少年船長の冒険

目次

第一部
一 スクーナー船ピルグリム号
二 ディック・サンド
三 難破船
四 ウォルデック号の生存者
五 S・V
六 クジラが……
七 準備
八 ナガスクジラ
九 サンド船長
一〇 その後四日
一一 嵐(あらし)
一二 水平線に
一三 陸だ! 陸だ!
一四 何をするか
一五 ハリス
一六 出発
一七 恐ろしいことば
第二部
一 奴隷売買
二 ハリスとネゴロ
三 前進
四 難行程
五 白アリに関する講義
六 釣鐘型潜函(つりがねがたせんかん)
七 コアンザ川の野営地
八 ディックのノート
九 カゾンデ
一〇 市の日
一一 カゾンデの王に捧げられた酒
一二 王の埋葬
一三 商館
一四 マンティコール・テュベルクルーズ
一五 魔術師
一六 流れにまかせて
一七 さまざまな事件
一八 S・V
一九 結び
訳者あとがき

第一部

一 スクーナー船ピルグリム号

一八七三年二月二日、スクーナー船ピルグリム号は、西経百六十五度十九分、南緯四十三度五十七分の地点にいた。南方海域での遠洋漁業に出るためにサンフランシスコで装備をほどこした四百トンのこの船は、カリフォルニアの金持の船主ジェームズ・W・ウェルドンの持船だった。彼は数年前から、ハル船長にこの船の指揮を委(ゆだ)ねていた。
ピルグリム号は、ウェルドンが毎年の季節がやってくるとベーリング海峡をこえて北氷洋まで、またタスマニア海域ないしはホーン岬(みさき)をこえて南氷洋にまで派遣する船隊の船のうちでは最も小さいものの一つだったが、最優秀船の一つだった。船脚がすばらしく速かった。その装備はすべて、きわめて扱いやすいので、南半球の、絶対にその中にはいりこめない大浮氷群を眼前にしても、ごくわずかの人員で危険に直面することができた。ハル船長は大浮氷群に取りかこまれても、水夫たちのことばを使えば《どうにかこうにか難を切り抜ける》術(すべ)を心得ていた。これらの浮氷群は、地球の北方の海上と比べてずっと低い緯度のところまで、ニュージーランドあるいは喜望峰と直角をなして流れて来るのである。むろんこれは、すでに物にぶつかって擦り減り、暖かい海水のために浸蝕(しんしょく)されてしまった小さな氷山だけが問題になるのであって、大部分が太平洋か大西洋に出ると解けてなくなるものなのである。
有能な船長で、捕鯨船隊の最も腕ききの銛打(もりう)ちの一人であるハル船長の指揮下には、五人の水夫と一人の見習水夫からなる乗員がいた。かなりたくさんの乗員が必要な捕鯨漁業にとって、この数は少なすぎた。キャッチャーボートの操縦のためにも、捕獲したクジラの解体のためにも、多くの人員が必要なのである。しかし何人かの船主たちの例にならって、ウェルドンは、サンフランシスコでは捕鯨船の操縦に必要な水夫だけしか乗り組ませないほうが、ずっと経済的だということを知っていた。ニュージーランドに行けば、脱走兵その他の、あらゆる国籍をもった銛打ちにはこと欠かなかった。彼らは、捕鯨の季節が来ると働き口を探し、鮮やかな手さばきで捕鯨作業に従事することができるのだった。彼らを必要とする時期が過ぎると、船主は賃銀を払い、彼らを船からおろした。そして彼らは来年の捕鯨船がまた雇いに来るのを待つのだった。こうしたやり方で、自由に動員できる乗員をよりいっそう有利な方法で雇うことができ、また彼らを船員組合から外しておくことでいっそう大きな利益をうることができるのだった。ピルグリム号の乗員の状況は、ざっとこんなところである。
このスクーナー船は、南極圏とすれすれのところでこのシーズンの活動を終わったところだった。しかし鯨油も鯨肉も満載というところまでにはいってなかった。この時代でも、もうすでに捕鯨はむずかしくなっていたのだ。あまりにも捕獲しすぎたために、クジラの数は少なくなっていた。北極洋と南海にいるセミクジラは絶滅に瀕(ひん)し、捕鯨業者たちは巨大なナガスクジラを再び捕らなければならなくなっていたが、これを捕獲するには少なからぬ危険があった。今度の捕鯨でのハル船長の戦果は、大体そういったところだったのだが、この次の捕鯨では、もっと緯度の高い海域にまで行くつもりだった。
結局、このシーズンは、ピルグリム号にとっては恵まれたものではなかった。一月の初め、すなわちオーストラリアでは夏の真盛りで、捕鯨業者にとってはまだ帰還の時期が来ていなかったにもかかわらず、ハル船長は漁場を放棄しなければならなかった。増援のために加わった船員たち――これはかなり無能な連中ばかりだった――が、船長にいわば《いちゃもんをつけて》来たので、漁場を離れることを考えなければならなかった。
そこでピルグリム号は、ニュージーランドに向かって、北西の方向に船首を向けた。そして、一月十五日にニュージーランドの陸地を認め、ニュージーランドの北島のハウラキ湾の奥にあるオークランド港に着いた。そして船長は捕鯨シーズンのために雇った水夫たちを下船させた。
乗員たちは不満たらたらだった。少なくともピルグリム号に積荷としては二百樽(たる)の鯨油が不足していたからだった。こんな不漁は今までに一度も経験したことがなかった。だからハル船長は、生まれて初めて手ぶらか、あるいはそれに近い不漁で戻って来た一人のベテランの銛打ちとしての大きな失望を抱いてここまで戻って来たのである。船長は自尊心を強く傷つけられ、反抗して遠征の成果をすっかり台なしにしてしまったやくざな連中に船長はがまんがならなかった。
オークランドで新しい捕鯨船の乗員を募集してみたらどうかと勧める者もあったが、それはできない相談だった。動員できる限りの船乗りはすべて、別の捕鯨船に乗りこんでいたからだ。したがってピルグリム号の戦果を満たそうとする希望はあきらめるほかはなかった。結局ハル船長が、すごすごとオークランドの港を離れようとしていた、ちょうどそのとき、この船に乗せてもらいたいという申し出があり、しかも船長はそれを拒むわけにはいかなかったのである。
ピルグリム号の船主のウェルドン氏の夫人と、彼女の五歳になる息子のジャックと、みんなからベネディクトおじさんと呼ばれている一人の親戚(しんせき)の男が、そのときオークランドにいたのである。商用でときどきニュージーランドを訪れなければならないことがあるウェルドン氏が三人を連れて来たのだが、サンフランシスコへ帰るつもりで全員が出発しようとする間際になって、ジャックが重い病気にかかったため、商用で一刻も早く帰らなければならないウェルドン氏だけが、妻と息子とベネディクトおじさんを残してオークランドを離れたのだった。
三月経(た)っていた。長い別離の三か月だった。それはウェルドン夫人にとっては、とくに苦しいものだった。そして、子どもの病気が回復し、出発できるようになっていたときに、ピルグリム号の到着が知らされたのである。
この時代にサンフランシスコに帰るためには、ウェルドン夫人は、メルボルンからタヒチ島のパペーテ港経由でパナマ地峡に到るゴールデンエイジ太平洋横断航路会社の船を、オーストラリアまで探しに行かなければならなかった。そしてパナマに着いてから、パナマ地峡とカリフォルニアとの間に定期航路を持つアメリカの汽船の出発を待つ手筈(てはず)になっていた。そういうわけで、遅れたり、乗り換えをしたりするのは、女性や子どもにとってはいつも不愉快なことだった。そんなときに、ピルグリム号がオークランドに寄港したというわけだった。夫人はためらうことなくハル船長に、彼女と息子とベネディクトおじさんと、自分が子どものころからの召使いである黒人の老婆のナンを乗船させてはもらえまいかと頼んだ。一隻の帆船に乗って三千海里の旅をするのだ! しかしハル船長の船は装備が行き届いていたし、赤道の北も南も、まだ天候に恵まれている季節だった。ハル船長は承諾した。そしてすぐさま、彼自身の部屋をウェルドン夫人に提供した。四十日から五十日つづくかも知れない航海中、ウェルドン夫人ができるだけ安楽にくつろぐことができるようにと、船長は願っていた。
そういうわけだから、このような条件で航海をつづけることは、ウェルドン夫人にとってはいろいろと便利な点があった。ただ一つ困ったことは、ピルグリム号がチリのバルパライソに荷卸しに寄港しなければならないため、どうしても航海が長引くことになることだった。それが終われば、これらの海域の航海を非常に快適なものにさせる陸地からの風に乗って、アメリカの沿岸を北の方へと遡(さかのぼ)って行きさえすればよいだろう。
ウェルドン夫人はしかも、海を恐れない勇気のある女性だった。三十歳になっていたが、たくましい健康の持主で、遠洋航海にも慣れており、夫とともにさまざまな航海に出て辛(つら)い経験をともにしていたので、取るに足らぬトン数の船に乗ってさまざまな危険に遭遇する機会があっても、それを恐れてはいなかった。夫が満幅(まんぷく)の信頼を置いていたハル船長が優秀な船乗りであることを、ウェルドン夫人はよく知っていた。また、ピルグリム号は堅固な船で、船脚も速く、アメリカの捕鯨船隊のなかでは優秀な部類に属するものであり、ちょうど好い機会だったので、ウェルドン夫人はそれを利用することにした。
ベネディクトおじさんは、むろんいっしょに行くことになっていた。ベネディクトおじさんは、五十歳前後の気の良い男だった。しかし五十にもなっていながら、彼を一人で外に出すことは、はばかられたにちがいない。背は高いというよりはむしろ長く、痩(や)せているというよりは狭いといったほうがよく、顔は骨張り、頭が大きくて髪が長かった。その茫洋(ぼうよう)とした風貌(ふうぼう)は、まさに金縁眼鏡(めがね)のすぐれた学者、生涯大きな子どものままで百歳までも長生きをするように運命づけられた善良な人物のものだった。いつもその長い腕と脚とを持ち扱いかねているベネディクトおじさんは、日常のごくありふれた状況でさえも、自力でその場を切り抜けるということができなかった。しかも至極気さくで、何ものにも甘んずることができ、だれかが食べ物や飲み物を持って来ない限りは、食べることも飲むことも忘れており、暑さにも寒さにもいっこうに無感覚で、動物界よりもむしろ植物界に属しているように思われた。
ベネディクトおじさんとは、そういった人物であり、その弱点そのもののために人から愛されていたのだった。ウェルドン夫人は自分の息子のように、つまり息子のジャックの大きな兄さんのように思っていた。
しかしながらベネディクトおじさんは何もやらない、仕事のない人間ではなかったことを、付け加えておかなければならない。それどころか、なかなかの働き者で、彼が熱を上げているたった一つのものは博物学だった。《博物学》といえば、それは非常にたくさんのものを指すことになる。この学問を構成しているさまざまの部門が、動物学、植物学、鉱物学、地質学であることは、だれでも知っている。
ところでベネディクトおじさんは、どのような意味でも植物学者でも鉱物学者でも、地質学者でもなかった。それでは、ことばの完全な意味で動物学者だったろうか? 動物を解剖分析したり再構成したりするアメリカ大陸のキュヴィエ〔十九世紀初めのフランスの博物学者〕のような人物だったろうか? 現代科学が動物界全体を分類している四つの類型、すなわち脊椎動物(せきついどうぶつ)、軟体動物、関節動物、射形類の研究に通暁している深遠な専門家の一人なのだろうか? これらの四つの分類について、この素朴(そぼく)ではあるが研究好きな学者は、さまざまな種類を観察し、それらを区別する目、科、類、属、種、変種などを研究していたのだろうか? いや、そうではない。それでは、脊椎動物、哺乳類(ほにゅうるい)、鳥類、爬虫類(はちゅうるい)、魚類の研究に没頭していたのだろうか? そうでもない。彼の好きだったのは、頭足類から蘚苔虫類(せんたいちゅうるい)にいたる軟体動物だったのだろうか? そして軟体動物学こそ彼に対してより多くの秘密を持っていたものではなかったか? そうとも思われない。
結局のところ、ベネディクトおじさんは、その人生を、もっぱら昆虫学(こんちゅうがく)にささげているのだった。この学問にすべての時間を費やしていた。寝ているときでも、かならず《昆虫》の夢を見ていたから、《すべての時間》には例外はなかった。
こんな具合にこの変わり者の紹介をした以上は、ベネディクトおじさんがウェルドン夫妻といっしょにニュージーランドに来たのは、昆虫学に対する熱意からだということは、だれにでもわかるだろう。ここへ来てから、彼のコレクションにはいくつかの稀(まれ)な種類が加わっていた。だから彼が、サンフランシスコの自分の部屋の整理棚で分類をやるために急いで帰りたがっており、ウェルドン夫人とジャックがアメリカに帰る以上、ベネディクトおじさんが同行するということ以上に自然なことはなかった。
ウェイトマタでのピルグリム号の三日間の寄港中に、ウェルドン夫人は大急ぎで旅仕度を整えた。オークランドの彼女の邸宅にいた土着人の召使いたちはひまを出されて、彼女は一月二十二日に、息子のジャック、ベネディクトおじさん、それに彼女の召使いである黒人の老婆だけを連れて船に乗りこんだ。
いよいよ出帆というときになって、ウェルドン夫人とその同行者たちがスクーナー船の甲板に立っていたとき、ハル船長が彼女のほうに近づいて来て言った。
「奥さん。ご存じのこととは思いますが、奥さんがピルグリム号にご乗船になりましたのは、すべて奥さんご自身の責任でなさいましたことになりますが……」
「どうして、いまさらそんなことをおっしゃるのかしら、ハル船長?」とウェルドン夫人は答えた。
「というのは、わたしはこの件についてご主人からは何らの命令を受けておらないからです。要するにスクーナー船というのは、旅客運送用の特別な商船のような快適な航海を保証いたすわけにはまいりませんのでね」
「もし夫がここにいましたら、妻と息子といっしょに船に乗ることをためらうでしょうかしら、ハル船長」とウェルドン夫人は答えた。
「いや、そういうことはありませんでしょうね、奥さん」と、ハル船長は答えた。「わたしがためらわないのと同じようにね! 今度の捕鯨は収獲がさびしかったとはいっても、ピルグリム号はりっぱな船ですから。何年も前から船長をつとめているわたしが乗っている限り、自分では安全を確信しております。ただ、わたしが申し上げたいことは、奥さん、どんな事態が起ころうともわたし自身としてはその責任をとりたくないということです。それから重ねて申し上げますが、この船では、奥さんがいつも味わっていらっしゃるような快適な船上の生活はお望みになれないだろうということです」
「結局、問題は船旅が快適でないということだけなんですから、それでわたしが思いとどまるなんて、そんなことはありませんわ」とウェルドン夫人は言った。「わたしはけっして注文の多い旅客じゃないんですもの。ほかのみなさんはいつも、船室が狭いとか、食事がまずいとか文句をつけていらっしゃいますけれどもね」
そう言って、ウェルドン夫人はしばらくの間、手をつないでいた息子のジャックのほうをじっと見ていたが、
「まいりましょう、やっぱり。ハル船長」
と言った。
すぐに出帆準備の命令が出され、帆が進行方向にむかって張られた。最短距離を通って湾を出て行くように舵(かじ)を取りながら、ピルグリム号は船首をアメリカへ向けた。
しかし出帆から三日後、強い東風に邪魔されて、風を避けるように舵を取らなければならなかった。
そのために二月二日には、ハル船長は自分が予定していた緯度よりもずっと高い緯度のところに船がいることを知った。それは、アメリカ大陸にむかって最短距離を通って近づいているというよりは、むしろホーン岬(みさき)を回ろうとしている船乗りがいる位置だった。

二 ディック・サンド

しかし海は天気がよく、予定よりも遅れているということを除けば、航海はまあまあという状態だった。
ウェルドン夫人は、はなはだ快適に航海をつづけていた。後甲板船室とか甲板上の船室とかいうものも甲板の後部にはなかった。したがって婦人の船客を受け入れるような船尾の船室はなかった。ウェルドン夫人は後部にある、質素な船員の船室であるハル船長の部屋で満足しなければならなかった。その狭い部屋に、彼女は息子と老婆のナンといっしょにはいっていた。彼女が船長やベネディクトおじさんといっしょに食事をするのも、その部屋だった。船長は、船員室の一つ、すなわちもし副船長が乗っていれば、副船長がはいるはずの船室にはいることになった。
乗員たちは、りっぱな、しっかりした船乗りばかりで、いずれも同じような考え方と習慣をもっているという点では、堅い団結を示していた。その年の捕鯨シーズンは、彼らがいっしょに仕事をするようになってから四度目だった。彼らはみんなアメリカ西部の人間で、以前から互いに知り合いであり、いずれも同じカリフォルニアの沿岸地方の出身だった。
彼らは、無限の忠誠を誓っていた船主の夫人であるウェルドン夫人に対しては、非常に親切な態度をとった。船が収益を得るかどうかに大いに利害関係を持っている彼らは、それまでの航海で莫大(ばくだい)な利益を得てきたということを言っておかなくてはならない。人数は少なかったけれども、彼らが労を惜しまなかったのは、シーズンの決算期に、自分たちの労働の一つ一つが自分たちの利益を増すからだった。ところが今度の場合は、実際のところ、利益はほとんどゼロだった。そのために彼らは、あのニュージーランドのならず者の船乗りたちにたいしては、さんざん悪態をついて罵(ののし)っていたのであった。
しかし船には、たった一人アメリカ人でない船員がいた。それはポルトガル生まれの、しかし英語は巧みに話すネゴロという男で、スクーナー船では地味な料理番の役目を果たしていた。本来の料理番はオークランドで姿をくらましてしまったので、当時失業していたネゴロがこの役を引き受けようと申し出たのだ。この男は無口な、なかなか打ち解けない性質で、一人きり他人から離れていたが、自分の仕事はちゃんとやってのけていた。彼を雇ったとき、ハル船長はなかなか良い助手ができたように思ったが、船に乗りこんでからもこの料理番には非の打ちどころがなかった。
しかしハル船長は、十分に彼の前歴を洗うだけの余裕がなかったことを残念に思っていた。彼の顔、というよりは彼の目つきは、半分しか船長の気に入らなかった。制約が多く、親密なことが必要な船上の生活に未知の人間を加えるときには、その人間の過去の経歴を確かめるため手を抜いてはならないはずだったのである。ネゴロの年は四十歳ぐらいだった。やせて、神経質で、中肉中背、髪の毛は茶色で、やや日焼けしている身体は頑健(がんけん)に違いなかった。ときおり彼が口にする意見などから、教育のあることはわかったが、自分の過去のことは、けっして語らなかった。家族のことも、ひとことも言わなかった。どこからやって来たのか、どこで暮らしていたのか、だれも察することができなかった。将来はどうなるのか、それもわからなかった。ただ彼は、バルパライソで下船するつもりだということだけを口にしていた。また、彼は船乗りとは思われない人間だった。しかし、全然航海をしたことのない人たちのように、船の横揺れや縦揺れに気分が悪くなるかというと、そういうことは少しもなかった。彼の姿は、船上ではなかなか見かけることができなかった。日中はたいてい狭い料理場に閉じこもっており、夜になるとコンロの火を消して、船員たちの船室の奥にある自分の《小部屋》に帰っていき、すぐに寝てしまうのだった。
ピルグリム号の乗員が五人の船員と一人の見習水夫だということは、前に述べた。
この十五歳の見習水夫は、父も母も名の知れない孤児セった。生まれるとすぐに棄てられたこのあわれな少年は、慈善施設に拾われて、そこで育てられた。名はディック・サンドと言い、ニューヨーク州の、そしておそらくニューヨーク市の生まれだった。
リチャードという名前の略称であるディックという名前がこの少年孤児につけられたのは、生まれて二、三時間後に拾ってくれた情深い通行人がリチャードという名前だったからである。サンドという姓は、拾われた場所、すなわちハドソン川の河口のニューヨーク港の入口になっているサンディ・フックの岬の名にちなんだものだった。
ディック・サンドは十分に成長したときでも平均身長を越えそうもなかったが、身体は非常に頑健だった。アングロサクソン系であることは、疑う余地がなかった。しかし髪の毛は茶色で、青い目の水晶体は熱い火のように輝いていた。水夫という職業は、もうすでに彼に人生に対する闘争の心構えを準備させていた。賢そうな顔は、精力にあふれていた。しかもそれは大胆不敵な人間の力強さではなく、《沈着にして果敢な人間》の力強さだった。よく人は「幸運ハ大胆不敵ナル者(ヽヽヽヽヽヽヽ)ニ味方ス……」ということばをウェルギリウスの詩句として引用するが、あれはほんとうは間違いで、詩人は「幸運ハ沈着ニシテ果敢ナル者(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)ニ味方ス……」と言っているのである。大胆不敵な者は、向こう見ずなことがある。沈着にして果敢な者は、まず最初に考えて、それから行動にうつる。そこには違いがある。
ディック・サンドは、沈着にして果敢な人間だった。十五歳なのに、すでに決心をつけることができ、心にきめたことを徹底的に実行することができた。活気に満ち、しかもまじめな態度は、人々の注意を引いた。彼は言動に、同じ年ごろの少年たちのようなチャランポランなところがなかった。普通なら生活の問題などはほとんど口にしないような幼いころから、貧しい生活条件に立ち向かっていた。そして彼は自分自身で《自分を作り上げていこう》と心にきめており、まだほんの子どもにすぎない年ごろなのに、もうすでにほとんど一人前の大人になっており、りっぱに人間ができ上がっていた。それと同時に、あらゆる身のこなしが非常に敏捷(びんしょう)で巧みで、何でもうまくやってのけ、いつでも元気に仕事にたずさわるのである。
養育院で育てられ、四歳のときから、ニューヨーク州立の学校で読み書き算数を習った。八歳のとき、生まれつき海が好きだったディックは南方の海の遠洋航海に、少年水夫として乗り組んだ。そしてこの航海で、きわめて幼いころから習っていなければならない水夫の仕事をおぼえたのであった。この少年に関心を持つ上級船員たちの指導で、彼は船の仕事を習いおぼえていった。おそらく昇進の時期が来る前に見習水夫になるはずだった。少年は、初めから労働が人生の掟(おきて)であることを知った。
ディック・サンドがハル船長に認められたのは、彼がある商船の少年水夫として働いていたときのことだった。ハル船長は、すぐさまこのすばらしい少年に友情を感じた。そしてハル船長は、この少年を船主のジェームズ・W・ウェルドン氏に紹介した。ウェルドン氏はこの孤児に強い関心を寄せてサンフランシスコの学校に入れてやった。
勉学期間中、ディック・サンドは、航海に関係のある数学の分野を修得する年齢になるまでは、地理と航海とに特に強い関心を示した。しかも彼は教育の理論的な部分に、実際的な部分を加えることを怠らなかった。そして彼は、見習水夫としてはじめてピルグリム号に乗船することができた。りっぱな船乗りは、大航海と同時に大仕掛けの漁の実際をも知らなければならない。それが、海上生活に伴うあらゆる不慮の出来事に対応できる、りっぱな訓練となるのである。ディック・サンドは、恩人ジェームズ・W・ウェルドン氏の船に乗って、保護者であるハル船長の指揮を受けて出発したのである。したがって彼は、この上もなく恵まれた条件の下に置かれていたのだ。
ウェルドン夫人がピルグリム号に乗って船旅をしようとしていることを知ったとき、ディック・サンドはどれほど喜んだことだろう。ウェルドン夫人は、何年間ものあいだ彼にとっては母のような存在だった。そしてジャックを見ると、金持の船主の息子に対する自分の地位のことは十分に考慮に入れながらも、弟に対するような気持になるのだった。彼の血の中には、保護者たちに対する感謝の気持があふれていた。将来もしいつか、彼らのために自分の生命を捧(ささ)げなければならないようなことが起こったら、この若い見習水夫はためらうことなく生命を投げ出すことだろう。
ウェルドン夫人は、かわいがっているこの少年が、どれほど値打ちのある人間だか知っていた。彼女は何の不安もなく息子のジャックをこの少年に任せることができた。ディック・サンドはこの子をかわいがっていたし、ジャックも兄に対するような気持でディックを探し求めた。航海中の暇な時間、海が凪(な)ぎ、船の帆の調子がよくて操作する必要がないときなど、ディックとジャックは、ほとんどいつもいっしょにいた。ディックは、彼の仕事の中でジャックに興味がありそうなものを何でもやってみせた。ディック・サンドといっしょになってジャックが支え綱に飛びついたり、前マストによじのぼったり、トガンマストの横木に登ったりしても、あるいは斜めに張った綱を矢のように滑り降りたりしても、ウェルドン夫人は少しも心配しなかった。ディック・サンドはつねにジャックの前か後にいて、たとい五歳の子どもの腕がそんな冒険をやって力が弱るようなことがあっても、支えるか抱きとめようと身構えているのだった。ジャックはその前に病気にかかったために少し顔色が悪かったが、この運動は健康に大いに役立った。毎日この運動をやったためと、健康に良い潮風に吹かれたために、ピルグリム号に乗りこんでから、顔色がめきめきよくなった。
こうして航海は順調に進み、非常な悪天候などはやって来そうもなかったし、ピルグリム号の船客も乗員も、別に困難な事態に遭遇するものとも思えなかった。しかし、あまりに頑強(がんきょう)に東風が吹くので、ハル船長はいささか心配にならないわけにはいかなかった。船を正しい航路に乗せることができないのだった。さらにその後、南回帰線に近づいてからは、船長は今度はまた新たに気持をいらいらさせる凪(なぎ)に出会うことを心配していたし、赤道海流のこともむろん心配だった。この海流に出会うと、否応なく船は西のほうへと押し流されるのである。そのため船長は、ウェルドン夫人のために延着を心配し、アメリカ向けの太平洋横断航路の船とすれ違った場合には、その船に乗り換えるように勧める心づもりだった。ところがあいにくパナマ向けの船舶に出会うには、ピルグリム号はあまりにも高い緯度を走っていたし、その当時オーストラリア、アメリカ大陸間の太平洋航路は、現在ほど多くはなかったのである。
したがって、すべては運にまかせて行かなければならなかった。しかもこの単調な航海には何一つ邪魔ははいって来ないはずだと思っていた矢先、ちょうど二月二日というその日、この物語の最初に示した地点で最初の事件が起こったのであった。
ディック・サンドとジャックは、非常によく晴れた日の朝九時半、トガンマストの横木の上に乗っていた。そこからは船全体と、キラキラと輝く大洋の一部を見渡すことができた。後方を見ると、広い水平線はただ後斜桁帆(こうしゃこうはん)と上檣帆(じょうしょうはん)を支えているメーンマストによってのみ、視野がさえぎられていた。前方には、互いにできる限り接近して三つの、大きさの違う大きな三角帆の張ってある、第一斜檣(しゃしょう)が波の上にひろがっていた。下を見ると前檣帆(ぜんしょうはん)が風をはらんで円くなっており、上を見ると小さな中檣帆(ちゅうしょうはん)とトガンスルが風をはらんでいた。スクーナー船は左舷開(さげんひら)きで走り、できるだけ風上に間切(まぎ)っていた。
ディック・サンドはジャックに、ピルグリム号は十分な底荷を積んでおり平均がとれているので、こんなに右舷(うげん)に傾いていても転覆しないと説明したが、そのとき少年はディック・サンドの言葉をさえぎって、
「あそこに見えたのは何かしら?」
と言った。
「何か見えたんですか」
と、ディック・サンドはたずねて、横木の上に立ち上がった。
「ほら、あそこに!」
と、ジャックは答えて、船首の大三角帆と先斜檣帆(せんしゃしょうはん)との支索の間から見える海の一点を指さした。
ディック・サンドは注意深く、じっと見つめた。そして間もなく大きな声で、
「船が漂流しているぞ。風に流されてこっちにやって来ているぞ」
と叫んだ。

三 難破船

ディック・サンドの叫び声を聞いて、乗員はいっせいに立ち上がり、当直にあたっていないものは全員甲板に上がった。ハル船長は船室を出て、船首に向かった。
ウェルドン夫人とナン、それにベネディクトおじさんまでやって来て、ディックが指さす難破船を見ようとして、右舷(うげん)の手すりを前にして並んだ。
ただネゴロだけが、彼の調理場になっている船室から出て来なかった。全員は熱心に、ピルグリム号から三マイルのところで波にもまれている物体をみつめた。
「やあ、あれは何だろう?」
と、一人の水夫が言った。
「漂流している筏(いかだ)か何からしいぞ」
と、別の水夫が答えた。
「ひょっとしたら、あの筏の上にかわいそうに難船した人が乗っているんじゃないかしら?」
とウェルドン夫人が言った。
「助けましょう」とハル船長は答えた。「しかしあの漂流物は筏ではありません。あれは横向きになって転覆した船体です」
「いや、それよりもあれは何か海の動物じゃないかなあ? 大きな哺乳類(ほにゅうるい)か何かでは?」と、ベネディクトおじさんが言った。
「ぼくはそうは思いません」とディックは答えた。
「それじゃ、あんたは何だと思うの、ディック?」とウェルドン夫人はたずねた。
「船長さんが言われたように、やはり転覆した船体ですね、奥さん。ぼくには、銅の船底が陽の光を受けてキラキラ光っているようにも見えるんです」
「そうだな……そういえばそうだな……」と、ハル船長が答えた。
それから船長は舵手(だしゅ)に向かって言った。
「風上に向かえ、ボルトン。あの漂流物に接近するように、四分の一だけ航路を転じろ」
「承知しました、船長」と舵手は答えた。
「取り舵、ボルトン、取り舵!」と、ハル船長は叫んだ。「あの漂流物に近づいてはいけない。二百メートルぐらいのところを通るんだ。こちらがあの船体に損害を与えなくても、むこうがこちらに何か損害を与えるかもしれないからな。ピルグリム号の横っ腹をあれにぶつけるのは、ごめんだ。――船首を風上に向けろ、ボルトン、風上に向けるんだ!」
ピルグリム号の船首は漂流物に向かっていたが、それがやや方向を変えた。
スクーナー船はまだ、転覆した船体から一マイルのところにいた。水夫たちは懸命にそれをみつめていた。ひょっとしたらその船は、値打ちのある積荷を持っているのかもしれなかった。そのような救助作業を行なった場合には、その価格の三分の一は救助者に所属することになり、積荷がいたんでいなければ《うまい汁が吸える》ことも、みんなは知っていた。つまりそれは、不漁のせめてもの償いとなるというものだった。
十五分後に、漂流物はピルグリム号から少なくとも半マイルのところにいた。それは確かに船で、右舷の脇腹(わきばら)を見せていた。上甲板の手すりのところまで傾いており、デッキに立っていられないくらいまで傾斜していた。帆柱は全然見えなかった。舷側(げんそく)の突出部分には、ただ二、三本のロープの切れはしと、斜桁(しゃこう)の切れた鎖が垂れ下がっているだけだった。右舷の舷側には、肋材(ろくざい)とこわれた外皮板の間に、大きな穴が一つあいていた。
「この船は衝突したんだ」と、ディックが叫んだ。
「そうだ、間違いない」と、ハル船長が答えた。「すぐに沈没しなかったのは、奇跡だな」
「衝突だったのなら」とウェルドン夫人が言った。「この船の乗員は、ぶつけた船に救助されたと思わなくてはね」
「そうですよ、奥さん」と、ハル船長は答えた。「そうでなければ、もしぶつけた船がそのまま航海を続けた場合には、衝突のあとで、この船の乗員は救命ボートに乗って逃れようとしたはずですね。――遺憾(いかん)なことですが、ときどきそんなことがあるものです」
「そんなことがあるものかしら! それは大変な非人間的な行為の証拠になりますわ、ハル船長!」
「そうですよ、ほんとうにそうですよ! ところがそういう例がよくあるのです! この船の場合には、乗員は、むしろこの船を捨てて逃げたと思いますね。一艘(いっそう)もボートが見えませんから。乗員が救助されたのでなかったとしたら、むしろ自分で陸地にたどりつこうとしたのでしょう! しかしアメリカ大陸からも、オセアニアの島からもこんなに遠いところでは、うまくたどりつけたかどうか心配ですね!」
「でも、船員かだれか、まだ船にいるかもしれませんね!」とウェルドン夫人が言った。
「いや、いないでしょう、奥さん」と、ハル船長は答えた。「いるならわれわれが近づいていることは、もうすでにわかっているはずです。向こうから合図をするはずです。しかし確かめてみることにしましょう。――少し船首を風上に向けろ、ボルトン、風上に!」と、ハル船長は、航跡を指で示しながら大声で命令した。
ピルグリム号は難破船から五百メートルくらいのところまで近づいていた。難破船が乗員に完全に見捨てられたことは疑う余地がなかった。
だがそのとき、ディックが急に、みんな黙れというような合図をした。
「ほら聞こえるでしょう!」と彼は言った。
全員は耳を傾けた。
「イヌの吠(ほ)える声のようなものが聞こえるんですよ!」と、ディックは叫んだ。
実際、イヌの吠える声が、船体のなかから聞こえてきた。生きたイヌが一匹そのなかに閉じこめられていることは確かだった。なぜならば、ハッチが堅く閉じられていたかもしれなかったからだ。
「ハル船長、イヌだけしかいなくても助けてやりましょうよ!」とウェルドン夫人が言った。
「そうだよ……そうだよ!」とジャックが叫んだ。「助けてやろうよ! ぼくが食べ物をやるから! きっとイヌはぼくたちが好きになるよ……ねえ、お母さま、ぼくは今すぐに砂糖を探して来てあげよう!」
「お待ち、坊や」と、ウェルドン夫人は笑いながら答えた。「かわいそうにイヌは、きっと飢え死にしそうになってるのよ。砂糖なんかよりも食べ物のほうがいいわ!」
「それじゃ、ぼくのスープをやったらどう? ぼくはなくたっていいや!」とジャックが叫んだ。
イヌの吠える声がはっきり聞こえるようになった。二つの船の間隔は、せいぜい三百フィートぐらい離れているだけだった。やがて右舷の手すりに大きなイヌの姿が現われ、いっそう必死になって吠えながら手すりにかじりついた。
「ハウィク、船を止めろ。そしてボートをおろすんだ」と、ハル船長はピルグリム号の水夫長をふりむいて言った。
「がんばれよ、しっかりしろよ!」とジャックはイヌにむかって大声をあげた。するとイヌはなかば息がつまったような吠え方で、少年のことばに答えるように思われた。
ピルグリム号の帆は、難破船から三百メートル以内のところで、ほとんど静止状態になるように、速やかにその方向を変えた。
ボートが運ばれ、ハル船長、ディックと二人の船員が、すぐさま乗りこんだ。
イヌは相変わらず吠(ほ)えつづけていた。舷側(げんそく)の手すりにしがみつこうとしていたが、そのたびに甲板の上に落ちてしまうのだった。そのときイヌは、彼のほうにやって来る人たちにむかって吠えているのではないように思われた。
「船内に生き残っている人か何かいるのかもしれない」とウェルドン夫人は思った。
ピルグリム号のボートは、オールを数回掻(か)いただけで、沈没船に届きそうになっていた。
そのときイヌの態度が急に変わった。助けを求める最初の鳴き声が、怒り狂った鳴き声に変わった。激しい怒りがイヌをたけり狂わせていた。
「どうしたんだろう、あのイヌは?」と、ハル船長は、水中に没した甲板の一部に接近するために、ボートが船のうしろのほうに廻っているときに言った。
そのときハル船長が認めることができなかったこと、そしてピルグリム号の船上からは気がつきもしなかったことは、イヌの怒りは、ネゴロが調理場を離れて、船首へやって来たばかりのときに始まったということである。それではイヌは料理番を知っているのだろうか? それは、まさにありえないことだった。それはともかく、ネゴロはイヌを見て少しも驚きの表情は表わさなかったが、それにもかかわらずほんの一瞬間眉(まゆ)をひそめたあとで、自分の仕事場へもどって行った。
その間にボートは、船のうしろに回っていた。船名が《ウォルデック号》と記されているだけで、その母港の名前は記されていなかった。しかしその船体の形からして、そしてまた船乗りならば一目見ただけでわかるある種の細部の形から、ハル船長は、この船はアメリカで建造されたものだということに気がついていた。船名もそれを裏づけていた。
ウォルデック号の船首には、大きな穴が一つ開いていて、衝突のおこった場所を示していた。船体が転覆したために、穴は水面上五、六フィートのところにあった。帆船がまだ沈没していなかったのは、そのためだったのである。
ハル船長は、甲板を端から端まで見渡したが、人影はなかった。イヌは舷側(げんそく)の手すりを離れて、蓋(ふた)の開いている中央昇降口のところまで滑って行ったところだった。そして、なかにむかって吠えたり、外にむかって吠えたりしていた。
「船に残っているのは、きっとこのイヌだけじゃないですよ」と、ディックが言った。
「そうだ、確かに!」と、ハル船長が答えた。
そのときボートは、半ば水中に没している左舷の舷側に沿って進んでいた。かなり強い大波を受けて、ウォルデック号はほんのわずかの時間で沈没してしまったらしかった。甲板は、船首から船尾まで波に洗われていた。メーンマストと前檣(ぜんしょう)の切れ端が残っているのみで、いずれも甲板の上の根元のところで折れていた。その二本のマストは、支檣索(ししょうさく)やその他のロープとともに衝撃のためにちぎれてしまったに違いない。だが、付近には見渡す限り何一つ漂流物は見当たらなかった。つまり、この衝突がおこったのはすでに何日か前だということだった。
「衝突のときに、何人か生き残ったとしても、飢えと渇きで死んでしまったかもしれないな。水は食糧のある室までやって来たに違いない。この船にはもう死体しかないだろう」と、ハル船長が言った。
「いえ違います」と、ディックが叫んだ。「それならイヌはあんなに吠えるはずがありません! 何人か人が生きているんです!」
そのとき、イヌはディックの呼ぶ声に答えて、滑るように水中に入り、ようやくボートに泳ぎついた。イヌは精根を使い果たしているように見えた。救い上げると、イヌはディックが差し出したパンは見向きもせず、真水が少しはいっているバケツのほうに一目散に走って行った。
「かわいそうに、死ぬほどノドが渇いているんだ」と、ディックが大声で言った。
ボートは、ウォルデック号に近づきやすい場所を探した。そしてそのために四、五メートル船から離れた。イヌは、自分を救ってくれた人たちが、この船に上がろうとしないと信じたに違いない。イヌはディックの上衣(うわぎ)をくわえ、再び悲しげな声で吠え始めた。イヌの、そのしぐさは、人間のことばと同じようにその意味は明瞭だった。ボートは間もなく、左舷のボート架(か)けのところまで進んだ。二人の水夫はボート架けにボートをしっかりつないだが、その間にハル船長とディックは、イヌといっしょに甲板に飛び乗って、二本のマストの折れ株の間に開いている昇降口まで、ようやくたどり着いた。
昇降口から、二人は船倉の中にはいって行った。ウォルデック号の船倉は、半分は水につかっていたが、荷物は入っていなかった。この帆船は積荷なしで航海をしていたのだった。砂を入れたバラストが一つあったが、それが左舷のほうにころがっていて、船を傾かせていた。だから、救い出すべきものはなにもなかった。
「だれもいないな」と、ハル船長が言った。
「だれもいません」と、船倉の前のほうまで入って行ったあとで、ディックが答えた。
しかしイヌは甲板の上で、なおも吠(ほ)えながら、いっそう熱心に船長の注意をひこうとしているように見えた。
「上にあがってみよう」と、ハル船長はディックに言った。
二人は甲板に出た。イヌは走って来て、後甲板のほうへ二人を連れて行こうとした。二人は、イヌのうしろについて行った。
後甲板の船室に、五人の人間が――それは五つの死体と思われたが、床に寝ていた。明りとりを通してさんさんと射しこんで来る陽(ひ)の光を浴びながら、ハル船長は五人の黒人が横たわっているのを認めた。ディックは、その一つ一つを見てまわりながら、哀れな黒人たちにまだ息があるのに気づいた。
「こちらの船に移れ!」とハル船長は叫んだ。
ボートに残っていた二人の水夫が呼ばれて、難船した人たちを船室の外に運び出すのを助けた。それはかなりの大仕事だった。しかし二分後には五人の黒人はボートの中に寝かされた。ただし彼らのうち一人として、自分たちが救われようとしていることに気づいたものはなかった。気つけ薬を何滴か口にふくませ、それから注意深く冷たい水を少し飲ませれば、おそらく生き返らせることができそうだった。ピルグリム号は難破船から二百メートルほどのところにいたので、ボートは間もなく横付けになった。引上げ索(なわ)が、マストの下桁(しもげた)から送られ、黒人たちは一人ずつ巻き上げられて、ピルグリム号の甲板の上に寝かされた。イヌは、そのあとについて来た。
「かわいそうに!」と、ぐったりとなってしまったこれらのあわれな者たちを見て、ウェルドン夫人が叫んだ。
「生きているんですよ、奥さん! ぼくたちはこの人たちを助けてやります! そうです、ぼくたちはこの人たちを救ってやるんです!」と、ディックが大声で言った。
「いったい、この連中はどうしたんだね?」と、ベネディクトおじさんがたずねた。
「口がきけるようになるまで待ってください」と、ハル船長が答えた。「この連中が話をしてくれますよ。だが、それよりもまず、この人たちに水を飲ませなくては。その中にラム酒を少し垂らしてやりましょう」
それから船長はうしろをふりむいて、
「ネゴロ」と、大声で呼んだ。
この名前を聞くと、イヌはビクッとしたように、毛を逆立たせ、口を大きく開けて立ち上がった。それから、さらにイヌは、極度に怒り狂った態度を示した。
ネゴロは調理場から出て来た。
彼が甲板に姿を見せると、イヌは飛びかかって、咽喉(のど)もとに食いつこうとした。
火掻き棒を手に持って身構えた料理番はイヌを押し戻し、イヌは数人の水夫たちの手でようやく抑えられた。
「おまえはこのイヌを知っているのか?」とハル船長は料理番にたずねた。
「わたしですか!」とネゴロは答えた。「いいえ、一度も見たことはないんです!」
「不思議だなあ!」とディックがつぶやいた。

四 ウォルデック号の生存者

黒人売買は、赤道アフリカ全域にわたって、今なお大規模に行なわれている。英仏両国の監視船が巡航しているにもかかわらず、奴隷を積んだ船は、毎年アンゴラないしはモザンビークの海岸を出港して、世界の、そして恥ずかしいことながら文明国のあらゆる地点へと、黒人を輸送するのである。
ハル船長もそれを知らないわけではなかった。そのあたりの海域は、通常はそれほど奴隷船が多くないところだったが、救ってやった黒人たちは、ウォルデック号が太平洋のどこかの植民地に売りに行こうとしていた奴隷たちの生き残りなのではないだろうかと、船長は思った。もしそうであれば、五人の黒人たちはハル船長の船に救われたことによって、自由な身分になっているのだった。
手厚い看護がウォルデック号の難船した黒人たちに対して与えられた。彼らは、もう何日間も真水に飢えていたに違いなかった。水と、少しばかり食糧を与えるだけで、彼らを蘇生させるのには十分だった。黒人中の最年長者――六十歳くらいに見えた――は、やがて話ができるようになり、質問に英語で答えることができた。
「おまえを乗せていた船は衝突したのかね?」と、いちばん最初にハル船長が尋ねた。
「はい」とその老人は答えた。「十日前、わたしたちの船は、非常に暗い夜に衝突しました。そのとき、わたしたちは眠っておりました……」
「ウォルデック号の船員はどうなったんだ?」
「仲間やわたしが甲板に上がったときには、もう船員の姿は見えませんでした」
「それじゃ船員たちは、ウォルデック号に衝突した船に乗って逃げたかもしれないんだな?」と、ハル船長が尋ねた。
「おそらくそうでしょう。いや、そうであったらいいと、あの人たちのために願っています!」
「だが、衝突のあとで、その船はおまえたちを助けにはやって来なかったのかね?」
「ええ、やっては来ませんでした」
「それでは、その船も沈んだのかな?」
「いや、沈みはしませんでした」と老黒人は頭を振りながら答えた。「わたしたちは、闇(やみ)のなかに船の姿が消えて行くのを見たのです」
この事実は、ウォルデック号の生存者の全員によって証言されたので、疑う余地はないように思われた。自分たちの不注意で恐ろしい衝突事故を引き起こしながら、不幸な犠牲者たちを救おうともせずに見捨てたまま逃げてしまうような船長たちがよくいるということは、まぎれもない事実である。人間が人間に海上で捨てられるなどということは、信じられないことであり、恥ずべきことだ! しかしハル船長は、そのような非人間的な行為の例を数多く知っていた。そして船長は、ウェルドン夫人に、このような事実は人倫に反することであるにもかかわらず、残念ながらけっして稀(まれ)ではないということを繰り返さなければならなかった。
それから船長は再び尋ねた。
「ウォルデック号はどこから来たのだね?」
「メルボルンからです」
「それではおまえたちは奴隷ではないのか?」
「はい」と、黒人の老人は、すっくと立ち上がって元気よく答えた。「わたしたちは、ペンシルベニア州の住民で、自由なアメリカ市民なのです!」
「それじゃおまえたちは、このアメリカ船ピルグリム号に乗り移ったことで、自由を救ったことになるな」とハル船長は答えた。
彼らがハル船長に伝えたところによると、彼らは、オーストラリア南部のメルボルンに広大な耕地を持っている英国人のところで、労働者として雇われていたのだった。そこで彼らは、彼らにとっては莫大(ばくだい)な利益を上げて三年間働き、契約期間が終わったのでアメリカに戻ろうとしていたところだった。そこで彼らは普通船客と同じ船賃を払って、ウォルデック号に乗船した。十二月五日にメルボルンを出発し、十七日後の暗い夜、ウォルデック号は大きな汽船と衝突したのである。
黒人たちは寝ており、衝突してから数秒後、恐ろしくなって甲板に駆け上がった。そのときには船の帆柱は低くなっており、ウォルデック号は横腹を見せて転覆していた。しかし海水は船が沈没しない程度にしか船倉にはいってきていなかったので、沈むはずはなかった。
ウォルデック号の船長と船員たちは、みんな姿を消していた。ある者は海中にとびこんでいた。また別の者は衝突した相手の船の船具につかまっていた。その船は衝突のあと逃げてしまい、再びもどっては来なかった。五人の黒人だけが船内にいて、陸地から千二百マイルも離れて、半ば転覆した船に乗って海上を漂流することになったのである。
黒人たちの最年長者はトムという名前だった。年齢もそうだが、その気力にあふれた性格や、長い労働生活の間の試練に耐えてきた経験からしても、いっしょに雇われていた仲間の長となっていたのはきわめて自然だった。他の黒人は二十五歳から三十歳までで、トム老人の息子のバット、オースティン、アクテオン、ハーキュリーズの四人だった。四人ともがっちりした体格で、元気にあふれ、中央アフリカの奴隷市場では高く売れそうな青年だった。そしてこの堂々たる身体に、北米のさまざまな学校で身につけた自由教育の刻印が捺(お)されているのだった。
こうしてトムとその仲間だけが、ウォルデック号に残されたのだが、転覆した船体を引き起こす手だてもなく、備えつけの二隻のボートは衝突の際に粉みじんに砕かれていたので、逃れることもできなかった。彼らはどこかの船が通りかかるのを待つほかなく、その間に難破船は海流の影響によってだんだん陸地から遠ざかって行った。
衝突してから、ピルグリム号が難破船の見える地点に到着するまでの十日間、五人は高級船員室で見つけたわずかばかりの食料を食べて生き延びていた。しかし完全に浸水していた食糧庫には入ることができなかったので、のどの渇きをいやすためにアルコール分を含んだ飲み物を飲むことができなかった。しかも甲板につないであった水樽(みずだる)は衝突のときに底に穴があいてしまったので、彼らはひどく水に苦しめられた。前の日からトムたちがのどの渇きに苦しみ、気を失っていたところに、ピルグリム号がやって来たのである。
以上のような話を、トムはハル船長にことば少なに物語った。この年(とし)とった黒人の話を疑う余地はなかった。仲間の者も、老人の語ったすべてが真実であることを裏書きした。事実はすべて、この哀れな者たちを弁護していた。
この難破船に乗っていて救われた、もう一つ別の生き残りが、口をきくことができたら、きっと同じような率直さで事実を話したことだろう。その生き残りとはイヌだった。ネゴロを見ると、急に不快な感情を表わしたあのイヌだった。イヌの名はディンゴといい〔ディンゴは、本来はオーストラリアの野生のイヌの名〕、ウォルデック号の船長が見つけたのは、オーストラリアではなく、ディンゴが飢えのために半死半生でさまよい歩いていたアフリカの西部沿岸のコンゴ川の河口に近い地点だった。ウォルデック号の船長はこのイヌを育てることにしたが、イヌは馴れようとせず、むかしの主人を慕(した)っているようだった。S・Vという二つの文字が首輪に彫ってあり、それがこの犬を過去に結びつけるすべてだったが、その秘密を知るすべはなかった。
ピレネー地方のイヌよりも大きくたくましいディンゴは、マスティフ犬の変種で最も優秀な種類だった。立ち上がって、頭を後方にそらせると、おとなの背丈にも匹敵した。その敏捷(びんしょう)さ、筋力の強さのために、ジャガーやヒョウなどもためらうことなく攻撃し、クマと相対しても恐れることがないに違いなかった。身体は厚く毛におおわれ、長い尾にはライオンの尾のようにふさふさとした毛がついており、濃い黄褐色(おうかっしょく)の身体に鼻面だけがいくらか白かった。
ディンゴは人づきは悪かったが、性格は悪そうには見えず、むしろ悲しそうに見えた。トムの観察によれば、このイヌは黒人たちに愛情を感じていないように見えるということだった。黒人たちに危害を加えようとはしないが、黒人たちを避けているとトムは言った。おそらく放浪をつづけていたアフリカの海岸で、このイヌは土人たちから何かひどい仕打ちを受けたのだろう、とトムは言った。だからトムとその仲間は善良な人間であったにもかかわらず、イヌは彼らには近づかなかった。難破したウォルデック号の上で過ごした十日の間、イヌは人間たちから遠ざかったまま何かを食べて空腹をしのいでいたが、人間と同じように非常なのどの渇きに悩んでいたのである。大波の一撃を受ければたちまち沈んでしまいそうなとき、この難破船の生存者は、そうした状況の下で暮らしていたのだ。もしも無風状態と向かい風のために遅れていたピルグリム号が思いがけずその場へ到着したとしても、ハル船長が人道的な行為に出る気持がなかったなら、おそらくあの難破船は乗っていた人たちの死体を大洋の深みの中へと引きずりこんでいたことだろう。
ウォルデック号の難船者たちを救ったハル船長の人道的行為は、彼らをアメリカ本国に送り返すことによって完成されるよりほかに方法がなかった。彼らはこの難船のために、三年間の労働で貯(たくわ)えた全財産を失っていたからである。ハル船長は、彼らを送還しようときめていた。ピルグリム号は、バルパライソで荷卸しをすませたあと、アメリカ大陸の海岸をさかのぼってサンフランシスコまで行くことになっており、そこまで行けば、トムとその仲間はジェームズ・W・ウェルドン氏の歓待を受けるに違いなかった。そしてまたそこまで行けば、彼らはペンシルベニア州にもどるために必要な金を、すべて調達してもらうことができるだろう。

五 S・V

その日、二月二日の夕方ごろ、例の難破船の姿は見えなくなった。
ハル船長はまず、トムとその仲間をできるだけ楽に暮らせるようにしてやることに専心した。甲板上に準備された、ピルグリム号の乗員の部屋は、トムたちまでがはいるのには小さすぎた。そのため、前甲板の下に彼らを入れることにしたが、激しい労働に慣れている彼らが、文句を言うなどということはありえなかったし、天気のよい日などには暖かく健康的なこの部屋は、航海中彼らにとって満足できる場所であるはずだった。
突発事件によって単調な生活を破られた船上生活は、再び元に戻った。トム、オースティン、バット、アクテオン、ハーキュリーズの五人は、むろんみんなの役に立つことを望んでいた。しかし、風に変化がなくては、いったん帆を上げてしまうと、もう何もやることがなくなるのだった。しかし船の方向を変えるときになると、老いた黒人とその仲間は、熱心に乗員たちに手を貸すのだった。そして大男のハーキュリーズが何かある操作に熱中しているとき、だれもがその熱心さに気がつかないではいなかった。一メートル八十センチもあるこのたくましい黒人は、一人だけで二滑車捲揚機(まきあげき)一台の値打ちがあった。
ジャック少年にとっては、この大男を眺めるのは大きな楽しみだった。ハーキュリーズがコルク製の赤ん坊のように軽々と少年を両手で高く差し上げると、彼はいつまでもキャッキャッと喜びの声をあげてやめなかった。
「もっと高く上げてごらん」とジャックが言った。
「ホラホラ、ジャックさま」とハーキュリーズは答えた。
「ぼくはとても重たい?」
「全然重くはありませんよ」
「それじゃ、もっと高く上げてごらん。腕の先のほうに!」
するとハーキュリーズは、その大きな手の中に子供の両足を支えて歩き回った。ジャックは自分が大きな人間になったように思えて、キャッキャッと喜んだ。ジャックは、ピョンピョンと跳ねて重味を加えるようなことまでもしたが、下にいる大男のほうは、そんなことに気がつきさえもしなかった。そんなわけでディック・サンドとハーキュリーズはジャックの二人の友だちになっていた。しかし間もなく三人目の友だちができた。
それがディンゴだった。ディンゴは、人づきあいの悪いイヌだという評判だった。おそらくそれは、ウォルデック号の仲間が、このイヌの気に入らないというところに原因があったのだろう。ところがピルグリム号にやって来てからは、ガラリと様子が変わった。それはきっと、ジャックの気持がこのイヌに通じたからだろう。イヌはやがて、この少年と遊ぶのを喜ぶようになり、少年もまたこのイヌとじゃれるのが好きになった。ディンゴは、とりわけ子どもを好きになるイヌなのだということが、すぐにみんなにわかった。ジャックはイヌに乗って、その毛をつかんで走らせたりしたが、イヌは機嫌(きげん)よくなすがままにさせていた。また実際にジャックが乗っても、イヌは競馬の馬が感じる騎手の重さの半分も感じはしなかった。しかしまたそのおかげで、船内の食糧貯蔵室の砂糖の貯蔵量が、毎日減っていくことになった。やがてディンゴは、乗員全体の人気者になった。ただネゴロだけは、このイヌと出会うことを極度に避けつづけた。
しかしジャックはディンゴのために、ずっと以前からの友だちであるディック・サンドを忘れるようなことはなかった。船内での用事がないときは、いつもディックはこの少年といっしょに過ごしていた。むろんウェルドン夫人は、いつもこの二人の親密な友情をこの上もない満足感をもって眺(なが)めていた。
ある日、それは二月六日のことであったが、ウェルドン夫人はハル船長にディック・サンドのことを話した。すると船長はこの若い見習水夫について最高の誉(ほ)めことばを与えた。
「あの少年は」と船長は言った。「いつかはりっぱな水夫になります、わたしが請け合ってもよろしい! ほんとうに海にはうってつけの人間です。仕事の理論的な面はどうしてもまだ知らないことが多いと思いますが、あの子が今すでにやっていることでも、なかなか大変なことです」
「それにねえ」とウェルドン夫人は答えた。「あの子はすばらしくいい子ですし、安心して任せられる子ですわ。あの子と知り合ってから、今まで一度も非難しなければならないようなことは起こりませんでしたもの」
「そのとおりですよ」とハル船長はつづけた。「みんなから好かれて、認められているのは当然です!」
「この航海が終わったら」とウェルドン夫人が言った。「わたしの主人は、将来あの子が船長の免状を取ることができるように、水路学の講義を受けさせるつもりなんですよ」
「ウェルドンさんは、なかなか目が高いお方ですな。ディックは、将来きっとアメリカ商船界の名を上げるような人間になるでしょう」
「でもあの子はかわいそうに、親がないものだから、勉強もろくにできなくてね」とウェルドン夫人は言った。
「奥さん。でも別の方面で、それがあの子の勉強になったんじゃありませんか。この人生の難関をどうやって切り抜けるべきかということを、あの子は知ったわけです」
「そういえばそうね」
「いまのディックをよくごらんください、奥さん」とハル船長は言った。「前檣(ぜんしょう)のほうに一心に目をこらしながら、舵(かじ)を握っている姿を。若いのに似合わず少しも気を抜いたところも見られませんし、船もまったく揺れませんしね! 水夫としては、まったく好調な滑り出しです! 奥さん、わたしたちの仕事は、ほんの子どものころから始めなければものにならないものでしてね。少年水夫をやったことのない者は、完璧な水夫にはけっしてなれないだろうと思います。海の男にとっては、何事も本能的であると同時にりっぱに理論づけられていなければならないわけです。何か決心をきめる場合もそうですし、船を操縦するときだって同じことです」
そのとき、ベネディクトおじさんの姿が船尾の昇降口に現われ、舷側(げんそく)のすき間をのぞいてみたり、鶏小屋(とりごや)を眺(なが)めたり、塗料の剥(は)げ落ちた甲板の接(つ)ぎ目の間に手を走らせてみたりしていた。
「そのベンチの下を、何をお探しになっているんです、ベネディクトさん?」とハル船長がたずねた。
「虫ですよ!」とベネディクトおじさんは答えた。「虫以外に、何かぼくの探すものがあると思いますか?」
「昆虫をね! まあ、それはあなたのご商売柄お探しにならなければならないでしょうが、あなたのコレクションをお増やしになるのなら、海の上ではないほうがいいようですね!」
「海の上だっていいじゃありませんか? 船の上で何か珍しい標本が見つかることだって、不可能じゃありませんものね……」
「それじゃあなたは、ニュージーランドでおやりになった昆虫採集では満足なさらなかったんですの?」とウェルドン夫人は言った。
「いやいや、十分満足はしてるんですよ。なにしろ、今まで何百マイルも離れたニューカレドニアでしか見つかったことのない新種のハネカクシを採集することができたんですからね」
そのとき、ジャックとじゃれていたディンゴが、ベネディクトおじさんのほうに、跳びながら近づいて来た。
「あっちに行け、コラ!」とベネディクトおじさんはイヌを追いやった。
「虫は好きでも、イヌはお嫌(きら)いなんですな、ベネディクトさんは」とハル船長が大声を出した。
「いいイヌなのになあ!」とジャックは言って、小さな手でディンゴの大きな顔をつつんでやった。
「いや……ぼくは嫌いだと言ってるんじゃない!」とベネディクトおじさんは答えた。
「だが残念ながらこの動物は、これに出会ったときにぼくが抱いていた希望を実現してくれなかったんだ!」
「まあ、それじゃあなたは、このイヌを双翅(そうし)類か膜翅(まくし)類かに分類したかったとでもおっしゃるの?」とウェルドン夫人は大きな声で言った。
「いや、そうじゃない」と、ベネディクトおじさんは真顔で答えた。「だが、このディンゴはニュージーランド種なのに、アフリカの西海岸で拾われたという話だったね。そこで、ぼくが思ったのは……つまりぼくが望んだのは、このイヌがアフリカ特有の半翅(はんし)類の見本を、何か身につけて持ってきていはしないかということだったのだが……」
「まったくね、驚いちゃうわ!」とウェルドン夫人は叫んだ。
「そして、ひょっとしたら新種のノミか何かをつけて来ていないかと思ってね」と、ベネディクトおじさんはつけ加えた。
「なあ、ディンゴ。わかったか? おまえは、何もかもおまえの義務を怠ったんだぞ!」と、ハル船長が言った。
この会話もそうだが、ほかの会話でも同じで、ベネディクトおじさんが加わると、話題は必ず何か昆虫学の問題へと転じていって、この航海の長い時間が過ぎていくのだった。海は相変わらず穏やかだったが、スクーナー船はようやくのことで追風にのっていた。ピルグリム号は、ほんの少し東のほうへ進むだけだった。それほど風は弱かった。船長は一刻も早く陸地に近い海域に達したいと思っていた。陸地に近づけば、吹く風は今よりも都合がよくなるはずだった。
また、ベネディクトおじさんがディックに昆虫学の奥義(おうぎ)を伝授してやろうとしたことも言っておかねばならない。しかしディックは、この申し入れには従おうとはしなかった。やむを得ずベネディクトおじさんは黒人たちに教えこもうとしたのだが、彼らにはまったく何もわからなかった。トム、アクテオン、バット、オースティンの四人は授業にも出て来ないようにまでなってしまい、生徒はハーキュリーズ一人きりになった。しかし、昆虫のコレクションを学んでいるときに、かよわい昆虫の標本が、万力のように堅くて強いハーキュリーズの大きな指の間につかまえられているのを見ると、ベネディクトおじさんは身震いをしてしまうのだった。
ベネディクトおじさんがそんなことをやっている一方、ウェルドン夫人も小さなジャックを完全に遊ばせておくことはしなかった。彼女はジャックに読み書きを教えていた。算数はディック・サンドの分担で、ディックは初歩を教えた。五歳といえば、まだほんの子どもである。むずかしい理論を教えるよりも、実用的な遊びによって教えるほうが、おそらくよく覚えることになる。
ジャックは字の読み方を習っていたが、初歩の入門書によってではなく、赤い字で文字を印刷した四角な積木を使って覚えている。ときにはウェルドン夫人がその積木をとって、一つの単語を組み立てた。それから、それをバラバラにして、ジャックに自分の思うように組み立てさせたりなどするのだった。少年はこのような方法で文字の読み方を習うのが好きだった。毎日、あるときは船室で、あるときは甲板で、アルファベットの文字を並べたり、崩したりしながら、何時間も過ごすのだった。
ところがある日、これをやっているときに、思いがけない、異常な事件が起こったので、このことを少し詳しく説明しなければならない。二月九日の午前中のことだった。ジャックは甲板に寝そべって一生懸命単語を組み立てていた。ところで、しばらく以前からディンゴが、この少年のまわりをうろついていたのだが、急に立ち止まった。イヌは目を一点に集中させ、右脚を上げ、尻尾(しっぽ)をブルブルとふるわせた。それから突然、イヌは積木の一つにとびかかって、それを口にくわえると、ジャックから二、三歩はなれた甲板の上に置いた。その積木には大文字のSという字が書いてあった。
「ディンゴ! こら、ディンゴ!」と少年は大声で叫んだ。少年は、何よりも自分のSをイヌが呑みこんでしまうのを心配していたのだった。
しかしディンゴは帰って来た。そして前と同じやり方で、別の積木をくわえて、はじめの積木のそばに置いた。この二番目の積木は大文字のVだった。
こんどはジャックが叫び声をあげた。その声を聞いて、甲板を歩いていたウェルドン夫人や、ハル船長やディックも駆け寄って来た。そこでジャックは、いま起こったことを話した。
ディンゴは文字を知っていた! ディンゴは読むことができた! ジャックはそれを見たのである。
ディックは、二個の積木をジャックに返すために、ディンゴのそばに行った。ディンゴは彼にむかって白い歯を見せた。しかしディックは二個の積木を持って帰って来て、ジャックの遊びの場所に置いてやった。
するとディンゴは再び跳びついて、またも同じ二つの文字をくわえて、遠くへ行った。そして今度は両足をその上にのせて、どんなことがあってもそれを守ろうと決心しているように見えた。他のアルファベットの文字などは、まるで眼中にはないようだった。
「不思議なことだわ!」と、ウェルドン夫人が言った。
「ほんとうに不思議ですね」と、ハル船長は答えて、この二つの文字を注意深くみつめていた。
「S・Vという文字ね」と、ウェルドン夫人が言った。
「S・Vですな」とハル船長が繰り返した。「だがこれは、ディンゴの首輪についている文字じゃありませんか!」
それから突然黒人の老人のほうにふりむいて、船長はたずねた。
「トム。このイヌは、ほんの最近ウォルデック号の船長が飼い始めたイヌだ、とおまえは言わなかったかな?」
「そのとおりです、船長さん」とトムは答えた。「ディンゴは、せいぜい二年前くらいから船に乗るようになったやつでして」
「それから、おまえはウォルデック号の船長がこのイヌを、アフリカの西海岸で拾ったと言わなかったかな?」
「申しましたよ。コンゴ川の河口近くで拾ったものです。船長からは、よくその話を聞きました」
「それでは、このイヌはだれのものか、またどこから来たのかということは、だれも知らなかったわけだな?」
「はい、だれも知った者はおりませんでした。捨てイヌというやつは、捨て子よりも困りものでしてね! 素姓もわからないし、おまけに自分もしゃべれないときているんで」
ハル船長は黙ったまま、考えこんでいた。
「それじゃこの二つの文字には、何かあなたにお心当たりでもあるんですの?」と、ウェルドン夫人は、船長がしばらく考えこんでいたあとでたずねた。
「そうです、奥さん。思い出、というよりもむしろ奇縁とでも言ったようなものでしょうかね」
「何ですって?」
「この二つの文字は、何か意味があるのかもしれません。ある大胆不敵な一人の旅行者の運命をわれわれに知らせてくれるものかもしれませんよ……」
「それはどういう意味なんですの?」と、ウェルドン夫人がたずねた。
「それは、こうなんですよ。一八七一年、つまり今から二年前に、あるフランスの旅行者が、パリ地理協会の勧めで、アフリカ西部から東部への横断をするために出発したのです。その人の出発点は、コンゴ川の河口でした。そして彼はロブーマ川を下って、できることならその河口にあるデルダゴ岬に出ようとしたのです。ところでこのフランスの旅行者の名前は、サミュエル・ヴェルノンという名前だったんです」
「サミュエル・ヴェルノンですって!」と、ウェルドン夫人はその名を繰り返した。
「そうです、奥さん。そしてこの名前は、ちょうどディンゴの首輪に彫りつけられていた二つの頭文字で始まっているんです」
「ほんとうにそうね」とウェルドン夫人は言った。「それじゃ、その旅行者は?……」
「その人は出発したんです」と、ハル船長は答えた。「しかし出発以後、彼の消息は跡絶(とだ)えてしまったのです」
「全然なんですか?」とディックがたずねた。
「そうだよ、全然だ」とハル船長が繰り返した。
「それをあなたはどうお考えになりますの?」と、ウェルドン夫人がたずねた。
「とにかくサミュエル・ヴェルノンは、土人に捕まったかもしれませんし、また途中で死んだかもしれませんが、アフリカの東海岸に着かなかったことだけは確かです!」
「では、そのイヌは?……」
「イヌも彼といっしょに行ったと思います。しかしわたしの推測が正しければ、主人よりも運がよくて、コンゴ川の沿岸地方に戻って来たのかもしれませんね。あのイヌがウォルデック号の船長に拾われたのが、ちょうどあの地方だったし、時期もそういう事実があったころですから」
「でも、そのフランス人の旅行者が、出発当時このイヌといっしょだったかどうか、あなたはご存じなんですか?」と、ウェルドン夫人はたずねた。
「たしかにこれは、ほんの推測にすぎないんですよ、奥さん」と、ハル船長は答えた。「しかし、ディンゴがSとVという二つの文字を知っていることは確かなことです。そしてこの文字は、ちょうどあのフランス人の旅行者の頭文字なんですからね。ところでこのイヌが、どういう事情でこの文字を見分けることをおぼえたのかは、私には説明できません。しかし繰り返して申しますが、このイヌは確かにそれを知っているんです。ほら、ごらんなさい、この二つの文字を脚で押しているでしょう。自分といっしょにこれを読んでくれと催促しているみたいでしょう」
じっさい、ディンゴのやろうとしていることを取り違えることはできなかった。
「サミュエル・ヴェルノンは、コンゴ川沿岸の地方から出て行くときに、ほんとうに一人きりだったんでしょうかね?」と、ディック・サンドがたずねた。
「それはわからないよ」と、ハル船長が答えた。
そのとき、ネゴロが甲板に姿をあらわした。はじめはだれも彼が現われたことには気がつかなかった。また、イヌが二つの文字を守るように立っているのを見たときに、ネゴロがイヌに向けた異様な視線にも、だれも気がつかなかった。しかしディンゴは料理番の姿を見つけると、この上もなく恐ろしい怒りの形相を示した。ネゴロは、イヌにむかって威嚇(いかく)するような身ぶりを示したあとで、やがて自分の持ち場に戻った。
「こいつは何か秘密があるに違いない」とハル船長はつぶやいた。

六 クジラが……

二月十日、いらいらさせる小凪(こな)ぎが繰り返した後に吹いていた北東の風が、はっきりとわかるほど弱まった。大気の流れの方向が間もなく変化する兆候だった。多分ようやくスクーナー船は追風を受けて進むことになるだろう。オークランドを出発してからまだ十九日しか過ぎておらず、遅れはさほどではなかった。風向きさえよければ、ピルグリム号は、帆を十分に張って、その遅れを容易にとりもどすことができるはずだった。しかし、はっきりと西風が吹くまでには、なお数日待たなければならなかった。
太平洋のこのあたりの海域に現われる船は少ない。オーストラリアの捕鯨船も南回帰線を越すことはないし、アメリカとオーストラリアを往復する太平洋横断航路も、前にも述べたように、このあたりは通らないのである。
しかしながら、船影が見えないとはいえ、水平線の果てを見守るのを怠ってはならない。波にただよう一本の海草、一枚の板からも何かを読みとることができるのであり、空と海との間で蒸発と降雨を休みなく繰り返す水の粒子が何か恐ろしい秘密をかくしているかもしれないのである。
また、ピルグリム号の乗員たちは、冬が近づくとともに南極の厳しい気候を逃れて行く魚や鳥を獲(と)った。鳥には白ウミツバメ、ダミエ鳥、ペンギンなどがいた。ペンギンは、地上を歩くときは奇妙なよたよたした歩き方をするが、水中では最も速い魚にも負けぬ速さで泳ぎ、船乗りたちがしばしばハガツオと見まちがえるくらいなのである。高い空には、翼を広げたときには十フィートにも達する大きなアホウドリが飛んでおり、ときどき餌を求めて水面へ下りて来た。
その日、船尾を散歩していたウェルドン夫人は、不思議な現象に気づいた。海水が、ほとんど突然に赤くなったのである。まるで血のように赤く、それが目のとどく限りつづいているのだった。夫人は、近くでジャックの相手をしていたディックに声をかけた。
「ディック、この水の色を見てごらん。海草でもあるのかしら」
「いいえ、奥さん、これは、大型の哺乳類の餌となる、ごく小さい甲殻(こうかく)類が無数にいるためです」
「甲殻類ですって! でも、あまり小さくて、海の虫とでもいったほうがいいくらいね。ベネディクトおじさんなら、いいコレクションができるって喜ぶんじゃないかしら」
夫人が呼ぶと、ベネディクトおじさんは、ハル船長といっしょに甲板に現われた。
「ベネディクトおじさん」とウェルドン夫人は言った。「見渡すかぎり広がっているこの赤い生き物の群を見てごらんなさい」
「やあ。これは、漁師が《クジラの餌(えさ)》と呼んでいるやつだ」とハル船長は言った。「ベネディクトさん、この珍しい甲殻類を研究するいい機会じゃありませんか?」
「ふん!」とおじさんは言った。
「ふんとは、またどうしてです?」と船長は言った。「そんなにばかにした言い方はできないはずじゃありませんか? 甲殻類というのは、関節動物の六つの綱(こう)のうちの一つだったと思いますがね、わたしの記憶ちがいでなければ……」
「ふん!」と、頭を横に振って、またおじさんは言った。
「おやおや、そういうことで昆虫学者としていいのでしょうかね?」
「もちろん昆虫学者ですとも。しかし特に六足昆虫学者です。ハル船長、そのことをお忘れにならんように!」
「すると、この甲殻類には興味がないというわけですか」と船長は言った。「奥さん、これはクジラにとっては大御馳走(おおごちそう)なんです。捕鯨船が漁期にこんな甲殻類の群を見かけたら、すぐに銛(もり)とロープの用意を始めるものです。獲物は遠くないことは確かですから」
「こんな小さいものを食べて、大きなクジラはお腹がいっぱいになるのかなあ?」とジャックが言った。
「それはね、坊っちゃん」とハル船長が答えた。「細かいコムギ粉がポタージュになるのと同じことですよ。この赤い海水のなかにはいれば、クジラには食事の用意ができたわけです。大きな口を開きさえすれば、無数の小さな甲殻類が流れ込むわけですからね。クジラの口のなかには、漁師の生簀(いけす)のような鯨鬚(げいしゅ)というものがあって、一匹残さず大きな胃袋へ送り込んでしまうんです」
「ジャックさま」とディックも言った。「クジラのお母さんは、子クジラのために、エビの殻(から)をむいてやらなくてもいいわけです」
「それから、もう一つお教えしますと」とハル船長も言った。「クジラがそうやって一生懸命に食べているときというのは、船が近づきやすいのですよ。ですから、銛打ちにとってはいいチャンスなんです」
そのとき、ハル船長のことばを証明するように、船首で声が聞こえた。
左舷(さげん)前方にクジラが見えるぞ!」
「クジラだ!」と言うと、ハル船長はさっと立ち上がった。生まれながらの漁夫らしく、船長は急いで船首へ走った。ウェルドン夫人、ジャック、ディック、それにベネディクトおじさんまで、その後に従った。
確かに四海里ほど離れたところで海水が泡立(あわだ)っており、クジラがいることを示していた。捕鯨夫の目から見れば、まちがいなくクジラのいる証拠だった。だが、かなり離れているため、種類を見分けることまではできなかった。セミクジラだろうか、ザトウクジラだろうか?
ハル船長も乗員たちも、まだそれを言うことはできなかった。だが彼らは、そのクジラを、感心して眺めるというよりは、もの欲しげに見つめていた。時計師は振子時計を見るとゼンマイを巻かずにはいられないというが、捕鯨夫もクジラを目の前にして、捕えたいという強い願望に駆られないはずはない! ハル船長は遠くに見えるクジラを見分けようとしていた。その距離ではよく見えないが、熟練した目は、遠くからでも、いくつかの特徴を見逃すことはあり得ない。噴水孔から吐き出す水柱にハル船長は注目し、それによってどの種類のクジラかを確認しようとした。
「セミクジラじゃないな」と船長は叫んだ。「セミクジラだったら、水がもっと高く上がるし、水の量はもっと少ないはずだ。それに、吹き出す音が遠い大砲の音に似ていたらザトウクジラだと思うところだが、そうでもない。ディック、おまえはどう思う?」とハル船長はディックに言った。
「ナガスクジラだろうと思います」とディックは答えた。「水があんなに激しい勢いで吹き上げられていますから。あの水柱には圧縮された水蒸気のほうが多く含まれているように思えませんか? ぼくの思い違いでなければ、それがナガスクジラの特徴のはずです」
「そのとおりだ、ディック」とハル船長は答えた。「疑う余地はない、あれはナガスクジラだ」
「大型のナガスクジラだと、ぼくは思います」とディックは言った。
「そうだ」とハル船長も次第に興奮しながら言った。「少なくとも七十フィートはあるだろう!」
「そうだなあ!」と水夫長も言った。「あのくらいのクジラだと、六頭も捕れれば、この船はいっぱいになるのだがなあ!」
「そうだ、それで十分だ」とハル船長は答えて、さらによく見ようと第一斜檣(しゃしょう)へ登って行った。
「あれを仕留めるだけで、不足している鯨油百樽(ひゃくたる)の半分くらいを、三、四時間で手に入れられるんだ!」と水夫長がまた言った。
「そうだ……そのとおりだ……」とハル船長はつぶやいていた。
「確かにそうですね」とディックは言った。「けれども、大きいナガスクジラを仕留めるというのは、とてもむずかしいことじゃないのですか?」
「とてもむずかしい、とてもな!」とハル船長は答えた。「恐ろしい尾をもっているから、うっかり近づくことは危険だ。あの尾の一撃を受けたら、どんな頑丈(がんじょう)なボートもひとたまりもない。しかし、仕留めることができたら、それだけの苦労は十分にむくいられる!」
「ナガスクジラというのは、いい獲物ですよ!」と水夫の一人が言った。
「もうけも大きいし!」と別の水夫が言った。
「通りがかりに、ちょいとあいさつして行かないってのは、残念だなあ!」
クジラを見つめているうちに、明らかに水夫たちは次第に活気づいていた。手のとどくところに鯨油の樽が浮いているようなものだった。水夫たちのことばを聞いていると、不足している積荷を満たすために、その浮いている樽をピルグリム号の船倉に積み込むだけのことのようでさえあった。ハル船長は黙って爪(つめ)を噛(か)んでいた。ピルグリム号と乗員全体を引きつける、抵抗しようのない磁力をもったものが、目前にあるのだった。
「お母さま」とジャックが大きな声で言った。「クジラってどんなものだか、ぼく見てみたいなあ!」
「坊っちゃん、あのクジラが見たいですか? 皆だってそうなんだろう!」と、ついに心中の願望に負けてハル船長が言った。「予備の乗員はいない。しかし、われわれだけで……」
「そうです! そうです!」と乗員はいっせいに叫んだ。
「わたしも昔は銛打(もりう)ちをやったことがある」と船長は言った。「まだわたしに銛が打てることを、皆に見せようか!」
「いいぞ、いいぞ!」と乗員たちは叫んだ。

七 準備

みごとなナガスクジラを見てピルグリム号の乗員がどれほど興奮したか理解できよう。しかし、ウェルドン夫人は、危険はないのかとハル船長に訊(たず)ねるのを忘れなかった。
「まったく危険はありません、奥さん」と船長は答えた。「一隻だけのボートでクジラを捕ったことは何回もあります。わたしは必ず成功しました。繰り返して言いますが、わたしたちに危険はありません、ですから奥さんたちにも危険はないわけです」
ウェルドン夫人は安心して、それ以上訊ねようとはしなかった。
ハル船長は準備を命じた。ナガスクジラを追うことがけっして容易ではないことを、船長は経験からよく知っていたので、万全を期そうとした。ピルグリム号にはランチが一隻とキャッチャーボートが三隻あったが、乗り組んでいる乗員の数から、キャッチャーボート一隻しか使えなかった。トムたちに協力してもらうことは不可能だった。キャッチャーボートの操(あつか)いは熟練を要し、オールや舵(かじ)の使い方をわずかに過(あやま)っただけで、ボートは危険に陥るからである。他方、ハル船長は、信頼できる乗員を少なくとも一人はピルグリム号に残したいと考えた。どんなことが起こるかわからないからである。そこで船長は、ボートには頑健(がんけん)な水夫を選ばねばならないため、ディック・サンドにピルグリム号を任せることにした。
「ディック、わたしがいない間、おまえがこの船の責任をとってくれ。わたしはすぐに帰って来るつもりだが」
「わかりました」とディックは答えた。
ピルグリム号の乗員全員がボートに乗り込むことになった。四人の水夫はオールを握り、水夫長のハウィクが舵をとり、ハル船長が銛打ちの役をつとめることになった。
クジラ捕りに銃砲を用いることがある。船首に小型の大砲をとりつけ、ロープをつけた銛や、クジラの身体に大きな被害を与える砲弾を発射するのである。しかし、ピルグリム号にはそういう装置はなかった。そういう砲は高価だし操作がむずかしいし、それに漁夫たちは新しいものを好まず昔ながらの銛を使うのを好むからだった。
右舷(うげん)のボートが下ろされ、四人の水夫が乗り込んだ。ハウィクは、銛を二本、先端の鋭く尖(とが)った槍(やり)を二本、柔軟で丈夫なロープ五束を積み込ませた。ロープは一束が六百フィートの長さだが、それをつなぎ合わせても足りないほど、クジラは深く潜ることがある。そしてハウィクも乗り込み、舫索(もやいづな)を解けという命令を待つばかりとなった。
ハル船長は、ボートに移る前、最後にもう一度船を見回し、すべてがきちんとしているか、動索はよく巻けているか、帆の向きは正しいかを確かめた。そして最後にディックに注意を与えた。
「ディック、おまえを残して行くが、よく注意していてくれ。万一、例えばわたしたちがクジラを追って遠くまで行ってしまったりして、船を走らせなければならなくなったら、トムたちが必ず手伝ってくれるだろう。何をすればよいかを正しく教えれば、トムたちはりっぱにそれをやってくれるに違いない」
「そうですとも、ハル船長」と年老いたトムが答えた。「ディックさんはわしらを当てにしてくださってけっこうです」
「命令してください、命令してください!」とバットが大声で言った。「わしらは役に立ちたくてたまらねえんですから」
「どっちに船を向ければいいんで……」と、上着の袖をまくりながらハーキュリーズが言った。
「今はまだいい」とディックが微笑しながら言った。
「ディック」とハル船長がまた言った。「天候はいい、風もない。風の吹き始めそうな兆候もない。しかし、何が起こっても、ボートを下ろして、この船から離れようとしたりしてはいけない」
「わかりました」
「ピルグリム号に来てもらう必要が起こったら、棒の先に旗をつけて合図をしよう」
「安心してください、船長、ぼくはボートからけっして目をはなしませんから」とディックは答えた。
「よし、ディック」と船長は言った。「勇気をもて、落ち着くことを忘れるな。おまえは副船長だ。その名誉を傷つけないようにするんだ。おまえの年齢で、そんな役を果たしたものは一人もいないだろう」
ディックは答えず、微笑を浮かべながら顔を赤らめた。ハル船長はその意味を理解して心のなかでつぶやいた。「りっぱな少年だ。謙遜(けんそん)で、性格もいい!」
危険はまったく考えられないとはいえ、ハル船長は数時間のことであっても、喜んで自分の船を離れようとしているのでないことは明らかだった。捕鯨夫としての強い本能、それにバルパライソのウェルドン氏と交わした約束に達していない鯨油の積荷を増やしたいという願いなどが、船長を駆りたてているのだった。
船長は梯子(はしご)に向かった。
「幸運を祈っていますわ」とウェルドン夫人が言った。
「ありがとうございます、奥さん」
「お願いだからクジラをあんまり苦しめないでね!」とジャックが言った。
「いいですとも、坊っちゃん」と船長は答えた。
「そうっとつかまえてね!」
「ええ……手袋でもしてつかまえるようにね」
それから船長はトムに向かって言った。
「トム、クジラを船体に横づけにして解体するときには、おまえたちに手伝ってもらわなければならないぞ」
「命令どおりにいたしますとも」と年老いた黒人は答えた。
「よし」と船長は答えた。「ディック、トムたちに樽(たる)を用意させておいてくれ。わたしのいない間に、空の樽を甲板に運び上げておくんだ。そうすれば、わたしたちが帰ったとき、仕事がずっと早くかたづく」
「やっておきます、船長」
読者のために説明すれば、殺したクジラは、まずピルグリム号まで引いて来て、右舷にしっかりと固定しなければならない。それから、底に釘のついた靴をはいた乗員がその背に乗り、順序だてて解体していくのである。頭から尾に向かって平行に何本も切り目を入れて帯状に切り取る。次にそれを一・五フィートの長さに切り、それからさらに細かく切って樽に詰め、その樽を船倉に収める。ふつう、この作業のために、捕鯨船は漁が終わると、できるだけ早く港へ帰ろうとする。陸上で解体作業を行ない、熱を使って鯨油を採取するためである〔原注―この際に鯨油は約三分の一ほど重量を減じる〕。
しかし、今の場合、ハル船長は港にもどることは考えていなかった。鯨油にするのはバルパライソでとしか考えていなかった。それに、やがて西風に変わるので、二十日後にはアメリカ沿岸に到着できるし、それだけの日時では貯えたクジラの脂肪が損なわれることはないからだった。
ピルグリム号はさらに少しクジラに近づいて停止した。クジラは依然として甲殻類の群のなかに浮き、口を大きく開いて何十万という極微生物を飲み込んでいた。
ハル船長は舷側(げんそく)の手すりをまたぎ、なわ梯子を下りて、ボートの船首に立った。
ウェルドン夫人、ジャック、ベネディクトおじさん、それにトムたちは、幸運を祈りますと大声で叫んだ。ディンゴも後足で立ち上がって顔を舷側から出し、乗員たちを励ましたがってでもいるようだった。それから皆は、この興味深い漁のありさまを少しも見落とすまいとして、船首にもどった。
ボートはピルグリム号を離れ、たくましい四人の漕ぐオールの力で、次第に遠ざかって行った。
「気をつけていろよ、ディック、よく気をつけるんだぞ!」と最後にまた船長は叫んだ。
「安心してください、船長」
「一方の眼でピルグリム号を、もう一方の眼でボートを見張っているんだぞ! 忘れるなよ!」
「そうします、船長」とディックは答えて舵輪(だりん)に近づいた。
ボートはもう数百フィート離れていた。声は聞こえなくなってしまっていたが、船首に立ったハル船長はしきりに身振りで注意を繰り返していた。
そのとき、舷側に前肢をかけたままでいたディンゴが、悲しそうな声で吠(ほ)えた。その声は、迷信を信じる人だったら、おそらくぞっとしたに違いない声だった。ウェルドン夫人は身震いして言った。
「ディンゴ、ディンゴ、なんて吠え方をするの! さあ、もっと元気よく楽しそうに吠えなさい!」
だが、ディンゴはもう吠えようとはせず、前肢をおろして、ゆっくりとウェルドン夫人に近づき、坐って夫人の手をそっとなめた。
「尾を振っていないな……」とトムは低い声でつぶやいた。「悪い兆候だ、悪い兆候だ!」
次の瞬間、ディンゴがさっと起き上がり、激しい怒りを示して吠えた。ウェルドン夫人はふり向いた。ネゴロが出て来て、彼もボートの様子を見るつもりなのだろう、船首に近づこうとしていた。ディンゴは、理由のわからぬ荒々しい怒りを見せて、ネゴロに向かって走った。
ネゴロは近くにあったてこ(ヽヽ)を握って身がまえた。ディンゴはその咽喉(のど)をねらって飛びかかろうとした。
「こっちへ来い、ディンゴ、こっちへ来い!」とディックは叫ぶと、持ち場を離れて船首へ走った。
ウェルドン夫人もディンゴを静めようとした。ディンゴはようやく命令に従い、低く唸りながらディックのそばにもどった。
ネゴロは一言も発しなかったが、その顔色は蒼白(そうはく)になっていた。やがてネゴロは、てこ(ヽヽ)を放すと自分の仕事場へもどって行った。
「ハーキュリーズ、おまえはあの男を特に見張っていてくれ!」とディックは言った。
「わかりました、見張っています」とハーキュリーズは答えて、大きな手を握りしめた。
ウェルドン夫人とディックはボートを眺めた。四人の水夫の漕ぐボートは、もう小さな点のようにしか見えなかった。

八 ナガスクジラ

老練の捕鯨夫であるハル船長が、何ひとつとして成り行きにまかせるはずはなかった。ナガスクジラの捕獲はむずかしい作業である。準備はすべて、ゆるがせにしてはならない。
最初、ハル船長は、音を聞きつけられて接近することを覚られないように、風下から近づこうとした。ナガスクジラがそのなかで泳いでいる、赤味を帯びた海水の緩やかな曲線に沿って、ハウィクはキャッチャーボートを進めた。そうして進めば、クジラの背後に出られるはずだった。ボートを操(あやつ)る水夫長は、きわめて冷静な水夫で、ハル船長の深い信頼を受けていた。ハウィクについては心配はまったくなかった。ためらうことも、不注意なところも、少しもなかった。
操舵(そうだ)に注意しろ、ハウィク」とハル船長は言った。「不意討ちを食わせるのだからな。銛(もり)がとどく距離に近づくまで、感づかれてはまずい」
「わかりました、船長」と水夫長は言った。「風上に出ないように、あの赤い海水の縁を回って行きましょう」
「よし!」とハル船長は言った。「皆、できるだけオールの音をたてるな!」
オールの金具にむしろを巻き、音をひそめて漕(こ)いだ。水夫長のたくみに操るボートは、極微の甲殻類の群に達した。右舷のオールは澄んだ緑色の水をかいていたが、左舷のオールは赤い水をかき、オールが水面に出ると血のような水滴がしたたり落ちた。
「ブドウ酒と水だ!」と一人の水夫が言った。
「そうだな」とハル船長は答えた。「飲めないブドウ酒と飲めない水だ! そろそろ、皆、もう話をするな。力いっぱい漕ぐんだ!」
水夫長の操るボートは、まるで油のようにとろりと淀(よど)んだ水の表面を、音もなく滑った。ナガスクジラは微動もせず、自分のまわりを円を描くようにして近寄って来るボートにはまったく気づいていないようだった。
ボートは弧を描いてピルグリム号から遠ざかり、ピルグリム号の姿は次第に小さくなった。海の上では、離れていくものが、奇妙なほど早く、小さくなっていくものである。望遠鏡を逆にして見たようにさえ感じられる。この視覚上の錯覚は、広い空間で、比較するものがないことによる。ハル船長の目に、ピルグリム号はひどく小さくなって見え、実際以上に離れたように感じられたのは、このためである。
三十分後、ハル船長と乗員は、正確にクジラの風下に達し、クジラを中にしてピルグリム号の正反対の位置にいた。いよいよ、できるだけ音をひそめてクジラに接近するときだった。相手が気づく前に、不意に近づいて望む距離で銛を打ち込むことも不可能ではなかった。
「そっと漕ぐんだ」とハル船長は低い声で言った。
「どうやら何か感じているようです!」とハウィクが言った。「さっきまでよりも、呼吸の音が低くなっています!」
「静かに! 静かに!」とハル船長は言った。
五分後、キャッチャーボートは、ナガスクジラから一鏈(れん)〔原註―一鏈は百二十尋、すなわち二百メートル〕の位置に達していた。水夫長は船尾に立ち上がって、左脇腹(ひだりわきばら)に近づくようにボートを操縦していた。しかし、ただの一撃でボートを砕くこともできる恐ろしい尾のとどく範囲を通らぬよう、最大の注意を払わねばならなかった。
船首にはハル船長が、均衡を保つために両脚をやや離して立ち、その手には第一撃を加えるための銛が握られていた。船長の手腕を考えれば、海面上に現われているクジラの厚い皮膚に、その銛が突き刺さることはまちがいなかった。
船長のそばの樽にはロープがとぐろを巻いており、その一端は銛にしっかりと結びつけられていた。万一、クジラが非常に深く潜った場合、そのロープに次々と四本のロープをつぎ足していくのである。
「いいな?」とハル船長は低い声で言った。
「いいです」と、大きな手でがっしりとオールを握ったハウィクが答えた。
「近づけろ! 近づけろ!」
水夫長は命令に従った。ボートはクジラまで十フィート以内に近づいた。クジラは動かず、眠っているように見えた。こういうふうにクジラが眠っている場合は、最初の一撃が致命傷となり、楽に捕獲できることが多い。
こんなにじっと動かないということは珍しい! とハル船長は思った。狡猾(こうかつ)な奴だったら、眠っているはずがないが……何かあるな! 水夫長も同じことを考え、クジラの反対側の腹を見ようとした。だが、考えているときではなく、攻撃するときだった。
ハル船長は、銛の柄の中ほどを握り、ナガスクジラの脇腹をねらって、狙(ねら)いの正確さを期して数回銛を振った。そして、全力を腕にこめ、銛を投げた。
投げると同時に、船長は叫んだ。
「もどれ! もどれ!」
水夫たちはオールをそろえて逆に漕ぎ、ボートを後退させた。尾でたたかれる危険を避けるためだった。
そのとき、水夫長が大声で叫び、それによってクジラがどうしてそれほど長時間、海面に不思議なくらい動かないでいたかの理由がはっきりした。
「子クジラだ!」と水夫長は叫んだのだった。
事実、銛を打ち込まれたクジラは、ほとんど完全に腹を海面に現わし、乳を与えていた子クジラがはっきり見えていた。
ハル船長はよく知っていたが、こういう場合クジラを捕えるのはいっそうむずかしくなる。明らかに母クジラは、自分自身と《赤ん坊》――二十フィートもあっても、やはりこう呼んでいいだろう――を護(まも)るために、よりいっそう激しく抵抗するからである。
しかしクジラは、恐れていたようにすぐにはボートに向かって来なかった。逃げるために銛につながっているロープを切ろうと考えるどころではなかった。こういう場合たいていそうなのだが、かえって逆に水中に潜り、子クジラもその後を追って潜った。それから、いったん深く潜った母クジラは急に浮上して来ると、猛烈なスピードで逃げ始めた。
しかし、クジラが最初に潜るまえに、ボートに立っていたハル船長と水夫長の二人は相手の正確な値打ちを見てとるだけの時間があった。そのナガスクジラは、実際、イワシクジラ属のなかで最も大きいものだった。頭から尾の先まで、少なくとも八十フィートはあった。黄色を帯びた褐色(かっしょく)のその皮膚には、濃い褐色の眼状斑(がんじょうはん)が多数ついていた。
最初に幸運な一撃を加えることができただけに、これほど値打ちのある獲物を逃がしたとすれば、実に遺憾なことだった。追跡が始まった。というより引きずられ始めたといったほうがいい。オールは引き上げてあったが、ボートは波の頂点を矢のように走った。猛烈に揺れるボートを、ハウィクは落ち着いて操(あやつ)っていた。
ハル船長は、クジラから目を離さず、繰り返し言っていた。
「気をつけろ! ハウィク、よく気をつけろ!」
水夫長の警戒が、瞬時も欠けることのないことは信頼してよかった。それにしても、ボートは逃れようとするクジラほどは早く進まず、銛につけたロープは船縁(ふなべり)と摩擦して火を発するかと思われるほど、非常な速度で伸びていった。ハル船長は樽に水を入れてロープを湿らせる配慮を怠らなかった。だが、ナガスクジラには、進むのを止めようとする気も、速度を緩めようとする気もないように見えた。第二のロープが継ぎ足されたが、同じ速度でロープは繰り出されていった。
五分後、第三のロープを結びつけねばならず、そのロープもまた水中に伸びていった。クジラは止まらない。明らかに、銛はどこか致命的な部分に命中していた。海面にもどるどころか、急角度にますます深くクジラが潜って行くのが見えた。
「くそっ!」とハル船長は叫んだ。「奴め、ロープを五本とも引き込みそうだ!」
「それに、ピルグリム号から、ずいぶん遠くまで引きずられてしまいそうです!」と水夫長は答えた。
「しかし、いつか海面に出て来るはずだ!」とハル船長は答えた。「魚じゃあないんだから、空気を吸い込みに出て来なければならないはずだ!」
「あいつは、できるだけ早く泳げるように、呼吸を止めているんでしょう!」と水夫の一人が笑いながら言った。
実際、ロープは同じ速度で伸びていった。第三のロープに、さらに第四のロープをつながなければならなくなり、獲得賞金はだいじょうぶ手にはいるだろうかと水夫たちをいささか不安がらせずにはおかなかった。
「くそっ! くそっ!」とハル船長は小声でつぶやいていた。「こんな奴は見たことがない! 悪魔みたいなクジラめ!」
ついに第五のロープを結びつけなければならなくなった。第五のロープがすでに半ば伸びたところで、勢いが弱り始めたように見えた。
「よし、よし!」とハル船長は大声で言った。「ロープはもう緩んでいる。クジラは弱ったぞ!」
そのとき、ボートはピルグリム号の風上に五マイル以上離れていた。
ハル船長は、爪竿(つまざお)の先端に旗を揚げて、近づいて来るようにとピルグリム号に合図した。
するとすぐに、ディックが、トムたちに手伝わせて帆桁(ほげた)を転桁(てんこう)させ、ボートに向かって進む準備をさせるのが見えた。しかし、風は弱く、とだえがちだった。かすかに吹いたと思うと、すぐに止(や)んでしまうのだった。ボートのいる位置まで進むことは、たとえ行けるとしても、明らかにかなりむずかしそうだった。
一方、予期したとおり、ナガスクジラは脇腹に銛が突き立ったまま、呼吸をしに海面に現われた。そして、そのままほとんど動かなかった。猛烈に進んだために離れてしまった子クジラが追いつくのを待っているらしかった。ハル船長は力いっぱいオールを漕がせ、間もなくボートをクジラに近づけた。
オールを二本揚げ、二人の水夫が、先刻のハル船長のように、長い銛を握ってクジラに打ち込む構えをとった。ハウィクは巧みにボートを操り、相手が突然ボートに襲いかかって来た場合にさっと逃れられる用意をしていた。
「気をつけろ!」とハル船長は叫んだ。「やりそこなうなよ! よくねらうんだ! そちらはいいか、ハウィク?」
「準備よしです、船長」と水夫長は答えた。「それにしても、ひとつ気になることがあります! さっきまであれだけのスピードで泳いでいた奴が、今はこうしてじっとしているのは変ですよ!」
「そうなんだ、ハウィク! わたしもそれがおかしいと思う」
「用心することにしましょう!」
「よし。とにかく、進もう」
ハル船長は次第に活気づいた。ボートはさらに接近した。クジラはその場で向きを変えたりしているだけだった。子クジラはそばにはいなかった。おそらく、母クジラは子どもを探しているのだろう。突然、クジラは尾を一度さっと動かし、それだけで三十フィートほど進んだ。また逃れ始めるのか? あの際限のない追跡を再び繰り返さなければならないのだろうか?
「気をつけろ!」とハル船長は叫んだ。「跳ね上がって、こっちへ向かって来るぞ! うまく舵をとれ、ハウィク、舵を!」
実際、クジラは身体を回してボートと正面から向き合った。そして、大きな鰭(ひれ)で激しく海面をたたくと、まっしぐらに進んで来た。
正面からの攻撃に備えていた水夫長はボートを回した。クジラのねらいははずれて、ボートの横を走り過ぎた。
そのクジラめがけて、ハル船長と二人の水夫は全力をふるって銛を投げ、重要な器官のどれかを傷つけようとした。クジラは不意に止まり、血の混ざった二本の水柱を高く吹き上げた。吹き上げられた水は、ぞっとするような雨となってボートに降り注いだ。しかし、大胆な水夫たちはびくともしなかった。ハウィクはクジラの攻撃を再び巧みにかわした。
命中した新たな三本の銛は、クジラに新しい三つの傷を与えていた。だが、通り過ぎるときに恐るべき尾で水を強くたたいたため、海面が急にふくれたかと思うような巨大な波が盛り上がった。ボートはあやうく転覆をまぬがれたが、水をかぶって、ほとんど半ばまで海水にひたってしまった。
「バケツだ! バケツだ!」とハル船長は大声で言った。
二人の水夫がオールを放して、急いで水を汲(く)み出し始めた。その間に船長は、もう不要となったロープを切った。ところが、意外にも、痛みのために怒り狂ったクジラは、もう逃げるという気をまったくもっていなかった。今や、クジラのほうがボートを襲おうとしていた。致命傷の苦しみは恐ろしいものになりそうだった。
三度めにクジラは方向を転じ、船員のことばで言う《船首と船首を向き合わせた》。そして、またボートに突き進んで来た。半ば海水のはいってしまったボートは、それまでと同じように自由に操ることはもうできなかった。そうした条件下で、目前に迫った打撃をどうして避けることができよう。操舵(そうだ)できなければ、逃れることなどなおさら不可能だった。それにまた、どれほど早くボートを漕いでも、ナガスクジラが二、三度跳ねれば追いついてしまうことは明らかだった。今や、攻撃するのではなく、身を守らなければならなかった。ハル船長は、その点を見誤ってはいなかった。
第三の攻撃を、完全にかわすことは不可能だった。正面からの衝突は避けたものの、巨大な背鰭(せびれ)はボートをかすめて通った。その勢いの強さに、ハウィクは席から転がり落ちてしまったほどだった。また三本の銛を投げたが、ボートが揺れて、今度は命中しなかった。
「ハウィク! ハウィク!」と、かろうじて立っていながらハル船長は叫んだ。
「はい!」と水夫長は答えて立ち上がった。
だが、そのときハウィクは、倒れたときに舵(かじ)が真ん中からぽっきりと折れていることに気づいた。
「もう一つの舵だ!」とハル船長は言った。
「わかりました」とハウィクは答えた。
そのとき、ボートからわずか数トワーズ〔一トワーズは約二メートル〕の海面がぶくぶくと泡立(あわだ)った。子クジラが現われた。母クジラはそれに気づくと、すぐに近寄って行った。これによって、戦いは今まで以上に恐ろしい性格のものに変わるのは明らかだった。母クジラは、子クジラを守ろうと、二倍の力で戦うに違いなかった。ハル船長はピルグリム号のほうを見た。旗をつけた爪竿(つまざお)を、船長は夢中で振った。
船長の最初の合図を見て、船を動かし始めたディックに、それ以上なにができただろう? ピルグリム号の帆は、風を受けやすい角度に向けられ、風でふくらみ始めていた。不幸にもピルグリム号には、進度を早くするスクリューは装備されていなかった。もう一艘(いっそう)ボートをおろし、黒人たちとともに船長を救いに行こうとしても、それは時間をむだにすることになる。それに、どんなことが起ころうと、けっしてピルグリム号を離れてはならないと命令されていたのである。しかしディックは、万一の場合ハル船長や乗員たちが乗り移れるように、船尾のボートを吊艇柱(ちょうていちゅう)から下ろしておいた。
そのとき、ナガスクジラは、子クジラを自分の身体でかばいながら、また攻撃に転じた。今度は、ボートを直撃しようとするように、身体の向きを変えた。
「気をつけろ! ハウィク!」とまたハル船長は叫んだ。
しかし水夫長は、いってみれば武器をもたないのと同様だった。幅の広い舵の代わりに、手にもっている幅の狭いオールでは効果は少なかった。水夫長はボートを回そうとした。だが、それは不可能だった。水夫たちは破滅だと覚った。全員が立ち上がり、恐ろしい悲鳴をあげた。その声はおそらくピルグリム号にとどいたに違いない!
クジラの尾の恐るべき一撃が、ボートに真上から襲いかかった。ボートは、抵抗することもできず激しく空中に跳ね上がり、三つに砕けて、クジラが暴れるために逆巻く波に落下した。不運な水夫たちは、傷を受けたが、泳いだりボートの破片にすがったりして、なお浮いていることはできたろう。ハル船長が水夫長をボートの残骸(ざんがい)の上に引きあげるのも見えた……。
だが、狂暴ぶりが頂点に達したクジラは、おそらく断末魔のもがきなのだろう、また方向を転じ、不幸な水夫たちがまだ泳いでいる海面に、猛然と突っ込んで来たのである。
数分間、あたり一面は吹き上げられた海水が滝のように降り注ぐばかりだった。
十五分後、悲劇の現場にディックが黒人たちとともにボートで急いで到着したときには、生きた人間の気配は絶えていた。血で赤く染まった海面には、ボートの残骸がいくらか浮いているばかりだったのである。

九 サンド船長

ピルグリム号の乗客たちが、この恐ろしい悲劇の現場を前にしてまず抱いた印象は、痛ましさと恐怖だった。乗客たちは、ハル船長と五人の水夫を襲った悲惨な死のことしか考えられなかった。彼らを救うために何らなすことのできなかったその恐ろしい場面は、乗客たちのほとんど眼前といってもよいところで行なわれたのだった! 傷ついてはいたがまだ生きていた不運な乗員たちを救出するのに、あるいはまたナガスクジラの恐るべき攻撃をピルグリム号の船体で代わって受けるのに、間に合わなかったのだった! ハル船長とその部下は、永遠に失われてしまったのである。
ピルグリム号が遭難現場に着いたとき、ウェルドン夫人はひざまずき、両手を天に差し伸べて、《お祈りしましょう》と言った。母にならって、幼いジャックも涙を浮かべてそのそばにひざまずいた。ディック、ナン、トム、その他の黒人たちは、じっと立ったまま頭を垂れた。今、神の前に召されたものに対して限りない慈愛を注ぐようにと祈るウェルドン夫人のことばを、全員が繰り返した。それから、ウェルドン夫人は一同を振り返って言った。
「それでは皆さん、今度は、わたしたちに力と勇気を与えてくださるように、神さまにお願いいたしましょう」
そのとおりだった。危険きわまるそのときの状況では、どれほど神の加護を願っても願いすぎということはあるまい! ピルグリム号には、指揮をとる船長も、船を動かす船員もいないのだった。陸から数百マイル離れた広大な太平洋のただ中で、風と波の動かすままになっているのだった。
ピルグリム号の行く手に、あのクジラを導き寄せたのは、なんという運命のいたずらだろう? それにもまして、日ごろは実に思慮に富んでいたハル船長に、積荷を多くさせようと冒険に駆りたてたのは、なんという重大な運命のいたずらだろう? キャッチャーボートの乗員全員が助からなかったとは、捕鯨史上にもきわめて稀(まれ)な遭難ではないだろうか! まことに恐ろしい運命だった! ピルグリム号には、もうただの一人も船員はいない!
いや、いる! 一人だけ! ディック・サンドが! 十五歳の見習水夫でしかなかったが! 船長、水夫長、水夫、そのすべてが今ではディック・サンドに要約されていると言っていいだろう。
また、船内には一人の婦人とその子が乗っているが、そのために状況はいっそうむずかしくなるに違いなかった。さらに、数人の黒人が乗っており、彼らはまじめな人間で、勇気も熱意もあり、指揮するものがあれば喜んで服従するだろうが、水夫としての知識はまったく欠いているのである!
ディックは、父に対するような愛情を感じていたハル船長を飲んだ海面を、腕組みして身動きもせず見つめていた。それから、視線を水平線に走らせ、助けを求めることのできる――せめてウェルドン夫人母子を托すことのできる――船はないものかと探し求めた。とはいっても、無事に港にはいるまであらゆる試みをすることなしに、ピルグリム号を見捨てる意志は彼にはなかった。しかし、まずウェルドン夫人とその子の身が安全になってからのことである。身も心も捧げる覚悟でいるその二人のことを気づかわなくてよくなってからのことだった。
海上に船影はなかった。あのナガスクジラが見えなくなってから、わずかに海面に変化を与えるものもなかった。周囲は空と水ばかりだった。ディックには、船が定期船の航路上にいるのかも、他の捕鯨船は離れたところを航行しているのかも、まったくわからなかった。しかし、状況を直視し、事態をあるがままに見なければならなかった。心の底から神に援助と加護を祈りながら、ディックはそれを行なった。どういう決断を彼は下そうとするだろうか?
そのとき、あの悲劇の後に甲板を去っていたネゴロが姿を現わした。あの取り返しのつかぬ不幸を目前にして、このなぞの男が何を考えたか、それはだれにもわからないだろう。事件を、彼は身動きひとつせず、日頃の沈黙を破ることもなく、凝視していた。彼の目は、事件のあらゆる細部を、むさぼるように捕えていた。あのとき彼を観察しようと思うものがいたら、無表情な顔の筋肉が一すじも動かなかったことに驚いただろう。それにまた、海に飲まれた乗員たちのために祈るウェルドン夫人の信仰深い呼びかけにも応じようとしなかったのだった。
ネゴロは船尾に向かって、ディックがじっと立っている場所に向かって歩いて行った。ディックから三歩離れたところで、ネゴロは立ち止まった。
「話でもあるのか?」とディックは言った。
「ハル船長に話があるんだ」と冷やかにネゴロは答えた。「船長がいなければ、ハウィク水夫長に」
「二人とも死んでしまったことは、よく知っているだろう!」とディックは大声で言った。
「すると、今からだれが指図をするんだ?」とネゴロは横柄な口調で言った。
「ぼくだ!」とディックはためらわずに答えた。
「おまえが!」とネゴロは肩をすくめて言った。「十五歳の船長か!」
「十五歳の船長だ!」とディックは答えて、料理番のほうへ歩み寄った。
ネゴロは後にさがった。
「忘れないでください」とウェルドン夫人も言った。「この船には船長は一人しかいません……サンド船長です。命令に服従しないとどうなるか、思い知らされることになるでしょう!」
ネゴロは頭を下げてから、皮肉な調子で何か聞きとれぬことをつぶやきながら、自分の仕事場へもどって行った。ディックの決断はこれで明瞭(めいりょう)に示されたのである。
そうしている間、吹き始めた風に押されて、船は甲殻類の巨大な群れを通り抜けていた。
ディックは帆の状態を調べた。それから足元の甲板に目を向けた。そして彼は、今後これほど重い責任が自分にかかってくるなら、それを受け入れるだけの力をもたなければならないのだと考えた。それから、ピルグリム号に生き残っている人々を思いきって見回した。皆の目が彼を見つめているのだった。そして、皆の視線に信頼できるものを読みとると、ディックも自分を信頼してよいのだと短いことばで言った。
ディックは誠実に反省してみた。この帆船の帆を状況に応じて張ったり向きを変えたりすることは、トムたちの手を借りればできるだろうが、船の位置を計算によって決定するに必要な知識のすべてはまだもっていなかった。四、五年後であったら、船員というむずかしい仕事をすっかり身につけていたことだろう。ハル船長が毎日使っていた、天体の高度を測定する六分儀(ろくぶんぎ)を使うこともできただろう! クロノメーターでグリニッジ標準時を読み、時角を使って経度を割り出すこともできたろう! 太陽が毎日、忠告してくれたろうし、月や星も《ほら、おまえのいる場所は、大洋のなかのこの点だよ》と教えてくれただろう! 星は、絶対に正確な時計の針のように大空を渡って行き、どんな雲もその動きを妨げることができない――その大空が時間と距離とを教えてくれたことだろう! 星を観測することによって、ハル船長が毎日していたように、ピルグリム号の現在位置や、進んで来た航路とこれから進む航路とがわかっただろう!
だが今からは船位推算法で、つまり測程儀で速度を測り、羅針儀で方向を調べ、偏流計で較正(こうせい)しながら進路を定めていかねばならない。しかし、ディックはひるまなかった。ウェルドン夫人は、ディックが固く決意した心中で何を考えているのかすべて見通しており、静かな声で話しかけた。
「ねえ、ディック、ハル船長はもういないのです! 乗員も船長といっしょにいなくなってしまったわ。この船の運命は、あなたの掌中(しょうちゅう)にあるのです! ディック、この船と、この船に乗っている人間を、あなたは救わなければいけないわ!」
「そうです、奥さん」とディックは答えた。「そうなんです! ぼくはやってみます」
「トムたちはまじめな人たちです。あの人たちなら、あなたも必ず頼りにしてだいじょうぶです」
「わかっています。水夫の仕事をやってもらって、みんなで運航していくことにしましょう。天候さえよければ、むずかしいことは起こらないでしょう! 天候が悪くなったら……そうです、天候が悪くなったら、いっしょにがんばります。われわれの力で奥さんやジャックさまを救うことはできるでしょう! そうですとも、きっとできると思います」
「それでは、ディック、ピルグリム号の現在位置は調べられますか?」とウェルドン夫人は尋ねた。
「簡単です」とディックは答えた。「海図を見さえすればいいのですから。昨日ハル船長が記入した点があります」
「それなら、この船を正しい進路に向けることはできますか?」
「はい。船首を東へ向ければ、この船が着くことになっているアメリカ大陸の沿岸のどこかの地点に向きます」
「けれども、ディック」とウェルドン夫人はまた言った。「あの恐ろしい災難が起こったのですから、最初の目標を変更しなければならないことは、あなたもわかっているでしょうね? 今ではもうピルグリム号はバルパライソまで行く必要はありません。アメリカ大陸沿岸の最も近い港が、今ではピルグリム号の目的地です」
「そのとおりです、奥さん」とディックは答えた。「ですから、心配はいりません! アメリカ大陸は南に長く伸びていますから、その沿岸に着けないということはありません」
「アメリカ大陸はどちらにあるのです?」とウェルドン夫人は言った。
「この方角です」と、羅針儀を調べて東を指さした。
「わかりました、ディック。バルパライソでも他のどこでもいいですから到着しましょう。どこでもかまいません! 必要なことは陸地に着くことです」
「やります、奥さん。きっと奥さんを安全な場所に上陸させます」とディックは固い決意をこめた声で答えた。「それに、陸地に近くなれば、沿岸航路の船に出会うという希望もあります。ああ、奥さん。北西の風が吹き始めました! この風がつづいてくれればいいのですが。そうすれば、正しい方向に進めます! 斜め後方から風を受けて進みます。後斜桁帆(こうしゃこうはん)から先斜檣帆(せんしゃしょうはん)まで、全部の帆に風を受けます!」
ディックのことばは、自由に操ることのできる優秀な船の上に立っている船員としての自信に満ちていた。ディックは、自分自身で舵(かじ)を握り、トムたちを呼んで帆を適切な向きに張らせようとした。そのとき、ウェルドン夫人が呼び止めて、何よりもまずピルグリム号の位置を調べる必要があると注意を促した。確かに、第一にするべきことはそれだった。ディックは、船長の部屋へ行って、昨日の船の位置が記入されている海図をもって来た。そして、現在位置が緯度四十三度三十五分、経度百六十四度十三分であることをウェルドン夫人に示した。というのは、この二十四時間、船は動いていないといってよいからだった。
ウェルドン夫人は海図をのぞき込んだ。広い太平洋の右側に描かれた褐色の陸地の部分を、夫人はじっと見つめた。コロンビアからホーン岬まで、太平洋と大西洋の間に長く突き出た南米大陸だった。そうして眺めていると、海図には広大な太平洋がそっくり収められているので、ピルグリム号の乗客を陸地へ送り届けることは容易なことに思われてくるのだった。それは、海図の縮尺に慣れていないものに、必ずといっていいほど起こる幻覚だった。陸地が当然もう見えてもいいような気が、ウェルドン夫人にはしてしまうのだった。
しかし、その白い海図上にピルグリム号を正確な縮尺で置こうとするなら、顕微鏡的な滴虫類(てきちゅうるい)よりもさらに小さいはずだった! 数学上の点のように広さをもたないその点は、広漠たる太平洋中にいる現実のピルグリム号のように、目にも止まらぬものだったろう!
ディックはウェルドン夫人と同じように感じてはいなかった。陸地がどれほど遠いかということを、そして数百マイル以上あるということを、ディックはよく知っていた。しかし、決心はできていた。背に負わされた責任の重さによって、ディックはおとなになったのだった。行動に移るべきときは来ていた。吹き始めた北西の微風を利用しなければならなかった。逆風は止(や)み、高い空にいくつか浮かんだ巻雲(けんうん)はこの北西の風がしばらくつづくことを示していた。
ディックはトムたちを呼んで言った。
「おまえたち、この船には、おまえたち以外に乗員はいないんだ。おまえたちに援助してもらわなければ、ぼくは船を運航していくことはできない。おまえたちが船乗りでないことはわかっている。しかし、おまえたちには丈夫な腕があるんだ。その腕をピルグリム号に役立ててもらいたい。そうすれば、われわれは船を進めて行くことができるだろう。このピルグリム号がりっぱに進んで行けることが、われわれ全員を救うことになるんだ」
「ディックさん」とトムが答えた。「わたしたちはそろって、あなたの水夫になります。わたしたちは喜んで働きましょう。人間にできることならどんなことでも、あなたが指図してくだされば、わたしたちはやります」
「よく言ってくれました、トム」とウェルドン夫人は言った。
「そのとおりです。よく言ってくれた」とディックも言った。「しかし慎重にやっていかなくてはならない。帆を全部張るのはやめておくことにしよう、万一危険なことが起こるといけないから。スピードは遅くてもいい、それよりも安全だ、それが今のぼくたちに要求されることだ。おまえたち一人一人に何をしてもらうかは、ぼくが指示しよう。ぼくは舵を握る、疲労のためやむを得ないとき以外は舵から離れない。ときどき数時間眠れば、ぼくは十分に力をとりもどすことができる。その数時間、だれかに代わってもらわなければならない。トム、羅針儀を見ながら舵を操る方法を、おまえに教えよう。むずかしい仕事ではない。注意していさえすれば、船首を正しい方向に保つことを、おまえもすぐに覚えるだろう」
「いつでもやります、ディックさん」とトムは答えた。
「よし、ぼくが舵を握っているから、夜までぼくのそばにいてくれ。そうすれば、ぼくが疲れたとき、数時間交代することができるようになっているだろう」
「ねえ、ぼくは?」と小さいジャックが言った。「ぼくにも手伝えることはないの?」
「そうですよ、ジャック」とウェルドン夫人はジャックを胸に抱きしめながら言った。「あなたも舵の動かし方を教えてもらいなさい。そして、あなたが舵を握っていたら、きっといい風が吹くとわたしは思いますよ」
「そうです、そうです、お母さま。ぼく、約束しますよ!」とジャックは両手を打って答えた。
「そうですね」とディックも微笑しながら答えた。「りっぱな少年水夫は、よい風を呼ぶといいます。昔から船乗りたちによく知られたことです」
それからトムたちに向かって言った。
「きみたち、斜め横から風を受けるように帆桁(ほげた)の向きを変えよう。今からきみたちは、ぼくの言うことだけをしてくれればいい」
「命令に従います」とトムが答えた。「命令に従います、サンド船長」

一〇 その後四日

こうしてディック・サンドはピルグリム号の船長になった。彼はただちに、船を全力疾走させるために必要な命令をくだした。
乗員および乗客のただ一つの希望は、バルパライソでなくてもアメリカ大陸のどこかの沿岸に到着することだった。そのためにはディックはピルグリム号の進路と速度を知っておかねばならなかった。それには、毎日、船の現在位置を、測程儀と羅針儀で測って海図に記入していればよいのだった。ピルグリム号には、一定時間の進度を正確に示す測程儀があった。これは使用法も容易で非常に役に立つものであり、黒人たちも、それを扱うのに慣れた。
ただ一つ誤差の起こる原因は、海流だった。その誤差を避けるには、天体観測による以外になかった。ところが、この天体観測については、少年船長はまだ測定をすることができないのだった。ディックはニュージーランドへ船をもどそうかとも考えた。ニュージーランドのほうが近かったからだし、そのときまで逆風だった風がそのときになって急に順風とならなかったら、おそらく彼は船をニュージーランドへ向けていたことだろう。だが、風は完全に方向を変え、適度な北西の風が吹き始めたのを知り、これを利用すれば思ったより早くアメリカに着けると判断して、船をアメリカ大陸に向けることに決めたのである。
ディックは風を斜め後方から受けるように船を進めた。二本マストのスクーナー船では、前檣(ぜんしょう)に四枚の四角の帆がある。下檣(かしょう)にフォースル、その上の中檣(ちゅうしょう)にトップスル、さらにその上のトガンマストにトガンスルと最上檣帆(さいじょうしょうはん)である。逆にメーンマストには帆は少なく、下檣に後斜桁帆(こうしゃこうはん)、その上に上檣帆(じょうしょうはん)があるだけである。このほか、二本のマストを支える支索のうち船首の側の支索に三角帆を三枚、第一斜檣(しゃしょう)とそのブームに三角帆を三枚張ることができる。
三角帆と後斜桁帆とメーンマストの上檣帆は操作が簡単で、マストに登らずに甲板で上下することができる。それに対して、前檣の帆の操作は熟練を要する。帆を揚げるときには、中檣やトガンマストや索具に登らなければならないのである。揚げるときだけではなく、もちろん帆を畳む場合も同様である。そのため、帆桁(ほげた)の間に張り渡した綱の上を走ったり、片手で身体を支え片手で帆綱を操るという慣れないものには危険きわまる作業を行なわなければならないのである。船体の横揺れや縦揺れ、帆のはためきなどによって、下の甲板に落ちてしまう。したがって、これらの作業はトムたちにとっては実に危険なものだった。
だが、幸いに風はほどよく吹き、横揺れも縦揺れも激しくはなかった。ディックが船を事故の起こった場所に向けたとき、ピルグリム号は三角帆と後斜桁帆とフォースルとトップスルしか揚げていなかった。そこで斜め後方から風を受けて進むためには、前檣にトガンスルと最上檣帆、メーンマストに上檣帆、支索の三角帆を揚げねばならなかった。
少年船長は舵輪(だりん)を握ったまま五人の黒人に言った。「みんな、これからぼくの命令するとおりにしてくれ、そうすればきっとうまくいくから。さあ、トム、帆綱を解くんだ! バットも、同じだ!……よし、それから引っ張るんだ、強く!」
「こうですか?」とバットが言った。
「うん、そうだ。うまいぞ! ハーキュリーズも手伝ってくれ、力いっぱい!」
ハーキュリーズに向かって《力いっぱい》と言うのはまずかった。ハーキュリーズは言われたとおりにぐいぐい引っ張ったのである。
「あっ、そんなに強くなくてもいいんだ」とディックは笑いながら言った。「そう引っ張ったら、マストが倒れてしまう」
「ほんのちょいと引っ張っただけなんですがね」とハーキュリーズが言った。
「じゃあ、引っ張るまねくらいにしておくんだ、それで十分だろう……よし……結びつけろ……そうだ!」
風は帆をふくらませ、船はややスピードを増した。そこでディックは第一斜檣の三角帆の帆綱をゆるめさせると、黒人たちを集めた。
「これでいい、みんなよくやってくれた。今度はメーンマストだ。ハーキュリーズ、何もこわさないでくれよ」
「そうしましょう」とハーキュリーズはまじめな顔で答えた。
今度の作業は楽だった。帆綱を徐々に緩めると、後斜桁帆は自然に風を受けて船のスピードをさらに増した。それから上檣帆を揚げるわけだったが、これは絞り帆綱で簡単に絞れるので、動索を引き、帆が風上に向けてぴんと張るようにすればいいだけだった。ところが、ハーキュリーズが力を入れ、アクテオンも加わり、おまけにジャックまで引っ張ったせいで、動索がぷっつり切れてしまった。三人とも甲板に転がったが、幸いけがはなく、ジャックはかえっておもしろがったほどだった。
「たいしたことはない、たいしたことはない」とディックは大声で言った。「綱をつなぎ合わせて、そっと引っ張るといい!」
舵を握っているディックの見ている前で、その作業も無事に終わった。今やピルグリム号は東に向かって、かなりのスピードで進んでいた。その進路を誤らないように注意してさえいれば、風は順調に吹いているので、もう何も心配はなかった。
「よし! この航海が終わるころには、みんな一人前の水夫になっているだろう!」とディックは言った。
「いっしょうけんめいやります、サンド船長」とトムが答えた。
ウェルドン夫人も黒人たちの働きぶりを賞讃し、幼いジャックまでもよく働いたと言ってウェルドン夫人とディックにほめられた。
「わしは思いますがな、ジャックさま」とハーキュリーズも微笑を浮かべながら口を添えた。「あの動索を切ったのもジャックさまですよ。とにかく強そうな手ですからな。ジャックさまがいなければ、何もできないところでした!」
ジャックはすっかり喜んでハーキュリーズの手を力いっぱい握りしめた。
しかし、帆は完全に揚げたわけではなかった。最も高い帆がまだ残っていたのである。この作業はそれまでのよりもずっとむずかしいものだった。ディックは慣れない黒人たちを危険にさらすまいとして、自分でやろうと決心した。
ディックはトムを呼んで舵輪を預けた。それから、ハーキュリーズ、バット、アクテオン、オースティンの四人に最上檣帆(さいじょうしょうはん)とトガンスルの動索を、おのおの二人ずつで押さえさせ、マストに登って行った。下檣(かしょう)の支檣索(ししょうさく)の段索(だんさく)を登り、中檣(ちゅうしょう)の支檣索の段索を登った。一分間ほどして、彼はトガンマストの帆桁(ほげた)に立ち、畳んだ帆を結んである綱を解き始めた。それが終わると、さらに最上檣(さいじょうしょう)の帆桁に登り、同じように帆を結んである綱を手早く解いた。そして、すべて解き終えると、右舷の支索を伝って、するすると甲板へ滑り下りて来た。そして、皆に指図して今解いてきた帆の綱を引かせ、すべての帆を張り終えた。今度はハーキュリーズも力を加減して、何もこわさなかった。
ディックはトムに代わって舵輪を握っていた。穏やかな風が吹き、ピルグリム号はやや右舷に傾きながら、船尾に美しい航跡を残して、海面を滑るように進んで行った。
「進路はこれで安心です、奥さん」とディックはウェルドン夫人に言った。「あとは、この風が吹きつづけてくれるのを祈るだけです」
ウェルドン夫人は少年船長の手を握りしめた。それからの夫人は、数時間の心労に疲れて、船室へ行って休むことにした。だが、気持ちよく眠ることはできず、まどろみながら苦しい夢を見るばかりだった。
黒人たちは前甲板に立って、風向きが変わったらディックの命令にしたがってすぐにも帆の向きを変えようと待っていた。だが、その風が吹きつづけている限り、その必要はまったくないわけだった。
ところで、こうした間にベネディクトおじさんは何をしていただろうか。甲板で見つけた昆虫を虫眼鏡(むしめがね)で眺めていたのである。ゴキブリに似て、羽根が長く腹部が丸く、頭部が前胸の下に隠れている昆虫だった。調理場で見つけたもので、ネゴロが踏みつぶそうとするところを捕えて来たのだった。ハル船長たちの遭難を、ベネディクトおじさんが知らなかったのかというと、そうではない。ピルグリム号が粉々になったキャッチャーボートの残骸のそばに近寄ったとき、おじさんは甲板にいたから、遭難の跡を確かに見ていたはずである。だが、おじさんが冷淡な人間だなどと考えるのは当たっていない。遭難した乗員たちを気の毒だと思ったことはもちろんだし、ウェルドン夫人のそばに行き「心配しなくてもいい、ぼくがいるから」と言って手を握りしめたほどだったからである。ただその後、今後のことをよく考えようとして船室にもどる途中で例のゴキブリを発見してしまったのである。
甲板では、予想もしなかった事故にだれもが強いショックを受けていたが、航海は軌道に乗り始めていた。ディックは船内各部を調べ、故障した部分を調整するのに忙しかった。黒人たちは熱心に彼の命令に従って働き、ピルグリム号は再び完全な秩序をとりもどしていた。このままで、すべてが支障なく進行するという希望が生まれた。
ネゴロは、その後はディックが船の全権を握ることについて、別に反抗はしなかった。口には出さないが、彼もそれを認めたらしかった。相変わらず狭い調理場で働いているようで、出て来て姿を見せることは前よりも少なかった。もしネゴロが少しでも反抗の色を見せたら、アメリカに着くまで船倉に閉じ込めておこうとディックは決心していた。食事を用意する仕事は、ナンが代わりにやればいいのだった。
その夜、ディックは寝ずに甲板で過ごすことに決めた。初めての夜で、すべてを見張っている必要があったし、船が昼間と同じ速度で進みつづけた場合、間もなく航行する船の多い海域にはいるからだった。
さて、前にもいったように、ピルグリム号の進んだ距離を測るためにディックの使うことのできたのは、測程儀と羅針儀だけだった。日中、三十分おきに測程儀を海へおろさせ、船の速度を測っていた。
羅針儀は二つあり、そのうち一つは舵輪(だりん)の前に置いてあって、それによって舵手(だしゅ)は船の進路を絶えず確かめることができた。もう一つは、ハル船長の船室にあり、ハル船長は船室にいながら、船が決められた進路を正しく走っているかどうかを、いつでも注意していられたのだった。しかし、遠洋航海を行なう船ならば、羅針儀が二つあるのは当然のことで、二つの羅針儀の示す方向を比較して誤差を少なくして行くのである。したがって、羅針儀についてはピルグリム号は十分なわけで、ディックは黒人たちに、この二つの羅針儀をたいせつに扱うように命令した。
ところが、不幸なことに、二月十二日から十三日にかけての夜(ディックは起きて舵輪を握っていた)、思いもかけない事故が起こった。船長の船室の横桁(よこげた)にとりつけてあった羅針儀がはずれて床に落ちてしまったのである。止め輪がどうなってはずれたのかわからなかった。ただ、止め輪がさびていて、船が揺れたときにはずれたということは考えられなくはなかった。その夜たしかに海は荒れ模様だったのである。原因はとにかく、羅針儀は修理できないくらいにこわれていた。
ディックは当惑した。以後は一台の羅針儀に頼らなければならなくなったのである。船長室の羅針儀がこわれたことは、もちろんだれの責任でもないが、重大な影響を及ぼすかもしれなかった。残った羅針儀に事故が起こらないように、ディックは万全の処置をとることにした。
この事件を除けば、すべては順調だった。
ウェルドン夫人は、ディックがピルグリム号をりっぱに動かしているのを見て、落ち着きをとりもどした。ディックは、夜の間は自分が舵を握るようにしていた。昼間、五、六時間眠るだけで、あまり疲れは感じなかった。ディックが眠っている間は、トムかバットが代わって舵を握り、二人ともだんだんと舵の扱い方に慣れた。ディックは船の進路を海図に記入し、毎日それをウェルドン夫人に見せていた。
「奥さん、この風がつづけば、きっと南アメリカの沿岸に着くことができます。はっきり断言はできませんけれど、バルパライソの近くだと思います」
ジャックは、子どもらしくなんの悩みもないようで、ディンゴといっしょに甲板を走り回って遊んでいた。ディックが今までのように遊んでくれなくなったことには気づいたが、ディックには用があるのだとウェルドン夫人に言い聞かされて、それ以後はディックにまつわりつかなくなった。
ピルグリム号の船上の生活は、およそ以上のようなものだった。そして、黒人たちは巧みに任務を果たし、日ごとに一人前の水夫になっていった。当然ながら、トムが水夫長ということになり、ディックが休息している間は彼が指揮をした。トムと、むすこのバットとオースティンで班をつくり、アクテオンとハーキュリーズが組んでディックに従ってもう一班をつくった。そして、ディックかトムが舵を握っている間、他の二人は船首に立って見張りに当たるのだった。
そのあたりを航行する船は稀(まれ)で衝突の恐れは事実上ほとんどなかったが、ディックは夜間も厳重に見張りを命じ、右舷に緑、左舷に赤の舷灯(げんとう)を(その左右の舷灯の色の区別は正しい)必ず点灯させた。
夜、舵を握っているとき、ディックはときどき烈しい眠気に襲われ、ふと気づくと無意識に舵を動かしていたということが何回かあった。疲労がたまって、意志だけではどうにもならなくなっているのだった。二月十三日から十四日にかけての夜もそうだった。ディックはがまんできなくなって数時間眠ることにし、トムに舵を代わってもらった。夜がふけるとともに空気は冷たくなり、空は厚い雲に閉ざされていた。暗い夜で、最も高い帆は闇に包まれて見えなかった。ハーキュリーズとアクテオンは船首に立って見張りをしていた。
船尾では羅針箱がぼんやりと明るく、その光で舵輪がかすかに光っていた。舷灯の光のとどかない甲板は真っ暗だった。明け方の三時ごろ、羅針儀の光る一点を見つめつづけていたトムの眼がかすみ、トムはうとうとと眠ってしまった。そのとき、一つの影が甲板に音もなく現われたことに、トムは気づかなかった、ネゴロだった。
ネゴロは羅針儀の上に、手に持っていたものを置き、しばらく盤面を見つめていたが、間もなくまた静かに出て行った。もしディックがそこにいて、羅針儀の上に置かれたものを見たら、急いで取り除いたことだろう。それは磁石で、羅針儀の機能を狂わせてしまったのだった。羅針儀の針は正しく北を指さず、北東に羅針儀で四ポイント〔一ポイントは十一度十五分〕――偏(かたよ)ってしまっていた。
トムはすぐに目を覚まして羅針儀を見た。進路が誤っているとトムは思った――トムがそう思うのもやむを得ない。トムは舵輪を動かして船首を東へ(東と信じている方向へ)向けた。トムが夢にも疑わずに船首を向けた方向は、東ではなく南東だったのである。こうしてピルグリム号は、追い風に乗って誤った方向に進み始めたのだった!

一一 嵐(あらし)

この事件の後の一週間、つまり二月十四日から二十一日までは、何ごともなく過ぎた。北西の風は次第に強くなり、ピルグリム号は二十四時間に百六十マイルの速度で進んだ。この大きさの船としては最高の速度である。ディックは、そろそろ遠洋航路の船の多い海域にはいるころだと考えて、そういう船に出会わないかと、熱心に海上を見つめていた。出会った場合には、ウェルドン夫人たちを乗せてくれるように頼むか、または熟練した水夫を何人か貸してくれるように頼むつもりだった。だが、いくら見つめても海上にはまったく船影は見えなかった。
ディックは不思議に思った。オーストラリア近海へ三度も漁に行ったことがあるので、そのあたりの海域では、ホーン岬から赤道方向に向かうかあるいは逆にアメリカ南端に向かって南下するイギリスかアメリカの船に出会わないことは珍しいということを、ディックはよく知っていたのである。ディックは夢にも知らなかったが、ピルグリム号は彼が考えているよりはるかに高緯度つまり南にいたのである。
それには二つの理由がある。第一は、海流(その力をディックは十分に知らなかった)が船を押し流して進路をゆがめたためである。第二は、ネゴロによって狂わされた羅針儀が不正確な方向しか示さなかったからである。
だがディックは、ともすれば不安そうな顔になるウェルドン夫人を力づけようとして繰り返し言った。
「きっと、きっと着きます! アメリカ大陸の沿岸に! このあたりか、それともこのあたりか、とにかく必ず着きますから!」
「ええ、そうですとも、ディック」
「奥さんたちが乗っていらっしゃると考えると、ぼくは責任が非常に重くて……」
「でもね、ディック」とウェルドン夫人は答えた。「わたしとベネディクトおじさんとジャックとナンが乗っていないとしたら、それにトムたちを救い上げなかったとしたら、この船にいるのはネゴロとあなただけなのよ! あんな信用のならない男と二人きりでいたら、あなたはどうなったかしら?」
「そうしたら、まずネゴロを何もできないようにさせますよ」とディックははっきりと答えた。
「一人で?」
「ええ、一人で……神さまが助けてくださるでしょうから!」
そう答えるディックの決然とした態度は、ウェルドン夫人に希望を与えるのに効果があった。けれども、幼いジャックを見るたびに、ウェルドン夫人は不安にならずにはいられないのだった。ジャックに対してはそういう不安をいささかも見せなかったが、それだけに胸ははり裂ける思いだった。
ディックは、羅針儀の狂いにはまったく気づかなかったが、《天候を感じる》という船員として重要な直感は身につけていた。空模様の変化、晴雨計の昇降にけっして注意を怠らなかったのである。気象観測のうまかったハル船長に、晴雨計の扱い方をよく教え込まれていたし、今まで何回か航海に出たときに晴雨計の変化を実際に見たことがあったからである。ところが、二月二十日になって、晴雨計の動きがディックに不安を与えた。水銀柱がゆっくりと下がりつづけたのである。それは雨が間もなく降り始めるという前兆だった。ディックは悪い天候が長くつづくと判断した。
この時期の雨は、秒速十メートルの風をともなう。ディックは、マストと帆が被害を受けないように準備する必要があった。前檣(ぜんしょう)の最上檣帆(さいじょうしょうはん)、メーンマストの上檣帆(じょうしょうはん)、先斜檣帆(せんしゃしょうはん)を巻き、さらに前檣のトガンスルとトップスルを巻くことに決めた。後の二つの作業は慣れない水夫にはむずかしい仕事だったが、ディックも黒人たちも恐れなかった。
ディックはバットとオースティンといっしょに前檣のフォースルの索具を登り、苦心してトガンスルを巻いた。それから、激しいしけ(ヽヽ)になった場合のために、前檣の帆桁を二本はずして甲板に下ろした。風が強くなると、帆だけでなく、帆桁(ほげた)も減らしておいたほうが安全なのである。重心を少しでも低くすれば、横揺れや縦揺れも少なくなるからだった。
二時間かかってその作業が終わると、次はトップスルを縮帆する仕事があった。帆桁を渡って行って、風にはためいている帆をたぐり寄せて縮帆索でしっかりと結びつけなければならないのである。これは時間がかかり危険な作業だったが、ようやくそれも終わってトップスルが風を受けなくなると、船全体がはっきりわかるほど安定した。
二十一、二十二、二十三日の三日間、風の強さも方向も変わらなかった。しかし、晴雨計は下がりつづけ、二十三日には七二八ミリ以下を示した。空は晴れる気配はまったくなく、強い風が吹き、その上に濃い霧が船を包んでいた。霧が濃いために、船内は昼間でも暗く、足元もはっきり見えないほどだった。ディックは心配になり始めていた。彼は甲板を離れようとせず、ほとんど眠らなかった。胸の奥深くに不安が頭をもたげるのを、意志の力で押しもどしていた。
二十三日の昼前、風がやや弱まった。だがディックは欺かれはしなかった、果たして午後になると、風はさらに強さを増し、海もいっそう荒れ始めたのだった。四時ごろ、いつもはほとんど姿を見せないネゴロが調理場から出て来て前甲板に登った。ディンゴもどこかで眠っているらしく吠えなかった。ネゴロは三十分ほど黙って前甲板に立って水平線を見つめていた。
海上には大きなうねりが次から次と押し寄せていた。そのうねりから判断すると、西のほうのかなり近い位置に大きな嵐があり、それがやがてこの海域を襲おうとしているらしかった。その荒れ模様の海を、ネゴロは例の冷たい目で見つめ、早い速度で雲が流れている空をときどき見上げていた。恐れることを知らないのか、あるいは天候の意味するものにまったく気がつかないのか、ネゴロは少しも恐れるようすもなく、唇(くちびる)には微笑すら浮かんでいるのだった。そのうちに、できるだけ遠くを見ようとでもするように、第一斜檣(しゃしょう)によじ登り水平線をしきりに眺めていたが、また下りて来て黙ったまま調理場にもどって行った。
この荒れ模様にもよい点はあった。風向きはよいのだから風力が強くなればなるほど、早くアメリカ沿岸に到着できるからだった。だから、嵐に追いつかれなければ非常な危険ということはなかった。しかし問題は沿岸のどのあたりに吹き寄せられるかだった。沿岸が見えても、熟練した水先案内人のいないところだったら、船をどう進めればいいのか、沿岸に近づいたところで嵐に襲われたら、まったく未知の沿岸でどこに避難港を求めればいいのか。ディックはそれも心配だった。
二月二十四日から三月九日まで、気象状態に目立った変化はなかった。空は厚い雲に閉ざされ、数時間風が弱まったと思うと、再び激しく吹き始めるのだった。晴雨計も二、三度上がったが、すぐにまた下がってしまい、この荒れ模様が近いうちに止(や)むという気配はまったくなかった。
そして、ディックの恐れていた嵐が始まった。風が渦巻(うずま)き雨が滝のように海面をたたき、ピルグリム号から数百メートルのところに二、三度落雷さえあった。視界はまったくきかないまま船を進めるしかなかった。船体は猛烈な横揺れと縦揺れを繰り返すので、ウェルドン夫人自身はそれほど苦しまなかったが、ジャックの船酔いが激しいのでその介抱にいそがしかった。ベネディクトおじさんは、昆虫と同じで船酔いにはならなかった。そして、幸いなことに黒人たちはだれも船酔いをまったく感じず、ディックの(彼自身はどんなに船が揺れようとびくともしなかった)手伝いをつづけた。
帆をかなり減らしていたが、ピルグリム号は非常な速度で走った。ディックの予想したように帆の数をさらに少なくする必要がありそうだったが、無事に走っている間はそのままにしておきたいとディックは考えていた。彼の計算では、もう陸地はそう遠くはないはずだったからである。皆が熱心に水平線を見つめた。だが、陸地を見つけるのは黒人たちにはむずかしいことをディックはよく知っていた。水平線上に最初にちらりと現われる陸地を、ことに深い霧のなかで見分けることは、どれほど視力がよくても慣れないものには無理な仕事だった。それで、ディックは自分自身が目をこらして水平線を凝視し、ときにはさらに遠くが見えるように帆桁(ほげた)によじ登ったりした。だが、アメリカ大陸の沿岸はまだ姿を現わさなかった。
ディックは不思議でならなかった。ディックが思わずもらしたことばの端から、ウェルドン夫人は彼が不審に思っていることの意味を覚った。三月九日になっていた。ディックは船首に立ち、海を眺(なが)め空を眺め、また嵐のためにやや痛み始めたマストを眺めていた。
「まだ見えないの、ディック?」と、彼が望遠鏡から目をはなすと、ウェルドン夫人は話しかけた。
「ええ、見えません、奥さん」とディックは答えた。「しかし、海がこういう状態だと、遠くまでは見えないものです」
「あなたの考えだと、もうアメリカ大陸は遠くないのね?」
「ええ、そのはずです。それなのにどうして見えないのか、不思議でならないんです」
「この船は正しい方向に向かっているんでしょうね?」
「ええ、風が吹き始めた日――つまりハル船長たちが遭難した日以来、ずっと正しい方向に走っています。あれは二月十日で、もう三月九日になります。だから二十七日も走っているのに!」
「あのとき、アメリカ大陸からどのくらい離れていたの?」とウェルドン夫人は訊(たず)ねた。
「約四千五百マイルでした。この数字に多少の誤差があったとしても、二十マイル前後の誤差です」
「速度は?」
「風が吹き始めてからは、一日平均百八十マイルです」とディックは答えた。「だから陸地が見えないわけがわからないんです。それにもっと不思議なのは、このあたりは船がたくさん航海しているはずなのに、たった一隻にも出会わないんです」
「船の速度の計算をまちがったということはないんでしょうね?」
「いいえ、奥さん。その点なら、まちがいようはありません。三十分ごとに測程儀を流して、正確に測っていますから。ちょうど今、測程儀をおろすところです。見ていてください。今はきっと一時間に十マイルの速度で走っていると思いますよ。つまり、一日にすれば二百マイル以上の速度というわけです」
ディックはトムを呼んで測程儀を投げ込ませた。綱の先端にしっかりと結びつけられた測程儀が流れ去り、二十五尋(ひろ)の綱が伸びきった瞬間、トムのつかんでいた綱を引く力ががくんと緩んだ。
「あっ、ディックさん!」とトムが叫んだ。
「どうした、トム?」
「綱が切れてしまいました」
「切れたって!」とディックは叫んだ。「測程儀は流れてしまったのか!」
トムは手に残った綱の端を見せた。トムの言ったとおり、綱が途中で切れていた。その綱は最高の品質のロープだったから、それが切れたとすると、より合わせた細い綱が弱っていたのに違いなかった。ディックが切れた端を調べてみると、確かに弱っていたが、それが使い古したためだとはどうも信じられなかった。それはともかく、ここでまた測程儀も失われたわけで、残る計器は羅針儀一つになってしまった(その羅針儀が狂っていることを、ディックは知らないのである!)。
翌十日、晴雨計はさらに下がった。時速にして六十マイル近い風が吹き始める前触れだった。船を安定した状態に保つためには、再び緊急に帆を変えなければならない。ディックは、トガンマストとトップマストを下ろし、三角帆と縮帆した前檣(ぜんしょう)のトップスルだけで進むことに決めた。このむずかしい作業を、至急終わらせなければならない。
ディックはトムたちを呼び集めた。すでに激しい風が吹き始めていた。ディック、オースティン、アクテオン、バットがマストに登った。ハーキュリーズは甲板にいて、合図があればすぐに動索を緩めようと待ち構えていた。トムは舵を握っていた。四人は、激しく揺れるマストから何十回となく海中に振り落とされそうになりながら、やっとトガンマストとトップマストを下ろした。それから、トップスルを縮帆し、フォースルを帆桁(ほげた)に結びつけ終わった。風を受けるのは、三角帆と縮帆したトップスルだけになった。
風を受ける帆を極度に少なくしたにもかかわらず、ピルグリム号は非常な速度で疾走しつづけた。十二日になると気象状態はさらに悪化し、夜明けには晴雨計が七〇九ミリまで下がった。ほんとうの嵐の始まりだった。
風でトップスルが裂けそうになったので、ディックは巻くように命令した。しかし遅かった。ちょうどそのとき、ひときわ強い風が吹きつけてトップスルを引きちぎってしまった。そのはずみで、左舷の帆脚索が帆桁にいたオースティンにたたきつけられ、オースティンは負傷したが、それでも身軽に甲板に下りて来た。ディックは激しい不安にとらえられていた。それは、彼の判断では陸地はもう遠くないはずなので、風の吹くままに狂ったように走って行ったなら、いつか必ず暗礁にぶつかって、船が裂けてしまうのではないかという不安だった。それでディックは繰り返し舵輪をトムに渡して船首に行き前方を見つめたが、陸地は影さえ見えなかった。
そのとき、またネゴロが甲板に姿を現わし、急に腕をのばして水平線の一点を指し示した。霧のなかに、彼にだけは何かが見えたとでもいうように……。それからネゴロは気味の悪いせせら笑いを浮かべながら、また調理場へもどって行った。

一二 水平線に

嵐、すなわちハリケーンが、その最も恐ろしい姿を現わし始めた。風速は時速九十マイルに達していた。海上の船はたちまち陸地へ吹き寄せられ、地上でも最も堅牢(けんろう)な建物でさえ倒れるものがある。一八二五年二月二十三日にグアデループ島〔小アンチル諸島中のフランス領の島〕を襲ったハリケーンがそうだった。二十四インチ砲が砲架から引きちぎられ、逆に海に浮かんでいる船のほうが、造りががっしりしてさえいれば、風にもまれはしたが安全だったのである。今のピルグリム号がそれだった。
トップスルが裂けて数分後、三角帆が吹き飛ばされた。ジブを張ると舵をとりやすくなるのだが、それもあきらめなければならなかった。ピルグリム号は帆なしで走ることになったが、それでも船体やマストに受ける風で速度が出すぎるほどだった。海上の嵐では、風の力で盛り上がる大波による横揺れが恐ろしい。それに船尾に襲いかかる山のような波も危険である。船よりも早い速度で進む高い波は、もし船がその波に乗れなかったら、いつ船尾にかぶさって来るかわからない。嵐から逃れようとする船にとっては、これが最も危険である。その危険を逃れるにはどうすればいいか。船の速度を増せばいいわけだが、今のピルグリム号には帆を張ることは思いもよらない。残る方法は、あまり役に立たない場合もあるが、舵を操って襲いかかる波を避ける方法しかない。
そこでディックは波にさらわれないように身体を舵の軸にしばりつけ、舵輪から手をはなさなかった。トムとバットはそばに立って、いつでも手伝える用意をしていた。ハーキュリーズとアクテオンは、甲板の繋柱(けいちゅう)にしがみついて、船の前方を見守っていた。ウェルドン夫人、ジャック、ベネディクトおじさん、ナンの四人は、ディックの命令で船室に閉じこもっていた。船室の入口は堅く閉ざされていた。甲板に落ちかかる波が船室に流れ込むようなことが起こったら、船内は水浸しになり沈没せざるを得ないからである。甲板上の荷物も幸いしっかり固定してあって、船体が揺れてもびくとも動かなかった。
ディックは睡眠時間をそれまでよりもさらに減らしていた。彼が病気で倒れることを心配したウェルドン夫人の勧めで、ときどき休んでは眠るようにしていたが、三月十三日から十四日にかけての夜、彼が眠っていた間にまた事故が起こってしまったのである。トムとバットが船尾にいて舵を握っていると、そこにはめったに来ないネゴロがやって来て二人に話しかけたそうな態度を見せたのだった。だが、トムもバットも知らぬ顔でいると、船が大きく横揺れしたはずみに、ネゴロは海へころがり落ちそうになり、あわてて羅針儀にしがみついた。驚いたトムの叫びを聞いて、ディックが目を覚まして船尾へ駆けつけたときには、もうネゴロは立ち上がっていた。そして、羅針儀の上に押し当てていた鉄棒は、ディックに気づかれないうちに、隠してしまっていた。ネゴロは羅針儀が正しい方角を指すようにしたかったのだろうか? そのとおりだったのである。そのとき吹きつづけている南東の風は、彼につごうのいいものなのだった。
「どうしたんだ?」とディックは言った。
「この料理番の奴が羅針儀の上に倒れたんで」とトムが答えた。
器具に関して非常に神経質になっていたディックは、すぐに羅針儀を見た。羅針儀になんの変化も認められなかった。ディックはほっと安心した。たった一つだけ残っているこの計器まで狂ってしまったら、とりかえしのつかないことになると考えたのだった。
「ここで何をしているんだ?」とディックはネゴロに言った。
「おれはおれのしたいことをするのさ。それとも、おれがここに来てはいけないって規則でもあるのかい?」
「そうだ、そういう規則をぼくが作ろう。今後、船尾に来ることを禁止する」
「おもしろいことになったぜ!」と、かえって脅(おど)すような態度でネゴロは答えた。
ディックはポケットからピストルを抜き出してネゴロの胸にねらいをつけて言った。
「いいか、よく覚えておくがいい。ぼくはこのピストルをけっして手離さないし、おまえが少しでも反抗しようものなら、容赦なくおまえの頭を撃ち抜くからな」
そのときネゴロは、上半身が急に甲板に押しつけられるのを感じた。ハーキュリーズが大きな手で肩をちょっと押さえつけたのだった。
「船長! この悪者を海へ放り込みましょうかね?」とハーキュリーズは言った。
「いや、まだいい」とディックは答えた。
ハーキュリーズが手を離すと、ネゴロはようやく身体を起こし、調理場へもどって行きかけたが、ハーキュリーズのそばを通りながら「黒ん坊め、このお礼は必ずしてやるからな」と小声で言った。
風はなおも吹きつづけたが、ディックは奇妙なことに気づいた。それまで真うしろから吹きつけていた風と波は、左後方から来るようになったのである。これは危険な状態で、ディックは船の向きを四ポイント変えざるを得なかった。さらにディックは、ネゴロが珍しく船尾に来て羅針儀の上に倒れかかったというのが気がかりだった。ネゴロはこの最後に残った計器をこわしたいのだろうか? ネゴロにしても、皆と同じようにアメリカ沿岸に早く着きたいと思っているのに違いないので、それはあり得ないことに思われた。ディックがこの疑問をウェルドン夫人にも話すと、夫人もネゴロの行動を怪しく思ったが、はっきりした解釈はできなかった。
だが、それ以後は皆がネゴロの行動を厳重に監視することになり、またディックに禁止されたのでネゴロも呼ばれない限りは船尾に近づくことはしなかった。
一週間、嵐は衰えず、晴雨計の目盛りは下がりつづけた。三月十四日から二十六日まで、帆を張ることのできるわずかな凪(なぎ)の時間もなく、ピルグリム号は一日二百マイル以上の速度で北東に向かって走りつづけたが、依然として陸地は現われなかった。
ディックは自分の頭が狂ったのか、船の進路が誤っているのかと、何回となく考えた。そういうことはあり得なかった。霧を通して見える太陽は船の前方から上がって、後方の海に沈んでいたからである。すると、太平洋と大西洋の間に長く伸びている南アメリカ大陸はどこへ行ってしまったのだろう?
そして三月二十六日の午前八時ごろのことである。
「陸だ! 陸!」というハーキュリーズの叫び声が聞こえた。
ディックは船首に駆けつけて船首楼に登った。
「あそこです」とハーキュリーズは北東の水平線の一点を指さした。
「確かに陸だったか?」
「はい」とハーキュリーズは大きくうなずいて言った。
だが、ディックには見えなかった。ハーキュリーズの声を聞いたウェルドン夫人も船首に出て来て、ハーキュリーズの示す方向を見つめたが、やはり何も見えなかった。しばらくの間、全身の力を目に集めるようなつもりで水平線を凝視していたディックが、急に叫んだ。
「そうだ、見えた、陸だ!」
起伏する波頭の上に砕ける泡(あわ)の間に、かすかに見え隠れする山の頂上らしきものを、ディックの目は見逃さなかったのである。彼は甲板の手すりを力いっぱい握りしめた。ウェルドン夫人も、ハーキュリーズに抱き上げられるようにして、望みを失いかけていた陸地を見つめた。
陸は左前方約十マイルのところにあり、おそらくアメリカ大陸のどこかの岬(みさき)と思われた。帆を張っていないので、目標に向かってまっすぐに進むことはできなかったが、陸地に着けることだけはまちがいなかった。数時間で、つまり昼前にはピルグリム号は着岸できるはずだった。
船の揺れは依然として激しいため、ウェルドン夫人はハーキュリーズに支えられて船室へもどった。ディックは船尾へ行って、トムに代わって舵輪を握った。待ち望んだ陸がようやく見えたのだが、同時にそれは非常な危険を伴うものなのだった。つまり、激しい風に吹かれて近づいて行くピルグリム号としては、座礁する可能性がきわめて大きいからだった。
二時間後、岬がはっきり見えた。そのとき、またネゴロが甲板に現われた。そしてネゴロは、岬の形を注意深く眺(なが)め、なっとくしたようにうなずくと、小声で何やらつぶやいて調理場へもどって行った。
ディックは岬のむこう側が凹(へこ)んで湾になっていると判断して、海岸線を見つめていた。二時間たっても湾は現われなかった。その代わり、水平線の上の空に晴れ間が見えてきた。ところが、そのあたりに見えるはずのアメリカ大陸――アンデス山脈の巨大な山々――はまったく見当たらなかった。ディックは望遠鏡で東の水平線を眺めた。だが、アメリカ大陸らしいものは何も見えなかった。そして午後二時、岬と思ったものは後方に姿を消した。
ディックは船室へ行って報告した。
「島だったのです、あれは島でした」
「島ですって? でも、どこの島かしら」とウェルドン夫人は言った。
「海図を見ればわかるでしょう」とディックは言って、甲板の海図を持って来た。
「これです、奥さん」とディックは指さした。「このイースター島です。ほかには考えられませんから」
「わたしたちは今ここを通り過ぎたわけなのね?」
「ええ、そうです」
「アメリカ沿岸までどのくらいあるのかしら?」
「三十五度です」
「ということは?」
「約二千マイルです」
「まだここまでしか来ていないというの?」
「奥さん、それがぼくにもわからないんです」とディックは答えた。「どうしてもわかりません……羅針儀が狂っていたのでなければ……しかし、とにかくあの島はイースター島です。ぼくたちは北東に向かっているのですから。とにかく、現在位置がわかっただけでも幸いです。もちろん陸地までにはまだ二千マイルありますけれど、嵐が止めばアメリカ大陸にまちがいなく着けるはずです」
ディックの自信に満ちたことばに、ウェルドン夫人も黒人たちも同意した。イースター島は南緯二十七度、東経百十二度に位置しているから、ピルグリム号は嵐のために北へ十五度吹き流されていたのである。アメリカ大陸まで二千マイルはあるが、この風が吹きつづければ、十日後に南アメリカのどこかの海岸に着くはずだった。

一三 陸だ! 陸だ!

三月二十七日、晴雨計の水銀柱が、少しずつではあるが引きつづき上がり始めた。明らかに嵐は峠を越したのだった。海上のうねりは依然として高かったが、風は弱まり始めていた。まだ帆を張ることは思いもよらなかったが、二十四時間後にはジブを張ることができるだろうとディックは思った。
翌二十八日、風力は次第に衰え、船体の揺れ方もずっと小さくなった。
二十九日になり、風がさらに弱まったのを見て、ディックはフォースルとトップスルを張り、速度を増すと同時に船の進む方向を操作できるようにしようと決めた。
「さあ、皆、手伝ってくれ!」とディックが大声で言うと、
「なんでもやりますとも」とハーキュリーズが言った。「嵐の間はすることがなくて身体がなまくらになりそうですから」
「じゃあ、帆を吹いてごらんよ」とジャックが横から言った。
「それは名案だね」とディックはジャックに笑い顔を見せながら言った。「風がなくなったら、ハーキュリーズに帆を吹いてもらうことにしましょう。ところで、皆を呼んだのは、帆を張ってもらいたいからだ。トップスルは風で吹き飛んでしまったから代わりの帆を取りつけなければならない。むずかしい仕事かもしれないけれど、ぜひやってもらわなければならないんだ!」
黒人たちはいっせいに仕事にかかった。新しくトップスルを張るのには、巻いた帆を引き上げて桁(けた)に固定しなければならないのだが、黒人たちはディックの指図にしたがって、みごとにやってのけた。嵐の来る前に結んでおいたフォースルと二番めの三角帆は、綱を解いて広げればよいのでそれほどむずかしくはなかった。風さえ止まなければ、それだけの帆で一日少なくとも二百マイルは走る――つまり十日後にアメリカ大陸に到着する――と思われたので、ディックはそれ以上の帆は張らなかった。
翌日、あいかわらず雲の動きは早かったが、ときどき切れめが見え始め、太陽の光が射した。天候は次第に晴天に向かっていた。そこで、その日からハッチを開いて船内の汚れた空気を入れかえ、湿った帆布を乾かし、甲板を掃除する作業を始めた。この仕事は、黒人たちが毎日数時間働けば、それほどむりはしなくても、アメリカに着くまでに終わり、船はきれいになって入港できるはずだった。
「ねえ、ディック、この船はどのあたりに着くのかしら?」とウェルドン夫人は言った。
「このあたりです」とディックは地図でペルーからチリに至る海岸線を指さしながら言った。「正確にどのあたりかはわかりませんけれど、イースター島のそばを通ってから東に進んでいるのですから、このあたりのどこかだと思います。港はたくさんありますが、どの港にはいることになるかまだわかりません」
「港に着いてからどうすることになるの?」
「サンフランシスコに行く船はすぐに見つかると思います」
「このピルグリム号でサンフランシスコまで行けないのかしら?」
「行くことはできますが、そのためには本職の船員を雇わなければなりませんし、積荷をバルパライソに下ろしてからでなければ行くわけにいきません。そうなれば、奥さんたちがサンフランシスコへ帰るのがそれだけ遅くなるでしょう」
「そうね、じゃあ、その後でまた会うことにしましょうね」とウェルドン夫人は言った。「ところで、港にはいるのが危険だと思っているようだけれど、そうなの?」
「そうです」とディックは答えた。「しかし、きっと他の船に会えるでしょうから、そうしたらいろいろ教えてもらえると思います。それに港に近づけば水先案内人もいるでしょうから。とにかく、希望をもってください。ぼくたちはアメリカ大陸に向かって進んでいるんですし、間もなく陸地も見えるはずですから!」
その後数日間、再び天候の変化の多い日がつづいた。風も依然としてかなりの強さで吹きつづけ、晴雨計の目盛りは上がったり下がったりを繰り返し、風はさらに強くなりそうな気配を見せていた。ディックはまた帆を巻こうかとも考えたが、風がさらに激しくなり引き裂けそうになるまでは、そのままで進む決心をした。その代わりに、マストを支えているシュラウドと後支索をしっかり締め直させた。
一、二度、晴雨計の目盛りが上がり、風向きが変わるのではないかと思わせた。もし風が逆になったら? 間切(まぎ)りながら進まなければならないのだろうか? そうなれば陸に着く時期がさらに遅れるし、沖に押しもどされる危険もあり得る! だが幸い、それは危惧(きぐ)だけに終わった。風は数日間、北や南に偏(かたよ)ったが、西風であることは変わらず、しかもかなり強く吹きつづけた。
四月五日。ニュージーランドを離れてから二か月経(た)っていた。そのうち二十日は、無風と逆風で進み方は遅かったが、それ以外の日は順風にのって進んだはずだった。しかも、嵐に巻き込まれたときの速度は非常な早さだった。にもかかわらず陸地が見えないのはどうしたことだろう?
黒人が一人いつでも見張りに立っていたが、ディックもときどき望遠鏡をもって見張りに立った。アンデス山脈の山頂は高いので、山頂を見つけようとすれば水平線より高い雲のあたりを探さねばならず、そのためにディックたちは何度か雲を山頂と見誤った。今度こそまちがいなく陸地だと信じたものが、まもなく形を変え消えてしまうのだった。
四月六日午前八時、ディックが舵輪を握っていると、東の空の雲が動いて水平線がくっきりと見え始めた。
「陸地だ! 陸地だ!」とディックは叫んだ。
その声に、全員が甲板に出て来た。ようやくアメリカ大陸の土を踏むことができるのである。ただ、ネゴロだけは姿を見せなかった。一時間後、約四マイルほど東の位置に、一見かなり低く見える陸地がはっきりと現われた。アンデス山脈はもっと海岸から離れていて雲にさえぎられて見えないのだろうと思われた。
ピルグリム号は、次第に大きく見えてくる岸に向かって、急速に近づいて行った。二時間後には岸まで三マイルというところまで近づいた。岸はやや高い断崖(だんがい)で、北のほうにかなり高くなった岬があり、南側は崖(がけ)が長くつづいていた。崖の上には何本か木があり、北の岬のむこうには湾があるものと思われた。だが、人家も、港も、船を入れる河口も見当たらなかった。
ピルグリム号はぐんぐん岸に近づいて行った。岸の近くは岩が多く、打ち寄せる波が白く泡立(あわだ)って断崖の中ほどまでしぶきを上げていた。このまま進めば、まちがいなく暗礁に乗り上げてしまう。
船首に立って岸を見つめていたディックは船尾にもどって舵を握った。風はなお強く吹き、スクーナー船は岸まで一マイルのところへ来ていた。そのときディックは断崖のなかにわずかな入江があることに気づいた。そこに行くには岩の間を通り抜けなければならず、それはきわめてむずかしそうだった。
ディックは舵をまたトムにまかせ、船首に行って近づく入江を見つめた。それから彼はウェルドン夫人に向かってしっかりした声で言った。
「奥さん、つごうのよい湾を見つけられるという希望はもうなくなりました。三十分後には、どんなに努力しても、あの暗礁に乗り上げてしまうと思います。そうすれば船はこわれてしまうかもしれませんが、ぼくたちは陸地に上がることはできます。船を助けるか、奥さんたちの命を助けるかということになれば、ぼくとしては文句なしに命のほうを選びます」
「ディック、できるだけのことはしたんでしょうね?」
「全部やりました」
そう答えてから、ディックは座礁した場合の用意にかかった。ウェルドン夫人、ジャック、ベネディクトおじさん、ナンに救命衣を着けさせる。その他のものは、海へ投げ出されても、救命衣なしで岸まで泳いで行くことになった。ウェルドン夫人にはハーキュリーズが、ジャックにはディックが付き添って岸まで泳いで行かせることに決めた。悠然と胴乱を肩にかけて現われたベネディクトおじさんは、バットとオースティンが引き受けることになった。ネゴロは、奇妙に落ち着いているところから見て、だれの助けも必要はなさそうだった。
ディックは、さらに用心して、積荷のなかから鯨油のはいった樽(たる)を一ダースほど船首に並べさせた。船が暗礁に当たったとき、鯨油を海面に流せば、海面がしばらくの間でも平らになると考えたからである。
準備がすべて終わると、ディックは舵を握った。岸まで、もう四百メートルもなく、船首は、岸に当たって打ち返す波の白い泡(あわ)に包まれていた。今にも船底が暗礁に当たるのではないかと思われた。
ふとディックは水の色が変わったのに気づいた。海面に突き出た岩の間に、幅は狭いが岩の切れめがあるのだった。できるだけ岸に近づこうとするには、そこを通り抜けられれば好都合だった。ディックは思いきって、その細く曲がりくねった岩の切れめに舵を向けた。
「今だ、油を流せ!」とディックは叫んだ。
待ち構えていた黒人たちは、いっせいに樽の鯨油を海へ注いだ。一瞬、海面は魔法でも使ったように平らになった。だが、すぐにまた波は荒れるに違いない。ピルグリム号は、すばやく岩の間を通り抜けて岸に向かって進んだ。
突然、大きな波に押し上げられたかと思うと、船は岩に乗り上げ、その衝撃で帆柱が倒れた。船底が破れ、海水が激しい勢いで流れ込んだ。岸までは約九十メートルほどあったが、岩を伝って行くことはできた。そして十分ほど後には、ピルグリム号に積んであった荷物は、すべて岸に運び上げることができた。

一四 何をするか

ピルグリム号は七十四日という長い航海の後に、ようやく陸に着くことができたのである。漂着したのが危険な原住民のいるポリネシアのどこかの島でないのが幸いだった。南アメリカ大陸だったら、どこに着いたとしても、サンフランシスコに戻るのにはそれほど困難はないはずだった。
難破したピルグリム号の残骸は、数時間後には波が運び去ってしまうに違いない。ディックはピルグリム号を無事に船主にもどすことはとうとうできなかったが、乗っていた人々を陸地に送りとどけることはできたのだった。
次の問題は、着いた位置を判断することだった。やはり、ディックの考えたとおりペルーだと思われたが、それなら近くに港か村を見つけることはそれほどむずかしいことではないはずだった。その場所は、周囲をあまり高くない岩山に囲まれた狭い砂浜だった。四分の一マイルほど北には、海からは見えなかった小さな川の河口があり、その岸にはインドのものとは明らかに別種のマングローブが繁っていた。周囲の岩山はそれほど険しいものではないので登ってみると、遠くに見える山までの間は繁茂した森林がつづいていた。その木々は、北アメリカでは見かけないバオバブやラタニアやタマリンドや変わったコショウの木などだった。ただ不思議なことは、地球上のほとんどいたるところで見られるシュロの類が一本も見あたらないことだった。空には、ツバメの一種らしい、全体が黒く頭部が褐色の鳥がさかんに鳴き声をあげながら飛んでいた。それに、身体が灰色で頸のあたりには羽毛がないように見えるイワシャコに似た鳥もまざっていた。そのほか、海中の岩礁にはペリカンの一種が魚をとっているのが見えたし、沖にはカモメも飛んでいた。
生物といえば、見える限りでは、それだけだった。北にある川のむこう側にも、岩山から遠方を眺めても、村はもちろん、たった一つの家も小屋も見当たらず、人の住んでいることを示す煙も立ちのぼっていなかった。
ディックは不思議でならなかった。《どこなのだろう? 人間はいないのだろうか?》とディックは考えた。人間がいるか、あるいは人間のいる形跡でもあれば、ディンゴが必ず気づいて吠えるだろう。ところが、そのディンゴは、尾を垂れて低い声で唸(うな)りながら海岸をしきりに嗅(か)ぎ回っているだけだった。
「ディック、ディンゴを見てごらんなさい」とウェルドン夫人も気づいて言った。
「ええ、変ですね。なんだか、一度通ったことのある道を探してでもいるようですね」
「ほんとうに変だわ。それはそうと、ネゴロはどうしたのかしら?」とウェルドン夫人は言った。
「ディンゴと同じようなことをやっていますよ」とディックは答えた。
実際、ネゴロは、岩山に登ったり小川の岸へ行ったりして、さかんに歩き回っているのだった。
だが、ネゴロのことなどよりも、食物を確保し、その夜寝る場所を探すことが先だった。食物はそれほど心配する必要はなかった。船底の裂けたピルグリム号の食料品貯蔵室のなかの食物が、ちょうど干潮になった砂浜に散っていたからである。トムたちはビスケットや罐詰(かんづめ)や乾(ほ)し肉の箱をたくさん集めていた。飲料水は、ディックに命令されたハーキュリーズが、小川から海水の混じっていない真水を樽いっぱい汲(く)んで帰って来た。火は、タバコ好きのトムが密閉した箱にはいった付け木をもっていたし、海岸の石は火打ち石代わりになるはずだった。それに枯れ木はいくらでもあったから、燃すものは十分あった。
寝る場所を見つけたのはジャックだった。ジャックがうれしそうに叫び声をあげながら帰って来たので、ジャックの発見した場所へ行ってみると、波打際に近い崖に洞穴(ほらあな)があった。穴は奥行きが十一、二フィートで、幅もほぼ同じくらいのものだったが、それで全員が横になるには十分だった。
時刻は午後一時ごろになっていたので、皆は洞穴の海草の上に腰を下ろし、運び込んだビスケットや乾し肉、それに水とラム酒で昼食をとった。ネゴロもいっしょに食べたが、皆が今後のことを相談している話にはまったく加わろうとしなかった。
「ディック」と、眠ってしまったジャックを抱きながらウェルドン夫人が言った。「あの危険な嵐を切り抜けてここまで来られたのはあなたのおかげです。ピルグリム号で船長だったのと同じように、これからも隊長になってちょうだい。これからわたしたちはどうすればいいのかしら?」
トムたちも信頼をこめてディックの答えを待ち、ネゴロも奇妙に真剣な目でディックを見つめていた。
ディックはしばらく考えてから答えた。
「いちばん重要な問題は、ここがどこかということです。ペルー南部の、あまり人の住まない地方だろうとぼくは思います。そうだとすると、最も近い村落まででもかなりの距離があることになります。そこで、今夜はゆっくり眠って、明日になったら、このなかの二人が人家を探しに行けばいいと思います。十マイルも行けば、きっと人に会えるでしょうから、話を聞いてもどって来るんです」
「だれが行くの?」とウェルドン夫人は言った。
「奥さんと、ジャックさま、ベネディクトおじさん、それにナンは行けないでしょう。バット、ハーキュリーズ、アクテオン、オースティンにも残ってもらいます。そして、ぼくとトムで行って来ましょう。ネゴロ、きみも行く気はないだろうからな?」とディックはネゴロにたずねた。
「そうだな」と、人づきあいのよくないネゴロは無愛想に答えた。
ウェルドン夫人は、どんな原住民がどこにいるかわからないのだから、たとえ二人でも別れて行動するのは危険ではないかと言った。それに対してディックは答えた。南アメリカの原住民はアフリカやポリネシアの原住民とは違うから、危害を加えてくることはないと思う。それに、西も東もわからないこの国で、全員が歩き始めるのは、いたずらに疲労を増すだけになる。そして、二日間歩いて人家が見つからなかったら(そんなことはけっしてないとは思うけれど)、必ずもどって来ることにする。
「そうね、あなたの言うとおりかもしれないわ」とウェルドン夫人も賛成した。
「ベネディクトおじさんはいかがです?」とディックは訊(たず)ねた。
「わたしかい? 意見なんてないよ。一日でも二日でも、ここにいることにしよう。その間、わたしはこのあたりの昆虫を調べているから」
そう言うとベネディクトおじさんは胴乱を肩にかけて洞穴を出て行った。ほとんど同時にネゴロも洞穴から出て行った。だが、ベネディクトおじさんが岩山を登って行ったのと反対に、ネゴロは小川のほうにゆっくり歩いて行って姿が見えなくなった。
ディックたちは、まだ眠っているジャックをナンに預けて、ピルグリム号の座礁しているところへ行った。まだ役に立ちそうなものが残っていたからである。干潮のために暗礁がすっかり現われていたので、ピルグリム号のそばまで自由に歩いて行くことができたし、垂れ下がっているロープを伝わって甲板によじのぼることもできた。トムたちは食料品置場から食料を運び出し、ディックは手入れのよいレミントン銃を四挺(ちょう)と弾丸を百発ほど見つけ出した。そのほか、ディックは懐中電灯、クジラを解体するのに使ったナイフなども忘れずに持ち出した。さらにウェルドン夫人に注意されて、ディックは、船内にある金――約五百ドル――も探し出した。
金額は不足していた。ウェルドン夫人がもっていた額でさえ、もっと多いはずだった。ウェルドン夫人とハル船長の金を盗んだのは、ネゴロ以外に考えられなかった。ディックはネゴロが帰って来たら厳しく問いつめ、場合によっては身につけているものも調べようと決心した。やがて太陽は西に傾き、ディックたちは洞穴にもどった。
「風がまた吹くかもしれません」とトムが水平線の厚い雲を指さしながら言った。
「うん。しかし、もう陸に着いたのだから、恐れる必要もない」とディックは答えた。
その夜、黒人たちは交代で起きていて警戒することに決まった。ところが、気づいてみると、ベネディクトおじさんがまだもどっていなかった。ハーキュリーズが大声で呼ぶと、ベネディクトおじさんは薄暗いなかを転びそうになりながら岩山から下りて来た。おじさんはひどく機嫌(きげん)が悪かった。サソリやムカデのような多足類ばかりいて、昆虫は見つからなかったからである。おじさんは、もうこんな不愉快な陸地にはわずかな時間もいたくない、さっさと立ち去ろうと言いだすしまつだった。そのおじさんをようやくウェルドン夫人がなだめて、皆が眠ろうとしたとき、ネゴロがまだ帰って来ないことにトムが気づいた。
「どこへ行ったのかしら?」とウェルドン夫人が言った。
「あんなやつ、どこへ行ったってかまうものですか!」とバットが言った。
「いいえ、違うわ」とウェルドン夫人が言った。「あの男がそばにいるとわかっていたほうが安心できるのよ」
「そのとおりです、奥さん」とディックは言った。「しかし、あの男のほうで、われわれから離れて行ったのなら、ぼくたちはどうにもしようがありません」
そしてディックは自分の考えた疑いをウェルドン夫人に打ち明けた。ところが、ウェルドン夫人もやはり同じような疑いを抱いていたのだが、ネゴロが帰って来たら身体を調べようというディックの意見には反対だった。
「もしもどって来たとしたら、ネゴロは盗んだものをきっと安全な場所に隠して来るはずです。だから、気がつかないふりをしていたほうがいいでしょう」とウェルドン夫人は言い、ディックもそれに賛成した。
ネゴロはこの見知らぬ土地を一人で歩いて行こうというのだろうか? それとも、夜になって、洞穴に帰る道がわからなくなって迷っているのだろうか?

一五 ハリス

翌四月七日、夜明けに見張り番にあたったオースティンは、ディンゴが吠(ほ)えながら小川のほうに向かって走って行くのを見た。ディックたちも目を覚ました。
「ディンゴは、人間か動物かがいるのに気がついたんだ」とディックが言った。
「ネゴロでもなさそうです。ディンゴの吠え方が違います」とトムが言った。
「ネゴロでないとしたら、何がいたのかしら」とウェルドン夫人は言った。
「調べて来ましょう」とディックは答えて、バットとオースティンとハーキュリーズに声をかけた。「さあ、銃をもって、いっしょに来てくれないか」
三人はディックとともに、銃とナイフをもって川に向かった。後には、ウェルドン夫人とジャックとベネディクトおじさん、それにナン、トム、アクテオンの六人が残った。
ちょうど太陽が上り、四人は砂浜を、川の流れ込んでいる河口に向かって進んだ。ディンゴはじっと坐ったまま吠えつづけていた。その吠え方は、確かにネゴロに向かって吠えているのではなかった。そのとき、岩山の上に一人の男が現われた。男はゆっくりと岩山を下りながら、親しみをこめた身振りでディンゴを静めようと手を振っていた。激しく吠えるディンゴを恐れているようにも見えなかった。
「ネゴロじゃない!」とハーキュリーズが言った。
「うん、おそらくこのあたりの原住民だろう」とディックは言った。「遠くまで人家を探しに行かなくてもすむかもしれない。あの男に訊(たず)ねれば、ここがどこかもわかるだろう」
四人は銃を構えて前進した。男は四人の姿を見て、ひどく驚いたようだった。ここに人がいるとは夢にも思っていなかったのだろうし、ピルグリム号の残骸も見ていないに違いない。最初、男は逃げかけたが、背に掛けていた銃をおろして構えた。そこでディックは、あいさつするように手をあげて合図をした。男もその意味を理解したらしく、しばらくためらってから前進し始めた。ディックは注意深く相手を観察した。
四十歳くらいだろう、髪とひげは灰白だったが、身体はたくましく目は鋭く、顔は日に焼けていた。身に着けているのは、皮の服と縁の広い帽子とひざまである皮の長靴だった。ディックが最初に感じたことは――その感じは当たっていたのだが――男がこのあたりの原住民ではなく、遠い国外まで出かけて仕事をする山師ではないか、ということだった。赤味を帯びた髪の色、ややぎごちない身体の動きなどから、アングロサクソン系の男だと思われた。その判断は正しく、ディックが英語で呼びかけると、男は正しい英語で答えながら近寄って来て、ディックの手を握りしめた。
「イギリス人ですか?」と男がたずねた。
「アメリカ人です」とディックは答えた。
「南アメリカ?」
「いや、北アメリカです」
男は、その答えがうれしかったらしく、握っていたディックの手を力を入れて振ると、今度ははっきりしたアメリカふうの英語で言った。
「いったいどうして、あなたがたはこの海岸にいらっしゃるのか聞かせてもらえませんか?」
そのときディックたちのそばに来ていたウェルドン夫人が答えた。
「船が漂着したのです。その船も昨日、あの暗礁で難破してしまいました」
男の顔に同情するような表情が浮かび、その目は海岸を見回した。
「もう何も残っていません。昨夜のうちに風と波がすっかりこわして運んで行ってしまったんです」とディックは答えた。
「まずお訊ねしますけれど、ここはどこなんでしょうか!」とウェルドン夫人が言った。
「もちろん南アメリカの沿岸ですが」と男はいささか驚いたように答えた。「何か疑わしいことでもあるんですかな?」
「ええ、嵐のために船の進路が狂ってしまったかと思っていたんです」とディックが言った。「それで、もっと正確にいうと、南アメリカのどのあたりなんでしょう? ぼくはペルーかと思っているんですが」
「いや、もう少し南で、ボリビアですよ。チリとの国境に近いあたりです」
「あの岬(みさき)はなんていう岬です?」とディックは北の岬を指さして言った。
「さあ、わしも知らないな。なにしろ、わしは内陸のほうばかり歩き回っていて、この海岸に出て来たのは初めてだから」
ディックは考え込んだ。その位置が南緯二十七度から三十度の範囲だろうと考えていたのだが、男の話だと二十五度付近ということになる。しかし、そのくらいの誤差はあり得ないことではないし、この海岸に人家がないのもボリビア南部なら不思議でもなかったからである。
「そうすると、リマはかなり遠いですね?」
「それは遠いな……北になるがね……」
ウェルドン夫人は、ネゴロが姿を消した後なので、警戒して相手を観察していたが、その態度にも話し方にも疑わしいところはまるで感じられなかった。
「わしはハリスという名でね、あなたたちと同じアメリカ人で、サウスカロライナ州の生まれですよ。アメリカを離れてこのボリビアに来てもう二十年になるから、こうしてアメリカ人に会えるのはとてもうれしい」
「わたしはウェルドン夫人です。それで、ハリスさんはここに住んでいらっしゃるんですの?」とウェルドン夫人は言った。
「いや、チリとの国境近くに住んでいますよ。今はちょうど、ここから北東にあるアタカマに行くところだった」
「すると、ここはアタカマ砂漠に近い海岸というわけですか?」
「そのとおり。このアタカマ砂漠というのが、南アメリカのなかでも、ほかのところとはまったく違ったところで、あまりよく知られていないところなんでね」
「ひとりで旅をしていらっしゃるんですの?」とウェルドン夫人が訊ねた。
「そう、初めて歩く道でもないから」とハリスは答えた。「ここから二百マイルばかりのサン・フェリスに、わしの兄弟の農園があってね、商売のことでそこへ行くところさ。あんたたちがいっしょに行くというなら、連れて行ってあげてもいいが」
そのことばがごく自然に口に出た感じなので、ハリスという人間がいっそう善意の人のように思われた。そしてハリスはウェルドン夫人に向かって言った。
「この黒人たちは奥さんの奴隷かね?」
「わたしたちにはもう奴隷はいませんのよ」と強い調子でウェルドン夫人は答えた。「アメリカ合衆国は、ずっと前に奴隷制度を廃止しましたから。南アメリカの国もわたしたちを見習うべきですわ」
「ああ、そうだった」とハリスは言った。「あの一八六二年の戦争でそうなったことを、すっかり忘れていたもので……」
「わたしらは喜んで奥さんにお仕えしますが、奴隷ではありません」とトムが言った。「わたしは確かに奴隷だったことはある、アフリカにいたときのことです。わたしは六歳のときに売られたものだった。しかし、奴隷の身分を解放されたわたしから生まれたバットや、その他の仲間たちは、生まれながら自由な人間です」
そこへジャックが目を覚ましたばかりらしく、目をこすりながらナンといっしょにやって来た。
「やあ、かわいい坊やだな」と言ってハリスはジャックに近づこうとした。
「わたしの子どもです」とウェルドン夫人は言った。
「そのかわいらしい頬(ほお)に接吻をさせてもらってもいいかね?」とハリスは言った。
「ええ、どうぞ」とウェルドン夫人は答えた。
だが、そのハリスの顔が気に入らないらしく、ジャックはウェルドン夫人に力いっぱいすがりついた。
「おやおや、わしが恐ろしいのかね?」
「申しわけありません、初めての人には、恥ずかしがるくせがあるもので」とウェルドン夫人は言った。
「まあいいですとも。そのうちに仲良くなることにしよう。農園に着いたら、かわいい小ウマに乗せてやろうな」
その間、ディックはサン・フェリスの農園に行くべきかどうか考えていた。確かにハリスの言うとおり、森や平原を横切って――それは実に苦しいことだろう――二百マイル歩かなければならないに違いないと思われた。そのことをディックが訊ねると、ハリスは答えた。
「確かにかなり距離はあるな。しかし、近くにウマが一頭いるから、奥さんと子どもさんに貸してあげてもいい。それに、二百マイルといったけれど、それはこの川沿いに行った場合で、森を横切って行けば少なくとも八十マイルは少なくなるよ。だから、一日に十マイル進めば、それほど日数もかからずに農園へ着くがね」
ウェルドン夫人が相手の好意に礼を言うと、ハリスは答えた。
「いや、礼を言われるほどのこともない。わしもこの森を横切るのは初めてだが、なんとか行けると思う。ただ問題は食料のことだ。わしは自分の分しかもっていないし……」
「それでしたら、わたしたちは十分に食物を持っていますから」とウェルドン夫人は答えた。
「じゃあ話は決まったようだな。さっそく出かけることにしようか」と言うと、ハリスは置いてあるウマを引いて来ようとしてもどろうとした。
「ちょっと待ってください、ハリスさん」と、先ほどから考え込んでいたディックが言った。
「そのアタカマ砂漠を横切って二百マイル行く代わりに、海岸伝いに行ったらどうでしょうか? それだけの距離を行けば、南にしろ北にしろ、きっと人の住んでいるところに行き着くと思うんですが?」
「しかしね」とハリスはかすかに眉(まゆ)をひそめながら言った。「このあたりはよく知らないが、海岸沿いに行ったら三、四百マイルは行かないと町はないと思うがね」
「チリとペルーの間を往復している船は、この海岸から見えるところを通らないんでしょうか?」とウェルドン夫人も言った。
「いや、ずっと沖のほうを通るようだね」
「そうですか」とウェルドン夫人が言った。「ディック、ほかに何かお訊ねすることはあるの?」
「一つだけあります」と、同意するのがなおためらわれる気がして、ディックは言った。「いっしょに行ったとして、サンフランシスコへ行く船に乗れる港はどこになるんでしょう?」
「いや、それはわしにはよくわからないな」とハリスは答えた。「ただ、サン・フェリスに着いたら、アタカマの町へ行く方法が必ずあることは確かだよ」
「ハリスさん、ディックがあなたのご親切なお申し出を疑っているなどと考えないでくださいね」とウェルドン夫人が言った。
「いや、奥さん、疑っているわけじゃありません」とディックは言った。「もう少し北か南に寄った海岸に漂着しなかったのが残念なんです。そうすれば、ハリスさんのお世話にならなくてもよかったと思うので」
「奥さん、わしのことだったら、別に気にもしていない」とハリスは言った。「同国人に会うのは実に久しぶりのことなので、役に立ってあげられればうれしいくらいなのだから」
「いっしょに行くことに決めましょう」とウェルドン夫人が言った。
「ハリスさん、いつ出発するんです?」とディックは訊ねた。
「今日のうちにも出発しよう。四月になると、そろそろ雨期が始まるから、それまでに少しでもサン・フェリスに近づいていたほうがいい」
「さあ、トムも皆も、すぐに出発の用意を始めてくれないか」とディックが言った。「船から引き揚げた食料を、運びやすいようにまとめるんだ」
トムたちはすぐに荷造りにかかることにした。
「じゃあ、わしはウマを引いて来るから」とハリスが言った。
「ぼくも行っていいですか?」とディックは言った。
「いいとも、この川の河口の近くを案内してあげよう」
二人が出かけた後、ハーキュリーズは岩山を登って行ってベネディクトおじさんを探して連れて来た。ウェルドン夫人はナンに手伝わせて朝食の用意をした。十日間も森を歩くのだから、十分に体力のつく食事をしておいたほうがいいからだった。
ハリスとディックは突き出た岩壁の角を回って行くと、やや広い砂浜があった。そこの一本の木にウマがつないであって、ウマは主人の姿を見てうれしそうにいなないた。そのウマは、ディックの見たこともない種類だったが、アラブ系らしい特徴をそなえていた。ハリスが手綱をとってウマを引いて歩き始めた後、ディックは川の上流や両岸の森を注意深く見回した。だが、不審なものは何も見えなかった。そこでディックはハリスに追いついて、不意に訊ねた。
「ハリスさん、昨夜、ネゴロという名の男と出会いませんでしたか?」
「ネゴロだって? それはどういう人間だね?」とハリスは不思議そうに言った。
「ぼくたちの船の料理番だった男ですが、姿が見えなくなってしまったんです」
「海で溺(おぼ)れたんだろう?」
「いや、違いますよ。昨日の夕方までいっしょにいたんですが、夜の間にどこかへ行ってしまったんです。この川をさかのぼって行ったのだろうと思っていたので、ハリスさんは上流のほうから来たということだから、ことによったら会わなかったかと思ったんです」
「会わなかったな」とハリスは答えた。「しかし、その料理番は、ひとりで森にはいって行ったとすると、道に迷う危険があるな。それに、わしたちが追いつくかもしれないよ」
「ええ……そうかもしれません」とディックは言った。
二人が洞穴にもどると、朝食の用意ができていた。ハリスも仲間に加わり、大いに食欲を示して、コンビーフやビスケットを食べた。
食事が終わると、めいめい決めた荷物を担ぎ、ウェルドン夫人とジャックは、ハーキュリーズに助けられて、ハリスの貸してくれたウマに乗って、いよいよ出発した。

一六 出発

海岸を離れて深い森に踏み込んだとき、はっきりした理由はないにもかかわらず、ディックは何か気がかりでならなかった。一方、ウェルドン夫人は、これから進んで行くパンパスには危険な原住民も動物もいないということ、ハリスという頼りになりそうな案内役がいるということで、すっかり安心しきっているようだった。
レミントン銃をもったディックと小銃をもったハリスが先頭に立った。その次にバットとオースティンが同じ銃とそれから短剣をもってつづき、それからウマに乗ったウェルドン夫人とジャック、次がナンとトム、次が銃をもったアクテオン、そして最後に斧(おの)を腰にさしたハーキュリーズという順になった。
ディンゴは列の前へ行ったり後ろへ行ったりしていた。ディンゴのようすはピルグリム号に乗っていたときとは違って、ひどく興奮し、絶えず低い声で唸(うな)っているのだが、だれにもその理由はわからなかった。
残る一人のベネディクトおじさんは、手綱でもつけていないとどこかへ行ってしまいそうだった。胴乱を肩に掛け捕蝶器をもち虫眼鏡を首にぶら下げた姿で、ディンゴと同じように行列の前へ行ったり後ろへ行ったりしていたが、恐ろしい毒ヘビのいそうな背の高い草むらにいつ飛び込んで行くかわからなかった。そこでウェルドン夫人が、胴乱も捕蝶器も取りあげてしまいますよと脅して、それからおとなしく行列について歩き始めたが、一時間もするとまたふらふらと森のなかにはいって行ったりするので、結局ハーキュリーズがおじさんの見張りをして、列からはずれたら引きもどす役を引き受けることになった。
森のなかの道は、動物の通るような道で、人間が通るのはかなりの苦労だった。五、六マイル進むのに十二時間かかるほどだった。しかし、空は晴れて太陽が照りつけているので、平原を歩くのだったら暑さに耐えきれまいと思われたが、その点は森のなかの道は楽だった。
森には皆が見たこともない珍しい木が多く、ハリスはディックたちに訊ねられて、木の名を次々に教えていなければならなかった。実際、ベネディクトおじさんが昆虫学者だったのが残念で、植物学者だったら、アメリカ大陸に生育しているとは知られていない草や木が実に多かったのである。地面が湿地帯になると、細い水の流れが多くなり、その岸にはアシに似た草が繁っていて、ハリスはそれをパピルスという名だと説明した。湿地を過ぎると、また細い道を隠すほど木が密生し、大きなマンゴーの木が多くなった。
昼食後、道はやや上り坂になったが、まだ山地に近づいたというわけではなく、平地のなかのわずかの起伏にすぎなかった。そのあたりは木が少なくなり、歩くのには楽だった。そして草が多く、インドのジャングルのような感じだった。インディゴーが多く、ハリスの説明によると、畑が放置されると、たちまちインディゴーにおおわれるということだった。
森に踏み込んで以来、このあたりには非常に多いはずなのに見あたらない木があった。それはゴムの木である。ディックからゴムの木が見られるという話を聞かされていたジャックは、それが不満でならなかった。ジャックはゴムの木に直接にゴムまりやゴム人形が実ると考えていたのであるが。
「坊や、もう少し待ちなさい」とハリスが言った。「農園に着いたら、ゴムの木が何百本もあるから。それよりもおいしい果物はどうかね?」
そう言うとハリスは、近くの木からモモに似た果実をとって来た。
「食べてだいじょうぶなんでしょうね、ハリスさん?」とウェルドン夫人が言った。
「だいじょうぶさ、マンゴーの実だから」と言うとハリスは、その実にかぶりついた。
ジャックもまねして食べてみて、とてもおいしいとその味を保証した。それから、ジャックは急に思い出して、ディックがハチドリをとってくれると約束したはずだと言い出した。
「坊や、ハチドリも取れるさ、もっともっと先へ行けばね」とハリスが言った。
森の姿が次第に変化し始めていた。木がさほど密生していないようになり、ところどころに木の生えていない空地があった。その空地には草の中にバラ色の花崗岩(かこうがん)が地中から現われていた。出発点からほぼ八マイル歩いたところで日没に近くなった。第一日めは大きな事故もなく終わったが、明日からはさらに困難な行程となるに違いなかった。その夜は、よく葉の繁った枝を広げた大きなマンゴーの木の下で休むことにした。マンゴーの木の枝には、無数の鳥が群がって騒がしい鳴き声をあげていたので、ディックが銃を撃って追い払おうとすると、ハリスは銃声で原住民に自分たちがここにいることを知られるからと言ってそれを止めた。
夕食の用意はすぐにできた。罐詰とビスケットと、近くの小川の水に少量のラム酒を加えたものだった。デザートは頭の上になっているマンゴーの実である。夕食が終わるころ、あたりは暗くなり、空には星が輝き始めた。風もぴたりと止み、さっきまで騒がしかった鳥たちも鳴き止んで眠ったようだった。眠る用意も簡単に終わった。
「夜の間、火を燃しつづけなくてもいいんですか?」とディックはハリスに訊ねた。
「そんな必要はないね。それほど寒くもないから。それに、さっきも言ったように、火を燃したりして、原住民にわれわれのいることを知られないほうがいい」
「でも、ハリスさん」とウェルドン夫人が言った。「初めのお話だと、恐ろしい原住民はいないということだったでしょう。危険な動物もいないんですの?」
「奥さん、実際をいうと、人間が動物を恐れるより、動物のほうが人間を恐れているんですよ」とハリスは答えた。
「ヘビはいないの?」とジャックが言った。
「いませんよ、だから安心してお眠りなさい」とウェルドン夫人は言った。
「ライオンは?」
「全然いないよ」と今度はハリスが答えた。
「じゃあ、トラは?」
「南アメリカにトラがいるかどうか、お母さんに訊ねてごらん」
「けっしていませんよ」とウェルドン夫人は答えた。
「しかし、クーガーやジャガーはいるはずだがな」とベネディクトおじさんが言った。
「恐ろしい動物?」とジャックが言った。
「いや、このあたりの原住民は平気でクーガーやジャガーをつかまえるからね」とハリスが言った。「それに、こっちには武器があるのだし、ハーキュリーズなら片手で一頭ずつ一度に押し潰(つぶ)してしまうさ」
「じゃあ、ハーキュリーズ、動物がぼくたちを食べに来るといけないから、夜の間、見張っていてね」とジャックは言った。
「来たら、わたしが食ってやりますよ」とハーキュリーズが、強そうな歯を見せて言った。
「そうだ、ハーキュリーズ、見張りをしてくれ」とディックは言った。「ほかのものもぼくも、交代するから」
「いや、わたしたち四人で十分です、ディックさんはどうか夜はよく休んでください」とアクテオンが言った。
「そうしたほうがいいわ、ディック」とウェルドン夫人も言った。
間もなく、ジャックはナンに抱かれて眠り込んだ。そしてナンはマンゴーの木に寄りかかったまま、ウェルドン夫人はそのナンのそばに横になって眠った。それから、また昆虫を探しに行っていたベネディクトおじさんをハーキュリーズが連れてもどり、やがてハーキュリーズひとりを残して、皆ぐっすりと眠り込んだ。
野外で夜を過ごしたことのある人なら、さまざまの鳥や動物たちの鳴き声で目を覚まさせられることを知っているだろう。次の朝、ディックたちを起こしたのは、いろいろな種類のサルだった。ジャックが最後に目を覚ますと、ナンはすぐに朝食を用意した。献立は前夜と変わらなかったが、すがすがしい朝の森の空気を呼吸していると、食欲が増した。それに一日中歩くためにも、十分に食べて力をつけておかねばならなかった。
午前七時、皆はまた東に向かって歩き始めた。依然として森がつづいていた。適度な湿気と熱に恵まれているため、植物が十分に育っているのである。草木の繁茂した森を歩きながら、ディックには納得のいかないことがあった。ハリスはパンパスを通ると言ったが、パンパスとはディックの記憶では次のような特徴をもつものだった。すなわち、全体に乾燥していること、樹木や石の少ないこと、雨期にはアザミが茂り暑くなるとほとんど通り抜けられないくらいの茂みとなること、背の低い木、とげの多い灌木(かんぼく)が多いことなど、要するにすべてが不毛で荒れ果てた姿を示しているはずだった。ところが、ハリスの案内で海岸を離れて歩き始めて以来、周囲の風景はまったく違っていた。森は遠く地平線までつづいているようだった。ディックがその疑問をハリスに話すと、ハリスは次のように説明した。
「きみが不思議に思うのも当然だな。ふつうパンパスというと、北アメリカのサバナと同じように、不毛の平原を考えるものだよ。ただ、北アメリカのサバナのほうがいくらか湿地は多いがね。コロラド川沿いのパンパスや、ベネズエラのオリノコ川沿いのパンパスがそうだね。ところが、ここのようすにはわしも驚いている。この高地を通り抜けるのは初めてだからね。しかし、南アメリカのパンパスというのは、北アメリカのサバナとはかなり違っているらしい。だが、それがあるのはアンデス山脈のむこう側だがな」
「じゃあ、アンデス山脈を越すんですか?」とディックは反問した。
「まさか」とハリスは笑いながら言った。「それだったら、わしはきみたちにいっしょに来るように勧めたりはしない」
「しかし、あなたも初めて来たというこの森のなかで、道に迷う心配はありませんか?」
「いや、だいじょうぶだ。ここは初めてだが、森を歩いた経験を積めば、きみにはわからないかもしれないが、地形や木の密生のぐあいや、葉の伸びている方向などから、進路はわかるものなんだ。安心しているがいい」
こうした会話は、行列の先頭を歩いているときにだけ行なわれた。心の底にひそむ疑問を、ディックは他のものには聞かせず、自分ひとりの心中におさめておこうと考えたからだった。
四月八日、九日、十日、十一日、十二日は、特に事件もなく、こうして過ぎた。一日十二時間歩いて、毎日八マイルから九マイル進んだ。休息の時間を規則正しく設けるように心がけていたため、多少の疲労はあったが全員の健康状態はかなり満足すべきものだった。ただ、ハチドリとゴムの木がいつまでも見つからないジャックと、昆虫採集を許してもらえないベネディクトおじさんだけは、単調な日々に倦(あ)きて不満そうだった。
その後さらに三日、同じような森のなかを北東に進み、十六日になった。出発以来、百マイル近く歩いているはずで、道をまちがえてさえいなければ(そんなことは絶対にないとハリスは断言した)、その日の夕方に着く地点からサン・フェリスまでは二十マイル以下という距離のはずだった。四十八時間後には快適なベッドに眠って疲れを癒(いや)すことができると思われた。その十六日の昼、食事の後で休んでいると、急にヒュッという奇妙な音がした。
「何かしら?」とウェルドン夫人が立ち上がった。
「ヘビだっ!」とディックは叫んで、銃をつかんでウェルドン夫人をかばうようにその前に立った。
実際、ヘビが草に隠れて足元近くまで近づいて来るということも十分あり得るし、ボアの種に属し時には四十フィートにも達するヘビもいるかもしれないからだった。だが、ハリスはすぐにディックに声をかけ、このあたりには音を出すヘビはいないはずだから、今の音は無害な動物の音だろうと言った。
「どんな動物です?」とディックは訊ねた。
「カモシカだよ」とハリスは答えた。
「わあ、カモシカだったら、見たいなあ!」とジャックが言った。
「それはむりだな、とうていむりだよ。少しでも他の動物が近づくのに気づいたら、カモシカはあっという間に逃げてしまうからな」とハリスは言った。
ところが、その日の午後四時ごろ、偶然カモシカらしい群を見ることができた。ディックたちの進むはるか前方の森のなかの草地に、小さな群が現われて立ち止まったのである。だが、最も大きな一頭が人間の気配を感じて、たちまちすばらしい速度で走り始めた。ディックはすばやく銃をかまえて引金を引いた。だが、引金を引く瞬間に、横からハリスが銃身をたたいて照準を狂わせてしまった。
「射ってはいかん!」とハリスが言った。
「あれはキリンだった」とディックは叫んだ。
「どこにキリンがいるの?」とジャックはウマの鞍(くら)の上に立って見回した。
「とんでもない」と、ハリスは驚いたように言った。「ここにキリンがいるはずがないじゃないか。あれはダチョウだったよ」
すると、ディックはもちろん、ウェルドン夫人もトムたちも、今見えた動物は四本足の動物で二本足ではなかったと言った。だがハリスは、大型のダチョウと中型のキリンは疾走しているところを遠くから見た場合、見まちがえやすいもので、猟師もまちがえることが多いのだと説明した。
「しかし、ダチョウがアメリカ大陸にいるはずはないでしょう」とディックは言った。
「いや、ナンドゥーという種類のダチョウはいるんだよ」とハリスは言った。
ハリスのことばは事実で、体高二メートルほどで、青味を帯びた羽毛をもつナンドゥーは確かに南アメリカに生息しているのである。ハリスがナンドゥーの形や習性について詳しく説明したので、ウェルドン夫人たちも納得せざるを得なかった。だがディックだけは考え込んでいた。また一つ疑惑が増したのである。
翌十七日、二十四時間後にはサン・フェリスに着くというハリスのことばに励まされて、一同は出発した。
「奥さん、さぞ疲れただろうね」と、歩きながらハリスは声をかけた。
「わたしはそれほど疲れてもいませんわ」とウェルドン夫人は答えた。「でも、ジャックの疲れがたまったらしくて、熱が高くなっているのが心配です」
「そうらしいね。このあたりの気候はそれほどいいというわけでもないし、確かに今ごろは熱病も多いから」
「そうかもしれませんね」とディックが言った。「しかし、自然というものは、たいていの場合、ある病気に対する薬を近くに用意しておくものですがね」
「それはどういう意味かね?」とハリスが言った。
「このあたりにはキナの木があるはずじゃありませんか?」
「それは確かにそのとおりだ」
「しかし、それが見あたりませんね?」
「いや、キナの木を見つけるのはむずかしい。それに、群生しているというわけでもないからな。しかし、農園に着けばキニーネはあるはずだから、熱はすぐに下がるよ」
その日は特に事件もなく過ぎて夕方になり、いつものように野営することになった。その日まで一度も雨に会わなかったが、夕方近くなって天気が変わり、地表から水蒸気が上がって濃いもやが立ちこめ始めていた。雨季が近づいていたのである。
ウェルドン夫人もジャックもディックも眠り、トムたちも見張りの一人を残して眠り込んだ。ところが間もなく、大きな叫び声に皆は目を覚まさせられた。
「なんだ!」と、まっ先に起き上がったディックが言った。
「わたしだ、わたしだよ」とベネディクトおじさんの声が言った。「咬(か)まれたんだよ」
「まあ、ヘビに?」とぞっとしたようにウェルドン夫人が訊ねた。
「いや、ヘビじゃないよ。昆虫だよ。ほらこれさ!」
「そんな虫は踏みつぶして、ゆっくり眠らせてもらえないかね」とハリスが言った。
「踏みつぶすだと? とんでもない話だ!」とベネディクトおじさんは言った。「実に珍しいハエだというのに!」
ディックは携帯ランプに火をつけた。おじさんはうっとりとした顔でハエを眺め、接吻でもしそうなほどだった。そのハエは、ミツバチより小さく、腹部に黄色の縞があった。
「毒はないのかしら?」とウェルドン夫人が言った。
「ないね、少なくとも人間に対しては。しかし、カモシカやヤギュウやゾウにとっては有毒なんだ! ああ、まったくすばらしい虫だよ!」
「いったい、なんという虫なんです?」とディックが訊ねた。
「このハエの名はね……うん、ツェツェバエだよ! まだ、アメリカ大陸で発見されたことは一度もないんだ!」
そのハエがいる場所がどこかを、ディックは訊ねるまでもなく知っていた。それでディックは、皆が眠ってしまった後も、疲れていたにもかかわらず一晩中眠ることができなかった。

一七 恐ろしいことば

目的地に着く日だった。ウェルドン夫人はもうあまり長い時間この苦しい旅をつづけられそうになかった。ジャックは、熱の高いときは顔が真っ赤になり、熱の下がったときは青白くなって、見るのも痛々しかった。ウェルドン夫人は、そのジャックをもうナンにもまかせず、自分の腕でしっかり抱いていた。
その日、四月十八日、ハリスのことばを信ずるなら、いよいよサン・フェリスの農園に着くはずだった。十二日間の森の中の旅は、ウェルドン夫人やジャックには実に苦しい旅だったのである。ディックやトムたちは疲労に耐えることができた。ハリスは、こういう旅には慣れているらしく、まるで疲れは見せていなかった。ただ、サン・フェリスに近づくにしたがって、ハリスの態度が落ち着かなくなることにディックは気がついていた。ハリスに対する不信感は増したが、自分たちをだましたとしても、ハリスにどんな得があるのか見当もつかず、ハリスの態度に今までよりも注意をするという以外に方法はなかった。
森は木の数が減って疎(まば)らになっていた。これがハリスの言ったパンパスなのだろうか? その日、歩き始めてしばらくはディックの不安を増すようなことは起こらなかったが、次の二つの事実に気づいていた。その一つは、ディンゴの動作が非常に変化していたことだった。前日までのディンゴは、地面に鼻を近づけて草や木の根を嗅(か)ぎながら、ときどきまるで悲しんででもいるような哀れをそそる低い唸(うな)り声をあげていた。ところがその日は、唸り声が大きくなり、ピルグリム号の甲板にネゴロが姿を現わしたときのように、ときどき烈しく吠えるのだった。ディンゴの変化に同じように気づいたトムが言った。
「妙ですね。ディンゴはもう昨日までのように地面を嗅いではいませんよ! 風が運んで来る匂(にお)いを嗅いで、毛を逆立てている。まるで遠くに……」
「ネゴロが……というんだろう」とディックは言って、低い声で話をするように合図をした。
「ネゴロがわたしたちの後をつけているのでしょうか?」
「そうなんだ、トム。それで、今はもうそれほど遠くに離れていないのだろう」
「しかし……なんのためでしょう?」
「ネゴロはここがどこかを知らないので、われわれを見失わずにいたほうが得だからだろう。さもなければ……」
「さもなければ?」とトムは心配そうにディックを見つめた。
「ネゴロはこの土地を知っていて……」
「ネゴロが知っているはずはありません。来たことがないんですから」
「果たして来たことがないんだろうか?」とディックは小声で言った。「それにしても、確かなことは、ディンゴの態度が、憎んでいたあの男が近くにいるときと同じだということだ!」
それからディックはディンゴの名を呼び、そばに来たディンゴに言った。
「それっ! ネゴロだ! ネゴロだぞ!」
ディンゴはすぐに荒々しく吠え、どこかの木の茂みにネゴロが隠れてでもいるように、あたりを走り回った。
それを見ていたハリスは、唇をひきつらせて近寄って来た。
「ディンゴに何をしろと言ったのかね?」
「いや、なんでもありませんよ」とトムがからかうように答えた。「いなくなった料理番が近くにいるのか訊ねただけですから!」
「ああ、話を聞いたポルトガル人のことだな」
「ええ、ディンゴを見ていると、どうもネゴロが近くにいるらしいですからね」
「どうしてここまで来られるのかね? その男はこの土地を知らないということだったじゃないか?」
「あの男が嘘(うそ)を言っていたのでなければですね」とトムが答えた。
「妙なことを言うな」とハリスは言った。「しかし、探す気なら、このあたりの木の茂みを皆で探してみてはどうだろう。その男はきっと助けを必要としていることだろうから」
「むだですね、ハリスさん。ネゴロは、ここまで来られたのだから、まだ先まで行けるはずですよ!」とディックは言い、その話を打ち切ろうとしてディンゴを呼んだ。「ディンゴ、こっちへ来るんだ。もう吠えるんじゃない!」
ディックの気づいたもう一つの事実は、ハリスのウマに関することだった。ウマの場合によくいわれる《厩舎(きゅうしゃ)を感じる》という態度が見られないのだった。脚を速めたり、鼻孔を広げて空気の匂いをかいだり、いなないたりするということが、まったく見られないのである。恐らく何回も行ったことのある、よく知った農園がまだ数百マイル先にあるような無関心な態度だった。《目的地が近いようには、どうしても見えない》とディックは思った。
ところが、ウマが《厩舎を感じ》ないばかりではない、農園があるというのに、耕作地らしいものも、農園で働く人の姿もまったく見えないのである。ジャックの熱の高いことばかり気にしていたウェルドン夫人も、そのことには気づいていた。ハリスが道をまちがえたのかしらとも考えたが、農園へ着くのがそれ以上遅れたらジャックが死んでしまうのではないかと思い、道がまちがっているのではないかというような恐ろしいことは考えないようにしていたのだった。
ハリスは相変わらず先頭を歩いていた。周囲の森の奥を眺(なが)め、左右を眺めているように見えた。その態度はまるで彼自身、どちらへ進もうか迷っているようだった。ウェルドン夫人は、もう見たくないとでもいうように目を閉じてしまった。一マイルほど平原を過ぎて、前ほどではないにしても、また前方に深い森が現われたのだった。
午後六時に、ごく最近力の強い動物の群の通ったと思われる茂みを発見した。ディックは注意深くあたりを調べた。人間の背より高い枝が折れていた。そして、やや湿り気を帯びた地面には、ジャガーかクーガーのものとは思われない足跡が乱暴に草を押しつぶして残っていた。この足跡と高い枝が折れているのはどういう意味だろうか? ゾウならば、こういう足跡を残して茂みを押し分けて行くに違いない。だが、ゾウがアメリカ大陸にいるはずはなかった。そこを通ったのがゾウではないかという仮定は絶対に認められない。ディックは、その不可解な事実をだれにも話さなかったし、ハリスに質問しようともしなかった。訊ねたところで、ハリスはごまかすような説明をするだけで、なんの役にも立たないからだった。
ディックのハリスに対する考えは決まっていた。ハリスは裏切者であり、機会があればその背信をあばこうと考えていた。そして、その機会は遠からず来るものと思われた。それにしても、ハリスの目的は何か? ピルグリム号の生存者たちを、どんな未来が待っているのだろうか? ディックは、自分の責任がピルグリム号の難破とともに終わったとは考えていなかった。ウェルドン夫人やジャックやトムたちを、自分が救わなければならないのだと、ディックは考えていた。
ディックは、今や刻一刻と近づいて来る恐ろしい現実の前で、目を閉じようとは思わなかった。だが、実際にそのときが来るまで、ウェルドン夫人に打ち明けて心配させるのは止(よ)そうとディックは決めていた。そのため、仲間よりも百歩ほど先に、かなり大きな川の岸に着いたとき、背の高い草のなかに大きな動物がはいって行くのを見たときも、《カバだ! カバだ!》と叫びたくなる気持ちをじっと押さえたのだった。大きな頭、一フィート以上もある歯の並んだ口、短い脚、毛の生えていない厚い皮膚などから見て、まちがいなくカバだった。南アメリカでカバを見るとは!
その日も一日中、皆は歩いた。しかし、つもった疲労で、足は進まなかった。農園に着くか、さもなければ休息しなければならないときになっていた。ジャックのことで夢中になっているウェルドン夫人は疲れも忘れていただろうが、体力は尽きかけていた。全員が、多少の相違はあっても、同じような状態だった。ディックだけが、義務感による精神力で疲労に耐えていた。
午後四時ごろ、トムが草のなかに見なれないものが落ちているのに気づいた。変わった形の短刀で、刃は幅が広くて湾曲し、稚拙な装飾をほどこした象牙(ぞうげ)の柄がついていた。トムはその短刀を拾い上げてディックのところへもって行った。ディックは詳しく調べてからハリスに見せた。
「どうやら原住民は遠くないようですね!」
「そうだな」とハリスは言った。「しかし……」
「しかしどうしたんです?」とディックは相手の顔を正面から見つめて言った。
「もう農園は近いはずなのだが……」とハリスは口ごもった。「どうも、それが……」
「道をまちがえたんですか?」とディックはきっぱりと言った。
「道をまちがえただって? とんでもない。農園はもう三マイルばかりのところだ。ところが、近道をしようと思ったので、森を通り抜けようとしたのがどうやらいけなかったらしいな!」
「どうやら、そのとおりらしいですね」とディックは答えた。
「そうだ、わし一人で先に行って調べて来ることにしよう」とハリスは言いだした。
「いや、いけません、別々になってはいけません」とディックは断固とした調子で言った。
「そう言うなら止めるが、日が暮れてしまったら、なお道がわからなくなるだろう」
「それは止むを得ません」とディックは言った。「休むことにしましょう。ウェルドン夫人も、もう一晩だけ森のなかで眠ることに同意してくださると思います。夜が明けてからまた出発すればいいんですから。二、三マイルでしたら、一時間くらいで着くでしょうからね」
「それもそうだな」とハリスは答えた。
また一夜を木の下で過ごすことに決まり、適当な場所を探しているとき、トムが急に大声でディックを呼んだ。
「どうしたんだ、トム?」とディックは落ち着いて言った。もうどんなことが起こっても、彼はけっして驚いたりしなかったろう。
「あそこ、あそこ……あの木の下です……血の跡が!……それに、人間の手足が散らばっています!」
ディックはトムの指さした場所へ走って行った。そして、すぐにもどって来るとトムに言った。
「言ってはいけない、トム、だれにも言うんじゃない!」
実際、そこには切断された人間の腕が落ちていて、そのそばには折れた木の枝と切れた鎖があったのである。幸い、ウェルドン夫人はそれに気づかなかった。ただ、ハリスはそのとき少し離れたところに立っていたのだが、そのときの彼の顔の急な変わり方を見たものがあったら、愕然(がくぜん)としたことだろう。彼の顔は凶悪な表情を帯びたのである。ディックといっしょに走って行ったディンゴは猛烈に吠え始め、ディックはようやく引きもどすことができたほどだった。
また、トムは、折れた木の股(また)と切れた鎖を見ると、まるで足に根が生えたように、じっとその場から動かなくなった。手を固く握りしめ、目を大きく見開いて、《見たことがある……昔のことだった……この木の股……小さいときだった……見たことがある……》とつぶやいていた。幼いころの記憶がかすかによみがえってきているらしかった。トムは懸命に思い出そうとし、口を開いた。
「言ってはいけない、トム」とディックはまた言った。「ウェルドン夫人のためにも、ぼくたち全員のためにも、黙っているんだ!」
そこから少し離れた場所で眠ることに決まった。食事の用意はできたが、だれもあまり食べようとしなかった。疲労のために食欲までなくなってしまったのである。ぼんやりした不安が全員の心をとらえ、それは次第に恐怖に変わりつつあった。
あたりは次第に暗くなり、やがて真っ暗な夜になった。嵐を含んだ雲が厚く空をおおい、遠い西の空にはときどき雷光が光っていた。風はぴたりと止み、木々の葉はそよとも動かない。ディックは、オースティンとバットと見張りに立った。深い暗闇(くらやみ)のなかに、何かの光が見えないか、何かの物音が聞こえないかと、三人は緊張して見張りに当たっていた。だが、夜の闇と静寂を破るものはまったくない。
トムは、ある強い衝撃を受けて眠れないらしく、じっと身動きもせず頭を低く垂れて何かを思い出そうとしているようだった。ウェルドン夫人はジャックを腕のなかで揺すりつづけていた。ベネディクトおじさんだけは、だれとも違って何も感じないらしく、ぐっすり眠っていた。
突然、十一時ごろ、重々しい唸(うな)り声が長く響き、つづいて鋭い悲鳴が聞こえた。
トムが急に立ち上がると、一マイルほど離れた木の繁みを指さした。ディックはすぐにトムの手を押さえたが、叫ぶのを止めることはできなかった。
「ライオン! ライオンだ!」
幼いころに何度となく聞いた唸り声が、トムの記憶によみがえったのである。
「ライオンだ!」とトムは繰り返し叫んだ。
ディックはもう怒りを自制できず、短刀を握ってハリスの眠っているところへ走った。だが、ハリスはいなかった。彼のウマもいなくなっていた。
ディックの心は激しい衝撃を受けていた……彼の立っている土地は、彼がそこにいると信じていた土地ではなかったことがはっきりしたのである! ピルグリム号が漂着した海岸は南アメリカではなかったのだ。ピルグリム号が近くを通ったあの島はイースター島ではなかったのだ! なぜかわからないが羅針儀は狂っていたのだ! 嵐のために進路を誤り、ホーン岬を越えて、太平洋から大西洋へ流されてしまったのだ! 船の速度も正確に測定できなくなっていたし、嵐のために思っていた以上の速度でピルグリム号は疾走していたのだ!
ゴムの木やキナの木など南アメリカにあるはずの木がなかったのも当然だった。ここはアタカマ高原でもなく、ボリビアのパンパスでもなかったからである。
そうだ、あの森の空き地を走っていたのは、ダチョウではなくキリンだった! あの木の繁みにあった跡は、ゾウの通った跡だった! 川のそばでディックがちらりと見たのは、カバだった! ベネディクトおじさんの見つけたのは、確かにその針で大きな動物も倒す恐ろしいツェツェバエだった! そして、森のなかに響いたのは、ライオンの声であり、あの木の股も鎖も奇妙な形の短刀も奴隷商人のものなのだ! 切られた手足は奴隷のものなのだ!
ポルトガル人のネゴロとアメリカ人のハリスは共謀していたのに違いなかった!
ディックの唇から恐ろしいことばが洩(も)れた。
「アフリカだ! 赤道直下のアフリカだったんだ! 奴隷商人のいるアフリカだったんだ!」

第二部

一 奴隷売買

奴隷売買! 人間の言語のなかにあってはならないこのことばが何を意味するか、知らない人はいないだろう。植民地をもつヨーロッパ諸国家の利益のために長い間行なわれたこの憎むべき交易は、もう何年も前に禁止されていた。しかし、実際には依然として大規模に行なわれていたのである。特に中部アフリカで多かった。十九世紀も半ばを過ぎたというのに、キリスト教徒を自認する諸国が、まだ奴隷廃止条令に違反した行為をしているのだった。
読者は、奴隷売買はもうなくなった、人間の売り買いは行なわれなくなった、と信じているのだろうか。ところが、そうではないのだ。この物語の後半を読み進むうちに、それを知ることになるに違いない。その上、いくつかの植民地を維持するために一つの大陸全体の住民を絶滅することになりかねない人狩りが現実にまだ行なわれていること、この野蛮な人狩りがどこでどのように行なわれているかということ、そしてこの人狩りのために血が流され、数々の争闘と掠奪(りゃくだつ)が引き起こされていることを知るに違いないのである。
黒人の売買が初めて行なわれるようになったのは十五世紀からで、それには次のような経過がある。
スペインを追われたイスラム人がジブラルタル海峡を渡ってアフリカに逃れると、アフリカ沿岸地方に住んでいたポルトガル人が彼らを執拗(しつよう)に追撃し、かなりの人数を捕えてポルトガルに連れて行った。このイスラム人たちが最初のアフリカ奴隷なのである。
ところが、これらのイスラム人たちは大部分が富裕な家系に属していたので、一族の人々が彼らを金で買いもどそうとした。しかしポルトガルはイスラム人の申し出た金がどれほど多くてもこれに応じなかった。折から始まりつつあった植民地の建設に労働力――はっきり言えば奴隷――が不可欠だったからである。
そこでイスラム人は、簡単に捕えることのできる多数のアフリカ土人と交換しようと提案した。この交換に応じたほうが有利なので、ポルトガルはこの提案を受け入れ、奴隷売買はこうして始まったのである。
十六世紀の終わりごろには、この忌(い)むべき交易が一般にも認められ、当時の風習としてはこれを嫌(きら)いもしなかったのである。ヨーロッパのすべての国家が、新世界の島々を最も早く確実に植民地化するために、この交易を保護した。白人だったら熱帯地方の気候に慣れていないために、その暑さに耐えられずに何千人と死んでしまったに違いない土地で、アフリカから連れて行かれた黒人たちはりっぱに耐えたのだった。アメリカの植民地への黒人の輸送は特別に作られた船で規則的に行なわれるようになり、大西洋を横断するこの貿易部門がアフリカ沿岸各地にいくつかの重要な支店を設けるまでに至った。この《商品》は生産地ではきわめて安いため、利益は莫大(ばくだい)なものだったのである。
だが、国外の植民地建設のためにどれほど必要であったとしても、人間の売買を正当化することはできなかった。やがて、正しい心の人々が奴隷売買に抗議し、ヒューマニズムの名のもとにこの交易を禁止するようにヨーロッパ諸国の政府に要求し始めた。
一七五一年、北アメリカでクエーカー教徒を先頭とした禁止運動が起こり、そこでは百年後に奴隷問題に端を発した南北戦争が起こるのである。バージニア、コネチカット、マサチューセッツ、ペンシルベニアなどの北部諸州は奴隷売買の禁止を宣言し、高い費用を使って運ばれて来た奴隷を解放した。
しかし、クエーカー教徒の始めたこのキャンペーンは、新世界アメリカの北部地方だけに止まらなかった。大西洋を越えた旧世界でも奴隷制擁護主義者は烈しい攻撃を受けた。特にフランスとイギリスでその声は高かった。《正しい原理を滅ぼすよりは、むしろ植民地を滅ぼそう》という合言葉が旧世界でも響きわたり、政治経済上の大きな利益に反してまで、ヨーロッパ中に伝わったのだった。
機運は熟し、一八〇七年イギリスが植民地における黒人奴隷売買の禁止を宣言し、一八一四年フランスがこれに続いた。この二大国家がこの件に関して条約を取り交わし、その条約はナポレオンの百日天下の間にも守られた。
しかし、このころはまだ単に宣言されたというだけだった。奴隷船は相変わらず海を渡って植民地の港に《黒檀色(こくたんいろ)の積荷》を陸揚げしつづけていた。
この交易に終止符をうつためには、さらに現実的な手段が行なわれる必要があった。一八二〇年にアメリカが、一八二四年にイギリスが、奴隷売買を海賊的行為と見なし、実際にこれを行なうものを海賊と見なすと宣言した。こうなると、奴隷売買に従事する人間は死刑を覚悟しなければならなくなるし、また徹底的に追求されることになった。やがてフランスも同じ条約に加盟した。だが、アメリカの南部諸州、スペイン・ポルトガルの植民地はこれに参加しようとせず、アフリカの黒人の輸出は引きつづき行なわれた。
また一方、この新しい奴隷廃止法は過去にさかのぼる効力をもっていなかったために、新しく奴隷を売買することを禁止しても、すでに奴隷となった黒人は自由を取りもどすことはできなかった。この問題に関して、一八三三年イギリスが大英帝国の植民地のすべての黒人を解放すると宣言し、一八三八年に六十七万人の奴隷が自由な身分になったことが宣言された。十年後の一八四八年にはフランスがフランス共和国植民地の二十六万人の黒人奴隷を解放した。
アメリカで一八六一年から一八六五年にかけて行なわれた北部諸州と南部連合との間の南北戦争は、奴隷解放を完成し、北米全土に行なわれることとなった。
こうして三大強国がヒューマニズムに沿った行為をなしとげたのである。この物語の時点では、奴隷売買はスペインかポルトガルの植民地のためか、オリエント地方のトルコかアラビアの要求に応ずるためにしか行なわれていない。ブラジルも、すでに奴隷であった黒人に自由を与えるまでには至っていないが、もう新しく奴隷を受け入れることはしないし、生まれてくる黒人の子どもは自由な身分なのである。
まだアフリカの奥地では部族の酋長(しゅうちょう)たちが人狩りのために血みどろな戦いをつづけ、一部族全体が奴隷となるというようなことが行なわれていた。反対の方向に向かう二つの行列があり、一つは西のアンゴラのポルトガル植民地へ、もう一つは東のモザンビークに向かっている。この不幸な黒人たちのうち目的地にまでたどり着くのはわずかだが、前者はキューバかマダガスカルに、後者はトルコかメッカかマスカットへ送り出される。イギリスやフランスの巡航艦隊がこの交易を防ぐことのできるのはごく一部でしかない。アフリカの長い沿岸を十分に監視するのは困難だからである。
ところで、この憎むべき輸出の数はまだかなりな数に上るだろうか? そのとおりなのである。沿岸にまで連れて来られる奴隷は八千人を下らないが、その数も殺された黒人の十分の一にすぎない。この恐るべき虐殺(ぎゃくさつ)の結果、畑は荒れて耕すものもなく、家は焼かれて住む人間もなく、川には死体があふれ、猛獣だけがわがもの顔に歩き回っているのである。こうした人狩りの行なわれた翌日に、ある部落を訪れたことのあるリビングストーンには、そこが数か月前に来た同じ場所だとは考えることもできなかったということである。グラント、スピーク、バートン、カメロン、スタンリーなどの旅行者たちも、酋長対酋長の争闘の行なわれた主要な舞台である中央アフリカの植林された高地について、同じように語っている。
しかし、スペインやポルトガルの植民地の奴隷市場もやがて閉じられ、販路がなくなってしまうだろう。文明化した国民たちは奴隷売買をこれ以上許しておかないに違いない。
奴隷売買の実態はこのようなものだった。
また、つけ加えておかなければならないが、ヨーロッパの大国の多数の外交官がこの交易に対し恥知らずにも寛大さを示したこともある。イギリスやフランスの巡航艦隊が大西洋岸やインド洋岸を監視している間に、奥地では定期的に交易が開かれ、奴隷の行列は何人もの商人に見張られて長い道をたどり、さらに一人の奴隷を得るために十人の黒人を虐殺することがつづけられていたのである。
こういうわけだから、ディック・サンドが叫んだ《アフリカだ! 赤道アフリカだ! 奴隷商人と奴隷のアフリカだ!》という声に恐怖がこめられていたのを読者も理解できるだろう。
そして、ディック・サンドはまちがっていなかった。彼と彼の仲間にとって、あらゆる危険を秘めたアフリカだったのである。
だが、そのアフリカ大陸のどの部分に、運命は彼らを上陸させたのだろうか? 西海岸なのはもちろんである。ディックはそれまでの情況から、ピルグリム号が打ち上げられたのはアンゴラ沿岸だろうと判断した。
事実、そのとおりだったのである。アンゴラはこのあたりの交通の要地で、数年後にはディックたちより南の方をスタンリーが、北の方をカメロンが、非常な苦心をしながら通過することになる。その付近には、ベンゲラ、コンゴ、アンゴラという三つの地方があるが、そのころは沿岸だけしか知られていなかった。北はザイル川から南はヌルス川にまで至る地域で、ベンゲラとセント・ポール・ド・ルアンダの二つの港が主要都市である。
内陸は当時ほとんど未知だった。ほとんどの旅行者が足を踏み入れようとしなかった。気候は悪く、湿気の多い暑い土地は熱病が多かったし、野蛮な土人のなかにはまだ食人の習慣を残しているものもあり、部族同士が絶えず争闘をしていたし、また破廉恥(はれんち)な商売の秘密を知られる恐れのある外国人を見逃さない奴隷商人の挑戦もあった。これがアフリカで最も危険な地方であるアンゴラだった。
一八一六年にタッキーがコンゴ川をさかのぼり、エレン滝の上流にまで達したが、それでも距離はわずか二百マイルにすぎない。これくらいではこの地方の詳しい知識は得られないし、しかもこの旅行のために探検隊の学者や隊員の大部分が死んでしまったのである。
三十七年後、リビングストーン博士は喜望峰から奥地に入り、ザンベジ川上流にまで進んだ。一八五三年十一月、そこから北西に向かってアフリカを縦断し、コンゴ川の支流コアンゴ川に達し、一八五四年三月三十一日セント・ポール・ド・ルアンダに到着した。その後、博士のこの勇敢な行為をしのぐものは現われていない。ポルトガルの植民地アンゴラの未知の土地はこの時はじめて踏破されたのである。
さらに十八年後、二人の大胆な探検家がアフリカを東から西へ横断する。いずれも言語に絶する困難の後、一人はアンゴラの南部に、一人はアンゴラの北部に出たのだった。
まず最初はイギリスの海軍士官バーニー=ハウェット・カメロンだった。一八七二年、消息を断ったリビングストーンの捜索に向かったアメリカ人スタンリーの探検隊の安否が気づかわれた。カメロンはスタンリーの足跡をたずねることを提案し、医師ディロン、士官セシル・マーフィー、リビングストーンのおいのロバート・モファットらとともにザンジバールを出発した。ウゴロ川を横切ったあたりで、彼らは偉大な探検家リビングストーンの遺体を彼の部下たちが東海岸へ運んで行くのに出会った。彼らは不屈の意志をもって、ウニヤニンベ、ウガンダ、カウエレを過ぎ、タンガニーカ湖を渡り、バンバレ山、ルアラーバ川を越え、部族間の争闘と奴隷商人によって荒廃した地方を通り抜けた後、コアンザ川とディック・サンドが迷い込んだ広大な密林地帯を越えてようやく大西洋を眺(なが)めることができ、ベンゲラにたどり着いたのだった。三年と四か月にわたるこの大旅行は、カメロンの二人の同行者ディロンとロバート・モファットの命を奪った。
カメロンの探検のすぐ後、ヘンリー=モーランド・スタンリーが未知の土地に挑戦した。《ニューヨーク・ヘラルド紙》の勇敢な記者スタンリーが、一八七一年十月三十日、タンガニーカ湖岸のウジジでリビングストーンにめぐり会った話は有名である。ヒューマニズムにあふれたこの探検旅行の後、スタンリーは今度は地理学の進歩のために再び探検を行なう決心をした。その目的は、前回にわずかに知ったルアラーバ川をさらに詳しく調べることだった。カメロンがまだアフリカ中心部に踏み込んで連絡を絶っている一八七四年十一月、東海岸のバガモヨから出発し、二十一か月後の一八七六年八月二十四日、天然痘が猛威を振るっているウジジを通り、七十七日後にニアングウエに達した。ここは、かつてリビングストーンもカメロンも訪れたことのある有名な奴隷市場のあるところで、スタンリーは、ザンジバールのサルタンの兵隊たちの行なった恐ろしい掠奪を目撃した。
スタンリーはルアラーバ川を探検し、河口まで下って行くことにした。ニアングウエで雇った四十人のポーターと十九隻の舟が彼の探検隊の全容であった。行程の最初から彼らはウグスーの食人種と戦わねばならず、また舟の通れない滝を避けるために何度も舟を運んで進まなければならなかった。赤道直下でルアラーバ川が北北東に流れるあたりを下って行くとき、四十四隻の小舟に乗った数百人の土人が探検隊に襲いかかったが、ようやくこれを撃退することができた。それから北緯二度まで達したとき、スタンリーはルアラーバ川はすなわちコンゴ川であり、流れに従って行けば大西洋に至ることを確認した。以後、両岸の部族とほとんど毎日のように戦いながら、探検隊はコンゴ川を下って行った。一八七七年六月三日、マササ滝を通るときに仲間のフランシス・ポコックを失い、彼自身も七月十八日には舟とともにムベロの急流に引き込まれたが奇跡的に死をまぬがれることができた。
八月六日、スタンリーはようやく大西洋岸から四日の行程にあるニサンダに達し、二日後バンザ・ムブコで、エンボマの二人の商人が送ってくれた食料を受け取った。二年九か月にわたるアフリカ大陸の完全な横断をなしとげて三十五歳に達し、食料の不足と疲労にやつれたスタンリーは、この大西洋岸の小さな町でようやく休息することができたのだった。しかし、ルアラーバ川が大西洋に流れ込んでいることが確かめられ、北のナイル川、東のザンベジ川とともに西に第三の大きな川が存在することがわかったのである。しかも、この川はルアラーバ、ザイル、コンゴと名を変えながら二千九百マイルに達する世界最長の川の一つで、タンガニーカ湖付近と大西洋をつなぐものだったのである。
スタンリーとカメロンの通った道程の間にあるアンゴラは、ピルグリム号が漂着した一八七三年には、まだほとんど未知の土地なのだった。知られていることといえば、大西洋岸の奴隷売買の最も盛んな土地であるということだけだった。
ディック・サンドたちがハリスに欺(あざむ)かれて沿岸から百マイル以上もの奥地に迷い込んでしまったアンゴラとはこういう土地だったのである。しかも同行するのは、悲しみと疲労に弱りきった婦人と病気にかかったその子、そして奴隷商人が貪婪(どんらん)にねらう黒人たちだった。
そこはまさにアフリカだった。原住民も野獣も気候もそれほど恐ろしくはない南アメリカではなかった。村落が多く、宣教師たちが喜んで旅行者を迎える、アンデス山脈と太平洋にはさまれた平和な土地ではなかった。悪人が航路をゆがめなかったら、嵐によってピルグリム号が漂着していたに違いないペルーやボリビアからはるかに離れてしまっていた。南アメリカだったら、たとえ漂着したとしても、再び祖国アメリカに向かって出発することはきわめて容易だったのだろうが!
また、同じアンゴラでも、ポルトガル政府の支配の行きとどいている沿岸地方でもなく、奴隷の列が鞭(むち)に追われて歩く植民地の奥地なのだった。
この土地に関するディック・サンドの知識はごくわずかだった。十六、七世紀の宣教師たちやその後のポルトガル商人の伝えたこと、リビングストーンが一八五三年の探検について語ったことなどである。しかもそれらの知識は、彼よりもさらに強い意志をもった人間たちにさえ勇気を失わせるに違いなかったのである。実際、事態は恐るべきものだった。

二 ハリスとネゴロ

ハリスが姿を消した翌日、ディックたちのいる場所から三マイルほど離れた場所で、あらかじめ打ち合わせていた二人の男が会っていた。その二人とはハリスとネゴロである。ニュージーランドから来たポルトガル人ネゴロと、奴隷商人としてアフリカ西部を馳け回っていたアメリカ人ハリスが会っていたわけがやがてわかるだろう。
パピルスの間を早い勢いで流れる小さな川の岸に生えた大きなバニマンの木の根元に二人は腰をおろしていた。二人はたった今出会ったばかりなので、話はごく最近のことから始まった。
「そうすると、ハリス、サンド船長――あの連中がそう呼んでいるのだが――とその仲間たちを、あまり奥地まで連れて行けなかったんだな?」とネゴロが言った。
「そうなんだ。けれども、海岸から百マイルも連れて行けただけで大したことじゃないかな? なにしろ終わりごろの数日というものは、あの若いディック・サンドがおれを疑って目を離さなかったんだからな。そうして、その疑いが少しずつ確信に変わっていっていたんだから……」
「あと百マイル行っていれば、あの連中は完全におれたちの手のなかにはいっていたんだが! とにかく、あいつらを逃がさないようにしなければならない!」
「ええっ! どうやって逃げられるんだ?」とハリスが肩をすくめて言った。「今も言ったけれど、おれはやっと逃げ出して来たんだぜ。あのディック・サンドがおれの胸に弾を撃ち込みそうになるのが、あいつの眼を見てわかったんだ、おれの腹は鉄砲の弾を消化するほど強くないからな!」
「いいだろう。おれもあの若い奴(やつ)には仕返しをしたかったところだから……」とネゴロが言った。
「好きなように仕返しをするがいい。だがな、初めの何日かは、ここが昔おれが行ったことのあるアタカマ砂漠だと思い込ませていたんだが、あの小僧がゴムの木やハチドリを見たがるし、母親のほうはキナを欲しがるものだから!……まったく、だますのに苦労したよ。それに、とんでもないことにキリンを見つけてしまったのを、ひどい骨を折ってダチョウだと言いくるめてからは、もうだましようがないと思ったぜ。それに、あのディックだけはおれの話にだまされてはいないってことがよくわかっていたからな。その後で、ゾウの通った跡に出会ったり、カバまで出てくるんだから! なあ、ネゴロ、南アメリカにゾウやカバがいるなんてことは、ベンゲラの監獄に正直者がいるようなものだからなあ! ようやくごまかしたと思うと、あの年取った黒人が木の根元から、奴隷が逃げるときに捨てていったらしい鎖を見つけてくるんだ。その上おまけに、ライオンの吠える声が聞こえてくる! ライオンの声を無害なヤマネコの鳴き声だと言って言い抜けるのはむりだよなあ! それでおれはようやくウマに飛び乗って、ここまで逃げて来たってわけなんだ!」
「わかったよ」とネゴロは答えた。「しかし、もう百マイルばかり奥地へ連れて行っておきたかったんだ」
「おれはできるだけのことはやったんだ。それに、おまえのほうだが、行列の後をつけて来るとき、もっと離れていたほうがよかったぜ。おまえのいるらしいことがわかってしまったんだ。あのディンゴってイヌがいて、あれはどうやらおまえとあまり仲よくないらしいからな。あのイヌに何かしたことがあるか?」
「いや、何も。しかし、今にきっとあのイヌの頭に弾を撃ち込んでやるんだ」
「おまえがディック・サンドから弾を撃ち込まれるぜ、あの男から二百歩くらいのところにちょっとでも姿を見せたらな。射撃が実にうまいからな。ここだけの話だが、まったくしっかりした若者だと、おれも認めないわけにはいかないな」
「いくらしっかりしていたって、おれに向かって生意気なことをしやがったお礼はたっぷりやらせてもらうんだ」とネゴロは答えた。その顔には執念深さと残酷さがしみ込んでいた。
「それもいいだろう。おまえは昔と全然変わっていないな、長い旅をしてきたのに!」と言ってから少し沈黙して、またハリスは言った。「それはそうと、ネゴロ、あのロンガ川の河口の難破の現場の近くで思いがけず出会ったとき、おまえはあの連中をここはボリビアだとだましながらできるだけ奥地へ連れて行けとだけしか言わなかったな。この二年の間どうしていたんだ? おれたちのような生き方をしているものにしてみれば、二年というのはずいぶん長い期間だが。おれたちを雇っていたアルベスの命令で、二年前おまえは奴隷の行列を指揮してカサンガを出発してから、ずっとうわさも聞かなかったがね。イギリスの巡航船隊と出会って事件でも起こって、しばり首にでもされたのかと思っていたところだったよ」
「もう少しでそうなるところだったのさ」
「またいいこともあるさ、ネゴロ」
「ふん!」
「しかたがないじゃないか。この仕事をしていればそうなるのさ。ベッドの上で死なない覚悟でなければ、このアフリカでは奴隷売買はできないさ! それで、捕えられたんだな?」
「そうだ」
「イギリス人にか?」
「いや、ポルトガル人にだ」
「商品を渡す前か後か?」
「後だよ……」と少しためらってからネゴロは答えた。「ポルトガル人もこのごろはうるさいことを言う。今まで長い間使っていたのに、もう奴隷はいらないというんだ。それでおれは裁判にかけられて……」
「どういう刑だった?」
「終身懲役でセント・ポール・ド・ルアンダの監獄へ送られたよ」
「畜生! 監獄か! おれたちのように太陽の下で暮らしてきた人間には、あんまり健康によくない場所だよ。おれだったら、しばり首のほうがましだよ!」
「しばり首の台からは逃げられないが、監獄からだったら……」とネゴロは言った。
「逃げたのか?」
「そうとも、ハリス! 二週間後にはニュージーランドのオークランド行きのイギリス汽船の船倉にもぐり込んでいたよ。水の樽(たる)と食料の箱の間に隠れていたから、航海中は飲み物にも食べ物にも不自由はしなかったさ。それでも、外に出たくてたまらなかったぜ! しかし、もしうっかり外に出ても、すぐにつかまって否応(いやおう)なしに船倉にほうり込まれるだろうから、結局同じだったろうな。それに、オークランドに着いてから、イギリスの警察に引き渡されて、最後にはまたルアンダの監獄に送り返されるか、しばり首にされていたろうな! おれが船倉の外に出なかったのはそのためさ」
「運賃も払わずに旅行したのか! そいつはとうていりっぱな行ないじゃないな。無料で船に乗り、そのうえ食事まで無料だとはな!」とにやにや笑いながらハリスが言った。
「そうだな。しかし、三十日間船倉で暮らしてみろ!……」
「そうだろうなあ! それで、ニュージーランドへ行ったわけだが、どうやって戻って来たんだい? 帰りも同じようなことをやったわけか?」
「まさか! だがな、ハリス、考えてみてくれよ、ニュージーランドにいるとき、おれはアンゴラにもどって奴隷売買をまたやることばかり考えていたんだ」
「そうか! だれだって慣れた仕事がいいからなあ、ネゴロ」
「一年半の間……」と言いかけて、ネゴロは不意に話を止め、ハリスの腕をつかんで低い声で言った。
「ハリス、今そこのパピルスの茂みのなかで何か動かなかったか?」
「動いたようだ」とハリスも答えて銃を握り、いつでも発砲できるように構えた。
それから二人はそっと立ち上がり、注意深くあたりを見回し、耳を澄ませた。
「何もいない」としばらくしてハリスが言った。「大雨で川の水が増したので流れが早くなったからだろう。二年も離れていたので密林の物音を忘れたな。すぐに慣れるさ。話のつづきを聞かせてくれ。昔の話を終えたら、これから先のことを考えることにしよう」
二人はガジュマルの木の根元にまた座り直し、ネゴロが話し始めた。
「オークランドで一年半の間おれは何も考えないでぼんやり暮らしていた。船が港について、おれはだれにも見つからずに外に出ることはできたが、ポケットにはまるっきり金がなかった。食うために、おれはあらゆる仕事をやったよ……」
「まともな仕事もか、ネゴロ」
「そうなんだ、ハリス」
「気の毒になあ」
「アフリカにもどれる機会を絶えずねらっていたんだが、ちょうどピルグリム号がオークランドの港にはいって来たわけさ」
「アンゴラの海岸に漂着した船だな?」
「そう、あれだよ、ハリス。ウェルドン夫人と子どもといとこはオークランドで乗り込んだんだ。おれは船員の資格もあるし、奴隷船では運転士もやったことがあるくらいだから、船に乗り組むのはむずかしいことじゃない。それでおれはピルグリム号へ行って船長に会ったが、船員に欠員はないって言われた。ところが幸い料理番がいないということなんで、おれは料理番もできるって言ったんだ。船員ならだれだって料理をやったことがあるものな。ほかに代わりがいなかったので、おれは料理番に雇われ、それから数日後に船はオークランドを出港したんだ」
「しかし、あの少年から聞いた話だと、ピルグリム号はアフリカに向かって航海していたんじゃないってことだったがな。どういうわけでアフリカに着いてしまったんだろう?」
「ディック・サンドにそのわけがわかるはずがないさ。多分、絶対にわからないだろうな。そのわけを聞かせてやろうか、ハリス。機会があったら、あの少年におまえから話してやったっていいぜ」
「聞かせてくれ、聞かせてくれ!」とハリスは答えた。
「ピルグリム号はバルパライソに向かっていたんだ。乗り組んだときは、おれもチリへ行くつもりだったよ。チリまで来れば、アフリカへもどる道の半分来たことになるからな。ところが、オークランドを出て三週間後、船長と船員がクジラを捕りに行って死んでしまったんだ。そうなると、残った船員は二人しかいなかった、ディック・サンドとおれさ」
「それでおまえが船長になったわけだな」とハリスはたずねた。
「おれもそのつもりだった。ところが、残った連中がおれを疑い深そうな眼で見て信用しようとしないんだ。力の強そうな黒人が――しかも自由な身分の黒人だぜ――五人もいたものだから、おれも船長にならないことにしたんだ。よく考えてみて、初めのまま料理番でいることにしたわけさ」
「とすると、アフリカに漂着したのは偶然だってわけだが?」
「いや、偶然なんかじゃない。ピルグリム号が漂着したあの場所に、おまえが通りかかったのはたしかに偶然だがな。アンゴラに着いたのは、おれがやったことさ、こっそりとな。あのディックはまだ新米だから、測程儀や羅針儀がないと方向を測ることもできないんだ。ところが、ある日、測程儀が流れてしまったってわけだ。それからまた、ある晩、羅針儀が狂ってしまったんだな。それで、猛烈な嵐にあって、ピルグリム号はとんでもない方向に進んでしまったのさ。いつまでも南アメリカに着かなくて、ディックの奴(やつ)は途方に暮れていたよ。しかし、熟練した船員だって訳がわからなかったろうがな。ディックが知らないうちに、いやそんなこと考えもしないうちにホーン岬を通り過ぎてしまったのさ。おれだけには霧のむこうにかすかに見えたがね。その後になって、おれにとっては幸いなことに羅針儀の針が正しく動くようになり、船はあの恐ろしい嵐で北東へ吹き流され、アフリカ沿岸に着いてしまったのだ。しかも、おれが帰ろうと思っていたアンゴラにな」
「ちょうどそこへおれが行って、あの連中を奥地へ連れ込んだわけだな」とハリスは答えた。
「南アメリカを歩いているんだって信じていたよ。ボリビアの低地地方だと思い込ませるのは簡単だった、このあたりはよく似ているから」
「そうだろうな。あのディックがトリスタン・ダ・クーニャ諸島の近くを通ったとき、イースター島だと思ったくらいだからな」
「ほかのものはもちろんだったよ、ネゴロ」
「そうだろうともな、ハリス。その思い違いを利用してやろうと、おれは思ったんだ。それで、百マイルも奥地へ連れて行ってもらったわけさ」
「しかし、もう気がついているぞ」
「ここまで連れて来られれば、もうかまうものか!」とネゴロは大声で言った。
「あの連中をどうするつもりなんだ?」とハリスは尋ねた。
「どうするかを言う前に、おれたちの主人のアルベスのことを話してくれないか、ハリス。おれは二年間会っていないんだから」
「ああ、とても元気さ。おまえに会ったらとても喜ぶだろうよ」
「ビヘの市場へ行っているのかい?」とネゴロは尋ねた。
「いや、一年前からカゾンデの商館にいるよ」
「仕事はうまくいっているんだろうな?」
「とんでもない。このあたりの沿岸では、だんだんむずかしくなったよ。ポルトガル政府とイギリス巡航艦隊がいて、運び出すのがやっかいなんだ。ずっと南へ下ってモサメデスあたりへ行かないと、黒人たちを船に乗り込ませるのがうまくいかないんだ。今じゃあ奴隷を積んだ小船が、スペイン領の植民地へ行く船の来るのを待っているようなぐあいさ。ベンゲラかルアンダで積み込むなんてことは、絶対にできないんだ。役人たちも、もういうことを聞いてはくれないんだ。それで、アルベスも東海岸のほうへ行くことになるかもしれない。エジプト向けの仕事はあいかわらず有利だし、モザンビーク沿岸ではマダガスカルのほうの輸出を全部やっているからな。それにしても、そのうちに奴隷売買ができなくなるんじゃないかな。イギリスがアフリカ中部に手を伸ばしてきているし、宣教師たちも進出してきておれたちの仕事のじゃまをするしな! あのいまいましいリビングストーンの奴はタンガニーカ湖やあの地方のほかの湖を探検し終わって、今度はアンゴラのほうに向かうってうわさを聞いたことがある。それに、カメロンという士官が東海岸から西海岸へ横断しようと計画しているという話もある。そのうえ、アメリカ人のスタンリーも同じようなことを考えているらしい。こういう連中が来るようになると、おれたちの商売はだめになってしまうんだ。だから、こういう連中がヨーロッパに戻ってから話したりしないように、アフリカに来させないようにしなければならないんだ、ネゴロ」
この話を聞いていると、商売のぐあいが思わしくなくなった、まじめな商人のような気がするではないか。彼らの商品というのがコーヒーの袋や砂糖の樽ではなく、人間だということがどうして信じられよう。この奴隷商人たちはもう正、不正に対する感覚を失っているのだ。道徳心が彼らには完全に欠如している。かつてはもっていたのかもしれないが、奴隷売買という残酷な仕事をしているうちになくしてしまったのだろう。
ハリスの話のうち当たっているのは、勇敢な探検家たちの努力によって、この未開の大陸アフリカに次第に文明が浸透し始めているということだった。デービッド・リビングストーンを先頭に、グラント、スピーク、バートン、カメロン、スタンリーなどの勇気ある人々は、ヒューマニズムを擁護した人として、永遠にその名を残すことになるだろう。
ネゴロが二年間どういうふうに過ごしていたか、ハリスにもわかった。奴隷商人アルベスの使用人、ルアンダの監獄の脱獄囚ネゴロは、昔のとおりどんなことでもやりかねない人間なのだった。だが、ピルグリム号で漂着した人々をネゴロがどうするつもりなのか、ハリスはまだそれを聞かされてはいなかった。ハリスはたずねた。
「ところで、あの連中をどうするつもりなんだ?」
「二組に分けるつもりさ、男の大人(おとな)についてはもう前から決めてあるんだ、奴隷に売るのさ。残りの奴らは……」
ネゴロは終わりまで言わなかったが、その残忍な笑い顔を見れば、彼が何を考えているか明らかだった。
「全部売るつもりか?」とハリスは言った。
「年とったトムはたいして値打ちもないだろうが、他の四人はカゾンデの市場で高く売れるだろうからな!」
「そうだな」とハリスは答えた。「あの四人は体格もいいし、労働の習慣はついているから、奥地から引っ張って来た野蛮な黒人とは大違いだ。きっと高く売れるさ! アメリカ生まれの奴隷なんて、アンゴラの市場にめったに出るものじゃないからな! そうすると、後はあの連中をつかまえるだけだ」
「むずかしいか?」
「なに、むずかしくなんかないさ。ここから十マイルくらい離れたコアンザ川の岸に、アラビア人のイブン・ハミスが奴隷の一団を連れてキャンプしている。おれが行けばすぐにカゾンデに向けて出発するはずだ。ディックたちをつかまえるのには充分過ぎるくらいの人数がいるさ。ただ、ディックがコアンザ川のほうに向かってくれればな」
「向かうだろうかな?」
「もちろんさ」とハリスは言った。「あの少年は賢いから、そう考えるさ。待ち伏せられているとは知らないからな。海岸へ出るのに、行きに通った道を引き返そうとディックが考えるはずがない。あの深い森の中で迷ってしまうにきまっているからな。だから、川を探して、筏(いかだ)でも組んで、それで川を下って海岸へ出ようとするに違いないさ。ほかに方法はない。おれにはわかっている、あの少年はきっとそうするさ……」
「うん……多分そうだろうな……」とネゴロが考え込みながら答えた。
「多分じゃないさ、必ずさ」とハリスは言った。「まるでおれとコアンザ川の岸で会う約束でもしていたようにな!」
「よし、わかった、出かけよう!」とネゴロは言った。「おれはディックという子をよく知っているよ、あの子は一時間もぐずぐずしている子じゃない。あの連中より先に行かなければまずいぞ」
「よし、出発だ!」
二人が立ち上がったとき、ネゴロはふと気づいた。高く育ったパピルスの間で、かすかに葉のすれ合う音がしたのだった。
ネゴロはじっと立ち止まり、ハリスの腕をつかんだ。
不意に唸(うな)り声が聞こえた。イヌが川岸の土手の下に現われ、口を開いて今にも飛びかかりそうに身構えた。
「ディンゴだ!」とハリスが叫んだ。
「畜生、今度こそ逃がすもんか!」とネゴロはわめいた。
ディンゴが飛びかかるよりも早く、ネゴロはハリスの銃を取って構え、発砲した。
ディンゴは悲鳴をあげて茂みの中に姿を消した。
ネゴロはすぐに土手を下りて行った。数本のパピルスの茎に血痕がつき、土に血の跡が長くつづいていた。
「ざまを見ろ、あのいまいましいイヌめ!」とネゴロはどなった。
それまで無言で眺めていたハリスが言った。
「ネゴロ、あのイヌはひどくお前を憎んでいるようだな!」
「そうらしいな、ハリス、しかしもう憎むこともできないさ!」
「なぜそれほど憎むんだろうな?」
「おれとあのイヌの間には、古い因縁があるのさ」
「古い因縁ってどういう因縁だ?」
だがネゴロはそれ以上は話そうとしなかった。ハリスはネゴロが何か昔の事件を隠しているに違いないと想像したが、むりに聞き出そうとはしなかった。
間もなく、二人はコアンザ川に向かって、流れに沿って小川の岸を歩いて行った。

三 前進

アフリカ! その名はディック・サンドの頭から、一瞬も離れていなかった。数週間前のことを思い出して、ピルグリム号がなぜホーン岬を回って大西洋にはいり、この恐ろしい大陸に漂着したのか何度となく考えてみた。そして今、ディックは、ピルグリム号が早い速度で帆走したのに陸地がなかなか現われなかった理由がはっきりとわかった。アメリカ海岸へ到達するための航行距離が、ディックの知らないうちに二倍になっていたのである。
「アフリカなんだ! アフリカなんだ!」とディック・サンドは繰り返しつぶやいた。
そして、あり得ないことの起こった航海中の事件を執拗(しつよう)に思い出してゆくと、不意に羅針儀が狂っていたのではないかと思いついた。と同時に、第一の羅針儀がこわれ、測程儀が切れてしまい、その結果ピルグリム号の速度を測ることが不可能になっていたことを思い出した。
「そうだ」と彼は思った。「羅針儀は一つだけになってしまったんだ。しかも、その残りの一つの羅針儀を、ぼくは使いこなせなかった!……そして、ある晩、ぼくはトムの叫ぶ声で目を覚ました!……あの時、トムがそばにいた! そして、ネゴロが羅針儀の上に倒れたとトムが言った!」
ディックの頭のなかに光明が輝いた。ようやく彼は真実に触れることができた。ネゴロの行動のうちで、あいまいだった部分を、ようやくすっかり理解することができた。ピルグリム号を破壊に導き、乗っていた人々の生命を危機に陥れることとなった一連の事件に、ネゴロの手が働いていたことを、ディックは読み取った。
それにしても、あのネゴロは何者だろう? いまだに姿を見せようとしないが、ほんとうに水夫だったのだろうか? ピルグリム号をアフリカ海岸に漂着させることになる卑劣な企(たくら)みを、たしかに彼の考えだといえるだろうか?
いずれにしても、過ぎ去った出来事のうちに不明瞭(ふめいりょう)な点はまだかなりあるが、現在の状態に関しては不明瞭な点はなかった。自分たちのいるのがアフリカであり、しかも海岸から百マイル以上離れた不気味なアンゴラ地方であるに違いないことを、ディックははっきりと知っていたのである。それに、ハリスが裏切ったのも疑問の余地がないことを、ディックはよく知っていた。そして以上のことから結論として、ハリスとネゴロは古くからの友人であったこと、偶然にこの海岸で出会ったに違いないこと、そして二人が企んでピルグリム号で難破した人々を窮地に陥れたことなどが考えられた。
それにしても、この卑劣な企みのねらいは何なのだろう? ネゴロがトムたちを捕えて奴隷として売ろうというのは理解できる。また、ディックの彼に対する態度を恨んで復讐(ふくしゅう)しようというのなら、それも考えられないことではない。だが、ウェルドン夫人とその子に対して、どうしようというのだろうか?
もしディックが、ハリスとネゴロの話の一部でも聞いていたら、その理由もわかっただろうし、ウェルドン夫人と黒人たちと彼自身とに、どんな危険が待ちかまえていたかもわかっただろう。
事態は恐ろしいものだった。だがディックは弱音を吐こうとは思わなかった。船の上で船長であったのだから、地上ででも船長でなければならないのだった。神によってその運命を手中に託されたウェルドン夫人、幼いジャック、黒人たちを、彼は救わなければならないのだった。彼の任務は始まったばかりなのだった。最後までやり遂げなければならなかった!
二、三時間、現在の状態と今後の事態のなかで、プラスの点とマイナスの点――残念ながら、マイナスのほうがはるかに多かったが――を熟考してから、ディックは覚悟を決めて立ち上がった。
木々の高い梢(こずえ)に朝の光が射し始めていた。ディックとトム以外、すべてぐっすり眠っていた。ディックは年とった黒人に近づいた。
「トム」と彼は低い声で言った。「おまえはライオンの声に気づいたな、奴隷商人の道具もわかったな。ぼくたちのいるのがアフリカだってことを、おまえは知っているんだろう」
「はい、ディックさん、知っています」
「よし。それなら、トム、それを少しでも口に出してはいけない。ウェルドン夫人にも、仲間の黒人たちにもな。ぼくとおまえだけが知っていればいいんだ。心配するのは二人だけでいいんだ……」
「二人だけ……そうですとも……そうでなくてはなりません!」とトムは答えた。
「トム、ぼくたち二人で今までよりももっと厳重に注意することにしよう。ここは敵の国なんだから! しかも、最も恐ろしい敵、最も恐ろしい国なんだ! ほかのものには、ハリスにだまされたとだけ言っておくことにしよう。そうすれば、皆もよく警戒するようになるだろうから。皆は多分、インディオに襲撃されはしないかと恐れるくらいだろう。それでいいんだ」
「わたしの仲間のものの勇気と忠実さは絶対に信じてくださっていいです、ディックさん」
「わかっているとも。それに、おまえの良識と経験もね。ぼくを助けてくれるだろうな、トム?」
「必ずお助けしますとも。ディックさん」
ディックが自分の推測を話すと、トムも賛成した。それは次のようなものだった。ハリスはあらかじめ決めてあった時間より早く裏切りを暴露してしまったのだから、すぐに危険はないだろうということだった。つまり、奴隷の鉄の足かせがあったり、ライオンの声が聞こえたりしたために、ハリスはあわてて姿を消したのである。彼は自分の正体を覚られたと思い、決めておいた場所へ皆を連れて行く前に逃げ出してしまったのである。一方、ネゴロのほうは、彼がそばにいたことはディンゴが気づいていたのだが、当然ハリスと会って相談していることだろう。そして、彼らが襲って来るまでに、おそらく数時間はかかるだろうし、その数時間を有効に使わなければならない、ということだった。
方針はただ一つ、早く海岸へ出るということだった。その海岸は、ディックの考えではアンゴラの海岸以外ではあり得なかった。海岸に着いたら、ポルトガル人の村を探し、そこで帰国の機会を待つのである。
しかし、海岸へ出るのに、来た道をもどるのがよいか? ディックはそうは考えなかった。もどれば、一行が最短距離を行かざるを得ないことを見越しているハリスと出会ってしまうだろう。それに、ジャングルを通り抜ける困難な道――そして結局、出発した場所にもどるにすぎない道――をもどるというのは、軽率とはいわないまでも、当を得たものとはいえなかった。となると、足跡を残さないようにして行ける道は、川を下るしかなかった。そうすれば、幸い今まで会わずにすんでいた野獣に襲われることもあまり恐れる必要はなくなるし、原住民に攻撃されてもさほど危険ではなくなるに違いなかった。武器を持って、丈夫な筏(いかだ)に乗っていれば、さまざまな攻撃から身を守るのに最もよい状態になるだろう。すべては水の流れを発見し得るか否かにかかっていた。
それにまた、ウェルドン夫人とジャック少年の状態からいっても、川を下る方法が望ましかった。病気にかかった少年を担(にな)う腕には確かに不足はない。ハリスのウマがなくなったので、ウェルドン夫人を乗せる担架を木の枝で作ることもできた。しかし、そうすれば、担架を担うために五人の黒人のうち二人をとられてしまう。ディックとしては、不意の攻撃に備えて、できるだけ全員が自由に動ける状態にしておきたかったのである。
それに、水の上というのは、少年船長にとって得意な場所ではないか!
問題は、近くにそのような川があるかどうかということだった。ディックは、あるに違いないと考えた。それは次のような理由からである。
ピルグリム号が坐礁したあたりで大西洋に流れ込んでいた川は、北あるいは東に遠くまで遡(さかのぼ)るはずはなかった。山脈が――一行がコルディエラ山脈と思い込んだ山脈である――北と東にそびえ立っているからである。それゆえ、川は北か東かの高地から流れ出ているか、あるいは上流が南に湾曲しているかであり、そう時間をかけずに川に出会えるはずだった。しかも、そういう大きな川に会う前に、一行を運ぶに足りる支流があるに違いなかった。いずれにしても、流れは遠くないはずである。
事実、ここに着く直前の数マイルは土地の様相が変わり、道は徐々に傾斜して低くなり、湿り気を増していた。また、ところどころに細い流れがあって、地表の下に水脈があることを示していた。昨日歩いた道に沿って流れていた細い川の水は酸化した鉄分で赤くなり、川岸まで薄い赤い色に染まっていた。あの小川を見つけることは、さほど時間がかかることでも、むずかしいことでもなかった。そして、その小川に沿って下って行けば、筏(いかだ)を浮かべることのできるもっと幅の広い川に出るに違いなかった。以上が、トムと相談して、ディック・サンドの作り上げた計画のあらましだった。
朝になって、皆が次々と目を覚ました。ウェルドン夫人は、まだ眠っているジャックをナンに渡して、ディックに近づいた。幼いジャックは熱がいくぶん治まっているらしく、そのため顔色は青ざめて、正視できないほどだった。
「ディック」とウェルドン夫人は言った。「ハリスはどこにいるの? ハリスの姿が見えないようだけれど」
自分たちの歩いている場所をボリビアだと思わせておくにしても、ハリスが裏切り者だということを隠しておく必要はない、とディックは思った。それだから、彼はためらうことなく言った。
「ハリスはもういません」
「そうすると、ハリスはひとりで先に行ったの?」とウェルドン夫人は言った。
「ハリスは逃げ出したんです、奥さん。あのハリスは裏切り者だったんです。あの男がぼくたちをここへ連れて来たのは、ネゴロと共謀してやったことだったんです!」
「何のために?」とウェルドン夫人は言った。
「それはわかりません。ただ、ぼくにわかっているのは、できるだけ早く海岸にもどらなければならないってことです」
「あの人が、裏切り者だったの……」とウェルドン夫人は繰り返した。「そんな感じがしていたわ。それで、ディック、あなたはハリスがネゴロと共謀していたって考えるのね?」
「それに違いありません、奥さん。あの卑劣なネゴロは、ぼくたちの後をつけているはずです。二人の悪人は偶然に再会して……」
「今度わたしが見つけたときに二人がいっしょにいてくれればいいが」とハーキュリーズは言った。そして、見るからに恐ろしい両手の拳(こぶし)を振って「二人の頭をごつんとぶつけて、たたき割ってやるから!」
「でも、あの子が!」とウェルドン夫人は叫んだ。「サン・フェリスの農場へ行ったら、お医者を探してもらおうと思っていたのに」
「ジャックさまは治りますとも」とトムが言った。「海岸の近くのよい土地へ行きさえすれば……」
「ディック」と、またウェルドン夫人は言った。「ハリスが裏切ったというのは確かなことなの?」
「そうです、奥さん」とディックは言った。そして、詳しい説明を避けて、トムの顔を見ながらつけ加えた。
「今朝、ぼくとトムで裏切りを発見したんです。もしウマに飛び乗って逃げ出さなかったら、ぼくが殺していたところでしたよ!」
「すると、あの小屋というのは?」
「小屋も、村も、この近くにはありません」とディックは言った。「奥さん、繰り返して言いますが、海岸へもどらなければならないんです」
「来た道を通って?」
「いいえ、奥さん。川を下って行きます。そうすれば、あまり疲れることもなく、危険も少なくて海に出られます。けれども、その前に数マイル、あるいはもっと……」
「ああ、わたしはだいじょうぶよ、ディック」とウェルドン夫人は自分自身をはげますように言った。「わたしは歩きます、ジャックを背負って!……」
「わたしたちがいます、奥さん」とバットが言った。「奥さんだって運んで行きます……」
「そうだ、そうだ」とオースティンも言った。「太い木の枝二本に小枝を渡して……」
「ありがとう。でも、わたしは歩きたいのよ」とウェルドン夫人は言った。「歩くわ。さあ、出発しましょう!」
「出発だ!」と少年船長は言った。
「わたしにジャックさまを抱かせてくれ」とハーキュリーズは言って、ナンの腕からジャックを受け取った。「何も持っていないと、どうも疲れていかん!」
たくましい腕でそっと抱き上げると、ジャックはぐっすり眠ったままで目を覚まさなかった。
武器を十分に点検した。残った食料を一つにまとめ、一人で運べるようにしてアクテオンが背負った。残りの者は両手を自由に使えることになった。
疲れを知らぬベネディクトおじさんの脚は、いつでも出発できる準備ができていた。ハリスのいなくなったことに、おじさんは気がついているかどうか? それはわからないが、そんなことはおじさんにはどうでもいいことだった。大変な災難に見舞われていたのである。ベネディクトおじさんはルーペと眼鏡をなくしていたのである。
幸いバットが、おじさんの寝ていたあたりの深い草の間から二つを見つけたが、ディックの命令でおじさんには渡さずに持っていることにした。そうしておけば、この大きな子どもも、よくいわれるように《鼻の先より遠くは見えない》から、歩いている間おとなしくしているに違いなかった。そして哀れなおじさんは、アクテオンとオースティンの二人にはさまれ、けっして二人から離れてはならないと命令されて、ぐちも言わず、紐(ひも)をつけて引かれる盲人のように歩いていた。
一行が五十歩ほど歩いたとき、急にトムが言った。
「ディンゴはどこだ?」
「なるほど、いないな」とハーキュリーズが言って、大声で何度かディンゴを呼んだ。
ディンゴの吠える声は聞こえなかった。
ディックは黙って考えていた。人間よりも早く危険を聞きつけるディンゴがいなくなったことは、実に残念なことだった。
「ハリス、いや違う……」とディックは言った。「ネゴロを見つけたんだ。しかし、ぼくたちの匂いを嗅(か)ぎ当てて帰って来るだろう!」
「すると、ハリスの後をついて行ったんでしょうかな?」とトムが言った。
「あの悪党の料理番は、すぐにディンゴを銃で撃つに決まっている!……」とハーキュリーズが叫んだ。
「その前にディンゴがのど首に噛(か)みつくさ!」とバットが答えた。
「そうかもしれない!」とディックは言った。「それにしても、ぼくたちはディンゴの帰って来るのを待っているわけにはいかない。生きてさえいれば、りこうなディンゴのことだ、きっとぼくたちを探し出すさ。さあ、出発しよう!」
暑くなり始めていた。朝から地平線に大きな雲が湧(わ)いていた。嵐の気配が感じられ、夕方までに雷が来そうだった。ジャングルのなかは、幸い大きな木々の陰になっていて、やや涼しかった。ところどころ、広い範囲にわたって木がなく草が高く茂っている場所があり、巨大な幹が倒れ朽ちているのも見かけた。また、野バラ、黄や青のショウガ、青いロベリア、赤いランが咲き乱れ、昆虫が群れているところもあった。
ジャングルは通り抜けられないほどではなく、木の種類が実に多種多様だった。アフリカでは珍しい油のとれるシュロ、ブラジルのレシフェで産するものに似た毛脚の長い棉(わた)が採れる八フィートから十フィートもある棉の木があった。また、毬果植物(きゅうかしょくぶつ)が、虫の食った穴から、香りのよいやにを分泌し地上にまで垂れていた。それを採取して原住民がワニスにするのである。野生のレモンの木やザクロの木などが、アフリカの土地の肥沃(ひよく)さを示すように実をつけていた。どの木が放つのかわからなかったが、バニラの芳香が何度となく匂った。
折から乾季で、めったに雨は降らないのに、これらの樹木すべてが青々と繁茂していた。時期は熱病の季節だった。けれども、リビングストーンが指摘しているように、流行している場所を避けるようにすれば、熱病にかかるおそれはまずないのだった。ディックはこのリビングストーンの指摘を知っていたので、ジャックの病気も熱病ではないだろうと思っていた。恐れていたように高熱が周期的に起こることもなく、ジャックがハーキュリーズの腕のなかですやすや眠っているのを見て、ディックはウェルドン夫人に熱病ではないと説明した。
一行は慎重に、そして急いで進んで行った。ときどき、人間か動物が最近通ったばかりらしい跡に出会った。灌木の枝や草の茂みが押し分けられていて、そういう場所は歩きやすかった。だが、そういうことは稀(まれ)で、さまざまな障害を押しのけて行かねばならないため進度ははかどらず、ディックをいらいらさせた。船のもつれたロープのようなツタ、葉の長いとげで通るものを刺す、五十フィートから六十フィートもあるブドウに似たつるを伸ばす植物などのためだった。黒人たちは、斧(おの)を振るって切って行ったが、切っても切ってもつづいていた。
そのあたりは、植物に劣らず、動物にも珍しいものが多かった。ジャングルの木々を渡る鳥たちは、人間ができるだけ早く静かに通り抜けようとするので、鉄砲の音を聞いたこともなかった。たくさんのホロホロ鳥の群、いろいろな種類のシャコ、北米人がその鳴き声をまねて《ビップーウィル》と呼ぶ小鳥など。それらを見ていると、ディックもトムも、ふとアメリカ大陸にいるような気さえするのだった。けれども、それが錯覚にすぎないことを、二人はよく知っていた。
アフリカの猛獣は、このときまで姿を見せていなかった。前にハリスがダチョウだといってごまかそうとしたキリンが数頭見えた。人間のめったに来ることのないこのジャングルを、一行が通って行くのに怯(おび)えてキリンは走り去って行った。遠くのほうに濃い土煙が上がるのが、ときどき見えた。スイギュウの群が地面を震わせて走っているのだった。
二マイルほど小川に沿って進んだ。ディックは、早くその小川が広い川に注ぐところまで行き、皆を筏(いかだ)に乗せて海岸に向かって下って行きたかった。そのほうが危険も疲労も少ないからだった。昼までに、事故もなく三マイル進んだ。ハリスやネゴロの現われそうな気配もなかった。ディンゴももどって来なかった。
休んで食事をとらなければならなかった。全員がすっかり隠れることのできる竹の茂みで休むことにした。食事の間、誰もあまり話さなかった。ウェルドン夫人はジャックを腕に抱き、じっとその顔を見つめて、食事もしなかった。
「少し食べなければだめです、奥さん」とディックは繰り返して言った。「奥さんが弱ってしまったら、どうなるんです? 食べなければだめです。また歩くんですから、海岸まで運んで行ってくれる川が見つかるまで」
ウェルドン夫人はディックをじっと見つめた。ディックの熱意のこもった眼には強い勇気があふれていた。そういうディックや献身的な黒人たちの態度を見て、ウェルドン夫人は、妻として母として、まだ絶望してはならないと考えた。それに、どうして今、望みを失ってよいだろう? この土地そのものも、それほど悪いところではなく、ハリスの裏切りも、さほど重大な結果を招くものとも思えない。ウェルドン夫人がそう考えているのが、ディックにはありありと読みとれた。ディックは黙って頭を下げた。

四 難行程

そのときジャックが眼を覚まして、ウェルドン夫人の首に腕を回した。眼の色はずっとよくなっていた。熱は出ていなかった。
「もうよくなったのね?」とウェルドン夫人は言って胸に抱きしめた。
「ええ。お母さま、ぼく、のどが渇いた」
水をもらうと、ジャックはうまそうに幾口も飲んだ。
「ディックは?」とジャックは言った。
「ここにいますよ」とディックは言って、ジャックの手を握った。
「ハーキュリーズは?……」
「ここにいます、ジャックさま」とハーキュリーズは答えて人の好さそうな顔を近づけた。
「ウマは?」
「ウマですか? いなくなってしまいました」とハーキュリーズは言った。「これからは、わたしがウマです! わたしがジャックさまを運んで行きます。わたしの乗り心地は悪かったですか?」
「ううん」とジャックは言った。「でも、手綱がないよ」
「ああ、それなら、くつわをはめてください」と言うと、口を大きく開いてみせた。「お好きなだけ引っぱってけっこうです」
「そんなに引っぱらないよ」
「いくら引っぱってもだいじょうぶです。わたしの口は強いですから」
「でも……ハリスさんの小屋は?……」と思い出してジャックはたずねた。
「もうすぐ着くわよ、ジャック」とウェルドン夫人は答えた。「ええ……もうすぐよ」
「出かけましょうか?」と、その話題を打ち切ろうとしてディックが言った。
「ええ、ディック、出発しましょう!」とウェルドン夫人は言った。
キャンプは片付けられ、前進が始まった。小川から離れないように、雑木林のなかを進まなければならなかった。昔は細い道があったようだが、その道は、原住民の言い方を使うと、《死んで》つまりイバラややぶに隠されてしまっていた。そのなかを一マイル進むのに三時間を要した。黒人たちは休みなく働いた。ハーキュリーズもジャックをナンに預けて働いた。ハーキュリーズが威勢のいい掛け声をあげて斧(おの)をぐるぐる振り回すと、彼の進む前には火で焼き尽くすように道が現われていった。
幸い、この困難な仕事はそれほどつづかなかった。一マイルほど過ぎると、雑木林を斜めに横切って小川に達し、そこから土手に沿って通じている道があった。ゾウが通った跡で、おそらく百頭くらいが通って行ったのだろう。雨季には水に浸る軟らかい土の上に、ゾウの巨大な足跡が点々とついていた。
道はゾウだけが通るものではないことが、すぐにわかった。人間も通っていた。しかし、それは屠殺場(とさつば)への道に似たものだった。ところどころに、野獣に食われた人間の骨があり、その骸骨(がいこつ)のなかにはまだ奴隷のつける足かせのついているものもあった。
アフリカ中央部には、これと同じように、いわば人間の骨を道しるべとした長くつづく道が何本かあるのだ。何百マイルという道程を行くうちに、疲労と飢えと病気と奴隷商人のむちによって、不幸な奴隷たちが何人となく路傍に倒れることだろう。それどころか、食料が不足した場合には、奴隷商人自身によって殺されたものも多かったに違いない。与える食料がなくなったとき、銃や剣や短刀などで奴隷商人が殺す例は稀(まれ)ではなかったのである。
今ディックたちの見つけた道も、そういう道の一つなのだった。一マイルほどの間、人骨が散乱し、ディックたちが近づくと巨大なヨタカの類がゆっくり舞い上がり、一行が通り過ぎるのを旋回して待っていることもあった。
ウェルドン夫人は目をそむけて見ないようにしていた。ディックはウェルドン夫人に訊(たず)ねられるのが恐ろしかった。ハリスに欺かれてアフリカの奥地に迷い込んでしまったことを、隠したまま海岸まで行きたいと思っていたからだった。幸いウェルドン夫人は見ているものの意味を考えようとはしないようだった。ウェルドン夫人はジャックをとりもどして抱いていた。ジャックのことで頭がいっぱいのようだった。ナンはウェルドン夫人と並んで歩いていた。二人ともディックの恐れていた質問をしなかった。トムは下を向いて歩いていた。人間の骨がある理由を、トムは十分にわかっているのだった。その他のものは、まるで墓を暴(あば)かれた長い墓地を通り抜けて行くような道を、驚いたように左右を眺めながら歩いていた。
そのうちに、川は次第に深さを増し、川幅も広がっていった。流れもあまり速くなくなっていた。やがて筏を浮かべられるようになるか、それともその流れが大きな川に注げばいいと、ディックは考えていた。あくまで流れに沿って行くことに決めていたから、道が川から離れ始めると、ディックはためらわず道を捨てて川沿いに歩くことにした。
一行は再び茂った雑木林に踏み込んだ。もつれたやぶやツタを斧で切り開いて進んだ。しかし、そのあたりは海岸近くの森ほど密集してはいなかった。木は少なくなり、ハーキュリーズよりも丈の高い竹が草の上に突き出しているだけだった。一行の姿はすっかりやぶに隠れ、揺れる竹の動きでわずかにその位置がわかるくらいだった。
午後三時ごろ、あたりの景色が一変した。雨季には完全に水に浸ると思われる広い平原となった。地面はぬかるみとなり、厚く苔(こけ)が生え、その上にシダが伸びていた。沼地のあちこちに、鉱脈の露頭らしく赤鉄鉱が現われていた。
ディックはリビングストーンの旅行記の一節を思い出した。リビングストーンは何回となくこうした沼地に沈みかけたと書いてあった。
「気をつけろよ」と先頭を進みながらディックは言った。「よく確かめてから進むんだ」
「このあたりは水に浸っていたようです」とトムが言った。「最近数日は雨が降っていないのに」
「そうだな」とバットが答えた。「しかし、嵐は近いな!」
「それなら、なおさらだ」とディックは言った。「嵐の来る前に、この沼地を越す必要がある。ハーキュリーズ、ジャックさまを抱いてくれ。バット、オースティン、奥さんの両側について、支えてあげるんだ。それから、ベネディクトおじさん……ねえ、何をやっているんです?……」
「出られないよお!……」と言ったと思うと、急に足元に落とし穴でも開いたように、ずるずるともぐり始めた。泥の深みに踏み込んだらしく、下半身が泥に埋まってしまった。手をつかんで引っ張り出すと、泥まみれでようやく立ち上がったが、大事な昆虫箱が無事だったので大満足なのだった。以後はアクテオンがそばに付き添って、近視のおじさんに泥の深い場所を教える役を引き受けることになった。それに、ベネディクトおじさんは、まるで特に悪い場所を選んで落ちたようだった。引き上げた後、そこから泥の泡(あわ)が湧(わ)き出し、泡が割れると悪臭を発するガスが発散し始めた。リビングストーンは、一度ならずこの泥に胸元まで落ちたことがあり、そういう泥沼を、足で踏むとじくじく水のにじみ出る黒いスポンジに例えている。そこを通り抜けるのは、つねにきわめて危険なのだった。
一行は半マイルほど進んだ。泥はいよいよ深く、ウェルドン夫人は膝(ひざ)まで踏み込んで歩けなくなった。ハーキュリーズ、バット、オースティンの三人は、疲れはともかく不快だろうと察して、竹で乗物を作った。ウェルドン夫人も今度は快く乗ってジャックを抱いた。そして、一行はできるだけ早くそこを抜け出そうと懸命になった。
大変な苦労だった。アクテオンはベネディクトおじさんをたくましい腕で支えていた。ナンはトムに助けられなかったら、何度深みに落ちたかしれなかった。残る三人はジャックたちを乗せた乗物を担っていた。そしてディックは先頭に立って進む道を探っていた。足をおろす場所を選ぶ仕事は容易なことではなかった。深みを避け、なるべく固い草の密生しているところを選んで行かなければならなかった。それでも、何度膝まで踏み込んだかしれなかった。
五時ごろにようやく沼地を越え、地面は粘土質でやや竪くなった。しかし、なお地面には湿り気が感じられた。川に近いので、地下水が地面の下を流れているのである。
そのころ、気温が上がって猛烈に暑くなった。嵐を含んだ厚い雲が燃えるような光線をさえぎらなかったら、暑さは耐えきれないほどになっただろう。遠くで稲妻が光り始め、雷鳴が唸(うな)りだした。烈しい嵐が爆発しようとしているのだった。
この種の天候の激変はアフリカでは実に恐ろしいものである。滝のような雨、最もがっしりした樹木をも根こそぎにする突風、間断ない落雷など、自然の力が荒れ狂うのだった。ディックはそれを知っていたので、非常に不安だった。雨を避ける覆いなしで夜を過ごすことはできなかった。平らな土地は水に浸る危険があったが、高くなっている場所は見当たらなかった。この低地で――しかも一本の木もないのに――どこに嵐を避ければよいのだろうか? 土を掘り起こして積み、水を逃れようとしても不可能に違いなかった。地表下二フィートの土はたっぷり水を含んでいるからだった。
しかし、北の方に小高い丘がつづき、湿地帯はそこで終わっているように見えた。一行の立っている低湿地の端に違いなかった。地平線に湧き上がる雲のなかで、やや明るい雲をバックに、その丘には何本かの木も見えた。あそこなら、たとえ隠れる場所はなくても、洪水が起こった場合に水に浸る危険だけはなさそうだった。あそこなら、おそらく皆が助かるだろう。
「前進だ! 前進だ!」とディックは繰り返した。「あと三マイルだ。そうすれば安全だ」
「がんばれ! がんばれ!」とハーキュリーズが叫んだ。
ハーキュリーズは、まるで全員を抱き上げて運んで行きそうな勢いだった。彼のことばに励まされ、一同は疲れも忘れ、朝歩き始めたときよりももっと早く進んだ。
嵐が始まったとき、目標の丘までまだ二マイルあった。稲妻が光り始め、最も恐れていた雨はすぐには降り出さなかった。太陽は地平線に沈んではいなかったが、あたりはほとんど真っ暗になった。雲は刻一刻と低くなり、今にも地上に届くかと思われた。届いたときには篠(しの)つく雨となるに違いなかった。赤や青の稲妻が雲を縦横に切り裂き、地上を雷光の網目で包もうとするかのようだった。
一行は何回となく雷に打たれそうになった。一本の木もない平原なので、一行は落雷を引きつけやすい高い点になっているのだった。ジャックは雷鳴に目を覚まして、ハーキュリーズの腕の下に隠れた。恐ろしかったのだが、母を心配させまいとして、恐ろしさを顔に出さなかった。ハーキュリーズは大股(おおまた)に歩きながら、ジャックを慰めていた。
「恐ろしくなんかありません、ジャックさま」とハーキュリーズは繰り返して言った。「もし雷の奴が来たら、わたしが、この腕で一打ちにへし折ってやりますからな! 雷なんかより、わたしのほうがずっと強いのですから」
確かにハーキュリーズの力の強いことが、多少ジャックを安心させたようだった。だが、やがて雨が始まるだろう。降りだしたら滝のような雨に違いなかった。雨を避ける場所が見つからなかったら、一行はどうなることだろう。
ディックはトムのそばに立ち止まって言った。
「どうしよう?」
「歩きつづけるんです。ディックさん」とトムは言った。「ここにいるわけにはいきません。降り始めれば、ここはたちまち泥沼(どろぬま)になりますから」
「そうだとも、トム。そうだよ! それにしても、雨を避ける場所が! どこかないものかな? おやっ? あれは小屋かな?……」
ディックは不意にことばを止めた。きらっと光った稲妻が平原全体を照らしたときだった。
「何か見えたんだが、あのあたりに。四分の一マイルばかりのところだった……」とディックは叫んだ。
「ええ、わたしも見ました!……」とトムもうなずいた。
「キャンプじゃないかな?」
「ええ……ディックさん……キャンプに違いありません……だが、原住民のキャンプです……」
再び稲妻が輝き、広い平原の一角にあるキャンプをはっきり照らし出した。
実際、そこには、高さ十二ないし十五フィートほどの円錐形(えんすいけい)のテントが約百個ほど、きちんと並んでいた。人影はまったく見えなかった。嵐を避けて全員がテントに閉じこもっているのだろうか? それとも、見捨てられたキャンプなのだろうか? もし前の場合だったら、ディックたちは、どんな悪天候であろうと、できるだけ早くそこから遠ざからなければならなかった。もし後の場合だと、探し求めていた雨を避けるところが見つかることになるのだった。
「よし、調べて来よう!」とつぶやくと、ディックはトムに言った。
「ここにいてくれ。だれも来てはいけない。ぼくが行って調べて来る」
「せめて一人だけでも連れて行ってください」
「いけない! トム。ぼくが一人で行く。見つからないように行って来るから、待っていてくれないか」
一行が立ち止まると、稲妻の光っていない間は、一寸先も見えない暗闇(くらやみ)のなかにディックは姿を消した。
大粒の雨が落ち始めた。
「何があるの?」とウェルドン夫人はトムのそばに近寄って言った。
「キャンプが見えたんです、奥さん」とトムは答えた。「キャンプというのか……ことによると村かもしれないんで……ディックさんが、皆を連れて行く前に、確かめに行ったのです!」
ウェルドン夫人はトムの返事にうなずいた。
三分後、ディックがもどって来た。
「行くんだ! 行くんだ!」とディックはうれしそうに叫んだ。
「人のいなくなったキャンプだったんですね?」とトムが尋ねた。
「キャンプじゃないんだ、村でもない。アリ塚(づか)なんだ」
「アリ塚だって?」急に目が覚めたようにベネディクトおじさんが叫び声をあげた。
「そうなんです。しかも、高さは十二フィートくらいあるんで、そのなかにもぐり込むんです」
「とすると、白アリの巣だろうな。人間だったら最大の建築家でも作れないような、りっぱなアリ塚を作れるのは白アリしかないはずだから」
「白アリであろうとなかろうと、追い出して、はいり込まなければならないですよ」
「白アリに噛(か)まれるぞ!」
「ともかく、行きましょう、行きましょう……」
「ちょっと待ちなさい」とおじさんがまた言った。「わたしの知っている限りでは、その種の白アリがいるのは確かアフリカだけ……」
「出発だ!」おじさんの最後のことばがウェルドン夫人の耳にはいらないように、ディックは大声でどなった。
皆は大急ぎでディックの後に従った。強い風が吹き始め、大粒の雨が地面をたたいていた。間もなく耐えがたいほどの嵐となるに違いなかった。
やがて、最初のアリ塚に着いた。もし白アリを追い払うことができなかったら、どれほど恐ろしくても、白アリと同居することをためらってはいられなかった。赤みを帯びた粘土で作った円錐形(えんすいけい)の塚の根元に、ひどく狭い穴があった。すぐにハーキュリーズがナイフで、自分自身がはいれるくらいに、その穴を広げた。アリ塚に住んでいるべきはずの白アリが一匹も見当たらず、ベネディクトおじさんを驚かせた。白アリはこのアリ塚を見捨てたのだろうか?
穴が大きくなったので、ディックを先頭に順々にもぐり込んだ。最後にハーキュリーズがもぐり込んだのは、雨と風が稲妻をかき消すほど激しくなり、本格的な嵐が始まったときだった。もう嵐を恐れる必要はなかった。テントよりも原住民の家よりもはるかに堅固な隠れ家に、幸運にも一行は恵まれたからである。
小さな白アリの作ったこのアリ塚を、カメロン大尉は、エジプトのピラミッドよりもいっそう驚くべきものだと考え《ヒマラヤ山脈中の最高峰エベレストを、一国民が築いたのに等しい》と述べている。

五 白アリに関する講義

折から嵐は、温帯地方では想像もできない激しさで荒れ狂っていた。ディック・サンドの一行が避難所を見つけることができたのは、神の恵みといってさしつかえない。
雨は一滴一滴降るのではなかった。大小さまざまの太さの水流のようにつづけざまに降り、ときにはそれが束になって滝のように降り注いだ。文字どおり盆を覆(くつがえ)すような降り方だった。雨は地面を穿(うが)ち、平原は湖と変わり、小川は急流となり、水は溢(あふ)れて広い範囲を浸した。温帯の降雨は降り方が激しければ降る時間が短いのだが、アフリカではたとえ降り方が激しくても数日は降りつづけるのだった。それほどの電気と水蒸気が雲のなかにどうして貯(たくわ)えられるのか? それは理解しにくい謎である。だが、事実がそのとおりであり、それを目撃するとかつての洪水時代に生きているような錯覚を起こすほどである。
幸いなことに、アリ塚の壁は非常に厚く、内部まで水が浸透することはなかった。土を固めたビーバーの巣もこれより完全に水を防ぐことはできないだろう。急流の深さが塚の頂上までに達したとしても、一滴もその壁をしみ通ることはなさそうだった。
ディックたちはアリ塚にはいると、内部を調べ始めた。ランプを灯(とも)すと、内部は十分明るくなった。塚の内部は、高さ十二フィート直径十一フィートで、頂点は丸くなっていた。壁の厚さはほぼ一フィート前後で、幾階にも区切られていた。
アリの群がこんなものを作ったと書くと読者は驚くかもしれないが、アフリカではしばしば見られるものである。前世紀のオランダの旅行者スミートマンは四人の仲間とともに、この種のアリ塚の頂上に登った。リビングストーンはルンデで、高さ十五フィートから二十フィートくらいの赤い土のアリ塚をいくつも見ている。カメロン大尉はニアングウエの平原に立っているたくさんのアリ塚を何度となくキャンプとして利用した。また彼は、二十フィートどころか、高さ四、五十フィートで、大寺院のドームのように小さな塔のついたアリ塚も見ている。
こうした大規模なアリ塚を作るのはどういう種類のアリだろうか? 使われている物質を見て、ベネディクトおじさんはちゅうちょなくテルミット・ベリクウと言った。
今まで壁と呼んできたものは赤みを帯びた粘土でできている。もし塚が灰色か黒の沖積土(ちゅうせきど)でできていたら、おじさんはテルム・モルダクスあるいはテルム・アトロクスの作ったものと言ったに違いない。こういうふうに、この種のアリの名称は、ベネディクトおじさんのような昆虫学者以外にはあまり好かれそうな名ではない。
ディックたちが最初にはいった中央の部分は全員がはいれるほど広くはなかった。だが、その上に重なっている空洞(くうどう)は、ふつうの人間が坐っていられるくらいの大きさだった。戸棚(とだな)の引出しを全部からにし、その引出しの奥に白アリの住んでいた無数の小さな仕切りがあると想像していただきたい。そうすればアリ塚の内部構造がよく理解できると思う。そういう引出しが、軍艦の船室の吊床(つりどこ)のように積み重なっていて、いちばん上にウェルドン夫人とジャックとナンとベネディクトおじさん、次にオースティンとバットとアクテオン、いちばん下にディックとトムとハーキュリーズがはいった。
「地面に水が滲(し)み込み始めた」とディックは二人に言った。「下のほうの壁土を崩して埋めないといけない。しかし、空気の通る穴をふさがないように気をつけなければいけない。穴をふさいだら、中の人間は窒息してしまうから」
「一晩過ごすだけですよ」とトムが言った。
「しかし、落ち着いて疲れをなおすようにしよう。十日前から、露天で眠らないでいいのは今夜が初めてなんだから」
「そう、十日ですね」とトムが言った。
「それに」とディックは言った。「このアリ塚はしっかりしているから、二十四時間くらい、ここにいたほうがいいかもしれない。その間に、ぼくは探していた川がどこにあるか調べに行って来るつもりだ。それどころか、筏(いかだ)が完成するまで、ここを離れないほうがいいとさえ思う。嵐が来ても、ここなら安心だから。それはそうと、地面を補強することにしよう」
ディックの命令はすぐに実行に移された。もろい土でできていた一階の床を、ハーキュリーズが斧で崩した。その土でアリ塚の内部の地面は、たっぷり一フィートほど高くなった。地面に近い位置にある通気孔が埋まっていないのを確かめて、ディックは安心した。
白アリの見捨てたアリ塚にめぐり会えたのは幸いだった。数千匹のアリがいたら、中にはいることもできなかったに違いない。しかし、見捨てられたのは、ずっと前に見捨てられたものだろうか、それとも最近なのだろうか? それを考えてみるのもけっしてむだではないだろう。ベネディクトおじさんは、真っ先にそれを考え、見捨てられたのは最近のことだという確信を得た。
おじさんは、アリ塚の下のほうへ降りて行き、ランプの光を頼りに隅々(すみずみ)を手探りし、おじさんのことばによると白アリの《倉庫》、つまり食料を貯(たくわ)えておく場所を見つけたのだった。ハーキュリーズが幼虫の部屋といっしょに崩した女王アリの部屋の近くの壁の空洞にあったその倉庫から、ベネディクトおじさんは少量のゴムと、ほんのわずかだけ固まった樹液――それが白アリが最近運びこんだものであることを示す証拠だった――を取り出した。
「いや、確かだ」まるでだれかが反対でもしているように、おじさんは大声で言った。「確かだとも、このアリ塚は昔に見捨てられたものじゃない!」
「だれもそうじゃないなんて言っていませんよ」とディックは言った。「昔であろうと最近であろうと、今のぼくたちに重要なことは、とにかく白アリがいなくなったことですよ。おかげでここにはいることができたんですから」
「重要なことは、なぜ白アリが出て行ってしまったのかという理由だ。昨日の朝はまだここにいたはずだ。この樹液が固まっていないのがその証拠だよ。それなのに、今は……」
「だからどうだっていうんです?」とディックが言った。
「予感のようなものが、白アリにこのアリ塚を見捨てさせたに違いない。白アリが一匹も残っていないだけじゃない。アリたちは幼虫まで一つ残らず運び出してしまったじゃないか! どうだね、何度でも言うが、理由もなしにこんなことが起こるはずがない。予知能力にすぐれた白アリは、何か危険が迫っているのを感じたんだ!」
「きっとわたしたちに巣を奪われるのを予感したんですよ」と笑いながらハーキュリーズが言った。
「とんでもない」とベネディクトおじさんはハーキュリーズのことばに憤然として言った。「おまえは力持ちのようだが、自分が白アリにとって危険なものだと思っているのかね? もしおまえが死んでいたら、数千匹の白アリが、あっという間におまえを骨だけにしてしまうんだよ!」
「死んでいればそうかもしれません」と負けずにハーキュリーズも言い返した。「しかし生きていたら、わたしはいくらでも踏み殺してしまいます!」
「十万匹か、五十万匹か、百万匹くらいは踏み殺すかもしれない」とおじさんも興奮して言った。「しかし何億というアリを踏み殺すことはできまい。生きていようと死んでいようと、何億ものアリがおまえを食い尽くしてしまうさ!」
一見無意味のようでありながら必ずしも無意味とは言いきれないこの議論がつづいている間、ディックはベネディクトおじさんのことばを考え直していた。昆虫学者としてのおじさんの白アリの行動に対する判断が誤っていることはあり得なかった。白アリが不思議な直感で危険を予知し、最近このアリ塚を離れたのだとおじさんが言うなら、実際ここにとどまることは危険なはずである。
だが、嵐が猛烈に荒れ狂っている今、このアリ塚を出て行くことは問題にならなかった。それでディックは、その不思議な現象をそれ以上考えることは止(や)めて、おじさんに向かって言った。
「ところで、白アリは食料を残して行ったけれども、われわれは食料を持って来たことを思い出しましたよ。夕食にしましょう。明日になって嵐が止んだら、出発するかどうか考えることにしましょう」
さっそく夕食の用意が始まった。へとへとに疲れてはいたが、そのために食欲がなくなるということはなかった。それどころか、もう二日分の食料が食べ尽くされてしまったのである。ビスケットは湿っていなかったので、しばらくの間ビスケットを噛(か)み砕く音がつづいた。ハーキュリーズの口にはいると、ビスケットはまるで粉ひき屋の臼(うす)に穀物の粒を入れたようなものだった。ビスケットは噛み砕かれるのではなく、すりつぶされてしまうのだった。ウェルドン夫人は、またディックが頼むように勧めて、やっとわずか食べただけだった。昼食のときよりももっと心配事があるように見えた。だが、ジャックの容態はずっとよくなっていたし、熱も上がらず、今はたっぷり着込んでウェルドン夫人のそばで横になっていたのである。ディックはどう考えてよいかわからなかった。
一方、ベネディクトおじさんが食事を始めることを歓迎したのはいうまでもない。しかし、おじさんは食べるものに関心があったのではなく、白アリに関して昆虫学の講義ができるチャンスが見つかったからだった。この見捨てられたアリ塚に、たった一匹でも白アリが見つかったら、おじさんはどんなに狂喜しただろう! だが、一匹も見つからなかったのである。皆が聞いているかどうかにはおかまいなく、おじさんは説明を始めた。
「このすばらしい虫は脈翅目(みゃくしもく)に属していて、頭より触角が長く、特徴的な大顎(おおあご)があり、たいていの場合、上翅(じょうし)と下翅(かし)の大きさが等しいんだ。脈翅目はシリアゲムシ科、ウスバカゲロウ科、ヒメカゲロウ科、白アリ科、カワゲラ科の五つの科に分かれる。いうまでもないが、われわれが今その巣にはいり込んでいるのは白アリ科だ」
ディックは熱心に話を聞いていた。白アリのアリ塚を発見したことから、自分のいる場所がアフリカではないかという疑問が、ベネディクトおじさんの頭のなかに起こっていないだろうか? ディックはそれが不安だったのである。だが、おじさんは得意の絶頂で、講義をつづけていた。
「ところで、この白アリ科には脚の四つの関節、角質の大顎、非常な活動性という特徴があり……」
「このアリ塚を作ったのは、その白アリ科のなかのどんな種類のものなんです」と、ディックはおじさんの講義をさえぎって訊ねた。
「それは好戦的な性質のものだ!」と、おじさんは古代マケドニア人か、あるいはその他の勇敢な民族のことでも話すように言った。「そうだとも、好戦的なアリだ。ハーキュリーズと小人との違いだって、アリの大きいものと小さいものの違いにはかなわない。働きアリは五ミリくらい、兵隊アリは十ミリ、女王アリと王アリは二センチくらいなのがふつうだが、半インチくらいの《シラフー》というのがいるんだ。頭の大きさが身体と同じくらいで、大顎が猛烈に強くて、魚に例えてみればフカのような奴なんだ。この昆虫のなかのフカと魚のフカとが戦うとしたら、わたしはシラフーのほうに賭(か)けるくらいだ!」
「そのシラフーというのはどこにいるんです?」とディックが訊ねた。
「アフリカさ。アフリカの中部と南部だ。大体、アフリカというところがアリの国といってもいいところなんだ。スタンレーが持ち帰った、リビングストーンの最後のノートのことを話して聞かせようか。リビングストーンは実に幸運にも、黒アリと赤アリの劇的な戦いを目撃したんだ。そして、原住民がシラフーと呼ぶ赤アリが勝った。敗けたほうのチュングーという黒アリは勇敢に防戦しながら、卵や幼虫を運んで逃げて行ったという話だ。リビングストーンによれば、このシラフーの好戦的な性質は、人間にも動物にも比較するものがないくらいだということだ! どんなものでも食いちぎるそのたくましい大顎にかかっては、最も勇敢な人間だってかなわないだろう。ライオンやゾウだって、シラフーを見ると逃げ出すということだ。進んでくるシラフーを止めることは、どんなものでもできない。木には登るし、小さい川ならつながって橋を作って渡ってしまう。しかも、その数がすごい。もう一人の旅行家デュ・シャイユは、このアリの列が二十四時間の間、休みなくつづくのを見ている。それほど多くても驚くにはあたらないんだ。繁殖力がものすごいからだ。一匹の女王アリが一日に六万個の卵を生んだ例が知られている。それに、このシラフーというのは、原住民たちのおいしい食物になる。油でいためると、世界中でこれよりおいしいものはないね!」
「食べたことがあるんですか、ベネディクトさん?」とハーキュリーズが言った。
「いや、まだ食べたことはない。しかし、間もなく食べられるさ」
「どこで?」
「ここでさ」
「ここはアフリカじゃありませんよ!」と力を入れてトムが言った。
「わかっているとも……」とおじさんは言った。「現在まで、この好戦的なアリとその巣はアフリカ大陸にしか発見されなかった。うん、何人もの旅行者が来たのだが、よく調べなかったのさ! いや、そのおかげで、わたしはアメリカにツェツェバエがいるのを発見したし、そのうえ今度は、この好戦的なアリを発見したのだから! ヨーロッパの学界にセンセーションを巻き起こすことになるぞ! グラビア入り二つ折り本で……」
おじさんにほんとうのことがわかっていないのは明らかだった。ディックとトム以外は全員が自分たちが実際にいる場所でないところにいると思い込んでいるのだった。この誤解を解くには、科学的な興味よりもさらに重大な事件が起こらなければだめなのだろう!
時間は九時になっていた。ベネディクトおじさんは長い時間話しつづけたのだった。昆虫学の講義の間、聴き手が壁に寄りかかって眠り始めたのを、おじさんは気がつかなかったのだろうか? そう、気がつかなかったのである。おじさんは自分自身を相手に話していたのだった。ディックは眠ってはいなかったが、質問もせず、じっと身動きもしなかった。ハーキュリーズはだれよりも長い間がんばっていたが、ついに疲労に負けて眼を閉じてしまい、眼が閉じれば同時に何も耳にはいらなくなってしまった。ベネディクトおじさんは、それでもなおしばらく一人で演説していたが、ついに眠気に勝てず、上の階へ上がって行った。
外では激しい嵐が吹き荒れていたが、アリ塚の内部には深い静寂がおとずれた。嵐が終わりに近づいていることを示すものは何もなかった。ランプの灯は消え、アリ塚の内部は真の闇(やみ)だった。
おそらく皆が眠っていた。ディックだけは、まどろみかけながら、彼にとって実に必要な休息を得ようとしていなかった。仲間たちのこと、仲間たちを何としても救わなければならないという考えが、けっして彼の頭を離れないのだった。ピルグリム号の坐礁は苛酷(かこく)な試練の終わりではなかった。もし原住民に捕えられたら、さらに恐ろしい試練が待っているに違いなかった。
海岸に出るまでに、この最も恐ろしい危険をどうやって避ければよいのか? ハリスとネゴロは当然皆を捕える計画で海岸から百マイルも奥地へ連れ込んだはずである。だが、あの邪悪なポルトガル人は何を考えているのだろう? だれに恨みを抱いているのだろう? ディックは自分が恨まれているのだと考えて、ピルグリム号で起こったさまざまな事件を思い出していた。難破船と黒人たちに会ったこと、クジラ、ハル船長と乗員の死!
ディック・サンドは十五歳で一隻の船を指揮する責任を負わなければならなくなったのだった。そして、やがてその船は、ネゴロの手によって羅針儀も測程儀もこわされてしまうのである。無礼なネゴロに向かって船長としての権威を示し、命令に従わなければ鉄鎖でつなぐかピストルで頭を撃ち抜くぞと脅(おど)したことを思い出した。ああ、あのときなぜ彼の手はためらったのだろう! ネゴロを殺していたら、その後のたくさんの事件は起こらなかったのに!
少年船長の考えつづけたのはこういうことだった。それから彼の考えはピルグリム号の航海を終わらせた難破のことに移った。あのときハリスが姿を現わし、それとともに南アメリカと思っていた土地が次第に違いをはっきりさせ始めたのだった。ボリビアが恐ろしいアンゴラに変わったのだった。その熱病の風土、猛獣、猛獣よりもさらに残酷な原住民――それを一行は海岸に到着するまで、避けることができるだろうか? 探している川は、果たして一行を安全に疲れさせずに海岸まで運んでくれるだろうか? ディックはつぶやいた。
「幸いだれも事態の重要さを知らない。ネゴロによってアフリカの海岸に投げ出され、ハリスによって奥地へ連れ込まれたことを、トムとぼくだけが知っているんだ!」
そう考えると、ディックは、重い責任が彼の肩にかかっているのを感じた。そのとき、かすかな息が彼の額に触れた。彼の肩に手を当て、心をこめた声が耳元にささやいた。
「わたしはすっかり知っているのよ、ディック。でも、神様がきっとわたしたちを助けてくださるわ! 御心(みこころ)の行なわれんことを!」

六 釣鐘型潜函(つりがねがたせんかん)

思いがけないことばに、ディックは返事もできなかった。それにウェルドン夫人はすぐにジャックのそばにもどってしまっていた。ウェルドン夫人はそれ以上話すつもりはなかったし、ディックも引き止める勇気はなかった。
ウェルドン夫人も気づいていたのだった。途中のいくつかの事件から思いついたのだった。前夜ベネディクトおじさんが口に出した《アフリカ……》ということばも、ウェルドン夫人が考え当てるのに役立っていたことだろう。
「奥さんは全部知っている」とディックは繰り返しつぶやいた。「そうだ、そのほうがいい! あの勇気のある奥さんはけっして絶望することはないだろう! ぼくも絶望しないぞ!」
ディックは朝になって付近を探検するのが待ちどおしくなった。一行を運んでくれる川を探さねばならないのだった。川が遠くないところにあるという予感のようなものを彼は感じていた。原住民と出会うことは絶対に避けなければならなかった。特にハリスやネゴロに命令されて一行を探しているかもしれない原住民とはなおさら出会うのは危険だった。
だが、夜明けにはまだ間があった。アリ塚のなかには、外部からの光はまったく射し込まない。壁が厚いためにごろごろ唸(うな)るように聞こえるのは、嵐がまだ止まない証拠だった。さらに耳を澄ませると、雨が激しく降り注ぐ音が聞こえたが、固い地面をたたく音がもう聞こえないのは、アリ塚のまわりが完全に水に浸ったからだと思われた。
やっと十一時になったころだろう。ディックは眠気に襲われ、うとうとしかけた。だが、眠りに落ちる直前、ふと壁土が湿れば細かい通気孔がふさがるのではないかという考えがひらめいた。換気が行なわれなくなったら、十人の人間の呼吸により、内部の空気はたちまち炭酸ガスで満たされてしまう。
ディックは、一階の床を崩して盛り上げた地面へ滑り下りた。土はまだ乾いていて、気孔から通気は十分に行なわれていた。そのうえ、気孔から稲妻の光がかすかに射し込み、激しい雨の音にもかき消されない雷鳴が聞こえていた。ディックは、さし迫った危険がなく、すべて安全なのを確かめた。ディックはようやく数時間眠ることにした。しかし、ディックはなお慎重に、通気孔に近い盛り上げた土の上で眠ることにした。そうしていれば、アリ塚の外に変わったことが起こっても第一番にわかるし、日が登れば目が覚めて付近を調べに行けるからだった。銃を握ったまま壁によりかかると、すぐに眠り込んだ。
どのくらいの時間眠ったかわからなかったが、ふと冷たい感じがして目が覚めた。起き上がって調べると、水がアリ塚の内部に浸入していて、どんどん水面が上がっているので数秒後にはトムとハーキュリーズのいるところまでとどきそうだった。
トムとハーキュリーズは、ディックに揺り起こされ説明を聞くと、すぐに事態を理解した。さっそくランプが灯(とも)された。水は五フィートの深さまで上がると、それ以上ふえなくなった。
「どうしたの? ディック」とウェルドン夫人が言った。
「なんでもありません」とディックは答えた。「下のほうが水につかったのです。嵐のために、近くの川が溢(あふ)れてこの平原に流れ出したのでしょう」
「そうです! 川が近くにあるって証拠です!」とハーキュリーズは言った。
「そうです」とディックは言った。「きっとその川がぼくたちを海岸まで運んでくれます。安心してください、奥さん、水は奥さんやジャックさまのところへまでは行きませんから」
ウェルドン夫人は答えなかった。ベネディクトおじさんはぐっすり眠っているようだった。黒人たちは目を覚まし、ランプの光の映っている水面を見下ろしながら、ディックが命令を下すのを待っていた。ディックは食料と銃などを水のとどかない場所へ上げると、じっと黙っていた。
「水は通気孔からはいったんでしょうかな?」とトムが言った。
「そうだ」とディックは言った。「だから、新鮮な空気がもうはいって来ないことになる」
「水面より上のところに、壁に孔(あな)を開けましょうか?」とトムが尋ねた。
「それがいいな……トム。しかし、アリ塚の内部に水が五フィートあれば、外には多分六フィートか七フィート……あるいはもっとあるかもしれない……」
「どうなるでしょうか、ディックさん」
「トム、ぼくはこう考えるんだ。五フィートの高さまで上がった水は、なかの空気を上に押し上げているはずだ。そして、その空気が、これ以上水が上がらないように抑えているんだと思う。だから、もし壁に孔を開けて、そこから空気が抜けたら、水面は外と同じ高さまで上がるか、あるいは、もし水がその孔を越えたら、そこでまたなかの空気が抑える高さまで水は上がるに違いない。ぼくたちは釣鐘型潜函(つりがねがたせんかん)のなかにいるのと同じなんだ」
「すると、どうすればいいんで?」とトムは尋ねた。
「よく考えてから行動しないといけない。軽率なことをしたら生命にかかわる!」
ディックの考え方は正しかったのである。アリ塚を釣鐘型潜函にたとえたのも当を得たことだった。ただ、潜函の場合、空気は絶えずポンプで換気されているから、なかの人間は呼吸に不自由はなく、常態よりも圧縮された空気中に長時間いることから起こる障害以外はない。
だが今の場合、その障害のほかに、内部の空間の三分の一がすでに水に占められていて、空気を新しくするためには壁に孔を開ける以外にないのである。しかし、ディックが前に説明したような危険を冒しても、孔を開けてよいものだろうか? 事態は重大なものとならないだろうか?
確かなことは、次の二つの場合に水面が今より高くなるということだった。すなわち、孔を開けた場合、その孔が外部の水面より低かった場合と、このままでさらに水が増加した場合である。いずれの場合も、内部の空気は新しくされることなく、狭い空間に圧縮されることになる。
また、アリ塚全体が水のために押し倒されるようなことはないか? 万一そうなれば、中の人間には最も危険な事態となる。だが、地面にしっかり固定されていれば、ビーバーの巣と同様で、倒れることはないだろう。
となると、最も恐ろしいのは、嵐がどのくらいつづくか、つまり水がどこまで増すかだった。外部の水深が三十フィートに達したら、アリ塚は完全に水面下に沈み、内部の空気は圧縮される。
だが、さらに考えると、外部の水の量が非常に多いことはないのではないかと、ディックは考えた。この嵐で降った雨量だけで平原が水浸しになるはずはなかった。近くの川が雨のために水かさを増し、両岸の土手を破って下流の平原に氾濫(はんらん)したと考えたほうがよさそうだった。とすると、アリ塚全体が水に浸っていないかどうか、アリ塚の先端を破って逃げることがまだできるかどうか、保証するものはないのだった。ディックは不安になって、どうすべきかを考えつづけた。待つべきか、それとも状況を確かめた上で、思いきった方法に出るべきか?
時刻は午前三時。一同はじっと身動きもせず沈黙しつづけた。外のもの音はかすかに聞こえて来るだけだった。だが、鈍い唸(うな)りが絶え間なく響き、それが嵐の止んでいないことをはっきり示していた。そのとき、トムが、水面が徐々に上がりつつあることに気づいた。
「うん」とディックは答えた。「空気が外に抜けないのに水面が上がっているとしたら、水かさが増し、なかの空気を少しずつ圧縮しているということだ!」
「今のところ、たいしたことはありません」とトムは言った。
「そうかもしれない」とディックは答えた。「しかし、どこで止まるだろう?」
「ディックさん、わたしが外に出てみましょうか?」とバットが言った。「潜って孔から出られると思います……」
「いや、ぼくがやる」とディックは答えた。
「いいえ、ディックさん」とトムが強く言った。「息子にやらせてください。この子の能力を信頼してだいじょうぶです。万一この子が帰って来られなくなったとき、あなたにどうしてもここにいていただきたいので!」
それから、声を低くして、
「ウェルドン夫人とジャックさまのことを、お忘れにならないように」
「わかった」とディックは言った。「バット、行ってくれ。もしアリ塚が水中に沈んでいたら、もどって来なくていい。ぼくたちも、おまえと同じようにして外に出るから。だが、まだ水面に出ていたら、斧(おの)を持って行って、その斧でアリ塚の先端をたたいてくれないか。もしその音が聞こえたら、先端を打ち破ることにする。わかったね?」
「わかりました」とバットは答えた。
「じゃあ、行け」とトムは言って、息子の手を握りしめた。
バットは大きく息を吸い込むと、すでに五フィートを越えた水中に潜って行った。実に困難な任務だった。出口を探し、そこをくぐり抜けて、外の水面に浮かび上がるのである。潜っていられる時間は限られている。三十秒ほど過ぎた。バットは外に出るのに成功したな、とディックは思った。そのとき、バットの顔がぽっかり浮き上がった。
「どうだった」とディックは大声で言った。
「孔はふさがっていました!」と呼吸がもとにもどってからバットが言った。
「ふさがっていたか!」とトムが言った。
「そうだよ」とバットは答えた。「水が土を溶かしたんだと思う……手探りしてみたけれど……孔は見つからなかった!」
ディックはうなずいた。彼らはおそらく水面下に没したアリ塚のなかに固く閉じ込められてしまったのである。
「孔がなかったら、作ればいいさ!」とハーキュリーズが言って、斧を持って立ち上がろうとした。
「待て」とディックは言うと、少し考えてから話した。
「そういうやり方はまずい。問題はこのアリ塚の上まで水がきているかどうかを知ることだ。先端に小さな孔を開ければ、外のぐあいがはっきりわかるだろう。だが、その場合、もし水が上まで来ていたら、内部は水浸しになって、ぼくたちは助からないことになる。だから、少しずつ調べていかなければだめだ……」
「しかも、急がなければ……」とトムが言った。
事実、水面は少しずつ上がりつづけ、深さは六フィートに達していた。上の段にいるウェルドン夫人とジャックとベネディクトおじさんとナン以外は、もう腰まで水に浸っていた。だから、トムの言うとおり急がなければならなかった。
ディックがまず孔を開けることに決めたのは、水面の一フィート上、つまり底から七フィートのところだった。その高さまで外部の水が達していなかったら、内部の空気が外と流通できる。しかし、逆に外部の水がその高さ以上に達していたら、内部の水面はその孔(あな)の高さまで上がってしまうから、急いで孔をふさがなければならない。そして、もう一フィート上を試す、ということを繰り返すのである。だが、そうして調べていって、アリ塚の先端でも外部の空気に触れなかったら、水は十五フィート以上に達し、平原にあるアリ塚の群が水中に没したことになる! そうなると、徐々に窒息死するという恐ろしい最期が残されているだけになる!
ディックはそういうことをすべて考慮していた。だが、一瞬も冷静さを失わなかった。調べようとすることの結果を、彼ははっきりと計算していた。だが、もう待つことはできないのだった。狭いアリ塚の内部は、すでに炭酸ガスがかなりふえ、窒息の危険は刻々に大きくなっているのである。
孔を開けるのにディックが使った道具は、先端に螺旋(らせん)のついている、銃身の掃除に使う槊杖(さくじょう)だった。その棒を回しながら押すと、穿孔機(せんこうき)のように少しずつ壁に孔が開いていった。孔は、その棒の直径以上の広さは必要なく、またそれで十分だった。空気は通えるはずだった。
ハーキュリーズはランプでディックの手元を照らした。一分後、棒は壁を突き抜けた。すぐに、水の中を泡が上がってくるような音がした。内部の空気が抜けた音で、同時にアリ塚の内部の水が上がり始め、孔の高さで止まった。孔の位置が低すぎた――つまり、外部の水面より下だった――のである。
「やり直しだ!」と落ち着いてディックは言い、急いで孔に土を詰めた。
水面は再び静止して上がらなくなったが、残された空間は八インチ以上少なくなっていた。酸素が不足し始め、呼吸が苦しくなっていた。ランプの火も赤っぽくなり、よく燃えなかった。
ディックはすぐに、前の孔の一フィート上に孔を開け始めていた。これがまた失敗だとすると、水はさらに深くなるわけだった。……だが、その危険を恐れてばかりはいられなかった。孔があき、ディックは棒を引き抜いた。空気の抜ける音がして、水面はさらに一フィート上がった……孔は再び水面下だったのである。
事態は恐ろしいものになった、水はウェルドン夫人のところにまで上がり、夫人はジャックを抱き上げた。呼吸が苦しくなり、耳鳴りが始まった。ランプの火も今にも消えそうだった。
「完全に水中に沈んだのだろうか」とディックはつぶやいた。
なんとしてもそれを確かめなければならなかった。そして、そのためには第三の孔を塚の先端近くに開けなければならなかった。だが、それが失敗に終わったら、窒息死である。残った空気がその三番めの孔から抜けて行き、水がアリ塚にいっぱいになるからである。
「奥さん」とディックは言った。「今の状態をわかっていただけるでしょう。じっとしていたら空気がなくなります。しかし、今度の孔がまた水面より下だったら、なかは水でいっぱいになります。ぼくたちが生き伸びられるチャンスはただ一つ、このアリ塚の先端が水面の上に出ているかどうかにかかっています。それでも、この三回めの試みをやってみなければならないんです。いいですね?」
「おやりなさい、ディック!」とウェルドン夫人は答えた。
そのとき、ランプがふっと消えた。アリ塚の内部は完全の暗黒となった。ディックは水面に首だけ出しているハーキュリーズの肩にまたがった。ウェルドン夫人、ジャック、ベネディクトおじさんの三人は一番上の階に身体を寄せ合っていた。
ディックは槊杖(さくじょう)を突き立てた。アリ塚の先端は壁が厚く固く、孔を開けるのは今までよりもむずかしかった。ディックは急いだ。その小さな孔からはいって来るのは、空気すなわち生命か、水すなわち死か?
突然、シュッという鋭い音が聞こえた。圧縮されていた空気が抜けたのだ……そして、一条の光が射し込んだ。水は八インチ上がっただけで、孔に栓(せん)をしないでも止まった。内部と外部の水の均衡がとれたのである。アリ塚は水面の上に突き出ていたのだ! 一行の生命は救われた!
急に喜びの叫びが上がり、アリ塚の先端を短い剣を使って突き崩す作業が勢いよく始められた。土は少しずつ崩れて孔が広がり、澄んだ空気が朝日の光とともに流れ込んだ。孔が広がれば、上に登るのは簡単だし、あたり一面の水を避けてどの方向に行くべきかを考えることもできるはずだった。
ディックが最初に顔を出した……。
ヒュッという音がした。アフリカに行ったことのある人ならよく知っている、矢の飛ぶ音だった。
彼らのいるアリ塚から百歩ほどのところに原住民の野営地、十歩ほどの水の上に原住民の乗った小舟があることを、ディックは一瞬のうちに見てとった。ディックが顔を出したとき、矢が飛んで来たのは、その小舟からだった。
ディックはすぐに一同に見たことを話した。それから、銃をとって、ハーキュリーズ、アクテオン、バットとともに穴から頭を出し、小舟に向かって銃撃を加えた。
数人の原住民が倒れ、叫び声と銃声が答えた。その後は、四方から押し寄せる百人以上の原住民を相手にして、ディックたちに何ができただろう!
全員がアリ塚から乱暴に引きずり出され、別れのことばを交わす間もなく、あらかじめ決めてあったらしく、二組に分けられて小舟に押し込まれた。
一つの小舟はウェルドン夫人、ジャック、ベネディクトおじさんを乗せて野営地のほうへ行った。ディック、ナン、トム、ハーキュリーズ、バット、アクテオン、オースティンは、もう一つのカヌーに投げ込まれ、別の方向へ連れて行かれた。
そのカヌーには原住民が二十人ほど乗り込み、五隻のカヌーが後に従っていた。抵抗することは不可能と思われたが、ディックたちは抵抗を試み、何人かの原住民を負傷させた。抵抗したからには殺されて当然だったが、命令が出されていたのだろう、彼らは殺されずにすんだ。
数分間でカヌーは目的地に着いた。カヌーが岸に着こうとする瞬間、ハーキュリーズが岸に飛び上がった。原住民が二人で押さえつけようとしたが、ハーキュリーズは銃を棒のように軽々と振り回し、二人は首の骨を折って倒れた。そして次の瞬間、ハーキュリーズは銃弾の雨のなかを森のなかに姿を消した。残ったディックたちは地面へころがされ、奴隷と同様に足に鎖をつけられた。

七 コアンザ川の野営地

嵐の去った後、あたりの景色はすっかり変わっていた。平原にたまった水のなかから、二十個ほどのアリ塚が先端をのぞかせていた、嵐によって水かさの増した支流の水を集めたコアンザ川が、夜の間に氾濫したのだった。
このコアンザ川は、ピルグリム号が難破した場所から約百マイルほど離れたところで大西洋に流れ込んでいる。この物語の起こった時から数年後に、カメロン大尉がベンゲラにたどりつく前に渡るのが、このコアンザ川である。このコアンザ川は、付近のポルトガル植民地の内陸交通路となるのであり、この時すでに下流へは汽船がはいって来ていたし、十年たたないうちに上流まで汽船が通うようになるのである。だからディックが川を求めて北へ向かって進んだのは正しかった。彼がその流れに沿って歩いた小さい川は、まさにコアンザ川に注いでいたのである。原住民に襲われることさえなかったら、一マイル先でコアンザ川に出会い、筏(いかだ)を作ってコアンザ川を下り、汽船の寄港するオランダ人の部落に着いていたことだろう。だが、不幸にも、そうならなかったのである。
ディックがちらりと見た野営地は、彼らが閉じ込められたアリ塚の近くの丘の上にあった。その丘の頂上には、大きなイチジクの木があり、その木陰には五百人くらいの人間が楽にはいることができそうだった。中央アフリカのこの巨木を見たことのないものには、想像もつかないことだろう。その伸びた枝は森のようで、そのなかにはいったら道に迷いそうなほどだった。
この巨木の木陰に、一隊――ハリスがネゴロに話したものだった――が休んでいたのである。それは、奴隷商人アルベスの配下のものにそれぞれの村から無理矢理に連れて来られた多数の原住民たちで、カゾンデの奴隷市場に向かって進んでいるところだった。奴隷たちはカゾンデから必要に応じて、西海岸の奴隷留置場に送られたり、ニアングウエを経て湖水地帯へ送られ、そこからさらに高地エジプトやザンジバールに分けられるのである。
野営地に着くと、すぐにディックたちは奴隷として扱われた。トム、バット、オースティン、アクテオン、ナンの五人はアフリカ生まれではなかったが、黒人の子孫であったため、原住民の捕虜と同じ取り扱いを受けた。六、七フィートの鉄の棒の両端が二股(ふたまた)に分かれ、その二股を鉄の短い棒で閉じる首かせに、二人ずつ首をはさみつけられた。こうしておくと、奴隷たちは、右へ行ったり左へ行ったりせず、縦に並んで歩かざるを得ないのである。さらにその上に、重い鉄の鎖で腰をつながれた。手や足は自由に動かせるといっても、手には荷物を持たされ、足はただ歩くだけで、逃げるのに使うことなど思いもよらないのだった。ディックたちはこういう姿で、奴隷商人隊の伍長の鞭(むち)に追われながら数百マイルを越えて行かねばならないのである! 抵抗した仕返しに二人ずつ鉄の棒の両端に固定され、もう自由な動きはまったくできなかった。なぜハーキュリーズを追って逃げなかったのかが残念だった! しかし、逃げたハーキュリーズに望みをかけることもどうしてできるだろう! 飢えと孤独と猛獣と原住民のすべてと戦わねばならないこの土地で、あの力持ちのハーキュリーズはどうなるだろう? 彼のほうこそ、仲間たちといっしょにいなかったことを残念がるようになるのではあるまいか? しかし、捕えられたディックたちに対しては、恐ろしい目と態度のアラビア人やポルトガル人の監督はいささかでも憐れみなどかけようとはしないのだった。
ディックは首かせはかけられなかった。さすがに白人に対しては黒人と同じ扱いはできなかったのだろう。手も足もしばられなかった代わりに、監視を一人つけられた。ディックはネゴロかハリスが出て来はしないかと、野営地から目を離さなかった。だが、ディックの期待は裏切られた。が、アリ塚を襲わせたのは二人の企(たくら)みに違いないと、ディックは固く信じていた。
それにまた、ウェルドン夫人、ジャック、ベネディクトおじさんの三人が、彼らとは別に連れて行かれたのも、ネゴロかハリスの命令だとディックは思っていた。二人の姿が見えないので、彼らが三人をどこかに連れて行っているに違いないと、ディックは考えた。どこに連れて行くのか? 三人をどうしようというのか? それを考えるとディックの胸は張り裂けるように痛み、ウェルドン夫人たちのことを考えると、自分自身の苦境なども忘れてしまうほどだった。
奴隷売買に従事するヨーロッパ人――ほとんどポルトガル人である――というのは、罪を犯したことのある人間か、脱獄囚か、首吊(くびつ)りをまぬがれた昔の奴隷商人など、要するに人間社会のくずに等しいならず者たちだった。ネゴロやハリスもそういう人間であり、アフリカ中部の最大の奴隷商人である有名なホセ=アントニオ・アルベスの手下となっているのだった。
奴隷を見張っている兵士は、多くの場合、雇われた原住民だった。だが、こうした兵士だけが奴隷を捕えるのではなかった。黒人の王たちが互いに奴隷商人のために烈しい戦いをするのだった。戦いに敗けた黒人たちは、大人も子どもも奴隷として奴隷商人に売られるのだった。その値段というのが、数ヤードのキャラコか、火薬か、銃か、赤やピンクのガラス玉であり、リビングストーンの書いているものによれば、飢饉(ききん)のときには、幾粒かのトウモロコシと交換されることもあったということである。アルベスの奴隷部隊を護送している兵士が、まさにそういう原住民たちだった。ほとんど裸体のこの兵士たちに、それに劣らず盗賊のような掠奪隊が加わっているので、隊長たちの仕事は多かった。命令を下し、休息の時間と場所を守らせなければならない。命令に従わない場合にはジャングルのなかに置いて行くと言って脅(おど)したり、あるいは兵士たちの要求に譲歩せざるを得ない場合も稀(まれ)ではなかった。
奴隷たちは男も女も荷物をかつがせられるが、別にかなりな数の《運搬人》が同行する。その運搬人は特にパガジと呼ばれ、高価な荷物――特に象牙――を運ぶのである。象牙のなかには重さが六十ポンドにも達するものもあり、二人で担がなければならないものもあった。貴重な商品である象牙はハルツーム、ザンジバール、ナタールの市場へ送られるのである。目的地に着くと、パガジたちは一定の報酬を支払われる。それは二十ヤードほどの綿織物、あるいは《メリカニ》と呼ばれる綿布、少量の火薬、一握りの貝の貨幣、幾粒かの真珠など、奴隷商人が現金を持っていない場合は何人かの奴隷で支払われることもあるが、それは売れゆきはよくない。
五百人ほどの奴隷のなかには老人の姿は見えなかった。それは、掠奪が行なわれ村が焼かれたとき、四十歳以上の者は容赦なく殺され、あるいは木に吊(つ)り下げられてしまったからである。四十歳以下の大人と子どもだけが市場に出される。こういう人狩りの後に生き残り得るのはかろうじて十分の一くらいである。赤道付近のアフリカの広大な地域が砂漠と化してゆくのは、この恐るべき人口の激減が原因である。
このあたりでは、大人も子どももほとんど裸で、《ムブズー》と呼ばれている木の樹皮からとれる粗末な布をつけているだけである。身体中に鞭(むち)で打たれた跡のある女たち、やせ細って血だらけの足の子どもたち、その子どもたちを負わされた荷のほかに担ごうとする母親たち、鎖よりもさらに苛酷(かこく)な首かせをはめられた男たち――これ以上に悲惨な行列があり得るだろうか? 声もたてず、ほとんど生きているともいえないような哀れな姿――リビングストーンの表現に従えば《漆黒の骸骨》である――は、荒々しい野獣にさえ哀れみの心を起こさせるに違いない。だが、カメロン大尉のことばを信ずるなら、奴隷売買に従事するアラビア人やポルトガル人は、これほどの悲惨さをまったく感じていないのだった。
〔(原注)カメロン大尉は次のように述べている。「アルベスは五十人の女奴隷を手に入れるために、原住民の村を十個破壊する。各々の村には百ないし二百の人間がいるから、村民は総計ほぼ千五百人である。そのうち、あるものは逃げることができるが、大部分――ほとんどすべて――は、村とともに焼き殺されるか、家族から引き離されて死ぬか、ジャングルのなかで飢えのために死ぬ。さもなければ、猛獣が苦しみを早く終わらせてくれる」……「ポルトガルの国籍を有し、キリスト教徒を自認する人間によって、アフリカの奥地で行なわれている犯罪は、文明国に住む人々には信じられないものと映るだろう。ポルトガル国旗を掲げ、ポルトガル人であることを誇っている人間の犯す残虐行為が、リスボンにある政府の耳に届くことはむずかしいのである」(「世界一周」より)〕
捕えられた者が、前進中も休息中も、厳しく監視されていたことはいうまでもない。ディック・サンドは、間もなく、逃げようとしないほうがいいと覚(さと)った。だが、そうなると、どうやってウェルドン夫人を探せばいいのだろう? 夫人たちがネゴロに連れ去られたことは明白だった。ネゴロがなぜ夫人たちとディックたちとを分けたのか、まだディックには理由がわからなかった。だが、ネゴロが何かを企(たくら)んでいることは、ディックには疑問の余地はなかったし、夫人たちにどんな危険が待っているかと思うと、ディックの胸は張り裂けそうになるのだった。
「どうして二人とも撃ち殺してしまわなかったのだろう」とディックは繰り返し考えた。ハリスとネゴロを殺さなかったというのは、なんという残念なことだろう! また、彼らを殺していたら、奴隷たちにとっても不幸は起こらなかったのではないだろうか。ウェルドン夫人とジャックがどんな恐ろしい経験をしているか、ディックはありありと想像できた。ベネディクトおじさんを頼りにすることはできまい。多分、何の役にも立たないだろうから。おそらく三人をアンゴラのなかの、もっと離れた場所に連れて行くのではないだろうか? それにしても、あの病気にかかったジャックをだれが運んで行っているのだろう? 「奥さんだ! そうだ、奥さんだ!」とディックはつぶやいた。「あの奥さんは、ジャックのためだったら全力を尽くすだろう。あの奴隷の母親たちがしたと同じことをするに決まっている。そして、ああ、あの哀れな母親たちと同じように、最後には倒れてしまうのだろうか? 神様! どうかぼくを三人のところへ連れて行ってください……」
だが、ディックは捕えられているのだった! 奴隷商人たちがアフリカの奥地に向けて追い進めて行く動物のなかの一頭でしかないのだった! ネゴロとハリスが、この行列のどこにいるのかさえ知らないのだ! ネゴロが近くにいれば吠えて合図をしてくれるディンゴももういない。不幸なウェルドン夫人を助けることのできるのは、たった一人ハーキュリーズだけなのだが、そのわずかな希望がかなえられるだろうか?
ディックはハーキュリーズのことを考えた。あの力持ちのハーキュリーズは自由なのだ。ハーキュリーズが忠実であることは疑いようもない! ウェルドン夫人のためにしなければならないことだったら、ハーキュリーズはできる限りのことをするだろう。そうだ! ハーキュリーズはウェルドン夫人たちの後を追い、なんとかして助け出そうとするだろう。だが、もし夫人たちの行方がわからないときは、ディックと相談をしに来るだろう、つまり、あの強い力を発揮して助け出そうとするだろう! 夜、たくさんの黒人たちのなかにまぎれ込んで、監視の目をごまかし、ディックのところまで忍び寄り、綱を解いてジャングルのなかへ連れて行ってくれるだろう! 二人が自由になれば、ウェルドン夫人たちを救うために、どんなことでもするだろう! そして、困難はあるだろうがなんとかして川を下って海岸に出よう!
こうしてディックは、不安と希望を繰り返していた。そして、もって生まれた強い意志によって絶望に耐え、わずかな隙(すき)でもあれば逃げようと準備を怠らなかった。
第一に知らなければならないのは、どこに向かって進んでいるかだった。アンゴラのどこかの奴隷市場なのか、それともアフリカの中央部をまだ数百マイル歩くことになるのか? アフリカ最大の奴隷市場はニアングウエにあり、そのニアングウエを通る子午線(しごせん)はアフリカ大陸をほぼ等しく二分する。したがって、コアンザ川の野営地からニアングウエまでは数か月かかることになる。
ディックの最も恐れたのはその点だった。ニアングウエまで行ってしまったら、ウェルドン夫人たちやディック自身や他の黒人たちが逃げることができたとしても、危険に満ちた海岸までの長い道のりを踏破することは、不可能とはいわぬまでも、どれほど困難なことかしれないのである!
だが、ディックは間もなく目的地を知ることができた。奴隷商人の監督たちの使うことばはアラビア語であったりアフリカ各地のことばであったりして理解できなかったが、付近の重要な奴隷市場の名が何回も話に出るのに気づいたからだった。それはカゾンデで、そこで大規模な奴隷売買が行なわれることをディックは知っていた。奴隷たちの運命は、そのカゾンデで、その地方の王様か、あるいは金をもった奴隷商人の手にゆだねられることになるのだろう。
近代的な地理の知識を身につけていたディックは、カゾンデの位置を正確に知っていた。ルアンダとカゾンデの距離は四百マイル以下であり、したがってコアンザ川の野営地からカゾンデまでは約二百五十マイルである。ハリスに案内されて歩いた日数と距離から計算してみると、ふつうなら二百五十マイルを行くのに十日から十二日かかると思われるが、弱りきった奴隷の長い列が進むのだから、その二倍の日数はかかるだろう。とすると、ほぼ三週間と考えられる。この結論を、ディックはトムたちにも伝えたいと思った。逃げ出すこともできないアフリカの中央部へ連れて行かれるのではないと知ったら、彼らの心もいくぶんか軽くなるに違いなかった。すれ違ったときにでも、短いことばで伝えれば十分だった。
トムとバット、アクテオンとオースティンは一組の首かせにはめられて野営地の端にいて、伍長が一人と十二人ほどの兵士が監視していた。ディックは自由に動くことができたので、彼らとの間の約五十歩ほどの距離を目立たないように近づき始めた。さすがにトムはディックの意図を見抜いた。トムは仲間に小声で知らせ、四人は動くことはできなかったが、注意深くディックを見守っていた。
間もなくディックは、そ知らぬ顔で五十歩近く歩いて行った。そこからだったら、目的地がカゾンデであること、到着までに三週間かかることなどを大声で叫んだら十分聞こえた、だが、そのことを教えるだけでなく、歩いている間の行動についても話したかった。ディックの鼓動は早まり、あと数歩のところに着いた。そのとき、伍長がディックに気づいた。伍長の気の狂ったような叫び声で兵士が走って来て乱暴にディックを引き戻し、トムたちは野営地の反対側の端に引きずられて行ってしまった。
ディックは猛然と伍長に飛びつき、銃を奪いかけたが、七、八人の兵士に一度に襲いかかられて銃をもぎ取られてしまった。腹を立てた兵士たちはディックを今にも殺そうとしたが、恐ろしい顔のアラビア人の監督が走って来て兵士たちを止めた。このアラビア人こそハリスが話していたイブン・ハミスだった。彼がディックには理解できないことばで何か言うと、兵士たちはすぐにディックを放して離れて行った。
ディックとトムたちに話をさせてはならないこと、ディックを殺してはならないことを、命ぜられているのは明らかだった。ハリスかネゴロ以外に、こういう命令を出す人間は考えられなかった。
そのとき――四月十九日午前九時――しゃがれた角笛が響き、太鼓が打ち鳴らされた。休息の時間は終わったのだった。
監督も兵士も運搬人も奴隷も、すぐに立ち上がった。明るい色の旗を振る伍長たちの指示によって奴隷たちはいくつものグループに分けられた。
出発の合図が出される。歌声が上がった。奴隷たちが歌っているのだった。彼らを苦しめる者たちへの、奴隷たちの心からほとばしり出た怒りの歌だった。「おまえたちはおれたちを海岸へ連れて行く。死んでしまえばもう首かせをかけられることもない。そうしたら、おまえたちを殺しに行こう!」

八 ディックのノート

前夜の嵐は止んだが、まだ天気は回復していなかった。それに、折から《マジカ》と呼ばれる二度めの雨期だった。二、三週間つづけて、夜になると雨が降り、それが彼らの歩みをさらに困難にしていた。
曇り空の下を出発し、コアンザ川の岸を離れると、まっすぐ東に向かって進んだ。
五十人ほどの兵士が先頭を進み、その後を二列になって奴隷が歩き、その両側を百人ほどの兵士が守り、残った兵士は後衛を務めていた。奴隷たちは、たとえつながれていなくても、逃走することはむずかしかっただろう。男も女も子どもも入りまざって歩き、伍長が鞭(むち)を鳴らせて足を急がせていた。一方の手で抱いた子に乳を与えながら、もう一方の手で子どもの手を引いている哀れな母親がいた。着るものもなく、とがった草の上を裸足(はだし)で歩いている何人かの子どもたちを引きずるようにして歩いている母親も多かった。
総監督のイブン・ハミスは前へ行ったり後へ行ったりしながら、行列全体を見張っていた。彼は奴隷の悲惨な境遇には少しも同情していなかったが、食料の追加を要求する兵士たちや、すぐに休みたがる運搬人たちと折衝していなければならなかった。そのため絶えず口論が行なわれ、ときには暴力沙汰(ぼうりょくざた)となり、奴隷たちは腹を立てた兵士たちのとばっちりを受けるのだった。
トムたちはいつも行列の前のほうを歩かされ、ディックと連絡をとることはできなかった。奴隷たちの受ける鞭は、彼らにも容赦なく加えられていた。バットはよい道を選んで歩き、同じ首かせにつながれている年とった父親に少しでも痛みを与えないようにしていた。伍長が遠くにいるとき、バットは父をはげますことばを言い、それはトムには聞こえていた。トムが疲れたらしいと感じると、バットはできるだけ歩き方を遅くするようにした。振り返って父の顔を見られないのがバットにとって何よりもつらいことだった。トムは愛する息子を見ることができて満足だったろうが、その代わりにバットが鞭で打たれるのを見るときは自分自身が打たれるように苦しい思いをするのだった。オースティンとアクテオンは、二人のすぐ後を歩き、絶えず鞭を浴びせられていた。彼らはハーキュリーズをどれほどうらやましく思ったことだろう! ジャングルのなかにどれほど危険があろうと、少なくとも自分の力で自分の命を守ることができるのである。
捕えられて間もなく、トムは、仲間に自分たちのいるのがアフリカであること、ネゴロとハリスに欺かれて奥地に迷い込まされ捕えられてしまったことなど、彼の知っている事実をすべて話して聞かせていた。
ナンも同様に苦しい経験をしていた。行列の中央あたりを歩く女たちのなかに入れられ、赤ん坊とよちよち歩きの三歳の子どもを連れた若い母親と鎖でつながれていた。ナンが気の毒になって三歳の子を抱いてやると、母親は涙を流して喜んだ。ナンのおかげで幼い子は鞭を受けずにすんだが、年とったナンにはかなりの重さで、ナンは力がつづくだろうかと心配になり、またその子のことからジャックを思い出すのだった。ジャックは病気でやつれてはいたがウェルドン夫人の弱った腕には重いのではないだろうか! ウェルドン夫人はどこにいるのだろう、どうしているのだろう? もう二度と会うことはできないのだろうかと、ナンは考えて悲しむのだった。
ディックは行列の最後を歩かされていて、トムたちもナンも見ることはできなかった。行列が広い平原を横切って行くときだけ、行列の先頭のほうを見ることができた。ディックは考えつづけながら歩いていた。考えるのは自分のことではなく、ウェルドン夫人たちのことばかりだった。夫人たちが通ったことを示す跡がないかと、地面や道の両側の茂みに注意を払っていた。夫人たちの連れて行かれる先もカゾンデ以外には考えられなかったので、ほかの道を通るはずはなかった。夫人たちが同じ道を進んでいるという証拠を、たとえわずかでもディックは発見したかったのである。
これがディックと仲間たちの状態だった。毎日、行列は朝から歩き始め、昼まで一度も休ませられない。昼には一時間休み、マニホック〔灌木で、その根からデンプンがとれる〕の粉がわずかずつ分け与えられる。その粉にイモや、兵士が近くの村から掠奪して来たときにはヒツジやヤギの肉を混ぜて食べるのである。しかし、疲れがひどく、休息の時間が短いため、食物を与えられても、食べることもできない奴隷さえあった。そのため、コアンザを出てから一週間で、すでに二十人ほどが道端に倒れ、行列の後をうろついている猛獣の餌(えさ)になっていた。ライオンやヒョウが日没後に野営地のそばまで近寄って来て、恐ろしい唸(うな)り声をあげていた。暗いなかから聞こえてくるので、その唸り声はいっそう恐ろしく響いた。ハーキュリーズと同じようにジャングルのなかに逃げ込んだら、いつ猛獣に出会うかもしれないと考えると、さすがのディックも恐ろしくなるのだった。しかし、折を見つけて逃げようというディックの決心は変わらなかった。
次に、ディックがコアンザ川からカゾンデに着くまでの間に記したノートを示そう。

四月二十五日から二十七日――八フィートか九フィートくらいの高さのアシで囲まれた村を見た。畑にはトウモロコシ、ソラマメ、モロコシ、ピーナツなどが栽培されていた。二人の黒人が捕えられた。十五人が殺され、残りは逃げた。
翌日、幅百五十ヤードくらいの流れの早い川を渡った。切り倒した木をつる草で縛った浮き橋がある。杭(くい)が腐っていたため、つながれていた女が二人水中に落ちた。一人は子どもを抱いていた。水面がざわざわと音をたて、水が真っ赤になった。ワニだった。橋から少しでも足を滑らせると、ワニの口が待っている……。
四月二十八日――ボヒニアの森を通った。この木をポルトガル人は堅い木材として使うのである。
大雨。地面は水浸しになり、歩くのに実に苦労する。
行列の中央あたりにナンの姿が見えた。小さい子どもを抱いて、苦しそうに歩いていた。いっしょにつながれている女はびっこを引き、鞭で打たれた肩から血が流れていた。
葉が繁って白い花の咲いた大きなバオバブの木の下に野営する。
夜、ライオンとヒョウの吠える声が聞こえた。兵士がヒョウを一頭撃った。
ハーキュリーズはどうなったろう?
四月二十九日、三十日――アフリカの冬の寒さをはじめて知った。露がおりていた。十一月から始まった雨期は四月で終わる。平原はまだ水に浸っている。東の風。
ウェルドン夫人やベネディクトおじさんの通った跡はまったくない。カゾンデに連れて行かれるのでないとしたら、どこだろう? ぼくたちの行列の後をついて来ているかと思う。不安でたまらない。ジャックさまはまた熱が高くなっていないだろうか。それよりも、まだ生きているだろうか?
五月一日から六日まで――広い平原を通った。水は完全に蒸発しきっていない。水の深さは腰まで達するところもあった。ヒルが吸いつく。しかし歩かなければならない。高くなったところには、ハスやパピルスが生えている。水のなかにはナマズに似た小さい魚がたくさんいて、原住民はそれをザルで取り、売りつけている。
夜になっても野営する場所がない。見渡す限り一面の水で、暗いなかを歩く。翌日、行列について来られないで、見えなくなった奴隷がかなりいた。なんという悲惨さだろう!
そうだ! ウェルドン夫人とジャックさまはどうしたろう? ぼくは絶対にあの二人を助けなければならない。最後まであきらめないぞ! それがぼくの義務だ!
暗闇(くらやみ)のなかに恐ろしい叫びが聞こえる! ワニだった! 十四、五匹のワニが暗いなかで、行列に襲いかかったのだった。ワニは人間を捕えると、深い穴のなかへ引きずって行く。リビングストーンはこれを《食料置場》と呼んでいるが、それはワニがある程度の量をためてから実際に食べ始めるからである。
一匹のワニはぼくの身体に触れるほど近づき、首かせにつながれていた奴隷を一人首かせから引きちぎってさらって行った。あの絶望と恐怖の悲鳴! 今も耳に聞こえる!
五月七日、八日――朝、奴隷を数えると、二十人減っていた。トムたちを探すと、幸い四人は無事だった!
トムは行列の先頭にいた。バットが身体を横にすると首かせが斜めになり、トムもぼくの姿を認めた。ナンを探したが見えなかった。他の奴隷たちにまざって見えなかった。ワニの餌食(えじき)になってしまったのだろうか?
水中の行進は二十四時間つづいて、ようやく終わった。丘の上で休む。太陽の光で服はほぼ乾いた。食事をしたが、実に貧弱な食事だ! わずかばかりのマニホックとトウモロコシ。飲み水も濁っている。奴隷たちは地面に倒れるように横になっている。そのうち何人かはもう立ち上がれなかった。
ウェルドン夫人たちも、こんなみじめな旅をしているのだろうか? どうか違う道を通ってカゾンデに向かっていますように! 夫人はこんな旅には耐えられないだろう……。
天然痘――黒人たちのことばで《ヌドエ》――が発生した。病人は遠くまでは行けないだろう。見捨てて行くのだろうか?
五月九日――早朝から歩き始める。伍長たちの鞭が、疲れと病気に弱り果てている奴隷たちをたたき起こした。奴隷たちは値うちがあるのだ、金になるのだ! 彼らに歩く力が残っている限り、残して行こうとはしない。歩いているのは、さながら生きている骸骨だ。嘆きの声をあげる力すらもないようだ。
ようやくナンを見つけた。なかなか見つからなかった。もう子どもは抱いていなかった。他の奴隷とつながれてはいなかった。そのほうが苦痛は少ないだろう。しかし、腰に鎖が巻いてあったから、一方の端は肩にでも掛けているのだろう。
急いで近づいて行った。すぐにわからなかったようだった。それほどぼくは変わったのだろうか?
「ナン」とぼくは言った。
「まあ、ディックさん! わたしは……わたしは……もう間もなく死にます」
「いけない、いけない! 勇気を出すんだ!」と答えたが、ほとんど幽霊のような、やせ衰えた下半身を見るに忍びなかった。
「死んでしまいます! もう奥さんにも、ジャックさまにもお会いすることはできないでしょう。ああ、神様、どうかわたくしをお憐れみください!」
着ているものは破れ、ぶるぶる震えている年老いたナンの身体(からだ)を支えてやりたかった。ぼくが鎖の一方の端につながれ、相手が死んでからナンが耐えつづけてきた鎖の重みを、ぼくが担ってやれたらどんなにいいだろう!
だが、強い腕がぼくを押しのけ、ナンは鞭で行列のなかに戻らされた。鞭を振った情けを知らぬ男に、ぼくは飛びかかろうとした……。だが、アラビア人の監督が現われ、ぼくの腕をつかんで動かさず、行列の最後尾が目の前に来てやっと離した。そのとき、男は言った。
「ネゴロ!」
ネゴロか! ぼくを他の奴隷と別扱いするのは、ネゴロの命令だというのだろうか? ぼくにはどんな運命が待っているのだろうか?
五月十日――燃えている村の近くを二度通った。わらの家は完全に火に包まれ、住民を首(くび)吊りにした木は燃えていなかった。住民の多くは逃亡し、畑は荒らされていた。掠奪が行なわれたのだ。十二人ほどの奴隷を捕えるために、おそらく二百人の人間が殺されたことだろう。
夕方になって、大きな木の下に野営地を作った。昨夜、数人の奴隷が首かせをこわして逃げた。追いかけられ、捕えられた奴隷たちは、今までに見たこともないほど残酷な罰を与えられた。見張りの兵士の数が増員された。
夜、ライオンとハイエナの吠える声が響いた。カバの唸(うな)り声も聞こえる。近くの川にいるのだろう。
疲れきっていたが眠ることはできなかった。考えなければならないことが実に多い、背の高い草の茂みのなかを、何かが歩いている音が聞こえる。おそらく猛獣なのだろう。野営地のなかまではいって来るだろうか? 耳を澄ますと、何も聞こえなくなった。ぼくには武器はないが、自分を守らなければならない。ウェルドン夫人のため、仲間たちのために、ぼくは生きていなければならないのだ。
闇(やみ)のなかをじっと見つめた。月がなく、真っ暗な夜だった。闇のなかに、パピルスの草の間に、光っている目があった。ハイエナかヒョウだろう! その目は隠れたり現われたりしていたが……急に草がざっと音をたてた。一匹の動物が飛びかかって来た!
ぼくは叫び声をあげそうになった!……
が、幸い叫びを押さえた……。自分の眼が信じられなかった!……ディンゴだった!……飛びついて来たのは、ディンゴだった!……りこうなディンゴ!……どうやってもどって来たのだろう?……どうやってぼくを見つけたのだろう? 本能だ!……だが、この奇跡のような再会を、本能によるとだけ考えてよいだろうか? ディンゴはぼくの手をさかんになめた。かわいいディンゴ! 今のぼくのたった一人の友だ! ネゴロたちに殺されなかったのだ……。
ぼくもディンゴを撫(な)でてやった。ディンゴもぼくの気持ちがわかったらしい! 吠えようとする……ぼくは吠えるのを押さえた! 聞かれてはまずいのだ。ディンゴはだれにも気づかれずに行列に付いて来なければならない。そのうちに……。ふと気づくと、ディンゴはぼくの手にしきりに首筋をこすりつけていた。『調べてください!……』とでも言っているようだった。手探りしてみると、首に何かついている……アシの茎が首輪に通してあった――S・Vといういまだに意味不明の二つの文字の刻んである首輪に。このことだ、とアシの茎を取って、裂いてみた!……なかに紙がはいっていた……。
だが、そこに書かれた文字を読むことはできなかった。朝まで待たなければならない!……ぼくはディンゴをそばに置きたかった。だが、賢いディンゴは、ぼくの手をなめ、離れて行こうとしていた……自分の役目を果たしたと考えているのだろう……さっと跳ねると、音もなく草むらのなかに見えなくなった。どうか神様、ディンゴをライオンやヒョウからお守りください!
残された紙に書かれた文字を読みたくてたまらなかった! だれが書いたのか? ウェルドン夫人か、ハーキュリーズか? 死んだとばかり思っていたディンゴが、そのどちらかに、どうやって出会ったのだろう? 何が書かれているのか? 逃げる方法だろうか? いずれにしても、ディンゴの来たおかげで、ぼくは感激し、弱りがちだった心に勇気が湧(わ)いた。
ああ、夜の明けるのがなんと遅いことだろう!
地平線が白むのを待ちかねて、眠れなかった。野獣の吠える声が聞こえていた。ディンゴが無事であればいいが!
ようやく朝になった。このあたりの熱帯地方では、夜明けという時間はなく、いきなり朝が来る。だれにも見られないように気をつけた。読もうとする……が、なかなか読めない……。
ようやく読めた! ハーキュリーズの手紙だった! 小さな紙片に鉛筆で書いてあった……。
「ウェルドン夫人とジャックさまはキタンダで運ばれています。ハリスとネゴロがいっしょです。奴隷の行列の三、四日分ほど前を進んでいます。ベネディクトさんもいっしょにいます。夫人と連絡をとることはできません。ディンゴと会いました。銃で撃たれたようですが……全快しているようです。希望を失わないでください。皆のことばかり考えています。わたしが一人で逃げたのも、そのほうが有利だと考えたためです。ハーキュリーズ」
ああ! ウェルドン夫人とジャックさまは生きていた! ぼくらのように、ひどい道と疲れに苦しむこともないようだ。キタンダというのは、二本の太いタケに草で編んだ籠(かご)のようなものをつるしたもので、二人の人間が肩に担ぎ、周囲に布を垂らしてある。ウェルドン夫人たちをキタンダで運んで行くというのは、ハリスやネゴロはどういうつもりなのだろうか。とにかく、夫人たちもカゾンデに向かっていることははっきりした……よし……きっと助け出そう! 苦しい毎日のなかで、これは実によい知らせだ! ディンゴがそれをもって来てくれたのだ!
五月十一日から十五日まで――行列は進みつづけている。奴隷たちの歩き方はいよいよ苦しげだ。大部分の奴隷の足跡に血の跡がある。ぼくの計算だと、カゾンデに着くまで、もう十日かかるだろう。到着するまでに何人が死ぬだろう! だが、ぼくは必ず着く、必ず着くぞ!
実にむごたらしい! 身体中傷だらけの者さえいる。縛っている綱はその傷口に食い込んでいるのだ!……。昨日から、ある母親は飢えのために死んだ赤ん坊を抱きつづけている……手離そうとしないのだ! 道には死体がいくつも転がっている。天然痘が猛威を振るい始めたのだ。
道のほとりの木に何人かの奴隷が縛りつけられていた。彼らは飢えのために死ぬだろう。
五月十六日から二十四日――もう力が尽きそうだ。だが、弱ってはいられない。雨期は完全に終わった。背の高い固い草のなかを通った。ニアシと呼ばれる草で、その茎は身体を傷つけ、とげのある実は靴の底に突き刺さる。幸い、ぼくの靴は丈夫で、足を痛めることはなかった。
隊長たちは、病気が重くて付いて来られない奴隷を捨て始めた。食料が不足し始めたためでもある。兵士やパガジは割り当てられる食料が減ると反抗するのである。そのため、彼らの食料を減らすことはできず、それだけに奴隷たちが苦しめられるのである。
「奴隷たちはお互いに食い合えばいいんだ!」とある監督が言った。
まだ元気で、病気にかかっているとも見えない若い奴隷が死に始めた。ぼくはリビングストーンの次のようなことばを思い出した。「これらの不幸な人々は心臓の病気にかかっているのである。彼らは胸に両手を当てて倒れる。明らかに心臓が止まってしまうのである。自由な人間がいきなり奴隷の境遇に陥ったときに起こるのである!」
今日、歩けなくなった約二十人の奴隷を伍長たちが斧で殺した。総監督のアラビア人も別に反対はしなかった。恐ろしい光景だった。年とったナンは哀れにもその一人だった。ぼくは歩いて行って、彼女の死体につまずいた。キリスト教式の墓を作ってやることもできなかった……。
その後、毎晩ディンゴを待っている。だが、来ない。何か事件がディンゴに起こったのだろうか、それともハーキュリーズにか? いや、いや……そんなことを考えるのは止そう。連絡がないのは、ぼくに伝えるような新しいことがないからなのだ! それに、ハーキュリーズ自身、慎重に警戒しなければならないのだから……

九 カゾンデ

五月二十六日、ようやくカゾンデに到着した。狩り集められた奴隷のうち、ほぼ半数が脱落していた。それでも奴隷商人にとって、十分に利益はあるのだった。需要が増大し、奴隷の価格が上がっているからである。
当時、アンゴラは奴隷売買を大規模に行なっていた。ルアンダあるいはベンゲラのポルトガル政庁は、これを完全に根絶することはできなかった。奴隷の行列はアフリカ内陸に向かって進んで行くからであった。沿岸地方の牢獄は違反者で溢(あふ)れていた。沿岸を警備する軍艦の間を通り抜けて来る奴隷船も、アメリカのスペイン植民地へ運ぶ奴隷を積み込むことはできなかった。
コアンザ川の河口から三百マイル離れたカゾンデは、そのあたりの最も大きな奴隷市場だった。チトカと呼ばれる広場で市が開かれ、奴隷たちは展示され売られて行くのだった。そして、ここから湖水地方に向かって多数の奴隷の隊列が進んで行くのである。
中央アフリカの大きな町はほとんどそうなのだが、カゾンデの町も二つの地区にはっきり分かれている。一方は、アラビア人、ポルトガル人、あるいは原住民の商人の住む地域で、奴隷留置場もそこにある。もう一方は、黒人の王様――つまり奴隷商人からたっぷりと上納金を受けとり、原住民に対しては威張りかえっている酔っぱらい――の住むところである。そのカゾンデの商業地区で、そのとき最も勢力のあったのがホセ=アントニオ・アルベスで、ネゴロやハリスはその手下として働く監督だったのである。ここにあったのが、アルベスのいわば本店で、第一の支店がビヘに、第二の支店がベンゲラのカサンジュにあった。このときから数年後、カメロン大尉がアルベスと会うのは、この第二のカサンジュの支店でであった。
町の中央に広い道があり、両側にテンベという平らな屋根の家が並んでいた。家の壁は土を塗り固めたもので、庭に家畜を飼っている。その広い道を行くと広場に出る。チトカの周囲には小屋が並び、巨大なガジュマルの木がその家々の上に枝を広げ、ところどころに大きなヤシの木も植えられている。ほこりっぽい道には二十羽ほどの猛禽(もうきん)類がいつもいるが、これはいわば道路の清掃係の役を果たしているのだ。これがカゾンデの商業地域の風景だった。
町の近くをルヒ川が流れており、当時その川はどこに注ぐかはっきり知られていなくて、コンゴ川の支流であるコアンゴ川に注ぐか、あるいはコアンゴ川のさらに支流に注ぐのではないかと考えられていた。
商業地域との境にあるカゾンデの王様の住居というのは不潔な小屋が一平方マイルほど集まったもので、パピルスの生垣で囲んだ一区画に、王様の奴隷の住む三十戸ばかりの家と、王様の妻たちの小屋がある。王様自身の家は栽培しているマニホックの茂みに半ば隠れた広いテンベである。王様の名はモワニ・ルンガといい、年は五十歳くらいで、先祖のもっていた威勢をすでに失っていた。ポルトガル人がはじめて来たときには二万人を数えた奴隷が、今では四千人に達しないのである。そして王様自身は、暴飲した強い酒のために年齢よりも早く老い込み、気まぐれに家来や大臣たちまでも殺させるような偏執狂となっていた。
この酔っぱらいの王様が死んで困る唯一の人間がホセ=アントニオ・アルベスだった。王様の死後、その国は隣国ウクスの王様に攻め取られるのではないかと恐れていたからである。ウクスの王様は若く活動的で、すでにカゾンデの王様に属する村をいくつか奪っていた。そしてウクスの王様にはティポティポという純粋のアラビア人の奴隷商人がいて、アルベスの商売仇(がたき)なのであった。このティポティポは後にニアングウエにカメロンを訪問したことがある。
奴隷の隊列はカゾンデに着くと広場に連れて行かれた。五月二十六日。ディック・サンドの計算は正しかったのである。コアンザ川の野営地を出発してから三十八日だった。悲惨な五週間の旅だった。
カゾンデの町にはいったのは昼ごろだった。太鼓や角笛が鳴り、銃声が響いた。隊列の兵士たちが空に向けて発砲し、アルベスの部下たちがそれに応(こた)えたのだった。兵士たちは四か月ぶりに町へ帰って来たのであり、久しぶりに酔っ払って乱痴気(らんちき)騒ぎをやろうというのだった。
奴隷たちは、ほとんどが力も尽き果てそうな状態だったが、総計二百五十人残っていた。彼らは、アメリカの農夫なら家畜小屋にもしそうにないバラックに押し込まれた。そこにはすでに千二百人ないし千五百人の奴隷が入れられていて、翌々日に開かれる市に売りに出されることになっていた。バラックに入れられると重い首かせははずされたが、腰の鎖だけはそのままに残された。
象牙を運んで来た運搬人たちは、広場に象牙を下ろした後、キャラコやその他もっと高価な布を数ヤード与えられ、さらに次の隊列に加わることになった。
トムたちも五週間ぶりに首かせから解放されて、トムとバットは互いに抱き合い、四人は手を握り合ったが、何も言う気にはなれなかった。話すことといえば絶望以外に何があったろう? バット、アクテオン、オースティンの三人は力強く疲労に耐えてきたが、年老いたトムは食料の不足のためもあって体力は尽きかけていた。もう数日歩きつづけていたら、ナンと同じようにトムの死体は路傍に捨てられ、野獣の餌食(えじき)となっていたことだろう。四人は狭いバラックに入れられ、すぐに入口に鍵がかけられた。バラックのなかには食料が置かれてあった。四人は奴隷商人が来たら、自分たちはアメリカの国籍をもっている人間で、奴隷ではないと言うつもりでいた。
ディックは特別の監視人つきで広場に残された。彼はウェルドン夫人たちが先に着いているに違いないと思って、町にはいってから注意していたが、見当たらなかった。「ここには連れて来られなかったのだろうか?」とディックは考えた。「だとすると、どこにいるのだろう? いや、ハーキュリーズがまちがうはずはない! それに、夫人たちをぼくたちと別にしたのは、ハリスやネゴロに計画があってしたことのはずだから!……しかし、そのハリスたちも見えないが……」
ディックは不意に胸の引きしまるような不安に襲われた。ウェルドン夫人たちは捕えられているのだから、姿が見えないのも不思議ではない。だが、ハリスとネゴロ――特にネゴロ――は、今や自分らの思うままになるディックを侮辱し、苦痛を与えて優越感を得るために、少しでも早く現われるはずではないだろうか? ところが、二人が姿を見せないというのは、どこか別の場所へ行ったのではないだろうか? 二人が現われることは、つまり自分が苦しめられることになるのだが、それでもディックは二人がこのカゾンデにいてくれることを心から祈った。二人がいれば、ウェルドン夫人たちもここにいると確信できるからだった。
それに、ディンゴのことも不安だった。ハーキュリーズの手紙を届けて来たとき、ウェルドン夫人から目を離さないようにという手紙を急いで書いてやったが、あの手紙はハーキュリーズに届いたのだろうか? あの後ディンゴが来ないのはどうしてだろう? 二度めは失敗したのだろうか、それともハーキュリーズはディンゴを連れて、ウェルドン夫人の後を追って奥地へはいって行ったのだろうか?
突然、にぎやかなファンファーレと歓声が響いた。広場の土ぼこりを浴びて腰をおろしていたディックは、さっと立ち上がった。探していた相手が、今、急に見つかる可能性がでてきたのである。今までの絶望はもう跡形もなかった。
アルベス! アルベス! 広場にあふれていた原住民や兵士が叫んだ。多数の奴隷の運命を握っている人物が、ようやく現われるところだった。部下のハリスやネゴロもおそらくいっしょにいることだろう。ディックは目を大きくひろげて待った。二人の裏切り者の前に堂々と立ち、正面から顔を見つめてやるつもりだった。少年船長はかつての料理番の前で震えたりしてはならない!
日に焼け、破れて継ぎをあてた垂れ布をかけたキタンダが、広い道の端に現われた。一人の黒人がなかから下りた。それがホセ=アントニオ・アルベスだった。その後を数人の部下がえらそうな態度で歩いていた。
アルベスとともに、彼の友人でビヘの大守の子のコインブラも姿を見せた。カメロン大尉の語るところによれば、この地方最大のならず者であり、その姿は、目は血走り、硬い髪は縮れ、顔は黄ばみ、ぼろぼろに破れたシャツを着、腰には草の葉を垂らしていた。破れた麦わら帽子をかぶったその顔は、老人でありながら実に恐ろしげだった。このコインブラこそ、アルベスの腹心の友であり、アルベスの手先を使って奴隷狩りを指図しているのだった。
コインブラに比べると、トルコふうの服を着たアルベスのほうがいくぶん汚なさは少なかった。だが、さすがに小さな奴隷商人とは見るからに違っていた。
アルベスの後をついてくる人間のなかにハリスもネゴロも見当たらなかった。ディックは失望した。このカゾンデには二人はいないのだろうか? だが、ディックたちの隊列を引き連れて来たアラビア人のイブン・ハミスは、アルベスとコインブラと握手をしていた。二人にほめられているのだった。途中で半数の奴隷が死んだと知ってアルベスは顔をしかめたが、それでも十分利益はあがるのだった。バラックに入れてあるだけの奴隷で需要を満たすことができるし、その奴隷を象牙やアフリカ中部で産する銅の鉱石と交換することもできるのだった。
アルベスは伍長たちにはことばも掛けなかったが、象牙の運搬人にはすぐに賃金を支払うように命じた。アルベスとコインブラの話していることばは、原住民のことばをまじえたポルトガル語で、リスボンで生まれ育った人は少々理解に苦しむことだろう。ディックには話の内容はわからなかった。卑劣な手段で奴隷の隊列に加えられたディックとその仲間のことを話していたのだろうか? イブン・ハミスの命令で伍長の一人がトムたちの入れられているバラックに向かって歩いて行った。
トムたち四人が、すぐにアルベスの前に連れ出されて来た。ディックもゆっくり近づいて行った。アルベスは年とったトムに対してはちらりと見ただけだったが、十分な食事と休息を与えればすぐに本来の活力を取りもどすに違いないバットたちを見て、非常に満足そうな顔になった。三人とも次の市で高く売れそうだからだった。アルベスはハリスのようなアメリカ人の隊長たちから習っていたらしい英語で、彼の手にはいった新しい奴隷に向かって皮肉そうに歓迎のことばを告げた。トムが前に進んで、自分と三人の仲間を指さして言った。
「わたしたちは自由な人間だ。アメリカ市民なのだ!」
アルベスはそのことばの意味がおそらくわかったのだろう。上機嫌(じょうきげん)でうなずきながら答えた。
「うん……うん……アメリカ人か! ウェルカム……ウェルカム……」
「ウェルカム……」とコインブラも言った。そして、コインブラは、オースティンに近づいて、商品を調べるように胸や肩を撫(な)で、口を開かせて歯を見ようとした。
次の瞬間、コインブラは猛烈な一撃を顔面に受け、十歩くらい飛んで行って倒れた。数人の兵士がオースティンに襲いかかり、厳しい仕返しをしようとした。
アルベスは兵士たちを止め、五、六本しかなかった歯が二本を残して折られてしまったコインブラの災難をげらげら笑っていた。アルベスとしては、商品を傷つけることは許さなかったからであり、それに元来が陽気な性格であり、久しい間これほど愉快な場面を見たことがなかったからである。それでもアルベスは、しきりにコインブラを慰め、やっと起き上がったコインブラはオースティンに向かって脅すような身ぶりをしていた。
そのとき、一人の伍長に押し出されて、ディックがアルベスの前に立った。アルベスはもちろんディックがどこから来たのかも、コアンザ川の野営地で捕えられたことも知っているに違いなかった。
「ちびのアメリカ人(ヤンキー)め!」とアルベスはまずい英語で言った。
「そうだ! アメリカ人だ!」とディックは答えた。「ぼくらをどうするつもりなんだ?」
「ヤンキー! ヤンキー! ちびのヤンキー!」とアルベスは繰り返して言った。ディックのことばが理解できなかったのか、それとも理解できないふりをしているのかもしれなかった。ディックは同じ質問をもう一度繰り返した。そして、アルコール類の暴飲のためすさんだ顔になってはいたが、それでも原住民ではないとわかるコインブラに向かって同じ質問をした。だが、コインブラは、オースティンに脅すような身ぶりをするだけで、答えようとはしなかった。
その間に、アルベスはイブン・ハミスと熱心に話し合っていた。明らかにディックたちのことについてであるらしかった。おそらく、ディックはまたトムたちと引き離され、ことばを交わす機会は二度と来ないであろう。
「おまえたち」とディックはひとりごとで言っているような低い声で話した。「一つだけ教えておく。ハーキュリーズの手紙をディンゴがぼくに届けて来たんだ。ハーキュリーズは隊列について来ている。ハリスとネゴロはウェルドン夫人たちを連行して歩いていたらしい。どこへ連れて行くのかは、ぼくにもわからない。このカゾンデにいるのかどうかもわからない。がんばってくれ、勇気をなくさないように! チャンスがあったら逃がすなよ! 神様は必ずぼくたちを守ってくださるだろう!」
「ナンはどうしました?」とトムが言った。
「死んでしまった!」
「最初の一人でしたね!」
「いや、最後の一人だ!……今に……」
そのとき、ディックの肩に手を置いて、聞き覚えのある愛想のいい声が言った。
「やあ、君。また会えてうれしいよ!」
ディックはふり向いた。ハリスが目の前に立っていた。
「ウェルドン夫人はどこだ?」とディックは言って、ハリスにつめ寄った。
「ああ、あの人か!」とハリスは心にもない悲しげな態度をよそおって言った。「お気の毒だった。このアフリカでは生き延びられない……」
「亡くなったのか?」とディックは言った。「それならジャックさまは?……」
「あの子もかわいそうなことだった!」とハリスは同じような調子で言った。「疲労のために死んでしまった……」
ディックの敬愛していた人々は、もうすべて生きてはいないのか! 激しい怒りと復仇(ふっきゅう)の念が身体を震わせた。
ディックは、さっとハリスに飛びかかると、ハリスが腰につけていた短刀をつかみ、彼の心臓を突き刺した。
「くそっ!……」とハリスは倒れながら叫んだ。
ハリスは死んだ。

一〇 市の日

ディックの動作があまりに早く、だれも止めることはできなかった。数人の原住民がディックに飛びかかり、彼を殺そうとした。そのとき、ネゴロが姿を現わした。
ネゴロが合図すると、原住民たちはディックを離し、ハリスの死体を運んで行った。アルベスとコインブラはディックを即座に殺せと命じた。だが、ネゴロが低い声で、殺そうと思えばいつでも殺せるのだからと言ったため、一瞬も監視の目を離してはならないという厳命を加えられて、ディックはその場から連れ去られた。
ディックはアフリカの海岸に漂着して以来、はじめてネゴロを見たのだった。ピルグリム号の難破したのは、すべてネゴロ一人のやったことだとディックは確信していた。ハリスよりもネゴロに対する憎しみが強かった。だが、ハリスを殺した今、ネゴロにことばをかける気にもならなかった。
ハリスのことばによれば、ウェルドン夫人とジャックは死んでしまったのだ……今はもう何もディックの興味を引くものはなかった。自分がどうされるのかも関心がなくなっていた。どこに連れて行かれるのだろうか? だが、それもどうでもいいことだった。
堅く縛られたディックは窓のないバラックに投げ込まれた。そこは、反抗したり暴れたりしたために死刑と決まった奴隷を入れる独房だった。外部との連絡はまったく不可能だったが、ディックはそれを残念だとも思わなかった。敬愛してきた人々の復仇(ふっきゅう)を果たしたのだから、今から彼にどんな運命が待っていようと、覚悟はできていた。
ハリスを殺したディックに仕返ししようとした原住民をネゴロが止めたのは、ネゴロがディックに最も恐ろしい苦痛を与えようとしているのだと、だれもが考えた。かつてのピルグリム号の料理番は十五歳の船長の運命を掌中(しょうちゅう)に握っているのだった。完全に復仇を遂げるには、ハーキュリーズがいないだけだった。
二日後の五月二十八日、市――原語でラコニ――が開かれた。この日に主要な外国商館の奴隷商人や近くの原住民が出会うことになっていた。このアンゴラの市は、奴隷売買だけでなく、肥沃(ひよく)なアフリカの大地の生み出す多数の産物の売買ででも知られていた。広場は朝から大変な活気で、そのありさまを正確に伝えることはむずかしいほどであった。トムたちのような奴隷を含めた、四、五千人の人間が雑沓(ざっとう)していた。人種が違うというだけの理由で奴隷とされた人々が、人買いブローカーに売買されねばならないのだった。
もちろんアルベスはコインブラとともに広場に出ていた。奥地から奴隷を集めて来た奴隷商人たちに対して分け前を約束していたのである。奴隷商人のなかには、タンガニーカ湖付近の大きな市場であるウジジから来た数人の白人と黒人の混血の商人と、奴隷売買ではこれらの混血の商人よりも有力なアラビア人がいた。
原住民ももちろん多数いた。彼らもこの奴隷売買に関しては熱狂的で、駆け引きの才能はけっして白人に劣らなかった。町のなかは広場以外はひっそりとして、商売はまったく行なわれなくなってしまうのだった。文明国ではふつう買い手よりも売り手のほうが熱心である。ところがアフリカの奴隷売買に関しては、売り手も買い手も同じように熱中するのである。
ラコニは原住民にとっては祭りの日であり、晴着こそ着ないが、その代わりに男も女も最も美しい装身具を身につける。髪は四つに分け玉飾りをつけて編んで垂らしたり、前髪を垂らして羽根飾りをつけたりする。あるいはまた、湾曲した角のような髪形を赤土と油で作る。そのうえ、鉄か象牙のピンを刺し、なかには模様を彫り込んだ小刀を刺しているものもある。これが男に最も多く見られる髪形で、女の場合は髪をもっと小さく――サクランボウかねじり菓子くらいの大きさに――分け、頭全体が小さな渦巻(うずま)きの浮き彫りでおおわれるようにする。もっと単純に、おそらくもっと美しく、イギリス風あるいはフランス風に、髪を背に長く垂らし、前髪をそろえて切っている女もある。そして、そのどちらの髪形でも、動物の脂か粘土かビャクダンの木から抽出した赤い《メコラ》という光沢のある液体をたっぷり塗り込んでいるのである。
飾り立てられるのが髪だけだと思うのはまちがいで、耳にも負けずに飾りがつけられる。高価な木の棒、銅の環、トウモロコシの粒をつないだ鎖などで、その重さで耳たぶが肩の近くまで垂れ下がっているものもあるくらいだ。それに、原住民たちの身につけるものにはポケットというものがないので、小刀でもパイプでもその他の小物でも、付けられそうなところにはどこでも付けてしまうのである。そこで、首、腕、手首、脚、足首、あるいはその他の部分も、銅や青銅の環、動物の角、当時流行していたサメサメとかタラカスとか呼ばれた赤い真珠のような石をつないだ輪などを付けておく場所に利用されるのだった。こういう具合に宝石類を飾り立てるので、金持ちの原住民などは、まるで動く宝石箱といった外観を呈することになってしまうのである。
また、上下の門歯は抜き、手の爪は手を使うのに不便なほど伸ばし、黒あるいは褐色の肌には木や鳥や三日月や満月や、リビングストーンが古代エジプト模様に似ていると思った波形のうねうねした線などを入墨(いれずみ)しているのである。父親が子どもの身体に描くこの入墨によって、どの部族のどの家族に属するかがわかるようになっている。人間は、自動車の脇腹(わきばら)に自分の紋章を書かないときは、代わりに自分の胸に入墨するらしい!
装身具は以上のとおりであるが、次に着ているものに移ろう。服と呼んでもいいのだろうが、男性は膝(ひざ)まであるカモシカの皮の上っ張りを着ていて、なかには植物の繊維で編んだ短いスカートをはいているものもある。ご婦人がたは、絹で刺繍(ししゅう)しガラス玉や宝貝で飾ったスカートを真珠をつないだ帯で腰に止めている。ときにはスカートの代わりに当時ザンジバルで珍重された黄色や青や黒の草で編んだランバ〔腰巻き〕をつけているものもある。
しかし、これは上流の黒人であって、商人だとか奴隷はほとんど何も身につけていない。女たちは額に掛けた革ひもで大きな籠(かご)を背負って市に来る。場所を選んで籠のなかのものを広げると、空いた籠のなかに坐るのである。
豊かな土地のために、市はすばらしい食料で溢(あふ)れる。米、トウモロコシ、ゴマ、コショウ、マニホック、モロコシ、ニクズク、塩、ヤシ油。また、数百頭のヤギ、ブタ、原産は蒙古(もうこ)のヒツジ、鳥類、魚類など。そのほか、非常にシンメトリックに作られた陶器や、アルコール分の強い各種の酒、ビール、ハチミツと水を混ぜて発酵させた飲物などもある。
だが、カゾンデの市で最も有名なのは布と象牙である。布では、シュカスと呼ばれるマサチューセッツ州のセーレムから運んで来たさらしていないキャラコ、カニキと呼ばれる三十四インチ幅の青い木綿、ソハリと呼ばれる青と白の格子で周囲に細い青の線のはいった赤い縁がついている布、それより高価なのはディウリスと呼ばれる緑や赤や黄色の絹で、三ヤードで七ドルほどのものから、金糸を織り込んだものでは八十ドルに達するものもある。象牙に関しては、アフリカ中部の各地から溢れるばかり送り込まれ、象牙だけを専門に扱う商人も多い。年間五十万キロの象牙がヨーロッパ、特にイギリスに輸出され、そのためにゾウが殺されているということを人々は知っているだろうか? イギリスだけで五万キロ必要なのである。アフリカの東岸だけで百四十トンの象牙がとれる。一対の象牙の重さがふつう約二十八ポンド、金額にして一八七四年に千五百フランだったが、なかには百六十五ポンドの重さのものもあった。そして、このころのカゾンデでは、他の地方の象牙と違って時間が経(た)っても黄色くならず、澄んだ乳白色であり、軟らかくて細工しやすい象牙が手にはいったのである。
ところで、以上のような種々の売買がどういうふうに行なわれたのだろうか? 通用していた貨幣は何だったのか? その貨幣は、大商人の間では奴隷だったのである。
原住民たちはベネチア産のガラス玉で売買をしていた。そのガラス玉は、白いものはカチョコロス、黒いものはゾブルス、赤いものはシクンデレチェスと呼ばれていた。リビングストーンもカメロンもスタンリーも、いつもこのガラス玉を持っていなければならなかった。それがない場合は、ピセというザンジバールの四サンチームの貨幣や、ビグングアスというアフリカ東岸に特有の貝殻(かいがら)が流通していた。食人種の場合は人間の歯に価値を認めていて、市などに歯をつないだ首飾り――その歯の提供者はもちろん食われてしまったのだろう――をして現われたが、次第に歯は貨幣として用いられなくなり始めた。
これが大きな市の様子である。昼ごろに活気は頂点に達し、ざわめきは耳を聾(ろう)するほどになる。値切られて怒る売り手の声、高い値段を吹っかけられて怒る買い手の声は、互いに聞きとれないばかりである。したがって、争いは絶えず起こるのだが、仲裁しようとするものはほとんどいない。
昼ごろ、アルベスは売る予定の奴隷を広場に連れ出すように命令した。数か月前からバラックのなかに閉じ込められていた、あらゆる年齢の奴隷二千人が広場の群衆に加わることになったのである。このバラックに《ストック》されている状態は悪くなかった。働かずに十分に食物を与えられるのだが、それは市に出されるときにはずっと値段が上がるようにするためだった。最近バラックに入れられた奴隷は、《ストック》されていたものとは比較にならず、数か月待てばまちがいなく高く売れるのだが、東海岸方面での需要が大きいので、アルベスもそのままで市に出すことに決めたのだった。不幸なことに、トムたちはそのなかにはいっていた。
奴隷は伍長たちに追われて広場に出て来た。彼らの身体は堅くつなぎ合わされ、彼らの目は烈しい怒りと恥ずかしさを物語っていた。
「ディックさんはいない!」と広場を見回してすぐにバットが言った。
「うん。ディックさんは売らないんだ」とアクテオンが答えた。
「まだ生きていたとしても、まもなく殺されてしまうだろう」とトムが言った。「ところでわれわれのことだが、もう希望は一つしかない。四人を同じ奴隷商人が買ってくれることだ。いっしょにいられれば、それがせめてもの慰めだ!」
「ああ、お父さん……別れ別れになって、お父さんが遠いところでひどく働かされると思うと……」と言って、バットはすすり泣いた。
「いや、別れ別れになることはあるまい。多分……」
「ハーキュリーズがいたらなあ!」とオースティンが叫んだ。
だがハーキュリーズは、あの後まだ姿を現わさず、一度ディックに連絡があって以後、ディンゴのこともハーキュリーズのことも、まったく話に聞いたことはなかった。ハーキュリーズの運命を羨(うらや)むべきなのだろうか? 確かにそうだ! たとえ彼が死んでいたとしても、奴隷の鎖はつけないで死んだのだから!
やがて売立てが始まった。アルベスの手下の隊長たちは、群衆の中央に、男女、子どもを数人ずつ引き回す。その際に母親と子どもが別々になることなど意に介しない。家畜とまったく変わらない扱いなのである。トムたちも買い手の間を次々に引き回された。隊長が彼らの前を歩いて、つけられた値段を叫ぶ。アラビア人のブローカーや、アフリカ中部の白人と黒人の混血の商人たちが、近づいて来て彼らを調べた。四人には、アフリカの黒人の特徴はなく、アメリカに渡った二世以降の黒人の特徴しかなかった。この強健で利口そうな四人の黒人たちは、ザンベジ川やルアラバ川の付近から連れて来られた黒人たちとは非常に違っていて、奴隷商人たちの眼には非常に値打ちのあるものに見えた。商人たちはトムたちに手で触れ、前から見たり後を見たりし、歯を調べたりした。ウマを売買する馬商と同じやり方なのである。それから、遠くへ棒を投げて、走って拾いに行かせ、走りぐあいを見たりもした。
どの奴隷もこうした屈辱的なテストをされる。彼らがこのような扱いを平然として受けていたなどと考えてはならない! 道理をわきまえぬ子ども以外は、男も女もすべて自分たちの立場を屈辱的に感じていた。奴隷商人たちは彼らに容赦なく鞭(むち)の雨を浴びせた。酔っぱらったコインブラもアルベスの手下の隊長たちも暴力の限りを尽くし、象牙や布や真珠と交換に奴隷たちを買った新しい主人たちも、まったく同じだった。母親と子、夫と妻、兄と妹が力ずくで引き離されるときも、最後の愛撫も最後の接吻も許されず、その市で永遠に別れてしまわなければならないのだった。
事実、奴隷を買う場合、性別によって目的は異なるのである。男の奴隷を買うものは、女の奴隷は買わない。女の奴隷は一夫多妻制を認める回教徒のアラブ諸国へ送られ、烈しい労働のために買われた男の奴隷は沿岸の商館に連れて行かれ、スペインの植民地か、マダガスカルかマスカットの市へ輸出されるのである。隊長たちによって永遠に引き裂かれる人々の間には、悲しい場面が繰り広げられるのだった。
トムたちも同様の運命にあった。だが、実際は、彼らは奴隷商人に買われることのほうを望んでいた。輸出されたほうが自由を取りもどすチャンスが多く、アフリカ中央部に止められていたら、希望はまずあきらめなければならないからである。彼らの望みはかなえられ、さらに別れ別れにならなかったことは望外の喜びだった。彼らの値段はウジジの数人の奴隷商人によってせり上げられた。奴隷商人たちは、カゾンデの市ではめったに見られない値打ちのあるトムたちのことを知ろうとしたが、アルベスは彼らの身分をけっして洩らさなかった。トムたちも、その土地のことばを知らないので抗議することはできなかった。
結局、彼らを買ったのは金持ちのアラビア人の商人で、数日後にタンガニーカ湖方面へ輸出され、そこからさらにザンジバル島の商館へ送られることになっていた。
中央アフリカの最も危険で最も健康に有害な地方を通過して、彼らはザンジバルまで行き着くことができるだろうか? しかも、きわめて有害な気候のなかで、部族間の戦闘が絶えず行なわれるという条件下の千五百マイルである! トムは耐えきれるだろうか? ナンと同じように、道の半ばで倒れてしまわないだろうか?
だが、ともかく四人は引き離されずにすんだ。彼らをつないでいる鎖も、四人そろっていれば重さも少なくなるように感じられた。アラビア人の商人はトムたちを離れたバラックに連れて行かせた。明らかに、ザンジバルの市で大きなもうけになる商品をたいせつに扱っていたのである。
トム、バット、アクテオン、オースティンは広場を離れ、その日のカゾンデの市を終わらせることになった事件を見ることはできなかった。

一一 カゾンデの王に捧げられた酒

午後四時、大通りに、太鼓、シンバル、その他のアフリカ原住民の楽器が、いっせいに鳴り響いた。広場の活気は増す一方だった。朝からつづいた叫び声や争いも、熱狂的な商人たちを疲れさせてはいなかった。まだ、かなりな数の奴隷が売れ残っていた。奴隷商人たちは、ロンドンの株式市場が最も好況のときでさえ比較にもならぬほど興奮して、値段を争っていた。
だが、突然響いた不調和な楽隊の音に、商売も中断し、叫びつづけていた人々も一息ついた。
カゾンデの王様、モワニ・ルンガが市をご訪問になるというのだった。多数の女や役人や兵士や奴隷が供をしていた。アルベスたち奴隷商人は王様の前に進んで、王冠をつけたこの愚かな王様が喜びそうな讃辞を大げさに並べたてた。
モワニ・ルンガは、広場の中央まで来ると、一ダースほどの男の手に助けられて、古い輿(こし)から下りた。
王様の年齢は五十歳だが、八十歳といってもおかしくないほどだった。年老いたサルを想像していただけばよい。頭には、カゾンデの王の象徴である、赤く塗ったヒョウの爪と白い毛の房を飾った王冠のようなものをかぶっていた。腰には、鍛冶屋(かじや)の前掛けよりもまだ堅そうな二枚の革の前掛けに真珠を縫いつけたものをぶらさげていた。胸には、王の尊厳を示す複雑な入墨がしてあり、その表わすところを信ずるなら、モワニ・ルンガの系図は天地のまだ分かれないころにまでさかのぼることになる。腕と手首と足には、真珠を象嵌(ぞうがん)した銅の環をつけ、数年前にアルベスが贈った長靴をはいていた。さらに左手には銀の握りのついた杖(つえ)、右手にはハエを払うための真珠をはめ込んだうちわを持ち、道化役者のズボンのように色とりどりの布を継ぎ合わせた古い雨傘(あまがさ)が頭上にさしかけられている。そして最後に、ベネディクトおじさんから取り上げた虫眼鏡を首にかけ、バットのポケットから取った眼鏡を鼻にちょこんとのせていた。これが、周囲百マイルの国々を震え上がらせている王様のおよその姿だった。
モワニ・ルンガは自分の祖先が天国に始まっていると称し、そのことに疑いをもつ家来はそれを確かめるためにあの世へ送られることになる。また彼は、自分は神だから何ら束縛を受けるべきではないとして、飲みたいだけ飲み、食べたいだけ食べるのだった。そして、ひどいアルコール中毒の大臣や役人が王様のまわりに仕えていたのである。要するに強いビールと、アルベスがたっぷりと献じる九〇パーセントのアルコール漬(づ)けになった、最低の王様なのだった。
このモワニ・ルンガのハレムには各年齢、各階級の妻が多数いて、その大部分が供をして来ていた。王妃と呼ばれている第一の妻のモワナは、王家の血統をひく、四十歳ほどの意地の悪そうな女だった。彼女は明るい色の格子縞のショールを掛け、真珠を縫いつけたスカートをはき、身体中つけられるところにはすべて輪をはめ、小さな頭の上に巨大な髪形を結い上げ、一種異様な姿をしていた。他の妻たちは第一夫人の後を歩いていた。彼女ほど着飾ってはいなかったが、ずっと若かった。
妻たちの後に役人たち、各地方の長官たち、魔術師たちが従っていた。王様と同じように、酔っぱらって千鳥足で歩いている彼らの姿を見て、まず気づくのは身体の一部分が欠けていることだった。すべてが耳、鼻、目、腕などのどこかがなく、身体の各部がそろっているものは一人もなかった。これはカゾンデに二種類の罰――死刑か体刑――しかなく、それがすべて王様の気まぐれで決められていたためである。わずかな過失でも身体のどこかを切り落とされてしまい、なかでも最も重い刑は耳であった。耳を切り落とされると耳輪をつけられなくなるからである。
世襲あるいは四年の任期で任命される各地方の長官は、そろってキリンの皮の帽子をかぶり、赤いチョッキを着ていた。手には籐(とう)の長い杖(つえ)を持ち、その杖の一端には魔術の薬が塗ってあった。
兵士たちの持っている武器は、総飾(ふさかざ)りをつけ、交換用の弦を巻きつけた木製の弓、ヘビ舌で研(と)いだ小刀、長く刃の幅の広い槍、ヤシの木で作りアラベスクふうの模様を描いた楯(たて)などだった。そして、彼らの制服となると、ほとんど何も身につけていないのだから、王様の金庫は痛まないのだった。
行列の最後は魔術師と楽隊だった。ムガンガと呼ばれる魔術師はこの国では医師の役を果たしているのだった。未開人は占いや呪術(じゅじゅつ)や、土で形をつくり赤や白の色を塗った空想上の動物とか木を男や女の形に彫った人形などの呪物を盲信する。だが、魔術師たちもやはり身体のどこかを傷つけられていた。おそらく、効かなかった薬の報いを受けたのだろう。
楽隊は太鼓を打ち、大小さまざまのヒョウタンを二列に並べたツィンバロに似た楽器をゴムの玉のついた棒でたたいていた。アフリカ原住民以外のものにとってはひどく騒がしいだけの楽隊だった。また、この行列は何本もの旗を掲げていて、その旗竿(はたざお)の先端には、モワニ・ルンガが敗った敵の部族の族長の頭蓋骨が飾ってあった。
王様が輿を下りると、いっせいに拍手が起こった。奴隷の隊列の兵士たちは旧式の銃で祝砲を鳴らしたが、その空砲の音も群衆の怒号に消されてしまうほどだった。伍長たちは、絶えず袋に入れて持っている赤い辰砂(しんしゃ)を黒い鼻の頭にこすりつけてから、平伏した。それからアルベスが進み出て、新しいタバコ――《心を落ち着かせる草》と呼ばれている――を捧(ささ)げた。実際、心を落ち着かせる必要があったのである。その理由はだれにもわからなかったのだが、モワニ・ルンガはひどく機嫌(きげん)が悪かったからである。アルベスにつづいて、コインブラ、イブン・ハミス、アラビア人や混血の奴隷商人たちが王の前にごあいさつに出た。アラビア人たちは「マルハバ」と言った。アフリカ中部で行なわれているアラビア人の歓迎のことばである。その他の者は、両手をたたいて頭を地面へすりつけるなどして、この汚らしい王様への追従を大げさに示した。
モワニ・ルンガは、そういう連中などろくに見向きもせず、まるで地面がローリングかピッチングでもしているように、ふらふらと両足を開いたかっこうで、奴隷たちの間を歩いて行った。それを見ている奴隷商人たちは、王様が気まぐれを起こして奴隷のどれかを欲しいと言い出しはしないかと心配していたし、また奴隷たちも、こんな愚かものの王様に自分が取り上げられはしまいかと、びくびくしていた。
ネゴロはアルベスのそばを一瞬も離れず、さかんに王様に敬意を表していた。彼らは原住民のことばで王様と話していた――《話す》というのは会話を意味するのだろうが、実際にはモワニ・ルンガの酔っ払った唇からは短いことばがとぎれとぎれに洩れるだけだったのである。しかもそのことばというのは、がぶ飲みしすぎて足りなくなったブランデーをまたもらいたいと要求することばだけなのだった。
「カゾンデの市においでくださいまして、まことに光栄でございます」とアルベスは言った。
「のどが渇いた」と王様は言う。
「このネゴロは、市の奴隷売買で大働きをしてくれております」とアルベスは言った。
「飲むものを!」とモワニ・ルンガは答える。
「友人のネゴロは、久しぶりに王様にお目にかかれて、非常に光栄に思っております」
「飲むものを!」と王様はくり返す。その口からは不快なアルコールの匂(にお)いが発散していた。
「よろしゅうございます。ビールとハチミツ酒を!」と王様の望むものをよく知りながらアルベスは言った。
「いかん……いかん……ブランデーを! ブランデーの一滴のためなら、わしは……」
「白人の血の一滴を、お願いいたします」とネゴロはアルベスに合図をして言った。アルベスもその意味を覚(さと)ってうなずいた。
「白人だと? 白人を殺す!」ネゴロのことばに、モワニ・ルンガの狂暴な性格が目覚めた。
「アルベスの部下を殺した白人がおりますので」とネゴロは言った。
「そのとおりでございます……わたしの部下のハリスでございます」とアルベスは言った。「仇を討ってやりたいと思いまして……」
「その白人をアスア族の首長、マソンゴのところへ連れて行くがいい! アスア族たちはその男の身体を生きたまま小さく刻んで食ってしまうだろう。あの連中は、まだ人間の肉の味を忘れてはいないだろうからな!」とモワニ・ルンガは叫んだ。
このマソンゴというのは、事実、食人種の首長で、アフリカ中部のある地方では人肉を食う習慣がまだ公然と行なわれていたのである。リビングストーンもその旅行記にそれを記している。ルアラーバ川の両岸のマニエマ族は、戦争で殺された人間だけでなく、《人肉は少々塩味があって、あまり味付けの必要がない》と称して、食うために奴隷を買っているのである。カメロン大尉は食人種モエネ・ブガ族に会っているが、彼らも死体を数日間流れる水に浸しておいてから食ったということである。スタンリーも同様に、アフリカ中部の諸部族に広く見られる食人の風習が、ウクス地方の住民にあるのを見ている。
モワニ・ルンガがディックに課した死刑はきわめて残酷なものだったが、それでもなおネゴロは満足しなかった。ネゴロはディックを自分の手から放す意志はなかったのである。
「その白人はここで友人のハリスを殺したのです」とネゴロは言った。
「ここで死なせなければなりません」とアルベスも言った。
「どこでも、好きなようにすればいい!」とモワニ・ルンガは答えた。「だが、その白人の血一滴に対して、ブランデー一滴だぞ」
「よろしいですとも」とアルベスは言った。「今日こそ火の酒〔ブランデー〕の名にふさわしいブランデーをお目にかけましょう! 王様の目の前でその酒を燃してごらんに入れます」
アルコール中毒の王様は手を打って喜んだ。王様は喜びを押さえきれず、王様の妻たちも、王様に仕える役人たちも大喜びだった。彼らはブランデーが燃えるのを見たことがなく、おそらく火がついたまま飲むのだと思ったのだろう。それにまた、アルコールに対する渇きとともに、未開人には強い欲求である血への渇きが、同様に満たされるからだった。
哀れなディック・サンド! どんな恐ろしい苦痛にさらされるのだろうか! 文明人の場合でさえ、酒の酔いというものは恐ろしい結果を招くことを思えば、未開人のなかでは酔いがどんなことになるか想像できよう。白人に苦痛を与えるという考えが、すべての原住民にも、アルベスにも、混血のコインブラにも、気に入ったのである。自分と同じ白人に対して強い憎しみを抱いているネゴロにはなおさらだった。
夜になった。夕暮れという時間がなく、昼間がほとんど突然に夜になるのである。アルコールに火をつけるのによい時刻だった。
モワニ・ルンガにブランデーを燃して見せ、それまで以上にブランデーに夢中にさせようとしてアルベスの提案したプランは、実際、すばらしいアイデアだった。モワニ・ルンガはブランデーすなわち火の酒が、その名にふさわしくないと考え始めていたところだった。おそらく、実際に炎を上げて燃えるところを見たら、ブランデーは彼の舌に今まで以上に快感を与えるに違いなかった。そこで、その夜のプログラムは、まずブランデーを燃し、ディックに苦痛を与えるのはその次だった。
暗い牢に閉じ込められたディックは、次にそこを出るときは死に向かうときのはずだった。他の奴隷たちは、売れたものも売れなかったものも、バラックに連れもどされていた。広場に残っているのは、奴隷商人と伍長と兵士だけで、彼らも王様が飲み残したブランデーの余りにあずかろうと用意しているのだった。
ネゴロの勧めで、アルベスは見事な場面を用意した。少なくとも百リットルくらいはいりそうな銅の大鍋(おおなべ)が運び出され、広場の中央にすえられた。いくつもの酒樽(さかだる)のアルコールが注ぎ込まれた。肉桂(にっけい)、トウガラシなど、味を強めるものもたっぷり投げ込まれた。すべてのものが王様のまわりに集まり、モワニ・ルンガはよろめきながら鍋の前に進んだ。この火の酒に魅せられ、鍋のなかに飛び込むのではないかと思われるほどだった。アルベスは親切そうに王様を支え、火のついた松明(たいまつ)を手に持たせた。
「火を!」とアルベスはずるそうな顔に満足の色を浮かべて言った。
「火だ!」とモワニ・ルンガは答えて、燃える松明を大鍋の上に振りおろした。
次の瞬間、青色を帯びた炎が鍋のなかの液体の表面から吹き上がった。味がひりひりと強くなるように、アルベスが塩を混ぜておいたのである。鍋を囲む人間たちの顔が、幽霊のような青みを帯びた。酒好きな者ばかりだったので、いっせいに叫び、踊り始め、手をつないで王様のまわりに大きな円を描いた。
アルベスは大きな金属製のスプーンで、青白い炎をあげている鍋のなかを掻(か)き回した。モワニ・ルンガが鍋に近寄った。アルベスからスプーンを受け取って鍋に入れると、炎をあげているブランデーをスプーンにいっぱいすくい出し、口に近づけた。
恐ろしい悲鳴があがった。火が燃え移ったのだった。王様は燃えるブランデーを飲み下した。火は熱くはなかったが引火してしまったのである。
それを見て、原住民たちのダンスはぴたりと止まった。王様の火を消そうとして大臣が駆け寄った。だが、王様と同じくらいアルコール中毒の大臣も、たちまち引火してしまった。
アルベスもネゴロも助ける方法が思いつかなかった。女たちは恐ろしがって逃げて行った。
王様と大臣は地面を転げ回っていた。たっぷりとアルコールの浸み込んだ二人の身体は、燃え上がり、水で消すこともできなかった。数秒後、モワニ・ルンガと大臣は動かなくなったが、身体はなお燃えつづけた。やがて、黒くくすぶった脊椎(せきつい)、手・脚の骨だけが残った。それがカゾンデの王様と大臣のすべてだった。

一二 王の埋葬

五月二十九日、カゾンデの町は日ごろとはまったく違っていた。原住民たちは、怯(おび)えて小屋に閉じこもっていた。あれほど恐ろしい死に方を――しかも自分を神だと自称していた王様が死んだのである――だれも見たことがないからだった。罪を犯したものを焼き殺したことはあったし、最も年老いた原住民たちには食人の記憶も残ってはいた。だから、人間の身体はなかなか焼けないと彼らは知っていた。ところが、王様と大臣が簡単に引火してしまったのである! そのことは、彼らにはどうしても説明のつかないことだった。
アルベスは彼の家のなかにじっと立っていた。王が焼け死んだ責任を負わされる恐れはなくなったのだった。ネゴロが名案を思いつき、王様の死は超人の死で、大いなるマニトウ神に選ばれたもののみがあのような死を遂げることができるのだ、といううわさを町中に流したからだった。このうわさを、迷信に捕われやすい原住民は進んで受け入れた。王と大臣の身体から発した焔は、聖なる火であった。神々の地位に列した尊い王にふさわしい葬儀を行なえばよい、というわけであった。
この葬儀を利用してディックを処分しようというのがネゴロの考えたことだった。カメロン大尉など何人もの旅行家が語っているように、アフリカ中部では、王の葬儀にはいけにえが必要とされるのである。
モワニ・ルンガの後継者はモワナ王妃だった。王妃は速やかに葬儀を執行することにより、主権者としての権威を示して競争相手を退け、なかでも、カゾンデ王のさまざまな権益を奪おうと企(たくら)んでいるウクス王を退けようとした。さらにモワナ王妃は、自ら王位につくことによって、王の死後に他の妻たちが受けねばならない残酷な運命をまぬがれることができるからだった。そこで王妃は、翌日の夜、葬儀を行なうことを決めた。
宮廷にも一般の原住民たちにも、反対するものはなかった。アルベスたち奴隷商人にも、モワナ王妃の即位は不安を起こさせるものではなかった。贈り物をして自分たちのいうとおりにさせるのは簡単だからだった。したがって、即位は何の事故もなく行なわれた。ただ、王のハレムだけは恐怖に怯(おび)えていた。
葬儀の準備はその日のうちに始まった。カゾンデの大通りの一方の端を、コンゴ川の支流の一つで、深く流れの早い川が流れていた。この川の流れを一時的に変えて川底に穴を掘り、王の遺体を埋めた後、再び流れを元にもどさなければならないのだった。堰(せき)を作って水をカゾンデの平原に流す作業に原住民たちは取りかかった。葬儀の最後に、この堰がこわされ、水は元の河床を流れ始めるはずだった。
ネゴロは、王の墓に捧げられるいけにえのなかに、ディックを加えるつもりだった。ハリスがウェルドン夫人とジャックは死んだと告げたときのディックの激しい憤りを、ネゴロは忘れていなかった。彼もハリスと同じ運命に陥ったかもしれないのである。だが、ディックが手足を堅く縛られていれば恐れる必要はないと考えて、ディックの様子を見に行くことにした。彼は、相手を苦しめるだけでは足らず、苦しんでいるのを見て楽しむという卑劣な人間なのだった。
昼ごろ、ネゴロはディックが閉じ込められている小屋へ行った。前の日から少しも食物を与えられず、綱が身体に食い込むほど堅く縛られたディックは、横になったまま向きを変えることもできず、殺されるのを待っていた。だが、ネゴロの姿を見ると、怒りで全身が震えた。憎い相手に飛びかかろうと、身体を縛っている綱を切ろうとした。だが、ハーキュリーズでもそれはできなかったろう。ディックは綱を切ることはあきらめ、ネゴロの顔をじっとにらみ、何を言われても返事をしないと決心した。やがて、ネゴロのほうが先に口を開いた。
「最後に一度、少年船長にごあいさつ申しあげて、もうピルグリム号に乗っていたときのように命令できないのが、実にお気の毒でならないと言いに来たのさ」
そして、ディックが答えないのを見ると、
「おや、どうしたんだい、船長! 昔の料理番を見忘れたんじゃあるまいね? 船長様のお食事は何にいたしましょうかと、うかがいに来たんだぜ!」
そう言うとネゴロは、地面に横になっているディックを乱暴に蹴(け)った。
「それに、少年船長様にひとつお尋ねしたいこともあるんだ。アメリカに行く予定だったピルグリム号が、このアフリカのアンゴラに着いてしまったのは、いったいどういう理由なのか説明してもらえないかね?」
ディックは、ピルグリム号の羅針儀をこわしたのは、このネゴロに違いないと確信していた。だが今、ネゴロがこういう尋ね方をするということは、彼が羅針儀をこわしたことを明らかに自分で認めたに等しかった。ディックは沈黙しつづけた。
「どうだい? 本物の船員がピルグリム号に乗っていたのは幸いだったと言ったらどうかね! おかげで嵐のためにどこかの暗礁にぶつかったりもせずに、いい陸地に着くことができたんだぜ! その船員をばかにしたのはまちがいだったと、今では後悔しているだろうがな!」
そう言いながらネゴロは、懸命に平静を装って、ディックに顔を近づけた。だが、落ち着いたディックの表情を見ると、彼は怒りを押さえきれなくなって、急に大声でどなり始めた。
「ざまを見るがいい! 今度はこっちが船長だ、ご主人様だ! へまな少年水夫の命はおれの手中にあるんだぞ!」
「命をとるならとるがいい!」とディックは平然と答えた。「だが、あらゆる罪を罰してくださる神様が、おまえのすることを見ていらっしゃることを忘れるな! おまえが罰を受ける日は遠くはないぞ!」
「その神様のところに、すぐにおまえを送ってやるぞ!」
「わたしはいつでも神様の前に出られる。死ぬことをこわがってなんかいるものか」と冷たくディックは答えた。
「そいつはどうかな」とネゴロは吠(ほ)えるように言った。「なんとかして助かると思っているんだろう? とんでもない話だ! アルベスとおれがいるカゾンデで、助かるなどと思っていたら大まちがいさ! トムたちがいると思っているのか? あきらめるんだな! あいつらはもう買われてザンジバルへ行ってしまったさ。ザンジバルへ着くまでに死ななければ幸いってものだ!」
「正しいことが行なわれるためには、神様はあらゆる方法をお使いになるものだ。ほんのわずかのチャンスさえあれば、神様には十分なんだ! ハーキュリーズが自由でいる」
「ハーキュリーズだと!」とネゴロは地面を蹴って叫んだ。「とうの昔に、ライオンかヒョウに食われてしまっているだろう。ライオンたちに、先に復讐を済ましてしまわれたのが残念だよ!」
「もしハーキュリーズが死んでいたとしても、ディンゴが生きている! ディンゴは、おまえのような人間よりは、はるかに賢いぞ! わたしは、おまえという人間がよくわかっているんだ、ネゴロ、おまえは臆病者(おくびょうもの)だ。ディンゴはおまえをつけ狙(ねら)っている、今に必ず探し出す、おまえはディンゴに噛(か)まれて死ぬことだろう」
「憐れな奴(やつ)だ!」とネゴロはかっと激怒してどなった。「憐れな奴め! ディンゴはおれが銃で撃ち殺したさ! ウェルドン夫人たちと同じように死んでしまったんだ! ピルグリム号に乗っていた者はすべて死ぬんだ!……」
「おまえも間もなく死ぬってわけだ!」とディックは言った。そのディックの落ち着いた目を見て、ネゴロはぞっとして震えあがった。
ネゴロは逆上して、身動きもできぬディックに飛びかかり、首を締めようとしたが、ようやく思い止まった。殺してしまえばすべて終わりで、この上さらに二十四時間の苦痛を与えられなくなってしまうのである。ネゴロは立ち上がると、見張り番の伍長に厳重に監視しているように命令して、小屋を出て行った。
ディックはネゴロと激しく言い争ったために、かえって勇気が湧(わ)いた。それとともに、身体も力を取りもどしていた。さらに、ネゴロがかっとなって飛びかかり首を締めようとしたために、堅く縛られていた綱がわずかにゆるんだように感じられた。手足を前よりは少し動かせるので、まちがいなかった。なんとか手足を綱から抜くことができるかもしれない、とディックは思った。
時間が流れ、夜が近づいた。草を積んだ屋根からはいる日の光は次第に薄れた。騒がしかった広場も、ひっそりと静まりかえっていた。狭い小屋のなかは暗くなった。間もなく、カゾンデの町の人間が眠りにつくことだろう。
ディックは二時間ほど眠った。目が覚めると、勇気と力はさらに増していた。縛ってあった綱から腕を抜くことができた。自由に腕を曲げたり伸ばしたりできるのは実にうれしかった。
真夜中ごろらしかった。見張り番は、手にびんを握ったまま、ぐっすり眠り込んでいた。ブランデーを一びん飲み干してしまったらしかった。ディックは伍長の持っている銃を奪おうと思った。そのとき、小屋の扉(とびら)の下のほうを引っ掻(か)くような音がかすかに聞こえたような気がした。ディックは伍長の目を覚まさぬようにしながら、扉の近くまで這(は)って行った。
聞き違いではなかった。引っ掻く音はつづいている。扉の下の土を掘っているらしかった。動物か? 人間か? 「ハーキュリーズだ! そうだ、ハーキュリーズだ!」とディックはつぶやいた。目を見張り番から離さなかった。見張り番はぐっすり眠って、身動きもしなかった。ディックは扉の下に口を近づけて、ささやくようにハーキュリーズの名を呼んだ。押し殺した吠え声が答えた。「違った! ディンゴだ!」とディックはつぶやいた。「匂(にお)いで、この小屋を嗅(か)ぎ当てたんだ。またハーキュリーズの手紙をとどけて来たのだろうか? ディンゴが死んだと言ったのは、ネゴロのうそだったんだ。とすると……」
そのとき、扉の下から前脚が出た。ディックはその脚をつかんだ。確かにディンゴの脚だった。だが、手紙は? 手紙を持っているとすると、首につけているはずである。どうすればいい? 首を出せるほど大きな穴を掘ることはできるだろうか? ともかく、やってみなければならない。
しかし、ディックが内側から手で土を掘り始めると、急にディンゴの声とは違う吠え声が聞こえた。原住民の飼犬がディンゴを見つけたのだった。ディンゴは逃げて行った。銃声も響いた。見張り番が目を覚ましかけた。おそらく警報が出されてしまっただろうから、逃げることは思いもよらなくなってしまった。ディックは小屋の隅(すみ)に横になって、朝が来るのを待った。彼にとって最後のものとなる朝を。
一日中、王の墓を作る作業がさかんにつづけられていた。モワナ女王の大臣の指揮のもとに、多数の原住民が作業に加わっていた。作業は予定の時間に終わったが、罰として手足を切られたものが数人いた。新しい女王は、先王の葬儀を決めたとおり厳格に実行しようとしたからである。川底が現われ、深さ十フィート、広さは縦横十フィートに十五フィートの穴が掘られた。
葬儀は松明(たいまつ)の光で、きらびやかに行なわれることになっていた。カゾンデの町のものすべてが葬儀に加わらねばならなかった。夕方、長い葬列が新しい墓穴に向かって進み始めた。アルベス、コインブラ、ネゴロ、その他のアラビア人の奴隷商人も列に加わっていた。王の遺体は輿(こし)にのせられ、行列の最後を進んだ。輿の周囲を王の妻たちが囲み、その何人かはあの世まで王の供をすることに決められていた。モワナ女王は輿の後を、礼装して歩いていた。葬列がすべて墓に着いたときは、すっかり夜になっていた。だが、あたりは松明の光で明るく照らし出されていた。
墓穴には、すでに五十人の奴隷が鎖でつながれ、いけにえとして入れられていた。そして墓の一方の端に、赤く塗った杭(くい)が立ててあり、一人の白人が縛りつけられていた。ディック・サンドである。
女王が合図すると、王妃の一人の首が切り落とされ、その血が墓に注ぎ込まれた。つづいて、五十人のいけにえの奴隷が、次々に咽喉(のど)を切られ、墓のなかは血だらけとなった。
再び女王が合図すると、川の流れを止めていた堰(せき)が開かれ始めた。しかも残酷にも、水を一度に流さず、徐々に水量を増していくのである。
まず、墓のなかの奴隷が水に浸り始めた。咽喉を切り裂かれた奴隷たちは、なおも水から逃れようともがいていた。ディック・サンドは膝(ひざ)のあたりまで水に浸り、縛られている綱を切ろうと最後の努力をしていた。
水面は次第に上がり、いけにえの姿はすべて水中に消えた。後には、前と同じ早い流れの川があるだけで、数十人のいけにえを沈めた王の墓がその水底にあるとは、知らぬものにはまったくわからなかったことだろう。

一三 商館

ウェルドン夫人とジャックが死んだと、ハリスとネゴロが言ったことばは嘘(うそ)だった。二人と、それにベネディクトおじさんも、そのときカゾンデにいたのである。
三人はアリ塚を出たところを捕えられてから、ハリスとネゴロと十二人の兵士に連れられて、コアンザ川の野営地からカゾンデへ来たのだった。ウェルドン夫人とジャックは輿(こし)に乗せられた。ネゴロのような人間が、なぜ三人をたいせつに扱うのか、ウェルドン夫人にはその理由がわからなかった。
乗物に乗せられていたため、夫人たちは疲れることもなく、かなり短期間にカゾンデに着くことができた。ベネディクトおじさんは境遇の変化も気にならないようで、元気よく歩き通した。道の途中でときどき昆虫を採集することさえ許されたので、ベネディクトおじさんとしてはまったく不満はないのだった。そして一行は、イブン・ハミスの指揮する隊列より一週間早くカゾンデに到着した。そして、三人はアルベスの邸(やしき)の一隅に閉じ込められた。言っておかなければならないが、ジャックの病気はかなりよくなっていた。病気にかかった湿地帯を離れると次第に快方に向かい、カゾンデに着いてからはますます全快に近づいていた。奴隷たちとともに歩いていたならば、ウェルドン夫人もジャックも疲れのために倒れてしまっていたに違いないが、少なくとも肉体的には満足すべき状態で旅をすることができたのだった。
自分たち三人以外のものの消息は、ウェルドン夫人にはまったくわからなかった。ハーキュリーズが森に逃げ込んだのを見たが、その後ハーキュリーズがどうなったか知らなかったし、引き離されたディックたちがどんな扱いを受けているのかもわからなかった。イブン・ハミスの隊列がカゾンデに到着したときも、外との交渉をまったく断たれているので、ウェルドン夫人は何も知らなかった。広場でにぎやかな音がしているのは聞こえても、それが何なのかわからなかった。トムたちがウジジの奴隷商人に買われて間もなく連れ去られることも、ディックがハリスを殺したことも、モワニ・ルンガの死も、その葬儀でディックがいけにえとされたことも、まったく知らなかった。ネゴロの命令を受けた奴隷商人の言うがままに動かされながら、ウェルドン夫人は一人で悩み、ときには自殺することすら考えたが、ジャックがいる限り、それもできなかった。
したがって、どんな運命が自分たちを待っているのか、ウェルドン夫人には考えようもなかった。カゾンデまで来る途中でも、ハリスもネゴロも夫人にはまったく話しかけようとはしなかった。着いてからも、アルベスの邸の一部屋に閉じ込められた三人の前に、二人は一度も姿を見せなかった。
ジャックやベネディクトおじさんを頼りにすることは、もちろんできない。自分たちがいる土地がアフリカだと知ったとき、ベネディクトおじさんが最初に考えたのは、どうしてアフリカに来てしまったのだろうかということではなく、ツェツェバエその他アフリカ大陸ではずっと以前に発見されていた昆虫類を、自分が最初にアメリカ大陸で発見したと信じていたことが水の泡(あわ)となってしまったことを残念がることだった。それまで熱心に採集していたものも、自分たちがアフリカにいる以上、けっして驚くべきことではなかったからである。
アルベスの邸は、ベネディクトおじさんが昆虫採集を十分できるくらいに広かったが、ジャックはその年ごろならせいいっぱい走り回るところだろうに、ウェルドン夫人のそばを離れようとせず、夫人のほうでも何か事件が起こりはしないかと心配して、ジャックを手離そうとしないでいた。そしてジャックは、別れて久しい父の家にいつ帰れるのかとか、トムやハーキュリーズやナンやディンゴたちはどうしたのかとか、ディックに会いたいとかいうのだった。訊(たず)ねられても、ウェルドン夫人は答えることができず、じっとジャックを抱きしめるだけだった。
アルベスの商館には、もうアルベスの使っている奴隷しか残っていなかった。売買される奴隷たちはすべて広場の近くの小屋に入れられ、売り手のついた奴隷はそこから連れ出されて行くのだった。そして、商館の倉庫には、象牙と布が山のように積み上げられていた。象牙は海外へ輸出されるためのもので、布はアフリカ中部で物々交換されるためのものだった。したがって商館にいる人間の数は少なく、ウェルドン夫人とジャックは小さな一軒の建物を、ベネディクトおじさんはもう一軒の建物を割り当てられていた。両方の建物の間は自由に往復することができ、食事はいっしょにすませていた。食物は、ヤギやヒツジの肉、野菜、マニホック、モロコシ、果物(くだもの)などが、十分用意されていた。特にウェルドン夫人付きとなったハリマという少女は、夫人に対して、粗野ではあるが心のこもった愛情を示していた。
アルベスは商館の最も大きな建物にいて、ウェルドン夫人たちはほとんど会う機会はなく、ネゴロも商館の外に住んでいるらしく、やはり姿を見せなかった。そういうふうにほうっておかれる理由がウェルドン夫人には理解できなかったので、不安でならなかった。《わたしたちをどうするつもりなのだろう? 何のためにカゾンデまで連れて来たのだろう?》と、夫人は絶えず考えつづけた。イブン・ハミスの引率する隊列の着くまでの一週間と、その後の六日間は、そういう状態だった。
ウェルドン夫人は自分たちのことばかりではなく、三人がサンフランシスコに帰り着かないので、夫のジェームズがどれほど心配しているかということも気にかかってならなかった。夫は三人がピルグリム号に乗船したことは知らず、太平洋航路の商船に乗ったと思っているはずで、そういう商船は規則的にサンフランシスコに入港しているのに、ウェルドン夫人たちがどの商船にも乗っていないからである。そして、ピルグリム号は帰港しないので難破したものと見なされているだろうが、そのピルグリム号に三人が乗船したという連絡がオークランドの支店から伝えられたら、どれほど夫は嘆くことだろうか。夫が難破したピルグリム号を探させたとしても、探すのは当然アメリカ沿岸か太平洋中の島々であり、アフリカを捜索させることなど思いもつかないに違いなかった。
そう考えると、ウェルドン夫人はじっとしていられない気持ちだった。だが、夫人に何ができただろう? 逃げること? どうやって? それに、逃げたとしたら、海岸まで二百マイル以上もある危険に満ちたジャングルに迷い込むことになってしまう。だが、夫人はそれをあえてやってみようと決心した。その前にネゴロたちの計画を正しく知りたいと夫人は考えていた。
その計画を、ようやく知ることができた。カゾンデの王様の葬儀の三日後、六月六日、ネゴロがはじめて商館に現われ、まっすぐにウェルドン夫人のいる建物にやって来たのである。ベネディクトおじさんは昆虫採集をしているところで、それにジャックもハリマといっしょに散歩しているところだったので、夫人は一人きりだった。
ネゴロは無遠慮に入口の扉を押し開いてはいって来て言った。
「奥さん、トムたちはウジジの市場へ売られて行きましたよ」
「神様、どうかあの人たちをお守りくださいますように!」と夫人は涙を拭(ぬぐ)って言った。
「ナンはここに来る途中で死んだし、ディック・サンドも死んだ……」
「ナンが死んだですって! それに、ディックも!……」
「そのとおり。ディックはハリスを殺した報いを受けた」とネゴロは言った。「残るのはあなたたちだけだ。そして、そのあなたたちは、昔のピルグリム号の料理番の思いのままだというわけです。わかったでしょうな!」
ネゴロのことばは嘘(うそ)ではなかった。トムたちは、ウェルドン夫人たちがアルベスの邸(やしき)にいることなど夢にも知らないまま、前の日に奴隷の隊列にまざってウジジへ出発していたのである。湖水地方までの距離は数百マイル。無事に目的地に到着できる人間の数はけっして多くはないはずだった。ネゴロが再び口を開いた。
「奥さん。ピルグリム号にいるときに受けた恨みの仕返しをしようと思えば、おれはいくらでもできるわけだ! しかし、仕返しはディックが死んだことだけで十分としよう! それで、おれは本職の商人にもどろうと思うんだ」
ウェルドン夫人は黙ってネゴロを見つめていた。
「あなたと子どもと、それにあの昆虫気違いとを、高い値段で取引きするつもりだ。つまり、売るのさ!」
「わたしは自由な人種です」とウェルドン夫人はきっぱりと言った。
「いや、奴隷さ、おれがその気になればな」
「白人を買う人なんているものですか!」
「一人いるのさ。その男は、おれの吹っかけるだけの値段を払うと思うがね」
ウェルドン夫人はうつむいた。この恐ろしいアフリカという大陸では、どんなことまで行なわれるのか、夫人は知らなかったからである。
「おれの言う意味がわかったかね?」とネゴロが言った。
「わたしを売りつけようという人間は、どんな人間なのです?」
「その人間ていうのはな……」とネゴロはせせら笑いを浮かべながら言った。「ジェームズ・W・ウェルドンって名の男さ!」
「わたしの夫にですって!」ウェルドン夫人は叫んだ。ネゴロのことばがすぐには理解できなかったからである。
「そのとおり、あなたのご主人にさ、奥さん。ご主人にあなたたちを買ってもらうのさ。返すんじゃなくてね!」
ウェルドン夫人はネゴロが何か罠(わな)をしかけているのかと思った。だが、彼が本気でそう考えているのがわかった。しかも卑劣なネゴロは、その取引きを得意にさえ思っているようだった。
「いつ主人にその話をするんです?」
「できるだけ早くね」
「どこで?」
「ここでさ。ご主人はあなたたちを引き取るためだったら、このカゾンデまでだって来るのをまさかいやとは言わないだろうから」
「もちろんです! 主人は来てくれると思います。でも、だれがその話をしに行くんです?」
「おれさ! サンフランシスコへ行って、ご主人と会うつもりだ。その旅費はもっているからな」
「ピルグリム号で盗んだお金でね!」
「そう……あれさ……」とネゴロは恥ずかしげもなく言った。「それに、急いで売りたいが、そう安くは売らないつもりだよ。ご主人は十万ドルくらいなら……」
「もちろん主人はそれくらいのお金は喜んで出すでしょう」と答えて、ウェルドン夫人は冷やかにつけ加えた。「それにしても、わたしたちがここに捕えられている証拠を見せなければならないでしょう……」
「そのとおり!」
「証拠がなければ、夫はあなたのことばだけを信じてここまで来るほど愚かな人間ではありません」
「来るさ。あなたの書いた手紙を見ればね。手紙に、あなたたちの今の状態と、おれがあなたたちを野蛮人から救ったりっぱな人間だと書いてくれればね……」
「そんな手紙は絶対に書けません」とウェルドン夫人はさらに冷たく答えた。
「いやだっていうんだね?」
「お断わりします!」
夫がこのカゾンデまで来る途中の危険、ネゴロの要求する金額、身代金を手に入れた後にネゴロが夫をどうするかということなどを考えると、夫人はジャックのことも忘れて、ネゴロの要求を拒否した。
「書くんだ!……」とネゴロは叫んだ。
「いやです……」
「忘れてはいけないぜ」とネゴロは言った。「子どももここにいるんだってことを! おれはあの子をどうにだってできるんだからな……」
ウェルドン夫人は、そんなことはさせないと答えたかった。彼女の心臓は早鐘を打ち、声が出なかった。
「奥さん! おれの言ったことをよく考えてみるんだな。一週間以内に手紙を書くんだ! もし書かなかったら、後で後悔することになるぜ」
言い終わるとネゴロはゆっくり出て行った。ウェルドン夫人がまちがいなく手紙を書くと信じていたからである。
ウェルドン夫人は、ネゴロが再び現われるまでの一週間、よく考えて決心しようと思った。ネゴロは金が手にはいるまでは、人質の三人には手を触れないに違いない。夫がカゾンデに来ないで、三人が夫に引き渡される方法をなんとか考えようと夫人は思った。いったん十万ドルを手に入れたら、ネゴロは、夫や自分たち三人を素直に手離すだろうか? それにモワナ女王の気まぐれで、カゾンデを離れることを許されないかもしれない。三人の《引き渡し》は最もよい条件で行なわれなければならない。カゾンデではなく、沿岸で行なうことにすれば、夫がジャングルのなかで危険に出会うこともなく、四人が無事にアメリカに戻れる可能性が大きい。そう考えてから、ウェルドン夫人は、いったんはネゴロの提案を拒絶したが、手紙を渡そうと考えた。
そのとき、ジャックが小屋にはいって来た。ウェルドン夫人は、まるで今すぐネゴロがジャックを引き連れて行こうとでもするように、思わず強く抱きしめた。
「何か心配事があるの、お母さま?」とジャックは言った。
「いいえ、何もないわよ」と夫人は答えた。「あなたのお父さまのことを考えていたのよ。ジャックはお父さまに会いたい?」
「うん、もちろんだよ。お父さまが来るの?」
「いいえ……いらっしゃらないわ」
「じゃあ、ぼくたちが行くの?」
「そうよ」
「ディックも……ハーキュリーズも……トムもいっしょだね?」
「そ……そうよ」と夫人は涙を隠しながら答えた。
「お父さまから手紙が来たの?」とジャックは言った。
「いいえ」
「じゃあ、お母さまがお父さまに手紙を書くんだね?」
「そう……そうよ」と夫人は答えた。

一四 マンティコール・テュベルクルーズ

約束した六月十四日、ネゴロはウェルドン夫人の小屋に現われた。夫人はネゴロに言った。
「あなたが取引きをしようというなら、相手が受け入れられないような条件を出さないほうがいいんじゃありません? わたしたち三人と、あなたの要求する身代金との交換のためなら、何もわたしの主人がここまで来る必要はないと思いますけれど」
ネゴロはちょっと考えてから承諾した。そして、ネゴロが夫を大西洋岸の小さな港モサメデスまで案内して来て、決めた日までにアルベスの部下が何人かで三人をモサメデスまで連れて行く、というウェルドン夫人の出した条件をネゴロは受け入れた。身代金はアルベスの手代が受け取り、ネゴロはウェルドン氏に対しては最後までまじめな人間という役を演じつづけることができるというわけである。こうしてウェルドン夫人は、重要な条件をネゴロに承諾させることができたのである。
そこでウェルドン夫人は夫に手紙を書いた。ネゴロはその手紙を持って、翌日、二十人ほどの黒人に守られて北へ向かった。北に向かった理由は、一つにはコンゴ川と連絡している船に乗るためであり、また一つにはポルトガル軍の駐屯地(ちゅうとんち)を避けるためだった。少なくとも、ネゴロがアルベスに話した理由というのはそれだった。
ネゴロが去ると、ウェルドン夫人はカゾンデでの生活をできるだけ快適なものにしようとした。カゾンデに滞在する期間は短くても、三、四か月かかるからである。夫人はアルベスの商館を出ようとは思わなかった。そのなかにいる限り、安全だったからである。ハリマの心のこもった態度も、監禁されている憂いを慰めてくれていた。それに、もちろんアルベスは夫人たちが邸(やしき)の外へ出ることを許さないに決まっていた。高額の身代金が手にはいるたいせつな人質なのだからである。ビヘやカサンガの商館に行く用件があったが、代わりにコインブラを行かせた。この酔っ払いがいなくなるというのは、アルベスにとっては一挙両得というものだった。
それに、出かける前にネゴロがウェルドン夫人を厳重に監視するようにアルベスに言い置いて行ったからである。ハーキュリーズがその後どうなったかだれも知らなかったし、もしハーキュリーズがこの危険な風土に耐えて生きていたら、必ずウェルドン夫人たちを取り戻しに来るに違いないからだった。アルベスももちろん事情をよく了解し、三人を十分に注意して監視させることを約束していた。
ウェルドン夫人にとっては、きわめて単調な日々が始まろうとしていた。ジャックは夫人といっしょに商館の庭を散歩し、色あざやかな小鳥やチョウの飛んでいる囲いの外に出たがったが、それは許されないことだった。
ところが、ベネディクトおじさんは、六月十七日、世界でも最も幸運な昆虫学者になる機会に恵まれた。
午前十一時ごろ、激しい暑さのため、カゾンデの町の道には人影はなく、商館でもだれもが建物のなかにはいっていた。さすがのベネディクトおじさんも昆虫採集をあきらめ、小屋のベッドに横になってうとうと眠りかけていた。
突然、おじさんの眼が開いた。虫の羽音が聞こえたのである。「昆虫だ!」と叫んで、おじさんは起き上がった。
確かに小屋のどこかに昆虫がいるようだった。おじさんは他のことはまるでだめだが、聴覚だけはすばらしく、羽音で虫の種類が判別できるほどだった。ところが、そのとき小屋のなかを飛んでいるらしい虫の羽音は、おじさんの聞いたことのないものだった。
「なんだろう?」とおじさんは言って、飛んでいる虫を見ようとした。だが、眼鏡がないのでよく見えない。おじさんは羽音で聞き分けようとした。
おじさんはベッドの上に坐り、じっと動かず、耳を澄ませた。太陽の光が射(さ)し込み、部屋のなかは明るかった。黒いものが飛び回っているのは見えたが、おじさんの眼では見分けがつかなかった。しばらくして、飛んでいた虫はおじさんの頭に止まった。おじさんはうれしそうに微笑を浮かべた。虫は頭の上をゆっくり歩いている。そっと手を頭のほうへ伸ばしかけて、じっとこらえた。いけない! とおじさんは思った。逃がしてしまうかもしれないし、殺してしまったらなお悪い。もう少し待とう。ほら、下りて来るぞ。脚の感じからすると、かなり大きいようだな。うまく目の近くに来てくれればいいが。ちょっと見れば、何科の虫かわかるから!
だが、虫はなかなか眼の近くに下りて来なかった。それに、頭の後ろのほうへ下りて行くかもしれないし、気が変わって部屋の外へ飛んで行ってしまうかもしれなかった。しかし、おじさんの祈りはかなえられたようで、虫は頭の上をあちこち歩き回った後、額のほうへ下り始めた。ふつうの人なら、たたきつぶしたくなるところを、虫がそろそろと額を歩き回り、鼻のほうに下りて来るのを、おじさんは超人的な忍耐力で耐えていた。虫は鼻を下りて来て、鼻の先端に止まった。絶好の位置だった。おじさんは両方の眼を寄せて虫を見つめた。
「すばらしい! マンティコール・テュベルクルーズだ!」
おじさんは叫んでしまった。叫び声をあげる場合ではないが、昆虫学者としては止むを得ない興奮だったかもしれない。アフリカ中部に特有で、標本もきわめて稀(まれ)にしかない、ハンミョウと同類の、翅鞘(ししょう)の大きいマンティコール・テュベルクルーズが、鼻先に止まっていたのだから。
だが、もちろん虫はさっと飛んだ。おじさんはあわててつかもうとしたが、つかんだのは自分の鼻の頭だった。
「くそっ!」とおじさんは叫んだ。だが、おじさんはすぐに冷静さを取りもどした。マンティコール・テュベルクルーズが飛ぶより歩くことのほうが多いことを思い出したのである。膝(ひざ)をついて床に顔を近づけると、十インチばかりのところを黒いものが動いていた。
「つかまえようとすれば、つぶしてしまうかもしれない」とおじさんは思った。「それはまずい! このまま後をついて行きながら観察しよう!」
おじさんは鼻を床にすりつけるようにして、四つんばいになって虫の後からついて行った。間もなく、虫は小屋を出て、日の当たった庭を歩き、数分後には庭の端の塀の下まで行った。
塀を飛んで逃げるか? その虫の性格から考えて、そんなはずはない、とおじさんは思った。果たして、虫は塀の根元にあった大きなモグラの穴にはいって行った。暗い地中の道を好む性格なのである。おじさんは虫を見失ってしまうと思った。だが、驚いたことに、そのモグラの穴は直径が約二フィート近くあり、おじさんの瘠(や)せた身体なら十分にはいって行くことができるほどだった。虫を追うのに夢中になっていたおじさんは、その穴が塀の下を通っていることに気づかなかった。そして、三十秒後に、おじさんは商館の外に出ていた。だが、そんなことにおじさんが気がつくはずはなく、依然として虫を観察しつづけていた。だが、虫のほうは、おそらく歩くのに飽きたのかもしれない。翅鞘(ししょう)を開き、羽根を広げた。おじさんは危険を感じた。腕を伸ばして虫を捕えようとした。だが、ブーン……虫は飛んで行ってしまった。
残念! おじさんは立ち上がって両手を上に伸ばした。虫は頭の上を飛び回り、おじさんにはぼんやりした黒い点しか見えなかった。
アルベスの商館はカゾンデの町の北端にあり、おじさんの出たところはその北側だったので、そこから広大なジャングルが始まっていた。したがって、虫が森にはいり、枝から枝へ飛び移り始めたら、もうおじさんの採集箱にはいる可能性はまったくないと言ってよかった。
「くそっ!」ともう一度おじさんは言った。「逃げられたか! 恩知らずな虫め! わたしの収集した標本のなかでも、最良の場所に飾ってやろうと思っていたのに。いや、わたしはあきらめないぞ! つかまえるまで追いかけるからな……」
完全に逆上したおじさんは、自分の近視の眼では、繁茂したジャングルの木々の葉のなかに、あの昆虫を見つけることなどできないことも考えなかった。そして、両手を広げて深いジャングルに飛び込んで行った。自分がどっちに向かって走っているのか、元の位置に戻れるかどうか、原住民か危険な野獣に出会うかもしれないということも考えず、一マイルほど走って行った。
突然、大男が飛び出して来て、躍りかかった。そして、あっという間におじさんを抱き上げ、大きな木々の間に運び去ってしまった。

一五 魔術師

というわけで、その十七日、昼食の時間になってもベネディクトおじさんは姿を見せなかった。おじさんがどんな事件に出会っていたのか想像することもできないウェルドン夫人は強い不安に襲われた。おじさんが厳重な囲いを乗り越えて首尾よく逃げることができたなどということは考えられなかった。それに、収集箱とアフリカに着いて以来集めた標本とを捨てて逃げろと言っても、おじさんはきっぱりと逃げることを拒否したに違いないのである。ところが、その収集箱と標本はそっくり小屋に残っていた。おじさんが自分からそれを捨てて行ったとは考えられない。だが、おじさんはアルベスの邸(やしき)のなかにはいなかった。ウェルドン夫人は熱心におじさんを探した。ジャックもハリマも探した。だが見つからなかった。
おじさんがいなくなったのを知るとアルベスは激怒して、召使いたちに商館内をくまなく探させた。そのアルベスの怒りの激しさを見て、ことによるとアルベスがおじさんを奴隷として売ったのではあるまいかと心配していたウェルドン夫人の疑念は晴れた。とすると、おじさんはやはり自発的に逃げたことになるが?……
アルベスの命令で商館内を慎重に探した召使いたちは、庭の一隅に外のジャングルに通じるモグラの穴を発見した。アルベスは《虫気違い》が、その狭い穴から逃げたと覚(さと)った。ベネディクトおじさんがいなくなれば、彼の企図していた取引きの利益が減少することは明らかである。アルベスがどんなに怒ったかは想像できよう。
「あんなバカ者にたいした値打ちはないんだが、身代金だけは十分取れたんだぞ! よし、今度つかまえたら……」
だが、商館に隣接するジャングルを広範囲に探してみても、おじさんの手がかりはまったく得られなかった。ウェルドン夫人もおじさんのいなくなったことをあきらめざるを得なかった。おじさんが外部のだれかと連絡していたということは考えられず、したがっておじさんは偶然にモグラ穴を発見し、後に残すもののことも忘れて逃げてしまったに違いなかった。ウェルドン夫人は、前後の判断もなく逃げて行ってしまったおじさんを恨もうとは思わなかった。
「かわいそうな人! 逃げた後どうなるのかしら?」とウェルドン夫人は考えた。
モグラの穴がていねいに埋められ、以後商館内外の監視が厳しくなったことはいうまでもない。
ウェルドン夫人とジャックの単調な生活はつづいた。だが、その時季に非常に稀(まれ)な気象上の現象が起こりつつあった。ふつう雨季は四月に終わるのであるが、六月の十九日ごろから雨が降りつづいているのだった。空は厚い雲でおおわれ、カゾンデ地方一帯は水浸しになっていた。作物のよく実った低い地域は完全に水中に沈んでいた。収穫を不意に断たれた人々は食糧を失い、間もなく窮地に陥ろうとしていた。その季節の農作業が行なわれなくなり、モワナ女王も大臣たちも、この異変の前になすすべがなかった。
そこで、魔術師が呼ばれることとなった。だが、魔法で病人を治したり、予言をしたりするような魔術師ではなかった。個々の人間ではなく、住民全体の不幸にかかわる問題なのだった。雨乞(あまご)いと雨止(あまや)みを専門とする魔術師たちが呼ばれることになったのである。魔術師たちは懸命に呪文(じゅもん)を唱え、鈴や鐘を打ち鳴らし、尊い護符(ごふ)を広げ、またあるものは動物の角を振りかざし、あるいは悪魔を祓(はら)うと称して鳥獣の糞(ふん)を投げ散らかし、さらには宮廷の高官の顔に唾(つば)を吐きかけるものさえあった。しかし、すべて無駄だった。カゾンデの空に雲を呼び集めている悪霊を追い払うことはできなかった。
雨は激しくなるばかりだった。そこでモワナ女王は、そのころアンゴラの北部にいるという有名な魔術師を呼ぶことに決めた。その魔術師はカゾンデに来たことはなかったが、名声はカゾンデにも鳴り響いている最高級の魔術師だった。
六月二十五日の午前、新しい魔術師の到着が、騒々しい鐘の響きによって告げられた。魔術師は、町にはいるとまっすぐに広場へ向かった。町の人々は急いで広場に集まった。雨はいくぶん小止(こや)みになり、天気が変わることを示すような風が吹き始めた。新しい魔術師が来ると同時に、こうして天候が変わり始めたということは、神々が彼に好意を示しているようにも思えた。魔術師はりっぱな体格で、黒い肌は美しい色をしていた。身長は六フィート近く、非常な体力を備えているように見えた。その外観だけで、すでに魔術師は見る人々を威圧していた。
ふつう魔術師たちが旅をする場合、三人ないし五人が集まり、それに数人の従者を連れて歩くものである。だが、この新しい魔術師は一人きりだった。胸には白い縞模様(しまもよう)が描いてあり、下半身には草を編んだゆったりしたスカートをつけていた。首飾りを首にかけ、頭には真珠を飾った前立てのある革の冠をのせ、腰には銅の帯を巻き、その帯には数百もの小さな鈴がついていて、その数百の鈴が騒がしく鳴り響いていた。
魔術師はパバーヌ曲〔二あるいは四拍子のダンス曲〕ふうのリズムで腰の鈴を鳴らしながら、まず広場を一周した。集まった人々もその動きをまねた。巨大なサルの後を小さなサルの群がついて歩いているような感じだった。突然、魔術師は広場を離れ、大通りを宮廷に向かって歩き始めた。
魔術師が宮廷に着くと、モワナ女王は廷臣を従えて姿を現わした。魔術師は女王に向かって頭が地面にとどくくらい深々と礼をし、ゆっくりと身体を起こした。それから、両腕を空に向けて伸ばした。空には雲がかなりの速さで動いていた。魔術師は、その雲を指さし、パントマイムでその雲の動きをまねて見せた。
次に、突然、魔術師はモワナ女王の手をつかんで、見守る人々を驚かせた。数人の廷臣が、この礼儀をわきまえぬ態度を押さえようとした。だが、魔術師は強い力で女王を引き寄せ、女王はよろけながら引きずられた。その乱暴な魔術師のやり方に、女王は機嫌(きげん)を損じているようにも見えなかった。女王は微笑――しかめっ面のように見えたが――を浮かべた。さらに魔術師は、女王を引きずって、急ぎ足で歩き始めた。群集は女王の後を追った。
魔術師が次に向かったのはアルベスの邸(やしき)だった。アルベスの邸の門の扉は閉じてあった。魔術師は肩の一押しで扉を砕き、女王を邸のなかに押し込んだ。アルベスは兵士や奴隷たちとともに急いで出てくると、開かれるのも待たずに扉をこわした無礼を咎(とが)めようとした。だが、女王が魔術師の思うままにされて抗議らしいものもしないでいるのを見ると、アルベスたちも恐れて、魔術師を咎めるのをさしひかえた。
アルベスはおそらく女王に向かって、自分の邸においでくださったのは何のご用でしょうかと尋ねようとするつもりだったのだろう。だが、魔術師はそんな時間を与えず、人々を退かせて自分の周囲を広くあけさせ、広場で見せたよりももっと大げさなパントマイムを始めた。雲を指さし、雲に向かって威嚇(いかく)するような身振りをし始めた。まず雲を止める身振りをし、それから雲を引き裂く身振りをした。頬(ほお)を大きく膨(ふく)らませると、厚い雲の塊(かたまり)を吹き飛ばそうとするように、力いっぱい雲に向かって息を吹きかけた。それから、大きく伸び上がって、雲の動きを止めようとするようだった。見ているものには、魔術師が大きな身体を伸ばせば雲をつかむこともできるのではないかというような気さえしたほどだった。
迷信深いモワナ女王は、魔術師に手をつかまれたままで、完全に魔術師の術にかかってしまっていた。錯乱状態に陥り、機械的に魔術師の動作をまね始めたのである。すると、見ていた人々がすべて女王と同じことを始め、魔術師がもらす喉音(こうおん)は、原住民の歌う声や叫び声にかき消されてしまった。
果たして雲はもう地平線から湧(わ)き上がって太陽をおおいかくすことを止めるだろうか? この新しい魔術師の悪魔払いによって、雲は消えるだろうか? いや、そうではなかった。今まで雨を降らせつづけた悪霊を退治した、と女王をはじめ町の人々が信じたとき、朝のうち少し薄くなっていた雲がまたいっそう暗く空をおおい始めていたのである。やがて、大粒の雨が激しく地面をたたき始めた。
その雨で、人々はようやく陶酔状態から覚めた。この魔術師も今までのものと同じく役に立たなかったことに、人々は気づいた。女王が眉をひそめると、人々はただちにそれが魔術師の耳を切り落とせという命令だと悟った。原住民たちは取り囲んでいた輪を次第に縮めていき、今にもいっせいに飛びかかろうとした。そのとき、思いがけない事件が原住民の怒りの方向を変えさせた。
叫び声をあげながら迫って来る群集を見下ろしていた魔術師が、腕を伸ばして邸内の一点を指さしたのである。その動作がいかにも威厳に満ちているので、人々は思わず指さす方を見た。集まった人々の叫び声を聞いて、ウェルドン夫人とジャックが小屋から現われたところだった。魔術師が激しい怒りをこめた動作で、右手を上へ伸ばして雲を指さしながら左手で指さしたのはこのウェルドン夫人たちだったのである。彼らだ! まさに彼らだった! すべての災いの根源は、あの白人の女とその子どもだったのである! この雲も、あの白人が雨の多い彼らの国からカゾンデに呼び寄せたのだ!
人々は魔術師の身振りの意味を悟った。モワナ女王は、ウェルドン夫人を指さして威嚇するような身振りをした。原住民は恐ろしい叫び声をあげてウェルドン夫人に向かって行った。
ウェルドン夫人は危険を察してジャックを抱きしめ、この極度に興奮した群集の前に彫像のようにじっと動かなかった。魔術師がウェルドン夫人に向かって進んだ。人々は、彼がこの二人の白人を災いの原因と見抜いたのだから、その災いの根を断つこともできるだろうと思ったのだろう、道を開いて魔術師を通した。だが、奴隷商人アルベスにとっては、この白人は貴重な人質だった。どうすればよいのかわからぬまま、アルベスも近寄った。魔術師はジャックをつかむと、ウェルドン夫人の腕からもぎ取り、高々と空に向かって差し上げた。人々は、彼が少年を地面にたたきつけて神々の霊を静めるだろうと思った。ウェルドン夫人は恐怖に悲鳴をあげると、失神して地上に倒れてしまった。魔術師は女王に向かって安心するようにという合図をしてから、気を失ったウェルドン夫人を持ち上げた。魔術師が二人を抱いて歩き始めると、その態度に威圧されて、群集は道を開いた。アルベスはがまんしきれなくなった。三人の人質のうち一人に逃げられたのに、残る二人を連れ去られては! アルベスにしてみれば、カゾンデ一帯がたとえ洪水(こうずい)に見舞われたとしても、この人質を手離すことはできなかった。彼は魔術師の進む道を止めようとした。
すると、原住民の怒りはいっせいにアルベスに向けられた。モワナ女王は彼を捕えるように命令した。これ以上反抗すれば、自分の身にどんなことが起こるかよく知っていたので、アルベスは心の中で原住民の愚かさを罵(ののし)りながら、じっと沈黙せざるを得なかった。人々は、雲を呼び寄せた白人の生命とともに雲が消えるところが見られると信じていた。人々を苦しめていた雨を魔術師が、この二人の白人の血によって消し去ろうとしているのだと信じて疑わなかった。魔術師は子ヤギを二匹くわえて走るライオンのように、二人のいけにえを軽々と運んでいた。ジャックは怯えきって声も出ず、ウェルドン夫人は気を失ったままだった。人々は叫び声をあげながら魔術師の後に従った。魔術師はアルベスの邸(やしき)を出ると、カゾンデの町を横切ってジャングルへはいって行き、一瞬も休まず急ぎ足で三マイルほど歩いて行った。そのころになると、人々も彼がそれ以上後について来られることを望まないらしいと気づいて立ち去ったため、ようやく一人になっていた。川があった。その川はかなりの流速で北へ向かって流れていた。
川岸に大きな洞穴があり、その入口を隠している草を押しのけてはいって行くと、草のむしろを掛けたカヌーがつないであった。魔術師は運んで来た二人をカヌーに置くと、綱を解いてカヌーを流れに押し出して飛び乗った。カヌーが速い流れを進み始めてから言った。
「船長! ウェルドン夫人とジャックさまをお連れしました。さあ、出発です! カゾンデのあのばか者たちの上に、今ごろたっぷり雨が降っていることでしょう!」

一六 流れにまかせて

魔術師の異様な姿をしていたのはハーキュリーズで、話しかけている相手はディック・サンドだった。まだ体力の衰えが回復しないディックは、ベネディクトおじさんに支えられて起き上がろうとした。そのそばにはディンゴがうずくまっていた。
ようやく意識をとりもどしたウェルドン夫人は「まあ、ディックじゃないの!」と言っただけで、その後ことばがつづかなかった。起き上がろうとするディックを夫人は急いで押さえ、ジャックは懐かしそうにディックの身体を撫(な)でていた。それから、ジャックは振り向いてハーキュリーズに言った。
「あんたは知らない人だけれど、だれなの?」
「おやおや、変装がうまかったようですよ!」とハーキュリーズは言って、胸の縞模様をこすって消した。
「ずいぶん汚いね!」とジャックは言った。
「そうですとも、わたしは悪魔なんですから。悪魔っていうのは、きれいなものじゃありません」
「まあ、ハーキュリーズじゃないの!」とウェルドン夫人は言って、彼の忠実さを感謝するようにその手を握った。
「ぼくもハーキュリーズに助けられたのです」とディックが言った。
「そうです。でも、まだわたしたちは完全に助かったというわけではありません!」とハーキュリーズは言った。「それに、ベネディクトさんがいらっしゃって、奥さんたちの閉じ込められている場所を教えてくださらなかったら、どうすることもできなかったでしょう」
五日前、虫を追ってアルベスの邸(やしき)を抜け出てジャングルに迷い込んだベネディクトおじさんを襲った大男は、ハーキュリーズだったのである。カヌーが川を下って行く間に、ハーキュリーズは、コアンザ川の野営地から逃げてジャングルにはいってからのことを話した。見つからないようにウェルドン夫人たちの乗せられた輿(こし)の後をつけて歩いていたこと、傷ついたディンゴを見つけたこと、そのディンゴを使ってディックに手紙をとどけさせたことなど。そして魔術師になりすましたのは、夜ごとにジャングルを歩き回ってカゾンデの町の様子をうかがっているうちに、偶然、北のほうから来た魔術師に出会ったので、捕えて身につけているものを剥(は)ぎ、木にしばりつけてから自分が魔術師になり変わって町へ行った、というわけだった。
「それで、ディックはどうしたの?」とウェルドン夫人は尋ねた。
「ぼくのことですか? ぼくは何も知らないんです」とディックは言った。「ぼくが最後まで考えていたのは、奥さんとジャックさまのことでしたけれど!……杭(くい)に縛りつけられていて、その綱を解こうとしていたんですが、どうしても解けなくて……そのうちに、水が頭の上まで来てしまって、気を失ってしまったのです……その次に気がついたときには、この川岸のパピルスの茂みのなかに寝ていて、ハーキュリーズがそばで介抱していてくれたのです……」
「いやはや、わたしは医者にもなりましたし、魔術師にもなりましたし……」とハーキュリーズは言った。
「ハーキュリーズ、どうやってディックを救ったか話してちょうだい」とウェルドン夫人は言った。
「わたしにですか? 奥さん」とハーキュリーズは答えた。「ディックさんが縛りつけられていた杭は、あの川の水さえ倒すことができませんでしたし、しかも真っ暗い夜中にどうやって助けることなどできるものですか。あの穴のなかにはいけにえの死体がたくさんありましたし、そのなかでディックさまの縛りつけられていた杭を引き抜くなんてことは、わずかばかりの力でできることではありません。ディンゴがやったことです」
ディンゴが吠えた。ジャックはディンゴの頭を撫でながら言った。
「ディンゴ、おまえがディックを助けたのかい?」
そう言いながらジャックはディンゴの頭を左右に動かした。
「違うって言っているよ、ハーキュリーズ! ディンゴ、じゃあ、ハーキュリーズが助けたのかい?」
今度はジャックはディンゴの頭を五、六度うなずかせた。
「そうだって言っているじゃないか、ハーキュリーズ、そうだっていっているよ!」とジャックは言った。「やっぱりハーキュリーズだよ」
「なあ、ディンゴ」とハーキュリーズはディンゴの頭を撫でながら言った。「だめじゃないか、約束を守らなければ……」
やはり、ディックを救ったのはハーキュリーズだったのである。だが、生来のはにかみで、ハーキュリーズは、自分から口に出して言いたがらなかったのである。そして、仲間たちだって同じ立場にいれば、自分と同じことをやったに違いないと繰り返して言うのだった。
そこから話はトムたちのことに移った。トムたちが奴隷の隊列にまざって湖水地方に向かって行くのをハーキュリーズが見ていた。しばらくの間、ハーキュリーズは彼らの後を追って歩いたが、連絡はできなかったということだった。そう話すハーキュリーズの目には、さっきまでの機嫌のよい微笑とは変わって、大粒の涙が溢(あふ)れてくるのを押さえることができないようだった。
「泣くのはお止(よ)しなさい、ハーキュリーズ」とウェルドン夫人は言った。「神様のお力で、いつの日かきっと会うことができるでしょうから」
ウェルドン夫人は、アルベスの邸内で行なわれたできごとをディックに説明し、最後につけ加えた。
「ですから、カゾンデにいたほうがよかったのかもしれないわ」
「ああ、わたしはなんて余計なことをしてしまったんだ!」とハーキュリーズは叫んだ。
「いや、そんなことはないよ、ハーキュリーズ」とディックは言った。「あの悪人どもは、きっとウェルドン氏を罠(わな)に落とすに違いないから! 皆でいっしょに行動したほうがいいんだ。ネゴロがモサメデスへもどって来る前にぼくたちが大西洋岸に出ればいいんだ。海岸地方へ行けば、ポルトガル政府の在外公館がぼくたちを保護し援助してくれるだろう。アルベスが五十万ドルを受け取ろうとして現われたとしてもね」
「代わりに背中を五十万回打たれる刑を受ければいいですがね。そうなったら、わたしが打つ役を引き受けます」とハーキュリーズは大声で言った。
とにかく、ウェルドン夫人がもう一度カゾンデにもどるということは問題にならなかった。となると、ネゴロよりも先に大西洋岸に着くことがどうしても必要になる。今後はすべてその目標の達成のために全力を注がねばならなかった。
川の流れを下って沿岸地帯へ出るという、ディックが長い間考えていた計画をいよいよ実行するときが来た。今、彼らの下っている川は北へ向かって流れているので、おそらくコンゴ川に注ぐに違いなかった。とすると、大西洋岸に出るにしても、到着するところはルアンダではなく、コンゴ川の河口ということになる。だが、その違いはたいして重要ではなかった。コンゴ川の河口付近でも、救いを求める手段は十分あると考えられるからだった。
川を下る方法として、最初にディックが考えたのは、一種の浮き島のような草のかたまりに乗るということだった。アフリカの大きな川には、そういう草のかたまりがたくさん流れているからである。
だが、ハーキュリーズが夜ごと川岸を歩き回っているうちに、漂流している一隻の小舟を見つけたのだった。その小舟というのが幸運なことに、実にしっかりしたものだったのである。原住民が日ごろ使っている幅の狭いカヌーではなく、幅四フィート、長さ十三フィートの丸木舟で、湖水地帯で数人の漕(こ)ぎ手が漕ぐと矢のように早く進むものだった。全員が楽に乗り込むことができたし、流れに従って下るだけなので船尾に一つ櫂(かい)をつければ十分だった。はじめディックは、見つからないようにするため、流れを下って行くのは夜だけにしようと考えた。だが、一日のうち半分の時間しか進まないというのでは、河口に着くまであまりに時間がかかると思われた。そこでディックは考えて、突き出た船首と船尾に長い棒を渡し、丈(たけ)の高い草をその棒にかけて、丸木舟全体を草でかくすことにした。そうすれば、流れている浮き島と区別がつかないに違いなかった。確かにこれは名案で、くちばしの赤いカモメやカワセミなどが、浮き島と見まちがえて、何度も草のおおいの上に止まりに来た。それに、草のおおいは強い日射しを防ぐ役にも立った。こうして流れのままに下って行けば、体力を消耗することは少なくてすむはずだった。だが、危険がまったくないとはいえない。
事実、行程は長く、毎日の食料を得なければならないのである。川で釣りをして獲物がないときは、川岸の動物をねらわなければならなかった。狩猟をするにしても、銃といえばハーキュリーズがアリ塚から逃げたときに持っていた銃しかなかった。ディックは、一発の弾丸もむだにしないように、草のおおいから銃口をのぞかせて、できるだけ確実に撃つことにしていた。
川の流れの速さを、ディックは少なくとも毎時二マイル以上はあると判断していた。したがって、日の出から次の日の出まで、五十マイルは進めるのではないか、というのがディックの考えだった。しかし、それだけの速度で進んで行くと、岩や流木や浅瀬を避けるために、絶えず見張りを立てておかなければならないのだった。それに、アフリカの川では珍しくないことだが、その川がいつ急流に変わり滝と変わるかも、注意していなければならなかった。
ウェルドン夫人やジャックにめぐり会えたために急に元気を取りもどしたディックは、船首にいて、その見張りの役を引き受けた。そして、舟の流れて行く先を見つめていて、声や身振りで合図すると、船尾にいるハーキュリーズがその合図に従ってたくましい腕で櫂(かい)をあやつり、舟を正しい進路に向けるのだった。
ウェルドン夫人は舟の中央で、乾草の上に横になってもの思いにふけっていた。ベネディクトおじさんは、ハーキュリーズの姿を見ると、あのマンティコール・テュベルクルーズとカゾンデに残してきた昆虫学のメモのことが思い出されてならず、黙って腕を組んでいた。ジャックは、大きな音をたててはならないと覚(さと)ったらしかったが、舟のなかを動き回ることはさしつかえないと考えたのだろう、ディンゴと同じように四つ足で舟のなかを端から端まで這(は)い回っていた。
最初の二日間はハーキュリーズが用意していた食料を食べ、そのため舟は休息のために夜中に二時間止めただけだった。その休息のときも、ディックはだれも岸に上がらせなかった。食料を手に入れる必要のある場合以外は、舟を離れない方針にしたからだった。
はじめは何も事件は起こらなかった。川幅は平均して約百五十フィート以下だった。浮き島は舟と同じ速度で流れているので、何か障害物があって浮き島が止まったりしない限り、舟が浮き島とぶつかる危険はなかった。両岸には人影は見えなかった。元来、カゾンデ地方が人のあまり住まないところなのだった。川の両側の土手には草木が繁茂し、トウワタ、グラジオラス、ユリ、クレマチス、ホウセンカ、セリ、アロエ、木生シダ、芳香を放つ灌木(かんぼく)などが、美しい色どりを繰り広げていた。また両岸にジャングルがせまり、高い梢(こずえ)が重なり合ってトンネルのようになっているところもあり、両岸の木の間にツル草がかかっているところもあった。そのツル草の橋をサルの群が渡って行くのをジャックが見つけて大喜びした。
二十七日、突然、舟が止まった。
「どうしたんです?」と船尾のハーキュリーズが大声で言った。
「自然にできた堰(せき)があるんだ」とディックは答えた。
「壊さなければなりませんね」
「うん、斧を使う必要がありそうだ。浮き島がいくつか集まったものらしい。だいぶ手ごわそうだぞ」
「やってみますよ、見ていてください!」と、船首にやってきたハーキュリーズは言った。
その堰は、いくつもの浮き島の固い草がしっかりとからみ合った頑強(がんきょう)なもので、原住民は《チカチカ》と呼んでいた。あたりはもう暗くなっていたので、ハーキュリーズは安心して舟から下りた。そして巧みに斧を使い、二時間後には堰は二つに切り裂かれて両岸に押しやられ、舟は再び流れを下り始めた。
その後に、ベネディクトおじさんにとって忘れられない一瞬がおとずれたのである。舟で川を下るなどという旅は、おじさんにとっては退屈きわまるものだったし、アルベスの邸(やしき)に貴重な収集を残してきてしまったことが残念でならなかったのである。確かに、この行程をおじさんが嘆いていたのも当然だった。舟の上では、たった一匹の虫も採集できなかったからである。
ところで、チカチカを切り開いて戻って来たハーキュリーズが、そこの草に止まっていた気味の悪い虫をつかまえて来てベネディクトおじさんに見せたときの、そのおじさんの喜び方といったらなかった。実に奇妙な虫で、ハーキュリーズもおじさんに渡すのをためらったほどだった。
しかし、その虫を親指と人差指でつかみ、眼鏡も虫眼鏡もないので、近視の目にできるだけ近づけて眺(なが)めた後、おじさんは感激のあまり叫びだしたのである。
「ハーキュリーズ、ハーキュリーズ! おまえはわたしの採集していたたいせつな昆虫とわたしを無理に離してしまったけれど、今その償いをしてくれたぞ! ジャックもディックも、来て見るがいい。このアフリカにしかいない六足虫だ! この値うちを認めない人間はいないだろう。わたしは死んでもこれを離さないぞ!」
「それほど珍しい虫なの?」とウェルドン夫人は言った。
「そうだとも!」とおじさんは叫んだ。「鞘翅類(しょうしるい)でもなく、脈翅類(みゃくしるい)でもなく、膜翅類(まくしるい)でもないんだ。今まで学者の分類した十個の目(もく)のどれにも属していない。そういうものよりもむしろ、クモ類の亜属(あぞく)に入れたほうがいいかもしれないものなんだよ! 脚が八本あれば当然クモ類に入れるのだが、六本しかないのでやはり六足虫らしい。こんな虫が発見できて、わたしは実にしあわせだ。わたしの名をとって、ヘクサポデス・ベネディクトスと命名しよう!」
おじさんは、この新しい発見に今までの苦労も忘れて、すっかり幸せになっていた。ウェルドン夫人もディックも、祝福のことばを惜しまなかった。その間にも、舟は暗い水面を下っていた。しんと静まり返った闇のなかに、岸で動くカバの唸り声、ワニのぴしゃりと跳ねる音が、ときどき響くだけだった。間もなく、ジャングルの上に月が上り、美しい光が舟のなかにまで射し込んだ。
不意に、右岸で鈍いもの音が聞こえた。暗いジャングルのなかで大きなポンプでも動いているような音だった。数百頭のゾウが、昼のうちに木の葉や草をたっぷり食べた後、眠る前に水を飲みに来たのだった。

一七 さまざまな事件

一週間、舟はたいした事故もなく、川を下りつづけた。やがて、川岸近くに迫っていたジャングルは遠ざかった。そのあたりは、住んでいる原住民は少ないようだったが、動物は多かった。シマウマ、大シカ、カモシカの一種である美しい《カーマ》などが両岸に見えたが、それらは夜になると姿を消し、代わりにヒョウやライオンが姿を現わした。
毎日、午後になるとディックは舟を岸に着け、上陸して近くを探検した。食料を手に入れなければならないからである。しかし、そのあたりは、原住民の食料であるマニホック、ソホー、トウモロコシ、果実などが栽培されていないで、野生のものばかりで食料になるものはなかった。止むを得ずディックは、銃声によって原住民に気づかれる危険を覚悟のうえで、動物をねらわなければならなかった。火は、原住民と同じくイチジクの木をこすって作り、大シカやカモシカの肉を焼いた。七月四日、ディックは一発でカモシカを倒した。体長六フィートでりっぱな角の生えたそのカモシカの肉はすばらしい味だった。
日中の上陸時間と夜の休息時間を除くと、七月八日までに百マイル近くは進んだ結果になる。かなりの距離になるが、まだどのくらい流れを下らなければならないのか、ディックにも見当がつかなかった。ときどき小さな流れが注いでいるが、川幅は目立って広がる様子もなかった。流れの方向は、長い間北に向かっていたが、北西に変わり始めていた。
七月九日、ディックは非常な沈着さによって危機をまぬがれた。一人で岸に上がっていて、灌木(かんぼく)の上にカーマの角が出ているのを見つけて、ねらいを定め発砲した。次の瞬間、約三十フィート離れたところからライオンが躍り上がり、ディックの撃ち倒したカーマに飛びかかった。ライオンはそのカーマを追って来たらしかった。豊かなたてがみをつけた、体高五フィートほどの大きな恐ろしいライオンだった。
ディックは次の弾丸を入れる余裕がなかった。ライオンはディックに飛びかかる前に、ディックを見つめた。ディックはじっと身動きしなかった。こういう場合、動かないでいるのが最もいいと聞いたことがあるのを思い出したからである。銃に弾丸を入れかえることもせず、もちろん逃げようともしなかった。ライオンはきらきら光る目でじっとディックをにらみつづけていた。ぴくぴく動いているカーマと、びくとも動かないディックと、どちらの餌食(えじき)をとろうかとライオンは迷っているのだった。カーマが完全に死んでいて動かなかったら、ライオンはディックに襲いかかっていたことだろう。その状態で、時間は十分ほど経過した。依然、ライオンはディックを見つめ、ディックはほとんど眉も動かさずライオンを見返していた。
そして、ようやくライオンはカーマを強い口にくわえると、後ずさりして灌木の間に姿を消した。ディックは、なおしばらく同じ姿勢で立っていてから、その場を離れ、仲間のいるところに帰った。ディックは自分の経験した危険をだれにも話さなかった。だが、一行が流れを舟で下ることをせず、猛獣の住むジャングルや平原を徒歩で通っていたら、そのときまでに一行の生命はすべてなくなっていたに違いない。
また、そのあたりに人間は住んでいないようだったが、まったく人間の住んだ形跡がないというわけでもなかった。ところどころ、低くなった土地に、昔は村のあったらしい跡を見かけたことが何度となくあった。例えばリビングストーンのように、この地を旅するのに慣れた者なら、けっして見誤ることはなかったに違いない。トウダイグサの生垣や、土塀のなかにイチジクの木が一本だけ立っているのを見れば、そこに集落があったことは明らかである。原住民には、酋長が死んだ場合、それまで住んでいた集落を捨て、新たな場所に集落を作る習慣があるのである。
また、ディックは、そのあたりにいる人間が食人種らしいことに気づいた。森のなかの草地の火を燃した跡に黒焦げになった骨のあるのを、三、四回見かけたからである。川はそういう食人種のいる地帯を通っているのだった。それ以来、ディックは絶対に必要な場合以外は舟を岸に着けないことにし、ハーキュリーズにも少しでも危険を感じたらすぐに舟を岸から離すように命令した。ハーキュリーズは命令に従うことを約束した。だが、ディックが岸に上がって行くのを見ているとき、ハーキュリーズは、自分の顔に極度の不安の表情が浮かぶのを、懸命にウェルドン夫人に隠しているのだった。
七月十日の夜は、いっそう慎重に行動しなければならなかった。右岸に村が見えたからである。川幅が広くなって浅瀬ができ、その浅瀬の上で水上生活を営む部族の小屋が三十戸ほどあった。川はその小屋の下を流れているので、舟も当然その下を通らなければならなかった。左岸は岩が多く、通れそうになかったからである。
しかも、その集落には住んでいる人間があった。火が見え、人声が聞こえたからである。水中に立てた柱の間に、魚を獲るための網が張ってあったら、舟は網にかかり、すぐに気づかれてしまうだろう。ディックは、柱や網に触れないように、低い声でハーキュリーズに合図していた。月のある明るい夜で、進路を見るのには好都合だったが、同時に見つかる危険も大きかった。
ぞっとするような一瞬があった。水面に近い床の上で、原住民が二人大声で話をしていた。その床の下に舟は流れて行き、床を支える柱と柱の間隔はごく狭い。気づかれるか? 気づかれたら、たちまち警報が発せられ集落全体が目を覚まして集まって来るに違いなかった。
百フィートほどまで近づいたとき、二人の原住民が大声で叫ぶのが聞こえた。一人が舟に気づき、浮き島が流れて来たと思ったらしく、床の下に魚をとるためにしかけた網が切れそうだと言っているようだった。五、六人が柱を滑り下り、横桁(よこげた)に立って、意味のわからない叫び声を上げた。
舟のなかではひっそりと沈黙を守り、声はディックの低い声の合図だけ、身動きは櫂をあやつるハーキュリーズの右腕だけだった。ときどき、ディンゴが唸り声をあげそうになると、ジャックがすぐに口を押さえた。聞こえるのは波の音と、両岸の野獣の声だけだった。
急いで網が引き上げられる。もし完全に引き上げられてしまえば舟は通り抜けられる。が、さもないと網にかかってしまう。舟の進路を変えることも、速度を緩めることも不可能だった。
三十秒後、舟は床下にはいった。実に幸運にも、そのとき網が完全に引き上げられた。だが、網は舟を隠している草の一部をむしり取った。原住民の一人が大声をあげた。むしり取った草の下に隠れていた舟に気づくだろうか? 仲間を呼ぶだろうか?……。
だが、数秒後には舟は集落からかなり遠ざかっていた。そして、早い流れに押されて、集落は間もなく見えなくなっていた。
「左岸へ寄れ!」とディックが声をひそめて言った。「岩もないようだ!」
「左岸へですね」と言いながら、ハーキュリーズはたくましい腕で櫂を動かした。
ディックは船尾へ行って、月に明るく照らされた水面を見つめた。危険そうなものは見当たらなかった。一隻の丸木舟も見えなかった。夜が明けてからも、川にも両岸にも原住民の姿は見えなかった。だが、その後も慎重を期して、右岸には近寄らず、上陸するのは左岸だけに限ることにした。
七月十一日から十四日までの四日の間に、両岸の風景がすっかり変わっていた。リビングストーンが最初に探検したカラハリ砂漠に比べられるような砂漠だった。土地には湿り気はあったが、高地の平原とはまったく違ったものだった。そしてその砂漠の間を、川はいつ終わるとも知れず流れつづけていた。だが、川が大西洋に近づきつつあることは確かなようだった。
食料の不足が起こった。貯蔵しておいた食料はすでになくなり、川で釣りをしてもたいした獲物はなかった。大シカ、カモシカ、ポクー、あるいはその他の動物も、この砂漠では生きていけないし、したがって肉食獣もいないわけだった。
両岸の平原は遠くに見える山岳地帯まで坦々(たんたん)として、ほとんど木が生えていなかった。ただ、トウダイグサ科の植物だけはたくさん生えていたが、それもキャッサバやマニホックのような澱粉(でんぷん)の取れるものではなく、食用油が取れるだけのものだった。どうやって食料を得るか、さすがにディックも考えつかなかった。すると、ハーキュリーズが、原住民たちがシダの若芽やパピルスの茎の芯(しん)を食べていることを思い出した。ハーキュリーズ自身も、イブン・ハミスの指揮する隊列の後を追って歩いていたとき、飢えをしのぐために止(や)むを得ずそれを食べたことがあるというのだった。幸い両岸にはシダやパピルスが多く、パピルスの茎の芯は甘い味がして、皆に(特にジャックに)喜ばれた。しかし、それも十分に飢えを満たすものではなかった。ところが翌日、ベネディクトおじさんのおかげで、すばらしいごちそうにあずかることができたのである。
あのヘクサポデス・ベネディクトスの発見以来、ベネディクトおじさんはまた元気をとりもどし、舟を岸につけるわずかな時間を利用して昆虫採集を始めていた。その日も繁った草のなかを探しているうちに、一羽の小鳥が飛び立ち、その鳴き声がおじさんの注意をひいた。ディックが銃で撃とうとしたのを、おじさんは急いで止めた。
「撃つな、ディック! 撃ってはいけない! 一羽くらいでは五人の食料には足りないだろう!」
「ジャックさま一人になら十分ですよ」とディックは言って、飛び去る小鳥に今一度ねらいをつけた。
「いかん、いかん!」とおじさんは言った。「撃ってはいけない。あれはミツオシエという鳥なんだ。後をついて行けば、たっぷり蜜が手にはいるかもしれないんだ!」
ディックは銃を下ろした。一羽の小鳥よりもたくさんの蜜のほうが確かに食料になるからだった。ディックとおじさんが後をついて行くと、ミツオシエはときどき枝に止まりながら飛んで行った。数分後、トウダイグサの繁みのなかに倒れて朽ちた木があり、そのまわりにミツバチの大群がぶんぶん飛び回っていた。
おじさんはミツバチの食料を横どりするのは気が進まなかったようだが、ディックとしてはそんな遠慮はしていられなかった。そこでディックは枯れ草に火をつけ、その煙でミツバチを追い払い、たくさんのハチミツを手に入れることに成功した。
ハチミツはもちろん舟では大歓迎されたが、それだけでは十分に空腹を満たすことはできない。ところが次の日、イナゴの大群に出会ったのである。地面や木の幹に群がる無数のイナゴを見て、またベネディクトおじさんが原住民はこれを食料にしているはずだと言い出した(おじさんのことばは事実である)。そこで一同は、この天の恵んでくれた食料をどんどん手づかみにした。弱い火であぶって食べると、なかなかいい味だった。ベネディクトおじさんもたっぷり食べたが、それでもときどき悲しそうに溜め息をつきながらだった。
しかし、こうした身体と精神の長い試練の旅も終わりに近づきつつあった。流れのままに下るのだから、前にジャングルのなかを歩いたときより疲れないことは当然だが、日中の烈しい暑さ、夜の湿気、絶え間のない蚊の攻撃によって一行の疲労は増し、この上まだ川を下りつづけることは困難になり始めていた。もう海岸に着いてよいころと思われたが、まだディックは終わりがいつになるかはっきりと言いきることはできないでいた。もう一週間かかるか、あるいは一か月かかるか、まったくわからないのだった。川が真西に流れていれば、当然もうアンゴラの沿岸に着いているはずである。だが、川は北に片寄る部分が多く、沿岸に着くまでに時間がかかるのだった。
ディックがそうした不安に駆られているとき、七月十四日の朝、急に流れが方向を変えた。船首にいたジャックの目の前に、広々とはるか遠くまでつづく水平線が現われたのである。
「海だ!」とジャックは叫んだ。
その声を聞いて、ディックはすぐにジャックのそばへ行った。
「海だって?」とディックは言った。「いや、まだ海じゃありません。しかし、西に向かって流れている大きな川です。今まで下って来たのはこの川の支流だったんです。おそらく、これがコンゴ川でしょう!」
「あなたのおかげよ、ディック」とウェルドン夫人が言った。
確かに、その川は数年後にスタンリーが発見することになるコンゴ川だったのである。したがって、そのまま流れを下って行けば河口のポルトガル人の町へ着くことができるはずだった。ディックもそう判断したのである。
七月十五、六、七、八日と、両岸も徐々に砂漠らしさをなくしていったが、岸には相変わらず草が繁っていて、注意を怠ることはできなかった。おそらく、数日後には一行は苦しかった旅の目的地に着くだろうと思われた。
だが、十八日の夜、一行の生命を脅(おび)やかす事件が起こった。午前三時ごろ、西の方にかすかではあるが鈍く響く音が聞こえた。ディックは不安になった。ウェルドン夫人もジャックもベネディクトおじさんも眠っていたので、ハーキュリーズを船首に呼び、その音を聞かせた。
しんと静まり返った夜で、そよとの風もなかった。
「海の音ですよ」とハーキュリーズは喜びに目を輝かせて言った。
「違う」とディックは首を振った。
「では、何でしょう?」
「朝になるまで待たなければわからない。しかし、十分注意しなければならない」
ハーキュリーズはうなずいて船尾へもどった。ディックは船首で、その音に耳を澄ませていた。音は次第に大きくなり、遠い海の音のようにも聞こえた。
夜明けという時間がほとんどないアフリカの朝が来た。約半マイル下流に、雲のようなものが立ちこめていた。だが、雲であるはずはなく、太陽が上って光が射すと、そこに両岸にまたがる見事な虹がかかった。
「岸へ寄せるんだ!」とディックが叫ぶと、その声でウェルドン夫人は目を覚ました。「滝だ! あの雲は水しぶきなんだ! ハーキュリーズ、早く舟を岸へ着けろ!」
ディックの思い違いではなかった。下流で河床が百フィート以上急激に低くなり、水は激しい勢いで落下していた。そのまま流れに従って半マイル下っていたら、舟は滝壺(たきつぼ)に吸い込まれていたところだった。

一八 S・V

ハーキュリーズがたくましい腕で櫂(かい)を押し、舟を左岸に寄せた。そのあたりは川底が比較的平らで流れがそれほど速くなく、流れが速くなるのは滝の二、三百フィートほど手前からだったからである。
左岸には高い木が繁って日の光をさえぎり、森のなかは暗かった。川を下ることが不可能になったため、陸に上がらざるを得なくなったが、猛獣の住むに違いないジャングルを通り抜けるのは、ディックには不安だった。舟が岸に近づくと、急にディンゴがそわそわし始めた。
ディックはディンゴの動きをじっと見つめていた。岸のパピルスの茂みに、猛獣か原住民が潜んでいるのを感じたのかもしれないからだった。だが、ディンゴがそわそわしているのは、そういうためではないらしかった。
「ディンゴは泣いているみたいだよ」とジャックがディンゴの首を抱きしめながら言った。
舟が岸から二十フィートほどまで近づくと、ディンゴはジャックの腕をすり抜けて水に飛び込み、泳いで岸に上がると、ジャングルのなかに姿を消してしまった。ディックにもウェルドン夫人にもハーキュリーズにも、そのわけはわからなかった。
間もなく舟は水草をかき分けて岸に着いた。カワセミが鋭い声で鳴き、雪のように白いシラサギが飛び立った。ハーキュリーズがマングローブの幹にともづなをしっかり結びつけると、一行は大きな木の密集した岸に上がった。
森のなかには道らしいものはなかったが、ごく最近原住民か動物かが通ったらしくコケを踏みつけた跡があった。ディックは銃を持ち、ハーキュリーズは斧を持って、十歩ほど森のなかにはいって行くと、そこにディンゴがいた。ディンゴはさかんに地面を嗅(か)ぎながら唸(うな)っていた。ディンゴが何かを感じて急いで岸に上がり森のなかに走り込んだらしいことがはっきりした。
「気をつけて行きましょう」とディックは言った。「奥さんもベネディクトおじさんもジャックさまも、離れないように! ハーキュリーズ、よく注意していてくれ!」
そのとき、ディンゴは頭を上げると、一行に後について来てほしいとでもいうような合図をした。後をついて行くと、間もなく大きなカエデの木があり、その根元に荒れ果てた小屋があった。その前でディンゴは悲しそうに吠え始めた。
「だれがいるのだろう?」とディックは言うと、小屋にはいって行った。ウェルドン夫人たちもその後についてはいった。小屋のなかには風化して白くなった骨が散らばっていた。
「だれかがここで亡くなったのね!」とウェルドン夫人は言った。
「ディンゴはその人を知っているんです。きっとディンゴの飼い主だったんでしょう。あれを見てごらんなさい」と言って、ディックは小屋を支えているカエデの幹の樹皮の剥がれた部分を指さした。
そこには薄れてはいるが、まだ十分に読みとれる二つの赤い文字が書いてあった。ディンゴは、その文字をさし示すように前脚を文字の近くに置いた。
「S・Vだ!」とディックは叫んだ。「ディンゴはこの文字だけはわかるんでしょう。首輪に刻まれている文字と同じですから……」
そのときディックは、小屋の隅(すみ)に錆びた銅の小さな箱が落ちていることに気づいた。拾い上げて蓋(ふた)を開くと、小さな紙が出てきた。それには次のようなことばが書かれていた。
「案内人のネゴロに襲われた……金も荷物も奪われてしまった……一八七一年十二月三日……ここで……海岸から百二十マイルの場所で……ディンゴ!……わたしの代わりに……
S・ヴェルノン」
この文ですべてがわかった。ディンゴを連れてアフリカ中部へ探検に来たサミュエル・ヴェルノンは、ネゴロを案内に雇ったのである。ヴェルノンの金に強欲なネゴロが目をつけ、奪おうと企(たくら)んだのだろう。ヴェルノンは、ここにキャンプを設営し、ここで殺され、金を奪われたのである……。ヴェルノンを殺してから、おそらくネゴロはすぐに姿を隠そうとしたに違いない。ところが、ポルトガルの官憲に捕えられ、アルベスの下で奴隷売買を行なっていたことがわかり、ロアンダで裁判にかけられて終身刑となり、ニュージーランドへ送られたのであろう。その後、ネゴロが脱獄し、ピルグリム号に乗って再びアフリカにもどった経過は、読者はご存じである。箱に残っていた遺書は、ヴェルノンが最後の力をふりしぼって書いたものに違いない。そしてディンゴは、主人が殺された後、海岸へもどり、そこでウォルデック号の船長に拾われ、さらにピルグリム号に移ることとなり、そこでネゴロに再会したのである。
ディックとハーキュリーズは、白く乾いた骨を集め、キリスト教徒として手厚く葬ることにした。
そのとき、ディンゴは一声大きく吠えると、矢のように小屋の外へ走り出した。同時に、恐ろしい悲鳴が小屋の外で聞こえた。ハーキュリーズがすぐに小屋の外へ飛び出し、ディックたちも後につづいた。一人の男がディンゴに咽喉を噛(か)みつかれて地面に倒れていた。
ネゴロだった。アメリカへ行くためにコンゴ川の河口まで行く途中、いっしょに来た護衛のものをどこかに待たしてここにやって来たらしかった。ネゴロがもどって来た理由は、すぐにわかった。手にフランス金貨を握っていたからである。おそらく、ヴェルノンを殺してから、後で掘り出しに来るつもりで、小屋の近くに埋めておいたのだろう。そして偶然、今もどって来て掘り出したところをディンゴが襲いかかったのである。ネゴロはもがきながら短刀を引き抜いていた。ハーキュリーズが飛びかかって、その手を押さえようとしたが一瞬遅く、短刀はディンゴの身体に突き立てられてしまった。
「畜生! 殺してやる!」とハーキュリーズが叫んだ。だが、ハーキュリーズが手を下すまでもなかった。ネゴロは神の裁きを受けて、すでに息が絶えていたからである。だが、ディンゴの傷は深かった。ディンゴはよろよろと歩きながらヴェルノンの小屋のそばまで行き、そこで死んでしまった。
ハーキュリーズが深い穴を掘り、皆でヴェルノンの骨と忠実だったイヌのなきがらを埋めた。だれの目にも涙が浮かんでいた。
ネゴロは死んだ。だが、ネゴロに同行していた原住民たちは、ネゴロが帰って来なければ探し始めるに違いなかった。それと出会ったら、きわめて危険なことになる。ディックはウェルドン夫人と今後の方針を相談した。はっきりしている事実は、この川がコンゴ川であるということと、ヴェルノンの遺書によれば海岸までまだ百二十マイルあるということだった。そしてあの滝――おそらくヌタモ滝だろう――を舟で下ることは絶対にできない。そこで、少なくとも滝の下流に達するまでの二、三マイルは歩いて下ろうということに決まった。
「まだ問題は残っています」とディックは言った。「左岸を行くか右岸を行くかです。どっち側を行くにしても、恐ろしい原住民がいるわけですが、左岸のほうが危険が大きいと思います。ネゴロを護衛していた者たちと会うかもしれないからです」
「それなら、むこう岸へ渡りましょう」とウェルドン夫人は言った。
「しかし、うまく渡れるかどうかが問題です。しかしためらっている場合ではありません。皆で渡る前に、ぼくが一人で試してみます」
川幅は三、四百フィートだが、櫂(かい)を扱い慣れたディックの腕なら、それほど困難はないように思われた。ウェルドン夫人たちは岸で待つことになった。
「滝へ引き込まれないようにね」とウェルドン夫人は言った。
「だいじょうぶです、奥さん、四百フィートほど上流を渡りますから」とディックは言った。
「でも、もしむこう岸に……」
「少しでも危険があるようだったら、岸に上がりませんから」
「銃を持って行きなさい」
「ええ、でも心配しないでください」
「分かれないで、皆がいっしょに行ったほうがいいのじゃないかしら」と、何か予感のようなものを感じてウェルドン夫人が言った。
「いいえ……ぼく一人に行かせてください……皆の安全のためにも、それがいちばんいいと思うんです。一時間以内にもどって来ます。ハーキュリーズ、それまでよく注意していてくれよ」
言い終わるとディックは、コンゴ川に漕ぎ出して行った。ウェルドン夫人たちは岸のパピルスの繁みに隠れて見守っていた。
舟は間もなく中流に達した。そのあたりは滝の影響で流れがやや速くなっていた。四百フィートほど上流だが、激しい滝の音が響き、西風が水しぶきをそのあたりまで吹きつけていた。昨夜、注意を怠っていたら、舟はあの滝壷に落ちていたのだと思うと、ディックはぞっとした。だが、今は気をつけてうまく櫂を操って行けば、流速のために多少進路はゆがむが、安心して進むことができた。十五分後、ディックは対岸に着き、岸へ飛び上がろうとした……。
そのとき、十人ばかりの原住民が叫び声をあげて、舟を隠した草の茂みに向かって来た。あの川の上の集落の食人種だった。あれから一週間、ディックたちの舟を追って、右岸を下って来たのだった。
ディックは自分はもう殺されると覚悟した。だが、どうすれば仲間を救うことができるだろう、と彼は考えつづけながら、船首に立って銃砲を構え、食人種を威嚇(いかく)していた。
十人は舟に乗り込んできて、舟をおおっていた草を剥(は)ぎ取った。だが、ディック以外にはだれもいないのを知ると、彼らは失望して恐ろしい怒りの声をあげた。十人に対して少年一人では期待外れだったのである。だがそのとき、一人が立ち上がって対岸を指さした。ウェルドン夫人たちが、ディックが襲われたのを見て、岸に姿を現わしてしまったのである!
舟は再び川のなかに押し出され、川を横切り始めた。だが、船首でディックが銃を構えているので、船尾で櫂を操っているもの以外は、じっと動かなかった。間もなく舟は左岸から百フィートのところまで近づいた。
「逃げてください! 奥さん」とディックは叫んだ。
だが、ウェルドン夫人もハーキュリーズも、足が地面に吸いついたように動かなかった。たとえ逃げたとしても、おそらく一時間以内に捕えられてしまうからだろうか!
ディックはそれに気づいた。その瞬間、インスピレーションが湧(わ)いた。自分の生命を捨てて、愛する人たちを救うのだ……。
「神様、どうかあの人たちをお守りください……」と口のなかで唱えると、船尾の櫂をねらって発砲した。弾丸は見事に命中し、舵は砕けて飛び散った。
食人種たちは恐怖の叫び声をあげた。櫂を失った舟は流され始め、流速は次第に速くなっていた。数秒後に、舟は滝壷に落下して行くだろう。
ディックの決意を、岸で見ていたウェルドン夫人たちは覚(さと)った。夫人とジャックは岸にひざまずき、ハーキュリーズはたくましい腕を空に向かって上げた。
そのとき、左岸まで泳いで行こうとして、食人種たちが水中に飛び込み、舟がひっくり返った。目前の死を前にして、ディックはなおも冷静さを失わなかった。船底を見せている舟が役に立つかもしれない。ディックは転覆している舟のなかに潜り込み、左右の船腹をつないでいる太い横木をつかんだ。そうしていると、くり抜いた丸木舟の内側に頭を出していることができて、窒息する恐れはなかった。流れが急に速度を増すのを感じたと思うと、次の瞬間、垂直に落ち始めた……。
丸木舟は数百フィート落ちて水面に激突したのに不思議に割れることもなく、水にえぐられた滝壷に深く沈むと、また水面に浮き上がった。最後まで意識を失わなかったディックは、今や自分の生命を救うのは自分自身の腕の力だと覚った。
懸命に泳いで十五分後、ディックはようやく左岸へ泳ぎ着いた。ウェルドン夫人、ジャック、ハーキュリーズもその岸に走って来た。
あの食人種たちの姿は見えなかった。岸に泳ぎ着く前に滝に吸い込まれ、ディックのように丸木舟につかまっていなかったので、滝壷の底の岩にたたきつけられて死んでしまったのだろう。

一九 結び

二日後の七月二十日、一行はコンゴ川の河口のエンボマに向かう隊商に会った。奴隷商人ではなく、象牙の売買をしている誠実なポルトガル人の商人だった。隊商の人々は五人を快く迎え入れてくれた。
実際、この隊商と出会うことができたのは天の恵みに等しかった。ヌタモ滝からイェララまで滝と急流がつづき、筏(いかだ)で川を下ることは不可能だったからである。
八月十一日、一行がエンボマに着くと、モタ・ビエカ氏とハリソン氏は暖かく迎えてくれた。一隻の汽船がパナマに向かって出航するところだった。五人はその汽船に乗り込み、無事にアメリカの土を踏むことができた。
サンフランシスコのジェームズ・ウェルドン氏のもとに速達便が届き、そのときまでにあらゆる手がかりを利用して探しても行方の知れなかった妻子が思いもかけずアメリカに帰国したことが報じられた。
八月二十五日、ピルグリム号で難船した五人を、汽車がカリフォルニア州の州都へ運んで来た。トムたちも同時に帰って来ることができたらどんなによかっただろう……。
ディックとハーキュリーズはウェルドン氏の家で養われることとなった。ベネディクトおじさんは、ウェルドン氏の家に着いて握手をすませると、すぐに自分の部屋に閉じこもってヘクサポデス・ベネディクトスの研究にとりかかった。だが、眼鏡をかけ虫眼鏡を使って調べたとき、おじさんの口から絶望の叫びがあがった。ヘクサポデス・ベネディクトスは昆虫ではなく、ありふれたクモだったのである。脚が六本だと思ったのは、二本が折れていただけのことだった。ハーキュリーズがつかまえるときに折ってしまったのだろう。

三年後、ジャックは八歳になっていた。ディックは自分自身熱心に勉強をつづけながら、ジャックに自分の得た教訓を繰り返し話した。実際、勉強を始めてみると、ディックは自分に科学の知識が欠けていたことを痛感したからだった。
「あのピルグリム号に乗っているとき、船員として当然知っているべき知識をぼくが持っていたら、あんな不幸は避けられていたんだ」とディックは繰り返し言った。そして、十八歳になったディックは航海学の課程を優秀な成績で終えて免状を与えられ、ウェルドン氏の会社の船の航海士となった。
しかし、勉強をしているときも仕事についてからも、ディックの頭からけっして去らないことがあった。自分の未熟さのために不幸な境遇に落ちてしまったトム、バット、オースティン、アクテオンのことだった。ウェルドン夫人も彼らのことを忘れなかった。そして、世界各地に代理店をもつウェルドン氏は、ついに彼ら四人の消息を得ることに成功した。彼らはマダガスカル島に売られて行っていたのだった。彼らを買いもどすにあたって、ディックは自分のわずかな貯(たくわ)えを提供しようとしたが、ウェルドン氏はそれを許さなかった。代理店のものが売買をすませ、一八七七年十一月十五日、四人の黒人はウェルドン氏の家の扉をたたいた。数々の危険を生き伸びてようやくもどって来た四人は、待っていた人々と心からの抱擁を交わした。
不運なピルグリム号によってアフリカ海岸に漂着した者のなかで、欠けているのは、可哀(かわい)そうなナンとディンゴだけだった。あの苦難に満ちた旅路の途中で倒れたのが、ナンとディンゴだけだったということは、奇跡的といってよかっただろう。
その夜、もちろんウェルドン氏の邸宅ではお祝いのパーティが開かれた。そして、皆の要望で、ウェルドン夫人の発声で《少年船長》ディック・サンドへの乾杯が繰り返し行なわれたのだった。(完)

訳者あとがき

《ジュール・ヴェルヌJules Verneについて》
ヴェルヌの人と作風についてはすでに十分に紹介されていると思いますが、一応その生涯の概略を記しておきます。一八二八年二月、ロワール川河口の港ナントに生まれ、中高等学校卒業後、大学入学資格を得、代訴人であった父の希望にしたがって、パリへ出て法律の勉強を始めました。しかしまもなく演劇に志し、自分の仕事を継がせようと考えていた父の反対を押しきって、文筆によって身を立てる決心をします。いくつかの小説や戯曲を発表した後、一八六三年にジュール・エッツェルの手によって出版された『気球旅行の五週間』が大成功をおさめ、一躍流行作家となりました。以後、『地底旅行』『月世界旅行』『海底二万リーグ』『八十日間世界一周』など、当時の科学技術の知識と豊かな空想をまぜあわせた多数の作品を残しました。その作品の多くは広く世界で読みつづけられています。私生活では、一八五七年に結婚、七二年にアミアンに居を構え、八八年にアミアン市議会議員に当選、一九〇五年〔明治三十八年〕に没しました。

《『少年船長の冒険』について》
原題はUn Capitaine de Quinze Ans〔十五歳の船長〕で、一八七八年に発表されました。表題のとおり、思いがけない事故によって帆船の船長となった十五歳の少年水夫の、南太平洋上での嵐との戦い、漂着したアフリカ大陸での苛酷な自然との戦い、主人公たちを陥れようとする悪人たちとの戦いの物語です。該博な海洋の知識、船の知識、科学とともに作者の関心の深かった世界地理の知識を縦横に駆使して、次々と難関が用意され、誠実で強い意志と実行力をそなえたいわば作者の理想の少年像である主人公がそれらの苦難を克服していくさまが入念に描かれており、物語の大筋の単調さはあるにしても、各章の構成と描写には、発表された一八七八年がヴェルヌの文学的生涯のなかで最も創作力の旺盛だった前半の時期に含まれるだけあって、やはりヴェルヌらしさを十分に味わうことができるように思われます。
翻訳は一九二九年アシェット社より刊行された絵入りの二冊本によりました。記述のやや冗長と思われた個所は若干削除したことをおことわりいたします。
一九八一年七月
◆少年船長の冒険◆
ジュール・ヴェルヌ/土井寛之・荒川浩充訳

二〇〇七年一月二十五日

著作権所有者 土井寛之・荒川浩充
(C)Hiroyuki Doi, Hiromitu Arakawa 2007

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