝障害を意味します』
「つまり、肝臓が悪いと」
『マーブルちゃんの場合、どっちの値も上がってますから肝臓周辺が問題と思われます。ALPも上がっていますから……』
「すいません。ALPとは何です?」
『アルカリフォスファターゼの略称で血液中の酵素です。これが高い場合、肝疾患、骨疾患、悪性腫瘍、副甲状腺機能亢進症、甲状腺機能亢進症などが考えられます。それとT−Bilも高いですね。これはビリルビン値と言いまして、俗に言う黄疸《おうだん》に関っています。数値が高いと黄疸が出る。猫の場合、歯肉の色や白目の色が黄色っぽくなります。つまり……』
「マーブルの口臭とも関連があると?」
『口内炎が起きています。歯肉の色も黄色っぽく、白目も剥いてみると黄色っぽい。今回、歯石取りを試みたのはある意味幸運だったかもしれません』
なるほど。自称飼い主に歯石の教訓がなければわたしは病院に行くこともなく、さらに病を悪化させていたわけだ。それはわかったが疑問がある。
「ところで、各数値ですが……いったい正常値と比較してどれくらい高いのでせう?」
『正常値の三倍以上です』
ここで三木原は爆死したらしい。
人間世界には通常の三倍と聞くとわくわくするオタクと呼ばれる生物がいるようだが、健康に関る数値でこれはとてもまずい。
『問題は治療方針です。原発部位の特定を進めるか、薬を入れてその反応を見るか。どうされます?』
「特定って、どうやるのですか?」
『一番いいのは肝生検です。開腹して肝臓の一部を切除、組織片をラボに回し、専門家の判定を待つ』
「つまり、試験開腹? 腹を切るのですか?」
『全身麻酔をかけ、肝臓の一部をちょっと切ります。次点が穿刺《せんし》吸引細胞診。これは患部に針を刺し、細胞を吸引、採取する方法です』
「針を刺すんですか。ぶすりと?」
『苦痛はありません。麻酔も軽い奴で済みます』
「うーん……」
と、ここで三木原は悩んでしまったらしい。穿刺吸引は軽い奴、つまり局所麻酔で済むが、試験開腹は全身麻酔。費用も高額だ。それと麻酔に関して彼には嫌な思い出があったらしい。その辺は後で記すがこの時のわたしの数値は、
ALT 493
AST 263
T−Bil 5・6
正常値の上限はそれぞれ右から順番に84、51、0・4……三倍ではない。それ以上だ。ALT五倍、AST五倍、T−Bilは……一四倍。端数を入れたらさらに増える。
この信じられぬ値を前にヘタレな自称飼い主は試験開腹なしと決めた。細胞診も『ちょっと待ってくれ』と言いだし、やむなく獣医師は胆汁酸産生剤の治療を選んだ。ウルソと強力ミノファーゲンCの注射である。一連の治療が終わった後、獣医師は説明した。
『肝臓の炎症を止めるにはこれではまだ不十分です』
「具体的にどうしろと?」
『一般にはステロイド治療です。ただし、他の検査が終わらないと踏み切れません。リンパ腫や猫エイズ、猫白血病の検査です』
というわけで再び採血である。
この時の様はある意味みっともない。自慢の美しい白毛を電気|剃刀《かみそり》でじゃーじゃー剃られ、透けて見えるような美しい皮膚にぶすりと針を突き立てられ、血を採られるのだ。
今思うと、ノヤ動物病院で最も困ったのは採血だ。獣医師が如何にベテランでも無痛ではない。針が突き刺さればやはり痛い。痛くないと思う猫がいるなら出てくるがよい。わたしが顔を拝んでやろう。
検査は比較的短時間に終わった。結果はどちらも陰性である。考えてみれば、わたしはノヤで毎年のようにワクチンを打ち、外出の機会も少ない。
さて、問題は翌週の結果である。再度の検査が行われたが、血液の数値は悪化していた。これは、ウルソと強ミノにわたしがまったく反応してない事実を指す。ではどうするか?
『やはりステロイドを使いましょう。マーブルちゃんはまだ若いので一日あたり20ミリグラム使います』
まだ若いので。まだ若いので。まだ若いので……うむ。なかなかいい事をいう獣医である。できれば永遠に連呼して欲しいものだ。
実は当時のわたしはそろそろ十年選手に近づいていた。人間換算で中年を超えた歳だ。獣医表現ではまだ体力がある≠ニいう意味だろうが、若いと見られるのはいい事だ。
それにしても今の視点から見ると体重一キロあたり5ミリグラム投与なのだから、確かに体力があったのだろう。人間換算でいえば体重六〇キログラムの成人で300ミリグラムに当たる。人間の肝炎治療で用いられる量はせいぜい日に30〜40ミリグラムだから、ざっと一〇倍である。
『猫はイヌや人間と違い、ステロイドにある種の耐性があるから大丈夫です』
獣医師の説明に心中複雑だった。耐性があるのは上等なのか、下等なのか。判断に迷うのではないか。
こうしてステロイド治療が開始された。
普通ならこれであっさり数値が落ち、治りました、となるはずなのだが……。
手元に三木原が書き留めた検査結果があるので抜粋しよう。
三月初頭、ステロイド20ミリグラム投与開始
四月初頭、T−Bilは0・9にまで低下
いいわね。いいじゃないの。正常値より高いけどT−Bilがこの値なら黄疸はすっかり引いたわけね。歯肉はピンクに相違あるまい。
ところが、
ALT、ASTは上昇、550、320
正常値上限の六倍以上という悪化した数値。
これでどうやって生きていたのだろう?
記憶を探るとこの時期のわたしはぐったりしている事が多かった。食事もあまり摂らず、当時の三木原はそれでかなり恐慌を来《きた》したらしい。食欲魔猫の異名を取ったこのわたしがネコ缶四分の一すら食べられず、絨毯《じゅうたん》の上でぐて〜としているのだ。奴は何とかわたしに食欲を取り戻させるべく精肉店で新鮮な鶏肉を仕入れたり、大好物のボイルされたホタテを出す等、あらゆる手を尽くしたのだが――。
食べたくないものは無理だ。体重は減少の一途をたどった。週平均一〇〇グラム近い割合で落ちていった。ここに至りようやく三木原は決を下した。
「試験開腹に同意します」
だったら初手に同意しておけばよかったのに……四月下旬、わたしはノヤ動物病院に入院した。
実はそれまでにわたしは件《くだん》の穿刺吸引細胞診を二度受けていた。普通なら確定診断が下りるが、不幸な偶然から結果が出なかった。この方式は針の刺さった箇所に病の原因となる細胞が存在しなければそれまでだ。たとえあっても量が少なければ分析は困難である。
『試験開腹では、穿刺と比較にならぬ量を採れるので確定診断が可能です』
全身麻酔をかけられたわたしはたちまち眠りに落ちていった。ちなみに三木原がこの検査を拒んだのは、過去に友人知人のペットたちが続けざまに麻酔事故で亡くなったからだ。それが心的障壁となっていたが、ノヤは当時でも最新の麻酔方法を採っており、事故確率はかなり低く抑えられていた。
三木原がそれを知ったのはかなり後のことだ。電話ではそうした情報を得られぬ事も時にあるらしい。当然だろう。猫世界でいえば、深夜の集会に勝る情報収集はあり得ない。顔を付き合わせ、鼻と鼻を合わせる接触通信がもたらす情報密度を人間が知れば一驚するはずだ。
話を元に戻そう。試験開腹は無事成功し、組織片はラボへ送られた。結果が出たのは連休明け前後だ。最初に渡したラボでは結果が上手く得られず、二度目でようやく完全確定した。その病名は、
リンパ球形質胆管肝炎
厳《いか》めしい名前がついているが胆管肝炎と略して言えばそれまでの話。
で、治療はどうなるわけ?
わたしの疑問を余所に三木原は肝臓病の調査に全力を注いでいた。ネットにつないで大量の文献をダウンロードし、図書館に通い、研究機関の医療データベースに潜り込み、情報を集め続けた。その甲斐あってか四月末日段階で専門用語の大半を理解する変転を遂げていた。当人いわく『二〜三ヶ月徹底して勉強すれば専門家と議論する能力はつく』らしいが……それゆえこいつが獣医に『免疫抑制剤を使いませう』と言い出したのは当然なのだ。人間ではそれで治療に成功した病院が幾らも存在する。
渋る獣医を説得した三木原は、わたしにアザチオプリンを投与した。この薬にはリンパ球増殖を抑える作用があり、うまくいけば胆管部の炎症を抑えられるはずだったが……。
効かなかった。
二週間しっかり投与されたにも拘わず、数値は悪化した。獣医は免疫抑制剤使用をこれで終《しま》いにする雰囲気だったが、空気の読めぬ自称飼い主は言った。
「次はシクロスポリンを使ってください」
奴はわたしの肝炎を自己免疫性肝炎の一種と捉えたらしい。この場合、一般に治療効果があるのはステロイドだが、効かぬ場合はシクロスポリンを使う事が多い。それで劇的に治った人間がいるのが三木原の根拠らしい。
その間にも数値はどんどん上がり、五月一八日にはついにALTが980を突破、測定不能となった。俗に言う『計器の針が振り切れた』のだ。景気[#「景気」に傍点]がよくて振り切れたなら兎も角、こんな計器[#「計器」に傍点]な話は御免である。それでもわたし、マーブルは生きていた。ひたすらぐったりした様で……。
で、シクロスポリンだが……獣医の予想通り猫には効かなかった。この点は三木原の失態と言えるが、立ち直りの早い自称飼い主は続いて漢方薬治療を考え始めていた。西がダメなら東があるとは本人の弁だが、初動におけるわたしの漢方印象は最悪だった。
五月下旬、漢方のステロイドと呼ばれるヘンシコウの投与が始まったのだが、体がやたらと火照《ほて》る割に数値は全然落ちず、却って具合が悪くなった。さらに問題なのはカプセルの量だ。漢方剤は精製された西洋薬と比べると効率が悪く、量が必要になる。0・4グラム型を一日一六カプセルも飲まされてみろ。人間ですら大変なはずだ。奴はバスタオルを用意し、わたしがほんの少し気を緩めた瞬間を見逃さず、こちらをす巻きにし、素早く口を開けさせるや続けざまにカプセルを放りこむのだ。
むろん、最初は抵抗した。
奴の腕を掻きむしり、悲鳴をあげる下郎《げろう》に我が爪の一撃を見舞った。たちまち腕が血まみれになったが奴は怯《ひる》まず投薬を続行した。
結果的にわたしは根負けした。
二の腕が血まみれになっても飲ませると決めた人間相手に逆らっても疲れるだけだ。徹底抗戦の暁には奴を噛む羽目になる。そうなると化膿を起こすのが人間の脆弱《ぜいじゃく》さだ。奴等は我が口内細菌への耐性を持っていないのだ。ここはわたしの示した温情……かどうかは判らない。当時のわたしはひたすらだるかった。体力が有り余っていたら、案外とその指に容赦なく鋭い前歯を突き立てたかもしれぬ。
漢方投与にもかかわらず体はさらに細り、ついに三キロ台前半へ突入した。体重減少と反比例して肝数値は上がり続け、六月一二日にはASTの値が504に達した。
ALTはもはや計測不能。ASTも正常上限値の一〇倍に達しようかという数値。獣医師は事実上の治療打ち切りを決めた。
不人情と言うなかれ。薬に反応しなければやめるしかない。それが現実だ。
それでも三木原は、今後も検査だけはしてくれるよう獣医師に頼んだ。漢方治療の方針を決める場合、血液検査のデータがなければ暗中模索となる。要請は認められたが、すでにわたしの時間は残り少なくなっていた。
固形物の摂取がほとんど不可能になったのだ。食欲は完全に喪われ、摂れるものは――。
水だけとなった。昼間は寝ていて、飲むのは夜が多かった。傍らで医学書を読んでいる三木原を余所に水飲み場によろよろと現れ、首を垂れ、舌を降ろす。
ぺちゃぺちゃ。
ぺちゃぺちゃ。
わたしが水を飲む音に三木原がこっちを見る。
視線を感じ、わたしが振り向く。
自称飼い主は一瞬恐ろしいものをみたような顔つきになった。
水は命の根源だ。何も食べられなくなっても水さえあれば一〇日以上持つ。猫によってはさらに持つ。三週間持った猫がいると聞いたこともある。だから飲む。ひたすら水を飲む。
わたしの姿が鬼気迫るのは自然だ。いずれ深刻な栄養障害が来るだろうが、わたしは生きることを辞めるつもりはない。微塵《みじん》もない。固い意志をこめ、わたしは人間を見返した。
はたと止まっていた相手の手が医学書を捲《めく》り始《はじ》める。そうだ。こっちも生きるべく頑張っている。そっちも為すべき事を為せ。簡単に諦めるなどわたしが赦《ゆる》さない。
胃袋を水で満たしたわたしは、回れ右して寝床に戻った。自称飼い主が床についたのはそれから数時間後だったらしい。
そんな日々が続いたある日――。
血液検査でほんのわずか数値変化があった。ASTがわずかながら下がったのだ。漢方医から手に入れたなにか≠ェ効いたらしい。
藁《わら》にもすがる≠ニいう言葉の意味がこの時やっとわかったとは自称飼い主の弁である。
六月一七日。彼は冬虫夏草《とうちゅうかそう》の投与を決めた。それが数値変化の理由と推定したらしい。
冬虫夏草とは昆虫に寄生したある種のキノコだ。彼はこれを元にした新型免疫抑制剤FTY720の記事を読み、血液検査の結果を眺め、キノコ系漢方への全面切り替えを決めた。とはいえ、文献だけを元に突き進むのは無謀とさすがにわかったらしい。遠方在住の中国中医師(中国の漢方国家試験をパスした人物)の電話治療指導を受け、冬虫夏草、瑞芝《ずいし》、番藍根《ばんらんこん》に加え、六月二三日からは試供品のメシマコブが追加された。
メシマが三度投与された後、ノヤ動物病院に紹介状を書いてもらった奴は、わたしを日本獣医畜産大学付属動物医療センターに搬送した。ここは都内屈指の大学病院で皮肉にもかつて我々が住んでいたアパートの近くだった。ノヤがここを推薦したのは、動物肝臓関連では日本でも第一人者の鷲巣月見《わしすつきみ》教授がいたからである。三木原は一連の治療を彼なりに纏めたリポートとノートパソコン、それにわたしが入ったケージを手にセンターの門をくぐった。経緯説明が終わり、血液検査が開始されたが……結果にはわたしも驚かされた。
ALT 660
AST 340
ALP 500
数値が下がっていた。
正常値と比べればまだ高いが、計測不能な値ではない。迷走を続けた挙げ句、わたしたちはようやく治療の糸口を見つけたのだ。
この辺を境にわたしの食欲は復活していった。固形物が喉を通るようになり、七月初頭には体重も3・4キロにまで回復、中旬から本格化したメシマコブの投与がさらなる病状改善を呼んだ。
それから一ヶ月と経たず体重は四キロ台を回復……一一月にはついに数値の一部が正常化した。
わたしは死地を脱したのだ。
それから四年。
わたしの肝臓はメシマコブで護られ続けた。冬虫夏草より効果に優れたのがこの漢方だった。時に分量の錯誤から数値悪化、再入院もあったが……人間換算で約二〇年、投薬を受けつつ快適猫生活を楽しんでいた。
我が前に再び暗雲が立ちこめたのは今年の四月だ。
どうも最近食欲がない。口の中も痛い。これにやっと自称飼い主が気付いたのだ。
三木原家は猫多頭飼い環境だ。複数の皿に盛られたドライフードをみんなで食べる事から、だれがどれほど食べたかわかりにくい仕様だ。普段はもっと細かな食事管理がされていたが、原稿が大詰めとやらでそのへんが安易になっていたのだ。
他に大きな要因は、昨年末にコンビニ前から三木原が拾ってきた新猫のミケだ。その名の通り三毛猫な彼女は、捨て猫にありがちな慢性飢餓状態猫でたいそう食い意地が張っていた。彼女はわたしの皿の分まで御飯を食べてしまい、それで気付くのが遅れたらしい。
というわけで、再びノヤ動物病院の出番が来た。迎えの車に乗ったわたしを見送った三木原は、『今度こそ歯石取りで歯肉炎、口内炎の改善かな?』と思っていたらしい。思えば四年前もこの問題からノヤに送られ、思わぬ病が発覚した。
まさか今度も同じことにはなるまい……と思うのが人間の浅はかさである。
一度あることは二度あるのだ。
午後、獣医は粗忽者に検査結果を伝えた。
『病名は不明ですが、白血球値が異様に低いですね。リンパ腫を疑っても不思議じゃない』
こやつが再び爆死したのは記すまでもない。
ただ、四年前と違ったのは経験値を得ていた点だ。猫白血病ウイルス、猫エイズ検査などやるべき検査への同意が素早く為され、どちらも陰性と出た。ただ、そうなると白血球値の現象をうまく説明できない。奴は獣医師に言った。
「何だと思います?」
『骨髄抑制が起きている可能性は否定できません。とりあえず入院の上、点滴を入れます』
やがて検査結果がFAXで来た。
白血球数 2700(正常値下限5500)
リンパ球 243 (下限1500)
赤血球数 338 (下限500)
血小板数 7・4 (下限30)
白血球数は正常値下限の半分、リンパ球6分の1、赤血球数、下限の七割、他に血小板数が正常値下限4分の1。ひどい値だ。
さて、問題は病名だが……三木原は白血病の疑いが濃厚と考えたらしい。仮説に沿って入院から二日後には漢方治療の準備が始まった。骨髄穿刺検査による病名特定にも合意、四年前は二ヶ月かかった決断が二日で終わったのはいいが……結局、今回は病名が判らなかった。骨髄を取るには全身麻酔が必要で、それには血液状態が悪すぎ、改善には一時的に輸血で数値を上げるしかないが、わたしの血液は病院に待機する献血担当猫殿数匹たちといずれも型が合わなかった。微妙にこちらの血が変化しているためで免疫介在性の病気ではよくある事らしい。結局、病名の確定診断を後回しにし「薬の反応を見ながら効果的な手を考える」策を取ると決まった。
結論から記せば治療は成果を上げつつある。
五月四日の血液検査の結果を記そう。西洋医療と漢方の折衷《せっちゅう》で我が血液数値は今や、
白血球数 4400
リンパ球  880
赤血球数  369
血小板数  8・2
ここまで改善した。血小板数が変わり映えしないがこれは漢方の副作用で説明がつく。ステロイドと抗生剤で口内炎を防ぎ、食欲を改善させつつ、骨髄/血液関連は漢方薬に任せる分業制が上手く機能しているのだろう。
ちなみに今度の漢方剤は、十全大補湯とチャガ、冬虫夏草とペルー産のキャッツクローと聞く。これを三木原は0・4グラムはいるゼロ号カプセル八〜一〇個に詰め、連日わたしの口をがばりと開けて飲ませている。
こっちも手慣れたもので、相手がよほど不快なミスをしない限り抵抗はしないと決めた。食欲の戻りはほどほどだが、血液が正常化すれば口内炎も落ち着き、抗生剤の解除と共に通常のそれに戻っていくことだろう。
我が年齢も当年とって一三年……人間換算で六八歳。体力こそ落ちたが、今度の病も乗り切ってみせるつもりだ。わたしにはその力がある。
ここで一つ人間に忠告してあげよう。
病気において諦観は最大の敵。生きる意志を喪ったらそれで終わる。
四年前、あの異様な肝数値でもわたしが生き延びられたのは、ひとえに心のどこかで生存の意志を持ち続けていたからだ。自称飼い主と医師たちはそれをよく補佐したと思うが、病気と闘う当事者があきらめてはそれまでだ。だるさが全身を覆ったあの時、生存本能だけは心のどこかに残っていた。だから水を飲んだ。わたし自身が水を飲まぬと決めていたら、それが最期となっていたはずだ。
諦観は最大の敵。人生は常に闘いだ。老いても諦めることはない。歳は歳として受け止め、前向きな人生を送るべく努力を重ねる。最良の年を演出する努力を怠ってはならない。それはどんな生き物でも等しく有する権利だ。わたしたち猫には猫の、人には人の人生がある。共に最良の年を取り戻すべく、希望をもってそれぞれの道を進もうではないか。
というわけでそろそろキーボードを叩くのをやめようと思う。
人間たちはまったく気づいていないが、猫には二足歩行ができる奴もいれば、ノートパソコンを自在に操る使い手もいる。わたしもその一匹だ。
ところでこの原稿、きちんと稿料は出るのかしら?
出たらそれでわたしの治療費を払ってやろうと思っているのだけど……その点だけ気がかりよね。
というわけで、振込先はマーブル≠ナお願いね。何も書いてない三木原にびた一文使わせるものですか。原稿は書いた者が全額もらう。それが物書きのルールなんだからね。違った?
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COMMENTS
三木原慧一
みきはらけいいち
「クリムゾンバーニング」シリーズ
ネコのマーブルですが、血液関連値が正常に戻りました。めでたしと思ったら今度はバカシンジが重度の肺炎。これも抗生剤と漢方で何とか切り抜け、ようやく一段落。それはそうと25周年おめでとうございます。記念に招き猫を1階のホールに置きませう。
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聖刻群龍伝
砕牙
千葉暁
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)端境《はざかい》にいた
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)自己|鍛錬《たんれん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)そっち[#「そっち」に傍点]で誤魔化そうとする
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若者は生と死の端境《はざかい》にいた。
わずか一六年の生で終わるか、その後も生き続けられるかは、生まれた時に授かる運の量と、これまで稽古《けいこ》で流してきた汗の量で決まる。
「――くぅ!」
若者は迫り来る巨大な白刃の恐怖に打ち克《か》ち、操縦桿を前に倒すと同時に足踏桿《そくとうかん》を蹴り込む。
若者を乗せた箱形の巨人が、お辞儀をするように沈み込むと、前に立ちはだかる、さらに大きな鎧《よろい》武者に向かって体ごと突き上げていく。
巨人の上腕部を包み込んでいた鋳鉄製《ちゅうてつせい》の覆《おお》いが割れ、下にある筋肉組織と骨に相当する鉄棒が剥《む》き出しになるが、操縦者はかまわず足踏桿を踏み抜く。
尻を乗せた座席の下からグオングオンと力強い響きが生じ、爆発的な力を生じさせた。
鎧武者がもんどり打って弾け飛ぶ。
むろん倒しただけでは終わらない。箱形の巨人は透《す》かさず、相手の体にのしかかり、金槌《かなづち》の先端を尖《とが》らした戦槌《せんつい》を振り下ろした。
地面いっぱいに拡がる血溜まりの上にアスクは降りた――というより、落ちたという表現が正しい。
「怪我したのか」
同じように簡素な防具をまとった女が訊く。名をエアリエルという。アスクの師であり、軍務に就く時は直属の上官となる。
「だ、大丈夫……です」
強がって起き上がろうとするが、生憎《あいにく》と膝《ひざ》に力が入らない。
「浅くゆっくり息をしろ。深呼吸はダメだ。かえって目眩《めまい》を起こす」
「で、ですが……戦闘はまだ……」
「間もなく日没だ。すぐ引き揚げの合図が出る」
言い終えるや、東の方角から銅鑼《どら》が打ち鳴らされる音が聞こえてきた。呼応するように西からも。
「おまえは手柄《てがら》を立てた。胸を張って陣地に戻れるほどの。だからじっとしていろ」
日頃鬼のように怖い師匠が、優しい言葉をかけてくれた。
「ほら、自分のまなこで確かめてみろ。おまえが初めて斃《たお》した操兵《リュード》だ」
背をもたせかけていた鉄の塊《かたまり》に目を向ける。
倒れ込んだ二騎の操兵がある。上になっているのはアスクが騎乗していた従兵機《ゾルダ》〈クレーア〉だ。力を出し尽くし、機械仕掛けの体のあちこちから蒸気を吹き上げている。冷めるまで動きそうもない。
下側に組み敷いているのが、先ほどまで敵として戦っていた狩猟機《ゲラール》〈バシューズ〉だ。胸に大穴が空いている。操手槽《ディポット》内の操縦者は確実に絶命しているだろう。
「紋章からみて、名のある騎士に違いない。嬉しかろう?」
そのはずだが感情が伴わない。
「斃したというより、いつの間にか相手が倒れてくれたって感じで……こんな戦い方ではダメなんだと思います」
言いながら、自分の気持ちを確かめる。
次の瞬間、思いっきり背中を叩かれた。
「それでよい! 強くなりたいのならば、ちっぽけな功を誇るより、すべきことが山ほどある。浮かれるようならば性根を叩き直してやるつもりだった」
だったら、背中の痛みは何だ、と思ったが、それを口にするほどアスクは命知らずではなかった。
「首級《くび》が一二個かい。ウチも二騎が食われたから……どうにかトントンってとこか。おっ死んだゲイルもトラスも子だくさんだからね」
男勝りの体躯《たいく》をした中年女が、獲得した狩猟機の首を検分しながらぶつぶつと呟《つぶや》く。
「申し訳ありません、アグライアさま」
エアリエルが頭を下げる。
「ひとりで四つもの首級を獲ってきた稼ぎ頭がどうして詫《わ》びるんだい? あんたが兵を代表しているつもりなら傲慢《ごうまん》ってもんだよ」
〈サイガ党〉の副頭目は、顔も向けず突き放したような口調で告げた。
エアリエルには優しさの顕《あらわ》れとわかっている。だからそれ以上は触れない。
「うち、ひとつはアスクが獲りました。労《ねぎら》いの言葉をかけていただければ、励みになると存じます」
「へえ、あの子がね。大したものじゃないか。おまえの仕込みがよかったってことだ」
「…………」
「どうしたんだい?」
エアリエルは前から抱いていた疑問をぶつける。
「どうしてアスクをわたしに預けたのですか?」
「問い質《ただ》すようなことかね」
「アグライアさまが直々に育てると思っていました。目をかけていると気づいていましたから」
「そりゃ、あたしが拾ってきた子だからね。行く末を案じるのは当然だろ。だからこそ、一番信頼しているあんたに任せたんじゃないか」
「戦場での働きなら期待に応える自信はあります。でも、人を育てることは別です。年も近く、何よりアスクがくるまで自分が強くなることしか考えていませんでしたから」
「案ずるより産むが易《やす》しってことだね。師匠として不足はなかった。現にあの子は生き延びただろ。一番死ぬ確率が高い初陣《ういじん》でね」
「それは表層的な見方です。運に恵まれなかったら死んでいたのはあいつのほうです。いいえ、戦場に出る前にわたしが殺《あや》めていたかもしれません」
「甘っちょろく育てていたら、運の善し悪しに関係なくアスクは死んでいた。戦場で命の遣り取りができるまで育てたんだ。充分だよ」
「しかし――」
アグライアは手振りでエアリエルの口を制して、
「もちろん理由はある。あったさ。けれど傭兵《あたしら》に細かい理屈なんざ無用だろ? うまくいってりゃそれでいいんだよ」
副頭目に語る気がないと覚り、エアリエルは一礼して引き下がった。
その後ろ姿を見つめながらアグライアは、
「今こうしておまえが生きている。それがあの子を預けた理由だよ」
「よお、アスク」
里に戻ってくるなり嫌な男に逢った。何となく予感があった。ここにくる前、黒い猫《ルチャ》が前を横切ったからだ。
「てめえ、狩猟機を食ったんだってな」
挑発とわかっていたから、無視してニルドの脇を通り過ぎようとするが、取り巻き連が道を塞ぐ。
「ガキの時分からのダチじゃねえか。手柄話を聞かせろよ」
どうあってもただで解放するつもりはなさそうだ。なおも口を噤《つぐ》んでいると、
「俺らなんぞ相手にできないってか」
ニルドが大仰に嘆いてみせる。すると周囲の若者が口々に「図に乗るなよ」「他所者《よそもの》のクセに」などと罵《ののし》ってくる。
(またか……)
アスクは里生まれではない。五歳の時サイガに拾われた戦災孤児だ。
むろん善意の施しができるほどこの里は裕福ではなかった。各地から丈夫そうな子を集め、幼い内から過酷とも言える訓練を課して優秀な兵士に仕立て上げる。一族を挙げて傭兵《ようへい》稼業を行うには、人的損耗を常時補う体制が必要だった。
育てられてた側も別段恩義を感じない。時には訓練で死者も出たが、傭兵になるかならないかは強制ではなかったし、一定の稼ぎを差し出せば独立もできた。
(俺はどうなのだろう?)
アスクはふと思う。傭兵になりたかったのか、と問われれば、即座に違うと答えていただろう。
(俺の望みは、こうした謂《い》われのない貶《おとし》めを受けなくなることだ)
アスクの怒りは決してニルド個人に向けられたものではなかったが、相手はそう受け取らない。
「何だ、その面《つら》は!」
肩を小突かれ、アスクはよろける。
「俺だって戦《いくさ》に出りゃ、てめえなんぞに負けはしないんだ!」
ニルドは族長バルドゥルの部隊に配属されている。取り巻き連もみな同じだ。族長は〈サイガ党〉の名を高めた最大の功労者なのだが、四年前の負け戦で受けた傷の後遺症でしばしば寝込むようになった。お陰で部隊の出動回数が大幅に減った。
「証明する機会だったら、これまで何度かあったと思うけど」
その言葉にニルドは逆上する。アスクよりひとつ年長なだけに戦場に出たのも早いが、これまで敵の操兵を仕留めたことはなかった。それだけにアスクの殊勲《しゅくん》が妬《ねた》ましかったに違いない。
「――よしなさいよ!」
女の声がニルドの振りあげた拳《こぶし》を止めさせる。
「ユリイカ?」
彼女の顔を見るなり、アスクは心臓に大きな高鳴りを覚えた。
ニルドはうんざりした顔で、
「またかよ。男同士の話に女が口を挟むな」
「喧嘩《けんか》なら放っておくわ。だけど徒党を組んでひとりを襲うなんて恥ずかしくないの」
「こいつらは見物にきているだけだ。やる時はサシに決まっているだろう」
ニルドは里者の中でも大柄なほうだ。腕っぷしにも自信があった。
「そういうことなら……受けてもいいぞ」
口にしたアスク自身が驚いていた。戦場帰りでいささか気が大きくなっていたのかもしれない。
「てめえ、女の前だと思って格好つけているな!」
そうかも、とアスクは思った。確かにユリイカの視線を意識している自分がいる。
「大口叩きやがって。一度だって俺さまに勝てなかったクセに」
「一方的に痛めつけられた覚えはあるが、こっちから手を出したことがあったか?」
いきなりニルドが殴りかかる。
卑怯《ひきょう》な振る舞いをすると知っていただけに、アスクには不意打ちにならない。
躱《かわ》しながら、裏拳でニルドの鼻を叩く。
「お、おお……っ!?」
ボタボタと鼻血が溢《あふ》れる。威力はないが、大抵は相手の戦意を挫《くじ》けると教わった。もっともニルドには逆効果だったようだ。
「恥かかせやがって!」
顔の下半分を真っ赤に染めて襲いかかってくる。
昔はニルドに凄《すご》まれると体が竦《すく》んだものだが、戦場で命の遣り取りをしてきたあとではどうということもない。
(隙だらけだな)
顎《あご》に一発入れて突進を止めたあと、胃袋にきついのを叩き込む。これで終わりだ。ニルドは膝をつき、体を折って地面に胃の中身をぶちまけた。
師匠《エアリエル》はアスクに実戦的な技を叩き込んでくれた。今のニルドの姿は、弟子入りしたばかりのアスクそのままだ。
『おまえは体が細い。力で対抗すれば大男には負ける。だから技を磨け。どこをどう打てば壊れるかを体で覚えろ』
この対決は、アスクに修業の成果を実感させた。だが――
「てめーら、何してやがる! やっつけろ!」
果たして、ニルドは一対一《サシ》という宣言も忘れて仲間に命じる。手下に甘んじている輩《やから》など、所詮《しょせん》小者だ。どいつもこいつも大したことはないが、多勢に無勢でたちまち取り押さえられてしまう。
ここまでは想定内だ。手を出した以上無傷で済むとは思っていない。たとえこの場から逃げ出したとしても、あとで必ず仕返しが待っている。そして時が経つ間に怨みは増し、報復の度合いを大きくする。ならば早めに相手の気を晴らしておいたほうがマシというものだ。
「手こずらせやがって」
ようやく吐瀉物《としゃぶつ》から起き上がったニルドが舌なめずりするような目でアスクを見下ろした。
「よしなさい、卑怯者!」
ユリイカが割って入る。が、ニルドは容赦のない一撃で頬《ほお》を張り、道端に突き飛ばす。
「他所者同士、庇《かば》い合うのも結構だが、立場を忘れるんじゃねえぞ」
娘が息を飲む。
閉鎖社会では血縁が力を持つ。たとえばこの争いにしても喧嘩両成敗にはならない。ニルドの血縁者が徒党を組み、他所者であるアスクを悪者に仕立てあげる。族長のバルドゥルや妻のアグライアは公平な立場から裁定を下すだろうが、そうなればなったで、村八分という陰湿な制裁が待っていた。
「…………」
身を竦ませ、口を噤んだ娘を見てニルドは嘲笑《あざわら》う。
「それでいいんだ。訓練所を落ちこぼれたおまえは、どこかに嫁がなきゃ暮らしちゃいけねえ。妙な噂《うわさ》を立てられたくないだろ?」
ニルドの手が腰の剣にかかった。
アスクはそれを見てぎょっとする。
「殺しはしねえ。利き腕にちょいと傷を入れるだけさ。戦場にはもう出られなくなるだろうがな」
(何て奴だ!)
目が眩《くら》むほどの怒りを覚えると同時に、自身の甘さを思い知る。
アスクは拘束から逃れようとするが、
「じたばたするんじゃねえ。手もとが狂って、腕を丸ごと切り落とすことにもなりかねないぜ」
ニルドがわざと刃物を目の前でちらつかせた。
「――喧嘩の域を逸脱しているな」
また女の声がかかる。ただしユリイカのものではない。
わっと泡を食った声がして、アスクを押さえつけていた男たちが離れる。
「エ、エアリエル……さん」
ニルドが敬語を使った。年は近くとも立場が大きく違う。ここに居合わせた若者はよくて従兵機乗りだが、エアリエルは専用の狩猟機を与えられている。大した縁戚がいるわけではなく、純粋に戦功のみで掴み取ったものだ。
「こ、これは、その……」
ニルドの言い訳を無視して、エアリエルは弟子に命じる。
「剣を抜け。この場で決着をつけろ」
アスクは躊躇《ためら》いを覚えた。ニルドと刃を交えることにではない。喧嘩が絶えないこの里でも刃傷沙汰《にんじょうざた》は厳しく罰せられる。もしニルドを殺してしまえばよくて追放刑だ。
「俺が悪かった! もう狙ったりしねえから、ここは穏便に済ませてくれ」
いち早くニルドが音《ね》を上げた。素手の勝負で手も足も出なかった以上、剣で勝てる道理がない。
エアリエルは腹を見透かしてか嘲《あざけ》りの目でニルドを見る。そしてアスクに問う。
「決める権利はおまえにある」
軍務から離れれば、保護する義務がない代わりに命令する権利も失う。そもそも師と弟子といっても戦闘技術を教授するだけで、人としての結びつきは希薄だ。
「俺は……」
目の端でうずくまるユリイカを見たあと、剣の柄《つか》に伸びていた手を遠ざける。
「それが、おまえの答えか」
エアリエルはあっさりと歩み去る。祖母と弟が待つ生家に向かうのだろう。
ニルドも取り巻きを引き連れて離れた。
去り際にアスクに向けた憎々しい目を見る限り、感謝するどころか、いっそう怨みを募《つの》らせたことは疑う余地がなかった。
ユリイカだけが残った。腫れてきた頬が痛々しかったが、声をかけることさえ憚《はばか》られた。
互いに視線を合わせることなく押し黙っていたが、娘が「ごめん」と呟くようにいった。
「謝らないでくれよ。昔から庇ってくれて感謝しているんだからさ」
「最後の最後に見捨てちゃった……こんな根性なしだから、落ちこぼれたんだよね」
訓練所時代はアスクよりずっと強く、すでに頭角を顕していたエアリエルに次ぐ優れた女傭兵になると嘱望されていた。
傭兵の道を断たれた以上、里の中で畑仕事や機織《はたお》りに明け暮れる、当たり前の娘になるしかなかったが、身よりもなく他所者である彼女にとってサイガの暮らしが居心地がよいはずがなかった。
アスクは迷った。里に戻ったらユリイカに告げようと思っていたことがある。
だが躊躇っているうちに、幼馴染《おさななじみ》は別れの言葉も告げず走り去ってしまった。
「あ……」
娘の背に向かって伸ばした手が、ひどく間抜けに思えた。
川原に剣戟《けんげき》の音が響く。
エアリエルとアスクが打ち合っていた。弟子入り以来の日課である。
実力差がありすぎて弟子はともかく師匠の稽古にならないため、エアリエルは倍の厚みがある剣を使っているが、傍目《はため》には差が縮まったようには見えない。逆に重い分、アスクが受けた時は防具を付けていても骨を軋《きし》ませ、内臓が破裂するかと思うほどの威力だ。
今日も今日とて、アスクが川原の玉砂利に血反吐《ちへど》を吐いたところで中断を余儀なくされる。
「ここまでにするか」
エアリエルが刃を落とした剣を地面に突き立てる。
アスクはぶっ倒れたまま荒い息をつく。火傷しそうなほど砂利が熱かったが、頬を剥《は》がす力が残っていない。
昨日ニルドとの喧嘩で、強くなったことを実感したばかりだが、こうして苦もなくひねられると、錯覚ではなかったかと思える。
水音が聞こえた。師匠が川の水を被っているのだろう。
「手こずらせるようになってきたな」
無造作に束ねた長い髪から水をしたたらせながら師が告げた。
「前は剣を交えても汗などかかなかった。打ちのめされるたびに血肉に代えているのだな」
初めて師匠が認めてくれた。有頂天になってしかるべき場面だが、途中からそれどころではなくなった。
師が上着を脱ぎ、濡れた体を拭き始めたからだ。アスクが見て確かめたわけではなく、頭の中に描いたことだが、それだけに余計興奮を喚起させる。
戦場では性別は無関係だ。寝起きも風呂も男女の区別はない。もちろん建前であって、むしろ男は生命の危機を覚えると生殖本能を増進させ、後先考えず女の寝床に忍び込もうとするものだ。
エアリエルも最初の数年はアグライアと一緒に過ごすことで難を逃れ、以降は独力でそうした問題を解決してきた。愚かな犠牲者が両の指で数え切れなくなった頃、もはや彼女に好色な視線を向ける男はいなくなった。アスクもそうした者たちを目の当たりにしているだけに自己を厳しく抑制している。
問題はエアリエルがアスクを男として認識していないことにある。戦場以外でも女であることを忘れているかのように、着飾ることもなく、自己|鍛錬《たんれん》に励んでいるが、若く生命力に溢れた時期の女体は、自然と男を引き寄せてしまうものだし、ましてやアスクも性欲旺盛な年頃だ。感情とは無関係に肉体が反応してしまう。
「どうした?」
いつまでも川原に横たわっている弟子を心配してエアリエルが近づいてくる。
「い、いえ、大丈夫です!」
アスクは背を向けたまま応える。長袴《ながばかま》の前を膨《ふく》らました姿を見られるわけにはいかない。羞恥以前に自身の生命存続にかかわる危機だった。
「腹でも打ったのか? 遠慮するな。見せてみろ」
アスクは焦《あせ》った。汗が瞬時に乾くほどの恐怖を味わっているというのに、股間のものはますます隆々として長袴を突き上げてくる。
ああ、殺される、と思った時、近づく師匠の足が止まった。
「そこにいる奴! 出てこいっ!」
鋭い誰何《すいか》の声。呼吸数回分の間を置いて、土手の向こうにある茂みから娘が出てきた。
「ユ、ユリイカ!?」
エアリエルは弟子に口出しを禁じて、
「無断で稽古を覗《のぞ》いた者は、殺されても文句をいえないことは存じているな」
「は、はい……でも、あたし、もう修業はしていませんから……」
傭兵も広義において武芸者に含まれる。つまり磨いた芸を切り売りすることで生計を立てており、味方でも(場合によっては師と弟子の間でも)技を隠している。そして稽古を覗くことが一番秘密に迫る近道で、だからこそ互いに稽古場に近づかないという不文律があった。
「だったら、どうしてこそこそ隠れていた。何の用があってやってきた?」
「それは……その……」
ユリイカは口籠《くちご》もり、助けを求めるようにアスクを見た。
「……なるほど、そういうことか」
男女の仲に疎《うと》いエアリエルも、ユリイカの顔に顕れている色を見落としはしない。
川縁に歩み、脱ぎ捨ててあった上着を羽織ると弟子に向かって「夕飯までには戻れよ」と告げた。
ふたりは強い陽射しを避け、雑木林に逃れる。
「あ、あの……」
アスクがおずおずと話しかけると、ユリイカは、
「ごめん、手動かしながらでいい?」
地面に屈み込み、枯れ枝を拾い始める。
むしろありがたかった。向かい合っていたら気詰まりで何も話せなくなる。
ユリイカは手際よく落ちた枝を集めていく。乾いた小枝は火付きがよく、日常の煮炊きの燃料に使われる。
「薪《たきぎ》拾いに行くって抜け出してきたから……」
他所からきた子は里の家に預けられる。そのまま養子となったり、嫁や婿《むこ》として迎え入れられる例もあるが、大抵は折り合いが悪く、養われる側は肩身の狭い思いを味わう。アスクもエアリエルの内弟子になってからは里親に顔を見せていない。
アスクは何もいわず薪拾いを手伝う。幼馴染が同情を何より嫌うことを知っていたからだ。
ユリイカも礼をいわない。ふたりは黙々と枝を集め続けた。手に持ちきれないほど集まったところで、
「あたし、もう帰らないと……」
ユリイカは俯《うつむ》きぎみにそう告げた。
「明日、またこれないか?」
「え?」
「仕事先でさ、櫛《くし》買ったんだよ。おまえに土産と思ってさ。安物なんだけどね、あはは」
いきなりユリイカが抱きついてきた。戸惑う気持ちも強かったが、密着した若い娘の感触、鼻腔を衝く花のような香りにたちまち陶然《とうぜん》となった。
その日、アスクは夜遅くまで帰らなかった。
以来、ユリイカは足|繁《しげ》く稽古場に通ってくるようになった。エアリエルはよい顔をしなかったが、口に出して「こさせるな」とはいわなかった。
アスクも申し訳ないと思いつつも師に甘えた。ユリイカが昼間自由になる時間は無きに等しかったし、陽が暮れてから嫁入り前の娘が外出するなどもっての外《ほか》だったからだ。
アスクは師の心遣いに感謝していたが、ユリイカはよい感情は持っていないようだ。
「いつまで内弟子を続けるの」
「当分はこのままかな。駆けだしの俺には、家を構えるなんて無理だ。それに、いずれにしろ稽古を続けなくちゃならないし」
「もう充分強いじゃない。あの人から学ぶことなんてないわよ」
「俺なんてまだまださ。足元にも及ばない」
そうとぼけたが、ユリイカが自分と師匠の仲を勘ぐっていることは気づいていた。
弁解してもかえって嘘《うそ》くさくなる。だったら、とユリイカの手を握り締めるが、すぐ振りほどかれてしまう。
「男って自分に都合が悪くなるとそっち[#「そっち」に傍点]で誤魔化そうとするって聞いてたけど、本当だったのね」
「そ、そんなつもりは……」
「所帯を持つまで二度と体を許さないわよ。父親のいない子を産むなんて御免だからね」
きっぱりと告げられる。それが一時的ないやがらせか、駆け引きか、本心なのか、アスクには見当さえつかないが、惚《ほ》れた弱みで無理強いなどできない。
「わかったよ。次の戦で必ず大きな手柄を立ててみせる。そうしたら族長に願い出るから」
つんと鼻をそびやかしていたユリイカが表情を崩す。喜ばせるつもりだったのに、何故か泣きだす寸前に見えた。
「あたし、帰る」
「え? ああ……送るよ」
「いい! 噂になると困るから」
雑木林から走って去る。取り残されたアスクは当惑するしかない。恐らくは農作業のせいだろう、タコだらけの手の感触がいつまでも残った。
その夜、師匠の口から衝撃的事実が告げられる。
「おまえ、ユリイカがニルドの家にいることを聞かされているか」
激しく動揺した弟子を見て、エアリエルは「やはり」と呟く。
「ど、どういうことです!?」
「あいつの執念深さは尋常ではないということだ。そして復讐《ふくしゅう》を成就するためならばどんな汚い真似でもやってのける」
「わかりません! 師匠が何をいっているのか!」
「ならば、はっきりいおう。ユリイカはニルドの手先――いや女だ。おまえを窮地に陥れるために近づいた」
「そ、そんな……」
「おまえはニルドの女に横恋慕していたことになる。すでに噂は広まっている。向こうにおまえを討つ名分が立ってしまった」
決闘となれば、アスクが勝っても里から追放処分、殺されてもニルドに咎《とが》めはない。こうした心理的負担を抱えて戦うだけでも不利は明らかだ。
アスクが立ち上がる。
「逢って確かめるつもりか? 罠の中に飛び込むようなものだな」
「しかし!」
「自暴自棄になるな!」エアリエルが声を荒げた。「詰まらぬ諍《いさか》いで殺させるために、おまえを鍛《きた》えてきたわけではない!」
師匠の気持ちを考えれば短慮はならない。アスクはどっかと腰を下ろした。
「それでいい……傭兵は何があろうとも生き延びなくてはならぬ。生き残ろうとする努力を忘れてはならぬ」
四年前エアリエルが授かった言葉をそのまま弟子に伝えた。そしてアグライアが何故アスクを預けたのかを理解した。
「師匠……俺はどうすればいいんです……」
途方に暮れる弟子の姿はかつての自分だ。
「……つらいだろうな。身を切られるほどに。だが、永遠に続く苦しみなどない。いつかは笑える日が必ずくるはずだ」
それはアスクへの励ましであると同時に、未だ闇の中で彷徨《さまよ》う自分自身に言い聞かせる言葉だったのかもしれない。
あの日を境にユリイカは稽古場に訪ねてこなくなった。アスクも自分から出向こうとは思わなかった。
ニルドの企みに荷担したことにはきっと事情があるのだろう。騙されたことを怨みはしないが、問い質すこと自体がユリイカを責めることになる。
だからニルドが決闘を挑んでくるのを、技の研鑽《けんさん》を続けながらひたすら待ち続けた。
何の音沙汰もないまま時が過ぎ、新たな戦地の発表があった。そして出征する部隊の名簿に仇敵の名が記されていることを知った。
「どうしてニルドを加えたのです!」
エアリエルは発表を聞くや、即座にアグライアの元に乗り込んでいった。
事情は前もって耳に入れている。副頭目ならば上手《うま》く諍いを解決してくれると信じていたのに。
「膿《うみ》は早めに出しておかないとね」
アグライアの返事はひどく冷淡に聞こえた。
「膿とはどちらのことか! まさかアスクではないでしょうね」
「結束を乱したという点で同罪さ。はめられたとしても、あの子だって軽率の誹《そし》りは免れまいよ」
エアリエルとて副頭目の立場を理解できる。病床の族長に成り代わり一族を束ねる義務を背負っている。時として情を切り捨てる判断もしなくてはならぬのだろう。が、それでも裏切られた気持ちが和らぐことはなかった。
「わたしは弟子を守ります」
そう決意を表明すると、アグライアの前から足早に去った。足音が廊下の先からも響いてきた。
「――損な役回りだな」
間仕切りの向こうから声がかかる。
アグライアは夫バルドゥルの枕元まで移った。
「こんな成り行き任せの解決策しか思いつかないようでは、非難されるのも当然というものです」
〈サイガの赤鬼〉と恐れられるアグライアも、夫の前では弱気をさらけ出す、当たり前の女に戻る。
バルドゥルは妻の手を握り締めて励ます。かつて敵兵を震え上がらせた豪剣の遣い手とは思えない、涙を誘うほど弱々しい力だったが、アグライアは無理に微笑みを作り、夫に応えた。
「もし救いがあるとすれば、エアリエルが他人のためにあれだけむきになったことでしょうか。無意識に死を求めていたあの娘《こ》が、生きることに前向きになっている。それだけでもアスクを預けたかいがあったというものです。ただ、アスクひとりに貧乏籤《びんぼうくじ》を引かせる格好になることが心苦しくて……」
「あやつもおまえの息子だからな」
「勝手にそう思っているだけですよ。母親らしいことなど何ひとつしてあげていません」
「悪かったな。四年前、養子に迎えたいという申し出に反対して……」
アグライアは首を横に振り、
「あれでよかったのですよ。わたくしも実の息子を亡くしたばかりで気が弱っていました。それに、他所者を跡継ぎにするのかと、いらぬ邪推をされて一族の結束が乱れていたでしょうから」
バルドゥルは床に伏しながら息をつく。
「願った通りにはならぬな。エアリエルとアスクが結ばれてくれれば、八方丸く収まったものを」
「|男女の仲《これ》ばかりはね……互いに引き合うものがなかったのでしょうが、何よりエアリエルに女としての意識が欠けております。心の傷が癒えていないせいもあるのかもしれませんが、ひどく頑《かたくな》な女になってしまいました。正直、あの子を振り向かせる男などいないのかもしれません」
「アスクでも駄目か。猛々しさが取《と》り柄《え》のサイガの男とは違い、相手を包み込む度量の広さがあると思ったが」
「〈狼〉では不足なのでしょう。エアリエルが惚れるには、もっと器《うつわ》が大きくないと」
「〈龍の器〉とでも? それはまた気宇壮大な」
「親の欲目は承知してます。でも、激動の時代はすぐそこまで迫っているような気がします。〈龍〉の争いが起きた時、あの娘が大きな役割を演じるような気がするのです」
バルドゥルが笑う。床に伏せがちになってから声に出して笑うなど初めてではないか。
「だとすれば、サイガはそのために存続してきたことになる。ますます潰《つぶ》すわけにはいかぬな」
「ですから、あなたにはもう少し頑張っていただかないとなりません」
傭兵集団〈サイガ党〉は、結党以来二世紀を経て大きな力を蓄えた。知名度が上がり、戦の趨勢《すうせい》を左右すると謳《うた》われるようになった。が、それ故に独立を守ることが難しくなってきている。
「わしが倒れたら……わかっているな」
アグライアは夫の手を握り返し、
「ええ、必ず次の世代に受け継がせます。それがわたくしたちの務めですから」
戦が始まった。
それ自体に特別な意味はない。いつものように金を払ってくれる雇い主のため、憎くもない敵兵と刃を交える。自己の生存のため他者を食らう――そこに善悪の判断を持ち込む必要はない。単に仕事と割り切ることができる。強ければ、あるいは運に恵まれれば生き残れるし、両方の条件が不足していれば死ぬだけだ。
アスクは初陣を無事|潜《くぐ》り抜けて自分が傭兵に向いている、と思い始めていた。
しかし、自分にとって今度の戦は大きな転換点となるだろう。仇敵が戦場の混乱に乗じて何か仕掛けてくることは疑いようがない。
ニルドは狩猟機に乗ってきた。〈ケファルス〉――彼の叔父が所有していた機体だ。一族内で武具の貸し借りは自由だが、実績を残していない者が操兵の上位機種に乗ることは恥ずべきこととされる。
(技量が足りない分を機体で補おうってことか。里で挑んでこないわけだ。さすがに決闘では操兵を持ち出す名分が立たないからな)
姑息《こそく》という他はなかったが、従兵機――それも一族内で一番古い〈クレーア〉を借りているアスクには大きな不利だし、何より恥を恥と思わぬほどニルドの執念が凄まじいことを物語っている。
「背中ばかり気にしていると敵に殺されるぞ」
エアリエルが赤い狩猟機〈エウロス〉から声をかけてきた。アスクは戦場に赴く前、師が「そばを離れるな」と命じたことを思い出す。
「ありがとうございます」
礼をいうが、実のところ従う気はなかった。
(あの時、師匠の言葉に従ってニルドと剣を交えていれば、ここまでこじれることはなかった……)
副頭目やエアリエルが下手に介入すれば必ず一族内に遺恨が残る。誰も巻き込まず、あくまでも個人として決着をつけるつもりだった。
数日は戦場に立っても待機が続いた。使う側にすれば傭兵は使い捨ての駒だ。序盤からこき使われるのが通例だが、サイガ党は扱いが違う。値が張るだけの仕事をやってのけるという高い評価を得ている。それだけに戦の勝敗を決める重要な局面で投入されることが多いのだが、だからこそ不利だからといって簡単に退くことは許されない。
今回もその例にならった。いきなり激戦の渦中に放り込まれたのである。
狩猟機、従兵機合わせて二〇騎弱の操兵部隊が雪崩《なだれ》を打って敵陣に突っ込む。敵もまた巨人を繰り出し迎え撃つ。
巨大な剣、槍《やり》が唸りを上げ、鉄と鉄がぶつかり合う、耳をつんざくような剣戟が響く。
操兵同士の戦いでは、騎兵や歩兵が入り込む隙はない。紛《まぎ》れ込めば呆気なく弾かれ、倒され、無惨に踏みしだかれるのがおちだ。操兵が大陸最強の武具と呼ばれるゆえんである。
「ちっ、敵もなかなかやる!」
エアリエルは操手槽内で舌打ちした。
傭兵は騎士のように体裁にこだわらない。格好悪かろうが、卑怯と罵られようが、生き残るためにはどんな手でも使う。しかもサイガは桁《けた》外れに実戦経験が豊富だ。幼少から鍛え上げられて胆力もある。だからこそ大抵の軍勢は鎧袖一触《がいしゅういっしょく》で蹴散らすことができた。
しかしながら欠点もある。まず装備が古い。操兵は恐ろしく高額だ。維持費もかかる。軍役義務がある地方領主でも狩猟機一騎に従者役の従兵機一騎を所有するのが精々だ。如何《いか》に報酬が高いサイガでも十数騎の操兵を維持するのはかなり苦しい。大抵は使い古された老朽機だったし、整備も十分とはいえない。加えて、傭兵は個々人の技量に頼るあまり、集団戦を苦手としていた。
今戦っている相手は、まさにそれだ。最近増えてきた常設軍で、軍役でしぶしぶ集まった貴族とはわけが違う。普段から訓練を積み、集団戦にも長《た》けた戦闘の専門家揃いだ。そう簡単に負かすことはできない。
「アスク、油断するな!」
そばで戦っているはずの弟子に声をかける。
返事がなかった。あたりを見回してもアスクが乗るクレーアの姿はどこにも見当たらなかった。
本隊が敵軍と激戦を演じていた同時刻、アスクは少し離れた場所で、ニルドが乗る狩猟機ケファルスと対峙《たいじ》していた。
きっかけは敵軍の、やはり従兵機と戦っている際、勢い余って急斜面を滑り落ちてエアリエルから遠ざかってしまったことだ。
敵操兵は仕留めることができたが、斜面を登ることは難しい。迂回《うかい》しなくては合流できないと覚った時、ケファルスが顕れたのだった。
「ちょうどいい。ここなら邪魔は入らない。決着をつけさせてもらうぜ」
「望むところだ」
アスクは機体に槍を捨てさせ、代わりに剣を持たせる。上背のある狩猟機と戦うのなら槍のほうが合っているが、ここ一番の勝負である以上、生身で馴れた剣のほうが信頼が置ける。
「老いぼれ従兵機で狩猟機に勝てるはずがなかろう。てめえの死はどうあっても動かねえんだよ」
「俺は前の戦で狩猟機を仕留めたぞ。おまえこそ戦場で従兵機の一騎も斃したことがあるのか?」
舌戦はアスクが制したようだ。ニルドが怒声を轟《とどろ》かせて攻めかかってくる。
待ち構えていたアスクは、引き寄せた上で機体を飛び込ませる。
傍目には鈍い動きだが、相手の踏み込みも利用している分、ニルドには素早く映ったはずだ。
機体の左腕でケファルスが振り下ろす剣をかち上げ、右腕の剣で相手の腹を斬る。
切っ先から火花が上がる。鎧の継ぎ目を狙ったつもりだったが、わずかに逸れて装甲に傷をつけるに留まった。やはり、生身で戦うのとは違い、間合いに誤差が生じる。
ニルドは慌てて機体を退かせ、距離を置く。
「てめえ、改造《いじ》っているな、そのガラクタを!」
「さあね」
とぼけたが、実際従兵機に改造の余地はほとんどない。先の戦闘で破損した腕の覆いを、鍛鉄製にした程度だ。あとはくたびれていた部品をできるだけ状態のよい中古品と交換、それで所帯を持つために貯めていた金はきれいさっぱりなくなった。
(怯《ひる》んでくれているうちに勝負を決める!)
足踏桿が床につくまで踏み込む。ひと呼吸分置いてから心肺器が唸りを上げる。瞬きほどの時間で勝敗が決する剣士にとって耐え難いまでのずれ[#「ずれ」に傍点]が下位機種、老朽機の証《あかし》だ。
ガガガッ、と鉄火が両機の間に飛び散る。
(防がれた? 俺の得意技を!?)
明らかにニルドの操作は、アスクの出方を先に読んでいたものだ。
「へへ、気づいたか。てめえの技は一から一〇までお見通しだ。どうやってかはわかるだろ?」
「ユリイカを使ったな!」
「手ほどきしてもらったぜ。操兵には乗れずじまいだったが、剣の腕は俺らより上だったからな。いい師だったぜ。熱心に、手取り足取り、くくっ……てめえも、そうやって学んでいるんだろ?」
頭に血を昇らせるためと承知していても、体が熱くなるのを抑えられない。
「いいねえ、従兵機ってのは。歪んでいくてめえの面が丸見えだ。さあ、惚れた女に裏切られた悔しさを抱えて死にやがれ!」
ケファルスが剣を振りかぶりながら、突っ込んできた。
動揺していたアスクは反応が遅れた。
それでも体が動いたのは、エアリエルに気絶するまで扱《しご》かれ、刻み込まれた反射的反応だった。
里の境界ぎりぎりまでエアリエルが見送りにきてくれた。そして何度目かの詫びを繰り返す。
「済まない。おまえを庇ってやれなかった……」
「土壇場《どたんば》で俺の命を救ってくれたのは、師匠に教えてもらった技ですよ。こいつさえあれば、どこでも生きていけます」
アスクは笑顔で応えた。里に置き去りにしていくものは多かったが、それでも足枷《あしかせ》を取っ払ったような清々した気分だった。
エアリエルが苦笑する。
「アグライアさまがおっしゃったよ、おまえのことをサイガの色に染まる子じゃない、と。言い逃れではなかったのかもしれないな」
アスクは深々と頭を下げ、師匠の前から去っていった。途中一度も後ろを振り返ることなく、さっぱりとしたものだ。むしろエアリエルのほうが未練がましく見送っているようだ。
「おい、追うなら今のうちだぞ」と声をかける。
茂みが動き、ユリイカが姿を顕す。単なる見送りなどではないことは、剣を手にしていることでもわかる。
「見逃してくれるのですか? あたしはアスクに敵討ちを挑むつもりなんですよ」
「殺意もないのに、か?」
ユリイカが息を飲む。次いで口|惜《お》しげに顔を俯かせる。
「あ、あたし……もうアスクを殺す以外生きる意味なんてない……逆恨みだってわかってるけど……でも、でも!」
エアリエルはため息をつき、
「アスクに斬られたからといって償いにはならぬぞ。素直になってあいつの胸に飛び込め」
「できるわけがない! 騙して近づいて技を盗んだのよ! アスクだって許すはずがないわ」
「あいつは裏切られたとは思っていない。伝え忘れたかどうかは知らぬが、ニルドが知らない技があったそうだ。だから意表を衝いて返り討ちにできた、と感謝する口振りだったぞ」
「……見てない技があっただけです」
「わたしにはどうでもよいことだ」
エアリエルは突き放す言い方をした。
ユリイカが脇を駆け抜けていった。アスクのもとに向かうのだろう。
このあとどのような遣り取りが交わされるか、エアリエルには興味はない。サイガからふたりの若者が消えただけだ。傭兵を生業《なりわい》としていれば別れなど日常のことだ。
「さて……アグライアさまがそろそろご帰還になる頃だな。今度はどんな奴を拾ってくることやら」
エアリエルは知らない。この数日後、副頭目が里の近くで行き倒れになっていた若者を連れてくる。その男こそ彼女が生涯に亘《わた》って愛し、剣をもって支え続けた〈龍の器〉だということを――
[#改ページ]
COMMENTS
千葉暁
ちばさとし
「聖刻群龍伝」「聖刻群狼伝」シリーズ
「聖刻群龍伝」の外伝です。「群狼伝」に括られるのでしょうか。これって、とある連作長篇のプロローグだったんですけど、主人公はエアリエルだし、話完結しちゃっているし、全然先に繋がらないですね。
[#改ページ]
サイレント・コア番外篇
神隠し谷の惨劇
大石英司
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)強羅《ごうら》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)芝居|懸《が》かった
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)彼[#「彼」に傍点]は
-------------------------------------------------------
ことは、たかが腕時計に端を発する。というより、終わってみれば、腕時計に縁のある事件だった。部隊内に於ける個人携行装備に関して、隊員個々人の自由裁量が重んじられるサイレント・コアにあって、珍しく装備が禁止された腕時計があった。
国内有名メーカーが生産するGほにゃららの某シリーズの腕時計は、電波時計機能を内蔵し、もちろん気圧計に防水機能に温度計まで各種センサーを装備し、アウトドア派に人気のシリーズだった。
ところが、部隊使用の場合、唯一のネックがあった。シリーズのほとんどが金属バンドのものしか存在しなかったことだ。夜間任務の多い部隊に於いては、光を反射する金属製品の装備は極力避けねばならない。
同じ会社のシリーズに、プロほにゃらら、という似たような、いったいそれシリーズの差別化はどうなっているの? という人気製品があり、こちらはウレタンバンドも選択できる。しかし、部隊で使用テストを繰り返したところ、若干の問題が生じた。降雨時に水で濡れるとウレタン部分が反射するのだ。
もちろん、全ての装備品から金属やラバーを追放することなど不可能であるし、ナンセンスだ。しかし隊員の中には、ナイフのラバーグリップが反射するからと、わざわざ布きれを巻いている者もいる。
「昔のプロほにゃららには布製のもあったんだって。でも彼[#「彼」に傍点]は、ウレタンは蒸れるし、金属は肌に良くないし重いし、最近はチタンもあるそうだけど、とにかく、アウトドア・ウォッチに布バンドの選択肢がないのはなっとらん! だから俺は当分買い換えない、と」
「特に不便はしてないんでしょう? だったら良いじゃない」
「数年前から、すでに防水機能は失われているらしい。電池交換の時に解ったらしいけれど、メーカー修理には三週間かかるし、買い換えるだけの代金がかかるのはアホらしいから修理も止めたらしい」
という会話が、東京駅の丸の内口での集合時、二人の部隊指揮官によって交わされたらしいことは解っていた。
箱根へと向かう二台のバスには、事務方も含めて八〇名の自衛官が乗っていた。名目は単なる慰安旅行で、この日のために半年間旅費を積み立ててきた。
「で結局、あの人[#「あの人」に傍点]は来ないの?」
「予定はあったらしいよ。担当者が、それ良いですね、旅情サスペンスということで、ぜひ箱根一泊くらいしましょう、という口約束はあったらしいから。例によって口約束で終わったらしいけれ|ど《 ※1》。彼[#「彼」に傍点]、旅館とか嫌いらしくて、ブロードバンドがないと駄目だとかで。ま気が乗らなかったということだね」
という会話は、強羅《ごうら》の鄙《ひな》びた旅館に到着したあたりで交わされたらしい。
隊員の親睦を深めるための慰安旅行は何の予感もなく恙《つつが》なくスタートした。鬼の隊長はいないし、生蛇を喰わされる心配もなければ、飯盒《はんごう》を洗う必要もない。夕方以降は、ただ温泉に浸《つ》かり、飲んだり喰ったりして寝るだけだ。
夜明け時には、個々人体力作りのためのジョギングをするし、昼間はハイキングの予定も入っていたが、普段のハードな訓練には比ぶべくもない。何しろ鉄砲も爆弾も担ぐ必要がないのだ。ザックの重量をキープするために、わざわざペットボトルをザックに入れるのが慣例になっているほどだった。
唯一の懸念事項は天気だったが、これも彼らには関係ない。その程度の悪条件はあった方が良いだろう、と皆が思っていた。ただの観光地でのハイキングではつまらなすぎる。
そして、この手のどんちゃん騒ぎが性に合わないという女隊長殿は、夕食を終えると、自分一人で泊まる一泊二〇万円の超高級旅館へと引き揚げた。
今ひとりの小隊長殿は、娘にお休みなさいの電話を入れると、一〇時には自室へと引き揚げた。
今夜、旅館は部隊の貸し切りなので、多少のどんちゃん騒ぎは大目に見るつもりで、指揮官はとっとと布団に入った。そういうことだった。その時点で、一部に全身黒装束で外出準備を始めていた隊員がいたらしかったが、それは不問に付された。
状況に変化があったのは、隊員の半分が寝入った夜半過ぎだった。玄関の引き戸が激しく叩かれる音で皆が目を覚ました。
土門康平《どもんこうへい》三佐は、旅館の経営者が襖《ふすま》を開けた時にはもう上半身を起こしてライトを灯そうとしていたところだった。
「夜分に恐れ入ります……」ライトを灯すと、老齢な経営者が正座し、両手を付いて頭を下げていた。
「何事ですか? ご主人」
「はい、隣の旅館のお客様が、ハイキングに出たままお帰りにならないとかで、助けを求めて来ました」
「はあ、それは大変ですね。警察には報せました?」
「ええ。ただ、麓《ふもと》の方の道路で落盤事故が発生して、通行止めになっております」
「おかしいな、最後に降った雨は一週間前だと思うけれど」
「はい。ただそういう設定にしないと話が進みませんので……。あいや、昨日地震があったかと思いますが、それが原因ではと。それで、誠に申し上げにくいのですが、隊長様におかれましては、ぜひ捜索活動にご尽力頂けないかと」
「隊長? 自分は中堅警備会社の係長に過ぎません。協力と言われましても……」
「いえいえ、隊長様。民間会社の慰安旅行というのは世を忍ぶ仮の姿、そのご活躍は――」
「あんたその芝居|懸《が》かった台詞まわしは良いから」
「藤川魂蔵《ふじかわごんぞう》という男をご存じありませんか?」
「藤川さん?……」
「はい。あるいは土門様が当旅館を贔屓《ひいき》にして頂く以前、音無《おとなし》様が当旅館をご指名下さった経緯は?」
「ああ、思い出した。確かうちのボスが部隊を立ち上げる前に一緒に組んでいた、まとめ役の陸曹の推薦だったかな。定年後は温泉地に引っ込んだとか……」
「はい、部隊が毎年ここをご利用頂くのは、そのご縁でありまして、藤川はこの辺りの旅館組合の代表を務めております。まもなくやってくるはずですが」
「それは解りましたが、無理ですよ。雨も降り始めたみたいだし、この辺りは温泉地だから、あちこちで有毒ガスも出ているはずだ。昼間の捜索も、よほどの準備がないと難しいと思いますよ。だいたい、その遭難したというのは事実なのですか?」
「はい、夕方、四人で肝試しに出掛けたまま、一人が先ほど、山側の秘湯にたどり着き、たいそう怯えた顔で『黒猫を見た!』と絶叫した後、気を失ったそうです。どこをどう走ったのか、裸足《はだし》で、まるでかまいたちに襲われたかのように服も引き裂かれ、この世の者とは思えぬ風体だったとか」
「はあ……、地元の消防団とか……」
「はい、無論出動致しますが、状況がかなり異常なため、ここはぜひ専門家の助けも必要かと」
「部隊の許可を得る必要があります」
「すでに藤川さんが、その音無様とお話になられたご様子です」
枕元の携帯が鳴った。画面を見ると部隊からで、こんな週末の夜中だというのに、基地にいるらしいボスが電話口に出た。一言だけ「状況開始!」と言って切れた。
まあ、雨は想定内だからポンチョはある。本格的な山岳装備が必要だとは思えない。軍靴《ぐんか》がないのは痛いが、スニーカー程度でなんとかなるだろう。日本アルプスを縦走《じゅうそう》するわけじゃない。
「ガス検知器の類は消防団にありますか? たぶん、原因は有毒ガスでしょう。錯乱した理由もそれで説明が付く」
「聞いてみます。しかし、種明かしは早すぎやしませんか?」
「だってこれ五〇枚しかないんでしょう? となると、一〇枚目あたりで出動してなきゃならないし、物語の山場は三〇枚目あたり、その黒猫が、編集部からそれだけ入れてくれれば、話は何でも構わない、と言ってきたからとか。だいたい作者[#「作者」に傍点]は、パリでの骨の折れる取|材《 ※2》から帰国したばかりで、本当は帰りの機中でこれ書き上げるつもりだったけれど、爆睡しちゃったから、慌ててるわけでしょう? 本当なら出発前に上がっていたはずの原稿なのに。ああ、もう下らない説明で二〇〇字使っちまったよ」
「ではご用意をお急ぎ下さいませ」
土門は、ハイキング用のジーンズに着替えて階下の広間に降りた。驚いたことに、部下が全員、ザックの装備をチェックしていた。中には黒装束に身を固めている隊員も十名近くいた。あたかも、今すぐ出動するかのような出で立ちだった。
「おい、ヤンバル。お前その格好は何だよ?」
「いえ、夜間パトロールがスケジュールにあると聞いてましたので」
畳の上には四〇メートル・ロープ。無線機や暗視ゴーグルがテーブルの上に鎮座していた。
「バカだな、お前ら。こんな時間に露天風呂を覗いてもしょうがないだろう。猿しか入ってないぞ。だいたい何でガスマスクにエマージェンシー・ボンベまである……」
「最近の東京のギャルは夜更かしだと聞きました!」
「さすがにガス検知器まではないだろう?……」
「いえ、しつこい硫黄ガスにやられてミスを犯してはならない、と持参しました。万一官憲に追われるような状況になったら、ガス地帯に逃げ込め、と昔から言い伝えがあるそうで……」
比嘉《ひが》が、ザックの中からガス検知器を取りだし、腰のベルトに装備した。
「お前ら、それ装備品だろう?」
「はい、しかし事務方の協力がありましたので」
「呆れた奴らだ。ないものは何だ? あるものは何だ?」
「さすがに銃はありませんが、ナイフは、法定内刃渡り七センチのものを各自二本ずつ所有しています」
キャッスルこと大城雅彦《おおしろまさひこ》二曹が報告した。
「あと軍靴がありません。大半は私服ということになりますが、支障はないでしょう。銃や爆薬がない分自由に歩けますし」
「ガル、地図を入手しろ。あと四〇〇字以内に出動しないと話が終わんねぇぞ」
「はい、隊長。司馬《しば》小隊の方はどうしましょう?」
「予備戦力だ。寝かせとけ。だいたい五〇枚で司馬さんの出番までは無理だろう」
土門が自分のザックを担いで玄関に降りると、七〇歳前後の小柄な男が、マグライトを右手に持って土門の部下をどやし付けていた。
「藤川さんですか?」
「ああ、あんたがマイホーム・パパの土門さんか。あいにくだが、もう一個小隊にも出動を願った。車の中で話そう」
駐車場に、傷だらけのパジェロ・ミニが止めてあった。雨がしとしとと降っている。後部座席には、猟銃と思しき銃ケースが二個置いてあった。
「大事ですね」
「音無さんは元気かい?」
「ぴんしゃんしてますよ。まだお付き合いが?」
「ああ、正月明けに毎年、命の洗濯と言って訪ねてくるよ」
「それは初耳だ。ここは熊でも出るんですか?」
「いることはいるが、たいした大きさじゃない。それより猪の方が脅威だろうな。二日前、四人組のヤクザが事故を起こしてね、どうやら組の金をくすねて持ち逃げする途中だったらしい。エンストした車を捨てて山の中に逃げ込んだ。県警の機動隊が出て山狩りの真似事をしたが、諦めたよ」
「真似事?……」
「ガスが出る。たかがヤクザの交通事故ごときで命を落としたんじゃたまらんだろう。たぶんもう生きちゃいないだろう。だが、長年の謎に決着をつける良い機会だ」
「謎?」
「ああ、インターネッツにあるホームページとかいう奴か? なんでも全国心霊スポット・マップとかいうのがそこにあってな、うちのことが載っているらしい。巨大な黒猫が住んでいて、それを見た者は狂い死にするか、廃人になると書いてあるらしい」
「その手の話には、幾ばくかでもきっかけとなる事件や事故があったはずですが?」
「あったとも言えるし、なかったとも言える。自殺志願者はどこにでもいるし、ハイキングコースから外れると危険だ。だが、黒猫の話は作り話だろう。俺は猟で山の中にも入るが、猪よりでかいものを見たことは無い。問題はガスだけだろう。今夜行方不明になった連中は、その怪談話を聞いてやって来たらしい。何でも廃屋を探して山に分け入ったとか」
「あるんですか?」
「知らん。初耳だよ。旅館の女中にその話をして場所を聞いたらしいが、答えられる人間はどこにもいやしないよ。一応、連中が入って行ったらしい林道は解っているから、そこを中心に探してみよう。雨が激しくなれば、助かる者も助からなくなる。雨具もなく軽装で入ったらしいから」
猟友会や地元消防団の車が続々と集まり始めると、隊員を分乗させて出発した。とにかく、一番恐いのはガスだから、徹底して低地を避けるよう命じた。バディの距離を取り、前方バディの様子に細心の注意を払って進むよう。
ガルが地図のコピーを取り、おおよその捜索範囲の見当を付けた。日の出まで三時間少々だ。その間に見つかるとは思えなかったが、司馬小隊と、挟撃《きょうげき》する形で絞りこむことになった。
道中、土門は、藤川が左腕にプロトレックの腕時計をしていることに気付いた。しかも布製のバンドだった。
「年代ものの時計ですね。今じゃ、布製バンドは売ってない」
「ああ。息子が、みすぼらしいから、いい加減に買い換えろと言うんだがね。俺はこのバンドだから使っている。最近のアウトドア時計のバンドはやれウレタンだチタンだと風情が無くなった」
「確かに……」
消防車を先頭に、曲がりくねった林道を二キロほど上った所で、廃車同然のスカイラインが道を塞いでいた。
ナンバーは、旅館側が控えていた通りだ。だが、外装は、一〇年はそこに放置されていたように錆《さ》び付いていた。塗装もほとんどが剥《は》げ落ち、酷い錆が浮き出ている。だが、劣化しているのは外側だけで、マグライトで覗き込む車内は綺麗そのものだった。
まるで外側だけタイムスリップして来たみたいだ。
「この話、SFだったっけ?……」
「何だって?」
「いえ、独り言です。なんでこんなになるんだろう……」
「見ろ」
藤川がマグライトで車体の周囲を照らした。草花が見事に枯れていた。
「たぶん強酸性のガスか何かが出たんだろう。それで車体の表面を焼き尽くした。このほんの数時間の間にな」
「われわれも危険ですよ?」
「心配ない。猟犬もいるし、ガス検知器もある。風もそこそこ吹いているから、ガスが襲ってきてもすぐ流される。俺を信じろ。この辺りの地形には詳しい。ガスが出る場所もだいたいは把握しているつもりだ。ここは初耳だけどな」
藤川は、隊列をその辺りに止めさせ、雨合羽を着込み、銃のケースを降ろさせた。一挺は、何の変哲もないウインチェスターの猟銃だった。もう一挺は、なじみ深い狙撃銃だった。
「SIGのPSG−1じゃないですか? どこでこんなものを……」
「噂では、俺の他にもう一挺、こいつを買った人間がいるらしい。審査する警官が猟銃と狙撃銃の区別が付かなかった頃の輸入だ。今じゃ連中、ジェーンの年鑑を片手に審査しているから、軍用ライフルの輸入はほぼ不可能になったけどな。狙撃手はいるか?」
「はい。リザード! PSG−1を持て」
そこで十分間作戦会議を開き、地元人を含む七名のチームを六班編制して、散開して捜索に当たることになった。各自、マグライトにガス検知器、ロープに防毒マスクに暗視ゴーグルに無線機と、一通りの装備は揃っていた。
土門のチームは、山の頂上を目指し、そこから降りながら捜索することになり、司馬小隊は、今、山の反対側へと回っているところだった。
一五分もしないうちにそれは起こった。突然暗闇から銃撃音が響いた。何者かが喚《わめ》き散らしながら銃を発砲している。土門は全員に灯りを消させ、その場に伏せるよう命じた。
それからハンド・スピーカーで、自分たちは捜索隊で、君たちを助けに来たと呼び掛けた。だが反応は無く、ただ銃撃音が響くだけだった。谷間に銃撃音が木霊《こだま》して、発砲位置が良く解らなかった。雨のせいか、マズル・フラッシュも良く見えない。
「こちらバンマスからオールハンド。誰かマズル・フラッシュを確認できたものがいるか?」
「こちらガル、見えています。自分らの前方七〇メートル前後、角度にして三度ほどの斜面を登った場所です。オクレ」
「安全なアプローチが可能か? オクレ」
「ガスに対してという意味なら、可能だと思います。オクレ」
「よし、そこにボーンズがいるな。二人でルートを見極めて安全に接近。相手を捕縛せよ。恐らく極度の混乱状態に陥っているはずだ。殺すなよ。それと、今自分らは防弾チョッキは着てないことも自覚しろ。オクレ」
「ガル、及びボーンズ了解、アウト――」
土門は、相手の注意を反らせるため、二人の部下が接近する間、ずっとハンド・スピーカーで話しかけ続けた。こちらの声も谷間に木霊して激しく反響していた。なかなか弾がなくならない。さっきから三〇発以上も撃っていた――
しばらくすると、やっと銃撃音が止んだ。
「こちらボーンズ。対象者を捕捉、ひとまず黙らせました」
「どんな案配だ?」
「素っ裸です。パンツに至るまで。擦り傷多数。軽度の低体温症の傾向が見られますが、命には別状ないかと。黒猫が襲ってきたと喚いています」
その喚き声は、無線機を通じて土門の耳にも届いた。
「消防車の場所まで連れて来い。オールハンド! 引き続き、対象者の発見場所を中心に捜索を再開せよ!」
土門は、猟銃を背中に担ぐ藤川を先頭に、また黙々と歩き始めた。雨が激しさを増して行く。獣道を滝のように水が流れ落ちてくる。ジーンズの膝から下はすでにぐっしょりと濡れていた。
「藤川さん、さっきの話の続きですけれど、この辺りに怪談話はないんですか?」
「この話って、ホラーなのか?」
「らしいですよ。少なくとも恋愛小説じゃないから、とあっさり説明されてます。秘湯巡りのうさぎちゃんとか、あり得ない豪勢な料理をカメラの前に並べ立てて、レポーターが舌鼓を打つ、という美味しい話は一切ない、ということです。まそういう事前取材が出来れば、その手のシーンを描かないでもなかったけれど、取材の計画が沙汰止みになったからと」
「ふーん、意外に根に持ってんだな、それ」
「そうは言ってもねぇ……。ご本人、ほとんど昼間寝ているから取材旅行なんて滅多に出来ないし、いざ外に誘えば、俺、胃腸が弱|い《 ※3》から遠出は嫌だし、交通事故に遭遇するのも真《ま》っ平《ぴら》だからレンタカーやタクシーの類での移動も嫌だとか言うし。ああそれは良いんですけれど、あったんですか? 怪談話」
「それは解釈によるだろうなあ。余所者《よそもの》にとっては怪談でも、地元の人間にとっては守り神の話だったかも知れないし」
その瞬間、夜空にヒュルル!……、と信号弾が上がった。振り返ると、雨の中、一キロほど南の空を雲の中へ赤い信号弾が上がっていく。ガスを検知したという合図だった。
「こちらフィッシュ。ガス検知機が反応! 現在撤退中です」
藤川が寄越《よこ》せと、無線機を奪い取った。
「いいかフィッシュ、撤退するんじゃない! ガスと一緒に撤退する羽目になるぞ。そのまま前進して突っ切れ。ほんの一分、呼吸を止めて走れば、危険地帯を脱出できる。繰り返す、撤退は駄目だ」
土門は、無線機を取り戻すと「しばらく待機しろ」と命じた。
「信じて良いんですか?」
「ああもちろんだ。ここでの事故のほとんどは、まとわりつくガスと一緒に移動してやられるんだ。まるでこの土地を人間の侵入から守っているようにガスが人間にまとわりつく。下がっちゃいかん。それだけはな。最悪な判断だ」
「解りました。フィッシュ! 下がるな。前進しろ。しばらく息を止めて前進しろ。やばくなったら、マスクでもボンベでも使って構わん。ガルにポジショニングを確認させる」
土門小隊は、すり鉢状の盆地を囲むように捜索していた。そしてどうやら、その盆地の一番低い辺りに、ガスが溜まっている模様だった。
消防車の場所まで連行された男は、この付近に逃げ込んだ暴力団のチンピラだった。話は全く要領を得ず、会話も成立しなかった。ただ、巨大な黒猫に襲われ、みんな喰われて死んだ、と繰り返すのみだった。早くここから脱出しなきゃ、皆同じ運命を辿ると。鬼気迫る表情で、そう訴えたらしい。仕舞いには泣いて懇願するので、両手両足を縛ったまま、消防団員に車で麓まで降ろさせた。
唯一、まともな会話が成立したのは、四挺のトカレフを、マガジンが空になるまで撃ち込んだが、奴はびくともしなかったということだった。
土門は、部下全員に警告を発した。恐らく敵の正体は手負いの猪だろうと思った。猟銃を持つ地元猟友会の面々を盾にして、自分たちは前に出るなと命じた。生身の敵兵ほど恐ろしいものはいないが、自然の中でも野生の獣は十分すぎる脅威になる。
いずれにせよ、ガスに巻かれたら五分で窒息死する。残る三人の恐いもの見たさの観光客や、ヤクザが無事だとは思えなかった。おそらくは、この盆地のどこかで、六名の男女がガスに巻かれてすでに死んだはずだ。これ以上の生存者がいるとは思えなかった。
しばらくすると、あちこちで猟犬がうなり声を上げ始めた。ここに何かが潜んでいることは間違いないようだが、それにしても解せない話だ。それが地球上の動物であり、肺呼吸をしている限り、ここで暮らすことなどまず不可能だ。しかし何にせよそれは現にここにいて、われわれを脅かしている。その正体は幽霊だという方がよほど合理的だと土門には思えてきた。
藤川という男は、謎めいていた。最初は七〇歳前後だろうと思ったが、今は六〇歳にも届いていないのではと思われた。自分が来る前のサイレント・コア創成期に陸曹を勤めていたとしたら、やはり七〇歳は老けすぎだ。
うちの隊長は滅多に昔話はしないし、ましてやかつての部下の噂話もほとんどしないが、藤川の名前を聞いたことも僅《わず》かだった。陸曹の定年まで自衛隊にいたわけでもなさそうで、いったい何があって彼をこんな田舎に閉じ込めることになったのか興味があった。
周囲には、猟犬のうなり声がこだまするだけ。ブッシュマンハットの縁を雨水が滴り落ちていく。藤川もまた、着慣れた感じの雨具に鍔《つば》が広い麦わら帽子を被っていた。この格好なら確かに傘要らずだ。そして左手にマグライト、右手に藪を払うためのマチェットを握っている。背中に猟銃を背負うためのサスペンダーは、相当自分で工夫したらしく、ぴったりと身体にフィットしていた。
藤川の猟犬は、およそ猟犬らしからぬ柴犬の雑種らしかった。名前は「コロ」という雄犬だった。
二時半を回ったところで、消防団の面々に少々バテが見えてきたので、各自、ガスを警戒しつつ二〇分の休憩を命じた。本降りの雨は止む気配もなく、稜線《りょうせん》に出ても街の灯りも見えない。漆黒の闇だった。この中で、助けを求めて動き回るようなバカはいないだろう。マグライトのビームを掻き集めても、五メートル先がうっすらと見える程度だ。自分らの二次遭難の恐れすらあった。
休憩している間に、麓から無線機で呼び出された。内密の話だというので、土門は皆が休憩する木立から二〇メートルほど山側へと離れて無線に出た。自分たちが宿泊していた宿の経営者だった。さっきとはうって変わった調子で、せっぱ詰まった声だった。
「全員、ご無事ですか!?」
「もちろんです。異常はありません。何か内密なお話だとか?」
「藤川さんには聞かれたくない。今すぐ、全員山から降ろした方が良い。消防団や猟友会の連中も怯えているはずです。そこに長いこと留まっちゃいけない!」
「ご主人、異な事を仰《おっしゃ》る。捜索隊を出すよう求めたのは貴方ですよ?」
「そんな所へ行くなんて私も聞いちゃいなかった! そこは、とにかく不吉な場所です。古くから、『神隠し谷』と呼ばれている。過去に何人もそこで行方不明になっているんです。昭和三十年代には、ハイキング途中の中学生が二名行方不明になり、捜索に出た地元消防団の若い団員が二次遭難して、やはり帰って来なかった。悪いことは言わない。あんたさんだってご家族がいらっしゃるでしょう。酷いことになる前に、みんなを山から降ろして下さい」
「なぜ、藤川さんに聞かせたくないんですか?」
「そりゃ私の口からは言えん。彼が喋らないんなら、訊かない方が良い。とにかく、誰も責任は負えない。さっさと山を下りるんだ」
土門は、無線をいったん切ると、全員に対して呼び掛けた。
「野郎ども。そのままで聞いてくれ。最初、この話は、軽い旅情サスペンスだと聞いていた。司馬さんは、高望みはしないが美貌《びぼう》の女将《おかみ》役で良いと言ったし、俺は都会から休暇で来た捜査一課のベテランという設定だという話だった。もちろん、あの人[#「あの人」に傍点]が三度の飯より好きな、地底人だのフライング・フィッシュだの、タイムトラベルだののちょ〜常現|象《 ※4》とは無縁に話が展開するはずだった……。だが、状況は一変した。警戒しろ! どんな突飛なことが起こるかもしれん。何しろ、UFOはオカルトとは別物だ! と平気で抜かす奴[#「奴」に傍点]だからな。どんな仕掛けで来るか解らない。以上、俺の独り言ということで頼むわ。ただし、覚えておけ。ここは、神隠し谷と呼ばれているらしい」
土門は、皆の前に歩み出ると、藤川の真ん前に立ちふさがった。
「神隠し谷と呼ばれているそうですね?」
「さあ、私は知らんな……。ずっとここで暮らしていたわけじゃないし。しかし、君は現代最高の特殊部隊を率いていながら、その手の迷信というか、オカルトを信じるタイプなのかね?」
「物事には理由があるでしょう!?」
「なら説明は簡単につくじゃないか。ここは火山地帯で、あちこちで強い毒性を持つガスが噴出している。中には、強酸性のガスもあって、車体を一瞬にして錆だらけにする。そういうガスが、服や人間の骨まで解かしても不思議じゃないだろう。だから捜索隊はいつも何も発見できずに手ぶらで帰る羽目になる」
「私の部下を、よからぬことに巻き込むつもりじゃないでしょうね?」
「麓まで降りて、音無隊長に判断を仰ぐかね? ここは不吉な名前が付いた不気味な谷で、良からぬことが起こる予感があります、とでも訴えて」
痛いところを突いてくる。
「それには及びません。敵は、ヤクザと、あくまでも自然ですから。われわれは対処できる」
「それを聞いて安心したよ。休憩は終わりだ。捜索活動を再開しよう」
この暗闇が良くないんだ、と土門は思った。冷静に考えればあり得ないことなのに、さも起こりそうな錯覚を抱かせる。神隠しなんてそうそう起こるものじゃない。現にヤクザの一人は生還した。観光客の一人も。状態はともかく、彼らは神隠しに遭遇したわけじゃない。
ヤンバルこと比嘉と、リザードこと田口《たぐち》は、谷の中腹を移動していた。先頭は、地図読みの天才、ガルだった。
ヤンバルとリザードは、前後斜めに五メートルほどの距離を取って歩いていた。岩がごつごつしていて歩きにくいことこの上ない。ガスのせいなのか、草一本生えていない。絶えず硫黄の臭いが漂っているせいで、大量の有毒ガスに見舞われても気付かないかも知れない、とリザードは思った。
「俺、あの人[#「あの人」に傍点]のブロ|グ《 ※5》を読んでいるんです、毎朝」
「良く続くなぁ……」
「俺がですか? それともあの人[#「あの人」に傍点]が?」
「どっちもだよ」
「そうですよね。継続は力なりですよ。あんまり好きになれないんですけどね。おれ琉球人だから。あの人[#「あの人」に傍点]の先|祖《 ※6》にはだいぶ痛い眼に遭わされました」
「根に持つなよ、そんなこと。最近どうだって?」
「体調は良いみたいですよ。ビオスリーとかいう整腸薬のお陰で。何でも人生観が変わるほど効いているとかで。今年のパリでも絶好調で、夜は二度もレオンに行ったとか」
「レオン?」
「ええ。シャンゼリゼにあるブラッセル本店のムール貝のレストランです。あの場所にしちゃ安くて美味《うま》いんだそうです。普通ムール貝なんて喰いませんよね。あんな護岸にびっしりくっついている貝なんか……」
「美味いのか? お前海育ちだから知っているだろう?」
「さあどうだろう。俺たち、別にそんなゲテモノを喰わなくても、美味しい海産物がいくらでも食べられたから」
「ふーん、まああの人[#「あの人」に傍点]は、漁師町で生まれ育ったらしいからなぁ。そんなことよりヤンバル。いい加減、俺たちの装備する銃を固定して欲しいと思わないか? 俺はWA2000で十分間に合っているんだよ。新銃のトライア|ル《 ※7》なんて余所《よそ》の部隊にやらせとけば良いだろう」
「俺は好きですけどね。今度あの人[#「あの人」に傍点]にメールしときますよ」
前方でガルが右手の拳を上げて「停止」を命じた。
何かの気配に猟犬が吠え始めた。リザードは、膝撃ちの姿勢でPSG−1を構えた。ヤンバルが暗視ゴーグルを装着して辺りを観察する。
「何かいます……、右へ左へと走っている」
「何かじゃ解らないぞ……」
確かに気配があった。何者かが、右へ左へともの凄い速さで移動しながら、徐々にこちらへと迫ってくる。リザードは、その正体不明の敵に対して、PSG−1の引き金を絞った、一発、二発と。だがまるで手応えがない。こいつは変だぞ……、と思った。まるで空気を撃っているような感じだ。そこではたと気付いた。
「ガル! 下がれ、みんな下がれ。俺たちは、何かのガスを吸って集団幻覚に見舞われている。ここは危険だからすぐ下がれ! 敵なんかどこにもいやしない」
銃声がした一分後、土門はガルを呼び出した。
「どうしたガル? 何が起こった? オクレ!」
「後退しています! 何かがいたと思ってリザードが引き金を引きました。いや俺たちもいたと思ったんですが、うなり声まで聞いた。でも集団幻覚だったようです。ガス検知器に引っ掛からない何かのガスが出ています。オクレ!」
「負傷者はいないんだな。ちょっとでも高い場所まで下がれ! アウト――」
一〇分後、ガルのチームは、無事に高台まで脱出した。何かの気配は間違いなくあった。だが、それはこの世のものではなかった。
午前三時半。周囲の気配はいよいよただならぬものになっていた。ほぼ全員が軽い偏頭痛に見舞われていた。明らかに危険レベルだ。危ない場所に長時間留まり過ぎた。消防団も、そろそろ引き揚げるべきだと口々に訴えていた。
土門は、全員に撤収を命じた。藤川は反対はしなかった。どのみち、もう一時間もすれば辺りは明るくなる。行方不明者たちが生きているとは思えないので、あとは道路が再開してから、捜索隊を半日ばかり入れてお茶を濁すことになるだろう。そしてまた神隠し谷の伝説に新たな一頁が加わるのだ。
自然現象で説明できることばかりで、地元には迷惑だろうが、何となくこの森は、人を寄せ付けない雰囲気がある。このまま伝説に守られて人を寄せ付けない方が良いだろうと思った。きっと役場が、「ガス多発地帯に付き立ち入り禁止」の立て札でも立てるだろう。自分らは職責を果たした、と土門は思った。
稜線に沿う急な坂道を下り始める。二〇〇メートルほど戻った所で、土門は突然、悪寒に見舞われた。背筋が凍り付くような悪寒に囚われ、ウッ!? と呻きながら立ち止まった。辺りをゆっくりと見渡す。すると、右翼側の谷底で、何かが光っていた。それはあまりにも弱々しい光だったが、消えることもなく土門の視界に留まり続けた。最初は獣の瞳がマグライトに反射しただけかと思ったが、違った。その眼は一つしかなかった。
次の瞬間、それが何であるかが閃いた。文字盤だ!……。バックライトに照らされて緑色に輝く腕時計の文字盤に違いなかった。
「止まれ! あれを見ろ!」
だが、土門がそう言った瞬間、その輝きはふいに消えた。まるで電池が突然切れたみたいに、消えてなくなった。漆黒の闇が広がるだけだ。
「くそ、消えた!?……。誰か見たか? 腕時計の文字盤に違いない! 誰か生存者が、シグナルを送ろうとしていたんだ」
だが、それを目撃した者は、土門以外には一人もいなかった。
「俺は信じるよ、あんたのセンスを。ただ問題は、あそこはガスの溜まり場ということだ。防毒マスクは効果ないぞ。酸素ボンベを背負わないと」
土門は、ただちに散開した部隊から、水中任務で使用するエマージェンシー・ボンベを回収した。
消防団が持っていた酸素ボンベも二本あるが、こちらは生存者救出のために取っておく必要があった。
「四名選抜する。キャッスル、フィッシュ、ボーンズの三名と俺だ。水中と違い、皮膚呼吸でもガスを吸飲することになる。気を抜くなよ」
土門は、自分のザックを部下に預けて身軽になった。消防団のボンベをそれぞれフィッシュとボーンズが背負う。
藤川が、「何も指揮官自らが突っ込むことはないだろうに……」と呆れ顔で言った。
「俺しか見てない。きっとあれば、私への合図ですよ。助けてくれという」
土門は左手にガス検知器を持った。それぞれ単縦陣で、二五メートルの距離を持って前進する。先頭の一人が倒れたら、速やかにボンベを装着して、それを救出して引き揚げるという作戦で行くことにした。正直、生存者がいるかどうかは半信半疑だったが、シグナルを発した人間がいることは確かだ。
土門は、右手にマグライト二本を持って谷底へと降り始めた。硫黄臭が鼻を突く。検知器が反応してピピッと、軽度の警報を発し始めた。
やがてピー! という連続音に変わる。ここから先は、三分以内に酸素ボンベを着用するか、撤収するかせよ、という警告だ。
土門は、「ボンベ着用!」と後方に合図して、自らもボンベをくわえた。この呼吸の度合いだと、ボンベが持つのはほんの七分だろう。三分で現場に到着、四分で帰らねばならない。
腕時計の文字盤があれば、マグライトの光に反射するはずだ。やがて後方の三名が到着する。あちこちにマグライトの光を投げかけると、腕時計は見つからなかったが、折り重なるように倒れる人間を発見できた。男一人に女二人。酷い格好だ。髪は乱れ、服はあちこち裂けている。てっきり死んでいるかと思ったが、小柄な女が激しく咳き込んだ。
「生きている! 生きているぞ!」
酸素ボンベをあてがう。すでに四分が経過していた。脱出ルートへ戻るのは無理だった。安全なルートを探さなきゃならない。周囲を見渡していると、またもや、文字盤が緑色に光った。それは一瞬のことで、土門一人しか気付かなかった。
だが土門は、「あっちだ!」と、登り斜面を目指して走り始めた。腕時計目指してマグライトを当てる。すでに光はなかったが、反射はあった。間違いない! 腕時計は確かにそこに存在していた。
先頭を切って走り寄る。土門は、その時計を発見して愕然《がくぜん》とした。土の中から、骸《むくろ》となった人間の手首が露出していた。腕時計は、その手首に巻かれていた。女物の一回り小さいプロトレックだ。辺りを照らすと、頭蓋骨の一部が露出している。顔から下は埋まっている様子だった。
土門は、目印の黄色い旗竿をその場に建てた。そして、遭難者を担ぐ部下を安全な斜面へと誘導し続けた。
遭難者は三人全員が生きていた。酷い状態だが、生きている。だが、若い男が一人、「黒猫だ! 黒猫だ!」と叫び始めた。
土門は殴って黙らせたが、男を担ぐフィッシュが、震える声で、「隊長! あれを……」と視線をくれた。
振り返ると、眼前に、まるでそびえ立つかのように、黒猫の大きな両眼が迫っていた。いや、黒猫でないことはすぐ解った。地中からわき出すガスに火が点いて燃えているのだ。
二箇所から青白い炎がちょろちょろと上がっている。その炎の中心部には、岩のでっぱりがあって、それが猫の瞳《ひとみ》のような影を作っていた。そして、その炎の両側やや上方には、杉の低木が二本立っている。これが三角形の猫耳に見えたのだろう。
「しっかりしろ! 全部自然現象だ。行くぞ……」
一〇分後、周囲が白み始めた頃、やっと本隊と合流した。途中、更に三人のヤクザの遺体を発見した。こちらは一晩早い段階ですでに死んでいた様子だった。
朝靄《あさもや》が神隠し谷を覆い尽くす。時々靄が晴れると、土門が立てた旗が、風に揺らめいているのが解った。
岩の上に腰を降ろし、水筒の水を飲みながら、土門は地平線が赤く染まる様子を見守っていた。担架に載せられた若者が斜面を降りていく。
「藤川さん、あの辺りに入ったことがありますか?」
「ほとんどないな。風がないと、本当にガスが滞留する場所だ。なかなか近づけないよ」
「自分は、本当に見たんです。緑色に輝くプロトレックの盤面を。でも、あの遺体はどうみても一〇年はあそこに埋まっていた。時計の電池はとうに切れているし、生きていたにしても、ライトのボタンを押せる人間は付近にはいなかった」
「誰かが、君をご指名して合図を送ったということだろう。俺はもちろん信じるよ」
「まるで狐に化かされたみたいで……」
「さあ、俺たちも降りよう。まさか朝陽が昇るまでここにいたくはないだろう? その遺体は次の機会に回収するさ。必ずね」
「ええ、一風呂浴びたい気分です。明るい中で。暗闇は当分|懲《こ》り懲《ご》りだ……」
出発前、藤川はしばらく双眼鏡で、旗の辺りを観察すると、両手を合わせて拝んでいた。
「今あそこまで行くのは自殺行為かな……」
藤川が名残惜しそうにぽつりと言った。
「今日は勘弁して下さい。二重遭難が起きても、もうボンベは空ですから、とても助けになんか行けない。遺骨は逃げやしませんよ」
土門は、隊列の最後で、藤川と肩を並べて歩き出した。あれはいったい、どういういわれのある遺骨だろうかと土門は思った。女には間違いないだろうが、自殺願望で迷い込んだとも思えなかった。だとすると、彼女が自分や遭難者を助ける理由もないから。
「オチを聞きたいか? このプロトレックの」
藤川が、唐突に自分の左腕を上げながら口を開いた。
「え? そんなものがあるんですか?」
「そりゃあの人[#「あの人」に傍点]の口癖だろう。起承転結のないフィクションはドラマに値しない、大風呂敷を広げるだけ広げておちの一つも付けられないJJ・エイブラムスはろくなクリエータじゃないといつも言っているからな。だからエイリアス≠熈LOST≠燗]《こ》けたんだよ」
「はあ……」
「大昔の話だ。陸上自衛隊に、秘密の特殊部隊が存在した。部隊指揮官は、特殊部隊バカと言えるような陰気な男だった。彼の忠実な部下として、一人の陸曹がいた。彼はこの辺りの出身でね、訓練基地として実家が使えるからと上官に進言し、たまにここで縦走や野営訓練を行っていた。ある年のこと、三日間に及ぶ縦走訓練の最中、部隊はツキノワグマの親子連れと遭遇した。夜間のことで、歩哨《ほしょう》は立てていたが、為す術《すべ》はなかった。実弾が入った銃を持っていたのは指揮官独りで、彼はマガジンが空になるまで引き金を引いて、母熊を倒した。あとに、恐らくはその春産まれたばかりの子熊が残された。このままでは飢え死にするのは解りきっている。仏心を出した陸曹が引き取ることになって、その子熊を実家に連れ帰った。彼の実家には、大学に通う娘と、高校生の息子がいた。娘はやがてパーク・レンジャーとして役場に就職して家に帰ってきた。子熊はすくすくと育ち、さすがにいつまでも家に置いていられなくなった。自分で餌を獲るのはほとんど不可能だったが、殺すよりはと、ある日、その娘が軽トラックを借りて山へと返しに行った。
だが娘は帰ってこず、三日後、乗り捨てられ、錆び付いた軽トラックだけが発見された。さっきスカイラインが止まっていた辺りから二〇〇メートル頂上よりの場所だ。三日間捜索が行われたが、娘の行方は知れないままガスの危険があるからと、捜索は打ち切られた。諦めきれない父親は、休みの度《たび》にガスマスクやらの完全装備で山に入ったが、とうとう何も発見できなかった。このWWF世界自然保護基金への寄付が定価に含まれるプロトレックの特別仕様バージョンは、娘が就職した時に、父親へのプレゼントとして自分用と二個、ペアで買ってくれたんだ。実は今日が命日だった。きっと、娘が呼んでくれたんだろう」
「なるほど……。お嬢さんは、この山の守り神だったんですね……」
「そうかもな。礼を言うよ。私の任務も終わった。骨を拾ったら、やっとこれで娘の墓を建てられる」
満足感が、朝陽に照らされる藤川の顔に満ちていた。
獣道の下から、司馬が上ってきた。退屈で死にそうだ、と顔に描いてあった。
「また私の出番はなし? 差別してないわよね、あの人[#「あの人」に傍点]」
「さあ、俺、本人じゃないから。でも司馬さんは金持ちのお嬢様だから、キャラクターとして嫌われているかも知れませんね。俺は、温泉で一風呂浴びてゆっくり寝させて貰いますよ」
「そんな暇ないわよ。さっさと帰ってこいですって」
「音無さんが?」
「いえ、あの人[#「あの人」に傍点]が。俺が温泉でのんびりしている暇すらないのに、お前らを遊ばせておく余裕はない、ですって」
「これ二時間ワイドのラストシーンとしてどうなんでしょうね?」
「ご本人、五〇枚という制限の中じゃ、結構楽しめたみたいだから良いんじゃないの?」
土門はうんざりした顔で処置なしと両手を広げた。それが奴の反応だった。
しかし同志じゃないか? 土門君。君だって「習ってない漢字をテストに出す先生が絶対間違っている!」とごねる子供を前に途方にくれたことはあるだろう。いったい俺にどうしろと言うんだ……。
著者略歴 一九六一年鹿児島県生まれ&出身。子育て多忙中。三度の飯より超常現象が好きで、大の海外ドラマ・ファン。一度喋り始めると三日三晩、海外ドラマ・ネタで盛り上がるが、周囲に同好の士がいないのが悩みの種とか。本来、この物語のネタは「夏コミ(思い切り略すが解らん人はスルーして下さい)」用の二時間ワイド・ドラマのパロディ小説として思い付いたらしいが、たまたまC★N25の話があり、そちらへと切り替えることになった。正直、「今回、黒猫は必須アイテムですから」と担当編集よりリクエストされた時には、小動物に無縁な俺にどうしろと……、とぼやいたらしい。
■注釈■
※1 取材旅行、担当は本気で楽しみにしていたのに……。〈大石注:著者も楽しみにしてますた〉温泉取材は実現しませんでしたが、その後晴れて尾道取材を敢行した大石先生(と担当)。その成果は『女神《ミューズ》のための円舞曲《ワルツ》』に!
※2 先生は毎年、自費にてパリとファンボローのエアショーに足を運ばれるのです。頭が下がります。
※3 胃腸が弱いという割に、魚介類、特に甲殻類と貝がお好きな大石先生。脱稿後の打ち上げは、もっぱらオイスター・バーです。
※4 そのご興味が結実した作品が『死に至る街』『深海の悪魔』『ゼウス』などなど。『神はサイコロを振らない』『ぼくらはみんな、ここにいる』もよろしく!
※5 「大石英司の代替空港」
http://eiji.txt-nifty.com/diary/
※6 大石家のご先祖は「薩摩人」なのです。〈大石注:先祖ではなく本人、息子らも薩摩人です!〉
※7 サイレント・コアの名スナイパー・田口くんは『|虎07潜《タイガーゼロセブン》を救出せよ』ではWA2000(ワルサー、ドイツ)を愛用していますが、『死に至る街』ではSR−M110狙撃用ライフル(ナイツ、アメリカ)をトライアル中。ちなみにサイレント・コアは、『魚釣島奪還作戦』より新装備「パック| C 《コンベンショナル》」で訓練中。これは接近戦向きのサブ・マシンガン主体の武装から、長距離戦闘および威力に比重を置いた通常型戦闘向きの武器編成に移行するものです。新装備例:アサルト・ライフル(突撃銃)は銃身を切りつめた特殊部隊モデルのG36C(| H 《ヘッケラー》&| K 《コッホ》、ドイツ)。夜間の狙撃用にモデル・ハントのIR暗視照準器を装備したノーマル・モデルも装備。|SMG《サブマシンガン》は、H&KモデルMP5Kベース| P D W 《パーソナルディフェンスウェポン》(| B 《ブルッガー》&| T 《トーメ》、スイス)からMP7A1(H&K)に。
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COMMENTS
大石英耐
おおいしえいじ
「サイレント・コア」シリーズ
今だから書くけれど、C★NOVELSの創設期からの書き手の私は、正直、この猫がトレードマークの本を見た時に、新書判のシンボルとしていかがなものか? と思ったのですが、結果はこうして息の長い判型に成長して、何が受けるか世の中解らないものだな、と再認識している次第です。
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歴代受賞者は語る
C★NOVELS大賞受賞者アンケート
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)偶々《たまたま》
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大賞受賞者たちにメールで伺いました!! 同じ質問にも、作品同様バラエティに富んだ答えが……。あの作家の素顔が見えるかも……?
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受賞の報(編集長からの電話)を受けた場所はどこですか?
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多崎 国立科学博物館に恐竜の化石を見に行った帰り道、某JRの駅の上りエスカレーターの上で……でした。
九条 自分の部屋で、偶々《たまたま》風邪をひいて仕事を休み寝込んでいる時でした。
篠月 家です。ゴム手袋にマスクという完全防備で、壁の拭き掃除をしていました。
海原 自分の部屋です。
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そのときの第一印象は?
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多崎 嬉しさよりも不安の方が勝っていたように思います。一言で言うなら、「うわ、えらいことになった……」
九条 実は、熱で朦朧《もうろう》としていてあまりよく覚えていません(笑)。突然すぎて、頭が回らなかったせいもありますが、知らない声のおじさんがなにやら不思議な内容を喋ってる、夢にしてはリアルだと困惑し、通話を切ったあとで初めて慌てたことを覚えています。その後、熱も上がったような……
篠月 話している最中は、部屋の中をうろうろしながらひたすら「はい、はい」と答えていた記憶しかないです。
電話を切ってから、「え……あの作品が他人様《ひとさま》の目に?」と戦慄しました。
海原 現実を受け入れるのに精一杯だし、でも電話の向こうで何やら話は進んでいるしで、とにかく失礼のないようにしないと、とそればっかりでした。
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作家になった、という実感を感じるのはどのようなときですか?
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多崎 実は、いまだにあまり実感がありません。ある日突然、目が覚めるんじゃないかと今でも不安になります。これが夢なら、どうか起こさないでください。
九条 締切間近でしょうか。あとは、本屋で自分の本を見つけると、ああ作家になったんだなとしみじみ思います。時々、これが夢だったらどうしようと怖くなることもあります。
篠月 現在進行形で、いろいろカルチャーショックを受けているところですが、何といっても一番は素敵なイラストをつけてもらえることです! 投稿時には絶対なかったことなので。
海原 ゲラ、イラストラフ、見本など、何かしら送られてくると、夢じゃないんだなと思えます。
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初めて小説を書いたのはいつ、どんな話でしたか?
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多崎 初めて話を最後まで書き終えたのは、中学一年生の時でした。生徒会のメンバーが銃を持って敵と戦うアクションラブコメ……と言えば聞こえはいいですが、設定も文章もやってることも無茶苦茶で、とても小説とは呼べないような代物でした。あんなモノを友人達に読ませていたのかと思うと、こっぱずかしくて悶死しそうです。
九条 高校二年生の時、ノートになにか小説みたいなものを書いていた記憶はあるのですが、内容はまったく覚えてません。はっきりと記憶しているのは、三年生の時に書いた昭和を舞台にした推理小説で、無謀にも長篇でした。病院で起こった殺人事件に巻き込まれた義理の兄妹が探偵と助手役で、途中までは兄妹が仲良く事件を調べていくのですが、後半はかなり重苦しかったような……
今は読み返すのも恐ろしく、一応、今後のネタになるかもしれないからとROMに保存されています。
篠月 小学生の頃に何か書いた気がしますが、それは残ってないので抹殺するとして。記憶に残っているものは中学生の頃。
水と火を司る二つの種族が衰え、氷を操る力しか持たない一族が、元の力をとりもどすため、唯一生き残った火の種族の男から火を奪うことに。だがその方法とは……という、二世代にわたる因縁渦巻く昔話風ファンタジーを。
大学生までずっと書いてました。しつこい。しかも完結してません(笑)。
海原 二〇か二一歳ぐらいから。死んでしまった姉を生き返らせようと奮闘する少年の話でした。
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受賞するまでの投稿歴はどのくらいでしょう?
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多崎 初投稿から受賞するまでに、恥ずかしながら十七年もかかりました。
九条 約七年です。
篠月 まったく書かなかった時期もありますが、十年くらい。
海原 三年ぐらいです。
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どんな本を読んできましたか?
オススメはありますか?
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多崎 海外翻訳物の古典SFが好きでした。
小学生の頃の愛読書は『十五少年漂流記』。それからエドモンド・ハミルトンとアイザック・アシモフとレイ・ブラッドベリなどなどを愛読して育ちました。『火星年代記』は墓の中まで持って行く予定です。
あと、全然ジャンルは違いますが、引間徹の『塔の条件』は、今でも涙なくして読めません。
九条 歴史から推理小説、詩集、ファンタジーまでなんでも……特に高校時代は雑食で、図書室の本棚の端から順に借りてました。オススメの作品は『宮城谷昌光全集』と『江戸川乱歩全集』です。どれも好きなので全集(ダメ?)。C★NOVELSでは『デルフィニア戦記』と『皇国の守護者』、多崎さんの『煌夜祭』がオススメです!
篠月 オススメできるような本……うーん。好きな本はすすめられない本ばかりなのでコミックで。ファンタジーでひとつあげるなら、佐藤史生さんの『夢見る惑星』。SFですが。
海原 『竜馬がゆく』『国盗り物語』『スカイ・クロラ』『皇国の守護者』などなど。挙げていくときりがないので、これぐらいで。
[#ここから2字下げ]
憧れの作家は?
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多崎 やっぱりレイ・ブラッドベリです。ペンネームを真似するくらい、大好きです。
九条 田中芳樹先生です。魂をゆさぶられました。
篠月 白石一郎先生。尊敬する作家は数え切れないほどいますが、この人の短篇読んで小説観が変わったので。
は、畑違いですみません。
海原 森博嗣先生、宮部みゆき先生、司馬遼太郎先生。読みやすい文章を書かれる方には憧れます。漫画家なら、島本和彦先生、藤田和日郎先生。
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絶対、執筆に欠かせない! というアイテムはなんでしょう?
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多崎 悪癖ですが、煙草です。
あと煙草が吸えて、長居が出来て、店内にトイレがある店。近隣にある某コーヒーショップや某ファーストフード店の皆様、いつもいつも長居して本当にごめんなさい。
九条 春雨スープ。豆乳クッキー。コーヒー。全部食べ物です! しかも、大量に用意しないとすぐになくなってしまいます。
篠月 黒綿棒(耳掻き用)。酒も煙草もやりませんが、これだけはやめられません。
海原 水です。二リットルくらいあると安心します。それとキーボードを叩く音が嫌いなので、ヘッドフォンは必須です。
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受賞作の着想はどういう時にどんな状況で得ましたか?
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多崎 連作短篇という形は『火星年代記』から、仮面と闇に棲む魔物は『オペラ座の怪人』から頂戴しました。語り部の発想は子供達におはなし会をしている母から、世界構造はボーアモデルから着想を得ています。
九条 寝ている時に。こんな探偵事務所があったら面白いなと思って、枕元に常備してあるメモ帳に、睡魔と戦いながら書きました。案の定、ミミズがのたくったような文字でしたが、頭には残っていたので、無事に文章におこせました。
篠月 きっかけははっきりとは覚えていません。漠然とした感じを少しずつ固めていたのですが、『少林サッカー』を見て何かが吹き飛んで、笑い転げながら原型をノートに書き殴りました。
海原 動物番組を見ていたときです。鶏肉を丸呑みにする鰐を見ていたら、ふと、空想上の生き物って何食べてるんだろう、という疑問が湧きました。それを出発点に、竜の設定と、竜殺しの超人の設定を作ったような気がします。
[#ここから2字下げ]
受賞作で書いていて楽しかったシーンはどこですか?
[#ここで字下げ終わり]
多崎 話を書くこと自体が楽しいので、特に楽しかったシーンというのはないのですが、終章を書いている時が一番盛り上がりました。
九条 主人公が髪を切って軍服を着るところが楽しかったです。あと、獣化したエルが探偵事務所の屋上を走り回っているところも。
篠月 三(バカ)君主の会談、というか足の引っ張り合い。この辺ものすごく書くの早かったです。
海原 終盤の、苛立つココに気を遣うリリィ、というシーンです。
[#ここから2字下げ]
ご自身の作品のなかで一番好きなキャラは?
[#ここで字下げ終わり]
多崎 ジョナサン・ラスティです。
九条 受賞作ならウーヴェ・ローゼ。『魂葬屋奇談』なら時雨と関口円先生です。おじさん率が高いのは趣味の問題でしょうか?
篠月 リオとタイユウ。私の中ではこのふたりセットなのですが、どちらかあげるならリオ。
海原 ラダーマンです。一番書きやすいので。
[#ここから2字下げ]
初めて自分の作品が本になったのを見たときの印象は?
[#ここで字下げ終わり]
多崎 なんて格好いい表紙なんだ!
九条 ベタですが、感動のあまり言葉にならず、思わず両手をあわせて送られてきた本を拝みました。
篠月 言葉にするのは難しいですが、よく行く服屋さんに、自分の着た、しかも何度か洗濯済みの服が置いてあるような感じでしょうか。あれ? これ売り物? みたいな。
海原 表紙イラストが斜めに使われていたので、リリィの顔がまっすぐになっているのが印象的でした。
[#ここから2字下げ]
今後の抱負は?
[#ここで字下げ終わり]
多崎 出来るだけ長く話を書き続けて、沢山の作品を世に送り出したいです。機会があれば、火星が舞台の話とか、吸血鬼物とかも書いてみたいです。
九条 作品の世界観を広げるためには知識が必要なので、当面は様々な知識を得るために、執筆の傍ら勉強に励みたいと思います。読者の方の心に残る作品を、一冊でも多く書くことが目標。次回作は『魂葬屋奇談』の続きです。完結まであと少しなので、最後までお付き合いいただければ幸いです。
篠月 ……見当もつかないので、とりあえず精進することにします。
次の話は、限りなく中華に近い和風ファンタジーになる予定。なんのこっちゃらです。
海原 締め切りを守りきれる作家になりたいです。もう締め切りを破るのは嫌です。体に悪い。
[#ここから2字下げ]
読者のみなさんへ一言お願いします。
[#ここで字下げ終わり]
多崎 まずは受賞作に過分なお褒めの言葉を頂きましたことに、心から御礼申し上げます。
天に昇るほど嬉しい反面、生来の心配性が災いして、「これはまぐれ当たりに違いない」とか、「奇跡は何度も起こらないからこそ奇跡なのだ」とか、今まで感じたことのないプレッシャーを体験いたしました。それでも話を書くのは楽しくて。それを本にしていただけるとあれば、なおのこと楽しくて。受賞作が世に出てから今に至るこの一年余りは、私が生きてきた中で一番幸福な年だったと断言出来ます。このご恩、機《はた》を織ってお返しする――ことは出来ないので、物語を紡ぎ続けることで、少しずつお返ししていけたらと思います。
どうぞ、これからもご贔屓《ひいき》に。
九条 これからもみなさんに「楽しい」「面白い」「感動した」と言っていただけるようにがんばりたいと思います。
篠月 受賞作を読んでくださった方、ご苦労様でした。次もどうぞどうぞよろしくお願いします。
投稿されている方には、ひとつだけ。体力つけといた方がいいです。まじで。
海原 投稿を考えてらっしゃる方は是非C★NOVELS大賞へ。編集さんは大変に気を遣ってくださいますし、書きますといえば書けと言ってもらえますし、本当に出版計画に組み込まれます。それはとてもありがたい環境だと思うので、投稿を考えてらっしゃる方、是非是非C★NOVELS大賞へ。
[#ここから2字下げ]
意外なエピソードの数々、今後への決意表明をありがとうございました。
読者の皆さま、これからも応援よろしくお願いします!
[#ここで字下げ終わり]
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C★NOVELS大賞とるには座談会
〜傾向と対策〜
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ものすごーく[#「ものすごーく」に傍点]多い
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●最終選考メンバー●
生神 書籍編集部長。
中公のキアヌリーブス 40代♂
編長 ノベルス編集長4 0代♂
軍曹 ファンタジア創刊の祖 40代♀
女史 翻訳小説も担当の文学派 30代♀
殿下 ばりばりのガンダム世代 30代♂
番長 なんでも読む乱読派 30代♀
姉貴 頼れる論理派 30代♀
広報 おもちゃ大好き 30代♀
少年 少女漫画も読みます 30代♂
お嬢 恋愛小説も読みます 20代♀
特攻 キャラ命。BLも読みます 20代♀
編長 さて、大賞の選考ももう三回やってきて、なんとなく傾向と対策が見えてきたと思うので、「こういう原稿待ってます」
表明をしてみようと思う。
軍曹 こういうのはだめ、は簡単に思いつくけどね。ぶつぶつぶつぶつ……。
番長 すっごい外側の話ですけど、他人が読む、を考えていない字詰め・行組のプリントアウト。読みにくいものは、見た瞬間、落としたくなりますよ。
編長 ……というのは冗談にしても、読みにくさで、面白さが半減したりするから、損だ、と思った方が良いよな。
軍曹 前年度応募作の手直しで応募する人もいるけど、よほど根本的な問題が片づいていない限り、かなりの不利を承知で応募して欲しい。ハードルは確実に高くなります。
特攻 原稿に添付する「あらすじ」ですが、これは話全体をまとめましょう。「さて如何に?」「つづきは本篇で」ではあらすじとは言えません。
編長 「あらすじ」は、もちろんストーリーを紹介するものなんだけど、実はそこに、「書き手がこの作品をどうとらえているか」が如実に表れてしまうんだ。「あらすじ」がうまく書けないときは、構成に難があるか、世界が作り上げられていないか、と思った方がよいね。
特攻 あと、全体的に単純な誤字・脱字が多すぎます。投函前に少なくとも2回は読み直しましょう。それだけでも違うと思います。調べ物はちゃんとしましょう。熟語や慣用句、漢字に自信がない場合は、辞書をひきましょう。
軍曹 選択誤植はどの作品もものすごーく[#「ものすごーく」に傍点]多い。これ、些細なことと思うかもしれないけど、意外と損していることが多いよ。中世風の世界にいきなり「浅草寺」って出てきたときは正直ひっくり返った。
姉貴 せっ、せんそうじって一体――あ! 「戦争時」ですか???
軍曹 一瞬思考が止まるよね? 物語の世界にひたれてなんぼなのに。誤植以外でも世界観が徹底していないものは本当に興ざめ。フランス史をベースにしたと思われる作品で、主人公がヴィクトリアなんて名前でいいのか? いかにも中世です〜って世界を描いておいてロボット・電話・トランシーバーとか平気で出てくるのもあったな。漢字のない世界観で「大の字になって寝る」。平安風物で「スタートをきる」……(延々と続くので以下略)
番長 中世風って多いですよね。でもあくまで「風」なんですよ。やっぱりファンタジーというと思いつきやすいのかな。魔女がいて、竜がいて、武器は剣で……みたいな。
編長 ファンタジーの定番とはいえるけどね。
広報 あまりに多いから、出てきた時点で減点したくなりますよ。
特攻 できればライトノベル周辺の小説だけではなく、広く興味を持って、いろいろな種類の本を読むと良いと思います。何が自分の世界の糧になるかは分からないですよ。
軍曹 ラノベしか読んでない人は、ラノベを越えられない。もっと広く古典とかも読むべきだよ。
姉貴 本だけに限りませんよ。ファンタジーで説得力のある国や世界をつくる設定のモデルは現実の歴史や世界情勢・社会構造にこそあると思うんですよ。政治や戦争、宗教などは難しいテーマだけど、そこを適当に書くと、もうそれだけでその小説が全部ウソに読めてしまう。
編長 現実の世界なんて物語とは関係ない、とか思っちゃうかもしれないけど、それは大きな間違い。ファンタジーならなんでもありじゃないんだよ。
姉貴 他の小説から設定借りていては、新しい読者は獲得できないですよ。いろんなことに眼をこらし、耳を澄まし、情報を得てそれらからあなた自身の価値観をしっかり持ってオリジナルの国や世界を創造しましょう。
軍曹 創造した上で、説明は簡潔に。ヘンに文章をこねらずに、むしろ「あっさり」を心がけるべき。半端な文章力で捻った書き方をされた小説を、あなたが読者だとしたら読んで嬉しいのか?
番長 世界説明って難しいですけどね。
軍曹 惜しいと思うのは会話の使い方。会話はキャラクター性を最も反映させることができるのに、安易に状況説明のためだけに使用している作者が多い。代名詞による省略等も、もっと考えて使って欲しい。さっきの話とも関係するけど、ファンタジーの大半を占める剣と魔法の世界では、階級がもれなくセットでついてくる。「王国」であることが多いからね。それぞれの階級による「ふさわしい喋り方」が存在することを無視してはいけない。逆にしっかり押さえると、人間関係とか、組織の仕組みとか伝わってきたりするのに。
編長 描写ね〜。「速い」と書くな、速さを描け、と言いたい。
生神 おれがイヤなのは、一本丸々読まされて、でも、物語が始まらないってパターンね。
編長 あるある、今回も多かったな。こっから先が読みたいんじゃん! て思うやつね。確かにこのジャンル、長いシリーズになることも多い。デビュー作がそのままシリーズ第一作、ってこともある。でも、そういうものも、一巻目読み終えた時に、カタルシスがあるということが重要なんだ。成功しているものは、確実にみんなそうだよ。
殿下 おれは、やっぱり「またこのパターンか」が一番がっかりする。パクリなんじゃないか? て思うくらい、元ネタがわかるやつもあるしね。ばれないとでも思ってるのかな。こっちは大量に小説読んでいるんだよ。
お嬢 映画もそうですよ〜。
広報 漫画・ゲームも〜。
生神 オリジナリティはとても大事だけど、おれは設定だけでダメとは言わないよ。ありきたりの設定なのに、おもしろく読ませれば、それは文章力だったり、その作品自体の力として評価できると思うんだ。
お嬢 マニアしか相手にしてません、って感じのは苦手です。興味ない人も惹きつける、くらいの力を持って欲しいです。
女史 閉じた感じがしてしまうんですよね。また、読まれることを意識してない文章というのは、私はそれだけでだめです。未熟なのはしょうがないですが、気の遣い方である程度カバーできるものです。
少年 ぼくは読後感が良いのが好きです。もちろん、ホラーとかで「狙って悪くする」というのもあると思いますし、ハッピーエンドに限る、というわけではないですけど、この一本読んで良かった、と最後に思えるのが良いです。
姉貴 私も読書の満足度を決めるのは読後感だと思います。
番長 私は設定ですね。がっちりと組み立ててあるとそれだけでわくわくします。
特攻 私はキャラの魅力ですね! キャラ命。
軍曹 こういうメンバーだから、これまでの受賞作も、それぞれ魅力が違うよね。
番長 設定・構成力がずば抜けていたのは『煌夜祭』ですね。だんだん、特異な世界だってわかってきて、読み込んでも破綻が出ない……うっとり……。
特攻 キャラ賞が『ヴェアヴォルフ』ですね。つきぬけた感じでした。『光降る精霊の森』も少女としゃべる猫に惚れましたよ!
番長 私は特攻とは惚れるキャラコードが違うから、『ドラゴンキラーあります』のキャラが良かったな。
広報 『聖者の異端書』は強い姫君の魅力ですよね。現代的な女性と感じられます。
軍曹 『契火の末裔』は底しれぬ将来性を感じたんだよね。言葉にしにくいんだけど……熱≠ニでもいうのかな?
番長 そういえばこの間の第3回授賞式で、編集長が「大賞・特別賞は一位・二位じゃない」と言ってたけど……。
編長 その差は「完成度」かな?
特攻 大賞は文句なしで決まる感じで、特別賞は「反対を押し切っても担当したい!」って名乗り出る編集者がいる〈偏愛の賞〉って感じでしょうか?
軍曹 応募するからには、どうしてもこれ[#「これ」に傍点]を伝えたいという良い意味での「こだわり」をもって執筆に挑んでほしいな。この「核」が感じられる作品は、少々表現力や文章力に荒さがあっても確実に印象に残る。逆に、表現力もまあまあ、文章もそこそこ、設定もなんとなく、キャラもこんなもの――っていうすべてが平均点な作品が賞に結びつくことはありえない。作品のどこかに作者の熱を感じさせる一点集中突破は、デビュー作だけに許されるお得な作戦だよ。
編長 だんだんまとまってきたね。やっぱりこの賞は編集者が新しい作家と出会うための場として作ったものだ、ということだよね。作家が選考委員を務める賞は名誉やあの先生に読んでもらいたいという目的もあるだろうけれど。選考しているのは、君の仕事のパートナーになるかもしれない人なんだ、ということを考えて応募して欲しい。そのパートナーの心を動かすのは、応募作なんだ!
[#地付き](文中の写真は第3回最終選考会)
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夜半を過ぎて
煌夜祭前夜
多崎礼
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)身を反《そ》らせる
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夜明け近くになって、ようやく最後の客が引けた。テーブルの上に転がる酒杯や皿を片付けて、彼女はふう……とため息をつく。腰に手を当てて、身を反《そ》らせると、ゴキゴキッと骨が鳴った。肩も腰も痺れるように痛い。
「やれやれ……」
疲れが重石《おもし》のように両肩に乗っていた。一人で店を切り盛りするのも、そろそろ限界かねと思う。ちょっと前まではクタクタになるまで働いても、一晩寝ればぴんしゃんしていたのに、最近はベッドから起き上がるのが辛くてたまらない。まったく、あたしも歳を取ったもんだ。
女主人はランプに火を移してから、暖炉の火を落とした。底冷えする寒さが老骨に滲《し》みる。皿洗いは明日に回して、今夜はもう寝ちまおう。
彼女が店の戸に閂《かんぬき》をかけようとした、その時。遠慮がちに扉が叩かれた。
「すみません……」
若い男の声が聞こえる。
それに彼女は荒っぽく怒鳴り返した。
「今夜はもうカンバンだよ!」
「あの……」男の声は続ける。「一夜の宿を、お貸しいただけないでしょうか?」
「ここは酒場。宿屋じゃないよ」
「そこをなんとか」男は懇願するような口調で言う。「どの宿も語り部で一杯なんです。店の床でかまいません。どうか泊めていただけませんか?」
「しつこいね!」
怒鳴りつけてやろうと、彼女は扉を開いた。
そこに立っていた男は、古びた白い仮面で顔を隠していた。仮面は語り部の証《あかし》。それを見て、彼女は気付いた。そうか、明日は冬至だ。語り部達の祭――煌夜祭《こうやさい》が開かれるのだ。
「すみません、こんな夜分に。他に灯《あか》りがついている家がなくて……」
語り部は消え入りそうな声で言った。仮面で目元を隠してもなお、彼の困惑が伝わってくる。
女主人は語り部の白い仮面を見上げた。
気が、変わった。
「お入り」
彼女は扉を開き、語り部に道を開いた。
「床を貸すだけだ。食事は出ないよ?」
「ええ、ええ、ありがとうございます」
語り部は何度も頭を下げる。彼が中に入るのを待って、女主人は店の閂を下ろした。
語り部は店の中央に立ち、焼け焦げの残る天井を興味深そうに眺めている。
悪かったね。直したくても直す金がないのさ……と心の中で呟きながら、彼女は酒瓶を取り出した。新しい杯を二つ用意し、そこにケーナ酒を注ぐ。
「あ、おかまいなく――」
「あんたにじゃない」
老主人に一喝されて、語り部は首を縮めた。
「――すみません」
「いい加減、謝るのはよしたらどうだい? 男のくせにへこへこして、鬱陶しいったらありゃしない」
罵りながら、杯を空ける。酒の刺激が喉を灼《や》き、胃の腑へと流れ落ちていく。「同じ語り部でも、あの人とは大違いさね」
「――あの人?」
女主人の独り言を聞きつけ、語り部が問いかける。「どなたか贔屓《ひいき》の語り部がいらっしゃるんですか?」
「うるさいね」
感傷に浸っていた女主人は不機嫌に言い返した。「人のことを詮索するんじゃないよ。だいたい話をするのは、そっちが本職じゃないか」
「ええ、まあ、そうなんですが――」
語り部は困ったように頭を掻く。それを見て、女主人は苦笑した。こんなに気が弱くて、よく語り部が務まるもんだ。
「せっかくだ。何かお話しよ」
酒杯を空け、おかわりを継ぎ足しながら、女主人は言った。「煌夜祭には一晩早いけどさ。宿代がわりに何か面白い話を聞かせておくれよ」
「畏《かしこ》まりました」
語り部はにっこりと笑った。窓の外……酒場の看板を一瞥してから、再び彼女に目を戻す。
「それでは店の名にちなんだ話を一つ、ご披露いたしましょう」
彼は椅子に腰掛け、しゃんと背筋を伸ばした。
「十八諸島の世界を巡り、世界各地で話を集め、他の土地へと伝え歩く。それが我ら語り部の生業《なりわい》」
玲瓏《れいろう》とした声が前口上を述べる。その口調に引き込まれ、女主人は無意識に身を乗り出した。
「十一年に一度、花を咲かせるナンシャー島の神秘の花。その名はトロンポウ。これはそのトロンポウ咲き乱れる丘の上、出会った二人の語り部の物語でございます――
それは蒸し暑い、夏至の夜のことであった。昼の熱気がまだ残る丘の上には、白く美しい花が咲き乱れていた。
赤子の頭ほどもある大きな花。細長く尖《とが》った花弁がぐるりと外周を囲み、中央にある冠型の蕊《しべ》を抱くように、細い花弁が巻き上がっている。花からは熟成した酒のような、甘い砂糖菓子のような、えも言われぬ芳香が漂ってくる。この花こそ『ナンシャーの奇跡』と言われるトロンポウ……十一年に一度だけ開花する神秘の花だった。
トロンポウが群生する丘を少し下った所に、小さな火が焚《た》かれていた。若い語り部が野宿をしているのだった。彼は木の幹に背を預け、目の前にある焚き火をじっと見つめていた。
彼は待っていた。
約束の者が現れるのを、祈るような気持ちで待ち続けていた。
真夜中近く。風もないのにトロンポウの花がサワサワと揺れた。刃《やいば》のように尖った葉をかき分けて、黒い影が現れる。
その姿を見て、語り部は驚きのあまり、思わず腰を浮かせかけた。
突き出た鼻。ピンと尖った三角の耳。青く光る目。それはとても仮面とは思えない、本物そっくりな猫の頭だった。しかも前合わせ服の袖から突き出ているのは、黒い短い毛で覆われた猫の前足だった。人の服を着た巨大な猫は、後ろ足だけでひょこひょこと歩いてきて、焚き火の前で立ち止まった。
「私も火に当たってよろしいか?」
人の言葉だった。低くて渋い男の声だ。
「どうぞ」と若い語り部は答えた。「貴方も語り部ですか? それにしても――ずいぶんと変わった仮面ですね?」
「ああ、よく言われる」
猫頭は焚き火の正面に胡座《あぐら》をかいた。姿は猫そのものだが、動きは人のものだった。猫頭は長いヒゲをヒクヒクさせながら、興味深そうに若い語り部を眺めた。
「して、何故《なにゆえ》このようなところで夜を明かす?」
彼らの周囲に咲き乱れるトロンポウ。それは幾多の古い石碑を覆い隠していた。石碑は墓石であった。ここは墓場なのだった。
「丘を下れば村もあり、宿屋もあるであろう。何故《なにゆえ》、このような所で野宿をしておる?」
猫頭の問いに、若い語り部は答えた。
「人と会う約束をしているんです」
「ほう……?」猫は青の眼を瞬いた。「奇遇だな。私もなのだ」
二人の語り部はお互いの仮面を見つめ合った。先に焚き火の傍に座っていた語り部は思った。これが私が待っていた者だろうか。だとしたら、どうやって話を切り出そうか。何か良い話の糸口はないものか。戸惑ったような沈黙が続く。
「語り部に会うのは久方ぶりだ」猫頭はその前足で尖った耳をなでつけた。「せっかくだ。なんぞ話の交換でもしようではないか?」
「ええ、そうしましょう」
若い語り部は頷き、にこりと笑った。
「私は……頭蓋骨《トーテンコフ》と申します」
「名前か――」猫は腕組みをして、首を傾げた。「では、私のことは猫《ガト》と呼んでくれ」
ガトの姿形は猫そのもの。そこから年齢を読み取ることは難しい。だがその声と言い回しから察するに、自分よりも年輩者であることは間違いなさそうだ。そう考え、トーテンコフは口を開いた。
「若年者から語るのが煌夜祭の習《なら》い。ここは私が先に話しましょう」
「いや」と、ガトは首を横に振った。「今夜は夏至。煌夜祭が行われる冬至とは真反対の夜だ。ゆえに今夜は、年輩の私から話すことにしよう――
これは先々代の王が、まだ赤ん坊だった頃の話だ。いつになく寒さの厳しい冬のこと。ナンシャー島を流行《はや》り病《やまい》が襲った。
薬もない。治療法もない。病にかかったら最後、とにかく体を冷やして、熱が下がるのを祈るしかなかった。何日も続く高熱に、老人や子供がバタバタと死んだ。若くて力のある者でさえ、高熱に苦しんだあげく命を落とした。
トロンポウが咲くことで有名なベーベルの丘。そこに程近いハゼの村でも一人の若者が死んだ。弱冠十九歳の青年、名はソザジといった。
ソザジには将来を誓い合ったミルカという恋人がいた。ミルカはソザジの死を嘆き悲しんだ。彼女は来る日も来る日もソザジの墓に通い、墓石に縋《すが》って泣き続けた。
「もう一度、ソザジに会いたい」
「もう一度、ソザジの声が聞きたい」
何ヶ月という間、彼女はろくにものも食べず、寝ることもせず、朝も昼も夜もひたすら泣き続けた。娘は目に見えて痩《や》せていった。優しげな丸い頬からは肉が落ち、柔らかな体も痩せて、骨と皮ばかりになってしまった。このままではミルカも死んでしまう。村の者達はなんとか彼女を慰めようとした。が、それでも娘は、死んだ恋人の墓に通うのをやめようとはしなかった。
ある日、ミルカがソザジの墓の前で泣いていると、どこからかコリコリという奇妙な音が聞こえてきた。まるで骨を囓《かじ》るような音だった。
何の音だろう? 耳を澄ませるミルカの耳に、低い声が問いかけた。
「ソザジにもう一度会いたいか?」
ミルカは驚いた。その声は墓の下から聞こえてきたのだ。地を這うような低い声は、再び彼女に問いかけた。
「もう一度、ソザジの声が聞きたいか?」
「ええ、聞きたいわ」
ミルカは震える声で答えた。
「ソザジに……会わせてくれるの?」
「十一年の間、待てるか?」
「――十一年?」
「その間、お前がソザジのことを忘れなければ――ソザジはお前に会いに行くだろう」
藁《わら》にも縋《すが》る思いで、娘は頷いた。
「待つわ。もう一度ソザジに会えるのなら、いつまででも待つわ」
村に戻ってからも、ミルカはこのことを誰にも話さなかった。話せば正気を疑われる。そう思ったのだ。
それでもこの出来事は、娘に生きる力を与えた。彼女は少しずつ、少しずつ元気を取り戻していった。
ソザジを亡くしてから三年後。彼女はようやく笑顔を見せるようになった。五年後には新しい恋人が出来た。飲み屋の息子と結婚したのは、彼女が二十五歳の時。ソザジが死んでから七年が経っていた。
その翌年には子供も生まれた。ミルカによく似た可愛らしい女の子だった。次の年にはもう一人、今度は丸々太った男の子が生まれた。ミルカは旦那と共に飲み屋を切り盛りしながら、幼い二人の子供を育てた。
そしてソザジが死んでから十一年。
恋人の死を嘆き悲しんでいたか弱い娘は、二十九歳のしっかり者のおかみさんになっていた。毎日、仕事と子育てに追われ、ミルカは十一年前にした願かけのことなど、すっかり忘れてしまっていた。
そんなある夜のことだった。
「ミルカ……」
ベッドに潜り、眠ろうとしていた彼女を呼ぶ声が聞こえてきた。その声はどうやら窓の外から聞こえてくるようだった。薄気味悪く思いながらも、ミルカはカーテンの隙間から、そっと外を覗き込んだ。
「窓を開けちゃいけない。オレの姿を見てはいけない」
ミルカははっとして手を止めた。それは忘れもしない、ソザジの声だった。
「元気そうで本当によかった」懐かしい恋人の声は続ける。「君への思いは決して変わらない。今も変わらず君を愛している。オレは今も、いつまでも、君の幸せを祈っているよ」
ところが、それを聞いていたのはミルカだけではなかった。彼女の旦那もまた、寝室でその声を聞いていたのだ。ミルカの旦那は短気で怒りっぽい男だった。もちろん声の主がすでに死んだ者だとは思いもしなかった。
こいつは間男に違いないと、旦那は怒り狂った。彼は店から大きな肉切りナイフを持ち出し、寝室の窓を開け放った。
「オレの女に手を出すとは、この命知らずが! 切り刻んで挽肉にしてやる!」
彼の罵声に怯えたように、黒い影が窓から飛び離れた。丘の方へと駆けていくその後ろ姿を見て、旦那はぽかんと口を開いた。
「なんだぁ、ありゃあ?」
丘をすっぽりと包み込む夜の闇。そこに消えていったのは、大きな黒い獣の姿だった。
魔物だ。魔物がウチの人間を喰いにきたのだ。飲み屋の旦那はそう思いこみ、魔物の弱点である銀製のナイフを用意した。店を閉め、奥の部屋にミルカと二人の子供を閉じこめ、彼は待った。「魔物め、来るなら来い。目にもの見せてくれる!」
魔物が訪ねてきてから三日が経った夜。寝ずの番を続けていた旦那が居眠りを始めた隙に、ミルカは家を抜け出した。彼女は小さな灯りだけを持って、暗い丘を登っていった。
丘の頂上には石の舞台があった。それは昔々の偉人の墓だと言われていた。その周囲には無数の墓石があった。どこかにソザジの墓もあるはずだった。けれど、どれがソザジのものなのか。ミルカにはすでにわからなくなっていた。
「ソザジ、いるの?」
昼間でも近づく者のない不気味な墓所に立ち、ミルカは呼びかけた。
「ソザジ、いるなら返事をして」
「ミルカ――」
どこかから、悲しげな声が聞こえた。
「オレのこと、待っててくれなかったんだね。十一年、待つと言ったのに――お前、オレのことを忘れてしまったんだね」
「忘れちゃいないわ」ミルカは叫んだ。「一日だって、あんたを忘れたことはないわ!」
「では、どうして? どうしてあんな男と所帯を持った? どうして待っていてくれなかったんだ?」
「仕方がないじゃない! だって、あんたは死んじゃったんだもの!」
ミルカは悲痛な声で言い返した。
「私は生きていかなきゃならなかった。あの村で手に職もない女が、結婚もせず、一人で生きていけると思う? 私には両親もいたし、幼い妹もいた。彼らを食べさせていくためには――生きていくためには仕方がなかったのよ」
ミルカは顔を覆い、地面に膝をついた。
「今でもあんたを愛している。それは本当よ。何を言っても、もう信じて貰えないだろうけど……それだけは本当なの」
「言葉では何とでも言えよう」
低い声が答えた。月光を遮《さえぎ》り、彼女の前に立つ黒い獣――それは怖ろしい魔物の姿であった。
「たった十一年でさえ、お前は待つことが出来なかった。お前の心は移ろい、愛する者のことを忘れた。かくなる上は、私はお前を喰わねばならない。そうすることでしか、彼の心を慰めることは出来ない」
「喰われればいいのね?」ミルカは臆《おく》することなく魔物を見上げた。「それで信じて貰えるのなら――いいわ、私を食べてよ。そしてソザジに伝えて。私も貴方を愛してると。貴方のことを忘れた日はなかったと」
魔物は彼女の肩に手を置いた。鋭い爪が彼女の首に食いこむ。
「ソザジの声が聞けて、嬉しかったか?」
「もちろんよ!」
「この十一年間、お前は幸せだったか?」
「正直言うと、辛い時も悲しい時もあったわ。けど、今思えば幸せだったと思う。可愛い子供も授かったし。あの人は時々乱暴だけど、子供達には優しいの」
怖ろしい魔物に向かい、ミルカはうっすらと微笑んだ。
「下の子ね、男の子なの。名前、ソザジって言うのよ。貴方みたいに優しい子に育って欲しかったから――貴方の名をつけたの」
堪《こら》えきれず、彼女の目から涙が溢れる。
「再会の約束をしたあの日、私は貴方の分まで生きようと心に誓った。頑張っている姿を貴方に一目見て欲しい。よくやったと一言、貴方に誉めて欲しい。それだけを心の支えにして、私は悲しみを乗り越えた。あの約束があったからこそ、私は今も、こうして生きていられるの」
魔物の手が、彼女から離れた。
「――行け」
尖った爪の生えた指で、魔物は村の方角を指さした。「お前の家に戻るのだ」
「戻る――?」
ミルカは魔物を見つめた。その真っ暗な瞳は、なぜかとても悲しそうに思えた。
「私を食べるんじゃなかったの?」
「お前には子供もいる。お前を大切に思う旦那もいる。お前はまだ死んではいけない」
魔物は一歩、また一歩と後ずさっていく。
「行ってくれ、ミルカ。そしてもう二度と、ここに来てはいけない」
そう言い残し、魔物は闇へと消えていった。
「私、一生懸命生きるから」
サワサワと揺れるトロンポウの葉陰に向かい、ミルカは言った。
「見ていてね。私、ソザジの分も生きるから。これからも……私を見守っていてね」
ミルカは家に戻った。その後も旦那と二人で店を切り盛りしつつ、二人の子供を立派に育て上げた。上の娘は嫁に行き、下の子は嫁を貰って店を継いだ。やがて孫が生まれ、彼女は可愛らしいお婆ちゃんになった。
――そして、よく晴れた夏の朝。ミルカは眠るように死んだ。その顔は穏やかで、微笑んでいるようにも見えた。それは人生を全うした者だけが浮かべ得る、誇らしげな微笑みだったという……」
話し終え、ガトは目を閉じた。
「時は移ろい、人は変わっても、思い出だけは色褪《いろあ》せない。もう二度と取り戻せぬものとわかっていても、人は思い出を糧にし、困難を乗り越え、生きていくことが出来る。まこと人とは、不思議な生き物だ」
「同感です」トーテンコフは答えた。「その時その時を懸命に生きる人の姿には、いつも胸を打たれます」
「おお――わかって貰えるか?」
「ええ、もちろん」
トーテンコフは微笑んだ。
「それに十一年後の再会を約束するナンシャー島の魔物の話は、私も聞いたことがありますよ」
彼の言葉に、ガトは首を傾げた。
「ほう、どんな話だ?」
「ではお聞かせしましょう」
咳払いをして、トーテンコフは地面に座り直した。
「これは先の大戦前、ジン王がまだご存命であった頃のお話です――
第二輪界ナンシャー島では十一年に一度だけ、トロンポウという名の花が咲く。この花はまるで夢のように美しく、えも言われぬ芳香を放つ。トロンポウが開花する時期になると、この奇跡の花を見るために、世界中から大勢の人がナンシャー島に詰めかける。
その年も例外ではなかった。別々の島から渡ってきた多くの人々は、夜になると飲み屋に集まり、各島の噂話に興じていた。
「ナンシャーには変わった魔物が住んでるんだってね?」
酔っ払った男が、店の主人に声をかけた。「何でもそいつに頼めば、会いたい人に会わせて貰えるらしいじゃないか? しかも生きている人間にじゃあない。もうあの世に行っちまった人間にさ」
「へぇ、そりゃホントかい?」男の隣で飲んでいた、年輩の女性が口を挟む。
「本当に本当さ!」酔漢はドンと胸を叩いてみせた。「ベーベルの丘には石舞台がある。そこに遺骨を置いて、この人にもう一度会いたいと願かけをする。すると――どこからか声が聞こえるんだそうだ」
男は俯《うつむ》き、地を這《は》うような低い声で呻いた。「十一年の間、待てるか〜?」
聞いていた女がひゃあ! と声を上げる。怖がっていると言うよりは、面白がっているようだった。気付いているのかいないのか、酔っぱらい男はさらに低い声で続ける。
「その間、お前がこの者のことを忘れなければ、この者はお前に会いに行くだろう〜」
「もうそのへんにしといて下さいよ」
話を聞いていた飲み屋の主人は、困ったように顔をしかめた。
「そいつは本当の話なんですよ」
「え?」酔った男も年輩の女も驚き顔になった。「本当にいるのかい?」
「ええ、あたしのひい婆ちゃんが実際にそいつに会ったらしいですわ」
飲み屋の主人はやれやれと言うように、首を横に振った。
「けどねぇ、十一年も前に死んだ奴が帰ってくるんだ。あんまり喜ぶモンはいないですよ。十一年経てば人は変わる。死んだ者のことを引きずってちゃ、生きていけねぇですよ?」
「それもそうだ」
主人の言葉に、酔っぱらい客は頷いた。
「魔物ってのは人を喰う化けモンだって聞いてたけど、変わった魔物もいたもんだなぁ?」
そんな彼らの話を、熱心に聞いていた者がいた。それは十代半ばの子供――黒い仮面をつけた子供の語り部だった。
この語り部、幼いながら数多くの話を披露した。その子供らしからぬ堂々とした語りっぷりが気に入って、主人は店の片隅を貸してやっていたのだ。
子供の顔を隠す黒い仮面は、鳥の形に整えた石膏を真っ黒に塗っただけのひどい代物だった。語り部は自身の仮面を大鴉《レイヴン》と呼んだが、皆はその子のことをカラスと呼んで可愛がった。
魔物の話を聞いたカラスは、その夜のうちに店を出た。向かったのは石舞台があるというベーベルの丘だった。
季節は夏。海からの風が咲き乱れるトロンポウを揺らしている。真夜中近くになって、ようやく丘の頂にたどり着いた。そこでカラスは首から提げていた小さな布袋を取り出した。口紐を緩め、中に入っていたものを手の平に取り出す。
それは骨だった。古びた小さな骨の欠片《かけら》だった。カラスは迷うことなく、それを石舞台に置いた。
「この人ともう一度、話がしたい!」
すると、舞台を支えている大きな石と石の間から、黒い腕がにゅうっと伸びてきた。それは長い爪の先で骨をつまんだかと思うと、今度はしゅるりと岩間に消えた。石の隙間、目をこらしても何も見えない暗闇から、ポリポリと骨を囓る音が聞こえてくる。
その様子を、カラスは息を飲んで見守っていた。ややあってから、低い嗄れた声が聞こえてきた。
「ひどいね。私の大切な仮面、真っ黒に塗っちまうなんてさ」
それはまさしく、骨の主の声だった。
「魔女――?」
「十一年の間、待てるか?」
声音が変わった。低い、男の声だ。
「その間、お前がこの者のことを忘れなければ、この者はお前に会いに行くだろう」
「そんなに待てない」
臆することなく、カラスは言い返した。
「もうすぐ戦争が始まる。その前に、オレはもっともっと魔物のことを知らなきゃならないんだ」
カラスは石の隙間に身を乗り出した。
「お前、魔物だろう?」
「正体を知って、怯《おび》えないとはなかなかの度胸――」と言いかけ、魔物はふむと唸った。「なるほど、臆さぬはずだ。お前、魔物に育てられたな?」
「どうしてそれを――?」
カラスは目を真ん丸にして驚いた。が、すぐに納得したというように大きく頷く。
「そうか、魔物は喰った人間の記憶を受け継ぐんだな。十一年後に死んだ人が帰ってくるわけじゃない。死んだ者の記憶を受け継いだお前が、彼らに会いに行っていたんだ」
「賢いな、七番目の子」
魔物は暗がりで笑った。
「この私も魔物を喰ったのは初めてだ。面白い骨を喰わせて貰った礼に、一つだけ質問に答えてやろう。さあ、何が訊きたい?」
カラスは考え込んだ。訊きたいことは山ほどある。が、訊けるのは一つだけ。となれば、一番知りたいことを聞くしかない。
「魔物はなぜ生まれてくるんだ?」
カラスの問いに、魔物は答えた。
「思いを伝えるためにだ」
「思い? なんの?」
「質問は一つだけといったはずだ」
「答えが理解出来なきゃ、答えてくれたことにはならないだろ?」
カラスは口を尖らせた。フフ……と魔物は低い声で笑った。小さな語り部との問答を、楽しんでいるかのようだった。
「お前は賢い。きっとわかる時が来る。だが、どうしてもわからなければ、十一年後にここに来い。その時には答えを聞かせてやろう」
「そいつは、たぶん無理だ」
カラスは少し寂しそうに笑った。
「言ったろ、もうじき戦争になるって。十一年後なんて――オレはどこにいるか、生き延びているかどうかもわからない」
「嵐の到来を予期しているのならば、その間は身を隠し、嵐が過ぎ去るのを待てばよいではないか?」
「そうもいかない。王子の正体がオレの予想通りなら、放っておくわけにはいかない」
「なぜだ? 限りある人の身で、何故《なにゆえ》そんなに生き急ぐ?」
「限りある人の身だからさ。魔物と違って人には寿命がある。オレは姫に、必ず助けると約束をした。それを果たすためには、このオレの命、一秒だって無駄には使えないんだよ」
魔物は沈黙した。カラスの言葉の意味を考えているようだった。次に口を開いた時、魔物の声には悲しみが滲んでいた。
「ならばこそ、約束だ」
「だから――」
「なぜ魔女はお前を喰わなかったのか、知りたいだろう?」
カラスはうっ……と言葉を詰まらせた。
「どうだ、知りたいだろう?」
魔物はさらにたたみかけた。カラスは散々迷ったあげく、小さな声で嘯《うそぶ》いた。
「知りたくなんか、ない」
そう言ってから、ようやく子供らしく頷く。「ホントに教えてくれるのか?」
「無論だ」
「じゃあ、戻ってくる」
勝ち気な笑い。
「たとえ魂だけになっても、必ず答えを聞きに戻ってくる」
「うむ、約束したぞ」
「じゃ、十一年後にまた会おう」
カラスは丘を去り、その後、ナンシャー島からも姿を消した。
――それから九年後。ジン王が崩御し、カラスが言ったとおり、大きな戦が始まった。その戦が終った今でも、村人達は時折カラスのことを思い出し、その身を案じているという。けれど先の戦の後、カラスの仮面をつけた語り部を見た者は……残念ながらどこにもいない」
トーテンコフの話を聞き終え、ガトはふむと唸った。
「カラスはどうしたのだろうな。戦に巻き込まれ、死んでしまったのだろうか?」
「気になりますか?」
「賢い子だったからな。そう簡単に死ぬとは思えん」
トーテンコフはくすっと笑った。
「でも詮索はいけません。語り部は漂泊の者。どこから来てどこへ行くのか、尋ねてはいけない決まりです」
「おお、そうであった!」
ガトはしまったと言うように、狭い額を前足で叩いた。トーテンコフは穏やかに微笑むと、暗い夜空を見上げた。
「夏至の夜は短い。出来ればそろそろ答えをお聞きしたい」
「よかろう」ガトは重々しく頷いた。「昔々、大昔の話。七代前の王のそのまた七代前の御代よりも、もっともっと昔の話だ――
目覚めて一番最初に見たのは一人の女だった。まっすぐに伸びた白い髪。透き通るような青い目。
「私は語り部。翡翠《かわせみ》と呼んでくれ」
女はその顔を美しい翡翠の仮面で隠していた。
「おいで、黒猫。世界を見せてあげるよ」
その言葉通り、彼女は黒猫を外へと連れだした。彼らは蒸気船に乗り、幾つもの島を巡った。世界は広く、見るもの聞くもの、すべてが新鮮だった。
「この世界は十九の島から出来ているんだ」
ある夜、翡翠は木の枝で地面に輪を描きながら、黒猫に説明してくれた。
「真ん中に王島イズー。その外側の第一輪界には二つの島が回っている。さらにその外側の第二輪界には八つの島が回る。そして一番外側、第三輪界にも八つの島がある」
そこで翡翠は悪戯な微笑みを浮かべる。
「中心核とその周囲を回る十八個の電子。こうして絵にすると、まるでアルゴンみたいだな」
――あるごん?
「ああ、ごめん」
翡翠は少し寂しそうに肩をすくめた。
「いいんだ、お前にはわからなくても」
彼らは旅を続けた。世界中を旅しながら、いろんな土地で話を集め、それを別の土地に持って行った。にぎわう市場で、飲み屋の片隅で、翡翠は様々な話を披露した。人々はその物語に耳を傾け、見知らぬ土地での出来事に目を輝かせた。
黒猫はその傍らに座り、彼女のことを見守っていた。彼女との旅は楽しかった。彼女に拾われて、黒猫はとても幸せだった。
だがそんな黒猫にも、ひとつ気がかりなことがあった。それは決まって満月の夜。翡翠は一晩中、何かに魅入られたように、白く輝く月を見つめ続けるのだった。その頬に流れる涙を見て、黒猫はついに問いかけた。
――何故《なにゆえ》、泣く?
「あそこにはジェイドがいるんだ」
懐かしそうな、悲しそうな顔で彼女は月を見上げた。
「別れ際、『きっとまた会える』とジェイドは言った。『いつ会えるんだ?』と私は尋ねた。それにジェイドは答えた。『僕の計算が正しければ、多分三千年後に』と」
翡翠は静かに涙を流しながら、小さな声で呟いた。
「もう一度、彼に会いたい」
黒猫は悲しくなった。彼女には自分がいる。こんなに傍にいるのに、彼女はどうして泣くのだろう。ジェイドとは一体誰なのだろう。彼女にとって、彼はどういう存在なのだろう。それを黒猫が尋ねても、翡翠は寂しそうに笑うばかりで、答えてはくれなかった。
二人の旅は続いた。旅の空の下、ゆっくりと――だが確実に年月は流れていった。黒猫は驚くほど大きくなり、翡翠は年を取った。もとから細かった体は年老いて、枯れ枝のようになった。そしてついに病を得て、彼女は寝込んでしまった。
「私が死んだら、私をお食べ」
黒猫の頭をなぜながら翡翠は言った。
「そうしたら、いつまでも一緒にいられる。寂しくはないよ」
翡翠は死んだ。黒猫は彼女の骨を食べた。
そして黒猫は、彼女が胸に秘めていた思いを知った。
それを伝えなければならないと思った。けれどジェイドは人の身だ。人の身であるジェイドは、三千年もの間、彼女を待っていられるのだろうか。
そこで黒猫は人を試すことにした。
墓にやってくる人々の声。愛する者の死を嘆く声。黒猫はその骨を喰い、嘆き悲しむ人に言った。
「十一年間、待てるか?」
三千年ではない。たった十一年だ。
なのにほとんどの人間は、愛する者のことを忘れてしまった。かつて愛した者の声に「化け物!」と叫び、石を投げてくる者すらいた。
黒猫は失望した。人の心は移ろいやすい。ジェイドもきっと彼女のことなど忘れてしまっているだろう。受け取る者がいないのであれば、彼女の記憶を覚えていることに意味はない。自分が存在している意味はない。
そんな彼の考えを、改めさせる出来事が起きた。ミルカという名の一人の女に出会い、カラスという名の語り部に出会い、黒猫は気付いた。
永遠の命を持つ魔物とは異なり、人の命は有限だ。だからこそ人は思い出を懐かしみつつも、それを忘れる。そして、今この時を懸命に生きる。まるで夜空を横切る流星の如く、命を刹那に輝かせる。
その一瞬の輝きを思い出として留めること。それが永遠を生きる者として生まれた、自分の運命《さだめ》なのではないだろうか――
お前も闇に住まいし者ならわかるであろう? 人の刹那の生き様が、無限の闇に住む者の目に、いかに美しく煌めいて見えるか」
ガトの問いに、トーテンコフは頷いた。
「ええ――わかります」
何度も頷き、声を詰まらせながら、彼は言った。
「私も人に教えられました。なぜ私のような者が存在しているのか。これから私は何をすべきなのか。何のために生きていくのか。すべては――人が教えてくれました」
「うむ」ガトは満足そうに頷いた。「我らは人のようには生きられぬ。我らにとって時は無限だ。永遠に続く暗闇だ。だが約束はそれを区切る。無限を有限にしてくれる。だからこそ、私は人と十一年の約束をする。約束は絶望しかけた人に希望を与え、永遠の闇を生きていく私に、一瞬の光を投げかけてくれる」
ガトは夜空を見上げた。トーテンコフも空を見上げた。皓々《こうこう》と輝く月が、二人の語り部を静かに見守っている。
「カラスは貴方との約束を、忘れてはいませんでしたよ」
トーテンコフは静かな声で言った。
「あの人は私に言いました。『もし黒猫が待ちくたびれて、すべてを終わりにしたいと願っているのなら、彼を食べてやってくれないか?』と。私はそのために、ここにやって来たのです」
ガトはゴロゴロと喉を鳴らした。
どうやら笑ったらしい。
「実にあの子らしい気遣いだが――」
「杞憂だったようですね?」
「そのようだ」
ガトは再び愉快そうに喉を鳴らした。
「私はこの容姿だ。もう世界を回ることは出来ぬ。ゆえに私はここで待つ。三千年後、翡翠が再会を約束した者と出会うために。彼に翡翠の思いを伝えるために。私はここで約束の時を待つ」
「では私は――この話を各地に伝え歩きましょう」
二人の語り部はどちらともなく立ち上がった。トーテンコフは焚き火に砂をかけ、火を消した。あたりを照らすのは月明かりだけになったが、彼らには闇を見通す眼があった。
「この先、お前が七番目の子に会うことがあったら伝えてくれ」
別れ際、黒猫は言った。
「なぜ魔女がお前を食べなかったか。それはお前が似ていたからだ。お前のやせっぽちの手足と枯草色の髪は――彼女の身上に同情し、その身と命を与えてくれた唯一人の人間にそっくりだったからなのだ」
トーテンコフは頷いた。彼にはわかっていた。だからこそ彼女はシェン家の紋章である白鳥《スワン》の仮面を被らなかった。奇妙だ、面妖だと嘲笑されながらも、彼の遺品である仮面を被り続けたのだ。
あの――『ニセカワセミ』の仮面を。
「気が向いたら、また立ち寄ってくれ」と黒猫は言った。
「では十一年後に」とトーテンコフは答えた。「またトロンポウの咲く頃に参ります」
そして二人の語り部は、再会の約束をして別れた。
今でもベーベルの丘には石舞台がある。そこに愛しい人の骨を持ってくる者は跡を絶たないという。
十一年後、彼らは聞くだろう。忙しさに追われ、忘れかけていた者の懐かしい声を。『今でもお前を愛しているよ』と囁く、愛しい者の声を。そして彼らは悟るのだ。時は流れ、人は変わっても、愛しい思い出だけは決して色褪せないということを――」
語り部は話を終え、静かに頭を下げた。
女主人は詰めていた息を吐き出した。杯に残った酒を一気に喉に流し込み、空になった器で語り部を指す。
「で、その頭蓋骨《トーテンコフ》って語り部は、あんたのことなのかい?」
「さあ、どうでしょうか?」
語り部は、その形のよい唇に不可思議な笑みを浮かべた。彼の顔を隠しているのは、目の位置に黒石英をはめ込んだ白い仮面――古びた頭蓋骨の仮面であった。
「仮面は受け継がれていくものです。同じ仮面を被っていても、同じ者とは限りません」
「じゃ、お前にその仮面を譲った奴は死んだのかい?」
語り部は黙したまま答えない。
女主人は自分の失態に気付いた。
「いや、いいんだ。今のは忘れとくれ。語り部の正体を詮索するなんて、野暮天のすることさ」
女は塞いだように黙りこんだ。しばらくの間、彼女は空の酒杯を弄《もてあそ》んでいた。が、ついに耐えかねて、その口を開く。
「あんたと同じ仮面を被っていた語り部を知ってるんだよ」
彼が初めて話を披露した時のことを覚えている。つたない語りながらも、とにかく一生懸命だった。彼が何者なのか。彼女も客達も薄々感づいていたが――誰も何も言わなかった。
「あのころは楽しかった」
けれど先の大戦で王都は燃え、多くの常連客が命を落とした。店の天井には、その時の火事で出来た焼け焦げがまだ残っている。
「素直で可愛い子だった。たとえ本当に魔物だったとしてもかまわなかった。あんなことになるなんて――本当に不憫《ふびん》でならないよ」
女主人は空の器を置き、その横に置いてある手つかずの酒杯を指で弾《はじ》いた。
「この酒はね、あたしが生涯に唯一人、本気で惚れた奴のものなんだ。おかげで今の今まで、独り身で通しちまった。まったく……馬鹿な話さ」
彼女はその杯を掲げ、ぐっと一息に飲み干した。どん! と音を立てて酒杯を置き、誰へともなく呟く。
「なのに何も言わずに出て行きやがってさ。出会ったことを悔やみはしないが、一言ぐらい文句を言わせろってんだ」
「貴方がそこまで惚れ込むなんて、きっと素晴らしい語り部だったのでしょうね?」
「う……」
女主人は喉の奥で唸った。その顔が赤いのは、酒のせいばかりではないだろう。余計なことを話してしまったと言わんばかりに、彼女は乱暴に右手を振った。
「さ、あたしはもう寝るよ。あんたは適当に床で寝な。夕方の六時には店を開けるから、それまでには出てっておくれ」
返事も待たず、彼女は奥の小部屋に向かった。立て付けの悪い木戸を開き、部屋に入ろうとした。その時――
「シャリナ、あんたは本当にいい女だ」
背後から懐かしい声が聞こえた。
女主人は驚いて振り返った。狭い店の中をいくら眺めても、声の主は見あたらない。気の弱そうな語り部が一人、椅子に腰掛けているばかりだ。
「あんた……今、なんか言ったかい?」
彼女の問いに、語り部はかすかに微笑んだ。
「いいえ、何も」
柄にもなく昔話なんかしたせいだと、彼女は思った。でなければ、酔いが回ったに違いない。女主人は狭い寝室に引っ込むと、夜着に着替え、小さなベッドに潜り込んだ。
もうすぐ夜が明ける。明るくなる前に寝てしまうに限る。そう思いはしても、なかなか眠りは訪れてくれなかった。冷たいベッドの中、目を閉じて身を縮めていると、瞼《まぶた》の裏に懐かしい面々が蘇ってくる。その面影に、彼女は心の中で呼びかけた。
みんな、どこへいっちまったんだい? あたしを置いてきぼりにして、みんな、どこへ消えちまったんだい? ずるいよね。思い出の中のあんた達はちっとも年を取らないのに、あたしだけ、こんな婆さんになっちまった。ああ本当に……どうして思い出ってやつは、いつまでたっても色褪せないのかねぇ――
物音がして、彼女は目を覚ました。知らない間に眠っていたらしい。窓から差し込む光は赤みを帯びている。もう日が暮れる時間だ。
早く起きて昨日の後片付けをしなきゃ。開店の準備もしなきゃ。そうは思っても、なかなか起き上がることが出来ない。薄い毛布を頭から被ったまま、彼女は店から聞こえてくる物音を聞いていた。
やがて扉が開く音がした。人が出て行く気配を感じ、彼女は慌ててベッドから這い出した。夜着のまま、店に繋がる木戸を開く。
店内はがらんとして、人影はすでになかった。昨日の洗い物はすっかり片付き、乱れたテーブルも整っている。あの語り部の仕業だろう。
「なんだい、宿代のつもりかね……」
呟きながら、ふとテーブルの上に目をやる。
そこには一枚の黒い羽根が置いてあった。
それは、大きな鴉の羽根だった。
女主人はそれを引っ掴むと、店の外へと飛び出した。
表通りは帰路につく人々と、城に向かう語り部でごった返していた。戦で焼け落ちた王城が再建されたのは、今から二十年あまり前。そこには現在十八諸島を治めるイエシン・クラン・イズーが住んでいる。前王ゼルを倒したこの王は、王家イズーの血を八分の一だけ引いているという。
イエシン王は話し好きで、煌夜祭にやってくる語り部に多くの褒賞を与える。そのため冬至に王都エルラドを訪れる語り部の数は、年を追うごとに増えていた。
「トーテンコフ!」
女主人の大声に、道行く人々が何事かと彼女を見る。そんな中、夕闇に紛れそうになっていた一人の青年が振り返った。黒い長い髪を首の後ろで一つに束ね、古びた白い仮面を被った気弱な語り部――彼に向かい、女主人は叫んだ。
「来年も泊まる場所がなかったら、一晩だけ床を貸してやるよ!」
白い仮面の語り部は頷いた。
彼女は皺だらけの顔を泣き笑いで歪め、大きく手を振った。
「約束だよ!」
約束――それは暗闇に光を灯すもの。
語り部は再び頷いた。だがその姿は雑踏に紛れ、見えなくなってしまった。
「さぁて――」
彼女は長年守り続けた店の看板を見上げた。そこには眠たそうに欠伸をする黒い猫の姿が描かれている。
「急いで支度しなくちゃね」
王都エルラドにある老舗の酒場『あくびをする猫亭』。その女主人は足取り軽く、店の中へと戻っていった。
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COMMENTS
多崎礼
たさきれい
『煌夜祭』「〈本の姫〉は謁う」シリーズ
オマケです。ネタバレしてますので、本書掲載の短篇と本篇「煌夜祭』を読んでから、ご覧いただけますようよろしくお願い致します。
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オルデンベルク探偵事務所録外伝
エルの遁走曲
九条菜月
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)エルの遁走曲《フーガ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)| 黒 猫 《シュヴァルツ・カッツェ》
-------------------------------------------------------
登場人物紹介
エル…………人狼の少年。曲芸団で見世物になっていたところを、アルに救われる
ジーク………エルの保護者。オルデンベルク探偵事務所に所属する探偵
アル…………オルデンベルク探偵事務所の所長。ジークにエルを預けた(押しつけた、とも言う)張本人
ディアナ……酒場「黒猫」の女主人
マリーエ……オルデンベルク探偵事務所所長秘書
オルデンベルク探偵事務所とは
19世紀末のベルリンに設立された探偵社。人族の急速な発展の陰で居場所をなくした人ならざるものたちと、人族の共存を目標に活動する。
オルデンベルク探偵事務所録外伝
エルの遁走曲《フーガ》
[#地付き]九条菜月
辺りは深い闇だった。
星の一つも輝かず、月の柔《やわ》らかな光すら欠片《かけら》も見当たらない。まるで窓も洋灯《ランペ》もない部屋に閉じ込められたようで、不安にならずにはいられない。唯一の灯りといえば、間隔《かんかく》を置いて設置された瓦斯燈《ガースとう》くらいだろうか。だが、その光も漆黒《しっこく》の闇の中では心もとなく、今にも消えてしまいそうなほど儚《はかな》げに見える。ないよりはましだが、胸の内から溢《あふ》れそうになる恐怖を緩和《かんわ》してはくれない――そう、エルは石畳の道を走りながら思った。
癖の強い黒い髪が乱れるのも構わず、エルは必死に手足を動かす。大きな黒い宝石のような瞳には、拭《ぬぐ》い切れない恐怖の色が宿っていた。まるで恐ろしいものに追い掛けられているようだ。
実際、少年の背後からは奇妙な音が聞こえていた。馬が蹄《ひづめ》で地面を蹴《け》った時の音に似ている。先ほどから、その音ばかりが追跡し続けてくるのだ。いななきの声一つ聞こえないあたり、それが馬かどうか怪しいものだが。
エルは走りながら思う。
どうして、こんなことになったのか、と。
今から数時間前までは、馴染《なじ》みの女性が経営する酒場で養父《ちち》の帰りを待っていたはずだったのに。夕方、いつものように酒場に行き、夕飯を食べたあと、残り物を酒場の裏口辺りをねぐらにしている黒猫にあげて。
心細さと憔悴《しょうすい》で、双眸《そうぼう》に大粒の涙が滲《にじ》む。
本当に、どうして、こんなことになったのか。
「助けて、ジークッ」
悲鳴のように養い親の名前を呼ぶ。だが、助けを求める声は闇に吸い込まれ、いつ終わるともわからない鬼ごっこは続く。
エルが謎《なぞ》の生き物に追い掛けられる数時間前の話である。季節は冬の女王が姿を隠し、忘れ物のように残された雪が融《と》け終えた頃。昼間は太陽のおかげで暖かいが、夜半ともなればまだ吐く息は白く、喉《のど》を通る空気は氷のように冷たい。
一九〇一年、独逸《ドイチュラント》帝国首都ベルリン。酒場街の一角では、夜にも拘わらず皓々《こうこう》とした明かりが行き交う人々の横顔を照らしている。酒と束《つか》の間の憩《いこ》いを求め、仕事に疲れた大人たちが楽しげな笑い声を上げながら、思い思いの扉を潜《くぐ》って行く。毎日のように繰り広げられる光景を、七歳くらいの少年――エルは酒場の窓からぼんやりと眺めていた。頬杖《ほおづえ》をついて床につかない両足をぶらぶらと揺らしている様子は、誰もが微笑《ほほえ》まずにはいられないほどかわいらしいが、猥雑《わいざつ》とした酒場にはそぐわない。
エルの座っている円卓の周りには誰もいないものの、店内は麦酒《ビーア》や葡萄《ぶどう》酒、蒸留酒に酔いしれる大人たちで賑わっている。室内の空気も酒と煙草、日々の仕事にくたびれた大人たちから吐き出される息と、洋灯の油が燃える匂いで澱《よど》んでいる。エルがいるのは、酒場街の一角にある「| 黒 猫 《シュヴァルツ・カッツェ》」という店だった。主人や厨房《ちゅうぼう》も含めて、店員は五名と少ない。店内も三十人が限界の広さである。
すでに半分以上の席が埋まっており、エルがぼんやりと外を眺めている間にも、客がどんどん入ってくる。あいかわらずの繁盛振りだ。店員たちは忙しそうに客と厨房の間を行ったり来たりしていた。
喧噪《けんそう》の中から艶《つや》のある声が少年を呼んだ。
「ジークはまだ来ないの?」
体をねじり後ろを向くと、酒場「黒猫」の女主人であるディアナ・キルステンが立っていた。
豊かな黒髪を肩に落とし、胸元が大胆に開いた菫《すみれ》色の服を着ている。大輪の花を思わせる艶《あで》やかな女性で、エルに話しかけている今も、周囲の客たちの視線は彼女に向けられていた。昼間のディアナは清楚な格好をしているため、夜の姿を見慣れた今もエルは落ち着かない。そわそわしながらこくんと頷《うなず》いた。
「遅くなるかも、って言ってた」
ジークは、エルの養い親だ。名前をジークベルト・スミスといい、ベルリン市内に門を構えるオルデンベルク| 探 偵 事 務 所 《フムリヴァート・デテクティーフ・ビュロー》の所員であり、時々酒場の用心棒も請け負っている。
仕事で帰りが遅くなると言われた時は、ディアナのところで夕食を取り、そのまま酒場で待つことになっていた。
「だからロベルトが来たのね」
ディアナはやれやれと肩をすくめ、円卓の間を両手に酒を持ちながら優雅に歩く一人の青年、ロベルト・エーレンフェルスを一瞥《いちべつ》した。
遠目にもあきらかな整った容姿。長めの茶褐色《ちゃかっしょく》の金髪は、仕事中だからか後ろで無造作に結《ゆ》われている。正規の職業は探偵で、酒場の店員は副業だ。今では接客用の愛想笑いも板について、混んだ店内を滑《すべ》るように移動している。
店員の少女たちがロベルトを巡って喧嘩沙汰《けんかざた》を起こしてしまい、一度は仕方なく解雇されたという経歴を持っている。だが、ジークが店に来られない時には、今でも代わりに用心棒兼店員として働いていた。
今も少女たちは、ロベルトの様子をちらちらと横目で窺《うかが》っているが、仕事はきちんとしているため、ディアナも大目に見ているようだ。
「暇で暇でしょうがないって顔してるわね、エル」
「うん。みんな、どうしてあんなに楽しそうなんだろ。飲んだことないけど、お酒ってそんなに美味しいのかな」
ディアナはエルの問いには答えず、くすくすと笑みを零《こぼ》した。
不意にいい匂いがエルの鼻腔《びこう》をくすぐる。すると、腸詰めと蒸したばかりの熱々のじゃがいもの皿が机に置かれた。夕飯は食べたが、目の前の誘惑に思わずエルのお腹がぐうと鳴る。
「待ちくたびれて、そろそろお腹もすいた頃だろ」
「えへへ。ありがとう、ロベルトさん」
エルが今の養い親に引き取られて一年が経《た》つ。初めは人間恐怖症気味で、他人との会話や接触を極端に恐れていたが、今ではだいぶ改善されている。
人が同じ空間にいても怯《おび》えることはなくなり、積極的に自分から話しかけるようにもなった。エルはロベルトが持って来てくれた腸詰めを、早速頬張る。
口についた肉汁を袖《そで》でごしごしと拭き、エルは「おいひぃ」と口をもぐもぐさせながら感想を述べる。にっこりと微笑んだロベルトを見上げ、思わず体を硬直させた。
少女たちを魅了する空色の瞳、その中の瞳孔《どうこう》が縦に長細くなっている。そのうえギラッと光るものだから、エルは口の中のものをごくっと飲み込んで、慌《あわ》ててディアナの様子を窺った。
彼女は客に気を取られているようで、ロベルトの変化に気付いた様子は見られない。エルはほっとしながら、小声で「目がおかしいよ」と注意した。
きょとんとして、それから苦笑いを浮かべたロベルトは「夜になると、どうも血が騒ぐんだよねぇ」と、片手で両目を隠すように覆《おお》う。手を離した時には、普通の人間と変わらぬ瞳に戻っていた。
彼、ロベルトは人ではない。人と変わらぬ姿をして、人族社会にまぎれて生きる、人とは違った存在だ。
この世界には、人族に知られることなく、伝説、神話、物語の中に出てくる妖精や精霊、怪物と恐れられるものたちが暮らしている。様々な種族が人族の拡大によって僻地《へきち》に追いやられ、年々数を減らしてきているが、それでも彼らは生き残る道を模索し続け、確実に現代へと血を繋《つな》いできた。
ロベルトは「女色魔《インキュバス》」の血を引いており、そのおかげで異性に好かれやすい体質をもっている。以前、酒場に勤める少女たちが彼に夢中になってしまったのも、そこに原因があった。簡単な催眠術くらいはかけられるんだよ、とエルはロベルトから聞いていたが、まだ実際にお目に掛かったことはない。
一方、エル自身も「| 人 狼 《ヴェアヴォルフ》」と呼ばれる種族だ。身体能力に優れており、人よりも寿命が長い。また、満月の夜には骨格が変形し獣化するという、他の種族にはない特徴も持っている。
エルの養い親であるジークも人ではなく、彼が勤めている探偵事務所も、ただの事務所ではない。様々な種族の所員を持ち、裏稼業として、人ではないものたちからの依頼を請け負っている。
以前、曲芸団《ツィルクス》で見世物として飼われていたエルは、事務所の所長によって救い出され、ジークに預けられた。そのため、自分のような存在に対する世の中の扱いを、身をもって知っている。友好の手を差し伸べてくれる者はほんの一握りで、あとは迫害する側に回ってしまうだろうという現実も。
ディアナはとても親切な人族だ。だが、それは迫害する側に回らないという理由にはならない。人族社会で生きるためには、自分の正体を隠さなくてはいけないことを、エルはよく理解していた。
熱々のじゃがいもを口いっぱいに頬張って、エルはふとある疑問を思い出した。養い親にここに連れて来てもらった時から、ずっと不思議に思っていたことだ。
「ねぇ、ディアナ。どうしてここは『黒猫』って言うの?」
店内には所々に黒猫のしるしがある。入り口には黒猫の形に切り取られた看板が下げられ、壁には黒色の塗料でかわいらしい猫が描かれている。酒が並べられている棚にも、小さな黒猫の置物が顔を覗《のぞ》かせていた。じっくり探せば、もっと見つかるかもしれない。
「あら、ジークから聞いてない?」
「うん。もしかして、なにかすごい秘密があったりする?」
思わず身を乗り出したエルに、ディアナはそんな大層なものでもないと、苦笑いしながら首を振る。
「モーゼル地方のツェル村に、『黒猫が乗った樽《たる》の葡萄酒は美味しい』っていう言い伝えがあるのよ」
「黒猫が乗ったら、美味しいお酒なの? どうして?」
不思議そうに首を傾《かし》げたエルに対し、ディアナは説明する。
「そのツェル村にね、はるばる遠方から葡萄酒の買い付けに来た商人たちがいたの。彼らは村を回って試飲を繰り返したあと、出来のよい三つの樽を前にして、どれを買おうか話し合ったわ。三つの樽はどれも美味で、なかなか選べないでいたのよ。すると――」
どこからともなく一匹の黒猫が現れ、三つの内の一つの樽に飛び乗ると、商人たちを威嚇《いかく》し始めた。毛を逆立て爪をむき出しにする姿は、まるでその樽を守るかのよう。
商人たちは、迷わずに猫が乗った樽を買った。実は、その葡萄酒は村の中でも最も美味しい葡萄が採れることで有名な畑から作られたものだった――
「だから、黒猫が乗った葡萄酒の樽は美味しいって伝説が出来たの。この店の名前も、その話にあやかってつけたのよ」
「へえ、そうだったんだ」
ふんふん、と頷いたエルは、その話を脳裏《のうり》で反芻《はんすう》したあと、不自然なことに気付いた。
「ねえ、ディアナ。どうして、その猫は美味しい葡萄酒がわかったの?」
「理由までは聞いてないわね」
「えー、なんか気になるよー」
一旦《いったん》気になり始めると、どうしても知りたいという気持ちが膨らんでいく。だが、新たに店に入って来た客によって、二人の会話は中断された。
「やあ、美しいディアナ。私の月の女神。あなたと会えない日々は、まるで心に北欧の冷風が吹き荒れるようだったよ」
「あら、一昨夜だってお会いしたじゃないですか」
三十代半ばの仕立てのよい服を着た男性は、歯の浮くような台詞《せりふ》を述べたあと、両手を広げ大げさに嘆いて見せた。
「一昨夜? ああ、まるで十年も前のことのようだ。あなたにまた会える日を、どれだけ心待ちにしていたことか」
「そう言っていただけて嬉しいわ、アルフォンスさん」
「アル。そう呼んで下さいといつもお願いしているじゃありませんか。あなたの口から他人行儀な言葉がもれる度《たび》、私の心は嵐のように荒れ狂い――」
「いいえ。大切なお客様をそんな風に呼ぶなんて、できませんわ」
やんわりと断り、ディアナは愛想のよい笑みを浮かべた。
アル――オルデンベルク探偵事務所所長アルフォンス・オルデンベルクは残念そうな表情を浮かべ、それでもめげずに背中に隠し持っていた大輪の赤い薔薇《ばら》をディアナに手渡す。薔薇の時期にはまだ早いため、おそらく目が飛び出るほどの金額を支払ってきたのだろう。
「あ、所長。仕事は終わったんですか?」
ロベルトの声にアルは一瞬体を強張《こわば》らせたが、何事もなかったかのように笑みを浮かべる。
「あたりまえじゃないか、ロベルト」
「へぇ、すごいですね。報告書を出しに行った時、あの量じゃ絶対明日までかかると思ったのに」
「ああ、うん、まあ、私にかかればあっという間だったよ!」
アルは気まずそうに視線を泳がせた。そこで、窓辺の椅子に座っているエルに気付き、ディアナに向けるものとはまた違った種類の笑みを浮かべたまるで、親が溺愛《できあい》する子供に向けるような。
「やあ、エル」
アルはエルの小さな体をひょいと持ち上げた。親愛のしるしにと頬擦《ほおず》りされ、思わず抗議の声をあげそうになる。鼻の下にある髭《ひげ》が頬に当たって痛いのだ。だが、少しでも嫌がる素振りを見せると相手は大げさに嘆き悲しむので、エルは内心を隠しぐっと堪《こら》える。
これでも齢《よわい》七十を過ぎた吸血鬼《ヴァンピーア》だというのだから、人――ではないが――は外見ではわからない。
「ねえ、アル。ジークはまだお仕事終わらないの?」
「さあ、私は見かけなかったよ。待つのが寂しいなら、私が一緒にいてあげよう」
せっかくの好意を無下《むげ》にすることはできない。エルはアルの膝《ひざ》でジークを待つことになった。注文した蒸留酒が運ばれてきて、アルが嬉しそうに口をつけようとした時。
バン、と店の扉が勢いよく開かれた。ただ事ではない音に、喧噪が一瞬で静まり返る。そこに立っていたのは一人の若い女性だった。
白に近い金髪はきっちりと一つに束ねられ、服装にも乱れはない。かわいらしい部類に入るだろう容貌《ようぼう》には、なぜか感情というものが欠片も見受けられず、機械的な印象を受ける。エルと同様に、酒場には不似合いな人物である。
その薄茶色の瞳が店内をぐるりと見渡し、アルの前でぴたりと止まった。彼女と目があったアルは顔を真っ青にし、今にも逃げ出さんばかりに椅子から腰を浮かせかけている。抑揚《よくよう》のない声が女性の口からもれた。
「探しましたわ、所長」
「や、やあ、マリーエ。みんなには家に帰ると言っておいたのに、よくここだとわかったね!」
「はい。花屋が代金の請求に来ましたので」
ちっ、とアルの舌打ちが聞こえた。オルデンベルク探偵事務所所長秘書であるマリーエは、店に入りアルの脇に立つ。
彼女はシシリーという、屋敷に住む精霊の一種で、普通の人間とは比べ物にならないほど腕力が強い。吸血鬼として、人族に比べれば身体能力に優れているアルでも、マリーエの腕力には敵《かな》わない。
「私が資料を取りに行った隙《すき》に逃げ出すとは、いい度胸ですね」
「い、息抜きも必要だよ」
「もう充分に休まれたでしょう。さあ、仕事に戻りますよ」
「まだ一口も飲んでないのに!」
マリーエはアルの上着の襟首《えりくび》を掴《つか》んで、引き摺《ず》り始める。いち早く避難していたエルは、思い出したように声をあげた。
「マリーエさん! ジークのお仕事はまだ終わらないの?」
「スミス班長ですか。彼なら、所長よりも早く帰られましたよ」
なら、どうしてすぐに迎えに来てくれないのだろう。アルが引き摺られて行ったあとも、エルの心に広がった不安の闇は晴れない。
やがて、痺《しび》れを切らしたエルは、ディアナに向かって叫ぶ。
「ぼく、ジークを迎えに行って来る!」
そして、勢いよく店を飛び出した。
エルは白い息を吐きながら、瓦斯燈と半分に欠けた月に照らされた道路を、風と見紛《みまご》うばかりの速さで走る。酒場を出た時、止める声も聞こえたが、早くジークに会いたいという気持ちが勝った。
ジークの居場所をエルは知らない。探偵所から酒場までの道はわかるが、必ずしもそこを通って来るという保証はない。
だが、速度は鈍らなかった。
人狼は嗅覚《きゅうかく》が人族の何十倍も優れており、遠く離れた場所でも特定の人物の匂いを嗅《か》ぎあてることができる。ただエルの場合は、まだ幼いこともあり個人の体臭を覚えることができない――せめて毎日のように隣にでもいなければ。
その点、ジークはエルの養い親で、当然同じ家で暮らしている。彼の匂いならば、未熟なエルでも嗅ぎ分けることはできた。
探し人のいる場所が徐々に近付いている。研《と》ぎ澄《す》まされた嗅覚が、そう教えてくれる。エルは嬉々として走る速度をあげた。だが、しばらくして、ある違和感に気付く。
「あれ?」
思わず立ち止まり、辺りを確認する。匂いを辿《たど》って走っては来たが、ずっと見覚えのある道を進んでいたはずだ。道をそれた覚えはない。それなのに、なぜか辺りは見慣れぬ街の一角で、瓦斯燈の明かりだけが心もとなくエルの足元を照らしている。不気味なことに、それ以外の明かりはすべて消えていた。周りの店や、道路沿いに隙間なく建てられた集合住宅の窓も真っ暗で、人の気配すら感じられない。
おかしなことはまだあった。店を出た時には月が輝いていたはずなのに、今は夜空のどこを探しても見当たらず、星すら見えない。明らかに不自然だ。
「ど、どうしよう。迷子になっちゃった……」
急に心細さが忍び寄ってきて、エルは思わず手のひらを握りしめ身震いする。走っていた時の興奮はあっという間に薄れ、知らず肌寒さを覚えた。
ジークとはぐれた時は、彼の匂いを辿ればそれでよかった。でも、今は匂いの欠片すら掴むことはできない。
握りしめた手にきゅっと力を込め、エルは歩き出した。歩いていれば出口が見つかるとは思わないが、立ち止まっていても状況は変わらない。瓦斯燈の光は今にも消えてしまいそうなほど頼りなく、心細さから双眸《そうぼう》に涙がにじむ。
「だ、だいじょうぶ。だいじょうぶ」
言葉に出して、混乱し始めた感情を必死で落ち着かせる。心臓がどきどきとうるさいくらいに脈打っているが、エルは呪文のように同じ言葉を繰り返し、自分に言い聞かせた。
どれくらい歩いただろうか。普段ならばいくら歩いたところで疲れたりしないが、見知らぬ場所に一人きりでいる寂しさと、言い知れぬ恐怖心からいつもより足が重く感じられた。まるで出口のない迷路を延々と歩いているようだ。
疲労と孤独《こどく》感から、エルはついに立ち止まった。本当なら地面に座り込みたいのだが、一度座ってしまったら二度と立ち上がれない気がする。
少し休んだら歩こう、とエルが思った時、しんと静まり返った空間に、なんの前触れもなく、カッカッという音が響いた。馬が地面を蹄で蹴っている音に似ている。暗闇の奥からまっすぐエルのいる場所を目指しているように聞こえ、不気味だ。
どうしてこんな夜に馬が。疑問が脳裏を過《よぎ》ると同時に、ざわざわと背筋が粟立《あわだ》ち始める。まるで全身の毛が逆立つような感覚に、エルは無意識の内に駆け出していた。
がらん、と扉に掛けてあった鈴が鳴るものの、すぐ店内の喧騒《けんそう》にかき消されてしまう。
周囲に首を巡らせながら店内に入ってきたのは、二十代後半に見える男性だった。腰まで伸びた銀色の髪は、太陽の下では新雪のように輝いているが、今は洋灯のせいで飴色《あめいろ》に濁《にご》って見える。容貌は端整な彫刻のようで、頬の傷がそれに野性味を添えていた。
灰色の瞳がすっと細められた時、彼に気付いた女主人が声を掛けてきた。
「ジーク、遅かったじゃないの」
「ああ。仕事が長引いてな。それより、エルはどこに行ったんだ?」
ここで待つように言っておいたんだが、とジークは首をひねる。それを見て、ディアナも同じく不思議そうな口調で言った。
「あなたを迎えに行くって、飛び出して行ったわよ。途中で会わなかったの?」
「うちの秘書と、彼女に引き摺られた所長になら会ったが……行き違いにでもなったか」
だが、酒場から探偵事務所までの道は単純でエルが間違うとは思えない。口ではそう言ったが、内心では不安が首をもたげてきたようだ。「探してくる」と、そっけなく言い残すとジークはディアナの返事を待たずに踵《きびす》を返す。
店を出た直後、彼は苛立《いらだ》たしげに舌うちしたあと走り出した。
「あいつには、学習機能ってものがないのかッ」
一人で出歩くなと毎日のように口を酸《す》っぱくして忠告していたジークの言葉は、どうやら聞き流されていたらしい。もっとも、この場にエルがいたら、なかなか帰ってこないジークが悪いのだと主張するだろうが。
小さな気配も洩《も》らすまいと、ジークは神経を張り巡らせながら夜の街を疾駆《しっく》した。
「助けて、ジーク!」
痛々しい叫び声も、がらんとした闇に吸い込まれ反響すらしない。また、馬蹄《ばてい》の主が、一方的な鬼ごっこを止める気配もなかった。
このまま走り続けても、いずれ追い付かれてしまうのは目に見えている。捕まってしまったらどうなるのかと、考えるだけでも恐ろしい。エルは逡巡《しゅんじゅん》したあと、意を決して瓦斯燈の明かりも届かぬ路地裏へと逃げ込んだ。通りから影となっている場所で蹲《うずくま》り、追っ手に見つからないようにできるだけ身を小さくする。
すると、先ほどまでエルがいた場所を中心に馬蹄の音が響く。まるでなにかを探しているようだ。心臓が激しく騒いで、その音が聞こえるのではないかと、エルは気が気ではない。
やがて地面を蹴る蹄の音が、周囲を探るようにうろうろとさ迷い始める。エルが見つかるのも時間の問題かと思われた時。
目の前を黒い影がさっと横切った。はっとして顔を上げると、少し離れた場所で一匹の黒猫がエルをじっと見ていた。恐怖も忘れ、思わず黒猫を凝視《ぎょうし》する。
その猫はまるで自分のあとをついて来いとばかりに尻尾《しっぽ》を振り、路地裏の奥に向かって少し歩いてはエルを振り返り、また歩いては振り返る動作を繰り返してみせる。
路地裏は表通りと違って、瓦斯燈の灯りはない。なにも見えない闇の海だ。なにかが潜んでいるかもしれないという恐怖。そこに飛び込むには、ありったけの勇気が必要だった。
ごくりと唾《つば》を飲み込んで、一歩足を踏み出すと、黒猫はエルについてくる意志があると見たのか、もう振り返ることなく走り出した。見失うまいと、慌ててエルも追い掛ける。その途端、背後から勢いよく地面を蹴る蹄の音が響いた。
こちらを追い掛けてくるものの正体はわからない。でも、それがよくないものだということはわかる。先ほどから本能がそう訴え続けている。焦《あせ》るまいと意識するのだが、思いとは裏腹に心は落ち着きを失っていく。
せめて追跡者から意識を逸らそうと、エルは数歩先を行く猫を見つめる。
初めは闇の中で黒猫の姿を見失ってしまわないかどうか、エルは不安でしかたなかった。だが、不思議なことに先を行く黒猫の輪郭《りんかく》ははっきりと確認できる。よくよく見てみれば、体から淡い光が零れ出していた。もしかしたら、あれは猫ではないのかもしれない――そんな思いが脳裏を過る。
「ジークッ……!」
泣き叫びそうになる気持ちをぐっと堪え、養い親の名前を呼んだ時、目の前を走る黒猫が、なんの前触れもなく――鳴いた。え、とエルが目を見張った瞬間、辺り一面が真っ白な光に包まれる。あまりの眩《まぶ》しさに、思わず両目を瞑《つむ》った。
ドン、と柔らかな壁のようなものにぶつかり、エルは勢いよく尻もちをつく。慌てて起き上がって見ると、なぜかそこは見覚えのある十字路で、空には半月が輝いている。
ぽかんとしていると、エルは自分を見下ろしている双眸に気付いた。尻もちをついたままの体勢で視線を向けると、すぐ傍に一人の男性が立っている。
まるで闇を凝縮したような黒い髪に黒い瞳。着ている服も外套《がいとう》も、帽子《ぼうし》と手袋までもが漆黒で統一されている。さらに妙なことは、ぱっと見た分には青年と言ってもよいほど若く見えるのだが、口の端を歪ませるようにして浮かべられた笑みからは、老成した雰囲気《ふんいき》が漂う。
エルは彼の顔を見るなり、体を強張らせる。頭の中が真っ白になり、声が裏返ってしまう。
「こ、こんばんは、リヒャルトさん!」
「やあ、少年」
リヒャルト・エフラーは意地の悪そうな笑みを浮かべ、座り込んでいるエルに向かって親切に手を差し出す。エルはびくびくし相手の一挙一動を凝視しながら、その手をとった。
養い親の同僚であるリヒャルトは、性格にむらがあり、機嫌のよい時と悪い時の差が激しい。不機嫌な時は、目の前を横切っただけで思い切り蹴飛ばされることもあるほどだ。人狼であるエルは人間より体も頑丈だが、ゴブリンの中でも邪悪な一族で、魔王とあだ名されるリヒャルトの手加減のない一撃には、さすがに命の危機を感じる。
――でも、なぜ彼がこんな場所にいるのだろう。
「……あの、リヒャルトさん」
「静かにしろ」
怒鳴られたわけではなく、むしろ抑揚を欠いた声音《こわね》なのだが、エルは反射的に口を両手で塞《ふさ》いだ。
リヒャルトは路地裏の暗闇を睨《にら》みつける。すると、カッカッと地面を蹴る馬蹄の音が響いた。びくり、とエルの肩が揺れ、忘れていたはずの恐怖がまた忍び寄ってくる。
「――俺の縄張りで狩りとは、いい度胸だ、新参ものめ」
低く恫喝《どうかつ》するような声と共に、リヒャルトの全身から殺気が漏れ、あっという間に膨れ上がる。
自分に向けられたものではないとわかっているのに、エルは全身の毛が逆立ち、一刻も早くこの場から逃げ去りたい気持ちに駆られた。だが、ここでリヒャルトを置いて逃げれば、あとでどんな目に遭《あ》わされるかわかったものではない。
悲鳴を上げないためにエルは必死で口を押さえるが、カタカタと歯が震えるのだけは止められなかった。
瓦斯燈の灯りが差さぬ路地裏で、ざわりざわりと何者かがうごめく気配。辺りに響いていた蹄の音は、徐々に遠ざかり、やがて消えた。
「ちっ、逃げたか。意気地のない奴め」
心底残念そうな声に、エルはリヒャルトに対する日頃の警戒心も忘れ、いったいなにが起こっていたのか説明を求める。
「ねえ、リヒャルトさん。今のはなんだったの?」
「――まったく」
呆れたように呟《つぶや》いて、リヒャルトはなんの予告もなくエルの額を指先で弾《はじ》いた。ぎゃっ、と声をあげてひっくり返り、エルは両手で額を押さえる。見る間に、瞳には大粒の涙が溜まっていく。
「いくら相手が妖精だとしてもな、仮にもお前は人狼の端くれだ。逃げてないで反撃しろ」
「え、妖精だったの!」
確かに馬にしては鳴き声も聞こえないので、エルもおかしいとは感じていた。だが、まさか妖精だったとは。
「名前は、なんだっけな。確かデックアールヴァルとか言ってたな。一匹や二匹じゃなく、ありゃもっといたな」
「どんな妖精なの?」
「元々は闇を好んで地底に住んでたらしいがな。悪さ好きの奴らさ。一族総出でこんなとこまでやって来るとは、ご苦労なことだ」
しきりに感心して頷いているエルを、もう一度小突いてやろうとリヒャルトは手を伸ばしかけた。その時、聞き慣れた声がエルの耳朶《じだ》を打つ。
「エル、探したぞ」
「ジーク!」
養い親の名前を呼んで、エルは突進するようにしてジークに抱きついた。ひょいと体を抱き上げられると、安堵《あんど》からかエルの瞳に溜まっていた涙が堰《せき》を切ったように零れ出す。
ジークはエルとリヒャルトを交互に見やって、首を傾げた。
「なんだ、またリーに苛《いじ》められたのか」
苛められてはいたが、泣いた理由は別にある。エルは今までの出来事を説明しようとするが、声が喉に引っ掛かり上手く言葉にならない。涙ばかりがぽろぽろと溢れて止まらない。
「そいつ、デックアールヴァルに追っ掛けられたんだよ」
「例の件か?」
「ああ」
「お前が相手を捕まえ損なうなんて、珍しいこともあるもんだな」
「俺は自分の担当外の仕事はしない主義でね」
ひとしきり泣いて、ようやく落ち着いてきたエルは、二人の会話を聞き首を傾げる。
「ねえ、なんの話?」
「お前を追い掛けた妖精は、普通なら奥深い山の地底に住んでいる奴らなんだが、最近、こっちに引っ越して来たようでな。麓《ふもと》の村人をからかう感覚で、この周辺に住む人間や小妖精たちを驚かせては楽しんでいるらしいんだ。まあ、元々善悪の観念が薄い奴らだから、力ずくで黙らせることになるだろうが、まさか、お前まで被害に遭うとはな」
「ジークが遅いから、迎えに来たの。そうしたら、急に知らない場所に出ちゃって」
「複数で大掛かりな幻覚を見せることができるからな。でも、よく幻を振り切れたな。大抵は気絶するまで追い掛けられるって話だが」
リーに助けてもらったのか、というジークの問いは、当人によって否定された。リヒャルトは、帰宅途中だったらしい。
「あ、あのね、猫に助けてもらったんだよ」
だが、はたして、あれを猫と呼んでもいいものかどうかエルには判断がつかなかった。ジークはデックアールヴァルのような妖精が作り出した幻を、普通の猫が破れるはずはないと言う。確かに猫に破れるくらいなら、エルも自力で脱出していただろう。
「おそらく、そいつも妖精だったんだろうよ。しかし、なんでわざわざお前を助けたりしたんだろうな」
妖精にも様々な種族があるが、逃げ惑っている人狼の子を助けてやろうというものは少ない。大抵の妖精は、とばっちりを受けることを恐れ、見て見ぬ振りをするだろう。もしくは、直接助けるのではなく探偵事務所の方に知らせるはずだ――恩でもない限りは。
どうしてだろう、とエルは自分でも考える。
「あ」
急に声をあげたエルを、ジークは不思議そうに見る。
「ディアナのお店の裏に黒猫がいてね、いつも残り物をあげていたの。もしかしたら、妖精かもしれないよ」
「確かに妖精が動物の形をとるのは珍しくないが、お前、そんなことをしていたのか」
「だって、ジークはお家《うち》で猫を飼っちゃだめって言ったでしょ」
「当たり前だ。長期の仕事で家を空ける時、一緒には連れていけないからな」
一人の時、遊び相手として猫がほしかったのだが、養い親にだめだと言われてしまえばそれまでだ。
「とりあえず、夜は一人で外をうろうろするんじゃないぞ」
ジークの言葉に、エルは神妙な顔つきで頷いた。それを見て、リヒャルトが含み笑いをする。
「ずいぶんと父親役が板についてきたじゃないか、ジーク。お前がこんなに過保護だとは思わなかったな」
「なに、リーほどじゃないさ。大人になってもあれこれ心配されて、ヴェロニカも煙たがってたぞ」
「余計なお世話だ」
「そういえば、お前たちはこれから出張だったよな。一緒に出発するんじゃなかったのか?」
ジークの言葉に、リヒャルトは怪訝《けげん》な表情を浮かべる。
「ああ、一緒の予定だ」
「おかしいな。ヴェロニカの奴、今日の最終の列車に乗るって言ってたぞ」
「な、出発は明後日《あさって》の予定だぞ!」
「リーが、一等車じゃなきゃだめだ、貨物船は嫌だとわがままを言ったから置いて行かれたんだな。あいつは、一刻も早く現地に着きたいって様子だったし」
あまりのことに唖然《あぜん》としたリヒャルトだったが、状況を理解するにつれ眉間《みけん》に刻まれたしわが深くなっていく。
「諦《あきら》めて、明後日の列車を待て」
ちなみに列車は目的地によっては不定期出発のため、急ぐ旅ならば、列車と馬車を臨機応変に使って進む。ライン川を行き来する貨物船に便乗する航路を取れば、列車を使うよりも早く目的地に着けるが、快適とは無縁の旅になるだろう。
「ふ、ふふふ。ヴェニーの奴め、二人旅は久しぶりだから嬉しいなんて言っておきながら……」
なにを思ったのか、リヒャルトはぶつぶつと呟いたあと、急に邪悪な笑みを浮かべた。禍々《まがまが》しい気配に、エルだけでなくジークも顔をしかめる。
「気が変わった。さっき逃げた奴、こっちでやる」
「……ほどほどにしとけよ」
「とっ捕まえて、悪さをしてはいけないよ、と優しく説得するだけさ。ただ抵抗したら、ちょっとばかり痛い思いをするかもしれないが」
「ちょっと、ね」
デックアールヴァルたちは、自分が仕出かしたこと以上の報復を受ける羽目になりそうだ。散々追い掛けられたというのに、エルは相手に同情する。
不気味な笑い声をあげて去って行くリヒャルトを見送り、ジークはエルを腕に抱いたまま歩き出した。エルはジークの肩越しに後ろを見る。瓦斯燈の灯りを頼りに黒猫の姿を探したが、金色の双眸を見つけることは叶《かな》わなかった。
酒場の前に着き、表にぶら下がっている黒猫を模《かたど》った看板を見て、エルは今更ながらにディアナの言葉を思い出した。
――どうして、猫は美味しい葡萄酒の樽を見分けることができたのだろうか。
「なんだ、そんなことか」
店内に入り、ジークは注文した麦酒を飲み干すと、あっさりとした口調で言う。エルは自分が散々悩んだだけに、ジークの態度が気に入らない。
「えー、でも、ぼくわからなかったよ。いい葡萄酒を見分ける方法ってあるの?」
たとえあったとしても、それを猫が知っているとは思えない。ジークはエルを試すように「なんだと思う?」と聞いた。
「ええと、匂いかな?」
適当に思いついた考えを口にしたのだが、ジークは容赦《ようしゃ》なく否定する。
「外れ。商人たちも散々悩んだんだ、どれが出来のいい匂いかなんて猫にわかるわけないだろ。もう少しよく考えてみろ」
「うーん、じゃあ味! 実は猫もこっそりと味見してたんだよ」
「まあ、味見してたっていう部分は正解かもな」
「え、本当に味見してたの!」
猫がちびちびと葡萄酒を舐《な》める姿を想像し、エルはぽかんと口を開けた。猫も葡萄酒の味がわかるのだろうか。
ジークは苦笑いを浮かべ、違うとばかりに首を振った。
「そいつは樽の上に乗って、商人たちを威嚇したんだろ。必死にその樽を渡すまいと、全身の毛を逆立てて」
「うんうん」
「そいつはどうしても、その樽の葡萄酒を渡したくなかった。どうしてだと思う?」
「自分で飲みたかったのかな」
「おそらくな」
でも、現実的に考えれば猫が葡萄酒をひと樽も飲むはずがない。エルはジークの顔をじっと見つめ、やがて降参だとばかりに肩を落とした。多少、不貞腐《ふてくさ》れてもいる。
「なんだ、もう諦めたのか」
「だって、猫がお酒を飲むなんて聞いたことないもん」
「ああ。猫は葡萄酒を飲めないだろうな」
ジークは答えを匂わせているのだが、エルはそれに気付かない。両腕を組んで唸《うな》る。
「じゃあ、飼い主に命じられたんだよ。あの樽は売りたくないから、商人さんたちを引っ掻《か》いてでも守れって」
「売りたくないなら、売り物にしなければいいだけの話だろ。それに、猫がどうやって樽を守るっていうんだ。つまみ出されるのがおちだ」
「あ、そっか」
むむむ、とエルは眉間のしわを深くする。ジークはあえて答えを言わず、エルに当てさせようと助け舟を出す。
「そもそも、そいつは商人たちが樽を買って行くと、どうして知ることができたんだ。ただ話し合っていただけなんだろ?」
「え、そうだけど……猫って人の言葉はわかんないよね」
自分が知らないだけで、猫が喋《しゃべ》れたらどうしよう、とエルは考え込んでしまった。だが、普通に考えれば、猫は言葉を話すことも解することもできない。
「んんん? でも、言葉がわからないと商人さんたちがなにをしに来たのか、知ることはできないよね。でも……」
人の言葉を解する猫。
――それは、猫とは呼べない。
あ、とエルは声を漏らした。先ほど自分を助けてくれた猫が脳裏を過る。
「わかったか?」
「うん!」
満面の笑みで頷いたあと、エルはジークの耳元に口を寄せ、辺りをはばかりながら小声で答えを口にした。もっとも普通の声で喋ったところで、酔っ払いたちの耳に入ることはないだろうが。
「商人さんたちを威嚇したのは、黒猫に見えたけど、実は猫じゃなかったんだよ」
ジークは養い子の言葉に満足げに頷いた。だが、すぐに「猫じゃないなら、それはなんだ」と聞き返す。
「妖精!」
間髪入れずにエルは答えた。ジークは正解だとばかりにエルの頭を撫でる。
「まあ、妖精は色々な種族をひっくるめた呼び名だからな。あの地方だと、どんな奴らがいたか――まあ、葡萄酒をひと樽かすめ取るなんてかわいいもんさ」
「でも、ものを盗むことは悪いことだよ」
正論を口にしたエルに、ジークは目を細めた。まるで懐《なつ》かしいものを見るような目付きで。
「お前はそう考えるが、奴らまで同じことを考えるとは限らない。むろん、なかには葡萄酒を盗んだ代わりに、なにか置いて行ったり、その一家に幸運をもたらしたりするものもいる。人に反感を持っている種族なんかは、住み家を追われた恨みが忘れられず、樽の一つや二つ盗んでも構わないと思っていたりする。どれが正しいかなんて、当人の考え次第なのさ」
それに、とジークは続ける。
「あいつらも加減を知ってるしな。盗み過ぎると翌年から警戒が厳しくなって、大好きな酒が飲めなくなる。だから、もらう時は少しだけって決めてるのさ。お前だって、さっきは散々追い掛けられたが、命までは取られなかっただろ」
「でも、すごく怖かったよ」
追い回された時の嫌な気持ちをまだ引き摺っているため、エルは納得できなかった。だが、自分をしつこく追い掛け回してくれたあの妖精は、今頃大変な目にあっているのだ。自業自得とはいえ、少しかわいそうだ。
「楽しそうに、どんな話をしているの」
追加の麦酒を運んできたディアナに、エルは満面の笑みを浮かべて「あのね、どうして黒猫が美味しい葡萄酒の樽を見分けられたのかわかったよ」と告げた。ディアナが問うような視線を向けると、ジークは肩をすくめつつ、
「悪戯好《いたずらず》きな妖精の仕業だろ、って言ったのさ」
「あら、素敵」
事情を知らぬ者が聞けば、ディアナのように他愛もない戯言《たわごと》と取るだろう。確かに、養い親の答えとしてはまっとうな部類に入る。微笑ましげに二人を見やるディアナに対し、エルとジークは、秘密を共有する者同士の笑みを浮かべた。
そして、ふとなにを思ったのか、エルは突然ジークの膝からぴょんと飛び下りる。
「ぼくにもできるかな」
へへへ、と笑い、壁際に並んでいた葡萄酒の樽の傍に走って行った。エルは鼻を近付かせ、ふんふんと得意げに鳴らす。
五つある樽の前を行ったり来たりして、必死に葡萄酒の匂いを嗅ぎ分けようとしている。だが、どの樽からも葡萄酒の匂いがして、エルの頭はくらくらする。千鳥足《ちどりあし》になりながらも、エルは真ん中の樽によじ登った。
そして、ジークに向かって「にゃおん」と猫の鳴き真似をして見せた。
ちょうどエルの奇行に気付いた客たちは、みなぴたりと会話を止めて、樽の上に座る場違いな少年に注目する。モーゼル地方出身の客が多いため、多少なりとも言い伝えを耳にしている者は多いだろう。
「この樽の葡萄酒は、絶対に美味しいよ!」
得意げにエルが鼻を鳴らした瞬間だった。
半数以上の客たちが、一斉に爆笑した。見れば、ディアナも腹を押さえて苦しげに笑っている。
突然のことに呆然《ぼうぜん》としていたエルは、泣きそうな目をジークに向けた。どうして自分が笑われなくてはいけないのだろう。
ジークはやれやれと肩をすくめ、
「エル、そこにある樽は全部空っぽだ」
顔を真っ赤に染めたエルは、わなわなと震えたあと、樽と樽の間にできた隙間に逃げ込んでしまった。どうやら、空の樽には葡萄酒の匂いがたっぷりと染み付いていて、嗅覚の鋭いエルは中が空とは見破れなかったようだ。
笑い声が止んでもなかなか出て来ないエルに、ジークが隙間を覗き込んでみると、体を縮めた恰好で安らかな寝息を立てている。幻覚の中を走り回って疲れたのだろう、名前を呼んでも起きないエルを背負い、ジークは家路についた。
翌日から、不気味なものに追い掛けられたという噂《うわさ》は不自然なほどぱたりと消えた。デックアールヴァルたちがどんな目に遭わされたのか、それは謎のままである。
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COMMENTS
九条菜月
くじょうなつき
「オルデンベルク探偵事務所録」「魂葬屋奇談」シリーズ
黒猫伝説を知るまで、エルに黒猫のきぐるみでも着せようかと、迫りくる締切を前に悩んでいました。伝説の猫が、白猫でもシャム猫でもなく黒猫で本当によかった。ちなみに、黒猫ラベルのワインは日本でも低価格で手に入ります。美味しいですよ〜
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契火の末裔外伝
還らざる月、灰緑の月
篠月美弥
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)叩《たた》く
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|エイゼム《都》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ただの[#「ただの」に傍点]留学生
-------------------------------------------------------
風が窓を叩《たた》く。
レンズ石を削《けず》って嵌《は》め込んだ窓枠の中を、雲が川のよう流れていく。夜空に輝く星々は、雲の波がつくる飛沫《しぶき》のようだ。
月は川底に沈む玉のように雲間に現れては消え、その度に、寮舎《りょうしゃ》の石の床が蒼白《あおじろ》く浮かび上がった。
三階建ての寮舎は、それぞれの階に七部屋ずつ。一階は四人部屋、二階がふたり部屋、三階は個室となっている。
およそ五十人の留学生が入れる計算だ。
現在の寮生は四十人ほどだが、消灯の刻限はとうに過ぎ、寝静まった寮舎に響くのは風の音ばかりだった。
蒼白い月が、ふたたび顔をのぞかせて、雲の流れに隠れた。
その一瞬。
月光に照らし出された寮舎の一室で、床石がごとりと動いた。
石の下から灰色の髪が現れ、男が顔をのぞかせた。年の頃は三十代半ばくらい。緊張感とはまるで無縁の顔つきをしている。
クモの巣を払い、床に片手をかけると、ミヤギは石を小脇に抱えたまま、身軽に床の上に飛び上がった。
窓から射し込んだ月光に、薄茶の瞳が淡く輝いた。
石を元通り床に嵌め込み、
軽く拳《こぶし》で叩きつけると、ミヤギはためしに別の場所を叩いてみた。
思わず、口から感嘆の声が漏れた。
音が変わらない。
これでは、よほど注意深く調べない限りは、下に空洞があることなどわからないだろう。
大したもんだ、と呟《つぶや》いて、立ち上がったミヤギは、部屋の中を見まわして頭を掻《か》いた。
「抜け道は二階に出るはず、だよな」
さして広くもない室内には、窓側にベッド、ベッドの傍に椅子《いす》とテーブルがひとつずつ置かれている。
ひとり部屋、ということは、ここは三階だ。
月明かりの射し込むのを待って、ベルトに挟んでいた紙とペンを抜き取ると、ミヤギは紙に書かれた見取り図に素早く訂正を入れた。
「さて」
紙とペンをしまうと、ミヤギはベッドをまたぎ、窓の縁に足をかけた。
と、足の下でごそりと毛布が動いた。
もそもそと毛布から生えてきた黒髪を凝視して、ミヤギはそうっと踵《かかと》を上げた。
一瞬起こしたか、と思ったが、すぐに規則正しい寝息が聞こえてきて、ミヤギは息をついた。
部屋の主《あるじ》を起こさないよう、風に震える窓を足で押さえると、ミヤギは椅子に掛けてあった外套《マント》に目を走らせた。
淡い光の中で、真珠の粉をふりかけたように輝く外套は、上質のカナリー羊の毛織物だ。
さっきは背もたれの陰になっていて気がつかなかったが、外套の胸元には革ベルトの装飾がある。
金具に刻まれた鱗紋《うろこもん》に、ミヤギは目を瞠《みは》った。オルトー公国でも屈指の名門、ロイ家の紋章《もんしょう》だ。
「こりゃ作戦変更の余地あり、ですな。トール様」
苦笑してつま先を下ろすと、再びがたがたと音をたてはじめた窓に手をかける。
開くと同時に窓の縁を蹴って、ミヤギはひらりと外へ飛び出した。
* *
いきなり毛布を引き剥《は》がされて、少年はぎょっとして飛び起きた。寝癖《ねぐせ》だらけの黒髪が空《くう》に舞って、少年の首筋を冷たい風が吹き抜けた。
(風?)
慌てて窓に手を伸《の》ばしたが、窓にはしっかりと鍵がかかっている。
こわごわ部屋の中を見回して、少年はほっと胸を撫《な》で下ろした。不審な人影はない。
「何だ、夢か」
再び寝床にもぐりこんで、少年は思い出したようにぶるっと肩を震わせた。
纏《まと》いつく冷気を追い出すようにもぞもぞと体を丸め、再び毛布の端から黒髪を生やすと、少年はことりと眠りに落ちた。
* *
テーブルの上にふたつの図を広げ、ミヤギは顔を上げた。
「右がキサの地図、そして左が風の塔です。赤い線で書き込んであるのが隠し通路です」
そう言って、ミヤギの指し示した塔の見取り図には、記号をふった赤い線が書き込まれている。
右の、いびつな円形をした町の中に書き込まれた赤い記号が、それぞれの隠し通路の出口だ。
キサの町は、西に山脈、東は海、南北の空白地帯に挟まれている。北は泥湿地帯、南は砂漠、文字通り陸の孤島だ。
いくつも描かれている小さな渦巻《うずま》きは風車小屋、町から少し離れた丘の上のやや大きな渦は、領主《ラスティーマ》の館をあらわしている。
そして、山脈側に特に大きく描かれている二つの渦が、キサでもっとも有名な風の塔と水の塔だ。
「残念ながら、寮舎へ抜ける道はひとつしか確認できませんでした」
「そう。ご苦労だったわね、ミヤギ」
傍《かたわ》らからふたつの図を覗《のぞ》き込んで、トールは小さく頷《うなず》いた。
「水の塔は調べる時間がありませんでしたが、オルトー公のことですから、おそらく水の塔は使わんでしょう」
「ええ。皇子《おうじ》の身の安全を図る、というのなら、まず風の塔で間違いないでしょうね」
灯火の傍らに立つトールの姿は、飴色《あめいろ》に輝く金茶の髪と蜜色の肌があいまって、美しい炎の彫像《ちょうぞう》のようだ。
キサの若き領主トール・シーアが、稀代《きたい》の美女であることを知る者は少ない。
オルトー公領といいながら、他の国々はもちろん、公国内でも孤立した特殊な地理条件から、キサでは特別に自治が許されている。
だが、オルトー公国内でもその事実はあまり知られていないのが現状だ。
大部分の人間は、トールの容貌どころか、領主の存在すら知らない、といっていい。
「風の塔には、|エイゼム《都》から派遣した常駐のオルトー兵がいるもの」
留学生の警護、というのがその名目だ。風の塔は現在、留学生が学ぶ塔となっている。
「公としては、これを使わない手はないわね」
対する水の塔はキサ人のための塔と、明確に区別されている。
風の塔と水の塔。大陸では東塔と西塔と呼ばれる双塔は、大陸にその名を知られた理化学の塔だ。
理化学とは、自然現象を理論化し、法則として応用する学問――塔の名に示されるとおり、風と水がその根底をなす。
法則から生まれたさまざまな技術も、当然のことながら水と風を原動力とするため、火精を崇《あが》める大陸の大部分の人間にとっては、いまだ異教徒の呪術として忌避されている。
だがその一方で、はるばる山脈を越え、東の果ての|異教の地《キ サ》へ、理化学を学びに来る者は跡を絶たない。
良くも悪くも、大陸の人々にとって、理化学は無視できない存在ということだ。
「この館を使う、という可能性は? 領主の館なら、滞在中の皇子を迎える場所として、ふさわしいと思いますが」
ミヤギの言葉に、トールは美しい唇から笑みをこぼした。
「それはないわね。皇子|セア《偉大なる》・|アス《護火》は、表向きオルトーの都エイゼムにいることになっているはず」
セアは尊称、アスは護火《ごか》――すなわち盟主の補佐役を示す言葉だ。現在、セア・アスは、セア・|ルマ《次期盟主》とともに外遊中の身だ。
マズルー、イスラッド、オルトー、三国の盟主国であり、火精信仰の総本山ともいえるセア皇国の皇子が、この異教の地に滞在していることは、オルトー公国にとっても絶対に知られてはならない秘密だ。
皇国の後継者は、三つの国から選ばれる。現アスは、オルトー公国出身の皇子だった。
「つまり、ここにいるのは皇子ではなく別の誰か、というわけね。せっかく秘密にしているのに、ただの[#「ただの」に傍点]留学生をこの館へ呼んだとなれば、他の留学生たちからよけいな詮索《せんさく》をされかねないわ。……もっとも、それを別にしても、公はきっとこの館は使わないわね。私は公に信用されていないもの」
「信用?」
ミヤギの薄茶の瞳が、くるっと面白そうに動いた。
「今さらでしょう。これからその公を騙《だま》くらかして、皇子を誘拐《ゆうかい》しようというんですから」
にっと笑って、ペンを口に銜《くわ》えると、ミヤギは見取り図の端に燭台《しょくだい》を置き、反対側を手で押さえた。
「さて、それでは本題に入るとしますか」
ペンを銜えたまま、ミヤギはもぐもぐと言った。
「確認できた通路のうち、今回の計画に使えそうなのはここと、ここです」
ペンを再び手にとると、ミヤギは赤で書き込んだ隠し通路のうち、ふたつに印をつけた。
「ひとつは先程も言った寮舎へ出る道、もうひとつは風車小屋に繋《つな》がっています」
右の地図の中の、赤い記号をふった小さい渦を指し示して、ミヤギは肩をすくめた。
「他にもありそうな気はしますがね。何しろゼノじいさんの話は要領を得なくて、聞き出すのに時間がかかりました。ま、通路を作ったのはじいさんの、そのまたじいさんだという話ですからな。記憶があやふやでも仕方のないことですが」
「私が前領主《母様》から聞いた入り口とは違う場所ね。確認しておいて正解だったわ」
「寮舎に通じる道も、二階ではなく三階でしたよ。二階なら空き室で問題なかったんですがね。三階はまずいですよ。部屋の主はオルトーの貴族です」
そう、と呟いて、トールは腕を組んだ。
「寮舎はキサの管轄下ではないのよ。せめてあと三日あれば、何としても部屋割りや名簿を用意したのに……残念だわ」
オルトーの貴族では、万一皇子と一緒に出てきたところではちあわせてしまえばそこでおしまいだ。
「皇子を攫《さら》った後、いったん寮舎に潜んで追っ手をやりすごす、というのは難しそうね。もうひとつはどうなの?」
「風車小屋に抜ける方ですな。こちらは一気に山脈を越えて他国へ脱出する必要があります。なにせ寮舎と違って、風車小屋は真っ先に捜される場所ですからな」
「ええ。はじめから、ミヤギはこちらを推《お》していたわね」
「当然です。寮舎では万一見つかった場合言い逃れができませんが、こちらはキサを出さえすれば、いくらでもごまかせますからね」
だが、移動距離が伸びれば、それだけ危険も大きくなる。誘拐する側も、される側も。
トールの懸念をよそに、指先で器用にペンを回しながら、ミヤギは呑気《のんき》そうに言った。
「まあ具体的な脱出経路は俺に任せてください。ただし、こちらにも問題がひとつ」
「問題?」
「空式昇降機です」
真空の力を利用して動く、垂直昇降機だ。
一般に知られている風の塔の空式昇降機は、留学生のためにつくられたもので、これまで何度も改良を重ねている。
だが、隠し通路のものは、今年七十八歳になるゼノの祖父が作ったというからには、かなりの旧式とみていい。
「どこか不具合でも?」
「いえ、ちゃんと動きますよ。問題というのは乗る人間の重さです。何しろ俺はこの図体ですからね」
自分の体を一瞥《いちべつ》して、ミヤギは苦笑した。
長身の上に筋肉質のミヤギは、見た目よりさらに重いはずだ。トールふたり分はあるかもしれない。
「昇降機の広さからみても、せいぜいふたり乗り……皇子は確か十三歳でしたな」
「ええ」
「俺をひとり半、皇子を半人前、と勘定して、まあ微妙なところですな。まさか当の皇子に、平気かどうか一緒に乗ってくれ、とも言えませんからな」
「そうね。ではそれは明日、私が一緒に乗って確かめましょう」
「明日、というと、決行当日ですが」
目を瞬《しばたた》かせたミヤギに、トールは首を振った。
「私は今晩ここを動くわけにはいかないし、他の人間を巻き込むわけにはいかないわ。第一、今頃塔は厳重に固められているはずよ」
そう言って塔の見取り図を丸めると、トールはそれを燭台の火にかざした。
火はみる間に勢いを増し、灰を撒《ま》き散らしながら紙を這《は》いのぼっていく。
燭台の下の敷き皿を引っ張り出すと、トールはもう一枚も同じように火をつけ、皿の上に落とした。
「いいんですか? 今後のためにも一度、隠し通路をすべて確認しておいた方がいいと思いますがね」
灰になっていく紙を見つめながら、ミヤギが呟いた。
「形に残せば、いつ誰が目にするとも限らないもの。いたずらに公を警戒させることは避けたいわ」
ぽつりと言って、トールは目を細めた。
「必要なものは、言葉で伝えればいい。忘れられても、必要になればまた誰かが見つけるわ。道というのは、そういうものよ」
「必要でも、見つからない場合だって考えられますが?」
「その時は――」
言いかけて、トールは口を噤《つぐ》んだ。
風の音に混じって、遠くから獣の遠吠えのような音が聞こえてくる。
次第に近づいてくるその音に、トールのまなざしが鋭くなった。青い瞳の中の、金色の虹彩《こうさい》が輝いた。
「水燃車《すいねんしゃ》の音だわ。公がいらっしゃったようね」
立ち上がって、トールは身を翻した。
「その時は、の後を聞かせていただいておりませんが?」
ああ、と声を上げて、トールは振り返った。
「その時は他の方法を考えればいいだけのことだわ。理化学の源《みなもと》は水と風。勢いを増すためには、つねに変化していかなければ。過去を受け継ぐだけでは、将来《さき》は知れているわ」
ちらりと不敵な笑みを覗かせ、廊下へ出ると、トールは険《けわ》しい表情で玄関へと急いだ。
館を一歩出た途端、横殴《よこなぐ》りの風に見舞われて、トールは髪を押さえた。
強風に煽《あお》られて、普段は長い袖に隠れている、手の甲の刺青《いれずみ》があらわになった。
右手は水紋、左手は風紋をあらわす渦巻き模様は、キサの領主の証《あかし》でもある。
めくれた袖に気がついて、さりげなく腕を下ろすと、トールは褐色の髪の青年に微笑《ほほえ》みかけた。
従者の掲《かか》げる常夜灯の光に照らし出された青年の顔は、疲労の影が濃かった。
「お待ちしておりましたわ、|ウィオラータ《オルトー公》」
ウィオラータは公国独特の呼び方で、オルトー公を意味する。
キサ式に、一歩下がって膝を折ると、オルトー公――イース・バルト・オルドゥスは、端整な頬に皮肉な笑みを浮かべた。常夜灯の青白い光を受けて、灰緑の瞳が冷たく輝いた。
「さて。あなたの場合、その言葉を素直に受けとってよいものか」
「もちろん。水燃車はいかがなさったのです?」
含みのある言葉を軽くかわして、トールは首を傾げた。
移動するのに牽引《けんいん》する馬も人力も必要としない水燃車もまた、理化学が生んだ乗り物だ。
溶液が沸騰《ふっとう》する爆発音と、車輪が地面を削る轟音《ごうおん》が入り混じった、あの独特の音を聞き間違えるはずもない。
だが、雲の切れ間に蒼く浮かび上がる丘のどこにも、その車影は見あたらなかった。
「水燃車は丘の下まで来たところで壊れてしまったのです。|エイゼム《都》から一気に走らせましたからね。むしろここまでよく持ったものだ」
「道理で……連絡鳥がキサへたどりついたのは昼でしたもの。てっきり明日のご到着とばかり思っておりましたわ」
「おかげで、馬よりも速いという速度をいやというほど体験できましたよ。しかし、山道には向かない乗り物だ」
無意識に首を擦《こす》ったイースに、トールは微笑した。
「夜の山脈越えなんて無茶なことを。水燃車はあとで塔の者に修理させましょう」
「いや結構。都から整備の者を呼びます。塔の者ではどんな細工をされるかわかったものではない」
冷たく言って、イースはトールを一瞥した。
「連絡鳥がいったのなら、今回の訪問の理由はすでにおわかりのことと思いますが――その後特に変わったことは?」
「いいえ。特にこれといって何も」
首を振るトールの顔をじっと見つめて、イースは鼻を鳴らした。
「それが本当かどうか、後で警備隊長に確認を取ることにいたしましょう」
「どうぞご自由に。ですが、ウィオラータじきじきに帰国のお迎えとは、随分急なお話ですわね。皇子の滞在はたしか十日の予定だったはず。皇子がキサにいらしてまだ四日でしょう?」
「その理由はいずれあなたの耳にも入るでしょうが、ことは盟主国であるセア皇国に関わります。今は申し上げられません」
「出すぎたことを申し上げましたわね」
軽く頭を下げて、トールは口元の笑みを消した。
「でも、今日はもう山越えは無理でしょう。出発はどうなさるおつもりですの?」
「明日の早朝には馬が届くよう手配しています。皇子の目が覚めたら、東塔にお越しいただいて、用意が整い次第すぐに発ちます。今夜は寮舎の警備も強化させますし、あなたは何もする必要はない」
灰緑の瞳にちらりと警戒の光を浮かべて、イースは傍らの従者を振り返った。
「ですがその前に、塔に不審なものがないか調べる必要があります。あとでこの者に東塔の見取り図を渡してください」
「わかりましたわ」
にっこりと従者に微笑みかけると、まだ子供のような顔をした少年は、顔を真っ赤にして頭を下げた。
と、イースの顔がわずかに険を帯びた。
「そうそう、忘れるところでした」
背後を振り返ると、イースは駆け寄った従者から、小さな籠《かご》を受けとった。
「手ぶらであなたの元を訪れるわけにはいきませんからね。今回は時間がなくてろくに選ぶ暇がありませんでしたが……」
前置きとともに差し出された籠を、トールは慎重に受けとった。
今度はどんな高価な品かしら、と、そっと溜息《ためいき》をついたトールの腕の中で、籠がごそりと動いた。
慌てて蓋《ふた》を開けたトールは、中を覗き込んで目を瞠った。
ぱたんと黒い尻尾が動いた。
みれば、手のひらほどの大きさの黒い獣が蹲《うずくま》っている。警戒しているのか、耳を伏せ、獣はじっと息を潜めてトールを見上げていた。
大きな灰緑色の瞳に、トールは一瞬目を奪われた。
「まあ、ネコ?」
西国イスラッドの稀少動物だ。
「ネコをご存知でしたか。イスラッド王からいただいたのです」
「実際に見るのは初めてですわ」
籠を館の人間に預け、中から抱き上げると、ネコはだらりと体の力を抜いて、トールの腕の中でごろごろと空臼《からうす》を挽《ひ》くような音をたてはじめた。
「変わった鳴き声ですわね」
「喉を鳴らしているのです。アシュは新しい主人が気に入ったようだ」
「|アシュ《月》?」
「ええ。瞳の形が月のように変わるので、私がそう名づけました。まだ子ネコですが、三度目の満月を迎える頃にはすっかり大きくなります」
イースそっくりの灰緑の瞳を覗き込んで、トールは微笑んだ。
「イスラッド王からのいただきものなので、さしあげるわけにはいきませんが、雌の方はあなたに預けます」
イースの言葉に、トールは顔を上げた。
「雌の方?」
「このネコはつがいなのです。片割れは公宮におります。三度目の満月が昇る前に、アシュが公宮へ戻れるよう、願いたいものです」
「私が決心するまで待つとおっしゃったはずです」
顔を強張《こわば》らせたトールに、イースは小さく笑った。
「三度目の満月までにあなたの心が決まれば、あながち嘘《うそ》とは言えないでしょう」
「それは横暴ですわ」
「譲歩、と言ってもらいたい。あなたが早く心を決めて、公宮におさまってくれれば、こんな苦労もしなくてすむのですがね」
冷たく言って背を向けると、イースはキサ人たちの刺々《とげとげ》しい視線をものともせず、悠然と館の扉をくぐった。
* *
「こんな夜中に、公は一体何の用かしらね」
眠そうに欠伸《あくび》をひとつして、エシルは窓越しにしげしげとイースを見下ろした。
「決まってるわよ、お目当てはトール様ね」
隣で、クラルがくすりと笑みをこぼした。
見晴らしの良い丘の上、という立地上、海からの風をまともにうける二階の窓には格子が取り付けられている。
だから、窓からどれだけじろじろ眺めたところで、下にいるイースたちに気づかれる心配はない。
「本当に、トール様とお似合いよねえ。キサ人には美形が多いって言われるけど、公を見ると自信なくなるわね。トール様と並んで見劣りしないなんて」
そう言って溜息をつくエシルは、華奢《きゃしゃ》な体つきの儚《はかな》げな少女だ。目元に入れた刺青も、少女の美しさを損なうものではない。
「あら、キサにいるオルトー兵に美形なんていないじゃない。きっと公が特別なのよ」
くすくすと笑いながら、クラルが首を振った。長い手足の、快活そうな少女だ。
エシルが風に揺れる花なら、クラルは水辺に舞い降りる鳥。いずれ劣らぬ美少女たちだ。
「ねえネフィ、あなたなら知ってるんじゃない?」
振り返って、クラルが意地の悪い笑みを浮かべた。エシルと同じ目元の刺青が、挑発するように動いた。
「私が知るわけがないわ」
床の上から不機嫌そうな声が上がった。
ふたりが話をしている間、黙々と床を拭いていたネフィエルだ。腰まで届く銀の髪を無造作に束ね、灯火の下にあらわになった白い横顔は、その無表情さも手伝って、まるで精霊のようだった。
「ミヤギならオルトー人が美形かどうか、知ってるでしょ? しょっちゅう外へ行ってるんだから」
「そういえば、さっきトール様に挨拶《あいさつ》に来てたのを見たわ。まだここにいるんじゃない? ネフィ、ちょっとミヤギに聞いてきてよ」
「だめよ。まだここの掃除がすんでないわ」
「そんなもの適当でいいわよ。どうせオルトー人が使うんだから」
「ちゃんとしないと、トール様の責任になるじゃない。そんなの嫌だわ」
ネフィエルの言葉に、ふたりは顔を見合わせた。
「そりゃあそうだけど、ミヤギに会いたくないの? だってミヤギはネフィの――」
「帰ってきて三日も経つのに、顔も見せに来ない男なんて知らないわ」
エシルにみなまで言わせず、ぐしゃりと雑巾を握って、ネフィエルは低く唸《うな》った。
「そ、そう……」
「でもこれからはオルトーで自由に会えるんじゃない?」
絶句したエシルの後をひきとって、クラルがひらひらと手を振った。
「どういう意味?」
「だって、トール様が公宮にあがることになったら、侍女はネフィで決まりじゃない」
「公宮って、何よそれ」
すっくと立ち上がって、ネフィエルはクラルを睨《にら》んだ。
「あら、知らなかったの? 公はトール様を側室に望んでいるのよ。つまりは、体《てい》のいい人質ね」
「それで、どうして私が侍女なのよ」
「だって、私たちはこの刺青がある限り、キサから出られないでしょ?」
目元の刺青を誇らしげに撫でて、クラルが笑った。
「協定だもの、仕方ないわよね」
刺青は、塔で理化学を学んだ証だ。
三百年前に定められた協定で、キサ人は移動を厳しく制限されている。一目でキサ人とわかる顔の刺青は隠しようもない。
クラルの言葉に、ネフィエルは顔を歪《ゆが》めた。
「私が塔に行かなかったのは、母さんのたっての願いだったからよ」
「知ってるわ。刺青を入れる前に、外の世界を見てきなさい――そう言ったんですってね。なのに、どうしてネフィはここにいるの?」
「それは……」
指を突きつけられ、ネフィエルは詰まった。
「外に出る理由ができてよかったじゃない」
「でも、そんな話、トール様は断るわよ」
きっと睨みつけたネフィエルに、クラルは哀れむようにゆっくりと首を振った。
「無理ね。相手はオルトー公だもの。それに、トール様の意思は関係ないわ。きっとトール様の顔が十人並みでも、それ以下でも、公は側室にと望むでしょうね。公の目的は、このキサだもの」
「どうして? 勝手にオルトー公領だなんて言っておいて、公はこの上何が欲しいの?」
「公が欲しいのはキサそのもの、よ」
悄然《しょうぜん》としたエシルの声に、ネフィエルははっと顔を向けた。
「人質になるだけじゃない。トール様との間に子供が生まれれば、その子がキサの領主になるわ」
「そのために? そんなことのためにトール様を?」
思わず、声が震えた。
衝撃も強かったが、怒りがそれに勝った。
「私、トール様に確かめてくる」
拳を握って、ネフィエルは身を翻した。
「無駄よ。さっきも言ったでしょ、トール様の意思は関係ないわ」
「どうして? 本人の意思が関係ないなんて、おかしいわよ」
荒々しく扉を閉めて、ネフィエルは息も荒く階段を駆け下りた。
* *
遠ざかる足音を聞きながら、床の雑巾を拾って、エシルは眉を顰《ひそ》めた。
「よりによってオルトー公がいるこの時に、あんなにネフィを煽って。どういうつもり、クラル?」
「あら、こんな時だからでしょ」
窓に寄りかかって、クラルは笑った。
「公宮に行ったら、トール様の味方はあの子だけだもの。ネフィには、強い警戒心を持ってもらわなくちゃ困るわ」
「そりゃそうだけど……代われるものなら私が代わってやりたいわ。オルトー人は嫌いだけど」
溜息をついたエシルに、クラルはぽつりと言った。
「無理よ。この刺青がある限り、私たちは山を越えることはできないんだもの」
痛みを堪《こら》えるような、低い声だった。
「ネフィがいなかったら、私だってトール様に食ってかかったわよ。一緒に行くのがネフィならいいわ。あの子なら、きっと大丈夫」
クラルのその言葉に、ふと表情を和《やわ》らげて、エシルは微笑んだ。
「そうね。ネフィなら安心だわ。――さ、時間がないわ。ここを片付けてしまいましょ、クラル」
風の音が止んだ。
一日のうち、ほんのひと時訪れる静寂の時間だ。ということは、夜はもう半ばを過ぎている。
暗い部屋の中で、ネフィエルはじっと扉を見つめていた。
『どうしてネフィはここにいるの?』
クラルの言葉が胸に突き刺さっていた。
外の世界を見たがっていたのは母だ。
刺青を拒んだのは、生涯キサから出ることのなかった母の遺志に応えたいと思ったからだ。
ただ、それだけだ。
もともと、強がりだという自覚はあった。
どこにでも行ける――でもどこに?
ここで満足しているのに、どうしてどこかに行かなければいけないのだろう?
相談したくても、ミヤギはろくにキサにいたためしがない。他の人間に弱音なんて吐けるはずがない。
周囲の人間はみな事情を知っているので、ネフィエルの顔を見ても何も言わない。だがネフィエルは、他人の刺青を見るたび、おまえはキサ人ではない、そう言われているような気がしてならなかった。
後悔なんてしたくはない。だが、年を重ねるほどに、疎外感は強くなっていくばかりだった。
(その上、トール様が公宮へあがるお供だなんて)
これまで刺青をしなかったのは、オルトーの公宮に行くためではない。
考えただけで嫌悪感がつのる。
ぐるぐると考えているうちに、段々、自分がトールを無理やりオルトーに連れて行くような気にすらなってきた。
蝶番《ちょうつがい》の軋《きし》む音と同時に、視界が明るくなって、ネフィエルははっと立ち上がった。
だが。
するりと扉の向こうから現れた黒い塊《かたまり》に、ネフィエルは面食らった。
イヌにしては鼻が短すぎる。いや、この場合は低い、というべきだろうか。
長い尾に大きな瞳の、見慣れない獣だった。
「お前、どこから入り込んだの? ここはトール様のお部屋よ。あっちへお行き」
あわてて身を屈めると、ネフィエルは声を潜めて黒い毛玉を押しやった。
だが、遊び相手を見つけたと思ったのか、獣はその手にまとわりつくと、甘えるようにごしごしと額を擦りつけてきた。
「もう」
外へ出そうと、仕方なく抱き上げたところで、不意に目の前の扉が開いた。
手燭の火をまともに直視して、ネフィエルは獣を抱きしめたまま、眩《まぶ》しさに目を細めた。
「あら、ネフィ」
テーブルの燭台に火を移し、手燭の火を吹き消すと、トールは優しい微笑を浮かべた。
「明かりもつけないで、どうしたの?」
そこまで言って、トールはネフィエルの抱いている黒い獣に気がついた。
「姿が見えないと思ったら、こんなところにいたの、アシュ」
「アシュ?」
「ええ。ウィオラータからいただいたネコよ」
ウィオラータ、という言葉に、ネフィエルはカッとしてアシュをトールに押しつけた。
「ネフィ?」
「オルトー公がトール様を側室に望んでいる、という話は本当なんですか?」
前置きも何も吹き飛んで、気がつくとネフィエルはそう叫んでいた。
ゆっくりと目を瞬かせ、ネフィエルとアシュを交互に見やると、トールは困ったように首を傾げた。
「ネフィに話せばこうなるとわかっているでしょうに。クラルね、困った子だわ」
「どこから聞いたかなんて関係ありません。どうなんですか?」
眦《まなじり》をつりあげて詰め寄ると、トールは俯《うつむ》いて、アシュの頭を撫でた。
「本当よ」
「当然、断るつもりですよね?」
「どうして?」
逆に問い返され、トールは苛々《いらいら》と声を荒らげた。
「だって、公の目的はキサで、トール様自身ではないのでしょう? それがわかっていて側室になるなんて、トール様らしくありません」
「そうかしら? 公宮にあがるのも、この上なく私らしい選択ではないかしら?」
そうでしょう、と目を上げて、トールはネフィエルを見つめた。
「私は領主よ。断れば、キサに圧力がかかるわ。それがわかっていて、どうして私が断るというの?」
「だって……」
トールの瞳に見据えられて、ネフィエルはみるみる力が抜けていくのを感じた。
「平気よ。キサのためだもの」
灰緑の瞳を見つめて、トールはきっぱりと言った。
「私は」
声を震わせ、ネフィエルは服を握り締めた。
「そんな風に、守ってもらいたくありません」
「だからといって、私以外の誰も、この役目を代わることはできないの。そして、選ぶのは私よ」
穏やかな声音だったが、その言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。
ぐっと唇を噛《か》んで、ネフィエルは黙った。
何か言い返したいのに、唇が震えて言葉にならなかった。
悔しさを堪え、ぺこりと頭を下げると、ネフィエルは無言で外へ飛び出した。
俯いて角を曲がったところで、危うく人とぶつかりそうになり、ネフィエルは慌てて身をかわした。
と、いきなり腕を掴《つか》まれて、ネフィエルは反射的に拳を振りあげた。
「何す――」
「部屋に戻ってこないと思ったら、こんなところにいたのか、ネフィ」
上から降ってきた呑気な声に、ネフィエルは拳を振り上げたまま、動きを止めた。
懐かしい薄茶の瞳が、すぐ目の前にあった。
三日前に帰っていたというのに、やっと目にするミヤギの顔だ。
ふいに涙がぽろぽろとこぼれ落ちて、ネフィエルはミヤギをきっと睨みつけた。
「ネフィ?」
「……どうしてトール様がオルトー公の側室になんかならなきゃいけないのよ」
このまま、ここにいることが幸せなのに。
どうして、別の場所に行かなければいけないのだろう。
今まで溜め込んでいた気持ちが、トールの境遇と重なって、一気に爆発した。
「オルトー公なんて嫌いよ。キサを自分のものにしたいのなら、回りくどい方法をとらずに、キサに攻め込めばいいんだわ」
「いやよくないだろ、それは」
即答したミヤギに、ネフィエルは目をつりあげた。
「ミヤギみたいな人間がいるから、トール様はキサのために、あんな決断をしなけりゃいけないのよ」
乱暴にミヤギの腕を振り払うと、ネフィエルは後ろへ下がった。
「ひとりでなんて行かせないわ。その時は、公宮だってどこだって、ついて行ってやるから。トール様に指一本だって触れさせやしないわ」
「こらこら、落ち着いてはじめからちゃんと話してみろ、ネフィ。話がみえん」
いつもと違うネフィエルの様子に、ミヤギは心配になって身を屈めた。
うろたえていても、やはりどこか呑気そうなミヤギの顔を間近に見た途端、ネフィエルは怒りに我を忘れた。
「それもこれも、全部あんたのせいよ!」
泣きながら叫んで、ミヤギの顔を平手打ちすると、ネフィエルは頬を拭《ぬぐ》って走り去った。
* *
「いやひどい目に遭《あ》いました。ネフィに何を言ったんですか、トール様」
頬を擦りながら現れたミヤギに、アシュを膝に乗せ、椅子にもたれて寛《くつろ》いでいたトールは目を瞠った。
何があったかは一目|瞭然《りょうぜん》だった。
「ごめんなさいね、本当ならそれは私が受けるはずだったものなのに」
「トール様の身代わりなら受けた甲斐《かい》もあるというものですが、俺だから手加減しなかった、ともいえます。あながちやつあたりともいえませんな」
切ない溜息をついたミヤギに、トールはつい吹き出した。
どことなく、のろけているように聞こえるのは気のせいだろうか。
「側室がどうとか言ってましたが、どうしてネフィに本当のことを言ってやらなかったんです? どうせ明日になれば、それどころじゃ――」
しっと唇に指を当て、トールは首を振った。
「二階にはオルトー公がいるのよ。誰がどこで聞き耳を立てているかわからないわ」
「平気です。人が近づいたらわかるようにしております」
なるほど、と呟いて、トールは溜息をついた。
「それは安心ね。それで、今から計画の確認をするとして、ミヤギはいつ眠るつもりなの? 寝不足の頭で、明日の計画に支障が出ては元も子もないわ」
「おっとそうでした」
肩をすくめて、ミヤギはにっと笑った。
「ではお言葉に甘えて、さっさと退散しましょう。明日の手筈《てはず》はエシルかクラルに伝えておきます」
「ネフィではないの?」
「頬に手形をつけた誘拐犯なんて、目立つこと請け合いですからね。残念ですが、明日はネフィに会わずに出て行くことにします」
「その方が良さそうね」
あからさまに落胆したミヤギの顔に、トールは苦笑して頷いた。
と、膝の上でアシュが小さな鳴き声をあげた。
視線に気づいたのか、ごろごろと喉を鳴らすと、アシュはトールの腕に額を擦りつけた。
「甘えているのかしら。かわいいわ」
「残念ながら、ネコがこういうしぐさをする時は、腹が減っているんです」
なぜか申し訳なさそうに、ミヤギは頭を掻いた。
「見た目はかわいいですが、肉食ですからな。油断してると噛みつきますよ」
「そう。それじゃ何か貰ってこなくてはね」
「ではついでです。俺から台所に声をかけておきましょう」
胸に手を当て、軽く一礼すると、ミヤギはあっさりと姿を消した。
音もたてずに閉まった扉を見つめて、トールは椅子に寄りかかった。
「なんだ。お前、お腹が空いていたの」
膝の上でじっとしているアシュに、トールは苦笑した。
「まんまと騙されたわ。そういう打算的なところは、ウィオラータそっくりね」
といって、邪険に膝の上から振り払うこともできない。
そんなところまで、同じでなくていいのに。
俯いて、トールはアシュの灰緑色の瞳を覗き込んだ。
瞬きもせずに見つめるアシュの目が、期待に満ちて輝いた。
だがもし、ここに食べ物がないとわかれば、アシュはきっと部屋を出て行くだろう。
本当に、よく似ている、とトールは思った。
もし、|欲しいもの《キ サ》が手に入らなくても、イースが自分を望んでくれたなら。
(私は違う答えを出したかしら)
首を振って、トールは苦い笑みをこぼした。
「無理ね。私は領主《わたし》だもの」
それはきっとイースも同じだ。
「せめて、お前だけでもオルトーに返したいけれど。それも多分無理ね」
ネコが再び公宮へ戻る時は、トールが公宮へあがる時。それを違《たが》えることは、イースの矜持《きょうじ》が許さないはずだ。
「お前にはせっかくつがう相手がいるのに、私のせいで引き裂くことになってしまうわね」
かわいそうに、と呟いて、トールは遠い目をした。
「でも、かわいそうなのは私も同じ。だから、お前もどうか、我慢してちょうだい」
温かな体を抱きしめ、トールは頬を寄せた。
「キサのためだもの。平気よ」
自分に言い聞かせるように、トールは呟いた。
と、眼下で、ぴくりとアシュの耳が動いた。
するりと腕の中から抜け出すと、アシュはとんと床の上へ飛び降りた。
「アシュ?」
首を傾げたトールの耳に、躊躇《ためら》いがちに扉を叩く音がしたのは、その時だった。
「トール様。食べ物をお持ちしましたが、まだ起きてらっしゃいますか?」
扉越しに、食べ物の匂いがするのだろう。
伸び上がり、盛んに扉を引っ掻きはじめたアシュに、ようやくトールは納得した。
頬に、ゆっくりと諦《あきら》めの笑みが広がっていくのがわかった。
「今、開けるわ」
立ち上がって声を上げると、扉に向かい、トールは静かに足を踏み出した。
* *
塔の窓から身を乗り出し、朝日に輝くキサの町を見下ろして、イースは目を細めた。
風の塔の応接室は、最上階の三階にある。
「素晴らしい景色だ。セア・アスもきっと気に入るでしょう」
そう言って満足気に笑うイースの横顔を、トールは眩しそうに見つめた。
朝日を浴びたイースの顔には、昨夜の疲労の影はどこにもない。
セアの皇子《アス》とともに皇国入りすれば、オルトーの権威を周囲に見せつけることができる。
イースの頭の中は今、そのことでいっぱいなのだろう。灰緑の瞳は、朝日に輝いている。
「ええ、そうですわね」
頷いて、トールは静かに答えた。
「浮かない表情ですね。皇子に会いたいとせがんだのは、あなたではありませんか?」
「緊張しているのですわ」
ちょっと笑って、トールは目を伏せた。
出立《しゅったつ》の準備が整うまでの間、ひと目なりとも皇子にお目にかかりたいと、渋るイースに頼み込み、何とかこの部屋に入り込むことができたトールだった。
だが、イースがトールを皇子に会わせる気になったのは、決して情にほだされたわけではなく、傍に置いた方が監視しやすいことに気がついたからだ。
もし、イースが打算なしに首を縦に振ってくれたとしたら。
(私は計画を中止したかしら?)
こんな時になっても、まだそんなことを考えている自分が、我ながらおかしかった。
計画を中止する気などない。今、自分がこの場所にいることが、すでに計画のうちなのだ。
計画通りに行けば、この部屋から、皇子は忽然《こつぜん》と姿を消すことになる。
問題は、イースを外へ呼び出した時、皇子をひとりで部屋に残すかどうかーだが、部屋の外には警護兵を配しているし、用心深いイースのことだ、トールを置いて行くことはしないだろう。
淡い笑みを浮かべて、トールはイースを見つめた。
コンコンと扉を叩く音がして、イースが振り返った。
「セア・アスがいらっしゃったようだ」
ひとり言のように呟いて外套《マント》を払うと、イースは悠然と椅子に腰掛けた。
ふっと、イースの薄い唇に、やわらかな微笑が浮かんだ。イースの意識は、すでに扉の向こうの皇子に向けられているのだろう。
公国出身の皇子は、イースにとっては腹違いの弟にあたる。
トールと対峙《たいじ》している時とはまるで違う、穏やかな横顔だった。
初めて見るその表情に、トールは目を瞠って、口の端を歪めた。
計画を止める気は、ない。これ以降、イースが自分に微笑みかけることは、二度とないだろう。
この顔を見ることができた自分は、幸せなのだろうか。
それとも。
微笑むイースの傍らに寄り添って、扉が開くまでのつかの間、トールは目を閉じた。
[#改ページ]
COMMENTS
篠月美弥
しのつきみや
『契火の末裔』
某不思議顔の猫に夢中の今日この頃。パソコンの横に本を置いて、にやにやしながら眺めてます。癒されては七転八倒の日々……
今日は先輩方の胸を借りるつもりでまいりました。嬉しさ一割、恐ろしさ八割。あとの一割は……えーご想像におまかせします。
[#改ページ]
絶対不運装置
ドラゴンキラーありますその後
I have a dragon killer
海原育人
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)愛玩《あいがん》動物
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一際|甲高《かんだか》い
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猫が苦手だ。とりわけ、黒い猫が。
確かに孤高、そしてそれに連なる高貴な印象はある。動きのしなやかさに心を奪われもするだろう。何より美しい毛並みは愛玩《あいがん》動物としての役目を十二分に果たしてもくれる。
が。
俺はそんな猫がどこまでも嫌いで嫌いで仕方なく、さらにそれが黒猫となれば、害獣以外の何者とも思えなかった。
理由は一応ある。縁起が悪いからだ。それも強烈に悪い。
これまで黒猫を目撃した日には、大抵《たいてい》ろくでもない目にあってきた。
石につまずいた。転んで骨を折った。井戸にも落ちた。演習中に被弾したし、戦友が死んだのも黒猫を見た日だった。そういう経験を山ほど重ねてきたわけで、運、というものを重視する俺の生き方においては、黒猫はどこまでも抜かりなく、徹底的に害獣だった。
そういうわけで俺は黒猫が大嫌いだ。姿を見ただけで不愉快だ。吐き気がするほどに嫌だ。竜と同じくらい気に入らない。
だというのに。
今、俺の前に、その嫌いで嫌いで仕方無い、出来れば世の中から居なくなって欲しいと心底思っている害獣が、いかにも俺のことを見下した様子でもって、
「にゃあ」
と鳴いた。
俺の中にある危険を知らせる信号が、警戒色に近づきつつあった。
野良のくせにやたらと上等な毛並みで、触れれば絹ともベルベットとも言われるその毛は、夕暮れのオレンジの光の中でもただひたすらに黒い。黄金に近い目。縦長の瞳孔《どうこう》。自分が世界で一番偉いと本気で思っていそうな傲慢《ごうまん》で高慢《こうまん》で傲岸《ごうがん》で不遜《ふそん》な態度。
黒猫の癖に。黒猫の癖に。
しっしっ、と手を振っても、黒猫はその場で毛づくろいを始めてしまい、俺は眉をぴくりと動かした。
蹴っ飛ばそうか。いやいや触るのも嫌だ。そもそも黒猫を見てしまったことが最悪だ。くそったれ。今日は日が悪いことが確定してしまった。誰かに酒を奢《おご》るか。いやそもそも懐《ふところ》が寂しいから無理だ。
などということをつらつらと考えていくうち、あろうことか黒猫は俺の方にすたすたと近寄ってきた挙句、俺の脚に体をこすりつけた。
背筋が凍った。手が震え、歯の根が鳴る。
俺は反射的に銃を抜き、そして足元の黒猫に銃口を向けた。が、昂《たか》ぶった感情のせいか、腕が一瞬震えた。その震えを自覚したのと引き金を引いたのは同時で、ぱん、と炸裂《さくれつ》音がしたが、黒猫のヒゲを掠《かす》めただけに終わった。銃が何かをよく知っているらしい黒猫は、そそくさと俺と距離を取った。小さく舌打ちを一つ。
少し離れた場所で、それでも俺のことを諦《あきら》め切れないのか、黒猫はにゃあにゃあと鳴き、俺はそれについても少し苛立《いらだ》って、そちらに銃を向けた。
が、それと同時に、
「手前《てめぇ》っ!」
と前方から声が上がった。
見ると、顔は知っているが名前は知らない男が俺に向かって喚き散らし、かと思えば直後に銃を抜いて構えた。慌てて左手を突き出し、
「おい、待て。お前何か勘違いして」
「煩《うるせ》え、俺を殺《や》ろうってんだろ。上等だ。やってやる」
言われて気がついた。確かに俺は今、銃を抜いている。猫を狙ったつもりだったが、男を撃とうとしている、と見えないこともない。いや、そう見えたからこの男は銃を抜いている。
なんだこの理不尽は。
「待てって言ってんだろ。話せばちょっとした手違いだってのが分かんだよ」
「何が手違いだってんだ。何も違っちゃいねえ。違っちゃいねえんだよ」
男は引き金を引いた。俺は慌ててそれを避《よ》け、反射的に撃ち返した。三発立て続けに撃ったが、狙っていた男には当たらずに、その背後を歩いていた四人組の一人、その腕に命中する。
残った三人の男たちは瞬時に顔色を変え、弾を撃ったのは誰かと探り、即座に俺だと断定した。それぞれに銃を抜きながら、俺目掛けて走り寄ってくる。
敵が一気に三人増えた。
弾がびゅんびゅん飛んできて、俺は慌てて物陰へと逃げ込んだ。
転げ落ちるように状況が悪化していく。
全く最悪だ。それもこれもどれもあれも、全部黒猫を見たせいだ。誰が何と言おうと絶対にそうだ。そうに決まっている。
応戦するか。いや。現在の運を考慮すれば、十中八九死ぬ。逃げるべきだ。
決断を下せば行動に移すだけ。俺は走り出した。全力で。応戦しつつ。
走って撃っているうちに、ほどなく弾切れを起こし、最後には後ろを振り返る余裕すらなかったが、なんとか撒《ま》くことに成功し、俺は肩で息をしながら事務所に逃げ込んだ。
事務所兼自宅のアパートに、なんとか生きて戻った俺が最初に目にしたのは、リリィが客に茶を出している様子だった。俺が開いている便利屋事務所の従業員である。所長は俺だ。が、特に上下関係があるわけではない。
そもそもリリィと出会うまでは、俺はフリーランスの便利屋だったわけで、事務所、という体裁を取ることになったのは、リリィに押しかけられたからだった。ついでにいうと、リリィはアルマという少女の保護者で、その安全の保障も俺が責任を負うことになっている。理不尽な話だ。
裁縫が得意だと言い放つ怪物女は、最近では布を買ってきては自分とアルマのために服を拵《こしら》え続けている。お陰で服のストックはかなり増えているらしく、同じ服を目にする機会は随分減った。今は黒のワンピースの上に、程よく色の落ちたデニム地のジヤケット。細い足のラインが十分に強調されている黒いストッキングに、膝下まであるブーツという格好である。顔を見れば右目に眼帯。真紅の髪は出会った頃よりも少しばかり伸びたが、あまり頓着《とんちゃく》がないようで、無造作に伸ばされている。柔らかい顔をした美人だが、体つきが華奢《きゃしゃ》であるため、俺の趣味には合わない。
カーテンと共に窓が開け放たれ、新鮮な空気が飛び込んで来ていた。少し肌寒くもあったが、リリィは寒いぐらいが好みだから、特に煩《うるさ》くは言わなかった。閉めろと言っても揉《も》めるのが目に見えているし、それは時間の無駄でしかない。
「戻ったか。見ての通り、飛込みだ」
客だ、と紹介された男は、それまで腰を落ちつけていたソファから立ち上がり、小さく頭を下げた。丸々と肥え太っている。が、太った人間に特有の脂《あぶら》っぽさは少しも感じられない。どころか、生まれたての赤ん坊のような乳臭さを身にまとっていて、むしろすがすがしかった。道化者の人形みたいな顔と体型である。だが、今はその顔中に傷やら痣《あざ》やらを貼り付けていた。
俺が片手を挙げて男の挨拶に応じると、
「ボブテイルといいます。印刷所で会計を」
「ココだ」
言いつつも、今日は果たして仕事をしていい日だろうか、と不安になってくる。何もせずに閉じこもって過ごすべきではないのか。が、一方では仕事があることは正直ありがたかった。何せ家事と裁縫に余念が無いこの女は、ドラゴンキラーなのだ。
それがどういうものかといえば、竜の肉を食うことでその力を身に宿した怪物である。鉄板に素手で穴を開けるほどの絶対的な暴力と、銃弾すら通さない身体強度を誇り、そしてその力で以て竜を狩る。だからドラゴンキラー。竜殺しの化け物。
だが竜の肉は猛毒であり、口にして生き残れる確率は一万分の一。それ以外は死ぬ。運良く生き残り超人となっても、その体を維持するためには、常人の十倍からの食料が最低限必要であり、上を見れば底なしに食う。食いすぎる。
つまり。
うちの事務所の経費の大半を占めるのが、この女が必要とする食費に他ならない。
なんとも情けない話だが、事実だ。そしてその経費は、事務所の経営を必要以上に圧迫するほどの巨大さであり、つまるところ、経営は常に危機的状況にさらされている。来る仕事を片っ端からこなさねば、程なく首が回らなくなるどころか、体さえ微動だに出来なくなるだろう。
険しい表情の俺に向かって、リリィが怪訝《けげん》な顔を見せた。
「どうかしたか? 何か問題が?」
「いや、いい。それより話は聞いたのか?」
「まだだ。直《じき》にお前が戻ることを告げて、茶を出したところだ」
「そうか、とりあえず俺にも茶をくれ。喉が焼けるくらい熱い奴がいい」
「それでは風味が台無しではないか」
「じゃあ熱湯でもいい。気分転換だよリリィ。味は二の次だ。嫌がらせをしたいなら沸かした小便でも構わねえ。分かったな? さあとっとと用意してくれ」
つまらなそうに言うと、リリィは渋々といった様子で返事をした。
「分かった。少し待っていろ」
言うなりリリィはキッチンへと向かった。まだ沸かした湯が残っていたのだろう。程なく茶が運ばれてきた。一口飲むと、苦さと甘さを孕《はら》んだ液体が喉を焼いていく。痺れにも似た快感を感じつつ、胃に落ちたところで、
「話さねえのか?」
と促すと、ボブテイルは慌てて姿勢を正し、依頼の内容を口にした。
一通り聞き終えて要約すると、女がさらわれたから助けて欲しい、という話だった。よくある話である。
便利屋を営む俺の元には、この手の面倒事が山ほど転がり込んでくる。言い換えれば他人の不幸を飯の種にしているわけで、あまり褒《ほ》められた仕事ではないと自分でも思うが、一方で、この街の人間には常に不幸でいて欲しい、と割りと正気で思ってもいる。でなければ食うに困るし、何より退屈だ。
「で、その女をさらったのは?」
「カジノハウスのチンピラたちです。十三から十五歳くらいに見えました」
カジノハウス。名前の通りカジノを運営している連中で、この街で最大の勢力を誇る非合法組織、商会の下部組織に当たる。規模は中の下といったところで、商会の息がかかっていることもあってか、中々に発言力は大きい。
「要求はあったか?」
ボブテイルは力なく首を振って否定した。太った人間特有の、首の周りにたっぷりとまとわりついた脂肪のお陰で、その首自体が見えない。そのためか、首を振る動作もどこか滑稽《こっけい》だった。けれども脂っぽさが無いおかげで、それすらも好意的な印象を与える。
見た目で得をする男なのだろうな、と想像した。
「てこたあ、手前《てめえ》が愉しみたいからさらったのか。全く大したガキだな。なあリリィ。どっかのおぼこにも見習ってもらいたいもんだ」
と俺は背後のリリィに向けて笑った。
「依頼人の前だぞ。その発言は失礼だ」
リリィは顔をしかめていたが、頬がうっすらと染まっていた。俺が肩を竦《すく》めてボブテイルに向き直ると、
「お願いします、どうか、どうか彼女を、アイナを。アイナを」
「アイナ、ね」
「彼女は今頃、酷《ひど》いことをされていると思うんです。ああ、考えただけでも」
ボブテイルは言葉を詰まらせ、やがて右手で顔を覆ったかと思えば、肩を震わせて嗚咽《おえつ》を漏らした。
「同情はするがね。さて、と。あんたのアイナの特徴を教えてもらおうか。肌の色、目の色、髪の色、顔の造りに喋《しゃべ》り方、細かいことまで漏らさず全部だ。馬鹿が見ても分かるような説明を頼む」
ボブテイルは俺の言葉に姿勢を正し、かと思えば泣き腫《は》らした顔に自慢げな表情を作り、上着の内ポケットから、革の札入れを取り出した。
渡された札入れを開くと、中には一枚の写真が納められていた。
驚いた。
写真を撮るのは金持ちのたしなみだと思っていたからだ。俺の生国ではそろそろ一般的になりつつあるという話も聞くが、時代遅れのこの街では、まだまだ高価なものである。
が、渡された写真を一目見て何かの間違いだろうと思った。背後からリリィが覗き込んでいる感触を肌で感じつつも、それでも何も言えなかった。
代わりにリリィが口を開いた。
「その、肝心のアイナさんが写っていないようなのだが」
「え? 嫌ですよ、からかおうったって駄目です。ちゃんと写ってるじゃないですか。僕が抱いている女性がアイナです。ああ、アイナ、アイナ」
ボブテイルは彼女のことを思い出したらしく、また顔を覆った。
俺はリリィと視線を交わし、その後で再び手の中の写真を見た。
写真の中のボブテイルが抱いていたのは、一匹の黒い猫だった。
「ボブテイル。下の店に行って店長から薬を買って来い。ココの紹介だって言えば卸値《おろしね》で買える。あんたがきめるんじゃないぜ。俺たちがきめるんだ。そうすりゃきっとこの写真に写ってるはずの女が見える。なあそうだろ?」
「え?」
「お前な、どこが彼女だ。ただの黒猫じゃねえか。頭おかしいんじゃねえのか? それとも手前《てめぇ》はとっくにジャンキーなのか? ああそうだな。そうに決まってる。猫を人みたいに話すんだ。幸せな脳味噌で羨《うらや》ましい。最っ高だよボブテイル」
「彼女は家族です。一匹二匹なんて、そんな畜生を数えるみたいには絶対に扱えません。そして家族であるならば、一人二人と数えてしかるべきです!」
俺のいい様が気に食わなかったらしいボブテイルは声を荒らげた。
「煩えんだよボケナス。たかがメス猫一匹に写真まで撮りやがって。どんだけ無駄遣いだ。ああ分かった。お前人間の振りした豚かなんかだろ。は、こいつは傑作だ。畜生同士気があって何よりだ」
「とにかく! あなた方にはアイナを救っていただきたい。無論、そのための料金は用意してあります!」
ボブテイルは懐から革袋を取り出し、テーブルに叩き付けた。
中身を確認すると、金貨が五枚入っている。勤め人の給料からこれだけ出すのは相当なものだ。仕事の内容と照らし合わせても、リスクの割りに儲《もう》けは大きい。が、日が悪い上に黒猫と絡むなど御免こうむりたかったため、大人しく断る方向で思考が進んでいた。
「悪いが他を」
「請けよう」
俺とリリィは同時に口を開いていた。俺はかつてないほどの速度で首を動かし、リリィを睨んだ。
「リリィ」
「なぜ請けない。仕事だぞココ。仕事なのだ。分かっているのか? 事務所の経営は常に危機的状況にさらされているのだ。来る仕事を可能な限り多くこなす。それが方針のはずだが、私は思い違いをしているのか?」
「いや」
と言ったが、後が続かない。まさか黒猫が嫌いだから断るなどと、そんなことは口が裂けても言えない。いや、いっそのこと口にするか、と血迷った考えが瞬時に湧《わ》いてくるが、それは煮えた油を見ると手を突っ込みたくなるとか、高い所に立ったときに飛び降りたらどうなるだろう、とか考えてしまうのと同じで、絶対に現実にしたくない仮定をして、そのスリルを愉しんでいるだけだ。
「ならば決まりだな」
「待て。俺は嫌だ」
「だから何故だ」
「日が悪い。今日は縁起の悪い日だ。そうだ。そもそも仕事をしちゃいけねえ日なんだ。こういう日はろくなことがねえ。仕事も上手くいかねえし、下手《へた》すりゃ大怪我だ。そういうわけだ」
「さっぱり要領を得んではないか」
「あのな、説明してんじゃねえか。日が悪いんだよ」
「知るか。とっとと準備をしろ。ほら、写真だ。失《な》くすなよ」
言いつつ俺の上着のポケットに写真をねじ込んでくる。写真を粗雑に扱われて、ボブテイルが腰を浮かしたが、俺もリリィも完璧に無視していた。
「話聞けっつってんだよ馬鹿トカゲ」
俺は立ち上がった。目が据わりつつある。リリィも負けじと表情を険しいものへと変えていく。
「あの、どうかケンカは」
「ああすまない。すぐ済むからそこで」
「なんだお前。まだいたのか。撃ち殺されたくなけりゃとっとと帰れ。言おう言おうと思ってたんだが、もう依頼人じゃねえから遠慮なく言えて幸いだ。乳臭いんだよ豚が。気の利いた香水の一つも振りかけるか痩せるかしやがれ。どっちも嫌だってんなら豚どもと一緒に」
かしゅ、と乾いた音がしたのはそのときで、次の瞬間、俺はよろけ、最後には膝を折った。リリィに顎先を殴られたのだと気付いたが、視界がぐらぐらと揺れ、まともに立つことも出来なかった。
畜生。この馬鹿女はいつもこうだ。最後は力ずくで物を言う。くそったれ。
動けなくなった俺を、リリィは軽々と持ち上げ、そのまま肩にかつぎあげた。
「あの、請けて頂けるという理解でよろしいのでしょうか? その、先ほどの口論と、今の様子を見る限りでは」
いかにも心配だ、というボブテイルに向けリリィは、
「大丈夫。この男は見た目よりは頑丈です」
とにこやかに言い切った。
それは会話になってないだろう、と俺は心の中で呟いた。
地獄という概念は多分に宗教的なものらしい。詳しくは知らない。俺は運命論者ではあるだろうが無神論者だ。だが、死後に罪人が落とされる場所らしい、ということは聞き知っている。
馬鹿な話だと思う。死んだら土に還《かえ》るだけだというのに、どういうわけだか死んだ後があるのだと皆信じている。いまいち納得がいかないが、他人の主張、信条にまで踏み込む義理はどこにも無い。
ただ、そんな話とは別に、地獄という厳《いか》つい響きがこれほど似合う場所も無かろうと、俺はふと思ってしまったのである。
午後八時。カジノハウスのスタッフルームに俺たちはいた。裏口のドアをこじ開けての侵入だったのだが、入るなり視界に飛込んで来たのは、十三、四歳くらいの三人の少年が、呆《ほう》けている様子だった。
一人は椅子に浅く座って天井を見つめ、一人は床の上に背を丸めて部屋の隅をじっと眺め、残りの一人は机の上に突っ伏していた。が、問題は三人ともに明らかに気力が失せていることと、涎《よだれ》をだらだらと垂らしていることにあった。それらの光景がランプの淡い光に照らされると、どこまでも醜悪で、気味の悪いものにしか見えない。死体の山を見ているほうがまだ安心する。
酷い光景である。しかも連中は俺たちが入ってきても一切動じることなく、どころか、うぅ、だの、あぁ、だのと呻き声を上げるばかりだった。
一人に近寄って様子を確認する。目に知性の光は宿っていない。正気を失っているらしい、と俺は判断した。
立ち上がりつつ、
「徹底してるな。一体何のプレイだ? それとも新手の薬でも出回ってるのか?」
「店長のか? ならば話の一つくらいは聞こえてきてもいいはずだ。我々は最も身近にいる」
答えるリリィの顔は険しかった。
「だな。その線は消える。後は、こいつらのボスにそういうプレイを強要されてるって線もあるが、さすがに冗談にもならねえ。すっかり壊れちまってる」
「いや、待て」
「何だ? 何か思いついたか?」
「もしかしたら、竜害かもしれん」
俺は思わず顔をしかめていた。
「これがか?」
「知竜、そう呼ばれる竜がいる。記憶を食う竜だ」
「ああ? 本当に居るのかよ。少なくとも俺が昔、訓練教官から教わった話の中にゃそんな竜のことは入ってねえぞ」
「居る。居るのだ。信じる気にはなれないか?」
「信じるさ。竜のことに関しちゃ、お前の言うことを信じないわけにはいかねえだろ」
リリィは満足そうに頷くと、
「舐《な》められた程度ならばまだ症状は軽いが、根こそぎ食われると、廃人同様になる。ちょうど、彼らのようにだ」
「はた迷惑な竜だな。けど、こんな狭い場所に竜が首突っ込んでこいつらの記憶を食ったってか?」
リリィは右の眉を吊り上げ、呆れたな、と表情で言ってみせた。
「何を素《す》っ頓狂《とんきょう》な答えを口にしているのだ。言っていて恥ずかしくないのか? ココ、私は何だ?」
「あん? ああ、そうか。そうだったな。知竜のドラゴンキラーか」
「まだ可能性の一つだが」
あらゆるものを喰らう害獣、竜。砲弾銃弾すら跳ね返すほどの強靭《きょうじん》な肉体を有する、空飛ぶでかいトカゲだ。が、その特異な点は食生活にこそある。ある竜は火を、ある竜は音を、ある竜は人間の味覚を食うのだ。一種につき一種類のものしか餌《えさ》にしないから、その餌の名をとって竜の名とすることが一般的で、先に挙げたものは、火竜、音竜、味竜、そういう名前になる。そして、竜によって何かを食われることを、竜害と呼んでいた。
そして、竜の力をその身に宿したドラゴンキラーも竜と同じものが食えるし、つまりは竜害の原因足りうる。リリィの場合であれば火を食えるわけで、小腹が空いたと言っては、事務所のキッチンでガスの火を口にしていた。
「カジノハウスがドラゴンキラーを手に入れたってのか。それが事実なら、そもそも商会が大っぴらに宣伝してるはずだ。一々隠す意味はねえ。だとしたら、外部のドラゴンキラーってことに。アルマが狙いか。いや、何にせよ情報が足りねえ」
俺が顎に手をやって、つらつらと考えていたときだった。
がしゃん、と派手な音がして窓が割れた。
次の瞬間、俺の目の前を何かが通り過ぎ、そしてそれは壁を砕き、拳を一回り大きくした程度の穴を開けて消え去った。顔を庇《かば》いつつ銃を抜いたが、何が起こったのか把握さえ出来ていない。
分からない、という状況は恐怖を生んだ。背中に汗がにじむ。
「砲弾? いや違う。音がしてねえ。リリィ、見えたか?」
「猫だ」
「仕事は後回しにしろ。敵が来てるかもだ。狙いはアルマかもな」
「いや、そうではない。先ほどこの壁に穴を開けたのが猫だと言っている」
「は?」
「だから猫なのだ。黒い猫だ」
「いや、落ち着けリリィ」
「お前こそ私の話を聞け。普通の猫が壁に突進して穴を開けるわけがなかろう。あれはドラゴンキラーだ。そう、黒猫のドラゴンキラーではないか」
思わず固まった。黒猫のドラゴンキラー。
言葉を探そうにも中々見つからず、俺はとりあえず銃を仕舞い、腰に手を当てて、ため息をついた。
「そいつは何の冗談だ?」
「見たままだ。私に冗談のセンスなど無い」
「真面目過ぎる受け答えで肩が凝《こ》るな。感謝感激だ」
「野生動物が竜の力を得るのはまれだ。大抵は死んでしまうからな。が、我々がそうであるように、生き残る個体も勿論《もちろん》存在する。大抵は、竜と見なして殺してしまうがな」
へぇ、とやる気のない相槌《あいづち》を打つと、リリィは講釈癖が出たのか、
「軍では訓練終了後の軍用犬に竜の肉を食わせるという計画もあったらしい」
と自慢げに続けた。現実から目を背けたかった俺は、
「実現は?」
と付き合う。
「していない。そもそも訓練には手間、つまりは金がかかるからな。その金の集大成である軍用犬に一万分の一の賭けをさせるか、とそういう話になる」
「ま、金をドブに捨てる馬鹿はいねえか」
と相槌をうちながら、煙草を取り出した。リリィはそれを見て取るなり、すかさず手を伸ばし、指先に小さな火をともした。火竜の力を体に取り込んだリリィの能力である。ライター要らずの便利な体だ。
やるせなさを煙とともに吐き出していると、
「もう一つ伝えることがある。壁に穴を開けた先ほどの猫だが、我々が取り戻しに来た猫である可能性が極めて高い。アイナだったか。写真の黒猫が巻いていた首輪をしていた」
もはや笑うしかない。
「あぁ、そいつは愉快な話だ。最高だ。帰ろう。帰って寝ちまおう。何が楽しくて黒猫のドラゴンキラーなんぞを捕まえなきゃならねえんだ。ん? もしかして、こいつらの記憶を食ったのは」
「そう考えるのが妥当だな」
俺は顔を押さえて盛大にため息をつき、
「帰ろう」
と再び口にした。意識したわけではなかったが、どこか頼み込むような響きになった。
「仕事を放棄するわけにもいかんだろう」
「阿呆。割りに合わねえだろうが。ドラゴンキラーの捕獲だと? 大概にしろ。金貨二、三百も出せば考えたさ。だが五枚だ。五枚ぽっちだ。はした金で命を危険に晒《さら》せってのか? くそったれ。考えたかないが、あのミルキーデブに嵌められたんじゃねえかって気がしてくる」
「恐らく知らなかっただけだろう。知っていれば事前に話してくれたはずだ」
「なんでだよ」
「無法者のお前に対して、そのような危険な真似をするか?」
リリィの言葉には一理あった。面白くない話である。しかも自分は無法者ではない、と言っているのも気に食わない。が、追求してくれと言わんばかりにぶら下げられた餌に食いついてやるつもりはなかった。
俺は煙草を踏み潰《つぶ》しつつ、
「ミルキーデブが無事な理由が知りたいな。よほど懐《なつ》いてんのか」
「見るからに包容力のありそうな御仁だったからな。動物にも好かれるのだろう」
何を言っているか理解するまでに一拍かかった。
「お前に答えを求めた俺の馬鹿さ加減を呪いたくなるな。まあいい。とっとと始末しよう」
「連れて帰るのが仕事のはずだが?」
「記憶を食う化け物が相手なんだぞ。食われる前に殺さねえと大事《おおごと》になる」
「しかしだな」
とリリィは不満を漏らした。さらに何か言い重ねていた様子だったが、俺の頭の中にはちょっとした考えが像を結んでいた。
記憶を食う。
どういう単位なのだろう。時間単位か、それとも、例えば林檎《りんご》にまつわる記憶だけを選別して食うのか。もしも後者が可能ならば、俺の忌まわしい記憶を食わせることも出来るのではないか。
殊更《ことさら》に口にすることでもないが、俺は病気持ちだ。医者にかかっていないため、詳しい病名は知らない。が、時折過去の不愉快な光景を思い出し、そして尋常で無いほどの頭痛に襲われる。
その原因を作り出した男はすでにこの世には居ない。俺の復讐《ふくしゅう》は果たされている。だが、だからといって俺の中から頭痛を引き起こす原因が取り除かれたわけではなかったし、頭痛が時と場所を選ばずにやってくることにも変化は無かった。
もし。もし黒猫に俺の記憶を食わせることが出来たならば、この忌まわしい病気との縁を切ることが出来るのではないか。
期待がふくらみつつあった俺は、いつの間にかにやついていたらしく、リリィが、
「ココ、おいココ。大丈夫か?」
と心配そうな顔をした。俺はゆっくりと視線を合わせ、
「捕らえる。何があろうと絶対に殺すな」
と宣言した。リリィは面食らった様子だったものの、
「任せろ」
と力強く答えた。
捕り物が始まった。
黒猫を発見したのは店内のほうだったが、スタッフルームにも増して酷い有様だった。客層は幅広く、年寄りから女子供までより取り見取りだ。が、スタッフを含め、その全てが記憶を根こそぎ食われていた。呻き声の大合唱が嫌でも耳に入ってくる。
竜害。まさに竜害だ。消えない爪痕《つめあと》が一生残る。
いっそここで殺してやったほうがこいつらのためではないか、と思ったが、持って来ている弾の数は、装填《そうてん》してあるものを含めて十八発。記憶を食われてしまった連中はその何倍も多い。
弾が足りない、刃物は普段から持ち歩かない、首の骨を折るのは面倒くさい、という理由で、速やかに断念した。放っておけば、誰かが何かに活用するか、そうでなければ始末するだろうし、そしてそれは俺が関知すべきことではない。
俺が下らないことを考えている最中も、リリィは黒猫を追い続けているようだった。
柱を粉砕し、スロットマシーンを鉄くずに変え、ルーレットが宙を舞う。しかも俺には連中の動きは全く見えない。ドラゴンキラーの移動速度は人間の目には追いきれないからだ。が、それでも時折向きを変えるなり、黒猫アイナがリリィと距離を取って対峙《たいじ》するときなどは、その姿を視認出来る。
で、先ほどから延々と追いかけてはいるものの、店内が破壊されていく以外の変化は無かった。四つ足の獣のドラゴンキラーは、人間のそれよりもずっと速い、ということなのだろう。人間と猫の速度の差は、ドラゴンキラーになっても縮まらないらしい。
「ココ、貴様も手伝え!」
天井付近、壁に腕をめり込ませて体を支え、周囲に視線を走らせているリリィが声を張った。
「嫌に決まってんだろ。誰が好き好んで化け物の相手するってんだ」
「何か策は無いのか。頭脳労働はお前の担当だろう」
ふむ、と顎先を掻きながら、何か手は無いかを考えると、即座に使えそうな、策とも呼べない考えが思いついた。
「じゃあ釣り上げるか。ドラゴンキラーだが、猫だ。猫を釣るには?」
「猫じゃらしっ!」
「ま、ここいらにゃそんなものはねえからな。代わりに使えそうなものはっと」
俺は言いつつ店内の様子を観察し、やがて、ステージの上で廃人と化している、一人の女ダンサーに目をつけた。裸同然の衣装だが、いかにもひらひらしていて、なおかつそれなりに飾りが多く、使いものになりそうである。
俺は迷わず下半身を覆っていた紐同然の衣装を剥《は》ぎ取ると、頭の上でそれを振ってみせた。
「コ、な、ば、馬鹿者! なな、何をしているのだ!」
「見ろリリィ。ここまで行くとただの紐だ。尻がたるみそうだな。全く嘆かわしい話だよ。せっかくの尻が台無しだ」
「そういう話ではないだろう」
「ならお前のを使え。これより派手で、面積が少ない。そうだろう?」
「私のは、その……無理だ」
俺は小さく笑った後で、
「じゃ、話がまとまったところでこれを使ってみるとしようか、ドラゴンキラー」
ダンサーがまとわりついて踊る、ステージ中央のポール。それを引きちぎって先端に衣装を結び、リリィがそれをぶんぶんと振った。振るたび、くくりつけた衣装が店内のランプの光を反射してはキラキラと光ったが、同時に起こる風を切る音が耳に痛い。
それもそのはずで、二メートルほどもある鉄の棒切れを振り回しているのだ。それくらいの轟音は立ってしまう。いや、問題はどうしようもなく重そうなポールを、軽々と振り回せるだけの筋力を、考えなしに使ってしまう馬鹿さ加減のほうだろうか。
「その敵意丸出しの音はどうにかなんねえのか? もっと優しく振れよ」
「そうか? これでも軽くやっているつもりだが」
「いいから、もっとゆっくりだ。男の腰に手を回すぐらいのつもりでやれ」
リリィは一瞬ぴくりと眉を動かしたものの、一度咳払いをしただけだった。
「大体こんなことをして、上手くいくのか?」
「いかせるんだろ。まあ、間抜けなのは否定しねえけどな」
「恥ずかしいのは私なのだが」
「そりゃあ良かった。俺は恥ずかしがり屋なんだ。お前がいてくれて助かるよリリィ。ああ全く。ドラゴンキラー様様だ」
言いつつも、正直なところ半信半疑というか、半ば以上無理だと諦めていたから、俺の頭の中では次策が探されていた。が、火を使っていぶり出すか、と俺が考えていたのと、黒猫がひょこりと姿を現したのは同時で、思わず苦笑がこぼれた。
「やってみるもんだな。上手くいくとは驚きだ。やっぱあれか、他人の記憶を食っても手前が賢くなるわけじゃねえのか」
そう言ってリリィを見たが、俺の軽口に付き合うつもりはないようで、顔には真剣な表情を貼り付ける一方、気配を殺している様子がうかがえた。
俺も黙ってそれに倣《なら》い、息と気配を殺していく。
ぶん、ぶん、と小気味良く振られるポールと、それに従ってキラキラと光を反射する衣装だけが異質だった。
黒猫は徐々に距離を詰めてきていた。間違いなく餌に食いついている様子で、ポールが横薙《よこな》ぎにされるたび、ぴくりと首を動かして反応する。
七メートル。
五メートル。
あと少し。
と、突然リリィがポールを右に勢いよく振った。黒猫は苛烈な速度でそれに反応した。衣装は千切れ、黒猫は勢いそのままに壁に向かって突進する。が、リリィはその一瞬を逃さず、壁の前に先回りし、胸に飛び込んできた黒猫をしっかりと受け止めた。
「んなぁ」
と一際|甲高《かんだか》い猫の鳴き声が響いた。
リリィの腕に収まった黒猫アイナは、最初こそもがいていたものの、リリィの力のほうが上と見るなり、大人しく諦めた様子だった。が、まさに猫そのものの態度で、媚《こ》びる様子は微塵《みじん》も感じられない。
俺は黒猫に詰め寄り、
「おいクソ猫。俺の言うことが分かるか? 記憶を食うらしいな。ならついでに俺の記憶も食っちゃくれねえか? 三年前の記憶だ。戦争の記憶だ。ちゃんと選んで食えよ。出来るんだろ、ええ?」
リリィに抱かれている黒猫は、俺をなんとなく不機嫌そうな表情で見た後。
ぷい、と横を向いた。
「な。おい、手前《てめぇ》っ。こっち向けクソ猫! なんだその舐めた態度は、ああ? 死にたいってんだな。上っ等だっ!」
「どうして捕まえる気になったかと思っていたが、なるほどそういうことか。どこまでもお前らしいよ、ココ」
「煩え」
「ま、この子の腹が一杯か、あるいはお前の記憶は食えぬほど不味《まず》いかのどちらかだな」
「何がこの子だ。こんなクソ猫とっととひねって捨てちまえ」
「馬鹿を言うな。ボブテイル氏にちゃんと届けるのだ」
「クソめ。黒猫だと。ドラゴンキラーだと。とっととくたばれボケ」
毒づくと、黒猫が俺を見た。途端に恐怖とは違う、何やら得体の知れない感覚が湧いた。
思わず一歩後ずさる。
黒猫は黄色い目を俺から外そうともしない。妙な感覚は益々大きくなる。
何だこりゃ。分からない。分からないが、何か拙《まず》い。
と。
急に俺の頭に見たこともない情報が湧き上がった。
太い腕。
やけに生々しい、しかし経験したこともない記憶。
短い脚。
ようやく悟る。黒猫、この馬鹿猫が俺の頭に記憶を流し込んでいた。
節の無い指。
膝を折って顔を押さえる。
「ココ? あ、まさか。止せアイナ。ココの記憶を食うんじゃない」
「逆だ馬鹿」
「逆?」
俺は震える指で黒猫を指し示すのが精一杯だった。頭が割れるかと思うほどの痛みが伴っていた。
が、問題だったのはそんなことではない。植えつけられようとしている記憶の内容のほうだった。
何かと言えば。
だらしない笑顔を浮かべたボブテイルが、一糸|纏《まと》わぬ姿でもって、むしゃぶりついてくる様だった。
「やめろおおおっ!」
俺は頭を押さえて叫んだが、それを見た黒猫は実に満足そうに、
「なあ」
と鳴いた。
翌日の昼過ぎ。
ボブテイルの元に戻った黒猫アイナは、やたらと甘えた様子で、ちろちろと舌を出してはボブテイルの顔を舐めた。
「ああ、あなた方に依頼して正解でした。よくぞ。よくぞアイナを取り戻して」
今にも泣き出しそうなボブテイルは、そう言って満面の笑みを浮かべた。
俺はソファにぐったりともたれ、ボブテイルを直視しないよう努めた。が、瞼《まぶた》の裏にくっきりと焼きついたその様はあまりにも強烈に過ぎ、男の裸を愛《め》でる趣味の無い俺は、普段から俺を悩ませている頭痛とは、また種類の違った痛みに悩まされることになった。
記憶は増えたが、人として大事な何かを失った気がする。
男に尻を掘られたら同じような感じになるだろうか、と詮無《せんな》いことを考えた。
やっぱり最悪の日だったのだ。散々な目にあっている。とっとと始末しておけば、俺の頭の中にどこまでも気色の悪い光景が居座ることもなかったのに、変な色気を出すからこの様《ざま》だ。
いや。殺すとしても裏目には出たのかもしれない。運が無い日は大抵そういうものだ。
ため息しか出なかった。
それを見て、頃合だと見計らったのか、ボブテイルが口を開いた。
「では、私はこれで」
「ああ待ってくれ」
と腰を上げかけたボブテイルを呼び止めた。
「まだ、何か?」
「何、ちょっと訊きたいことがあるだけだよ」
「どうかしたのか?」
とリリィが口を挟んだが、無視して続ける。
「あんた今何歳だ?」
「え? えーと、三十、三十、三十……三十くらいです」
「一昨日の晩飯は何食った?」
「えーと、なんでしたっけ?」
「最後だ。俺の名前は?」
ボブテイルは真剣に思い出そうとしている様子だったが、最後には、すいません、と頭を下げた。
「いや、訊きたいのはそれだけだ。呼び止めて悪かった。じゃあな」
「はあ」
と気の抜けた返事を漏らし、ボブテイルは俺の事務所から去っていった。
見送りを終えて戻ってきたリリィが口を開く。
「最後の質問は、あれは何だ?」
「いや、あの馬鹿猫がどれくらいボブテイルの記憶を食ってるもんかと、そう思っただけだ。聞いたろ? 自分の年訊かれて、大真面目に三十くらい、ときた。哀れだな。全く哀れだ。あの黒猫にとっちゃ、ボブテイルは家畜そのものだ」
「飼っているつもりが飼われている、と?」
「どうだろな。ま、どっちでもいいさ。ただ、次にボブテイルが面倒を持ち込んできたら追い返す。金輪際《こんりんざい》御免だ。それよりリリィ」
「何だ?」
「お前は俺の相棒だ」
「ば、馬鹿。何を真顔で」
「相棒ってのは苦楽を共にするもんだ。違うか?」
「ああ。違わない」
「苦しみを分かちあい、楽しみを共にする。素晴らしい。実に最高の関係だ。というわけでだ。俺の苦しみを少しでもお前に受け止めて欲しい。駄目か?」
「そこまで言われて断るわけにもいくまい。どんと来い。頼りない私だが、お前一人分の苦しみくらいならば背負いもしよう」
俺はにっこりと笑い、
「ボブテイルのいちもつは短小だったよ。俺の小指並みだ。そのくせ、よっく使い込まれてた」
と言った。リリィは即座に赤面し、ぷい、と顔を背《そむ》けた。
それを見て笑っていると、ドアの鍵ががちゃがちゃと鳴った。
アルマがやって来たらしい。
鍵を開けると同時にドアが少しだけ開き、その隙間からアルマが顔を出した。八歳という年齢の割りには、異様なほどに物分りが良く、賢い。が、それらの知性は顔には出ておらず、年齢に相応しい幼さだけが浮かんでいる。俺とリリィが保護すべき少女だ。
俺の事務所のもう一人の従業員にして、アパート一階にあるカフェのウェイトレスも兼ねている、中々に働き者の少女である。
三人揃うと、どうしてこんな形になったのか、とたまに疑問に思う。
リリィに押しかけられたとき、全てを捨てて逃げるという選択肢もあったはずなのだが、どういうわけか俺は今もここにいる。後悔は何度もしたし、実際今回の仕事もそれに値するだけの酷いものだというのに、それでもここにいる。
何故だ。
そう考えて、なんだか自分が物凄く馬鹿なような気がしてきて、考えるのをやめた。
煙草を取り出しつつ、
「どうしたアルマ。カフェはとっくに開いてるだろ。ラダーマンに叱られちまうぞ」
と、未だにドアから顔だけ出しているアルマに声をかけた。
アルマは困ったような顔をして、その後、リリィを手招きで呼んだ。アルマを甘やかすことしか知らないリリィは、即座に対応し、そそくさとドアの外へと出て行く。程なくして二人連れで部屋に入ってきたが、アルマはその腕に箱を抱えていた。
「何だそりゃ?」
「あのねココ。この子、拾っちゃったの。それでね、店長にお願いしたら、うちじゃ駄目だからココに訊いてみたらどうだって」
「野良犬でも拾ったか。全く、世話のやけるお姫様だな」
「駄目?」
「さあ、どうしたもんだろな」
言いつつどんな顔をしているのか見てやろうと、俺は箱を開けた。
一目見て固まった。まだ火をつけていなかった煙草が、ぽとりと床に落ちる。
布の敷き詰められた箱に入っていたのは、生まれて間もないと思えるものの、どこまでも黒い、一匹の猫だった。
「捨ててきなさい! 良い子だから! お願いだから!」
「よいではないか猫の一匹くらい。大の大人が見苦しいぞ」
「煩えよ怪力馬鹿おぼこトカゲ」
「駄目なの? ねえココ駄目?」
アルマが全くもって手に負えない可愛らしさで、首を傾けて俺に言った。
反則だ。くそ。これだから子供は嫌だ。
駄目だと強弁すれば泣くに決まって、いや、アルマは聡《さと》いから泣きはしないか。その代わり溜め込むに違いないのだ。くそったれ。そうなれば俺が悪人だ。
歯を食いしばり、色々なことを勘案した挙句、俺はがっくりと肩を落とし、
「いいよ。うん」
とぼそりと呟いた。アルマの表情がぱっと明るくなる。
もこもことした黒猫の赤ん坊は、箱から這い出ようと試み、それが無理だと知れると、飼い主に挨拶でもと思ったのか、
「にゃあ」
と鳴いた。
「にゃあ」
と俺が抑揚《よくよう》無く返すと、リリィとアルマが顔を見合わせて笑った。
最悪だ。どこまでも最悪だ。
黒猫だと。くそったれ。
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海原育人
うなばらいくと
「ドラゴンキラーあります」シリーズ
黒猫をテーマに、楽しく書かせていただきました。生まれて初めての短篇で、拙い部分も多々ありますが、楽しんでいただければ幸いです。
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翻訳シリーズ誕生前夜
駒崎優インタビュー
(都内某所にて密談)
編集 今日は、駒崎優先生に翻訳ファンタジーシリーズ誕生秘話をお伺いしたいと思います。駒崎先生は、「ナイトランナー」シリーズや「キリス=キリン」などを編集部に教えてくれた偉い人です。さっそくですが、なぜ御本を紹介いただくことになったんでしたっけ?
駒崎 えっと、たしか「翻訳ファンタジー始めたいんです」って言われて、「じゃあ!」と、当時目をつけていた本をオススメしたような記憶が……。今でも大好きな『剣の輪舞』(注1)という作品があるのですが、それを英語で読みたいと思ってamazonで検索をしていたら、オススメ商品として出てきたんですよね。ネットで取り寄せまでしていたのですが、英語なのでなかなか読む時間が取れず……日本語で読めたら! と思っていたので、翻訳ファンタジーの計画は、鴨がネギをしょってきたような話でしたね(笑)。やった! これで労せずして、あの小説読める! と。
編集 そうだったんですか。まんまと引っかかってしまったわけですね(笑)。普段から翻訳ファンタジーをよくお読みになっていらっしゃいますが、読み始めたきっかけになる本はなんだったのでしょう?
駒崎 サトクリフの『太陽の戦士』(注2)やル・グウィンの『ゲド戦記』(注3)ですね。中でもサトクリフの『王のしるし』(注4)という作品――児童書なんですけど――の影響は、「バンダル・アード=ケナード」シリーズにも現れてます。主人公が、顔に入れ墨を入れるところから話が始まっているんですよ、この本(笑)。あとは翻訳じゃないんですけど、大きく影響を受けたという意味ではずせないのが、中学一年生くらいの時に読んだ、あしべゆうほさんの『クリスタル☆ドラゴン』(注5)。レギオンというキャラクターが強烈で、超絶した美形というものがいかに読者に訴えかけるか、この漫画で思い知りました。小説で読むのと、漫画で実際に絵を見せてもらうのとでは、全然インパクトが違うんですよね。あと、ケルトの生活のあり方とはどういった感じか、ということも学びました。全く知らない世界が開けた瞬間でしたね。この作品自体はまだ完結してないんですけど。……続き待ってるんですけど! (笑)
編集 いつぐらいから小説をお書きになっていたんですか?
駒崎 小学校一年生の時には、何やら書いて、ホチキスで綴じて本にしてました。内容も覚えてますが、それはここでは申し上げられません(笑)。それ以外にも、作文や小説で、文章コンクールに応募したりしてました。入賞もしてたんですよ、色々と。こちらの世界(笑)に入るきっかけになったのは、中学校三年生の時に友人から同人誌なるものを借りたこと。他にはアニパロコミックス――ってご存じですか? その名の通り、アニメや漫画のパロディ作品を集めた同人誌的な商業誌なんですけど――で、巣田祐里子《すだゆりこ》(注6)さんや浪花愛《なにわあい》(注7)さんの作品を読んでましたね。高校二年生頃からは、自分で同人誌を作って、某所へ行商しに行ったりしました。あんまり大きな声で言っちゃいけない話かもしれませんが、でも、私と同世代の作家さんや漫画家さんには、同じような過去のある人も多いのではないかと……。ともあれ、あの日々があったからこそ、人に読ませる文章を書く、ということを学べたのは事実です。
編集 その後も創作活動を続けられて、第五回ホワイトハート大賞に応募、佳作をお取りになって『闇の降りる庭』でデビューされたのですね。
駒崎 私が大学を卒業するころは、ちょうど女子大生の就職氷河期真っ只中だったんですよね。一応就職活動もしてみたんですけど、でも私はずっと物書きになりたかったし、いずれなれると思ってたんです……何の根拠もなく(笑)。だから、たとえ就職できたとしても、賞に応募して、デビューが決まったら仕事は辞めるつもりでしたし、それならいっそ就職なんかしないで、どんどん小説を書いて、修行を積んだ方がいいかなあなどと考え始めていたところ――病に倒れて入院しまして……。入院していたのは十日程度だったんですが、私はそれまでにも度々、電車の中で貧血起こして倒れたり、電車から降りようと座席から立ち上がった途端、立ちくらみを起こして駅の階段から転げ落ちそうになったりしていたので、親が心配して、もうおまえは就職しなくていいよ、みたいな雰囲気になったんですよね。ちょうどそのころ、アルツハイマー症の祖母の介護に人手が必要だったので、祖母の介護をしつつ、英語を習ったりしつつ、バイトしつつ、小説を書いて――何とかデビューにこぎつけました。でなければ、今ごろは立派なニートでしたね!
編集 駒崎さんからオススメいただいたファンタジーも翻訳され、好評刊行中です。オススメポイントがあれば、ぜひ。
駒崎 「ナイトランナー」の最大の売りは、やはりキャラクターたちが魅力的なところですよね。訳ありの長髪美青年と、彼を慕って付き従う美少年、て、いかにも乙女心をそそる面々じゃないですか。私の一押しは主人公たちの仲間の一人、マイカムです。仕事ができて、強くて、ヘタレたところがかわいくて、見てて楽しい上に、何よりも生活能力がある! そんな男、貴重です(笑)。サージルとの若い頃のエピソードも是非《ぜひ》読みたいです。一方「キリス=キリン」は重厚なファンタジーで、これは本当に翻訳していただいて良かったです。英語では、絶対に理解できなかったであろう複雑さ! この中では、主人公ジェセックスのおじさん――とっさに名前が出てきませんが――気に入りでした。……何だか脇に目が行きがちですね、私。最初に登場した時は、もっと活躍するかと思ったのですが……ホントもっと出てきてほしかった! そんな不満やもどかしさが、自分の作品を書くときの原動力になってます。
編集 C★NOVELSの読者にお薦めの翻訳小説&未訳小説――もちろん日本人作家さんの作品でもオッケーです――があれば教えてください。
駒崎 日本の現代小説は、実はほとんど読んでいないんですよ。自分の暮らしている世界とは、違う世界に興味が行くもので。なので、読むとしたら時代小説。最近の翻訳小説では、『チャリオンの影』(注8)がオススメです。それから、『ロック・ラモーラの優雅なたくらみ』(注9)が面白かった! 「ナイトランナー」もそうですけど、「ルパン三世」(注10)を見て育った世代のせいか、泥棒とか詐欺師とか、そんなモチーフが大好きです。
未翻訳のファンタジーで、今興味を持っているのは、Sarah Monette 著の Me'lusine と、続編の The Virtu (注11)。いや、読んではいないんですけど、それなりに評判もいいようですし、内容紹介を見るに、「泥棒」とか「暗殺者」とか、心躍る単語がちらほらありますし。機会があったら、ご検討よろしくお願いします、ということで。
(注1)「剣の輪舞』原題 Swordspoint。エレン・カシュナーの代表作。
(注2)サトクリフの『太陽の戦士』 Rosemary Sutcliff、イギリス、サリー州出身の歴史小説・ファンタジー小説家。Warrior Scarletは1957年に書かれた少年の挫折と成長を描いた代表作。
(注3)ル・グウィンの『ゲド戦記』 Ursula Kroeber Le Guin、アメリカ、カリフォルニア州出身のSF小説・ファンタジー小説家。日本では『ゲド戦記』と称される A Wizard of Earthsea から始まる一連の作品群は、ファンタジー作品の代表作。
(注4)「王のしるし』原題 the Mark of the Horse Lord。サトクリフ作品中、熱烈に支持される。
(注5)あしべゆうほさんの『クリスタル☆ドラゴン』青森県出身の少女漫画家。1970年「マドモアゼルにご用心」にてデビュー。『クリスタル☆ドラゴン』は1981年4月創刊号から月刊「ボニータ」にて連載開始され、現在も月刊「ミステリー・ボニータ」誌にて連載中。
(注6)巣田祐里子 東京都出身の漫画家。1982年『だっ題を考えるのを忘れたっ』にてデビュー。
(注7)浪花愛 東京都出身の漫画家。
(注8)『チャリオンの影』原題 The Curse of Chalion。ロイス・マクマスター・ビジョルドによるファンタジー大作。
(注9)『ロック・ラモーラの優雅なたくらみ』原題 The Lies of Locke Lamora。スコット・リンチによるファンタジー作品。(駒崎注)帯の謳い文句は「天才詐欺師、世にはばかる! 輝ける水の都で、大胆不敵なコン・ゲームを繰り広げるは若き五人組・悪党紳士団――」でした。……もう、買わないわけにはいかなかった……。
(注10)『ルパン三世』モンキー・パンチ原作の漫画(1967年−)ならびに主人公の名前。テレビアニメ化(1971年−)により人気に火がつき、以後たびたびTV化や映画化される。(中公文庫刊)
(注11)Sarah Monette 著の Me'lzasine、続編 The Virtu 担当編集者のったない英語力でも確かにおもしろそうです。今後の参考にさせていただきます〜
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魅惑の翻訳ファンタジー座談会
〈出席者〉原島文世・澤田澄江・浜名那奈
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)台詞《せりふ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)どんびき[#「どんびき」に傍点]
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編集 二〇〇五年に始まった翻訳シリーズ。その魅力をお伝えするべく、三人の訳者の方々に集まっていただきました。ご本人のことから、訳されたシリーズまで存分に語っていただこうと思います。
まず、みなさんが翻訳を志したのは、いつ、そしてなぜですか?
原島 私の場合は、卒論でした。『指輪物語』(注1)について書いたのですが、引用文の訳を翻訳書から引くつもりでいたら、先生に「英文学の論文なんだから、原文にはオリジナルの訳を付けないとね」って言われて……。それで、訳してみたら面白かったんです。そこで、大学院に行ってから、翻訳の授業をとりました。そのころ、ちょうど母親がイギリス旅行でお土産に原書を買ってきてくれて。ああ、原書を読むって面白いなって。それで、翻訳の有志の勉強会に参加したんです。
澤田 私はじつは音楽です。ビリー・ジョエルの“Honesty”(注2)がすごく好きになって、歌詞カードを辞書片手に訳したんです。まだ小学生で、もう、「“I”って『私』って意味なんだ!」くらいの、本当に英単語を一つも知らなかった頃ですね。それが英語って面白いんだって思った最初です。その後、大学で英文科に入ったのですが、当初は新聞記者志望だったんです。でも、翻訳のおもしろさに目覚めたのがきっかけで、本格的に勉強しようと、大学院に進みました。そこで原書をたくさん読み込んだのですが、翻訳の授業は学部に一コマあるだけだったので、もっと翻訳の勉強がしたい! と思って。それで原島さんたちと有志の勉強会を立ちあげたんです。
原島 あの勉強会は、本当に熱い会でしたね。短篇を選んで、同じ文章をみんなで訳して、合評会をするんです。
澤田 本当にやりたいっていう気持ちで集まった勉強会でしたから。その時のメンバーは、七人くらいですけど、ほとんどみんな翻訳の仕事に就いています。
浜名 私はお二人とはちょっと違って、英語は本当に苦手でした。でも、児童文学が好きで、なかでも英語圏の作品に好きなものが多かったので、原書を読む必要があったんです。そんなときに出逢ったのが井辻朱美先生(注3)。最初は、児童文学の授業だけとってたんですが、先生にすっかり惚れ込んでしまって、先生の授業は全部とりたい! って思って、翻訳の授業もとることにしたんです。澤田さん、原島さんとも、そこでご一緒したんですよね。で、井辻先生がものすごく誉め上手で……。
原島&澤田 そうそう! 必ずどこか誉めるところを見つけてくれるんですよ!
浜名 誤訳すると、本当はダメじゃないですか。でも、日本語の文章として良かったら、そこを誉めてくださる、そんな感じなんです。もともと創作志望で文章を書くのが好きだったので、とても嬉しかったです。それでもしばらく苦手意識は抜けなかったんですが、大学院を受けることにして、英語の受験対策を神宮輝夫先生(注4)に相談したら、『オンリー・コネクト』(注5)という本を紹介してくださって、これを三ページずつでもいいから、毎日読みなさいと言われたんです。本当に苦しかったんですけど、毎日続けていたら、ある日、目からウロコが落ちたように、英文が読めるようになったんです。
編集 今から三年くらい前に、C★Nファンタジア(注6)で翻訳物の出版を考えていて、井辻先生にご相談したんです。翻訳者をご紹介いただけませんかと。自分たちの出してきたファンタジーを説明して、これからやりたいことを思いきり熱く熱く語って(笑)。……先生、はっきり言ってどんびき[#「どんびき」に傍点]されていたと思いますが、それで皆さんを紹介していただいたのが最初でした。
編集者と初めて会って、印象はどうでしたか?
澤田 私は、それまで共訳ばかりで、編集者と一人で会うって初めてだったんです。なのでとっても緊張したのを覚えています。そして、ケーキが美味しかったこと(笑)。
編集 そういえば、あのときは、印象をよくしようと思って打ち合わせのあと、ケーキをごちそうしたのでした(笑)。
浜名 編集のお二人とお話ししたんですが、とても気の合ったコンビで、いいな、と思いました。
原島 私は、もともとC★Nファンタジアは何冊か読んでいて、好きで追っかけてる作家もいるくらいでした。なので、お話をいただいたときは嬉しかったです。ラノベ(注7)と翻訳ファンタジー(注8)の中間にあたるものを出したい、という編集部の考えを聞いて、それは私が読みたいものだ、って思えたのが印象に残ってます。
澤田 私は逆に、それまで読書傾向が硬派で、ファンタジーに弱かったんです。でも、最初に下読みで渡された原書が、十字軍の話だったんですが、これが面白かったんですね。その後、『キリス=キリン』を訳すことになるんですが、私、それまでこういう世界(注9)をまったく知らなくて、勉強しました(笑)。
編集 では、具体的なタイトルが挙がったところで、それぞれ訳された作品について語っていただきましょう。
原島 まず、『エイナリン物語』ですね。これはすごく典型的な英米の異世界ファンタジーです。本格ファンタジー好きにも受け入れられる。でも、第一部は元気の良い女の子の一人称で進むので、翻訳ものに慣れていない方でもとっつきやすいと思いました。あと、一人称は、訳で差をつけやすいし、文章で工夫ができるんです。
次が『インヴィジブル・リング』。これは私自身が下読みで惚れ込んで、ぜひにと思った作品ですが、勢いで読ませるタイプです。設定の大胆さで目を引いて、テンポの良さとはっきりしたキャラクターでぐいぐい引っ張っていく感じです。
澤田 『キリス=キリン』の著者は、キャリアは長いのですが、ファンタジー作品は初めてという方で、そこが私に合ってると思えました。神話や伝承をふまえていて、とくにケルトの影響が強いんです。文章がとてもきれいで詩的なのが魅力です。そして、訳しているうちに、「美少年も良いものだな」って思えるようになりました(笑)。あと情景がとても目に浮かんで、物語に入り込めるんですね。訳していて、ふっと目を上げて、あれ? なんで今、晴れているんだろう? 嵐の真っ最中だったのに? って思ったことがあるくらいです。
その次が『女王の矢』。これは女性の強さが魅力ですね。
浜名 『ナイトランナー』は、個性的なキャラクターとテンポの良さが魅力です。最初の一冊目は主人公のサージルが吟遊詩人として登場するので、詩がたくさん出てくるんですけれど、その訳がとても楽しかったです。英語だと脚韻が多いわけですが、日本語で詩らしくするには、なるべく頭韻を踏みたいとか、七五調にして行の字数を揃えようとか工夫したりして。とくに吟唱するものなので、メロディに乗る感じにしたいな、って思ったんですね。苦労もしましたけど、楽しかったです。
編集 ほかに、ここに苦心した、というところはありますか?
浜名 文体のバランスです。日本語としてこなれた、きれいな感じにしよう、と思うのと、原文に忠実にしたいと思うのと……いつもそのバランスで悩みます。
原島 それは私も同じですね。あとは、私、台詞をみただけで、前後の文章を読まなくても、誰の台詞か判る、というのを目指しているんですが、それもけっこう大変。でも、ファンタジーはいろいろな語調が使えるから、それでも楽なのかな、とも思ってますけれど。
澤田 特殊用語です〜。『キリス=キリン』なんて、巻末にこーんな量(注10)の索引が付いているんですよ! (原書のページを開いてみせて)現代英語訳に発音記号まで付いて、もう辞書ですよね。
原島 それはあるだけましですよ〜! ないと、文脈から判断しなくちゃいけないし、最終的には原著者に問い合わせてってことになりますから。
澤田 でも、この量、やっぱり半端じゃない……。
編集 そういえば、スタートの三シリーズはどれも特殊用語が多かったように思いますね。みなさん、苦労されていたのを覚えています。
では、そのそれぞれのシリーズで、訳者一押し! のキャラを挙げていただけますか?
浜名 セロです。彼は主人公サージルの弟弟子でライバルなのですが、師匠が兄弟子の方をより愛している、と思っていて、非常に陰のあるキャラクターなんです。
澤田 『キリス=キリン』は王様と少年の恋物語で、もう二人だけの世界なのではありますが(笑)、あえてほかから挙げると、ジェセックスの母親ですね。登場シーンは短いのですが、本当の意味での芯の強い女性です。あとは、ドリューデン。自分を追いつめて追いつめて孤独になっていく、とても哀しい人です。
『女王の矢』ではスキッフでしょうか。主人公の友人なんですが、やんちゃで誠実、でもじつはいい男、というタイプで、台詞《せりふ》が良くて、訳していて楽しいんです。
原島 『エイナリン』はやはり主人公ですね。リヴァク。元気の良い女の子です。語り手なので、感情移入して読めました。第二部の語り手でもある男性主人公と恋に落ちるんですが、完全に尻に敷いているんですよ!
『インヴィジブル・リング』は最初はトーマスが好きだったんです。こういう生意気だけど、気の利く男の子って可愛いなあと。あとはやっぱりシーラでしょうか。これも元気な女の子です。暗い過去があるんですけど、それはそれ、私は私で生きていく、みたいな強さがあります。
編集 今後の抱負を語っていただけますか?
原島 C★Nファンタジアは読者の好みがはっきりしていて、反応がわかりやすいので、色々なものに挑戦してみたいです。
澤田 歴史ものですね。史実と史実の間から生まれてくるファンタジーみたいな感じの。
浜名 この『ナイトランナー』と同じ世界で別の時代を描いた物語があるのですが、読んでいてとても心の琴線に触れたので、ぜひ訳してみたいと思っています。
編集 私たちも知らなかった意外な一面や、それぞれの違った個性がお伺いできて、とても楽しかったです。今後ともよろしくお願いいたします。
番外編
ここまで熱く翻訳について語っていただきましたが、では、普段はどんなものを読んだり、楽しんだりされているのかも、ちょこっと話してもらいました。お三方の個性がはっきりしていて、じつは、座談会中、もっとも盛り上がった時間でした。
澤田 じつはギャグ漫画です。吉田戦車『ぷりぷり県』(注11)や、『浦安鉄筋家族』(注12)……。あ、意外ですか? 英文学でいうと、ワーズワース(注13)の“Rainbow”という詩が大好きです。日本文学では志賀直哉(注14)。『城の崎にて』は文章のリズムを見習おうと、写経のように書き写したりしました。
浜名 ジャンプ系少年漫画です。『ドラゴンボール』(注15)『幽☆遊☆白書』(注16)『NARUTO』(注17)などなど、王道です。『遊☆戯☆王』(注18)は、ゲームにもはまってしまいました。召還や攻撃の際の台詞を声に出してたりして、ちょっと危ない感じです(笑)。あとは一條裕子(注19)さん。ブラックなんだけど味わいがあって。それと、『ぼのぼの』(注20)も好きです。
原島 ……絞れません……。乱読派なので……。原点は『指輪物語』です。異世界が舞台の、きっちりした本格ファンタジーは好きですね。海外物だと、自分でも訳があるので気が引けますが(笑)、ダイアナ・ウィン・ジョーンズ(注21)。C★Nファンタジアでは、茅田砂胡、荻原規子が好きです。皆さん挙げていらっしゃる漫画では、私は完全に少女漫画読みです。こちらはもう本当に絞れません。
原島文世《はらしまふみよ》……和洋問わず、無節操なファンタジー好き。趣味が高じて翻訳家を職業とし、仕事でも余暇でもファンタジーを楽しむ日々を送っている。訳書に『盗賊の危険な賭 エイナリン物語第一部』(上・下)『剣士の誓約 エイナリン物語第二部』(上・下)『インヴィジブル・リング』(全3巻)〈以上小社刊〉、スコット・リンチ著『ロック・ラモーラの優雅なたくらみ』〈早川書房刊〉、ダイアナ・ウィン・ジョーンズ著『うちの一階には鬼がいる!』〈東京創元社刊〉などがある。
澤田澄江《さわだすみえ》……青山学院大学卒、白百合女子大学大学院修了。英米文学、児童文学を学ぶ。訳書に『キリス=キリン』(全3巻)『新訳 女王の矢 ヴァルデマールの使者』〈以上小社刊〉、『ナルニア国の創り手 C・S・ルイス物語』〈原書房刊〉、共訳に『ねむいねむいじけん』〈大日本図書刊〉、『図説 妖精百科事典』〈東洋書林刊〉などがある。
浜名那奈《はまななな》……白百合女子大学大学院博士課程を単位取得満期退学(児童文学専攻)。英語圏の児童文学を中心に研究している。『闇の守り手 ナイトランナーT』(全3巻)『光の狩り手 ナイトランナーU』(全3巻)『月の反逆者1 ナイトランナーV』〈以上小社刊〉、共訳に『図説 ファンタジー百科事典』『図説 妖精百科事典』〈共に東洋書林刊〉、共著に『児童文学における〈ふたつの世界〉』〈てらいんく刊〉などがある。
(注1)指輪物語 原題 The Lord of the Rings。いわずとしれたJ・R・R・トールキンによるファンタジーの名作。
(注2)ビリー・ジョエルの“Honesty” Billy Joel、アメリカ、ニューヨークのサウス・ブロンクス出身のロック歌手。“Honesty”は1978年に発表された名曲。
(注3)井辻朱美 歌人、翻訳家。白百合女子大学文学部教授。「エルリック・サーガ」や「ランドオーヴァー」シリーズなど訳書多数。
(注4)神宮輝夫 翻訳家。当時、白百合女子大学文学部教授。
(注5)「オンリー・コネクト」 原題 Only Connect: Readings on Children's Literature。日本語版『オンリー・コネクト児童文学評論選』(岩波書店刊 全3巻)が出ているが、このとき取り組んだ第三部は未邦訳。
(注6)C★Nファンタジア 1993年から始まったC★NOVELSの一ライン。
(注7)ラノベ ライトノベルの略。小説のカテゴリの一つ。語源は諸説あり、真相は不明。
(注8)翻訳ファンタジー ここでは東京創元社や早川書房などで刊行されている翻訳ファンタジーを念頭においている。
(注9)こういう世界 王様と少年の恋愛、すなわち男性同士の恋愛のこと。
(注10)こーんな量 索引は47ページ、内、特殊用語は24ページ(ちなみに全体で456ページ)
(注11)吉田戦車『ぷりぷり県』 不条理漫画の雄、吉田戦車の代表作。他には『伝染るんです。』などがある。
(注12)「浦安鉄筋家族』 浜岡賢次のギャグ漫画。全31巻。「週刊少年チャンピオン」で続編の「元祖! 浦安鉄筋家族」が連載中。
(注13)ワーズワース William Wordsworth (1770年4月7日−1850年4月23日)イギリスの代表的なロマン派詩人。自然讃美の詩を書く。
(注14)志賀直哉 (1883年2月20日−1971年10月21日〉宮城県石巻市出身。白樺派を代表する小説家のひとり。代表作は『暗夜行路』『城の崎にて』
(注15)『ドラゴンボール』 鳥山明による格闘漫画。全42巻。アニメ化もされ、全世界で愛読、視聴されている。
(注16)『幽☆遊☆白書』 冨樫義博によるバトル漫画。全19巻。
(注17)『NARUTO』 岸本斉史の忍者アクションコミック。1999年から「週刊少年ジャンプ」に掲載されており、現在も連載中。
(注18)『遊☆戯☆王』 高橋和希による少年漫画作品。単行本は全38巻。アニメ化、ゲーム化され、中でもカードゲーム「デュエルモンスターズ」は小学生を中心に大流行し、社会現象といわれた。
(注19)一條裕子 宮城県出身。自称ギャグ漫画家。代表作「わさび」など。
(注20)『ぼのぼの』 いがらしみきおによる四コマ漫画。既刊29巻。
(注21)ダイアナ・ウィン・ジョーンズ Diana Wynne Jones (1934年8月16日−)イギリスのファンタジー作家。宮崎駿監督のスタジオ・ジブリによって『ハウルの動く城』が映画化された。
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COMMENTS
原島文世
はらしまふみよ
「エイナリン物語」「インヴィジブル・リング」シリーズ
25周年おめでとうございます! まだ新参の翻訳シリーズも、どんどんおもしろい作品を発掘していきたいと思います。「インヴィジブル・リング」も無事完結し、次を準備中ですが、目下の候補は「NY」「仲良し兄弟」がキーワード。さてどうなるか……。
澤田澄江
さわだすみえ
「キリス=キリン」「ヴァルデマールの使者」シリーズ
私の人生のテーマは「意外性」。腹筋が割れてる翻訳家なんてかっこいいなと思い、最近、体を鍛え直しはじめました。C★NOVELSでも、意外性あふれる魅力的な作品を訳していきたいと思います!
浜名那奈
はまななな
「ナイトランナー」シリーズ
25周年おめでとうございます。生身の猫なら、霊妙不可思議な力を得てもおかしくない年頃ですね。C★NOVELSの黒猫も25歳、ものすごい魔力をもっていることでしょう。これからも若々しさを保ち、読者を魅了しつつ、神の領域に近づいていってください。
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西の善き魔女番外篇
彼女のユニコーン、彼女の猫
荻原規子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)凱旋《がいせん》
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ハイラグリオンという場所は、何がどうなってもやっぱりハイラグリオンだ。
白い高みの環状宮殿に再び暮らしはじめて、ひと月とたたないうちに、アデイルはしみじみ思うようになった。
もちろん、大きく動いたものごとはある。中央塔の星の広間に、今ではコンスタンス女王陛下が君臨し、ロウランド家とチェバイアット家が首都メイアンジュリーで合同の凱旋《がいせん》パレードを行ってからは、北と南の貴族間対立に変化がおきている。
けれども、この変化がロウランド家によい目をもたらすかどうかは微妙で、ことの運びを楽観できるものではなかった。そして、対聖堂関係者においては、一触即発の状態がむしろ強まっている。
これらすべてを胸中に収め、教皇の告発に値する手紙をその手に握りながら、なお優雅にほほえむレイディ・マルゴットを見るにつけても、これが宮廷だと思わずにいられなかった。表面上はさざなみ一つ立てずに日夜を送っていくのだ。
環状宮殿のロウランド家の塔で、お茶の時間をアデイルとヴィンセントとともにすごしたレイディ・マルゴットは、なにげない口調で切りだした。
「そういえば、ゆうべの夜会のおり、侯爵様からじきじきに、ユーシスとアデイルをアッシャートンの侯爵邸に招きたいとお申し出をいただいたのよ。あなた、お受けしてみる?」
アデイルは金茶の瞳を見開き、それからヴィンセントの青い瞳と目を見合わせた。
「……ということは、レアンドラがその希望を?」
伯爵夫人は上品にうなずいた。
「そうね、よい機会と考えたのでしょう」
アデイルの顔を複雑な思いがよぎった。家族や親友の前で、その表情を隠すつもりはなかったが、マルゴットのほうはあくまで穏やかだった。
「両家の架け橋を担《にな》ったあなたがただから、もう一歩押し進めるのは、世間体を考えても悪いことではないでしょうね。いずれ、伯爵とわたくしも招待されることになるから、その前段としてもね。ですから、ロウランド家として、ユーシスはお誘いをことわれないと思います。ただ、あなたは、気が向かないなら行かなくてもかまわないのよ」
「いいえ、わたくしも行きます」
アデイルは即座に答え、力みすぎたことに気づいてきゃしゃな肩をすぼめた。
「……ヴィンセントもいっしょに行ってよろしいでしょう?」
「それはもちろん」
伯爵夫人はにっこりして、アデイルのとなりに座る高貴な顔立ちの少女を見やった。
「あなたは、なるべくハイラグリオンにいないほうがいいのでしょう。アデイルのそばにいてやってくださいね」
「それがわたくしの願いですわ、奥方様」
相手に負けない気品をもって、ヴィンセント・クレメンシア・ダキテーヌはほほえんだ。
レイディ・マルゴットが姿を消し、お茶のテーブルが片づけられてから、アデイルはため息をついて言った。
「……少しは経験も積んだし、強くなって帰ってきたつもりだったけれど、ここにいるとやっぱりだめね。まだまだ下っ端のひよっこで、糸に繰られて動いているという気がしてくるわ」
「選択の余地がないのはたしかね。でも、しかたがない、女王候補を擁立する二家の接近は、国じゅうの注目の的ですもの」
ヴィンセントは余裕のあるほほえみを見せた。
「わたくしは、この情況を楽しんでいるわよ。アデイルだって、台本を演じる舞台は楽しめるだけ楽しむのがモットーでしょう」
「それはそうだけど……レアンドラはいったい何を考えていると思う?」
ヴィンセントはおかしそうに、つややかな薄茶の髪をゆすった。
「やっぱり、その点が問題なのね。そうだと思ったけれど。レアンドラが、どのレベルでロウランド家に友好を求めているかということでしょう」
「真面目に考えてよ。あなた、レアンドラがわたくしと仲よくしようと自分の家に招くと、本気で思えるの?」
「思えないわよ、当然ながら」
アデイルがふくれたのを見ながら、ヴィンセントは言葉を続けた。
「奥方様がおっしゃったとおりよ。レアンドラは、あなたが来ようと来るまいとどうでもいいのでしょうよ。彼女が友好を考えているのは、南方で戦って以来、あの人にとって評価がぐっと高まったユーシス様のみだから」
「わかっているのに、おもしろがるの?」
「だって、あなた」
アデイルににらまれて、ヴィンセントは急いで口もとへ手をやった。
「……そんなに気になるなら、いい加減、ユーシス様につんけんするのをやめればいいのに」
「つんけんなどしていません。これが地です」
言い切ってから、アデイルは長いすの背にもたれて天井を見上げた。波打つ小麦色の髪を広げ、少しの間そうしていたが、やがて力なく続けた。
「ヴィンセントは知らないのよ。昔から、わたくし、お兄様と長い時間話しこんだりしたことはなかったわ。会話などわずかで……すぐにどこかへ行ってしまうのよ、ユーシスという人は」
「たしかにあのかた、戸外で活動するほうが生き生きしていらっしゃるわね。晩餐会の席で、どれほどそつのない会話をなさろうとも」
「レアンドラとのほうが、会話の話題も多そうね」
「あら、あなただって、今ではいろいろと戸外の体験を話せるはずよ」
ヴィンセントは、辛口な彼女にしては思いやり深く言った。
彼女たちは東のトルバートへ旅し、危険をくぐり抜けて砂漠を横断する冒険をこなしてきた。その後にギルビア公爵邸のユニコーンを手なずけ、南の辺境まで騎乗し、さらにはユーシスやレアンドラとともに南国三国をまとめあげたアデイル・ロウランドなのだ。今では室内に飾ったお人形さんとは言えない――いまだにきゃしゃで、色白で、外見はやっぱりそのように見えるのだが。
アデイルは、親友の言葉を聞いてもあまり明るい顔にならなかった。
「……アッシャートンへ行くのは気が進まない。おかあさまに返事をしてしまったからには、もう、くつがえせないけれど。ハイラグリオンを出ていけるのなら、どうせなら、トルマリンへ行ってみたかったわ」
南国三国のもっとも東側にあるのがトルマリン国である。ヴィンセントがきょとんとすると、アデイルは言った。
「ねえ、リングルの町にデリンさんがどんな店を構えたか、行ってみたくない?」
「アデイル、まさか、エゼレットにもう一度会いたいと思っているんじゃないでしょうね」
心底あきれる声音で聞き返されたため、アデイルはこの話題を打ち切ることにした。ヴィンセントにとって、砂漠の旅は過去のできごとなのだ。
けれども、アデイルはときどき、自分が手に取らなかったものの大きさを考えてしまうのだった。
ユーシス・ロウランドには、伯爵もレイディ・マルゴットも意向を問うことすらしなかったので、チェバイアット家の訪問は最初から課された任務だった。
もっとも、ユーシス自身、拒む理由は特に見当たらなかった。ハイラグリオンに程近いアッシャートンの表敬訪問は、順序からいっても先にあるべきで、全体の情況を見ても妥当なことだと言える。南部一の領主館には多少興味もあった。
王宮の廊下をわたる途中で、この件をクリスバード男爵に打診してみると、彼は重々しい口調で答えた。
「そうか。そういう話なら、つつしんでわたしも同行させてもらうよ。あくまで、アデイル姫の白の騎士として、忠誠をささげる姫をお守りするために、影にまわって控えめに」
友人は何を言いたいのだろうと、ユーシスは首をひねった。
「いや、アデイルは行かないかもしれないんだ。それでもわたしはロウランド代表として出向くが、そうしたら、君はついて来ないんだな」
「ばかを言うな」
クリスバード男爵は一蹴《いっしゅう》した。
「わたしは、自分が分をわきまえていることを表現したのみだ。この石頭」
ユーシスは少し考え、赤毛の前髪に手をやった。
「つまり、侯爵邸の訪問は、踊り出すほどうれしいことだと言っているんだな」
「言っていない」
「だが、足がダンス・ステップになっているぞ、ロット」
「当たり前だろう。天下一の享楽の城でレアンドラ姫のもてなしを受けるんだぞ」
ロットはとうとう抑えるのをやめた声音で言った。
「舞い上がらないほうがどうかしている。チェバイアット家の館は、王宮にまさるとも劣らぬ粋の極みで、よりすぐりの美術品ぞろいだそうだ。同じく仕える美女も天下一品のよりすぐり。それでも私邸だから、宮廷女官よりずっとルールに甘い」
「享楽の城という呼び名は、なんだか聞こえが悪いぞ」
「それなら、楽園とでも言いかえよう。これほどの機会をだれが逃せるか」
ロットのあまりの興奮ぶりに、ユーシスは少々心配になってきた。
「南部貴族の館とは、それほどすごいところなのか? もう少し検討してからのほうがよかったかな……」
「レアンドラその人が、チェバイアット家の粋を極めた芸術品なのだから、類推くらいできそうなものだぞ。いくら君でも」
「レアンドラには、ユニコーンを見せてもらう約束をしたんだ」
困惑気味にユーシスは説明した。
「彼女、女王試金石の指輪を手に入れてから、公爵夫人にユニコーンを一頭ゆずってもらったらしい。われわれのユニコーンはギルビア公爵邸に返却してしまったが、女王候補の彼女は、その一頭をアッシャートンまでつれてきているそうだ。長期の飼育が可能なのかどうか、一度見せてほしいと思ったんだよ」
「ふーん」
鼻先でロットは言った。結ばない淡い金髪がゆれる。
「わかった。レアンドラ姫のお相手は完全に君にまかせよう。ユニコーンの牧場でも、その他の牛馬の牧場でも、好きなように見てきてくれたまえ。後のことは引き受けた」
さらに心配になってきたユーシスは、念を押した。
「アデイルがいっしょに来れば、あの子を守って、影にまわって控えめにしていてくれるんだな?」
ロットはにやりと笑った。
「アデイル姫は、いちだんとお美しくなられたな。しばらく離れているあいだに、何かあったのかな。そして、姫のご友人はいつのときもレベルが高い。名前を何といったっけ。そうそう、たしか、ヴィンセント嬢……」
ユーシスは一蹴した。
「彼女は、フィリエルと同じくらい不可侵だよ。今にわかる」
「おいおい、つれないな。情報をくれよ」
ロットはこぼしたがユーシスは聞いておらず、別のことを考えていた。しばらく歩いてから、やや唐突に切りだした。
「ロット、最近アデイルが怒っているのはなぜなのか、君なら原因がわかるか?」
クリスバード男爵は緑色の瞳をきらめかせた。
「ほう、アデイル姫が怒っていると。君がそう感じる根拠はなんだい」
「……いや、なんとなくだが、避けられているような気がするんだ。今まで、アデイルが怒ったことなら数限りなくあるが、こんなふうに、それとなく避けられたのは初めてかもしれない」
「君のために、新しいユニコーンをカグウェルへ届けることまでやってのけた彼女が、怒っているというのか?」
もちろんユーシスも、カグウェルで再会したときの、まじりけのない信頼に輝いたアデイルの瞳をよく覚えていた。それなのに、その後の雲行きはけっしてかんばしくないのだ。
思いおこした情景に、小さなため息をついてユーシスは答えた。
「ああ、感じる」
ロットは、短く断定した。
「脈あり、だな」
「え?」
「まあ、なんとか脈ありだ。たぶん、君たちに足りないのは対話だよ」
わけ知り顔にロットは言った。もっとも、この人物は八割がたのシーンでわけ知り顔なのだった。ためらいながら、ユーシスはたずねた。
「君は、アデイルがトルバートで遭遇したできごとを聞いているか。東側の傭兵《ようへい》部隊と行動をともにし、部隊はエゼレットという名前らしいが、リーダーはまだ年の若い人物だったことを」
「ああ、くり返し楽しそうに語っておられたな。リーダーの名前は、たしか、ルセルと言ったっけか」
「いや、ティガだ」
考えずに訂正してから、ユーシスはロットがかまをかけていたことに気づいた。ロットは、ほくそえむと呼べる表情だった。
「ほほう、ずいぶん注意深く記憶しているわけだ」
「当然だろう、アデイルは女王候補だ。東国の傭兵を気にしていいはずがない」
ユーシスは力をこめたが、ロットは頭をふった。
「ちがうな。異邦人かどうかを、女王家の人間が気にする必要はないんだ。種が優秀ならば、生まれる子どもの父親を問わない家系だ」
ユーシスは思わず足をとめ、憤然として友人をにらんだ。けれどもロットは、まるで痛痒《つうよう》を感じていない様子で言葉を続けた。
「今さら、初めて聞かされる話ではないだろう。レアンドラ姫も、アデイル姫も、さらに言えばフィリエル姫も、そういう家系に生まれた娘たちだよ。グラール女王直系の彼女たちは、だれを選んだとしても、この世のだれからも『まちがいだ』とは言われない。大きな拘束の代償に、その点だけはうらやむべき自由を勝ち得ているんだ」
チェバイアット家の館にお供できると知らされ、喜びあまってダンスを踊った点では、マリエ・オセットもクリスバード男爵の同類かもしれなかった。もっとも、ロウランド家伯爵の従者ジョアンは王宮を離れられなかったので、マリエの出張に気をもむこと限りなかった。
「彼、心配で夜も眠れないって。北部人としての品位を守ってほしいとしきりに言うんですよ。浮気はしないと約束したのに、南部って、そこまでゆるいところなんですか?」
旅行荷物の準備をしながら、マリエはヴィンセントにたずねた。しかし、南部の人間といえども聖堂育ちのヴィンセントは、その方面にはうとかった。
「さあ、べつに。周囲がどうであれ、興味をもたなければ関係ないのでは。わたくし、興味がないし」
マリエは、とりすましたヴィンセントの顔をのぞきこんだ。
「……ヴィンセントって、トーラス女学校で全科目優等だったというのは本当に本当? シスター・ナオミの誘惑の授業では、どうやって優等をとったの?」
ヴィンセントはむっとして、巻き毛のマリエを見やった。
「不得意だと思っているなら、大きなまちがいよ。それが戦闘であれば、いかんなく技を発揮してみせるわよ。わたくしにはわたくしにふさわしい攻略法があります……浮ついたリゾート地の遊びで使うような、むだなまねをしたくないだけよ」
「でも、ヴィンセントにだって、策謀を抜きにして攻略したいと感じる殿方はいるでしょう?」
「たくさんはいないけれど、ええ、そうね、皆無とは言わないわね」
「どんなタイプが好き?」
ヴィンセントは瞳を輝かせて、両手を組み合わせた。
「それはね、ロウランドの伯爵様みたいな渋いかたで……」
「おやおや……」
アデイルはもっていくガウンの選定に頭を痛めていたが、二人の会話を聞きつけて顔を上げた。
「ヴィンセントもマリエも、アッシャートンを訪問することを、あまり遊びにしないほうがいいわよ。わたくしは、これも戦闘の一種だと思っている……今回の招待は、チェバイアット家とロウランド家、どちらがどちらに取り込まれるかを問う、最初の試みなのだから」
マリエは目をぱちくりさせた。
「ええっ、そうなんですか?」
ヴィンセントは冷静に認めた。
「それはそうね。友好は融合にもつながるわ」
驚いたあげく、少々落胆した表情になってマリエは言った。
「女王陛下が、次期候補を三人並べてお認めになられて、レアンドラとしのぎを削らずにすむようになって、ようやく心安らかでいられると思ったのに。今後、あの人とも気がねなくつきあえるようになったら、どんな感じだろうと楽しみにしていたのに。そういうわけにはいかないんですか?」
ヴィンセントはほほえみ、手を伸ばしてマリエの頭をなでた。
「あなたのそういうところ、好きよ。たしかにレアンドラとはもう敵対していないし、それを確かめに行くのだけど、まだ、アデイルにとってはそうではないのよ。だから、わたくしたちにも同じだということ」
「お嬢様にだけは、まだ敵になっていると?」
「ユーシス様は、アデイルの一の騎士でなくてはならないのよ。失うわけにはいかない」
ヴィンセントが言うのを聞き、アデイルは手元のガウンに視線を落とした。
「やめて、そういう問題ではないの」
「それなら、何?」
アデイルはつぶやくように言った。
「わたくし、見極めなければならないのよ。自分の気持ちも、ロウランド家の大局も。その上で、お兄様がだれかの騎士として本当に必要なら……」
言いさしたままで息を吸いこみ、彼女は気楽な口調に変わった。
「ああ、やっぱり、楽しめることを楽しまなくては損ね。戦闘などと口をすべらせて悪かったわ」
ヴィンセントもマリエも、まじまじとアデイルを見た。これほど自信なげに見えるアデイルもめずらしかった。柔らかで繊細な雰囲気をもち、周りが手をさしのべたくなる少女ではあるが、芯には強いものを秘め、明るくとり紛らせることならいつもは上手なアデイルなのだ。
「どうしたの、アデイル。どうしてそんなに迷っているの?」
不思議そうにヴィンセントがたずねたが、アデイルは今度こそ紛らせて答えを返さなかった。
海岸に名だたるリゾートをもつアッシャートンの地は、グラール南西部の河口平野を主としており、領主館も海抜の低い場所に建っている。
小高い丘にかまえたハイラグリオンとも、岬の突端にあるルアルゴーの飛燕《ひえん》城とも異なるたたずまいだが、堀と運河に囲まれ、豪奢《ごうしゃ》な姿を水面に映し出す、灰色の石と黄金の装飾でできた館は様式美にあふれていた。
王宮にも劣らぬ美しい橋が、館の四方にかかっている。その外側も広大な庭園の内であり、ピンハットフィールドの競技場がその中に含まれていた。
遊ばせる土地の広いことが、侯爵の抜きんでた財力をものがたっている。馬車で行けども行けども、地元の集落は見えてこないのだ。そのため、どこか孤立したおもむきももっている館だった。浮き世離れした評判を立てられるのは、これが原因かもしれない。
恰幅のよい侯爵と年若い夫人が、ユーシスとアデイルの一行をにこやかに迎え入れた。貴族の館に正式に招かれたからには、最低十日間はここでもてなしを受けることになるのだ。
侯爵夫人にあまり接したことがなかったアデイルは、夫人の極端な若さに内心びっくりした。侯爵の後妻であることは聞き知っていたが、レアンドラの養母と見ることはできず、数歳しか年上ではないようだ。
つる草の花を思わせるどこかたよりなげな女性で、あまり優秀そうには見えなかった。しかし、この印象も、そばに居並ぶレアンドラが強烈すぎるせいかもしれなかった。
どんな女性もかすませる輝きを放つレアンドラは、心の準備をしてのぞんでもやはり、そのように目に映った。この日のレアンドラは、最近みんなの目に慣れた男装ではなく、意表をつくほどおとなしいいでたちだ。プラチナの髪を一本の三つ編みに編み下げ、アッシュ・ローズのドレスは首も腕も覆った穏当なものだ。
(……聖女パターンね……)
アデイルは考えた。控えめなほうがさらに際だつ場合を、レアンドラはしっかりとのみこんでいる。南部の基準よりくすんだ色のドレスの出迎えは、北部への敬意とも受け取れるもので、一行の好感を勝ち得ることは明らかだった。一行の、特に、北部気質そのものと言えるユーシスの好感を。
計略だと思うと反発を感じもするが、もともとレアンドラは、男装と同じくらいこの聖女パターンを多用することを、アデイルも認めないわけではなかった。つまり、軍人のようにふるまうか聖女のようにふるまうかが、レアンドラの本質を占める装いなのだ。
だれもが指摘することだが、レアンドラの美貌の冴《さ》えは、アストレイア女神の慈愛の肖像に似かようところにある。トーラス女学校で磨いた牙があまりに優秀なため、かえって見落としがちだが、実際には、とことん清らかな聖女ぶりもかなりの部分でふさわしいのだ。だからこそ、彼女の牙は致命的に効果をもつのだった。
(……つまり、反発を感じるのは、わたくしの卑小なやっかみで、意外にレアンドラは……結局、レアンドラは……お兄様に相ふさわしい人なのかしら……)
ここ彼女の牙城で、女王候補レアンドラから巧みにベッドに誘われたならば、ユーシスにはことわれない、ことわらないと、アデイルは痛みとともに考えた。
阻止する手だてが一つもないとは言えない。
どうしても奪われるのがいやならば、最も阻止する行為となるのは、女王候補アデイルが、それより先にユーシスを誘ってしまうことだろう。
けれども、アデイルには、それができそうになかった。
(できない。だって、相手はユーシスお兄様なんだもの……)
そう考える時点で、すでにアデイルはレアンドラに負けているのかもしれなかった。
いつものことながら、ユーシス・ロウランドは、彼をめぐって女性の思いが交錯していようとも感知していなかった。
チェバイアット家の館でそつなく社交をこなし、ロウランド家のこれからにつなげるのが責務と信じているため、侯爵夫妻や周囲の人々と楽しく語らい、もてなしも調度も心地よく感じられるという、それだけで機嫌よくしていられたのだ。
ときおり、ロットが「享楽の城」と呼んだことが頭をよぎったが、深く身にしみたとは言えなかった。じつをいうと、クリスバード男爵なら簡単に察せるモーションがここかしこで飛び交っていたのだが、ユーシスには半分以上が見えていなかったのだ。
そういうわけで、健康な眠りを得て健康に目をさましたユーシスは、元気いっぱい寝床を出た。外は快晴であり、今日こそレアンドラにユニコーンの飼育場へ案内してもらえると考えたのだ。
戸外向きの上下に着替えたユーシスは、そのまま階段を下ろうとして急に思いなおし、階上へ上ることにした。アデイルたちの居室が上にあった。
「アデイルは、もう起きているかい」
応対に出たマリエは、主人が寝起きで多少見苦しかろうとも中へ通すべきだと判断した。それゆえ、髪もとかさずに朝のお茶をすすっていたアデイルは、ユーシスの登場におおいにたじろいだ。
「どうなさったの、こんなに早く……」
「レアンドラにユニコーンを見せてもらうんだ。アデイルもいっしょに行こう」
「え? わたくしは……」
「きみだって興味があるだろう、アデイルのランスロットに彼女のユニコーンがどのくらい比べられるか。身じたくする間、わたしは向こうの部屋で待っているから、いっしょに出かけよう」
アデイルはかすかにほおを染めた。「アデイルのランスロット」という言葉が思いがけなかった。なりふりかまわず必死でカグウェルまで騎乗したユニコーンを、ユーシスはアデイルの、と表現している。
われ知らず表情をゆるめて、アデイルはうなずいた。
「それなら、着替えをします。少しのあいだ待っていてちょうだい」
じつをいうと、アデイルとヴィンセントはもうこりごりだと思って、乗馬服をもってこなかった。けれども、マリエが万一にと予備の荷物に入れていたので、結局は難なく身じたくができた。着慣らした気のする明るい緑の上下で身をつつむと、南方の小国にいたときの気分がよみがえるものだった。
レアンドラは一階のモーニングルームで、白いシャツと黒のズボン姿でコーヒーをのんでいた。銀色の三つ編みを頭に巻きつけてあり、機能的でむだがない。
彼女は、ユーシスとともにアデイルがやってきたのに目をとめて、銀色のまつげを落とし、黒く輝く瞳をせばめた。
「おや、ふーん、あなたがごいっしょするわけ?」
「おはようございます、レアンドラ。心尽くしのおもてなしに、深く感謝しておりますわ」
そ知らぬ顔のアデイルが、にっこり無邪気に言ったので、ユーシスはかたわらを見やってほほえんだ。
「アデイルも女王試金石の腕輪を身につけている。だから、危険なことにはならないよ。君のユニコーンを妹もとても見たがっているんだ」
「それは光栄なことだ。わたくしのモードレッドを、真の価値を知る人間に一人でも多く披露《ひろう》できるのは、身の幸せだよ」
どこまでも貴族的な口調で言い、レアンドラは席から立ち上がった。
ユニコーンの飼育場まで行くには、馬か馬車に乗ったほうが早かった。レアンドラは灰色毛の馬にまたがったが、ユーシスはアデイルがいるので二輪馬車に乗ることを選んだ。
めったにない、二人っきりの機会だった。
やや沈黙が続いたのちに、ユーシスが言った。
「アデイル、わたしに言いたいことがあるんじゃないのか」
心臓が大きく打ち、アデイルは息を吸いこんだ。
「どうして、そう思うの」
「いや、なんと言うか……わたしの行いに改めるべきところがあるなら、はっきり言ってほしい」
一瞬のうちに千もの言葉が思い浮かんだが、アデイルはつまってしまった。何か言わなくてはと口を開くと、出てきたのはあきらめの言葉だった。
「お兄様のすることが、すべてロウランド家によかれと思うことだというくらい、わたくしにもわかっているの。だから、いいのではないかしら、それで」
ユーシスは少し間をおいた。
「それは、つまり、きみの目線はすでにロウランド家を超えた場所にあると、そう言っているんだな」
「ちがうわ、わたくし、今でもロウランド家の娘よ……だから……」
「だから?」
アデイルは背筋を伸ばした。だが、ユーシスに目を向けることはできなかった。
「わたくしがロウランド家に来たことで、わたくしに縛られるのはもうやめて。どこにいようと、女王家の娘は束縛されていないことを、お兄様にもわかってほしいの。わたくし、今では、この腕輪をつかってたくさんの過去を知ることができるのよ。同じ家から騎士を出すことは、かなりの確率でうまくいかないことまで知っているの」
ユーシスが、そういう返事を予想していなかったことは明らかだった。
「確率? そんなもので、きみはいろいろ否定するというのか」
「わたくしも、ロウランド家を大事にしていきたいの」
かすかに苛立つ様子で、ユーシスは身じろぎした。
「きみがもってまわって何を言おうとしているのか、よくわからないよ。宮廷内の会話ではないのだから、もう少しはっきり言ってくれ」
相手といっしょになって、アデイルもむっとした。
「お兄様って、いつもこれだから。たまには、ひとが言わないことを察する努力もなさったら?」
「努力ならしている。それ以前に、アデイルがきちんと話そうとしないんじゃないか」
平行線だということだけ、二人ともよくわかった。
言葉にすれば明瞭だと、どんなに承知していても言えないことが、この世にはあるものだった。
馬車が止まると、かたわらのレアンドラも灰色毛の馬を降りて、たづなを従者にわたしていた。柵が目の前にあった。
ゆるい丘をなす草地が明るく広がり、陽光の下を歩き出したユーシスは、すぐに機嫌をなおして楽しそうになった。ユニコーンに会うのが本当に楽しみなのだ。
レアンドラはもちろん得意でならないので、歩きながらも話の種は尽きなかった。アデイルもそこに加わることはできたが、ユーシスのように本心から見たいと思わないことを感じていた。
ユーシスとレアンドラ――どちらも人並み優れた身体の持ち主で、快活に身ごなしよく歩く二人だ。アデイルは、自分が根本から異なるという気がしてならなかった。のこのこと顔を出したことが、ひそかにうらめしかった。
ユーシスはあたりを見回し、柵の並びが丘の向こうに消えることに驚いた顔をした。
「一頭だけのために、これだけ広い囲いを作ったのか」
「そう、運動不足にならないでしょう」
レアンドラは言い、女性には達者すぎるような指笛を鳴らしてみせた。
「モードレッド」
丘の肩で、真珠色の角をはやしたけものがすっくと立ち上がった。その体色は濃いスミレ色、一角から首筋にきらめくたてがみと長い尻尾は黄金の色だ。少しのあいだ風の匂いを嗅《か》ぐしぐさをしたが、すぐに角をふりたててこちらへ駆けてきた。
ユーシスは笑い声をあげた。
「なるほど、上手にしつけたな。角の長さから見ると、どうやら雄のようだね。彼のファミリーは?」
「ああ、この子は、見た目より若いのだよ。妻はまだいない。そういう子でないと、ギルビア公爵邸から離しておくのは無理なのだそうだ」
レアンドラは手を伸ばして、柵ごしにユニコーンの鼻づらをなでた。
「モードレッドには、もうしばらくわたくしのもとにいてほしいと思っている。飼育が無理とわかれば、返すのはしかたないけれど」
「わたしだって、返さずにとどめておけるものなら、そうしていたよ」
ほれぼれとユニコーンをながめて、ユーシスは言った。
「だが、ユニコーンは他のけものと相容れないし、竜と同様に南方の生き物だ。そう思ってあきらめたが、このアッシャートンなら飼えるかもしれないね」
笑顔を見せてレアンドラはたずねた。
「また乗ってみたい? 竜騎士どの」
「竜退治は、一度でたくさんだけどね」
ユーシスは答え、レアンドラはうなずいた。
「それはわかる。ユニコーンは、これほど見かけを変えても竜の一種なのだ。乗った者にしか、そのことが真実わからないけれど、ユニコーンを愛せる者は、竜を愛することもできるのかもしれないね」
アデイルは、雌馬のテトラが急に恋しくなった。アデイルも、テトラを東の砂漠へ返してしまった。もう一度テトラにニンジンを食べさせたかったし、その背中がなつかしかったが、ランスロットと名のついた翡翠《ひすい》色のユニコーンにそう感じたことは一度もなかった。
ここにいるスミレ色のユニコーンも同じだ。角の怖さは克服できても、馬より大きく裂ける口、あぎとにびっしり並ぶ尖った歯、悪食と言っていい餌を好む生き物には、これっぽっちも親近感がわいてこない。
アデイルを見やって、レアンドラがくすりと笑った。
「どう、アデイル、あなたもモードレッドを手なずけてみる? ユニコーンを従える点では、その腕輪のほうが効率いいかもしれないよ。なんといっても公爵夫人の品だから」
アデイルはかぶりをふった。
「いいえ、やりたくないわ」
「それなら、兄ぎみを乗せてあげるとか」
後ずさってアデイルは言った。
「わたくし、館へ帰ります。ここは日射しがきつくて頭が痛くなってくる」
肩をすくめて、レアンドラはユーシスを見た。
「それなら、わたくしの指輪で他人を乗せられるかどうか試してみる? まだだれにも試したことがないから、ぜひ、やってみたいのだけど」
ユーシスはためらい、アデイルとモードレッドを交互に見た。彼が、このまま館へ帰るのはあまりに惜しいと思う様子がありありとわかった。腹を立てる気にもならないと思い、アデイルはふり返らずに馬車をめざした。
「わたくしには、これで十分。あとはお好きになさって」
館まで一人もどってきたアデイルだが、要領がよくわからなかったため、居室と反対側の翼のもとで馬車を降りてしまった。中庭を全部つっきらないと、マリエやヴィンセントのいる場所へもどれないらしい。
くさくさしているので、あれこれ問いただされるよりもましかと思いつつ、生け垣を抜け、ぶらぶらと花壇の前を歩いているときだった。背後から、訴えるような細く高い鳴き声が聞こえた。
アデイルは立ち止まり、声の主を求めてきょろきょろした。
すぐには見つからなかったが、やがて、今出てきたばかりの生け垣から聞こえることに気がついた。かがみこんで木の下の暗がりをのぞきこむと、まるい二つの緑がかった瞳が見返した。
真っ黒な小さな猫だった。
飛燕城では飼っていなかったが、猫は使徒たる十二のけものに入っており、王宮の貴婦人が部屋に飼うのを目にするので、今ではめずらしいものではない。それに、ティガがアデイルをミーミになぞらえてから、アデイルにとっても疎遠な生き物ではなくなっていた。
「おいで、おいで」
指を伸ばして、アデイルはささやいた。
「どうしたの、おまえ。どうしてそんなところにいるの?」
相手は警戒した様子でなかなか動かなかった。けれども、アデイルが辛抱強く、日が暮れても待っているという態度でのぞんでいると、ためらいがちに進み出てきた。
緑色の目と内側が桃色をした黒の耳が、頭と体に比べてずいぶん大きいので、子猫だということはすぐにわかった。胸が痛いほど愛くるしいので、アデイルは思わず笑い声をたてた。
「かわいい。子猫って、本当にかわいいのね」
黒い子猫が怯《おび》えているのには、わけがありそうだった。右の前足を、ついてはすぐに引っこめてしまうのだ。痛めているらしい。
「そのけがのせいで、おかあさんとはぐれたの? わたくしが手当してあげよう。さあ、おいで」
子猫は細い声で鳴き、しかたなさそうな態度でアデイルに抱かれた。抱きかかえたアデイルには、それでも十分だった。心のうつろな部分が満たされ、快く笑える気分になった。
屋内にもどったアデイルは、まず最初に侯爵夫人をたずねた。ユーシスが早起きだったせいで、まだ正午を回ったばかり、夫人は自室でくつろいでいるところで、簡単に面会することができた。
「まあまあ、この三月のうちに生まれた子猫でしょうけれど、こんなに真っ黒になるなんて、だれに似たのかしら。セレス、ベスタ、それともジュノー? ああ、よくわからないわ。うちにはたくさんの猫がいて、勝手気ままにうろついて、このところ立て続けにお産があったものだから、何匹生まれたかも数えていませんの。なんなら、この子はあなたにおゆずりしましょうか」
アデイルは思わず顔を輝かせた。侯爵夫人には、当初の印象よりずっと好感がもてると思いはじめた。
「よろしければ、ぜひ。猫を飼ってみたいと思っていたところだったんです」
「猫好きそうなお顔をしていらっしゃるわ」
若い侯爵夫人も、うちとけた笑顔になった。
「うちの猫たち、奔放に育ちすぎて少し野生がかっていますけれど、丈夫ないい子たちですのよ。わたくし、生き物が自由気ままに暮らしているところを見るのが好きなの」
「わかりますわ、わたくしにも」
急に気があってしまい、部屋を辞するときには友人のようになっていた二人だった。
「ティガ、ティガ、ごはんを食べてみる? すり身のお魚が入っているのよ」
アデイルが子猫に呼びかけるのを聞いて、ヴィンセントは思わずくちびるをゆがめた。
「どういう趣味をしているの。本気で猫にその名前をつけるつもりなの?」
「あら、おかしくないでしょう」
「わたくし、耳にしたくないんですけれど」
アデイルは、ことさら無邪気そうにヴィンセントを見返した。
「どうして? この子の緑の目はティガに似ているし、黒いところもしなやかなところもぴったりじゃない」
「こんなにかわいくなかったわよ……」
笑って髪をかきあげたアデイルは、指にかかる金茶色の髪を見やって言った。
「ティガも、わたくしのことを猫の名前で呼んだのよ――ミーミって。それは、彼の金茶色の子猫のことだったの。だから、わたくしが黒い子猫をティガと呼べば、これでおあいこなの」
「なんですって、猫よばわりだったの? どこまで厚顔無恥な人物だったやら」
いきまくヴィンセントだったが、黒い子猫が愛らしいことまで否定できなかった。マリエは早くもアデイルと同じくらい夢中で、世話にかかりきりになっている。
「ああ、もう、たまらなくかわいい。猫がたくさんいるのは、南部のいいところですねえ。北部で見かけないのは、寒すぎるからなのかしら」
皿をなめるティガに見入りながら、アデイルが答えた。
「気候のせいというより、猫が愛玩のためのけものだったことに関係しているの。この地にはネズミがいないからよ」
「ネズミ――って、いったいなんですか」
マリエは首をかしげ、アデイルはかぶりをふった。
「いいえ、なんでもないの。忘れてちょうだい」
ヴィンセントは考えこんだのちに言った。
「猫を飼える人は、そうたくさんいないのよ。貴族でなければ飼わないはずよ。ああ、なんだか腹が立ってきた。ティガが猫を飼っていたって、ずいぶん生意気じゃないの」
「そういう人だったのよ。わたくしもそこにだんだん気づいたの」
子猫に語りかけるように、アデイルは小声で言った。
アデイルが侯爵夫人から子猫をもらい受けたことは、いくらもたたずに男性陣の評判になっていた。なぜなら、アデイルとその付き人たちが子猫に夢中になるあまり、夜会もそうそうに引きあげてしまうし、それとわかるほどつきあいが悪くなって、あてのはずれた男たちが続出したのだ。
夜会が果てるころ、クリスバード男爵は、酔いざましにバルコニーに出たユーシスに近づいてきて言った。
「どうやらアデイル姫は、わたしや君といった騎士よりも強力な騎士を見つけたらしいよ」
ユーシスは、相手がどのくらい酔っているかを疑う目で見てから、言葉を返した。
「アデイルの子猫のことを言っているつもりか」
「そう、子猫のことだ。どうしてどうして、だれよりもりっぱなガード役を果たしているようだよ。君は、もう拝顔したか?」
「いや、まだ見ていない」
「会ってくるべきだぞ。ちなみにわたしは行ってきたよ」
にんまりしているロットを見やって、ユーシスは眉をひそめた。
「たかが子猫くらいで、みんな何をさわいでいるんだ。アデイルもアデイルだ。いくら北部ではめずらしかったからって、かかりきりになるほどのものではないだろう」
「黒猫でね、目が緑だ」
「聞いて驚くほどの色ではないな」
「だが、名前をティガというんだ」
ユーシスも今度は言葉につまった。少し間をおいてから、不審そうに聞きなおす。
「……傭兵隊長のティガ?」
「まあ、他からとったとは考えられんな。アデイル姫が片時も放せないように、だっこしてほおずりしている御大なんだけれどね」
黙ってしまったユーシスを見ながら、ロットは言葉を続けた。
「君には言わないことかもしれないな。砂漠で出会った人物が、姫には忘れられないようなんだ。どうやら、どこにでもいるような傭兵ではないらしい。エゼレットというのは、旧カラドボルス国の生き残り連中で、ティガはその王家筋のふしがある。帝国に存在を知られたらたいへんなことになる人物らしいよ」
あごに手をやって考えこんだユーシスは、しばらくしてからぽつりと言った。
「……そのことだったんだろうか。アデイルが馬車の中でほのめかしていたのは」
「君が、ユニコーンにかまけているからだぞ」
「女性にかまけるより、いいと思うんだが」
「その違いは少ないぞ。レアンドラのユニコーンなのだから」
ロットは意外にも真顔で言った。
子猫の前足のけがは、三日もするとよくなってきた。かるく挫《くじ》いただけだったようだ。
足が痛まなくなると、ずいぶん活発になり、よく歩き回るようになったティガだった。
アデイルも少し遠出をしようという気になってきて、二頭立ての馬車をしたて、ヴィンセントやマリエとともに、侯爵夫人に勧められた自生の水辺の花を見に行くことにした。
たいした距離を行くわけではなく、館の庭園内なので、特に護衛が必要とも思われなかった。御者と従者が一人ついたのみで、軽い散策のつもりで三人で出かけたのだ。
ところが、橋をわたっていくらも行かずに、馬の調子がおかしくなった。進ませるために御者が大汗をかいている。にぎやかにおしゃべりをしていた後部座席の少女たちも、たびたび馬車が止まるので、とうとうおしゃべりをやめて御者席をうかがった。
「申し訳ございません。こんなことはめったにないのですが、失礼して馬車を降りて、馬のやつをなだめてみます。いったいどうして言うことをきかないのやら」
御者と従者が馬車を降り、足をつっぱらせる馬をあやしにかかった。座席の三人は顔を見合わせた。
「なんだろう、何かに怯えたのかしら」
「わたしたちも、降りたほうがよろしいのでは」
マリエが言ったが、そのときには遅かった。突然跳ねあがった馬が男たちの手をふりきり、馬車をつないだまま駆け出したのだ。娘たちの悲鳴をそのまま運び、馬車は宙を飛ぶように駆け、それから横だおしになった。
早くに倒れて止まったことは、幸運のうちだった。もっと走ってどこかに激突したら、こっぱみじんになるところだった。馬の一頭は引き綱をちぎって走り去り、一頭は馬車といっしょに倒れてもがいている。乗っていた三人は座席でもみくちゃになり、あちこち打ちつけ、息も止まりそうだったとはいえ、大事にはいたらなかった。
真っ青になった御者と従者が走ってきて、馬車の中から少女たちを救出した。
「お嬢様がた、お体は、どこかおけがは」
三人ともすり傷をつくった程度で、自分の足で立つことができた。この程度で目をまわさない胆力をもつ娘たちなのだ。マリエとヴィンセントは憤然と抗議するかまえであり、アデイルは、それすら忘れて籐《とう》のバスケットをかかえあげていた。バスケットからは、ひどいと訴える鳴き声がさかんにもれていた。
「ごめんね、ごめんね、こんなことになるなら、つれてくるのではなかったわ」
大あやまりでバスケットを開け、ティガの様子をたしかめていたアデイルは、他の人々より情況に気づくのが遅れた。アデイル以外の全員が悲鳴をあげていた。
今度の声には男たちも混じっていたので、ひどく耳障りだ。だれもが背を向けて走り去り、アデイルだけが残った。
「アデイル様、逃げて」
ふり向いたアデイルは、馬の断末魔を見た。
首筋に、スミレ色と金色のユニコーンが喰らいついていた。馬の頭が力なく地面に落ち、真っ赤な血だまりがその体から広がる。ユニコーンは顔をアデイルに向け、口を開いて息のもれる音をたてた。鋭い歯並みも真っ赤な血の色だった。
(どうして……)
背中に鞍《くら》はなく、レアンドラの姿も見えない。どうしてここにモードレッドがいるのか、わけがわからなかった。だが、ただならない事態はたしかだった。自由になって凶暴化したユニコーン――それではほとんど竜と同じだ。
「お願い、逃げて、アデイル様」
マリエの泣きそうな声が再び聞こえた。アデイルは用心深くティガのバスケットをかかえなおし、左の袖をまくり、腕輪にはめこまれた青い石をユニコーンにかかげた。
「従いなさい。クィーン・アンの名において」
モードレッドは動きを止め、ためらう気配を見せた。だが、相変わらず口を半開きにしており、その様子が少しおかしい。
ユニコーンを完全に女王試金石をもつ者に従わせるには、この石を額の角にじかにあてなくてはならない。しかし、落ち着いて対応したアデイルも、あごから血をしたたらせるユニコーンに、そこまで近づく勇気はなかなか出てこなかった。
にらみ合いを破ったのは、矢とひづめの音だった。数本の矢がモードレッドをかすめ飛び、われに返ったユニコーンは後足立ちになり、向きを変えて走り去ったのだ。
「無事か、アデイル」
馬で駆けつけ、矢を射かけたのは、ユーシスとロウランド家の従者二人だった。ユーシスは馬を飛び降りるなり、弓を放り投げ、アデイルに走り寄ってきた。
「お兄様、今――」
アデイルは、モードレッドを逃がしたことで文句を言おうとしたのだが、ユーシスに大きな体で抱きすくめられてびっくりした。さらに驚くことに、ユーシスは声もふるえるほどに動揺していた。
「よかった……まにあって……」
「あの、わたくし、女王試金石を」
「効かないんだ」
アデイルを抱きしめてその髪にほおを押し当てたまま、ユーシスが息をつまらせた口調で言った。
「レアンドラの指輪が効かなかった。馬に乗っていたところを、レアンドラもふいに襲われたんだ。柵が壊されていた。こんなときに限ってきみは橋を出ていったというから、いったい、どうなることかと――」
「なんですって」
ぼうぜんと息を吸いこんだアデイルは、ようやく腕をはなしたユーシスを見上げた。赤毛が乱れてはしばみ色の目にかかっており、表情は懸念にこわばっている。
「それでレアンドラは、レアンドラは無事だったの?」
「生命《いのち》に別状ないと思うが、馬が倒れたときに負傷した。骨折しているかもしれない。歩くこともできずに、館に運びこまれたよ」
チェバイアット家の館は上を下への大騒ぎだった。無理もないことかもしれない。
ことに侯爵は、レアンドラのけがが捻挫《ねんざ》と打撲ですんだと言い聞かされても、まだ悲憤が収まらずにおろおろと歩き回っていた。愛娘の至上の美しさには、どんなくもりもあってはならないと言いたげだった。
当のレアンドラは気丈さを保っており、痛みをものともしない態度だったが、数日ベッドで過ごすことになるのは確実だった。こうなってくると、野放しになったユニコーンがゆゆしい問題となる。
医師の手当てを終えたレアンドラが、真っ先にユーシスとアデイルを自室に呼び入れたのも、ユニコーンの相談があるからだった。どう対処すればいいかを、正確に判断できるのはこの顔ぶれだけだったのだ。
お下げ髪を一方の肩にたらし、寝台にたくさんのクッションを乗せて体を起こしながらも、レアンドラの態度は軍議を開く将官のようだった。そうやって、自分の失意を抑えこんでいるのかもしれなかった。
「モードレッドに何が起こったか、推量できることが少ないのは残念だ。生態にわからないことが多いのを思い知るが、昨日までは特別変わったこともなかった。ことによると、聖堂関係者の汚い手出しが疑えるかもしれない。メニエール猊下《げいか》が、ユニコーンの情報を握って画策してもおかしくはないのだ。だが、それがあったにしろなかったにしろ、対応をギルビア公爵邸に問い合わせては、時間がかかりすぎる」
言葉をきって、レアンドラはため息をまじえた。
「公爵夫人から、ユニコーンは自分より大きな生き物を倒すこともできるが、必要がなければやらないと聞いていた。餌は小型のものですませると。なのに、モードレッドは自分と同格の馬を殺すことを覚えてしまった。そして、その味も覚えてしまった」
ユーシスは厳しい表情でうなずいた。
「たしかに、このまま何日も放ってはおけない。モードレッドにとって遊びだったとしても、馬が殺せるなら人も殺せるだろう。深刻な被害が出ないうちに、狩らなくてはならない。わたしもそう思うよ」
レアンドラはユーシスに、感情を映さない黒い瞳を向けた。
「狩れるだろうか、もしも、そなたに依頼すれば」
「ああ、狩れる。わたしがつれて来たロウランド勢には、南方で竜退治に加わった者が何人もいる。馬も、ユニコーンの匂いに耐性のあるものが多い」
ユーシスはきっぱり答えた。だが、アデイルは、彼が隠そうとしている苦渋を目には見えないところで見てとった。ユニコーン狩りは、たぶん、ユーシス・ロウランドが一番したくないことの一つだった。そして、依頼するレアンドラの心中にも同じものはあるのだろう。
「まって」
顔を上げてアデイルは言った。
「狩る必要があることは、わたくしも認めます。けれども、それがモードレッドを屠《ほふ》ることを意味しているのなら、その前に試してみることがまだあるわ。女王試金石が本当に効かなくなったかどうか、はっきりした結果はでていないはずです。レアンドラはふいを襲われたときに、指輪で角に触れるひまはなかったのでしょう?」
レアンドラは少し驚いたようにアデイルを見た。
「それはそうだが、今となっては、だれがモードレッドに触れるというのだ。あのようになってしまった以上、武器のとどく場所まで近づくことすら容易ではないだろう」
「わたくしがやります」
青い石の腕輪に手をやって、アデイルは宣言した。
「これを試してもあの子がだれにも従わないときには、お兄様にモードレッドを倒していただきます。その順番でよろしいでしょう」
ユーシスはあきれた口調になった。
「アデイル、自分がどれほど危険なことを申し出ているのか、よくわかっているのか」
「お兄様の馬に乗せてもらいます。お兄様なら、わたくしをモードレッドの額に手が届くところまでつれていってくれます――竜騎士の勇者、ユーシス・ロウランドなら」
アデイルは背の高い兄を見つめ、にっこりした。ユーシスは、どう応じていいかわからない様子で見つめ返した。しばらく二人を見ていたレアンドラは、やがて、いくらか気抜けした様子でうなずいた。
「……何がどうなっても、今回はロウランドに借りをつくるようだな。アデイルにそれができるというなら、思うようにやってみてくれ。モードレッドはとても若いのだ。死なせずにすむなら、そうしてやりたい」
ユーシスは早急に動き出すことになった。ユニコーンがあまり移動してしまわないうちに、狩りの囲い込みを始めなければならない。夜のうちに手勢を組織し、夜明けには決行することになった。
アデイルからなりゆきを聞いたヴィンセントは、激昂《げっこう》のあまり息もたえだえになった。
「気でも狂ったの。いつからそんなにおばかになったの。たかだかレアンドラのユニコーンを助けるために、あなたが生命《いのち》を賭《か》けるだなんて。自分をいったいだれだと思っているのよ」
「安請けあいかなあと、わたくしも、言った後でちょっとは思ったのよ。でも、もう、引っこみがつかないの」
アデイルは肩をすくめて笑った。この事態に及んで、アデイルはがぜん明るくなっていた。何かがふっきれた思いがするのだ。かがみこんで、長いすのクッションで眠っている黒い子猫を見つめながら、アデイルは言った。
「わたくし、忘れそうになっていたの。ティガに教えてもらったのは、目をそむけて生きてはならないということだったのに。だから、今回、おばかなことをすると知っているけれど、後悔はしないつもりよ」
出発の時間はあっというまにやってきた。星の消えのこる暗い空の下、アデイルは馬のかたわらに立つユーシスのもとへ歩み寄った。
乗馬服をまとったアデイルに向ける顔つきをうかがえば、ユーシスがまだ本当には承諾できず、危険をはかりにかけて思い迷っていることがよくわかった。
「アデイル……なんとか他の方法は、きみを出さずにすむ方法はないのか」
「この腕輪を他人にあずけても、用をなさないの。あつかう女王家の血が必要なのよ。もうご存じでしょう」
「しかし、きみが行くくらいなら、いっそ――」
「だめよ、ユーシス」
革手袋の手を伸ばし、アデイルはユーシスの言葉の続きをその指で押しとどめた。
「わたくし、馬の乗り手がお兄様でなければ、けっしてこんなことをしようと思わない。だからお兄様も、わたくしでなければユニコーンを取りもどせないと、そう信じてくださらなくては。わたくしたち二人にしか、これはできないことなの。あなたを信じているの、何があろうとも」
アデイルが手をおろしても、しばらくユーシスは何も言わなかった。それから、ようやく答えた。
「そうだな」
「乗せてくださる?」
ユーシスは、軽々とアデイルを鞍の前にすくいあげた。そして言った。
「たしかに、レアンドラと二人乗りで風のように走れるという気はしないよ」
アデイルは、少しもユニコーンの角を過小評価していなかった。
ユニコーンが角突くときは、肉食竜のふるまいに似て、敏捷さで馬のおよぶところではない。真珠色の長い角は、先端とらせんの縁が鋭く研ぎすまされ、かすめただけで多くのものを切り裂くことができる。
加えて、彼らが角に触れられることを本能的に嫌い、額のそばに来るものを敵視することも承知していた。
死ぬかもしれない、取り返しのつかないけがをするかもしれないと、覚悟しないものではなかった。それでも、不思議なくらいに怖くなかった。背中にぴったり寄りそうユーシスの体熱を感じる。少しでも馬上でぐらつけば、すぐに手を差し出すユーシスの腕がそこにある。
(……だれでも、自分の存在を賭けて何かをなしとげなくてはならないときがあるのだ。そして、わたくしは、この機会を選んだのだ……)
アデイルの細い手首から、青い石をはめた腕輪は簡単に抜きとれるものだった。抜きとって右手に握りしめたアデイルは、ユニコーンの角に押しつける一瞬だけを心に念じた。
朝焼けの雲の赤さが消えてゆき、白くまばゆい太陽がのぼった。そのころには、凶暴化したユニコーンを取り囲んでの攻防が続いていた。すでに負傷者の数名が運び出されている。
ロットとその手勢は、ユニコーンを投げ縄でからめとることで、その動きを封じ込めようとはかったが、これはモードレッドを極端に怒らせたようだった。だれも近づけないほどに暴れはじめ、かかった綱も、張りつめて今にも引きちぎられそうになっている。
「行くぞ」
ユーシスがたづなを繰《く》った。彼以外にはだれ一人、ただの馬を操ってユニコーンに突進させることはかなわないと思わせるものだった。馬は死にものぐるいになり、アデイルはこんかぎりに腕を伸ばして、ユニコーンの角に触れようとした。
だが、あと少しではあっても、馬が方向をそらせるほうが早かった。駆け抜けて大きく弧を描いてから、ユーシスは再び接近をはかる。
「もう一度」
ああ、だめかもしれないと、アデイルは思った。モードレッドはすでにねらうべき相手にその角先をさだめている。
ヴィンセントの罵倒をあれほど聞きながら、どうして自分は思いとどまらなかったのだろう。これほど無益な生命《いのち》の捨て方をして、どうして自分は笑いものだと気づかなかったのだろう――
千もの後悔のあとに、アデイルには大きな空白が残った。
何をしようとしているかも忘れた状態で、アデイルは腕輪をさしのべた。逆上したユニコーンは、その頭を下げて突きにかかる。ほんの薄皮一枚の差で、アデイルと真珠色の先端がすれちがった。
石が角を打つ感覚とともに、体の内側をゆさぶる衝動がおこった。
アデイルが次に感じたのは、宙を飛ぶ感覚だった。腕を伸ばしすぎて、馬から放り出されたのだ。だが、そのアデイルの体を背後の腕がつつみこんだ。ほんの一瞬だけ、落馬せずにすむと安堵《あんど》したが、ぜんぜんそうではなかった。
地面に激突したショックがあり、続いて上下がわからないほどころがった。
もうだめだと思ったわりには、打撃の痛みが少なかった。気絶しかかったのは数秒のことで、アデイルは、ユーシスとからまりあうようにして倒れている自分を見出した。
すべてに優先してするべきことはあった。腕輪を突き上げ、目もかすんで見えないままに命じたのだ。
「従いなさい。クィーン・アンの名にかけて」
徐々にと言えるほどゆっくりと、アデイルの周辺に風景がよみがえってきた。
スミレ色と金色のモードレッドが、一歩も動かずにそこにいた。
角をかしげたユニコーンは、まばたきをくり返し、自分はなぜここにいるのだろうと言いたげだった。その事実に感謝し、アデイルは思ってみなかったほどの親しさをこめて、ユニコーンに呼びかけた。
「モードレッド、おうちへ帰るのよ。レアンドラが心配しているのよ」
かたわらから腕が伸びてきて、思わぬ場所にからめとられた。ユーシスが半身をおこしたのだった。
「きみはすごい女の子だよ」
今さらながらにアデイルは気づいた。ユーシスの体が地面からの守りになっていたのだ。
「お兄様、おけがは?」
「どうでもいい」
ユーシスは体に関してはそれしか言わなかった。
「きみに言っておきたいことがある、アデイル、いいかい」
アデイルは彼の腕の中に顔をうずめた。そして、こうして触れあうことの今までいかに少なかったかを感じていた。
「はい、なんでしょう」
「わたしは、猫におくれをとるつもりはないから」
「……はあ?」
「きみの言いたいことはよくわかった。けれども、わたしは、一の騎士をよそものに譲るつもりはないから」
「わたくしが、何を言いたいですって? お兄様、わたくしの気持ちが本当にわかっていらっしゃるの?」
ロットをはじめとする竜退治のつわものたちは、モードレッドを鎮めた二人に惜しみなく賞賛をそそごうと寄り集まったのだが、なぜかそうはならない雰囲気に、黙して引き下がったのだった。
ギルビア公爵邸へつかわした使者がもどり、モードレッドは生まれ育った囲いへもどすべきだという、公爵夫人の意見を伝えてきた。たしかに、館の人々におこしたパニックはなかなか収まらず、このままアッシャートンで飼えるものではなかった。
この後、レアンドラはちょくちょくギルビア公爵邸へ出向いてモードレッドに会い、さらに南方で、心おきなくユニコーンに騎乗することになる。
モードレッドが故郷へ帰ると同時に、ロウランド家の一行も侯爵邸を辞すことになった――もちろん、黒猫のティガもいっしょに。
しかし、ティガがどれほど野性的かわかってきたアデイルたちは、今後、王宮の塔で手を焼きそうな気配だった。そのあたりも、命名にふさわしい猫のようだった。
帰還の馬車の中で、ヴィンセントがふと言った。
「結局、ユニコーンがいたおかげなのかしらね。あなたがたにようやく進展が見られたのは」
「進展と言えるのかしら……」
「レアンドラが、あなたに大きな借りをつくったことはたしかよ。彼女、そういうところは律儀なほうだから、きっと、しばらくはユーシス様に手を出さないでしょうよ」
アデイルはひっそりほほえんだ。それはアデイルも十分感じていることだった。
「あのね、今度のことは、猫のおかげかもしれない」
「つまり、ティガ?」
ひざにかかえたバスケットの中に子猫の動きを感じとり、そっと押さえながら、アデイルはうれしそうに言った。
「お兄様、猫に負けたくないのですって。大誤解なのだけど、誤解もコミュニケーションのうちかもしれないと、そう思えるようになったの。言葉にすれば明瞭なのに言わなくてよかったということも、この世にはあるものなのね……」
ヴィンセントはかるくため息をついた。
「あなたがたを見ているのって、飽きないけれど、悠長よね……」
窓の外を見ていたマリエが言った。
「あっ、見えてきましたよ。ハイラグリオンが」
宮廷内の駆け引きはまだまだ続く。
これからも、何度も似たようなことが起こるだろう。
アデイルにはそれがわかったが、一つ何かを乗り越えたことはたしかだった。
(……だいじょうぶ。どういう戦闘でも、きっと戦っていける)
自分には、今では黒猫の騎士までいるのだから。
[#改ページ]
COMMENTS
荻原規子
おぎわらのりこ
「西の善き魔女」シリーズ、『これは王国のかぎ』『樹上のゆりかご』
C★NOVELS周年おめでとうございます。黒ネコお題企画、聞いたときにはびっくりしましたが、アイデアはその場で浮かんだものです(……アイデアだけは)。今回、森博嗣氏とお話ができ、森邸の庭園鉄道に乗せてもらえたことが一番の役得でした。
[#改ページ]
黒白(こくびゃく)
井上祐美子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)開封府《かいほうふ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)特別|誂《あつら》え
-------------------------------------------------------
開封府《かいほうふ》の新任の知事《ちじ》は部下に嫌われていた。
原因は、「厳しすぎる」。
そういうと、いかにも厳格な頑固親父か融通《ゆうずう》のきかない神経質な秀才を想起しそうなものだが、当の包《ほう》知事本人は実におっとりとおだやかな人物である。少なくとも、初対面の人間はそう思うのではないだろうか。
実は外見と中身がまったく違うことを、側近の孫懐徳《そんかいとく》は知っている。そして、他の部下たちが感じている厳しさと、懐徳が実感してきたこととの間にも微妙にずれがあることも。
開封といえば宋《そう》の国都である。
ただし、「開封県」はその都・開封の東半分をさしている。西半分は祥符《しょうふ》県といって、また別の知事が任じられている。
一行政官とはいえ、また半分だけとはいえ、仮にも都の行政から警察・裁判の権限までを握っているのだからそれなりの高官であり、威厳なり重みなりが言動にもあるはずだ、いや、備わってこなくてはいけないと懐徳は思っていた。そうでなくては、下のものにしめしがつかない。だが、当の包知事は四十代にもなって、書生じみた立ち居振る舞いがおさまらない。真面目ではあるがやる気があるのかないのかわからないような態度でのらくらしているかと思うと、ひょっとしたきっかけで突然働き始める。人のいうことを聞いていないかのように見えて、人が見ていないことを見ていたりする。
そんなに目はしがきくなら、部下の不平不満ぐらい把握して手をうっておいてくれとも思うのだが、いっこうに関知しようとしてくれない。
一度、たまりかねて進言したことがある。
「私を側近に使われるのは、控えられた方がよろしいのでは?」と。
返ってきたのは、
「何故ですか?」
心底、不思議そうな声と表情だった。
「その、私は胥吏《しょり》出身ですし、しかも地方の出で都のことには疎《うと》い田舎者ですし、他の方々の反感をかうのでは」
「他の官吏も必ずしも都の出とはかぎりませんよ。それに、希廉《きれん》どのは今は私の幕僚《ばくりょう》なのだから、関係ないではありませんか」
部下を字《あざな》で親しげに呼んで、おっとりと笑う。
ちなみに、幕僚とは私的な顧問のことで、俸給は雇った人間の懐から出ている。基本的に国から俸給が出る官吏とは立場がちがう。利害がぶつかる場合もないわけではない。
ついでにいえば、胥吏とは地方の役所で働く下役人のことでその地元の人間が採用される。学問や名声に関しては格段に落ちるが、事務能力や土地の事情に通じた者でもある。懐徳もさる地方の下役人を勤めていた時に包知事が赴任してきて知り合い、のちに転任していった包知事に呼び寄せられてその幕僚となった。
一方、官吏たちは国家試験である科挙《かきょ》を合格してきた英才で、才能と運次第では皇帝陛下の側近くに仕える閣僚となり、権力を握り国を動かす地位にのぼりつめることもある。もちろん、この包知事も科挙を受けて進士《しんし》となり、各地の地方官や朝廷の役職を歴任してきた人間で、都・開封府の知事に任じられていることから見てもこの先の栄達は約束されたようなものである。だから、いくら幕僚のひとりとはいえ、また年上とはいえ懐徳にていねいな口をきく必要はないのだ。
たしかに書類の処理やら実務はこなせるが、包知事の他の幕僚のように気のきいた助言や政策の進言ができるわけではない。せいぜいがこうして、遠回しに官衙《かんが》の空気を教えて注意を促す程度だ。しかも、将来のある若者ならともかくも、五十の坂を上りきった老人といってもいい懐徳である。正直、何が気にいられてわざわざ、幕僚に招かれたのか懐徳本人ですら首をひねっている毎日なのだった。
「ですが……」
うまい言い回しが思いつかず口ごもっていると、
「役人たちが、私の悪口でもいっていますかね?」
にこにこと、しかしずばりと包知事は核心をついてきた。
なんだ、わかっていたのかと懐徳は肩を落とした。それはそれで喜ばしいことなのだが、わかっていながら何をとぼけているのかという脱力感の方が大きかったからだ。
「で、何が一番の問題になっているんですか?」
と、続けて訊いてきたから脱力の度合いも増す。
「知事どのは何が問題になっているとお考えで?」
問い返してみた。
「さて、仕事はそこそこに片づけているからいいとして、まず、暮らしが質素すぎるとかいうのでは?」
「それもあります」
地方官とはいえそれなりの役職に就《つ》き、実績も上げ、噂では主上《おかみ》のおおぼえもめでたいという人物が、ふだんは書生《しょせい》の着るような白い麻の長衫《ちょうさん》で過ごしている。さすがに公《おおやけ》の席に出る場合はふさわしく威儀をただすが、長続きはしない。仕事に使う文具もごくごくありふれた品で、貴顕《きけん》の高官によくある文人趣味やこだわりはまったくといっていいほどない。かといって、質素倹約、清廉《せいれん》潔白を気取っているわけでもない。
それはそれで立派なことなのだが、困るのは部下だ。上司が質素なのに、それを凌駕《りょうが》するわけにはいかない。
べつに包知事は部下に強制しているわけではないし、絹服を着ていたり持ち物に凝《こ》っているからといってとがめ立てしたことは一度もない。しないどころか、そういうものの価値がわかっているのかどうか、さらにいえば他人の衣服や持ち物が目にはいっているのかさえわからないのだが、それでも、うしろぐらいものを持っている人間にとっては窮屈《きゅうくつ》極まりないのだろう。それでも、萎縮してしまうのが人情というものなのだ。
着任したてのころ、知事の身辺を調べた上で、贈り物をした者がいる。
そもそも、新任者の噂は着任前から出回っている。包知事がおっとりと穏やかで一見無能に見えはするが、実はなかなかの切れ者で、特に部下には厳しいという話も役人たちには届いていた。懐徳が知り合った頃は、包知事の最初の着任地ということもあって、その外見に見事にだまされたものだが、実績を積めば隠すのは不可能だ。だから、それなりの対策もされる。
その男は新任の知事は清廉潔白、なにごとも質素を旨とすると伝えきいた上で、金銭や書画骨董、高価なものでは受け取るまいと考えた。頭を絞ったあげくに考えついたのが文房四宝《ぶんぼうしほう》と呼ばれる墨、硯《すずり》、筆、紙の四種を手配し、それを特別|誂《あつら》えの台の上に載せて贈ったのだ。これならば、日常の事務にも必須であり硯以外は消耗品だから使ってしまえば抵抗はないだろう。
だが、黒檀《こくたん》で作った猫足の台を困ったように見た包知事は、
「申しわけありませんが、これは私には使えません」
断って返してしまった。
「なにしろ、私は粗忽《そこつ》者でして。家の中を歩くにも、家具の角や柱に足やら肩やらぶつけてばかりです。こんな凝った文房やらをどこに安置すればよいものやら。うっかりぶつかって床に落として壊してしまったら、もったいない。朴念仁《ぼくねんじん》の私には、使い古しの硯やら皆さんが使っている筆で十分です。お心づかいだけはありがたく受け取っておきますので」
実際、官衙に出てきた時の包知事は、自分でいうとおり、ものにはぶつかる筆は落とす、墨はこぼす書類は汚すという粗忽ぶりである。硯にしても、以前、名硯の産地である端州《たんしゅう》に赴任していたにもかかわらず、結局、硯を一面も持たずに離任したという徹底ぶりである。贈った人間も、品物を引き取るしかなかった。
最初のこの一件で、即座に開封府の官吏たちは新知事には袖の下が使えないと悟ったにちがいない。同時に、自分たちが賄賂《まいない》を受け取れば処罰が待っていることも。
官吏の報酬の大半は、それぞれの役職についてまわる利権とつけとどけであるといってもいい状況で、賄賂が通じない上司をいただくことは死活問題だ。
とはいえ、これは自業自得ともいえることで、懐徳もそのあたりはあまり同情はしていない。
厳しいことは厳しいのだが、包知事の態度は強圧的なものではないし、役人たちは気がついてないものの、けっこう目こぼしもされているのだ。
開封府の知事としての職務の中に、裁判を開きその処罰を言い渡すというものがある。処罰も、棒叩きなど簡単なものであればその場で執行される。
裁判とはいっても、難しい案件はそうそうあるものではない。また、法に照らしてだいたいの量刑を決めたり判決文を書いたりするのは、胥吏や幕僚の仕事である。たまには知事本人が文案を考えることもあるが、この判決文というのは伝統的に故事成句や比喩、暗喩を並べ、文章を練りに練るのが常とあっては、とてもではないが全部ひとりで仕上げていては身がもたない。だから、ただ渡された文書を読みあげていることも多いのだ。
その罪人は、ちょっとした窃盗《せっとう》で捕らわれていた。再犯ではあるが微罪なので、三十回の棒叩きの上で放免、と決していた。初犯なら赦免もあるが、この場合は無罪放免はあり得ないし、数といいどこから見ても至極妥当な判決だった。
ところが、その男は言い渡された回数を聞くや、猛然と抗議しはじめたのだ。
「いくらなんでもあんまりだ。おとなしく罪を認めれば、刑を軽くしてやると言われたのに、この数はなんなんだ。多すぎる、こんなはずではなかった。こんなことになるとわかっていれば、絶対にやりましたなんぞといってないぞ。袖の下を渡さなかったからか、ええ?」云々。
まさしく言いたい放題、前後左右、罵倒のかぎりを尽くし、さすがの包知事でさえ眉をひそめた時だった。
「おまえはおとなしく刑に服しておればよいのだ。何をつべこべと申しておる。おかみにむかって抗弁するとは不届きな。これ以上申したてると、数を増やしていただくがいいのか。そもそもおまえのような不埒者《ふらちもの》は……」
抗弁の声をかき消すような大声で、罵《ののし》りはじめた者がいた。その罪人の隣に立っていた下役人である。
本来、私的な使用人であるからそういう場には幕僚は顔を出さないものだが、たまたま、奥から書類を届けにきた懐徳はその場面を目撃することになった。
包知事という人は、役人がその権力をかさにきて威張り散らすのを嫌う人だということは、懐徳も十二分に承知していた。あ、これはまずいな、と思う間もなく、
「その者をとりおさえなさい」
激した、というには間延びした声が飛んだ。
「は?」
「取り押さえて、棒叩きの刑に処しなさい。回数は十回。そのかわり、その罪人の刑は二十回に減じてよろしいです」
「ち、知事さま、それは……」
突然に刑を宣告された下役人も、周囲の人間も当然あわてた。
「それは無茶です。その者の罪は罪としても、きちんと審理しなければ……」
「いったん宣した刑を、いきなり減じるというのも……」
「法を司《つかさど》る者としては、厳正に手続きを行った上で……」
「手続きは無用でしょう」
「ですが……」
「それをいうなら、その者が今口走ったことはどうなります? 審理も手続きもなし、権限もないのに刑を増やそうとしたのですよ」
「それはそうですが……」
「役人が、その力をかさにきて脅すのはもっとも忌むべきことかと。とにかく、私のいうとおりにしていただきましょう」
言葉遣いは穏和だが、これは絶対に譲らないだろうと思わせる毅然としたものが声音の中にこもっていた。こんな声は、懐徳も初めて聞いたほどだ。
抗弁していた周囲の者も、これはだめだとあきらめた。もちろん、事の元凶の下役人も呆然とした表情を隠さない。本来の罪人にいたっては、何が起きているのかさえ把握してないようにきょろきょろと周囲を見回していた。
懐徳は当然、この場に口を出す立場にはないが、
「では、ただちに刑の執行を」
言い置いて席を立った上司の後を追った。
音から察するに、命令のとおりになったらしい。なにしろ、罪人を拘束しておくにも費用がかかる。こういう簡単な刑はとっととすませて、官衙から放り出すにかぎるのだ。なにやら抗弁する声が、やがて規則正しい音にとってかわった。
「……知事」
懐徳が顔をしかめながら上司に話しかけると、軽く右手が振られた。
だまれとでもいわれたのかと、思わずむっとすると、
「希廉どの、だれか、手のあいている人はいますか?」
妙なことを訊かれた。
「は」
「ですから、これから出かけてもらいたいのです」
「使いですか?」
「信頼がおけて、表の、特に下役人たちに顔を知られていないのは誰でしょう。刑が終わったら、あの男の後をつけさせてみてほしいのですが」
「と、おっしゃいますと?」
「後で説明しますよ。ほら、すぐに放免《ほうめん》になってしまいます。だれか、適当な人はいませんかね」
簡単な刑だから、終わるのも早い。
「わかりました。書生ならあまり顔も知られていないでしょう。今、奥にいる者ならだれでも十分お役に立つと思います」
「早くお願いしますよ」
言い置くと、包知事はもうくるりと背中を向けて手の中の書類に目を通している。歩きながら読むものだから、廊下の敷石にあやうくつまずくところだった。
四十代になっても書生に見える包知事が書生をかかえているというのも、なにやら妙な気もするが、これは知事の方が悪い。とにかく、後続を育てるのも、ある程度の地位がある者の責任というものだから、官衙の後背にある知事の公邸には常時、何人かの書生や幕僚がいた。
懐徳は知事に急かされてあわてて奥へ戻ると、最初に顔を合わせた若い書生に手短に事情を説明して外へ送り出した。
そもそも幕僚とか書生とは、体のよい居候《いそうろう》のようなものだ。特に書生は、幕僚のようにある程度の能力や特技があるというものではない。中にはのらくら遊んでいる者も多いのだが、包家の居候は懐徳を筆頭に有能だった。最年長の懐徳が温厚で人あたりがいいのと、表の役人たちとちがって知事の人柄と能力を熟知しているのが大きかったかもしれない。
いや、ひょっとしたら知事の能力にだまされ慣れている、といった方が正確だろう。
「あの下役人め、とんだくわせ者でございましたぞ」
数日後の夜、懐徳がその報告に知事の書斎まで行くと、
「刑を受けた男とでも会っていましたか?」
書き物から目を離さずに、包知事は応えた。
「なんでおわかりになりました」
核心をずばりと言い当てられて、懐徳は目を白黒する羽目になった。
「彼の言動が不自然だったからですよ」
「大声で怒鳴ったことですか?」
「それもあります。もうひとつ、私が役人の綱紀《こうき》にきびしいことは、もうみんな、よく承知しているはずです。なのに、わざわざ私の目の前で罪人、それも微罪の者を怒鳴りつけたのは何故でしょう。抗弁なら、ほかの者も程度の差はあれ、やっていたのに」
「なるほど」
懐徳は、騒動が起きる少し前ぐらいからしか、あの場の様子は見ていない。
「それで?」
感心していると、先をうながされた。
「……ひょっとして、ふたりの話の内容もご存知なのでは?」
と言いたくなるのを我慢して、
「はあ、あのふたり、それぞれのお仕置きを受けたあとは、順次、放免されました。先に放免された罪人の方のあとをつけさせまして、とりあえず住まいを確認した上で、何日か見張っていたところ、昨日、ふらりと出かけたと思うと、安い酒楼に陣取ったそうで。こちらもふらりと寄ったふりをして、男の背後に席をとったところ、待つほどのこともなく役人の方もやってきました」
言葉すくなに相席になると、すぐに罪人の方が金包みらしいものをさっと役人の方に渡した。役人の方はその重さを確かめると、さっさとしまう。
「助かったぜ」
「なんの」
「しかし、うまくいったな。あの知事さまをだましおおせるとはたいしたものだ」
「なに、ちょろいものよ。生真面目な奴は上っつらしか見ないものだからな。つけこむ隙はいくらでもある」
他にもなにやら、知事の悪口をいっていたらしいが、懐徳は報告する気にはなれなかった。不埒なふたりは軽く酒を飲むとすぐに別れて席を立ち、書生も憤慨しながらもどってきたというわけだ。
懐徳の短い話をうなずきながら聞いていた知事は、生真面目、というところで軽く笑った。
「生真面目に見えますかねえ、私が」
「まあ、清廉潔白、というのは皆に知れ渡っているとは思いますが。ですが、連中がつけこんだつもりのところを、実はしっかり見抜いていた、というなら、ひょっとしたら知事どのはあまり真面目ではいらっしゃらないのかもしれませんな」
今度は、知事は声をたてて笑った。
笑ったはずみに、手に持っていた筆から墨がぽたりと落ちた。
幸い、広げた紙の上ではなく机の上に落ちたから墨はすぐに拭き取れたが、おかげで話が中断してしまった。
「……それで、どうなさいますか」
片づいてから懐徳が話を戻すと、
「何をですか?」
もう忘れたのか、怪訝《けげん》そうな顔が返ってきた。
「上を欺《あざむ》いた者には、それなりの処罰が必要かと思いますが」
「ああ、そのことですか」
かろうじて無事だった紙をそうっと持ち上げて、文字の墨の乾き具合を見ながら、上の空で応える。
「あのままでいいのではないですか?」
「本当によろしいのですか? 役人の不正を放置なさると?」
予想外の反応はこの人の日常だが、そのたびに驚かされる。
「まあ、それなりの罰はすでに受けていますでしょう。わざわざ、自分から痛い思いをしたのですから」
「しかし、金銭《かね》を受け取っております。こういう役得は……」
「そういえばそうですね」
紙を再び机上に戻し、あちこちと周囲を見回す。
「たしかに、不正な収入はいけませんね。それに、これに味をしめて二度、三度とくりかえすようなことがあってもいけませんし」
「まったくです」
といいながら、懐徳は印を収めた箱を差し出した。
「私が印を押した方が」
「ああ、では頼みます」
公の書類ではなく、内容からみてどこぞから揮毫《きごう》を頼まれたものらしい。だから、というわけではないのだが、あっさりと包知事はうなずいた。下手に手にとると、印を落として欠けさせてしまいかねないことは、ちゃんと自覚があるわけだ。
「さて、金銭をとりもどしてやって、二度とこんなことを企《たくら》まないようにするためにはどうすればいいでしょうか。考えてもらえませんか、希廉どの」
「私に訊くまでもなく、すでにお考えがおありなのでは」
「助力していただけますか」
「お断りすることは可能でしょうか?」
できるだけ皮肉っぽく訊いたつもりだったが、知事はまたちいさく声をあげて笑っただけだった。
幕僚の孫懐徳が、辞《や》めて故郷に帰りたがっているという噂が流れたのは数日後だった。
「あの、一番古参の幕僚どのが?」
「知事どのと何事かあったか」
「たしかに知事どのは変わり者だが、気性はよくのみこんでいる人だと思ったが」
「いったい、どうしたのやら」
役人たちの間でも、温厚で苦労人、知事と上手に付き合って役人たちとの間をとりもってくれる初老の男はそこそこに知られていたし、それなりに好意的に見られていた。
「なんでも、判決文の下書きの段階で書き損じたか、他の案件ととりちがえたか、とにかく刑を軽く書いてしまったのだとか」
まことしやかな噂が流れる。
「事が終わってから気がついたのだが、知事どのにいうにいえぬ状態だとか」
「あの知事どのではなあ。身内とはいえ、いや、身内だからこそ、厳罰を下しそうな」
「年齢《とし》も年齢だから、隠居するには遅すぎるぐらいで、これはいい。いつ辞めてもいいようなものだが、故郷に帰るにも先立つものが必要ときている。ところがだ」
「貯めこんでいるわけがないな、あの知事どのの下では」
「だから、帰るとも辞めるともいえず、思い悩んでいるのだとか」
「気の毒になあ」
同情する声はあったが、だからといって救いの手をさしのべようという者もいなかった。ただ、それまで真面目一方だった孫懐徳が三日に一度、夕刻、公邸を抜け出し微醺《びくん》を含んで戻ってくる姿を見ていただけだった。
「知事さまのところの孫どのですな?」
場末の酒楼で、例の下役人が懐徳に声をかけてきたのは、ことの発端からふた月ちかく経ったころだろうか。
正面からではなく、背中合わせでなるべく顔を見せないようにしてというところがいかにもで、懐徳は笑いそうになった。
「ん?」
「官衙でよくお見かけしておりますよ。知事さまの仕事は、孫どのひとりが支えておられると、もっぱらの噂で。しかし、毎日、気を使いどおしでお疲れでしょう。いや、お察しいたします」
懐徳は身じろぎはしたものの、言葉は発さなかった。だが、相手はそれにどう納得したのか、一方的に話しかけてくる。
「聞いた話では、お故郷も遠いとか。俺の知り合いにも、遠くから、妻子をおいて都へ働きに来ているものがいましてね」
来たな、と思ったが、これまた反応せずにいると、
「それが、可哀相《かわいそう》に喧嘩に巻きこまれたあげく、相手を傷つけてしまいまして。まあ、酒が入っていたのが悪いんですが、ひとり暮らしの侘《わ》びしさを考えたら無理もない。相手が大怪我をして捕まってしまい、今は官衙の牢にはいっていまして、数日中にも判決が言い渡されるってことらしいんですが……この件、ご存知で?」
懐徳は無言。
「たぶん、この調子だと何ヶ月かは牢入りってことになるんでしょうが、そうなると故郷に残した妻子が不憫《ふびん》なことになるんで。なんとかして助けてやりたいんですけどねえ、無理でしょうかねえ」
次の言葉までには、少し長い沈黙があった。
「やっぱり無理でしょうなあ。たしかに、それでなくとも大変な方に、無理はお願いできませんものな。疲れて、書類を書きまちがえたりしては一大事ですし」
今度は、懐徳の機嫌をとるようにたたみかけて、
「俺の知り合いという男は働き者で小金を貯めているもので、罪が軽くなるものなら、物惜しみはしないといっていたんですが。そんなことをいっても、袖の下は通じますまいね、あの知事さまがいらっしゃる限りは。まあ、あきらめるよう申しておきましょう」
と、男が腰をあげかける気配がする。
相手が終始、顔を合わせようとせず、懐徳の微妙な表情が見えないのは幸いだった。
「とにもかくにも何事かあったら、またここへ来てくださりゃ、お力になれると思いますぜ」
それじゃあ、と、男は立ち去っていった。
その数日後、判決のいい渡しの場で、またもやちょっとした騒動が起きた。
半年の牢入りを申し渡された男が、猛然とくってかかったのだ。くってかかった相手は、かたわらに立つ下役人だった。
激して言葉は支離滅裂になっているが、要約すると、
「心配はいらん、金銭さえはらえば刑を軽くしてやるといったではないか。これでははじめの予想よりも重くなっている、どういうことだ」
こういうことらしい。
抗議された方はといえば、
「知らぬ、そんなことをいったおぼえはない、何かのまちがいだ」
と、当初は必死に抗弁した。だが、
「やったことなら、素直に認めた方が罪は軽いですよ」
包知事があわてふためく周囲を制して、しずかに声をかけると、腹をくくったか、
「申しあげます」
と、その場に膝をついた。
「申しあげます。たしかに、俺……いや私は刑を軽くしてやるともちかけました。ですが、金銭はびた一文受け取っておりません。これでも罪になるのでしょうか」
「あなたが、罪状の宰領をできる立場で、そうもちかけたなら罪に問われると思いますが」
「では、私は無罪でしょう。ご存知のとおり、私はしがない下役人で、何も権限はもっておりません」
しらりといった。とたんに、
「嘘をつくな、知事どのの身内に工作を頼んだから大丈夫だといったじゃないか」
罪人の口から真相が暴露される。
「それは、ほんとうですか?」
包知事が念を押すと、また居直って、
「ほんとうですが……よろしいのでしょうか、すべてお話して……」
上目づかいに知事の顔色をうかがった男は、あまりに知事が平然としているのに、内心で首をひねった。あわてるどころか、むしろうれしそうににこにこと穏やかな微笑を浮かべている。
これは、ひょっとして……と、思いあたったが、もう遅い。
「包みかくさず話した方が身のためだと思います」
「では、申しあげます。知事さまの幕僚の孫懐徳どのとおっしゃる人が、判決を書き換えてくれる約束となっておりました」
おお、と一斉に周囲からどよめきが起きる。知事が窮地に追いこまれたと知って、驚くと同時に、反応を期待する響きがこめられていた。できれば、この小うるさい知事があわてふためき、みっともないいいわけをしてくれることを期待した声だった。
「たしかに、孫懐徳という者は私の幕僚ですが。あなたが話をしたという者は、たしかに孫懐徳でしたか?」
「まちがいありません」
きっぱりと胸を張る。
「きちんと逢って、話をしたのですね。日時と場所をいえますか?」
「もちろんです」
これまた勢いこんで答える顔に、またもや質問が投げかけられた。
「では、その時のやりとりを話してもらえますか」
「え……」
そういえば、相手の言質《げんち》はとっていない。いないどころか、声もほとんど聞いていない。
会話をでっちあげることもできないではないが、なにより、瞬間たじろいでしまっては、とりつくろうのはむずかしくなった。
「で、報酬はいくらだったのですか?」
「……は?」
「ですから、そこまで主張するなら、いくらでどういう風に量刑を変えると、きちんと約束ができているはずですね。いったい、いくらで刑が買えるものか、参考までに聞いておきたいのですが」
「それはその……」
「まさか、金銭を受け取っていないと? それがほんとうなら、そして、さっきのあなたの主張に添うなら、孫懐徳を罪に問うことはできないと思いますが」
「……あ」
初歩的な論理の罠《わな》に、まんまとひっかかったことに気づいて、男は絶句した。
「さて、どうします?」
「……おそれいりました」
しばらくは凍りついたようにじっと固まっていた男だが、やがてへなへなと平伏した。
「こんな詐欺まがいの手は、二度は使えませんよ。それだけはご記憶ください」
囮《おとり》役を無事にまっとうした懐徳は、一件がすべて片づいた後、苦い顔で釘をさした。
「まして、芝居など私には無理です。どれだけ冷や汗が出たか」
「だから、ひとことも口をきく必要はないといっておいたではありませんか。どうせ、面とむかって話をする度胸もないとわかっていたし、さほど難しいことではなかったでしょう」
そもそも、最初の一件で味をしめていることはわかっていたし、そこから推察し、例の下役人が逮捕者と接触するかどうかに目を光らせるのは簡単だった。やりくちは手にとるようにわかっていたし、彼が言質をとられないよう、証拠をできるだけ残さないようにしているのを確認した上で、それを逆手にとるのはさほど難しいことではない。
「それにしても……。居直った者が公の場で口からでまかせを述べるとは予想されませんでしたか。嘘でも、私がああいったこういったと証言されれば、それを覆すのにどれだけの手間がかかったことか」
「おや、気がついてなかったんですか?」
「なにをですか」
嫌な予感がした。
「希廉どのが出かける時には、必ず、書生のうちのだれかがそっと後からついて行っていたんですが。もちろん、身内の証言だけでは弱いですから、酒楼の主人なり大伯《こぞう》なりにも、事情を話して気をつけていてもらいましたから、反証は簡単だったと思いますよ」
一気に身体中の力が抜けるような気がした。
気がついていなかった。
顔を見れば気がついたはずだが、まさか、身内に見張られるなど考えもしていなかったから無理もない。
「……つまり、私をもだましておられた、と?」
「だましたなどと人聞きの悪い。囮役を引き受けてもらったからには、その人の安全を確保するのが依頼した側の義務ですよ」
そういうことを真面目な顔をしていうから、かえって信用できないのだと、懐徳は腹の底で思った。
「まあ、当分は同じような事態が起きるとは思えませんから、大丈夫ですよ。どちらにせよ、希廉どのは私の腹心と知れわたってしまいましたから、もう、同じ手は使えません」
「どうせ、その時になったら別の手を考えついて利用するんでしょう」
とは、懐徳はいわなかった。
たぶん、その時になったら、望むと望まざるとにかかわらず、この知事に協力することになるのだろう。白を黒と、黒を白といいくるめるのは、この人の得意技なのだから。
「では、喧嘩で人を傷つけた方は恩赦で減刑、役人の方は罰金と訓戒ということでよろしいですね」
「今回はよろしいでしょう。あまり追いつめて自棄《やけ》になられても困りますから。再びこんなことをやったら、その時こそ即座に処罰することにしましょう」
甘いなとも思いながら、書類の文字をひとつひとつ確認して、懐徳は知事の目の前にさしだした。
「これに印をお願いいたします。ずれたり押しまちがえたりしたら、最初からご自分で書き直していただきますから、お気をつけて」
「厳しいですねえ」
どちらが厳しいのかといいたげな懐徳の目を笑いとばして、包知事はゆっくりと官印の箱に手を伸ばした。
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COMMENTS
井上祐美子
いのうえゆみこ
「五王戦国志」シリーズなど
C★NOVELS25周年、おめでとうございます。8冊分、あしかけ5年間お世話になりましたが、その間、書きたいことを楽しく書かせていただきました。ますますのご発展を祈りつつ、またお世話になれるよう精進いたします。
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翼は碧空を翔けて
あれから3年
A Boy Meets a Girl in the Sky
三浦真奈美
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)絨毯《じゅうたん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)結婚|詐欺師《さぎし》
-------------------------------------------------------
離陸してから一時間、飛行船は上昇を終え水平飛行に入った。
ランディ・カーディナルはブリッジを出て客室に戻ると、急いでホワイト・タイの礼装に着替えた。
濃紺の絨毯《じゅうたん》が敷き詰められた客室には、歩き回れるほどのスペースはない。夜はベッドになる座席が室内の半分を占め、あとは作り付けの小さなテーブルと洗面台があるだけだ。
ただし、絨毯も壁紙も最上のものを使っており、ベッドやテーブルは材質にしろ作りにしろ、どんなに目が利く者でも文句のつけようがない最高の品質ではある。
「でも、せめて窓があればなぁ……」
ランディは何もない壁に目をやり、つぶやいた。
構造上の問題で、客室には窓をつけることができなかった。外の景色をながめたい乗客は、船の前部にある食堂も兼ねたラウンジへ行かなければならない。
身だしなみをととのえて客室を出ると、廊下は人の姿もなく静まりかえっていた。間もなく、船長主催の晩餐会《ばんさんかい》がはじまるのだ。
ただし、たいていの乗客たちは就寝時以外めったに客室には戻らず、飛行中のほとんどの時間をラウンジで過ごすのだと船長に聞いた。確かに、さっきブリッジから戻るとき通り抜けてきたラウンジには、晩餐会までまだ少し時間があるというのに、ざっと見たところ、ほぼ全乗客がすでに集まっていた。
左右に十ずつ客室が並ぶ廊下の、中ほどまで来たとき、いきなり左の扉が開いた。
「あら」
女性の声がし、思わず足を止め、そちらを振り向く。
「ちょうど良かったわ」
はちみつ色の髪の女性がにっこり笑って、ランディを手招いた。
なんだろうと思いつつ、そちらへ足を踏み出したとたん、彼女はくるりとランディに背を向けた。
「な……っ」
真っ白な背中が目に入り、あわてて顔をそむける。
「手が届かないのよ。背中のボタン、とめていただけないかしら?」
「だ……誰か、呼んできます」
そう言って急いでこの場を離れようとしたが、腕をつかまれてしまった。
「駄目よ。そんなことしてたら、晩餐会に遅れてしまうわ」
「でも、ですね――」
「急いでちょうだい。船長が挨拶してる最中に駆け込むなんて、したくないもの」
「しかし……」
「まさか、困っている女性を見捨てたりはしないわよね?」
「はあ……」
仕方なく、廊下のほうを向いたまま腕をのばした。
ところが指先に触れたのは、あきらかに布ではなく、しっとりとした肌だった。
「うわ……っ、すみません!」
飛びあがり、腕を引っ込める。
「あなた、よそを向いてドレスのボタンをとめられると思ってるの?」
「そ、そうですよね……」
そろそろと首を回すと、ふたたび白い背中が目に入った。それに、肩胛骨《けんこうこつ》の下にある奇妙な形の小さな痣《あざ》も。
「ほら、早く!」
「あ、はい……」
ドレスのボタンとボタン穴以外は一切見ないようにしながら、十個ほど並んだそれを慎重にとめていく。
女性の年齢はよくわからないが、年上であることは間違いないだろう。
はちみつ色の髪は最新流行の形に結い上げられ、ぽってりとした唇にさした紅《べに》の色が鮮やかだった。一部の男性が好みそうな、いわゆる肉感的な美人だ。
「あなた、お名前は?」
少しハスキーな声が尋ねてきた。
「――ランディ・カーディナルです」
「この飛行船には、ご家族と一緒に?」
「いえ、ひとりで」
否定したとたん、彼女はぱっと振り返った。そして、ランディの顔をまじまじとのぞきこみ、
「年齢は? おいくつなのかしら?」
童顔のせいで、いつも幼く見られる。またかと思いつつ、二十歳だと答えた。
「あらまあ」
何歳だと思っていたのか、女性は驚いた顔をして、よりいっそうまじまじとランディを見つめた。
「十五、六だと思ってたわ」
「よく言われます」
いささかムッとして言うと、彼女はくすくす笑った。
「女は若く見られると嬉しいものだけど、男の子は違うのね」
「子、じゃありませんから」
「あらそう?」
笑いながら、くるりと背を向ける。
「ほら、早く。ぐずぐずしてたら、間に合わないわ」
続きを促され、ますますムッとしながらもどうにかボタンをすべてとめ終えた。
「ありがとう、助かったわ」
振り返って礼を言った彼女は、そのまま立ち去ろうとしたランディの頬を両手ではさみこんだ。
ぐいっと引っ張られ、唇に柔らかいものが押しつけられた。それが彼女の唇だとわかった瞬間、ランディは反射的に飛び退《の》いた。
「じゃあ、あとでまたお会いしましょう」
してやったりの笑顔とともに、ランディの鼻先でドアが閉められた。
しばらくの間、呆然としてドアをながめていたが、やがて我に返り、廊下の先へと視線を向けた。
誰もいないと思っていた廊下のむこうから、クリーム色のドレスを着た黒髪の少女がじっとこちらを見ていた。
「――やあ」
無視するわけにもいかず、声をかけると、少女はぱっと頬を赤らめた。
そして、ランディがそちらへ向かって歩きはじめたとたん、少女は飛びあがるようにして廊下の隅に飛び退いた。
少女がよほどの恥ずかしがり屋なのか、あるいは、いまの婦人とのやり取りを見られてしまったのか――後者の可能性が高そうだ。ランディはできるだけさりげなくしようと、口もとに軽い笑みを浮かべながら、少女の横を通り過ぎた。
だが、ほっとしたのもつかの間、
「最低だわ……!」
小さく吐き捨てる声が聞こえた。
きっと、あの婦人とのことを非難しているのだろう。ここは聞こえなかったふりをするべきか、それともきちんと説明すべきか。迷っているうちに、遠ざかる足音がした。
そろそろと振り返ってみたが、もう廊下のどこにも少女の姿はなかった。
晩餐会は、船長の挨拶からはじまった。
「本日はご乗船いただき、まことにありがとうございます。おそらく乗船を決意なさるまでには、相当の葛藤《かっとう》があったのではとお察しいたします」
乗客たちの間から、くすくすと笑い声があがる。
この飛行船が客を乗せて飛ぶのは、今回が二度目だ。とはいえ、初回の飛行は新聞記者やスポンサーなど招待客を乗せてのものだったので、実質これが客を乗せての初飛行と言えるかもしれない。
「当機はこれよりサマル山脈を越え、明朝にはレイトン湾に達する予定です。天気は良好、どうぞ素晴らしい空の旅をお楽しみください」
拍手がおこり、船長はにっこり微笑んで二十数人の乗客たちを見回した。
「それでは――皆さまの旅が素晴らしいものになることを祈って」
グラスを掲げ、乾杯と告げる。
実は先ほど、船長から乾杯の音頭をとるよう頼まれたのだが、ランディはとんでもないと断った。飛行船の開発段階から関わっているといっても、二十歳の若造が偉そうにしゃしゃり出たりしては、乗客たちは船の安全性に不安を感じるかもしれないからだ。
グラスに口をつけながらランディは、そっと乗客たちの様子をうかがった。
幸いにも、不安そうな表情の客はいない。皆、食堂ラウンジの大きな窓から見える壮大な空の夕景を楽しみながら、食事をはじめている。
ほっとしつつ、先ほどからずっと気になっていたテーブルをちらりと見た。
そこには中年の紳士と、先ほどランディにドレスのボタンをとめさせた婦人、それにあの黒髪の少女が座っている。一見すると仲の良い親子のようだが、よく見ると、少女の表情だけひどく暗い。
「――料理の味はいかがです?」
挨拶を終えた船長が、ランディのテーブルにやって来て尋ねた。
「最高です」
にっこり笑って答え、少し考えてから、声をひそめて尋ねた。
「あそこのテーブルに座っているお客さまは、どなたなんでしょう?」
少女たちのほうをそっと示す。
「ああ、銀行家のグリス・ハワード氏ですね」
名前は聞いたことがある。が、ここにいる乗客全員、おそらく名の知られた人々ばかりのはずだ。なにしろこの空の旅に支払う金額は、一般市民にはとても手が出せない値段なのだから。
「ご家族で空の旅というのもいいですね」
夫婦や男性ひとりだけという乗客がほとんどの中、子も一緒の家族連れというのはかれらと、もう一組しかない。
「いや、家族かどうかは……。確かハワード氏は十年前に奥さまを亡くされて以来、独り身のはずなので」
船長はそう言うと、しまったとばかりに口を閉じた。
「乗客の噂話は御法度《ごはっと》でした」
まずいことをしてしまったという顔で、ランディを見おろす。
「いえ」
あわてて首をふり、謝った。
「すみません、そうですよね。僕のほうこそ、立ち入ったことを訊くべきじゃありませんでした」
社長に報告されるのではと心配していたのだろう船長は、ほっとした表情になった。
一礼して次のテーブルへ移動していく船長の後ろ姿を見やりながら、ランディはそっとため息をもらした。
こんな若造に気を遣わなければならない船長も気の毒だが、ランディ自身も居心地が悪くて仕方がない。乗船の手配をした保護者の顔を思い出し、胸の内でこっそりと毒づいたのだった。
食事が終わっても、ほとんどの乗客たちはこの場にとどまり、今度は窓から見える景色ではなく互いの交流を楽しんだ。
地位も財産もある乗客らとは違い、一介の技術者でしかないランディは、居場所を求めてふたたびブリッジに顔を出した。
クルーたちとは全員、顔見知りだ。中には、ランディが教育を担当したクルーもいる。ランディが語る飛行船開発時の裏話は皆が聞きたがり、かれらが仕事中だということも忘れて、ついつい話し込んでしまった。
そうしてようやく客室に戻ったのは、そろそろ日付が変わろうかという時間だった。
客室の座席は乗務員の手により、ベッドとして整えられていた。
ベッドに腰かけたランディは、上着のポケットから手紙を取り出した。封筒の中には手紙と一緒に、写真が一枚入っている。ストロベリー・ブロンドの女性が小さな赤ん坊を抱いた写真だ。
しばらくの間ながめていたが、やがて写真を小さなテーブルの上に伏せると、立ちあがった。
乗客たちはすでに眠りについているのだろう。部屋に戻るとき通り抜けてきたラウンジは明かりも落とされ、誰もいなかった。
あたりは静まりかえっている。しかしランディは、このまま眠る気にはなれなかった。食堂ラウンジに行って、窓から星空でもながめよう――そう考えながらドアを開け、ぎょっとなった。
三つほど隣のドアの前に、誰かが立っている。
「あ、こんばんは」
反射的に挨拶したあと、相手があの少女だと気がついた。
少女のほうもぺこりと頭をさげ、こちらがランディだとわかったようだ。
「あの……」
明かりの下に一歩足を踏み出した少女は、ランディを見あげた。
「そこ、あなたのお部屋なんですか?」
「そうだけど」
うなずいたランディは、少女が手にしているものにも気がつき、思いきって尋ねた。
「それ、写真機だよね?」
少女が抱えるものとしては、あまりにも不釣り合いだった。
「はい。いえ、違います」
いったんうなずきかけた彼女は、あわてた様子で首をふった。
「盗んだものじゃないです。お父さまに買っていただいた写真機です」
「いや、そうじゃなくて。なんでこんな夜中に、そんなものを持ち歩いているのかなと思って」
みるみるうちに、少女の頬が赤く染まっていく。
「ごめん、べつに咎《とが》めてるわけじゃないんだ。ただ、こんな暗いところでは、ストロボがないと撮れないんじゃないかと思って」
廊下には等間隔に明かりが設置してあるが、それは歩くのに不自由がないようにという程度の明るさでしかない。
少女は驚いた顔でランディを見た。
「そうなんですか……?」
ああ、とうなずいてみせる。
あからさまにがっかりした顔で、少女は写真機を見おろした。
「せっかく苦労して持ってきたのに……」
少女の目が潤《うる》むのを見て、ランディは急いで付け加えた。
「でも夜が明けたら――そうだな、食堂ラウンジでなら撮れると思うよ」
「それじゃ、意味ないんです!」
思わずといった様子で叫んだ少女は、廊下に響き渡った自分の声に驚いた顔をし、あわてて先ほどまで立っていたドアのほうを振り返った。
耳をすまし、しばらく中の様子をうかがっていたが、やがてなにか決意した表情でランディを見あげた。
「あの……、お願いがあります」
「なに?」
「ノックしてください」
「……って、そのドアを?」
はい、と少女はうなずいた。
「ひとつ訊くけど――その客室は、きみの知り合いの部屋なのかな?」
「いいえ、知らないひとの部屋です」
「知らない相手の部屋を訪ねるのかい? こんな夜更けに?」
「そうです」
真剣さは伝わってくるが、彼女の頼みを快く引き受けるわけにはいかない。
「これは年長者としての忠告だけど――明日にしたほうがいいと思うよ」
「明日じゃ遅いんです。あの女が自分の部屋に戻る前に、踏み込まなきゃ」
「あの女って?」
尋ねたが、少女はきゅっと唇を引き結び、うつむいてしまった。
さて、どうしたものか。考えていると、ドアのむこうからかすかな物音が聞こえた。
少女がびくっと飛びあがる。
思い切ってランディは、彼女から写真機を取りあげた。そして、驚く少女の華奢《きゃしゃ》な腕をつかみ、問答無用で歩きはじめる。
「ど、どこへ……」
手足をばたつかせ、泣きそうな顔をして尋ねる少女に、ランディは短く告げた。
「食堂ラウンジ」
「ジェシカ・ハワードです」
ランディが自己紹介すると、少女は観念した様子で名乗ってくれた。
十四歳だということだが、全体から受ける雰囲気はもう少し幼くみえる。
「それで、あの部屋の前でなにをしていたのか訊いていいかい?」
「あの女――マリー・ラクシャスが、あそこへ入っていくのを見たんです」
「それ、誰?」
どうやら、ランディにドレスのボタンをとめさせたあの女性が、マリー・ラクシャスというらしい。
「お父さまは、彼女と再婚するつもりなんです」
「ああ、なるほど」
そうでなければ、娘を連れての旅に同行させたりはしないだろう。
「きみは再婚には反対なんだ?」
「もちろんです」
力強くうなずく彼女に、ランディは苦笑した。
大好きな父親を取られてしまう、と思っているのだろう。だから、その相手に良い感情が持てない。あの女、などと呼ぶのはきっとそのせいだ。
「言っておきますけど」
ジェシカはむっとした顔で、テーブルのむこうからランディを見あげた。
「私、つい最近まではマリーのことが好きでした。いまさら新しい母親なんていりませんけど、お父さまがマリーを愛していらっしゃるのはわかるから、さっさと再婚すればいいのにと思っていました」
おやと思いつつ、彼女を見なおす。
「でも、あの女はお父さまを騙《だま》していたんです。それがわかったんです」
「それは――きみが彼女に良い感情を持ってないからじゃ……」
「馬鹿にしないでください!」
泣きそうな目をして、ジェシカは声をはりあげた。
「なんの理由もなしにあの女を非難してるわけじゃないんです。私、見たんです。マリーが、お父さま以外の男性と……その、キスをしているのを」
「それって、僕のこと? だったら――」
「あなたじゃありません」
頬を染め大きくかぶりをふる。
「ピクニックへ行ったとき、木陰で……。よりによって、お父さまのお友達と」
「見間違いってことは?」
「一分三十秒間のキスを、見間違うわけありません」
時間をはかっていたのかと驚きつつ、うなずく。
「確かに。それで、そのことはお父さんには話したのかい?」
「言ってません。だって、私の他に目撃者もいないし、証拠もありませんから」
「ああ、だから写真を……」
テーブルの上に置いた写真機を見やり、納得した。
それにしても、父親に買ってもらったという話だが、十四歳の少女が普通、写真機など欲しがるものだろうか。
「これ、最新型なんです」
ランディの視線に気づいた少女が言った。それまでのうつむきがちな姿勢とは違い、自慢げに胸を張っている。
「昨日、お店のひとが届けてくれたんです。ウィンスロー日報の記者だって、まだ持っていないって言ってたわ」
「じゃあ、まだ使ったことがないんだ?」
「ええ。でも、お店のひとに使い方はちゃんと教えてもらいましたから」
言いながら少女は写真機を取りあげ、構えてみせる。なかなか堂に入った構えで、感心してつい、しげしげとながめてしまった。
「けど――」
ため息をつき、写真機をおろす。
「口で教えてもらうだけじゃなくて、試しに何度か撮《うつ》してみるべきでした」
「そうだね。そしたら、ストロボが必要なこともわかっただろうにね」
「ええ。それに考えてみたら、写真館で撮ってもらうとき、いつも熱いぐらいのライトを当てられてました。新聞記者が写真を撮るときも、ピカッと光ってましたし」
自分のうかつさに腹が立つのか、ジェシカはきゅっと唇をかんだ。
よく似た後悔は、ランディにも覚えがある。これまで何度もおこなった試験飛行のたび、飛ぶ前にあの実験もこのテストもやっておくべきだったと、考えが及ばなかった自分に悔しい思いをしてきた。
「それは次の教訓にすればいいよ」
いつも自分が言われる台詞を口にしたが、彼女は納得しなかった。
「次があるとは限りません!」
強い口調で返され、ランディは少女の顔を見なおす。
頬を染め、正面からこちらをにらむその表情は、あきらかに怒っていた。口先だけの慰めだと思われたに違いない。
「いや、だからね……、いまのは次に写真を撮るときの教訓にという意味であって、それ以外の意味はないんだよ」
あわてて説明すると、ジェシカは恥じ入った様子でうつむいた。
か細い声で「ごめんなさい」と謝られ、なんだかこちらのほうが悪かったような気分になってくる。
「――そうだ。写真が駄目なら、お父さんをあの部屋に連れて行ったら?」
「無理です。お父さまはお休みになるとき、いつも睡眠薬をお飲みになるから。たとえ枕もとで大鍋を落っことしたって、お起きにはならないんです」
最近、上流階級の間で流行っているようだ。大学でも、服用している学生がいる。
眠る間も惜しいほどやりたいことがたくさんあるランディにしてみれば、薬の助けを借りても眠りたいという気持ちはさっぱり理解できない。
「だからあの女も、お父さまが隣の部屋にいらっしゃるのに平気で……」
なにかを振り切るように、ジェシカはぱっとランディを見あげた。
「こうなったらもう、あなたにお願いするしかないんです。どうか、私と一緒にあの部屋に行って、証人になってください」
訴えかける青灰色の目を見ていると、ついうなずいてしまいそうになる。
ランディは急いで目をそらし、首をふった。
「悪いけど――よその家庭問題には、首を突っ込まないことにしてるんだ」
この二年ほどの経験で得た教訓だ。
「そんな……! お願いですから!」
両手を合わせたジェシカが、身を乗り出しかけたそのとき、窓の外が光った。
窓のむこうへ視線を向けたランディは、かすかに眉を寄せる。
ほんのさっきまで、窓の外はいちめん、みごとな星空だったはずだ。少なくとも、ふたりでラウンジに入ったときは。
それがいつの間にか、進行方向側の半分だけ星が消えている。
「いまの……何?」
身を乗り出した姿勢のまま、ジェシカが尋ねた。
「稲光だと思うよ、たぶん」
「……って、雷なんですか?」
「ああ」
うわの空でうなずきながら、離陸前に仕入れた気象情報を思い起こす。
航路にあたるどの地域からも、荒天の知らせはなかったはずだ。だから船長も晩餐会のとき、天気は良好であると発表した。
「急激に発達した積乱雲があるんだな」
窓に額をつけ、厚い雲が星々を覆い隠してしまった方角を見つめる。
いまごろブリッジの水銀計は、どんどんさがっていっているはずだ。
ランディの視線の先、雲の中で稲妻がはしった。
「きゃ……っ!」
ジェシカが悲鳴をあげ、頭を抱えてその場にしゃがみ込んだと同時に、ゴロゴロと腹に響く音が聞こえた。
ふたたび雲の中で稲妻がはしるのを見て、ランディは立ちあがった。
早く針路を変えたほうがいい。なのに、飛行船はまったくその気配をみせない。
「待って! 待ってください!」
ラウンジを出ていこうとしたランディに、テーブルの下に半分身体を隠したジェシカが、呼びかけてきた。
「ひとりにしないで……!」
雷と飛行船のことに気をとられ、彼女の存在をすっかり忘れていた。
「ああ、ごめん」
あわてて引き返し、手をさしのべる。
少女はしがみつくようにランディの手を取り、よろめきながら立ちあがった。
ジェシカの手は震えていた。膝も震えているのか、足もとがおぼつかない。彼女をささえるというより抱えるようにして、ラウンジを出た。
廊下には、乗客が三人ほど客室から出てきていて、互いに不安そうな顔をつき合わせていた。すぐにランディが少女を抱えて歩いてくるのを見つけ、駆け寄ってくる。
「どうしたんだね?」
老齢の紳士がジェシカを見おろし、尋ねてきた。
「それが――雷に驚いて、腰を抜かしてしまったようで」
「えっ? じゃあやっぱり、あれは雷鳴だったんだね?」
「そうです」
ランディがうなずき終えないうちに、紳士はぱっと他の乗客を振り返った。
「ほら! 私の言った通りだ!」
「しかしだな、船長は天候は良好だと言っていたじゃないか」
「船長が天候を決めるわけではないぞ」
「だが――」
言い合いは、続かなかった。また、雷鳴が聞こえたのだ。
今度の雷鳴は先ほどのそれよりも鋭く、空気を切り裂くような嫌な音だった。
紳士たちは、ぴたりと口を閉じた。
ランディの腕の中で、少女がびくっと飛びあがった。渾身《こんしん》の力でしがみついてくる彼女の背を、安心させるようにぽんぽんとたたいてやる。
「大丈夫、大丈夫だから」
いまの雷鳴で、眠りについていた他の乗客たちも目がさめたらしい。
次々に客室のドアが開き、寝間着姿の紳士たちが飛び出してきた。
「なんだっ?」
「なにか爆発したのか?」
「まさか事故かっ?」
さすがに婦人たちは寝間着姿では廊下には飛び出せないらしく、ドアの隙間から夫を呼んだり、様子をうかがったりしている。
だが、ジェシカの父親の姿はない。彼女が言ったように、睡眠薬を服用しているからだろうか。
本来なら、保護者のもとへジェシカを連れて行くべきなのだろうが、と思いつつランディは彼女に尋ねた。
「きみの部屋は?」
「――そこ、です」
か細い声が応え、そろそろとあげられた指が、並ぶドアのひとつをしめす。
そのドアの前まで連れて行き、じゃあと告げて立ち去ろうとすると、少女はすがりつく目をしてランディの上着の裾をつかんだ。
「大丈夫、心配ないから」
繰り返し言い聞かせ、いささか気が咎めながらも、上着をつかむ少女の手をひきはがす。
そうしている間に、廊下に出て来た乗客たちにもさっきの音が雷だと伝わったようで、かれらはますます大騒ぎしはじめた。
「もし雷が落ちたら、どうなるんだ?」
「飛行船は大丈夫なのか?」
「乗務員はどうしたんだ! なぜ説明に来ない?」
確かにこんな場合、乗務員はすぐに乗客たちのもとに駆けつけ、かれらの不安を取り除いてやるべきだろう。
「ほんとに、何をしてるんだ……?」
吐き捨てるようにつぶやきながら、ランディはブリッジへと急いだ。
ブリッジ内はしかし、客室前の廊下よりも大騒ぎとなっていた。
夜番以外のクルーたちも駆けつけ、そう広くはないブリッジは誰かにぶつからずには歩けないほど、ごったがえしている。
ランディは、ナビゲーション・ルームで地図をひろげる船長を見つけ、
「なぜ針路を変更しないんです?」
まず最初に、そう尋ねた。
「したいが、できないんだ」
答えた船長の顔は、青ざめていた。
「方向舵《ほうこうだ》に何か?」
おそらく、とうなずきかけて、船長はあわてて首をふった。
「昨夜の最終点検では、異状なかった。いきなり故障が発生したとは考えられない」
「故障なんて、たいていが突然起こるものですよ」
初めての長距離試験飛行で、突然エンジンがおかしくなり、ロートリンゲン王国の王宮の庭に不時着したときを思い出す。
あのときも事前の点検では、なんの不具合も見つからなかった。
「――で、どうするんです?」
「いまクルーたちに、故障箇所を確認させている」
ブリッジの中から確認できる故障なら修理もできるだろうが、そうでなかった場合、航行中では手を出すこともできない。
「それでもし駄目なら、どこかに緊急着陸するより他に手段はないだろう」
渋い顔で言いながら、船長は地図に目を落とした。
その判断は正しいだろう。だが、とランディは船長の顔をのぞきこんだ。
「船長、乗客たちに現状の説明をお願いできませんか?」
「は?」
なにを言われたのかわからないという表情で、船長はランディを見た。
「先ほどからの雷で、乗客たちの間に不安がひろがっています。クルーのだれか――できれば船長が、乗客たちに状況を説明し、不安を取り除いて――」
「そんな暇はない!」
どすんっ、と地図の上に拳をたたきつけた船長は、しかしすぐにはっとした顔で、
「いや、その……、ああそうだ」
ぎこちなく笑みを浮かべ、ランディを見あげた。
「その役目、きみにお願いしたい」
「は?」
なにを言い出すのかと、眉をひそめた。
「この通りの状況なのでね、私はもちろんここを離れられないし、クルーたちも持ち場を離れてもらっては困る。そうなると、あとは乗務員たちしかいないが――」
この飛行船にはクルーの他に、ベッドメイキングや給仕などのサービスを提供する乗務員が十名ほど乗り込んでいる。
「しかし、飛行船に関しては素人も同然のかれらよりも、きみのほうが適任だ」
「僕が乗客に説明するんですか?」
その通り、と船長は大きくうなずいた。
確かに、開発段階から参加していたランディは、乗務員たちどころか、クルーたちや、ひょっとするとこの船長よりも、飛行船には詳しいだろう。だが、乗客たちはそれを知らない。
「駄目ですよ、そんなの。無理です」
首をふるランディの手を、船長はいきなり握りしめた。
「頼む。きみ以外にはいないんだ」
「いや、しかしですね」
「――船長!」
操縦室から、クルーの呼ぶ声がした。
これ幸いと立ちあがった船長は、
「じゃあ、頼みます」
とランディに言い置き、そそくさと操縦室へ行ってしまった。
どうしたものかとため息をつき、なんとなくあたりを見回したランディはふと、このブリッジに通じるドアがわずかに開いていることに気づいた。
「閉め忘れたかな……?」
ドアのむこうには、厨房《ちゅうぼう》があり、食堂ラウンジとつながっている。そのラウンジのむこう側にある客室エリアまでは、ブリッジの騒ぎは聞こえないと思うが、万が一ということもある。もし乗客たちがこの騒ぎを聞きつけたりすれば、不安がるどころでは済まないだろう。
とりあえずドアを閉めようと歩み寄ったランディは、はっとして足を止めた。
ドアの隙間から、人影が見える。
「――ここは、関係者以外立ち入り禁止ですよ」
できるだけ落ち着いた声で告げながらドアを開くと、青ざめた顔をしたジェシカが立っていた。
「きみ……」
彼女ひとりだとわかり、少し驚く。
なにしろ、こうしている間にもゴロゴロと雷鳴が聞こえ、時おり稲光がはしって窓の外が真っ白に見えるのだ。
「どうして、ここに?」
尋ねると、ジェシカはびくっと飛びあがり、蚊の鳴くような声で「ごめんなさい」と謝った。
「いや、べつに怒ってるわけじゃないよ。ただ、なにかあったのかと――」
ふいに、食堂ラウンジに通じるドアの磨《す》りガラスが、ぱっとオレンジ色になった。
稲光ではない。誰かが食堂ラウンジの明かりをつけたのだ。
足音やひとの声が聞こえ、ランディは急いでブリッジのドアをしっかりと閉めた。
「誰か!」
ざわめきの中から、ひときわ大きな濁声《だみごえ》が聞こえると、ジェシカがふたたび小さく飛びあがり、ランディの上着の裾をぎゅっと握った。
「どうしたんだい?」
ジェシカの顔をのぞきこむ。
ラウンジではあの濁声が、船長を連れて来いと叫んでいる。
「我々は、こんな危険な目に遭《あ》うために、高い金を出したわけじゃないんだ! そうだろう、諸君?」
賛同する声がいくつか聞こえてきた。
「雷が落ちれば、こんな飛行船などひとたまりもない! 火事になったら、どこへ逃げる? 逃げる場所はないぞ!」
人々の不安を煽《あお》り立てるような言い方だ。眉をひそめるランディに、ジェシカが震える声で言った。
「あのひと、嫌なことばかり言うんです。もう、聞いていられなくて……」
だから、ひとりでこんなところまで逃げ出してきた、ということらしい。
「黒こげになって焼け死ぬのも、こんな高い場所から落ちて地面にたたきつけられて死ぬのも、私はごめんだ!」
嫌な想像をしたのか、ジェシカがぶるっと身を震わせる。
「なるほど」
うなずいたランディは、磨りガラスのドアに近づき、ぱっと開けた。
ラウンジにいたのは、十二、三人の乗客たち。全員が驚いた顔で振り返った。
「なんだ、おまえは?」
濁声の主が、ランディに尋ねた。樽《たる》のような胴回りをもつ、中年の男性だ。
「彼は乗客ですよ」
そばにいる乗客が、濁声の男に教える。
「乗客がなんで、あそこから出てくるんだ?」
「さあ……?」
ランディはかれらの数歩手前まで進むと、足を止め、全員を見回した。
「――皆さん」
呼びかけた声は決して大きくはなかったが、乗客ひとりひとりと視線を合わせることで、かれらの耳目を引きつけた。
「飛行船は列車よりも、船よりも、馬車よりも安全な乗り物だということを、ご存知ですか?」
「なにを言い出すんだ、きみは!」
濁声を張りあげた男と目を合わせる。
「飛行船に雷が落ちたらどうするんだ、とあなたはおっしゃいましたね?」
にっこり笑みを浮かべ、全員を見渡す。
「大丈夫です。飛行船には、避雷針《ひらいしん》がついています。たとえ雷が落ちたとしても、安全かつ最も短い経路を通って放電するよう、設計されています」
「実際にはわからんじゃないか!」
「わかります。何十回と、雷雨の中で飛行実験をしましたから」
「はあ?」
「もちろん、墜落することもありません。浮揚《ふよう》ガスが入っている部分は、いくつもの隔壁《かくへき》で仕切られていますから、もしガスが抜けたとしても――飛行船はゆっくりと高度を落としていくだけです。こう、舞台の幕がおりていくように」
手を使って、飛行船が高度を落とす様子を再現してみせる。
「僕はもう五年以上、飛行船の開発に携わってきました」
「嘘をつけ! きみのような若造が――」
「ありえない、と?」
全員がうなずくのを見ながら、ランディはふたたび笑みを浮かべる。
「ところが、ありえるんです。僕はずっと、セシル・マクレガーのもとで育ったので」
「マクレガー社の?」
「ええ、そうです」
うなずくランディに、乗客たちは互いに顔を見合わせた。
やがて誰かが、そういえばと声をあげた。
「マクレガー氏は確か、親戚の子供を引き取って育てていたはずだ」
「ああ、聞いたことがある。なんでも、後継者にするつもりだったと」
「この飛行船の完成式典で、マクレガー氏の隣にいた青年じゃないか、彼は?」
「そういえば、新聞に載っていたぞ。舵《かじ》だかエンジンだかの新しい技術を考え出した、とかなんとか」
人々のランディを見る目つきが、次第に変わっていくのを感じる。
思うところは色々あるが、とりあえず今は乗客たちを安心させることが先決だ。
「――そういうことですから」
ランディは皆を見回した。
「この飛行船も、設計段階からよく知っています。たぶん、船長よりもね――ああ、これは内緒です」
ブリッジのほうへ視線をちらりと流し、唇の前に指を立ててみせる。
くすくすと笑う声が、あちこちから聞こえてきた。
「そんな僕が保証します。皆さんは、この雷雲の下に住む人々よりも安全だと。なにしろふつうの家には、避雷針なんかついていませんからね」
乗客たちの表情が和んだのを見て取り、ランディは窓の外を示した。
「せっかくですから明かりを消して、間近で見る稲妻を楽しみませんか? これはもう、世界中でも一握りの人々しか目にしたことがない、希有《けう》な景色ですよ」
たちまちのうちに明かりが消された。
乗客たちは窓辺に近づき、外の景色に目を向けた。最初はおそるおそるだったが、次第に慣れてくると、稲光がはしるたび歓声をあげるようになった。
「あの……」
いつの間にかそばに来たのか、ジェシカが隣からランディを見あげている。
「ひとつ訊きたいんですけど」
「なに?」
「私が読んだ本には、避雷針は絶対じゃないって書いてありました。避雷針のすぐ近くに雷が落ちた例もある、と」
軽く目をみひらき、ジェシカを見る。
「そんな本を読むの? きみが?」
尋ねると彼女は、恥ずかしそうにうなずいてみせた。
ランディの感覚では――いや、一般的にみて、十四歳の少女が読むような本ではないだろう。
「確率的には低いんでしょうが、それは地上での例です。もし、このまま積乱雲の中へ入ったりすれば――」
「あ、ちょっと待って」
手をあげてジェシカを制し、足もとから伝わってくるかすかな感覚を受け止めた。
「大丈夫」
船体がゆっくりと針路を変えている。どうやら、方向舵は修理できたようだ。
「積乱雲の中へは突っ込まないよ。ほら、ちゃんと避《よ》けていく」
胸の内でほっと息をつきながら、窓の外をしめしてみせた。
これで緊急着陸しなくてもよくなった。ジェシカが言うように、避雷針があるからといって絶対に安全というわけではない。しかし、事故は絶対にあってはいけないのだ。飛行船の未来のために。
「ああ、そうだ」
テーブルの上に置かれたままになっている写真機が目に入り、ふと思いついた。
「写真は撮れなかったけど、その件でひとつ提案があるんだ」
小首を傾げたジェシカがランディを見あげる。
「あのね――」
黒い巻き毛がかぶさった小さな耳に頬を寄せ囁《ささや》いてやると、少女はみるみる頬を赤らめた。
「乗客たちがあんなに上機嫌なのは、そういうわけだったのか」
話を聞き終えたセシル・マクレガーは、にんまりと笑った。
「怖い目にあわされたと、苦情の山だと予想してたんだが。なるほど、世界でも一握りの人間しか目にしたことがない景色ねぇ……。そりゃ、上機嫌にもなろうってもんだ」
腕をのばしたセシルが、ランディの頭をぐりぐりと乱暴に撫でてくる。
「よくやったぞ、ランディ。良い子だ」
「そういうの、やめてよ。僕はセシルんとこの赤ん坊じゃないんだからね」
撫でる手を避けたくとも、狭い自動車の中では逃げようがない。
「おいおい、何も知らないんだな。これじゃあ、うちの娘には会わせられないぞ」
セシルは大袈裟に肩をすくめてみせた。
けれど、飛行船の客室をランディのために一室用意させ、絶対に会いに来いと命じたのはセシルだ。
「うちの娘は、生まれて三ヶ月と二十三日だ。当然、まだ首がすわっていない。こんなふうに頭を撫でたりなんかしたら、いったいどうなると思う?」
「赤ん坊の母親が激怒して、もう二度と近づかせてもらえなくなるだろうね」
赤ん坊のことはさっぱりわからないが、ストロベリー・ブロンドを逆立てて怒る彼女の顔なら容易に想像できる。
セシルは眉をあげてランディを見ると、酸っぱいものを口にしたような顔で笑った。
「――ところで」
思うところがあるのか、いきなり話題を変えてきた。
「ハワード氏のお嬢さんに、ずいぶん嫌われたみたいだが?」
今度はランディが、彼と同じ表情で笑う番だった。
飛行船を降りて、最後に挨拶をしようと近づいたとたん、ジェシカに「最低!」と罵《ののし》られてしまったのだ。
「おまえがあのお嬢さんに、いったいどんな最低なことをしたのか、ぜひ聞きたいな」
「な……っ! 僕はそんなこと、絶対にしてないよ!」
ランディ自身、なぜあんなことを言われたのか、さっぱりわけがわからない。
「だろうね。おまえが女性に対して、最低なことなどできるはずないことは、俺がよく知ってる」
優しくそう言われ、促されるままに、ジェシカ・ハワードと最初に顔を合わせたときのことから話しはじめた。
話の内容が少女の父親の交際相手に至ったとき、セシルはいきなり「ちょっと待て」と片手をあげた。
「そのご婦人――マリー・ラクシャスだったか? さっき、肩胛骨の下に風変わりな痣があったって言ってたな?」
「うん」
痣のことまで話す必要はないかとも思ったが、後にかかわってくる話なので、少し頬を赤らめながらも告白したのだ。
「どんな痣だった?」
「このぐらいの大きさの――」
なぜそんなことを訊くのだろうと思いつつ、指で大きさをしめしてみせる。
「黒猫の顔みたいな形の痣だよ」
「じゃあ、そのご婦人はたぶん、マリー・スミスだ」
「へ?」
「俺が会ったときは、マリー・フーヴァーだったかな。その前は確か、マリー・ジファール」
「なにそれ?」
「けっこう有名な結婚|詐欺師《さぎし》だ」
「ええっ?」
大きく目をみひらいたランディに、セシルは苦笑した。
「色っぽい美女だっただろ?」
「うん」
「七、八年前に詐欺師だとばれて、外国へ逃亡したはずなんだが。どうやら、舞い戻ってきたみたいだな」
「じゃあ、ハワード氏は……」
「まあ言ってみれば、カモってやつか」
ということは、ジェシカの推測はそう大きく間違っていなかったのだ。
「それで、写真は撮れなかったんだろ? あのお嬢さんは、あきらめたのか?」
尋ねられ、いささか放心しながら首をふってみせた。
「あきらめてないはずだよ。昨夜、僕がちょっと助言したし」
「どんな?」
「痣のことを教えたんだ。肩胛骨の下に、黒猫の顔のような痣があるって」
「お嬢ちゃんに言ったのか、それを?」
「うん」
ドレスを脱がなければ、あの痣は見ることができない。痣を目にしたことがあるのは、ごく限られた人間だけだろう。
「男性が痣のことを言ってたって、お父さんにさりげなく話してみればいいかな、と思って」
「おまえなぁ……」
大きく息をついたセシルが、ランディの肩に手を置く。
「箱入り娘のあのお嬢ちゃんにそんなことを話したんだったら、そりゃ最低だって言われるわけだ」
「えっ、どうして?」
尋ねたが答えはなく、ただぽんぽんと慰めるように肩をたたかれただけだった。
ジェシカ・ハワードから手紙が届いたのは、それから一週間後のことだった。
手紙には、ランディを「最低!」と罵ったことへの謝罪と、父親がなにやらとても怒って<}リー・ラクシャスと別れたという報告が、丁寧な文字でしたためられていた。
最後は、またランディと一緒に飛行船に乗りたいと締めくくられていて、つい笑みをこぼしてしまった。
返事を書こうと封筒を手にしたとき、中にまだ何か入っていることに気がついた。
「なんだ……?」
出してみると、それは一枚の写真だった。ただし、いったい何が写っているのかわからないぐらい、ぼやけている。
裏を返してみて、思わずぷっと吹きだした。
『私が生まれて初めて撮った写真です。これこそ、次の教訓にしますね』
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COMMENTS
三浦真奈美
みうらまなみ
「翼は碧空を翔けて」シリーズ
これを書いている最中、飛行船の遊覧飛行ができる認可が国土交通省からおりたとのニュースが飛び込んできました。ツェッペリンNT号おめでとう。そして、C★NOVELSも25周年おめでとう。
[#改ページ]
市場にて
バンダル・アード=ケナード
駒崎優
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)爽《さわ》やか
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大分|小柄《こがら》
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草木が青々と葉を茂らせ、風が爽《さわ》やかに吹き抜けていく季節に、毎年恒例の市《いち》が開かれる。
乳離れしたばかりの仔牛や仔羊が売りに出され、野菜の種や苗の取引が行われ、その脇では、様々な食べ物や飲み物の屋台が並ぶ。この日を狙って、遠方からも商人たちが荷馬車で集まり、衣類や生活雑貨が商われる。数は少ないが、贅沢品《ぜいたくひん》を運んでくる者もいる。
ここは近隣の集落を繋《つな》ぐ道が交わる、ただそれだけの場所だった。普段この場所を通る者が目にするのは、幾重にも轍《わだち》の刻み込まれた道が、草原を抜けて八方に広がり、なだらかな丘へと続いていく、そんな穏やかな風景である。草を食《は》む家畜たちは景色の一部になっているが、他の人間と行き会うことはあまりない。
だが、この日だけは違った。年に一度、ここはまるで、別の場所のような賑《にぎ》わいになるのだ。
家畜の鳴き声に負けじと、売り手たちは声を張り上げ、さらにそれを上回る大声で、女たちが情報交換に励む。この市は品物を売買する大事な場所だが、同時に、遠方の知人と会い、噂話《うわさばなし》に花を咲かせる、絶好の機会になっているのである。
この市に、二人の少年が、荷馬車の御者台に並んで座り、交代で手綱《たづな》を取りながらやって来た。
彼らはここから北に位置する大きな農場に住む子供たちである。シャリースは九歳だったが、傍目《はため》には十二歳くらいに見えた。明るい枯れ草色の髪を風に乱し、いかにも悪戯《いたずら》坊主らしく、青灰色の目を輝かせている。遊び仲間のダルウィンも同い年だったが、こちらはシャリースに比べると大分|小柄《こがら》だ。だが、悪戯坊主であるという点では、こちらも決して負けてはいない。
彼らの前には、売却のために農場から連れてきた羊の一群れが歩いていた。二匹の優秀な牧羊犬が、群れの両脇を抜かりなく守っている。
羊の群れを率いているのは、馬に乗った一人の男だ。ダルウィンの父親イールだ。息子同様小柄だが、その身体は農場での日々の労働で、逞《たくま》しく引き締まっている。広大な農場には使用人も大勢暮らしているが、彼はいわばその筆頭の地位にあった。今日は、市で羊を売り、必要なものを買い揃えるという役割を任されている。
農場の持ち主は、シャリースの父親だった。だがだからといって、イールが、シャリースを特別扱いすることはない。イールにとっては、シャリースもまた、農場に暮らす子供たちの一人に過ぎない。シャリースにしろダルウィンにしろ、勝手な真似をすれば、すぐさま彼に殴られることになる。
それでも、二人の子供は、市の喧騒《けんそう》に胸を躍らせていた。
彼らは市が好きだった。市が嫌いな子供などいるだろうか。ここには大勢の人間がやってきて、彼らのような子供にも、面白い話を聞かせてくれる。屋台には、普段は食べるどころかお目にもかかれない豪勢な菓子が並べられ、大きな町から、時には隣国エンレイズから運ばれてきた、珍しい品々を見物することが出来るのだ。たとえ手伝いであろうと、ここに来る機会を逃す手はない。
彼らが到着したとき、そこには既に、百人近い人間が集まっていた。
イールは馬から降り、シャリースとダルウィンに、羊をまとめておくよう指示した。二人の子供が荷馬車から飛び降りると同時に、犬たちが張り切って、羊たちの塊《かたまり》を縮めていく。この犬たちは、子供たちがまだ歩くことさえ覚束《おぼつか》なかった頃から羊を追ってきており、ここですべき仕事も心得ている。子供たちはただ、彼らの仕事振りを見守っていればいい。
馴染《なじ》みの家畜商人が、彼らを見つけた。挨拶が終わると同時に値段の交渉に入った大人たちの横で、シャリースとダルウィンは、大人しく羊を見張った。だが二人の目は、甘い匂いを漂わせる菓子や、色とりどりの商品が並べられた屋台に釘付けだ。
「あれ、あるかな。何とかって木の実に、蜂蜜《はちみつ》かけて焼いてあるやつ」
ダルウィンがこっそりと、シャリースに囁《ささや》き掛ける。それは、去年彼らが市で味わった、一番のご馳走だった。彼の青い目は既に、その屋台を探し求めて動いている。
「あれがもう一回食べたい」
「別の菓子だって、幾らでもあるんだぜ」
一応羊たちを見守りながら、シャリースは幼馴染《おさななじみ》をたしなめた。
「小遣いにだって限りがあるんだから、もうちょっとじっくり選べよ」
彼の忠告に、ダルウィンは深刻な表情で考え込む。
二人は同い年だが、主導権を握っているのは、大抵の場合シャリースである。それはしかし、彼の父親が、イールの雇い主であるという事実とは全く別の話だ。子供たちは子供たちなりのやり方で、互いとの関係を作り上げている。
シャリースは同じ年頃の子供たちより身体が大きく、腕っ節も強かった。そして、斬新な遊びを考え出すのは、彼の最も得意とするところだ。近隣では、手に負えない餓鬼《がき》大将と目されているが、仲間からの信頼は厚い。
間もなく、交渉を終えたイールが、子供たちを振り返った。
「羊を囲いに入れろ」
顎《あご》で、急ごしらえの粗末な柵《さく》を指し示す。そこには既に、数十頭の羊が入れられていた。この家畜商人は、市が終わるまでに、この囲い一杯の羊を買い集める気なのだろう。
犬たちに手伝わせて、シャリースとダルウィンは羊を囲いへと追い込んだ。商人の見習いがそれを数えながら、一頭一頭に、青い塗料で印を付けていく。
イールは商人から金を受け取った。用心深く金額を確かめ、そしてうなずく。これで、彼らの売り物は片付いた。
仕事が済むと、イールは犬たちを荷馬車に乗せ、子供たちには、小さな銀貨を一枚ずつ渡した。
「騒ぎを起こすなよ」
顔を輝かせた子供たちにそう釘を刺して、彼は、二人を追い払った。彼にはこれから、買い物という重要な任務がある。農場の仕事に使う道具や物資など、彼にとって勝手の判ったものだけではなく、女たちから言い付けられた、細々とした注文にも応じなければならない。全てを買い揃《そろ》えるには、かなりの時間が掛かるだろう。
その間、子供たちは自由になる。
二人は銀貨を握り締めて、屋台の並ぶ一角へと潜《もぐ》り込んだ。焼肉が香ばしい匂いを漂わせている店の前を通り、薄荷《はっか》で香りをつけた砂糖水の店をやり過ごし、焼き菓子の店を眺める。美味《うま》そうな食べ物が並べられた屋台の間を歩いているうちに、子供たちの腹が鳴り出した。
彼らはまず、香辛料の効いた揚げ菓子を食べた。炙《あぶ》り肉を一切れずつ摘み、甘い山羊の乳を回し飲みする。更に、偶然出会った顔見知りの農夫が、彼らに干しぶどうを一袋|奢《おご》ってくれた。
ようやく空腹が収まったところで、彼らは改めて、屋台を一つ一つ物色し始めた。
色とりどりの布地を扱っている屋台には、しかし何の興味もない。陶器の店も同様だ。ダルウィンが思い焦《こ》がれていた木の実の菓子はひとまず保留とし、無造作に積まれた鍋の山の前を素通りする。
そして彼らは、いびつな形の瓶が並ぶ店の前へと出た。
瓶はそれぞれ赤や黄色の液体で満たされ、底に様々な果物が沈んでいる。二人はそこに見知ったものを発見し、足を止めた。透き通った濃い赤の底に、小さな丸い果実が見て取れる。すぐり酒だ。同じものを、シャリースの母親が毎年作って、甕《かめ》に蓄《たくわ》えている。
甘く香り高いすぐり酒は、彼らにとって憧れの飲み物だった。女たちが集まり、冬の長い夜を語り明かすときに振舞われることになっており、普段は厳重に保管されている。子供たちが口にする機会は、病気で寝込んでいる時に、たった一口だけだ。そしてどんなにねだろうと、それ以上は決して許されない。
だからこそ、その一口は、一層甘美な記憶として、二人の脳裏に刻み込まれている。
彼らは顔を見合わせた。今なら誰も、自分たちを見張っていない。これは、あの甘い酒を好きなだけ味わう、絶好の機会なのではないだろうか。
果実酒を商う男は、子供たちに、小さな瓶を売ってくれた。子供は一口だけだなどと、母親のようなことは言わず、ただ、差し出された金額が十分か否かだけに集中していた。
子供たちは胸を高鳴らせながら、瓶を抱えて屋台を離れた。立ち並ぶ屋台の裏へと回り、瓶の栓を抜く。そして、まずは一口ずつ、赤い酒を勢いよく呷《あお》る。
その瞬間、彼らは、自分たちがいつも飲んでいたすぐり酒は、入念に水で薄められていたのだという事実を、初めて知った。
気付いたときには、もう遅かった。目の前が回り始め、足元が浮き上がったような感覚を覚える。
「うわあ」
ダルウィンが、目を白黒させながら呟《つぶや》く。
「きついよ、これ」
「うん」
うなずくシャリースも、少しばかり怯《ひる》んだ顔だ。酒に酔うというのがどういうことか、彼らはまだ、はっきりとは知らない。シャリースはもう一度瓶に口をつけて赤い酒を舐《な》め、ダルウィンもそれに倣《なら》った。
彼らは新たな目で、立ち並ぶ屋台を見渡した。不自然なほどに浮かれた気分になっていたが、彼らはその理由を考えなかった。人混みの間を、ふらふらと歩き出す。
そしてシャリースは、様々な小間物を積んでいる荷馬車を見つけたのだ。
御者台には、一人の中年の男が座っている。樽《たる》のような体格だが、黒い髭《ひげ》に覆《おお》われて、顔はよく見えない。
商品は荷馬車の中に並べられており、幌《ほろ》を巻き上げることで、客たちが品定めできるようになっていた。農家の女たちが三人、おしゃべりをしながら品物を吟味《ぎんみ》している。商品の真ん中には、小間物屋に飼われているらしい黒い猫が鎮座し、まるで店番をしているかのように、客たちを見つめていた。シャリースとダルウィンにも、ちらりと胡散《うさん》臭そうな目を向ける。
シャリースは努めて真っ直ぐ、御者台に近寄った。髭面の男の横にすぐり酒の瓶をどんと置いて、注意を引く。相手はもじゃもじゃした眉《まゆ》を上げた。
「おい……」
小間物屋が呆気に取られている間に、シャリースは男の隣へよじ登った。ダルウィンも、反対側から御者台に上がる。御者台がぐらりと揺れ、小間物屋は慌てて、倒れかけた赤い酒の瓶を押さえた。
上機嫌な子供二人は、小間物屋を挟む形で御者台に座り込んだ。二人とも、少しばかり頭がぐらついている。眉根を寄せた小間物屋に、シャリースがにっと笑いかけた。
「おっさん、あれも売り物?」
細々とした商品の奥を指す。小間物屋が身体を捻《ひね》った。
「どれだ?」
「あの本だよ」
途端に、小間物屋の渋面《じゅうめん》がひどくなった。
「これか?」
荷台に並べられた数冊の本の中から、彼は大きな手で二冊を掴《つか》み出した。新品ではなかったが、まだ十分読むに耐え得る、革装の大きな本だ。
大切そうに、小間物屋はその表紙に指を滑《すべ》らせた。
「これはなあ、字の読める人間のためにあるもんだ。おまえらには用のない代物だぜ、な?」
言い聞かせながら、子供たちに一冊ずつ渡す。シャリースは鼻を鳴らした。
「本が何かくらいは知ってる。これが、天文学の本だってことも判る」
「こっちは、エンレイズの伝承に伝説だとさ」
ダルウィンが、渡された本を掲げてみせる。
小間物屋は目を眇《すが》めて、黒い髭を掻いた。
「……こんな片田舎の子にしちゃ、学があるようだな」
「兄貴ならちゃんと読める。兄貴は本が好きなんだ」
シャリースは分厚い天文学の本を小間物屋に返した。
「これ、幾ら?」
相手は眉を上げる。
「おまえら、農場の子だろう? 本なんか読んで、どうするんだ」
「だから、兄貴にやるんだよ」
シャリースはぐらつく御者台の上で身を乗り出した。
「兄貴は学者になりたいんだ。エンレイズの学校に行きたがってる。本なら何でも読んでおきたいんだ」
シャリースの兄レンドルーは、弟と、十以上年が離れている。
もうすぐ二十一になるレンドルーは、当然のことながら、既に一人前の男として扱われており、子供になど構わなくとも許されるはずだった。にも拘わらず、兄弟は仲がいい。他の若者たちとは違い、レンドルーは、小さな子供が何かと側にまとわりついてくるのを苦にしなかった。シャリースにとって、兄は何でも相談出来る、貴重な大人である。
そしてそれは、ダルウィンにとっても同じことだ。早くに母を亡くした彼は、以来、父親が働いている間、シャリースの家に預けられることが多くなった。シャリースの母は、子供が一人増えたという事実を動じることなく受け入れ、レンドルーもまた、ダルウィンを弟同然に扱った。
レンドルーは面倒見が良かった。シャリースとダルウィンに、読み書きを教えたのも彼だ。彼は弟たちに本を読み聞かせ、彼らに宛《あて》がわれた仕事を手伝い、親に叱られたときにはいつも庇《かば》ってくれた。親たちも、子供の言い訳には取り合わなくとも、レンドルーの言葉には耳を貸すのだ。だからこそシャリースとダルウィンは、彼のために苦労を惜しまない。
子供たちの熱心な視線を浴びながら、小間物屋はしばしの間、思案げに沈黙した。
「……それで、肝心の、おまえさんの兄貴はどこだ? ここに来てるのか?」
「兄貴は家で寝てる」
シャリースは肩をすくめた。
「病気なんだ――いつものことだけど」
そしてそれが、彼の兄が、エンレイズの学校に行けぬ理由でもある。
手に負えぬ餓鬼大将として近隣に悪名高いシャリースとは違い、レンドルーは、病弱で物静かな青年だった。ベッドに横たわり、手に入るだけの書物を読んで過ごすことの多かった彼は、いつしか、自然豊かな故郷セリンフィルドより、洗練された都会である隣国エンレイズと、その文化に憧れるようになっていた。エンレイズの学校で学び、生涯を学問に捧げることが、彼の夢なのだ。
兄の意を汲《く》み、シャリースは早々に、父の農場は自分が継ぐと宣言していた。農場の跡継ぎという立場から解放されれば、兄も心置きなく、学業に励めるはずだ。両親も、身体の弱い長男より、元気の有り余った次男の方が、農場の仕事には向いていると考えている。
だが、肝心のレンドルーの体調が万全とはいえず、この計画は実現されぬまま今に至っている。
ベッドにいるレンドルーに、読んだことのない本は、最高の贈り物になるはずだ。シャリースもダルウィンも、彼が如何に新しい本を切望しているか、よく知っていた。セリンフィルドの田舎では、どんな本であれ、手に入れるのは簡単ではないのである。
小間物屋は、二人の子供の顔を見比べた。逡巡《しゅんじゅん》しているかのように唇の端を引き下げ、そして、掴んだままだった瓶に目を落とす。
「これは、酒か」
シャリースはうなずいた。
「うん」
普通の状態であれば、シャリースはそんなことを素直に認めたりはしなかっただろう。頭を絞って、瓶の中身を誤魔化そうとしたはずだ。だがすぐり酒は、彼の頭からそうした注意深さを拭い去っていた。
幸い髭面の小間物屋は、子供が酒瓶を持っており、しかも明らかにその中身を飲んでいたことについて、叱責の類《たぐい》の言葉を一切口にしなかった。その代わり、彼は断りもなく瓶の栓を抜くと、中身を呷《あお》った。
「いいか、坊主ども」
栓をしないまま御者台に酒瓶を戻し、彼はダルウィンの手にあった本を取り上げた。二冊まとめて自分の隣に積み、子供たちを交互に見据える。
「言っとくが、本てのは安かねえぞ。おまえら幾ら持ってる?」
子供たちは顔を見合わせた。
実のところ、彼らには、本を買った経験などなかった。それが実際に幾らするものか、考えたこともない。ただはっきりしているのは、自分たちの手元には、もはや十分な金など残っていないという事実だけだ。
だがダルウィンが、手っ取り早い解決策を見出した。御者台の上で伸び上がる。
「ええと、あそこに親父が……」
イールは厳しい父親だったが、その父がレンドルーに対し、一種尊敬の眼差《まなざ》しを向けていることを、ダルウィンは知っていた。農場の働き手として有能なイールも、他の者と同様、読み書きに堪能だとは言えない。セリンフィルド語はもちろん、エンレイズ語の文字も難なく操るレンドルーは、皆から一目置かれる存在だった。農場に暮らす人々が、誰かに手紙を出したいと考えたとき、まず頼りにされるのがレンドルーだ。そのレンドルーのためだと言えば、イールも、本を買うための金を都合してくれるかもしれない。
その時、荷台の方から女の悲鳴が上がった。
御者台にいた三人が振り返ると同時に、黒い影が荷台から飛び出し、小間物屋とシャリースの間をすり抜けた。商品の間に蹲《うずくま》っていたはずの、真っ黒な猫だ。
「畜生!」
小間物屋が短く悪態をつく。猫がすぐり酒の瓶を倒し、中身を彼の膝《ひざ》にぶちまけたのだ。赤い液体は、脇に置かれていた本にも容赦なく降りかかっている。
同時に子供たちは、客の女の一人が、手の甲に派手な蚯蚓腫《みみずば》れを作っているのを目にした。彼女と猫との間で、どうやら不幸な接触があったらしい。恐らくは、物がごちゃごちゃと積まれている荷台で、彼女の手が猫にぶつかるか何かしたのだろう。そして猫は、客に愛想を振りまきたい気分ではなかったようだ。
「そいつを捕まえてくれ!」
小間物屋の喚《わめ》き声に、シャリースとダルウィンは反射的に、御者台から飛び降りた。
冷静に考えれば、追い詰める場所もないこんな広場で、一目散に逃げる猫を捕まえることなど不可能だということは、すぐに判ったはずだ。しかし生憎《あいにく》、彼らは強い酒に酔っていた。さらに悪いことに、猫を追って走り出した途端、その酔いは顕著《けんちょ》に現れた。頭の中がぐらぐらと揺れ始めたのだ。
人々の足の間を、黒い猫は矢のように駆け抜けていく。よろめきながらそれを追う二人の子供に、その場に居合わせた数人の子供たちが、大喜びで加わった。市に連れてこられた子供たちも、そろそろ飽きる頃合だったのだ。
猫と子供たちは、市に集った人々の悲鳴と罵声《ばせい》を浴びながら、屋台の隙間を擦《す》り抜け、家畜の囲いの方へ突進した。取引される羊や牛たちが、狭い中にひしめき合っている。周囲の地面は踏み荒らされて泥が露出し、そこに家畜たちが糞尿を撒《ま》き散らし、その上を新たな家畜の群れが通って、大人でも、踏み込めば足首まで埋まるほどのぬかるみが出来上がっていた。
最初に足を取られたのは、ダルウィンだった。
ふらついたままぬかるみに足を突っ込んだ彼は、そのまま滑って仰向けに倒れ込んだ。避けようとしたシャリースも、勢い余って頭から泥に突っ込む。そこへ、一緒に走っていた子供たちが次々にぶつかって倒れ、彼らは一つの泥の塊となって地面に転がった。
周囲からは、大人たちの笑い声と、呆れ返ったような呟きが湧き起こった。家畜たちが迷惑そうな鳴き声を上げる。子供たちは、互いに絡まり合った手足をもぎ離そうと躍起になり、遂に、一人の少女がべそを掻き始めた。その一方で、別の少年たちが、泥|塗《まみ》れの互いの顔を見ながらげらげら笑い出す。確かにこの状況では、泣くか笑うか以外に、出来ることがないのも事実だ。
シャリースとダルウィンは、襲い来る眩暈《めまい》とのしかかってくる誰かの身体、そして顔を覆う泥とに、息の詰まるような思いをしていた。
もがけばもがくほどぬかるみに深くはまり込み、そこから抜け出すこともままならない。口の中にまで汚泥《おでい》が入り込み、慌てて吐き出したものの、その味は舌の上にこびりついたままだ。
ようやく一人の少年が塊からの脱出を果たし、別の一人もぬかるみから這《は》いずり出した。
それを機に、絡み合っていた手足が解け始め、一番下になっていたシャリースとダルウィンも、何とか身体を起こすことが出来た。四つんばいのままぬかるみから逃れようとした彼らの前に、しかしその時、二本の足が立ちはだかる。
シャリースとダルウィンは、ぴたりと動きを止めた。その人物が履いている長靴には見覚えがあった。恐る恐る、足の主を見上げる。
イールが険しい目付きで、彼らを見下ろしていた。
「――まさかこの汚らしい泥の塊が、俺の息子だなんてことはないだろうな?」
奇妙なほどに静かな声で、彼は言った。だがその声の裏には、紛《まぎ》れもない怒りが隠されている。
「だとしたら、とっ捕まえて、嫌と言うほどぶん殴ってやらなきゃならん」
本能的に逃げ出そうとした息子の襟首《えりくび》を、彼はがっちりと掴んで止めた。もう片方の手でシャリースの襟首も掴み、二人の子供を軽々と、泥の中から引きずり出す。他の子供たちも、それぞれの保護者に捕まったらしい。こっぴどく子供を叱りつける声が、そこここから聞こえている。
イールの両手にぶら下げられ、なす術《すべ》もなく引きずられていく二人の子供は、草むらの中に悠然と腰を下ろし、自分たちを眺めている黒い猫を見つけた。
猫の目には明らかに、臭くて汚い人間の子供たちに対する、軽蔑の色が浮かんでいた。
イールは子供たちを人込みの外へと連れて行き、その尻をひん剥《む》いて、容赦のない平手打ちをくれた。
それ自体は珍しくもないことだったが、既に全身泥まみれで、くたくたに疲れていた二人は、この折檻《せっかん》によって、すっかり意気消沈してしまった。楽しいはずの市で、散々な目に遭ったのだ。酔いもすっかり醒め果てて、残っているのは、胸のむかつきと、鬱々《うつうつ》たる気分だけだ。イールにはもう叱られたが、家に帰ればもう一度、シャリースの母親に叱られることになるだろう。服をどろどろにしてしまった罪は重いのだ。
だが、しょんぼりと家畜の囲いの側に立っていた子供たちに、声を掛けた者があった。あの、髭面の小間物屋である。
「ひでえ格好だな」
鼻に皺《しわ》を寄せて、小間物屋は言った。子供たちは彼に、恨みがましげな目を向けた。この場合、小間物屋に罪を被せるのは公平なことではないが、二人はその時、八つ当たりをしたい気分だったのだ。
顎で小間物屋の胸を指しながら、ダルウィンが不機嫌な唸り声を上げる。
「そいつのせいだ」
黒い髭の男の片腕には、まるで何事もなかったかのように、黒い猫が抱かれている。
乾いた泥に全身を覆われ、灰色の彫像のようになっている二人の子供に、猫は警戒するような眼差しを向けていた。汚い手で触られてはたまらないと考えているようだ。
「……結局こいつ、自分で帰ってきやがってよ」
人差し指で猫の喉《のど》をくすぐりながら、小間物屋は肩をすくめた。そして、もう片方の手で持っていたものを、二人の子供に差し出す。
「ほら、おまえらにやるよ」
その途端、シャリースとダルウィンは目を剥いた。先刻、彼らが手にしていた本だ。ぶちまけられたすぐり酒で、赤いまだらに染まってしまっているが、間違いない。
「こんなになっちまったんじゃあ、二束三文でしか売れねえからな」
いかにも惜しそうに、彼は言った。
「ま、おまえらの酒も全部こぼれちまったし、これで相子《あいこ》としようや」
汚れた手を伸ばして、シャリースは本を受け取った。泥の染みを付けてしまわぬよう、なるべく端を摘んで支え、そして、小間物屋を見上げる。
「……ありがとう」
「次は、ちゃんと金払えよ」
子供たちの肩を叩こうとしたらしい手は、しかし、空中で止まった。思い直したように手を一振りして、小間物屋は、自分の荷馬車に戻っていく。
その肩越しに、黒い尻尾が、子供たちをからかうようにひらりと動いた。
シャリースの母親は、案の定、子供たちの悲惨な姿に怒りの声を上げた。
二人の子供は井戸端に連行され、その場で服を全部|剥《は》がされ、まずは身体を、それから服を、徹底的に洗わされた。彼女は小言を言いながらそれを監督し、その検査に合格するには、かなりの時間を要した。
ようやく許され、別の乾いた服を渡されたときには、日が沈みかけていた。
服を着ながら、彼らは荷馬車に駆け戻った。隅に積まれていた本を一冊ずつ掴み、それから真っ直ぐに、二階にいるレンドルーの元に駆けつける。
レンドルーはベッドにいたが、眠ってはいなかった。得意げに現れた二人の子供の姿に、枕に頭を預けたまま笑みを浮かべる。彼は弟と同じ、枯れ草色の髪に青灰色の瞳の持ち主だったが、白い肌は熱のために紅潮していた。
「また母さんに叱られてたな」
どうやら声が聞こえていたらしい。それについては言及を避け、シャリースとダルウィンは、持っていた本を、レンドルーの枕元に積み上げた。
「これ、お土産」
得意げに報告する弟に、レンドルーは目を丸くした。赤黒いまだらに染まった本を一冊取り上げて目の前にかざし、その表紙をじっと見つめる。
「――一体どうしたんだ」
やがて彼の唇から漏れた声は、微《かす》かにかすれていた。その目に輝きが宿る。シャリースとダルウィンは、彼を喜ばせたことに笑みをこぼした。
「もらったんだよ、もう、売り物にならないからって」
ダルウィンの言葉に、レンドルーは、本のページをそっと開いた。すぐり酒の染みは中にまで広がっており、ページは半ば赤く染まっている。だが、文字が読めぬほど汚れているわけではない。
ふと、レンドルーはそれを、鼻に近付けた。大きく息を吸い込み、そして、子供たちを見やる。
「……酒の匂いがする」
「……」
子供たちは、鋭い指摘に顔を見合わせた。後ろめたさが表情に出たのだろう。レンドルーの口元に、小さな笑みが浮かぶ。
「たぶん、すぐり酒の匂いだ――お前たちの好物だな」
シャリースは口ごもった。下手な嘘《うそ》をついたところで、レンドルーを誤魔化すことは出来ないだろう。だが、酒を買って飲んだなどという話を正直にすれば、幾ら理解のある兄だといっても、いい顔はされまい。
「……ああ、あの、色々あったんだよ、今日は……」
レンドルーは本をベッドの上に置いた。シャリースが、並べかけた言い訳を飲み込む。
ゆっくりと上体を起こし、レンドルーは両腕を伸ばして、子供たちを抱き締めた。
「嬉しいよ」
言葉も出ぬまま、子供たちはベッドに乗り上がり、レンドルーを抱き締め返した。階下から、シャリースとダルウィンを呼ぶ声が聞こえる。夕食だ。
レンドルーに送り出されて、二人は部屋を出た。扉を閉める直前に振り返ったシャリースは、兄が、愛おしそうに、汚れた本の表紙を撫でているのを見た。
◆ ◆ ◆
広く賑やかな町の大通りに、うららかな春の日差しが降り注《そそ》いでいる。
行き交う人々の中に、エンレイズ軍に属する黒衣の傭兵《ようへい》たちの姿がちらほら見えた。彼らは待機を命じられたその町で、それぞれに時間|潰《つぶ》しをしているのだ。軍服の男たちを歓迎しない場所も少なくはないが、この町の商人たちは、金さえ払えば、彼らも客として平等に扱ってくれる。
黒衣の肩に白い刺繍《ししゅう》、そして、濃緑色のマントを身に着けているのは、|アード=ケナード隊《バンダル・アード=ケナード》の傭兵である。数ある傭兵隊の中で、最も雇い主の信頼厚い隊《バンダル》の一つだ。傭兵隊としては小規模だが、隊長であるシャリースの頭脳と、隊員たちの勇猛果敢な働きぶりで、その名を世に轟《とどろ》かせている。
今、バンダル・アード=ケナードの中で最も若い隊員が、通り沿いにある一軒の店の前で足を止めた。台に並べられた色とりどりの液体を、憧れの眼差しで見つめる。
そして彼は、後ろを歩いていた隊長と、その幼馴染を振り返った。
「隊長、これ何すか」
若いチェイスは、好奇心の塊だ。そしてその関心は、主に、うまい食べ物、そして飲み物に向けられている。
チェイスの肩越しに、長身の傭兵隊長は、指差された広口瓶を覗《のぞ》き込んだ。
「果物を酒に漬け込んであるんだよ。買いたいんなら止めはしねえが、飲むときには気を付けろよ。見かけより、かなりきついぜ」
「……ああ、すぐり酒があるな」
その横で、ダルウィンが呟く。眉間《みけん》には深い皺が寄っている。
それを目にして、チェイスが不安げに目を見開いた。
「え? これ? すぐり酒って、まずいんすか?」
やり取りを聞いていた店の老婆が、嫌な顔になる。ダルウィンは片手を振って、チェイスの疑惑を打ち消した。
「いや、そいつはすこぶるつきでうまい。ただな」
彼はちらりと、傍《かたわ》らにいる幼馴染を見やった。
「どうもすぐり酒を見るとなあ、尻がむず痒《がゆ》くなる気がするんだ――こう、誰かにひっぱたかれたみたいにな」
「俺もだ」
神妙な顔でシャリースもうなずく。
そして二人は、突然笑い出した。チェイスと果実酒売りの老婆が、気でも違ったのかと言いたげな目で彼らを見ていたが、笑いはなかなか収まらなかった。
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COMMENTS
駒崎優
こまざきゆう
「バンダル・アード=ケナード」シリーズ
まだまだ新参者の私なんぞを、こんなめでたい席にお招き頂き、ありがとうございました。……って、あれ? 私、4年目なのに新参者? それってちょっと問題なんじゃ……! せめて中堅と呼ばれるくらいにはなりたいんですが――あと何年掛かることやら(遠い目)。
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猫と三日月
熱砂の星パライソ外伝
宝珠なつめ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)柘榴石《ガーネット》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)腕|利《き》き
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「お邪魔するわ」
その日の午後、バー『柘榴石《ガーネット》』の扉を開けて入ってきたのは、若い女だった。
見なれない顔だ。
二十歳を少し出ているだろうか、目鼻立ちのはっきりした美人だ。栗色の髪を短く刈り込み、三日月の形の大きな額飾りをこれ見よがしに光らせている。
このいささか風変わりな客に笑いかけたのは、バーの女主人、サンドラ・ガーネットだった。
「いらっしゃい。何にする?」
「ごめんなさいね。お酒はまた今度にするわ」
客は毛皮のふちのついたマントを脱ぐと、苔色《こけいろ》のドレスの裾をたくし上げて、バースツールに軽く腰を下ろした。露《あらわ》になった足首には金鎖がきらめく。
口のきき方も身のこなしも、少し擦《す》れたような感じがした。
彼女はマントの内ポケットから紙巻き煙草を取り出しながら、狭い店内を見回す。
「ここに来れば、狩人《かりゅうど》がいるって聞いたんだけど」
店の中では、二人の男が酒を飲んでいる。とはいえ、酌《く》み交わしているのではない。視線が合わない程度の距離をとって、黙々と強烈なバーボンの入ったグラスを舐《な》めているだけだ。
「ああ、そっちの依頼か」
ガーネットは心得た様子で頷《うなず》くと、カウンターの中央にどっかりと腰を下ろした若い男を指差す。
「じゃ、そいつに頼みな。ここいらじゃ一番の腕|利《き》きさ。ジェリー・ザ・グリッター、役に立つよ」
「よう、ねえちゃん」
ジェリーと呼ばれた若い男は、軽く帽子を上げて挨拶《あいさつ》した。「ザ・グリッター」の通り名そのままに、その顔は宝石の光で彩られていた。耳はピアスでびっしりと覆われ、元の皮膚《ひふ》はほとんど見えない。鼻や口元、ちらりと覗《のぞ》く舌先にまでピアスを輝かせている。
「悪いんだけどな、俺《おれ》は生憎《あいにく》と、今から先約の仕事がある。俺が帰るまで待ってな」
彼の自信に満ちた言葉に、女は困ったような笑みを返した。
「でも、急ぎなの」
そう言いながら彼女は店内を見回し、カウンターの隅《すみ》に腰掛けた背の高い男に目を止めた。
「ねえ、そっちの人は? 狩人じゃないの?」
「ふん、そいつは狩人の風上にも置けない裏切り者さ。そいつに関わるとねえさんの恥になるぜ」
その視線の先には、ずっと石のように黙ったまま、何事にも興味のなさそうな顔で酒を飲んでいる男の姿があった。
「どんなに急ぎだか知らねえが、そんな負け犬野郎のことは放っとけよ。最低のゴミだ」
吐き捨てるように言う彼に、女主人はたしなめるというには少々鋭すぎる視線を送る。
「口が過ぎるよ、ジェリー」
「行ってくるぜ」
だがジェリー・ザ・グリッターは飲み代をカウンターに置くと、軽やかに片手を振って、悠然とバーを出ていった。
若者の姿がなくなると、女の客は一人残された金髪の男に近付いた。
「ねえ、あなたって嫌われ者みたいだけど、お代はどうなの? 相場より安い?」
その言い方があまりにも率直で、男はふと顔を上げる。
「見ての通り、あたしはあんまり払えないのよ」
確かに、彼女の格好は派手ではあったが、すべて安っぽい有り合わせのように見える。
「どんな仕事だ」
男が訊《き》き返すと、ガーネットは珍しそうに目を丸くした。
「受けるのかい、レーン」
「内容を聞いてから決める」
その表情はいささか取っ付きにくい、ともすれば冷たく見えるとも言われる。
だが女は怯《ひる》んだ様子もなく、少し肩を竦《すく》めてもう一度|微笑《ほほえ》む。笑うと白粉《おしろい》焼けした頬に深いしわが刻まれた。
「あたしの用心棒をお願いしたいの。ここから少し東に、廃村があるでしょ。そこまで一緒に行ってもらいたいのよ」
「どうしてだ。あそこは十年も人が住んでねえ」
重ねて訊ねる男に、女は思いがけないことを口にした。
「あそこで、猫とはぐれちゃったの。探したいのよ」
「猫?」
彼は不審そうに女を眺めた。
「俺の仕事は狩りだ。探し物じゃない」
そう、彼の仕事は狩人だ。
いつの頃からかは分からないが、この土地には人食いのバケモノが巣食っている。奴《やつ》らは人間を引き裂き、あるいは時として生きたまま食らう。
その怪物どもを殺すために雇われるのが賞金|稼《かせ》ぎ、戦いの専門家だ。猫探しの用心棒など、子供の使いほどにも思えなかったことだろう。
だが、女は真剣な顔で言うのだ。
「そんなこと分かってるけど、真面目なお願いなの。可愛がってるのよ」
「確かに、ジェリーみたいな腕利きには物足りないだろうな」
そのあまりの真面目さが可笑《おか》しかったものか、男は小さく頷いた。
「いいよ。用心棒、引き受けた」
「本当に受けてくれるの、おにいさん」
「どうせ暇だ」
素っ気なく答える男に向かって、客は嬉しそうに目を輝かせ、片手を差し出しながら名乗った。
「助かるわ、ありがとう。あたし、アンジーよ。アンジェリーナ・ローガン。よろしくね」
「レーン・ホワイトローだ」
だが男はその手を握り返すことはなく、整った顔にどこか乾いたような笑みを刻んだ。
彼の名を聞いた時、アンジーは目を丸くして驚きの表情を浮かべる。
「ホワイトロー? まさか、あのホワイトロー?」
繰り返し訊き直したところを見ると、やはり彼女の耳にもその悪名は届いていたようだ。
「ああ。済まないが、嫌なら他を当たってくれ」
「そうね……」
アンジーはしばらく考え込んだ後、むしろ納得したように頷いた。ジェリーが見せたあからさまな嘲弄《ちょうろう》の理由に、やっと合点がいったのだろう。
実際、レーン・ホワイトローの名を聞いただけで、面罵《めんば》する者も珍しくはない。
「あなた、鼻つまみ者のかわりに、安いんでしょ?」
「ああ。この辺の相場じゃ一番安い部類だろうな」
彼女の言葉に、レーンはもう一度かすかに笑った。アンジーが選んだ呼び方は、彼にとっては比較的無邪気な、優しい部類に入るものだったから。
「気を使わないでくれ。負け犬、臆病者《おくびょうもの》、腰抜け、好きなように呼んでくれて構わねえよ」
しかし彼女は、意外なことに、レーンを軽蔑《けいべつ》も憎悪もしない目で笑った。
「お願いするわ、おにいさん」
釣られて彼も笑みを返す。当たり前の若造のように呼びかけられるのが、余りにも久しぶりのことで、いささか照れくさかったのかもしれない。
「なら、行くか」
「ありがとう、これ、お礼よ」
アンジーはマントの内ポケットに手を突っ込むと、取り出した財布を彼に押し付けるように渡した。受け取った布製の財布はひどく軽かったが、レーンは中身を確かめようとはしない。
それに安心したのか、彼女は軽やかな身のこなしでバースツールから降りた。
二人は『柘榴石』から出ると、馬に跨《また》がって廃村を目指した。
アンジーが馬に乗れることに、そして彼女が乗っているのが手入れの行き届いた馬であることに、レーンは意外そうに目を細める。
その疑問の籠《こ》もったまなざしに、彼女はにっこりと笑った。
「あたし、見世物小屋の曲馬師なの。馬の背中の上で逆立ちするのが得意よ」
その納得のいく説明に、彼は小さく頷く。
レーンが何か答えるより早く、アンジーは堰《せき》を切ったように話し始めた。
「それでね、あたしがいるのは三日月曲馬団って一座なんだけどね。うちの一座のキャラバンが、スノードロップ・バレーまで行く筈《はず》だったんだけど、嵐のせいで道を間違えちゃって」
この土地に吹き荒れる砂嵐の猛威は凄まじい。スノードロップ・バレーのような大きな町に繋《つな》がる街道は舗装《ほそう》されているものだが、旅人に進路を見失わせることなど容易《たやす》い。地図を見るより、風から逃れるために身を隠す場所を探す方が先だ。気付けば微細な砂で視界が真っ赤に染まり、何も見えなくなる。
「それでそこの廃村に迷い込んじゃったのよ。そしたら、バケモノがチラッと見えたもんだから、座長がブルッちゃって、慌てて逃げ出したのよね。その時に、キャシーが……あ、あたしの猫、キャサリンって言うんだけど、びっくりして外に飛び出しちゃって、いなくなっちゃったの」
座長の判断が正しかったのは、アンジーにもよく分かっているようだ。たとえたった一匹でも、奴らは数十人を殺すことができる。その禍々《まがまが》しい姿と相まって、奴らが「怪物」と呼ばれる由縁だ。
だから彼女の口振りには、座長を責めるような響きはない。ただひどく心配そうで、心から猫の身を案じているのが分かった。
「あたしどうしてもキャシーを探したいのよ。それで団長に頼んで、キャラバンを停めてもらってるの。だけどスノードロップ・バレーでの興行は四日後なのよ、急がないと間に合わなくなっちゃうわ」
彼女は途方に暮れたような溜め息を交えながら、早口でまくしたて続ける。かなりの速さで歩を進めている馬の鞍《くら》の上だというのに、舌を噛《か》む様子もない。確かに彼女の馬術の手並みは相当なものだったが、並走しているレーンは、聞き取るのに苦労した。
「あんた、よく喋《しゃべ》るな」
「あなたって無口ねえ」
「いや、口を挟む暇がなかった」
とうとう呆れ果てて苦笑いを浮かべると、アンジーは急に恥ずかしそうに赤くなった。
「あら、ごめんなさい」
「構わねえよ、状況がよく分かった」
人間というものは、不安な時やけに明るく振る舞ったりするものだ。話し続けている方が気が紛《まぎ》れると、無意識に知っているのかもしれない。きっと彼女も、心配でいたたまれないのを無理に堪《こら》えているのだろう。
「だけど、あなたって強いの? バケモノに出くわしても大丈夫かしら」
「さあな」
「頼りないわねえ。まあ、あの値段じゃ文句は言えないけど」
レーンが肩を竦めると、彼女はいまさらのように溜め息をついた。だがそのわざとらしいしかめっ面《つら》は数秒も保《も》たず、すぐに気の強そうな笑顔に戻る。
彼女の姿を眺めたレーンは、不意に訊ねた。
「ところであんた、今は休みなんだろ? 額飾りくらい外したらどうだ」
「ああ、これ?」
そう言って振り返ったアンジーの、商売柄白粉焼けした顔には、三日月の形のアクセサリーが額の辺りを覆い尽くすように飾られている。びっしりと嵌《は》め込まれたガラスが輝いていた。
いかにも華やかで、見世物の芸人にはふさわしい装飾品だが、彼女の私服の古びたマントとは不釣り合いだ。
「これ、舞台衣装じゃないのよ」
しかし彼女は、少し目を伏せながら、重大な秘密でも打ち明けるように声を潜めた。
怪訝《けげん》そうな顔の男の目の前で、アンジーは馬の手綱《たづな》からやすやすと両手を離した。太腿《ふともも》だけで駆けている馬の背を押さえつけ、バランスを保つ。曲馬師らしい鮮やかな身のこなしだった。
「同じ鼻つまみ者のよしみで見せてあげるわ。特別よ」
言いながら、彼女は自分の額飾りを外した。
その日焼けしていない額には、赤黒い火傷の痕《あと》が、無気味な紋章の形を残していた。
「あんた、密航者か」
「そうなの」
レーンの言葉に、彼女は小さく頷く。
アンジーの額に刻まれているのは、政府が罪人に押す焼き印の痕だ。その形によって、犯した罪が一目で分かる。盗みならバツ印、傷害は二本の直線、詐欺《さぎ》は二股に割れた蛇の舌の形。そして密航は、三重の同心円だ。
彼女の罪の象徴は、大分古いものなのに、ひどく痛々しい。だがアンジーは、自嘲《じちょう》めいた笑みを浮かべて、自分の額に触れた。
「あたし、まだ子供の頃にね、どうしてもこんな土地から出たくってさ、地球行きの補給船に密航しようとしたら、あえなく御用よ」
彼女はかつての自分が、どんな夢や希望を持って、あるいは絶望を抱えて、この星を捨てようとしたのかは語らなかった。
「女の顔に焼き印とはな。惨《むご》いことしやがる」
「殺されなかっただけマシだと思いましょ」
アンジーは屈託なく笑って、額飾りを巻き直した。
「それにあたし、結構運がいいのよ。座長に拾ってもらって、曲馬を仕込んでもらって、一応食うに困らない生活はできてるわけだし。うちの座長って、本当に面白い男なの。って、ごめんなさい、また余計なこと喋っちゃったわ」
「いいって」
だが、年端のいかない子供の頃に犯した罪だ。彼女に家族がいたとしたら、親兄弟のもとへ強制送還されているはずだ。おそらくアンジェリーナ・ローガンという女も、天涯孤独なのだろう。
「あんたも修羅場《しゅらば》見てるんだな」
「あなたほどじゃないわよ」
その言葉に、レーンは乾いた笑みを返しただけだ。
馬の足で一時間余り進んだ頃には、既に日が傾きかけていた。
その時、アンジーが長い指をのばして言う。
「あの村よ」
そこは廃村というより、くたびれ果てた小屋のこぢんまりした塊《かたまり》と言った方がいいくらいの、小さな集落だった。夕日で赤く染まった空と、赤い岩肌の大地のせいで、建物や枯れた木々の輪郭がぼやけ、視界が悪い。
「真ん中辺りで、キャシーとはぐれちゃったの」
アンジーの声からは闊達《かったつ》さが薄れ、少し震えているようにも聞こえた。夕闇迫る中で人気《ひとけ》のない廃墟《はいきょ》に立ち入るのが恐ろしいのか、それとも猫が見つからないのを恐れているのか、顔には緊張が走る。
「本当に探しに行くか?」
「ええ、もちろんよ」
それでも彼女は気丈に頷き、自ら馬を降りると、手近な立ち枯れた木の枝に手綱を結わえ付けた。
レーンも下馬し、暗くなりつつある村へと入っていく。
先程までの早口が嘘《うそ》のように、アンジーは押し黙っていた。砂埃《すなぼこり》の降り積もった古い石畳に、二人の靴音だけが響く。
しばらくしてレーンは、不意に足を止めた。彼の目の前には、崩れかけた二つの小屋が、互いの壁を支えにして寄り添うように建っている。
そして彼はアンジーに向かって、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「おい、話が違うぜ」
感じていたのは、異様な気配だ。
「何がチラッとだ。一匹や二匹じゃねえだろ」
レーンには分かる。これは人食いのバケモノどものにおい、いや、奴らに食われた被害者の死臭だ。
「ごめんなさい」
アンジーは申し訳なさそうに呟《つぶや》く。
「だけど、本当のこと言ったら、あんなお金じゃ引き受けてくれないと思って」
やはり彼女は確信を持ってレーンを欺《あざむ》いていた。だがそれは同時に、彼女自身が死の危険を顧みずにこの村に戻ったということだ。
たかが猫一匹のために自らの命を賭けるとは、レーンにはとても信じられなかったが、今は彼女を問いただしている暇はない。
「アンジー、俺から離れるなよ」
「分かったわ」
相当な数がいる。奴らの赤い眼が、夕闇の中で静かに輝きを増しながら、二人を取り囲んでいた。
獣のような低い唸《うな》り声が、乾いた空気を震わせる。
ほぼ同時に、傾きかけた小屋の壁が吹き飛んだ。
立ちこめる土煙の中、アンジーが甲高い悲鳴を上げる。
だがレーンは冷静だった。何も考えてなどいない。ごく自然にジャケットの裾《すそ》を跳ね上げ、ホルスターから愛用の銃を引き抜くと、土煙の向こうを目掛けて引き金を引いた。
次に悲鳴を上げたのはバケモノの方だった。
強靭《きょうじん》な筋肉と長いかぎ爪を持った巨体が、廃屋とともに崩れていく。その皮膚は青黴《あおかび》によく似た黒さだった。
飛び散る血は、澄んだ青緑。
同族の死に興奮した鳴き声を漏らしながら、怪物どもは次々に姿を現した。あるモノは家々の陰から、またあるモノは瓦礫《がれき》の山を撥《は》ね除けて。
奴らのどれ一つとして同じ姿はしていない。獣と鳥、そして人間を混ぜ合わせた、ちぐはぐで無気味な体だ。共通しているのは、頭部から突き出した二本の長い角と青黒い肌、そして赤く輝く眼だけ。
奴らは新しい獲物に歓喜しているのか、ぱっくり開いた口から生臭い涎《よだれ》を垂れ流しながら、レーンとアンジーを取り囲んだ。
「仕方ねえな」
まるで小さな面倒に巻き込まれただけのような言葉とともに、彼は再び銃を構える。手にしているのは銀色の四十五口径、コルト・ピースメーカーだ。
銃口が火を噴く時、レーンの口元には、冷たい笑みが浮かんでいる。だが自分では、それに気付いてはいない。
二匹目が瞬時に死ぬと、残った怪物どもは互いに甲高い声で鳴き交わす。突然現れた強力な敵に躊躇《ちゅうちょ》しているというより、目の前の男をどう料理するか相談しているように見えた。
レーンは長い首を巡らして周囲を眺める。残りはざっと四匹。
その一瞬を見過ごさず、二匹が同時に屈み込み、彼の腰を目がけて殺到した。地面に引きずり倒して心臓を突き破るつもりだ。
鋭いかぎ爪が上着の裾を掠《かす》め、服とともに皮膚が引き裂かれる。だがレーンは痛みに顔を歪《ゆが》めることすらなく、襲《おそ》いかかる二匹の頭部めがけて次々に弾丸を撃ち込む。
バケモノどもは彼の体にすがりつくように倒れた。
真下の首から吹き上がる緑の脳漿《のうしょう》と、彼自身の血で、レーンのスエードのジャケットはまだらに染まった。
奴らは休む間を与えてはくれない。続いた一匹は鳴き声を漏らすこともなく、長い筋肉質の腕を振りかぶり、レーンの頭に叩《たた》き付けようとした。首を真後ろに反《そ》らして避《よ》けるのが精一杯だ。
仰《の》け反《ぞ》った彼の背後からはさらに一匹が襲いかかる。両方を避けきるのは不可能だった。
前から躍りかかってきたバケモノの胸板をブーツの底で蹴《け》り上げながら、レーンは軽く腕を自分の左脇へと回し、背中側に向かって撃つ。彼の視界の隅に捉えられたのは、後脚の腿を破壊された怪物の姿だ。
だが致命傷ではない。奴が体勢を立て直すより先に、レーンは前方の敵に狙いを定めた。目の前の怪物の頭を吹き飛ばしてから、横ざまに跳ぶ。
生き残った一匹は、まだ動く脚と太い尾を器用に使いながら、レーンの首をへし折ろうと腕を伸《の》ばしてきた。片脚でも十分|敏捷《びんしょう》だ。
もはやその赤い眼には、貪婪《どんらん》な食欲ではなく、ただ仲間を殺した不届きな敵をこの世から葬《ほうむ》り去ろうとする渇望だけが輝いている。
「遅《おせ》えな」
その怪物に向けて、レーンは口元を歪めて笑った。
だが、彼の愛用の銃は六連発、既にその六発を撃ち尽くしてしまった。戦い続けるには弾の再|装填《そうてん》が必要だ。星型のエジェクターロッドでリボルバーから空薬莢《からやっきょう》をはじき出し、新しい弾を込めるまでには何秒かかかる。
だが目の前の敵を殺すには、弾は一発あればよかった。
その隙《すき》を見逃さず、バケモノは一本きりの脚で駆け寄った。太い腕が真下から、レーンのあご目がけて突き出される。
傍らで見守るしかないアンジーには、その一瞬が永遠のように長い時間に思えただろう。彼女が息を飲む音が聞こえた。
焼けて輝く薬莢が乾いた地面に落ちる。
次の瞬間、青緑の血柱が上がった。バケモノの捻《ねじ》れた角の間から。
奴の鋭い爪が、レーンのあご先に三センチのところで止まっていた。
口から血反吐《ちへど》を吐いて崩れていく死体を呆然《ぼうぜん》と眺めながら、アンジーは耐えかねたように呟いた。
「あなた、強いのね」
「そうでもねえ。俺は臆病者の負け犬だからな」
賛辞の言葉にも、レーンは照れた風でもなく、ただ淡々と答えるだけだ。
彼は撃ち終えた弾の薬莢を外し、新しい弾を込め直す。常に六連発を撃てるようにしておくのが、生き延びるための最低の準備だ。
その時、彼はふと顔を上げる。
何か別の音が聞こえた。
アンジーもじっと耳を澄ましている。
「今の、聞こえたか?」
「ええ、キャシーの声よ、間違えっこないわ」
やはり猫の鳴き声だ。かすかだが、そう遠くはない。
アンジーの目には涙が浮かんでいた。猫が無事でいたことに安堵《あんど》したのか、声のする方へ駆け出そうとする。
「待て」
だがレーンは、彼女の手首を掴《つか》んで止めた。
驚いた表情で振り返るアンジーに、彼はあごで廃屋の陰を示した。
「まだ残ってやがった」
一匹の怪物が、体を左右に揺らし、一定のリズムを取りながら近付いてくる。まるで踊るような仕草が無気味だった。
「スコット……」
そのバケモノは、青黴色の顔に人間の面差《おもざ》しをはっきりと宿していた。まだ若い男の痩《や》せた顔が、ぞっとする光沢に塗り替えられて、眼ばかりが赤く獰猛《どうもう》に輝いている。
奴の顔が誰のものか確認した時、アンジーは小さく息を飲み、呻《うめ》くように呟いた。
「知り合いか?」
確かに相手が何者であるか知っている口振りに、レーンは怪訝そうに訊ねる。
「スコット・ダンリー。一座の軽業師よ」
「それだけじゃないって顔だぜ」
彼の言葉に、アンジーはためらいながらも、小さく頷いた。
「ええ。あたしの恋人」
「なるほどな」
そして二人はほぼ同時に、バケモノが抱えているものに気付いた。
そのかぎ爪の生えた腕に抱かれているのは、美しい一匹の黒猫だ。
「キャシーだわ」
アンジーが震える声を出した。
不思議なことに、彼女が探し求めていた猫は怖がっている様子もなく、それが当たり前のように大人しく抱かれていた。
「どうなってやがる」
レーンは唸るように呟く。
なぜ食われないのか、理由が分からなかった。飢《う》えた怪物なら、哺乳類《ほにゅうるい》ならば見境なく食らい付く。
アンジーは、自分の恋人の顔をしたバケモノから目を逸《そ》らしながら、血を吐くように叫んだ。
「キャシーを助けて」
だがレーンは、容易く頷くことはできなかった。
「軽業師とは、厄介《やっかい》だぜ」
バケモノどもは獲物を生きたまま食うとき、その餌食《えじき》の特性を自らの体に顕現《けんげん》させる。肉体的な特徴、骨格や筋力はもちろん、時には記憶や知識までも、食べることによって奪い取るのだ。数多くの、さまざまな種類の生物を食っていくうちに、奴らの肉体は人獣|混淆《こんこう》の無気味なキメラへと作り替えられていく。
だからこそ人々は奴らを恐れる。信仰深い土地では、奴らのことを悪魔と呼びさえする。
生きながらにして食われたアンジーの恋人は、その命と顔だけではなく、軽業師の柔軟性と敏捷性をもバケモノに捧げたというわけだ。
目の前の怪物が踊りのような軽快な足取りを見せたのは、スコットという男の身に染み付いた動きだ。緩やかで自然な体重移動は、簡単には狙いを定めさせてくれない。
左右へのゆったりしたダンスの中でも、奴の赤い眼だけは揺らめくことなく、じっとこちらを見据えている。
そして一呼吸ののち、奴は跳んだ。
レーンの胸元目がけ、しなやかな腕をまっすぐに伸ばして、一撃で彼の心臓を掴み出すために。
ピースメーカーの銃口が火を噴き、怪物の頭を掠める。直線的な動きならば狙えると思ったが、その判断は完全に間違っていた。
奴は空中で身を翻《ひるがえ》すと、離れた地面に音もなく降りる。そのかぎ爪はわずかに濡れていた。
「痛《いて》えな、この野郎」
レーンの口元に苦笑いが浮かぶ。
そのジャケットの胸元には小さな丸い穴が空き、赤い血が静かに滲《にじ》んでいく。怪物の中指が突き刺さったのだ。
先ほどまでの雑魚《ざこ》とは明らかに違った。発砲が少しでも遅れたら、確実に殺されていただろう。
奴は凄まじい速さで仰け反ると、続けざまにとんぼを切った。織りまぜた側転の途中、片手で猫を高々と掲げながら、逆立ちしてこちらを睥睨《へいげい》する。
俊敏かつ華麗な動きは、狙いを定めづらいだけではない。明らかな挑発だ。
「やるね」
認めたくはないが、その動きは見事と言ってよかった。我知らず見入ってしまうほど完璧《かんぺき》な、一流の軽業師の技巧だ。
「なんてこと……」
アンジーが息を飲む音がはっきりと聞こえる。
怪物に生きながらにして食われ、その技を利用されているだけだというのに、目の前の敵はあまりにも、生前の恋人の姿を残している。
彼女の感慨《かんがい》に気付くはずもなく、バケモノは口元に凶暴な笑みを浮かべた。
その無気味な艶のある腕が、抱えていた猫をゆっくりと地面に下ろす。レーンには、奴がようやく本気になるのだと分かった。
「アンジー、しばらく下がっててくれ」
「ええ」
まだ他のバケモノが残っていたとしたら、身を離すのは彼女を危険に晒《さら》すことになるが。アンジーを庇《かば》いながらでは、戦える相手ではない。
彼女は察したように頷き、女としては素早い身のこなしで枯れ木の陰に体を寄せた。
「こっちも気合い入れさせてもらうぜ」
レーンは自分の血と返り血が混ざりあって滑りやすくなった掌《てのひら》を、乾いた地面に擦《こす》り付けた。微細な砂埃は最高の滑り止めだ。
まるでこちらの準備が整うのを待っていたかのように、バケモノはゆっくりと動き始めた。
奴は軽やかで優雅な身のこなしでじりじりと間合いを詰めると、一気に踏み込み、鋭い爪をくり出した。レーンは咄嗟《とっさ》に真後ろに跳んで避けたが、また胸を薄く抉《えぐ》られる。
焼けるような痛みに顔を歪めながらも、レーンは苦笑を浮かべた。
「痛えっての」
波のうねりのような曲線的な動きの中に、突然織りまぜられる直線の攻撃は、格段に速く感じられる。先ほどまでの雑魚とは比べ物にならなかった。
レーンのピースメーカーが火を噴き、轟音《ごうおん》が鳴り響く。
「当たらねえよな、これじゃ」
正確に狙ったつもりで引き金を引いたが、バケモノは得意の後方宙返りで颯爽《さっそう》と躱《かわ》していた。弾丸が自分から逸れていくようにさえ見えた。
またも鋭い爪の並んだ指先が、一つの刃物のように突き出される。レーンは撃ちながら、後ろへ、後ろへと逃げるしかない。
だが、朽ちかけているとはいえここは村の中だ。通りを挟んだ廃屋の壁際へと、じりじりと追い詰められていく。
もはや逃げ場はない。彼の背中は壁に押し付けられていた。穴の開いた土壁からは木製の柱が見える。
レーンは観念したように、銃口をだらりと下げる。それを見た時、アンジーの目には涙が、怪物の口元には邪悪な笑みがそれぞれに浮かんだ。
怪物の口から勝利の咆哮《ほうこう》が漏れ、振りかぶられた腕がまっすぐに突き出される。レーンの心臓目がけて。
「引っかかったな」
その瞬間、彼はうっすらと笑った。
同時にレーンは、斜め前へと高く跳び退《すさ》る。彼の左脇腹を掠めたバケモノのかぎ爪は、廃屋の柱に突き刺さった。
奴は爪を引き抜こうとして、力任せに腕を振り回す。しかし乾ききった木の柱は簡単にへし折れたものの、奥深くまで打ち込まれたかぎ爪はそう簡単に抜けはしない。
身動き出来なくなったのは、今度は奴の方だった。最も有効な武器を塞《ふさ》がれた上、腕の先には邪魔なお荷物がぶら下がっている。軽業仕込みの動きなど、もはや不可能だった。
「確かに、面白い見世物だったよ」
バケモノの額に銃口を押し当てて、彼は笑った。
「だが、これで幕だ」
そして人間にそっくりな頭が、真後ろに向かって吹き飛ぶ。
長い悲鳴が響き渡った。
レーンがピースメーカーをホルスターに戻したとき、その唇から漏れたのは小さな溜め息だった。
レーンは奴に追い詰められたのではない。わざと後ずさったのだ。
敵の攻撃は突きが基本だということくらいは、彼も見抜いていた。怪物の中には、長いかぎ爪を刀のように、すなわち切るために使う個体もいるが、スコットという男を食ったバケモノは、ちょうど剣か槍《やり》のように、爪で相手を突き刺すことを得意にしていた。
自分の心臓めがけてまっすぐに、奴の片手が飛んでくるのは分かっていた。いかにしてその腕を廃屋の壁に……いや、すぐに崩れてしまう土の部分ではなく、木製の柱に突き刺すか、そのタイミングだけが勝負だった。
だからぎりぎりまで待ち、傷を負う危険を冒してまで斜め前に跳んだ。鋭い痛みと鮮血が、ジャケットの左側を染めている。それでも。
彼は賭けに勝ったのだ。
「終わったよ、アンジー」
レーンが振り返ると、彼女は青ざめた顔で立ち尽くしたまま、呆然と目の前に転がる死体を見つめていた。
「スコット……」
恋人の名を呼ぶアンジーに、彼は諭すように言った。
「アンジー、そいつはあんたの彼氏じゃねえ。あんたの彼氏を殺したバケモノだ」
それは残酷《ざんこく》だが、事実だった。同じ顔を持ち、同じ技術を見せることができても、それはスコットという男が怪物に食われたからに他ならないのだ。
「そうね。そうなのよね」
彼女は自らに言い聞かせるように繰り返した。
不思議なことに、アンジーは泣いてはいなかった。あまりの出来事に泣くのを忘れているのだろうか。その表情は、確かに動揺してはいたが、どこかでほっとしているようにも見えた。
そしてふと、彼女は顔を上げる。
火薬の臭いと轟音に逃げ出していたはずの黒猫が、いつの間にか戻ってきて、少し離れた場所から人間たちを眺めていた。
「キャシー、おいで」
彼女は優しく声をかけながら、美しい黒猫に手を伸ばす。
猫は何事もなかったような顔で、鳴き声一つ立てずに歩み寄ってきた。いつも彼の腕から彼女の胸へ戻るときには、同じように……ゆっくりと優雅に歩いていたのだろう。
「無事で何よりだ」
「ええ」
ようやく猫を抱き締めたアンジーは、大きな溜め息をつきながら呟いた。
「この子、あたしとスコットでね、本当に可愛がってたの」
アンジーが愛した男はもう、この世にはいない。それでもこの小さな、貴族然とした顔の黒猫は、彼女のそばで生きている。
「大事にしてやんな」
「言われなくても、そうするわ」
人間よりもずっと体温の高い猫の体を、彼女はもう一度強く抱き締めた。飼い主《ぬし》の突然の愛情に戸惑ったのか、きつく抱かれたのが不満だったのか、猫は一度かすかに鳴いた。
やがてアンジーは顔を上げ、まだ青ざめたままの頬で、それでもはっきりと笑った。
「じゃあ、これでお別れね。あたし、帰るわ」
彼女は猫を抱いたまま、自分の馬の方へと小走りに駆け出す。怪物の血のにおいに満ちた地から逃げ出すように。いや、本来自分たちのいるはずだった平穏な世界へと戻るために。
村を出たところで、アンジーは一度だけ振り返り、よく通る声で言った。
「さよなら、おにいさん。あなたやっぱり、言われてるほど悪い奴じゃないわよ」
レーンは何か言い返そうとしたが、やめた。
もう仕事は終わった。彼が悪人だろうと負け犬だろうと、これからのアンジーには何の関わりもないのだ。
ただ軽く片手を挙げて、乾いた笑みを浮かべた。
「じゃあな」
彼女には、二度と会うことはないだろう。あの美しい黒猫にも。
だがレーンは、足下《あしもと》の死体を見下ろして、ふと思う。
あのバケモノが猫を食わなかったのは、スコットという男の記憶……猫と彼女とを心から愛していた日々の思い出が、細かな破片のように、奴の中に残されていたからかもしれないと。
遠ざかっていく彼女の後ろ姿は、赤く煙っていた。
また何もかもを消し去る、獰猛な砂嵐がやってくる。
バケモノどもの死骸も、戦いの痕跡すらも残らないだろう。
だが。
彼女の抱いた恋の記憶は、消えることはない。
レーン・ホワイトローの背負った罪が、永遠に消えないのと同じく。
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宝珠なつめ
ほうじゅなつめ
「おもひでや」「熱砂の星パライソ」シリーズ
皆様こんにちは。宝珠でございます。今回の作品では、男前に美女にクリーチャーと、わたくしの好きなものを並べさせていただきました。装画が美麗でカッコイイですヨ! キーワードのどれかにピンと来る方は、単行本もぜひお手に取ってみて下さいね。
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ノッブスの十戒
Nobb's Ten Commandments
PARTNER EX
柏枝真郷
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)痩《や》せた
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|猫用の出入り口《キャット・フラップ》
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ラリー・ソール…………NY市警察本部殺人課刑事
ベン・ノッブス…………NY市警察本部殺人課刑事
ミス・ウッド……………エリザベスの飼い主
エリザベス………………ペルシャ猫
ジョン・ファーマー……ソロモンの飼い主
ファーマー夫人…………ソロモンの飼い主
ソロモン…………………雑種の猫
フレーザー………………十七分署巡査
ヴァレンタイン・セシル・ペティト…ラリー&ベンの同僚
ドロシー・シェーラー…………………ラリー&ベンの同僚
「驚きましたよ。うちのエリザベスは高級キャットフードしか食べないはずなんですから」
両腕に抱いた黒猫の背を撫でながら女が説明した。枯木のように痩《や》せた女の腕を折りそうなほどまるまると太ったペルシャ猫だ。「まさか鼠《ねずみ》を銜《くわ》えてくるなんて」
「それはさぞかし驚いたでしょうね」
ラリー・ソールはもっともらしく相槌《あいづち》を打ちながら相棒のベン・ノッブスを横目でにらんだ。アフリカ系の大男で、横に贅肉《ぜいにく》が広がった太り具合はこの猫の比ではない。いつもチョコレートの甘ったるい匂いを漂わせて何か食べ物を口にしているのだが、なぜか今は全身が竦《すく》み上がってしまったかのようだ。足下に鼠の死骸が転がっているから、そのせいだろうか。「それで、ミセス」
「ミスですわ。ミス・ウッド」
黒猫を撫でる皺《しわ》だらけの手には薬指も含めて指輪がずらりと光っている。五十過ぎに見えるが独身らしい。「とにかく早くその鼠と遺体をなんとかしてください」
「鼠は早急に。ですが遺体はどこに?」
「それを捜すのが警察の役目じゃありませんの?」
「……失礼ですが、殺人事件だと通報してきたのは、あなたですよな?」
「ええ、私ですよ。エリザベスが鼠を銜えてきたので」
「すみません」
ラリーは頭痛を堪《こら》えて一息に訊いた。「鼠と殺人事件がどう繋《つな》がるんです?」
「鼠がいるからには遺体があるはずです」
「……つまり、あなたは遺体を見たわけじゃないんですな?」
「もちろんですわ。そんな怖いものを見るなんて、とんでもない」
ミス・ウッドがきっぱりと答える。三段論法どころか二段論法の短絡さだ。ラリーは愛想笑いを浮かべたまま回れ右をして足早にドアから出た。ごく普通の木製ドアでオートロック式だが、|猫用の出入り口《キャット・フラップ》がついている。あの黒猫もここから出て、どこかで鼠の死骸を拾ってきただけだろう。
「あの鼠を処理しろ」
廊下にいた十七分署の制服警官たちに冷静に指示しながらも、ラリーは内心で歯軋《はぎし》りをしていた。小柄で小太りで貧相な四十男だから迫力はないが、これでもニューヨーク市警本部殺人課で検挙率トップを誇るベテラン刑事なのに、こんな馬鹿げた通報で時間を無駄にするとは。「ベン、行くぞ」、
急ぎ足で廊下を歩きながら振り返ると、驚いたことに巨体を震わせながらベンが必死に走ってくる。日頃は歩くのさえ億劫《おっくう》そうなのに珍しい。
「危うく十戒《じっかい》を破るところだった」
ぜいぜいと息を吐きながら走り続けたベンは、エレベータのボタンを押しながら汗をぬぐっている。晩秋の十一月なのに暑苦しい男だ。「モーゼの十戒でもノックスの十戒でもなく、俺の十戒だが」
「十戒とは大袈裟《おおげさ》だな。そんなに鼠が苦手なのか?」
ニューヨークには鼠が多い。もとを辿《たど》れば鼠も欧州から渡ってきた「移民」で、摩天楼の林立する地上には築百年を優に超える古い建物が残り、地下も上下水道管やスチーム管、さらに地下鉄のトンネルが蟻の巣のように広がり、八百万もの人間がひしめいていれば、ねぐらにも餌にも事欠かない。ゆえにラリーも鼠の死骸は見慣れているのだが、神経まで贅肉でできていそうなベンが震え上がるとは、意外を通り越して驚きだ。
しかしベンは弛《たる》んだ顎《あご》と境目のない首を横に振っている。
「鼠は平気だな。俺のアパートにも数匹いるから。苦手なのは猫だ。特に黒猫には近寄るべからず」
「不吉だからか?」
黒猫が前を横切ると不吉なことが起きる、などという迷信を信じているのか。
「いや、ガキのころ顔を引っ掻《か》かれたから。いやもう痛かったのなんの。痕《あと》が消えるまで一ヶ月もかかってさ」
頬《ほお》に手をあてて大袈裟に顔をしかめたベンは、黒猫から離れられて安堵《あんど》したらしく、ポケットからチューインガムを取り出して口に放り込んだ。一階にエレベータが到着すると、「緊張したから腹減ったな。このあたりに食料品店かデリは」
アパートの正面玄関を出ながら周囲を見回し、向かい側の角にあるデリへ歩き出す。徒労に終わった捜査など眼中にないらしい。ラリーは溜息をつきつつ覆面パトカーへ向かいながら、念のためにアパートを振り返ってみた。
国連本部ビルも見渡せるマレーヒルにある六階建てのアパートだ。周辺には贅を尽くした十九世紀の邸宅や厩舎《きゅうしゃ》が残っているが、このアパートはただ古いだけで歴史的な価値はありそうもない。とはいえ、鼠の一匹や二匹は珍しくなさそうだが――
おりしも先ほどの警官たちが出てきたので、ラリーは駆け寄って訊いてみた。
「ミス・ウッドから通報があったのは今回が初めてか?」
「あのおばさんは迷惑通報の常連ですよ」
ビニール袋をぶらさげた警官が苦笑した。袋の中には鼠の死骸が入っている。「被害妄想が強いのか、隣がうるさいだの店で釣り銭をごまかされただのと、月に一度は通報してます。極めつけは階下の住人の飼ってる猫があの黒猫を誘惑しようとしているとかいうやつで。同僚がその住人に話を聞きましたが、通報するまでに三度も怒鳴り込まれたとかで――はた迷惑な話ですよ」
「……殺人事件は?」
「あったかな」
警官が相棒の警官と顔を見合わせ、思い出したようにうなずいた。「一回だけありました。車のタイヤがパンクした音を発砲音と勘違いしただけですが」
「……そうか」
ラリーは数秒だけ考え、上着のポケットから証拠保存用の袋を取り出した。「その鼠を預かる」
「鼠を?」
今にもゴミ箱に投げ捨てそうだった袋を、警官が首をかしげながらも差し出す。それを受け取って証拠保存用の袋にしまい、ラベルにサインをしていると、大きな袋を抱えたベンがデリから戻ってきた。ラリーの手にした鼠入りの袋には目もくれず、覆面パトカーに乗り込み、助手席に座るや否や袋からドーナッツを取り出す。
ラリーは運転席に乗り込み、足下に袋を置いたが、あちこちにポテトチップスの屑《くず》や食べ滓《かす》、潰れた紙コップ類が散乱していて、紛れてしまいそうだ。今朝、掃除をしたばかりなのに、半日でここまで散らかすのは特技かもしれない。
「あのおばさん、この界隈《かいわい》じゃ有名人らしいな」
ドーナッツを口に放り込みながらベンが言った。「デリの店員も知ってた。特定の銘柄のキャットフードでなきゃ駄目で、売り切れてるとヒステリーを起こすとか」
「……他には?」
ラリーはエンジンを掛けて車を発進させた。年中食べてばかりで刑事としては無能そうでも、ベンは意外にも聞き込み上手なのだ。そもそも実績もなしに殺人課に転属できるとしたらお偉方のコネがあるような例外だけだが、ベンにはそんなコネはない。転属してきたときは脳まで脂肪でできていそうな外見に、これで検挙率トップの記録も途切れてしまうかと落胆したものだった。しかし、実際にコンビを組んだ今も記録更新中だ。
「他には――その銘柄以外のキャットフードが残っていてもヒステリーを起こすとか。まるで目の敵《かたき》にしているみたいで、店員たちも最初はキャットフード会社の関係者なのかと勘違いしたらしい」
これがそのキャットフードだと、ベンがデリの袋から缶詰を二個取り出す。「こっちの『猫グルメ』印があのおばさん御用達で、『ヘルシー猫』印が天敵のやつだそうだ」
「わざわざ買ってきたのか?」
「捜査中だと言ったら、無料《ただ》でくれた」
ベンはちゃっかりと笑い、袋に戻すと今度はポテトチップスを出して食べ始めた。「捜査に使わなくても非常食になるかな」
「非常食? キャットフードを食すべからず、ってのは十戒にないのか」
「ないな。食べ物を粗末にするべからず、空腹を我慢するべからず、ってのはあるが。他には、寝る前に歯磨きを忘れるべからず、面倒だと思ったことは無理にするべからず――」
指を折りながら十戒を唱えるベンに、ラリーは半ば呆れながら運転を続けた。他にも捜査中の事件が二件ある。常に並行して複数の事件を捜査し、隙あらば他の刑事が捜査中の事件まで横取りする狡猾《こうかつ》さがなければ検挙率トップは維持できない。今回の通報に事件性がないのなら、さっさと見切りをつけたほうがいい。
マンハッタンを南下し、市庁舎にほど近いポリス・プラザにある市警察本部に帰り着くや否や、まず鑑識課に寄って鼠の死骸とキャットフードを託す。
「これをどうしろって言うんです?」
袋ごと受け取った技官は途方に暮れた表情だ。
「死因を調べろ。ふだんはこの『猫グルメ』印の缶詰しか食べない猫が銜えていたらしい」
「……まさか検死官に司法解剖を頼めと?」
「必要ならば」
顎を外しそうなほど唖然とした技官を残し、ラリーたちはエレベータで殺人課のオフィスに戻った。パーティションで区切られた机が並ぶ広大なオフィスは、大半の刑事たちが出払っているのか閑散としている。入り口付近にある自分たちの席に座って一息ついていると、刑事には見えない美男美女が入ってきた。
男はセシル・ペティト、二十六歳。百八十四センチの長身に金髪、緑の眼、甘い容貌のせいかお人好しそうに見えるが、意外にも銃が特技で、五月に六分署から転属になったばかりだ。女はドロシー・シェーラー、二十八歳。燃えるような赤毛を波打たせたモデル並みにスタイルのいい美女だが、これまた意外にも空手とボクシングが得意という武闘派で、セシルが転属するまではラリーのパートナーだった。
「これはお嬢ちゃんコンビ」
ラリーは両腕を広げて笑いかけた。「お嬢ちゃんたちは猫はお好きかな?」
「……猫?」
唐突に話題を振られ、二人とも怪訝《けげん》そうだ。
「じゃあ黒猫は? 目の前を過《よぎ》ると不吉なことが起こるとママに教わらなかったかい?」
「残念でした。迷信を信じる歳じゃないよ」
セシルは軽く肩をすくめただけで歩き出している。「毛の色が違うだけで、猫は猫」
「人間に金髪や赤毛やブルネットがあるのと同じよね」
ドロシーも無視を決め込むことにしたらしい。「それにこのマンハッタンで黒猫に一度も遭遇しないなんてあり得ないわ。あちこちに犬や猫のグルーミング店があるのに」
「じゃあ鼠はどうかな?」
ベンがデザートの特大アイスクリームを食べながら二人の背中に声をかけた。「あちこちにいるし、お嬢ちゃんたちは悲鳴をあげて逃げそうだな」
「残念でした。鼠《マウス》に悲鳴をあげてたらPCを使えないよ。それに最近の統計によれば、市内に棲息《せいそく》している鼠の数は人口の一割未満らしいよ」
「人間のほうが多いの? 狭い市内に八百万も人間がいれば当然かしら。それに都会で一番怖いのも、鼠より人間よね。鼠は銃を握れないもの」
二人は妙に含蓄のありそうな会話を交わしながら通路の奥にある席へと去っていった。以前は「お嬢ちゃん」呼ばわりしただけで、むっとした表情になったのに、最近は慣れたのか、簡単な嫌味は軽く躱《かわ》されてしまうのがラリーとしては面白くない。それでも適度な気分転換になったので、別件についての鑑識の報告書に手を伸ばそうとすると、机の上の電話が鳴った。
ベンはと見ると、二個目の特大アイスクリームを抱え、スプーンを口に運ぶ以外のことはしたくなさそうだ。仕方なくラリーが受話器を取ると、先ほどの技官からだった。
「あの鼠ですが……どこで拾ってきたんです?」
「マンハッタン内のアパートだが」
「アパートですか。どこかの研究施設ではなく?」
技官の声は不思議そうだった。「まだ外側しか見てないですが、あの鼠は野生の|ドブネズミ《ブラウン・ラット》じゃないですよ。実験用のラットです」
「実験用のラット――って、小さくて白い鼠じゃないのか?」
「小さくても栄養過多と運動不足で肥大すれば、あの大きさになりますよ。ドブネズミを実験用に改良したもので、祖先は同じですから。色も汚れてるだけで実験用のアルビノ種なのは間違いないです」
「……普通のアパートにはいないのか? たとえばペット用に飼ってるとか」
「ペット用の鼠もあるにはあります。ですが、何かの実験に使われた鼠ではないかと。腹部に縫合した痕があります」
「縫合?」
「ええ。見たところ手術用の糸ですね」
受話器から聞こえる技官の声に重なり、あの黒猫の鳴き声が聞こえたような気がした。
覆面パトカーを飛ばして五十一丁目にある十七分署に行き、先ほどの制服警官たちを呼び出したのは、それから一時間後、鑑識課の技官から鼠の死因について報告をもらった直後のことだった。
「エリザベスが誘惑されそうになった猫?」
「黒猫だよ。あのおばさんの飼い猫」
ラリーは気が逸《はや》りそうになるのを抑え、冷静に説明した。「同じアパートの住人が飼ってる猫に誘惑されそうになったと通報してきたことがあったそうじゃないか」
「ああ……あの件ですね」
警官はやっと思い出したようだった。「ええと……何号室だったかな」
記録を調べないと正確な部屋番号は思い出せないのか、防犯課のオフィスへと駆け戻っていく。ちなみに十七分署はマンハッタンにある分署の中では規模が大きく、一見するとオフィスビルにしか見えないような近代的なガラス張りのビルにある。しかも消防署と同居しているため、一階には消防車が並んだ赤い車庫とパトカーが並んだ青い車庫がある。
午後四時過ぎなのに、晩秋ゆえ早くも傾きだした陽が、オレンジ色にガラスを染めてまぶしい。ベンの巨体がつくる影も巨大だ。ラリーが腕時計をにらみながら待っていると、
「おやおや、これは本部殺人課の刑事さん」
初老の制服警官が出てきて、わざとらしい敬礼をした。ラリーやベンが子供のころから警官として勤めている超ベテランで、名前はフレーザー。いかにもアイルランド系らしい顔立ちの警官だが、ドロシーが十七分署で制服警官だったころの教育係兼相棒でもある。「ミス・ウッドがまた何か通報してきたようだな」
「今回の通報よりも重要なのは猫が誘惑されそうになった云々の通報だ」
「知ってるよ。その通報でミス・ウッドから話を聞いたのは私だから」
フレーザーが板付きのメモ帳を取り出してページをめくった。「通報してきたのは先々月の九月。その誘惑したとかいうのは、二B号室のファーマー夫妻の飼い猫で、名前はソロモン」
「王様の名前か」
「そう。これも黒猫だった。ペルシャ猫じゃなく、ショートヘアの雑種かな」
「それでファーマー夫妻は何と言ってた?」
「昼間だったから女房しかいなかったが、『誘惑しているのはエリザベスのほうよ』だそうだ。年中、ドアの前をうろついてるだけでなく、ドアに鍵を掛けておいても猫用の出入り口から勝手に入ってくるとか」
フレーザーが苦笑した。「猫の恋愛問題は警察の管轄外だが、飼い主同士の喧嘩は対応しなきゃならんから苦慮したよ。猫用の出入り口を封鎖すればいいんだが、ファーマー夫人曰く『ソロモンが運動不足になるのは困る。ミス・ウッドの部屋の出入り口のほうを封鎖すべきだ』――ミス・ウッドも同様の返事で互いに譲る気はなさそうだった」
「……それで?」
「それきりだ。『この件では二度と警察に通報はしないように』とミス・ウッドに注意しただけで終わり」
「ファーマー夫妻の亭主の仕事は?」
「会社員だったかな」
メモ帳をめくって確認していたフレーザーがうなずいた。「製薬会社勤務だ」
「……二B号室だったな」
ラリーはすぐさま分署を出て覆面パトカーに乗り込んだ。ベンも珍しく走ってくると助手席のドアを巨体で壊しそうな勢いで乗り込む。
「黒猫がもう一匹いるのか」
食べかけのポテトチップスの袋に手を伸ばさず縮こまっているところを見ると、心底怖いらしい。「まあ、生きてるとは限らないか」
「行ってみないとわからん」
ラリーはエンジンを掛けて発進させた。後ろからフレーザー巡査と、教育中らしき新米の巡査が乗ったパトカーがついてくる。
サイレンは鳴らさなかったが、摩天楼の底に沈もうとする夕陽と競走するようにしてマレーヒルのアパートへ急行し、エレベータを使わずに階段で二階へ昇り、二B号室へと走る。ベンも息を切らしながら、階段を上ってきた。さらにフレーザー巡査と新米の巡査が到着するのを待ってから、ラリーはチャイムを鳴らした。
数秒待ったが、返事はない。さらにもう一分ほど待ってからチャイムを鳴らし、ドアを大きくノックしてみた。しかし返事はない。
「大家はどこに住んでる?」
ラリーがフレーザーに訊くと、
「ここには住んでない。パーク街の豪華コンドミニアム住まいだ」
この付近に幾つかアパートを持っている資産家らしい。「鍵を借りてくるか」
生命に危険がある緊急事態ならばドアを蹴破ってでも入れるのだが、現時点では確証がない。フレーザーたちが大家から鍵を借りてくるまで待つしかないかと思っていると、どこからか猫の鳴き声が響き、廊下を黒い影が近づいてきた。
「……エリザベス」
ラリーがつぶやき、ベンが巨体を縮こまらせて廊下の隅に逃げる。エリザベスはそんな人間たちの反応などおかまいなく、ゆったりと気品のある足取りで歩き、ドアの下にある猫用の出入り口からするりと中に入っていった。「そうか、この出入り口があったか」
太ったエリザベスがぎりぎりで入れる大きさだから人間は無理だが、中をのぞくことはできる。地面からの高さは約五十センチ。
「どれ、見てみるかな」
フレーザーが床に膝《ひざ》をついて出入り口を観察しはじめた。磁石でフラップが閉まる仕組みで、猫は頭で押すだけで簡単に入れるようだ。手でフラップを押してのぞきこんだフレーザーが軽い溜息をつくと立ち上がった。「ソロモンは亡くなっているかもしれん。床に黒猫が倒れている」
「これで『生命の危険がある緊急事態』になったな」
ラリーはうなずき、ホルスターから拳銃を取り出して構えた。ここ数年、構えるだけで引き金を引いたことはないが、鉄則だから仕方がない。フレーザー巡査と新米警官も銃を構えたが、ベンはまだ廊下の隅で固まっている。
この際、ベンは無視することにして、新米警官がドアを蹴り飛ばす。ドアは頑丈な造りだが、弾みをつけて三回ほど蹴飛ばすと、内側で鍵が壊れて落下する金属音が響いた。
ドアのノブを握って開くと、すぐ横の床に黒猫が倒れている。その脇に座ったエリザベスがラリーを見上げて鳴き声をあげた。
「これを報せようとしたのか」
フレーザー巡査が先に飛び込み、銃を構えたまま周囲を見回す。そこは居間らしく、毛足の長いラグが敷かれ、ソファやテーブル、大型のTVセットなどが並んでいる。黒猫が倒れている以外に異常はない。
新米の警官も飛び込み、居間をつっきって奥へと進む。廊下から見えなくなったかと思う間もなく怒鳴り声が聞こえた。
「救急車を! しっかりしてください」
「司令室――応答願います」
フレーザー巡査が無線で救急車を要請する声を聞きながら、ラリーも室内に入ってみた。居間を抜けるとダイニングキッチンになっていて、冷蔵庫の前に女性がひとり倒れている。四十代だろうか。土色に変わった顔には吐瀉物《としゃぶつ》がこびりつき、新米警官が傍らに膝をついて必死に呼びかけているが、反応はない。ただし、呼吸はしているようだ。
無線連絡を終わったフレーザー巡査が、他の部屋のチェックをするためにさらに奥へ向かったが、数分で戻ってくると、首を横に振った。他に人はいないらしい。
その間、ラリーはテーブルに並んだ皿を観察してみた。シチューとチキンサラダ――見たところ昼食を摂《と》っている最中に倒れたらしい。腕時計を見ると、まもなく午後五時だ。彼女が昼食を摂ったのは何時だろう?
ミス・ウッドから通報があったのは午後二時だった。エリザベスが鼠を銜えてきたのはその直前だろうから、この女性が倒れてから三時間以上は経っているかもしれない。
「彼女がファーマー夫人か?」
フレーザーに確認すると、「そうだ」という。
「亭主にも連絡しないと」
「それは後回しでもいいが」
ラリーは捜査用の手袋を嵌《は》めてから、シンクの下にある引き出しを片っ端から開けてみた。一つがゴミ箱になっていて、中に缶詰の空き缶が見える。手にとって見ると「ヘルシー猫」印のキャットフードだった。ソロモンが食べたと思われる皿が床の片隅に置いてあるのも見つけた。鑑識で捜査してもらうべきだろう。
遠くから救急車のサイレンが聞こえ、やがて担架をかついだ救命士が二人、入ってきた。
「なんらかの毒物中毒のようですね」
簡単なチェックをして応急処置をしてから担架に乗せて慌ただしく運び出す。それを追うようにしてラリーも居間に戻ると、エリザベスはまだソロモンの隣に座っている。
「この猫は生きてるのか?」
救命士たちに訊いてみると、「残念ですが」と首を横に振る。「まだ確実じゃないが、医者に『シリロシド配合の殺鼠剤《さっそざい》を飲んだ可能性が高い』と伝えてくれ」
「殺鼠剤ですか。了解しました」
救命士たちはうなずき、担架を抱えて廊下へ走り出す。ラリーも廊下に出てベンを捜すと、
「よう、ラリー」
なぜか元気なベンの声が聞こえ、男の腕を掴んで歩いてきた。やはり四十代で中年太りにくわえて髪が半分ほどしか残っていないが、ビジネスマンらしいスーツにコートを羽織っている。「紹介するぜ。重要参考人のジョン・ファーマー氏だ」
「……それはそれは」
ラリーは男に笑いかけた。「市警察本部殺人課のソールです」
病院に搬送されたファーマー夫人は、医師や看護師の治療によって一命を取り留《と》めた。夫、ジョン・ファーマーは、殺人未遂罪及び動物虐待罪でラリーとベンが逮捕した。
彼の勤務先に照会したところ、人間用の新薬開発に携わる研究室の研究員だという。「詳しくは企業秘密なので」と前置きした上での説明によれば、ホルモンに関する研究で、ラットを百匹以上も使った実験もしているらしい。
「比較実験ですので、たいていは数十匹ずつ、二グループに分けて片方を事前に処置します。要するに雌であれば卵巣を摘出して黄体ホルモンを分泌《ぶんぴつ》させなくしてしまうわけです。その後、縫合してから、毎日医薬品を投与します。もう一つのグループは未処置のまま、同じく医薬品を投与し、どう変化するか比較する」
どうやらその一匹をジョン・ファーマーが持ち出したらしい。市販の殺鼠剤の効果を試すための実験に――まずは鼠で実験してから、飼い猫のソロモンと妻を殺す計画だったのだ。
妻には「夜も観察しなきゃいけない実験だから」と適当な嘘をついてごまかし、ラットを小さなアルミ製の箱に入れ、殺鼠剤を少しずつ与えて殺した。これで分量の目安がわかったファーマーは、昼間にいったん帰宅し、「ヘルシー猫」印の缶詰を開けてソロモンの食事を準備する際に、殺鼠剤を混ぜ込んだ。
さらには妻が調理中だったシチューにも妻の目を盗んで殺鼠剤を入れた。ファーマーは「研究室から急用で呼び出された」と言ってシチューを食べずにアパートを出て研究室に戻った。アリバイ作りのために――
しかし本当に妻が死んだのか不安になり、早めに帰宅したのが、午後五時前。救急車が止まっていたので首尾良く事が運んだのか様子を見に二階へ上がったところをベンに捕まったのだ。
「動機は?」
弁護士立ち会いのもとでラリーとベンが聴取をしたところ、ファーマーは、
「妻にうんざりしてたからだ」
とだけ答えた。かなり前から夫婦仲が悪く、憎悪に到っていたらしい。
「猫のソロモンまで殺したのは?」
「僕はもともと猫が嫌いだ。妻が猫を飼いたいというから仕方なく了解したが、飼い始めたら三階のオールドミスが怒鳴り込んでくるし、妻が死んだ後で僕が世話をするのもうんざりだ。それに一緒に死ねば、妻が飼い猫と心中したように見える」
身勝手すぎる動機だが、もっと身勝手な動機で殺した殺人犯を年中見ているのでラリーもベンも驚かなかった。むしろファーマーのほうが、妻が死ぬ前に警察が駆けつけたことを驚いていた。
「猫が通報したんだよ」
ラリーはそれだけ説明した。「『猫グルメ』印のキャットフードしか食べないエリザベスがね」
実際に通報したのはエリザベスの飼い主、ミス・ウッドだったが、彼女に通報させたのはエリザベスだから嘘ではないだろう。狐につままれたようなファーマーと弁護士を残して取調室を出た後、さっそくチューインガムを口に放り込みながらベンが言った。
「十戒を変えることにしたぜ」
「『黒猫には近寄るべからず』を変えるのか?」
「いや、追加するだけだ」
たるんだ顎を震わせてガムを噛《か》みながらベンが笑った。「『黒猫には近寄るべからず』ただし『捜査中を除く』」
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COMMENTS
柏枝真郷
かしわえまさと
「PARTNER」シリーズ
25周年おめでとうございます! C★NOVELSとともに四半世紀もの長寿となった黒猫ちゃんの旺盛な好奇心にあやかりつつ、シリーズ本篇では「検挙率だけはトップ」の有能な刑事のはずなのに、主人公コンビに負けている嫌味コンビの活躍篇を書いてみました。
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がんばれ、ブライスくん!
デルフィニア戦記外伝
茅田砂胡
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)懸《か》け
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)豪華|絢爛《けんらん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)よく[#「よく」に傍点]言い聞かせておく
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「折り入ってご相談があるのだ。サヴォア公」
妻が夫を呼ぶ言葉にしては妙だが、ロザモンド・シリル・ベルミンスターは結婚前からのこの習慣を結婚後も変えていない。『バルロ』と名前で呼んだこともなければ『あなた』と呼んだこともない。
一方、夫のほうはそこまで堅苦しくはない。
いつもは『ロザモンド』と名前で呼んでいる。
もっと砕けて『おまえ』と呼ぶことも多いのだが、この時は思いつめた妻の表情に驚いて同じく正式な呼称を返した。
「どうした? ベルミンスター公」
この夫婦はデルフィニアを代表する二大公爵家の当主同士である。そうなると当然、家の中で起きる問題も普通の家のそれとは懸《か》け隔《へだ》たっている。
離れて暮らしている彼女の甥《おい》のリュミエント卿が戻ってきて欲しいと訴えてきたのか、領地で深刻な事態が持ち上がったのか、それとも他に何か――と身構えた夫に妻は言いにくそうに告げた。
「実は――ブライスどののことなのだ」
「何かしでかしたか?」
「逆だ。あの子はとても公の息子とは思えないな。礼儀正しく子どもたちには優しく、使用人にも気を使ってくれている。非の打ち所のない少年だ」
「何がいけない? さすがに俺の子ではないか」
ロザモンドは呆れ顔で言い返した。
「サヴォア公。ブライスどのは一言もそんなことは言わないが、居心地の悪さを感じていることくらい、わたしにもわかるぞ。公に対しても他人行儀だとは思わないのか?」
「それは仕方がない。ブライスは確かに血を分けた俺の息子だが、俺たちはまだ会ったばかりだぞ」
ブライス・レヴィンは十四歳になる。
その父親であるバルロは三十歳にもなっていない。
若すぎるこの父親にブライスが戸惑っているのは確かだった。しかもロザモンドにとってブライスは『夫が外でつくった子ども』ということになる。
町の家なら家内戦争の勃発《ぼっぱつ》は免れないところだが、大公爵家の令嬢として生まれ育ったロザモンドには、それのどこが問題なのかさっぱりわからなかった。
当主が外に女性を持つことも、その結果子どもが誕生することも、彼女にとっては至極当然のことで、特別耳新しいものではなかったからである。
従って、ロザモンドがこの時吐いた深いため息は、まったく別の意味を持っていた。
「公がいずれ庶子《しょし》を連れてくるのはわかっていたが、せめて四歳の子どもにしてくれればよかったのに」
「無茶なことを言う」
「だが、ブライスどのの態度は恐らくそれが原因だ。わたしはサヴォア公の息子なら、わたしにとっても息子同様だと思っている。もっと親しんでほしいと心から思っているのだが、ブライスどのにはそれがどうしても伝わらないらしい」
夫の愛人の子でも自分は全然気にしていないのに、ブライスだけが気にしているというのである。
実のところ、バルロもそれには気づいていた。
自分に対してはまだかろうじて微笑らしきものを見せるブライスが、ロザモンドが現れるとたちまち表情を硬くする。
彼女を嫌っているからではない。
緊張と動揺と罪悪感と居たたまれなさからだ。
ロザモンドにもブライスのそんな態度は明らかで、結果として生真面目な彼女は心を痛めている。
「ブライスどのが打ち解けてくれないのはわたしが義母《はは》として至らないからなのだろうか?」
「それはない」
言下に断じたバルロだった。
「十四の少年の母にしては若すぎて美しすぎるがな。難点と言えばそのくらいだ。断じてベルミンスター公のせいではない」
「ならばよいのだが……どうしたものかな?」
王国を代表する二大公爵家に生まれ育った二人も、こういう問題はお手上げらしい。少年の頑《かたく》なな心をどうすれば溶かせるか、しばし真剣に議論した。
ブライスはその実父と義母以上に悩んでいた。
母が二人の姉とブライスを連れて、裕福な商人のハイデカーと結婚したのは彼が五歳の時だ。
二年後にはその義父と母との間に弟のフリックが誕生したが、義父は優しい人で、血のつながらない自分や姉たちのことも弟と同じようにかわいがってくれたし、自分も義父が好きだった。
義父はブライスが小さい頃から計算や商売のやり方を教えてくれた。姉たちが嫁ぐと、ブライスにはフリックと一緒に自分の仕事を継いでほしいと口にするようになったが、義父の希望には頷《うなず》けなかった。
商売が嫌いだったわけではない。
子どもの頃から騎士に憧れていたからである。
騎士団に入りたいと両親に訴えたのは確かだが、まさかこんなことになるとは夢にも思わなかった。
どうしても騎士になりたいと言うと、母は笑って、『それならお父さまのところへ行きましょうか』と、ブライスと一緒にこのコーラル城へ来たのである。
これだけでも仰天した。ハイデカーが実父でないことは知っていた。二人の姉とは父親が違うことも知っていた。しかし、母はブライスの父親について一度も口にしなかったから、子ども心に父はとうに死んだのだろうと勝手に思っていたのだ。
それが生きていて、間違っても父親には見えない若い人で、あろうことか国の英雄であるティレドン騎士団長その人だという。
とてもついていけなかった。
屈指の名門であるサヴォア公が自分の父だということも、その父にはやはり公爵の爵位を持つ奥方と幼い二人の子どもがいるということも、その二人は自分の異母兄弟にあたるということも、あまりにも現実離れしている。こんなことをいきなり理解して納得しろと言われても無理なのだ。
今のブライスはティレドン騎士団の見習いとして様々な雑用をこなしながら剣の稽古《けいこ》に励んでいる。
バルロが隠さなかったので、ブライスがバルロの庶子であることは団の全員が知っている。
特別扱いはいっさい無用とこの団長は明言したが、宿舎で生活する他の見習いたちと違ってブライスは一の郭《かく》のサヴォア館に寝泊まりしている。初対面の挨拶《あいさつ》を済ませたばかりの父と子が離れて住むこともあるまいというバルロの考えからだ。
これも端から見れば立派な特別扱いだが、困ったことにバルロはそうは思わないらしい。
結果、ブライスだけが肩身の狭い思いをしている。
「あいつ、団長の子なんだって」
他の少年たちはひそひそ囁《ささや》いて遠巻きにするし、先輩騎士たちは稽古をつけてくれるものの、やはりどこか距離を置かれているように感じるのだ。
比較的普通に話し掛けてきたのはまだ若い先輩のキャリガン・ダルシニくらいだろうか。
「団長はお若いし、おまえとはあんまり似てないし、親子には見えないよな」
言いにくいことをはっきり言う人である。しかし、その遠慮のなさが今のブライスにはありがたかった。
キャリガンの姉は国王の愛妾だという。
バルロはそうしたことでも差別はしなかったので、キャリガンはとりわけ厳しくしごかれ、先日やっと叙勲《じょくん》が認められたのだと他の少年たちが話していた。
特別扱いはしないという団長の方針とは裏腹に、国王の愛妾の弟という肩書きはやはりキャリガンを放っておいてはくれなかったのだろう。
はっきりしたことは言わないが、何かと歯がゆい思いをしたらしい。だからこそ、自分と似たような境遇のブライスを気に掛けてくれているのだ。
「団長のお屋敷にはもう慣れたか?」
ブライスは情けない顔で首を振った。
ハイデカーの家も裕福だったが、サヴォア家とはあまりにも桁《けた》が違いすぎる。まさしく別世界だ。
「自分は町育ちなのでわからないのですが、貴族の生活というのは……あれが普通なんでしょうか?」
「あれって?」
サヴォア館で暮らし始めてからブライスは一人になったことがない。朝起きる前から隣室に召使いが何人も待機しているし、寝る時も同様だ。
入浴時にまで小間使いが何人もついてくる。
義父の家にいる時のブライスは自分で湯を使い、身体を拭い、自分で持ち込んだ衣服に着替えていた。
それが実父の家では、服を脱いだら眼の前にいる小間使いに渡さなければならない。つまり、女性の前で裸にならなければならない。さらに別の女性が背中を流し、入浴が終わったら身体を拭ってくれて、着替えを差し出してくれるのだ。
どうにもこうにも気まずかった。これではまるで子ども扱いだと思った。一人でできるからといくら断っても、それでは自分たちが仕事をしていないと思われてしまうと、彼女たちは言うのである。
自分が迂闊《うかつ》なことを言ったら彼女たちが叱られてしまうのかと思うと気の毒で、やめてほしいと父に頼むこともできない。
結果として、今のブライスはあの家で、召使いの言うとおりに動いているだけだ。
「お食事でございます、ブライスさま」
「ユーリーさまと遊ぶ時間でございます」
「お休みの時間でございます、ブライスさま」
それを不快とは思わないが、ひたすら面食らう。
話を聞いたキャリガンも呆れ顔で言った。
「まあ、団長のお屋敷ならそうだろうな」
「先輩のご自宅もあんなふうなんですか?」
キャリガンは大げさに眼を見張って手を振った。
「馬鹿なこと言うなよ。うちは普通。サヴォア家と一緒にできるような家じゃないぜ」
ブライスは再び深いため息を吐いた。
サヴォア館はコーラル城一の郭にある。
つい先日までの自分なら足を踏み入れることすら想像できなかった場所にだ。そこで寝起きするのはお世辞にも居心地がいいとは言えなかった。
加えて、そこには父の正妻がいる。
この正妻はブライスの知る『人妻』の概念からは極端に外れた人だった。そもそも男の服を着ている女性など今まで見たことがない。父に対する態度も男そのもので、二人が話しているところを聞いてもまるっきり男同士の会話にしか聞こえないくらいだ。
「貴族の奥方とはああいうものなのでしょうか?」
真面目に尋ねるブライスにキャリガンは絶望的な表情になって、無知な後輩をたしなめた。
「おまえな、ベルミンスター公爵さまを他の貴族の奥方と一緒にするなんて無謀にも程があるぞ」
いずれは幼い甥に爵位を返す約束をしているが、ロザモンドは西のサヴォア、東のベルミンスターと謳《うた》われるほどの名家の当主であり、バルロと同じく、デルフィニア中の貴族から一目置かれる人なのだと聞かされて、今度はブライスが絶望的な顔になった。
そんな人が自分の義母だという事実にだ。
一家の主であるロザモンドは一の郭に立派な館を持っていて、普段はそこに住んでいる。
ほとんど隣同士なのに、夫婦が別々の家に暮らす感覚もブライスにはわからなかったが、今の彼女は日中はともかく、朝晩の食事をサヴォア館で取り、夜もサヴォア館で休んでいる。
それはブライスがサヴォア館に来てからのことで、どうやら少しでもブライスと一緒にいる時間を持ち、親しくなろうとしているらしい。
実はサヴォア館に来て何より面食らったのがこれだった。ロザモンドは自分を義母だと思って何でも遠慮なく話してくれと、ベルミンスター家にもぜひ遊びに来てくれと、自分の家だと思ってくつろいでもらいたいと言うのである。
とても頷けなかった。
なるほど理屈では自分とこの人は義理の母子《おやこ》だが、自分はこの人にとって夫の昔の女性の子どもである。
二児の母とは思えないほど美しい人でもある。
そんな人が自分のような妾腹の子どもにも何かと気を使ってくれるのだ。ありがたいと思っていたが、その好意を素直に受け取ることは到底できなかった。
なぜなら、妾腹の子どもを快く思う正妻などいるはずがないからである。本当はあの義母にいったいどう思われているかと考えるとやりきれなくなる。
その日、重い足を引きずるようにして館に戻ると、思ってもみなかった人がブライスを迎えてくれた。
「やあ、ブライス」
「ラモナ騎士団長……」
驚いた。ラモナ騎士団は西の国境の重要な要《かなめ》で、父の率いるティレドン騎士団とともにデルフィニア騎士団の双璧《そうへき》とも言われている有名な騎士団だ。
そのラモナ騎士団を率いる英雄ナシアス・ジャンペールの名はブライスももちろんよく知っていたが、実際に会ってみると、その人は世間に轟《とどろ》く武名とは似ても似つかぬ優しげな風貌《ふうぼう》の美男子だったので、父に紹介された時は本当にびっくりしたものだ。
この時もブライスは咄嗟《とっさ》に直立不動の姿勢を取り、深々と頭を下げたのである。
「ようこそお越しくださいました。父はまだ戻っていないのでしょうか?」
「いや、今日はおまえと話そうと思って来たのだよ。この家にはもう慣れたか?」
キャリガンと同じことを尋ねてきたナシアスに、ブライスは情けない顔で首を振った。
「そうか。どんなところが慣れないのかな?」
そんなことがはっきり言えたら苦労はしない。
ブライスが複雑な顔で黙っていると、ナシアスは微笑した。
「では、わたしが代わりに言おうか。一日中誰かが傍《そば》に張りついていて一人になれない。それどころか入浴時の着替えまで召使いが手伝おうとする。もう少し放っておいてほしいのに」
まさに不意打ちだ。ブライスは呆気《あっけ》にとられて、茫然《ぼうぜん》とナシアスを見つめ返した。
水色の眼が笑ってブライスを見返していた。
「わたしはよくこの屋敷に泊めてもらうが、最初はおまえと同じように驚いた。他家には他家の作法があるのはわかるが、バルロにとっては当たり前でも、わたしにとってはあまり気持ちのいいものではない。一生に一度この屋敷に厄介《やっかい》になるだけなら、多少の我慢は客の礼儀だが、頻繁《ひんぱん》に呼んでくれるとなると、おまえの家は居心地が悪いから訪問は遠慮するとも言えないしな。何より無理な我慢は身体に悪い」
相手は国を代表する公爵家である。そのくらいの我慢は当然だと世の人は言うだろうが、ナシアスは色白の優しい容貌とは裏腹に平然と言ってのけた。
「おまえのもてなしが不満なのではなく、ああいう習慣は自分にはないからとはっきり断ることにした。洗面道具も着替えも、そこに置いておいてくれれば後は自分でやる。用があればもちろん人を呼ぶから、それまでは放っておいて欲しいとな。バルロは案外素直に聞き届けてくれたぞ」
「ラモナ騎士団長……」
「ここはおまえの家だ。ナシアスでいい」
「ではあの、ナシアスさま。ナシアスさまのお宅は……ああいう入浴はなさらなかったのですか?」
「わたしの家は単なる地方郷士だからね。そもそも召使いの数が違う。どんなに忙しくても小間使いを二人以上雇ったことはないよ。母は妹たちと一緒に料理も掃除も洗濯《せんたく》もやっていたし、わたしも時には手伝った。家族のあり方も家の中の決まりにしても、食事は小さな食堂で家族みんなで摂るのが当たり前、着替えも基本的に自分一人でするものだった」
「そう……なんですか……」
意外な気持ちを素直に示しながら、あからさまにほっとした様子の少年にナシアスは微笑した。
「ハイデカー氏はかなり裕福な商人だそうだから、わたしの生家よりおまえが暮らしていた家のほうがずっと立派だと思うぞ」
「いえ! そんなことは……!」
慌てて言ったが、ナシアスが笑っているのを見て、一気に緊張がほぐれた。初めて笑みを見せた少年に、ナシアスは親身に言い諭《さと》したのである。
「混乱するのは無理もない。サヴォア公爵家は他の貴族に比べても別格だ。ましておまえが育ってきた町家《ちょうか》とはまったく違うしきたりで動いている」
問題は、ブライスはそれをいやと言うほど身体で感じているが、バルロにはわからないということだ。
「ベルミンスター公にも同じことが言える。これがわたしの家なら、わたしが外に儲《もう》けた子どもなどを連れて帰ったら大変なことになるが、公爵にとっておまえの存在は少しも苦痛ではないのだよ」
「……本当にそうでしょうか?」
「もちろんだとも。わたしが保証する。何か困ったことがあったら一人で考え込まないことだ。執事のカーサに相談するか、わたしに話すといい」
「ありがとうございます」
なんと言っても他団の団長である。甘えることはできないが、自分を気遣ってくれたことが嬉しくて、ブライスは久しぶりに心からの笑顔で礼を言った。
その夜、広々とした食堂で父と食事を摂った時、ブライスは思い切って――今夜は偶然ロザモンドが席を外していたことにも力を得て――少し召使いを遠ざけてくれないかと父に頼んでみた。
事実上、ブライスの初めての頼みごとだったから、バルロは驚いたらしい。
食事の手を止めて眉《まゆ》をひそめた。
「うちの者に何か不手際があったのか? それなら叱責《しっせき》して直させよう」
「違います! そうではなくて……」
まさにそれを言われたらどうしようと思ったのだ。
自分には居心地が悪いのでと口籠《くちご》もりつつ言うと、バルロには思い当たることがあったらしい。
「昔どこかの誰かが似たようなことを言っていたな。――狐の入れ知恵か?」
「きつね?」
何のことかわからなくてきょとんと問い返したが、バルロは不意に真面目な顔で話し掛けてきた。
「なあ、ブライス。今まで面識がなかったとは言え、俺たちは血のつながった父と子だ。遠慮は無用だぞ。希望があるならはっきり言え」
「はい」
本当は、できれば屋敷を出て宿舎で生活したいと言わなければならないところだが、それは我慢した。
若すぎる父が自分と親しもうと努力しているのはブライスにも充分わかっていたからである。
「召使いに不手際がないなら、何が理由だ?」
ブライスがたどたどしいながらも自分の気持ちを説明すると、バルロは呆れたように言ったものだ。
「彼らが主人に叱られる心配をしているというなら、そんな心配は無用だとおまえが言い聞かせればいい。召使いというものは家の人間の指示に従うものだぞ。れっきとした家の人間であるおまえが彼らの指示に従ってどうする? 立場が逆だろうが」
「……すみません」
小さくなりながら謝ったが、これで少し気持ちが楽になった。それはバルロも同様だったらしい。
この息子が初めて自分にわがままを言ったことで、表情を緩めて話し掛けた。
「ところで、ベルミンスター公のことだが、あまり邪険にしないでくれるか」
「……じゃけん?」
言葉の意味が本当に理解できなかった。
何度か反芻《はんすう》して、ああ、わざと冷たく意地悪することかと納得したが、いったい、誰が誰を?
「ベルミンスター公には意外に生真面目なところがあってな。おまえがなかなか打ち解けてくれないというので、ひどく心を痛めておられるのだ」
「はあ!?」
突拍子もない声を出したブライスにはかまわず、バルロは話を続けた。
「この場にいない人の話を持ち出すのは不公平だが、俺の独断で話すことにする。公には母親の違う弟がいた。若くして亡くなったが、先代ベルミンスター公爵が寵愛する女に産ませた子だった」
「…………」
「公爵夫人が亡くなった後、その子は実母ともどもベルミンスター家に迎えられたが、身分が違うので、公爵はその母親を後妻に据えることはできなかった。だからといって母親を粗末に扱ったわけではないぞ。先代公爵はそんな人ではないからな。跡取りとして迎えられた息子と同様、大切にされていたはずだが、自分のようなものが公爵家の暮らしなど恐れ多いとその母親はひたすら恐縮して、心労がたたったのか、早々に死んだという。息子も息子で亡き母の名誉を守るためにも父の期待に応えなくてはと人一倍気を張っていてな、父の屋敷での生活はその子にとって落ち着けるものではなく、くつろげるものでもなく、ただただ緊張を強いられるものであったらしい」
ブライスにはその少年の気持ちがよくわかった。
まさに今の自分のことを言われているようだった。
唯一違いがあるとすれば、自分はその少年ほどの悲壮感は感じていないということだ。
異母弟《おとうと》のユーリーがいてくれて本当によかった、次の公爵はあの子に決まっているのだからと呑気に考えていると、バルロはブライスの顔を見て言った。
「ベルミンスター公は異母弟とその母の死に責任を感じている。公のせいではないのにな。なぜもっと二人の気持ちを察してやれなかったのか、他に何かできることがあったのではないかと自分を責め続け、公にはまったく似合わないことだが、ずいぶん長く気に病んでいた。――ちょうど今と同じように」
皮肉屋のバルロにしては最大限、抑えた表現だが、ブライスの食事の手は完全に止まってしまった。
自分の態度が義母を傷つけているなんて、今まで想像したこともなかったからだ。
「ブライス。おまえの母はおまえの将来を俺に託し、俺もおまえを息子として屋敷に迎えると決めたのだ。妻も賛成してくれた。それで充分ではないかと俺は思っているのだが……何が不満だ?」
答えられるわけがない。
しかし、何か言わなければもっとまずい気がして、ブライスは焦燥《しょうそう》に舌をもつれさせながら言った。
「不満は……ありません」
「そうか?」
「はい。義母上のこともです。よくしてくださって、本当にありがたいと思っています」
これはブライスの掛け値なしの本心だったから、バルロも安心したらしい。笑顔で食事に戻った。
一方、ロザモンドはナシアス・ジャンペール家で夕食をご馳走《ちそう》になっていた。
夫人のラティーナは一月前に出産という大仕事を終えたばかりだが、すっかり元気である。
「主人が留守なのでお食事にいらしてくださいな」
と、口実を設けてロザモンドを招待したのだ。
無論これはその主人と示しあわせての行動である。
女同士のほうがロザモンドも話しやすいだろうと、ナシアスが気を回したのだ。
もう一人、国王の愛妾のポーラも事前に招待した。
ラティーナとポーラの生家もジャンペール家同様、田舎の質素な家だった。貴族という身分であっても、ロザモンドよりは遥《はる》かに一般市民に近い人々である。
ラティーナは前もってポーラだけを呼び、二人で晩餐《ばんさん》の支度に取りかかった。
ポーラはすやすや眠っている赤ん坊の顔を眺めて、自分の子どもを見るように眼を細めた。
「まあ、驚いた。たった一ヶ月でエルウィンさまは見違えるほど大きくなりました」
「ええ、おかげさまで。そちらのフェルナンさまはいかがです?」
「それはもう、やっぱり男の子ですものね。乳母の手を焼かせて大変です」
二人には台所で手を動かしながらのおしゃべりも当たり前だが、ロザモンドには食事の支度を自分で調《ととの》えるという習慣も概念《がいねん》もない。
二人が働いている横でロザモンド一人を座らせておくのも却《かえ》って失礼なので、わざと彼女だけ食事の直前に呼んだのである。
二人が腕を振るった手料理はロザモンドのお気に入りだった。ベルミンスター家にもサヴォア家にも一流の料理人がいるが、いつも口にしている豪華な料理とはまったく違う暖かい味がする。
「久しぶりに美味《おい》しい夕食でした」
もてなしに感謝して心から礼を言うと、女主人が意味深に尋ねてきた。
「この頃はお食事が美味しくございませんか?」
「ええ。――理由はお二人もご存じでしょう?」
サヴォア家の庶子のことを知らぬものはないから、二人ともとぼけたりしなかった。
ポーラが慎重な口調で言う。
「十四歳のお子さまだそうですね。陛下も一度その少年の顔を見てみたいとおっしゃっていました」
ロザモンドはため息を吐いている。
「正直、困っているのです。あのくらいの子どもにどう接したらよいのか。ただでさえ難しい年頃です。もっとくつろいでもらいたいと思って、いろいろと努力しているつもりなのだが……」
「ロザモンドさま。それはすぐには無理ですわ」
ラティーナが言えば、ポーラも真顔で頷いた。
「ロザモンドさまの努力が足らないわけではないと思います。ただ、その子の気持ちを考えると……」
環境が新しくなったばかりで、あのサヴォア館で、朗《ほが》らかにのびのびと暮らすことなど不可能に近い。
そのためにはもう少し時間が必要なのだ。
二人にとっては自明の理と思われるそのことが、ロザモンドにはどうしても理解できないらしい。
肩をすくめて苦笑しながら言ったものだ。
「彼が居心地の悪さを感じているのはわかるのだが、わたしはその理由がわからないのです。お二人にはおわかりになりますか?」
ポーラとラティーナは無言でそっと眼を見交わし、ラティーナが首を振りながら嘆息した。
「わたしにはロザモンドさまの寛大《かんだい》なお心はとても真似できません。わたしどものような下々の家では夫が家の外に女性を持ったら、ましてその女性との間に子どもが生まれたりしたら、想像するだけでも恐ろしい騒ぎになるでしょう。夫の裏切りを笑って許せる妻など滅多にいません」
ロザモンドは不思議そうに首を傾げた。
「いや、そんなことはない。わたしもサヴォア公の行状にそこまで寛大なつもりはないから……」
「何をおっしゃいます。充分すぎるほど寛大ですわ。もしこれがわたしなら……嫉妬《しっと》に狂って泣き喚《わめ》いて取り乱して、我慢できずにその人のところへ刃物を持って押しかけるかもしれません」
すると、すかさずポーラが言った。
「ラティーナさまはそんなことはなさいませんわ」
「まあ、ポーラさま。わたし自身がやりかねないと言っていますのに」
「いいえ、なさいません」
あくまできっぱりと断言したポーラだった。
ロザモンドが何か考え込みながら問いかける。
「それではポーラさまも陛下が他に女性をお持ちになったら……嫉妬なさるのか?」
「お願いですから『さま』はやめてくださいませ。わたしとラティーナさまとでは立場が全然違います。わたしは陛下の側室でしかない女ですから、お傍にお仕えできるだけで充分すぎるほど幸せです」
これはポーラの嘘偽りのない本心だった。
ポーラが愛した人は『国王』である。
その事実の前には市井《しせい》の常識など通用しない。
「わたしはフェルナンさまも授かりましたし、今は二人目のお子もお腹にいるのですから。これ以上を望んだりしたら罰が当たります」
ポーラの最大の美点は分をわきまえていることだ。
ラティーナは夫には自分一人を見ていてほしいと願い、ポーラは末席でもいいから傍にいられればと切に思っている。そしてロザモンドは夫がどんなに他の女性に眼をやっても夫が本当に愛しているのは自分だけだと知っているから平然としているのだ。
「それがわかっていても思うとおりにならないのが女の嫉妬というものなんですのよ」
悪戯《いたずら》っぽく言ってくるラティーナにロザモンドは苦笑した。
こんなふうに気心の知れた女の友人ができるとは、以前には想像すらできなかったことだ。
ロザモンドを取り巻く人々も、バルロを取り巻く人々同様、公爵家の肩書き目当てだったからである。
しかし、この人たちは違う。本当に親身になって、自分を気づかい、心配してくれているのがわかる。
ポーラが笑顔で尋ねた。
「ロザモンドさまの眼でご覧になっていかがです? その少年はどんなお子さまですか?」
「いい子ですよ。サヴォア公の子とは思えないほどおとなしくて内気に見えますが、騎士団では熱心に修行に励んでいるそうです。何より気だての優しい少年で――あれは母親の教育のたまものでしょうな。さすがはレヴィン夫人だと感心しました」
これにはポーラが驚きを隠しきれない顔になった。
「……少年の母親をご存じなんですか?」
「おや、まあ……」
ラティーナも絶句している。
その反応が予想外で、ロザモンドは首を傾げた。
「直接には存じ上げないが、レヴィン夫人はあの頃、何かと話題に上ることが多い人だったので」
その話題の内容を隠す必要をロザモンドは微塵も感じていなかった。
この機会にすっかり打ち明けたが、聞いた二人は愕然《がくぜん》として顔色を変えた。
「そんな……! そんなことって!」
「ロザモンドさま! その少年はまさかそのことを知っているのではないでしょうね!?」
ほとんど悲鳴を上げた二人に対し、ロザモンドはきょとんと眼を見張ったのである。
「どうだろう。訊いたことがないからわからないが……そんなに大変なことなのか?」
これが大変でないと思う感覚こそ理解できないと、ポーラとラティーナは同時に思った。
それはわずか十数年前の話だ。
当時のことを覚えている人も大勢いる。
サヴォア公爵家に庶子が現れたこと、さらにその母親の名前が広く伝わるに伴って、その話も自然と世間に広がっていったのだ。
「聞いたか? ブライスの母親のレヴィン夫人って、先代サヴォア公爵の愛人だったんだってさ」
「へえっ、じゃあブライスは団長の息子じゃなくて、本当は母親違いの弟かもしれないってことか?」
見習いの少年たちが話しているのがいやでも耳に入ってしまい、ブライスは仰天した。
まさに青天の霹靂《へきれき》だった。
こんなことはまさか父には訊けない。
義母《はは》のロザモンドにはもっと訊けない。
実母に手紙で問い合わせるのは問題外だ。
確かめるのは恐ろしい。かといって無視できない。
激しい葛藤《かっとう》に何日も悶々《もんもん》と悩んだ末、ブライスはナシアスを頼ったのである。
ナシアスがたまたまティレドン騎士団を訪れた際、なりふり構わず『お話があります!』と訴えたのだ。
ナシアスは驚いていたが、ブライスの真剣な顔に何かを感じたらしい。騎士団の責任者に話をつけて、二人きりの場を設けてくれた。
ブライスはこの数日の懊悩《おうのう》を率直に吐露したが、その表情には強い不満と不信が混ざっていた。
自分の母が同時に二人と――それも父子《おやこ》と関係を持ったのは事実だろうかと、それが事実だとしたら嘆かわしいより汚らわしいと感じている口調だった。
ナシアスはそんな少年を厳しく諭したのである。
「自分の母親を蔑《さげす》むことも許せないが、それ以上にわたしの大切な人を悪《あ》し様《ざま》に言うのは許せないな」
「えっ?」
「おまえの母上はわたしの初恋の人なのだよ」
ブライスは絶句した。若々しいその顔には非常な驚きと同時に明らかな疑惑が浮かんだ。
では、この人は母を競って父に敗れたのか……。
「何を考えている?」
「いえっ! あの……」
バルロの表情を読み慣れているナシアスにとって少年の疑問など口で言われたも同然だ。
笑いを噛《か》み殺しながら、やんわりと問いかけた。
「優しいな。わたしに同情してくれているのかな? おまえの父上に母上を奪われた恋の敗者だから」
「そ、そんなことは……」
ブライスはだらだら冷汗を流していた。
何がこんなに恐いのか自分でもわからなかった。
相手は優しく穏やかに微笑んでいるのに、気分はまさしく蛇《へび》に睨《にら》まれた何とやらである。
「残念ながら、わたしはそれほど命知らずではない。その頃の母上は先代サヴォア公爵の思われ人だった。――同時に、おまえのお父上の教育係でもあった」
ブライスが顔色を変えてナシアスを見た。
「ではあの……、あの噂《うわさ》は……」
「そうだ」
あっさりと肯定され、ブライスは拳《こぶし》を握りしめて立ちつくしたのである。
「詳しいことはおまえの母上に聞くといい。母上はきっとおまえには何も隠さない」
ブライスをバルロに任せると決めた以上、遅かれ早かれこの時が来るのは覚悟していたはずだ。
ハイデカー夫人はそんなこともわからないような愚かな女性ではない。
しかし、その息子のほうはすぐには納得できない様子だった。それでなくとも少年の一本気な心には耐えがたいことなのだ。
「ですけど――不潔です!」
泣きそうな顔で叫んだ少年が哀れで、同時に昔の自分を思い出して、ナシアスは微笑んだ。
「それはおまえのものの考え方。サヴォア公爵家はおまえの育った家とはまったく違うと言ったはずだ。それどころかデルフィニアのどんな貴族と比べても別格だ。町育ちのおまえが馴染めないのはわかるが、これだけは言っておく。母上を責めるのは筋違いというものだぞ。女性の母上がサヴォア公爵の意向に逆らうことなどできると思うのか?」
再び少年の顔色が変わった。
その言葉が何を示すかは明白だったから、思わず身を乗り出した。
「まさか、まさか、母は無理やり……」
「違う。母上は賢明な方だ。公爵に抵抗する無益を悟り、ご自分で選択された。幼いおまえの姉二人を無事に守り育てる最良にして唯一の道をな」
ブライスは声もなくうなだれてしまった。
母が自ら望んだことではなかったのだ。
他に選択肢がなく、どうしようもなかったのだと自分に言い聞かせても、感情が納得してくれない。
そんな自分が情けなくていやだった。
激しい葛藤に苦しむブライスにナシアスは優しく声を掛けたのである。
「もう一つわたしに言えることは、あの頃の母上は決して不幸ではなかったということだ。母上は先代公爵に臆することなく五分に渡り合うことのできた、希有《けう》なご婦人だったのだぞ」
「…………」
「母上はおまえをここへ連れてきて父上に会わせた。それが何を意味するか、おまえにはわかるはずだ。その事実をもっとも重んずるべきではないかな?」
ブライスは顔をくしゃくしゃにしながらも頷いて、深々と頭を下げたのである。
その夜、屋敷に戻ったブライスは、わざわざ父の書斎を訪ね、あらためて切り出した。
「お話があります、父上……」
「何だ?」
「わたしは本当に……父上の子でしょうか?」
声が出たのがいっそ不思議だった。
唐突な言葉にバルロは黙って息子を見返したが、そこに立つブライスは今にも消えてなくなりそうな風情だった。
少年が何故こんなことを言い出したのか、想像はたやすかった。人の口に戸は立てられないからだ。
ロザモンド同様、バルロもブライスがこの問題を重視する理由がわからない。
自分の父親が誰なのかわからないという不安ならさすがに理解できるのだが、この場合は父か兄かという点だけが問われているのだ。それならたいして変わらんだろうとバルロは楽観的に考えていた。
しかし、それは少年の求める答えではないこともわかっていたので、ことさら力強く頷いた。
「もちろんだ。おまえの母上がそう言ったからな」
ブライスが納得していないのは明らかだった。
本当にそれでいいのかと顔中で訴えている。
大きな肩をすくめて、バルロは笑った。
「男親なぞ哀れなものでな。実際に子どもを産んだ女親の言葉を信じるしかない。だがな、ブライス。おまえの母上は立派な人だ。滅多にないご婦人だ。俺が言うのだから間違いはない。あの人が俺の子を産んでくれたことは俺にとって誇りであり、自慢ですらあるのだぞ。おまえは間違いなく俺の息子だ」
ブライスは真摯《しんし》な表情で父親を見つめていたが、父の表情に少しの疑問も躊躇《ちゅうちょ》もないのを感じ取り、ようやく少し肩の力が抜けたのである。
それを見届けてバルロは言った。
「ブライス。少なくとも俺はそれが原因でおまえの母上を嫌ったことはない。おまえはどうだ。母上が嫌いになったか?」
「いいえ」
「それでいい」
バルロはにっこり笑った。
釣られてブライスも思わず微笑んでいた。
このことがあって以来、ブライスは判断に困るとナシアスを頼る癖《くせ》がついてしまった。
バルロと親しくて、公爵家の内情にも通じていて、それでいて公爵家の権威に臆することなくはっきりものを言い、なおかつ庶民的な感覚を持ち合わせている人となると、そのくらい数が少ないのである。
強いてもう一人をあげるならティレドン副団長のアスティンが該当するくらいだろうか。
アスティンもブライスの立場の複雑さを考慮して、彼なりに対策を講じることにした。
ラモナ騎士団とティレドン騎士団は昔から共同で作戦行動や訓練に当たることが多い。
その打ち合わせにティレドン副団長がラモナ騎士団を訪れるのは普通のことだし、副団長が見習いの少年をお供に同行するのも当然のことだ。
顔を合わせれば世間話になるのも当たり前なので、ナシアスとアスティンはブライスから雑談混じりに話を聞き、相談に乗ってやっている。
こんな贅沢《ぜいたく》な話し相手は普通の見習いの少年には望むべくもないし、立派な特別扱いだが、二人ともこの少年が背負っているものの大きさを考えると、教育係がいないのは却って危険だと考えていた。
何より『鉄は熱いうちに打て』だ。
ブライスも、この二人になら微妙な質問をしても大丈夫だと安心したらしい。心を許していろいろと打ち明けてくるのだが、困るのは時々とんでもない爆弾発言をそれと知らずにすることだ。
「さしでがましいこととは思いますが、陛下は独立騎兵隊長の人柄を見誤《みあやま》っておられるのでしょうか。それとも……騙されているのでしょうか?」
これにはナシアスもアスティンも肝を潰《つぶ》した。
人格者のアスティンが絶句する一方、ナシアスはたいていの人に絶大な効果を発揮する笑顔で少年を促したのである。
「誰がおまえにそんなことを話したのかな?」
見る人が見れば(特にティレドン騎士団長がだ)青ざめたに違いない。上辺だけは文句なしに優しい笑顔の物騒さは、経験の浅い少年では気づけない。
「あの、父が……」
予想外に若い自分の父親は案外、口が悪い。
特に独立騎兵隊長に対しては言いたい放題である。
昔なじみをいいことに国王に取り入ったおべっか使いだ、元はデルフィニア領内を荒らし回っていた山賊上がりだ、ドラ将軍とそのご令嬢をたらしこみ、まんまと娘婿《むすめむこ》に収まった、そんな卑劣漢《ひれつかん》を決して信用してはならんと、そこまで言われてしまっては、ブライスもどうしても身構えざるを得ないのだ。
なぜなら、父親が嘘《うそ》を言ったりするはずがないと、ブライスは頭から信じているからである。
父のこの言葉をそっくり打ち明けて、ブライスは躊躇《ためら》いがちにつけ加えた。
「――そんな怪しげな人物が陛下のお傍にいるのは、よくないことだと思います」
アスティンもナシアスも百戦錬磨の強者である。
内心の思いを顔に出して少年に気づかれるような愚は間違っても侵さなかったが、二人ともバルロに対して心の刃《やいば》を入念に研ぎ上げたのは間違いない。
アスティンはわざとらしく嘆息して言ったものだ。
「誰かに言う前に我々に相談してくれてよかったぞ。ティレドン騎士団の見習いがそんなことを言うのを人に聞かれたらただではすまなかった。最悪の場合、我が団が陛下にお叱りを受けただろう」
ナシアスも真剣な表情で頷いた。
「アスティンどののおっしゃるとおりだ。独騎長はデルフィニアを代表する騎士の一人であり、忠節の人であり、何より陛下の信頼に値する立派な人だぞ。父上はそれがおもしろくないのだろうが、独騎長に嫉妬しているとは言えなかったのだろうよ」
ブライスは眼を丸くした。
「父が、嫉妬――ですか?」
「そうとも」
気の毒に、父の威厳が粉微塵《こなみじん》になるようなことを、ナシアスは真顔で話してやったのである。
「言うまでもなく父上は王国を代表する貴族であり、陛下とは血のつながりもある。陛下の一番の寵愛を得ているのは自分でなくては気に入らないのだろう。しかし、現実に独騎長という人がいる。少年時代の陛下と仲良く遊び、その頃の陛下のご様子を詳しくご存じであり、陛下ご自身も心を許せる友人として深く頼みにしておられる人がだ。独騎長はそれほど陛下と親しい人だが、身分は一介の領主に過ぎない。父上には筆頭公爵としての誇りがあるから独騎長に敵愾心《てきがいしん》を燃やすのもわかるのだが、ものには限度というものがある。つまらぬ嫉妬のせいで、おまえは危うくとんでもない誤りを信じ込むところだったぞ。――父上にはわたしからよく[#「よく」に傍点]言い聞かせておく」
すかさずアスティンが少年に口止めする。
「お父上の面目にも関わることだ。口外はならんぞ。無論、お父上本人にもだ」
「は、はい!」
少年は緊張に硬くなって勢いよく返事をした。
同時に、まさかそんなこととは思わなかったから相談してよかったとほっと安堵《あんど》したが、ナシアスがバルロに猛省を促したのは言うまでもない。
「ブライスはまだ少年だぞ。おまえの本気も軽口も区別がつかないのだから滅多なことは言うな」
バルロにしてみれば、この非難はいい迷惑としか言いようがなかったし、逆に新鮮でもあった。
自分の皮肉混じりの毒舌を真に受ける人などいるはずがないという前提の下に言っているからだ。
「驚いたな。あれを本気にしたのか?」
「だから相手は子どもだと言っている。ブライスは頭のいい少年だ。迂闊には人に言えないと判断して、わたしとアスティンどのに打ち明けたのだろう」
「……その判断が既に間違いなんだがな」
「何か言ったか?」
「いいや、何も」
バルロは慌ててごまかしたが、ナシアスはそれで勘弁してやるつもりはなかったのである。
「正直に白状しろ。わたしを狐と言っただろう?」
「あれは誉め言葉だ!」
「おまえにしては苦しい弁明だな」
ナシアスはそれ以上は追及しなかった。
ここであまり厳しく叱責してしまうと、バルロはブライスに何も話さなくなってしまう可能性がある。
それよりはバルロの言動を少年の口から聞き出すほうが利であると判断したのだ。
この抜け目のなさがティレドン騎士団長をして、この人を『狐』と言わせる所以《ゆえん》だったが、バルロにとってもブライスにとってもナシアスがいてくれた意味は非常に大きいと言えるだろう。
この頃になると、ブライスの出生は至るところで囁かれるようになっていた。
ブライスが誰の子かという話題ではない。
父親と息子が同じ女を奪い合うとは何事かという非難と興味に人の話題が集中しているのである。
中には、公爵と次期公爵を迷わせるとはよっぽどいい女だったのだろうという下卑た意見もある。
貴族階級の人間なら、サヴォア家でそんな争いが起きるはずがないと知っている。あれは先代公爵が息子のためにした手解《てほど》きだったと理解している。
従って熱心に噂に興じているのはそうした習慣が身近にない人々、その状況では父と子が一人の女を競い合ったとしか解釈《かいしゃく》できない人々――つまりはブライスの周囲にいる庶民階級の人々だった。
努めて無視するようにしていたが、まだ十四歳のブライスが心ない言葉に傷つかないはずがない。
そんなある日、ブライスはナシアスの供をして、本宮を訪れることになった。
「公用ならうちの人間を連れて行くのだが、明日は私用だからね。よかったらつきあってくれないか」
「喜んでお供致します」
サヴォア館は一の郭、ナシアスの屋敷は二の郭にある。本宮を訪ねるならナシアスが上にやってきてブライスと合流するのが近いが、ブライスはその朝、わざわざ下に降りて、ナシアスの家まで迎えに行き、ナシアスに従って一の郭まで戻った。
それが目上の人に対する礼儀だからである。
この日、待ち合わせたナシアスは私服姿だった。
白百合の騎士団服を見慣れている眼には新鮮で、まるで知らない人のようだった。ラモナ騎士団長の供をしていることが何となく誇らしくもあったが、それも本宮に入るまでだった。
ナシアスは慣れた足取りでどんどん進んでいくが、ブライスはそうはいかない。
緊張のあまり周囲の景色もろくに見えなかったし、自分がどこを歩いているかも自覚していなかった。
ここは王国のまさに最深部だ。
本来、自分の身分では一生足を踏み入れることも許されなかった場所なのである。
気がつくとナシアスは足を止め、当然ブライスも立ち止まっていた。
そこは中庭に面した小さな応接間だった。
ブライスがほっとしたのは、そこがあまり豪華な部屋ではなかったからだ。サヴォア家の豪華|絢爛《けんらん》な内装を見慣れた眼には質素に映るくらいだが、壁も床も調度品も趣向を凝らしてあるのは間違いない。
見あげるような体躯の人が、にこにこ笑いながら庭から入ってきた。
「やあ、ナシアスどの。よく来たな」
「お待たせしてしまいましたか?」
「とんでもない。俺のほうが遅れそうになったので庭を突っ切ってきたのだ。このほうが早いからな」
ラモナ騎士団長が敬語で話すからには身分の高い人なのだろうが、ずいぶん質素な身なりの人だった。
初夏の好天気なのは確かだが、上着も着ていない。
「こちらがブライスか?」
人懐こい笑顔の人は優しい眼でブライスを見つめ、頷いたナシアスは感慨《かんがい》深げに言ったものだ。
「血は争えません。昔のバルロにそっくりです」
「はてさて、これほど可愛らしい少年であったとはとても信じられんのだが……」
今度は露骨な疑いの眼差しでブライスを見た人に、ナシアスは笑って首を振った。
「そうでもありません。あの頃のバルロから頑固《がんこ》で生意気な眼の光と、強情張りな口元と、目上の者に対する口のきき方も知らない尊大で傲慢《ごうまん》な態度と、何であれ一言《ひとこと》言わずにいられない皮肉な性分を取り除けばブライスになります」
とんでもない言葉の連続にブライスは絶句したが、大きな人は声を立てて笑っている。
「似て欲しくないところは似なかったわけか。結構。ブライスの母君はいい母君だったのだな」
「わたしはそう思っているのですが……」
言葉を濁《にご》したナシアスの言いたいことは相手にも充分伝わったらしい。
このごろ世間を騒がしている噂のことはこの人も承知しているのだろう。二人に椅子を勧めて自分も腰を下ろすと、真剣な顔でナシアスに話しかけた。
「個人的な感想だが、この件に関しては先代公爵が悪いと思うぞ。息子が心配なのはわかるが、いくら何でも自分の側室をあてがうことはあるまいに」
「ですから、そのくらい傑出した女性でした」
「そう聞くと、ぜひ一度お会いしてみたくなるな。母上がこちらに来ることがあったら俺のところにも顔を出してくれるようにお願いしてくれるか?」
これはブライスへの質問だった。
名前も知らない人のところへ顔を出せとは無茶なことを言うものだが、ブライスは素直に肯《うなず》いた。
「伝えておきます」
「父上がおまえを可愛がっていることは間違いない。ただ、その手段が問題だ。俺も未だに大貴族の内情には詳しくないのだが、先代公爵が行《おこな》ったような手解きは、サヴォアやベルミンスターの間では今も普通に行われているのだろうか?」
独り言のような問いに再びナシアスが首を振る。
「当時でもあまり普通とは言えなかったでしょう。バルロも恐らく、ブライスやユーリーに対して同じ手解きをしようとは思っていないはずです」
ブライスは驚いた。まさかそんな形でこの問題が自分の身にふりかかってくるとは思わなかったのだ。
ナシアスが否定してくれたことでほっとしたが、なぜか大きな人まで安堵したように見えた。
「そうか。ならば何よりだ」
「それを心配していらしたのでしょう?」
「ナシアスどのに隠しごとはできんな。その通りだ。サヴォア公爵家ではそれが普通のことだというなら俺が口を出すわけにはいかんからな」
「何をおっしゃいますやら。教育上悪いとはっきりおっしゃればよろしいでしょうに」
「言いたいのはやまやまだが、それは俺の考え方だ。従弟《いとこ》どのには従弟どのの教育方針があるのだろうし、家庭の問題に俺が首を突っこむわけにもいかん」
この言葉が妙に引っ掛かって、ブライスは思わず相手に向かって問い掛けていた。
「従弟と言いますのは……父のことですか?」
「もちろんだ。父上は俺の自慢の従弟どのだぞ」
わけがわからなかった。本当に不思議そうな顔でブライスはさらに尋ねたのである。
「ですけど……、父とそうした縁戚関係にある方は国王陛下お一人だけのはずですが……?」
ナシアスが吹き出した。
大きな人は声を呑み、世にも情けない顔になると、身体を縮めて何だか申し訳なさそうに言って来た。
「すまんな、ブライス。俺がその国王なのだ」
穴があったら入りたいとはこの状態を言うのだと、ブライスは生まれて初めて実感した。
ざあっと血の気の引く音が確かに聞こえた。
「――申し訳ございませんっ!!」
ただちに立ち上がり深々と頭を下げたが、背中を伝う冷汗が逆流して頭が濡れるかと思ったくらいだ。
「そんな堅苦しいのはよそう。まあ、座りなさい。おまえは従弟どのの子だ。俺にとっても血が続いているのだから、一度顔を見ておきたくてな。父上にお願いするよりは自由に話が聞けるだろうと思って、今日はナシアスどのに案内を頼んだのだ」
ブライスが泣きそうな眼をナシアスに向けたのは言うまでもない。こんな不意打ちはあんまりですと顔中で訴えたが、ラモナ騎士団長は涼しい顔である。
国王もいっこうに気にする様子もない。
屈託のない笑顔でブライスに話しかけてきた。
「俺も庶子だということは知っているかな?」
「は、は、はい……」
「人は自分で生まれは選べんが、生き方は選べる。おまえは己《おのれ》に何を望む?」
国王と面と向かって話しているのだと思った瞬間、ブライスの舌は釘で打ちつけられたようになった。
「じ、自分は……」
喉《のど》がからからに干上がったが、国王の質問に何も答えないわけにはいかない。かろうじて言った。
「……今の目標は、一人前の騎士になることです」
「ならばおまえは今、最高の環境にいることになる。俺もその日が来るのを楽しみにしているぞ」
「か、かたじけなく存じます……」
一刻も早くここから逃げ去りたかったが、国王は本当に気さくな人だった。まるで近所の小父さんと話をしているような錯覚さえ感じたくらいだ。
次第に話は弾み、あろうことか昼食まで御馳走になる羽目になってしまった。
ナシアスが同席していてくれなかったら、絶対に食べ物など喉を通らなかっただろう。
国王と食事をするなんて夢にも思わなかったが、国王の人柄もあって、食事が終わる頃にはその人の姿をそっと窺《うかが》い見るくらいの余裕は生じていた。
身体の大きなところや眼も髪も真っ黒なところは父に似ているかもしれないが、雰囲気が大違いだ。
この人が今や中央を席巻《せっけん》した英雄であるとは到底信じられない。しかも、その英雄と自分とが多少の血が続いているとは言われるまで気づかなかった。
その事実にあらためて思い到った時、ブライスは躊躇いながらも口を開いていたのである。
「陛下、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「何かな?」
「陛下の叔母さまに当たられる方のことです」
国王とナシアスが無言でブライスを見た。
非難しているのではない、子どもの無知を温かく見守るような雰囲気だった。
ある程度予想できた反応だった。ひやりとしたが、ブライスは思いきって言葉を続けたのである。
「その方は、わたしの祖母に当たる方でもあります。一度ご挨拶をすべきだとずっと思っているのですが、なぜか家ではその方のことは禁句のようで、執事のカーサも詳しいことは話してくれません」
それどころか珍しくも厳しい顔で、それは二度とおっしゃってはなりませんと釘を刺してきた。
国王とナシアスの態度もカーサの言葉を裏付けているが、ブライスが知りたかったのはその理由だ。
その人は先代国王の妹にして現国王の叔母である。
王国でももっとも高貴な女性の一人のはずなのに、なぜその人のことを話してはいけないのか、それが知りたかったが、国王も答えるつもりはないらしい。
「確かに。俺とおまえをつなぐものはアエラ叔母だ。あの方は俺の父の妹で、おまえの父を生んだ母だが、カーサが正しい。俺も忠告するが、あの方の名前を父上の前で出すのは避けたほうがいい。どうしても知りたいのならベルミンスター公に尋ねることだ」
「義母に……ですか?」
「うむ。そのほうがまだ安全だ。――いいな?」
どうやらサヴォア公爵家には自分の出生以外にも複雑な事情があるらしい。
食事が済むとナシアスは本宮に残り、ブライスは小者に案内してもらって本宮を辞去したのである。
再び頭上に青天を見た時は一気に緊張が解けた。
大仰に言うなら腰が抜けそうな気がしたものだ。
放心状態で立ち尽くしているブライスの目の前に、いつの間にか黒猫がちょこんと座っている。
「どうしよう……」
盛大なため息を吐いてその場にしゃがみ込むと、ブライスは黒猫に向かって真顔で話しかけていた。
「国王陛下とお話ししてしまったよ……」
つい先日の自分には想像もできなかったことだ。
黒猫は金色の眼でじっとブライスを見つめている。
「ぼくはここでうまくやっていけるのかな……?」
馬鹿なことを言っていると思ったが、他に言える相手がいないので仕方がない。
父に対してもナシアスに対しても、自分の不安な心境を打ち明けるのは抵抗があった。
本当は、とんでもないところに来てしまったと、ずっと思っている。ハイデカーの家に帰りたいとは思わなかったが、新しい環境に未だに馴染めない。
そのせいで自信が持てないのも確かだった。
「どう思う?」
尋ねたところで答えがあるわけがない。
黒猫は大きく伸びをすると、長い尾を一振りして、のんびりと歩いて行ったのである。
その尻尾を眺めている間に、ブライスはようやく我に返って立ちあがった。
ここからベルミンスター邸は目と鼻の先である。
訪ねて行くと、ロザモンドは在宅中で、大喜びでブライスを迎えてくれた。
「義母上。お忙しいところを申しわけありません」
「何を言うことか。来てくれて嬉しいぞ。わたしに何か話があったのかな?」
「はい。実はあの……お祖母さまのことを聞かせていただきたいと思いまして……」
たちまちロザモンドの顔色が変わった。
「ブライスどの。まさかその質問をサヴォア公にはしていないだろうな?」
「はい。陛下とラモナ騎士団長に止められました」
「そうか……。さすがはお二人だ」
ロザモンドは大きな安堵の息を吐いた。
神妙な顔つきで自分の言葉を待つ少年を見つめて、東を代表する大公爵は慎重に答えたのである。
「ブライスどの。その質問にはブライスどのがもう少し大きくなったら答えようと思う。今はまだ早い。――だが、いずれ必ずお話しする。それは約束する。だからブライスどのも一つ約束してくれ。サヴォア公の前では決してあの方のことは口にしないと」
義母の顔は見たことがないくらい厳《おごそ》かだった。
ブライスは黙って義母を見つめていた。こんなに義母の顔を見つめたのは初めてかもしれなかったが、負けず劣らず真剣な表情で肯いた。
「お約束します」
ロザモンドはにっこり微笑んだ。
「今日はこれからどうなさる?」
「少し剣の稽古をしようかと思っております」
「それはいい。ならば、わたしがお相手しよう」
「は?」
「ここ最近ずっと机に張りついてたのでな。身体がなまっていけない。ちょうどいい機会だ。わたしが鍛《きた》えてさしあげるとしよう」
ブライスは青くなった。女性を相手に――しかも義母を相手に木太刀を使った稽古などとんでもない。
結構ですと言おうとした時には、義母は召使いに稽古の支度をするようにと言いつけている。
なんと言って辞退すればと焦《あせ》っていると、運よくバルロがやってきた。
「父上!」
咄嗟に救いを求めたブライスだが、これが完全に裏目に出た。バルロは笑って言ったのである。
「何を遠慮することがある。存分に鍛えてもらえ。ベルミンスター公の腕前は確かなものだぞ」
ますます青くなったブライスだった。
あれよあれよという間に上着を取られ、木太刀を持たされ、陽の降りそそぐ広大な庭でロザモンドと手合わせする羽目になっていたのである。
剣を使う女性などブライスの感覚では有りえないものだった。その女性を守るために戦うのが騎士のはずだったが、ロザモンドはとんでもなく強かった。
いつも稽古をつけてもらっているキャリガンより遥かに太刀筋が鋭く、容赦がない。
ブライスはたちまち、ぜいぜい喘《あえ》ぐ羽目になった。
逆にロザモンドは楽しそうだった。頬《ほお》を上気させ、眼をきらきら輝かせて、満足そうに言ったものだ。
「筋がいいぞ。ブライスどのは鍛えがいがあるな。これから手が空いている時は、わたしが剣術指南を務めることにしよう」
今度こそ真っ青になったが、稽古を見学していたバルロも大いに賛成とばかりに肯いている。
「いいことだ。ブライスにはもったいない師匠だが、どうせなら一流の指導者につくべきだからな」
「そうとも。考えてみれば十四歳からの騎士修行は他の少年に比べれば少し遅いのだから、遅れを取り戻すためにもブライスどのには家庭教師が必要だ。最初からこうすればよかったな」
「まったくだ。義母上に感謝して修行に励めよ」
ブライスは再び絶望的な気分でを空を仰いだ。
ここでは町中の常識は通用しない。
ナシアスのその言葉をあらためて心に深く刻んだブライスだった。
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COMMENTS
茅田砂胡一
かやたすなこ
「デルフィニア戦記」「スカーレット・ウィザード」「クラッシュ・ブレイズ」シリーズなど
25周年おめでとうございます。気がつけばその半分ほどに書かせてもらっていますが、これからも30周年、35周年、40周年と書き続けていければと思っています。本当は50周年が目標ですが、さすがに現実を考えると難しいかもしれません(笑)。
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底本
中央公論新社 C★NOVELS
|C★N25《しーえぬにじゅうご》
――|C★NOVELS《しーのべるす》創刊《そうかん》25周年《しゅうねん》アンソロジー
編者 |C★NOVELS《しーのべるす》編集部《へんしゅうぶ》
2007年11月25日  初版発行
発行者――早川準一
発行所――中央公論新社
[#地付き]2008年6月1日作成 hj