シャーロック・ホームズ全集(上)
上巻目次
「緋色の研究」目次
一八七八年に、私はロンドン大学で医学博士の学位をとり、さらに軍医の資格を得るためにネットリー陸軍病院に進んだ。そこで所定の学科を修得したのち、正式に第五ノーザンバランド・フュージリア連隊付きの軍医補に任命された。当時この連隊はインドに駐屯していたが、私が任地に着く前に、第二次アフガニスタン戦争が勃発(ぼっぱつ)したのである。ボンベイに上陸するとすぐ、わが軍は山岳地帯を越えて敵地ふかく進出したあとだと聞かされた。しかし私は、同じ立場におかれた大勢の士官たちとともにそのあとを追い、カンダハルで無事にわが連隊に追いついて、ただちに新しい任務についたのである。
この戦役は、多くの将兵に勲章(くんしょう)と昇進をもたらす機会となったが、私にとってはただ不運と災難に見舞われただけの結果に終った。ある時から私は転属命令によってバークシャ連隊付きに配属され、あのマイワンドの激戦に参加した。その戦いで、私は肩をジェゼール弾で打ち抜かれて、骨を砕かれたうえに、鎖骨(さこつ)下の動脈に裂傷を負った。幸いにも伝令のマレイが負傷した私を駄馬(だば)の背に乗せて、無事に英軍の陣営内に運び届けてくれたから一命をとりとめたが、この献身で勇敢な男がいなかったら、私は残虐きわまる回教徒兵士の手中に陥っていたにちがいない。
長い軍隊生活の苦労のために体力が衰弱したうえに、負傷して動けなくなった私は、おびただしい負傷兵とともに、ペシャワールの基地病院へ転送された。そこでしだいに元気をとり戻して、病棟の中を歩きまわったり、ベランダに出て短時間の日光浴もできるまでに健康を回復したときに、今度は不運にも、わがインド領の厄病ともいうべき腸チフスで倒れてしまった。それから数力月のあいだ、私は生死の境をさまよい、ようやく危機を脱して、徐々に快方に向かったものの、体力が極度に衰弱しているゆえ一日も猶予(ゆうよ)すべきでないという医局の決定で、ただちに本国へ送還されることになった。そこで輸送船オロンティス号に乗せられ、一力月後には、回復もおぼつかないほど衰えきった身体でポーツマス港に上陸したが、本国政府からは、むこう九力月間の静養をあたえるという許可を得ていた。
帰還しても、私は英国にはひとりの親類も知人もいなかったから、まるで空気のように自由であった……あるいは、一日につき十一シリング六ペンスの支給額の枠(わく)内で生活するかぎりにおいて、ともかくも自由の身であったというべきである。そんな境遇にあった私が、全国の怠(なま)け者や遊び人が吸い寄せられるように集まってくる、あの掃(は)き溜(だ)めのような大都会……ロンドンに引き寄せられたのも、自然のなりゆきであった。しばらくのあいだ、私はストランドの常宿に泊って、ただ漫然とつまらない毎日をおくり、手持ちの金をかなり気ままに濫費していた。そのうちに懐具合(ふところぐあい)がさびしくなってきたので、ロンドンを離れて田舎に引っこむか、生活のやりかたをすっかり変えるか、そのどちらかにしなければならないと気づいた。そこで後者を選ぶことに決めて、とりあえず旅館を引きはらい、どこかもっと質素で費用のかからないところへ居を移そうと思ったのである。
ちょうどその決心を固めたその日のことである。私がクライテリオン酒場のまえに立っていると、誰か背後から肩を叩くものがあった。振りかえってみると、それは、聖バーソロミュウ病院に勤めていた頃、私の手術助手をしていたスタンフォード青年であった。無数の人々のひしめきあうロンドンの街角で、なつかしい顔に再会するのは、孤独な人間にとって、じつにうれしいことであった。スタンフォードとは、むかし特に親しくしていたわけではなかったが、その時の私は、狂喜して彼を迎えいれ、彼のほうでも私と会ったのを、喜んでいるらしかった。私は、うれしさのあまり、ホーボーン料理店で昼食をともにしようと誘い、一緒に辻馬車に乗りこんだ。
「ワトスンさん、いったいどうなさっていらしたんですか?」馬車がロンドンの雑踏をかきわけて走りはじめると、スタンフォードは驚きの色を隠そうともせずにたずねた。
「からだは針金のように痩(や)せ細っているのに、顔や手は胡桃(くるみ)みたいに日焼けしているじゃありませんか」
私は手短かに自分の冒険談を話してきかせたが、それを語り終えるか終えないうちに、馬車はもう目的地に着いていた。
「それはひどい目にあいましたねえ!」彼は私の不幸な体験を聞いて、同情をこめていった。「で、いまは何をされているのです?」
「下宿捜しさ」と、私は答えた。「手ごろな値段で居心地のよい部屋を借りられないかと思って、捜しまわっているんだよ」
「それは不思議だ!」と、私の連れは叫んだ。「今日そういうことを私にいうのは、あなたでふたり目ですよ」
「それじゃ、はじめにいったのは誰なんだ?」
「病院の化学実験室にいる男なんですがね。いい部屋を見つけたんだが、ひとりで借りるには高すぎるし、下宿料を半分負担してくれる相手もいないし、と今朝、そういってこぼしてましたよ」
「それだ!」と私は叫んだ。「もしその男が、共同で部屋を借りて下宿料を分担しあう相手を本気でさがしているとしたら、ぼくがまさにその相手というわけだ。ぼくもひとりで暮すより、仲間がいたほうがいい」
スタンフォード青年は酒のグラスごしに私を見つめて、いささか妙な顔をした。
「あなたはシャーロック・ホームズという男をまだ知らないからねえ」と彼はいった。「でもいっしょに暮すとなりゃ、あなただって、もうご免(めん)だ、といいだすだろうな」
「どうして? 悪い評判でもあるの?」
「いえ、よからぬ評判の男だとはいいませんよ。ただ、あの人は頭の構造が少しばかり変わってましてね……ある種の奇妙な科学に凝ってるんです。ぼくの知っているかぎりでは、なかなかいい人なんですがねえ」
「医学を研究している人かね?」
「いや……それが、何をやろうとしているのか、さっぱりわからないんですよ。解剖学には精通しているようだし、化学者としても一流でしょうが、医学を系統立てて勉強した経験はないらしいのです。興味のおもむくままにとっぴな研究ばかりしていて、そのくせ、教授たちをあっといわせるような奇抜な知識を、じつにふんだんに持ちあわせているんです」
「いったい何をやろうとしているのか、本人にたずねてみたことはないのかね?」
「いや、たずねたって、そんなことを簡単に話すような人じゃありませんよ。もっとも、気が向けば、ずいぶんいろんなことを話してくれますがね」
「ぜひ一度会ってみたいね」と私はいった。「ぼくは、どうせ誰かといっしょに下宿するんだったら、勉強家でもの静かな人のほうがいい。まだ体が本調子じゃないから、あまり騒々しくて刺戟の強い生活には耐えられないんだ。そんな生活は、アフガニスタンで、もういやというほど経験してきたからね。ところで、そのきみの友人にはどうしたら会えるかね?」
「実験室にいけば、きっといますよ」と連れは答えた。「あの人は何週問も実験室に足を踏みいれなかったり、そうかと思うと朝から晩までこもりきりだったりして、気まぐれなんです。もしよければ、食事をすませてから、馬車で行ってみましょう」
「ぜひ案内してくれ」と私はすぐに応じた。それから話題はほかの方面にそれていった。ホーボーン料理店を出て病院へむかう馬車のなかで、スタンフォードは、私が同宿したいといいだした相手の人物について、まえよりもいくぶん詳(くわ)しく教えてくれた。
「かりにあの人とうまくいかなくなっても、ぼくを責めないでくださいね。あの人とは研究室でときどき顔を合わせて話をするだけで、あの人については、ぼくもその程度の知識しかないのですからね。この話はあなたのほうから申し出られたのですから、ぼくの責任にされては困りますよ」
「うまくいかなきゃ、別れるまでのことさ」と私は答えた。「それにしても、スタンフォード」と、私は相手の顔をじっとのぞきこんでつけ加えた。「きみは何かしら理由があって、この問題から手を引きたいらしいね。その男はひどい癇癪(かんしゃく)持ちかなんかなのか? それとも、ほかに変な癖(くせ)でもあるのかい? 隠さずに話してほしいな」
「何といったらいいか、言葉じゃうまく説明できないんですがね」と、彼は笑いながら答えた。「ぼくなどの眼から見ると、ホームズという人は、いささか科学的でありすぎる……むしろ冷血漢じゃなかろうかと思われるくらいなんです。たとえば、最新の植物性アルカロイドを使って、その毒性の強さを正確に知りたいとなると、親しい友人にだってこれを飲ませかねないんじゃないかな。もちろん、悪意があってするのじゃなくて、ただ研究心が旺盛(おうせい)なあまりなんですがね。いや、こういってはあの人に悪いから、あの人は研究のためなら自分で飲んでしまいかねない、とでもいっておきましょう。まあ、それほどまでに、あの人は知識の正確さを追求せずにはおれない情熱の持ち主なんですよ」
「それも、おおいに結構じゃないか」
「だけど、それも限度を心得ていてくれればよいのですが。解剖室の死体をステッキで叩(たた)いてまわるところまでゆくと、これはもはや異常というほかはありませんよ」
「えっ! 死体を叩いてまわるって?」
「叩くんです。死体にどの程度の打撲傷(だぼくしょう)がつくかを実験するんだといってね。あの人がそうしている現場を、ぼくはこの眼で見たんです」
「それでいて、医学を研究しているわけじゃないんだね?」
「そうなんです。あの人が何を研究しているのやら、誰も知らないんです。おや、もう着きましたよ。本人にじかに会って、あなたがご自分で確かめてみるんですね」
そんな話をかわしながら、私たちはほそい路地を通りぬけ、小さな裏口の扉をくぐって、大きな病院の一棟にはいった。そこは私もよく知っている場所だったから、案内を乞(こ)うまでもなく冷たい石段を昇って、白壁と暗褐色の扉がつづいている長い廊下をどんどん奥へ進んでいった。廊下は突きあたりの少し手前で、低い半円形の天井のある廊下へ折れ曲がり、それが化学実験室のほうへ通じていた。
実験室は天井の高い部屋で、無数の壜(びん)類が並んだり、散乱したりしていた。脚の低い大型のテーブルがあちこちにあって、その上には、レトルトや試験管や、青い炎のゆらめいているブンゼン灯が、ところ狭しと置かれていた。部屋には研究者が一人だけいて、その男は奥のほうのテーブルに身をかがめて実験に熱中していた。だが私たちの足音を聞くと、ふとこちらを向いて、それから歓声をあげて勢いよく立ちあがった。
「発見したぞ! とうとう発見したぞ!」彼は片手に試験管を持って、私たちのほうへ走り寄りながら、スタンフォードにむかって叫んだ。「血色素(ヘモグロビン)にあうと沈澱(ちんでん)するけれど、血色素以外のものでは絶対に沈澱しない試薬を発見したんだ」たとえ金鉱を発見したとしても、これほどまでにうれしそうな顔はするまいと思われるような喜びようであった。
「こちらはワトスン医師です。このかたがシャーロック・ホームズさん」と、スタンフォードは私たち二人を引きあわせた。
「はじめまして」と相手は心のこもった挨拶をして、思いがけない強い力で私の手を握りしめた。「あなたはアフガニスタンヘ行ってきましたね?」
「どうして、それがおわかりになったのです?」と、私はびっくりしてたずねた。
「いや、なんでもないことです」といって、彼はひとりで楽しげに笑いをもらした。「それよりも今問題なのは血色素(ヘモグロビン)ですよ。この発見の重要さは、もちろんあなたにもおわかりでしょう?」
「化学的にはたしかにおもしろい発見でしょうが」と私は答えた。「だけど、実用的には……」
「とんでもない、これは法医学にすぐに応用できる、近年にない発見ですよ。血痕(けっこん)の有無を確実に検出できるじゃありませんか! まあ、こちらへ来て見てください」彼はすっかり夢中になって、思わず私の上着の袖をつかむと、さっきまで自分が実験していたテーブルのところへ引っぱっていった。「新しい血をとりますよ」といって、彼は長い針を自分の指に突きさし、出てきた血の一滴を小管のなかにたらした。「さて、この少量の血液を一リットルの水のなかに混入します。ほら、その液は見た目には普通の水と変わりませんね。血液の混合率は百万分の一以下という微量です。ところが、これほど濃度の低いものからも、血色素(ヘモグロビン)特有の反応を得ることができるのです」
彼はそういいながら、容器のなかへ白い結晶物を少量放りこみ、そのあとさらに透明な液を数滴おとした。するとたちまち水はどんよりした赤褐色に変色し、ガラス管の底にやや茶色がかった沈澱物が生じた。
「ほら、ほら!」と彼は叫んで手を叩いたが、その喜びようは、まるで子供が新しい玩具をもらった時のようであった。「どうです、これは?」
「たいへん精妙なテストですね」と私はいった。
「あざやかだ、じつにあざやかだ! 旧式のグアヤック樹脂による検出方法じゃ手間ばかりかかって、しかも不確実です。血球の有無を顕微鏡で検出する方法も同じ欠陥があります。ことに後者は、数時間を経過した血痕を検出することができないのです。ところが、このテストなら、血液が新しくても古くても同じように反応が出るのです! このテストがもっと早く発見されていたら、いまもそしらぬ顔で世の中を闊歩(かっぽ)している大勢の殺人者がとっくに罪のつぐないをさせられていたでしょうね」
「そうでしょうね」と私は低い声でいった。「犯罪事件になるかならないかは、いつの場合でもこの一点で決まるのです。たとえば事件が起きて数力月ほどたってから、ある男に嫌疑がかかったとします。彼の衣服やシャツを調べてみると、褐色の汚点が付着している。その汚点がはたして血痕なのか、それとも泥や錆(さび)や果物の汁なのか、あるいは別のものなのか、それを識別するのがむずかしい。従来から多くの専門家が頭を悩ましてきたのは、この問題なのです……それはなぜか? 信頼すべきテスト方式がなかったからですよ。だが、このシャーロック・ホームズのテストが生みだされた以上は、今後はもう何の困難もないでしょう」
そういいながら、彼は眼をきらきら輝かせ、まるで拍手喝采(かっさい)している群集が眼の前にいるかのように、胸に片手をあててうやうやしく一礼してみせた。
「おめでとうといわせていただきます」と私はそういったが、彼の熱狂ぶりにはいささか驚いていた。
「昨年フランクフルトでフォン・ビショフ事件というのがありました。あの頃もしこの方式が発見されていたら、あの男はきっと絞首刑になっていたでしょう。それに、ブラッドフォードのメイスンも、あの悪名高いマラーも、モンペリエのルフェーブルも、ニュー・オーリンズのサムソンもね。これがあればきめ手がつかめたに違いない事件は、いくらでも列挙できますよ」
「まるで犯罪事件の生き字引みたいだね」とスタンフォードが笑いながらいった。「その方面の新聞を発行してはどうかね。『過去の犯罪事件新聞』とかいう題名をつけて」
「読みものとしても、かなりおもしろいものになるだろうね」と、シャーロック・ホームズは針で刺した指の傷あとへ、小さな絆創膏(ばんそうこう)を貼りながらいった。「しじゅう毒物をいじるので、こうしておかないとね」と私のほうを見て微笑しながら、その手をさし示した。そこには同じような絆創膏がいちめんに点々と貼られていて、皮膚は強い酸のために変色していた。
「じつは用事があって来たんですが」と、スタンフォードは三脚の高い腰かけに腰をおろし、私のほうにも同じ腰かけを足で押してよこしながら、用件を切りだした。「このワトスンさんが下宿をさがしておられるのです。あなたも共同で部屋を借りる相手がいないかな、とこぼしておられたので、お二人を引き合せたらいいんじゃないかと思いましてね」
シャーロック・ホームズは、私と共同で部屋を借りてはという提案を、ひどく気にいったようであった。「ぼくが眼をつけている部屋はべーカー街にあるんですがね」と彼はいった。「じつにぴったりの部屋ですよ。ところで、あなたは強い煙草の匂いを我慢してもらえますか?」
「いや、私自身があのシップス(強い煙草)のたぐいを愛用しているくらいですから」
「それはありがたい。それからぼくはいつも化学薬品を身近に置いて、ときどき実験をやりますが、それでもかまいませんか?」
「ちっともかまいませんよ」
「それではと……ほかにぼくの欠点というのは何かな? そうだ、ぼくはときどきふさぎこんで、何日も口をきかないことがあるんです。そういうときは、ぼくが怒っているのじゃないかと思ってもらっては困るんです。黙ってほっていてくれれば、じきにもと通りになるのですからね。さあ、こんどはあなたの自己紹介をお伺いしようじゃありませんか。一緒に生活するとなれば、そのまえにおたがいの短所をよく知りあっておくほうがいいですからね」
私のほうが逆に質問される立場になって、思わず笑ってしまった。「わたしはブルドッグの仔(こ)を一匹飼っています」と私はいった。「それから神経が疲れているので、騒々(そうぞう)しいのはいやです。朝起きる時間はまったくでたらめで、それに、ひどい怠け者です。からだが元気な時だと、ほかにもまだ悪いくせがあるのですが、いまのところは、まあ、これくらいです」
「ヴァイオリンの音色は、そのあなたの騒々しさの部類にはいりますか?」と彼は心配そうにたずねた。
「それはひき手にもよります」と私は答えた。「上手な演奏なら、誰にとってもすばらしい恩寵(おんちょう)でしょうが……下手なのをきかされては……」
「ああ、それをきいて安心しました」と彼は満足そうに笑った。「それでは、話がきまったと思っていいですね……もちろん、部屋をごらんになってからですが」
「部屋はいつ見にいきますか?」
「あす正午に、ここに来てください。いっしょに見にいって、万事をきめましょう」
「承知しました……では正午きっかりに」と約束して、私は彼と握手をかわした。そのあと、また化学薬品に埋もれて研究をはじめた彼をのこして、私たちは私のホテルのほうへ歩いていった。
「それにしても」と、私はとつぜん足をとめて、スタンフォードを振りむいてたずねた。「あの人は、いったいどうして、ぼくがアフガニスタンから帰ったなんて、わかったのだろう?」
私の連れは謎めいた微笑をうかべた。「あれが、あの人の一風変わったくせでしてね」と彼はいった。「どうして、あんなふうに何でも見破ってしまうのか、みんなが不思議がっているんです」
「ほう! やはり謎なんだね!」私は両手をすりあわせて叫んだ。「こいつはじつに愉快だ。おもしろい人物を紹介してくれて感謝するよ。『人間の研究は人間につきる』〔ポープの「人間論」第一章からの引用〕のだからね」
「じゃあ、あの人を研究してみることですね」スタンフォードは別れのあいさつをしながらいった。「でも、それはなかなかの難問ですよ。あなたがあの人を研究する前に、逆にあなたのほうがあの人に研究されてしまうんじゃないかな。では、さようなら」
「さようなら」私は新しく知りあいになった友人に深い興味をおぼえながら、ぶらぶらとホテルまで歩いて帰った。
翌日、私たちは約束の場所で落ちあって、前の日ホームズが話していたべーカー街二二一番地Bの部屋を見に出かけた。貸室は快適な寝室二つと、風通しのよい広い居間一室で、居間には気持のいい家具が備えてあり、明るい大きな窓が二つあいていた。貸室としてはどこをとりあげても申し分なく、下宿代の額も二人で分担すればちょうど妥当な額であったから、私たちはすぐその場で契約して、その日から部屋の主になった。その晩のうちに私はホテルから荷物を運びいれ、翌朝にはホームズも数個の箱と旅行鞄(かばん)を持ちこんだ。それから一日二日は荷物を解いたり、道具類を都合よく配置したりして、私たちも忙しく立ち働いたが、それが済むと、しだいに落着いて、新しい環境に少しずつ馴れていった。
ホームズはいっしょに暮す相手としては、むずかしい男ではなかった。その日常はもの静かで、生活は規則正しかった。夜はほとんど十時まえに眠りにつき、朝はいつも私の起きるまえに朝食をすませて出かけていた。そして昼間は、化学実験室にこもっているか、解剖室ですごしており、ときには長い時間をかけて、遠く下町のほうまで散歩に出かけることもあるようであった。熱っぽい研究意欲にとりつかれている時の彼は、ことのほか精力に満ちあふれていたが、いったんその反動が現われると、何日もぶっとおしで居間のソファに寝ころがって、朝から晩までほとんど口もきかず、筋肉一つ動かそうともしなかった。そんな時の彼は夢みるような空(うつ)ろな眼をしており、私が彼の日頃の節度のある勤勉な生活態度を知らなかったら、ひょっとすると彼は何か麻薬類の常習者ではなかろうかと、誤解しかねないほどの虚脱ぶりであった。
日がたつにつれて、私は彼の性格にますます興味を抱くようになり、彼の人生観についてはげしい好奇心をおぼえるようになった。何しろ彼はその風貌や容姿からして、どんな無関心な人の眼をも惹(ひ)きつけずにはおかないだけの個性をもっていた。身長は六フィートと少しだが、並みはずれてやせているので、実際よりはかなり長身にみえた。眼は、さきほど述べた虚脱状態の時は別として、ふだんは射るように鋭い輝きをみせており、その肉のうすい鷲鼻(わしばな)が、ぜんたいの容貌をひき締めて、俊敏(しゅんびん)果断な印象を強めていた。そのうえ顎(あご)が反りかえって前方に突き出ており、しかも角ばっていたから、これでますます断固たる意志の人という印象が強調されていた。手はいつもインキと化学薬品に汚れて汚染(しみ)だらけであったが、それでいて手先は驚くほど器用で、彼がじっさいに、こわれやすい実験器具をいとも巧みに扱っているところを、私は幾度となく見て感心したものである。
この男がどれほど私の好奇心をそそったかとか、彼が厳として口を閉ざしている一身上のことについて、私がどれほどしつこく聞きだそうとしたか……などと告白すれば、読者はきっと、私のことをとんでもないおせっかい屋だと思われるであろう。だけど、その判断を下されるまえに、当時の私が、生活の目的も持たず、関心を振り向ける対象もなかったという事実を、思い出していただきたい。私は体力が弱っていたから、とくに天候が温暖な時でなければ外出もできなかったし、また訪ねてきて私の退屈な日常を慰めてくれる友人もいなかった。こんな状態の時であれば、私がホームズの身辺にまつわるささやかな謎に格別の興味をおぼえ、ほとんど毎日のように謎を解こうと努めたのも、無理からぬことであったのだ。
彼はとりたてて医学を研究しているわけではなかった。ある時私は彼自身の口からその事を聞き出したのだが、この点に関してはやはりスタンフォードのいった通りであった。だからといって、何かほかに専門的に研究して科学の学位を取ろうとしているとか、何か正当な研究をして学界に地位を得ようとしているかというと、そんな様子も見えなかった。それでいて、ある種の研究にそそぐ彼の情熱は異常なほどで、きわめて特異な分野ではあるが、彼の知識は驚くほど該博(がいはく)で緻密で、私は彼の言葉のはしばしからそれを知って、まったく驚嘆したものである。どう考えても、人はよほどの確固たる目標がないかぎり、こうまで熱心に研究したり、正確な知識を得ようとしたりはしないものだ。ただ慢然と書物を乱読しているだけでは、人はその正確な知識を誇りうるところまで到達しないはずだ。よほど心に期するものがなければ、人はあえて詳細な知識を求めようとはしないものである。
ところで、彼は驚くほど博識であったが、それでいて無知という点でもあきれるほどであった。現代の文学や哲学や政治に関しては、ほとんど何も知らないといってもよかった。私があるときトマス・カーライル〔スコットランドの思想家、歴史家。一七九五〜一八八一〕の名前を出したら、彼はじつに無邪気に、それはどういう人でどんな仕事をしたのかとたずねたものである。だが、その程度のことならまだいいとしても、ある時偶然にも、彼がコペルニクスの地動説や太陽系のしくみさえも、まったく知らないとわかったとき、私の驚きは頂点に達したのである。この十九世紀の文明人のなかに、地球が太陽のまわりを公転しているという事実を知らないものがいようとは、あまりに常識はずれで、私にはとうてい信じられないことであった。
「驚かれたようですね」と彼は私のあきれ顔を見て、微笑しながらいった。「こうやって教えてもらったんだから、こんどはさっそくこれを忘れるよう努力しますよ」
「えっ! 忘れるんですって!」
「いいですか」と彼は説明をはじめた。「ぼくの考えでは、人間の頭脳などというものは、もともと小さな空っぽの屋根裏部屋のようなもので、自分の好きな道具だけをしまっておくようにできているんです。ところが、愚かな人は、出くわした種々雑多ながらくたを何でも手あたりしだいに取りこむものだから、肝心の役に立つ知識ははみだしてしまうか、はみださないまでも、ほかのものとごちゃまぜになって、いざとり出そうとしても、それがどこにあるのか、わからなくなってしまうのです。それにひきかえ、老練な職人は、頭脳の屋根裏部屋に何をとりこむべきかについて、じつに周到な注意をはらうのです。彼は自分の仕事に役立つ道具だけを選別してとりいれ、しかもそれを細かく分類し、もっとも完全な方法で整理しておくのです。そもそもこの小さな部屋の壁が伸縮自在で、どこまでも膨張するものだと考えるのがまちがいなんですよ。頭脳にはかならずある限界というものがあって、そこにぶつかると、人間は一つ新しい知識をとりいれるたびに、古い知識を一つずつ忘れていくほかはないのです。だから、役に立たない知識を貯(たくわ)えて役に立つ知識を閉めだしてしまわないようにすることが、きわめて大切なんです」
「でも、太陽系の知識ぐらいは!」と私は反論した。
「そんなものが、このぼくにとって、いったい何だというんです?」彼はいら立たしげに私の言葉をさえぎった。「きみは、われわれが太陽のまわりをまわっているといわれるが、かりにわれわれが月のまわりをまわっているとしても、ぼくの生活や仕事には、これっぽっちの影響もないじゃありませんか」
私はそのとき、ではそのきみのやっている仕事って何なのかい、とよほどたずねてやろうかと思ったのだが、彼の態度には、どこかその質問を喜ばないような様子がみえたので、控えたのだった。だが、そのかわりに、私はこのときの短い会話の内容をじっくり検討して、そこから私なりの結論をひきだそうと頭をめぐらした。彼は自分の目的に関係のない知識をとりいれるつもりはないといった。そうすると、彼のもっている知識はみな、彼の仕事に役立つような部類のものばかりだと、考えていいはずだ。私は心のなかで、彼が特別によく知っている事柄だけを、いろいろと列挙してみた。そのあげく、鉛筆をとって、紙きれに書きとめてみた。その表を書きあげたとき、私は思わず微笑せずにはおれなかった。その表というのは以下のようになったのである。
シャーロック・ホームズの知識の程度
一 文学の知識……皆無。
二 哲学の知識……皆無。
三 天文学の知識……皆無。
四 政治学の知識……貧弱。
五 植物学の知識……偏重性はなはだし。ベラドンナ、 阿片、その他毒物一般に関しては熟知すれど、園 芸に関しては無知。
六 地質学の知識……実用的知識はあれど、広くは知 らず。一見して各種の土壌(どじょう)を識別する能力あり。 散歩より帰宅してのち、ズボンについたハネを私 に見せて、その色と固さから、ロンドン市内のい かなる場所でついた土であるかを指摘してみせた ことあり。
七 化学の知識……深遠。
八 解剖学の知識……的確なれど系統的ならず。
九 センセーショナルな記事に関する知識……該博。 とくに今世紀に起こった兇悪な犯罪に関しては、 そのすべてを詳細に知悉(ちしつ)するものと推察される。
十 ヴァイオリンを巧みに奏す。
十一 棒術、拳闘、剣術の達人。
十二 英国の法律の実用的知識に富む。
ここまで表を作ってみたが、私は失望してしまって、紙を火の中に投げこんだ。「あの男が何をやろうとしているかを探りだすために、こんな支離滅裂な才能を寄せ集めて、こういう才能の全部を必要とする職業とは何かを推測してみてもしかたがない。こんなことなら、はじめからやらないほうがましだ」と私はひとりごとをつぶやいた。
上記の表で、私は彼のヴァイオリンの才能について紹介したいと思う。たしかに、それはすばらしい腕前だったが、ほかの方面の才能と同じように風変わりな癖があった。私のリクエストに応えて、メンデルスゾーンの歌曲やそのほかの好きな曲をひいてくれたほどだから、彼がむずかしい曲もひきこなせることはたしかだった。しかし、ひとりでひかせておくと、楽譜をとりだしたり、人に知られている旋律を奏することは、ほとんどなかった。夕方になると、彼はよく肘(ひじ)掛け椅子にもたれて、眼をとじたまま、ヴァイオリンを膝にのせて、無造作にかき鳴らすのだった。その音色は、ある時は格調高くもの哀しく響き、またある時は、軽快で幻想にいざなうかのようであった。これは明らかにそのときどきの彼の想念を反映しているにちがいないけれど、彼が音楽の助けをかりて思索にふけろうとしているのか、あるいは、たんに気まぐれな幻想に類したものなのか、私には理解できなかった。こういう好き勝手な独奏を聞かされるだけだったら、私も抗議したと思うが、私にやりきれない思いをさせたことを少しは償(つぐな)うかのように、最後には彼はきまって私の好きな曲をたてつづけにひくのであった。
共同生活を始めてから最初の一週間ぐらいは、訪問客はひとりもなかった。それで私はホームズも私と同様に友人がいないのだろうと思いはじめていた。ところがそのうちに、彼には多数の知人がいて、しかもそれが社会の広範な層にまたがっていることがわかった。そのなかのひとりが、小柄で血色が悪く、ねずみのような顔と黒い眼をした男で、レストレード氏だと紹介されたが、彼は一週間に三、四回も訪ねてきていた。またある朝には、流行の服を着こなした若い女性が訪ねてきて、三十分あまりも話しこんでいた。同じ日の午後には、行商のユダヤ人らしい風態の、服装のみすぼらしい、ごま塩頭の男がきたが、彼はひどく興奮しているらしい様子であった。その客が帰ると、すぐあとに、こんどはだらしのない格好をした老婆が訪ねてきた。またある時には、白髪の老紳士が面会にきたり、そうかと思うと、ビロードの制服を着た鉄道の赤帽も姿をみせた。こういう得体(えたい)のしれない人物が来訪すると、シャーロック・ホームズはきまって居間を使わせてほしいと頼むので、私はいつも寝室に追いやられることになった。彼は私にこういう不便をかけてすまないと、しじゅうあやまっていた。
「ぼくはこの部屋を仕事のために使わなきゃならないのでね」と彼はいった。「あの連中はぼくの顧客なんですよ」
このとき私はもう一度彼に単刀直入に質問すればよかったのだが、他人に打ちあけ話を無理強いしてはいけないと遠慮して、またしてもその機会を逸したのだった。私はその時、彼は何かしら深い事情があってその問題に触れたくないのじゃないかと思っていたのだが、まもなく彼の口からその点を明らかにしてくれたので、私の疑念は一掃(いっそう)されたのであった。
印象に焼きついているので今でもよくおぼえているが、三月四日のことだった。その日私はいつもよりすこし早く起きたのだが、シャーロック・ホームズはまだ朝食の最中であった。下宿の女主人は私の朝寝坊に馴れていて、私の席には朝食もコーヒーも用意されてはいなかった。世の常の人間として、私はばかげた癇癪(かんしゃく)をおこして、ベルを鳴らし、私の支度はできているからとぶっきらぼうに告げた。それから私はテーブルから雑誌をとりあげて、黙々とトーストを食べているホームズを横目で見ながら、しばらく時間をつぶそうと、それをめくってみた。
ある記事の表題に鉛筆で印(しるし)がついていたので、私の眼は自然にそこに注がれていった。それは「人生の書」という、なかなか野心的な表題を掲げていて、観察力の豊かな人間は、日々の生活のなかで出会ういろんな出来事を、正確に系統的に研究することによって、いかに多くを学びうるものであるかを立証しようとしていた。だが私には、鋭い考察とでたらめな主張とを奇妙につきまぜたものとしか思えなかった。論旨は緻密(ちみつ)で熱意がこもっていたが、推理の方法そのものには、ひどいこじつけと誇張があると思われた。筆者は、顔の筋肉がちょっと動くとか、視線がちらと動くとかいうような瞬間的な表情から、人間の心の奥底まで読みとることができると主張していた。彼の言によれば、観察と分析の訓練を積んだ人間には、ごまかしは通用しないというのだった。その結論は、ユークリッドの定理と同じように絶対に誤りはない、というのだった。その推定の確かさは、あまりに驚くべきものであるから、初心者は、それがどのような過程を経て習得されたかを知らされないかぎり、おそらく筆者を魔法使いと思うかもしれない、というのである。
「論理家というものは」と筆者はいう。「ただ一滴の水を見ただけで、大西洋やナイヤガラ瀑布(ばくふ)を実際に知らなくても、それが存在しうることを予言できるものである。同様に、人生もまた大きな一連の鎖であり、われわれはその環の一つを究明すれば、人生の本質を把握できるのである。推理と分析の学も、他のあらゆる学問とおなじく、長い辛抱づよい研究を積み重ねてはじめて体得しうるのである。しかもこの学問の最高の域に到達するためには、一生を費しても充分とはいえない。この学問に志す者は、この上なく困難なかかる精神的な面の研究に取り組む前に、まず基本的な問題から習得していくべきであろう。たとえば、誰かに会ったら、一目見ただけでその人物の経歴や現在の職業を見抜く訓練をするとよい。こういう訓練は他愛もないものに思われるかもしれないが、これこそが観察力を鋭くし、他人のどこを見、何を探索すべきかを教えてくれるのである。その人物の指の爪、服の袖、長靴、ズボンの膝頭、人さし指と親指のたこ、その表情、シャツのカフスなど、そのどれひとつとっても、その人物の職業を端的に示している。こういう観察を総合すれば、優秀な研究者が判断を誤ることは絶対にありえない」
「何てばかげたたわごとだ!」私は雑誌をテーブルに叩きつけて叫んだ。「こんなくだらないものを読むのは初めてだ」
「どうしたんです?」とシャーロック・ホームズがたずねた。
「なあに、この記事ですがね」私は朝食の席について、卵スプーンで雑誌を指し示した。「印がついているから、きみも読んだんですね。巧妙な文章であることは認めますよ。だが、内容が腹立たしい。こんなものは、どうせどこかの暇人(ひまじん)が、世間とは没交渉な書斎にこもって、ちょっと気のきいた逆説をもてあそんだものにきまってます。実際には通用しませんよ。ぼくはこんな記事を書いた男を地下鉄の三等車に押しこんで、乗りあわせた客の職業をひとりひとり当てさせてやりたいな。千対一で賭けてもいいくらいだ」
「それじゃ、みすみす損をするだけですよ」とホームズが静かにいった。「じつはあの記事は、このぼくが書いたんです」
「えっ、きみが!」
「そうです、観察と推理に関しては、ぼくには生れつき才能がありましてね。そこに書いてある理論は、きみには途方もない夢物語に思えるらしいが、ほんとうは、きわめて実用的なものなんです……現にぼくがいま、その理論で日々のパンを得ている。それほど実用的なものなんですよ」
「でも、どうやって?」私は思わず聞き返した。
「つまり、ぼくは独特の商売をやってましてね。おそらくこんな商売をやっているのは、世界中でぼくひとりでしょうね。ぼくは顧問探偵をしているんです。そういってもきみにわかるかどうか。このロンドンには政府の探偵や私立探偵がたくさんいます。この連中は失敗すると、ぼくのところに相談にくるんです。ぼくは彼らに正しい方向を教えてやります。彼らはぼくの前にすべての証拠を提出して助言を求めるので、ぼくは犯罪史の知識を活用して、うまい解決法を見出してやるわけです。犯罪事件などというものは、きわめて類似性の高いものですから、千の犯罪に精通しておれば、千一番目の犯罪を解明できるはずですし、解明できないほうがおかしいというものです。レストレードは有名な警部ですが、最近起きた贋金(にせがね)事件で迷路に踏みこんでしまったものだから、ああしてここへ訪ねてきているわけです」
「それじゃ、ほかの人たちは?」
「彼らの多くは民間の興信所から紹介されてきた人たちです。みんなそれぞれ何かしら心配事を持っていて、少しでも解決したいと思い、忠告を求めてくるのです。ぼくは彼らの悩み事を聞き、彼らはぼくの意見を聞く。そして相談料をちょうだいするという次第です」
「そうすると、事実をこと細かに知っている当事者ですらどこに謎があるのかわからない難問を、きみはこの部屋から一歩も出ないで解決できるというのですか?」
「そうですとも。この種のことにかけては、ぼくは一種の直観的能力を持っているんですよ。まあ、時によっては多少複雑な事件に出くわすこともあるにはある。その時は、このぼくも調査に走りまわって、この眼で事実を確かめる必要があります。だけど、ご存じのように、ぼくは専門的知識を豊富に持ってますから、それを実地に応用して、複雑な事件でも驚くほど簡単に解きほぐすのです。その雑誌に出ている、きみの嘲(ちょう)笑(しょう)を買った推理の法則は、ぼくの実際の仕事にどれほど役立っているか測りしれないほどです。ぼくにとっては、観察は第二の天性になっています。きみと初めて会ったとき、ぼくが、あなたはアフガニスタン帰りですね、といったら、きみは驚いていたようですが」
「あれは、きっと誰かに聞いていたからわかったんでしょう?」
「とんでもない。ぼくは自分の実力で言い当てたのです。長年の習慣で、ぼくの思考力は鋭くなっていますから、途中の一つ一つの段階を意識して辿(たど)らなくても、すぐに結論に到達してしまうのです。でも、分析してみれば次のような順序をたどっているはずです。
『ここに医者タイプで、しかも軍人らしいところもある紳士がいる。してみると軍医にちがいない。顔は黒いが、手首が白いので、生れつき皮膚が黒いのではない。するとこれは熱帯地方から帰還したばかりなのだ。苦しい体験をへて、病気になったことは、やつれた顔を見ただけでわかる。左腕を負傷している。動作がぎごちなくて不自然だ。わが国の軍医がこれほど苦しい目に会い、腕を負傷するような体験をせざるをえなかった場所は、熱帯地方のどこだろう? むろん、アフガニスタンにきまっている』
これだけの推理をたどるのに一秒もかからなかったのです。そしてきみはアフガニスタンから帰ってきましたね、といったら、眼をまるくしていましたね」
「説明を聞くと、たしかに単純明快だ」と、私は微笑しながらいった。「きみはまるでエドガー・アラン・ポーのデュパン探偵みたいな人ですね。あんな人物が、小説の中ではなくて、本当に実在しようとは夢にも思わなかった」
シャーロック・ホームズは立ち上がって、パイプに火をつけた。「もちろんきみはぼくをほめたつもりで、デュパンを引き合いに出したのでしょうが」と彼はいった。「でも、ぼくにいわせれば、デュパンははるかに劣った奴ですよ。十五分間も黙って観察したあとで、とつぜん鋭い指摘をして、友人の思考をぶちこわすなんて、あんな芸当はただ派手なだけで安っぽいやりかたです。デュパンは、ある程度の分析の才能は持っていただろうが、だからといって、ポーが考えていたほど傑出した人物じゃないことは確かです」
「きみはガボリオ〔フランスの推理作家〕の作品を読んだことがあるでしょう?」と私はたずねた。「あれに出てくるルコックなら、きみも名探偵だと思うでしょう?」
シャーロック・ホームズはふんと鼻を鳴らして冷笑した。「なあに、ルコックなんて、ヘまばっかりしでかす哀れな奴ですよ」と彼は苦々しい声でいった。「たったひとつ取柄(とりえ)があるとすれば、精力だけです。あの本を読むと、ばかばかしくなってくる。問題は、口を割らない犯人の身元を外部から立証するだけなのに、ぼくなら一日もあれば片づくところを、ルコックは半年もかかっているんですからね。まあ、あの本は探偵としておかしてはならない過ちを教える教科書としてなら、役に立つかもしれないが」
私が敬愛していた名探偵ふたりを、ホームズからこうまで頭ごなしに批判されては、私もいささか憤慨(ふんがい)を禁じえなかった。私は窓ぎわに歩み寄り、通行人の行きかう街路を眺めた。「この男はたしかに頭はいいかもしれないが、それにしても相当なうぬぼれ屋だな」と私はひとりごちた。
「ちかごろは、犯罪らしい犯罪にも、犯人らしい犯人にも、さっぱりお目にかからなくなってしまった」とホームズはいかにも無念そうにいった。「これじゃ、いくら専門家として優れた頭脳を持っていても、それが何の何に立つというのだ? ぼくには、有名になれるだけのすばらしい頭脳があるというのに。犯罪事件の謎ときにかけては、いまだかつてこのぼくほど、豊富な研究を積み重ね、生れながらの才能を発揮してきたものは、他にはいない。それでいて、結果はどうだろう? 才能を発揮しようにも、それに値するだけの犯罪がないというありさまだ。せいぜい、警視庁の警郡たちで用が足りる程度の、動機の見えすいた、単純な悪事ばかりなんだから」
私は彼の傲慢(ごうまん)な口ぶりに、いよいよ我慢がならなくなった。ここで話題を変えるのが上策だと思った。
「ところで、あの男は何をさがしているんだろう?」と、私は街路の向こうがわをゆっくりと歩いている男を指さした。頑丈な体格をした、質素な服を着た男で、しきりに家の番地をのぞきこんでいた。大きな青い封筒を手にしているところをみると、きっと誰かに手紙を届けるつもりだろう。
「ああ、あの男は海兵隊の退役兵曹ですよ」とシャーロック・ホームズがいった。
「また大ぼらがはじまった!」と私は心の中でつぶやいた。「確かめようがないと思って、当てずっぽうをいっているんだ」
私がそう思った瞬間、その男はこの家の番号札を見て、急ぎ足で街路を横切ってこちらがわに近づいてきた。やがて、階下で大きなノックの音がして、太い声が聞こえ、階段を昇ってくる重い足音が近づいてきた。
「シャーロック・ホームズさん宛です」男は部屋に入ってきて、手紙を手渡した。
今こそ、ホームズのうぬぼれを打ちのめす絶好の機会である。彼はこんなことになろうとは夢にも思わずに、口からでまかせをいったにちがいない。そこで私はできるだけ穏やかに、その男にたずねてみた。「失礼ですが、あなたのご商売は何ですか?」
「メッセンジャーですよ」と、男はぶっきら棒(ぼう)に答えた。「制服は修繕に出していますがね」
「それで、以前のご職業は?」私はすこし意地の悪い眼で、ホームズのほうをちらと見た。
「英国海兵隊、軽歩兵団の兵曹でした。手紙のご返事はありませんな。では、これで」
兵曹は踵(かかと)を鳴らして足をそろえ、挙手の礼をすると、そのまま立ち去っていった。
正直に告白するが、私はホームズの理論が実際に役立つという証拠を、まざまざと見せつけられて、すっかり驚いてしまった。そして彼の分析能力に対する感嘆の念は、いっそう強まったのであった。それでもまだ、心のどこかに、あれは、彼が私の度肝(どぎも)をぬこうと思って、あらかじめ仕組んだ芝居ではなかったかという疑念が、かすかに残っていた。しかし、いったいどんな目的があって、私にそんなことをするのか、さっぱりわからなかった。ふと彼を見ると、彼は手紙を読みおえて、焦点の定まらぬうつろな眼をしていた。こういう表情は、彼が思索にふけっている時の特徴なのである。
「いったいどうして、ああいう推理ができたんですか?」と私はたずねた。
「推理って、何の?」彼はいらだたし気に聞きかえした。
「さっきの男が、海兵隊の退役兵曹だという推理ですよ」
「あんなささいなことに、今さらかまってはおれないね」と彼は無愛想にいったが、すぐに笑顔をとりもどして、「いや、これは失札。考えごとをじゃまされたものだから、つい……でもかえってよかったかもしれません。すると、きみはあの男が海兵隊の退役兵曹だということが本当にわからなかったんですか?」
「まったく、わかりませんでしたよ」
「ぼくの場合は、わかるのは簡単にわかったんですが、それを説明するほうがかえってむずかしいですよ。二足す二が四になる理由を説明しろといわれたら、それがわかりきった事実であっても、きみだってちょっと困るでしょう。あの男は街路の向こうがわを歩いていたが、手の甲(こう)に大きな青い錨(いかり)の刺青(いれずみ)があるのを、ぼくは見逃さなかったのです。錨というと海を暗示するじゃありませんか。しかも、身のこなしには兵隊らしいところがあるし、おまけに型どおりの頬ひげもはやしている。もうまちがいなく海兵隊あがりだ。それに、あの男には、もったいぶった様子と人に命令するような態度が感じられました。あの昂然(こうぜん)と頭を直立させた姿勢や、ステッキの振りかたをきみも見たでしょう。しかも、あの顔はどう見ても、落ち着いた、まっとうな中年の男だ……そういう、いろんな点から判断して、ぼくはあの男がもと兵曹だと断定したんです」
「じつにすばらしい!」私は叫んだ。
「なあに、それほどのことじゃないですよ」とホームズはいったが、内心では私の驚嘆ぶりを見て喜んでいる様子が表情にあらわれていた。「ぼくはたった今、犯罪らしい犯罪がなくなったといったが、どうやら考えちがいだったようだ……まあ、これを見たまえ」
彼はさきほどのメッセンジャーの届けた手紙を私に投げてよこした。
「えっ、何だって!」と、私は手紙に眼を通しながら叫んだ。「これは怖るべき事件だ!」
「ありきたりの事件ではなさそうですな」とホームズは冷静に答えた。「よかったら、それを読んできかせてはもらえませんか?」
私が読みあげた手紙は次のようなものであった……
シャーロック・ホームズ様
昨夜、ブリクストン通りに近いロウリストン・ガーデン三番地で怪事件が発生しました。けさ午前二時ごろ、同番地にある空家に灯火(あかり)がついているのを、巡回中の巡査が見つけ、不審をいだいて捜索しましたところ、玄関の扉に鍵がかかっておらず、家具一つない表の空部屋で身なりのきちんとした紳士の死体が発見されました。ポケットには、『アメリカ合衆国オハイオ州クリーブランド市、イノック・J・ドレッバー』という名刺が数枚はいっておりました。金品を盗まれた形跡もなく、その他この人物の死因を明らかにする証拠物件も残ってはおりません。室内には血痕が付着しておりますが、死体には外傷がありません。被害者がどんな理由で空家にはいらねばならなかったか、われわれとしては了解に苦しむところです。実際、事件全体が謎めいています。本日正午までに同家にお出でいただけますならば、私はそこでお待ち致すつもりでおります。貴殿から何らかのご意見をお聞きするまでは、現場をそのままの状態で残しておきます。もしおさしつかえのあるときは、後刻私のほうからお訪ねしてくわしくご報告いたします。ご意見をお聞かせいただければ、このうえなく幸せに存じます。 敬具
トバイアス・グレグスン
「グレグスンという男は、警視庁きっての敏腕刑事なんだよ」と、わが友ホームズはいった。「この男とレストレードとは、ヘぼ刑事のなかでは優秀なほうだ。ふたりとも俊敏だし行動力もある。だが惜しむらくは、ふたりとも型にはまりすぎている……あきれるほどね。それに両方とも対抗意識が強い。嫉妬(しっと)心のはげしさといったら、まるで商売女みたいだ。その二人がそろって今回の事件を手がけることにでもなれば、さぞおもしろいみものでしょうな」
私は彼がこういう時に悠然と饒舌(じょうぜつ)を楽しんでいるのに驚いた。
「きみ、そんなにのんびりしている暇はないんだろう」と私は大声で叫んだ。「よかったら、辻馬車を呼んでこようか?」
「いや、ぼくはまだ行くときめたわけじゃないよ。なにしろ、ぼくは無類の怠けものなんでね……それも発作の起こったときだけの話だけど。これでも時としては活発に行動することだってあるんだからね」
「でも、きみとしても、こういう機会を待ちこがれていたんじゃないのかい?」
「きみはそういうけれど、今度の事件がこのぼくに何の関係があるというのかね? かりにぼくがこいつを解決したところで、その手柄はまちがいなく、グレグスンやレストレードといった連中に持っていかれるんだ。これもぼくが政府の役人でないことからくるんですがね」
「でも、現にこうやってきみの援助を求めてきているじゃありませんか」
「そりゃ、そうですよ。グレグスンも、ぼくの力量にはかなわないことをよく知っているし、ぼくに対してはそれを認めてもいる。だけど、第三者のまえでそれを認めるくらいなら、あの男のことだから、舌を噛みきったほうがましだと思っているだろうな。でも、ちょっと行って見てくるのも悪くはないね。ぼくはぼくなりのやり方で調べてやろう。ぼくにとっては何にもならないとしても、少くとも彼らの無能ぶりを笑いものにするぐらいのことはできるだろう。それじゃ!」
彼はいそいで外套を着ると、あわただしく動きまわった。その様子は今までの無頓着ぶりがまるで嘘みたいに、活動的な意欲にとりつかれているようであった。
「きみも帽子をかぶりたまえ」と彼はいった。
「ぼくも一緒にこいというのかい?」
「そうさ。ほかにもっとおもしろいことがあるなら話は別だがね」
それから一分後には、私たちは辻馬車に乗って、ブリクストン通りのほうへ全速力で疾走していた。
霧のたちこめた曇(くも)った朝で、家々の屋根のうえには、街路の泥色を映したかのように灰色のヴェールが重く垂れこめていた。わが友は上機嫌で、クレモナのヴァイオリンの話や、ストラディヴァリウスとアマティの違いなどを、とくとくとしゃべりつづけた。ところが私のほうは、天気が陰うつなうえに、事件現場で待っている憂うつな仕事を思うと、すっかり気がめいってしまい、黙りこくっていた。
「きみは今度の事件のことを、ちっとも考えようとはしないんだね」と、私はついにたまりかねて、ホームズの音楽談議を中断させた。
「まだ材料がないじゃないか」と、彼は答えた。「ちゃんとした証拠がそろわないうちに推理を始めるのは、たいへんなまちがいをもたらすんだ。判断をかたよらせるもとになる」
「材料はすぐ手に入るさ」と私は前方を指さしながらいった。「ここはもうブリクストン通りだ。あれがきっと問題の家なんじゃないかな」
「たしかにあの家だ。おい、馭者(ぎょしゃ)、馬車をとめてくれ!」
そこから問題の家まではまだ百ヤードあまりもあったが、ホームズがどうしてもおりようといってきかないので、私たちはそこから歩いていくことになった。ロウリストン・ガーデン三番地は、見るからに不吉な、人を威嚇(いかく)するような外観をそなえていた。通りからすこしはいったところに四軒の家が並んでいて、そのうちの二軒には人が住んでおり、他の二軒が空家で、事件のあった家はそのうちの一つであった。窓掛ひとつない裸の窓が三段に並んでいて、いかにも人気(ひとけ)のない陰気な印象をあたえていたが、そのところどころに貸家札がはられていて、それかあたかも濁(にご)った眼のなかの白内障(そこひ)のようにみえた。通りから家までのあいだは小さな庭になっており、いかにもひ弱そうな植木があちこちに植えられていて、粘土と砂利とで固めたらしい黄色の小道が、その中を通っていた。昨夜じゅう降りつづいた雨のために、あたり一帯はひどくぬかるんでいた。庭は、頂きに木の柵(さく)をとりつけた高さ三フィートの煉瓦塀(れんがべい)でかこまれていて、その外では屈強な巡査が塀に寄りかかるようにして立っており、そのまわりには、閑人(ひまじん)たちが数人むらがって、見えるはずもない内部の模様をすこしでも見ようと、首を伸ばしたり眼を皿のようにしたりして空しい努力をくりかえしていた。
私は、シャーロック・ホームズは家の中に駆けこんでいって、すぐにも事件の調査をはじめるものとばかり思いこんでいた。ところが彼は、そんなそぶりはすこしも見せず、私などの眼からみると、もったいぶっているのじゃないかと思いたくなるような、いかにも無頓着(むとんちゃく)な様子で、道路をぶらぶらと行ったり来たりして、地面や空や向こうがわの家並や柵などを、ぼんやりと見つめたりしていた。そういう観察が終ると、こんどは家へ通じる小道を、というより小道の縁の草のうえを、ゆっくりとした足どりで歩きながら、そこの地面を注意深く点検していった。途中で二度立ちどまり、一度などは微笑をうかべて、満足そうな叫びをもらした。粘土質のぬかるんだ地面には多くの足跡が刻まれていたが、すでに警官たちがその上を行ったり来たりしたあとだから、そんな足跡から何かの手がかりをつかめるかどうか、私には疑問に思われた。しかし、ホームズの観察力の鋭さをいやというほど見せつけられてきた私は、私などにはうががいしれない多くの事実を発見しているにちがいないと思った。
玄関のところで、私たちは、手帳を手にした、背の高い、色白の、亜麻色の髪をした男の出迎えをうけた。彼は待ちかねたように走り寄ると、わが友の手を握りしめ、「よく来てくださいました」といった。「現場は何もかも、手を触れずに残しておきましたよ」
「あれだけは例外ですな!」といって、ホームズは庭の小道を指さした。「かりに水牛の群が通ったとしても、ああまでひどく踏み荒されはしないだろうね。もちろん、きみのことだから、ちゃんと調べをすましたうえで、あそこの通行を許したのでしょうな、グレグスン君?」
「なにしろ家の中にはいろんな用事がありましてね」と、グレグスンはあいまいに言葉をにごした。「同僚のレストレード君もきていますので、外のほうは全部彼に任せておいたんですよ」
ホームズは私のほうをちらと見て、それから意地悪げに眉(まゆ)をつりあげた。「きみやレストレード君のような有能な人がふたりも来ておられるんじゃ、第三者が調べるまでもなさそうですな」
グレグスンはその通りだといわんばかりに、うれしそうに手をすり合せた。「やるだけのことは全部やったつもりですがね。それにしても、奇妙な事件ですよ。こういう事件は、きっとあなたの好みに合うのじゃないかと思いまして」
「ところで、きみはここへ馬車で来ましたか?」とシャーロック・ホームズがたずねた。
「いいえ」
「レストレード君も?」
「彼もおなじです」
「では、これから部屋を見にいきましょうか」ホームズは、そんな唐突な質問を発したあと、さっさと家の中へはいっていった。グレグスンも後につづいたが、その顔には当惑の色があらわれていた。
敷物もない床板のうえに埃(ほこり)のつもった短い廊下が、台所と家事室のほうへ通じていた。途中には両側に一つずつドアがあった。その一つはあきらかに何週間もまえから閉じられたままであり、もう一つのドアは食堂に通じていて、そこがあの怪事件の現場であった。まずホームズが部屋にはいり、私もあとにつづいたが、いよいよ死体に直面するのかと思うと、その重苦しい圧迫感が胸を塞(ふさ)ぐのであった。
そこは正方形のかなり大きな部屋で、おまけに家具がないから、よけいに広く見えた。四方の壁には安っぽい派手な壁紙がはってあったが、黴(かび)が生えて汚染(しみ)になったところがあり、また、ところどころ紙が大きく剥(は)がれて醜く垂れさがっていて、下から黄色い壁土が露出していた。ドアの正面の壁には、白い人造大理石で麗々(れいれい)しく装飾した壁炉が設けられており、マントのはしに赤ローソクの燃え残りが一本立っていた。一箇所しかない窓がひどく汚れているために、日光も部屋にはいるとぼんやりと曇ってしまい、すべてのものは薄暗い灰色に見えたが、この印象は部屋じゅうに積っている厚い埃(ほこり)のために、いっそう強められていた。
もっとも、こういった細かいことは、あとから私が気づいたものである。入った瞬間には、床のうえにころがって、うつろな見えない眼を見ひらき、汚れた天井をきっとにらんでいる、硬直した気味の悪い死体に、すっかり注意を奪われていた。それは四十三、四歳の肩幅の広い中肉中背の男で、髪は黒く毛が硬くちぢれており、顎(あご)のまわりに短い不精ひげをはやしていた。服装は、高価な黒ラシャのフロックコートとチョッキを着て、うす色のズボンをはき、純白のカラーとカフスをつけていた。男のかたわらには、入念にブラシをかけて手入れをしたと思われる光沢のいいシルクハットが一つころがっていた。手を固く握りしめ、腕を横に伸ばし、両足はもつれあっていて、死の苦しみがいかにすさまじいものであったかを物語っていた。硬直した顔は恐怖にひきつっており、それは、今まで人間の顔のうえに見たこともない憎悪にゆがんだ表情のように、私には思われた。この憎しみと恐怖に歪んだ顔は、額がせまく、鼻が低く、顎(あご)が突き出ており、しかもからだを不自然にねじ曲げているせいもあって、ひどく猿のたぐいに似た印象をあたえた。私はこれまでに数々の死者を見てきたが、ロンドン郊外の大通りに面している、この薄暗い不気味な部屋で見た死体ほど恐ろしい形相をしたものはなかった。
いつもながら痩(や)せて、イタチのような顔をしたレストレードが、部屋の入口のところに姿をみせて、ホームズと私に挨拶をした。
「これはひと騒がせな事件になりそうですな」と彼はいった。「ぼくも臆病じゃないつもりのですが、これほどすごい事件にぶつかるのははじめてですよ」
「何ひとつ手がかりがないんだからね」とグレグスンがいった。
「まったく、ないんです」とレストレードがあいづちをうった。
シャーロック・ホームズは死体に近づいて膝をつき、熱心に調べはじめた。「死体にはどこにも外傷はないんだね?」と彼は、あたり一面に飛び散っているおびただしい血痕を指さしながらいった。
「ぜったいにありません」とふたりは声をそろえて叫んだ。
「じゃあ、これは死んだ男の血じゃない……おそらくは加害者の血だ、これが他殺だとすればね。ここで思い出すのは、一八三四年にユトレヒトで起ったファン・ヤンセン殺しの時の状況だが、グレグスン君、きみはあの事件をおぼえていますか?」
「いや」
「では、あの事件の記録を読んでみるんですな……ほんとうにそうすべきですよ。天(あめ)が下に新しきものはなし、という格言もある。同じような事件がかならず以前にも起っていますよ」
彼はそういっているあいだに、死体を撫(な)でてみたり、押してみたり、ボタンをはずしてみたり、軽くたたいたりして、その敏捷な指先をたえず、あちこちに動かしていた。そしてその眼は、虚空(こくう)を見ているような、あの思索的な表情をうかべていた。彼の調べかたがあまりに早いので、はたしてどの程度綿密に調べているのか、見ている者には疑問に思われるほどであった。彼は最後に死体の唇を嗅(か)ぎ、それからエナメル革の靴の底に眼を走らせた。
「死体はぜんぜん動かしてないんだね?」と彼はたずねた。
「われわれが最初に調べた時に最小限動かしただけで、ほとんどもと通りです」
「では、死体を仮置場へ運んでください」と彼はいった。「もうこれ以上調べることはありませんから」
グレグスンは担架(たんか)と四人のかつぎ手を用意していた。彼の指示で、男たちが死体を担架にのせて運び出した。死体を担(かつ)ぎあげた時、指輪が一つちりんと鳴って、床の上にころがり落ちた。レストレードがすぐに拾いあげて、不思議そうにそれをみつめた。
「おや、ここには女もきていたんだ! これは女の結婚指輪ですよ」
彼はそういいながら、それを手のひらにのせてさし出した。私たちは彼のまわりに集って指輪をみつめた。その飾りのない金の指輪は、かつて花嫁の指に輝いていたものであることは疑いの余地もなかった。
「これで事件はますます複雑になってきたぞ」とグレグスンがいった。「いやはや、ただでさえややこしい事件なのになあ」
「これで、かえって事件が解決しやすくなったとは思いませんか?」とホームズがいった。「そんな指輪をいくら眺めていたって、何も得るものはありませんよ。それより、ポケットにはどんなものが入っていたんです?」
「ここに全部並べてあります」といって、グレグスンは階段のいちばん下の段に雑然とおいてある品物を指さした。「ロンドンのバロウド社製の、番号が九七一六三番の金時計が一個。アルバート型の時計鎖、これは非常に重く、純金です。結社の紋章が彫ってある金の指輪が一個。ブルドッグの頭をあしらって、眼にルビーをはめこんである金のピン。ロシア皮の名刺入れ。この中にイノック・J・ドレッバーという名刺が数枚はいっておりますが、これはシャツについているE・J・Dという頭文字と一致しています。財布は見あたりませんが、ばら銭が七ポンド十三シリングあります。そのほか、ボッカチオのデカメロンのポケット判が一冊、これの見返し紙にジョゼフ・スタンガスンという名前が書かれています。それから、手紙が二通……一通はE・J・ドレッバー宛で、もう一通はジョゼフ・スタンガスン宛のものです」
「手紙の宛先はどこです?」
「ストランド街のアメリカ両替所内、気付けとなっています。二通ともグァイオン汽船会社からきたもので、リヴァプールから出る船の出航日時を知らせてきています。これから判断すると、被害者はニューヨークへ帰るつもりでいたものと思われます」
「そのスタンガスンという男について、身元の確認はおこないましたか?」
「すぐにやりましたよ」とグレグスンは答えた。「ぜんぶの新聞に照会広告を出しましたし、アメリカ両替所にも部下のひとりを調査に出向かせました。部下はまだ帰ってきていませんが」
「クリーブランド市へは照会しましたか?」
「けさ電報を打ちました」
「どういう電文です?」
「まあ、事情をくわしく説明して、何か参考になることを知らせてほしいという主旨のものですが」
「解決の鍵になると思われるような具体的な事柄は、問い合わせなかったのですね?」
「スタンガスンの件は書いてやりましたよ」
「それだけですか? もっとほかに、この事件ぜんたいを左右するような重大な事柄があるんじゃないかな? もう一度電報を打ってみたらどうです?」
「必要な事柄はぜんぶ問い合わせましたよ」とグレグスンは、憤然とした口調で答えた。
シャーロック・ホームズは、ひとりでくすくす笑いながら何かいおうとしたが、そのとき、私たちが広間でこういう会話をかわしているあいだ、食堂にひとり残っていたレストレードが、いかにももったいぶった満足そうな様子でもみ手をしながら、また姿をあらわした。
「グレグスン君」と彼は同僚にいった。「ぼくはたったいま、じつに重要な発見をしたよ。ぼくがあの壁を念入りに調べたからよかったようなものの、そうでなきゃ、誰もが見落してしまうところだったよ」
この小男の眼はきらきら輝いており、その顔には、同僚よりも一点多くかせいだうれしさを、懸命におさえている様子がありありとうかがわれた。
「さあ、こっちヘ」と彼はいって、またあわただしく食堂へ引きかえしていった。私たちがいってみると、死体はすでにとりのぞかれていて、そのために部屋の雰囲気がまえよりも明るくなっていた。「さあ、ここへ立って!」
彼は靴の底でマッチを擦(す)って、壁にかざした。
「ほら、これだよ!」と彼は勝ちほこったようにいった。
壁紙があちこち剥(は)がれていることはまえにも述べたが、なかでもその箇所はとくに大きく剥がれていて、ざらざらした黄色い地肌が正方形に露出していた。そのむきだしの壁土のうえに、血のように赤い字で、次のようなただ一語が書かれていた。
RACHE
「さあ、これをどう思います!」とレストレードは、まるで興行師が見せ物を紹介するときのような調子で叫んだ。「これにいままで気づかなかったのは、ここが部屋のなかでいちばん暗くて、だれもこんな隅のほうを見ようとはしなかったからです。これは、男か女かはしらないが、ともかく犯人が自分の血で書いたものにちがいない。ほら、壁をつたってこんなに血が流れ落ちている! とにかくこれで自殺という疑いだけはなくなったわけだ。それでは、犯人はなぜこんな隅に書く必要があったのか? それはこういうことです。あのマントルピースの上にローソクがありますね。犯行当時、あのローソクは燃えていたのですよ。あれが燃えていれば、この壁は部屋でいちばん暗いところじゃなくて、逆に、いちばん明るい場所だったのです」
「まあ、きみがこれを見つけたのはいいとしても、それで何がわかったというのかい?」とグレグスンがみくびるような調子でいった。
「何がわかったって? それはこういうことだよ。これを書いた人間は、 レイチェル( Rachel )という女の名前を書こうとしたのだが、それを書き終らないうちに、じゃまされたのだ。いいかい、ぼくは予言してもいいですよ。この事件が解決したあかつきには、かならずレイチェルという女が関係者として浮かびあがってくると、ね。シャーロック・ホームズさん、あなたは笑っておられるが、せいぜい今のうちにお笑いになっていてください。あなたはたしかにすばらしく頭がいいですよ。しかし、こういう場合には、なんといっても、この道で長年苦労したものでないとね」
「いや、どうも失礼!」とホームズはそういって、自分のふきだし笑いがレストレードの機嫌をそこねたことを詫(わ)びた。「だれよりも先にこれを発見されたのは、なんといってもあなたのお手柄ですよ。これは、ご指摘のとおり、昨夜の事件のもう一人の登場人物が書いたものと考えてまちがいないでしょう。ぼくのほうは、この部屋をしらべている暇がなかったのですが、それでは、これから調べさせてもらいますか」
そういいながら、彼はポケットから巻尺とまるい大きな拡大鏡をとりだした。この二つの道具を持って、部屋のなかを足音を殺してそそくさと歩きまわり、ときどき立ちどまったり、ときには膝を折ったり、また一度などは腹ばいになったりもした。仕事に熱中するあまり、私たちがいるのも忘れた様子で、ひっきりなしにひとり言をいいつづけ、またあっと叫んだり、唸(うな)ってみたり、口笛を吹いてみたり、いかにも喜びにたえないといった歓声をあげたりして、とめどもなく口を動かしていた。その様子を見ていると、私は、よく訓練された純血種のフォックスハウンド犬がしきりに鼻を鳴らしながら獲物の隠れ場のまわりをゆきつもどりつして、ついには目ざす臭跡を見つけ出すのを、思いださないではおれなかった。
二十分ばかり、彼は、私には見えもしないいくつかの痕跡と痕跡との間隔をきわめて綿密に測ったり、またときどきは、これも私には不可解なことであったが、壁に巻尺をあてたりして、調査をつづけた。また床の上の一箇所に、灰色の埃(ほこり)が少量つもっているのを見つけて、これをていねいに集めて封筒におさめたりした。そして最後に、壁の文字を一字ずつ拡大鏡でことのほか念入りに点検していった。それがすむと彼もやっと満足したらしく、巻尺と拡大鏡をポケットにもどした。
「天才とはどんな労苦も惜しまない能力をいうのだそうだ」と彼は微笑しながらいった。「この定義はじつに拙劣だ。しかし、これは探偵の仕事にはたしかにあてはまるよ」
グレグスンとレストレードは、この素人名探偵の仕事ぶりを、かなりの好奇心といくらかの軽蔑をまじえた眼で見つめていた。シャーロック・ホームズが行動するときには、かならず一定の明確な目標があって、どんな些細(ささい)な行動もすべてその方向にむかっているのだが、私にもようやくわかりかけてきたこの事実を、二人の警部は理解できなかったらしい。
「ご意見はいかがです?」と、ふたりは口々にたずねた。
「ぼくが忠告めいたことを口にすると、かえってきみたちの手柄を横どりするような結果になりかねませんからなあ」とわが友は答えた。「きみたちが、せっかく立派にやっているのに、それを第三者がじゃましちゃ悪いですからね」その声には、たっぷり皮肉がこめられていた。「きみたちが捜査の進行状況を話してくれれば、ぼくも喜んでできるだけの協力はしますよ」それから彼はこうつづけた。「ところで、死体を最初に発見した巡査に会ってみたいのですが、名前と住所を教えてくれませんか?」
レストレードは手帳をめくった。「ジョン・ランスという男です。彼はいま非番ですから、ケニントン公園まえのオードリ・コート四十六番地にいけば会えますよ」
ホームズは住所を書きとめた。
「さあ、ワトスン君、出かけよう」と彼はいった。「さっそく訪ねていってみますよ。ところで、きみたちの捜査の参考になりそうなことを一つだけいっておきますがね」と彼は二人の警部のほうに向きなおっていった。「これは他殺ですし、犯人は男ですよ。身長は六フィート以上の、壮年で、身長に似あわず足が小さく、先の角ばった粗末な深靴をはき、インド産のトリチノポリ葉巻をすう男です。彼は被害者といっしょにここへ四輪の辻馬車で来ているが、その馬は、石の前足にだけ新しい蹄鉄(ていてつ)をつけ、あとの三個は古い蹄鉄をつけている。それに犯人はおそらくは赤ら顔で、右手の指の爪をおそろしく長く伸ばしている。まあ、こんなわずかな特徴も、なにかのお役に立てばと思いましてね」
レストレードとグレグスンは、ちらと顔を見合わせて、とても信じられないというようにうす笑いをうかべた。
「他殺だとしても、どういう方法で殺されたのでしょうね?」とレストレードがたずねた。
「毒殺です」とシャーロック・ホームズはそっけなくいって歩きだした。「もう一つだけいっておきましょうか、レストレード君」彼は入口のところでふりかえっていった。「Rache(ラッヘ)というのはドイツ語で『復讐』という意味ですよ。だからレイチェル嬢なんかを捜したりして、時間をむだにしないことですね」
彼はこう捨てぜりふを残して、呆然とした二人のライバルをふりむきもせずに歩み去った。
私たちがロウリストン・ガーデン三番地を出たのは午後一時ごろだった。シャーロック・ホームズは私を連れてまず近くの郵便局へいき、長文の電報を打った。それから彼は辻馬車を呼びとめ、レストレードがら聞いたオードリ・コートヘ行くように命じた。
「証言は直接本人から聞くに越したことはない」と彼はいった。「ほんとうをいうと、ぼくには事件の見通しはほとんどついているんだ。ただ聞くべきことは聞いておいたほうがいいからね」
「それにしても、きみにはあきれたよ、ホームズ」と私はいった。「きみはさっきいかにも自信ありげに細かい点を指摘していたけど、ほんとうは、それほど確信があるわけじゃないんだろう?」
「いや、ぼくの推理に狂いがあってたまるものか」と彼は答えた。「ぼくがあの家に着いたとたんに気づいたことは、歩道の縁石の近くに、二本の轍(わだち)の跡がついていることだった。しかも、この一週間ばかりは晴天つづきで、昨夜になって雨が降りだしている。だから、あんなに深い轍の跡は昨夜のうちについたものにちがいない。それに馬蹄(ばてい)の跡も残っていたが、四個のうち一個だけが特に輪郭がはっきり刻まれていたから、その足だけが新しい蹄鉄をつけていたというわけだ。その馬車は雨が降り出したあとあの家に来ており、朝になってからは他の馬車は一台も来ていないのだから……それは、グレグスンの言葉が証明している……その馬車は夜のあいだに来たということになり、したがって、それが、二人の男を乗せてきた馬車にちがいないということになる」
「なるほど、そういわれると、単純明快に思えてくるね」と私がいった。「だけど、加害者の身長はどうしてわかるんだい?」
「なに、人間の身長というものは、たいていの場合その歩幅から割りだせるものなんだよ。その計算方法は、いちいち数字をあげてきみを退屈させるまでもないが、きわめて簡単なものだよ。この男の歩幅は、庭のぬかるみにも、家のなかの埃(ほこり)の上にも残っていた。それに、ぼくにはそれを検算する方法もあった。ふつう人間は、壁に字を書くときは、本能的に眼の高さに書くものだ。そして、あの文字は床から六フィートとすこしの高さにあったというわけだ。こんな推理は子供の遊びみたいなものだよ」
「じゃあ、年齢のほうは?」と私はたずねた。
「ああ、それはこうだよ。なにしろ四フィート半の幅を何の苦もなくひと跨(また)ぎできる男が、よぼよぼの老人のはずがないということだ。その幅は、庭の小道にあった水溜りの幅なんだが、その男はまぎれもなくそれを跨ぎ越えているんだ。エナメル革の靴のほうはそこを迂回(うかい)していっているが、先の四角な靴のほうは、とびこえているんだ。これで、何の不思議もないだろう? ぼくはあの論文の中で提唱した観察と推理の基本を、ほんの少し実地に応用しているにすぎないんだよ。まだほかにわからない点があるかね?」
「指の爪とトリチノポリ葉巻の件は?」
「壁の文字は、人差し指を血にひたして書いたものだ。拡大鏡をあてて調べてみると、あれを書くときに、壁土をすこしひっかいているのがわかった。爪が短く切ってあったら、あんな疵(きず)がつくわけがないんだ。それに、ぼくは床に落ちていた灰をすこしばかり採ってみた。その灰は色が黒ずんでいて、鱗(うろこ)状のものだった……こんな灰ができるのはトリチノポリ葉巻の場合だけなんだ。ぼくは葉巻の灰に関しては専門的に研究しているし……事実、ぼくは論文を書いているくらいだよ。ぼくは、名の通った銘柄のものなら、葉巻でもきざみ煙草でも、その灰を一目見ただけで識別できると、いささか自負しているんだ。まあ、こういう細かいところで、つまりは名探偵とグレグスンやレストレードみたいな連中との決定的な差が出るってわけだ」
「それじゃ、赤ら顔というのは?」
「ああ、あれはすこし大胆な推理だったんだけど、もちろん正しいとは思っているよ。まあ、目下のところは、この件については聞かないでほしいな」
私は額に手をあてた。「ああ、ぼくは頭が混乱してきたよ」と私はいった。「考えれば考えるほど、不可解なことばかりだ。この二人の人物は……二人と仮定してだが……どうして空家になんかきたのだろう? また、彼らを乗せてきた馬車の馭者(ぎょしゃ)はどうなったのだろう? それに、被害者はどんな方法で毒を飲まされたのだろう? あの床の血は誰の血だろう? もの盗(と)りのしわざでないとすれば、殺害の目的は何なのだろう? どうして女の指輪があんなところにあったのだろう? それに、何よりもわからないのは、犯人が逃走するまえに、どうしてわざわざ壁に RACHE などというドイツ語を書いていったかということだ。正直なところ、ぼくはこういうすべての事実を、どう結びつけ、どう解釈すればいいのか、まったくわからないよ」
わが友は、大きくうなずいて微笑した。
「きみは事件の難解な点だけを、うまく簡潔に要約してくれたね」と彼はいった。「ぼくにはこの事件の大筋の見通しはついているが、それでもまだ不明な点がいくつも残っている。レストレードが発見した壁の文字についていえば、彼には気の毒だが、あれは、社会主義者や秘密結社のしわざと思わせて警察の眼をくらまそうという策略にすぎないよ。あれはドイツ人が書いたものではない。きみも気づいたかもしれないが、あのAという字なんかは、たしかにドイツ流の書体に似ているが、ほんとうのドイツ人なら、かならずラテン語の書体で印(しる)すはずだよ。だから、あれはドイツ人が印したものではなくて、ヘたにドイツ人を真似(まね)ようとした男が、かえって変にやりすぎたとみていい。要するに、捜査を誤った方向にむけようとした策略というわけだよ。しかしね、ワトスン君、事件の説明は、もうこの辺でやめておくよ。手品師はいったん種を明かしてしまえば、もう信用はがた落ちになるからね。ぼくだって、あんまり仕事のやりかたを知られてしまうと、ホームズも結局はふつうの人間じゃないか、ときみに思わせることになるからね」
「ぼくはけっしてそんな風には思わないよ」と私は答えた。「だって、きみは探偵術を、これ以上は不可能という限界まで、厳密な科学の域に高めているんだからね」
わが友は、この私の言葉と、それをいった時の私の熱心な調子に動かされて、思わずうれしそうに顔をあからめた。私はすでに彼のこういう性質に気づいていたが、彼は自分の探偵術をほめられると、あたかも少女が自分の美貌(びぼう)をほめられた時のように、ついおだてに乗せられてしまうのだった。
「きみにもう一つだけ教えておこう」と彼はいった。「エナメル靴の男と先の四角な靴の男とは同じ馬車に乗ってきて、いかにも親しげに……おそらく腕なんか組んで……庭の小道を歩いていったんだ。家のなかにはいってしばらくの間、ふたりは部屋を歩きまわっていた……いや、正確にいうと、エナメル靴の男のほうはじっと立ったままで、先の四角い靴の男のほうが部屋のなかを歩きまわっていたんだ。こういうことはすべて、床の埃(ほこり)のうえに明瞭に現われていた。そして、埃のうえの足跡から推察して、彼は歩いているうちにしだいに興奮していったらしい。歩幅がだんだん大きくなっているのが、その証拠だ。彼は歩きながらしゃべりつづけているうちに、しだいに半狂乱の状態になり、とうとう狂暴なまでになってしまった。そしてあの惨劇がおこった。これでもう、今の段階でわかっている事実は、みんなきみに話してしまったわけだ。あとは推定や臆測を働かすほかない事柄ばかりだよ。しかし、これで捜査を進めるための十分な材料はつかんだといえる。ところで、ぼくは午後にノーマン・ネルーダ夫人のヴァイオリンを聞きに、ハレ楽団のコンサートにいく予定があるから、大急ぎで仕事を片づけてしまおう」
私たちがこういう会話をかわしているあいだに、馬車はうす汚れたみすぼらしい家並のつづく街路や通りを走りつづけていた。なかでもとりわけうす汚れていてみすぼらしい通りに出たときに、馭者(ぎょしゃ)はとつぜん車をとめた。
「この通りの奥がオードリ・コートです」といって、馭者は、下塗りのままの灰色の煉瓦(れんが)壁のあいだの路地を指さした。「ここで待っております」
オードリ・コートは魅力のある場所とはいえなかった。狭くるしい路地をはいっていくと、石を敷きつめた四角い中庭があって、そのまわりにみすぼらしい建物が軒をつらねていた。うすぎたない子供の群をかきわけて、色の褐(あ)せた下着類の干してあるあいだをくぐりぬけ、四十六番地の家に出ると、扉に、ランスと名前を彫った真鍮(しんちゅう)の板がはりつけてあった。面会を求めると、ランス巡査は寝ているから少しお待ち願いたいということで、私たちは玄関に近い小さな客間に通された。
やがて主人があらわれたが、彼は寝ているところを起こされたのですこし不機嫌な様子であった。「署のほうへ報告は出しておきましたよ」
ホームズはポケットから十シリング金貨をだして、さりげなくそれをいじりながら、話を切りだした。「じつは、あなたから直接、昨夜の状況をくわしくお聞きしたいと思ったものですから」
「知ってることなら、何でもお話ししますとも」と巡査は金貨に眼をそそぎながら、いった。
「では、あなたが見た通りのことを話してください」
ランスはばす(ヽヽ)織りのソファに腰をおろすと、一言もいいもらすまいと決心したかのように、額にしわをよせた。
「では、順を追ってお話ししましょう」と彼はいった。「わたしの勤務は、夜の十時から朝の六時までです。昨夜は十一時ごろ、ホワイト・ハート酒場で喧嘩がありましたが、それ以外には、巡回地区に異状はありませんでした。午前一時ごろに雨が降りだしました。その時刻に、わたしはへンリエッタ通りの角で、ハリー・マーチャという……ホーランド・グローブ地区の担当巡査……に会いまして、しばらく立ち話をしました。それからまもなく……たぶん二時をすこし過ぎていたかもしれませんが……もう一まわり巡回して、ブリクストン通りのほうに異状はないか見てこようと思いました。ひどく天気が悪くて、気味の悪い晩でした。途中で辻馬車が一、二度通っていっただけで、人っ子ひとり出会いませんでした。これは内証の話ですが、こんな晩にはあの四ペンスの熱いジンを飲めたら、どんなにいいだろうと思いながら、歩いていきますと、例の家の窓から灯火(あかり)がもれているのが、ふと眼にとまったのです。あのロウリストン・ガーデンの二軒の家は、空家のはずなのです。それというのも、あの一軒につい最近まで住んでいた借家人が腸チフスで死んだというのに、家主がいまだに下水を修繕しないものだから、誰もはいり手がいないんですよ。だから、あの窓に灯火(あかり)がともっているのを見たときには、びっくり仰天(ぎょうてん)しまして、これは何かよからぬことが起きたと思ったわけです。そこで、わたしは玄関まで行って……」
「そこで立ちどまって、また門のところまで引きかえしたんだね?」とホームズが言葉をはさんだ。「どういうわけで、そうしたんです?」
ランスはぎょっとして身をふるわすと、唖然(あぜん)とした表情でシャーロック・ホームズをみつめた。
「その、そのとおりなんです」と、彼はいった。「だけど、いったいどうしてそんなことをご存知なんです! じつは、玄関までは行ったものの、中があんまりひっそりしていて気味が悪いもんだから、誰か仲間を連れてきたほうがよくはないかと思い直したわけです。生きている人間ならちっともこわくないんだが、ひょっとして腸チフスで死んだ男の亡霊が、恨みの下水を見にあらわれたんじゃないかと思いましてね。そう思うと、つい足がすくんでしまって、表にマーチャの角灯でも見えやしないかと思って、門のところまで引きかえしたんです。ところが、あの男の姿はおろか、人影らしいものも見えはしません」
「通りには、誰もいなかったんですね?」
「人っ子ひとり、犬の子一匹いませんでした。それで、覚悟をきめて、また玄関のところに引きかえし、扉をあけてみました。中はしいんと静まりかえっています。わたしは灯火のついている部屋へ入っていきました。そうしたら、マントルピースのうえでローソクの火が……赤いろうその火が……ゆらめいていて、そのあかりのしたに……」
「ああ、あなたが見たものは、みなわかっています。あなたは何度も部屋の中を歩きまわり、死体のそばに膝をついたでしょう? そして部屋を出て、台所のドアを押してみた。それからこんどは……」
ジョン・ランスは思わず顔色を変えて跳びあがり、疑惑にみちた眼つきでホームズを見かえした。
「あなたは、どこにかくれて見ておられたのです?」と彼は叫んだ。「見てでもいなけりゃ、そんな細かいことがわかるはずがない」
ホームズは笑いながら、テーブルごしに名刺をほうりなげて、巡査にみせた。「ぼくを殺人の容疑で逮捕しないでくださいよ」と彼はいった。「ぼくは猟犬のほうで、狼(おおかみ)じゃないんです。その点はグレグスン君やレストレード君に聞けばわかるはずです。さあ、先を聞かせてください。そのあとどうしました?」
ランスはやっと椅子に腰を落ちつけたが、まだ不思議そうな顔をしていた。「わたしは門のところに出て、呼子(よびこ)を吹きました。その笛で、マーチャとほかに二人の者が駆けつけてくれました」
「そのときも通りには、誰もいなかったのですな?」
「ええ、まあ、まともな奴は、誰も」
「それはどういう意味です?」
巡査は顔をほころばせて、にやっと笑った。「わたしもこれまでずいぶん酔っぱらいを見てきましたが、あんなにへべれけ(ヽヽヽヽ)に酔った奴を見たのははじめてでしたな。わたしが引きかえしてみると、そいつは門のところで柵にもたれて、コロムバインの『新国旗掲揚』かなんか、そんな唄を声を張りあげて歌っていたんです。おまけに立っておれないほどだから、とても手助けにはなりません」
「どんな風態の男でした?」とシャーロック・ホームズがたずねた。
ジョン・ランスは、余計な詮索(せんさく)をされたと思って、すこし腹立たしげであった。「とにかくひどい酔っぱらいでしてね。あのとき忙しくさえなかったら、あんな男は豚箱に放りこんでやったんですがね」
「顔つきとか……服装とか……そういう点には注意をとめなかったんですか?」ホームズはじれったそうにたずねた。
「まあ、見たことは見たんですがね。なにしろわたしは……いやわたしとマーチャと二人がかりで抱きおこしてやったくらいでしたからね。背の高い赤ら顔の男で、顔の下半分をマフラーで覆(おお)っていたから……」
「もう、それでけっこう」とホームズが叫んだ。「それでその男はどうしました?」
「あんな奴にかまっているどころじゃなかったですよ」と巡査は不満そうな声で答えた。「まあ、無事に家まで帰ったんじゃないですか」
「どんな服装でした?」
「茶色の外套を着てましたよ」
「手に鞭(むち)を持っていたでしょう?」
「鞭? ……いいえ」
「じゃあ、置いてきたんだな」と、わが友はつぶやいた。「そのあとで、馬車を見かけるとか、走り去る音を聞いたとかいうことはなかったですか?」
「いいえ」
「この半ポンド金貨をとっておいてください」と、わが友は立ちあがって帽子をとりながらいった。「ランスさん、あなたは残念ながら警察畑じゃ出世できませんな。その頭は飾りじゃないんだから、有効に使わなきゃね。きみは、昨夜は、巡査部長になれる絶好の機会を逃してしまったんだ。きみが抱きおこしてやったその男こそ、この事件の鍵を握る人物、まさにぼくたちの目指す相手なんだ。いまさら、そんなことをいっても仕方がないですがね。ただ、本当はそうだったんだ、とだけ教えておきますよ。さあ、ワトスン君、帰ろう」
半信半疑ながらも内心おだやかでないランス巡査をのこして、私たちは馬車のほうへ引きあげた。
「なんというまぬけだ!」帰りの馬車のなかで、ホームズが苦々しげに叫んだ。「あんなまたとない幸運にめぐまれながら、むざむざととり逃してしまうなんて!」
「ぼくはまだ、納得がいかないんだ。巡査の話していた酔っぱらいの特徴は、たしかに、きみが話していた加害者の特徴とぴったり一致している。だけど、それならそれで、どうしてあの男はいったん逃げたあとで、またわざわざ引きかえしてきたんだろう? 犯人だったら、そんなことはしないはずじゃないか」
「指輪だよ、きみ、指輪のためさ。あの男はそれを取りにもどってきたんだ。ほかの方法で捕えることができなくても、あの指輪さえあれば、いつでもあの男を釣り出すことができるわけだ。ぼくはきっとつかまえてみせる……ワトスン君、二対一できみと賭けをしてもいい。それにしても、こんどの件ではきみにお礼をいわなければなるまいね。きみがいなかったら、ぼくは調査に乗りださなかったかもしれないからね。そしたら、今回のような、今までにないおもしろい研究をする機会を、みすみす逃していただろうからね。どうかね、これを緋色(ひいろ)の研究とでも呼ぶことにしては?われわれだって、すこしは芸術的な表現を使ったっていいだろう。人生という無色の糸かせには、殺人という緋色の糸が分かちがたく混じりこんでいる。ぼくたちの任務は、それを解きほぐし、分離して、端から端まで一インチものこすことなく白日のもとにさらけだすことなんだ。さあ、それでは、軽い食事をして、ノーマン・ネルーダの演奏会を聞きにいくとするか。彼女のヴァイオリンは、音色といい、弓の使いかたといい、まったくすばらしいよ。彼女が絶妙に弾きこなす、あのショパンの小曲はなんといったかな、……トラ・ラ・ラ・リラ・リラ・レ」
この素人探偵は馬車の席に深くもたれながら、雲雀(ひばり)のようにさえずりつづけていたが、私のほうは、人の心は何と複雑多彩なものであろうか、とすっかり考えこんでしまっていた。
午前中の行動が、私の弱いからだには無理だったのか、午後になると私はひどく疲れをおぼえた。ホームズが演奏会に出かけたあと、私はソファに横になって、二時間ばかり眠ろうと思った。しかし、どうしても眠れなかった。けさからのいろんな出来事のために頭のなかが異常に興奮していて、奇怪な想念や臆測がつぎからつぎに湧(わ)きおこってくるのであった。眼を閉じるときまってあの殺された男の狒々(ひひ)のような歪んだ顔が浮かんできた。こんな顔を持った男を、この世から葬りさってくれた犯人に対して感謝するほかないと思えるほど、その顔の印象はあまりにも邪悪な感じだった。もしこの世に最も残虐な悪意をあらわした顔があるとすれば、クリーブランド市のイノック・J・ドレッバーの顔こそまさにその典型であった。しかしそうはいうものの、やはり罪は罪として罰せられねばならず、被害者がどれほど邪悪な人間だったとしても、その生命を奪うことは法に照らして許されるものではないことは、もちろん私も知っていた。
そして考えれば考えるほど、被害者は毒殺されたと考えるホームズの仮説は、じつに奇抜なものだと私には思えた。そういえば彼が死体の唇の匂いを嗅(か)いでいたのを思い出したが、彼がそういう着想を得たのは、あの時にきっと、何か証拠らしきものをつかんだからにちがいない。しかも死体には外傷も絞殺の跡もなかったのだから、もし毒殺でないとしたら、ほかにどんな死因が考えられるというのか? だが、毒殺だとすると、床のうえにあれほど多量に流れていた血は、いったい誰の血なのだろう? 現場には格闘のあともなかったし、被害者は、相手を傷つけたと思われる武器も持ってはいなかった。こうした数々の疑問がぜんぶ解明されないかぎり、私ばかりでなくホームズだって、気楽に眠れるものではないはずだ。すると、ホームズのあの余裕ありげな落ち着いた態度は、彼の頭の中にはこれらすべての事実に対する説明がちゃんとできあがっている証拠だと思われるが、ただ私にはその内容がまるで想像もつかないのだ。
彼の帰宅はひどく遅かった……これほど遅く帰ってくるのは、ただ演奏会だけに時間をとられたからではあるまいと、私にも推測できた。食卓にはすでに夕食が用意されていて、彼の帰りを待っていた。
「じつにすばらしかったよ」と彼は席につくなり、そういった。「きみは、音楽についてダーウィンが何といったかおぼえているかい? 彼の言によると、音楽を演奏したり鑑賞したりする能力は、言語を話す能力よりも、はるかに古くから人類に備わっていたというんだ。ぼくたちが音楽をきいて、いいようもなく感動をうけるのは、きっとそこに理由があるんだろうね。われわれの魂の奥底には、人類の幼年時代の、霧につつまれたような歳月の思い出が生きつづけていて、それが微妙に作用しているんだね」
「それはまた、きみらしくもない大まかな考えかただね」
「なにしろ自然を解釈しようと思えば、人間の頭のほうも自然そのものと同じくらいに大まかでなくちゃねえ」と彼が答えた。「ところで、きみ、どうしたんだい? 顔色がひどく悪いじゃないか。ブリクストン街の殺人事件で相当まいっているんじゃないのか」
「じつをいうと、そうなんだ」と、私はいった。「アフガニスタン戦争を経験してきたぼくとしては、もっと鋼鉄のごとき神経の持ち主になっていてもいいはずなんだがね。なにしろ、マイワンドの戦いでは、戦友がずたずたに切り殺されるのを見ても、いっこうに動じなかったくらいなのにね」
「それはよくわかるよ。この事件には人の想像力を刺戟するようなじつに怪奇なところがあるからね。想像力がなければ、恐怖もないんだ。ところで、きみ、夕刊を見たか?」
「いや」
「事件をかなりくわしく伝えた記事が出ている。ただ、死体をかつぎあげたときに、女の結婚指輪がころがり落ちたことは書いてないがね。まあ、そのほうがかえって好都合だ」
「どうして?」
「この広告を見たまえ」と彼は答えた。「けさ現場を見たあとすぐに、ぼくが全部の新聞に出したんだ」
彼は新聞を投げてよこした。示された箇所を見ると、「遺失物拾得欄」の最初に次のような広告が出ていた。
今朝、ブリクストン通りのホワイト・ハート酒場からホランド・グローブにいたる路上で、金無垢(むく)の結婚指輪を拾得す。今夕八時より九時までの間にベーカー街二二一番地Bの、ワトスン医師まで申し出られたし。
「きみの名前を黙って借用したのは悪かった。でも、ぼくの名前を出すと、あの頓馬(とんま)な連中が嗅ぎつけて、よけいな手出しをするだろうからね」
「それはちっともかまわないがね」と私は答えた。「ただ、誰かが受け取りにやってきても、ぼくの手許に指輪がないよ」
「いや、それがちゃんとここにあるんだ、ほら」といって、彼は指輪を私にわたした。「これで十分まにあうと思うよ。原物をそっくり模造したといってもいいほど似ているからね」
「それにしても、この広告を見て、どんな人物が応答してくると思っているのかい?」
「むろん、あの茶色の外套を着た男さ……先の四角な靴をはいた、赤ら顔のね。本人がこない場合には、共犯者を使いによこすだろうさ」
「だけど、犯人も、そんなことをしてはあまりに危険だとは思わないかな?」
「その点は心配ないよ。ぼくの推理が正しければ、いや、どう考えても正しいと確信しているがね……あの男はどんな危険をおかしてでも、かならず指輪を取りかえそうとするよ。おそらく、あの男はドレッバーの死体のうえにかがみこんだときに、あの指輪を落したんだが、その時には落したことに気づかなかったんだ。あの空家を出てからしばらくして気づき、いそいで引き返したんだが、うっかりローソクを消し忘れていたために、家の中には警官が入りこんでいたというわけだ。門のところに現われたのを怪しまれないために、酔っぱらいのまねをしてごまかさなければならなかった。ここで、きみもあの男の立場にたって考えてみたまえ。あとから考えてみると、ひょっとすると指輪は家を出てから落したのかもしれない、と思えてきたとしても不思議じゃないだろう? そうすると、どうするだろう? もしかして捨得品の広告が出ていないかと思って、目を凝(こ)らして夕刊の記事を見るだろう。そうすれば、もちろん、この広告が眼にとまる。男は有頂天になって喜ぶ。どうしてこれが罠(わな)だなんて思うだろう? 指輪が路上で発見された以上、殺人と結びつけられる恐れはない、と彼は考えるはずだ。彼はくるよ。きっとやってくる。いまから一時間以内に、お目にかかれるさ」
「そしたら、どうしよう?」私はたずねた。「ああ、その交渉ならぼくに任(まか)せておきたまえ。ところで、きみ、武器はあるかい?」
「軍隊時代の拳銃と弾丸がすこしある」
「じゃ、それの手入れをして、弾丸をこめておいてくれたまえ。相手は命知らずの男かもしれないからね。もちろん、ぼくは不意打ちをくらわせて捕えるつもりだけど、万一に備えて周到な準備をしておいたほうがいい」
私は寝室へいって、彼の忠告どおりの準備をした。拳銃をもって引きかえしてみると、テーブルの上はきれに片づけられていて、ホームズは愛用のヴァイオリンを楽しげにかき鳴らしていた。
「事件はいよいよおもしろくなってきたぞ」と私の姿を見ると、彼は話しかけた。「たったいま、アメリカから電報の返事がきたよ。やっぱりぼくの思っていたとおりだったよ」
「で、どんな報告だった?」私はせきこんでたずねた。
「それにしても、このヴァイオリンの絃(げん)は新しいのととりかえたほうがよさそうだな。きみ、拳銃はポケットに入れときたまえ。例の男がやってきても、ごく普通の調子で応対するんだよ。じろじろ顔を見たりして、相手に警戒心を起させるとまずいんだ」
「もう八時だよ」と私は時計を見ながらいった。
「うん。これから二、三分以内にくるだろう。ドアをすこし開けておいてくれ。そう、それくらいでいい。それから鍵を内側からはさんでおいてくれ。ありがとう。ぼくはね、きのう、露店の古本屋でこんな珍らしい本を見つけてきたんだ。『国際法規』……ベルギーのリェージュで出たラテン語の本だよ。この本が出版されたのが一六四二年だから、チャールズ一世の首がまだ胴体にくっついていた時代のことだね」
「印刷者は誰なの?」
「どんな人物かはわからないが、フィリップ・ド・クロワという名前だ。見返しに、インクの色はすっかり褪(あ)せているが、『ギュリェルミ・ホワイト蔵書』と書いてある。ウィリアム・ホワイトというわけだが、どんな人物だろう? きっと、十七世紀の頑迷な法律家かなんかなのだろうね。筆跡にも、いかにも法律家らしい癖が出ている。おや、問題の人物がご到来とみえる」
このとき、玄関のベルがはげしく鳴った。シャーロック・ホームズはそっと立ちあがって、自分の椅子を入口のほうへ移した。まもなく女中が玄関へ出ていく足音がきこえ、つづいて掛金(かけがね)をはずす音がするどく鳴った。
「ワトスン先生のお住居(すまい)はこちらでしょうか?」と、はっきりした、すこし耳ざわりな声がたずねた。女中の返事はきこえなかったが、ドアの閉まる音がして、誰かが階段をのぼってきた。足もとのおぼつかない引きずるような足音だった。それを聞いていたホームズの顔には、意外そうな表情が走った。足音はゆっくりと廊下を近づいてきて、ついに部屋のドアを軽くたたく音がした。
「どうぞ」と私は大きな声でいった。
すると、私たちが予期したような暴力的な男ではなく、ひどく年老いた皺(しわ)だらけの老婆がたどたどしい足どりで入ってきた。急に明るい場所へ出たので、まぶしそうであったが、膝を折ってお辞儀(じぎ)し、かすんだ眼をしばたたいて私たちをながめ、神経質に震える手でポケットをまさぐった。私がちらとホームズの顔を盗み見ると、彼はひどく失望した表情をしていたので、私のほうも心の動揺をおさえて、からくも平静さを装ったのだった。
老婆はポケットから夕刊を引きだすと、私たちの広告の欄を指さした。「わたしはこの広告を見てお訪ねしたんでございます、だんなさまがた」といいながら、もう一度膝を折ってお辞儀をした。「ブリクストン通りで落とした金の指輪は、娘のサリーのものでございまして、娘は一年まえに結婚したばかりなんでして、亭主はユニオン汽船のボーイをしておりますが、帰ってきたときサリーの指輪がないと知ったら、まあ、何といいますことやら。婿(むこ)はふだんから怒りっぽい性格ですけど、酒でも飲みますと、ひどい乱暴を働きますんで。じつを申しますと、娘はサーカスへまいりまして……」
「これが娘さんの指輪かね?」と私がたずねた。
「ああ、神さま、ありがとうございます!」と老婆はさけんだ。「これでサリーも、今夜は安心して眠れます。たしかにこの指輪でございます」
「ところで、住所はどちらかね?」私は鉛筆をつかんでたずねた。
「ハワンズディッチのダンカン街十三番地でございます。ここからですと、ずいぶん遠方です」
「ハウンズディッチからなら、どこのサーカスヘ行くにしても、ブリクストン通りは通らないはずですが」とシャーロック・ホームズがするどく問いただした。
老婆はホームズのほうを振りむいて、赤くただれた小さい眼でじっと見つめた。「こちらの旦那がおたずねになったのは、このわたしの住所でございますよ。娘はペカムのメイフィールド・プレース三番地に部屋を借りております」
「じゃあ、お婆さんの名前は?……」
「ソーヤーと申します。娘はデニスです……婿(むこ)がトム・デニスと申しますので。婿は船に乗っている時は、気がきいてしっかりした男でして、同じ会社のボーイの中でもいちばん大事にされてるんですが、陸へあがるとさっぱりだめなんです。女やら飲み屋やらで……」
「では、ソーヤーさん、指輪をお渡しします」と私はホームズの合図にしたがって、話をさえぎった。「この指輪はたしかに娘さんのものだとわかりました。本当の持主にお返しすることができて、私もうれしいです」
老婆は何度も、お恵みや感謝の言葉を口の中でもぐもぐと述べると、指輪をポケットにおさめ、引きずるような足どりで階段をおりていった。シャーロック・ホームズは、彼女の姿が見えなくなると、すぐに立ちあがり、自分の部屋へ駆けこんだ。数秒のちに出てきたときには、長外套と襟巻をつけていた。
「ぼくはあの女のあとをつけてくる」と彼はあわただしげにいった。「あいつはきっと犯人の一味だから、あとをつけていけば、例の男の居所が突きとめられるよ。起きて待っていてくれ」
来訪者が玄関の扉を閉めて出ていく音がきこえるのとほとんど同時に、ホームズは階段をおりていった。窓からのぞいてみると、老婆が通りのむこうがわをよぼよぼと歩いていくのが見え、その後からすこし距離をおいてホームズが尾行していくのが見えた。
「ホームズの推理がはじめからまちがっているのか、さもなければまさに事件の核心に迫りつつあるのか、どちらかだ」私は一人で思案した。彼は私に寝ないで待っていてくれなどと頼む必要はなかった。尾行の結果を聞くまでは、とうてい眠れそうもなかったからだ。
彼が出かけたのは九時近くであった。何時になったら彼が帰ってくるのか見当もつかなかったが、私はぼんやりと煙草をくゆらせたり、アンリ・ミュルジェの『ボヘミアンの記』を捨い読みしたりしていた。やがて十時になった。女中が寝室へおりていくばたばたという足音がきこえた。十一時には、やはり寝室にむかう女主人の重たげな足音が部屋のまえを通りすぎていった。ホームズが玄関の掛金をはずす音がきこえてきたのは、すでに十二時近くになってからであった。
彼が部屋に入ってきたとき、一瞬のうちに、その顔色から尾行が不首尾に終ったことを察知した。彼の心の中では、おかしさと無念さか戦っているらしかったが、不意に、おかしさのほうが勝ったとみえて、彼は腹をかかえて笑いだした。
「こればかりは何としても警視庁の連中には隠しておきたいね」と彼は椅子に腰をおろしながら大きな声でいった。「あの連中は今までさんざんぼくにからかわれてきたから、この話を聞いたら、ぼくをいつまでも笑いものにするだろうからね。まあ、ぼくがこうやって笑っていられるのも、いつかはかならず彼らの鼻をあかしてやれるという自信があるからなんだよ」
「それで、どうなんだ?」と私は訊ねた。
「なに、たとえ失敗談でもぼくは話すのは平気だがね。あの婆さんは通りをすこしいくと、びっこをひきはじめ、いかにも足が痛そうなそぶりを見せた。そのうちに立ちどまって、通りかかった辻馬車を呼びとめた。ぼくは行き先を聞いてやろうと思って、気づかれないようにそばまで近づいたんだ。ところが、無理するまでもなかったよ。あの婆さんは通りの反対側まできこえるような大声で『ハウンズディッチのダンカン街十三番地まで』とどなったんだ。ぼくは、すると、彼女が話したあの住所は嘘じゃなかったのかなと思いながら、婆さんが馬車のなかに乗りこむのを見とどけて、すぐさま馬車の後にしがみついたよ。馬車の後にしがみつくことは、探偵たるものがかならず習得しなければならない基本技術なんだ。そして、馬車が動きだし、目的地のダンカン街まで一度も速度を落すことなく走りつづけた。ぼくは十三番地の手前で馬車からとびおり、その辺を散歩でもしているふりをして何喰(く)わぬ顔で通りをぶらぶら歩いていった。やがて馬車はとまった。馭者(ぎょしゃ)は車から降りてドアを開け、客が降りてくるのを待った。ところが、客はなかから降りてこないんだよ。ぼくが馬車のそばまで行ってみると、馭者は座席を気違いのようになって手さぐりしながら、ありったけの悪態をわめきちらしているんだ。そこにいたはずの客の姿が跡かたもなく消えうせていたんだ。これじゃ、車賃をもらえるかどうかあやしいものだ。ぼくは馭者といっしょに十三番地の家に問い合わせにいってみたが、そこはケズウィックという身許の確かな壁紙貼り職人の住居で、ソーヤーとかデニスとかいう名前なぞ聞いたこともないというんだ」
「すると……」と私はあまりの意外さに、驚いておもわず叫んだ。「きみは、あの足の不自由なよぼよぼの婆さんが、馬車が走っている最中に、きみにも馭者にも気づかれずに馬車から抜け出したというのかね?」
「あれが婆さんだって? とんだ食わせ者だよ!」とシャーロック・ホームズは吐きすてるようにいった。「こんなにまんまとだまされるなんて、ぼくらのほうこそ、よぼよぼの婆さんだったよ。あの婆さんは青年の変装だったにちがいない。それも動作が敏捷(びんしょう)で、おまけに無類の役者だよ。あの変装はたしかに見事だったな。あいつはもちろん尾行されているのに気づいて、馬車をうまく利用してぼくをまいたんだ。これで次のことだけははっきりした。つまり、ぼくたちの相手は予想に反して単独犯ではなく、奴のためにすすんで危険を冒す仲間が数人はいるってことがね。ところで、ワトスン君、きみはずいぶん疲れた顔をしているね。さあ、もう休みたまえよ」
私はたしかに非常に疲れていたので、友の忠告に従うことにした。私が寝室にはいるとき、ホームズは煙のくすぶっている壁炉のまえに坐っていた。そして夜がふけても、居間からはいつまでも、低いもの哀しいヴァイオリンの音色がきこえ、彼はみずから解明にのりだしたこの奇怪な事件を、ずっと考えつづけているらしかった。
翌朝の新聞はこの事件を「ブリクストン通りの怪事件」と名づけて、各紙ともいっせいに報道していた。どの新聞も事件の報道に大きな紙面をさいており、なかには社説まで掲げて論じているものもあった。それらの記事のなかには私にとって目新しいものもあった。私のスクラップ・ブックには、当時の記事の切抜きや抜粋(ばっすい)がたくさん残っているから、そのうちの二、三を要約してつぎに紹介してみよう。
デイリー・テレグラフ紙
これほど怪奇な様相を呈している事件は、犯罪史においてもほとんど例をみない。被害者の氏名がドイツ系であること、ただ殺害のための殺害であって他に動機らしいものが見当らないこと、壁に書かれた不吉な文字……これらすべての事実から推して、この事件は明らかに政治的亡命者か、または革命家のしわざである。アメリカには社会主義者の支部が多数あるから、被害者はおそらく組織の不文律を犯したために、仲間の手で処分されたものにちがいない。
さらに同紙は軽快に筆を進めて秘密裁判(フェイムゲリヒト)制度〔ドイツのウエストファリアなどで一一五〇年頃から一五六八年まで行われた恐怖の法廷制度〕、トファナ水〔十七世紀シシリア女トファナが殺人用に作った毒薬で、砒素を含んでいたといわれる〕、炭焼党(カーボナリ)〔十九世紀のはじめナポリで組織されたイタリアの急進平和主義者の結社〕、ブランヴィリエ侯爵夫人〔利欲のため夫の親兄弟を毒殺させた十七世紀のフランス女〕、ダーウィンの進化論、マルサスの人口論、ラトクリフ街道の殺人事件〔ロンドン東部にあって十九世紀のはじめ頃、殺人事件が頻発したところとして知られる〕にまで言及したのちに、政府を戒めて、英国在住の外国人の監視をさらに厳重にすべし、と結んでいた。
スタンダード紙
こういう無法きわまる残虐行為は、これまでの例からみても自由党政府のもとで発生していると論じ、その原因は人心の不安とそれにともなう権威の弱体化にあると断じていた。被害者は、アメリカ国籍の紳士で、数週間まえからロンドンに滞在しており、キャンバウェル区トーキー・テラスのシャルパンティエ夫人方に下宿していた。彼はこの旅行中、ジョゼフ・スタンガスンという秘書を同道しており、二人は今月四日の火曜日に下宿先の女主人に別れを告げ、リヴァプール行きの急行に乗るという言葉を残してユーストン駅に向かった。そして二人はたしかに同駅のプラットホームに姿をみせた。しかし、それ以後の両者の行動はまったく不明で、既報のごとく、ドレッバー氏の死体がユーストン駅から数マイル離れたブリクストン通りの空家で発見される結末を迎えたものである。
ドレッバー氏がなぜ同所に行ったのか、またなぜ悲惨な死を遂げたのか等の点は、依然として謎につつまれたままである。しかもスタンガスンの行方についてもいまだに不明である。しかし、警視庁のレストレードおよびグレグスンの両氏がこの事件の捜査に乗り出したという朗報が伝えられており、この高名な二人の警部の活躍によって事件はすみやかに解明されるものと期待される。
デイリイ・ニューズ紙
この事件が政治的な犯罪であることは、疑う余地がない。大陸諸国の政府において勢いを得つつある専制主義による自由への弾圧のために、多くの人々が国を追われてわが国へ亡命してきている。彼らは、本来はよき市民でありえたかもしれないのだが、数々の迫害を受けたために心がひねくれてしまったのだ。彼ら亡命者たちの間には厳格な掟(おきて)があり、それを破ると、たちどころに死をもって罰せられるのである。被害者の正体を知るために、秘書のスタンガスンの行方を全力をあげて捜すべきである。両者の宿泊していた下宿が判明したことによって、捜査は大きく進展したが、これはひとえに警視庁のグレグスン警部の手腕と活躍によるのである。
シャーロック・ホームズと私は、朝食をとりながらこれらの記事をいっしょに読んだのだが、彼にはこうした記事がよほどおもしろかったようであった。
「ね、ぼくのいったとおりだろう? レストレードとグレグスンが、どんな場合でも、得をするようになっているんだよ」
「でも、それも結果によりけりだろう?」
「いや、そんなことはちっとも関係ないんだ。もし犯人がつかまれば、その場合は、両氏の努力によって(ヽヽヽヽヽヽ)、ということになるし、つかまらなければ、両氏のせっかくの努力もむなしく、ということになる。つまり、表が出ればぼくの勝ち、裏が出ればきみの負け、という具合にね。どっちしても、あの二人は、かならず賞讃される。『馬鹿を尊敬する大馬鹿は世に絶えることなし』だからね」
「おや、あの音はなんだろう?」私はさけんだ。このとき、玄関から階段を駆けのぼってくる大勢の足音がきこえ、そのすぐあとを追うようにこの家の女主人の腹立たしげな声がひびいてきた。
「あれは警察探偵局のべーカー街別動隊だよ」とホームズがまじめくさって答えた。その言葉がおわらぬうちに、部屋のなかに、あきれるほど汚ならしい、ぼろをまとった浮浪児が六人どやどやととびこんできた。
「気をつけ!」とホームズが鋭く号令をかけると、六人の小さなならず者たちは、汚ならしい小像を並べたように一列にならんだ。「いいかい、今度からはウィギンスひとりが報告にくるんだ。あとの者は外で待っているんだぞ。ところで、ウィギンス、見つかったか?」
「まだです、旦那」と少年のひとりが答えた。
「あんまり期待してはいなかったがね。見つかるまで、さがさなきゃだめだよ。さあ、これが日当だ」
彼は少年たちに一シリングずつ渡してやった。
「さあ、もう帰っていい。今度くるときは、もっといい報告を持ってこいよ」
彼が手を振ると、浮浪児たちはまるで鼠(ねずみ)の群のように階段を駆けおりていき、まもなく通りほうから彼らのわめき声がきこえてきた。
「あの乞食少年一人のほうが十二人の警官よりも役に立つんだ」とホームズがいった。「警察の者だとわかると、たいていの人間は、その姿を見ただけで口をつぐんでしまう。ところが、あの少年たちなら、どこへでもいけるし、どんな情報でも耳にはさむことができる。それに彼らの注意力の鋭いことといったら、針のようだからね。ただあの少年たちに欠けているのは組織力だけだ」
「すると、このブリクストン事件のために、きみはあの少年たちを使っているのかい?」
「そうさ。すこしばかり確かめたいことがあってね。それがわかるのも、時間の問題さ。おや! おもしろいニュースをたっぷり聞けそうだよ! グレグスンが顔じゅうをうれしそうに輝かせてやってくるじゃないか。むろん、ここへくるのさ。やっぱり、家のまえで立ちどまったよ。さあ、ご到来だ!」
玄関のベルがはげしく鳴ったかとおもうと、金髪のグレグスンがひと足で三段ずつ階段をかけのぼって、私たちの部屋にとびこんできた。
「やあ、ホームズさん!」彼は儀礼的に差しだしたホームズの手をかたく握りしめながら叫んだ。「喜んでください! ぼくは事件の全容をすっかりあばきだしましたよ」
このとき表情ゆたかなわが友の顔に、一抹(いちまつ)の不安がよぎったように、私には思えた。
「というと、何かうまい手がかりを見つけたんですか?」
「うまい手がかりですって? いや、それどころか、犯人も逮捕したんですよ」
「で、犯人の名は?」
「アーサー・シャルパンティエ、英国海軍の中尉です」とグレグスンは肥った手をこすりあわせ、胸をそらしながら、もったいぶった口調で叫んだ。
シャーロック・ホームズはそれを聞くと、安心してほっと溜息をもらし、にっこり笑った。
「まあ、おかけになって、この葉巻でもすってください」と彼はいった。「どんなやりかたでそこまで突きとめられたのか、ぜひおうかがいしたいですな。ウイスキーの水割りでもどうです?」
「では、いただきますかな。なにしろ、この一、二日のひどい重労働で、くたくたに疲れましたよ。もちろん、肉体の疲れよりも、精神的な疲労のほうがはげしいのですがね。あなたならおわかりいただけるでしょう、シャーロック・ホームズさん。おたがいに、いわば精神労働者ですからね」
「これはどうも光栄ですな」とホームズはまじめくさって答えた。「それでは、あなたがどうやってこの見事な成果を挙げられたのか、その経緯をうかがいましょうか」
警部は肘かけ椅子に深々ともたれて、いかにも満足そうに葉巻をふかした。それから不意に、おかしくてたまらぬといった様子で、太股(ふともも)をぴしゃりと叩いた。
「まったく愉快ですな!」と彼は声をはりあげた。「あのレストレードの馬鹿者は、自分じゃ相当の腕っこきのつもりでいるんだが、やっていることはみんな見当はずれですからな。あの男はいまでも秘書のスタンガスンを追いまわしてるんですよ。スタンガスンなんて人物は、この事件とはまるっきり無関係なのにね。いまごろ、あの先生は罪もないスタンガスンを逮捕していることでしょうよ」
そう思っただけでも、グレグスンはおかしくてたまらないらしく、息もつまるほど笑いころげた。
「それで、きみはどうやって手がかりをつかんだんです?」
「ええ、あなたがたには全部をお話ししましょう。ですが、ワトスン先生、もちろんこれはわれわれだけの秘密ですよ。この事件でまず解明しなければならない問題は、例の死んだアメリカ人の身元確認でした。その方法としては、新聞広告を出してその回答を待ったほうがいいという人もいれば、また関係者が名乗り出て情報を提供するまで待ってはどうかという人もいるわけです。だが、このトバイアス・グレグスンのやりかたはそれとは違う。あなたがたは、死体のそばに帽子が落ちていたのをおぼえておりますかな?」
「ああ、あれは」とホームズがいった。「キャンバウェル街一二九番地のジョン・アンダウッド父子商会の製品でしたな」
グレグスンは、この言葉を聞いて、ひどく落胆したようであった。
「あなたがまさかそこまで気がついていたとは、意外でした」と彼はいった。「それで、その帽子屋へいってみましたか?」
「いや」
「ほう!」と、グレグスンは元気をとりもどした声でさけんだ。「機会(チャンス)というものは、どんなにわずかなものであっても、なおざりにすべきじゃないですよ」
「偉大なる精神にとっては、小事なし、ですな」とホームズは、警句めいた言葉で答えた。
「だから、ぼくはアンダウッド商会へ出かけて、こういう寸法のこういう型の帽子を売ったかとたずねたのです。すると主人は帳簿を調べて、すぐに買った客を見つけましたよ。その帽子は、トーキー・テラスのシャルパンティエという下宿屋にいるドレッバー氏に届けたというのです。これで被害者の住所がつかめたわけです」
「うまい、じつにうまい!」とシャーロック・ホームズがつぶやいた。
「そこで、ぼくはシャルパンティエ夫人を訪ねました」と警部は話を続けた。「会ってみると、夫人はひどく青い顔をしていて、心配ごとがありそうでした。娘もその部屋におりましたが、これがまた、なかなかの美人です。彼女も眼のまわりを赤くはらしていて、ぼくが話しかけると唇を震わせるのです。ぼくが、それを見のがすものですか。これは臭(くさ)いぞ、とすぐに気づいたのです。ついに確かな手がかりをつかんだというあの感じです……シャーロック・ホームズさんなら、おわかりでしょう……こう、なんともいえず体じゅうがぞくぞくしてきます。そこでぼくは、『最近までこちらに下宿していた、クリーブランド市のイノック・J・ドレッバー氏が奇怪な死にかたをされた話はお聞きでしょうな?』と、こうたずねてみました。母親はうなずきました。口もきけないらしいのです。娘のほうは泣きだしました。これでぼくは、この親子が何か大事なことを知っているな、といよいよ確信を深めたのです。
『ドレッバー氏が、汽車に乗るといって、ここを出たのは何時ですか?』とぼくはたずねました。
『八時でした』母親は動揺をおさえるためにぐっと生唾(なまつば)をのみながら答えました。
『秘書のスタンガスンさんが、汽車は九時十五分発のと十一時発のがあると申しますと、ドレッバーさんは、じゃあ最初のやつに乗ろうとおっしゃっていました』
『彼の姿を見たのは、その時が最後だったのだね?』
ぼくがそうたずねると、母親はさっと顔いろを変えたのです。まるで死人のように青ざめましてね。そして、しばらくしてから、やっと一こと『はい』と答えたのですが……その声もかすれていて、不自然なのです。それからまたしばらく沈黙がつづいて、こんどは娘が、落着いたはっきりした声で口を開きました。
『お母さん、嘘をついてよかったことはありませんわ。このかたに、何もかも正直に話してしまいましょう。ほんとうは、わたしたち、あのあとまたドレッバーさんにお会いしたんです』
『まあ、おまえは、何てことを!』とシャルパンティエ夫人は両手をあげ、くずれるように椅子に倒れこみながら叫びました。『おまえは、兄さんを殺したんだよ、これで』
『アーサー兄さんだって、きっとわたしたちにほんとうのことを話してほしいと思っているわよ』と娘はきっぱりといいました。
『こうなったら、何もかも話してしまったほうがいいですよ」とぼくがいいました。『半分しか打ちあけないのは、全部を隠し通すよりも悪いのです。それに、あなたがたとは別個に、われわれのほうでも、ちゃんと調べておりますからな』
『こうなったのも、みんなおまえのせいだよ、アリス』と母親はそう叫んでから、ぼくのほうへむき直りました。『では、何もかもお話ししますわ。でも、こんなに取り乱しているのは、もしか息子がこんどの恐しい事件に関わっているのではと心配しているからだ、などと考えないでください。息子はあくまで潔白です。ただ、わたしが懸念(けねん)しているのは、あなたがたや世間の人たちが息子に嫌疑をかけるのではないかと心配だからです。しかし、そんなことなど、あるはずがありません。息子の高潔な人格や、職務や経歴からしても、そんなことはぜったいにできるはずがないんです』
『いちばんいい方法は、事実を正直に全部お話しになることです』とぼくは答えました。『もし息子さんが潔白なら、真相をお話しになってもけっして不利益にはならんでしょう』
『アリス、おまえは席をはずしてちょうだい』彼女がそういうと、娘は出ていきました。『警部さん。わたしはこんなことをお話しするつもりはなかったのですが、娘があんなことを申してしまっては、隠しても仕方がありません。いったん話そうと決心したからには、どんな細かいことでもかくさずに、お話しいたします』
『それがいちばん賢明な方法です』とぼくがいいました。
『ドレッバーさんはほぼ三週間ほど、わたくしどものところへ宿泊されました。秘書のスタンガスンさんといっしょに、大陸のほうを旅行してきたそうです。どのトランクにもコペンハーゲンのホテルのラベルが貼ってありましたから、このロンドンにくるまえは、そこに宿泊されたのでしょう。スタンガスンさんはもの静かな控えめなかたでしたが、ご主人のドレッバーさんのほうは、失礼ながら大ちがいでした。気性が荒っぽく、態度が野蛮でした。こちらに着かれたその晩からひどい酔っぱらいようで、昼間でもいつも酒気を帯びておられました。そのうえ、女中たちにも、いやらしいほど不遠慮でなれなれしいのです。それになにより困ったことには、娘のアリスにたいしても、すぐに同じような振舞いをされて、何度かみだらなことをいったのです。さいわい、娘がまだ無邪気で、意味が通じませんでしたが。一度などは娘をつかまえて抱きしめたのですよ……そのときは、秘書のスタンガスンさんが、さすがに見かねて、男らしくないことはやめてくださいといって止めてくださいました』
『しかし、そんなことまでされて、なぜ我慢していたんです?』ぼくはそう質問しました。『そんないやな下宿人は、出てもらえばいいじゃありませんか?』
シャルパンティエ夫人は、この正当な質問に顔を赤らめました。
『ええ、初めからそういってお断りすればよかったのですが』と彼女はいいました。『でも、すぐお断りするにはとても惜しい条件でした。こんな不景気の時にひとり一日一ポンド……つまり一週間に十四ポンドお支払いくださるのです。わたしは寡婦(かふ)ですし、海軍にいる息子にもずいぶんお金がかかります。それだけの収入をみすみす失うことが惜しかったのです。できるかぎり我慢しようと思いました。でも、娘にまであんなことをされては、もう黙ってはおれませんから、出ていってくれと申しました。そんないきさつがあって、あのかたは出られたのです』
『なるほど……それで?』
『あのかたの馬車が走りだすのを見とどけると、心が軽くなりました。息子が休暇で帰宅しておりましたが、その件に関しては何も話しませんでした。それというのも、息子は気性が荒っぽくて、妹をたいそう可愛がっているからです。あのかたたちを見送ってドアを閉めてしまいますと、心の重荷がとれたような気がいたしました。ところが、なんと、それから一時間もたたないうちに玄関のベルが鳴って、またドレッバーさんが戻ってこられたのです。ひどく興奮しておられ、しかも酔っぱらっておりました。わたしが娘と二人でおります部屋ヘ、おしかけてこられて汽車に乗りおくれたとかなんとか、でたらめなことを口ばしりました。それから、アリスにむかって、この私の目の前で、平気な顔をして、これから駆け落ちしようというのです。
『あんたはもう大人だからね。どこへいこうと、あんたをとめる法律はない。おれは金をたっぷり持っている。こんな婆さんなんかにかまうことはない。さあ、おれと一緒にすぐ出かけよう。王女様みたいな暮しをさせてやるよ』
かわいそうにアリスは、すっかりこわがって後ずさりしましたが、あの人は娘の手首をつかんでむりやりにドアのほうへ引きずっていこうとしました。わたしはおもわず悲鳴をあげました。そこへ息子のアーサーが入ってきました。そのあとどんなことがあったのか、わたしは存じません。ののしりあう声と取っ組みあいの音がいりみだれて聞えました。あまりの恐ろしさに顔もあげられませんでした。しばらくしてやっと眼をあけてみますと、アーサーが棒を手に持って、笑いながら入口に立っていました。『これで、もうあいつに悩まされることはあるまい』といいました。『あいつのあとをつけて、ちょっと見てくるよ』
息子はそういって、帽子をとって表へ駆けだしていきました。そしてつぎの朝、わたしたちはドレッバーさの変死を知ったのです』
これだけのことを話すのに、シャルパンティエ夫人は何度も喘(あえ)いだり、中断したりしたのです。ときどきは、聞きとれないほど低い声で話しました。でも、その言葉をのこらず速記してきましたので、間違いっこありませんですよ」
「なかなかおもしろいですな」とシャーロック・ホームズは、あくびをしながらいった。「それからどうしました?」
「ぼくは夫人の話が途切れたとき」と警部が話をつづけた。「この問題は、ある一点さえわかれば全部がわかると気づきました。そこで、ぼくは、女性相手にこれまでいつも効果を挙げてきた眼つきで、じっと彼女を見つめながら、息子さんは何時に帰ってきたのかとたずねました。
『知りません』
『知らない?』
『ええ、息子は鍵を持っておりますから、自分で入ったのです』
『あなたかおやすみになってからですか?』
『はい』
『何時におやすみになったのです?』
『十一時ごろでした』
『すると、息子さんは、少くとも二時間は外出しておられたことになりますね?』
『はい』
『ひょっとすると、四時聞か、五時間になるかもしれませんね?』
『はい』
『息子さんは、そのあいだ何をしていたのかな?』
『存じません』
そういいながら、彼女は唇までまっ青になりました。もちろん、これ以上聞きただす必要はありません。ぼくはシャルパンティエ中尉の居場所を捜し出し、巡査をふたり連れていって、彼を逮捕しました。ぼくが肩に手をおいて、おとなしくついてこいといいますと、なんと図々しくもこう答えるじゃありませんか。『ぼくを逮捕するのは、あの悪党のドレッバーが死んだことに関係があると思っているからだろう』って。こちらがまだ何もいわないうちに、本人のほうからそういうのですから、これだけでも容疑は濃厚といえます」
「なるほど」とホームズがいった。
「しかも、母親は、アーサーはドレッバーのあとを追いかけたとき、太い棒を持っていたといっておりましたが、彼はその時にもまだそれを持っていました。太い樫(かし)の棍棒です」
「で、きみの推理はどうなります?」
「ぼくの推理はこうです。彼はドレッバーのあとをつけて、ブリクストン通りまでいったのです。そこでまた口論になって、そのうちにドレッバーはたぶん鳩尾(みぞおち)あたりを棍棒でなぐられて、外傷ものこさずに死んだんです。あの晩は雨がはげしくて人通りもなかったので、シャルパンティエは死体を空家に引きずりこみました。ローソクや血痕や、壁の文宇や指輪などが残っておりましたが、ああいうものはみな、警察の眼をくらまそうとして仕組んだ細工ですよ」
「いや、じつに見事だ!」とホームズはおだてるような調子でいった。「まったく、グレグスン君、きみはいい線をいってます。きっとものになるでしょうよ」
「まあ、われながら、こんどはうまくやったと思っていますがね」と警部は誇らしげに答えた。「アーサーは、すすんで供述したのですが、それによると、彼がドレッバーを追いかけてしばらくいくと、相手は気がついて、辻馬車をひろって逃げてしまったというんです。それで帰ろうと思って戻りかけると、途中で、むかしの船乗り仲間に出会ったので、二人でながいあいだ散歩をしたといいます。ところが、その友人の住所はどこだとたずねても、満足な返事ができないんです。とにかくこんどの事件は、どの点からみても、不思議なほどぼくのにらんだとおりでしたな。レストレードのことを思うと、痛快ですよ。あの先生はまったく見当ちがいの方向を捜査しているんですからね。むだ骨を折って気の毒なことだ。おや、噂の人物のご入来ですよ!」
私たちが議論しているあいだに階段をのぼり、部屋に人ってきたのは、まさしくレストレードであった。ただ、いつもの彼には、服装や態度に尊大な気どったところがあるのだが、今日の彼には、それがなかった。思い悩み困惑した顔つきで、服装もだらしなく乱れていた。彼は同僚が来あわせているのを知って、ひどくばつの悪い顔をしたところから察すると、シャーロック・ホームズに助言を乞うつもりでやってきたにちがいない。彼は部屋のまん中に突っ立って、いらだたしそうに帽子をいじりながら、どうしようかと迷っていたが、しばらくして、ようやく口を開いた。「じつに驚くべき事件です……まったく、不可解な謎ばかりで」
「ほう、レストレード君、やっぱりそう思うかね?」と、グレグスンが勝ちほこって大声をあげた。「きみのやりかたじゃ、どうせそんな結論になるだろう、と思っていたがね。せめて、秘書のジョゼフ・スタンガスンの行方ぐらいは突きとめたかい?」
レストレードは重々しく答えた。「秘書のジョゼフ・スタンガスン氏は今朝六時に、ハリディズの常宿で殺されました」
レストレードが突然もたらした知らせは、あまりに重大であり、思いもかけないものだったので、私たちは三人とも唖然(あぜん)として、しばらくはものもいえないほどであった。グレグスンはいきなり椅子からとびあがり、そのはずみで飲みかけの水割りウイスキーをひっくり返してしまった。私は無言のままシャーロック・ホームズを見つめたが、彼は唇をかたく結び、眉を眼にかぶさるほどよせていた。
「スタンガスンもか!」と彼はつぶやいた。「いよいよ事件はこみ入ってきたな」
「ただでさえ面倒なこみ入った事件だったのに」とレストレードは、椅子にすわりながら、不満をもらした。「ぼくはどうも作戦会議のさいちゅうにとびこんできたみたいですね」
「きみ……きみの、その情報は、たしかなんだろうね?」とグレグスンが口ごもりながらたずねた。
「ぼくはスタンガスンの殺された部屋に、ついさっきまでいたんだよ」とレストレードがいった。「しかも死体を最初に発見したのも、このぼくなんだ」
「じつはいま、グレグスン君から、この事件に関する意見をきいていたところなんだが」とホームズがいった。「こんどは、きみのほうの捜査の内容をきかせてもらえないかな?」
「いいですよ」とレストレードは椅子にかけながらいった。「正直なところ、ドレッバー殺しには、スタンガスンが関係しているはずだ、と思いこんでいたんです。こんな新事実があらわれた今となっては、ぼくの考えがとんだ見当ちがいだったことがわかりましたがね。とにかく、はじめはただ単純にそう思いこんで、秘書の行方をさがすのに夢中だったんです。あのふたりが、三日の夜八時半に、ユーストン駅にいたことは、目撃者の証言がありますから、まちがいありません。そして翌日の午前二時に、ブリクストン街でドレッバーが死体になって発見されたんです。ぼくがぶつかった疑問は、それなら、八時半から犯行時刻までのあいだ、スタンガスンはどこで何をしていたのか、また犯行のあと、彼はどこへ姿を消したのか、ということでした。ぼくは、リヴァプール警察に電報を打って、スタンガスンの人相をおしえ、アメリカ行きの船舶を厳重に監視するように頼みました。それからぼくは、ユーストン駅近くのホテルや下宿屋を軒なみに調べてまわりました。もちろんこれは、もし主人のドレッバーとはぐれたものとすれば、スタンガスンはその晩は駅の近くに宿をとって、翌朝、駅のあたりをうろつきながら主人を待つのが自然だろう、と考えたからです」
「あらかじめ、落ちあう場所をきめていたんじゃないかな」とホームズがいった。
「じつはそのとおりだったんです。ぼくが昨夜しらべてまわった旅館には、スタンガスンはいませんでした。けさも早くからしらべてまわりましたが、八時ごろリトル・ジョージ街のハリディズの常宿に立寄りまして、スタンガスンという客はいないかとたずねてみました。すると、すぐに、いる、という答えが返ってきたんです。
『それでは、スタンガスンさんが待っておられたのは、あなたでしたか? もう二日もまえからお待ちかねでしたよ』
『いま、彼はどこにいます?』とぼくはたずねました。
『二階の寝室でおやすみです。九時に起こしてくれとおっしゃってました』
『じゃ、いまからすぐ部屋へいってみよう』と、ぼくはいいました。不意を襲ったら、相手はうろたえておもわず不用意なことをもらすかもしれないと、ぼくは計算したんです。下男が先にたって案内してくれました。部屋は三階にあって、そこまで狭い通路をのぼっていくようになっていました。下男は部屋のドアを教えると、戻っていきかけましたが、そのとき、ぼくはふと気味の悪いものを見つけて、二十年も捜査の経験を積んでいるというのに、おもわず吐き気をもよおしたんです。ドアの下から、ひとすじの血が流れ出ていて、曲がりくねりながら通路を横ぎり、反対側の壁の下に小さな血の池をこしらえているのです。
ぼくが叫び声をあげたので、下男が戻ってきました。彼もこれを見て、気を失いそうになりました。ドアは内側から鍵がかかっていましたが、二人でからだをぶつけて、押し破りました。なかに入ってみると、窓が開いていて、窓のそばに寝巻姿の男が、からだを曲げて倒れていました。まぎれもなく絶命しており、手足が冷く硬直していて、死後数時間を経過しています。顔をおこしてみたとき、下男はひと目みて、これはジョゼフ・スタンガスンと名のってこの部屋に泊っていた客にまちがいない、と断定しました。左胸に、心臓までとどいていると思えるほどの深い刺し傷があり、これが死困です。ところが、普通の殺人と違って、これからがじつに奇妙なのです。殺された男のうえには何があったと思います?」
私は、その言葉を聞いただけで、からだじゅうに悪寒が走り、恐怖におののきながらシャーロック・ホームズの返事を待った。
「 RACHE と血で書いてあったのだろう」
「そのとおりです」とレストレードはいかにも感にたえないという口調でいった。それからしばらく四人は無言のままであった。この姿なき犯人の行為は、計画的でしかも不可解だったから、それがこの犯罪にいやがうえにも気味のわるい効果をそえていた。私は戦場ではびくともしなかったのに、この事件の場合には、考えただけでも全身が震えてくるのであった。
「犯人らしい男を見たものがいるのです」レストレードが話をつづけた。「牛乳配達の少年が、搾乳(さくにゅう)場にいく途中、宿の裏手の厩(うまや)からの道を歩いておりますと、いつもそこに横にしてある梯子(はしご)が三階の窓の一つに立てかけられていて、その窓が大きく開いているのが眼にとまったそうです。通りすぎてから振りかえってみると、一人の男がその梯子をおりてくるところでした。その男があまろにおちつきはらっておおっぴらに降りてくるので、少年は、ホテルで仕事をしている大工か指物師(さしものし)だろうと思ったそうです。ずいぶん朝早くから仕事をするなあと思っただけで、かくべつ気にもとめなかったといいます。ただ、その男が背の高い、赤ら顔で、茶系統の大きな外套を着ていたという記憶があるそうです。その男は殺害後もしばらく部屋にとどまっていたと推走されます。というのは、部屋の洗面器の水が、手を洗ったとみえて、血にそまっておりますし、シーツにはていねいにナイフをふいたらしい跡がのこっていました」
犯人の人相が、ホームズのいっていた特徴とあまりにもぴたりと符合しているので、私はホームズのほうをちらっと見た。しかし、その顔には、誇らしげなところや満足げな様子はすこしも見られなかった。
「部屋のなかには、犯人を割りだす手がかりになりそうなものは、何も見つからなかったんですか?」と彼はたずねた。
「ええ、何も。スタンガスンのポケットにはドレッバーの財布が入っていたんですが、支払いはすべて彼が担当していましたから、べつだん不思議じゃないでしょう。財布には八十ポンドあまり入っていましたが、お金を盗まれた形跡はありません。二度にわたる異常きわまる犯行の動機が何であるにしろ、物盗りでないことたけは確実です。被害者のポケットから出てきた書類といえば、ただ一通の電報だけです。クリーブランド市から一力月ほどまえに発信されたもので、電文は『J・Hはヨーロッパにいる』という内容です。その電報には差出人の名前もないのです」
「ほかには何も?」ホームズがたずねた。
「大事なものは、何もありません。ほかには、スタンガスンが寝るまえに読んでいた小説がベッドのうえにころがっており、死体のそばの椅子のうえに被害者のパイプがありました。あとは、テーブルのうえに水のはいったコップが一つ、窓の下枠に、丸薬が二粒入った経木(きょうぎ)の小箱がのっていたぐらいです」
これを聞いて、シャーロック・ホームズは歓声をあげて椅子からとびあがった。「さあ、これで最後の謎がとけた」そういうホームズの声は喜びにはずんでいた。「事件は解決です」
二人の警部はあっけにとられて、彼の顔を見つめた。
「もつれにもつれた事件だったが」と、わが友は自信にあふれた声でいった。「とうとう解きあかした。もちろん細部はこれから解明していかねばならないが、事件の大筋は完全につかめた。ドレッバーが駅でスタンガスンと別れてから、最後にスタンガスンの死体が発見されるまでの経緯は、この眼で見てきたようにはっきりしてきた。ぼくがどれくらい真相をつかんでいるか、その証拠をお目にかけましょうか。レストレード君、その丸薬はもちろん押収しましたね?」
「ここに持ってますよ」とレストレードは白い小箱をとりだしながら答えた。「ぼくは、これと財布と電報とを、署の安全な場所に保管するつもりで押収してきたんです。まあ、丸薬なんか持ってきたのは、ほんのついでみたいなもので、こんなものに重要な意味はないですよ」
「それをこちらへください」とホームズがいった。「どうだろう、ワトスン君」と彼は私のほうをむき、「これは普通の丸薬かな?」
それはけっしてありきたりのものではなかった。真珠色にちかい灰色の小さな丸い粒で、光にすかしてみると、ほとんど透明であった。「軽くて透明だから、これは水に溶けそうだね」と私はいった。
「いかにもその通りだよ」とホームズがうなずいた。「すまないが下にいって、あの死にかけているテリヤを連れてきてくれないか。あの犬はずいぶん前から病気で、昨日、女主人(おかみ)がきみに、安楽死させてほしいと頼んでいたじゃないか」
私は階下へおり、犬を抱えてもどってきた。苦しそうに喘(あえ)ぐ様子とどんより曇った眼が、この犬の余命のいくばくもないことを示していた。なによりも、雪のように白くなっている口もとが、犬としての寿命をすでにまっとうしていることを物語っていた。私は敷物の上にクッションをおき、その上にテリヤをおろした。
「まず、こっちの丸薬を半分に割ります」とホームズは小刀をとりだして、その言葉どおりに実演してみせた。「半分はあとのためにこの箱にしまっておきます。のこりの半分を、このワイングラスに入れます。グラスにはほんの匙(さじ)一ぱいの水がはいっています。ほら、わが友ワトスン医師のいったとおりじゃないですか。みるまに溶解していく」
「これはたしかにおもしろい実験でしょうが」とレストレードは、自分がからかわれているのじゃないかと思ったらしく、むっとした口調でいった。「しかし、これとスタンガスンの死と、いったいどういう関係があるのかわかりませんな」
「まあ、そう怒らないで、レストレード君、怒らないでしばらく待ってください。おおいに関係があることが、じきにわかりますよ。では、これに牛乳を少し加え、飲みやすくして、犬の前におきます。犬はすぐ舐(な)めてしまいます」
そういいながら、彼はグラスのなかの溶液を受皿に注ぎ、テリヤの鼻先に置くと、あっというまにきれいに舐めてしまった。シャーロック・ホームズの態度があまりに真剣なので、私たちもすっかり引きこまれて、何か驚くべき反応がおこるのだろうと期待して、息を殺してじっと犬を見まもった。しかし、いっこうにそれらしい変化はあらわれなかった。犬はあいかわらずクッションのうえに長々とのびて、苦しげな息づかいをしていたが、薬をのんだために、とくに容態が良くなったとも悪くなったともみえなかった。ホームズは時計をとり出したが、一分また一分過ぎても何の変化もあらわれないので、いかにも無念そうな失望の色を浮かべた。唇をかみ、指先でテーブルをたたき、そのほか焦躁をあらわにしたあらゆる身ぶりをした。その困惑ぶりがあまりに痛々しかったので、私は心から同情を寄せたが、二人の警部のほうは、ホームズの進退きわまった様子を見るのが痛快だったらしく、嘲(あざけ)るような笑いを浮かべていた。
「これが偶然の出来事だなんて、そんなことがあってたまるか!」ホームズはそう叫ぶと、ついに椅子から飛びだして、部屋のなかを荒々しく歩きまわりはじめた。「たとえ偶然にしろ、こんなばかげたことがあるものか。ドレッバーが殺された時に、ぼくは毒物が使われた可能性が高いと指摘したが、その薬物がちゃんとスタンガスンの死体のそばから発見されたじゃないか。それでいて、この薬に毒性がないなんて。これはいったいどうしたことか? ぼくの推理が初めから全部まちがっていたとでもいうのか。いや、断じてそんなはずはない! それでいて、この病犬はなんともないんだ。あっ、そうだ! わかったぞ!」
ホームズは、かん高い歓声をあげながら、小箱のところへとんでいくと、もう一つの丸薬を二つに割り、その一つを水に溶かして、ミルクを混ぜ、テリヤの鼻先においた。犬の舌がその液に触れたか触れないうちに、かわいそうに、すぐに手足をはげしく痙攣(けいれん)させ、雷にでも打たれたように、硬直して絶命してしまった。
シャーロック・ホームズは大きく息をついて額の汗を拭いた。「ぼくは自分の推理にもっと自信をもたなくちゃ。ある事実が、これまでの推理の道筋とくいちがってみえるときは、かならず別の観点から解釈する必要があるってことを、とっくに気づいていてよかったはずだ。あの箱のなかの二粒の丸薬は、一つが猛毒で、もう一つがまったく無毒だったが、そんなことぐらい、箱を見るまでもなく、わかっていなけりゃならなかった」
この最後の言葉に、私はすっかり度胆(どぎも)をぬかれて、ホームズがはたして本気でそういっているのか、信じられないほどであった。しかし、足もとの犬の死体は、彼の推測の正しさを証明していた。私は、頭のなかの霧がしだいに晴れていき、かすかに、おぼろげに、真相が見えてくるような気がした。
「きみたちには、どうにも合点がいかないようですな」とホームズが話をつづけた。「それというのも、この事件の捜査の初めの頃に、じつは確実な手がかりが一つだけあったのに、きみたちは、それをうっかり見落してしまったからですよ。ぼくは幸いにして、それを見逃さなかった口だから、その後に起きた新たな出来事はすべて、ぼくが当初から推察したとおりの展開になりましたし、また、もちろんそうなるのが当然です。つまり、きみたちの思考を混乱させ、事件をいやがうえにも不可解なものにした事柄が、ぼくにとっては、かえって解明を容易にする材料にもなり、判断の正しさを証明する材料にもなったんです。奇怪であることと不可解であることとを混同するのは、まちがいです。もっとも平凡な犯罪が、多くの場合、もっとも不可解なのです。なぜならば、そこには、人の推理を刺激するような格別の目新しさや際(きわ)立った特徴がないからです。だから、こんどの殺人にしても、ただ単に死体が路上に倒れていたというだけで、いやがうえにも事件を目立たせることとなった奇異で人騒がせな附随物がなかったとしたら、むしろそのほうがはるかに解決が困難だったでしょう。ところが、ああいう奇怪な材料があったために、事件の解決は難しくなるどころか、かえってそれだけ容易になったというわけです」
グレグスン警部はこの弁舌をかなりいらいらしながら聞いていたが、とうとう我慢できなくなった。「ねえ、シャーロック・ホームズさん」と彼はいった。「われわれは、かねがねあなたが頭脳明晰であり、他人には理解しがたい独特の方法を持っておられることを、じゅうぶんに認めておりますよ。ですが、今われわれが欲しているのは、理論やお説教なんかじゃないんです。犯人を捕えるかどうかが問題なんです。ぼくはぼくなりに解明を試みましたが、それはどうやらまちがっていたらしい。シャルパンティエ青年は、どう見ても、第二の事件には無関係ですからね。レストレード君のほうも、目指すスタンガスンの行方を追ったわけですが、これまた見当ちがいだったようです。ところが、あなたは話のはしばしに思わせぶりなヒントをほのめかしておられるから、きっとわれわれ以上によくご存知なんでしょう。しかし、もう今となっては、あなたがどれほど事件の真相を知っておられるのか、卒直におたずねしてもいいんじゃないかと思いますがね。あなたは犯人の名前をずばりといえますか?」
「ぼくも、グレグスン君の意見に共鳴せざるをえませんな」とレストレードもいった。「ぼくたちはそれぞれのやりかたで調べてみて、ふたりとも失敗に終りました。しかるに、さきほどからここでうかがっておりますと、あなたは必要な証拠を全部手に入れているかのようなことを、再三口にしておられる。まさか、このまま隠しておかれる気ではないでしょうね」
「犯人の逮捕がすこしでも遅れると、犯人にまた新たな凶行を重ねる時間をあたえることになりはしないかな」と私も発言した。
こう三人から攻めたてられても、ホームズは決心のつかぬ様子であった。考えこんでいる時のくせとして、頭を重く垂れ、眉を寄せ、部屋のなかを歩きまわっていた。
「もうこれ以上殺人をおかすことはあるまい」と彼は、しばらくたってからとつぜん立ちどまり、私の顔を見ていった。「そういう心配は全くないといってもいい。犯人の名前を知っているかという質問だったが、もちろんぼくは知っている。だが、犯人を実際に逮捕することの難しさにくらべれば、名前を割りだすことぐらいは、とるに足らんことです。それに犯人の逮捕も、もうじきです。ぼくのかねてからの手筈(てはず)だけで、じゅうぶん成功すると思います。しかし、ぼくたちの相手というのは、賢くて命知らずの男だし、それに、おなじぐらいに機敏な男が味方についているから、ことを慎重に運ぶ必要があるのです。犯人が、だれにも怪しまれてはいないと思っているあいだは、われわれにも、逮捕できる可能性が残されているわけだが、少しでも警戒心をいだけば、名前を変えて、たちまちこの大都会の四百万の住民のなかにまぎれこんでしまうでしょう。お二人の気持を傷つけるつもりはないのですが、正直なところ、こんどの犯人は、とうてい警察の手に負えるような相手じゃないといわざるをえませんな。ぼくはそう思ったからこそ、あえてきみたちの応援を求めなかったんです。それでもし失敗すれば、もちろんその責任は全部ぼくにあるわけですが、その覚悟はできていますよ。だから、君たちに打ち明けても、ぼくの立てた計画の遂行に支障をきたさないという時期がきたら、その時にはすぐに話す、という約束なら現在でもできるわけですが」
グレグスンとレストレードは、こういう約束にも、また警察の捜査課を暗に侮辱した言葉にも、大いに不満をもったらしかった。前者は亜麻色の髪のはえぎわまでまっかになったし、後者はその丸い小さな眼を好奇心と憤慨の念で光らせていた。しかし、その二人が口を開かないうちに、とつぜんドアをたたく音がして、町の浮浪児の代表たるウィギンス少年が、みるからにお粗末な汚ならしい姿をあらわした。
「旦那、馬車を下につれてきたよ」と少年は前髪に手をやりながらいった。
「ご苦労だったね」とホームズは愛想よく答えた。「警視庁では、どうしてこの型のものを採用しないのかな?」と引出しから鋼鉄の手錠を取りだしながらいった。「どうです、このバネのよく効くこと! あっというまに、締まってしまう」
「手錠は古い型のもので十分まにあいますよ。ただ、問題はそれをかける相手が見つかるかどうかです」とレストレードがいった。
「いや、いや、まったくですな」とホームズは微笑しながらいった。「ところで、馭者に荷作りを手伝ってもらってもいいだろうな。ウィギンス、ちょっと呼んできてくれないか」
私は、ホームズが旅行にいくなんてひと言もいってなかったのに、いまにも出かけるようなことをいうので驚いてしまった。部屋のなかには小さな旅行鞄(かばん)が一つあったが、ホームズはそれを引きずりだして、帯皮をかけはじめた。彼が忙しげにその作業をしているところヘ、馭者があがってきた。
「きみ、この金具を締めるのを、ちょっと手伝ってくれないか」とホームズは鞄を膝で押えながら、ふりむきもしないで声をかけた。
馭者はどことなく不機嫌な顔でしぶしぶ歩みより、手伝おうと両手をだした。その瞬間、かちっという鋭い鋼のきしみ合う音がして、シャーロック・ホームズがさっと立ち上った。
「諸君」と彼は眼を輝かせて叫んだ。「イノック・ドレッバーとジョゼフ・スタンガスンを殺害した犯人、ジェファスン・ホープ君を紹介します」
すべてがあっという間の出来事で……あまりに突然だったので、私は呆然としたまま、何がおこったのか、すぐにはわからないほどであった。しかし、今でもありありとおぼえているのは、そのときのホームズの勝ちほこった顔、凛(りん)と響く声、また、とつぜん魔法のように手首にかかってしまった冷たく光る手錠を呆然と見つめている馭者の凄(すご)みのある顔である。
一、二秒、私たちは彫像のように立ちつくしていた。しかし一瞬ののち、馭者はわけのわからぬ怒号を発して、彼をつかまえていたホームズの手を振りほどいて突進し、窓に全身をはげしくぶつけた。窓わくとガラスがひとたまりもなく砕(くだ)け散ったが、馭者がそこから外に飛びださないうちに、グレグスンとレストレードとホームズがまるで三頭の猟犬のようにおどりかかった。彼は部屋のなかに引きもどされて、そのあとでものすごい格闘になった。馭者はおそろしく力の強い、乱暴きわまる男で、四人がかりの私たちが、何度もはねとばされたほどである。それはまるで癲癇(てんかん)の発作をおこした男の狂気のような激しさであった。彼の顔や手は窓ガラスを突き破ったために傷だらけだったが、血が流れ出たぐらいで抵抗する力を失うような男ではなかった。しかし最後にレストレードが首巻の内側に手をかけて、咽喉(のど)を片手で締めあげたので、さすがの彼もあばれても無駄だと、ようやく観念したようだった。それでも私たちは、彼の両手両足を縛りあげてしまうまでは安心できなかった。そのあとで、やっと私たちは息をきらしてあえぎながら立ち上った。
「この男の馬車を使おう」とシャーロック・ホームズがいった。「警視庁に護送するのにちょうどいいじゃないか。さて、諸君」と彼はうれしそうな微笑をうかべて、こうつづけた。「これでいささか謎めいたこの事件も結末をむかえたわけです。いまならどんな質問を出されても、ぼくは喜んでお答えします。もう解答を拒むおそれはまったくありませんぞ」
涯(はて)しなく広大な北アメリカ大陸の中央部には、呪うべき不毛の砂漠がひろがっており、長年にわたって文明の進出を妨げる天然の障壁となっていた。シェラ・ネヴァダからネブラスカまで、また北のイェローストーン河から南のコロラド河までは、荒涼たる未開の地である。しかしこの荒々しい地域においても、自然の地勢は、どこも全く同じというわけではない。雪をいただく高い山々がそびえ、深くて暗い谷があリ、両岸の険しく切り立った峡谷のあいだを激流が走っている。そして冬には雪で白く輝き、夏には塩分をふくんだアルカリ質の砂塵(さじん)をまきあげて灰色の原野と化す、広々とした大平原もある。しかし、これらの景観も、全体の印象は不毛と荒涼と陰惨という点で共通していたのである。
この見捨てられた地域には、住む人の影もない。ときおりポウニー族やブラックフィート族の一隊が、ほかの猟場へいこうとして、この地を通過することはあるが、この勇猛な部族のもっとも屈強な戦士でさえも、この恐るべき大平原を通り越してふたたび草原地帯にたどりつくとほっと胸をなでおろすのである。狼(コヨーテ)がかん木のあいだにひそみ、はげ鷹(たか)が羽音も重く空に舞い、ぶかっこうな大熊が暗い峡谷を徘徊して、岩間に餌食をあさっている。この荒野に棲(す)むものはこれらの動物のみである。
シェラ・ブランコ山脈の北側の尾根から眼下に眺める風景ほど荒涼として無気味な景観は、世界中でも類があるまい。見わたすかぎり、アルカリ質の砂におおわれた大平原がひろがり、そのところどころに丈の低いかん木が群生している。遠くはるかな地平線のかなたには、雪をいただく険しい峰々がどこまでも連なっている。この広大な平原地帯には、生きものの棲息している気配は、否(いな)、およそ生命らしきものの痕跡すら見られない。暗青色の大空には一羽の鳥さえも見えず、にぶい灰色の大地には動いているものの影すらなく……ただ、絶対の沈黙だけが支配している。どんなに耳を澄ましても、この広漠たる荒野からは、物音ひとつきこえてはこない。ただそこにあるものは沈黙……完全な、心を塞(ふさ)ぐばかりの沈黙である。
この大平原には、生命らしきものの痕跡すら見られないといったが、これはいささか事実と相違しているかもしれない。シェラ・ブランコの山から見おろすと、一筋の路(みち)が砂漠を横ぎって、曲がりくねりながらはるかかなたの地平線につづいている。それは車の轍(わだち)に刻まれ、旅をいく冒険者たちの足跡で踏みかためられた路である。その路のそこかしこに、白い物体が点々と散らばっており、太陽に照らされて、アルカリ質の黒ずんだ砂のうえで、ひときわ白く光っている。近づいて、よく見るがよい! それは骨なのだ。大きくてざらざらしたものと、小さくてきゃしゃなものとがある。前者が牛の骨で、後者が人間の骨だ。旅の途上にむなしくたおれたこれらの死者たちの残骸をひとつずつ辿っていけば、路傍に骨をさらすこの路が、遠く干五百マイルも続いていることを知るだろう。
一八四七年五月四日のことである。この高台に立って、この光景を見おろしているひとりの旅人がいた。その姿は、まるでこの土地の精霊か魔神がこつぜんと出現したかと思わせるものがあった。年齢も四十歳に近いのか、あるいは六十歳に近いのか、いずれとも判別できなかった。顔はやせて鋭くとがっており、褐色の羊皮紙のような皮膚が、突き出た頬骨のうえにぴんと張っていた。長い茶色の頭髪と顎(あご)ひげにはいちめんに白毛が入りまじり、落ちくぼんだ眼は異様なほどぎらぎら光っていた。銃をつかんでいる手も、まるで骸骨のようにやせ細っており、その銃にすがるようにして立っていたが、背が高く骨組ががっしりしているところから察すると、やせていても強健な体力の持ち主のように思われた。しかしそれでいて、やせ衰えた顔をし、やせ細った身体にだぶだぶの衣服をまとっているという事実は、この男がなぜこのように年老いて衰弱して見えるのかという理由を明瞭に物語っていた。この男は死にかけているのだ……飢えと渇(かわ)きで死にかけているのだ。
彼は、どこかに水らしいものが見えはしないかとむなしい望みを抱いて、苦痛を忍んで峡谷をおり、そこから必死の思いでこの高台へとのぼってきたのである。だが、いま眼下には、塩の大平原がはてしなくひろがり、遠くには荒涼たる山々がつらなるばかりで、水分のありかを示すような、草や木はどこにも見えはしなかった。この広大な風景のどこを見わたしても、希望のひとかけらも見出すことはできなかった。彼は、北を、東を、そして西をと、狂おしい眼つきで懸命に捜しまわった。そして、ついに放浪の旅もここで終り、この不毛の岩の上で死を待つばかりだと、観念せざるをえなかった。「ここでこうして死ぬのも、二十年後に羽根蒲団の上で死ぬのも、何の変わりがあろう?」彼は丸石のかげに腰をおろして、こうつぶやいた。
腰をおろすまえに、彼は、持っていても役に立ちそうもない銃を地面におき、それから灰色の襟巻にくるんで右肩にかけていた大きな荷物をおろした。いまの彼にはその荷物はすこし重すぎたらしく、おろす瞬間、やや乱暴に地面にぶつけてしまった。すると突然、その灰色の包みの中から幼い泣き声が聞こえ、ぱっちりした褐色の眼をした可愛いおびえた顔と、そばかすがあってくぼみのついた二つの小さな拳(こぶし)がにゅっとあらわれた。
「痛いじゃないの!」と、子供の声がたしなめるようにひびいた。
「痛かったかい?」と、男はわびるような口調でいった。「軽くおろすつもりだったんだけど、つい」
彼はそういいながら、灰色の襟巻を解いて、なかから五歳ぐらいの可愛い女の子を出してやった。上品な靴や形のよいピンクの服や亜麻布の小さなエプロンに、母親のやさしい心づかいがあらわれていた。少女は、顔色こそ青ざめていたか、手足には生気がみなぎっており、そのことから推察しても、連れの男よりは難儀(なんぎ)していないようにみえた。
「どんな具合かい?」と男は、少女が乱れた金髪のうえから、まだ後頭部を撫でているのを見て、心配そうにたずねた。
「キスをして、直してちょうだい」と少女は、痛むところを彼のほうに突き出しながら、大まじめな顔をしていった。「母さんはいつもそうしてくれたわ。母さんはどこにいるの?」
「お母さんは、よそに出かけているんだ。きっと、もうじき会えるよ」
「出かけたの?」と少女は反問した。「でも、おかしいわ。だって、行ってきますって、おっしゃらなかったわ。母さんはいつだって、おばちゃんのところへお茶を飲みにいくときだって、ちゃんとそうおっしゃるわ。それなのに、もう三日もお帰りにならないわ。ねえ、とても咽喉(のど)がかわくわね? お水も、食べるものもないの?」
「もう、なにもないんだよ、ルウシイ。いい子だからね、もうすこしだけ我慢しなさい。こんな風に、おじさんに頭をもたせかけるといいよ。そうすればずっと気分がよくなるから。おまえは、唇がかさかさに乾いていて話すのも楽じゃないんだね。でも、おまえには、もう本当のことを話しておいたほうがよさそうだ。おや、何を持っているの?」
「きれいなものよ! とってもすばらしいものよ!」と少女は、いかにもうれしくてならないという様子で、きらきら光る二枚の雲母(うんも)のかけらを差し出した。「おうちに帰ったら、これをボブちゃんにあげるわ」
「もうすぐ、もっといいものを見られるよ」と男は、説ききかせるようにいった。「あとすこしの辛抱だ。ああ、そうだ、おじさんがお話をする番だったね……ルウシイは、河を渡ったところをおぼえているね?」
「ええ」
「あのときはね、すこし行けばまた別の河があるはずだと思っていたんだよ。ところが、磁石に狂いがあったのか、地図に誤りがあったのか、とにかく何かにまちがいがあったらしい。どこまでいっても河は見つからない。とうとう飲み水もなくなった。ルウシイのような子供の飲む分が、ほんの少し残っているだけになってしまった。そして……とうとう……」
「だから、おじさんは、お顔も洗えなくなったのね」幼い同伴者は、男の汚れた顔をじっと見あげて、大まじめな表情で言葉をはさんだ。
「そう、そして飲む水もなくなった。そして、最初にベンダさんが死に、つぎにインディアンのピート、つぎにマグレゴーの奥さん、そしてジョニイ・ホームズ、それから、ルウシイのお母さんも……」
「じゃ、お母さんは死んでしまったの?」少女はそう叫ぶと、エプロンに顔をうずめてはげしく泣きだした。
「そう、みんな死んで、生き残ったのは、ルウシイとおじさんだけなんだよ。そして、おじさんはこっちの方角に来てみたら水があるかもしれないと思って、おまえを肩にかついで、なんとかここまで歩いてきたんだ。でも、もうどんな手だてもなさそうだ。助かる見込みは、ほとんどないらしい!」
「じゃ、わたしたちももうすぐ死ぬの?」と少女はすすり泣きをやめて、涙にぬれた顔をあげてたずねた。
「まあ、そういうことになる」
「どうしてもっと早くそういってくださらなかったの?」と少女は、うれしそうにはしゃぎながらいった。「わたし、とってもびっくりしたわよ。だって、死んだら、またお母さんに会えるんですもの」
「ああ、そうだとも、ルウシイ」
「おじさんも一緒に死ぬのね。わたし、お母さんにいうわ。おじさんがとっても親切にしてくれたって。お母さんはきっと天国の入口のところまでわたしたちをおむかえにきてくださるわ。きっと大きな水差しに水をいっぱい入れて、ボブちゃんとわたしの大好きな、両側焼きのあたたかい蕎麦(そば)ケーキをどっさり持って。でも、死ぬまでにあとどれくらいかかるの?」
「さあ、わからないな……でも、そう長くはかかるまい」
男の眼は北の地平線にじっと注がれていた。青空のかなたに小さな三つの斑点があらわれたかと思うと、それが刻々と大きさを増し、非常な速度でこちらに近づいてきた。見るまにそれは三羽の大きな褐色の鳥の姿に変わり、ふたりの放浪者の頭上を弧を描いて飛ぶと、やがて岩の上にとまって彼らをじっと見おろした。それは「のすり」という西部に棲(す)むはげ鷹で、死の前兆といわれていた。
「あら、鶏(にわとり)ちゃんよ!」少女はこの不吉な鳥を指さして楽しそうに叫び、手をたたいて飛びたたせようとした。「ねえ、この国も神様がお作りになったの?」
「ああ、そうだよ」男は少女の思いがけない質問に、いささかとまどいながら答えた。
「神様がイリノイの国も、ミズーリ河もお作りになったのね」と少女は言葉をつづけた。「でもこの辺はだれかほかの人が作ったんだわ。だって上手に作ってないんですもの。水や木を忘れているわ」
「お祈りをしないのかい?」と男はためらいながらいった。
「だって、まだ夜じゃないわ」と彼女が答えた。
「いいんだ。ほんとうは今ごろするものじゃないけど、神様はきっと、お許しになるよ。みんなで草原を進んでいたころ、まい晩馬車の中でお祈りしていたじゃないか。あれをもう一度してごらん」
「おじさんはなぜ自分でお祈りしないの?」と彼女は不思議そうにたずねた。
「おじさんは忘れてしまったんだ」と彼は答えた。「背丈がこの鉄砲の半分ぐらいしかなかった時から、一度もお祈りというものをしていないんだ。だけど今でも遅すぎるということはあるまい。ルウシイが先にお祈りしてくれたら、おじさんも唱和(コーラス)のところは一緒にやるから」
「では、ひざまずくのよ。わたしもそうするわ」といって、少女はひざの下にうやうやしく襟巻を広げた。「おじさん、両手をこんな風に組むのよ。ほら、なんだかいい気分になるでしょう」
もし三羽のはげ鷹のほかに、これを見ていたものがあるとすれば、何という異様な光景だと思ったであろう。狭い襟巻のうえに、二人の放浪者……それも、片言まじりの幼な子と、恐れを知らぬ不屈の冒険者とが、並んでひざまずいているのである。まるまると肥った少女の顔と、やせて骨ばった男の顔とが、ともに雲ひとつない天を仰ぎ、畏怖(いふ)すべき絶対者に向かって心からの祈りをささげ、ほそくすきとおる声と太いしわがれた声とがひとつになって、慈悲と救いを乞い願っていた。やがてお祈りはおわり、ふたりはまたもとの丸石のかげに腰をおろしたが、そのうちに子供は保護者の大きな胸に寄りかかって寝入ってしまった。男はしばらくその寝顔を見守っていたが、彼自身も襲いくる睡魔(すいま)の力には勝てなかった。彼はこの三日二晩、一睡もせずに過してきたのである。いつしか目蓋(まぶた)が疲れた眼のうえにかぶさり、頭が胸まで垂れてきて、やがて彼のごま塩の顎ひげが少女の金髪と混じりあってしまい、二人とも昏々と夢のない深い眠りに落ちていった。
この放浪者が、もしあと三十分ほど眠らずにいたならば、不思議な光景を眼にすることができたであろう。アルカリ質の大平原のはるかかなたに、一点の砂塵が巻きあがり、はじめはきわめてかすかで遠くの霧と見まちがえるほどであったが、しだいに高く大きくなり、輪郭のくっきりした厚い雲になった。この雲はどんどん大きくなって、ついにそれは、動物の大群の移動によって巻きあがる砂塵にほかならないことが明瞭となった。もしここが肥沃な土地であれば、この光景を見て、草原地帯の草を食(は)む野牛の大群がこちらへ移動しつつあると考えた人がいても不思議ではない。しかし、こんな不毛な荒野では、そんなことがありうるはずもない。砂塵の渦巻が二人の遭難者が眠っている孤立した崖の下に近づくにつれて、砂煙のなかから、馬車の麻布の幌や、武装した馬上の人影があらわれ、この忽然(こつぜん)と幻のように現れたものは、西部へむかう大移動部隊であることが明らかになった。だが、これは何と驚くべき大部隊であろう! 先端はすでに山脈のふもとにさしかかっているというのに、後尾はまだ地平線のかなたにあるのだ。四輪馬車や二輪の荷馬車や、また馬上の人や徒歩の人の隊列が、大平原を横ぎって点々と連なっている。重い荷物を背負って、よろめきつつ歩むおびただしい数の女たちもいれば、また馬車の横をちょこちょこ歩いたり、白い幌のかげから顔をのぞかせている子供たちもいる。これは明らかに普通の移民の群ではなく、何かの事情でやむなく新しい土地を求めて旅にでた放浪の民にちがいない。このおびただしい人の群がひき起こす雑然とした騒音は、車輪のきしみや馬のいななきとまじりあって、澄んだ大気の中にひびきわたった。その騒音は喧(かまびす)しかったが、それでも、崖のうえで眠りつづけている疲れきった二人の旅人の眼を醒ますほどではなかった。
隊列の先頭には、地味な手織りの服を着て、銃を手にしたいかにも厳(いか)めしい顔つきの、二十人あまりの男が馬を進めていた。崖の下までくると、彼らは馬をとめて、簡単な協議をおこなった。
「兄弟たちよ、右へいけば泉がある」口もとの引き締まった、ひげをきれいに剃った白髪まじりの男がいった。
「シェラ・ブランコ山の右だから、リオ・グランデの河へ出る」と他の男がいった。
「水のことは心配いらぬ」と第三の男が叫んだ。「岩のあいだから水を出された神が、神に選ばれた民をお見捨てになるはずがないではないか」
「アーメン! アーメン!」と大部隊の全員がその声に和した。一行が再び行進をはじめようとしたとき、そのなかで最も若い、鋭い眼をした男が、あっと叫んで、頭上の切りたった絶壁を指さした。その頂上には、淡紅色の小さな布ぎれが灰色の岩を背景にして、鮮やかに浮き出るようにはためいていた。それを見て、彼らは一斉に馬をとめて、銃を肩からはずした。また後続の部隊から新手の騎兵が先導隊の応援に駆けつけた。「土人(レッド・スキン)」という言葉が口々にささやかれた。
「インディアンはこの辺にはいないはずだ」と、一行の指揮者らしい長老の男がいった。「ポウニー族の居住地は通り過ぎたし、大山脈を越えるまではほかの部族はいないはずだが」
「確かめてきましょうか、スタンガスンさん?」と隊のひとりがいった。
「私もいきます」「私も」と十人あまりの声がつづいた。
「馬を下においていきなさい。われわれはここで待っておる」と長老が答えた。若い男たちは即座に馬からとびおりて馬をつなぐと、彼らの好奇心をそそる物体を目指して、けわしい断崖をよじのぼりはじめた。彼らは百戦錬磨の斥候(せっこう)の自信と機敏な動作で、すばやく音もたてずによじのぼっていった。下の平地から見上げている者の眼には、彼らが岩から岩へとび移りながらのぼっていき、ついに青空を背景にして頂上に立つのが見えた。最初に布ぎれを見つけて叫び声を発した若者が先頭を切っていた。後につづいたものたちは、とつぜん彼が、何事かに驚いたように、両手をふりあげるのを見た。かけつけてみると、彼らもまたその場の光景を見て、いちように立ちすくんだのである。
岩山の頂上は狭い平地になっており、そこに一個の大きな丸石があったが、そのかげに、背のたかい、ながいひげをはやして骨ばった顔をした、極度にやせほそった男が横たわっていた。おだやかな表情や規則正しい息づかいが、彼がぐっすり眠りこんでいることを物語っていた。その傍らに、幼い女の子が、まるまるとした色白の腕を、彼の褐色の筋ばった頸(くび)に巻きつけ、金髪の頭を彼のビロードの上着にくっつけて眠っていた。少女のばら色の唇はほころび、真白なきれいな歯並みがのぞき、あどけない顔には楽しげな微笑がうかんでいた。白い靴下とぴかぴか光る金具のついたきれいな靴をはいた、丸くて短かい色白の足が、連れの男のしなびた長い脚と風変わりな対照をみせていた。この奇妙な二人連れの眠っている頭上の岩の端に、三羽のはげ鷹が、まじめくさって待機していたが、新たに出現した人間たちを見ると、失望したようにしわがれ声をあげて、不機嫌そうに飛び去っていった。
この不吉な鳥たちのなき声で、眠っていた二人は眼をさました。そしてまじまじとあたりを見まわした。男はよろよろと立ちあがって平原を見おろした。彼が睡魔におそわれたとき、あれほど荒涼としていた無人の平原には、いま、おびただしい数の人馬の群がつづいていた。その光景を見て、彼はわが眼を疑うような表情を浮かべ、骨ばった手で眼をこすって、「これがいわゆる幻覚というやつかな?」とつぶやいた。少女は、彼の上着の裾(すそ)につかまって立ったまま、ものもいわず、子供らしい驚きと好奇心に満ちた眼であたりを見まわした。
救助に駆けつけた者たちは、自分たちがここにいるのはけっして幻覚ではないことを、二人の放浪者にすぐさま信じさせた。彼らのうちの一人は少女を抱きあげて肩のうえにのせ、別の二人は衰弱した男を両側から支えて、馬車隊のほうへ助けおろしはじめた。
「わしの名前はジョン・フェリアだ」と放浪者は説明した。「わしとこの子だけが、二十一人の仲間のなかで生き残ったのだ。他の者はみな、飢えと渇きのために、ずっと南のほうで死んでしまった」
「あの子は、あなたの娘ですか?」と、誰かがたずねた。
「いまじゃ、わが子も同然だ」とフェリアは挑(いど)むような口調で叫んだ。「わしが助けたんだから、わしの子供だ。誰にもあの子をわたすわけにはゆかぬ。あの子は今日からはルウシイ・フェリアだ。ところで、あなたがたはどういう人たちかね?」と彼は逞(たくま)しく日焼けした救助者たちを、好奇の眼差しで見まわしながらたずねた。「それにしても、ずいぶん大勢おられるようだが」
「一万人ちかくいます」と若者のひとりがいった。「われわれは迫害された神の子……天使モロニの選ばれたる民です」
「そういう名の天使は聞いたことがないが」と放浪者がいった。「ずいぶん大勢の人を選んだものですな」
「神聖なものを愚弄(ぐろう)してはなりません」と別の若者がたしなめた。「われわれは、聖人ジョゼフ・スミス〔一八〇五〜四四。アメリカの宗教家でモルモン教の開祖、四四年に殺害された〕がパルマイラの地で授けられたという、黄金の延板(のべいた)にエジプト文字で記された聖なる教えを信仰するものです。われわれはイリノイ州のノーヴーという、われわれの神殿のあったところからきたのです。われわれを追害する野蛮なものたち、神を信じぬものたちから逃れて、たとえ砂漠のまっただ中であろうと、安住の地を求めて旅をしているのです」
ノーヴーという地名を聞いて、ジョン・フェリアは思いあたるところがあったらしい。「わかった。あなたがたはモルモン教徒ですね」
「われわれはモルモン教徒だ」と若者たちが一斉に答えた。
「それで、あなたがたはどこへ行かれるつもりか?」
「わかりません。神の御手がわれらの予言者の存在をとおして、われわれを導きたまうのです。あなたがたも、これからわれらの予言者のまえにいかなくてはならない。あなたがたをどうするかを、そのかたがご指示なさるのです」
彼らはこの時すでに岩山のふもとに降りたち、黒山のような巡礼者の群にとりまかれていた。色あおざめた柔和そうな表情の女たち、元気で快活な子供たち、そして気づかわしげな眼差しで熱心にのぞきこむ男たちの姿があった。放浪者の一人が幼い少女であり、他の一人がやせ衰えた男であると知ったとき、とりまいた多くの人々の間から、驚きと同情の叫び声がどっとわきおこった。だが、二人につき添う男たちは立ち止ることなく、大勢のモルモン教徒を後に伴いながら、どんどん前へ進み、ひときわ目立って大きく、外側に派手な飾りのついた四輪馬車の前まで進んでいった。ほかの馬車は二頭立てか、せいぜい四頭立てなのに、その馬車だけは六頭の馬がつないであった。馭者の傍らには一人の男が坐っていた。年齢は三十歳前後にみえたが、大きな頭部と威厳をそなえた顔つきとが、その男にいかにも指導者らしい風格をあたえていた。彼は茶色の表紙の厚い書物を読んでいたが、大勢の人々が近づくのを見ると、書物をわきにおいて、事情の説明に熱心に耳を傾けた。そのあとで、彼は二人の放浪者のほうへむきなおった。
「おまえたちをわれわれの一行に加えることは」と彼はおごそかにいいはなった。「おまえたちがわれわれの教義の信者となる場合にかぎられる。われわれは、羊の群のなかに狼(おおかみ)をいれるわけにはいかない。もしおまえたちが、初めは一点の腐敗でもやがて果実ぜんたいを腐らしてしまう元兇になるくらいなら、いまこの荒野で白骨をさらすがよかろう。このことをしかと承知のうえで、われわれについてこられるか?」
「どんな条件であっても、とにかく連れていってほしいのです」とジョン・フェリアがあまりに勢いこんで答えたので、長老たちはおもわず笑みをもらした。しかし指導者だけは厳格で重々しい表情を崩そうとはしなかった。
「では、兄弟スタンガスン、この男をわれわれの一行に加えよう」と彼はいった。「この人に食べ物と飲み水をあたえなさい。子供にも同様に。それから、われわれの神聖なる教義をこの人に教えこむのも、あなたの担当にしておこう。さて、思わぬことでだいぶ遅れてしまった。出発だ! いざ、神の都(シオン)ヘ!」
「いざ、神の都(シオン)へ! 神の都(シオン)ヘ!」とモルモン教徒の群は声をそろえて叫んだ。その言葉は、口から口へと小波(さざなみ)のように伝わって、後方の遠い列にまでおよび、やがてはるか遠くの小さなつぶやきの声となって消えていった。鞭(むち)がうなり、車輪がきしむ音とともに、大きな馬車の群が動きだし、ほどなく大部隊の全体がふたたび行軍を開始した。二人の流浪者の世話を託された長老は、彼らを自分の馬車へ連れていった。そこでは、すでに食事の用意ができていた。
「あなたがたはここにいることを許されたのです」と彼はいった。「二、三日すれば疲れも回復するでしょう。よろしいか、あなたがたは、今後は永久にわが信徒であることを忘れてはなりませんぞ。ブリガム・ヤング〔モルモン教の指導者〕さまがそうおっしゃったのですからね。しかも、彼は、神の御声であるところのジョゼフ・スミス聖人の御声をもって、そうおっしゃられたのですよ」
モルモン教徒たちが最終の安住の地にたどりつくまでに耐えしのんだ、試練や苦難のかずかずは、あえてここに書きしるすまでもない。彼らは、ミシシッピー河の畔からロッキー山脈の西側の斜面までの距離を、歴史上ほとんど類をみない不撓不屈(ふとうふくつ)の意志をもって行軍したのである。野蛮人、野獣、飢餓、渇き、疲労、疾病(しっぺい)! …… 自然がそこに設けたあらゆる障害を彼らはアングロサクソン特有のねばり強さで克服した。しかし、道のりの長さとたび重なる恐怖のために、一行のなかの勇敢な人々の心さえ、おびやかされたのであった。それゆえに、眼下に、日の光を浴びてひろがるユタ地方の壮大な渓谷をながめ、指導者の口から、これこそが約束の地であり、この処女地は永遠に彼らのものであるという言葉を聞いたとき、彼らはひとり残らずその場に膝まずいて、心からなる祈りをささげたのであった。
ブリガム・ヤングは、まもなく、果断な首領であるばかりでなく、有能なる行政官であることをみずから実証した。地図がつくられ、区画図ができて、未来の都市の姿が浮き彫りにされた。周辺の農地は、各人の身分に応じて配分され、割り当てられた。商人は各自の商売に、職人はそれぞれの職に配置された。町には街路や広場が、まるで魔術のようにできあがった。農地には、灌漑(かんがい)や生け垣がつくられ、土地が開墾され、作物の植え付けがおこなわれ、翌年の夏には、はやくも一面に小麦の穂で黄金(こがね)いろにおおわれたのであった。この風変わりな開拓地では、すべてのものが順調に栄えていった。とりわけ、彼らが町の中心に建立した大寺院は、日ごとに高く壮大になっていった。いくたの危険に遭遇しても、これを無事に切りぬけるように導きたもうた神のために、彼らが建てたこの記念物からは、早朝の曙光がさしはじめるころから黄昏(たそがれ)の光が消えるころまで、槌(つち)のひびきと鋸(のこぎり)をひく音の絶えることがなかった。
二人の漂泊者、ジョン・フェリアと彼と運命をともにしその養女となった少女とは、大勢のモルモン教徒とともに、長い移住の旅の最終地まで行動をともにした。幼いルウシイ・フェリアはスタンガスン長老の馬車にのせられ、このモルモン教徒の三人の妻とわがままで早熱な十二歳の息子と幌(ほろ)のなかで、楽しく旅をつづけた。彼女は、子供特有の順応牲を発揮して母親を亡くした悲しみからすぐに立ちなおり、たちまち女たちの人気者となり、幌のある動く家での生活に親しんでいった。また、フェリアのほうは、衰弱から回復すると、有能な案内人として、また疲れを知らぬ猟師として、めきめきと頭角をあらわした。たちまちのうちに、彼は新しい仲聞から尊敬をかち得たので、旅の最終の地にたどりついたときには、指導者ヤングと、スタンガスン、キャンベル、ジョンストン、ドレッバーの四人の大長老以外の他の誰とも同等な広さの肥沃な土地があたえられることに、異議を唱えるものはいなかった。
このようにして得た農場に、ジョン・フェリアは自分で頑丈な丸太小屋を建て、毎年それを増築していったので、やがて、広々とした家屋となった。彼はもともと実行力に富んでいたし、交渉事も巧みで、手先も器用であった。しかも、体が鉄のように頑強だったから、早朝から日暮れまで農地の耕作や手入れにはげむことができた。その結果、彼の農場やその他彼の所有するものはすべて、ずばぬけて繁栄していった。彼は、三年後には近隣の人たちより暮しむきが豊かになり、六年後には裕福になり、九年後には金持になり、十二年後には、ソルトレーク・シティで彼に比肩しうる者は六人とはいないというまでに発展した。大きな内陸の海〔グレート・ソルトレークのこと〕から遠くウァーサッチ山岳地帯にかけて、ジョン・フェリアほど評判になったものはいなかった。
そんな彼にも一つ、ただ一つだけ、同じ宗派の人々の感情をそこねる事柄があった。それは、どんなに執拗に勧められても、信者仲間の慣習にしたがって妻をめとろうとしなかった点である。それほどかたくなに拒みつづける理由を、彼はけっして口にしようとはせず、ただ自分の決意を頑固に守りとおすことで満足していた。この点について、ある者は、彼が改宗し入信したモルモン教に対する信仰心がうすいと非難し、またある者は、彼が富を蓄えることに貪欲(どんよく)なあまり、少しでも費用のかかることが惜しいのだととりざたした。さらに、ある者は、彼は若いころ熱烈な恋愛をしたのだろうと臆測し、むかし大西洋岸の地方に恋にやつれて死んだ金髪の乙女がいたそうだ、などと噂するのであった。理由はともあれ、フェリアは独身をつらぬいた。しかし、そのほかの点では、新しい開拓地の宗教の掟(おきて)に従ったので、彼は正統派でまっ正直な男だという評判を得ていた。
ルウシイ・フェリアは丸太小屋ですくすくと成長し、養父の仕事を手助けするようになった。高山の清冽(せいれつ)な空気や松の木々の香ばしい匂いが、この少女をはぐくむ乳母や母親であった。年を重ねるごとに、彼女は、背が高く丈夫になり、頬はいよいよ紅に染まり、足どりもますます軽やかになっていった。彼女の娘らしいのびやかな肢体が、麦畑のなかを駆けていくとき、また父親の半野生の馬にまたがって、生粋(きっすい)の西部の娘らしく、いとも巧みにまた優雅に乗りこなすとき、フェリア農場のそばの道を通りかかった多くの旅人は、ながいあいだ忘れていた想いが、胸のなかによみがえるのをおぼえるのだった。かくして蕾(つぼみ)は花をひらき、彼女の父親がもっとも富裕な農夫になった年には、彼女はロッキー山脈の西側の全域でくらべるものもないほど美しい、アメリカ娘の典型に成長していた。
しかしながら、この少女がすでに一人前の女にまで成熟していることを、最初に気づいたのは、父親ではなかった。世の常として、そういう例はきわめて稀(まれ)である。少女から女への、あの神秘的な変容は、時の流れでは測られないほど、眼に見えないところできわめて徐々におこなわれるからである。とりわけ娘自身は、ある声のひびきや、ある手との接触によって、不意に心のときめきをおぼえたとき、はじめてそのことに気づき、誇りと怖(おそ)れのいりまじった気持で、自分のなかに未知の大いなる自然がめざめたことを知るのだ。女ならばだれしも、その時のことを思いうかべ、新たな人生の到来を告げる前兆ともいうべき、ある小さな出来事をおぼえているはずだ。ルウシイ・フェリアの場合には、それがそののちに彼女と周囲の多くの人々の運命にどれほどの影響を及ぼしたかについてはしばらく触れないとしても、その出来事自体がきわめて重大な事件であった。
六月のある暖かい朝のことであった。モルモン教徒たちは、蜜蜂の巣箱を共通の象徴にしていたが、まさにその蜜蜂のように忙しくたち働いていた。野にも町にも、人々の営みがかもしだす騒音がたちこめていた。埃(ほこり)っぽい街道には、重い荷物を積んだ騾馬(らば)の列が、一路西へむかって、ひきもきらずにつづいていた。これは当時カルフォルニアでまきおこった金鉱発見熱に起困するもので、この「選ばれたる民」の町は、大陸を横断してかの地へ向かう順路にあたっていた。それで、この町には、遠くの放牧地から移動してきた羊や去勢牛の群や、果てしなく長い旅の途上で、人馬ともに疲れきった移住者の群がひしめいていた。この雑踏のなかを、ルウシイ・フェリアが、色白の顔を運動のために紅潮させ、ながい栗色の髪をなびかせながら、巧みな手綱(たづな)さばきで馬をすすめていた。彼女は父親の用事で町にきたのだが、これまで何度となくそうしたように、ただ仕事とそれをどう果すかだけを考え、恐いもの知らずの若さにまかせて、馬を走らせていた。旅のあかにまみれた冒険者たちは、驚きの眼をみはって彼女を見送った。毛皮を着こんで旅をして、めったに心を動かされることのないインディアンでさえも、色白の娘の美貌に眼を見張って、ひごろの禁欲主義を忘れたほどであった。
町の近くまできたところで、彼女は、大平原からやってきた六人のあらっぽい牧童たちにひかれた牛の大群に、道を塞(ふさ)がれているのに気づいた。彼女はじれったくなって、隙間と思われるところヘ、強引に馬をすすめ、この障害を突破しようとした。しかし、馬をそこへ乗り入れたとたんに、たちまち牛の群に前後を塞がれ、気がついた時には、長い角をはやし、恐ろしい眼をした獣たちのまっただ中で身動きもできなくなっていた。そんな状態になっても、彼女は、かねてから牛の扱いには馴れていたので、少しもあわてず、かならず牛の群を突き抜けられるはずだと思って、隙をみては馬を前進させようと試みた。そのとき運悪く一頭の牛の角(つの)が、偶然にか故意にか、馬の横腹にはげしくぶつかり、馬は興奮して狂乱状態になってしまった。あっというまに、馬は、怒りの鼻息も荒く後足でつっ立ち、よほどの熱練した乗り手でなければ振り落されそうな勢いで暴れまわった。危険が目前に迫っていた。激昂した馬は、はねまわり、そのたびにどれかの牛の角に突きあたり、そのために、ますます狂奔するのだった。娘は鞍(くら)にしがみついているのが精いっぱいで、もし落馬したら、そのときは手に負えない恐ろしい獣の蹄(ひづめ)にかかって、むごたらしい最後になることは眼にみえていた。こうした異常な突発事ははじめてであったから、彼女は目まいを起こし、手綱をつかんだ手がゆるんできた。舞いあがる砂ぼこりと暴れまわる動物のはげしい息づかいで、彼女は息がつまりそうになり、力尽きて身を投げだしそうになったとき、助けてやるぞ、という親切な声が間近できこえた。それと同時に、日焼けした逞しい手が怯(おび)えている馬のくつわをつかみ、牛の群をかきわけて、彼女を外までたすけ出したのであった。
「怪我はしなかったろうね、娘さん」と、助けてくれた男が丁重にたずねた。
娘は、男の日に焼けた精悍(せいかん)な顔を見て、無遠慮に笑いを浮かべて、「ほんとにびっくりしたわ」と無邪気に答えた。「ポンチョが牛の行列くらいで、あんなにおびえるなんて、思ってもみなかったわ」
「鞍にしがみついていたから、助かったんだよ」男はまじめな顔をしていった。彼は、背の高い、野性的な顔つきの青年で、頑丈な葦毛(あしげ)の馬にまたがり、粗末な猟師の服を着て、肩からライフル銃を吊していた。
「あんたは、ジョン・フェリアの娘さんだね?」と彼はいった。「あんたが、馬に乗って、フェリアさんの家から出てくるところを見ましたよ。帰ったら、お父さんに、セントルイスのジェファスン・ホープ家の者をご存知かどうかきいてみてください。もしあのフェリアさんだったらぼくの父とはずいぶん親しい仲だったんだ」
「じゃ、あなたがじかに会って、ご自分できいてみてはいかが?」と彼女はいくらかとり澄ましていった。
若者は娘の申し出を喜んだらしく、黒い眼をうれしそうに輝かせた。「そうしよう。ぼくたちは二カ月も山のなかにいたので、とてもよその家を訪問するような風体じゃないが。お父さまには、こんな恰好でも許してもらいましょう」
「父さんはあなたにうんとお礼をいわなければならないわ。それから、わたしも」と娘が答えた。「父さんは、わたしをとても可愛がってくれているわ。だから、わたしが、もしここで牛に踏みつぶされてたら、いつまでも嘆き悲しんだでしょう」
「ぼくだって、同じ思いを味わったでしょうよ」と相手がいった。
「あら、あなたが! でも、あなたにはどうでもいいことじゃないの? だって、あなたとわたしはお友達というわけじゃないんですもの」
若い猟師が、この言葉をきいて、くろい顔をひどく曇(くも)らせたので、ルウシイ・フェリアは声をあげて笑いだした。
「あら、冗談よ。もちろん、あなたとはもうお友達よ。ぜひ、家へいらしてください。では、これで失礼しますわ。お父さんに、これから二度と、仕事をまかせてもらえなくなると困るから。さようなら」
「さようなら」と、若者は鍔広(つばひろ)のソンブレロをとって、彼女の小さな手のうえに身をかがめながら答えた。娘は馬の向きを変えると、一鞭をくれて、ひろい街道に砂塵(さじん)をまきあげながら、あっというまに走り去った。
若いジェファスン・ホープは、むっつりと黙りこんで、仲間とともに馬をすすめていた。彼とその仲間は、ネヴァダ山中へ銀鉱をさがしに出かけて、鉱脈をさがしあてたのだが、いま、その採掘に必要な資金を調達しに、ソルトレーク・シティに帰ってきたところであった。仕事にかけては仲間うちでもとりわけ熱心な彼が、この思いがけない出来事のために、にわかにほかの方向に関心を奪われてしまっていた。シェラの山のそよ風のようにさわやかで健康な、美しい娘の姿に、彼の野性の情熱にみちた心は、根底から揺り動かされたのである。彼女の姿が視界から消え去ったとき、彼は人生の重大な転機が訪れたことを知り、銀山の採掘も、また他のどんな問題も、この魂を魅了する新しい問題にくらべれば、とるに足りないことをさとった。いま彼の心にあこが芽ばえた恋は、少年の気まぐれな、変わりやすい憧れではなく、強固な意志と自尊心をもった一人前の男の狂おしいまでにはげしい情熱であった。彼はこれまで企てた仕事で、何一つ失敗したことがなく、成功するのが当然と思っていた。だから、今度も、人間の努力や忍耐によって可能であれば、何としてもこの恋を成就しなければならぬと、心に誓ったのであった。
その晩、彼はジョン・フェリアの家を訪問した。そして、その後も何度も訪問を重ね、やがて彼は、その農場ではすっかり顔なじみになっていった。ジョンは、谷間に埋もれて、ただ自分の仕事だけに没頭してきたので、この十二年間、外部の世界の出来事についてはほとんど知る機会がなかった。それらのことを教えてくれたのがジェファスン・ホープで、しかも彼の話しぶりは、父親ばかりでなく、娘のルウシイの興味をかきたてずにはおかなかった。彼はカリフォルニア地方の開拓の先駆者であったから、まだ未開でのんびりしていたその当時の開拓地での、成功や没落にまつわるおもしろい逸話をたくさん知っていた。また彼自身も、巡視、狩猟、銀鉱発見、牧場経営の経験をもっていた。およそ興味しんしんたる冒険のあるところならば、ジェファスン・ホープはつねにそれに飛びこんできたのだ。年老いた農場主は、じきに彼がすっかり気に入ってしまい、口をきわめてその美点をほめそやした。そんなとき、ルウシイはいつも黙っていたが、赤らめた頬や晴れやかな幸福そうな眼は、何よりも雄弁に、その純真な心がもはや彼女自身のものでなくなっていることを物語っていた。そうした変化は、実直な父親にはまだ気づかれてはいなかったろうが、彼女の愛情をかち得た男には、それがわからないはずはなかった。
ある夏の夕方、彼は馬をとばしてやってくると、この家の門のところでとまった。彼女はそれを見て、戸口からむかえに走り出た。彼は手綱を垣根にかけ、門から庭へすすんできた。
「ルウシイ、ぼくは出かける」といって、彼は娘の両手をとり、顔をやさしくのぞきこみながら、「いま一緒にきてほしいとはいわない。だけど、今度ぼくが帰ってきたときには、一緒に出発する支度をしておいてほしいんた」
「それはいつごろになるの?」と娘は顔を赤らめ、笑いながらたずねた。
「おそくとも二カ月先だ。そのときにはぼくはきみをもらいにくる。ぼくたちの仲を邪魔するものはない」
「それで、父さんは何といってるの?」と彼女がたずねた。
「鉱山の仕事が順調に運ぶようなら、賛成するといっておられる。仕事のことなら、心配はないよ」
「まあ、そうなの。あなたと父さんのあいだで話がきまっているんだったら、もちろん、もう何もいうことはないわ」と娘は、彼の大きな胸に頬をおしあてながら、ささやいた。
「ありがとう!」と彼はかすれた声でいうと、かがみこんで彼女に接吻した。「さあ、これできまった。これ以上ここに長くいれば、行くのがつらくなるよ。仲間がぼくを渓谷で待っているんた。さようなら、ぼくの愛するルウシイ、さようなら。二カ月たったらまた会えるね」
彼はそういいながら、彼女から身を引き離し、ひらりと馬にとび乗って、振りむいて一目でも恋人の姿を見たら、出発する決心がくじけそうになるのを恐れているかのように、一度もあとを振りかえらずに一目散(いちもくさん)に駆けだしていった。彼女は門のところに立って、彼の姿が見えなくなるまで見送った。それから彼女はユタじゅうでもっとも幸福な娘となって、家のなかへ入っていった。
ジェファスン・ホープとその仲間がソルトレーク・シティを発ってから、三週間が過ぎた。ジョン・フェリアは、若者が帰ってくる日のことを想い、最愛の養女を手離さねばならない時が刻々と近づいてくるのを思うと、おのずから、心の痛むのをおぼえた。それでいて、娘の明るい幸福そうな顔は、どんな言葉にもまして、この縁談を承認しないわけにはいかないと彼の心に告げるのであった。彼はかねてから、心中深く、どんなことがあっても娘をモルモン教徒とは結婚させまいと、固く決心していた。彼の眼からみれば、信徒たちの結婚はおよそ結婚などといえるものでなく、恥辱と汚(けが)れ以外の何ものでもなかった。彼がモルモン教の教義をどう理解していたかは問わないまでも、少くともこの一点に関しては、彼はけっして考えを変えなかった。しかし、その当時この聖徒の国で、異端の説を表明することはきわめて危険であったから、この問題については、彼も固く口を閉ざしていなければならなかった。
そう、危険なことといったが……それは、まさに恐るべき危険であって、宗教上の見解をのべるときには、どんなに信仰心のあつい人でさえも、自分の口から出た言葉が誤解されて、たちどころにその懲罰が加えられることを恐れ、ひたすら声をひそめてささやくのが通例であった。かつては迫害の犠牲だった教徒たちが、自分たちの利益のために一転して迫害者、それももっとも過酷な迫害者になった。セヴィルの宗教裁判、ドイツの暗黒裁判(フェイムグリヒト)、またイタリアの秘密結社でさえも、当時のユタ州全域を暗雲で閉ざしていたこの恐るべき組織にくらべれば、ものの数ではなかった。
眼に視(み)えぬ形で神秘につつまれていることが、この組織をいっそう恐ろしいものに仕立てていた。全知全能の絶対者が存在しているようにみえて、しかも誰もその声を聞いたこともなければ、その姿を見たこともなかった。教会の教えに反対を表明した男は、忽然(こつぜん)として姿を消した。彼がどこへ行ったのか、またどんな運命をたどったのか、誰にもわからなかった。彼の妻と子供は家で帰りを待ったが、いつまでたっても父は帰ってこず、秘密裁判によってどんな裁きをうけたのかは永久に謎につつまれたままであった。軽卒な言動は身を破滅させられるもとであったが、それでも人々は、頭上に覆(おお)いかぶさっているこの恐怖の力の正体を、誰もうかがい知るものはなかった。だから人々はいつも恐れおののくだけで、日ごろ胸にわだかまっている疑問を、たとえ監視するもののない荒野のまん中ででも、あえて口にしようとはしなかったのも不思議ではなかった。
この漠とした恐怖の力は、最初のうちは、いったんモルモン教に入信したのちに、これに背き、あるいはこれを棄教しようとした反抗者たちのうえにのみ加えられた。しかし、まもなくその範囲が拡大されていった。成人した女性の数がしだいに不足してきて、一夫多妻制も、その基礎たる女性が欠乏すれば、空(むな)しい教義となってしまう。そして奇妙な噂がひろがりはじめた。それは、これまでインディアンが出没したことのない地域で、移民が殺され、テントが襲撃されたらしい、という噂である。そして長老たちの後宮には、新しい女たちの姿が見られたが……いずれも泣きぬれた顔になまなましい恐怖の痕跡をとどめた女たちであった。山のなかで野宿した旅人は、武装した覆面の一団が、闇にまぎれて彼らのそばをひそやかな足どりで通り過ぎていくのを見た、と語った。これらの物語や噂は、しだいに内実をそなえたものとなり、何回も繰り返し語られ、確かめられるうちに、ついにははっきりした名称までも確認されるに至った。今日でもまだ、西部の人里離れた牧場へいくと、「ダナイト団」とか、「復讐の天使団」とかいう名は、極悪非道の忌(いま)わしいものの名として知られている。
このような恐るべき結果を生みだした組織の正体がわかってくるにつれて、それは人々の恐怖を減らすどころか、かえってそれを増大させた。誰がこの残虐な団体に属しているかは、何人も知らなかった。宗教の名のもとにおこなわれた血なまぐさい暴行に加担した下手人たちの名前は、かたく秘密に閉ざされていた。それゆえに、予言者やその使命に関する疑念をふと友人にもらしたとすれば、その当の友人がその夜、火と剣とをもって苛酷な報復を加えにくるかもしれないのだ。だから人々は隣人をも恐れ、誰にも自分の心の底を明かそうとはしなかった。
ある晴れた朝、ジョン・フェリアが小麦畑へ出かけようとしていたとき、門の掛金のはずれる音が聞こえた。彼が窓からのぞくと、砂色の髪をした、体格のがっしりした中年の男が、庭の小路をこちらへ歩いてくるのが見えた。それを見て、彼はとびあがらんばかりに驚いた。その男は、まぎれもなく予言者ブリガム・ヤングその人であったからである。恐怖におののきながら……こうした訪問はなにかよくないことの前兆だという予感がしたので……彼は、モルモン教の教主を迎えに玄関へ走り出た。しかし相手は彼の挨拶を冷やかに受けながし、彼のあとから厳しい顔をして居間に入った。
「兄弟フェリア」と教主は座につくと、砂色の睫毛(まつげ)の下から農場主を鋭く見すえながらいった。「これまで、まことの信者たちはおまえの良き友であった。おまえが砂漠で飢えていたとき、われらはおまえを拾って、食物をわけあたえ、無事にこの選ばれたる谷まで連れてきたうえに十分な土地をあたえ、われわれの保護のもとで富を築くことをゆるした。そうであろう?」
「おっしゃるとおりです」とジョン・フェリアは答えた。
「その代償として、われらはおまえに、ただ一つの条件を求めただけであった。すなわち、まことの信仰を抱き、何事においてもわれらの慣行に従うということであった。おまえは、それを約束した。ところが、世人の風説が正しいとすれば、おまえはそれを怠けてきたのだ」
「わたしが何を怠けたといわれるのですか?」とフェリアは両手を突きだして抗弁した。「共同基金を拠出しなかったのですか? 教会へ行かなかったのですか? それとも……」
「おまえの妻女たちはどこにいる?」とヤングは、まわりを見まわしていった。「わしが挨拶したいから、ここへみな呼びなさい」
「わたしが結婚していないのは事実です」とフェリアは答えた。「しかし、まわりに女性が少数しかいなかったうえに、私よりも妻をもらう資格のある人たちは大勢いたのです。それにわたしには娘がいて、いろいろと世話をやいてくれますので、私はさびしいとも思わないのです」
「その娘の件で、わしはおまえに話をしにきたのだ」とモルモン教の指導者がいった。「彼女は成人してユタの花となった。この地の身分の高い人たちの眼にも、うるわしい娘と映っている」
ジョン・フェリアは心のなかでうめいた。
「彼女が異教徒と婚約したという噂が……わしの信じたくない噂が流れている。これはもちろん根も葉もない風説であろうな。聖ジョゼフ・スミスの掟(おきて)の第十三条に何と記されているか?『まことの信仰をもった娘をして、選ばれたる者と婚姻(こんいん)せしめよ。もし異教徒の妻となれば、そは重罪を犯すことなり』こういう次第であるから、聖なる教えに忠誠を誓っているおまえが、娘に大罪を犯させるようなことは、よもやあるまいな」
ジョン・フェリアは言葉もなく、馬の鞭を神経質にいじっていた。
「この一事によって、おまえの全信仰がためされるであろう……四長老の会議でそういう結論になった。娘さんはまだ若いのだから、われらは老人と結婚せよとはいわないし、また相手を選ぶ権利がないともいわない。われら長老たちはすでに多くの牝牛(めうし)〔 H・C・ケンボールはその説教のなかで、 彼の数百人もの妻のことをこういう愛称で呼んでいる〕を持っているが、 われらの息子たちにもあてがってやらねばならない。スタンガスンにも、ドレッバーにもそれぞれ一人ずつ息子がある。どちらも、おまえの娘ならば喜んで家に迎えるであろう。娘さんに、二人のうちのどちらかを選ばせなさい。どちらも若くて富もあり、真の信仰の持主だ。おまえのはっきりした答を聞こう」
フェリアは眉をよせて、しばらく黙りこんでいた。
「いますこしご猶予をいただけませんか」と彼は、やっとの思いで答えた。「娘は、まだほんの子供で……とても結婚するような年齢とは思えないのです」
「選ぶまで、一力月の猶予をあたえよう」とヤングは、席から立ち上がりながらいった。「その期限がきたら、娘は結論を出さなければならない」
ヤングは玄関まできて振りかえり、顔をまっ赤に染め、目をぎらぎら光らせて、どなりつけた。「ジョン・フェリアよ、四長老会議の命に背くほど意志薄弱の徒であるとすれば、あのときシェラ・ブランコの山中で、おまえと娘は白骨をさらしていたほうがよかったのだぞ!」
ヤングは脅(おびやか)すように手を振りあげると、玄関から出ていき、やがて彼の重々しい足音が庭の砂利道を踏んで遠ざかっていくのが、フェリアの耳に聞こえてきた。そのあとしばらく坐りこんだまま、膝に肘(ひじ)をついて、彼はこのことを娘にどう話したらいいものかと思案していた。その時不意に柔らかな手が彼の手に重ねられ、彼が思わず見上げると、ルウシイがそばに立っていた。彼女の青ざめて怯(おび)えた顔を一目見て、彼は彼女がいまの話を聞いていたことを察した。
「聞かずにはおれなかったの」と彼女は、父親の顔つきをみながらいった。「あのかたの声は、家じゅうにひびいたわ。父さん、どうしましょう」
「おまえは心配しなくともよい」と彼は、娘をそばに引きよせて、大きなごつごつした手で彼女の栗色の髪を撫でながらいった。「どうにかして決着をつけねばなるまい。だが、おまえは、あの青年への愛情がいくらか冷めた、などということはあるまいね」
娘は答えるかわりに、ただすすり泣きながら、彼の手を強くにぎりしめただけであった。
「よし、よし。もちろんそんなことはないよね。わしとしても、愛情が冷めたなんていう返事は、聞きたくもない。あいつは、好感のもてる青年で、しかもキリスト教徒だ。お祈りやお説教ばかりしているここの者たちよりは、はるかに立派だ。明日ネヴァダへ向けて出発する一行があるから、それに手紙をことづけて、わしたちが苦境に立っていることを知らせてやろう。おそらく、あいつのことだから、知らせを聞いたら電報よりも速く、飛んで帰ってきてくれるだろうよ」
ルウシイは父親のいいかたをおもしろがって、泣き顔のまま笑った。
「あのひとが帰ってくれれば、きっといちばんいい方法を考えてくれるわ。でも、わたしは父さんのことが心配なの。噂では……予言者に背いたものは、とても恐ろしい目にあうっていうわ」
「でも、今のところはまだ背(そむ)いてはいないし」と父親は答えた。「背いたときの危険にそなえて、予防策を講じるだけの時間はある。期限までまる一力月もあるのだ。その時がきたら、このユタを抜けだすことも考えておかねばなるまい」
「ユタを抜け出す!」
「ああ、そういうことだ」
「でも、この農場は?」
「金にかえられるだけかえて、あとは捨てていくさ。ほんとうのことをいうと、ルウシイ、わしがこういうことを考えたのはこれがはじめてじゃない。ここの連中はあのいまいましい予言者に平身低頭しているが、わしは誰にも頭をさげたくはない。わしは奴隷ではなく、生まれつき独立自尊のアメリカ人だから、そんなことには馴れとらんのだ。いまさら考えを変えろといわれても、わしの年では無理だ。もし奴がわしの農場をうろつきでもしようものなら、猟銃の散弾がまともに命中するかもしれぬと覚悟するがいい」
「でも、ここを出ていくことを、あの人たちが承知しないわ」と娘は異議をとなえた。
「ジェファスンが帰るまで待ちなさい。あいつが帰ってくれば、なんとかなる。それまでは、ルウシイ、余計な心配をして、涙なんか流してはならないよ。さもないと、おまえのそんな様子を見たら、また奴がわしのところへどなりこみにこないともかぎらんからな。とにかく、いまは、何も心配することはないし、何の危険もないのだからね」
ジョン・フェリアはいかにも自信ありげにこんな言葉で娘を慰めたが、それでいて彼女は、父親がその晩いつになく戸締りを厳重にし、寝室の壁から古い錆(さび)だらけの猟銃をとり出して念入りに掃除し、弾丸までこめている姿を、見てしまったのだった。
モルモン教の予言者の訪問をうけた翌朝、ジョン・フェリアはソルトレーク・シティヘ出かけて、ネヴァダ山脈へ旅立つ知人に会い、ジェファスン・ホープヘの手紙を託した。その手紙には、親子の身に恐るべき危険がさし迫っており、若者にぜひ帰ってほしい、と書かれてあった。手紙をことづけてしまうと、心の負担もいくらか軽くなり、ほっとした気分で家に帰ってきた。農場に戻ってきてみると、門柱の両側に馬が一頭ずつつないであったので、彼はひどく驚かされた。家の中に入ると、二人の青年が居間にふんぞりかえっていたので、彼はますます驚いてしまった。一人は面長(おもなが)の青じろい顔をした男で、揺り椅子に上半身を反らせ、両足をぴんと伸ばして、ストーブのうえにかけていた。もう一人の男は、猪首(いくび)で、下品でむくんだ顔をしており、両手をポケットに突っこんで窓のそばに立ち、俗っぽい讃美歌を口笛で吹いていた。
二人はフェリアが入ってきたのを見て、あごをしゃくって会釈し、揺り椅子にかけていた男のほうがまず話の緒口をつくった。
「あなたはたぶんぼくたちをお見知りではないでしょう。こちらはドレッバー長老の息子で、ぼくはジョゼフ・スタンガスンです。あの砂漠で、神がいと尊き手をさし伸べてあなた方をお救いになり、真の教会へお導きになったとき、ぼくはあなた方と一緒に旅をしていたのですよ」
「神は御心のままに、あらゆる国民を選ばれるのです」と、もう一人の青年が鼻にかかった声でいった。「神の挽(ひ)く臼(うす)の回転はゆるやかですが、きめ細かな粉になるのです」
フェリアは冷ややかに頭を下げた。彼は、訪問者が何者であるかをすでに察知していた。
「今日われわれがきたのは」と、スタンガスンが言葉をつづけた。「ふたりのうち、どちらかあなたとお嬢さんに気に入られたほうが、お嬢さんに求婚してくるように、と父親から勧められたからです。ぼくの妻はまだ四人ですが、ドレッバー君のほうは、七人持っていますから、これはどうもぼくのほうが資格がありそうですな」
「いや、いや、兄弟スタンガスン、それはちがう」と、もう一人が叫んだ。「問題は現在幾人の妻を持っているかではなく、妻を何人まで持ちうるかです。ぼくは最近父から製粉所を譲りうけたから、ぼくのほうが金持ですよ」
「しかし将来性では、ぼくのほうが上だ」とスタンガスンが興奮した声でいった。「神がこの世から父を召したもう時がくれば、鞣革(なめしがわ)製造所と製革工場がぼくのものになる。それにぼくのほうが年も上だし、教会での席次も上位だ」
「どちらを選ぶかは、お嬢さんがきめるさ」と、ドレッバーは鏡にうつった自分の姿を見て、いかにも得意そうににやにや笑いながらいった。「彼女の選択に一切をまかせることにしよう」
こうした会話がかわされているあいだ、ジョン・フェリアは怒りにふるえながら入口のそばに立っていたが、二人の背中を鞭(むち)で打ちのめしたい衝動をおさえかねていた。
「いいか」と、彼はついに我慢できずに二人のほうへつかつかと歩みよった。「娘に呼ばれたらきてもいいが、さもなければ、ここへは二度と顔を出すな」
二人のモルモン教の若者はあまりの意外さに唖然として彼を見つめた。彼らにしてみれば、この二人が求婚を競うのは、娘はもとより父親にとっても、何よりの名誉でなければならないはずであった。
「この部屋には二つの出口がある」とフェリアはさけんだ。「一つは戸口で、一つは窓だ。おまえたちは、どっちから出ていくつもりだ?」
彼の日に焼けた顔は猛々(たけだけ)しい形相となり、骨ばった手は怒りにふるえていたので、二人の青年はおもわずとびあがり、あたふたと逃げだした。老いた農場主は二人を戸口のところまで追いかけていった。
「戸口のほうから出ていきます、と返事ぐらいはしたらどうだ」と、彼は皮肉たっぷりにいった。
「きっと思いしらせてやる!」と、スタンガスンが怒りで顔を蒼白にしながら叫んだ。「きさまは予言者と聖なる長老会議を冒涜(ぼうとく)したのだ。一生後悔することになるぞ」
「神の御手(みて)がきさまに天罰を下すぞ!」と、ドレッバーの息子も叫んだ。「神はみずから立って、きさまを懲(こ)らしめてくれよう」
「じゃ、そのまえに、こちらから打ちすえてやる!」と、フェリアは憤然としてどなりかえして、二階へ銃を取りに駆けあがろうとしたが、ルウシイが彼の腕をつかんで懸命にひきとめた。彼がその手を振りほどいたときには、もう馬の蹄の音が聞こえ、追い打ちをかけてもまにあわなくなっていた。
「あの信者ぶった青二才の悪党め!」と、彼は額の汗を拭きながら罵った。「ルウシイ、おまえがあいつらのどちらかの嫁になるくらいなら、おまえが死んでくれたほうが、まだしも救われるよ」
「あたしだってそうよ、父さん」と、娘はきっぱりと答えた。「でも、ジェファスンがきっと近いうちに帰ってきてくれるわ」
「そうだ。あれの帰ってくる日も間近いだろう、一日も早く帰ってきてほしいものだ。奴らが次にどんな行動に出るか予断を許さんからな」
たしかに、一刻も早くこの頑固一徹の老農場主とその養女のところヘ、忠告と助力とを与えることのできる味方が現われねばならない時機であった。この開拓地が始まって以来、いまだかつてこれほど公然と長老たちの権威に反抗した例はなかった。ささいな失敗でさえも、厳罰に処されるのだから、こうした大反逆者には、どんな報復が加えられるのか、想像のかぎりではなかった。フェリアは、彼の資産も地位も、もはや何の役にも立たないことを自覚していた。いままでにも、彼に劣らぬだけの富と名声を持っていた人たちが、神隠しにあって、その財産を教会に没収されてきたのである。彼は勇気のある男であったが、わが身を圧迫するとらえどころのない恐怖の影にはおののかずにはおれなかった。正体のはっきりした危険であれば、彼も毅然(きぜん)としてこれに立ち向かうことができたのであるが、こういうとらえどころのない相手にはおののかないわけにはいかなかった。しかし、彼は自分の恐怖心を娘にさとられないようにつとめ、事態を軽くみているふりを装った。けれども、父親の身を案ずる娘の眼は、彼の内心の不安を鋭く見ぬいていた。
彼は、今回の自分の行動に対して、ヤングから何らかの警告あるいは戒告があるものと予期していたが、はたして予想にたがわず、しかもそれは思いもよらぬ形で示された。翌朝眼をさますと、驚いたことには、彼の掛けぶとんの胸のところに、四角い小さな紙きれがピンでとめてあったのである。そこには、肉太(にくぶと)の乱雑な字体で、こう書かれていた。「改心のため二十九日をあたえる。しかるのちは……」
しかるのちは……で切ってあるのは、どのような脅迫にもまして恐怖をそそる効果があった。召使いたちはみな別棟で寝ており、しかも扉や窓は厳重に戸締りしていたにもかかわらず、どうしてこの警告状が彼の部屋にとどけられたのか、それがジョン・フェリアには不思議でならなかった。彼は紙きれを丸めて捨てさり、娘には何もいわなかったが、この出来事は、彼にとっては、腹の底が冷えるほどの衝撃であった。二十九日というのは、いうまでもなく、ヤングと約束した一カ月の残りの日数であった。こんな人間わざとも思えないような力を備えた敵に対して、力や勇気が何の役に立とう? あのピンをとめていった手は、彼の心臓を突き刺すこともできたはずであり、しかもその場合、彼は誰の仕業(しわざ)とも知らぬまま絶命していたにちがいないのだ。
だが、これよりもさらに彼を震えあがらせる出来事が、その翌朝に起こった。親子が朝食の席に着いたとき、ルウシイが突然あっと叫んで頭上を指さした。天井の中央に、焼けた木屑(きくず)で書かれたと思われる、二十八という文字が乱暴に記されていた。娘には、それが何を意味するのかわからなかったし、彼もあえて教えなかった。その晩、彼は銃を握って徹夜で警戒をつづけた。その間じゅう、彼は怪しい人影や物音を、何ひとつ見なかったし、耳にもしなかった。ところが朝になってみると、彼の部屋のドアに、外側から大きな文字で二十七と書かれていた。
くる日もくる日も同じことが繰り返された。朝になってみると、まるで判で押したように、見えざる敵は記録を残しており、あと幾日の猶予期間がのこっているかを、目立つ場所に書きしるしているのであった。呪うべき数字は、ある時は壁に、ある時は床に書かれており、また時としては庭の門や手すりに小さな貼札が貼りつけられていることもあった。ジョン・フェリアがどんなに油断なく警戒していても、この毎日の警告がどこから侵入してくるのか、まったく見当がつかなかった。警告を見ただけで、彼はほとんど迷信的な恐怖に襲われた。彼はしだいにやせ衰え、たえず苛々(いらいら)していて、眼には追いつめられた獣のような不安の影があった。いまや、彼にとって残された希望は一つしかなかった。それは、ネヴァダから一刻も早く若い猟師が戻ってくることであった。
二十が十五となり、十五が十となっても、待ち人からは何の連絡もなかった。猶予の数字は一つずつ減っていったが、青年からは何の知らせもこなかった。道に馬の蹄が響くたびに、また馭者の掛け声が聞こえるたびに、年老いた農夫は、今度こそは助けが到着したのではあるまいかと、門まで走り出た。だが、五の数字が四になり、さらに三になった時、彼はついに絶望して、脱出の望みをすっかり失ってしまった。開拓地をとりまく周辺の山岳の地理にうとい彼が、単独で脱出することはおよそ不可能な企てであった。すこしでも人の往来のある道路には、どこにも厳重な見張りが出て監視しており、長老会議の許可のない者は誰ひとり通行できなかった。この地にとどまるにしろ、脱出を試みるにしろ、どちらを選んでもふりかかった危難を避けられそうもなかった。それでもなお、娘の恥辱と思えることに同意するくらいなら、みずからの命を断とうという老人のかたい決意がぐらつくようなことは、絶対になかった。
ある晩、彼はひとりで部屋にとじこもって、この難題についてあれこれと思案をめぐらし、何とかこの苦境から抜け出す方途はないものかと、考えあぐねていた。その朝にはすでに二という数字が家の壁に書かれていて、一夜明ければいよいよ許された最後の一日になってしまうのであった。明日になったら、どんな運命が待ちうけているのだろうか? 得体の知れぬ恐怖に満ちた想像が、とめどもなく彼の脳裏に浮かんだ。そして娘は……彼がいなくなったあと、どうなるだろう? 二人の身のまわりに張りめぐらされた眼に見えぬ網(あみ)から、もはや逃れる道はないのか? 彼はテーブルに顔を伏せ、自分の無力さを悔やんで咽(しの)び泣いた。
あれは何の音だろう? 彼は静まりかえったなかに、かすかに何かを引っかくような音を聞いた。かすかな音だが、夜の静寂を破ってはっきり聞こえてくる。玄関の方角だ。フェリアはそっと広間にいって、じっと耳を澄ました。音はいったんとだえてから、すぐにまた低くひそやかにひびいてきた。誰かが扉の羽目板の一つをそっと叩いているらしい。秘密裁判の指令をうけて、深夜の暗殺者が忍んできたのだろうか? あるいはまた、猶予の期限がいよいよあと一日に追ったことを書き記すために、使者が訪れたのだろうか?
ジョン・フェリアはこれ以上神経をさいなみ、心臓を凍らせるような虐待を受けつづけるくらいなら、いっそひと思いに殺されたほうがましだと思った。そして彼は前方に駆けだして、掛金をはずし、さっと扉を開いた。
外はしんと静まりかえっていた。澄みきった夜空には、星々がまたたいていた。垣根や門で仕切られた小さな前庭が眼の前にひろがっていたが、そこらあたりにも、外の道路にも人影はなかった。フェリアは安堵(あんど)のため息をもらすと、左右を見まわし、それからふと足元に目をやると、地面に一人の男が腹ばいになって倒れているのに気づいて、ぎょっとして立ちすくんだ。
驚愕(きょうがく)のあまり、彼は全身の力が抜けてしまい、おもわず壁に寄りかかると、叫びだしたい衝動を、咽喉に手をあててあやうくおさえた。彼は最初は、地面に伏せている男は怪我をしたか、死にかかっているのではないかと思ったのだが、よく見ると、その男は蛇(へび)のようにすばやく音もたてずに地面を這(は)って、玄関に入りこんできた。体が家の中にはいってしまうと、男はすっくと立ち上って扉を閉め、それから顔を老農場主のほうに向けて、彼をまたも驚かせた。それは、ジェファスン・ホープの野性的で勇気にみちた顔だった。
「なんたることだ!」と、ジョン・フェリアは声をつまらせた。「びっくりしたぞ! どうしてそんなおかしな格好で入ってきたんだ?」
「食べものをください」と、ジェファスンはかすれ声でいった。「この四十八時間、飲まず食わずでやってきたんです」彼はテーブルの上にあった主人の夕食のコールド・ミートとパンの残りにとびついて、がつがつとむさぼり食った。
「ルウシイは無事ですか?」と彼は、空腹がおさまるとたずねた。
「無事だ。あの子には危険が追っていることを教えてはおらぬ」
「それは何よりです。この家は四方八方から監視されてますよ。だからぼくはああやって這って忍びこんだんです。奴らも油断のならない敵だが、なあに、このウォッシューの猟師にはかなうものか」
ジョン・フェリアは頼もしい味方を得たのを感じて、今までとはまるで別人のようになった。彼は若者の皮のようにごつごつした手を握りしめ、心の底から喜びを示した。「おまえは立派な男だ。わしらのところへとびこんで、危険や困難をともにしてくれるものなんて、めったにあるもんじゃない」
「そのとおりですよ、お父さん」と、若い猟師は答えた。「ぼくもあなたを立派だと思う。だけど、あなた一人がこんな状況に追いこまれているんだったら、ぼくだってこんな蜂の巣に頭を突っこむのは二の足を踏むところですがね。ルウシイのことを想えばこそ、ぼくはやってきたんです。ルウシイに危害が及ぶそのまえに、ユタのホープ家は、ぼくという男を一人失うことになるんだと思ってください」
「これからどうすればいいかな?」
「明日が最終の日だから、今夜じゅうに事をはこばなきゃ、万事おしまいだ。ぼくは騾馬(らば)一頭と馬を二頭、イーグル谷に待機させてあります。お金ほどのくらい用意しました?」
「金貨で二千ドルと、紙幣で五千ドルだ」
「それだけあれば十分です。ぼくも同じぐらい持ってます。山を越えて、カースン・シティまで逃げきらねばなりません。すぐにルウシイを起こしてください。召使いが同じ棟に寝てないのは好都合です」
フェリアが部屋から出ていって、娘に旅の支度をさせているあいだに、ジェファスン・ホープはありったけの食料を小さな包みに詰めこみ、それから、山地には泉がすくなく、あっても間隔が遠いことを経験から知っていたので、彼は磁器の壷に水を満たした。彼がこれだけの準備を終えるか終えないうちに、農場主は出発の身支度の整った娘を連れてもどってきた。恋人たちの挨拶は愛情のこもったものであったが、短かかった。いまは一刻もおろそかにできず、しなければならないことが山ほどあったからだ。
「すぐに出発だ」とジェファスン・ホープは、低いが凛(りん)とした声でいった。それは、危険の大きさを自覚し、しかもそれに立ち向かう鋼(はがね)のように強固な意志をそなえた男の声であった。「表も裏も入口は見張られているけど、横の窓からそっと出て畑を通っていけば、抜け出せ、街道に出てしまえば、馬の待っている谷までわずか二マイルです。夜明けまでには山の半分を越えられますよ」
「もし途中で妨害されたらどうする?」とフェリアがたずねた。ホープは上着の胸からのぞいている拳銃の台尻をたたいた。「相手が手に負えないほどの人数だったら、二、三人を冥土(めいど)の道連れにしてやりますよ」といって、彼は不敵な笑いを浮かべた。家のなかの灯りはすべて消された。フェリアは暗くなった窓から、かつては自分の財産であり、今夜かぎり永久に見捨てようとしている畑をながめた。しかし、彼はかなり以前にこれを捨てる覚悟をきめていたのであり、娘の純潔と幸福とを考えれば、財産を手放すことに少しの悔いもなかった。いま木々の葉は夜風にそよぎ、広い麦畑は静寂のなかに憩い、すべては平和と安穏とに満たされており、このなかに緊迫した殺意がみなぎっているとは思えなかった。だが若い猟師の蒼白な顔とひき締った表情は、彼がこの家に近寄るときに、どれほど痛切にその危険を察知したかを示していた。
フェリアは金貨と紙幣の入った袋を持ち、ジェファスン・ホープはわずかな食糧と水を持ち、ルウシイは自分の貴重品を少しばかり入れた小さな袋を持った。三人は窓を少しずつ静かにあけ、雲が出てあたりがいっそう暗くなるのを待って、一人ずつこっそりと小さな庭に降りたった。息をころし身をかがめながら、三人は庭の垣根のかげまで這いより、そこから垣根に沿ってとうもろこし畑に出る境界のところまですすんだ。その地点まできた瞬間、青年はいきなり親子をつかんで、陰に引きずりこんだ。三人はそのまま息をひそめ、震えながら待機した。
大草原で鍛練(たんれん)してきたために、ジェファスン・ホープの耳が山猫のように鋭敏だったのが幸いだった。三人が身を伏せるのとほとんど同時に、ほんの二、三ヤード前方で山梟(ふくろう)の陰気な鳴き声がひびき、すこし離れたところでべつの鳴き声がすぐにそれに呼応した。するとその直後に、三人が進もうとしていた道の切れ目に、黒い人影がとび出し、またもの哀しい鳴き声で合図すると、暗闇のなかから第二の男が姿をあらわした。
「明日の真夜中」と上官らしい第一の男がいった。「夜鷹の三度鳴くときに」
「承知しました」と第二の男が応答した。「兄弟ドレッバーに伝えましょうか?」
「彼に伝えろ。彼からまた他の者に伝えるようにいえ。九と七!」
「七と五!」と第二の男が応答すると、二つの人影はべつべつの方向に姿を消した。最後に交した応答は彼らの合言棄にちがいない。二人の足音が遠ざかると同時に、ジェファスン・ホープはさっと立ちあがり、親子を促して生垣の切れ目から走り出て、全速力で畑のなかを疾走した。ルウシイの息がきれると、彼は彼女を抱きかかえるようにして走った。
「早く! 早く!」と、彼は、ときどき喘(あえ)ぎながらせきたてた。「いま、歩哨線を突破するところなんだ。ここを早く走り抜けるかどうかにすべてがかかっている。早く、早く!」
街道へ出てしまうと、彼らの足はいっそう速度を増した。一度だけ人に出会ったが、すばやく畑にもぐりこんで、相手の眼をかすめた。町に出る手前で、若い猟師は山に通ずる狭いでこぼこした小径へとわけ入った。頭上には、闇のなかに黒く切り立った二つの峰がそびえており、そのあいだの狭い谷間が馬の待機しているイーグル峡谷だった。ジェファスン・ホープは、進路を誤ることのない野性の本能をもって、大きな丸石のあいだをぬって進んだり、水の涸(か)れた川床を歩いたりして、岩かげの人目につかぬ場所にたどりついた。そこには忠実な動物が主人を待ちうけていた。娘は騾(ら)馬(ば)に乗り、老フェリアは金貨の袋を持って一方の馬に乗ると、ジェファスン・ホープはもう一頭の馬に騎乗して、危険なけわしい山道を先導した。
自然のあらあらしさの極致ともいうべき山岳の地形に不馴れな者にとって、そこは途方もない難所であった。視界の片側には一千フィート以上もあろうかという大きな岩山が、黒々とした険しい山肌を露わにして威嚇(いかく)するかのようにそそり立ち、その荒涼とした斜面には、太古の怪獣の肋骨(ろっこつ)が石化したかのような尖(とが)った玄武岩が無数に突き出ている。そして他方の側には丸石や崩壊した岩石がごろごろと堆積していて、人馬の通行を阻(はば)んでいる。そのあいだを縫うようにして、一筋の道らしきものが通じているが、それもところどころ道幅がひどく細くて、人馬が一列になってやっと通れるほどであり、そのうえ路面は起伏がはげしくて、乗馬に巧みなものでなければ進むことすら容易ではなかった。だが、これほどの危険や困難に直面しても、脱出者たちは、一歩一歩すすむごとにそれだけあの怖るべき暴虐から遠ざかっていくのだと思えば、心が軽くなるのであった。
しかし、まもなく彼らは、まだモルモンの統制区域から抜け出していないことを思い知ることになった。彼らがひときわ荒涼とした悪路にさしかかったとき、娘があっと叫んで頭上を指さした。三人の進む道を見おろす岩の上に、空を背にして黒々とした輪郭の影をみせて、一人の歩哨(ほしょう)が立っていた。彼らが気づくのと同時に歩哨のほうも気がついて、「誰か?」と軍隊調の誰何(すいか)の声をあげて、峡谷の静寂を破った。
「ネヴァダへいく旅のものだ」とジェファスン・ホープが、鞍につるしたライフル銃に手をかけながら答えた。単身で警戒している歩哨は、その答えに不審を抱いたらしく、銃を構えて下をのぞきこんだ。
「だれの許可を得た?」と彼は問いかけてきた。
「四長老会議の許可だ」とフェリアが答えた。彼はモルモン教徒であった自分の経験から、長老会議の権威をもちだすのが、最も効果があることを知っていた。
「九と七」と歩哨が叫んだ。
「七と五」とジェファスン・ホープが庭で聞いた合言葉を思い出して、即座に応答した。
「通ってよろしい。神のご加護を祈る」と頭上の声が答えた。この地点を過ぎると、道幅がひろくなっていて、馬は速足で進むことができた。ふりかえると、あの歩哨がひとり銃にもたれて佇(たたず)んでいるのが見えた。彼らは、自分たちが選ばれし人々の外哨線を突破して、行手には自由な天地がひろがっているのを感じていた。
夜通し彼らは曲がりくねった細道を通り、岩場のでこぼこ道を踏みこえて進んだ。途中で何回か道に迷ったが、山岳の地理に精通したホープの案内で、その都度正しい道筋に戻ることができた。夜明けとともに、眼前にぞっとするほど美しい眺望がひらけた。どちらを向いても、雪白をいただいた高い山々が峰をつらねてそびえたち、たがいに肩ごしに遠くの地平線をのぞき見ようと、標高を競いあっていた。道の両側には険しい断崖がそそり立ち、その斜面に生えている落棄松(からまつ)や松は彼らの頭上にかぶさらんばかりに傾いており、ほんの一陣の風が吹きよせれば、今にも頭のうえに落ちんばかりであった。この心配は杞憂(きゆう)とばかりはいえなかった。なぜなら、荒涼とした谷あいには、現にそのようにして落下してきた樹木や岩石がいちめんに散在していたからである。彼らが通行しているときにも、巨大な岩がごうごうたる大音響を発して崩れ落ちて、静寂な峡谷を揺るがすように反響し、疲れた馬たちはおびえて不意に走り出したりするのだった。
東の地平から朝日がゆるやかに昇るにつれて、高い山々の頂きは、祭りのランプのようにひとつひとつ点灯し、ついにはすべての山頂が赤々と輝きわたった。この素晴らしい景観は、三人の逃亡者の心に生気をあたえ、あらたな気力を振いおこさせた。谷間から激流がほとばしり出ている地点まできて、彼らはしばらく休息し、馬に水を飲ませ、自分たちもあわただしく朝食をとった。ルウシイと父親はもう少し休んでいきたかったのだが、ジェファスン・ホープは容赦しなかった。
「もう奴らも追跡を始めていますよ」と彼はいった。「すべてはわれわれの逃げる速さにかかっているんです。カースン・シティまで無事に辿りつければ、そのあとは一生でも休めるじゃないですか」
その日一日じゅう、彼らは谷間にそった狭い道を懸命に進みつづけ、夕刻には敵の追跡から三十マイル以上も離れることができたと推定された。夜になってから、彼らは突き出た岩の陰に、冷たい風をいくらか避けられる場所をみつけて、たがいに体を寄せあって暖をとりながら数時間の眠りをむさぼった。しかし夜もあけきらぬうちに起きて、三人はまた行進をつづけた。その間、追跡者らしい者の姿を見かけなかったので、ジェファスン・ホープは、彼らを敵視する恐るべき組織の手からやっと逃れられた、と思いはじめた。その鉄のような支配力がどれほど遠くまで及び、どれほど迅速に彼らを追いつめ、押しつぶしてしまうものであるかを、彼はほとんど考えもしなかったのである。
脱出して二日目の昼ごろに、手持ちの食糧が底をつきはじめた。しかし、こういう事態になっても猟師はあまりあわてなかった。なにしろ、山地には食糧になる獲物がおり、彼はこれまでにもライフル銃一挺に命を託して切りぬけるような経験をいくたびも重ねてきたからである。すでに海抜千フィート近い高地に達していて寒気がひどくきびしかったので、彼は岩かげを見つけて枯れ枝を集め、親子が暖まるように火を焚いた。それから馬を繋(つな)ぐと、ルウシイに別れを告げ、銃を肩に引っかけて、獲物に出くわしそうな場所を捜しに出かけた。しばらくいって振りかえると、老人と娘が焚き火のそばにうずくまり、その後に三頭の馬がじっと立っているのが見えた。それも、やがて岩にさえぎられて、彼の視界から消えた。
谷間から谷間へ二マイルばかり歩いたが、彼は、木の幹の傷やその他の兆候から察して、その付近にはたくさんの熊がいるはずだと思えたのに、何らの収穫も得られなかった。二、三時間むなしく捜しまわって、もうあきらめて引きかえそうと思ったとき、ふと上を見上げると、いまにも胸が躍(おど)りだすような嬉しい光景が眼にとまった。頭上三、四百フィートの断崖の突端に、外見は羊にやや似ているが、巨大な角を生やした一頭の動物が立っていたのである。それはロッキー羊(ビッグ・ホーン)と呼ばれる動物だったが、その背後には、こちらからは見えないが仲間の群がいて、見張りの役をつとめているらしかった。しかも運よくその一頭は向こう側を向いており、下にいる猟師には気づかぬ様子であった。彼は腹ばいになって、岩に銃を固定し、しっかりと狙(ねら)いをさだめて引き金をひいた。動物は宙に舞いあがり、一瞬、崖のふちでよろめいたかとおもうと、すごい勢いで下の谷へ落下してきた。
獲物は重すぎて抱えあげるのも厄介だったので、猟師は、片方の股(もも)と脇腹の一部を切りとっていくだけで我慢することにした。彼はこの勝利のしるしを肩にかつぐと、いつしか夕暮れがせまっていたので、急いでもときた道を戻りはじめた。ところが、歩きだしてみると、すぐに彼は自分が思わぬ困難に直面していることに気づいた。夢中で歩きまわるうちに、いつのまにか彼は見知らぬ谷間に深く踏み入ってしまっており、もと来た道を捜しだすのが難かしくなっていたのだ。彼のいる谷はいくつもの小さな峡谷に枝分かれしており、それがみな同じようなので、どれがどれだか見分けがつかなかった。彼は、なかでもそれらしく思える一つの峡谷をたどって、一マイルばかりすすんだが、けっきょく見たこともない渓流に出てしまった。道をまちがえたと思って、また別の峡谷に入っていったが、それもまた同じ結果に終わった。夕闇が急速に深まってきて、彼が見おぼえのある谷間にやっとたどりついたときには、あたりはかなり暗くなっていた。しかしその地点まできてもなお、空にはまだ月が出ておらず、両側にそびえる高い崖が暗がりをいっそう暗くしていたので、正しい道筋をたどっていくのは容易ではなかった。荷物が重いうえに、からだはへとへとに疲れていたが、一歩一歩ルウシイに近づきつつあるのだという思いと、これで旅が終わるまでの三人の食糧を確保したのだという思いに支えられて、彼はやっと歩みつづけた。
彼は、ようやく親子のいる谷の入口までたどりついた。暗闇のなかでも、そこを隔てる崖の輪郭に見覚えがあった。出かけてからもう五時間近くもたっていたから、彼らはやきもきしながら自分の帰りを待っているだろうな、と彼は思った。嬉しさのあまり、帰ってきたことを知らせてやろうと、手を口にあてて、谷にこだまするように「おーい!」と叫んだ。彼は立ちどまり、耳をすまして返事を待った。だが、応答はなかった。聞こえてくるのは、不気味な静寂につつまれた谷につぎからつぎへとひびきわたって、無数の木霊(こだま)となって返ってくる自分の声だけであった。もう一度、彼はもっと大きな声で叫んでみた。だが、わずかな時間離れていただけの親子からは、ささやき声一つ返ってこなかった。急にいいしれぬ不安に襲われ、彼は動転のあまり大事な食糧もふり捨てて、谷をめざして狂ったように駆け出した。
岩角を曲がると、火を焚いた場所がひと目で見えた。そこにはまだ燃えのこりの炭火が赤々と輝やいていたが、彼が出かけたあとで薪(たきぎ)をつぎ足した様子はなかった。しかも人影はなく、あたりはただ不気味に静まりかえったままだった。不安はいよいよ確かなものになり、彼はさらに足を速めた。燃えのこりの焚火のまわりには、生きものの形跡はなかった。馬も、老人も、娘も、みな跡かたもなく消えうせていた。彼のいない間に、何か突発的な恐ろしい災難に見舞われたことは、もはや疑う余地もなかった。その災難は、あっという間に根こそぎ巻きこんで、痕跡すら残さないというすさまじさだったのだ。
ジェファスン・ホープはこの有様を見て、肝(きも)をつぶし、打ちひしがれて、ふらふらと目まいをおこして倒れそうになる自分を、辛うじて銃によりかかって支えた。しかし、彼は生まれついての行動家だったから、一時的な呆然自失の状態からすぐに立ちなおった。くすぶっている焚木のなかから燃えさしの木をつかむと、それに息を吹きかけて炎を燃え立たせ、炎の明かりをたよりに、その付近を調べはじめた。地面には馬の蹄の跡が無数に刻まれており、これは、大勢の騎馬隊がここで脱走者に追いついたことを示しており、また足跡の方向をたどると、彼らがソルトレーク・シティに引き返していったことが明らかであった。彼の仲間は二人とも連れ去られたのだろうか? ジェファスン・ホープはきっとそうにちがいないと思いかけたが、その時ふと、ある物が眼にとまり、彼は全身が凍りつくような衝撃をうけた。焚火からすこし離れたところに、赤土が丸く盛られており、それはたしかに以前にはそこになかったものだった。どうみても、それは新しくつくられた墓としか思われなかった。若い猟師が歩みよってみると、そこには一本の棒が突きさしてあり、その先端の割れ目に一枚の紙切れが挟(はさ)んであった。紙切れには、短かく次のような碑文が記されていた……
ジョン・フェリア
ソルトレーク・シティの元居住者
一八六〇年八月四日死亡
ああ、それでは、ついさっき別れたばかりの、あの剛毅(ごうき)な老人は、死んでしまったのか! こんな紙切れ一枚が、彼の墓碑銘というのか! ジェファスン・ホープは、もしか、もう一つ墓があるのではないかと、血まなこになって捜しまわったが、それらしいものはなかった。やはり、ルウシイは、あの長老たちの息子の後宮の一人になれという、はじめにきめられた約束を果たさせようとする情容赦(なさけようしゃ)ない追手たちに連れもどされてしまったのだ。青年は彼女の悲惨な運命をまざまざと思いうかべ、それを防ぎ止めえなかった自分の無力さを知ったとき、自分も、この地に眠る老農場主の傍らで、永遠のしずかな眠りにつきたいと願った。
しかし、彼のもって生まれた活動的な精神は、この時もまた、絶望からくる無力感を払いのけた。たとえ生きていても、もはや彼には何事もなすべきことはないが、すくなくとも残りの生涯を復讐にささげることはできるはすだ。ジェファスン・ホープは、いかなる困難にも屈しないねばり強い男であったが、また同時に、おそらくはインディアンたちと一緒に生活して身につけたものであろうが、きわめて執念ぶかい復讐心の持ち主でもあった。彼は、わずかに燃えのこった火のそばに立ったとき、この悲しみを鎮(しず)めることができる方法はただ一つ、みずからの手で敵に完膚(かんぷ)なきまで報復することだけだと感じた。自分の強靱な意志と疲れを知らぬ精力とを、この目的のためにこそ傾倒させようと、彼は固く決心した。きびしい蒼白な顔で、彼は落した獲物をとりにもどると、くすぶっている火を起こして肉をあぶり、数日ぶんの糧食を用意した。それを包んで荷物にすると、彼は、疲れた体に鞭(むち)うって、復讐の天使たちの足跡を追って山道を引きかえしていった。
昨日まで馬に乗って通った谷間の道を、五日間、彼は疲れた体と痛む足を引きずりながら歩きつづけた。夜は岩かげに身を横たえて、ほんの二、三時間睡眠をとったが、夜明け前にはいつも起きて歩きだしていた。
六日目に、彼はあの呪われた逃亡の出発点となったイーグル峡谷にたどりついた。そこからは、一望のもとに聖徒たちの国を見わたすことができた。疲れはてて倒れこみそうな体を、ライフル銃によりかかって支えると、彼は憤怒(ふんぬ)の形相もすさまじく、骨ばった手を、眼下にひろがるしずまりかえった町に向かって振りかざした。ふと見ると、町のいくつかの大きな通りに旗が立ち並び、どうやら祭りが催されるらしい様子が、そこここにうかがえた。これはいったいどういうわけだろうと、彼が考えこんでいたとき、馬の蹄の音が聞こえ、馬に乗ったひとりの男が近づいてきた。近づくにつれて、それがクーパーというモルモン教徒で、以前彼が何度か世話をしてやったことのある男だとわかった。そこで、彼はルウシイ・フェリアがどうなったかを聞きだしてやろうと思って、そばまできた時に声をかけた。
「おれはジェファスン・ホープだ。おぼえているだろうな」
モルモン教徒はあまりの意外さにすっかり驚いた様子で、まじまじと青年を見つめた……まさか、汚ならしいぼろをまとって髪をふり乱し、死人のように蒼白な顔で眼だけぎらぎら光らせているこの男が、かつての溌剌(はつらつ)たる若い猟師ジェファスン・ホープだとは、すぐには気がつかなかったとしても無理ではなかった。 しかし、やはり本人にまちがいないとわかると、クーパーの驚きは一転して狼狽(ろうばい)に変わった。
「こんなところに姿をあらわすなんて、気でも狂ったんじゃないか」と彼は叫んだ。「おまえとしゃべっているところを人に見られただけでも、おれの命が危なくなるんだ。おまえには、フェリア親子の逃亡を助けた科(とが)で、長老会議から逮捕状が出ておるんだから」
「長老会議だの、逮捕状だの、おれはちっとも恐くはない」とホープは力をこめていった。「それより、クーパー、おまえはこんどのことを、いくらか知ってるだろう。どうか、頼むからすこしばかり知っていることを教えてくれ。おれたちはいつだっていい友達だったじゃないか。お願いだ、いやな顔をしないで教えてくれ」
「何を聞きたいんだ?」とモルモン教徒は、不安におびえながら聞きかえした。「さっさと聞いてくれ。岩に耳あり、樹に目ありだからな」
「ルウシイ・フェリアはどうなった?」
「あの娘は、きのうドレッバーさんの息子と結婚したよ。おい、どうしたんだ、しっかりしてくれ、まるで今にも死にそうな顔色じゃないか」
「放っといてくれ」とホープは弱々しい声で答えた。彼は唇までまっ青になり、それまでよりかかっていた岩にくずおれた。
「結婚した、といったな?」
「きのう結婚したんだ……だから、あの公会堂に旗が出ているんだ。どちらが彼女をものにするかということで、ドレッバーさんの息子とスタンガスンさんの息子とのあいだで、ちょっとしたいざこざがあってね。両方とも追跡隊に加わっていたんだが、彼女の父親を射ち殺したのはスタンガスンのほうだったんで、彼のほうが優勢にみえた。ところが会議にかけて討論してみると、ドレッバー一派のほうが強かったものだから、予言者は、そっちのほうに娘をわたすことにした。だけど、どっちの妻になっても、あの娘の命は長くはないよ。昨日もおれは見たんだが、あの娘の顔には死相があらわれていたからな。あれは、もう女というよりは、幽霊だね。おい、どこかへいくのか?」
「ああ、いくとも」といって、ジェファスン・ホープは立ちあがっていた。彼の顔つきは大理石の彫像のように固くこわばり、その眼だけが異様な光を帯びていた。
「どこへいくつもりだ?」
「ほっといてもらおう」と彼は答えた。そして、銃を肩にかけ、大股で谷を降りると、かなたの野獣の棲む山奥へと歩いていった。その野獣の群のなかでも、彼ほど獰猛(どうもう)で危険なものはいなかったであろう。
そのモルモン教徒の予言は、後日あまりにも早く的中した。父親の無惨な最期を目撃したためか、あるいは呪わしい結婚を強いられたためか、哀れにもルウシイは床に伏したまま日ごとに衰弱していき、ひと月もたたぬうちに死んでしまった。彼女の大酒飲みの夫は、ジョン・フェリアの財産目当てで結婚したので、彼女が死んでもたいして悲しまなかった。かえって彼のほかの妻たちが、彼女の死を嘆き、埋葬の前夜には、モルモン教の作法どおりに通夜をしたのだった。女たちが柩(ひつぎ)をかこんで明けがたを迎えようとしていた時のことだった。不意に扉がさっと開き、ぼろをまとい、風雨にさらされた野蛮人のような風態の男がとつぜん部屋に侵入してきたので、女たちは口もきけないほどの恐怖を感じた。男は、震えている女たちには眼もくれず、声もかけず、かつてはルウシイ・フェリアの清純な魂を宿していた物いわぬ白い亡骸(なきがら)のほうへ歩みよっだ。遺体のうえに身をかがめ、男は冷たい額にうやうやしく口づけをし、彼女の手をとると、その指から結婚指輪を抜きとった。「こんな指輪をはめたまま、埋葬されてたまるか!」
彼は吐き捨てるようにそう叫ぶと、女たちが悲鳴を発する間もなく階段をかけおり、姿を消してしまった。あまりにも思いがけない、またあまりにも瞬時の出来事であったために、遺体の指から花嫁のしるしの金の指輪が消えうせているという、まぎれもなく確かな証拠がなかったら、目撃者たちも、自分の眼で見た光景を信ずることもできず、まして他人に話してそれを信じさせることなども無理だったであろう。
それから数力月のあいだ、ジェファスン・ホープは山のなかに踏みとどまって、異常で野蛮な生活をつづけながら、ひたすら胸の奥で激しい復讐心を燃やしていた。町では、郊外に奇怪な化け物じみた人影がうろついていたとか、人気のない谷間にも出没したとかいう噂が流れはじめた。あるときは、スタンガスンの家の窓を破って、一発の弾丸がとびこみ、彼から一フィートと離れぬ壁を射ち抜いた事件が起こった。またあるときには、ドレッバーが崖下を歩いていると、頭上から大きな丸石が落下してきて、彼を押しつぶしそうになったが、とっさに身を伏せて危うく命捨いをしたなどという出来事もあった。
この二人のモルモン教徒の青年は、自分たちの命がおびやかされる理由をすぐに見抜き、何度も山狩りをおこなって、相手を捕えるか殺すかしようとしたが、そのたびに失敗に終わった。そこで彼らは警戒して、今度はけっして独り歩きや夜間の外出をしないことにして、家のまわりにも警備の者を配置した。やがて彼らの敵は姿を見せなくなり、噂も途絶えたので、時がたつにつれて相手の復讐心も薄らいだのだろうと楽観して、警戒をゆるめたのであった。
ところが、実際には、復讐心は薄らぐどころか、時とともに募(つの)るばかりだった。この猟師は強靭にして不屈な精神力の持ち主であり、しかも、その精神は、ほかの感情が入りこむ余地もないほど、ただ復讐の執念だけにとり憑(つ)かれていたのである。それでいて、彼は何よりもまず実際的な行動家であった。彼はまもなく、こう間断なく体を酷使していては、いかに鋼鉄のように頑健な体力でも耐えられるものではないと悟った。露天で寝起きし、まともな食べものもとらないために、彼の体力はひどく弱っていた。このまま山のなかで犬のように野垂れ死にするようなことになれば、肝心の復讐はどうなるのだ? しかもこんな生活を続けていれば、いつかは野垂れ死にするにきまっている。そうなればみすみす敵の策略にはまるだけだと、彼は気づいた。そこで、ひとまず体力の回復をはかり、また窮乏に苦しまずに所期の目的を貫徹できるだけの資金を貯(たくわ)えるために、不本意ではあったが古巣のネヴァダの鉱山に戻っていったのである。
せいぜい一年ぐらいで帰ってくるつもりだったが、思いがけない事情が重なって、五年近くもその鉱山を離れることができなかった。しかし、五年の年月を経ても、非道を恨み復讐を誓う心情の激しさは、ジョン・フェリアの墓の前に立ったあの忘れようもない晩と何ら変わりはなかった。彼は、正義の名に背かぬと信ずることをなしとげるためなら、自分の命などどうなってもかまわぬという気持で、姿を変え名も変えて、ソルトレーク・シティに帰ってきた。そこでは、彼には予期せぬ不都合な異変がもちあがっていた。つい数力月前に、「選ばれたる民」のあいだに対立が生じ、数名の若い信徒が長老たちの権威に反逆し、その結果、一部の不平分子が教会から離反して、ユタを去り異教徒に転じたのである。その離反者のなかにドレッバーとスタンガスンがまじっていたが、誰ひとり、二人の行先を知っている者はいなかった。噂によると、ドレッバーは財産の大部分を金に換え、富裕な身のうえとなって立ち去ったが、同行したスタンガスンのほうはさほどの金を持っていないとのことであった。しかし、二人の居場所については、何ひとつ手掛りはなかった。
どんなに執念ぶかい男でも、これほどの困難にぶつかれば、復讐など断念するのが普通であろうが、ジェファスン・ホープは一歩も引きさがりはしなかった。わずかばかりの所持金と、行く先々で手あたりしだいに職について稼いだ金とで、かろうじて生計を立てながら、彼はアメリカ中を町から町ヘ、敵をさがし求めて歩きまわった。幾星霜(いくせいそう)を重ねて、黒かった髪にも白毛が混じるようになったが、それでもなお、彼は生涯を賭けて達成すべきただ一つの目的だけを心に刻みつけ、さながら警察犬のように、執拗に敵を求めてさまよいつづけた。そしてついに、彼の積年の労苦が報われる時がきた。オハイオ州のクリーブランド市で、通りがかりに窓からちらと顔を見ただけであったが、その顔こそ忘れもしない彼の宿敵だったのだ。
彼はすぐに安宿に引きかえして、周到な復讐の計略を練った。ところが、ドレッバーのほうも、たまたま窓の外を見ていて、通りがかりの浮浪者に気づき、その眼のなかに殺意がひらめいているのを読みとった。ドレッバーは、彼の秘書になっているスタンガスンとともに、ただちに治安判事のもとに出頭し、古い恋仇(こいがたき)が嫉妬と憎悪から自分たちの生命を脅(おびや)かしていると訴えた。その夜、ジェファスン・ホープは拘引され、保証人がいないために、数週間も拘置されることになった。釈放された時には、もはやドレッバーの家は空っぽで、彼は秘書とともにヨーロッパに発ったあとであった。
またしても復讐は失敗したが、ジェファスンは、今度も、あくなき憎悪の炎を燃やし、追跡をあきらめはしなかった。しかし、資金はすでに底をついていたから、しばらくのあいだ、彼は仕事について、旅行の費用を捻出(ねんしゅつ)しなければならなかった。やがて、どうにか食べていけるだけの資金ができると、彼はヨーロッパにわたり、いやしい仕事でもいとわずに働きながら、仇敵のあとを追って、都市から都市へと移りあるいたが、逃げまわる相手にはなかなか追いつけなかった。彼がペテルブルグに到着したときには、敵はパリに向けて発ったあとであり、パリまで追っていくと、彼らはコペンハーゲンへ逃げていた。そして彼がデンマークの首都に着いたときには、つい数日前にロンドンへ逃亡していた。そして、やっとロンドンで彼はついに相手を追い詰めることができたのである。そのロンドンで何が起こったかについては、われわれがすでに多大の恩恵をこうむっているところのワトスン医師の回想録に、この年老いた猟師の告白があますところなく記録されているから、それを引用するのが最上の方法であろう。
われわれが捕えた男は猛烈に抵抗はしたが、性格的には、人に乱暴を働くような男ではなかったようだ。その証拠に、彼は抵抗しても無駄だと観念すると、愛想のいい笑顔をうかべて、格闘で誰も怪我をしなかったですかとたずねたのである。
「わたしを警察に連行するんでしょう?」と彼はホームズに向かって話しかけた。「表にわたしの馬車がある。足の縄をゆるめてもらえれば、自分で歩いていきますよ。いまじゃ、昔と違って軽くないから、わたしを担(かつ)ぎあげるだけでも楽じゃないですよ」
グレグスンとレストレードは、この申し出をずうずうしいとでも思ったらしく、たがいに顔を見合わせていたが、ホームズは逮捕された男の言葉をそのまま信用して、すぐさま足首を縛っていたタオルをほどいてやった。男は立ちあがって、自分の足がもとどおりに動かせるかどうかを確かめるかのように、両足をひろげた。私は、そのとき彼をまじまじと見て、その印象を今でもおぼえているが、これほどの頑健な体つきの男はめったにないと思ったものであった。その日に焼けた浅黒い顔には、その体力のたくましさに匹敵するだけの、恐ろしいほどの決意と精力にみちあふれた表情があった。
「警察署長のポストに空きがあったら、あんたこそ、うってつけの人だ」と彼は、私の同宿人をまじまじと見つめて、いかにも感嘆したという様子でいった。 「わたしを追いつめた手ぎわは、まったく鮮やかなもんでしたよ」
「きみたちも同乗しませんか」とホームズは二人の警部にいった。
「ぼくが馭者をやります」とレストレードがいった。
「それはありがたい。グレグスン君はぼくの横に乗ってください。それから、ワトスン君、きみははじめからこの事件に関心をもっていたんだから、一緒についてくるといい」
私はよろこんで応じ、そろって階段を降りていった。私たちが捕えた男は逃げ出したりせずに、おとなしく自分の馬車に乗りこみ、私たちもあとにつづいた。レストレードは馭者台に乗って、馬に一鞭をくれ、私たちをたちまちのうちに目的地まで運んだ。私たちは小さな部屋に通され、そこにいた一人の警部が容疑者の氏名と殺された被害者の氏名とを書類に書きとめた。刑事は色白の無表情な男で、いかにもものうげな調子で型どおりに事を運んだ。
「判事の取調べが今週中にあるわけだが」と彼はいった。「そのまえに、ジェファスン・ホープ、何かいっておぎたいことがあるか? 断わっておくが、おまえのいうことはぜんぶ記録にとるから、後日おまえに不利な証拠になるかもしれんぞ」
「いいたいことなら、山ほどあります」とわれわれの捕虜は悠然たる口調でいった。「ここにおられる皆さんに、ぜひ聞いてもらいたいのです」
「それは裁判のときにいえばいいじゃないか」と警部がいった。
「わたしが裁判をうけることはありますまい」と彼は答えた。「いや、そんなにびっくりせんでください。わしは自殺などする気はないのですから。あんたは医者ですか?」
彼はそう訊きながら、黒い眼で喰いいるように私を見つめた。
「そう、ぼくは医者だが」と私は答えた。
「じゃ、ここに手を当ててみてください」と彼は、微笑をうかべながら、手錠のかかった手で、自分の胸もとを指さした。私はいわれるままに、彼の胸に手を当ててみて、その心臓の鼓動が異常に高く、ひどく乱脈なことにすぐ気がついた。あたかも壊れそうな建物の内部で強力なエンジンが唸(うな)りをあげて作動しているかのように、彼の胸の壁はがたがたと震動していた。部屋のなかがしんと静まりかえっていたから、私は、彼の胸部から発する鈍い不整脈の鼓動を、じかに聞きとることができたほどであった。
「いかん! 大動脈瘤(だいどうみゃくりゅう)じゃないか!」と私はおもわず大声を出した。
「どうもそういう病名らしいですな」と彼は落ちつきはらって答えた。「先週、医者に診てもらったら、近いうちに心臓が破裂すると宣告されましたよ。この数年、悪化する一方でした。あのソルトレークの山のなかで、野宿しながらろくに食物をとらなかったのがこたえたんですな。もう目的は果たしたんだから、いつ死んでもかまわないが、しかし、事件のいきさつだけは話しておきたいんです。ありきたりの人殺しだったなんていわれたくないですからね」
警部と二人の探偵は、彼に身の上話をさせることが適当かどうかを、急いで協議した。
「ワトスン先生、この男の容態は、すぐにも悪化するとお考えですか?」と警部が訊いた。
「確実にそうなる」と私は答えた。
「それならば、公正な裁判をおこなうためにも、ここで彼の供述をとっておくのが、われわれの義務ですな」と警部がいった。
「では、ジェファスン、話をしてもよろしい。ただし、もう一度いっておくが、おまえの話は全部記録されるからそのつもりで」
「それじゃ、坐らせてもらいます」と囚人はそういって腰をおろした。「なにしろ、動脈瘤(どうみゃくりゅう)で体が疲れやすくなってるところヘ、さっきの格闘ですから、よけい具合が悪くなっちまった。わたしは、もう墓場に片足つっこんでおるようなもんですから、いまさら嘘などいう気はありません。ひと言ひと言が、全部真実です。それをあなたがたがどう扱おうと、わたしにはもう関係のないことです」
こういって、ジュファスン・ホープは椅子に深々と身を沈め、次のような驚くべき供述をはじめた。彼は、まるで日常茶飯のお喋りをしているかのような、平静で順序立った話ぶりであった。以下は、ジェファスンの言葉をそのまま筆記したレストレードの記録簿を参照したものであるから、その内容の正確さは保証できるものである。
「わたしがなぜあの二人を憎んだかは、あなたがたにはあまり興味ある問題ではないでしょうが」と彼はいった。「要するに、彼らは二人の人間……父と娘……を殺害した張本人で、その罪の報いで自分たちが生命を落した、ということです。彼らが罪を犯してから、すでにずいぶん年数がたっておるので、どこの法廷に持ちだしても、法律によって彼らの罪を裁くことは不可能なのです。しかし、わたしが彼らの罪状を知っている以上は、裁判官と陪審員と死刑執行人の三役を自(みずか)ら一身に引受けなければならないと、決心したわけです。あなたがたも、男らしい誇りをもった人間なら、そしてわたしの立場になられたとしたら、わたしと同じことをされたにちがいない。
殺された娘というのは、二十年まえ、わたしと結婚の約束を交した娘でした。それを無理やりあのドレッバーと結婚させられて、彼女は心痛のあまり死んだのです。わたしは、彼女の遺体から結婚指輪を抜きとって、ドレッバーが死ぬ間際に、その指輪を突きつけて、どんな罪悪を犯したがゆえに死をもって償(つぐな)わねばならないかを思い知らせてやろうとひそかに誓いました。わたしはその指輪を肌身はなさず持って、ドレッバーとその相棒のあとを追って二つの大陸を探しまわり、そしてとうとう奴らをつかまえたのです。あいつらは、逃げまわればわたしが疲れてあきらめるだろうと計算したのですが、そんな作戦が通用するはずはありません。わたしは明日にも死ぬかもしれませんが、この世にあるうちに自分の目的は果たした。しかも立派に果たした、そう思って死んでいけます。あいつらは破滅した、しかもわたしの手で破滅させた。これ以上の望みや願いがどこにありましょう。
あいつらは金持で、わたしは貧乏でしたから、あいつらを追いかけるのは容易じゃなかった。このロンドンに着いた時にゃ、わたしの財布は空っぽで、生きるためにさっそく何か仕事につかねばなりませんでした。馬車を動かしたり馬に乗ったりする仕事は、歩くことと同じくらいに慣れておったから、わたしが馬車屋へいって頼むと、すぐに雇ってもらえました。毎週定まった金を親方に払えば、残りの稼ぎは自分のものになります。大した収入にはならんが、それでもどうにか暮していけました。この仕事でいちばん困ったのは道をおぼえることでした。まったく、世界中でこの都市ほど、道がややこしく入りくんでいるところはないですね。いつも地図と首っぴきでしたが、それでも、おもなホテルと駅のある場所をおぼえてしまうと、あとはずいぶん楽になりました。
目指す二人組の居場所を捜し出すのは、かなり骨が折れましたよ。あちこちたずねまわったあげくに、やっと二人に出くわしました。河向こうのキャンバウェル区に、あいつらは宿をとっていました。場所さえ突きとめれば、もうこっちのものです。わたしは顎(あご)ひげを生やしていたから、あいつらに感づかれるおそれはありません。あいつらから眼を離さず、しつこく尾行して、好機の到来を待つことにしました。今度こそぜったいに逃がすものかと決心しました。
ところが、今度もあいつらに危うく逃げられそうになったのです。わたしは、あいつらがロンドンじゅうのどこへゆこうと、かならずあとをつけまわしました。ある時は馬車で、ある時は歩いて尾行しましたが、逃げられる心配がないという点では、馬車のほうが便利でした。そんなわけですから、稼ぐ時間は朝早くか夜おそくかのどちらかにかぎられてしまい、親方に納める金もとどこおってきました。でも、わたしは目ざす仇敵さえ逃さぬようにすればいいのですから、そんなことは気にもとめませんでした。
それにしても、あいつらはなかなかずる賢いやつらですよ。ひょっとすると後をつけられているかもしれんと思ったらしく、けっしてひとりでは外出せず、また夜間に出歩くこともしませんでした。二週間ぶっつづけで、あいつらをつけまわったのですが、そのあいだにただの一度も二人が別々に行動したことはありませんでした。ドレッバーのやつはいつも酔っぱらってましたが、スタンガスンのほうはなかなか隙をみせませんでした。しょっちゅう二人を見張っていたのですが、機会らしいものの影さえもつかめませんでした。でも、念願の成就する時が目前に迫っているという予感がしていましたから、べつに気落ちはしませんでした。ただ一つの気がかりは、この胸のなかのものが、目的を果たさないうちに破裂してしまいやしないか、ということでした。
とうとう、ある晩、あの二人が宿をとっているトーキー・テラスの町を、わたしが馬車で行ったり来たりしていると、一台の辻馬車があいつらの宿の戸口に止まるのが見えました。時をおかずに、なかから荷物が運び出されて、馬車に積みこまれ、しばらくしてドレッバーとスタンガスンが乗りこむと、どこかへ走り出しました。わたしは馬に鞭をくれて、見失わんようにあとをつけましたが、あいつらがまた宿でも変えるんじゃないかと思って、内心気が気じゃありませんでした。あいつらはユーストン駅で馬車をおりましたので、わたしも、その辺の子供に馬をあずけ、プラットホームまで二人のあとを追いました。あいつらは、リヴァプール行きの列車はないかとたずね、車掌が、たったいま一本出たばかりだから次の列車まで数時間待たねばならんと答えているのが耳に入りました。スタンガスンはそれを聞いてがっかりした様子でしたが、ドレッバーのほうはむしろ喜んでいるふうでした。わたしは混雑にまぎれてあいつらのすぐそばまで近よっていたので、二人の話はすっかり聞きとれました。ドレッバーは、自分だけのちょっとした用事がある、ここで待っていてくれ、じきに帰ってくる、といいました。すると相棒は、それをたしなめて、二人は片時も離れぬという約束をしたじゃないかと抗議しました。ドレッバーは、これは内密の用件だから、おれ一人で行ってくると言いはりました。スタンガスンの返事のほうは聞きとれませんでしたが、そのあとドレッバーが突然怒りだして、おまえはおれに雇われている使用人のくせに、主人に指図するなんて生意気だ、とどなりました。秘書はこれを聞いて、もはや手に負えないと観念したらしく、最終列車までに帰ってこれなかったら、ハリディズの常宿で落ち合おうとだけ約束しました。ドレッバーは、なあに十一時までにはかならずここに戻ってくるから、といい残して、さっさと駅から出ていきました。
待ちに待った好機がついに到来したのです。敵は手中に陥(おちい)ったも同然です。相手が二人がかりなら共同して抵抗されましょうが、一人ずつならこっちの思いのままです。けれども、わたしは、あえて事を慎重に運ぶことにしました。前々から手はずはきめてありました。あの悪党たちに、自分が誰から制裁を加えられるのか、なぜ天罰がふりかかってくるのか、それを存分に思い知らせてからでなければ、復讐のしがいがないわけです。それで、わたしはわたしを苦しめた男に、ついに旧悪の報いを受ける時がきたことをわからせるための準備をととのえておいたのです。何日かまえに、ブリクストン通りに何軒かの空家を見にいった紳士が、たまたま、わたしの馬車のなかにその中の一軒の鍵を置き忘れていきました。その晩すぐに取りにきたので、鍵は返しましたが、そのあいだにわたしは型をとって、合鍵を作らせました。これで、誰からも邪魔されずに安心して事を決行できる場所を、この大都会のなかで、とにかく一箇所だけは確保することができたのです。どんな方法でドレッバーをその家まで連れこむかが、わたしにとっては難問でした。
ドレッバーは歩いていくうちに、一、二軒の酒場に立ちよって、最後の店では三十分ちかくも飲んでいました。出てきたときには、よろよろとした足どりで、かなり酔っぱらっていました。あいつは、わたしのすぐ前にいた辻馬車を呼びとめて乗りこみました。わたしはその後にぴったりついて追いかけたんですが、なにしろわたしの馬の鼻づらが、道中、あいつの乗った馬車の馭者から一ヤードと離れぬところを追走していたほどです。ウォータールウ橋を通過して、そこから何マイルも走りつづけるので、どこへいく気だろうと思っていると、なんと驚いたことに、あいつが今日まで宿をとっていたトーキー・テラスに戻ってきてしまいました。何のためにここへ戻ってきたのか、見当もつきませんでした。ともかく、わたしは馬車を進めて、その家から百ヤードほど離れたところで馬を止めたのです。あいつは家のなかにはいり、馬車は行ってしまいました。……水を一杯いただけませんか。話してるうちに唇が乾いちまったので」
私がグラスを渡すと、彼はそれを飲みほした。
「ああ、これで気分がよくなった」と彼はいった。「それから、わたしはそこで十五分ばかり待っておりました。するととつぜん、家の中から取っ組みあいでもしているらしい物音が聞こえてきました。つぎの瞬間、玄関の戸がさっと開いて、二人の男がとびだしました。一人はドレッバーで、もう一人のほうは見たこともない若い男でした。その男はドレッバーの襟首をつかみ、表の石段の端までくると、どんと突きとばしておいて、蹴(け)りをくれましたから、ドレッバーは道路のまん中までころがっていきました。
『この恥知らずめ!』と若い男は棍棒(こんぼう)を振りあげながら叫びました。『純情な娘を侮辱したら、ただではおかんぞ!』
若い男はものすごい権幕でしたので、ドレッバーが急いでよろめきながら逃げださなかったら、彼は本気で棍棒で打ちのめしていたでしょう。あいつは道の角まで逃げてくると、わたしの馬車を見つけて呼びかけ、あわてて飛びのって、『ハリディズの常宿までいってくれ』といったのです。
あいつがわたしの馬車とも知らず飛びこんできたときには、しめたと思って胸が小躍(こおど)りせんばかりでした。うれしさのあまり、事ここに到って動脈瘤が破裂しはしないかと心配したほどでした。ゆっくり馬車を走らせながら、どうすればいちばん得策かと、あれこれ思案をめぐらせました。このまま郊外へ連れだして、どこか人気のない道まできたところで、あいつと最後の対決をするのも悪くはないな。そういう風にしようとほとんど決めかけたときに、あいつのほうから助け舟を出してくれました。あいつは、またしても酒が欲しくなって、一軒の酒場のまえで馬車を止めろと命じたのです。あいつは、わたしに待ってろといいのこして、店に入っていきました。けっきょくあいつは閉店までそこで飲みつづけ、出てきたときにはへべれけに酔ってましたので、いよいよこっちの意のままになるぞと思いました。
わたしが初めから残酷な殺しかたをするつもりだったとは、思わんで下さい。かりに情容赦ない殺しかたをしたとしても、それはそれで批難される余地のない厳正な裁きにすぎないといえますが、そんなことをする気にはなれませんでした。むしろ、かなり以前からわたしは、敵がそれを望むなら、助かるチャンスを与えてやろうと心に決めておりました。わたしは、アメリカを放浪していた時に、ずいぶんいろんな仕事をやりましたか、なかでも一度、ヨーク大学の実験室の小使い兼掃除夫をしていたことがあります。ある日そこの教授が、毒物に関する講義をしていて、学生たちにアルカロイドというものを見せ、これは南アフリカの土人の毒矢から採取したもので、ごく微量でも人を即死させるほどの猛毒である、といっておりました。わたしはその毒薬の入っている瓶に目星をつけておいて、誰もいなくなってから、それを少量抜きとりました。わたしは薬物の調合にかけてはかなり得意でしたから、このアルカロイドを混ぜて、水溶性の丸薬を数個つくり、べつにそれとよく似た毒性のない丸薬をつくって、それらをひとつずつ箱に入れて持ち歩きました。その当時から、わたしは、いよいよの時が到来したら、この箱から相手に一粒を取らせ、残ったほうを自分が飲むつもりでおりました。この方法は拳銃をハンカチで包んで射つのと同じくらい残酷で、しかもはるかに音がしません。その日以来、この丸薬の箱を肌身はなさず持ち歩いていたのですが、とうとうこれを使うべき時が到来したのです。
時刻は十二時を過ぎて、一時に近くなっており、風が吹きすさび、雨がはげしく降りしきる、ひどく陰気な晩でした。外の風景は気色のわるいものでしたが、わたしの胸のなかは晴れやかでした……あまりの嬉しさに、おもわず大声で叫び出したい気持だったのです。あなたがたのうちのどなたかが、いつ果たせるかもしれぬ一つの宿望を、二十年ものあいだひたすら求めつづけてきて、とつぜんそれをものにする機会を手中にされたという経験をなさったとしたら、その時のわたしの気持がどんなものだったか、おわかりいただけるでしょう。わたしは興奮を抑えようと思って、葉巻に火をつけてくゆらしてみましたが、手の震えはとまらず、こめかみが激しく動悸(どうき)を打っていました。馬車を走らせているときも、あのジョン・フェリアと可愛いルウシイの顔が、暗闇のなかからこちらを見つめて、にっこり笑っておりました。それは、この部屋で皆さんの顔を間近かに見ているように、はっきりと見えたのです。あの二人はたえず馬の左右にいて、まるで先導するかのように、ブリクストン通りの空家まで連れていってくれたのです。
あたりには、人影もなく、物音ひとつ聞こえず、ただ雨の音だけが静けさを破っておりました。窓からのぞくと、ドレッバーはだらしなく酔いつぶれ、座席に体をまるめて眠りこけています。わたしはあいつの腕をゆすぶってやりました。
『さあ、着きましたよ』
『ああ、そうかい』
あいつは、おそらく自分の命じた例の宿に着いたものと思ったんでしょうな。黙って馬車をおりると、わたしのあとから庭を歩いてきました。あいつはまだ足元がよろよろしていたので、横からしっかりと支えながら歩いてやらなければなりませんでした。玄関までくると、わたしは扉をあけて、あいつを正面の部屋に連れこみました。みなさんはまさかとお思いでしょうが、あの父親と娘は、そのあいだずっと、わたしたちの前を歩いていたんです。
『ばかに暗いな』とあいつは、足を踏み鳴らしながらいいました。
『じきに明るくなりますよ』と答えて、わたしはマッチをすって、持ってきたローソクに火をつけました。
『おい、イノック・ドレッバー!』わたしはそう叫んで、あいつのほうに向きなおり、わたしの顔に灯りを近づけました。
『おれが誰だかわかるか?』
あいつは、しばらく、酔ってもうろうとした眼つきでわたしを見つめていましたが、とつぜん眼のなかに恐怖が走り、顔じゅうがぴくぴく引きつってきたので、わたしが誰だか気がついたのがわかりました。あいつは、土気色の顔をしてよろよろと後ずさりし、額に大粒の汗を浮かべ、歯の根をがたがた震わせていました。それを見て、わたしはドアにもたれたまま、大声を出して心ゆくまで笑ってやりました。復讐というものがどれほど気持のいいものか、わかっていたつもりですが、こんなに胸のすくような快感を味わおうとは、思いもよらないことでした。
『この犬畜生!』とわたしはいいました。『おれは、ソルトレーク・シティからペテルブルグまできさまを追いかけたが、よくも逃げまわってくれたな。だが、今度という今度は逃げられはせんぞ。きさまかおれか、どちらかが明日の太陽をおがめないことになるんだ』
わたしの声をきいて、あいつはますます後ずさりし、その顔は、わたしの気が狂ったとでも思っている様子でした。たしかに、その時は、気も狂わんばかりだったのです。こめかみはハンマーで打ち鳴らしたようにどきどきと脈打っており、そのとき鼻血が吹きだしてくれなかったら、興奮のあまり、その場にぶっ倒れてしまったでしょう。
『ルウシイ・フェリアのことを、どう思っているのか?』とわたしはドアに錠をかけて、鍵をあいつの鼻先で振りまわしながら叫びました。『天罰がくるのが遅かったが、とうとうつかまったな』わたしがそういうと、あいつはおじけづいて、唇をわなわなと震わせました。命乞いをしたかったのでしょうが、もはや無駄だと観念していました。
『おれを殺す気か?』とあいつは口ごもりながらいいました。わたしはこう答えました。『きさまのような気狂い犬を誰が殺すものか。父親を殺したうえに、わたしの恋人を無慈悲にも引き戻して、いまわしい恥知らずな後宮(ハレム)に押しこめたとき、彼女を一度でも可哀そうだと思ったことがあるか?』
『あの娘の父親を殺したのはおれじゃない』
『だが、あの人の清純な心を引き裂いたのはきさまなんだ!』わたしはそういって、あの箱をあいつの目の前に突きつけました。『さあ、神の公正な裁きを受けよう。好きなほうを飲め。死ぬか、生きるか、二つにひとつだ。きさまが取ったのこりを、おれが飲む。この世に正義というものがあるのか、それともただの偶然に支配されてるものなのか、これで決着がつく』
あいつはちぢみあがって、泣きわめいたり、助けてくれと哀願したりしましたが、わたしはナイフを抜いてあいつの咽喉(のど)に突きつけ、とうとういうことをきかせました。そのあとわたしも残りを飲んで、それから、あいつとわたしは、どちらが助かり、どちらが死ぬのか、それを確かめるために、一分あまり黙って向きあったまま立っていました。最初の激痛がきて、自分の体に毒がまわったことを知ったときのあいつの顔を、わたしは死ぬまで忘れんでしょう。それを見てわたしは大声で笑い、あいつの目の前にルウシイの結婚指輪を突きつけてやりました。アルカロイドの効きめが早かったのでそれもほんの一瞬のことです。あいつは、激痛に顔をゆがませ、手で空(くう)をつかみ、ふらふらとよろめいたかと思うと、咽喉からしぼりだすようなうめき声をあげ、どさりと床に倒れてしまいました。わたしは足であいつの体を上向きにして、胸に手をあててみました。もう鼓動は止まっていました。死んだのです!
そのあいだも、鼻血がとめどなく流れ出ていましたが、わたしは気づきさえもしませんでした。どうしてその血で壁に字を書く気になったのか、いまだに自分でもよくわかりません。たぶん、ちょっと警察を惑わしてやれという悪戯(いたずら)っ気をおこしたんですな。なにしろ、そのときは晴々として気分がよかったもんですからね。むかしニューヨークでドイツ人が殺された事件がありましたが、そのとき死体の上に RACHE(復讐)という文字が書いてあって、これは秘密結社のしわざにちがいないと当時新聞が大騒ぎしたのを、思いだしたんですよ。ニューヨークの市民を惑わしたあの手口は、ロンドン市民にも通用するんじゃないかと思ったもんだから、指に自分の鼻血をつけて、壁の適当なところに、あの字を書いておいたんです。
それから、馬車のほうへ引き返しましたが、さいわいあたりに人影はなく、あいかわらず夜の嵐が吹き荒れておりました。しばらく馬車を走らせてから、ふと、いつもルウシイの指輪を入れていたポケットに手をやってみると、指輪がなくなっています。わたしに残された彼女の形見は、それ一つだけでしたので、落雷に打たれたような気持でした。もしかしたら、ドレッバーの死体の上にかがみこんだときに、落したのかもしれないと思って、すぐに引きかえし、馬車を横町にとめて、大胆にもあの家に戻っていきました……あの指輪を見つけるためには、どんな危険でもおかす気でした。ところが、門のところで、中から出てきた巡査にばったり出くわしてしまい、わたしはとっさに、ぐでんぐでんに酔っぱらっているふりをして、どうにか怪しまれずにその場を切りぬけたんです。
これがイノック・ドレッバーが死ぬときの模様でした。こうなったうえは、スタンガスンにも同じやりかたをして、あのジョン・フェリアの恨みを晴らすだけです。あいつがハリディズの常宿に泊っていることはわかってましたから、一日じゅう見張ったんですが、いっこうに外に出てきませんでした。あいつは、ドレッバーが翌日になっても姿をみせないので、何か容易ならぬことが起きたと感づいたのかもしれません。スタンガスンというやつは、じつにずる賢く、いつも警戒しています。だが、部屋のなかにとじこもってさえいれば、わたしが手出しできないと思っていたとすれば、それはとんでもない思いちがいというものです。わたしはすぐにあいつの寝室の窓を捜し出し、翌日の早朝、宿の裏の道ばたにあった梯子(はしご)を使って、夜も明けきらぬうちに、あいつの部屋に押しいりました。わたしはあいつを起こして、おまえがずっと昔、人の命を奪ったことの報復を受けなければならん時がきたのだぞ、と宣告しました。わたしはドレッバーの死にぎわのことを話してきかせ、あいつの時と同じように、どちらか一つを取れといって、丸薬をつきつけました。ところが、あいつは、せっかく与えられた助かる機会をつかもうとしないで、寝台からとびおりて、わたしの咽喉につかみかかったのです。わたしは身を護(まも)るために、あいつの心臓を突き刺しました。しかし、かりにわたしが手を下さなかったとしても、神の御意志は、あいつの罪深い手のほうに毒薬をお渡しになっていたでしょうから、結果は同じだったと思います。
これから先は話すことはほとんどありません。話は終わりに近いですから、やめる頃合いです。わたしは、アメリカへ帰るための旅費を貯めるつもりで、一日二日馭者の仕事をつづけておりました。今日、馬車の溜(たま)り場にいますと、汚ならしい小僧がやってきて、ジェファスン・ホープという馭者はいませんか、その人の馬車を、べーカー街二二一番地Bの旦那がお呼びですよと告げました。わたしはべつに怪しみもせずに出向いてきましたが、気がついた時には、この若い旦那に手錠をかけられていたというわけです。まったく、こんなに鮮やかなお手並には、お目にかかったことがありませんよ。さて、これでわたしの話はおしまいです。あなたがたは、わたしを単なる人殺しとしか思わんでしょうが、しかし、わたしは、自分はあくまで、あなたがたとおなじ正義の執行人である、と信じているのです」
この男の話がじつにスリルに富んでおり、またそれを語る態度がきわめて感銘ぶかいものだったので、私たちは息を殺して聞き入っていた。ふだん犯罪話の類(たぐ)いには聞きあきているはずの本職の刑事たちまでが、この男の話には、ことのほか興味をそそられた様子であった。ホープの供述が終わっても、しばらくは口を開く者もなく、ただレストレードが速記録に最後の部分を書き込む鉛筆の音だけが、さらさらとひびくだけだった。
「あと一つだけ、聞いてもいいかね」シャーロック・ホームズがやっと口を開いた。「ぼくの出した新聞広告をみて、きみの相棒が指輪をとりにきたが、あれは何者かね?」
囚人はおどけた表情でわが友に片目をつぶってみせた。「自分だけの秘密なら話していいんですが、他人にまで迷惑はかけたくないんでねえ。あの広告を見て、これは罠(わな)かもしれん、いや、ひょっとすると、本当にわたしの指輪を拾ったのかもしれん、とだいぶ迷ったのです。するとわたしの友人が行って確かめてきてやるといってくれたのです。どうですか、あの男は、なかなかうまく変装していたでしょう?」
「いや、まったく、うまくやられた」とホームズは心からいった。
「では、皆さん」と警部がもったいぶった口調でいった。「法律上の手続きは守らねばなりません。木曜日に、判事がこの容疑者を調べることになっていますから、そのときには皆さんにも出頭していただくことになるでしょう。それまでは、責任をもって、この男の身柄を引き受けます」
彼はそういって、ベルを鳴らした。ジェファスン・ホープは二人の看守に連れ去られ、わが友と私は警察署を出て、辻馬車をひろい、べーカー街へ帰った。
私たちは全員、木曜日に裁判官のまえに出頭せよという通告を受けていた。しかし、その木曜日がきても、私たちが証言台に立つ機会はついにこなかった。事件の処理は、われわれ人間よりさらに高位の裁判官の手に移され、ジェファスン・ホープは、厳正な審判を受けるために、裁きの場に召されたのであった。逮捕されたその晩、動脈瘤(どうみゃくりゅう)が破裂して、翌朝、独房の床に倒れている彼の死体が発見された。その顔には、臨終の時にその有意義だった生涯を顧みて、仕事をみごとにやりとげたことを回想しながら死んだのであろうか、安らかな微笑が浮かんでいた。
「グレグスンとレストレードは、彼に死なれて、さぞ大さわぎしているだろうな」とホームズは、その翌晩、ふたりでその話をしているときにいいだした。「いまとなっては、彼らの手柄をはなばなしく宣伝する機会がどこにあるかね?」
「でも、あの二人は今回の逮捕に大した働きをしてないじゃないか」と私はいった。
「実際に功績があったかどうかは、大した問題じゃないんだ」とわが友は苦々しげに反論した。「問題は、自分の功績を世間に信じさせることができるかどうかにあるんだよ。気にすることはないがね」
しばらく間をおいて、彼は気をとりなおし、もっと快活な口調で話をつづけた。「こんなにおもしろい事件は、なんとしたって見逃せるもんじゃない。これほどの事件は、後にも先にも初めてだよ。単純ではあったが、貴重な教訓がずいぶんあった」
「単純だって!」と私は思わず大きな声を出した。
「そうさ。だって、そうとしかいいようがないじゃないか」と、シャーロック・ホームズは私の驚きぶりを見て、笑いながらいった。「本質的には単純な事件だよ。その証拠に、ぼくはごく常識的な推理をすこしばかり試みただけで、たった三日でたやすく犯人をつかまえたじゃないか」
「それはそのとおりだけどさ」
「いつかも話したけど、異常な出来事というものは、理解の手がかりにこそなれ、けっして障害にはならないんだ。こういう問題を解く場合に、いちばん肝心なのは、逆方向に推理できる能力があるかどうかという点だよ。これはじつに有効な方法で、しかも簡単にできることなんだが、世間の人はこれをあまり役立てていないね。日常の生活では前向きに推理するほうが有用な場合が多いから、逆方向に推理するほうは無視されやすいんだね。綜合的推理のできる人が五十人に対して、分析的推理のできる人は一人という比率だよ」
「正直いって」と私はいった。「どうもきみの議論がのみこめないんだ」
「きみには無理だと思ったよ。うむ、それじゃ、どういえばわかってもらえるかな。たいていの人は、出来事の推移を説明されれば、その次にどういう結果が生ずるかが、推察できるはずだ。つまり、個々の出来事を、心のなかでつなぎ合わせて、そこから、こういうことが起きるだろうと推測するわけだ。ところが、ある一つの結果を聞いて、その結果に至るまでにどんな段階があったかを、頭のなかで論理的に展開できる人は、ほとんどいない。ぼくが逆方向の推理とか分析的推理というのは、こういう能力を指すんだよ」
「そうだったか」と私はいった。
「さて、今回の事件は、結果だけがはっきりしていて、そのほかは全部こちらで解き明かさねばならない性格のものだった。そこで、ぼくの推理がさまざまな段階をたどって結論に到達していった道すじを、きみに教えておこう。まず最初にやったことから話すよ。きみもおぼえているだろうが、ぼくはまずあの家まで歩いていったね。その時、ぼくはいっさいの先入観を捨てていた。だから捜査の対象はまず道路からということになった。すると、そこには、いつかもきみに話したが、馬車の轍(わだち)がはっきり残っており、調べてみたら、それはまちがいなく夜のあいだにできたものだと判明した。しかも左右の車輪の間隔が狭いことから、自家用の馬車ではなくて、辻馬車にちがいないということもわかった。ロンドンの辻馬車は、ブルーム型〔一頭だての四輪箱馬車〕の自家用馬車よりも幅が狭いからね。
これがまず最初の収穫だった。それからぼくは庭の小道をゆっくり歩いていったが、そこは、好都合なことに、足跡の残りやすい粘土質の土でできていた。おそらくきみには、ただの踏みあらされた泥道としか映らなかったろうが、専門家としてのぼくの眼には、表面に残っていた足跡の一つ一つが貴重な材料だった。探偵学の分野で、足跡を調べる技術ぐらい、重要でありながら、しかも忘れられているものはない。ところが幸いにも、ぼくはこの技術をふだんから尊重して、訓練を怠らずにきたから、それは第二の天性にまでなっている。そこには、警官たちの重たい靴跡に混じって、最初に庭を通っていった二人の男の足跡が残されていた。この二人の足跡のほうが時間的に早いということは、すぐにわかった。二人の足跡が、駆けつけてきた警官たちの足跡でところどころ踏み消されていたからね。こうして第二の事実がはっきりした。つまり、夜間ここへ立ち寄った訪問者は二人で、一人はかなり背の高い男(これは歩幅から推計した)、もう一人は、小さくて上品な長靴の跡から推定して、流行の服を着た男だということだ。
家のなかに入ると、このあとのほうの推理が正しかったことが、すぐに証明されたよ。まさしく、そこには上品な長靴をはいた男が倒れていたではないか。すると、これがもし他殺だとすれば、背の高い男が犯人ということになる。死体にはどこにも外傷はなかったが、顔の表情のゆがみ具合から察して、死ぬ直前に自分の死を予知していたことがわかった。心臓麻痺とか突発的な事故で死ぬ場合には、死人の顔に恐怖の表情が残るようなことはありえないからね。死人の口を嗅(か)いでみると、かすかに酸(す)っぱい匂いがしたから、これは強制的に毒物を呑まされたのだと結論するほかはなかった。つまり、無理やり呑まされたからこそ、あの顔に憎悪と恐怖の表情が残ったのだと考えた。ぼくは消去法によって、この結論に到達したんだ。つまり、これ以外に事実に合致する解釈は成り立たないからだよ。これを前代未聞のとっぴな着想だなんて思ってもらっては困る。毒物を強制的に呑ませて殺害するやりかたは、犯罪史のうえではそれほど珍らしくないんだ。毒物学者なら、すぐに、オデッサのドルスキー事件やモンペリエのルトリエ事件などの実例を挙げられるだろうさ。
さて、次なる大問題は、殺害の動機は何かということだった。盗まれたものはないのだから、動機は物盗りではない。それでは、政治上の暗殺か、それとも女性関係のもつれか? これが問題だった。ぼくは最初から後者ではなかろうかとにらんでいた。政治関係の暗殺者なら、目的を果たしたら、すぐにも逃走するはずだ。ところが、今回の殺人はきわめて慎重に行われていて、加害者は部屋じゅうに足跡を残している点からみても、そうとう長時問あの部屋にいたと思われる。これほど念のいった復讐をするからには、これは政治的なものではなく、私的な怨恨にもとづくものと断定しないわけにはいかない。しかも壁に文字まで残されているのを知って、ぼくの推察はいよいよ確かなものになった。あれは故意に捜査を混乱させるために仕組んだものであることは見えすいていた。そのうえ指輪が発見されるにおよんで、疑問は一挙に氷解した。いうまでもなく、犯人はその指輪を使って、被害者に、以前死んだか消え失せたかした女のことを思い出させようとしたわけだ。この時点で、ぼくはグレグスンに、クリーブランドに照会電報を打って、ドレッバー氏の過去の経歴中においてとくに注意すべき事柄を問い合わせたかと訊ねてみた。すると彼は、きみも知ってのとおり、問い合わせていないと答えた。
そのあとぼくは部屋のなかを丹念に調べたが、調べてみて、やはり犯人は背の高い男にまちがいないと確信したし、ついでに、トリチノポリ葉巻を喫い、爪を長く伸ばした男であることもわかった。現場に格闘した形跡がないことから、床の上に流れていた血は、興奮のあまり犯人が鼻から噴き出した血にちがいないと、ぼくはとっくに見当をつけていた。調べてみると、やはり、血の流れている方向と、犯人の足跡とは、ぴったり一致していたよ。それにしても、いくら興奮したとはいえ、あれだけの鼻血を出すんだから、これはよほど多血質の男にちがいない。そこで、ぼくは多少の懸念(けねん)はあったが、思いきって、犯人は筋骨たくましい赤ら顔の男だと断定した。結果的には、ぼくの判断は正しかったがね。
あの家を退去してから、ぼくはグレグスンがやり残した仕事に着手した。イノック・ドレッバーの結婚関係だけに焦点をしぼって、クリーブランド市の警察署長に電報で照会を依頼した。回答は決定的なものだった。それによると、ドレッバーは、昔の恋敵たるジェファスン・ホープという男に狙われているからといって、すでに警察に保護を願い出ており、しかもそのホープなる人物もすでにヨーロッパにきているというのだ。ぼくは、これでもう事件の鍵を握ったぞと思ったね。あとは、ただ犯人を逮捕すればいいだけだ。
ところで、ぼくはずっと前から、ドレッバーと一緒にあの家に入っていった男は、辻馬車の馭者(ぎょしゃ)をしていた男と同一人物ではないかと、ひそかに推測していた。道路に刻まれていた馬蹄や轍(わだち)のあとからみて、馬がその辺をうろつきまわったことがわかったが、そばに馭者がついておれば、そんな馬鹿げたことは起こるはずもない。すると、馭者はその時、家の中にいなかったとすれば、いったいどこにいたと考えられようか? しかも、普通の常識からいっても、あとで裏切るにきまっている、いわば第三者の目の前で、手のこんだ犯罪を実行してみせる男がいるなんて、およそ考えられないよ。最後にこうも思える。つまり、もしこのロンドンの街なかで誰かをつけまわすとしたら、辻馬車の馭者になるのがいちばん好都合じゃないかってね? こういう点をすべて考え合わせると、ぼくは、ジェファスン・ホープはきっとロンドンの辻馬車の馭者たちの中にいるはずだと結論するほかはなかった。
さて、彼が犯行の時に馭者だったとすれば、犯行後にその職をやめていると考える理由はない。むしろ反対に、彼の立場に立って考えれば、急にやめたりしてはかえって怪しまれると思うはずだ。だから、少くとも当分は、今までの職をつづけると考えるのが妥当だ。それに、彼が変名を使っているのではないかという推測も成り立たない。もともと誰ひとり彼の本名を知る者のいない土地にきているのに、どうしてわざわざ名前を変える必要があろう? そこで、ぼくは町の浮浪児探偵団を編成して、ロンドン中の辻馬車屋を軒並みに調べさせ、とうとう目指す男を突きとめたわけだ。彼らがいかに巧妙に行動し、それをぼくがいかに敏速に活用したかは、きみの記憶にも鮮明に焼きついているだろう。スタンガスンが殺されたのは、予期せぬ出来事だったが、あれを未然に防ぐのは、どだい無理な相談だよ。でも、あの出来事があったから、きみも知ってのとおり、ぼくが前々からその存在を予知していたあの丸薬を手に入れることができたんだ。そして、これで、全体として、どこにも欠陥や矛盾のない首尾一貫した論理体系が出来あがったというわけだ」
「じつに恐れいったよ!」と私は叫んだ。「きみの功績は世間にひろく認められてしかるべきだ。ぜひ今回の事件の記録を公表しろよ。きみにその気がなければ、このぼくがかわりに発表してもいいよ」
「どうにでもお好きなように、ワトスン先生」と彼は答えた。
「まあ、読んでみてくれ、これを!」と彼は一枚の新聞を渡しながらいった。「ほら、ここのところさ!」
それはその日のエコー紙で、彼が指さした欄には、今度の事件のことが掲載されていた。
「イノック・ドレッバー氏およびジョゼフ・スタンガスン氏殺害の容疑者たるホープの突然の死は、大衆の事件の謎に対する多大の興味を失わせるものがあった。容疑者の死によって、事件の詳細はおそらく謎につつまれたままになろうが、有力な筋からの情報によると、今回の事件は、多年にわたる熱情的な怨恨(えんこん)によるもので、恋愛沙汰とモルモン教が絡(から)んだ事件であるという。被害者は両人とも青年時代にモルモン教徒であったらしく、死亡した容疑者のホープも、ソルトレーク・シティの出身である。
今回の事件に格別の意義があるとすれば、それは、少くともわが国の警察力がいかに優秀であるかを最も鮮明な形で実証してみせた点にあり、また同時に、諸外国の人々に、各自の宿怨は自国内で解決すべきであり、英国の領土にこれを持ちこむべきではないという有益な教訓を提供した点である。今回の犯人の逮捕かかくも迅速であったのは、もっぱら警視庁の著名な刑事たるレストレード、グレグスン両氏の功績に帰するものであるというのが公然の秘密である。犯人はシャーロック・ホームズ氏とかいう人物の家で逮捕された模様であるが、同氏も素人探偵としては、捜査協力の面で多少の才能を発揮したらしく、両氏による指導を受ければ、将来はある程度まで、両氏の技能を学びうるであろう。なお両刑事に対しては、その功績を称(たた)えて、なんらかの表彰がなされる予定である」
「ぼくがはじめにいってたとおりになったろう?」とシャーロック・ホームズは笑いながらいった。
「これが緋色の研究の一切の結末というわけだ。つまるところ、あの刑事たちに記念品が贈られるというだけのことさ!」
「残念がることはないよ」と私は答えた。「ぼくは事件のことをくわしく日記につけているから、そのうち世間に発表してやるよ。まあ、それまでは、きみも、あのローマの守銭奴(しゅせんど)のように、みずからの成功を誇りとして、ひとりで満足するんだな。『世人は我を嘲笑す。されど我は、家に蓄(たくわ)えし黄金をながめつつみずからを誇る』と」(完)
[翻訳 鮎川信夫 (C)Nobuo Ayukawa]
「四つの署名」目次
シャーロック・ホームズはマントルピースの隅から瓶をとり、しゃれたモロッコ革のケースから皮下注射器を取り出した。長くて白い神経質な指先で、細い注射器を整えると、左手のシャツの袖をまくりあげた。しばらくの間、彼はおびただしい数の注射針の跡のついた、筋ばった前腕と手首をじっと見つめていた。やがて鋭い針先を一気に刺し込み、小さなピストンをぐっと押すと、長い満足の溜息をもらし、ビロード張りの肘掛(ひじかけ)椅子に身を沈めた。
私は何力月もの間、こうした場面を日に三回も目撃してきた。しかし、馴れたからといって、気にならなくなったわけではない。むしろ日を追うごとに、これを見ることに我慢ならなくなり、自分には意見する勇気もないのかと思うと、夜毎、私は良心に恥じ入る思いがした。幾度となく私は、この問題について、思うところをぶちまけようと心に誓った。しかし、この男の冷淡で物事に頓着しない態度には出過ぎたことをするのをためらわせるものがあった。彼の偉大な天分、非の打ちどころのない物腰、これまで見せつけられてきた数々の並外れた才能、こうしたもののために、いざ反対するとなると、つい気おくれして尻込みしてしまうのだった。
しかし、その日の午後、昼食の時に飲んだボーン産のワインのせいか、あるいは彼の極端に落ち着き払った態度に腹が立ったためか、突然、私はこれ以上黙ってはいられないと感じた。
「今日はどっちなんだい」と、私はたずねた。「モルヒネかね、それともコカインかね?」
彼は開いていた古めかしい字体の本からものうげに眼を上げた。
「コカインさ」と、彼はいった。「七パーセントの溶液なんだ。きみもやってみるかい?」
「いや、結構」私はぶっきら棒に答えた。「ぼくのからだはまだアフガニスタン戦争の後遺症から癒(なお)りきっていないからね。よけいな負担をかけたくないよ」
彼は私の荒々しい語調を笑った。「たぶん、きみのほうが正しいよ、ワトスン」と、彼はいった。「これが身体に与える影響はよくないだろう。でもね、このおかげで頭脳はすごく明晰(めいせき)になり、冴えてくるんだから、副作用などは大したことじゃないよ」
「しかし考えて見ろ」と、私は真剣になっていった。「こいつがどんな結果をもたらすか。確かに精神は覚醒し、高揚するかもしれない。しかし、もともと病的で不健全な方法なのだから、組織変化は次第に度を増し、少なくとも慢性的な衰弱におちいることは確実なんだ。また、どんな恐ろしい反動がやってくるか、きみだって知っているだろう。実際、これは割りのあわないことなんだ。単につかの間の快楽のために、何だって天から授かった立派な才能を台なしにしかねないようなことをやるんだ。いいかね、ぼくはただ単に友達として意見しているだけじゃない。きみの健康に関して多少の責任を負っている医者の意見でもあるのだよ」
彼に怒った様子は見えなかった。むしろ彼は両手の指先を合わせ、両肘(ひじ)を椅子の肘掛けに置いて、談話を楽しんでいるようにすら見受けられた。
「ぼくの精神は」と、彼はいった。「停滞を嫌うのだ。問題を与えてくれ。仕事がほしい。難解この上ない暗号文でも、複雑この上ない分析でもいい。そうすれば、ぼくは水を得た魚になる。もう人工的な刺激剤など用なしさ。だが、ただぼんやり生きていくことには耐えられない。精神の高揚がなければだめだ。だからこそぼくは、自分の性にあった職業を選んだ。いや、職業を造り出した、というべきかな。何しろ、こんな仕事をしているのは、世界でぼくひとりなんだからね」
「世界で唯ひとりの民間探偵というわけか?」私は眉をあげていった。
「世界で唯ひとりの民間探偵コンサルタントさ」と彼は答えた。「探偵に関しては、ぼくは最後にして最高の上告裁判所だからな。グレグスンやレストレードやアセルニー・ジョーンズなんかは、お手上げになると……そうなるのがむしろ普通なんだが……きまって問題をこっちへ持ってくる。ぼくは専門家の立場からデータを吟味し、専門家としての意見をのべる。そうした際に、ぼくは決して自分の名声などは求めない。新聞にだってぼくの名前は出やしないさ。仕事それ自体、つまり自分の特殊な才能を生かす場面に出あう喜びが、最高の報酬(ほうしゅう)なのだ。でも、きみは例のジェファスン・ホープ事件で、ぼくのやり方がどのようなものかが分かっただろう」
「うん、そのとおりだ」と私は素直に答えた。「ぼくはあれほど感銘を受けたことはなかった。小さな本にまとめたほどだよ、『緋色(ひいろ)の研究』という幾分風変わりな題をつけてね」
彼は情なさそうに首を振った。
「ざっと読んだがね」と彼はいった。「正直いって、いただけないね。探偵というものはね、厳密な科学である、あるいは科学であるべきだ。科学と同じように冷静に、客観的に扱わなければいけない。きみはロマンティックな色どりを添えてしまったね。だからユークリッドの第五定理に、恋物語や駆け落ち事件を持ち込んだような印象を与える」
「しかし、ロマンスだってあったよ」と、私は反論した。「事実を曲げるわけにはいかないよ」
「多少の事実は端折(はしょ)らなければならない。少なくとも事実を取り扱う時には、均整というものを忘れてはいけないんだ。あの事件で物語るに価いする唯一の点は、結果から原因へという奇妙な分析推理によって、事件を解決に導いたということだけなんだよ」
あの物語は、特に彼を楽しませようという目的で書かれたものだったので、こうした批評をされて、私は当惑した。私の作品の一行一句が、彼の行動だけを物語るのに当てられるべきだとでもいわんばかりの、その身勝手さに、正直私は腹が立った。ベーカー街で同居していた年月の間一度ならず、私はこの男の穏やかな、人を諭(さと)すような態度の裏に、わずかな虚栄心がひそんでいるのに気づいたことがあった。しかし、私は口出しはせずに、負傷した足をいたわりながら坐っていた。以前、ジェゼール弾の貫通銃創を受けたことがあり、別に外出するのにさしさわりになかったが、天候の変わり目になると傷はしつこくうずいた。
「この頃は、大陸まで手をのばすようになってね」しばらくたってからホームズは古いブライアのパイプにたばこを詰めながらいった。「先週フランソワ・ル・ヴィラールから相談を受けたのさ。きみも知っているだろうが、最近フランスの探偵界で頭角を現わしてきた男だ。彼はケルト系らしく、直感力は並大抵ではないが、正確な知識を幅広く身につけていないのが、玉にきずだ。これがなくては、この方面での才能は伸びないからね。事件はある遺言状に関係したもので、多少興味をそそるところがあった。ぼくはその男に、似たような事件を二つ教えてやった。一八五七年のリガの事件と一八七一年のセントルイスの事件だが、それが解決の手がかりになったわけだ。これが今朝着いた手紙だが、ご協力感謝しますと書いてある」
そういいながら、彼はしわくちゃになった外国製の便箋を投げてよこした。ちらりと見ただけで、「お見事(マニフィーク)」とか「 素晴らしい手腕 (クー・ド・メートル)」とか「手練の早業(トゥル・ド・フォルス)」などという賛辞がやたらと目につき、このフランス人の心酔ぶりがうかがわれた。
「弟子が師匠に向かって物をいうみたいだね」と、私はいった。
「ぼくの助力を買いかぶりすぎている」と、シャーロック・ホームズは軽い調子でいった。「彼自身、相当な才能を持っている。理想的な探偵に必須の条件三つのうち、二つまでは身につけている。観察力と推理力はあるのだが、ただ知識に欠けている。もっとも、これだっておいおい身につくはずだがね。彼は目下、ぼくのささやかな著作を、フランス語に翻訳しているんだよ」
「きみの著作だって?」
「あれ、知らなかったのかい?」彼は笑いながら大声でいった。「実をいうと、これまで数篇の論文をものしているんだ。いずれも専門的な問題を扱っているんだがね。たとえば、これは『各種のたばこの灰の識別について』だが、この中でぼくは百四十種の葉巻、紙巻、パイプたばこを挙げて、灰の違いを色刷りの図版を使って説明している。これは、刑事裁判でしじゅう問題になる点で、時には決め手としてきわめて重要とされることがある。たとえばだね、ある殺人事件の犯人がインド産のランカ葉巻を吸っていることがはっきりした場合、確実に捜査の範囲が狭められるわけだ。くろうとの目で見れば、トリチノポリ葉巻の黒い灰と鳥の目(バーズ・アイ)印の白いふわふわした灰は、簡単に見分けがつく。キャベツとじゃがいもほどの違いだ」
「きみはこまかなことについて、異常な才能を持っているんだね」と、私はいった。
「ぼくにはそうしたことの重要さが分かるんだよ。この論文は足跡の鑑定に関するものでね、足跡の保存に焼石膏(せっこう)が役に立つことを説いている。それから、こいつは職業によって人の手の形がどう変わるかを調べた風変わりな論文でね、スレート職人、水夫、コルク切り工、植字工、織工、ダイヤみがきなどの手型を、石版で示してある。これは、科学的探偵にとって非常に実用的な意義を持つものでね、特に身許不明の死体とか、犯人の前科を調べるときには便利だ。でも、こんなぼくの道楽談義には、きみもうんざりしただろう」
「いや全然」と、私は真顔で答えた。「実に興味深いよ。特にきみがそれを実際に応用するのを拝見してからというものはね。ただ、きみはいま観察と推理といったけれど、これはある程度互いに通じあうものではないのかね」
「いや、ちがうんだな」と、彼は肘掛け椅子にゆったりともたれ、パイプから濃い青い煙をくゆらせながら答えた。「たとえばだね、観察によればきみは今朝、ウィグモア街の郵便局へ行っていたことになり、推理によればきみはそこで電報を打ったことがわかる」
「当たった!」と、私はいった。「両方ともずばりだ! でも、どうしてわかるのかね。ふと思い立ってやったことで、まだ誰にもしゃべっていないのだが」
「いや、実に簡単なことさ」と、私のびっくりした顔を見て、笑い声を立てながら彼はいった。「馬鹿らしいほど簡単で、説明の余地もないくらいだ。しかし、これは観察と推理の境いをはっきりさせるのに役立つかも知れないね。観察すると、きみの靴の甲に赤土が少しついているのがわかる。ウィグモア郵便局の真向かいの所は、最近舗装をはがして土を掘り返したから、郵便局へ行くにはその土を踏まないわけにはいかない。それは、こんな独特の赤みを帯びていて、まあ、ぼくの知るかぎり近所では、他に見当らないものだ。ここまでが観察で、あとは推理というわけさ」
「それなら、電報のことはどうしてわかるのかね?」
「うん、それはね、午前中ずっときみと向かいあっていたけれど、きみは手紙など書かなかったよ。あけっぱなしの引出しには、切手もはがきもたくさんあった。そうすると、電報を打つ以外に、郵便局などへ出かける用はないではないか。他のファククーを消去していって残ったもの、それが真相というわけだ」
「この場合、確かにそうだよ」と、しばらく考えてから私はいった。「でもこれは、きみのいうとおり、最も単純な例の一つにすぎないよ。ここで、きみの理論というものをもっと厳しくテストしてみてもかまわないかね?」
「もちろんさ」と、彼は答えた。「そうすればコカインをもう一本やらないで済む。きみが持ち出す問題なら、何でも喜んで調査するよ」
「きみの話だと、人間は誰でも、日常使い慣れた物に自分の個性の刻印みたいなものを必ず残すから、専門家にはそれが読めるということだったね。ここに、最近手に入れた懐中時計がある。以前の持ち主の性格なり癖なりについて、きみの意見を聞かしてもらえないか?」
私は内心、幾分愉快に感じながら時計を手渡した。というのは、私の見るところ、調べるのはおよそ不可能であり、これは、彼が時折り示す、独断的な態度にとって、良い薬になるだろうと考えたからであった。彼は時計を手のひらにのせて重さをはかり、じっと文字盤を見つめ、やがて裏ぶたをあけると、最初は肉眼で、次に強力な凸レンズで機械を調べた。彼がようやくパチリとふたを閉じて返してよこした時、私はその落胆したような表情を見て、微笑をもらさずにいられなかった。
「ほとんどデータがない」と彼はいった。「この時計は、最近掃除したために、一番手がかりになる事実が消えてしまっている」
「そのとおり」と私は答えた。「手許へとどく前にきれいになっていたのさ」
失敗をとり繕(つくろ)うために、屁理屈(へりくつ)を並べたてる友人を、私は心の底で非難した。時計が掃除してさえなければ、手がかりがつかめるとでもいうのか。
「満足のいくものではないが、調べて無駄ではなかった」と彼は、活気のない夢見るような眼を天井に向けながらいった。「間違っていたらきみに直してもらうことにして、その時計はきみの兄さんのもので、兄さんはそれをきみのお父さんから譲り受けたのだ」
「それは、裏のH・Wという文字から推測したわけだね?」
「そのとおり。時計が製造されたのは、およそ五十年前だ。頭文字も時計と同じくらい古い。だから時計は、ぼくらの親の世代のものだ。普通、宝石類は長男が相続するから、長男は父親と同じ名前であることが多い。確かきみの父上は大分前に亡くなられたはずだな。だから、時計はきみの兄さんの所有だった」
「そこまでは、よろしい」と私はいった。「何か他には?」
「きみの兄さんはだらしのない人……ひどくだらしなくて、むとんじゃくな人だった。前途有望の身でありながら、あたら好機をのがしてしまい、時折り景気がよくなることもあったが、貧乏暮らしを続けた末に、酒びたりになって亡くなった。ぼくに推理できるのはこんなところだよ」
私は椅子からとび上がり、にがにがしい気持で、足を引きずりながら、せわしなく部屋を歩きまわった。
「きみらしくないよ、ホームズ」と私はいった。「きみがこんな愚劣なことをするとはね。ぼくの不幸な兄の経歴を調べておいて、今になってそれを何か奇抜なやり方で推理したように見せようとする。すべてを古時計から読みとったなどと思わせようったってだめだよ! 思いやりに欠けたやり方だし、正直いって幾分いかさま(ヽヽヽヽ)くさいね」
「ねえ、先生」と彼はやさしくいった。「ぼくのいい分も聞いてもらいたい。この問題を抽象的な問題として扱ったものだから、これがきみ個人にとって、どれほど身近なつらい事柄であるかを忘れてしまったんだ。でも誓っていうが、きみから時計を渡されるまでは、きみに兄さんがいたなんて、ぜんぜん知らなかったんだ」
「それなら、一体全体どうしてそうした事実がわかったのかね? 一部始終まったく正しいんだが」
「ああ、運がよかったのさ。あり得べきことをはかりにかけていってみただけだよ。まさか、こう当たるとは思わなかった」
「でも、ただの当てずっぽうではないだろう?」
「とんでもない。ぼくは決して推量なんかやらない。恐るべき習慣だよ、これは。論理能力を破壊するからね。きみに不思議に思われる理由は、ただきみがぼくの思考のプロセスをたどろうとしなかったり、大きな推論のよりどころとなっている小さな事実を見落したりしているからだ。たとえば、ぼくははじめにきみの兄さんはだらしのない人だといったね。その時計の側を見ると、下の方が二個所へこんでいるばかりでなく、一面にかすり傷がついているよ。硬貨とか鍵など、固い物といっしょくたにポケットに入れておく癖があったからだ。五十ギニーもする時計を、こんなに粗末に扱う人は、だらしのない人だろうと推定したって、実際たいした手柄になるまい。また、こうした高価なものを親から受け継いだ人は、他にも多くのものを譲り受けていると推理したって、大したこじつけにもなるまいよ」
きみの推理はもっともだといわんばかりに、私はうなずいた。
「わが国では、質屋が時計を質に取るときに、ピンの先でふたの内側に質札の番号を書いておくのが普通だ。番号が紛失したり、他の番号と入れ替ったりしないから、札(ふだ)よりも便利なわけだ。レンズで見ると、ふたの内側に、そうした番号が四つもあるよ。そこで、きみの兄さんはしばしば困窮していただろうという推理が成り立つ。次に、兄さんは時折り金まわりがよくなったということだが、そうでなければ、質草を出せなかったはずだ。最後に、鍵穴のある中ぶたを見てほしい。穴の周りに無数のかき傷が見えるだろう。鍵がすべってできた跡だ。しらふの人が鍵でこんな傷をつけるわけがない。だが、酔っ払いの時計にはきまってついているよ。夜、おぼつかない手で時計を捲(ま)くときに傷をつけるのだ。何も謎めいたことはひとつもないだろう?」
「実に明快この上なしだ」と私は答えた。「失敬なことをいって済まなかった。きみの驚嘆すべき能力を、疑ったりすべきではなかったんだ。それで、きみは目下、何か依頼を受けて行なっている調査でもあるのかね?」
「ない。だからコカインなんかやっているのさ。頭脳を働かせないと生きていけないんだ。他に生き甲斐になるようなものがあるかね? ここの窓の所へ立ってごらんよ。こんな、みじめでわびしい、いやな世の中があっただろうか? 黄色い霧が、うず巻きながら路地を流れ、くすんだ色の家々の間を漂っていく。こんなに情ないほど散文的で、味気ないものってあるかい? ねえ、先生、才能を持ってたって、それを発揮する場所がなくては宝の持ちぐされだよ。犯罪も月並、人生も月並、そして月並でない才能は、この世では用なしというわけさ」
私がこの長広舌に答えようとしたとき、こつこつドアを叩く音がして、宿のおかみが真鍮(しんちゅう)の盆に名刺をのせて入ってきた。
「若いご婦人がお見えです」と、彼女はわが友に向かっていった。
「メアリー・モースタン」と、彼は読んだ。「うーん、記憶にない名前だ。こちらへ通してください、ハドスンさん。先生、行かないでくれよ。きみにはいてほしいんだ」
モースタン嬢はしっかりした足どりと、一見落着き払った態度で、部屋に入ってきた。小柄で品のある、ブロンドの若い婦人で、手袋がよく似合い、着こなしも完璧であった。しかし、彼女の身なりには質素で控え目なところがあり、あまり生活が豊かでないことが知れた。服は地味な、ねずみがかったベージュで、飾りやひだがなく、同じく地味な色合いの小さなターバンをつけていたが、それも片がわにさした白いちっぽけな羽根で引き立つ程度であった。彼女の顔は、目鼻だちがととのっているのでも、顔色が美しいわけでもなかったが、人好きのする可愛らしい表情をしており、大きな青い瞳は気高く、優しさにあふれていた。私はこれまで、多くの国々と三つの大陸でいろいろな女性を見てきたが、上品で繊細な人柄を、これほどはっきり表わした顔を見たことがない。シャーロック・ホームズがすすめた椅子にすわろうとしたとき、彼女が唇と手を震わせ、内面のはげしい動揺を隠せずにいるのを、私は見てとった。
「ホームズさん、わたしがお訪ねしましたのは」と、彼女はいった。「以前、わたしの主人のセシル・フォレスター夫人があなた様のお力添えで、ちょっとした家庭内の悶着(もんちゃく)を解決していただいたからです。夫人はあなた様のご親切とお手並みに、大そう感銘を受けたそうです」
「セシル・フォレスター夫人」と彼は考え深げに繰りかえした。「ほんの少しばかりお役に立たせていただいたものでした。しかし、今思い出してみますと、事件はきわめて単純でしたよ」
「夫人は、そうはお思いになりませんでした。でも、少なくともわたしの場合は単純ではありません。現在、わたしが置かれている立場ほど不思議で、まったく不可解なものはご想像もつかないでしょう」
ホームズは手をもみ、眼を輝やかせた。彼は鷹(たか)のような鋭い顔に、極度の緊張の表情をうかべて、椅子から半身を乗りだした。
「お話をうかがいましょうか」と彼は、てきぱきした事務的な口調でいった。
私は気まずい立場に置かれているのに気づいた。
「ぼくは失礼させてもらおう」と私は、椅子から立ち上がりながらいった。驚いたことに、若い婦人は手袋をはめた手をあげて、私を引きとめようとした。
「こちらの方にも、ここにいていただけたら、どれほど助けになるかわかりませんわ」
私は再び腰をおろした。
「かいつまんで申しますと」と、彼女は続けた。「実はこんなわけなのです。わたしの父はインドのある連隊の士官で、わたしはごく幼い頃に英国へ送られました。母はすでに亡くなっており、こちらに親類は一人もおりません。それでも、エジンバラにある居心地のよい寄宿舎に入れられ、十七になるまでそこにおりました。一八七八年に、当時先任大尉になっていた父は、一年間の賜暇(ちょうか)をもらって、帰国しました。父はロンドンから無事についたという電報をよこし、直ちにそちらへ行くようにとランガム・ホテルを止宿先に教えてまいりました。電文は情愛にみちたものだったと今も覚えております。ロンドンに着くと、わたしは宿へ馬車を走らせましたが、モースタン大尉は泊っておられるが昨夜外出されて、まだお帰りになっていないといわれました。一日待っても、連絡がありません。その晩、わたしはホテルの支配人にいわれて、警察にとどけ、翌朝、各新聞に広告を出しました。捜索は徒労に終わり、今日になるまで、気の毒な父に関して何の消息もありません。父は落着いた安らかな生活を求めて、希望に胸ふくらませて帰ってまいりました、それなのに……」
彼女は片手をのどへもっていき、圧し殺すようにすすり泣きを始めたので、言葉はとぎれてしまった。
「日付は?」とホームズは、手帳を開きながらたずねた。
「消息を絶ったのは、一八七八年十二月三日で……かれこれ十年になります」
「お父さんの荷物は?」
「ホテルにありました。手がかりになるようなものは一つもありませんでした……衣類と何冊かの本と、それにアンダマン島からもってきた珍しいお土産(みやげ)がかなりありました。父はその島の囚人警備隊の隊長をしておりました」
「お父さんはロンドンに友達をお持ちでしたか?」
「存じておりますのは、一人だけ……ショルト少佐という、父と同じ連隊、第三十四ボンベイ歩兵連隊の方です。しばらく前に退役して、アパー・ノーウッドに住んでいらっしゃいました。もちろん、この方とも連絡をとりましたが、父が帰国していることすらご存知ありませんでした」
「奇妙な事件ですね」とホームズがいった。
「本当に奇妙なお話はこれからです。六年ほど前……正確に申しますと一八八二年五月四日……タイムズ紙に、メアリー・モースタン嬢の居所をたずねる、本人自ら名乗り出れば有利なことになろう、という広告が出ました。広告主の名前も住所もありませんでした。わたしはその時、家庭教師としてセシル・フォレスター夫人のお家に入ったばかりでした。夫人にすすめられて、私は広告欄に自分の住所をのせました。その日のうちに、小さなボール箱が郵便小包でとどきました。中にはとても大きな、光沢のある真珠が入っています。手紙などは同封してありません。それ以来、毎年この日がくると、同じような真珠の入った、同じような箱がとどくのですが、送り主はいぜんわからないままです。真珠は専門家によると、珍しい種類のもので、相当の値打ちだということです。ご覧ください、とてもきれいですよ」
そういいながら、彼女は平たい箱をあけ、これまで見たこともない、見事な六つの真珠を見せてくれた。
「お話は実に興味深い」とシャーロック・ホームズはいった。「他に何がありませんでしたか?」
「ありました、今日この日にです。だから、こうしてご相談にうかがったのです。今朝こんな手紙を受け取りました。どうぞ、お読みください」
「ありがとう」とホームズはいった。
「封筒もいっしょにどうぞ。消印はロンドン南西地区局。日付は七月七日。ふん、隅に男の親指の指紋がある……たぶん郵便屋のだろう。最上質の便箋。一束六ペンスの封筒。文房具にかけてはやかましい人だな。差出人の住所なしか。
『今夜七時、ライシアム劇場そとの左から三本目の柱に来てください。信用できないなら、友人を二人連れてくるとよろしい。貴女は不当な仕打ちを受けたのですから、その埋め合わせをしてあげたい。警官を連れてきてはなりません。そうするとすべてが水の泡(あわ)です。未知の友より』
なるほど、こいつはちょっと不思議な事件だ。モースタンさん、あなたはどうなさるおつもりです?」
「実はそれをおたずねしたいのです」
「では、わたくしたちがまいりましょうか……あなたとぼくとそれに……そう、こちらのワトスン医師とね。相手は友人二人といっています。この男とぼくは以前、いっしょに仕事をしていました」
「でも、おいでいただけますかしら?」声と表情に訴えるような調子をこめて、彼女はいった。
「何かお役に立てば」と私は熱心にいった。「光栄かつ喜びとするところです」
「お二人とも本当にご親切に」と彼女は答えた。「わたしは世間と没交渉にしてきましたので、相談する人もいないのです。六時にこちらへうかがえばよろしゅうございますか?」
「それより遅くてはいけません」とホームズがいった。「それから、もう一つうかがっておきます。この筆跡は、真珠箱の宛名の筆跡と同じものですか?」
「それはここに持ってきております」そういって彼女は、数枚の紙きれを取り出した。
「ほんとに、あなたは模範的な依頼人です。いい勘(かん)をしておられる。では、ちょっと拝見」
彼は紙きれをテーブルの上に広げると、次から次へと鋭い視線を投げかけた。「みんな筆跡をわざと変えている、手紙は別だが」と彼は直ちにいった。「だが、筆者については疑いの余地はない。ご覧なさい、ギリシャ文字風の e はごまかしきれないし、 最後にくる s の字がひねってある。 間違いなく同じ人が書いたものです。モースタンさん、ぼくはいたずらに希望を持たせることは好まないが、この筆跡はお父さんの筆跡に似たところがないでしょうか?」
「全然、似ておりません」
「そうおっしゃるだろうと思った。それでは、六時にお待ちしてます。紙きれは置いていってください。前もって調べておきたいことがありますから。いま、三時半をまわったばかりです。ではまた(オー・ルヴォワール)」
「それではまた(オー・ルヴォワール)」と訪問客はいった。そして、輝く優しいまなざしを私たち二人に投げかけると、真珠の入った小箱を胸にしまい、急ぎ足で立ち去った。
私は窓辺に立って、彼女が足早に通りを歩いていくのを見守った。やがて、灰色のターバンと白い羽根は、小さな点となって、くすんだ人ごみの中に消えた。
「なんてきれいなひとなのだろう!」私は友達の方を振り返って叫んだ。彼は再びパイプに火をつけ、たれ下がったまぶたで椅子にもたれていた。
「そうかね?」と彼はものうげな調子でいった。「気がつかなかった」
「きみは本当に機械だよ……計算機だ」と私は叫んだ。「時々きみには何かひどく非人間的なところがあるね」
彼は優しくほほえんだ。「何よりも重要なことはだね」と彼は大声でいった。「相手の個人的な特徴によって、判断力をにぶらされないようにすることだよ。ぼくにとって依頼人は問題の中の一単位、一要素にすぎないのだ。明晰な推論に情緒を持ち込むのは危険だ。本当の話、ぼくの知っている一番の美人は、保険金ほしさに三人の子供を毒殺して、死刑になった女だし、また、ぼくが知っている中で最も不愉快な男は、慈善家で、これまでロンドンの貧民のために二十五万ポンド近くの金を投げ出した奴なんだ」
「しかし、この場合は……」
「ぼくは例外はもうけない。例外は規則の反証にしかならないからね。きみはこれまで筆跡を見て性格を判断したことがあるかね? この男の字体についてどう思う?」
「読みやすい、几帳面な字だ」と私は答えた。「事務能力にすぐれ、幾分個性の強い人」
ホームズは首を振った。「長い文字を見てごらん。他の文字の列からはみ出すことがほとんどない。このdはa のようだし、この l はe のようだ。しっかりした人間なら、どんなに読みづらい字を書いても、必ず長い文字ははっきり書くものだ。この男のkの文字はすわりが悪いし、大文字の書き方には尊大なところがある。今からちょっと出かけてくるよ。二、三調べることがある。この本を読んでいたまえ……最もすばらしい本のひとつだ。ウィンウッド・リードの『人類の殉難』という本だがね。一時間で戻るよ」
私は本を手にして窓際に坐ったが、思いは著者の大胆な思索からかけ離れたところをさ迷っていた。私はさきほどの訪問客……彼女の微笑、声の深い豊かな調子、そして彼女の一生にのしかかる不思議な神秘に心をうばわれていたのである。父が失踪(しっそう)したとき、彼女は十七歳だったとすると、現在は二十七歳……若さがうぬぼれを捨て、経験によって多少落着きを得るという、羨むべき年齢に達しているはずだ。
こんなことをぼんやり思っているうちに、何かよからぬ考えが頭に入りこんできたので、私はあわてて自分の机のところへ行き、最近出た病理学の論文を猛烈な勢いで読み始めた。片足が不自由であるうえに財産もない、一介の軍医たるこの自分が、こんなことを考えるとは何たることか。彼女だって問題の中の一単位、一要素にすぎないのだ。自分の未来が暗闇だというのなら、ただの想像力の鬼火でそれを明るくしようなどと考えるよりは、男らしくそれに直面した方が確かにましなはずだ。
五時半になると、ホームズは帰ってきた。生気に溢(あふ)れ、意欲的で上機嫌だった。彼の場合、こうした気分は、この上なくふさぎ込んだ気分と交互にあらわれるのであった。
「この問題にはさしたる謎はないね」と彼は、ついでやったお茶を受けとりながらいった。「事実を見て、たった一つの説明しか考えられないよ」
「えっ、もう解決したのかい?」
「いや、解決とまではいかないがね。ある暗示的な事実を発見したんだ。しかし、それはきわめて(ヽヽヽヽ)、暗示的なんだ。こまかな点は、これから調べなければいけないが。タイムズ紙のとじ込みを見たら、アパー・ノーウッドの元第三十四ボンベイ歩兵連隊付ショルト少佐が一八八二年の四月二十八日に死亡していることがわかった」
「ぼくはとても鈍感なのかな、ホームズ。何のことだかわからないよ」
「わからないって? これは驚いた。それなら、こう考えてごらん。モースタン大尉が失踪する。ロンドンで大尉が訪ねそうな人といえば、ショルト少佐だけだ。少佐は、彼がロンドンにいるのを知らなかったといっている。四年後に、ショルトは死ぬ。亡くなって一週間たたないうちに、モースタン大尉の娘さんは高価な贈物を受け取る。それは、年々くりかえされ、あげくのはてに娘さんが不当な仕打ちを受けたという今度の手紙だ。不当な仕打ちとは、父の失踪を指すものとしか考えられない。なぜ贈物は、よりによってショルトが死んだ直後にとどけられたか? ショルトの相続人が、秘密について知るところがあり、償いをしようとしているのではないだろうか? こうした事実を説明できる方法が他にあるかね?」
「しかし妙な償いだな! しかもやり方が変だよ!また、なんで、六年前ならいざ知らず、今になって手紙など出すのだろう? それに、手紙には、埋め合わせをしてやるなどと書いてある。あの娘さんは、埋め合わせをしてもらうことなどあるのだろうか? 父親が生きているなどとはとても考えられない。この場合、他に不当な仕打ちに当たるようなものは思いつかないだろう」
「問題はある。確かに、問題はあるよ」物思いに沈んだ調子で、シャーロック・ホームズはいった。「しかし、今晩出かけてみればわかるさ。ほら、四輪馬車がきた。モースタン嬢が乗っているよ。用意はいいかね? じゃあ、下へ行こう、予定の時間を少し過ぎている」
私は帽子と一番重いステッキをとったが、ホームズが引出しから拳銃を出して、ポケットヘしまい込むのが見えた。今夜の仕事は、気の抜けないものと考えているらしかった。
モースタン嬢は黒い上衣に身を包んでいた。その敏感な顔は落着いていたが、青ざめていた。女性であるからこそ、彼女がこれから出かけようとする冒険に、多少の不安を感じるのは当然であった。しかし、彼女は全く自制心を失わずにいて、シャーロック・ホームズがたずねる二、三の質問に手際よく答えた。
「ショルト少佐は父にとって、特別仲のいい友達でした」と彼女はいった。「父の手紙にはショルトさんのことがたくさん書いてあります。少佐と父は、アンダマン島の部隊の指揮をとっておりましたので、いっしょに仕事をすることがよくありました。ところで、誰にもわからないような奇妙な紙きれが一枚、父の机の中にありました。大して重要なものではないでしょうが、ご覧いただけたらと思って、持って参りました。これです」
ホームズはていねいに紙をひろげ、膝の上でしわを伸ばした。それから、彼は二重レンズを出して、あちこち丹念に調べた。
「インド産の紙だ」と彼はいった。「いっときピンで板にとめてあった。図面が書いてあるが、たくさんの広間や、廊下や、通路のある、大きな建物の一部の見取図のようだ。一個所、赤インクで小さな十字がしるされ、その上にかすれたえんぴつ書きで『左から三・三七』とある。左手の隅に、四つの十字をくっつき合うように一列に並べた、奇妙な絵文字がある、そのわきに乱雑な書体で、『四つの署名……ジョナサン・スモール、マホメット・シング、アブドゥラ・カーン、ドスト・アクバー』と書いてある。いや、これが事件と関係があるかどうかはわかりませんがね。しかし、重要な書類であることは間違いないでしょう。裏も表も汚れてないところを見ると、紙入れに大切にしまってあったらしい」
「父の紙入れの中にありました」
「それなら、大事にしまっておくといいでしょう、モースタンさん。何かの役に立つかもしれない。この事件は最初に思ったよりもっと奥深くて入り組んだものになるのではないか、そんな気がし始めてきましたよ。これまでの推理を検討し直さなければなりません」
彼は馬車の中でそりかえったが、まゆを寄せ、うつろなまなざしをしているところからすると、一心に考えごとをしているらしかった。モースタン嬢と私は、小声で、今夜の冒険とその予側される結果について話しあったが、わが友は目的地に着くまで片意地な沈黙を守り続けた。
九月の夕刻で、まだ七時前だった。その日はうっとうしい一日で、濃いじとじとした霧(きり)が、大都会の上に低くたちこめていた。泥のような色をした雲は、ぬかった街路の上に重苦しくのしかかっており、ストランド街の街灯は、おぼろげな光の斑点となって浮かび、泥だらけの舗道にかすかな円形の光を投げかけていた。店の窓からもれる黄色い明かりは、水蒸気を含んだ大気の中に流れ、雑踏する人の往来をかすかな不安定な光で照らした。こうしたわずかな光の筋の中を行き交う果てしない顔の列……悲しそうな顔、嬉しそうな顔、やつれた顔、陽気な顔……そこには、何かうす気味悪いものが感じられた。人生の縮図ででもあるかのように、それらは暗闇から光の中へ出たかと思うと、再び闇へ消えていった。私は雰囲気に負けるたちではないのだが、陰欝な重苦しい夜と、のっぴきならない奇妙な仕事のために、気は滅入り、神経は過敏になっていた。モースタン嬢を見ると、彼女も同じような状態であるらしかった。ホームズだけは些細なことに心を動かされなかった。彼は膝の上に手帳を開き、ときどき懐中電灯の光で、数字や覚え書きを書き入れていた。
ライシアム劇場では、すでに群衆がわきの出入口に殺到していた。正面には、二輪馬車や四輪馬車がひっきりなしに横づけになり、盛装の男たちや、ショールをまいたりダイヤをつけたりした女たちを降ろしていた。指定された三本目の柱へ行くと、馭者(ぎょしゃ)の服装をした、小柄な浅黒い、きびきびした態度の男が近づいてきた。
「モースタンさんのお連れさんですか?」と彼はたずねた。
「わたしがモースタンで、こちらの二人は、お友達ですの」と彼女はいった。
彼は何とも鋭い、せんさくするような眼つきで、私たちを見つめた。
「お嬢さん、失礼ですが」と男は幾分がんこな態度でいった。「お友達が警官でないと保証していただかないと」
「その点は大丈夫ですわ」と彼女は答えた。男がかん高く口笛を吹くと、一人の浮浪児が四輪馬車を引いてきて、ドアをあけた。私たちに話しかけてきた男は、馭者台にのぼり、私たちは中に坐った。ただちに馭者が馬にひと鞭(むち)くれると、馬車は全速力で霧の降る街路を走り出した。
状況は奇妙なものであった。私たちは用件も知らされないままに、どことも知れず連れて行かれようとしていた。しかし、この招待は全く人をかつぐためのものであるか……それはまず考えられない仮定であったが……そうでなければ、私たちの訪問にからんで重大な結末が控えているにちがいなかった。モースタン嬢の態度は、これまでになく断固として冷静であった。私はアフガニスタンでの冒険の思い出話をして、彼女の気を紛(まぎ)らせようとした。しかし正直のところ、私自身、目下の状況に気をとられ、また行先が気がかりで、そのために話にも身が入らなかった。今になっても彼女にいわれることであるが、私は彼女にある感動的な話……真夜中に、歩兵銃が私のテントをのぞきこんだとき、すかさず私は二連発の虎の子を取って、銃めがけて発砲したなどという話をしたそうである。
最初私は、進んでいる方向についておよその見当がついていた。しかし、速度や霧のためばかりか、私自身ロンドンにあまり詳しくないために、やがて方角を見失ってしまい、ただたいそう遠くまで来たぐらいのことしかわからなくなった。しかし、シャーロック・ホームズは決して迷うことがなく、馬車が広場を走り抜けたり、曲がりくねった路地を、入ったり出たりするたびに、地名をつぶやいていた。
「ロチェスター通り」と彼はいった。「ここはヴィンセント広場。ヴォクスホール橋通りへ出たぞ。どうもサリー州がわに向かっているらしいな。そう、思ったとおりだ。いま、橋を渡っているぞ。川が見えるだろう」
確かに、広い静かな水面に明かりが輝いているテムズ川の眺めが一瞬目に入った。しかし、馬車は走り続け、やがて向こう岸の迷路のような通りに入り込んだ。
「ワーズワス通り」とわが友はいった。「プライオリ通り。ラークホール小路。ストックウェル広場。ロバート街。コールド・ハーバー小路。行先はあまり上等な場所ではなさそうだ」
実際、私たちが着いたのは、いかがわしい物騒な区域だった。くすんだ煉瓦(れんが)造りの家並が、角に立ち並ぶ居酒屋のどぎつい照明と、けばけばしい飾りによって引き立つばかりであった。それに続いて、それぞれ小さな前庭のついた、二階建ての住宅が立ち並び、さらにまた、派手な新築の煉瓦造りの建物が延々と続いていた。それは、あたかも大都会という怪物が、郊外に向かってつき出した触角のようだった。
ようやく私たちの馬車は、新開地に建てられた三番目の家の前で停まった。他に人が住んでいる家はなく、私たちが停まった家にしても、台所の窓に灯火が一つゆらめいているのを別とすれば、辺りの家々と同様、真暗だった。しかし、ノックすると、黄色いターバンを巻き、だぶだぶの服と黄色の帯を身につけた、インド人の召使いが、直ちにドアを開いた。郊外のありふれた三流住宅の戸口にたたずむ、この東洋人の姿には、何か奇妙にそぐわないものがあった。
「主人がお待ちです」と彼はいった。それと同時に、どこかの部屋の中から、細い、かん高い声が聞こえた。
「こちらへお通ししろ」と声の主はいった。「すぐこちらへお通ししろ」
私たちはインド人の後に従って、照明の悪いのに加えて造作のひときわ悪い、うす汚れた、ありきたりの廊下を歩いていったが、やがて男は右側のドアに着くと、それを開け放った。まばゆい黄色の光が射してきて、その中に長い頭をした小男の姿が浮かび上がった……頭はすその辺りにこわい赤毛が生え、その中からてかてかの脳天が、まるでもみ(ヽヽ)の木の間から山頂がのぞいているように突き出ていた。彼は立ったまま両手をもみ合わせていたが、顔は絶えず痙攣(けいれん)を起こしていて……笑い顔になったり、しかめ面(つら)になったりして、一瞬も休まることがなかった。生まれつき唇がたれ下がっていて、黄色い不揃いな歯並びが著しく目立つので、彼は絶えず片手を口元へ持っていって、それを少しでも隠そうとした。禿げ頭は人目を引いたけれども、若々しく見えた。事実、ようやく三十を越したばかりだったのである。
「ようこそ、モースタンさん」と彼は力のないかん高い声でくり返した。「ようこそ、紳士諸君。どうぞ、わたしの私室へお入り下さい。狭苦しい所ですがね、お嬢さん、しかし自分の好みに冷わせて作ってあります。南ロンドンという荒涼たる砂漠の中の、芸術のオアシスです」
私たちは招じ入れられた別室のたたずまいに、一様に目を見張った。うらぶれた家の中にあって、ここだけがまるで最上のダイヤモンドが金屑の中に置かれているように、場違いな印象を与えた。絢爛(けんらん)豪華の贅(ぜい)をつくした、カーテンやつづれ織りで壁は飾られ、あちこち、カーテンの引いてある所から、立派な額にはめられた絵や東洋の花瓶がのぞいていた。琥珀(こはく)色と黒の絨毯(じゅうたん)は、分厚くふわふわしていて、苔(こけ)を敷きつめた上を歩くように、足が心地よく沈んだ。部屋を斜めに横切って敷いてある、大きな二枚の虎の皮は、隅の敷き物に置かれた大型の水ぎせるとあいまって、東洋的な豪華な雰囲気をいっそう盛り立てていた。鳩の形をした銀製の香炉が、目に見えないような細い金の糸で、部屋の中央に吊るされていた。それが燃えると、えもいわれぬ芳香が室内に充満した。
「サディアス・ショルト」小柄な男はいぜん顔面を引きつらせ、笑いを浮かべながらいった。「これがわたしの名前です。むろん、あなたがモースタンさん。で、こちらのお二方は……」
「こちらがシャーロック・ホームズさん、こちらがお医者さんのワトスン先生です」
「お医者さんのですが、ほう」少し興奮気味で彼は叫んだ。「聴診器をお持ちですか? あの、ちょっと……ひとつお願いがあるのですが。実はわたしは、僧帽弁のことで大そう不安を持っております。大動脈の方は大丈夫と思いますが、僧帽弁を先生に見ていただけると有難い」乞われるままに、私は心臓を見た。特に異状は認められなかったが、恐怖におびえきっているらしく、頭から足の先まで震えていた。
「異状はないようです」と、私はいった。「心配するようなことはありません」
「あなたなら、わたしの不安に同情してくださるでしょう、モースタンさん」彼は陽気になっていった。「わたしはたいへんな苦労をしておりまして、いつも僧帽弁が悪いのではないかと不安でした。取り越し苦労と知ってほっとしました。モースタンさん、お父上だって、あんなに心臓に負担をかけなかったら、今でも元気でおられたはずです」
このような微妙な問題を軽々しく扱う、この男の無神経なやり方に、私は腹が立ち、横顔を一発なぐったやりたい気持ちだった。モースタン嬢は腰を下ろしたが、唇までが青ざめていた。
「父は死んだものと、心の中では思っておりました」と、彼女はいった。
「あなたには何もかもお話しするつもりです」と、彼はいった。「そのうえ、あなたには償いをしてさしあげたい。バーソロミュー兄が何といおうと、やるつもりです。こちらのお友達があなたの護衛役をしてくださるばかりでなく、これからのわたしの言動の立会人になってもらえるのは嬉しいかぎりです。三人寄ればバーソロミュー兄に堂々と立ち向かえます。だが、警官にしろ役人にしろ、部外者は入れないことにしましょう。人手を借りなくとも、私どもだけで満足のいく解決を見出すことができるでしょう。バーソロミュー兄が一番恐れているのは、表沙汰にされることなのです」
彼は低い長椅子に腰を下ろし、元気のない、うるんだ青い目をしばたたかせながら、問いただすようにこちらを向いた。
「こちらとしては」と、ホームズがいった。「そろそろ本題に入ってもらいたいですな」
私はうなずいてそれに同意した。
「ごもっとも、ごもっとも!」と、彼はいった。「キアンティでも一杯いかがですが、モースタンさん。それともトーケイ酒になさいますか? ぶどう酒はそれしがありませんので。ひとつ封を切りましょうか。よろしいんですって? では、失礼してこちらはたばこ……香りのよい東洋たばこを一服といきましょう。ちょっと気が立っておりますが、心を鎮めるには水ぎせるが一番でしてね」
彼が大きな火皿にローソクを持っていくと、薔薇香の水の中から、泡と共に勢いよく煙が立ちのぼった。私たち三人は顔をつき出し、顎(あご)を手で支えながら、半円形になるように坐った。一方、顔を引きつらせた奇怪な小男は、長い頭を光らせながら中央に位置して、落着かない様子できせるをふかした。
「最初、お手紙を差し上げようとした時に」と、彼はいった。「こちらの住所をお教えしてもよかったのですが、心配だったのですね。こちらの意向が無視されて、好ましくない人達をお連れになるのではないかと。そんなわけで、勝手ながら、まず手下のウィリアムズにあなた方を確かめさせようと、場所を指定させていただいたわけです。あの男には全幅の信頼を置いていますので、彼が見てだめだと思うなら、この件はそれで切り上げるよういっておきました。こうした用心深いやり方をしたことについては、お詫(わ)びいたしますが、わたしはどちらかといえば交際ぎらいですし、まあ、あえていわせてもらえば洗練された趣味人ですから、わたしにとって警官ほど野暮なものはないわけです。わたしは粗野な物質主義の匂いのするものには、本能的にすくんでしまうのです。がさつな大衆に接触することはめったにありません。こんな風にして、多少優美な雰囲気に包まれて生活しているのです。わたしは自ら美術の保護者と呼びたいくらいですよ。あのコローの風景画は本物ですし、あのサルヴァトール・ローザは専門家は何というか知りませんが、あのブグローは本物間違いなしです。近代フランス派に目がないものでして」
「ショルトさん、失礼ですが」と、モースタン嬢がいった。「何かおっしゃりたいことがあるというので、それを伺うためにこちらへうかがったのです。夜も更けてきましたから、お話はできるだけ手短かにお願いします」
「いくら急いでも、多少の時間はかかります」と、彼は答えた。「と申すのは、実は、バーソロミュー兄に会いにノーウッドヘ出かけなけれはならないからです。みんなで行ってバーソロミュー兄をへこますことができるかどうかをたしかめにいくわけです。彼はわたしが正しいと思ったことを実行に移したので、ひどく腹を立てているのです。ゆうべは大喧嘩をしました。怒り出すとどんなひどい人間になるか、想像もつかないほどです」
「ノーウッドヘ行くのなら、今すぐ出かけたらいい」と、私はあえて口をはさんだ。
彼は耳先が赤くなるまで笑った。
「それはいけません」と、彼は大声でいった。「突然あなた方をお連れしたら、あの人は何というか分かりませんよ。行く前にまず、私たちがそれぞれどんな立場にあるのかをお話ししておかねばなりません。まず第一に申しあげたいことは、この事件で、わたし自身、知らないことが幾つがあるということです。わたしの知るかぎりの事実を、卒直にお話しするしかありません。
すでにお察しかも知れませんが、わたしの父はかつてインド軍におりましたジョン・ショルト大佐です。十一年ほど前に退役し、アパー・ノーウッドのポンディシェリー荘に住みつきました。父はインドで成功し、かなりの額の金と、たくさんの高価で珍奇な品々、それに現地の召使い達を引き連れて帰国しました。おかげで家を買ってからは、たいへん贅沢(ぜいたく)な生活でした。子供は双児(ふたご)の兄のバーソロミューとわたしだけでした。
モースタン大尉が失踪された時の騒ぎは、今でもよく憶えています。私たちは新聞で委細を知り、大尉が父の友人だったことは聞いておりましたので、私たちは父のいる所でこの問題をざっくばらんに論じ合いました。父は、大尉の失踪について私たちと一緒になって推理することがありました。父がすべての秘密を胸に秘めていようとは、よりによって父だけがアーサー・モースタンの運命を知っていようとは、私たちは一瞬たりとも疑ったことがありませんでした。
しかし、ある秘密が、ある抜きさしならない危機が、父の上に迫っていることは、私たちにもわかりました。父は一人で外出することを非常に恐(こわ)がり、いつもポンディシェリー荘の門番に、ボクサーを二人雇っていました。今晩、皆さんをご案内したウィリアムズは、その一人です。この男はかつての全英ライト級のチャンピオンです。父は何が恐いのか、決して言おうとしませんでしたが、義足の人を特に毛嫌いしていました。実際、ある時などは、義足をつけた人に発砲したりしました、注文取りにきた何の罪もない商人だったのですが。事件をもみ消すために、私たちは多額の金を使いました。兄とわたしは、これは単なる父の気まぐれだろうと考えたものでしたが、それ以来、私たちが考えを変えざるを得ないような出来事が起こったのです。
一八八二年の初頭に、父に大変な衝撃を与えることになった一通の手紙が、インドからとどきました。彼はそれを開封した時、朝食のテーブルで気を失いかけ、それ以後、病いの床に伏したまま、死ぬまで回復しませんでした。手紙の内容は知る由もありませんでしたが、父が手紙を手にしている時、それが短い走り書きであることが見てとれました。何年も前から父は脾臓(ひぞう)肥大症にかかっておりましたが、それがこの時になって急速に悪化し、四月の末になると、彼は私たちに、もう治る見込みはないから、最後の遺言をしたいといい出しました。
私たちが部屋に入った時、父は枕に支えられて身を起こし、苦しそうに息をしていました。ドアの鍵を掛けるようにいい、私たちをベッドの両側に呼び寄せました。それから、父は二人の手を握り、苦痛と興奮で声を途ぎれさせながら驚くべき事実を物語ったのです。父の述べた言葉をそのままお伝えしましょう。
『わしはこのいまわの際になって』と父は申しました。『ひとつだけ心に懸(かか)っていることがある。死んだモースタンの遺児のことだ。一生を通してわしを悩まし続けた、貪欲(どんよく)という忌わしい罪のために、わしは少なくともその半分は彼の娘のものとなるはずの宝を、一人占めにしてしまった。それなのにわしは、それを自分のために使ったわけでもなかった……欲とはそれほど思慮分別を欠くものなのだ。ただの所有感だけがかけがえのないものだったので、わしは宝物を他人とわかちあうなどということに、我慢がならなかった。そこのキニーネの瓶(びん)のそばに、真珠のじゅずがあるだろう。これはモースタンの娘にやるつもりで持ち出してきたものだが、それでも惜しくて手放せなかったのだ。おまえたちはあの娘にアグラの宝の正当な分け前をやってほしい。だが、何も送らんでくれ、わしが生きておるうちはな……じゅずもだ。これよりひどい病気にかかりながら、よくなった奴もいるのだからな。
モースタンがどうして死んだかをいっておこう』
父は語り続けました。『あの男は何年も前から心臓が悪かったのだが、誰にもそれをしゃべらなかった。知っていたのはわしだけだ。インドにおった時、あの男とわしは、全く偶然が重なり合って、相当な宝物を手に入れることになった。わしはそれを英国へ持ち帰ったのだが、モースタンは帰国した晩、分け前を請求しにまっすぐここへやってきた。彼は駅から歩いてきて、もう亡くなったがわしの忠実なラル・チャウダーじいさんの取りつぎで家に人った。モースタンとわしは、宝物の配分のことで意見があわず、激しい口論となった。モースタンはかっとなって椅子からとび上がったが、そのとき突然、顔を土気色にして、脇を手で押さえながら仰向けに倒れ、その拍子に、宝物箱の隅にぶつけて頭を切った。屈(かが)んで見ると、驚いたことに、彼は死んでおった。
長い間、わしはどうしたものかと考えながら、半ば心をとり乱して坐っておった。最初に思いついたことは、もちろん、助けを呼ぶことだった。だが、どうみてもわしが加害者にされることは明らかだ。喧嘩の最中に死んだこと、頭に傷口があること、これがわしにとって不利な証拠となる。それに、取調べを受けるとなると、わしがこれだけは内証にしておきたいと思った宝のことが明るみに出てしまう。あの男は、自分の居所を知っておるものは一人もいないといっておった。それなら、わざわざ人に知らせることもあるまい、とわしは思ったのだ。
なおもこのことについて考えあぐんでおったが、ふと気がつくと、召使いのラル・チャウダーが戸口に立っている。忍び足で部屋に入るとうしろ手に錠を掛けた。「旦那、ご心配なさることはありません」と奴はいった。「旦那が殺したことは内緒にしておきましょう。死体を隠してしまえば分かりゃしませんよ」
「わたしが殺したのではない」とわしはいった。ラル・チャウダーは首を横に振って、笑った。「旦那、みんな聞いちまったんです」と奴はいった。「喧嘩する声が聞こえて、殴る物音が聞こえました。でも、あっしは口の固い男です。家の者は、みんな眠ってまさあ。死体を隠しちまいましょう」
わしを決断させるに充分な言葉だった。自分の召使いでさえ、わしの潔白を信じてくれないのなら、十二人の愚かな陪審員達をどうやって納得させることができようか。ラル・チャウダーとわしは、その晩、死体を処分した。二、三日すると、ロンドン中の新聞が、モースタン大尉の奇怪な失踪について書きたてた。そういった次第なので、お前たちにはわしが潔白であることが分かってもらえるだろう。わしが犯した過ちは、死体ばかりか宝も隠したこと、それにモースタンの取り分まで横取りしてしまったことだ。だからお前たちにこの埋め合わせをしてほしい。ちょっと耳を貸せ。宝の隠し場所はだな……』
ちょうどその時、父の顔は恐ろしい形相に一変しました。ものすごい目つきで一点を見つめながら、口をぱっくり開き、忘れることのできない叫び声で『あいつを追い出せ。頼むからあいつを追い出してくれ』といいました。私たちは父の視線が注がれた窓の方を振り返って見ました。一つの顔が暗闇の中から私たちをじっと見ています。ガラスにぴったり押しつけられた鼻の、白くなった所が見えるのです。それはひげをたくわえた、毛むくじゃらの顔で、狂暴で残酷な瞳には、激しい憎悪の感情が現われています。兄とわたしは窓際へかけ寄りましたが、もう男の姿はありませんでした。父の所へ戻ってみると、すでに頭はがくりと落ちて、脈は止まっていました。
その夜、庭を捜しましたが闖入(ちんにゅう)者の姿はどこにも見当らず、ただ窓の下の花壇に足跡が一つ残っているだけでした。その足跡がなかったら、私たちはあの狂暴で残酷な顔は、自分たちの想像力が造り出した幻影だと思ったことでしょう。しかし、ほどなく、私たちの身の周りで、秘密の力が働いていることを示すような、また別の、もっと明白な証拠が現われたのです。朝見ますと、父の部屋の窓が開いており、戸棚や箱の中は荒らされていて、死体の胸の上には『四つの署名』と走り書きした紙切れが留めてありました。これが何を意味するのか、また誰のしわざなのか、知る由もありません。何もかもひっくりかえしてあるのに、見たところ、父の持物には何ひとつ手をつけてないのです。 兄とわたしは、当然のことながら、この奇怪な事件は、父が一生つきまとわれた恐怖と関係があるに違いないと考えました。しかし事件は、私たちにとっていぜんとして全く謎に包まれたままなのです」
小男は語り終わると、水ぎせるに再び火をつけ、しばらくの間、もの思いに沈んだ表情でたばこをふかしていた。私たちはみんな夢中になって、この驚くべき話に耳を傾けていた。モースタン嬢は、父の死のくだりになると真っ青になり、一瞬私は、彼女が気を失うのではないかと思ったほどだった。しかし、サイドテーブルにあったヴェニス製の水さしから静かに水を注いで渡すと、彼女はそれを飲んでやっと元気をとり戻した。シャーロック・ホームズは輝く瞳を伏し目がちにしたまま、ぼんやりした顔つきで椅子にもたれていた。彼の方をちらりと見やった時、私は彼がよりによってこの日に、人生は退屈だなどとひどく不満めいたことをいったのを思い出した。少なくとも、今ここに、彼に精一杯知恵を絞ってもらわなければならない問題が現われたのだ。
サディアス・ショルト氏は、自分の話が引き起こした効果に、明らかに得意の様子で、私たちを一人ずつ見やり、大きすぎるきせるをふかしながら話を続けた。
「兄と私は」と、彼はいった。「当然のことながら、父の話に出た宝のことで大変興奮しました。何週間も何力月も私たちは、隠し場所が分からないままに、庭の到る所を掘り起こしました。そのありかは、父が死ぬ瞬間に口まで出かかっていたと思うと、無念でやり切れません。父が取り出したじゅずを見ただけでも、隠された宝がどれだけ立派なものか見当がつきました。バーソロミュー兄とわたしはこのじゅずをめぐって議論しました。真珠は間違いなく、高価なものであり、兄はそれを手放したがりません。ここだけの話ですが、兄自身、父と同じ過ちを犯しかねなかったのです。彼はまた、もしじゅずを手放せば、噂の種になり、あげくの果てにはやっかいな羽目に陥ると考えていました。わたしは手をつくして兄を説得した末、モースタン嬢の住所を捜し出して、じゅずから取りはずした真珠を、一定の期間を置いて一つずつ送り、彼女に貧乏な思いをさせないようにする、こう決めたわけなのです」
「ご親切なお取り計らいで」と、モースタン嬢は真顔でいった。「本当に有難うございました」
小男はとんでもないといわんばかりに、手を振った。「私たちは保管人というわけで」と、彼はいった。「少なくともわたしはそう考えておりました。バーソロミュー兄は全く別の見方をしてましたが。私たちは巨額の金を持っておりましたし、わたしはこれ以上ほしいとは思いませんでした。それに、若いご婦人にそんな卑劣なまねをするなんて、実に悪趣味というべきです。『悪趣味は犯罪につながる』フランス人はまことにうまいことをいうものです。兄とわたしはこの件に関してあまりにも考えが違っておりましたので、わたしは別居するのが最善だと思いました。そこで、例の年とった召使いとウィリアムズを連れて、ポンディシェリー荘を出たわけです。しかし、昨日になって、きわめて重大な事柄が生じたことがわかりました。宝が見つかったのです。それで、直ちにモースタン嬢に連絡をさしあげ、あとは私たちがノーウッドヘ出かけていって、自分等の取り分を請求するばかりになっています。わたしは昨夜、バーソロミュー兄に、こちらの考えを伝えておきました。ですから、喜んで迎えはしないでしょうが、待ち受けていることは確かです」
サディアス・ショルト氏は話し終ると、豪華な長椅子のうえで顔を引きつらせた。私たちは、この奇性な事件に生じた新たな局面に思いを馳(は)せながら、一様におし黙っていた。ホームズが最初に立ち上がった。
「ショルトさん、あなたは終始、よいことをなさいました」と、彼はいった。「私どもとしては、事件の闇に包まれた部分を明らかにして、多少のご恩返しをしたいと思います。しかし、さきほどモースタン嬢がいわれたとおり、もう遅いですから、ただちに実行に移るのがよろしいでしょう」
ショルト氏は水ぎせるの管をていねいに巻くと、カーテンの後から襟と袖口にアストラカンをつけた、胸紐の飾り留めつきのひどく長めのコートを取りだした。その晩は、むし署い陽気だったにもかかわらず、彼は襟元までボタンを掛け、さらに、耳被(おお)いのついた兎皮の帽子をかぶったので、人目に触れるのは、ぴくぴく引きつれる、やつれた顔面だけであった。
「あまり丈夫なたちではないものですから」と、彼は先頭に立って、廊下を歩きながらいった。「いやでも健康に気をつかいます」
馬車は外で待機していた。馭者がすぐさま全速力で出発したところを見ると、すべて手筈がととのっていたらしかった。サディアス・ショルトは車輪のきしむ音に負けないような声で、絶え間なくしゃべり続けた。
「バーソロミューは頭のいい男です」と、彼はいった。「どうやって宝物を捜し出したと思いますか? 彼は宝は家の中にあると判断して、家の容積を算出し、一インチもゆるがせにせずにあらゆる場所を測定したのです。彼は特にこういうことに気づきました。つまり建物の高さは七十四フィートあるのに、全部の部屋の高さを合計し、あいだの空間の分……彼は穴をあけてそれを確かめたのですが……その分を加えても、七十フィートにしかなりません。四フィートだけ足りないわけです。この分は家の上の方にあるとしか考えられません。そこで兄は、一番上の部屋のこまい(ヽヽヽ)と漆喰(しっくい)で固めた天井に穴をあけてみますと、そこにはすっかり密閉されて、誰にも気づかれなかった、別の小さな屋根裏部屋があったのです。その中央に、二本のたる木に支えられて宝の箱がありました。兄は穴の間から箱をおろし、そこにおいてあります。彼の見積りでは、宝石は五十万ポンドは下らない価値があるだろうとのことです」
この途方もない額を聞いて、私たちは目をみはって、互いに顔を見あわせた。私たちにモースタン嬢の権利を回復することができれば、彼女は貧しい家庭教師から、一躍英国一の相続人になれるのだ。こういう知らせを聞いて喜ぶのが、真の友達というものである。しかし、恥かしいことに私は、利己心の固まりのような人間だったので、心は鉛(なまり)のように重たく沈むばかりだった。私はたどたどしく、お祝いの言葉を二言三言口ごもると、ショルト氏のおしゃべりに耳も貸さず、うなだれて坐っていた。彼は明らかに慢性の憂欝(ゆううつ)症であって、さまざまな症状について長々と弁じたてては、いろんなインチキ特効薬……そのうち何種類かは皮製のケースにいれてポケットに携帯していた……の成分と作用について教えてほしいというのを、私はうわの空で聞いていた。その時の私の答えを、彼が一つも覚えていなければいいと、今にして思う。ホームズのいうところによると、私がひまし油を二滴以上のむと大変危険だといったり、また、鎮静剤としてストリキニーネを多量に服用するようにすすめたりするのが、耳に入ったという。いずれにしろ馬車が急に停止し、馭者が跳びおりて扉をあけた時、私は本当に救われる思いがした。
「モースタンさん、これがポンディシェリー荘です」と、サディアス・ショルト氏は彼女に手をさしのべながらいった。
この夜の冒険の最後の段階に到達したとき、時刻はすでに十一時近かった。湿った霧につつまれた大都会を遠く離れて、夜空はよく晴れ渡っていた。西寄りの暖かい風が吹き、厚い雲がゆったりと空を横切り、時たま月が雲の裂け目から顔を半分のぞかせた。あたりを見渡せるほどの明るさだったが、サディアス・ショルトは、足元がよく見えるようにと、側灯を一つ馬車からおろした。
ポンディシェリー荘は庭園の中に立ち、てっぺんにガラスの破片のついた、非常に高い石塀がそれをとり巻いていた。鉄でがっしり止めた、狭い扉が一つあり、それが唯一の入口であった。私たちの案内人は、郵便配達人がするような特徴ある叩き方で、ドアをノックした。
「何者だ?」と、なかからどら声が叫んだ。
「わたしだよ、マグマード。もうわたしのノックなら、わかるはずだよ」
ぶつぶついう声と、鍵の触れあう音が聞こえた。重い扉が開かれると、空地に、背の低い、がっしりした男が立っていた。実き出た顔と疑い深げにしばたく目が、男の手にした黄色の灯火に浮かび上がった。
「サディアスさん、あなたですかい? だが他の人たちはどなたです? 旦那から他の人は入れるなといわれてますんで」
「本当かね、マグマード? こいつは驚きだ! ゆうべ兄に友達を連れてくるといっておいたんだが」
「旦那は、今日は部屋にこもりきりなものですからね、サディアスさん、何もうかがっておりませんので。わしはいわれたことは厳しく守ることにしています。あなたはお通しできますが、他の人達はそこから一歩でも入られては困る」
これは思いがけない障害だった。サディアス・ショルトは困惑しきった面持ちであたりを見まわした。
「ひどいよ、マグマード!」と、彼はいった。「わたしが保証すれば、充分じゃないか。若いご婦人もおられるし。こんな時刻に通りで待たしておくわけにはいかないよ」
「お気の毒だが、サディアスさん」と、門番は冷酷にいった。「あなたの友達といっても、わしの主人の友達とはかぎりませんよ。わしは給料はたんともらっているから、いわれたことはちゃんとやるわけでして。あなたの友達といっても、わしは知らないね」
「いや、知っているよ、マグマード」と、シャーロック・ホームズが穏やかに声をかけた。「まさか、このぼくを忘れてはいないだろう。四年前、きみの後援興行の晩、アリスンのところで、きみと三ラウンド闘った、あのアマチュアのことを憶えているだろう?」
「えっ、シャーロック・ホームズさんですかい!」と、ボクサーは叫んだ。「いやいや、お見それしました! そんな所でじっとしていないで、なかにはいってきて、わしにアッパーカットでも一発くれたらすぐわかったのに。あんたは実際、あったら天分を無駄にしたね! あっしたちの仲間にはいっていたら、相当のところまでいけたのに」
「ねえ、ワトスン、ぼくが他のあらゆる道で出世できないとしても、あと一つだけ科学的な職業でぼくに向いた仕事があるというわけだよ」と、ホームズは笑いながらいった。「これで、寒い戸外に立ちつくす必要はなさそうだな」
「どうぞ、どうぞ、おはいりください……お友達もいっしょに」と、彼はいった。「サディアスさん、失礼しました。命令がとてもきついもので。人を確かめてから、お入れしなければならんのです」
なかへ入ると、荒涼とした庭園内を、くねった砂利道が続き、その先には殺風景な真四角の家の固まりがあった。わずかな月の光が家の一隅に射し、屋根裏部屋の窓が反射するだけで、すべてが闇に包まれていた。暗く静まりかえった、巨大な建物を見ると、骨の髄(ずい)まで凍る思いがした。サディアス・ショルトですら落着かない様子で、手にした灯火が震えて、かたかた音を立てた。
「おかしいな」と、彼はいった。「何かあったのかな。今晩来るとバーソロミュー兄にはっきりいっておいたのに、部屋にはあかりもついていない。どうしたのだろう」
「兄上はいつもこんなに厳重に屋敷を警備させておくのですか?」と、ホームズがたずねた。
「そうです、父のやり方を継いでいるのです。兄は父のお気に入りでしたから、わたしなんかよりやかましく父にいわれていたのではないかと、時々思うことがあります。あの月の光が射しているところが兄の窓です。あんなに明るいのに、でも、あれは室内のあかりではありませんね」
「そうですね」と、ホームズがいった。「でも、戸口のわきの小窓は明るくなっていますよ」
「ああ、あれは家政婦の部屋です。年とったバーンストン夫人が住んでいます。彼女に聞けば分かるでしょう。ちょっとここでお待ち願えますか。家政婦は私たちが来るのを知りませんので、皆でおしかけるとびっくりするでしょうから。おや、静かに! あれは何だろう?」
彼は灯火をかかげた。手が震えていたので、ゆらめく光の輪が私たちのまわりで揺れた。モースタン嬢は私の手首をつかみ、私たち一同は心臓をときめかせ、耳をそば立てながら立ちつくしていた。黒い大きな家の中から夜の静けさを破って、いとも物悲しい、哀調を帯びた声が聞こえてきた……恐怖におびえる女の、かん高い、とぎれとぎれのすすり泣きだった。
「バーンストン夫人だ」と、ショルトがいった。「他に女の人はいません。ここにいてください。すぐ戻ります」
彼は急いで戸口ヘ行くと、独特の仕方でノックした。背の高い老女がドアを開け、彼の姿を見て、嬉しさのあまり身を震わすのがうかがえた。
「ああ、サディアス様、いいところへいらしてくださいました。ほんとに、いいところへ来てくださいましたわ、サディアス様」
彼女が嬉しそうに挨拶をくり返すのが聞こえたが、やがてドアか閉まると、その声はかすれて、圧し殺したような調子に変わった。私たちにはサディアスが置いていった灯火があった。ホームズはそれを取ると、ゆるやかに振りまわしながら、建物と、外にうず高く積まれた大きな廃物の山を、鋭い目つきで眺めた。私はモースタン嬢の手をとったまま、彼女に寄りそって立っていた。恋とは実に味なものである……以前に一度も会ったことがなく、愛の言葉も愛のまなざしも交わしたことがない私たちだというのに、今や危険に直面した時、われ知らず互いに手を求め合うとは。後になって不思議に思ったものだが、その時は、こうして彼女に手をさしのべることが、きわめて自然に思われた。また彼女の方も、ときどき自ら私に語るところによると、いたわりを求める気持から、つい無意識に私に手をさし出してきたのだった。こうして私たち二人は、子供のように手を取りあったまま立ちつくしていた。真暗な闇にとりまかれていたにもかかわらず、二人の心には安らぎがあった。
「何とも異様な場所ですこと!」と、あたりを見まわしながら彼女がいった。「国中のもぐらを放したみたいですね。以前、バララット〔オーストラリアの金鉱の中心地〕の近くの丘の斜面で、やはりこんなのを見たことがあります。金を試掘する連中が掘った跡だったのですが」
「これも同じさ」と、ホームズがいった。「宝捜しの跡だ。六年間も掘っていたわけだ。砂利採取場のように見えるのも無理はないさ」
この時、戸口が急に開いて、サディアス・ショルトが両手を前へつき出し、目には恐怖の色を浮かべながら、とび出してきた。
「バーソロミューがどうかしたらしい!」と、彼は叫んだ。「ああ恐ろしい! とても耐えられない」
実際、彼は恐怖のあまり、ろくに口もきけなかった。大きなアストラカンの襟(えり)からのぞく引きつれた絶望的な顔には、おびえた子供の訴えるような弱々しい表情が現われていた。
「なかにはいってみよう」と、ホームズはいつもの歯ぎれのよい断固とした口調でいった。
「どうぞ、そうしてください!」と、サディアス・ショルトは哀願するようにいった。「わたしにはとても人に指図する気力などありません」
私たちは彼の後について、廊下の左側にある家政婦の部屋にはいった。老女はおびえた目つきをして、何かをつまむように休みなく指を動かしながら室内を歩きまわっていたが、モースタン嬢の姿を見ると、安心したようだった。
「まあ、お美しい穏やかなお顔!」と、ヒステリックにすすり泣きながら、彼女は叫んだ。「あなたのお顔を見てほっとしました。ああ、でも今日は、何とひどい目にあったのでしょう!」
モースタン嬢は、やせて荒れた老女の手を取って、軽く叩きながら、女らしい優しさのこもった慰めの言葉を二言三言ささやいた。やがて、血の気のない老女の頬には生気がよみがえってきた。
「旦那様は部屋にこもられたきりで、何をいってもお答えになりません」と、彼女は説明した。「旦那様はよく、一人にしておいてほしいとおっしゃることがありますので、今日はお声があるまで一日じっとしておりました。ただ、一時間ほど前、何だか様子か変だと思いましたので、二階へ上がって、鍵穴からそっとのぞいてみたのです。サディアス様、お二階へいらしてみてください……ご自分でご覧になってください。この十年間、バーソロミュー様が嬉しいお顔つきをなさったり、悲しいお顔つきをなさったりするのを見てまいりましたけれど、あんなお顔をされたのは見たことがありません」
サディアス・ショルトは歯をかたかたさせるばかりなので、ホームズが灯火を持って、先頭に立った。ショルトはあまりにも動揺して膝を震わせているので、階段をのぼる時、私が手をかしてやらねばならなかった。のぼりながらホームズは、二度ポケットからレンズをす早くとり出し、階段に敷いてある椰子(やし)織りのむしろについた、ただの泥の跡としか見えないようなしみを丹念に調べた。彼は灯火を低くかざし、左右に鋭い視線を投げながら、ゆっくりと一段ずつのぼっていった。モースタン嬢は、おびえている家政婦につき添って、後に残っていた。
三つ目の階段をのぼりつめると、やや長い真直ぐの廊下があった。その右側には大きな絵模様のインド産のつづれ織りがかかっており、左側にはドアが三つあった。ホームズはあい変わらず、ゆっくりと几帳面に調べながら進んでいった。そして、私たちは背後の廊下に長い黒い影をひきずりながら、彼の後にぴったりついていった。私たちが向かったのは三つ目のドアだった。ホームズはノックしたが、応答がないので把手をまわして無理にあけようとした。しかし、内がわから何かがかってあり、灯火を近づけてよく見ると、巾広の頑丈なかんぬきが見えた。だが、鍵がまわるところを見ると、鍵穴は完全に塞(ふさ)がれているわけではなかった。シャーロック・ホームズは鍵穴の高さに腰をかがめたと思うと、深く息を吸い込みながら、すぐに立ちあがった。
「何やら気味の悪いものがあるよ、ワトスン」と、彼はいったが、こんなに彼が動揺したのを、私は見たことがなかった。「きみはどう思う?」
私はかかんで鍵穴をのぞいたが、恐怖のあまり思わず後ずさりした。室内には月の光が射し込み、ぼんやりした仄(ほの)かな輝きで充たしていた。一つの顔が、私をじっと見つめながら、まるで宙に吊るされたように……というのは下の方は影になっているからであるが……そこに懸(かか)っていた。まぎれもなく、それはわれらが友人サディアスの顔なのだ。例の長い禿げ頭と、ぐるりをとりまくごわごわの赤毛、血色のない顔色が、そのままそこにあった。しかし、その顔は不気味な微笑(ほほえみ)……こわばった不自然な薄笑いを浮かべており、それは月あかりに照らされた静かな部屋の中では、どんな歪(ゆが)んだ恐しい顔にもまして神経にこたえた。その顔があまりにもサディアスの顔に似ているので、彼が本当に一緒についてきているのかどうか、振り向いて確かめたほどだった。その時、私は彼が、兄と自分は双生児だといったのを思い出した。
「こいつはすごい!」と、私はホームズにいった。「どうしたらよいだろう?」
「ドアをこわさなくては」そういうと彼は、錠に全身の力をかけて、ドアに体当たりした。ドアはきしむだけで開かなかった。今度は二人で一緒にぶつかると、ばりっという音とともにドアが開き、私たちはバーソロミュー・ショルトの部屋に侵入した。
部屋は化学実験室にしつらえてあるらしかった。ドアと反対側の壁には、ガラスの栓をしたびんが二列に並べてあり、テーブルの上にはブンゼン灯や試験管やレトルトがところ狭しとおいてあった。隅には竹編みのかごに入った酸のびんが何本かあった。その内の一本は漏れるか破損しているらしく、どす黒い液体がびんを伝わって流れ、室内には、タールの鼻を刺すような匂いが重く漂っていた。部屋の真ん中には、こまい(ヽヽヽ)や漆喰がちらかり、その片がわには段ばしごが立てかけてあった。その真上の天井には、人が一人通れるほどの穴があいていた。段ばしごの下には、とぐろをまいた長いロープが、無造作に投げ捨ててあった。
テーブルのそばの木製の肘かけ椅子には、家のあるじが首を左に傾け、あの恐ろしい謎めいた微笑を浮かべたまま、ぐったりと坐っていた。体は冷たく硬直し、明らかに死後何時間も経過しているようだった。私が見たところ、顔面ばかりか、手足までも異様に歪み、ねじれていた。テーブルにおいた片手のそばには、変わった道具があった……木目の細かい茶色の棒に、石の頭を荒い麻ひもでぞんざいにくくりつけて、ハンマーの形にしてあった。その傍らには、何か走り書きしてある一枚の紙切れがあった。「ほら、見たまえ」と、彼は意味ありげに眉を上げていった。
灯火の光にかざして、恐怖に震えながら私は読んだ。「四つの署名」
「一体、これはどういう意味なんだ?」と、私はたずねた。
「殺人のことだよ」と、彼は死体の上に身を屈(かが)めながらいった。「うむ、思ったとおりだ。ほら!」
彼は死体の耳の上の皮膚に、とげのようなものがささっているのを指さした。
「とげみたいだ」と、私はいった。
「とげだよ。抜いてごらん。だが、注意したまえ、毒が塗ってあるぞ」
私は指先でつまんで抜いた。とげは簡単に抜けて、皮膚にはほとんど跡が残らなかった。ごく小さな血痕がついていて、そこが傷口であることがわかった。
「ぼくにはすべてが不可解な謎に見える」と、私はいった。「はっきりしてくるどころか、わからなくなるばかりだよ」
「そうじゃないさ」と、彼は答えた。「刻々とはっきりしてきているよ。あと二、三の点がわかれば、事件の全貌がつかめるんだ」
私たちは部屋にはいった時から、私たちの友人の存在をすっかり忘れてしまっていた。彼はまるで恐怖そのものと化したかのように、両手を絞り、うめき声をあげながら、戸口に立っていた。しかし突然、彼は鋭く、かん高い声をあげた。
「宝物が消えている!」と、彼はいった。「奴らが奪ったのだ! あの穴から私たちは宝物を降ろしたのです。私が手伝いました。兄を最後に見たのはわたしです。ゆうべここで兄と別れ、下へ降りていく時、兄が錠をさすのが聞こえました」
「何時でしたか?」
「十時でした。それなのに兄は、こうして死んでいる。警察が来れば、きっと私が怪しいと疑われる。ああ、間違いなく疑われます。そうでしょう? あなたがたはまさかわたしが下手人だなどと思わないでしょうね? そうだとしたら、あなたがたをわざわざここへお連れしたりはしないですよね? ああ、何たることだ! 気が狂いそうだ!」
彼は狂気の発作を起こしたように、両腕を荒々しくふって、足を踏み鳴らした。
「ショルトさん、恐がることはありませんよ」と、ホームズはその肩に手をかけながら、いたわるようにいった。「ぼくの忠告を聞き、警察へ行って、事件を報告してください。すべての点で協力するむねを申し出てきていただきたい。お戻りになるまで、ぼくたちはここでお待ちしていますから」
小柄な男は、なかば放心したようになって指示にしたがった。おぼつかない足どりで、暗い階段を降りていく音が聞こえた。
「ねえ、ワトスン」とホームズは揉(も)み手をしながらいった。「ぼくたちには三十分の時間がある。有効に使おうじゃないか。さっきいったように、ぼくの推理はほとんど出来上がっている。ただ自信過剰でしくじらないようにしないといけない。事件は単純に見えるけれど、底には何か深いものがあるようだから」
「単純だって!」と、私は大声をあげた。
「そのとおり」と、彼は臨床医学の教授が学生に講義するような態度でいった。「そこの隅に坐っていたまえ、きみの足跡のために余計な混乱が生じるといけないから。さあ、始めよう! まず第一に犯人はどうやって入り、どうやって出たか? ドアは昨夜から閉じたままだ。窓の方はどうかな?」
彼は灯火をもって近づいたが、その間、気のついたことをぶつぶつ口に出していて、私に向かって話しているというよりは、ひとりごとをいっているようだった。「窓は内側から掛け金がかかる。窓枠はがっしりしている。こっち側に蝶番(ちょうつがい)はない。開けてみよう。近くに雨樋(あまどい)はないな。屋根には絶対にとどかない。それなのに、誰か窓のところにのぼったやつがいるんだ。ゆうべは少し雨が降ったね。この敷居のところに、片方の足跡が盛りあがったようについているよ。そして、ここには円い泥の跡があって、それはここの床にも、ここのテーブルのそばにもついている。ワトスン、ここを見てごらんよ。これはかなりはっきりした証拠だ」
私は円形のはっきりした泥の痕跡を見た。「足跡ではないね」と、私はいった。
「ぼくらには足跡よりずっと重要なものだよ。義足の跡だ。ここの敷居には長靴の跡があるだろう……巾の広い、金属製のかかとのついた、重い靴だ。それと並んで義足の跡があるよ」
「義足の男だね」
「そのとおりだ。だが、もう一人いる……非常に腕利きの相棒だな。先生、きみに壁が登れるかね?」
私は開いた窓から外を見た。月はまだ建物の壁面を明るく照らしていた。地上からたっぷり六十フィートはあった。どこを見てもれんが造りの壁面には、足場も裂け目もなかった。
「全く不可能だな」と、私は答えた。
「助けがなかったら不可能だろう。だが、仲間がいて、そこの隅にある丈夫なロープの端を、壁についてるこの大きなかぎに結んで、下へたらしたとする。そうすれば、運動神経の発達した男なら、義足のままだってよじ登れるだろう。もちろん、入った時と同じ方法で出ていき、相棒がロープを引きあげて、かぎからはずし、窓を閉め、なかから掛け金をかけ、来たのと同じやり方で脱出するんだ。ひとつ細かな点をいうとね」と、彼はロープをいじりながら続けた。「この義足の男は、よじ登るのが上手だけれど、船乗り稼業ではないよ。手なんかちっともごつくないんた。レンズで見ると、特にロープの端の方に一か所以上血痕がついている。これから推して、男は勢いよくロープをすべり落ちて、手を擦(す)りむいたんだろうな」
「なるほどもっともだ」と、私はいった。「しかし、事態はいっそう不可解になってきたよ。その謎の相棒とやらはどうなのかね? どうやって部屋へ入り込んだのかね?」
「そう、相棒だがね」と、ホームズは深く考え込みながらおうむ返しにいった。「こいつにはいろいろ興味深い点があるよ。この男がいるからこそ、事件は並の事件と異なったものになっているんだ。おそらくこの男は、わが国の犯罪史上に新分野を開拓することになるだろう……もっとも、類似の事件はインドと、それに、記憶違いでなければセネガンビアで起こっているがね」
「それなら、どうやって入ったんだ?」と、私はくり返したずねた。「ドアは閉っているし、窓からは入れない。煙突からかね?」
「炉がちょっと小さ過ぎる」と、彼は答えた。「ぼくもその可能性はすでに考えたよ」
「それならどうやって?」私はしつこく迫った。
「きみはぼくの理論を応用しようとしないのだね」と、彼は首を振っていった。「これまで何度きみにいったか知らないが、不可能なものを除外していって残ったものが、いかにありそうもなくてもそれが真相なんだ。われわれには犯人が入ったのは、ドアからでも、窓からでも、煙突からでもないことが分かっているんだ。また、部屋の中に隠れていたのでないことも明らかだ。隠れるのは不可能だからね。それなら、どうやって入ったか?」
「屋根にあけた穴から入ってきたんだ!」と、私は叫んだ。
「もちろんそうだ。そうに違いない。きみ、ちょっと灯火をかざしていてくれないか。この上の部屋……宝物が見つかった秘密の部屋を調べてみよう」
彼は段ばしごにのぼり、両手でたる木につかまると、ひらりと屋根裏へ飛び乗った。それからうつ伏せになって灯火をとると、私がのぼるまでそれをかざしていた。
屋根裏部屋は、十フィートに六フィートほどの広さであった。床はたる木でできており、たる木の間は細いこまい(ヽヽヽ)と漆喰なので、梁(はり)から梁へ足場を選んで歩かなければならなかった。天井は頂点に向かって傾斜していて、本物の屋根の内殻をかたち造っていた。家具らしきものは何もなく、多年にわたるほこりが、床に厚くつもっていた。
「ほら、見てみたまえ」と、ホームズは傾斜した壁面に手をやっていった。「これが屋根に通じるはね上げ戸だよ。引き戻せば、ゆるやかな傾斜をもった屋根になる。つまり、ここから第一の犯人が入ったわけだ。犯人の特徴が他にないか調べてみよう」
彼は灯火を床にかざしたが、この時、再びはっとしたような驚きの表情が彼の顔をよぎった。彼の視線をたどってみて、私も、肌に冷たいものが走るのをおぼえた。床には一面、裸足の足跡がついていた……形ははっきりしていて、完全な輪郭をたもっていたが、普通の大人の足跡の半分の寸法もなかった。
「ホームズ」と、私はささやいた。「子供がこんな大それたことをやったんだよ」
彼はただちに冷静さをとり戻した。
「ぼくも一瞬、仰天したよ」と、彼はいった。「だが、これはごく自然なことだ。ぼくには初めから分かっていた、ただいいそびれただけさ。ここには参考になることはもう何もない。下へ降りよう」
「それなら足跡については、どう思うかね?」下の部屋に降り立った時、私は熱心にたずねた。
「ねえ、ワトスン、きみも自分で少しは分析をやってみたらどうかね」少しいらいらして彼はいった。「ぼくのやり方は知っているだろう。応用してみたまえ。結果を比較し合うのも面白いんじゃないかね」
「事実を説明できるようなことは、何も考えつかないんだ」と私は答えた。
「じきにきみにも分かってくるさ」彼はそっけなくいった。「ここには重要なことはもうないだろうが、見るだけは見ておこう」
彼はポケットからレンズと巻尺をとり出すと、床に跪(ひざまず)き、細長い鼻を床板の二、三インチのところまで近づけ、くぼんだ丸い鳥のような目を輝かせ、測ったり、比較したり、調べたりしながら、部屋中せわしなく動きまわった。その敏捷で、物静かな人目につかない動きは、足跡を嗅ぎまわる警察犬を思わせた。彼が法を守るためでなく、逆に法を破るためにその精力と頭脳を傾けたら、どんなに恐ろしい犯罪者になることだろうと、彼を見ながら、私はそんなことを考えていた。調べながらも彼は何やらひとり言をつぶやいていたが、ついに大きな歓声をあげた。
「本当にぼくたちはついてるぞ」と彼はいった。「これで問題は片づいたも同然だ。第一の犯人は運悪くクレオソートの中に足をつっこんだんだ。悪臭を放つ薬品のそばに、小さな足跡が見えるだろう。瓶がこわれて中身が漏(も)っているんだよ」
「だからどうしたというんだ?」と私はたずねた。
「どうしたもこうしたもない。犯人は分かった、それだけだよ」と彼はいった。「ぼくはあの臭いを地の果てまでもつけて行くような犬を知っているんだ。猟犬はにしんの臭いを追って州の端から端まで行くくらいだから、特別に訓練した犬なら、こんな強い臭いだとどこまで行けるかね、まるで比例の計算みたいだ。答えはただちに……おや! 公認の法の代理人たちのお出ましたぞ」
重々しい足音と、がやがやいう大きな話し声が階下から聞こえ、玄関の扉が勢いよく閉められた。
「連中がくる前に」とホームズがいった。「死体の腕とここの足のところにさわってごらん。どうかね?」
「筋肉が板みたいにこちこちだね」と私は答えた。
「そうさ。普通の死後硬直とは比較にならないくらい、ものすごく収縮しているよ。それにこの歪んだ顔、このヒポクラテスの微笑、昔の人のいうところの痙攣(リスス・)的笑い(サルドニクス)というやつだが、これを考えあわせると、どんな結論が浮かんでくるかね?」
「何か強力な植物性アルカロイドによる死だ」と私は答えた。「筋肉の強直痙攣を引き起こす、何かストリキニーネに似た物質だ」
「引きつれた顔の筋肉を見た瞬間、ぼくもそう思った。部屋に入るなり、ぼくは毒がどうやって組織内に入ったのかを調べて見た。それで、一本の棘(とげ)が、そんなに力を用いないで、頭部の皮膚に射ち込まれているのを発見したわけだ。傷を受けた部分は、男が椅子に正座するなら、天井の穴の方を向くはずだというのかわかるだろう。ところで、この棘をよく見てごらんよ」
私は用心深くそれを手にとると、灯火にかざして見た。それは長くて鋭く、黒い色をしており、先端近くは何かゴム液を乾かしたように、光っていた。鈍い方の端はナイフで丸く削ってあつた。
「英国で作られたものかな?」と彼はたずねた。
「いや、絶対に違うね」
「これだけデータがそろえば、きみだって正しい推理が下せるだろう。だが、正規軍が到着したようだから、予備軍は撤退するとしようか」
こういった時、近づいてきた足音が廊下に大きく響きわたり、灰色の服を着た非常にがん丈そうな、恰幅のいい男が大股で部屋の中へはいってきた。赤ら顔をした肥満体の大男で、ふくれあがった下まぶたのたるみの間から、小さな鋭い目が輝いていた。すぐその後には制服の警部と、まだ震えのとまらない、サディアス・ショルトがついてきた。
「なるほどこれか」と彼はおし殺したような、しわがれ声でいった。「なるほど、こいつは大変だわい! ところで、ここにいる人たちはどなたかね? まったくこの家はうさぎの飼育場みたいに、人がうようよしているな」
「まさかお忘れではないでしょうね、アセルニー・ジョーンズさん」とホームズは静かにいった。
「おや、もちろん存じ上げてますとも!」と彼は、ぜいぜい息をしながらいった。「理論家のシャーロック・ホームズさんですね、忘れるどころじゃありませんよ。ビショップゲート宝石事件の時、あなたが原因と推理と結果について、われわれに一席ぶたれたのをよく憶えていますよ。確かにあなたのお陰で正しい捜査が始められましたがね、ただ、あれは今になって見れば、先見の明というよりは、好運によるところが多かったようですな」
「あれは、推理としてはごく単純なものでしたよ」
「まあ、まあ! 真実をお認めになってもよろしいじゃございませんか。ところでこの事件はどうです?ひどい、実にひどい事件です! 厳然たる事実があるのみです……理屈などの余地はありません。わたしは幸運にも、別の事件でノーウッドにきてましてね。署にいた時、連絡を受けたんです。死因は何だと思いますか?」
「いや、これはぼくがとやかく理屈づけるような事件じゃありませんよ」ホームズはそっけなくいった。
「まあ、そうかもしれんが、しかしそれでも、時々あなたはずばり核心を突くことがある、それはわたしらだって認めてますよ。おやっ、ドアは錠がさしてあるわけか。時価五十万ポンドの宝石が紛失している、と。窓はどうなってましたか?」
「閉まっていました。ただ敷居に足跡がついています」
「ふん、ふん。窓が閉まっているのなら、足跡は事件とは関係がないでしょう。そんなのは常識です。発作で死ぬということもありうる。だが、そうだとすると、紛失した宝石はどうなる。あっ、分かったぞ。時どきこういう閃(ひらめ)きがあるんですよ……巡査部長、それにショルトさんも、ちょっと席を外してもらいたい。ホームズさんと、お友達はそのままでよろしいです。……ところで、この点をどう思いますかね、ホームズさん? 本人のいうところによると、ショルトは昨晩、兄と一緒でした。兄が発作で死んだので、ショルトが宝物を運び去ったのではないでしょうかね?」
「ごていねいなことに、ほとけ自ら立ちあがって、なかからドアに鍵をかけたというわけですね」
「ふむ! そいつが難点ですな。では常識でやってみましょう。このサディアス・ショルトが兄と一緒にいたこと、喧嘩があったこと、この点ははっきりしている。兄が死に、宝石がなくなった。この点も確かだ。サディアスが兄のもとを去ってから、兄の姿を見た者はいない。ベッドには寝た形跡がない。サディアスは明らかにとり乱している。顔は……好もしいとはいえない。こうしてわたしはサディアスのまわりに網を張りめぐらしているわけでしてね。その網は、今や彼を囲み込まんとしているんです」
「まだ充分に事実を把握しておられないようですね」とホームズはいった。「この棘(とげ)のような木片には、間違いなく毒が塗ってあったと思われますが、これが男の頭に刺さっていて、まだその痕も残っていますよ。この紙切れには、ご覧のように何か書いてあるが、これがテーブルの上にあって、そのそばに、石の頭をくくりつけた奇妙な道具がありました。こうした点は、あなたの説だとどうなるのですかね?」
「あらゆる点からわが推理を裏づけてますな」肥った探偵は横柄な口調でいった。「この家にはインドがら持ってきた珍奇な品物がたくさんあります。サディアスがこれを持ち出したのであって、棘に毒が塗ってあったとしたら、サディアスがそれを兇器に用いたとしてもおかしくはありませんよ。紙切れは、おそらくにせもので……人目をくらますごまかしです。唯一の問題は、どうやって逃げたかということです。ああ、むろん、屋根に穴があるわけですがね」
彼はずう体の大きなわりには身軽に段ばしごをのぼり、屋根裏部屋へもぐり込んだ。その直後、はね上げ戸を見つけた、と得意になって叫ぶ声が聞こえた。
「やっこさんでも何か見つけることはあるよ」とホームズは肩をすくめながらいった。「あれでもたまには推理力がひらめくことがあるんだ。『才気ばしった馬鹿ほど始末の悪いものはない』さ」
「やっぱりだ!」と、段ばしごに再び姿を現わしたアセルニー・ジョーンズがいった。「結局、事実は理論にまさる、ですな。わたしの見解の正しいことが証明されましたよ。屋根に通じるはね上げ戸があって、半開きになってますよ」
「開けたのはぼくです」
「えっ、そうか! それじゃ知ってたんですか?」彼は、いくぶん落胆した様子だった。「だが、誰が発見したにしろ、犯人がどうやって逃げたかはこれで明らかです。おい、部長!」
「はい」廊下から声がした。「ショルトさんを連れてこい! ショルトさん、わたしは立場上申しあげておきますが、これからはあなたが何をおっしゃっても、あなたにとって不利な材料になるかもしれませんよ。わたしは女王陛下の名において、あなたを兄殺しの犯人として逮捕します」
「それごらんなさい! いったとおりだ!」哀れな小男は両手をさし出し、私たちを一人ずつ見ながら叫んだ。
「ご心配にはおよびませんよ、ショルトさん」ホームズはいった。「あなたが無実であることは立証できます」
「理屈屋さん、あんまり大きなことはいわん方がいいですよ、あんまり大きなことはね」警部はさえぎっていった。「思ったより手ごわいですよ、これは」
「ジョーンズさん、ぼくはショルト氏の無実を証明するばかりでなく、昨晩この部屋に侵入した、二人の犯人のうちの一人の名前と特徴をただで教えてあげますよ。名前はジョナサン・スモールであると確信します。教養の低い、小柄で活動的な男で、右足がなくて義足をはめていますが、その内がわがすりへっています。左足の長靴はつまさきが四角くなった粗末な靴底で、かかとに鉄のたががはめてあります。中年の男で、陽焼けしており、以前は囚人でした。この男のてのひらの皮が、かなり剥(む)け落ちているという事実をもう一つ加えますと、以上の手がかりは、あなたにとって多少の助けになるはずです。もう一人のほうは……」
「へえ、もう一人だって?」アセルニー・ジョーンズは嘲(あざけ)るような声でいったが、それにもかかわらず、相手の厳密な口ぶりに感じ入った様子がうかかえた。
「少しばかり奇妙な人物ですがね」シャーロック・ホームズはまわれ右をしながらいった。「近いうちに二人をお目にかけられるでしょう。ワトスン、ちょっと話がある」
彼は階段の上へ私を連れていった。
「こんな思いがけない事態が生じたために」と彼はいった。「ぼくらは、ここへきた当初の目的を忘れてしまったようだ」
「ぼくもそう思っていた」と私は答えた。「モースタン嬢をこんな恐ろしい家にいつまでもおいておくのはまずいよ」
「そうだ。きみが家まで送れよ。彼女はローアー・キャンバウエルのセシル・フォレスター夫人の所に住んでいるが、そんなに遠くはない。きみにもう一度外出する気があるなら、ここで待っていてもよいがね。それとも、もうくたびれたかね?」
「いや、全然。この奇怪な事件のことをもっと知るまでは、とても寝られそうもないよ。ぼくだって人生の裏側は多少は見てきたつもりだが、本当のところ、今晩こんなふうに思いもよらない奇怪事が立て続けに起こると、いい加減参ってしまうよ。だが、もうここまで踏みこんだからには、きみにつきあって、解決を見とどけたいね」
「きみがいてくれると大いに助かるよ」と彼は答えた。「われわれは独自の立場から調査をやることにして、あのジョーンズには勝手にすきなものを発見させて嬉しがらせておこうや。モースタン嬢を送りとどけたら、ランベスの川岸に近い、ピンチン小路三番地へ行ってもらいたい。右側の三軒目の家が鳥の剥製(はくせい)屋で、名前はシャーマンだ。ウインドーに小兎をくわえたいたち(ヽヽヽ)が置いてあるよ。シャーマン老人を起こしてぼくの使いだといって、いますぐトービーを必要としていると伝えてくれ。トービーをきみの馬車に乗せて、ここへ連れてきてほしいんだ」
「そいつは犬だね」
「そう、変な雑種でね、実に驚くべき嗅覚をしている。ロンドン中の探偵団よりも、この犬の助けがほしいんだよ」
「それなら連れてくるよ」と私はいった。「いま、一時だ。馬を交換できたら、三時前には戻れるだろう」
「そしてぼくは」とホームズはいった。「その間にバーンストン夫人と、インド人の召使い、サディアスの話だと隣の屋根裏部屋で寝ているというのだが、この二人から聞き出せるだけのことを聞いておこう。それがすんだら、ジョーンズ御大(おんたい)の方法を研究したり、彼のあまり上手ではない皮肉に耳を傾けるとしよう。『人は自分の理解できないことを嘲笑するものだ』
ゲーテはいつも含蓄(がんちく)のあることをいうね」
警察の連中は馬車できていたので、私はそれを借用してモースタン嬢を家に送りとどけた。彼女は自分より弱い者がいて、その支えになってやらなければならない間は、健気(けなげ)にも女らしく落ちつき払って苦難に耐え、動転した家政婦につきそいながら、快活で穏やかに振舞っていたのだった。しかし、馬車に乗ると、彼女はまず気を失いかけ、次に激しく泣き始めた……彼女はこの夜の冒険で、それほど苦痛な試練を受けたのだった。
今でも私にいうことであるが、その日の私の態度は、冷淡でよそよそしかったという。彼女は私の心の中の葛藤(かっとう)、もしくは私を控え目にさせた自制心の働きに、気づかなかったらしい。庭で私の手が彼女にさしのべられたように、今や私の愛と同情は、ひたすら彼女にむかってさしのべられていた。たとえ何年にもおよぶ平凡な日常生活を共にしても、この波乱万丈の一日ほど、彼女の優しく勇敢な性格をはっきり気づかせるものはない、と私は感じた。しかし私は二つのことが気になって、愛の言葉を口に出しかねていた。彼女は身心ともに打ちひしがれて、弱々しく無力であった。こんなときに求婚などするのは彼女に不意打ちを喰わせるようなものだ。さらに工合悪いことに、彼女は金持だ。もしホームズの調査が首尾よくいけば、彼女は相続人になるかもしれない。退職給を受けている外科医の分際で、偶然得ただけの縁をこんなふうに利用するのは、はたして正しいであろうか、名誉あることであろうか? 彼女は自分を単なる財産目当ての俗物と見なしはしないだろうか? 彼女にそう思われることに、私はとても耐えられなかった。このアグラの財宝は、私たち二人の間に、克服できない障害として存在していたのであった。
私たちがセシル・フォレスター夫人の家に着いた時、時刻は二時近かった。召使いたちはすでに休んでいたが、フォレスター夫人は、モースタン嬢が受け取った不思議な手紙に興味をそそられて、彼女が帰るのを待ちながら起きていた。夫人は自らドアを開けてくれた。上品な中年の婦人で、彼女がモースタン嬢の腰にやさしく腕をまわし、慈愛のこもった声で彼女を迎えるのを見て、私は嬉しかった。彼女は金で雇われた使用人などではなく、尊敬される友人なのであった。私は紹介されたが、フォレスター夫人は私に、中に入って私たちの冒険談をぜひ聞かせてほしいと熱心にいった。しかし、私は重大な用向きを抱えていることを告げ、事件が進行ししだい、改めて報告に伺うと誠意をもって約束した。
馬車を走らせながら、私はちらりと後を振りむいたが、玄関口に立った二人の姿……寄りそって立つ二つの優美な人影、半開きのドア、ステンドグラスを通して輝く居間の燈火、晴雨計、光る階段のじゅうたん押えなど……これらは今もなお私の脳裏に焼きついている。私たちを巻き込んだこの兇悪で陰惨な事件の渦中にあって、こうした静かな英国の家庭を、一瞬でも垣間(かいま)見ることは、何とも心休まることであった。
そして、事件の経過を考えれば考えるほど、それはますます殺伐(さつばつ)で陰惨なものに思えてきた。ガス灯に照らされた静かな街路を、馬車に揺られながら、私はこれら異常な一連の出来事を振りかえってみた。少なくとも最初の問題は今やかなり明白だった。モースタン大尉の死、送られてきた真珠、広告文、手紙……これらの点はすでにはっきりしていた。しかし、そのために私たちはより深い、そしてはるかに悲惨な謎へと導かれていったのだった。インドの宝物、モースタンの荷物の中にあった謎めいた図面、ショルト少佐の臨終の際の奇怪な光景、財宝の発見とその直後に起こった発見者の死、現場に残された奇妙な証拠の数々、足跡、驚くべき武器、モースタン大尉の地図の言葉に照合する紙切れの言葉……これは全くの迷路であり、わが友ほどの才能を持たない者なら、手がかりを探すことをとうに断念したに違いない。
ピンチン小路はランベスの低地帯にあって、みすぼらしいれんが造りの二階屋が建ちならんでいた。私はしばらくの間、三番地の家の戸を、人の気配がするまで叩き続けた。しかし、ようやくよろい戸の向こうにローソクの光がさし、二階の窓から顔がのぞいた。
「いい加減にしろ、この酔っぱらいめ」と、その顔はいった。「これ以上騒ぎたてると、犬小屋を開けて、四十三匹の犬をけしかけるぞ」
「一匹だけ出してくれれば、こちらの用はすむのだがな」と、私はいった。
「うるせえ!」その声はどなった。「いいか、とっとと失(う)せないと、この袋の中の蝮(まむし)をきさまの頭の上に落っことすぞ!」
「しかし、ぼくがほしいのは犬だ」私は大声でいった。
「つべこべいうな」シャーマンは叫んだ。「いいか離れていろよ。三つ数えたら蝮がとんでいくぞ」
「シャーロック・ホームズさんが……」と私はいいかけたが、この一言は実に魔術のような働きをした。窓が勢いよく閉められると、すぐにかんぬきが外されて、ドアが開かれた。シャーマン氏は、なで肩の首の辺りが筋張った、やせてひょろ長い老人で、青い眼鏡をかけていた。
「シャーロック・ホームズさんのお友達ならいつでも歓迎ですよ」と彼はいった。「お入りなさい。むじなに近づかないように。咬(か)まれますよ。こら、このいたずら坊主、このおじさんを咬もうっていうのかい」 檻(おり)の柵の間から、にくらしい頭と赤い眼を突き出した白てんに向かって、彼はそういった。「そいつは大丈夫、ただの足なしとかげです。牙(きば)がないから、部屋の中に放し飼いにしてましてね。かぶと虫を捕るんですよ。さっきは手荒なこといってすまんです。よく近所のがき(ヽヽ)がわしに悪さするもんでな。大勢でやってきて、わしを叩き起こしやがるんで。ところで、シャーロック・ホームズさんのご用件は?」
「お宅の犬がほしいそうです」
「ああ、トービーのことですね」
「そう、トービーといってました」
「トービーはこの左側の七番目にいますよ」
彼は身のまわりに集めた奇妙な動物家族のあいだを、ローソクをかざして、ゆっくり進んだ。たよりないほのかな光の中に、あらゆるすき間や隅から、かすかに輝くたくさんの眼がこちらをのぞき見ているのが、おぼろ気にうかがえた。頭上のたる木にまでも、まじめくさった鳥たちが一列にとまっており、私たちの話し声で眠りを邪魔されると、ものうげに片足から片足へ体の重みを移しかえたりした。
トービーは毛の長い、たれ耳のみっともない犬で、スパニエルとラーチャーが半々に混り、色は茶と白で、不格好なよちよち歩きをした。犬は老剥製(はくせい)師が私に渡した角砂糖を、しばらくためらってから喰べた。こうして同盟を結ぶと、馬車まで私の後をついてきて、私に同道することに何も文句をいわなかった。
ふたたびポンディシェリー荘に戻った時、ちょうど水晶宮の時計が三時を打ったところだった。元健闘選手のマクマードは共犯として逮捕され、ショルト氏と共に警察署へ拘引されていったことがわかった。二人の警官が門を警備していたが、私が警部の名をいうと、犬ともども中へ通してくれた。
ホームズは両手をポケットに入れ、パイプをふかしながら、戸口に立っていた。
「やあ、連れてきてくれたか!」と、彼はいった。「よしよし、いい子だ。アセルニー・ジョーンズはいないよ。きみが出ていってから、ちょっとした騒動があってね。彼はサディアスばかりか、猟場の番人や家政婦やインド人の召使いまでしょっぴいていってしまったんだ。二階に巡査部長がいるので、現場は勝手なことはできない。犬をここへおいて、ついてきたまえ」
トービーを居間のテーブルにつないで、私たちは再び二階へあがった。部屋はさきほどのままであったが、ただ遺体には白布が掛けられていた。疲れた表情の巡査部長が隅に寄りかかっていた。
「部長、ちょっと手さげランプを借りますよ」とわが友はいった。「この厚紙を、ランプを前にぶらさげられるように、ぼくの頸(くび)のまわりに結んでくれないか。ありがとう。さて、靴と靴下をぬいで、と。ワトスン、これは下へ持っていっておいてくれないか。ちょっと登ってみるからね。それから、このハンカチをクレオソートにひたしてくれ。うん、それでいい。じゃ、ぼくの後についてちょっと屋根裏部屋に上がってくれ」
私たちは穴からよじ登った。ホームズはほこりの上の足跡を、再び灯火で照らした。
「この足跡をよく見てほしい」と彼はいった。「何か気がついたことはないかね?」
「足跡は」と私はいった。「子供か小柄な女のだよ」
「いや、大きさは別だ。なにもほかに気がつかないか?」
「普通の足跡と大して変わらないようだが」
「いや、違うんだよ。いいかね。これはほこりの上に印された右足の跡だよ。そのそばにぼくが裸足で足跡をつける。どこが違うね?」
「きみのは足の指がひと固まりになっている。こっちのは、足指がはっきり別々になっているな」
「そうとも。これが重要な点なんだ。よく覚えておきたまえ。今度はそこの引き窓のところへいって、材木の端の部分の臭いを嗅いでみてくれないか。ぼくは手にこのハンカチを持っているから、ここにいるよ」
私はいわれたとおりにすると、ただちに強いタールの臭いが鼻をついた。
「そこが犯人が出ていく時に足をかけたところだよ。きみに見つけられるくらいだから、トービーならわけないさ。急いで下へおりていって、犬を放し、あとはブロンダン〔フランスの有名な軽業師、ナイヤガラの滝を綱渡りで有名〕の名演技をとくとご覧あれ」
私が下へおりた時に、シャーロック・ホームズは屋根に登っていた。大きな螢のように、むねに沿って、ゆっくりと這(は)っていくのが見えた。煙突の列の後にいったん姿は隠れたが、再び現われ、そしてもう一度向こう側に消えた。反対側へまわっていってみると、彼が角のひさしのところに坐っているのが見えた。
「ワトスンかい?」彼は叫んだ。
「そうだ」
「ここが、その場所だ。そこにある黒いものは何かね?」
「水の樽(たる)だよ」
「ふたはついているか?」
「うん」
「はしごは見えないか?」
「見えないね」
「ちくしょうめ! 危険この上ない場所だな。だが奴が登った場所だから、こっちにだっておりられるはずだ。樋(とい)はかなりがん丈だし、とにかくいくぞ」
足の擦れる音とともに、灯火が壁面をゆったりとおり始めた。やがて、彼は身軽に樽にとび移り、そこから地面におり立った。
「跡をたどるのは簡単だ」靴下と靴をはきながら、彼はいった。「ずっと瓦(かわら)がゆるんでいた。それでやっこさんあわてていたらしく、こいつを落としていったよ。きみたち医者の口ぶりを借りると、これはぼくの診察の裏づけというわけさ」
彼がさし出した物は、染色した草で編んだ小さな袋で、まわりにけばけばしい数珠玉がついていた。形と大きさからいって、たばこ入れに似てなくもなかった。なかには、黒い木で作った棘(とげ)のようなものが、数本入っていた。バーソロミュー・ショルトに刺さっていたのと同じく、先端が鋭くとがり、他方は丸味をおびていた。
「物騒(ぶっそう)なしろものだよ」と彼はいった。「怪我しないように気をつけろ。これを手に入れてよかったよ、おそらく奴が持っているのはこれで全部だろう。やがてきみかぼくがこいつを皮膚に突き刺されるという心配はすくなくなったわけだ。これにくらべればマティーニ銃弾を相手にする方がましさ。ところでワトスン、六マイルの遠足に出かけるがどうかね?」
「いいとも」と私は答えた。
「足は大丈夫かい?」
「大丈夫だとも」
「そらトービー、臭いだぞ! ほら、嗅いでみろ!」 彼はクレオソートのハンカチを犬の鼻先へもっていくと、犬は毛のふわふわした足をひろげてふんばり、名高いふどう酒の芳香を嗅ぐ鑑識家のように、ユーモラスに頭を少し傾けてみせた。それから、ホームズはハンカチを遠くへ投げて、首輪に丈夫なひもをつないでから、犬を水樽の下へ連れていった。ただちに犬は、かん高い震えるような鳴き声を立て続けに上げると、鼻を地面につけ、しっぽを立ててとっとと走り出した。ひもをぴんと引っぱって走るその速さに、私たちは全速力で後を追わなければならなかった。
東の方はしだいに白みかけており、冷たい灰色の光の中で、かなり遠くまで見とおせるようになっていた。私たちの背後には、暗い空(うつ)ろな窓と高いむき出しの壁のある四角いどっしりした家が、もの悲しくわびしげにそびえていた。私たちはいたるところに掘り返された穴や溝の間を通り抜けながら、庭園をまともに横切って進んだ。あちこちに積まれた泥の山や成育の悪い潅木(かんぼく)のために、屋敷全体が陰惨で不吉な様相を帯び、それがこの場所にのしかかる暗い悲劇に調和していた。
境いの塀にぶつかると、トービーは一心に鼻を鳴らしながら、その影の下を走り、ついにぶなの若木に隠れた隅のところで立ちどまった。二つの塀が連結した部分は、れんがが数箇はずしてあり、あとにできた裂け目は下の方がすり減って丸味を帯びているところからすると、たびたびはしごがわりに使われていたらしかった。ホームズはそこによじ登り、私から犬を受けとるとむこう側へおろした。
「義足の男の手の跡だ」私がよじ登ってそばへいくと、彼はいった。「白い漆喰(しっくい)の上にかすかな血のしみがあるだろう。きのうから大して雨が降らなかったのが幸いだったよ。連中が二十八時間も前に通ったとしても、まだ道路に臭いが残っているだろう」
その間に、ロンドンの道路を行き来した大変な交通量を考えたとき、正直いって私は疑いを禁じえなかった。しかし、まもなく私の懸念(けねん)は和らいだ。トービーは全くためらったり逸(そ)れたりすることなく、例の転がるような恰好で前進していった。明らかにクレオソートの強烈な臭いが、他の臭いよりひときわ際立っていたのだった。
「この事件でのぼくの成功が」とホームズはいった。「犯人の一人が薬品の中に足を突っ込んだという、単なる偶然事に頼っているなどと思われては困るよ。ぼくは奴等を追跡するのに、他にもいろんな方法を知っている。しかし、これが一番てっとり早いやり方なんだ。しかも運命がそれをぼくらに与えてくれたのだから、利用しなければばちが当たるよ。だが、そのために事件は、ひと頃予想されたようなちょっとした知的な問題とはならなくなっちまったな。こんな見えすいた手がかりさえなかったら、ぼくも多少は面目を施すことになったかもしれないんだが」
「いや、面目は施したよ、しかも充分にね」と私はいった。「本当だよ、ホームズ、きみがこの事件で答えを見つけ出していくやり方を見てると、ぼくはジェファスン・ホープ殺人事件の時よりも感服してしまうよ。ぼくにはこの事件のほうがずっと深く、不可解に見える。たとえばだね、義足の男の特徴を、どうしてあんな自信たっぷりにいえるのかね?」
「おいおい、きみ、馬鹿らしいくらい単純なんだぜ。ぼくは芝居じみたことは嫌いだ。すべてが明々白々なんだよ。囚人警備隊を指揮する二人の士官が、埋蔵された宝物に関する重大な秘密を知る。ジョナサン・スモールという英国人が、二人のために地図を書く。モースタン大尉が所有していた地図に、その名前があったのを憶えているだろう。彼は自分と仲間のために、それに署名した……幾分ドラマチックにやるつもりで、四つの署名と書いたわけだ。この地図のおかげで士官たち……あるいはその一人……は宝物を手に入れ、英国へ持ち帰る。ただし、おそらく宝物を受けとる際の条件を果たさずにだ。それなら、なぜジョナサン・スモールはみずから宝物を手に入れなかったか? 答えは明白だよ。地図はモースタンが囚人達と密接な関係を持つようになった時期のものだ。ジョナサン・スモールが宝をもらわなかった理由は、彼と彼の仲間が囚(とら)われの身で、逃げることができなかったからだ」
「でも、それは単なる推測だろう」と私はいった。
「いや推測以上だよ。この前提に立ってこそ、すべての事実に説明がつく。後の事件とどう結びつくか見てみよう。ショルト少佐は手に入れた宝物に満足し、しばらくは平和な生活を送る。やがて、彼はインドがらきた一通の手紙を受けとると、大変な恐怖に襲われる。それは何だったのか?」
「彼に裏切られた連中が、釈放されたという手紙だね」
「または、脱走したかだ……このほうがもっともらしいよ、なぜなら彼は、連中の刑期なら当然知っていたはずだからね。そんなに驚くことはなかったろう。さて、彼はどうするか? 義足の男を警戒するようになる……いいかね、それは白人だよ、なぜかというと彼は白人の商人をその男と勘違いして、実際に発砲したくらいだからね。ところで、地図に書いてあった名前の中で、白人のは一つだけだよ。あとはインド人か回教徒だ。ほかに白人はいない。だから義足の男はジョナサン・スモールだと確信をもっていえるんだ。この推理はおかしいと思うかね?」
「いや、明快にして簡潔だよ」
「では次に、ジョナサン・スモールの身になって考えてみよう。彼の立場から見てみるわけだ。彼は当然自分の権利であるはずのものをとり戻し、そのうえ自分を裏切った男に復讐をするという、二つの目的をもって英国へ来る。彼はショルトの居所をつきとめて、おそらく誰か家の者とわたりをつけたらしい。それは、まだぼくたちは会っていないが、ラル・ラオという使用人頭だ。バーンストン夫人によると、およそたちのよくない男だそうだ。しかし、スモールには宝物のありかが分からない、少佐と死んだ忠実な召使いのほかは誰も知らないわけだからね。突然、スモールは少佐が臨終の床にあることを知る。宝物の秘密まで一緒に死んでしまうと思うと、いても立ってもいられず、彼は危険をかえりみずに警備の間をぬって、ひん死の老人の窓際に近づくが、二人の息子がいるために、どうしても中には入れない。しかし、死んだ男に対する憎しみに狂ったようになって、彼はその晩部屋に侵入し、宝物に関する覚え書きでもないかと書類をひっかきまわした後、最後に訪問の記念を紙切れに走り書きして残していく。彼は万が一、少佐を殺せたらそんな書きおきを死体の上に残して、これはただのありふれた殺人ではなく、四人の連帯という点からいえば、一種の制裁だということを示すつもりだったらしい。この種の一風変わった奇抜なやり方は、犯罪史上ざらにあるもので、しばしば犯人を割り出すのに貴重な手がかりになる。ここまではよいかね?」
「うん、実に明快だよ」
「さて、ジョナサン・スモールは、どうすればよいか? 彼は、人が宝探しをやるところを、ひそかに監視するしかない。おそらく彼は英国を去って、ときどき帰国していたのかもしれない。やがて屋根裏部屋が発見されると、すぐに彼はそれを知らされる。またここでも、家の中に味方がいたことがわかるわけだ。義足のジョナサンにとって、バーソロミュー・ショルトの高い部屋にたどりつくのは全く不可能だからだ。しかし、彼は奇妙な仲間を連れていき、その仲間はこの困難を乗り越えるが、裸足の足をクレオソートの中につっ込む。かくして、トービーが登場し、アキレス腱(けん)を痛めた休職軍医殿による六マイルのびっこの追跡が始まるわけだ」
「しかし、犯行を行ったのはジョナサンではなくて、その仲間のほうだろう」
「そのとおりさ。部屋に入ってからあたりをいらいらして歩きまわった形跡から見て、よほど腹立たしかったのだろう。彼はバーソロミュー・ショルトにうらみを抱いていなかったから、ただ縛(しば)りあげて、さるぐつわをかませるだけにしておきたかったんだ。彼だって縛り首は恐いからね。しかし、もはやどうしようもなかった。相棒が残忍な本能を発揮し、毒はまわってしまったのだからね。そこで、ジョナサン・スモールは紙切れを残し、宝物を下へおろして持ち去った。
以上がぼくに解けるかぎりでの事件のいきさつだ。もちろん、彼の人相についていえば、彼は中年の男で、アンダマン諸島のような灼熱の地で服役していたから、陽焼けしているにちがいない。身長は、歩幅からすぐに判断がつくし、ひげを生やしていたことも分かっている。サディアス・ショルトが窓ごしに男を見かけた時、毛むくじゃらというのが印象に残った点だからね。ほかには別に問題はないだろう」
「相棒は?」
「ああ、そいつは大した謎じゃないよ。もうすぐきみにも分かるさ。朝の空気は何とさわやかなことだろう! 見てごらんよ、あそこに浮かんでいる小さな雲は、巨大なフラミンゴの桃色の羽根みたいだな。太陽の赤いふちが、ロンドンをおおう雲の堤にせりあがってきている。たくさんの人々が陽の光を浴びているわけだが、本当にこのぼくらほど奇妙なことにかかわりあっている者はいないのだよ。けちな野心をいだいて汲々(きゅうきゅう)としているわれわれは、自然の偉大な力の前では何とちっぽけな存在に見えることだろう! きみはジャン・パウル〔ドイツのロマン派の作家〕にくわしいかね?」
「まあ、いちおうはね。カーライル〔十九世紀のイギリスの哲学者〕から入っていったんだ」
「それは小川を遡(さかのぼ)って、水源の湖へ出るようなものだな。彼は、一見奇妙だが、深遠なことをのべているよ。つまり、人間の真の偉大さとは、おのれの矮小(わいしょう)さを悟ることだというんだ。それ自体崇高さの証しであるところの比較能力と認識力の存在を説いているわけだ。リヒターの作品には思想の糧(かて)となるものが多いよ。きみは拳銃を持っていないね?」
「ステッキがあるよ」
「一味の巣窟に踏み込む時、武器のようなものが必要かもしれない。ジョナサンはきみにまかせるが、相棒のほうが下手(へた)なまねをしたら、射ち殺してやろう」
そういうと彼は拳銃をとり出し、弾倉に弾を二発こめると、上衣の右のポケットにしまいこんだ。
この間、私たちはトービーの後について、都心部へと続く郊外住宅がちらほらするひなびた道路を進んでいたのであった。しかし、いまや私たちはとぎれのない街路にさしかかっていた。すでに労務者や沖仲仕(おきなかし)達は起き出しており、だらしのない女達がよろい戸をあけたり、戸口を掃除したりしていた。四角い屋根をした角の居酒屋では、商売が始まったばかりで、いかつい顔の男達が、起きぬけに一杯ひっかけた後、袖口でひげを拭いながら出てくるところだった。見なれない犬どもがやってきて、通り過ぎる私たちの姿を、不思議そうな表情で眺めていた。しかし、われらの超然たるトービー君は、わき目もふらずに地面に鼻をつけ、時々、強い臭いがあるという証拠に鼻をくんくん鳴らしながら、ひたすら歩き続けるのだった。
私たちはストレタム、ブリクストン、キャンバウエルを横切り、オーバル競技場の東側にあるわき道を抜けて、ケニントン小路へ出た。追跡中の犯人は、おそらく人目につくのを警戒して、奇妙なジグザグの進路をとったものらしかった。幹線道路と並行して、わき道があれば、彼らはそちらを選んでいた。ケニントン小路の端で、彼らは左にそれ、ボンド街とマイルズ街へ進んでいた。通りを曲がってナイト広場にいきつくあたりで、トービーは前進を止め、一方の耳を立て、他方をたらしながら、方向を決しかねるといった様子で、行きつ戻りつし始めた。そして、同じ場所をぐるぐるまわりながら、気持を察してほしいとでもいいたげに、私たちを見上げたりした。
「一体、どうしたというのだろう?」ホームズはぶつぶつつぶやいた。「まさか、ここから馬車をつかまえたり、気球に乗っていったわけではあるまい」
「しばらくここで佇(たたず)んでいたんだろう」と、私はいった。
「ああ、大丈夫だ。また歩き出したよ」彼はほっとしていった。ホームズのいうとおりだった。犬は再びあたりを嗅ぎまわった後、突然、意を決したかのように、これまでにないほどの勢いと確固たる足どりで、突進したのだった。嗅跡は前よりも強くなったようだった。犬はもはや鼻を地面につけることもなく、綱をぴんと引っぱって駆け出そうとした。ホームズの目の輝きからして、目的地も近いと考えているのが、察せられた。
私たちはナイン・エルムズを通り、ついに白鷲亭(ホワイト・イーグル)のすぐ先にある、ブロデリック・アンド・ネルソン会社の大きな材木置場に到着した。ここで、犬は興奮のあまり狂ったようになって、脇門から囲いの中に入り込んだ。すでに木挽(こび)き達は仕事を始めているところだった。犬はおがくずとかんなくずの中を走り、路地を抜け、通路を曲がり、積み上げた木材の間をぬって、ついに勝ち誇った鳴き声をあげると、運んできて手押車に乗せたままになっている、大きな樽にとび乗った。舌をだらりとたらし、目をしばたたかせながら、トービーは樽の上に立ち、感謝のしるしでも求めるように、私たち二人を見くらべた。樽の板と手押車の車輪には、黒い液体がこびりついており、あたりにはクレオソートの臭いがたちこめていた。
ホームズと私はあっけにとられて、互いに顔を見あわせたが、やがて二人共こらえきれなくなって、笑いころげてしまった。
「なんたることだ」と、私はいった。「信用絶大なトービーも、これじゃ面目丸つぶれだ」
「やるだけのことはやったんだよ」といって、ホームズは犬を樽からおろし、材木置場の外へ連れていった。
「ロンドンでは一日に、どれくらいのクレオソートが輸送されるかを考えてみれば、ぼくらが追っかけている嗅跡が消えてしまっても不思議はないよ。特に今頃は木材を乾燥させるのによく使われるんだから。トービーのせいじゃないさ」
「もう一度もとの臭いまで戻らないといけないね」
「そうだな。幸いそう遠くまで行かずにすむよ。犬がナイト広場の角で迷ったのは、明らかに、嗅跡のある二本の道が反対方向に走っていたためだよ。だから、もう一方の道をたどればよいわけだ」
そうするのに問題はなかった。間違いをしでかした地点までトービーを連れ戻すと、大きく円を描いて嗅ぎまわり、やがて新たな方角にむかって駆け出した。
「今度は、さっきのクレオソートの樽が、以前にあった場所へ連れていかれないように注意しないといけない」と私はいった。
「ぼくもそのことは考えたよ。だが、見てごらん、ずっと歩道を行くよ、樽は車道を通ったはずなのに。いや、正しい嗅跡を見つけたんだよ」
道はベルモンド広場とプリンス街を抜けて、川岸へと傾斜していた。ブロード街の端で岸辺につき当たると、そこには木造りの小さな桟橋(さんばし)があった。トービーはその先端まで行くと、彼方の暗い流れのほうを見ながら、鼻を鳴らしていた。
「ついてないな」とホームズがいった。「ここから舟に乗ったんだ」
桟橋の突端の水面には、小舟が五、六艘(そう)、もやっていた。トービーを順ぐりに舟のところへ連れていったが、懸命に臭いは嗅ぐけれども、何の合図もしなかった。粗末な荷揚げ場のすぐ近くに、れんが造りの小さな家があり、二階の窓から、木の看板がかかっていた。横に大きな字で「モーディケアイ・スミス」と書かれ、その下に「貸し舟時間貸し、日貸し」とあった。戸口の上にかかったもう一つの看板には、汽艇(ランチ)もあると書いてあったが、それは桟橋に積んであるコークスの山を見れば、納得がいった。
シャーロック・ホームズはあたりをゆっくり見まわしたが、その顔には険悪な表情が浮かんでいた。
「うまくないな」と彼はいった。「連中は思ったより抜け目がないぞ。跡をくらまされたらしい。おそらくここで事前の打ちあわせをしたんだろう」
彼が戸口の方へいきかかると、突然ドアが開いて、ちぢれ毛の六つ位の子供がとび出し、その後を、肥った赤ら顔の女が、手に大きなスポンジを持って追いかけてきた。
「おとなしく洗わせなさい、ジャック」と女は叫んだ。「こら、こっちへおいで。父ちゃんが帰ってきて、そんなに汚ないのを見たら、ひどい目にあうよ」
「ねえ、坊や!」とホームズは巧みにいい寄った。「真赤なほっぺをしてて、可愛いね。坊やの好きなものは何だい?」
子供は一瞬考えた。「一シリング」と彼はいった。
「それより好きなものは?」
「二シリングだよ」と子供は、しばらく考えてからいった。
「それなら、いいかい。そら、あげるよ!……元気な坊やですね、奥さん」
「はい、元気をとおり越して、きかないんですよ。もう手に負えなくて、主人が何日も留守にする時など、困りものですわ」
「お留守だって?」ホームズはがっかりした声でいった。「それは残念だ、ご主人に用があってうかがったのですが」
「きのうの朝から出かけてますが、本当をいうとちょっと主人のことが心配なんです。でも、船のことだったら、わたしでも分かりますよ」
「実は汽艇(ランチ)を借りたかったのだが」
「あらまあ、うちのはそれに乗っていってしまったんですよ。それが変なんです、ウリッジあたりを往復するくらいの石炭しか積んでいないんですから。はしけで行ったのなら、別に心配はないんです。よく仕事でグレイブズエンドまで行きますが、仕事がたくさんあると泊まってくるんです。でも、汽艇(ランチ)に石炭を積まないで行くなんて」
「川下の船着場で買ったのかもしれない」
「ええ、でも、うちはあそこでは買わないんです。はんぱな二、三袋の石炭でいくらいくらふっかけられたなんて、よく大声でどなってましたからね。それに、あの義足の男、みっともない顔をして、乱暴な口をきくあの人はいやな感じですわ。何でこんなところでうろうろしてるんでしょうね」
「義足の男ですって?」ホームズはかるい驚きの色を浮かべていった。
「はい、浅黒い、猿みたいな顔をした男で、何回か訪ねてきました。ゆうべ主人を起こしたのもその人で、うちの人ったら、来るのを知ってたんです。汽艇(ランチ)を出す用意をしていたわけですからね。はっきりいって、何だか気がかりなんですよ」
「でもね、奥さん」とホームズは肩をすくめながらいった。「あなたは何でもないことに一人でおびえているんです。ゆうべきたのが義足だなんて、どうして分かるんですか? そんなにはっきりいえるもんですかね」
「あの声ですよ。こもったようなだみ声で、すぐ分かりました。窓をこつこつ叩いて……二時頃だったかしら、『おい、起きろよ』というんです。『そろそろ出かける時間だぞ』って。主人はジムを起こし……長男のことですが……そして、あたしには何もいわずに出ていったんです。義足が石の上を歩く、こつこついう音が聞こえましたよ」
「義足の男の他に誰かいましたか?」
「さあ、分かりません。他に物音はしませんでしたがね」
「残念ですな、奥さん。ぼくは汽艇(ランチ)が必要だったのに。それにあの船の評判は聞いてますからね……何といったかな、あの船は?」
「オーロラ号です」
「ああ、あの緑の地に黄色の線の入った、古い船だったかな、幅がうんと広い?」
「いえ、ちがいます。ここらにはそうざらにない、きれいな船ですよ。新しく塗りかえて、黒に赤い筋が二本入ってるんです」
「ありがとう。ご主人とはじきに連絡がとれますよ。これから川を下るから、途中でオーロラ号に出会ったら、あなたが心配してるとご主人に伝えておきます。煙突は黒だったかな?」
「いいえ、黒地に白い帯です」
「あ、そうそう、黒いのは側面だったっけ。さよなら、スミスさん。ワトスン、あそこにはしけを持った船頭がいるよ。あれに乗って向こう岸へ渡ろう」
「あの種の連中に接するこつ(ヽヽ)はね」と、私たちがはしけの座席に坐った時に、ホームズはいった。「彼らから何か重要なねたを仕人れようとしているなどと、絶対に思わせないことだ。さもないと、彼らはすぐにカキのように口をつぐんでしまうからね。いわばしぶしぶ聞いているようなそぶりをすれば、大ていは聞き出せるよ」
「進路はかなりはっきりしてきたようだね」と私はいった。
「だとしたら、きみならどうする?」
「汽艇(ランチ)を借りて、オーロラ号を追跡するさ」
「きみ、そいつは大変な仕事だぜ。船はここからグリニッチまでの、両岸のどの桟橋に寄ったか分からないんだ。橋から下は数マイルにわたって、全く迷路のように船着場が入り組んでいる。一人でやるとすると、全部洗うのに何日もかかるだろう」
「それなら、警察に頼め」
「いやだ。たぶん、ぼくがアセルニー・ジョーンズに登場願うのは最後の瞬間に至ってからだろう。彼は悪い男ではないからね、仕事の上で彼を傷つけるようなことはしたくないんだ。それに、ここまでやってきたのだから、単独で解決をつけたいのが人情だよ」
「それなら、桟橋の管理人に情報を提供してくれるよう、新聞に広告したら?」
「もっとまずいよ! 連中は追手が背後に迫っていると感づき、国外へ逃亡するだろう。実のところ、国外逃亡の公算は大きい。ただし、自分達は安全だと思っている間は、そんなにあわてないだろう。この点で、ジョーンズの行動は、ぼくたちに役立ってくれるよ。なぜなら、この事件に関する彼の見解はきっと新聞にのるだろうから、そうすると一味は、警察が見当外れの方向を探していると安心するはずだ」
「それなら、どうするのかね?」と、ミルバンク監獄の近くに上陸した時、私はたずねた。
「この辻馬車に乗って家に帰り、朝めしを食べて、一時間ほど眠るんだ。また今夜も眠れないかもしれないぞ。馭者さん、電信局で停めてくれたまえ。トービーは手許へおいておこう、まだ役に立ちそうだから」
私たちはグレート・ピーター街郵便局で馬車を停め、ホームズは電報を打った。
「誰に打ったと思う?」馬車が再び走り出すと、ホームズはいった。
「見当がつかないね」
「きみは警察探偵局のベーカー街別動隊のことを覚えているだろう。ジェファスン・ホープ事件で雇った連中だ」
「ああ」と私は笑いながらいった。
「これは特にあの連中の手助けが必要な事件だ。失敗したら他の方法もあるが、まず彼等にやらせてみたい。さっきの電報はうす汚いちびっこ隊長のウィギンスに打ったんだ。ぼくたちが朝食をすます頃までに、彼とその一味が集まるはずだよ」
時刻は八時半だった。夜どおしつづいた興奮の後の強い反動に襲われるのを、私は感じた。頭はもうろうとし、体は疲れきって、何をする気力もなかった。わが友を動かしているプロフェッショナルな情熱を、私は持ち合わせていなかったし、また事件を単なる抽象的で知的な問題として眺めることもできなかった。バーソロミュー・ショルトの死に関するかぎり、彼についてあまりよい評判は聞かなかったので、犯人達に対して激しい憎悪を感じることもできなかった。しかし、宝物となると話は別だった。それは、すくなくともその一部は当然モースタン嬢の所有に帰すべきものだった。それを取り戻す機会があるかぎり、私は目的達成に命を捧げる覚悟でいた。確かに、宝が発見されたら、彼女は永久に私の手のとどかない存在となってしまうだろう。しかしこんな考えに囚われるのは、けちな利己愛というものだ。もしホームズに犯人の捜査に乗りだす理由があるとするなら、自分には宝物を探すのに全力をそそぐ理由が、その十倍もあるはずだ。
ベーカー街に帰って風呂に入ると、生まれ変わったように、気分は一新した。階下の部屋へ降りていくと、すでに朝食の用意ができていて、ホームズがコーヒーを注いでいた。
「見てごらん」と、彼は笑いながらいって、広げた新聞を指さした。「あの精力的なジョーンズと神出鬼没の新聞記者とが、すっかりでっちあげてしまったよ。でも、きみは事件の話はうんざリだろう。まず、ハムエッグでも食べたまえ」
私は彼から新聞を受けとると、「アパー・ノーウッドの怪事件」という見出しのついた短い記事を読んだ。
昨夜十二時頃(と「スタンダード」紙に書いてあった)アパー・ノーウッドにあるポンデシェリー荘のバーソロミュー・ショルト氏は、自室で死体となって発見された。状況から見て、殺人の疑いが強い。知り得た情報によると、死体には暴行の跡はないが、故人が父より相続した、高価なインドの宝石類が持ち去られていた。最初に発見したのは、故人の弟サディアス・ショルト氏に伴って訪ねてきたシャーロック・ホームズ氏とワトスン医師である。幸い、警察署の著名な一員であるアセルニー・ジョーンズ氏がノーウッド警察署に来ていたため、事件発生後三十分を経ずして、現場に急行した。警部は多年鍛(きた)えた腕をふるって、犯人捜査に当り、その結果、弟のサディアス・ショルトをはじめ家政婦のバーンストン夫人、インド人の使用人頭ラル・ラオ、門番のマグマードらが逮捕された。賊(単数もしくは複数)は内部の事情にくわしいものと見られている。ジョーンズ氏は、定評ある専門的知識と鋭い観察力を用い、次の点を決定的に証明した。すなわち犯人は、戸口や窓から侵入したのではなく、家の屋根伝いに引き窓をとおって、死体の発見された部屋に通じる屋根裏部屋に侵入したのである。この事実はきわめて明快に証明されているので、これが単なる行き当りばったりの強盗事件でないことは、もはや決定的となった。警察が迅速で精力的な活動を開始しえたのを見ても、こうした際に卓越した強じんな精神の持主が存在することが、いかに重要であるかを示すものである。この事実は、警察力を地方に分散することにより、現場に密着したより有効な捜査を行なうことを主張する論者にとって、有力な論拠となるであろう。
「大したもんだよ!」と、ホームズはコーヒーを飲みながらにやにや笑った。「ご感想はどうかね?」
「ぼくたちも危うく逮捕されるところだったんだね」
「そうだ。もう一度あの調子でこられた日には、こっちの身の安全も保証のかぎりじゃないな」
この時ベルが大きく鳴ると、宿の女主人のハドスン夫人が、狼狽(ろうばい)しながらとがめるように、かん高い声で叫ぶのが聞こえた。
「おい、ホームズ」私は腰を浮かせながらいった。「本当に追手がきたようだぞ」
「いや、追手なんかじゃないさ。あれは私設探偵団……ベーカー街不正規隊だよ」
そういった時、裸足で階段をばたばた昇る足音とかん高い話し声が聞こえて、突然一ダースばかりのうす汚ない浮浪児達が入ってきた。騒々しく押しかけてきたにもかかわらず、彼らの間には一種の規律があり、即座に一列に整列すると、命令を待つかのように私たちに向きあって立った。その中で、一段と背の高い年長の少年が、やせこけたみすぼらしい風体とはおよそ似つかわしくない、勿体ぶった態度で一歩進み出た。
「電報を受けとったので」と彼はいった。「すぐに連中をつれてきました。切符代は三シリングと六ペンスです」
「そら」ホームズはポケットから銀貨をとり出しながらいった。「ウィギンス、今後は彼らがきみに報告し、きみがぼくのところへ報告すればよい。こんなふうにどやどや入ってこられては困るよ。しかし、きみたちみんなに指示を与えておくのもいいだろう。オーロラ号という汽艇(ランチ)のありかを知らせてほしい。船主の名はモーディケアイ・スミス、黒の船体に赤い筋が二本入っていて、煙突は黒で、白い筋が一本入っている。テムズ河下流のどこかにいるはずだ。誰か一人は、ミルバンクの対岸にあるモーディケアイ・スミスの桟橋にいて、船が帰ってきたら知らせてほしい。他の者は二手に分れて、両岸をしらみつぶしに探してくれ。何かあったらすぐ知らせること。分かったかね?」
「はい、ホームズさん」とウィギンスはいった。
「報酬はこれまで通りで、船を見つけた者には一ギニーだ。ほら、一日分前払いしておこう。さあ行け!」
彼が全員に一シリングずつ与えると、彼らはがやがやと階段をおりていき、まもなく通りにくり出していった。
「船が沈んでさえいなければ、きっと探し出してくれるさ」ホームズはテーブルから立ちあがると、パイプに火をつけながらいった。「あの連中ならどこへでも行けるし、何でも見られるし、誰の話でも立ち聞きできる。夕方までには発見の知らせを持ってくるよ。その間、ぼくたちはただ待つだけさ。オーロラ号かモーディケアイ・スミスかどちらかを発見しないかぎり、再び追跡を開始するのは困難だ」
「トービーにはこの残飯をやればいいかな。ホームズ、寝るのかい?」
「いや、ぼくは疲れてなんかいない。不思議な体質でね。何もしないでいるとくたびれてぐったりしてしまうけれど、仕事で疲れたことなど、これまで記憶にないね。これからたばこをふかしながら、あの美人の依頼人が持ちこんできたこの奇妙な事件のことを考えてみたい。世の中に簡単な仕事などというものがあるとしたら、これこそその見本だよ。義足の男もそうざらにはいないけれど、あのもう一人のほうは実に珍無類だと思うよ」
「また相棒の話か!」
「いずれにしろ、この男を神秘めいた人物に仕立てるつもりはない。しかし、きみだって、もう自分の考えを持っているんじゃないかな。さあ、データを見てみよう。小さな足跡、靴をはいたことのない足、裸足、先端に石のついた木の鎚(つち)、敏捷な動作、小さな毒矢。こうしたものから何を思い浮かべるかね?」
「野蛮人だ」と私は大声でいった。「きっとジョナサン・スモールの仲間のインド人の誰かだ」
「いや、ちがう」と彼はいった。「最初、奇妙な武器のようなものを見た時、ぼくもそう考えかけたが、あの特徴のある足跡を見て、考えなおしたんだ。インド半島の土民の中には、小柄な種族もいるけれど、あんな足跡はしてないよ。本来のインド人は足型が長くて狭い。サンダルばきの回教徒は親指が大きくて、他の指からはっきり離れているんだ。革ひもが指の股(また)のあいだにはさまっているからね。それから、小さな矢にしても、飛ばし方はただ一つだ。吹き矢筒で射たんだよ。だとすると、その野蛮人はどこにいるかだ?」
「南米だろ」と私は当てずっぽうにいってみた。
彼は手を伸ばして、棚から分厚い本をとり出した。
「これは、目下刊行中の地名辞典の第一巻だよ。最新の情報として頼りになるだろう。何と書いてあるかな?
『アンダマン諸島。スマトラの北方三四〇マイル、ベンガル湾内にあり』
ふんふん。何だって? 多湿の気候、珊瑚礁(さんごしょう)、鮫(さめ)、ブレア港、囚人収容所、ラトランド島、はこやなぎ……あっ、あったぞ!
『アンダマン諸島の土人は、おそらく地上で最も背の低い人種である。ただし一部の人類学者はアフリカのブッシュマン、米国のディッガー・インディアン及びフェゴ島人をあげている。身長は平均、四フィート未満であり、成人でもそれ以下のものも見受けられる。狂暴で、気むずかしく、御(ぎょ)し難い種族であるが、一度信頼を得ると献身的な友情を結ぶこともできる』
いまのところを注意してくれよ、ワトスン。それからこうだ。
『彼らは性来醜怪な種族で、頭は大きく不格好、目は小さくどう猛、そして顔は歪んでいる。しかし、手足は驚くほど小さい。はなはだしく狂暴で御し難いために、彼らを支配しようとする英国政府の試みは、これまで徒労に終わっている。彼らは難破船の乗組員にとって常に恐怖の的であった。先端に石のついたこん棒で生存者の脳天を叩き割ったり、毒矢で射殺したりするのである。虐殺のしめくくりには、いつも人喰いの響宴が行なわれる』
愛すべき立派な人たちだよ、ワトスン。かりにこの男が、自分の裁量に任されていたら、事件はずっと兇悪なものになったろう。実のところ、ジョナサン・スモールだって、この男をもてあましているのじゃないかな」
「それにしてもどうやってこんな物騒な相棒を手に入れたのかね?」
「ああ、そいつはぼくにも分からない。しかし、スモールがアンダマン諸島からきたことはすでに明らかなのだから、この土人が一緒だとしても不思議じゃないよ。やがてすべてか分かるさ。ねえ、ワトスン、きみはすっかり疲れきった顔をしているね。そこのソファに横になってごらんよ。眠らせてやろう」
彼は部屋の隅からヴァイオリンをとりあげ、私が横になると、低い、夢のような美しい旋律を奏(かな)で始めた……彼は即興に並々ならぬ才能を持っていたから、これは間違いなく彼の自作であった。彼のほっそりした手、真面目くさった顔つき、上下する弓など、私は今でもおぼろげに記憶している。それから、私は静かな音の海の上を、安らかに漂って行くように思われたが、やがて気がつくと、私は美しいメアリー・モースタンのまなざしをあびながら、夢の国をさ迷っていたのだった。
心身爽快になって目を覚ました時、午後もおそくなっていた。シャーロック・ホームズは先刻と同じ姿勢で坐っていたが、ただヴァイオリンを傍らにおき、本に熱中している点だけが異なっていた。私が身を動かすと、こちらに目を向けたが、その顔には暗い不安げな表情がうかがわれた。
「よく眠っていたね」と彼はいった。「話し声で起きやしないかと思ったよ」
「何も耳に入らなかった」と私は答えた。「それじゃ、新しい知らせでもあったのか?」
「残念ながら、ない。正直いって、驚きかつ失望したよ。今頃までには、何か決定的なことがわかると思っていたんだが。ウィギンスがいましがた報告にきてね。汽艇(ランチ)については全く行方不明だというんだ。一刻一刻が貴重だからね、ここで頓挫(とんざ)するのはしゃくだよ」
「何かぼくにできることはないかね? もう完全に回復したから、またひと晩徹夜したって平気だぜ」
「ないよ。目下、打つ手なしだ。ただ待つしかない。もし出かけたりすると、留守中に連絡がきて、遅れをとることになりかねないからね。きみは何なりとやってくれてもよいが、ぼくはここで当番をするよ」
「それなら、こっちはひとっ走りキャンバウエルまで出かけてセシル・フォレスター夫人を訪ねてこよう。きてくれと、きのういわれたからね」
「セシル・フォレスター夫人だって?」とホームズは、目にかすかな笑いを浮かべていった。
「ああ、もちろんモースタン嬢もだ。その後のなりゆきを知りたがっている」
「ぼくならあまり余計なことはしゃべらないな」とホームズはいった。「女は必ずしもすべてに信用できるとはかぎらない……最も信頼できる人でもだ」
私はこの暴言をめぐって議論を始めるひまはなかった。「一時聞かそこらで戻るよ」と私はいった。
「いいとも! 幸運を折るよ! あ、そうだ。川向こうへ行くのなら、トービーを返してくれないか。今のところ、使うあてがないからね」
いわれたとおり、私は犬を連れていき、十シリングを添えて、ピンチン小路の老動物学者の所へおいてきた。キャンバウエルでは、モースタン嬢は一夜の冒険でいくぶん疲労して見えたが、しきりに話を聞きたがった。フォレスター夫人も好奇心で一杯だった。私は、悲劇の最も陰惨な部分は伏せて、事の顛末(てんまつ)を語った。したがって、ショルト氏が殺されたことは話したが、殺人の具体的な手口には触れなかった。しかし、あちこち端折(はしょ)ったのにもかかわらず、話は彼女たちを驚嘆させるに充分だった。
「中世の騎士物語ですわ!」とフォレスター夫人が叫んだ。「不当な仕打ちを受けた貴婦人とか、五十万ポンドの財宝とか、黒い人喰い人種とか、義足の悪漢とか。昔風の龍とか腹黒い伯爵のかわりですわ」
「それに、救援に向かう二人の遍歴の騎士」モースタン嬢は輝やく瞳で私を一べつしながらつけ加えた。
「そんなこといって、メアリー、あなたの運命はこの捜査の結果いかんにかかっているんですよ。まるで他人事みたいなことをいって。想像してごらんなさいよ、大金持になって思うままに振る舞えるなんて、どんな気分か」
彼女がそうした見通しに、浮わついたそぶりを見せなかったことが、私には喜ばしかった。それどころか彼女は、そんなことには関心がないといったふうに、誇り高く首をふった。
「わたしが心配なのは、むしろサディアス・ショルトさんのことです」と彼女はいった。「他のことはどうでもいいんです。あの方は終始、ご親切でご立派な態度を示されました。この根も葉もない恐しい嫌疑を晴らしてあげるのは、わたしたちの義務ですわ」
キャンバウエルを発つ頃はすでに夕暮であったが、家に着くともう真っ暗だった。わが友の本とパイプは彼の椅子のそばにあったが、当の本人の姿は見えなかった。書き置きでもないかと思って探したが、何も見当らなかった。
「ホームズさんは、外出されたのかね?」ハドスン夫人がよろい戸を降ろしに上がってきた時に、私はたずねた。
「いいえ、ご自分の部屋へいらっしゃってます。旦那さん、わたし何だか」と、彼女は一きわ声を低くして、「ホームズさんのお体のことが心配です」
「どうしてかね、ハドスンさん?」
「あの、少し変なんです。あなたがお出かけになってから、部屋の中を行ったり来たりしはじめて、足音が気にさわるほどでした。それから、何やらぶつぶつひとり言をいうのが聞こえ、玄関のベルが鳴るたびに階段の上へ出てきて、『誰かね、ハドスンさん?』と叫ぶのです。やがてご自分の部屋に入って、戸を閉めてしまったのですが、あい変わらず歩きまわっているのが聞こえます。具合が悪いんじゃなければいいんですが。熱さましでも持ってきましょうかといいましたら、恐い顔でこっちを振りむきましたので、あわてて逃げてまいりました」
「ハドスンさん、そんなに心配することはないでしょう」と私は答えた。「前にもこんなふうになったことがありますよ。ちょっとしたことが気がかりで、落着かないんでしょう」
私はわれらの敬愛すべき下宿の女主人にできるだけさりげなく話そうと努めた。しかし長い夜の間、ときおり彼の鈍い足音を耳にするたびに、彼の覚めた精神がこうして無為を強いられていることにいらいらしているのではないかと思うと、私自身も不安になってくるのだった。
朝食の時、彼は疲労でやつれてみえ、熱でもあるかのように両頬には赤みがさしていた。
「これじゃきみ、ぶったおれるぞ」と私はいった。「ひと晩中、部屋の中を歩きまわっていたね」
「大丈夫さ。眠れなかったんだ」と彼は答えた。「このいまいましい問題にはすっかり参ったよ。万事順調にいってたのに、つまらぬ障害につまずくなんて。犯人、汽艇(ランチ)、すべてのことが分かっているのに、ただ知らせがない。別の機関も動いているし、利用できる方法はすべて利用した。川は両岸くまなく探させたのに、連絡はこないし、スミスのかみさんも、夫の消息が分からないままだ。これじゃ、船を沈めたとしか考えようがないよ。だが、これにも反証があってね」
「あるいは、スミスのおかみが間違った船を教えたんじゃないかな」
「いや、そうじゃない。当たってみたら、そういう船が確かにあるんだ」
「船は上流へ向かったんじゃないか?」
「その可能性も考えた。捜索隊をくり出してリッチモンドまで調べている。今日何も連絡がなかったら、ぼくは明日自分で出かけていって、船ではなく犯人を探そうと思う。だが、きっと間違いなく連絡はあるさ」
しかし、知らせはこなかった。ウィギンスからも他の連中からも、何の連絡もなかった。ほとんどの新聞に、ノーウッドの悲劇を扱った記事が出ていた。どれを見ても、不幸なサディアス・ショルトを悪(あ)しざまに書いているようだった。しかし、明日検屍が行なわれるということを除けば、新しい情報は一つもなかった。
夕方、私は二人の婦人に、不首尾に終った結果を報告するため、キャンバウエルへ出かけたが、帰ってみるとホームズが元気をなくして、ふさぎ込んでいるのに気がついた。何をたずねてもろくに答えようとせず、レトルトを火にかけて気体を蒸溜し、こちらの居たたまれなくなるような臭気を発生させる、ややこしい化学の実験に一晩中熱中していた。夜の更ける頃まで試験管のふれ合う音がしていたが、いぜんとして臭い実験を続けているらしかった。
明け方になってはっと目を覚ますと、驚いたことに彼が、粗末な水夫服に厚地のジャケツをはおり、首には品のない赤いスカーフを巻いたいでたちで、ベッドの横に立っていた。
「ワトスン、川下へ行ってくるよ。いろいろ考えてみたが、方法は一つしかない。ともかく、やってみるだけの値打はあるんだ」
「それなら、むろんぼくも同行していいだろう?」
「だめだ。きみはぼくの代理としてここにいてくれた方が役に立つ。ぼくは行きたくないんだよ。今日は何か知らせがきそうだからね、昨夜はウィギンスの奴、落胆していたがね。ぼく宛ての手紙や電報は全部開封してくれ。もし連絡がきたら、きみの判断で行動してほしい。頼みを聞いてくれるか?」
「もちろんだとも」
「ぼくのほうへは、連絡はできないよ。どこへ行くか自分でも分からないからね。しかし、運がよければそう遠くまで行かずにすむ。戻るまでに、何らかの手がかりが掴(つか)めるだろう」
朝食の時刻までには、何の音沙汰もなかった。しかし、「スタンダード」紙をあけてみると、事件の新しい局面にふれた記事があった。
アパー・ノーウッドの悲劇に関していえば(と書いてあった)事件は当初の予想に反して、はるかに複雑で不可解なものと思われる。新たな証拠により、サディアス・ショルト氏は事件と無関係であることが判明した。ショルト氏と家政婦のバーンストン夫人は昨夜釈放された。しかし、警察は真犯人の手がかりをつかんでおり、目下ロンドン警視庁のアセルニー・ジョーンズ氏がいつもの精力と機敏さをもって、捜査に当たっている。ほどなく逮捕者が出る見込み。
「ここまでは結構だ」と私は思った。「とにかく、わが友ショルトは無事だ。しかし新たな手がかりとは何だろう。もっともこれは、警察がへまをやった時に、よく用いる手なのだが」
私は新聞をテーブルの上に投げたが、その時人事欄にのった広告に目がとまった。それは次のようなものであった。
尋ね人……船頭モーディケアイ・スミスおよびその息子ジムの行方。先週火曜日午前三時頃、汽艇(ランチ)オーロラ号に乗ってスミス桟橋を出航。船体は黒で赤筋二本、煙突黒く白筋一本あり。上記モーディケアイ・スミスとオーロラ号の行方に関し、スミス桟橋のスミス夫人またはベーカー街二二一Bへ通報くださった方に五ポンド進呈。
これは明らかにホームズのしわざだった。ベーカー街の住所がそれを証明していた。それはなかなか巧妙なやり方だと思われた。犯人の目にとまったとしても、夫の行方を探す妻の不安な気持くらいしか、ここには読みとれなかったからである。
長い一日だった。ドアをノックする音がしたり、通りを足早に歩く音がすると、私は、ホームズが帰ってきたのか、広告文への反響が現われたのか、と想像してしまった。読書しようと試みても、この奇妙な捜索と、私たちが追っている不釣り合いな二人組の悪党のほうヘ、思いを馳せてしまうのだった。私は思った、わが友の推論には何か根本的な欠陥があるのではないか? 彼は大きな迷妄のとりこになっているのではないか? 彼のように柔軟で思弁的な頭脳でも、間違った前提に立って途方もない推論を行なうことだってあるはずだ。彼はこれまで過ちを犯したことはなかったけれど、弘法(こうぼう)にも筆の誤りということもある。彼は推理をもてあそび過ぎるために失敗しかねないのだ……単純で常識的な説明で片づくというのに、わざわざ好んで凝った奇怪な説明をとる癖がある。しかしその反面、私は証拠を自分の目で確かめたし、彼の推理の理由は聞かされていたのだ。奇妙な一連の事実……その多くは些細なものであるが、すべてが同一方向をさし示している……を振り返ってみると、かりにホームズの推理が正しくないとしても、真相はやはり同じように奇怪で、驚くべきものであるにちがいないと思った。
午後三時になると、ひときわ高いベルの音とともに、広間にもったいぶった声が聞こえ、驚いたことに他ならぬアセルニー・ジョーンズ氏が通されてきた。しかし、彼はアパー・ノーウッドでの事件を自信満々に引き取った時の、あの無愛想でおうへいな常識家先生とはすっかりちがっていた。表情はしおれており、態度は温和で、弁解じみてさえいた。
「こんにちは、これはどうも」と彼はいった。「シャーロック・ホームズさんはお留守のようですな」
「ええ、いつ戻るか分かりません。でも、お待ちいただけるんでしょう。そちらへおかけになって、葉巻でもどうぞ」
「これは恐縮。待つのは構いません」赤い絞り染めのハンカチで顔を拭きながら、彼はいった。
「それにウイスキー・ソーダはいかかですか?」
「じゃ、グラスに半分だけ。今ごろの陽気にしては馬鹿に暑い。おまけに、身も細るような心配が色々ありましてね。例のノーウッド事件に関するわたしの説をご存知でしたか?」
「はい、うかがいましたよ」
「実は再検討せざるをえなくなりましてね。ショルトのまわりにぴったり網を張りめぐらしたんですがね、それなのに真ん中からすとんと抜けてしまって。絶対に崩せないアリバイがあったんです。あの人は兄の部屋を出てから一人になったことはないんですな。だから屋根へ登って、はね上げ戸から入るわけがない。何とも不可解な事件で、わたしの職業上の信用にもかかわります。すこしご協力いただけたら有難いんですが」
「誰だって助けが必要になることがありますよ」と私はいった。
「ご親友のシャーロック・ホームズさんはご立派な方です」と彼は、しわがれ声で打ち明け話めかした調子でいった。「負けることを知らない人です。これまで数多くの事件を扱われたのを知ってますが、解明できなかったものは一つもない。捜査の方法は破格だし、いささかせっかちに理論に飛びつくきらいはありますが、全体として見れば、あの人だったら最も有望な警官になれたはずです。これは公言してはばからないところですがね。今朝ホームズさんから電報をもらいまして、それによると、どうもこのショルト事件に関して何か手がかりを掴んだらしいんです。ほら、これですがね」
彼はポケットから電報をとり出し、私に手渡した。十二時にポプラ局から打ったものだった。
ただちにべーカー街へ行かれたし(と書いてあった)戻らぬときは待たれたし。ショルト事件の一味を追跡中。最後を見とどけたくば、今晩同行されたし。
「いい知らせだ。どうやらまた、足跡を嗅ぎつけたらしい」と私はいった。
「あれ、それじゃ、あの方もやっぱりへまをやったんですか」明らかに満足の様子で、彼は叫んだ。「ベテランでも、よくまかれることがありますからね。もちろん、これが誤報ということも考えられるが、警察官としては好機を逸することは許されんのです。おや、戸口に人がきたらしい。きっとホームズさんだろう」
重い足どりで階段を登る足音とともに、息を切らしてぜいぜい喘(あえ)ぐ音が聞こえた。登る気力も尽きたかのように、一、二度途中で立ちどまったが、ようやく戸口にたどり着くと、中に入ってきた。その姿は、いましがた聞こえてきた音を裏づけるようなものであった。船乗りの服を着、古ぼけた厚地のジャケツの襟元までボタンをかけた老人であった。腰は曲がり、足許はおぼつかなく、ぜん息持ちのような苦しげな呼吸をしていた。短い樫(かし)の杖にもたれて、深く息を吸い込むと、両肩が波打った。首には染めたスカーフを巻いており、顔は毛深い白いまゆ毛と長い灰色の頬ひげに被(おお)われて、鋭い黒い瞳だけが目立っていた。老いさらばえて困窮しているが、かつては相当な暮らしをしていた船長、全体としてはそんな感じの男だった。
「ご老人、ご用件は?」と私がいった。彼は老人特有のゆっくりした、きちょうめんな仕草(しぐさ)で、あたりを見まわした。
「シャーロック・ホームズさんはおいでかね?」と彼はいった。
「いませんけど、ぼくが代理人です。伝言があるなら聞いときますよ」
「本人にじかに話したいんだがね」と彼はいった。
「でもね、ぼくが代理人なんですよ。モーディケアイ・スミスの船のことですか?」
「そう。わしはその船を知っとるよ。それに、探している連中の居所もだ。宝のありかも知ってる。何でも知ってるぞ」
「それならいってください。伝えておくから」
「本人でなければいわんよ」と彼は老人らしい一徹さで繰り返した。
「それなら待っててください」
「いかん、いかん。人のために一日無駄にするのはいやじゃ。ホームズさんがいないんなら、ご本人に探してもらう他はあるまい。あんたら、そんな顔したって、いわないぞ」
彼は足を引きずりながら戸口の方へ行きかけたが、アセルニー・ジョーンズが前に立ちはだかった。
「おじいさん、ちょっと待って」と彼はいった。「大事な知らせがあるそうだが、行かれては困る。ホームズさんが帰るまで、おいやでも待っていただく」
老人は戸口ヘ急ぎかけたが、アセルニー・ジョーンズが大きな体で戸口を塞(ふさ)いだので、老人は抗(あらが)うのを止めた。
「なんてこった!」と、彼は杖で床を叩いた。「わしは紳士に会いにきたのに、どこの馬の骨だかわからんおまえらが、人を捕まえてこんな目に遇わせおる」
「損はさせませんよ」と私はいった。「時間を無駄にさせた分は埋めあわせますから。このソファに坐ってください。そんなに待たせません」
彼はひどく機嫌をそこねた態度で部屋を横切ると、頬杖をついたまま腰をおろした。ジョーンスと私は再び葉巻に火をつけて、話を始めた。しかし、その時、突然ホームズの声がした。
「ぼくにも葉巻をくれよ」と彼はいった。
私たちは椅子の上で飛び上がった。私たちのすぐそばに、ホームズが愉快そうに坐っているではないか。
「何だ、ホームズか!」私は叫んだ。「帰ってきたのか! しかし、あの老人はどこへ行ってしまったんだ?」
「老人はここさ」彼はひとつかみの白髪をさし出しながらいった。「ここにいるよ……ほら、かつら、頬ひげ、まゆ毛だ。変装はわれながら、かなりうまいと思ったけれど、これほど成功するとは思わなかった」
「何だ、人騒がせな!」とジョーンズは実に楽しそうに叫んだ。「きみならたぐいまれな役者になれますよ。咳をするところなど養老院の老人そっくりだし、よぼよぼの歩き方だけでも週十ポンドの値打ちはある。でも、ぼくには目の輝きで分かりましたよ。そう簡単にぼくらをだませるもんじゃないです」
「一日こんな身なりでやっていたんです」彼は葉巻に火をつけながらいった。「たくさんの犯罪人達がぼくのことを知り始めていましてね……特にこの先生がぼくの扱った事件を本に書くようになってからですがね。それでこんな具合に、簡単な変装でもしないと、出動できなくなったんですよ。電報とどきましたね?」
「ええ、それで出かけてきたわけですがね」
「首尾はどうでした?」
「骨折り損でした。容疑者を二人釈放して、他の二人に関しても証拠がないし」
「くよくよしなさるな。そのかわりに別の二人を教えてあげますよ。ただし、ぼくの命令に従ってもらわなければならない。公的な名声はあなたのほしいままですが、ただぼくのいう線で行動していただきたい。よろしいですか?」
「もちろんですとも。犯人を教えてもらえるなら」
「それなら、まず早い警察艇……汽艇(ランチ)を……七時にウエストミンスター桟橋へまわしていただきたい」
「それはすぐにでも手配できます。あのあたりには、いつも一隻配置されているはずですが、ちょっと電話して確かめて見ましょう」
「それから、手ごわい相手だといけないから、屈強な男を二人」
「船には常にそういうのが二、三人乗ってますよ。他には?」
「連中を逮捕すれば、宝は見つかります。それで宝の箱は、その半分に対して当然の権利をもっている、例の若い婦人のところへ運び、まずその方に開けさせてほしいのです。そうするとこの男も喜ぶでしよう。そうだろう、ワトスン?」
「そうしてもらえれば、大変嬉しいよ」
「前例のないやり方だ」とジョーンズは首を振りながらいった。「もっともこの事件自体、前例のないものだから、そのくらいは目をつぶっておきましょう。宝はその後、正式な調査がすむまで、当局へ引き渡さなければいけませんよ」
「もちろん。それはたやすいことです。それにもう一つ。ぼくはこの件に関してジョナサン・スモール自身の口から確かめたいことが二、三あります。手がけた事件は全部自分で解決したいものですからね。しかるべく看守をつけた上で、この部屋なり他の場所で、彼と個人的に面会させてもらえませんかね?」
「事の成否は、あなた次第ですからね。こっちはジョナサン・スモールなる人物がいるかすら分かっていないんです。あなたが自分でその男を捕えるのなら、面会するなとはいえませんよ」
「それなら、了解ですね?」
「そのとおり。他に何か?」
「ご一緒に食事をおつき合い願いたいですな。三十分で支度ができます。カキとうずらのひとつがい……それに、白ぶどう酒のちょっとしたのがありますよ。ワトスン、きみはぼくが家政夫としても一流なのをまだ知らなかっただろう?」
夕食はにぎやかだった。ホームズは気の向いた時には、この上ない座談の名手だったが、この晩の彼がまさにそれだった。神経が高ぶっているようであった。私はこれほど才気煥発(かんぱつ)の彼を見たことがなかった。彼は立て続けにさまざまな話題……奇蹟劇、中世の陶器、ストラディバリウスのヴァイオリン、セイロンの仏教、未来の軍艦などについて、まるで専門の研究でもしたような口振りで語りまくった。この上機嫌は、前日までのふさぎ込んだ気分の反動のようであった。アセルニー・ジョーンズは、くつろいだ時には社交的な人物であるらしく、食通の態度をもって食卓に臨んだ。私自身、事件も解決に近づきつつあることを思うと、自然、心も高揚し、ホームズと同じように陽気にはしゃいだ。私たち三人を結びつけたこの事件については、食事中、誰も口にするものはなかった。
テーブル・クロスを片づけると、ホームズは時計をちらりと見て、三つのグラスにポート・ワインを注いだ。「われらの遠征の成功のために、乾杯」と彼はいった。「さあ、出発の時間だ。ワトスン、拳銃は持っているかい?」
「机の中に昔の軍用ピストルがある」
「それなら、ぜひ持っていきたまえ。武装したほうがよい。玄関に馬車が着いたよ。六時半にくるようにいっておいたんだ」
ウエストミンスター桟橋に着いたのは、七時少し過ぎだった。汽艇(ランチ)がわれわれを待ち受けていた。ホームズは詮索(せんさく)するように船を注視した。
「警察艇であることを示すようなものはありませんか?」
「あります。舷側にある、あの青い灯です」
「取り外してもらいましょう」
多少の偽装を施すと、私たちは船に乗り込み、艫綱(ともづな)が解かれた。ジョーンズとホームズと私は船尾に坐った。舵手が一人、機関士が一人、それに船首に屈強な警官が二人いた。
「どちらへ?」とジョーンズがたずねた。
「ロンドン塔へ。ジェイコブスン造船所の対岸に停めるよういってください」
私たちの船は明らかに非常に船足が速かった。荷を積んだはしけの長い列が、静止しているかのように見える速さで、そのわきを走り抜けた。蒸気船に追いついたと思うと、たちまち追い抜いていくのを見ながら、ホームズは満足気にほほえんだ。
「どんな船でも追いつけるでしょう」と彼はいった。
「いえ、それほどじゃないですが。でも、たいていの船には負けません」
「間もなく、その速さにかけては評判の、オーロラ号を追跡することになりますよ。ワトスン、きみにちょっと事態を説明しておこうか。ぼくがつまらぬことに躓(つまず)いて、いらいらしていたのを知ってるね?」
「うん」
「それで、ぼくは化学分析に没頭して頭を休めたわけだ。誰か偉い政治家がいっていたが、気分転換が最高の休息だとさ。実際そうなんだ。手がけていた炭化水素の分解が成功したんで、再びンョルトの問題にたちかえって、事件を考え直してみたんだ。少年たちを川の上流、下流にやったけれども、手がかりはつかめていない。汽艇(ランチ)はどの桟橋や船着場にも見つからないし、まだ戻ってもいないんだ。かといって、足跡を消すために船を沈めたわけでもなさそうだ。もっとも、すべての可能性がなくなった場合、それは有力な仮説として残るわけだがね。あのスモールという男は、相当悪辣(あくらつ)なことをやる奴だが、いわゆる知能犯というタイプじゃない。大体、そういったのは教育を受けた者に多い。そこで、ぼくはこう考えたんだ。あの男はしばらくロンドンにいたことがある……ポンディシェリー荘をたえず監視していたわけだからね……だから、すぐに脱出などはせずに、たとえ一日にしろ、多少準備の期間をおくはずだ、と。まあ、これが妥当な線だと踏んだわけだ」
「ちょっと無理なところがあるね」と私はいった。「奴はこの冒険に出かける前に、段どりをととのえてきたと見るほうが正しいのではないかね」
「いや、ぼくはそうは思わない。奴の隠れ家は万が一の時に引きこもるのに重宝だから、確実に用がなくなるまでは捨てないだろう。しかし、もう一つ考えが浮かんだんだ。つまりジョナサン・スモールは、自分の相棒の異様な風貌はいくら変装なんかしても、人のうわさの種になって、このノーウッド事件と結びつけられると感じたのではないか、と。奴は頭がいいから、そのくらいは気づくはずだ。連中は夜陰に乗じて隠れ家を出たから、夜の明けぬうちに帰るつもりだろう。スミス夫人の話だと、船に乗ったのが午前三時過ぎだ。一時間もすれば明るくなって、人々は起き始める。だから一味はそう遠くへは行っていない、そうぼくは考えたんだ。連中はスミスに充分口止め料を与え、最後の脱出のために船を押さえておいて、宝の箱を宿へ運んだ。二、三日の間に、新聞の見解とか自分達に嫌疑がかかっているかが分かるから、それから夜陰に乗じて、グレイブズエンドかダウンズあたりに停泊している船まで行く。おそらくそこからアメリカか植民地へ出航する準備がととのってるはずだ」
「しかし、汽艇(ランチ)はどうなんだ? 隠れ家までは運べまい」
「それはそうだ。見つからないけれど、そう遠くない所にあるに違いない、とぼくは考えた。それから、スモールの身になって、あの男がやりそうなことを想像してみた。船を帰したり、桟橋へ停めておいたりすると、かりに捜査の手が伸びた時に、追跡を容易にすることになる、奴はおそらくそう考えるだろう。それなら船を隠しておいて、必要とあらば、すぐ手に入れるにはどうすればよいか。自分があの男だったらどうするか、と考えてみたんだ。方法はたった一つだ。船大工か修繕屋の所へ船を持っていって、外見を少し変えさせるのだ。そうすれば、船は船置き場かドックヘ持っていってうまく隠すことができるし、二、三時間前に連絡すればすぐに使用できる」
「なるほど単純だね」
「こういう単純なことこそ、一番見落としがちなんだがね。とにかく、ぼくはこの考えにそって行動しようと決めたんだ。そこで直ちに、この無邪気な船乗りのいでたちで出かけていって、川下の船置き場を片っ端(ぱ)しから当たってみた。十五軒無駄足を踏んだあげく、十六軒目で……ジェイコブスンの所だが……義足をつけた男が、二日前にオーロラ号を入渠させて、舵のことで細かな注文をしていったことが分かった。
『舵なんかちっとも具合悪かない』親方はこういうんだ。『あそこにある赤い筋のはいった船だかね』って。その時、誰が来たと思う? 他ならぬ行方不明の船長モーディケアイ・スミスなんだ。酒でちょっと変になっていたがね。もちろん、スミスだなんて分からなかったんだが、大きな声で自分の名前と船の名前を怒鳴(どな)ったんだ。『今晩八時に取りに来るぞ』といって……『八時かっきりだぞ、いいか。お客さんが二人いて、待ってくれねえから』たっぷり報酬を受けたらしく、金をたくさん持っていて、皆にシリング銀貨をつかませているんだ。ぼくは少しあとをつけてみたが、飲み屋へ入ってしまった。そこで、ぼくは船置き場へとって返し、たまたま途中で少年の一人に出会ったから、船の見張りに立たせておいた。水際にいて、連中が出発する時に、ハンカチを振って合図することになっている。われわれは離れて待機するんだ。きっと宝もろとも連中を捕えられるだろう」
「それが本当のホシかどうかは別として、なるほど綿密に計画したものですな」とジョーンズがいった。「でも、わたしだったらジェイコブスン造船所に警官を張り込ませて、奴らがやってきたところを逮捕しますがね」
「それは無理でしょう。このスモールという奴はすごく頭のいい奴でね。まず偵察を立てて、少しでも危いようだったら、もう一週間じっと身を隠しているでしょう」
「でも、モーディケアイ・スミスを尾行して、奴らの隠れ家をつきとめる手もあっただろうと私がいった。
「そうしたらずい分、時間が無駄になる。スミスが連中の居所を知っているのは、まず百に一つの確率だ。あの男は酒と充分な金さえもらえば、文句はないんだよ。用がある時は、連中が使いを出す。いや、ぼくだって、他に考えられる方法は全て検討してみたが、これが一番だ」
私たちがこんな話をしている間に、船はテムズ河にかかった長い一続きの橋の下を、くぐり抜けていた。旧市部を過ぎるとき、太陽の残光がセント・ポール寺院の尖塔の十字架に照りつけていた。ロンドン塔につく頃にはうす暗くなっていた。
「あれがジェイコブスン造船所だ」と、サリー州側に見える、突き出たたくさんの帆柱と索具のほうを指さして、ホームズはいった。「はしけの間に隠れながら静かに航行してください」
彼はポケットから夜間用の望遠鏡をとり出して、しばらく岸辺を眺めた。「ぼくが出した見張りが見えるぞ」と彼はいった。「だが、ハンカチの合図はないようだ」
「少し下流へ行って待ち伏せたらどうです?」と、ジョーンズは真剣な口調でいった。その頃までにわれわれの誰もが真剣になっていた。事情をよく知らされていない警官や火夫でさえ例外でなかった。
「どんなことでも当然のように決めてかかるのはよくない」と、ホームズは答えた。「確かに、連中が下流へ向かう確率は十対一かもしれないが、保証のかぎりじゃない。ここからなら、造船所の入口が見えて、向こうから見られる心配はまずない。今夜は晴れて明るい晩になりそうだ。こにいたほうがいいでしょう。ほら、向こうのガス灯のあかりの下を人の群れが行くよ」
「造船所の仕事が終って帰るところだ」
「うす汚ない連中だが、あの中の誰にでも、小さな不滅の火が宿っているのだよ。彼らを見ただけでは、そうは思えないだろうがね、先験的に蓋然(がいぜん)性の問題として論じることはできないからだ。人間とは、本当に不思議な謎だよ!」
「誰だったか、人間のことを動物の中に宿る霊魂だといってたな」と私がいった。
「ウィンウッド・リードはこの点について面白いことを書いている」とホームズはいった。「彼のいうところによると、個人としての人間は不可解な謎だが、集団になると数学的な確実性というものを帯びてくる。たとえばある一人の人間の行動を予測することはできないが、これが平均的な数の人間だと、正確に予想できる。個人は変動するか、割合(パーセンテージ)は変化しない。統計学者はそういってるがね。おや、あれはハンカチかな?確かにあそこで、白いものがはためいてるね」
「そうだ。きみの見張りだよ」と私は大声でいった。「ぼくにもはっきり見える」
「そしてあそこにオーロラ号が」とホームズが叫んだ。「しかも猛烈な速さで行くぞ! 機関士、全速力で前進だ。あの黄色い灯をつけた汽艇(ランチ)を追え。何が何でもあれには負けられないぞ!」
船は、こっそり船置場の入口を抜け、二、三の小型船の間を走っていたので、気がついた時にはすでにかなり速度を上げていた。そして今や、岸寄りの方を、下流に向かって、飛ぶような速さで航行していた。ジョーンズは、大真面目な顔で船を見ると、首を振った。
「ずい分速いな。追いつけるかなあ」
「何とかして追いつくんだ!」とホームズは歯ぎしりしながらいった。「かまたき、どんどん石炭をくべろ! 全速力を出すんだ! たとえ船が燃えても奴らを補(つか)まえるんだ!」
われわれはかなり敵の船に迫っていた。汽罐(きかん)の火室はごうごうと唸(うな)り、強力なエンジンは巨大な金属の心臓のように鳴り響いた。鋭くとがった船首は、静かな水面をかき分けて、左右両舷にうねる波頭を立てた。 エンジンが鼓動する度ごとに船全体が一つの生物になったように跳びはねたり、震動したりした。船首にある大きな黄色い灯が、ゆらめくじょうご型の光を前方に投げかけた。すぐ前の水面に見える黒い固まりでオーロラ号の位置が分かったが、船尾に渦巻く白い泡を見ただけで、その速さが知れるのだった。われわれは伝馬船(てんません)や蒸汽船や商船の間を縫って、後ろや横をすり抜けたりしながら進んだ。暗闇の中から、こちらに大声をかけるものもあったが、なおもオーロラ号は走り続け、こちらもその後をぴたりとつけていた。
「くべろ、もっとくべろ!」とホームズは機関室を見おろしながら叫んだが、下からの強烈な火焔が、彼の真剣な、鷲(わし)のような顔を照らし出した。「出せるかぎりの馬力を出せ」
「少し接近したようだ」とジョーンズがオーロラ号に目をやったままいった。
「そうだ」と私はいった。「もうすぐ追いつくぞ」
しかしその瞬間、魔がさしたように、三隻のはしけを曳いた引き船が、うっかりわれわれの前方に割り込んできた。思いきり下げ舵を取ったために衝突はまぬがれたが、引き船をよけて態勢を立て直した時には、オーロラ号との距離は二百ヤードも離れていた。しかし、その姿はよく見えたし、一方では、ほの暗く頼りない薄明は、やがて晴れわたった星月夜に変わろうとしていた。汽罐は今にも破裂しそうで、船を推進する猛烈な力に、きゃしゃな船体は震動し、きしんでいた。われわれはプール〔ロンドン橋からライムハウスまでの水域〕を通り、西インド会社のドックを過ぎ、長い水域を下り、犬の島(アイル・オブ・ドッグズ)をまわって、再び上流に向かった。前方のくすんだ青い船体は、やがて優美なオーロラ号となって、くっきり姿を現わした。ジョーンズが探照灯を当てると、甲板にはっきりと人影が見えた。船尾の人影は、両膝の間に黒いものをはさみ、その上にかかんでいた。そのわきに、黒い固まりが横たわっていたが、ニューファウンドランド犬のように見えた。少年が舵柄を取っていた。火室から照り返す赤い光の中に、上半身裸になって、必死に石炭を放り込むスミスの姿が浮かび上がった。
最初、彼らはわれわれに追跡されているのが、半信半疑のようだった。しかし、彼らが曲がったり進路を変えたりするごとに、われわれがつけて行くので、もはやそれについて疑いはなかったにちがいない。グリニッチのあたりでは、あと三百ヤードほどに迫った。ブラックウェルでは二百五十ヤードに接近した。私は変化に富んだわが人生において、あちこちでさまざまな獣を追ったことがあるが、このテムズ河での気狂いじみた人間狩りほど、荒々しいスリルに満ちたものはなかった。われわれは一ヤードずつ着実に接近していた。夜の静けさを縫って、敵の船のエンジンの音が聞こえた。船尾の男はいぜんとして甲板にうずくまり、忙しそうに両手を動かしていた。そして時々顔をあげてわれわれとの距離を目測した。われわれはさらに肉薄した。ジョーンズは止まれと叫んだ。われわれは四艇身の距離まで迫り、両船は共に猛烈な速度で走った。一方にバーキング低地、他方にプラムステッド湿地帯が見渡せる、見通しのよい水域に出た。われわれが大声で呼ぶと、船尾の男が立ち上がり、両手のこぶしをこちらに向かって振りまわしながら、かん高いしわがれ声で何やらわめいた。大柄の腕っぷしの強そうな男で、両足を開いて、バランスを保ちながら立っていたが、よく見ると、右足は大腿部から下が義足だった。男の耳ざわりなののしり声で、甲板にうずくまっていた固まりがもぞもぞ動き出した。体を伸ばすと、それは小さな黒人で……かつて私が見た中でも最も小さかった……大きな不格好な頭と、くしゃくしゃにちぢれた髪の毛をしていた。
ホームズはすでに拳銃をぬいていたが、私もこの不気味な野蛮人を見て、自分のを取り出した。男は黒い外套か毛布のようなものにくるまっていて、わずかに顔がのぞいているだけだったが、その顔でさえ、見る者を眠れなくさせるようなものだった。あれほど獣性と残虐性が深く刻まれた顔を、私はこれまで見たことがない。小さな目に陰うつな光を浮かべながら、彼は分厚い唇の間から歯をむき出し、狂暴な動物のようにわれわれを威嚇(いかく)した。
「あいつが手を上げたら射て」とホームズは静かにいった。
すでに私たちは一艇身のところに迫り、ほとんど獲物に手がとどかんばかりだった。二人の男たちの立った姿が今でも目にちらつく……白人は両足をふん張って立ちながら、かん高い声でわめきちらし、恐ろしい顔をした悪魔のような小男が、鋭い黄色い歯をむき出しにして、歯ぎしりしているのが灯火に浮かび上がったのだ。
小男の姿がはっきり見えたのは幸いだった。私たちが見ている前で、彼は隠し持っていた短い筒形の、定規のような木片を取り出すと、それを口に当てたのだ。 私たちの拳銃が一斉に鳴った。男はもんどりうって、両手を泳がせ、喉をつまらせたように咳き込むと、舷側から川の中へ落ちた。その毒を含んだ、威嚇するような目が、白く渦巻く水中に消えるのが一瞬見えた。そしてその時、義足の男が舵に飛びつき、下手一杯にかじを切ったので、船はまともに南岸に向きを変え、こちらの船尾の二、三フィートしか離れていないところを、かすめるようにしてすり抜けた。
ただちに進路を変えて追跡にかかったが、向こうはすでに岸に近づいていた。そこは荒涼とした場所で、淀(よど)んだ水たまりと、枯れた植物ばかりの広大な沼地を、月がおぼろに照らしていた。船は鈍い衝撃音と共に泥の土手に乗り上げ、船首を宙に突き出し、船尾を水に浸した。逃亡者は船から飛び降りたが、そのとたんに、義足が泥の中へ根元までずぶりともぐってしまった。あせってもがいても無駄だった。前にも後にも、一歩も踏み出すことができなかった。彼は腹立ちまぎれに空しくわめきちらしながら、もう一方の足で狂ったように泥を蹴(け)ったが、あがけばあがくほど、義足はぬかるみの中に深くもぐっていった。われわれが船を横づけにした時には、男はもう完全に身動きできなくなり、仕方なく私たちはその肩にロープをかけて引っ張り出し、邪悪な魚を扱うように、引きずって連れてきた。スミス父子は、仏頂面をして汽艇(ランチ)の中に坐っていたが、命令されると神妙に船外へ出た。オーロラ号は引っ張って岸から離し、こちらの船の船尾につないだ。インドの職人が作ったがん丈な鉄製の箱が甲板にあった。これこそショルト一族の不吉な財宝の入っている箱に相違なかった。鍵はなかったが、かなりの重さなので、私たちは細心の注意を払って、船の小さな船室へ運んだ。ゆっくり上流へ引き返す時、四方を探照灯でくまなく照らしたけれども、あの島人の死体は見つからなかった。テムズ河の暗い川底の軟泥のどこかに、英国の岸辺を訪れたあの不思議な訪問者の骨が、今も眠っているはずだ。
「ここを見てごらん」と木造の昇降口(ハッチ)を指しながら、ホームズがいった。「拳銃を射つのがもう少しでも遅れたら大変なことになったろう」
確かに私たちが立っていたすぐ後ろに、見覚えのある例の毒矢が刺さっていたのである。こちらが発砲した瞬間に、私たちの間をかすめて通ったに違いなかった。ホームズはそれを見て、くったくなく笑い、肩をすぼめたが、正直いって私は、あの晩、私たちのすぐそばを通り抜けた恐ろしい死のことを思って、胸が悪くなった。
私たちの捕膚は、船室(キャビン)に入ると、長いあいだ辛抱してそれを手に入れるために苦心惨憺(さんたん)してきた、あの鉄の箱と向かい合わせに坐った。彼は陽焼けした、豪胆な目つきの男で、一面皺(しわ)だらけになった赤褐色の顔は、きびしい戸外の生活の名残りをとどめていた。ひげをはやしたあごのあたりが、特徴的に突き出ているところからして、初志を容易にまげないタイプの人間であるらしかった。黒いちぢれた髪には、かなり白いものが混じっていて、年は五十くらいかと思われた。平静な時の顔つきは不愉快なものではなかったが、つい今しがた見たように、激昴すると、太いまゆと挑戦的なあごが、恐ろしい形相を呈した。男は手錠をはめられた両手を、膝の上に置き、背中を丸めて坐り、輝く鋭いまなざしで、その悪事の原因となった箱をじっと見ていた。彼のじっとこらえているようなきびしい表情には、怒りというよりは悲しみが現われているようだった。一度などは、私を見上げる目つきに、何かこっけいじみたものさえうかがわれた。
「なあ、ジョナサン・スモール」と、ホームズは葉巻に火をつけながらいった。「こんな結果になって残念だよ」
「あっしもですよ」と、彼は率直に答えた。「このことで縛り首にはならんでしょうな。天に誓っていうが、あっしはショルトさんに手出しはしてない。あの悪魔じみたトンガの奴が、毒失で射ったんでさあ。あっしは手をかしていない。あっしだって親兄弟がやられたように悲しんだくらいでさあ。あいつをロープの端でひっぱたいてやりましたよ。でも、済んじまったことは、もうとり返しかつかなかったんで」
「葉巻を吸いな」と、ホームズはいった。「それに、ずぶ濡れだから、これを一杯ひっかけるといい。あの黒人みたいに小柄で非力な男に、どうしてショルト氏をおどして、あんたがロープを伝わって登ってくる間、押さえておけるなどと思ったのかね?」
「現場に居合わせたみたいによくご存知ですな。実は部屋に誰もいない時に入ろうと思ったんです。屋敷の中の暮らしはよく知ってましたからね、普通ならショルトさんが夕食に下へ降ていく時間だったんです。何も隠し立てはしませんよ。あっしが自分を弁護するとしたら、ただ事実を述べることくらいしかないですからね。これが、ショルトの父親(おやじ)のことで縛り首になるんなら、気軽に死んでやりますよ。あいつをばらすなんて屁(へ)とも思っちゃいませんからね。でも、全然争ったこともないショルトの息子のことで、牢屋行きなんて、とても我慢ならんですよ」
「あんたの身柄はロンドン警視庁のアセルニー・ジョーンズ氏があずかっているんだ。彼があんたをぼくの部屋へ連れてくることになっているが、そこで事件の真相を聞かせてほしい。残らず白状した方かいいよ。そうすれば力になってやれるかもしれない。あの毒のまわり方が速いのだ、あんたが部屋に登ってくるまでに、あの人が死んでいたことを、ぼくなら証明できるかもしれないんだ」
「実際に死んでいたんですよ。窓から入ろうとすると、あの男が首を肩へ乗せたまま、こちらを向いてにやにや笑ってました。あの時ほどびっくりしたことは今までないです。本当に身震いしました。トンガのことを半殺しにしてやろうかと思ったら、あいつ、さっさと逃げ出したんです。そのとき奴は武器と毒矢を置き忘れたらしいんですが、それでアシがついてしまったんでしょう。もっとも、その先どうやって追ってきたのかは、こっちには見当がつきませんがね。あっしはあんたを恨んでなんかいませんよ。でも、考えてみればおかしな話だ」彼は皮肉な笑いを浮かべていった。「五十万ポンドに対して正当な権利を持っているこのおれが、人生の半分をアンダマン群島で防波堤造りに過ごし、残りの半分をダートムア刑務所で下水掘りに過ごすなんて。ひょんなことで商人のアクメットに出会って、アグラの宝を知ったのがけちのつきはじめです。宝は、それを持った者には、呪いしかもたらさなかったんです。奴にとっては人殺しだったし、ショルト少佐にとっては恐怖と罪だったし、あっしにとっては一生の奴隷仕事というわけでさあ」
この時、アセルニー・ジョーンズが、大きな顔とがっしりした肩をして、狭い船室へ入ってきた。
「仲むつまじく、ですな」と彼はいった。「ホームズさん、ぼくも一杯いただこうかな。お互いに乾杯といきたいですな。もう一人を生け捕りにできなかったのは残念だが、まあやむを得ん。ホームズさん、あんたも大した離れ技(わざ)をやったもんですよ、本当に。こっちは追いつくだけで精一杯でした」
「終わりよければすべてよし、だ」とホームズはいった。「それにしても、オーロラ号があんなに速いとは思わなかった」
「スミスの話だと、テムズ河では一番速い部類だそうで、エンジンを見る助手がもう一人いたら、絶対捕まらなかったといってますよ。あの男は、このノーウッド事件については、全く何も知らなかったそうです」
「知らないですよ」と捕虜は大声でいった。「何も知らない。あっしがあの船に決めたのは、足が速いと聞いていたからです。あの男には何もしゃべっていません。金は充分にやったし、もしわっしらが、グレイブズエンドにいる船……ブラジル行きのエズメラルダ号まで無事着けたら、相当の礼をするつもりでした」
「あの男が悪事を働いていないのなら、わしらとしても、彼が不利にならないように取計らおう。犯人逮捕に関しては迅速ではあるが、犯人の処罰に関してはそれほどではないからな」
尊大なジョーンズ御大(おんたい)が、犯人逮捕に気をよくして、また威張り始めるのを見るのは愉快だった。シャーロック・ホームズがうす笑いを浮かべていたところを見ると、彼もジョーンズの言葉が耳に入ったようだった。
「もうすぐヴォクスホール橋に到着します」とジョーンズがいった。「それで、ワトスン先生、宝を持って降りてもらいますよ。いうまでもないことですが、わたしはこうした措置(そち)をとることにより、重大な責任を負わねばなりませんからな。きわめて異例のことではあるが、約束は約束です。しかし、こちらとしては、当然の義務として、警官を一人つけさせていただきます。なにしろ大変なお荷物をお持ちなんですから。もちろん馬車でおいでですな?」
「ええ、馬車でいきます」
「最初、中身の目録を作っておくといいんだが、あいにく鍵がない。こわして開けないとだめです。おい、鍵はどこへやった?」
「川の底です」スモールは手短かにいった。
「ちえっ、余計な手間をかけやがる。おまえのために、おれたちはさんざん働かされてきたんだぞ。とにかく先生、くれぐれもご用心を。箱はベーカー街の部屋へお持ちください。われわれは駅ヘ行く途中にそちらへ寄るつもりです」
私は重い鉄の箱と、ぶっきら棒だが人のいい警官をつき添いに、ヴォクスホールで降ろされた。馬車で十五分ほど行くと、フォレスター夫人の家についた。召使いはこんなにおそい訪問客に驚いた様子だった。夫人は外出中で帰りがおそくなるはずとのことだった。しかし、モースタン嬢は居間に起きていたので、私は世話ずきの警部を馬車に残し、箱を手に持って居間へ入っていった。
彼女は首と腰のところが深紅色をした、白いうすものの服を着て、開け放った窓辺に坐っていた。覆(おお)いをつけたランプの柔らかな光は、藤椅子にもたれた彼女の上に降りかかり、その美しい厳粛な顔の上で戯(たわむ)れ、また、そのつややかな髪の、房々した巻き毛を鈍い金属の光沢で染めあげた。まっ白い片方の腕を、わきにだらりとたらした姿勢の全体から見て、深く物思いに沈んでいる様子だった。しかし、私の足音を聞くと、彼女はとび起き、その青白い頬を、驚きと喜びで明るく輝かせた。
「馬車の音が聞こえました」と彼女はいった。「フォレスターさんが早目にお帰りになったのかと思いました。まさか、あなただとは夢にも思いませんでしたわ。どんな知らせを持ってきてくださったんですの?」
「知らせなんかより、ずっといいものです」といって、私は箱をテーブルの上へ置き、陽気にはしゃぎながら言葉を続けたが、その実、心は重かった。「世界中のどんな知らせよりも価値のあるものを持ってきたんです。財産を運んできたんですよ」
彼女は箱をちらりと見た。
「では、これが宝物ですの?」と、彼女は実に冷静にたずねた。
「ええ、これが大いなるアグラの財宝です。半分はあなたのもので、半分はサディアス・ショルト氏のものです。二、三十万ポンドずつ手に入るわけです。どうです! 一万ポンドの年金。英国中でも、こんな金持の女の人は、他にそういませんよ。すばらしいじゃありませんか?」
私が幾分大げさに喜びを表わしたせいか、彼女は私の言葉に、空虚な響きを感じとったらしかった。彼女は少しまゆをつり上げて、不思議そうな顔つきで私を見た。
「もしもそれがわたしのものになったら」と彼女はいった。「それはあなたのお陰ですわ」
「いえ、いえ」と私は答えた。「ぼくじゃなくて、友人のシャーロック・ホームズのおかけですよ。ホームズの天才的な分析力をもってしても、手こずらせたくらいですから、ぼくがいくらがんばったって、事件の鍵を解くことはできなかったでしょう。実のところ、土壇場(どたんば)であやうくとり逃すところでした」
「どうか、おかけになって、全部お話ししてくださいな、先生」
私は、最後に彼女と別れて以来起こった事柄を、手短かに話した……ホームズの新しい捜索方法、オーロラ号の発見、アセルニー・ジョーンズの出現、夕暮の冒険、そしてテムズ河での大追跡。彼女は唇を開き、目を輝かせながら私の冒険談に耳を傾けた。あやうく当たりそこねた毒矢の話になると、彼女は顔面蒼白になったので、私はまた気絶するのではないかと思った。
「何ともありませんわ」あわてて水をついでやると、彼女はいった。「大丈夫です。わたしのために、お二人がそんな危険な目にお会いになったと聞いて、びっくりしてしまいました」
「もうすべて終わったんです」と私は答えた。「大したことはなかったんです。もうこれ以上、恐い話はしませんよ。もっと明るい話題に変えましょうか。ここに宝がある。これより明るいものなどありますか?まずあなたにお見せしたいと思って、特別に許可をもらってこうして持ってきたんですよ」
「わたしにも大変興味がありますわ」と、彼女はいった。しかし、その声には何か熱心さが感じられなかった。おそらく彼女には、手に入れるのにあれほど苦労した宝に対して、無関心な態度をとるのは失礼だという気持が働いていたのだろう。
「美しい箱ですこと!」と彼女はその上にかがみ込みながらいった。「これはインド製かしら?」
「そう、ベナレスの金属細工です」
「それに重いこと!」彼女は持ち上げようとしながら叫び声をあげた。「箱だけでも相当の値打ちでしょう。鍵はどこですか?」
「スモールがテムズ河へ捨ててしまったんです」と私は答えた。「フォレスターさんの火かき棒を借りましょう」
箱の正面には、仏陀の座像をかたどった、厚い、巾広の掛け金がついていた。私はその下に火かき棒をさし込み、てこのかわりにして手前へぐっとひねった。ぱちんと大きな音がして、掛け金がはずれた。私は震える手で蓋(ふた)を開けた。私たち二人は愕然(がくぜん)として立ちつくした。箱は空っぽだったのだ。
箱が重いのも当然だった。鉄張りのまわりは、三分の一インチもの厚さをしていた。高価なものを入れる箱のように、ていねいにがっしり造ってあったが、中には金属や宝石の一かけらもなかった。正真正銘のからだった。
「宝がなくなっていますわ」と、モースタン嬢は落着いていった。彼女の言葉を聞いて、その意味を了解したとたんに私は、心の中から重苦しい影が消えていくような感じがした。このアグラの宝物が、いかに私に重くのしかかっていたのかを、それが取り除かれた時になって、ようやく気がついたのだった。確かに利己的で、不実で、よこしまな考えかもしれないが、私には、お互を隔てていた黄金の障壁が除かれたということしか頭になかった。
「ばんざい!」私は心の底から叫んだ。彼女はいぶかしげな微笑をす早く浮かべて、私を見た。
「なんで、そんなことおっしゃるの?」と彼女はたずねた。
「あなたがまた、ぼくの手にとどくようになったからです」彼女の手をとりながら、私はそういった。彼女は手を引っ込めようとしなかった。「メアリー、ぼくは誰にもまして心からあなたを愛しているからです。この宝物、財産というもののために、ぼくは口がきけなかったのです。それがなくなった今、あなたが好きだといえるようになりました。だから『ばんざい』などといったんです」
「それなら、わたしも『ばんざい』ですわ」彼女を自分の方へ引きよせようとした時、彼女はそうささやいた。
宝を失くしたのが誰であるにしろ、それを手に入れたのは自分だ、と私はその晩思った。
さんざん待たしたあげく、私は馬車にいる警官のところへ戻ったのだが、彼はよほど辛抱強い男であるらしかった。私が空の箱を見せると、彼は顔を曇らせた。
「手当てはふいだ!」彼は憂鬱そうにいった。「金がなければ、手当てもなしです。宝が見つかっていれば、今晩の仕事でサム・ブラウンとわたしは十ポンドはもらえるはずだったんだが」
「サディアス・ショルトさんは金持ちだから」と私はいった。「宝があるなしにかかわらず、お礼はするでしょう」
しかし、警官は絶望したように首をふった。
「骨折り損だ」と彼はくり返した。「アセルニー・ジョーンズさんだってそういうだろう」
彼の予言したとおりだった。私がベーカー街に行って空の箱を見せた時、警部は気の抜けたような顔をした。ホームズと捕虜と警部は、途中、予定を変更して、警察署へ報告に立ち寄ったので、到着したばかりのところだった。わが友はいつもの落着かない表情で、肘掛け椅子に腰をおろしていた。それと向かい合わせたスモールが、丈夫なほうの足に義足を乗せて、どっかりと坐っていた。空の箱を見せると、彼は椅子にのけぞって、大声で笑った。
「スモール、お前の仕わざだな」アセルニー・ジョーンズは腹立たしげにいった。
「そうさ。絶対にあんたらの手のとどかない所に隠してある」彼は勝ち誇ったように叫んだ。「おれの宝だからな。自分のものにできないのなら、人にも絶対手渡さんぞ。いいかね、あの宝は、アンダマンの囚人収容所にいた三人の奴らと、このあっし以外、誰にも手のつけられないものなんだ。もう宝はおれには用なしになってしまったし、あの連中にしたってそうだ。あっしは自分のためばかりじゃなくて、奴らのためにも事を運んできたんだ。あっしらにとっては、いつも四つの署名だったんだ。みんなだって、あっしがやったとおりのことをやったろうし、ショルトやモースタンの身内なんかに宝をくれるくらいなら、テムズ河へ捨ててしまっただろう。あっしらはこういう連中を金持ちにするために、わざわざアクメットをあんな目に会わせたんじゃない。宝はな、鍵がある場所、そしてちびのトンガがいる場所にあるのさ。あんたらの船に追いつのられた時、宝は安全な場所へしまっておいたんだ。せっかくのご足労だが、あんたらには一ルピーもないよ」
「でたらめをいうな、スモール」アセルニー・ジョーンズが厳しい口調でいった。「宝をテムズ河に捨てるなら、箱ごと投げるほうが簡単じゃないか」
「投げるのも簡単だが、見つけられるのも簡単さ」ずる賢(がしこ)そうな流し目をしながら、彼は答えた。「あっしを捕えられるほど頭のいい奴なら、川底から箱を探すくらいのことは朝めし前さ。だが、宝は五、六マイルにわたって散らばっているから、これは簡単にはいかないよ。捨てる時には心が張り裂けそうだった。あんたらに追いつめられた時には気が狂いそうだった。だが、めそめそしたって始まらねえや。これまでいいことも悪いこともいろいろあったが、後悔だけはやのようってきめたんだ」
「これはきわめて重大なことだ、スモール」と警部はいった。「もしおまえがこんなふうに正義にたてついたりせず、正義に力を貸すならば、裁判ではずっと有利になるんだぞ」
「正義だって!」かつて囚人だった男はどなった。「何が正義だ! 宝だって、あっしらのでなけりゃ、誰のものだい? 自分で手に入れたのでもない奴らに、そいつを渡さなきゃならんなんて、何が正義だよ! いいか、おれがそれをどうやって手に入れたか、教えてやろうか? あの熱病にとりつかれた沼の中で、二十年もの間、一日中、紅樹(マングローブ)の下でこき使われ、夜は汚ない囚人小屋で鎖につながれ、蚊に喰われ、おこりに苦しめられ、白人のまねがすきな、あのいまいましい黒人の警官どもに小突(こづ)かれどおしだったんだぜ。こうしておれは、宝を手に入れたんだ。それなのに、おれが人を喜ばせるためにこんな犠牲を払うなんてまっぴらだというだけで、あんたは正義などとぬかしおる。他人がおれの金で御殿に入ってのんびりやっている、などと牢屋の中で考えるくらいなら、何回も首をくくられるなり、トンガの毒失をつき刺されるなりしたほうが、おれにはましだ」
スモールは平静な態度をかなぐり捨てて、このように猛然とまくしたてた。その間、彼の目は燃えるように輝き、激しく両手を振るたびに手錠が鳴った。私はその激怒する姿を見ながら、この男に追われていることを知った時、ショルト少佐は恐怖に襲われたというが、それはなるほど無理もないことだと合点した。
「あんたはわれわれがそうした事実を全く知らないことを忘れている」と、ホームズは穏やかにいった。「あんたの話を聞いたことがないから、あんたがもともとどれほど正しいのか、わかりようがないんだよ」
「そうですかい。あんたはこのあっしをまともに扱ってくださるんですかい。もっともこの両手の腕輪についちゃ、ちょっと礼をしたい気持だがね。いや、こいつだって文句はいえねえや。まちがっちゃいねえもんな。もしあっしの話を聞きたいとおっしゃるんなら、洗いざらいしゃべりましょう。これは一言一句が神かけて真実ですぜ。すまんが、ここんところヘコップを置いてくれませんかね。咽喉(のど)がかわいたら、こっちから口を持っていくから。
あっしはウスターシャーの出でね、パーショーの近くの生まれだ。調べてみりゃ分かるが、あの辺にはスモールって名前のがたくさんいますよ。時々あのあたりへ行ってみたい気がするが、家には不義理ばかりしてたから、あんまり歓迎されそうもないやね。家の者は、堅気で信心深い、けちな百姓でしたが、土地では名が通っていたし、人から尊敬されてもいたんだ。それにひきかえ、あっしはいつも少しばかり放浪ぐせがあってね。ところが、十八になった頃、あっしはもう厄介者ではなくなったんだ。女のことで悶着(もんちゃく)を起こし、それがいやさに志願して、その時インドヘ発とうとしていた歩兵第三連隊に入ったのさ。
だが、もともと兵隊なんて柄じゃなかった。ようやく歩調教練に合格して、マスケット銃の扱いを覚えた頃、よせばいいのにガンジス河へ水浴びに行ったんだ。幸いその時、中隊の軍曹のジョン・ホールダーも泳いでいて、こいつは泳ぎにかけては、隊でも指折りでね。川の中途まで泳いでいった時、あっしはわに(ヽヽ)に襲われて、まるで外科医に切られたように、右足の膝上のところがらぱっくり喰いちぎられちまったんです。ショックと貧血で気を失い、溺れかかったところを、ホールダーに助けられて岸まで運ばれました。五力月間入院し、この木の義足をつけて、びっこを引きながらようやく歩けるようになった時には、軍隊からはお払い箱にされて、力仕事はできなくなってました。
まだはたち代だというのに、ちんばの役立たずになって、不幸のどん底に落とされた気になってました。ところが、この不幸とは実は幸運が姿を変えたものだったんです。インド藍(あい)の栽培にきていたエイベル・ホワイトという男が、苦力(クーリー)が仕事をさぼらないように看視する監督をさがしていました。この男はあっしらの連隊長の大佐の友達で、またこの大佐は、例の事故以来あっしのことを目にかけてくれていたんです。
で、話を端折(はしょ)っていうと、大佐があっしのことをその職に強く推点してくれて、そのうえ仕事はたいていは馬に乗ってすることだったから、足にはさし障りがなかったんです。腿(もも)はちゃんと残っていたから、鞍にまたがるのは平気っていうわけです。仕事は馬で農園を見まわり、働いている連中を看視して、なまけているのがいたら報告をする。給料は悪くはなかったし、家も居心地よかったから、あっしはこの藍(あい)栽培で一生を送るつもりでいました。エイベル・ホワイトさんは親切な人で、よくあっしの小屋へ立ち寄って、いっぷくやっていきます。向こうにいると白人同志はとてもこっちではできないほどお互いに心が通いあうものなんですよ。
だが、好運は長続きしませんでした。突然、なんの前ぶれもなしに大暴動が起こったんです。一力月の間インドは、見たところまるでサリーやケントのように静かで平和だったのに、二十万人もの黒い悪魔どもが一斉に解き放たれて、国中が完全に地獄と化しちまいました。もちろん、あんた方、よくご存知でしょう。あっしらよりずっとよく知ってるはずだ。こっちは読むほうはからきしだからね。この目で見たことしか知りません。あっしの農場は、北西州の境いに近いムットラにあったんです。焼き打ちにされたバンガローの火で、夜ごとに空は明るく染まりました。毎日、ヨーロッパ人の小さな群れが、妻子を連れてあっしらの農園を通り抜けて、もよりの軍隊が駐屯しているアグラヘ向かっていきました。エイベル・ホワイトさんはかん固な人でしてね。事件は大げさに伝えられたものだ、急に起こったのだから、急に鎖(しず)まるだろうと考えてました。それで、まわりでは国中が燃えているというのに、ベランダに坐ってウイスキー・ソーダを飲んだり、両切り葉巻をふかしたりなぞしていたんです。もちろん、あっしらはホワイトさんの許を離れなかった……あっしとそれに、かみさんと一緒に帳簿や管理をやっていた、ドースンという男ですがね。
ところが、ある晴れた日に、破滅がやってきました。あっしは遠くの農園へ出かけていて、夕方ゆっくり馬で帰るとき、たまたま険しい河床の底に、何やら固まりのようなものがあるのが、目にとまったんです。馬から降りて、それを見たとたん、思わず心臓の凍る思いがしました。ドースンのかみさんがずたずたに引き裂かれ、半分はジャッカルや野犬に喰われているんです。その少し先には、ドースンが空の拳銃を手に、うつ伏せになって死んでいて、すぐ前には土民兵(セポイ)が四人、折り重なって倒れているんです。あっしは手綱をとって、どっちへ行こうかと迷いました。その時エイベル・ホワイトのバンガローから真っ黒い煙が立ち昇り、屋根から火が燃え上がるのが見えました。主人には悪いけれど、余計なことをしたらこっちの命がないと思ったのです。立っている所から見ると、何百という黒い悪魔どもが背中に赤い上着をつけて、燃える家のあたりを踊ったりわめいたりしています。そのうち、誰かがあっしのほうを指さすと、弾丸が二、三発耳元をかすめました。そこであっしは、田んぼを横切って一目散に逃げ出し、その晩おそくアグラの城壁の中へ無事逃げ込んだわけです。
だが、そこも大して安全じゃなかったのです。なにしろ、国中が蜂の巣をつっついたような騒ぎでしたからね。英国人が多少集まったところで、持ちこたえられるのは、せいぜい鉄砲のとどく範囲です。あとはどこへ行っても、英国人は無力な逃亡者でした。多勢に無勢のいくさでしたが、何ともひどかったのは、あっしらの敵で……つまり歩兵と騎兵と砲兵は、あっしらが教え、仕込み、あっしらの武器を持ち、そしてあっしらの召集ラッパを吹くという、あっしらの精鋭部隊だったことです。アグラには第三ベンガル・フュージリア連隊と、シーク教徒兵と、騎兵二個中隊と、それに砲兵一個中隊がいました。事務員や商人達の義勇軍ができていて、あっしも義足のままで加わったのです。六月の初めに、シャーグンジの反乱に出かけていって、一度は敵を追いかえしたのですが、やがて弾薬がつきて、町まで後退するはめになりました。
どこから来るのも最悪の知らせばかりです。それももっともなはず。地図を見ればわかるが、あっしらがいたところは反乱のど真ん中なんだ。ラクノーは百マイルちょっと東にあり、カウンポールも南に、やはりそのくらい離れていました。どっちを向いても、拷問と殺人と暴行ばかりだったんです。アグラは大きな町で、狂信者や、恐ろしいいろんな魔神崇拝者が群がっていました。
あっしらの隊の兵隊が数名、狭い曲がりくねった通りで道に迷ってしまったんです。そこで、指揮官は川を渡って、アグラの古い砦に陣を張ることにしました。この古い砦のことはご存知かも知りませんがね。これは実に不思議な場所でして、あっしもいろんな危い所へ行ってるが、なかでも一番不思議な場所ですぜ。まず、そのばかでかいことといったら、まわり全体で何エーカーにもなるでしょう。新しく建てられたところがあって、そこは守備隊の他に、女子供や食料など一切収容しても、まだかなりの余地があるんです。それでも、この新しく建てられたところは大きさからいくと、サソリやムカデが出て誰も行く者がいない、古い建物とは比べものにならないんです。そっちには、荒れ放題の広間や曲がりくねった通路や、うねりくねった回廊が至る所にあって、一度迷い込んだら、容易には出られません。そんなわけで、めったに人は寄りつかず、たまに松明をもった連中が探険に行くぐらいのものでした。
古い砦の正面に沿って川が流れていたので、そこだけは自然、川に守られていました。ただ両側とうしろには門がたくさんあって、部隊がとまっていた新しい建物ばかりか、古い方の戸口にも警備を置かなくてはならなかったのです。あっしらは手不足で、建物のあちこちに銃をもって部署につけるだけの頭数は、まずいませんでした。だから、たくさんの門の全部にわたって、しっかりした警備を配置させるなど、出来ない相談だったのです。しかたがないので、砦の真ん中に衛兵所本部をおいて、他の門は白人一人と二、三人の土人で固めることにしました。あっしは夜、決まった時間に、建物の西南側に面した一つだけある小さな戸口を見張る役に選ばれたのです。二人のシーク人の騎兵があっしの部下というわけで、何かの時にはマスケット銃で合図するようにいい渡されました。そうすると本部から助けがくる手筈でした。ただ衛兵所はたっぷり二百歩は離れていたし、そこまでの間は迷路みたいに通路や回廊が入り組んでいたので、いざ攻撃された時に、助けが間にあうかどうか、たいへんあやしいものでしたがね。
あっしはこんな命令でも、受けたことがすごく得意でした。なにしろ、こっちは新兵で、しかもちんばときてるからね。二晩、部下のパンジャブ人をつれて番をしました。二人は背が高く、ものすごい顔をした連中で、名前をマホメット・シングとアブドゥラ・カーンといって、チリアン・ウォラーでおれ達に対して武器を執(と)って刃向ったことのある老戦士です。奴らは英語はかなり話せたが、あっしには何もいわない。二人だけでいて、夜通しわけのわからない、おかしなシーク語でべちゃくちゃやっている。こっちは門の外に立って、巾の広い、くねった川と大きな町のまばたくあかりを眺めていました。太鼓の音とか、タムタムの響きとか、アヘンと大麻に酔った謀反(むほん)人たちの叫び声とかが聞こえていて、恐ろしい連中がすぐ川向こうにいることが、一晩中、頭から離れませんでした。二時間おきに、当直士官が全部の部署をまわって、異常はないか確かめることになっていました。
見張りの三日目は、暗い荒れ模様の晩で、少し雨が降っていました。こんな天気で、何時間も門口に突っ立っているのは、うんざりでした。幾度かシーク人たちにしゃべらせようとしましたが、うまくいきません。明け方の二時に巡回がまわってきて、しばらくは夜の退屈もまぎれましたがね。部下が話に乗ってこないので、あっしはパイプをとり出して、マッチを擦(す)るつもりでマスケット銃を下に置いたんです。その時、シーク人二人がいきなり襲いかかってきました。一人が銃をひったくって、こっちの頭に向けてくるし、もう一人は大きなナイフを咽喉(のど)につきつけて、一歩でも動くとつき刺すぞと声をひそめていいました。
まず頭に浮かんだことは、こいつらは逆徒の一味で、これをきっかけに攻撃が始まるのだろう、ということでした。もしこの戸口が土民兵(セポイ)の手にわたったら、砦は陥落し、女子供はカウポールのときと同じ目にあうだろう。そう思ったとき、咽喉にナイフの切先を突きつけられていましたが、どうせこれでおしまいなら、ひとつ大声で叫んでやろう、そうすれば警備本隊のところまで聞こえるかもしれない、と考えました。なにもあっしは、ここでかっこいいところを見せようってのじゃない、これは本当の話ですよ。ところが、あっしを押えてた奴が、こっちの心中を察したらしい。いざ怒鳴(どな)ろうとして身をちぢめたとき、そいつは耳もとでこう囁(ささや)いたんです……『さわぐんじゃない。砦は安全だ。川のこっちに反逆者の犬どもはいないよ』
いうことに真実味がこもっていたし、もし騒げば命がないのはわかっていました。そいつの茶色の目にそれがありありとうかがえたんです。そこで、奴らは何が目的なのかを知ろうと、黙って待ってみました。
『いいか、旦那』二人の中でも背が高くて、荒っぽいほうのアブドゥラ・カーンという奴がいいました。『おれたちの味方になるか、永久にしゃべれなくなるかのどっちかだ。とても大事なことで、おれたちは、ぼんやりしてはいられないんだ。十字架に誓って、真実おれたちの仲間になるか、それとも今晩、死体となって溝の中へ放り込まれ、おれたちは反乱軍の兄弟達のもとへ帰るか、このどっちかだ。中間の道はない。死ぬか、生きるか……どっちだ? 三分間待ってやる。時間は経っていくし、見まわりがくるまでに決着をつけなきゃならないんだから』
『おれに決められるわけがないだろう?』あっしはいいました。『何でおれが必要なのか、おれにはわからない。だが、いっておくが、これが砦の安全をおびやかすことなら、取り引きなんかしないぞ。さっさと突き刺すがいいや』
『砦の安全をおびやかすもんじゃない』そいつはいいました。『ただ、あんたの国の人達がそれを目当てにこの国へやって来ることを、あんたにもやってほしいだけだ。あんたに金持になってもらいたいんだよ。あんたがおれたちの仲間に入るのなら、おれたちはこの裸のナイフにかけて、そしてシーク人が決して破ったことのない、三重の誓いでもっていうが、あんたにも宝の公平な分け前をやろう。四分の一はあんたのものになる。これ以上公平なものはない』
『それなら、宝というのは何だ?』とあっしはたずねた。『おれだって、金持ちになりたいことにかけては、人には負けない。ただそのやり方さえわかればの話だ』
『それなら、誓え』そいつはいった。『あんたの父親の骨と、母親の名誉と、信仰の十字架にかけて、今後とも、おれたちに向かって手を上げないし、おれたちに逆らわない、と』
『よし、誓おう』あっしは答えた。『ただし砦を危険に陥しいれないことだ』
『それなら、おれと仲間は、おれたち四人の間で平等に分ける宝の四分の一を、あんたにやることを誓う』
『三人しかいないじゃないか』とあっしはいった。
『いや、ドスト・アクバーも取り分をもらえるんだ。あの男がくる前に、事情を話しておこう。マホメット・シング、門のところに立って、連中がきたら合図をしてくれ。旦那、ことはこんな次第だが、これをあんたに話すのも、毛唐人に誓いは破れないし、あんたが信用できそうだからた。あんたがほら吹きのインド人だったら、いくらあのまやかしの寺院の神なんかにかけて誓ったとしたって、今頃、あんたの血はこのナイフを染めて、あんたの体は川の中のはずだ。だが、シーク人はイギリス人を知っているし、イギリス人もシーク人を知っている。だから、おれの話を聞いてもらいたい。
北の州に、土地こそ大きくないが、大変裕福な藩王(ラージャ)がいる。父親から多くのものを受け継いだうえに自分でも相当貯えていた。なにせ卑しい性分で、金は使うことより溜めることしか知らない。何かの騒動が起こったときには、ライオンと虎……つまり土民兵(セポイ)側と植民会社側の両方と仲よくなろうとした。しかし、白人の支配もこれで終わりだということが、すぐにわかった。国じゅう至るところで、白人が殺された、白人が倒された、という知らせばかりだった。しかし、彼は用心深い男だから、どんなことになろうと、少なくとも宝の半分は自分の手許に残るように計画を練った。金と銀は宮殿の地下室に自ら隠したが、最も高価な宝石や選(え)りすぐった真珠などは、鉄の箱に入れて腹心の召使いに託し、これが商人に変装してアグラの砦まで運び、国が平和になるまで、そこへ隠匿(いんとく)しておくことにした。だから、反乱軍が勝てば金銀が手に入り、会社側が勝てば宝物が残ることになる。こうして財産を二つに分けてから、彼は土民兵(セポイ)の方についた。彼の国境では、こっちの方が勢力が強かったからだ。しかし、こうすればだ、いいですかい旦那、彼の財産は、主人に対して忠実だった者たちが当然もらうべきものとなるわけだ。
この商人に化けた男は、アクメットという名で旅をしているが、今、アグラの町にいて、砦の中へ入りたがっている。道中の連れにあたしの乳兄弟のドスト・アクバーというのがいて、この秘密のことを知っている。ドスト・アクバーは今晩、彼を砦のわきの小門まで案内することになっていて、そのために、この門を選んだんだ。彼は間もなくここへやってきて、ここでマホメット・シングとわたしが待っているのを見つける。ここは人気のないところだし、誰も彼がきたことは知るまい。商人アクメットのことは世間は忘れてしまうだろうが、藩王(ラージャ)の大いなる財宝は、おれたちで山分けだ。旦那、こんな話だが、どうですかい?』
ウスターシャーでは、人の命は尊くて、神聖なものとされている。だが、あたり一面が火と血で、角を曲がるたびに死体に出くわすことに慣れてしまっているときは、事情は違うんです。商人のアクメットが生きようが死のうが、こっちに関係ないことだが、宝の話を聞くと、自然と心はそれに引きつけられました。あっしは考えたんです、宝があれば郷里(くに)ではどんなことができるだろうかとか、人々はあのろくでなしがポケットを金貨で一杯にして帰ってきたのを見たら、どんな顔をするだろうか、などとね。だから、もう腹は決まっていました。だが、アブドゥラ・カーンはあっしが二の足を踏んでいるものと思って、しつこくせき立てました。
『考えてもごらんなさいよ、旦那』と奴はいった。『この男が司令長官に捕まれば、どっちみち縛り首か銃殺だ。宝は政府に取りあげられて、そのために誰かが一ルピーも得をするわけじゃない。ところで、おれたちの手で奴を捕まえるからには、ついでに残りのことまで片づけておいてどこが悪い。宝石が会社の金庫に入ってしまうのなら、おれたちのものとなったって別におかしくない。おれたち一人一人が金持で立派な頭目になれるくらいのものはある。おれたちだけは他の連中から離れているから、この計画は誰にも知られやしない。こんな都合のいいことはないはずだ。そこで旦那、どうなんです? おれたちの仲間になるか、敵になるのか』
『誠心試意、おれはおまえたちの仲間だ』とあっしはいった。
『これで決まった』奴はそう答えると、銃を返してくれました。『おれたちの約束と同じく、あんたの約束は簡単に破れるものじゃない。おれたちはあんたを信用するよ。あとはおれの兄弟と例の商人を待つだけだ』
『そんなら、おまえの兄弟はこのことを知っているのか?』とあっしはたずねた。
『奴の計画でね。奴が自分で考え出したんだ。門の所へいって、マホメット・シングと一緒に見張りましょうや』
雨はいぜん止む様子もなく降っていました。ちょうど雨期に入ったばかりで、黒い雲が空を横ぎって移動し、石のとどく距離を見通すのさえやっかいでした。戸口のすぐ前は深い堀ですが、ところどころ水はほとんど干上がっていました。野蛮なパンジャブ人二人と、そんな所に立って、殺されにくる男を待つ、これは何とも奇妙な気持です。
突然、堀の向こう側に笠のついた灯が輝くのが見えました。盛り土の間に消えると、また現われて、ゆっくりこっちへ向かってきます。
『来たぞ!』あっしは叫んだ。
『旦那、いつもの調子で誰何(すいか)してください』アブドゥラが囁(ささや)いた。『恐がらせちゃいけない。おれたちを奴につけて、中へ入れてください。あんたがここで番をしている間に、あとのことはわれたちがやります。奴に間違いないか確かめたいから、灯の被(おお)いが取れるようにしてください』
あかりは止まったり進んだりしながら、ゆらめきつつ、こっちへ近づいてきます。やがて、二つの黒い影が堀の向こう側に見えました。傾斜した土手を這いおり、ぬかるみを渡って、門へくる中途にさしかかったところで、あっしは呼び止めました。
『何者だ?』あっしは声を押しころしていいました。
『味方だ』答えが返ってきました。あっしは灯の被いを取って、奴等を照らし出しました。最初の男は、ばかでかいシーク人で、黒いあごひげが腰帯のあたりまで生えています。見せ物は別として、こんなのっぽは見たことがないくらいです。もう一人の方は背が低く、丸々と太った奴で、大きな黄色のターバンを巻き、手には肩かけでくるんだ包みを持っていました。恐怖で体じゅうが震えているようでした。両手はおこりにかかったように引きつっていたし、まるで穴から出てきたねずみのように、小さな目の玉をきょろきょろさせながら、首を左右に振っていました。こいつを殺すのかと思うと、あっしも背筋が寒くなったが、宝のことを考えたら、火打ち石のように固く胆(きも)がすわったのです。男はあっしの青白い顔を見ると、喜びの声を上げて、走り寄ってきました。
『お護(まも)りください、旦那』と彼はあえいでいいました。『あわれな商人(あきんど)アクメットをお護りください。わたしはアグラの砦に避難したくて、ラージプターナの先からやって参りました。植民会社と通じていたということで略奪されたり、なぐられたり、ののしられたりしました。乏しい財産ともども、こうして再び安全な場所に身を置けるとは、今晩は本当に幸運な晩です』
『包みの中身は何だ?』あっしはたずねました。
『鉄の箱です』と彼は答えました。『家族に関するものが、一、二入っております。他人様に二文の値打ちもありませんが、わたしとしては手放せないものでして。でも、わたしは乞食というわけではないので、もしこちらへ避難させていただけるなら、若旦那にも司令官にもお礼はさしあげます』
あっしはこれ以上、男としゃベり続ける自信がなくなりました。あの肥った、おびえた顔を見れば見るほど、冷酷に殺すのがむずかしくなってきます。さっさと片づけるのが一番でした。
『こいつを本部へ連れていけ』とあっしはいいました。二人のシーク人が両側からはさみ、大男がうしろについて、そのまま暗い門の中へと歩いていったのです。これほどまでに、死に取り囲まれた人間もいないでしょう。あっしは灯をもって、門口にとどまっていました。
奴等の規則正しい足音が、人気のない回廊に響くのが聞こえました。突然、それが止むと、話し声とつかみあいの音に混じって、なぐりあう音がしたのです。その直後、驚いたことに、ばたばたいう足音がこっちに向かってくると同時に、息せき切って走ってくる物音が聞こえました。長い真直ぐな通路のほうに灯を向けると、あのでぶが、顔を血だらけにして、えらい勢いで逃げるそばから、黒いひげを生やした大男が、手にナイフを光らせて、虎のようにおどりかかりながら、すぐ後を追いかけてきました。あのちんちくりんの商人ほどの韋駄天(いだてん)を見たことがありません。彼はシーク人を引き離していました。この分だと、あっしのそばを通って外へ出れば、命は助かるかもしれなかったんです。あっしはこの男に同情しかけたんですが、また宝のことを思うと冷酷無情になりました。彼がわきを駆け抜けた時、あっしは足の間に銃を投げつけてやったら、射たれた兎のように二度ももんどりを打ちました。よろよろと立ち上がろうとすると、シーク人が襲いかかって、ナイフを二回、わき腹につき刺しました。男はうめき声も立てず、筋肉も動かさずに、倒れた場所に横たわってしまいました。倒れた時に首を折ったのかもしれません。いいですかい、あっしは約束通りにやってるんですよ。こっちの好むと好まざるとにかかわらず、事が起こったとおり、ありのままに話してるんですぜ」
彼は話を止めて、ホームズがつくってやったウイスキーの水割りに、手錠をはめられた手をさし出した。私は正直いって、彼がたずさわった、この冷酷無情な仕事のためばかりでなく、それを語るときの幾分軽薄で無頓着な話しぶりに接して、この男に並々ならぬ恐怖を覚えたのだった。どんな罰が彼を待ち受けているにしても、私としてはこの男にひとかけらの同情も感じないだろうと思った。
シャーロック・ホームズとジョーンズは、両手を膝の上におき、話に深い関心を示しながら坐っていたが、二人の顔にはやはり嫌悪の表情がありありとうかがえた。彼はそれに感づいたのかもしれない。というのは、彼が話し続けた時の声と話し方に、ちょっぴり挑(いど)むような調子が現われていたからである。
「悪いことをしたよ、確かに」と彼はいった。「だが、あっしと同じ立場にいて、じたばたすれば咽喉(のど)を切られるといわれたら、誰が宝の分け前を断わりなんかするかね。そのうえ、彼がいったん砦の中に入っちまえば、喰うか喰われるかだ。もし彼に逃げられたら、何もかも明るみに出て、あっしは軍法会議にかけられたあげく、まず銃殺はまぬがれない。あんな時代だと人間はあんまり大目に見てはくれんもんですからね」
「話を続けろ」とホームズは手短かにいった。
「それで、アブドゥラとアクバーとあっしの三人は、彼を砦の中へ運んだんです。背の低い割りにはばかに重かった。マホメット・シングを戸口の見張りに残しました。あっしらは、すでにシーク人たちが用意した場所へ死体を運んだんです。それは少し離れた所、ちょうど曲がりくねった通路があっけらかんとした大広間にぶつかる所にありました。広間のれんが造りの壁は、みんな崩れ落ちています。土間が一力所沈んでいて、おあつらえむきの墓だったので、あっしらは最初、崩れたれんがを上に乗せて、商人アクメットをそこに埋葬しました。それがすむと、宝のところへ戻ったんです。
宝は彼が最初に襲われた時に、落とした場所にありました。箱は、今そこのテーブルに開けてあるやつと同じもんです。箱の上に彫り物をした取っ手があって、絹のひもで結んだ鍵が下がっていました。箱を開けたとき、灯の光は、パーショーにいた子供の頃に、本で読んだり空想したりしたような、宝の山を照らし出しました。見ていると、目がくらみそうでした。充分に目の保養をしてから、宝を取り出して、その目録を作ったのです。一級品のダイアモンドが百四十三個、その中には確か『ムガル帝国』といって、世界で二番目に大きいといわれるものも入っていました。それから、九十七個の実に見事なエメラルドと、小粒のも混じっていましたが、百七十個のルビーがあったのです。ざくろ石が四十個、サファイアが二百十個、めのうが六十一個、それとたくさんの緑柱石、しまめのう、猫目石、トルコ玉その他、後になっていろいろ知るようになったのですが、あの時は名前も知らなかったさまざまな宝石が出てきました。この他に非常に立派な真珠が三百個近くあり、そのうち十二個は、金の宝冠にちりばめられていたのです。ところで、これだけは箱から取り出されていて、あっしが後で箱を取り戻した時には、見えなくなっていましたがね。
宝石を数えてから、箱に戻し、門のところへ運んで、マホメット・シングに見せました。それから、あっしらは互いに助けあい、秘密を守ることを改めておごそかに誓いあったのです。宝は国が再び平和になるまで、安全な場所に隠しておいて、それから平等に分配することに決めました。すぐ宝を分配してもしようがないでしょう。第一、高価な宝石を身につけていたら疑いを招くし、砦の中には個人の自由も宝の置き場所もなかったからです。そこで、あっしらは死体を埋めた広間へ箱を運び、一番丈夫な壁のれんがの下に穴を掘って、宝を隠しました。あっしらはその場所のことを丹念にメモしておいて、翌日あっしが、一人一枚ずつ、計四枚の見取図を書き、その下の方にあっしら四人の署名を添えたのです。それというのも、誰か一人が得することがないように、いつも各人がみんなのために事を行なうと、皆で誓ったからです。あっしはこの胸に手を当てて誓っていいが、これまでその誓いを破ったことは一度だってない。
インドの暴動の話は、あっしが改めてするまでもないでしょう。ウィルスンがデリーを攻略し、コリン卿がラクノーの包囲を解いてから、反乱は腰くだけとなりました。新しい部隊が続々到着すると、ナナ・サヒブは国境を越えて逃げてしまったのです。グレイトヘッド大佐の別働隊がアグラへやってきて、土民兵(セポイ)を一掃しました。ようやく平和が戻ってくるかに見え、あっしら四人も、宝の分け前を持って無事に逃げ出す時も近づいたと思っていたのです。ところが、あっしらはアクメット殺しのかどで捕まり、一瞬にして希望はついえてしまいました。
そいつはこんなふうな次第だったんです。藩王(ラージャ)が宝石をアクメットに託したのは、この男が信用がおけると思ったからです。ところが東部の奴等は疑い深い。この藩王はどうしたかというと、もっと信用のおける召し使いをもう一人使って、最初の奴のスパイにしたのです。二番目の男は、決してアクメットから目を離さず、影のようにつけて行けと命令されました。
あの晩、男はアクメットの後についていって、彼が戸口から入っていくのを見たのです。もちろん、彼はアクメットが砦に避難したものと考えて、翌日、自分も避難を願い出ましたが、アクメットの姿は見当たりません。これは変だと思って、彼は警備隊の軍曹に話したら、軍曹は司令官に報告したのです。ただちに隈なく捜索が行なわれて、死体が発見されました。そんなわけで、まさに安全と思ったその瞬間に、あっしら四人は捕えられて、殺人のとがで裁判にかけられたのです……あっしら三人は、その晩、門を警備していたという理由、そして四番日の男は、被害者と一緒にいたことが明らかだったという理由からですがね。法廷では、宝石の話は一つも出ませんでした。藩王(ラージャ)は退位させられて、国外へ追放されていたから、宝石に特別の注意をはらう者はいなかったのです。しかし、殺人は完全に立証されて、あっしらは共犯ということが明らかになりました。三人のシーク人は終身懲役で、あっしは死刑と宣告されたが、あっしは後になって他の連中と同じ刑に変えられたのです。
気がついてみたら、あっしらは実に奇妙な立場におかれていました。揃いも揃って四人が足をつながれ、まず脱出の見込みもない。それなのに一方では、それを役立てさえすれば、宮殿暮らしも夢でないような秘密を、腹に隠しているわけです。豪勢な宝物が、外で取りにくるのを待っているというのに、米や飲み水にありつくために、けちな小役人に蹴ったり殴られたりされるのを、じっとこらえているなんて、全く情ないことでした。気が狂っていたかも知れないところだが、あっしはいつもかなりしぶといほうだから、何とかがん張って時節を待ったのです。
ついに時節が到来したかに見えました。あっしはアグラからマドラスヘ、そこからアンダマン群島のブレア島へ移されたんです。この植民地には白人の囚人は非常に少なく、あっしは最初から行儀よくしていたので、やがて特権階級の人間みたいになっていきました。ホープ・タウンという、ハリエット山の中腹にある小さな土地に、小屋を一軒与えられて、かなり自由にやれるようになったのです。それは荒涼とした、熱病にとりつかれた土地で、あっしらのちっぽけな開拓地を一歩出れば、野蛮な人喰い土人が歩きまわっていて、すきあらば毒の吹矢で射とうと待ち構えています。穴掘り、溝掘り、やまいも(ヤム)植え、その他いろんなことをやらせられるので、一日中忙しかったんですが、ただ夜は、少し自由な時間がありました。あれこれやるうちに、あっしは外科医の助手になって薬を調合することを覚え、医学の知識を聞きかじるようになったのです。その間、ずっと脱走の機会をうかがっていましたが、どこへいくにも数百マイルはありますし、海上には全くといってよいほど風はなかったので、逃げ出すのは至難のわざでした。
外科医のサマトン医師はなかなかの道楽者の青年ですが、他の若い士官達が夜になると、彼の部屋に集まって、よくカードをやったものです。あっしが薬剤師の仕事をしていた手術室は、彼の居間の隣りにあって、その間は、小さな窓で隔てられていました。よく淋しくなったりすると、手術室の明かりを消して立ったまま連中の話を聞いたり、カード遊びを見ていたものです。あっしもこいつをやるのが好きだが、人のを見ているのも結構面白いものでした。そこにはショルト少佐、モースタン大尉、ブロムリー・ブラウン中尉という土民軍(セポイ)の指揮官、それに外科医と他に二、三人の獄吏がいて、この獄吏達はカードにかけては相当なやり手で、そつのないゲームをやっていました。こうした連中が寄り集ってこぢんまりした仲間を作っていたのです。
ところで、ほどなくあっしはあることに気がつきました。負けるのはきまって軍人で、勝つのはきまって役人だということです。だが、いいですか、何もいかさまがあったなどというんじゃない、実際そうだったというだけです。獄吏の連中はアンダマンへ来て以来、カードしかやることがないから、お互いに相手の手の内を知りつくしているのに、他方はただひまつぶしにやってたというわけで、とにかくいつもかぶとをぬがされてました。夜毎に軍人たちは金がなくなっていきましたが、なくなればそれだけやりたがるようになります。一番負けがこんできたのがショルト少佐でした。最初のうちは札や金貨で払っていたのが、やがて手形、しかも多額の手形になりました。時には二、三勝負勝ち続けて、元気をとり戻すことがあっても、すぐにつきが変わって、前よりもっと悪くなります。一日中、彼は雷のようにこわい顔をしてうろつきまわり、体にさわるほどの大酒を飲むようになりました。
ある晩、彼は普段にもまして負けたのです。あっしが小屋に坐っていると、彼とモースタン大尉が宿合へ帰る途中、ぶらぶら歩いてきました。この二人は親友で、宿舎もそう離れていませんでした。少佐は負けたくやしさをぶちまけていたのです。
『これで一巻の終わりだよ、モースタン』あっしの小屋の前を通り過ぎる時に、彼はいいました。『辞表を書かなきゃなるまい。おれは破産だ』
『何をいうか、きみ!』もう一人が相手の肩を叩きながらいいました。『おれだってもっとひどい目に会ったことがある。だが……』その後は聞こえませんでしたが、あっしに考えるきっかけを作ってくれるのには充分でした。
二、 三日後、ショルト少佐が海岸を散歩していました。そこで、あっしはこう切り出してみたのです。
『少佐殿、少しばかりお知恵を拝借したいんですが』
『ほう、どんなことかね、スモール?』彼はくわえていた両切り葉巻を唇からはなしながらたずねました。
『実は、おたずねしたいのは』とあっしはいいました。『隠してある宝物を、どこへ引き渡すのが適当かということでして。あっしは五十万ポンドの宝のありかを知っています。で、あっしは自分でそれを使うことはできませんから、たぶん一番いい方法は、それを適当な筋に引き渡せば、こっちの刑も短くしてもらえるのじゃないかと、こう思ったわけです』
『五十万ポンドといったな、スモール?』あっしが本気かどうか確かめようと、きびしい目つきで見ながら、彼はあえぐようにいいました。
『そのとおりです、少佐殿……宝石と真珠でです。誰にもわかる所にあります。そして、奇妙なことに本当の持主は、追放されて、財産を所有することができません。だから、宝は最初の発見者のものになります』
『政府だよ、スモール』彼は口ごもりながらいいました。『政府だよ』
しかし、彼がそれをつっかえながらいうのを聞いて、あっしはこっちのものだと、内心思ったのです。
『それなら少佐殿、これは総督に報告すればよいわけですか?』とあっしは静かにいいました。
『うーん、そうだな、あまり急ぐことはないぞ、あとで後梅することになるからな。スモール、くわしい話を聞かしてもらおうか。事実を話してみろ』
あっしは場所はあんまりはっきりさせないように、多少内容を変えて、一部始終をしゃべりました。話し終わると彼はじっと立ちつくしたまま物思いにふけっていました。唇がひきつれるのを見て、彼が内心迷っているのがわかりましたよ。
『スモール、いいか、これはきわめて重要なことだ』と彼はついに口を開きました。『このことは誰にもいうな。近いうちにもう一度会おう』
二日後、彼は友達のモースタン大尉をつれて、真夜中に角燈をさげてあっしの小屋へやってきたのです。
『スモール、例の話をモースタン大尉に、おまえの口からじかに聞かせてほしい』
あっしは同じ話を繰り返しました。
『どうだ、嘘じゃなさそうだろう?』と彼はいいました。『やってみるだけの値打はあるだろう?』
モースタン大尉はうなずきました。
『いいか、スモール』少佐はいいました。『わたしはこの友人とよく話し合ってみたんだが、こういう結論に達したよ。つまり、このおまえの秘密はだな、結局、政府うんぬんの問題ではなく、おまえの個人的な問題なんだということだ。もちろん、おまえが適当と思う方法で処理していいわけだ。ところで問題は、おまえがその代償に何がほしいかということだ。わたしらとしては、条件について折り合いがつくなら、引き受けてもいい、少なくとも調べてみてもいい』
彼は冷静で無頓着な話しぶりを努めて装っていましたが、目は興奮と慾とで輝いていました。
『はあ、それについてはですね』こっちも冷静になろうと努めたのですが、相手と同じく興奮しながら答えました。『あっしのような立場にいるものに出来る取引は、たった一つしかありません。あっしが自由の身になれるようにしていただき、あっしの三人の仲間を自由にしていただきたい。そうしたら、あっしらはあなた方を仲間に入れて、五分の一の分け前をあげますから、それをお二人で山分けしてください』
『ふん!』と彼はいいました。『五分の一か! あまりぞっとしないな』
『一人五万ポンドになりますよ』とあっしはいいました。
『だが、自由の身になるとはどうやってだ! これは全く不可能なことだぞ』
『そんなことないです』あっしは答えました。『もう最後の段どりまで考えてあるんです。脱走の妨げとなっているのは、適当な小舟と、当分の間必要な食料が手に入らないってことです。カルカッタやマドラスには、役に立ちそうな小さなヨットや帆船(ヨール)がたくさんありますよ。一艘、調達していただけませんか。あっしらは夜の間に舟に乗り込みますから、インド沿岸のどこかで、あっしらを降ろしていただけりゃ、それでそちらの役は終わるわけです』
『一人だけだったら』と彼はいいました。
『全員か、さもなければ全然やらないか、のどっちかです』とあっしは答えました。『わたしらは誓ったんですよ。わたしら四人は一緒に行動することになっているんです』
『ねえ、モースタン』と彼はいいました。『スモールは口の固い男だ。仲間を裏切ることはしないんだ。信用して大丈夫だよ』
『汚れた仕事だな』と相手は答えました。『だが、きみのいうように、金さえあれば将校の地位は失わずにすむね』
『よし、スモール』と少佐はいいました。『おまえと取引をしたほうがよさそうだ。むろん、手始めにおまえの話を確かめないといけない。箱の隠し場所をいえよ。そうすればわたしは休暇をとり、月に一度来る定期船でインドに渡って調査してみるから』
『そう急がれても困ります』むこうがかっかとする分だけ、こっちは冷静になっていいました。『三人の仲間の同意を得なけりゃなりませんよ。わたしらは四人一緒でないとだめなんです』
『ばかばかしい』と彼は口をはさみました。『三人の黒い奴らが、われわれの約束とどんな関係があるんだ?』
『黒でも青でも』とあっしはいいました。『連中はわたしの仲間ですから、一緒にやるわけです』
とにかく、この問題は解決して、二度目の話し合いにはマホメット・シング、アブドゥラ・カーン、そしてドスト・アクバーの全員が参加しました。あっしらはもう一度話しあって、ようやく合意に達したのです。こっちは将校たちにアグラ砦の一部の地図を与えて、宝が隠してある壁の場所に印をつけることになりました。ショルト少佐が話を確かめにインドヘ行くことになったのです。箱があったら、そのままにしておき、あっしらが何とかして乗りこむことになる、航海用の物資を積んだ小型ヨットを手配し、ラトランド島沖に止めておいて、それから軍務に戻るというわけです。モースタン大尉は休暇を願い出て、あっしらとアグラで落ち合い、宝を分配して、自分のと少佐の分を持って帰ります。こうしたことを、考えられるかぎりの、口でいい表わせるかぎりの、最も厳粛な誓いで約束しあったのでした。あっしは紙とインクを持って一晩徹夜して、朝までに四つの署名……つまりアブドゥラ、アクバー、マホメットとあっしの……を印した地図を二部こしらえました。
ところで、あんた方もあっしの長話にはもうあきあきしてるでしょう。それに、こちらのジョーンズさんも、あっしを早いところ無事にぶた箱へ放りこみたがっていらっしゃる。できるだけかいつまんで話すことにしますよ。ショルトの悪党めはインドヘ行ったきり、戻ってこなかったんです。すぐ後になって、モースタン大尉が定期船の乗客のリストに奴の名前がのっているのを見せてくれました。おじが死んで遺産が手に入ったので、軍隊をやめたという話でした。だが、あいつはあっしら四人ばかりか五人の者でも平気で裏切れる男です。すぐ後からモースタンがアグラへ行ってみたら、案の定、宝はなくなっていました。秘密と引き換えに交わした約束は、一つも実行しないで、宝をまるまる失敬したわけです。それからというもの、あっしはただ復讐のためにだけ生きてきました。日夜、復讐のことだけを考えたのです。それは、あっしにとって他のどんなことにもまさる烈しい執念となりました。もう法律なんか問題じゃない……絞首台などくそくらえだった。脱走して、ショルトを探し出し、絞め殺してやる……このことしか眼中になかった。ショルトを殺すことにくらべたら、アグラの宝なんか、あっしの心の中ではちっぽけなものだった。
自分もこれまでいろんなことを思いついたが、やりとげられなかったことは一つもなかった。それにしても、時機がくるまでの年月は、うんざりするほど長かった。あっしは薬剤のことを少しかじったことがあると、さっきいいましたね。ある日、サマトン医師が熱病で倒れた時に、囚人達が森で見つけたといって、小さなアンダマン島の土人を連れてきました。死ぬほどの病気にかかって、人気のない所へ死ににきていたのでした。毒蛇みたいな奴だったが、そいつをあずかって、二、三力月もすると、治って歩けるようになりました。それで奴は、まあ、あっしのことが気に入って、森へ帰ろうともせずに、いつもあっしの小屋のあたりをうろつきまわっていたのです。奴の言葉を少し覚えてやったら、ますます気に入られる始末でした。
トンガという名前ですが……奴は舟をこぐのが得意で、自分でも大きなゆったりしたカヌーを持っていました。奴があっしにべったりで、こっちのいうことなら何でも聞くことがわかると、これでようやく脱走のチャンスがきたと思いました。そのことを奴と話しあったのです。奴はある晩、見張りのいない船着場へ舟を持ってきて、あっしを捨うことになりました。ひょうたん五、六個に水を入れ、やまいも(ヤム)やココナッやじゃがいもをうんと持ってくるようにいいました。
この小男のトンガは、信用のおける堅い男でした。こんな忠実な仲間もいないでしょう。約束の晩に、奴は船着場へ舟を持ってきました。ところが、偶然にも、そこに囚人警備員が一人いたのです……いまいましいアフガニスタン人で、事あるごとにあっしを馬鹿にしたり、いびったりした奴です。いつも仕返ししてやろうと思っていましたが、ようやくチャンスがきたわけです。まるで、島を去る前に、お返しをしろといって、運命の神が、行く道筋にそいつをおいてくれたみたいでした。奴は肩からカービン銃を下げ、背中をこっちにむけて、土手に立っていました。脳天を叩き割ってやろうと思って石を探したが、あいにく石は見当りませんでした。
その時、不思議な考えが頭に浮かんで、武器がどこにあるのかを教えてくれたのです。あっしは暗闇に坐って、義足をとり外しました。片足とびで三歩とんで、奴に襲いかかったのです。奴はカービン銃を構えようとしましたが、あっしは思いきりなぐりかかり、額をまともに打ち砕(くだ)いてやりました。この木に割れ目があるでしょう、ここでなぐったんですよ。こっちはうまく立っていられないから、二人は折り重なって倒れました。だが、起き上がってみると、相手は全く静かになってのびていたんです。あっしは舟のほうへいき、一時間後にはもう海へ出ていました。トンガは武器も神も、とにかくこの世の財産は一切持ってきていました。その中には、長い竹槍とかアンダマン土人がココナツで編んだむしろがありましたが、これを使って帆を作ったのです。十日間、あっしらは運を頼みにして風上に進みましたが、十一日目に、マレー人の巡礼たちを乗せて、シンガポールからジッダヘむかう貿易船に助けられました。変わった連中の寄り合いで、やがてトンガもあっしもその中に溶け込んでいったのです。連中はたった一つだけいい点があって、それは人におせっかいをせず、余計なことを聞かないことでした。
あっしと相棒の冒険談をやっても、あんた方は喜ばないでしょう。日が出る頃まで引きとめることになりますからね。
あっしらは世界中あちこち渡り歩いたが、いつも何かが起こって、ロンドンにはなかなかたどり着けませんでしたよ。しかし、あっしは一時として自分の目的は忘れなかったのです。夜はよくショルトの夢を見ました。夢の中で奴のことを何百回も殺してやりました。でも、三、四年前、ようやくのことで、英国にたどり着いたんです。ショルトの居場所は難なくわかり、そこで、奴が宝を金にかえたか、それともまだ持っているのか、調べることにしました。役に立ってくれそうな奴と近づきになり……名前はいわんでおきます、人を巻きぞえにしたくないからね……奴はまだ宝を持っていることを知ったんです。それから、あっしはいろいろな方法を使って、奴を捕えようとしました。だが、あいつはずる賢い男で、息子達や召使いの他に、いつも護衛役としてボクサーを二人雇っていました。
ところがある日、奴が死にかかっているという話を聞いたのです。ここで奴を捕えそこなうかと思うと、気も狂いそうになり、急いで庭へかけつけ、窓越しにのぞいてみると、奴が両わきに息子を立たせて、床に伏しているんです。入っていって、三人を相手にいちかばちかやってみようとしましたが、奴を見たちょうどその時に、顎ががくりと落ちて、これでお陀仏(だぶつ)だとわかったのです。だが、あっしはその晩、奴の部屋に入り込んで、宝の隠し場所を書いた紙切れでもないかと探してみました。でも、書いたものなど一行も見当らないので、あっしは怒り心頭に発する気持で、その場をはなれました。立ち去る前にこんなことを思いついたのです……シーク人の仲間たちにいつか会った時、自分らの怒りのしるしを残してきたといったら、連中も気を良くするのじゃないか、と。そこであっしは、地図に書いたとおりの四つの署名を書いて、奴の死体の胸に留めてきたのです。だまされて宝を取られながら、あっしらの方から何の挨拶もしないままで埋められてしまうなんて、とても我慢がならなかったのです。
当時、あっしらはあのトンガを黒い人喰人種だなんていって、縁日などの見せ物にして暮らしていました。生の肉を喰わせて、いくさの踊りをやらせるんです。そんなわけで一日働けば、いつも帽子一杯の小銭が集まったものでした。
いぜんとしてポンディシェリー荘の様子は、耳に入ってきていましたが、数年の間は、連中が宝を探していること以外、変わったことはなかったのです。しかしようやく、長い間、待ちに待ったものがやってきました。宝が見つかったというのです。バーソロミュー・ショルトさんの化学実験室の天井裏に、それがあったのです。あっしはすぐにかけつけて現場を見ましたが、義足のままでどうやって登ったらよいか、見当がつきません。ただ、はね上げ戸があることと、ショルトさんの夕食時間のことがわかったのです。トンガを使えば、事は簡単にいくと思いました。奴の腰に長いロープを巻いたまま、奴をつれ出しました。トンガは猫みたいに登っていって、すぐに屋根から中に入ったんですが、運命のいたずらというか、バーソロミュー・ショルトには不幸なことに、彼はまだ部屋にいたのでした。トンガは彼を殺して何か気のきいたことをしたようなつもりになり、あっしがロープで登っていくと、孔雀(くじゃく)みたいに得意になって歩きまわっているんです。ロープの端でひっぱたいて、血に飢えた小悪魔めとどなったら、意外だという顔をしていました。あっしはまず、宝がそれを所有するに最もふさわしいものの手に戻ったことを示すために、テーブルの上に四つの署名を残したのです。それから、宝の箱を取って下へ降ろすと、自分もすべり降りました。最後にトンガがロープを引き上げ、窓を閉めて、入るのと同じやり方で脱出したのです。
もう他にしゃべることはないでしょう。以前に、船頭がスミスのオーロラ号という汽艇(ランチ)が速いといっているのを聞いたことがあって、そこで、これは脱走するのに手頃な船だと思ったわけです。スミスを雇って、無事に汽船まで運んでくれれば、大金をはずんでやるはずでした。奴は、何か変だとは感じとっていたに違いないが、あっしらの秘密のことは知りません。以上が真相なんですよ。あんたらに、こんな話をするのも、何も楽しんでいただくためじゃない。そんな義理はないですからね。そうじゃなくて、自分にとって最善の弁護とは、何事も包み隠さないで話し、自分がショルト少佐にどれほどひどい仕打ちをされたか、また、自分はその息子の死に関して、いかに潔白であるかを世間に知らせたいがためですよ」
「なるほど、驚嘆すべき話だ」とシャーロック・ホームズはいった。「きわめて興味深い事件のしめくくりとして、まさにうってつけだ。あんたの話の後半の部分には、ぼくにとって新しいことは一つもないな。例外は、あんたが自分のロープを持ってきたということだけだよ。ところで、ぼくはトンガは吹矢を全部なくしてしまったのだと思っていたが、奴は船に乗っているぼくらに向かって一本射ったね」
「全部失くしたんですが、あの時、吹き筒の中に一本だけ残ってたんですよ」
「ああ、なるほど」ホームズはいった。「それは考えつかなかった」
「他にお聞きになりたいことはありますかね?」囚人は愛想よくたずねた。
「いや、ない」わが友は答えた。
「ところで、ホームズさん」とアセルニー・ジョーンズはいった。「あなたは納得いかないと気がすまない人だし、犯罪の鑑識家であることも知っています。だが、義務は義務です。それに、あなたがたの要求に応じたために、わたしとしては少し行き過ぎたことをしました。わたしはこの話し上手を、無事に牢に入れるまでは落着けません。だいぶん馬車を待たせましたし、下には警部が待っています。お二方には、いろいろとご協力、感謝します。もちろん、裁判のときにはご足労いただくことになります。では、失礼」
「お二人とも、さよなら」と、スモールがいった。
「スモール、おまえが先だ」と、慎重なジョーンズが、部屋を出るときにいった。「おまえがアンダマン島で例の男に何をやったにしろ、その義足でだけはなぐられないようにせんとな」
「さて、われわれのささやかな芝居もこれで幕だな」
しばらくの間、二人とも黙ってたばこをふかしていたが、やがて私がいった。「この事件は、きみの方法を研究する最後の機会になりそうだよ。モースタン嬢は、うれしいことにぼくを未来の夫として受け入れてくれたんだ」
彼は、いとも恐ろしいうめき声をあげた。
「心配していたとおりだ」と、彼はいった。「全くおめでとうどころじゃない」
私は少し感情を害した。
「ぼくの選択に何か文句でもあるのかね?」と、私はたずねた。
「いや、ちがう。彼女はぼくがこれまでに会った若い女性の中で最も魅力的な女性の一人だし、われわれがやってきたような仕事にきわめて役立つのではないかと思う。そっちの方面ではまぎれもない才能を持っているよ。父親の書類の中から、あのアグラの宝の地図を取っておいたのを見てもわかるだろう。しかし、恋とは感情的なもので、感情的なものというのは、ぼくにとっては何よりも価値のある冷静な理性とは対立する関係にある。ぼくは結婚なんかしない、そのために判断が偏(かたよ)ったりするといけないからね」
「願わくは」と、私は笑いながらいった。「ぼくの判断力が試錬に耐えられますように。いずれにしろ、きみは疲れた様子だね」
「うん、もうすでに反作用が始まっている。一週間はくたくたになっているだろう」
「奇妙なことだ」と、私はいった。「他の人の場合なら怠惰と呼ぶべきものの期間が、きみの場合にはすばらしい精力、活力の爆発と交互してあらわれるんだから」
「そうだ」と、彼は答えた。「ぼくにはひどいなまけ者の素質とすごい活動家の素質とが共存しているんだよ。ぼくはよく例のゲーテの文句を思い出すんだ。
『自然が、おまえをただの人にしか造らなかったのが残念だ。価値ある人とも、したたかな悪党ともなれたものを』
ところで、このノーウッド事件に関していうと、一味はぼくの思ったとおり、屋敷の中に共犯者を抱えていた。他ならぬ使用人頭のラル・ラオだ。そんなわけで、実際、大きな網を張って魚を一匹捕えたという手柄は、ジョーンズが一人占めすることになるよ」
「そいつは何だか不公平だよ」と、私がいった。「この一件では、きみが何から何までやったんだよ。このおかげでぼくは嫁さんをもらったし、ジョーンズは信用を手に入れたが、きみの取り分には何が残っているのだろう?」
「ぼくには」と、シャーロック・ホームズはいった。「まだ、このコカインの瓶(びん)が残っているさ」そして、彼はそれを取ろうと、長く白い手を伸ばした。
[翻訳 鮎川信夫 (C)Nobuo Ayukawa]
「バスカーヴィル家の犬」目次
ときどき徹夜(てつや)で起きているときはともかくとして、たいてい朝寝坊のシャーロック・ホームズ君が、もう朝食の卓に腰をすえていたのである。私は暖炉まえの絨毯(じゅうたん)の上に立って、昨夜の客が置き忘れていったステッキをとり上げた。それは普通「ペナン・ローヤー」といわれている、ペナン島産の棕櫚(しゅろ)で作った立派な太いステッキで、頭にこぶ状の握りがついていた。握りのすぐ下に、長さ一インチばかりの銀のふとい帯がまいてあって、「王立外科医学会会員ジェイムズ・モーティマー氏へ、C・C・Hの友人たちより」と彫ってあり、一八八四年と年号が入っていた。それは旧式の町医者が往診に持ち歩くのに手ごろな、いかめしい、しっかりと頼もしげな代物(しろもの)だった。
「どうだい、ワトスン。それ、どう思うね?」
ホームズは私に背を向けて腰掛けており、私とてもステッキをいじっている気配など見せたわけではなかった。
「どうして僕のしてることがわかったんだい。まるで頭のうしろに目があるみたいだね」
「なあに、目の前にピカピカ光った銀メッキのコーヒーポットがあるよ。それより、ねえ、その客のステッキをどう思う? 残念ながらふたりとも会いそこねて、その用向きもわからないから、たまたまこの置土産(おきみやげ)が大事な品になったわけだ。君、ひとつそいつをよく見て、持ち主を判断してみてくれないか」
「そうだね」私はできるだけ、このわが友のやり方を真似ようとしてみた。
「このモーティマー博士は年配の、割と[はやってる]医者で、相当尊敬されている。知人たちから十分認められたしるしに、こうしたものをもらってるくらいだからね」
「うまい! たいしたもんだ!」
「それから開業してるのが田舎(いなか)らしく、たいへんよく往診して歩きまわるということが考えられるね」
「どうして?」
「このステッキをごらんよ。はじめはいいものだったらしいが、こんなに疵(きず)がついてるところから見ると、大きな街の医者の持ち物とは思えないね。この丈夫な石突(いしづ)きの減り加減からしても、しょっちゅうこれを持ち歩いてることははっきりしているよ」
「完璧だ!」
「それにまた、この[C・C・Hの友人たち]というのは、何とか猟友会(りょうゆうかい)じゃないかと思うんだ。つまりその土地の会員が、よく診察にまわってもらうお礼に、ちょっとした記念品を贈ったんじゃないかな」
「ワトスン、まったく見直したよ」ホームズは椅子をうしろへずらして、煙草(たばこ)に火をつけた。「これまでの、僕がやったいささかの仕事に関しては、君の見事な筆の力にまつところが多いが、君はいつも自分の才能を見くびっていたと言いたくなるね。おそらくだね、つまり君自身は光を放たないが、光を導き出す導体なんだよ。世の中には、天才を持たないにしても、天才を刺激する異常な力を備えた人がいるもんだ。正直のところ、僕は君に負うところ多しだ」
今までホームズは、こんなことをおくびにも出したことがなかった。今日(こんにち)に至るまで私は彼の才能に対して讃辞を惜しまなかったし、また、その探偵法を書いて公表してきたのに、まったくそ知らぬ顔をきめ込んだその態度には腹を立てたこともあった。だがこうしてほめられてみると、正直のところひどく嬉しいのである。それに、自分もまた彼の讃辞を聞くほどに彼の方法を体得したのかと、誇らしげな気持にもなるのだった。
一方、ホームズは私の手からステッキを取ってしばらく肉眼で調べていたが、やがて興味がありそうな表情になって煙草を置くと、窓際へ持っていって、ふたたび凸(とつ)レンズで調べはじめた。
「面白い、まあ初歩的なものだがね」
長椅子のある、気に入りのいつもの場所へもどった。「このステッキには一、二注意すべきものがあるね。それからいくつかの推論を進めてゆけるよ」
「えッ、何か見落しがあったかい?」私にはうぬぼれがあった。「だいじなところは見落してないつもりだがね」
「ねえ、ワトスン君。生憎(あいにく)だが、君の結論はほとんどが間違ってるんだよ。僕を刺激してくれるといったのは、何だな、つまりざっくばらんにいって、君の間違っているところを指摘してゆくうちに、だんだん真実に導かれてゆくことが多い、という意味だったんだよ。いや、今度のばあい、君がまったく間違ってるといってるんじゃない。この男はたしかに田舎医者には違いないだろう、そしてよく歩きまわる……」
「じゃ、間違ってないじゃないか」
「そこまではね」
「しかし、それだけでいいじゃないか」
「いや、いや、ワトスン君、それだけじゃない。決してそうじゃないんだよ。じゃ言うけどね、たとえば、医者への贈り物というからには、Hは猟友会(Hunt)というより病院(Hospital)と考えたほうが妥当だし、その前についてるC・Cという頭文字(かしらもじ)は[チャリング・クロス]だと、僕の頭にはぴんとくるんだがね」
「そうかもしれんね」
「このほうが確実性が高いよ。これを基本的な仮定とすれば、この見知らぬ客を推定してゆく、もうひとつの基礎をつかんだことになる」
「なるほど、じゃこのC・C・Hをチャリング・クロス病院だとして、次にはどんな推定がひき出せるんだい?」
「ぴんと来ないかねえ……僕のやり方を知ってるじゃないか。あれを応用するんだ」
「はっきりしてることといったら、この男が田舎に行く前にロンドンにいたということだけしか考えられないがね……」
「もうすこし突っ込んで考えてもいいと思うんだ。つまりこういう光の当て方だね……このような贈り物がされるのはどんな場合にいちばん多いか。友人たちが一緒になって自分たちの好意のしるしを示すのはどういうときなのか。こうなりゃ、明らかにモーティマー博士が病院勤務をやめて開業するときということになるね。そして彼はロンドンの病院をやめて、田舎で開業したと信じてもいいね。そのときの贈り物がこの品だと言ってもいいんじゃないかい?」
「まあそのへんだと思うよ」
「ここでさらに推理をすすめると、彼は病院の幹部ではなかった……あの病院の幹部といえば、ロンドンでも相当評判のいい医師のみがつける地位だからね。またそれほどの人物なら都落(みやこお)ちしたりしやしないよ。ではいったいこの男は何者であるか? あの病院にはいたが、幹部でなかったとすれば、住み込みの外科医かまたは住み込みの内科医……まあ医者の卵に毛が生えたくらいのところだったんだろう。ステッキについてる年号によると、病院を去ったのは五年前なんだよ。そうなると、君のいうまじめな中年の医者というのはどこかへ消し飛んでしまうよ、ワトスン君。かわりに出てくるのが、まだ三十にならない若者で、さして野心も持っていない、人好きのする、うっかり者さ。この男は一匹、愛犬なるものを飼っていてね、その犬はざっといって、テリヤより大きく、マスティフより小さいね」
悠々(ゆうゆう)、長椅子に背をもたせかけ、天井に向けてぷかぷか紫煙(しえん)の輪を吐きかけているホームズを、私は大声で笑ってやった。
「犬についちゃ君の口を封じる手がないが、少なくともこの男の年齢や職業について二、三調べるのはいとも簡単なことさ」
私は医学書のある小さな棚(たな)から医師名鑑を取り出してその名のところを繰(く)った。モーティマーの名はいくつかあったが、これぞと思うところを私は大声で読み上げた。
ジェイムズ・モーティマー、一八八〇年より王立外科医学会会員。デヴォンシャー州ダートムア県グリムペン在住。一八八二年より一八八四年までチャリング・クロス病院住み込み外科医。論文「疾病(しっぺい)は隔世遺伝か」によって比較病理学のジャクスン賞を受く。スウェーデン病理学会の通信会員。著述……「隔世遺伝によりて生ずる若干(じゃっかん)の畸形」(一八八二年、ラーンセット)「人間は進化するか」(心理学会会誌、一八八三年三月号)。グリムペン、ソーズリー及びハイバロウ教区の医官。
「猟友会のことは出てないねえ、ワトスン君」ホームズは茶目気のある微笑を浮かべた。「しかしご明察どおり田舎医者だったよ。しかし僕の推定だってかなり正しかったと思うよ。僕はさっきこの男を形容して、人好きのする、そして野心も持ってない、うっかり者といったはずだが……僕の経験によると、こうした記念品などをもらうのは人好きのする者にきまってるし、ロンドンにおけるその経歴を見すてて都落ちするなんざあ、野心家のやれることではないし、君の部屋で一時間も待ったあげく、名刺も置かず、かわりにステッキを置き忘れてゆくなんて、よほどのうっかり者しかやらないことだよ」
「で、犬のことは?」
「ステッキをくわえて主人の後からついてゆく習慣らしいね。重いステッキだからまん中をしっかりくわえるらしく、歯形がはっきりついているよ。歯形と歯形の間の長さから考えて、この犬のあごはテリヤにしては大きすぎるし、マスティフにしてはそれほどの幅がない……そうだね、きっと、捲毛(まきげ)のスパニエルといったところだろう」
椅子を立って話しながら部屋の中を歩きまわっていたのだが、ふとこのとき、窓の凹(へこ)んだ所で足をとめた。言葉の調子があまり自信たっぷりなものだったので私は驚いて見上げた。
「おやおや、いやに自信たっぷりだね」
「いや、いとも簡単。戸口の段にその犬がいるんだよ。ほら、その主人がベルを鳴らしている……いや、ワトスン君、君は動かないでくれ。客は君と同業だから、君がいてくれると、都合がいいかもしれん。さあ、運命の幕があがるぞ、ワトスン君。玄関階段の足音が一歩一歩、君の運命に近づいてくるのを聞いている。それなのに君には吉か凶かわからない。科学者ジェイムズ・モーティマー博士が犯罪専門家シャーロック・ホームズにいったい何をきこうというのか? やあ、どうぞ」
田舎医者の見本みたいな姿を想像していたので、私は入って来た客を見てびっくりした。ばかに背が高く、やせており、嘴(くちばし)のように長い鼻で、鋭い灰色の両眼がぐっと迫って金縁眼鏡の奥できらりと光る。医者らしくちゃんと正装しているものの、不精者(ぶしょうもの)らしく、フロックコートの上衣はうす汚れ、ズボンには皺(しわ)がよっている。まだ若いのにもう背中が曲がっていて、顔をつき出し、どことなく慈愛ぶかそうなやさしい様子で歩いてきたが、部屋に入るなりホームズの手にあるステッキに目をとめて、いかにも嬉しそうに大声を出して走り寄った。
「ああ、よかった。よかった。ここへ忘れていったのか船会社だったか、どうもはっきりしなかったんです。このステッキだけはどんなことがあっても失くせないものでしてね」
「贈り物ですね」ホームズが言った。
「ええ、そうなんです」
「チャリング・クロス病院から?」
「結婚のとき、二、三の友人から贈られたものです」
「おや、おや、こいつあいけない」ホームズは首を振った。
モーティマー博士はちょっと驚いた様子で、眼鏡の奥で眼をぱちくりさせた。
「何がいけないんで……」
「あなたの話でわれわれの推理が少しばかり狂ったまでです。ご結婚のとき、でしたね?」
「はあ、結婚して病院をやめることになりましたので、立会い医師になる望みをすっかり捨ててしまいました。家庭を持たなければならなかったので……」
「さあ、さあ、われわれの推理もまったく間違ってたわけじゃないよ。で、ジェイムズ・モーティマー博士……」
「いいえ、博士じゃないんです。ミスターで結構です。ただ王立外科医学会の一会員にすぎないんです」
「そして、明らかに精密な頭脳の持ち主で……」
「いや、科学を少しばかりかじっただけですよ。何といいますか、科学という未知の大洋の岸辺で貝殻を拾ってるようなもんです。ところであなたがシャーロック・ホームズさんとお見受けいたしますが、こちら様は……」
「親友のワトスン博士です」
「はじめてお目にかかります。お名前はホームズさんとご一緒にうかがっております。ところで、ホームズさん、あなたの頭には感心いたしました。こんなに長頭(ちょうとう)で眼窩(がんか)上の発達が著しい方にお会いできようとは思いませんでした。失礼ですが、ちょっとあなたの顱頂縫合(ろちょうほうごう)をすうっとさわらせてくださいませんか。塑造(そぞう)の模型でもいいから人類学博物館に出せば立派な陳列品になるんでしょうがねえ。お世辞をたらたら並らべようというのじゃありません。正直のところ、あなたの頭蓋骨がほしくてたまりません」
シャーロック・ホームズはこれを制するように手で合図して、おかしな客を椅子へ招じた。
「あなたもご趣味のほうではずいぶんご熱心のようですが、わたしもそうでしてね」ホームズは言った。「人さし指の様子からみて、ご自分で煙草をお巻きになるようですね。どうぞご遠慮なくおつけになって下さい」
客は紙と煙草をとり出し、煙草を中におそろしく器用にまき上げた。その長い指は敏感そうに絶えず震え、まるで昆虫の触角のようである。
ホームズは黙っていた。だがときどき射るように放つ鋭い視線から、この奇妙な客に対して彼が興味をもっているのが分った。そして、やっと彼は口を開いた。
「あなたが昨夜にひき続いて今朝もお出で下さったのは、ただ私の頭蓋骨を調べるためではないと思いますが……」
「ええ、ええ、いえ、もちろん、それも調べさせていただければ非常に嬉しいのですが、ホームズさん、こうしてお伺いしましたのは、つまり私という人間があまり実行力のある人間ではないのに、突然とんでもない重大事に出っ食わしたからなんです。思うに、あなたはヨーロッパで第二の……」
「ほ、ほう! はばかりながら、その第一人者たる名誉をうけるのは誰です?」ホームズはいくらか語気(ごき)を荒らげた。
「厳密な科学的精神の人というならば、ベルティヨン氏がまず当然、挙げられねばなりません」
「じゃ、彼に相談なすったほうが、よかあありませんかな?」
「いや、厳密な科学的精神というならばと申したんで……しかし実際的解決の面では、あなたこそ群を抜いてらっしゃることは誰でもが認めております。うっかりして、ぶしつけなことを申しまして……」
「ほんの少し」ホームズが応えた。「ところで、モーティマー博士、こんなことでごたごたするのはよして、いったい私に力を借してくれとおっしゃる問題は、はっきりいってどんなものか、簡単にご説明願えませんか」
「ポケットの中に手書きの書類があるんですが……」ジェイムズ・モーティマー医師が言った。
「この部屋に入って来られたときに気づきましたよ」ホームズが言った。
「だいぶ古いものです」
「十八世紀はじめのものですね。偽物(にせもの)でなければ、ですよ」
「どうしておわかりなんです」
「あなたのポケットから一、二インチはみ出ていますのでね。お話の間に鑑定させていただきましたよ。文書の年代推定が、十年かそこいら以内で当らないようじゃ、専門家とはいえませんよ。この方面でちょっとした論文を書いていますが、きっとお読みになったかもしれません。私は一七三〇年とにらんでるんですが……」
「正確な年代は一七四二年です」モーティマー医師は胸のポケットから書類を引き出した。「この書類は、サー・チャールズ・バスカーヴィルから保管を依頼されたものなんですが、ご本人は三か月ばかり前、突然悲劇的な死に見舞われ、その急死はデヴォンシャーでたいへんな興奮を引き起こしております。私はサー・チャールズのかかりつけの医者というより、親しい友人だったといえましょう。この方は意志堅固で賢明な実際家でしたかち、私同様空想的なことなど考えないほうでしたが、この書類だけは真剣に考えていらしたところからみて、あんな悲しい死に方をするについての覚悟ができていたといえるかもしれません」
ホームズは手をのばして書類を受け取ると、膝の上にひろげた。
「ワトスン君、わかるだろう。長いSと短いSとを交互に使っているところさ。これが年代をきめるのに役だつ特徴のひとつなんだ」
私はホームズの肩ごしに、変色した紙の上の、色あせた文字を見た。見出しに「バスカーヴィル邸」とあり、すぐ下に「一七四二年」と大きくなぐり書きしてあった。
「ある種の陳述みたいなものですね」
「ええ、バスカーヴィル家に伝わる伝説を書いたものなんです」
「でも私に相談しようと思ってらっしゃるのは、もっと新しくて実際的な問題でしょう?」
「もっとも新しくて、もっとも実際的な緊急問題で、しかも二十四時間以内に決定を迫られているんです。でもこの手記は短いものですし、また今度の事件と密接な関係がありますから、よろしければちょっと読んでみましょう」
ホームズは椅子に背をもたせかけ、指先を組み合わせて、やむを得ん、といったふうに目を閉じた。
モーティマー医師は書類を明るいほうへ向けると、潰(つぶ)れた高い声で、次のような古い時代の奇怪な物語をよみ上げた。
「[バスカーヴィル家の犬]の出所については、いろいろ異説もあるが、父はヒューゴー・バスカーヴィル直系の子孫であり、父より子へと話り継がれた累代(るいだい)の物語を、父もまたその父より聞いたのであるから、以下話すようなことが事実起こったものであるという堅い信念をもって書き記すことにする。息子たちよ。罪を罰す正義の女神は、また慈悲ぶかく赦(ゆる)すということを信ぜよ。いかなる呪(のろ)いも、祈りと悔(く)い改めとによって解き放たれぬものはない。ゆえに、父がこれから語る物語を読んでも、過ぎし過去の応報を怖れず、細心将来に備えれば、祖先を苦しめた醜(みにく)い煩悩(はんのう)から解き放たれ、我々をふたたび破滅におとしめることのないことを知らねばならぬ。
さて、ことの起こりは、十五世紀のかの大反乱時代である(この史実については碩学(せきがく)ロード・クラランダンのものを最も推奨する)。このバスカーヴィル荘園はヒューゴー・バスカーヴィルによって所領されていたが、彼がはなはだしく粗野で、涜神不敬(とくしんふけい)の人であったことは否(いな)めないことであろう。隣人たちも、この土地が聖者の恩恵に恵まれていないのを知っており、大方の行ないならばそれを見すごしたであろうが、ヒューゴーには淫奔(いんぽん)にして残忍な気質があり、西部地方一帯に彼の名は語り草となっていた。
たまたまそのヒューゴーはバスカーヴィル邸に近いある郷士(ごうし)の娘を恋慕(れんぼ)した(はたして、このような暗愚な欲情を、かくも美しい名で呼んでいいものだろうか)。だがこの乙女は思慮深く、評判も高く、この蛇のような名を怖れ、つとめてヒューゴーを避けたのである。
やがて、あるミカエル祭(九月二十九日)の折り、ヒューゴーは乙女の父や兄弟の不在を知るや、五、六人の無頼漢をひきつれて忍び込み、乙女を奪い去るにおよんだ。さて乙女を屋敷に連れもどると、階上の一室に閉じこめ、階下で毎夜の例にもれず長夜の酒盛(さかもり)に耽(ふけ)った。階下よりひびいてくる蛮声怒号(ばんせいどごう)、はたまた恐ろしい呪詛(じゅそ)の言葉に、哀れ乙女は気も狂わんばかりであった。さもあろう、酔い痴(し)れたヒューゴー・バスカーヴィルの発する言葉は、それを語り伝える人までも呪い倒さんばかりであったという。ついに乙女の恐怖はその極に達し、豪胆(ごうたん)で俊敏(しゅんびん)な男とても二の足をふむ南側の壁を、茂った蔦(つた)づたいに(これは今も茂っているが)、軒から脱出し、沼地を渡って、屋敷より三リーグ離れたわが家を指して走り帰ったのである。
それからまもなく、ヒューゴーは客人たちを残して、乙女のもとに食物や飲物……おそらくは、何か忌(い)むべきものをもたずさえて……やって来たが、はや、篭(かご)の鳥は逃げ去ったあと。彼は修羅(しゅら)のごとくたけり立ち、階段を駈け降りて宴席に飛びこむや、大テーブルの上に飛び上がり、乱れ飛ぶ酒瓶や盆のなかで、大声をはり上げ、あの小娘に追いつかねば、即刻身も心も悪魔にくれやらん、と一同にむかって叫んだ。酔漢(すいかん)どもは、しばし呆然(ぼうぜん)としてこの狂ったさまを見ていたが、なかにひとり、誰より邪悪な男か、または酔いしれた者かが、犬を放って小娘を追わせろ、と怒号した。ここにおいて、ヒューゴーは屋敷を飛び出し、馬丁たちに、馬に鞍おけ、犬舎の戸を開け放て、と大声で命じ、犬の群れに乙女のハンカチを嗅がせ、目ざすほうへとけし立てれば、犬の群れは後を追って月光の下、吠え声を響かせながら遠く沼地のあなたへと走った。
さて、酔漢どもはしばし呆然と立ちすくみ、一瞬のうちに行なわれたことの次第を察するべくもなかったが、やがて酔いしれた頭に、沼地で行なわれんとする惨事の相に思い至った。彼らは騒然なる叫び声のなかで、ある者はピストルを、ある者は馬を、またある者は酒を呼びもとめた。そして、ともかく酔いしれた頭にいくばくかの正気が戻るや、一同十三名、[くつわ]を並べて追跡にむかった。頭上に輝く月光を浴びて、彼らは乙女が家をめざせば当然たどると覚しき道すじへと、矢のように馬を走らせた。
一、二マイル追いゆきしころ、彼らは夜番の牧人(まきびと)に出会い、追跡の犬の群れを見かけなかったか、と大声で呼びかけた。その男は……父の聞くところでは……恐怖に心も転倒し、口を開くこともできなかったが、ようやく口を開いて、犬の群れに追われて逃げゆく哀れな乙女を見たと言い、さらに言葉をついで、[わしが見たのはそれだけではない。ヒューゴー・バスカーヴィルが黒毛の馬を走らせる後から、地獄犬が、声しのばせて走って行った]と語ったという。
酔漢どもは牧人に悪罵(あくば)を浴びせて、さらに馬を走らせた。だが間もなく、沼地を渡る馬の響きが聞こえ、白い泡をふきながら手綱を後にひき、人なき鞍(くら)をゆすぶりながら通り過ぎる黒毛の馬を見るに及んで、一同、肌に粟(あわ)だつ思いだった。酔漢どもは馬を集めて一団となり、満身これ恐怖、衆をたのんで、なおも進んだが、もしひとりならば早々にして馬の首をめぐらせて逃げ帰ったであろう……。こうしておそるおそる進んでゆくと、犬の群れに出会った。この犬どもは獰猛(どうもう)で知られる猛犬でありながら、谷窪(たにくぼ)と呼ばれている深い窪地の入口で鼻を鳴らして群がり、あるいは浮き足立ち、あるいは闘いに身がまえて、月明かりの狭い谷間をのぞきこむばかりであった。
一同は馬を止めた。このときにはおそらく屋敷を出たときの酒気もさめていたのであろうか、いずれもそれから先へと馬を進める勇気を失っていたが、その中の三人、もっとも大胆な者たちが、まだ痛飲の酒気さめきらぬ者たちであろう、馬を進めて谷窪に下りたった。さて、窪地の底は広くひらけて、ふたつの岩がそば立っていた。この岩は今も見られるとおり、古き昔、今は忘れられたる名もなき人たちによって立てられたものという。月は皎々(こうこう)と平地に照りわたり、その中ほどに哀れな乙女がうち倒れ、恐怖と疲労に息絶えていた。だが見よ、これら鬼のごとき酔漢どもの頭髪を慄然(りつぜん)と逆立(さかだ)たしめたのは、乙女の死体でもなければ、その近くに横たわるヒューゴー・バスカーヴィルの屍(しかばね)でもない。
おお! ヒューゴーの屍を四ッ足でふんまえ、その喉(のど)もと深く食いこんだ、魔物のごとき巨大な黒い獣……形は猟犬に似ても、いかなる犬よりも巨大な魔獣の形相(ぎょうそう)であった。しかも、魔獣がヒューゴーの喉を食いちぎり、その口もとに鮮血をしたたらせながら月光に輝く両眼をカッと見開き、三人を見すえたときには、さすがの猛者(もさ)も恐怖にわななき、命からがら悲鳴を沼地に響かせて逃げ去ったのである。言い伝えによれば、中のひとりはその夜のうちに、まのあたりに見た恐怖に悶死(もんし)し、あとのふたりも余生落魄(らくはく)の生涯を送ったという。
小さき者たちよ。これが、以来痛ましくもわが家に呪いをかけた地獄犬の由来である。父がこうしてこの物語を書き記すのも、当家に祟(たた)りあるゆえを言いて、その何たるかを推測にのみゆだねんよりは、その由来を明確に知ることこそ、恐怖も減ずるであろうと信ずる故である。たとい、当家の者が数多くその死に際して幸(さち)をうけることなく、突如として血なまぐさい不可解な死をとげしこと、否むべくもないことながら、子らよ、神の広大無辺の摂理にたよれば、聖書にもいましめられてあるごとく、神は三代、四代にもわたって無辜(むこ)の民を罰することはあるまい。小さき者たちよ。神の摂理により、父は命じ、また忠告としていう……悪魔の力が暗躍する夜に、暗い沼地をたどることを禁ずる、と。
(これはヒューゴー・バスカーヴィルより、その子ロジャーおよびジョンに、ふたりの妹エリザベスには一切知らすべからずという指図とともに伝えるものである)」
この奇怪な物語をよみ終えると、モーティマー医師は眼鏡を額の上にはね上げ、じっとシャーロック・ホームズを見つめた。ホームズはあくびをして煙草の吸いさしを炉口に投げこみ、
「それで?」ときいた。
「これが面白くないんですか」
「昔話の蒐集家(しゅうしゅうか)でしたらねえ」
されば、とモーティマー医師はポケットから折り畳んだ新聞をとり出した。
「それじゃホームズさん、もう少し新しいところをご披露(ひろう)させて頂きましょう。これは本年六月十四日のデヴォンシャー日報です。その二、三日前に起こったサー・チャールズ・バスカーヴィルの死を伝えた短い記事がのっています」
ホームズの身体が少し前に動いて、その顔に緊張の色が浮かんだ。医師は眼鏡を直すと、また読み始めた。
「次期選挙に中部デヴォンシャーより自由党候補としてその名を伝えられていたサー・チャールズ・バスカーヴィルの急死は、同地一帯に暗影を投じた。そのバスカーヴィル邸在住の期間は短かかったが、愛すべき人格と寛大さは、接するすべての人の愛情と尊敬を一身に集めずにはおかなかった。このにわか成金の時代にあって、彼が悪運に見舞われた地方旧家の後裔(こうえい)として、独力で財をなし、傾いた家門の壮大さを再興させたことを知るのは新たなよろこびであった。人も知るごとく・サー・チャールズは南アフリカの投機で巨万の富をおさめ、さらに深みにはまりこんで失敗する人々の轍(てつ)をふまず、その時期を見きわめ、富をたずさえて帰英したのは賢明であった。バスカーヴィル邸に居を定めてからわずか二年、その死によって挫折(ざせつ)のやむなきに致った再建と改善の計画が、いかに大なるものであったかは常に人の口にするところであったのである。
彼は子女に恵まれなかったので、存命中にその地方全体に対して、その財産を投げうって益するようあらしめたいと公言していたので、人々がそれぞれ彼の急死を悼(いた)む気持を抱いているのは故なきことではない。彼が惜しげもなく地方の慈善事業に投じた巨額の寄付については、しばしば本欄の報じたところである。
サー・チャールズの急死に関する諸般の事情は検死審問においても完全に明らかになったとは報ぜられてはいないが、少なくとも、その地方の伝説に源を発した風評は根拠のないことだけは明らかとなった。他殺の証拠もなければ、外部より加えられた犯行の根拠もないとすれば、自然死と考えるほかはない。サー・チャールズはやもめ暮らしで、精神的にいくぶん常軌(じょうき)を逸(いっ)したところがあったと言われる。その富にもかかわらず、彼の生活は簡素をきわめ、バスカーヴィル邸内の使用人にしてもバリモア夫婦だけで、夫は執事をつとめ、妻が家政婦をつとめるといった具合である。
彼ら夫妻の証言に数人の友人たちの意見を加えたところでは、サー・チャールズは少し前から健康を害しており、とくに心臓の影響で顔色がすぐれず、息切れして、神経衰弱の激しい発作におそわれることがあったということになる。また故人の友人であり、健康の相談医でもあったジェイムズ・モーティマー医師も同じ病状について証言を与えている。
この事件に関する事実は簡明である。サー・チャールズ・バスカーヴィルは毎夜、就寝前に邸内の有名な[いちい]並木路を散歩するならわしであった。バリモア夫婦も彼の習慣だと証言している。
六月四日、サー・チャールズは翌朝ロンドンへ立つ意向を明らかにし、バリモアに荷物をまとめるよう命じた。その夜も、例によって葉巻をくゆらせながら夜の散策に出たのである。しかし彼は帰らなかった。十二時にバリモアはホールのドアが開いたままになっているのを見て不審に思い、角灯をつけて主人を探しに出た。その日は湿り気の多い日であったから、サー・チャールズの足跡は容易にわかった。
[いちい]並木をたどってゆくと、その中頃、沼地のほうへ出る小門があり、そこに彼がしばらく立ち止まっていた形跡があった。
それから彼はなおも足を進めていたが、ついに並木路の終るところにその死体が発見された。ただ十分に説明し尽されていないことは、主人の足跡の形が小門のあたりから急に変わり、ずっと最後まで爪先で歩いていた、というバリモアの証言である。
マーフィというジプシーの馬喰(ばくろう)がその夜、沼地の中の、事件の起きた場所からさして遠くない所にいたが、彼の言によれば、酔っぱらっていたという悪い条件にあったようだが、しかし、彼ははっきり悲鳴を聞いたと言明しているのである。もちろんその方角については、はっきりしていない。サー・チャールズの死体には暴行を受けた形跡は認められない。
医師の証言によれば、顔ははげしい苦悶の表情にゆがめられていて……モーティマー医師自身、自分の前に横たわっているのが友人であり、また患者である人と、はじめのうちは信じられなかったという……しかしその歪みは呼吸困難や極度の心臓疲労から来る死の場合、珍しいことではない、というのである。この説明は死体解剖により確かめられ、また積年の臓器病も証明されたので、検死陪審員団も医師の診断にもとづき、他殺でないと評決した。
この上は早急にサー・チャールズの後継者がバスカーヴィル邸に落ち着き、不幸にして中断された彼の慈善事業がふたたび続けられることが何より重要なのは明らかであるゆえに、サー・チャールズの急死に関して疑問がなかったことは不幸中の幸いであったと言わねばなるまい。もしこの事件に関して流布(るふ)された怪奇物語に、検死官の無風流な評定が終止符を打っていなかったならば、バスカーヴィル邸の次の居住者を探すことは困難であったかもしれない。最近親者は、もし生存しているならばサー・チャールズの弟の子息、サー・ヘンリー・バスカーヴィルであるという。この青年は先年までアメリカにいたといわれ、その幸運を報ずるために、現在問い合わせ中の由(よし)である」
モーティマー医師は新聞をたたんでポケットにしまった。
「ホームズさん、サー・チャールズ・バスカーヴィルの死に関して一般に知られていることといえば、こうしたことなんです」
「いや、どうも」ホームズが言った。「興味のある特徴をいくつか持っている事件に僕の注意を向けて下さったことを感謝します。実はそのおり新聞で読んではいたんですが、ヴァチカンのカメオ浮彫玉に関するちょっとした事件に夢中だったものですからね。ローマ法王を安心させようと思ってる間に、イギリスで起こった面白いやつを二、三取り逃してしまいましたよ。で、この記事が世間に知られている事実の全部ってわけですね」
「そうです」
「じゃ、公けになってないのをきかせて下さい」椅子に背をもたせて指先をつき合わせると、泰然(たいぜん)と裁きでも与えるような顔をした。
「ええ、お聞かせしますが……」モーティマーは何か激しい感情の動きを顔にあらわしていた。「誰にも打ち明けていないものをお話ししようと思うんです……検死官から聞かれたときにも答えなかったというのも、実は科学を信じる者が世間の迷信を認めている、と思われるのを怖れたためなんです。そのうえ、新聞にも出ていましたとおり、現に気味の悪い噂(うわさ)が立っているのに、これ以上その種をまいては、いよいよ後継(あとつ)ぎがなくなると思ったからです。まあこんなわけで、あまりしゃべらないほうがいいと思っていましたが、そうしたところで、これ以上よくなりっこなし、またあなたには何も包み隠す理由もありませんので。
その沼地帯というのは、あまり人の住んでないところで、それで近所に住まっている者同士はかえってよく顔を合わすわけです。こんなわけでサー・チャールズ・バスカーヴィルとはよくお会いしたもんです。ラフター邸のフランクランド氏と博物学者のステイプルトン氏を除けば、あの辺の数マイル以内に教育のある者はおりません。サー・チャールズは隠退しておられたんですが、たまたま病気になられたことから近づきになり、とくに科学に興味をもったもの同士として、じっこんになったわけです。サー・チャールズは南アフリカから科学の資料をずいぶん沢山持ち帰っておられ、ブッシュマンとホッテントットの比較解剖学について論じ合ったりして、しばしば楽しい夜を過ごしたもんです。
ここ数か月、サー・チャールズの神経組織が極度に緊張して危険な状態に達していることが、ますますはっきりしてきました。いまお聞かせしました伝説に取り憑(つ)かれでもしたようになって、屋敷の中を散歩するのだけはやめませんでした。夜にはどんなことがあっても沼地を歩こうとはしなかったんです。
こんなこと、あなたには信じられないでしょうが、ホームズさん、でも彼は恐ろしい運命の呪いが自分の家にふりかかっている、と信じこんでしまい、祖先のことでは心をなごめることのできる記録も何の励ましにもならなかったんです。何か物の怪(け)に絶えずつきまとわれていると思いこみ、私が夜診察に行ってるときに、何か怪しいものを見なかったか、犬の吠(な)き声をきかなかったか、などとたずねたことも再三ありました。ことに犬のことはしきりで、その声は興奮にふるえていたもんです。
今度の不幸が訪れる三週間ばかり前のある夜、私は屋敷へ馬で行ったことがありましたが、そのときのありさまをはっきり覚えています。サー・チャールズはちょうど戸口に居合わせて、私が馬車を降りて彼の前に立ちますと、何か怖ろしいものでも見たように目をすえ、恐怖におののいた顔つきで、私の肩越しに向こうを見ているんです。私も振り返って見ると、そのとき一瞬、何か大きな黒い小牛のようなものが車路の入口をちらっと行きすぎるのを見たんです。サー・チャールズがあまり興奮しているので、私はやむを得ず、その変なものがいたと思われる場所へ行って、あたりを見まわしましたが、何も見えませんでした。しかし、このことが彼の心にただならぬ打撃を与えてしまったんです。
その晩、ずっとそばにつきっきりでしたが、そのときです、彼が自分の恐怖を説明し、さっきお読みした文書を私に託したのは……。これは何でもないことなんですが、ついで起こった悲劇と重大な関係があるようですからお話ししました。事実、私だって、つまらんことだ、何も彼が騒ぎ立てるには当らんじゃないか、と考えていたんです。
それからサー・チャールズがロンドンへ行くことになったのも私の助言によるものです。ただでさえ心臓が悪いのに、こう四六時(しろくじ)中びくびくしていたんでは、たといそれが妄想によるものであっても、健康上はなはだよくないことだし、ロンドンで二、三か月も、うさばらしをすれば気持も変わるだろうと考えました。ふたりの友人であるステイプルトン氏も彼の健康にずいぶん気をつかってくれて、やはり私と同意見でした。ところがその間際になって、あの恐ろしい破局がやってきたんです。
サー・チャールズ急死の当夜、執事のバリモアが最初に死体を見つけ、馬丁(ばてい)のパーキンズを馬でよこしてくれました。その晩、ちょうどおそくまで起きていましたので、一時間とかからずに屋敷へかけつけることができました。私はのちに検死のおりに述べられたすべての事実を照らし合わせ、確かめました。足跡をたどって[いちい]の並木路へ出ると、沼地へ出る小門のところで立ち止まったらしい形跡があり、足跡の形が変わっていました。ほかの足跡といえば、バリモアのものがやわらかくなった砂利道に残っているだけでした。最後に死体を注意深く調べましたが、これは私が来るまで誰にも触れられなかったものです。
サー・チャールズはうつ伏せに倒れ、腕をのばして手は土をつかむように指を土の中に突っこんでいました。顔は激しい恐怖にひきつり、これがサー・チャールズだと断言することもできかねるほどでした。体に傷は認められませんでした。だが一つ、バリモアは検死のとき、間違った陳述をしています。それは死体の近くには足跡らしいものは何も見なかったといっているのですが、いや、実際彼は何も見なかったわけでしょうね、しかし私は見たのです……少し離れてはいるものの、つけられたばかりの、はっきりしたもの……」
「足跡ですか?」
「ええ、足跡です」
「男のですか、女のですか」
モーティマー医師は、ふと、いぶかしげに私たちを見たが、急に声を落すと、ささやくばかりに答えた。
「ホームズさん、それが、ものすごく大きな犬の足跡だったんですよ!」
実をいうと、この最後の言葉を聞いて私はぞっとした。医師の声もふるえを帯びていたから、彼もまた自分の話に深く心を動かされたらしい。ホームズも興奮のあまり身をのり出し、いつも強く興味をひかれたときやるように、目をぎらぎら厳(きび)しく光らせたのである。
「はっきりと見たんですね?」
「見ましたとも。あなたを見てるくらいにはっきりと」
「それで誰にもお話しにならなかった?」
「話して何になりましょう」
「誰もほかに見た者がないとは、いったいどうして」
「足跡は死体から二十ヤード離れていました。まったく考えも及ばないことなんです。私だってあの話を知らなかったら、やはり気づかなかったでしょうね」
「沼地には羊の番犬が沢山いるんでしょう?」
「むろんいますが、これはとてもそういった犬なんかでは」
「大きいとおっしゃいましたね」
「法外(ほうがい)な大きさです」
「しかし死体には近づいていなかったんでしょう?」
「そうなんです」
「どんな晩でした?」
「しめっぽくて、冷たい晩でした」
「が、雨は降ってなかったですね?」
「ええ」
「並木路というのは、どんなのですか」
「高さ十二フィートくらいの[いちい]の古い生け垣が両側に密生して茂っていて、横に抜けるのはむずかしいほどです。そのまん中に幅八フィートの路がついています」
「生け垣と路の間には何かありますか」
「ええ、両側に幅六フィートぐらいの芝生があります」
「その生け垣は、小門のところからでないと通れないわけですね」
「ええ、沼地のほうへ行く小門だけです」
「ほかにないんですね、出口は」
「ありません」
「とすると、並木路に行くには屋敷からか、沼地からくるその小門からかのふたつですね?」
「並木路のはずれにある[あずまや]を通ってもはいれます」
「サー・チャールズはそこまで行ってましたか」
「いいえ、五十ヤードも手前のところで倒れていました」
「そこでっと……はなはだ重要なところですが、モーティマーさん、あなたが見つけられた足跡は路にあって、芝生の上にはなかったんですね?」
「芝生には足跡はのこりませんよ」
「足跡は路の上でも、沼地へ出る門に近いほうにあったわけですね?」
「そうです。小門がわの路のへりのところに」
「なるほど、こいつぁきわめて面白いですね。もうひとつ、小門は閉まっていましたか」
「閉まって南京錠(なんきんじょう)がかけてありました」
「門の高さは?」
「四フィートぐらいでしょう」
「じゃ、のり越えられますね?」
「ええ」
「門の近くに何か跡が残ってましたか」
「これといってべつになにも」
「こいつぁ驚いた! 誰も調べなかったんですか」
「いいえ、私が調べました」
「それでもなかった?」
「何もかもめちゃめちゃになってたんです。でもサー・チャールズは五分か十分、そこに立っていたはずです」
「それはまたどうして?」
「葉巻の灰が二度落されてるんです」
「うまい! ワトスン君、この人も僕らの同志だよ。いや気に入りました。で、足跡はどうなってました?」
「小石まじりの地面に一か所、足跡だらけのところがありましたが、ほかの者の足跡はなかったと思います」
じれったい、というふうにシャーロック・ホームズは膝を叩いた。
「僕がそこにいさえしたらなあ! しかしこれは特別に興味ある事件ですよ。いや、腕ききの玄人(くろうと)には、またとない腕の見せどころです。僕だったら、雨にうたれたり、物好きな百姓たちの木靴で踏みにじられたりする前に、その地面に記された謎(なぞ)を読みとってるんですがねえ。ねえ、モーティマーさん、モーティマーさん、どうして僕を呼んではくれなかったんです。あなたも大いに責任をとらねばなりませんぞ!」
「ホームズさん、実はお呼びできなかったんです。そんなことをすると、ことが公(おおや)けになってしまいますし、私とても先ほど申し上げたとおりそうしたくなかったんです。しかも、それに……」
「どうして先をおっしゃらないんです」
「俊敏きわまりない老練無比の探偵も及ばない領域があります」
「というのは、何か妖怪じみたことでも?」
「そうと断言もできかねますが……」
「でもあなたは、はっきりそうと思ってらっしゃる」
「あの怪事件があってからというものは、自然の定則と相容(あいい)れないようなことを二、三聞いてるんです」
「たとえば?」
「あの怖ろしい事件のおこる前、バスカーヴィル家の悪霊とも思われる怪獣を沼地で見たというものが二、三あったということです。もちろん動物学で知られているようなものではありません。彼らの一致した話によると、何でも非常に大きくて、ぼうっと妖怪みたいに光ったそうです。その連中、ひとりは律儀(りちぎ)な田舎者で、ひとりは獣医、もひとりは沼地の百姓です。私はいちいち反証をあげて聞いてみたんですが、みな恐ろしい妖怪だったと同じことをいうんです。それがこの伝説にあるバスカーヴィル家の地獄犬にぴったり一致するじゃありませんか。それゆえ、あの一帯は恐怖に見舞われてしまい、よほど勇気のある男でないと、夜には沼地を通れない始末です」
「しかも十分科学に親しんでるあなたまでが、それを妖怪だと信じてらっしゃる」
「何を信じていいかわからないんです」
ホームズは肩をすくめた。「私はこれまで自分の研究を、現実の問題にのみ限定してきました。私は謙虚(けんきょ)に世の悪と闘ってきましたが、悪の親玉に直接闘いを挑(いど)むというのは、いささか野心が大きすきる仕事でしょう。しかし、足跡が現実にあったことは、あなた自身認めておられることだし」
「もともと物語の犬も人間の喉笛(のどぶえ)を食いちぎったというから相当に実際的なものですし、しかも同時に魔性を十分あらわしています」
「まったく怪奇趣味に宗旨(しゅうし)変えのようですね。しかしねえモーティマーさん、いいですか、そういうお考えなら、どうして私のところへなぞいらしたんです? サー・チャールズの死は調査不可能といっておきながら、もう私にそれを調べろとおっしゃるんですか」
「調べてほしいとは申しておりません」
「じゃ、どうしろと?」
「ウォータールー駅に着くサー・ヘンリー・バスカーヴィルをどうしたらいいか、ご意見を伺いたいと思って」
モーティマー医師は時計を見た。「いまからちょうど一時間十五分すると」
「その方が相続人なんですね」
「ええ、サー・チャールズの死にあたって、みながいろいろと問い合わせた結果わかりました若い方で、カナダで農業をやっておられたんです。われわれのところに届いた資料によりますと、あらゆる点で立派な方のようです。このことは一介(いっかい)の医師としてではなく、サー・チャールズの遺言執行人として申しているわけです」
「ほかには権利を主張できる人がないってわけですか」
「ええ、ありません。私どもが調べ得た血縁者としては、もうひとりロジャー・バスカーヴィルという人があるわけですが、この人はあのサー・チャールズを頭に三人兄弟の末の方なんです。中の方は若くして亡くなられましたが、サー・ヘンリーはそのご子息というわけです。末弟のロジャーさんなんですが、これがいわば一家の厄介者で、同家の悪い血統をうけ継いでいて、聞くところによりますと、同家に残っている、あのヒューゴーの肖像に生き写しということです。そんなわけで、イギリスにもいたたまれなくなり、中央アメリカにとび、一八七四年に黄熱病で亡くなっています。こんなわけで、ヘンリーさんがバスカーヴィル家の最後の人になります。一時間十五分すると、ウォータールー駅に着くはずです。今朝サウサンプトン着という電報を受け取りました。さあ、ホームズさん。彼はどうしたものか、ご助言下さいませんか」
「なぜそのまま、先祖代々の家に入らないんです?」
「それがごく自然のようですが。しかしですね、バスカーヴィル家に入るものはみな、不吉な運命に見舞わているんですよ。サー・チャールズだって、死にぎわに私と言葉を交わすことができていたら、きっと、この古い歴史をもつ家のただひとりの後継者であり、しかも巨万の財産の相続人を、あんな呪われた屋敷に閉じこめることのないようにと、警告したに違いありません。しかしまた一方、貧しく荒涼としたあの地方の人々全体の幸福が、サー・ヘンリーの在否いかんにかかっていることも否(いな)めません。また屋敷の主がいなければ、故サー・チャールズによって着手された福祉事業も頓挫(とんざ)してしまいます。私はこの事件に関して、私心に動かされないよう願っています。だからこそ、こうして真相をお伝えして、あなたのご意見をうかがおうというのです」
ホームズはちょっと考えこんでから言った。
「つまり平たく申しますと、問題というのはこうなんですね。ご説では、ダートムアの土地には悪魔の力が及んでいて、バスカーヴィル家の人が住むのは危険だ、ということですね」
「少なくとも、そうだという証拠があると言いきってもいいと思います」
「なるほど。しかし何ですねえ、あなたの怪奇説が正しいとしますと、悪魔の力は相手がロンドンにいても、デヴォンシャーにいるのと同様、害を加えるはずでしょう。教区の礼拝堂みたいに、悪魔のほうも一区域だけしか魔力をもたないというのは、あまり馬鹿げてやしませんか」
「ホームズさん、あなたはじかにこの事件にまきこまれておられないので、そんなに茶化(ちゃか)しておしまいになるが、当人にしてみれば、そうはいかないものですよ。結局あなたのご意見というのは、ヘンリー青年はデヴォンシャーにいてもロンドンにいるのと同様安全だということですね? もうあと五十分です。どうしたらいいとおっしゃるんです」
「つまり、これから馬車を呼んで、ここの表のドアをカリカリ引っかいてるスパニエル君を離してやって、さてそれからウォータールー駅へかけつけ、サー・ヘンリー・バスカーヴィルに会うんですよ」
「それから先なんですよ」
「それからは、この事件について私の心が決まるまで、彼には何も言わないこと……」
「その決心には、どのくらい時間がかかりますか」
「二十四時間。モーティマーさん、明朝十時に、もういちどご足労ねがえると好都合です。またサー・ヘンリー・バスカーヴィル氏もご同道下されば、これからの計画を進めるに当って非常に助かること思います」
「そうします」
モーティマー医師はシャツのカフスに約束を書きつけ、何か妙に考えこんだような、どこかぼんやりした様子で、急いで部屋を出ていったが、ホームズはそれを階段の上で呼びとめた。
「モーティマーさん、もうひとつだけ。サー・チャールズの亡くなる前、沼地で妖怪じみたものを見た者が二、三人ある、とおっしゃいましたね」
「ええ、三人です」
「事件後に見たものがありますか」
「あるとは聞いていません」
「ありがとう。じゃ、また」
ふたたび椅子に帰ったホームズの物静かな表情の中には、彼が気に入った事件を得たことを物語る内心の満足があらわれていた。
「出かけるのかい、ワトスン君」
「何もお手伝いすることがなければね」
「うん、まあ、君の力を借りなきゃならんのは、いよいよ本番になってからだよ。しかし今度のやつは素晴らしいよ。二、三の点からみてまったく独特(ユニーク)なもんだ。ブラッドリーの店の前を通ったら、刻み煙草のいちばん強いやつを一ポンド届けてくれるようにいってくれないかい? そうか、頼むよ。なお、晩になって帰ってくるように都合つけてくれるとたすかるんだが。今朝(けさ)拝聴した飛びきり面白い問題について、われわれの意見を比較してみると面白いと思うんだ」
ホームズが全精神を集中して考えこむときには、ひとりで部屋に閉じこめておくのが何よりも必要だ、ということを私は承知していた。その間に、彼は証拠を細目にわたって熟慮し、いろいろな推論をつくり上げてはその重要度を比較検討し、最後にどれが重要で、どれが重要でないかを決定するのだった。そこで私は、一日をクラブで過ごし、夜になるまでベイカー街には帰らなかった。それからふたたび居間の椅子に体を落ち着けたのは、かれこれ九時に近かった。
帰って来てドアをあけたとたん、すわ火事かとばかりに驚いた。テーブルの上にあるランプの光りがかすむほど、部屋いっぱいに煙が立ちこめていたのである。だが、中へ入ってみて安心した。それは喉(のど)に入って咳(せき)こませるような、安煙草のきつい煙だった。立ちこめた煙草のもやを通して、ガウンをまとい、黒い陶器パイプをくわえて、肘掛椅子のなかにとぐろまいているホームズの姿が見えた。紙の巻いたのがまわりに散らかっている。
「風邪をひいたのかい、ワトスン君」
「それどころか、この煙だよ。体に悪いね」
「そうかい、なるほど。こいつあ、ちとひどすぎたかね」
「ひどいなんてもんじゃないよ! まったくたまらん!」
「じゃ、窓をあけろよ。ところで一日じゅうクラブにいたね」
「ホームズ、どうして」
「当ったかね」
「そのとおりだ。しかしどうして?」
私があきれたような顔をしているのを彼は笑った。
「君はさも嬉しそうに溌刺(はつらつ)と活気をただよわせて帰って来たが、それならこちらだって、君を[さかな]にして少しばかり勘を働かせてみたくもなるさ。ひとりの男がだね、雨がひっきりなしに降って路の汚ない日に外出しておいて、夜になって帰ってきたのを見ると、洋服も汚さず、そのうえ帽子も光ってりゃ、靴までぴかぴかしている……こうなりゃ、彼は一日じゅうどこかに[たまって]いたのさ。しかもその男には、親友ってほどのものはいない。では彼はどこにたまっていたか? どうだい、わかりきっているじゃないか」
「うん、まあそりゃそうだ」
「世の中にはわかりきったことがいっぱいあるのに、誰も見ようとさえしないんだ。ところで僕はどうしてたと思う?」
「君も居すわりってわけだろう」
「ところが、もうデヴォンシャーに行ってきたんだ」
「心だけ?」
「そうさ、正確にいうとね。僕の体はこの肘掛(ひじか)けにおさまったままだったよ。あきれたことに、[こころ]の留守中、[からだ]の奴が大きなコーヒーポットに二杯ものコーヒーと、驚くほどのタバコをのんでしまってるんだ。考えてみるとまったく残念だ。とにかく君が出かけてから使いの者をスタンフォードの店へやって、沼沢(しょうたく)地帯の地図、軍の陸地測量部のやつを買ってこさせた。そして僕の[こころ]は一日じゅうそこをさまよってたわけだ。もうすでに、あすこら一帯を自由に飛びまわることができたと思ってるんだがね」
「詳しい地図なんだろう?」
「すごく大きいやつだ」彼はその中の一部分を膝の上にひろげた。「ほら、ここだ。われわれに関係のあるのは。この中央にあるのがバスカーヴィル邸だ」
「まわりは森なんだね」
「そうだ。そして[いちい]並木路とは書いてないが、この線がそうだと思うよ。ほら、右手のほうに沼地があるだろう。この小さなひとかたまりの農家がグリムペンの小村で、ここに、ドクター・モーティマーの本拠があるんだ。ご覧のとおり、ここ五マイル四方、パラパラ家が建っているだけだろう。これがさっきの話にあったラフター邸だ。ここに家のしるしがついているのが博物学者ステイプルトンの住居さ。たしか、そんな名前だったね。ここのふたつが沼地農夫の家で、ハイ・トーとファウルマイアだ。十四マイル離れたところにプリンスタウンの大刑務所がある。ここら一帯に荒涼とした死の沼が拡がっている。つまりここが悲劇の演ぜられた舞台であり、またわれわれがもうひと芝居、打とうとしている舞台でもあるわけだ」
「荒れ果てたところだろうね」
「そうだね、舞台としちゃ、ちょっとしたもんだ。悪魔もその気になれば、人間どもの芝居に仲間入りも……」
「いやはや、君まで怪奇説にやられだしたね」
「悪魔の子分たちには血もあり肉もあるかもしれんよ。そうじゃないかい? ところで、まずはじめに問題がふたつ、われわれの前にある。ひとつは、はたして犯罪が行なわれたのかどうか。次にその犯罪とはどんなものか、またいかにして行なわれたか、このふたつだ。もしもモーティマー君の臆測が正しくて、われわれが自然の理の枠外にある魔力に対抗しようというのなら、調査などできるもんじゃない。だがわれわれはいろいろの臆説を十二分に調べ尽してからでないと、駄目だといって引き退るわけにはゆかないんだ。かまわないなら、窓を閉めようよ。変に聞こえるかもしれないが、空気を集中させることが、考えを集中させることにもなると思うんだ。箱の中に入って熟慮する、とまでは言わないが、これは僕の確信から生まれた論理的成果なんだよ。で、君はこの事件についていろいろ考えてみたかね」
「うん、一日じゅうずいぶん考えてみたんだが」
「どういうことになった?」
「まったく困ってるんだよ」
「そう、この事件はまったく特異なものをもっているよ。だがはっきりしたところもある。たとえば足跡の動きさ。どう思う、あれを?」
「あの辺は爪先(つまさき)だって歩いた、とモーティマー君はいってたね」
「なあに、どこかのおっちょこちょいが検死審問でしゃべったことを繰り返してるんだよ。並木路を爪先だって散歩するものがあるかね」
「じゃ何だい」
「走ってるんだ。ワトスン君、がむしゃらに走ってるんだ。命がけでね。そしてついに心臓が破裂して、うつ伏せに倒れたのさ」
「どうしてそんなに」
「そこだよ、問題なのは。走り出す前に、恐怖で気も転倒していた形跡がある」
「どうしてそんなことがわかる?」
「彼に恐怖を起こさせたものは、沼地のほうから来たんじゃないかと思うんだ。もしそうだとすれば……これが最もありそうに思えるんだが、家のほうへ走らないで反対に走ったというから、よほど正気を失ってたということになるね。仮りにジプシーの証言を正しいものとすれば、悲鳴をあげ、助けを求めながら、その見こみがとてもありそうにない方向へ走っていったことになる。それから、もとへ戻って、当夜、彼は誰を待っていたのか、なぜ家の中で待たずに[いちい]並木のところまで出ていったのか」
「君は彼が誰かを待っていた、と考えるんだね」
「相当年をとってるし、しかも病人なんだ。彼が散歩に出たのは考えられるが、路は濡れてるし、天気も悪かったんだよ。そんな晩に、モーティマー君がひょんな勘を働かして葉巻の灰から推定したように、五分ないし十分も立っていたのはおかしいじゃないか」
「だって毎晩、散歩してたということだ」
「しかし毎晩、沼地側の門で何かを待ってるというのはおかしいね。それどころか、彼が沼地を避けていたことははっきりしてるんだ。だのにその晩は門のところに立っていた。しかも、あすロンドンへたつという晩にね。どうだい、ワトスン君。どうやら事件らしくなってきただろう。筋道が通って来たんだ。まあいい。僕のヴァイオリンをとってくれないか。これ以上あれこれと考えるのは、明日ふたりが来てからにして、まず今夜はこれにて……ということにしようよ」
朝食のテーブルは早めに片づけられ、ホームズはガウンを着こんで約束の客との会見を待った。ふたりの客は約束どおりきちんとやっで来た。時計が十時をつげるのと同時に、モーティマー君が若い准男爵(じゅんだんしゃく)を伴って通されて来たのである。医師の連れというのは、三十年配の小柄な、黒い眼をした男で、がっちりした体格、眉は濃く、闘志満々といった顔つきである。赤みがかったツイードの服を着こみ、風雨にさらされた顔色は、これまで生活の大半を野外で過ごしてきたことを物語っているが、やはりその落ち着いた眼差しや、静かな動作には紳士らしいものがはっきりと出ていた。
「この方がサー・ヘンリーー・バスカーヴィルです」モーティマー君が紹介した。
「はあ、その……妙なものですね。シャーロック・ホームズさん、実はこの方が今朝こちらへお伺いするとおっしゃらなくても、僕ひとりでお訪ねするつもりだったんですよ。あなたはちょっとしたつまらぬ心配事も解決して下さると聞いておりますが、ちょうど今朝がた、僕には何だかわけのわからぬことに出くわしたもんですから」
「まあお掛けになって下さい。ロンドンに着くとすぐに、何か、ただならぬことにでも遭(あ)われたというんですね」
「なあに、たいしたことはないんですよ。誰かの悪戯(いたずら)……たいがいそんなところでしょうが、手紙なんです。はたして手紙といえるかどうか、今朝こんなものを受け取ったんです」
と、テーブルの上に封筒を置いた。三人はその上に屈みこんだ。それは灰色がかった普通の封筒で「ノーサンバーランド・ホテル、サー・ヘンリー・バスカーヴィル」と宛名が荒っぽい字で記されている。消印は「チャリング・クロス局」、日付は前夜である。
「あなたがノーサンバーランド・ホテルへ行くことを誰か知ってたんですか」
相手に鋭い眼差しを投げてホームズが訊いた。
「知るわけがないんです。モーティマー先生にお会いしてから、そこに決めたんです」
「もちろん、モーティマー先生もホテルにお泊りになったんでしょうね」
「いいえ、友人のところに泊ったんです。われわれがあのホテルへ行くつもりだったことが知れるはずがありません」
「ふむ! あなたがたの動きにひどく関心をもってる者があるようですね」
ホームズは封筒の中からフルスカップ判半截紙(はんさいし)の四つ折りを取り出してテーブルの上にひろげた。その中央にただ一行、何かの活字印刷の文字を切り抜いて、ひとつずつ糊(のり)づけしてある文章……
もし生命を、理性を重んじるならば、沼地より遠ざかるべし。
ただ「沼地」という語だけがインクで書かれていた。
「ところでホームズさん」サー・ヘンリーが言った。「いったいこれはどういうことなんでしょう。僕自身の問題に、こんなお節介をやくのは誰なんでしょうか。たぶんあなたなら」
「モーティマー先生はどうお考えですか。こうなってくると、これには超自然なものはなくなってくるようですね」
「ええ、なくなりますね。でも、この事件を超自然なものと信じこんでいる誰かから来たものかもしれません」
「事件? 何の事件です?」サー・ヘンリーはきっとなって訊いた。「僕自身のことでは、皆さんのほうがずっとよくご存じのようですが」
「詳しいことは、お帰りになるまでにはわかりますよ。約束してもいいです」ホームズが言った。「よろしければ、まずこの、はなはだ興味ある手紙にとりかかることにしましょう。これは昨夜書かれて投函されたものですね。ワトスン君、きのうのタイムズはあったかね」
「この部屋の隅にあるよ」
「すまないが取ってくれないか。うん、内側のページの……社説だがね、すまん」
手にとると、すばやく社説に目を走らせた。
「こいつだ。自由貿易に関する論説だ。ご免こうむって、ちょっと拾い読みしてみよう。
[保護関税法が実施されるならば、特殊の貿易または産業が促進されると考えられがちであるが、これは偽瞞(ぎまん)である。かかる制度が国家を富より遠ざからしめ、わが輸入の価値を低下させ、ひいては国民生活の全般をも引き下げ、その生命をも脅かすものであることは、理性を重んじる者には容易に了解できる事実であろう]どうだい、ワトスン君」
痛快そうに大きな声を出し、満足げに手をこすり合わせた。「こいつあ、なかなかたいしたご挨拶だ」
モーティマー医師のほうは職業意識をはたらかせてホームズの顔を見つめた。サー・ヘンリー・バスカーヴィルはきょとんとした顔で、黒い眼を私に向けた。
「関税とか、その種のことはあまりよくわからないんですが、何だかこの手紙の問題からすこし脱線してるように思えますね」
「ところがその反対で、汽車はレールのまんまん中にいると思うんです。サー・ヘンリー、このワトスン君はあなたがたよりも僕の方法をよく知ってるはずですが、その彼にして、この記事の意味するところがよくつかめてない様子なんですからねえ」
「うん、実のところ、どんな関係があるのかさっぱりわからない」
「ところが大いに関係ありで、先のやつはこれからの切り抜きなんだ。[生命を][理性を][重んじる][ならば][より][遠ざからしめ]これがどこから切り抜かれたのかわからんのかい」
「えッ! そうか! うむ、少しうますぎるにしても」サー・ヘンリーは驚いて大きな声になった。
「かりに疑いをもったとしても、[理性を重んじる][より遠ざか]のふたつがそれぞれ一片になって切り取られているところからみれば、これはすでに動かしがたいですね」
「なるほど、そこまでくれば、その通りです!」
「いや、まったく。ホームズさん、聞きしにまさる名判断です」モーティマー医師は驚異の目を向けた。「新聞から切り抜いたというんならいざ知らず、あなたは何新聞、しかも社説だ、とやられたんですからねえ。まったくこれほど驚いたことはありませんよ。ですが、どうしてそうおわかりなんです?」
「先生にはニグロとエスキモーの頭蓋骨の区別がおつきになるでしょう」
「そりゃ、もう」
「どうして?」
「こいつぁ、道楽の一つですよ。違いは明白です。眼窩(がんか)上の隆起、顔面角、顎骨(あごぼね)の曲線および……」
「なるほど、そんなら、こちらは僕の道楽でして、違いは同様明白です。タイムズの九ポイント・ブルジョア活字と半ペニーの安物夕刊紙のきたない活字とが大いに違って見えるのは、あなたのニグロとエスキモーの場合と同じなんです。活字の判別というのは犯罪専門家にとって、最も初歩的な知識です。といっても、若いころ一度[リーズ・マーキュリー紙]を[ウェスタン・モーニング・ニューズ紙]と混同したことがありましたよ。でもタイムズの社説はまったくはっきりしていて、これの活字が他の新聞のやつでないことは一目瞭然(いちもくりょうぜん)です。しかもこの小細工は昨日やったんですから、昨日の新聞じゃないかとねらいをつけるのは、まあ当然でしょうね」
「なるほど、で、それからさき、僕にわかることといえば、誰かが手紙の文字をはさみで……」サー・ヘンリーが言った。
「爪切りばさみです」ホームズは言った。「よく見ると、この[理性を重んじる]を切るのに、字面(じづら)が長いので、ふたはさみ入れてるでしょう。だから、ごく刃の短いやつです」
「なるほど、そうですね、さて、誰かが爪切りばさみで活版文字を切り抜いて糊(のり)で……」
「アラビア糊」ホームズが言った。
「アラビア糊ではりつけた。でも、なぜ[沼地]というのだけペンで書いたんでしょうか」
「新聞で見つからなかったんですね。ほかの字はごく普通の字ですから、どの新聞にもあるでしょうが、[沼地]というのはあまりありませんからね」
「なるほど、もちろんそれで説明がつきますね。で、ホームズさん、この手紙について他にあなたがよみ取られたことはありませんか」
「一、二気づいた点があります。でも手掛りになるものを隠そうと最大の注意が払われているようですね。宛名はごらんのように荒っぽい字で書いてありますが、タイムズはあまり学問のない人たちが手にする新聞じゃないですからね。だからこの手紙は学問のある者が無教育と見せかけて作ったもので、しかも、筆の癖(くせ)を隠そうとしているのは、この男の字をあなたがたが知っておられるか、またはこれから知るようになるものと考えられます。またこのとおり、切り抜き文字はきちんと並んでなくて、あるものは高く、また低くなっていますね。たとえばこの[生命を]は、だいぶずれてるでしょう。これは不注意なためか、または切り手の心が動揺し慌(あわ)てていたか、それが現われていると思えます。まあ大局からみて、私としてはあとのほうをとりたいのです。つまり、事件は明らかに重大なものであることからして、手紙の細工をするのに不注意であるはずがないんです。では慌てていたとすれば、次の朝早く投函すれば、サー・ヘンリーが出かける前に手紙は着くはずですから、その慌てていた原因の追求から、問題は興味ある展開をみせてくると思います。邪魔者の入るのを恐れたからでしょうか。邪魔者とは誰でしょう?」
「われわれは当て推量の域まで足を踏み入れてるんではないでしょうか」モーティマー君が口をはさんだ。
「いや、そこでわれわれは種々の可能性を検討し、最も確実性の高いものを選び取るのです。これが想像力の科学的利用なんです。ただしこの推論にはある種の具体的根拠があるんですよ。この場合では、あなたは当て推量だとおっしゃるでしょうが、この宛名が書かれたのはホテルだと断定しても差しつかえないと僕は思いますね」
「どうしてそんなことを?」
「もっと注意深くお調べになれば、このペンもインクもずいぶん書き手を困らしたことがおわかりでしょう。ペンはたった一語を書くのに二度もひっかかり、インクははねて、短い宛名を書くのにインクのきれること三度……これは瓶(びん)のなかにインクがほんのわずかしか残ってなかったことを示しています。ペンにしろインク壷にしろ、自分のものだったらこんなことはめったにない。しかもそのふたつとも……こんなことはまずないといっていいでしょう。ご存じのようにホテルではなかなかインクやペンを取り換えませんからね。チャリング・クロス一帯のホテルの屑篭(くずかご)を調べあげ、社説欄に切り抜きのしてあるタイムズを見つけたら、われわれはこの奇怪な手紙をよこした者をとり押えることができると申し上げるのに、僕は何らのためらいも感じません。おやおや、こりゃ何だ?」
ホームズは文字細工に鼻をくっつけんばかりにしてフルスカップ紙を凝視した。
「えっ?」
「いや、何もありません」やがてそれを投げ出した。「ただのふたつ切り白紙でした。透(すか)しも入っていません。この奇怪な手紙から引き出せるものは引き出してしまったようです。ところでサー・ヘンリー、ロンドンに来て以来、他に何か注意をひくようなことでもありましたか」
「そう……何もなかったようです」
「誰かにつけられているとか、監視されているとは、お考えにならない?」
「なんだか三文小説のきわものの中にでも飛び込んでゆくみたいですね。何だって僕がつけねらわれねばならないんです?」
「いま、その問題に近づきつつあるんですよ。で、本題に入る前にお聞きしておかねばならぬことは、もうないわけですね」
「その……お話しする価値のあるというのはどんなことか……?」
「つまり日常の生活とは違ったことがあれば、お聞きする価値があるというものです」
サー・ヘンリーは微笑した。「僕はこれまでの生活を、ほとんどアメリカとカナダで送ってきたものですから、イギリスの生活についてまだよくは知っておりません。でも、靴を片一方なくすようなことは、やはりここでも普段と変わったことじゃないでしょうか」
「靴を片方なくした?」
「ねえ、サー・ヘンリー」モーティマー医師が大きな声でさえぎった。「置き忘れたんでしょうが。ホテルへ帰れば出て来ますよ。そんなつまらんことでホームズさんをわずらわせて何になるとおっしゃるのです」
「ええ、でも普段と変わったことは何でも話せとおっしゃったので」
「まったくそうです。どんなに馬鹿げて見えてもね。つまり靴を片方なくされたんですね。ええ?」
「置き忘れたにしろ、ないものはないんです。昨晩ドアの外に並べて置いてたはずなのに、今朝は片方しかないんです。磨いてくれるボーイに訊(き)いてみてもわかりません。しかもそれが昨夜ストランド街で買ったばかりで、一度もはいておりません」
「一度もはいてない靴を、なぜ部屋の外に出して磨かせるんですか」
「タン皮の靴でしてね。つや出ししておかなかったんで、外へ出したわけです」
「すると、昨日ロンドンに着くと、すぐ外出して靴を買われたわけですね」
「だいぶ買物をしましたよ。モーティマー先生も一緒に行っていただいて。僕もいっぱしの地主になろうというんですから、それ相応の身なりはしておかねばならないし、それには西から発(た)つとき、うっかりして用意ができていなかったわけです。いろいろ買物をしましたが、あの赤靴もそのうちのひとつで……六ドルも出したのに、一度もはかないで片方を盗まれてしまいました」
「まったくおかしなものを。盗んだって役に立たないだろうにね。でもモーティマー先生の言葉どおり、そのうちに出て来ますよ」
「ところで皆さん」准男爵はきっぱりとした調子ではじめた。「私の知ってることは、じゅうぶん申し上げたつもりです。今度はお約束どおり、われわれがどういうことになろうとしているのか、包まずお話し願いたいのです」
「まったくごもっともな要求です」ホームズが答えた。「モーティマー先生、昨日われわれに話して下さったことを、その通りお話し下さるのが何よりと思いますよ」
すすめられて、わが科学者はポケットから例の手記をとり出し、昨朝と同じように読み、また話して、事件の全般をふたたび披瀝(ひれき)した。サー・ヘンリーは一心に耳をかたむけ、ときどき驚きの声をあげるのだった。
「ははあ、呪いのふりかかった家系を継ぐことになるんですねえ」
長い話が終ると、サー・ヘンリーがいった。「もちろん、その犬の話は小さい頃から聞かされていたものです。でも、うちの[おはこ]みたいな話で、まじめに考えてみたことはありませんでした。でも伯父の死については頭が煮え立ってるみたいで、どうもはっきりいたしません。皆さんも、これを警察沙汰(ざた)にするか牧師の問題にするか、はっきり決心がつきかねてらっしゃるんじゃないでしょうか」
「そのとおりです」
「そこへ私あてのこの手紙がホテルへ舞い込んで来たわけですが、何だかその事件に符合するような気がしますね」
「沼地で何が起こっているのか、誰かわれわれよりよく知っている者があるようです」モーティマー医師がいった。
「しかも」ホームズがあとを受けた。「あぶないぞ、と警告を発して来たんですから、あなたに対して悪意を抱いてる者でもないようですね」
「それとも何か企(たくら)みがあって、僕を脅(おど)して追い払おうと思ってる奴らかも知れないですね」
「そう、もちろんあり得ることです。モーティマー先生、こうした喜憂(きゆう)変化に富む興味ある事件をお知らせ下すったことを感謝しますよ。ともあれ、サー・ヘンリー、まず決めておかねばならぬ実際問題は、あなたがバスカーヴィル邸へ行かれるのが当を得たことであるかどうかです」
「なぜ行ってはいけないんでしょう」
「危険があるように思われます」
「というと、この伝説から来る危険でしょうか、それとも実在の人間から受けるものでしょうか」
「ええ、われわれはそれをつきとめねばならないんですよ」
「いずれにしろ、僕の返答はきまっていますよ。ホームズさん、地獄の悪魔などいるはずがありませんし、またこの世で僕が僕目身の屋敷へ帰るのを阻止できるものもありません。これが僕の最終返答だとお受け取りになって下さい」
彼は黒い眉(まゆ)をキッと寄せ、浅黒い顔を紅潮させた。バスカーヴィル家累代の焔(ほのお)のごとき気性が、この最後のひとりにまで受け継がれているのだ。
「それはともかく、お話し下すった事柄について、じっくり考える時間がありませんでした。ことの次第をいちどに理解し、決着をつけてしまうのはたいへんなことだと思うんです。僕の心が決まるまで、独りだけで静かに考える時間がほしいと思います。ホームズさん、もう十一時半になりましたから、一応まっすぐホテルへ帰ることにします。それで、二時にワトスン博士とご一緒にホテルまでご足労ねがって、食事をおつき合い下さいませんか。その折りには、この事件について僕の態度を、もすこしはっきり申し上げられると思います」
「いいんじゃないか、ワトスン君」
「まったく好都合だ」
「じゃ喜んでおうかがいしますよ。馬車を呼ばせましょうか」
「いえ、歩いてゆきましょう。何だか頭がこんがらがっていますから」
「わたしも一緒に歩きますよ」モーティマー医師も賛成だった。
「じゃ、二時にお会いしましょう。ではまた(オウ・ルヴォワール)、さよなら」
ふたりの足音が階段を降り、玄関の扉の閉まる音をきいた。とみるや、ホームズの姿はものうい夢想家から、颯爽(さっそう)たる活動家に豹変(ひょうへん)した。
「ワトスン、靴と帽子をとれ! 早く、一刻を争うんだ!」
ガウンのまま部屋に飛び込んだと思うと、秒を数える間にフロックコートで飛び出して来た。階段をかけ降り、通りへ出る。モーティマー君とバスカーヴィルのふたりがオックスフォード街に向かって二百ヤードばかり先を歩いてゆくのが見えた。
「走っていって呼びとめようか」
「とんでもない。お伴(とも)は君ひとりで沢山だ、君さえ嫌でなければね。ふたりともなかなか賢いよ。散歩にゃ快適な朝だからね」
ホームズは足を速めて距離を半分にせばめたが、それからは百ヤード離れたまま後を追って、オックスフォード街からリージェント街へと歩いた。一度、先のふたりが足をとめて店のショーウィンドーをのぞきこんだが、ホームズもまた同じものをのぞきこむ。
と、その一瞬あと、小さい喜び声を発した。彼の目の方向をたどると、男をひとり乗せたまま道の向う側に止まっていた二輪辻馬車がそろそろと同じ方向に走り出した。
「いたッ! ワトスン君。さあ行くぞ! 今のところ何もできないが、せめて顔なりとも、とくと拝見しようじゃないか」
そのとき、馬車の窓を通してまっ黒いひげもじゃの顔の中から見透すような鋭いふたつの目がわれわれに向けられたのを知った。間髪を入れず、幌(ほろ)前部の小窓がはね上げられ、馭者(ぎょしゃ)台に向って何事か命じると、馬車は狂ったようにリージェント街を疾走して行った。ホームズは、やっきになって他の馬車を探したが、残念にも空車は見当らない。やむなく、人馬の流れをわけて、まっしぐらに後を追って駈け出した。
だがスタートの遅れはどうしようもない。すでに馬車の姿はどこにもなかった。
「みたまえ、馬車の流れをわけて、口惜(くや)しさに顔面蒼白、あえぎあえぎ引き返してくると、ホームズは吐きすてるように言った。「まったくついてない上に、へまをやった。一生の不覚だ。おい、ワトスン君、君が歯に衣(きぬ)を着せぬ男ならばだ、君はこの失態をちゃんと書き、僕の成功と秤(はかり)にかけてみるといい」
「誰だい、あれは?」
「わからん」
「スパイか」
「さっきの話から考えて、バスカーヴィル君はここにやって来て以来、ずっと何者かにきびしくつけられていることだけは確かだ。でなきゃあ、彼がノーサンバーランド・ホテルに泊っていることが、どうしてそんなに早くわかる? あいつらがはじめの日に尾行したんなら、二日目もやったに違いないと信じるね。モーティマー医師があの文書を読んでいるとき、僕が二度も窓のところへ歩いていったのに気づいていたろう」
「うん、覚えてるよ」
「通りをうろうろする奴を探してたんだが、誰もいなかった。ワトスン君、相手はしたたか者だよ。この事件は深く切りこんでくるというやつだ。われわれの身辺を窺(うかが)ってるのは、悪の手先か味方なのか、どうもはっきり決めかねるんだが、常に何かの力、何かのはかりごとが働いてると思う。あのふたりが帰った後、影のようにふたりの後につきまとう何者かが見つかりゃしないかと思って後を追ったんだが、いや狡猾(こうかつ)きわまる奴だ。歩いてては安心できないんで馬車を使いやがった。馬車なら、後をつけるにも、さっと追い越して気づかれぬようにするにも自在だからね。これにはもうひとつ利点がある。もし相手が馬車に乗っても、すぐ後をつけられる。だが半面、明らかに不利な点があるんだ」
「馭者に痛いところをつかまれる」
「そうだ」
「しかし、馬車の番号を見ておかなかったのは残念だな」
「ねえ、ワトスン君、いくら僕がへまをやったからって、番号を見損なったと本気で考えてるんじゃないだろうね。二七〇四がその番号だ。しかし、まずは何の役にも立たないだろうよ」
「しかしあの場合、他にやりようがなかったんじゃないかい。とっさに思いつかなかったが」
「馬車を見たら、すぐ後を向いて歩き出すべきだった。それから折をみて、べつの馬車を拾い、師の影をふまず、てな具合に離れてあとに従ってもよかったし、できればノーサンバーランド・ホテルへ先きまわりする手だったんだよ。そうすれば、わが覆面冠者(ふくめんかじゃ)がバスカーヴィル君の後をつけて来たとき、逆に彼を利用する機をつかみ、その居場所までつきとめられたのになあ……慎重を欠いて焦(あせ)ったもんだから、相手の手練(しゅれん)の早業に裏をかかれて、馬脚(ばきゃく)は露(あら)わす、相手は取り逃す始末さ」
こんなことを話しながら、ぶらぶらリージェント街を歩いて行くうちに、先のふたりの姿はとっくに見えなくなっていた。
「もう後をつけていても無駄だね」ホームズは言った。「あやしき者の影去りて、ふたたび帰り来たらず、か。さらに持ち札を検討してみて肚(はら)をきめるよりほかはない。君は馬車の男の顔がはっきり言えるかい」
「あごひげだけは間違いないんだが」
「そう、あれはどう見てもつけひげだよ。こういう微妙な使命を帯びた賢い男のことだ、顔を隠す以外にあごひげの必要はないよ。ワトスン君、ちょっとこっちへ」
ホームズは、とあるメッセンジャー社の支店に立ち寄った。支配人が丁重に彼を出迎えた。
「やあ、ウィルスンさん、この前のつまらぬ事件をお忘れではないようですね。まったく運がよくてお手伝いできたんですよ」
「どういたしまして、忘れるどころか。わたしの名誉もひょっとしたら命までも救って下すったのに」
「まったくお口がうまいですね。ところでウィルスンさん、おたくのメッセンジャー・ボーイにカートライトとかいう子がいたと覚えてるんですが、先(せん)の調査のとき、なかなかいいところを見せてくれましてね」
「ええ、ええ、まだおります」
「ちょっと呼んで下さいませんか。あ、どうも、ついでにこの五ポンドをこまかくして下さるといいんですが」
支配人のベルに応えて、十四、五の明るいきりっとした顔つきの少年が現われた。少年は立ちどまって、この名高い探偵を限りない尊敬の目でみつめた。
「ホテル案内をもって来てくれないか」ホームズは少年に言った。「ああ、ごくろうさん。ところでカートライト、ここにホテルの名前が二十三あるだろう。みんなチャリング・クロス近辺だね、わかるかい」
「はい、わかります」
「こいつをひとつひとつ、まわってくれ」
「はい、先生」
「どこへ行っても、まず玄関番に一シリングずつやるんだ。ほらここに二十三シリングある」
「はい、先生」
「そしてきのうの紙屑を見せて下さい、と頼むんだ。大事な電報を間違えて配達したから探してる、といってね。わかるね」
「はい、先生」
「しかし君が深すのは、実はタイムズの中のページにはさみで字を切り取った小さな穴のあるやつだ。ここにそのタイムズがある。すぐわかるね」
「はい、先生」
「どこでも番頭さんを呼びにやるだろうから、出て来たらまた一シリングずつやる。ここにもう二十三シリングあるからね。まあ二十三軒のうち二十軒ぐらいは燃やしてしまったとか、どこかへ運んだとか言うだろう。しかし、三軒ぐらい紙屑の山を見せてくれるかも知れん。その中からタイムズのこのページを探し出すんだ。まあ、見つかる見こみはほとんどないがね。なにかのことでいるかもしれないからもう十シリング渡しておく。夕方までには電報でベイカー街まで知らせてくれ。では、ワトスン君、あとは二七〇四号の馭者の身許を電報で問い合わせるだけだ。すんだら、ボンド・ストリートの画廊のひとつにでもしけこんで、ホテルへ行くまでの時間つぶしでもするか」
シャーロック・ホームズが自分の思いのままに気分を転換するときに発揮する才能といえば、まったく驚くべきものがある。現にこの二時間ものあいだ、先ほどまでふたりの心を奪っていた奇態(きたい)な事件のことなどまったく忘れ去ったように、近代ベルギー巨匠の絵画に夢中になっているのである。画廊を出ても、お粗末きわまる知識しか持ってないくせに、美術のこと以外は何ひとつ話そうとはしないのだ。そしてふたりは、いつのまにかノーサンバーランド・ホテルまで歩いて来たというわけである。
「サー・ヘンリー・バスカーヴィルが、お二階でお待ちになっていらっしゃいます」支配人がふたりを出迎えた。「おいでになったら、すぐお通し申すようにとおっしゃってました」
「宿帳を見せてもらいたいんだが」ホームズが言った。
「はあ、どうぞ、どうぞ」
宿帳には、サー・ヘンリーのあとに二組の名前が記入してあった。ひとつはニューカッスル市のシオフィラス・ジョンスン氏とその家族で、もひとつはオールトン市ハイ・ロッジのオールドモア夫人と女中である。
「やあ、このジョンスン君は、僕のよく知ってる人に違いないよ」ホームズはポーターに言った。「弁護士じゃないかね。頭の毛が灰色で、歩くときにびっこを引く」
「いえ、この方は炭坑主のジョンスンさんで、たいへんお元気がよくて、年配もあなた様ぐらいで」
「でも、炭坑主というのは君の間違いじゃないかね」
「いえ。この方にはもう長年ご愛顧(あいこ)を願っておりまして、私どもも非常によく存じ上げております次第で」
「そうかい、それでわかった。おや、オールドモア夫人もだ。聞いたことのあるような名前なんだがね。いろいろと聞いて恐縮だが、ホテルに人を訪ねていって、べつの友人に会ったりすることがよくあるんでね」
「この方はお体を悪くしておいででして、ご主人は以前グロスター市長をなさっていました。夫人はロンドンへお出でになると、必ずわたしどものホテルにお泊りになりますんで」
「いや、ありがとう。僕の知ってるオールドモア夫人じゃないようだ」階段を昇りながら、ホームズは低い声で話しつづけた。「ところでワトスン君、ああして聞いてみることで、僕らは重要な証拠を確認したんだよ。つまりサー・ヘンリーをつけねらっている奴らが、このホテルにいないことを確かめたんだ。これはつまり、奴らは執拗(しつよう)にサー・ヘンリーを見張っているものの、また同時に自分たちが見つけられやしないかと怖れてることになる。ねえ、こいつぁ実に意味深長だよ」
「どういう意味の?」
「つまりだね。おやおや、いったいどうしたんです」
急いで階段を昇りつめると、目の前に突っ立っていたのは、ほかでもないサー・ヘンリー・バスカーヴィルである。顔を真赤にして腹を立てており、片手には泥だらけの古靴を片方ひっつかんでいた。はらわたが煮えくりかえって、口もきけない様子である。どうやら口をききはじめたかと思うと、今朝の様子とは似てもつかぬ、下品な西部なまり丸出しでやりはじめた。
「ここん奴(やつ)ときた日にゃ、俺を阿呆(あほう)か何かと思ってやがる」それがまた大きな声だった。「用心せんと、まずい奴を怒らせたと後悔せにゃならんぞ! あん畜生、靴を探してこんと、ひと悶着(もんちゃく)起こしてやるぞ! いやあ、ホームズさん。冗談なら冗談と気軽に応じるんですがね、こりゃ、ちとひどすぎますよ」
「まだ靴を探してるんですね」
「ええ、そうですとも。大真面目なんですよ」
「でもたしか、盗まれたのは赤靴とおっしゃいましたね」
「ええ、そうだったんです。ところが今度は古い黒靴なんですよ」
「ええ? あなたは本気でそれを?」
「本気でそういってるんですよ。僕の持ってるのは新品の赤靴、古い黒靴、それにいまはいてるエナメル靴の三足きりです。昨晩赤靴を片方やられ、今日また黒を片方盗まれたんですよ。おい、お前が盗(と)ったんだろう。しらをきるな! ポカンと突立ちやがって!」
興奮したドイツ人給仕がこの場に現われていたのだった。
「いいえ、お客さん。ホテルじゅう訊(たず)ねまわったんですが、誰も知らないと言うんです」
「よし、夕方までに靴が出て来なきゃ、支配人にねじこんで、こんなホテルなんか、さっさと出てってやると言ってやる」
「きっと探し出してごらんにいれます。もう少しご辛抱下さればきっと見つかります。お約束します」
「その約束を忘れるな。この盗人(ぬすっと)の巣窟で残りの靴をとられたら、もうお終いだからな。いやはや、ホームズさん、つまらんことでお手間をとらせっちまって」
「つまらんことだとは思いませんよ」
「ええ? ひどく問題になさってるようですが」
「あなたはこれをどう説明なさる!」
「べつに説明しようって気もありませんがね。ただ、こんな馬鹿げた、奇妙千万なことに出会うのは初めてなんですよ」
「たしかに奇妙千万」ホームズは考えこんだ。
「で、あなたはどうお考えで? ホームズさん」
「さあ、僕とても、わかったとは申し上げられないんでね。でもサー・ヘンリー、この事件は、よくよくこみいったものですね。さらに伯父上の死と結びつけて考えますと、これまで私の取り扱ってきた五百にものぼる事件のうちでも、これほど複雑怪奇なものがあったかどうか、しかと申しかねるほどのものなんです。でもまあ、手がかりは幾つか、わが手にありで、ただそのうちどれがわれわれを事件の真相に導くか、これが勝敗の分かれ目でしょう。たとい誤った手がかりにひっかかってときを費したとしても、やがては正しい筋を追うことになりますよ」
それから、われわれをこうして集める縁結びとなった事件についてはほとんど触れず、楽しい昼食をともにしたのである。ホームズがバスカーヴィルにその意図をただしたのは、食事後、居間へ引き下がってからのことだった。
「バスカーヴィル邸へ行くつもりです」
「いつにします」
「週末ごろ」
「そう決心なすったのは賢明だと思いますね。あなたがロンドンで尾行されているというはっきりした証拠をつかんでるんですが、なにしろ人口数百万のこの都市では、それが、どういう連中なのか、どんな目的でやってるのか、それを探り出すのはたいへんなことなんです。もしかりに、悪意あってのことならば、危害を加えることもあり得るし、われわれにはそれを未然に防ぐ力がないのです。モーティマーさん、あなたは、けさ私のところを出てから尾行(つけ)られていたのをご存じないんでしょう」
モーティマー医師はまったく驚いた様子だった。
「つけられてたって! いったい誰から?」
「残念ながら、僕にも、それが何者かは申し上げられないんです。あなたはダートムア近辺の者か、または知人で、まっ黒いあご髯(ひげ)をはやした者をご存じありませんか」
「知りませんね。ええっと、いや、いますよ。バリモア、サー・チャールズの執事の。これがまっ黒いあご髯(ひげ)をはやしてます」
「ほう! で、どこにいるんです、そのバリモアは」
「屋敷の留守番をしてます」
「そいつを調べなきゃなりません。本当に屋敷にいるのか。何かのことで、ロンドンに来てやしないか」
「どうして調べます?」
「頼信紙(らいしんし)を下さい。
[サー・ヘンリーの準備できたか]
これでいいでしょう。宛先は、バスカーヴィル邸のバリモアとします。ところで、いちばん近い電信局はどこです? グリムペン……なるほど。じゃもう一本グリムペン電信局長宛に打ちます。
[バリモア宛の電報は直接本人へ渡されたし。不在のときは、ノーサンバーランド・ホテルのサー・ヘンリー・バスカーヴィルへ返電たのむ]
これで夕方までには、バリモアがデヴォンシャーでちゃんと仕事をしていたかどうか、わかろうというもんです」
「なあるほど」バスカーヴィルが言った。「ところでモーティマー先生、そのバリモアとは誰なんです?」
「この男の父親もやはり屋敷の管理をつとめてましてね。彼で四代、代々邸の管理をしていることになります。私の知ってる限りでは、バリモア夫妻とも、あすこいらでは最も評判のいい人たちなんです」
「しかも、主人一家がいないわけだから、これといってすることもなく、至極(しごく)のんびり暮らしてるものと見えますね」
「確かにそうです」
「バリモアはサー・チャールズの遺志でいくらかもらいましたか」と、ホームズは聞いた。
「ふたりとも五百ポンドずつ」
「ほ、ほう! ふたりは受け取る前からそのことを知っていたんですか」
「ええ、サー・チャールズは遺言のことを話すのがたいへん好きでしてね」
「そいつあ面白いですなあ」
「いや」とモーティマー医師がいった。「遺贈を受けた者を、誰彼なしに胡散(うさん)くさい目で見られてはこまりますねえ。現にこの私も千ポンドもらってるんですから」
「へえ! で、ほかには?」
「たいした額ではありませんが個人でもらった者は大勢いますし、いろいろの慈善団体も受け取っています。残りは全部サー・ヘンリーのものです」
「残りというのはどれくらいですか」
「七十四万ポンド」
「そんなにあろうとは思わなかったですなあ」
たまげてホームズは目をまるくした。
「サー・チャールズが金持だとは評判でしたが、はたしてどれほどなのか、今度証券類を調べてみるまでわからなかったんです。不動産を含めて、財産は全部で百万ポンド近くになるでしょう」
「うむ! それじゃ、一(いち)か八(ばち)かの大博打(おおばくち)を打とうという奴が現われてこようというもんです。ところでモーティマー先生、もうひとつ。縁起でもないことを申し上げて失礼かと思いますが、この方にもしものことがあったと仮定すれば、誰が財産を相続することになりますか」
「サー・チャールズの弟のロジャー・バスカーヴィルが未婚のまま亡くなりましたので、遠い従弟にあたるデズモンド家がつぐことになります。ジェイムズ・デスモンドさんはウェストモーランドで牧師をやっている、かなり年配の方です」
「いやどうも。いろいろとたいへん興味のあることです。で、あなたはそのジェイムズ・デズモンドさんにお会いになったことがあるんですか」
「ええ、一度、サー・チャールズを訪ねてみえたことがありましたが、まことに立派な方で、聖職にもふさわしい方だとお見うけしました。その折、遺産をうけるのを固く辞退なすったのを憶えておりますが、もっともサー・チャールズがむりに押しつけてしまいました」
「そうすると、その方が、サー・チャールズの巨万の富を相続するってこともあり得るわけですね」
「法によって決められておりますから、万一の場合には不動産の相続をするわけです。また動産についても、サー・ヘンリーが特別の遺言をしない限り、あの方のものになるというわけですが、まあ今はサー・ヘンリーの思いのままというわけですよ」
「サー・ヘンリー、あなたは遺言状を作りましたか」
「いいえ、それどころではありませんよ、ホームズさん。どういうことになってるのか、昨日知ったばかりでしょう。とてもそんな暇は。でも動産というものは爵位や不動産についてるものだと思いますね。それが今は亡き伯父の遺志なんでしょう。地所を維持してゆく金もなくて、どうしてバスカーヴィル家の繁栄を取り戻すことができましょう。屋敷、土地、金、この三つがそろわねばなりません」
「そうですとも。ところでサー・ヘンリー、ただちにデヴォンシャーへお出でになるのが当を得たことであるという私の気持は、あなたと同じなんですよ。ただし、これにひとつだけ条件をつけねばなりません。決してひとりで行ってはいけないということです」
「モーティマー先生が一緒に帰って下さいますよ」
「でも、モーティマー先生には医者としての仕事があるし、しかもお住まいは屋敷から数マイルも離れてるでしょう。その好意をもってしても、もし万一の場合に、あなたの力になれないようなこともあり得るわけです。いいですか、サー・ヘンリー、いつもあなたのそばにいてくれて、なお十分信頼のおける人と一緒に行かねばなりません」
「ホームズさん、あなたが一緒に来て下されば」
「いざというときになれば、どんなことをしても飛んで行きますが、ご承知のとおり多方面にわたる事件に手をつけておりますし、また絶えずあっちこっちから訴えが殺到しているありさまなんです。いつまでかかるかわからぬ事件にひっかかって、その間じゅうロンドンを空(あ)けることなどできないんです。現に今も、この国でも指折りの名士が、ある恐喝漢(きょうかつかん)のために汚名を着せられそうになっていますが、その悲惨なスキャンダルから彼を救い出せるのは、不肖(ふしょう)この私をおいて他にないのです。これでおわかりになっていただけると思います。なぜ私がダートムアに行けないかが」
「じゃ、誰を、とおっしゃるんです?」
ホームズは私の腕に手を置いた。
「この親友が引き受けてさえくれれば。万一の場合、あなたの側にいて彼ほど頼りになる人物はありますまい。誰よりもこの私が、確信をもってそう言うことができます」
いきなり切り出されたこの提案に、私はすっかり驚いてしまったが、その返事をしないうちにバスカーヴィルは私の手をとって、しっかりと握りしめた。
「ああ、そうですか。ワトスン先生、本当にありがとうございます。先生でしたら、私のこともよくご承知の上、この事件の内情について私同様にご存じですから、バスカーヴィル邸にお出で下さって、ずっと私をお助け下さったら、ご恩は一生忘れません」
何かありそうだという冒険への期待は、いつも私の心を抑えがたいまでに熱狂させるのだ。そのうえ、ホームズは私を推薦してくれるし、この准男爵からは、まるで十年の知己(ちき)のように、親しい信頼の言葉で期待されるに至っては。
「よろこんで、お供しましょう」私は決心して口をきった。「これほど私の時間を有効に使う仕事はないと思いますよ」
「その折は慎重に報告するんだよ」ホームズは言った。「もし事が起きたら……どうも何事か起こりそうだがね、そのときにはどうしたらいいか策をさずけるからね。土曜日までには準備できるだろうね」
「大丈夫でしょうか、ワトスン先生」
「大丈夫です」
「それでは変更の通知を出さない限り、土曜日十時三十分、パディントン発の列車でお目にかかりましょう」
これで別れて立ち上がったそのとき、サー・ヘンリーは喊声(かんせい)をあげて部屋の一隅に飛んで行き、飾り棚の下から赤靴を片方引き出した。
「ほら、なくした靴ですよ!」大きな声を出した。
「万事そのように簡単に片づいてくれるといいんですがね」シャーロック・ホームズが言った。
「しかし、おかしいこともあるんですね」モーティマー医師が言った。「私は昼食前に、この部屋をたんねんに調べたんですがね」
「僕だってそうです。隅から隅まで」バスカーヴィルもいった。
「探したときには、たしかに靴はなかったんです」
「それじゃ、われわれが食堂へいってる間に、あの給仕がそっと戻したんですね」
そんなわけで、ドイツ人の給仕が呼ばれて来たが、何も知らないという。あれこれ尋ねてみても、何ひとつとしてはっきりしない。結局、昨日から相次いで起こった、一見偶然とも思われる一連の不可解な事件が、またしてもひとつふえたことになっただけである。
サー・チャールズの変死にまつわる不気味な話はさておき、われわれはわずか二日の間に、まず、切りはり細工の手紙、それから馬車の中の黒髯(ひげ)の男、新しい赤靴の盗難、次いで黒靴の紛失、そして、どこから現われたのか、失われた赤靴の出現……と、不可解きわまる事件が踵(きびす)を接して起こるのを見たのだ。
ホームズは黙然と、ベイカー・ストリートへ帰る馬車に腰をおろしていた。その緊張した眉や鋭い顔つきから、彼もまた私同様、この奇怪な、見たところ関連性のない事件の続発を、いかに組み立て、結びつけようかと骨折っているのがわかるのだった。
その日の午後一杯、日暮れになっても、ホームズは紫煙をくゆらせ続け、深い思いに耽(ふけ)っていた。夕食の直前に電報が二本来た。
まずはじめは……
[バリモアは屋敷にいる……バスカーヴィル]
次は……
[指示どおりに二十三軒まわったが、残念ながら切り抜きタイムズ見つからず……カートライト]
「ワトスン君、頼みの綱はふたつとも切れてしまったよ。いや、こういうふうにすべてが駄目になると、かえってぞくぞく興味がわいてくるんだよ。それなら第三の手がかりを探らなきゃならんからね」
「まだあの髯(ひげ)のスパイの乗ってた馭者(ぎょしゃ)があるね」
「それだよ。あの男の名前と住所を知らせてくれるように馭者登録所に電報を打っておいたんだ。おやおや、これがその返事であったからって、べつに驚くにゃあたらないさ」
ベルが鳴ったのは、電報の返事どころか、もっとましな返答だったのだ。ドアを開けてぬうと入って来たのは、粗野な顔つきの馭者当人だった。
「実は本社から知らせがあってね、ここの旦那が二七〇四号に用事があると聞いたんでね」とやりはじめた。「あっしゃ、七年も馭者をやっておりやすが、一度だって苦情をいわれたこたあねえです。文句があるんなら、面とむかって聞きたいと思いやして、溜(たま)り場からまっすぐやって来たんでがす」
「君に文句を言う気なんかこれぽっちもないよ」ホームズが応えた。「それどころか、君が僕のいうことに気持よく答えてくれたら半ポンド上げようと思ってるくらいさ」
「なあるほど、あっしゃこれまで間違いも起こさず、まともに暮らして来たんでさあ」にやりと相好(そうこう)をくずした。「で、旦那の聞きたいとおっしゃるのはどんなことで」
「またってこともあろうから、まず君の名前と住所を聞くとするか」
「ジョン・クレイトン。住所はバラ区ターピー街の三番地。あっしの馬車はウォータールー駅近くのシップリーの溜り場から出すんでがす」
シャーロック・ホームズはそれを手帳に控えた。
「そいじゃね、クレイトン君、今朝十時にこの家の前で見張りをやり、それからリージェント街のほうにふたりの紳士をつけさせたお客のことを話してくれないかね」
相手は虚(きょ)をつかれたらしく、少し当惑の面もちだった。
「旦那はあっしの知ってることは何もかも知ってらっしゃるようだから、あっしから言うことは何もありますめえ。実をいうと、あの旦那は探偵だとおっしゃって、誰にも話さないように口止めされてるんで」
「ねえ、きみ。これは非常に重大な問題なんだよ。僕に何か隠しだてすると、君自身、自分の立場をちょっとまずくすることになるんだがねえ。君は、あのお客が自分のことを探偵だと言ったというんだね?」
「ええ、言いましたとも」
「いつそれを言った?」
「馬車を降りるときでさ」
「ほかに何か言ったかね」
「名前を言いましたよ」
勝ち誇ったように、ホームズは私のほうをちらと見た。
「ほう、名前を言ったって? そいつぁ、うかつだったな。何という名だった?」
「その名ってえのはね」馭者はいった。「シャーロック・ホームズでしたよ」
この馭者の答えを聞いたときほど、ホームズが不意をつかれて、あわてたのをかつて見たことがない。
しばらくは唖然(あぜん)として口もきけないありさまだったが、やがて大きな声で笑いこけた。
「やられたね、ワトスン君、見事にしてやられたよ。敵も我に劣らぬ見事な変幻自在ぶりだ。いや、今度こそはきれいに一発食ったかたちだ。ううむ、その名はシャーロック・ホームズか……そうだったね」
「そうでがす、それがあの旦那の名前なんで」
「うむ、それで、どこで乗せたんだね。それからあった事をすっかり聞かせてくれ」
「九時半にトラファルガー広場で呼びとめられましてね。俺は探偵だが、今日一日じゅう何もいわずに俺の言う通りに動いてくれたら二ギニー出す、という話でがす。いやも応もこんなうめえ話はねえんで、承知しやした。まずノーサンバーランド・ホテルへ行って待ってるてえと、紳士がふたり出て来て道ばたに並んでる馬車を拾ったんでがす。それからずっと、何でも、どこかここいらあたりで止まるまで尾行(つけ)て来たわけで」
「それがまさしくこの家さ」ホームズが言った。
「なるほど。あっしにははっきりわからなかったけど、あの旦那は何もかも心得てる様子でやした。で、こっちはこの通りの中ほどに馬車を止めて、さて、ものの一時間半も待ちましたっけが、やがてさっきの紳士連が歩いて出て来たんで、やり過ごしてからベイカー街をずっと尾行して、それから……」
「知ってる」
「リージェント街を四分の三も走らせたとき、旦那がいきなり引き窓を開けて、できるだけ速くウォータールー駅へすッ飛ばせ、てえんで、あっしゃ、うちの牝(めす)野郎にひとむちくれて、十分も経たねえうちに着いたんでがす。旦那は気前よくちゃんと二ギニー下すって、駅へはいりかけたが、そのとき、ちょっとこっちを振り向いて、[今日はシャーロック・ホームズ氏を乗せたということを覚えておけば、何かと面白いこともあるさ]とおっしゃったんで。だから名前を知ってるようなわけなんで」
「わかった。その後、その人を見かけないかね」
「駅が最後で、その後は」
「で、シャーロック・ホームズ氏てのはどんな人なんだい」
馭者は頭をかいた。「へえ、そいつがどうも、なかなか思うようには話せないような人で、まあ年のころ四十ぐらい、背丈は中くらいで、旦那より二、三インチがた低うがした。身なりはなかなかハイカラで、まっ黒のあご髯の先を四角に刈り込んで、顔色の青い方でしたが、まあ、あっしに話せるのはそれくらいのもんでがす、旦那」
「目の色は?」
「覚えてませんなあ」
「ほかに何か思い出せないかね」
「いや、旦那、もうねえです」
「そうかい。じゃ、半ポンド置くからね。また何か知らせてくれるようだったら、もう半ポンドが君の来るのを待ってるわけだからね。どうもご苦労さん」
「こいつあどうも、じゃ旦那、ごめんなすって」
ジョン・クレイトンがにやにやしながら姿を消すと、ホームズは私のほうをむいて、ひとつ肩をすくめると、残念そうに苦笑した。
「第三の綱も切れてしまったね。結局、振り出しへ後戻りさ。しかし狡猾(こうかつ)きわまる奴じゃないか。ここの番地も、サー・ヘンリーが僕に相談に来たことも知ってるし、リージェント街では、すぐ僕に目星をつけるし、僕が馬車の番号から、馭者を調べることを承知して、あんな大胆なせりふを使うし。ねえ、ワトスン君、こんどの奴こそは相手にとってまったく不足のない好敵手だよ。僕もロンドンでは煮え湯をのまされたよ。僕はただデヴォンシャーでの君の幸福を祈るばかりだが、何だか少しばかり不安なんだよ」
「何が?」
「君をやることがさ。ワトスン君、こいつぁ、厄介な、危い役目なんだよ。考えれば考えるほど、気乗りがしなくなる。ねえ、君、君は笑うかもしれないが、やはりここで言っておかねばらないのは、君がつつがなく、元気でベイカー街へふたたび帰って来てくれることを祈ってるってことなんだ」
約束の日、サー・ヘンリー・バスカーヴィルもモーティマー医師も、すっかり準備をととのえてやって来ていたので、三人は予定どおりデヴォンシャーへむけて出発した。シャーロック・ホームズは馬車に同乗して駅まで見送りに来てくれたが、別れにあたって、あれこれと指示や注意を与えてくれた。
「ワトスン君、今ここで僕がこの事件に対する意見や臆測めいたものを述べて、君に妙な先入観を持たせたくないんだ。ただ、できるだけ詳しく事実を報告してほしいということだけだ。それによって推理をすすめるのは僕にまかしてもらいたいんだよ」
「どういうふうな事実だね」
「直接に関係のなさそうなことでも、なにかこの事件につながりのありそうなものだったら、何でも報告してほしいんだ。とくにサー・ヘンリーと近所の人たちとの交渉とか、サー・チャールズの死についての新しい事実なんかだね。僕がここ二、三日の間にやった調査は、どうも結果的にはまずかったようだがね。ただひとつ、確からしいのは、サー・ヘンリーの次の相続人になる、ジェイムズ・デズモンドさんだが、あの人は温厚な中年の紳士なんで、今度の尾行者とは無関係だと思うんだ。だから、この人だけは、われわれの考慮からまったく除いてもいいと思っている。残るのは、沼地一帯に住んでいて、サー・ヘンリーを実際に取り囲むことになる連中だね」
「どうだろう、まず最初にバリモア夫婦を追い出しては」
「とんでもない。そんな大へまをやっちゃいけないよ。もし夫婦が無罪だったら、残酷な誤解になるし、もし彼らがやっていたとしても、彼ら自身の罪を自覚させる機会をみすみす捨て去るようなもんじゃないか。いや、いや、今のところふたりをわれわれの嫌疑者リストに入れておくだけにしておこうじゃないか。それから屋敷には馬丁がいたはずだね。それから沼地農夫がふたり。さらに、絶対に信頼のおける親友のモーティマー医師、さらにわれわれは知らないがその夫人。また博物学者のステイプルトンとその妹、妹のほうはまだ若いたいへん魅力のある女性だというじゃないか。ラフター邸にはフランクランド氏ありで、この人物についちゃまったく未知数だ。その他、二、三の隣人たち。これらの人物について、君は十分監視し、研究しなけりゃならんよ」
「ベストを尽くすよ」
「武器は持ってるだろうね」
「うん、持ってたほうがよさそうだから」
「そうだとも。ピストルは片時も離さないようにして、決して気をゆるめないようにね」
先のふたりはすでに一等席を確保して、われわれの来るのを、プラットフォームで待っていた。
「いいえ、何も変わったことはありません」ホームズの問に答えて、モーティマー医師が言った。「ただ一つだけ確信をもって答えられるのは、ここ二日は絶対につけられなかったということです。外出するときは、必ず前後左右に目を光らせていましたから、尾行でもする者があったら、絶対に見逃しっこありません」
「ずっと、ご一緒だったんですね」
「ええ、昨日の午後以外は。というのは、私はロンドンへ来ると一日だけは雑事から離れて自分の楽しみのために費すことにしているので、その日を外科大学の博物館で過ごしたわけです」
「僕のほうは公園へ出かけて、都会人見物としゃれこみましたが」バスカーヴィルが言った。「べつに何も困ったことなどありませんでしたよ」
「しかし、やはりそりゃ軽率でしたね」ホームズは頭を振りながら、深刻そのものの表情だった。「ねえ、サー・ヘンリー、お願いですから、これからひとりで歩きまわらないで下さいよ。でなきゃ、とんだ不幸がふりかからないものでもありませんよ。で、もひとつの靴は見つかりましたか」
「いいえ、とうとう出て来ませんでした」
「なるほどね、しかし非常に面白いことですねえ。それじゃ、お元気で……」
ホームズがいったとき、汽車は静かにプラットフォームを滑りだした。「いいですか、サー・ヘンリー、モーティマー先生が読んでくれた奇妙な伝説を忘れるんじゃありませんよ。暗くなってから沼地に出かけないこと、悪魔の力が暗躍してますからね」後を追うようにつけ加えた。
ずっと遠ざかったプラットフォームを振りかえると、ホームズの厳(いか)めしい長身が認められた。それは身動きもせず、消えてゆくわれわれをじっとみつめていた。
その旅は速く快適なものだった。その間、私はモーティマー医師のスパニエル犬と戯れながら、ふたりの友人ともさらに親しくなった。汽車が二、三時間と走らないうちに褐色の土地は赤味をまして、煉瓦(れんが)造りの家はひなびた花崗岩(みかげいし)造りに変わっていた。立派な柵をめぐらした牧場では赤牛が草を食(は)み、青々とした草や、豊かに生い茂った樹木は、湿気の多い気候ではあっても、土地の豊かさを物語っていた。若いバスカーヴィル邸主は、窓外にうつりゆく景色をじっと見つめて、なつかしいデヴォンシャーの景物を認めると、喜びのあまり嬉しそうな声を出した。
「ワトスン先生、ここを離れてから、世界のあちこちをずいぶん見て歩きましたが、比較できるようなところはどこもなかったですね」
「デヴォンシャーの方は、みんなお国のことを自慢なさるようですね」私は感じたままを言った。
「それは、土地が肥えているのはもちろんのこと、血統にもよるんです」モーティマー医師が言った。「この方をみてもわかるように、この頭の丸みはケルト族の特徴です。その中には、ケルト民族の情熱と深い愛着の力が秘められています。あの故サー・チャールズの頭は非常に珍しもので、ゲール族とイヴェルニア族の特徴を併(あわ)せもっていました。でもあなたがバスカーヴィル邸を最後にごらんになったのは、まだずいぶんお若い頃なんでしょう?」
「父が死んだのが、まだ僕の十代の頃で、しかも南部海岸の小さな家に住んでいましたので、屋敷は一度も見たことがないんですよ。それからまっすぐ、アメリカにいる友人の許へ行ったでしょう。だから、ワトスン先生同様、この地はまったく珍しいんです。沼地一帯が見たくて見たくて、うずうずしてるんですよ」
「そうなんですか。じゃあなたの望みはすぐかなえられますよ。ほら、いまあなたは沼地をはじめてごらんになってるわけです」モーティマー医師は窓の外を指さした。
四角に区切られた緑の牧場やおだやかにうねり続く低い木立のかなたには、遠く灰色の陰鬱な丘が見える。そのぎざぎざの頂(いただき)はうすぼんやりと遠景の中にとけこんで、夢の中のある幻想的な風景のようであった。バスカーヴィルは身じろぎもせず、じっとそれに見いっていた。先祖代々、彼の一族が長きにわたって治め、その名を深く人々の心に遺してきた土地を、いまはじめてまのあたりにするに当って、彼の感慨はいかばかりか……それを私は彼の熱心な表情のなかに読みとったのである。
殺風景な客車の一隅に、ツイードの服を着てじっと腰掛けているアメリカ靴の男……だが、その浅黒い表情豊かな顔を見るにつけ、私は気高く、気性の激しい支配者の血を、長いあいだ受けついで来た人であると、今さらながら深く感じるのであった。濃い眉や感情の鋭さをあらわす鼻の線や、その淡褐色の大きな目とは、誇りと勇気と力をあらわしている。これから、あの不気味な沼地を探索しようとするわれわれの前に、もし何かの困難や危険が横たわっていようとも、本人みずから進んで行動を共にするのは確かだから、誰だって、喜んで危険をおかす気になれるような男なのである。
汽車がある小さな田舎駅に停(と)まると、われわれはそろって下車した。低い白ぬりの柵の向うには、馬を二頭つけた遊覧馬車(ワゴネット)が待っていた。この小駅にとっては、われわれ三人が来たのがよほどの大事件だったらしく、駅長までがポーターと一緒になってわれわれにつきまとい、荷物を運び出してくれた。
そこは平和で素朴な村だった。駅から出ようとすると、黒い制服に身をかためた兵士らしい男がふたり、小銃にもたれかかるようにして立ち、出てくるわれわれをじろりと鋭くにらみつけたのには驚いた。馭者というのは、人相のよくない節くれだった小男で、サー・ヘンリー・バスカーヴィルに挨拶したかと思うと、次の瞬間、われわれは飛ぶように白く乾いた広い路を走っていた。われわれの両側には、海にも似た緑の牧場がもり上がって来る。深い緑の木の間から切妻のある古い家々が見えた。だが、この太陽のふりそそぐ平和な村のかなたには、ぎざきざの不吉な丘にさえぎられて、沼地の陰鬱な起伏が夕空を背景に暗く拡がっているのである。
馬車(ワゴネット)はわき路にまがり、何世紀もの間わだちで傷んだ小路を登っていった。両がわの高い土手にはじめじめした苔(こけ)や、見るも鮮やかなコタニワタリ(シダの類)が生え茂り、青銅色のワラビや斑(まだら)のあるイバラが、沈んでゆく夕陽の光りで仄(ほの)かに輝いていた。なおも坂道はつづき、馬車は狭い花崗岩(みかげいし)の橋を渡ると、今度は灰色の丸石の間をごうごうと白い泡をたてて流れる急流に沿って登っていった。路と急流とは、背の低い樫(かし)と樅(もみ)の密生した谷あいを縫うように走っていた。路を曲がるたびごとに、サー・ヘンリーは喜びのあまり喊声(かんせい)をあげ、あたりをきょろきょろと熱心に見まわし、うるさいほど、いろいろ訊くのだった。彼の目には、すべてのものが美しいようだった。しかし私は、この一年もまた残りすくなくなったという晩秋の色合いを深めた山村に、一抹(いちまつ)の物さびしさを感じた。枯葉は路に散り敷き、通りすぎるわれわれの上に舞い下りた。路をおおう朽葉(くちは)に、車のひびきも消え去る……おお、帰り来るバスカーヴィル家の後継ぎの車前に、自然は何と物さびしい贈り物を吹き散らすことか。
「おや!」突然モーティマー医師が叫んだ。「何です、あれは?」
われわれの前には、沼地のはずれに突き出ているヒースにおおわれた険しい丘が立ちはだかっていたが、その頂上に、くっきりと騎兵の銅像のように、馬乗りの兵隊がひとり、黒く厳然と小銃を前にかまえて立っていた。われわれがいま進んでいる山路を警戒しているのだ。
「何かあったんかね。パーキンズ」モーティマー医師が尋ねた。
馭者は身体をねじむけた。
「プリンスタウンの監獄から囚人がひとり逃げたんです。もう三日になりますんで、追手は路という路、駅という駅、みんな監視してるんですが、その姿さえ見えねえてんで、ここの百姓どもも弱ってますんで、へえ、本当のこってす」
「ああそうか。それで何か知らせると、五ポンドもらえることになってたね」
「へえ、そうなんで。……だけんど、たかが五ポンドぐれえで、喉をぐっさりやられた日にゃ、たまったもんじゃねえですよ。旦那がた、ずらかったのはただの奴じゃねえんで、何をやり出すかわからねえ野郎なんで、へえ」
「誰だね、その男は」
「ほら、ノッティング・ヒルで人を殺したセルデンでがす」
その事件なら、私はよく憶えていた。そのやり口が、殺人とはいうものの、あまりに残忍で、したい放題の狂暴性をもったものであっただけに、ホームズも興味をもっていたものだった。その手口があまりにも残虐をきわめていたので、はたして彼の精神状態が、正常であったかどうかに疑問がもたれ、死刑から終身刑へ減刑されたという顛末(てんまつ)なのである。
馬車が坂をのぼりつめると、眼前にでこぼことしたごつごつの堆石(たいせき)や岩の点在する広い沼地が開けた。沼地からさっと一陣の風が吹いて来て、思わず、われわれは身震いした。この荒涼とした平地のどこかに、あの凶悪犯人がひそみ、野獣のように穴の中に身を隠して、自分をこの世から放り出した人間どもに対する激しい呪いに胸をかきむしっているのだ。この何ともいえぬ不気味さを、もっと完全なものにするために、草も生えぬ荒地の広がり、ひやりと冷たい風、暮色の迫る丘までが加わっているのである。サー・ヘンリーまでが急に黙りこんでしまい、しきりとオーバーのえりをかき合わせた。
先ほどの肥沃(ひよく)な農村は、すでに遠く下のほうにあった。振りかえって見おろすと、沈んでゆく夕陽を浴びて渓流は金色の帯のようにきらめき、新しく耕された畑の赤土やもつれ合うように広がった森林は燃えるようにかがやいていた。行手の路は、ますますひどく荒れ果てて、巨大な岩の散在している褐色やオリーブ色の斜面を越えてつづいていた。ときどき見かける沼地の小屋は、壁も屋根も殺風景な石造りで、その粗(あら)い外面をおおいかくす蔦(つた)の葉も見られなかった。
突然、眼下に摺鉢(すりばち)状の窪地が現われた。長年の激しい風雨に曲がりくねった矮小(わいしょう)な樫(かし)や樅(もみ)が点々と生えている。その木立の向うに、二本の細い塔が首を出していた。馭者はそれを鞭(むち)でさし示しながら、
「バスカーヴィル邸でがす」といった。
その主人となったサー・ヘンリーは腰を浮かせてじっと見つめた。頬は紅潮し、目はきらきらと輝いている。数分の後、われわれは門番小屋のある門に着いた。鋳鉄(ちゅうてつ)製のこみ入った幻想的な装飾のある門扉(もんぴ)の両側には、風雨にさらされ、苔(こけ)むした門柱が立っており、その頭にはバスカーヴィルの紋章である猪(いのしし)の頭が彫刻されていた。番小屋は昔日の面影もなく荒れ果て、黒い花崗岩とむき出しになった垂木(たるき)が残っているが、それと向きあった新しい建物は、まだ完成せぬとはいえ、あのサー・チャールズが南アフリカから持ち帰った黄金の力によって生まれた初収穫ともいうべきものであった。
門をはいると、並木路になった。またしても散り敷く落葉に車輪の音はかき消された。両側から老樹が枝をつき出し、われわれの頭上に暗いトンネルをつくっていた。バスカーヴィルは長いうす暗い車路の奥に、まるで幽霊のようにぼんやり光っている屋敷を見て、思わず身震いした。「あれは、ここだったんですね」彼は低い声できいた。
「いえ、いえ、[いちい]の並木路はこの向う側なんです」
若い邸主は、青ざめた顔で、あたりを見まわした。
「まったく、こんなところに住んでいたら、あの伯父(おじ)が自分の身に災難がふりかかると信じこんだのも無理もないことですよ」と言った。「誰だって怖気(おじけ)づきますよ。半年内には、ひとつ、ずらりと電灯をつけますよ。そして千燭光のスワン・エジソン白熱電灯を玄関の前につければ、もう、あんな感じはしなくなりますね」
並木路は、広い芝生に出て、眼前に館がたっていた。次第に薄れる夕日のなかで、中央部が堂々とした主な建物で、そこからポーチが張り出しているのが見えた。正面は、蔦の茂みにすっかりおおわれ、ところどころ、窓や紋章のある部分だけが、蔦の暗幕をつき破りでもしたように裸のままにのぞいている。この母屋(おもや)からは銃眼や狭間(はざま)につき抜かれた多数の小窓のある一対の古い小塔が突っ立っていた。その左右には、母屋よりも近代的な黒花崗岩の建物が両翼をなしている。重々しい感じの堅框(かたがまち)のある窓を通して日暮れのうす明かりがさしこみ、急勾配の屋根から突き出た煙突からは、ひと筋ずつ、黒い煙が立ち上がっているのだった。
「これはこれは、サー・ヘンリー。……ようこそ、バスカーヴィル邸へお出で下さいました」
玄関の影になっている暗がりの中から、背の高い男が馬車の扉をあけに出て来た。つづいて、ホールの黄色い光りをうけて、女の姿が黒く見えた。女もすぐ出て来て、男と一緒にわれわれの荷物をおろしてくれた。
「じゃ、サー・ヘンリー、私はこのまま馬車で帰らせてもらいますよ。家内が待ってるもんですから」モーティマー医師が言った。
「まあいいじゃありませんか。一緒に夕食をしましょう」
「ええ、でもやはり帰ることにしましょう。二、三仕事もたまってることでしょうから。実はご一緒にいて、館のなかを案内できるといいんですが、それにはバリモアのほうが適役でしょう。では失礼します。もしお役に立つことがあれば、いつでもご遠慮なく使いの者をよこして下さい」
馬車は車路の暗闇に消え、サー・ヘンリーと私はホールに入ったが、その扉はうしろで重々しい音をたてて閉まった。案内されたのは、天井の高い広々とした部屋で、垂木(たるき)には古くなって黒光りのしている大きな樫の角材が使ってある。高い鉄の薪架の後ろには、古風な大暖炉があり、パチパチと勢いよく燃えていた。サー・ヘンリーと私は早速それに手を差しのべた。馬車の旅が長かったので、ふたりの体はすっかり冷えきっていたのである。それからやっと、あたりを見まわした。中央のランプのうす明かりのなかでは、ステンドグラスも古びた高い位置の細窓、樫の羽目板(はめいた)、牡鹿の頭部の飾り物、この家の紋章などが、すべてうす暗く陰気に見えるのだった。
「やはり想像してたとおりですね」サー・ヘンリーがいった。「旧家の絵、そっくりそのままじゃありませんか。この同じ部屋で、五百年ものあいだ僕の祖先が暮らして来たこと考えると、何ともいえぬ一種の厳粛感にうたれますね」
そういってあたりを見まわす彼の色黒の顔には、少年のような情熱が火のようにもえていた。明かりは、そこに突っ立った彼のあたりを照らしているものの、長い影は四方の壁を匍(は)い上がり、彼の頭上に暗い天蓋(てんがい)のようにひろがっていた。
そこへバリモアがそれぞれの部屋へ荷物を運び終えてもどって来た。われわれの前に出た彼の態度は、よく仕込まれた召使いらしく、腰のひくい様子だった。この男は、なかなか立派な風采(ふうさい)で、背も高く、男ぶりもいい。黒いあご髯を四角に刈りこみ、その白い顔は、なかなか目立つ特徴のあるものだった。
「夕食はすぐに召し上がりになりますか」
「用意はできてるかね」
「すぐにできます。おふたりとも、お部屋にお湯が用意してあります。家内も私も、旦那様が新しいとりきめをなさいますまで、喜んでお世話させていただきます。でも今度の場合、かなり使用人をおふやしにならねば、と思っております」
「今度の場合って」
「いいえ、ただ、サー・チャールズ様は隠居同然の生活をなさっておられましたので、私ども二人で十分お世話できましたということで。でも旦那様には、もっとご交際も広くいらっしゃるでしょうし、しぜんお屋敷のご様子もお変えになる必要がありましょうから」
「君たちふたりはここを出たいと思ってるのかい」
「それは旦那様のご都合ひとつでございます」
「君たち一族は、何代もこの家にいてくれたんだろう? 僕はそうした家族の古いつながりを断ち切ってまでも、新しい生活を始めたくはないよ」
執事の蒼白い顔に感動の色が浮かんだのを見た。
「旦那様、わたくしとてもそのとおりで、また家内も同じ気持でございますが、実を申しますと、わたくしどもは、サー・チャールズ様をたいへんお慕い申し上げておりまして、お亡くなりになったことが、もうたいへんな心の痛手でございました。こうしていろいろなものを見るにつけて、ただ心が痛むばかりでございます。私ども、このバスカーヴィル邸におりますかぎり、一日とて心の安まる日はないのでございます」
「それでどうするつもりなのかね」
「何か商売のようなものでもはじめたら、うまくゆくと思っております。サー・チャールズ様のお情けで、元手(もとで)もいただいておりますので。いや、そんなことより、早くお部屋へご案内いたしましょう」
この古風なホールの上部には、手摺(てすり)のついた廻廊がぐるりと四方を取り巻き、二つ折りの階段がそれにかかっている。また廻廊の中央から二本の長い廊下が建物全体に伸び、それに沿って寝室があった。私の寝室はサー・ヘンリーのと同じ側で、ほとんど隣り合ってるといってもよかった。これらの部屋は建物の中心部よりもずっと近代的な造りらしい。明るい色の壁紙や無数のろうそくの灯が、館に着いたときからずっと心のしこりとなっていた暗い気持を吹きとばしてくれた。
しかし、ホールにつづく食堂は、またしても暗い陰気なところだった。細長い部屋で、上段には家族が坐り、下段には使用人たちが坐るようにと段がつけられていた。一隅には、吟遊詩人のための高座が設けてある。黒ずんだ梁(はり)が何本も頭の上をはしり、その上には黒くいぶされた天井がある。燃えあがる松明(たいまつ)をずらりと並べ、彩色豊かな荒々しい昔日の酒宴に打ち興ずるのならば、その陰気もなくなろうというものだが、こうして地味な服を着こんだ紳士ふたりが、ほそぼそと笠つきランプのうす明かりに照らし出されて坐っておれば、声もとだえがちで、心もめいってしまうものだ。エリザベス朝の騎士から、摂政時代の伊達男(だておとこ)に至るまで、種々さまざまの服装をした祖先のくすんだ絵がわれわれを見おろして、ほかの物言わぬ仲間と一緒になってわれわれを威嚇(いかく)するのである。われわれはほとんど話もしなかったが、食事がすむと、私のほうはやれやれという気持になった。それから近代的な球戯室へ行って煙草をいっぷくやることができたのである。
「いやはや、あまり気持のいい場所じゃありませんね」サー・ヘンリーが言った。「まあ、なれると思いますがねえ。いまのところ、僕みたいな者には少々お門(かど)違いの場所みたいな気がしますね。伯父もこんなところに独りぼっちで住んでいたんでは、神経衰弱気味になったのも無理ないと思いますよ。でも、何でしたら、今夜は早くやすむとしましょうか。朝になれば、もう少し気持よくなるかも知れませんよ」
寝台へのぼる前にカーテンを開けて外をのぞいてみた。窓の前は、ホールのドアに面した庭だった。向うのふたつの雑木林が折からの風にゆれ、ざわめいていた。先を競って流れてゆく雲の切れ間から半月が見えた。林の向うには、たちきれた岩々の端や、低く長い陰鬱な沼地の曲線が冷たい月光を浴びていた。この最後の印象が気持をやすめてくれるだろうと思いながら、私はカーテンを引いたのだ。
ところが、そうではなかった。疲れているのに目だけはさえて、眠ろう、眠ろうと一向にやって来ない眠りを求めながら、休みなく転々とねがえりをうった。どこかで遠く時計が十五分おきに時を告げるのが聞こえてくるが、あとは、死んだような静けさがこの古い館を包んでいた。すると突然、この真夜中に、まぎれもなく、何かはっきりと妙に響く音が聞こえた。女のすすり泣く声である。声を殺し、押しつぶしてはいるものの、押さえ切れぬ悲しみにひきさかれた、むせび泣きである。私は寝台の上に起き上がってじっと耳をすました。この声は遠くであろうはずがない、いや、たしかにこの家の中である。
それからものの三十分、体中を耳にして待っていたが、ふたたび聞こえてはこなかった。ただ時を告げる鐘の音と、壁をはう蔦(つた)を鳴らす風の音がするばかりであった。
一夜明ければすがすがしい朝だった。おかげでわれわれはふたりとも、バスカーヴィル邸で味わったゆうべの陰惨な気分をいくらか忘れ去ることができた。サー・ヘンリーとふたりで朝の食卓につくと、高い仕切り窓からいっぱいに陽がそそぎこみ、窓ガラスいっぱいに飾りつけた家紋の影で、そこここにうるんだ色模様ができていた。黒っぽい鏡板も、さしかかる金色の日光の下でブロンズのように照り映えて、これがゆうべあんなにも暗い印象をふたりの心に焼きつけた当の部屋なのだとは、とうてい信じられないことだった。
「これじゃ悪いのはこの家ではなくて、私たち自身のようですね」サー・ヘンリーが言った。「旅で疲れたあげくに馬車で冷えこんで、この場所を見る目も陰気になっていたんでしょう。今こうやって気分を一新して、あらためて見直してみると、すっかりあたりまえの家に見えるんですからね」
「しかし必ずしも気のせいばかりじゃなさそうですよ」私は答えた。「たとえばですがね、ひょっとしてあなたもゆうべ夜中にすすり泣くような声をお聞きじゃありませんでしたか。女の声だったと思いますが」
「そいつぁ妙です。じつは僕も、うとうとしながら、何かそんなものが聞こえたような気がしたんですよ。それでかなり長いこと耳をすましていたんですが、それっきり聞こえなかったんで、夢だったのかと思っていたんですがねえ」
「僕にははっきり聞こえたんです。たしかにすすり泣きで、それも女の声でしたよ」
「こりゃ、すぐに訊(き)いてみなくちゃ」
彼はベルを鳴らしてバリモアを呼び、これこれの次第だが、知らぬかと問いただした。主人のことばをじっと聞いていたこの執事の顔が、心なしかいっそう青ざめたような気がした。
「ヘンリーさま。この家には、女は二人しかおりません。ひとりは勝手女中でございまして、寝室はずっとはずれのほうにございます。もうひとりは私の家内でございますが、あれがそのような声を立てるようなことは、決してなかったはずでございますが」
ところが嘘をついていたのだ。朝飯がすんで、長い廊下を歩いていると、私は偶然、顔にまっこうから陽をうけているバリモアの細君に出会ったのだ。大柄な、無表情といった感じの女で、口もとをわざときつく、いかめしそうにつくろっていた。だが、ちらと私を見たその目が、すべてを語っていた。赤く充血して、まぶたが脹(は)れ上がっているではないか。ゆうべ泣いていたのは、この女にちがいない。とすれば、夫である執事も知っているはずだ。にもかかわらず彼は見えすいた嘘をついたわけである。なぜそんなことをしたのか。だいいち、彼女はなぜそんなにひどく泣いたのか。生(なま)白い顔に黒いひげを生やしたこの美男執事の身辺に、すでにあやしげな暗雲がただよいはじめている。サー・チャールズの死体を最初に発見したのは彼であるし、老人の無残な死の直前の状況も、ただ彼の証言をとおしてわかっているにすきないのだ。リージェント街の馬車の中にいた黒いあごひげの男は、結局バリモアだったのだ、ということになるんだろうか。同じひげ面の男ではないと、誰がいえよう。馭者の話ではもう少し背の低い男らしくもあったが、こうした印象というものは得てして間違いが多いものだ。
さてさて、それではどうすれば、ことを解明できるのか。グリムペンの郵便局長に会うこと、そして例の電報が本当にバリモアの手に直接、手渡されたかどうかをたしかめること、まずどう考えてもそれが私のなすべき第一のことだった。どんな答えが出てくることか。ともあれシャーロック・ホームズに報告を書くことになるだろう。
サー・ヘンリーは朝食がすむと、沢山の書類を調べなければならないということで、私にとってはもっけの幸い、うまくひとりで外出できるわけだった。
道は四マイル、沼地に沿って心地よい散歩をつづけて、行き着いたグリムペンは古びた、ちっぽけな部落だった。旅篭屋(はたごや)を兼ねた居酒屋と、医師モーティマー氏の家とが、ここでは目立って大きな存在であった。郵便局に行ってみると、ひなびた食料品店をも営む局長は、電報のことをはっきりと覚えていた。
「それはもう、お指図どおりにバリモアさんの手に配達しましたですが」
「配達に行ったのは?」
「この子です。ジェイムズよ、先週あの電報はちゃんとお屋敷のバリモアさんにお届けしたのう、お前」
「うん、ちゃんと届けた」
「じかに手渡した?」私が訊いた。
「あのう。そのときバリモアさんが屋根裏に上がってたもんだから、じかに手渡さなかったんです。だけど、おかみさんに渡したら、すぐに渡しとくからっていわれました」
「バリモアさんがいるのを見た?」
「見ないです。だって屋根裏にいたんですもん」
「見たわけじゃないのに、どうして屋根裏にいるってわかった?」
「そりゃ旦那、奥さんがそう言われたんだから間違いないでしょうが」局長はむっつりして言った。「バリモアさんが電報を受け取らなかったんですかね。何か間違いでもあったんなら、バリモアさんに言ってもらいたいですね」
どうやらこれ以上の詮議だては遠慮したほうがよさそうだった。せっかくホームズが一計を案じたのに、結局バリモアがずっとロンドンにいたのではない、という確証はつかめなかったわけである。かりに、彼がロンドンにいたのだとしたらどうだろう……サー・チャールズの死を見届けたその男が、アメリカ帰りの相続人をロンドンでつけねらっていたのだとしたら。するとどうなる。誰かに頼まれてやっているのか。それとも腹に一物あって、ひとりで何かを企(たくら)んでいるのか。だいいち、何を目当てにバスカーヴィル一族をつけねらっているのか。
私はロンドン・タイムズの社説から一語ずつ切り取って作成した例の奇妙な脅迫状のことを思いうかべた。はたしてあれはこの男の仕業(しわざ)だったのか。それともその男の策略をやっきになって阻止しようとする誰かの企みでもあろうか。その動機といって思いつくのは、サー・ヘンリーが前にいったように、もしここの家族が恐れをなして近づかぬとなれば、バリモア夫妻にとっては至極のんびりとした永住の地が確保される、ということだけだ。
しかし、こんな生易(なまやさ)しい説明では、この若い准男爵のまわりにはりめぐらされた、眼に見えぬ奸計(かんけい)の網の目を説明し尽くすことはできないだろう。あの目の覚めるような華々しい調査をやってきたホームズさえもが、これほど複雑なものはかつてなかったといったくらいなのだ。灰色のさびしい道をひとりとぼとぼ歩きながら、わが友ホームズが数々の仕事から解放されて、一刻も早くここへやって来て、私の肩にどっかとのしかかった重責の荷をとり除いてはくれないかと、心に祈ったのである。
突然うしろから自分の名前を呼ばれ、駈けてくる足音にいろいろの思いは断ち切られてしまった。モーティマー氏かとふり返ると、追って来たのは見も知らぬ男だったのには驚いた。ほっそりとした小男で、乙(おつ)にすました顔はきれいに剃り上げてあり、亜麻色の髪の毛の、あごのうすい男で、年かっこうは三十代である。ねずみの服を着こんで、ムギワラ帽をかぶっている。植物採集のブリキのドーランを肩にかけ、手には緑色の捕虫網をもっていた。
「その、はなはだぶしつけなことかと存じますが、あなたはワトスン博士でいらっしゃいませんか」歩み寄りながら、あえぎあえぎ言った。「ここの沼地の者は、何ですか打ちとけた人たちでして、正式の紹介もなしに、人に話しかけるんですよ。たぶん親友のモーティマー君からお聞きおよびのこととは思いますが、私、メリピット荘のステイプルトンです」
「もうその箱と網がお名前を言ってるようなもんですよ。ステイプルトンさんは博物学者だと聞いておりましたので。でも、どうして僕だとおわかりでした?」
「さっきモーティマー君をたずねますと、診察室の窓からあなたのお通りになるのが見えたんで、彼が教えてくれたんです。ちょうど道が同じだったもんですから、追いついて自己紹介しようと思いましてね。サー・ヘンリーにはご遠路のところ、まったくお変わりない様子で」
「ええ、おかげでまったく元気です」
「サー・チャールズのご最期がああいう気の毒なものでしたから、今度の准男爵がここに来るのをいやがられるんじゃないかと、みんな心配してたんですよ。ことに、こんなところにやってきて身を埋めるなんていうのは、お金のある人にはむごいように思うんですが。しかし一面、土地の者にしてみれば、この上もなく大切なことなんでしょう。で、サー・ヘンリーは今度の事件についての迷信を恐れられてるわけじゃないんでしょうね」
「ええ、そんなことはないだろうと思いますが」
「もちろん、あなたはバスカーヴィル家に憑(つ)きものの地獄犬の伝説をご存じなんでしょう?」
「ええ、聞きましたよ」
「ここいらの百姓たちの迷信深さといったら、そりゃたいへんなもんですよ。聞いてみようものなら、沼地でそんなものを見たと断言するのが何人もいるありさまですからねえ」
微笑を浮かべて話してはいるものの、当人こそ大まじめだというのが、その目つきで知れるのである。
「あの話がサー・チャールズの心を捕えて離さなかったんですよ。結局それがもとで、気の毒に命とりになったのは、もう疑う余地がありませんね」
「どういうふうに?」
「つまり神経がたかぶってしまって、犬さえ見れば、どんなのでも心臓病に決定的打撃を与えるようになってたんですね。事実、あの晩、[いちい]並木路でそうしたものを何か見たんじゃないかと思うんですがね。僕自身、あの老人が好きで、しかも心臓が弱ってることも知ってましたから、何か悪いことでも起こるんじゃないかと、じつは案じてたんですよ」
「どうして身体の具合いまで知ってたんですか」
「モーティマー君が知らせてくれたんですよ」
「じゃあなたは、彼が[ある]犬に追われて、恐ろしさのあまり死んだとお考えになるわけですか」
「もっといい考えがありましょうか」
「いや、僕はまだ結論に達していないんですよ」
「シャーロック・ホームズさんは?」これを聞いて私は、はっと息をのんだ。が、平然とした顔つきの相手の目を見て、私は相手が故意に私を驚かしたのではないことがわかった。
「ワトスン先生、空とぼけなすっても駄目ですよ」ときた。「あなたがお書きになった探偵談は、ちゃんとここにも来てますよ。さっきモーティマー君からあなたのお名前をきいたときも、あなたの正体がご本人だと分りました。あなたがここへいらしたとなれば、シャーロック・ホームズさんもこの事件に手をつけておられることになるし、そうすれば当然、あの方がどんな見解をもっていらっしゃるか知りたくなるもんですよ」
「どうなんですか。僕には答えられないんですよ」
「ホームズさん自身もこちらへ来て下さるつもりなんでしょうか」
「いまのところ、ちょっとロンドンを離れられないんじゃないでしょうか。他の事件に気をとられてるもんですからね」
「残念ですなあ! 僕らにはお先まっ暗な事件でも、何か光りを与えて下さるでしょうがねえ。でもあなたご自身の調査の上で、何かお役に立つことでもありましたら、何なりともおっしゃって下さい。あなたがご不審に思われる点が私にあるとか、またこういうふうにこの調査を進めてゆきたいとか、おっしゃっていただければ、いますぐにでも、二、三お役に立つようなことをいたしもしましょうし、また助言できるかと思いますが」
「申し上げておきますが、僕は単に友だちのサー・ヘンリーをたずねてここに来てるんですから、お手伝いいただくようなことは何もありません」
「さすがは! あなたの用心深さは完璧ですね。いやまったく、見事に一喝(いっかつ)されたようですね……お前の考えてることはいらぬお節介だとばかりにね。いやもう、この事件についちゃ何もいわないことを約束しますよ」
いつの間にか、われわれはずっと沼地のほうへ曲がりくねって続いている、草深い細道のあるところまで歩いて来ていた。右手にはところどころ丸石のみえる急な丘がそびえているが、むかし花崗岩の石切場のあったところだろう。われわれに面してそばだっている暗い岩肌は、その凹みにシダやイバラを生い茂らせている。向うの高いところには、煙が一条、灰色の羽毛のようにゆれていた。
「この沼地の路をかなり歩くと、メリピット荘につきます」と彼は言った。「僕の妹を紹介させていただきますから、一時間ばかり暇つぶしをして下さいませんか」
サー・ヘンリーのそばにいなければ、とまず考えたのだが、すぐに彼の机の上に山と積まれて取り散らかされた書類や証書を思い出した。そういうものの手伝いはできかねるわけだ。ホームズもまた、はっきりと沼地の隣人たちを調べろといっていたのだから。そこで私はステイプルトンの申し出をうけて、一緒に小路を下っていった。
「素晴らしいですね、この沼地というところは」言いながら、彼はぐるりと見渡した。うねうねと起伏する丘陵はさながら長い緑色のうねり波といったところ。その上に突兀(とっこつ)とそびえる花崗岩は、いかにも空想をそそる、荒海の泡だつ波頭のようだった。
「この沼地には飽きるということがありません。ここにひそむ、驚異にみちた大自然の不思議というものがおわかりですか。広大無辺で、しかも荒涼として、どこまでも神秘的で」
「するとあなたは、よほどここをご存じなんですね」
「いや、ここに来て二年にしかなりません。土地の人は僕のことを新入りだと言ってるんでしょうね。僕らが来たのはあのサー・チャールズがここに居を定められてから間もなくのことですからね。しかし、何しろこういう道楽ですからこの辺一帯はくまなく探(さぐ)り歩きましたよ。だからおそらく、僕よりこの辺の地理に詳しい人間は、そうはいないんじゃありませんかしら」
「そんなにわかりにくいんですか」
「ひどくわかりにくいですよ。たとえば、この広大な平地がずっと北にひろがって、ところどころに奇妙な形の丘陵が突き出ているのを見渡して、何か変わったところにでも気がおつきですか」
「さあ、馬で速駈けでもするにはもってこいの場所のようですね」
「そうお思いでしょう。ところが、これまでに、そんな考えを起こした村人が何人も命を落しているんですよ。あっちこっちに緑色がきわだって鮮やかに見えるところが沢山ありましょう」
「ええ、他のところより地味(ちみ)が肥えているようですね」
ステイプルトンは笑い出した。「あれがいわゆるグリムペンの底なしの大沼というやつですよ」彼は言った。「人間だろうと動物だろうと、まちがって一歩でも踏みこんだら、一巻の終りです。きのうもこの辺の野生の小馬が一頭ぶらりと迷いこむのを見かけましたがね。もちろん戻っちゃ来ません。底なしの沼から首だけ突き出して、かなり長いこともがいていましたが、ついに吸い込まれてしまいましたよ。乾燥してる季節でもここをよぎるのは危険なのに、この頃のように秋の長雨の後じゃ、まったく恐ろしい場所ですよ。しかし私はあのど真ん中まで行きつくことができますし、死なずに帰ってもこられます。やっ、こいつぁどうだ。可哀そうに、また小馬が一頭やられてるじゃありませんか」
何か褐色のものが、緑の[すげ]の草むらにころがってのたうちまわっていた。やがて苦しみもだえる長い首が突っ立ったかと思うと、恐ろしいいななきがあたりにこだました。私は怖ろしさに身の内がぞっと冷たくなってしまったが、ステイプルトンは私よりも強い神経の持ち主であるらしかった。
「やられましたね」彼は言った。「底なし沼の勝ちです。二日で二頭、いや、もっとかもしれません。この辺の小馬は、乾季に行きつけているから、何も知らずに迷いこんで底なし沼の手中に入ってしまうんですよ。ひどいところです。グリムペンの底なし沼というやつはね」
「それをあなたは渡ることができるとおっしゃるんですね」
「そうです。ひとつふたつ、非常に敏捷(びんしょう)な人間なら通れるような道があるんです。私はそれを見つけ出しました」
「どうしてまた、わざわざあんな恐ろしいところに行こうとなさるんです」
「ええ、あっちに丘陵が見えるでしょう。あれは八方を底なし沼にふさがれて、どこからも行けなくなってるんです。長年の間にとりまかれてしまったんですね。ところがあすこに珍しい植物や蝶類が棲息(せいそく)しているんです。もっともあすこまで辿(たど)りつくだけの才覚(さいかく)があればの話ですがね」
「いつか私も運試(うんだめ)しをやってみたいものですよ」
すると彼はびっくりしたような顔つきで私を見つめた。「後生だからそんな考えは止しにして下さい。もしものことでもあったら、私の責任ですからね。とても生きてお帰りになれる見こみなんか無いんですから。私にそれができるのは、あるややっこしい目じるしを知っているからこそなんですよ」
「おや!」思わず私は大きな声を出した。「何です、あれは」
たとえようもなく悲しげな、長く低いうめき声が沼地の上にひびきわたった。いんいんとあたりをはらったその声は、しかも、どこから聞こえてくるのか見当もつかなかった。野太いうなり声にふくれ上がったかと思うと、またもとのものうげな、震えうめく声に沈み込むのだった。ステイプルトンは奇妙な表情を顔にうかべながら私を見た。
「妙なところですよ。この沼地ってえのはね」
「何ですか、いったい」
「土地の人は、バスカーヴィル家の妖犬が[いけにえ]を呼び求める声だとかいっています。一、二度聞いたことがあるんですが、あんなに大きな声じゃありませんでした」
身の毛もよだつのを覚えながら、私はあちこちに青い藺草(いぐさ)の群生した、うねうねと波うつ平原を見わたした。その広大な野原は静まりかえって、ただ背後の岩山で、二、三羽のカラスが声高く鳴きかわすばかりだった。
「いやしくもあなたは教育がおありになる。まさかそんな馬鹿げた言い伝えを真(ま)にうけていらっしゃるわけじゃないでしょう」と私はいった。「いったいあの変な音はなんだとお思いですか」
「沼地というやつは、ときどき妙な音をたてるんです。あれは、泥が陥没するとか、水が噴き出すとか、何かそういった音でしょうね」
「いや、いや、あれは生き物の声でしたよ」
「ええ、あるいはそうかもしれません。あなた、[さんかのごい]という鳥の鳴き声を聞いたことがおありですか」
「さあ、ありませんねえ」
「イギリスには、もうなかなかいない鳥でしてね。絶滅したのも同然なんですが、しかしこの沼地には何が棲んでいるかわからないですからね。さあ、ことによると、さっきの声は、[さんかのごい]の生き残りの声だったかもしれませんねえ」
「とにかくあんなに物すごい、不思議な音は聞いたこともありませんよ」
「たしかにまったく気味の悪いところですからね。あちらの丘の中腹をごらん下さい。あれは何だとお思いです?」
険しい丘の横腹一面に、丸く積んだ灰色の石の輪が散在して、見たところ二十以上はあるようだった。
「何です、羊の囲いですか?」
「ところが、あれは、誇るべきわれわれ祖先の住居なんですよ。この沼地のあたりには先史時代の人間が密集して住んでいたんですが、その後、べつに住みついた人間がいなかったので、彼らの遺物がそっくりそのまま残ったというわけです。あれはつまり、彼らのさしかけ小屋で、屋根だけ朽ちてなくなったんですね。なんなら行って、中をごらんになると、暖炉や寝床まで残っていますよ」
「まるでひとつの町ですね。いつごろ住んでいたんですか」
「新石器時代の人間ですが、何年前かはわかりません」
「何をして暮らしていたんですかね」
「この辺の斜面で放牧をしていたんですね。それに青銅の剣が石の斧にとってかわるようになると、錫(すず)の採掘もやっているんです。ほら、反対側の丘に大きな濠(ほり)が見えるでしょう。あれがその跡です。ええ、ワトスンさん。この沼地はいろいろ変わったものがありますよ。あっ、ちょっと失礼。あれはたしかにキクロピデスだ」
小さな蝿か蛾(が)のようなものが一匹、ふたりの歩いている小道をよぎって飛んでいったのを、ステイプルトンはたちまち猛烈な勢いで駈け出して追いかけた。
虫がまっすぐ、底なし沼のほうへ飛んでゆくので、私は気が気でなかったのだが、この新しい知人ときたら、一瞬も立ち止まるどころか、緑色の捕虫網をふり立てふり立て、草むらから草むらへと跳びうつりながら追いかけるのである。灰色の服といい、ヒョイヒョイと不規則なジグザグを描いて跳びはねる恰好といい、まるで彼自身が大きな蛾(が)のような感じだった。私は立ち止まって、彼の驚くべき追跡ぶりに舌を巻いたり、人食い沼に足をとられはしまいかとはらはらしながら、目であとを追っていた。
と、そのとき、ふと足音がするのに気がついてふりかえると、ひとりの女が、同じ小道の、しかもすぐ傍(かたわ)らまでやって来ていた。その女は一条の煙からそれと知れるメリピット荘の方角から歩いて来たのだが、途中が窪地(くぼち)になっているせいで、そんなに近くなるまで姿が見えなかったものとみえる。
これがあのミス・ステイプルトンであるに違いなかった。沼地一帯に、こんな上品な女は幾人もいるはずがないし、それに、誰かが彼女を美人だといっていたのを私は覚えている。
近づいてくる女は、たしかに美人で、それもひどく変わったタイプの美人だった。それにしても、兄のステイプルトンと比べて、世にこれほど違った兄妹はまたとあり得ないだろう。というのは、ステイプルトンが薄ねずみ色の顔、薄色の髪、灰色の目の持ち主であるのに反し、彼女のほうは、私がイギリスで見かけた、どの浅黒型の女よりも色濃い、すらりとして品のいい背の高い女だったのである。その自信にみちた顔だちはくっきりと美しく、あまりにも整った敏感そうな口もとや、じっと見つめる黒い瞳がなければ、冷淡な感じを与えたかもしれなかった。一点非のうちどころのない肢体(したい)に優雅な服をまとった彼女の姿は、さながらこの寂寞(じゃくばく)たる沼地の細道にあらわれた、あやしい幻の女、と言ってよかった。
私がふり向いたとき、彼女は兄のほうを向いていたが、やがて足を速めてこちらに進んで来た。私が帽子をとって、何かこの場の説明をしなければと思っていると、彼女のほうから、まるで不意打ちにこんなことを言い出して、すっかり私をまごつかせた。
「帰って下さい! まっすぐロンドンに帰って下さい。すぐに」
私はあいた口もふさがらずに、彼女をみつめているばかりだった。いっぱいに見開いた目を私に向けて、彼女は歯痒(はがゆ)そうにトントンと地面をけるのだった。
「どうして帰れとおっしゃるんですか」私は訊いた。
「説明はできないんです」低い、胸に迫った声で彼女は答えた。発音に妙に舌足らずなところがあった。
「お願いです。黙ってわたしの言う通りになさって下さい。そして二度とこの沼地に近寄らないで下さい」
「しかし着いたばかりなんですがね」
「ああ困るわ。あなたのために申し上げていることがおわかりになって頂けませんの? ロンドンにお帰りになって! 今夜すぐお発ちになって下さい。どんなことがあってもここをお離れになって。しっ、兄が参りますわ。いまのこと、絶対に内緒にしておいて下さいね。あちらの[とくさ]の間に生えている藺(い)をとって下さいません? この辺の自然をご見物でしたら、大方時期をはずれてしまいましたけれど、でも藺だけは沢山生えておりますの」
ステイプルトンは虫をあきらめて戻って来た。大活躍で顔は真赤になり、息をきらしていた。
「なんだ、ベリルじゃないか」妹を迎える言葉としては、いささか素気(そっけ)ない調子に思えた。
「あら、ジャックったら、真赤よ」
「うん、キクロピデスを追っかけていたんだ。なかなかいない虫でね。ことに晩秋に飛んでいるなんて、滅多にないことなんだ。逃したとは残念無念」
さりげない口ぶりだったが、薄色の小さい彼の目は、たえず私と彼女の間をちらちらと往来していた。
「自己紹介はもう済んだらしいね」
「ええ、わたし、サー・ヘンリーにこの辺の自然をご見物だったら、もう時期はずれだと申し上げていたところなの」
「おいおい、この方をどなただと思っているんだ」
「あら、サー・ヘンリー・バスカーヴィルでしょう」
「とんでもない」私がいった。「ただの平民ですよ。彼の知り合いには違いないんですが、私は医者でワトスンという者です」
困り果てたように、彼女はその表情豊かな顔を赤らめた。「わたしたち、まるで見当はずれの話をしていましたのね」
「おや、そんなにいろいろ話をする暇があったのかい」ステイプルトンは依然としてけげんそうな目つきをして彼女に言った。
「わたし、何も知らずに、ワトスン先生を、ずっとこちらにいらっしゃるお方のつもりでお話ししてましたの。藺の見物には早いとか、遅いとかそんなことまるで関係がありませんわね。でも、あたしたちのメリピット荘においで下さいません?」
歩いても、すぐのところだった。ものさびしい荒野の一軒家で、かつて栄えた頃には牛飼いか、誰かが住んでいたのを手に入れて、現代ふうの住宅になおしたものである。ぐるりは果樹園だが、果樹はみな、この沼地の他の樹木と同じことで、いじけて痛んでしまっていた。いかにもむさくるしい、重く沈んだ感じの屋敷だった。
一同が着くと、出て来たのはちびた服を着た奇妙な感じの、しなびた年寄りの下男で、彼が家事いっさいを受け持っているらしかった。
が、中に入ってみると、大きな部屋がいくつもあって、それもどうやらミス・ステイプルトンの好みで選んだに違いない、品の良い家具が置いてあった。窓から見ると、はるかの地平線まで、花崗岩のまだらにむき出した荒地がうねうねと果てもなく続いていた。
私はこの教養高い男と、その美しい妹が、どうしてこんなところに住みつくことになったのか、不思議でならなかった。
「変わったところに住んだものですよ、まったく」私の胸中を察したかのようにステイプルトンが言った。「それでも、どうやらこうやら、結構たのしくしていますよ。ねえベリル」
「しあわせだわ」彼女は答えたものの、なぜか確信のない声だった。
「私はもと学校を経営してたんですよ」ステイプルトンは言った。「ずっと北部のほうですが。どうも私みたいな気性には向かないらしくて、やることが千篇一律でちっとも興味がわきませんでしたが、ただ若い人たちの中で過ごして、彼らの精神の育成にたずさわり、自覚をもたらし、理想を吹きこんでやるという特権は、かけがえのないものでした。ところが思わぬ不運に見舞われました。校内にひどい流行病が発生して、生徒がふたりも死んだのです。学校はそれっきり打撃から立ち直ることができず、そのとき注ぎこんだ多くの私財も、取り返しがつきませんでした。それでも、可愛い生徒とのつながりが絶ち切られた悲しみを除いたら、自分の不運もかえって喜ばしいほどだったとさえ言えましょう。というのは、植物学と動物学に強い興味を抱いていた私は、この土地に無限の仕事場を見つけましたし、妹も自然を熱愛することにかけては、私にひけをとらないからです。ワトスンさん、今この窓から沼地をごらんになったお顔を拝見しますと、どうやら、こうしたことがよくおわかりいただけたようですね」
「実はふと思ったのですが、いくらか退屈なところもおありでしょうね……あなたはべつとしても、お妹さんが」
「あら、決して退屈なんかしておりませんわ」彼女は慌てて答えた。
「私たちには本がありますし、研究もあるし、それに近所に面白い方々がおいでですからね。モーティマー君は医者なりにたいへん学問がおありです。お気の毒なサー・チャールズも素晴らしい人でした。あの方はよく存じておりましたので、あれ以来、言葉に尽くせないほど寂しい思いをしています。今日は午後からサー・ヘンリーにお目にかかりに出かけたいものですが、お邪魔になるでしょうか」
「いいえ、きっと喜んでお迎えになるでしょう」
「それじゃ、私がそう言っていたとお伝え願えませんか。あの方がこの新しい環境に慣れられるまで、及ばずながら何かとお役に立ちたいと思いますから。ワトスンさん、二階においで下さいませんか。鱗翅(りんし)昆虫の蒐集が沢山ありますよ。これぐらい完全なコレクションは、イギリス西南部では他にないと思います。全部ごらんいただいた頃には、食事の仕度もできておりましょうから」
だが、私は早く帰りたくてならなかった。サー・ヘンリー護衛(ごえい)の仕事が待っているのだ。沼地の憂鬱、不運な小馬の最期、バスカーヴィル家にまつわる陰惨な伝説とつながりのある不気味な吠え声……そうしたものが、私の気持をすっかり重くしてしまっていた。多少ともこんな不明瞭な印象を抱いているところへ、ミス・ステイプルトンの、いやにはっきりとした警告である。あの強い真剣な調子からしても、何か重大な、深いわけが裏にひそんでいることは疑いの余地がないのだ。せめて昼食までいてくれと、しきりにとめるのをふり切るようにして、私はすぐ帰途につき、もと来た草原の小道をとって返した。
ところが、地理に詳しい人には、どこかに近道があったらしい。街道まで行きつかないところで、驚いたことにミス・ステイプルトンが、道端の岩に腰をおろして待ちかまえているのが見えた。急いだらしく、その紅潮した顔は美しかった。そして、片手を横腹にあてていた。
「ワトスン先生、途中でおひき止めしようと思って、わたしずっと駈けて来ましたの。帽子をかぶるひまもなかったんです。居なくなったのが兄に感づかれますから、こうして長くはいられません。わたくし、先ほどは先生をサー・ヘンリーだとばっかり思い込んで、うっかりあんな間違いをしたそのお託びを申し上げたかったんです。どうぞ、あのとき申し上げたことはお忘れになって。先生には何のかかわり合いもないことなんですの」
「しかし忘れろとおっしゃっても、ベリルさん、私はサー・ヘンリーの友人なんです。彼の身の上は私にとっても重大問題ですよ。わけを教えて下さい。あのときは、サー・ヘンリーがぜひとも口ンドンに帰るべきだといって、あんなに熱心に話をなさったじゃありませんか」
「女の気まぐれです。だんだんおわかりいただけると思うんですけれど、わたくしときどき自分でも説明のつかないことを言ったり、したりいたしますの」
「いやいや、あなたは声がふるえていましたよ。ただならぬ目つきでしたよ。ベリルさん、お願いだから打ち明けて下さい。ここへやって来たときから、ずっと私のまわりに影がつきまとっているような気がするんです。まるでグリムペンの底なし沼を歩くようです。いたるところに緑色の斑(しま)があって、いつそこに吸い込まれるかわからないのに誰も道案内をしてくれない。さあ、お願いです。あれはどういうおつもりだったんですか。きっとサー・ヘンリーに伝えますから」
一瞬、彼女の顔にためらいの色が浮かんだが、ふたたびこわばった表情にかえった。
「思いすごしていらっしゃるんですわ。サー・チャールズがお亡くなりになったとき、兄もあたくしもひどいショックをうけたんですの。あの方は沼地をこえて私どもの家までいつも散歩にいらっしゃいましたから、よく存じ上げておりました。お家に代々かけられた呪いをずいぶん深刻にお考えになっていらっしゃいました。それで事件が起きたと知ったとき、わたくしは当然のように、あの方のご心配には根拠があったんだわ、と思いましたの。ですから、またご親族の方がお住みになるとうかがいますと、つい心が痛んで、きっとまた危険な目にお遭いになるのをお知らせしなくちゃ、と思ったんです。さっき申し上げようとしたのは、それだけのことですの」
「危険って何ですか」
「地獄犬のこと、ご存じでいらっしゃいますでしょう?」
「あんな馬鹿げた話が信じられますか」
「わたくしは信じますわ。サー・ヘンリーが先生のおっしゃることをお聞きになるんでしたら、ご先祖に次々と災難のふりかかったこの土地を、ぜひ離れるようにおっしゃって下さい。世界は広うございます。なぜよりによって、こんな危険な場所にお住まいになるんですの」
「危険な場所だからこそでしょうね。そういう性質の方ですよ。あなたがもっとはっきりしたことを教えて下さらない限り、サー・ヘンリーは動いてくれそうもありませんね」
「はっきりしたことなんて申し上げられません。はっきりしたことは何も存じておりませんもの」
「ベリルさん、じゃあ、もうひとつだけ聞かせて下さい。あのとき、ああお言いだったのが、それだけのことでしかなかったのなら、なぜお兄さんに黙っていてくれとおっしゃるのです。お兄さんに知れようが誰に知れようが、何とも言われるはずがないじゃありませんか」
「兄はとても、どなたかがお屋敷に住んでほしいと願っておりますの。それが沼地一帯の気の毒な人たちのためだと言うんです。サー・ヘンリーにお帰りになるように申し上げたと知ったら、兄はどんなに腹をたてるでしょう。でもわたしはこれで責任を果しましたわ。もう申し上げることもございません。帰らせていただきます。兄がわたしのいないのを知って、先生にまたお会いしたことを感づくかもしれませんから。ではこれで」
彼女はふり向くと、やがて大石のころがる荒地のかげに消えてしまった。私は漠とした不安に心を奪われながら、バスカーヴィル邸への道をたどって行った。
ここから先、事件の成りゆきをたどるには、この目の前の机にひろげてある、私からシャーロック・ホームズにあてた手紙をそっくり書き写してお話ししたいと思う。一枚は紛失しているが、ほかはそっくり書いたときのまま保存されているし、当時の私の気持や疑惑を、記憶にまかせて述べるよりも正確に語ってくれると思うし、この悲劇を、ありのままに伝えるには好都合である。
十月十三日 バスカーヴィル邸にて
親愛なるホームズ君……
これまでの手紙や電報で、この神に見捨てられた世界の片隅に起こった最近の事情がよくおわかりになったことと思う。ここに長く滞在すればするほど、気分はうっとうしくなり、茫漠(ぼうばく)とした沼地の妖気、そのうす気味のわるい一種の魅力にひきつけられてしまいそうだ。ひとたびこの地に足を入れれば、近代英国なるものはその姿を消し、それにかわって、いたるところ、有史以前の人類の住居跡や遺物ばかりだ。これは来てみなければわからない。ちょっと歩けば、この忘れられた原始人の住まいや、墓や、彼らの寺院を示すものと考えられている一本柱にぶつかる。傷つけられたような掘り跡のある丘の、中腹にある灰色の石室(いしむろ)を見あげると、ときの観念は喪失してしまう。もしその低い入口から、毛皮をつけた毛むくじゃらの男が、燧石(すいせき)の矢尻をつけた矢を半弓につがえて這(は)い出してきたら、そのほうが自分の姿よりも、ここの自然にぴったりしている、といった感じだ。
ただ不思議に思うのは、昔はもっと不毛の土地であったと考えられる場所に、かなり密集して住んでいた形跡があることだ。僕は考古学者ではないが、想像されることは、闘争を好まぬ弱い種族が、他の種族に圧迫されて、誰も住もうとせぬこの土地を永住の地としたのだろう。
だが、こんなことは君に申しつかった僕の使命とは関係ないことだし、またおそらく君の厳格な実際的精神から見れば、興味を喚起するに値いしないものだろう。君が以前、太陽が地球の周囲をまわっていようが、地球が太陽の周囲をまわっていようが、いずれにせよ、そんなことはどうでもいいと言ったことを僕はいまだによくおほえている。それゆえ、このへんでサー・ヘンリー・バスカーヴィルに関係のある事実を報告するとしよう。
この二、三日報告を書かなかったのは、特筆すべきことが何も起こらなかったからだ。ところで、驚くべき事件が突発した。それを順序を追って報告しようと思うが、まずその前に目下の状況の、いくつか他の要点を知ってもらわねばならない。
そのひとつは、今まで知らせなかったが、脱獄囚がこの沼地に逃げこんだということだ。しかし彼が他所(よそ)へ去ったと信じられる有力な理由がある。それでこの地方の人々は、かなりほっとしているところだ。脱獄して以来まる二週間もたつというのに、その影すら見せず、杳(よう)としてその消息がわからなかった。その間じゅう、ずっと沼池に身をひそめていたとはとても考えられない。もちろん、潜伏することにかけては、脱獄囚だからぬかりはあるまい。それに多くの石室が隠れ家(が)を提供している。しかし、食べものといえば、この沼地にすむ野生の羊でも捕まえて殺さない以上、あるはずはないのだ。だから、彼はどこかへ逃げたと考えるほかはない。あたりの農夫はおかげで枕を高くしてねむれるというものだ。
この屋敷には、僕たち四人の頑強な男どもがいるから、自分たちのことはまず安心だが、ステイプルトン一家のことを考えると、不安な気持にかられる。あの兄妹が住んでいるところは、まさかのときに助けを求めようとしても数マイルも行かねばならない。女中に老下僕、そしてあの兄妹、その兄のほうも体力の優った男とは言いかねる。この脱走中のノッティング・ヒルの犯人のような、やけっぱちなやつにでも押し入られて、その手にかかれば、それこそ万事休すだ。このサー・ヘンリーーも彼らの状況には気がかりで、馬丁のパーキンズに夜だけでも泊まらせてはとすすめたが、ステイプルトンはそれを聞き入れなかった。
わが友サー・ヘンリー准男爵は、この美わしき隣人に対して少なからぬ関心を示し始めているというのも事実だ。彼のような活動的な青年が、この物さびしい場所でうつうつと時を過ごさねばならないのだから、無理もないことと思われる。それに相手は非常に魅力のある美しい女性なのだ。彼女のどこか南国的なイギリス人ばなれのした風情(ふぜい)は、兄のほうの冷静で感情を表面に出さない性格とは不思議なコントラストを示している。もっとも、兄のほうも人知れぬ情念を胸にひそめていないとは言えないがね。
たしかに彼は妹に対して、おやと思うほどの影響力を持っている。話しているときでも、まるで自分の話の内容を兄に許可を得ねばといったふうに、ちらりちらりと絶えず兄のほうに視線をはしらせているのに気がついているのだ。兄のほうも妹にはやさしくしているようだ。しかし彼の目には冷淡な光りがあり、薄い唇はかたくひきしめられ、それが何か強制的とも言える、どこか冷酷な印象を与えている。君には、おもしろい研究材料になる男だよ。
彼は、僕たちが到着したその日にバスカーヴィル邸を訪れている。そしてそのあくる日の朝、あの無頼(ぶらい)のヒューゴー・バスカーヴィル伝説の発祥地と思われるところへふたりをつれていってくれた。その場所へは沼池を横切って数マイル歩かねばならなかったが、ひどく気味の悪いところで、いかにもそんな話のおこりそうな様子だった。峨々(がが)たる岩山に挟まれて、狭い谷間をいくと、綿の木が点々とその白い実を結んでいる草地がひらけ、その中央には、ふたつの大きな岩がつっ立っていた。その尖端が風雨に痛んで鋭くとがり、何か巨大な怪獣の、腐蝕(ふしょく)した大きな牙のようにも見えた。どうみても、あの古い伝説にふさわしい場所だ。
サー・ヘンリーはひどく興味をそそられ、ステイプルトンに一度ならず、人間世界にあの話にあるような超自然なことが介入することがあり得ると、真実、信じているかどうかと質問していた。彼はさり気なく訊いていたが、大まじめであることは明らかだった。ステイプルトンは警戒して多くを語らなかったが、これはサー・ヘンリーの心中を察して、自分の意見を述べつくそうとは思わなかったからだろう。しかし、同じような実例を話してくれた。つまりどこそこの家筋にはこういう崇(たた)りがあって家族は苦しんだものだ、といったようなことだ。彼も、この迷信を信じることにかけては一般と変わらない印象を受けた。
帰途、僕たちはメリピット荘に立ちよって昼食のご馳走になったが、ここでサー・ヘンリーはステイプルトンの妹と近づきになったのだ。ひと目みたときから強く彼女にひきつけられたらしいが、彼女のほうでもにくからず思ったと断言しても間違いないと思う。それからバスカーヴィル邸へ帰る途中、サー・ヘンリーは幾度も彼女のことを口にしたが、以来この兄妹となにかと関わりを持たぬ日はほとんどないことになった。ふたりは今夜はバスカーヴィル邸で食事をしたが、来週はこちらから先方へ出むく話が出ている。
サー・ヘンリーとミス・ベリルとの組み合わせを、兄のステイプルトンは喜ぶはずなのに、サー・ヘンリーが彼女に気をよせると、兄のほうはひどく気に入らないような顔をするのを僕はたびたび見た。疑いもなく、彼は妹に深い愛着がある。彼女を失っては、その先は孤独な生活があるばかりだ。もし彼が妹の輝かしい結婚の邪魔をしようとするなら、それはあまり利己的すぎるというものだ。
しかし、たしかに、この男はふたりの仲が恋愛にすすむのを望んでいない。現に僕は、あのふたりが差しむかいで話をする機会をステイプルトンが故意にさえぎっているのを何度となく見ている。ついでに言っておくが、そうでなくとも困難なのに、このロマンスがつけ加えられると、サー・ヘンリーのそばを一刻も離れるなという君の言いつけは、ますます僕には重荷が増すことになってくる。それを押しとおすと、僕はとんだ不粋者(ぶすいもの)ということになりかねない。
先日……正確に言えば木曜日だが……モーティマー医師が昼食に加わった。彼は最近ロング・ダウンの古墳を発掘中であるということだが、有史前の人類の頭蓋骨を掘りあてて、有頂天に喜んでいた。こんなに純真に、ものにうちこむ人は、ほかにあるまい。そのあとへ、ステイプルトン兄妹がやってきたので、この善良なる医師は、サー・ヘンリーから請われるままに、みんなを[いちい]並木へ案内して、あの運命の夜に起こった出来事の一切をくわしく説明してくれた。
その並木道は、刈りこまれた[いちい]の生け垣にはさまれ、両側に細長い芝生をもった、長い陰気なところだった。ずっと先きの行き当りには古い荒廃した亭(あずまや)がある。途中、中ほどに沼地へ出られる小さな門があり、サー・チャールズが葉巻の灰を落していた場所だ。白木づくりの門で、挿錠(さしじょう)がついている。
そのむこうに一面の沼地が横たわっている。僕は君の事件に当っての推理を思い出し、事の状況をいろいろ想像してみた。
あの老人がそこに立っていたとき、何ものかが沼地を横切って来るのが見えた。彼はそれに驚き、無我夢中で、ひた走りに走ったあげく、はげしい恐怖と極度の疲労のために息をひきとったのだ。そこには長い無気味な[いちい]のトンネルしかなかったが、彼はそこを飛ぶように逃げた。いったい何から逃げたのか?沼地の羊の番犬か? それともくろい、黙々とした、巨大なあの妖犬からか? この件には、人間の力が作用しているのだろうか? 青白い油断のないバリモアが、知っていながら、まだ口外しないことがあるのではないか? まるで、おぼろで、とらえどころのない謎だが、しかし背後には常に犯罪の暗い影が動いているのだ。
前便のあと、僕は新しい隣人に会った。ラフター邸のフランクランド氏と言って、バスカーヴィル邸の四マイルほどのところに住んでいる。老人で、赤ら顔、白髪で、かんしゃく持ちだ。法律きちがいで、かなりの財産を訴訟につぎこんで消費してしまった。
彼はただ争いを楽しむために争うと言った男で、論争のどちらの味方にでもなりかねない。つまり、これは金のかかる道楽というわけだ。ときには私有地の一般通行権を停止して、教区の住民が通してくれと頼んでも受けつけようとしなかったとか。そればかりではない。他人の家の門を自分の手で打ちこわしておきながら、そこは昔から通路のあったところだ主張して、その家の主人が家宅侵入だと訴え出ても、ひっこまなかったそうだ。
古い荘園領主や地方自治体の権利といったものをよく知っているから、それが自分のいるファンワーシー村の住人のために役立つこともあるが、ときにはその反対になることもあり、だからそのやり方次第によっては、意気揚々と村人にかこまれて村道を歩くときもあれば、その似すがたが焼かれたりするほど憎まれることもある。彼は現在七件ばかりの訴訟に関係しているそうだが、おそらく彼の財産をことごとく呑みつくしてしまうだろう。そうなればその毒針をぬかれて、これからは他人に迷惑をかけるようなこともなくなるだろう。
法律のことをさて置くならば、彼はまことに親切な気のいい人物らしい。周囲の人間のことも書き送れという君の厳命だから、報告しておく。彼は目下、奇妙なことをやっている。というのは、この男は素人天文学者なので、すばらしい望遠鏡を持っているが、それをもって自分の家の屋根に横になり、脱走犯人の姿を見つけるつもりで、終日、隅から隅まで沼地をのぞきこんでいる。それだけならよかったのだが、モーティマー医師が無断で墓をあばいたことを見つけて、彼を告訴するつもりだという噂がある。モーティマー君がロング・ダウンの古墳から先史時代の頭蓋骨を掘り出したからである。この男は僕たちの生活を単調さから守り、何よりも必要な、ちょっとした喜劇的な慰めを与えてくれるので大助かりだ。
さて、脱獄囚、ステイプルトン兄妹、モーティマー医師、ラフター邸のフランクランド老についての、これまでの状況を報告したわけだが、さらにバリモア夫婦について、とくに昨夜の驚くべき進展について報告したい。
まず、バリモアが実際に当地にいたかどうかを確かめるため、君がロンドンから発信した調査電報のことだ。すでに説明しておいたように、郵便局長の証言によって、試験はまったく失敗で、彼が屋敷にいたかどうかを決定する証拠にはならない。このことはサー・ヘンリーにも事情を話した。彼は持ち前の率直さで、バリモアをよびよせて、電報を直接自分で受けとったかどうかとたずねた。バリモアは自分が受けとったと言った。
「あの少年が直接、手渡したのかい?」サー・ヘンリーがきいた。
バリモアは驚いた様子で、ちょっと考えた。
「いいえ、あのときわたしは納屋におりましたので、家内が私のところへもって参りました」
「返事は自分で書いたかい?」
「いいえ。返電の文を教えて、家内がそれを書きに下へおりました」
夕方になって、今度は彼のほうから、この話をむしかえした。「サー・ヘンリーさま、今朝ほど、なぜあんなことをおっしゃったのか、とんと合点がまいりません。あなたのご信頼を失うようなことを仕出かしたというのではござりますまいね」
サー・ヘンリーはそんなわけでないと納得させたうえ、古びた衣裳箪笥の中の大部分の衣裳を与えて、バリモアをなだめなければならなかった。ロンドンで整えた旅荷が、いまやっと着いたばかりだった。
バリモアの細君も僕には興味がある。鈍重で、がっしりした女で、ごく小心だけど、ひどく真面目で、清教徒的と言ってもいいくらいだ。しかし、こんなに感情に動じない女は君だって考えられない。それでいて、すでに報告にも書いたが、ここに到着したその夜、この女が身も世もあらず、すすり泣きをしているのを聞いた。そしてその後も、その顔に涙のあとがあるのを見たのは一再(いっさい)ならずだ。何か深い悲しみが絶えず彼女の心をさいなんでいるのだ。ときに、犯した罪の記憶に苦しんでいるのだろうかと思い、それともバリモアは家庭では暴君なのかともいぶかるときもある。僕はいつも、このバリモアという男の性格に何かおかしい、腑(ふ)に落ちないところがあるのを感じるが、昨夜の不思議な事件が、ますます一切の疑惑を深めてくる。
といっても、このこと自体はささいなことかもしれない。君も知ってのとおり、僕はあまり熟睡できるほうではないが、この家で護衛の役目を引き受けてからというもの、いよいよその眠りが浅くなっている。昨夜、午前二時頃のことだが、僕の部屋の前を何者かが足音をしのばせて通る気配に目をさました。起きてドアをあけ、そっとのぞいてみると、長い黒い影が廊下にはしっている。ローソクを手にして、そろりそろりと廊下を歩み去る男の影だった。シャツとズボンだけの姿で、素足だった。その姿の輪郭だけしか見えなかったが、背の高さからバリモアであることがわかった。そろりそろりと、用心深く歩いていて、その姿には、何かよからぬ犯罪か秘めごとがひそんでいた。
さきに述べたように、この廊下の果てはバルコニーになっていて、それが広間をぐるりとめぐっているが、向う側でまた廊下につづいている。僕は彼の姿が見えなくなるのを待って、後をつけた。バルコニーのところまできてみると、彼はすでに向う側の廊下の端までいっていて、開いたドアから洩れてくる光りのきらめきで、彼が部屋のひとつに入りこんでいるのが分かった。ところが、たくさんあるこれらの部屋は、家具を入れてなければ、使ってもいない。してみると、ここへやってくるのはいよいよ怪しいことになる。光りが揺れなくなり、彼は身動きもせずに立ちつくしているみたいだった。僕はできるだけ足音をしのばせて通路に忍びより、ドアの隅からそっとのぞいてみた。
バリモアは窓のところに身をかがめて、手にしたローソクを窓ガラスにかざしていた。横顔はなかばこちらに向けられていたが、その表情はなにかの期待にこわばって、沼地の暗闇を凝視しているようすだった。しばらく彼はじっと瞳をこらして立っていたが、やがて深い呻(うめ)きをもらすと、やりきれないといった仕草(しぐさ)でローソクの火を吹き消した。
すぐさま僕は自分の部屋にとって返したが、それに続いてバリモアがもういちど足音をしのばせて、引っ返していくのが聞こえた。
それからかなりたって、うつらうつらしていると、どこかで鍵のかかる音がしたが、その音がどこから聞こえたのかはわからなかった。
こうしたことの一切がいったい何を意味するのか、想像もできないが、この陰気な屋敷内で何かがひそかに行なわれているのだ。これは、いずれ僕たちが、とことんまで突きとめることになろう。僕の臆測などで君を困らせるようなことはすまい。君はただ事実だけを伝えるように頼んでいるのだからね。
今朝、サー・ヘンリーとなが話をした。そして昨夜の僕の見たことに基いて、ひとつの作戦計画をたてた。今はそれについて述べるのは控えておこう。
しかしこの計画では、次の僕の報告を面白く読んでもらえることになるだろう。
沼地の灯
十月十五日 バスカーヴィル邸にて
親愛なるホームズ君。
わが使命のはじめのうちは大したニュースもなくて、やむなく君を置き去りにした恰好になったけれど、僕がおくれた時間をとり戻している最中なこと、今や事件もいろいろと雲集(うんしゅう)して、われわれにのしかかっていることを認めてもらわねばならぬ。この前の手紙では、バリモアの窓の事件という肝心な点で筆を置いたが、今日は大なる錯誤でなければ、ちょっとばかり君を驚かすような書信をお目にかけるわけだ。事件はまったく僕の予期しないほうに向いて行ったのだ。ある点ではこの四十八時間以内に、ますます明瞭になったけれど、またある点では、ますます複雑になっている。でも僕は一切を報告するつもりだから、後は君自身で判断するがよかろう。
バリモアの後をつけた日の翌朝、食事の前に、僕は廊下を通って前夜バリモアのいた部屋を調べてみた。彼は西側の窓から一心にのぞきこんでいたのだが、そこにはこの屋敷の他の窓では見られぬひとつの特徴があるのに気がついた。……そこからは沼地のほうへの眺望を、意のままに、どこよりも一番近く見おろすことができるのだ。そこからだと、うまい具合いに木と木の間から真っすぐ見おろせるが、他の窓からだと、遠くにしか見られない。この窓だけがバリモアの目的にかなうものとすれば、彼は沼地に、何物か、あるいは何人(なにびと)かが来るのを待ち受けていたにちがいない。
その夜はひどく暗かったので、彼のほうから何かを見ようとしたとは、まず想像できない。とっさに何か情事の秘め事でもやるのだろうと考えついたものだ。彼が忍び足で歩いて行ったことや、細君の不安な様子などを思い合わすと、どうもそうらしい。それに、あの男は田舎娘の気持につけこむくらいの容貌を備えているので、この説は大いにあり得るわけなのだ。僕が部屋へ帰った後で聞こえたドアの音は、その内証の約束を果たすために出ていったということになるかもしれない。
朝食前にはこのように理論づけてみたので、そのまま書いておいたが、後になってみると、この理論にはなんの根拠もないことがはっきりしてしまった。だが、バリモアの忍び歩きの真の解釈がどのようなものであろうとも、この件を、自分の心にだけ留めて、説明のできる日を待つのは堪えがたいことだった。
そこで、朝食後、サー・ヘンリーを書斎にたずねて、自分の見たことをすっかり話した。彼は期待したほどには驚かなかった。
「バリモアが晩になると歩きまわるのは知っていたのです。そのことで注意しようと思っていました。二、三度、ちょうどあなたのおっしゃる時刻に廊下を往き来する足音を聞きました」
「それじゃ、毎晩あのおきまりの窓のところへ行くのでしょうね」
「たぶんそうでしょうね。とすれば、後をつけて、バリモアが何をねらっているのか見とどけることができると思いますね。ご親友のホームズ先生がここにおられたなら、こんな場合どうされるでしょうかね」
「あなたの今おっしゃったとおりのことをすると思いますよ。バリモアの後をつけて、何をするか見るでしょうね」
「ではわれわれもふたりでやってみましょう」
「でも、きっと気づかれますよ」
「あの男はいくらか耳が遠いんです。ともかく一(いち)か八(ばち)かやって見ることですよ。今晩は私の部屋で起きていらして、あれが通り過ぎるまで待っていましょう」
サー・ヘンリーは嬉しげに両手をもんだ。こうした冒険は、荒野でのいくらか物さびしい生活にとっては、明らかにひとつの慰めとして歓迎されるものだった。
サー・ヘンリーは、先代サー・チャールズの時代に種々の設計を依頼した建築業者やロンドンから来た請負業者と交渉をしていたので、この屋敷も間もなく面目を一新するだろうと思う。プリマス市から室内装飾師や家具屋も来ている。サー・ヘンリーには大きな計画があって、家系の威厳を回復するためなら、どんな費用も労力も惜しまない気持でいることは明らかだ。家が修繕され、新しい調度も備えられてみると、後は妻を迎えれば、彼に必要なものはみな揃うことになる。
二人だけの話だが、あの女性がその気になれば、なに不足なくなるきざしは、しごくはっきりしているのだ。サー・ヘンリーが、あのお隣りの美しいミス・ステイプルトンへの惚れこみようといったら、今まで女に夢中になったどの男にも見たこともないくらいだからね。だが実際のところ、この恋愛は見かけに反して、どうも期待どおりにはうまく行っていない。たとえば今日だが、まったく意外な波紋にかき乱され、彼はえらく当惑懊悩(おうのう)してしまったのだ。
あのバリモアのことでかわした要談のあと、サー・ヘンリーは帽子を被(かぶ)って、出かける用意をしていた。僕も当然のこととして同じく用意した。
「おや、ワトスン先生。あなたもいらっしゃるんですか」けげんそうに僕を見ながら、彼がきいた。
「あなたが沼地のほうへいらっしゃるのでしたらね」
「ええ、そこへ行くんですが」
「私の受けた訓令をご存じでしょう。立ち入ったことをするのは恐縮ですが、ホームズがあれほど、しきりに、あなたの側を離れちゃいけない、とくにあなたひとりで沼地に出さしちゃいけない、と言ったのを聞いていらっしゃいますね」
サー・ヘンリーは僕の肩に手を置いて、微笑を浮かべた。
「ワトスン先生。ホームズさんがどんな知恵を持っていらしても、僕が沼地へ来てからどんなことが起こったか、予見できるものじゃありませんでしたね。解っていただけますか。あなたはまさか人の興を殺(そ)ぐようなことはいたしますまい。私ひとりで出かけます」
僕はえらく厄介な立場に立ってしまった。どう言っていいのか、どうすればいいのか、途方にくれたが、心の決まらぬうちに、彼はステッキを取って出かけてしまった。しかし、よくよく考えて見れば、どんな口実があるにせよ、サー・ヘンリーを僕の目の届かぬところに置くのは良心が許さぬ。もし君の訓令を無視したために何か不幸が起きたら、どんな気持で報告しなければならないかと思ってみた。正直言って、考えただけで頬に血がのぼった。今から行けば、追いつくのにおそくはあるまい。僕はただちにメリピット荘へ向って出発した。
僕はできる限り足を早めて駈けて行ったが、サー・ヘンリーの姿は見かけなかった。とうとう沼地の小路が分岐しているところまで来た。そこで道を誤ったのではないかと思って、あたりが一望のもとに収められる丘……今は切られて肌黒い石山になっている同じ丘の上に登った。そこからすぐに彼を見てとった。彼は四分の一マイルばかり先の沼地の小道を歩いていた。その側に女性がいたが、どうやらミス・ステイプルトンに間違いあるまい。ふたりの間にはすでに了解がついていて、前もって約束して会ったことは明らかである。ふたりはゆっくりと歩いていて、何事か熱心に話し合っているふうであった。彼女の話しぶりには非常に真剣味があるようで、両手を早く小きざみに振っていた。一方サー・ヘンリーは熱心に聞き入り、一、二度頭を振って、強く異議を唱えていた。
僕は岩の間に立って見ていたのだが、次にはどうすべきか、ひどく迷った。後を追いかけて、あの親密な語らいを破るのは無法であろう。かと言って、彼の姿を一瞬たりとも見失ってはならないのは、明らかに僕の務めでもあるわけだ。友人に対してスパイ行為をするのはいかにも忌々(いまいま)しかった。しかし丘の上から見張っているほかに何の方策も立たない。せめて後で自分のしたことを告白して、身のあかしを立てるより仕方がない。まったく、彼の身に何か危険がふりかかっても、僕は少し離れているので役に立つとは思わないが、その立場のむずかしさ、取るべき手段のほかにないことは君も同意してくれると思う。
ふたりは小道に立ちどまって、話に夢中になっていたが、ふとそのとき、ふたりを見ているのは僕だけではないのに気がついた。何か青いものがひらひら目についたが、よく見ると崩れた地面の間に動いている男が棒につけているものだと分かった。捕虫網を持った兄ステイプルトンなのだ。彼は僕よりもずっとふたりのほうへ近い。それにそのほうへ進んで行くようだ。
このとき、突然サー・ヘンリーは女を自分のほうへ引き寄せて、腕をまわした。だが彼女は顔をそらして引き放そうとしているようだった。彼が顔を彼女のほうへ屈めると、彼女は片手をあげて拒んだ。次の瞬間ふたりはぱっと離れて、急いで向きをかえるのが見えた。ステイプルトンが邪魔に入ったのだ。彼はあの馬鹿げた捕虫網を後ろにぶら下げて、ふたりのほうへがむしゃらに走り寄った。手真似で話す身ぶりよろしく、ふたりを目の前に置いて、ほとんど躍り上がらんばかりだった。僕はその場面が何を意味するのか想像もできなかったけれど、ステイプルトンがサー・ヘンリーを罵(ののし)っているらしかった。サー・ヘンリーははじめ弁解をしていたが、それでも相手がふたりの気持を受けつけなかったので、彼もまたひどく立腹したようであった。彼女は横につんとすまして、無言で立っていた。
とうとうステイプルトンは踵(きびす)をかえし、妹を横柄な態度でさし招いた。彼女はサー・ヘンリーのほうへはちょっとためらうような視線を投げたが、そのまま兄について立ち去って行った。あのステイプルトンの怒りようから察すれば、妹にもだいぶ不快の念を抱いているようである。
サー・ヘンリーはしばらく立ったままふたりの後を見送っていたが、やがてもと来た道をゆっくりと引き返した。頭を垂れ、意気消沈(いきしょうちん)の態(てい)である。
こんな場面を見ても、どういうことだか想像もつかないのだが、サー・ヘンリーの目を盗んであんな親密な出会いを見たことには、深く恥じ入っていた。それで僕は丘を降りて、麓(ふもと)のところで彼に会った。彼の顔は憤怒のあまり赤くなり、眉には皺(しわ)を寄せて、どうしてよいか考えもつかぬ人のように思われた。
「おや、ワトスン先生。どこからいらっしゃったのです? まさか僕のあとをつけて来たというのじゃないでしょうね」
僕はいっさいを打ち明けた。自分だけ残っているわけにはいかないと分かったこと、あとをつけて、一切を目撃してしまったこと。一瞬、彼の眼が燃えたが、僕の率直さが彼の悪感情を殺(そ)いだ形となり、ついにはやや口惜(くちお)しげに笑い出した。
「あの草原のまんなかなら、あなたでも内証事をしても安全だと思われたでしょう。ところがいまいましい。ここの人たちは皆が皆、よってたかって私の求婚するところを、見に出てきたみたいだ。それもあんな、情ない口説きぶりをね。ところであなたはどこに腰をすえて見ておられたのです?」
「あの丘の上にいました」
「あのうしろの席ですか。ステイプルトンは前の席にいたのです。あの男が私たちのほうへやって来るのが見えましたか」
「ええ、見えましたよ」
「あの男が、あんな気違いだなぞとお思いでしたか」
「そんな印象は一度も」
「たぶんそうでしょうね。今までは正気な人だと思っていたのです。でも彼か私か、どちらかが精神病院ゆきだと思って下さっていいのです。いったい、私がどうしたというんでしょう。あなたは数週間も私と一緒に暮らして来られた。どうぞ、正直におっしゃって下さい。私が、愛している女性の良い夫となる資格に欠けているものがありますか、どうか」
「そんなことがあるはずはありません」
「僕の社会的地位に不満があるはずはないし、こんな扱いをするのは僕という人間のせいにちがいない。いったい、何が気に入らないのでしょう。今までに私は知り合いの男でも女でも、その心を傷つけたことはありません。でもあの男は彼女の指先にも触れさせまいとするんです」
「そんなことを言ったのですか」
「ええ、もっといろいろ言いましたよ。ねえ、ワトスン先生。私はこの数週間前に彼女と知り合いになったばかりですが、最初からあの人は私のために生まれて来たのだと感じておりました。向こうも私と一緒のときは幸福だったのです。これははっきり申し上げられます。女の目の中には言葉以上に意中を示す輝きがあるものです。でもあの男は一緒にいさせてくれないのです。ただ今日始めてふたりで少しお話しする機会を持ったのです。彼女は私に会えて嬉しそうでした。でも口にするのは愛のささやきなどではなく、私にもできるだけそんな言葉を言わせようとしないふうなのです。彼女は同じ話に戻ってばかり。ここは危険です、ここをお発ちになるまでは幸福になれません、と繰り返すのです。私はあなたとお会いした以上は、そう簡単にはここを離れるつもりはない、僕に本当に出て行って欲しいなら、あなたは僕と一緒に出る用意をするほかはない、と言ったのです。そして結婚してくれと言葉をつくして言ったのですが、その返事が聞かれぬうちに、あの兄が気狂いのような顔つきで走って来たのです。あの男は怒りのあまり真っ青でした。両眼も怒りに燃えていました。私は彼女に何をしたというのでしょう。あの人の嫌がるような素ぶりをしたというのでしょうか。准男爵であるから、自分の好きなことができるなどと思ったことはありません。あの男が彼女の兄でなかったら、答えるすべも、もっと知っていたのですが。兄である以上、その妹によせる気持には恥ずるところのない自分の心境を打ち明け、結婚してもらえれば光栄だと言ったのです。でもそう言ったとて、ことはよくならないようでした。それで私も機嫌を損ねてしまいました。あの人の前では口にすべきでないことまで言ってしまいました。それで最後はご覧になったように、あの人を連れて行ってしまったのです。お恥ずかしいことに、私はどう始末してよいか解らなくなっているのです。ワトスン先生、これはいったいどういうことなのか教えて下さい。そしたらお礼の仕様もないくらい、ご恩に着ます」
僕はひとつふたつ説明を試みてみたが、何せ僕自身も完全に当惑してしまったのだ。サー・ヘンリーの肩書、財産、年齢、性格、容貌、いずれもすべて彼に利があり、あの家族にまつわる暗い運命を除けば、反対すべきものは何もないはずだ。サー・ヘンリーの申し入れが、彼女の希望も聞かずにかくも冷たく拒否されたということ、また当の女性も何ら抗弁もせずに、その立場に甘んじたということは、あきれるばかりである。
しかしその日の午後、ステイプルトン自らがわれわれを訪問して来たので、この臆説は氷解することになった。彼は今朝の非礼をわびにやって来たのだ。そしてサー・ヘンリーと書斎で長いことふたりだけの会見をした。その結果、お互いの[しこり]はまったく癒(い)え、そのしるしに、次の金曜日にメリピット荘で食事をともにすることになった。
「今も、あの男が気狂いでないとは言えません」サー・ヘンリーは言った。「今朝がた、私のところへかけ寄って来たときの、あの眼つきは忘れませんけれど、あんなふうに立派に詫(わ)びをされると、許さないわけにはいきませんね」
「何か言いわけをしましたか」
「妹は自分の生活に、かけがえのないすべてだと言うんです。もっともな話で、妹の価値を理解しているのが、私も嬉しく思いました。あのふたりはいつも一緒に暮らして来たわけで、ステイプルトンの話によると、自分はひどく淋しい人間で、ただ妹だけが伴侶なのだから、彼女を失うことは本当に堪えがたいと言うのです。それに私があの人に思いを寄せているなんて、少しも知らなかったそうでして、本当にそうだと眼(ま)のあたりに見て、妹が自分から離れて行くのではないかと思うと、もういても立ってもいられず、自分で何を言ったか、したかもわからないくらいだったそうです。できてしまったことを大へん後悔していて、妹のような美しい女を一生自分にしばりつけておけるなどと考えることは、まったく愚かで、利己的だと認めていました。あの人をどうせ手放すとなれば、あの男にとっても、ほかの誰よりも私のような隣人のところへ行かせるほうがよいわけです。でもどのみち、手痛い打撃なのですから、いよいよというには、それ相応の心準備に時間もかかりましょう。それで三か月間、このことには触れないで、その間は求愛などはせずに、ただ友情を深めるだけにとどめる、と約束してくれるなら、彼のほうでも反対はしないということで、私は約束してやりました。そこで問題のかたはついたのです」
これでひとつの小さな謎もすっきりしたわけだ。こんなやっかいな沼地では、ことの真相を究明するのは大へんなことなのだ。ステイプルトンが、妹の求婚者にサー・ヘンリーのような、またとなくふさわしい青年を得てさえ、相手に好意を抱き得なかったわけが、こうしてわかったというわけだ。
では今度は、もつれた糸束からたぐり出した、今ひとつの糸、あの夜ごとのすすり泣き、バリモアの細君のあの泣きぬれた顔、それから執事バリモアが夜ごと西側の格子窓にしのび寄る謎を解きほぐしてゆかなければならぬ。でも喜んでくれたまえ、ホームズ君。僕を代理人として送ってくれた君の信頼は裏切らなかったよ。こういったことは一夜で、ものの見事に解決してしまったのだ。
「一夜で」と言ってしまったが、実際はふた晩かかった。第一夜はまったく得るところなく終ってしまったのだからね。僕はサー・ヘンリーの部屋で、一緒に明け方の三時近くまで起きていたのだが、階段の上の時計の音のほかはなんの物音もしなかった。ずいぶんと憂鬱な寝ずの番をやったもので、果てはふたりともいつか椅子に坐ったまま眠りこんでしまった。でも幸いに落胆せず、もう一度やろうと決心したのだ。
翌晩、ランプの光りを弱め、小さな物音も立てずに、煙草をふかしながら坐っていた。時間がこんなにのろくよどむように流れてゆくとは信じられないくらいだった。でもその間、われわれを救ってくれたのは、さまよう獲物がかかる罠(わな)を狩人が見つめているときに感じるにちがいない、あの同じ忍耐強い興味だった。
一時が打った。そして二時が。今度も失望の中にあきらめなければならないのかと思いかけたとたん、ふたりとも椅子に坐ったままとっさに、すっくと背を伸ばして、疲れ果てた神経を今いちど油断なく張りつめたのであった。廊下で軋(きし)るような足音を耳にしたのだ。その足音が、ひどく忍びやかに通り過ぎて、やがて遠くで消えた。そこでサー・ヘンリーは静かにドアを開け、ふたりは追跡にかかった。すでに件(くだん)の男はバルコニーをまわって、廊下は真の暗闇だった。そっと足音をしのばせて、バルコニーに出てみると、頃合いよく、背の高い、黒いあごひげの男が、肩を丸めて、忍び足でその向こうの廊下を渡っているのが見えた。と見るまに、あの前のときと同じドアを開けて入って行くのだ。ローソクの光りが暗闇の中でその姿を浮かし、陰鬱な廊下へ、ほんのひとすじ、黄色い光りを投げかけていた。
僕たちは用心深くそのほうへ小刻みに歩き、板張の上に体の重みをかける前に、音がするかどうか、あらかじめそこを軽く踏んでみたくらいだ。長靴はもう脱ぎ捨ててしまっているが、それでも古い板張だけに、足の裏で、ぴしりときしんだ。ときどき、これはてっきり、つけているのを覚(さと)られたかと思いもした。だが幸いに、男は少し耳が遠かった。彼は自分のしていることにまったく心を奪われていた。とうとうドアのところへ辿(たど)りついて、のぞきこんで見ると、彼は窓辺にうずくまり、ローソクを手に、蒼白の、あの緊張した顔を一枚の窓ガラスに押しつけていた。一昨夜見かけたのと、まったく同じ様子だった。
僕たちはそこへ行ってからどう出るかという計画は、何も取り決めていなかった。だがサー・ヘンリーはいつでも、自然と直接的な行動にでる人である。彼は部屋の中へ入った。すると、バリモアは、はっと鋭い声をあげて窓から飛びのき、顔を真蒼(まっさお)にして、震えながら、僕たちの前につっ立った。その黒ずんだ目を白面の顔にいからせ、サー・ヘンリーから私へと移しながら、恐怖と驚愕(きょうがく)の色を浮かべていた。
「そこで何をしているんだね、バリモア」
「何もしてねえです、旦那さま」興奮のあまり、ほとんど口がきけなかったが、手にしたローソクが震えるので、影が上下にはねていた。「窓が、その、うまくしまってるか、夜分に見てまわりますので」
「二階の窓をかい」
「はい。窓はみんな見ますです」
「これ、バリモア」サー・ヘンリーは厳しく言った。「僕たちはお前から本当のことを聞き出す気でいるんだ。早く言ったほうがお前の手数も省けるというものだ。さあ、嘘を言うな! あの窓で何をしていたんだ」
バリモアは絶望的に僕たちを見て、極度の疑惑と不幸に苦しむ人のように、両手をもみしぼった。
「何も悪いことはしていませんです、旦那さま。ただローソクを窓のところへかざしていただけでございます」
「じゃ、なぜローソクを窓へかざしておったのだ」
「おたずね下さいますな、旦那さま。……どうぞ、そればかりは! ちかってあれは手前の秘密ではございません。でも申し上げるわけには参りません。手前だけのことでございましたら、あなた様におかくしなぞいたしません」
ふとこのとき、あることを思いついて、窓しきいからローソクを取り上げた。バリモアがそこへ置いてあったのだ。
「この男はきっと合図にこれをかかげていたのですよ。合図に答えるものがあるかどうか見てみましょう」
僕はバリモアがやったようにそれをかかげて、夜の暗闇の中をじっと見すえた。月は雲にかくれて見えなかったので、樹木の黒いかたまりや、それより明るい、うっすらとした荒野の広がりが、おぼろげながらに見分けることができた。するとそのとき、僕は歓喜の声をあげた。ピン先ほどのちっちゃな黄色い光りが突然暗夜のヴェールを貫いてきらめき、窓に縁どられた黒い四角の中央で、じっと輝いたからである。
「そら、あそこに!」
「いいえ、先生、なんでも……何でもございません」バリモアが横から口を出した。「誓って、旦那さま」
「ワトスン先生、窓をよぎって光りを振ってごらんなさい。ほら、向こうも動かしていますよ。おい、こいつめ、これでも合図じゃないと言うのか。さあ言ってみろ。向うの相棒は誰だ。何を企んでいるんだ」
バリモアの顔が、明らさまに反抗的になった。「これはわたしのことで、あなたの知ったことじゃありません。言いませんよ」
「それじゃ、すぐにも暇をくれてやる」
「結構です。どうでもとおっしゃるんなら」
「この面汚(つらよご)しめ、いまいましい。恥を知るがいい。お前の家族を、同じ屋根の下で百年以上も暮らさせて来た。それを今になって腹黒い陰謀で酬(むく)いるというわけか」
「いえ、いえ、旦那さま。決して旦那さまに背(そむ)いているのではございません」
突然、女の声がした。
バリモアの細君が夫よりも色を失い、怖ろしさに震えてドアのところに立っていた。その強烈な感情が顔にあらわれていなかったなら、肩掛けをまとって、スカートをはいた、彼女の大柄な身体つきは、あるいは喜劇と見えたかもしれない。
「お屋敷にお暇(いとま)しなきゃならん、エライザ。これでお別れだ。荷物をまとめておかなければ」
「ああ、ジョン。あたしのためにこんなことになって。旦那様、これはみな私のしたことです。私のせいですわ。夫が私のためにしてくれたことでございます。私が頼みましたもので」
「では言ってごらん。どういうことなんだ」
「不幸な弟が、沼地で飢え死にしそうになっているのでございます。みすみす、近くで見殺しにすることもできません。灯火は食事の用意のできた合図です。向うの灯火は食物を持っていく場所を示すためのものでございます」
「で、弟さんというのは……」
「脱獄囚……犯人のセルデンでございます」
「その通りなんでして、旦那さま」バリモアが言った。「申し上げましたように、手前の秘密ではございませんので、お話しするわけにいかなかったのでございます。でも今、お聞きおよびのとおり、企みはあったとしましても、あなた様に背(そむ)くようなものでございませんことは、お分かり下さるでございましょう」
これで夜の忍び歩きも、窓辺の灯火の秘密も説明がついたことになる。サー・ヘンリーも僕も驚いてこの女を見たものだ。この鈍感な気立てのいい女が、この土地きっての悪名高い兇悪犯人と同じ血を分けたとは、どうして考えられよう。
「そうです。私の姓はやはりセルデンでございます。あれは私の弟に当ります。あれが若い時分、甘やかしすぎまして、何でも好き勝手にさせていたのでございます。それで世間というものは自分の思いどおりになる、好き放題なことができると考えるようになりました。大きくなるにつれて悪い仲間とつき合うようになり、悪魔に魅入られまして、母はそのため、ひどく心を痛めて死にましたし、家名も泥沼にひきずりこんでしまいました。罪の上に罪を重ねてだんだん深みに堕(お)ちてゆき、今は神様のご慈悲でやっと死刑を免れているのでございます。でも私にとりましては、昔、姉らしく、あやしたり遊んだりしてやった、縮れ毛の子供と変わりございません。あれが牢を破りましたのも、そのためでございます。私がここにいると知っていて、ここへ来ればきっと何とかしてもらえるだろうと思ったのでございましょう。その弟がある晩、飢(う)えと疲れにくたくたになって、すぐあとを追われながら、身を引きずるようにしてやって来たのです。わたしどもにどうしてやれましょう。中に入れて食物をやり、めんどうを見てやりました。そこへ旦那さまがお帰りでございました。追跡の声が聞こえなくなるまでは、どこよりも沼地にいるほうが安全だと思いましたのか、弟はそこにひそんでおりました。で、ふた晩ごとにあの窓のところへローソクを持って行きまして安否を確かめたのでございます。そして合図に答えがありますれば、夫がパンと肉をいくらか持って行ってやりました。
ここを立ち去ってくれればいいがと毎日願ってはおりますものの、おります間は、見捨てるわけには参りません。これですっかりお話し申し上げました。私も正直なクリスチャンです。このことにつきましてお叱りがありますれば、それは夫にはなくて、私にあるのでございます。夫は私のために、ああしたことをしてくれたばかりでございます」
彼女の話は信服させるような熱がこもっていた。
「これは本当だね、バリモア」
「はい、ひとつも間違いはございません」
「よろしい。お前の家内のためとあれば、お前を咎(とが)める要はない。さっき言ったことは忘れてくれ。ふたりとも部屋へひきとってもよろしい。朝にでも、とっくりこのことを相談しよう」
ふたりが行ってから、僕たちはふたたび窓から外を見た。サー・ヘンリーは窓をさっと開けた。冷たい夜風が顔にあたった。はるか彼方の暗闇の中で、ちっぽけな黄色い明りがまだ光りを放っていた。
「まだ合図する気なんだね」サー・ヘンリーが言った。
「ここからしか見えないのでしょうね」
「どうもそうらしい。向こうまでどれくらいありましょうか」
「クレフト・トアの近くじゃないんですか」
「一、二マイルしかありませんね」
「そんなにもありませんよ」
「バリモアが食物を運んで行くとすると、そう遠くはないはずです。脱獄囚はあのローソクのそばでバリモアの来るのを待っているのですよ。ワトスン先生、あの男を捕まえに行きましょう」
僕もそう考えていたところだった。僕たちはバリモア夫婦の秘密に加担させられたというわけではなかった。向こうから止むなく打ち明けたのだ。あの男は社会を脅(おび)やかす危険人物、まったくの悪人なのであるから、憐(あわ)れんだり、容赦したりする必要はない。この機会を利用して、害悪を及ぼせないところに連れ戻すのは、むしろわれわれのなすべき義務にすぎない。あの兇悪無頼の奴とあっては、いま手を下さずにいたら、いずれ誰かが犠牲者とならぬとも限らぬ。たとえばわが隣人ステイプルトン一家がいつ襲撃されるかもわからない。サー・ヘンリーが熱心に犯人逮捕を考えているのは、胸中にこれあるがためであろう。
「私も参りましょう」
「それじゃピストルを持って、長靴をはいて下さい。なるだけ早いほうがいい。奴は灯火を消して、逃げるかもしれませんからね」
五分すると、戸外に出て探検に出かけた。暗い潅木(かんぼく)の中を通り、うら悲しい秋風の吹く音、そよと散る落葉をききながら道を急いだ。夜気は湿っぽく、腐敗した匂いによどんでいた。ときどき月がほんの一瞬顔をのぞかせたが、雲は空に低く流れ、沼地へ出たときは小雨が降り出していた。灯火はまだ、じっと前に燃えていた。
「武器は持って来ましたか」僕はきいた。
「狩猟用の乗馬鞭を持って来ましたよ」
「すばやくかからなきゃなりません。相手はやけくそになっているそうですからね。くらわして、抵抗する暇(ひま)のないうちにやるんです」
「ねえ、ワトスン先生。これをホームズさんが聞いたら、どう言うでしょうね。悪魔の跳梁(ちょうりょう)しそうな暗闇のこんな時間とあってはどうですか」
あたかもそれに答えるように、突如(とつじょ)、一面の暗い沼地から奇妙な叫び声があがった。僕が前にグリムペンの大沼地のあたりで聞いたのと同じだった。風にのって、夜の沈黙を貫き、長い、深いつぶやきが、やがて高まるわめき声に変わり、それから悲しげな呻き声になって消えて行った。それが繰りかえされ、そこらいったいの空気はために激しく鼓動して、きしむような、脅迫するような無気味さだった。サー・ヘンリーは僕の袖にすがって、その顔が白く、暗闇をすかしてちらりと見えかくれした。
「おお、あれは何でしょう、ワトスン先生」
「知りませんね。あれは沼地に聞こえる声ですが、前にいちど聞いたことがありますよ」
やがてその声も消え、あたりはひっそりと静まりかえった。僕たちは耳をそばだてて立っていたが、何も聞こえてこなかった。
「ワトスン先生、あれは犬のなき声でしたよ」
思わず血の凍る思いがした。サー・ヘンリーの声は恐怖につかれて途切れていたからだ。
「皆はあの声をなんと言ってるのですか」
「皆って?」
「この土地の人たちですよ」
「みな無智な連中ばかりですからね。その連中のいうことなど、どうしてそれを気になさるのです」
「ワトスン先生。言って下さい。何だと言ってるのです」
僕はためらったが、この質問を避けることはできない。
「みんな、バスカーヴィル家の犬の叫びだと言ってますよ」
彼はうめいた。しばらくは無言だった。
「犬だったのか。でもずっと何マイルも向こうのほうから聞こえたようでしたが」
「どこから起こったか、ちょっとわかりかねますね」
「そう、風のまにまに、声が高くなったり低くなったりしますからね。グリムペンの大沼地はあっちのほうではありませんか」
「そうです」
「声はそっちのほうからでした。ねえ、ワトスン先生、あなただってあれは犬の遠ぼえだと思わなかったですか。私は子供じゃありません。真実に怯(おび)える必要はありません」
「この前聞いたときはステイプルトンと一緒でした。あの人は怪鳥の声かもしれないと言ってましたがね」
「いえ、いえ犬でした。あの伝説には、どこか真実があるんじゃないでしょうか。僕は本当にそんな危険に直面しているんじゃないでしょうか? ワトスン先生、そうはお思いになりませんか」
「いいえ、そんなこと」
「ロンドンではそんなことを聞いても一笑にふしていましたが、今こうして暗い沼地に出て、ここに立って、あんな叫びを耳にしますと、話は別です。それに、あの叔父が倒れている傍(かたわ)らに犬の足跡があったんですからね。なにもかも、すっかり符合しています。自分じゃ臆病だと思ってませんが、あの声には何か血をこごらせるものがあります。ちょっとこの手を触ってごらんなさい」
その手はひとかたまりの大理石のように冷たかった。
「明日にはよくなりますよ」
「この声は、これからも頭にこびりついて離れそうもありませんよ。さて、これからどうしたものでしょうか」
「帰るとしましょうか」
「いやいや。あの男を捕まえに来たのですから、やりましょう。われわれが囚人を追う。その後ろから地獄犬が、まさかとは思うが、われわれを追いかけている。来るなら来い。地獄の鬼という鬼を、みなこの沼地に連れて来たとしても、見きわめずにはおくものか」
僕たちは暗闇の中をよろめきながら進んで行った。まわりに岩のそそり立つ丘が暗くぼんやりと見え、前方には黄色い一点の光りが燃えつづけていた。暗黒の夜に見る灯火の距離くらい、目測をあやまるものはない。地平線のはるか彼方にあるかと思えば、ほんの数ヤードのところに見えたりする。しかしとうとうその在りどころが見え、かなり接近していることがわかった。ローソクが岩の割れ目に立てられて、両方の岩に接しているので風が吹いても消える心配はなく、またバスカーヴィル邸以外の方向からは見えないようになっていた。花崗岩の丸いかたまりが、われわれの接近するのをかくしてくれた。そのうしろにうずくまって、岩ごしに合図の灯を見つめてみた。
奇妙なことに、ローソクが一本、沼地の真ん中で燃えているきりで、その近くに人の気配はなかった。まさしく黄色い焔(ほのお)が一本まっすぐに伸びて、両側の岩に映って光っているのだ。
「さて、どうしたものだろう」サー・ヘンリーがつぶやいた。
「ここで待つのです。奴はきっと灯火に近づいてきますよ。姿が見えるものなら、ひと目でも見てやりたいものです」
その言葉を口にするが早いか、男は姿を現わした。ローソクを立てた岩の割れ目の上に、人相のわるい、黄色い、おそろしく野獣じみた顔が、いかにも卑しい表情をひっさげて立ち現われた。泥にまみれ、髯(ひげ)をさか立て、もつれた髪を垂らして、丘の穴に住んでいた古代の蛮人といった恰好であった。灯火を下から受けて狡猾(こうかつ)な目が光り、その目は暗黒の中をすかして、左右を鋭く見渡した。狩人の足音を聞きつけた、奸智(かんち)にたけた野獣さながらだった。
明らかに男は何かを感づいていた。僕たちにはわからないが、バリモアだったらお互い同志の間の合図を交わすのかもしれない。それとも何かほかに、これはおかしい思わせるわけがあるのだろうか。ともかくも僕はその邪悪な顔に恐怖の感情が読みとれたのである。それに、いつ、灯をはねとばして、暗闇に消えさるかもわからない。そこでわれわれは躍りかかった。間髪をいれず、囚人は鋭い呪いの言葉を浴びせて岩を投げつけた。それは僕たちのかくれていた丸石にぶつかって、くだけ散った。囚人はとびあがって逃げて行ったが、そのとき、背の低い、ずんぐりと頑丈な姿を認めたのであった。運よく月が雲間に見えた。僕たちは山の端に駈けて行ったが、相手は猛烈なスピードで逃げて行った。まさしく山羊のようなすばやさで石ころをはねとばして、向こう側を走り去って行く。もっとも、ピストルを浴びせてうまく当れば、相手の足を止めてしまえるのだが、これは攻撃を受けた場合の護身用として持って来たのであって、敗走する武器なき敵を射たんがためではない。
僕たちはふたりとも走ることには自信を持っており、それに調子も良かった。しかし、追いつけないことはすぐにわかった。男は月光の中を一目散(いちもくさん)に逃げ、はるか向こうの丘の中腹を、丸石の間をかけて遠ざかり、ほんの小さな点にしか見えなくなった。僕たちはその跡を走りに走ったが、完全に息切れがしてしまった。互いの距離はますます大きくなり、とうとう僕たち二人は途中で、あえぎながら休んでしまった。囚人の姿はかき消えた。
そのとき、不思議な、意外なことが起こった。岩から腰をあげて帰路につこうとして、僕たちが望みなき追跡をあきらめたときだった。月は右手に低く傾き、そそり立つ花崗岩の山の頂きが、うねっている銀色の半円の平地の上に立ちはだかっていた。そこに、漆黒のような人影が月光を背にして立っているのが見えたのだ。妄想だと思ってくれるな、ホームズ君。こんなにはっきりした人影を目にしたことはなかったのだ。
僕の見たところでは、背の高く、やせた男だ。少し足を開いて立ち、腕を組んでじっとうつむいたところは、広大な泥と花崗岩を前にして、何か思いを馳(は)せているようであった。彼こそ、この怖るべき土地の精そのものであったかもしれぬ。あの囚人ではない。囚徒の消えた地点からずっと離れているし、それにもっと背が高かった。
僕は驚きのあまり声をあげてサー・ヘンリーのほうへ所在を示そうと、ふりむいて腕をつかんだ瞬間、その男は見えなくなっていた。依然、月の下辺を切る花崗岩が屹立(きつりつ)していたが、その頂きにはあの静かな不動の人影は跡かたもなかった。
僕はすぐその方向へ行って、岩山を調べてみたいと思ったが、ここからは大分離れている。それにサー・ヘンリーは、あのなき声を聞き、自分の家系にまつわる暗い物語を思い出してか、ひどく心を痛めていたので、新たな冒険に出かける気はしないようだった。
それに彼は、岩山の上の、この孤立の人影を見なかったのだから、その不思議な出現と、犯しがたい態度から受けた、僕の感動に共鳴することなどできるはずもなかった。
「看守ですよ、きっと。あいつが逃げてから、沼地には沢山の看守が入りこんでいますから」と、彼は言った。そう、なるほどそういうことも言えるかもしれない。それにしても、僕はもっと確実な証拠をつかんでおきたいものだ。今日はプリンスタウンの人々へ、犯人を見かけたことを通知しておくつもりだ。すれば、そこで失踪人物を探してくれるだろう。しかし自分たちの手で捕まえて勝利を喜ぶことができなかったと書くのはつらいことだ。
以上が昨夜の冒険のいきさつだが、ホームズ君、こうして精よく報告していることだけは君も認めてほしい。大部分の話が、事件とは筋違いであろうかもしれぬが、事実をことごとに申し伝えて、後は君自身の解決に役立つようなところを、これらから選んでもらうのがいちばんよいことだと思っている。幾分でも前進していることは確実だ。バリモア夫妻に関しては、あの行動の動機が発見できたし、そのことで情勢がだいぶ明瞭になった。だがさまざまの神秘をまとう沼地や、そこの奇妙な居候者たちのことは以前同様、不可解のままである。次便ではこの点にも、もっとはっきりしたことが言えるかもしれない。もっとも、君がこちらへ来てくれれば、それがいちばんいいのだが。
ここまでは、私が沼地へ行って間もなくの時分に、シャーロック・ホームズへ書き送った報告を引用することですますことができた。しかし、ここから先は、どうしてもこの方法を棄てねばならず、当時記した日記をたよりに、もういちど記憶をたぐって行かねばならぬ。
この日記の二、三の抜き書きは、私の記憶にありありと印象づけられた、次に起こったいくつかの場面に立ち戻らせてくれる。まずは、犯人の追跡に失敗したり、沼地での不思議な経験に接した日の、次の朝からはじめる。
十月十六日
どんよりした霧深い一日。小雨がしとしとと降っている。屋敷には、流れる雲が垂れこめ、ときおり切れては、丘の中腹に、細く、銀色に光った地肌の流れが見え、遠い彼方の丸い岩石は光りを受けてその濡れた肌をきらめかせ、いかにも荒涼とうねる沼地の広がりの物さびしさをそそる。内も外も憂鬱な気分がみなぎっている。サー・ヘンリーはゆうべの興奮が冷めやらず、暗澹(あんたん)たる気分である。僕は僕で何か圧迫されたような、差し迫った危険を感じていた。終始危険にさらされているというのは、それがどうも解釈のつかぬものだけに余計におそろしい。
ではそういった不快な感じの原因がわからないと言うのか。われわれを取り巻いている何か不吉なものを暗示する一連の出来事をつぎつぎに考えてみるとしよう。まず、この屋敷の先代の死に方が、この家にまつわる伝説といかにもぴったりと符合している。それから、沼地に不思議な動物が現われるということは農夫からたびたび報告をうけている。僕も二度ばかり、われとわが耳で犬の遠ぼえに似たような声を聞いた。しかし自然の理法以外のものが真実にあるとは、とても信じられない。幽霊の犬が足音を残したり、吠え声をあたりにこだまさせるということは、とうてい考えられることではない。ステイプルトンはそんな迷信におちいっているのかもしれない。モーティマーもそうだ。しかし僕は幸いに常識を尊ぶ。そんなことを信じさせようとしたって駄目だ。それでは、つまらぬ農夫と何ら異なるものではない。百姓たちは単に「恐ろしい犬」だけでは満足せず、口と目から地獄の火を吐いていたと言わねば気がすまないのである。ホームズはそんな気まぐれには耳を借さないだろう。そして僕は、いやしくも彼の代理を務めているのだ。
しかし事実は事実である。僕は沼地で二度までその吠え声を聞いたのである。何か巨大な犬が本当にこの沼にうろついているとすれば、万事うまく説明がつくが、ではどこにかくれひそんでいるのだろうか。どこで食い物にありつき、どこから来たのだろうか。昼間は見られないというのはどうしてだろう。この自然な説明も、超自然説と同じく、多くの無理を含んでいると言わねばならない。それに犬のことは別としても、ロンドンでは人間の行動という目前の事実があった。馬車の中の男、次にサー・ヘンリーに沼地に来るなと警告した手紙。少なくもこれだけは事実、起こったことである。それは敵であるかもわからないが、今この敵だか味方だか知らない男は、どこにいるのか。味方の仕事であるとも考えられる節(ふし)がある。ロンドンにいるのだろうか、それともわれわれのあとをつけて来たのだろうか。僕が岩上で見たあの不思議な男がそうなのだろうか。
事実、僕は岩上の男をほんのちらりと見たにすぎない。しかも誓っていいぐらいの、いろいろなことがあるのだ。彼はこの土地で見かけた男ではない。僕は今では近在のすべての人に会っている。その背丈はステイプルトンよりずっと大きいが、フランクランドよりずっと痩(や)せていた。ちょうどバリモアぐらいかもしれないが、僕たちは彼を残して来たし、跡をつけて来たとは考えられない。では、ロンドンで見知らぬ男からつきまとわれたと同じく、ここでも誰かに狙われているのだ。僕たちはまだ、あの男の目を逃れていないのだ。もしその男を捕えれば、この困難な問題も立ちどころに解決するかもしれない。しからば僕の全エネルギーをひたすらこの目的に注がねばならぬ。
僕は計画を全部サー・ヘンリーに話そうと思った。でもよく考えて見ると、できるだけ誰にも話さずにおいて、なるべく自分だけで事を運ぶほうが賢明だと悟った。彼は目下沈黙を守り、放心の態(てい)である。彼の神経はあの沼池の吠え声でひどく痛めつけられているのだ。この際、サー・ヘンリーにさらに心労をかけるようなことは何も言うべきではないだろう。ただ自分の力で目標へ進んで行こう。
今朝、朝食後ちょっとした事件がおきた。バリモアがサー・ヘンリーと話をしたいと申し出た。ふたりはしばらくのあいだ書斎に閉じこもったままだった。僕は撞球(ビリヤード)室に坐りながら、一度ならず声高に話しているのを聞きつけた。それで何のことを議論しているのか大体わかった。しばらくして、彼はドアを開け、僕を呼びこんだ。
「バリモアがどうも苦情を言ってね。自分から進んで秘密を打ち明けたのに、義弟を追っかけるのは不当だと言うんです」
執事のバリモアはたいへん蒼い顔をしているが、落ち着いてわれわれの前に立っていた。
「もっと穏便にお話しすれば良かったのですが、どうかお許し下さいませ。でも、おふたかたが今朝お戻りになって、セルデンを追跡されたとお聞きして、いたく驚きました。あの男は私が追手をさしむけなくてさえ、悪戦苦闘しなければならないのです」
「お前はあのことを進んで話したと言うが、それはちょっと違いやしないかね。問い詰められて、仕方なしに、お前が、いや奥さんが話しただけのことだよ」サー・ヘンリーは言った。
「旦那様がそれをご利用なさろうとは夢にも思いませんでした」
「でも、セルデンのためにみんな危険な目に会うんだよ。この沼地には、家がぽつりぽつりと散在している。あいつは何をするかわからぬ男だよ。そんなことはひと目見ればわかることだよ。たとえばステイプルトン君の家をご覧。防ごうにも彼ひとりだけではどうにもなるまい。あんな男は錠や鍵のかかる部屋に押しこめなければ、誰も安心できないよ」
「いいえ、旦那さま。あれはもうどの家にも押し入ることはしませんです。誓って申し上げます。もうこの土地の人たちには、ご迷惑をおかけいたしません。二、三日のうちに手筈(てはず)がととのいますから、そうしたら南アメリカのほうへやります。ですからあれが沼地にいますことは、どうぞ警察に届けないで下さいまし。警察では追跡をあきらめているのでございます。船の都合がつきますまでは、どうかじっとさせて置いて下さい。あれのことがわかりますと、妻もあっしもとんだ目に会います。どうかお願いでございます。警察には何分お知らせしないようにどうか」
「ワトスン先生、あなたはどう考えます」
僕は肩をすくめた。「間違いなく国外に逃げてくれれば、みな安心するでしょう」
「でも、行く前にまた誰かに危害を加えないとも限りませんがね」
「そんな無茶なことはもう、しますまい。欲しいものは何とかくれているんです。罪を犯せば、すぐ所在がわかってしまいます」
「それはそうだ。では、これでもう……」
「ありがとうございます。本当に心からお礼申し上げます。あれが捕まるようなことがありましたら、女房は死んでいるところでした」
「これは重罪人を教唆幇助(きょうさほうじょ)することになりますね、ワトスン先生。でも話を聞いて見ると、セルデンを引き渡す気はしませんね。まあこれで終りだ。よろしい、バリモア、行っていいよ」
バリモアは感謝の言葉を口ごもりながら行きかけたが、ちょっと躊躇(ちゅうちょ)して、また戻って来た。
「ほんとにご親切様でした。ご恩返しには何でもいたすつもりです。旦那さま、実はちょっと存じていることがございます。もっと早く申し上げればよかったのですが、そのことを発見しましたのは、あの訊問から大分経ってからのことでございます。そのことはまだ誰にも、話のハの字もしていません。お気の毒なご先代チャールズさまがおかくれになりましたことですが……」
サー・ヘンリーも僕も思わず立ち上がった。
「どうして亡くなったのか、知ってるのかい」
「いいえ、そのことは知りませんです」
「では、なにを」
「チャールズさまがあんな時間にご門のほうへお出になったわけを知っております。それはあるご婦人に会うためでございました」
「婦人に会うためだって! あの伯父が?」
「そうです、旦那さま」
「では、その婦人の名前は?」
「名前はわかりませんが、頭文字はわかっています。L・Lでございました」
「バリモア、どうしてそんなことを知っているのだね」
「事件の朝、チャールズ様はお手紙を受け取りになりました。あの方はいつも沢山お手紙を頂きました。なにせ、世間に名の知られた方ですし、ご親切な方でございますから、何か困ったことがありますと、何かとチャールズ様にお願いするようです。でもあの朝に限ってどうしたことか、ただ一通しかございませんでした。それでそのときのことをよく覚えております。クーム・トレイシーからのもので、宛名は女文字で書かれておりました」
「それで?」
「そのことはそれっきり気にとめなかったのでございます。家内のことで、これから申し上げますようなことがなければ、今頃はすっかり忘れておりましたでしょう。実はほんの二、三週間前でしたが、妻がチャールズさまの書斎を掃除しておりました……こんなことはお亡くなりになりましてから始めてでございます。すると火床(ひどこ)の奥に燃えのこりの手紙があったのでございます。ほとんどが黒焦げになりまして、ほんのわずかな部分がくっついて残っておりました。どうやら文面の最後らしゅうございまして、黒ずんだ紙にくすんではおりましたが、書いてあることは読みとれました。手紙のおしまいの追伸らしく、[どうかご覧になった上は焼却して頂きたくお願い致します。では十時にご門にお出で下さいますよう]とありまして、その下にL・Lと署名してございました」
「その紙片を持っているかい」
「いいえ、旦邪さま。持ちあげるとすぐ崩れてしまいました」
「サー・チャールズは前にも同じ筆跡の手紙を受けとられたことがあったかね」
「それが、お手紙はあまり注意しておりませんでしたので。あの朝一通だけで参りましたもののほかは、何も覚えておりません」
「そのL・Lが誰だか心当りがないのかい」
「ええ、これ以上は何も知りませんです。でもあの婦人の身元がおわかりになれば、チャールズさまのお亡くなりになりました事情はもっとはっきりいたしましょう」
「お前はどうしてこんな重大なことを、今までかくしてきたのだね」
「でも旦那さま。その頃はセルデンのことでさんざんでございましたので。それに手前どもはチャールズさまのことをお慕いしておりました。何かとお世話になりましたことを考えますれば、あたりまえのことでして。ほじくり立てますのもご主人のおためにならず、この件にはご婦人が関係しておりますとなると、慎重にいたしませんことには。まあ、せいぜい……」
「つまり伯父の名誉を傷つけると思ったのだね」
「はい。どうせいいことにはなるまいと思いましたもので。でもただいま手前ども、ご親切をお受けいたしまして、手前の知っておりますことを、あなたさまにおかくしいたしますのは気がひけるのでございます」
「うん、よく言ってくれた。では引き取ってよろしい」
バリモアが行ってしまうと、サー・ヘンリーは僕のほうへ向き直った。
「ワトスン先生、この話をどうお考えになります」
「前よりもいよいよむずかしくなりましたね」
「同感です。でもL・Lという女をつきとめることができれば、万事がはっきりすると思いますね。かなり事態もわかってきました。その女さえ探し出せば、何かと知っている人物が浮かび上がって来るはずです。で、次にはどうしたらいいでしょうね」
「ホームズにすぐいっさいを知らせてやりましょう。ホームズならこれで何か手がかりをつかむでしょう。間違いなく、自分でここへ乗り出してきますよ」
僕はすぐに自分の部屋へ行って、ホームズに今朝のバリモアとの話の報告を書いた。ホームズは近頃ひどく忙しいと見える。僕がベイカー街からもらった手紙は数少なく、それもいたって短いもので、僕の書き送った報告には何ら意見を加えず、また僕の任務にも言及していない。疑いもなく、例の恐喝事件に全力をつくしているのだ。それにしてもこの新しい情報はきっとホームズの注意を引き、興味を新たにするに違いない。ともかく、ここにいてくれれば、と思う。
十月十七日
今日は終日雨。蔦(つた)の葉にさらさらと鳴り、軒からは雨だれの音しきり。
吹きさらしの、寒い宿り場のない沼地で、囚人はどうしているのか。哀れな奴! 罪が何であれ、いま受けている苦しみは、罪を償うものがあろう。それはそうと、あの馬車の中の人物と月光を受けて岩上に立ったあの男はいったい何者だろう。彼もまた雨にさらされているのか……いまだ見ぬ暗闇の番人よ。
夕方、僕は防水服をつけて、びしょぬれの沼地をさまよい歩いた。暗い思いに胸ふさぎ、顔を雨にうたれ、風はひゅうひゅう耳に鳴っている。神よ、今、大沼地にさまよい入る者に力を貸したまえ。普段は堅固な土地さえも、沼のようになっているのですから。
行くうちに、あの不思議な男がひとり立っていた黒岩にたどりついた。ごつごつした頂上に立って、陰鬱な高原を見おろした。雨は赤褐色の岩肌に降りしきり、どんよりした石板色の雲は、夢幻めいた丘の脇へ、灰色の環となって這(は)い、あたりに低くたれこめていた。はるか左側の窪地には、霧になかばかくれてバスカーヴィル邸のほっそりとした塔が、樹々の上につき出ていた。目にした限りの人間生活の形跡といえば、丘の中腹に沢山ある有史以前の石室以外には、この塔だけだった。二日前の夜にまさしくここで見た、あの不思議な男の跡など、どこを探してもなかった。
帰りみち、モーティマー医師が馬車に乗って追いついて来た。ファウルマイアの辺鄙(へんぴ)な農家から沼地の悪路を通ってやって来たのだ。彼はたいへん僕たちのことを心配してくれ、様子を見に一日として屋敷を訪れない日はない。僕に乗れとすすめて、家路へ馬車をとばした。彼は彼でスパニエルの小犬がいなくなったことでひどく困っていた。沼地のほうへ行ったきり帰ってこないのだそうだ。何とか慰めて来たが、グリムペンの大泥沼で小馬が沼に溺れたのを知っているので、その犬も帰って来るとはどうも思えない。
「ときにモーティマー先生。馬車で行けるあたりのこの辺で、先生のご存じない方(かた)はあまりございませんでしょうね」
でこぼこ道をゆられながら聞いてみた。
「ええまあね」
「それじゃ、L・Lという頭文字の婦人をご存じありませんか」
彼はしばらく考えていた。「いいえ、知りません。ジプシーや労働者の中には知らない人もいますけれど、農夫や相当の身分のある方にはそんな頭文字の人はいませんね。いや、ちょっと待って下さいよ」ちょっと間をおいて言い足した。
「ローラ・ライオンズがいますよ。これならL・Lですね。でもクーム・トレイシーに住んでいますよ」
「どんな人ですか」
「フランクランドの娘さんです」
「おや、あの変わり者のフランクランド老人の?」
「そうです。ライオンズという画家と結婚しました。沼地へスケッチにやって来た男です。ならず者だと後になってわかったのですが、結局はローラを見棄ててしまいました。私の聞いたところでもローラのほうにも何かの落度もあったようですが、彼女の父親というのが、自分の同意を得ないで結婚したというので、一向に面倒を見てやりません。もっとも他に理由もあったでしょうがね。だからローラはこんな理解のない父親と夫にはさまれて、たいへん辛(つら)い思いをしてきたわけです」
「それで、その女はどうして暮らしているのですか」
「フランクランド老人は少しは仕送りをしているようですが、大したことはできないでしょう。なにしろ自分の費用に相当入れなくちゃなりませんからね。ローラが身から出たさびにしましても、将来に望みもなく、構わずに放って置くのは許しがたいことです。でもこの話が知れわたりますと、この土地のいくたりかが堅気な生活ができるようなことをしてやりました。ステイプルトンもサー・チャールズも何かしてやったようです。私も、少しばかり手をかけてやったことがありますよ。タイプライターの仕事をあてがってやりました」
モーティマーはどうしてこんなことを聞くのか知りたがったようだが、僕はいい加減にその場をごまかしておいた。誰にでもうっかり打ち明けられない問題だ。明日の朝、クーム・トレイシーへ行こう。そしてこのいかがわしい評判のあるローラ・ライオンズ夫人に会えば、この一連の不可解な事件での、ひとつの出来事を解く鍵が得られるかも知れない。
しかし、たしかに僕も悪知恵が発達したものだ。モーティマー医師がなぜ聞くのかと、厄介なくらいしつこくたずねるので、出まかせにフランクランドの頭蓋骨は何型に属するのかと質問をしてやり、それからは馬車の中ではずっと骨相学の話で持ち切りだった。シャーロック・ホームズと無駄に長い共同生活をしたわけではない。
今日は暴風雨で陰気な日だが、ここにもうひとつだけ記すべき事件がある。それはバリモアとたったいま交わした話なのだが、これもそのときとなれば、手を見せるもっと有力な切り札になる。モーティマー医師はそのまま足をとどめて食事をし、その後でサー・ヘンリーとトランプのエカルテをやった。僕が図書室にいるとバリモアがコーヒーを持って来てくれたので、この機をのがさず、二、三の質問をしてみた。
「あの君たちの大事な人は、もう出発したのかい。それとも、まだそのへんにうろちょろしているのかね」
「わかりませんです。去ってしまっておればいいのですが。ここにいますと面倒ばかりかけますので。この前、食物を運んでやってから、全然消息がわかりません。そうでした、あれは二日前でしたが」
「そのときは会ったのかい」
「いいえ、会いませんです。でも次の日行きましたら、食物がなくなっておりました」
「では、たしかにそこにいたのだね」
「そうと思いますが。他の男が食べたのでなければ」
僕はコーヒーを飲もうとしていたが、カップを唇にはこぶ途中で、バリモアを見つめた。
「では他の男がいると言うのかい」
「はい、先生。沼地にもうひとりの男がいます」
「見たのかい」
「いいえ」
「じゃ、どうしてその男がわかるんだね」
「もう一週間も前になりますが、セルデンが申しました。やはりかくれていますそうで。でも囚人ではございませんようで。いやなことでございます、ワトスン先生。……率直に申して、いやなことでございます」ひどく真剣な調子で言った。
「ねえ、バリモア、よくお聞き。僕はこの問題に興味はないんだよ。あるのは君の旦那のことだ。ただあの方を助けるために来ただけさ。いやなことだというのはどんなことか、正直に僕に話してごらん」
バリモアはちょっとためらった。思いあまって言ったことを後悔しているようでもあり、あるいは自分の感情が言葉にうまく出て来ないような素振りでもある。
「こんなことになっているんですよ」
とうとう叫ぶように言って、沼地に面している、雨に打たれた窓のほうへ手をふった。「どこかで陰謀をやっているのです。悪事の企みがあるのです。誓って申し上げます。ヘンリーさまは早くロンドンへお帰りになっていただくほうが何よりなのです」
「だが何がそんなに怖いのかね」
「チャールズさまのお亡くなりになったことをお考えになって下さい。検死官はあんなことを話しましたが、あれは不吉なことです。夜中に沼地で妙な唸(うな)り声があがっています。日没後は、お金をやるからと言っても、誰も沼地をわたりたがらないでしょう。それに向こうには、見知らぬ男がひそんでいて、見張りながら待ちかまえているのです。いったい何を待っているのでしょう。どういうつもりでしょうか。でも何だかバスカーヴィル家の人々によからぬことが起こりそうです。この上は新しい召使いにお屋敷の仕事をひきつぐようにしていただければ、その日にはこんなこともなくなって、結構なことなのです」
「でも、この不思議な男のことでわかっていることでもあるのかい。セルデンは何と言ったかね? どこにかくれて、どんなことをしているのか、セルデンにわかっていたのかい?」
「セルデンは一、二度見かけました。腹黒い奴で、正体を明かしません。最初は巡査かと思ったそうですが、どうやら何か企んでいるらしいのがわかりました。見たところは紳士のようでございますが、何をしているのか、さっぱりわからないと言っておりました」
「で、どこにいると言っていたかね」
「丘の中腹の古い家……古代人の住んでいたとかいう、石室(いわむろ)にいるそうです」
「食物はどうするのだ」
「少年がひとり手助けしているようで、それが入用なものを運んでいると申しました。たぶん、クーム・トレイシーへ入用なものを取りに行くのでございましょう」
「ありがとう、バリモア。このことはいずれまた相談しよう」
バリモアが行ってしまうと、僕は暗い窓辺に寄って、曇った窓ガラスごしに、飛び去る雲を、風に吹き払われて、烈しく揺れ動く樹の影を見た。
室内にいても物狂わしい夜だ。沼地の石室ではいったいどんなだろう。こんな時刻に、あんな場所に身をひそめているとは、その男もどういう恨みを抱いているのか。また、どんな深い、一心な目的で、そんな試練を求めて堪えているのか。されば、沼池のあの石室にこそ、僕をかくも悩ます問題の、そもそもの中心があるように思われる。僕は誓う。あの男に先立って、僕は明日とは言わず、この神秘の核心に到り着くつもりだ。
前章の私の日記の抜き書きは、それまでのさまざまな出来事が、最後のおそろしい終末へと向かって急速に動き始める十月十八日へと続いていく。この十八日に続く数日間のことは、一生忘れることのできぬ記憶となって頭に残っているから、当時の覚え書きなど見なくても話すことができる。だが、まずその前に、ふたつの重要な進展のあった十七日から話を始めよう。
そのひとつというのはクーム・トレイシーのローラ・ライオンズ夫人がサー・チャールズ・バスカーヴィルに手紙を出し、彼が亡くなった同じとき、同じ場所で彼と会う約束をしていた事実が判明したこと、もうひとつは例の沼地にひそんでいる人物が丘の中腹の石室あたりで見つかったことだ。このふたつの事実を知り、なお事件の解決の光明を得られぬとしたら、私はよほど知恵も勇気もたりない男にちがいなかろう。
私はその前夜、ライオンズ夫人について得た知識をサー・ヘンリーに話すチャンスがなかった。というのはモーティマー医師が彼とおそくまでカードに興じていたからである。しかし翌日の十七日の朝食の際、私はこの話を切り出し、サー・ヘンリーもいっしょにクーム・トレイシーに行く気があるかときいてみた。最初彼は乗り気だったが、話しているうちに、ふたりで乗りこむより、私ひとりのほうが効果的だろうということになった。われわれふたりが大仰(おおぎょう)に出かけたのでは、かえって知り得べきことも、駄目になるおそれがあるというわけだ。サー・ヘンリーを残して出かけるのは、いささか良心にとがめたが、ともかくも私は新しい探索(たんさく)に出かけた。
クーム・トレイシーへ着くと、私はパーキンズに言って馬を休ませ、単身で疑問になっていた女のもとへ向った。彼女の家はわけなくわかった。村の中ほどにあり、よく設備のととのった家だった。女中があらわれて気軽に案内してくれた。
居間に入ると、レミントン・タイプライターの前に坐っていた婦人が、歓迎の笑みを浮かべて立ち上がった。だが私が見知らぬ男だったので、気落ちした表情でまた坐ってしまい、私が訪ねてきた用件をたずねた。
ライオンズ夫人の第一印象は、たいへん美しい人だということだった。眼と髪は同じような茶色で、頬にはかなりのそばかすもあったが、黄バラの芯にのぞく、ほんのりした桃色のように、美しく染められていた。操り返すけれども、第一印象は美しいという感嘆以外、なにものもなかった。でも二度見れば、やはり難はある。その顔には何か陰気なところがあり、表情にも下品な感じがあった。おそらく眼つきだろうが、冷淡そうで、口もとにしまりのないのも美しさをそこねていた。しかしそんなことは、後で思ったことである。
とにかく最初、彼女に来意を聞かれたときには、これはたいへんな美人と相対してしまったと思うばかりで、私の仕事がひどくデリケイトなものであることなど、一向に考え及ばなかった。
「私はあなたのお父さんをよく存じております」私は言った。これは下手な口の切りようだった。彼女の反応も私にことさらそんな気にさせた。
「私と父とは全然関係がないんですのよ。世話になってもおりませんし、父のお友だちといっても私は存じ上げませんし、先代のサー・チャールズ・バスカーヴィルや、その他のご親切な方々がなかったら、私は飢え死にしたかもしれないくらい、父は何もしてくれなかったのです」
「その先代のサー・チャールズ・バスカーヴィルのことでおうかがいしたわけなんですが!」
すると彼女はにわかに明るい表情になった。
「あの方のことですって。どういうことでしょうか」タイプライターのキイを神経質にいじりながらいった。
「あなたはあの方をご存じだったのですか、それとも?」
「いま申しましたように、私はあの方にたいへんお世話になりました。私がこうして生活しておれますのも、あの方が私のあわれな境遇に関心を持って下さったからなんですの」
「文通はおありでしたか?」
すると彼女は怒りを含んだ茶色の目ですばやく私の顔をみた。
「どういうつもりで、そんなことをおたずねになりますの」彼女は鋭く言った。
「世間にいらざる風評の立つのを避けるためなんです。私たちの手におえぬようにひろがってしまっては困りますから、今のうちにおうかがいしたほうがよいと思うのです」
彼女は黙りこくってしまった。顔色は真蒼(まっさお)だった。ややあって彼女はどうにでもなれというような態度で顔をあげた。
「そうですか、ではお答えしましょう。どんなことでしょうか?」彼女は言った。
「サー・チャールズと文通なさいましたか」
「いろいろ気づかって、親切にして下さるので、お礼にたしか一、二度お手紙をさし上げましたわ」
「日付がおわかりでしょうか」
「いいえ」
「あの方にお会いになったことは?」
「そうですね。クーム・トレイシーにお見えになった折に一、二度。あの方はたいへんに表(おもて)だつのがお嫌いな方で、良いこともこっそりとなさるほどですから」
「ですけどね、そのくらいしか会いも文通もしないで、よく彼はあなたを援助しなければならんというような事情がわかったものですね」
私の突っ込んだ質問にも、彼女は平然と答えた。
「私のあわれな生涯を知って下さっている方が何人かございまして、皆さんお力を借して下さいました。そのひとりがサー・チャールズの隣人で、とても親しくしていましたステイプルトンさんです。この方は非常に親切で、サー・チャールズはステイプルトンさんから私のことをお聞きおよびだったのです」
私はサー・チャールズ・バスカーヴィルが幾度かステイプルトンの手を通して施しをしていることを知っていたので、この婦人の言うことが嘘ではないことがわかった。私は続けた。
「では、サー・チャールズにお目にかかりたいといった類の手紙をお出しになったことがありますか」
ライオンズ夫人は怒りで顔を染めた。
「なんですって? それはぶしつけすぎるご質問ですわね」
「失礼とは存じております。しかしやはりお答えいただかないと」
「ではお答えいたしましょう……たしかに、ありません」
「サー・チャールズがお亡くなりになったあの日も、ですか」
とたんに彼女の顔から血の気が消えて、真青(まっさお)になった。「いいえ」という言葉も声にならず、私はかわいたその唇の動きでそれと知るほどだった。
「きっと記憶ちがいでしょう。私はそのあなたのお手紙の一節を覚えていますよ、こんな文章でしたね。[どうかこの手紙はお焼き捨て下さいますように、そして是非とも十時に例の門においで頂きとうございます]」
私は彼女が失神するのではないかと思った。だが彼女は必死の努力で持ちこたえた。
「紳士だと思ったからこそ」彼女はあえいで言った。
「サー・チャールズをそんなに悪くいってはなりません。彼はたしかに手紙は焼いたのです。でも手紙というものは焼けても判読できる場合がよくありますよ。さあ、その手紙のことを思い出したでしょうね」
「はい、たしかに書きました」彼女は胸の底からしぼり出すようにして叫んだ。「なるほど、手紙は差し上げました。しかしかくす理由とてありません。恥じる理由もございません。私はあの方に助けを求めたのでございます。私はお目にかかって事情を申し上げれば、援助頂けると思い、お会い下さるようお願いしたのです」
「しかし、どうしてあんな時刻に?」
「というのは、サー・チャールズは翌日、ロンドンにお発ちになり、二、三か月はおもどりにならぬときいていたからですわ。私としてもあれより早く行けない事情がありまして」
「それにしても、堂々とお宅にうかがえばよいのに、庭で会おうなどというのは?」
「ああした時刻に、女が独身の男の方の家など、うかがえるものでしょうか」
「なるほど、で、おいでになったとき、どんな様子でした」
「私、うかがいませんでしたの」
「ライオンズさん!」
「ええ、誓って申しますわ。私はうかがいませんでした。あることで、行けなくなってしまったんです」
「あること、とは何です?」
「それは私事ですから、申し上げることはできません」
「するとあなたは、サー・チャールズが亡くなった、その場所、その時間に彼と会う約束をしておきながら、あなたのほうで約束を破ったというのですね」
「そのとおりでございます」
再三再四、私は彼女に質問を浴びせかけたが、結局それ以上は要領が得られなかった。
「ライオンズさん」私はこの長い、結論の得られぬ会見を終えようと立ち上がりながら言った。「ご存じのことをすっかり打ちあけて頂かなければ、あなたはご自分の身を危うくしなければならぬことをご承知でしょうね。もし私が警察の助けを借りるようになったら、それがよくおわかりになりますよ。まったく身に覚えがないなら、最初にサー・チャールズにあの日手紙を出さなかった、などと何故(なぜ)おっしゃったのですか」
「そのことから、余計な尾ひれのついた話になって、世間にいやな噂が立つのをおそれたのですわ」
「で、あなたはなぜサー・チャールズに手紙を焼いてくれと書かれたのです」
「あなた様はその手紙をお読みになっているのですから、おわかりでしょう」
「いや、私は全文を読んだとは申しませんよ」
「だって、さっき引き合いになさったじゃありませんか」
「あれは追伸のところでした。さっきも言いましたように、手紙は焼けていて、全部は読めなかったのです。もう一度、おたずねしますが、あの方がお亡くなりになった日にとどいた手紙を、どうして焼いてくれとご注文になったのです」
「本当にそれは私事でございます」
「世間の目をお避けになる理由をもっと」
「では申し上げます。あなたさまが私の不幸な生い立ちを多少なりともご存じならば、私が性急な結婚をして、今となって後悔していることも知っておいででございましょう」
「一応知ってはおります」
「私はいやな夫から、意地悪をされどおしの生活を送ってまいりました。法律はいつも夫に味方しました。毎日毎日、またいっしょに生活しろと言われはしまいかとびくびくして過ごしてきたのです。そこでサー・チャールズにお手紙したのも、ある程度の金を使えば自由の身になれそうなことがわかったからなのです。自由にさえなれば……心の平和も、幸福も、誇りも一切が戻って来るのです。私はサー・チャールズのお気持の大きいことを知っておりましたから、この口で私のあわれな物語をお伝えできれば、あるいはお助け下さるかもしれないと思ったのでございます」
「それなら、なぜおいでにならなかったのです」
「というのは、べつにご援助下さる方があらわれたからですわ」
「ふむ。で、そのことをサー・チャールズに知らせなかった理由は?」
「するつもりでおりました。ところが、翌朝の新聞にあの方のおなくなりになったことが出ておりましたので」
彼女の語るところはまったく筋が通っており、私の発する質問にも、なかなか動揺するところがなかった。こうなれば、あの惨劇のあった当時、彼女が夫との離婚訴訟を起こしていたかを調べる以外にない。
実際はバスカーヴィル邸へ行っているのに、行かなかったと彼女が嘘をついているはずはない。なぜなら、あそこへ行くには小馬車が必要だし、行けば行ったで翌朝早くでなければクーム・トイシーには戻って来られない。もし彼女が行っているとすれば、誰にも知れずにいるはずもない。だから彼女の言うことは、全部本当のことではないにしろ、少なくともある程度は事実であると思われる。私はあてがはずれて困ってしまった。またも私は、冷たい障壁にさえぎられてしまったのだ。この壁は私が何かやろうとするたびに道をさえぎってしまうのだ。しかも、彼女の表情や態度を考えてみればみるほど、何か隠しているらしくも思われる。なぜ、あんなに真蒼になったのだろうか? なぜ、追いつめられるまで頑強にかくそうとしたのか?
あの惨劇の当時、どうして彼女は沈黙をまもっていたのだろう? これらすべてが説明されれば、彼女は案外、悪がしこい女だということになるかもしれぬ。彼女に関しては、これ以上進めるわけにもいかないから、道を転じて、もうひとつの問題、沼地の石室のほうを調べたほうがよかろう。
とはいっても、これはまた非常に漠(ばく)とした方向である。帰る道すがら見ると、どの丘にも古代人の住居跡があるのである。バリモアの言葉はただ怪人物がこの石室のひとつにひそんでいるということだけしか教えてくれない。そんなことを言っても、石室はこの沼地一帯に何百となくあるのだ。しかし、あの怪人物は黒い岩山に立っていたのを私に見られているから、あのあたりを中心に調べて、それから見つかるまで片っぱしから探してやればよい。もし怪人物が見つかれば、そいつの口から、奴が何者であるか、どうしてわれわれをつけ狙(ねら)うかを聞くこともできるだろう。必要とあれば、連発ピストルにものを言わせればよい。
奴はリージェント街の雑踏では、われわれの追求を逃れたけれども、この淋しい沼地ではそううまくはいかぬはずだ。一方、もし隠れ家を見つけて、そこに奴がいなかったら、戻ってくるまで、ねばっていてやろう。徹夜してもかまわぬ。ホームズはロンドンで奴をつかまえそこなった。彼につかまえられなかったあいつを、私ひとりで捕えられたら、たいした手柄である。
この捜査はつぎつぎとあまり芳(かん)ばしくなかったが、とうとう芽が出てきた。その幸運の使者というのは、外ならぬフランクランド老人であった。彼は私のたどっていた公道に面している家の門口で、赤い顔と半白のひげをさらして立っていた。
「今日は、ワトスン先生」彼はいつになく上機嫌で声をかけた。「どうですね、ちょっと馬を休ませて、一杯つきあって下さらんかね」
私は彼の娘に対する仕打ちをきいてから、彼にあまり良い感情は持っていなかった。しかしパーキンズと馬車を先に帰して、ひとりで沼地の捜査をしたいと思っていたので、これは良い機会であった。
私はサー・ヘンリーには夕食には間に合うように、歩いて帰るからということづてを頼んで馬車から降りた。私はフランクランドの後について食堂へ入った。
「ねえ先生、今日はわしの生涯での記念すべき日とでも言いたい、良い日なんでね」彼は嬉しそうに笑いながら言った。
「わしは二勝負もいっしょにかちとりましたよ。この近在の奴らに、法の力を教えてやりましたさ。ここには法律を相手にしても恐れぬ者がおりますのをな。わしはミドルトンじいさんの屋敷のまん中を通行できる権利をとりましたよ。じいさんの家の玄関から百ヤードと離れておらんところをね。どうです。いくらお大尽(だいじん)だからといって、われわれ庶民の権利を踏みにじってよいとは限らぬことを教えてやらにゃいけませんよ! それからファーンワージーの連中がピクニックによくやって来る森を、立入禁止にしてやりましたわい。あのあほうどもは、あの森には誰の所有権もないと思いおって、あそこなら紙くずだらけにしようが、酒を飲もうが勝手のつもりでおったらしい。でも両方とも判決がありましてな、ワトスン先生、ふたつともわしの勝ちでさ。いつか、サー・ジョン・モーランドが養兎場で鉄砲なぞ射ちやがるんで、侵入罪で訴えて勝ったことがあったっけが、あれ以来のことですわい」
「いったいどうしてそんなことをしたんです」
「この書類を見て下さいよ、先生。高等法廷裁決、フランクランド対モーランド事件、とあるでしょうがな。二百ポンドもかかったが、結局私の勝ちでしたよ」
「それで勝つと何か利益があるんですか」
「いいや、何もありませんよ、先生。でも、もうかる、もうからんで始めたこっちゃございません。世のためを思ってやったことですよ。おそらくファーンワージーの連中は、今夜あたり私の人形でも作って焼く気だろうて。この前も奴らがそんなことをしたことがあったので、やめさせるように警察に申し入れたことがありましたな。ところが州の警察というやつが、だらしのないもんで、私が当然受けてしかるべき保護をしようとしないときている。でも今度、フランクランド対女王事件てのを起こしますからな。その時にゃ私に向かってばかなことをすると後悔する目にあうにきまっておる。そろそろ私の言うことも、まんざらじゃないことがわかるときが来ますて」
「どういうことですかね。それは?」私はたずねた。
老人はしたりといった顔をした。
「というのはね、警察がなんとかして知りたがっていることを、わしは知っているんですよ。しかしどんなことがあったって、あの犬どもに教えてなんかやりませんよ」
それまでこの老人の無駄話から逃げ出す口実をさがしていたが、この間、もっと精(くわ)しい話を聞きたいと思いはじめた。だがこのつむじまがりの老人は私がむきになって聞きただすと口をつぐんでしまうにちがいないとわかっていた。
「なるほど、密猟しているやつでも見つけたんですか」私はさりげない態度で言った。
「ははは、君、もうちょっと重大ですわい。沼地へ逃げこんだ囚人のことはご存じかな」
私は驚いて言った。「その囚人がどこにいるか知っているというのじゃありますまいね」
「所在をつきとめたわけじゃないが、警察が彼に縄をかけるのに手伝いはできますわい。奴をつかまえるには、奴が食いものをどこで手に入れるか、それを手繰(たぐ)っていけば、てなことを考えたことがありますかな」
この老人はかなりきわどいところまで事実を知っているらしかった。「なるほどね。しかしどうして奴がこの沼地にいるということがわかりました?」
「わしは食いものを運ぶ使いのものを、この眼で見たんじゃ」
私はバリモアのために落胆した。この意地の悪いおせっかいな老人にしてやられると始末の悪いことになる。しかし次の彼の言葉を聞いてみると、いささか心の重荷がとれた。「その食いものは子供に運ばせているんじゃ。どうです。驚くでしょうが。毎日わしは屋根の上から望遠鏡で見とるが、同じ時分に同じ道を通って行きよる。あの囚人のところへ行くのじゃなかったら、誰のところへ行くということになりますかな」
まったく幸運だった! それでも私は無関心なふうをよそおったままにしていた。子供! バリモアも子供があの怪人にものを運んでいると言っていたが、そうするとフランクランドが出会ったというのはその子供なのだ。フランクランドが見かけていたのは、見知らぬ男の手がかりで、囚人セルデンのそれではなかった。ここでこの老人が知っていることを聞きだすことができれば、石室をいちいち探しまわる苦労と手数が省けるというものだ。だが信じられない顔もし、無関心をよそおうのが、最も効果のある切り札だった。
「このへんの羊飼いの伜(せがれ)が、父親へ弁当でも運んでいるとも考えられますね」
ちょっとした反対で、この頑固な老人の感情に火をつけるに十分だった。彼はいまいましそうに私をにらみつけ、怒った猫のようにごま塩の頬髯(ほおひげ)をぴんとたてた。
「ねえ、あんた!」彼は無辺にひろがっている沼地の彼方を指した。「向うに黒い岩山がお見えになるじゃろ。そら、あのイバラの茂った低い丘だ。あそこは沼地でもいちばん石の多いところじゃ。羊飼いがあんなところに羊を放すとでもいうんですかい。あんたのいうことはまったく馬鹿馬鹿しい」
私はすなおに、よく事情が呑みこめていなかったのだと謝まった。これは彼を喜ばせた。そこで彼はさらにその内証の話を詳しく話してくれた。
「わしはなにも根も葉もないことを言いませんじゃ。毎日、荷物を運ぶ子供を見とるんじゃ、日によると二度もな。だからわしは……おや、ちょっとお待ちなされ、ワトスンさん。わしの目のせいかも知れんが、いま、あの山の腹に何か動いていませんかな」
それは数マイル離れていたけれども、小さい黒いものが、薄よごれた緑と灰色を背景に動いているのが、はっきり見えた。
「こっちじゃ、こっちにおあがんなさい」フランクランドは階上へ駈け上がっていった。「さあ、自分の目でとくとごらんになって見きわめなさい」
そこにはとてつもない望遠鏡が三脚にのっかって、その家のトタン屋根にすえられてあった。フランクランドはそれにすがりついてのぞきこんでいたが、満足の叫び声をあげた。
「さ、早く、ワトスンさん。子供があの丘を越えてしまわないうちに」
目にうつったのは荷物を背にした小さな腕白小僧が丘を喘(あえ)ぎながら登っている姿だった。丘を登りつめると、そのぼろを着た異様な少年の姿は、寒々とした青空にくっきりと描き出された。と、彼は追跡を怖れる落人(おちうど)のように、不安そうにあたりを見まわして、山の向こうへ姿を消した。
「どうじゃな! わしの言ったとおりじゃろうが」
「たしかに、何か秘密の使いにいくといった様子の少年でしたね」
「その秘密の使いがどんなことかすら、州の巡査にはわからんのですって。だがひと言でもあいつらに話してやりますことかい。ワトスンさん、あなたもお話しになったらいけませんぞ、ひと言でも! よろしいかな」
「おおせのとおり、話したりしませんよ」
「警察のやつらはこのわしを酷(ひど)い目にあわせおった。フランクランド対女王の訴訟事件でいろいろなことが明るみに出ると、州全体が警察に対する憤りで湧(わ)きたつことになると言っても言い過ぎじゃありませんのじゃ。警察を助けるなんてまっぴらですわい。野次馬どもが藁(わら)人形のわしでなく、本もののわしを火焙(ひあぶ)り台へ押し上げても知らん顔をしているという手あいじゃ。おや、まだお帰りじゃありますまいな! このめでたい日を祝って、ひとつ大いに飲(や)ろうじゃありませんか」
しつこく引きとめるのを断ると、では送っていくというのをやっと振り切って、帰途についたが、老人の目のとどかないところまで行きつくと、私はいきなり沼地のほうへ方向をかえた。そしてあの少年が姿を消した石だらけの丘へ向かった。すべて私の思うとおりに進んでいた。運命の神のわが行く手に恵んでくれたこの好機を、気力と体力のつづく限り利用せずにはおくものか、と私は心にかたく誓った。
私が丘の頂きに達したときには、太陽はすでに沈みかかって、丘の片側の斜面は夕映えに金緑色に輝き、反対のほうには灰色の夕闇が迫っていた。はるか彼方の地平線にはもやが低くたれこめ、その上にベリヴァとヴィクスンの断崖が夢の中の景色のように頂きを浮きあがらせていた。前方の広いひろがりには物音ひとつ聞こえず、動くものすらなかった。鴎(かもめ)かタイシャクシギか、大きな灰色の鳥が、青空たかく、ただ一羽まいあがっていた。この茫漠とした天穹(てんきゅう)と荒地の間にあって、呼吸をしているものは、私とあの鳥だけのように思われた。
この不毛の土地、孤独感、そして私の使命の切迫感と謎が、私の胸をひやりとしめつけるようであった。あの少年の姿はどこにも見当らなかった。しかし、足もとの谷間に、ひと還(めぐ)りの石室があって、その中央に雨をしのげる屋根がひさしのように残っているのがあった。それを見ると、私の心は躍(おど)った。これこそあの怪人が潜んでいる巣窟に違いない。
とうとう私の足はそのかくれ場所の入口に立った。秘密は今こそ私の掌中(しょうちゅう)にあるのだ。
私は木の葉にとまった蝶に近づくステイプルトンよろしく、息をひそめてその石室に近づいた。しめた。そこには人の住んでいる形跡があるのだ。丸い岩石の間の薄暗い通路を進むと、玄関に使っているらしい荒廃した入口があった。中は物音ひとつ聞こえない。怪人はその中にひそんでいるのだろうか、それとも沼地をうろついているのだろうか。私の神経は冒険に際してひりひりした。口にしていた煙草を投げすてると、ピストルの床尾(しょうび)をしかと握りしめ、入口にさっと近づいて中をのぞきこんだ。中は藻(も)ぬけのからだった。
しかし、間違った筋道をきたのではない証拠がいくつもあった。これはたしかに人間の住んでいるところだ。新石器時代の人類がかつてその上で眠った石板の上に、防水布を巻いた毛布がころがっていた。粗末な炉には火を燃したあとの灰がうず高い。そのほか炊事道具がいくつか、バケツには水が半分満たされている。缶詰(かんづめ)のからが散乱しているところを見ると、相当長くここにいるらしい。
とぼしい光線に目がなれてくるにつれて、小皿が一枚と、半分ばかり残っている酒壜が隅のほうにあるのがわかった。石室の中央にある平たい石は食卓に利用されているに違いない。その上には小さな布でくるんだ包みが置いてあった……望遠鏡で見たとき、たしかにあの少年の肩にあった包みと同じものだ。中にはひとかたまりのパン、タン肉の缶詰ひとつに、桃の缶詰がふたつ入っていた。調べ終って、包みなおそうとすると、下に何か書きつけた紙があるのを見つけて心が躍った。おやと思って取りあげると、それには次のように下手な字で書きなぐってあった。
[ワトスン先生はクーム・トレイシーへ出かけた]
しばらくの間、私はこの紙きれを両手につかんでつっ立ち、このぶっきら棒な通信の意味を考えていた。では、あの怪人にねらわれていたのは、サー・ヘンリーではなく、この私だったのだ。そして自分でつけることはしていなくて、使者……おそらくあの子供……をつかって尾行させていたのだ。そしてこれがその報告なのだ。私がこの地に来てからの行動はおそらくその処置をとらなかったばかりに、すっかり目をつけられ報告されているのだ。われわれはいつも目に見えない圧迫感を感じていた。何か巧妙きわまりない網が張りめぐらされ、しかもかすかで、最後のどたん場にならないと、その網にからまっていることが気づかないほどに、われわれを包んでいるような気はしていたのだ。
ここに報告がひとつある以上、ほかもあるに違いない。そこで石室の中を探しまわったが、それらしいものは何も見つけ出せなかった。それにこの風変わりな場所に寝泊りしている男の性格とかその意向を示すものも、何ひとつ見つからなかった。ただこの男はスパルタ風な習慣を身につけ、生活の享楽など考えることのないような人間だということだけがわかったくらいのものだ。
あの大雨のことを考えて、穴だらけの屋根を見ると、この居心地の悪い隠れ家にひそんでいることは、よくよく強い不屈の目的を抱いているに違いないと察しはついた。彼はわれわれに悪意を抱く敵だろうか、それとも案外われわれを守ってくれる天使かもしれない。とにかく、それがわかるまではここを去るまいと私は決心した。
そとはすでに太陽は低く沈み、西のほうは真紅の黄金に映えていた。その光りははるか向こうのグリムペンの底なし沼の中にある、あちこちの水たまりに当って、真っ赤な斑点となってはね返っていた。バスカーヴィル邸のふたつの塔も見える。その向こうにたなびいている煙は、グリムペンの部落を示すものだ。その中間の、丘の向こう側にあるのはステイプルトンの家である。
何もかも美しく、やさしく、平和に息づき、黄金の夕焼に包まれているが、目をやりながらも、私の心はどうしてもその平和な自然になじむことはできなかった。刻々と迫ってくる怪人との出会いを思えば、とりとめない恐怖におののくのだ。たかぶってくる神経を押えながらも、決心の臍(ほぞ)を決めて、暗い石室の片隅に腰をおろし、怪人の帰りを待ちわびたのだった。
とうとう私はその足音を聞いた。遠くのほうで石にあたる鋭い靴音が聞こえたのだ。石を踏みしめ踏みしめ、一歩一歩近づいてくる。私はいちばん暗い片隅に引っこんで、ポケットのピストルの引き金に指をかけた。そして彼の姿を認めるまでは、こちらの姿を見せまいと決心した。しばらく足音がとまっていた。彼は立ちどまったのだ。それからもう一度、一歩、二歩、足音が近づき、石室の入口にその影がさっとさした。
「ワトスン君、美しい夕暮れだね」
聞き慣れた声だった。「中にいるより、きっと外のほうがずっとはればれするよ」
とっさのあいだ私は息をのんで、自分の耳を疑った。やがて我にかえり、声も出るようになったが、それまで重く私の肩にのしかかっていた責任が、その瞬間、急に取りはずされたように感じたのだった。その冷静な歯ぎれのよい、そして皮肉にさえ感じられる声は他人のものであるはずはない。
「ホームズ!」私は声をあげた。「ホームズ君」
「出てきたまえ、だがピストルに気をつけてくれよ」
入口の庇(ひさし)から身をこごめて顔を出すと、彼はそこの石に腰をおろしていたが、その灰色の目が私の驚き呆(ほう)けた顔を見て、茶目っ気に踊っていた。痩せこけてやつれ、その鋭い顔は陽に焼け、風にさらされて荒れてはいたが、さっぱりした様子できびきびしている。ツイードの服を着てハンチングをかぶっているその姿は、まるでこの沼地の旅人と言ったふうであった。しかも猫のように身躾(みだしな)みのいいのは何時ものことだが、まるでベイカー街にいるときとおなじに、ここでも顎(あご)をきれいに剃りあげて、シャツには皺(しわ)ひとつよせていない。
「誰に会っても、こんなに嬉しいと思ったことはないよ」私は彼の手を堅く握りしめた。
「それに、こんなに驚いたことはない、とね」
「うん、白状するとね」
「いや、驚いたのは君のほうだけじゃない。君がまさかこの僕の仮りの隠れ家を見つけるなど、思いもしなかったし、この入口から二十歩のところにくるまで、君が中にいるとはなおさら考えもしなかったよ」
「僕の足跡を見つけたのかい」
「そうじゃない、ワトスン。君の足跡を世界中の足跡の中に見分けるなんてことは約束できんな。もし君が真面目に僕をだまそうというのなら、煙草屋をかえなくちゃいけないね。オックスフォード街のブラッドリー印の煙草の吸殻を見つけたとき、わが友ワトスンがこのあたりにいるな、とさとったのさ。そら、そこの道の横だよ。君はこの無人の石室に、いざ突入しようというとき捨てたんだろう」
「いや、そのとおりだ」
「それで僕はすぐ思った、君の賞賛すべき粘り強さは知っているから、武器を手のとどくところに置いて、ここの住人の帰館を待ち伏せているとね。ところで実際に君は僕を脱獄囚とでも思ったのかい」
「誰だかわからなかったが、見きわめようとは決心したよ」
「えらい、ワトスン。しかしどうして僕のこの住み家をつきとめたのだ。君たちがあの囚人追跡をやった夜、僕はうっかり月がうしろに出るのを忘れるようなことをしたからね、そのとき僕を見たというわけか」
「そうだ、あのとき君を見たんだ」
「じゃ君はここにくるまで、石室をひとつひとつ探してみたんだね」
「いいや、君のつかっている少年が見つけられたんだよ。それでどこを探したらいいか見当をつけたんだ」
「じゃ、あの望遠鏡の老人だな。レンズに光線がピカリと反射するのを見たとき、最初はそれがなんだか見当がつかなかったがね」彼は立ちあがって石室をのぞきこんだ。「やあ、カートライトが補給をしてくれているな。この紙は何だろう。なるほど、君はクーム・トレイシーに行ったのか」
「ああ、行ったよ」
「ローラ・ライオンズに会うためだね」
「うん、そのとおりだ」
「うまいぞ。僕らの捜査はちょうど平行に走っていたんだ。その結果を綜合すれば、この事件のいろいろのことがわかるということだな」
「まったく僕は君を心から歓迎するよ、どうも責任の重大さと事件の不可解なことが僕の神経に堪えられなくなって、音(ね)をあげかけたところだったんだ。しかしいったい君はどうしてここに来たんだい、そして何をしていたんだ。僕はまた君がベイカー街で例の脅喝(きょうかつ)事件に首をつっこんでいるとばかり思いこんでいたよ」
「そう思っていてもらいたかったな」
「じゃ、僕を動かしていながら、信頼はしていなかったというわけだな。僕は君のお役に立ったつもりでいるんだがね、ホームズ」多少にがにがしい思いで私は言った。
「いつものことだが、今度も君はどれだけ功績があるかわからないよ。もし僕が君をだましたように思えたなら許してくれ給え。しかし、僕がきたのは実際は君のせいでもあるんだぜ。僕の判断では君が危険に近づいていることが感じられたから、こうしてここに出向いて、自分でこの事件を調べようという気になったわけだ。僕が君やサー・ヘンリーのそばにいたとしても、君らと同じように考えていたと思うし、それに僕がいるということになれば、この恐るべき敵は大いに警戒すると思ったからね。それでこの通り歩きまわることもできたよ。屋敷にいたら、そうはいかなかったろうじゃないか。つまり敵に対しては未知数の力を残しておき、いざという場合に全力を注ごうというつもりだったんだ」
「しかし、なぜ僕を暗雲(あんうん)の中に放っておいたのだい」
「君が知っていても何の益もないと思ってね。そのため僕が見つかってしまうおそれもある。君が僕に何か言っておきたいと思うときもあるだろうし、それに親切心から、何か陣中見舞いのようなものを持ってきただろうし、そうすれば不必要な危機を招いたことになるな。僕はカートライトをつれてきたよ。おぼえているだろう、あのメッセンジャーの小さな小僧だ。あいつが僕の簡単な欲求を満たしてくれている。なに、パンときれいなカラーだけさ。これ以上、必要と思うかね。そのうえ、あの子は目もきくし、足も丈夫だから結構役にたってくれたよ」
「すると僕の報告はみんな、なくてもよかったようなものだな」
その報告をつくったときの苦労と得意な気持を思い出すと私の声はふるえた。ホームズはポケットから一束の手紙をとり出した。
「まあ、そう言い給うな。君の報告はここにあるよ。ほら、ずいぶんと読んだあとがあるじゃないか。僕はちゃんと手筈(てはず)をきめておいたから、手許にとどくのはわずか一日おくれるだけだった。この難局に示した君のすばらしい熱意と手腕に対して、僕は実際に感心しているのだよ」
私はまだ、このたくらみにしてやられたことに心中おだやかでなかったが、ホームズのこの讃辞に怒りは氷解(ひょうかい)した。それに心では彼の言うことが正しいとは感じていたのだ。彼がこの沼沢地に来ているのを私が知らないでいたほうが、結果的には良かったのだという気がしてきた。
「それはよし。ところでローラ・ライオンズ夫人訪問の結果はどうだったんだね」私の心の和らぎが顔に現われるのを見てとったホームズは話を進めた。「いや、クーム・トレイシーで、この事件で役に立つ人間と言えば彼女くらいだ、ということは僕はもう知っていたから、君が会いたのは彼女だというのも大体察しはついたよ。君が今日行ってくれなかったら、明日僕が行かねばならんところだった」
太陽はすでに沈み、黄昏(たそがれ)が沼地をつつもうとしていた。空気が冷たくなったので、私たちふたりは暖を求めて石室に入った。薄明りの中でふたりは向い合ってすわり、私はライオンズ夫人との会見のいきさつを話した。彼は非常に熱心に聞き入っていたが、二、三の事柄については心ゆくまで私にくり返させた。
「ここが最も重要な点だよ、君。この複雑な事件で今まで埋めるのに悩んだ[みぞ]を、それが埋めてくれるんだ」私の話が終るとホームズは言った。「君は気がつかなかったかい。この婦人とステイプルトンという男との間には特別に親密な関係があるよ」
「そう親しいというわけでもあるまいが……」
「いや、その点では疑いなしだ。あのふたりは会っているし、手紙のやりとりもしている。完全に手を結んでいるよ。これで僕らは非常に強力な武器を持ったわけだ。もしこれを利用して、あいつの細君を引き離すことができれば、の話だがね」
「あいつの細君だって?」
「君の情報の返礼に、ひとつ教えてやろう。このあたりではミス・ステイプルトンで通っている女は、実はあいつの細君というわけさ」
「何てことを言うんだ。確信はあるのか、ホームズ。じゃ何だって彼はサー・ヘンリーが彼女と恋に落ちるのをそのままにさせておくんだい」
「サー・ヘンリーが恋に落ちても、困るのはご当人だけで害はないからさ。サー・ヘンリーがその恋を実行にうつさないように、とくに彼が気をくばっていることは、君も知っているとおりだ。くり返して言うが、あの女はあいつの妹ではなくて、細君なんだよ」
「じゃ、なぜ、そんな念入りな騙(だま)し方をするんだね」
「つまり、あいつはあの女が自由の身だということにしておけば、有利だというのを見抜いているからさ」
今までの私の心のわだかまり、ぼんやりした疑念が突然はっきりした形をとって、あの博物学者のステイプルトンに集中された。麦藁帽子をかぶり、捕虫網を振りまわしているこの血の気のない男に、私は何か恐ろしいものを見たように思った。夜叉(やしゃ)のごとき心を笑顔でつつみ、おそろしく忍耐強く、おそろしく奸智(かんち)にたけた男を。
「じゃ、あいつなんだね、僕らの敵は……ロンドンで僕らをつけまわしたのはあいつだったのか」
「そう考えるほかはないな」
「じゃ、あの警告状は……彼女がよこしたわけかな」
「そうだ」
今まで五里霧中、闇の中に閉ざされていた凄惨(せいさん)な悪事の全貌が、半ば想像ながらに姿を現わしてきたようであった。
「しかし、確かなんだろうね、君。またどうしてあの女が、あいつの細君だというのがわかったんだい」
「君があいつに始めて会ったときに、うっかりして自分の前歴をちょっと君にしゃべってしまったが、後で何度もそのことを後悔したと言えるね。彼は昔、北部で教員をしていたと言ったが、教員ほどその身許が調べやすいものはないよ。教員就職紹介所はいくらでもあるから、いちど教員をした者なら、すぐ調べはつく。ちょっと調べてみると、ある学校が何かひどい事情で失敗し、廃校になったということがわかった。そしてそこの校長が……名前はちがっていたが、細君を連れて姿を消しているんだ。人相は合っているし、おまけにその失踪をした男が昆虫学に熱中していたことがわかれば、これでぴったり合うじゃないか」
謎はとけてきたようだが、まだ影にかくれてわからないところがたくさんある。
「あの女が本当に細君だとしてもだよ、ではどこにローラ・ライオンズの入ってくる余地があるんだい?」
「君の捜査が鍵を与えてくれたのはそこなんだ。君とあの婦人との会見は状況をはっきりさせてくれたよ。僕は、あの女とその夫との間に離婚の計画があることなど、ちっとも知らなかった。考えてみると、つまりね、あの女はステイプルトンを独身の男と思いこんで、その細君になるつもりでいるんだ」
「ところが、だまされているとなると、どうなるだろう」
「そこで、彼女が僕らの役にたつわけだよ。とにかく明日はまず彼女に会う必要があるな、ふたりでな。ところで、ワトスン君、だいぶ、君の持ち場のほうがお留守になったようだね。そろそろバスカーヴィル邸に帰ったほうがいいよ」
西空に落陽の名残りが消え去り、沼地にはすでに夜の帳(とばり)がおりていた。二つ、三つ、星が紫の空にかすかにまたたいている。
「最後にひとつだけ聞きたいんだがね、ホームズ君」私は立ちあがりながら尋ねた。「君と僕との間では秘密にしておくことは何もないはずだが、これはいったいどういうことなんだね。あいつはいったい何をしようというんだろう」
ホームズは声を落した、「殺人だよ、ワトスン。巧妙で残酷で、しかも慎重に考え抜いた殺人だよ。だが、細かいことは聞かないでくれ給え。僕があいつにかけた網はせばまっているし、あいつがサー・ヘンリーにかけた網もせばめられている。それに君のおかげで、あいつはもう僕らの思うままなんだ。しかしひとつだけ危険がある。それはあいつに先をこされはしないかという心配だ。もう一日、いや少なくとも二日あれば、僕のほうは完全に準備ができあがるから、それまでは、君は病気の赤ん坊を見まもる母親のような気持で、君の責任を慎重に果してくれ給え。君の今日の働きは、それだけではみごとなもんだが、サー・ヘンリーのそばにいてくれたほうがよかったと思うね。……おや」
恐るべき叫び声……長くひっぱった苦痛と恐怖の悲鳴が沼地の沈黙を破って響き渡った。その物凄い叫びは私の全身の血を凍らせてしまった。
「おお!」私は喘(あえ)いだ。「何だ、いったいどうしたのだ」
ホームズはもう立ちあがり、出口に駈け寄って、身をこごめ、頭を出して闇の中をすかして見ていた。
「静かに」彼は声を殺して低く言った。
その叫びは耳に強く響いたが、遠く離れた丘のかげから響いてきたものであった。そしてそれがいっそう高くなり、近づいてき、前よりもまだすさまじくなった。
「どこだろう」ホームズは声を低めて言ったが、その声は少し震えて、この鉄のような男も心底からこたえたように見えた。「どこだろう、ワトスン」
「あそこじゃないか」私は闇の中を指さした。
「違う、あそこだ」
ふたたび苦痛の叫びが夜の沈黙を貫いて響き渡り、前よりもなお高く、近くなった。そして新しい声がそれに加わり、低いが、底力のある唸りが断続して、威嚇(いかく)的に、まるで海の響きが波うってよせてくるように近づいてきた。
「犬だ。行こう、ワトスン。畜生、してやられたかな」
ホームズはすでに沼地を走っていた。私はそれに続いた。すると、私たちのすぐ前の低地のどこからか、断末魔(だんまつま)のうめきが聞こえ、どさっと何かがたおれる重い音がした。私たちは走るのをやめ、立ちどまって耳を傾けた。風もない夜の空気は鎮(しず)まりかえって、もう音は聞こえなかった。
ホームズは狂気したように額を手でおおって、地団駄(じだんだ)をふんでいた。
「やられたよ、ワトスン。おそすぎた」
「いや、そんなはずはない」
「手を控えすぎて失敗したんだ。それに君もだ、ワトスン。君が責任を放り出すからこんなことになるんだ。しかし、必ず、最悪の事態になったとしても、きっと復讐してやるぞ」
闇の中を、私たちは丸石にまごつき、ハリエニシダを踏みわけ、斜面をのぼりおりして、ひたすら、あの恐ろしい声のしたほうへと、盲滅法(めくらめっぽう)に突っ走った。丘をのぼるたびに、ホームズは周囲を一心に見まわしたが、すでに沼地一帯には闇が立ちこめ、その荒涼とした面には動く影すらなかった。
「何か見えるか」
「いいや」
「おや、あれは何だ」
低いうめき声が微(かす)かに聞こえてきた。今度は左手だ。岩の尾根の片端が切りたった断崖になって、そこから岩だらけの傾斜地が見おろせた。その岩だらけのスロープの上に、何か黒いぼんやりしたものが見えた。駈けていくと、その形がはっきりしてきた。それはうつぶせにたおれている男で、恐ろしい角度で首筋が折れて胴体の下にまげられ、肩をまるめ、その身体は弓なりに曲がっていたが、この男は断崖の上からもんどりうって落ちたようだ。その言語に絶する凄絶(せいざつ)な光景に、私はさっきの断末魔のうめきがこの男の声であったと、とっさに信じられなかった。私たちがその上にかがみこんでみると、この男は小声も立てず、微動だにせず、すでにこと切れていた。ホームズは手を出して、その死体を起こそうとしたが、急に恐ろしい叫び声をあげた。彼のすったマッチのかすかな光りが、その硬直した指と、砕けた頭蓋(ずがい)から徐々に流れ出して、ひろがっていく血のりを照らし出した。その照らし出された姿に、私たちは息をのみ、気が遠くならんばかりであった。……サー・ヘンリー・バスカーヴィルの死骸だったのだ。
その赤色がかったツイードの服は、私たちがベイカー街で彼と初めて会ったときに着ていたもので、忘れようのないものであった。それをはっきり見てとると、マッチの光りがゆらめいて消えた。最後の望みも絶え果てたようだった。ホームズはうめいた。その顔が蒼白になっているのは夜目にもわかった。
「畜生! 畜生!」私はこぶしを打ちふって叫んだ。「ああ、ホームズ、彼をこんな運命に追いやったのは僕の責任なんだ」
「もっと非難されていいのは君よりも僕のほうだ、ワトスン。事件を手ぎわよく片づけようとしたのが、かえって依頼者の命を絶つことになってしまったのだ。これはこれまでに振りかかったことのない最大の打撃だ。しかし、なんとしてもわからない。あれほどの僕の警告をおかしてまで、どうしてひとりでこの沼地にさまよい出てきたのかなあ」
「彼の悲鳴を……あの悲鳴を聞いておりながら、しかも助けることができなかったとは! 彼を死に追いたてたあの悪魔犬はどこにいるんだ。あのときはきっとこのへんの岩の間に潜んでいたのかもしれない。そしてステイプルトン、奴はどこにいるんだ。この仇はきっととってやるぞ」
「もちろんだよ。今に見ているがいい。伯父と甥(おい)がふたりとも殺されたんだ……ひとりはその動物を見て、伝説の怪獣だと思って恐怖のあまり死んでしまうし、もうひとりはそれから無我夢中で逃げているうちに、死に追いやられてしまったんだ。今度は僕らはそのけものとあの男との関係を調べてみなければね。僕らはその吠えるのは聞いたが、そのけものが実際にいるとは言いきれない。サー・ヘンリーは崖から落ちて死んだんだからね。何と悪がしこいやつだ……しかし、後一日と言わぬうちに、やつの正体をつかんでやるぞ」
私たちはこの惨死体をはさんで沈痛な思いを噛みしめていた。長い苦心の果てが、この突然の取りかえしのつかぬ惨事になって痛ましくも終ったことは、諦めようにも諦めきれぬものがあった。
月が昇った。私たちはこの凄惨(せいさん)な事件に終止符をうった岩にのぼってみた。そこからは朦朧(もうろう)と闇と銀色にかすんでいる沼地の起伏が一望のもとに見渡せた。遠くグリムペンの方向、数マイル離れた場所にただひとつ黄色の光りがきらめいていた。それは人里離れたステイプルトンの住居のものに違いない。それを見たとき、私は拳(こぶし)をふって、呪いの言葉を出さずにはいられなかった。
「なぜ、今すぐにでもあいつをつかまえられないんだい」
「そうは簡単にいかんよ。あいつはどこまでも用心深く悪がしこいやつなんだ。やつがやったと知るだけじゃ駄目だよ、その証拠がなければね。一歩あやまてば、悪党めを逃がしてしまうよ」
「じゃ、どうすればいい」
「明日、することはたくさんあるよ。今夜はこのあわれな死体に最後の勤めをしてやれるだけだ」
私たちはそろってその絶壁をおりて、月の光りに照らされた石の間に、くっきり黒く浮き出された死体に近づいていった。その硬直し、よじれた手足を見て、今さらの苦しい思いに私の顔はゆがみ、目は涙で曇った。
「誰かに来てもらわねばなるまいな、ホームズ。死体を屋敷までかついでいくことはとてもできないよ。おや、どうしたんだ、君は気でも狂ったのかい」
彼は奇声をあげて、死体にかがみこんでいた、と思うと踊りあがり、声をあげて笑い、私の手を痛いほどにぎりしめた。このきびしい、自制心の強い男にあり得ることだろうか、まったく見かけによらない感動ぶりだった。
「顎髯(あごひげ)だよ……この男には顎髯がある」
「顎髯だって」
「この男はサー・ヘンリーじゃないんだ。だって、これは僕の隣人だぜ、あの脱獄囚だよ」
狂おしいような思いで、私たちはその死体をひっくり返してみた。その血のしたたる、つき立った顎髯が、冷たい月の明かりに照らされた。突き出た額、落ちくぼんだ野獣の目、これこそあの夜、岩の上でローソクの光りの中から私たちをにらみつけた顔、脱獄囚セルデンの顔に違いなかった。
そのとき私にはいっさいが氷解した。私はサー・ヘンリーがその洋服をバリモアにやったと話していたのを思いだしたからだ。そしてバリモアから、それがセルデンの逃亡の旅装として手渡されたのだ。靴もシャツもハンチングに至るまで、みなサー・ヘンリーのものであった。痛ましいことには違いないが、しかしこの男は国の法律によって少なくとも死を宣告されたことがあるのだ。私は感謝と喜びで踊り上がらんばかりの気持で、そのいっさいの事情をホームズに話した。
「じゃ、その洋服がこのあわれな男を殺したんだ」と、ホームズは言った。「犬はサー・ヘンリーの身のまわりのものを嗅がされていたんだ。おそらくホテルで盗まれた靴の片足だと思うがね。だからこの男を追いかけて崖から落したんだろう。しかし、ひとつわからないことがある、なぜ、暗闇の中で、このセルデンは犬につけられていることを知ったんだろうね」
「声を聞いたんだよ」
「これほど腹のすわったやつが、沼地で犬の唸り声を聞いただけで、こんなに恐れて、しかもつかまるという危険をおかしてまでも、大声で助けを求めるわけはないじゃないか。あの声から察すると、よほど長く追っかけられたに違いないんだが、いったいどうして犬に追いかけられていることを知ったんだろう」
「いや、それよりも不思議なのは犬そのものがだ……僕らの臆測があたっているとしたら……」
「なにも不思議はないさ」
「なぜだい、じゃ、なぜその犬は今夜に限って放されたんだ。そいつが毎日放されて沼地をかけまわっているとは思われないね。ステイプルトンはサー・ヘンリーが沼地に出てきたという確信がなければ放さないと思うが」
「僕の疑問はもっとそれよりも根の深いところにあるんだ。君の疑問はすぐにでも解けると思うが、僕のはいつまでも謎だな。目下の問題は、このあわれなやつの死体をどうするかだ。まさか狐や鴉(からす)にまかせておくわけにもいくまい」
「石室にいちおう入れておいて、警察に連絡するとでもしようか」
「それがいい。ふたりがかりでも、そう遠くまで運べないからな。おや、ワトスン、これは何だ。来たよ、あいつが。まあ、何てずうずうしいやつだ。だが、疑ぐっているようなことは、ひとことも言っちゃ駄目だぜ……本当にだよ。言うと僕の計画はおしまいだからな」
人影が沼地をこえて近づいてきた。葉巻のにぶい赤い火がぽつりと浮いて見える。月明かりに照らされた男は、小柄のちょっと取りすました歩き方をするステイプルトンとわかった。彼は私たちを見ると立ちどまったが、すぐ近づいてきた。
「ワトスン先生じゃありませんか。こんな時間にここでお会いするなんて、思いがけませんでしたよ。おや、これは何です。誰か怪我でもしたんですか。まさか、サー・ヘンリーじゃありますまいね」
彼は私のそばをすりぬけ、その死体の上にかがみこんだが、思わず手にした葉巻を落として息をのむのが聞こえた。
「誰です……これは誰ですか」彼はどもった。
「セルデンです。プリンスタウンから脱獄した男ですよ」
ステイプルトンは真蒼な顔をこちらに向けた。しかし驚くべき努力でその驚きと失望をおしかくして、鋭くホームズから私へと視線をうつした。
「何とむごたらしい事件だ。どうしてこういうことになったのです?」
「あの崖から落ちて頚筋(くびすじ)を折ったらしいですね。僕とワトスン君は叫び声を聞いたとき、この沼地をぶらぶらしていたのです」
「その叫び声は私も聞きました、それでここに出てきたんです。サー・ヘンリーのことが心配になっていましたからね」
「またどうして、サー・ヘンリーのことが、とくに気になるんです?」私は訊かざるを得なかった。
「どうしてと言っても、今日はあの人を招待していたのですよ。いっこうお見えにならないので心配した矢先に、驚きました。沼地であの叫び声でしょう。彼の身を案じないわけにはいかないじゃありませんか。それにしても……」
彼の目はふたたび私からホームズへすばやく移った。「何かほかの声をお聞きになりませんでしたか」
「いや、あなたは聞かれたのですか」ホームズは言った。
「いいえ」
「じゃ、なぜそういうことをお聞きになるんです」
「農夫どもが話しているまぼろしの犬のことなど、ご存じでしょうに。夜になると、この沼地でその声が聞こえるというのです。今晩、何かそんな声が聞こえなかったかと思ったものですからね」
「そんなものは何も聞こえませんでしたよ」私は言った。
「このあわれな男は、いったいどうして死んだんでしょうね、あなたはどう思われますか」
「見つかったという不安が、彼の頭を錯乱させてしまったんですよ。狂気のようにこの沼地を走りまわっているうちに、ここに落ちて頚筋を折ってしまったんじゃないでしょうかね」
「それが最も確かなところでしょうな」ステイプルトンはそう言って、ほっとして息をついたようであった。「あなたどう思われます、シャーロック・ホームズさん」
彼はちょっと会釈をしていった。
「よく私がおわかりですね」
「ワトスン先生がいらしたんですから、あなたがこちらに見えることはわかっていましたよ。この惨事を見るのに間にあわれたと言うわけですな」
「そういうことになりますね。私もワトスン君の説明が事実のとおりだと思います。明日は後味の悪い気持でロンドンに帰らねばなるまいと思っています」
「明日、おかえりになるんですって」
「そのつもりです」
「あなたがお出でになったので、今まで私たちを悩まし続けた一連の事件に解決の道をつけていただけると思っていましたがね」
ホームズは肩をすくめてみせた。
「いつも思うように成功するとは限りませんからね。調査するものに必要なのは事実なので、伝説とか噂はあらずもがなです。まったく満足な結果の得られぬ事件でしたよ」
ホームズは例のとおりに率直にそして淡々と話していた。ステイプルトンはしばらく彼を見つめていたが、私のほうに向きなおった。
「このあわれな男を私の家へ運んでやったらと申したいところですが、妹がこれを見ると驚くでしょうから、それもおすすめできず、このまま顔の上に何かかけておけば、明朝までは大丈夫でしょう」
そこで死体はそのままにしておくことになった。ステイプルトンのたっての招きを断わって、私たちはバスカーヴィル邸へ向かい、ステイプルトンをひとりで帰らせた。ふりかえると、その人影が広い沼地の向こうへゆっくりと動いているのが見え、その背後にはあの悲惨な最後をとげた犠牲者が、銀(しろがね)の沼地の傾斜に、にじんだように横たわっていた。
「いよいよ最後のどたん場にきたな」沼地を横ぎって行くみちみち、ホームズが話しかけた。「なんという図々しいやつだ。自分のかけた罠にちがう男がひっかかっているのを見たとき、普通のやつだったらぼろを出すところだが、ぐっと踏みこたえたんだから大したもんだ。ロンドンで君に言ったことがあるが、これまでになく、相手にして不足のないやつだよ」
「しかし、君があいつに見つかったのはまずかったね」
「まあ、そうだ。しかし、あの場合は仕方がなかった」
「君がいるのがわかったからには、今後のあいつの計画もかわってくるだろうね」
「やつはいっそう警戒するかも知れないが、かえってすぐ一(いち)か八(ばち)かの手段に出るかも知れん。奸智にたけたやつは、とかくその奸智を買いかぶるものだが、あいつは僕たちをうまく騙(だま)しおおせたと思っているかも知れないよ」
「どうして、すぐにでもあいつを逮捕できないのかなあ」
「ワトスン、君は生来の活動家だよ。いつも何かしたくてうずうずしているほうだな。しかし、考えてみたまえ。これは話の上だが、彼を今晩逮捕したとしても、それだからといってどうにもならないよ。何も証拠をあげることができない。驚くほど奸智にたけたやつだ。もしあいつが人の手をかりてことを運んでおれば、何か証拠も引き出せようが、相手が犬ではねえ。あの大きな犬を明るみに引きずり出したところで、それだけで主人の首に縄をかけるわけはいかないからね」
「だって事件はちゃんと起こっているんだよ」
「その影もないよ。……わかっているのは臆測に過ぎないからね。その言い分と伝説を証拠にして法廷に出ても笑われるだけだ」
「サー・チャールズが死んだんだよ」
「死体は無傷のまま発見されたんだ。彼が何かに対する恐怖のあまりに死んだということは君と僕の間だけの話で、それをどうして十二人の頭のかたい陪審員に理解させるのだ。犬がいたという証拠はどこにもないし、犬の歯のあともないじゃないか。もちろん、犬というものは死体には噛みつかないということはわかっている。そしてサー・チャールズがとびつかれる前に、死んでいたということもわかっているがね。それをすべて立証しなければいけないんだ。ところが僕たちはそこまでいっていない」
「じゃ、今晩のことは」
「今晩だって、たいしてよくいっていない。もういちど言うが、犬とあの人間の死との間には何も、直接の連絡がないんだ。僕たちは犬を見なかった。ただその声を聞いただけさ。その犬が人間を追いかけたという証拠にはならないんだよ。まったくこの事件の動機の裏づけがないんだ。そうだよ、僕たちは今のところ何も証拠をつかんでいないと思うよりほかはない。だからその証拠をつかむため、あらゆる危険をおかしても、その値うちはあるわけだよ」
「と言うと、君はどんなことを計画しているんだ?」
「ローラ・ライオンズに事件の真相を話せば、どんな反応を示すか、それに大いに期待をかけている。そして僕にもちゃんと計画がある。一日の苦労は一日にて足れりだ。しかし明日という日が終らぬうちに、何とかやっつけたいな」
それ以上、細かなことはもうホームズから聞きだすことはできなかった。そして、なにか考えごとに我を忘れて、バスカーヴィル邸に着くまではひと言も口をきかなかった。
「君もなかに入るだろうね」
「ああ、もうかくれている理由もない。ひとこと、言っておくけれど、ワトスン君。サー・ヘンリーには犬のことはいっさい話さないでくれ。セルデンの死についてはステイプルトンが僕たちに信じこませようとした話のとおりに思わせておくんだね。明日の試練に平静な心で対決してもらわねばいけないからね。記憶に誤りがなければ、君の報告では、彼はあいつらと食事をすることになっていたね」
「僕も行くことになっているよ」
「では、何か口実をつくって、行かないようにしてくれ。ひとりで行かせなくてはいけない。簡単にいくだろう。さて、夕食にはおくれたとしても、何か夜食の用意ぐらいはあるだろうね」
サー・ヘンリーはシャーロック・ホームズに会って、驚くよりもむしろ喜んだ。最近に起こったいろいろな事件で、彼がロンドンから腰をあげるだろうと、数日間、心待ちしていたからである。しかし私の友が手荷物ひとつ持たず、またそのことで言い訳もしないのを見ると、いぶかしげに眉をあげたものだ。ホームズには、すぐに必要なものを都合つけてやり、それから遅まきの夜食をすませた。
ホームズと私は、ふたりが経験したことで准男爵の知っていたほうがよいと思われるかぎりのことを説明した。だが第一番に、私には、セルデンの死というニュースを、バリモア夫妻にあかさなくてはならぬ、いやなつとめがあった。バリモアにとっては、まったくほっとした思いだったようだが、細君はエプロンに顔を埋めてはげしく泣いた。世間全体には狂暴な男であり、半獣半魔ではあったが、彼女にとってのセルデンは、いつまでも少女時代の、やんちゃな、彼女の手にまといつく子供であったのだ。その身をなげいてくれる女性がひとりもないという男こそが、真に悪者なのだ。
「ワトスン君が朝出かけてしまってから、一日じゅう家でふさぎこんでいましたよ」准男爵は言った。「ほめられるだけのことはあってもいいですよ。約束を守ったのですからね。ひとりで出歩かないと約束さえしなかったなら、もっと楽しい夜がすごせたでしょうに。ステイプルトンから招待のことづてがありましたからね」
「まったく、すばらしく愉快な夜をすごせたでしょうにね」ホームズは冷たく言った。「それにしても、あなたが首の骨を折って倒れているのを、私たちが悲しみにくれて見つめているなんて、嬉しい図だとは考えられませんがね」
サー・ヘンリーは目をみはって驚いた。「それはまたどういうことですか」
「この憐れな男は、あなたの洋服を着ていたのです。服をこの男にあたえた、あなたの召使いが、警察と悶着を起こすかもしれませんよ」
「それは大丈夫でしょう。あの洋服には私のだという印は何もないと思いますからね」
「それはよかった。実のところ、あなたがた全部にとっても運がよかったのですよ。この事件については、あなたがたは法律違反ですからね。良心的にやれば、全員を検束するのが、私の第一の義務でしょう。ワトスン君の報告は有罪のきめ手になる文書です」
「ところで、事件のほうはどうなんですか」准男爵はたずねた。「このもつれた事件から何かつかみだしましたか。ワトスン君にしても私にしても、ここへ来てから、ずっと利口になったとは思われません」
「まもなく事態をもっとはっきりしたものにして差し上げられる、といったところだと思います。ひどく厄介で解決のむずかしい仕事でした。もう少しはっきりしなければならない点がいくつかあるのですが、いずれにしてもはっきりしますよ」
「たしかワトスン先生がお話ししたと思いますが、われわれもひとつの事件にぶつかったのです。沼地で犬の鳴き声を聞いたのですよ。ですから犬については、まったく根も葉もない迷信とばかりは言えませんね。私は西部にいたとき、多少犬をあつかっていましたから、鳴き声を聞けばすぐそれだとわかります。あなたがあの犬に口輪をはめて、鎖につなぐことがおできになるなら、私は即座にも、あなたが古今を通じて最大の名探偵だと申しましょう」
「あなたにご援助いただけば、まちがいなく口輪も鎖もつけられますよ」
「しろとおっしゃるなら、なんでもするつもりです」
「結構です。それと、どんなときでも理由をたずねず、盲目的にそれをやっていただかねばならないのですが」
「そういたしましょう」
「そうしていただければ、このなんでもない問題もまもなくかたづく見こみはあります。たしかに私は……」
彼は急に口をつぐむと、私の頭上の空間をじっと見つめた。微動だにもせず、あまり熱心にみつめているので、ランプの光りがあたったその顔は、緊張と期待を具現した古典的彫像の、輪郭あざやかな顔かとみまごうばかりであった。
「どうしたのです」われわれは共に叫んだ。
彼が目を落したとき、顔には何か内心の激しい動きをおさえているさまが見てとれた。平静な顔してはいたが、目は喜びにわきたって、輝いていた。
「失礼ながら、あの絵をうっとり鑑賞していたものですから」
彼は向い側の壁をおおって一列にならんだ肖像画を指さしながら言った。「ワトスン君は、私の美術鑑識をみとめないのでしょうが、そいつは嫉妬(しっと)にすぎません。われわれふたりは物の見方がちがってるんですからね。それはそうと、これは実際すばらしい肖像画ですね」
「はあ、お言葉をうかがってよろこびにたえません」サー・ヘンリーはいささか驚き顔に友を見ながら言った。「実のところ私はこうしたものに、あまりくわしくはないのです。絵などよりは、馬、牛のほうが、はるかに目ききなのでしてね。あなたがこうしたものを鑑賞するゆとりをお持ちとは存じませんでした」
「見れば良い物はわかります。今もこうやって見ているわけです。あれはクネラーのものですね、たしか、むこうの青い絹の衣裳の婦人は。それから、あのかつらをかむった、がっちりした紳士はレイノルズにちがいありません。これは、全部ご一族の肖像なのですね」
「ええ、全部そうです」
「名前をおぼえていらっしゃいますか」
「バリモアが教えてくれているのです。よくおぼえているはずです」
「望遠鏡を持った方はどなたですか」
「あれは、バスカーヴィル海軍少将です。西インド諸島でロドニー将軍のもとに仕えていたのです。青い上衣をつけて、巻紙を手にしているのが、サー・ウィリアム・バスカーヴィルです。ピット宰相のときの下院で、委員長をやっていました」
「では、私の真正面で、黒ビロードにレースのついた服を着た騎士は?」
「ああ、これこそ、ぜひ知っていただきたい人物です。禍(わざわい)の根源、悪漢ヒューゴーです。バスカーヴィル家の犬のはじまりですよ。この人は忘れまいと思いますね」
私はいささか驚きもし、興味をも持って肖像をながめた。
「ふうむ!」ホームズが言った。「まったく物静かな、物腰おだやかな人に見えますね。だが、たしかに目に兇悪なものをひそめていますね。私はもっとたくましくて、悪漢らしい人間を胸にえがいていましたよ」
「真偽については、疑問の余地はないのです。カンバスの裏に、名前と、一六四七年という日付がありますから」
ホームズは、それ以上ほとんど口をつぐんでしまった。だがその古いあばれ者の肖像に心をひかれるらしく、夜食の間じゅうずっと目をそそいでいた。
ほどなくサー・ヘンリーが自室にひきとってしまうと、彼の思いが奈辺(なへん)にあったかを知ることができた。寝室のローソクを手にしたホームズは、私を宴会用広間につれていくと、壁にかけられ幾星霜(いくせいそう)によごれた肖像に灯りをかざした。
「これで何か思いあたらないかい?」
私はきりりとしまったきびしい顔をみつめたが、それは羽根飾りのあるつば広の帽子や、ちぢれた愛嬌毛(あいきょうげ)や、白レースの襟(えり)にふちどられていた。獣的な容貌とは言えないが、端然といかつくて、唇はうすく、目は冷たく偏狭(へんきょう)そうだった。
「誰か知った人に似ていないかい」
「あごのあたりは、サー・ヘンリーに似てるね」
「たぶんそんなところもあるだろうね。だがちょっと待ちたまえ」
彼は椅子の上に立ち上がると、左手でローソクをかざし、右手をまげて帽子と長い捲毛(まきげ)をおおった。
「おおっ!」
私は驚愕(きょうがく)の叫びをあげた。カンバスの上には、ステイプルトンの顔が浮かび上がっていた。
「ははあ、もうわかったね。僕の目は付属品を除いた顔だけを見るように訓練されているんだ。変装していたって、そいつを見破ることは、犯罪調査の第一の要素なんだ」
「しかし、こいつは驚いたね。まるで彼の肖像じゃないか」
「そうだよ。先祖帰りという奴の面白い実例だね。こいつは肉体的にも精神的にも出てくる。人間に再来説を信じこませるには、家族の肖像の研究で十分だね。ステイプルトンはバスカーヴィル一族さ。これははっきりしている」
「相続の陰謀だね」
「たしかにそうだ。偶然この絵を見たことで、推理の環にもっとも欠けていたものの、おぎないがついた。奴をつかんだよ、ええ、ワトスン君。しっかりつかんじゃったよ。誓ってもいい。明日の晩までには、あいつもわれわれの綱の中でばたばたしてるさ。あいつの集めてる蝶のように手も足も出ずにね。ピンとコルクでとめて、札をはって、ベイカー街の蒐集品に仲間入りだ」
彼は絵の前から離れると、まずめったにない発作的な笑いを爆発させた。私は彼が笑うのをあまり聞いたことはないのだが、笑えば必ず誰かにとって、大凶の前兆になるのだった。
翌朝、私の目覚めは早かったが、ホームズはとうに起き出していた。私が衣服を着けていると、すでに馬車をとばして帰ってくるのが見えた。
「やあ、今日は一日、いそがしいぜ」
彼は行動を起こす喜びに、もみ手をしながら言った。「網は準備完了だ。あとはたぐるばかりになっている。今日じゅうには、でかい、とがりあごのカマスを捕えるか、そいつが網の目からのがれ去るかがわかるよ」
「もう沼地へ行って来たのかい?」
「セルデンが死んだ報告を、グリムペンから、プリンスタウンに送っておいたのさ。この事件では、君らに厄介はまったくかからないと思う。それからあの忠実なカートライトにも連絡して来た。あいつのことだから、僕が安全だと言って安心させてやらなければ、主人の墓の前の忠犬みたいに、石室の入口で悲嘆にくれて日を送るだろうからね」
「次には何をするんだ」
「サー・ヘンリーに会うことさ。ああ、やって来た」
「おはよう、ホームズさん」准男爵は言った。「参謀長と作戦計画立案中の将軍といったところですね」
「ちょうどそんな状況です。ワトスン君が命令を受けているところでしてね」
「じゃ、私もうけたまわりましょう」
「たいへん結構です。あなたは今夜ステイプルトン家で、ご夕食なさる約束をなすってらっしゃいましたね」
「あなたもご一緒できませんか。あの人たちはとてもお客を大事にしますから、あなたがいらっしゃったら喜ぶでしょう」
「ワトスン君と私は、ロンドンへもどらなければならないようです」
「ロンドンですって」
「ええ、今の場合、われわれはロンドンにいたほうがずっとためになるんですよ」
准男爵はたちまち茫然たる顔つきになった。「ホームズさん、私は事件の落着まで一緒にいて下さるだろうと思っていましたよ。屋敷にしろ沼地にしろ、ひとりっきりでは、あまり居心地の良いところではありませんからね」
「私を絶対に信じて下さって、私が申したとおりになさっていただかねばなりません。ステイプルトンのご兄妹には、われわれ二人はおともをするつもりだったけれども、火急の用事でロンドンへ行かねばならなくなってしまった。しかし、すぐデヴォンシャーに戻ると言っていました、とお伝えいただけますか」
「そうしてくれとおっしゃるなら」
「どうしても、帰らなくてはならないのです」
私は准男爵の眉の曇りを見て、彼はわれわれが逃げだすのだと思い、気持をそこねているのだとわかった。
「いつ出発なさりたいのです?」彼は冷淡にたずねた。
「朝食後すぐです。馬車でクーム・トレイシーまで行きます。ここにもどって来る保証にワトスン君の荷物を残して行きます。ワトスン君、ステイプルトンさんに、招待に応じられず残念だという書き置きをしてくれないか」
「私もぜひロンドンへご一緒したい。どうして私だけここに残らなくてはならないのです?」
「その持ち場があなたの義務だからですよ。あなたは言われるとおりにするとお約束なさったじゃありませんか。私は残って下さいと申し上げています」
「わかりました。では残りましょう」
「あっ、もうひとつ申し上げることがありました。メリピット荘へは馬車で行っていただきたいのです。だが馬車は帰して下さい。そして彼らに、あなたが徒歩で帰宅するつもりだ、ということを知らせるようにして下さい」
「沼地を通るのですか」
「そうです」
「しかし、それこそあなたが私に何度となく、してはいけないと注意したことじゃありませんか」
「今度だけは安心してなさって下さい。あなたの勇気を信頼しなければ、こんなことは申し上げないでしょう。だが、あなたがそうして下さることがいちばん大事なところなのです」
「ではそういたしましょう」
「それから命が大切なのですから、メリピット荘からグリムペン道路に通じている、いつもの真直ぐな帰り道のほかは、どっちに向いても、沼地に入りこんではいけませんよ」
「そのとおりにします」
「それで結構です。午後にはロンドンへつけるように、朝食がおわりしだい、できるだけ早く出発したいですね」
私はホームズが昨夜ステイプルトンに、「明日は帰るつもりだ」と言ったのを覚えてはいたのだが、この計画にはまったく驚いてしまった。私をも一緒にひっぱって行くつもりだなどとは、まったく思いもかけなかったし、彼自身、[やま]だと言うこの瞬間に、なぜふたりとも居なくなってしまってよいものか、合点がゆかなかった。しかし彼からは何の説明もなかったので、ただ盲目的に従うほかはなかった。
そこでわれわれは、いかにも残念そうな友に別れを告げ、二時間後にはクーム・トレイシーの駅についた。そこで馬車をすぐに帰してしまった。ひとりの小柄な少年がホームで待っていた。
「先生、何かお言いつけは?」
「カートライト、君は今度の汽車でロンドンへ行ってくれ。ついたらすぐ、サー・ヘンリー・バスカーヴィルに僕の名前で電報を打ってくれたまえ。落した手帳がみつかりましたら、書留でベイカー街にお送り下さいとね」
「承知しました」
「それじゃ、駅の事務所へ行って、僕に手紙か何か来ていないか聞いてくれ」
少年は電報を手にしてもどって来た。ホームズが私に手渡してくれたそれには、
[電ミタ、逮捕状ハ署名セズニ行ク、到着五時四十分、レストレイド]とあった。
「今朝打った電報の返事だよ。この男はいちばん腕ききの警官だと思っているが、彼の助けが必要かもしれないんだ。さて、ワトスン君、君の知り合いのローラ・ライオンズ夫人を訪問するのが、いちばん有効な時間の使い方だよ」
彼の作戦計画がはっきりしはじめてきた。彼はステイプルトン兄妹に、われわれが事実帰ってしまったのだと信じこませ、その実、われわれの必要な瞬間には、ちゃんと戻っているようにするために准男爵を使ったのだ。ロンドンから打つべく手配した電報の中味を、サー・ヘンリーがステイプルトン兄妹に話すとすれば、彼らの最後の疑惑すら、消し飛んでしまうにちがいない。われわれの張った網は、すでに顎のやせこけたカマスを、ますます追いつめているようであった。
ローラ・ライオンズ夫人は事務所にいた。シャーロック・ホームズは会うとすぐ、ざっくばらんに話を切りだしたので、彼女はひどくびっくりしてしまった。
「私は故サー・チャールズ・バスカーヴィルの亡くなられたときの状況を調べているのですが」
彼は話しはじめた。「ここにいる友人ワトスン君から、あなたが事情をご存じのこと、事件との関係を隠していらっしゃることを教えてもらいましたので」
「何かを私が隠しているですって!」彼女はいどむようにたずねた。
「あなたはサー・チャールズに、十時に門のところへ来てくれるようにお願いしたと、おっしゃってるじゃありませんか。彼は約束の場所で、約束の時刻に死んでいるんですよ。彼の死とあなたの要求との間に、どんな関係があるのか、あなたは隠していらっしゃる」
「何の関係もありませんわ」
「だとすれば、偶然の一致ということになりますが、それは少しおかしすぎるのです。だが結局は関係のあることは立証できますよ。ライオンズ夫人、ほんとうに率直なお話がしたいのです。私どもはこれを殺人事件とみています。そしてあなたの友人ステイプルトン氏ばかりでなく、彼の奥さんもかかりあっているという証拠もあるのですよ」
その言葉に、夫人は椅子からとびあがって叫んだ。「奥さんですって!」
「この事実はもう秘密ではありません。彼の妹ということになっている人は、実は彼の妻なのです」
ライオンズ夫人はまた腰をおろしたが、その手はしっかりと肘(ひじ)掛けをつかんでいた。あまり強くつかんだので、桃色の爪が白く変色していた。
「奥さんですって!」彼女はふたたび叫んだ。「奥さんだなんて! あの人は独身だったのですよ」
シャーロック・ホームズは肩をすくめた。
「証拠を見せて下さい! 証拠を! 証拠を見せて下さい!」
彼女の目の物凄い輝きは、言葉に出して言えないものを語っていた。
「お見せするつもりで準備して来ましたよ」ホームズはポケットから数枚の書類をとりだした。
「これは四年前ヨークでとった夫妻の写真です。ヴァンデリュール夫妻と説明がありますが、彼だということはたやすくおわかりでしょう。夫人をご覧になっていたら、それもおわかりでしょう。この三通は当時セント・オリヴァ私立学校を経営していたヴァンデリュール夫妻のことを書いたものですが、この証人たちには信頼がおけるのです。読んでごらんなさい。ヴァンデリュール夫妻とステイプルトン兄妹が同一人であることが疑わしいものかどうか、おわかりになりますからね」
彼女はそれにざっと目を通すと、われわれを見上げたが、その顔は絶望に目のすわった、きびしい顔だった。
「ホームズさん」彼女は言った。「この男は、私が夫と離婚できたら結婚しようと申し出ていました。この悪者は頭に浮かぶあらゆる手段で私をだましてきたのです。ひと言だって本当は申しませんでした。でも、なぜでしょう? なぜなんでしょう? すべては私のためとばかり思いこんでいましたのに。でも今わかりましたわ。私はただ道具にすぎなかったのです。私に少しも誠実でなかった人に、どうして私が誠実でなければならないでしょう。あの人のよこしまな行ないの結果から、なぜかばってやる必要があるでしょう。どんなことでもおたずね下さい。なにもかも、つつみ隠すことなんてしませんわ。ただこれだけは信じて下さい。私がチャールズ様にお手紙を差し上げたとき、私はあのお年を召した方に、何か危害が加わるだろうなどとは夢にも思わなかったのです。あの人はいちばん親切な友人だったのですもの」
「ほんとうにそれは信じます、奥さん」シャーロック・ホームズは言った。「この事件を説明なさるのは、あなたにはとても苦しいことにちがいありません。ですから、私が事の次第を申し上げたほうがいいでしょう。もし大きなまちがいがあるようでしたら、なおして頂きましょう。あの手紙を送ることは、ステイプルトンにすすめられたのですね」
「あの人が命令したのです」
「命令した理由は、あなたの離婚のための法律上の費用を、サー・チャールズが援助してくれるだろうから、ということではなかったですか」
「そうなんですの」
「そしてあなたが手紙を出してしまったら、その約束を思いとどまらせたのですね」
「あの人は私にこう言ったのです。だれであろうと、他の男がそんな目的の金を工面してくれるなんて、自分の自尊心を傷つけるし、僕は貧乏人ではあるが、われわれふたりを切りはなしている障害を除くためには、最後のはした金までもつぎこむつもりだ、などと」
「非常に手堅い性格の男のようですね。それであなたは准男爵の死を新聞で見るまでは、何も耳にしなかったのですね」
「ええ」
「そして彼は、サー・チャールズとあなたとの約束については、ひとことも口外しないと、誓わせたのですね」
「そうです。この死は非常におかしいから、もし事実が明るみに出れば、あたしに嫌疑(けんぎ)がかかるだろうと、申しました。私を脅迫して、だまらせたのですわ」
「まったくそのとおりです。しかしあなたも、おかしいとはお思いになったでしょう」
彼女はためらってうつむいてしまった。「私は彼のしたことはわかっていました。でも、もしあの男が私に忠実でありさえしたら、私もどこまでもあの男に忠実だったでしょう」
「まあ言ってみれば、あなたは運よく魔手をのがれたのですよ」シャーロック・ホームズは言った。「あなたは彼のしっぽをつかんでいましたし、彼もそれは承知していた。それでもこうして無事なんですからね。あなたは数か月もの間、断崖のふちすれすれに歩いていたのですよ。さて、ライオンズさん、この辺でおいとまいたします。たぶん、またすぐにご連絡できると思います」
「われわれの事件もいよいよ大詰めだね。われわれの前で、次々に難関がくずれていくよ」ホームズはロンドンからの急行を待ちながら言った。
「まもなく、現代でもいちばん不思議でセンセーショナルな事件のひとつを単純な筋の物語にかえてしまえるよ。犯罪学専門の研究家なら、これと類似の事件が一八六六年に小ロシアのグロドノにあったのをおぼえているだろう。もちろんノースカロライナのアンダースン殺人事件もある。しかし今度のこの事件には、まったく他にはない特徴がいくつかあるのだ。今になっても、このとてつもなく狡猾(こうかつ)な男には、はっきりしないところがある。しかし今夜寝るまでに全部あきらかにならないようなら、むしろ驚異だろうね」
ロンドン発の急行がうなりをあげながら駅に入って来た。すると、小柄だが、がっしりした、ブルドッグを思わせる男が一等車から飛びおりた。われわれ三人は握手をかわした。
私の友を見るレストレイド警部の畏敬に満ちた態度を見ると、このふたりが共同で[こと]にあたったそもそもの始めから、この警部がいかに多くのものを私の友から学んでいるかということがわかるのだった。私は理論家のたてる説が常に実際家に屈辱をあたえ、それが彼を燃えたたせ、はげまして来たのだということを思い起こすことができた。
「何か面白いことですか」彼はたずねた。
「ここ数年来最大の事件ですよ」ホームズは答えた。「出かける時間までにはまだ二時間ある。その間に夕食ができる。さてと、レストレイド君。君にダートムアの清潔な夜気をすってもらって、のどにひっかかっているロンドンの霧をはきださせてあげますよ。今まで来たことはないのかね。そうですか、それじゃ、最初の訪問は忘れがたいものになりますよ」
シャーロック・ホームズの欠点のひとつは、これは実際、欠点と言ってよいのだろうが、彼の計画全体が成就するその暁までは、誰にでも知らせることを極端にきらうことであった。一部分はたしかに彼の専横(せんおう)な性格、つまり、自分の周囲の人間を支配したりおどろかしたりすることの好きな性格から出ているものだが、一部分はまた、チャンスをつかむのに決してあわてたりしないという、彼の職業的警戒心にもとづくものである。だがその結果は、彼の代理や助手のつとめを果している人間には、まったくやりきれたものではなかった。私もしばしばそれに悩まされては来たが、真っ暗闇の中に馬車を走らせていたその晩ほど、苦しい思いをさせられたことはなかった。
大きな試練がわれわれの前にたちはだかっていた。そしてとうとう、われわれの努力もまさに最後の土壇場(どたんば)に来ていたのだ。それでもホームズはひと言も口を割らないのであった。それで私はただ、彼の行動の筋をあれこれと思いめぐらせるだけであった。それでもとうとう、冷たい風が顔にあたり、道がせばまり、その両側がまっくらにひろがって何も見えないところに来ると、われわれがふたたび沼地に戻って来たことがわかって、期待に身内がふるえるのであった。馬の一足、車輪のひとめぐりごとに、われわれはすばらしい冒険にますます近づいていくのであった。
辻馬車の馭者の存在が話の妨げとなり、われわれの神経は興奮と期待にはりきっているのに、とるにたりないことを話題にせざるを得なかった。それでも最後に、フランクランドの家を通り過ぎ、メリピット荘に近づくと、不自然に気持を抑えつけた後のこととて、本当に安堵(あんど)の思いだった。いよいよ行動の現場に近づいたのだ。われわれは馬車を横づけにするようなことはせず、メリピット荘に通ずる道の入口で馬車をすてた。馬車に金を払うと、すぐにクーム・トレイシーに帰れと命じ、われわれはメリピット荘に向って歩きだした。
「武装してますか、レストレイド君」
小柄な警部は微笑した。
「ズボンをはいているかぎり、腰にはポケットがあります。ポケットのあるかぎり、そこには何かが入っていますよ」
「それは結構! ワトスン君も僕も、万一に備えているのです」
「ホームズさん、この事件には相当周到ですね。どんな仕事なんです」
「待とうってわけです」
「おやおや、それにしてはあまり気持の良い場所じゃありませんね」
警部は身ぶるいすると、暗い丘の斜面や、グリムペン沼地におおいかぶさっている巨大な霧のひろがりをぐるりと見わたした。
「前方に灯が見えますよ」
「あれがメリピット荘です。わが旅の終りですよ。つま先立ちで歩くこと。それから声は絶対に高くしないで下さい」
われわれは行く手はその家とばかり、注意ぶかくじりじりと進んだが、二百ヤードほどのところに近づくと、ホームズは止まれ、と命じた。
「これでいいでしょう」彼は言った。「この右手の岩は恰好なかくれ場です」
「ここで待つというわけですね」
「そうです。ここでちょっと待つことになるね。このくぼみに入りなさい、レストレイド君。ワトスン君、君はあの家に入ったことがあるね。どれが何の部屋だかわかるかい。このとっつきの格子窓の部屋はなんだね」
「あれは台所の窓だと思う」
「じゃ、向うのあれは、煌々(こうこう)とあかりをともしてるやつ?」
「たしか食堂だった」
「鎧戸(よろいど)はあがっている。君がここの地理はいちばんくわしいんだ。そっと忍びよって彼らが何をしているか見て来てくれたまえ。だがね、見張っていることを絶対気取られちゃいけないぜ」
私はつま先だって小道をすすみ、刈りこんだ果樹を囲んでいる、低い塀の背後に身をかがめた。
塀のおとす影の中に身をすべらせると、カーテンのあがっている窓からまっすぐに中をのぞきこめる場所を占めた。部屋には、サー・ヘンリーとステイプルトンのふたりだけしかいなかった。ふたりは私に横顔を向けて、円いテーブルに向かい合って坐っていた。ふたりとも葉巻をくゆらしていたが、コーヒーとワインがテーブルに置かれていた。ステイプルトンは元気に話していたが、准男爵は蒼白(あおじろ)い、放心したような顔つきだった。たぶん、不吉な噂のある沼地を、ただひとりで歩いて帰るという思いが、心に重くのしかかっていたのだろう。
私が観察しつづけていると、ステイプルトンがふと立って部屋を出た。准男爵はまたグラスの酒をのみほし、椅子に背をもたせて葉巻をくゆらしていた。するとドアの開く音がして、長靴で砂利をふむ、ザリザリという音が聞こえて、私のかくれている塀の反対側の道を通った。
首をあげて見すかすと、ステイプルトンが果樹園の片隅にある納屋の前に立ちどまった。錠をはずして入ると、中から組み打ちでもしているような奇妙な物音が聞こえて来た。わずか一分かそこらすると、また錠をおろす音がして、彼が私の前を通って、家に入った。彼が客のところへ戻ったのを見とどけると、音をたてないようにしながら、友人たちのところへ戻った。彼らは、私の見たものを聞こうと待ちかまえていた。
「ワトスン君、それじゃ、夫人はあそこにいないというんだね」私が報告しおわるとホームズがたずねた。
「うん、そうなんだ」
「それではいったい、彼女はどこにいるんだ。台所のほかに明かりのついている部屋はないんだからね」
「どこにいるか、僕にはわからんね」
大きなグリムペンの泥沼に濃く白い霧がのしかかっていたことは、すでにお話ししておいたが、それがゆっくりと私たちのほうへ流れ出して来た。それにわれわれに向っている側は低めに、濃く、輪郭あざやかで、まるで壁のように厚い層になっていた。月が輝きわたっていて、遠くに岩山の頂きをそば立て、表面に岩を据えつけた、きらめく大氷原のようだった。ホームズは霧に目をむけ、それがじりじりと移動するのを見て、気短かにつぶやいた。
「霧がくるぜ、ワトスン君」
「まずいのかい」
「うん、とてもまずいんだ。あれが来たら計画はご破算だとは思っていた。サー・ヘンリーもそんなに遅くなるはずはないんだがな。もう十時だよ。霧が道まで来ないうちに、彼が出てくるかどうかが、われわれの成否の鍵なんだ。彼の命さえ、それにかかっているんだ」
雲ひとつなく晴れ渡った夜であった。星は冷たくきらきらと輝き、半月の柔かく、さだかならぬ光りに、目に見えるものすべてが洗われていた。眼前にはその家の影が黒々とよこたわり、鋸(のこぎり)の歯のような屋根と、にょきりと立っている煙突が、銀白に輝く大空を背景にくっきりと浮かびあがっていた。下の窓から流れ出る黄金色の光りは広い束となって、果樹園や沼地に拡がっていた。
突然、窓のひとつが暗くなった。台所から召使いたちがしりぞいたのだ。後はただ食堂の明かりのみがともり、そこでは殺人鬼の主人と、それを夢にも知らぬお客とがなおも葉巻をくゆらしながら語り合っていた。
沼地の半分をおおっていた、白い羊毛に似た平原のような霧は、ステイプルトンの家のほうへ刻一刻と近づいて来た。すでに最初の淡い霧が、四角にふちどられた黄金色の窓のあたりをくるくるまわりはじめた。果樹園の向こう側の壁はすでに見えなくなっていて、木々は白い水蒸気の渦の中にまきこまれた。見るまに霧の渦は家の両側にしのびより、徐々にぶ厚い土手のようになっていった。その上に見える二階と屋根は、もうろうとした海上をただよう奇妙な船とも見えた。ホームズははげしく目の前の岩を手でたたき、いらいらと足を踏みならした。
「十五分以内に出て来てくれないと、道は霧につつまれてしまう。三十分もたてば、目の前に手を出しても見分けられなくなってしまうぞ」
「もっと高いところへひきかえそうか」
「うん、それが良い」
そこで、霧の堤が流れて来るにつれ、後へ後へと引きさがって、ステイプルトンの家から半マイルも離れてしまった。なおもその濃密な白い海は、上べりを月の光りに白銀に輝かせながら、ゆっくりと、容赦(ようしゃ)もなく進みつづけてくるのだった。
「あまり離れすぎてしまった」ホームズは言った。「われわれの所にたどりつかないうちに襲われるチャンスをあたえるのは、絶対に危険だ。どんなことになろうと、ここからは一歩もしりぞけない」
彼はひざまずくと、耳をぴたりと大地におしつけた。「しめた! やって来るようだ」
足早に歩く音が沼地の静けさを破って聞こえて来た。岩の間にうずくまりながら、われわれは前の白銀に輝く霧の堤をじっと見つめた。足音は次第に高くなり、まるでカーテンのように垂れこめた霧の中から、待ちもうけていた人物が出て来た。突然、すみきった星あかりの夜になったので、彼はびっくりしてあたりをみまわした。それから、小道を急ぎ、われわれの伏せているすぐわきを通り、うしろの長い坂道をのぼって行った。歩きながらも、彼は落ち着かぬ気持そのままに、絶えず左右を肩越しに見ていた。
「しっ!」ホームズが叫んだ。するとホームズがピストルの打ち金を起こす、鋭い音がきこえた。
「気をつけろ! やって来るぞ!」
あたりをはいまわる霧の堤の、どこか真ん中あたりから、かすかながら、はっきりと何物かが走りつづける音が聞こえて来た。霧はわれわれとは五十ヤードと離れていなかった。われわれは三人とも、その霧の腹の中から、どんな恐ろしいものが飛びだして来るのかわからずに、じっと見守っていた。
私はホームズと肘(ひじ)がぶつかるほど近くにいたので、ちらと彼の顔をうかがった。その顔は蒼ざめてはいたが、誇らしい色を見せ、目は月光にきらきら輝いて見えた。だが、突然それをぐっと見ひらくと、じっと何物かに目をそそいだ。おどろきのあまりに口が開いた。同時にレストレイドは恐怖の叫びをあげ、大地に顔をうちふせた。私はつっ立ち、手はどうやらピストルをつかんだが、こちらに向かって霧の中からとびだして来た異形なものの恐ろしさに、心はしびれてしまうばかりだった。それはまさしく犬、巨大な漆黒(しっこく)の犬だったが、およそこれまで人間の目で見たことのないものだ。開いた口からは火をはき、目はいぶるような光りに輝いていた。鼻先や頚(くび)や喉がちらちらときらめく焔(ほのお)にくまどられていた。まるで夢うつつの、やたらに混乱した頭では、霧の壁からとび出して来た、その黒い姿や顔つきほど、野蛮ですさまじく、身の毛のよだつものは考えも及ばなかった。
大きく身を躍(おど)らせながら、その巨大な漆黒の生き物は、ひた走りにわれわれの友人のあとを追って行った。その異様な出現は思いもかけずわれわれを茫然たらしめたので、我に帰ったときには、すでに化け物は走り過ぎてしまったあとだった。ホームズと私は同時にピストルを放った。すると化け物は、ぞっとするような叫びをあげた。少なくとも一発は命中したのだ。それでも化け物はくじけず、ころげるように前へ前へと走りつづけた。路上かなたで、サー・ヘンリーがふりかえるのが見えた。彼の顔は月光をあびて蒼白になり、恐怖のあまり両手をあげ、ただなすすべもなく、追ってくる化け物を見つめていた。
だが猛犬のあげた苦痛の叫びで、われわれの恐怖はふきとんでしまった。傷を受けるものなら生き物だし、傷を与えれば殺せる道理だ。私はその夜のホームズほどに速く走った人間をいまだかつて見たことがない。一心に追っているつもりなのだが、どうしてもひきはなされてしまった。私の後にはホームズと私ほどもはなれて、小柄なレストレイド警部が続いた。前にあって、サー・ヘンリーの悲鳴がつづけざまに聞こえ、猛犬の太く低いほえ声が聞こえた。
と、その猛犬が犠牲者にとびかかり、大地におしたおして、喉笛を食いきろうとしているのが見てとれた。が、次の瞬間、ホームズはピストルを五発、すっかり犬の脇腹に打ちこんでいた。怪獣は苦痛に断末魔の叫びをあげ、むなしく宙を噛むと、あおむけにころがって、四肢ではげしくあがきたて、すぐにぐにゃりと横たわってしまった。私は息をはずませながら身をこごめ、ちらちら光るおそろしい頭にピストルを押しつけたが、引き金を引くまでもなかった。途方もなく大きな犬はすでに息絶えていたのだ。
サー・ヘンリーは倒れた場所に気を失っていた。彼のカラーをひきちぎってみて、傷の跡ひとつなく、救助の間に合ったとわかると、ホームズは思わず感謝の祈りをもらした。そのときにはすでに、サー・ヘンリーはまぶたをふるわせ、かすかに身を動かそうとした。レストレイドが歯を割って、ブランデーのびんをおしこんだ。すると両眼を開け、驚きの色を浮かべてわれわれを見上げた。
「うーむ」と彼はつぶやいた。「あれは何でした?いったい何物だったのです?」
「まあ何にしても、もう死んでしまいましたよ」ホームズは言った。「一家にまつわる幽霊を、一度で永久に仕止めてしまったのですよ」
われわれの前に横たわっている野獣は、その大きさとたくましさだけでも、ぞっとするような代物(しろもの)だった。純粋なブラッドハウンドでもマスティフ種でもなく、ふたつの混合種らしかった。無気味で、獰猛(どうもう)で、小柄な牝ライオンほどもあった。死んで動かない今でさえ、大きな顎からは青白い光りを発すると見えて、小さな落ちくぼんだ恐ろしい目は焔にふちどられていた。私は光っている鼻先に手をやった。するとさし上げた私の指が、暗闇でにぶくひかった。
「燐(りん)だよ」私が言った。
「実に狡猾に仕組んだものだ」ホームズは死んだ犬の匂いをかぎながら言った。「犬の嗅覚を迷わすような匂いは何もない。サー・ヘンリー、あなたをこれほど恐ろしい目に合わせたことを深くおわびいたします。私も犬がとびだすだろうとは予期していました。ですが、こんな代物とは思わなかったのです。それにこの霧です。あっという間もありませんでした」
「あなたのおかげで助かりました」
「はじめは、すんでのところで危なかったのですからね。もうお立ちになって大丈夫ですか」
「ブランデーをもう一杯下さい。それでもう大丈夫です。どうも! さて、手をかして立たせて下さいませんか? ところで、どうすればよろしいでしょうか」
「ここにお残り下さい。今夜はこれ以上の冒険は、あなたにはご無理です。お待ち下されば、このうちの誰かがお屋敷までお伴します」
彼は自分でよろめきながらも、歩こうとしたが、顔色はまだおそろしく蒼く、身体じゅうが、がたがたふるえていた。われわれは彼に手をかして、とある岩のところに連れていった。彼は両手に顔をうずめると、身をふるわせて、そこへ坐りこんでしまった。
「さ、私たちは出かけなければなりません」とホームズは言った。「残った仕事をかたづけねばなりません。一刻を争うのです。事件は片づいたのですから、今度は犯人をつかまえたいのです」
「彼が家にいることは、まあ絶対にないね」いそいで道をひきかえしながらホームズは言った。「ピストルの音で、事は終りだとわかったに違いない」
「かなり離れていたし、この霧でうまく聞こえなかったかも知れないぜ」
「あいつは連れもどすのに、犬の後をつけて来たよ。そうだろうじゃないか。いまじぶん家になんかいるものか。しかし家(や)さがしをして確かめてみよう」
玄関のドアは開けはなたれていた。そこでわれわれはなだれこむと、大急ぎに部屋から部屋へとさがしあるいた。廊下で出くわしたよぼよぼの老召使いはあっけにとられて見ていた。食堂のほかは灯が消えていた。しかしホームズはランプをとりあげて、残るくまなく調べあげた。われわれの追っている男の気配はまるでなかった。だが二階へ上がると、寝室のドアのひとつに錠がかかっていた。
「おお、誰かが中にいる!」レストレイドが叫んだ。「動く音がする! 開けましょう」
かすかなうめき声と衣ずれの音が、中から聞こえて来た。ホームズは靴の裏で錠の真上をけとばすと、ドアはバタンと開いた。ピストルを手に、われわれ三人はどっと部屋へなだれこんだ。ところが、そこには、われわれが出くわすと思っていた、捨鉢(すてばち)に挑みかかる悪漢のけぶりもなかった。そのかわり、思っても見なかった、実におかしな物にぶつかった。われわれはおどろいて、しばらくそれを見つめてつっ立ったままだった。
部屋はちょっとした博物館になっていた。壁には、蝶(ちょう)や蛾(が)の一杯につまったガラス蓋のケースがずらりとならんでいた。それはあの二重人格をもった危険な男が、その趣味として作っていたものである。部屋の真ん中には、垂直な梁(はり)が立っていた。それはあるとき、屋根を支えている、古い虫食いの材木に、支えとしてとりつけられたものであった。その梁にひとりの人間がしばりつけられていた。シーツ類でぐるぐる巻きにされ、固く動けなくされていたので、しばらくは女とも男とも見分けがつかなかった。一本のタオルを喉首にまきつけて、柱の後ろで結びつけられ、もう一本は目から下をおおっていた。その上から黒い両眼が、悲しみと恥ずかしさと、何かひどく物問いたげな色をたたえて、われわれを見かえしていた。
われわれはすぐにさるぐつわをひきちぎり、いましめを解いた。すると、目の前の床にうちふしたのは、ステイプルトン夫人だった。彼女が美しい顔をうなだれると、首には鞭(むち)の跡が、赤くくっきりとみみずばれになっているのが見えた。
「あのけだものめ!」ホームズは叫んだ。「レストレイド君、ブランデーをくれたまえ。椅子にかけさせてくれ。手ひどい扱いで、疲れきって気が遠くなってるんだ」
彼女は目をあけた。「あの人は無事でしょうか。逃げてくれましたか」彼女はたずねた。
「奥さん、逃げられはしませんよ。あの男は」
「いえ、いえ。夫のことではございません。サー・ヘンリーです。無事でしょうか」
「無事ですとも」
「では犬は」
「死にました」
彼女は満足そうに長い溜息をついた。「ああよかった、よかった。ああ、なんて悪者なんでしょう。あの人が私にどんな仕打ちをしたか、ごらんになって」
彼女は袖をまくって腕を出した。彼女の腕が打ち傷で斑(しま)になっているのを見て、われわれはぞっとせずにはいられなかった。
「いいえ、こんなことは何でもございません。なんでもないのです。私の心なんです、あの人が苦しめ汚してしまいましたのは。私を愛してくれているという望みにすがれるかぎり、ひどい仕打ちにも淋しさにも、いつわりの生活にも、どんなことにでも耐えられました。けれども、今になって、はじめて私は、愛情ナさえも、私はだまされ、道具になっていたにすぎないことがわかりました」
話し終えると、彼女は烈しく泣き崩れた。
「奥さん、もうあの男には何の好意ももっていらっしゃいませんね」ホームズがいった。「だったら、あの男がどこにいるのか教えて下さい。あなたが今まで悪事の手伝いをして来たんなら、今こそ、われわれに力をかして下さい、これまでのつぐないのためにね」
「逃げることのできる場所は、ただひとつ」彼女は言葉をついだ。「あの大沼の真ん中に島があって、錫(すず)の廃坑があるんです。そこであの人は犬を飼っていましたし、隠れ家にするためにいろいろ準備もしていたようです。逃げたとすればそこでしょう」
霧の堤は白い羊毛のように窓外にたれこめていた。ホームズはその霧のほうにランプをかざした。
「ほら、これじゃ誰だってグリムペンの大沼へ行けっこありませんよ」
すると彼女は手を叩いてよろこんだ。いかにもおかしくてたまらないように、歯をむき出し、両眼を輝かせた。
「あの人は行き道はわかるかも知れませんが、帰ってくることはできませんわ。でも今夜みたいな夜に目じるしが見えるでしょうか。目じるしというのは、あたしたちが植え込んだ棒なんです。彼とわたしで沼地を通り抜ける道しるべのために。ああ、いまからそれを引き抜けたら。そしたらもう後はあなたがたの望みのままなんですのに」
霧が晴れ上がってしまわないことには、いくら追跡しても無駄なことはわかり切っている。そこでわれわれはレストレイド君をそこに残しておいて、ホームズとふたりで准男爵を連れてバスカーヴィル邸にもどった。こうなってはステイプルトンのことを彼に隠しておくわけにもいかなかった。しかし彼は、自分が愛していた女性について知ったときにも、けなげにその打撃に耐えたのである。ともあれ一夜の冒険が彼の神経を打ちくだいたことはおおうべくもなく、夜も明けきらぬうちから、医師モーティマー氏の看護をうけながら、高熱を出して、うわ言をいいつづける始末だった。その後サー・ヘンリーは世界一周の旅に、このモーティマー氏を同道することになった。それからはこの不吉な屋敷の主人になる以前のように、ふたたび元気でたくましい身体になったのである。
さて、いまやこの奇怪な物語も急速にその終局にたどりついた。われわれの日々の上に、かくも長きにわたって暗雲をたれ、ついにかくも悲劇的な終末を見るに至った陰惨きわまる恐怖と、とりとめのない臆測の繰り返しを、私はこれまで読者諸君とわかち合おうと努めて来たのである。
かの魔犬の息の根をとめた次の朝、霧も晴れ上がったので、われわれはステイプルトン夫人の案内で、夫妻がかねて沼地の中に通路を開いていたところに出向いた。彼女が喜んで、しかも熱心に、自分の夫が開いた通路をわれわれに教えてくれるありさまを見るにつけても、その生活がいかに恐ろしいものであったかを、まざまざと見せつけられるような思いだった。
ずっと広がった沼のなかに、細く突き出た半島状の泥炭質の固い土の部分がある。そこから先は、小さな棒があちこちに差しこまれていたが、不案内な者にはとても通り抜けられそうもない。道は、緑の浮草の浮いた穴や、ぞっとするような泥沼のあいだに茂る藺(い)のやぶからやぶへと、曲がりくねって続いていた。生い茂った葦(あし)やぬるぬるした青い水草からは、くさったような臭気が鼻をつき、重苦しい毒気がわれわれの顔をおおった。うっかりして足を踏みこむと、膝のあたりまで、暗いぶわぶわの泥にはまりこんでしまい、そこいら数ヤードの泥がぶくぶくとゆれる始末だった。歩くにつれて、くっついて落ちない泥は踵(かかと)にまつわりつき、踏みこめば、まるで魔の手がわれわれを深みの中へ引きずりこんでいくかのように思えるのだった。泥沼の魔手はそれほど気味悪く、何かいわくあり気だった。
たった一度だけ、われわれは前に誰かが、この危険な道を通った形跡をみつけた。泥沼の中に生えているワタスゲの草むらのまん中に、なにか黒いものが突き出ている。ホームズはそれをつかもうと、足を踏み出して、腰のあたりまではまりこんでしまった。われわれがそこに居合わせて引っぱり上げたからよかったものの、もしそうでなかったら、彼はふたたびこの大地をしっかりと踏むことはできなかったであろう。差し上げられた彼の片方の手には、古い黒靴が握られていたが、その内側には「トロント市マイアーズ靴店」のマークが入っていた。
「泥浴びの、しがいはあったわけだね」ホームズが言った。「サー・ヘンリーのなくした靴だよ」
「ステイプルトンが逃げるとき、あそこへほうりこんだんだね」
「そうだ。犬に後をつけさせるためにかがせた後も、手に持ってたんだね。万事休すと知ったときにも、やはりそれをもって逃げたんだよ。逃げながらここにほうりこんだんだ。ともかくここまでは無事に逃げのびたんだ」
しかし、これから先はどうにでも推測できるにしても、はっきりとつきとめることはできない。沼地では足跡ひとつ見つけ出すことはできまい。ぶくぶくと土が盛り上がってきて、跡なんかはすぐ消してしまうのだ。やっとのことで泥沼を渡って、比較的固いところにたどりつくと、三人は熱心に足跡を探した。しかし痕跡さえ見つけることはできなかった。もし大地に口があって、この真相を語ってくれるならば、きっと、ステイプルトンは昨夜あの濃霧をつっ切って、隠れ家にしていた中の島へ逃げたが、たどりつくことはできなかった、と言ったであろう。巨大なグリムペンの底なし沼のまん中で、泥の魔手につかまってしまい、この冷酷きわまりない男は永久にその中に埋葬されたのである。
泥にかこまれた中の島には、彼が手なずけていた猛犬を隠していた痕跡がいくつも見つかった。巨大な動輪と廃物のつまったシャフトが、廃坑のあとを示していた。そばには坑夫たちの小屋が崩れたまま残っていた。おそらく周囲の沼からくるものすごい悪臭に追い立てられたのであろう。廃物の中には犬小屋と鎖があり、そばにかじり取られた骨が沢山あって、ここに犬がつながれていたことがわかる。骨の残骸の中に、もつれた褐色の毛のついた頭蓋骨がのこっていた。
「犬だッ!」ホームズが言った。「ちぢれッ毛のスパニエルにまちがいなし。可哀そうなモーティマー君、もう自分の愛犬を二度と見ることはあるまいよ。さあ、これでもう、われわれに見抜けないような秘密は、ここにはまずあるまいと思うよ。ステイプルトンは犬を隠すことはできたが、吠(な)き声だけは止めることができなかったんだ。そんなわけで、真っ昼間でも、あのぞっとするような吠き声が聞こえて来たんだ。いざというときには、メリピット荘の納屋に犬を隠しておくこともできたけれども、それには常に危険がともなった。だから、自分の仕事もこれが最後というどたん場にそれをやったのだ。このブリキかんの中に入ってる糊(のり)が、犬にぬりつけた夜光塗料なんだよ。もちろん、これはバスカーヴィル家にまつわる地獄犬の物語と、サー・チャールズ老を驚死せしめようとする魂胆(こんたん)から思いついたものに違いない。あの哀れな脱獄囚が悲鳴をあげて逃げまわったのも無理はないよ。沼地の暗がりから、あんな化け物に後ろから躍りかかられたら、われわれだって同じだろうさ。ともかくうまいことを考えついたもんだよ。実際に沢山の農夫たちが沼地で見かけてるんだが、だれが大胆に、ずっと近よって調べてみたりするものかね。ねえ、ワトスン君、ロンドンで言ったことをもういちど繰り返すわけだが、この沼地の底に眠っているあの男ほど、危険な男を捕えるのに手をかしたことは、これまでになかったね」……彼はところどころ緑の斑点をうかべて大きく拡がる沼をなでるように、長い手を差しのべた。沼はずっと拡がり、はては沼地の小豆色(あずきいろ)をしている傾斜面へとけこんでいるのだった。
十一月の終わりのことであった。寒くて霧のふかい夜だったので、ホームズと私はベイカー街の居間で、あかあかと燃える暖炉の火をかこんで向かいあっていた。あのデヴォンシャー訪問が悲劇的な結末をとげてからというものは、彼はまた重大な事件をふたつ手がけてしまった。第一の事件で彼はノンパレイル・クラブの有名なトランプカード事件に関係したアップウッド大佐の極悪な行動をあばき、同時に第二の事件ではモンパンシエ夫人を殺人の嫌疑から救ってやった。その嫌疑は彼女のまま娘であるマドモアゼル・カレールの死に関してかけられていたのである。彼女の娘である年若い婦人はニューヨークで生存しており、しかも結婚までしていることが六カ月目に判明したのである。友ホームズは次から次へと重大な難事件を解決した矢先だったので、とても機嫌がよかった。そんなわけで、私もバスカーヴィル家の怪事件について詳しいことを話し合うように、誘いこむことができたのである。
私は辛抱強く、その機会のくるのを待っていたのであった。というのも、ホームズという男は事件を重復させるのを決してゆるさないし、その明晰(めいせき)で論理的な心は、現在の仕事をはなれて過去の回想などにとどまることはない、ということを承知していたからなのだ。折も折、サー・ヘンリーとモーティマー医師はロンドンにいたのである。つまりサー・ヘンリーの疲労しきった神経の回復のために企てられた、長途の旅行の途中だったからだ。彼らがちょうどその日の午後訪ねて来たことも手伝って、話題を自然そちらへもってゆくことができたわけである。
「もともとあの事件の経過というのは」ホームズは言った。「ステイプルトンと自称していた男からすれば、単純で直接的なものだったんだ。ところが、われわれは彼の動機を知ろうにも始めは何も手がかりがなく、ただ事件を部分的にしか知らなかったもんだから、まったくこんがらがってみえたんだよ。僕はステイプルトン夫人と二度会って話し合えたので、何もかもはっきりした。わからないことは何もないつもりだよ。索引式の事件簿のなかのBの項に、いくつか覚え書きがついてるよ」
「君の覚えている範囲であの事件の荒筋(あらすじ)をざっとしゃべってくれないかい」
「うん、ただし全部を覚えてるかどうか、うけあえないがね。ひとつのことに強く精神を集中することは、過ぎ去ったことをたたき出してしまうというおかしな面があるんだよ。自分の扱った事件に精通し、その問題に関してならば、どんな専門家とでも議論することができる弁護士も、新たな問題をかかえて一、二週間法廷ですごしてしまうと、前の問題は頭からぬけてしまうのさ。僕の扱う事件の場合も同じで、新しい事件がすぐ前のやつのことを押し除けてしまうんだ。カレール嬢の事件が、バスカーヴィル邸の記憶をぼんやりさせてしまったのだよ。明日にはまた何か他のささいな問題が持ちこまれ、僕の注意をとらえて、美しいフランス女性や悪名高いアップウッドにとってかわるだろうよ。ともかくあの犬の事件に関しては、できるだけ筋を通しては話してみよう。もし僕が忘れてるようなことがあったら何でも言ってくれたまえ。
いろいろと調べてみて、やはり先祖の肖像画は偽(いつわ)らず、ということがはっきりしてきた。そしてこの男もバスカーヴィル家の人間なのだとわかったのだ。彼はサー・チャールズの弟、ロジャー・バスカーヴィルの息子だったのだ。ロジャーは悪評にいたたまれなくなって、南アフリカに逃げ、そこで結婚もせず死んだという話だった。ところが実はちゃんと結婚して、子供がひとりあったんだよ。それがこの男なんで、本当の名は父親と同じだったんだ。それがコスタリカの美人のひとりであるベリル・ガルシアと結婚した。そしてしこたま公金を横領してしまったので、ヴァンデリュールと変名してイギリスへ高飛びした。そしてヨークシャー東部に学校をたてたのさ。
なぜ彼がこんな変わった仕事をはじめたかというと、彼は帰郷の途中、肺病やみの教師と知り合って、その男の学校経営についての才能を利用したわけなんだ。ところが、このフレイザーという教師が死んでしまうと、はじめはうまくいっていた学校も評判を落とし、悪くいわれるようになったんだ。
そこでヴァンデリュール夫妻は名前を変えたほうがいいということで、ステイプルトンと名を変え、余財をまとめ、これからの計画や昆虫学の趣味などをひっさげて、イギリス南部にやって来たわけだ。昆虫学に関しては彼が著名な権威者だということを、大英博物館で知ったんだよ。彼がヨークシャー時代に見つけて発表したある種の蛾には、ヴァンデリュールの名がつけられてるんだ。
さて、それからがわれわれと深い関係のある時期なんだが。この男は、いろいろ調査したあげく、あの高価な土地財産が自分のものになるまでには、ただふたりの人間しか邪魔をするものがないということを知った。彼がデヴォンシャーにやって来たときには、まだその計画は非常に漠然(ばくぜん)としたものであったと思うんだが、とにかく、はじめから悪事を企んでいたということは、自分の細君を妹にしたてて連れて来たことでも明らかだ。彼女を囮(おとり)に使おうという考えは、ちゃんと胸の中にあったんで……もちろんこまかい点をどのように組み立てるかについては、たぶんはっきりしてはいなかっただろうけれどね。とどのつまりは財産を手に入れる[はら]だったし、その目的のためには、いかなる手段も準備していたし、またどんな危険をもおかすつもりでいたんだね。まず最初にやったことは、目的の家のできるだけ近くに居をかまえること、次にサー・チャールズをはじめ、隣人たちと友だちづき合いすることだったんだ。
このサー・チャールズは、家にまつわる魔犬の話までして、自(みずか)ら墓穴をほってしまったわけだがね。ステイプルトンは……まあこのまま呼んでおくがね……この老人の心臓が弱ってることから、何かショックでも与えると死ぬということを知ったんだね。モーティマー君からくわしく聞いたんだよ。それからまたサー・チャールズが迷信深く、この怖ろしい伝説をまじめになって考えてることも聞いた。それで老人を死に到らしめる方法が、彼の天才的な心にすぐひらめいたのさ。誰が殺したのか、とてもわからぬ巧妙きわまるやり方をね。
さて、その一計を胸にひめて、彼は巧みにそれを実行に移していった。だいたい月並な奴なら猛犬をつかうことだけで満足したんだろうが、さらに犬を妖怪じみたものにするために手を加えたとは、さすが奸計(かんけい)にかけては天才的なひらめきを見せてるね。
犬はロンドンのフラム通りの犬屋、ロス・アンド・マングルズ商会で買ったんだ。その店でもってた中でも、最も強くて獰猛(どうもう)なやつをね。北デヴォンシャー線の列車でそれを運び、とやかく人から騒がれることのないように家まで運びこむために、沼地をずっと歩き通したんだ。彼は昆虫採集のかたわらグリムペン沼地の抜け道をさきに見つけており、犬の安全な隠れ家をたしかめていたんだ。そして犬をひそませて機会のくるのを待った。
しかし、なかなかやっては来ない。老人を夜分その地所からおびき出すことができないのだ。ステイプルトンは何回も犬を連れて、あたりにひそんだが何もならなかった。彼というよりはその相棒の犬が村人に見つけられ、地獄犬の伝説がふたたびむしかえされることになったのも、こうした無駄骨折りのあいだだったんだね。彼は自分の細君がサー・チャールズをおびき出して、その身を亡ぼすようにしむけてくれないかと願っていたんだが、案外にも彼女が言うままにはならない。老人の心をくすぐって誘惑し、破滅に追いこむなんてことはとてもできないという。おどしてみたり、言うもはばかられるんだが、ときには手荒らなことまでしてみても、彼女を動かすことはできなかった。どうしても手をかそうとしないんだ。それで彼はしばらくは暗礁(あんしょう)にのりあげたかたちだった。
ところがそこへ、この難局に活路をひらくうまいチャンスの到来だ。つまり、彼を友だちだとばかり思いこんでいたサー・チャールズは、ローラ・ライオンズという不幸な婦人に慈善をほどこすための代理人に彼を頼んだ。そこで、独身者だというふれこみで、彼はその婦人を完全に左右するようになったんだ。そしてもし彼女が今の夫と離婚することができたら、自分は彼女と結婚するつもりでいる、というふうに思いこませた。
ところが、サー・チャールズはモーティマー医師のすすめでバスカーヴィル邸を出発しようとしていることを知り、彼の計画はにわかにどたん場に追いこまれた。一応そのことには自分自身も賛成であるというふうにみせかけておいてね。
さて、ただちに実行にうつさなければならない。そこでむりやりライオンズ夫人に手紙を書かせ、老人が出発する前の晩、彼女に会ってくれるよう頼みこませた。それから、何とかかんとかもっともらしいことを言って、彼女を会いに行かせないでおいて、待ちに待った機会をつかんだわけなんだ。
夕方クーム・トレイシーから馬車で帰ると、犬を連れ出して、地獄犬に仕立てるための塗料をぬり、老人が待っているはずの門まで連れてゆくことができた。さて、主人にけしかけられた犬は、くぐり戸を飛び越え、不幸な老人を追いかけた。老人は[いちい]の並木道を悲鳴をあげて逃げ走ったんだ。あの薄暗い枝のおおいかぶさった道では、あの巨大な怪物が口から火をふき、らんらんと眼を輝かせて老人の後ろから駆けてくるありさまは、まったく見るも怖ろしいことだっただろうね。彼は小道のゆきどまりで心臓病と恐ろしさのために倒れてしまった。犬は老人が道をはしっている後から芝生を走ったので、足跡は人間のものばかりだったわけだ。老人が倒れて動かないものだから、犬は近づいて臭いをかいだんだろう。で、もう死んでしまってるものだから、またもとへ帰って行った。その折、モーティマー医師が見つけたような跡をのこしたんだ。犬は呼び戻され、すばやくグリムペン泥沼のすみかに連れてゆかれた。そしてこの不思議な事件は当局を困らせ、人を怖れさせることになった。
そういうわけで、ついにわれわれが腰をあげて調査にのり出すことになったんだよ。
サー・チャールズ・バスカーヴィルの死については、これで十分だ。これが悪魔のような奸計だと、君にはよくわかるはずだ。それというのも、実際、事件の真犯人を探し出すのがほとんど不可能に近かったし、唯一の共犯者ときたら、畜生で、決して彼を裏切るようなことはできないのだし、ちょっと考えられないような工夫によって、その畜生の怪奇さはさらに効果的となるばかりだからね。
この事件に関係したふたりの女性、ローラ・ライオンズ夫人およびステイプルトン夫人は、ふたりともステイプルトンに対して強い疑いをもっていた。ステイプルトン夫人は夫が老人に対して何か企んでいることも勘づいていたし、また犬が飼われていることも知ってたんだ。ライオンズ夫人はふたつとも知らなかったが、彼だけしか知っていない、あの取り消しもしなかった約束のその時間に、老人が奇(く)しくも死んだということで彼に疑いを抱いていた。だがふたりとも彼の意のままであったので、彼のほうではこのふたりを少しも恐れてはいなかったんだ。こうして彼の仕事のはじめの半分は上首尾に終ったが、もっと厄介なのがまだ残っていたわけだ。
ステイプルトンがカナダにいる世継(よつぎ)のことを知らなかった、ということはあり得るが、いずれにしろ、すぐに友人のモーティマー医師から聞いたんだろう。さらに医師からヘンリー・バスカーヴィルの到着について、そっくり全部きいたのだ。最初の考えでは、カナダから来る見も知らぬ若者なんぞ、何もデヴォンシャーまで来ないでも、ロンドンで片づけられるということだった。ステイプルトンは、細君がサー・チャールズをわなにかける手伝いを拒否してからというものは、彼女を信頼しなかった。それで彼女を自在にできなくなるのを怖れて、彼女を目のとどかぬ所へおくだけの勇気がなかったんだ。ロンドンへ連れていったのもそれなんだね。
二人はクレイヴン街のメックスバラという、知人、紹介者だけを泊める特定ホテルに泊った……そこは、僕の代理が証拠集めに洗ったホテルの中に入っていたので、僕にもわかったわけだが。そこに細君を監禁しておいて、つけひげなどで変装し、モーティマー医師をベイカー街まであとをつけ、さらに駅からノーサンバーランド・ホテルへと尾行した。細君は彼の計画について何か思い当るふしがあった。しかし彼女は夫を非常にこわがっていた。つまり獣みたいに乱暴に扱われることからくる恐ろしさなんだね。だから彼女は危険だと知っていても、その人に警告の手紙を書く勇気がなかったんだ。もしその手紙がステイプルトンの手にでもはいったら、彼女自身の命だって無事ではなかっただろうからね。そこであのとおり、一策を案じて、手紙になるように文字を切り抜き、手跡を隠して宛名を書いた。その手紙がサー・ヘンリーにとどいて、最初の警告文となったんだ。
さて、ステイプルトンだが、犬を使わねばならぬとなれば、犬に後を追わせることがいつでもできるように、何かサー・ヘンリーが身につけているものを手に入れることがまず必要だ。これも、彼一流の敏速さと大胆さですぐやってのけた。ホテルの靴磨きか部屋女中かが袖の下をたっぷりつかまされて、あの男の企みに手をかしたことは疑いない。ところが、たまたま手に入れた最初の靴は新品で役にたたなかったので、それをかえして他の古靴ととりかえた……ここだよ、最も面白いところは。つまり、ここでわれわれが扱っているのは伝説じゃなくて、現実の犬だってことが、ついにはっきりして来たんだからね。だって古物の靴をほしがって、新しいのはいらないというんでは、しかも片足だよ……ほかにぴったり符合する説明はないじゃないか。事件がとっぴで怪奇(グロテスク)なものであればあるだけ、注意深く調べてみる価値があるもんだ。しかも正しく考えをすすめ、科学的に扱っていくならば、事件を複雑なものにしている核心が、実はそれを最もはっきりと見せてくれるものなんだよ。
そこで次の朝、われわれはご両人の訪問をうけたんだ。後からはステイプルトンが絶えずつきまとっていたわけだね。この男の行動全体からだけでなく、僕らの部屋のことや僕の風采(ふうさい)などをよく心得ているところから推して、このステイプルトンという男の犯罪経歴なるものは、単にこのバスカーヴィル事件だけにとどまるもんじゃない、と考えるようになった。
この三年間に、西部イングランドで相当な盗難事件が四つあって、いずれも犯人がつかまっていないんだが、何だか思いあたるところがありそうだね。しかも最後のやつはこの五月にあったフォークストン・コートでの事件だが、覆面(ふくめん)の単独強盗を見て、声を出した給仕をようしゃなく射殺したんで、まあ目立つ事件だった。ステイプルトンが、金がなくなってきたんで、何とか盛り返そうと、こんな荒仕事をやった……もちろんこの数年やけっぱちで手がつけられない人間になっていた……とまあ、こんな考えも、否定できないと思うんだ。
彼の悪知恵の機敏さは、あの朝われわれをうまくまいてしまい、そればかりか、かわりに馭者の口から僕自身の名前をお返しにするという、不敵な行ないではっきりと見せつけられたわけだね。そのとき、この事件に僕がのり出して来たことをいち早く察して、ここじゃ駄目だと引き退(さが)って、ダートムアでサー・ヘンリーの到着を待つことにしたんだ」
「ちょっと、ちょっと!」私が口をはさんだ。「事件の筋を追って正しく話してもらったんだが、ひとつだけ説明してないところがあるんだ。つまりあの犬は、主人がロンドンにいるあいだ、どうなってたんだい」
「そのことにも気をつけていたつもりだが、たしかに大切なことだよ。とにかくもひとり、[ぐる]になってる奴がいたんだよ。もちろんステイプルトンって奴は自分の企みをすべて打ち明けて、相手に痛いところをつかまれるような人間じゃないがね。つまりアンソニーといって、メリピット荘にいた年寄りの召使いなんだよ。この男とステイプルトンとのつながりは、数年前あいつが学校をやっていたときなんで、この男は主人と女主人は夫婦だということを十分承知していたはずだ。あのとき以来、どこかへ消えていなくなっていたがね。だいたいアンソニーという名前はイギリスではあまり普通の名前じゃないが、アントニオというのはスペインや中南米ではざらにある名前だ……というのも面白いことじゃないか。この男も、ステイプルトン夫人と同様、英語はうまいが、どこか舌のもつれるようなおかしなアクセントがあったろう。僕自身、この男がステイプルトンの開いた道を通ってグリムペンの底なし沼を渡ってゆくのを一度見つけたんだ。だから主人の留守中、この男が犬の面倒をみていたことは十中八、九たしかだね。ただその犬を何に使うのか、それは知らなかったろうがね。
ともかく、ステイプルトン夫婦がデヴォンシャーへ行くと、サー・ヘンリーと君も、すぐつづいたわけだ。もうひと言、その間、僕が何をしていたのか、それを話そう。君もたぶん思い出すだろうと思うが、僕があの貼紙細工の手紙を調べてたとき、透(す)かし模様をいやに詳しく調べてたろう。実はあの紙を目の前にもって来ておいて、匂いをかいだんだ。そのとき白ジャスミンの香水の匂いがかすかにしたんた。香水といえば七十五種類あるんだが、いわゆる犯罪の専門家にとっては、この七十五種類の判別はきわめて大切なことなんだ。僕の経験からいっても、すばやくこれをかぎわけることで助かったことが幾度もあるよ。この匂いで、事件に女が関係していることがわかり、すでに僕の心はステイプルトン夫妻に向けられていたんだ。まあそんなわけで、われわれが西のほうへ行かない前から、犬がいることもわかっていたし、犯人の目星も大体ついていたわけだ。
僕の狙いはステイプルトンを見張ることだった。けれども僕が君と一緒だったら、当然彼も目を光らせることになって、まずいのはわかりきってる。やむなく、君を含めてみんなをだまし、ロンドンにいると思いこませて、こっそり忍びこんだ。でも君が心配してくれたほど、僕は困りはしなかったよ。事件を調査する場合、あれくらいの不便や障害はつきものだからね。僕はだいたいクーム・トレイシーにいて、活躍の場に近づく必要ができたときだけ沼地の中の石室を使ったよ。カートライトがついて来てくれて、田舎小僧みたいな身なりで非常によく働いてくれた。食物やシャツ類など彼に頼みッ放しでね。僕がステイプルトンを監視していると、彼がときどき君の見張りについてくれる。あらゆる糸を僕が操ることができるようにね。
前にも言ったとおり、君の報告はただちにベイカー街から転送されて、すぐ僕の手に届いた。あれは実に役立ったよ。とくにあれは僕のほうで調べたステイプルトンの経歴と、はからずもぴったりでね。あの二人こそ、僕が調べ上げた夫妻だと決定することもでき、腹がきまったんだ。
たまたま脱獄囚の問題がさらにバリモア夫妻とからみ合って、ちょっとごたごたしたんだが、これも君の有効適切な方法で解明されたんだ……もちろん僕の計算もすでに同じ結論に達していたがね。
そんなわけで、沼地で君に見つけられるときまでには、事件の全貌について完全な見通しをつけていたんだが、陪審員までもってゆくだけの証拠がなかったんだ。あの晩サー・ヘンリーを襲おうとしたステイプルトンの試みが、結局哀れな脱獄囚を殺してしまったが、あれではまだ、あの男と対抗して殺人を立証することができない。現行犯として捕えるよりほかに方法がないと思われたが、そうとなればサー・ヘンリーをたったひとりで、囮(おとり)として、護衛なしにしなければならない。やむを得ずやったさ。依頼人の彼にひどいショックを与えるという犠牲は払いはしたものの、事件を解決し、ステイプルトンを破滅の底へ追いやることができたんだ。サー・ヘンリーをあんな目にあわせたことで、白状すると、僕の不手際のそしりはまぬがれまいが、あそこで、まったくぞっとばかり、色を失わせるような化け物が飛び出てくるとは思いもよらず、それに目の前に来るまで気づかないような濃霧に見舞われようとはさらさら考えなかったんだからね。
こんな態(ざま)で目的を達したわけだが、まあその犠牲も一時的なものだと、専門医もモーティマー医師も保証してくれてるよ。長い旅をつづけてゆくうちには、痛み切った神経も傷ついた心も回復するだろうよ。あの婦人に対する彼の愛情は深くて誠実なものだったねえ。彼にとって、今度の陰惨な事件のうち、もっとも痛ましかったのは、あの女性に裏切られたということだね。
あとは、あの女性が事件全体に果してきた役割をいうだけだね。ステイプルトンがあの細君に対して大きな力をもっていたことは否(いな)めないが、それが夫への愛情なのか、怖れなのか、それともたぶんその両方なのか。こんな感情は両立しないわけのもんじゃないからねえ。
ともかくそれが、はなはだしく目立って力があったことは事実だ。夫の命令で妹になってしまったんだが、殺人の従犯人にされようとするのを拒んだときには、いかな彼もその力に限界があることを覚(さと)ったんだ。彼女のほうは夫をまきぞえにしない程度でサー・ヘンリーに警告を発しようとしていたし、また実際に何回もやったんだ。ステイプルトンのほうは、嫉妬ぶかく、サー・ヘンリーが女に言い寄ろうとするのを見て、それが自分の企みの一部でありながら、どうにも抑え切れなくなって爆発し、うまく自制して、おし隠していた荒々しい性分を暴露してしまった。親密さを増してゆくようにすれば、当然サー・ヘンリーもしばしばメリピット荘をおとずれるだろうし、待ち望んだ機会も早晩やってくるんだったろうがね。
ところが、いよいよというその日になって、細君が急に態度をかえて反抗した。あの脱獄囚が死んだことから何か感づいていたときでもあり、あの犬が、サー・ヘンリーが晩餐(ばんさん)にやってこようという夕方に、納屋に連れこまれているのを知ったからだ。彼女は夫にその悪事の企みのあるのを責めた。ものすごい一幕となったが、そのときステイプルトンははじめて自分には愛している別の女があることを言ったのだ。こうなると、細君の誠実さもただちに憎悪に変わってしまったので、彼は細君が裏切るつもりだとみてとり、細君を縛りあげて、サー・ヘンリーに警告もできないようにした。彼としては、おもわくどおり、土地の連中すべてが准男爵の死を家のたたりのせいにすれば、ひとつの既成事実として細君にもなっとくさせ、彼女の知っている真実については沈黙させることができると思っていたんだ。
とにかく、ここに彼の誤算があったと思うんだ。あのとき僕らが居合わせなかったにしても、彼の運命もどうやら決まっていただろうしね。スペイン系の女性はああいう打撃にそうやすやすと引っこんでいないからだよ。ところで、ワトスン君、覚え書きを見ないでは、これ以上こまかにこの奇怪な事件の話はできかねるが、なにか大事なことで言い落したことがあるかい」
「あの化け物犬を使ってサー・ヘンリーを驚死させることはできないようだがね。年よりの伯父さんとは違うんだから」
「あの犬は獰猛(どうもう)なうえに、ほとんど何も食わせてなかったんだよ。見ただけで驚死するようなことはないにしても、抵抗する気力はまったくそいでしまっただろうな」
「なるほどそうだ。もうひとつわからないところがあるんだ。ステイプルトンがもし万一、あの家を継ぐということにでもなったら、後継でありながら、変名で、そ知らぬ態(てい)に、本家の近くに住んでいたということをどう説明しようとするだろう。疑惑や調べを受けないで、自分が世継ぎだと、どうして言えるだろうね」
「こいつぁ、おそろしくむずかしい問題だな。それを僕にやれというのは、無理な相談だ。過去と現在が僕の調査の範囲なんで、これからどうするつもりかとは、答えにくい質問だね。でもステイプルトン夫人は彼がそのことについて議論するのを、二、三度聞いたことがあるそうだよ。可能な方法は三つある。まず南米から財産権を要求するんだ。土地のイギリス当局で身分証明をしてもらって、イギリスへは全然帰って来ないで財産を手に入れる。第二は必要とみなされるしばらくの間は、ロンドンにいて、たんねんに変装する。第三には誰かと[ぐる]になって、その男に証明書などの書類をもたせ、相続人として登記させ、その収入の分け前を要求するのだ。まあ今まで見て来たことから考えても、何らかの方法で困難を切り抜けてゆくことは疑う余地なしだ。
ところで、ワトスン君。数週間も一生懸命働いたんだから、今日ひと晩ぐらい楽しいほうへ頭を遊ばせようや。歌劇『ユグノー』を観るのに、ひと舛(ます)席があるんだが、きみ、あのポーランドのオペラ歌手のド・レシュケーをきいたことがあるかい? じゃ、三十分ぐらいで用意してもらえないか。そしたら、途中ちょっとマルチーニへ寄って夕飯を食べていけるよ」(完)
[翻訳 鈴木幸夫 (C)Yukio Suzuki]
コナン・ドイルが、デヴォンシャー州ダートムアのプリンスタウンに滞在中、ローズ・ダッチー・ホテルから書いた手紙に次の一節がある。消印は一九〇一年四月二日である。
「イングランドで町としてはいちばん標高の高い当地に来ています。ロビンスンと私は我々のシャーロック・ホームズ物語を書くために、当地の沼地を探検しているところです。素晴らしく仕上がるような気がします。実のところ、もう半分ばかり書き上げました。ホームズは快調の極にあり、物語は非常に劇的な着想であります……これはロビンスンに負うところ大であります」
ロビンスンは、この作品『バスカーヴィル家の犬』の巻頭にかかげられている、ドイルが献辞を捧げたフレッチャー・ロビンスンである。
この一文は『バスカーヴィル家の犬』の最初の吠え声であった。しかし、この作品なり題名なりが言及されたのは同年三月のことで、ノーフォークのクローマーにある、小さな温泉場でのことであった。冬じゅう、ドイルは気分がすぐれず、過労にすっかり弱りきり、クローマーに数日滞在すれば治療に役立つかもしれないと思ったからであった。
ロイヤル・リンクス・ホテルで、ある底冷えのする日曜日の午後、風が北海を吹き流れ、炉の火がふたりの居室に燃えていたときに、ロビンスンがダートムアの伝説や土地の雰囲気を語り始めた。ドイルの想像はとくに幽霊犬の話にあおり立てられたのである。ドイルのクローマー滞在はわずか四日間にすぎず、ドイルはロンドンへ帰らねばならなかった。しかし彼は幽霊犬の物語にすっかり夢中になって、ロビンスンと共に、生きた肉体をそなえた幽霊犬に憑(つ)かれたデヴォンシャーの一家についての、センセーショナルな物語のプロットを考え、その荒筋まで作り上げていたのである。
この話がドイルの心に訴えるにはそれだけの理由もあった。ドイルはすでに『狐の王』と題された中篇小説に、ほとんどこれと同じ着想を用いていたからである。プロットの問題はともかくとして、ドイルの想像を何よりもとらえたのはダートムアの雰囲気であった。構想中の物語にはどこかの地方が背景にならなければならぬ。ドイルはまだダートムアへ行ったことがなかった。しかしロビンスンの話には余すところがなく、すでにドイルの心中では、この物語は、ゴシック風な神秘の色をおび、岩山をいただく荒野が薄暗い空の果てにのび、見るまに立ちこめる霧、無辺の沼地、監獄の花崗岩の建物といったものが思い描かれていたのである。クローマーを去る前には、この作品を『バスカーヴィル家の犬』というタイトルで着手するつもりになっていたことは、母に宛てた手紙で明らかである。
ロビンスンはドイルから合作の申し出を受けたらしいが、これを謝絶して、ドイルを沼地の探険旅行に連れ出すことにした。四月の末までは、彼らはプリンスタウンの村にあるローズ・ダッチー・ホテルに滞在していた。彼らの見はるかすあたりに、春とはいえ、まるで秋のように褐色めいた、風吹きすさぶ荒涼たる中に監獄が横たわっていた。当時のダートムア監獄は千人に及ぶ重罪犯を収容していて、これら無頼不逞(ぶらいふてい)の徒(やから)は、いつ鋤(すき)の刃で見張り人におそいかかるかもしれなかった。見張り人はカービン銃に銃剣をつけて、外壁のまわりや石切り場をパトロールし、霧が立つときにはいつも警戒を怠らなかった。
もともと、ドイルがこの物語をクローマーで構想したときには、彼にはシャーロック・ホームズを用いるつもりはなかった。だがほどなく構想が詳細に組み立てられるにつれて、この物語を統轄する主要人物を置かねばならなくなった。ホームズという人物を創造していたことは、まさしくかかるためではなかったか、とドイルは考えた。
通信からすると、ドイルはこの物語を、ロンドンを去る前から書き始めていたのか、プリンスタウンのホテルで始めたのかは明らかでない。ドイルがロビンスンと一緒に、帽子をかぶり、ニッカーボッカーをはいて、一日十四マイルも沼地を歩きまわっていたことを考えると、ホテルに滞在中に執筆していたとは考えにくい。彼らはグリムペンの大沼地として描かれる沼地を見た。バスカーヴィル邸が、イチイ並木の小路とともに、想像の中で、雨をすかしてうっすらと見えてくる。彼らは有史前の人間が住んでいた石室を探検した。そして、薄暗い、どの道路からも数マイルも離れている、これらの石室のひとつで、冴(さ)えかえる靴音がその小屋に近づいてくるのを聞いたのであった。
ひとりの旅行者だった。彼は、中にいたふたりの頭が突然入口にあらわれたときには、ドイルやロビンスンよりももっと驚いたにちがいないが、これと同じ経験は物語でワトスン博士がしている。シャーロック・ホームズを是非とも再登場させたいところである。
ドイルはこの物語が書きたくてたまらなかった。陰陽相半ばする陰鬱な雰囲気を描くに当って、この同じ趣味的な傾向はホームズの性格にもあらわれる。初めの章では冷やかなホームズが、物語の終局に向かうに及んで果然、熱を帯びてきて、サー・ヘンリー・バスカーヴィルをしのぐものがある。逃亡犯人のセルデンは岩と岩の間で死に突入し、その悲鳴は彼を追う怪獣のいななきよりも鋭くこだまする。ステイプルトンの葉巻の火が闇を通して近づいてくるときに、ホームズは死体のそばで犯人のように笑い、踊り上がるのだ。月光と、夜空に浮かぶ人影と、妖犬の吠え声と、この荒涼たる陰暗な沼地を背景に、物語はそのクライマックスに達する。
ドイルはデヴォンシャーからの帰りの旅路の途中、ドーセットシャーのシャーボーン、サマセットシャーのバース、グロスタシャーのチェルトナムに寄りながら、この物語を書きつづけていたが、たまたまストランド誌社長サー・ジョージ・ニューンズがこの新しい物語を耳にするに及んで、ストランド誌が歓喜にひたったのも無理はない。『バスカーヴィル家の犬』は一九〇一年八月から一九〇二年四月の間に、八回連載で「ストランド誌」に掲載される予定になった。
ところで、シャーロック・ホームズはこの物語で生き返ったわけではない。『シャーロック・ホームズの回想』の結末の短篇「最後の事件」では、一八九一年五月四日、ホームズは凶悪モリアーティ教授の奇計におち、ともに相抱いてライヘンバッハの滝へ、絶壁から転落、以来消息を絶って死去したことになっている。ホームズが再生するのは、十年の歳月をおいて発表された『シャーロック・ホームズの生還』の巻頭の短篇「空家の怪事」まで待たなくてはならない。この短篇では内容的には、ホームズは一八九四年の始めにふたたびロンドンになつかしい姿を見せることになっている。したがって、『バスカーヴィル家の犬』はニューンズの説明をまつまでもなく、「最後の事件」のホームズ死去以前に起こった事件となっているわけである。
二つの傑作短篇集『シャーロック・ホームズの回想』(一八九四)と『シャーロック・ホームズの生還』(一九〇五)との間にはさまれた『バスカーヴィル家の犬』(一九〇二)は、数ある長篇小説の中でも、とくに最高の傑作として推されている。
この作品には探偵小説が持っている最大の興味、つまり、怪異と神秘と謎と推理が惜し気もなくつぎこまれ、発端の怪奇と、スリルとサスペンスの継続、結末の意外性、明快な論理、ホームズの英雄的出現等、この作品ほど探偵小説として、浪漫性と現実性とをよく融合しているものは多く見当たらない。とくに称讃されるべきは、ダートムア沼地の陰暗な自然描写と、怪異談のおりなす効果の適確さであり、ドイルが作品執筆に当って並々ならぬ準備をととのえていたことを示している。
今日の探偵小説の水準から見れば、ゴシック・ロマン風怪異は、あるいは稚戯(ちぎ)として斥けられるおそれなしとしないが、この作品が半世紀前の所産であり、エドガー・アラン・ポオの先蹤(せんしょう)につづいて、近代探偵小説のいち早い創造であったことを思えば、ドイルが没入した超自然的怪奇趣味と現実的な論理的興味との結合は、すでに探偵小説の基本的条件を満足させながら、今日のディクスン・カーに通じる、本質的な源流をなしているものと言えよう。
巻頭、例によってホームズ一流の推理によってモーティマー医師の紹介登場となり、古文書によるバスカーヴィル家の呪いが提出される。この呪いは全篇を通じる犯罪の基調をなしている。そして同時に、サー・チャールズ・バスカーヴィルの奇怪な死につづいて、世襲たるサー・ヘンリー・バスカーヴィルの危機を暗示する。
つづいて、ホテルにおける奇妙な盗難、タイムズ活字のはりつけ手紙という謎がサー・ヘンリーを無気味におおってくる。果たせるかな、馬車の中の尾行の男、ホームズへの挑戦となり、ワトスン博士のバスカーヴィル邸訪問によって、事件はいよいよその核心に近づく。下僕バリモア夫婦の奇怪な行動、逃亡犯セルデンの恐怖、植物学者ステイプルトン兄妹の秘密、サー・ヘンリーとベルリとの恋愛と破局、ローラ・ライオンズ夫人の呼び出し状、巨大な妖犬の出現、その無気味な吠え声、霧立ちこめるグリムペンの大沼と、事件と舞台は息もつかせぬ緊張のうちに次々と事件は光明が見えるようにみえながら、実は尽きせぬ謎が深まるばかり。ワトスン博士ばかりでなく、もはや謎にいどむ万策つきたと思えたときに、ホームズの奇略縦横な出現となり、物語は切って放たれた矢のようにクライマックスへ突入していく。
先史時代の人間が住んでいた石室の秘密、沼地をわたる恐怖と苦痛の悲鳴、魔犬の遠吠え、セルデンの惨虐なる死体、バスカーヴィル家の血統、沼地の魔犬の正体、犯人の追跡、沼地の神秘と、ホームズの身をていした冒険と推理の結末まで、この無気味な怪奇と謎をたたえた物語は、最後の一行に至るも、なお巻を閉じて余韻を残している。
ダートムアの怪奇的伝説から生まれたこの物語は、さすがシャーロック・ホームズを支柱に登場させただけのことはあって、単なる怪異譚(たん)にとどまることなく、冒険と推理という近代探偵小説の典型的傑作をなしている。
ここで、この作品の舞台になっているデヴォンシャーのダートムアについて、ちょっと説明しておこう。
デヴォンシャーは、北はブリストル海峡、南はイギリス海峡にはさまれた、イングランド南西部の海域地方である。その四分の三は未開拓と言われる。北海岸はきわめて険しく、千フィートをこす山々がそびえている。ダートムアは広大な花崗岩の台地であり、この地方のおもな川のほとんどがここに源を発しているが、同時に、その荒涼たる起伏の多い風景、古代の遺物、広大な物さびしい路なき荒野、鉱物産出で知られている。ダートムア開拓の試みはほとんどなく、北部は数マイルにわたって人跡未踏の地である。いくつかの川が低地へ流れてゆく谷間は、ここだけが土地がこえ、ときには風景の美しいところが多い。沼地は山羊の牧場に適して、牛や羊や、半野生の小馬が放牧されている。山は一般にトー、すなわち岩山と呼ばれ、大部分は花崗岩がとさかのように屹立(きつりつ)し、風雨に洗われて奇怪な絵のように美しい形をなしている。ダートムアは広さにおいても、先史時代の、自然のままな石の遺物という点においても、イングランドでこれに比肩するところはない。人口の中心はプリンスタウンであり、ここには監獄がある。はじめ一八〇六年に捕虜のために建てられたのが、のち、一八五〇年に、一般囚人を収容するところになっている。ドイルはこの作品で、これらの風物を十分に利用している。(鈴木幸夫)
「恐怖の谷」目次
「ぼくはいつも考えるんだけど――」と私がいいかけると、
「ぼくだって考えてるつもりさ」シャーロック・ホームズがいらだたしげにいった。
私は辛抱強さの点では誰にも負けないつもりだが、こうもひとをばかにしたように話の腰を折られては、正直いって不愉快だった。
「ホームズ君、きみって男はときどき気にさわることをいうね、まったく」私は遠慮せずにいってやった。
でも彼は、自分の考えにすっかり心を奪われていて、私の苦言(くげん)に何の反応も示さなかった。頬杖(ほおづえ)をついたまま、目の前の朝食には手をつけようともせず、封筒からとりだしたばかりの紙きれをじっとみつめている。やがて彼は封筒を手にとって明るいほうへさし出し、表側から垂れぶたの裏側にいたるまで丹念にしらべだした。
「ポーロックの筆跡だよ」彼は考えこみながら、「いままでにあの男の字には二度しかお目にかかったことはないのだが、彼の字であることに疑いの余地はないね。eにギリシア文字を使い、頭の部分を妙にわざとらしく書くのが彼の癖なのだが、しかし、もしこれがポーロックからのものだとすると、よほど重要なものにちがいない」
彼の口ぶりは私を相手にというよりはむしろ自分にいいきかせているふうだったが、私は好奇心にかられて耳を傾けているうちに、いつのまにかさきほどの腹立ちも忘れてしまっていた。
「で、そのポーロックってのはいったい何者なんだい?」私はたずねた。
「ポーロックというのは、ワトソン君、一種の筆名(ノム・ド・プリユム)だよ。身分証明のためのたんなる記号でしかない。ところがその陰の正体はずるがしこくてとらえどころのない男なのだ。このまえの手紙で彼はこの名前が本名ではないことを堂々と白状し、おまけに、この大都会にうようよしている何百万人もの人間のなかから自分の正体をつきとめられるものならつきとめてみよ、とぼくにたんかをきってよこした。もっともポーロックという男自体はさして重要ではない。問題なのは彼の背後にひかえている大物のほうなのだ。ポーロックというのは、いってみれば、サメの案内役のブリモドキとか、ライオンの先棒(さきぼう)をかつぐジャッカルみたいに、恐るべき親玉にただあやつられているだけのチンピラのようなものにすぎない。しかもその親玉はただ恐ろしいというだけではない、ワトソン君、悪辣(あくらつ)なのだ、凶悪きわまりないのだよ。彼についてぼくにわかっているのはざっとこのくらいだ。モリアーティ教授のことはきみに話したことがあったよね?」
「かの有名な科学的犯罪者のことかね。悪人仲間でのその名声ときたら――」
「ぼくの赤面のごとし、かい、ワトソン君」ホームズは苦い顔をしてつぶやいた。
「いや、ぼくは『世間で無名なることと表裏一体なり』といいたかったのだよ」
「うまいこというね、秀逸だよ!」ホームズは叫んだ。「ワトソン君は最近、思いがけない時に、真面目顔で冗談を言うようになったね。ぼくもうかうかしてられないな。だがね、モリアーティを犯罪者よばわりすると名誉毀損で訴えられるよ。そこがあの男の偉大な点なのさ。あらゆる時代を通じて最大の陰謀家、あらゆる悪事の首謀者、暗黒街の支配的頭脳――使いようによっては一国の運命をも左右しかねないほどの頭脳。それがあの男の正体なのだ。ところが世間から疑惑の目で見られることもなく、まして非難を浴びることなどもなく巧みに身をくらましているものだから、それこそきみがいまうっかりしゃべった言葉をたてにとってきみを法廷にひっぱりだし、きみのまる一年分の年金を名誉毀損の慰謝料として堂々とまきあげていくことぐらいわけなくやってのける男なのさ。『小惑星の力学』の著者として、彼が広く世に認められていることはきみも知っているだろう? あの本は純粋数学の頂点にまで達していたので、当代の科学評論家ですらほとんど理解できなかったといわれている。こんな男にへたなことをいえるかい? 毒舌家の医者、教授を中傷――世間ではそうとるにきまっているよ。まさに天才だね、ワトソン君。でもね、ぼくが小物連中相手のつまらぬ仕事から解放されたら、きっとあの男をつかまえてみせるよ」
「ぜひその場に立ち会いたいものだね」私は心をおどらせて叫んだ。
「ところでさきほどのポーロックって男のことだけど」
「ああ、そうだったね。そのポーロックと名のる男は、いわば鎖の中心から少しはずれた場所を占めている環のようなものだ。もっとも、ここだけの話だが、あの男はそれほどしっかりした環ではない。ぼくがたしかめたかぎりでは、鎖のなかでいちばんもろいところだね」
「でも、もっとも弱い部分が鎖の強度を左右するものだよ」
「まさにそのとおりだ、ワトソン君。だからこそポーロックの存在がきわめて重要になってくるのだ。彼にもまだ良心というものが残っているらしく、ときたまひそかに送ってやった十ポンド札が効いたとみえ、いままでに一、二度貴重な情報をぼくに流してくれたことがある。それも、犯罪を懲(こ)らしめるためというよりは、それを予見し未然にふせぐために役立つたぐいの、きわめて貴重なものだった。こんどの情報にしたところで、もし暗号の鍵さえわかれば、きっとぼくがいまいったような性質(たち)のものだと思うよ」
ホームズはふたたび、まだ使っていないとり皿の上にその手紙をひろげた。私は立ちあがって、彼の肩ごしにのぞきこんでみると、つぎのような奇妙な字が書きしるされていた。
534 C2 13 127 36 31 4 17 21 41
DOUGLAS 109 293 5 37 BIRLSTONE
26 BIRLSTONE 9 127 171
「何のことだと思う、ホームズ君?」
「秘密の情報を伝えようとしてきたことはたしかだね」
「でも解く鍵がわからない暗号文なんて無用の長物にすぎないだろう?」
「これに関するかぎりはまさにそのとおりだ」
「なぜ『これに関するかぎり』なんだい?」
「なぜって、世の中には、新聞の私事広告欄の謎めかした文句のように、鍵がなくとも楽に解ける暗号文がいくらでもあるからだよ。その種の幼稚な暗号文なら疲れないから頭の体操にはもってこいなのだが。しかしこれはそうはいかない。何かの本の中の頁にでてくるいくつかの単語を指し示しているのはたしかなのだが、どの本のどの頁かがわからなければお手上げだよ」
「でも『ダグラス』(DOUGLAS)とか『バールストン』(BIRLSTONE)てのはいったい何だろう?」
「きっとそれらの言葉が問題の頁にはなかったからだよ」
「それにしてもいったいなぜ彼は、その本を指示してこなかったのだい?」
「ワトソン君みたいに生まれつき抜け目のない、したたかな人間なら、もっともそこがきみのいいところでもあるのだが、まさか暗号文に鍵を同封するようなことはしないだろう。万一他人の手に渡ったりしたらおしまいだからね。別々に郵送すれば二通とも同一の手に誤配されないかぎりまず大丈夫だ。そろそろ二通目が届いてもいいはずなのだが。それにはくわしい説明か、いやそれどころかおそらくは本そのものをはっきりと指示してあるとみてまずまちがいあるまい」
ホームズの予想はそれから数分もたたないうちにもののみごとに的中した。給仕のビリーが私たちの待ちこがれていたまさにその二通目の手紙をたずさえて現われたのである。
「同じ筆跡だ」開封しながらホームズがいった。「署名もきちんとある」中身をひろげるとうれしそうにそうつけ加えた。「さあ、活動開始だ、ワトソン君」
ところが文面にざっと目をとおしているうちに彼の顔が曇ってきた。
「やれやれ、期待はずれもいいとこだよ! ワトソン君、どうやらぼくたちの思っていたようには事は運ばないらしい。あのポーロックが無事であってくれればいいが」
「彼はこう書いてきている。『拝啓、ホームズ様。私はもうこれ以上このことに深入りしたくありません。危険すぎます。彼が私のことを疑っているのです。私にはそう感じられてなりません。あなたに暗号文の鍵をお知らせしようとこの封筒に宛名を書いている際中に、まことに思いがけないことに彼がやってきたのです。なんとか隠すことができたからよかったものの、もしみつかっていればただではすまなかったにちがいありません。でも彼の目はあきらかに私を疑っている目なのです。どうかお願いですから、いまお手もとにある暗号文も焼きすてて下さい。いまとなっては何の役にもたたないはずですから――フレッド・ポーロック』」
しばらくの間、ホームズはこの手紙を指先でひねくりまわしながら、顔をしかめて暖炉の火をじっとみつめていた。
「要するに」彼はやっと口を開いた。「くだらないたわごとだよ。うしろめたさのもたらした産物にすぎんさ。いざ仲間を裏切るとなれば相手の目つきもきつく感じられるものだよ」
「その相手というのはモリアーティ教授のことだろう?」
「もちろんさ。あの連中が『彼』といえば、それが誰かはわかりきったことさ。連中にとって『彼』とはひとりしかいないんだから」
「でもその彼は何をするつもりなんだろう?」
「ふむ! それは大問題だね。ヨーロッパ有数の頭脳の持主で全世界の悪人を味方につけているあの男を敵にまわしたら、何が起こるかわかったものじゃないからね。いずれにせよ、かわいそうにポーロックのやつ、すっかりおじけづいてとり乱している。この手紙の筆跡を、そのあやうくみつかる寸前に書いたとかいう封筒の宛名の字とくらべてごらんよ。宛名のほうはしっかりと書かれていてわかりやすいのに、この手紙の字はとてもじゃないが読めたもんじゃない」
「でもどうしてわざわざ書いてよこしたんだろう? あっさりやめてしまえばいいのに?」
「そのままにしておくと、ぼくが彼の身辺をさぐり始めてやっかいなことになるのを恐れたのだよ」
「なるほど。もっともだね」そういいながら、私はもとの暗号文を手にとりじっとにらんだ。
「こんな紙きれ一枚に重大な秘密が隠されていながら手も足もでないなんて、考えただけで頭にくるね」
シャーロック・ホームズはとうとう手をつけずじまいの朝食の皿を押しのけ、考えごとをするときにはかかせない、くせの強い香りを放つパイプに火をつけた。
「さて、どうだろうね!」彼は椅子の背にもたれかかり天井をみつめながらいった。「おそらく君のマキャヴェリ流の知性でもってしてもみのがした点がどこかにあるはずだよ。そこで厳密に論理にもとづいて考えてみようじゃないか。まずこの男は本を利用している。そこがぼくたちの出発点だ」
「なんともばくぜんとした出発点だね」
「ではもう少しはっきりさせられるかどうかみてみよう。じっくり考えてみると、それほど不可解なものでもないみたいだよ。本のことに関してどんな手がかりがあるかな?」
「まったくないよ」
「まあ、まあ、それほど悲観することもないさ。暗号文は534 という大きな数字で始まっていたね。その534 というのは暗号文に使った本のなかのある特定のページを示していると仮定してみよう。するとその本というのはかなりぶ厚い本だということになる。これで確実に一歩前進だ。このぶ厚い本に関してほかにどんな手がかりがあるだろう? そのつぎの記号はC2 だね。これをどう解釈する? ワトソン君」
「第二章(Chapter the second)だよ、きっと」
「とんでもないよ、ワトソン君。ページがわかっていれば第何章かなんてことはどうでもいいことだとは思わんかね。それにもし五三四ページが第二章にあたるとすれば、第一章が常識はずれの長さになってしまうじゃないか」
「そうか、段(コラム)(Column)だ!」私は叫んだ。
「おみごと、ワトソン君。けさのきみは冴えているね。段と考えてほぼまちがいあるまい。となるとつぎに、各ページが二段に組まれていてしかもその一段がかなり長いもの、というのは暗号文のなかに239 という数字があるからだが、そういうぶ厚い本の中からめざす本を割り出していけばいいことになる。もうこれ以上的(まと)はしぼれないだろうか?」
「無理だろう」
「あきらめが早すぎるよ。ひらめきがあと少し足りないね、ワトソン君。頭をもうひとひねりしてほしいところだね。もしその本がだよ、あまりみかけない本だとしたら、あの男はきっとその現物をぼくに送ってよこしたはずだよ。ところが彼は邪魔がはいるまでは解読の鍵だけをこの封筒に入れてよこすつもりだったらしい。手紙でもそういっている。このことが意味するのはおそらくひとつ、すなわち、彼はぼくがその本をたやすく手にし得ると考えていたというわけだ。彼自身はもちろんその本をもっていたわけだし、おそらくぼくももっているはずだと思ったにちがいない。要するにワトソン君、それはどこにでもあるような本なのだよ」
「きみのいうことはたしかにもっともだよ」
「これでぼくたちの的(まと)は、どこにでもある二段組のぶ厚い本というところまでしぼられたわけだ」
「聖書だ!」私は勝ち誇ったように叫んだ。
「おみごと、ワトソン君、おみごとだ。もっともそうはいっても満点はあげられないがね。だって、かりにぼくがその満点をちょうだいさせてもらえるとしても、まさかモリアーティ一味の連中の手もとに最もふさわしからぬ本の名は出すまいよ。それに、聖書はいろんな版がでまわっているものだから、あの男にしてもぼくが同じ版のものをもっているとはきめかねたはずだ。これは定本版がはっきりしている本だよ。あの男は自分の本の五三四ページがぼくの本の五三四ページとぴったり一致していることを信じて疑わなかったのだよ」
「しかしそれにあてはまるような本なんかあるまい」
「そのとおり。もっともそこがぼくたちにとっては願ってもないことだけどね。だってぼくたちの捜査範囲は、誰でももっているはずの定本版のはっきりした本というところまでせばめられたのだから」
「『ブラッドショー』だ!」
「それはまずいよ、ワトソン君。『ブラッドショー』の語彙(ごい)は簡潔明瞭だけれど、でもかたよっているからね。日常の手紙文に役立つたぐいの言葉はまずほとんどないはずだよ。『ブラッドショー』は除こう。辞書のたぐいも同じ理由から受け入れがたいね。となると何が残る?」
「年鑑だ」
「すばらしい、ワトソン君。きっとそうくるだろうと思ったよ。そう、年鑑だ! まず手始めに『ホイッティカー年鑑』をふるいにかけてみよう。これは誰でも使っている本だし、ページの条件もみたしている。それに二段組だ。冒頭のあたりの語彙は控えめだが、ぼくの記憶に誤りがなければ、終わりにいくに従ってかなりにぎやかになっていたはずだ」彼は机の上の年鑑を手にとって、「五三四ページの二段目はここだが、びっしりと活字で埋めつくされていて、どうやら英領インドの貿易と資源に関することのようだ。ちょっと単語を控えてくれ、ワトソン君。十三番目の字は『マラタ』だ。どうもあまりさい先がよくないね。百二十七字目は『政府』とくる。これで少なくとも意味はなしそうだが、ぼくたちやモリアーティにはあまり縁のない言葉だね。つぎにすすんでみよう。マラタ政府がどうしたって? やれやれ、おつぎが『豚の毛』ときている。お手上げだ、ワトソン君! 行きどまりだよ」
彼はさも面白がっているふうに語ったが、ぴくぴく動く濃い眉が内心の失望と焦燥を如実に物語っていた。私は途方にくれ、うっとうしい気分で椅子にすわりこんだまま、暖炉の火にじっと見入っていた。重苦しい沈黙が続いたあと、突然ホームズが叫び声をあげ戸だなにかけ寄ったかと思うと、さきほどのとよく似た黄色い表紙の本を手にしてもどってきた。
「新しいものばかり追っていると、ワトソン君、損をするね。時代の先端をいくと、きまってひどい目にあうものだよ。一月七日ということでぼくたちはてっきり新しい年鑑だと思いこんでしまったのだ。ポーロックならきっと古いほうを暗号文に利用したにちがいない。もしあの暗号解読の鍵を知らせる手紙が書かれていたら、きっとそのことにふれていたはずだよ。さて、五三四ページではどんな言葉が待ちうけているかをみてみよう。十三番目はThere だ。これはなかなかいけそうだ。百二十七字目に is とくる――There is だ」ホームズは興奮して目を輝かせ、字を追うごとに彼のほっそりとした神経質そうな指がかすかに震えた。「そして dangerか。はは、すばらしいぞ! 書きとってくれたまえ、ワトソン君。There is danger―may―come―very―soon―one(危険―が―せまって―いる)そしてつぎが名前でDouglas(ダグラス)続いて―rich―country―now―at―Birlstone―House―Birlstone―confidence―is―pressing(バールストン―の―バールストン―荘―に住む―田舎の―金持に―確信―さしせまっている)どうだい、ワトソン君。厳密な推理のもたらしてくれる収穫をどう思うかね? もし八百屋が月桂冠のような代物を売っていたら、ビリーにひとっ走り買いにやらせたい気分だね」
私はホームズが解読するがままに単語を書きとったフールスキャップ紙をひざの上におき、奇妙な文句にじっと見入った。
「それにしてもなんとも奇妙なたどたどしい言い回しだな!」私がいうと、
「とんでもない、むしろみごとなもんだよ」ホームズがいった。「たった一段の単語のなかから自分の用件に使えるものを探しだそうとしたって、そう都合よくほしい言葉がすべてみつかるというわけにはいかないさ。ある程度は受けとる相手が頭を働かせてくれることにたよらざるをえないものだよ。あの男がいおうとしていることはよくわかるよ。どんな人物かは知らないが、ダグラスとかいう名の金持の紳士が文面にあるとおりの村に住んでいて、その男に悪の手が忍びよっている、ということらしい。しかも間近に迫っていると確信しているというのだ。confidence(確信)はconfident(確信して)の間に合わせだよ。どうだい、分析の芸の冴えもなかなかのものだろう」
満足すべき成果が得られないと暗くふさぎこんでしまうホームズだが、逆に仕事がうまくはかどると、真の芸術家特有のあの無私の喜びを味わうのだった。彼がまだ成功に酔いしれているうちに、ビリーがドアを勢いよくあけ、ロンドン警視庁のマクドナルド警部を部屋に通した。
これは一八八〇年代の終わりに近い頃の話で、当時はアレック・マクドナルドもまだ今日のような全国的名声とは無縁の存在だったが、刑事部の有能な若手としてすでにいくつかの担当事件で頭角をあらわしていた。上背のあるがっしりした体格は並み並みならぬ力の持主であることを物語っていたし、大きな頭蓋骨と濃いまゆの奥深くに輝いている目は、彼がまた鋭い知性にもめぐまれていることをはっきりと示していた。口数の少ない、きちょう面で頑固な性質(たち)の男で、強いアバディーンなまりがあった。すでに二度ほど、ホームズは彼に手を貸して手柄をたてさせてやっていたが、謝礼などには見向きもせず、もっぱら事件を解くことの知的喜びで満足していた。そういうこともあって、このスコットランド生まれの警部がアマチュア探偵ホームズに対して抱く親愛と尊敬の念には限りなく深いものがあり、そのことは、難題にぶつかるたびに素直にホームズの意見を求めようとする姿勢にもうかがえるのだった。平凡なる精神は非凡なる精神を見抜けないものだが、才ある者は天才をひと目で見抜く。その意味で、天分においても経験においてもすでにヨーロッパ随一の栄光に輝いていたホームズの助力を仰ぐことを何ら恥としないマクドナルドには、探偵としての才能が十二分に備わっていたといえるのである。ホームズは友情に左右される性質(たち)の男ではなかったが、この大柄のスコットランド男にはいつもやさしく、彼の姿をみて微笑んだ。
「やあ、早起きですな、マック君」彼はいった。「三文の得をしましたか。どうやら不幸にも何か厄介ごとがもちあがったらしいね」
「『不幸にも』というより『幸運にも』とおっしゃってくれたほうが的(まと)をえていると思うんですがね、ホームズさん」警部は抜け目なくにやりと笑って応じた。「そうですね、こんなうすら寒い朝には気のきいたセリフでもちっと吐かにゃやりきれませんて。いや煙草はけっこうです。急いどるもんですから。事件の捜査というのはできるだけ早いうちに手を打つことが肝心ですものね。もっともこんなこたあ、あなたご自身がいちばんよくご存じのはずですが。しかし――まさか――」
警部はふいに言葉をとぎらせ、テーブルの上の紙きれを呆然として穴のあくほど見つめていた。それは私がさきほど謎めいた暗号を解読したものを書きとった紙きれだった。
「ダ、ダグラスだって! バ、バ、バールストン! これは何です、ホームズさん。まるで魔法みたいだ! 一体全体どこでこんな名前を知ったのです?」彼はどもりながらいった。
「それはワトソン君と私とがいましがた解いていた暗号文にあったのだよ。でもどうして? その名前がどうかしたのかい?」
警部はきょとんとして私たちふたりの顔をみくらべていたが、やっと口を開いた。
「じゃあいいましょう。バールストン荘のダグラス氏がけさ惨殺されたのです」
私の友の生き甲斐となっているあの劇的瞬間がまたしても訪れたのだった。といって、彼がこの驚くべき報告に衝撃をうけたとか、いや刺激をうけたといってすら、誇張になるだろう。彼の特異な気質には冷酷さなどひとかけらもなかったのだが、強い刺激を何度も味わってきたせいで感覚が麻痺してしまっていることは否めなかった。しかし、感情の動きが鈍いのとは裏腹に、頭脳はめざましい勢いで活動していた。警部のぶっきら棒な発表に私が内心ぞっとしたのに対し、ホームズはそんなそぶりをつゆともみせなかったのだが、それでも彼の顔は、過飽和溶液から結晶が析出していく状態を観察している化学者のような冷静な関心を示していた。
「おもしろいですな!」彼はいった。「じつに面白い!」
「驚かれていないみたいですね」
「興味はおぼえるが、しかし、マック君、驚くほどのことじゃないよ。だってなぜ驚かなきゃいけないんだい? ぼくはある信頼すべき筋から、ある人物に危険がせまっているという匿名の警告状をうけとった。それからものの一時間もたたないうちに、ぼくはその危険がすでに現実のものとなったことを知ったわけだ。なるほど興味はおぼえるにしても、ごらんのとおり、驚きはしないね」
ホームズは警部に手紙や暗号のいきさつを手短に語った。マクドナルドは両手でほおづえをつき、太い黄金色のまゆをしかめてきいていた。
「じつはけさバールストンへ出かけるつもりだったのです」彼はいった。「ここへお寄りしたのもあなたにいっしょにきていただこうかと思ったからなのです。もちろんここにおられるご友人にもですが。でもあなたのお話をうかがってみると、どうやらロンドンにいて仕事をしたほうがよさそうですね」
「そうは思わないね」ホームズがいった。
「ご冗談を、ホームズさん! この二、三日、新聞はバールストンの謎について書きたてるでしょう。でも、犯罪を事前に予告した人物がロンドンに潜んでいるとわかった以上、謎もへったくれもないでしょう? その男をつかまえれば、事件も解決したのと同然ですよ」
「なるほど、マック君。でもどうやってそのポーロックと名のる男をつかまえるつもりだい?」
マクドナルドはホームズから手渡された手紙をひっくり返してみた。
「カンバーウエル局の消印がある――これはたいして役に立ちそうにもないですね。名前はあなたがおっしゃるには偽名だそうだし。たしかに厄介ですね。あなたは彼にお金を送ってやったことがあるとおっしゃいませんでしたか?」
「二回ほどね」
「でもどうやって?」
「カンバーウエル局留にして」
「うけとりにくる男をたしかめにはいらっしゃらなかったのですか?」
「いかない」
警部は意外に思ったらしく、少しあきれたような顔をした。
「でもなぜです?」
「ぼくは約束を守る男だからだよ。最初に向こうから手紙をよこしてきたとき、決してかぎまわったりはしないと保証してやったのだ」
「あの男の背後に誰かいると思っておられるんですね」
「思ってではない、わかっているのだよ」
「いつかおっしゃっていた例の教授ですか?」
「そのとおり」
マクドナルド警部は微笑をうかべ、目をしばたたいて私のほうをちらっとみた。
「じつをいいますとね、ホームズさん、われわれC・I・Dではこの教授についてあなたは少し思いこみがすぎるのではとみているのですが。この件に関しては私自身も少しあたってみたのですが、教授は学識才能ともに兼ねそなえた非常にりっぱな人物ですよ」
「彼の才能を認めてくれたとはありがたい」
「そりゃ認めざるをえないでしょう。あなたからお話をうかがっていたので教授と直接会ってみたのです。そのときはどういうわけか日蝕のことが話題になったのですが、教授は反射つきランタンと地球儀をもちだしてきて、あっという間に解明してくれましたよ。ついでに本まで貸して下さったのですが、正直いって、アバディーンでしっかりと教育をうけたはずの私でも歯がたたない代物でした。しらが頭のやせた顔でもったいぶって話すところなど、まるで牧師さんそっくりでした。別れしなに教授が私の肩に手をかけてくれたときなど、冷たくせちがらい世間へ旅立つ息子の祝福を祈る父親のような印象をうけたものです」
ホームズはくすくす笑って両手をこすりあわせながらいった。
「すばらしい! すばらしいことだ! で、マクドナルド君、その心あたたまる感動的ご対面は教授の書斎でおこなわれたのだね?」
「そうです」
「りっぱなへやだっただろう?」
「たいへんりっぱな、みごとなお部屋でしたよ、ホームズさん」
「できみは、あの男の書斎机のまえにすわったのだね?」
「そうです」
「するときみは窓からの光を顔にうけ、あの男は光線のかげにいた?」
「じつは晩のことだったのですが、そういえばランプが私の顔を照らしていました」
「だろうね。それできみは教授の頭の上の絵に気づいたかい?」
「私の目はそれほど節穴(ふしあな)じゃありませんよ、ホームズさん。もっともこれもあなたのおかげですがね。ええ、みましたとも――両手をそろえて頭を支え、こちらを横目で見つめている若い女の絵でした」
「ジャン・バティスト・グルーズの作だよ」
警部はしいて興味のあるふりをしたが、ホームズは椅子に深く身をしずめて両手の指先をからませながら、おかまいなしに続けた。
「ジャン・バティスト・グルーズというのは、一七五〇年から一八〇〇年にかけて活躍したフランスの画家なのだ。もちろん、画家としての活躍をいうのだけれどね。現代の批評家のほうが当時の批評家より高く彼をかっているよ」
警部は退屈そうな目つきを露骨にあらわした。
「もっとほかに大事な――」彼がいいかけると、
「その大事な話をしているのだよ」ホームズがさえぎった。
「いま私がしゃべっていることはすべて、きみのいうバールストンの謎とかと密接な関係のあることなのだよ。実際のところ、まさにその謎の中核をなすとさえいえるくらいなのだ」
マクドナルドはたよりなげに笑みをうかべ、同情を求めるようなまなざしを私に向けた。
「あなたの頭の回転が速すぎて私にはついていけませんよ、ホームズさん。ところどころ飛躍なさるものだから、私は立往生してしまうのです。一体全体、よりによってこんなかびの生えたような絵かきが、バールストンの事件とどんな関係があるというのです?」
「探偵にとっては、どんな知識でもいずれは役に立つときがくるものなのだよ。たとえば『仔羊を連れた少女』と題されたグルーズの絵が一八六五年に四千ポンドを超える値で売れたという――ポータリスの売り立てでの話だがね、こんなささいな事実ですら君にいろいろ考えさせることになるかもしれない」
警部はあきらかにいろいろ考えだしたらしく、好奇心を素直に顔にあらわした。
「ついでにいっておくがね」ホームズはさらに続けた。「二、三の信頼すべき資料で教授の俸給をたしかめてみたところ、それが年七百ポンドだったよ」
「じゃあ彼に買えるはずが――」
「そう、ないのでは?」
「いやはや、これは面白い」警部は感心して、「もっと話をきかせて下さい、ホームズさん。ぜひおききしたいものです。じつに面白い」
ホームズは微笑んだ。彼は真の芸術家の常として、お世辞でないほめ言葉に出会うといつもきげんがよくなるのだった。
「バールストンゆきはどうする?」彼がきいた。
「まだ時間があります」警部は自分の時計に目をやりながら、「おもてに馬車を待たせてあります。それでいけばヴィクトリア駅まで二十分とかかりませんよ。ところでさっきの絵のことですが――ホームズさん、あなたはたしかにモリアーティ教授にあったことは一度もないとおっしゃっていたはずですが」
「そう。会ったことはない」
「じゃあどうして教授の部屋のことなどご存知なのです?」
「ああ、それなら話はべつだよ。彼の部屋には三度ほどいったことがある。二度はそれぞれちがった口実をもうけて彼の家へいき彼の部屋で待ちうけたのだけれど、結局、彼に会わずじまいで帰ってきた。一度は――じつはそのあとの一度については警察のお役人のまえではちょっといいづらいのだがね。そのときは無断で彼の書類にざっと目を通してみたのだが、結果は意外だった」
「何かよからぬものでもみつかったのですか?」
「それがなんにも。だからこそ意外だったのさ。とにかくこれできみもあの絵が何を意味するかがわかっただろう。あの絵はあの男が金に不自由していないことを物語っているのだ。ではあの男はどこからそんな金を手に入れたのか? 彼には妻はいないし、弟はイングランド西部の片田舎の駅長でしかない。教授としての給料とてたかがしれていて年七百ポンドだ。それでいてあの男の手もとにはグルーズがあるのだ」
「それで?」
「簡単に推察できるじゃないか」
「教授にはばく大な収入があり、しかもそれは裏口からかせいだ金だとおっしゃるのですね?」
「まさしくそのとおり。もちろんそう考える理由はほかにもある――くもの巣のようにはりめぐらされた何本もの細い糸がどうやらある一点に集中しており、そこには毒ぐものような生き物がじっと身を潜めているらしいのだ。グルーズの絵のことをもちだしたのは、たまたまきみの目にそれがふれたからにすぎないのだよ」
「なるほど、ホームズさん、たしかに面白いご意見です。いや面白いどころか、すばらしいのひと言(こと)につきますよ。でも、できたらもう少しくわしく話していただきたいのですが。いったい教授のそのばく大な収入源は何ですか? たとえば偽造とか、贋造(がんぞう)とか、強盗とか?」
「きみはジョナサン・ワイルドについて読んだことがあるかい?」
「ええと、名前はよく耳にしています。たしか小説にでてくる人物でしたね? 私は小説のなかの探偵にはあまり興味がないもんですから――やつらのはたんなる直感のお遊びで、仕事じゃありませんからね」
「ジョナサン・ワイルドは探偵でも小説中の人物でもない。彼は大悪党で、しかも前世紀の実在人物なのだよ――たしか一七五〇年前後のね」
「じゃ、私には用のない人物ですね。私は実際的な男ですから」
「マック君、ではこの際きみがとりうるもっとも実際的な態度というのを教えてあげよう。三ヵ月家に閉じこもって毎日十二時間ずつ犯罪記録を読破していくのだ。歴史は繰り返すもの、モリアーティ教授もまたしかりだよ。ジョナサン・ワイルドはロンドンの悪党連中に隠然たる影響力をもっていた人物なのだ。知恵と組織力とを売りつけて十五パーセントの手数料をとっていたのだ。時はめぐり、過去は再びよみがえる。一度あったことは二度あるものさ。モリアーティにまつわる面白そうな話を二、三教えてあげようか」
「ええ、きっと面白い話でしょうね」
「悪に走ったナポレオンともいうべきこの教授を出発点にして、百人に及ぶならず者、すり、恐喝常習者、いかさまカード師などありとあらゆる犯罪者が連鎖状につながっているのだが、その鎖のナンバーワンともいうべき環にあたる人物を偶然知ったのだよ。教授の参謀長ともいうべきこの男はセバスチャン・モラン大佐といって、教授同様、法の網にひっかかることなく超然として安泰な生活を送っているのだ。この男に教授がどのくらい金を払っていると思う?」
「いったい、いくらくらいなんです?」
「年六千ポンドだよ。彼の頭のはたらきの報酬ってわけさ――アメリカ式商業主義だね。こんなことまでかぎつけることができたのもひとえに偶然のおかげなんだがね。総理大臣の年俸を上回っている。このことひとつとってもモリアーティの収入の程度や仕事の規模の大きさがわかるはずだ。まだある。ぼくはつい最近、モリアーティの振り出した小切手を少し洗ってみたのだ。といっても日常経費の支払いにあてたごくありふれたまともな小切手なのだがね。それがなんと六種類のそれぞれ異なる銀行の小切手なのだよ。どういう印象をうける?」
「奇妙ですね、たしかに。であなたはどうお考えになります?」
「彼は財産のことが表ざたになるのを嫌ったのだよ。いくらもっているかを誰にも知られたくないのさ。おそらく彼の名義の銀行口座は二十に達するだろう。もっとも財産の大半はドイツ銀行とかリヨン銀行とかいった海外の銀行に預けてあるのだろうけどね。いずれ一、二年ひまができたら、モリアーティ教授のことをじっくり研究してみるんだね」
マクドナルド警部は話がすすむにつれてしだいに夢中になっていき、しまいにはすっかりわれを忘れてしまっていたが、さすがに実際的なスコットランド気質の持主とあって、ふとわれに返り、話をもとにもどした。
「いろいろ面白い逸話をきかせていただいたのですが、少し話がわき道にそれてしまったようですよ、ホームズさん。教授の財産の話はさておき、あなたのお話のなかでいま問題にすべきことは、こんどの犯罪に教授が一枚かんでいるらしいということです。ポーロックとかいう男からの通告でわかったとのことですが、さしあたっていまわれわれのつかみうることといえばそれくらいでしょうか?」
「犯罪の動機に関しては多少の見当がつかないでもないよ。きみの話をきくかぎりでは、不可解な、というか少なくともいまのところ納得のいかない殺人事件だということらしいが、事件の背後にいま私たちが問題にした例のうさん臭い人物がいるとすれば、二様の動機が考えられるね。まず第一の動機についてだけど、モリアーティは配下の連中をいわば鉄のむちで支配しているのだよ。恐るべき戒律だ。掟に背けば待ちうけているものはただひとつ。死だ。そこで考えられるのは、殺されたこのダグラスとかいう男がなにかで首領を裏切り、それでその裏切者を待ちうけている運命を犯罪王の手下の一人がかぎつけたということだ。刑は執行された。そしてみせしめのために連中のみんなに知らされるのだ」
「なるほど、そういうことも考えられますね、ホームズさん」
「もうひとつは、この事件をモリアーティが、いつものありふれた悪事の一環として企てたものとみる見方だ。何か盗まれていたかい?」
「まだその点の報告ははいっていません」
「もし何か盗られていれば、もちろん第一の仮説はくずれ、第二の仮説が浮かびあがってくる。モリアーティは利益を山分けする約束で事件を仕組んだのか、前金をふんだくったうえで事を企んだのか、どちらとも考えられるね。がどちらにせよ、いやもしかしたらもっと別のかたちで手を貸したのかもしれないが、ともかくバールストンへ行ってみなければ話にならないよ。あの男のことはよく知っているが、しっぽをつかまれるような手がかりをこのロンドンに残しておくようなまぬけではないからね」
「ではバールストンへ急がねば!」マクドナルドは椅子からとびあがって叫んだ。「やっ! しまった、思ったより時間をくってしまった。おふたかたは五分以内にしたくをして下さい。いいですね」
「五分もあればじゅうぶんだよ」というとホームズは勢いよく立ちあがって、てきぱきと部屋着を外出着に着かえながら、「マック君、道中で事件の詳細をすべてきかせてくれたまえ」
「詳細をすべて」きいてみたところが、うんざりするほど何ひとつわかっていなかった。もっとも、その道の専門家がわざわざ調査にのりだすだけの価値は十分にある事件だということはたしかにうなずけた。ホームズは目を輝かせて骨ばった手をこすりあわせながら、そのとぼしいなりにも驚くべき詳細に耳を傾けた。何週間もえんえんと続いた退屈きわまりない日々がようやく終わりをつげ、ここについに、特異な才能を発揮するのにうってつけの対象がみつかったのである。どんな天才でも才能をもてあましていることほどうんざりすることはない。カミソリ同様、鋭利な頭脳も使わないでいると刃先が鈍り、さびついていく。ホームズは目を輝かせ、青白いほおをほんのり赤らめながら、ついに自分の出番がまわってきたことのうれしさを顔一面にあらわしていた。馬車のなかでは、身をのりだすようにして、サセックス州で私たちを待ちうけている難題のあらましを語るマクドナルドの言葉に熱心に耳を傾けていた。警部の話では、彼自身、けさ早く牛乳列車で送られてきた走り書きの報告をもとにしてしゃべっているのにすぎないとのことだった。たまたま現地の警察官ホワイト・メイソンと知り合いだったため、地方警察がロンドン警視庁に援助をあおいでくるいつもの場合よりもかなり早く情報を耳にしえたということだった。首都警察の専門家に出動が要請されるのは、ふつうよくよく手がかりのとぼしい場合にかぎられていた。
警部はメイソンの手紙を読んできかせてくれた。
「拝啓、マクドナルド警部殿。公式の依頼状は別便に託しました。ここでは特に個人的にあなたにお願いする次第です。朝の何時の列車でバールストンへ来られるのか電報でお知らせ下されば、私が出迎えにまいりますし、もし私の手がふさがっておりましたら誰かを代わりに迎えにやらせます。重大事件です。一刻も早くおこし下さい。もしホームズ氏をお連れ願えれば、まさに私どもの望むところです。あの方独自の方法できっと何かを発見して下さるでしょう。もし本物の死体さえ舞台の真ん中にころがっていなければ、すべては劇的効果をあげんがために仕組まれた芝居と考えたくなるような事件です。まったく、すごい事件です!」
「きみの友人はまんざらばかでもなさそうだね」ホームズが口を開いた。
「もちろんですとも。ホワイト・メイソンは私のみるかぎり大変有能な男ですよ」
「で、話はそれだけ?」
「あとは現地で彼の口から直接くわしい話を聞かせてもらうことになっています」
「じゃあどうやってきみは、ダグラス氏だの、彼が惨殺されただのということを知ったのだい?」
「同封してあった公式報告にしるされていたのです。もっとも『惨殺』という言葉は使っていませんが。正式の公用語にはないのです。で、それによると被害者の名はジョン・ダグラスといい、散弾銃で頭部を撃たれているとのことです。発見時刻は昨夜十二時近く、さらに、他殺であることはあきらかだが容疑者はまだつかまっておらず、事件は不可解で異常な様相を呈しつつある、と述べています。いまつかんでいるのはざっとこれだけです、ホームズさん」
「じゃよければこの話はひとまず、これで打ち切ろう、マック君。不十分な資料にもとづいて早まった見当をつけることは、ぼくたち職業では命とりになるからね。目下のところ、ぼくが確信をもっていえることはつぎの二点だけだ。ロンドンに一人の天才が潜んでおり、サセックスにひとつの死体が横たわっている。ぼくたちの任務はこの二点をむすぶ鎖をつきとめることだよ」
さてここでしばらくの間、私のごとき無用の長物は舞台裏にひっこませていただき、私たちが到着するまでに現地で起こった出来事を、あとから得た知識をたよりに語らせていただくことにする。事件にまきこまれた人々や、彼らの運命を左右することになった不思議な道具だてを読者のみなさんに理解していただくには、これが最良の方法だと思うからである。
バールストン村というのは、サセックス州の北のはずれにあり、半木造の古風な家がより集ってできた小さな村である。何世紀にもわたって昔からの姿を保ちつづけてきたが、ここ数年、風光明媚な土地柄が金持連中の目にとまり、周囲の森のなかに彼らの別荘がちらほらみえるようになってきた。これらの森は地元では、あのウィールド大森林地帯のはずれにあたると考えられており、この森林地帯は北にいくにつれて木もまばらになり、その向こうには白亜質の丘陵が広がっているのである。人口がふえるにつれ、小さな商店もめだち始め、いずれはこのバールストンも古くさい村から現代的な町へと変貌をとげるものと思われている。といっても付近にはこれといってめぼしい町はなく、もっとも近いタンブリッジ・ウエルズにしてもケント州との境にあって東へ十マイルあまりも離れているありさまだから、バールストンはいまでもこのあたり一帯の中心をなしているのである。
村の中心から半マイルほどいったブナの木で有名な古い領地のなかに、古色蒼然たるバールストン領主館がある。この館は由緒ある建物で、その一部の起源は第一次十字軍の時代にまでさかのぼり、フーゴー・ド・カプスがウイリアム赤顔王から拝領した領地の真ん中に築いた要塞がそのはじまりとされている。この要塞は一五四三年の火事で焼失したが、ジェイムズ王の御代になって、焼けて黒くすすけた礎石の一部を使ってこの封建時代の要塞の焼跡に建てられたのが、現在のバールストン館なのである。多くの破風や、ひし形の小さなガラスをはめこんだ窓のついているこの領主館は、十七世紀の初期に建てられた当時の面影をそっくりそのまま漂わせていた。いまとちがって尚武の精神の持主だった先祖は敵にそなえて二重の堀をめぐらしていたが、外堀はすでに水を干され、いまではささやかながら家庭菜園の役割を果たしている。内堀は深さこそいまでは数フィートしかないが、まだ堂々と水をたたえ、四十フィートの幅を保って屋敷全体をとりまいていた。小さな流れがたえず流れこんではほかから流れ出ているので、一面の水は濁ってこそすれ、どぶ水のような不潔さはない。一階の窓は堀の水面からほんの一フィートくらいの高さのところにあった。館への出入りには跳ね橋をわたるほかはなかったが、巻き揚げ機もくさりも久しくさびついてこわれたままだった。しかしながら、領主館の新しい主人は活力あふれる人物だったので、これをすっかりもとどおりにし、橋をつりあげられるようにしたばかりか、実際に毎晩これをつりあげては朝になるとおろしていたのである。こうして封建時代の古き習慣をとりもどした領主館は、夜ごと離れ小島に変貌することとなり、このことが、いずれイギリス全土の注目をあつめることになった謎の事件ときわめて深い関係をもつにいたるのである。
館は数年にわたって住む人もなく荒れ果て、このままではいずれ絵にあるような廃墟と化すのではと危ぶまれていたところを、ダグラス一家が買いとったのだった。一家といってもジョン・ダグラス夫妻のふたりきりだった。ダグラス氏は人柄といい体つきといい、人並みはずれた男だった。年の頃は五十ばかり、あごのはったいかつい顔にしらがまじりの口ひげをはやし、灰色の目は異様なくらいに鋭く、がっしりしたたくましい肉体には若々しい活力をみなぎらせていた。誰に対しても愛想よく親切だったが、身のこなしにときとして品の欠けるところがあり、サセックス州の田舎社交界で営まれている生活より数段低い生活体験の持主であることを匂わせていた。
もっとも、教養ある隣人たちからはどことなく冷ややかな好奇の目でみられはしたものの、彼はじきに村の人気者になった。村の催しにはいつも気前よく寄付をはずみ、喫煙自由の音楽会やそのほかのあつまりにも必ずといっていいほど顔を出したし、また、ずばぬけて声量豊かなテナーの持主だったので、その種のあつまりではみんなにせがまれると喜んですばらしい歌を唄ってきかせるのだった。金には不自由していない様子で、カリフォルニアの金鉱でひともうけしたらしいとうわさされていた。金のことはともかく、彼にアメリカ暮らしの経験があることは、彼自身や妻の口からもあきらかだった。気前のよい、飾らない態度のおかげで彼が得ていた人気は、危険をものともしない勇気でさらに高まった。乗馬はへたなくせに競技会でもあると必ず参加し、一流の乗り手とはりあおうとしては派手な落馬をやらかしたりした。牧師館が出火したときも、村の消防団ですら手をつけられないくらいの火勢のなかを、少しもひるまず再度家のなかにはいって貴重品をもちだし、勇名をとどろかせた。こうして、領主館の主人ジョン・ダグラスは、移り住んできて五年もたたないうちにバールストン一番の人気者になったのである。
妻のほうも、知り合いの間では評判がよかった。もっとも、知り合いといってもイギリス社会の風習からして、紹介者なしに田舎に移り住んできたよそ者とわざわざつきあおうとするものはごくまれだったが、しかし、もともと内気な性質(たち)でもあり、みたところ夫にぞっこんほれこんでいて夫の世話にかかりきりだったので、こんなことはさして気にならない様子だった。彼女はイギリス生まれの女性で。ダグラス氏とは彼がロンドンでやもめ暮らしをしていたころに知り合ったという話だった。背の高い、ほっそりとした黒い髪の美人で、夫よりは二十才ほど年下だったが、年がかけはなれているからといって、夫婦の間がぎくしゃくするような気配はまったくなかった。
しかしながら、ふたりともごく親しいものたちの目にときおりうつったところによると、夫婦は必ずしもたがいに完全に打ちとけあった仲でもなかったらしい。それというのも、妻のほうが夫の過去をあまり話したがらない、というよりむしろ、夫の過去のことをほとんど知らされていないらしいのである。そればかりか、ダグラス夫人のほうにときとして神経過敏な様子がみられることがあり、夫の帰りが遅すぎるときなどは、はた目にもそれとはっきりわかるほど落ちつきを失うことがあった。これは目ざとい人たちが気付き、話の種にしたものだ。単調な田舎の生活ではどんなうわさ話でも歓迎されるもので、領主館の夫人のこの弱点にしても見過ごされるわけはなく、そこへもってきてこんどのような事件が起こると、そのことがなおさら意味ありげにみえてきて、ますます鮮明に人々の胸に刻みこまれることになったのである。
なお、領主館にはもうひとりの人物がいた。といっても、ときたま訪れてはしばらく泊まっていくだけだったが、これから述べる例の奇怪な事件が起こったときにたまたま館に滞在していたものだから、一躍、世間に名を知られることとなったのである。この男はセシル・ジェイムズ・バーカーといい、ロンドンのハムステッドにあるヘイルズ荘に住んでいた。セシル・バーカーはダグラス夫妻のお気に入りの客で、たびたび領主館にやってきていたので、背の高い、しまりのない体つきをした彼の姿はバールストンの表通りではおなじみのものだった。彼はまた、イギリスのこの土地へ新しく移り住んでくる以前のダグラス氏の隠された過去を知っている唯一の友人だということで、いっそう注目されていた。バーカーはまぎれもないイギリス人だったが、彼の話しぶりから、彼が初めてダグラスと知りあったのはアメリカにいたときで、しかも向こうではかなり親しくつきあっていたことがあきらかだった。かなりの財産家らしく、しかも独身だといううわさだった。年はダグラスよりやや若く、せいぜい四十五くらい。背が高く、堂々とした胸の厚い男で、きれいにひげをそった顔はまるでプロボクサーさながら、太くて黒い精悍なまゆの奥に輝いている強情そうな黒い目には、腕力にものをいわせなくとも敵の群れのなかを進みうるだけの威力があった。乗馬も狩猟もやらず、パイプをくわえて古びた村のまわりを散歩したり、ときにはダグラスとふたりで、ダグラスがいないときは夫人といっしょに、美しい郊外へドライブに出かけたりして時をすごしていた。「のん気でおおらかなお方でしたが、といってあの方の機嫌をそこねるようなまねだけは絶対にしたくなかったですねえ」というのが執事エイムズの感想だった。
ダグラスとは心を許しあった仲だったが、夫人との仲もかなり親しく、そのせいで、夫のダグラスは、召使いたちがはたでみていてわかるほど心おだやかでない様子をみせたことも一度ならずあった。惨事が起こったとき家族の一員に加わっていた第三の人物とは、ざっとこんなふうな男だったのである。この古い館には雇い人たちも大ぜいいたが、きちょう面で有能な、尊敬にあたいする人物である執事のエイムズと、夫人を助けて家事をつかさどっている、ふっくらと太って陽気なアレン夫人のふたりをあげておけばじゅうぶんだろう。ほかにも六人の召使いたちがいたが、彼らは一月六日の夜の出来事には何ら関係がないからである。
サセックス州警察のウイルソン巡査部長を主任とする地元の小さな警察署に最初の急報がとどいたのは夜の十一時四十五分だった。セシル・バーカー氏がひどく興奮して警察署の入口に駈けこんできて、ベルをけたたましく鳴りひびかせたのである。領主館で恐ろしい出来事が、ジョン・ダグラス氏が殺されました。息せき切ってそう告げた。彼はその足で急いで館へひき返し、巡査部長は、州の警察本部に重大事件が発生したことをすみやかに連絡したうえですぐにバーカー氏のあとを追ったが、現場に到着したときにはすでに十二時を少しまわっていた。
巡査部長が館に着いてみると、跳ね橋はおりており、あちこちの窓から燈火(あかり)がもれていて、屋敷全体が騒然としていた。青ざめた顔をした召使いたちが広間のすみに身を寄せあい、すっかりおびえきった執事が手をもみながら玄関につっ立っていた。ただセシル・バーカーだけは冷静な態度を装っていた。彼は玄関わきのドアをあけて待っていて、巡査部長を手招きした。そのとき折よく、快活で有能な村医者のウッド博士も村から駆けつけてきた。三人が連れだって、惨劇の舞台となった部屋に入っていくと、恐怖にうちのめされてしまった執事があとにつづき、恐ろしい光景が女中たちの目に入らぬようにとドアを閉めきった。
部屋の中央に、死体が大の字になって仰向けに横たわっていた。死体は寝まきの上にピンクのガウンをひっかけていただけで、裸足でスリッパをはいていた。医者は死体のそばにひざまずき、テーブルの上にあったランプ・スタンドをかざした。ひと目みただけで、医者には自分の出る幕がないことがわかった。ひどい傷だった。死体の胸のところに奇妙な武器がもたせかけてあったが、ひき金から一フィートのところで銃身を切り落とした散弾銃だった。この銃で至近距離から撃たれ、散弾銃を顔にまともに受けて頭部をこなごなにされたことはあきらかだった。破壊力を増すため、ふたつのひき金を針金で連結させて同時に二発を撃てるようにしてあった。
村の警官は、突然わが身にのしかかってきた大きな責任にとまどい、うろたえていた。
「上官がくるまでは何にも手をつけないようにしましょう」むごたらしい頭部をおそるおそる見つめながら、声をひそめていった。
「まだ何もさわっていません。その点は保証します。何もかも発見したときのままです」セシル・バーカーが言った。
「発見はいつです?」巡査部長は手帳をとりだした。
「ちょうど十一時半でした。寝室にひっこんではいましたが、まだ寝巻きにも着がえずに暖炉のそばに腰をおろしていたところへ、銃声を聞いたのです。大きな音ではありませんでした――鈍い、こもったような音でした。すぐさま階下へ駆けおりましたが、部屋にたどりつくまでに三十秒もかからなかったように思います」
「ドアはあいていましたか?」
「ええ。あいていました。みると、ダグラスがあわれにもこのとおり倒れていたのです。寝室用のローソク立てがテーブルの上にともしてありました。このランプはその少しあとで私がともしたものです」
「誰もみかけませんでしたか?」
「ええ。そこへダグラス夫人が私のあとから階段をおりてくる足音がきこえたものですから、こんなむごたらしい光景をみせてはならないと思い、部屋をとび出したところへ家政婦のアレン夫人がやってきたので、奥さんを連れていってもらったのです。そのとき、エイムズも駆けつけてきたので、ふたりでもう一度この部屋にひき返したわけです」
「ところでたしか跳ね橋は夜中はずっとあげっぱなしだときいていましたが?」
「そうです。私がおろすまではあがっていました」
「じゃ、もしこれが殺人だとして犯人はどうやって逃げたのだろう? これは考えるだけむだですね。ダグラス氏は自殺したのにちがいありませんよ」
「私たちも最初はそう思ったのですが、でもちょっとこちらを」といいながら、バーカーはカーテンをめくって、ひし形のガラスをはめた細長い窓がいっぱいにあけはなたれているのを示し、「これをみて下さい」といってランプを近づけて、木の窓わくの上の靴底の形をした血のしみを照らしてみせた。「誰かここから逃げたものがいるんです」
「堀をわたって逃げたとでも?」
「おっしゃるとおり」
「すると、あなたがこの部屋に駆けつけたときは銃声がしてからまだものの三十秒もたっていなかったとすれば、ちょうどそのとき犯人はまだ堀の水を渡って歩いていたことになりますな」
「きっとそうだと思います。私があのとき窓に駆けよっていれば、と思うと残念でなりません。でもごらんのとおりカーテンがかかっていましたので、そんなことは思いもよらなかったのです。そこへダグラス夫人の足音を耳にしたものですから、彼女を部屋にいれまいとすることで精一杯で。彼女にみせるにはひどすぎますからね」
「まったくひどいもんだ!」医者はぐしゃぐしゃにつぶれた頭部とそのまわりの無残な傷あとをみながら言った。「こんな傷あとをみたのはバールストン鉄道事故以来初めてですよ」
「しかしですねえ」巡査部長ののんびりした田舎っぽい常識には、開いていた窓のことがどうしてもひっかかるらしい。「犯人は堀をわたって逃げたとのお説はうなずけますが、ではおききしますがね――橋があがっていたとしたらいったい犯人はどうやってこの屋敷にはいりこんだのでしょう?」
「ああ、それは問題ですね」バーカーが言った。
「橋は何時にあげたのです?」
「六時まえでございます」執事のエイムズが答えた。
「日没とともにあげる習慣だときいていたんだが、だとするとこの季節では六時よりももっと早い四時半ごろになるはずだが」
「奥さまのところにお茶のお客さまがおみえになってましたので、その方々がお帰りになるまではあげるわけにはまいりませんで、帰られたあとで私が巻きあげた次第で」エイムズがいった。
「するとこういうことになるね。もし何者かが外部から侵入したのだとすれば――あくまで、もし(ヽヽ)そうだったとしての話だが――そいつは六時までに橋をわたってはいりこみ、十一時すぎにダグラス氏がこの部屋にはいってくるまでずっと屋敷のどこかに隠れていた」
「だと思います。ダグラス君は毎晩寝るまえに、消し忘れた燈火(あかり)がないかどうかをたしかめるため、館じゅうをみてまわっていました。それでこの部屋にはいってきたところを、待ちかまえていた男に撃たれたのです。そして男は銃を置き去りにしてあの窓から逃げたわけです。私はそうにらんでいます――だってほかに考えようがありませんよ」
巡査部長は死体のそばの床に落ちていた一枚の紙きれをひろいあげた。V. V. という頭文字と、その下に341という数字がインクで書きなぐってあった。
「これは何です?」部長がかかげてみせると、バーカーはめずらしそうにながめながら、
「ちっとも気づきませんでした。きっと犯人が落としていったのにちがいありませんよ」
「V. V. 341 とありますね。これじゃ何のことかさっぱりわかりませんね」とバーカーがいうと、
「V. V.て何のことかな? 誰かの頭文字かもしれんな。ウッド先生、それは何です?」
ウッド医師は、暖炉のまえの絨毯の上にころがっていたかなり大きな金づちをひろいあげた。ずっしりとした、丈夫そうなものだった。セシル・バーカーが、マントルピースの上に置いてある、真鍮くぎの入った箱を指さして言った。
「ダグラス君はきのう、額の絵をとりかえていたんです。あの椅子にのって、上の壁に額をかけているところを、私はこの目でみましたから。その金づちはそのときのものですよ」
「落ちていたところへもどしておいたほうがいいでしょうな」そういって、巡査部長は困りはてたような表情で頭をかきむしりながら、「こんどの事件の解明には、警察界きっての腕ききの手をわずらわさねばなりますまい。いずれロンドン警視庁がのりだすことになるでしょう」というと、ランプスタンドを手にもって、ゆっくりと部屋のなかを歩きまわっていたが、窓のカーテンを片側へひきよせたとき、突然びっくりしたように、「おや!」と叫び、「ここのカーテンは何時に閉めたんです?」といった。
「ランプをともしたときでございますから、たぶん四時すぎだったと存じますです」執事が答えた。
「誰かここに隠れていたんだ、まちがいない」部長がランプを近づけると、泥ぐつの跡がすみのほうにはっきりとみえた。「どうやらあなたのお説どおりのようですな、バーカーさん。犯人は、カーテンが閉められてから橋があげられてしまうまでの間、すなわち、四時以降六時までの間に、この屋敷にしのびこんだものとみえます。まっ先に目にはいったのでこの部屋にはいりこんだのでしょうが、隠れ場所がこれといってなかったものだから、とりあえずこのカーテンのかげにすべりこんだってわけです。これはどうみてもあきらかですな。盗みが目的だったのでしょうが、運悪くダグラス氏にみつかってしまったものだから、殺して逃げたのです」
「私もそう思います」バーカーがいった。「でもですね、ぐずぐずしている場合じゃないのではありませんか? やつが逃げてしまわないうちに、あたり一帯の捜査を始めないことには?」
巡査部長はしばらく考えてから、いった。
「朝の六時になるまで汽車の便はないわけですから、鉄道の利用はありえないとして、もし歩いて逃げたとしても、これもずぶぬれの姿ではきっと人目につくでしょう。いずれにせよ誰かきてくれるまでは、私としてはここを動くわけにはいきません。といって、あなたがたも、もう少し事態がはっきりするまではここを離れてもらってはこまります」
このとき、ランプを手にして死体をくわしく調べていた医師が、いった。
「この印(しるし)は何でしょう? 事件と関係でもあるんでしょうか?」
死体の右腕がガウンのそでからつきでていて、ひじのあたりまでむきだしになっていた。その前腕のなかほどあたりに、丸のなかに三角を描いた奇妙な茶色の印が、ラード色の皮膚の上にあざやかに刻みこまれていたのである。
「刺青(いれずみ)ではありませんね」医者が眼鏡(めがね)ごしにのぞきこみながらいった。「こんなものはいままでにみたことがありません。牛におす焼印のようなものをおされたのですな。この印(しるし)はどういう意味です?」
「正直いって私にもわかりかねますが、でもダグラス君がこの印をつけているのは、ここ十年来何度かみたことがあります」セシル・バーカーがいった。
「じつは私も」執事が口をはさんだ。「だんなさまがそでをまくりあげられたおりに、たびたびこの印が目にはいったものでございます。何のことかいつも不思議に思っておりました」
「じゃあいずれにせよ事件とは関係があるまい」巡査部長がいった。「それにしても変な事件だ。何から何まで変だ。おや、こんどは何だ?」
執事がびっくりして叫び声をあげ、投げだされた死体の手を指さしていたのである。
「結婚指輪が盗まれています!」執事が息をつまらせていった。
「何だって!」
「はい、そうなんです! だんなさまはいつも左手の小指に、飾りのない金の結婚指輪をはめていらっしゃいました。そこにみえる天然金塊のついた指輪はその上からはめてあったものなのです。それと薬指には蛇のからみついた形のをはめておいででした。金塊のと蛇のとはございますが、結婚指輪だけがなくなっております」
「彼のいうとおりです」バーカーがいった。
「結婚指輪のほうが下に(ヽヽ)なっていたというんだね?」巡査部長が念をおした。
「たしかです!」
「すると犯人は、いや犯人とはかぎらんが、まずこの金塊の指輪というのを抜いてから、結婚指輪をとり、あとから金塊のやつをもう一度はめなおしていったことになる」
「そうです」
まじめな田舎巡査部長は頭をふって、言った。
「どうやら一刻も早くロンドンに応援をたのんだほうがいいみたいだな。州警察のホワイト・メイソンだってなかなかの切れ者だがね。この地方の事件で彼の手におえなかったものはひとつもないくらいだからな。もうまもなく駆けつけてきてくれるでしょう。でもいずれはロンドンの手をかりねばなるまい。ともかく正直いって、この事件は私のごとき人間にはちと荷がかちすぎるからな」
サセックス州警察の捜査主任が、バールストンのウィルソン巡査部長からの急報をうけて、本署から馬をむち打ち二輪の軽馬車(ドッグ・カート)で駆けつけてきたのは、午前の三時だった。彼は五時四十分の列車に託してロンドン警視庁へ報告を送り、正午には私たちを出迎えにバールストン駅に姿をあらわしていた。このホワイト・メイソン氏は、もの静かな気楽そうな男で、ひげをきれいにそりあげた顔は血色がよく、やや太りぎみの体をゆったりとしたツイードの服に包み、たくましいがに股にゲートルを巻いたところなど、まるで小百姓か隠居した猟場番人そっくりで、地方の敏腕刑事とはとても思えなかった。
「えらい事件ですよ。マクドナルドさん」メイソンは何度もそれを繰り返し、「そのうち聞屋(ぶんや)連中がかぎつけて、はえのようにたかってくるでしょう。連中に現場を荒らされないうちに早いとこ仕事をかたづけてしまいたいものです。こんな事件は初めてです。あなたにもきっと思い当たることがありますよ、ホームズさん。むろんワトソン先生にもです。お医者さんのご意見はぜひうかがわねばなりますまい。お部屋はウエストヴィル・アームズにとってあります。ほかに宿屋がないもんですから。でもわりときれいないいところだという話です。お荷物はこの男に運ばせます。ではみなさん、どうぞこちらへ」
このサセックスの刑事はにぎやかで親切な男だった。十分後には私たちは宿についていた。さらに十分後には、宿屋の別室に腰をおろして、前章で述べたような事件のあらましの手みじかな説明をうけていた。マクドナルドはときおり手帳に控えたりしていたが、ホームズは、世にもめずらしい花を観察している植物学者のような、驚きと感嘆のいりまじった表情をうかべて聞き入っていた。
「めずらしい!」ひととおり話がすすむと、ホームズが口を開いた。「じつにめずらしい事件だ。こんな奇怪な事件に出くわしたのは初めてですよ」
「そうおっしゃるだろうと思っておりました」ホワイト・メイソンがうれしそうに言った。「このサセックスもそう時代遅れの田舎じゃありません。さて、けさの三時から四時の間に私がウィルソン部長から捜査を引きついだところまでのいきさつは、ざっと以上お話したとおりです。老いぼれの馬をさんざんむち打ちながら駆けつけたもんです! ところがいざ着いてみると、それほど急ぐこともなかったのです。これといって私がすぐしなければいけないことは何もなかったのですから。ウィルソン部長がすっかり調べつくしていました。私としてはそれらをたしかめ検討したうえで、二、三つけ加えたくらいのものです」
「ほう、どんなことですか?」ホームズが鋭くたずねた。
「ええ、まず金づちを調べてみました。居あわせたウッド先生も手つだってくれましたが、人をなぐるのに使われた形跡はありませんでした。私は、もしかしてダグラス氏がそれで身をふせごうとしていたら、絨毯の上に落とすまえに犯人に傷ぐらいつけたのかもしれない、と思ったわけです。でも血のしみなんかありませんでした」
「でもそれだけではなんともいえないな」マクドナルド警部が口をはさんだ。「凶器に使われた金づちになんのあともなかったという殺人事件は山ほどあるんだから」
「たしかにそうです。使われなかったとはいいきれません。でももし血のしみでもついていれば、手がかりにはなったはずです。結局、何もついていなかったわけですが。で、つぎに銃を調べてみました。鹿弾(しかだま)用の大型散弾銃で、ウィルソン部長がみとめたとおり、ふたつの引き金が針金でつながれていて、うしろのほうを引けば、二発同時に発射されるようになっていました。誰がやったにせよ、最初の一撃で確実に相手の息の根をとめるはらだったわけです。銃身が短く切断されていて、全長二フィートたらずしかありませんから、上着の下にすっぽり隠してもちはこべます。製造元の名ははっきりとは読みとれませんでしたが、ふたつの銃身の間のみぞの部分に、PENという文字が刻まれており、そこで切り落とされていてあとはわかりません」
「Pという文字は頭に飾りがついた大きな文字で、EとNは小さな字でしたか?」ホームズがたずねた。
「そのとおりです」
「ペンシルヴェニア小銃会社です――有名なアメリカの会社ですよ」ホームズが言った。
ホワイト・メイソンは、やっかいな難問をひとことで解きあかしてくれたハーリー街の専門医をながめる片田舎の開業医のような目つきで、私の友人をみつめた。
「たいへん参考になります、ホームズさん。おっしゃるとおりにちがいありません。でもおみごと、いやおみごとですねえ! 世界じゅうの銃砲会社の名を頭につめこんでおられるのですか?」
ホームズは手をふって、それにとりあおうとはしなかった。
「アメリカ製の猟銃にまちがいありませんよ」ホワイト・メイソンが続けた。「アメリカの一部の地方では銃身を切りつめて凶器に使うということを、何かで読んだ記憶があります。だから、製造元の名をぬきにしても、私もそうではないかと思っていたのです。だとすると、あの館にしのびこんで主人を殺した男は、アメリカ人だとみてさしつかえありますまい」
マクドナルドは首を横にふって、
「ねえ、きみ、それは早計というものだよ。そもそも、外部のものが館に侵入したという証拠すらまだあがっていないはずだよ」
「でも、開いていた窓といい、窓わくの上の血といい、妙な紙きれといい、部屋のすみのくつ跡といい、そしてさらに鉄砲とくれば、証拠はじゅうぶんですよ」
「どれもこれもわざと細工できるものばかりだよ。ダグラス氏はアメリカ人だった。そうでないまでも、アメリカ暮らしの長かったひとだよ。バーカー氏も同様だ。だとしたら、アメリカ人の仕わざとみなすために、わざわざ新たなアメリカ人をもち出す必要はないよ」
「でも執事のエイムズが――」
「エイムズがどうしたんだい? 信頼できる男なのか?」
「サー・チャールズ・チャンドスに十年も仕えてきた、岩のように堅い男ですよ。ダグラス氏が五年前に領主館を手にいれて以来、ずっと彼のもとで働いています。あんな鉄砲はあの屋敷では一度もみたことがないそうです」
「あれは隠せるようになっている。そのために銃身を切りつめてあるのだよ。ちょっとした箱になら、すっぽりはいるさ。それでいて家のなかにはなかったと、はたしていいきれるものかね?」
「でもとにかく、見たことがないというのはたしかでしょう」
マクドナルドは、スコットランド人らしく頑固に反論した。
「でも屋敷内に誰かがはいりこんだという説には、まだどうも納得しかねる。考えてもみなせえ」――議論に熱中するとついアバディーンなまりをまる出しにして、「考えてもみなせえ、もしこの鉄砲が外部からもちこまれたもので、この奇妙な事件がすべて外部のものの仕わざだとしたら、どういうことになるか。いやはやどだい無茶だよ。常識では考えられねえだ。ねえ、ホームズさん、いままでの話をおききになって、どう思われます?」
「まずきみの意見をきかせてもらいたいね、マック君」ホームズは公平を重んじる口調で言った。
「もし外部のものの仕わざだとしても、盗みが目当ての犯行ではありません。指輪の一件といい、例の紙きれといい、何か個人的な理由による計画的殺人であることをにおわせています。ここまではよろしい。さてここにひとりの男がいて、殺人の決意をかたく胸に秘め、屋敷にしのびこんだとします。いやしくも分別のある男なら、屋敷が堀で囲まれていることからして逃走が容易でないことは、じゅうぶん承知しているはずです。だとしたら凶器には何を選ぶでしょう? もちろん、できるかぎり音のしないものがいいにきまっています。音さえたてなければ、事をなしおえたらすばやく窓からぬけだし、堀をわたって、あとは思いのままずらかればいいわけです。これなら話はわかります。ところが、よりによっていちばん大きな音のする武器をもちこむなんて! 大きな音をたてれば屋敷じゅうの人間が一目散に駆けつけてきて、堀をわたりきらないうちにみつかってしまうことくらいわかりきっているのにですよ。こんなことが納得できますか? 信じられますか? ホームズさん」
「なるほど、実に確固たる見解だね」私の友人は、考えこみながら答えた。「でもそういいきるには、まだまだ立証しなければならないことがたくさんあるはずだよ。ところで失礼ですが、ホワイト・メイソンさん、堀からあがったものがいたかどうか、向こう岸をすぐに調べてみられましたか?」
「なんの形跡もありませんでした、ホームズさん。もっとも向こう岸は石で固めてありますから、期待するほうが無理でしょうね」
「足跡のようなものはなかったのですね?」
「ありません」
「ほう! では、ホワイト・メイソンさん、これからすぐ屋敷へまいってもよろしいですか? 何か手がかりになるようなこまかい点が、まだひょっとしたら残っているかもしれませんから」
「ちょうどお誘いしようと思っていたところです、ホームズさん。ただでかけるまえに、事情をひととおりお耳にいれておいたほうがよいと思ったものですから。で、万一何かお目にとまるものがありましたら――」ホワイト・メイソンは、疑惑のこもった目つきでアマチュア探偵をみやった。
「ホームズさんとは以前にもいっしょに仕事をしたことがあるが、公明正大なお方だよ」マクドナルド警部が言った。
「まあ、とにかく、私なりにね」ホームズはにっこりして、「私が事件に首をつっこむのは、ひとえに正義を守り、警察の仕事を手だすけしてあげたいからなのです。警察の一員ではありませんが、それというのも、警察のほうで私から離れていったにすぎません。ですから、警察を利用して鼻をあかしてみせる気など、まったくないのです。それとひきかえに、ホワイト・メイソンさん、私は私の流儀で捜査をすすめさせていただき、さらにその結果を、私の欲するときに――小出しにではなく、すっかりまとまってから――あきらかにさせていただくことを、お願いします」
「あなたにおいでいただけて、まことに光栄のいたりです。こちらにわかったことはすべて包み隠さずお知らせする所存です」ホワイト・メイソンは心をこめて言った。「ワトソン先生もどうぞいらして下さい。そしていずれ時がくれば、われわれのこともぜひお書きそえ願いたいものです」
私たちは、頭を刈りこんだニレの木立にはさまれた、古風な村の街道を歩いていった。しばらくいくと、風雨にさらされところどころこけむした、古めかしい石柱が二本、並んでいるのがみえた。そのいただきには、何やらえたいのしれないものがのっかっていたが、これこそ、かつてバールストンに居を構えたカプス家の遺物ともいうべき、うしろ足で立つライオン像の朽ちはてた姿だった。その門をはいって、イギリスの片田舎独特の芝生のなかにカシの木々が立つ光景をみやりつつ、曲がりくねった馬車道を少しいくと、急にその道が折れ曲がって、高くないわりにやけに間口の広い、ジェイムズ王朝風のうすぎたない暗褐色のれんが造りの建物が、目のまえに現われた。両側には、イチイを短く刈りこんだ古めかしい庭がついている。近づくにつれて、木でできた跳ね橋や、冷たい冬の陽ざしを浴びて水銀のように静かに光り輝く水をたたえた、幅の広い美しい堀がみえた。この古い領主館をよぎっていった三世紀におよぶ時の流れのなかで、多くの子供が生まれ、さまざまな帰郷のドラマがあり、舞踏会やきつね狩りが幾度も催されたにちがいない。その由緒ある館に、いまになって、こんどのようないまわしい出来事が暗い汚点を刻みこむことになるとは、まったく不思議なめぐりあわせというほかはない。とはいうものの、あの異様なまでにとがった屋根や、古風に張りだした破風などには、どことなく、身の毛もよだつような陰惨な劇にふさわしい舞台をおもわせるものが、漂っていた。実際、深くくぼんだ窓や、足もとを水に洗われている、黒ずんだ長々と広がる正面をみていると、こんどのような悲劇にこれほどうってつけの場所はないように私には思われるのだった。
「あの窓ですよ」ホワイト・メイソンが言った。「跳ね橋のすぐ右のやつです。ゆうべ発見したときのまま、あけてあります」
「ひとがくぐり抜けるには少し狭すぎるようだね」
「ええ、どうせあまり太った男ではなかったのでしょう。その点は、ホームズさん、あなたに指摘していただくまでもなく、私も気づいていました。でもあなたや私くらいの男ならじゅうぶんくぐり抜けることができますよ」
ホームズは堀の端まで歩み寄って、向こう岸をながめ、それから石垣とそのまわりの草地をじっくりと見た。
「そこは私がじゅうぶん調べましたよ」ホワイト・メイソンが言った。「なんにもありゃしません。誰かがはいあがった形跡などみあたりません。それに、そもそもそんな跡を残すようなことをしますかね?」
「ごもっともです。しないでしょうな。この堀の水はいつもこんなににごっているのですか?」
「だいたいいつもこんな色です。流れこんでいる小川の水に粘土がまじっているのですね」
「深さはどのくらいです?」
「両端は二フィートくらいですが、まん中あたりは三フィートあります」
「だとすると、渡ろうとしておぼれてしまったなどということはまずありえないわけですね?」
「ええ。子供ですらおぼれようがありませんよ」
私たちが跳ね橋をわたっていくと、ひからびたような、節くれだった風変わりな男が出迎えてくれた。――執事のエイムズだった。事件の衝撃が大きかったせいか、あわれにも顔面蒼白で、小きざみにふるえている。運命の部屋に足を踏みいれると、背の高い、陰気でかた苦しそうな村の巡査部長が、まだ昨夜からの見張りをつづけていた。医者はすでに引きあげていた。
「何か目あたらしいことでもあったかい、ウィルソン部長?」
「何もございません」
「じゃあもう引きとってもよろしい。ご苦労でしたな。用があれば呼びにやるからそれまで休んでいたまえ。執事は部屋のそとで待たせておいてくれ。それと、セシル・バーカー氏とダグラス夫人と家政婦には、あとで話をききたいので、そのことを執事に伝えさせておいてくれたまえ。さて、みなさん、まず最初に私の見解を述べさせていただくことにして、みなさんのご意見はそのあとでうかがわせてもらうことにします」
この田舎の捜査主任には感心させられた。事実をしっかりと把握する能力と冷静で明晰な判断力とを備えていて、警察界でもかなりの成功をおさめるにちがいない。ホームズは彼の話に熱心に耳をかたむけ、こうした場合にことあるごとに示してきたもどかしげな表情は、つゆほどもみせなかった。
「自殺かそれとも他殺か――これがまず第一の問題だと思います。で、もし自殺だとすれば、こう考えざるをえません。すなわち、この男は、まず結婚指輪をはずしそれをどこかに隠したうえで、ガウンをはおったままこの部屋におりてきて、カーテンの裏のすみに泥ぐつの跡をつけ誰かが待ち伏せていたように見せかけ、さらに窓をあけて血のしみをつけ――」
「そんなことはとうていありえない」マクドナルドが言った。
「私もそう思います。自殺説は問題になりません。するとやはり、殺人が行われたわけです。そこで問題となるのが、犯人は外部の者かそれとも内部の者かということです」
「なるほど、で、きみの説をきかせてもらおう」
「どちらにせよ事はかなりやっかいです。でもいずれかにちがいはないわけですが。まず内部の者の仕わざだと仮定してみましょう。もちろんひとりとはかぎりません。犯人は、家のなかが静まりかえっていてしかもまだ誰も眠りについていないころをみはからって、被害者をこの部屋におりてこさせます。そして、家じゅうの者に知らしめんがため、わざと大きな音のする凶器を選んで事をなしたわけです。――しかもその凶器たるや、世にも奇妙な、いままで家のなかでみかけたことのない代物です。これはちょっとありそうにもないことだと思われませんか?」
「たしかに」
「で、さらにですよ、銃声がきこえてからものの一分もたたないうちに、家じゅうの者――セシル・バーカー氏は最初に駆けつけたと言っていますが、なにもあのひとだけでなくエイムズやほかの連中もみんな――が現場に駆けつけたのです。そのほんのわずかの時間に、犯人は部屋のすみに足跡をつけ、窓をあけて窓わくに血をこすりつけ、死体の指から結婚指輪をはずし、さらにほかにもいろいろなことをやってのけたというのですか? 不可能です!」
「明快なご意見ですね。私も同感ですよ」ホームズが言った。
「だとすると、外部の者の仕わざという説に立ちかえって考えざるをえません。もっともこの説にもかなりの無理があるのですが、とにかく不可能とはいえなくなるのです。犯人は四時半から六時の間、すなわち、うす暗くなってから橋があげられるまでの間に屋敷にしのびこみました。屋敷には来客があり玄関のドアはあいたままでしたので、はいりこむのに造作はなかったわけです。犯人はただの強盗か、それともダグラス氏に個人的な恨みを抱いていたものかもしれません。ダグラス氏がアメリカで生涯の大半をすごした人物であり、さらに凶器に使われた散弾銃がアメリカ製らしいことから考えると、恨みによる犯行説のほうが有力に思えます。犯人は玄関をはいると最初に目についたこの部屋にしのびこみ、カーテンのうしろに隠れました。そこで夜の十一時すぎまでじっとしていた。そこへダグラス氏がはいってきたわけです。もしなんらかのやりとりがあったにしても、ごく短いものだったはずです。夫人の話では、ダグラス氏が彼女のもとを離れてから銃声がきこえるまでほんの二、三分しかたっていないとのことですから」
「そのことはローソクが物語ってくれていますよ」ホームズが言った。
「そうです。新しいローソクなのにまだ半インチも燃えていません。ダグラス氏はそれをテーブルの上に置いたあとで撃たれたにちがいありません。さもなければ、彼が倒れたとき、当然床に落ちているはずですからね。ということは、部屋にはいるなりいきなり撃たれたのではないことを示しています。バーカー氏が駆けつけてきて、ランプをともし、ローソクを消したわけです」
「それはどうみても明らかですね」
「ではここで、この線にそって事件のもようを再現してみることにします。ダグラス氏がこの部屋にはいってくる。ローソクをテーブルの上に置く。男がカーテンのうしろから現われる。この銃を手にしています。男は結婚指輪をよこせという。理由は皆目見当がつきませんが、そうだったにちがいありません。ダグラス氏はしかたなくわたしました。するといきなり、あるいはもみあったりしているうちに――絨毯の上にあった金づちはこのときダグラス氏が手につかんだものかもしれません――ダグラス氏をこんなにも無残に撃ち殺してしまったわけです。男は銃をほうりすてました。さらに、この何だかわけのわからない『V. V. 341』と書いた妙な紙きれもそのとき落としていったにちがいありません。そして窓から抜けだし、堀をわたって逃げつつあるところへ、セシル・バーカー氏がこの部屋に駆けつけてきて事件を知ったわけです。どうです、ホームズさん?」
「興味深いご意見ですが、納得いたしかねる面がなきにしもあらずですね」
「きみ、ほかに考えようがないならともかくも、そんなことはまったくばかげてるよ」マクドナルドが反駁した。「誰が殺(や)ったにせよ、もっとべつの方法で殺したということだけははっきりしている。逃げ場をこんなふうにみずから断つような殺しかたをする犯人がどこにいるんです? ちょっとでも音を立てたりしたら命とりになりかねないというのに、よりによって猟銃を使うなんて、常識では考えられないよ。ねえ、ホームズさん、こんどはあなたが意見をおっしゃる番ですよ。ホワイト・メイソン君の説明が納得しかねるとおっしゃったのはあなたですからね」
ホームズはこの長い議論の間、鋭い視線を左右に投げかけ、額にしわをよせて考えこみながら、ひと言もききのがすまいと熱心に耳をかたむけていた。
「理屈をうんぬんするまえに、たしかめておきたい事実が二、三あるのだがね、マック君」そう言って、彼は死体のそばにひざまずいた。「おやおや! これはひどい傷だ。ちょっと執事を呼んでくれませんか……やあ、エイムズ、あなたはたしか、ダグラス氏の前腕に、この丸のなかに三角が描かれた奇妙な焼印のあるのを、しばしば目にしたということだが?」
「はい、何度もございます」
「どういう意味かについてはなにもきかされたことはないんだね?」
「はい、ございません」
「これをおしたときはさぞかし痛かったにちがいない。なにしろ火傷(やけど)なんだからね。ところでエイムズ、ダグラス氏のあごのすみに小さなバンソウコウがはってあるが、これを生前にもみかけたことがあるかい?」
「はい、昨日の朝、おひげをそられたときに切られたのでございます」
「そんなことは前にもあったの?」
「いいえ、久しくございませんでした」
「面白い!」ホームズが言った。「むろんたんなる偶然かもしれないけれど、身にせまりくる危険を察知して精神が不安定だったせいとも考えられる。きのうのダグラス氏に、どこかいつもとちがう様子はなかったかい、エイムズ?」
「ややそわそわなさって興奮しておいでのようにおみうけしました」
「ふむ! 本人にはまったく身に覚えのない災難ではなかったらしいな。どうです、少しは話が進展したでしょう? 何かたずねてみたいことでもあるのではないのかい、マック君?」
「いえ、ホームズさん、ここはあなたにおまかせしますよ」
「それではと、つぎにこの『V. V. 341』と書かれた紙きれにうつりましょう。粗(あら)い厚紙だけど、屋敷にこれと同じものはあるの?」
「ございませんようです」
ホームズは机のそばに歩み寄り、それぞれのインクつぼから数滴ずつ、吸取紙の上にたらしてみた。
「この部屋で書かれたものではないね。このインクは黒だけど、あれは紫がかったインクで書かれている。しかも太いペン先のもので書かれているのに、ここにあるのはすべて細かいものばかりだ。やはりどこかほかで書いたらしい。この記号に何か心当たりはないかい、エイムズ?」
「いいえ、さっぱりわかりませんです」
「きみはどう思う、マック君?」
「何かある種の秘密結社がからんでいるような気がします。前腕の印をみてもそんな気がしますね」
「私も同感です」ホワイト・メイソンが言った。
「ではとりあえずこの仮説にもとづいて、いけるところまで考えをすすめてみよう。そうした結社から派遣された一員がこの屋敷にしのびこみ、ダグラス氏を待ち伏せ、この銃で顔をねらい、ほとんど頭部を吹きとばさんばかりに撃ち殺し、死体のそばに紙きれを残して、堀をわたって逃げる。そしてこの紙きれのことが新聞にでれば、結社のほかの仲間たちは復讐が遂げられたことを知るわけだ。これで一応つじつまはあうけれど、しかしよりによってなぜこんな銃を使ったのか?」
「まったくですね」
「そしてなぜ指輪がなくなっているのか?」
「そうですとも」
「しかもまだつかまらない。もう二時をまわっている。明けがたから、半径四十マイル以内の巡査連中が総出で、血まなこになってずぶぬれのよそ者をさがしているはずなのに?」
「そのとおりです、ホームズさん」
「ならば、近くの隠れ場に身を潜めているか、服を着がえでもしないかぎり、みつからないはずがない。ところがいまにいたってもまだ(ヽヽ)みつかっていない」ホームズは窓ぎわに進みでると、拡大鏡をとりだして窓わくの上の血のしみを調べていたが、「あきらかにくつの跡だ。かなり幅のひろいくつだな。――いわゆる扁平足というやつだ。それにしても変だ。だって、カーテンの裏の泥ぐつの跡から想像できるのは、もう少し形のととのったとでもいうべき足のはずだからね。まあ、いずれにせよ、泥ぐつの跡はかなりぼやけてしまっていることはたしかだけど。このサイドテーブルの下にあるのは何だろう?」
「ダグラスさまの鉄亜鈴でございます」エイムズがいった。
「鉄亜鈴――ひとつしかないな。もう片方は?」
「存じませんです、ホームズさん。はじめからこれひとつだけだったのかもしれません。ずっと前から気がつきませんでしたので」
「片方だけの鉄亜鈴ね――」ホームズが真剣な顔つきをしていいかけたとき、ドアを鋭くノックする音がきこえ、背の高い、よく日に焼けた顔をきれいにそりあげた、有能そうな男が戸口に現われて、私たちをみまわした。この男が話にきくセシル・バーカーだということは、ひと目みてわかった。横柄そうな目をすばやく動かし、私たちの顔を、探るようにちらちらとみくらべた。
「お話し中おじゃましてすみませんが、一刻も早くお知らせすべきと思いましてね」
「つかまったのですか?」
「いえ、そうだといいのですが、でも自転車がみつかったのです。犯人が乗りすてていった自転車です。ちょっとご覧になって下さい。玄関から百ヤードたらずのところです」
私たちがいってみると、馬丁風の男たちをまじえた四、五人のやじ馬たちが馬車道につっ立って、ときわ木の茂みに隠されていたところを引きずりだされた自転車を、じろじろながめていた。かなり使い古されたラッジ・ホイットワース製で、相当の距離を走ってきたらしく、泥だらけになっていた。サドルバッグにはスパナや油差しがはいっていたが、持主の手がかりはつかめなかった。
「これに番号や鑑札がついていたら、警察は大助かりなんですがね」マクドナルド警部が言った。「でもまあ、こいつがみつかっただけでもありがたく思わなきゃなりません。たとえどこへずらかったかはわからないにしても、どこから来たかくらいは見当がつきますからね。それにしても一体全体、やっこさんはどうやって逃げたんでしょうね? どうも依然として五里霧中といったところですね、ホームズさん」
「そうですかね?」私の友人は考えこみながら、「さてどうかな!」
「書斎の調べはけりがつきましたか?」私たちが館のなかへひき返したとき、ホワイト・メイソンが言った。
「さしあたってはね」警部が答え、ホームズもうなずいた。
「ではひきつづいて屋敷の連中の証言をおききになりますか? 食堂を使わせてもらうよ、エイムズ。じゃまず、きみからいくとするか。知っていることを残らずしゃべってくれたまえ」
執事の供述は単純明快そのもので、うそ偽りのないことがはっきりとうかがえた。
ダグラスさまがこのバールストンに移り住んできた当初から仕えており、もうかれこれ五年になります。ダグラスさまはアメリカでひともうけした方らしく、かなりの財産家のようでした。親切で思いやりのある主人でした――もっとも以前仕えていた旦那さまほどではありませんが、何もかも思いどおりというわけにはいかぬものです。ダグラスさまが不安を抱いておられる様子はまったくみうけられませんでした。それどころか、旦那さまほど恐れを知らぬお方はみたことがございません。万事古風なしきたりを守るのが好きなお方で、跳ね橋を毎晩あげさせていらしたのも、館の古い習慣にしたがっただけのことでした。ダグラスさまは、ロンドン行きはもとより、村を離れることもめったになさいませんでしたが、事件の前日はタンブリッジ・ウエルズまで買い物に行かれました。その日の旦那さまはいつになくいらいらした様子で、落ちつきがなく、なにか心おだやかでないものがあるようにおみうけしました。その夜、手前がまだ寝室にさがらず、屋敷の裏手にある食器室で銀の食器類を片づけていましたところ、ふいにベルがけたたましく鳴るのをききました。銃声はきこえませんでしたが、それも無理はないと思います。食器室と台所は屋敷のもっとも奥で、あのお部屋とのあいだはドアで幾重(いくえ)にも隔てられていて、長い廊下がございますから。はげしいベルの音をききつけて、家政婦が自室からでてきましたので、いっしょに玄関のほうへ参りました。階段の下まできますと、奥さまがおりてこられるのがみえました。いいえ、奥さまはあわててはおられませんでした。――とくにおとり乱しの様子もございませんでした。奥さまが階段をおりきられたところへ、バーカーさまが書斎からとびだしてこられて、奥さまをおしとどめられ、おひき取り下さいと申されました。
「お願いですから、お部屋にもどってください! ジャックは死んでいます。もう手のほどこしようがありません。お願いですから、ひき返してください!」そうバーカーさまは叫ばれました。
階段の下でしばらく説得された後、奥さまはもどって行かれました。奥さまは泣きわめいたりはなさいませんでした。悲鳴ひとつおあげにもなりませんでした。家政婦のアレン夫人が二階へお連れして、奥さまの寝室につききりでいました。手前とバーカーさまはそれから書斎にひき返して、なかにはいりました。そこで目にしたものはすべて、あとで警察の方々がやってこられたときとそっくり同じでした。ローソクは消えていましたが、ランプがともされていました。ふたりして窓からそとをのぞいてみましたが、そとは夜の闇につつまれていて何もみえず、もの音ひとつきこえませんでした。ふたりは広間へとびだすと、手前は巻き揚げ機をまわして橋をおろし、バーカーさまは警察へと急行なさいました。
ざっと以上が執事の証言の概要である。
家政婦のアレン夫人の供述も、聞いたかぎりにおいては、同僚の執事の言ったことを裏がきするだけのものだった。
わたくしの部屋は、エイムズが仕事をしていた食器室よりも表に近いところにございました。床につくしたくをしておりますと、大きなベルの音がきこえました。じつはわたくし耳が遠ございまして、銃声がきこえなかったのはおそらくそのせいでございましょう。いずれにせよ書斎とはかなり離れていました。ほかにはドアがばたんとしまるような音を耳にしたのを覚えております。もっともこれは、ベルが鳴るよりかなり前――少なくとも半時間くらい前のことでございましたが。エイムズが表のほうへ走って行きますのでわたくしもついて行きました。バーカーさまが真っ青になって興奮しながら書斎からとびだしてこられるのをおみかけしました。バーカーさまは階段をおりてこられた奥さまを押しとどめられました。お部屋におもどり下さいとお願いなさった時、奥さまは何かおっしゃいましたが、わたくしにはききとれませんでした。
「奥さまをつれてあがって、そばについていておあげなさい!」そうバーカーさまにいわれました。
そこで奥さまを寝室へおつれして、精一杯おなぐさめ申しました。奥さまはかなりおとり乱しで全身がわなわなとふるえておいででしたが、階下(した)へおりようとはなさいませんでした。ガウンにくるまって両手にお顔をうずめ、暖炉のそばにじっと腰をおろしておられました。結局、わたくしはほとんどひと晩じゅう、奥さまのおそばにおりました。ほかの召使いたちはみんなもう眠ってしまっており、警察の方々がおみえになる直前まで何も知らずじまいでした。召使いたちの寝室は屋敷のいちばん奥にあたりますので、何もきこえなかったとしても当然だと思います。
家政婦からききだせたのはこれだけだった。こちらの質問に対してもただおろおろとなげき悲しむばかりで、たずねるだけむだだった。
アレン夫人につづいてセシル・バーカー氏が証言した。
昨夜の出来事につきましては、すでに警察に申したこと以外ほとんどつけ加えることはございません。私個人の意見としましては、犯人は窓から逃げたものと確信しております。そのことは血のあとがはっきり物語っていると思います。それに、橋があがっているのですから、ほかに逃げようがないはずです。どういう風に姿をくらましたのかはわかりません。あの自転車も、もし犯人のものだとすれば、なぜおいていったのか、ふにおちません。堀でおぼれ死んだとは考えられません。せいぜい三フィートの深さしかないのですから。
こんどの殺人事件については、彼なりのきわめて明快な意見をもっていた。
ダグラスは無口な男でしたが、とりわけ彼の人生のある時期のことに関しては、かたく口をとざしていました。ごく若い頃にアイルランドからアメリカへ移住し、かなりの成功をおさめました。私が初めて彼と出会ったのはカリフォルニアで、ふたりで共同で、ベニト・キャニオンというところに鉱区を獲得し、大いに当てました。事業は順調にいっていたのに、ダグラスはなぜか突然権利を売り払って、イギリスへ急いで帰って行きました。彼は当時すでに妻をうしなっており、独身でした。私ものちに財産を金にかえ、イギリスに帰ってロンドンに居をかまえました。そしてそこでふたりは旧交をあたためることになったのです。ダグラスにはたえず何かの危険を身に感じているようなところがあり、カリフォルニアを突然去ってイギリスのこんなさびしい片田舎にひっこんだのも、その事と何か関係があるのではないかと、私はいつも考えていました。執念ぶかい、一種の秘密結社のような組織が、ダグラスの命をねらってしつこくつきまとっていたのではないでしょうか。その組織がどんなものかとか、つけねらわれるようなはめになったいきさつについては、ダグラスはひと言も語りませんでしたが、彼の言葉からそれは察せられました。死体のそばのあの紙きれに書かれていた記号は、この秘密結社と何か関係があるように思われてなりません。
「カリフォルニアではどのくらいダグラスといっしょだったのです?」
マクドナルド警部がたずねた。
「まる五年です」
「ダグラスは独身だったといわれましたね?」
「細君を亡くしたのです」
「先妻はどこの人だったか、ご存じですか?」
「いいえ。でもたしかスウェーデン系だとか彼が言っていた記憶があります。写真をみせてもらいましたが、たいへんな美人でした。私が彼と知りあう前の年に、チフスで死んだのです」
「カリフォルニア以前のダグラスのアメリカ暮らしについて、たとえばどこにいたかなどということで、何か思いあたるふしがありますか?」
「シカゴの話をきいたことがあります。あそこで働いていたらしく、あの都会のことにはくわしいようでした。それから、炭坑や鉄鉱地帯の話もしていました。若いころはかなりあちこちわたり歩いていたようです」
「政治に関係していたことがありますか? たとえばあなたのいう秘密結社とやらは、一種の政治的団体と思われますか?」
「いいえ。政治には無関心でした」
「といって何か犯罪と関係があったとはお考えにならないのですね?」
「ないどころか、あんなに堅気な男はみたことがありません」
「カリフォルニア時代の彼の生活に、どこか変わったところはなかったですか?」
「山奥の鉱区にじっと腰をすえて働くのがなによりも好きでした。必要のないかぎり、他人のいるところへはいきたがりませんでした。それで初めて、誰かにねらわれているのではないかという考えが私にうかんだわけです。そうするうちにあんなにだしぬけにヨーロッパへ引きあげてしまいましたので、やはりそうにちがいないと確信しました。あのときはきっと何か身の危険を感じるようなことがあつたにちがいありません。彼が引きあげてから一週間もたたないうちに、五、六人の男たちがやってきて彼のことをききだしました」
「どんな連中でした?」
「そうですね、人相の悪いやくざ風の男たちでした。鉱区へやってきて、ダグラスの居どころをうるさくきくのです。ヨーロッパへいってしまっていまどこにいるか知らない、と言ってやりました。彼に対して何かよからぬことを企んでいるのは、すぐぴんときました」
「その連中はアメリカ人でしたか? カリフォルニアの人間?」
「さあ、カリフォルニアの人間かどうかは私には見分けがつきかねますが、でもアメリカ人であることだけはたしかでした。もっとも、鉱夫ではありません。といって、何をしている連中なのかは見当もつきませんでした。その場はおとなしくひきさがってくれたので、ほっとしましたよ」
「それが六年前のことですね?」
「もう七年近くなります」
「すると、あなたがたはカリフォルニアで五年間いっしょに仕事をしていたとのことですから、事のおこりは、少なくともいまから十一年以上も昔ということになりますね?」
「そういうわけです」
「そんなに長い間執念ぶかく忘れないでいたからには、恨み骨髄に徹していたにちがいない。それほどまでの恨みをかうとは、よほどのことがあったのでしょうな」
「そのことが、彼の人生に暗い影を投げかけることになったのだと思います。彼はいつもその影におびえていたのにちがいありません」
「しかし普通の人間なら、身に危険を感じて、しかもその危険の正体がわかっていれば、警察に保護を求めるものではありませんか?」
「おそらくその危険は防ぎようのない性質(たち)のものだったのでしょう。それに関して、ぜひお耳にいれておきたいことがあります。じつはダグラス君は片時も武器をはなしたことがありませんでした。いつもピストルをポケットにしのばせていたのです。ところが不運にも、ゆうべはガウンを着ていたので、ピストルは寝室においたままだったわけです。橋をあげてしまえば、もう安全だと思ったのでしょうね」
「もう一度順を追ってはっきりおうかがいしたいのですが」マクドナルドが言った。「ダグラスがカリフォルニアを離れたのがちょうど六年前ですね。で、ひきつづいてその翌年、あなたもイギリスにもどってこられたのでしたね?」
「そのとおりです」
「そしてダグラスが再婚したのが五年前。するとあなたが帰ってこられたのは、ちょうどダグラスの再婚の時期にあたるわけですね」
「一ヵ月ほど前でした。結婚式では彼の付添人をつとめました」
「ダグラス夫人とは結婚前からのお知りあいで?」
「いいえ。なにしろ私は十年間イギリスを離れていましたから、知っているわけがありませんよ」
「でも結婚後の彼女とはたびたびお会いになっておられた?」
バーカーはけわしい目で警部をにらんだ。
「彼(ヽ)とはたびたび会っていましたよ。夫人にもたしかに会ったことがありますが、友人を訪問すれば、細君とも顔をあわさざるをえないのは当然でしょう。もし変な関係を疑っておられるのでしたら――」
「何も疑ってはいません、バーカーさん。立場上、事件に関係のありそうなことはすべておききせざるをえないのです。ですからお気になさらないで下さい」
「質問によっては気にもさわりますよ」バーカーが腹だたしげに言った。
「われわれが求めているのは事実だけです。事実をあきらかにするのは、あなたのためでもあり、みんなのためでもあるのです。ダグラス氏は、あなたと夫人とのおつきあいを心からみとめていたのですか?」
バーカーはさっと青くなって、たくましい大きな両手をぎゅっとにぎりしめた。
「いったいどんな権利があってそんなことをきくのです!」彼は叫んだ。「それがあなたの調べていることとどういう関係があるのです?」
「もう一度おききします」
「断固、お答えしかねます」
「答えを拒否なさることはご自由だが、拒絶なさること自体りっぱな答えになっているということは、ご承知の上でしょうね。何か隠しごとがあればこそ、拒絶なさるわけですからな」
バーカーは真っ黒な太いまゆをしかめ、けわしい顔つきをしてつっ立ったまま、しばらくじっと考えこんでいたが、やがてにっこりして顔をあげた。
「わかりました。あなたがたが職務をきちんと遂行なさっているのにすぎないのだとしたら、私にそれを邪魔する権利はないわけですよね。ただこのことでダグラス夫人にうるさく質問することだけはやめて下さい。そうでなくともこんどの事件が相当こたえているのですから。じつは、ダグラス君にはひとつだけ欠点がありました。嫉妬ぶかかったのです。彼は私が好きでした――あれほどの友情の持主はめったにいないでしょう。しかも妻を熱愛していました。彼は私がここにくることがうれしくてたまらないらしく、しょっちゅう呼んでくれるのです。そのくせ夫人と私がうちとけて話しこんだり、親しそうなそぶりをみせたりすると、嫉妬心がむらむらとわき起こり、かっとなって、とてもひどいことを口走ったりするのです。そのせいで、もう二度もくるものかと心に誓ったことも何度かありましたが、そのたびごとに彼はしみじみと後悔して、またぜひきてくれと手紙をよこすものですから、ついまたやってくるはめになったのです。しかしこれだけは信じて下さい。この夫人ほど夫を愛し、夫に貞節を尽くした女性(ひと)はありません。また、彼の友人として、私ほど誠実だったものもいないはずです」
熱意のこもった言葉だったが、マクドナルド警部はしつこく食いさがった。
「死体の指から結婚指輪がぬきとられているのはご存じでしょうね?」
「そうらしいですね」バーカーが言った。
「『らしい』とはどういうことです? それが事実なのはご存じのはずですが」
バーカーは一瞬まごつき、ためらっているようにみえた。
「私が『らしい』と言ったのは、ダグラス君が自分でぬきとったことも考えられると思ったからです」
「誰がぬきとったにせよ、指輪がなくなっているということだけをみても、こんどの悲劇に結婚のことがからんでいるらしいことは、誰の目にもあきらかのように思えるのですがね?」
バーカーはがっしりとした肩をすくめて、
「私にはなんともいえませんが、もし万一、夫人の名誉にかかわるようなことを思いえがいていらっしゃるのなら」と言い、一瞬目を鋭く光らせたが、感情をぐっと抑えて、「そう、それなら見当ちがいだというだけです」
「あなたにおたずねしたいことはさしあたってこれぐらいです」マクドナルドは冷ややかにいった。
「ちょっとおききしたいことがあります」ホームズが言った。「あなたが書斎におはいりになったときは、テーブルの上にローソクがついていただけだったのですね?」
「ええ、そうでした」
「そのあかりで、恐ろしい出来事に気づかれたわけですね?」
「そのとおりです」
「そこですぐにベルを鳴らして人を呼んだ?」
「ええ」
「で、みんなはすばやく駆けつけてきた?」
「ものの一分もたたなかったくらいです」
「それなのにみんなは、行ってみるとローソクはついておらずランプがともされていたと言っています。これはきわめて注目すべきことのようですが」
またもバーカーはとまどいの表情をみせ、しばらくためらったすえ、
「べつになんでもないことですよ。ローソクのあかりでは暗すぎたものですから、もっと明るいものをと思ってみまわしたところ、テーブルの上のランプが目にはいったのでそれをつけたのです」
「そしてローソクを吹き消した?」
「そのとおりです」
ホームズはそれ以上質問しなかったので、バーカーは私たちの顔をじろじろみまわしてから――その目つきが私には妙に挑戦的に感じられたのだが――くるりと背を向け、部屋を出ていった。
マクドナルド警部が、ダグラス夫人のところに、彼のほうからお部屋におうかがいしたい、という趣旨の手紙をとどけさせたところ、夫人は、こちらから食堂に出向いていってみなさんに会います、という返事をよこした。食堂に姿を現した夫人は、年の頃は三十ばかりのすらりとした美人で、私が思いえがいていたような、痛ましいまでにとり乱した姿とはおよそかけはなれていて、意外なほどもの静かで、落ちつきはらっていた。さすがに顔は青ざめ、ひきつっていて、ショックの大きさを物語っていたが、態度は冷静そのもので、テーブルのはしにおいた形の美しい手にしても、ふるえることなどなく、私の手と同じくらいしっかりしていた。悲しげに訴えるような、それでいて妙に好奇心あふれる目で、私たちをみまわしていたが、そのうち突然、その好奇心を言葉にあらわした。
「何かおわかりになりまして?」
そうたずねる彼女の口調に、期待よりもむしろ不安のようなものが感じられたのは、私の思いすごしだろうか?
「あらゆる手段をこうじて捜査中です、奥さん。手ぬかりなど決してありませんから、ご安心下さい」警部が言った。
「費用はおしみません。できるかぎりの手を尽くしていただきたく存じます」生気のない、平板な口調だった。
「お話をおうかがいすれば、何か手がかりになりそうなことでもつかめるかもしれないと思いましてね」
「お役にたてますかどうか。でも、知っておりますことはすべて申し上げるつもりでおります」
「セシル・バーカー氏の話では、あなたは実際にご覧にはなっていない、つまり、事件の起こった部屋にまだ一度もおはいりになっていないそうですね?」
「ええ。階段のところでバーカーさんに押しとどめられたのです。自分の部屋にもどっていてほしいといわれました」
「そうですってね。あなたも銃声をきかれてすぐおりていらしたのですね」
「ガウンをはおってすぐにおりてまいりました」
「銃声をきかれてから階段の下でバーカーさんにとめられるまでに、どのくらい間(ま)がありましたか?」
「二分くらいだったかもしれません。ああいう場合ですから、時間のことなど気にかけている余裕はありませんでした。バーカーさんは、どうかこないでほしい、私がいってももはや手のほどこしようがないんだから、と必死になっておっしゃるのです。そこへ家政婦のアレン夫人が駆けつけてまいりまして、私を二階へつれて帰ってくれました。まるで恐ろしい夢でもみているようでした」
「ご主人が階下(した)へおりられてから銃声がきこえるまで、どのくらい時間があったか覚えていらっしゃいますか?」
「それはわかりかねます。主人は化粧室から直接階下(した)へおりていきましたので、私は全然気がつきませんでした。主人は火事のことが心配でならないらしく、毎晩屋敷じゅうをみてまわっておりました。私の存じているかぎりでは、主人が唯一つだけ恐れていたことは、火事だったようです」
「その点に、ちょうどいまふれさせていただこうと思っていたところなのです、奥さん。あなたはご主人のイギリス時代しかご存じないのでしたね?」
「はい。五年前に結婚したばかりですから」
「ご主人のアメリカ暮らしのあいだに起こったことで、それが原因で何か身に危険を感じるような出来事について、ご主人の口から何かおききになったことがありますか?」
ダグラス夫人はしばらくじっと考えこんだすえ、やっと口を開いた。
「はい。主人の身に何か危険な影がつきまとっている感じはいつもうけていました。でも主人はそのことを話題にするのをひどくいやがっておりました。私を信頼していなかったからではありません。私たちふたりは、心から愛しあい、信頼しあっておりましたから。むしろ、私を心配させまいとする主人の心遣いによるものだったのです。もし私にうちあければ、私がくよくよ思い悩むにちがいないと思って、かたく口をとざしていたのです」
「ではあなたはどうしてそのことに気づかれたのですか?」
「妻に対して一生秘密を隠しとおせるような夫がおりましょうか? また、夫を愛していながら、夫の秘密に気づかずにいられるほど鈍感な妻がおりましょうか? いろんなことから私は感づかずにはいられませんでした。アメリカ暮らしのことが話題になりましても、ある箇所にきますと急に口をつぐんでしまうことからもピンときましたし、ときおり主人がみせる妙に用心ぶかい態度や、ふともらす言葉、ふいに訪れた見ず知らずの者をみる目つきからも、主人が何かにおびえているのがありありと読みとれたのです。そういうわけで、主人には何か強力な敵がいて、主人はたえずつけねらわれているものと信じており、そのためにつねに用心しているのだということを、確信するにいたったわけです。それですから、ここ数年来、主人の帰宅がおそすぎたりしますと、たまらなく不安になったものでございます」
「ちょっとおたずねしますが、あなたの注意をひいたご主人の言葉とは、どんなものでしたか?」ホームズがいった。
「『恐怖の谷』と申す言葉でございます」夫人が答えた。「私が何かたずねますと、主人はよくその言葉を口にしたものでございます。『私は恐怖の谷にいたことがある。いまでもそこからぬけきっていないのだよ』などと申すのでございます。『私たちは、一生、その恐怖の谷からぬけ出られないのでしょうか?』いつになく主人が深刻な顔をしていますので、こうたずねてみますと、『ときおり、死ぬまでだめかな、と思うことがあるよ』主人はこう申すのでございます」
「『恐怖の谷』とは何のことだか、きいてごらんになったのでしょうね?」
「はい。でも主人は顔をひどく曇らせ、頭をふりながら、ただこう申すだけでした。『私たち夫婦のひとりがあの谷の影にはまりこんでしまったとは、本当に不幸なことだ。あとは、おまえにまであの影がしのびよることがないよう、神に祈るばかりだよ』どうやら、主人のいう『恐怖の谷』とはどこか現実にある谷で、主人はそこに住んでいたときに、何か恐ろしい目にあったのにちがいありません。でも、それ以上はわかりかねます」
「で、ご主人は誰か人の名を口にされたことはなかったわけですか?」
「ございます。三年前に猟でけがをした際、熱にうなされたことがございまして、ある人の名を始終つぶやいていたのを覚えております。怒りにかられ、恐怖におののきながら、つぶやいておりました。マギンティ――マギンティ支部長と申しておりました。熱がさがりましてから、マギンティ支部長とはどこの誰のことで、いったい何の支部長なのですか、とたずねてみましたところ、『私とは関係ないよ、ありがたいことにね』とだけ答えて、一笑に付してしまい、あとは知らん顔です。でも、マギンティ支部長と恐怖の谷との間には、何らかの関係があるにちがいありません」
「もうひとつおききしたいのですが」マクドナルド警部が言った。「奥さんがご主人と知りあわれて、ご婚約なさるにいたったのは、ご主人がロンドンで下宿生活をなさっているときでしたね? で、ご結婚に際しては、何かロマンスのような、人知れぬ秘密めいたものがおありでしたか?」
「ロマンスはございました。結婚にロマンスはつきものです。でも秘密など何ひとつございませんでした」
「ご主人にとって恋敵(こいがたき)のようなものは?」
「ございませんでした。私にはこれといって男のひととのおつきあいはございませんでしたから」
「すでにおききのことと思いますが、ご主人の結婚指輪がなくなっているのです。何か思いあたるふしがおありですか? かりにご主人の昔の敵が、居どころをかぎつけて、こんなことをしでかしたのだとしても、いったい何のために結婚指輪をぬきとっていったりなんかしたんでしょう?」
ほんの一瞬ではあったが、私はこのとき、夫人の口もとに笑みがうっすらとただようのを、たしかにみたように思う。
「それが私にもさっばりわからないのでございます。こんな不可解なことはございません」夫人が答えた。
「そうですか。ではもうおひきとり下すってけっこうです。心痛めておられるおり、お手数おかけしましたことを深くおわびいたします。まだほかにもおききすべき点がでてくるかと思いますが、それはまたそのおりにお願いすることになるでしょう」警部が言った。
夫人は立ちあがった。そのとき私は、彼女が、はいってくるときにみせた探るようなまなざしを再び私たちに向けたのに、気づいた。「私の証言はこの人たちにどんな印象をあたえたかしら?」そう語っているような目つきだった。それから彼女はお辞儀をして、しずしずと食堂から出ていった。
「美人ですね――実に美しい」夫人が出ていってドアをしめると、マクドナルドが考えこみながらいった。「あのバーカーという男がしょっちゅうこの家に出入りしていたことは、はっきりしている。しかも、女にもてそうなタイプの男ときている。死んだダグラスが嫉(や)いていたことは自分でも認めておったが、嫉妬の原因がなんであったかは、彼自身がいちばんよくわかっていたかもしれん。それにあの結婚指輪のことがある。こいつを見のがしてはならん。死体から結婚指輪をぬきとるような男というのは――ホームズさん、どうお思いになります?」
私の友人は椅子に身を沈め、両手で頭を抱えこむようにして、じっと黙想にふけっていたが、このときふと立ちあがってベルを鳴らした。エイムズがはいってくると、
「やあ、エイムズ、セシル・バーカーさんはいまどこにいます?」
「みてまいりましょう」
執事はすぐもどってきて、バーカーさまは庭におられますと告げた。
「ねえエイムズ、ゆうべバーカーさんといっしょに例の書斎にはいったとき、バーカーさんがはいていたものを覚えていませんか?」
「覚えております、ホームズさま。寝室用のスリッパをおはきになっておられました。警察へいらっしゃる際には、私がおくつをとってきてさしあげたのでございます」
「そのスリッパはいまどこにあります?」
「まだ広間の椅子の下においてございます」
「それはありがたい、エイムズ。どの足跡がバーカーさんで、どれが外からしのびこんだやつのものかをたしかめておく必要が、当然あるからね」
「はい。ごもっともです。それでじつは、バーカーさんのスリッパには血がついておりまして。私のにもついていましたけど」
「あの部屋のありさまからして、しごくもっともなことだよ。ありがとう、エイムズ。また用があればベルを鳴らすから」
数分後に私たちは再び書斎にはいった。ホームズは、広間にあった手織りのスリッパをもってきていた。エイムズのいったとおり、両足ともそこにどす黒い血がこびりついていた。
「奇妙だな!」窓のまえのあかるいところに立って、スリッパを丹念に調べながら、ホームズはつぶやいた。「ふむ、じつに奇妙だ」
獲物をねらう猫のような、彼らしいしなやかな身のこなしで、ひょいと身をかがめると、ホームズは、スリッパを窓わくについている血のあとにあてがってみた。ぴったりあっている。彼は黙ったまま、にっこりして、仲間をみまわした。
マクドナルド警部は、興奮のあまり顔色をかえた。ふるさとのなまりが、たてつづけにとびだしてくる。
「これだ! これにちげえありませんぜ! 窓の血はバーカー自身の仕わざだったってわけだ。ふつうのくつにくらべ、ずいぶん幅がひろい。たしかあなたは、扁平足だとかおっしゃっていたが、これで説明がつきます。それにしてもいったいこれはどういうことです、ホームズさん――どうなってるんでしょう?」
「さて、どういうことかな?」私の友人は、考えこみながら、おおむ返しにいった。
ホワイト・メイソンは、職業的満足感にひたりながら、くすくす笑い、ふっくらとした手をこすりあわせて、叫んだ。
「だからすごい大事件だといったでしょう! まったくすごい大事件ですよ!」
三人の探偵はまだいろいろ細かい点を調べる仕事が残っていたので、私はひとりで村の質素な宿屋に帰ることにしたが、そのまえに、屋敷の横手にある古めかしい風変わりな庭をひとまわりしてみることにした。奇妙な型に刈りこまれたイチイの老木の並木が庭の周囲をとりまいており、内部には、古びた日時計を中心に美しい芝生がひろがっていて、あたり全体に何ともいえぬなごやかで落ちついたふんい気をかもしだし、私のやや高ぶっていた神経をなだめてくれた。こうした平和にみちた空気にひたっていると、血まみれの死体のころがっていたあのうす暗い書斎のことなど、すっかり忘れてしまい、よしんば思いだしたとしても、気味の悪い悪夢くらいにしか思えなくなるのだった。ところが、おだやかな庭の香気を吸って、気を静めようと思っていたやさきに、奇妙な光景にでくわしてしまい、昨夜の悲劇のことが脳裏によみがえってきて、いやな気分になってしまったのである。
イチイの木が庭をとりまいていることはさきほど述べたとおりだが、屋敷からもっとも遠い、庭のはずれのあたりは、木がぎっしりとつらなっていて、生け垣のようになっていた。この生け垣の向こう側には、石の腰かけがあるのだが、屋敷のほうからは生け垣にはばまれてみえないようになっている。それとは知らずそちらに近づいていくと、人の話し声がきこえてきた。男の太い声が何かいったかと思うと、軽やかな女の笑い声がひびいてきたのである。おやと思っているうちに、私は生け垣のはずれまできて、向こう側に出てしまい、ダグラス夫人とバーカーの姿が目にとびこんできた。ふたりが気づくより一瞬早かった。私がびっくりしたのは、夫人の表情である。ついさっき食堂では、あれほどおとなしく控え目だったのに、いまでは悲しみなどどこ吹く風といった調子で、目は生きる喜びに輝き、顔は、さきほどの相手の言葉がよほどおもしろかったのか、ほころびたままである。男のほうは、ひざにひじをついて両手をかるく握りあわせ、前にのりだすような姿勢で腰かけていて、不敵な整った微笑をうかべ、女の笑顔にこたえている。しかし私の姿が目にはいると、ふたりはすぐに――ほんの一瞬おそかったのだが――真顔にもどった。そしてふたりの間で何やら二言(こと)三言(こと)あわただしく言葉をかわしたあげく、バーカーが立ちあがって私のほうにやってきた。
「失礼ですが、ワトソン先生じゃありませんか?」バーカーが言った。
私は冷ややかに一礼したが、顔には、いまうけたいやな印象が露骨にでていたにちがいない。
「きっとそうにちがいないと、ふたりで考えていたところです。あなたとシャーロック・ホームズさんとのご交友は世間でも有名ですからね。こちらへいらして、少しばかりダグラス夫人の話し相手になっていただけませんか?」
私はむっつりした顔つきのまま、バーカーのあとについていった。第三者の私ですら、床にころがっている無残な死体の姿が目に焼きついて離れないというのに、事件からほんの数時間しかたっていないいま、被害者の妻と、彼ともっとも親しかった友人とが、故人のものであった庭の生け垣のかげでこうして談笑にふけっているのである。私は控え目に夫人にあいさつした。食堂では彼女の悲しみに心から同情した私だったが、いまはもう、彼女の哀れみを請うようなまなざしに対しても、冷ややかな目でこたえるしかなかった。
「私のことを薄情で冷淡な女だとお思いのことでしょうね」夫人が言った。
私は肩をすくめて、
「私が口をはさむ筋あいのものではありませんよ」
「たぶんいつかわかっていただける時がくると思いますわ。いまでももしあなたが知っておられたら――」
「ワトソン先生にわざわざ知っていただく必要なんかありませんよ」バーカーがすばやく口をはさんだ。「先生もおっしゃったとおり、先生にはまったく関係のないことなのですからね」
「そのとおりです。では失礼して、散歩をつづけさせていただきます」そう言って、立ち去ろうとすると、
「ちょっとお待ちになって、ワトソン先生」夫人が、哀願するような口調で叫んだ。「ひとつだけおききしたいことがあります。あなたにおききするのがいちばんたしかなことなのです。しかも私にとりましては大問題なのです。あなたは、ホームズさんと警察とのご関係を、どなたよりもよく存じておいでになりますわね。そこで、もしかりにホームズさんにあることをうちあけたとしまして、ホームズさんとしては、必ず警察のお方にご報告なさる義務がおありなのでしょうか?」
「ええ、そこなんです」バーカーも話にのってきて、「独自の立場で調べておられるのですか、それとも警察に完全に協力なさっているのですか?」
「その種のことをここで云々してはたしてよいものかどうか、私にはわかりかねるのですがね」
「お願いです。どうかお教えになって。そうしていただければ、私どもはずいぶん助かるんでございます。信じて下さいまし」
夫人の声には真実のひびきがこもっていたので、さきほど彼女がみせた軽薄なふるまいのことなどすっかり忘れてしまって、つい望みをかなえてやる気になった。
「ホームズ君はあくまで独自の立場で調べているのです。誰にも拘束されず、彼自身の判断のおもむくままに行動しているわけです。と同時に、同じ事件を担当している警察の人たちに対しては、やはり誠実でありたいと考えているわけで、したがって、悪人を懲らしめるために役立つことなら、何ひとつ警察に隠しだてするようなことはしないのです。私がいま申しあげることができるのはこれだけです。もの足りないとお考えでしたら、あとはホームズ君に直接おたずねになればいいでしょう」
それだけいうと、私は帽子をとって、生け垣のかげにふたりを残したまま、その場を立ち去った。生け垣のはずれまできて、曲がりしなにふとふりかえってみると、ふたりはまだ何やら熱心に話しこんでいた。私のうしろ姿をじっと目で追っていたらしく、私とのさきほどのやりとりが話題になっていることはあきらかだった。
「あのふたりからのうちあけ話なんて、ごめんこうむりたいね」生け垣のかげでの出来事をあとでホームズに報告すると、彼はこう言った。彼は、午後はずっと領主館にいて、仕事仲間のふたりの警察官たちと協議を重ねていた。宿に帰ってきたのは夕方の五時ごろで、よほど腹がへっていたとみえ、私が注文しておいてやったお茶と軽い肉料理をがつがつと食べた。
「うちあけ話はごめんだよ。だって、ふたりの共謀による殺人だったりして逮捕ということになれば、ひどくやっかいなことになるからね」
「きみの考えではそうなりそうなのかい?」
ホームズはいたって元気で、きわめてきげんがよかった。
「ねえワトソン君、この四つ目の卵を平らげたら、いままでにつかめたことをくわしく話してあげるよ。といって、核心までみとおせたわけじゃないがね――それにはまだほど遠い――でもあの姿を消した鉄亜鈴のゆくえをつきとめさえしたら――」
「鉄亜鈴だって!」
「おやおや、ワトソン君、ひょっとしてきみは、姿を消した鉄亜鈴がこの事件の解決の鍵をにぎっているということすら、まだ見抜いていなかったのかい? いや、まあ、きみがそうしょげることもないさ。ここだけの話だが、マック警部にしてもあの腕ききの田舎捜査主任にしても、この事実が意味する圧倒的な重要性を見抜いているとは思えないからね。片方しかない鉄亜鈴だよ、ワトソン君! 鉄亜鈴をひとつしか使わないスポーツマンを想像してみるがいい。半身だけが異常に発達した姿――背骨に歪みをきたす危険は目にみえている。ぞっとするよ、ワトソン君。ぞっとするね!」
ホームズは口いっぱいにトーストをほおばり、目をいたずらっぽく輝かせながら、頭をひねるばかりの私をおもしろそうにみつめていた。彼の旺盛な食欲をみただけで、仕事がはかどっているのがはっきりとわかった。難題にぶつかって頭をなやましているときは、まるで苦行僧のようにひたすら考えこむばかりで、ただでさえやせてとがった顔をますますやつれさせ、くる日もくる日も食事に手をつけようとさえしないのが、彼のつねだったからである。
やがて食事を終え、パイプに火をつけると、ホームズは古い田舎旅館の炉ばたにすわって、ゆっくりと、思いつくままに事件のことを話しだした。それは、考えてから話すというよりは、むしろ、話しながら考えているふうにもみえた。
「うそだね、ワトソン君、とてつもなく大きな、まったくでたらめの、真赤なうそ――われわれのまず出くわしたのがこれなんだよ。これがわれわれの出発点なんだ。バーカーの言っていることは全部うそなんだよ。ところが、バーカーの話はダグラス夫人の証言によって裏づけられている。ということは、夫人もまたうそをついているということなんだ。ふたりは共謀したうえでうそをついているのだ。そこで当然、つぎのことが問題となる――なぜふたりはうそをついているのか? そしてふたりがそれほどまでに隠したがっている真相とは何なのか? さて、そこで、ワトソン君、きみとぼくとで知恵をしぼって、うその背後に隠された真実をさぐりだしてみようじゃないか。
ふたりがうそをついていることがどうしてわかるか? 彼らの言っているようなことは、どうみても現実にはありえないからだよ。まったくへたなうそをついたもんだ。考えてもみたまえ! 彼らの話によると、犯人は殺害後わずか一分もたたない間に、死体の指から指輪を、それももうひとつの指輪の奥にはめてあったのを抜きとって、いらない指輪のほうをもとにもどし――犯人がそんなことをするものかね――さらに、奇妙な紙きれを死体のそばに残していったというのだ。こんなことはまずもって不可能だよ。もっとも、きみはこう反論するかもしれない――いや、きみほどの判断力の持主なら、ワトソン君、まさかしないとは思うがね――指輪は殺されるまえに抜きとられたのかもしれないとね。だが、ローソクがほんのわずかしかともされていなかったという事実が、犯人と被害者とのやりとりがごく短いものであったことを物語ってくれている。ずぶとい神経の持主だったといわれているダグラスが、ちょっとおどかされたくらいでそうやすやすと結婚指輪をわたしたりなんかするものかね? そもそもそんな男が結婚指輪をわたすなんてこと自体、およそ考えられないじゃないか。だからそうじゃないんだよ、ワトソン君。犯人は、死体のそばに、ランプをともしてしばらく独りでいたんだ。それだけは確信をもっていえるよ。しかし死因が銃撃によるものらしいこともたしかだ。とすると、発砲は、連中が言っているよりもいくらか前におこなわれたものでなければならなくなる。 といって、そんなことで思いちがいをするなどということはありえないはずだ。そこで、銃声を耳にしたふたりの男女――バーカーとダグラス夫人の共謀という問題に直面することになるわけだ。それに加えて、窓わくの血のあとはバーカーが警察をあざむくためにわざとつけたものだということになれば、あの男がますます怪しくなることにきみも異論はあるまい。
そこで、では殺害が実際におこなわれた時刻はいったいいつだったのかを考えてみなければならない。十時半までは、召使いたちが屋敷のなかを動きまわっていたのだから、それ以前ということはまずありえない。十一時十五分前に、召使いたちはそれぞれの部屋にひきさがり、エイムズだけが食器室に残った。じつは今日の午後、きみが宿屋へ帰ったあとで、ぼくはちょっとした実験をこころみたんだ。その結果、書斎でマクドナルドがいくら音をたててみても、あちこちのドアをすっかりしめきってしまうと、食器室にいるぼくには全然きこえないってことがわかったのだよ。しかしそれが家政婦の部屋となるとちがうんだ。それほど書斎から離れていないせいもあって、書斎で大声をあげると、かすかにきこえるのだよ。猟銃というものは、こんどの場合もあきらかにそうだが、至近距離から発射されると、ある程度銃声が殺される。したがって、事件のときもそれほど大きな音ではなかったかもしれないが、それにしてもしいんと静まりかえった夜中だと、アレン夫人の部屋にはじゅうぶんとどいたはずだよ。彼女は、自分でも言っていたとおり、耳が少し遠いらしいが、それでも、騒ぎのはじまる三十分ほどまえに、ドアがばたんとしまるような音をきいたと証言の中で言っている。騒ぎの三十分前といえば、ちょうど十一時十五分前にあたる。おそらく彼女のきいた音というのが銃声で、実際にはそのときに殺人がおこなわれていたのにちがいない。もしそうならば、バーカーとダグラス夫人は、かりにどちらも直接の下手人ではないとするにせよ、十一時十五分前に銃声をきいて階下(した)へおりてきてから、十一時十五分すぎにベルを鳴らして召使いたちを呼び集めるまでに、いったい何をしていたのかを考えてみる必要がある。何をしていたのだろう? なぜすぐベルを鳴らして人を呼ばなかったのだろう? これがいまぼくたちの直面している問題なのだ。これさえ解ければ、事件の解決への道はかなりひらけてくるはずなのだが」
「あのふたりがぐるになっていることはまちがいないよ。夫が殺されてからまだほんの数時間しかたっていないというのに、ほかの男と笑いふざけているなんて、よほど薄情な女にちがいない」私が言った。
「そのとおり。こんどの事件についての彼女の陳述をきいただけでも、妻としてはあまり感心できない。きみも知ってのとおり、ワトソン君、ぼくは、もともとそれほど熱心な女性崇拝者ではないのだが、それでもこれまでの経験から、いやしくも夫を大切に思う妻なら、ほかの男のいうなりになって夫の死体をほったらかしにしておくようなことはしないものだ、ということくらいはわかっているつもりだよ。もしぼくが結婚でもすることになれば、ワトソン君、すぐそばに夫の死体がころがっているというのに、駆けよってみようともせずに家政婦に連れられておとなしくその場を立ち去ってしまう、なんてことをしないだけの情操くらいは妻に植えつけておきたいものだと思うね。あれはへたな演出だった。女らしい涙ひとつみせなかったとあっては、どんなに駈けだしの探偵でも、おかしいと思うにきまってるよ。ほかのことはさておき、この一件だけでも、ぼくには何かあらかじめ仕組まれたものを感じさせるにじゅうぶんだね」
「じゃきみは、バーカーとダグラス夫人がこんどの事件の犯人だとみてまちがいないと考えているわけなんだね?」
「そうあからさまにきかれると、どきっとするよ、ワトソン君」パイプを私のほうに振ってみせながら、ホームズが言った。「まるで弾丸をぶちこまれたような気がする。もしきみの質問が、ダグラス夫人とバーカーはこんどの殺人事件の真相を知っていながら、しめしあわせてそれを隠しているのか、ということなら自信をもってお答えできるよ。そう、たしかにふたりは知っていながら隠している。でもそれをさらに踏みこえて、ふたりが犯人かということになれば、事態はそう簡単ではないのだよ。そこでひっかかってくる問題を少し考えてみよう。
まず最初に、あのふたりは不倫の愛でむすばれていて、じゃまになった夫を消してしまおうと決心したと仮定してみる。かなり大胆な仮定だけどね。召使いやそのほかの周囲のものたちにそれとなくきいてみても、それを裏づけるような証言はなにひとつ得られなかったのだから。それどころか、夫婦仲はきわめてよかったという証言が返ってくるほうが、はるかに多かったときている」
「ぼくにはそうは思えないね」私は、庭でみた美しい笑顔を思いうかべながら、言った。
「なるほど。でもね、少なくともまわりのものにそういう印象をあたえていたことだけは事実なんだ。しかしもしかりにバーカーと夫人が人並みはずれてしたたかな連中で、この点でもみんなの目をあざむき、共謀して夫殺しをたくらんだとしてみよう。たまたま夫のダグラスはいつも何かの危険におびやかされていて――」
「それもしかしあのふたりが言っているだけだ」
ホームズは一瞬考えこんで、
「なるほど、ワトソン君、きみは、あのふたりの言っていることは何から何まですべてうそだとみるんだね。するときみの考えでは、なぞめいた脅迫とか、秘密結社とか、恐怖の谷とか、マク何とか親分とか、そういったものはすべてでっちあげにすぎないということになるわけだ。なるほど、面白い。非常にすっきりした意見だね。でもそうだとするとどういうことになるか、考えてみよう。ふたりは、うその犯人をこしらえるために、そういった理屈をあみだしたとする。その理屈をもっともらしくみせるために、さも外部のもののしわざであるかのごとく、自転車をしげみのなかに隠しておいた。窓わくの血のあとも、同じ魂胆からわざとつけたわけだ。死体のそばの紙きれにしたって、あらかじめあの屋敷でこしらえておいたのかもしれない。ここまではすべて、きみの仮説でたしかに説明がつくよ、ワトソン君。ところが、ここにひとつだけ、きみの仮説ではどうしてもつじつまのあわないやっかいな事実があるんだ。なぜよりによって銃身を切りつめた猟銃なんかを使ったのだろう? しかもこともあろうにアメリカ製のやつなんかをだよ? 銃声をきいて誰かが駆けつけてくるような心配はないなどという確信は、いったいどこから生まれたのだろう? ドアのしまるような音をきいたアレン夫人が、不審に思って部屋からとびださなかったのは、実際、まったくの偶然にすぎなかったのだからね。もしふたりを犯人だとするのなら、彼らはなぜこんな危ない橋をわたったのだろう、ワトソン君」
「正直いって、その点はぼくにも説明がつかないんだ」
「まだある。人妻が愛人と共謀して夫殺しをたくらんだとして、まるで自分たちがやりましたといわんばかりに、死体の指からこれみよがしに結婚指輪を抜きとったりなんかするものかね? そんなことをする人間がいると思うかい、ワトソン君?」
「いや、思わないよ」
「さらにまだある。自転車をわざと隠しておくという手を思いつくまではいいとしても、自転車は逃げる身にとって何よりの必需品ともいえるものなのだから、どんなへぼ探偵にでも見えすいたごまかしだと見ぬかれるにきまっているというのに、それをあえて実行するようなばかがいると思うかい?」
「ぼくには説明がつかないよ」
「しかしだよ、人間の頭では説明のつかないような出来事がいくつも重なりあうなんてことはありえないはずなのだ。そこで、事実かどうかはさておき、たんなる思考訓練のひとつとして、どういうことが想定しうるかを考えてみよう。たしかに想像にしかすぎないが、しかし想像が真実の母となった例はいくつもあるはずだからね。
そこでまず、このダグラスという男の生活には、何かやましい秘密、人にはいえないほど恥ずかしい秘密があったと仮定してみよう。そのために殺された、復讐されたものとしよう――したがって外部のものによってね。そしてこの復讐者は、正直いって私にもなぜだかいまのところわからないのだが、死体から結婚指輪を抜きとっていった。もしかしてこんどの復讐は、ダグラスの最初の結婚に根ざしたもので、指輪の一件もそのせいなのかもしれない。さて、この復讐者がまだあの部屋から逃げ去らないうちに、バーカーと夫人とが駆けこんできた。そこで犯人は、もし自分をつかまえようとすれば、恥さらしな不名誉な秘密を世間にばらすといっておどす。ふたりはおどしに負け、しかたなく逃がしてやる。そのため、ふたりはおそらく橋をおろしてやり、再びあげておいたのだろう。橋のあげおろしは、音をほとんどたてずにできるからね。そして犯人はまんまと逃げたわけだ。しかも何らかの理由で、自転車を使うよりは歩いて逃げたほうが安全だと思ったのだ。そこで、自転車はとりあえずうまく逃げおおせるまで見つからないようにと、手頃なところに隠しておいた。と、ここまでは可能の域を脱していないと思うのだが、どうだい?」
「そうだね、たしかにありえないことではないね」私はいくぶん遠慮して言った。
「ここで忘れてならないのは、ワトソン君、どんなことが起こったにしろ、それはきわめて異常なことだという事実だ。さて、さらに仮定をおし進めてみるが、あのふたりは――必ずしも不義の仲といわないが――犯人が去ってから、自分たちのおかれた立場がきわめてまずいことに気づいた。自分たちがやったのでもなく、またみてみぬふりをしたのでもない、ということを立証するのがむずかしいことに気づいたわけだ。そこであわてて、ずさんな対策をこうじた。犯人が窓から逃走したとみせかけるために、バーカーが、自分のはいていたスリッパで窓わくに血のあとをつけたのだ。さらに、銃声をきいたのがふたりだけらしいのをみて、型どおり、ベルを鳴らして人を呼んだわけだ。ただし、事件が起こってからたっぷり三十分もたったあとでね」
「でもどうやってそういったことを証明するつもりだい?」
「それだが、もし外部のもののしわざということになれば、そいつを探しだしてつかまえればよい。これにまさる証明はないだろう。しかしもしそうではないとしたら――いや、科学の力はまだまだそれほどみすてたものではないよ。じつはね、あの書斎で一晩ひとりきりですごしてみれば、大いに得るところがあるはずだと思っているのさ」
「一晩ひとりきりでだって!」
「もうすぐいこうと思っている。そのことは、あの尊敬すべきエイムズともすでに打ちあわせずみなんだ。あの男はバーカーを心から慕っているわけではないからね。あの部屋の雰囲気にじっとひたってみれば、なにか思いつくかもしれないと思っているのだ。ぼくは『土地の霊』の信奉者だからね。君はにやにやしているけど、ワトソン君、まあみていたまえ。ところで、きみは例の大きなこうもりがさをもってきているだろうね?」
「あるよ」
「じゃ、あれを貸してもらいたいのだが」
「いいとも。でもまたひどくたよりない武器だな! もし危険な目にあったら――」
「なに、たいしたことはないよ、ワトソン君。もし本当に危険なようだったら、きみにご同行をお願いしているさ。でもかさだけは借りていくよ。いまはさしあたって、警部たちがタンブリッジ・ウエルズから帰ってくるのを待つのみだ。彼らは、向こうで、自転車の持主らしき人物を探しているのさ」
マクドナルド警部とホワイト・メイソンがもどってきたのは、もう日が暮れてからだった。ふたりは、捜査が大進展をとげたといって、意気揚々とひきあげてきた。
「いやはや、私はね、これまでたしかに外部のもののしわざという説には疑問をもっとったですが」マクドナルドが言った。「その疑いもいまではすっかり晴れましたよ。自転車の持主が判明したんです。その男の人相もわかりました。大収穫というわけです」
「いよいよ先がみえてきたという感じだね」ホームズが言った。「おふたりに心からおめでとうといわせてもらいますよ」
「まずですね、ダグラス氏が、事件の前日タンブリッジ・ウエルズヘいってきてから様子がおかしくなった、という事実から出発したのです。そうだとすると、タンブリッジ・ウエルズで何か危険を身に感じたにちがいないわけです。だから、もし犯人が自転車でやってきたとするなら、まず考えられるのが、当然、タンブリッジ・ウエルズから、ということになります。そこで、例の自転車を向こうへもっていって、いろんなホテルに心あたりがないかどうかあたってみたのです。目撃者はすぐ現われました。イーグル・コマーシャル・ホテルの支配人が、これなら二日前から泊まっているハーグレイヴと名のる男のものだというのです。その男の持物は、その自転車と小さな手さげかばんがひとつだけで、しかも宿帳には、ロンドンからとだけあり、はっきりした住所は書いてありません。かばんはたしかにロンドンでつくられたもので、中身もイギリスのものばかりでしたが、本人がアメリカ人であることはまちがいないそうです」
「それは、それは」ホームズはうれしそうに、「ぼくはここでワトソン君といたずらに理屈をこねまわしている間に、きみたちは着実に仕事をすすめてきたわけだ。実践第一という教訓だね、マック君」
「そう、それですよ、ホームズさん」警部が得意そうに言った。
「それにしても、この事実はきみの推論にぴったりとあっているじゃないか」私がホームズに言うと、
「あってるあってないはさておき、マック君の話を最後まできいてみよう。その男の身元を知る手がかりはまったくつかめずかい?」
「身元がばれることを非常に恐れたとみえ、ほとんど皆無にひとしいのです。書類や手紙らしきものはまったくみあたらず、衣類にもネームのようなものは全然ついていません。この地方の自転車旅行用地図が、寝室のテーブルにおいてあっただけです。で、男は、きのうの朝、朝食をすませたあと自転車で出かけたきり、行方不明だということです」
「そこがどうにも解(げ)せないのです、ホームズさん」ホワイト・メイソンが口をはさんだ。「もし警察の目をくらましたいのなら、きちんとホテルへもどって、めだたない旅行者をよそおい、おとなしくしているのがあたりまえでしょう。だのにこんなことをすれば、ホテルの支配人が警察にとどけるだろうし、そうなれば人殺しとむすびつけて考えられるはめになるくらいのことは、わかりきっているはずなのですがね」
「常識ではそうだろうね。でもいまだにつかまってないところをみると、少なくとも現在の段階では、男の知恵もそれなりに効を奏しているわけです。で、人相のほうはどうなんだい?」
マクドナルドは手帳をとりだして、
「ききだせるだけのことはすべて、ここへ書きとめてきましたよ。それが、みんなそれほどはっきりとはみていないらしいんです。でも、ボーイや事務員や女中たちがほぼ一致して言っている点をまとめてみますと、こうです。身長は約五フィート九インチ、年は五十前後、ややしらがまじりの髪で、これまた灰色がかった口ひげをはやし、かぎ鼻で、みんな口をそろえて、あまり人相のよくない、こわそうな顔だったと言っていました」
「ほう、顔のことをのけたら、ダグラスとそっくりだ」ホームズが言った。「ダグラスも五十すぎで、髪も口ひげもしらがまじりだし、身長もほぼ同じときている。ほかに何か?」
「厚手のグレイの背広の上にリーファ・ジャケットをつけ、丈の短い黄色のオーバーをはおって、やわらかい縁なし帽をかぶっていたそうです」
「猟銃のことは?」
「あれは二フィートたらずのものですから、かばんにもじゅうぶんおさまったでしょうし、オーバーの下に隠してもち歩くことも難なくできたはずです」
「で、こういったことすべてを、事件と照らしあわせてみて、どう考えるの?」
「それはですね、ホームズさん」マクドナルドが答えた。「この男をつかまえれば――人相がわかると五分もたたないうちに、随所に電報で知らせておきましたからね――もっとはっきりしたことがいえると思います。でも現時点ですら、捜査はかなり進展したとみていいと思います。ハーグレイヴと名のるアメリカ人が、二日前に、かばんをたずさえ、自転車にのってタンブリッジ・ウエルズヘやってきました。かばんのなかには銃身を切りつめた猟銃をしのばせていたわけですから、人を殺すのが目的であったことはたしかでしょう。きのうの朝、この男は、オーバーの下に鉄砲を隠して、自転車でこのバールストンへ向かいました。もっとも、われわれの知るかぎりでは、この男がやってきたところをみたものはいないわけですが、わざわざバールストンの村のなかを通り抜けなくとも、領地の門のところへたどりつくことはできるわけですし、そうでなくとも、街道には自転車に乗った連中がうようよいますから、人目につくこともないはずです。おそらく、男はこちらにつくとすぐに例の月桂樹のしげみに自転車を隠し、自分もその辺に身を潜めて、屋敷のほうをうかがいながら、ダグラス氏が出てくるのを待ちかまえていたのでしょう。猟銃はたしかに家のなかで使うには不向きな凶器ですが、戸外で使うつもりだったとすれば、話は別です。むしろ絶好の武器といえなくもありません。撃ちそこねる心配はまずないわけですし、イギリスの猟場近辺では、みんな猟銃の銃声には慣れっこになっていて、不審に思ったりするものなんかいやしませんからね」
「きわめて筋のとおった意見だ!」ホームズが言った。
「ところが、ダグラス氏は外へ姿を現さなかったわけです。で、男はどうしたか? 自転車を置き去りにして、夕闇にまぎれて屋敷に近づきます。みると橋はおりており、あたりに人の気配はない。運を天にまかせて橋をわたります。もちろん、見つかれば何かいいわけをするつもりだったのでしょう。運よく誰にも会いませんでした。屋敷に足を踏みいれ、最初に目にはいった部屋にしのびこむと、カーテンのうしろに隠れます。ところが、そこから跳ね橋のあがるのがみえたものだから、逃げ道は堀をわたるしかないことをさとります。で、ずっとそこで待っていると、十一時十五分すぎになって、ダグラス氏が例によって夜の見まわりにやってきました。そこで一発のもとに撃ち殺し、あらかじめ考えておいたとおり逃げていったわけです。自転車は、ホテルの連中にみられていて足がついてはまずいと思い、その場に残したまま、何かほかの手段を使ってロンドンへ逃げ帰ったか、それとも、まえもって用意しておいた安全な隠れ家へ逃げこんだのです。どうです、ホームズさん?」
「なるほど、マック君、きみの意見はそれなりにはっきりしていて、じつに面白かったよ。それがきみの結論なんだね。ではぼくの結論をいおう。犯行は報告された時刻よりも三十分ほど前におこなわれている。ダグラス夫人とバーカー氏は、共謀して何かを隠しているのだ。逃げる前に、あの部屋で犯人と顔をあわせているはずだ。そして、窓から逃げたと思わせるために小細工をほどこし、実際にはおそらく、ふたりで橋をおろして犯人を逃がしてやったのにちがいない。事件の前半をぼくは(ヽヽヽ)こう解釈しているよ」
ふたりの刑事は頭をふった。
「いやはや、ホームズさん、もしあなたのおっしゃることが本当なら、われわれはやっと謎を解きあかしたと思ったとたんに、また新たな謎に直面したことになります」ロンドンの警部が言った。
「しかもある意味でよりやっかいな謎だね」ホワイト・メイソンが言い足した。「夫人はアメリカへいったことは一度もないのです。だのに、アメリカ人の犯人といったいどんな関係があって、かばってやったりしたのです?」
「難題であることはたしかだね」ホームズが言った。「そこで今晩、ぼくひとりで少し調べてみたいことがあるんだ。事件の究明に役立つことが何かみつかるかもしれない」
「手をお貸ししましょうか、ホームズさん?」
「いえ、けっこう! 暗闇とワトソン君のかさがあればじゅうぶんだよ。それにあのエイムズが――あの忠実なエイムズなら、きっとぼくのためにひと肌ぬいでくれるはずだ。この事件をどの方向から考えてみても、ぼくはあるひとつの根本的な疑問にぶつからざるをえないのだ――スポーツマンたる者が、なにゆえ、片方しかない鉄亜鈴などという奇妙な用具を使って、からだを鍛えるようなことをしたのか?」
ホームズがその晩、館での単独の調査からもどってきたのは、夜もだいぶふけてからだった。私たちの泊まっている部屋には寝台がふたつ備えられてあったが、その小さな田舎旅館のなかでは最上の部屋とのことだった。私はすでに眠りについていたが、ホームズがはいってきた気配で、ふと目をさました。
「やあ、きみか、何かわかったかい?」私は小声で言った。
ホームズは手にローソクをもって、黙ったまま私の枕もとに立ち、やがて、ひょろ長いからだを私のほうにかがめると、耳もとでささやいた。
「ねえ、ワトソン君、きみは、頭のおかしくなってしまった気ちがいとか、正気をうしなってしまった白痴とか、そんな男といっしょの部屋に眠るのはいやかい?」
「まったく平気だよ」私はあっけにとられて答えた。
「やあ、そいつはありがたい」それがその晩、ホームズの口からもれた最後の言葉だった。
翌朝、朝食をすませてから、村の巡査部長の小さな客間を訪れてみると、マクドナルド警部とホワイト・メイソン氏が何やら熱心に話しこんでいるところだった。ふたりは、手紙や電報が山と積まれたテーブルに向かいあい、分類と整理に余念がなかった。三通だけべつにしてあった。
「まだ例の自転車にのった男を追っているのだね?」ホームズが快活な口調でたずねた。「何か目新しい情報でも入ったかい?」
マクドナルドは、郵便物の山を悲しげに指さしながら、
「現在、レスター、ノッティンガム、サウサンプトン、ダービー、イースト・ハム、リッチモンド、そのほか十四ヵ所から、彼らしい人物をみたという報告が入っています。そのうちの三ヵ所、イースト・ハム、レスター、およびリヴァプールでは、確証をつかんだとのことで逮捕に踏みきったそうです。黄色いコートを着て逃げまわっているやつは、どうやらこの国のいたるところにいるらしいですな」
「おやおや!」ホームズは同情しながら、「ところで、マック君、そしてあなたにもだけど、ホワイト・メイソンさん、じつはぜひおすすめしたいことがある。この事件をいっしょに手がけることになったとき、覚えているとは思うけど、ぼくは、中途半端な段階での意見はさし控えたい、まちがいないと自分で納得できるまでは、でしゃばらずに自分の考えを煮つめていきたい、とこう言ったはずだ。したがって、いまこの時点では、ぼくの考えていることをすべてうちあけるわけにはいかない。もっともいっぽうでは、あなたたちに対して公明正大に行動するつもりだ、ともいったはずだ。だから、あなたたちが無駄な精力を費やして貴重な時間を浪費しているのをみてみぬふりをするのは、フェアー・プレイの精神に反することだとも思う。だから、いまここで、あえてあなたたちに忠告させていただくことにする。忠告はたった一言、事件から手をひきたまえ」
マクドナルドとホワイト・メイソンは、あ然として、高名な探偵の顔をまじまじとみつめた。
「見込みがないとお考えで?」警部が叫んだ。
「あなたたちには(ヽヽヽヽヽヽヽ)見込みがないと考えているだけだよ。事件そのものが解決の見込みがないものと考えているわけじゃない」
「でもこの自転車に乗った男のことがねえ。これはつくりごとではないんですよ。人相はつかんでいるし、かばんも自転車もおさえてあるんです。ですからきっとどこかにいるにちがいないんです。つかまらないはずはないでしょう?」
「たしかに。むろんどこかにいるにちがいない。だからきっとつかまるだろう。でも、だからといって、イースト・ハムやリヴァプールくんだりで、むだな精力を費やしてもらいたくはないのだよ。もっと近道があるはずだよ」
「何か隠しておいでですね。それじゃあまりフェアーとはいえませんよ、ホームズさん」警部は苦い顔をした。
「ぼくの仕事のやり方はきみも知っているはずだよ、マック君。でもまあ、できるだけ早く公表するつもりだ。ぼくはただ細かい点で少したしかめたいことがあるだけなのだ。なに、それほど面倒なことではないんだから、それがすみしだい、ぼくがつかんだものはすべてあなたたちにまかせて、ぼくはロンドンへと退場させてもらうよ。こんなに奇妙で面白い事件の仕事をさせてもらったのはこれが初めてなので、その感謝のしるしといってはなんだけど、ぜひそうさせてほしいのだよ」
「私にはさっぱり見当がつきませんよ、ホームズさん。ゆうべ私たちがタンブリッジ・ウエルズから帰ってきてお会いしたときは、私たちの仕事ぶりにほぼ同意して下さっていたはずです。それがいまではすっかりお考えをかえられてしまうとは、あれからいったい何があったのです?」
「じゃ、言ってあげるよ。じつは、あのときも話したとおり、あれから数時間、領主館で夜をすごしたのだよ」
「で、何があったのです?」
「ああ! それについては、さしあたってごく大ざっぱにしか答えられない。それはさておき、ぼくはいま、あの古い建物に関する、短いながらもわかりやすくて面白く書かれた案内書を読んでいたところなのだ。村の煙草屋で売っているたった一ペンスの代物だけどね」ホームズは、チョッキのポケットから、昔の領主館のそまつな図版のはいった小冊子をとりだして、「事件をとりまく環境の歴史的雰囲気になじんでみると、マック君、捜査もまたみちがえるほど面白くなってくるものだよ。まあそういらいらせずにききたまえ。こんな薄っぺらい案内書でも、昔日の姿をある程度彷彿(ほうふつ)とさせてくれるものなのだから。一例をあげてみよう。『ジェイムズ一世の治世第五年に古い建物の跡に建てられたこのバールストン領主館は、堀をめぐらしたジェイムズ王朝風邸宅として、現存する最もみごとなものの一つであり――』」
「私たちをからかっておいでですね、ホームズさん」
「おい、おい、マック君! きみが腹をたてたところを初めてみたよ。よろしい、それほど気にいらないというのなら、いちいち読みあげるのはよすよ。でも、あの館が、一六四四年には議会派の大佐によって占拠されたこととか、ピューリタン革命のさ中には、チャールズ一世が数日間あそこに隠れていたこととか、さらにはジョージ二世がおとずれたことがあるとか、そういったことがこのなかに述べられているといえば、この古い屋敷もなかなか興味ぶかい由緒あるものだということを認めてもらえるはずだよ」
「たしかにそうだとしても、ホームズさん、さしあたってわれわれの仕事とは関係ありませんからね」
「関係がない? 関係がないだって? 視野の広さは、マック君、ぼくたちの職業にとって必要不可欠なもののひとつだよ。異なった意見をたがいにぶつけあったり、一見無縁とも思える知識を駆使したりすると、しばしば思いがけないほど興味がわくものなのだ。一介の犯罪鑑定家にすぎないくせに生意気なことを言うようだけど、きみよりは長く生きているだけにおそらく人生経験もそれだけ豊かなはずの者のことばとして、受けとってもらいたいね」
「そりゃもうありがたく思っていますよ」警部は心をこめて言った。「ただ、あなたなりに要点をついてはおられるのでしょうが、いやにもってまわった言い方をなさるものだから」
「ふむ、なるほど、それでは過去の歴史のことは省くとして、さっそく現下の事実に目を向けてみよう。すでに話したとおり、ゆうべぼくは領主館へいってきた。バーカー氏にもダグラス夫人にも会わなかったよ。その必要がなかったからだけど、きくところによると、夫人はさほどやつれた様子もなく、夕食もおいしく召しあがったとのことで、安心したよ。ぼくとしては、むしろあの誠実なエイムズにさえ会えればよかったわけで、たがいに心をひらいて話しあった結果、誰にも内緒で、ぼくがしばらくあの書斎にひとりでこもることを承諾してくれた」
「何だって! あれといっしょにかい!」私はびっくりして叫んだ。
「いや、いや、書斎のなかはもうきれいにかたづいているよ。きみが許可をあたえたそうだね、マック君。部屋はすっかりもとどおりになっており、十五分ばかり有益なひとときをすごさせてもらったよ」
「何をなさっていたのです?」
「そう、秘密にするほどのことでもないから言うと、なくなった鉄亜鈴をさがしていたのだ。こんどの事件を考えるにあたっては、なぜかこのことがひっかかってしかたがなかったのだよ。でも、みつかって、すっきりしたよ」
「どこで?」
「ああ! その点になると、まだはっきりしたことは言えない。もうしばらく、ほんのもうしばらくだけ、ぼくにまかせてくれたまえ。そのあとで、ぼくにわかったことはすべて教えてあげるよ。約束する」
「わかりました。こちらとしてはあなたのおっしゃるとおりにせざるをえませんが」警部が言った。「でも、事件から手をひけとおっしゃるにいたっては――一体全体、なぜ私たちが手をひかなきゃならないんです?」
「理由はいたって簡単だよ、マック君。あなたたちには、そもそも捜査の対象が何であるかがつかめてないからさ」
「私たちは、バールストン館のジョン・ダグラス殺しの犯人をさがしているのですよ」
「そう、そう、そうだとも。それなら、自転車に乗った謎の男なんかを追いまわすのはやめたまえ。何の役にもたたないことはぼくが保証するよ」
「じゃどうしろとおっしゃるんです?」
「きみにその気さえあるのなら、はっきり言ってあげるよ」
「ふむ、あなたの奇妙な言動のうらには、いつももっともな理由がひそんでいたことはたしかですからね。じゃご忠告にしたがいましょう」
「で、あなたは、ホワイト・メイソンさん?」
村の刑事はたよりなげにみんなの顔をみまわした。ホームズといい、そのやり方といい、彼には初めての出会いだったのである。
「そうですね、警部がそれでよいのなら、私にも異存はありません」やっとこう言った。
「よろしい。では、あなたたちおふたりには、これから心地よい田舎道の散歩を楽しんでくることをすすめます。バールストン丘陵からウィールド森林地帯をみおろすながめは、目をみはるすばらしさだそうだ。昼食には、どこかに手頃な宿屋がみつかるはずだよ。あいにくこの土地には不案内なものだから、どこといってとくにおすすめはできないけれど。夕方には、心地よく疲れて――」
「ねえ、冗談もほどほどにして下さい!」マクドナルドは、怒って椅子から立ちあがり、叫んだ。
「まあ、じゃ、お好きなようにきょう一日をすごしたまえ」ホームズは、警部の肩をきげんよくたたきながら言った。「どこへでもお好きなところへいって、お好きなようになさい。ただ日暮れまでには必ずここへもどってきてもらいたい――必ずだよ、マック君」
「それなら納得がいかないでもありません」
「せっかくすばらしいことをすすめてあげたのだけど、まあ無理にとはいわない。お願いしたとおり、ここへもどってきてくれさえすれば、それでけっこう。ところで、でかけるまえに、いまここで、バーカー氏宛てに簡単な手紙を書いてもらいたいのだが」
「はあ?」
「よければ、ぼくが口述しよう。用意はいいかい? 『拝啓――このたび、堀を排水させていただく必要ありと判断いたしました。それによって何か捜査の手がかりになるものがみつかる――』」
「まさか。私がちゃんと調べましたよ」警部が口をはさんだ。
「いいからいいから、きみ! ぼくのいうとおり書きなさい」
「では、どうぞ」
「『――みつかるかもしれないと期待している次第です。すでに手配はすんでおりまして、明朝早々、人夫たちが、堀に流入している小川の流れを他に転じる――』」
「とんでもない!」
「『――転じる作業にとりかかることになっております。つきましては、あらかじめご了解をいただきたく、右お知らせ申しあげる次第です』あとは署名をして、四時ごろに誰かに届けさせてくれたまえ。そのころに、ぼくたちは再びこの部屋におちあうことになるが、それまでは、捜査のことはすっかり忘れることにして、各自、自由行動といきましょう」
私たちが再びあつまったときは、もう夕闇がせまっていた。ホームズはいたって真剣な様子で、私は好奇心に燃えていたが、ふたりの刑事は、とげとげしい苦しい表情を露骨に顔にだしていた。
「さて、みなさん」私の友人はいかめしい口調できりだした。「いまからは、ぼくにおつきあい願って、すべてをこれからの実験に託していただきたい。そうすれば、これまでぼくの申していたことが到達した結論を裏づけているかどうかを、各自おわかりいただけるでしょう。今夜は冷えこみそうだし、この探訪がいつまでかかるかも見当がつかないので、十二分に着こんでいってもらいたい。暗くならないうちに目的の位置につくことが何より重要なので、よければいまから早速でかけることにしたいと思う」
私たちは、領主館の領地の外側に沿ってすすみ、垣根のこわれているところまでくると、そこをくぐり抜けて中にはいり、あたりが刻一刻と暗さをましていくなかを、ひたすらホームズのあとにしたがい、館の正面の跳ね橋のほぼ真向かいにあたるしげみのところにたどりついた。橋はまだおりたままだった。ホームズが月桂樹のかげにかがみこんだので、私たち三人もそれにならった。
「で、これからいったい何をするんです?」マクドナルドが無愛想にたずねた。
「ひたすら音をたてないようにして、じっと堪え忍んで魂をかちとるだけさ」ホームズが答えた。
「いったい何のためにこんなところにいなけりゃならないんです? もう少し率直にいっていただいてもいいと思いますがね」
ホームズは笑った。
「ワトソン君にいわせると、ぼくは実生活における劇作家らしいんだ。ぼくの内部で芸術家精神がむらむらと湧きおこっては、いつも芝居がかった演出を要求してやまないのだよ。たしかに、われわれのような職業は、マック君、たまに結末をおごそかに飾りたてるような演出でもしないことには、単調でたいくつきわまりないものになってしまうからね。いきなりおまえが犯人だとかいって、肩を手荒くぽんとたたく――こんな芸のない大団円があるかい? むしろ、鋭敏な推理、巧妙な罠、やがて起こるであろう出来事への鋭い予見、大胆な仮説のあざやかな的中――こういったものがあってこそ、われわれの職業も、生涯を賭けるにふさわしい、誇るにたるものとなるのではないかい? いま現に、あなたたちは心ときめく状況に興奮し、猟師のいだくような期待をみなぎらせている。だのに、もしぼくが時刻表のように事のなりゆきをはっきりさせてしまったりすれば、これほど興醒めなことはあるまい? いましばらくの辛抱だよ、マック君、そうすれば何もかもはっきりするさ」
「なるほど、ではわれわれみんなが寒さで凍え死んでしまわないうちに、あなたの誇りだの生きがいだのを、はやく拝見したいものですね」ロンドンの刑事は、おどけた口調でしぶしぶしたがった。
寒い夜空の下で、じっと見張っていると、私たちもまたマクドナルドのように待ちくたびれていらいらしてきた。古い屋敷の陰気な長い正面がしだいに夜の闇に沈んでいった。堀からたちのぼる湿った冷気で体のしんまで冷えきって、私たちは歯をがたがたふるわせた。門のところにランプのあかりがひとつみえ、惨劇の舞台となった書斎にもあかあかと燈(ひ)がともされていた。そのほかはまっ暗で、しいんと静まりかえっている。
「いったいいつまでこうしているんです?」警部が不意にたずねた。「そもそも何を見張っているんです?」
「どのくらいかかるか、ぼくにも見当がつかない」ホームズが無愛想に答えた。「悪人どもがいつも列車に時間どおりに行動してくれたら、こっちとしてもそりゃ大助かりなんだが。で、何を見張っているかというと――おや、あれ(ヽヽ)だよ、ぼくたちの見張っているのは」
ホームズがそう言ったとき、書斎の黄色く輝いていたあかりが急にかげり、窓のところを誰かがいったりきたりしている気配がした。私たちが身を潜めている月桂樹のやぶは、窓の正面にあたり、百フィートとは離れていなかった。やがて蝶番(ちょうつがい)のきしむ音がして窓があけはなたれ、外の暗闇をのぞきこんでいるひとりの男の頭と肩が、黒いシルエットとなってぼんやりうかびあがった。数分の間、男は人にみられていないことをたしかめるように、あたりをこそこそうかがっていたが、ふと窓から身をのりだすようにしたかと思うと、しいんと静まりかえった中で、水がぴちゃぴちゃとはねる音がかすかにきこえてきた。手にした棒か何かで、堀の水をかきまわしているらしい。すると突然、まるで魚を釣りあげる猟師さながら、何かをたぐりあげた――大きな丸い物体で、窓から引きいれられる際に、窓のあかりが一瞬かげった。
「いまだ!」ホームズが叫んだ。「急げ!」
私たちは一斉にたちあがると、寒さでかじかんだ手足をひきずって、よろよろとホームズのあとにつづいた。ホームズは、ときとしてみせる、あの精力をみなぎらせた力強い敏しょう性をここぞとばかり発揮して、すばやく橋をわたると、玄関のベルを鳴りひびかせた。中からかんぬきをはずす音がして、エイムズのびっくりした顔が現われた。ホームズは何もいわずに彼を押しのけ、私たちをしたがえながら、いま私たちが目撃した男のいる部屋へと駆けこんだ。
私たちが外からながめていたあかりは、テーブルの上の石油ランプだった。セシル・バーカーは、それを手にして、はいってきた私たちのほうへ向けた。ひげをきれいにそりあげた顔には不屈の闘志をみなぎらせ、ランプの光をあびながら、いどむようなまなざしで私たちをみつめている。
「一体全体、これはどういうことです?」彼は叫んだ。「何の用があって、こんな?」
ホームズはあたりをすばやくみまわし、書斎机の下に押しこんであった、ひもで結(ゆわ)えてあるずぶぬれの包みにとびついた。
「これに用があったのです、バーカーさん。あなたがたったいま堀の底からひきあげたばかりの、この鉄亜鈴の重(おも)しのついた包みにです」
バーカーは、あ然として、ホームズの顔をまじまじとみつめた。
「いったいどうしてそんなことがわかったのです?」彼がたずねた。
「なあに、このぼくがあそこに沈めておいたからですよ」
「あなたが沈めておいた! あなたが!」
「沈めなおしておいた、といったほうが正確かもしれません」ホームズが言った。「きみは覚えているだろうけど、マクドナルド警部、ぼくは、鉄亜鈴の片方が欠けていることがなぜか気になってしかたがなかったのだ。きみの注意をそこに向けようとはしたのだが、きみはほかのことに気をとられていて、じっくり考えてみようともせず、結局、それから何も思いつかなかったわけだ。水辺の近くで重いものがなくなっているとなれば、何か水中に沈められたものがあると考えても、それほどこじつけとは思えない。となれば、少なくとも試してみるだけの価値はあるわけで、そこで、エイムズにたのんでこの部屋にいれてもらい、ワトソン博士のこうもりがさを使って堀をさぐってみたところ、柄の曲がったところにこの包みがひっかかったので、早速ひきあげて中身を調べてみたのだ。しかし、何よりも重要なのは、むしろ、これを沈めた者をつきとめることだった。そのためにわざわざ、明日堀の水を干すなどという、うその通告を仕かけてみたのだ。もちろん、包みを沈めた者がこれを知って、暗くなりしだいそれをひきあげにかかるにちがいないとにらんだからだ。そしてこの試みはまんまと成功した。暗闇に乗じてひきあげた者の正体は、少なくとも四人の人間の目がしかとみとどけている。だから、バーカーさん、こんどはあなたのお言葉をおききしたいものですね」
シャーロック・ホームズは、ずぶぬれの包みをテーブルの上のランプのそばに置いて、ひもをほどきにかかった。そしてなかから鉄亜鈴をとりだすと、部屋のすみにある相棒の鉄亜鈴のほうへごろりと転がした。つぎに一足のくつをとりだすと、「ごらんのとおり、アメリカ製だよ」といって、くつ底を指さした。それから、さやにおさまった長い不気味なナイフをとりだして、テーブルの上に置いた。最後に、衣類の包みをほどいて、中身をひろげてみせた。下着、くつ下、グレイのツイードの背広、丈の短い黄色のオーバー、と上から下まですっかりそろっていた。
「ありふれた衣類だけど、ただオーバーだけは並みのものではない」ホームズはオーバーをそっとあかりのほうにかざし、ほっそりした指でいじってみせながら、「ここをごらんなさい。内ポケットをぬい直してひろげ、短く切りつめた猟銃がすっぽりはいるようにしてある。襟(えり)首の裏に仕立て屋の名前がぬいつけてあり――USA、ヴァーミッサ、ニール服店とある。ぼくは、午後のひとときを牧師館の図書室で有益にすごさせてもらったが、またひとつ新しい知識を得ることができた。ヴァーミッサというのは、アメリカでも有数の石炭や鉄鉱の産地として知られる谷の奥に栄える小さな町だとのことだ。そこで思いだしたのだけど、バーカーさん、あなたはたしか、ダグラス氏の先妻は炭鉱地帯に関係があったというようなことをおっしゃってましたね。してみると、死体のそばに落ちていた紙きれに書かれていた V. V. という文字は、もしかしたらヴァーミッサ谷(Vermissa Valley)のことで、この谷こそ、殺し屋をはるばるよこしてきた谷であり、すなわち、いつか耳にしたあの恐怖の谷のことだと推測したとしても、あながちこじつけとはいえますまい。ここまではかなりはっきりしていると思うのだが、さて、バーカーさん、どうやらあなたのお話のじゃまをしていたらしいですね。さあ、どうぞ」
偉大な探偵のこの説明をきいている間のセシル・バーカーの顔の表情こそ、まさに見ものだった。怒りと驚きと狼狽とためらいとが、かわるがわる現われては消えたのである。ついに彼は、苦しまぎれにやや毒のある皮肉をいった。
「あなたのほうこそ何でもよくご存じでいらっしゃるようだから、もっとあなたのお話をうかがいたいものですね」
「ぜひということであれば、いくらでも話してあげますが、ご自分でおっしゃったほうがすっきりなさるのではと思いましてね」
「ほう、そう思われますか? それなら、私として申しあげられるのはこれだけです。すなわち、もし何か秘密があるにしても、それは私のあずかりの知らぬことであり、したがって私からは何も申しあげられないということです」
「よろしい。もし、そうやってしらを切り続けるおつもりなら、バーカーさん、こちらとしては、令状をそろえて逮捕できるまであなたを監視していなければなりませんな」
「どうとでもお好きなように」バーカーは捨てぜりふをはいた。
バーカーが相手とあっては、これ以上もはやなすすべはないように思われた。あの頑固な顔をひと目みれば、たとえ拷問でしめあげてみたところで、意志をひるがえさせるのが容易でないことが、よくわかるからである。しかし、そのとき女性の声がして、この行きづまりが突然打開された。半開きになっていたドアのところで部屋の中のやりとりを立ち聞きしていたダグラス夫人が、はいってきたのである。
「セシルさん、それだけやってくださればもう私たちには十分ですわ。これからどういうことになりましても、あなたのご好意は決して忘れません」彼女が言った。
「そうですとも。十分すぎるくらいですよ」シャーロック・ホームズがおごそかに言った。「奥さん、私はあなたに心から同情いたす次第ですが、この際、司法権の常識を信頼なさって自発的にすべてを警察にうちあけられることを、強くおすすめいたします。私の友人のワトソン君を通じてあなたがせっかくほのめかして下さったのに、それに応じなかったのは私のあやまりだったのかもしれませんが、あのときはまだ、あなたが事件に直接関与しておられると信じるに足る十二分な理由があったからなのです。でもいまではそうでないことを確信しております。が、同時にまた、まだまだ説明を要することがたくさん残っていることもたしかです。ですから、ダグラス氏(ヽヽヽヽヽ)ご本人の口から直接お話をうかがわせていただけるよう、あなたのほうから説得して下さることを強くお願いする次第です」
ホームズの意外な言葉に、ダグラス夫人はびっくりして叫び声をあげた。かと思うと、つぎの瞬間には、それに相呼応するように、刑事たちや私も思わず声をたてていた。そのとき、まるで壁の中からでも現われたかのように、ひとりの男が部屋のすみの暗がりに忽然と姿を現し、こちらへ近づいてくるのが目にはいったからである。ダグラス夫人はその男のほうにからだを向けたかと思うと、いきなりすがりついた。バーカーは、その男のさしのべた手を握りしめた。
「これでいいんですわ、ジャック。これでよかったのよ」夫人はくりかえし言った。
「そうです、これでいいんです、ダグラスさん」シャーロック・ホームズも言った。「あなたもきっとそうお思いになるはずです」
その男は、急にあかるいところへ出てきたせいか、目をまぶしそうにしばたたいて私たちを見た。大胆そうな灰色の目、短く刈りこんだしらがまじりのたくましい口ひげ、四角ばってつきでたあご、茶目っ気のある口もと――一種独特の風貌である。私たちをじっくりみまわしたあげく、驚いたことに、私のほうに歩み寄ってきて、ひと束の原稿をさしだした。
「おうわさはかねがねうかがっております」イギリス語ともアメリカ語ともつかぬ、それでいてまろやかな耳に心地よいひびきをもっていた。「ここにおられるみなさんの中で歴史家といえばやはりあなたでしょうからね。でも、ワトソン先生、こんどのような面白い話はまだお書きになったことがありますまい。なんなら賭けてもいいくらいです。書きかたはあなたにおまかせします。そこには一応事実をありのままに書いておきましたから、それさえあれば世間にうけることまちがいなしですよ。この二日間というもの、私は穴ぐらから一歩も外へ出ることができなかったので、光がさしこむあいだはひたすらこれを書いていたのです。あなたに、そしてあなたを通じて世間のみなさんに、喜んでおささげいたします。恐怖の谷の物語です」
「それは過去のお話ですね、ダグラスさん」シャーロック・ホームズが静かに言った。「でも、私たちがいま知りたいのは、むしろ現在のお話なんです」
「いまからお話します」ダグラスが言った。「煙草をすいながらでもいいですか? やあ、どうも、ホームズさん。たしかあなたも煙草はお好きでしたね。それなら、せっかくポケットのなかに煙草がありながら、においで嗅ぎつけられるのを恐れて二日間もじっとがまんしているのがどんなにつらいものか、おわかりでしょう」ダグラスはマントルピースにもたれて、ホームズからもらった葉巻を心ゆくまですった。
「あなたのおうわさもかねがねうかがっておりますが、ホームズさん、まさかお会いすることになろうなんて夢にも思いませんでしたよ。でも、あなたなら、あれをちょっとごらんになっただけで」――私の手にした原稿のほうへあごをしゃくってみせて――「私の話が一風変わっているのがおわかりでしょうがね」
マクドナルド警部はすっかりあっけにとられて、この初めてみる男の顔をさっきからまじまじとみつめていたが、ついに驚きを言葉にあらわした。
「ああ、これにはすっかりたまげました! もしあなたがバールストン領主館のジョン・ダグラスさんだとしたら、この二日間というものわれわれはいったい誰の死体を調べていたんです? それに、あなたはいまいったいどこから現われたんです? まるでびっくり箱からとびだしてきたみたいに思えましたよ」
「それは、マック君」ホームズは、とがめるように人さし指を警部のほうにつきつけながら、「チャールズ王がこの屋敷に隠れた話などをわかりやすく書いてくれているものが、せっかくこの村にはあるというのに、きみが読もうとしなかったからだよ。当時の人たちは、いざ隠れるとなるとごく安全な隠れ場所にしか隠れなかったもので、だとすると、もしそういう場所がいまでも残っているとすれば、いざとなればいまだって使われる可能性はあるわけだ。したがって、ぼくは、ダグラス氏はこの屋敷のどこかに潜んでいるにちがいないとにらんでいたのだ」
「それなのに、われわれの前ではずっととぼけたふりをなさっていたのですか、ホームズさん?」警部は腹をたてていった。「われわれの捜査がばかげたものと知りつつ、ずっと黙ってみておられたのですか?」
「ずっとなんてとんでもない、マック君。ついゆうべだよ、ぼくなりの結論にたっしたのは。今朝、きみたちふたりに夕方までぶらっと遊んでくることをすすめたわけさ。だって、ほかになにができる? 堀の底に衣服をみつけたとき、書斎に横たわっていた死体がダグラス氏のものではなく、タンブリッジ・ウエルズから自転車でやってきた男のものにちがいないということに、すぐぴんときた。そうとしか考えられなかった。そこで、当然、ではダグラス氏本人はいったいどこにいるのかという疑問が生じたわけだが、昔亡命中の王が隠れるのに使ったくらいの家のことだから、妻と親友の暗黙の了解のもとに、この屋敷のどこかに身を潜めていて、ほとぼりのさめるのを待ったうえで、ここから完全に姿を消してしまうつもりにちがいない、とみたのだ」
「ええ、ほぼお察しのとおりですよ」ダグラス氏が認めた。「私はイギリスの法律ではどう裁かれるのか不安だったので、なんとかして法の追求から身をかわしたいと思ったのです。それに、これっきり追手の目をくらましてしまうまたとない機会だとも思いました。ただこれだけは言っておきますが、私は、世間には顔むけできないようなことや、自分でも二度としたくないようなことは、何ひとつやっていません。でも、まあ、それは私の話をおききになってからあなたがたがご判断なさればいいことです。いや、警部さん、ご忠告には及びません。洗いざらい真実をぶちまける覚悟でおりますから。事の起こりから話す必要はないでしょう。それはすべてあそこに書いておきましたから」――私の手にある原稿の束を指さして――「読んでみて退屈なさることは決してありますまい。つまり、こういうことなんです。私を憎んでしかるべき理由をもった連中がいて、しかも彼らは私を殺すためならどんな苦労もいとわない連中なのです。ですから、やつらが生きているかぎり、私には死ぬまでこの世に安全な場所はないのです。連中はシカゴからカリフォルニアへと私を追いたてたあげく、ついには私をアメリカから逃げださざるをえなくなるところまで追いこみました。それでイギリスへ逃げ帰ってきた私は、しかし、世帯をもってこの片田舎に落ちついてからは、これでどうやら平穏な晩年がおくれそうだと思っていたのです。妻にはこういった事情は一言も話しませんでした。なぜ彼女まで巻きこむ必要がありましょう? 知ったら最後、もう一瞬たりとも心やすまるときはなく、たえず不安におののいていなければならなくなるでしょうからね。しかし、うすうすは感づいていたようです。私にしても、ふと言葉をもらすようなことがあったでしょうからね――でもついきのうまで、あなたがたに会うまでは、ほんとうのことは何も知らなかったのです。妻があなたがたに話したことが、妻にわかっているせいいっぱいのことだったのです。それはここにいるバーカー君とて同様です。事件が起こった晩は、ゆっくり説明しているひまなどとてもじゃないがなかったですからねえ。いまでは妻は何もかも知っています。こんなことなら、もっとはやくうちあけておいたほうが賢明だったと後悔している次第です。でもねえ、なかなかふんぎりがつかなくてねえ」――ダグラスはちょっと夫人の手をとって――「すべてよかれと思ってやったことなんだよ。
さて、みなさん、事件の前日、私はタンブリッジ・ウエルズの町へ出かけた際に、通りである男の姿をちらっとみかけたのです。ほんの一瞬のことだったのですが、こういった点では私の目にくるいはありません。誰であるかはすぐわかりました。私をねらっている連中のなかでもいちばん性質(たち)の悪い男――トナカイを追いまわす飢えたおおかみのように、ここ何年もの間ずっと私をつけねらっていた男です。これはやっかいなことになるぞと思い、すぐ家に帰って心づもりをしました。自分の力でじゅうぶんきり抜けてみせるつもりでした。私は運のつよい男で、一時そのことでアメリカじゅうの話題になったこともあったくらいですから、こんどもまただいじょうぶだろうと信じて疑わなかったのです。
その翌日は一日じゅう用心して、館の外へは一歩も出ませんでした。出なくて幸いでした。もし出ていたら、あっという間にあの猟銃でずどんとやられていたにちがいないのです。橋をあげてからは――いままでだって夕方橋をあげてしまうと、一段と心がやすまったものです――その男のことなどすっかり忘れてしまいました。まさか屋敷のなかにしのびこんで私を待ちうけていようなどとは夢にも思っていませんでした。ところが、いつもの習慣でガウンをはおって屋敷のなかをみてまわりながら書斎に足を踏みいれたとたん、すぐに殺気のようなものを感じたのです。人間というものは何度も危険な目にあっていると――私は人一倍そういう経験がありますが――一種の第六感のようなものが働くようになって、危険を知らせる赤旗をふってくれるように思えます。その晩も、私はそういった危険信号をはっきりと感じとりました。はてな、と思った瞬間、窓のカーテンの下にくつがのぞいているのが目にはいり、これだなと思いました。
私はローソクを一本手にしているだけでしたが、ドアをあけたままなので、広間の燈(あかり)がかなり流れこんでいました。私はローソクをおいて、マントルピースの上に置いたままにしてあった金づちにとびつきました。と同時に、男が私におどりかかってきました。ナイフがきらりと光るのがみえたので、私は夢中で金づちをふりおろしました。どこかにあたったらしく、ナイフがことんと床に落ちました。男は、うなぎのようにするりとテーブルをまわって逃げ、コートの下から鉄砲をとりだしました。かちりと撃鉄をおこす音がきこえたので、撃たれてはなるまいと私は夢中で鉄砲にしがみつきました。私のつかんだのは銃身の部分でしたが、そうやって一、二分の間、われわれは激しく鉄砲を奪いあいました。手をはなしたほうが殺されるわけです。男もはなすまいと必死でしたが、台尻を下に向けて持ちつづけすぎたのが運のつきでした。私の手が引き金にかかったのか、それとももみあっている拍子になにかにぶつかって動いたのか、とにかく男は二発ともまともに顔にくらってしまいました。ふとわれにかえり、下をみると、テッド・ボールドウィンの残がいが床にころがっていたというわけです。町でみかけたときもすぐあいつだとわかりましたし、私にとびかかってきたときにも顔ですぐわかりましたが、このありさまでは、生みの母だって見分けがつくはずがありません。ずいぶん手荒い仕事をやってきたはずの私ですら、やつのなりはてた姿をみていると、ほんとうに気分が悪くなりました。
テーブルの横につかまってぼうぜんとしていると、バーカー君が駆けおりてきました。妻の足音もきこえましたので、ドアに駆けより、妻を押しとどめました。女のみるものではありませんからね。あとからすぐいくからといって納得させました。そして、バーカー君に一言二言いって――彼はひと目ですべてを察してくれました――ほかの連中が駆けつけるのを待ったのです。ところが誰もやってくる気配がありません。それで、音がきこえなかったのだということがわかりました。この出来事を知っているのは私たちだけだとわかったのです。
まさにその瞬間、ある名案が私の頭にひらめきました。あまりのすばらしさにわれながら一瞬うっとりしたくらいです。死体のそでがめくれあがっていて、前腕のところに支部の焼印がみえていたのです。つまりこれです」
ほんもののダグラスは、上着とシャツのそでをまくりあげ、死体にあったのとそっくり同じの、丸のなかに三角が描かれた茶色の印(しるし)をみせた。
「この印(しるし)をみたのがきっかけでした。みたとたん、はっと思いついたのですね。死体の男は、背たけといい、髪の色といい、からだつきといい、私にそっくりでした。顔はあれじゃ誰がみたって見分けがつきません、ひどいもんです! で、私はいまここにひろげてある衣服をやつの死体からぬがせて、バーカー君とふたりして十五分ほどかかって私のガウンをかわりに着せ、ごらんになったとおりの姿でころがしておいたのです。それから、やつが身につけていたものをひとまとめにしてひもでくくり、重しになりそうなものがひとつだけ目にはいったので、それをつけて窓から投げこんだわけです。やつが私の死体の上においていくつもりだったらしい紙きれは、そのままやつの死体のそばにおいておきました。つぎに、私の指輪をはずして、やつの指にはめてやったのですが、それが結婚指輪ということになりますと」――たくましい手をさしだして――「おわかりいただけると思いますが、私ははたと困りはててしまいました。なにしろ結婚以来一度もはずしたことのないものなので、やすりでも使わないことには抜けっこありません。いずれにせよ、手ばなす気にはとてもなれそうにはなかったし、たとえその気になったとしても、抜くのは現実には不可能だったわけです。それでこればかりはそのままにしておいて、あとは運を天にまかせるしかありませんでした。そのかわりにといってはなんですが、私はバンソウコウをとってきて、いま私がはっているのと同じ場所にはっておいたのです。さすがのホームズさんでもってしても、あれだけはみぬけなかったようですね。あそこでもしバンソウコウをはがしてごらんになっていれば、傷なんてみあたらなかったはずです。
まあ、ざっとこんな具合でした。あとは、しばらく身を潜めていて、そのうちそっとぬけだしてどこかで妻と落ちあうことができれば、やっと平穏な余生をおくる機会にめぐりあえたことになるはずでした。私が生きていると知るかぎり、あの悪魔のような連中はいつまでも私をおびやかしつづけるでしょうが、ボールドウィンがついに復讐を遂げたことを新聞で知れば、私はやつらの魔の手から永久に解放されるわけです。バーカー君や妻にそういった事情をくわしく説明しているひまはなかったのですが、ふたりともじゅうぶんに察してくれて、私に協力してくれました。この隠れ場所については、私はもちろんのこと、エイムズもよく知っていたはずですが、彼には、まさか事件と関係があろうなどとは思いもよらなかったものとみえます。で、私はそこに身を潜め、あとはいっさいをバーカー君の手にゆだねたわけです。
そのあとバーカー君がやったことは、みなさんはおそらくすっかりご存じのことと思います。まず窓をあけ、窓わくに血のあとをつけて、犯人がそこから逃げたように見せかけました。どだい無理な話ですが、橋があがっている以上、そうでもするしかなかったのです。そしてすっかり手はずが整うと、心を奮(ふる)いおこしてベルを鳴らしました。そのあとのことは、すでにご存じのとおりです。さて、みなさん、あとはあなたがたにおまかせします。私としては、真実を、ありのままにすべて申しあげました。神に誓ってもいいです! それで、私のほうからおききしたいことがひとつだけあります。イギリスの法律では、私はどういう立場におかれるのでしょうか?」
しばらくしいんと静まりかえっていたが、沈黙を破ったのはシャーロック・ホームズだった。
「イギリスの法律は、だいたいにおいて公正です。非道なあつかいをうけることはないでしょう。むしろ私のほうでおききしたいことがあるのですが、あの男は、あなたがここに住んでおられることをどうやってかぎつけたのでしょう? さらに、屋敷にしのびこむ手口や、あなたを待ちぶせるのに都合のよい場所をどうやって知ったのでしょうね?」
「さっぱり見当がつきません」
ホームズの顔は青白く、沈んでいた。
「話はどうやらまだ終わっていないみたいですね」ホームズが言った。「あなたのゆくてには、イギリスの法律よりも、アメリカからの敵よりも、もっと恐るべき危険が待ちうけているかもしれませんよ。私にはそれが目にみえるような気がします、ダグラスさん、悪いことは申しませんから、まだまだ用心なさったほうがいいですよ」
さてここで、辛抱づよい読者のみなさんに、しばらくの間、私とともに、サセックス州のバールストン領主館からも、ジョン・ダグラスと名のる男の奇妙な話で幕をとじることになった波乱にみちた年からも、遠くはなれていただきたくお願いする次第である。時間をさかのぼることに十年ばかり前、空間にして数千マイル西方に移っていただき、奇怪で恐ろしい物語を――ありのままに述べても、とても現実に起こった出来事とは信じてもらえないような奇怪で恐ろしい物語を、たっぷりと味わっていただきたい。ひとつの話の途中で別の話を押しつけるとは、などとお気を悪くなさらないように。読んでいかれるうちに、そうではないことがわかっていただけると思う。そして、私がこの遠い昔のはるか彼方(かなた)の出来事をくわしく語り終え、みなさんがこの過ぎ去りし昔の謎を解いてくれたあかつきには、私たちは再びベイカー街のこの部屋に落ちあって、これまでの多くの不思議な事件と同じように、この物語の結末をみとどけたいと思う次第である。
一八七五年二月四日のことである。その冬は寒さがきびしく、ギルマトン連山の谷あいは深い雪におおわれていた。しかしながら、鉄道線路の雪だけは蒸気除雪機によってかきのけられていて、長々と点在している炭坑や、製鉄の部落を結ぶ夜行列車が、ふもとのスタッグヴィルを発して、ヴァーミッサ谷の奥に中心地として栄えるヴァーミッサの町へ向け、けわしい勾配をのろのろとあえぎながら登っていった。ヴァーミッサの町をすぎると、線路は下り坂になり、バートンズ・クロシング、ヘルムディルを経て、純然たる農業地のマートンへと通じている。鉄道は単線であったが、いたるところに側線があり、石炭や鉄鋼を満載した貨車が長い列をつくっていて、地下に眠っている豊富な資源が、アメリカ合衆国でもとりわけ人煙まれだったこの辺地に荒くれ者たちを招きよせ、騒々しい活気をもたらしていることを物語っていた。
まったく荒涼たる風景だった。この地に初めて足を踏みいれた者たちは、どんなにすばらしい大草原や水利にめぐまれ草を青々とたたえた牧場よりも、ごつごつした黒い岩肌とうっそうとしげる森林しか目にはいらないこの陰鬱な土地の方が数百倍の価値があるなどとは、夢にも思わなかったにちがいない。ほとんど先を見とおせないほど暗い森林におおわれた山腹の上を仰ぐと、雪におおわれた木のない山の頂が、ところどころ鋭くとがった岩肌をむきだしにして谷をはさむようにそびえたち、そのあいだをぬうようにして、曲がりくねった谷がえんえんと続いている。その谷にそって、小さな汽車がのろのろとはいあがっていくのだった。
二、三十人ばかりの乗客をのせて先頭をいく寒々とした長い客車に、たったいま石油ランプがともされたところだった。乗客のほとんどは、谷底のほうで一日の苦役をおえ帰っていく労働者たちだった。連中のうち少なくとも十二、三人は、うす汚れた顔や手にしている安全燈から、坑夫だとわかる。彼らはひとかたまりになって、煙草をすったりしながら低い声で何やら話しあい、ときおりちらちらと反対側の席にいるふたりの男に目をやっている。制服とバッジで警官であることがすぐわかる。そのほかに乗客といえば、労働者階級の女たちが数人と、土地の小さな商店の主人とおぼしき旅の男のふたりばかり、あとは、すみのほうにひとりだけはなれてすわっている若い男がいるだけだった。私たちに関係があるのは、この最後の男である。まずはじっくりと観察することにしよう。それだけの値うちはある男である。
中肉中背の、顔の色つやのよい男で、見たところ三十を少し越したばかり。すばしこい、それでいてどこかひょうきんなところのある灰色の大きな目を、ときおり好奇心に輝かせて、眼鏡ごしにまわりの連中をみまわしている。人づきあいのよい、誰とでも仲よくしたがっている、おそらくごく素直な性質(たち)の男だということは、容易にみてとれた。誰でもひと目で彼を、根っからの話ずきで社交を好み、いつも笑顔をたやさぬ機知に富んだ男だと思うだろう。だが、もう少しじっくり観察した人は、がっしりしたあごや、きりりとひき締まった口もとをみて、この褐色の髪をした一見陽気なアイルランド青年が、じつは見かけによらぬ深みをもち、どんな社会に首をつっこんでも、よかれ悪しかれ名をあげる人物であることをみてとったかもしれない。
いちばん近くにいる坑夫にそれとなく二言三言話しかけてみたが、素っけない返事しかもらえなかったので、この旅人は、性にあわないながらも黙らざるをえず、うかぬ顔で窓の外の暮れゆく景色に目をやった。うっとうしい風景だった。夕闇のせまるなか、丘の中腹に立ち並ぶ溶鉱炉の群れが赤い炎を吐きだしている。鉱滓(こうさい)や石炭殻がうず高く積みあげられ、その中から堅坑のやぐらがにょきっとつきだしていた。沿線のあちこちには粗末な木造の家がごたごたと建ち並び、窓の燈(あかり)がしだいにくっきりと浮かびあがりはじめている。
汽車がひんぱんに停まるごとに、あたりはどす黒い住人たちでごった返していた。ヴァーミッサ地方のこの石炭と鉄鉱の谷あいは、有閑人や教養人のくるところではなかった。どこをみまわしても、苛酷な生存競争のなまなましさがむきだしにされていて、人々を待ちうける荒っぽい仕事と、それに従事するたくましい荒くれ男たちでむせかえっていた。
旅の若者はこんな光景は初めてらしく、嫌悪と興味の入りまじった顔つきでこの陰鬱な景色に見入っていた。ときおりポケットからぶ厚い手紙をとりだしてはそれをのぞきこみ、余白に何やら書きこんでいる。やがて、およそこんなおとなしそうな男の持ち物には似つかわしくないものを腰のうしろからとりだした。最も大型の海軍用回転式拳銃(リヴォルヴァー)である。あかりのほうへ斜めにかざしたとき、円筒状の弾倉の中で銅の薬きょうのふちがきらりと輝き、弾丸(たま)をいっぱいこめてあるのがわかった。人目につかぬポケットにすばやくおさめはしたが、となりの席にいた労働者に見られてしまっていた。
「いよう! 兄弟!」その男がいった。「おめえなかなか用心がいいねえ」
若者はきまり悪そうに微笑んでみせた。
「まあね」彼はいった。「おれのいたところじゃ、たまにこいつの手を借りる必要があったんでね」
「そりゃどこだい?」
「シカゴからきたのさ」
「ここいらは初めてかい?」
「そうさ」
「ここだってそいつがいることがあるだろうよ」労働者がいった。
「おや! そうかい?」若者は興味をおぼえたらしい。
「この辺のことは何にもきいちゃいねえのかい?」
「べつにこれといって変わったことはきいていないね」
「あれえ、その変わったことだらけのはずなんだがな。いや、どうせすぐにわかるさ。ところで何しにきたんだい?」
「働きたい者にはいつでも仕事があるときいたんでね」
「労働組合にははいっているかい?」
「もちろん」
「じゃあなんとかなるだろうよ。友だちはいるのか?」
「まだいない。でもこしらえる手づるはあるんだ」
「そりゃ、どんな手づるだい?」
「おれは『自由民団』というのにはいっているんだ。どこでも町へ行きゃ必ず支部というものがあって、支部さえありゃ、友だちなんてすぐできるさ」
この言葉は相手の男に不思議な効果をあたえた。男は疑いぶかい目つきで車内の人々をそっとみまわした。坑夫たちはあいかわらず仲間うちでひそひそ話しあっている。ふたりの警官は居眠りをしていた。男はそばに席をうつして、手をさしだした。
「握手しようぜ」男がいった。
ふたりの間で握手がかわされた。
「おめえのいうことがうそじゃないとは思うが、たしかめておくにこしたことはねえからな」
男は右手をあげて右の眉毛にあてた。すると旅の若者もすぐに左手を左の眉毛にあてた。
「暗い夜はいやなもの」労働者がいった。
「しかり、旅するよそ者たちには」若者が応じた。
「これでじゅうぶんだ。おれはヴァーミッサ谷の三四一支部の同志スキャンランだ。ここで会えてうれしいぜ」
「ありがとう。おれはシカゴの二九支部の同志ジョン・マクマードだ。支部長はJ・H・スコット。でもこんなに早く同志に会えるなんて、ついてるよ」
「そりゃ、この辺には同志はいっぱいいるからな。アメリカ広しといえども、このヴァーミッサ谷ほど団の活動がさかんなところはまずねえだろうよ。でもおめえみてえな元気のいい若造が、労働組合にもはいっていながらシカゴにいて仕事がねえってのも、ちとおかしな話だな」
「仕事はいくらでもあったさ」マクマードがいった。
「じゃなぜ出てきたんだい?」
マクマードは警官のほうへあごをしゃくってみせて、にやりとした。
「あの連中が知ったらさぞ喜ぶだろうよ」
スキャンランは、なるほどといわんばかりにうーんとうなった。
「やばいことか?」スキャンランが声をひそめてきいた。
「かなりね」
「懲役ものか?」
「まあね」
「殺したんじゃあるまいな?」
「そんなことをしゃべるのはまだ早すぎるぜ」マクマードが、うっかりいいすぎたのを後悔するような口調でいった。「シカゴをはなれるには、それなりにちゃんとしたわけがあったんだ。それだけいえばじゅうぶんだろう。そんな立ち入ったことまできくあんたこそいったい何だい?」
彼の灰色の目が、眼鏡の奥で急に殺気をおびてきらりと光った。
「わかったよ、兄弟。べつに悪気があってきいたわけじゃねえ。何をしでかしたにせよ、誰もおめえのことをそれで悪く思うやつはいねえよ。でもこれからどこへ行くんだい?」
「ヴァーミッサだ」
「そいつは三つ目の駅だ。どこへ泊まるんだい?」
マクマードは封筒をとりだし、うす暗い石油ランプにかざしてみた。
「ここに所書きがある――シェリダン通りのジェイコブ・シャフター。シカゴで知りあった男がすすめてくれた下宿さ」
「さあ、きいたことのねえ名だが、もっともヴァーミッサはおれのなわばりじゃねえからな。おれはホブソン新地に住んでるんだが、どうやらそろそろ着いたようだぜ。だがな、別れるまえにひと言忠告しておいてやりてえことがある。もしヴァーミッサでやっかいなはめに陥ったら、まっすぐユニオン・ハウスのマギンティ親分のところへ駆けこむがいい。ヴァーミッサの支部長だ。ここいらじゃ、黒ジャックのマギンティがうんといわなきゃ、何ひとつできやしねえ。じゃあばよ、兄弟。いずれ晩にでも支部で会うことになるだろうよ。でもおれのいったことを忘れるなよ。困ったときにゃマギンティ親分のところへ行けってことよ」
スキャンランが下車すると、あとにとり残されたマクマードはふたたびひとりもの思いにふけった。もう夜のとばりがすっかりおりていて、溶鉱炉の赤い炎が次から次へと現われては、暗闇のなかでうなり声をあげて踊り狂っている。その毒々しい赤みをおびた背景のいたるところに黒い人影がうかびあがり、大小の巻き揚げ機を動かしながら、いつはてるともなくうなり続ける重く鈍い騒音のリズムにあわせて、からだを曲げたりのばしたり、ねじったりまわしたりしていた。
「地獄ってのはきっとあんな風にみえるんだろうな」という声がした。
マクマードがふりかえってみると、警官のひとりがすわったままからだを窓のほうへずらし、炎々と燃えさかる真赤な光景に見入っていた。
「それをいうなら」もうひとりの警官がいった。「地獄はまさにあれだよ(ヽヽヽヽヽヽヽ)。あそこにいる悪魔よりもっとひどいのがいるとしたら、お目にかかりたいくらいだ。おまえさんはこの辺は初めてとみえるね。お若いの?」
「ふん、ならどうしたっていうんだい?」マクマードは無愛想に答えた。
「いやなに、ただ、友だちをつくるにもよほど用心してかかったほうがいいと忠告してあげたかったまでだ。私だったら、あのマイク・スキャンランやあいつの一味の連中とつきあったりするのはごめんだね」
「おれが誰と親しくしようと、あんたの知ったことかい!」マクマードが大声で食ってかかったので、車内の顔が一斉にこちらに向けられて、ふたりのやりとりをみまもった。「おれがいつ忠告してくれといった? それともなにかい、そうでもしなきゃ危なっかしくてみておれないほど、おれさまがうぶ(ヽヽ)だとでもいうのかい? あんたは何かきかれたときだけ答えりゃ、それでいいんだよ。もっとも、おれのほうでききたいことは当分何もないがね!」
彼は顔をぐいっと突きだし、まるで犬がうなるみたいに、歯をむいてみせた。
鈍重でいかにも人のよさそうなふたりの警官は、せっかくの好意が猛然とはねつけられたので、面食らってしまった。
「そう悪くとらないでくれよ、あんた。この土地は初めてとみえたので、よかれと思っていってあげたまでなんだ」
「たしかにこの土地は初めてだが、あんたたちの仲間は初めてじゃねえぜ」マクマードは冷然と凄(すご)みをきかせた。「どうやらあんたたちはどこへいってもかわりばえしねえらしいな。いらぬお節介ばかりやきやがって」
「近いうちにちょいちょいお目にかかることになりそうだな」もうひとりの警官がにやりとしていった。「見うけるところ、どうやらただものじゃなさそうだ」
「ぼくもそう思っていたところだ」はじめの警官がいった。「いずれまたお目にかかるだろうよ」
「いっておくが、おれがあんたたちをこわがっていると思っちゃ大まちがいだぜ」マクマードがどなった。「おれはジャック・マクマードっていうもんだ、いいか? もしおれに用があるなら、ヴァーミッサのシェリダン通りにあるジェイコブ・シャフターって下宿へくればみつかるだろうよ。このとおり、逃げも隠れもしないぜ。昼でも夜でも堂々とつらをおがませてもらうさ。そいつをはっきり知っといてもらいたいね」
この新来者の豪胆なふるまいに対して、坑夫たちの間で、共感と賞賛のささやきが起こった。ふたりの警官は、肩をすくめたきり、ふたたび自分たちだけで話をはじめた。数分後、汽車がうす暗い駅につくと、乗客のほとんどが下車した。ヴァーミッサは、この沿線で最大の町だったからである。マクマードが革の手さげかばんをもって暗闇のなかへ足を踏みだそうとすると、坑夫のひとりが近よってきて声をかけた。
「よう、兄弟、おめえのポリ公への口のききようは、みあげたもんだぜ」男はすっかり感心したような口調でいった。「きいてて胸がすっとしたぜ。さあ、そのかばんをこっちへかしねえ、案内してやろう。シャフターの家ならおれの帰りみちだからな」
ふたりが並んで停車場から歩きだすと、ほかの坑夫たちが一斉に「あばよ」と親しげに声をかけた。ヴァーミッサの地にまだ一歩も足を踏みいれないうちから、無頼漢のマクマードは土地の人気者になってしまっていたのである。
谷間の光景も恐ろしいものだったが、町は町なりに、それに輪をかけたように陰惨なものだった。長い谷あいに沿って立ちのぼる巨大な炎やどす黒い煙には、陰鬱(いんうつ)とはいえ少なくともある種の荘厳さが感じられたし、ばかでかい穴のそばにうず高く積みあげられたぼた(ヽヽ)山には、人間の血と汗の結晶がにじみでていなくもなかった。
それにひきかえ、町の中は、不潔さと醜悪さのいきつく果ての姿を呈していた。広い街路はいきかう馬車で雪がかきまぜられ、いたるところに轍(わだち)がついて、泥だらけのぬかるみと化している。歩道はせまくてでこぼこだらけだった。おびただしい数のガス燈は、通りにヴェランダを向けてずらりと立ち並んでいる木造家屋のうす汚れたむさくるしい姿をいっそうあらわにするだけだった。やがてふたりが町の中心部に近づくと、照明に明るく輝く商店が軒をつらね、それにもまして酒場や賭博場が群れをなしていて、街はしだいに明るくなってきた。坑夫たちは、せっかく苦労してかせいだたくさんのお金を、そういった場所ですっかり使い果たしてしまうのである。
「あれがユニオン・ハウスだ」案内の男は、ホテルと見まちがうばかりにでんと構えている酒場を指さしていった。「ジャック・マギンティがあそこの親分さ」
「どんな男なんだい?」マクマードがたずねた。
「どんなって! おまえさん、親分のうわさをきいたことねえのかい?」
「おれがこの土地が初めてだとわかっていながらどうしてそんなこときくんだい? 知るわけないだろう」
「なに、組織を通じて名前が知れわたっているかと思ったまでよ。新聞にもしょっちゅう名前がでているしな」
「何でだ?」
「そりゃ」――坑夫は声をひそめて――「事件のことでよ」
「どんな事件だ?」
「へえっ、こういっちゃなんだが、おめえさんもおかしな野郎だぜ。ここいらで事件といや、きまってらあな。スコウラーズの事件よ」
「ふむ、スコウラーズといや、シカゴにいたとき何かで読んだ気がするな。殺し屋の一団じゃなかったかい?」
「しっ、気をつけてものいえよ!」坑夫はびっくりして立ちどまり、連れの顔をまじまじとみつめた。「おい、街ん中でうっかりそんなことを口にしようもんなら、この辺じゃ、いくら命があってもたりねえぜ。もっとささいなことで命をおとした連中がいくらでもいるんだからな」
「なに、おれは何も知っちゃあいないよ。何かに書いてあったことをいったまでさ」
「なにもおめえの読んだことがまちがっているといってはいねえがよ」男はそういいながら心配そうにあたりを見まわし、えたいのしれぬ危険がひそんでいやしないかと恐れでもするように暗がりをのぞきこんだ。「人をばらすのが殺しなら、この土地にゃ殺しはうんざりするほどあるさ。だがよ、新入り、そいつをジャック・マギンティの名前とむすびつけてしゃべるのだけはよしたほうがいいぜ。どんな陰口も本人にはつつぬけときてるし、そのままきき流すなんてことはぜったいしねえ男だからな。ほら、あれがおめえのさがしている家だ――通りからひっこんで建っているやつさ。おやじのジェイコブ・シャフターほどの正直者は、この町にゃちょっといねえぜ」
「ありがとうよ」マクマードは、案内してくれた知りあったばかりの男と握手をかわすと、かばんを手にして下宿屋へ通ずる路地をはいってゆき、入口のドアを大きくたたいた。ドアはすぐあけられたが、中からあらわれたのは思いもかけない人物だった。
若くて、たいそう美しい女だったのである。スウェーデン系らしく、色白で金髪だったが、それだけにいっそう、黒いひとみが美しくきわだってみえた。その黒いひとみで彼女はさもびっくりしたように見知らぬ男をながめ、きまり悪そうに青白いほおをぽっとそめた。それがまたじつにいじらしい。あけはなった戸口に明るい光を背にして立っている彼女の姿は、マクマードの目にはいまだかつてみたことにないほど美しい絵のようにうつり、あたりの情景がむさくるしく陰鬱なだけに、その美しさがなおいっそうひきたってみえるのだった。鉱山のどす黒いぼた(ヽヽ)山に咲いた一輪の美しいすみれの花だって、これほどあざやかにみえたことはあるまい。彼はあまりの美しさに口をきくのも忘れ、うっとりとしてつっ立っているばかりで、沈黙をやぶったのはむしろ彼女のほうだった。
「父かと思いましたわ」スウェーデンなまりを心地よくかすかにひびかせながらいった。「父に会いにいらしたんでしょう? いま町にいってますの。でも、もうまもなく帰ってくるはずですわ」
マクマードがなおもほれぼれと見とれているので、彼女は勢いにのまれてしまい、もじもじして目を伏せた。
「いえ、お嬢さん」やっと彼は口をきいた。「べつに急いでいるわけじゃありません。ただお宅へ下宿させてもらうようにとすすめられたものですからね。たぶん気に入るだろうとは思っていたのですが、きてみてすっかりその気になりました」
「ずいぶんあっさりとお決めになるのね」女はにっこりしていった。
「盲(めくら)でもなきゃ、だれだってこうですよ」男が答えた。
このお世辞に女は声をたてて笑った。
「さあ、おはいり下さいな」彼女はいった。「私はエティ・シャフター。シャフターの娘です。母が亡くなりましてから、私が家のきりもりをしていますの。父が帰ってくるまで、居間でストーヴにあたっていらっしゃって下さいな。あら、帰ってまいりましたわ。早速父と話をおきめになるといいわ」
ずんぐりした初老の男が路地をとぼとぼとはいってきた。マクマードは手みじかに事情を説明した。シカゴでマーフィという男にここを教えてもらったこと。マーフィもまたほかの誰かからきいて知っていたらしいこと。シャフター老人はすぐに承諾した。新来の若者は条件にはこだわらず、老人の意向をすべてあっさりとうけいれた。どうやら金には不自由していないとみえる。食事つきで、週十二ドルの前払いである。こうして、法からの逃亡者を自称するマクマードは、シャフター家の屋根の下に暮らすことになり、ここに、後年はるかかなたの地で幕をとじることになる長く暗い一連の出来事の第一歩が踏みだされることになったのである。
マクマードは、すぐに注目をあつめる男だった。どこへいっても、まわりの者にはそのことがすぐにわかった。一週間もたたないうちに、彼はシャフターの下宿でいちばんの重要人物になっていた。下宿には十人あまりの者が住んでいたが、みんな律儀(りちぎ)な組頭とか平凡な商店員といった連中ばかりで、このアイルランド出身の青年とはまったく肌あいを異(こと)にしていた。みんなが一堂に会したりする晩などは、まっさきにとびだすのは彼の冗談だったし、機知に富んだ話しぶりといい、巧みな歌といい、彼の右にでる者はいなかった。どこかまわりの者を楽しませずにはおれない魅力をもった、生まれながらの愉快な仲間(ヽヽヽヽヽ)だったのである。
それにもかかわらず一方では、すでに来るときの汽車の中でもみせたように、突然激しく怒りだすこともたびたびあって、彼を知る者に畏敬の念をおこさせ、さらには恐怖心すら抱かせるにいたった。また、法律やそれにまつわるすべてのものを口汚くののしり、下宿仲間の中にはそれを喜ぶ者もいたが、それがため警戒の念をおこす者もいないわけではなかった。
下宿の娘の上品な美しさをあからさまに誉めそやして、ひと目みたときから心を奪われてしまったことを、来て早々から表明した。彼は求愛にかけてけっして内気ではなかった。下宿して二日目には、愛していることを打ち明け、それからは、相手がどんなに水をさすようなことをいおうとお構いなしに、毎日毎日同じことを繰り返した。
「ほかの男だって!」彼は叫ぶのだった。「ふん、そんな男はくたばってしまえ! 身のほど知らずのばかな野郎だぜ! このおれが、そんな男のために、一生に一度のこの熱い思いをむざむざ捨て去ることができるとでもいうのかい? 『いや』といいたきゃいい続けるがいいさ、エティ! そのうち『うん』という日が必ずやってくるさ。おれはまだ若い。あせったりしないぜ」
この若者、さすがアイルランド人とあって、口は達者だし、口説(くど)く術も心得ていて、求婚者としては油断のならない相手だった。それに、経験からにじみ出てくるどこかはかりしれない魅力を秘めていて、女というものは、ついついそういう魅力にひかれ、いつしか愛情すら抱くようになってしまうものなのである。彼は故郷のモナハン州の美しい谷間のことやそこから遠くにみえるかわいらしい島のこと、それらをおおっているなだらかな丘や緑の牧場のことなどについて語ってきかせたが、そういったものは、この雪と泥にまみれた町にいて想像すると、なおさら美しいものに思われるのだった。彼はまた、アメリカ各地での生活をもくわしく語った。北部の都市、デトロイト、ミシガンの木材伐採地、バッファロー、そして最後に製材工として働いていたシカゴでの生活。それからさきは話がロマンスめいてきて、シカゴで妙な事件に巻きこまれたらしいのだが、あまりに奇妙でまたきわめて個人的なことでもあるので、話すわけにはいかないとのことだった。そして、急にそこを立ち去ることになり、古いきずなを断ちきって、見知らぬ土地へさまよい出たあげく、このうらさびしい谷へ流れついたのだと、哀感をこめて語るのだった。エティは黒い目を同情と共感に輝かせながら、耳をかたむけていた――そして、同情と共感がまたたく間に愛情に変わっていくのは、ごく自然ななりゆきなのである。
マクマードは、簿記係の臨時やといの職にありついた。彼には教育があったのである。その仕事で一日の大半をそとで忙しくすごすことになり、『自由民団』の支部長のところへはついつい顔を出しそびれていた。しかしながら、ある晩、汽車の中で知りあった団友のマイク・スキャンランが訪ねてきたので、彼は自分の怠慢に気がついた。スキャンランは、小柄で、けわしい顔つきの、黒い目をした神経質そうな男だったが、再会できたことを喜んでいるようだった。ウイスキーを一、二杯かたむけてから、訪問の目的を切りだした。
「なあ、マクマード。おめえの居どころを覚えていたもんだから、こうやっておしかけてきたんだが、じつはおめえがまだ支部長のところへ顔を出してねえときいて驚いてるんだぜ。まだマギンティ親分にあいさつにいってねえとは、いったいどうなっているんだい?」
「なに、仕事をさがさなきゃならなかったりで、いろいろ忙しかったもんでね」
「ほかのことはあとまわしにしてでも、とにかくまず親分に会っておかなきゃだめだぜ。ここへ着いた翌朝まっさきにユニオン・ハウスへ出向いていって登録をすませておかねえなんて、まったく正気のさたじゃねえぜ! もし親分の機嫌をそこねでもしたら――いや、それだけはしちゃいけねえことだが――一巻の終わりよ」
マクマードはかるく驚いてみせた。
「おれはもう二年以上団員をつとめているが、スキャンラン、そんなにきゅうくつな義務があるなんてまったく知らなかったぜ」
「それはシカゴでの話だろう!」
「でも、ここだって同じ団体のはずだぜ」
「同じだって?」スキャンランはマクマードの顔をじっとみつめた。なんとなくうす気味悪い目つきである。
「同じじゃないとでも?」
「ひと月もすればわかるさ、おめえ、おれが汽車をおりたあとでポリ公と口をきいたそうだな」
「どうしてそんなことがわかったんだ?」
「なに、もっぱらのうわささ――ここじゃいいことも悪いことも何だって知れわたるんだ」
「なるほど、たしかに話をしたさ。あの警察の犬ころどもに、やつらをおれがどう思っているかぶちまけてやったんだ」
「へえ、それじゃおめえきっと、マギンティのお気に入りになるぜ!」
「なんだって――じゃその男も警察を憎んでいるのかい?」
スキャンランはふきだして笑った。
「とにかく会いにいくんだな」帰りじたくをしながら彼はいった。「ぐずぐずしてると、警察どころかおめえがうらまれるようになるぜ! さあ、悪いこたぁいわねえから、すぐいってみな!」
たまたまその同じ晩に、マクマードは、べつの男との話がこじれて、いよいよマギンティに会いにいかざるをえなくなった。エティへの態度がますます露骨になってきたためか、それともさすがお人好しで鈍感なスウェーデン生まれのおやじにもしだいにわかってきたためか、原因は何であれ、おやじはその晩若者を自分の部屋によび、単刀直入にその問題を切りだしてきた。
「おめえさん、どうやらエティに言いよってなさるようじゃが、どうじゃね? それともわしの思いちがいかね?」
「いえ、そのとおりですよ」若者は答えた。
「ならいうが、そいつはまったくむだなことじゃて。先口があるでのう」
「エティもそんなこといってたよ」
「なに、あの娘(こ)はうそをいったりなんかしねえだ! で、相手が誰だかいったかね?」
「いや。たずねてはみたんだが、どうしても教えてくれなかったよ」
「そうじゃろうて、あの娘のことじゃからな。おめえさんをおびえさせたくなかったにちがいねえだ」
「おびえるって!」マクマードはたちまちかっとなった。
「そうとも、あんた! だがおびえたっておめえさんの恥にゃならねえだ。相手がなにしろテディ・ボールドウィンじゃからのう」
「でもそいつはいったい何者なんだい?」
「スコウラーズの親分じゃ」
「スコウラーズ! うわさはきいてるぜ。どこもかしこもスコウラーズの話ばかりだ、しかもひそひそとな! いったいなんだってみんなそうこわがってるんだ? スコウラーズの正体(ヽヽ)ってのは何なんだ?」
下宿屋のおやじは、この恐るべき結社のことを口にするときは誰でもするように、本能的に声を落とした。
「スコウラーズってのは『自由民団』のことじゃ」
若者ははっとした。
「へえ、それならこのおれだって団員だぜ」
「おめえさんが! そうと知ってたら、この家へ下宿なぞさせるんじゃなかっただ――たとえ週に百ドルくれたってな」
「『自由民団』のどこがいけないんだ? 慈善と親睦のためにあるんだぜ。規約にもそううたってある」
「よそではそうかもしれんが、ここじゃちがうだ!」
「ここじゃ何だというんだい?」
「殺し屋集団、まさにそれじゃ」
マクマードは信じられないといった様子で笑った。
「証拠でもつかんでるのか?」
「証拠じゃて! 人殺しが五十件もあって、それでも証拠に不足かね? ミルマンやヴァン・ショースト、ニコルソン一家にあのハイアムじいさん、それにビリー・ジェイムズの坊やと、ほかにもまだ数えきれないほどおるが、どうじゃね? 証拠じゃて! 男にしろ女にしろ、この谷でそれを知らねえ者がいたらお目にかかりてえくらいだ」
「いいか、おやじ!」マクマードは真剣な口調でいった。「いま口にしたことをとり消すか、さもなくばもっと納得いく説明をしてもらいたいね。どっちかやってもらうまでは、おれはこの部屋を退くわけにはいかない。おれの身にもなってみろよ。おれはこの町のことは何も知らん。ある結社にはいっているが、なんらやましいところのない団体とばかり思ってきた。アメリカじゅういたるところにあるんだが、どれもこれもまともなものばかりだ。というわけで、ここでもそれに参加しようと思っていたのに、あんたはそいつを『スコウラーズ』とかいう殺し屋集団と同じものだという。これじゃシャフターさんよ、何かのまちがいだったとあやまるか、もっときちんと説明するかしてもらいたくなるのも当然だろ」
「わしは、あんた、世間のみんなが知ってることしかわからねえだ。一方の親分がもう一方の親分を兼ねてるだ。だから、片っ方を怒らせると、もう一方のほうにやられちまうだ。そんな例は数えきれないほどあるだ」
「それじゃうわさにすぎん! おれが知りたいのは証拠だ!」マクマードがいった。
「この土地にしばらく住んでみりゃ、証拠はすぐにみられるだ。でもおめえさんも団員だったたぁうっかりしてただ。いまにあの連中みたいに悪くなっていくのじゃろうて。とにかくおめえさん、どこかほかに下宿をさがしてもらいてえだ。ここにおってもらうわけにゃいかねえ。そうでなくとも連中のひとりがエティをくどきにくるのを黙ってみていなきゃいけねえことにうんざりしてるってえのに、ここでまた下宿人の中にもひとりいるってことになりゃ、ちとあんまりじゃねえか? もうごめんだ、今夜かぎりでおめえさんは出ていってもらうだ!」
こうしてマクマードは、居心地のよいねぐらからも、愛する娘からも、追放されるはめになってしまったのである。その晩、彼女がひとりきりで居間にいるところをみはからって、彼は苦しい胸の内を打ち明けた。
「おまえのおやじさんは、なんとしてでもおれをここから追い出すつもりでいるらしい。部屋から追い立てをくらうだけならちっともかまわないんだが、しかしね、エティ、知りあってまだほんの一週間にしかならないのに、おまえはおれにとってまさに生命(いのち)の息吹そのものになってしまったんだ。だから、おまえなしではとても生きていけない」
「ああ、よして、マクマードさん! そんなこといってはだめ! 私いったでしょ、あなたは遅すぎたって。相手はもうほかにいるのよ。そのひととすぐに結婚するって約束はまだしていないにしても、いまさらほかのひとと約束なんかできるわけないわ」
「ならもしおれのほうが先だったら、エティ、おれにもチャンスはあったわけかい?」
娘は両手に顔をうずめて、すすり泣いた。
「あなたが先だったら(ヽヽヽヽヽ)どんなにかよかったのに」
マクマードはすばやく彼女の前にひざまずいた。
「おねがいだ、エティ、おれが先だったことにしてくれ! そんな約束のために、おまえばかりかおれの一生までだいなしにしてしまうつもりかい? いいかい、心のおもむくままに生きるんだ! わけがわからないままにしてしまった約束なんかに縛られるより、そのほうがよっぽど身のためだよ」
彼は日に焼けたたくましい両手で、エティの白い手を握りしめた。
「さあ、おまえはおれのものだといってくれ。ふたりで力をあわせて運命を切り開いていくんだ」
「ここを離れて?」
「いや、ここで」
彼は両腕で彼女を抱きよせた。
「だめ、だめよ、ジャック! ここではだめなの。どこか遠くへ連れ去って下さらない?」
一瞬マクマードの顔が苦しげに曇ったが、すぐにまた石のように固い表情になった。
「いや、ここでいい。ここから一歩も退かずに、エティ、あくまでもおまえを守りぬいてみせてやる!」
「なぜいっしょによそへ逃げちゃいけないの?」
「いや、エティ、おれはここを離れるわけにはいかないんだ」
「でもどうして?」
「しっぽを巻いて逃げだしたんだと思ったら最後、二度と自信をとりもどせないからさ。それにだいいち、何をそんなにびくびくしてなきゃいけないんだ? おれたちは自由な国の自由な市民じゃないのかい? こうしておたがいに愛しあっているのに、いったい誰がおれたちの仲を裂けるんだい?」
「あなたは知らないのよ、ジャック。まだここへきて間がないからだわ。このボールドウィンがどんな男だか知らないのよ。マギンティや彼の率いるスコウラーズのことを何も知らないのよ」
「そりゃ、そんなものは知りはせんさ。だからといって、恐れもしないし、従う気もない! おれはいろんなごろつきたちとずいぶんつきあってきたが、やつらを恐れるどころか、いつもしまいにはやつらのほうでおれを恐れだすしまつだった――いつだってだぜ、エティ。この土地のありさまはどうみたってばかげてるよ! もし連中がだよ、おまえのおやじさんがいうように、この谷でつぎつぎに悪事を重ねていて、しかも連中の名が知れわたっているんだったら、どうしてひとりも罰せられずにすんでるんだい? それに答えてもらいたいね、エティ!」
「知ってて誰も訴えてでようとしないからだわ。そんなことをすれば、一ヵ月と生きてはいられないもの。それにたとえ訴えたところで、仲間が証言にたって被告のアリバイをでっちあげるにきまってるんですもの。でもジャック、あなただってこんなことは全部新聞で読んで知ってるはずだわ! アメリカじゅうのどの新聞にだって出ているはずよ」
「うん、読んだことはあるよ、たしかにね。でもどうせつくり話だろうと思ってたんだ。たぶん連中にも何かわけがあってやってることなんだろうとか、何かひどい目にあわされて、生きのびるためにしかたなくやってるのかもしれないとか考えたりしてね」
「よしてよ、ジャック、あなたまでそんなこといわないで! あの男もそんないいかたをするのよ――ほら、例の相手よ」
「ボールドウィンか――そいつもこんなふうにいうのかい?」
「だから私、あの男がいやでたまらないのよ。ああ、ジャック、こうなったらほんとうのことをいうわ。私、あの男がぞっとするほどきらいなの。でもやはりこわいのよ。もちろん自分の身が心配だからではあるけれど、それ以上に父の身が心配だからなのよ。もし私が本心をさらけだしたりすれば、何か恐ろしい不幸が私たち親子にふりかかってくるにちがいないんですもの。だから、いいかげんな約束でごまかしてあの男を避けてるんです。ほんとうのところ、私たちが助かるにはそうするしかなかったのよ。でももしあなたが私を連れて逃げて下さるんだったら、ジャック、父もそのときいっしょに連れていけば、あとはもうこんなひどい人たちの手のとどかないところでずっと、いっしょに暮らせるんだわ」
ここでまたマクマードの顔に苦悩の色がにじみでたが、こんどもすぐ断固とした表情をとりもどした。
「エティ、おまえをひどい目にあわせるようなことは、おれがぜったいさせやしない――もちろんおやじさんについてもだ。悪党どものことなら、やつらがいくら悪いったって、このおれほどの悪人はいないってことが、いまにおまえにもわかるときがくるだろうよ」
「うそ、うそよ、ジャック! 私、あなたを信じてどこまでもついていくわ」
マクマードは苦笑した。
「おやおや、おれのことがちっともわかってないんだなあ! おまえのその無邪気な心じゃ、いまおれが心の中でどんなことを考えてるかなんて、想像もつくまい。おや、誰がきたんだろう?」
ドアが突然開いて、若い男がえらそうにふんぞりかえってはいってきた。年の頃といい、からだつきといい、ほぼマクマードと同じくらいのさっそうとした男振りのよい若者である。つばの広いソフト帽をぬごうともせず、わし鼻の端正な顔にすごみをきかせた目を光らせ、ストーヴのそばにすわっているふたりを憤然とにらみつけた。
エティはさっと立ちあがったものの、すっかりあわてふためいている。
「これはようこそ、ボールドウィンさん。思ったよりお早かったのね。さ、どうぞ、おかけになって下さい」
ボールドウィンは腰に両手をあててつっ立ったまま、マクマードを見おろしていた。
「これは誰だい?」そっけなくたずねた。
「お友だちなの、ボールドウィンさん――こんどうちに下宿なさったかたよ、マクマードさんていうの。マクマードさん、紹介しますわ、こちらがボールドウィンさん」
ふたりの若者はむっつりしたまま、軽く会釈をかわした。
「おれとエティとの間柄は、エティからきいているだろうな?」ボールドウィンがいった。
「間柄なんていえるものがあろうとは、知らなかったぜ」
「知らない? じゃ、いま教えてやるよ。おれがいうんだからまちがいないぜ。ここにいる若い婦人はおれのものだ。さて、今夜は散歩にはうってつけの晩だぜ。どうだい?」
「せっかくだが、あいにく散歩する気分じゃないのでね」
「いやかい?」男の残忍そうな目は怒りに燃えていた。「じゃ、けんかならお気に召すのかな、下宿人さんよ?」
「もちろん」そう叫ぶと、マクマードはさっと立ちあがった。「そうくるのを待ってたぜ」
「おねがい、ジャック! おねがいだからよして!」エティが夢中で叫んだ。「ああ、ジャック、ジャック、ひどい目にあわされるわ!」
「おや、『ジャック』だって?」ボールドウィンがいまいましそうにいった。「畜生! もうそんな呼びかたをする仲なのか?」
「ああ、テッド、落ちついてちょうだい――怒らないで! もし私を愛して下さっているんだったら、テッド、私のためを思って、心を広くもってちょうだい、寛大になって!」
「エティ、ここはおれたちふたりにまかせてくれたら、ことはすぐにけりがつくと思うよ」マクマードが冷静にいった。「それよか、いっそのことボールドウィンさんよ、ちょっとそこまで顔を貸してもらおうか。天気のいい晩だし、つぎの横丁の先に空地もあることだからな」
「おめえを片づけるのに、なにもわざわざ手を汚すほどのこともないさ。そのうち、この家に足を踏み入れるんじゃなかったってことをいやというほど思い知らせてやるぜ。もっとも後悔したってあとの祭りだがな」
「いますぐけりをつけてしまおうぜ」マクマードが叫んだ。
「おれにも都合ってものがあるぜ、あんた。いつにするかはおれにまかせてもらおうか。ほら見ろ!」男はいきなりそでをまくりあげ、二の腕の奇妙なしるしをみせた。丸の中に三角が描かれた焼印らしきものである。「これが何だかわかるか?」
「知りもしないし知りたくもないぜ!」
「なに、いまにわかるさ。そのうちきっとな。どうせ長い命じゃねえだろうがな。たぶんエティにききゃ、ちっとはわかるだろうよ。ところでエティ、おめえにはいずれひざをついてあやまってもらうぜ。きいているのか、おい? ひざをついてだぜ! そのときにゃ、おめえのうける罰がどんなものだか思い知らせてやるぜ。おめえのまいた種だ――だからよ、おめえの手で刈りとってもらおうじゃねえか!」男は怒り狂った表情でふたりをにらみつけた。それからくるりと背を向けたかと思うと、あっという間に出てゆき、表のドアがばたんとしまる音がきこえた。
しばらくの間、マクマードと娘は黙ったままつっ立っていた。そのうちいきなり、娘は彼のからだにしがみついてきた。
「まあ、ジャック、すばらしかったわ! でも、だめだわ――あなた逃げなきゃ! 今晩――ジャック、今晩中によ! それしか助かる道はないわ。あの人はきっとあなたの命をねらうわよ。あのすごい目つきをみればわかるわ。あの人たちが十人あまりも相手では、いくらあなただって勝てるみこみがあるわけないでしょ? うしろにはマギンティ親分がひかえてるし、支部全体を敵にまわすことになるのよ」
マクマードは彼女の腕をほどいて、キスをし、やさしく椅子にすわらせた。
「さあ、おまえ、しっかりしろ! おれのために心配したりこわがったりすることはないんだ。じつはこのおれだって『自由民団』の人間なんだよ。そのことをさっきおやじさんに話したばかりだ。おれにかぎって連中よりはましだなんてはずはないんだから、おれを聖人あつかいするのはよしてくれ。ここまでいってしまえば、おれのこともきらいになったろうな」
「あなたをきらうなんて、ジャック! そんなこと死ぬまでありっこないわ。『自由民団』の人が悪いことをするのはここだけの話だときいているわ。だからあなたが団員だと知ったからといって、なぜきらいになる必要があるの? でもジャック、あなたも団員だというのなら、どうしてマギンティ親分のところへいって仲よくしておかないのよ? ねえ急いで、ジャック、急いだほうがいいわ! 先手をうっておかないと、手下の犬どもにつけねらわれるわ」
「おれも同じことを考えていたんだ。いまからすぐいって、話をつけてくるよ。おやじさんには、今晩はここで泊まるが、あすの朝にはどこかほかへ移るつもりだといっといてくれ」
マギンティの酒場はいつものようににぎわっていた。町の荒くれ者たちのお気に入りの社交場になっていたからである。この男がみんなに人気があったのは、荒っぽくて陽気な性質の持主だったからであり、それがまたひとつの仮面をともなって、内に潜むほかのもろもろの性質をおおい隠していたからだった。しかし、そういった人気をべつにしても、町中を、いやそれどころか三十マイルにわたるこの谷一帯、さらには谷をはさむ山々にいたるまでをも支配している彼の恐ろしさだけでも、酒場をにぎわすにはじゅうぶんだった。この男のもてなしにそっぽを向くことなど、誰ひとりとしてできはしなかったからである。
こうした隠然たる勢力をふるうに際してこの男は情け容赦もしないと広く世間では信じられていたが、さらにまた、彼は高級役人の地位にもあり、市会議員をつとめ、道路委員にも任ぜられていた。いずれも、恩恵にあずかろうとする悪党どもの票によって選ばれたものだった。地方税と国税はやけに高く、そのくせ役所の仕事はあきれるほどなおざりにされていて、検査官が買収されているので会計もでたらめ、善良な市民は、公然と金をまきあげられても、後難をおそれて泣き寝入りするしまつだった。こうしてマギンティ親分のダイヤモンドのピンは年ごとに大きくなり、ますます華麗さをますチョッキには金の鎖がこれまたますます重くたれさがり、酒場は拡張を重ねて、ついにはマーケット・スクエアの片がわを独占せんばかりの勢いになっている。
マクマードは酒場の自在戸を押しあけると、中に群がる男たちをかき分け、煙草の煙と酒のにおいがむっと立ちこめる中を突きすすんでいった。店の中は照明があかあかとともされ、あたり一面の壁にはめこまれた仰々しい金枠のばかでかい鏡がそれを反射しあって、あたりのけばけばしさをいっそうどぎついものにしている。上着をぬいでワイシャツ一枚になったバーテンダーが五、六人、厚い金属でおおわれた幅の広いカウンターをとりまく客たちに、酒をせっせとつくってやっている。いちばん奥に、葉巻を口の端で極端に斜めにくわえ、カウンターに寄りかかるようにして、背の高いがっしりとしたたくましいからだつきの男がつっ立っていたが、この男こそ、どうみてもあの有名なマギンティその人にちがいなかった。
まっ黒な髪の毛の巨漢で、あごひげをほお骨のあたりまではやし、ぼさぼさの黒髪は襟もとにまでたっしている。顔色はイタリア人のように浅黒く、目は奇妙なまでに黒くどろんとしていて、少々やぶにらみのせいもあってか、見るからに気味が悪い。そういった点をのぞけば、堂々としたからだつきといい、りっぱな顔だちといい、あけっぴろげなふるまいといい、彼の好んでよそおう陽気で率直な態度とぴったりあっていた。だから、この男は正直で飾り気がなく、言葉づかいこそ荒っぽいが根は悪くないんだ、という人間がいてもおかしくはなかった。そういう人間は、あの残忍でずるそうな、どろんとした黒目でじろっとにらまれてはじめて、自分がいま面と向かいあっている男がじつは悪の無限の可能性を内に秘めていて、しかも力と勇気と狡智をかねそなえているためにいざとなれば途方もなく恐ろしいことをやってのけることのできる男なのだ、ということに気づいて思わずぞっとするのである。
この男をじっくり観察してから、マクマードはいつもの無頓着なずぶとさを発揮して人を押しわけてすすみ、恐ろしい親分にへつらいながら親分のちょっとした冗談にもさも面白そうに笑いころげているとりまき連中の小さな群れを押しのけて、前へ出た。そして眼鏡の奥の灰色の目に不敵な光をうかべて、彼をじろっとにらみつけたまっ黒な目を、少しもひるむことなくにらみ返した。
「おい、若(わけ)えの、おめえの面(つら)に見おぼえはねえぜ」
「最近きたばかりなんです、マギンティさん」
「いくら新顔だからって、紳士を呼ぶのにきちんと肩書きをつけれねえほどではあるめえ」
「マギンティ議員さんだよ、若えの」とりまきのうちから声がとんだ。
「すみません、じゃ議員さん。この土地のしきたりを知らないもんで。じつはあなたに会うようにといわれたもんだから」
「で、いま会ってるわけだ。おれはこのとおりの男だぜ。おれをどう思うね」
「さあ、それはもう少したってからでないと。でも、あなたの心がそのからだのように大きくて、魂もその顔のようにりっぱだったら、もう申し分なしですよ」
「ちぇっ、さすがアイルランド野郎だけあって、生意気なことをほざきやがるわい」酒場の主人が叫んだ。この大胆不敵な若者の言葉に調子をあわせるべきか、それともここで威厳を示すべきか、迷っている様子だった。「するとなにかい、少なくともおれの風体はお気に召してくれたわけかい?」
「もちろん」マクマードがいった。
「でおれに会うようにいわれたって?」
「そうです」
「誰に?」
「ヴァーミッサ三四一支部の同志スキャンランにです。では議員さんの健康を祝して、そしてこれを機によろしくおつきあいいただけることを願って」彼はふるまわれたグラスをかかげて口のところへもっていき、小指をぴんとはねあげて飲んだ。
じいっと彼の様子を見まもっていたマギンティは、黒い眉をあげた。
「ほう、そうくるのかい? しかしこいつはもっとよく調べてみなくちゃなるめえな、ええと――」
「マクマードです」
「もうちょっとくわしくな、マクマード君よ。この土地じゃ、人をそうやたらに信用したりはしねえし、人のセリフをそのまま信じるわけにもいかねえのでな。ちょっとこっちへきてもらおうか。奥へはいりな」
酒場の奥は小さな部屋になっていて、酒だるが周囲にずらりと並べてあった。マギンティはていねいにドアをしめると酒だるのひとつに腰をおろし、葉巻をじっとかみしめながら、うす気味悪い目つきで相手をじろじろ観察した。そうして二、三分の間、じっと黙りこんでいた。
マクマードは片手を上着のポケットにつっこみ、もう一方の手でとび色の口ひげをひねりながら、喜んで相手の見るにまかせていた。すると突然、マギンティは身をかがめ、見るからに不気味なピストルをとりだした。
「おい、この野郎、もしおれたちをだましていたことがわかったら、そのときは命はないものと思え」
「これはまた、『自由民団』の支部長がよそからはるばるやってきた団員を迎えるにしちゃ、妙なごあいさつですね」マクマードはやや開き直っていった。
「ふん、ところが団員かどうかそれをまず証明してもらわんことにはな。できねえとなりゃ、命はもらうぜ。どこで入団した?」
「シカゴ二九支部です」
「いつだ?」
「一八七二年六月二十四日です」
「支部長は?」
「ジェイムズ・H・スコットです」
「地区の指導者は?」
「バーソロミュー・ウィルソンですよ」
「ふむ! すらすらと答えやがるぜ。ここで何をしてる?」
「働いてますよ、あなたと同じようにね。といっても、もっとけちな仕事だけど」
「受け答えだけは抜け目のねえ野郎だな」
「ええ、生まれつき口は達者なもんで」
「で、腕のほうも達者か?」
「仲間うちじゃそれで知られてましたよ」
「まあ、そんなことはどうせすぐにわかることだがな。ここの支部について何かうわさでもきいているか?」
「一人前の男なら支部員にしてくれるってききました」
「おめえなら大丈夫だろう、マクマード君よ。で、なぜシカゴを出てきたんだ?」
「そいつだけは口がさけてもいうもんか」
マギンティは目をみはった。こんなふうに口答えされることには慣れていなかったので、おかしかったのである。
「なぜいえねえ?」
「同志にうそはいえませんからね」
「じゃ人に話せねえような悪いことなんだな」
「まあそうとりたきゃとってくれてもけっこうです」
「おい、おめえ、支部長たるおれが、素姓もあかせねえような男を受けいれられるとでも思っているのか」
マクマードは困ったような顔つきをしていたが、やがて内ポケットからしわくちゃになった新聞の切り抜きをとりだした。
「さつ(ヽヽ)にたれこむようなことはしないでしょうね?」
「おれに向かってそんなことをぬかすと、横っつらはりとばすぞ」マギンティはかっとなってどなった。
「わかりました、議員さん」マクマードはおとなしく従った。「あやまりますよ。つい口から出てしまったんです。あなたにまかせておけば安心だってことはわかってますよ。その切り抜きをみて下さい」
マギンティは切り抜きの記事にざっと目を通した。一八七四年の新年早々に、シカゴのマーケット通りにある湖畔亭という酒場でジョナス・ピントウという男が射殺された、とある。
「おめえの仕わざか?」マギンティは切り抜きを返しながらきいた。
マクマードはうなずいてみせた。
「なぜ殺(や)ったんだ?」
「おれはドルをつくってお国の仕事を手伝ってたんですよ。もっとも、おれのつくったのは政府のやつより金の質はおちるかもしれませんが、でも見たところはそっくりで、しかも費用はこっちのほうが安い。で、このピントウって男はおれを手伝ってそのにせ金をばらまいて――」
「なんだって?」
「まあ、つまり、そのドルを流通させることです。ところがこの男が急にさつ(ヽヽ)にばらすっていいだしやがったんです。もうしゃべったあとかもしれない。とにかくおれとしてはぐずぐずしているわけにはいかなかった。で、あっさり殺ってしまって、この炭坑地帯へ逃げこんだってわけです」
「なぜこの炭坑地帯を選んだ?」
「なんでもこのあたりじゃ、あまりうるさいことはいわないとか、新聞で読んだことがあるもんで」
マギンティは声をたてて笑った。
「はじめはにせ金づくりで、それから人殺しをやったあげく、ここなら歓迎されると思ってやってきたわけか?」
「まあそんなところです」マクマードは答えた。
「ふむ、おめえなら役に立ちそうだ。で、そのドルはいまでもつくれるか?」
マクマードは、ポケットからコインを五、六枚ばかりとりだしてみせた。「こいつらはワシントンの造幣局とは無縁の代物ですよ」
「まさか!」マギンティはゴリラのように毛むくじゃらの大きな手にそれらをとって、燈にかざしてみた。「ほんものとちっとも見わけがつかねえ! こりゃ、おめえはたいそう役に立ちそうだぜ。悪党のひとりやふたり受けいれたって、一向にかまわんさ、なあマクマード。なにしろおれたちだっておれたちだけの力で切り抜けなきゃならないときがあろうってものよ。おれたちをおさえつけようってやつらをはね返さなきゃ、じきに壁につきあたっちまうからな」
「それなら、おれだってほかの連中と力をあわせて、ひと役買いますよ」
「いい度胸をしているらしいな。このピストルを向けてもびくともしやがらなかった」
「危なかったのはおれじゃないですよ」
「じゃ誰だ?」
「あなたのほうですよ、議員さん」マクマードはピー・コートのわきポケットから、撃鉄をおこしてあるピストルをとりだした。「ずっとあなたにねらいをつけていたんです。撃つとなりゃ、早さの点では負けなかったはずですよ」
マギンティは顔をまっ赤にして怒ったかと思うと、いきなり大声で笑いだした。
「たまげたな! おめえのようなすげえやつに出くわしたのはほんとうに久しぶりだぜ。支部はいまにおめえを誇りに思うようになるだろうよ。おや、いったい何の用だ? お客さまとせっかくふたりきりで話をしてるってえのに、ほんの五分もたたねえうちにおめえみてえな野郎にじゃまされなきゃなんねえのかい?」
はいってきたバーテンダーはどぎまぎしてつっ立っていた。
「すみません、議員さん。じつはテッド・ボールドウィンさんが。いますぐお目にかかりたいそうで」
だがこのとりつぎは不要だった。本人の血相をかえた残忍な顔が、もうすでにバーテンダーの肩ごしにのぞきこんでいたからである。彼はバーテンダーを部屋のそとへ押しやり、ドアをぴたりとしめてしまった。
「そうか、先まわりしたってわけだな」彼は怒り狂った目でマクマードをにらみつけながら、「議員さん、この男のことでちょっとあなたにお話があるんです」
「ならいまここで、おれのいる前でいえよ」マクマードがどなった。
「いつどこでいおうとおれの勝手だ」
「ちょっと待った!」マギンティが酒だるから腰をあげながらいった。「ふたりともよさないか。新しい兄弟ができたんだぜ、ボールドウィン、そんなあいさつのしかたをするもんじゃねえ。さあ手をだして、仲直りするんだ」
「とんでもねえ!」ボールドウィンは怒りに燃えて叫んだ。
「おれのやったことがいけないというんだったら、けんかでけりをつけようってこの人にいってやったんです」マクマードがいった。「おれは素手でやったってかまわないんだが、この人のお気に召さないのなら何でもこの人のお好きなやりかたにあわせますよ。さあ、議員さん、あとのご判断は支部長のあなたにおまかせします」
「いったい何でこんなことになった?」
「若い婦人のことです。誰を選ぼうとそれは彼女の自由ですからね」
「なんだって!」ボールドウィンが叫んだ。
「相手の男がどちらも支部の者ってことになれば、まあそうだろうな」親分がいった。
「おや、それがあなたの判定ですかい?」
「そうだとも、テッド・ボールドウィン」マギンティはじろりとにらみつけた。「おめえそれに文句をつける気か?」
「あんたはこの五年間ずっとあんたのそばに仕えてきた男を見すてて、いま初めて会ったばかりのやつの肩をもとうってんですかい? あんたにしたってこのまま一生支部長でいられるわけでもねえだろうしよ、ジャック・マギンティ。このつぎの選挙のときはきっと――」
議員は猛虎の勢いで彼にとびかかった。片手で首をしめあげ、酒だるの上に投げ倒した。マクマードがとめにはいらなかったら、怒り狂ったあげくしめ殺してしまうところだった。
「落ちついて、議員さん! お願いだから、落ちついて下さい!」マクマードは親分をひきはなしながら叫んだ。
マギンティが手をはなすと、ボールドウィンはすっかりおびえきって、息を切らせ、まるで死の深淵をのぞかされでもしたかのように手足をがたがた震わせながら、押し倒されていた酒だるの上に起き直った。
「おめえはまえまえからずっと、一度こういう目にあいたがっていたんだ、テッド・ボールドウィン。さあ、これで気がすんだか」マギンティは大きな胸を波うたせながら叫んだ。「おれがつぎの支部長選に落選でもしたら、おめえがおれのあとがまにすわる気ででもいやがるんだろう。それは支部のきめるこった。だがな、おれが頭(かしら)でいるかぎりは、おれやおれのやりかたに対して誰にも文句はいわせねえからな」
「あんたに文句なんてありませんよ」ボールドウィンはのどをさすりながらつぶやくようにいった。
「よし、それじゃ」親分はすぐにまたもとのざっくばらんで陽気な表情にもどって、「これでみんな仲直りできたわけだから、もうこの話しはなしにしようぜ」
彼は棚からシャンペンのびんをとって、栓をぬいた。
「さてと」背の高い三つのグラスにシャンペンをつぎながら、「仲直りを祝って支部の流儀で乾杯といこう。それであとは、いいか、もううらみっこなしだぜ。では左手をのどぼとけにあてて、汝に申す、テッド・ボールドウィン、汝は何を怒れるや?」
「暗雲たれこめたり」ボールドウィンが答えた。
「されどこののち永久に晴れん」
「われそれを誓う」
ふたりはグラスを飲み干し、同じ儀式がボールドウィンとマクマードの間でかわされた。
「さあ」マギンティは両手をこすりあわせながら叫んだ。「これでもうすべて水に流すんだ。このうえまだしつこくこだわったりしたら、支部の裁きをうけるまでだ。同志ボールドウィンもよく知っているが、ここの裁きは甘くねえぜ。そのことは同志マクマードも、何か面倒をおこしたりすりゃ、すぐわかることだがな」
「誓ってそんなことはしないつもりだ」マクマードはボールドウィンに握手を求めた。「おれはけんかも早いが、忘れるのも早い。人にいわせりゃ、それがアイルランドの血なんだとよ。熱しやすくさめやすいってわけだ。とにかくおれとしちゃもうすんだことだ、何のうらみもないよ」
ボールドウィンは、恐ろしい親分が目を光らせているので、さしだされた手をしぶしぶ握った。だがそのむっつりした顔は、いまの相手の言葉がさっぱり通じていないことを物語っていた。
マギンティはふたりの肩をぽんとたたいて、叫んだ。
「ちえっ! たかが小娘なんかのことでさわぎやがって! おれのところのわけえものがふたりとも、よりによって同じ小娘にほれちまうとはなあ。よくよく運が悪いぜ。とにかく、間にはさまれた小娘にきめさせるしかねえな。支部長が口をはさむ問題じゃねえ。ありがたや神さま、だ。そうでなくたって、問題はほかに山とあるんだからな。さて同志マクマード、三四一支部への入会を認めてやる。だがここにはここのしきたりってものがあるからな。シカゴとはわけがちがうぜ。土曜日の夜にいつもの集会がある。こんどそれに顔をだせば、それからはずっとヴァーミッサ谷なら大手をふって歩けるようにしてやるぜ」
息のつまるような出来事がたて続けにおこった晩の翌日、マクマードはジェイコブ・シャフター老人の下宿をひきはらって、町のいちばんはずれにあるマクナマラという未亡人の家にねぐらを移した。この土地へきて最初に汽車の中で知りあったスキャンランが、まもなくヴァーミッサに移ってくることになったので、ふたりはいっしょに下宿することにした。ほかに下宿人はなく、女主人はアイルランド生まれののんきな老婆で、よけいなお節介をやかなかったので、ふたりは言動に気をつかう必要がなく、共通の秘密をもつ者としてはもってこいだった。シャフターも、マクマードのことを少しは気の毒に思ったらしく、気がむいたときに彼の家に食事に立ち寄ることを許してくれたので、エティとの交際もとだえずにすんだ。それどころか、ふたりの仲は日ましに深まってゆくばかりだった。
マクマードは、こんどの下宿の寝室でなら、にせ金用の鋳型をとり出しても安全だと感じたので、秘密を守るという誓いをくどいほど何度もたてさせたうえで、支部の同志を何人か部屋へ通し、その鋳型を見せてやった。彼らはみんな、帰りしなににせ金の見本を何枚かもらってポケットに忍ばせていったが、じつに巧妙につくられていて、どこへ出しても見やぶられるおそれはなく楽々と通用する代物だった。こんなすばらしい技術を身につけているのなら何もわざわざ働く必要はあるまいに、と仲間はいつも不思議がっていた。もっとも、そこをたずねられると、マクマードは、はっきりした定職をもたずにぶらぶらしていたら警察にすぐ怪しまれてしまうからだ、と答えるのが常だった。
事実、すでにひとりの巡査に目をつけられていたが、それがきっかけとなって起ったちょっとした出来事がかえって幸いして、立場が危なくなるどころかむしろ、マクマードにたいそう都合のいい結果をもたらした。初めてマギンティと知りあった夜以来、マクマードはほとんど毎晩のように彼の酒場に出かけてゆき「若い衆(ボーイズ)」たちとのつきあいを深めた。「若い衆」というのは、この店にとぐろを巻いている危険なやくざたちがたがいに面白半分に呼びあう名前なのである。威勢のいい態度と恐れを知らぬ弁舌とで、彼はたちまちみんなの人気者になり、酒場での「制限なし」のけんかでも手ぎわよくあっさりと相手を片づけてしまうので、荒くれ者たちの尊敬をあつめた。ところが、それにもまして彼の名声を高めるような出来事がもちあがったのである。
ある晩、ちょうど酒場のこみあう時刻に入口のドアがあいたかと思うと、鉱山警察の地味な青色の制服を身にまとい、とんがり帽子をかぶった男がはいってきた。これは鉄道や鉱山の所有者たちが、町の警察のたよりなさにみかねて、この土地にはびこっている暴力団組織に対抗するためにやとっている特設警察隊なのである。この男がはいってくると店の中は急に静まりかえり、みんなは一斉にじろじろと彼のほうを見ていたが、アメリカでの警察と悪人の関係はまた一種独特のもので、マギンティ自身はカウンターのうしろにつっ立ったまま、客のなかへ警察がはいってきても何の驚きも示さなかった。
「ウイスキーをストレートでくれ。今夜は冷えるね。ところで、あんたにお目にかかるのはこれが初めてですな、議員さん?」警官がいった。
「あんたは新しい隊長さんかい?」マギンティがいった。
「そうさ。この町の法と秩序を守るためには、議員さん、あんたや町の有力者の方々にぜひ協力してもらわんとな。たのみますぜ。私はマーヴィン隊長というんだがね――鉱山警察の」
「マーヴィン隊長さんとかよ、ここはあんたなんかがいないほうがうまくやっていけるんだがな」マギンティは冷ややかにいった。「この町にはこの町の警察ってものがちゃんとあるんだから、輸入品は必要としないんでね。あんたたちは資本家どもにやとわれて何をするかといえば、貧しい庶民をこん棒で殴ったりピストルで撃ったりするだけで、やつらに金で買われた道具にすぎねえじゃねえか?」
「まあ、まあ、そんなことをここで議論したってはじまらない」警官はおだやかにいってのけた。「われわれはおたがいにみんなそれぞれ正しいと信じる職務を果たせばいいわけだが、何が正しいかとなると、必ずしもみんなの見方が一致しないらしくてな」そういって彼はグラスを飲み干し、くるりと背を向けて出ていこうとすると、すぐそばで不快な表情をうかべていたジャック・マクマードの顔がふと目にはいった。
「おや! これは!」相手は頭のてっぺんから足のつまさきまでじろじろ見ながら叫んだ。「昔なじみがいたよ」
マクマードは少しあとずさりした。
「あんたにかぎらず、ポリ公野郎と友だちになった覚えは一度もねえぜ」彼はいった。
「知りあいといっても必ずしも友だちとはかぎらんさ」警官はにやりとしていった。「おまえはシカゴのジャック・マクマードだな。どうみてもそうだ。ちがうとはいわさんぜ」
マクマードは肩をすくめてみせた。
「ちがうなんて誰もいってやしねえよ。自分の名をいわれておれがはずかしがるとでも思ってるのかい?」
「はずかしがってもおかしくないはずだがな」
「いったい何がいいてえんだ」マクマードはこぶしを握りしめてどなった。
「よせ、よせ、ジャック。どなったっておれにはこたえないよ。おれはこんな石炭庫みたいな土地へくるまえは、シカゴで警官をやっていたんだ。シカゴのならず者ならひと目みりゃわかるさ」
マクマードはうつむいた。
「まさかシカゴ中央署のマーヴィンだっていうんじゃあるめいな!」彼は叫んだ。
「まさにそのテディ・マーヴィンさまだよ。あのジョナス・ピントウ射殺の一件はあっちじゃ忘れていやしないぜ」
「おれが殺(や)ったんじゃねえぜ」
「殺ってない? 誰の仕わざかはどうみたってあきらかじゃないか、ええ? とにかく、あいつが死んでくれたことはおまえには好都合だったわけだ。さもなきゃ、おまえもにせ金づかいでつかまるところだったんだからな。まあいいさ、それも過ぎ去ったことだ。というのも、これはここだけの話だが――こんなことまでしゃべっていいものかどうか――おまえを挙(あ)げるには証拠不充分だったんだよ。だからおまえはあすにでも堂々とシカゴへ帰れるってわけさ」
「ここでじゅうぶんだよ」
「そうかい。せっかくいいことを教えてやったってのに、ありがとうのひとつもいわないとはひねくれた野郎だな」
「じゃ、ご親切ありがとうよ」マクマードはあんまりありがたくもなさそうにいった。
「おまえがまっとうな道を歩んでいるかぎり、おれは何もいうことはないさ、だがな、いいか、もし今度ちょっとでもわき道にそれるようなことをしでかしたら、そのときは黙っちゃいないよ! じゃ元気でな――議員さんもお元気で」
警官が酒場を出ていったときには、もうすでに土地の英雄がひとり誕生していた。遠いシカゴでマクマードがやったことは、まえからひそかに話の種にはなっていた。でも彼は、まるで人の喝采を浴びるのが苦手だとでもいわんばかりに、何をきかれても笑ってとりあおうとはしなかったのである。ところがいまや、そのことは警察が確証してくれたのだ。酒場のごろつきたちは彼をとりまいて、さかんに握手を求めた。彼はこのとき以後、この社会の顔ききになった。酒にはめっぽう強く、いままで酔っぱらってしまうことはほとんどなかったのだか、この晩だけは、相棒のスキャンランがそばについていて下宿へ連れて帰ってやらなかったら、一晩中英雄として歓待をうけたあげく、酒場で酔いつぶれてしまっていたにちがいない。
土曜日の晩に、マクマードはあらためて正式に支部に紹介された。彼は、すでにシカゴで入会をすませているのだから式などはなしですませられるものと思っていた。ところがヴァーミッサには独自の儀式があって、それがみんなの自慢の種になっており、入団志願者は誰でもそれを経なければならなかったのである。集会は、ユニオン・ハウスの中にある大会議室で行われた。ヴァーミッサのこの集会には六十人ばかりが集まったが、それはけっしてこの組織の全勢力を結集したものではなかった。この谷だけでもほかにまだいくつかの支部があったし、谷をはさむ山々の向こうにもいくつかあって、いざというときにはたがいに団員を融通しあって、地元に顔を知られていない者に手をくださせたりしていた。炭坑地帯にちらばっている団員たちをあわせると、少なくとも五百人はこえていた。
殺風景な集会室に、男たちは長いテーブルをかこんで集まった。かたわらにはテーブルがもうひとつ置いてあり、酒びんやグラスがところ狭しと並んでいて、一座のなかにははやくもそちらのほうへ目を向けている者も何人かいた。首座についたマギンティは、まっ黒なもじゃもじゃ頭に黒ビロードの平たいふちなし帽をかぶり、首から下はきらびやかな紫の祭服にすっぽり包んで、さながら悪魔の儀式を主宰する僧侶のようだった。彼の左右には支部の幹部たちが居並び、そのなかにはテッド・ボールドウィンの残忍さを漂わせた男前の顔もみえる。これらの連中はみんな、それぞれの役職をあらわすスカーフとかバッジなどをつけていた。
彼らはほとんどそれ相当の年ごろの男たちだったが、あとの連中は十八から二十五くらいまでの若者ばかりで、年長者の命令とあればどんなことでもすすんでやってのける連中だった。年のいった男たちのなかには、みるからに残忍凶悪な面(つら)がまえをしたものも多くみうけられたが、下っぱの若い連中をみると、どれもみなひたむきであどけない顔つきばかりで、こういった若者たちが、じつはまぎれもない恐ろしい殺し屋たちで、性根までが腐りきってしまったあげく悪事に熟達することをひたすら誇りに思い、いわゆる「お掃除」で名をあげた人物を心から尊敬しているなどとは、ほとんど信じられないくらいだった。彼らのゆがんだ性質にしてみれば、彼らに何の危害も加えたことのない、そして多くの場合彼らが顔もみたことのない人々を「掃除」する仕事をかってでることは、勇ましく男らしいふるまいなのだった。仕事をなしおえると、彼らは誰が致命傷をあたえたかを口論し、殺された男の悲鳴や苦悶の表情をまねてみせあっては面白がるのである。
最初のころは、事をおこなうにあたって人目を忍ばないでもなかったが、この物語の時期になると、あきれかえるほど公然とおこなうようになっていた。それというのも、法の追求を何度も免れているうちに、誰も彼らに不利な証言をあえてしようとする者はいないことや、逆に自分たちに都合のよい証人ならいくらでもくりだせること、さらには、いざとなれば金にものをいわせてアメリカでも指折りの有能な弁護士をやとうことができるのだということを、はっきりと知ったからである。暴虐のかぎりをつくしていながらこの十年の長き間にわたって有罪になった者はひとりとしてなく、スコウラーズにとって唯一の脅威があるとすればそれはむしろ被害者そのひとで、それというのも、いかにこちらが数においてまさり、かつ不意を襲ったにせよ、ときにはこちらが傷を負うこともなくはなかったからである。
マクマードはちょっとした試練が待ちうけているということをきかされてはいたが、それがどんなものであるかは、誰もあかしてはくれなかった。彼はまず、いかめしい顔をしたふたりの同志によってとなりの部屋に連れ出された。板仕切りごしに集会室でいろんな声がぼそぼそいっているのがきこえてくる。一、二度、そのなかに自分の名前がでてきたので、彼の入団について議論されているのがわかった。するとそこへ、金と緑の飾帯を肩からかけた衛士(えいし)がはいってきた。
「なわでしばり目隠しをして連れてこいとの支部長の命令だ」彼がいった。
それから三人がかりでマクマードの上着をぬがせ、右腕のそでをまくりあげて、両腕ともひじから上を縄でからだにしっかりしばりつけてしまった。つぎに厚い黒の頭巾(ずきん)をすっぽりと鼻のところまでかぶせたので、彼は何も見えなくなってしまった。それから集会室へ連れていかれた。
頭巾のせいで、まっ暗で重苦しい。まわりで人の動く気配がし、何やらひそひそとしゃべっているのがきこえてきたが、やがてマギンティの声が、頭巾を通して彼の耳に遠くからぼんやりとひびいてきた。
「ジョン・マクマード」その声がいった。「おまえはまえから『自由民団』にはいっているのか?」
彼はうなずいた。
「シカゴの二九支部とかいったな?」
彼はふたたびうなずいた。
「暗い夜はいやなもの」声がいった。
「しかり、旅するよそ者たちには」彼が答えた。
「暗雲たれこめたり」
「しかり、あらしは近し」
「みんな異存はないか?」支部長が一同にきいた。
同意の声が一斉にささやかれた。
「同志よ、いまかわした合言葉でおまえがわれわれの一員であることははっきりした」マギンティがいった。
「だがな、いいか、この土地にはこの土地の流儀ってものがあり、また義務ってものがあってな。これも勇気をためすためでな。覚悟はできてるか?」
「ええ」
「度胸はあるほうか?」
「ええ」
「ならその証拠に、一歩前へ出てみろ」
そういわれたとたん、彼は両目に固くとがったものが突きつけられたのを感じたので、少しでも前へ踏みだしたら両目がつぶされてしまいそうな気がした。それにもかかわらず、彼は勇気をふるい起こして、いさぎよく一歩前へ踏み出した。すると、目に突きつけられていたものがすっと消えてしまった。賞賛のつぶやきが一斉にもれた。
「いい度胸だ」声がいった。「では苦痛には耐えられるか?」
「人並みにはね」彼が答えた。
「試してやれ!」
するといきなり、二の腕を激痛がつらぬいたので、悲鳴をあげまいとするのがせいいっぱいだった。突然のショックで気が遠くなりそうだったが、くちびるをかみしめ、手を固く握りしめぐっとこらえた。
「まだもの足りないくらいだ」彼はいった。
こんどは賞賛のどよめきが起こった。入団にあたってこれほどりっぱな態度をつらぬいた者は、いまだかつてこの支部にはいなかった。彼はさかんに肩をたたかれ、誰かが頭巾をぬがしてくれた。彼は目をしばたたいてほほえみながら、みんなの祝福を浴びて立っていた。
「最後にひとつだけいっておく、同志マクマード」マギンティがいった。「おまえは秘密と忠誠とを誓ったわけだが、もしちょっとでもその誓いを破ったりすれば、おまえには死あるのみだということはわかってるだろうな?」
「心得てます」マクマードがいった。
「さらに、さしあたりどんなことがあっても支部長の命令に従うだろうな?」
「従います」
「ではヴァーミッサ三四一支部の名において、本支部への入団を認め、特典と討議権とを付与する。同志スキャンラン、酒をテーブルに並べてくれ。たのもしい同志の誕生を祝って乾杯しよう」
マクマードは、返してもらった上着を着るまえに、まだずきずきと痛む右腕をしらべてみた。みると、二の腕の皮膚に、丸の中に三角が描かれた印が、烙印をおされたかのように赤々とくっきり刻みこまれていた。そばにいた二、三人の男もそれぞれのそでをまくりあげ、同じような支部の印を見せてくれた。
「みんなつけてるんだ。でもつけられるとき、おめえほど堂々としていたやつはいなかったぜ」ひとりがいった。
「ちぇっ! こんなものたいしたことねえよ」マクマードはそういってみたものの、やはり焼けつくように痛かった。
入団式のあとの酒がすっかりなくなると、支部の例会が始まった。マクマードは、シカゴでの退屈なやりとりしか知らなかったので、ここではどんなことが行われるのか耳をすましてきいていたが、顔にこそださないものの、内心びっくりするようなことばかりだった。
「今夜の協議事項の第一は、マートン郡二四九支部の地域委員長ウインドルからの手紙についてだ。こういってきている」マギンティは読みあげた。
拝啓、このたび当地近郊に住むレイ・アンド・スタマッシュ炭鉱の鉱山主アンドルー・レイを片づけることに相成った。ついてはお忘れでもあるまいが、昨春巡回巡査の件につき当方から団員二名をお貸ししたことがあるにより、その返礼にあずかりたい次第である。腕のたつ者二名、差し向けて下されば、当支部会計係ヒギンズが責任をもってお預かりする。同人住所はご承知のはず。仕事の日時場所等については同人の指示を仰いでいただきたい。
敬具
自由民団地域委員長
J・W・ウインドル
「ウインドルは、こっちから助(すけ)っ人(と)をたのんだとき、一度も断ってきたことがないのだ。だからこっちとしても断るわけにはいかん」マギンティはそこでふと言葉を切って、邪悪そうな濁った目で室内を見まわした。「誰かこの仕事をかってでる者はいないか?」
若者たちが何人か手をあげた。支部長は満足そうな笑(え)みをうかべて彼らを見た。
「虎のコーラック、おまえがいいだろう。このまえの要領でやればきっとうまくいく。それとウィルソン、おまえだ」
「ピストルがありません」この志願者は、まだ二十(はたち)にもならない少年である。
「おまえは初めてだったな? どうせいつかは血のにおいをかがなきゃならねえんだ。こんどのやつはおめえの初仕事にはもってこいだぜ。ピストルなら向こうで必ず用意してくれているはずだ。向こうへ月曜日に顔を出せばじゅうぶんだろう。もどってきたら大いに歓迎してやるぜ」
「こんどは報酬があるんですか?」コーマックがたずねた。ずんぐりしたからだつきの、顔色の黒ずんだみるからに残忍そうな若者で、獰猛(どうもう)なので「虎」というあだ名がついている。
「報酬なんてあてにするんじゃねえ。名誉だと思ってやりゃいいんだ。でもまあ、うまくやりとげたら二、三ドルくらいにゃなるだろう」
「その男は何をやったんです?」ウィルソン少年がたずねた。
「いいか、相手が何をしたかなんて、おめえみてえな野郎がそんなことまで気をまわす必要はねえんだ。向こうの支部でやるときめたんだ。こっちの知ったことじゃねえ。おれたちとしちゃ、たのまれたことだけやっていればいいんだ。おたがいさまだよ。おたがいさまといえば、来週はまたマートン支部から若えのがふたり、こっちの仕事を手伝いにきてくれることになっている」
「誰がくるんです?」誰かがたずねた。
「いいか、そんなことはきかねえほうが身のためだぜ。何も知らなきゃ、何も証言できん、となりゃ何もめんどうなことは起きねえってわけよ。でもまあ、いざ仕事にかかりゃ、きちんと掃除してくれる連中であることだけはたしかよ」
「それに、ちょうどいいしお(ヽヽ)時だ!」テッド・ボールドウィンが叫んだ。「最近、この土地のやつらはつけあがるいっぽうだからな。つい先週も、うちのもんが三人も組頭のブレイカーにくびにされちまった。あの男にはずいぶん長いことお世話になりっぱなしだから、たっぷりお礼をしてやんないとな」
「お礼って?」マクマードはとなりの男にそっとたずねた。
「猟銃の先からとび出すやつをくれてやるのさ」その男は大声で笑いながら叫んだ。「おれたちのやりかたをどう思うね、兄弟?」
マクマードの犯罪本能は、はいったばかりの団体の腐敗しきった精神にもうすっかりとけこんでしまったらしい。
「気に入ったよ。やる気のある若いもんにとっては、うってつけのところだ」彼はいった。
まわりでこれをきいていた者たちから賞賛の声がわき起った。
「どうしたんだ?」テーブルの向こうのはしから、黒い髪を長くのばした支部長が叫んだ。
「いえね、新しい兄弟がおれたちのやりかたが気に入ったらしくて」
マクマードはすぐさま立ちあがった。
「親分さん、もし人手がいるんだったら、このおれを使って下されば、支部のためなら喜んでお役に立ちますよ」
これには拍手喝采がどっと起こった。まるで新しい太陽が地平線上に姿をあらわしたような雰囲気だった。もっとも、年配の連中のなかには、少し調子にのりすぎていやしないかと思う者もいた。
「私の意見としては」議長のそばにすわっている秘書のハラウェイがいった。しらがまじりのあごひげをはやし、はげたかのような顔をした老人である。「同志マクマードはしばらくおとなしくしていたほうがいいだろう。そのうち大いに働いてもらうときがくる。なにもあせる必要はない」
「もちろん、おっしゃるとおりです。すべておまかせしますよ」マクマードがいった。
「おまえの出番はいずれ必ずまわってくるさ、兄弟」議長がいった。
「とにかく、やる気じゅうぶんであることだけはよくわかった。この土地でもそのうちりっぱな仕事をしてくれるものと信じている。ところで今晩ちょっとした仕事があるんだが、よかったらそいつを手伝ってみないか?」
「やりがいのあることなら、喜んで」
「じゃとにかく、今晩手を貸してくれ。そうすりゃ、この土地でのおれたちの仕事ぶりもよくわかるはずだ。この件についてはまたあとでふれるとして、さてと」彼は協議事項の書類に目をやって、「もう二、三会議にはかっておきたいことがある。まず会計係のほうから銀行預金の残高を報告してもらいたい。死んだジム・カーナウェイの女房に扶助料を出してやらなきゃならん。ジムはいってみれば殉職したわけだから、女房が不自由な思いをしないようわれわれが面倒をみてやらんとな」
「ジムは先日、仲間と組んでマーリイ・クリークのチェスター・ウィルコックスを殺そうとして、逆に撃たれちまったんだよ」となりにいた男がマクマードに教えてくれた。
「目下のところ財政状態は良好です」会計係は預金通帳をまえにひろげていった。「最近、各会社とも金の出しっぷりがよくなっています。マックス・リンダ会社は、干渉しないでくれるならと、五百ドルぽんとさしだしました。ウォーカー兄弟社は百ドルよこしてきましたが、これは私の一存でつっかえし、五百ドル出せといってやりました。水曜日までに回答がなければ、やつらの巻き揚げ機をぶっこわしてやります。あそこはものわかりの悪い連中で、去年も手こずらせやがったので砕炭機に火をつけてやったほどです。それから西部地区石炭産業が今年度の寄付金をよこしてきました。したがって、いま手元にはどんな出費にもじゅうぶん応じられるだけの金があります」
「アーチー・スウィンドンのほうはその後どうなった?」
「炭坑を売り払ってこの土地を出ていきましたよ。あの老いぼれ野郎、逃げる際に、こんなところで恐喝屋の一味にびくびくしながら大きな鉱山(やま)をもっているくらいならニューヨークへでも行ってのびのびと道路掃除夫でもやったほうがましだ、なんて捨てぜりふを手紙に残していきました。いまいましい! その手紙がこっちの手にとどいたときは、もうまんまと逃げられてしまったあとだったんで! これであいつはもう二度とこの谷には顔をみせられやしねえ」
ひげをきれいにそりあげ、額の広いやさしそうな顔をした年配の男が、議長と向かいあったテーブルのはしから立ちあがった。
「会計係さん、ちょっとおたずねしたいのだが、われわれが追い出してしまったこの男の鉱山を買いとったのは誰ですか?」
「ではお答えします、同志モリス。買ったのはステイト・アンド・マートン・カウンティ鉄道会社です」
「では昨年やはり同じような理由で売りに出されたトドマンとリーの鉱山を買ったのは?」
「これも同じ会社です。同志モリス」
「じゃどれもつい最近手ばなされたばかりの、マンソン、シューマン、ヴァン・デーア、アトウッドなどの製鉄所は?」
「すべてウエスト・ウィルマートン鉱業会社が一手に引き受けました」
「同志モリス」議長がいった。「誰が買ったってちっともかまわないじゃないか。どうせこの土地からもちだせやしないんだから」
「支部長、生意気なことをいうようですが、われわれにとってこれは笑いごとではすまされない問題だと思います。この十年間というもの、こういったことが繰り返し行われてきました。この調子でいくと、いずれわれわれは小さな業者たちをひとり残らずこの土地の業界から追いだしてしまうことになりかねません。その結果はどういうことになりつつあるでしょう? 彼らにかわって現われたのが、鉄道とかゼネラル製鉄とかいった大会社です。でもそれらの重役連中はニューヨークとかフィラデルフィアにいるので、われわれがおどしたって会社はびくともしません。下っぱの地方幹部からしぼりとるにしても、ちょっとおどすとすぐ逃げ出してしまい、新しいやつにとってかわられるだけです。それどころか、へたするとわれわれは自ら墓穴を掘ることになりかねません。小さな業者なら害にはちっともなりませんでした。金も力もないわけですから、よっぽどこっぴどくしぼりとらないかぎり、こっちのいうことをきいてくれたものです。ところがこういった大会社となると、われわれが会社の利益の邪魔になるとみれば、費用と労力を惜しまず何とかしてわれわれを法廷へひきずり出そうとするでしょう」
この不吉な言葉に一同はしいんと静まりかえり、重苦しい気分につつまれてたがいに浮かぬ顔を見あわせた。いままでおよそ敵らしい敵に出会ったことがなく、したい放題のことをしてきたものだから、そもそも報復などというものがありえようとは、夢にも思わなくなってしまっていたのである。それでもこのモリスの意見には、連中のなかでも最もずぶとい神経の持主ですら、思わずぞっとしたのだった。
「ですから私の意見としては」発言者はつづけた。「小さな業者にあまり負担をかけすぎないようにすべきです。連中をひとり残らず追い立ててしまった日には、当支部の力もまた潰(つい)え去ってしまうでしょう」
不愉快な真実はとかく嫌われる。発言者が席につくと、怒号があちこちに起こった。マギンティは苦い顔をして立ちあがった。
「同志モリス、きみはいつも弱音ばかり吐いている。この支部の者が一致団結して事にあたれば、アメリカ広しといえどもわれわれに手を出せるものはいない。そのことはいままでに法廷でも何度となくみてきたことじゃないか。大会社にしたって、争うよりは金を払ったほうが手っ取り早いって思うにきまってるさ。ちっぽけな会社と変わりはねえよ。さてでは、諸君」マギンティは黒ビロードの帽子と祭服をぬぎすてながら、「今晩の用件はこれですんだ。まだひとつだけちょっとした問題が残っているが、それは別れしなに述べることにする。では親睦会にうつって元気づけに仲よく一杯やろう」
人間性とはまったく奇妙なものである。ここに集まった連中は、人殺しなんか慣れっこで、一家の主(あるじ)たる者を何人となく殺し、ときには個人的に何のうらみもない者まで殺しておきながら、しかもあとに残され泣く妻やよるべない子供たちをみても後悔や憐憫にいささかも心動かされることのない男たちなのだが、それでいて甘く悲しい音楽をきくと、ついほろりとしてしまうのだった。マクマードは美しいテナーの持主で、もしかりに彼が支部の不評を買っていたとしても、今夜『メアリよ、私は踏み段に腰かけて』とか『アランの岸辺にて』でみんなをうっとりさせてしまうだけで、そういった不評をふっとばすにはじゅうぶんだったはずである。事実、まさにこの最初の一夜にしてこの新団員は一躍仲間の人気者になり、有力な幹部候補に目せられることになった。もっとも「自由民団」で頭角をあらわすには、たんに人気があるだけではじゅうぶんではなく、ほかの素質も必要としたが、その晩のうちに彼はその素質をも備えていることを示したのである。
ウイスキーのびんが何本も空けられ、顔を赤くした連中がそろそろひとあばれしたくなったころ、支部長がふたたび立ちあがって演説をはじめた。
「諸君、この町にこらしめられたいやつがひとりいる。諸君がたっぷりと味わわせてやるといい。ほかでもない、『ヘラルド』紙のジェイムズ・スタンガーだ。性懲(しょうこ)りもなくまたわれわれに憎まれ口をたたきはじめたことは、諸君もよく知っているはずだ」
一斉に同意のつぶやきがもれるなかで、あちこちに低い呪詛(じゅそ)の声もわき起った。マギンティはチョッキのポケットから新聞の切り抜きをとりだした。
「『法と秩序!』あいつはまずこういう見出しをつけている。『石炭と鉄鉱の土地を支配するテロ。この土地に犯罪組織が存在することを裏づけることとなった最初の暗殺事件が発生してから、すでに十二年を経過した。以来この種の暴虐行為はとどまるところを知らず、今日におよんで頂点に達し、この地方は文明社会の汚辱となりはててしまった観がある。この偉大な国家がヨーロッパ諸国の圧政からの亡命者たちをあたたかく迎え入れてきたのは、このような結果を望んでのことだったのか? 彼らの安住の地をあたえてやった人間たちの上に、彼ら自身が暴力をもって君臨するとはいかなることか? 自由の象徴たる星条旗の神聖なるはためきのもとに、はるか東洋の旧弊きわまりない君主国の話としてすら戦慄を覚えずにはいられないような恐怖と無法の国が建設されつつあるとはいかなることか? 連中の正体はわかっている。組織の存在は公然たる事実だ。しかるにわれわれはいつまで黙ってみていなければならないのか? いったいいつになったら――』ふん、くだらないたわごとはもうたくさんだ!」議長は切り抜きをテーブルの上に投げだした。
「とにかくあいつはこんなことをぬかしていやがる。で諸君にたずねたいのだが、われわれとしてはどう応じてやるかね?」
「殺(や)ってしまえ!」十人あまりがすさまじい声で叫んだ。
「それには反対です」額の広い、顔をきれいにそった同志モリスがいった。「同志のみなさん、この谷でのわれわれのやりかたはひどすぎる。この調子ではいずれ、自衛のために地元住民が一致団結して立ちあがり、われわれを追い出しにかかるでしょう。ジェイムズ・スタンガーは老人です。しかもこの町周辺では尊敬されています。彼の新聞はこの谷の良識派を代表するものです。ですからもしこの男を殺してしまったりすれば、この州全体が騒ぎだし、結局はわれわれの身の破滅を招くことになります」
「でどうやってわれわれを破滅させるというんだい、尻ごみ野郎さんよ?」マギンティはどなった。「警察の力でかい? それなら半数はこっちが金をつかませてあるし、あとの半数はこっちを恐れている。それともなにか、法廷にもちだして裁判官にでもたよるか? そんなことは何度も経験ずみだろう? 結果は目にみえてるはずだぜ?」
「いざとなりゃリンチという手もある」同志モリスがいった。
この発言には一斉に怒号がわき起こった。
「おれがこの指一本あげるだけで」マギンティは叫んだ。「二百人もの連中がこの町にはせ参じ、町のすみずみまできれいに掃除してくれるんだ」ここで突然声をはりあげ、太いまっ黒なまゆをものすごくしかめて、「おい、同志モリス、おれはおめえに目をつけているんだぜ、それもしばらく前からずっとな。おめえは意気地がねえばかりか、ほかの者の士気までくじこうとしている。おめえの名が協議事項にのぼったりしたら、同志モリス、ありがたくねえことになるぜ、まあいずれそうせにゃなるまいと思ってるんだがな」
モリスは顔面蒼白になり、ひざががくがくしてきたらしく、くずれるように椅子に腰をおとした。そしてふるえる手でグラスをもちあげ、のどをうるおしてからやっと口を開いた。
「いい過ぎがありましたら、支部長はじめ同志のみなさんにあやまります。私は忠実な団員です。――そのことはみなさんもよくご存じのはずです――私が不安な心情を吐露いたしましたのも、ひとえに支部に万一のことがあってはなるまいと思ったからなのです。ですが支部長、私ごとき者の判断より支部長のご判断のほうが、やはりなんといっても信頼がおけます。以後言葉にはじゅうぶん気をつけるつもりです」
相手のへりくだった言葉をきいているうちに、さすがの支部長も表情をやわらげた。
「よろしい、同志モリス。おまえを懲罰に付さねばならんとなると、つらいのはなんといってもこのおれさまだからな。だがおれがこの椅子についているかぎりは、支部の結束をみだすような言動はぜったい許しはしないから、そのつもりでいろ。さて諸君」彼は一同を見まわしながら、「例の件についてはこれだけはいっておきたい――もしスタンガーに当然の罰をたっぷり味わわせてやったりすると、必要以上に事を大きくすることになるだろう。新聞屋連中の結束は固いから、州中の新聞が騒ぎたてて、警察や軍隊の出動を促すにちがいない。しかし手きびしい警告をあたえるだけならなにもためらうことはないだろう。同志ボールドウィン、おまえやってくれるか?」
「喜んで!」若者は意気ごんでいった。
「何人要(い)る?」
「六人ばかり、それに表の見張りに二人ほど。ガウア、おまえきてくれ。それにマンスル、おまえと、スキャンラン、おまえだ。それとウイラビー兄弟にもたのむ」
「新しい同志にも行ってもらうとおれは約束してあるんだがな」議長がいった。
テッド・ボールドウィンはマクマードに目をやったが、その目はまだあのことを忘れてもいないし許してもいないことを物語っていた。
「なるほど、やつがきたいというのならくるがいいさ」彼は無愛想な口調でいった。「これでそろった。仕事は早くとりかかるにこしたことはない」
一同は蛮声をはりあげ、放歌高吟しながら散会していった。酒場はまだ酔客でにぎわっていたので、団員の多くはそこへ繰りこんでいった。任務を命ぜられた連中は通りへ出てゆき、目だたぬように二、三人ずつに分かれて歩道をすすんでいった。ひどく寒い晩で、冴えわたる星空に半月が明るく輝いていた。やがて高い建物の向かいの空地にさしかかると、一行は歩みをとめ寄りあつまった。あかあかと燈のともされた窓と窓の間に、『ヴァーミッサ・ヘラルド』という金文字が刻みこまれている。中からは印刷機の音がうるさくひびいてきた。
「おい、おまえ」ボールドウィンはマクマードにいった。「おまえは入口のわきに立って、通りを見張っているんだ。アーサー・ウイラビーもいっしょにいろ。あとの者はおれたちについてこい。みんな、心配は無用だぜ。ちょうどこの時刻におれたちはユニオンの酒場にいたってことを証言してくれる者が、十人あまりもいるんだからな」
もう真夜中に近く、通りには家路を急ぐ酔漢の姿が二、三目にはいるだけで、人通りはまったくとだえていた。一行は通りを横ぎり、新聞社の入口のドアを押しあけると、ボールドウィンを先頭に中へなだれこみ、正面の階段をどかどかと駆けあがっていった。マクマードともうひとりの男は下に残った。すると二階の部屋からわめき声や助けを求める悲鳴が起こり、床を踏みつける足音や椅子の倒れる音がひびいてきた。かと思うといきなり白髪の老人が踊り場にとび出してきた。しかしそこでたちまちつかまえられてしまい、眼鏡が軽やかな音をひびかせながらマクマードの足下に落ちてきた。どさりと人の倒れる音につづいてうめき声。うつ伏せに倒れている老人にまわりから棒きれの雨が音をたててふり注ぐ。老人は棒きれを浴びながら、やせ細った手足をばたつかせ、もだえ苦しんでいる。ほかの連中はついに打つのをやめたが、ボールドウィンだけは残忍なかおに悪魔のようなうす笑いをうかべ、老人の頭をめった打ちにしつづけた。老人は両腕で必死に頭をかばおうとしたが、とてもふせぎきれるものではない。白髪が血に染まりだした。ボールドウィンはなおも老人の上におおいかぶさるようにして、隙(すき)をみつけてはせわしく情け容赦もなく打ちつづけていたが、マクマードがついに見るに見かねて階段を駆けあがり、彼を押しのけた。
「殺してしまう気か。棒をすてろ!」マクマードはいった。
ボールドウィンはびっくりして彼の顔をみた。
「なんだと!」彼はどなった。「おめえなんかひっこんでろ。新入りのくせしやがって。そこをどけ!」彼は棒きれを振りあげたが、マクマードはすでに尻のポケットからピストルを抜きだしていた。
「おまえこそどくんだ!」彼は叫んだ。「ちょっとでもおれに手出しをしやがったら、おまえのその顔をぶち抜いてやるぜ。新入りがどうのこうのっていうが、支部長はたしか殺してしまうなっていったはずだぜ? だのにこんなことをしてちゃ、死んじまうにきまってるじゃないか!」
「やつのいうとおりだぜ」連中のひとりがいった。
「たいへんだ! ぐずぐずしてちゃいられねえぜ!」階下(した)にいる男が叫んだ。「そこらじゅうの窓にあかりがつきはじめた。これじゃ五分もしねえうちに町じゅうが騒ぎだすぜ」
事実、通りにはすでに人の叫び声がきこえはじめ、階下のホールには植字工たちが小さく寄りあつまって、勇気をふりしぼって行動に出ようとしていた。ぐんなりとなって身動きひとつしない老編集者を階段の上におき去りにして、ならず者たちは一気に階段を駆けおり、通りを一目散に逃げていった。ユニオン・ハウスにたどりつくと、一行の何人かはマギンティの酒場にはいってゆき、たむろする客にまじりながら、カウンターごしに親分に向かって仕事がうまくいったことを小声で報告した。ほかの連中は――マクマードもそうだったが――横丁へぬけると、回り道をしてそれぞれの家路についた。
翌朝目をさますと、マクマードは昨夜の入団式のことを思い出さずにはいられなかった。酒のせいで頭はずきずきするし、焼印をおされた腕ははれあがってひりひり痛んだからである。秘密の収入源があるので、勤めのほうは出たり出なかったりだったから、その朝もおそい朝食をすますと、午前中は部屋にこもって友人に長い手紙を書いた。それから『日刊ヘラルド』に目を通した。締め切りまぎわに組みこまれた特別欄をみると、『ヘラルド社襲撃さる。編集長は重傷』という見出しが目にはいった。記事の書き手よりも彼自身のほうがよく知っている事実のあらましを簡潔に報じた記事だった。つぎのような声明で結ばれていた。
この事件は現在警察の手に移っているが、従来同様、あまり好ましい成果は期待できない。犯人たちの一部の割り出しはすでにすんでおり、有罪の判決をくだせる見込みもなきにしもあらず。このたびの襲撃の背後にひかえているものは、いうまでもなく長期にわたってこの地域を支配しているかの悪名高き結社であって、わがヘラルド紙が断固たる攻撃の姿勢を貫いたため、こんどのような暴挙におよんだものである。スタンガー氏は残忍きわまりない殴打を浴び、頭部に重傷を負ったものの、生命に別条はないとのこと、氏を知る多くの友にとって何よりの朗報である。
なお、その下に、ウィンチェスター銃で武装した鉱山警察が社の警戒にあたっている、と付記してあった。
マクマードは新聞を下におき、二日酔いのためにふるえる手でパイプに火をつけようとしていると、ドアをノックする音がきこえ、下宿の女主人がはいってきて、たったいまどこかの男の子から受けとったばかりだという手紙を彼にわたした。差し出し人の名はなく、こう記されていた。
お話したいことがあるのだが、きみの下宿ではどうも具合がわるい。ミラー丘の旗ざおの下までご足労願いたい。いまからすぐ出向いてくだされば、ありがたい。きみにぜひきいてもらいたい重要なことです。
マクマードはびっくり仰天して、その手紙を二度も読みかえした。何のことかさっぱり見当がつかなかったし、差し出し人もまったく心当たりがなかったからである。これがもし女の筆跡ででもあったなら、過去に何度となく経験した恋の冒険のはじまりだくらいに思ったかもしれない。だがこれはあきらかに男の筆跡だったし、しかも相当に教育のある男のものだった。少しためらったあげく、ついに彼は会ってたしかめることにきめた。
ミラー丘というのは、町のちょうど中心にある荒れはてた公園である。夏場は行楽客でにぎわうものの、冬になると人気(ひとけ)がまったくなくなってしまう。丘の頂上からながめると、うす汚いごみごみした町並みが一望のうちに収められるばかりでなく、くねくねと曲がる谷の光景が眼下にひろがり、谷ぞいの雪の中に黒々と点在する鉱山とか工場や、さらには、谷をはさんでそびえる、森におおわれ雪をいただいた山脈までがひと目でみわたすことができる。マクマードはときわ木の垣根にはさまれた小道をゆっくりと登ってゆき、夏場ならにぎわいの中心となるものの、いまはまったく人気のないレストランにたどりついた。そのそばに旗ざおが一本、旗もつけずに立っていて、その下にひとりの男が、帽子をまぶかにかぶり、オーバーのえりを立ててつっ立っていた。こちらへふり向いた顔をみると、昨夜支部長の怒りをかった同志モリスだった。ふたりは歩み寄ると、さっそく支部の合図をかわした。
「きみにちょっと話しておきたいことがあったのでね、マクマード君」年上の男は、きわどい立場にたっているらしく、ためらいがちに切りだした。「よくきてくれました」
「なぜ手紙にあんたの名前を書かなかったんだい?」
「そりゃきみ、やはり用心するにこしたことはないからね。このごろは、どんなことではね返りがくるかわかったもんじゃない。誰を信じていいやら、さっぱり見当がつかないんだから」
「支部の同志なら信頼できるはずだが?」
「いや、いや、必ずしもそうではない」モリスは語気を強めた。「われわれが口にすることはどんなことでも、いやへたをすると腹の中で考えていることまで、あのマギンティって男につつぬけらしいんだ」
「ちょっと待った」マクマードはきびしい口調で、「あんたもよく知ってのとおり、おれはついゆうべ、支部長に忠誠を誓ったばかりなんだぜ。それでもうおれにその誓いを破れっていうのかい?」
「きみがそう考えるのなら」モリスは悲しげに、「私としては、こんなところへわざわざ呼び出してすまなかったとあやまるしかない。それにしても、自由であるはずのふたりの市民がたがいに思っていることをいえないなんて、こまったことになったもんだ」
相手の様子をじっとみまもっていたマクマードは、いくらか態度をやわらげた。
「なに、自分にいいきかせたまでさ。このとおり新前だから、わからないことだらけでね。おれのほうからは何も話すことはないが、モリスさん、あんたのほうでおれに何か話したいっていうのなら、ここできいてやるよ」
「で、マギンティ親分に告げ口するつもりだな」モリスは苦々しげにいった。
「そいつは誤解っていうもんだぜ。おれとしてはたしかに支部に忠誠をつくすつもりだし、だからそのことを正直にいったまでで、だからといって、あんたが誰にも内緒でおれにうちあけたことをすぐほかの者にもらすような、そんな卑劣な男じゃないつもりだ。おれの胸にしまってはおくが、そのかわり、あんたのいうことに肩をもったり手を貸したりする気はないから、そのつもりでいろよ」
「そんなことをしてもらおうなんて気はさらさらないよ。これを話せば私はきみに命綱をあずけたことになるんだが、きみがいくら悪いったって――もっともゆうべみたかぎりでは、このままいくときみはとてつもない悪人になりそうだが――やっぱりまだきみは新前にすぎないんで、ほかの連中ほど良心が麻痺してはいないはずなんだ。そういうわけできみと話がしてみたいと思ったわけなんだが」
「で、話というのは何だい?」
「私を裏切ったら天罰がくだると思え!」
「誰にもいわないっていっただろう」
「じゃきくが、きみはシカゴで『自由民団』に入団して慈愛と誠実の誓いをたてたとき、それがため将来罪を犯すことになろうなんて思ったかね?」
「あれを罪だというのならね」
「罪というのなら、だって!」モリスは興奮のあまり声をふるわせながら叫んだ。「もしあれを罪でないっていうんなら、きみはまだなにも知っちゃいないのだ。ゆうべきみのお父さんくらいの年配の老人が白髪から血がしたたり落ちるほどなぐられたのは、あれは罪ではないのか? あれが罪でないのなら――きみは何というのだ?」
「闘争だという者もいるぜ。二つの階級が全力でぶつかりあい、たがいに死力をつくして闘うのさ」
「じゃなにかい、きみはシカゴで入団したときから、すでにそんなふうに考えていたのかい?」
「いや、正直にいうとそうじゃなかったさ」
「私だってフィラデルフィアで入団したときは、そんなことは思いもよらなかったよ。たんなる共済組合で、仲間のつどいの場にすぎなかったんだ。ところがあるときこの土地のことを耳にした――ああ、こんな土地のことを耳にしてさえいなけりゃどんなによかったことか! ――で、もうちょっと暮らしをよくしたいと思って、ここへやってきたわけなんだ。ああ、暮らしをよくしたいと思ったばっかりに! 女房と三人の子供もいっしょにつれてきた。で、マーケット・スクエアに衣料品店をかまえたんだが、かなり繁昌したよ。だがいつのまにか私が『自由民団』の団員だといううわさがひろまって、ゆうべのきみと同じように、むりやりここの支部にはいらされてしまった。二の腕にはちゃんと恥辱の印がついているし、心にはもっとひどい焼印をおされている。気がついてみれば、極悪人のいうなりになって罪を重ねていたのだ。ああ、いったいどうすりゃいいんだ? 少しでもましになるようにと思って何かいうと、すぐゆうべのように謀反(むほん)だととられるしまつだ。といって逃げだすわけにもいかない。全財産を店につぎこんでしまっているもんだからね。そうかといって組織から足をあらおうとしたりしたら殺されるのはわかりきっているし、そうなりゃ女房や子供だってどうなることやら、ああ、恐ろしい――ほんとうに恐ろしいことだ!」彼は両手に顔をうずめ、からだをふるわせてすすり泣いた。
マクマードは肩をすくめた。
「あんたは気がやさしすぎるんだ。だからこんな仕事には向いてないんだよ」
「私にはちゃんと良心も信仰もあったのに、あいつらがよってたかってこの私を悪の道にひきずりこんでしまいやがった。私は仕事をあてがわれた。もし尻ごみでもしようものならどんな目にあわされるかはよくわかっていた。私は臆病者なのかもしれない。たぶん妻子を思う気持ちがそうさせるのだろう。とにかく私は出かけていった。あのときのことは一生私の心につきまとうだろう。ここから山をこえて二十マイルほどいったところにあるさびしい一軒家だった。私はゆうべのきみと同じように表の見張りを命ぜられた。肝心な仕事はまかせられないとみたわけだ。ほかの連中はなかへはいっていった。出てきたときは、みんなの手は手首のところまでまっ赤に染まっていた。その場を立ち去ろうとすると、背後の家の中から子供の泣き叫ぶ声がきこえてきた。なんとわれわれはまだほんの五つにしかならない男の子の目の前で父親を殺してきたのだ。恐ろしさのあまり気が遠くなりそうだったが、私はむりやりにでも不敵な笑みを顔をうかべていなけりゃならなかった。もしそうでもしなかったなら、こんどは私の家からあいつらが手を血だらけにして出てくることになって、父が殺されるのをみて泣き叫ぶのは私のかわいいフレッドということになるのがよくわかっていたからだ。だがそれでこの私もれっきとした犯罪者になってしまった――人殺しの共犯ってわけだ。もうこの世ばかりかあの世でも救われることはない。私はこれでも信心ぶかいカトリックだが、私がスコウラーズの一員だと知ると神父は口もきいてくれない。私は破門されてしまったのだ。まあざっとこういったわけなんだ。で、きみがいま同じ道を歩もうとしているのをみてきくのだが、いきつく先はどういうことになるのかわかってるのかい? やっぱり血も涙もない殺し屋になるつもりかい? それとも何とか手をうってそうならないですませられないものだろうか?」
「あんたならどうする?」マクマードが不意にたずねた。「さつに密告でもするかい?」
「とんでもない! そんなことを考えただけでも命とりになるよ」
「ならいいさ。おれにいわせりゃ、あんたは気が弱いんだよ。事を大そうに考えすぎるんだ」
「大そうにだって? この土地にもう少し住んでみりゃわかるよ。あの谷をみるがいい。何百という煙突の吐き出す煙がどす黒くたれこめている。だがあんなものよりももっと暗くどんよりとした殺人の雲が、あの谷の人々の頭上におおいかぶさっているのだぞ。ここは恐怖の谷――死の谷なのだ。日が暮れてから夜明けまでのあいだ、みんなは恐怖におののきながらじっと息を潜めているのだ。まあ見ているがいい。きみにもいずれいやでもわかるときがくるさ」
「じゃもっとよく見た上で、おれの考えをいってやるよ」マクマードは無造作にいってのけた。「ただはっきりしていることは、あんたはこの土地にはそぐわないってことだ。だから、一刻もはやく店のものを売り払ってしまうにこしたことはない――ふだん一ドルで売れるものが十セントにも売れりゃいいところだけどさ。今日のあんたがいったことは誰にもしゃべらない。が、まてよ! まさかあんたが密告したりするようなまねは――」
「と、とんでもない!」モリスは悲しげに叫んだ。
「そうかい、ならいいさ。今日あんたのいってくれたことはよく胸にきざんでおくよ。いつか思い返すこともあるだろうからな。こんな話をしてくれたのもあんたの好意から出たものとうけとっておくよ。じゃおれはそろそろ帰るぜ」
「その前にもうひと言だけ」モリスがいった。「こうしてふたりでいるところを誰かに見られたかもしれない。そうなりゃ、何を話していたのかとうるさくきかれるだろう」
「ふむ、それはもっともなことだな」
「私はきみに私の店で働かないかとすすめた」
「で、おれはそれをことわったと。そういうことにしておこう。じゃ、あばよ、同志モリス。あんたのことが万事うまくいくことを祈ってるぜ」
その日の午後、マクマードが下宿のストーヴのそばで煙草をふかしながらもの思いにふけっていると、ドアがいきなり開いて、マギンティ親分の巨大なからだが入口の枠いっぱいに姿を現した。彼はまず合図をかわしてから若者の真向かいに腰をおろし、しばらく相手をじっと見すえていた。マクマードも負けじと見かえした。
「おれのほうからひとの家を訪ねることはめったにないんだがな、同志マクマード」マギンティはやっと口を開いた。「おれのところへくる客の応対で忙しくて、そんなひまはねえのでな。だが今日は慣行をやぶって、こうしておめえの家まで出向いてきたってわけよ」
「わざわざ来ていただいて光栄です、議員さん」マクマードは心をこめてそういうと、戸棚からウイスキーのびんをとりだした。「まったく思いがけない光栄です」
「腕のほうはどうだ?」親分がたずねた。
マクマードは顔をしかめてみせた。
「まあ、すっかり忘れていられるほどじゃありませんが、それだけの価値はじゅうぶんありますからね」
「そりゃ、それだけの価値はあるさ。もっとも、それはあくまで支部に忠実で、支部と運命をともにする覚悟で働いてくれる者にかぎっての話だがな。けさおめえはミラー丘でモリスと何を話していたんだ?」
突然の質問に一瞬びっくりしたが、あらかじめ答えを用意しておいたので平気だった。マクマードはいきなり腹をかかえて笑い出した。
「モリスは、おれがこの下宿に居ながらにしてけっこうかせいでいけることを知らなかったんですよ。もっともあんなやつにはわざわざ知らせてやる気もないですがね。おれなんかとはくらべものにならないくらいまじめな男なんだから。でもあれは人のいいおっさんだね。おれが職がなくて困っていると思ったらしく、老婆心からよかったらあいつの衣料品店で働かないかってすすめてくれたんです」
「なんだ、そんな話だったのか?」
「ええ、そうなんですよ」
「で、ことわったのか?」
「もちろんですよ。自分の寝室にこもって四時間も仕事すりゃ、十倍は楽にかせげますからね」
「そりゃそうだ。だがモリスとはあんまりつきあわねえほうがいいぜ」
「なぜです?」
「とにかく、おれがそういうんだからそうなんだ。この土地じゃ、それだけいえばたいていの者に通じる」
「ほかの連中には通じてもこのおれにはぴんときませんね、議員さん」マクマードはずけずけといってのけた。「人をみる目がおありなら、そのくらいわかりそうなもんですがね」
色の黒い巨漢は彼をにらみつけ、毛むくじゃらの手でグラスをつかむと、相手の頭に投げつけんばかりの勢いで一瞬ぎゅっと握りしめた。それからいきなり、人をばかにしたような笑い声を大きくひびかせた。
「おめえはおかしな野郎だよ、まったく。よし、わけがききたきゃ教えてやるよ。モリスは支部の悪口をいわなかったか?」
「いいえ」
「おれの悪口もか?」
「いいませんよ」
「じゃ、あいつはおめえを信用しきれなかったんだ。だがな、あいつ腹の中じゃ支部なんてくそくらえって思ってやがるんだ。それをこっちじゃちゃんと見抜いているから、こうしてじっと目をつけてこらしめる機会をうかがっているのさ。もうそろそろ潮どきだと思ってるんだがな。支部じゃ、意気地のねえ卑怯者なんかに用はねえ。だがおめえもあんな裏切者なんかとつきあったりしてると同類と思われることになるぜ。わかったか?」
「つきあうなんてとんでもない。あんなやつ大嫌いですよ。おれのことまで裏切者だのなんだのと、もしこれがあなたでなかったらただではすませないところですよ」
「そうか、それだけききゃじゅうぶんだ」マギンティはグラスを飲み干しながら、「手おくれにならねえうちにひと言いっておきたくてやってきたわけだが、これでわかったはずだ」
「ひとつだけおききしたいんですがね」マクマードがいった。「おれがモリスと話していたということが、いったいどうしてわかったんです?」
マギンティは笑いだした。
「この町であったことはすべて知っておくのがおれの仕事だ。どんなことでも必ずおれの耳に入るものと思ったほうがいいぜ。さて、ひきあげるとするか。おれはただ――」
しかし彼の別れの言葉は、まったく思いがけないかたちで中断されてしまった。突然大きな音がしたかと思うとドアが勢いよく開かれ、警察の制帽を頭にのっけた顔が三つ、険しい表情でふたりをきっとにらみつけたのである。マクマードはさっと立ちあがり、ピストルを抜き出しかけたが、ウィンチェスター銃が二つも自分の頭をねらっていることに気づいて、その腕を途中でとめた。制服に身をかためた男が、六連発のピストルを手にしてはいってきた。かつてシカゴ中央署にいて、いまは鉱山警察の隊長になっているマーヴィンだった。彼はうす笑いをうかべた顔を左右に振りながら、マクマードを見つめた。
「何かやらかすだろうとは思っていたよ、シカゴの悪党マクマード君。どうしてもおとなしくしていることができないらしいな、え? さっさと帽子をかぶって、いっしょについてこい」
「このつぐないはしてもらえるんだろうな、マーヴィンさんよ」マギンティがいった。「ずかずかとひとの家にはいりこんできて、正直に法律を守って生きている市民をわけもなく苦しめたりしやがって、いったい自分を何様だと思ってやがるんだい?」
「この際はあなたには引っこんでいてもらいましょう、マギンティ議員さん」隊長がいった。「今日はあなたじゃなくてこのマクマードに用があってきたんだ。あなたはじゃまなんかしないで、むしろこっちの仕事を手伝ってくれなくちゃ」
「マクマードはおれの友だちだ。この男のしたことにはおれが責任をもつ」親分がいった。
「マギンティさん、あなたにはあなたのしたことで、近いうちに必ず責任をとってもらいますよ。このマクマードって男はここへ来る前から悪いことばかりしておったが、まだあき足らんとみえる。おいきみ、おれが武器をとりあげる間、こいつに銃を向けておいてくれ」
「おれのピストルならそこにあるぜ」マクマードは平然といってのけた。「しかしよ、マーヴィンさん、もしふたりきりで向かいあっていたら、こうやすやすとは捕まらなかっただろうよ」
「逮捕状をみせろ! 畜生! おめえのような野郎がポリ公の服着ていばりかえってやがるくらいなら、こんなヴァーミッサにいるよりロシアへでもいって暮らしたほうがましだ。こいつは資本家どもの横暴だ。このままではすませねえから、覚えてろ」
「議員さん、あなたはあなたの職務とやらに精を出してりゃいいんですよ。こっちはこっちの職務をはたすまででね」
「いったい何の容疑でおれを引っぱるんだ?」マクマードがたずねた。
「ヘラルド社で編集長のスタンガー老人に暴行をはたらいた件でね。殺人罪とまでいかなかったのがせめてもの幸いと思え」
「なあんだ、容疑ってのはそれだけかよ」マギンティは笑いだした。「なら、いますぐよしたほうがむだな手間が省けるってもんだぜ。この男ならゆうべはずっとおれの酒場にいて、十二時ごろまでおれとポーカーをやっていた。証人なら十人あまりいるぜ」
「そんなことはこっちにいったってはじまらない。明日、法廷で決着をつければいいだろう。それよりもマクマード、さあ、くるんだ。銃の台尻を頭にくらいたくなかったら、おとなしくついてこい。マギンティさん、ちょっとそこをどいて下さい。職務の遂行を妨害するようなまねはいっさい許しませんからな」
隊長の断固とした態度に圧倒されて、マクマードも親分もしぶしぶいわれるとおりにした。マギンティは、マクマードが連れていかれる間際に二言三言耳うちした。
「どうなってる――」親指を上へ突きだして、にせ金づくりの道具のことをにおわせた。
「だいじょうぶ」マクマードがささやき返した。床下に安全な隠し場所を細工しておいたのである。
「じゃ、元気でな」親分は握手をしながらいった。「弁護士のライリーに会って、弁護はおれが引き受けてやる。有罪にはさせねえから、安心しな」
「それはどうかな。きみたちふたりで若造のほうを見張っててくれ。おかしなまねをしたら射ち殺してもよい。おれは行くまえにやつの下宿を一応捜査しておく」
マーヴィンは部屋を調べてみたものの、道具が隠されているような痕跡すら見出せなかったようだった。二階から降りてきたマーヴィンは、ふたりの部下といっしょに、マクマードを本署へ連行していった。もうすっかり日が暮れて、あたりは猛吹雪となっていたので、通りに人影はほとんどなかったが、それでもやじ馬たちが数人、一行のあとをつけてきて、暗やみに乗じて、引っぱられていく男に罵声を浴びせかけた。
「スコウラーズの野郎どもをリンチにかけろ! リンチだ!」そして男が警察に連れこまれていくのをみて、大声で笑いながらさかんにやじをとばした。マクマードは担当の警部からごく簡単に形式的な取調べをうけたのち、雑居房へ押しこまれた。そこにはボールドウィンをはじめ、昨晩の事件の仲間が四人もすでに入れられており、みんなその日を午後に逮捕されて、明朝はじまる裁判を待っているのだった。
だが、「自由民団」の長い手はなんとこの法律の砦の内部にまで及んでいた。その夜おそく、寝床がわりに使うわら束を持ってきた看守が、その中から、ウイスキーを二本とグラス数個、さらにはカード一式をとりだした。おかげで連中は翌朝のいやな裁判のことなどすっかり忘れて、一夜を陽気にすごすことができたのである。
しかし、一夜あけた結果が示してくれたとおり、そもそも彼らには心配する必要などまったくなかったのである。治安判事は、証拠不十分のため、事件を正式裁判にかけることを命ずるわけにはいかなかった。まず第一に、植字工や印刷工たちはある筋から強制されたあげく、暗かったせいもありまたあわてていたせいもあって、このなかに犯人がいるとは思うもののはっきり誰と断言することはむずかしいと申し立てたのである。さらに、マギンティに雇われた腕利きの弁護士の反対尋問にあって、ますますしどろもどろの証言をするしまつだった。被害者はさきに証言をすませていて、不意を襲われたのでびっくりしてしまい、最初になぐりかかってきた男が口ひげをはやしていたということ以外は何も定(さだ)かではないとのことだったが、さらにここで、犯人はスコウラーズの連中にちがいないこと、なぜならこの土地で自分に恨みをいだきそうな者はほかに心当たりがないからであり、社説で正面きって攻撃したためかねてから連中には脅迫されていたからだ、と申し加えた。また一方では、市の高給役人であるマギンティ議員をふくむ六人の市民が、異口同音に断固とした口調で、被告たちは犯行時刻をゆうに一時間もすぎるころまでずっとユニオン・ハウスでカードに興じていたと証言したのである。そこで被告たちが、判事席から迷惑をかけてすまなかったといわんばかりのあいさつをたまわって釈放されたことはいうまでもない。逆に、マーヴィン隊長をはじめとする警察側は、職務に熱中するあまり捜査にいき過ぎがあったことを暗にいましめられるはめになったのである。
この判決には、マクマードの顔なじみが多く見うけられる法廷のいたるところから、大きな拍手喝采がわきおこった。支部の同志たちはにこにこして手を振った。しかし、被告たちが被告席から解放されてぞろぞろ出てくるのを、唇をかみしめ、目を伏せるようにして見送る者たちもないではなかった。その中のひとり、小柄で、黒いあごひげをはやした意志の強そうな男は、釈放された連中が目の前を通りすぎるときに、自分たちの思っていることをこう言葉にあらわした。
「人殺しどもめ! いまに見てろ!」
ジャック・マクマードの逮捕と釈放は、仲間のあいだでの彼の人気をいっそうかきたてるには、まさにうってつけのものだった。支部に入団したその晩のうちに治安判事の前へつきだされるようなことをやってのけたのは、支部はじまって以来のことだった。すでに彼は、愉快な仲間、陽気な酒飲みとして好かれ、さらに、侮辱されたとあらばあの恐ろしい親分に対してでも黙ってはいないという気骨のある男としても人気を博していた。だが、それに加えて、こんどのような残忍な悪事をやすやすとたくらみうる頭脳とそれを抜かりなくやりとげる手腕とを兼ねそなえた人物は彼をおいてほかにはいない、という印象を仲間にうえつけることになったのである。
「掃除仕事はやつにかぎる」というせりふが、年配の者たちの間でかわされるようになり、彼らはその腕前を発揮させる日のくるのを楽しみにして待っていた。マギンティは手先に事欠くようなことはなかったのだが、これほど有能な男はいないとしみじみ思った。まるで獰猛(どうもう)なブラッドハウンド犬を一匹飼っているような気がした。小さな仕事なら、ごろごろいる駄犬でじゅうぶん間に合うが、いつかこの猛犬を大きな餌食(えじき)へ向けて放してやろうと思った。支部のなかには、テッド・ボールドウィンをはじめとしてこの新顔の若者の急速な出世ぶりを快く思わず、そのため彼を憎む者もいないではなかったが、彼のけんかっぱやいことは有名だったので、あえて近づこうとはしなかった。
だが、仲間たちの人気は得られた反面、別の方面では彼はすっかり人気を落としていた。しかもこちらのほうが彼にとってははるかに切実なことだった。エティ・シャフターの父親が彼を相手にしなくなり、家への出入りさえ禁じてしまったのである。エティ自身は、彼を深く愛していたのであきらめてしまうわけにはいかず、かといって、犯罪者とみなされている男との結婚に踏みきることには、彼女自身の良識が二の足を踏まざるをえなかった。
ある朝、眠れない一夜をすごしたあげく、彼に会ってみる決心をした。たぶんこれが最後の機会になるだろうが、とにかく会ってみて、彼を堕落させようとしている悪の感化から彼を引きもどすため、今一度できるかぎりのことをやってみようと思いたったのである。遊びにおいでとしょっちゅういわれていた下宿へ訪ねていき、彼が居間として使っている部屋へはいっていった。彼は背中をこちらへ向け、テーブルに向かって手紙を書いていた。ふと娘らしいいたずらっ気がおこった――彼女はまだほんの十九だった。彼女がドアをあけてはいってきたのに彼は気づいていなかった。そこで彼女はつま先だって近づき、彼の前かがみになった肩にそっと手をおいた。
彼をびっくりさせてやるつもりだったとしたらたしかにうまくいったとはいえるが、その結果かえって彼女自身のほうがびっくりさせられるはめになってしまった。彼は猛然と彼女に襲いかかると、右手で彼女ののどを締めにかかった。と同時に、左手で自分の前にあった手紙をもみくちゃにしたのである。そしてしばらくの間、怒りに燃えた目をぎらぎらさせて立ちつくしていたが、やがて、顔をひきつらせた狂暴な表情は、平和な生活に慣れ親しんだ彼女をして恐怖のあまり思わず後ずさりさせた残忍な顔つきは、みるみるうちに驚きと喜びにかわっていった。
「おまえだったのか!」彼は額の汗をぬぐいながらいった。「おまえが来てくれようとは! おれの魂ともいうべきおまえが! なのにおれはおまえの首を締めようとするなんて! さあ、おいで、すまなかったな」彼は両腕をひろげて彼女を待った。
しかし、彼女の目には、男の顔に一瞬浮かんだやましい恐怖の色がこびりついてはなれなかった。女の本能が、それがびっくりした男のたんなる驚きの表情ではないことをはっきりと彼女に告げていた。やましさ――まさにそれだった――やましさの入り混じった恐怖なのだ。
「どうしたのよ、ジャック?」彼女は叫んだ。「どうしてあんなに私をこわがったの? ああ、ジャック、良心にやましいところがなかったら、あんな顔をして私を見なかったはずだわ」
「なに、ちょっとほかのことを考えていたもんだから、そこへおまえがまるで妖精のようにそうっと現われたので――」
「いえ、ちがうわ、それだけじゃなかったわ、ジャック」そのとき急に彼女は疑惑におそわれた。「さっき書いていた手紙をみせてよ」
「ああ、エティ、それはできないんだ」
疑惑は確信にかわった。
「ほかの女のひとに書いた手紙なんだわ! きっとそうよ。でなきゃなぜ私にみせられないの? 奥さんにでも書いていたの? あなたが結婚してないってことも怪しいもんだわ――よそから来たひとなんだし、誰もあなたのことを知らないんですもの」
「女房なんかありゃしないよ、エティ、ほら、このとおり誓うよ。おまえはこの世でおれにとってただ一人の女だ。キリストの十字架にかけて誓うよ!」
顔を蒼白にして真剣な表情でいうので、彼女としても信じないわけにはいかなかった。
「じゃなぜその手紙をみせて下さらないの?」
「じつはね、エティ、誰にもみせないって約束してあるんだ。それで、おまえとの約束を破りたくないのと同様に、この約束の相手を裏切るようなこともしたくないんだよ。支部の仕事に関したことで、こればかりはおまえにも秘密なんだ。だからさっきみたいにいきなり肩に手をおかれたりしたら、刑事かと思ってびっくりするのも無理はないだろう?」
どうやらうそではないらしい、と彼女には感じられた。彼は両腕で彼女を抱きよせ、キスをして、恐怖と疑惑をぬぐいとってやった。
「じゃ、ここへおすわり。女王さまを迎える玉座にしてはちとおそまつだけど、これでも貧しいおれの城では最上席なんだ。そのうちもっとりっぱなところへすわらせてやりたいものだと思っているよ。どうだい、少しは心が休まったかい?」
「どうして心が休まるわけがあって? あなたが札つきの悪党だときかされていて、いつ人殺しとして裁かれるかわからないっていうのに、スコウラーズのマクマード――きのうもうちの下宿人の一人があなたのことをそう呼んでいたわ。それをきいて私、ナイフで胸をえぐられる思いだったわ」
「口だけじゃ怪我することはないさ」
「でも本当のことなんですもの」
「だけどね、おれたちはおまえの思っているほど悪くはないんだよ。貧しい者として、おれたちなりに権利を要求しようとしてるにすぎないんだから」
エティは男の首にすがりついた。
「ジャック、やめて! 私のためを思って――後生だからやめてちょうだい! じつはそれをお願いしようと思って今日ここへ来たのよ。ああ、ジャック、こうして頭をさげてお願いするわ。ひざまずいてお願いするわ。ね、おやめになって!」
彼は彼女をたすけ起こし、彼女の顔を自分の胸に抱きよせてなだめた。
「ねえ、いいかい、おまえは自分のいっていることがどんなことかわかっていないんだよ。そんなことをしたら、自分のした誓いを破って仲間を見棄てることになるんだよ。とてもじゃないがそんなことはできやしない。おれのおかれている立場がわかれば、おまえもそんな無理なことはいわないはずだよ。それに、もしおれが足を洗いたいといったって、いまさらそんなことを許してもらえるわけがないだろう? 秘密をすっかり知ってしまった男を、支部が自由にしてくれるはずがないじゃないか。ちがうかい?」
「そんなことは私も考えてみたわ、ジャック。で、いい計画を思いついたの。父には少しばかり貯えがあるのよ。そして、あんな人たちにおびえながら暮らしていかなければならないこの土地の生活にすっかり嫌気がさしているらしくって、どこかよそへ行きたがってるの。だから、フィラデルフィアかニューヨークへでもいっしょに逃げてしまえば、あとはみんなで安心して暮らせると思うわ」
マクマードは笑った。
「支部の手はどこへでも伸びているのだよ。フィラデルフィアやニューヨークまでは届くまいなんて思ったら大まちがいだよ」
「じゃ西部でもイギリスでも、それかいっそのこと父の故郷のスウェーデンにしてもいいわ。とにかくこの恐怖の谷から抜け出せさえすれば、あとはどこだっていいのよ」
マクマードは同志モリスのことを思いうかべた。
「へえ、この谷がそんな名で呼ばれるのをきいたのはこれで二度目だよ。よほど暗い影がおまえたちをおおっているとみえるね」
「毎日がまっ暗闇よ。テッド・ボールドウィンが私たちを許したなんて思えて? もしあのひとがあなたを恐れていなかったら、私たちどうなっていると思う? 私を見るときの、あのよどんだもの欲しそうな目つきったら!」
「くそ! こんどそんなところをみつけたら、ただではおかないさ。だがね、いいかい、エティ、おれはここを離れるわけにはいかないんだよ。どうしてもだめなんだ。これだけはききわけてくれないか。そのかわり、おれの思いどおりにさせてくれたら、堂々とここを出ていけるようにしてみせるつもりだ」
「そんなことに堂々も何もないわ」
「まあ、まあ、そう思うのはおまえの勝手だけどさ。でも半年待ってくれたら、ほかの連中と顔をあわせても何ら恥じることなくこの土地を離れられるようにしてみせるよ」
娘はうれしそうに笑った。
「半年! 約束してくれる?」
「まあ、七、八ヵ月になるかもしれないな。でもどんなにおそくとも一年以内にはこの谷を出てやるさ」
エティとしてもこれで満足するしかなかった。だが、これだけでもありがたかった。目の前の暗闇にかすかな光がさしてきたのだ。彼女は浮き浮きした気分で父の待つ家へと帰っていった。ジャック・マクマードと知りあって以来、彼女の心がこんなに軽やかになったのはこのときが初めてだった。
団員には組織の活動はすべて知らされるものと思っていたところが、マクマードはやがて、組織は一支部などよりはるかに大きくて複雑なものであることを知るにいたった。マギンティ親分ですら知らないことがたくさんあった。というのも、谷に沿って鉄道でずっと下ったところにあるホブソン新地に、郡委員長という役員がいて、いくつかの支部を支配しており、これが意のままに支部を操っていたからである。マクマードはその男を一度だけ見かけたことがあるが、しらが頭のずるそうな小男で、ねずみのようにこそこそと歩きまわっては悪意のこもった横目で人を見た。エヴァンズ・ポットというのが彼の名だったが、ヴァーミッサの大親分ですら、この男に対しては、あの巨漢のダントンが小男のくせに狂暴だったロベスピエールに感じたような反発と恐怖を覚えるのだった。
ある日、マクマードの下宿仲間のスキャンランがマギンティから手紙をうけとった。それにはエヴァンズ・ポットからの手紙が同封されていた。ポットの用件はこうだった。そちらである仕事を遂行させるために、ローラーとアンドルーズという優秀な部下を二名派遣するが、任務のくわしいことについては明らかにしないほうがいいだろう。ついては行動開始のときがくるまで、宿舎その他に関しては適切な配慮がなされるように支部長のほうでとりはからってもらいたい。マギンティがそれにつけ加えるようにして、ユニオン・ハウスにおいたのでは必ず人目につくので、マクマードとスキャンランとでしばらくの間下宿にかくまってやってくれないか、と頼んできたのである。
その晩のうちに、ふたりの男がそれぞれ手さげ鞄をたずさえて下宿にやってきた。ローラーのほうは、ずる賢そうな顔つきをした、無口でおとなしいかなり年配の男で、古びた黒のフロック・コートに身を包み、それがソフト帽やもじゃもじゃの半白のあごひげと相まって、巡回伝道師のような風貌を彼に与えていた。相棒のアンドルーズのほうは、まだほんの子供で、あどけない顔をしており、たまの休日を思う存分楽しんでやろうとはしゃいでいる行楽客みたいに浮き浮きしていた。ふたりとも酒は一滴もやらず、あらゆる点で一見模範的市民にふさわしいふるまいをみせたが、それでいて彼らこそは、この殺人結社のなかでも一、二を争う有能な殺し屋だったのである。人殺しを重ねること、ローラーはすでに十四回を数え、アンドルーズですら三回に及んでいた。
マクマードは、ふたりが過去の経験を喜んで話すことに気づいた。しかも、社会のためにおのれをすてて善い行いをした者であるかのように、半ば恥じらいながらも誇りをもって話すのだった。しかし目前にひかえている仕事については、口をとざして一言も話そうとはしなかった。
「おれたちが選ばれたのは、おれにしてもこの若えのにしても酒を一滴もやらんからさ」ローラーがいった。「うっかり口をすべらす心配がないからな。悪く思わんでくれよ。おれたちはただ郡委員長の命令に従っているだけなんだから」
「わかっているよ。おれたちはみんなそうさ」マクマードの同僚のスキャンランがいった。四人は夕食のテーブルを囲んでいた。
「たしかにそうだ。だからすんだ仕事の話なら、チャーリー・ウィリアムズ殺しでも、サイモン・バード殺しでもなんでもききたいだけ話してやるが、これからやる仕事については何もしゃべるわけにはいかねえ」
「この土地には一言あいさつしておきたいやつが五、六人ばかりいるんだが」マクマードがいまいましそうにいった。「あんたがたがねらっているのは、アイアン・ヒルのジャック・ノックスじゃあるまいね? やつが罰をうけるのならこの目でみたいもんだぜ」
「いや、まだそいつの番じゃない」
「じゃ、ハーマン・ストローズか?」
「いや、そいつでもない」
「そうか、ま、いいたくないのなら仕方がないが、でも知りたいもんだな」
ローラーはにやっとして、首を横に振った。結局、彼からは何もききだすことができなかった。
ふたりの客人は黙して語らなかったが、スキャンランとマクマードは、彼らのいう「お遊び」の現場だけはぜひとも見ておきたいものだと思った。それである朝早く、マクマードはふたりの客が階段をそっと降りていく気配に気づくと、スキャンランを揺り起こし、ふたりは急いで服を身につけにかかった。服を着おわって階下(した)に降りてみると、客たちは出ていったあとで、玄関のドアはあいたままになっていた。まだ夜は明けておらず、通りの先のほうを行くふたりの客の姿が街燈の光に照らしだされていた。そこでマクマードたちは、深い雪の上を足音をたてないように踏みしめながら、用心ぶかくふたりのあとを追った。
下宿は町はずれに近く、先のふたりはすぐに町の外の十字路に達した。そこには三人の男たちが待っていて、ローラーとアンドルーズのふたりはその男たちとちょっとの間何やら真剣に立ち話をしていた。やがて五人はいっしょに歩きはじめた。人手を要する大仕事らしい。この十字路からは細い道が何本か伸びていて、あちこちの鉱山に通じていた。男たちはクロウ・ヒル鉱山へ通じる道を進んだ。この鉱山は、ジョサイア・H・ダンというニューイングランド生まれの大胆で気力あふれる男がしっかりと経営しているおかげで、いつおわるともしれない恐怖時代のさ中にあっても秩序と規律を維持してこられた大会社だった。
しだいに夜が明けはじめ、労働者たちがぞろぞろとどす黒い地面の上を歩いていく。
マクマードとスキャンランは労働者たちにまじって、五人の男たちを見失わないように歩きつづけた。あたりは濃い霧に包まれ、その霧の中から突然汽笛がきこえてきた。朝一番の昇降機が降りる十分前の合図だった。
堅坑をとりまく広場にたどりつくと、百人あまりの坑夫たちが、冷えこみがきびしいので、足踏みをしたり手に息を吐きかけたりしながら待っていた。五人の男たちは機関室のかげに小さくかたまって立っていた。スキャンランとマクマードはぼた(ヽヽ)山に登ってみた。するとあたりがすっかり見わたせた。メンジスという名の、あごひげをはやしたスコットランド生まれの大男の鉱山技師が、機関室から出てきて昇降機を降ろさせる合図の笛を吹くのが見えた。すると同時に、ひげをそりあげ、まじめそうな顔をした、背の高いしまりのないからだつきの男が、せかせかと坑口のほうへ歩みよった。途中でふと、機関室のかげに寄りそうようにして黙ってじっとつっ立っている男たちの姿が目にはいった。みんなそろって帽子を目深(まぶか)にかぶり、コートのえりを立てて顔を隠すようにしている。一瞬、この若い経営者の心臓は死の予感に凍りついた。だがすぐにそれをはらいのけると、ただ務めをはたすべく、不審な男たちのほうへ歩み寄った。
「おまえたちは何者だ? そんなところで何をしているんだ?」
答えはなかった。するといきなり若いアンドルーズが歩みでて、彼の鳩尾(みずおち)に一発撃ちこんだ。仕事の始まるのを待っていた百人あまりの坑夫たちは、からだが麻痺してしまったかのように、呆然としてつっ立っていた。経営者は両手で傷口をおさえ、からだを折りまげた。そしてよろめきながら逃げだそうとしたが、そこへ殺し屋たちの中からもう一人がさらに一発浴びせたので、彼は鉱滓の山の上へ横ざまに倒れ、もがき苦しんだ。スコットランド生まれのメンジスはこれを見て、怒り狂ったような叫び声をあげ、鉄のスパナをつかんで殺し屋たちめがけてつきすすんでいったが、顔面に二発くらって、連中の足下にばったり倒れ、それっきり息が絶えてしまった。坑夫たちの一部は殺し屋たちのほうへじわじわとつめ寄り、同情と怒りの入り混じったわけのわからない叫び声あげたが、殺し屋たちの中の二人が坑夫たちの頭上へ六連発銃をつづけざまに撃つと、彼らはくもの子を散らすように逃げていき、なかにはヴァーミッサのわが家めざして一目散に駆けていく者もあった。少数のとりわけ勇敢な連中が、再び勇気をふるい起こし、坑夫たちの先頭に立って坑口にひき返してみると、殺し屋たちはすでに朝もやの中へ姿を消したあとで、百人もの人間の目の前で人をたてつづけに二人も殺した男たちの人相をはっきり証言できる者は、結局一人もいなかったのである。
スキャンランとマクマードは帰途についたが、スキャンランはなんとなく元気がなかった。というのも、自分の目で殺人の現場を見たのはこれが初めてだったからでもあり、また、話にきいていたほど面白いものでもなかったからである。殺された経営者の妻のものすごい悲鳴が、町へ急ぐふたりの耳にこびりついて離れなかった。マクマードは黙りこくったまま、何かを考えこんでいる様子だったが、相棒の意気消沈したさまにはなんの同情も示さなかった。
「そうさ、戦争のようなもんだよ」彼は繰り返しいった。「おれたちとあいつらとの戦争さ。それだけのことだよ。ここぞというところをねらって攻めこむのさ」
その夜、ユニオン・ハウスの支部の部屋では盛大な酒宴が催された。それは、クロウ・ヒル鉱山の経営者と技師を殺したことによって、この会社を、脅迫をうけ恐怖におびえているこの土地のほかの会社と同じ立場に追いこんだことのためだけでなく、遠く離れた土地において支部自らの手で勝ちとられた勝利を祝うためでもあった。郡委員長は、ヴァーミッサの鉱山に一撃を加えんがため五人の腕利きの部下を送りこんできたとき、その返礼として、ギルマトン地区では知名度の点でも人気の点でも一、二を争う鉱山主、ステイク・ロイヤル鉱山のウィリアム・へイルズを殺すため、ヴァーミッサのほうからも三名の選り抜きを秘かによこしてもらいたい、と要求してきていたらしい。このヘイルズという男はあらゆる点で模範的な経営者で、この世に彼を憎む者は一人もおるまいと世間では信じられていた。それでも仕事の能率ということに関しては口うるさくいう性質(たち)だったので、飲んだくれや怠け者の連中を解雇したところ、それが恐るべき「自由民団」の男たちだったのである。彼は家の玄関さきに棺おけの絵を貼られたが、それでも決心をひるがえさなかった。その結果、この自由な文明国に住んでいながら、殺される運命となったのである。
処刑は滞りなく実行された。支部長のそばの名誉の席にふんぞりかえっているテッド・ボールドウィンが、そのときの首領だった。まっ赤な顔をして、どんよりした目を血走らせているのは、そのための睡眠不足と飲酒を物語っている。彼は二名の仲間を率いて前夜を山中で過ごしたのである。そのせいで三名とも髪はぼさぼさで、服もひどく汚れていた。だがいかに決死隊とはいえ、無事帰還した英雄でこれほど仲間からあたたかい歓迎をうけたものはかつてなかったといってよい。彼らの話は何度も繰り返され、そのたびごとに歓声と笑い声がわき起こった。彼らは、相手の男が日が暮れてから馬車で帰宅する途中を襲うため、馬がいやでも速力をゆるめざるえない険しい坂の頂で待ち伏せた。男は防寒のため毛皮を着こんでいたので、ピストルに手をやることすらできなかった。彼らは男を馬車から引きずりおろし、銃弾を何発も浴びせかけたのである。
連中の誰ひとりとしてその男を知らなかったが、人殺しには永遠の劇があるし、これでギルマトンのスコウラーズに、ヴァーミッサ支部がたのむにたることを示したことになる。ただひとつだけ、思いがけないやっかいな事が起こった。もはや石のようになった男の死体になおもピストルの弾丸を撃ちこんでいると、たまたま一組の夫婦づれが馬車で通りかかったのである。ついでにふたりとも撃ち殺してしまえといいだす者もあったが、鉱山とは無縁の害のなさそうな人間たちだったので、他人にばらすとひどい目にあうぞとさんざんおどしたすえ、そのまま通してやったのである。そして、血まみれの死体を、男と同じように冷淡な他の雇い主たちへの見せしめとしてその場に置き去りにして、三人の気高き復讐者は山の中へと急いで姿を消した。その未だ汚れを知らぬ大自然の山をずっと下っていくと、溶鉱炉やぼた山の群れにぶつかるのだった。
スコウラーズにとってはすばらしい日であった。谷をおおう影はいちだんと暗くなってきた。だがマギンティ親分は、賢明な将軍が勝利のときこそ気をひきしめて、敵陣に息つくひまを与えず、戦果を倍加するように、戦況を残忍な目でじっとにらんで考えたすえ、自分にたてつく者たちに新たな攻撃を加える計画をたてた。その夜、酔っぱらった連中が解散すると、彼はマクマードの腕をつついて、ふたりが初めて会ったときに連れこんだ奥の部屋へと導いた。
「おい、いいか、とうとうおまえにふさわしい仕事ができたぞ、おまえがすべてとりしきってやるんだ」
「そりゃ光栄のいたりです」マクマードがいった。
「手下を二名連れていくがいい――マンダースとライリーだ。ふたりにはもういい渡してある。チェスター・ウイルコックスを始末せんことには、この土地で安心して暮らすわけにはいかんからな。だからおまえがやつを片づけてしまえば、この炭坑地帯の支部という支部から感謝されることになるぜ」
「とにかく最善をつくしますよ。ところで、どういう男なんです? で、どこにいるんです?」
マギンティは、口のはしにくわえっぱなしで、半ばくしゃくしゃにかみつぶした、すいかけの葉巻を口からとって、手帳からちぎりとった紙に略図を書きはじめた。
「アイアン・ダイク会社の現場主任なんだ。がんこなおやじでな。軍隊では軍旗護衛曹長をつとめた男で、古傷だらけのしらが頭のじいさんだよ。もう二度もやつをねらったんだが、うまくいかなくて、おまけにジム・カーナウェイが命を落とす始末さ。そこでこんどはおまえさんにやってもらおうってわけよ。アイアン・ダイク十字路のそばのここがやつの家なんだが、地図を見りゃわかるとおり、まったくの一軒家だから付近に気づかれる心配はない。だが昼間はまずい。銃をもっていて、怪しいとみりゃいきなり撃ってきやがる。すばやいうえにねらいは確かだ。しかし夜なら――そういや、やつには女房とがき(ヽヽ)が三人、それに女中がいるんだが。でもその中からやつ一人だけというわけにはいくまい。やるならみな殺しだ。玄関に爆薬をしかけて、それに導火線を――」
「やつは何をやったんです?」
「だからジム・カーナウェイを撃ち殺しやがったといったろう」
「なんでジムを撃ったんです?」
「そんなこときいていったい何になる? カーナウェイが夜中にやつの家のまわりをうろついていたら、いきなり撃ってきやがったんだ。それだけいやじゅうぶんだろう。で、おまえにあと始末をお願いしようってわけさ」
「女二人に子供三人でしたね。そいつらもあの世行きですかい?」
「しかたあるまい。ほかにどうやって、やつをしとめるっていうんだい?」
「でもちょっと酷な気がするな。だって彼女らは何もやってないんだから」
「いまさら何をいう? おじけづいたのか?」
「まあまあ、議員さん、おちついて。おれがいままでに、支部長の命令に尻ごみするようなことをいったりしたりしたことがありますか? ことの是か否かはもちろんあなたが決めることですよ」
「じゃ、やるんだな?」
「むろんやりますとも」
「いつ?」
「そうだな、ニ、三日待ってもらいたいですね。まず家を見てきて、計画をたててから、その上で――」
「いいだろう」マギンティはマクマードの手を握りしめながらいった。「おまえにまかせたぜ、うれしい知らせを楽しみにして待っているからな。このとどめの一撃で、やつらはひとり残らずおれにひざまずくようになるさ」
マクマードはいきなりまかせられたこんどの任務のことを、じっくりと時間をかけて考えた。チェスター・ウィルコックスの住んでいる一軒家は、五マイルばかり離れた近くの谷にあった。その夜のうちに彼はたったひとりで下見に出かけた。帰ってきたのは夜が明けてからだった。翌日、彼はふたりの部下に会った。マンダースもライリーも向こうみずな若者で、まるで鹿狩りにでもいくみたいに張りきっていた。それから二日後の晩、三人は町はずれで落ちあった。三人とも拳銃で身をかため、ひとりは、発破に用いる爆薬を詰めた袋をもっていた。
一軒家にたどり着いたのは午前二時だった。風の強い夜で、四分の一ほど欠けた月の表面をちぎれ曇が飛ぶように流れていった。ブラッドハウンド犬に気をつけろといわれていたので、撃鉄を起こした拳銃を手に、三人は用心してすすんでいった。だが耳にきこえてくるのは風のうなる音だけで、頭上にそよぐ木の枝のほかにはものの動く気配はまったくなかった。マクマードは一軒家の戸口でじっと耳をすましてみたが、家の中は静まりかえっていた。そこで彼は爆薬を戸口にしかけ、ナイフで穴をあけて導火線をつないだ。導火線に火をつけると、ふたりの部下とともにすばやくその場からしりぞき、少し離れたところにある溝の中に身を伏せた。すると耳をつんざくような大音響とともに家が鈍い音をひびかせて砕け散った。仕事は成功した。組織の血なまぐさい歴史においても、これほどあざやかになしとげられた仕事はあるまい。ところが、くやしいかな、これほど大胆な計画のもとに周到な準備を重ねてなされた仕事が、結局、まったくのむだ骨だったとは!
随所に犠牲者が続出していることで警戒心を起こし、自分もねらわれていることを察知したチェスター・ウィルコックスは、家族をひきつれて、つい一日まえに、警察の監視のとどく、人目につかぬもっと安全なところへ引っ越していったあとだったのである。したがって、爆薬でふきとばされたのは空き家だったわけで、厳格な元軍旗護衛曹長は、あいかわらずアイアン・ダイクの坑夫たちをきびしく指導監督しつづけていたのである。
「あいつはおれにまかせてくれ」マクマードはいった。「おれのねらった獲物だ。こうなったらたとえ一年かかったって、必ずこのおれの手でしとめてやる」
支部は満場一致で、マクマードへの感謝と信頼の決議案を採択した。数週間後、ウィルコックスが待ち伏せにあって射殺されたことが新聞で報道されると、マクマードがやり残していた仕事をついにやりとげたのだということが公然の秘密となった。
「自由民団」のやりかたは、ざっとこのようなものであり、こういったふるまいによって、スコウラーズの連中はこの実り豊かなすばらしい土地に恐怖の支配力をふるい、長い年月にわたって人々をふるえあがらせてきたのである。これ以上連中の罪をならべたてて紙面を汚してみたところで何になろう? 連中や連中のやり口については、もうこれでじゅうぶんおわかりいただけたはずである。これらの所業は歴史にも記されているし、くわしいことが知りたければ、記録もある。それにはたとえば、ハントおよびエヴァンズの両警官が射殺された事件――ふたりの団員をあえて逮捕しようとした丸腰の無力な両人に対してヴァーミッサ支部の手によって企てられた残虐非道な事件のことが、こと細かに記されている。それからまた、ラービイ夫人が、マギンティ親分の指令をうけた連中の袋叩きにあい瀕死の重傷を負った夫の看病をしている最中に、射殺された事件、ジェイムズ・マードックが暴行をうけたすえ半身不随にされた事件、スタプハウス家が爆薬でふきとばされた事件、ステンダール一家みな殺し事件などはすべて、ひと冬のうちにたてつづけに起こり、世間をふるえあがらせたのである。
恐怖の谷は深い闇にとざされた。春がきて、谷川の流れは勢いをまし、木々は花を開かせた。長い間きびしい冬を耐えしのんできた自然には、希望の光がさしはじめた。しかし、恐怖の枷(かせ)にひたすら耐えているこの地の男女には、なんの希望もなかった。一八七五年の初夏ほど、彼らの頭上にたれこめる暗雲が絶望的な暗さを帯びたことはなかったのである。
恐怖の支配は頂点に達した。すでに支部長補佐役に抜てきされていたマクマードは、いずれはマギンティのあとを継いで支部長になる人物であることが衆目の一致するところであり、もはや彼の助力と助言なくしては会議すらなりたたないほどの、重要な人物になっていた。しかしながら「自由民団」の内部での人気が高まれば高まるほど、ヴァーミッサの町ですれ違う人々の彼を見る目はいっそう冷たいものになっていた。
市民たちは、恐怖におののきながらも、一致団結してひるまずに圧政者に立ち向かおうとする姿勢をみせはじめた。ヘラルド新聞社で秘密の集会が開かれたとか、善良な一般市民たちの間で火器の配布が行われたとかいううわさが支部の耳にもはいってきた。だがマギンティも部下の者たちも、そのようなうわさにはびくともしなかった。こちらは大勢だし、闘志満々、武器にも不自由しない。それにひきかえ相手はまとまりに欠け、もろくて弱い。だからどうせこんどもいままで同様、たんなるうわさ話に終わるか、せいぜい二、三の者が逮捕されるくらいでけりがつくにきまっている。マギンティやマクマードをはじめ、ずぶとい連中はみんなそういっていた。
五月のある土曜日の晩のことだった。土曜日の晩はいつも支部の集会があったので、マクマードがそれに出席するため下宿を出ようとしていると、支部の小心者モリスが会いにやってきた。心労のため額にしわをきざみ、やさしそうな顔をひきつらせて、やつれはてている。
「マクマード君、今日はきみと心おきなく話がしたくてやってきたんだが」
「いいとも」
「いつかきみに本心をうちあけたことがあったが、きみがそれを誰にももらさず、親分自らがきみのところへそのことで探りを入れにやってきたときですら黙っていてくれたことは、本当にありがたく思っているよ」
「あんたの信頼を裏切るようなまねはできないからな。といって、あんたの話に賛成したわけじゃないんだぜ」
「よくわかっている。だが何を話しても安心していられるのはきみだけだよ。私はここに秘密を」――彼は胸に手をあてた――「もっているんだが、そのために身を焼かれる思いだ。よりによってこの私が知るはめになるなんて。もしこれを口外すれば、どうせまた人が殺されるにきまっている。といって黙っていれば、われわれみんなの破滅は目にみえている。ああ神様、なんとかしてくれ。でないと私は気が狂いそうだ!」
マクマードは真剣な表情で相手の男をみた。手足ががたがたふるえている。彼はグラスにウイスキーを注いで相手にわたしてやった。
「いまのあんたにはこれがなによりの薬だ。さて、で、その話というのをきこうじゃないか」
モリスはウイスキーを飲んだ。青白い顔にほんのりと赤みがさしてきた。
「話というのはごく簡単、探偵がわれわれをつけねらっているんだ」
マクマードはあ然として相手をみつめた。
「なんだって、おい、気でも狂ったか! この土地に警官や探偵がうようよしているのは、なにもいまにはじまったことじゃない。だからといって、おれたちが一度だって危害をこうむったことがあったかい?」
「いや、ちがうんだ。こんどのはここいらの連中とはわけがちがうんだよ。なるほどこの土地のやつらならたかが知れているさ。たいしたことはできやしない。だがピンカートン探偵社のうわさはきいたことがあるだろう?」
「そういう名の連中のことは何かで読んだことがあるな」
「うそはいわん、あの連中にねらわれたらひとたまりもないよ。やる気のないお役所仕事の連中とはわけがちがう。仕事となると死に物狂いでとりくんできて、ねらった獲物をとことんまで追いつめ、ぜったいとり逃がさないやつらなんだ。だからピンカートンのやつらがひとりでも本気でここの仕事に乗りだしてきたら、われわれはみんなおだぶつだよ」
「殺してしまうしかないな」
「ほれ、きみはすぐそうくるだろう! 支部の連中だってそういうにきまってる。だから結局人殺しを招く結果になるだけだっていったんだ」
「いったい人殺しがなんだっていうんだい? このへんじゃごくあたりまえのことじゃないか?」
「そりゃそうだが、でも殺されるはめになる男の名をわざわざ教えるようなまねは、私にはできないよ。そんなことをすれば、一生心の休まるときはないだろうからね。といってほっとけば、危ないのはこっちの首だし。いったい私はどうすりゃいいんだろう?」彼は決断の苦しさに耐えかねて、からだを大きくゆすった。
だが彼の言葉は、マクマードの心を強く動かしていた。危険が迫っていてなんとか手をうつ必要があるという点では、彼もモリスと同意見であるらしいことは容易にみてとれた。彼はモリスの肩をつかみ、真剣になってゆすぶった。
「おい、よくきくんだ」彼は叫んだ。興奮のあまり、ほとんど絶叫に近かった。「亭主に死なれたばあさんじゃあるまいし、そんなところで泣き言をいってたってはじまらないぜ。事実をはっきりさせようじゃないか。そいつは何というやつなんだ? どこにいる? どこからそいつのことをきいたんだ? なぜわざわざおれに知らせにきた?」
「なぜってそりゃ、相談相手になってくれるのはきみしかいないからだよ。私はここへ来るまえは東部で店をもっていたってことは、いつかきみにいったろう。そういうわけで、向こうには親友が少なくないんだけど、そのうちのひとりが電信局に勤めているんだ。ところがきのう、その男からこんな手紙がきてね。で、ここんとこの、この頁の上あたりからなんだけど、ちょっと読んでみてごらんよ」
マクマードが読んだのは、つぎのような一文だった。
そちらでのスコウラーズの様子はいかが? こちらの新聞には彼らの記事がしょっちゅうでています。これは内密の話ですが、近いうちにきみから面白い知らせが頂けるものと期待しています。といいますのも、じつは、五つの大企業と二つの鉄道会社がついに本腰を入れてこの問題に取りくみはじめたからです。いざやるとなれば、必ずやりとげるでしょう。もうすでにかなり力を注いでいるようで、ピンカートン探偵社が依頼をうけて乗りだし、同社きっての腕利き探偵バーディ・エドワーズが調査にあたっていますから、悪事が一掃される日もそれほど遠くないでしょう。
「追伸のところも読んでみてごらん」
もちろん以上お伝えしたことは、私が業務上たまたま知りえたことにすぎず、これ以上のことはわかりかねます。なにしろ相手は職場で毎日うんざりするほど扱っている、わけのわからない奇妙な暗号文なものですから。
マクマードは両手でたよりなげに手紙をつかんだまま、しばらくじっと黙っていた。ふと霧がはれたかと思うと、目の前には深淵が口をあけて待っていたのだった。
「ほかにこのことを知っている者はいるのかい?」彼はたずねた。
「誰にもしゃべらないよ」
「でもこの男が――あんたの友人のことだが――手紙を出しそうな相手はほかには?」
「そうだな、一人や二人はいるだろうな」
「ここの支部にか?」
「ありうるね」
「このバーディ・エドワーズとかいう野郎の人相についてでも何か知らせてきていやしないかなと思って、きいてみたまでなんだが。人相さえわかれば、こっちのもんだからな」
「そりゃそうだけど、でもこの友人もエドワーズのことは知らないんじゃないかな。仕事の上でたまたまわかったことを知らせてきてくれただけなんだから。こんなピンカートンの男なんかを知っているわけがないだろう?」
マクマードは突然、とびあがらんばかりにはっとして、叫んだ。
「あ、そうか! あいつのことか。いままで気がつかなかったなんて、おれもどうかしているよ! でもありがたい、おれたちはついてるぜ! やつが何かしでかすまえに、こっちが先に始末してやる。なあ、モリス、この件はおれにまかせてくれないか?」
「そりゃいいけど、でも私を巻きこんだりしないでくれよ」
「そんなことはしない。おれがうまくやるから、あんたは引っこんでりゃいいさ。あんたの名をだすことすらしないよ。この手紙もおれのところへきたことにして、万事おれがひきうけてやる。それならいいだろう?」
「望むところだよ」
「じゃ、そういうことにして、あんたは黙ってろ。さて、おれはこれから支部へ行くが、いまにみてろ、このピンカートン野郎をくやしがらせてやるから」
「殺すつもりじゃないだろうな?」
「モリスさんよ。そんなことはなるべく知らずにいたほうが、良心も休まるし、それだけ安眠もできるってもんだぜ。何もきかずになりゆきにまかせるがいいさ。おれにまかしとけって」
モリスは帰りじたくをしながら、悲しげに頭を振って、うめくようにつぶやいた。
「なんとなく私が殺すような気がするよ」
「いずれにせよ。自己防衛は人殺しじゃないさ」マクマードが残忍な微笑をうかべていった。「やるかやられるかだ。やつをいつまでもこの谷に放っておいたら、おれたちはひとり残らずやられてしまうぜ。だがなあ、モリス、いまにあんたを支部長に選挙してやらねばならんな。なにしろ支部の救い主なんだからな」
しかしながら、マクマードが口でいってる以上に深刻にこの新たな外敵の侵入をうけとめていることは、彼の行動からも明らかだった。それは良心のやましさのなせるわざなのか、それとも相手がうわさにきくピンカートン機関だからなのか、あるいはまた富める大企業がスコウラーズ一掃に乗りだしてきたことを知るに及んでのことなのか、理由はいずれにせよ、彼の行動はどうみても最悪の事態に備えんとする者のそれであった。下宿を出るまえに、彼はまず証拠となるような書類をすべて焼きすてた。それがすむと、ひとまずこれで一安心とほっとして、長いため息をついた。だが、それでもまだ不安をぬぐいきれないとみえて、支部へ行く途中でシャフター老人の家へたち寄った。出入りは禁じられていたのだが、かまわず窓をたたいてみると、エティが出てきた。彼女の恋人の目には、アイルランド生まれを物語る、いつものきびきびしたいたずらっぽさがなくなっていた。彼女はマクマードの真剣な顔つきをみて、危険がさし迫っていることを読みとった。
「何かあったのね! ああ、ジャック、あなたの身が危ないのでしょう!」
「いやなに、たいしたことじゃないさ、エティ。でもまあ、ひどいことにならないうちに立ちのいたほうがいいかもしれないね」
「立ちのくですって!」
「いつかはよそへ移るって、おまえに約束しておいたはずだよ。どうやらその時がきたらしい。今夜ある情報がはいったんだ――悪い知らせだ。やっかいなことがもちあがりそうなんだ」
「警察?」
「なに、ピンカートンさ。といってもおまえには何のことやらさっぱりわかるまい。ましておれのような人間に何を意味するかなんてことはね。とにかくおれは少し深入りしすぎたようだ。だからこうなりゃ一刻も早く足を洗ったほうがいいのかもしれん。おまえは、おれが逃げるときは、いっしょについてくるといったね?」
「ああ、ジャック、それがあなたの救われる道なんですもの」
「エティ、おれだってそうでたらめな男じゃない。たとえどんなことがあっても、おまえのその美しい髪の毛を一本だって傷つけさせやしないし、いつもおれが仰ぎみているその雲の上の黄金の玉座からおまえを引きずりおろすようなことは、ぜったいしないつもりだ。おれを信じてくれるかい?」
彼女は何もいわずに自分の手を彼の手に重ねあわせた。
「よし、じゃ、おれがこれからいうことをよくきいて、そのとおりにしてくれ。とにかくおれたちにはこれしか道はないんだからね。じつは、この谷で一波乱起こりそうなんだ。たぶんまちがいない。そうなると、わが身を心配しなくちゃならなくなる者が、おれたちの中にはたくさんいる。いずれにせよ、おれはその一人だ。おれが逃げだすときは、昼でも夜中でも、おまえはいっしょについてくるんだ!」
「ジャック、私あとからいくわ」
「いや、だめだ、いっしょに(ヽヽヽヽヽ)くるんだ。この谷からしめだされたら、おれは二度と帰ってこられないかもしれないっていうのに、どうしておまえひとりをあとに残していける? たぶんおれは警察の目をくらましていなきゃならなくなるから、手紙をかわすなんてこともできないんだぜ。いっしょにこなきゃだめだ。おれのもといたところに親切なおばさんがいるから、結婚できるようになるまで、おまえをあずかってもらうつもりだ。いっしょにくるね?」
「いいわ、ジャック、ついていくわ」
「おれを信じてくれてうれしいよ。おまえのその信頼を裏切るような卑劣なまねはぜったいにしないって誓うよ。さあ、いいか、エティ、おれからの連絡はたった一言だ。それがとどいたら、何もかもほうり出して大急ぎで停車場の待合室へいき、おれがいくまで待ってるんだ」
「昼でも夜中でも、知らせをきいたらすぐにいくわ。ジャック」
自分の逃亡の準備がひとまずできたので、マクマードはいくらか安心して、支部へ向かった。もうすでに集会ははじまっていて、出入口を外側と内側から厳重に見張っているふたりの男とややこしい合図をかわしたあげく、やっと奥へはいれた。集会室にはいると、喜びにみちた歓迎のざわめきが彼を包んだ。細長い部屋は人であふれ、もうもうと立ちこめる煙草の煙の中に、支部長の黒いもじゃもじゃ頭や、ボールドウィンの冷たい残忍な顔、秘書のハラウェイのはげたかのような顔、そのほか支部の幹部連中の顔が十人あまり見えた。彼は例の情報を討議するのにふさわしい顔ぶれがそろっているのを見て、うれしく思った。
「やあ、いいところへきてくれた、同志!」議長が叫んだ。「おまえの知恵を借りなきゃならん問題があってな」
「ランダーとイーガンのことなんだよ」彼が席につくと、となりの男が教えてくれた。「スタイルズタウンでのクラップ老人射殺のことで、支部の賞金をめぐって、撃ったのはおれのほうだといってふたりが争っているんだが、どっちの弾丸(たま)があたったかなんて、誰にもわかるまい?」
するとマクマードはさっと立ちあがって、手をあげた。その顔つきをみて一同はしんと静まりかえり、固唾(かたず)をのんでみまもった。
「支部長殿、緊急動議を提出します」彼は厳粛な口調でいった。
「同志マクマードは緊急動議があるという。したがって、支部の規定によりこれを優先させることにする。さあ、同志、述べたまえ」マギンティがいった。
マクマードはポケットから例の手紙をとりだした。
「支部長殿ならびに同志諸君、私は本日ここに悪い知らせをもってまいりました。このままではわれわれは不意打ちをくらい、全滅することになりかねず、それよりは前もってみなさんにお知らせして、論議していただくにこしたことはないと考えた次第です。私の入手しましたる情報によりますと、この州でも有数の富と力を誇る大企業たちが一致団結して、われわれの撲滅へ向けて動きだしております。すでにいまこの瞬間にも、バーディ・エドワーズと称するピンカートン探偵社の男が、この谷にて証拠の収集にあたっており、われわれの多くをしばり首にし、この部屋にいる諸君をひとり残らず重罪犯として独房へぶちこむ下準備をすすめております。こういった事態に対し、なんらかの対応策を講じる必要があるかと思い、あえてみなさんにおはかりした次第です」
場内は水を打ったように静まりかえった。それを破ったのは議長の声だった。
「同志マクマード、いったい何を証拠にそんなことをいうのだ?」
「私の入手しましたこの手紙がなによりの証拠です」そういって、マクマードは問題の箇所を読みあげた。「この手紙については、約束にもとづきこれ以上はどうしても申しあげるわけにはいきません。またおわたしするわけにもいかないのです。しかしいま読んでおきかせしたところ以外は、支部の利害とはまったく無関係であることを保証いたします。私としては、みなさんに申しあげるべきことはすべてありのままに申しあげた次第です」
「議長、ちょっといいですか」年配の連中のひとりがいった。「バーディ・エドワーズのうわさはじつは私も耳にしたことがあります。ピンカートン探偵社のなかでもいちばんの腕利きだというもっぱらの評判です」
「誰かやつの顔を知っている者があるか?」マギンティがたずねた。
「私が知っています」マクマードがいった。
みんなは一斉に驚いて、場内がざわめいた。
「ですからわれわれの手に負えない相手では決してありません」彼は勝ち誇ったような笑みをうかべて、「こちらが迅速かつ巧妙に行動すれば、ことは簡単にけりがつくはずです。私を信頼し力を貸してくだされば、何も恐れることはありません」
「そもそもいったい何を恐れなきゃいけないんだい? そんなやつにしっぽをつかまれてたまるもんか」
「みんながみんな、議長さんのようにしっかりしているのであれば、そうもいえましょう。しかしこの男には、資本家の巨億の富が後ろについているのです。この支部には金でころぶような弱い者は一人もいない、といいきれますか? 必ずどこかからわれわれの秘密をかぎつけるでしょう――おそらくもうつかんでいるかもしれません。確実な対応策はただひとつあるのみです」
「この谷から生かして帰さぬことだ」ボールドウィンがいった。
マクマードはうなずいた。
「そのとおりだ、同志ボールドウィン。きみとはしばしば意見を異にしてきたが、今夜のきみの言葉はすっかり気に入ったぜ」
「で、その男はどこにいるんだ? おれたちはどうやってやつを見分けりゃいいんだ」
「支部長殿」マクマードは真剣な表情でいった。「この件は支部の死活にかかわる重要な問題ですから、公(おおやけ)の場で論議するのはふさわしくないと考えるのですが、いかがでしょう? といってなにもここに列席のみなさんを疑っているわけでは、決してありません。しかしもし万一、うわさめいたものがたとえほんの少しでもこの男の耳にはいるようなことがありますと、こちらの勝ち目はまずなくなります。よって私は、支部の信任のもとに特別委員会を設けることを提案いたします。私の考えとしましては、議長、まずあなたをはじめとして、ここにいる同志ボールドウィン、そしてさらにあと五名ばかりの方に加わっていただければよいかと思います。その席でならば、私は私の知りえたこと及びとるべき方策についての私なりの考えを、率直に申しあげるつもりでおります」
この提案はただちに採択され、委員会の顔ぶれがきまった。議長とボールドウィンのほかに、はげたかのような顔のハラウェイ秘書、残忍な青年殺し屋「虎」のコーマック、会計係のカーター、そしてウイラビー兄弟、といった連中で、いずれも、どんなことでも平気でやってのける大胆不敵な命知らずばかりだった。
集会のあとでのいつもの宴会も今夜はあまりもりあがらず、早目に切りあげられた。一同の心に暗い影がさしはじめ、多くの者は、長きにわたって雲ひとつなく晴れわたっていた頭上の空に、復讐に燃える法の暗雲がただよいだしたことに初めて気づいたからである。他人をおびやかすことに慣れきってその上にあぐらをかいてきた彼らは、懲罰のことなどすっかり忘れてしまっていただけに、いまそれが身近に迫っていると知って、なおさらびっくりしたのである。彼らは委員に選ばれた連中をのこして、はやばやと引きあげていった。
「さあ、マクマード」委員だけになると、マギンティがいった。七人は座席に凍りついたようにすわっている。
「さっきもいいましたように、私はバーディ・エドワーズを知っています」マクマードは話しはじめた。「これはいうまでもないことですが、ここではその名を使っていません。勇敢な男にはちがいありませんが、ばかじゃないですからね。ここではスティーヴ・ウィルソンと名のっていて、ホブソン新地に宿をとっています」
「どうして知ったんだ?」
「偶然話をしたことがあるのです。そのときはもちろんそんな男だとは思いもよらず、この手紙の件がなかったら、それっきり忘れてしまっていたにちがいありません。でもいまは、その男がそうだとはっきり確信しています。水曜日の汽車の中で出会ったのですが――なんともやっかいな出会いでしたよ。彼は自分のことを新聞記者だというんです。で、しばらくこっちもそうかと思っていました。『ニューヨーク・プレス』紙の記事にしたいので、スコウラーズのことなら何でもいいから、どんな『ひどいこと』をするのかできるかぎり知りたいんだっていうんです。なんとか特だねを手に入れようとして、いろんな質問をしつこく浴びせてきましたよ。もちろん私は何ももらしませんでしたがね。『お礼はするよ。うちの編集長の気に入るようなネタを提供してくれたら、たっぷりするからさ』なんていうので、そいつの喜びそうなことを話してやると、お礼だといって二十ドル札を私の手につかませて、『ぼくの知りたいことをすべて教えてくれたら、この十倍だすよ』っていうんです」
「で、やつに何をしゃべったんだ?」
「でたらめばかりですよ」
「どうしてやつが新聞記者じゃないとわかったんだ?」
「こういうわけです。そいつはホブソン新地で降りたんですが、じつは私もそこで降りたんです。たまたま電信局に立ちよってみると、ちょうどやつと入れちがいになったんです。やつが出ていってしまうと、局員が私をつかまえて、『ねえ、これじゃ倍の料金をもらったっていいくらいですよ』ってぐちをこぼすんです。で、やつの電文をみると、どうみたって中国語のようにしか思えないような字がぎっしりと書いてあるんです。私は『もっともだね』といってやりました。『さっきの人は毎日こんなものを打ちにくるんですよ』『そうかね』『新聞の特だねらしいんです。よそに盗まれるのが心配なんですね』局員がそういうもんだから、私もそのときはなるほどと思っていたんですが、でもいまではそんなこと信じちゃいませんよ」
「なるほど、きっとおまえのにらんでるとおりだぜ!」マギンティがいった。「で、おれたちはどうすりゃいいというんだい?」
「てっとりばやく片づけてしまえばすむことじゃないですか」誰かが口をだした。
「そうとも、早いにこしたことはない」
「やつの居どころさえつかめていれば、いますぐにも出かけるんだが」マクマードがいった。「ホブソン新地にいることはいるんだが、肝心の家がわからない。そこでいい考えを思いついたんです。もっとも気に入ってもらえたらの話ですがね」
「じゃ、いってみろよ」
「私があすの朝ホブソン新地へ出かけていって、例の局員からやつの居どころをききだします。あの局員なら知ってるはずです。で、あいつに会ったら、私が団員であることを打ち明けてやり、支部の秘密をすっかり売ってもいいともちかけます。するととびついてくるにきまってます。そうしたら、証拠書類は家においてあるのだが、人目につくときにこられたんじゃこっちの命が危ないといってやる。やつもなるほどと思うでしょう。で、夜の十時にきてくれれば何もかもみせてやるといえば、必ずやつをおびき出せるはずです」
「それで?」
「あとの段どりはみなさんにまかせますよ。私が下宿している後家のマクナマラ婆さんの家は人里離れたところにあります。婆さんは鉄みたいに堅く、柱みたいに耳の遠い女です。家には婆さんをのぞけば、スキャンランと私しかいません。私がやつの約束をとりつけたら――そのときはむろんみなさんに連絡しますが――ここにいる七人全員で九時までに私の下宿にきてもらいたい。で、やつを下宿に連れこむ。もし生きて出られたら――そうだな、やつはバーディ・エドワーズの幸運を生涯の語り草にするがいいでしょう」
「必ずピンカートン探偵社に欠員を一人つくってやるぜ」マギンティがいった。「じゃマクマード、そういうことにしよう。あすの晩九時にみんなでいく。おまえがやつを家の中へ引き入れてしまえば、あとはおれたちにまかせてくれ」
マクマードのいったとおり、彼の住んでいる家はひっそりとした一軒家で、彼らの計画したような犯罪にはまさにうってつけのところだった。町はずれにあって、街道からはかなり引っこんだところにたっていた。これが普通の場合だったら、いままでに何度となくやってきたように、相手を表へ呼びだしてピストルの弾丸(たま)をたっぷり撃ちこんでやるだけですんだのだが、今回にかぎってそうはいかなかった。相手がどれだけ知っているのか、どうやって知ったのか、依頼主にはどんなことをすでに報告したのか、などをききだしておくことが必要だったからである。もうすでに手おくれで、取りかえしがつかないということもありうる。もしそうだったとしても、そんな事態をもたらした男に少なくとも復讐だけはとげることができるのだ。しかしこの探偵もまだたいしたことはつかんでいまいと、彼らは楽観していた。もし真相に迫っているのだったら、マクマードが教えてやったとかいうつまらない情報をわざわざ電文にして報告するようなことはすまい、というのが彼らの意見であった。だがこういったことはすべて、本人の口からきけばわかることだ。いったんつかまえてしまえば、口を割らせることはそうむずかしいことではあるまい。強情な相手を扱うのは、なにもこんどが初めてのことではないのだから。
マクマードは打ち合わせどおり、ホブソン新地へ出かけていった。この朝はなぜか警察が彼にとくに目を光らせているようだった。マーヴィン隊長――シカゴでマクマードと顔なじみだったとかいう男――は停車場で汽車を待っている彼にわざわざ話しかけてきたほどだった。だがマクマードは顔をそむけて相手にならなかった。午後、使命をおえて帰ってくると、彼はユニオン・ハウスにマギンティを訪ねた。
「やつはくるそうです」彼が報告すると、
「そいつはしめた!」マギンティがいった。この巨漢は上衣をつけず、ゆったりとしたチョッキの胸に紋章をつけた金鎖をきらきらと斜めにたらし、ごわごわしたあごひげのふちに光り輝くダイヤのネクタイピンをのぞかせていた。酒場の主人と政治屋を兼ねているおかげで、この親分は、権力だけでなく富をも手に入れていたのである。それだけに、前夜彼のまえに忽然(こつぜん)と姿を現して以来、ともすれば眼前にちらついてはなれない牢獄や絞首台の面影が、なおさら恐ろしいものに思われるのだった。
「やつはすでにかなり知っていると思うか?」彼は心配そうにたずねた。
マクマードは暗い表情で首をふった。
「もうだいぶ前からここへきているんです――少なくとももう六週間にはなるでしょう。まさかこんなところへ景色を見にきたわけじゃあるまいし、そのあいだじゅうずっと、鉄道会社から金をもらって仕事をしていたのだとすれば、すでにかなりの成果をあげて、報告もすませているとみていいと思います」
「支部にはそんな弱い男は一人だっていやしないぜ。みんな筋金入りばかりだ。いやまてよ、あのモリスのような意気地なしもいるからな。やつならどうかな? もしおれたちを売ったやつがいるとすれば、きっとあいつにちがいねえ。夕方までに若えもんを二、三人あいつのところへやって、少し痛い目にあわせてやるとするか。何か吐くかもしれねえからな」
「まあ、それも悪くはないでしょうね」マクマードはいった。「しかし正直いって、おれはモリスって男がなんとなく好きだから、あの男がひどい目にあうのはかわいそうな気がしないでもないですがね。支部のことで二、三おれに話しかけてきたことがあって、たしかにあなたやおれとは必ずしも同じ意見ではないらしいけど、だからといって裏切るような男とは決して思えないですね。といって、べつにあの男をかばってやる気はまったくないですがね」
「あの野郎、おれが始末をつけてやる。この一年ずっとやつに目をつけていたんだ」マギンティはいまいましそうにいった。
「あの男のことはあなたにまかせるけど、でも何をするにせよ、あすまで待つべきですよ。ピンカートンの件が片づくまでは、われわれはおとなしくしていなきゃなりませんからね。とにかく今日だけは、警察を刺激するようなことは慎まなくちゃ」
「それもそうだな。それにどうせどこで情報を手に入れたかは、バーディ・エドワーズ本人の口からききだしてやるぜ。いざとなりゃ、やつの心臓をえぐりだしてもな。罠に気づいているようすはなかったか?」
マクマードは笑った。
「なにしろこっちはやつの弱点をつかんでますからね。スコウラーズの手がかりが得られるとなりゃ、やつはどこまでもついてきますよ。金ももらいましたよ」札束をとりだしてみせながら、彼はにやりとして、「書類を全部見せてやったら、もっとくれるそうです」
「何の書類だ?」
「なに、そんなものありゃしませんよ。ただ綱領だの規約だの団員名簿だのといったでたらめを並べておいただけです。やつはとことん調べあげてから引きあげるつもりでいるんですよ」
「ふん、ばかな野郎だぜ」マギンティが不気味な声でいった。「で、なぜその書類をもってこなかったのかってききやしなかったか?」
「なんかおれがそんなものをもち歩いているみたいですね。まるで容疑者だ。今日も停車場ではマーヴィン隊長に話しかけられるしまつだし」
「うん、そのことはきいたよ。この調子じゃ、どうやらおまえの身がやばいことになりそうだな。あの隊長さんとやらも、そのうち片づけて古い竪坑にでも放りこんでやるさ。しかしそれはともかくいまはさしあたって、おまえが今日会ってきたホブソン新地の野郎を始末してしまわねえことにはな」
マクマードは肩をすくめてみせた。
「うまくやれば、殺したことなんてわかりゃしませんよ。暗くなってからだったら、やつが下宿にくるところを人に見られる心配はないし、きたら最後、生きて出られやしないんだから。議員さん、じゃいいですか、いまからおれの計画をいいますから、あとでみんなにもしっかりとたたきこんでおいて下さい。まず、みなさん全員、約束の時間に遅れないようにきてもらう。いいですね。あの男は十時にきます。やつがドアを三回たたくと、おれがドアをあけることになっています。そしたらおれがやつのうしろにまわって、ドアをしめてしまう。それでやつも袋のねずみです」
「ごく簡単なことじゃないか」
「ええ。でもそれからがちょっとやっかいなんです。なにしろ手ごわい相手ですからね。武器だってちゃんともってますし、うまくだましてはおきましたが、油断するようなやつじゃないですからね。おれしかいないと思っていたところが、部屋に案内されてみるとそこに七人もいたんでは、やつはどう思うでしょう。撃ちあいになるかもしれず、そうなるとこっちにけが人がでないともかぎりません」
「そりゃそうだな」
「そればかりか、銃声をききつけて、町じゅうのポリ公が駆けつけてくるでしょう」
「なるほどそりゃまずいな」
「そこで考えたんですが、みんなには大きな部屋――いつかあなたと話をしたことのある例の部屋で待ってもらうんです。おれはドアをあけてやつを迎え入れたら、まず玄関わきの客間へ通しておいて、書類をとりに奥へ引っこみます。そうすれば、そのすきにみんなにようすを伝えることができますからね。それからおれはでたらめの書類をもってやつのところへもどります。やつがそれを読んでいるところを、おれはいきなりとびかかって、やつの利き腕にしがみつきます。で、おれの呼ぶ声をきいたら、みんなはすぐとびこんできて下さい。できるだけ早いほうがいいです。腕力はほぼ互角だろうし、ことによるとおれの手におえないかもしれませんからね。でもみんながくるまでは、なんとかもちこたえてみせますよ」
「そりゃ名案だ。こんどのことでは支部はおまえに感謝せねばなるまいな。これで、おれが支部長の座をしりぞく際には、安心して後任を推薦できるってもんだぜ」
「とんでもない、議員さん、おれなんかまだほんの駆けだしですよ」マクマードはそういったものの、その顔にはまんざらでもないようすがにじみでていた。
下宿へ帰ると、彼は目前に迫った運命の一夜に備えて準備にとりかかった。まずスミス・アンド・ウェッソンを掃除し、油をさし、弾丸(たま)をこめた。それから探偵をおとしいれる部屋をしらべた。かなり大きな部屋で、中央には細長いもみ材のテーブルがあり、あとの三方にはそれぞれ窓があった。鎧戸はついてなかった――ただうすいカーテンがつるされているだけである。マクマードはそれらを丹念に見てまわった。今夜のような秘密の仕事をやるには少し開放的すぎると思ったにちがいない。でも街道から引っこんでいるおかげで、それも支障をきたすほどのことではなかった。最後に彼は同宿のスキャンランと相談した。スキャンランもスコウラーズの一員ではあったが、仲間の意見にあえて逆らえるほどの勇気もなく、ときどき手伝わされる血なまぐさい仕事にも内心びくびくしながらつきあっているといった、毒にも薬にもならない小心者だった。マクマードは今晩の計画を手みじかに話してやった。
「マイク・スキャンラン、だからおれだったら今夜はこんなところにいないで、どこかよそへいってるよ。今夜中にここで血をみるのは必至なんだから」
「そうかい、いやなに、マック、おれだってなにもやる気がねえわけじゃねえのだが、どうにも気が弱くてね。こないだも例の炭坑で経営者のダンがやられるのをみたときにゃ、じつはあまりいい気持ちがしなかったんだ。おれはあんたやマギンティとはちがって、どうやらこういったことには向いてねえんだな。支部ににらまれることさえなきゃ、あんたのいうとおりにして、今夜はあんたたちにまかせるよ」
みんなは打ちあわせどおりの時刻にやってきた。小ざっぱりとした服装に身を包んだその外見だけをみれば、りっぱな市民としか思えないが、その冷酷な口もとや残忍な目つきをよくみれば、バーディ・エドワーズの助かる見込みはほとんどないことが、はっきりとうかがえた。連中はひとり残らず、いままでに十回やそこらは手を血で赤く染めたことのある男たちだった。まるで肉屋が羊を殺すように、平気で人間を殺す連中だった。なかでもとりわけ残忍だったのは、顔つきといいふるまいといい、いうまでもなくマギンティ親分だった。秘書のハラウェイは、ほっそりとしたみるからに意地悪そうな男で、やせこけたひょろ長い首をしていて、手足を神経質そうにぴくぴく動かすくせがあった――支部の財政に関するかぎりは清廉で信頼のおける人物だったが、それ以外のことになると、正義とか誠実とかいった観念はひとかけらももちあわせていなかった。会計係のカーターは、冷淡な、どちらかといえばむっつりした顔つきの、黄色い羊皮紙みたいな皮膚をした中年男だった。策を練ることにたけ、いままで行ってきた悪事の実際的計画は、ほとんど彼のずる賢い頭から生まれたものだった。ウイラビー兄弟は二人ともしなやかなからだつきをした長身の行動家で、顔には決然たる闘志をみなぎらせていた。兄弟と仲のいい「虎」のコーマックは、ずんぐりした色黒の若者で、その凶暴な性質は仲間からさえも恐れられていた。その夜、ピンカートンの探偵を殺すためにマクマードの下宿に集まってきたのは、ざっとかくのごとき連中だった。
主人役のマクマードがテーブルの上にウイスキーをだしておいたので、みんなは仕事前の景気づけにと、あわただしげにそれを飲んでいた。ボールドウィンとコーマックはすでにかなり酔いがまわっており、早くも凶暴性を発揮しはじめていた。コーマックは両手でストーヴにちょっとさわってみた――春とはいえ夜はまだ冷えるので、火がいれてあったのである。
「これならいけるぜ」彼は憎しみをこめていった。
「そうだとも」ボールドウィンは彼のいわんとするところを察して、「そいつへしばりつけてやったら、やつも泥を吐くにちがいねえ」
「心配しなくとも、泥は必ず吐かせてみせるぜ」マクマードがいった。このマクマードという男は、鋼鉄の神経の持主だった。今夜の仕事の全責任を一人で背負っていながら顔色ひとつ変えず、じつに平然とかまえている。ほかの連中もそれに気がついて、さかんに感心していた。
「おまえにまかせておけば安心だ」親分は満足そうにいった。「おまえにのどをしめあげられるまで、やつはなんにも気がつくまい。窓に鎧戸がないのが残念だな」
マクマードは窓のカーテンをしめてまわった。
「これでもう外からはのぞかれやしない。そろそろくるころだな」
「くるとはかぎらんさ。危険をかぎつけたかもしれねえ」秘書がいった。
「だいじょうぶ、必ずくるさ」マクマードがいった。「こっちが会いたがってるのと同様、向こうもきたがってるんだから。ほら、きいたか!」
みんなはまるで蝋人形のように、身動きひとつしなかった。口へもっていきかけたグラスを途中でとめた者もいた。玄関のドアをたたく大きな音が三つきこえた。
「しいっ!」マクマードは片手をあげて注意を促した。一同は喜びに輝かせた目をたがいに見かわし、それぞれ隠しもっているピストルに手をやった。
「ぜったいに音をたてるんじゃないぞ!」マクマードはそうささやくと、ドアをそっとしめて部屋の外に消えた。
殺し屋たちは耳をすまし、固唾(かたず)をのんで待った。廊下をいく仲間の足音を耳で追った。玄関のドアをあける音がきこえた。何やらあいさつめいた言葉がかわされている。すると誰かが家の中へ足を踏み入れる音がきこえ、ききなれない声がひびいてきた。つづいて玄関のドアがしまり、鍵がまわされる。獲物はまんまと罠にかかったのだ。「虎」のコーマックがげらげら笑いだしたので、マギンティ親分はあわててその口を大きな手でぴしゃりとおさえた。
「しずかにしねえか、このばか! だいなしにする気か」
となりの部屋から、何やらぼそぼそと話す声がきこえてきた。それがやけに長く感じられる。するとようやくドアが開き、マクマードが唇に指をあてて姿を現した。
彼はテーブルのはしまでいって、一同を見まわした。彼のようすがどことなくさっきとちがっている。まるでこれから大仕事をやってのけようとする者のような態度だった。顔には断固たる決意がみなぎり、眼鏡の奥の目は激しい闘志に燃えている。彼が一座の主導権を握ってしまったことはどうみても明らかだった。みんなは好奇の目を輝かせてじっと彼を見つめたが、彼は何もいわない。異様な目つきでいつまでも一同を見まわしている。
「どうした、きたのか? バーディ・エドワーズはきたのか?」マギンティがついにたまりかねて叫んだ。
「きた」マクマードはゆっくりと答えた。「バーディ・エドワーズはここにいる。おれがそのバーディ・エドワーズだ!」
十秒ばかり、部屋には人がいないのではないかと思われるくらい、深い沈黙があった。ストーヴの上で煮えたぎるやかんの音だけが、するどく耳にひびいてくる。七つのまっ青な顔が、恐怖のあまり凍りついたようになって、彼らの前に君臨する男を呆然と仰ぎみている。すると突然、窓ガラスの砕け散る音がして、窓という窓から冷たく光る銃身がのぞきこみ、あっという間にカーテンがむしりとられた。これを見てマギンティ親分は、手負いの熊のようにうなり声をあげ、半ば開いたままのドアめがけて突進していった。だがそこにもピストルがねらいをつけて待ちかまえており、鉱山警察のマーヴィン隊長の青い目が照準のうしろできびしく光っていた。親分はあとずさりして、もとの椅子に倒れこんだ。
「そこにいるほうが身のためだよ、議員さん」いままでマクマードとして知られていた男が、いった。「それからボールドウィン、そのピストルから手をはなさないと、死刑執行人の仕事が一人ぶん減ることになるぞ。さ、はやくしろ。さもないと――よし、それでいいんだ。この家は四十人もの武装警官で包囲されている。逃げられるものかどうか、ちょっと頭を働かせればわかるはずだ。マーヴィン、こいつらの銃をとりあげてくれ!」
ライフル銃をぐるりからつきつけられたのでは、もはや抵抗のしようもなかった。一同は武器をとりあげられ、悄然としてふてくされながらも、おとなしくテーブルのまわりにすわっていた。
「別れる前にひと言いっておきたいことがある」一同を罠にかけた男がいった。「これで、こんどは法廷の証人席に立つときまで、おまえらに会う機会はまずあるまい。それまでにいまからいうことをじっくり考えてみるがいい。おれの正体はもうわかったはずだ。やっとたねをあかせるときがきたってわけだ。おれこそ何を隠そう、ピンカートン探偵社のバーディ・エドワーズだ。おれはおまえら一味をぶっつぶす役をおおせつかった。これは困難で、危険をともなう勝負だった。誰ひとりとして、最も親しい者や最愛の者ですら、おれがやろうとしていることを知らなかった。知っていたのは、ここにいるマーヴィン隊長とこの仕事の依頼主だけだった。だがありがたいことに、それも今晩でおわった。そしておれは勝ったのだ!」
七つの青ざめてこわばった顔が彼を見あげた。それらの目には、激しい憎悪があふれんばかりに煮えたぎっていた。彼はそこにぞっとするような威嚇を読みとった。
「おそらくおまえらは、勝負はまだついていないと思っているだろう。なら、おれはいつでも相手になってやる。だがいずれにせよ、おまえらの中にはこれを最後にもう二度と勝負にいどめなくなる者もいる、ということを忘れるな。それに、今夜中にぶた箱へぶちこまれる者が、おまえたちのほかにも六十人ばかりいるはずだ。じつをいうとこの仕事をまかせられたとき、正直いっておまえらのような組織が現実にあるなんて信じられなかった。どうせ根も葉もないうわさ話にすぎないんだろうから、それならそれで、そのことを証明してやればいいと思っていた。きくところによると『自由民団』に関係があるらしいということだったので、早速シカゴへいって、入団してみた。ところがそこは悪事にはおよそ縁のない、むしろ善意あふれる団体だったので、ますますもって、これはたんなるうわさ話にすぎないと確信するようになった。それでも仕事を放り出すわけにはいかなかったので、ものはためしとこの炭坑の谷へやってきた。ここへきて初めて、自分の考えがまちがっていたことがわかった。三文小説にあるようないいかげんな話ではなかったのだ。それで、おれはここに踏みとどまって調べてみることにした。おれはシカゴで人を殺したことなんてないし、にせ金をつくった覚えもありゃしない。おまえたちにくれてやったのは全部、りっぱに通用する本物の金だ。でもあんなに有効に金を使ったのは初めてだぜ。おれはおまえたちに気に入られるこつを知っていた。それで、法に追われているふりをしたのだ。で、そういったことはすべて思いどおりに運んだってわけさ。
そうして、おれはおまえたちの腐りきった支部へはいって、会議にも顔をだすようになった。だからおそらく、おれもおまえたちと同罪じゃないかというやつがでてくるだろう。だがこうしておまえたちをつかまえてしまったのだから、いいたいやつには好きなようにいわせておくさ。しかし事実はどうだったかな? おれが入団した晩に、おまえたちはスタンガー老人を襲った。あのときはあいにく時間がなかったので、まえもってあの老人に警告してやることができなかったのだが、しかしボールドウィン、おまえがあの男を殺しかねないのをみてとめにはいったのは、このおれだったはずだぜ。たしかにおれはいろんな悪事を提案したかもしれないが、それはあくまでもおまえたちの信用を得るためにしたまでのことで、どれもこれもおれが未然に防げる自信のあるやつばかりだったのさ。もっともダンとメンジスの件だけは情報をしっかりとつかんでいなかったので、助けてやることができなかったのだが、あのふたりを殺したやつは必ず絞首台に送ってやる。チェスター・ウィルコックスのときは、まえもって知らせてやれたので、おれがあの男の家を爆破する前に家族をつれて無事避難することができたってわけさ。そのほかおれの防ぎきれなかった犯罪も少なくなかったが、でもいまから振りかえってみて、ねらった相手が別の道を通って帰ったり、家を襲ってみると町へ出ていて留守だったり、出てくるのを表で待っていたら家にとじこもったままだったり、そういったことが何度あったことか、よく思い出してみるがいい。あれは全部、このおれがやったことなのだ」
「この裏切者め!」マギンティが歯ぎしりをしてののしった。
「いいとも、ジョン・マギンティ、それで気持ちがおさまるのだったら、なんとでもいうがいい。おまえら一味はいままでずっと神に背き、この土地の人々の敵だったのだ。おまえらに苦しめられている哀れな人たちを、誰かが勇気をだして救ってやらねばならなかった。それには方法はひとつしかなかった。そしておれはそれをやりとげたのだ。おまえはおれのことを『裏切者』というが、人々を救わんがためにあえて地獄の底まで降りていったおれのことを『救いの主』と呼んでくれる人も、かなり大勢いるはずだ。おれはその仕事に三ヵ月費やした。ワシントンの大蔵省の金を自由に使っていいといわれたって、もう二度とこんなことをするのはごめんだ。おまえらの秘密から何からすべてをこの手ではっきりつかむまでは、おれはこの土地にしがみついていなければならなかったのだ。おれの秘密がばれそうになっていることを知らなかったら、もう少し待ってようすをみていたはずだ。ところが、おれの正体をあかしかねない一通の手紙がこの町に舞いこんできたのだ。もうぐずぐずしてはいられなかった。そこですぐさま行動に移ったってわけさ。もうこれ以上おまえらに話すことはないが、最後にひと言、おれが死ぬときがきたら、この谷でなしとげた仕事のことを思い出せば心おきなく死ねるだろう、とだけいっておく。さあ、マーヴィン、お待たせしたな。みんなを呼び入れて、さっさと仕事をすませてくれ」
もう語るべきことはあまりない。スキャンランはマクマードから、エティ・シャフター嬢のところへ届けてくれと、封書を一通わたされていた――彼は目くばせをすると、にやりと笑ってひきうけたのだった。つぎの朝早く、ひとりの美しい女性と顔をすっぽりと包んだ男が、鉄道会社が特別に仕立ててくれた列車に乗りこむと、この危険な土地を誰にもじゃまされることなくすばやく去っていった。これを最後に、エティもその恋人も二度とこの恐怖の谷に足を踏み入れることはなかった。十日後、二人はシカゴで、ジェイコブ・シャフター老人の立ち会いのもとに、結婚式をあげた。
スコウラーズの裁判は、残党の動きから法の尊厳を守るため、遠く離れた土地で行われた。連中はむだな悪あがきを必死にこころみた。支部の資金――付近一帯から恐喝によって巻きあげた金だが――を湯水のように使って、仲間を助けようと必死になったが、所詮、悪あがきにすぎなかった。連中の生活、組織、悪事のすみずみまで知りつくしているひとりの男の冷静で明晰な、感情をまじえない陳述は、連中の弁護人のいかなるこじつけによってもゆらぐことはなかった。長い年月ののち、ついに一味は滅び去るときがきたのだ。谷をおおっていた暗雲は、永遠にはらいのけられた。マギンティは最後がくると、泣き喚きながら絞首台の上で露と消えた。八人の主だった部下も彼と運命をともにした。五十人あまりの者が、長短さまざまの懲役に処せられた。バーディ・エドワーズの仕事はこうして完了した。
ところが、彼の懸念していたとおり、勝負はまだ終わっていなかったのだ。ひとつ、またひとつと、いつ果てるともなくつづくのだった。テッド・ボールドウィンが絞首刑をまぬがれたこともそのひとつだった。ウイラビー兄弟もそうだったし、ほかにも凶悪きわまりない連中が何人か、死をまぬがれていた。十年間、彼らは世間から隔絶されていたが、ふたたび自由に歩ける日がやってきた――連中をよく知るエドワーズが、これでもはや自分の生活に平和はありえない、と覚悟をきめる日がやってきた。彼らは、エドワーズを血まつりにあげて同志の復讐をとげようと、およそ神聖に思えるあらゆるものにかけて、誓いあった。そして、その誓いの実現のために必死の努力をつづけた。彼はシカゴから追われるようにして逃げた。二度もあやうく殺されそうになり、三度目は必ずやられるにちがいないと確信したからである。シカゴをあとにした彼は、名を変えて、カリフォルニアへと移った。そこで妻のエティに死なれ、しばらくは生きる意欲を失った。しかしここでもまた殺されそうになり、ふたたび名をダグラスと改めて、人里離れた峡谷に移り住み、そこでバーカーというイギリス人と組んで働き、ふたりしてかなりの財産を築きあげた。だがここでもついにまた、血に飢えた犬どもにかぎつけられてしまったことを知らされ、急いでイギリスへ渡って、かろうじて難をのがれた。そしてここに、ジョン・ダグラスという名の男が現われることとなったのである。彼はよき伴侶を得て再婚し、サセックス州の田舎紳士として五年間、平和な生活をおくってきた――その平和な生活が、われわれの知るにいたったような奇怪な出来事によって突如断ち切られることとなったのである。
警察裁判所での手続きは終わって、ジョン・ダグラスの事件は上級裁判所に移されることになった。そこで巡回裁判に付された結果、彼の行為は正当防衛とみなされ、彼は無罪をいいわたされた。「いかなる犠牲をはらっても必ずご主人をイギリス国外へ連れ出して下さい」ホームズは夫人に手紙で忠告した。「いままでご主人がなんとかかわしてきた危険よりはるかに恐ろしい危険が、この国には待ちうけています。イギリスにいるかぎり、ご主人の安全はありません」
それから二ヶ月がすぎ、私たちもこの事件のことは忘れかけていた。するとある朝、郵便受けに謎めいた手紙がはいっていたのである。「イヤハヤ、ホームズ君! イヤハヤ!」その奇妙な手紙にはこう記されてあった。宛名も差し出し人の名もない、私はあまりのおかしさに笑ってしまったが、ホームズは異様なほど真剣な顔つきをしていた。「悪魔の仕わざだよ、ワトソン君!」彼はそういったきり、まゆをくもらせてじっとすわりこんでいた。
その夜おそく、下宿の主婦ハドソン夫人が、ひとりの紳士がきわめて重大な用件でホームズに面会を求めている、と取りついだ。彼女のすぐうしろからはいってきたのは、あの堀をめぐらした領主館で知りあったセシル・バーカー氏だった。顔はこわばり、やつれはてている。
「悪い知らせがありました――恐ろしい知らせです、ホームズさん」彼はいった。
「私も心配していたところです」と、ホームズ。
「あなたも海底電信を受けとられたのですか?」
「ダグラスのことなんですが、かわいそうに。みんなはエドワーズと呼ぶのですが、私にとってはいつまでもベニト・キャニオンのジャック・ダグラスです。三週間前に夫婦そろってパルマイラ号で南アフリカへ旅立ったことは、申しあげましたね」
「うかがいました」
「その船は昨夜ケープタウンに着きました。で、けさ、ダグラス夫人からこんな海底電信が届いたのです『セント・ヘレナ沖デ暴風ニアイ、ジャックハ甲板カラ落チ行方不明。事故ノ模様ヲ目撃シタ者ハ一人モナシ――アイヴィ・ダグラス』」
「ははあ! そうか、なるほどね」ホームズは考えこみながらいった。「ふむ、うまく演出したものだ」
「というと、たんなる事故じゃないとおっしゃるのですか?」
「もちろん」
「じゃ殺されたとでも?」
「まちがいありません!」
「じつは私もそう思っているんです。あのいまいましいスコウラーズのやつめ。執念ぶかいあの悪人どもの仕わざに――」
「いやいや、そうじゃありませんよ。これにはその道の達人の手が加わっているのです。切りつめた猟銃や野暮な六連発銃なんかを使うのとはわけがちがいます。絵筆のさばき具合をみただけで巨匠の絵がわかるように、私には、モリアーティの仕事が一目ですぐ見ぬけるのです。この犯罪はアメリカではなくロンドンで仕組まれたものです」
「しかし動機は何でしょう?」
「およそ不可能という文字を知らない男――何をやっても必ず成功するという事実の上に類(たぐい)まれな地位を築きあげた男の仕わざなのです。ひとりの男を抹殺するために、偉大な頭脳と巨大な組織が全精力を傾けたのです。ハンマーでくるみを割るようなものですが――精力のばかげた浪費にはちがいありませんが――それでも、くるみはやはりもののみごとに砕け散ったわけです」
「その男はなぜこんなことに首を突っこんできたのでしょう?」
「私としてもただ、あの事件についての最初の知らせをもたらしてくれたのがその男の部下だったということしか申しあげられません。このアメリカ人たちも、頭をよく働かせましたよ。イギリスで仕事をしなければならなくなると、どこの国の犯罪者でもよくやるように、この偉大な犯罪専門家に協力を仰いだのです。そのときに、連中にねらわれた男の運命はきまってしまいました。最初はこの犯罪専門家も、組織の力を利用してねらった獲物の居どころをつきとめてやるだけで満足していたことでしょう。それから、獲物のしとめ方を教えてやることになった。最後に、例の殺し屋が失敗したことを新聞で知るに及んで、たまりかねて達人自らが乗りだし、あざやかな筆さばきをみせたわけです。私がバールストン館で、あの人に、いままでにない恐ろしい危険が迫っていると警告したのを、おききになったはずです。私のいったとおりだったでしょう?」
バーカーはやりばのない怒りに拳(こぶし)を握りしめ、自分の頭を叩いた。
「こんな目にあいながら、黙ってみていなきゃならないというのですか? その悪の帝王に立ち向かっていける者は一人もいないというのですか?」
「いや、そうはいってませんよ」ホームズは、はるかかなたの未来を見つめるようなまなざしで、「あの男を倒せる者がいないとはいいきれません。でもそれには時間をかしていただかねば――時間をかしていただかねば!」
私たちはしばらく無言のまますわっていたが、運命を透視せんとする彼の目は、ヴェールにおおわれた現実のかなたをきっとにらんでいた。(完)
[翻訳 齊藤重信 (C)Shigenobu Saitou]
「冒険」目次
「シャーロック・ホームズには彼女のことはいつも「あの女史」でとおる。なにかほかの名で呼んだりするのを、めったに聞いたことがない。彼の見るところでは、彼女は女性の全体の影をうすくして、ひとりひときわ抜きん出ているのだ。でも彼がアイリーニ・アドラーに対して恋愛めいた感情などを感じているというのではなかった。あらゆる感情、それにことに女への愛情などは、彼の冷静にして正確な、だがすばらしく釣り合いのとれた知性には厭(いと)わしいものであった。
彼は、思うに、この世にめったに見られぬ、最も完全な推理観察機ではあったが、恋人というのでは、まるで不本意な役割であったろう。彼が優しい感情のことを口にすることがあれば、きまって嘲(あざけ)りか冷やかしの調子があった。優しい感情は傍(そば)から観察している者にとってはすてきなもので……人の動機や行為を包んでいるヴェールを剥(は)いでくれるのは、はなはだ結構だった。だが訓練された推理家にとっては、自分のデリケートな、みごとに調節された気質の中へ、そうした優しい感情の侵入を許すことは、わが心に得たあらゆる結果に、ひとつの疑惑を投じかねない、紛(まぎ)らいのもとを導きこむことであった。敏感な器械に入った砂、さては、彼自身が持っている強力なレンズのひとつに生じた[ひび]といえども、彼のような性質に強い感情が入った場合よりも、始末はしやすかろう。
それにしても、彼にはたった一人の女性があった。その女性こそ、いまだに解けぬ謎の記憶を残している、故アイリーニ・アドラーであった。
近頃ほとんどホームズに逢ったことがなかった。私が結婚したので、お互いに無沙汰(ぶさた)に過ぎていたのである。申し分のない幸福、初めて一家の主人となってみて、身のまわりに起こってくる家庭中心のおもしろさは、私の一切の関心を奪うに十分だった。ホームズはホームズで、持ち前のボヘミアン的な心の底からあらゆる形の社交を嫌っていて、ベイカー街の巣にこもったまま、古書に埋もれ、コカインと野心、いわば麻薬の夢見心地と彼一流の鋭い性格からの激しい精力とを、来る週ごとにくりかえしていたのである。
彼は、相も変わらず、犯罪研究に深く引かれていて、その広大な能力と非凡な観察力を働かせて、数々の手掛りを突きつめ、あれこれの不可解な事件を解いた。これらの事件は警察が絶望とみて手をひいたものであった。時おり、彼のしたことについてはおぼろげながら耳にした。トレポフ殺人事件でオデッサへ呼び出されたこと、トリンコマリーでアトキンスン兄弟の風変わりな殺人事件を解決したこと。最後にはオランダ王室のためにうまく巧みにやりとげた使命のことなど。
しかし、彼のこうした活躍の様子は誰もが日々の新聞で知っていることで、それ以上のことは、私も、この昔の友達であり仲間であった男についてはほとんど知らなかった。
ある夜……一八八八年三月二十日のことだった……往診の帰りに[というのは今はもとの開業医に戻っていたので]、たまたまベイカー街を通り抜けた。あの忘れもしない門口を通り過ぎたとき、これこそ私の求婚と「緋色(ひいろ)の研究」の陰惨な出来事とに関連していつまでも心に残っているにちがいないが、今一度ホームズに逢って、あの非凡な能力を働かせている様子を知りたくてたまらなくなった。彼の部屋部屋には煌々(こうこう)と明りがつき、それに見上げたときでさえ、彼の背の高い痩(や)せ形の姿が黒いシルエットになって、二度も窓のブラインドをよぎるのが見えた。
彼は足早やに、思いつめたふうに、頭を胸にうずめ、手をうしろに組んで、部屋を歩いていた。彼の気分や習慣のひとつひとつを心得ているので、私には、彼の態度や様子で一切がのみこめた。彼はまた事件を手がけているのだ。コカインの作り出す夢想からよみがえって、ある新しい問題を追いつめて熱中していたのだ。私はベルを鳴らし、以前は私も共有していた部屋に通された。
彼の態度は懐しさがあふれるというのでもなかった。めったにないことだった。でも私に逢って喜んでくれたとは思う。口数もろくにきかなかったが、心温かい目つきで、私を肘掛椅子に手招き、葉巻のケースを投げてよこし、隅のウィスキー罎(びん)とソーダ水をつくる器具を指さした。それから彼は暖炉の前に立って、例のひとくせある内省的な様子で、僕をせんさくするようにしげしげと見やった。
「結婚生活がうってつけなんだね」彼は言った。「ワトスン、この前会ったときからみると、君は七ポンド半増したようだね」
「七ポンドだよ」私は答えた。
「なるほど。も少し考えるべきだったな。ほんのもう少し、ね、ワトスン。それにまた開業したとみえるね。仕事を始めるつもりだなんて、言わなかったがね」
「それにしても、どうしてわかるんだい」
「わかるさ。推理でね。近頃、君はずぶ濡れになってばかりいるし、ひどく気の利かない、そそっかしい女中がいるのも、僕にはわかるがね」
「驚いたね、ホームズ」私は言った。「これはかなわない。二、三世紀前に生きていたら、君はきっと火あぶりにされていたぜ。全くのところ、木曜日に田舎道を歩いて、泥んこになって帰ってきたよ。でも着替えはしたんだから、君がどんなふうに推理するのか、思いもつかないよ。メアリ・ジェインといえば、この女中は度しがたい奴(やつ)でね、家内が解雇の申しわたしをしてあるんだ。それにしても、君がそんなことを言い当てるわけがわからないね」
彼はひとり悦(えつ)にいって、長い神経質な両の手をこすり合わせた。
「簡単そのものだよ」彼は言った。「僕の目が言ってくれる、君の左靴の内側に、ちょうど、いろりの火が映っているところで、革にほぼ平行な傷が六本ついている。明らかにこびりついた泥を掻(か)きとろうとして、誰かがひどくそそっかしく靴底の線をこすりまわしてつけた傷だ。そこで二重の推理が出るわけだ、君が悪い天気に外出したこと、君んところには、とくに性悪(しょうわる)な、靴傷(いた)めの見本よろしくのロンドン女中がいるということ。君の開業にしたって、紳士がヨードホルムの匂いをぷんぷんさせ、右の人差し指に硝酸銀の黒い痕(あと)をつけ、シルクハットの一方をふくらませて、ここに聴診器をかくしているんですよと言わんばかりに僕の部屋へご入来になると、そのお方が現役のお医者さんだと申さなければ、僕はよくよくの鈍物(どんぶつ)ということになるさ」
彼の推理の過程を、まるでなんでもなく説明したことに、私は笑い出さずにはいられなかった。
「君の推論を聞いていると」と私は言った。「いつも馬鹿馬鹿しいほど簡単に思えるので、僕だって簡単にやれそうだよ。実は君の説明を聞くまでは、それぞれ連続していく君の推論にまごついてばかりいるんだがね。それにしたって、僕の目のよさも、君とは変わらないんだがな」
「そのとおりさ」彼は答えてからシガレットに火をつけ、肘掛椅子に腰をおろした。「君は、目に見えはするが、観察しないんだよ。見るのと観察するのと、その区別は明らかだ。たとえば、玄関からこの部屋へ上ってくる階段を、君は何度となく見ているね」
「ああ、たびたび」
「どのくらいかね」
「さあ、何百回かな」
「ところで何段あるかい」
「何段だって? 知らないね」
「そのとおりさ。君は観察によって気づいたことがないのだ。それでも、見ていることはいるんだがね。それが僕の言いたいところなんだよ。ところで、僕は知っているが、段は十七ある。僕は見た上で観察しているからね。それはそうと、君はこれまでのちっぽけな問題に興味を持っているし、僕のやった一つ二つのつまらぬ経験を書きとめてくれたりしたほどだから、こいつはおもしろいかもしれないよ」
彼はテーブルの上に開いて置いてあった、厚手のピンク色のノート・ペイパーを一枚投げてよこした。「さっきの郵便で来たんだ」彼は言った。「大きな声で読んでごらん」
その手紙には日づけがなく、差出人の署名も住所も書いてなかった。
「明晩八時十五分前に貴殿を訪問いたすべき者があります」という文面で、「きわめて重大な事件に関して貴殿に相談いたしたく、最近貴殿がヨーロッパのさる王家に対してなされた尽力を見るに、言語を絶したる重大事件を安んじてお任せするに足る人物なるに相違(そうい)なく、貴殿に関するこの仔細(しさい)については、当方、各方面より耳にいたしております。されば当時刻にご在宅願いたく、かつ訪問者が覆面(ふくめん)いたしおるも、ご寛恕(かんじょ)くだされますよう」
「全くおかしな話だね」私は言った。「どういうことだと思うかい」
「まだ材料が一つもないんだ。資料もないうちに、理論づけをやるのはとてつもない誤りだ。知らず知らず、事実を理論にかなうようにまげがちになる、理論を事実にかなえようとしないでね。だが、問題はこの手紙自体だ。これから君は何を推論するかね」
私は注意して筆跡や手紙の用紙を調べた。
「これを書いた男は暮らしに不自由していないようだね」私は言いながら、つとめてこの友のやり方をまねた。「こんな紙は一帖(じょう)半クラウン以下じゃ買えまい。特あつらえに強くてばりばりしたやつだ」
「特あつらえ……まさにその言葉どおりだ」ホームズが言った。「イギリス製の紙じゃないよ。明かりにかざしてごらん」
私はそうしてみた。すると、大文字のEに小文字のg がつき、それから大文字のP、つぎに大文字のGに小文字のtがついたのが、用紙の生地にすかされて見えた。
「それをなんだと思う?」ホームズがたずねた。
「メイカーの名前だよ、きっと。つまり頭文字の組み合せさ」
「そうじゃないね。大文字のGに小文字のtがそっているのは Gesellschaft[ゲゼルシャフト]のことで、会社というドイツ語だ。英語の Co. といった普通の省略形さ。大文字Pはもちろんドイツ語 Papier[パピール=紙]のこと。ところで、 Eg. だがね。大陸地名辞典を見てみよう」彼は書棚から重い褐色本をとりおろした。
「エグロウ、エグロニッツ……ほら、あった。ここに、エグリアというのがある。ドイツ語が使われている地方だ……ボヘミアにあって、カールズバッドから遠くはない。『ヴァレンシュタイン[ボヘミア生まれの知名なドイツの将帥]の臨終の地として有名。ガラス工場と製紙工場が多いので知られている』ははあ、君、どう思うかい」
彼の目が輝いた。そして大きな、得意満々としたタバコの紫煙(しえん)を吹き上げた。
「この紙はボヘミア製だね」私は言った。
「そのとおり。この手紙を書いた男はドイツ人だ。文章の組み立てに、妙なところを気づかないかい? 『貴殿に関するこの仔細については、当方、各方面より耳にいたしております』なんて。フランス人やロシア人なら、こうは書けなかったろう。動詞を最後において、こんなに動詞を無礼に扱うのはドイツ語だ。そこで残っているのは、ボヘミア製の用紙に手紙を書き、顔を見せないで覆面をしたがっているこのドイツ人が、何を要求しているのかを明らかにすることだけだ。さて、僕の誤りでなけれは、ご当人が来られたらしい。疑問をすっかり解いてくれるよ」
彼がそう言ったとき、馬の蹄(ひづめ)と、歩道の辺(へり)石にあたる車輪のきしむ鋭い音がした。つづいて呼び鈴がけたたましく鳴った。ホームズは口笛を鳴らした。
「あの音からすると馬車は二頭立てだね」彼は言った。「ほら」と言葉をついで、窓から目をやった。「立派な小さい四輪の箱馬車で、美しい馬が二頭。一頭、百五十ギニーはするね。この事件には金のにおいがするよ、ワトスン、他にはなんにもなくったってね」
「僕は帰るほうがよさそうだ、ホームズ」
「そんなことはないよ、君。ここにいたまえ。記録家がいないと僕が困る。それにこれはきっとおもしろいよ。とり逃がすという手はあるまい」
「でも依頼人の方が……」
「心配いらないさ。僕も手伝ってもらわねばならないかもしれないし、先方にしたってそうだ。やって来た。あの肘掛椅子にかけて、うんと注意していたまえ」
落ち着いた重い足音が、さっき階段の上で、それから廊下に聞えていたのが、ドアのすぐ外で止まった。すると、音の高い、いかめしいノックの音がした。
「おはいり」ホームズが言った。
入って来た男は背丈が六フィート六インチを下るとは思われず、ヘラクレスさながらの胸つきと手足をしていた。衣服は豪奢(ごうしゃ)で、イギリスでなら、悪趣味とも思われる[てい]のものだった。アストラカン皮の重苦しい帯紐(おびひも)が、袖(そで)とダブルの上衣の前えりをよぎっていて、肩にはね上げられている濃紺の外套は焔(ほのお)色の絹で裏打ちされ、えり元は一個のブローチでとめられていた。燃え立つようなエメラルド製だった。長靴はふくらはぎまで届き、上端がふさふさした褐色の毛皮で整えられているところは、全体の様子から感じられる、下品な豊かさをあけすけに見せていた。片手につばびろの帽子を持ち、顔の上半をよぎって、下へ頬骨のほうまで、黒い、兜の面頬(めんぼお)形のマスクをつけていた。見たところ、たった今そのつけ具合を直したところだったらしく、入ってきたときに、片手をそれに持ち上げていたままだった。顔の下半分からすると、強い性格の人と見えて、唇が厚く垂れ、顎(あご)がまっすぐに長くのび、頑固一徹(がんこいってつ)といったほどの、かたくなな面(おも)ざしだった。
「手紙は着きましたかね」深い、耳ざわりな声の、ひどいドイツ訛(なま)りできいた。「お訪ねすると申しておいたが」彼はわれわれの一人から一人へ目をうつした。どちらへ言っていいのかわからないふうだった。
「どうぞお掛け下さい」ホームズが言った。「こちらは私の友人で同僚でもあるワトスン博士でして、事件のことではなにかと厄介(やっかい)になっているのです。お名前をうかがわせていただけましょうか」
「ボヘミアの貴族、フォン・クラム伯爵と言って下さってよろしい。お友人であられるこの紳士は、名誉を重んじ、思慮もあられる方であろうから、この上ない大事を明かしても差しつかえはありますまいな。さもなけれは、あなたと二人だけでお話するほうが好都合じゃが」
私は席をはずそうと立ち上ったが、ホームズが私の手首をつかんで椅子に押し戻した。
「二人でおうかがいするか、それともお聞きしないまでです」彼は言った。「この紳士の前では、わたしにおっしゃりたいことはなんでもおっしゃっていただいてかまいません」
伯爵は広い肩をすくめた。「では申し上げるとして、初めに二年のあいだはお二人とも絶対に秘密を守ってもらわねばならん。二年たてば事もさして大事ではなくなるはず。今のところは、ヨーロッパの歴史にもかかわるほどの由々(ゆゆ)しい問題だと申しても言い過ぎではない」
「お約束します」ホームズが言った。
「わたくしも」
「この覆面(ふくめん)をご容赦下されたい」奇妙な客は言葉をつづけた。「わしにこの役をおおせつけられた高貴な方が、この使いの身分さえ、あなたがたに知られたくない思し召しじゃ。なお実を申せば、さきに申し上げた名前とて、わしの本名ではないのです」
「気づいていたことです」ホームズはそっけなく言った。
「事情ははなはだ微妙で、まかりまちがえばとてつもないスキャンダルともなりかねず、ヨーロッパのさる王家に累(るい)を及ぼすていのもの、未然に防ぐ手だてをこうじねばなりませぬ。あからさまに申せば、事はボヘミア歴代の王オルムシュタイン家にかかわっておりまする」
「それも存じておりました」ホームズはつぶやき、肘掛椅子に身を沈めて目を閉じた。
客は、ヨーロッパにおける最も鋭敏な推理家にして、かつ最も精力的な私立探偵と思いこんで疑わなかったこの男が、いっこうにしまりがなく、のらくらしている様子に、いささか驚いているふうにちらと目をやった。ホームズはゆっくりと目を開き、もどかしそうに大柄な依頼人を見た。
「陛下(へいか)がこのたびの事件をご自身からお話し下さるならば」ホームズは言った。「いっそういい助言もできるのですが」
客は椅子からとび上がって、心の動揺もおさえきれずに部屋を行き来していたが、やがて絶望した身ぶりで、マスクを顔からむしりとり、下へ力まかせに投げつけた。
「いかにも」と、彼は叫んだ。「余は国王である。もはやこれをかくし立てするには及ぶまい」
「御意(ぎょい)」ホームズがつぶやいた。「陛下がお話しなされぬうちから、承知の上で、ヴィルヘルム・ゴットシュライヒ・シギスモンド・フォン・オルムシュタイン、カッセル=ファルシュタイン大公たる、ボヘミア今上陛下(きんじょうへいか)にもの申し上げておりました」
「しかし、おわかりのことと思うが」この不思議な客は言いながら、もとのように腰をおろし、片手で高く白い額をなでた。「おわかりと思うが、かかる仕事を余(よ)みずから為すことにはなれておりませぬ。といって、事ははなはだ微妙ゆえ、これを代理に任すれば、その者にのちのち余の一身を左右されるは必定(ひつじょう)。貴殿にじきじき相談いたしたいばかりに、プラハから微行(おしのび)でまいったわけです」
「では、どうぞお話し下さい」ホームズは言って、もう一度目を閉じた。
「話というのは、つまり、こうなのです……五年ほど昔、ワルシャワに長く滞在中、名うての山師女アイリーニ・アドラーと知り合いになった。その名はきっとお聞きおよびのことと思うが」
「索引でその女の名を捜してくれたまえ、ワトスン」ホームズは目をつむったままでつぶやいた。永年のあいだ、人事関係、事件関係の、一切の項目に内容摘要をつけておく習慣になっていたので、どんな人のことでも、事件でも話題にのぼると、すぐさま、それについての知識が得られないということはなかった。今度の場合でも、私は彼女の経歴が、さるユダヤ教の僧侶のことと、深海魚の研究論文を書いたある参謀将校との記事との間にはさまっていたのに気づいた。
「どれ、ちょっと」ホームズが言った。「ふむ! 一八五八年ニュー・ジャージー生まれ、コントラルト歌手……ふむ! スカラ座、ふむ! ワルシャワ帝室オペラのプリマドンナ……そうか! オペラの舞台引退……はあ! ロンドン在住……なるほど! 陛下、しますると、この若い女とかかり合いになり、結果のまずくなるようなお手紙などお書きになって、今はそれを取り戻しになりたいと望んでいられるのですね」
「そのとおり。だがどうして……」
「秘密に結婚でもなさいましたか」
「いいや、結婚など」
「法律上の書類とか証明書といったものも、おやりではありませんでしたか」
「いいや、やりませぬ」
「それではおっしゃることがわかりかねます。この若い女が、その手紙を、ゆすりとかその他の種に持ち出すとしても、どうしてそれが出所の正しいものと証明できましょうか」
「筆跡は争えぬ」
「とんでもない。偽筆と申せます」
「専用の用紙では」
「盗まれた……」
「印(いん)とて余のもの」
「摸造品」
「余の写真が」
「買ったもの」
「二人で撮った写真です」
「これはまた! 大へんまずいですね。陛下は全く軽率なことをされました」
「気が狂っていたのだ……正気の沙汰(さた)ではなかった」
「ひどく危い橋をお渡りでしたね」
「当時は皇太子にすぎなかったのでね。若かったのです。今でやっと三十なんだから」
「取り戻さなくてはなりますまい」
「やってはみたが、だめだった」
「金がいります。買い戻さなくては」
「売りはしない!」
「盗み出すのですよ、じゃあ」
「五回もやってみたがね。二度は夜盗を雇って女の家を隅から隅まで探させた。旅行中の荷物をよそへ回したのが一度。二度は女を待ち伏せもした。いっこうだめだった」
「なんの影かたちもないのですか」
「絶対にありませなんだ」
ホームズは笑った。「なかなかおもしろい、ちょっとした事件ですね」
「余にとってはまことに由々しい問題です」王が非難するように言いかえした。
「いや、ごもっともです。ところで彼女はその写真でどうしようと考えているのですか」
「余を破滅させようというのです」
「だがどういう方法で」
「余は結婚も間近い」
「そのように承(うけたまわ)っております」
「クロチルド・ロズマン・フォン・ザクゼーメニンゲン、スカンジナヴィア王の第二皇女とです。先方一家の家憲(かけん)のきびしさはご承知でもあられよう。姫とて心こまやかな方。余の行ないに、疑惑の影ひとかけらあっても、事はそれまでのことになりましょう」
「それでアイリーニ・アドラーは?」
「その写真を先方に送ると脅(おど)かしているのです。それにあの女ならやりかねますまい。やりかねないくらいはわかっているのです。あなたはあの女をご存じないが、鋼鉄の心を持った女です。顔こそ女たちのなかで、ひときわ優れて美しいが、心は男とてかなわぬ、しっかり者です。余が他の女と結婚するとでもなれば、そうさせるくらいなら、どんなことでもやりかねない……きっとやる女です」
「たしかに、手紙はまだ送っておりませんね」
「それはまちがいない」
「どういうわけでですか」
「婚約が公表される日に送ると申していたからです。来週の月曜に公表されるのです」
「ああ、では、まだ三日ありますね」ホームズはあくびをしながら言った。「それは好都合。すぐにも調べておきたい重要な件が二、三ございますのでね。陛下には、もちろん、当分ロンドンにご滞在でございましょうね」
「そうしましょう。ランガム・ホテルにいます。名前はフォン・クラム伯爵ということにして」
「では一筆して、経過をお知らせすることにいたします」
「そうして下さい。心がかりだから」
「では費用の点は」
「白紙委任状に署名してお渡ししておこう」
「無条件でお任せ願えますね」
「あの写真を手に入れうるならば、余の王国の一州を分け与えてもいいくらいだ」
「それから当座の費用につきましては?」
王は外套の下から重いなめし革の袋を取り出して、テーブルの上に置いた。「金貨で三百ポンド、紙幣が七百ポンドある」王は言った。
ホームズは手帳の紙に受け取りを走り書きして手渡した。「その婦人の住所は?」彼がきいた。
「セント・ジョンズ・ウッドのサーペンタイン並木通り(アヴェニュー)、ブライオニ荘です」
ホームズはそれを書きつけた。「もう一つおたずねいたしますが、お写真はキャビネ型でございますか」
「そうです」
「では、お休みなさいまし、陛下、誓ってすぐにも吉報(きっぽう)をいろいろお耳に入れましょう」
「ワトスン、君もお休み」王の馬車の車輪のひびきが通りを去っていった時に彼は言い足した。「明日の午後三時、訪ねてくれる都合がつくなら、この件で話しあってみたいんだが」
きっかり三時に、私はベイカー街を訪ねたが、ホームズはまだ帰ってはいなかった。宿の女主(おんなあるじ)の話では、朝の八時ちょっと過ぎに出かけたとのことだった。しかし私は、どんなに長くかかっても、彼を待っているつもりで、暖炉の側に腰をおろした。私はもう彼の調査に深い興味を持っていた。というのも、他のところで記録しておいたような、先の二つの犯罪にからまっていた、ぞっとする怪奇さはいっこうに匂わなかったけれど、それでも、事件の性質や依頼人の高貴な身分といったものに、これはこれで特色があった。まったく、彼が手がけていた調査の性質はさしおいても、彼が局面を巧みに把握する手ぎわなり、その鋭敏な推理には妙味があり、おかげで、彼の仕事の組織を研究したり、まことに紛糾(ふんきゅう)した不思議な事件を解いていく迅速微妙な方法をたどってみることが楽しみだった。彼がきまって成功することをいつも見せつけられていたので、彼が失敗するなどという懸念(けねん)は、まるで思いもよらないことであった。
すぐ四時という頃になって、扉が開き、酔っているらしい馬丁(ばてい)が髪を乱し、頬ひげを生やし、顔もまっ赤になって、見苦しい身なりで、部屋に入ってきた。私は友人の変装を利用する巧みな術には馴(な)れていたが、三度も見直してから、やっとそれがホームズであることを確かめたわけだった。ちょっとうなずいて寝室に姿を消し、五分もたつと、ツイードの服をきちんと着て、いつもの姿で出てきた。両手をポケットに入れ、暖炉の前で両足をのばし、しばらくのあいだ、腹の底から笑った。
「いや、まったく」言いざまむせかえり、また笑い出したが、とうとう椅子で、ぐったりとのけぞってしまった。
「どうしたんだい」
「とてもおかしいんでね。僕が朝のうちにやったこと、果てはどんなことで終わったか、君には絶対に想像もつきやしないよ」
「わからないね。アイリーニ・アドラーの日常の習慣とか、おそらくその家でも探(さぐ)りに行ってたんだろう」
「そのとおりだがね、でもそのあとがいささか変わっているんだ。今朝八時ちょっと過ぎに家を出た。失業中の馬丁ということになりすましてね。馬丁仲間には不思議なほどの義理人情といった仁義(じんぎ)があるものだ。仲間になれば、知りたいことはなんでも知れる。ブライオニ荘はすぐにわかった。小じんまりした優雅な郊外住宅で、裏庭のある家だが、表はすぐと道路に接している二階家だ。入口の扉にはチャブ錠(じょう)がついている。大きな居間が右手にあって調度も立派、長い窓が床のあたりまでとどき、子供でも開けられる、例のイギリス式の馬鹿げた窓締(じ)めがついていた。裏手には目立つものは何もなかったが、ただ廊下の窓が一つ、馬車置場のてっぺんからとどくところにある。家のまわりを歩いて、あらゆる観点から綿密に調べてみたが、ほかにめぼしいものは見当らなかった。
それから通りをぶらぶら歩いてみると、あったよ、予想どおり、庭の一方の塀(へい)ぞいの小路(こうじ)にある貸し馬屋だ。馬丁たちに手をかして、馬をこする手伝いをしてやり、お礼に二ペンス、エールと黒ビールの混ぜ合わせを一杯、パイプでシャグ・タバコの強いやつを二服(ふく)、それからミス・アドラーについてきき出したいことをすっかり教えてもらった。もちろん、おまけにいっこう興味もない近所の連中五、六人のことまで聞かされたがね」
「で、アイリーニ・アドラーのどんなことだった?」私はきいてみた。
「ああ、あの辺の男という男をすっかり頭が上らなくさせているよ。この世で、ボンネットをかぶっている、つまり女の中でいちばんきれいな女だそうだ。サーペンタインの貸し馬屋の男どもがひとり残らず言っている。静かな暮らしで、音楽会で歌ったり、毎日五時には馬車でドライブに出かけ、七時きっかりに夕食に帰ってくる。ほかの時にはめったに出かけない、歌いに行く時は別だがね。訪問客に男が一人だけある。だが、かなりしげしげやって来る。色の浅黒い美男子で、颯爽(さっそう)としていて、日に一度来ない日はなく、二度ということもたびたびある。インナーテンプル法学院の、ゴドフリー・ノートン氏だ。御者を腹心(ふくしん)の友に持つご利益(りやく)はこんなものだ。連中はこの男をサーペンタインの厩舎(きゅうしゃ)から十幾回となく送り届けていたので、なんでもかんでもご存じだったよ。すっかり聞くだけ聞いてしまってから、もう一度ブライオニ荘のあたりを行き来して、僕の戦略を思いめぐらし始めた。
このゴドフリー・ノートンは明らかにこの件で重要な要素なんだ。職業は弁護士だ。こいつがどことなく臭かった。二人はどういう関係か、なんの目的で彼がたびたび訪ねてくるのか。女は彼にとって事件の依頼人なのか、友人か、それとも愛人か。もし事件を依頼していたら、おそらく例の写真を保管してもらっているだろう。愛人とでもいうなら、そんなことはなさそうだ。この問題の結着いかんによって、ブライオニ荘で仕事をつづけるか、テンプル法学院にあるこの男の部屋に注意を向けるべきかが決まるわけだ。これが微妙な点で、僕の調査の分野を広げた。こんなこまごました話を聞かせて、うんざりしやしないかね。でも、僕のちょっとした窮境(きゅうきょう)を知っておいてもらわなくてはならん、事態を理解してもらうためにはね」
「めんみつに聞いているところだよ」私は答えた。
「この問題をまだどちらつかずに考えあぐねているところへ、立派な辻馬車がブライオニ荘へかけつけて、一人の紳士がとび出した。なかなかの美男子で、色が浅黒く、鷲鼻(わしばな)で口ひげを生やしていた……明らかに話に聞いていた男だ。大へん急いでいる様子で、御者に待っているように大声で言い、ドアを開けた女中の横をすり抜けた態度は、すっかりその家の人のようだった。家には半時間ほどいた。居間の窓にその姿がちらちら見えた。歩きまわりながら、興奮した話しぶりで、両腕を振っていた。女のほうはまるで見えなかった。やがて男が出てきたが、前よりいっそうあわてふためいているように見えた。馬車に乗りこむと、金時計をポケットから出して一心に見つめた。『がむしゃらに飛ばしてくれ』彼が叫んだ。『まずリージェント・ストリートのグロス・アンド・ハンキー商店へまわって、それからエッジウエア・ロードの聖モニカ教会だ。二十分でやれは半ギニーやる!』
行ってしまうとあとをつけたほうがよくはないかと迷っていたが、そのとき、小路を小ぎれいな四輪幌馬車がやって来たよ。御者は上衣のボタンを半分かけたきりで、ネクタイは耳の上へ寄っているし、それに馬具の紐端(ひもはし)の金具は、どれもこれもバックルからはずれているという始末だ。まだ着きもせぬうちに、女が玄関からとび出して乗りこんだ。ちらりと女の姿を見かけただけだが、美人だったね、男なら命を投げ出しかねない顔をしていたよ。
『聖モニカ教会よ、ジョン。二十分で着けば、半ソヴリンあげるわ』女が大声で言った。
こいつあ、とても見のがせるもんじゃなかった、ワトスン。うしろから走っていこうか、幌馬車のうしろへくらいついたものか迷っていたときに、辻馬車が通りをやって来たのだ。御者はこの見すぼらしいお客を二度も見直したね。でも、うむを言わせずとびこんだ。『聖モニカ教会』僕は言った。『二十分で着けば、半ソヴリンやる』十二時二十五分前だった。もちろん、事の成り行きは十分わかっていたよ。
御者は早く走らせたね。こんなに早く走らせたことはないと思うが、二人とも一足先に着いていた。辻馬車も幌馬車も、馬は湯気を立てて、僕が着いたときは入口の前にいた。御者に金を払って教会へかけこんだ。僕があとをつけた例の二人と白衣をまとった牧師のほかには誰もいず、牧師は二人に説諭(せつゆ)しているみたいだった。三人が祭壇の前でひとかたまりになって立っていた。僕は教会にまぎれこんだ、どこかののらくら者よろしく、側廊(そくろう)をぶらぶら歩いてやった。
と、突然、驚いたことに、祭壇にいた三人が僕のほうへ顔を向けると、ゴドフリー・ノートンが息せき切って僕のほうへかけて来たね。
『助かった!』と彼は叫んだ。『君でいい。来てくれ! 来てくれ!』
『どうするんで?』と僕はきいてやった。
『来てくれ、君、来てくれ、ほんの三分間だ。でないと、違法になるんだ』
僕は半分ひきずられるようにして祭壇へ連れていかれ、どこにいるのかわからないうちに、耳にささやかれる応答の言葉をもぐもぐ言い、なんにも知らぬことを証言し、つまり、独身女のアイリーニ・アドラーを、独身男のゴドフリー・ノートンにしかと結びつける手伝いをしていたというわけだった。一切、一瞬の間にすんでしまって、男と女に両側からお礼を言われ、牧師は前で晴れやかに笑いかけていた。生れてこのかた、こんなとてつもない立場に立ったことはなかったよ。今も笑い出したのは、それを考えたからだ。
二人の結婚認可状に何か不備なところがあって、牧師は何らかの証人がなければ絶対に結婚させられないと言っていたらしく、うまいところへ僕が現われて、花婿(はなむこ)殿が付き添い人を街中(まちなか)へ探しにうろつかなくてもいいという具合になったらしい。花嫁御(はなよめご)は僕にソヴリン金貨を一枚くれた。この時の思い出に、時計の鎖へそいつをつけておくつもりだよ」
「これはどうも思いがけないことになったものだね」私は言った。「それからどうなった?」
「うん、僕の計画がひどく脅(おびや)かされていると思ったね。二人はすぐさま出かける様子だったし、僕のほうでも時をうつさず溌剌(はつらつ)たる手段をとる必要があった。ところが、教会の入口で二人は別れたのだ。男はテンプル法学院へ、女は自分の家へ、馬車で戻っていったよ。『いつものように、五時に公園へドライヴしますわ』別れぎわに女が言った。それ以上は聞こえなかった。二人は別々の方向へ馬車を走らせ、僕はこっちの手筈(てはず)を決めようと立ち去ったのだ」
「というと?」
「コールド・ビーフとビールを一杯」彼は答えて、ベルを鳴らした。「いそがしすぎて食事のことを忘れていたよ。それに今晩はもっといそがしくなりそうだ。ところで、先生、ご協力を願いたいのだが」
「待ってましたというところだ」
「法律を破ってもかまわないね」
「ちっともかまわないよ」
「まかりまちがうと捕まってもいいかい?」
「正当な理由ならかまわない」
「ああ、理由は立派だ!」
「それならおおせに従おう」
「君を当てにできると思っていたよ」
「だが、どうしてくれっていうのかね」
「ターナー夫人が食事のお盆を持ってきてくれてから、すっかりお話するとしよう。さて」と彼は、宿の主婦がととのえてくれた簡単な料理に、空腹そうに向かいながら話し出した。「食べながら話しあわなくちゃ、あまり時間もないからね。もう五時近くだ。二時間もすれば、僕たちは現場の仕事にかかっていなくてはならん。ミス・アイリーニ、いやマダムと言うべきだな、七時にはドライヴから帰ってくる。ブライオニ荘へ行って彼女に逢わなきゃならない」
「それからどうするのだ」
「そいつあ、僕に任せてもらわなくちゃ。どういうことになるか、もうちゃんと手筈を決めてある。特に言っておかねばならん点が一つだけある。どんなことが起ころうとじゃまをしてはいけないよ、いいかい?」
「出しゃばらないようにしているわけだね」
「どんなこともしないこと。たぶん何かちょっとした不愉快なことがあるだろう。それにまきこまれないように。おしまいは、僕がその家に運びこまれることになる。それから四、五分したら居間の窓が開く。君はその開いた窓にじっと身体を寄せているんだよ」
「いいとも」
「僕に目をつけていること、君に見えるからね」
「いいよ」
「それから、僕が手を上げると……そうだ……投げこむものを渡しておくから、それを部屋に投げこむ、と同時に、火事だという叫び声をあげるのだ。わかるね?」
「よくわかった」
「ちっとも厄介なものじゃない」彼はそう言って、ポケットから長い葉巻のような巻き棒をとり出した。「鉛管工の使う、普通の煙ロケットだ。自動発火をするように、両端にキャップがかぶせてある。君の仕事はそれだけだよ、君が火事の叫びをあげると、あとはたくさんの連中がそれにつづける。そこで君は通りの端まで歩いてくれればいい。十分ほどしたら僕が顔を出す。しっかりのみこんでくれたろうね」
「あまり出しゃばらないで、窓の近くへ寄り、君に目をつけていて、合図があったら、こいつを投げこんでから、火事だと叫び、街角で君を待っているというわけ」
「そのとおり」
「じゃ、確かに引き受けた」
「そいつはすてきだ。もうそろそろ、演(や)らねばならん新しい持ち役の準備をする時間らしいぜ」
彼は寝室に姿を消すと、二、三分して、愛想のいい、無邪気な独立教会の牧師になりすまして戻ってきた。その幅びろの黒い帽子、だぶだぶのズボン、白いネクタイ、思いやり深いほほえみ、見つめるように、情け深く、珍らしいような顔つきといったところは、名優ジョン・ヘア氏だけがやっと太刀打ちできるほどの扮装ぶりであった。衣裳を変えているというだけのことではなかった。その表情、態度、魂の真底まで、仮装の新しい役々に変わりきれるようであった。劇壇が一人のすばらしい俳優を失い、科学界もまた、鋭敏な推理家の一人を失ったということは、彼が犯罪研究の専門家になったからである。
私たちがベイカー街を出かけたのは六時十五分過ぎで、サーペンタイン・アヴェニューに着いた時は予定の時刻までにまだ十分あった。もう夕暮がせまっていて、街燈がともり始めていた頃、私たちはブライオニ荘の前を行き来して、家の主が帰ってくるのを待ちうけていた。その家はシャーロック・ホームズの要領よくかいつまんだ話を聞いて、思い描いていたとおりのものであったが、場所は予期していたほど、人目につかないところでもないらしかった。それどころか、静かな近在の小さな通りとしては、大へんに生き生きと活気があった。見すぼらしい服装をした男たちが角でたむろをしてタバコをふかしたり笑ったりしていて、鋏(はさみ)研ぎ屋が車を止めているし、近衛(このえ)兵が二人して子守娘をからかっていたり、身なりのいい若者たちが数人、葉巻をくわえてそぞろ歩きをしていた。
「ね、君」家の前を行ったり来たりしながら、ホームズが言った。「この結婚で事は単純になったね。写真は今では両刃(もろは)の武器になっている。彼女はそれをゴドフリー・ノートンに見られることはいやだろうし、われわれへの依頼人である国王が相手の王女の目に触れさせたくないのと同じことだよ。ところで、問題は……その写真をどこで見つけることになるか、ということだ」
「どこだろうね、全く」
「女が身につけて持ち歩いているということはまずあり得ない。キャビネ型だ。女の着物にたやすくかくすのには大き過ぎる。国王が彼女を待ち伏せして探させることもできることは知っている。二度そんな目に逢っているからね。とすると、写真を持ち歩いていないと考えていいだろう」
「じゃあ、どこだ?」
「銀行か弁護士か。その二重の可能性がある。でも、そのどちらとも思われない。女というものは生れつき秘密主義だし、とかく人手をかりずに自分自身でかくしたがるものだ。どうしてあの写真をほかの人に手渡したりするものか。自分で御生(ごしょう)大事にしていることは信用できても、事業家の手に渡してはどんな間接の、または政治的な圧力が加えられるか、彼女には知れたものではないからね。それに、二、三日以内に利用しようと決心していたことを考えてごらん。すぐにも手のとどくところに置いてあるにちがいないよ。自分の家であるにちがいないのだ」
「でも、二度も夜盗をしのばせたよ」
「馬鹿な話を! 見つけ方を知らなかったんだからね」
「だが、君はどうして探すのかい?」
「探しゃあしないよ」
「どうすんだね、じゃあ」
「向こうから教えさせるさ」
「そんなことはしないだろう」
「しないわけにはいかなくなるんだ。おや、車輪の音がする。あの女の馬車だ。さあ、言ったとおり、ちゃんとやってくれたまえ」
言っているうちに、馬車の側燈の光が並木の曲り道をまわってやって来た。ブライオニ荘の玄関に乗りつけたのは、瀟洒(しょうしゃ)な小さい幌馬車だった。車が止まると、街角をぶらついていた人がとび出してきて、銅貨にありつこうとばかりドアを開けようとしたが、同じつもりでとんできた今一人の浮浪人に肘(ひじ)で押しのけられた。激しい喧嘩になり、二人の近衛兵が浮浪連中の片側につくと、鋏(はさみ)研ぎ屋が別の一方に加勢して喧嘩に油がそそがれた。殴りあいになると、その瞬間、馬車から降りていた婦人は、拳(こぶし)や杖(つえ)ではげしくわたり合っている、まっ赤に上気した連中の中へ割りこんでいった。ホームズは群れにとびこんでその婦人を守ろうとした。ところが行き着くとみると、彼は叫びをあげて地上に倒れた。血が顔をどくどくと流れ落ちていた。彼が倒れると、近衛兵は一方へ逃げ、浮浪者どもも反対の方へ去ったが、喧嘩に加わらずに掴(つか)み合いを見ていた身なりのいい人たちのいくたりかが集まってきて、婦人を助け、怪我人をいたわった。
アイリーニ・アドラー[もとの名のままに呼んでおきたい]は玄関前の段々をかけ上ったが、いちばん上に立つと、その美しい姿を玄関の明りを背に浮き出させて、通りのほうにふりかえった。
「お気の毒に、怪我はひどいんでしょうか」彼女がきいた。
「死んでいますよ」数人の声が叫んだ。
「いや、まだ生きている」別の一人が大声で言った。「でも病院まではもつまいな」
「勇敢な方だわ」一人の女が言った。「あの連中、このお方の財布や時計を盗(と)ってしまったことよ、この人がいなかったら。ギャングだったのよ、それも、とても乱暴な奴。あら、息をし始めたわ」
「通りに寝かせておくわけにはいきません。連れこんでいいでしょうか、奥さま」
「いいですとも。居間へお連れして下さい。気持のいいソファがありますわ。こちらへ、どうぞ!」
ゆっくりと、おごそかにホームズはブライオニ荘に運びこまれ、居間に寝かされた。その間、私は窓のそばの持ち場から事の成り行きを見守っていた。ランプはいくつもともされていたが、窓かけはおろされていなかったので、ホームズが寝椅子に横たわっている様子を見ることができた。あの瞬間に、ホームズが自分で演じた役割に気がとがめられていたかどうかはしらないが、私は自分が企みをかけようとしている美しい女性を、またその女性が傷ついた男にはべっている優雅さや親切さを目にしたときには、わが一生を通じてこれほどわが身を恥ずかしいと思ったことはなかった。といって、自分に託された役割から今になって身を引くことは、ホームズに対してこの上なく悪い裏切りになるだろう。私は心を鬼にして煙ロケットをアルスター外套の下から取り出した。つまりは、と思いかえしてみた。われわれは彼女を傷つけようとしているのではないのだ。彼女が別の男を傷つけるのを妨げようとしているにすぎないのだ。
ホームズは寝椅子に起き上っていた。そして空気を欲しがっている人のように動いているのが見えた。女中が部屋をよぎってかけ、窓を押し開けた。
時を移さず彼が手を上げるのが見え、その合図で私は「火事だ!」という叫びもろともロケットを部屋に投げ入れた。この叫びが口からほとばしるや否や、群らがっていた物見高い連中一同が、身なりのいいのも悪いのも……紳士、馬丁、女中といわず……いっせいに声をそろえて「火事だ!」とわめき立てた。もうもうとした煙が室内に渦を巻き、開いた窓から流れ出た。かけ走る人々の姿がちらりと見え、すぐあとで内からホームズの声が、これは[にせ]火事だと、人々をなっとくさせているのが聞こえた。叫び立てている群集の中をすり抜けて、私は通りの角へ行った。十分すると、うれしいことにわが友の腕が私の腕を組み、騒ぎの現場から遠ざかった。彼はさっさと歩いて、数分間は無言だったが、やがてエッジウェア通りのほうに通じている静かな通りの一つへ向きを変えたのであった。
「大出来だったよ、先生」ホームズは言った。「なんでもあれほどうまくいくことはなかろう。うまくいったよ」
「あの写真を手に入れたね!」
「在りかがわかったよ」
「どうして探りだしたんだい」
「彼女が教えてくれたのさ。そうするだろうと言った通りにね」
「いっこう、まだもってわからないね」
「べつにかくし立てをしたくはないがね」彼はそう言って笑った。「事はしごく簡単だった。君は、もちろん、通りにいた連中がどれもこれもこっちの一味だとはわかっていたろう。今晩一晩やとっておいたのさ」
「そうだろうとは察していたよ」
「そこで、喧嘩が起こったとき、僕はたなごころに少しばかり水紅(みずべに)をつけておいた。とび出して倒れ、その手で顔をちょっと叩くと、哀れなご面相になるといったわけだ。古い手だがね」
「それも察しはついていた」
「それからみんなが僕をかつぎこんだ。彼女も僕を入れざるをえない。ほかにどうしようもないからね。それも彼女の居間へだ、僕が見当つけてにらんでいたその部屋だ。要は、その部屋が寝室であるかが問題だったが、さてどちらか見きわめなくてはならぬ。僕は寝椅子に寝かされて、空気が欲しいとばかりにふるまえば、窓を開かないわけにはいかなくなる、そこで君のひと芝居だった」
「あれがどうお役に立った?」
「この上なく重要だったよ。女というものは自分の家が火事だと思えば、その本能ですぐさま一番大事にしているものへとんでゆくよ。これはなんとも抗(あらが)いきれない衝動なんだ。僕はこれまでに一度ならずこいつを利用したがね。ダーリントン替え玉事件にも役に立ったし、アーンスワス城の件でもそうだった。細君なら赤ん坊をひっつかむし……未婚の女なら宝石箱をにぎる。ところで、はっきりわかっていたことは、今日のあの夫人にとっては、僕たちが探し求めているもの以上に貴重なものはありっこない。それに万一のことがないようにとんで行くだろう。火事というおどかしはすばらしくうまくいった。煙と叫びは鋼鉄の神経をもふるわせるに十分だった。彼女はみごとに反応を示したよ。あの写真は、右側はベルの引き紐(ひも)の真上にある、滑(すべ)り羽目板のうしろ、そのくぼんだ奥にあるのだ。彼女はとっさにそこへ行った。写真を半分引き出したところを、僕はちらっと見たのだ。[にせ]火事だと叫んだら、彼女は写真を元へしまって、ロケットを見やり、部屋からとび出してしまったが、それからは姿を見かけなかった。僕は立ち上って言いわけを言うと、あの家から逃げ出した。写真をすぐにも持ち出したものかどうか、ちょっと迷ったね。ところが御者がご入来ときた。じろじろ僕を見つめるもんだから、時間をかけるほうが安全なような気がしたんだ。せいては事を仕損(しそん)じるってこともあるからね」
「ところで、これからは?」私はきいた。
「われわれの調査は事実上完了さ。明日、訪ねてみよう、陛下と一緒にね。君もどうぞ、お気が向いたらね。僕たちは居間に通されて、あの夫人のお出ましを待つことになろう。だがおそらく、夫人がご入来というときには、僕たちも写真も消えていることになるよ。お手ずから写真を収り戻せたら、陛下もご満足だろうからね」
「では何時に行く?」
「朝の八時だ。彼女はまだ起きてはいまい。戦場に敵影なしというところだ。それに、事は迅速(じんそく)を要する。この結婚で彼女の生活や習慣がすっかり変わるということにもなりかねないからね。さっそく陛下に吉報を打たなくちゃ」
私たちはベイカー街に帰りついて、ドアのところに足を止めていた。彼はポケットの鍵を探していた。そのとき、通りすがりに声をかける者があった。
「今晩は、シャーロック・ホームズさん」
そのとき舖道には人がいくたりかいたが、この挨拶は、急ぎ足にすれちがった、アルスター外套を着こんだほっそりとした青年からのようだった。
「あの声は前にも聞いたことがあるぞ」ホームズは言って、おぼろな明かりにかすむ通りにじっと瞳(ひとみ)をこらした。「はて、誰だったかしらん」
その夜はベイカー街に泊った。そして私たちが朝のトーストとコーヒーをとっているところへ、ボへミアの国王が部屋にかけこんでこられた。
「本当に手に入れてくれたんですね」王は大声で言って、シャーロック・ホームズの両肩をつかみ、熱心にその顔をのぞきこんだ。
「まだなんですよ」
「でも望みはあるんでしょう」
「望みはあります」
「では、さあ。ここにじっとはしておれない」
「馬車を呼ばなくては」
「いや、余の四輪馬車を待たせてある」
「それは何よりのことでした」
われわれは下に降りて、再びブライオニ荘へと出かけていった。
「アイリーニ・アドラーは結婚いたしましたよ」ホームズが言った。
「結婚したとは! いつ?」
「昨日です」
「でも誰と?」
「イギリス人の弁護士で、ノートンという人です」
「でもその男を愛するはずとてないが」
「愛しているほうが望ましいですよ」
「どうしてそれが望ましいと言われる?」
「さ、それは、これからは陛下にはわずらわしいご心配もなくなるからです。その夫人が夫を愛しておりますれば、陛下をいとしまれることもありますまい。陛下を愛さないとなりますれば、なんのわけあって、陛下のご計画をじゃま立ていたしましょう」
「もっともながら、が、それにしても……! いやいや! あの女が余の身分にふさわしく生れついていてくれたらなあ。どんなに優れた王妃になったやもしれぬ」
王はふさぎこまれて無口になり、そのまま口を開かれないままに、やがてわれわれはサーペンタイン並木通り(アヴェニュー)に近づいた。ブライオニ荘の玄関の扉は開いていて、年配の女が踏み段に立っていた。彼女は皮肉に笑うような目で、われわれが馬車から降り立つのを見守った。
「シャーロック・ホームズさんではございませんか」その女が言った。
「ホームズですが」わが友はいぶかしげに、むしろ驚いたふうに彼女を見やった。
「案(あん)の定(じょう)でした。奥さまのお話ではたぶんお見えになるだろうということでして。今朝ほど旦那さまと、チャリングクロス発の五時十五分の列車で、大陸へお発(た)ちでした」
「なんだって!」シャーロック・ホームズは思わずたじろいであとしざり、口惜(くや)しさと驚きに血の気もなかった。
「イギリスを離れたというのか」
「二度とお戻りにはなりません」
「すると、書類は?」王が声もかすれるばかりにきいた。「万事休すだ」
「調べてみましょう」彼は女中を押しのけるようにしてすりぬけ、客間にかけこんだ。あとに国王と私がつづいた。家具は四方八方に散らかったままで、棚はとりはずされ、引き出しは明けっぱなし、まるで夫人が逃亡前に急いでかっさらっていったようだった。ホームズはベルの引き紐にかけ寄り、小さな滑り戸を引き戻し、手を突っこむと、一葉の写真と一通の手紙を引き出した。写真はまごうかたなくイヴニングドレスに装(よそお)いをしたアイリーニ・アドラー一人のそれであり、手紙の上書きには「シャーロック・ホームズ様。お訪ねあるまで留(とど)めおき」とあった。わが友がその封を切り、われわれ三人が一緒にそれを読んだ。
前夜の真夜中の日づけで、つぎのような文面だった。
シャーロック・ホームズさま。
……お手ぎわ、まことにおみごとでございました。まんまとその手にのせられました。火事騒ぎのあとまで、いっこうにいぶかしくも思いませんでした。でも、しかし、私の秘密を明かしたことに気づきまして、それと思い当たりました。数か月も前にあなたには気をつけるようにと知らされておりました。国王がひそかに依頼なさる人があれは、それはまちがいなくあなたであることも言われておりました。それにご住所も知らされていたのです。でも、それなのに、あなたがお知りになりたいものを、私のほうで明かしてしまうことになりました。疑い心が起こってからでさえも、あんなに優しい、親切なお年寄りの牧師さまが、よもや企みをしていられようとは思いもかけませんでした。でも私とて女優としての修業は積んでおります。男装なぞ珍らしくもございません。たびたび男装のおかげで自由をたんのういたしました。御者のジョンをやってあなたの見張りをさせ、二階へかけ上りますなり、散歩着を……とまあ私がそう言っている着物を……着こみ、ちょうどあなたがお発ちになろうというときに降りてまいりました。
そう、お宅の入口まであとをつけ、余人ならぬこの私を、興味のまとにねらっていられるのが、有名なシャーロック・ホームズさまだとたしかめました。それから、あぶない橋とは知りながら、今晩は、とご挨拶して、テンプルへ夫に逢いにまいりました。
これほど怖ろしい相手に追われては、逃げるにしくはないと、夫とともに考えました。それゆえ、明日お訪ねになられても、巣はもぬけのからになっておりましょう。写真のことは、陛下にもご休心下さいまし。私は陛下に優る殿方を、愛し、愛されております。国王さまには、心おきなく御心(みこころ)をおかなえ下さいまし。つれなきお仕打ちを受けましたとて、おじゃま立てはつつしみまする。お写真は、ただわが身の守りとも、武器ともして、肌身離さず持っております。これからのち、いかなることをしむけられましょうとも、私を守ってくれることでございましょう。陛下がお望みのことかとも存じ、写真一枚、残してまいります。かしこ。
アイリーニ・ノートン 旧姓アドラー
シャーロック・ホームズさま
「なんという女! なんというすばらしい女だ!」ボヘミア王が叫んだ。われわれ三人がこの手紙を読み終えたばかりだった。「機敏な、しっかり者と言ったとおりの女性ではあるまいか。立派な王妃になったであろうものを。身分のちがいをなげかずにはおれようか」
「私の見受けましたところでは、全くもって、あの女性は陛下とはまるで釣り合いませぬ」ホームズが冷淡に言った。「残念なことに、陛下のこの件を、首尾よく運ぶことができませんでした」
「いや、とんでもないこと」国王は大きな声で言った。「これ以上の成功はありますまい。あの女の言葉に偽りがあろうとは思えぬ。写真はもう安全、火の中に投じたのも同然です」
「そうおっしゃっていただけば何よりです」
「あなたにはお礼の申しようもないほど。ご遠慮なく申し聞かせていただきたい、どうお報いしてよいものか。この指輪は……」国王は指からエメラルドの蛇型の指輪を抜き取ると手のひらにのせて差し出した。
「陛下には、私がさらに価値あるものと思いたい品をお持ちでございます」
「その名を言って下されは喜んで差し上げよう」
「この写真です」
国王は驚いて彼を見つめた。
「アイリーニの写真を! よろしいとも、お望みとあれば」
「ありがとうございます。それでは、この件もすっかり片がつきました。失礼ながら、お別れのご挨拶を申し上げます」
ホームズはお辞儀をして、向きを変えると、国王の差し延べていた手にも目をくれず、私をうながしてわが家のほうに立ち去った。
さてこれが、ボヘミア王国を[しんがい]させた一大色沙汰事件の顛末(てんまつ)と、シャーロック・ホームズ最上の名案が一女性の機智によって打ち負かされたいきさつである。ホームズは女の小賢(こざか)しさをいつも冷やかしてはからかっていたものだが、近頃ではいっこうにそれを聞かなくなった。彼がアイリーニ・アドラーのことを話したり、彼女の写真のことを口にするときには、きまって「あの女史」という尊称を用いている。
去年の秋の一日、友人シャーロック・ホームズを訪ねたことがあったが、そのとき彼は、非常にたくましい、あから顔の、かなり年配の紳士で、燃え立つばかりに赤い髪をした人と、なにかこみ入った話をしていた。思わぬじゃまをしたことに詫(わ)びを言って引きさがろうとすると、ホームズはいきなり私を部屋に引っぱりこんで、うしろのドアを閉めてしまった。
「いいところへ来てくれたもんだよ、ワトスン君」彼は心から言った。
「お話し中だと思ってね」
「そうなんだよ。そのとおりさ」
「じゃつぎの間で待っていてもいい」
「いや、いいんだ。この方は、ウィルスンさん、わたしの相棒でもあり、助手ともなってくれた人でして、これまでうまくいった多くの事件に力をかしてくれました。あなたの事件においても、この上なく役に立ってくれる人にちがいありません」
たくましい紳士は椅子から半ば身を起こして、ぴょこりと挨拶をした。小さな、まわりの肉づきにくぼんだ目で、ちらっといささかいぶかしげな目つきだった。
「その長椅子にどうぞ」そう言ってホームズはアーム・チェアに深ぶかと腰をおろし、両手の指先を握り合わせた。もの思いにふけっているときの彼の習慣だった。
「ねえ、ワトスン君、君も僕と同様、怪奇なこととか、日常生活の月並なありきたりのやり方からはずれたことに愛着があるようだが、そんなことがお好みだということは、あの熱心さに見えているよ。僕のやったつまらない冒険の数々を、あんなにたくさん、わざわざ記録にとってみたり、僕の言うことに気を悪くしなければ、いくらかおもしろおかしく作り上げたりしてね」
「なあに、君のあつかった事件は全くのところ、僕にはとても興味があったんだよ」
「覚えているだろう、この間、僕の言ったこと、ミス・メアリ・サザランドが持ちこんだきわめて簡単な問題に手をつける、すぐ前にさ。不思議な感銘や異様にあやなされた人生模様を得るためには、人生そのものに踏み入らねばならぬ。人生こそ、いかに想像をはせめぐらしたものよりも、はるかに向こう見ずなものだからね」
「その主張には承服しかねるところもあったがね」
「そうだったね、ワトスン、だが僕の意見をいれてもらわなくちゃ。さもないと、君の目の前に事実をつぎからつぎに積み重ねて、とどのつまりは君の論拠もそれらの事実の重みにくだけて、僕が正しいと認めざるを得なくなるばかりだ。ところで、ジェイベズ・ウィルスンさんが今朝はわざわざご光来(こうらい)で、お話を始めてくださったわけだが、これはここしばらく聞いたこともないような、奇妙きわまる話になりそうなんだよ。君に話しもしたが、奇怪きわまる、最も異常な事件は大きな犯罪よりもむしろ小さな犯罪にかかわっていることがかなりしばしばであって、ときには、まったく、果たして犯罪が行なわれたかどうかさえ疑わしいようなところにひそんでいるものだ。話を承(うけたまわ)ったところでは、目下の事件がはたして犯罪と言えるものかどうかはわからないが、事件の成り行きは、これまで聞いたことのないほど奇妙きわまるものらしい。
いかがでしょう、ウィイルスンさん、お話をもう一度、始めていただけないでしょうか。と、お願いしますのも、このワトスン博士が最初のほうを聞いていないからというばかりではなく、このお話の特異な性質をうかがって、あなたのお口からこまかい部分のいちいちをお聞きしたくてならないからです。大抵のところ、事件の経過をほんの一端でもお聞きしますと、わたしの記憶にあるたくさんな他の同様な事件を思い合わせまして、目標をつけることができるのです。ところが今回の場合は、知っておりますかぎり、まったく比類のない事件と申さねばなりません」
この肥った依頼人はいささか得意気な様子で胸を張って、外套の内ポケットから、汚ない、くしゃくしゃの新聞を取り出した。頭をつき出し、新聞を片ひざに置いてしわをのばしながら、広告欄に目をおとしているあいだ、私はこの男を仔細(しさい)に見やって、わが友ホームズのならいをまねて、この男の着物や様子からくみとれる幾つかの特徴を読みとろうとつとめてみた。
とはいうものの、私の観察では大して得るところはなかった。われわれの客はどう見ても、ありきたりな、平凡なイギリス商人といった様子で、肥って、もったいぶって、ゆうちょうだった。いくらかだぶだぶ気味のグレイの碁盤縞(ごばんじま)のズボンに、いっこう小ざっぱりともしない黒のフロック・コートを着て、前のボタンははずしたままで、くすんだ浅い褐色のチョッキには重い真鍮(しんちゅう)のアルバート時計鎖をつけ、四角い穴のあいた小さな金属を装飾にぶら下げていた。すりきれたシルク・ハットと色あせた褐色の外套にしわだらけのビロードの襟(えり)のついたのが、すぐ横の椅子にかけてあった。まったく、いくら観察しようとしたところで、この男にはこれといって目立つものは何ひとつなく、燃え立つような赤い髪と、顔に浮かんでいる、ひどく口惜(くや)しそうな、不服そうな表情があるばかりだった。
シャーロック・ホームズのす早い目が私のしていることを見てとって、私のいぶかしげな目つきに気づくと、ほほえみながらかぶりをふった。
「この人がいつか昔、手仕事をしていたこと、嗅(か)ぎタバコをやること、フリーメイスン結社の一員であること、シナへ行ったことのあること、最近かなりの量の書きものをしたこと、まあそうした事実は明らかなんだが、それ以上のことは一向(いっこう)に推理できないのだ」
ジェイベズ・ウィルスン氏は椅子からとび上ったが、人差し指は新聞に置いたままで、目はわが友ホームズを見つめていた。
「これはまたどうして、そんなことをすっかりおわかりでした、ホームズさん? どうしてでしょうか、たとえば、私が手仕事をやったなんてことを? まったくそのとおりです。船大工が手始めでした」
「あなたのお手ですよ。右手は左よりたっぷりひとまわりは大きいですね。右手を使われたので、筋肉がよけいに発達しているのです」
「なるほど、では嗅ぎタバコは? それからフリーメイスン団のことは?」
「私が知り得た方法をお話しては、賢明なあなたに失礼することになりましょう。ことにまた、フリーメイスン団の厳格な規則に反していらっしゃるようですが、弓形とコンパスの組み合わせのネクタイ・ピンなどつけていられるのですからね」
「ああ、これは、すっかり失念していました。だが、書きもののことは?」
「一目瞭然ですよ、その右の袖口が五インチほどひどく光っていますし、左の方は肘(ひじ)の近くに、机に肘をつかれるところですが、つるつるしたつぎが当たっていますのでね」
「ほう、だがシナは?」
「右手首のすぐ上のところに刺青(いれずみ)されているその魚はシナでなければできなかったものですよ。私は少しばかり刺青の研究をしたことがありますし、この問題の研究文献に貢献したこともあるのです。魚のうろこを美妙(びみょう)な薄紅(うすべに)でほりこむ技術は全くシナ特有のものです。それにシナの貨幣を時計鎖にぶら下げておられるとなると、ことはますます簡単になるというものです」
ジェイベズ・ウィルスン氏は大笑いをした。「これはやられましたね! 初めはなにか手練(しゅれん)の術でも使われたのかと思いましたがね。お聞きしてみれば、つまりはなんということもなかったのですね」
「どうやら、ワトスン、僕は説明するのは誤りだという気がしてくるよ。『知らせるものはすべてこれ壮麗に思われる[タキトゥス]』というとおり、ごらんのような僕のささやかな名声も、こうあけすけにぶちまけては、まったく形なしになってしまうね。広告は見つかりませんか、ウィルスンさん」
「いや、いま見つかりましたよ」彼は太い赤い指で新聞の広告欄の下段をおさえた。
「ここに出ています。これが事の起こりなんでして。どうぞご自分でお読みになって下さい」
私は新聞を受け取って読んでみた。
赤毛連盟へ……アメリカ合衆国ペンシルヴェニア州レバノンの故イジーキア・ホプキンズの遺志(いし)により、目下一名の欠員を生じているは、連盟会員に週給四ポンドの俸給を受ける権利を与えるものであって、その勤務は全く名目たるものにすぎない。身心ともに健全にして、二十一歳以上の赤髪の男子はすべて応募の資格がある。月曜日、十一時、フリート街、ポウプス・コート、七、連盟事務所内、ダンカン・ロスまで、本人申し込まれたし。
「これはいったいどういうことかね」この奇妙な広告を二度読みかえしてから、私は思わず声を出した。ホームズはくすくす笑って、椅子にかけたまま、もじもじ身体を動かした。上機嫌のときにきまってそうするくせだった。
「いささか、おもむきの変わった話じゃないか、ね。ところで、ウィルスンさん、すぐに話を始めて下さい、あなたご自身のこと、ご家庭のこと、この広告があなたの一身上に及ぼした影響といったこと、すっかりお聞きしたいものです。ワトスン君、まずその新聞の名と日づけを書きとめてくれたまえ」
「モーニング・クロニクル紙、一八九○年四月二十七日、ちょうど二月(ふたつき)前のだ」
「結構、では、ウィルスンさん」
「はあ、今もお話していたとおりでして、シャーロック・ホームズさん」ジェイベズ・ウィルスンは額をぬぐいながらつづけた。「私はシティ近くの、コウバーグ・スクエアで、小さな質屋をやっております。大して大きな営業でもございませんで、近頃はなんとか食ってゆくだけが関の山でして。ずっと店員を二人ほど雇っていたものですが、このところは一人だけにへらしております。彼に給料を支払うくらいの仕事はあるんですが、向こうは喜んで給料半分で来てくれておりましてね、まあ仕事の見習いかたがたというわけでして」
「その殊勝(しゅしょう)な青年の名前は?」ホームズがきいた。
「ヴィンセント・スポールディングといいまして、青年というほど若くもありません。いくつになりますか、見当もつきませんが、これ以上のやり手も見つかりませんようなわけで、ホームズさん。もっといい仕事にもつけましょうし、私の出している給料の二倍はかせげることは保証ものですが、といって、向こうで不足もないんですから、私のほうで入れ知恵をすることもありませんのでね」
「いや、ごもっとも。相場以下の給料で働いてくれる使用人があるのは大へん運がいいというものですよ。今どき人を使うのに、そんなことはめったにありませんからね。あなたの店員も、その広告くらいには変っているようですね」
「でも、悪いところもあるんですよ。あれほど写真にこってる奴も見当たりません。修養しなければならぬというのにカメラを持ち出してはパチパチやり、兎が穴へとびこむように地下室へとびこんでは現像をやるのです。これがいちばん困ったところですが、でもまあ、わりによく働いてくれるし、これといって悪いこともいたしません」
「まだお店で働いているんでしょうね」
「来ております。その男と十四になる女の子、簡単な料理や掃除などさせておりますが……うちにいるのはこれだけで、私は家内を亡くしましたし、家族といってございません。非常に静かに暮らしております、この私ども三人で。これといっていたしませんでも、屋根の下に住んで、人さまには迷惑をかけないでおります。私どもが途方にくれましたのがその広告です。スポールディングが、つまりあの男が、ちょうど八週間前の今日、これ、この新聞を手に、事務所へやって来て申しますには、
『あーあ、ウィルスンさん、私が赤い髪をしていたらなあ』
『どうしてだね、また』ときいてみますと、
『それがね、赤毛連盟に欠員が一人あるんです。会員になれれば、誰でもちょっとした財産にありつけるんですよ。欠員の数が会員より多いんで、管理委員のほうで、金の処置について途方にくれているようですね。私が髪の色を変えることさえできれば、手を出してもいい、ちょいといける商売が目先にころがっているというもんですがねえ』
『ほう、なんだい、そりゃあ』とききました。ねえ、ホームズさん、私はいたって出不精(でぶしょう)な男です。それに仕事が仕事で、こちらからわざわざ出向いて行かなくっても、向こうのほうでやって来てくれるんですから、何週間もずっと外へ出かけないですますことも、しょっちゅうです。そんなわけで、世間にどんなことが起こっているのか大してわかりもしませんし、いつもちょっとニュースを聞きかじっては喜んでいたものです。
『赤毛連盟のことをお聞きになったことはなかったですか』彼が目をぱちくりあけてききました。
『聞かないね』
『へえ、驚きましたね。欠員の一人に選ばれる資格をお持ちだというのにね』
『どんなうまいことがあるんだい』
『それが、一年二百ボンドにすぎませんがね。でも仕事はあるかなしかの楽なもの、それに、ほかの職業があったところでそれに差し障(さわ)りがあることもないのです』
で、こいつは耳よりな話だと、私が乗り気になったと思われるでしょう。なにしろ商売もこのところ数年、そううまくはいってなかったんですからね。余分に二百ポンド入ればすこぶる調法だったでしょうね。
『くわしい話がききたいね』と言いました。
『ええ』と彼は言って、この広告を見せてくれました。『読んでごらんなさい、連盟に欠員が一人あって、応募の委細(いさい)をきき合わす宛て先も出ています。私にわかっているかきりでは、連盟を設立したのはアメリカの百万長者、イジーキア・ホプキンズで、ひどく変わり者でしてね。自分の髪が赤かったところから、髪の赤い男という男に大へん同情していて、そんなわけで、死んだときに、わかったのですが、その莫大(ばくだい)な遣産を管理人の手に委ねてありました。その利子は、赤い髪の男たちが、安らかに暮らしてゆけることに当てるという指図がありました。耳にしたところでは、すばらしい報酬で、仕事といってはほとんどありません』
『でも』と私は言いました。『応募する髪の赤い連中は、百万といるだろうに』
『お考えになるほどたくさんはいやしないのですよ。ロンドン人にかぎられていますし、それも大人でなきゃいけないんですからね。このアメリカ人は若い頃にロンドンから身を立てたというので、この古なじみの都にお礼心を見せたかったのです。ところで念のためですが、たとえ髪の毛が赤くても、色がうすいとか、黒ずんでいるとか、まあそういったものでは申しこんでもむだでして、真から赤い、目の覚めるような、火のように輝かしいのでなけれはなりません。ところで、申しこむお気持がおありなら、ウィルスンさん、訪ねて行かれるでしょうがね。でも二、三百ポンドのことで、わざわざ出かけてみるにも当たらないかもしれませんよ』
で、本当のところ、みなさんご覧のように、私の髪の毛は申しぶんなく濃い豊かな色合いでして、この点で競争するとなりますと、どなたにも引けをとらないぐらいの勝ち目はあるようです。ヴィンセント・スポールディングもこのことはよくわかっているようでしたので、この男も役に立つかもしれないと思いまして、その日は店を閉めるように申しつけ、私と一緒に出かけるよう言いました。一日暇(ひま)が出たのを大へんに喜びまして、そこで私どもは商売を休業、広告に出てました所番地へ出向きました。
もうあんな光景を二度と見たいとは思いません、ホームズさん。北から南から、東から西から髪に赤味があるという男という男が、その広告のききめでシティへぞくぞく繰りこんでおりました。フリート・ストリートは赤髪頭の連中ですき間もないほど、ポウプス・コートは果物行商人のオレンジを積んだ手押し車みたいでした。たかがあの広告一つで、全国にこんなにたくさん、こうも集まってくるほどいようとは、思いもかけませんでした。その色合いもそれぞれに……藁(わら)色、レモン色、オレンジ色、れんが色、アイリッシュ・セッター犬の色、茶褐色、粘土色さまざま。ですが、スポールディングの話のとおり、本当に燃え立つような炎色といっては多くありませんでした。おびただしい人が待っているのを見ますと、とてもだめだと諦めたいぐらいでした。
でもスポールディングは聞き入れてくれそうにありませんでした。どんなふうにされたのか、私には推量もできませんでしたが、彼に押されたり引っぱられたり、こづかれたりしているうちに、とうとう人の群れをくぐりぬけて、事務所へ入る踏み段のところまで行きつきました。階段は二列の流れで、希望をいだいて上っていく人、ことわられて戻ってくる人というわけです。でもわたしたちはできるだけ割りこんでいますと、やがて事務所に入っておりました」
「大へん愉快な経験をされたものですね」依頼人が言葉をきり、嗅ぎタバコをどっさりつまんで記憶を新たによびもどそうとすると、ホームズはうながすように言った。「どうかそのとてもおもしろい話をおつづけ下さい」
「事務所には何もなくて、木の椅子が二つと松板のテーブルが一つあるだけでして、その向こうに小柄な男が座っていました。その頭は私のよりも赤いぐらいでした。この男は入ってくる候補者の一人ひとりに二こと三こと言ってから、何かと欠点を見つけてはどれもこれも失格にさせつづけです。空位につくことはとてものことに、そうたやすくいきそうにありませんでした。ところが私たちの番になりますと、この小柄な男は他の誰に対するよりも好意を見せてくれまして、わたしたちが入るとドアを閉めました。わたしたちと内々の話をしようというわけです。
『こちらはジェイベズ・ウィルスンさんです』番頭が申しました。『連盟の空席をふさぎたいお志(こころざし)です』と。
『願ってもなく適任です』と向こうが答えました。『どの資格も申し分ありません。こんなにすばらしいのはこれまで目にした覚えがありませんよ』彼はひと足さがって、首を横にかしげ、わたしの髪をしげしげと見つめますので、しまいにはこちらが恥ずかしくなったくらいでした。それから突然前へとび出て、わたしの手を握りしめ、わたしの合格を心から喜んでくれました。
『遠慮しているのもよくないでしょう』彼は言いました。『でもきっとお許し願えると思いますが、用心は念入りにさせていただきたいので』言いながらわたしの髪を両手につかんで、ぐいと引っぱりますので、こちらはその痛さに大声を立ててしまいました。『涙が出てますね』と言って、わたしを放してくれました。『よくわかりました。本物に相違ありません。用心しなくてはならないというのは、実は、かつらで二度、染めたので一度、だまされたことがありましてね。靴直しの蝋(ろう)を使った話まであるんですよ。人間の心根がつくづくあさましくなるんでして』
彼は窓へ歩みよりますと、声をかぎりに張りあげて、欠員の補充がついたと窓ごしに叫びました。がっかりしたようなわびしい声が下から聞こえ、集まっていた連中は思い思いの方向へそそくさと立ち去りますと、残っている赤髪の男といっては、わたしとこのマネージャーとだけになってしまいました。
『わたしはダンカン・ロスという者です』と相手が名乗りました。『わたしもあの気高い方が寄贈された基金から年金を頂いている一人なんですよ。結婚しておられますか、ウィルスンさん。ご家族はおありで?』
わたしはひとり者だと答えました。
相手はとたんに顔色を変えて、『弱った!』と沈んだ声です。『これは由々しいことです! どうも残念なお話です。この基金は、もちろんのことですが、赤毛族の生活を維持すると同時に、種族の繁栄と増加のためのものでしてね。まことに不運と申しましょうか、あなたが独身でいられるなんて』
これにはわたしも浮かぬ顔になりました、ホームズさん。どうやら欠員の口もあてがはずれたと思いましてね。ところが二、三分ほどとっくりと考えこんでから、それでもよかろうということです。
『ほかの方ですと』と彼は言いました。『こんな欠点があるとなると、どうにもいたしかたもないところですが、あなたのような髪の毛をしておられるとあっては、そう規則ずくめにもゆきますまい。いつからこちらの仕事にかかっていただけましょうか』
『それが、少々まずいことに、これまで仕事についておりまして』
『いや、それにはご心配なく、ウィルスンさん!』ヴィンセント・スポールディングが申しました。『あなたに代ってわたしがやれますから』
『時間はどれくらいでしょうか』ときいてみました。
『十時から二時までです』
ところで、質屋の商売というものは大てい夕方どきと決まっております、ホームズさん。特に木曜と金曜の夕方がかき入れで、給料日の前日にあたるというわけです。そこで、朝のうちに少々稼ぎができるのは、わたしにはうってつけのいい話です。それに番頭もいい男ときている、何があってもうまく当たってくれるのがわかっていました。
『大へん好都合です』とわたしは言いました。『で、給料は?』
『一週四ポンドです』
『その仕事といいますのは?』
『ほんの名ばかりのもので』
『と、おっしゃいますと?』
『そうですね。この事務所にか、少なくともこの建物には勤務時間中はいていただかねばなりません。ここを離れますと、あなたの地位はすっかり永久に取り上げられてしまいます。遺言はこの点についてきわめてはっきりしております。時間中に少しでも事務所を離れますと、条件に違約ということになるのです』
『一日に四時間ばかりのことです。出かけようなどとは考えはいたしません』
『言いわけは一切受けつけませんよ』ダンカン・ロス氏は申しました。『病気であろうと、仕事であろうと、その他なんであろうともです。ここを離れてはなりません。さもないと、せっかくの口を失うことになります』
『で、仕事は?』
『ブリタニカ百科事典を写し取っていただくのです。あの本棚に第一巻があります。インクとペンと吸取紙はご自分で用意していただくとして、このテーブルと椅子を使って下さってよろしい。明日からとりかかっていただけますか』
『承知しました』とわたしは答えました。
『では、今日はこれで、ジェイベズ・ウィルスンさん。重ねてこの重大な地位につかれたことを、お喜び申し上げます。よくよく幸運であられたのですからね』彼はおじきをしてわたしを部屋から送り出しました。番頭と一緒に家に帰りましたが、なんと言っていいやら、何をしていいやら上(うわ)の空で、降って湧いたわが身の幸運にそれほどまでに夢中になりました。
さて、一日じゅうこのことばかりを考えつめて、夕方頃にはまた気がめいってしまいました。どう考えても、こんなことはすっかり、何かとんでもない冗談かペテンにちがいない、もっともどんな目的があってのことだか見当はつきませんでしたが、まあそうとしか思えなくなっておりました。そんな遣言を作る人がいるとか、ブリタニカ百科事典を写し取るといった簡単な仕事をするのにあれほどのお金を払うなどとは、全く本当にできないことでした。ヴィンセント・スポールディングは何かとわたしの気を引き立たせるようにしてくれましたが、寝る頃には、自分によくよく言いきかせて、このこと一切合財(いっさいがっさい)を考えないようになっておりました。
それでも朝になりますと、ともかく見に行くだけは見てこようという気になったものですから、一ペンスのインクびんと、鵞(が)ペンにフルスキャップ判の紙を七枚買いそえて、ポウプス・コートへ出かけました。
ところが、驚いたことには、また嬉しいことに、なにもかもよく整っておりました。テーブルの用意もしてくれてあり、ダンカン・ロス氏も、わたしがとどこおりなく仕事にかかるかどうかを見にきていました。わたしにAから始めさせてから出て行きました。しかし時々、うまくはかどっているかどうかを見に入ってきたものです。二時になると、さよならを言い、わたしが写した分量を愛想よくほめてくれて、わたしが出ると、事務所のドアに鍵をかけました。
こんなことが毎日つづきました、ホームズさん。土曜日にはマネージャーが入ってきて、一週間の仕事の給料にソヴリン金貨四枚を置いてくれました。つぎの週も、またつぎの週も同じでした。毎朝十時にはそこに行き、午後はいつも二時に引けました。やがてそのうちには、ダンカン・ロス氏は朝のうち一度しか来なくなり、あとではちっともやって来なくなりました。でも、もちろん、わたしはほんのいっときでも部屋から出ようとはしませんでした。彼がいつやってくるかもわかったものではありませんし、これほどいい仕事にありついて、自分にはうってつけでして、こんな口を棒にふるようなまねはしたくありませんでした。
こんなふうに八週間たちました。アボット、アーチェリー、アーマー、アーキテクチュア、アティカと書きすすんでいまして、はげんでやれば、近々Bの項に入っていけると思っておりました。フルスキャップ判紙にはいささか金も食いましたが、一棚がもういっぱいになるくらいに書きたまっておりました。すると突然、仕事がすっかりおしまいになったのです」
「おしまいですって?」
「そうなんです。それもほんの今朝ほどのことでした。十時に、いつものように仕事に行きましたところが、ドアが閉まっていて鍵がかかっており、小さな西角いボール紙が羽目板の中央に鋲(びょう)で止めてありました。これがそれです。お読みになって下さい」
ウィルスンは一枚の白いボール紙を取り上げた。便箋一枚くらいの大きさだった。それにつぎのように書いてあった。
赤毛連盟は解散
一八九○年十月九日
シャーロック・ホームズと私はこの簡単な通告とそのうしろの悲しそうな顔を見やっていたが、とうとうこの事件の滑稽さが何にもましてたまらなくおかしくなったので、私たちは二人ともどっとばかり吹き出してしまった。
「なにがおかしいのです」依頼人のウィルスンが大声に言って、燃え立つばかりの髪の生えぎわまでまっ赤にした。「わたしを笑いものにするだけのことでしたら、ほかへ頼むとしましょう」
「いや、まあ」ホームズはなかば腰を上げていた客をもとの椅子におし戻した。「この事件はなんとしても手放したくありませんね。全く胸のすくほど風変わりな話です。でも、こう申しては失礼ですが、何かちょっとおもしろおかしいところがありますね。ところで、どうなさいました、ドアのカードをご覧になってから?」
「びっくり仰天いたしました。どうしていいか、わかりませんで。それからあちこちの事務所を訪ねてまわりましたが、どこもいっこうに知らない様子です。とうとう家主のところへまいりました。一階に住んでいる計理士でして、赤毛連盟はどうなったのか、知っておられるかどうかときいてみました。そんな団体のことは聞いたこともない、という返事でして。それで、ダンカン・ロスさんのことをきいてみましたところが、そんな名前は初耳だということでした。
『ほら、あの四号室の人ですよ』
『え、あの赤毛の方ですか』
『そうです』
『あの人なら、ウィリアム・モリスというんですよ。弁護士さんでね。自分の新しい住居ができるまでというので、私の部屋を使っていましたがね。昨日ひっこしましたよ』
『どこへ行ったら会えるんでしょうか』
『そりゃ、新しい事務所ですね。住所を言い置いてゆきました。そう、キング・エドワード通り十七番地。セント・ポール寺院の近くですよ』
わたしは出かけて行きました、ホームズさん。ところがその番地へ行ってみますと、義骨のひざ当て製作所があるというわけでして、ウィリアム・モリスとか、ダンカン・ロスといった名前を聞いた人は、そこには誰一人おりませんでした」
「それからどうしました?」ホームズがきいた。
「サクス=コウバーグ・スクエアの自宅に戻って番頭のスポールディングに相談してみました。しかしどうにも役には立ちません。待っておれば、手紙でなんとか言ってくるだろう、と言うだけのことでして。そんなことですっかり気がすむというものではありません、ホームズさん。嫌味(いやみ)の一つも言わないで、あんないい仕事を失いたくはありませんでした。それで、あなたが、困っている人の相談に乗って下さると、かねがね聞き及んでいたものですから、さっそくおたずねに上ったというわけなのです」
「そりゃあようこそ」ホームズは言った。「この事件はきわめて珍らしいものです。喜んで調べてみましょう。お話をうかがったところでは、初めの見かけによらず、もっと重大なことがいろいろからまっているようにも思えますね」
「重大ですとも!」ジェイベズ・ウィルスンは言った。「そりゃ、わたしは一週四ポンドをふいにしたんですからね」
「あなたお一人にしてみれば」ホームズは言った。「この奇体(きたい)な連盟に苦情を言われる筋ではありませんよ。それどころか、三十ポンドばかりもうけられたと言ってもいい。Aの部の、あれこれの項目で、詳しい知識を得られたという余録はともかくとしてもですよ。あなたはあの連中からはなんの損もしていませんよ」
「それはそうですが、ホームズさん。あの連中のことを探り出して、いったい何者なのか、それになんの目的でこんな悪戯(いたずら)を……ま、悪戯ならばですね……わたしにしかけたのか、それを知りたいものです。ひどく金をかけた悪戯でしたよ、三十二ポンドもかけたんですからね」
「あなたのために、こうした点はつきとめてはっきりとさせましょう。そこで、まず、一つ二つおたずねしたいことがあります。ウィルスンさん。初め、その広告へあなたの気をひいた、その番頭ですが……お店へ来て、どのくらいになっていますか」
「一月ほどです」
「あなたのところへ来たのは?」
「広告に応じて来ました」
「その番頭しか来なかったのですか」
「いや、十人あまりおりました」
「その男を選んだわけは?」
「手頃で、安く使えるからです」
「半分の給料ですね、本当のところ」
「そうです」
「どんなふうの男です、このヴィンセント・スポールディングは?」
「小柄で、頑丈(がんじょう)で、とても手早く、顔にはひげもありません、もう三十以下でもないんですが。額に酸の白いあざがあります」
ホームズはかなり興奮して、椅子で身体をのばした。
「そうだろうと思っていました」ホームズは言った。「耳に耳輪の穴があいているのに気がつきませんでしたか」
「知っています。子供のときにジプシーにつけられたんだと言っていました」
「ふむ」ホームズはじっくりと考えこんだ。「まだお店にいますね?」
「ええ、おりますとも、ホームズさん。今さっき別れてきたばかりです」
「それで、あなたのお留守中は、代わって仕事をやっているわけですか」
「どうこうという差し支えはございません。朝のうちは大して仕事もございませんし」
「よくわかりました、ウィルスンさん。二日すれば、この件について私の意見を申し上げられると思います。今日は土曜日です。月曜日までには結末をつけたいものです」
「ねえ、ワトスン」客が帰ると、ホームズが言った。「この話がどんなことかわかるかい?」
「さっぱりわからないよ」私は率直に答えた。「非常に不思議な話だね」
「概(がい)して」ホームズは言った。「事件は奇体であればあるだけ、不思議なことはなくなってゆくものなんだ。平凡で、これという特徴のない犯罪こそ、全く手のつけようもないものでね。平凡な顔がいちばん見分けにくいのと同じさ。ともあれ、僕はこの事件をさっそく手がけてみなくちゃ」
「で、どうしようというのかい?」私はきいた。
「タバコを吸うのさ」彼は答えた。「パイプを三服(ぷく)やるだけの問題だね。五十分ばかり、僕に物を言わないでくれたまえ」彼は椅子に身体をまるめ、やせた膝を鷹(たか)みたいな鼻先にくっつけて、目を閉じ、例の黒い陶器のパイプを怪鳥のくちばしのようにつき出して座っていた。どうやらホームズは眠ってしまったわい、と思いこみ、私もついうとうとしていると、そのとき突然ホームズは、決心がついたような身ぶりで、椅子からとび出し、そのパイプを暖炉の上に置いた。
「今日の午後、セント・ジェイムズ・ホールでサラサーテの演奏があるよ」彼は言った。「どうだね、ワトスン。二、三時間、患者の手が放せるかい?」
「今日は用なしなんだ。いつだって僕の仕事は、そう夢中になることはなくってね」
「じゃ、帽子をかぶって、ついて来たまえ。まず、シティを通りぬけることにして、途中で何かお昼が食べられるだろう。プログラムにはドイツ音楽がたっぷり盛ってあるが、イタリアやフランスものより、ずっと僕の好みにあうね。内省的だし、僕は考えごとがしたいんでね。さ、行こう!」
私たちは地下鉄でオールダズゲイトまで行き、そこから少し歩いて、サクス =コウバーグ・スクエアへ出た。今朝ほど耳を傾けた、不思議な話の現場である。みすぼらしくて、狭苦しい、貧乏貴族よろしくといったところで、四列に並んで、薄汚ない二階建ての陳瓦造りの家が、柵でかこった小さな空地を見下ろしていた。この囲い地には雑草の芝生としおれた月桂樹の茂みが二つ三つ、煙にまみれた、そぐわないあたりの雰囲気にはげしい戦いをいどんでいた。質屋の印である金めっきの三つ玉と、茶色の板に「ジェイベズ・ウィルスン」と白文字で書いたのが角の家にかかっていて、われわれの赤毛の依頼人が商売をいとなんでいるところはこことわかった。
シャーロック・ホームズはその前で足を止めて首をかしげ、すぼめた瞼(まぶた)の間に目をぎらぎらと光らせて、この家をひとわたり見やった。それから彼は表通りのほうへゆっくりと歩き、さらにまた角に戻って、あたりの家々をなおも鋭く眺めた。最後は質屋の店に戻って、ステッキで二、三度、強くペーヴメントを叩いてから、入口のドアへ上って行ってノックをした。すぐにドアを開けたのは、ほがらかな顔つきの、ひげをきれいにに剃(そ)った青年で、中へ入るようにと招じた。
「ありがとう」ホームズは言った。「ストランド街へはどう行けばいいのか、ちょっとお聞きしたかったので」
「三つ目を右へ、四つ目を左へ」番頭は即座に答えてドアを閉めた。
「利口者だよ、あれは」立ち去りながらホームズが言った。「あの男は、僕の見るところでは、ロンドンでは四番目の利口者だね。大胆不敵な点にかけては三番目といってもいいかもしれない。前からあの男のことはいくらか知っているんだがね」
「たしかに」私は言った。「あのウィルスン氏の番頭は、この赤毛連盟の怪事件にかなりの関係があるね。君が道をたずねたのも、あの男を見てやろういうだけのことだったのだ」
「あの男じゃない」
「じゃ、なんだい?」
「あいつのズボンの膝だ」
「で、何が見つかったね?」
「思っていたとおりのものだ」
「なぜペーヴメントを叩いたりしたのかい?」
「おい、ワトスン先生、今は観察のときだ。おしゃべりしている場合じゃない。僕たちは敵国にもぐったスパイなんだよ。サクス =コウバーグ・スクエアのことはいくらかわかった。さて、その裏にある小径(こみち)をいくつか探検するとしよう」
この引っこんだサクス =コウバーグ・スクエアから角を曲って出てきた道は、スクエアとは非常な対照を見せて、まるで絵の表と裏みたいだった。シティの交通が北と西に通じている大動脈の一つ。車道は入ってくるのと出て行くもの、二つの潮となって流れる、巨大な交錯の流れにあふれ、歩道はどちらも急ぎ足の通行人の群れでまっ黒だった。一列に並ぶ立派な商店や堂々たる商社の建物を見ると、これらと実のところ背中合わせになっている裏側が、さっきまで歩いていた、くすんだ、よどんだ一角だとは、ちょっと考えられないほどだった。
「さて、と」ホームズは角に立って、家(や)並びに目を走らせた。「ここの家の並んでいる順を覚えておきたいのだ。ロンドンのことを正確に知っておきたいのが僕の道楽でね。これはモーティマー商店、つきがタバコ屋、小さな新聞売屋、シティ・アンド・サバーバン銀行のコウバーグ支店、菜食専門料理店、それからマクファーレン馬車工場の倉庫という順で。ここでつぎの一郭(いっかく)へ移ることになる。では、先生、僕たちの仕事はすんだから、これからがお楽しみの時間だ。サンドウィッチにコーヒーを一杯飲んで、それからヴァイオリンの国へ出かけるとしよう。すべてが、心持よい、優美な、調和の世界。赤毛のお客におしかけられて、難題をふっかけられることなどありゃしないよ」
わが友ホームズは熱心な音楽家で、自分でもなかなかうまい演奏家であるばかりでなく、並々ならぬ作曲家でもあった。午後のうち、ずっと、彼はこの上なく満ち足りた幸福感につつまれて一階席に座り、その長い、細い指を音楽に調子を合わせて静かに振っていた。おだやかにほほえんでいる顔や、もの憂いような、夢見るような目といえば、とてものことに探偵ホームズ、冷酷、俊敏(しゅんびん)、間髪を入れない犯罪摘発者のそれとは、似ても似つかぬものだった。
彼の奇妙な性格には二重の性質がかわるがわるあらわれる。あの極度の正確さと機敏さは、これまでたびたび思っていたところだが、ときおり彼の心に浮かぶ詩的で瞑想(めいそう)的な気分に対する反動を示すものであった。この性質の移り変わりで、ひどい倦怠(けんたい)にあるかと思えば、つぎには精力を集中するということになる。それで私にはよくわかっていたことだが、彼が本当に怖ろしいときというのは、何日も何日もつづけて、アーム・チェアにだらりとしながら、あれこれと即興曲を弾いてみたり、ゴチック体の古版本(こはんぼん)をめくっているときである。そのときこそ、追求心が忽然(こつぜん)とわき上ってきて、彼のすばらしい推理力が直覚の域に達するので、その方法を知らない人から見れば、ホームズを人並みすぐれた知識の持ち主かと怪しむばかりになるのだ。
その日の午後、セント・ジェイムズ・ホールで、これほどまで音楽に聞きほれているホームズを見ていると、私は、彼が追いつめようとしている相手の身に、不吉なときが見舞いそうだという気がした。
「君は家へ帰りたいと見えるね、先生」ホールを出ると、ホームズが言った。
「うん、そのほうがよさそうだ」
「ところで、僕はちょっと時間がかかる仕事があるんだ。コウバーグ・スクエアでのこの事件は重大事件だよ」
「どうして重大事件なんだ?」
「相当な犯罪を企んでいるのだ。今のうちなら、それをくい止められると信じられる、そもそもの理由があるのだ。でも今日が土曜日だというので、いささか事がめんどうになる。今夜は君の手をかりるよ」
「何時だい?」
「十時なら、十分間に合うね」
「十時にベイカー街へ行くよ」
「いいとも。ところで先生! ちょっとばかり危険な目にあうかもしれないから、どうか君の軍用ピストルをポケットに入れてきてくれたまえ」
彼は手を振って踵(きびす)をかえすと、たちまち人ごみの中へ姿を消してしまった。
私は近所の連中にくらべて別段ものわかりがにぶいとは思っていないが、シャーロック・ホームズが相手では、いつも自分の愚鈍さにほとほと愛想がつきてしまう。ここで私は彼が耳にしたのと同じものを聞き、彼が目にしたのと同じものを見ていたのに、それでも彼の言葉からすると、明らかにホームズは、これまでに起こったことばかりでなく、これから起ころうとしていることまではっきりと見てとっていたのだ。ところが私には、事件の一切が、まだなんのことだかめちゃくちゃで奇怪なのだ。ケンジントンのわが家へと馬車を走らせながら、あの「百科事典」を筆写した赤毛の男の異様な話から、サクス =コウバーグ・スクエアへ行ったこと、別れぎわにホームズ言った不吉な言葉まで、ひととおり考え直してみた。この夜の探検とはなんだろう。それに、ピストルまでしのばせて行かねばならないのか。どこへ行って、何をしようというのか。ホームズの口からは、こののっぺり顔の質屋の番頭が恐ろしい奴、深い企みをやりかねない男だ、とは察しがついていた。その謎を解いてみようとしたが、とてものことに手のつけようがなくてあきらめ、いずれ今夜には説明がつくだろうと、このことは放っておくことにした。
九時十五分になって、私は家を出て、ハイド・パークを横切り、オクスフォード通りを抜けて、ベイカー街に向かった。二台の二輪馬車が玄関に止まっていた。廊下に入ると、二階から人声が聞こえた。ホームズの部屋に入ってみると、彼は二人の男とさかんに話をかわしていたところで、相手の一人は警察官ピーター・ジョーンズとわかった。ところでいま一人は、背が高くて、痩せた、もの悲しい顔つきで、ひどくぴかぴか光る帽子をかぶり、気圧(けお)されるほど立派なフロック・コートを着ていた。
「はあ! 仲間がそろった」ホームズは厚地の水夫ジャケットのボタンをかけ、むち掛けから重い狩猟むちをとった。「ワトスン、スコットランド・ヤードのジョーンズ君はご存じだね? メリーウェザーさんをご紹介しよう。今夜の冒険に加わって下さるのだ」
「また協力させていただきますよ、先生」ジョーンズはいつものもったいぶった調子で言った。「こちらのホームズさんは追いこみをかける名手でしてね。追いつめて捕えるのには、手をかす老犬一匹あればいいのですよ」
「この追いこみのあげくが、しょせんつかまらない[野がちょう]だなんて始末にならなければいいんですがね」メリーウェザー氏が陰気に言った。
「ホームズさんを十分信頼して下さってよろしいのです」警官のジョーンズは高慢に言った。「ホームズさんにはホームズさん自身のちょっとした方法があるのです。これがまた、そう言ってはなんですが、少々理論だおれで、奇想天外すぎるきらいはありますが、もともと生まれつき探偵の素質があるんでしてね。一度か二度、あのショルト殺人事件やアグラ宝物事件のときのように、本職の警察よりはずっと真相に近かった、と言っても言い過ぎではありませんよ」
「ま、そう君が言われるなら、ジョーンズ君、それでいいんですよ!」メリーウェザーはおとなしく言った。「でも、トランプの三番勝負をふいにしましてね。こいつをやらないなんて、この二十七年間、今夜という土曜日が初めてですよ」
「いまにわかりますよ」シャーロック・ホームズが言った、「今夜は今までにやられたこともないほどの大きな賭(か)けです。この勝負はずっとはらはらさせられますよ。あなたにとっては、メリーウェザーさん、賭けは三万ポンド。君のほうは、ジョーンズ君、君がつかまえたいと思っている人間ということになる」
「ジョン・クレイという奴、人殺しで、泥棒で、にせ金使いで、にせ金造りです。若い男ですが、メリーウェザーさん、その道ではひとかどの腕でして、ロンドンじゅうのどの犯罪人よりも、こいつに手錠をかけてやりたいのです。凄(すご)い男です、まだ若いのにジョン・クレイってのは。祖父は王家の血筋に当たる太公、当人のジョンはイートンとオクスフォード大学に学びましてね。頭の悪賢(わるがしこ)いのは指先の器用なのと同様で、いたるところに彼の形跡は残っていても、いっこうにこの男の所在がわかりません。今週はスコットランドで押し入りをやるかと思えば、次の週はコーンウォールで、孤児院を建てるといって金を集めているといった調子です。何年も前から追っかけていながら、まだお目にかかったことがないのです」
「今夜はお引き合わせしたいものだ。僕もジョン・クレイ君にはいささか借りもあるんでね。その道ではひとかどの腕だという、君の意見には賛成だよ。それはそれとして、十時を過ぎたね。出かける時間だ。あなた方お二人が前の馬車に乗って下されば、ワトスンと僕とはあとのでついて行きましょう」
シャーロック・ホームズは馬車にゆられている長い間、あまり口もきかずに、午後に聞いた曲のいくつかを口ずさみながら車の席に背をもたせていた。私たちはガス燈のともった、果てしない迷宮のような通りをかたかたと通って、やがてファリンドン通りに出た。
「もうすぐだよ」ホームズは言った。「あのメリーウェザーという人は、銀行の重役でね、この事件には個人的に関係があるのだ。ジョーンズも一緒に来てもらうほうがいいと思ってね。悪い男じゃない。仕事にかけてはどうにも仕様のないぼんくらだがね。一つだけは取り柄(え)がある。ブルドッグのように勇敢で、誰かに爪をかけたとなると、ザリガニのようにしつこくって離れない。さあ来た。先の二人が待っているよ」
今朝、わたしたちが歩いた、あの同じ人通りのはげしい往来に来ているのだった。馬車をかえして、メリーウェザー氏に案内されるままに、私たちは狭い通路を通り、わきのくぐり戸を入った。メリーウェザー氏が手ずから開けてくれた。内には小さな廊下があって、つき当たりは非常にどっしりした鉄の門になっていた。これも開け、らせん状の石段を降りると、その行き当たりに、も一つの手強(てごわ)い門があった。メリーウェザー氏は立ち止まってランタンに火をつけ、それから暗い、土くさい通路を案内して、三番目のドアを開けると、大きな穴ぐらか、地下室といったところへ連れこんだ。そこはあたり一面に、かごや大きな箱がつみ重ねてあった。
「上から襲われる心配はなさそうですね」ホームズはランタンを持ち上げて、あたりを見やりながら言った。
「下からだってありませんよ」メリーウェザー氏はステッキで床に敷き並べた敷石を叩いた。「おや、これは、がらんどうの音がする!」彼は驚いて目を上げた。
「も少し静かにしていただきたい」ホームズはきびしく言った。「この探検がそれでぶちこわしになるところでしたよ。どうかそこらの箱に腰でもおろして、じゃまをしないように願いたいものです」
しかつめらしいメリーウェザー氏は、ひどく機嫌をそこねた顔つきで、かごの上に腰をおろした。一方ホームズは床にひざをついて、ランタンと拡大鏡を持ち、石と石の間の隙き間をこまかく調べ始めた。二、三秒で十分満足したとみえて、ホームズはまた立ち上り、拡大鏡をポケットにしまった。
「少なくともまだ一時間はある。あの人のいい質屋さんが寝こんでしまうまでは連中だって仕事の進めようはないんだからね。寝こんでしまえば一分だってむだにはしない。仕事をすませるのが早ければ早いだけ、逃げる時間が長く持てるいうわけだ。僕たちは、今はね、先生……きっと君もわかっているだろうが、ロンドンで一流の銀行の一つ、そのシティ支店の地下室にいるのだ。メリーウェザーさんはここの頭取だ。説明していただけるよ、ロンドンの不敵な悪人どもがこのせつ、この地下室にひどく関心を持っているわけがね」
「こちらのフランス金貨をねらっているんです」重役のメリーウェザーは声をひそめた。「何度となく警告を受けていましてね、こいつをねらって、一度はやられるだろうって」
「こちらのフランス金貨ですって?」
「そうなんです。何か月か前に銀行の資金を増やす必要がありましてね。その目的でフランス銀行からナポレオン金貨を三万枚借り入れたのです。その金を荷解きする必要がなくなり、今でも地下室にねかせてあることが世間に知られています。この私が腰かけているかごには、二千枚のナポレオン金貨が、薄くのばした鉛の間にいく重ねもつつまれて入っているのです。当銀行の目下の金塊保有量は、一つの支店銀行がふだんに持っているより、はるかに多いのでして、重役たちもこの件では心配のしつづけなんですよ」
「その心配が本物になったわけです」ホームズが言った。「さて、こちらの計画にとりかかる時間になりました。一時間しないうちに、いざということになるはずです。それまで、メリーウェザーさん、その暗いランタンに、も一つおおいをかけていただかなくちゃ」
「まっ暗の中で坐っているんですか」
「そうしなきゃならないでしょうね。ポケットにカードを一組入れてきたので、四人そろっているからには、あなたのおっしゃる三番勝負がやれるかな、と思いましたがね。しかし敵の準備もかなり進んでいるようですから、めったに明かりなどつけておかれませんよ。で、とりあえず、われわれの居場所を決めるとして。相手は向こう見ずな連中ですし、奴らの不意をつくにしたところが、こちらも注意していないと、けがをさせられますよ。僕はこのかごのうしろに立つとしましょう。あなた方はそちらのかげにかくれていて下さい。そこで、僕が奴らに明かりをさし向けたら、すぐにとびかかって下さい。向こうが発砲するようなら、ワトスン、遠慮なく撃ち倒してくれたまえ」
私は木箱のうしろにうずくまって、その箱の上に、打ち金を起こしたピストルを置いた。ホームズはランタンの前面に覆い板を入れて、あたりをまっ暗にした。……これまでに経験したことのないほどの、真の闇だった。熱くなった金属の臭いで、まだ火はついたままで、いざというときに光をあびせかけるようになっていることがわかった。今か今かと待ちかまえて、神経をすっかり張りつめた私は、突然暗くなった上に、穴蔵の冷たい、しめっぽい空気につつまれて、なんだか気が沈んで、めいってきた。
「奴らの逃げ場はたった一つしかない」ホームズは小声で言った。「この家を逆に戻って、サクス =コウバーグ・スクエアへ抜ける道だ。頼んでおいたことはやってくれたろうね、ジョーンズ?」
「警部を一人、巡査を二人、玄関に張りこませてあります」
「それじゃ、穴はすっかりふさいである。では静かに待っていましょう」
なんという長い時間に思われたことか!
あとで話し合ってみると、わずか一時間と十五分にすぎなかったが、私にはもう夜が明けて、地上では明るくなっているにちがいないと思われた。手足は疲れて硬ばっていた。身動きしてはいけないと思っていたからである。それでも神経は極度に緊張しきっていて、耳は非常に鋭敏だったので、他の三人の静かな息づかいが聞えるばかりでなく、肥ったジョウーズの、深くて重い、吸いこむ息と、銀行重役の細いためいきのような息づかいとを聞き分けることもできた。私の居場所からは、箱ごしに床のほうが見えた。突然、きらりとする光が目に入った。
初めは敷石の上に見える、青白い閃(ひらめ)きにすぎなかった。それが次第に長く延びて、やがて黄色い一本の線になり、それからなんの前ぶれも音もなく、割れ目が開くかと見ると、手が一本あらわれた。白い、女ともまごう手で、それが光の小さな輪の中心をまさぐった。一、二分、指をもがいていたその手が、床からにゅっと出てきた。すると、その手は見えるが早いか引っこんで、再びもとのまっ暗闇にかえり、青白い閃きだけが見えるばかりで、その閃光(せんこう)が石の割れ目を浮かばせていた。
しかし、手の見えなくなったのもほんの一瞬だった。引き裂くような音を立てて、幅のある、白い石の一枚が片側にはねかえり、四角い穴がぽっかり開いて、そこからランタンの光が流れ出た。端のところから覗(のぞ)き出たのは輸郭のはっきりした、子供のような顔で、あたりを鋭く見まわしてから、穴の両側に手をかけて、肩から腰の高さまでせりあがり、やがて片ひざを床の端に置いた。と見る間に、すっと穴のふちに出て、あとの仲間を引っぱり上げていた。同じようにしなやかな小柄の仲間で、青白い顔に、まっ赤な髪の毛をもじゃもじゃと生やしていた。
「大丈夫だ」先の男が小声で言った。「のみと袋を持ってるね。いけねえ! とびおりろ、アーチー、とびおりろ。俺は覚悟のしばり首だ!」
シャーロック・ホームズはとび出して、この闖入者(ちんにゅうしゃ)の襟(えり)をつかんでいた。仲間は穴をとびおりた、ジョーンズが上着のすそをひっつかんだので、布の裂ける音が聞こえた。光がさっとピストルの銃身にきらめいた。だがホームズの狩猟むちが相手の手首をしたたか打って、ピストルが石の床にがちゃりと落ちた。
「むだだよ、ジョン・クレイ」ホームズはおだやかに言った。「どうしようもないよ」
「そうらしいな」相手はいとも落ち着いて答えた。「仲間はうまく逃げたかな。上着の尻はつかまえられたがね」
「玄関には三人見張っているさ」ホームズが言った。
「なるほどね。万事手落ちなくおやりのようだ。お賞(ほ)め申さなくちゃあな」
「そちらもご同様に」ホームズは答えた。「君の赤毛連盟という思いつきは、ちょいと目新しくって上出来だったよ」
「すぐにまた仲間に会えるぜ」ジョーンズが言った。「あいつは穴を降りるのは俺よりす早い。手錠をかけるあいだ、手を出していろ」
「そんなうす汚ない手で僕に触ってもらいたくないね」手錠が手首にかちりとかけられると、犯人のクレイが言った。「ご存じないのかもしれないが、僕の身体には王家の血が流れているんだ。僕になにか言いたいときには、いつでも『閣下』とか『どうぞ』とか、ていねいに言ってもらいたいよ」
「承知つかまつりました」ジョーンズは、目を見張って、くすくす笑った。「では、なにとぞ閣下、階上におのぼり遊ばして。署まで殿下をお連れ申し上げるよう、馬車を申しつけるでございます」
「それがよかろう」ジョン・クレイは落ち着きはらって言った。われわれ三人にずっとひとわたりおじぎをして、探偵ジョーンズに守られながら静かに歩み去った。
「まことに、ホームズさん」私たちとあとについて地下室から出て行きながらメリーウェザー氏は言った。「銀行のほうではなんとお礼を申し上げていいか、またどうお報いしたものかわかりません。疑いもなく、ついぞこれまで経験したこともない、銀行破りの中でも最も計画的な犯行を、これまた最も手ぬかりのない方法で看破(かんぱ)し、打ち破って下さった」
「わたしには、もともとジョン・クレイを相手に片づけなけれはならない、ちょっとした借りが一つ二つありましてね」ホームズは言った。「この件ではわずかばかりですが出費がありました。銀行のほうでそれをお払い下されは結構です。ですがそれ以上にも、いろいろな点で類のない経験をしましたし、赤毛連盟という非常に珍らしい物語も聞いたことですし、わたしとしては十分にお返しを頂いたも同然です」
「ねえ、ワトスン」ホームズは朝早く、ベイカー街でウィスキー・ソーダのグラスを前に坐りながら説明してくれた。「初めからはっきりわかっていたのはね、連盟の広告とか、『百科事典』の筆写だとかいった、こんないささか奇妙な仕事の目的は、さしずめ、このあまり利口でない質屋を、毎日何時間かじゃまにならないところへ追っぱらっておくことにあった、としか考えられない。おかしなやり方といえばそれまでだが、それよりうまい方法は、まず思いつかなかったろう。この方法は、疑いもなくクレイの頭のよさで、共犯者の髪の色から思いついたのだ。一週に四ポンドというのは質屋の気をそそるに足る餌(えさ)だったし、奴らにとってはなんでもない。数千ポンド目当てにやっているんだからね。広告を出す。一人は一時的な事務所をかまえる。あとの一人が質屋をそそのかして応募させる。そこで二人がしめし合わせて、一週間、毎朝質屋をまちがいなく留守にさせる。番頭が半分の給料でやって来たと聞いたときから、僕にははっきりしていたよ。何か強い動機があって、この番頭は勤め口にありつきたがっているのだ、とね」
「それにしても、その動機がどういうものか、どうして考えついたのだい」
「あの家に女でもいたら、ただの、くだらない色ごととでも思ったところだ。しかし、これは問題にならない。あの質屋の商売は小さいし、あの家には、あれほど手のこんだ準備をしたり、あれだけ金をかけるほどのものなど、一つもありゃしない。とすると、あの家の外にある何かであるにちがいない。ではいったい何か。僕は番頭が写真にこっていること、地下室へ姿をかくすトリックを思いついた。地下室! これが、このもつれた手がかりの糸の端だ。そこで僕はこの不思議な番頭のことをいろいろさぐってみた。すると、この、ロンドンで最も冷静にして大胆不敵な犯罪者の一人を相手にしなければならぬとわかった。番頭は地下室で何かやっていたのだ……毎日何時間かかけて、何か月もつづける仕事なんだ。くりかえして言うが、いったいなんだろう。僕には、どこか他の建物へのトンネルを掘っているのだとしか考えられなかったのだ。
僕たちが現場へ出向いて行ったときには、そこまでわかっていた。敷石をステッキで叩いて、君をびっくりさせたね。地下室のほら穴が、前へ延びているのか、うしろへ延びているのか確めていたわけだ。前ではなかった。それからベルを鳴らしたところが、うまいぐあいに、番頭が出てきた。僕とこの男とは多少小競(こぜ)り合いをやったことがあったが、まだお互いに顔を合わせたことはなかったのだ。僕はほとんど、奴の顔を見なかった。僕が見たかったのは、奴のひざだった。君も気がついたにちがいない、両ひざが、すり切れて、しわくちゃで、ひどく汚れていたね。あれだけ時間をかけて、穴を掘っていた証拠だ。残るところは、なんの目的で穴を掘っているのか、ということだけだ。
僕は歩いて角をまわり、シティ・アンド・サバーバン銀行がわが質屋の建物と背中合わせになっていることがわかった。この問題は解決したと思ったよ。コンサートのあと、君が馬車を走らせて帰ると、僕のほうはスコットランド・ヤードと銀行の頭取のところへ寄った。あとは君が目にしたとおりだ」
「ところで、奴らがやるのは今夜だとどうしてわかったんだい?」私はたずねた。
「それかね。奴らが連盟事務所を閉鎖したというのが、もうジェイベズ・ウィルスンがいてもかまわないというしるしだよ。言いかえれば、トンネルが完成したというわけだ。しかしこれを使うのは即刻を要する。発見されるかもしれないし、金貨がほかへ移されるかもしれないからね。土曜日というのは、他の日よりは都合がいいのだ。逃げるのに二日間の余裕ができるからだ。まあ、こうした理由を考え合わせて、奴らが来るのは今夜だな、と見当をつけたのだよ」
「みごとな推理のお手ぎわだ」わたしはお世辞でなく讃嘆の声をあげた。「長い鎖の環だのに、一つ一つの環が真実の響きを立てて、立派に筋が通っているよ」
「おかげで退屈しのぎになったよ」ホームズはあくびをしながら答えた。
「あーあ、もうまた退屈がおそってきているようだ。僕の生活は、生存の平凡さから逃げ出そうという、長い努力のひとつづきで終るのだ。こうした小さな問題がおかげでそんな役に立ってくれるよ」
「それに、君は人類の恩人だよ」
ホームズは肩をすくめた。
「うん、たぶん、結局は、少しは役にも立つかね。『人間は無、……仕事こそすべてだ』と、ギュスターヴ・フロベールがジョルジュ・サンドへ書き送ったようにね」
「ねえ、君」シャーロック・ホームズが言った。私たちがベイカー街の彼の借り部屋で、炉をかこんで腰をおろしていたときだった。「人生というものは、人が頭で考えつく、どんなものにもまさって、とりとめもなく不思議なものだ。僕たちは、実際のところ、生存の平凡なものにすぎないものなど、考えてみようともしないのだ。かりにあの窓から手に手をとってとび出し、この大都会の上を舞いわたり、静かに屋根をはぎ、中で行なわれている奇妙なことをあれこれと覗(のぞ)きこむとしてごらん。不思議な暗合、企(たくら)み、食いちがい、出来事の思いもよらぬつながり、といったものが世代から世代へとつづいて行なわれ、まことにとてつもない結果になっていく。月並みな、初めから結末の知れている小説なんぞは、これからみれば、ひどく古臭くて愚にもつかないものに思えるよ」
「そうだとばかりは言われないね」私は答えた。「新聞にのっている事件なんぞは、まず大てい、味もなけれは俗悪なものと相場がきまっているよ。警察の調書などはとことんまでリアリズムの骨頂だが、といってその結果は、正直言うと、魅力があるわけでもなく、芸術的でもないものね」
「リアリスティックな効果を生み出すには、一定の選択と裁量(さいりょう)がほどこされなければならない」ホームズは言った。「これが欠けているのが警察調書で、これには警察判事の月並みな調べのほうが、細かな点によりも重点がおかれているようだ。細かな点こそ、観察者にとっては、全事件の死活をにぎる、核心をふくんでいるところだがね。まちがいなく平凡なものほど不自然なものはありゃしないよ」
私は笑って首をふった。「君がそう考えるのもわかるがね。もちろん、君のような三大陸にわたって、なんとも困惑しきっている人たちへの私的な相談相手で援助者という立場にあっては、君が接触させられるのは、不思議な奇怪なことばかりだ。だが、それならね」私は足元から朝刊紙を取り上げた。「ひとつ実地にためしてみようじゃないか。ここにまず目につく見出しがあるよ。『妻を虐待する夫』半段もさいているが、読まなくったって、僕には耳にたこができるくらい聞きなれている話だとわかるね。もちろん、ほかに女ができる、酒をのむ、突きとばす、なぐる、傷をおわせる、そこへ哀れに思った姉妹とか女家主が割って入る、という筋だ。どんなずさんな記者だって、これよりずさんには仕立てられないよ」
「へえ、その例は君の議論に不利とくるよ」ホームズは新聞をとって、ちらと目をそそいだ。「これはダンダスの離婚事件だね。たまたま僕はこの事件に関して二、三の小さな点を解決しようとしたことがある。夫というのは全くの禁酒家で、ほかに女出入りはなし、離婚話の出どころは、食事の終わるたびに義歯をはずして細君のほうへ投げつけるのが習慣になったということだ。こんなことは凡庸(ぼんよう)な作家の手あいには思いつきそうもない行為だと、君も思うだろう。嗅ぎタバコをつまみたまえ、先生。君の持ち出した例では、僕のほうがうわてだったね」
ホームズは古い金の、ふたの中央に大きな紫水晶のついた嗅ぎタバコ入れを差し出した。その豪華さは、彼の質素な簡易生活とひどく似つかわしくなかったので、私はそれについてなんとか言ってみないではおられなかった。
「ああ」ホームズが言った。「忘れていたよ、君に逢うのは、何週間ぶりだね。ボヘミア王からのちょっとした記念品でね。アイリーニ・アドラーの写真の件で、僕が力をかした返礼にくれたんだよ」
「それに、その指輪は?」私は彼の指にきらきらしている、すばらしいブリリアント型へ目をやった。
「これはオランダの王室からだ。もっとも僕が手をかしたこの件は、ちょっと微妙で君にも話せない。僕の扱ったつまらない事件を一つ二つ、申し分なく記録してくれた君だがね」
「ところで目下(もっか)手がけているのが何かあるかい?」私は興味をもってきいた。
「十あまりはあるが、おもしろいと思えるようなのは一つもないね。といっても重大な事件ばかりだ、おもしろいとは言えないが。まったく、常に重要ならざる事件にこそ、観察の場があり、調査に魅力を与える、原因と結果のすみやかな分析の場がある、とわかったよ。大きな犯罪ほど単純でありがちだ。犯罪が大きければ大きいほど、概して動機が明らかなものだ。今手がけている事件では、マルセイユから依頼してきた、いくらか混み入った事件のほかには、いっこうにおもしろいといったものはないね。でも、こう言っているうちにも、何かおもしろい話がとびこんでこないともかぎらない。ほら、あれは僕のところへ依頼にくる客の一人だ。まず僕の目には狂いはないよ」
ホームズは椅子から立ち上っていて、ブラインドのあい間に立ったまま、どんよりとかすんだロンドンの通りを見下ろしていた。彼の肩ごしに目をやると、向かい側の舖道に大柄(おおがら)の女が立っていた。
重い毛皮のボアを首にまき、つばびろの帽子に大きな赤い羽根をうねらせ、これを耳の上にななめにかぶって、あだっぽいデヴンシャー公爵夫人もどきといったところだった。この仰々(ぎょうぎょう)しい身なりで、むずむずとためらいがちな様子でこちらの窓をうかがうように見上げながら、身体を前後にゆさぶり、指で手袋のボタンをいじっていた。と、突然、岸を離れる泳ぎ手のようにとび出して、いそいで道を横切った。するとベルの鋭く鳴る音が聞えた。
「前にもあれと同じような兆候がよくあったよ」ホームズはシガレットを炉に投げこんだ。
「舖道で身体をゆすっているのは、きまって色沙汰だよ。相談にはのってもらいたいが、事を打ち明けたものかどうかが、いささか微妙だというところ。ところで区別はあるんだよ。女が男にひどく痛められている場合は、もじもじしていやしない。いきなりベルのひもを引きちぎるくらいが普通のやり方だ。今のは恋愛事件だと思っていいが、あの女は腹を立てているというよりは、思い悩んでいるか、悲しんでいるかだね。ま、本人みずからご入来だ。われわれの疑問を解いてくれるよ」
ホームズが言うが早いが、ドアにノックがあって、金ボタンの制服を着た給仕が入ってくると、ミス・メアリ・サザランドの来訪を取りついだ。その給仕の小さな黒ずくめの姿のうしろに、さきの女性がぬっと現われて、水先案内の小艇(しょうてい)にしたがう、満帆(まんぱん)の商船よろしくだった。シャーロック・ホームズは彼特有のくつろいだ愛想のよさで彼女をむかえ、ドアを閉めて、アームチェアをすすめると、詳細に、だが独得の放心したような様子で、彼女を眺めまわした。
「あなたの近眼で、そんなにタイプライターを打たれるのは少々おつらい仕事でしょうね」
「初めはつらいと思いましたわ。でも今では見ないで、文字のある場所がわかりますの」
答えてから、ホームズの言葉の内容に突然気がつくと、彼女はひどく驚いて、その上機嫌な大顔に、驚怖と驚きを浮かべて見上げた。
「わたくしのことをお聞きでいらっしゃいますのね、ホームズさん」彼女は大きな声で言った。「そんなことをすっかりご存じだなんて」
「ご懸念(けねん)なく」ホームズは笑った。「あれこれを知るのが僕の仕事でしてね。他の連中なら見逃すものを、僕にはちゃんとわかるように訓練ができているのでしょう。でなければ、あなただって、ここへは相談にいらっしゃらないでしょう?」
「こちらへおうかがいいたしましたのは、あなたのことをエサリッジ夫人からお聞きしたからでございます。あの方のご主人をわけなく探し出しておあげになりましたそうで。警察や誰も彼もが死んだものとして捜査を打ち切りましたものを、おお、ホームズさん、わたくしにも同じようにお骨折り願いたいと思いまして。わたくしはお金持ではございませんが、でもまだわたくしの名儀で一年に百ポンド、それにタイプライターで少々の収入もございます。それをみんな差し上げてもいいのです。ホズマー・エンジェルさんがどうなられたのか知りたいのです」
「どうしてこんなに急に相談にこられたのですか」ホームズは指先を組み合わせ、目を天井に向けながらきいた。
また驚きの色がミス・メアリ・サザランドのどこか間のぬけた顔に浮かんだ。「ええ、家からとび出しましたの。ウィンディバンクさんの……わたくしの父なんですが……のんきなやりようを見ていますと腹が立ったのです。警察へ行くでもなし、こちらさまへ来るのでもなし、そんなことでとうとう、父はなんにもしようとせずに、危害をうけることはないと申しているばかりなものですから、わたくしも気が気でなく、ほんの着のみ着のままで、こちらへまっすぐにうかがったわけでございます」
「お父さんですって?」ホームズが言った。「義父なんですね、きっと。お名前が違っておられるから」
「ええ、義父なんですの。父と呼んでいますわ、おかしいくらいなものですけれど。わたくしより五年と二か月しか上ではないんですもの」
「で、お母さんはおられるんですか」
「ええ、母は元気でおりますわ。でも大してうれしくはありませんでしたわ、ホームズさん。父が亡くなってすぐに再婚しましたし、その相手が十五ほども若いんですもの。父はトトナム・コート・ロードで鉛管工場をやっていまして、かなり順調にはこんでいた時に亡くなりましたので、母は職工長のハーディさんとこの仕事をつづけていました。ですがウィンディバンクさんが来てから、母にすすめてこの仕事を売らせてしまいました。この人は大へんうわ手で、お酒の外交員でしたもの。お店の株と利権を四千七百ポンドで売りました。父が生きておりましたら、とてもそんな値では手放すもんではございませんわ」
こんなとりとめもない、辻つまのあわない話を聞いては、シャーロック・ホームズもさぞいらいしているだろうと思っていたところが、それどころか、この上なく注意を集中して聞き入っていた。
「あなたの多少の収入は」ホームズがきいた。「その店から出るのですか」
「いいえ、全く別なんです。オークランドのネッド伯父がのこしてくれましたもので、四分五厘のニュージーランド公債でして、額は二千五百ポンド、でも、わたくしの手がつけられますのは利子だけなんです」
「大へんおもしろいお話ですね。年に百ポンドというような大金が入ってくるし、おまけにご自分でも稼がれるとなれば、さだめし旅行もできるでしょうし、なにかとお好きなこともできましょう。独身のご婦人なら六十ポンドも収入があればけっこう立派にやっていけますからね」
「わたくしなら、そんなにかかりませんわ、ホームズさん。でもおわかりでしょうが、家におりますうちはあの人たちに厄介はかけたくございませんので、一緒に暮らしております間だけでも、そのお金はあの人たちの自由にさせてございます。もちろん当座だけのことなんです。ウィンディバンクさんは四半期ごとに利子を引き出して母へ渡します。わたくしはタイプライターで得られるお金でかなりにやっていけますの。一枚二ペンスになりますし、一日に十五枚から二十枚はやれることがございますもの」
「お話でご事情はよくわかりました」ホームズは言った。「こちらは友人のワトスン博士です。この方の前では、僕同様に、ご遠慮なくお話し下さって結構ですよ。ではどうか、ホズマー・エンジェルさんとのご関係をくわしくお話し願いましょうか」
ミス・サザランドはさっと顔をあからめて、もじもじとジャケットのふちをつまんだ。
「あの方に初めてお逢いしたのは、ガス燈取りつけ工の舞踏会でした。父あてに、生きていたうちはいつも切符を送ってくれていましたが、亡くなってからも私たちのことを忘れずに、母まで送ってくれました。ウィンディバンクさんは私たちが行くのをいやがりました。どこへ行くのもきらいました。私が日曜学校の慰安会へ行きたいというだけでも、怒り狂うのです。でもこの時ばかりはなんとしても行くことにしました。行きたかったのです。ウィンディバンクさんが、これを止める、どんな権利があったでしょう。私たちが知り合いになっていいような連中じゃない、と言うのです。父とお知り合いの方たちがみなさん集まってこられるはずですのにね。私が着て行くものもないのにと言いました。箪笥(たんす)から出したこともない紫のフラシ天の着物がありましたのに。しまいには、なんと言っても引き止められないとなると、会社の仕事にかこつけてフランスのほうへ行ってしまいました。でも私たちは出かけました。母と一緒にハーディさんもお連れして。前に職工長をしていた人です。その舞踏会で、ホズマー・エンジェルさんにお逢いしたのです」
「ウィンディバンクさんがフランスから帰ってくると、あなた方がその舞踏会に行かれたことで、ひどく不愉快に思われたでしょうね」ホームズが言った。
「いえ、ところが、それが大へん機嫌がよかったのです。覚えておりますが、笑いながら肩をすくめて、女のしたがることは、なんとも止めようがない、どうせ好きなようにするんだから、って言いましたの」
「なるほど。で、ガス燈とりつけ工の舞踏会で、ホズマー・エンジェルさんという方とお逢いになったわけですね」
「そうでございます。その晩お逢いしまして、翌日には、私たちが無事に帰ったかどうかをききに訪ねて下さいました。私たちはあの方に……その、なんでございます、ホームズさん、私は二度ほどお逢いして散歩をいたしました。でもその後、父が戻ってきましてからは、ホズマー・エンジェルさんはもう家にはお出でになれなくなりました」
「来れなくなった?」
「ええ、父がそんなことを好まなかったのですわ。できることなら来客を避けたがっていまして、女というものは自分の家族と一緒にいれば幸福なんだ、と口ぐせに申しておりました。それでも、私、いつも母に言ったことですが、女は第一に自分のおつき合いする仲間がほしいのに、私にはまだそれがございませんでした」
「でもホズマー・エンジェルさんのほうはどうなんです? なんとか、あなたに逢おうとはしなかったのですか」
「それが、父はまた一週間すればフランスへ出かけることになっていましたので、ホズマーは、父が行ってしまうまではお互いに逢わないほうが安全でいい、と手紙で言ってまいりました。その間は手紙が書けましたし、あの方も毎日手紙をくださいました。朝、手紙を受け取るのは私でしたし、父に気づかれることはありませんでしたの」
「そのときは婚約をなさっていたのですか」
「そうなんです、ホームズさん。初めの散歩のあとで、お話ができましたの。ホズマー・エンジェルさんはレドンホール通りにある、ある事務所の出納(すいとう)係でして……そして……」
「なんという事務所ですか」
「それが困りましたことには、ホームズさん、私知らないのです」
「じゃあ、住んでいたところは?」
「事務所のなかで寝とまりしておりました」
「それで、所番地はご存じないんですね」
「ええ……レドンホール通りとだけしか」
「あなたの手紙はどこ宛てにしたのですか、それでは?」
「レドンホール通り郵便局へ局留めにしまして。事務所へよこされれば、女から手紙がくるって、ほかの同僚の方たちにひやかされる、とおっしゃいました。それで私、あの方の手紙のように、こちらもタイプにしましょうと申したのですが、あの方はタイプではいやだと言われるのです。書いた手紙は私からのもののような気がするが、タイプで打ってあるのは、私たちの間に機械がはさまっているような気がする、とおっしゃって。あの方が私をどんなにお好きになっているか、それだけでもおわかりですわね、ホームズさん。ほんとにちょっとしたことまで考えてくれますのが」
「大へん参考になりました」ホームズは言った。「ちょっとしたことがこの上なく大事なことである、というのが、これまでずっと僕の金言でしてね。ホズマー・エンジェルさんのことで、ちょっとしたことをほかに何か覚えていらっしゃいますか」
「大へんはにかみやさんでした、ホームズさん。私と散歩をするのも昼間よりは夜にしたがりました。人目につくのがいやだと申しまして。ひどく内気で紳士らしい方でした。声までが物静かで。若いときに喉頭炎にかかったり、腺(せん)をはらしたりしたので、すっかりのどを弱めて、物を言うのに、口ごもって、小声になるのだ、と申しておりました。いつもいい身なりで、大へん小綺麗に、さっぱりとしていましたわ。でも目の弱いのは私と同じで、色眼鏡をかけて、まぶしいのをさけておりました」
「なるほど。で、義父のウィンディバンクさんがフランスへ出かけられると、どんなことになりました?」
「ホズマー・エンジェルさんがまた家にお出でになり、父が帰らないうちに結婚しようと申し出られました。おそろしく熱心で、聖書に私の両手をおかせて、どんなことがあっても、いつもあの方に心変わりはしない、と誓いを立てさせました。母は、あの方が私に誓いを立てさせるのはもっともなことで、それこそあの方の愛情のしるしだ、と言いましたわ。母は初めからあの方がすっかり気に入って、私より母のほうがあの方を好きだったくらいですの。
それで、その週のうちに結婚するという話になりまして、父のほうはどうかとたずねてみましたが、母もあの方も、父のことは心配しなくてもいい、あとで話せばすむことだとおっしゃいますし、母は、父にはうまく話をつけてあげる、と申しました。私はそんなことは好みませんでした、ホームズさん。そりゃ父の許しを求めるなんておかしなことに思われました。父と私とはほんの二つ、三つのちがいなんですもの。でも、何事につけ、私は裏でこそこそしたくはございませんでしたので、ボルドーの父へ手紙を書きました。そこに会社のフランス支店があるのです。ですが、その手紙が、結婚式の朝というときになって、私の手元に戻ってまいりました」
「ではお父さんの手に渡らなかったのですね」
「そうなんです。それと入れちがいに、父はイギリスへ発っていたのですの」
「はあ! それは運が悪かったですね。で、結婚式は金曜日というとりきめになっていた。教会でするはずだったのですか?」
「ええ。ですが、ごく内輪にですの。式はキングズ・クロス駅近くの聖セイヴィア教会で挙げて、そのあと朝食は聖パンクラス・ホテルでとることになっておりました。ホズマーは二輪馬車で私たちを迎えにきてくれましたが、こちらは母と二人だもので、私たちをそれに乗せ、あの人はたまたま通りに居合わせた四輪馬車に、ほかに乗り物とてはありませんでしたので、それに乗りこみました。私たちが先に教会について、その四輪馬車がやって来ますと、あの人が降りてくるのを待ちました。ですが、あの人は降りてきませんでした。御者が御者台から降りて、見てみますと、誰も乗っていなかったのです! 御者はあの人がどうなったのか、さっぱりわからないと言いました。御者はその目で、あの人が乗りこむのを見ていたのですもの。この話は先週の金曜日のことでして、ホームズさん。それ以来、あの人がどうなったのか、それがわかる消息など、何ひとつ見たことも聞いたこともないのでございます」
「ずいぶん恥ずかしい思いをさせられたものですね」
「いいえ、ホームズさん。とても親切でいい方ですもの。私をそんな目にあわせる人ではございません。ええ、朝のうちずっと、私に言っておりました。どんなことがあろうと、心変わりをしないように、思いがけないことが起こって私たちを引き離そうとも、私はあの人と言いかわした身、おそかれ早かれ必ずお約束は果たしにくるということを忘れないようにって。結婚式の朝にしては妙なことをおっしゃるものと思いましたが、あとで起こったことを思い合わせますと、それには意味があるようでございます」
「確かにありますね。で、あなたのご意見としては、何か不慮の事変がその方の身に起こったとおっしゃるのですか」
「ええ、ホームズさん。あの人は何か危険を予感していたのだと思いますの。さもなければ、あんなことを話すことはございませんもの。予感していたことが事実になったのだと思いますわ」
「しかし、いったい何が起こったのか、あなたにはいっこうに思い当たらないんですね?」
「いっこうに」
「もう一つ、おたずねしますが。お母さんはこのことをどんなふうにお考えでした?」
「母は怒りまして、このことは二度と口にしないように、と申しました」
「で、お父さんは? お話しになりましたか」
「はい。父も、私と同じで、何かが起こったので、いずれホズマーから私に便りがあるだろう、と思っているようでした。父も申しますように、私を教会の玄関まで連れてきて、私をおいてきぼりにしたとて、誰が喜んでおもしろがるものですか。それも、もし私にお金を借りていたとか、私と結婚して、私のお金を自分のものにしていたというのでしたら、いくらか理由にもなりましょうけれど。でもホズマーはお金のことでは私に頼ることなどありませんで、一シリングだって私のお金に目もくれませんでした。それなのに、いったい何が起こったのでしょうか。それにまた、どうして手紙もくれないのでしょう。ああ、考えれば気も狂いそうです! 夜もまんじりともできません」
彼女は小さなハンカチーフをマフから出して、それをおしあて、さめざめとすすり泣きを始めた。
「調べてあげましょう」ホームズは腰を上げた。「きっと確かな結果が得られますよ。まあこの件は僕に任せておいて、くよくよお考えにならないのがいいですよ。まずホズマー・エンジェルさんのことはお忘れになるようになさい。その人があなたから消え去ったようにね」
「ではもうあの人に逢えないとでも?」
「ひょっとしますとね」
「ではあの人にどんなことがあったのですか」
「その事は僕に任せておきなさい。その人の正確な人相を知りたいのと、見せていただいていいような向こうの手紙があれば、いくつか見せていただきたいですね」
「先週の土曜日のクロニクル紙にあの人の尋ね人の広告を出しました」彼女は言った。「ここに切り抜きがございます。それにこれがあの人の手紙四通です」
「ありがとう。あなたのご住所は?」
「キャムバウエルの、ライオン・プレイス、三十一番地です」
「エンジェルさんの住所はおわかりにならないんですね。お父さんの会社はどこですか」
「ウェストハウス・アンド・マーバンク会社の外交で出歩いております。フェンチャーチ通りの大きなボルドーぶどう酒輸入会社なんです」
「ありがとう、お話はよくわかりました。手紙類はここへ置いておいていただくとして、申し上げた注意はお忘れにならないで。こんな事はすっかりなかったことにして、あなたの生涯に傷をつけるようなことにしてはなりませんよ」
「ご親切はありがたいのですが、ホームズさん、とても忘れられませんわ。ホズマーにまことを立ててまいります。帰ってきますのをいつまでも待っておりますわ」
とてつもない帽子をかぶって、まのぬけた顔をしているに似合わず、この来客の単純な誠実さに何か気高いものがあって、尊敬させられる思いであった。彼女は手紙類の小さな束をテーブルに置いて、行きがけに、呼ばれることがあれはいつでもまた参上するという約束を言いのこした。
シャーロック・ホームズはしばらく黙って腰をおろしていた。指先を組み合わせたままで、両脚を前になげ出し、天井をじっと見上げていた。それから棚から、古い、脂(あぶら)っこい陶製パイプをとりおろした。彼には相談相手のようなもので、それに火をつけると、椅子によりかかって、濃い青い煙の輪をはき出しながら、いかにも物うげな顔つきだった。
「全くおもしろい研究になるね、あの娘は」彼は言った。「彼女が持ちこんできた他愛ない問題よりもおもしろいよ。あの問題といえば、いささか古くさいものだ。いくらも同じ事件があるよ。僕の索引をひいてみたまえ。七七年にアンドヴァであったし、去年もヘイグで同じような事件があった。趣向(しゅこう)は古いけれど、でも今度の話には、細かな点で耳新しいところが一つ、二つあったね。それにしてもあの娘さん自体に大いに教えられるところがあったよ」
「あの娘さんのことでは、かなりいろいろと読みとったらしいね。僕にはさっぱり目につかなかったが」
「目につかないんじゃない、見落としたんだよ、ワトスン。目のつけどころがわからなかったので、大事なところをすっかり見逃したのだ。袖(そで)の大事なこと、栂指(おやゆび)の爪の暗示的なところとか、靴ひもから見抜ける大きな手がかりとかを、君に気づいてもらえないのかね。まあ、あの女の外見について、君はなにを覚えているのかい? 言ってごらん」
「そうだね。かぶっていたのは石板色の、つばびろの麦わら帽子で、れんが色の赤い羽根が一枚ついていた。ジャケットは黒、それに黒のビーズをぬいつけて、小さな黒玉を縁(ふち)のアクセサリーにしていた。着物は褐色で、コーヒー色よりやや黒っぽい。小さな紫のフラシ天を襟(えり)と袖口につけていた。手袋はグレイで、右の人差指がすり切れていたね。靴は気がつかなかった。小さな、円い、金のイヤリングを垂らして、全体の感じではかなりいい暮らし向きだ。俗っぽく、気楽で、のんきらしいがね」
シャーロック・ホームズは軽く手をたたいて、くすくす笑った。
「これは、これは、ワトスン、すばらしくなってきたよ。全く大出来だ。実のところ、君は重要なことはすっかり見逃しているが、方法は的(まと)を射ている。それに色彩には目が鋭いよ。全般的な印象には頼らないで、細かいところに集中したまえ。僕はいつも女の袖口に目をやるね。男ならはまずズボンの膝に注意するのがいいようだ。君が気づいたように、さっきの女は袖にフラシ天をつけていた。フラシ天は非常に痕(あと)がつきやすいものだ。手首のちょっと上に筋が二本、タイピストがテーブルにすりつけるところだが、これがはっきり見えていたよ。手まわしのミシンでも同じような痕がつくが、これは左手だけで、栂指からずっと離れて左側につく。あの女のように、まともにいちばん広い部分をよぎってついたりはしないね。それから顔に目をやった。鼻の両側に鼻眼鏡のあとがあるのに気づいたので、近眼でタイプを打つことを言ってみると、これには驚いたようだったね」
「僕も驚いたよ」
「だが、そんなことは見えすいていたことなんだよ。ところが下へ見やっていって、あれがはいていた靴が、左右似ているには似ていたが、実は片ちんばなのに気がつくと、驚き入りもしたがおもしろかったね。一つは爪革(つまかわ)にちょっとした飾りがあるし、片一方のは飾りなしなんだ。一方は五つのボタンのうち下の二つだけしかかかってなく、もひとつは一番目と三番目と五番目がかかっていた。ところで若い女性が、それも小ざっぱりと着こなして、片ちんばの靴をはいて、ボタンを半分かけたなりで家から抜け出てきたとなると、いそいでとび出してきたのだとは、大して考えなくてもわかりきったことだね」
「で、その他には?」いつもながら、私はわが友ホームズの鋭い推理に大へん興味があってたずねた。
「ついでに目がついたのは、彼女は出がけに手紙を書いたということだ。すっかり着替えをしてからだがね。右手袋の人差指のところが破れているのは君も気がついたが、手袋にも指にも菫(すみれ)色のインクがついていたことは見えなかったらしいね。急いで書いたので、ペンを深くインクに浸しすぎたんだね。今朝のことにはちがいないね。そうでなければ、インクのあとがあんなに指にはっきり残っていはしないよ。こう考えてみるのは全くおもしろいね。いささか初歩に類するがね。ところで仕事にかからなきゃ、ワトスン。新聞広告の、ホズマー・エンジェル氏の人相を読んでみてくれないか」
私は新聞の小さな切り抜きを明かりのほうへかざした。「尋ね人」とあった。
「十四日の朝、行方不明。ホズマー・エンジェルなる紳士。身長五フィート七インチ。身体つきよく、顔色悪し。黒髪、中央少しはげ。濃く黒き頬ひげ、口ひげあり。色眼鏡をかけ、言語やや不明瞭。最後に見たる服装は絹の縁取りある黒のフロックコート、黒チョッキ、アルバート型金鎖、グレイのハリス・ツイードのズボン、深ゴム靴に褐色のきゃはんをつけている。レドンホール通りの某会社の勤め人の由。ご通知下された方には」等々。
「それでいい」ホームズは言った。「手紙のほうは」彼はそれらにつぎつぎと目をやった。「ありきたりのものだね。エンジェル氏の手がかりになるものは、これらには全く見当たらない。バルザックの文章を一度引用してはあるがね。しかし目立った点が一つある。これにはきっと君もはっと思うよ」
「手紙はタイプで打ってあるね」私は言った。
「本文ばかりじゃない。署名までがタイプなんだ。末尾の『ホズマー・エンジェル』とある小綺麗な字を見てみたまえ。日づけがあるだろう。だが所書きがない。レドンホール通りとあるだけだ。これではいささか漠然(ばくぜん)としている。この署名の点がしごく暗示的だよ……じっさい、決定的だといってもいいね」
「なにがだい?」
「ねえ君、これがこの事件にどれほど関係があるか、君にわからないなんてあるものか」
「それがわからないんだ。婚約不履行(ふりこう)の訴訟が起こされれば、自分の署名であることを否定できるようにしたいと思っている、というところだろうが」
「いや、そんなことじゃないんだ。ともかく、この問題を解決する手紙を二通書くとしよう。一つはシティのある商会あて。も一つはあの女性の義父にあたるウィンディバンク氏にあてて、明日の晩六時に、ここでわれわれに会ってくれるかどうかをきいてやるのだ。男の親類と取り引きするのがよかろうからね。ところで、先生、この手紙に返事がくるまでは、何にもすることがないから、この小問題はしばらくおあずけとしておこうよ」
私はかねてから多くの理由あって、わが友ホームズの巧妙な推理力と行動にかかる異常な精力とを信じていたので、究明するように依頼されたこの奇妙な怪事を、自信たっぷりに易々(やすやす)と扱っていたからには、いくつか確固とした根拠があるにちがいないと感じた。ホームズが一度だけ難行(なんぎょう)したのを知っている。ボヘミア王に関するアイリーニ・アドラー写真事件であったが、「四つのサイン」の不気味な事件、「緋色(ひいろ)の研究」にまつわる異常な事実をふりかえってみると、この事件もホームズといえども解き得ない、妙にもつれたものになるような気がした。
それからホームズと別れて帰ったが、ホームズは例の黒い陶製パイプをまだくゆらしていて、翌晩私がまたやって来れば、ミス・メアリ・サザランドの失踪(しっそう)した花婿(はなむこ)の正体を次第に見破っていく手がかりを、一切手中に握っているのを見せてやろうという確信を浮かべていた。
そのときは重態の患者をかかえて、それにかまけていて、あくる日一日じゅう患者の病床につききりで忙しかった。やっと六時きちきちになって身体があき、二輪馬車へかけ乗って、ベイカー街へ走らせることができた。時間におくれて、今度の妙な事件の解決に力をかすことができないのではないかと、なかば気が気でなかった。ところが、シャーロック・ホームズは一人でうつらうつらしていた。細い長身のからだをアーム・チェアにまるめているのだ。おそろしくたくさんに並んだびんや試験管に、鼻をつく塩酸の臭いが立ちこめて、ホームズは一日じゅう好きな化学実験をやっていたのがわかった。
「やあ、解決したかい?」私は入るなりきいた。
「したよ。酸化バリウムの重硫酸塩だった」
「いや、あの怪事件がさ」
「ああ、あれか! 僕はまた今までやっていた塩(えん)のことかと思った。あの事件にはなんにも不思議なところはないさ。昨日も言ったように、細かい点で興味のあるところは若干あるがね。唯一の欠点は、この悪党をこらしめる法律がないらしいことだ」
「じゃあ何者だったい? なんの目的でミス・サザランドを捨てたんだい?」
この質問が私の口から出るか出ないか、そしてホームズがまだ唇をひらいて答えもしないうちに、私たちは廊下に重い足音を耳にし、ドアを叩く音が聞えた。
「あの娘の義父のジェイムズ・ウィンディバンクさんだよ」ホームズが言った。「手紙をよこしてここへ六時に来ると言っていた。どうぞ!」
入ってきたのは頑丈な中柄の男で、年は三十くらい、きれいに顔を剃っているが血色は悪く、物やわらかでこびるようなものごしで、おそろしく鋭い、射すくめるような目をしていた。彼は私たちのほうへそれぞれにいぶかしげな目を投げて、ぴかぴか光る山高帽子を脇棚(わきだな)におき、軽く頭を下げて、手近の椅子ににじりよるように腰をおろした。
「よくいらっしゃいました、ウィンディバンクさん」ホームズは言った。「このタイプで打ったお手紙はあなたがくださったものでしょうね。六時というお約束になっていますね」
「その通りです。少々おくれたようですが、何しろ勤めの身は自由にばかりなりませんで。ミス・サザランドがこのつまらぬ事件でおわずらわせいたしまして恐縮です。表立ってこんなことは洗い立てしないほうがいいのでして。てんで私の気持にさからって、あれがまいりましたわけで、ひどく感情のはげしい、かっとする娘でして、まあお気づきのことでしょうが。何かそうしようと思いこみますと、ちょっとやそっとでは手に負えません。もちろんあなたは警察とは関係のない方ですからかまいませんが、こうした家庭内の不幸が外にもれるのはいい気持ではございません。それに無用な失費というものです。ホズマー・エンジェルを探すなんて、まずおできにならないでしょうからね」
「どういたしまして」ホームズは静かに言った。「ちゃんとした理由があって信じているのですが、ホズマー・エンジェルさんは大丈夫見つけますよ」
ウィンディバンク氏はひどく驚いて、手袋を落した。「これはうれしいお話です」
「妙なことですが」ホームズは言った。「タイプライターというものは、人間の肉筆と同じに、はっきりした個性がありましてね。全くの新品ならばともかく、二つのタイプライターで、正確に同じような字が打てるものは一つもありません。ほかのよりすりへっている文字もいくつかあれば、片側だけがいたんでいるものもあります。ところで、あなたのこのお手紙ですが、ウィンディバンクさん、どれをとってもeという字は少々ぼやけていますし、rの肩が少しかけていますね。ほかに十四ばかり癖(くせ)がありますが、特にこの二つは目立つのですよ」
「事務所では通信はみんなこのタイプライターで打っております。たしかに少しいたんでいますね」客は答えて、小さい目でぎょろりと鋭くホームズを見た。
「そこでとてもおもしろい研究をお目にかけたいのですがね、ウィンディバンクさん」ホームズが言葉をつづけた。「僕はそのうち、タイプライターとその犯罪との関係について、もう一つ小論文を書こうと思っているのです。いくらか関心をそそいだ題目でしてね。ここに失踪した人物から来たと言われる手紙が四通あります。全部タイプで打ったものです。どの手紙にもeがぼやけていて、rの肩がかけているばかりでなく、僕の拡大鏡をお使いになればおわかりになりますが、さきほど申し上げた十四の目立つ癖も同様に見えるのですがね」
ウィンディバンク氏は椅子からとび上って帽子をひっつかんだ。「こんな馬鹿々々しい話に時間つぶしはできません。ホームズさん。その男を捕えられるものなれば捕えて下さい。捕えたらお知らせ願います」
「承知しました」ホームズは言って、歩いて行くとドアに鍵をかけた。「ではお知らせしますが、もうその男を捕まえておりますよ!」
「なんですって、どこに?」ウィンディバンク氏は叫んで、唇を蒼白(そうはく)にしながら、わなにかかった鼠(ねずみ)のようにあたりを見まわした。
「もういけませんよ……本当にだめですよ」ホームズはおだやかに言った。「どうにも逃れようはありません、ウィンディバンクさん。すっかり見え透きすぎていましてね。僕にはこんな単純な問題が解けないと言われたのはまことによくないご挨拶でしたよ。ま、それはいいとしておかけなさい。すっかり話し合おうじゃありませんか」
客のウィンディバンクは顔色を失って、額に汗をひからせながら、椅子にがっくりとくずおれた。「そ……訴訟(そしょう)にはなりません」彼は口ごもった。
「まことに残念ながら訴訟にはならないだろうね。だがここだけの話だが、ウィンディバンク君、これはいささか僕も経験したこともない残酷、利己的、無情な企みだったね。では僕がざっと事件のてんまつを話してみよう。まちがっているところがあれば、ちがうと言ってくれたまえ」
ウィンディバンクは椅子にちぢこまり、首を胸に垂れて、くじかれきった人のようだった。
ホームズはマントルピースの角に両足をかけ、両手をポケットに、うしろへよりかかりながら、人に聞かせるというより、ひとりごとをいっているふうに話し始めた。
「その男は自分よりずっと年上の女と、その女の金を目あてに結婚した。それに娘の金も、娘が一緒に暮らしているかぎりは、うまく自由になった。その金は彼らの身分にあっては相当な額だったし、それを使えなくなれば大へんな手元のちがいになる。それをのがさぬ工面(くめん)をするだけの値打ちはあった。その娘は人のいい、愛らしい気質だし、とりわけ愛情こまやかで思いやりがある。というからには、その人柄のよさに多少の収入もあるとなると、そういつまでも独身でおいておくわけにはいかないのは、わかりきったことだ。ところで娘が結婚すれば、もちろん、一年に百ポンドを失うことになるとすると、義父はどうやってこれを防ぐだろうか。娘を家から出さないという、見えすいた方針をとって、同じ年頃の人たちとつき合いすることを禁じる。だがすぐに、そんなことではいつまでもうまくいかないとわかった。娘は手に負えなくなって、自分の権利は主張するし、とうとう何かの舞踏に行くという決意をはっきり言いきった。
そこでこの利口な義父はどうするか。自分の気持によりも頭になっとくできる一案を考える。妻に黙認させ、手助けまでさせて、変装した。その鋭い目には色眼鏡をかけ、顔には口ひげと左右の濃い頬ひげをつけ、明晰(めいせき)な声を殺して、低い猫なで声をつかい、娘が近眼なのをもっけの幸いに、心おきなくホズマー・エンジュル氏という人物になりすまし、色じかけでほかの恋がたきをよせつけなくする」
「初めはほんの冗談だったのです」ウィンディバンクはうなった。「娘があんなに深入りするとは、わたしらは思ってもいませんでした」
「まさか思わなかったろうね。ま、そうであっても、その娘さんはひたすら深入りして夢中になり、義父はフランスへ行ったものと思いこんでいるものだから、そんな裏切りがあろうとは露ほども疑わない。ホズマーという紳士の心づくしに嬉しい思いをしているところへ、母があからさまに相手を賞めたたえるものだからいっそう拍車をかけた。
そこでエンジェル氏の訪問が始まった。実際的な効果をあげるつもりなれば、事は行きつくところまで推し進めなければならないのは明らかだ。逢いびき、それから婚約、ときては娘の愛情がほかの男にむくという心配のない最後の保証になる。しかしこのペテンはいつまでもつづけられやしない。たびたびフランスへ旅行しているふりをするのもいささかわずらわしい。なすべきことはこの仕事にはっきりと結末をつけること。それも、その娘の心にいつまでも消えがたい印象を残して、当分将来は、ほかの求婚者に心を向けなくするような、ドラマティックな演出をやることだ。
そこで聖書にかけて貞節の誓いを強要し、結婚のその朝というのに何か事の起こりそうな口ぶりをほのめかす。ジェイムズ・ウィンディバンクの欲するところはミス・サザランドがホズマー・エンジェルから離れるわけにもゆかず、その生死も不明のこととて、少なくともこれから先の十年間はほかの男に目を向けないでいることだ。教会の玄関までその娘を連れて行き、そこで、そこから先へは足を入れるわけにはいかなかったので、この男は四輪馬車の一方の入口から入って、も一つの方から出てしまうという、古いトリックをつかって、うまうまと姿を消してしまった。というのが筋道だったと思いますね、ウィンディバンクさん!」
われわれの来客ウィンディバンクは、ホームズが話をつづけていた間にいくらか度胸をすえ直していて、いまはその蒼白い顔に不敵な冷笑を浮かべながら椅子から立ち上った。
「そうであるかもしれないし、そうでないかもしれませんな、ホームズさん。だがあなたがこれほどの目利きなら、よくよく目利きで、法律を破っているのはあなたであって、私ではないことを知っているはずだ。私は初めから訴えられるようなことはしていない。だがあなたがあのドアに錠をかけておくかぎりは、あなた自身が暴力と不法監禁で告訴されることになるのだ」
「法律は、おおせのとおり、君には及ばない」
ホームズはドアの鍵をはずして、おし開いた。「だがこれほど刑罰に値する人間はいない。あの若い娘に兄弟か友達でもあれば、肩に鞭(むち)でもくらうところだよ。まったく!」ホームズは相手の顔に苦々しい冷笑の浮かんでいるのを見ると、まっ赤になって言いつづけた。「こんなことまで頼まれたわけではないが、ここに猟鞭が手近にある。一つお見舞い申すとするか……」
ホームズは鞭のほうへ二足さっと歩いた。が、それをつかまえないうちに、階段をばたばた走る音がして、重たい玄関のドアがばたんと閉まり、こちらの窓からジェイムズ・ウィンディバンク氏が一目散に道を向こうに走って行くのが見えた。
「冷血漢だ!」もう一度椅子に身をなげおろしながら、ホームズは笑って言った。「あいつは罪に罪を重ねて、しまいにはひどい悪事をしでかして、末は絞首台行きだ。この事件は、若干の点で、まったく興味がないというのでもなかったね」
「君の推理の手順がまだ、すっかりとはのみこめないよ」私は言った。
「そうかね。もちろん初めから明らかだったのは、このホズマー・エンジェル氏は何か強固な目的があって、あの奇妙な行動をやったということだ。同様に明瞭なのは、この出来事によって本当に利益を得る人物は、われわれの知り得るかぎりでは、義父をおいてほかにはない。それから、二人の人物が決して一緒にいたことがないこと、一人がいなくなると、もう一人がきまって姿を見せるという事実は、暗示的だった。色眼鏡、奇妙な声もそうだ。この二つは変装を思わせたよ。濃い頬ひげと同じようにね。僕の疑惑は、自分の署名をタイプで打つという変わったやり方によって、すっかりかたまった。これはもちろん、自分の手蹟(しゅせき)はあの娘には見なれているから、どんなに小さくてもその手を見れば悟られるということだ。これらのそれぞれ別個の事実と、ほかのたくさんななにげない事実を一緒に考え合わせてみると、すべてが同じ方向を指しているのがわかるだろう」
「で、どうやってそれらを確証したのかい?」
「いったん、これと思った奴に目星をつけたら、確証を得るのは易しかったよ。この男が勤めている会社がわかった。新聞広告の人相書きをもとにして、それから変装の結果と思われるものを、一つ一つとりのぞいてみた。……頬ひげ、眼鏡、声とね。そこで、そいつを会社へ送って、そちらの外交員にこの人相に当たるような人物がいるかどうか、知らせていただきたいと頼んでやった。タイプライターの特徴はすでにわかっていた。そこでその男じきじきに会社名宛で手紙をやって、ここまで来てくれまいかときいたのだ。僕の思っていたとおり、返書はタイプで打ってあって、同じく、ささいだが特徴のあるきずが出ていた。同じ便で、フェンチャーチ通りのウェストハウス・アンド・マーバンク会社から手紙があり、あの人相書きはあらゆる点で、同社の使用人ジェイムズ・ウィンディバンクのものに該当すると言ってきたよ。それだけのことさ!」
「それでミス・サザランドは?」
「僕が話したところで、こちらの言うことは信じまい。ペルシアの古い諺(ことわざ)を覚えているかね。『虎児を得ようとする者には危険がある。女から幻想を奪う者にも危険がある』とね。ペルシアの詩人ハーブィズもローマの詩人ホラティウスに劣らずセンスがあるよ。それに同じくらい世なれてもいるね」
ある朝、妻と朝食の席についていたところへ、女中が一通の電報を持ってきた。シャーロック・ホームズからのもので、電文はつぎのとおりだった。
二日間暇(ひま)あるか。ボスコム谷惨劇につき、イングランド西部より招電きた。同行願えれば幸甚(こうじん)。空気、景色とも申しぶんなし、パディントン十一時十五分発つ。
「どうなさいます、あなた」妻がテーブルごしに私を見て言った。「いらっしゃいますか」
「さて、どうしたものかね。今のところかなり患者がつかえているからね」
「あら、アンストラザーが代診してくれますわ。近頃お顔の色もあまり冴えていらっしゃらないし。土地が変われは楽になりますわ。それにいつもシャーロック・ホームズさんの事件にはあんなに興味がおありなんだし」
「そうでもなければ恩知らずになるよ。ホームズの事件の一つのおかげで、こうしておれるのを思ってみればね」私は答えた。「でも、行くとなると、すぐに荷ごしらえをしなくちゃ。半時間しかないんだから」
アフガニスタンのキャンプ生活の経験があったので、少なくとも私は即座に手まわしよく旅支度ができた。必要品はわずかで簡単だ。そこで半時間もしないうちに、かばんを持って辻馬車に乗りこみ、バディントン駅へと走らせた。シャーロック・ホームズはプラットフォームを行ったり来たりしていて、その背の高い、痩せぎすな姿が、長いグレイの旅行外套を着て、ぴったりした布キャップをかぶっているので、いっそう輪をかけて見えた。
「こりゃあよく来てくれたね、ワトスン。手筈が大いにちがうよ。十分信頼できる人が一緒だとね。地方の手伝いときたら、からっきしだめか、妙に偏頗(へんぱ)なのかにきまっている。隅の席を二つとっておいてくれたまえ。僕は切符を買ってくる」
車内は私たちのひとり占めで、ほかにはホームズが持ちこんでいた新聞が散らかっているだけだった。その中に埋もれて、ホームズは何かをかき探しては読み、ときおりノートを書きとったり、考えこんだりしているうちに、私たちはレディングを通りすぎた。するとホームズは突然新聞類をまるめて大きな玉にこしらえると、網棚の上へほうり上げてしまった。
「この事件のことで何か聞いたことがあるかね?」彼はきいた。
「いや、ちっとも。この数日、新聞を読んでいないんだよ」
「ロンドンの新聞はどれも大して詳しい記事をのせていない。詳しいことをのみこんでおこうと思って、今も数日来の新聞にすっかり目を通してみたところなんだ。僕の考え合わせてみたところでは、単純だがきわめて困難だという、よくある事件の一つのようだよ」
「それはいささか逆説めいた言い方だね」
「ところが正真正銘なんだ。異常なことはまず大てい手掛りになる。犯罪が特色がなく平凡であればあるほど、これをつきとめるのは難しいものだよ。それはそうと、今度の事件では、殺された男の息子が有力な容疑者にされているのだ」
「殺人事件なんだね、それじゃ」
「うん、そうだと考えられる。僕は自分で調査する機会がくるまでは、もちろん断定などはしないがね。事件の状況を説明してあげよう。わかっているところだけでも、簡単にね。
ボスコム谷というのはヘリフォドシャーのロス町からさして遠くない片田舎なんだ。そのあたりで一番大きな地主というのがジョン・ターナーという男で、オーストラリアで金をこしらえて、数年前に故郷へ帰ってきた。所有の農地の一つで、ハザリの農地をチャールズ・マカーシーに貸してあった。この男もオーストラリア帰りだった。二人はオーストラリアで知り合いだったものだから、帰国して定住するとなると、できるだけ近くで暮らそうというのは不思議でもなかった。ターナーのほうが金持だったとみえて、マカーシーは彼から土地を借りた。しかしずっと対等なつき合いをつづけていたようだ。しょっちゅう行き来していたからね。
マカーシーには十八になる息子が一人あった。ターナーにはおない年の一人娘があったが、二人とも妻には死に別れていた。どちらも近所のイギリス人の家族とはつきあいを避けて、隠遁生活を送っていたらしい。もっともマカーシー父子はスポーツ好きで、近所の競馬に出かけているのがよく見かけられた。マカーシーは召使いを二人おいていた。……下男と女中だ。ターナーはなかなかの大世帯で、少なくとも六人はいた。両方のことで僕が集め得たところはこれだけだ。ところで、事件のほうだがね。
六月の三日……つまりこの前の月曜日に……マカーシーは午後の三時頃、ハザリにある自分の家を出て、ボスコム池まで歩いて行った。この池はボスコム谷を流れ下る川がひろがってできた、小さな湖なんだ。
その日の朝、マカーシーは下男を連れてロス町に出かけたものだが、三時に人と逢う大事な約束があるから急がなくてはならん、と話していた。その約束に出かけたままで、彼は生きて帰らなかったのだ。ハザリの農地の家からボスコム池までは四分の一マイルで、二人の者がマカーシーの通って行くのを見かけている。一人はお婆さんで、名前は書かれていない。も一人はウィリアム・クラウダーという、ターナー氏に使われている猟園の番人だ。
この二人の証人とも、マカーシー氏は一人で歩いていたと証言している。猟番がさらに言っているところでは、マカーシー氏が通って行くのを見かけてから二、三分しないうち、その息子のジェイムズ・マカーシー君が猟銃を腕の下にかかえて同じほうへ行くのを見たそうだ。猟番の信ずるかぎりでは、父親の姿がそのときは見えていて、息子さんがあとを追っていたのだ。猟番はそれっきりこのことは忘れていたが、夕方になって、この惨劇の起こっていたことを聞いたのだ。
猟番のウィリアム・クラウダーがマカーシー父子を見失ってから、そのあとでこの二人を見かけたものがある。ボスコム池は周囲に木が密生していて、水ぎわのまわりに、やっと草や葦(あし)が縁どっているにすぎない。十四になるペイシェンス・モランという女の子で、ボスコム谷所有地の番小屋の番人の娘が、木立のところで花をつんでいた。この子が言うには、そこにいたときに、林のはずれで、池のすぐそばにマカーシーさんとその息子さんを見かけたが、なんだかはげしく言い争っているらしかった。父親のマカーシーさんが息子さんにひどい言葉を投げかけているのが聞こえて、息子のほうは父親になぐりかかるように手を上げているのが見えた。この娘は二人のはげしさにすっかり恐れをなして逃げ帰ると、母に、さっきマカーシー父子がボスコム池のほとりで口論をしていたが、今にとっくみ合いをはじめるかもしれないと話した。
娘が言い終わるか終わらないうちに、息子のマカーシー君が番小屋へかけつけてきて、父が林で死んでいるのを見つけたと言って、番人の救助を求めた。息子はひどく興奮していて、猟銃も持っていなければ帽子もかぶらず、右手と袖に生々しい血がにじんでいるのが見えた。息子について行くと、父親の死体が池のそばの草むらにのびていた。頭は重い鈍器で何度となくなぐられてへこんでいた。傷は息子の銃の台尻で受けたものと当然考えられてしかるべきものであった。兇器と思われる銃が死体からほんの二、三歩というところにころがっていた。こうした状況から息子はただちに逮捕され、火曜日の検屍陪審で『故殺』という評決を答申されて、水曜日にロス町の警察判事の前に引き出された。その判事たちはこの事件をつぎの巡回裁判に付した。というのが、検屍官の前や軽罪裁判所で明らかになったとおりの主な事実なのだ」
「これほどはっきりと有罪と断定できる事件は、ちょっとないだろうね」私は言った。「情況証拠が犯人を示すというのは、まさにこれだね」
「情況証拠というのは大へんなくわせものだよ」ホームズは考えこんで答えた。「こいつはある一つのことをまっすぐに指し示しているように見えもするが、また観点を少し変えてみると、同じほど確定的に全く異ったものを指すことがあるものだ。それにしても、この事件はその息子にきわめて不利と見えることは認めなくてはならない。それに本当の犯人とも言えそうだ。しかし近所のいくたりかは、中でも隣りの地主の娘のミス・ターナーは彼の無罪を信じているよ。それにレストレイドを雇い入れていてね。『緋色の研究』に関して君も覚えているだろうが、あのレストレイドに、息子の利益になるように、この事件を解決させようとしているんだ。レストレイドがまた、この事件を少々もてあましたというわけで、ここにこうして二人の中年の紳士が一時間十五マイルの速力で西のほうへ突っ走っているという次第さ。ゆっくりと家で食休みもしないでね」
「事実がこんなに明白では、これを解決したところて大した名誉にもならないね」
「明白な事実ほどあてにならんものはないんだよ」ホームズは笑いながら答えた。「それに、レストレイド君には決して明白でなかったような、別な明白な事実に幾つか、ひょっとしてぶち当たるかもしれない。君は僕をよく知っているから僕がほらを吹いているとは思うまいが、レストレイドにはとても使えない、理解さえできないような手段で、彼の理論を立証することもできれば、打ち破ることもできるのだよ。手近な一例をとってみると、僕にははっきりわかるんだが、君の寝室では窓が右側についているね。それにしても、レストレイド君なら、こんな自明のことさえ気がついたかどうか疑うよ」
「いったいどうしてまた……」
「ねえ、君。僕は君のことをよく知っている。軍隊的に身ぎれいなのが君の持ち味だと知っているよ。君は毎朝顔を剃(そ)るね。今の季節では日光で剃る。ところが左側へよるにつれてますますぞんざいだ。顎のあたりになると全く不精たらしい。そっち側は右側より日当たりが悪かったことは一目瞭然だ。君のようなきちょうめんな習慣の男が、同じ光線に当たる自分の顔を見て、そんなざまで満足するとは思えない。観察と推論の一例をほんのちょっと言ってみただけだがね。これが僕の職業がらのおはこで、これからのり出そうという調査にいくらか役立つこともあろうというわけさ。調べているうちに判明した小さな点が二つある。これは考えてみる価値があるよ」
「なんだい?」
「息子の逮捕は目前でなくて、ハザリ農地へ帰ってからのことらしい。警部がお前が犯人だと言うと、息子は、そうきかされても驚かない、当然の報いです、と言っている。息子のこの言葉で、検屍陪審員の心に残っていたかもしれない疑念をすっかり拭(ぬぐ)いとってしまったのは当然のなりゆきだ」
「自白をしたのだね」私は不意に大声で言った。
「そうでない。すぐあとで無罪の抗議をしたからね」
「そう犯行の種がぞくぞくあがってしまうと、そいつは少なくとも大いに疑わしい言葉だよ」
「ところが、それどころか」ホームズは言った。「今のところ僕が暗雲の中に認め得る一条の光明なんだよ。息子がどんなに潔白であるにしても、情況が自分にきわめて不利だということがわからぬほどの、まるっきりの馬鹿だというはずはない。自分が捕まって驚いたとか、怒ったふりをしたということがあったなら、こいつは大いに疑ったかもしれない。そんな驚きや腹立ちはこの情況では自然とは思えないのだが、それでも腹に企みのある男にはこの上ない策と見えるかもしれない。彼が率直に事態を受け入れたのは、彼には罪がないか、さもなければかなり自制力のある、しっかり者だということになるね。彼が当然の報いだと言ったのも、考えてみれば不自然ではない。父の死体のそばに立っていたんだし、たしかに、そもそものその日に子としての義務を忘れて父と口論したくらいだったし、重要な証言をした少女によれば、父をなぐりつけるように手を上げさえしたんだからね。息子の言葉に自責と悔恨(かいこん)が見えるのは、罪を犯した覚えがあるからではなくて、健全な心を持っているしるしのように思われるよ」
私は首をふった。「もっとずっと薄弱な証拠で絞首刑になったのがたくさんいるよ」
「そりゃそのとおりだ。無実の罪で絞首刑になったのが大ぜいいるのだ」
「その息子はこの事件を自分ではどう言っているのかい?」
「それが、息子の支持者にとって心丈夫になるようなものではないらしいよ。その一つ二つの点では参考になるところがあるんだがね。ここにあるよ。読んでみたまえ」
ホームズは束の中から一枚のヘリフォドシャーの地方紙を取り出し、その新聞のページを折って、この不幸な青年が発生した事件について自ら述べている一節を指さした。私は客車の片隅に腰をすえて、注意深くそれを読んだ。つぎのように書かれていた。
それから被害者の一人息子ジェイムズ・マカーシー氏が呼ばれて、つぎのような証言をした。
「私は三日間、家を留守にしてブリストルに行っていました。前の月曜日の三日に帰宅したばかりでした。父は私が家に着いたときには留守でして、女中の言うには、馬丁のジョン・コブとロス町へ馬車で出むいたとのことでした。私が帰宅してからほどなく、庭に父の二輪馬車の音が聞こえましたので、窓からのぞくと、父が降りるなり、急ぎ足で庭から出て行くのが見えました。でも、どちらの方へ行くかはわかりませんでした。私はそれから猟銃を持って、ボスコム池のほうへぶらぶら歩いて行きました。池の向こう側にある兎の飼育場を訪ねてみるつもりだったのです。途中で猟番のウィリアム・クラウダーを見かけました。猟番が証言で述べたとおりです。だが猟番は、私が父をつけていたと考えちがいをしています。父が前を行っているとは思いもよりませんでした。池から百ヤードほどのところにきたときに『クーイー』という叫びが聞えました。それは父と私との間でいつも使っていた合図でした。それで私は急いで行ってみますと、父が池のそばに立っておりました。父は私を見てひどく驚いたようで、いくらか荒々しくそこで何をしているのかをききました。話をつづけておりましたが、次第に喧嘩腰になり、なぐり合いもしかねないくらいでした。父は非常に気性のはげしい人でしたので。父の感情がもうどうにも制しきれなくなってくるのを見てとりましたので、私は父を残したままで、ハザリ農園のほうへ戻りかけました。ところが、百五十ヤードと行かないうちに、うしろで恐ろしい叫び声が聞こえました。それで私はまたもとへ走って戻りました。父が地上に倒れて息も絶え絶えで、頭におそろしく傷を受けていました。私は銃を捨てて、父を両の腕にかかえましたが、ほとんどすぐに息をひきとりました。父のかたわらにしばらくひざまずいてから、ターナーさんの番小屋へ、その家が一番近かったものですから、助けを求めに行きました。私がひきかえしたときには、父のそばには誰一人見当たらず、どんなふうにあんな傷を受けたのか、まるでわかりません。父はいくらか冷たいところがあり、無愛想な態度があったもので、人の気受けがいいというのではありませんでしたが、私の知っているかぎりでは、これという敵はありませんでした。この件ではこれ以上は何も知りません」
【検屍官】お父さんは亡くなられる前に、あなたに何か言いましたか。
【証人】二こと、三こと何かもぐもぐ言いましたが、聞きとれたのは、なにかラット(ねずみ)のことを言ったことです。
【検屍官】その言葉をどういうことだと思いましたか。
【証人】なんのことだかわかりませんでした。うわごとを言っているのだと思いました。
【検屍官】なんのことで……あなたとお父さんとは最後の口論をしたのですか。
【証人】お答え申し上げかねます。
【検屍官】是非とも言ってもらわねばならないが。
【証人】どうしても申し上げられないのです。あとで起こった悲しい事件とはなんの関係もないことは保証いたします。
【検屍官】関係のあるなしは法廷が決めることです。言っておくまでもないが、あなたが答弁を拒否することは、今後、起訴されるような場合に、相当あなたを不利な立場に置くことになりますよ。
【証人】それでも申し上げられません。
【検屍官】「クーイー」という叫びは、あなたとお父さんとの合い言葉だ、と言ったね。
【証人】そうです。
【検屍官】それなら、お父さんが君を見かけない前に、それに、あなたがブリストルから帰ったことも知らないうちに、その合図を口にしたというのは、どういうわけでしたか。
【証人】(かなり動揺して)……わかりません。
【陪審員の一人】あなたが叫び声を聞いてひきかえし、お父さんが致命傷を受けているのを見たときに、何か怪しいと思うようなものを見かけませんでしたか。
【証人】はっきりしたものは、何も見かけませんでした。
【検屍官】それはどういう意味ですか。
【証人】私が木立のないところへかけつけたときは、とり乱して興奮していましたので、父のことしか考えられませんでした。でも、かけ寄りましたときに何か左手の地面に落ちていたような気がぼんやりいたします。何かグレイの色あいのもの、外套といったようなものか、あるいは、格子縞のショールででもあったように思いました。父から立ち上って、見まわしますと、もうそれはなくなっておりました。
【検屍官】あなたが助けを求めに行かないうちに、見えなくなったというんですね。
【証人】はい、なくなっておりました。
【検屍官】それがなんであったかはわからないんですね。
【証人】はい、わかりません。何かそこにあったような気がしました。
【検屍官】死体からどれくらい離れていましたか。
【証人】十二ヤードか、そこいらです。
【検屍官】そして林のはしからは、どれくらいですか。
【証人】同じぐらいです。
【検屍官】それでは、それが取り去られたとすれば、あなたがその品物から十ヤードと離れていない間でしたね。
【証人】はい。ですが、私はそれに背を向けておりました。
これで調人の調べは終了した。
「なるほど」私はこの欄を読みくだして言った。「検屍官は終わりの訊問で、息子のマカーシーにはかなり手きびしくやってるね。父親がまだ息子を見かけないうちに合図をしたという、話の合わないところ。それにまた、父親との会話の内容をくわしく言いたがらなかった点や、父親が死ぬ間ぎわの言葉についての妙な話などに注意をうながしているのは、これはもっともなことだ。これらはみんな検屍官のいうとおり、息子のほうにはひどく分が悪いよ」
ホームズは静かにひとり笑いをして、座席のクッションに身をのばした。
「君も検屍官も、あれこれと骨を折って」ホームズは言った。「その青年にこの上なく強力な、有利な点を拾い出してくれた。君たちはその青年に過大に想像力があるものと買いかぶっているかと思うと、また過小に見くびっているのがわからないかい? 陪審員の同情をひくような。口論の原因を、言いこしらえることができないというのなら、想像力不足ということになるし、彼の内心の意識から、死にぎわにラットのことを言ったとか、布が消えてなくなった事とか、そんなとてつもないことを考え出したとなると、想像力がありすぎるというものだ。だめだね。僕はこの青年の言っていることは本当だという観点からこの事件に近づいていくよ。そうすればその仮説がどんな結果をもたらすかが、われわれにわかるよ。ところで、さてと、持ち合わせのペトラルカのポケット版でも読むとするか。現場に着くまでは、もうこの事件のことは言わないことにしよう。スウィンドンでランチにして、三十分すると向こうへ着くね」
美しいストラウド谷を通り、広大なセヴァン河のきらめく流れを渡って、私たちがやがて綺麗な田舎町のロスに着いたのは、四時近くだった。痩せた、イタチのような男が、人目をはばかる、ずるそうなかっこうで、プラットフォームに私たちを待っていた。うす茶の塵(ちり)よけ外套に革の脚絆(きゃはん)といういでたちで、周囲の田舎ふうを尊重した身なりであったが、私はスコットランド・ヤードのレストレイドだと見てとるには、わけはなかった。彼と一緒に「ヘリフォド・アームズ」という宿へ馬車を走らせた。そこに私たちの部屋を一つ、とってくれてあったのだ。
「馬車を言いつけておきましたよ」私たちが腰をおろしてお茶を飲んでいると、レストレイドが言った。「あなたの活動的な性質を知っていますし、現場に行ってみないうちは、気持も落ち着かない方だと承知していますのでね」
「これはご親切なご配慮ですね」ホームズが答えた。「行くか行かないは全く気圧の問題でね」
レストレイドはびっくりした様子だった。「なんのことやらわかりませんが」
「気圧計はどのくらいですかね。二十九度か。風はなし、空には一点の雲もない。このケースにはシガレットがいっぱいつまっているし、これを吸わなきゃならん。それにこのソファの座り心地は、そこらの田舎ホテルのひどいやつより上等だしね。今夜は馬車で出かけて行けそうにもありませんよ」
レストレイドは寛大に笑った。「あなたは、きっと、新聞を見て、見きわめをつけてしまったんですね。この事件は火を見るより明白で、調べれは調べるほど明瞭になりますからね。それでも女性の頼みというのは断りきれないものでして。それにあれぐらい押しのつよい娘さんときましてはね。あなたのお噂は聞いているので、ご意見がうかがいたいんだそうです。わたしは何度も言ってきかせたんですがね。ホームズさんだって、わたしがやった以上のことはおやりになれないんだって。おや、これはどうも! その娘さんが馬車で表へやって来ましたよ」
レストレイドが言い終わるか終わらないうちに、私がこれまでついぞお目にかかったことがないほど、すてきに可愛い若い女性が、この部屋にかけこんできた。菫(すみれ) 色の眼を光らせ、唇をひらき、頬をまっ赤にして、生まれつきのつつしみ深さも、興奮と心配にわれを忘れた様子だった。
「ああ、シャーロック・ホームズさま!」わたしたちの顔を一人から一人へと目で追って、やがて女性特有の機敏さで、わが友ホームズに目をそそいだ。「よくいらして下さいました。これを申し上げたいばっかりに馬車を走らせてまいりましたの。ジェイムズはあんなことをしないということを存じております。たしかに存じております。あなたもそれをご承知になった上でお仕事にかっていただきたいのです。その点を決してお疑い下さいませんように。わたくしたちは、ほんの子供の頃からお互いに知り合っておりますし、ほかのどなたよりもあの人の欠点を知っています。でもあの人は、それは心がやさしくて、虫一匹殺せないような人です。あんな罪をきせるなんて、あの人を知っている者からみれば、馬鹿々々しいことですわ」
「なんとか嫌疑を晴らしてあげたいものです、ターナーさん」ホームズは言った。「できるだけのことはしてあげますから、まあ安心していらっしゃい」
「でも、証言はお読みになりましたわね。何か目星がおつきになりましたでしょうか。何か逃げ口とか、証拠の不十分なところはなかったでしょうか。あの人が無罪だとはお考えになりませんか」
「そうらしいとは思いますよ」
「そら、ごらんなさい」彼女は頭をうしろにそらしてレストレイドを挑戦的に見やりながら大声で言った。「お聞きになって? ホームズさまは希望のもてることをおっしゃって下さいますわ」
レストレイドは肩をすくめた。
「ホームズさんは結論を下すのが少々早かったんじゃないんですか」
「でもホームズさまのおっしゃるとおりですわ。ああ! そのとおりなのです。ジェイムズの仕業ではありません。お父さまとの口論のことですが、そのことを検屍官さまに言おうとしませんでしたのは、きっと、わたくしの身に関係のあることだったからですわ」
「どんなふうにですか」ホームズがきいた。
「わたくしがかくしだていたします場合ではございません。ジェイムズとあのお父さまとは、わたくしのことではなにかにつけて意見が合わなかったのでございます。マカーシーさまはわたくしたちを結婚させたがっておられました。ジェイムズとわたくしとはいつも兄妹のように愛し合ってはおりました。でももちろんあの方はまだお若いし、世間のこともあまり知ってはおりません。それで……それで……そうです、もともとまだそのようなことは望んでいませんでした。それでいさかいもたびたびありまして、今度のことも、きっとそのいさかいだったのですわ」
「で、あなたのお父さんは?」ホームズはきいた。「そういう結婚に賛成でしたか」
「いいえ、父も反対でした。マカーシーさまのほかには賛成する人はございませんでした」
ホームズが例の鋭い、不審そうな目を向けると、彼女のういういしい、若い顔がさっと赤くそまった。
「よくお聞かせ下さいました」ホームズは言った。「明日おうかがいすれば、お父さんにお目にかかれましょうか」
「お医者さまがお許しにならないかもしれませんわ」
「お医者ですって?」
「ええ、お聞き及びではありませんでしたか。父は悪いことにこの数年来、身体がすぐれませんでしたが、今度のことですっかり弱ってしまったのです。床につきましたきりで、ウィロウズ先生のおっしゃるには、もう見込みもなく、神経組織がめちゃくちゃだそうですの。昔、オーストラリアのヴィクトリア州にいた頃のお父さんを知っている人で、生きている方といえば、マカーシーさんだけだったのですものね」
「ほう! ヴィクトリア州で! これは重大なことだ」
「ええ、鉱山におりました」
「なるほど。金鉱でね。そこでターナーさんはお金をつくられた、というわけですね」
「はい、そうです」
「ありがとう、お嬢さん。おかげで、いろいろと参考になりました」
「明日にでも、なにか新しいことがおわかりになりましたらお知らせ下さいませ。ジェイムズとご面会に刑務所へいらっしゃいますわね。ああ、お逢いになりましたら、ホームズさま、どうか、わたくしはあの人の無罪を信じていると、お伝え下さいまし」
「お伝えしますよ」
「もうおいとましなくては。お父さんが大へん悪いんです。わたくしがそばにおりませんと、淋しがりますの。ではごめん下さい。神さまのお力で、お仕事がうまく運びますように」彼女は入ってきたときのように、さっと部屋から出ていくと、その馬車が通りを遠ざかっていく車輪の音が聞こえた。
「あなたにも困りますね、ホームズさん」しばらく黙っていてから、レストレイドがきっとなって言った。「失望させるにきまっている希望を起こさせるとはどういうわけですか。わたしは気がやさしすぎるというほどではないが、それは残酷というものですよ」
「ジェイムズ・マカーシーの嫌疑を晴らしてやるやり方が、わかっているようなんでね」ホームズは言った。「刑務所でジェイムズと面会する許可証を持っていますか」
「ええ。だが、あなたとわたしの二枚分だけです」
「それじゃ、外出の件は考え直すとするか。ヘリフォドへ列車で行って、今夜ジェイムズに会う時間はまだあるだろうね?」
「じゅうぶんあります」
「ではそうしよう。ワトスン。大へん退屈だろうが、二時間ほど出かけてくるからね」
私は二人と一緒に駅まで歩いて、そこからこの小さな町の通りをあちこちと散歩してからホテルに帰った。ソファに寝そべり、黄色い背の通俗小説でも読んでみることにした。しかし私たちがいま探りを入れている、深い謎の事件にくらべると、つまらない話の筋立てが薄っぺらで、わたしの注意はたえずこの小説から事実のほうへふらついていくので、とうとう本を部屋の向こうへ投げ出して、専心、今日一日の出来事を考えることに没頭した。
この不幸な青年の言うことが絶対に真実であるとすると、彼が父と別れたときと、それから父の悲鳴を聞いて林間の空地にかけ戻った瞬間とのあいだに、どんな恐ろしいこと、まるで予期されない、途方もない災難が起こったのであろうか。恐ろしい、致命的なことだったのだ。いったいなんだったろう。傷の性質から、僕の医者たる本能でわかることは、何かないものだろうか。
私は呼び鈴を鳴らして、週刊の地方紙を持ってこさせた。それには検屍審問の記事が逐語(ちくご)的にのっていた。外科医の証言に述べられているところでは、左の顱頂骨(ろちょうこつ)の後部三分の一と、後頭骨の左半分が鈍器の強打で粉砕されていた。
私は自分の頭にその位置を探ってみた。明らかにかかる打撃は背後からくらったにちがいない。このことはいくぶんかは容疑者に有利である。口論しているところを見られたときには、彼は父と面と向かい合っていたからである。それでも、大して有利に展開するというほどではない。老父が背を向けてから打撃を加えたかもしれない。しかし、ホームズにこの点は注意しておくだけの価値はあるようだ。それに、死にぎわに、ラットのことを口走った、不思議な言葉がある。これはいったいどういう意味だろうか。うわごとであるはずはない。突然一撃されて死にかけている人間は、うわごとを言うような状態には普通ならないものだ。いや、それは被害者がどうしてこんな災難にあったかを説明しようとした、と見るほうがよさそうだ。しかしいったい、それでどういうことになるのか。
私は何かもっともな説明を発見しようと、頭をひねってみた。それから息子のマカーシーが目にした、グレイの布の件だ。本当だとすれば、犯人が自分の着衣の一部、おそらく外套を、逃げるさいに落としていったのにちがいなく、十歩と離れていないところで、息子が背をむけてひざまずいているそのすきに、犯人は大胆にも取りに戻って、それを持ち去ったにちがいない。この事件全体が、なんと不思議な、ありそうもないことで織りなされていることか! 私はレストレイドの意見を妙に思わなかった。それでもシャーロック・ホームズの直感には大いに信頼しているので、新しい事実がつぎつぎと、息子のマカーシーの無罪を確信するホームズの気持を強めていくように見えるあいだは、私は希望を失わなかった。
シャーロック・ホームズはおそくなって帰ってきた。帰りは一人だった。レストレイドは町の宿に残ったからである。
「気圧計はまだ高いね」彼は座りながら言った。「現場へ行って調べてみないうちに、雨に降られないことが大事なんだ。そうかといってまた、こんな緻密(ちみつ)な仕事をするのには、頭がこの上なく澄んで、鋭くなくてはならないから、長旅で疲れているときに、僕はやりたくなかったのだ。息子のマカーシーに逢ってきたよ」
「彼から何を聞き出してきたかね?」
「なんにもない」
「ちっとも手がかりになることはなかったのかい?」
「まるきり、なしさ。一時は、彼が犯人を知っていて、男か女か、いずれにしても犯人をかばっているのだと、考えたかったよ。だが今では、彼もほかの連中と同様に、わからないで迷っているのだと信じるね。あの息子は頭が機敏に働く男じゃない。見かけは好男子で、気はしっかりしているらしい」
「その息子の趣味はいただけないね」私は言った。「あのターナーのお嬢さんのような、あれぐらいに魅力のある若い女性と結婚するのがいやだというのが全くの事実ならね」
「ああ、それには少々痛ましい話があるんだ。この息子はあの娘さんには気狂いじみるほど、正気の沙汰(さた)でなく惚(ほ)れぬいているのだが、二年ほど前、まだ子供で、それにあの娘さんをまだ本当に知らないうち、というのは娘さんのほうは五年間寄宿学校へ行っていて、こちらにいなかったからなんだが、この馬鹿息子がこともあろうにブリストルのバーの女にひっかかって、結婚して籍を入れてしまったのだ! このことは誰も聞き知っていない。しかし、息子がたとえ目をくりぬかれてもしたいと思っていながら、絶対になし得ないとわかっている結婚、それをしないからと言って責め立てられるのは、気も狂うほどつらいことにはちがいないさ。父親から、あの最後に二人で逢ったとき、ミス・ターナーに結婚の申しこみをしろと責め立てられて、手を振り上げたというのは、まあこういった逆上からだったんだね。
ところで、息子のほうは自活の手段がない。それに父親ときたら、誰にきいても頑固一徹な男だから、バーの女とのことを知ったら、それこそ勘当してしまうだろう。息子が二日間ブリストルに行っていたのは、バーの女のところで過ごしていたのだ。それを父親は、息子がどこにいるのか知らなかった。ここが肝心な点だ。大事なところだよ。ところが、凶(きょう)変じて吉になるのたとえで、バーの女は、新聞で、息子が窮地に陥って、死刑になりかねないと知ると、すっかり愛想づかしをして、手紙を書いてよこした。自分はバーミューダの造船所に先に結婚した夫がある、ってね。だから今では、あの二人の間には本当になんのかかわり合いもないわけだ。この知らせで、息子のマカーシーは、今までさんざ苦しんできたのが、ほっと救われた気持だと思うよ」
「だが、その息子が無罪だとすると、誰がやったんだい?」
「ああ! 誰だろうか。君の注意を特に二つの点に向けてもらいたい。一つは、被害者が池で誰かと逢う約束をしていたこと。そしてその誰かというのが自分の息子であるはずがないということだ。この息子は遠くへ行っていて、父親は息子がいつ帰るか知らなかったのだからね。第二の点は、被害者が息子の帰ったのを知らないうちに、『クーイー』と叫んだのを聞かれていること。この二つは事件がかかっている決定的な点だ。しかし、まあ今夜のところは、よければジョージ・メレディス[十九世紀後半のイギリスの小説家]のことでも話そうじゃないか。ほかの些細(ささい)な点は、明日までとっておくことにしよう」
雨は降らなかった。ホームズの予言どおりだった。そして朝が晴ればれと、一点の雲もなく明けた。九時にレストレイドが馬車で迎えにきて、私たちはハザリ農園とボスコム池へと出発した。
「今朝は重大なニュースがありますよ」レストレイドが言った。「お屋敷のターナーさんが重態で、とても見込みはないそうです」
「もういい年配なんだろうね」ホームズは言った。
「六十ぐらいです。しかし外国生活ですっかり身体をいためて、ここしばらく健康も衰えていたんですよ。今度の事件がひどくこたえているんですよ。マカーシーの旧友で、それに大恩人でもありましてね。マカーシーにはハザリ農園を無料で貸していたというんですからね」
「なるほど! それはおもしろいね」ホームズが言った。
「ええ、そうなんですよ。そのほかにもあれやこれやと、ターナーはマカーシーの世話をしていたんです。ここの人たちは、みんな口をそろえて、マカーシーには親切だったことを言っていますよ」
「そうかい! で、君はちょっと妙だと思いませんか。このマカーシーがだね、自分の財産といってはほとんどなく、ターナーにそれほど恩義を受けていたらしいのがだよ、その上まだ、自分の息子をターナーの娘と結婚させようと言っているとはね。この娘はおそらくその財産の相続人だろうし、しかもそんなことをいかにも確信のあるように言っているなんて。まるで結婚の申しこみさえすれば、あとは万事順調にいく話のようにさ。それにターナー自身が、この結婚話には反対だったとわかっているんだから、ますますもって不思議だね。あの娘さんがそんな話をしてくれた。こんなところから、何かを推論できませんか」
「話が推論や推理になってきましたね」レストレイドが私にウィンクしながら言った。「空理空論をおっかけないでは、ホームズさん、事実ととっ組み合うのは相当むつかしいことだとはわかりますよ」
「君のいうとおりだよ」ホームズは真面目くさって言った。「やっと事実ととっ組み合うのは非常に困難だということがわかりましたね」
「それはとにかく、わたしはあなたが掴(つか)みにくいと思っておられるような事実を一つ、握っているんです」
「で、それは?」
「父親のマカーシーは息子のマカーシーに殺された、ということです。これに反対なすべての理論は月光にすきないということです」
「うん、月光とても霧よりは明るいからね」ホームズは笑いながら言った。「ところで、左手に見えるのがハザリ農園の住宅にちがいないと思うが」
「ええ、あれがそうですよ」
それはひろびろとした、快適に見える建物で、二階建て、屋根はスレートぶき、灰色の壁には大きな黄色の斑点に苔(こけ)がついていた。しかし、引きおろしたブラインド、煙の出ていない煙突はどこかものさびしい様子をみせて、この恐怖の重圧が、まだこの家に重々しくのしかかっているかのようだった。玄関に訪ねると、女中は、ホームズの求めるままに、主人が殺されたときにはいていた靴と、息子の靴をも私たちに見せてくれた。もっとも息子の靴はそのときにはいていたものではなかった。これらを七つ八つちがった個所で注意深く寸法を測ってから、ホームズは中庭へ案内してくれるように頼んだ。そこから私たちは、ボスコム池へ通じている、曲がりくねった道をたどって行った。
シャーロック・ホームズは、このような手がかりの跡をつけるのに夢中になっているときは、全く別人のように変わった。ベイカー街のもの静かな思索家にして論理家としか知らない人たちなら、これがホームズその人だとは気がつかなかったであろう。彼の顔は赤く上気したり、黒くなったりした。眉はせまって二本のかたい黒い線となり、目はその下から鋼鉄のように輝いて光っていた。顔を下向けかげんに、肩を弓なりにまげ、唇をきっとむすび、長い筋ばった首には、血管が麻索(あさづな)のように浮き上っていた。鼻の孔は獲物を追う、全くの動物的欲望に拡がっているようで、心は目前の事物にすっかり気をうばわれていたので、質問をしても、ものを言いかけても、まるで馬の耳に念仏で、せいぜいのところ、早口でじれったそうに唸(うな)るのが返事がわりだった。
すばやく、黙々と、ホームズは牧場を通りぬけている路を進んでいき、それから林をぬけてボスコム池へと出た。このあたり一帯がそうなのだが、そこは湿っぽい沼地で、足跡がたくさん、小径にもその両側にせまる短かい草の上にも入り乱れていた。ときおりホームズはかけ出すかと思うと、ときにはじっと立ち止まり、一度などは牧場の中へかなりな廻り道をした。
レストレイドと私はホームズのうしろから歩いた。探偵レストレイドはホームズのすることには冷淡に、軽蔑しているような様子であったが、私はわが友ホームズに目をくばっていた。彼の行動の一つ一つが、決定的な結末に向けられているのだ、という確信から湧(わ)きあがる興味のせいだった。
ボスコム池は、葦でかこまれた、直径五十ヤードほどの小池で、ハザリ農園と、富裕なターナー氏私有の猟園との間の境界にある。この池の向こう側に沿ってこんもりとひろがっている林の上に赤く突き出ている尖塔(せんとう)がいくつか見え、これが豊かな地主の住宅の位置を示していた。池のハザリ側には林がうっそうと生い茂り、林の端と、池ぞいの葦との間に、幅二十歩ばかりの、狭い帯のような、水につかった草地があった。レストレイドは死体が発見された、正確な地点を私たちに示した。事実、地面がひどく湿っていたので、打ち倒された人が倒れたあとに残していた痕跡を、はっきりと見ることができた。ホームズには、その熱心な顔つきや、じっと見つめている目つきに見てとれたように、もっとほかにいろいろなことが、この踏み荒らされた草地に読みとれたはずだった。ホームズは走りまわった。嗅跡(きゅうせき)を嗅ぎつけた犬のようで、それから私の連れのほうへ向いた。
「君はなんだって池の中へ入ったのだ?」ホームズはきいた。
「熊手であたりをさらったんですよ。何か凶器か、他の手がかりがありはしないかと思ったものでね。だが、いったいあなたはどうして……?」
「おお、ちえっ! そんな暇はないんだ。 内またの、あの君の左足の跡が、そこら一面についてるんだよ。もぐらでもその跡はつけられる。そいつが葦の中に消えてるんだ。ああ、すっかり簡単に調べがすんだのになあ。連中が水牛の群れのようにやって来て、ここ一帯ころびまわらないうちに、僕がここへやって来ればよかった。ここが小屋番をつれて一行がやって来たところだ。死体のまわりを六フィートから八フィートほど踏みつけて、すっかり跡かたをだいなしにしているよ。しかしここに、同じ足で三度歩いた別々の足跡がある」
ホームズはレンズを取り出して、もっとよく見るために防水服をしいて、その上に腹ばいになり、そのあいだじゅう、私たちへというよりも、まるでひとりごとを言っていた。「これは息子のマカーシーの足跡だ。二度は普通に歩いて、一度は突っ走っているから、靴底の跡は深く残っているが、踵(かかと)はほとんど見えない。息子の申し立てを裏書きしているな。父が地面に倒れているのを見たときに走ったのだ。それからここにあるのが父親の足跡で、行ったり来たりしている。とするとこれはなんだろう。息子が父の文句を聞きながら立っていたときの、銃の床尾(しょうび)だ。それから、これは? は、はあ! なんだ、これは? 爪先だ、爪先だ!おまけに四角いぞ。全く珍らしい靴だ! こちらへ来て、向こうへ行って、また来ているぞ。……もちろんこいつは外套を取りに来たときの足跡だ。さて、この足跡はどこからやって来ているのか」
ホームズは走りながら行き来して、ときに足跡を見失ったり、見つけたりしながら、とうとう私たちは林のふちの中にずっと踏み入り、大きな『ぶな』の木影に来た。あたりではこれが一番大きな木だった。
ホームズは足跡をたどってこの木の向こう側へ行き、満足したらしい小さな叫びをあげながら、もう一度うつぶせに横たわった。長い間そこにとどまっていて、木の葉や枯れ枝をひっくりかえしたり、私には塵としか思われないようなものをかき集めては封筒に入れたり、レンズで地面ばかりではなく、手のとどくかぎりは木の樹皮までも調べた。ぎざきざした石が苔の中にころがっていて、ホームズはこれをも注意深く調べて、しまいこんだ。それから彼は林を通っている小径づたいに、街道まで来た。そこで足跡はすっかりなくなっていた。
「かなりおもしろい事件だった」彼は言って、普通の様子にかえった。「右手にある、この灰色の家が番小屋にちがいないね。立ち寄って、モランとちょっと話して、できれは短い手紙を書こうと思うよ。それを終えてから、お昼の食事に馬車で帰ろう。君たち、馬車へ先に歩いて行っていいよ。僕もすぐあとから行く」
十分ほどかかって、私たちは馬車にそろい、ロス町へと馬車をかけ戻らせた。ホームズは後生大事に林で拾いあげた石をたずさえていた。
「これはおもしろいでしょう、レストレイド君」彼は言って、この石を差し出した。「殺人はこの石でやったんだよ」
「そんな形跡は見えませんね」
「なんにもない」
「それじゃ、どうしてわかるんですか」
「草がこの石の下に生えていてね。こいつはあそこに、たった二、三日ころがっていただけなんだよ。どこから持ってきたものか、その場所のしるしになるものは一つもなかった。これは傷に符合する。ほかの兇器を用いた様子はないね」
「すると、犯人は?」
「背の高い男で、左利き、右足がびっこで、底の厚い狩猟靴をはいて、グレイの外套を着て、インドの葉巻を吸い、シガー・ホルダーを使っていて、ポケットに刃先のにぶい小刀を入れている。ほかにもいろいろと特徴はあるが、これだけで十分、われわれの調査の助けにはなるでしょう」
レストレイドは笑った。「わたしはまだ、なっとくがいきませんね。理論ははなはだ結構ですが、わたしたちは頭の固い、イギリスの陪審員を相手にしなくてはならないんですよ」
「今にわかるよ」ホームズは落ち着いて答えた。「君は、君の方法でやりたまえ。僕は僕流にやろう。今日の午後は忙しくなるだろうが、たぶん晩の列車でロンドンに帰れるよ」
「この事件を片づけないままでですか」
「いいや、片づけてからさ」
「ですが、この謎は?」
「解けているよ」
「では、犯人は誰なんですか」
「さっき言ったとおりの紳士だよ」
「しかし、誰なんです?」
「きっと、見つけ出すのはむずかしくはないだろう。ここらはそれほど人口も多くはないし」
レストレイドは肩をすくめた。「わたしは実際的な人間でしてね。とても引き受けられませんよ。左利きの、足がびっこの紳士を探して、このあたりを歩きまわるなんて。それこそスコットランド・ヤードの物笑いのたねになりますよ」
「ま、いいさ」ホームズは静かに言った。「君にチャンスを与えてあげたんですがね。もう君の宿ですね。さよなら。発つ前に、一筆さしあげますよ」
レストレイドを宿に残しておいて、私たちはホテルへ馬車を走らせた。ホテルではテーブルに昼食の支度ができていた。ホームズはものも言わず、思いに沈んで、苦しそうな表情を顔に浮かべていた。まるで、どうしていいのか、迷っている人のようだった。
「ねえ、ワトスン」食卓が片づけられると、ホームズは言った。「ま、この椅子に腰をおろして、ちょっと僕の説教を聞いてくれたまえ。どうしたものか、全くわからないんだ。で、君の助言をありがたく聞かせてもらいたいのだがね。葉巻に火をつけて、僕の説明を聞いてくれたまえ」
「さあさ、どうぞ」
「さて、だね。この事件を考えてみると、息子のマカーシーの話を聞いて、僕たち二人にすぐぴんときた点が二つある。それを僕は息子に有利なものに考えたし、君は息子に不利なものと考えたがね。一つは、その父が、息子の言うところでは、まだ息子に逢わないうちに『クーイー』と叫んだ事実だ。も一つは、奇妙なことに、死にぎわにラットのことを言ったということだ。父親は二、三こと、もぐもぐ言ったわけだが、息子の耳に聞きとれたのは、それだけだった。さてこの二つの点から、われわれの探求を始めなくてはならない。そして、あの若者の言っていることが絶対真実であると仮定して、探求を始めよう」
「すると、この『クーイー』というのはなんだね」
「うん、明らかに息子に聞かせるためではなかったはずだ。息子は、父親が知っているかぎりでは、ブリストルにいたわけだ。息子が声の聞こえるところにいたというのは、全く偶然にすぎなかった。あの『クーイー』というのは、誰であったにしても、父親が逢う約束をしてあった人物の注意をひくつもりのものだった。ところで『クーイー』は確かにオーストラリアの合図の叫びで、オーストラリア人同志の間で用いられるものだ。マカーシーがボスコム池で逢うつもりにしていた人物は誰かオーストラリアにいたことのある者だ、という有力な推定ができるのだよ」
「じゃあ、ラットというのはなんだろう?」
シャーロック・ホームズはポケットから折りたたんだ紙を取り出して、それをテーブルの上にひろげた。「これはヴィクトリア植民地の地図だがね。昨夜ブリストルへ電報を打ってとりよせたのだ」
ホームズは片手をおいて、地図の一部をかくした。「なんと読める?」彼がきいた。
「アラットだ」私は読んだ。
「では、これは?」彼は手を上に取りのけた。
「バララット」
「そのとおりだ。これがその男の口にした言葉だった。息子はその最後の二つのシラブルを聞きとったにすぎなかったのだよ。父親は自分の加害者の名を言おうとしていた。バララットの誰某、とね」
「すばらしい!」私は叫んだ。
「それは明白だ。ところで、僕の範囲はかなり狭くなったろう。グレイの着物を持っているというのが第三の点だが、息子の陳述を正しいとすれば、この点も確実だ。われわれは全く曖昧模糊(あいまいもこ)たるところから出て、バララット出身の、グレイの外套を持つオーストラリア人という、明確な概念に達したことになる」
「確かにそのとおり」
「そして、このあたりの地理にくわしい者だ。というのは、ボスコム池はマカーシーの農園を通りぬけるか、ターナーの所有地を通りぬけるかでなけれは近づけない。よその土地の者だったら、とてもうろつくことなど、できるものじゃない」
「まったくだ」
「そこで今日のわれわれの探検となったわけだ。地面を調べてみて、些細な、こまごましたことがわかったよ。あの馬鹿のレストレイドにさっき聞かせてやったやつだ。犯人の風体に関してね」
「しかし、どうしてそれがわかったのかい?」
「君は僕の方法を知っているだろう。それは些細なことを尊重するという立て前だ」
「犯人の背たけは、歩幅からおおよそ判断できることは知っている。はいている靴も、その足跡からわかるものだね」
「そうだ。あれは変わった靴だったよ」
「しかし、犯人がびっこだというのは?」
「右足の跡が、きまって左足ほどはっきりしていないんだよ。右足にかかる重さが少ないのだ。なぜか。つまりびっこをひいたからだ……びっこだったのだよ」
「だが、左利きというのは?」
「検屍で外科医が報告した、あの傷の性質によって君にもわかっていただろう。打撃はすぐ背後から加えられた。それにしては左側によっていた。左利きの男の手によるものでなくして、どうしてそんなことがあるものか。父と息子が逢っていた間、犯人はあの木のうしろに立っていたのだ。タバコまで吸った。葉巻の灰を見つけたよ。タバコの灰については、僕には特別な知識があるので、インドの葉巻だと断定することができた。君も知ってのように、僕はこれにはいくらか身を入れて研究し、パイプ、葉巻、シガレットの、百四十とおりもちがう種類の灰に関して、ちょっとした論文を書いたことがある。その灰を見つけてから、僕はあたりを見まわって、苔の中に犯人が投げすてた吸いさしを見つけたよ。インド葉巻で、ロッタダムで巻かれる種類のものだった」
「それで、シガー・ホルダーのことは?」
「葉巻の端を口にくわえていなかったことがわかったんだ。だからホルダーを使っていたね。先は切りとられていた。噛みちぎったのではない。だが切り口がきれいにいっていないので、切れの悪い小刀だと推論したのだ」
「ホームズ」私は言った。「その犯人が逃げられないような網を張りめぐらしてしまったね。それに無実の罪の男の命を、まるで首くくりにする綱を切ってやったも同然に、救ってやったわけだ。君の話のすべてが指し示している方向がわかるよ。犯人は……」
「ジョン・ターナーさんです」ホテルの給仕が大声で言って、私たちの居室のドアを開け、客を案内してきた。
入ってきたのは奇妙な、印象に残る姿であった。ゆっくりした、びっこの足つき、曲がった肩は老衰のきざしを見せていたが、それでもきつい、しわの深い、でこぼこな顔つき、それに大きな手足を見ると、肉体にも精神にも並々ならぬ力がこもっているようだった。もじゃもじゃの顎ひげ、ごましおの髪、目に立つ、垂れさがった眉毛、それらが結びついてその顔つきに威厳と力とをあらわしていた。しかし顔色は蒼白で、唇と鼻孔のすみが青くそまっていた。一目見て明らかだったが、この男は何か慢性の死病にとりつかれているのだ。
「どうかソファにおかけになって」ホームズは静かに言った。「わたしの手紙はお読みになりましたね?」
「ええ、小屋番が届けてくれましてね。人の口をさけるために、わたしとこちらで逢いたいというお話でしたが」
「わたしがお屋敷へ出向けば、世間がうるさいと思いましたので」
「ところで、わたしに逢いたいとおっしゃるのは、どういうわけです?」彼はその疲れきった目に絶望の色を浮かべてホームズを見やった。返事がなくとも、もうわかっているといった様子だった。
「ええ」ホームズは相手の言葉によりもその目つきに答えた。「そうなんですよ。わたしはマカーシーさんの件については、すっかりわかっているのです」
老人は顔を両手に埋めた。「ああ、弱った」彼は大きな声で言った。「だが、あの若者にあんなうき目を見せるつもりはなかったのです。誓って申し上げますが、巡回裁判であれが不利になるようなら、わたしはすっかり白状するつもりでした」
「そううかがってなによりです」ホームズはおごそかに言った。
「あの可愛い娘さえいなかったら、今にでも打ち明けてしまうのですが。言えば娘は胸も裂ける思いをするでしょう。……わたしが捕われたと聞けば、それこそ娘は胸が裂けてしまいましょう」
「そうとはかぎりません」ホームズは言った。
「なんですって」
「わたしは警察の役人ではあリません。ここへわたしを招かれたのはあなたのお嬢さんなんでして、わたしはお嬢さんのためになるように仕事をしているのです。いずれにしても、息子のマカーシー君を釈放しなくてはなりません」
「わたしは老い先も短い」老ターナーは言った。「何年来、糖尿病をわずらっています。医者の言うには、もう一月もつかどうかが問題だそうでして。だが牢獄で死ぬよりも、わが家の屋根の下で死にたいものです」
ホームズは立ち上がって、テーブルに向かって腰をおろし、ペンを手にして一束の用紙を前に置いた。「わたしたちに真実をお話し下さい。その事実の要点を書きとめましょう。あなたにそれへサインをしていただいて、ワトスンが証人ということになれます。そうすれば、わたしはいよいよという最後に息子のマカーシーを救うために、あなたの自白を提出することができるわけです。これが絶対に必要となるまでは、決してみだりに使用しないことを約束します」
「いずれなりとも結構です」老人は言った。「巡回裁判まで生きておられるかどうかが問題です。ですからそんなことはわたしにはまあどうでもいいことですが、娘のアリスにはショックを与えたくはないのです。それでは一切をあなたにはっきり申し上げましょう。実行には長い年月かりましたが、お話しするには長くはかかりますまい。
あなた方は、あの死んだマカーシーという男をご存じなかった。あいつは悪魔の化身でした。本当です。あんな男の手にかかったらたまりません。わたしはこの二十年間、奴の手につかまれて、命を台なしにされてしまいました。まず、どうして奴の自由にされるようになったのか、それからお話いたしましょう。
一八六〇年代の初め、金鉱でのことでした。その当時はわたしも若くて、熱血の向こう見ず、なんにでもすぐ手を出しました。悪い仲間に入って、酒はやり出す、わたしが払い下げてもらった鉱区には芽が出ない、森に入りこんで、つまりこちらでいう追剥(おいはぎ)強盗になりました。仲間は六人でした。乱暴な気まま気ずいの生活でして、ときどき家畜飼養場を荒したり、金鉱へ行く途中の荷馬車を止めたりしました。バララットのブラック・ジャックというのがわたしの通り名で、わたしたちの仲間は植民地ではバララット・ギャングとしてまだ覚えられております。
ある日、金の輸送隊がバララットからメルボルンへとやって来ました。それをわれわれが待ち伏せしていて襲いました。向こうは騎兵が六人、こちらも六人、いずれ劣らぬ接戦でしたが、われわれは最初の一斉射撃で相手の四人を鞍から射ち落としました。しかしこちらも獲物を手に入れるまでに三人殺されました。わたしは荷馬車の御者の頭にピストルを向けました。こいつこそが、あのマカーシーだったのです。そのとき、奴を射ってしまえばよかったのです。それが命を助けてやりました。あの兇悪な小さな目が、まるでわたしの顔かたちの一つ一つを忘れないぞとばかりに、こちらの顔を見すえておりましたのに。
われわれ仲間はその金を持って逃げ、金持ちになり、疑われもしないで、イングランドへ渡ってきました。こちらで仲間とは別れてから、静かで堅気(かたぎ)の生活に落ち着こうと決心したのです。たまたま売りに出ていたこの所有地を買い、持ち合わせの金で少しはいい事をしようと思いました。金もうけにした悪事のつぐないをするつもりだったのです。結婚もしました。妻は若死にをしましたけれど、可愛いアリスを忘れ形見に残してくれました。娘がほんの赤ん坊であったときでも、そのちっちゃな手が、これまでついぞそんな思いをしたこともないほど、わたしを正道に導いてくれるように思いました。つまり、わたしは生まれ変わって、過去のつぐないにできるかぎりのことをやってみたのです。すべてが順調にいっておりましたところへ、マカーシーの手がわたしにのしかかったのです。
投資のことで上京いたしましたが、そのときリージェント・ストリートで、上衣も着ず、靴もはかずといったマカーシーに逢ったのです。
『やって来たぜ、ジャック』
わたしの腕をつかんで言うのです。『こちらは家族も同様に願いますぜ。俺と息子の、二人づれですがね。食いぶちをあてがっていただきましょうや。いやだと言やあ!……ご立派な、法のきびしいところはこのイングランドときていまさあ。それに声を立てりゃあ、すぐと巡査がお出むきになりますぜ』
そこであの二人は、この西の国へやって来ました。振り放せませんでした。それからというもの、ずっとわたしのいちばんいい土地で、地代も払わずに暮らしていました。わたしには休らいも平和もなく、昔を忘れてしまうこともできませんでした。どちらを向いても、奴のずるい、にやにやした顔がすぐそばに見えました。アリスが大きくなるにつれて、いっそう悪くなってきました。わたしが自分の過去を、警察に知られるよりも娘に知られるほうが恐いのを、すぐにかぎつけたからです。奴のほしいものはなんでもくれてやらねばなりません。なんであろうと、有無を言わずにくれてやりました。土地も、金も、家もです。
とうとう最後には、なんとしてもやることのできないものをくれと言いだしました。アリスがほしいと言ったのです。奴の息子も大きくなっていました。わたしの娘も大きくなっていました。わたしは自分の健康の優れないことはわかっておりましたので、奴の息子が全財産を相続するというのは、奴にはすばらしいひともうけに思えました。だがわたしはがんばりました。奴のいまわしい血統で、わたしの血筋を汚されたくはなかったのです。あの息子が嫌いだというのではなく、奴の血が息子にも流れている、それだけでたくさんでした。わたしは頑(がん)として応じませんでした。マカーシーは脅迫に出ました。わたしは、やるならなんでもやってみろ、と逆手に出てやりました。わたしは両方の家の中ほどにあるボスコム池で逢って、よく話し合いをするはずになっていました。
そこへ行きますと、奴は息子と話をしていましたので、わたしは葉巻をすって、奴が一人になるまで、木のうしろで待ちました。ところが奴の話に聞き耳を立てておりますと、この胸の中のうらみつらみのすべてがむらむらと湧き上ってきそうでした。奴はあの息子にわたしの娘と結婚するように口をすっぱくすすめていました。娘がどう思うかなどはまるで考えもしないようで、娘など街の女同然みたいな話しぶりなのです。自分も、またわたしがこの上なく大事にしているすべてのものも、みんなこんな男の言うなりになるのかと思うと、気も狂いました。このきずなを断ち切ることはできないのか。わたしは死にかけている、命の救いようのない人間でした。頭ははっきりしていたし、手足は相当丈夫でも、自分の寿命はどうしようもないとわかっていました。しかし死んでから人はなんと言うだろう。それに娘はどうなるだろう! 奴の邪悪な口さえ黙らせれば、この二つともに救われるだろう。
わたしはやりました、ホームズさん。わたしはいま一度でもやりましょう。これまでわたしの犯した罪は深いので、そのつぐないに殉教(じゅんきょう)的な生活をしてきました。しかし娘のアリスが、わたしをひっかけている網に、またかかるということは、どうにも耐えがたいことでした。わたしは良心の呵責(かしゃく)もなしに奴を打ち倒しました。いやらしい、有毒な獣を殺すよりも平気でした。奴の叫び声で息子がひきかえしてきました。しかしわたしは林のかげにかくれておりました。それでも外套を拾いに戻らねばなりませんでした。逃げるときにおっことしたのです。
これがありのままの、事件の一切です」
「さて、あなたを裁くのはわたしの役目ではありません」老人が書きとられた自分の陳述にサインをすると、ホームズは言った。「わたしたちはどうかそんな誘惑にかからないようにしたいものです」
「どうかおかかりになりませんように。それで、あなたはどうなさるおつもりですか」
「あなたの健康が健康ですから、何もしませんよ。いずれ間もなく、巡回裁判よりもさらに高い神の裁きの庭で、ご自分の行為に対する答弁をしなければならないことはご存じでいらっしゃる。あなたの告白はおあずかりしておいて、マカーシーが有罪の宣告でも受ければ、止むなくこれを使わせていただきましょう。さもなければ、決して人目にはふれさせません。あなたの秘密は、あなたの生死にかかわらず、わたしたちでお守りしますよ」
「では、おいとまいたします」老人はおごそかに言った。「あなた方が死の床におもむかれるときは、わたしに与えて下さった平和をお考え下さって、ずっと心安かにあられることでしょう」その巨躯(きょく)でよろめき揺れながら、老人は部屋からゆっくりと足元もあぶなげに出ていった。
「困ったことだ!」ホームズは長い沈黙のあとで言った。「なぜ運命の神は、あわれな、無力な虫けら同然の人間に、このようないたずらをするのだろうね。僕はこんな事件は聞いたことがなかったよ。バクスター[十七世紀の小説家]がなんと言っていようと、僕は言うね、『神の恩寵なかりせば、シャーロック・ホームズとてもかくならん』とね」
ジェイムズ・マカーシーは巡回裁判で放免された。ホームズが作成して、被告方弁護士に提出した、数々の異議の力によるものであった。老ターナーはわたしたちが逢ってから七か月生き延びていたが、今はもう死んでしまった。お互いの息子と娘は、二人の過去にかかっている黒い雲などは知らないで、まずは幸福な生活を共にするようになるであろう。
一八八二年から九〇年に至る間の、シャーロック・ホームズが扱った事件の、私がとった覚え書や記録をくりかえしてみると、怪奇でもあり興味もある様相を呈している事件にうち当たることがはなはだ多いので、どれを採り、どれを捨てるのか決めるのはやさしい業(わざ)ではない。それでも、新聞を通じて、すでに一般に知られているものがいくつかあり、また、わが友ホームズが持っている、かくも高度な特殊な才能を発揮する余地のないものもある。この才能を例証することが、これらの記録の目的であるわけだが。
あるものは、また、ホームズの練達せる分析力も及ばず、物語としては、初めあって結末なしに終りかねないし、かと思えば、部分的にしか解決されていないままに、その説明も推量や臆測にもとづくばかりで、ホームズ得意の完全無欠な論理的証明の影がうすいといったものもある。
しかし、この最後の部類の中の一つに、その詳細にわたってとても珍らしく、その結果が驚くべきものがあるので、私はこの事件を述べてみたくてたまらない。もっとも、この事件に関しては、これまでに完全に解決されてもいないし、おそらくは今後も決して解決されることがないであろう点が、いくつかあることはおふくみ願いたい。
一八八七年という年は、興味もあれば興味もない事件がひきつづいて起こった。これらの事件の記録はとってある。この一か年間に起こった事件の見出しの中には、パラドル・チェンバーの冒険、アマチュア乞食会、この連中は家具倉庫の地下室でぜいたくなクラブを開いていたもの、イギリスの三檣帆船(さんしょうはんせん)ソウフィ・アンダスン号の失踪にからまる事件、ウーファ島のグライス・パタスン一家の奇妙な冒険、それに最後に、キァンバウエル毒殺事件などがある。この最後の事件では、まだ記憶に残っているかもしれないが、シャーロック・ホームズは死者の時計をまいてみて、この時計は二時間前にまかれていたこと、したがって被害者は死の前二時間以内にベッドに入っていたことを証明し得たのである。……これはこの事件を解決するにあたって、最も重要な推論であった。これらのすべてを、いずれそのうちに略記することもあろうが、そのうちのどれをとってみても、私がいま筆をとって書こうとしている、この不思議な事件の連続ほど、奇妙な様相を見せているものはない。
九月の下旬のことであった。秋分の強風がこれまでにない激しさで吹きすさんでいた。終日、風は鋭いうなりを立て、雨は窓を激しく打っていた。それでこの人工の大都会、ロンドンの中心にあってさえ、私たちはしばらくの間でも、日常生活から気をそらして、檻(おり)の中の馴らされていない野獣のように、人間がつくった文明という柵(さく)ごしに人間に向かって鋭いうなり声を立てる、この大自然の力をどうにも認めなければならなかった。暮れ時になるにつれて、嵐はますます猛り狂い、風は煙突の中で子供のように泣きわめいたりすすり泣いたりした。シャーロック・ホームズは炉の一方に気むずかしく座って、自分が扱った犯罪記録の対照索引をこしらえていた。私といえば今一方に腰をおろして、クラーク・ラッスルのおもしろい海洋小説に読み耽(ふけ)っていて、やがては疾風の咆哮(ほうこう)が小説の本文と混じり合い、雨のしぶきの音が次第にのびて、波の長く打ちよせる音のように思われた。妻は伯母さんのところへ行っていて、私はここ二、三日、ベイカー街の古巣にまた立ち戻っていたのである。
「おや」僕は言って、ホームズを見やった。「たしかベルの音だったね? こんな晩に誰がやって来たんだろう? 君の友達だろうね、たぶん?」
「君のほかには誰もいないよ」彼は答えた。「お客づきあいは悪いんでね」
「じゃ、依頼人かな?」
「そうとすれば重大事件だよ。さもなければ、こんな日に、しかもこんな時間に人が外出したりはしないさ。だが、どうも、下宿のおかみさんの仲よしらしいようだよ」
しかし、シャーロック・ホームズの推測はちがっていた。廊下に足音が近づいて、ドアにノックが聞こえたからである。ホームズは長い腕を延ばして、ランプを自分のほうから向きをかえ、お客を座らせるはずの空いた椅子のほうへ向けた。「お入り」彼は言った。
入ってきた男は、若い、せいぜい二十二歳ぐらい、身だしなみのいい、きちんとした身なりで、物腰にどこか洗練された優雅なところがあった。手にしている傘から滴(しずく)が垂れ、長いレイン・コートが光っていて、彼がこの荒れ狂う嵐のなかをやって来たことがわかった。彼はランプの光に照らされて、あたりを心配そうに見まわした。その顔は蒼(あお)く、目が憂いに沈んで、何か非常な心配で気が重くめいっている人のようだとわかった。
「申しわけありません」彼は言って、金縁の鼻眼鏡をかけた。「おじゃまじゃございませんでょうね。気持のいいお部屋へ、嵐や雨のとばっちりを持ちこんでしまいましたようで」
「外套と傘をおかしなさい」ホームズは言った。「ここのフックにかけておくと、すぐにかわきますよ。南西のほうからいらっしゃったんですね」
「ええ、ホーシャムからです」
「あなたの靴先についている、その粘土と白亜のまざりを見ると明瞭ですよ」
「助言をいただきにあがりました」
「お安いことです」
「それにご助力もと思いまして」
「それは、そうやすやすともいきかねることがありますが」
「お名前はうかがっております、ホームズさん。プレンダガスト少佐から、あなたがタンカヴィル・クラブ事件で、少佐をお助けになった様子をお聞きしました」
「ああ、そうですよ。少佐はカルタでいかさまをしたという濡れ衣(ぎぬ)を着せられたのです」
「あなたなら、なんでも解決される、というお話でした」
「それは少佐の言い過ぎですよ」
「失敗されたこともないんだとも」
「四度ばかり失敗しましたね……三度は男に、一度は女にね」
「でも成功された数に比べたらなんでもありません」
「だいたいが成功だったというのが本当ですね」
「それなら私の事でも成功されるというものです」
「どうか椅子を炉のほうへ引き寄せて下すって、あなたの事件について詳しいお話を聞かせていただきましょうか」
「普通の事件ではないのです」
「私のところへ持ちこまれるのは、ありきたりの事件などはひとつもありませんね。いよいよ最後の控訴院というところです」
「それでも、いかがでしょうか、あなたのこれまでのご経験で、私の一家に起こりました事件ほど、不思議な、わけのわからない、ひとつづきの事件をお聞きになったことがありましょうか」
「おもしろそうなお話ですね」ホームズは言った。「初めから肝要な事実をお話しになって下さい。非常に重要だと思われる詳細な点については、あとでおたずねしましょう」
青年は椅子を引き寄せて、濡れた足を火のほうへ突き出した。
「私は」彼は言った。「ジョン・オウプンショーと申します。ですが、私の一身上のことは、今のところはこの恐ろしい事件とは関係がないように思います。代々からつづいておりますことでして、事の次第をご了解願いますためには、この事件の発端へさかのぼらなくてはなりません。
お話しておかねばなりませんが、私の祖父には二人の息子がありました。……伯父のイライアスと父のジョーゼフてす。父はコヴェントリで小さな工場をやっておりまして、自転車が発明されましたときにこれを拡張いたしました。オウプンショーの耐久タイヤの特許を取っておりましたので、事業は好調の波にのり、事業権を売り渡して、かなりな財産をこしらえて隠退いたしました。
伯父のイライアスは若いときにアメリカへ移住しまして、フロリダで農場をかまえ、そこで順調にいっていたという評判でした。南北戦争のときには、伯父はジャクスン軍に入って戦い、あとでフッドの部下になって大佐に昇進しました。リー将軍が降伏すると、伯父は農場へ帰って、三、四年の間はそこにとどまっていました。一八六九年か一八七〇年頃に、ヨーロッパへ帰ってきまして、サセックスに小さな地所屋敷を持ちました。ホーシャムの近くです。アメリカでは相当大きな財産をつくっていましたが、アメリカを去りました理由は黒人がきらいなのと、参政権を黒人にまで拡張した共和党が気に入らなかったからです。変わり者で、気性の激しい、気短かで、腹を立てたときには毒舌をはきますし、非常に人づきあいのきらいな人でした。ホーシャムに住んでいました何年間というもの、町に足を入れたことかあるかどうかと思うくらいです。その家のまわりには庭園があり、二、三の原っぱもありまして、よく運動をしておりましたが、何週間もつづけて自分の部屋から出てこないこともたびたびでありました。ブランデーをあびるほど飲み、むやみにタバコを吸いました。それでいて人づきあいはしようとしませず、友達もほしがりませず、自分の兄弟にさえ逢いたがりませんでした。
伯父は私をいやがりませず、むしろ私を好んでおりました。私に初めてあったときというのが、私がまだ十二かそこいらの子供だったからです。それは一八七八年のことだったと思います。伯父がイングラントへ帰って八、九年たったのちのことです。伯父は父に頼んで、私をひきとりました。伯父は伯父なりに私には親切にしてくれました。酒を飲んでいないときには、いつも私相手にすごろくやドラーフトをするのが好きで、召使いや出入りの商人に対しては私を代理に出しました。そんなわけで私が十六になる頃には、すっかりこの家の主人顔になってしまいました。鍵はすっかり預かり、行こうと思えばどこへでも行けましたし、したいことはなんでもできました。ひきこもっている伯父のじゃまさえしなければよかったのです。けれど、妙な例外が一つありました。伯父は部屋を一つ持っていまして、屋根裏部屋の一つであるがらくた部屋ですが、そこはいつも鍵をかけて私であろうが誰であろうが決して中へは入らせませんでした。子供の好奇心で鍵穴からのぞきこんでみましたが、古トランクや包みなどがごろごろしているだけで、こんな部屋にありそうなもののほかには、これというものが見当たりませんでした。
ある日……一八八三年の三月のこと……外国切手のついた手紙が一通、食卓の大佐の皿の前に置いてありました。伯父が手紙を受け取るというのは珍らしいことでして、勘定は手元の現金で払いますし、友人といったものはどんな人もなかったのですからね。
『インドからだ!』それを取り上げて申しました。『ボンディチェリの消印だな。いったいなんだろう』急いで封を切りますと、小さなひからびたオレンジのたねが五つぶこぼれ出ました、それが伯父のお皿にばらばらと落ちました。私はこれを見て笑い出しましたが、伯父の顔を見ると、その笑いが唇のはしにこごりついてしまいました。伯父の唇は垂れ、目はとび出し、顔は色を失い、震える手にじっと持っていた封筒を見つめていました。
『K・K・K』と鋭く叫んで、さらに『ああ、ああ、罪のむくいがきた』と言いました。
『なんなの、それは、伯父さん?』私は叫びました。
『死だ』
伯父は言うなり食卓から立ち上って自分の部屋へひきこみました。残った私は恐怖に胸がどきどきしていました。私はその封筒を取り上げますと、内側の垂れの、ゴムのりのすぐ上のところに、赤インクでKの文字が三つくりかえして、走り書きしてあるのが見えました。五つぶのひからびたたねのほかには何もありませんでした。伯父が打ちのめされたあの恐怖はいったいなんだろう。私は朝の食卓を離れて、階段を上っていきますと、伯父が古い錆び鍵、あの屋根裏部屋用のにちがいないのを片手に、小さな真鍮箱(しんちゅうばこ) の銭箱のようなのを、もう一方の手に持って降りてくるのに出会いました。
『したいだけのことをするがいい。だが、わしはまだ奴らを負かしてやるぞ』伯父は捨てぜりふを吐きました。『メアリに言ってくれ、今日は部屋に火がほしい、ってね。それからホーシャムのフォーダム弁護士を呼びにやっておくれ』
私は言いつけられたとおりにしました。弁護士がやって来ますと、私も部屋へ上ってくるように言われました。火はあかあかと燃えていまして、炉の鉄格子に黒い、ふわふわした灰のかたまりがあり、紙を焼いたもののようでした。そのかたわらに真鍮の箱が開かれて空っぽになっていました。
その箱をちらと見て、気がついて驚いたのですが、そのふたに今朝(けさ)封筒の上に読みとった、あの三つつづきのKが書いてありました。
『お願いだが、ジョン』伯父が言いました。『わしの遺言書の証人になっておくれ。わしの地所屋敷を、権利義務の一切をつけて弟に、つまりお前の父にゆずる。それはもちろんお前に伝わることになるのだ。お前が無事にこの遺産を享有してくれれば、上々、結構なことだ! もしお前がうまくいかないとわかったら、いいかね、お前のいまいましい敵に渡してやっておくれ。お前にこんな損得つかないものを伝えるのは気の毒だが、事情がどう変わるものともわからないのだ。どうかフォーダムさんの言われるところへ、この書類にサインをしておくれ』
私は指図されたとおりにサインをいたしました。弁護士はその書類を持ち帰りました。この奇妙な出来事が、私にとても深い印象を与えたことはおわかりのことと存じます。私はこのことを、あれやこれやとさまざまに考えつめてみましたが、どうにもわけがわかりませんでした。それがあとに尾を引いた、ぼんやりした恐怖の念を振りすてることができませんでした。
それでも何週間か過ぎるうちには、この不安も少しはうすらいでいきまして、わたしたちの日常生活を乱すようなことは何も起こりませんでした。しかし伯父が変わってきたことはわかりました。前よりは酒をあおりますし、いよいよ人づきあいをさけるようになりました。ドアには内側から鍵をかけたままでしたが、ときには酒乱で、大ていは自分の部屋で時間をつぶし、まるで気狂いのように現われ、家をとび出して、ピストルを持って庭をあばれまわり、誰も恐れはしないぞ、とか、人間だろうが悪魔だろうが、わしを羊みたいにおりの中へ閉じこめたりさせるもんか、などとわめき立てました。でもこうした狂乱の発作が静まりますと、伯父はとり乱して部屋にかけこみ、後にかんぬきをかけ、鍵をかけてしまうのですが、心の底にある恐怖に対して、もうどうにも何食わぬ顔ではいられない人のようでした。そんなときには、寒い日であっても、伯父の顔といえば、洗面器からいま上げたばかりのように、濡れてぎらぎらしていました。
さて、事の結末を申し上げます、ホームズさん。長話にごしんぼうをおかけいたしましたが、ある晩のことです。伯父はいつものように酔っぱらって家をとび出したのですが、それきり帰ってきませんでした。私たちは伯父を見つけました。探しに行ったときのことです。小さな、緑のはすの浮かんでいる池に顔をうつぶせにしていました。庭園のすそにある池です。暴力を加えられた跡はなく、水も二フィートの深さしかありません。それだもので、陪審員は、伯父は有名な変人であることを考え合わせて、自殺という評決を下しました。でも私は、伯父が死ぬということを考えるだけでもおびえていたのを知っていましたから、伯父がわざわざ死の道をえらんだとは、なかなかになっとくできませんでした。しかし、事件はこれですみまして、私の父が地所屋敷と、銀行にあずけてあった一万四千ポンドばかりを受けつぐことになりました」
「ちょっと」ホームズが口をはさんだ。「あなたのお話は、これまでに聞いたことのないほど珍らしいものだと思いますね。伯父さんがその手紙を受けとった日づけと、自殺ということになった、その死亡の日とを聞かせて下さい」
「手紙のつきましたのが一八八三年の三月十日。伯父が亡くなりましたのは、七週間後の五月二日の夜でした」
「ありがとう。どうぞ先を」
「父がホーシャムの財産を引きつぎましたとき、私は頼んで、父に屋根裏部屋を念入りに調べてもらいました。いつも鍵をかけて閉めきってあった部屋です。そこにあの真鍮箱がありましたが、中味は焼かれてしまっておりました。ふたの内側に紙のラベルがはってあって、それにK・K・Kの大文字が並んでいまして、その下に『手紙、備忘録、受取、登録薄』と書いてありました。これらはオウプンショー大佐が焼き捨てた書類の性質を示しているように思われました。ほかには、この屋根裏部屋にはこれといって重要なものは見当たりませず、ただ、伯父のアメリカ生活に関する書類やノート・ブックなどが非常にたくさん散らかっているだけでした。そのうちには南北戦争当時のものがいくつかあり、自分の義務をよくつくして、勇敢な軍人だという名声を得ていたことを示していました。
ほかに南部諸州の再建時代のものがあり、主として政治に関するものでしたが、伯父は、北部から派遣されてきたかばん一つの渡り者の政治家連に、明らかに主動的に反対していたからです。
さて、一八八四年の初めでした。父がホーシャムに来住し、八五年の一月までは私たちとともども、かなり順調にいっておりました。お正月の四日になって、私たちが朝の食事の卓についておりましたとき、父が驚いたような鋭い叫び声を立てるのを耳にしました。父は座ったまま、開いたばかりの封筒を片手に、もう一方の差し出した手のひらに、五つぶの、ひからびたオレンジのたねをのせていました。父は、大佐についての私の話を根も葉もないことだ、といつも笑っていたものでしたが、同じことが自分の身にふりかかってきたとなると、なんとも当惑したような、おびえたような様子でした。
『はて、これはいったいどういうつもりなんだろうね、ジョン?』と父は口ごもりました。
私の心臓はこごりつきました。『K・K・Kだ』と言いました。
父は封筒の中をのぞきました。
『そのとおりだよ。ここにその文字が並んでいる。だが上に書いてあるこれはなんだ?』
『書類を日時計の上に置け』肩ごしにのぞいてみますと、そう書いてありました。
『なんの書類で、なんの日時計だろう?』父がききました。
『庭の日時計ですよ。ほかにはないんです』私は言いました。『でも書類というのは伯父さんが焼き捨てたものにちがいありませんよ』
『馬鹿な!』父はむりに勇をふるって言いました。『ここは文明の地だ。こんな馬鹿げた話があってたまるものか。こんなものがどこから来たんだ?』
『ダンディからですね』私は消印を見て答えました。
『たちの悪いいたずらごとだ』父は言いました。『おれが日時計や書類とどんな関係があるというのか。こんな馬鹿げたことにかまってはいられない』
『警察へ届けなくてはいけませんよ』
『それこそ笑われものでむだぼねだよ。そんなことはしたくない』
『じゃ僕にやらせて下さい』
『いや、いけない。こんな馬鹿々々しいことで騒ぎ立ててほしくないね』
お父さんと議論してもはじまりませんでした。とても頑固な人でしたので。
しかし、私は不吉な予感でいっぱいでした。
手紙が来てから三日目に、父は家を出かけて旧友のフリーボディ少佐を訪ねに行きました。少佐はポーツダウン・ヒルの上にある堡塁(ほるい)の一つで司令官をしています。父が出かけるのを嬉しく思いました。家から出かけておれば危険からも遠のいておられるのだと思えたからです。ところが、それが、まちがいでした。
父が留守にして二日目に、私は電報を少佐から受け取りました。私にすぐ来てくれとの頼みです。父は近くにたくさんある、深い白亜坑へ転落していまして、頭蓋骨をくだいたまま、意識を失って倒れていました。私は父のもとへかけつけましたが、意識を回復することもなく、死んでしまいました。
父は暮れ方にフェアラムから帰ろうとしていたらしいのですが、土地には不案内で、白亜坑には柵もしてなかったこととて、陪審員はためらいもなく、『不慮の過失死』という評決を下しました。父の死に関する事実を、一つ一つ注意して調べてみたのですが、殺人と考えうるようなことは一つも見つかりませんでした。暴力をうけた様子もなく、足跡も見当たらず、物を盗られてもいず、見知らぬ人が道路を歩いているのを見たという人もありませんでした。それでも、申し上げるまでもなく、私の心は安らかどころではありません。何か悪い企みが父のまわりに張りめぐらされていたのだと信じるくらいでした。
こんな不吉なありさまの中で、私は遺産を相続しました。なぜそれを処分しなかったかとおっしゃるでしょうね。お答えしますが、私が確信していましたのは、私たちの災難は、どうやら伯父の一生中のある出来事に関係のあることで、家を住みかえてみたところで、危険は同じようにせまってくると思ったからです。
気の毒な父が亡くなりましたのは、八五年の一月で、あれから二か年と八か月がたっております。その間はホーシャムで楽しく暮らしておりまして、この呪いも私の一家からは遠のき、父の代で終わりをつげたことと望みを持ち始めておりました。しかし安心するのが早すぎました。昨日の朝、父にふりかかったと全く同じ形で、打撃が落ちかかったのです」
青年はチョッキからしわくちゃの手紙を取り出した。テーブルのほうに向くと、それへ五つぶの、小さな、乾いたオレンジのたねをふるい落した。
「これがその封筒です」青年はつづけた。「消印はロンドンで……東区です。中には、父が最後に受け取った手紙にあったものと、全く同じ言葉が書かれております。『K・K・K』というのと、『書類を日時計の上に置け』というのと」
「あなたはどうしました?」ホームズがきいた。
「何もしていません」
「何もしていないって?」
「実を申しますと」彼は細い白い手に顔を埋めた。「逃れようがないと思っております。蛇に見込まれた兎同様に感じています。なにか抗しがたい、冷酷な悪魔の手に握られているようです。これに対しては、どんな考えも手だても防ぎきることはできません」
「ちぇっ!」シャーロック・ホームズは叫んだ。「行動に移らなければ、だめですよ、君。気力のほかに君を救うものはない。絶望しているときじゃありません」
「警察へは行きました」
「ああ?」
「でも警察は話をしても笑いすてました。警部の意見では、そんな手紙は全くのいたずらごとで、伯父や父が死んだのは不慮の過失にすぎない。陪審員の言うとおりで、手紙の警告とは関係があるはずはない、ということにちがいありません」
ホームズは握りこぶしを振り上げて叫んだ。
「とんでもないたわけ者だ!」
「それでも警察は巡査を一人よこしてくれました。私のもとで家にいてくれるのです」
「今夜一緒に来たのですか」
「いいえ。巡査が受けた命令は家にじっとおれというのです」
またホームズは手を振りまわした。「なぜ、あなたは私のところへ来たのです? それに第一、なぜすぐにここへ来なかったのですか」
「知らなかったのです。ほんの今日のことなんです。私の困った事件をプレンダガスト少佐に話して、こちらへうかがうように言われたばかりなのでして」
「手紙を受け取られてからもう二日になりますよ。ずっと前に私たちは行動していなければならなかったのです。お話しになった事のほかにはもう何も証拠はないでしょうね……役に立つような細かな点は」
「一つあります」
ジョン・オウプンショーは言った。上衣のポケットをさぐって、一枚の色あせた、青色の紙を取り出し、それをテーブルに置いた。
「覚えがあるのですが、伯父が書類を燃しましたあの日に、灰の中にあった、小さな燃え残りの端がちょうどこれと同じ色だったことを知っています。この一枚の紙は伯父の部屋の床にあったのです。どうやら書類の中の一枚で、たぶんほかの書類の中から舞い落ちて、それで焼かれずにすんだものでしょう。オレンジのたねのことを書いてあるほかには、大して役に立ちそうなものは見当たりません。これは何か密かに書いていた日記の一ページのように思うのですが。筆跡は確かに伯父の手なんです」
ホームズはランプを動かして、私たちはこの紙片の上にかがみこんだ。ぎざぎざの端から、これは手帳からひきちぎられたものとわかった。「一八六九年三月」という見出しがあり、その下につぎのような謎めいた記事が書いてあった。
四日 ハドスン来る。同じような古い政策。
七日 マコーリ、パラモア、およびセント・オーガスティンのスウェインにたねを送る。
九日 マコーリ去る。
十日 ジョン・スウェイン去る。
十二日 パラモアを訪ねる。万事上々。
「ありがとう」ホームズはその紙をたたんで、客にかえした。「今となっては一刻もぐずぐずしてはおられませんよ。あなたがお話しになったことを、議論さえしている間がありません。すぐお帰りになって、手を打たなくては」
「どうすればいいのですか」
「なすべきことは一つしかありません。すぐにかからなければいけません。お見せになったその紙片を、お話しの真鍮箱に入れるのです。それから、ほかの書類は伯父の手で焼却されたこと、これが、残りのただ一枚、ということを書いたものを入れておきなさい。相手方に信じさせるような言葉で書くことです。それをすませば、すぐに指図どおりその箱を日時計の上に置きなさい。わかりましたね」
「よくわかりました」
「今のところは、復讐などということを考えないように。それは法律の手でやれることです。しかし私たちはこちらの網をはらねばなりません。向こうはもうやっているのですからね。第一に考えることは、あなたをおびやかしている、迫ってくる危険をとり除くことです。この秘密の謎を解いて、罪のある連中を罰することは第二です」
「ありがとう存じました」青年は立ち上って外套を着た。「新しい命と希望をいただきました。きっとおっしゃる通りにします」
「猶予(ゆうよ)はなりません。特に、さしあたっては一身上に注意しなさい。あなたが現実の、さし迫った危険にさらされていることは疑いないからです。どうしてお帰りになりますか」
「ウォータルーから汽車に乗ります」
「まだ九時になっていない。通りも人通りが多いでしょうから、きっと安全に行けましょう。といっても、用心にこしたことはありませんよ」
「武器を持っています」
「それはいい。明日はあなたの事件にかかりましょう」
「では、ホーシャムでお目にかかれますね?」
「いや、あなたの秘密はロンドンにあるのです。そこで私はその秘密を探るのです」
「それでは一、二日して、またお訪ねした上、箱と書類のことなどお話し申し上げましょう。どんなことにもあなたのお指図どおりにいたします」
彼は私たちと握手をして立ち去った。外ではまだ風が吹きすさび、雨が窓にはね当たった。この不思議な、突飛な話は、荒れ狂う風雨の中から私たちのところへやって来て……一片の海草が疾風に吹きとばされてきたようで……今はまた風雨の中に吸いこまれてしまったように思われた。
シャーロック・ホームズはしばらく黙ったまま、頭を前に垂れ、赤く燃えている炉火に目をそそいで座っていた。それからパイプに火をつけ、椅子に背をもたせると、青い煙の輪がつぎつぎとあとを追って天井へ立ちのぼっていくのを見つめていた。
「ねえ、ワトスン」ホームズはついに口を開いた。「これまで僕たちが扱った事件の中で、これほど奇怪なやつはなかったようだね」
「四つのサインをのぞけばね」
「うん、そうだ。たぶんそれをほかにすればね。それにしてもこのジョン・オウプンショーはあのショルトウ家の連中よりはずっと大きな危険の中を歩いているようだよ」
「でも君は」私はたずねた。「その危険がどんなものかという、はっきりした見きわめがついたのかい?」
「その性質については疑うところはないんだ」ホームズが答えた。
「じゃ、その危険というのはなんだい? このK・K・Kとは何者なのかね。それに、なぜこいつがあの不幸な一家をねらっているのかい?」
シャーロック・ホームズは目を閉じて、両肘を椅子の腕にのせ、指先を組み合わせた。
「理想的な推理家なら、ひとたびただ一つの事実をあらゆる角度から見せられると、それから、その事実につながってくる一連の事件の連鎖ばかりでなく、その事実から生じるあらゆる結果を推論するだろう。キュヴィエがただ一本の骨を考察することによって、一動物の全体を正確に描き得たと同様に、一連の出来事の中の、一つの環を完全に理解している観察家は、これも他のすべての環を、前後にわたって、正確に述べることができるはずのものだ。われわれはまだ結果をつかんではいない。この結果は理性によってしかつきとめられない。いろいろな問題も書斎で解くことができるよ。五感に依存して解決を求めようとした連中には、どうにも解けない問題がね。
しかし、その技能を最高に発揮するためには、推理家が自分にわかっている事実のすべてを有効に利用できなければならない。このことは、本来、すでに君にはわかっているだろうが、あらゆる知識を備えていなければならぬ、ということだ。それが、今日びの自由教育と百科事典万能の時代にあってさえ、いささかそうはいきかねるのだ。しかし、人が自分の仕事に役立ちそうなすべての知識を持つことは、それほど不可能ではない。僕はそれだけのことはするように努めてきたよ。記憶に誤りなければ、君はいつだったか、僕たちが知り合って間もなくの頃だが、僕の限界をそのものぴたりに言い当てたことがあったね」
「そうだった」私は笑いながら答えた。「珍妙な採点簿だったね。哲学、文学、政治は零点、おぼえているよ。植物学は不定、地質学はロンドンから五十マイル以内の、いずこの地域からでも、付着した泥のよごれに関しては知識深く、化学は偏頗(へんぱ)、解剖学は非系統的、評判文学と犯罪には無類、ヴァイオリンをよくし、ボクサーであり、剣士、法律家にして、コカインとタバコの中毒者。まあこれが僕の分析の主要なところだったようだ」
ホームズは最後の一項ににやりとした。
「そうだね、あのときにも言ったが、人間はその小さな頭脳の屋根裏部屋には、自分が使いそうな家具だけをしまいこんでおけばいいのだよ。ほかのことは書斎のがらくた部屋へおしこんでおいて、必要があれば取り出すことにするさ。
ところで、今晩僕たちのところへ持ちこまれたような、こんな事件には、なんとしてもこちらで持っている全知識を総動員しなければならぬ。そのアメリカ百科事典のKの部をとってくれたまえ。君の横の棚にあるやつだ。ありがとう。さて、事態を考察して、それからどんなことが推論されるか見てみよう。まず第一に、オウプンショー大佐がアメリカを離れるについては何か非常に強力な理由があったという、強い推定から始めることができる。あの年配の男というものは、自分たちの習慣を変えたり、フロリダの快適な気候をすてて、イギリスの田舎町の淋しい生活に喜んで移りかわることはしないものだ。大佐がイギリスでこよなく孤独を愛したということは、彼が誰かを、あるいは何かを恐れていたのだと考えさせるふしがある。そこで、彼がアメリカから立ち去ったのは、誰かを、あるいは何かを恐れていたからである、という仮説を立てることができよう。彼が恐れていたものがなんであったかということについては、彼なり、その相続者なりが受け取った、恐ろしい手紙を考察することによってしか、推論する手がない。君はあの手紙の消印に気をつけてみたかね」
「最初のはボンディチェリから、二番目はダンディから、三番目はロンドンからだ」
「東部ロンドンからだよ。そのことから、どういうことを推論するね?」
「みんな海港だよ。それを書いた奴は船に乗っていたということだ」
「うまい。それが一つの手がかりになってくる。疑う余地のありえないことは、まずまちがいなく、それを書いた男は船に乗っていたということだ。さてそれでは今一つの点を考えてみよう。ボンディチェリの場合には、脅迫と実行との間には七週間経過しており、ダンディでは二日か四日ぐらいしか経(た)っていない。これで何か思い当たることはないか」
「旅行の距離がずっと遠かった」
「だが手紙だってずっと遠くからきたんだよ」
「とすると、僕には要点がわからないね」
「少なくとも、その男か、あるいはその仲間は、帆船に乗っているという推定はなりたつね。彼らはいつもあの奇妙な警告なり暗号物なりを、任務を帯びて出発する前に発送したように思えるよ。ダンディから手紙がきたときは、実行は非常に早かった。もし彼らが汽船でポンディチェリからやって来たものならば、あの手紙とほとんど前後してついていただろう。しかし実際は七週間経過していた。この七週間というのは、手紙をもたらした郵船と、差出人を乗せてきた帆船との時間の相違をあらわしているように思えるね」
「そうかもしれない」
「しれないどころではない。たぶんそうだ。そこで今度の新しい事件がきわめて緊迫していること、僕がオウプンショー青年にしきりに注意するように言ったわけがわかるだろう。打撃はいつも、差出人が移動の距離に要する時間が終わったときに与えられているのだ。しかし今度の手紙はロンドンからきている。それで一刻の猶予もならないのだ」
「そりゃ大へんだ」私は叫んだ。「どういうことなんだろう、このむごい迫害は?」
「オウプンショーが持っていた書類は、帆船に乗っている人物、あるいはその連中にとっては、明らかに死命を制するほど重要なものなんだよ。明らかに一人の仕事じゃないと思うね。一人の人物なら、検屍陪審官の目をくらますようなやり方で、二つもの殺人をやりとげることはできゃしないよ。これには数人が手をかしたにちがいない。それも策に長(た)けた、果断な連中にちがいなかったのだ。奴らは書類を手に入れたがっているのだ。たとえ誰が持っているにしてもね。こう考えてみると、K・K・Kというのは人物の頭文字ではなくて、ある結社の符号ということになる」
「だが、どういう結社のかな?」
「まだ君は……」シャーロック・ホームズは前かがみになって声をおとした。「キュー・クラクス・クランのことを聞いたことはないかね」
「ないね」
ホームズは膝にのせていた本のページを繰(く)った。「ここにあるよ」彼はやがて言った。「キュー・クラクス・クラン。小銃の撃鉄を起こすときに生じる音に、奇妙に似かよっているところからつけられた名。この恐るべき秘密結社は南北戦争後、南部諸州の元南軍軍人数名によって結成され、たちまちのうちに国内の諸所、特にテネシー、ルイジアナ、南北キャロライナ、ジョージア、フロリダ諸州に支部を作った。その力をそそぐところは政治上の目的にあって、主に黒人有権者をおびやかし、その見解に反対なる者を殺害、あるいは国外に追い立てることにあった。その兇行には通常警告が、これと目された人物に、奇妙ではあるが一般に認められた形……地方によってはオークの葉の小枝を、他の地方ではメロンのたねか、オレンジのたね……で送られた。これを受け取ると、犠牲者は公けに誓いを立てて前説を捨てるか、国内から逃亡すればいい。もしこれにひるまずやり通す場合は、死があやまたず到来し、常に不思議な、不慮の災難に見舞われる。結社の組織は完全であり、その方法は系統的であるので、警告をひるまず無視したもので報復を受けなかったもの、あるいはその兇行のいずれにあっても犯人を突きとめ得たということの記録はほとんどない。
この結社は、合衆国政府および南部上流階級の努力にもかかわらず、数年間その勢いをたくましくした。結局は、一八六九年に、この運動ははからずも突然に瓦解(がかい)した。もっともその後といえども、同種の突発的な発生があるにはあった」
「君も気づくだろうが」ホームズは本を置いた。「この結社が突然に瓦解したのと、オウプンショーが書類を持ってアメリカから姿を消したのとは時期を同じくしている。原因と結果だったと言ってもよい。オウプンショーとその一族が執念深い連中のあるものにつけまわされていることは不思議ではない。おわかりだろうが、あの登録簿や日記は、南部の第一人者である人々の若干にかかわりあいがあるかもしれないし、それが発見されるまでは、夜もおちおち眠れない人がたくさんにいるかもしれない」
「すると僕たちが見た、あのページは……」
「見込みどおりのものだった。僕の記憶にまちがいなければ、そこに書かれていたのは、『A・BおよびCにたねを送る』……つまり、結社の警告を彼らに送ったのだ。つづいて、AとBは去る。つまり国を離れた。そして最後にCを訪ねる、と書いてあった。Cには不吉な結果が及んだのだろうね。さてワトスン先生、僕たちはこの暗黒の場所を明るくすることができそうだよ。今のところ、オウプンショー青年が持っている唯一の機会といえば、僕が言ったことをやるほかにはないのだ。今夜はもうこれ以上に言うこともすることもないね。で、僕のヴァイオリンをとってくれたまえ。半時間ばかり、この惨めな天気と、われわれの同朋たる人間のいっそうみじめなさまを忘れるとしようじゃないか」
朝はくっきりと晴れわたっていて、太陽は、この大都会に垂れかかっているおぼろな霞(かすみ)を通して、やわらかな光を投げていた。シャーロック・ホームズは私が降りていくと、もう食卓についていた。
「お先に失札」ホームズは言った。「今日はどうやら、オウプンショー青年の事件調査で忙しいことだよ」
「どう進めるつもりなんだい?」
「最初の調査の結果によるところがきわめて多いというところだね。結局はホーシャムまで行かなきゃならないかもしれないよ」
「初めにそこへ行くんじゃないのかい?」
「いや、シティから始める。ちょっとベルを鳴らしたまえ。女中が君のコーヒーを持ってくるよ」
待っている間に、私はまだ開けていない新聞をテーブルから取り上げて、ざっと目を走らせた。一つの見出しに目が止まると、心臓がぞっとこごえた。
「ホームズ君」私は叫んだ。「手おくれだ」
「ああ!」ホームズは茶碗を下に置いた。「そうなりはせぬかと恐れていたよ。どんなふうにやられた?」
ホームズは落ち着いて言ったが、深く心を動かしているのがわかった。
「オウプンショーという名と『ウォータルー橋付近の惨事』という見出しが目についたのだ。こう書いてある。
『昨夜九時から十時の間に、H区のクック巡査がウォータルー橋付近を巡回中、救いを求める叫びと水しぶきの音を聞いた。しかし昨夜は全くの闇で嵐もようであったため、通行人数名の救助にもかかわらず、救出はどうにも思いにまかせず、ともあれ急を告げて、水上警祭の援助によってようやく死体をさがしだした。
青年にして、その名はポケットに発見された封筒の名あてによってジョン・オウプンショーといい、住所はホーシャム付近であることがわかった。ウォータルー駅から終列車に乗ろうとして急いだものらしく、あまり急いでいたのと全くの闇であったために道をあやまり、河汽船用の小さな乗り場の一つから足を踏みはずしたものと思われる。死体には暴力を受けた痕跡は見当たらず、死者は不幸な不慮の出来事に遭難したことは疑う余地がない。かかる事故は、河岸の乗船場の状態について、十分当局の注意を喚起すべきものである』」
私たちはしばらく黙って座っていた。ホームズがこれほど気が沈んでがっかりしているのを見たことがなかった。
「僕の面目はまるつぶれだ、ワトスン」ホームズはとうとう言った。「もちろん、つまらない感情だが、面目をつぶされたね。今では僕にとっては個人的な事件になった。神もし僕に健康をさずけてくれれば、このギャングを捕えてやるんだが。わざわざ僕のところへ救いを求めてきたものを、死に追いやったようなものだ……」ホームズは椅子からとび上がって、静めようもなく興奮して部屋を歩きまわった。青い頬にあからみを浮かべ、長い、細い手を神経質に握ったり開いたりしていた。
「奴らは狡猾(こうかつ)な悪党にちがいない」彼はついに叫んだ。「どうして奴らはあの青年をあそこへおびきだしたのか。河岸(かし)通りはまっすぐに駅へと行く道ではない。あの橋はきっと人通りが多かったにちがいない。あんな晩でも、奴らの目的を達するためにはね。よし、ワトスン、結局は誰が勝つかはわかるよ。僕はこれから出かけるよ!」
「警察へかね?」
「いや。僕が自分の警察になるさ。僕が網を張ってやれば警察でもハエはとれようが、それまではとれっこない」
終日、僕は自分の医業にかかりきっていて、夕方おそくなってからベイカー街へ戻ってみた。シャーロック・ホームズはまだ帰ってはいなかった。
十時近くになって、青白くやつれた顔をして帰ってきた。彼は食器棚へと歩みよって、パンをひとちぎりすると、むさぼるようにがっついて、息もつかせず水でのどへと流しこんだ。
「腹をすかしてるね」僕は言った。
「飢え死にしそうだよ。すっかり忘れていた。朝食からなんにも食べていないんだ」
「なんにも?」
「一口も。そんなことを考える暇もなかった」
「で、どれほどうまくいった?」
「うまくいったよ」
「手がかりがつかめたね?」
「奴らはもう僕の掌中(しょうちゅう)のものだ。オウプンショー青年の仇を討ってやるのもそう遠くはない。ねえ、ワトスン、奴ら自身の悪魔のごとき商標を奴らにくっつけてやろうじゃないか。うまい思いつきだ」
「どういうことかね?」
ホームズは戸棚からオレンジを一つ取って、これをいくつかにひきちぎると、たねをテーブルにしぼり出した。それらの中からホームズは五つとって封筒に押しこんだ。折りかえしの内側に、彼は「ジョン・オウプンショー代理シャーロック・ホームズ」と書いた。それから封をして、「ジョージア州、サヴァナ、三檣(さんしょう)帆船『一つ星』号、船長ジェイムズ・キャルフーン殿」と名宛を書いた。
「この手紙は彼の入港を待つことになる」ホームズはくすくす笑った。「これで奴は夜も眠れなくなるよ。さきのオウプンショーのように、奴もこの手紙が自分の運命の前ぶれだと悟るだろう」
「その船長のキャルフーンというのは何者かい?」
「ギャングの首領だ。ほかの奴らも捕えてやるが、こいつが手始めだ」
「それで、どうして探りをつけたんだい?」
ホームズはポケットから大きな紙を一枚取り出した。一面に日づけや船の名前が書きこまれていた。
「一日がかりでロイド海上保険協会の船舶年鑑と古新聞の綴じ込みを繰(く)って、九三年の一月と二月にポンディチェリに寄港した船という船の、その後の航路を調べたんだ。その二か月間そこへ寄港したことを報告されている、かなりのトン数の船は三十六隻あった。それらの中で『一つ星』号というのがすぐに僕の注意をひいた。その船はロンドンから出航したと報告されていたが、その名前は合衆国の州の一つにつけられている名だからね」
「テキサスだろう」
「どこの州だか、はっきりは前から知らないがね。だがこの船はアメリカものにちがいないとわかった」
「それから?」
「ダンディの記録を探してみた。すると、三檣帆船『一つ星』が八五年の一月にそこに寄港していたとわかって、これまでの推測が確実性をもってきた。そこで僕は現在ロンドン港に碇泊している船を調べたよ」
「そうか、それで?」
「『一つ星』は先週ここに着いていたのだ。僕はアルバート・ドックへ行ったところが、この船は今朝の満潮でテムズ河を下り、サヴァナへ帰航についたことがわかった。グレイヴズエンドへ電報して、少し前にその船がそこを通過したことを知った。風は東風だから、きっと今頃はグッドウイン砂州を通って、ワイト島からいくらも離れていないところにいるにちがいないね」
「それでどうするつもりなんだ?」
「おお、奴は捕えたも同然だ。僕の知ったところでは、奴と二人の仲間だけが、あの船に乗り組んでいるアメリカ生まれだ。あとはフィンランド人とドイツ人だ。それに、昨夜船から上陸した三人は奴らだったとわかった。このことは荷揚人足から聞いたんだ。船荷を積みこんでいた連中だった。奴らの帆船がサヴァナへ着く頃には、郵船がこの手紙を持っていっている。それに海底電信で、サヴァナの警察に、この三人は殺人のかどで当方へ引き渡しを乞う要請が届いている手筈だよ」
しかし、人間が最上の計画をねったところで、つねにすき間はあるもので、ジョン・オウプンショー殺害犯人たちはオレンジのたねを受け取らなかった。これを受け取れば、彼らに劣らず巧智果断(こうちかだん)ないま一人の男が、彼らの跡をつけていることを知ったであろうに。
その年の秋分の疾風は非常に長くて烈(はげ)しかった。私たちは長い間サヴァナから『一つ星』号の消息のくるのを待っていたが、ついになんの知らせも届かなかった。ついには、大西洋のはるか沖合のどこかで、打ちくだかれた船尾帆柱が波間に漂っているのが見られたよしを聞いたものだ。その帆柱には一つ星の文字があったそうである。私たちが『一つ星』号の運命について聞くのも、これかぎりのことであろう。
聖ジョージ神学校の校長であった故イライアス・ウィトニーの弟、アイザ・ウィトニーは阿片に耽(ふけ)りこんでいた。この習慣に染まったのは、カレッジ在学中、どうかした愚かしい気まぐれからで、ド・クィンシーの書いたその夢と官能の数々を読んで、同じ幻覚の世界に遊びたいばかりにタバコを阿片チンキに浸したりしたからである。たび重なるにつれて、悪習には染まりやすいが脱しがたいことを知って、何年ものあいだ阿片がなくなってはかなわぬままに過ぎ、友だちや親類からは恐れられも、あわれまれもする男になった。黄色くむくんだ顔になり、まぶたは垂れ、ひとみは針の先ほど、しょっちゅう椅子にちぢこまって、貴族のなれの果てといった姿が、今でも思い浮かべられる。
ある夜……八九年の一月のこと……わが家のベルを鳴らすものがあった。そろそろあくびが出て、時計を見やるような時刻である。
私は椅子に身を起こし、妻は針仕事をひざに置いて、ちょっとがっかりした顔をした。
「患者さんよ!」妻は言った。「往診にいらっしゃらなくちや」
私はうなった。一日の疲れをやっととりもどしかけていたところだったからである。
ドアが開く音、せわしげな二こと三こと、それからリノリウムの上に早足の音が聞こえた。私たちの部屋のドアがぱっと開いて、黒っぽい服に黒のヴェールをつけた女性が入ってきた。
「こんなに遅くおうかがいしてすみません」彼女は口をきったかと思うと、突然とりみだしたように走り出て、妻の首に両腕を投げ、肩にすがって泣きじゃくった。「ああ! ほんとに困っていますの! お助け下さいまし」
「あら」妻は彼女のヴェールを引きあげた。「ケイト・ウィトニーさんじゃないの。びっくりしたわ、ケイト! あなたが入ってきたときは、本当に誰だか分からなかったわ」
「どうしていいかわからなかったもので、まっすぐこちらへ来たの」いつもこんな風だった。悲しいことであるが、燈台へ寄ってくる鳥のように、みんな妻のところへやってきたものだ。
「本当によくいらっしゃったわ。ワインに水を割ってあげるから、お上りになって、ここにかけて気を静めて、すっかりお話しなさいね。それともジェイムズは寝床へ引きとってもらいましょうか?」
「いえ、いえ。先生にもご助言とご助力を願いたいの。アイザのことですわ。夫はもう二日間も家へ帰ってこないんです。変わったことでもあったのではないかと気がかりでして!」
ケイトさんがその夫のこまったことを私たちに言うのはこれがはじめてではなかった。私には医者として、妻には旧友の学校友だちとして訴えたものだ。私たちはできるだけの言葉をつくして彼女をなだめすかした。彼女は夫の行きさきを知っているのか。私たちはその夫を連れ戻してやることができるだろうか。
どうやら、それはできそうだった。彼女が得た確かな情報では、最近、夫は、発作がおこると、シティの東のはずれにある阿片窟(あへんくつ)へ吸いに出かけていた。これまでは阿片吸いの楽しみもその日のうちに限られていて、夕方には、けいれんしながら身体をそこねて、帰ってきた。それが今度はまる二日間ぶっつづけで、きっとむさい寝床にごろ寝をしたまま、阿片を吸っているか、夢を見ながら眠っているにちがいなかった。彼の居どころは、ケイトの信じるところでは、アッパー・スウォンダム・レーンの『金の棒』という家だった。だがケイトに何ができよう。若い気弱なこの女性が、そんな場所へ足を踏み入れて、ごろつきのとりまきの中から、なんとして夫を連れ出せようか。
こんな話では、彼女の夫を救い出す方法はたった一つしかなかった。私が彼女についてそこへ行こうか。が、考え直してみると、どうして彼女が行かねばならないのか。私はアイザ・ウィトニーの主治医であり、彼は私の言うことならきき入れてくれるのだ。私が一人のほうがうまくやれよう。彼がもし彼女の教えてくれた場所に本当におれば、二時間以内には辻馬車で送り帰そうと、私はかたく約束した。
かくて十分すると、私はアーム・チェアと楽しい居間をあとに、二輪馬車に乗って、この奇妙な用事で東のほうへと走らせていたのである。そのときは奇妙な用事とばかり思っていたものが、どれほど奇妙なものであったかは、後になってやっとわかったのだ。
しかし私の冒険も、はじめのうちはなんのこともなかった。アッパー・スウォンダム・レーンはロンドン橋の東、川の北側に連なっている高い波止場のうしろにかくれて見えない、汚ない小路である。出来あいの服屋と安酒場のあいだの、急な階段を下りていくと、ほら穴の入口のような暗い空所に出て、そこが訪ねる阿片窟だった。馬車に待っているように言っておいて、階段をおりていった。酔っぱらった連中が始終踏みつけるので、中央がすりへって凹んでいる。ドアの上にちらちらしている石油ランプの光で掛けがねが見えたので、先へすすむと長くて低い部屋へ出た。褐色の阿片の煙が濃く重くたちこめていて、木の寝台が段々になっているのは移民船の船室みたいだった。
薄暗がりをすかして見ると、何人もの人たちが奇妙な、あられもない姿勢で横になっているのが見えた。肩をすぼめ、ひざを曲げ、頭をうしろへ垂れ、あごを上へつき出し、ここでもあちらでも、どんよりと艶(つや)のない目で、新来の私を見つめていた。暗い影から、いくつもの小さな赤い火の輪が、ついては消えてまたたき、燃えている阿片が、金属のパイプの火皿で燃え立ったり、薄れたりしているのだ。たいていは黙って横になっていたが、中にはひとりごとをつぶやいているのもあれば、奇妙な、低い、単調な声で話し合っているのもあり、その会話が調子づいてくるかと思えば突然尾をひくように消えて黙りこみ、それぞれが自分のめいめいの思いをつぶやいては、となりの人の話をきいていることなどはほとんどなかった。
ずっと向こうの端に、炭のおこっている小さい火鉢があって、その横で三脚の木の床几(しょうぎ)に、背の高い、やせた老人がかけていた。あごを両のこぶしにのせ、ひじをひざに置いて、じっと火を見つめていた。
入ると、黄色い顔のマレイ人のボーイが、いそいでパイプと一回分の薬を持って近づき、空いた寝床を指して教えてくれた。
「ありがとう。吸いに来たんじゃない」私は言った。「僕の友人でアイザ・ウィトニー君がいるんでね。ちょっと話したいことがあるんだ」
私の右手に、人の動く気配がして叫びがあがった。薄暗がりをすかして見ると、ウィトニーがいたのだ。青ざめ、やつれて、だらしないかっこうで、私を見つめていた。
「おや! ワトスンだね」薬のさめぎわの、あわれな状態で、神経がどれもこれもいらいらしているのだ。「ねえ、ワトスン、今何時だい?」
「もうすぐ十一時だよ」
「いつの?」
「金曜日のだ。六月十九日だよ」
「しまった! 水曜日だと思っていた。水曜日だよ。びっくりさせるじゃないか」彼は顔を両腕に埋めて、高い調子ですすり泣きはじめた。
「しっかりしてくれ、今日は金曜日なんだよ。奥さんが二日も待ちくたびれているんだ。少しは恥しいと思いたまえ」
「思っているよ。だが君もおかしいぜ、ワトスン。僕はここに二、三時間しかいやしない。やったのは三服か、四服だけなんだが……何服やったのか忘れてしまった。が、まあ君と帰るとしよう。ケイトに心配させたくないからね……かわいそうなケイトに。手をかしてくれ! 馬車はいるかい?」
「あるよ。待たせてある」
「じゃ、乗ろう。だが払いがいくらかある筈だ。いくらかきいてくれたまえ、ワトスン。すっかり力が抜けてしまって、一人じゃどうにもできやしない」
私は両側に列をなして睡(ねむ)っている人たちの間を、狭い通路ぞいに歩いて、麻薬のいやなまひさせるような煙を吸いこまないようにしながら、マネージャーを探しまわった。火鉢のそばに腰をかけていた背の高い男の横を通ると、突然裾(すそ)をひかれたように感じて、低い声がささやいた。
「通りすぎたら、わしをふりかえれ」
その声がはっきりと耳にきこえた。私は見下ろした。その声はかたわらの老人が言ったとしか思われない。それなのに老人は相かわらず心を奪われた様子で座っていた。やせこけて、しわだらけで、よる年波に腰もまがり、阿片パイプを膝の間からだらりとぶらさげて、まるでけだるさのあげくに指からずり落ちたみたいだった。私は二歩進んで、ふりかえった。思わず驚きの声を立てるところを、やっとの思いで抑えた。老人は私のほかに誰にも見えないように、みんなのほうへは背を向けていた。急にからだつきがふっくらして、しわはなくなり、どんよりした目がもとの燃え立つ光にかえり、その火のそばに座って、驚く私ににやりとしているのは、まさしくシャーロック・ホームズその人だった。ホームズはかすかな身ぶりで、私にそばに寄るように合図した。それからすぐに、みんなのほうへ顔を半分ばかりふりむけると、よぼよぼの、口元もだらしない老人にかえっていた。
「ホームズ」私は小声で言った。「いったいこの阿片窟でなにをしているんだい?」
「できるだけ低い声で」ホームズは答えた。
「僕は耳のいいほうだ。君の友だちの、あの酔っぱらいをなんとか片づけたら、ちょっと君に話があるんだがね」
「外に馬車を待たせてある」
「じゃあの男をそれに乗せて送りかえしてくれたまえ。一人で帰して大丈夫だよ。ひどく弱っているようだから、途中で間違いなどありゃしないよ。君にも頼むが、手紙を書いて御者に奥さんへ届けてもらってくれたまえ。ホームズと一緒になったから行動を共にするって。外で待っててくれ。五分したら行くよ」
シャーロック・ホームズの言いつけにはどれにも逆らうことがむずかしかった。いつでもひどくきっぱりした言い方で、命令でもするような調子でおしつけてくるからである。でも、ウィトニーがともかく馬車にのりこんだとなると、私の使命も実際は果たされていると感じた。するとあとはもう、ホームズと一緒になって、彼には至極(しごく)あたりまえな生活態度になっている、あの奇妙な冒険の一つに足を踏みこめばいいわけで、これほどうまい話は願ってもないことである。
二、三分ほどで手紙を書いてしまうと、ウィトニーの勘定を払い、連れ出して馬車にのりこませ、暗闇の中を駈け去っていくのを見送った。
ほどなく老いぼれ姿が阿片窟からあらわれて、私はそのシャーロック・ホームズと通りを歩いていた。通りを二つほど横切るあいだは、ホームズは腰をまげて足もともあぶなげに、よぼよぼと歩いていた。それから、あたりをす早く見まわして、背をのばすと、腹の底から大笑いに笑いこけた。
「どうかね、ワトスン。僕が阿片まで吸い出したと思っているだろうね。コカイン注射だとか、ほかにあれこれと悪いくせがあって、君は医者の立場からそいつを忠告してくれているのにさ」
「あんなところにいようとは、全く驚いたよ」
「驚いたのは僕のほうだ、君に会うなんて」
「友人を探しに行ってね」
「僕は敵を探しに行っていた!」
「敵だって?」
「そう、僕の敵たるべき敵のひとり、いや、僕のえじきたるべきえじき、と言ってもいいな。つまり、ワトスン、僕は目下、非常に注目すべき調査の最中で、あのよっぱらい連中の、とりとめもないうわごとから手掛りでも見つかればと思っていたのだ。前にもよくやった手でね。あの阿片窟でこちらを悟られようものなら、僕の命は朝露同然だったろう。仕事のために、前にあそこを利用したことがあるんだ。あれをやっているのはならず者のインド人の水夫なんだが、僕にきっと復讐すると言っているのでね。あの建物の裏手に落とし戸があるんだ、ポール波止場の近くだよ。月のない夜に、この落とし戸をくぐって何が通っていったか、それが物を言うなら、いろいろと奇妙な話を聞かせてもらえるところだが」
「なんだって? 死体のことを言っているんじゃあるまいね」
「そうとも、死体だよ、ワトスン。あの阿片窟で人ひとり殺すごとに千ポンドにありつけるとしたら、ずいぶん金持になれるというものだ。あそこは、この川ぞいにかけて、どこよりも凶悪きわまる殺人窟なんだ。ネヴィル・セント・クレアもあそこに入って、もう二度と出てこないんじゃないかな。ところでこちらの馬車はこの辺にいる筈なんだが!」
ホームズは二本の人差し指を歯にくわえて、鋭く口笛を吹いた。これが合図で、遠くから同じ口笛の返事があると、まもなく車輪のひびきと、馬のひづめの音が聞こえてきた。
「さあ、ワトスン」ホームズが言った。背の高い軽装二輪馬車が暗闇の中からかけよって、両側のランタンから、金色のトンネルのような二条の黄色い光を投げかけたときだった。「一緒にきてくれるだろうね」
「役に立つならね」
「ああ、信頼できる友はいつも役に立つものだよ。それに記録係とあればなおさらのことだ。『杉荘』の僕の部屋はダブル・ベッドのある部屋なんだ」
「『杉荘』って?」
「そうだよ。セント・クレアさんの屋敷でね。今の調査をやっている間はそこに泊っているんだ」
「で、どこだい?」
「リーの近く、ケント州のね。ここから馬車で七マイルさきだよ」
「だが、いっこうに聞いたこともない話だね」
「もちろん知らないだろう。すぐにすっかり話してきかせるよ。ここへ乗りたまえ。もういいよ、ジョン。勝手にやるから。半クラウンばかりだがとっといてくれ。明日は十一時頃に待っていてほしい。手綱をはなして。じゃあ、また」
ホームズは馬にひとむちくれると、わたしたちは果てしなくつづく、薄暗い、人けのない通りをいくつも突っ走った。通りはしだいに広くなり、やがては広い欄干(らんかん)のある橋を飛ぶようにわたっていた。下には黒い河がのろのろと流れていた。先はまた煉瓦とモルタル造りの殺風景な家並みつづきで、その静けさを破るものとては、巡査の重い規則正しい足音か、夜おそくまで飲み騒ぐ連中の、歌声や叫び声だけだった。どんよりした雲がゆるやかに空を流れていき、星が一つ、二つ、ここかしこ、雲の切れ目でかすかにきらめいた。
ホームズは黙ったままで馬を走らせていた。首を胸に埋めて、思いにふけりこんでいる様子だった。私は横に腰をかけながら、ホームズが智能の限りをつくしているらしい、この新しい捜査がどんなものか知りたかったが、でも彼の考えの途中をさまたげても、と思った。数マイル馬車をかけらせると、郊外の別荘地区にさしかかりはじめていた。そのときになって、ホームズは身をふるわせ、肩をすくめ最善をつくしていることに満足しきっている様子で、パイプに火をつけた。
「君の沈黙の才能はすばらしいよ、ワトスン。それだけで全くかけがえのない友だちだ。たしかに、話し相手があるというのは、僕には何よりなことだよ。僕の考えていることは楽しいどころではないんでね。あのご婦人に今夜玄関でむかえられたら、どう言ったものかと思案しているんだよ」
「君は忘れているようだが、僕はそれについては何にも知ってはいないんだよ」
「リー市へ着くまでには、この事件のあらましを話すだけの時間はあるようだ。馬鹿々々しいほど単純に思えるものの、それがまだ、どういうわけか、どうにも手のつけようがないのだよ。むろん、筋道はいくつもある。でもその手がかりがつかめないんでね。では、はっきりと、かいつまんで事件を話そう、ワトスン君。そうすれば、僕には全く盲目然の闇でも、君にはぱっと閃(ひらめ)くものが見えるかもしれないからね」
「話をすすめてくれたまえ、じゃ」
「なん年か前……正確にいうと、一八八四年の五月のことだった。……リー市へ一人の紳士がやってきた。ネヴィル・セント・クレアという名で、大へんな金持らしかった。大きな別荘を買い、地所をうまくひろげて、まずまあ上品に暮らしていた。しだいに近所に友だちもでき、一八八七年には、土地のつくり酒屋の娘と結婚して、今では二人の間に子供が二人ある。これという職業にはついていなかったが、いくつかの会社に関係していて、きまったように毎朝ロンドンへ出かけ、夕方キャノン・ストリート駅から五時十四分の列車で帰ってくる。
セント・クレア氏は今年で三十七歳、おだやかな人柄で、良き夫であり、慈愛深い父であり、知人の誰にも気受けがいい。目下のところ、負債がすべてで確かめ得たところでは、八十八ポンド十シリングあるが、キャピタル・アンド・カウンティズ銀行に二百二十ポンドの預金がある。そんなわけで、金の問題で苦労をしていたとは、いっこうに思い当たるふしはないのだ。
前の月曜日にネヴィル・セント・クレア氏はいつもよりいくらか早目にロンドンへ出かけた。出がけに、大事な用件を二つ片づけなくてはならないこと、それから子供に積み木の玩具を一箱持って帰ろうと言っていた。ところが、たまたまその同じ月曜日に、細君が一通の電報を受けとった。彼が出かけたのと一足ちがいで、細君が心待ちしていた、かなり値打ちの小さな小包がアバディーン汽船会社の事務所に届いているから受けとられたい、という知らせだった。
ところで、ロンドンに精しいならわかるだろうが、その会社の事務所はフレズノウ・ストリートにあるね。今夜、君が僕を見つけたあのアッパー・スウォンダム・レインから分かれている通りだ。セント・クレア夫人はお昼をすましてシティへ出かけ、買物などをして、会社の事務所へ出むくと、小包を受けとった。それからちょうど四時三十五分にスウォンダム・レインを歩いていて、駅への戻り道だった。ここまではいいね?」
「よくわかった」
「覚えているかい、月曜日はとても暑い日だった。セント・クレア夫人はゆっくり歩きながら、辻馬車が見当たらないものかとあたりを見まわした。歩いているそのあたりが気に入らなかったのでね。スウォンダム・レインをこちらへ歩いてくると、突然大きな叫び声がきこえた。夫が見下ろしていて、三階の窓からこちらへ手招きしているように見えたものだから、驚いてぞっとした。窓は開いていて、はっきり夫の顔が見えたのだ。夫人の言うには、ひどく興奮した顔つきだったそうだ。両手を夫人のほうへ狂わしいばかりに振って、それからふと窓から姿を消したので、夫はうしろから、何かどうしようもない力で、ぐいと引きもどされたように夫人には思えた。
女だけあってすばやく目にとめた、一つの奇妙な点は、何か黒い上衣を着ていたことは、彼がロンドンへ出かけたときと同じものだったのに、カラーもネクタイもつけていなかったことだ。
夫の身に、なにか悪いことが起こっているにちがいないと思ったので、夫人は階段をかけのぼった。……その家こそ、君が今夜僕を見つけた阿片窟にほかならなかったのだからね。それから正面の部屋をかけぬけ、二階への階段をあがろうとした。ところが階段の下で、あのインド人水夫のならず者にぶつかった。さっき話した男だよ。そいつが夫人をつきもどし、デンマーク人が手をかして、そこで手伝いをしているやつだが、夫人を通りへつき出してしまったのだ。気も狂うほどに疑念と恐怖にいっぱいになり、夫人は小路をかけ去ったんだが、まことに運のいいことに、フレズノウ・ストリートで出逢ったのが、数人の巡査と連れの一人の警部だった。連中は受け持ち区域を巡回中というわけだった。警部と二人の巡査がついて引きかえし、あるじがしつこく抗(あらが)うのをしりめに、セント・クレア氏が最後に姿を見せたという部屋へ入っていった。ところがクレア氏の影も形もなかった。
事実、その三階にはどこにも人の姿が見当たらず、ただ一人、醜いかっこうのいざりがいただけで、こいつはそこをねぐらと決めこんでいたらしい。このいざりもインド人水夫も、その午後はずっと表に面したこの部屋には他に誰も入ったものはない、と頑強に言いはった。やつらがあまりはっきり否定したので、警部の心もぐらついて、どうやらセント・クレア夫人が勘ちがいをしていたのだと思いかねなくなった。
そのときだった。一声さけぶと、夫人はテーブルにあった松材の小箱にとびついて、そのふたをひきはがした。そこから子供の積み木がざらざらとこぼれ出たね。土産に買って帰ると約束した玩具だったのだ。
これが見つかったし、いざりがそれとわかるほどのあわてかたを見せたので、警部はこいつは重大な事だとさとった。部屋をあれこれ注意して調べてみた。すると、どこにも忌(いま)わしい犯罪を示す痕跡(こんせき)があった。
この表の部屋は簡単に居間にしつらえてあり、小さな寝室に通じていて、寝室からは波止場の一つの裏手を見わたせる。波止場と寝室の窓とのあいだは細長い土地になっていて、引き潮のときにはかわいているが、満ち潮のときには少くとも四フィート半ほどの水でおおわれる。寝室の窓は大きくて、下のほうから押しあける式だ。調べてみると血のあとが窓台についていて、点々としたいくつかの滴りが寝室の木ばりの床にも目についた。表の部屋のカーテンのうしろに押しこんであったのはネヴィル・セント・クレア氏の衣服で、上衣だけがなかった。長靴も、靴下も、帽子も、時計も……みんなそこにあった。これらの衣服には暴力を受けたあとは一つもなく、ネヴィル・セント・クレア氏の形跡といえば他にはなにもなかった。窓から出てったにちがいないらしい。ほかに出口などは見当たらなかったんだからね。それに窓台についていた不吉な血のあとを思い合わすと、まさか泳いで助かったろうとは考えられない。その悲劇の起こったときは、潮がいちばん満ちていたんだものね。
ところで、この事件に直接かかわりがあったと思える悪者どものことだがね。インド人水夫というのは、名うての悪いことの限りをやった男だ。だがセント・クレア夫人の話によると、夫が窓に姿を見せてから二、三秒としないうちに、階段の下にいたことがわかっているから、せいぜいのところ、この犯罪のわき役ぐらいしかつとめることはできないのだ。知らぬ存ぜぬと言いのがれをするばかりで、住みついている、いざりのヒュー・ブーンのしていることなど知っているわけもなし、姿を消した紳士の衣類がここにあったとて、それが説明できるものじゃない、と言い張った。マネジャーのインド人水夫のことは、こんなところだ。
今度は阿片窟の三階に住んでいる、気味の悪いいざりだが、こいつが確かにネヴィル・セント・クレアを最後に目にした人物なんだ。名前はヒュー・ブーン、その見るも恐ろしい顔つきは、シティへ行きつけの人なら誰でも見なれている顔だ。乞食が本職でね。もっとも警察の取り締りにひっかからないように、蝋マッチの小あきないというふりをしてはいるがね。スレッドニードル・ストリートを少し行った、左側の壁に、君も気がついたろうが、小さな隅がある。そこがあいつの毎日座っているところで、あぐらをかいて、膝の上にちょっとばかりマッチをのっけ、いかにも哀れっぽい様子だから、めぐみの金が小雨ぐらいに、前の舖道に置いた、脂じみた革の帽子へ落ちてくる。
僕はこいつを一度ならず見たことがある。仕事の上で知り合いになろうとは思いもかけなかった昔だがね。またたく間に実入りがあるのにはびっくりしたものだ。あの見かけが目をひくものだから、通りすぎる人は誰でもつい目をやってしまうね。ぞっとするようなオレンジ色の髪の毛、恐ろしい傷にゆがんでいる青白い顔、それがひきつって、上唇の外のはしをめくりあげ、ブルドッグのようなあご、射貫(いぬ)くような黒い両眼、それらが髪の毛の色と奇妙な対照を見せて、そんじょそこらにうようよしている乞食とはまるで違ってみえる。それに頓智(とんち)も利くところがね。通行人がなにかからかったりすると、うまく言葉をやりかえすのだ。これがあの阿片窟に住みついていて、僕たちが探している紳士を最後に見たという人物なのだ」
「でも、いざりだっていうのに血気盛りの男に、どうして一人で立ち向かっていけるものか」
「いざりといっても、びっこながら歩ける程度だよ。でも他の点では、力もありそうな、栄養たっぷりな男のようだ。君も医者の経験できっとわかっているように、ワトスン、手足の一つが悪いと、ほかのところが特別強くなって、うまく埋め合わせをしていることがよくあるね」
「話のつづきをたのむよ」
「セント・クレア夫人は窓の血を見ると気を失ってね。馬車にのせて巡査が家までつきそって行った。夫人が居たからといって別に調査に役立つわけでもなかったからね。この事件を担当したバートン警部は、この建物を非常にたんねんに調べたが、この件に光を投じるようなものは何ひとつ見つからなかった。ひとつ失敗したのは、すぐにもブーンを逮捕しなかったことだ。二、三分ほっておいたので、その間に仲間のインド人水夫と話し合いをしたかもしれないからだ。
しかしこの失敗もすぐに気づかれて、いざりはつかまえられ、身体も調べられたが、こいつが罪をおかしたと言えそうなものは一つも発見されなかった。右のシャツの袖にいくつかの血の汚れがあったのは本当だが、やつはくすり指を見せた。爪の近くに切り傷があって、そこから血が出たのだと説明した上、ついさっき窓のそばにいたので、そこにあった血の跡もやはり指の傷からついたのだとつけ加えた。ネヴィル・セント・クレア氏を見たことはがんとして否定し、この部屋に衣類があるのは、警察同様、自分にも一向にわけがわからない、と言い張った。
セント・クレア夫人が、実際、夫が窓のところにいるのを見た、という主張については、夫人のほうが気が狂っていたか、夢でも見ていたのだ、と言いきった。
いざりは、大声でさからったが、警察署へ引っぱられた。警部のほうは建物に居残って、引き潮になればなにか新しい手がかりでも出てきはしないかと心待ちにしていた。
手がかりは出てきた。ひょっとしたら見つかるんじゃないかと心配していたものは、泥の洲に見つからなかったけれどね。潮がひくにつれてあらわれてきたのは、ネヴィル・セント・クレアの上衣で、ネヴィル・セント・クレア自身じゃなかった。それからそのポケットになにが見つかったと思うかい?」
「わからないね」
「そう、見当もつかないだろうね。そのポケットには一ペンス、半ペンスという銅貨がつまっていた。一ペニイ銅貨が四百二十一枚、半ペンス銅貨が二百七十枚あった。潮で押し流されなかったのは不思議じゃない。だが人間の身体となると話はちがう。あの波止場とこの家との間には渦のはげしいのがある。重みをつけた上衣は残っても、裸にされた死体が河にのまれて流された、ということは充分ありそうなことなんだ」
「だが他の衣類はみんな部屋にあったんじゃないのかい。死体が上衣だけ着ていたんだろうか」
「いや、君。だがこう考え合わせてみるともっともらしく思えるよ。もしこのブーンという男がネヴィル・セント・クレアを窓からつき落としたとしても、これを見ていた人はいやしない。それからどうするだろうか。もちろんすぐに思いつくことは、犯行のばれる衣類をかたづけなくてはならぬ、ということだ。
そこで上衣をつかんで、それを窓から投げ捨てようというまぎわに、こいつは水に浮いて沈まないと気がつくだろう。時間はない。夫人がむりにも上へあがってこようとして、階下でもみ合っている音が聞こえていたからね。それに、おそらく、もう、巡査が通りをこちらへ急いでくるのを、仲間のインド人水夫から聞いていたかもしれない。ひとときたりともぐずぐずしてはいられない。どこか秘密の金のかくし場所へいそいだ。もらった金を貯めこんであるところだ。そこで両手に握れるだけの金をあちこちのポケットにつめこんで、まちがいなく上衣が沈むようにする。そいつを窓から投げすてる。他の衣類にも同じようにするつもりだったが、あいにく下からかけ上ってくる足音が聞こえた。窓を閉める暇がやっとで、そこへ巡査たちがやってきた」
「なるほどお説、ごもっともだ」
「うん。こうよりほかに考えようもないから、まあ一応こうだとしておこう。ブーンは、さきに言ったように、捕えられて署にひっぱられたが、前のことでもブーンに不利になることは挙げられなかった。なん年も本職の乞食だったとは知られていたが、その生活はとてもおとなしくて、別に悪いことはしていないようだった。事件は今のところはこんな次第で、解決されなければならぬ問題は、ネヴィル・セント・クレアは阿片窟でなにをしていたか、そのときそこで彼の身になにが起こったのか、今どこにいるのか、それにヒュー・ブーンはクレアが姿を消したこととどんな関係があったのか、これらが今もって一向に解決されていないのだ。白状すると、僕の経験した中では、ちょっと見たところは簡単に見えて、その実こんなに厄介な事件は、とてもほかに思い出せないよ」
シャーロック・ホームズがこの奇妙な一連の出来事をこまかに話していた間に、私たちはロンドンの郊外を走りすぎていて、ようやくまばらになった家々のあたりもうしろにして、両側にある田舎の生垣ぞいの道をがらがらと走っていた。でもちょうどホームズが話し終えたときには、私たちは人家もまばらな二つの村をかけ抜けた。村ではまだ二、三の明かりが窓辺にきらめいていた。
「リー市の郊外に来たね」ホームズは言った。「ちょっと馬車を走らせて、イギリスの州を三つ通りすぎたわけだ。ミドルセックスから出発して、サリーの一角を通りすぎ、ケントに終わる。木立の中の、あの明かりが見えるかい? あれが『杉荘』だよ。あのランプのそばに女の人が座っていて、きっともう、心配していただけに、僕たちの馬のひづめの音を聞きつけているだろう」
「だがどうして君は、ベイカー街でこの事件を手がけないのかい?」私はきいた。
「ここまで出向いてやらなくちゃならない調査がたくさんあるからなんだよ。セント・クレア夫人は親切にも二部屋、僕の自由に使わせてくれている。僕の友人で同僚である君には、夫人はよろこんで迎えてくれるばかりだから、君も安心してゆっくりできるよ。あの人には逢いづらいよ、ワトスン。夫のことでなんの知らせも持っていないとなるとね。さあ着いた。さあ、どう、どう!」
私たちは、構内の庭にかこまれて建っている大きな別荘風の家の前に馬車をとめた。馬丁の少年が馬の前にかけ出してきた。とびおりると、私はホームズについて、小さな、曲がっている砂利じきの車みちを家のほうへ歩いた。
私たちが近づくと、ドアがさっと開いて、小柄なブロンドの女の人が入口に立っていて、軽い絹モスリンのような着物をきて、襟と袖口にはふわふわしたピンクの縞モスリンの飾りがほんのりついていた。立っている彼女の姿が流れてくる明かりに照らしだされてくっきりと浮かび、片手をドアに、片手は心もちあげてひたすらに、身体を少しまげて、頭と顔をのり出し、目をかがやかせ、口をあけて、様子を知りたげだった。
「いかがでございましたの」彼女は叫んだ。それから私たちが二人でいるのを見ると、もしやと思って声をあげたが、ホームズが首をふり、肩をすくめるのを見ると、喜びの叫びも沈んで呻(うめ)きにかわった。
「いい知らせもございませんか?」
「まるで」
「悪い知らせは?」
「ありません」
「それだけでもなによりですわ。ま、お入りになって。お疲れでございましょう。一日中お仕事にかかっていらっしゃって」
「こちらは友人のワトスン博士です。私の扱った事件のいくつかでは、まことに役に立ってくれましたし、またうまい具合に出あったもので、こうやって連れだして、この調査を手伝ってもらえることになりました」
「よくお出かけ下さいました」彼女は言って、心あたたかく握手をした。「きっとこちらの行きとどかないところはお許し下さいますわね。急にこんなひどい目にあってしまいまして」
「奥さん、私は軍医あがりですからおかまいなく。そうでなくったって、そんなにおっしゃられてはいたみいります。奥さんになり、この友人のホームズになり、何かのお役にたてば、本当にうれしいことですよ」
「で、シャーロック・ホームズさま」私たちがあかあかと明かりのついた食堂に入ると夫人は言った。食卓には冷たい夜食がととのえられていた。「一つ二つ、そっちょくにおたずねをさせて頂きたいのですが、どうかありのままにお答え下さいまし」
「承知しました、奥さん」
「私の気持などにはおかまいなく。ヒステリーではございませんし、気を失いもいたしません。あなたの本当の、いつわりないご意見をおききしたいばかりでございます」
「どんなことで」
「しんそこ、ネヴィルは生きているとお思いでしょうか」
シャーロック・ホームズはこの質問にまごついたようだった。
「もう、おかくしにならずに!」夫人はくりかえして、じゅうたんの上に立ち、ホームズが籐椅子(とういす)によりかかると、じっとホームズを見下ろした。
「では、かくし立てしないで申し上げますと、生きておられるとは思いません」
「死んだとお考えですね」
「ええ」
「殺されたのですか」
「それはなんとも。あるいはね」
「とすると、いつ殺されたのでございましょうか」
「月曜日ですね」
「ではホームズさま、わたくし、今日、夫からこの手紙を受けとりましたが、そのわけをご説明下さいますわね」
シャーロック・ホームズは、まるで電気にかけられたように、椅子からとびあがった。
「なんですって!」彼は大声で叫んだ。
「ええ、今日参りましたの」彼女はほほえみながら立っていて、小さな紙きれを高く差しあげていた。
「見せて頂いてもいいでしょうか」
「さ、どうぞ」
ホームズはそれを早く読みたいばかりに夫人からひったくり、テーブルの上でしわをのばして、ランプをひきよせると、その内容を調べた。私も椅子を立っていて、彼の肩ごしにそれをのぞきこんでいた。封筒はひどくそまつなもので、グレイヴゼンド局の消印があり、日づけはその日のもの、いやむしろ前日の、といっていい。もう真夜中をかなりすぎていたからである。
「ひどい字ですね!」ホームズは小声で言った。「きっとこれはご主人のお書きになったものではありますまい、奥さん」
「ええ。でも中味の筆跡は主人のでございますわ」
「封筒の宛名を書いたのは誰だかわからないにしても、その者が宛先の住所を誰かにききに行ったことは確かですね」
「どうしてそんなことがおわかりですの?」
「ほら、この名前はすっかり黒インキで書かれていますが、これは自然にかわいたものです。住所のほうは灰色がかっていますが、これは吸取紙をつかったことを示していますね。つづけて全部を書いてしまってから吸取紙を当てたなら、黒い字が濃く残っていることはないでしょう。これを書いた者は名前を書いてからちょっと筆をおいて、それから住所を書いたのです。住所を知らなかった、としか思えません。もちろん些細(ささい)なことですが、些細なことほど大事なものもありませんでしてね。さ、手紙を見てみましょう。はて! 手紙になにか入っていましたね!」
「ええ、指輪が入っておりました。夫の認印つきの指輪ですわ」
「確かにこれはご主人の筆跡にちがいありませんか」
「夫の筆跡の一つです」
「一つ、とおっしゃると?」
「いそいで書いたときの手でございますわ。いつもの書きぶりとはひどく違っておりますけれど、わたくしにはよくわかります」
「『びっくりしないで。万事うまくいく。大きなまちがいになったが、少したてば元通りになる。しんぼうして待っていておくれ。……ネヴィル』鉛筆書きで、なにかの本の、余白の白い頁に書いたもの。大きさは八つ折判。透(すか)しは入っていない。今日グレイヴゼンドで、栂指の汚れた男が出したものだ。はて! 折り返しをはりつけたのは、僕の考えちがいでなければ、かみタバコをかんでいた男だ、それに、ご主人の筆跡であることは確かなんですね、奥さん?」
「まちがいございません。ネヴィルが書いた文面でございます」
「それが今日グレイヴゼンドで出された。そうか。奥さん、見通しも明るくなってきました。危険が過ぎたとは、申しあげるわけにはいきませんけれどね」
「でも夫は生きているにちがいありませんわ、ホームズさん」
「これが私たちの目をくらまそうとして、うまくこしらえた偽手紙でなければ、ですがね。指輪だって、なんのあてにもなりません。ご主人の指から抜きとったものかもしれませんしね」
「でも、これは夫が自分の手で書いたものですわ、まちがいなく」
「よろしい。だが月曜日に書かれたものであって、出したのがほんの今日だということもありますからね」
「そんなこともありますわね」
「そうだとすると、その間に由々しいことが起こったかもしれません」
「ああ、がっかりさせないで下さいまし、ホームズさま。きっと夫は無事でいてくれますわ。わたくしたちはよく心が通(かよ)っておりますもの。夫の身にまちがいでもあれば、わたくしにはわかるのです。夫が出かけましたあの日にも、主人は寝室でけがをいたしましたの。わたくしは食堂にいたのですけれど、すぐに二階へとんであがりましたわ。なにかあったな、と確かな虫の知らせがございました。こんなつまらないことにもぴんとくるわたくしが、夫が死んでもわからないなんてことはございませんわ」
「そうした例はずいぶんと見ておりますので、女のかたの勘のほうが、分析的な推理家の結論よりもましなことがあるのは、知らないわけではありません。それにこの手紙をごらんになって、ご自分のお考えを裏づけできると、まことに強い確信をお持ちになっておられます。ですが、ご主人が生きておられて、手紙も書けるというのならば、なぜ奥さんから離れたままでいるのでしょうか」
「わかりませんわ。考えもつきません」
「それで月曜日に、出かける前にはなにも言わなかったのですね」
「ええ」
「スウォンダム・レインでご主人を見かけられて、びっくりされましたね」
「とても驚きましたわ」
「窓は開いていましたか」
「ええ」
「それではあなたに声をかけようと思えば、かけたかもしれませんね」
「かけてくれたかもしれません」
「ご主人はただ、よくききとれない叫び声をあげただけだと、おっしゃったようですが」
「ええ」
「救いを求める声、だとお思いでしたか」
「はい。夫は両手をふりました」
「しかし、驚いてあげた叫び声だったかもしれませんね。思いがけなく奥さんの姿を見たのにびっくりして、両手をあげるということもありますよ」
「そうかもしれません」
「ご主人はうしろへ引き戻されたとお思いでしたね」
「突然姿が見えなくなったのです」
「自分でとびさがったのかもしれません。あなたはその部屋にほかに誰も見かけませんでしたね」
「ええ。ですが、あの恐ろしい男がそこにいたと言っておりますし、階段の下にはインド人水夫がおりました」
「その通りでした。ご主人は、奥さんがごらんになったところでは、いつもの服を着ておられましたか」
「でもカラーとネクタイはつけていませんでした。のどがむき出しになっているのが、はっきり見えたのです」
「ご主人はスウォンダム・レインのことを、これまでにおっしゃったことがありましたか」
「いいえ、一度も」
「阿片をたしなんでおられるようなそぶりは見えなかったでしょうか」
「いいえ、そんなこと」
「ありがとうございました、奥さん。こんなおたずねは、是非はっきりさせておきたかった主要な点でございましたもので。では夜食を少しいただいて、休ませて頂きましょう。明日は大へんいそがしくなりそうですから」
ダブル・ベッドをすえた、大きくて気持のいい部屋が私たちにあてがわれてあった。私は早速にシーツの間に入った。この夜の冒険に疲れていたからである。ところがシャーロック・ホームズときては、未解決の問題が気にかかっているときは、なん日間も、ときには一週間でも、休みもせずに、考えつめ、事実をならべ直し、あらゆる観点からながめてみて、問題を見通してしまうか、材料が足りないことがはっきりするまでは、やりつづけていく男である。ホームズが徹夜をする支度をしているのが、すぐにわかった。彼は上衣とチョッキを脱いで、大きな青いガウンをはおり、それから部屋を歩きまわって、枕をベッドから、クッションをソファやアーム・チェアからかき集めた。それやこれやで東洋風の長椅子をこしらえあげると、その上にあぐらをかいて座りこみ、一オンスの刻みタバコと一箱のマッチを前にそなえつけた。ランプのおぼろな明かりの中で、ホームズの座っているのが見えた。古いブライヤパイプを唇にはさみ、天井の一隅にぼんやりと目をそそぎ、青い煙を身体からまきあがらせ、黙して動かず、明かりが彼のきりりとした、わしのような顔かたちに照り映えていた。私が眠りにおちたときにはホームズはそうして座っていて、突然の叫び声にふと目がさめたときにも、ホームズはそうして座ったままだった。
夏の日ざしがこの部屋にさしこんでいた。ホームズはパイプをまだくわえたままで、煙はまだ渦をまいて立ちのぼり、部屋にはタバコの煙がもうもうと立ちこめていたが、昨夜見かけた刻みタバコの山はあとかたもなくなっていた。
「お目ざめかい、ワトスン?」彼はきいた。
「ああ」
「朝のドライヴとしゃれるか」
「いいね」
「じゃ着がえをしたまえ。まだ誰も起き出してはいないが、馬丁の少年が寝ているところはわかっている。すぐに馬車は出せるよ」
ホームズは言いながらひとりふくみ笑いをして、目が輝いていた。前夜、いん気に考えこんでいた男とは、似ても似つかないように見えた。
私は服を着ながら時計を見てみた。誰も起き出ていないのはあたりまえのことで、四時二十五分だった。服を着てしまうかしまわないうちにホームズが戻ってきて、馬丁の少年が馬をつけていると知らせてくれた。
「ちょっとした僕の理論をためしてみたいんだよ」ホームズは長靴をはきながら言った。「ねえ、ワトスン、今君の前に立っているのは、どうやらヨーロッパでいちばんの大馬鹿者らしいよ。ここからチャリング・クロスまで、けとばされても文句は言えやしない。だがやっと事件の鍵はつかんだらしいよ」
「それでその鍵はどこにあるんだい?」私は笑いながらきいた。
「浴室にあった」彼は答えた。「いや、冗談を言っているんじゃない」私のけげんそうな顔つきを見て、ホームズは言いつづけた。「いまそこへ行ってきたところでね。そいつを持ち出してきたよ。この旅行かばんの中に入れてあるんだ。さあ、君、こいつが錠(じょう)に合うかどうか見るとしよう」
私たちはできるだけ早く階段を降りて、輝かしい朝の日ざしの中へ出て行った。道には馬も馬車もそろっていて、服を着がけの馬丁の少年が、前のところで待っていた。私たち二人はとびのり、ロンドン街道をかけ去った。田舎の荷馬車が二、三台走っていて、野菜をロンドンへ運んでいるところだったが、両側に並ぶ家々は、夢の中の町さながらに、静まりかえっているばかりだった。
「いくつかの点では不思議な事件だったよ」馬に鞭(むち)をあてて速度を早めながら、ホームズは言った。「実を言うと、僕はもぐら同様、目が見えなかった。だがあとでそれと気づくのも、全然気がつかないよりはましというものだ」
ロンドンでは、僕たちがサリー州側の通りをかけぬけて行く頃には、早起きの人たちがねむそうな顔を窓に見せはじめていた。ウォータルー橋通りを通って、テムズ河をわたり、ウェリントン・ストリートをかけて、さっと右へまわると、ボウ・ストーリートに出た。シャーロック・ホームズは警察によく知られていて、玄関にいた二人の巡査が敬礼をした。その一人が馬の口をとっている間に、もう一人が私たちを中へ案内してくれた。
「当直の方は?」ホームズがきいた。
「ブラッドストリート警部殿です」
「やあ、ブラッドストリート君、お早よう」
背の高い頑丈な警官が、とんがり帽をかぶって肋骨(ろっこつ)飾りのついた上衣をきて、石を敷いた廊下をこちらへやってきていた。
「ちょっとお話したいことがあってね、ブラッドストリート君」
「どうぞ、ホームズさん。こちらの僕の部屋へお入り下さい」
小さな事務所めいた部屋で、テーブルには大きな台帳がのっかり、電話が壁から突き出していた。警部は机に向かって腰をおろした。
「どういうご用ですか、ホームズさん」
「ブーンというあの乞食のことでうかがいました。……リー市のネヴィル・セント・クレア氏の失踪に関係があるとにらまれている男です」
「ああ、あの男はまだ調べることがあって、釈放しないで再留置してありますよ」
「そう聞いていました。ここにおりますか」
「留置場に入っています」
「おとなしくしていますか」
「ええ、手がかかりません。ですが、汚ないやつでして」
「汚い?」
「ええ、手を洗わせるのがやっとのことで、顔といえば、いかけ屋みたいにまっ黒です。やつの事件が決着したら、毎日留置人風呂に入れるとしましょう。ま、お逢いになれば、あなたも、こりゃ風呂へ入れねばならん、とお思いになりますよ」
「ぜひ会ってみたいものですね」
「そうですか。わけはありません。こちらへどうぞ。かばんは置いておかれてもよろしいです」
「いや、持っていくことにしましょう」
「いいですとも。どうぞこちらへ」警部は廊下を案内して、かんぬきをかけたドアを開け、廻り階段をおりると、両側にドアが並んでいる白塗りの廊下へ出た。
「右手の三番目がやつのところです」警部は言った。「ここです!」警部はそっと、ドアの上のほうにとりつけてある羽目板ののぞき窓をひきあけてのぞいた。
「眠っています。よくご覧になれますよ」
私たち二人は格子に目を当てた。留置人はこちらに顔をむけて横になり、ぐっすり眠りこんでいて、ゆっくりと深い息づかいをしていた。中肉中背、乞食商売にふさわしくきたならしい着物をきて、ぼろぼろの上衣のほころびから色もののワイシャツがはみ出していた。いざりは、警部の言ったように、ひどく汚なかったが、顔一面にあかがくっついてさえも、そのむかつくような醜さをかくすことはできなかった。古い傷から生じた、幅びろのみみずばれが、目からあごへと顔をよぎって、そのひきつりで、上唇の一方がまくりあがっていたので、歯が三本、いつも噛みつこうとしているようにむきだしになっていた。どきりとするほどひどくまっ赤な髪の毛が目やひたいに垂れていた。
「いい男じゃありませんか」警部が言った。
「ほんとに顔を洗わせなくちゃ」ホームズは言った。「そうなることだと思って、勝手ながら道具を持ってきましたよ」ホームズは言いながら旅行かばんを開いて、驚いたことに、ひどく大きい入浴用のスポンジをとりだした。
「へ、へえ! おかしな方だ」警部はくすくす笑った。
「さ、お願いだから、このドアをそっと開けてくだされば、あれをうんと立派な男に仕立ててごらんにいれましょう」
「ええ、いいですとも」警部は言った。「ボウ・ストリートの留置場の名誉にもなりませんからね」
彼は鍵を錠にさしこみ、私たちみんなはそっと房(ぼう)に入った。眠っていたいざりは半分寝返えりをうってから、また深い眠りにおちた。ホームズは水さしへと身をかがめ、スポンジを浸すと、二度力をこめて、いざりの顔をたてよこ十文字にこすった。
「ご紹介します」ホームズは大声で言った。「ケント州リー市のネヴィル・セント・クレア氏です」
これまで私は、こんな光景を見たことがなかった。その男の顔は木の皮をはぐように、スポンジで化けの皮がはがされた。いやらしい茶色っぽさがなくなったし、顔をよぎってついていた恐ろしい傷あとも、顔にぞっとするせせら笑いを浮かべさせていた、ねじれた唇も消えうせてしまった! もつれた赤い髪の毛もひったくられ、ベッドに起き上がっているのは、青白い、悲しそうな顔をした、上品そうな男だった。黒髪の、肌も滑らかで、目をこすりながら眠そうにうろうろとあたりを見まわした。それから化けの皮がはげたのにふと気がつくと、一声悲鳴をあげ、がばと身を伏せて、枕に顔をうずめた。
「これは、これは!」警部は大声をあげた。「行方不明の男ですね。写真で知っていますよ」
留置人はどうとでもなれという、すてばちな態度で向き直った。「まあいいさ。ところで私にどんな罪があるというのです?」
「ネヴィル・セント・クレア氏を殺したという……ああ、さてと、そんな罪はきせられない。自殺未遂という罪状ができれは別だが」警部は言って、にやりとした。「私も警察で二十七年になるが、まったくこれにはかなわない」
「私がネヴィル・セント・クレアだとすると、明らかに犯罪はおかさなかったのだし、それだと不法に拘留されたことになりますね」
「犯罪はおかさなかった。しかし非常に大きなまちがいをやりましたね」ホームズはいった。「奥さんにすっかり打ち明けておかれたほうがよかっったですね」
「問題は家内じゃない。子供たちなんです」留置人はうめいた。「なんとしても、この父のことで恥ずかしい思いをさせたくなかったのです。ああ! なんという恥さらしなことか! どうしたらいいのか!」
シャーロック・ホームズは彼のそばで長椅子に腰をおろして、やさしくその肩を叩いた。
「あなたがこれを法廷へ持ち出して、事をはっきりさせるとなると、もちろん世間に知れわたることはさけきれませんよ。そうしないで、あなたに罪のないことを警察に納得してもらえれば、この件が新聞に洩(も)れるということもありますまい。ブラッドストリート警部は、きっと、あなたのお話しになることは調書にとって、当局へ提出はされるでしょう。その上は、この件が法廷へまわされることなどはありはしませんよ」
「ありがとうございます」留置人は心をこめて叫んだ。「刑務所に入れられてもよかった、いや、死刑になってもよかったのです。こんなみじめな秘密を一家のけがれとして子供たちに残すよりは、と思っていました。あなた方にはじめて私の話を申しあげます。
私の父はチェスタフィールドで校長をしていまして、私はそこで立派な教育を受けました。若いときには旅行もし、舞台にも立ちましたが、しまいにはロンドンのある夕刊新聞の記者になりました。ある日編集長が、ロンドンで乞食をするという続き物をのせたいと言いまして、私がその記事を書こうと買って出ました。これが私の冒険のはじまりでした。自分でしろうとの乞食をやってみなければ、記事の種になる材料は得られませんでした。俳優をしていましたときに、もちろん顔作りの秘訣はすっかり習っていましたし、そのうまいのが、楽屋でも有名だったものです。その腕前が今になって役に立ちました。顔を塗り、できるだけ哀れっぽくするようにうまい傷あとをこしらえ、小さな肉色のばんそうこうをつかって唇の一方をねじるようにとめました。それから赤いかつらをかぶり、ふさわしい着物をきて、シティのいちばん人通りの多い場所に陣どりました。マッチ売りと見せかけていましたが、実のところは乞食でした。七時間仕事に精を出して、夕方に帰宅しますと、驚いたことに、二十六シリング四ペンスも貰いがあったとわかりました。
私は記事を書きました。このことはそれきり考えもしませんでしたが、少したって、友人のために手形の裏書きをしまして、二十五ポンドの支払令状を送られる羽目になりました。どこで金をこしらえたものか、ほとほと思案にくれましたが、ふと思いつくことがありました。私は債権者に二週間の猶予(ゆうよ)を乞い、社からは休暇をもらって、姿をかえてシティで乞食をして過ごしました。十日するとお金ができ、負債の支払いをすませました。
ところで、おわかりになって頂けるでしょうが、一週二ポンドで、骨の折れる仕事に腰を落ちつけていることがとてもつらくなりました。顔を少し塗りつけて、帽子を地面におき、じっと座っているだけで、一日にそれぐらいはかせげるとわかったんですからね。誇りと金の板ばさみに長いあいだ苦しみましたが、とうとう金には負けました。記者生活はさらりとやめ、日ごと日ごと私がはじめに選んだ片隅に座って、恐ろしい顔つきを売りものにあわれをそそり、ポケットを小ぜにでふくらませました。私の秘密を知っていたのは一人っきりです。スウォンダム・レインで常宿にしていた、いやしい阿片窟の主人です。
私は毎朝そこからきたない乞食姿で出ていって、夕方になると、身なりのいいロンドン人に変わることができました。このインド人水夫には部屋代をたっぷり払いましたので、私の秘密がこいつの口から割れることはないとわかっておりました。
さて、ほんのすぐに、かなりな額の金がたまってしまいました。ロンドンの街頭にいるどんな乞食でも、一年に七百ポンドもかせげる者などおりません。これとて私の実入りの平均より少ないのですが、私には顔作りという特別な腕の見せどころもあり、うまく言い返えしができる才能もあるというわけで、これがやっているうちにだんだんうまくなりまして、シティではちょっと顔の売れた男になりました。一日じゅう銅貨が、ときには銀貨もまじえて、水のように流れこみました。二ポンドにもならないというのは、よくよく悪い日でした。
金が増えるにつれて野心も大きくなり、田舎に家を持って、結婚までしました。誰一人、私の本当の商売に疑いを持つ者はありませんでした。妻は私がシティで仕事をしているのだと思っていました。どんな仕事だかは知らなかったのです。
前の月曜日に、私はその日の仕事を終わって、阿片窟の上にある私の部屋で着がえをしていましたところが、窓から見ますと、びっくり仰天しましたことに、妻が通りに立っているのが見えました。その目がこちらにそそがれているのです。
私は驚きの叫びをあげ、両腕をあげて顔をかくすと、腹心のインド人水夫のところへかけつけて、誰が私のところへ上がって来ようと、通さないでくれるように頼みました。下で妻の声が聞こえましたが、上がってはこられないとわかっていました。すばやく衣類を脱ぎすて、乞食の服をきて、顔料をぬったり、かつらをつけたりしました。たとえ妻の目ででも、見破れないほど完全に変装しました。
だがそのとき、ふと思い浮かんだのは、部屋の中をさがされはしまいか、脱いだ服からばれはしまいか、ということです。窓をおしあけたところが、力を入れたあまりに、その朝寝室でけがをした小さな切り傷の口をまた開いてしまいました。それから上衣をひっつかみました。それが、もらいを入れていた革の袋から移したばかりの銅貨で、ずっしり重くなっていまして、そいつを窓から力を入れて投げますと、テムズ河に沈んで見えなくなりました。ほかの衣類もそうするつもりでしたが、そのときどやどやと巡査が階段を上がってきまして、すぐに見つかってしまいました。いや、むしろ実を申しますと、ほっとしたことに、ネヴィル・セント・クレアの正体がばれるかわりに、私はその男を殺した犯人として捕まえられたのです。
ほかに説明申しあげることもなさそうです。私はできるだけ長く自分の変装をそのままにしておこうと心を決めました。それからはわざと汚ない顔でいることにしたのです。妻がひどく心配しているだろうと思いまして、指輪をぬくと、巡査が目をつけていないのを見すまして、それをインド人水夫にことづけました。いっしょに走り書きで、心配するには及ばない、と書いてやりました」
「その手紙はやっと昨日になって奥さんのところへ着きましたよ」ホームズは言った。
「それはまた! 一週間というもの、あれはどんな思いで過ごしましたやら」
「警察はそのインド人水夫を見張っています」ブラッドストリート警部が言った。「さぞ、やつは気づかれないで手紙を出すのは難かしいと思ったことでしょう。おそらく誰かあそこへよく来る水夫にでも渡して、そいつが何日間もすっかり忘れていたんですな」
「そうですよ」ホームズは相づちをうってうなずいた。「それにちがいありませんね。しかし、あなたは乞食をしていることで挙げられたことはなかったのですか」
「なんどもありました。ですが罰金ぐらいは、なんでもありませんでした」
「しかし、まあここらでやめてもらうんだね」ブラッドストリートが言った。「警察にこいつを黙っていてもらいたければ、もうヒュー・ブーンなどはまっぴらだよ」
「そのことは、なんとしてもお誓いいたします」
「この事件は、まずこれ以上深入りしないとは思うが、また見つかるとなると、一切合財(いっさいがっさい)、表ざたにしなくちゃならなくなる。まったくホームズさん、おかげで、この事件もすっかりかたがつきました。どうしてこう解決なさったのか、うかがわせて頂きたいものですな」
「この結論に達したのは」わが友ホームズは言った。「枕を五つならべた上に座って、一オンスの刻みタバコをすっかり空けたからでしてね。ねえ、ワトスン、これからベイカー街へ馬車を走らせると、うまく朝食に間に合うと思うよ」
クリスマスがすんで二日目の朝、私はおめでとうの挨拶のつもりで、わが友シャーロック・ホームズを訪ねてきていた。ホームズは紫色のガウンを着て、ソファに寝そべっていた。右方の手のとどくところにパイプ掛けがあり、くしゃくしゃになった朝刊紙のいくつかが山と積まれて、ついさっきまで調べものをしていたとみえて、すぐそばに置いてあった。長椅子の横に木の椅子が一つ、その背の角に、ひどくみすぼらしい、汚れいたんだ山高帽子の、すりきれるほどに着古し、あちらこちらとひび割れしているのがかかっていた。椅子の上にレンズとピンセットを置いあるところをみると、この帽子がこんなふうにぶら下がっているのは、調査のためだったらしい。
「仕事中だね」私は言った。「おじゃましたらしい」
「どうして、どうして。いいところへ来てくれた。調査の結果を話し合えるというものだ。事件は全くつまらないやつだがね」ホームズは親指を古帽子のほうへ差し向けた。「でもこいつに関しては全然興味がないわけでもないところがいくつかあるし、参考にもなる点があるんだよ」
私はホームズの座るアーム・チェアに腰をおろして、ぱちぱち燃え立っている火に両手をかざした。ひどい霜がおりていて、窓にも氷の結晶が凍(い)てついていたほどだった。「どうやら」私は言った。「この品をお見かけしたところ、この汚ない帽子にまつわる、ぞっとするような話があるんだね。……これがなにか怪事件を解決する糸口の手がかりになって、犯罪を処罰するというわけか」
「いや、いや、犯罪ではないんだ」ホームズは言って、笑った。「たあいもない、つまらない出来事で、よくあるやつにすぎないさ。二、三マイル四方の狭いロンドンに、四百万という人間が押し合いへし合いしておれば、当然ありがちな事件だよ。こんなにたくさんうようよしているからには、事が起これば反動もある。そこで事があれこれとつながり合って芽を出してくると考えてもいい。小さな問題がたくさんころがっている。犯罪とまではいかなくても、はっとするような、奇妙なのがね。僕たち、もうこんな経験にはおなじみだね」
「ごもっともだ」私は言った。「僕のノートに追加した、最近の六つの事件の中で、三つは全く法的な犯罪にはひっかからなかったものね」
「そうなんだ。君が言っているのは、僕がアイリーニ・アドラーへの手紙を発見しようとした事件、メアリ・サザランドさんの不思議な事件、唇の曲がっている男の冒険のことだね。そこで、今度のちょっとした話も、同じく法には触れない部類に入りそうだ。メッセンジャーのピータスンを知っているね」
「知っている」
「あの男だよ、この古帽子をぶん取ってきたのは」
「彼の帽子だね」
「いや、いや。あの男が見つけたのだ。誰のものだかわからない。ひとつ、とくと見てもらいたいね、がらくた帽子と思わずに、知的な問題と考えてだよ。
そこで、まず、これがどうしてここへやって来たかということだが。ご入来はクリスマスの朝、でっぷり肥ったガチョウと一緒だった。ガチョウはまちがいなく、今ごろはピータスンの炉の前であぶられているさ。話というのはこうなんだ。
クリスマスの朝、四時ごろ、ピータスンは君も知ってのような正直一途(いちず)の男だが、ほんの少々お酒をきこしめして、ごきげんになっての帰りみち、トトナム・コート通りを家へと歩いていた。目先に、ガス灯の明かりに見えたのが背の高い男で、少々よろめく足どりで、白いガチョウを肩にかついでいた。グッジ街の角まで来ると、この見知らぬ男が数人の与太者(よたもの)を相手に、大げんかがはじまった。与太者の一人がこの男の帽子をたたき落とした。男はステッキを振り上げてわが身を防ごうとする。頭上にステッキを振りまわしていたのが、うしろの店の窓ガラスをたたき割ってしまった。
ピータスンはその見知らぬ男を与太者どもから助けてやろうとかけ寄っていたのだが、男のほうは窓ガラスをこわしたことに度を失った上に、メッセンジャーの制服を着た、なんだか巡査みたいな男がかけ寄ってくるのを見たものだから、ガチョウをおっぽり出して逃げ出すと、トトナム・コート通りの裏手にある、ごたごたした細い道の中へ姿を消してしまった。与太者どももピータスンの飛び入りに逃げてしまったものだから、戦場はわが手に帰すわ、戦利品にはこのぼろ帽子と、大いに申し分のないクリスマスのガチョウが手に入るわ、というわけさ」
「もちろん、分捕(ぶんど)り品は持ち主へ返したんだろうね」
「さ、そこが問題でね。がちょうの左足に結びつけてあった小さなカードに『ヘンリ・ベイカー夫人へ』と刷りものに書いてあったのは本当だし、『H・B』という頭文字がこの帽子の裏に読みとれるのも事実なんだ。しかし、僕たちの住んでいる、このロンドンという都会には、ベイカーという名は何千とあるし、ヘンリ・ベイカーというのも何百人といるからね、その中の一人に落とし物を返すというのはなまやさしいことじゃないよ」
「じゃあ、ピータスンはどうしたのだ」
「帽子とガチョウをクリスマスの朝に、僕んところへ持ちこんできたのさ。どんな小さな問題でも、僕には興味があるとご存じなんでね。ガチョウは今朝まで置いてあったんだが、霜さえうっすらおりるというほどだのに、どうやらぐずぐずしていないで早々に食べるほうがいいというきざしが見えた。そこで、見つけたピータスンがガチョウに最後の引導(いんどう)を渡しに持っていってしまったよ。こっちはこうして、クリスマスの食事をふいにしてしまった、どこの誰ともわからぬおかたの帽子を大事にしているんだ」
「広告はしなかったのかい」
「しなかった」
「すると、相手が誰かという手がかりはあるかい」
「推論でいくしかないよ」
「その帽子からかい」
「そのとおり」
「冗談じゃない。この古ぼけのぼろ帽子から何がわかるというんだい」
「ここに僕のレンズがある。僕の方法は知ってるね。君なら、こいつをかぶっていた男の人物について、どう推理するかい」
私はそのぼろ帽子を手にとって、ひっくり返してみたが、なんともがっかりだった。普通の丸型の、ごくありふれた黒帽子で、とてもかぶりものにならない、さんざんな傷み方だった。裏は赤い絹地だったが、かなりな色のあせようだった。メイカーの名はなかった。しかし、ホームズが言ったように、『H・B』という頭文字が片側に書きなぐってあった。つばには止め紐(ひも)を通す穴があけてあったが、ゴム紐はなくなっていた。その他の点といえば、ひびが入っていたこと、ひどく埃(ほこり)まみれなこと、ところどころにしみのあること。もっとも、色のあせているところへは、インクをぬりつけて、こいつをかくそうとしたらしい様子があった。
「なんにもわからないな」私は帽子をホームズに返しながら言った。
「そうじゃないよ、ワトスン、君には何もかも見えているんだがね。でも君は目に見えているものから推理ができないんだよ。臆病すぎるんだ、自分の推断を下すのに」
「じゃあ、君はこの帽子から何を推論するか、ひとつ聞かしていただきたいものだ」
ホームズは帽子を取り上げて、彼一流の、特別に考えこんだ様子で見つめた。
「どうやら、前ほどにはよくわからなくなっているようだが、でも、きわめて明確に推論できることが二、三ある。そのほかに、少なくともまずこうだろうと思わせるものが少しはあるね。この男は非常に知的であるということは、もちろん一見したところから明白だ。それにまた、この三か年ほどはかなり裕福に暮らしていたこともね。もっとも今では落ちぶれてしまっているがね。前は用心深い男だったが、今では以前ほどではない。道義心も低下してきているね。こいつは、運の落ち目なのと考え合わせると、何か悪いきざし、まあ酒を飲むといったようなことが、この男に作用していると思わせるふしがある。これはまた、この男の細君が彼に愛想をつかしているということも、はっきり納得させてくれるよ」
「おい、おい、ホームズ!」
「だがね、彼にはまだいくらか自尊心が残っている」
ホームズは私がさからっているのにも耳をかさないで、言いつづけた。「この男は家にひっこもりがちで、めったに外出しない。運動は全くやらない。中年で、ほんの二、三日前に刈ったばかりの白髪(しらが)まじり、こいつにライム・クリームのチックをぬっている。こういったところが、まあこの帽子から推論される明白な事実だね。それに、ついでだが、この男の家には、ガスが引いてあるとは、とても考えられないよ」
「冗談もほどほどにしてくれよ、ホームズ」
「冗談どころじゃない。これだけ話して聞かせたのに、またどうしてそんな話になるのかわからないとは、どういうのかね」
「たしかに僕は愚か者さ。だが、正直言って、君の話がのみこめない。たとえば、この男が知的な奴だと、どうして推論したのかね」
答えるかわりに、ホームズはその帽子をひょいとかぶった。帽子は額の上にずり落ちて、鼻柱の上でとまった。「容積の問題だよ。これぐらい大きな脳をしている人間は、中身(なかみ)も何かつまっているにちがいないさ」
「じゃあ、運が落ち目というのは」
「この帽子は三年ごしだ。こういう平らのつばで、端っこでまくれているのは三年前にはやったやつだ。こいつはとても上物だよ。畝織(うねお)りの絹バンドと、極上の裏つけを見てみたまえ。この男が三年前にこれほど高価な帽子を買うことができたのに、それからは帽子一つ買えなかったとなると、たしかに落ち目になったにきまっているよ」
「うん、そこは確かにはっきりしたがね。だが、用心深いとか、道義心が低下したとかいうのはどうだ」
シャーロック・ホームズは笑った。「用心深いというのはこれだ」ホームズは小さな円い金具と帽子どめのひも穴に指を置いた。
「これらは帽子につけて売っているものじゃない。この男がこれを註文したとすると、かなり用心深いというしるしだ。風にとばされないように、わざわざこんな用心をしたんだからね。しかし、ゴム紐を切らしてしまって、そのあとつけかえようとしていないところを見ると、明らかに今では前ほど用心深くはなくなっている。これは気が弱くなった、いい証拠だよ。
一方ではまた、帽子のこうしたしみにインクを塗りつけてかくそうとしている。こんなことは、自尊心をすっかりなくしてしまったわけではないしるしだ」
「うなずける推理だね」
「ほかの点、中年であるとか、白髪まじりだとか、最近刈ったばかりだとか、ライム・クリームのチックを使っているとか、そんなことは帽子裏の下の方もよく調べてみると、みんなわかってくるよ。レンズでのぞいてみれば、毛の切れ端がたくさん見える。床屋のはさみできれいに切られたやつだ。それがみんな、ねばりついているようだし、はっきりライム・クリームの匂いがする。この埃(ほこり)だがね。おわかりだろうが、道路でくっつく砂まじりの灰色の埃じゃなくて、家の中の、ふわふわしている茶色の埃だ。つまり、ずっと家の中にかけられっぱなしになっていたことがわかる。ところで、向かい側にしめりの跡があちこちあるのは、このかぶり手が大へんな汗かきで、したがって、運動で身体をきたえあげている男ではない、という立派な証拠なんだ」
「しかし、その細君が……その男に愛想をつかしていると言ったね」
「この帽子は何週間もブラシがかかっていないよ。ねえ、ワトスン、君が帽子に一週間もの埃(ほこり)をためて、そのまま外出するのを奥さんがそ知らぬ顔をしているとあっては、君もお気の毒ながら、奥さんに見放されているな、と心が痛むというものだ」
「でも、独身かもしれないね」
「いや、その男は仲直りの贈り物に、細君へガチョウを持って帰るところだったんだ。鳥の足についていたカードを考えてごらん」
「どれにもこれにもご名答だね。しかし、どうしてまた、家にはガスが引いてないなんて推論するのかい」
「ろうそくのしみも、一つ二つなら偶然につくということもあるがね。だが五つもあるというのは、まず疑いなく、この男はたびたび、火のついたろうそくを使うはめになっているにちがいない。……夜になると二階へ上がっていく、おそらく片手には帽子、片手にはろうの垂れるろうそくを持ってね。いずれにしても、ガスの火からはろうのしみなど、つきっこないよ。わかったかい」
「なるほど、うまいもんだよ」私は笑って言った。「だが、今も君が言ったように、なにも犯罪が行なわれたというわけじゃなし、たかがガチョウ一羽なくなっただけの損害なんだから、こんな推理はまるで、エネルギーの浪費みたいな気がするね」
シャーロック・ホームズが口を開いて、答えようとしたとたんに、ドアがぱっと開いて、メッセンジャーのピータスンが部屋へ飛びこんできた。まっ赤な頬(ほお)をして、びっくり仰天、呆然(ぼうぜん)とした顔つきだった。
「ガチョウが、ホームズさん! ガチョウが!」と彼はあえいだ。
「え! どうしたのだ。生き返って台所の窓から飛び出したのかい?」ホームズはソファの上で身体をねじって、この男の興奮した顔をもっとよく見つめた。
「これを見て下さい! ほらこれを。家内がガチョウの餌ぶくろの中で見つけたのです!」ピータスンは手を差し出すと、手のひらのまん中にのせた、まばゆいばかりにきらめいている青い石を見せた。そら豆よりはいくらか小さいくらいの大きさだったが、その清らかで輝かしいこと、手のひらの暗いくぼみの中で、電気の火花のようにきらめいていた。シャーロック・ホームズは口笛を吹きながら身体を起こした。
「これは、これは、ピータスン。みごとな宝の掘り出しものだ! 何を手に入れたか、わかっているんだろうね」
「ダイヤモンドです! 宝石です! ガラスが切れるんですよ、まるでパテみたいに」
「これは普通の宝石どころじゃない。あの問題の宝石なんだ」
「モーカー伯爵夫人の青い紅玉(ルビー)じゃないか!」私は思わず叫んだ。
「そうだとも。僕にはわかっているのだ、その大きさも形も。近ごろ毎日のように、その広告がタイムズに出ているのを読んでいるからね。全く二つとはない品だ。どれくらいするものだか、推量しかできないが、賞金一千ポンドというのは、きっと市価の二十分の一にも当たらないね」
「一千ポンドですって! これはありがたい!」ピータスンは椅子にどかりと座りこんで、私たちのほうを一人ひとり見つめた。
「賞金がそれなんだ。それに僕はわけがあって知っているのだが、伯爵夫人がこの宝石さえ見つかるものなれば、自分の財産の半分を投げ出してもいいとまで思いつめている裏には、涙をさそう話があるんだよ」
「それが紛失したのは、あれはたしか、コズモポリタン・ホテルだったね」
「そうだよ。十二月の二十二日、ちょうど五日前のことだ。鉛管工のジョン・ホーナーが夫人の宝石箱からそいつを抜き取ったというかどで告発された。彼に不利な証拠が非常に強かったので、事件は巡回裁判にまわされているのだ。たしか、ここに事件の記事があるはずだ」
ホームズは新聞の日付を見ながらかきまわしていたが、とうとう一枚、しわをのばして二つ折りにたたみ、次のような一節を読んだ。
コズモポリタン・ホテルで宝石盗まれる。鉛管工ジョン・ホーナー[二十六]は本月二十二日、モーカー伯爵夫人の宝石箱から、青い紅玉(ルビー)として知られている貴重な宝石を抜き取ったかどによって、公判にふされた。ホテルの事務主任ジェイムズ・ライダーの証言によれば、盗難のあった当日、ホーナーをモーカー伯爵夫人の化粧室へ連れていき、ゆるんでいる鉄格子の二番目の棒を修理させた。しばらくホーナーに立ち合っていたが、終わりごろに呼ばれてそこをはなれた。もどってきたときにはホーナーの姿は見えず、大机はこじあけられていて、小さなモロッコ皮の小箱が、からっぽのまま化粧台に置かれていた。のちにわかったところでは、この小箱に、伯爵夫人はいつも宝石をしまいこんでおいたものである。ライダーは直ちに急を知らせて、ホーナーは、同日夕方捕えられた。
しかし宝石は身体からも部屋からも発見されなかった。伯爵夫人の女中キャサリン・カサックの証言によると、彼女はライダーが盗難を発見して驚きの叫びをあげたのを聞いて、その部屋にかけこんだ。部屋で彼女の見たものは前証人ライダーの陳述どおりであった。B区のブラッドストリート警部のホーナー逮捕の証言によると、ホーナーは狂暴に抵抗し、はげしい言葉で自分の身に覚えのないことを申し立てた。盗みの前科があったという、被告ホーナーに不利な証拠が持ち出されたので、治安判事は即決判決言い渡しを拒否し、これを巡回裁判にまわした。ホーナーは裁判進行中極度に興奮している色を示していたが、最後の決定にいたって卒倒し、法廷から運び出された。
「うむ。軽罪裁判所のやることはこんなところだ」ホームズは考えぶかそうに言って、新聞をわきへ投げやった。「今僕たちが解決しなければならない問題は、盗まれた宝石の入っていた箱という一点から、トトナム・コート通りのガチョウの餌ぶくろという他の一点へつながる、この二つの事実のつづきぐあいだ。ほら、ワトスン、われわれのちょっとした推理が急にとてつもなく重大になってきて、暇つぶしどころではなくなってきたらしいよ。
ここに宝石がある。この宝石はガチョウの中から出てきた。ガチョウはヘンリ・ベイカー氏から出ている。この紳士は汚ない帽子をかぶり、君をうんざりさせた話の、いろいろな特徴を持っている人物だ。そこで僕たちは大いに真剣に、この紳士を探し出し、この小さな謎の事件にどんな役割を演じていたかを確かめてみなくてはならぬ。そうするために、まずいちばん簡単な方法をやってみなくてはならない。つまり、夕刊という夕刊に、広告を出すということなんだよ。これがうまくいかなければ、またほかの手をつかえばいい」
「なんとやるのかい」
「鉛筆とその紙切れをくれたまえ。いいかい、では。
『グッジ通りの角でガチョウと黒のフェルト帽子を拾得(しゅうとく)。ヘンリ・ベイカー氏にこの品を渡しますから今夕、六時三十分にベイカー街二二一番地Bへおいで下さい』
これで簡単明瞭だ」
「まったくだ。だが目につくだろうか」
「うん、きっと新聞には血まなこになってるよ。貧乏人には、この損失は大きいからね。あの男は運悪く窓ガラスをこわしたのと、ピータスンが近づいてきたのにひどくびっくりしたので、逃げることしか考えなかったのだよ。しかしあとになって、うっかり鳥まで落っことしたうかつさを、ひどく後悔しているにちがいない。そこでこうして名前を出しておけば、なんとか目につくだろう。誰か知り合いの人たちがそれと教えてやるだろうからね。君、ピータスン、広告代理店へひとっ走り行って、これを夕刊に入れてもらってくれたまえ」
「どの新聞にですか」
「さあ、グロウブ、スター、ペル・メル、セント・ジェイムズ・ガゼット、イヴニング・ニューズ、スタンダード、エコー、それからほかに君の気のつくところ、どこへでもだ」
「承知しました。ところでこの宝石は」
「ああ、いいよ、僕がこの宝石をあずかっていよう。ありがとう。それからだがピータスン、帰りにガチョウを買って、ここへ僕のところに置いておいてほしいね。僕たちはこの紳士に返さなくてはならないからね。君んところで今ごろ召し上がっているやつの代りにさ」
メッセンジャーのピータスンが出かけてしまうと、ホームズは宝石を取り上げて、灯(ひ)の明かりにかざしてみた。
「きれいなものだ。ちょっとこのきらきら光っているのを見てごらん。もちろんこれが犯罪の核心にして焦点になるのだ。いい宝石はどれもこれもそうだ。悪魔が気に入りの餌にする。もっと大きくて古い宝石になると、面の数ほど、その一つ一つに血なまぐさい事件があるほどだ。この宝石はまだ二十年とはたっていない。南シナのアモイ河の河沿いで発見されて、紅玉の持っているあらゆる特徴をそなえていながら、ただちがうのはルビーの赤味のかわりに、色が青いということで珍らしい。発見されて歴史も浅いのに、もう不吉な話がからんでいるんだ。殺人が二件、硫酸(りゅうさん)のぶっかけが一つ、自殺が一つ、盗難が数回、みな、この四十グレインの重さの炭素の結晶のために起こったことだ。こんなきれいなおもちゃが絞首台や刑務所へ人を送る御用をつとめるとは、わからないもんだねえ。これは僕の金庫へ鍵をかけてしまいこむとして、伯爵夫人には一筆、こちらに保管してあると言ってあげよう」
「このホーナーという男は無実だと思うかい」
「なんとも言えないよ」
「それじゃあ、もう一人のほう、ヘンリ・ベイカーがこの事件に何か関係があったと思うかね」
「ヘンリ・ベイカーのほうが全くの無実だと言えそうだよ。この男は、自分がかついでいたガチョウが、実はそいつが純金でできているよりも、もっと大した値打ちのあるものだ、とは思いもつかなかった。だがそのことは、こちらの広告に反応があったら、ごく簡単な調査できまることだよ」
「それまではどうしようもないのかい」
「何もできないね」
「そうとなれば、僕はひとまわり往診をしてくるよ。だが夕方、君の言っていた時間にはもどってくる。こんなにややこしい事件の解決というのを見たいものね」
「ぜひ会いたいよ。七時に食事をする。山しぎが一羽あるはずだ。こんなことがあるとなると、ついでにハドスンの細君に、こいつの餌ぶくろも調べてもらわなくてはならないかな」
私は患者の一人に手間どってしまって、もう一度ベイカー街へ引き返したときは六時半を少しばかり過ぎていた。家に近づくと、スコッチ・キャップをかぶった背の高い男が、顎(あご)のほうまで外套(がいとう)のボタンをかけて、ドアの上の欄間(らんま)から洩れてくる、明るい半円形の光をあびて、外に待っているのが見えた。私が着くとちょうどドアが開いて、私たちは一緒にホームズの部屋へ通された。
「ヘンリ・ベイカーさんですね」ホームズはアーム・チェアから立ち上がって、心おきなく愛想のいい調子でお客に挨拶をした。ホームズはこうもすぐにこんなふうになれるのだ。「どうぞ、こちらの火のそばの椅子へ、ベイカーさん。今夜は冷えこみますね。お見かけしたところ、あなたの血液の循環は、冬よりも夏のほうが調子もよろしいようですね。ああ、ワトスン、ちょうどいい時間にやって来たよ。これはあなたの帽子ですか、ベイカーさん」
「はい、まちがいなく私の帽子でございます」
ベイカーは大男で、まるまるした肩をし、頭は大きく、顔は広くて知的で下へすぼまって、先はとがった、白毛まじりの茶色の顎ひげになっていた。鼻と頬に赤味がさし、差し出した手が少しふるえているのが、この男の酒飲みだという習性について、ホームズが推測したことを裏書きしていた。色のあせた黒いフロック・コートは前できちんとボタンをかけ、襟(えり)を立てていた。細い手首が突き出ている袖口(そでぐち)には、カフスもシャツもつけている様子はなかった。低い声できれぎれに、気をつけて言葉を選んでいる話しぶりで、だいたい学問はありながら、運命の手で逆境にさいなまれてきたという印象をあたえた。
「これらの品を数日ほどおあずかりしていました」ホームズは言った。「あなたのほうで住所をお知らせになるような広告を出されるものと思っていたものですからね。どうしてまた広告なさらなかったのですか」
客はいささか恥ずかしそうに笑った。「昔ほど、お金の持ち合わせがありませんで。てっきり、私にかかってきたあの与太者どもが、帽子もガチョウも持っていったものと思っていましてね。どうせもどってこないものに、むだなお金を使う気はしませんでした」
「ごもっともです。ところで、あのガチョウですが……やむなく、食べてしまいましたよ」
「食べたんですって!」客は驚いて、椅子からなかば身体を浮かした。
「ええ。僕たちが食べてしまわなければ、ほかにどうにもしようがありませんでしてね。しかし、戸棚にのっている、このも一つのガチョウですが、目方といい、肉の新しさといい、あなたのと全く同じでして、これで代りに、間に合わせていただけませんか」
「ああ、いいですとも! いいですとも!」ベイカー氏はほっと救われたように答えた。
「もちろん、あなたの鳥の羽根や足や、餌ぶくろやなにかはまだとってありますよ。もしお入り用なら」
その男はしんそこから笑い出した。「あの冒険の名残りとしてなら役にも立ちましょうが、そのほかには、今は亡きガチョウ君のばらばらの残骸をいただいても、何の役に立つというものでもございません。いや、それより、ごめんをこうむって、戸棚の上にお見受けする、あの結構な鳥をいただくことにいたしましょう」
シャーロック・ホームズは鋭く私のほうへ目をくばり、ちょっと両の肩をすくめた。
「では、お帽子とあの鳥をどうぞ。それはそれとして、前の鳥はどこでお求めになったのか、おっしゃっていただけませんか。どちらかというと鳥好きなほうでしてね。あんなによく育ったガチョウは見たこともないくらいですよ」
「いいですとも」立ち上がって、新しく手に入れた鳥を腕にかいこんでいたベイカーが言った。「私どもの二、三の者で、博物館の近くのアルファ亭へよく出かけていくのがおります。……私ども、日中は博物館にこもっておりますのでして。今年、そこの主人でヴィンディゲイトと申しますのが、ガチョウ・クラブを設立しまして、毎週何ペンスか、わずかの掛け金をしておきますと、クリスマスには鳥がもらえるということになっております。私は掛け金の払いは堅いほうで、あとはご存じのような始末です。おかげでありがとうございました。スコッチ・キャップというのは、私の年かっこうにも、貫録にも似合わないもんで」こっけいなぐらいもったいぶって、私たちへうやうやしくお辞儀をすると、ベイカーは大またに帰っていった。
「ヘンリ・ベイカー君のことはこれまでだ」
ホームズは去ったあとのドアをしめてから言った。「確かなところ、あの男は事件のことはなんにも知っちゃいないね。おなかがすいたかい、ワトスン」
「それほどでもない」
「じゃあ晩御飯は夜食にふりかえるとして、この手がかりがまだほやほやのうちに、たどってみようよ」
「いいとも」冷えこみのきつい夜だった。そこで私たちは長外套を着こみ、のどには襟巻きをまきつけた。戸外に出ると、星が雲のない空にひえびえと輝き、行きかう人の吐く息は煙となり、ピストルを乱射しているようだった。私たちは足音もこつこつと高く、医者町、ウィムポウル通り、ハーリー通り、それからウィグモー通りを通りぬけて、オクスフォード通りにさしかかった。十五分もすると、ブルームズベリのアルファ亭に来た。それは小さな宿で、ホウボンへぬける通りの角にあった。ホームズは宿専用のバーのドアを押しあけて、あから顔の、白いエプロンをかけた主人に、ビールを二杯命じた。
「ここのビールは、君んところのガチョウぐらい上物なら、きっとうまいだろうな」ホームズは言った。
「うちのガチョウですって!」主人は驚いたようだった。
「そうとも。ほんの半時間ばかり前に、ヘンリ・ベイカー君にそう言っていたところだ。ガチョウ・クラブの会員の人さ」
「ああ、ええ、わかりました。ですが旦那(だんな)、ありゃあ、うちのガチョウじゃねえんでして」
「ほう! じゃあ誰んとこのだね」
「さあ、コヴェント・ガーデンの鳥屋から二ダース買いましてね」
「ほう! あそこにゃ、いくらか知ってるのがいるがね。どこだい」
「ブレッキンリッジっていう奴の店です」
「ああ、そいつは知らないな。ま、君の健康と店の繁盛を祝(しゅく)してと。おやすみ」
「さあ、ブレッキンリッジ君といこう」私たちが凍(い)てつくような外へ出ると、ホームズは外套のボタンをかけながら、つづけた。「いいかい、ワトスン、この鎖の一方の端にはガチョウといったようなありふれた物がついているが、も一つの端には、七年の懲役まちがいなしという男がついているのだ。僕たちが無実を証明してやらなければだが、こちらの調査の次第によっては、その有罪を確証するだけにすぎないということもありそうだ。だがとにかく、調査の筋が一つ通っている。警察が見落とした線だがね。ひょっとした偶然から僕たちの手に入ったわけだが。どんづまりまでたどってみよう。じゃ、南むけ南! 早足!」
私たちはホウボンを通り抜け、エンデル通りを下がり、曲がりくねったスラム街をぬけて、コヴェント・ガーデン市場まで来た。いちばん大きな店の一つに、ブレッキンリッジという名のついたのがあった。主人は競馬ずれのしているような男で、鋭い顔に刈りこんだ頬ひげをはやして、小僧に手をかしながら店をしめているところだった。
「今晩は。今夜はひえるね」ホームズは言った。
鳥屋はうなずいて、けげんそうにホームズへ目をやった。
「ガチョウは売り切れらしいね」ホームズは言葉をつづけて、大理石のからっぽの台を指さした。
「明日の朝なら五百羽でもあげまさあ」
「それはまずいな」
「へえ、ガスのついているあの店にゃ、いくつかありますぜ」
「ああ、だが君のところをすすめられてきたんだ」
「誰にですかい」
「アルファ亭のおやじにさ」
「そういえば、あそこへ二ダース届けましたな」
「いいガチョウだったね、ところで、どこから仕入れたものかね」
驚いたことに、この質問を聞くと鳥屋のほうではいきなり怒り出した。
「ちょっと、旦那」頭をふり立て、両手を腰にかまえて言った。「どういうおつもりかね。はっきり聞かせていただきましょうや」
「はっきりしているんだ。アルファ亭へまわしたがちょうを、君が誰から買ったのか知りたいんだよ」
「そんなこたあ、言う必要もねえ。とんでもねえ!」
「ああ、どうだっていいことだがね。だがなんだって、こんなつまらないことに、そんなに腹を立てるのかい」
「腹を立てるって! お前さんだって、こうつべこべたずねられたら腹も立ちますぜ。こっちはそれだけの金を払っていい品を仕入れりゃあ、取り引きはすみますよ。そいつを『どこのガチョウだ』の、『誰に売った』の、『いくらする』のと、こんな騒ぎを聞かれちゃあ、ほかにガチョウはいないのかと思われまさあ」
「そりゃそうだが、前にいろいろききに来た人とは関係がないんだ」ホームズは気にもとめずに言った。「言ってくれなきゃあ、賭(かけ)がおじゃんになるだけのことさ。僕は鳥のこととなると、自分の言ったことははっきりさせたくなるたちでね。僕が食べた鳥は田舎育ちだというほうに五ポンド賭けてるんだよ」
「それじゃ、あんたは五ポンド負けだ。ありゃあ都育ちでさ」鳥屋が噛みつくように言った。
「そんなんじゃないよ」
「そうなんだったら」
「そんなはずはない」
「お前さん、鳥にくわしいと思ってるんですかい。小僧っ子のときからずっと鳥を扱ってる、このわしをさしおいてよ。言っときますがね。アルファ亭へとどけた鳥はみんな都育ちでさ」
「そう思わせようたって、その手にはのらないよ」
「じゃ、賭といきやすかね」
「頂くだけだよ。僕の勝ちにきまっている。だが、ソヴリン金貨一枚、賭けるとするか。強情っぱりのいましめにね」
鳥屋は気味の悪いふくみ笑いをした。「帳面を持ってこい、ビル」
小僧は小さな薄っぺらい帳面と、大きな、背の脂じみたのを持ってきて、吊りランプの下に重ねて置いた。
「そおれ、頑固(がんこ)やさん」鳥屋が言った。「ガチョウは品切れだと思ったが、店をしめないうちに、まだ一つここへ舞いこんできた人間さまのガチョウが残っていやすぜ。この小さい帳面ですがね」
「これね」
「仕入れ先の名簿でさ。おわかりかね。そこでと、このページにあるのが田舎の仕入れ先で、名前のうしろの番号は大きいほうの帳面とひき合わせでさ。そおれ! こっちの赤インキで書いたページをごらんなせえ。ほれ、町の仕入れ先の名簿でね。さ、その三番目の名前をごらんよ。読んできかせてもらいたいね」
「ミセズ・オークショット。ブリクストン・ロード一一七番地……二四九」ホームズが読んだ。
「そのとおりでさ。そこで台帳のそのページをくってみな」
ホームズは示されたページをくった。「ここだな。『ミセズ・オークショット。ブリクストン・ロード。一一七番地。鶏卵、鳥おろし』」
「で、いちばんあとの記入はなんとありますね」
「十二月二十二日。ガチョウ二十四羽、七シリング六ペンス」
「そのとおり。どうです。その下は」
「アルファ亭のウィンディゲイト様へ売り渡し、十二シリング」
「まだ文句がありやすかね」
シャーロック・ホームズはひどく口惜(くや)しそうな顔をした。ソヴリン金貨をポケットから取り出して、台板の上へ投げ出すと、しゃくにさわって口もきけないといった様子でそこをはなれた。二、三ヤードはなれてから、ホームズはガス灯の下で足をとめ、腹の底から大笑いした。ホームズ独得の、声を立てない笑い方だった。
「頬ひげをあんな刈り方にして、競馬の赤新聞をポケットからのぞかせている男を見たら、賭けさえやればいつでも話を聞き出せるものだよ。百ポンド目の前へ並べたって、こうはすっかり聞かせてはくれないものだ。あの男がしゃべったのは、賭けに勝つという腹があったからだよ。さて、ワトスン、どうやら捜査も終わりに近づいたらしいね。ここできめなきゃならないことはただ一つ、ミセズ・オークショットを訪ねるのを今夜にするか、それとも明日にのばすかということだけだ。あの無愛想な鳥屋の話からすると、ほかにもいくらか、確かにいるね、この事件を気にしている人間が。僕としては……」
ホームズの言葉を突然とぎらせたのは騒がしい大声だった。それが今出てきたばかりの鳥屋の店から聞こえてきた。ふり返ると、ねずみのような顔をした小男が、吊りランプの投げる黄色い光の輪のまん中に立ち、鳥屋のブレッキンリッジといえば、店のドアに立ちはだかって、身をちぢめている相手に、たけだけしく拳をふりまわしているのが見えた。
「もうたくさんだよ、お前のガチョウの話なんざ」鳥屋は叫んだ。「いいかげんにしねえか。まだたわごとをほざきにくるなら、犬をけしかけるぞ。オークショットのおかみさんを連れてきな。おかみさんにゃ話してやるが、お前にゃ用のないこった。あのガチョウをお前から買ったわけじゃねえよ」
「そりゃそうですが、あの中に私のが一羽まじっていたんで」小男は泣き声だった。
「そんならオークショットのおかみさんにききな」
「向こうじゃ、あなたにきけと言うんです」
「なら、プロシャの王さんにでもききゃいいやね。おれの知ったことじゃねえ。その話はたくさんだよ。出ていけ!」鳥屋はもうぜんと飛び出したので、小男はさっと闇の中へ逃げてしまった。
「はあ、これでブリクストン・ロードへ行かなくてもすみそうだ」ホームズは小声で言った。「来たまえ。あの男から話をかぎ出してみよう」まだ明かりのついているあちこちの店先をぶらぶらしている、三々五々の人だまりの中を、大またに通りぬけて、ホームズは足を早めて小男に追いつくと、その肩に手をかけた。男はどきりとふり返った。ガス灯の明かりに照らされて、その顔から血の気が全く引いているのがわかった。
「こりゃ、どなたさまで。何ご用です」ふるえる声でたずねた。
「失礼ですが」ホームズはおだやかに言った。「今さっき、君が鳥屋にきいていた話が、つい耳に入ったものでしてね。お力になれそうに思いますので」
「あなたがですか。どなたです。どうして、このことを。何かご存じなんですか」
「シャーロック・ホームズという者です。他の人の知らないことを知るのが私の仕事でして」
「ですが、このことはご存じないはずですが」
「失礼ですが、すっかり知っているのです。君はガチョウの行方をたずねているのでしょう。ブリクストン・ロードのオークショットのおかみさんからブレッキンリッジという鳥屋へ売られ、そこからアルファ亭のウィンディゲイトの手に渡り、さらにそれからクラブ員へまわった鳥です。そのクラブには会員でヘンリ・ベイカーさんという人がいますね」
「ああ、あなたこそ、私が会いたかった方です」小男は大声で言って、両手をのばし、指をふるわせた。「お話し申し上げてもわかっていただけないくらい、わたしはこの件にかかわりがあるのです」
ホームズは通りすがりの四輪馬車を呼びとめた。「それなら、こんな吹きさらしの市場でより、居心地のいい部屋で話し合うほうがいいですよ。ところで、先へ行く前に、お手伝いさせていただくあなたのお名前を言っていただきたいですね」
その男はちょっとためらった。
「ジョン・ロビンスンと言います」横目でちらと見ながら言った。
「いや、いや、本名のほうを」ホームズはやさしく言った。「偽名では仕事もしにくいものでしてね」
さっと血の気が、この見知らぬ男の頬にさした。「じゃ、言います。本当の名はジェイムズ・ライダーです」
「そうでしょうとも。コズモポリタン・ホテルの事務主任さんだ。辻馬車にお乗り下さい。あなたの知りたいことは、すぐにすっかり話してあげますよ」
小男は私たちの一人一人を、なかば驚いたような、なかば望みをかけたそうな目つきで見やった。思わぬ風の吹きまわしがよくなったのか、それとも身の破滅に立ち至ったのか、どちらともつかずに迷っているようだった。それから彼は馬車に乗りこみ、半時間もすると、私たちはベイカー街の居間に立ち帰った。途中、馬車では誰も口をきかなかった。われわれの新しい連れは、高く弱い息づかいをして、両手を握ったり開いたりしていたが、彼の心中のいらいらした緊張を物語るものだった。
「さあ、着いた!」ホームズは愉快そうに言って、われわれは並んで部屋に入った。
「こう冷えては火が何よりですよ。寒そうですね。ライダーさん。籐椅子のほうへどうぞ。スリッパをつっかけさせていただいて、それからあなたのほうのお話にかかりましょう。さて、ではと。あのガチョウたちがどうなったか、知りたいんでしょうね」
「そうなんです」
「あなたの気になるのは、特にあの一羽……白くて、尻っぽに黒い筋のあるやつでしょう」
ライダーは感動にふるえて、大声で言った。「そうなんです。その行き先をご存じですか」
「ここへ来ましたよ」
「ここへですって」
「そうなんです。全くすてきな鳥でしたね。あれに執着されるのももっともですよ。死んでから卵を産みましてね。……これまで見たこともないほど美しくて、よく光る、小さな青い卵です。ここの私の博物館に納めてありますよ」
客はよろめきながら立ち上がって、右手でマントルピースにつかまった。ホームズは金庫の鍵をあけて、青い紅玉(ルビー)を取り出した。それは星のように輝き、つめたく、きららかに、幾筋もの光の矢を放った。
ライダーは顔をゆがめて、見つめたままだった。それを返してくれと言おうか、自分のものでないと言おうか、きめかねていた。
「計画は失敗したね、ライダー君」ホームズは静かに言った。「しっかりしないと、火の中へ落っこちるよ。手をかして、椅子へもどしてやってくれ、ワトスン。この男は平気で大それた罪をやるには血の気が足りないんだ。少しブランデーを飲ませてくれたまえ。それでいい。少し人間らしくなった。なんていうつまらない奴だ、こいつは!」
ちょっとライダーはよろめいて倒れんばかりだったが、ブランデーのおかげで頬に赤味がさし、座ったまま怖そうな目つきで、罪をせめるホームズを見つめた。
「話の筋も、だいたい必要な証拠もほとんど僕は握っているのだ。だから君から言ってもらうこともあまりない。それでも、この事件を完全に知るには、少しのところをはっきりさせてもらうほうがいいだろう。聞いていたね、ライダー君、モーカー伯爵夫人のこの青い宝石のことは」
「その話を聞かせてくれたのはキャサリン・カサックでした」彼ははねるような声で言った。
「そうか。夫人の小間使いだね。なあに、一攫(いっかく)千金の誘惑は君にはもっともだ。君より金持の連中にだってありがちだったんだからね。だが君のやった方法は大して用意周到だったとは言いかねるね。ライダー君、君にはなかなか悪党の素質があるようだよ。このホーナーという男、鉛管工だが、これが前にこんな事件で前科があって、嫌疑(けんぎ)はわけなくこの男にかかると知っていた。それから君はどうしたね。夫人の部屋にちょっとした細工をした。……君と、仲間のカサックとだ。……それから鉛管工を呼びにやる手筈をした。そこで、ホーナーが立ち去ってしまうと、君は宝石箱から盗み出し、大声をあげて、この不幸なホーナーを捕まえさせてしまった。君はそれから……」
ライダーはとつぜん敷物にくずおれて、ホームズの両膝にすがりつくと、金切声で言った。「お願いです。後生(ごしょう)です! 私の父のことを考えてやって下さい。母のことを、なにとぞ! 胸もはりさける思いをするでしょう。これまで悪いことをしたことはありません。二度と決していたしません。誓います。聖書にかけて誓います。ああ、これを法廷に持ち出さないで下さい。どうか、お願いです」
「椅子にもどりなさい」ホームズはきびしく言った。「今になって、ぺこぺこ恐れ入るのもいいが、あの気の毒なホーナーのことも少しは考えてやりたまえ。身に覚えもないかどで、裁判に引き出されているんだよ」
「私は高飛びします、ホームズさん。国を出ていきます。そうすればホーナーへの嫌疑は晴れるでしょう」
「ふむ。それは相談するとして、まず君はそれからどうしたか、本当のことを聞かせてもらおうか。あの宝石がどうしてガチョウの腹へ入って、そのガチョウが市場へ出たのか。本当のことを言いたまえ、君が助かりたいと思うなら、それしかないんだよ」
ライダーは乾いた唇をなめた。「ありのままにお話しいたします。ホーナーが捕えられますと、宝石はすぐにも持ち去るのがいいように思いました。いつなんどき、警察が私の身体や部屋を探そうとするか油断がならなかったからです。ホテルには安全な場所とてありません。用事のあるふりをしてホテルを出ると、姉の家へ行きました。姉はオークショットという男と結婚しておりまして、住居はブリクストン・ロードで、そこで市場へ出す鳥を飼っております。途中で行き合う男という男がみんな警察か探偵に思えました。寒い晩だというのに、ブリクストン・ロードへ行きつかない先から、汗が顔にしたたりつづけでした。姉は、どうしたの、なぜ顔色が悪いの、とたずねましたが、ホテルに宝石泥棒があって、気が転倒しているんだと答えました。それから裏庭へ出て、パイプを吹かしながら、どうするのがいちばんいいかと考えました。
私には前にモーズリーという友人がありまして、悪い道に入って、ペントンヴィルの刑務所から出てきたばかりでした。いつか、この男と出会ったことがありまして、盗みの方法、盗んだもののさばき方など話したことがありました。この男なら頼りになるとわかっていました。この男の痛いところを一つ二つ知っていたからです。それでまっすぐこの男の住んでいるキルバーンへ出かけて、秘密を打ち明けようと決心しました。この男なら、宝石を金にかえる方法を教えてくれるでしょう。だがどうして安全に彼のところへ行けましょうか。ホテルから姉の家へ来るまでの苦しさを思ってみました。いつなんどき、捕まえられて身体を調べられるかわかりません。チョッキのポケットに宝石が見つかります。しばらく壁にもたれて、足もとをよちよち歩いているガチョウを見ていますうちに、ひょいと思いついたのは、どんな腕利きの探偵でも気がつかないような名案です。
何週間か前に姉から聞いたところでは、姉のところのガチョウの中でいちばんいいのをクリスマスのプレゼントにくれるはずで、姉は言葉をたがえたことはありません。いまガチョウをもらっていって、それに飲ませて、キルバーンへ宝石を持っていこうと思いました。裏庭に小さな小屋がありまして、そのうしろへ、私はガチョウの一羽を追いこみました。すばらしい大きな鳥で、白くて尻っぽに黒い筋のあるやつです。ひっつかまえると、くちばしをこじあけて、指のとどくかぎり奥のほうへ、宝石をのどに押し入れました。ガチョウが飲みこむと、宝石が食道を通って餌ぶくろへ下がっていくのが手ざわりでわかりました。でもガチョウが羽ばたいて、あばれましたので、姉が何事かと出てきました。ふり返って、姉に話をしようとしますと、その鳥が逃げ出して、仲間の群れへ飛びこんでしまいました。『その鳥をどうしていたの、ジェム』と姉が言います。
『うん、クリスマスに一羽くれるという話だったから、どれがいちばん肥っているか、さわっていたんだ』
『おや、あんたにあげるのは別にとってあるのよ。ジェムの鳥という名をつけて、向うにいる、大きくて白いやつなの。全部で二十六羽いてね。あんたに一羽、私たちが二羽、あとの二ダースは市場行きよ』
『ありがとう、マギー姉さん。でも、どうせ同じことなら、今捕まえていたほうをもらいたいね』
『向こうのほうが三ポンドから重いのよ。あんたのために特別に肥らせておいたのよ』
『かまわないんだ。さっきのをもらって、今持っていくよ』
『ああ、好きなようにおし』姉は少しぷりぷりして言いました。『それで、ほしいのはどれなの』
『あの白くて、尻っぽに黒の筋のあるやつ。あの群れの、まん中にいるやつだ』
『ああいいよ。殺して、持っておゆき』
で、姉に言われたようにしまして、ホームズさん、その鳥をキルバーンまで運んでいきました。私は仲間のモーズリーに今までの話をしました。こんなことなら心おきなく話せる男でしたもので。モーズリーは笑いにむせるほどで、私どもはナイフをとって、ガチョウの腹をさきました。
ところが、がっかりもなにも、宝石などは影も形もありません。ひどいまちがいをやらかしたと気がつきました。その鳥をそのままに私は姉の家へとんで帰り、裏庭へかけこみました。するともう、鳥は一羽も見当たりません。
『鳥はみんなどこにいるんです、マギー』私は大声で言いました。
『鳥屋へやったわ』
『どの鳥屋へ』
『ブレッキンリッジよ、コヴェント・ガーデンの』
『その中に、もう一羽、尻っぽに黒い筋のあるのがいたかい、僕のもらっていったのと同じのが』
『いたわよ、ジェム。黒い筋入りの尻っぽをしているのが二羽。私にも、どっちがどっちだか、区別がつかなかったわ』
それで、もちろん、すっかりわかりました。そこで私は急げるだけ急いであのブレッキンリッジという男のところへ行きました。ところが鳥屋はすでにひとまとめに売ってしまっていまして、その売り先をひとことも教えてくれようとしません。今夜あなた方がお聞きになったとおりです。ええ、あの男はいつも私にはあんな調子の返事です。姉は私が気でも狂っているんじゃないかと思っています。時々自分でもそう思います。それが今は……もうれっきとした泥棒です。宝を手に入れることさえようしませずに人格を台なしにしたばかりです。神さま、お助け下さい。ああ神さま!」ライダーは両手に顔を埋めて、わっとばかりに泣き出した。
ながい沈黙がつづいた。聞こえるものは、ライダーの深い息づかいと、シャーロック・ホームズが指先でテーブルのはしをこつこつと拍子をとるようにたたく音だけだった。やがてホームズは立ち上がると、ドアを押し開いた。
「出ていけ!」ホームズは言った。
「なんですって! ああ、ありがとうございます!」
「なんにも言うな。出ていけ!」
もう何も言う必要はなかった。かけ出していく音、階段をふみならす音、ドアのしまる音、凍(い)てついた通りを走っていく足音がした。
「つまりだね、ワトスン」ホームズは、言いながら、手をのばして陶器パイプをとった。
「僕は何も警察のおちどを埋め合わせるために、やとわれているんじゃない。ホーナーが有罪の危険にあるなら話は別だが、ライダーはもうホーナーの不利になるようなことは言うまい。事件はうやむやになるにちがいないよ。重罪犯の罪を軽くしてやったようだが、一人の魂を救ってやったことにもなりそうだ。あいつはまたと悪いことはしないだろう。ひどくおびえているよ。いまあの男を刑務所へ送ったら、一生常習犯になってしまうさ。それに、クリスマスとあれば、人を許す季節だ。ひょっとしたことから、ひどく風変わりな奇妙な事件に出会ったものだが、それが解決できたのがとりえだ。すまないけれど、ベルを鳴らしていただけないか、ワトスン先生。今度は夜食という、も一つの調査にとりかかろう。こいつもまた鳥が主役とあいなるがね」
私はこの八年間にわたって、わが友シャーロック・ホームズのやり方を研究してきたのであるが、この間に書きとめた七十件あまりの事件のノートをくってみると、そこには多くの悲劇と、喜劇もいくつか見られるのであるが、いずれもきわめて風変わりな事件であって、平凡なものは一つもない。というのも、ホームズがこれまで仕事をしてきたのは、金もうけというより自分の技術を愛する上でのことで、非凡で奇怪にも見える事件になりそうなものでなければ、調査に乗り出そうとはしなかったからである。しかし、これらのいろいろな事件の中でも、ストーク・モランのロイロット一家の、あの有名なサリー州の一家に関する事件ほど、奇怪な様相を呈していたものを、ほかには思い出すことができない。
この問題の事件は、私がホームズとつき合って間もなく起こったもので、そのときは私はまだ独身であったこととて、ベイカー街で二人で同居生活をしていた。この事件はずっと前に記録に書いておいてもよかったのであるが、当時秘密にしておく約束をしたわけで、これを発表できるようになったのは、つい先月、その約束をした相手の婦人がはからずも亡くなったからである。もう今は事実を明るみに出すほうがよさそうである。というのは、グライムズビー・ロイロット博士の死に関して、この件を真実以上に恐ろしいものにしかねない噂(うわさ)が広まっていることを、私は故(ゆえ)あって知っているからである。
一八八三年の四月はじめのころ、ある朝目を覚ますと、シャーロック・ホームズはすっかり着こんで、私のベッドのかたわらに立っていた。ホームズはきまって朝寝坊なのだが、マントルピースの時計を見ると、まだ七時を十五分過ぎたばかりなので、私はふと驚いて、ぱちくりしながら彼を見上げた。ほんの少々不服そうな顔つきを見せたかもしれない。私は規則正しい習慣を守っていたからである。
「起こしてすまなかったが、今朝はみんな同じ憂(う)き目にあったのだ。ハドスン夫人が起こされて、夫人が僕を起こし、僕が君を起こしたというわけだ」
「どうしたんだい。火事かい」
「いや、依頼人でね。若い女の人がかなり興奮してやって来て、しきりに僕に会いたがっているらしい。いま居間で待っているんだ。ところで若い女の人がこんなに朝の早い時間にロンドンをほっつき歩いて、眠っている人間をたたき起こすというのは、よくよくさしせまったことがあって、ぜひ話を聞いてもらいたいのだよ。おもしろい事件であるとなれば、きっと君ははじめから聞きたいだろうからね。ともかく君を起こして、その機会をこしらえてあげたいと思ったんだよ」
「そうかいホームズ。なんとしても聞きのがすわけにはいかないさ」
私のぞくぞくするような喜びといえば、ホームズの専門的な調査のあとをたどり、その推理を嘆賞するのにまさるものはない。ホームズの推理は直感さながらに素早くひらめき、それでもいつも論理的な基礎をふまえていて、持ちこまれた問題を解決したものである。私は急いで服を着こみ、二、三分すると用意ができて、ホームズと連れ立って居間へおりていった。
黒い服を着て、ベールにあつく顔をつつんだ女性が、窓辺に腰をおろしていたのが、私たちが入っていくと立ち上がった。
「お早うございます」ホームズは元気よく言った。「私がシャーロック・ホームズです。こちらは私の親友で、片腕でもあるワトスン博士です。この人の前では私と同様に心おきなくお話し下さい。やあ、ハドスン夫人が気を利かして火をつけておいてくれたとはありがたい。火のそばへお寄りになって。熱いコーヒーを持ってこさせましょう。ふるえていらっしゃるようだから」
「ふるえているのは寒いせいではございません」女は低い声で言って、言われたように席を移した。
「じゃ、どうしてですか」
「怖いのです。ホームズさん。恐ろしいのです」
彼女は言いながらベールをあげたので、全くかわいそうなほど気を取り乱していて、顔はひきつって青ざめ、不安な、おびえた目で、まるで追われている動物の目のようなのが見えた。顔立ちや姿かたちからすると三十ぐらいの女のようだが、髪にはちらほら若いに似合わず白いものがまじり、疲れはて、やつれきった表情をしていた。シャーロック・ホームズはちらと目を走らせて、例のように素早くいっさいを見てとった。
「ご心配には及びませんよ」ホームズは彼女のほうへ身をかがめて、腕の前のほうを軽く叩きながら、なだめるように言った。「すぐに片がつきますよ、大丈夫です。今朝ほど汽車でお着きでしたね」
「わたしをご存じですの」
「いいえ。ですがあなたの左の手袋の掌に、往復切符の帰りのほうが見えていますのでね。今朝は早くお立ちになって、長いあいだ二輪馬車でぬかるみ道をゆられてから駅へお着きになりましたね」
婦人はひどく驚いて、ホームズをあきれ顔にみつめた。
「少しも不思議ではないんですよ」ホームズは笑いながら言った。「あなたのジャケットの左袖に泥のはねが七か所もついています。いまついたばかりの新しいはねです。そんなふうに泥をはねあげる乗り物は、二輪馬車のほかにはありません。それに御者の左側に座っているときにかぎります」
「どうしておわかりかは知りませんが、おっしゃるとおりでございます。六時前に家を出まして、レザヘッドに着きましたのが二十分すぎ、それから始発の列車でウォータルー駅にまいりました。先生、もうこれ以上こんな不安に耐えきれません。まだつづくようなら気が狂ってしまいます。頼る人とてございません、一人も。いえ、一人だけおります。私のことを心配してくれますのが。情けないことに、この人は助けになってくれません。
あなたのことをお聞きしていました、ホームズさん。ファリントッシュ夫人からお聞きしていたのです。あの方が大へんお困りになったせつ、お力をおかしになられたそうで。あの方からお住いも教えていただきました。ああ、先生、わたくしをも助けてやってはいただけないでしょうか。わたくしをとりまいております真っ暗闇に光の少しでも差しこんではいただけないでしょうか。今のところはお力ぞえにお報(むく)いする力とてございませんが、一と月か二た月すれば結婚いたします。そうしたら自分の収入も自由になり、恩知らずでないことだけはおわかりいただけると思います」
ホームズは机のほうへ向いて鍵をあけると、いつも心当たりを探す、小さな、事件の控え帳を取り出した。
「ファリントッシュか。ああ、これか。思い出しました。オパールの髪飾りに関する事件でしたよ。君と知り合いになる前の話だったな、ワトスン。ま、喜んであなたの事件にご尽力いたしますよ。ファリントッシュ夫人のときと同じようにね。お礼のことは、私には仕事自体がお礼といったわけでして。お気持で、かかっただけの費用を、ご都合のいいときにお払い下されば結構です。では、すっかりお話を聞かせていただきましょうか。その事件について、こちらの意見をまとめることができますので」
「ああ!」私たちの客は答えた。「わたくしの身にしましてこんなに恐ろしいのは、恐ろしさがこれといってはっきりしませず、疑っていることも全く小さなことばかりでして、人さまにはほんのつまらないと思われるようなことなのです。誰にもましてわたくしがすがりついてもいいあの人までが、話しましたところで臆病な女の気の迷いとしか考えてくれません。そうとは口にいたしませんが、なぐさめるような返事や目をそらしたりするところを見ますと、そうとわかるのでございます。ですがうかがっておりますところでは、ホームズさまは人の心のいろいろな汚ならしさを、底の底までお見通しとのこと。わたくしをとりまいておりますさまざまな危険の中を、どう渡っていけばいいものか、お教えいただきたいのです」
「よくお聞きいたしましょう」
「わたくしの名はヘレン・ストーナーと申しまして、義父と暮らしております。イギリスでもいちばん古いサクソン系の家柄で、ストーク・モランのロイロット家の今まで残っております最後の人でして、サリー州の西境に住んでおります」
ホームズはうなずいた。「お名前はよく存じています」
「一家は一時はイングランドでも指折りの金持ちであったものでして、領地も州境をこえて、北はバークシャー、西はハンプシャーにもひろがっておりました。ですが、十八世紀には四代ひきつづいて放蕩三昧(ほうとうざんまい)にお金使いも荒いといったわけでして、ジョージ二世の皇太子の摂政(せっしょう)時代には賭け事に耽(ふけ)った当主のために、一家もすっかり零落(れいらく)してしまいました。残りましたものといっては、二、三エーカーの土地と、二百年になる家屋敷だけでございましたが、それもかなりな借金のかたに入って、どうしようもございません。先代はそこでほそぼそと暮らして、貧乏貴族のいたいたしい生活でしたが、その一人息子に当たります、わたくしの義父は、新しい生活に出直していかなければと考えまして、ある親戚からお金を借り、医学の学位をとりますと、カルカッタへ出かけました。腕がいいのと人柄がいいのとで、その土地で大へんはやりました。ところが家で時々ものがなくなるというので、かっと腹を立てましたはずみに、現地人の執事をなぐり殺してしまい、あやうく死刑だけはまぬがれました。死刑にはなりませんでしたものの、長いあいだ監獄に入っていまして、のちに、気むずかしい失意の人となってイギリスへ帰ってきました。
ロイロット博士はインドにいたときにわたくしの母と結婚いたしました。母はベンガル砲兵隊のストーナー少将の若い未亡人でした。姉のジューリアとわたくしとは双子でして、母が再婚しましたときは、まだほんの二つでございました。母にはかなりなお金があり、年収一千ポンドをくだりませず、これをすっかり夫のロイロット博士に遺贈しました。わたくしたち姉妹が義父と同居している間ということで、わたくしたちが結婚しますれば、それぞれに一定の金額が毎年支払われるという定めになっております。イギリスへもどってからすぐに母は亡くなりました。八年前、クルーの近くの鉄道事故で死んだのです。それからはロイロット博士はロンドンで開業しようという気持も捨ててしまいまして、わたくしたちを連れてストーク・モランの先祖伝来の家に住むことになりました。母が残してくれましたお金で、わたくしたちの暮らしは事かかずに、わたくしたちの幸福をそこなうものは何一つないように思えました。
でも、このころから、義父が恐ろしい人に変わってまいりました。近所の人たちと友達づき合いもしなければ行き来もしませず、みなさん、はじめはストーク・モランのロイロット家の人が古い屋敷へもどってきたというので、それはそれは大喜びをしてくれたのですが、義父は家にこもりましたきり、たまに出かけたかと思えば、道で行きあった人と大げんかをするしまつでございました。
気狂いじみた気性の荒さはもともとロイロット家の男に代々つたわっているものでして、義父の場合は熱帯地方に長く住んでいましたので、いっそうはげしくなったのだと思います。つぎつぎとお恥ずかしいけんかを重ねまして、そのうち二度ほどは軽罪裁判所のご厄介になり、しまいにはとうとう村の恐怖のまとになり、義父が近づくとみんな逃げてしまうぐらいです。なにしろ力はむやみと強く、怒り出せば自分でどうにもならなくなる義父でございますもので。
先週などは村の菓子屋を欄干(らんかん)ごしに川の中へ投げこんでしまいました。集められるだけのお金を集めまして、それをすっかり相手に渡して、やっとまた人の噂にならないように口どめをしたのでございました。友達といっては渡り者のジプシーのほかにはなく、このさすらい連中には、自分の所有地になっている、いばらだらけの二、三エーカーの土地にキャンプをはることを許しまして、そのかわりにテントへ呼ばれてご馳走になり、ときにはつづけて何週間も、一緒に流れ歩いたりいたします。インドの動物がまた大へん好きでございまして、取り次ぎ人を通じてあれこれと送ってもらい、今はチータとヒヒを飼っております。これが勝手に家の庭を歩きまわりまして、村の人たちも、飼い主と同じにその動物を恐れております。
こう申し上げましたら、姉のジューリアとわたくしが、これという楽しみもなく暮らしていたことがおわかりいただけるでしょう。召使いも居つづきませず、長いあいだ家事のすべてはわたくしたちでいたしました。姉はまだ三十だというときに亡くなりましたが、それでも髪がもう白くなりはじめておりまして、わたくしとても同様でございます」
「では、お姉さんは亡くなられたんですね」
「ちょうど二年前に亡くなりました。姉の死につきまして、あなたさまにお話を聞いていただきたいのです。おわかりいただけると思いますが、申し上げましたような暮らし方をしておりますと、同じ年ごろや身分の方とはめったにお目にかかることがございません。でも叔母に当たります母の未婚の妹で、ホノーリア・ウェストフェイルといいますのがハローの近くに住んでおりまして、この叔母の宅へは時々ちょっと訪ねていくのは許されておりました。ジューリアは二年前のクリスマスにそこへ出かけまして、退役の海軍少佐の方とお会いし、婚約をしました。
姉が帰宅して、養父はこの婚約のことを知りましたが、結婚には反対しませんでした。しかし挙式ときめられていました日まで、あと二週間というときに、恐ろしい事件が起こりまして、たった一人の姉を死なせてしまったのでございます」
シャーロック・ホームズは椅子に背をもたせて、目を閉じ、頭をクッションに埋めていたが、このときまぶたをなかば開いて、客のほうをちらりと見た。
「どうか正確に精しいお話を」
「おやすいことでございます。あの恐ろしかったときの出来事は何もかも頭にやきついておりますから。屋敷は、申し上げましたように、大へん古いものでして、今は片翼の一棟(ひとむね)だけしか使っておりません。この棟にある寝室は一階にありまして、居間は建物の中央の棟にございます。寝室は、とっつきが養父のロイロット博士、二番目が姉、三番目がわたくしのでございます。お互いの寝室は中から行き来はできませんが、どの寝室も同じ廊下へは出られます。おわかりになりましょうか」
「よくわかりますよ」
「三部屋の窓は芝生に面しております。あの忌(いま)わしい晩は、義父のロイロット博士は早めに自分の部屋へひきこもりました。それでもまだ床(とこ)にはついていなかったようで、姉は義父が吸いつけの、強いインド葉巻のにおいに閉口させられまして。それで姉は部屋を出まして、わたくしのところで、長いあいだ腰をおちつけて、ちかぢかの結婚式のことを話していました。十一時に姉は立ち上がって行こうとしましたが、ドアのところでとまると、ふり返りました。
『ねえ、ヘレン、誰かが真夜中に口笛を吹くのを聞いたことがあって?』
『いいえ』
『あなた、眠っていて口笛を吹くことなんかないわね』
『ありませんとも! どうして』
『この幾晩か、いつも三時ごろに、低い、はっきりした口笛が聞こえるんですもの。わたし眠りが浅いので、その口笛で目が覚めるのよ。どこから聞こえてくるのかわからないの。……隣りの部屋らしいけど。芝生からかしら。あなたも聞いたことがあるかどうか、きいてみたいと思ったの』
『いいえ、聞かなかったわ。あのいやなジプシーが畑で吹いているのにちがいないわ』
『そうかもしれないわ。でも芝生で吹いているなら、あなたに聞こえないのはおかしいわ』
『ええ、でもわたしお姉さまより寝つきがいいのよ』
『そうね。いずれにしても、大したことではないわ』と、姉はこちらへ笑(え)み返して、ドアをしめましたが、すぐあとで、姉が部屋の鍵をしめる音が聞こえました」
「なるほど」ホームズは言った。「あなたがた、いつも夜は鍵をかける習慣ですか」
「いつもです」
「どうしてですか」
「申し上げたと思いますが、義父はチータとヒヒを飼っておりました。ドアに鍵をかけないと、おちおちできなかったのです」
「なるほど。お話をつづけて下さい」
「その晩は眠れませんでした。なんだか悪いことが今にも起こってきそうな気がしました。
姉とわたくしとは、申し上げましたように双子でして、おわかりでしょうが、これほど近しく結びついております心と心は、ほんとに微妙なきずなでつながれております。荒れ模様の夜でした。外では風が吹きすさび、雨が窓をたたいて割れんばかりでした。とつぜん、この嵐のざわめきにまじって、おびえきった女の恐ろしい悲鳴があがりました。たしかに姉の声でした。
わたくしはベッドを飛び立ち、ショールをまきつけて、廊下へ走り出ました。ドアをあけますと、低い口笛が聞こえますようで、姉の話に聞いたとおりでしたが、そのあとすぐに、がちゃんという音がしたようです。重いかなめのものが落ちたようでした。廊下をかけていきましたら、姉のドアの鍵がまわって、静かにドアが開きました。
恐怖におびえて、そこから今に何が出てくることかと、わたくはじっと目をそそぎました。廊下のランプの明かりで、姉がドアから出てくるのが見えましたが、その顔といったら恐怖に青ざめ、助けを求めて両の手をさぐるようにのばし、身体といえば酔っぱらっているようにふらふらしていました。わたくしはかけよって、両の腕にだきとめましたが、そのとき姉は膝の力も抜けはてたようで、その場に到れてしまいました。ひどい痛みでもあるらしく、身もだえいたしまして、手足がわなわなとけいれんしていました。はじめはわたくしに気がついていないのではないかと思いましたが、姉のほうへ身をかがめますと、とつぜん一声叫びましたが、その声は忘れもいたしません。
『ああ! ヘレン! ひもよ! まだらのひもが!』 ほかに言おうとして言い残したことがあるようで、指をまっすぐに博士の部屋のほうを指していましたが、またけいれんが起こって、それきり口がきけなくなりました。わたくしはかけ出して、大声で義父を呼びにまいりますと、父はガウンを着て、あたふたと部屋から出てきたところでした。父が姉のそばへ行ったときには、姉の意識はなく、父がブランデーをのどに流しこむやら、村へ医者を呼びにやるやら、あらゆる手をつくしましたが、そのかいもありませんでした。姉はしだいに弱って、意識を回復することもなしに死んでしまいました。これが、いとしい姉の、恐ろしい最期(さいご)だったのです」
「ちょっと」ホームズが言った。「その口笛と金物の音というのは確かなんですね。まちがいないとおっしゃれますか」
「州検屍官も審問のときにそれをおたずねになりました。はっきりとそれを聞いたように思いますが、なにしろあの嵐と、古い家のきしむ音のさなかでございましたし、わたくしの聞きちがえということもあったかしれません」
「姉さんは服のままでおられましたか」
「いいえ、寝まきを着ておりました。右手にマッチの燃えさしを、左手にマッチ箱を持っていました」
「すると、驚いたときに、マッチをすって、あたりを見まわしたということですね。これは大事なことです。それで検屍官はどんな結論をくだしましたか」
「検屍官はこの事件をとても念入りにお調べでした。ロイロット博士のふるまいは、当地では前からずっと噂のたねになっておりましたもので。ですが、死因をはっきりと突きとめることはできずじまいでした。
わたくしが証言しましたとおり、ドアは内側から、しっかりと閉められており、窓は太い鉄棒のついた、旧式の鎧戸(よろいど)でふさがれておりましたし、毎晩その戸じまりはしっかり閉めるのでございます。壁も念入りにたたいてまわりましたが、どこも全くがっしりしたもので、床をすっかり調べましても、どこといって異常はございませんでした。煙突は太いのですが、通路は大きな[つぼ釘]でふさいであります。それで、姉が死に目にあいましたときは、一人きりだったことは確かです。それに姉の身体には暴力を受けたような跡は一つもございませんでした」
「毒などということは」
「お医者さん方はそれを調べましたが、そんな気(け)はありませんでした」
「では、お気の毒なお姉さんは、なんで亡くなったとお思いですか」
「ただもう恐怖と神経のショックで死んだものと思っております。でも、何におびえたのかは、想像もつきませんけれど」
「ジプシーたちはそのとき、庭にいましたか」
「ええ、いつも何人かは来ております」
「はあ、ところで、姉さんの言った『ひも(バンド)』……『まだらのひも』という言葉に、何か思い当たることはありませんでしたか」
「ときどき考えてみましたが、気が変になって、ただのうわごととも、人の群れ(バンド)、たぶん庭にいたジプシーたちのことでも言っていたのではないかと思ったりします。よくはわかりませんけれど、ジプシーたちがよく頭にかぶっている水玉のハンカチのことを、姉は『まだらの』なんて、妙な言い方をしたのではないでしょうか」
ホームズはこれだけの話では、とても満足できないといったふうに、かぶりをふった。
「うかがっていると、大へん不思議な話ですね。どうかお話をおつづけ下さい」
「それから二年たちまして、この間までわたくしの生活は前よりずっと淋(さび)しいものでございました。でも、一と月前に、長年お知り合いになっていました親しい方から、わたくしは結婚のお申し出を受けました。アーミテッジ……パーシー・アーミテッジという方で、レディングに近い、クレイン・ウォータのアーミテッジさんの次男です。義父もこの結婚に異議は申しませんので、春には結婚することになっております。二日前から建物の西棟であれこれと修理がはじまりまして、わたくしの寝室にも穴があけられてしまいましたので、姉が亡くなりました部屋へ移って、姉が寝ていましたそのベッドで眠らなければならなくなりました。
まあ、お察し下さいまし。昨夜のことでございます。横になって、寝つかれないまま、姉の恐ろしい死に方を考えておりますと、とつぜん夜のしじまに、姉の死の先ぶれともなりました、あの低い口笛が聞こえてまいりましたときの、あのぞっとするようなこわさ。
飛び上がって、ランプをつけましたが、部屋には何も見当たりません。でも身体がふるえてベッドへもどれません。それで服を着こみまして、夜の明けるのを待ちかねて抜け出し、向かいのクラウン旅館で二輪馬車をつかまえますと、レザヘッドへ行き、そこから今朝がた、こちらへおうかがいいたしました。あなたさまにお目にかかって、ご相談にのっていただきたいとばかり、そんな一心でございました」
「そうされてよかった」ホームズが言った。「でも、話はそれだけですか」
「はい、すっかり」
「ストーナーさん、まだありますよ。義父のことをかばっていらっしゃいますね」
「あら、どういうことでしょうか」
返事をするかわりに、ホームズは、客が膝に置いている手の、黒いレースの袖かざりを押し上げた。小さな鉛色の斑点が五つ、四本の指と親指の痕(あと)が、白い手首にくっきりとついていた。
「ひどい扱いをされていますね」
婦人はまっ赤になって、傷ついた手首をおおいかくした。「きつい人なんです。自分で自分の力の強さがわからないようなんですの」
長い沈黙がつづいた。その間ホームズは両手に顎(あご)を埋めて、ぱちぱち燃えている火を見つめていた。
「これは非常に底の深い事件ですね。細かい点をもっとたくさんに知った上で、われわれはどう動き出したものか決めたいものです。しかし一刻も時間をむだにしてはおられない。今日ストーク・モランへ行ったとして、あなたのお父さんに気づかれないで、そのお部屋を調べることができましょうか」
「都合よく、父は今日はなんだかひどく大事な仕事で、ロンドンへ出ると申していました。おそらく一日じゅう家をあけていますわ。何もさしさわりになるものはございません。家政婦がおりますけれど、年寄りで馬鹿なもんで、これはおじゃまにならないようにするのはわけもございません」
「そりゃあうまい。一緒に行くのに異存はないね、ワトスン」
「あるものか」
「じゃ、こちらは二人で出かけましょう。あなたはどうなさいますか」
「ロンドンにまいりましたので、一つ二つ、したい用事もございますので。でも十二時の汽車で帰りますわ。あちらで、おいでをお待ちするのに、間に合いますように」
「では、午後早めにあちらでお目にかかりましょう。ちょっと、とりかかりたい、小さな仕事があるのです。待っていただいて、朝御飯でもいかがですか」
「いいえ、もうおいとまいたしませんと。心配事をお話しさせていただいて、もうすっかり気も晴れました。午後にまた、お目にかかるのを楽しみにしていますわ」彼女は黒のあついベールを顔におろし、静かに部屋を出ていった。
「ところで、どう思うね、あの話を、ワトスン」
シャーロック・ホームズは椅子に背をもたせながらたずねた。
「きわめて陰険、邪悪な事件のように思えるね」
「申し分なく陰険にして、邪悪だ」
「でもあの婦人の言うことが正しくて、床や壁はしっかりと変わりがなく、ドアも窓も煙突も人が通れないとなると、姉さんのほうは不思議な最期に見舞われたときには、確かに一人っきりでいたちがいないね」
「すると、あの夜の口笛、それに死にぎわの姉が口にした言葉はどうなるね」
「考えつかないよ」
「夜の口笛、この老博士とは親しい関係にあるジプシーの群れ(バンド)がいたこと、博士は義理の娘の結婚をさまたげれば利益があると信ずべきそもそもの理由があること、死のまぎわにバンド[ひも]という言葉を口にしたこと、ミス・ヘレン・ストーナーが聞いた金属性の音、これは鎧戸を止めていた金棒の一つがおさまる穴へはまりこんで立てた音かもしれないが、これらのことを考え合わせてみると、この不可解な事件はこうした線にそって解決されるという、立派な根拠がありそうだよ」
「だが、それじゃあ、ジプシーは何をしたのかい」
「わからない」
「そんな理論にはいろいろ反対できそうだ」
「僕もそうなんだ。そうであれはこそ、僕たちは今日ストーク・モランへ行こうというんだよ。反対説には手も出ないか、それとも理を立ててつぶしてしまえるか、見てみたい。はて、これはいったい何事だ!」
ホームズが不意に叫び声をあげたのは、ドアがだしぬけに突きあけられて、大きな男が戸口に立ちはだかったからである。身なりといえば、医者でもあるような、そうかといって農夫みたいでもあり、変わったとりあわせで、黒い山高帽、長いフロック・コート、高だかとくるんたゲートルといういでたちで、手に狩猟のむちを振りまわしていた。ひどく背が高いので、帽子が入口の鴨居(かもい)すれすれで、横幅もいっぱいいっぱいぐらいだった。大きな顔は、しわだらけで、黄色に日焼けし、悪意そのものといった様子をたたえて、二人をかわるがわる見やった。落ちくぼんだ目と高くて細い、肉づきのない鼻が、なんとなく凶暴な、年ふりた猛禽(もうきん)を思わせた。
「どっちがホームズかい」この怪物がたずねた。
「わたしですが。どうもお見それしまして」ホームズは静かに言った。
「わしはグライムズビー・ロイロット博士だ。ストーク・モランのな」
「これは、博士」ホームズはおだやかに言った。「どうぞおかけ下さい」
「かけたくなんかない。義理の娘がここへ来ましたな。あとをつけて来たのだ。何をあんたにしゃべりおったかね」
「今ごろの時季にしては、少々寒いようですね」ホームズが言った。
「あいつはあんたに、何を言っていた?」老人は腹を立ててどなった。
「でもクロッカスの花は出来がいいそうで」ホームズは落ち着いて、つづけた。
「はあん! おれをごまかす気か」博士は一足寄って、狩猟むちを振った。「知ってるぞ、こいつめ! 前にお前のことは聞いたことがある。出しゃばり者のホームズだ」
ホームズは笑った。
「ホームズのおせっかいめ!」
ホームズの笑いが大きくなった。
「警視庁(ヤード)の小わっぱ役人めが!」
ホームズはしんそこからくすくす笑った。「どうもおもしろいことをおっしゃいますね。お帰りのせつは、ドアをしめて下さい。すき間風がたまりませんので」
「言うだけのことを言ったら行くさ。わしの家のことにちょっかいはやめてもらおうか。ストーナーの娘がここへ来たのは知っているんだ。……あとをつけて来たんだぜ! おれを相手にすると危い目を見るぜ。見ろやい!」
彼はさっと前へ出ると、火かき棒をつかんで、大きな褐色の手でそれをへし曲げた。
「さあ、のいてな。わしにつかまれんようにな」
彼はどなると、ねじ曲げた火かき棒を炉へ投げつけて、大またで部屋を出ていった。
「なかなかおもしろい人物らしい」ホームズは笑った。「僕はあれほどでっかくはないが、あのままいてくれたら、僕の腕力も、あの男にくらべて、まんざらでもないところを見せてやれたんだがね」
言うなり、鋼鉄の火かき棒を取り上げて、えいとばかりもとのようにのばした。
「あの男が横柄に、僕を察(さつ)の刑事とまちがえたところなんぞは! しかしこうなると、僕たちの調査に薬味をそえてくれたようなものだが、あの娘さんがまずいことに、あんなけだものにつけられて、困ったことにならなきゃあいいがね。さて、ワトスン、朝飯をたのもう。そのあとで登記所へぶらぶら出かけて、この件で役に立ちそうな材料をいくつか見つけたいものだ」
シャーロック・ホームズが出先から帰ってきたのは、一時近かった。手に青い紙を一枚持っていて、それに覚え書やら数字やらを書き散らしてあった。
「死んだ細君の遺言を見てきたよ。その内容がどんな意味合いを持っているのか、正確に見きわめるために、それに関係のある投資資産の現在価格を計算しなきゃならなかったのだ。収入総額は、細君が死亡した当時は年収一千百ポンドに近かったのが、今では農作物の価格が下落したので、七百五十ポンドを越えていない。娘さんはそれぞれ、結婚すれば二百五十ポンドずつもらえることになっている。そこで、明らかに、娘さんが二人とも結婚してしまえば、あの化け物はせいぜい当てがいぶちぐらいにしかありつけなくなる。一人が結婚したって、痛手は大きいというのにね。今朝の仕事はむだではなかった。あの男には、娘の結婚をなんとかじゃまをしようという、きわめて強い動機があるのがわかったからね。
さあ、ワトスン、事は重大だ。ぐずぐずしてはおられない。僕たちがこの件に目をつけたのを、あの老人は知っているんだから。君の用意がよければ、辻馬車を呼んで、ウォータルー駅へ走らせよう。ピストルをポケットに入れていってくれると、大へんありがたい。鋼鉄の火かき棒をひん曲げてしまえるような男には、イーリニ号ピストルはいい話相手だよ。ピストルと歯ブラシがあれば間に合うだろう」
ウォータルー駅で、われわれは都合よくレザヘッド行きの列車に間に合い、レザヘッドへ着くと駅の宿で二輪馬車をやとい、四、五マイル、サリー州の美しい道を走った。申し分のない日で、空には陽(ひ)が輝き、綿のような雲が二つ、三つ浮かんでいた。木や路傍の生け垣は緑の芽を出しはじめたばかりのところで、空気には水々しい土の香りが気持よくみちみちていた。少なくとも私には、春を告げるこの美しさと、われわれが乗り出したこの不吉な調査とは、奇妙な対照に思えた。わが友ホームズは馬車の前に腰をかけて、腕を組み、帽子を目深(まぶか)にさげ、顎を胸に埋めて、深い物思いにふけっていた。それが、とつぜん身を起こすと、私の肩をたたいて、牧場の向こうを指さした。
「向うを見たまえ!」
こんもりと木の茂った大庭園がなだらかな傾斜でひろがり、茂みが濃くなっていちばん高いところで森になっていた。枝の間から、非常に古い館の灰色の破風(はふ)と高い屋根が突き出ていた。
「ストーク・モランかね」ホームズが言った。
「はい、グライムズビー・ロイロット博士のお屋敷でございます」御者が言った。
「あそこで普請(ふしん)をしているところがあるんだ」ホームズが言った。「そこへやってくれ」
「向こうは村になっております」御者は左側の向こうに見える一群れの屋根を指さした。「ですが、お屋敷へいらっしゃるなら、この段々をのぼって、小路づたいに畑をこえられるほうが近道でございます。ほら、女の人が歩いていかれるところです」
「あの女の人はストーナーさんらしいね」ホームズは額に手をかざして言った。「そうだね、君の言うとおりにするほうがよさそうだ」
われわれが降りて料金を払うと、馬車はレザヘッドへがらがらと引き返していった。
「いいんだよ、あれで」ホームズは段々をのぼりながら言った。「あの御者には、僕たちが建築技師か、何かこれという仕事でやって来たと思わせておくんだ。噂をまくこともあるまい。や、今日は、ストーナーさん。ね、約束どおりだったでしょう」
今朝の依頼人は喜びを顔に浮かべて、われわれのほうへかけ寄ってきていた。
「ずいぶんとお待ちしていましたわ」彼女はわれわれと心をこめて握手しながら、大きな声で言った。「万事うまくいっております。ロイロット博士はロンドンへ出かけまして、夕方までは帰ってきそうにございません」
「ロイロット博士とはお近づきになる光栄にあずかりましたよ」ホームズは手みじかにあれからのいきさつを、かいつまんで話した。ミス・ストーナーはそれを聞くと唇まで青くなった。
「どうしましょう! あとをつけていたんですわ」
「そうらしいですね」
「義父はとても悪がしこくって、わたくし、かたときも安心しておられません。帰ってきたら、義父はなんと言うでしょうか」
「用心しなきゃならないのはお父さんのほうです。ずるさにかけては博士よりうわ手の男に、ねらわれているのがわかりますからね。今夜はしっかり鍵をかけて、お父さんを寄せつけないように。お父さんが乱暴するようなら、ハロウの叔母さんのところへ連れていってあげますよ。さ、時間をうまく使わなくちゃ。どうかすぐに、調べたい部屋へ案内して下さい」
建物は灰色の、ところどころ苔(こけ)の生えた石造りで、中央が高くなっていて、曲がった棟が、カニのはさみのように、両側へ延び出ていた。この翼棟の一方は、窓がこわれて板でふさいであり、屋根もへこんでいるところがあったりして、廃墟さながらに見えた。中央部も手入れの行きとどいていないことは同様だが、右手の棟だけはどちらかといえばモダンな造りで、窓にはブラインドがあり、青い煙がそこここの煙突から立ちのぼっていて、こちらが家族の住んでいるところとわかった。はしっこの壁に足場が組まれていて、壁石が打ち抜かれていたが、われわれが訪れたときには、人夫の姿は一人も見当たらなかった。ホームズは手入れの悪い芝生を、ゆっくりと行ったり来たりして、窓の外側を注意深く調べた。
「この窓のところがあなたのお休みになっている部屋、まん中のが姉さんの部屋、本館にいちばん近いのがロイロット博士の部屋ですね」
「そのとおりです。でも、わたくしは今はまん中の部屋で寝ています」
「改築中の間はですね。ところで、あの端の壁は、さしあたって修理をしなくてはならないようには思えませんがね」
「ございませんわ。わたくしを部屋から動かす口実だったと思いますわ」
「ああ、それは何か訳がありそうだ。ところで、このせまい棟の向こう側に廊下があって、この三つの部屋がそれに通じている、と。廊下にも窓はありますね、もちろん」
「ええ、でもとても小さいのです。狭くて人の出入りはできませんわ」
「夜はお二人ともにドアに鍵をかけておられたのだから、廊下のほうからはあなたがたの部屋へは近づけなかったはずです。では、おそれいりますが、お部屋へ入って、鎧戸をしめていただきましょうか」
ミス・ストーナーが言われたとおりにすると、ホームズは、開いている窓ごしに念入りに調べてから、しめた鎧戸をあけようと、あれこれとやってみたが、どうにもあけられなかった。ナイフをこじ入れて、閂(かんぬき)を持ち上げようにも、差しこむすき間ひとつなかった。それからレンズで蝶番(ちょうつがい)を調べてみたが、びくともしない鉄製で、どっしりした石壁に、しっかりとはめこまれていた。
「うむ」とホームズはちょっと困った様子で、顎(あご)をこすつた。「僕の推理どおりには、うまくゆきそうにない。閂をおろしてあると、この鎧戸をあけては入れない。では、中を調べて、なんか手がかりをつかめるかどうか、見てみよう」
小さな横手のドアから入ると石灰塗り(のろ)の廊下に出て、ここからは三つの部屋に通じる。ホームズは三番目の寝室は調べることもないというので、われわれはすぐに二番目の部屋へ入った。いまミス・ストーナーが使っている寝室で、姉が悲劇に見舞われた部屋である。質素な、小さい部屋で、天井は低く、壁に大きく炉をきった、古い田舎家(いなかや)風のものだった。茶色の箪笥(たんす)が一隅に、狭い、白いカバーをかけたベッドが別の片隅に、鏡台が窓の左手に置いてあった。これらの家具と、ほかに小さな籐(とう)椅子が二つ、部屋の調度品といえばこれだけで、あとは部屋の中央に四角いウィルトンじゅうたんがあるきりである。まわりの床板や、壁の羽目板は、虫にくわれた茶色のオーク材で、ひどく古びて変色しているので、この家が建てられた当時のままのものであろうと思われた。ホームズは椅子の一つを片隅にひきずると、黙ったまま腰をおろし、目を上下左右に走らせて、この部屋のどんな細部も見落とすまいとしていた。
「あの呼鈴(よびりん)はどこへつながっているのですか」ホームズはやっとたずねながら、ベッドの横に垂れている厚手の呼鈴のひもを指した。ひもの先の房が枕の上にのっかっていた。
「家政婦の部屋へ通じています」
「ほかのものより新しいようですね」
「ええ、二年前につけたばかりなんです」
「姉さんがつけてくれとおっしゃったんでしょうね」
「いいえ、姉が使った音を聞いたことがございません。わたくしどもはいつも自分のしたいことは自分でやっていましたから」
「なるほど、こんなに立派な呼鈴のひもをつける必要はなかったようですね。ちょっと失札して、この床をよく調べさせていただきましょう」
ホームズはレンズを片手に腹ばいになると、前うしろに素早く這(は)って、床板の割れ目をこまかに調べた。それから同じしぐさで、部屋の壁の羽目板を調べた。最後にベッドまで歩み寄って、しばらくそれを見つめていたり、目を壁の上下に走らせたりした。おしまいに呼鈴のひもを手にとって、ぐいと引っぱった。
「はて、見せかけの飾りものだな」ホームズが言った。
「鳴りませんか」
「鳴りはしませんよ。針金にもつないでない。これはひどくおもしろいですね。ほら、見てごらんなさい。空気抜きの小さな穴のすぐ上で、[かぎ]の手へ結びつけてありますよ」
「なんておかしなこと! これまで気がつきませんでしたわ」
「全く奇妙ですね!」ホームズはつぶやいて、ひもをひっぱった。「この部屋には大へん奇妙な点が一つ、二つありますよ。たとえば、空気抜きの穴を隣の部屋へあけておくなんて、ずいぶん馬鹿な建築屋もあるものですね。同じ手間で、外の空気が入るようにできるのにねえ!」
「それもごく最近こしらえましたの」
「呼鈴のひもと同じときにつけたんですね」
「ええ、あのときにはちょっとした模様変えをいくつかいたしました」
「みんな、とてもおもしろい特徴があるようですね……見せかけの呼鈴ひも、役に立たない空気抜き。ストーナーさん、おさしつかえなければ、奥のお部屋を調べさせていただきましょう」
グライムズビー・ロイロット博士の部屋は、娘の部屋より大きかったが、家具の備えつけは同じように質素だった。キャンプ用のベッド、ほとんどが専門書の、本がいっぱいにつまった小さな木の書棚、ベッドのわきに肘掛(ひじかけ)椅子、壁の前に質素な木の椅子、円テーブル、大きな鉄の金庫、それらが目についたおもな品々だった。ホームズはゆっくり歩きまわって、その一つ一つを、ひどくおもしろそうに調べた。
「この中には何が入っているのですか」ホームズはききながら、金庫をたたいた。
「父の仕事の書類ですわ」
「おや、中をごらんになったことがあるんですか」
「一度だけ、何年か前になります。書類がいっぱいだったのを覚えております」
「ひょっとして、猫などいるんじゃありませんか」
「いいえ、まさか、そんな!」
「まあ、これをごらんなさい!」ホームズは金庫の上の小さなミルク皿を取り上げた。
「いいえ、猫など飼ってはおりませんわ。でも、チータとヒヒはいますけど」
「ああ、そう、そうでしたね! まあ、チータは猫の大きいぐらいなやつですが、それにしても小皿に一杯のミルクぐらいではお腹がくちくなるとはいきませんね。一つ、ぜひ確かめておきたいことがあるのですよ」ホームズは木の椅子の前にしゃがみこんで、非常な注意をはらいながら、腰掛のところを調べた。
「ありがとう。どうやらすみました」彼はそう言うと、立ち上がって、レンズをポケットにしまった。「やあ、ここにおもしろいものがある!」
ホームズの目にとまったのは、ベッドの片隅にかけてある、犬用の小さなむちである。しかしそのむちはまるく巻かれていて、先の[より]になっているところが輪になるように結んであった。
「これをどう思うかね、ワトスン」
「ありきたりのむちだよ。でも、どうして先を結んであるのかわからない」
「ありきたりのむちじゃないな。ああ、恐ろしい世の中だ。頭のいい人間が悪事に知恵をはたらかすとなると、悪いことこの上なしになる。もう十分見せていただいたようですから、ストーナーさん、よろしければ庭の芝生へ出るとしましょう」
私はホームズの顔が、この調査を終えて部屋を出てきたときほど、きびしく、眉(まゆ)をくもらせていたのを見たことがない。われわれは芝生を何度となく行ったり来たりしたが、ミス・ストーナーも私も、ホームズが物思いにふけっている間は、つとめてじゃまをしないようにしていた。
「大事なことですが、ストーナーさん」ホームズが言った。「どんなことでも絶対に私の忠告どおりに従っていただかねばなりません」
「きっとそういたしますわ」
「とても由々(ゆゆ)しい事態で、一刻の躊躇(ちゅうちょ)もなりません。あなたの一命は私の言うとおりにするかどうかにかかっています」
「かならずお言いつけに従います」
「まず第一に、ワトスン君と私はあなたの部屋で夜を過ごすことになります」
ミス・ストーナーと私はともに驚いて彼を見つめた。
「そうです、ぜひにもそうしなくては。まあ、お聞きなさい。向こうに見えるのは村の宿屋でしょうね」
「はい、クラウン館です」
「ちょうどいい。向こうからあなたの窓が見えるでしょうね」
「ええ、見えますとも」
「お父さんが帰ってきたら、頭がいたいということにしてお部屋に閉じこもっていただきます。それからお父さんが寝に部屋へさがる音が聞こえたら、あなたの窓の鎧戸をあけて、とめがねをはずし、僕たちへの合図にランプを置いて下さい。それから必要な手廻り品を持って、前に使っていたほうの寝室へ移って下さい。修理中でしょうが、一晩ぐらいはなんとか過ごしていただけるでしよう」
「ええ、なんでもございません」
「あとは僕たちにまかせて下さい」
「でも、どうなさるんですか」
「僕たちはあなたの部屋で一晩過ごして、あなたを悩ませた、あの音の出どころをつきとめてみましょう」
「ホームズさん、もうすっかりおわかりになっていらっしゃいますのね」ミス・ストーナーはホームズの袖に手をかけた。
「まあね」
「それなら、お願いです、姉がどうして死んだのか、教えて下さいまし」
「もっと確かな証拠をつかんでから、お話ししましょう」
「わたしの考えが正しいかどうか、姉は何かとつぜんにびっくりして死んだのかどうか、せめてそれだけでも」
「いや、そうは思いませんよ。何かもっと形のはっきりした原因があるように思いますね。さて、ストーナーさん、お別れしましょう。ロイロット博士が帰ってきて、見つけられでもすると僕たちがここまで来たのが水の泡(あわ)になってしまいますからね。さよなら。勇気を出してやって下さい。お話ししたとおりにやって下されば、安心して大丈夫、すぐにもあなたをおびやかしている危険を追っぱらってあげますよ」
シャーロック・ホームズと私はなんなくクラウン館で寝室と居間とを借りることができた。部屋は二階で、窓からはストーク・モラン領主邸の並木道の入口の門と、人の住んでいるほうの棟とを見渡すことができた。たそがれどきになって、グライムズビー・ロイロット博士が馬車で通り過ぎてゆくのが見え、その大きな身体は御者の若者の小さな姿と並んで、ぼんやりと浮かび上がっていた。若者は重い鉄の門をあけるのに、少しばかり手こずっていると、博士のしわがれたどなり声が聞こえて、腹立たしそうに握りこぶしを若者にふりたてているのが見えた。馬車はまた走り出して、二、三分すると、居間の一つにランプがついたとみえて、木立の中にさっと明かりがさした。
「ねえ、ワトスン」深まっていく闇の中で膝をあわせるとホームズが言った。「今夜君を連れていったものかどうか、実はちょっとためらっているんだ。危険なことがわかりきっているんでね」
「役に立たないのかい」
「君がいてくれれば大助かりなんだが」
「それならもちろん行くよ」
「ありがたいね」
「危険があると言ったね。あの部屋で、きっと僕には気がつかなかったものまで見てきたんだね」
「いや、少しばかり推理をよけいにはたらかせたかもしれないが、君も僕と同じだけは見ているんだよ」
「呼び鈴のひものほかには、これといって目につくものは見当たらなかったが、なんの目的かということになると、正直のところさっぱりわからない」
「空気抜きも見たろう」
「見たよ。だが二つの部屋に小さな穴が通じていたって、それほど変わったこととは思えないよ。あんなに小さくっちゃ、鼠一匹通れるかどうかさ」
「僕はストーク・モランへ来ないうちから、空気抜きの穴があるな、とわかっていたよ」
「なんだって、ホームズ!」
「ああ、そうだよ。わかっていたんだ。ストーナーさんが話の中で、姉さんにロイロット博士の葉巻がにおった、と言っていただろう。すると、二つの部屋がどこかで通じているのがすぐにわかるさ。それも小さな穴にちがいないとね。さもなければ検屍官が調べたときには気づかれているはずだ。僕は空気抜きだと考えついたね」
「だがその穴にどんな危害をしかけられるかい」
「そうだね、少なくとも日付が奇妙に一致するね。空気抜きがあけられ、呼鈴のひもが下げられ、ベッドで眠っている女性が死ぬ。妙だとは思わないかい!」
「どうも、その結びつきかわからない」
「あのベッドに、ひどく変わったところがあったのに、気づかなかったかい」
「いいや」
「床にしめ釘で止めてあったよ。あんなふうに、しっかり動かないようにしてあるベッドなんて、見たことがあるかね」
「まず、ないね」
「あの姉さんはベッドを動かせなかった。空気抜きと[つな]……[つな]と言っていいよ、どうしたって呼鈴のひもとは言えやしない。ベッドがいつでもそれらと同じ位置の関係になければならないんだ」
「ホームズ」私は叫んだ。「君の言っていることが、どうやらわかるような気がする。何か巧妙な恐ろしい犯罪をふせぐのに、全くうまく間に合ったものだ」
「全く巧妙で、まことに恐ろしい。医者が悪事に走ると、最悪の犯罪者になるよ。度胸もすわっておれば知識もある。家族を毒殺したパーマーもプリッチャードも、医者としては一流だった。今度の男はその上をいく奴だが、ワトスン、僕たちだって、も一つ上をいけると思うよ。だが夜が明けるまでには、たっぷり恐ろしい目に会うだろう。まあ、ゆっくりパイプでもふかして、二、三時間ほど、もっと愉快なことに気を変えるとしようよ」
九時ごろ、木立の中の明かりが消えて、領主邸のほうはすっかり暗くなった。二時間が長いぐらいに過ぎ、それからとつぜん、時計が十一時を打ったとみるまに、明るい光が一つ、われわれの正面に輝いた。
「あれは合図だ」ホームズはさっと立ち上がった。「まん中の窓からだ」
出がけに、ホームズは宿の主人と二こと三こと言葉をかわして、知人をおそい時間ながら訪ねるところだが、先方で今夜は泊ってくるかもしれないと説明した。すぐに私たちは暗い道へ出た。肌(はだ)を刺す風が顔に吹きつけ、黄色い光が一つ、私の前で闇の中にまたたいて、気味の悪い用事で出かける私たちを導いていた。
屋敷の中へ入っていくのに、さして困難はなかった。古い領主邸の壁には、手入れもしていない穴がいくつも崩れたままだったからである。木立の間をぬって、私たちは芝生のところに来ると、そこを横切って、窓から入りこもうとしたそのときに、月桂樹の茂みの中から、気味の悪い、体の曲がった子供のようなものが飛び出した。手足をもがいて草の上に体を投げ出すと、それから芝生をさっと走りわたって、闇の中へ消えていった。
「おや」私は小声で言った。「あれを見たか」
ホームズもちょっと驚いた。はっとする間に、その手で私の手首をぐっと握りしめた。それからホームズは低く笑って、私の耳に口をよせた。
「とんだ家族だ」彼はささやいた。「あれはヒヒだよ」
私はロイロット博士が可愛いがっている妙な動物たちのことをすっかり忘れていたのだ。チータもいるはずだ。いつなんどき、われわれの肩に飛びついてくるかわからない。正直に言って、ホームズのしぐさにならって靴をぬぎ、寝室に忍びこんたときには、ほっとした思いだった。ホームズは昔を立てずに鎧戸をしめ、ランプをテーブルの上にうつし、部屋をぐるりと見まわした。何もかも、昼間見たのと変わりがなかった。ホームズはそっと私に近寄って、片手をまるく口にあてると、もう一度そっと耳にささやきかけた。ひどく静かな声だったので、やっと次の言葉が聞きわけられただけだった。
「音を少しでも立てようものなら、こちらの計画はまるつぶれだよ」
私は聞きとれたしるしに、うなずいた。
「明かりを消して座っていなくちゃいけない。空気抜きから明かりが見られるよ」
私はもう一度、うなずいた。
「眠らないで。命にかかわるかもしれない。いざというときの用意にピストルを。僕はベッドのふちに、君はあの椅子にかけるとしよう」
私はピストルを取り出して、テーブルの隅に置いた。
ホームズは細長い杖を持ってきていたのを、ベッドの上へ、身近に置いた。そのそばへ、一箱のマッチと燃えさしのろうそくを並べた。それからランプのねじをまわして消したので、あたりはまっ暗になってしまった。
あの恐ろしい寝ずの番を、忘れようとしても忘れられない。物音一つ、息づかいの一つさえ聞こえなかった。それでも、ホームズが目を見開いて、私のすぐ近くに、私と同じように神経をはりきらせて笑っているのがわかった。鎧戸にさえぎられて光はほんのかすかにさえ洩れてこず、私たちは真の闇の中で待っていた。外からは、ときおり夜鳥の叫びが聞こえ、一度、窓のところで、長く尾をひいた、猫のような鳴き声がして、チータが放し飼いになっているのだとわかった。
はるか遠くで、教会の時計の深い音色が聞こえた。十五分ごとに鳴りわたるのだった。この十五分ごとが、どれほど長く思われたことか。十二時、一時、二時、そして三時。それでも私たちは黙ったまま座って、何かがふりかかってくるのを待っていた。
とつぜん、空気抜きの穴のあたりに、ちらと光がさしたかと思うと、すぐに消えてしまったが、つづいて油を燃やす匂い、金属のやける匂いが強くただよってきた。隣りの部屋で、誰かが[がんどう]をつけたのだ。静かに人の動くけはいがして、またすっかり静かになったが、匂いはますます強くなってくる。半時間ほど、私は耳をすまして座っていた。するととつぜん、別の物音が聞こえてきた。……非常に静かな、やわらかな音で、やかんからたえず吹き出る、細い湯気の音のようだった。
それを耳にしたかと思うと、ホームズはベッドからはね立ってマッチをすり、杖で呼鈴のひもを、力まかせに打った。
「見えるか、ワトスン」ホームズはわめきたてた。「見えるか」
しかし私には何も見えなかった。ホームズがマッチをすったとき、低い口笛の音が聞こえはしたが、だしぬけにまぶしい光が、暗さにくったくしている目を射たものだから、ホームズがあんなにはげしく打ちすえたものがなんであるかは、私にはわからなかった。しかし、ホームズの顔が死人のように青ざめ、恐怖と嫌悪にみなぎっているのが見てとれた。
ホームズは打つ手をやめて、空気抜きの穴を見上げていた。そのとき、とつじょ、これまで聞いたこともないような、ひどく恐ろしい叫びが、夜の静けさを破った。その叫びはさらにさらに大きく高まり、苦痛と恐怖と怒りがまじりあって、一つの恐ろしい悲鳴になった。しわがれた絶叫だった。人の話では、遠くはなれた村まで、遠くの牧師館にまで聞こえて、その叫びは眠っている人々をベッドにはね起きさせたという。私たちはぞっと心臓がこごりつく思いで、お互いに見あったまま立ちつくしていたが、やがて絶叫の最後のこだまも消え果てて、もとの静けさに返った。
「あれはどうしたというんだ?」私は息をのんだ。
「万事終わりということだ」ホームズが答えた。「まあ、つまりはこれでよかったのだ。ピストルを持ちたまえ。ロイロット博士の部屋へ行くんだ」
ホームズは真剣な顔でランプをともし、先に立って廊下をすすんだ。二度、博士の部屋のドアをノックしたが、中からはなんの返事もなかった。
それでホームズは把手(とって)をまわして入った。私はそのあとにつづいて、撃鉄を起こしたピストルをかまえた。
目についたのは奇妙な光景だった。テーブルには、おおいを半分あけたがんどうが置いてあって、明るい光が鉄の金庫を照らし出し、その扉が少しばかり開いていた。このテーブルのそばの、木の椅子に、グライムズビー・ロイロット博士がグレイの長い化粧ガウンをまとって腰をかけ、素足のくるぶしを下に突き出し、足にはかかとのない、赤いトルコふうのスリッパをつっかけていた。膝には、昼間みかけた、長い革ひものついた短い[むち]が横一文字にのっかっていた。顎(あご)を上にそらせ、目をかっとすえて、天井の一角をにらみつけていた。
額のまわりに、妙な黄色い[ひも]がまつわりついていて、それには褐色のまだらがあり、このひもが彼の頭をしっかりと取り巻いているようだった。私たちが部屋に入っても、彼は声も立てず、まんじりともしなかった。
「ひもだ! まだらのひもだ!」ホームズが小声で言った。
私は一足すすみ出た。その瞬間、彼の奇妙な鉢巻きが動きはじめ、髪の間から、見るも忌(いま)わしい蛇がずんぐりした菱形(ひしがた)の頭とふくらんだ首を持ち上げた。
「沼の毒蛇だ!」ホームズが叫んだ。「インドでいちばん猛毒のある蛇なんだ。博士は噛まれてから十秒としないうちに死んでいる。まさに暴力をもってすれば暴力をもって報われるのたとえで、人を呪わば穴二つというところだ。この蛇を[巣]へ追いもどして、ストーナーさんをどこか安全なところへ移してから、州警察へこの出来事を知らせよう」
ホームズは言いながら、死人の膝から犬むちをさっとひきとって、その輪を蛇の首にかけ、その恐ろしい止まり木からひきはなすと、腕いっぱいにのばして蛇を運び、鉄の金庫へ投げこんで、その扉をしめた。
これがストーク・モランの、グライムズビー・ロイロット博士の死の真相である。もうずいぶん長い話になったのであるから、この悲しい知らせを怖がっているミス・ストーナーにどんなふうに知らせたとか、彼女を朝の汽車でハロウの親切な叔母さんのもとへ送りとどけたこととか、当局の調査がのろのろしていて、やっと、博士は軽はずみにも危険な愛玩用の動物と遊んでいて死ぬような羽目になった、という結論に至ったとかを述べて、この上、話を長くする必要はあるまい。この事件について、まだ私にもよく納得のいかなかった二、三のところを、シャーロック・ホームズは翌日、帰りの汽車で話してくれた。
「僕は全く誤った結論を描いていたのだ」ホームズは言った。「ねえ、ワトスン、不十分な材料から推理することが、つねにどんなに危険であるかを示しているよ。ジプシーがいたこと、『バンド』という言葉を使ったこと、きっと死んだ姉さんはマッチをすってみて、その明かりでちらと見かけた姿を説明しようとして使った言葉なんだが、こんなことで僕はすっかり誤った方向へ踏みこんでしまったよ。僕のとりえを言わせてもらえば、あの部屋を使っていた人をおびやかした危険がなんであったにしろ、窓やドアからやって来るものではありえないと、はっきりわかってきたときに、僕の考えをすぐにも考え直したというところだね。さきにも君に言ったように、僕はすぐにあの空気抜きの穴と、ベッドへ垂れている呼び鈴のひもに注意をひかれた。これが見せかけだけの役に立たないもので、ベッドが床に釘づけになっていることを発見して、すぐとこのひもは何かが穴をくぐってベッドへ伝わる橋の役目をしているのではないか、という疑いが起こった。たちまち蛇だなという考えがうかび、博士がインドから動物をとりよせて飼っている話と思い合わせて、まずまちがいのないところだと思った。どんな化学検査にかけても、まず見破られることのない毒物を使うという思いつきは、東洋で暮らしたことのある、利口で残忍な男には、いかにもぴったりした思いつきだ。この毒のまわりが早いということも、彼からすれば、都合がいいというものだ。よほど目利きの検屍官でなければ、二つの小さな黒い傷に目がついて、それが毒牙のかみついた跡だとは見きわめられやしない。
それから口笛のことを考えてみた。もちろん博士は夜の明けないうちに、被害者に見つけられないように、蛇を呼びもどさなくてはならない。よく仕込んであったのだね。たぶん僕たちが見かけたミルクを使って、呼べばもどってくるようにね。博士は今こそと思う時刻に蛇を空気抜きからくぐらせる。まちがいなく蛇はひもを伝って、ベッドへはいおりるということになる。蛇は部屋の人をかむかもしれないが、かまないこともある。あの人は一週間ほど毎夜のように災難にあわずにすんだろうが、おそかれ早かれ、かみつかれるにきまっている。
博士の部屋へ足を入れないうちから、こうした結論に達していたよ。彼の椅子を調べてみて、博士がその上に立ちあがる習慣のあることがわかった。もちろん、空気抜きの穴に手をとどかせるのに使ったのだ。金庫とミルクの皿、むちの輪を見かけて、残りそうな疑惑もすっかり消しとんでしまった。ストーナーさんが耳にした金属の音も、博士が蛇をしまいこんで、急いで金庫の扉を閉めた音だったわけだ。そうときまったとなると、その証拠を確かめるために、僕のやったことは君の知ってのとおりだ。蛇がシューという音を立てた。もちろん君にも聞こえただろうが、僕はすぐにマッチをすって、ひっぱたいてやったのだ」
「蛇は空気抜きからもどっていったというわけだね」
「その上、向こう側の主人に飛びかかるということにもなったのだ。僕の杖が二、三発、ひどくこたえたので、蛇の本性たがわず、目についた人間へさっとばかりに飛びかかったのさ。こうなると、だが、グライムズビー・ロイロット博士が死んだについては、間接ながら僕にも責任はあるわけだが、良心にさほどとがめられそうにもないね」
私がシャーロック・ホームズと長年親しくしていた間に、わが友ホームズが解決をたのみこまれた多くの事件の中に、私が間に立って彼の手にゆだねたのが二つだけある。ハザリ氏のおや指事件とウォーバートン大佐の狂気事件である。この二つのうち、狂気事件のほうが、頭の鋭い、独創的な観察者には興味のある場面が見られるかもしれないが、おや指事件では話のはじめから奇怪で、そのいきさつも劇的なので、記録にとどめておくだけの、ずっと十分な価値があるようである。もっともわが友ホームズにとっては、つねづねすばらしい成果をもたらす、あの推理の方法を、さまで展開させるには及ばなかった事件ではあった。
この事件は、たしか、一度ならず新聞紙上にのったものであったが、こうした事件にありがちのように、紙面のほんの半段ばかりでひとまとめに書かれたのでは人の心もそそらない。事実がつぎつぎとゆっくり読者の目の前で展開し、新しい発見がなされ、みごとに謎がしだいに解けていって、やがて完全に真相が明らかにされるといったほうが印象に残る。当時この事件に私は深い印象をあたえられたので、二年たったいまでも、その感動はほとんどうすれていない。
一八八九年の夏、私が結婚して間もなくに、これからかいつまんでお話ししようと思う事件が起こった。私はもとの開業医にもどっていて、ホームズをベイカー街の部屋にとり残したままになっていたが、それでもたえずホームズを訪ねて、おりおりはその勝手気ままな習慣をやめるように説得もし、私のほうへも訪ねてくるようにさせた。私の仕事も順調にはやっていて、たまたま私の住居がパディントン駅からさほど離れてもいなかったので、鉄道員の中にも二、三の患者があった。その中の一人で、苦しみのある、長わずらいをなおしてやったのが、私の腕のいいのをあきもせずに宣伝これつとめたり、自分の顔のきく患者とみれば、私のところへ送ってよこした。
ある朝、七時少し前、女中がドアを叩く音に目をさまされた。二人の男がパディントンからやって来て、診察室で待っているというのである。私はそこそこに着替えをした。これまでの経験から、鉄道事故には軽いのがめったにないのを知っていたので、急いで下へおりた。降りると、昔なじみの車掌が部屋から出てきて、うしろのドアをぴたりと閉めた。
「一人連れてきましたよ」彼は小声で言って、おや指で肩ごしに指さした。「だいじょうぶですが」
「どうしたんですか」私はたずねた。彼の態度から、私の診察室に閉じこめてあるのが、何か変な人間のように思えたからである。
「新しい患者なんです」彼はささやいた。「私が連れてくるほうがいいと思いましてね。でなきゃ、逃げ出しますので。あっちで、ぴんぴん元気でいますよ。私はおいとましなくちゃ、先生。仕事がありますので、先生とご同様に」そこでこの客引きさんは、とっとと出ていって、私に礼を言うひまさえあたえなかった。
診察室に入ると、一人の男がテーブルのそばに腰をかけていた。色まじりのツイードを地味に着て、やわらかい布のキャップ帽を本の上にのっけていた。片手にぐるっとハンカチを巻いていて、血が一面ににじんでいた。まだ若く、二十五歳をこえていない。強くて男らしい顔つきだった。だがひどくまっ青(さお)で、なにかひどく興奮していて、やっとの思いで抑えている、といったふうに見えた。
「こんなに早くからお騒がせしてすみません、先生。でも昨夜ひどい災難にあいましたので。今朝汽車でやって来ました。パディントンでどこかに医者はいないかとたずねましたら、あの人が親切にこちらへ連れてきてくれました。女中さんに名刺をわたしましたが、そこのサイド・テーブルへ置きっぱなしのようで」
私は名刺を取り上げて見た。
「ヴィクター・ハザリ、水力技師、ヴィクトリア街一六のA[四階]」
それが今朝の患者の名前と肩書きと住所だった。
「どうもお待たせしました」私は言って、診察椅子に腰をおろした。「夜行でいらっしゃったばかりですね。夜行というのは退屈なものでしてね」
「いや、それが退屈どころでありませんでしてね」彼はそう言って笑った。腹の底からの高笑いで、椅子にのけぞるように、腹をかかえた。医者の直観で、こんな笑い方はいけないと思った。
「やめなさい」私は叫んだ。「落ち着いて!」私は水差しから水をついた。
だがむだだった。この男はヒステリーの発作の一つにかられて調子がおかしいのだ。強い性格の男が何かひどい危険に見舞われて、それが過ぎたあとでかかるやつだ。間もなく彼は正気に返ったが、とても疲れているようで、恥ずかしさに顔をそめた。
「馬鹿なところをお見せして」彼はあえいで言った。
「いや、ちっとも。これをお飲みなさい」私は水にブランデーをちょっとまぜた。血の気のない頬(ほお)に生気がもどってきた。
「気分がよくなりました。では、先生、おや指を診(み)ていただけませんか。いや、おや指のあったところをひとつ」
彼はハンカチをほどいて、手を差し出した。それを見ると、いかに鍛(きた)えられた私の神経でも、身ぶるいするほどだった。四本の指が突き出ていて、おや指のあったはずのところは、表面が恐ろしい、まっ赤な、ぶよぶよになっている。根元からぶっ切られたか、ひきちぎられたかしているのだ。
「これはまた」私は叫んだ。「ひどい傷ですね。かなり出血したでしょう」
「ええ、出ました。やられたときには気が遠くなりましたよ。しばらくは気を失っていたようです。気がつきますと、まだ出血していましたので、手首をしっかりハンカチのはしで結びまして、小枝でしめつけました」
「それはよかった。外科医そこのけです」
「水力学の問題でしてね。私の領域なんです」
「これをやったのは」私は傷を調べながら言った。「ひどく重くて鋭い刃物ですね」
「肉切り包丁(ぼうちょう)のようなものでした」
「過失ですね」
「とんでもない」
「なんですって。誰かに襲われでもしたんですか」
「全く殺されかけました」
「大へんなお話で」
傷口を海綿で洗ってきれいにし、ガーゼを当て、最後に綿でつつんで、石炭酸消毒のほうたいをした。彼は背をもたせてがまんをしていたが、それでも時々は唇をかみしめた。
「どうですか」私は処置を終えて、たずねた。
「よくなりました。ブランデーをいただいて、ほうたいをしていただく間に、生まれ変わったようです。ひどく弱っていました。なにしろ大へんな目にあったもんですからね」
「まあ、そのことはお話しにならないほうがいいでしょう。きまって神経にさわりますからね」
「ええ、今は話しません。いずれ警察で話さなくてはならないでしょう、まあここだけの話ですが、この傷という、れっきとした証拠がなければ、警察だってまさか私の話を信じてくれますまい。とても風変わりな話でしてね。それを裏書きしてくれるような証拠といったところで、大してないんです、それに、警察が信じてくれるにしたところで、私の提供できる手がかりはまことにぼんやりしていて、裁判になるかどうかが問題です」
「はあ」私は叫んだ。「解決してもらいたいと思っていられる事件のようでしたら、警察へいらっしゃる前に、僕の友人のシャーロック・ホームズ君をお訪ねになることをたっておすすめしますよ」
「ああ、その方のお名前は聞いたことがあります」患者は答えた。「ホームズさんが引き受けて下さればこんな嬉しいことはありません。もちろん、警察のほうへも頼んでおかねばなりませんか。ホームズさんをご紹介願えませんでしょうか」
「ええ、いいですとも。一緒にお連れしますよ」
「これはなんとも、ありがたいことです」
「馬車を呼んで行きましょう。ちょうど向こうで一緒に朝食をするのに間に合いますよ。それまで我慢ができそうですか」
「ええ。話をしてしまうまでは、気が休まりませんので」
「じゃ、召使いに馬車を呼んできてもらいましょう。すぐにお伴しますよ」私は二階へかけ上がって、事を手みじかに妻に話し、五分もすると二輪馬車におさまって、知り合いになったばかりのこの客と、ベイカー街へ走っていた。
シャーロック・ホームズは、思っていたとおり、部屋着のまま居間をぶらついて、「タイムズ」の凶事広告欄を読みながら、朝食前のパイプをふかしていた。このタバコは、昨日の吸い残りのパイプかすを、念入りにかわかして、マントルピースの片隅に集めておいたものだった。
ホームズはおだやかに気持よく私たちを迎えてくれて、新鮮なハムエッグを言いつけ、心のこもった食事をともにした。
食事がおわると、ホームズは新しい客をソファにかけさせ、枕を頭にあてがって、水割りのブランデーを一杯、手のとどくところに置いた。
「すぐにわかりますよ、あなたの出あった災難が普通のものでなかったことがね、ハザリさん」ホームズが言った。「どうぞ横になって、すっかり気楽にして下さい。うかがえるだけお話しを聞かせていただきましょう。でも疲れたらやめて下さって、その気つけでも飲んで、元気をつけて下さい」
「ありがとうございます」私の患者は言った。「でも先生にほうたいをしていただいてからは別人のようになりました。お宅で朝食をいただいて、すっかり治ったようです。貴重なお時間をむだにしないように、さっそく私の奇妙な経験をお話しいたしましょう」
ホームズは大きなアーム・チェアに腰をおろして、ものうそうな、まぶたを垂れた表情で、その鋭い、熱心な本性をかくしていた。私はホームズと向き合ってかけ、黙って、客の話す奇妙な物語に聞きいった。
「知っておいていただきたいのは、私には今は父も母もありませんで、独身で、ロンドンで一人で下宿しております。職業は水力技師でして、この七年間、グリニッチの有名なヴェナ・アンド・マシスン会社で見習いをしていまして、仕事にはかなりな経験をもっております。
二年前、年期も明け、それに父が亡くなりまして、相当なお金も入りましたので、自分で仕事をはじめようと思い、ヴィクトリア街に事務所を持ちました。
誰でも独立して仕事をはじめると、当座はわびしい思いをするらしくて、私にはとりわけそれがひとしおでした。二年間というもの、相談事が二回、小さな仕事が一つ、持ちこまれた仕事といえばこれっきりです。収入総額二十七ポンド十シリングという情けなさ。
毎日、朝の九時から午後の四時まで、私の小さな事務所で待っていて、あげくはがっかりするばかりで、これでは仕事などにありつけることは、とてもないのではあるまいかと思うようになりました。
それが昨日のことです。事務所からそろそろ帰ろうと思っていましたところへ、事務員が入ってきて、一人の紳士が仕事のことで私に会いたいと、待っていると言いました。名刺を持ってきたのを見ると、『陸軍大佐、ライサンダー・スターク』と刷ってあります。
すぐあとから当の大佐が入ってきました。背は普通より高いほうですが、ひどくやせこけた男です。あんなにやせた男を見たことがありません。顔全体がとがって、それが鼻や顎になっているといったあんばいで、突き出た頬骨に皮がぴんとはっていました。
しかし、このやせ方は生まれつきと見えて、病気のせいではなかったらしく、目は輝かしく、足つきもきびきびしていて、態度も自信たっぷりでした。質素ですが小ぎれいな身なりで、年かっこうは見たところ、三十のなかばは過ぎているようでした。
『ハザリさんですね』いくらかドイツなまりがありました。『こちらをすすめてくれた人がありましてね、ハザリさん。仕事に熟達しておられるばかりでなく、分別もおありで、秘密もよくお守り下さるそうで』
私は頭を下げました。若い者ならこんなことを言われると、ついうれしくなりましてね。『私を推薦してくれたのは、どなたでしょうか』とききました。
『いや、今お話ししないほうがいいでしょう。同じ人から聞いたのですが、あなたはご両親も奥さんもなくて、ロンドンに一人住いをされていらっしゃるようですね』
『そのとおりですよ。でも失礼ですが、それは私の仕事のほうの腕とかかわりのないことでして、私にご相談というのは、仕事のことでと思っておりましたが』
『もちろん、そうなんです。しかし私の申すことが、実は肝心(かんじん)の点なのです。私は仕事のことで来たのですが、絶対に秘密を守っていただくことが大事なので。……絶対に秘密なんですよ。それで、もちろんお一人きりのほうが、家族持ちの人より望ましいわけで』
『秘密を守るとお約束したからには、ぜったいに信頼していただきたいものです』
こう言っている私を、彼はじっと見つめていまして、あんなに疑いぶかい、さぐるような目つきは、見たこともないほどでした。
『じゃあ、約束しますね』としまいに言いました。
『約束しますよ』
『ぜったいに口外しないこと。仕事の前も、最中(さいちゅう)も、あとでも。仕事のことにはいっさい触れないこと。口でも、書面でもですが』
『先刻お約束したとおりです』
『よろしい』彼はつと立ち上がって、いなずまのように部屋をかけぬけて、ドアを開いた。外の廊下には誰もいなかった。
『だいじょうぶだ』彼は部屋にもどりながら言いました。『事務員というのは、ときどき主人の仕事に耳をかしたがるものでしてね。さあ、お話ししても安全なようです』
彼は椅子を私のすぐそばへ引きよせました。そしてさきと同じように、さぐるような、考えぶかい目つきで私を見つめはじめました。この骨ばかりの男の、奇妙な、おかしなふるまいを見ていると、いやな気持と、恐怖に近い感じが起こってきました。せっかくの客をとりにがす恐れもありましたが、どうにも我慢がならない気持を表に出してしまいました。
『どうぞ要件をお話し下さい。時間が貴重ですので』あとのほうは言わなくてもよかったのに、そんな言葉が口に出ました。
『一晩の仕事をお願いして、五十ギニーではいかがで』
『大へん結構です』
『一晩の仕事と言いましたが、一時間ぐらいと言ったほうがいいですかね。ギヤが悪くなった水圧機のことで、意見を聞かせてもらえればいいんです。どこが悪いのか教えてさえもらえば、私のほうですぐに修理をします。こんな仕事ですが、いかがですか』
『簡単な仕事ですのに、お礼は大きいんですね』
『そのとおり。今夜の終列車で来てもらいたいんです』
『どちらまで』
『バークシャーのアイフォードです。オクスフォードシャーの境近くの小さな町で、レディングとは七マイルとありません。パディントン駅から乗ると、十一時十五分には向こうへ着く汽車があります』
『いいですよ』
『私が馬車でお迎えに出ますよ』
『じゃあ馬車に乗るんですね』
『そうです。田舎のへんぴな小さな町でしてね。アイフォード駅から七マイルはたっぷりあるんです』
『すると真夜中までには帰りかねますね。帰りの汽車もなさそうだし、泊まらなければなりませんが』
『そうですね、間に合わせにお休みになるぐらいの用意は、わけもありません』
『そいつはおっくうですね。もっとうまい時間に行ってはまずいんですか』
『おそく来ていただくのがいいと考えてましてね。都合の悪いことだけに、それだけのお支払いはしようというわけで。ま、まだお若い、有名でもないあなたに、お仕事のほうでは一流の専門家の意見もきけるお礼をです。また、もちろん、この仕事から手をひきたいとお思いなら、まだ時間もゆっくりありますが』
私は五十ギニーという金のこと、それだけの金があれば、ずいぶんと役に立つと思いました。
『いや、どういたしまして』私は言いました。『喜んでご希望に応じますよ。ですが、もう少しはっきり知りたいんです、どんなことをお望みなのか』
『そりゃそうですね。あなたに秘密を誓わせたりして、何かとお知りになりたいのももっともです。仕事をおまかせするからには、あなたに打ち明けずにおこうとは思いません。まさか立ち聞きされるようなことはないでしょうね』
『だいじょうぶですとも』
『では、話というのはこうなんです。たぶんご存じでしょうが、白土(はくど)というのは貴重な産物でして、イングランドでもせいぜい一、二か所でとれるだけです』
『そのようで』
『しばらく前に、私は小さな土地……ほんの少しの土地を買いました。レディングから十マイルたらずのところです。運のいいことに、地所のひとところで、白土の沈澱層(ちんでんそう)が見つかったのです。ところが、調べてみますと、この層は比較的小さなもので、それが左右にあるずっと大きな層のつなぎをしているのがわかりました。しかし左右の二つとも、両隣りの人の土地のものです。その隣りの人たちは、自分の土地に金鉱にひとしいぐらいの白土層があることなど、まったく気づいてもいませんでした。
当然のこと、その人たちが土地の本当の値打ちに気づかないうちに、それを買いとればもうかるのですが、残念なことにそうするだけの資金がありません。
そこで二、三の友人にこの秘密を打ち明けたところ、自分の小さな層をそっとこっそり掘り出して、それでもうけた金で隣りの土地を買えばいいと言ってくれました。ここしばらくそんなことをやっているわけですが、作業をはかどらせるために水圧機を備えつけました。この水圧機が、さっきも話したとおり、調子が悪くなったので、このことであなたの知恵をかりたいのです。
しかし、こちらとしてはこの秘密をなんとしても隠しているので、水力技師がわたしのほうの小さな家へ来たなんて知られでもしたら、すぐに人の目がうるさくなり、事が表向きになると、隣りの土地を手に入れて、こちらの計画をはかどらせる機会がおじゃんになってしまいますのでね。ま、そんなわけで、今夜アイフォードへ行くということは、誰にも内密にしてほしいと約束願ったのです。すっかりおわかりになっていただけたでしょうね』
『お話はよくわかりました。ただ一つ、納得がゆかないんですが、白土を掘り出すのに、水圧機がどんな役に立つんですか。白土というのは穴から砂利を掘り出すようにするんだと思っていますが』
『ああ』彼はさりげなく言いました。『こちらのやり方がありましてね。土をれんがみたいに固めて、見たところなんだかわからないようにして運び出すんですよ。だが、こんなことはつまらんことで。すっかり打ち明けてお話ししましたが、ハザリさん。あなたを信頼すればこそですよ』彼は言いながら立ち上がりました。『では、お待ちしています。アイフォードで、十一時十五分に』
『きっとまいります』
『他言は無用ですぞ』彼はさぐるような目つきで、じっと私を見つめていてから、つめたい、しめっぽい手で私の手を握ると、急いで部屋を出ていきました。
気が落ち着いてから、よく考え直してみますと、お二人ともお気づきのことでしょうが、突然もちこまれたこの仕事が、なんとも驚くべきものでした。むろん、喜びもしました。私の仕事にこちらで要求する額の、まず十倍という料金ですからね。それにこの注文から、つぎつぎに注文がくるかもしれません。
しかし一方では、客の顔つきや態度に不快な印象を受けていましたし、白土の話を聞いただけでは、わざわざ真夜中に出向いていかなければならないとも思えませんでした。私が人にしゃべりはしないかと客がひどく心配していたのも合点(がてん)がいきません。ともかく、心配はさっぱりと忘れて、夜食の腹ごしらえもし、パディントンへ馬車を走らせて出発しました。口を固くしているという約束を、ちゃんと守りましてね。
レディングでは汽車を乗りかえるだけでなく、駅もちがいます。でもアイフォードへの終列車に間に合い、十一時過ぎに薄暗い小さな駅につきました。そこに降りた乗客は私一人で、ねむたそうな赤帽がランタンをさげて一人いるだけでプラットフォームにはほかに誰もいませんでした。それでも改札口を出ますと、朝の客が向こう側の暗いところで待っていてくれました。ものも言わずに私の腕をとり、急いで馬車におしこみました。扉はあけたままにしていました。両側の窓をしめ、仕切り板をたたくと、馬車は馬の走れるだけ、けんめいに走りました」
「馬は一頭でしたか」ホームズが口をはさんだ。
「ええ、一頭だけです」
「毛色にお気づきでしたか」
「ええ、馬車に乗りこむときに、側灯の明かりで見えました。栗毛でした」
「疲れているようでしたか、元気でしたか」
「ああ、元気で、つやつやしていました」
「ありがとう。話の腰を折ってすみませんでした。どうかお続け下さい。なかなかおもしろいお話ですね」
「走りつづけで、どうやら一時間ぐらいは行きましたか。ライサンダー・スターク大佐の話では、ほんの七マイルばかりと言うことでしたが、走る早さといい、かかった時間といい、十二マイル近くはあったように思います。大佐は黙ったまま、ずっと横にかけていて、一度ならずそのほうへ目をやりましたが、向こうではひどく熱心に私を見つめているのがわかりました。
田舎道(いなかみち)はあのあたりは大してよくないと見えまして、ひどくかしいだり、揺れたりしました。どのあたりか、何か目につくものはないかと、窓から外を見ようとしてみましても、窓はすりガラスときていまして、何ひとつ見分けがつきません。時々通り過ぎる明かりがぼんやり見えるだけです。ときおり馬車の退屈をまぎらそうと、思いきって話しかけてみても、大佐はほんのひとこと返事をするだけで、話はすぐにとぎれてしまいます。それでも、とうとう、がたがた道もおしまいになって、ぱりぱりの滑らかな砂利道に入り、馬車が止まりました。
ライサンダー・スターク大佐がとびおりて、私があとにつづきますと、目の前にあいている玄関へ私をやにわにひっぱりこみました。いわば馬車からまっすぐ玄関ホールへ踏みいったわけで、家の正面へちらと目をくれることもかないませんでした。敷居をまたぐとすぐに、ドアが重々しくぴたりとしまり、馬車の遠ざかってゆく車輪のひびきがかすかに聞こえました。
家の中は真っ暗闇で、大佐は手さぐりしながらマッチをさがし、口の中でぶつぶつ言っていました。とつぜん、廊下の向こう側のドアが開いて、長い金色の光がこちらのほうへさっと射しました。その光がひろがってくると、一人の女がランプを手に、頭の上にかざして姿を見せ、顔を突き出して、私たちをじっと見ました。大へん美しい女であることがわかり、光に映(は)えて輝く黒い服のつやからしても、それが上物の品だとわかりました。女は二こと三こと、外国語で何かたずねているような調子で言い、大佐がぶっきらぼうにひとこと答えると、女はひどく驚いて、ランプを今にも落としかねないほどでした。スターク大佐は歩み寄って、女の耳に何かささやきますと、出てきた部屋へとおしもどして、大佐はまたランプを手に私のほうへ歩いてきました。
『ちょっとこの部屋でお待ち願いましょうか』
そう言って、別の部屋のドアをさっとあけました。静かな、質素なあしらいの小部屋で、中央の円テーブルにドイツ語の本が数冊散らばっていました。スターク大佐はドアのそばの小さなオルガンの上にランプを置きました。『長くはお待たせしませんよ』そう言って、闇の中へ姿を消しました。
私はテーブルの上の本に目をやりました。ドイツ語は読めませんが、そのうちの二冊は科学論文、あとは詩集であるのがわかりました。それから窓のほうへ部屋をよぎり、田舎の景色がいくらか見えはしないかと思いましたが、樫(かし)の鎧戸が、閂(かんぬき)も重々しく、窓をふさいでいます。不思議に静かな家でした。廊下のどこかで古時計がかちかち高い音を立てているだけで、ほかはすっかり死んだように静かです。ばくぜんとした不安が忍び寄ってきました。
ここのドイツ人たちは誰なのか。何をしているのか。こんな奇妙な、人里はなれたところに住んでいて。それにここはどこなんだろう。アイフォードから十マイルばかり離れたところとだけはわかっていますが、その北か南か、東か西か、いっこうにわかりません。レディングなり、ほかの大きな町なら、その半径の中にあるわけだから、ここはそんなにへんぴなところではないのかもしれない。しかしこんなに静かなのをみると、確かに田舎にはちがいがない。
私はひっそり鼻歌をうたいながら部屋を行ったり来たりして元気をつけようとしました。まるまる五十ギニーもうけるんだと思ったりしました。
ふと、静まり返っているさなかに、なんの前ぶれもなしに、部屋のドアがゆっくりと開きました。さっきの女が入口に立っていて、そのうしろの玄関ホールはまっ暗、私のランプの黄色い光が、女のさしせまった、美しい顔に射しています。一目で、この女が恐怖におびえているのがわかり、それを見ると、私の心もぞっとしました。女はふるえる指を一本あげて、私に物を言うなと合図をし、片言の英話で二こと、三ことささやきながら、おびえた馬のような目で、うしろの闇をちらと見返りました。
『逃げて!』女はけんめいに静かに言おうとしているようでした。『逃げて。ここにいてはいけません。あなたのためになりませんわ』
『ですが、まだ呼ばれた仕事がすんでいないんです。機械を見るまでは帰れそうにありません』
『お待ちになってもむだですわ。ドアから抜けられます。じゃまをする者はありません』
それから、私が笑いながら首を振るのを見ると、とつぜん遠慮がちな様子をかなぐりすてて、一足前へよるなり、両手をふりしぼった。
『お願い』女は小声で言った。『ここから逃げて。おそくならないうちに!』
私は生まれつき、いくらか頑固(がんこ)なたちで、何かじゃまが入ったとなると、なおのこと、それがやりたくなるのです。五十ギニーのお礼、うんざりした旅、目先にある不愉快な夜のことを考えました。こんなことがみんな、なんにもならなくなってしまうのか。依頼の仕事も仕上げず、当然もらうはずのお礼も受け取らずに、なぜ逃げ出さねばならないのか。この女はどうやら偏執狂(へんしゅうきょう)かもしれない。それでも、このひとの態度を見て、実はびくびくものでしたが、きっぱりと頭をふって、ここに居すわるつもりだと言ってやりました。
女が重ねて頼みをきいてくれと言おうとしたとき、頭の上でドアがばたんとしまり、数人の足音が階段に聞こえました。女はちょっと耳をすまし、もうだめだとばかりに両手をかざすと、入ってきたときのようにさっと、音もなく、消えてしまいました。
入れちがいに入ってきたのはライサンダー・スターク大佐と背の低い、ずんぐり肥った男で、二重顎のひだからチンチラりすみたいなひげをはやしていて、大佐はファーガスン氏だと紹介しました。
『こちらは私の秘書で、支配人です』大佐は言いました。『はて、このドアはさっきしめていったばかりと思っていたが。すき間風が入りませんでしたか』
『どういたしまして』私は言いました。『私がドアをあけたんです。部屋が少し、むっとするようでしたので』
彼はいつものさぐるような目つきを投げかけました。『では、仕事にかかっていただくとしましょうか。ファーガスンさんと私が機械をお見せにお連れしましょう』
『帽子をかむっていくほうがいいでしょうね』
『いや。機械は家の中なんです』
『なんですって。家の中で白土を掘っていらっしゃるんですか』
『いや、いや。ここでは土を圧縮するだけですよ。だがそんなことは気にかけないで。あなたは機械を調べて、どこが悪いか教えてくれさえすればいいのです』
私たちは一緒に二階へあがりました。大佐がランプを持って先に立ち、肥った支配人と私があとにつづきました。まるで迷宮のような古い家で、廊下、通路、狭いらせん階段、小さな低いドアがあり、そのドアの敷居は何代もにわたる人に踏まれて、くぼんでいます。二階から上は敷物もなければ家具のひとかけらもなく、壁の塗りははげ落ち、湿気がにじんで、緑色の不健康なしみになっています。できるだけ気にもしないふりをしていましたものの、さっきの女の警告は、無視していたとはいえ、やはり忘れることもできませんで、二人の連れには油断なく目をつけておりました。ファーガスンはむっつりと無口な男のようでしたが、ほんの一こと、二こと話してみたところでは、どうやら同じイギリス人だとわかりました。
ライサンダー・スターク大佐はやがて一つの低いドアの前に足をとめ、その鍵をあけました。中は小さな四角い部屋で、三人が一度に入れるかどうかというくらい。ファーガスンが外に残って、大佐が私を中へいざないました。
『さて私たちですがね』彼は言いました。『実は、水圧機の内部にいるわけで。誰かが機械を動かしたりするとこいつはひどいことになりますよ。この小室の天井は下降ピストンの先なので、おりてくればこの金属の床に何トンもの力がかかります。外側には小さな側面水管がいくつもあって、その圧力を伝達し、倍加していくわけで、その仕かけはご存じのとおりです。機械はちゃんと動くんですが、その動きがぎこちなくて、圧力がほんの少しさがります。ひとつお調べをいただいて、どうしたらうまく直せるか、教えてもらいたいのですが』
私はランプを受け取って、機械を隅から隅まで調べました。全く巨大な機械で、すごい圧力をかけることができます。でも外側へまわって、調節するレヴァーを押しさげてみますと、シューシューいう音かするので、すぐに、ちょっとした水もれがあって、横の水管の一つで逆流するのだとわかりました。調べてみましたところ、動桿(どうかん)の頭に巻いてあるゴム・バンドの一つがちぢんでいて、それを受けるソケットとの間にすき間がありました。これが明らかに圧カ低下の原因で、先の二人にこのことを言ってやりますと、私の言葉をじっくり聞いていて、どうしたら故障が直せるか、実際的な質問をいくつかしました。納得のいくように説明をして、もう一度水圧室へもどり、おかしな話の様子をはっきりさせようと、室内をよく見まわしました。
白土の話なんて、全くの作り話であることが一目ではっきりしました。こんなに強力なエンジンをまるで見当ちがいな目的のために作るなんて、考えるのもばかばかしい話ですからね。周囲の壁は木製ですが、床は大きな鉄板盤になっていまして、それを調べてみますと、床一面に金属のうす皮みたいなのがくっついています。かがみこんで、これを掻(か)きはがして、何であるかをよく見ようとしましたときに、ドイツ語で小声に叫ぶ声が聞こえて、死人のような顔をした大佐が私を見おろしているのが見えました。
『そこで何をしているのかね』とたずねました。
あんなに念入りな話をたくらんで、口車にのせられたかと思うと腹が立ちました。『おみごとな白土ですね。機械のことをもっとよく助言してあげられますのにねえ、なんに使うのか、はっきりした目的がわかっていましたらね』
こんなことを口にしたとたん、軽はずみなことを言ったものだと後悔しました。大佐の顔がきっとこわばり、その灰色の目に不吉な光がきらりとしました。
『いいとも。機械のことがすっかりわかるよ』
そう言って大佐は一歩さがると小さなドアをばたんとしめ、錠に鍵をかけました。私はドアへかけより、把手(とって)をひっぱりましたが、ぴたりと閉まったままで、蹴ろうが押そうが、びくともしません。
『もし』私はわめきたてました。『もしもし! 大佐! 出して下さい!』
すると、とつぜん、静かな中で心臓のちぢみあがる音が聞こえました。がたんというレヴァーの音とシューシューいう水管の水もれの音です。大佐がエンジンをかけたのでした。ランプは鉄板盤を調べたときに置いたままで、まだ床にあります。その明かりで、黒い天井が、ゆっくり、ぐいぐいとさがってきます。その力は一分としないうちに私をくだいて、形もとどめないほどぐしゃぐしゃにしてしまうことは、私が誰よりもよく知っています。私は悲鳴をあげてドアに身体をぶっつけたり、爪で錠をひっかいたりしました。出してくれと大佐に哀願しましたが、レヴァーのがたがたいう音が、情容赦(なさけようしゃ)もなく私の叫びを消してしまいます。天井は頭上一、二フィートのところにせまり、手をあげればその固いざらざらした表面にさわれます。すると心にひらめいたのは、死の苦痛は身体の位置によってちがうのではないかということです。うつぶせになれば、重さが背骨にかかって、そのときのばきばきとつぶれることを思ってぞっとしました。反対のほうが楽かもしれない。でも上向きに横になって、あの恐ろしい黒い影がのしかかってくるのを見上げられようか。もうまっすぐ立ってはおれなくなりました。そのとき、何かが目について、心に希望が湧(わ)き返ってきました。
申し上げましたが、床と天井は鉄でできていますが、周囲の壁は木製です。これを最後と急いで見まわしますと、二枚の板の間からかすかに一すじ、黄色い光が見えます。その明かりが、小さな羽目板がうしろへそり返っていくにつれて、だんだん太くなります。
一瞬、こんなところに死から逃げ出せる出口があろうとは信じられないくらいでした。次の瞬間、身体をぶっつけて突き抜け、向こう側へなかば気を失って倒れてしまいました。羽目板はまたうしろでしまってしまいましたが、ランプのくだける音、つづいてすぐ二枚の鉄板がかちあう音がして、ほんとに危機一髪で助かったことがわかりました。
やっきに手首をひっぱられてわれに返りますと、倒れていたのは狭い廊下の石床の上でして、一人の女が私のほうへかがみこみ、その左手で私をひっぱっているのです。右手にはろうそくを持っていました。さっきの同じ親切な女で、その警告をないがしろにしたりして、私は馬鹿なことをしたものです。
『さあ、いらっしゃい!』女は息をきらして叫びました。『みんながすぐここへ来ますよ。あなたがあそこにいないのに気がつきます。ああ、大事な時間をむだにしないで、いらっしゃい!』
今度ばかりは彼女の忠告をむげにはしませんでした。よろよろと立ち上がって、二人で廊下をかけ、らせん階段をおりました。そこから広い通路につづき、そこまで行きつくとすぐ、走ってくる足音と二人のわめき声が聞こえました。一人が答える声は私たちのいる階から、もう一人のは下から聞こえます。案内の女は足をとめ、途方にくれたようにあたりを見まわしました。それから女は寝室につづくドアを押しあけました。その部屋の窓から月がこうこうと射しこんでいます。
『これよりほかにありません。高いですが飛びおりることもできましょう』
女がそう言ったとき、廊下の向こうのはずれに明かりがさし、やせた姿のライサンダー・スターク大佐が片手にランタンを持ち、片手には肉屋の包丁のような刃物を持って、こちらへかけてくるのが見えました。私は部屋をかけぬけ、窓をさっと開いて外を見ました。庭園が月の光をあびて、まことに静かで美しく、すがすがしいものでした。下まで三十フィートはなさそうです。窓のふちによじのぼりましたが、飛びおりるのをためらいました。助けてくれた女の人と、私を追ってくる悪漢との間に、どんなことがもちあがるか、聞きとどけるまでは飛ぶこともなりません。彼女がひどい目にあうようなら、どんな危険をおかしてでも、助けにもどろうと心をきめました。
そう思いつくかつかないうちに、大佐はドアのところへ来ていて、その女のそばをぬけてこちらへ向かってきます。しかし女は両腕で大佐をかかえて、引きもどそうとしました。
『フリッツ! フリッツ!』彼女は英語で叫びました。『この前の約束を忘れないで。もうしないとおっしゃったのに。このかたは黙っています。ああ、黙っていますわ』
『気でも狂ったのか、エリーゼ』
彼は叫びながら、女の手をもぎはなそうとします。『おれたちをめちゃくちゃにしようというんだな。奴にはいろいろ見られたんだ。放せったら』
女を突きとばして、窓へかけよると、重い刃物で私を切りつけました。私は外へ乗り出し、窓にぶらさがって、両手をわくにかけていたところを、ずしんとやられたのです。にぶい痛みを覚えて手をはなすと、下の庭園に落ちました。
気も転倒しましたが、落ちてけがはしませんでした。それではねおきると、茂みの中へ走れるだけけんめいにかけこみました。まだまだ危険からまぬがれたとは思えなかったからです。しかし、走っているうちに急にひどい目まいがして、気分が悪くなりました。
手を見やりました。ずきずき痛んでいたのですが、そのときはじめて、おや指が切り落されて、血がとめどもなく流れているのに気づきました。やっとの思いで傷口にハンカチを巻きつけましたが、急に耳なりがしだして、死んだように気がとおくなって、ばらの茂みの間に倒れてしまいました。
どれくらい気を失っていたかはわかりません。ずいぶん長い間だったにちがいありません。気がついてみますと、月は消えてしまっていて、明るい太陽がさしかかっていましたから。着物はすっかり露にぬれ、上衣の袖はおや指の傷からの血でべっとりです。傷の痛みに、すぐと昨夜の冒険の一部始終を思い出し、追手からまだ安全に逃れたわけではないと思って、はねおきました。しかし驚きましたことに、あたりに目をやってみますと家も庭も見当たりません。街道すじにそった、生け垣の角に倒れていたのですが、少し下手(しもて)に長い建物があって、近づいていくと、昨夜着いた、あのアイフォード駅だとわかりました。手にひどい傷さえなかったら、あの恐ろしい何時間もの間の出来事は、すべて悪夢だったとしか思えなかったでしょう。
なかばぼんやりと、駅へ入って朝の汽車のことをたずねました。一時間たらずでレディングへの汽車があるそうです。同じ赤帽が働いていました。昨夜着いたときにいた男です。その赤帽にライサンダー・スターク大佐の名を知らないかときいてみました。そんな名は知りませんでした。
昨夜私を待っていた馬車には気づかなかったか。
いいえ、気づいておりません。
近くに警察がないか。
三マイル離れたところにあります。
こんなに弱ってけがをしていては、とてもそこまで行けません。しばらくあとにして、ロンドンへ帰ってから警察へ届けることにしました。着いたのは六時少し過ぎで、とりあえず傷の手当をしてもらいに行きますと、先生がご親切にこちらへお連れ下さったのです。事件をおまかせいたします。お指図どおりにいたしましょう」
この奇態(きたい)な話を聞いてからも、しばらく私たち二人は黙ったままで腰をおろしていた。やがてシャーロック・ホームズは本棚から、切り抜きをはってある部厚い備忘録(びぼうろく)を一冊を抜き出した。
「ここにおもしろい広告が出ていますよ。一年ばかり前にどの新聞にも出たものです。聞いて下さい……『行方不明。今月九日。氏名、ジェレマイア・ヘイリング。二十六歳。水力技師。下宿を夜の十時に出て、以来消息不明。服装は……』
はあ! こいつは、大佐が機械を調べてもらう必要のあった、この前のときのを示しているらしいですね」
「そうだ!」患者が叫んだ。「これこそ、あの女が言いたかったことだ」
「確かにね。大佐は冷酷で向こう見ずな男ですね。自分の仕事にじゃま立てはさせないときめている奴で、捕えた船に乗っている人間を誰一人生かしてはおかないという、徹底した海賊みたいな男です。さあ、こうなってはぐずぐずしていられない。あなたも行けそうだったら、アイフォードへ出かける準備に、すぐ警視庁へ行きましょう」
三時間かそこらのちには、私たちは一緒の汽車に乗りこんで、レディングからバークシャーの小さな村へと向かっていた。シャーロック・ホームズ、水力技師、警視庁のブラッドストリート警部、私服刑事、それに私といった面々だった。ブラッドストリートはこの地方の陸軍測量地図を座席の上にひろげて、アイフォードを中心にコンパスで一心に円を描いていた。
「これですがね」警部が言った。「この円は村を中心に半径十マイルに描いたものです。目的の場所はどこかこの線の近くにちがいありません。十マイルというお話しでしたね、ハザリさん?」
「馬車で一時間はたっぷりでした」
「あなたが気を失っておられた間に、大佐の連中がその道のりを連れ戻したとお考えですね」
「それにちがいありません。記憶もあいまいなのですが、かつがれてどこかへ運ばれたようです」
「私にわからないのは」私は言った。「なぜあの連中が、庭に気を失って倒れているあなたを見つけながら、殺してしまおうとしなかったのでしょうか。悪党も女に泣きつかれて、気をやわらげたんでしょうね」
「どうも、そうとは思えないんですよ。あんなに情容赦(なさけようしゃ)ない顔つきは、これまで見たこともありませんものね」
「ああ、すぐにすっかりわかりますよ」ブラッドストリートが言った。「ところで円はひいてみたんですが、目ざす相手がこの円のどの点にいるかを知りたいものですよ」
「ここだと、指さしできますがね」ホームズが静かに言った。
「ほんとですか!」警部が大声をあげた。「見当がおつきですね! さあ、では、誰があなたの意見と一致するでしょうか。僕は南と見ます。こっちはずっと淋しいところですからね」
「私は東ですね」私の患者が言った。
「僕は西のほうと考えます」私服が言った。「そっちに静かな小さな村がいくつかありますからね」
「僕は北のほうだな」私は言った。「そっちには山はないし、技師さんの話では馬車が坂をのぼったとは思えないそうですからね」
「さあ」警部が笑いながら言った。「きれいに意見が分かれましたね。じつに東西南北です。あなたの決定票は誰に入れますか」
「みんな、まちがっていますね」
「みんながまちがっていることはありませんよ」
「ああ、あるんです。私はこの点です」ホームズは円の中心に指をさした。「ここが相手の居どころですよ」
「でも、十二マイルは馬車に乗ったんですよ」ハザリが息をはずませた。
「六マイル出て、六マイル引き返したのです。こんな簡単なことはありません。馬車に乗りこんだとき、馬が元気でつやつやしていたとおっしゃいましたね。悪い道を十二マイルも走ってきて、そんなわけにはいきませんよ」
「まったく、やりそうな策略だ」ブラッドストリートが考えこんで言った。「もちろんあのギャング一味の性格については疑いの余地はありません」
「ありませんとも」ホームズが言った。「一味は大規模なにせ金づくりで、機械を使って、銀のかわりにアマルガムをこしらえていたのです」
「頭のいいギャングが、仕事をしているとは、この間からわかっていました」警部が言った。「一味は半クラウン金貨を千個もつくっていました。レディングまでは筋をつけましたがね。それからが手がつきません。姿のくらましぶりは、どうしてなかなか、したたか者ですからね。ところへ、この話で、今度はのがさず星をあげられますよ」
しかし、警部はまちがっていた。ギャング一味は警察の手に捕えられる運命にはなっていなかったからである。アイフォード駅にすべりこむと、巨大な煙の柱が見え、近くの木の茂みのうしろから立ちのぼっていて、大きな駝鳥(だちょう)の羽根のようにあたりの景色をおおっていた。
「火事かね」汽車がふたたび駅を離れて動き出したときに、ブラッドストリートがたずねた。
「そうなんです」駅長が言った。
「いつ燃え出したんですか」
「夜中だそうでして。それが燃えひろがりまして、一面火の海なんです」
「誰の家ですか」
「ベチャー博士のお宅です」
「ねえ」技師が口をはさんだ。「ベチャー博士はドイツ人じゃありませんか。やせて、長い、とんがった鼻で」
駅長はおもしろそうに笑った。「いいえ、ベチャー博士はイギリス人で、この教区にはあんなかっぷくのいい人はおりませんよ。しかしどなたか一人、あそこに一緒にいたようで、病人でしょうね、外国人でして。バークシャーの牛肉のいいところなら、少々はあの身体にさわらないようですよ」
駅長のおしゃべりが終わらないうちに、わたしたちはみんな火事のほうに向かって急いだ。道が低い丘をのぼりつめると、目の前に横にのびた白亜の大きな建物があらわれて、すき間や窓のどこもかしこからも火が吹き出していて、前庭の三台の消防車も火勢を静めようとしているのだが、いっこうにきき目がなかった。
「この建物だ!」ハザリが興奮しきって叫んだ。「車を入れる砂利道がある。私が倒れていた、ばらの茂みがあります。あの二番目の窓から飛びおりたんですよ」
「まあ、どうやら」ホームズが言った。「これであなたも仕返しをしたというわけですよ。まちがいなく、あなたの持っていた石油ランプのせいですね。圧(お)しつぶされたときに、木の壁に燃えうつったのです。きっとあなたを追いかけるのに夢中のあまりに、ギャングたちはそのときは気がつかなかったのですよ。さあ、この野次馬連中の中に、昨夜の連中がいないか、じっくり見て下さい。まず今ごろは、百マイルはたっぷり高飛びしていることとは思いますがね」
ホームズの懸念(けねん)は事実となってあらわれた。
その日から今日まで、美しい女のことも、悪者のドイツ人のことも、むっつりやのイギリス人のことも、いっこうに消息を聞かないからである。あの朝早く、一人の農夫が馬車を一台見かけていて、人が数名、何かひどくかさばった箱をいくつかのせて、レディングのほうへ急いで走っていったらしいが、高飛び犯人たちの足どりはつかめず、ホームズの才覚をもってしても、彼らの行方をさぐる手がかりを見つけることはできなかった。
消防夫たちは、建物の中に見つけた奇妙な設備にひどくいぶかしげだったが、三階の窓しきいに切りとられたばかりの人間のおや指を見つけて、なおのこと驚くばかりだった。
それでも日暮れごろには、消防夫の努力もやっとうまくいって、火の勢いもおとろえたが、すでに屋根もくずれ落ちたあとで、建物全体が全くの焼け跡となり、へし曲がったシリンダーや鉄管のいくつかのほかは、不運な友人の技師にこんな高価な儀牲をはらわせた機械は、すっかりあとかたもなくなっていた。ニッケルと錫(すず)の大きなかたまりがいくつか離れの納屋に貯蔵してあるのが見つかったが、貨幣は一枚も見当たらなかった。さきに述べたように、かさばった箱のいくつかを馬車に積んでいたというのが、臭いようである。
水力技師が庭園から意識をとりもどした地点へ、どうして運ばれたかということも、永久の謎になるところだったが、幸い土がやわらかかったために、簡単に説明がついた。技師は明らかに二人の人物によって運ばれたのであった。その一人はひどく小さい足をしていて、いま一人は人なみはずれた大足だった。
あれやこれやからみて、無口なイギリス人は、仲間ほどには大胆でも兇悪でもなかったらしく、あの女に手をかして、意識不明の技師を危険のないところへ運んでいったものであろう。
「やれやれ」われわれがロンドンへの帰りの汽車で席に着いたとき、ハザリ技師がいまいましそうに言った。「私には大した仕事でしたよ。おや指はなくするし、五十ギニーのお礼はふいになるし、なんの得がありましたかねえ」
「経験ですよ」ホームズが笑った。「目に見えなくとも役に立つものですよ。その話を人に聞かせるだけで、これから生涯の間は、すてきな話相手だという評判が得られますとも」
セント・サイモン卿の結婚と、その奇妙な破局の話は、この不幸な花婿(はなむこ)が空気を吸っている上流社会では、もうとっくの前から関心をひく話題ではなくなっている。つぎつぎと新しいうわさの種がそんな昔話の影を薄くし、もっと気をそそるような話のたねで、四年前のこうした芝居もどきの出来事など、今では人の口にのぼらなくなっている。しかし、わけあって私の信ずるところでは、事実のすべてが世間の人々に知れ渡っているわけではないし、わが友シャーロック・ホームズがこの事件を解決するについては一役も二役も買っているのであるから、ホームズの回想録を完全なものにするには、この特筆すべき事件にいささかでも触れることなしにはすまされないように思う。
私が結婚する前の二、三週間、まだベイカー街でホームズと同じ部屋に暮らしていたころだが、ホームズは午後の散歩から帰ってきて、テーブルの上に置かれた人待ち顔な一通の手紙に目をとめた。私は一日じゅう部屋に閉じこもっていた。にわかに雨もようになっていたし、秋の強い風が吹きそい、アフガニスタンの戦線に出ていたときの記念に、片足におさめて持ち帰ったジゼイル弾のあとが、しくしくといつまでもうずいていたからである。身体を安楽椅子にうめ、前の椅子に両足をのせて、新聞の山を読み散らしていたが、しまいにはその日のニュースも読みあきたので、テーブルの上の封筒にある大きな紋章や頭文字の組み合わせを見やって、ホームズの友人で、貴族の誰がこの便りをよこしたのだろうかと、ぼんやり考えていた。
「高貴の方から手紙が来ているよ」入ってきたホームズに言った。「朝の郵便は、たしか魚屋と税関吏からだったね」
「そうだよ。僕への手紙はいろいろあって、確かにおもしろいね」彼は答えて笑った。「粗末なやつほど、えてしておもしろい。この手紙はありがたくもない社交の招待状だろう。よく来るやつさ。退屈させるか、嘘をつかせるために招待する手合いだよ」
ホームズは封をきって、なかみに目を走らせた。
「おや、はて、どうやらおもしろいことになりそうだよ」
「社交的のやつじゃないのかい」
「ちがう。明らかに仕事の依頼だ」
「依頼人は貴族か」
「イングランド最高の名門の一つだよ」
「やあ、それはおめでとう」
「ねえ、ワトスン、気どってるわけじゃないが、依頼人の身分なんかより、僕には事件のおもしろさのほうが大切なんだ。だがどうやら、この新しい調査には、おもしろさがなくもなさそうだよ。君、このごろ新聞を丹念(たんねん)に読んでいたっけね」
「そうのようだね」私はこれがわからないのかとばかり、山のような新聞の束を指さした。「いっこうほかにすることもないんでね」
「そりゃあいいぐあいだ。情報を聞かせてもらえそうだ。僕は犯罪事件と凶報欄しか読まないんでね。凶報欄はいつも参考になるよ。君が最近の事件をくわしく読んでいるんだったら、セント・サイモン卿の結婚のことも読んだろうね」
「ああ、読んだとも。とてもおもしろかったよ」
「それは何より。僕が手にしている手紙はそのセント・サイモン卿から来たんだ。読んで聞かせるから、かわりにここの新聞をひっくり返して、この件について書いてあることはなんでも教えてくれたまえ。文面はこうだ……
シャーロック・ホームズさま
バックウォーター卿から承(うけたまわ)りますれば、貴下のご判断、ご思慮には全幅の信頼をおけるやに聞いております。ついては参上のうえ、私の結婚に関して起こりました、まことに慮外(りょがい)な事件につきまして、相談させていただきたいと存じます。警視庁のレストレイド警部がこの件に乗り出しておりますが、警部も貴下のご協力には異議なく、大いに助かるとさえ考えております。午後四時にお訪ね申し上げますゆえ、もしそのせつに他約がおありならば、なにとぞそのほうをお延ばし下されたく、本件はきわめて重要なものにございますので。 敬具 ロバート・セント・サイモン
グローヴナ・マンションズから出したもので、鵞(が)ペンで書いてある。「このお殿さまはお気の毒に、右の小指の外側へインクのしみをつけたと見えるね」ホームズは手紙をたたみながら言った。
「四時といえば、もう三時だ。一時間もすればやって来るよ」
「じゃ、その間に、手をかしてもらって問題をはっきりさせておこう。あの新聞をめくって、関係のある記事を時間の順にそろえてくれたまえ。そのあいだに依頼人の身元を調べておくよ」
ホームズは暖炉のわきに一列に並べてある参考書の中から赤表紙の一冊を取り出した。「ここにあった」彼は言いながら腰をかけて、膝の上にそれをひろげた。
「ロバート・ウォルシンガム・ド・ヴィア・セント・サイモン、バルモラル公爵次男……ふむ! 紋章、空色地に黒い中帯、その上部に三つの[れい]鉄がある。一八四六年生まれ。四十一歳というと、結婚するにはもってこいの年だ。前内閣の植民次官。父の公爵は元の外務次官。プランタジネット王家の直系にあたり、母方はチューダー王家の血統だ。はあ! これだけではいっこうに参考にはなりはしない。ワトスン、君のほうのお世話にならないと、もっとはっきりしたことがわからないよ」
「すぐわけなく、必要なことが見つかるよ。最近の話なんだし、ちょっとおもしろいと思ったからね。でも君に話すのはどうかと思ったんだ。調査を一つ手がけていたし、他のことでわずらわされるのは迷惑だろうと考えてね」
「ああ、グローヴナ・スクエア家具運搬(うんぱん)車のちょっとした事件のことだね。あれはすっかり解決がついている……実ははじめからはっきりしていたんだがね。さあ、新聞をひろったところを教えていただこうか」
「どうやらこれが最初の記事らしい。モーニング・ポストの消息欄にあるんだが、日付は、このとおり、数週間前のものだ。
『婚約成立。うわさによれば、近々挙式のよし。新郎はバルモラル公爵次男ロバート・セント・サイモン卿、新婦は合衆国カリフォルニア州、サンフランシスコ在、アロイシャス・ドーラン氏の一人娘ミス・ハッティ・ドーランである』それだけだよ」
「簡潔にして要を得ている」そう言いながら、ホームズは長いやせた両足を火のほうへのばした。
「もっとくわしく書いたのが、同じ週の社交界の新聞の一つに出ていたんだが。ああ、これだ。
『やがて結婚市場に保護政策を要求する声があがるだろう。現在の自由貿易制度はわが本国産に対して好ましい結果にならないようだからである。つぎつぎと、大英帝国貴族の家門の支配権は、大西洋を渡ってくるわれらの美しい従姉妹(いとこ)たちの手に帰しつつある。先週も、これら美しい侵入者たちに獲得された数々の栄冠に、また一つ重大な追加がなされた。
セント・サイモン卿は、ここ二十年以上もキューピッドの愛の矢を寄せつけようともしなかったものだが、このたびカリフォルニアの百万長者の魅力あふれる令嬢ミス・ハッティ・ドーランと近く結婚するむねを公表された。ミス・ドーランの優雅な容姿と美麗(びれい)なかんばせは、ウェストベリ・ハウスの夜会で衆目(しゅうもく)をひいたものであるが、富豪の一人娘であって、最近伝えられるところでは持参金百万ポンドを越えると称され、将来さらなる遺産を受け継ぐとも言われている。
バルモラル公爵はここ数年来、所蔵の絵画を売りに出す事情にあることは公然の秘密であり、セント・サイモン卿は自分の財産としてはバーチムーアの小さな領地のほかにはこれといってないのであるから、カリフォルニアの世継(よつぎ)の令嬢が、この結婚によって共和国貴婦人からイギリス貴族の玉の輿(こし)にのるのも、彼女だけが得をするのではないことは明らかである』」
「ほかに何かないかい」ホームズはあくびをしながらきいた。
「ああ、あるとも。たくさんあるよ。それじゃ、モーニンダ・ポストの別の記事によるとだね、結婚はごく内輪に、ハノーヴァー・スクエアのセント・ジョージ教会で挙式、五、六名の新しい友人が参列するだけで、一行はアロイシャス・ドーラン氏が手に入れた、ランカスター・ゲイトの家に引きあげるとある。二日ののち……つまり、先週の水曜日には、結婚式が行なわれて、蜜月はピーターズフィールド近くの、バックウォーター卿の邸で過ごされる、と簡単に出ている。こんなところが新聞に出た記事の全部で、それからが花嫁の失踪(しっそう)だ」
「それから何だって?」ホームズがびっくりしてきいた。
「花嫁が消失したんだよ」
「いつ消えたのかい」
「披露宴(ひろうえん)でだ」
「なるほど。これは思ったよりおもしろいね。まったく芝居もどきだね」
「そうだよ。僕も少々けたはずれだと思ったよ」
「式の前に消えるのはよくあるし、新婚旅行中にいなくなるというのも時にあるが、これほど即座に消え失せたというのは、ちょっと思い当たらないね。くわしく話してくれたまえ」
「言っておくけれど、すっかりとはいかないんだよ」
「こちらでいくらか補(おぎな)いがつくだろう」
「出ているといえば、昨日の朝刊に大きく出ているよ。読んで聞かせよう。見出しは、[上流結婚式での椿事(ちんじ)]
『ロバート・セント・サイモン卿一家は、その結婚式にさいして起こった奇妙ないたましい事件によって、極度に驚愕(きょうがく)している。昨日の各紙上に簡単に報ぜられたとおり、昨日挙式されたが、今に至って、これまではびこっていた奇怪なうわさが確認されることになった。卿の友人諸氏がこの件のもみ消しにつとめているものの、すでに世間の注目の的(まと)となっているので、一般の話題になっているものを無視しようとも、なんら益のないことである。
ハノーヴァー・スクエアのセント・ジョージ教会でとり行なわれた結婚式はきわめて内輪のもので、参列者は新婦の父アロイシャス・ドーラン氏、バルモラル公爵夫人、バックウォーター卿、新郎の弟妹に当たるユースタス卿とクレアラ・セント・サイモン嬢、及びアリシア・ウィッティントン嬢だけにすぎなかった。
一行は式後、ランカスター・ゲイトのアロイシャス・ドーラン邸におもむいた。同邸に披露宴の準備がととのえられていたが、ちょっとしたいきさつを起こしたのは一女性であるらしく、その女の氏名は確認されていない。
女は新郎新婦の一行につづいてこの邸に押し入ろうとし、セント・サイモン卿に何か要求があると申し立てた。いやないざこざがしばらくつづいたのち、やがて執事と下男がこの女を追い立てた。
花嫁は、幸いこの不愉快なじゃま立てがある前に家の中に入っていて、他の人々とともに披露宴の席についていたが、急に気分が悪くなったといって、自室に引き下がった。
かなり長く姿を見せなかったので、どうしたのだということになり、彼女の父が様子を見に出向いた。しかし女中の話で、花嫁はちょっと部屋に立ち寄っただけで、外套(がいとう)と帽子を持って廊下へ足早にかけていったとわかった。下男の一人がはっきり言うところでは、そういう服装の女性が家を抜け出すのを見たが、それが花嫁だとは思いもよらず、花嫁はてっきり宴席につらなっているものと思っていたのである。令嬢の失踪を確かめると、アロイシャス・ドーラン氏は、新郎とたずさえて、すぐに警察へ連絡し、目下、全力をあげて捜査中であるから、この奇妙な事件もすみやかに解決するものと思われる。しかし昨夜おそくになっても、失踪した花嫁の行方はようとしてわかっていない。
この事件には不正がからんでいるという噂(うわさ)がしきりで、警察も先のいざこざを引き起こした女の逮捕手配をした。嫉妬(しっと)か、あるいは何か他の動機で、花嫁の奇妙な消失に関係あるものと見ているよし』」
「それだけかい」
「ほかの朝刊に、短い記事がほんの一つ。だが大いに参考になるよ」
「で、それは?」
「あのミス・フローラ・ミラー、騒ぎを起こした女だがね、ちゃんと逮捕された、とある。もとアレグロ座の踊り子で、数年来、新郎と知り合いらしい。これ以上のことは書いてないが、これで事件のあらましが君にわかったわけだ。……まず新聞に出ただけのかぎりはね」
「とてもおもしろい事件のようだ。どうあってもこいつは見逃したくないね。ところでベルが鳴っているよ、ワトスン。時計が四時を二、三分過ぎているから、これはきっと高貴の依頼人だよ。行かないでくれよ、ワトスン。証人がいてくれるほうがいいからね。僕の記憶を確かめられるだけでもね」
「ロバート・セント・サイモン卿です」取り次ぎが言って、ドアをあけた。一人の紳士が入ってきた。
気持のいい、教養のある顔つきで、鼻は高く、顔色は青く、口のあたりにどこかかんしゃく持ちらしいところが見え、落ち着いた、ぱっちりした目は、いつも命令をして仕えられている結構な生まれつきの人を思わせた。きびきびした態度ではあったが、見かけたところは年に似合わず老(ふ)けた感じだった。少々前かがみで、膝を少し曲げて歩くからである。髪の毛も、つばのまくれた帽子をぬぐと、まわりの生えぎわに白いものがまざって、てっぺんが薄くなっていた。身につけているものといえば、きざっぽいとも思えそうなこりようで、高いカラー、黒のフロック・コート、白チョッキ、黄色い手袋、エナメル靴、薄色のゲートルといった身づくろいである。ゆっくりと部屋に入ってきて、左右に頭を向け、金ぶちの鼻眼鏡のひもを右手で振っていた。
「今日は、セント・サイモン卿」ホームズは立ち上がって、お辞儀をした。「どうかその籐椅子(とういす)へどうぞ。こちらは友人で同僚のワトスン博士です。もすこし火のお近くへ。ご依頼の件をご相談いたしましょう」
「ご推察いただけると思いますが、たいへん心を痛めております、ホームズさん。弱ったものです。こんなふうな微妙な事件はいくつか手がけられたと承知していますが、私などの上流階級にはめったにないことでしょうね」
「いえ、そんなことはありませんが」
「と、おっしゃると」
「この前の、こうした件での依頼人は、国王陛下でした」
「これは、これは! 思いがけないことで。で、どちらの国王ですか」
「スカンディナヴィア王です」
「なんですって! 后(きさき)がいなくなったのですか」
「おわかりでしょうが」ホームズはおだやかに言った。「ほかの依頼人の事件は秘密を守ることにしております。あなたにも約束するのと同じことです」
「もちろんです! ごもっとも! ごもっとも! 失礼しました。ところで私の事件ですが、お考えに役立つことはなんなりと申し上げるつもりでおります」
「ありがとうございます。新聞に出ておりますことはすっかり存じあげておりますが、それ以外のことはいっこうにわかっておりません。まちがいないことと思ってよろしいかと思いますが……たとえば花嫁の失踪に関するこの記事ですが」
セント・サイモン卿はそれにざっと目を通した。「ええ、まちがいありません、このことに関しては」
「ですが、かなり補足いたしませんことには、なんとも意見のまとめようもありません。質問させていただくのが、事実をつかみますのに、手っとり早いと思いますので」
「どうか、たずねて下さい」
「ハッティ・ドーランさんとはじめてお会いになったのは、いつでしたか」
「サンフランシスコで、二年前です」
「アメリカを旅行しておられたんですね」
「そうです」
「そのときに婚約されたんですか」
「いいえ」
「ですが、親しい仲ではいらっしゃいましたね」
「あの人との交際は楽しみでしたし、向こうも私が楽しんでいるのを知っていました」
「その方のお父さんは大へんなお金持ですか」
「太平洋岸では一番の富豪ということです」
「すると、そんなお金を、どうして作ったのですか」
「鉱山でして。二、三年前は無一文だったのです。その後、金を掘り当て、もうけを投資して、とんとん拍子に成り上がったのです」
「ところで、そのお嬢さんの……いや、奥さまの性格については、どうお思いでしたか」
この貴族の鼻眼鏡をゆさぶる手が少し早くなり、じっと暖炉の火を見おろした。「それが、ホームズさん。父親が金持にならない前に、もう二十歳になっていました。それまでの間、鉱山のキャンプを自由に走りまわったり、森や山を歩きまわったりしていまして、教育を受けたのは、学校よりもむしろ自然からだといっていいでしょう。イギリスでいうおてんば娘で、強い性格で、奔放(ほんぽう)で自由なたち、伝統といったものにしばられてはおりません。激しくって、火山のようだ、とでも言いましょうか。決断が早く、これと思ったことは恐れずにやりぬきます。それでいて反面には、これがあったればこそ、名誉ある家名を名乗らせるつもりでしたが[卿はちょっともったいぶった咳(せき)ばらいをした]、もともと根は高貴な女なんだと思っていました。英雄的な自己犠牲に耐える女であり、不名誉を恥辱とする女であると信じております」
「奥さまのお写真をお持ちでしょうか」
「これを持ってきました」卿はロケットをあけて、私たちに非常に愛らしい女性の正面向きの顔を見せた。写真ではなくて、象牙彫りの小さな像だった。彫り師はその艶(つや)のある黒髪、大きな黒眼、美しい口元を十分にあらわしていた。ホームズはしばらくそれを熱心に見つめた。それからロケットを閉じて、セント・サイモン卿の手に返した。
「するとお嬢さんがロンドンへ来られて、またおつきあいをはじめられたわけですね」
「そうです。あれの父がロンドンで社交シーズンを過ごすために連れてきたのです。何度か会って、婚約をするようになり、このたび結婚したのです」
「かなりの持参金をお持ちになったそうですね」
「相当な持参金でした。私どもの一家としては、まず普通のところですが」
「これはもちろん、お手許のものになりますね、結婚は既成事実なんですからね」
「そのことはまだ調べておりません」
「お調べのないのもごもっともです。結婚の前日、お嬢さんのドーランさんとお会いになりましたか」
「会いました」
「元気でいらっしゃいましたか」
「この上なく元気でした。これから先の生活を、ああしよう、こうしようと話してばかりおりました」
「なるほど。それは大へんおもしろい。それで、結婚式の朝は」
「ひどく上機嫌でした。……少なくとも式のあとまでは、です」
「すると、奥さまの何か変わったところに気がつかれたのですか」
「そう、実のところ、はじめて気がついたのですが、あれの気質にほんのちょっと険(けわ)しいところがあるなと思いました。でもそんなことはつまらないことで、お話しするまでもありませんし、また事件に関係のあることでもありません」
「ま、そうおっしゃらずに、お話し下さい」
「いや、子供じみたことでして。私たちが聖衣室にもどりかけていたときに、あれが花束を落としたのです。前の座席のところを通り過ぎていたときでして、花束が座席に落ちこみました。ちょっと立ち止まりましたが、座席にいた紳士が拾ってあれに渡してくれまして、べつに落ちたからといって、どういうこともなさそうでした。でも私があれにそのことを申しますと、そっけない返事をしますし、帰りの馬車の中でも、あれはこんなつまらないことで、ばかばかしいほど、いらいらしているようでした」
「なるほど。座席に紳士がいたとおっしゃいましたね。すると一般の人もいくらか参列していたのですか」
「ああ、そうなんです。教会が開いていますと、追い出すわけにもまいりません」
「その紳士は、奥さまのお友だちではなかったのですか」
「いえ、いえ。紳士と申しますのも礼儀上のことでして。ただの普通の男でした。外見もほとんど気がつきません。ところで、話もずいぶんとわきへそれたようですね」
「すると、セント・サイモン卿夫人は式から帰られてからは、行きほど楽しい気持ちではおられなかったわけですね。夫人はお父さんの家へお帰りになってから、どうしていましたか」
「小間使いと話しているのを見かけました」
「その小間使いといいますのは」
「アリスと言います。アメリカ人で、カリフォルニアから一緒に連れてきたのです」
「腹心の女ですか」
「少し度が過ぎるぐらいでして。妻は気ままにさせ過ぎているように思えました。でも、もちろん、アメリカではこうしたことでは考えがちがいますので」
「そのアリスと、夫人はどのくらい話しておられましたか」
「ああ、二、三分です。私はほかに考える用がありまして」
「お二人の話を耳にはさまれませんでしたか」
「妻は何か『ひとのお株をとる』といったことを言っていました。そんな俗語をよく使いましたね。なんのことだかはわかりません」
「アメリカの俗語には、じつに巧みな表現がときにありますよ。奥様は女中との話を終えてからどうされましたか」
「披露宴の席へ行きました」
「あなたが腕をかされて」
「いいえ、一人でです。そんなちょっとしたことは勝手にやるほうです。それから、私たちは十分かそこいら席についておりましたが、妻は急に立ち上がって、何か口の中で言いわけを言うと部屋を出ました。それきりもどってこなかったのです」
「ですが、そのアリスという小間使いの申し立てでは、部屋へ入ると花嫁衣裳の上に長外套をはおられて、帽子をかぶって、出てゆかれたそうですね」
「そのとおりです。そのあとで、フローラ・ミラーと連れ立って、ハイド・パークへ入ってゆくのを見かけた人があります。フローラはいま拘留(こうりゅう)されていますが、あの朝ドーラン家でもんちゃくを起こした女です」
「ああ、そうでしたね。その若い女性のことや、あなたとのご関係を少しくわしくお聞きしたいですね」
セント・サイモン卿は肩をすくめて、眉をあげた。「ここ数年来、親しいつきあいをしておりました。……ごく親しい間柄(あいだがら)と申してもいいのです。アレグロ座にいた女です。相当のことはしてやっていたのですから、私にとやかく言う筋にないはずですが、女というものはねえ、ホームズさん。フローラは可愛い女でしたが、ひどくかっとなるほうで、私には首ったけでした。私が結婚すると聞くと恐ろしい手紙をよこしました。実を申しますと、結婚式をごく内輪にとり行ないましたのも、教会でみっともないことでも起こると困ると思ったからです。フローラがドーランさんの玄関へ来たのは私たちが帰宅してからすぐのことで、中へ押し入ろうとしまして、妻を口ぎたなくののしり、おどかすようなことまで言いました。でも私はこんなことになりかねないと思っていたものですから、召使いたちにそれを言いふくめてありましたので、すぐと女を追い出してしまいました。騒ぎ立ててもむだとわかりますと、フローラは静かになりました」
「奥さまはそのことをすっかりお聞きでしたか」
「いえ、ありがたいことに、聞いておりません」
「それで、あとで当のその女と一緒に歩いているのを見られたのですね」
「そうなんです。それが、警視庁のレストレイドさんの重視されているところなんです。フローラが妻をおびき出して、何か恐ろしいわなをかけたのだ、と思われるのです」
「そう、ありそうな仮定ですね」
「あなたもそうお思いになりますか」
「そうらしいとは申しておりません。だがあなたご自身は、ありそうなことだとはお考えにならないのですね」
「フローラは蝿(はえ)一匹殺せるような女ではありません」
「ですが、嫉妬は奇妙に人の性格を変えるものでしてね。今度の出来事をあなたはどうお考えなのですか」
「これはどうも。私は意見をおうかがいに来たので、こちらから言いに来たのではありません。事実はすっかり申し上げました。しかし、おたずねとあれば申し上げますが、このたびの行事の興奮、つまり一足飛びに高い身分になったという意識が、妻の神経を少しかき乱したのではないかと考えられもするのです」
「つまり、急に気が変になったと」
「ええ、まったく。妻がそむいていったことを考えますと……私にというのではない、多くの人が望んで得られないものに背を向けたというのは……それよりほかに説明のしようもありません」
「なるほど、確かにそれも考えられる仮定ですね」ホームズはほほえんだ。「ところで、セント・サイモン卿、事実は大体おききしたようです。重ねて失礼ですが、あなたは披露宴の席で、窓の外が見えるところにお座りでしたか」
「私たちからは道の向こう側とハイドパークが見えました」
「そうでしょうね。ではこれ以上お引きとめするにも及びません。いずれご連絡申し上げます」
「幸いこの問題を解決していただければ」依頼人が言って、立ち上がった。
「解決しておりますよ」
「えっ! なんですって」
「解決していると申しているのです」
「では、妻の居どころは」
「それもさっそくつきとめます」
セント・サイモン卿はかぶりを振った。「それにはあなたや私より、もっと頭がよくなくては」
彼はそう言って、いかめしい、古風なお辞儀(じぎ)をすると、帰っていった。
「かたじけないことに、セント・サイモン卿は僕の頭を向こうと同列において下さったよ」シャーロック・ホームズはそう言って笑った。「こんな反対尋問をやったあとでは、ウィスキー・ソーダと葉巻をやるとしよう。あの依頼人が部屋へ入ってこないうちから、その事件については結論が出ていたんだ」
「まさか、ホームズ」
「これと似た事件のノートがいくつかあるよ。もっとも、さっき言ったように、こんなに素早いのはほかにないがね。聞くだけ聞いてみて、推測が確信に変わったよ。状況証拠もときには大へん納得させるものがあるね。ソローの話にあるように、ミルクの中から鱒(ます)が飛び出したりするんだ」
「しかし、僕も君と同じ話を聞いたんだがね」
「しかし、君の知らない前例を僕は知っているからね。よく役に立つよ。数年前にアバディーンに同じ例があったし、普仏(ふふつ)戦争の翌年にはミューニッヒで、非常によく似た事件があった。今度のもそんな事件の一つだよ……だが、おい、レストレイド君がやって来たよ! いらっしゃい、レストレイド君! 食器棚にも一つコップがある。葉巻なら箱に入っているよ」
警部は厚地のラシャのジャケットに襟(えり)巻きという、どう見ても水夫としか見えないいでたちで、黒いズックの袋を手にさげていた。挨拶もそこそこに腰を落ち着けると、すすめられた葉巻に火をつけた。
「ところで、どうなさった?」ホームズば目をぱちくりしてたずねた。「お気に召さないようだね」
「いやになっちまいますよ。なんともいまいましいセント・サイモン卿事件でしてね。何がなんだか見当もつきゃしない」
「ほう、驚いたね」
「こんなややこしい事件は聞いたことがありませんよ。手がかりという手がかりが、指の間から抜けちまうんですよ。一日じゅう、その件でかかりきりでした」
「それに、ずいぶん、ずぶぬれのようだね」そう言って、ホームズはその手をジャケットの腕においた。
「そうですよ。サーペンタイン池をさらってたんです」
「おやおや、なんでまた」
「セント・サイモン卿夫人の死体を探していましてね」
シャーロック・ホームズは椅子にそり返って、おもしろそうに笑った。
「トラファルガー・スクエアの噴水池もさらいましたか」
「どうしてですか。なんのことです」
「夫人の死体を発見する機会は、そちらにもあれば、こちらにもある道理だからね」
レストレイドはちらりとホームズに怒ったような目を向けて、「すっかりおわかりのようですね」とうなるように言った。
「まあね。事実を聞いたばかりなんだが、僕の考えはきまっているんだ」
「ああ、なるほど! それで、サーペンタイン池は事件と無関係だと思っているんですね」
「まず関係なさそうだよ」
「ではひとつご説明願いましょうかね。どうしてこれが池から見つかったんでしょう」
警部は言いながら袋を開くと、水にぬれた絹の花嫁衣裳、白いサテンの靴を一足、花嫁の花冠にベールと、みんな水につかって色あせているのを床に投げ出した。「ほら」と言って、新しい結婚指輪を、うず高いその上にのせた。
「ちっとは手ごわいでしょう、ホームズ先生」
「ほう、なるほど」ホームズは青い煙の輪をいくつか吹きあげた。「それらをサーペンタイン池で見つけたんですか」
「いや。池の縁(ふち)の近くに浮いていたのを、公園の番人が見つけましてね。夫人の衣裳だと確かめられたので、衣裳があるなら、死体もそう離れてはいまいと思ったのです」
「そういうすばらしい推理でもってすると、人間の死体はどれもこれも衣裳箪笥(だんす)のそばにあることになりますね。この品からどういう結論に達するつもりだったんですか」
「フローラ・ミラーが夫人の失踪に関係があるという、何かの証拠です」
「そいつはちょっとむずかしいようだね」
「え、本当ですか?」レストレイドはちょっとにがにがしそうに叫んだ。「ホームズさん、あなたの推理も推測も、たいして実際的ではなさそうですね。二分間にちょうど二つ、大まちがいをやっていますよ。この衣裳はフローラ・ミラーと関係が大ありなんです」
「どうして」
「この衣裳にはポケットがある。そのポケットに名刺入れがある。その名刺入れに走り書きが入っているんです。これがその走り書きでしてね」
警部は目の前のテーブルにそれをぱたりと置いた。「まあ聞いて下さい。『万事用意がととのったら顔を見せる。すぐに来なさい。F・H・M』
僕の考えははじめからこうだったのです、セント・サイモン夫人はフローラ・ミラーにおびき出され、フローラには確かに共謀者があって、夫人の失踪に一役買っているんです。ここにフローラが頭文字で署名した走り書きがあるんですからね。これを玄関でそっと夫人の手に渡して、自分たちの手元へおびきよせたにちがいありません」
「大出来だよ、レストレイド君」ホームズは笑った。「全く見上げたものだ。ちょっと拝見」ホームズは走り書きを気のないふうに取り上げたが、すぐにぐっと注意をひきつけられて、かすかに満足げな叫びをあげた。「これはまったく大事だね」
「はあ、あなたもそう思いますか」
「思うとも! おめでとう」
レストレイドは誇らしげに立ち上がって、頭をこごめて見やった。「おや!」と警部は叫んだ。「あなたが見ているのは裏ですよ」
「ところが、こっちが表なんだ」
「表ですって。どうかしていますね! こちら側に鉛筆の走り書きがあるんですよ」
「こっちのほうは、ホテルの勘定書の一部らしいが、これがひどくおもしろいんだ」
「そんなものはなんでもありませんよ。さっき見ましたがね」レストレイドは言った。「『十月四日、室代八シリング、朝食二シリング六ペンス、カクテル一シリング、昼食二シリング六ペンス、シェリー酒八ペンス』いっこうなんでもありませんがね」
「なんでもないようだがね。それにしても非常に大事なんだ。走り書きのほうも大事なんだが、少なくともその頭文字はね。重ねておめでとうを言うよ」
「とんだ時間つぶしをしました」レストレイドは立ち上がった。
「仕事熱心がいいようです。暖炉の前に座って、うだうだ言っているのはどうも。では、ホームズさん。どちらが先に事件をつきとめるか、やってみましょう」警部はひろげた衣類を集めて袋につめ、ドアへ行きかけた。
「一つだけヒントをあげよう、レストレイド君」ホームズは警部が姿を消さないうちに、ものうそうに言った。「事件の本当の解決を教えてあげよう。セント・サイモン夫人なんてのは作りごとですよ。いやしない、いたこともない、そんな人物なんかはね」
レストレイドは悲しげにホームズを見た。それから私のほうをふり向いて、自分の額を三度ばかりたたき、頭をおごそかにふると、急いで出ていった。
うしろのドアがしまるかしまらないかのうちに、ホームズは立ち上がって外套を着た。「あの男は、外で仕事をすることがなんだとか言っていたが、それも一理だ。そこで、ワトスン、僕は出かけるとするが、君はちょっと新聞でも見ていてくれたまえ」
シャーロック・ホームズが私を残して出かけたのは五時をまわっていたが、私はそのあと退屈どころではなかった。一時間もしないうちに、製菓店の使いがとても大きい、平たい箱を持ってやって来たのである。これを一緒に連れてきた小僧に手伝わせてあけると、すぐに、あっとばかりに驚いたことには、私たちのそまつな下宿のマホガニーのテーブルに、全くよだれの出そうな、ささやかな冷肉の夜食を並べ出した。一つがいの冷たい山しぎ、きじ一羽、ガチョウのもつパイに、時代がついた、くもの巣まみれの珍貴な酒が何本か。こんな口のおごった品々をすっかり並べてしまうと、二人はさっさと姿を消した。アラビアンナイトに出てくる鬼神みたいで、代金ずみで、こちらへ届けてくれと言われたのだ、としか説明もしなかった。
九時ちょっと前に、シャーロック・ホームズがいそいそと部屋へ入ってきた。重々しくひきしまった顔つきだったが、目が輝いていたので、見こみちがいでがっかりしているのではないと思った。
「夜食はととのえていったね」ホームズは手をこすりあわせた。
「お客をするのかい。五人分並べていったよ」
「そうなんだ。二、三人やってくるかもしれないよ。セント・サイモン卿がまだ来ていないとは驚いたね。はあ! 階段の足音がそれかな」
騒々しく入ってきたのは、まごうかたなく今朝の客で、鼻眼鏡をいつになくはげしく動かし、その貴族的な顔つきにひどく落ち着かない表情を浮かべていた。
「使いをやったのが行きましたね」ホームズがきいた。
「来ました。お手紙を見て、実のところ、すっかり驚きました。おっしゃることには裏づけがあるんでしょうね」
「大ありですよ」
セント・サイモン卿は椅子に身を沈めて、手で額をぬぐった。「父の公爵はなんと言われるだろう」とつぶやいた。「家門の一人がこんな辱(はずか)しめを受けたと聞かれたら」
「全く不慮の出来事ですからね。恥辱(ちじょく)などということはありますまい」
「ああ、あなたのご覧になる立場は、また私とはちがいますから」
「誰が悪いというわけではありません。奥さんだって、ほかにどうしようもなかったのです。もっとも、だしぬけにあんな行動をとられたのは遺憾(いかん)ですけれど。お母さんがないものだから、さしせまって相談する人もなかったのですよ」
「侮辱(ぶじょく)です。公然たる侮辱です」セント・サイモン卿は指でテーブルをたたいた。
「大目に見てあげなければなりませんよ。気の毒な方です。これまでにもない立場に置かれたんですからね」
「許せません。全く腹立たしいのです。ひどい恥をかかされました」
「ベルが鳴ったようですね」ホームズは言った。「階段の踊り場で足音がします。どうあってもご寛容を願えないとなると、セント・サイモン卿、私はここへ、なんとかもっと力になるような弁護人を連れてきていますので」
ホームズはドアをあけて、女の人と紳士を招じいれた。「セント・サイモン卿、フランシス・ヘイ・モールトン夫妻をご紹介させていただきます。奥さんのほうとは、すでにお知り合いだと思いますが」
新来の二人の客を見るなり、われわれの依頼人は椅子から飛び上がって、棒立ちになり、目をおとし、片手をフロック・コートの胸に差し入れていた。いかにも怒りにふるえる威厳そのものだった。夫人は足早やに一足すすめて、手を卿に差し出してはいたが、卿は頑固にまだその目をあげなかった。その決心をにぶらせないためには、そのほうがよかったかもしれない。夫人の哀訴する顔つきはとても逆らえるものではなかったからである。
「怒っていらっしゃるのね、ロバート」彼女は言った。「ええ、ごもっともだと思っていますわ」
「言いわけなどしないで下さい」セント・サイモン卿はにがにがしく言った。
「ええ、でも、あなたをひどい目にあわせたりして、出ていく前にお話しすべきだったと思っています。でもわたくし、少しあわてていまして、こちらでフランクにめぐりあってからは、ほんとに自分のしていることも言っていることもわからなかったのです。祭壇の前で倒れたり、気を失ったりしなかったのが不思議なくらいですわ」
「モールトン夫人、事情をお話しになるあいだ、わたしたちは遠慮しているほうがいいでしょうね」
「失礼な差し出口ですが」見知らぬ紳士が言った。「このたびの件では、私どもが少々秘密にしすぎていたきらいがあるようでして。私といたしましては、ヨーロッパやアメリカじゅうの人に真相を聞いていただきたいのです」彼は小柄ながらたくましく、日やけした男で、顔のきつい、きびきびした態度だった。
「ではわたくしから、さっそくお話しを申し上げますわ」夫人が言った。
「このフランクとは八一年に、ロッキー山脈近くのマククワイア・キャンプで知り合いました。父の鉱山の仕事場でした。フランクとわたくしは婚約いたしました。ところがある日、父が豊富な鉱脈を掘り当てまして、大金をもうけました。でもここにいますフランクのほうは気の毒に、持っていた鉱区が尽き果てまして、掘り出すものがなくなってしまいました。父がお金持になればなるほど、フランクは貧乏になっていくばかりで、とうとう父はこれ以上婚約をつづけるのを聞きいれてくれませず、父はわたくしを連れてサンフランシスコへ離させました。でもフランクは思いきりませんで、わたくしを追ってサンフランシスコに来まして、父にはこっそりとわたくしに会いました。
父が知れば気も狂うだけのこと、それでわたくしたちはすべてを二人だけで決めました。フランクはもう一度出かけて一旗あげてくる、父ぐらいのお金持になるまでは、決して妻になってくれと言いには帰ってこないと申しました。それでわたくし、いついつまでも待っていると約束しまして、フランクが生きているうちは、ほかの人とは結婚しないと誓いました。
『それならなぜ、今すぐ結婚してはいけないんだ。そうすれば信じていられる。帰ってくるまでは、あなたの夫であるとは言いやしないよ』とフランクは申しました。そうです、二人で話し合いました。
フランクったら、それはうまいことにすっかり手筈を決めていまして、牧師さんをもう待たしてあったのですの。それですぐさま式を拳げてしまいました。それからフランクは一旗あげに出発しまして、わたくしは父のもとへ帰りました。
それから風の便りで聞いたところでは、フランクはモンタナにいるということで、次にはアリゾナへ山を掘りに、次にはニューメキシコにいるらしい話を聞きました。そのあとでした。新聞に長い記事が出ていまして、鉱夫のキャンプがアパッチ族インディアンに襲われたとのこと、殺された人の中にフランクの名前があったのです。わたしは全く気を失い、それから数か月というもの、すっかり病気になってしまいました。
父はわたくしが胸を病んでいるとでも思いまして、あちらこちらとサンフランシスコのお医者さんへ診(み)せてまわりました。一年あまりもなんの音沙汰もなく、フランクは本当に死んだことと思いこんでいました。そこへセント・サイモン卿がサンフランシスコへ見えられ、わたくしたちはロンドンに来まして、婚約をとりきめました。パパは大喜びでしたが、わたくしはいったん気の毒なフランクにささげてしまったこの胸に、どんな男の人も入りこめやしない、といつも思っておりました。
でも、セント・サイモン卿と結婚しましたら、もちろん夫への義務ははたすつもりでした。愛情はどうしようがなくとも、ふるまいだけは自由にできますもの。卿と一緒に祭壇へ進みましたときは、できるかぎりはいい妻になってあげるつもりでした。ですが、おわかり下さいますわね、あのときのわたくしの気持。
祭壇の手すりへ行きまして、ふとふり返りますと、フランクが最前列の席から私を見ながら立っているのが見えました。はじめは幽霊かと思いました。でも、もう一度目をやりますと、やっぱりいるのです。もの問いたげな目をして、フランクに会ったのを、わたくしが喜んでいるのか、悲しんでいるのかときいているみたいでした。わたくし、倒れなかったのが不思議なくらい。何もかもがぐるぐる廻っているみたいで、牧師さんの言葉も蜂のうなり声のように耳の中でうなっていました。どうしていいか、わかりませんでした。式をやめて、教会で騒ぎ立ててみようかしら。
もう一度フランクのほうへちらりと目をやりますと、わたくしの考えていますことがわかっているようで、指を口にあてまして、静かにしているようにと言っています。それから紙切れに走り書きをしているのが見え、わたくしへの手紙だとさとりました。
出がけに、この人の最前列の席を通り過ぎますきわに、花束をそちらへ落っことしますと、花を返してくれますときに、わたくしの手に手紙をすべりこませました。合図をしたら、自分のところへ来るようにと、たった一行書いてありました。もちろんわたくしは、これっぽっちも疑わずに、今はフランクに義理を立てなければならないと思いましたから、なんでもフランクの言いなりにしようと決心いたしました。
家に帰りまして、小間使いに話しました。カリフォルニアでフランクを知っていまして、ずっとその味方でした。口どめをして手廻りの品をつめさせ、外套の用意をさせました。セント・サイモン卿にはお話しておくべきだったとは存じますが、卿のお母さまや、お偉い方々の前では、とてもかなわないことでした。
とりあえず逃げ出してから、あとでお話ししようときめました。披露宴のテーブルについて十分もしますと、窓から道の向こう側に来るフランクが見えました。わたしに合図をしまして、ハイド・パークの中へ入っていきます。わたくしは抜け出して、身じたくをすると、あとを追いました。見知らない女の人が近寄ってきまして、セント・サイモン卿のことをあれこれ話しかけましたが、なんでも、卿も結婚まえにちょっとした秘密がおありだとかいったようなことを耳にしたようでした。……でも、なんとかうまくこの女から離れまして、すぐにフランクに追いつきました。二人で辻馬車に乗りこみまして、フランクがゴードン・スクエアに借りてあった下宿へ行きましたが、これこそ、この数年、待ちに待った本当の結婚でした。
フランクはアパッチ族にとらえられていたのを逃げ出しまして、サンフランシスコに来ましたところが、わたくしがフランクを死んだものとあきらめてイギリスへ渡ったと知ると、こちらまで追っかけてきまして、とうとうわたくしの第二の結婚というあの朝に、わたくしにめぐりあったのです」
「新聞で知ったのです」そのアメリカ人は説明した。「名前と教会は出ていましたが、この人の住所はありませんでした」
「それから、このあとどうしたものか話し合いました。フランクはすべてを打ち明けるほうがいいというのですが、わたくしはなにもかもが恥ずかしいばかりで、穴があれば入りたいぐらい、あの人たちには二度と顔を合せたくないと思いました。父にはほんの一筆、わたくしが生きていることだけは知らせるつもりでした。ああした高貴の紳士淑女の方々が披露宴のテーブルを囲んで、わたくしの帰りを待っていて下さるかと思いますと、恐ろしいようなものでした。それでフランクは結婚衣裳や持ち物をとると、あとをつけられないようにそれらを束にして、誰にも見つからないようなところへ捨ててしまいました。明日の朝にはわたくしたちはパリへ発っていたところです。
それが、このご親切なホームズさまが今夜訪ねて見えられまして、どこをどうしておわかりになったのか、わたくしの考えがまちがいで、フランクの言い分が正しいこと、秘密にしていればわたくしたちの立場が悪くなることなど、それははっきりとご親切に教えて下さいました。それからセント・サイモン卿とだけ、お話しする機会をこしらえて下さいまして、ま、それでまっすぐにこちらへおうかがいいたしました。
ね、ロバート、すっかりお話し申し上げました。あなたに苦しい思いをおさせしたのなら、本当に申しわけありませんが、どうかわたくしをおさげすみになりませんように」
セント・サイモン卿はずっとそのきびしい態度をくずそうとはしなかったが、眉をしかめ、唇をかみしめて、この長い物語に聞きいっていた。
「失礼ですが」卿は言った。「私は自分の内々の事柄を、こうした人前で話し合う習慣がありません」
「では、お許し下さいませんのね。お別れの前に握手もして下さいませんか」
「いや、いたしますとも。お望みとあれば」卿は手を差し出して、自分にのべられた彼女の手をひややかに握った。
「ご一緒に楽しく夕食を召し上がっていただけると思っていましたが」ホームズがさそった。
「いささか迷惑なお申し出かと思います」卿は答えた。「話がここまできたからには、ぜひにも黙って引っこみましょうが、それを喜ぼうとは思っておりません。お許しを願って、みなさんにお暇(いとま)を言わせていただきたいと思います」卿はこちらのみんなに下げた頭をまわすと、部屋からつんとした様子で出ていった。
「それでは、せめてあなた方は、おつきあい願えるでしょうね」シャーロック・ホームズは言った。「アメリカの方にお目にかかるのはいつも嬉しいのですよ、モールトンさん。ずっと昔に一人の国王が愚かしいことをやり、一人の大臣がへまなことをしでかしたからといって、わたしたちの子孫が、いつかは世界をまたにかけた同じ一つの国の市民となり、ユニオン・ジャックと星条旗を一つにした旗の下につどうさまたげにはならないだろう、と信じている一人なんですからね」
「今度のはおもしろい事件だったね」ホームズは客が帰ってしまうと言った。「はじめはひどく不可解に見える事件でも、あっけなく解決がつくものだということを、はっきり示してくれたわけだからね。これほど不可解な事件もない。あの夫人の話を聞いてみると、これほど事件の成り行きが当然だというのもないし、また、たとえば警視庁のレストレイド君の見方からすると、これぐらい奇妙な結末もないだろうね」
「すると、君はまごつかなかったのかい」
「はじめから、僕には二つの事実がはっきりわかっていたよ。一つは、夫人のほうでは結婚式を挙げることに大へん乗り気だったということ、いま一つは、いざ家へ帰るという二、三分ぐらいのうちに、式を後悔していたということだ。明らかに、その朝に、何か夫人の気を変えさせることが起こったのだね。いったいなんだったろう。夫人が外に出ていたあいだは誰とも話はできなかった。ずっと新郎と一緒だったからね。では誰かを見かけたのか。もし見かけたとすれば、アメリカから来た誰かにちがいない。この国へ来てからわずかの間しか経(た)っていないのだから、ちょっと見かけたぐらいで、あれほどすっかりこれからの生活設計を変えさせてしまうほど、夫人の心に深い影響を与えるような人物がいるとは思えない。
そうだろう、消去法でゆけば、夫人がアメリカ人を見かけたのだという考えに行きつくわけだ。してみると、このアメリカ人は誰なのか。そしてまた、なぜあれほどの影響力を夫人に持っているのか。恋人かもしれない。夫ということもある。夫人は若いころを、荒っぽい環境で、異常な境遇に過ごしていたそうだ。セント・サイモン卿の話を聞かないうちから、そこまではわかっていた。卿が教会の最前列にいた男のこと、花嫁の態度の変わったこと、花束を落として手紙を受け取ったりするような見えすいた手をつかったこと、腹心の小間使いに言いふくめたこと、お株をとるといったような、ひどく意味ありげな口ぶりをしたこと。この言葉は鉱夫の隠語で、[先に手に入れている権利を他人から横取りする]という意味なんだ。こうした卿の話を聞いて、事情がすっかり明らかになったよ。夫人は男と一緒に逃げ出したのだ。この男は恋人であるか、前夫であるかのどちらかだが、前夫というほうが当たっているね」
「どうして二人を見つけ出したのかい」
「むずかしいことだったところが、レストレイド君が、それとも知らないで、大した情報を握っていたのだ。頭文字はもちろん貴重だったが、それにもまして貴重だったのは、その男が一週間以内にロンドンの一流ホテルの一つで、勘定を払ったことが知れたことだ」
「どうして一流と推理したのかい」
「一流の値段だからさ。宿泊料が八シリング、シェリー酒一杯が八ペンスというのは、いちばん高いホテルということになる。こんな代金をとるホテルはロンドンにざらにはない。ノーサンバーランド街で二番目に当たったホテルで、宿帳を調べてみると、フランシス・H・モールトンというアメリカ人が、前の日にここを引きはらったばかりとわかった。その勘定書きを見せてもらうと、あの受け取り書にあったのと同じ項目があったのだ。
モールトン宛の手紙はゴードン・スクエアの二二六番地へ転送されることになっていたので、そこへ出向いて、うまく在宅中のお二人に出会った。親代りめいた意見をしてみて、どう考えても、二人の立場を世間に対しても、特にセント・サイモン卿に対しても少しはっきりさせるほうがよくはないか、と言いきかせてみたのさ。僕のところで卿に会うようにすすめてやった。それに、あのとおり卿のほうにもここへ来る約束を守ってもらったよ」
「しかし、かんばしい結果とはいかなかったね」私は言った。「卿のやり方は、あんまり愛想よくなかったよ」
「ああ、ワトスン」ホームズはほほえんだ。「君だって、大して愛想よくもしておられないよ。求愛に結婚と、わずらわしいことをやってから、あれという間に細君と財産を取り上げられてはね。セント・サイモン卿はまずまず寛大に見てあげて、あんな羽目にはなりそうにもない、こちらの星まわりを喜ぶのがいいよ。君の椅子を寄せたまえ。バイオリンをとってくれ。まだこれから解決しなければならない唯一の問題は、このわびしい秋の夜ごとを、どう過ごしたものか、ということだからね」
「ホームズ」ある朝、私は張り出し窓に立って通りを見おろしていた。「頭のおかしな男がこっちへやって来るよ。身よりの者がああやって一人歩きをさせておくのは困ったものだね」
わが友ホームズはアーム・チェアからものうそうに立ち上がると、両手を部屋着のポケットに突っこんだまま、私の肩ごしに目をやった。よく晴れた、さわやかな二月の朝のことで、前の日の雪がまだ地上に深く消えやらず、冬の日ざしに明るくきらめいていた。ベイカー街の中ほどはずうっと、行きかう車にはね起こされて褐色のぐじゃぐじゃした帯になっていたが、その両わきと、雪をかき上げた歩道の両端は、まだ降り積もったままの白さだった。灰色の鋪道はきれいに雪かきをしてあったが、まだ足が滑って危いので、いつもほどの人通りはなかった。事実、地下鉄のメトロポリタン駅のほうからこちらへ来る人影もなく、奇妙なふるまいで私の注意をひいた、あの男が一人いるだけだった。
年かっこうは五十ぐらい、背も高く、いいかっぷくで堂々としている。大きな、くっきりした顔立ちで、睥睨(へいげい)するような風采(ふうさい)だった。地味ながら高級な服を着こんで、黒のフロック・コート、輝くばかりのハット、小ぎれいな茶色のスパッツ、仕立てのいい銀鼠色のズボンといったとりあわせである。それがこともあろうに衣裳にも顔つきにも似合わない馬鹿げたふるまいで、けんめいに走っていて、時々ちょっと跳び上がる。あまり走りなれない男が疲れきってやるような動作だった。走りながら両手をふり上げたり、ふりおろしたり、頭をふると思えば、顔をしかめてとてつもなく歪(ゆが)めてみせた。
「いったい、どうしたというんだろうね」私はきいた。「あちらこちらと家の表札を見上げてるよ」
「ここへ来るつもりだね」ホームズは手をこすり合わせた。
「ここへかい」
「そうだよ。事件のことで相談に来るところらしいね。まずそんな気配(けはい)だ。そら! 言わんことじゃない」ホームズが言ったとたんに、さきの男ははあはあ息をきらせて、私たちの部屋のドアにかけあがり、呼鈴(よびりん)のひもを引っぱった。家中にひびきわたるような勢いだった。その男は私たちの部屋に通されてからも、まだ息をはずませて、身ぶり手ぶりをしていたが、その目に浮かんでいる悲しみと絶望の色が消えやらないのを見ると、私たちの笑いもたちまち恐怖とあわれみに変わってしまった。しばらくは彼は口もきけなくて、体をゆさぶったり、髪の毛をかきむしったりするばかりで、今にも発狂しそうな様子だった。それからとつぜん跳び上がると、力まかせに壁へ頭を打ちつけたので、私たち二人は急いでかけよって、部屋のまん中へひきもどした。
シャーロック・ホームズは押すようにして安楽椅子へかけさせ、自分もその横に座って、男の片手を軽くたたいてやり、よく心得ている、あの打ちとけた優しい調子で話しかけた。
「私に話があって、いらしったのでしょう。急がれたものだから、疲れていますね。まあ、ゆっくり、落ち着いてからにして下さい。それから、おっしゃる話がどんな小さな問題でも、喜んでご相談にのるとしましょう」
その男はしばらくは胸を波打たせて、心の高まりと戦っていた。それからハンカチで額をぬぐうと、唇をきっとひきしめて、私たちへ顔を向けた。
「きっと、頭がおかしいとお思いでしょうね」
「ひどくお困りのようにお見受けしますが」ホームズが答えた。
「ほんとに困っているのです……気がちがうほどのことで。それもあまりとつぜんで、とても恐ろしいことなのです。公けの不名誉というのなら恐れもしません。もっとも、私は自分の人格を何つ汚(けが)したことはありませんが、一身上の悩みごとなら、これも誰にもあることです。ですが、二つが一緒にきて、それもあんな恐ろしいかたちできましては、気も狂いそうなのは当たり前です。それに私だけのことではありません。この国の最も高貴な方にまで災いが及びます。この恐ろしい事件をなんとかして切り抜けなければ、です」
「どうか落ち着いて下さい」ホームズは言った。「あなたのお名前も明かしていただきたいし、身にふりかかった事件というのもお聞かせ下さい」
「わたしの名は」客が答えた。「たぶん、お聞き及びかと思いますが、アレグザンダー・ホールダー、スレッドニードル・ストリートのホールダー・アンド・スティーヴンスン銀行の者です」
その名前は、私たちもよく知っていた。ロンドンのシティにある、二番目といわれる大きな民間銀行の、首席代表にちがいなかった。では、ロンドン第一流の市民の一人を、このひどく気の毒な苦境に立ち至らせるとは、いったい何が起こったのか。私たちは全身を好奇心にして待った。やがてもうひとふんばり力を出して、客は語りはじめた。
「一刻もおろそかにはできません。そんなわけで、警部さんからあなたに協力をお願いするよう教えられるなり、急いでこちらへあがりました。ベイカー街まで地下鉄で、そこからは大急ぎに歩いてきました。この雪では馬車はのろいものですからね。そんなわけで、こんなに息がきれまして。なにしろ運動などやりつけないもので。
気分がよくなりました。では、できるだけ手短かに、でもはっきりと事実をお話しいたしましょう。
むろん、よくご存じのことでしょうが、銀行事業をうまくやってゆきますには、扱いすじをひろげて預金者の数を増やしていきますのと同時に、資金を有利に投資する先を見つけるということも大事なのです。もっとも有利な資金運転の一つに、担保が確実であれば、貸しつけという形があります。この数年来この方面をかなり扱いまして、貴族の方々にも多く、絵画、蔵書、金銀什器(じゅうき)を担保に多額の金を用立ててまいりました。
昨日の朝、銀行の私の部屋で座っておりますと、行員の一人が一枚の名刺を持ってきました。その名前を見て驚きました。それがほかならぬ、あの……いや、あなたにも、世界じゅうで誰にも聞きなれたお名前、とだけ申し上げておくほうがいいでしょう……イギリスで最も身分高く、けだかい、最も高貴なお名前の一人でした。わたしは身にあまる光栄に恐懼(きょうく)しまして、その方がお入りになったとき、そうご挨拶申し上げようとしましたが、すぐにも用件を切り出されまして、気にそまぬ用件は早々に片づけてしまいたいといったご様子でした。
『ホールダーさん。こちらでは金を用立てると聞いているが』と申されました。
『こちらの銀行では、担保さえよろしければ、ご用立ていたしております』と私は答えました。
『ぜひにも、五万ポンドが今すぐ必要なのだ。むろん、そんなわずかな金なら、十回とはいわず、重ねて友人たちから借りられるのだが、事務的に処理をして、取り引きは私みずから運びたいのでね。私の地位としては、おわかりいただけるように、人から恩義をうけることは賢明ではないのだ』
『失礼ですが、いつまでの期限でよろしゅうございましょうか』とたずねました。
『来週の月曜日には大金が手に入るはず。借りた元金には、君が適当と思うだけの利子をつけて、きっとお返ししよう。だが、なんとしてもその金は今すぐに用立ててもらわねばならぬ』
『なろうことなら喜んで、このうえ何も申し上げずに私の個人的な持ち金からでもご用立ていたしたいところでございますが、なにぶんにも少々手に合いかねる額でございますので。そこで、銀行名義でご用立ていたすとなりますと、もう一人の経営者にたいする義務といたしまして、たとえあなたさまの場合でございましても、事務的な手続きを一応ふみませんことには』
『そうしてもらうほうが好ましいのだ』そう申されまして、椅子のそばに置いてあった、四角い、モロッコ皮のケースを取り上げられました。
『エメラルドの宝冠のことは、きっとお聞きのことだろうが』
『最も貴重な国宝の一つとか』
『そのとおりだ』
ケースをあけられますと、やわらかい、肌色のビロードのしとねにおさまって、いま申された宝冠が光っていました。『大きなエメラルドが三十九個、それにこの金の彫り物も値打ちははかり知れない。どう低く見積っても、この宝冠はこちらの申し出の二倍の価値はあろう。担保としてこれを置いていくつもりだ』
私はこの貴重なケースを手にとって、いくらか当惑のていで、それとこのやんごとないお客さまとを見くらべました。
『その値打ちが不審なのかね』とたずねられました。
『どういたしまして。ただちょっと……』
『これをあずけていくのが妥当か、どうかということだね。そのことなら安心願っていい。四日すればそれを取りもどし得ることが絶対に確実でなければ、宝冠をあずけようとは思いもよらぬことだ。ほんの形式にすぎない。担保に不足はあるまいね』
『十分でございます』
『おわかりだろうね、ホールダーさん、こんな相談をするのも、あなたのことを聞いて、深く信頼すればこそのことですよ。このことについては堅く秘密を守って、世間の噂(うわさ)になるようなことは慎(つつし)んでくれるだろうし、とりわけ、宝冠の保管には細心の注意をはらっていただけるものと信じている。いうまでもなく、宝冠に傷でもつけば、それこそ世間で大へんな取り沙汰(ざた)になるからね。いささかの傷でもつけば、それが紛失したと同然に重大なことになりかねない。これらに匹敵するエメラルドはこの世界に二つとはなく、玉のとりかえがきくようなものではないからね。だが君なればこそ信頼して預けてゆく。月曜日の朝には自分で、またいただきにあがろう』
お客さまは帰りを急いでおられるようでしたので、私はそれ以上何も言わずに出納係(すいとうがかり)を呼んで、千ポンド札を五十枚お渡しするよう申しつけました。しかし、そのあとまた一人きりになって、目の前のテーブルに置かれている貴重なケースを目にしますと、ふりかかった大きな責任に、どうにも不安でいられませんでした。国宝でありますからには、それにもしものことでもあれば、手ひどい物議(ぶつぎ)をかもすことは必定(ひつじょう)です。こんな品の保管を引き受けたことを早くも後悔いたしました。ですが、もう手おくれで、今さらどうすることもなりません。それで私用の金庫にしまいこみまして、また仕事にとりかかりました。
夕方になりまして、こんな貴重な品を事務室に置いて帰るのは無分別だと思いました。銀行の金庫が破られたことはこれまでにも幾度かあり、私の金庫とて油断はなりません。もし破られでもしたら、私の立場はそれこそとんでもないことになってしまいます。そこで決心をしまして、あと二、三日はケースを持ち運びして、肌身から離さないことにしました。そのつもりになって、私は辻馬車を呼び、ストレタムの自宅まで、宝石をかかえて、車を走らせました。二階へ持っていって、自分の化粧室の大机に鍵をかけてしまいこむまで、自由に息もつけませんでした。
そこで、私の家の者たちについて、ひとこと申し上げます。ホームズさん。状況をすっかりご承知いただきたいのでして。馬丁と給仕は家の外で夜を過ごしますので、まず考慮に入れずにすみましょう。女中は三人いますが、長年勤めていまして、絶対の信頼がおけます。もう一人、ルーシー・パーという二番女中がいますが、まだ勤めて二、三か月にしかなりません。でも立派な推薦状を持ってきていまして、それは申し分のない女中です。可愛い娘で、心をひかれている男たちが、よく宅のあたりをぶらぶらいたします。この娘のきずといえばそれだけのことですが、私どもとしては、どこから見てもそれはいい娘だと思っております。
召使いのことはこんなところで。家族のほうは小家内ですから、手短にお話できます。
私は妻を失くしまして、一人息子のアーサーがおります。これがいけません、ホームズさん、なんとも情けない奴なのです。むろん私が悪いのです。息子を甘やかしてだめにしたのは私だと言われます。どうもそうのようでして。妻が亡くなりましたときに、私が愛してやれるのはこの息子だけだと思ったのです。ちょっとでもあの子の顔から笑いが消えようものなら、とてもたまりませんでした。言うことを聞き入れてやらなかったことはありません。もっときびしかったほうが、息子にも私にもよかったのでしょうが、私としてはよかれと思ってしたことでした。
当然私のつもりでは、息子に仕事をつがせたいのですが、仕事に向いておりません。乱暴で、気まぐれで、実を申せば、信用して大金をまかせることができませんでした。若いときに、ある貴族クラブの会員になりまして、人に好かれるたちなもので、すぐに、金持で金づかいの荒い連中の一人と仲よくなりました。カルタにこり、競馬で浪費するすべを覚えて、たびたびやって来ては小遣いの前借りをねだり、競馬の借金を埋めたがりました。一度ならず、危険なつきあいから足を抜こうとしましたが、そのたびに友人の、サー・ジョージ・バーンウェルにひきずられて、またもとへひきもどされるしまつです。
じっさい、サー・ジョージ・バーンウェルのような男になら、息子がひきずられるのも不思議ではありません。息子に連れられてよく宅へもやって来ましたが、その魅力のある態度には、私とてもひきつけられないではおられないくらいでした。アーサーよりは年上で、根っからの世間人で、行かないところはなく、見ないものもないといった男、話上手で、すてきな好男子なのです。しかし、冷静に、彼の魅力からずっと離れて考えてみますと、その皮肉な言葉つき、こちらで気のついたあの目つきなどから、とても心許せない人物だと思いました。そう思っているのは私のほかに、宅のメアリだってそうです。この子は女の持つすばやい直感で、人の性格を見抜いているのです。
ところで、このメアリの話はまだでしたが、私の姪(めい)でして、兄が五年前に亡くなったその忘れがたみで、私が養女にしまして、それからは実の娘同様にしております。メアリはわが家の太陽です。……やさしくって、情がこまかく、美しくて、すばらしい家庭的な娘で、それにすなおで、物静かで、おとなしいときています。私の片腕です。あの子がいなくなったら、私はどうしていいかわからないくらいです。ただ一つだけ、私の気持にさからったことがあります。二度ほど息子が結婚をしてくれとたのみました。心から愛していたからですが、二度とも断ったのです。息子を正道にもどしてくれる人があるなら、それこそあの娘のほかにはなく、結婚がうまく運べば息子の生活もすっかり変わったことと思います。でも今となっては、ああ! おそすぎます。永久にとり返しがつきません!
さて、ホームズさん、一緒に暮らしている者のことはおわかりでしょうから、つづけて情けない災難をお話しいたします。
昨晩、夕食のあと、居間でコーヒーを飲みながら、アーサーとメアリに、今日のこと、この家にあずかっている貴重な宝冠のことを話しました。依頼人の名前だけは伏せておきました。ルーシー・パーはコーヒーを運んできたのですが、そのときは部屋から出ていっていたと思います。ですが、ドアがしまっていたかどうかは受け合いかねます。メアリとアーサーは大へんおもしろがって、この有名な宝冠を見たがりましたが、これは見せないほうがいいと思いました。
『どこへ置いてあるのですか』アーサーがたずねました。
『大机の中だよ』
『まあ、今夜泥棒に入られなければいいんですがね』アーサーが言いました。
『鍵をかけてあるよ』
『ああ、古い鍵ならどれでもあの大机に合いますよ。僕、小さいとき、納戸(なんど)の戸棚の鍵であけたことがありますからね』アーサーのでたらめの話はたびたび聞かされていましたから、さして気にもかけませんでした。でも昨夜は私の部屋までついてきまして、ひどくまじめな顔をしているのです。
『ねえ、お父さん』と言って、目を伏せました。『二百ポンド頂けないでしょうか』
『だめだよ!』私は高飛車(たかびしゃ)に答えました。『金のことでは、そうそう甘くはしてやらん』
『今までも無心をきいていただきました。でも、ぜひこのお金がいるのです。さもないと、二度とクラブへ顔出しができないんです』
『願ったり、かなったりじゃないか!』
『そうなんですが、お父さんだって、私を面目をつぶしたままでクラブを退かせたくないでしょう。そんな不面目にはたえられません。なんとしてでもそれだけのお金をこしらえなければならないんです。下さらないんなら、ほかの手を打たなければなりません』
ひどく腹が立ちました。無心も今月になって三度目でしたもので。『一文だってやらないぞ』と私が大声で言いますと、お辞儀をして、もうひとことも口をきかずに部屋を出てゆきました。
アーサーが行ってから、私は大机の鍵をあけ、宝冠が無事なのを確かめて、また鍵をかけました。それから家じゅうの戸じまりを見まわりに出かけました。いつもはメアリにまかせてある役目なのですが、昨夜にかぎって自分でやるのがいいと思ったのです。階段をおりますと、メアリが玄関ホールの横窓のところにいるのが見え、私が近づきますと、それをぴたりとしめました。
『ねえ、お父さま』メアリが言いましたが、少々とり乱しているように思えました。
『女中のルーシーに、今夜外出してもいいとおっしゃいまして』
『いや、そんなこと』
『今しがた、裏口から入ってきましたわ。きっと誰かに会いに、横門まで行っただけなんでしょうけれど、用心も悪いし、やめさせなければいけませんわ』
『朝になったら、あなたからよく言ってやるんだね。なんなら私が言ってもいいが。戸じまりはどこも大丈夫だろうね』
『ちゃんとしてありますわ、お父さま』
『じゃ、おやすみ』私はキスをしてやって、自分の寝室へもどり、すぐに寝入ってしまいました。事件にかかわりのありそうなことは、何もかも申し上げているつもりですが、ホームズさん、はっきりしないようなところがありますれば、どんなことでもおたずね下さい」
「どうしまして。とてもよくわかります」
「これから先の話はくわしく申し上げたいところなのです。私は寝つきのいいほうではありませんで、それが心配ごともあっては、いつもより眠りも浅かったのです。すると夜中の二時ごろに、家の中の何かの音で目が覚めました。はっきり覚めきらないうちにその音はやんでしまいましたが、どこかの窓がそっとしまった音のような気がしました。じっと耳をすまして横になっていました。とつぜん、恐ろしいことに、隣りの部屋でそっと歩く足音が、それと聞えるのです。私はベッドをこっそり抜け出しまして、恐ろしさにふるえながら、化粧室のドアのすき間からのぞいて見ました。
『アーサー!』私は叫びを立てました。『悪党! 泥棒め! その宝冠に手をつけるとは』
ガス灯は、私が火を細くしておいたままで、不孝者の息子はシャツにズボンといっただけのかっこうで、明かりのそばに立ったまま、宝冠を手にしているのです。まるで力まかせに、宝冠をねじまげようとしているようでした。私の叫び声に、それをとり落として、死人のようにまっ青になりました。私は宝冠をつかみあげて、調べてみました。金の台の一つが、そこについていた三つのエメラルドとともになくなっています。
『このならず者め!』私は怒り、われを忘れて叫びました。『こわしおったな! 親の顔をつぶしやがった! 盗んだ宝石をどこへやった』
『盗んだ、ですって』息子が叫びました。
『そうとも、泥棒め』私はどなりつけるなり、息子の肩をゆさぶりました。
『なんにもなくなっていませんよ。なくなるはずがないじゃありませんか』
『三つなくなっている。どこへやったか知っているはずだ。泥棒の上に嘘つきとまで言ってもらいたいのか。台をも一つ、もぎりとろうとしているのを、この目で見ているんだぞ』
『これほど悪口を言われては、もう我慢ができません。こう侮辱されては、このことについてはもう何も言いません。朝になればこの家を出て、なんとか自分でやっていきます』
『お前が世話になるのは警察だ』私は悲しみと怒りで半狂乱になって叫びました。『このことはとことんまで調べてもらう』
『僕を調べたって何もわかりはしませんよ』あれの気質にこんな激しいところがあるとも思えない言い方でした。『警察を呼びたければ、やるだけのことをやらしてごらんなさい』
このころには一家じゅうが起き出していました。私が腹を立てて大声をはりあげたものですからね。メアリがまっ先に部屋へかけつけてきまして、宝冠とアーサーの顔を見るとすべてを読みとりまして、一声悲鳴をあげるなり、気を失って倒れてしまいました。私は女中を警察へ走らせ、調査をすぐに警察の手にまかせました。警部と巡査が入ってきますと、アーサーは腕を組んで渋い顔で立っておりましたのが、自分を泥棒という[とが]で告発するつもりかと私にききました。答えてやりました。たんなる私ごとというわけにはゆかず、もはや公けのことになっている、こわされた宝冠は国家の所有物だからだって。何事も法のままに従うべきだと決心したのです。
『せめて』息子は言いました。『すぐに逮捕はさせないで下さい。五分間ほど外へ出していただければ、僕だけでなく、お父さんにもいいようになるんです』
『逃げようというのか。それとも盗んだものをかくそうという気だな』言ってから私の立場が恐ろしいことだと気がつきまして、私の名誉だけではなく、ずっと高貴な方の名誉がおびやかされているのだと理をわけて頼むように言いきかせました。全国民をふるえさせるようなスキャンダルをまき起こしかねないんだということもです。なくなった三つの宝石をどうしたのか、それさえ言ってくれれば事はすっかりまるく納まるんです。
『まともに考えてみるがいい。お前は現場をおさえられたんだし、どんな自供をしたって罪の凶悪なのはかわらない。エメラルドのありかを言って、せめて自分で償(つぐな)いをしてくれれば、いっさいを許して忘れよう』
『そんなことは、許してほしい人にしてあげればいいんです』息子は冷笑を浮かべて顔をそむけました。こう強情では私がなんといったところでどうにもならないとわかりました。手だては一つしかありません。警部にこちらへ来てもらいまして、息子を引き渡しました。すぐに調べがありました。息子の体といわず、その部屋から、家の中で宝石のかくせそうな場所という場所までです。でも宝石の影も形も見当たりません。こちらでなだめすかしても、おどかしてみても、いまいましいほどに口を割りません。
今朝、息子は留置所へ送られました。私は警察のほうの手続きをすっかりすませてから、急いでこちらへ廻りましたようなわけで、あなたのご手腕で解決していただければとお願いにあがりました。警察は、今のところなんの見込みもないと、はっきり言っています。必要なだけの費用はおかまいなくどうぞ。すでに千ポンドの懸賞金まで申し出てあるのです。ああ、どうしたらいいのでしょう! たった一夜で、名誉も宝石も息子も失ってしまいました。ああ、どうしたらいいのでしょう!」
彼は頭をかかえて、体を前後にゆさぶり、悲しみで言葉も出ない子供のように唸(うな)っていた。
シャーロック・ホームズはしばらく黙って座ったままで、眉を寄せて、暖炉の火を見つめていた。
「お宅はお客が多いですか」ホームズがきいた。
「いいえ、まるでありません。共同経営者のスティーヴンスンが家族連れで来るのと、アーサーの友達が時々来るだけです。サー・ジョージ・バーンウェルが最近幾度か来ました。ほかには誰も来なかったように思います」
「社交で、よくお出かけになりますか」
「アーサーが出かけます。メアリと私は家にいます。二人ともあまり出好きでありませんので」
「若いお嬢さんにしては珍らしいことですね」
「おとなしい気質の娘でして。それに大して若くもないんです。二十四になっています」
「お話では、今度のことはメアリさんにもショックだったようですね」
「ひどいもので! 私よりずっとこたえているくらいです」
「お二人とも、息子さんの仕業(しわざ)だと決めておられるのですか」
「疑いようがないじゃありませんか。私はこの目で、息子が宝冠を両手にかかえているのを見たのですから」
「それが決定的な証拠だとは思えませんよ。宝冠の残りのところは傷んでいたのですか」
「ええ、ねじれていました」
「すると、それをまっすぐ直そうとしているところだった、とは思いませんか」
「ほう、これは! 息子のためにも私のためにも、ご親切なお言葉ですが、どうもご無理なようで、じゃ、息子はそこで何をしていたんでしょう。悪いことをしていたのでなければ、なぜそう言わなかったのでしょうか」
「ごもっともです。しかし悪いことをしたのなら、嘘でもついてごまかしそうなものですかね。息子さんが黙っていたのは二通りに考えられますね。この事件にはいくつも妙なところがありますよ。あなたが目を覚ました物音を、警察はなんと考えたのですか」
「アーサーが寝室のドアをしめた音かもしれないと考えています」
「いかにももっともらしい話だ! 大罪をやろうという男がドアをぴしゃりとしめて、家族を起こそうとはね。ではその宝石の紛失を警察はなんと言っていました?」
「板張りをたたいてみたり、家具を細かく調べたりして、まだしきりに探し出すつもりでいますよ」
「家の外を調べようと思ったでしょうかね」
「ええ、ひどく熱心な様子でした。庭はもう寸分あまさず調べ上げています」
「ところでホールダーさん」ホームズは言った。「今度の事件は、あなたや警察がはじめに考えておられるより、ずっと根深いことがおわかりになりませんか。あなたには単純な事件に思われているようですが、私にはひどく複雑なように思えますね。あなたのお説ではどういう話になるか考えてみて下さい。あなたのお考えでは、息子さんが寝床からおりてきて、非常な危険をおしてあなたの化粧室へ行き、大机をあけ、あなたが預った宝冠を取り出し、力まかせにそのほんの一部をもぎとり、どこかほかの場所へいって、三十九個のうちから三つの宝石をかくす。それも巧みに誰にも見つからないところへです。それから残りの三十六個を持って、いつ発見されるかもしれないという非常な危険をおかして、もとの部屋へもどってきた、ということになります。ちょっとおききしますが、こんな理論がなりたちますかね」
「ですが、ほかにどう考えたらいいのですか」銀行家は絶望の身ぶりをして叫んだ。「息子の動機が潔白なら、なぜ申しひらきをしないのですか」
「それを探り出すのがわれわれの仕事です」ホームズが答えた。「それでは、と。よろしかったらホールダーさん、ご一緒にストレタムへ出かけて、一時間ほど、いろいろと、も少しくわしく見せていただきましょう」
ホームズは私にもこの調査に同行するようすすめた。私も願ったりかなったりだった。いま聞いた話に、すっかり好奇心と同情とをそそられていたからである。実のところは、この銀行家の息子がやったのだということは、この不幸な父親が思っていると同様に、私にもそうにちがいないと思われたのだが、それでもホームズの判断には絶大な信用をおいているので、ホームズがこの一応の筋の通った説明だけでは満足していないとなると、あるいは希望をかける余地があるにちがいないと感じた。
ホームズは南の郊外へ出かける途中、ほとんど一言も口をきかずに、顎を胸にうずめて帽子を目深(まぶか)にかぶり、この上なく深い思いにふけっていた。依頼人はホームズに言われて一縷(いちる)の望みに元気を取りもどしたようで、自分の銀行事業のことなど、私にあれこれと話しかけてくるほどだった。少しばかり汽車に乗り、それから少し歩いて、私たちはフェアバンク邸についた。この大実業家の質素な住居だった。
フェアバンク邸は白い石造りの、かなり大きい四角い家で、道路からすこし引っこんだところにある。二本の馬車道が、雪におおわれた芝生を中にはさんで、玄関を閉ざしている二つの大きな鉄の門の前へと、下りぎみに延びていた。右手に小さな木戸があって、そこから狭い小路が、小ぎれいな生け垣にはさまれて、道路から台所の入口に通じていて、出入り商人の通路になっている。左手には小路がうまやへ通じているが、敷地の内部からはずれて、人通りはほとんどないものの、一般の往来だった。
ホームズは私たちを入口に立たせたままにして、ゆっくりと家のまわりを歩いた。正面を横切り、出入商人の通路をくだり、裏庭にそってひとまわりしてから、うまやの小路のほうへ歩いたのだ。あまり長くかかるので、ホールダー氏と私は食堂へ入って、炉のそばでホームズが帰ってくるのを待った。黙って腰をおろしているところへ、ドアが開いて若い女性が入ってきた。やや中背より高めで、ほっそりしていて、髪と目が黒く、ひどく青白い顔色のせいで、その黒さがいっそう目立っているようだった。これほど蒼白(そうはく)になっている女の顔は、これまでに見かけたことがないように思う。唇にも血のけがない。だが目だけは泣きぬれてまっ赤だった。この女性が黙ってすうっと入ってきたので、今朝ほどホールダー氏から受けた感じよりも、もっと傷ましい思いがした。明らかに気強い女性で、強い自制心をもっているのが、なおのこと心打たれる思いがした。私のいるのもかまわずに、まっすぐに叔父のところへ行き、やさしい、女らしい気づかいで、叔父の頭に手をまわして抱きしめた。
「アーサーを釈放するようにおっしゃって下さいましたわね、お父さま」
「いや、いや。今度の事はとことんまで調べなくては」
「でも、確かにアーサーは無実ですわ。女の直感をご存じですわね。何も悪いことはしていませんし、そんなにひどくなさって、きっと後悔なさいますわ」
「じゃ、アーサーはなぜ黙っているのかい、無実だというんなら」
「わかりませんわ。お父さまに疑われて、とても怒っているからじゃないかしら」
「疑わずにはおられないじゃないか。げんにあれが宝冠を手にしているのを見たんだからね」
「ああ、でもアーサーは、それを取り上げて見ていただけだったのですわ。ああ、信じて。信じて下さい。アーサーは無実です。今度のことは打ちきりにして、もう何もおっしゃらないで。あのアーサーが刑務所へ入るなんて、思っただけでも恐ろしいことですわ」
「宝石が見つかるまでは、断じて打ちきりにはしないよ。しないとも、メアリ! お前がアーサーを可哀そうと思うあまりに、この私の恐ろしい立場が見えないんだ。この件を内々にすますどころか、ロンドンからわざわざ来ていただいた方がある。もっと精しく調べていただこうと思ってね」
「この方ですの?」彼女は私のほうへ向き直って、きいた。
「いや、この方のご友人だ。一人にしておいてほしいとおっしゃって、今、うまやの小路のほうへまわっていかれた」
「うまやの小路ですって」彼女は濃い眉(まゆ)をあげた。「あそこで何を見つけるおつもりでしょう。ああ、いらっしゃった。この方ですわね。ね、お願い、私が真実だと思っていること、いとこのアーサーはこの犯罪には無実だということを、うまく証明して下さいますわね」
「私も全く同じ考えでいます。きっと無実を証明してあげられますよ」ホームズは答えて、マットのところにひき返すと、靴の雪をぬぐい落した。「あなたがメアリ・ホールダーさんですね。一つ二つ、おたずねさせていただきたいのですが」
「ええ、どうぞ。この恐ろしい事件の解決にお役に立つことでしたら」
「あなたは昨夜は、何も物音を聞きませんでしたか」
「はい、なんにも。叔父が大きな声を立てましたので、それを聞いて下におりました」
「昨夜はあなたが窓やドアをしめたんですね。窓はすっかりおしめになりましたか」
「ええ」
「今朝も全部しまっていましたか」
「はい」
「女中さんで恋人のあるのがいますね。昨晩叔父さんにおっしゃったそうですが、その女中は恋人に会いに出かけたって」
「ええ。客間で給仕をつとめる女中ですから、叔父が宝冠のことを話しているのを聞いたかもしれませんわ」
「なるほど。その女中が恋人にその話をしに出かけて、二人で泥棒をたくらんだ、とおっしゃるのですね」
「しかし、そんな雲をつかむような理窟がなんの足しになるんですか」銀行家がいらだたしく叫んだ。「アーサーが宝冠を持っているのを見かけたと申しているのに」
「ちょっとお待ち下さい、ホールダーさん。話をもどさなくてはなりません。その女中のことですがね、メアリさん。台所のドアから帰ってきたのをお見かけになった、というわけですね」
「はい。勝手のドアがしまっているかどうかを見にまいりまして、女中がそっと入ってくるのに会ったのです。暗がりに男の人のいるのも見えました」
「お知り合いの人ですか」
「ええ、知っています。八百屋でこちらへ野菜を持ってくる人です。名前はフランシス・プロスパーと言います」
「その男が立っていたのは」ホームズが言った。「ドアの左のほう……つまり、小道をずっと進んで、ドアを行き過ぎたところですか」
「ええ、そうでしたわ」
「それは、木の義足をつけた男ですか」
恐怖に似たものが、この若いメアリの表情豊かな黒い目に浮かんだ。
「あら、魔法使いみたいな方ですこと。どうしてそれがおわかりですの」メアリは微笑(ほほえ)んだが、ホームズは笑い返しもせずに、真剣な顔つきだった。
「二階を見せていただきたいものですが」ホームズは言った。「家の外側も、もう一度調べさせていただくことになりましょう。二階へ上がる前に、ここの窓を見ておいたほうがよさそうです」
ホームズは窓の一つ一つを素早く見てまわって、大きな窓のところで足を止めただけだった。ホールからずっとうまやの小道が見とおせるところだった。ホームズはこの窓をあけて、例の強大な拡大鏡で窓台をきわめて入念に調べた。
「さあ、二階へ行きましょう」やがてホームズが言った。
銀行家の化粧室は簡素にしつらえられた小さな部屋で、ねずみ色のカーペットをしいて、大きな化粧机と長い鏡がある。ホームズはまず化粧机へ行って、その錠をじっと見つめた。
「これをあけるのに使ったのはどの鍵ですか」ホームズはたずねた。
「アーサーが自分で言っていた鍵です。……がらくた室の戸棚のやつです」
「ここにお持ちですか」
「化粧机の上にあるのがそれです」
シャーロック・ホームズはその鍵を取り上げて大机を開いた。
「この錠は音がしませんね。あなたの目が覚めなかったのも不思議ではありません。このケースに宝冠が入っているのですね。拝見させていただかねば」ホームズはケースをあけて宝冠を取り出すと、それをテーブルに置いた。宝石細工のすばらしい逸品で、三十六個の宝石のすばらしさは、これまで見かけたこともないものだった。宝冠の片側に、曲がって割れたところがあり、三つの宝石がついていた一角がもぎとられていた。
「ところでホールダーさん」ホームズは言った。「こちらの一角は、なくなったひとすみと対(つい)をなしていますね。こっちをもぎとっていただけませんか」
銀行家は恐れてあとずさりした。「とんでもありません」
「じゃ、私がやってみましょう」ホームズはぐっと力をかけたが、びくともしなかった。「ちょっとは曲がったようですがね。私の指の力は特別強いんですが、いつまでやってもこれを壊せそうにありませんね。普通の人ならとてもやれませんよ。ところで、これを壊したとすると、どんなことになると思いますか、ホールダーさん。ピストルを射ったような音がしますよ。あなたの寝台から二、三ヤードと離れていないところで宝冠が壊され、あなたには何の物音も聞こえなかったとおっしゃるのですか」
「どう考えていいかわかりません。全く見当もつきません」
「でも、調べてゆけば、だんだんわかってくるでしょう。あなたはどうお考えですか、メアリさん」
「叔父さま同様に、見当がつきませんわ」
「あなたがごらんになったとき、息子さんは靴もスリッパもはいていなかったのですね」
「ズボンにシャツといっただけのかっこうでした」
「ありがとうございます。今度の調査は珍らしいほど幸運にめぐまれていましたよ。この事件の解決がうまくいかないとなれば、それこそ私自身が悪いと言っていいくらいです。お許しを願って、ホールダーさん、外の調査をつづけさせていただくとしましょう」
ホームズは一人で出ていった。自分から言い出したことで、よけいな足跡がつくと調査がむずかしくなると説明したものだ。一時間かそこいら仕事をしていて、ホームズはやがて足を雪だらけにして帰ってきたが、その顔つきは、依然(いぜん)不可解だといった様子だった。
「どうやら見るべきものは見せていただいたようです、ホールダーさん。ここらでお暇(いとま)させていただきましょう」
「しかし、宝石は、ホームズさん。どこにあるのですか」
「わかりません」
銀行家は両手をしぼった。「もう見つからないんだ。息子は? 希望が持てますか」
「私の意見はいささかも変わっておりません」
「すると、昨夜私の家で行なわれたこの悪事は、いったいどうしたというのです」
「私のベイカー街の住居へ、明朝九時から十時までの間におたずねいただけますと、もっとはっきりしたことをお話しできるでしょう。あなたからは白紙委任状を頂いている、もっとも宝石を取りもどすというだけの条件ですが、それに必要な経費もいるだけは出していただける、と諒解(りょうかい)しております」
「宝石がもどってくるものなら、全財産をかけてもいいのです」
「大へんけっこうです。明朝までによく調べておきます。ごめん下さい。あるいは、夕方までにもう一度こちらへおじゃまさせていただくかもしれません」
わが友ホームズの考えが、この事件についてはもうまとまっているのが明らかだったが、その結論がどんなものかは、私にはおぼろげにさえわかりかねた。帰りの道すがら、何度となくこの点にさぐりをいれてみたが、ホームズはうまく他の話題に話をそらしてばかりいて、とうとうこちらもあきらめてしまった。わたしたちの部屋へ帰りついたのは、まだ三時前だった。ホームズは急いで部屋へ入って、二、三分すると今度はどこにでもいそうな浮浪者のかっこうをして出てきた。襟(えり)を返して立て、てかてかの安っぽい上着をつけ、赤いスカーフを巻いて、破れ靴をはき、見るからに浮浪者然としたいでたちだった。
「これでいいだろう」ホームズは炉の上にかけてある鏡へちらと目をやった。
「一緒に来てもらえるといいんだが、そうもいかないんでね。この事件を正しく追っているようでもあるし、とんでもない鬼火を追っかけているのかもしれない。まあ今にわかるだろう。二、三時間で帰ってこれるかな」
ホームズは食器棚の輪切りの肉から一きれ切って、二枚のパンの間にはさんだ。このお粗末な食事をポケットに押しこんで、ホームズは遠征に出かけていった。
私がお茶をすませたばかりのところへ、ホームズが帰ってきた。見るからに上きげんで、古ぼけたゴムの長靴の片方を手にふりまわしていた。それを片隅にほうり出すと、お茶をついで一杯のんだ。「通りがかりで、ちょっと寄ったんだ。すぐ出かけるよ」
「どこへ」
「ああ、ウェスト・エンドの向こう側へだ。もどるまでにはいくらか時間がかかるかもしれない。おそくなるようだったら、待って起きていなくてもいいよ」
「どんな調子だい」
「ああ、まずまずだ。ぐちの種もないね。君と別れてからストレタムへ出かけてきたが、あの家へは寄らなかった。とてもおもしろいちょっとした事件だよ。どうしてもこれを見逃す気にはならないね。それにしてもここに居すわっておしゃべりしているわけにはいかない。早くこんな体裁(ていさい)の悪い着物をぬいで、ちゃんとご立派な自分に返らなくちゃあね」
ホームズの様子からすると、口で言っているより、大いに満足すべきわけがあるのがわかった。目がきらきらして、土色の頬にほんのり血の気さえ浮かんでいた。急いで二階へかけ上がったと思うと、二、三分してから玄関のドアがぴしゃりとしまる音が聞こえて、もう一度好きな捜査に出かけていったのがわかった。
私は夜中まで待っていたが、ホームズの帰ってくる気配もないので、自分の部屋へさがった。捜査に熱中すると幾日も幾晩もつづけて出かけたままなのはいっこうに珍らしくもなかったので、ホームズの帰りがおそいのも驚くには当たらなかった。
ホームズが何時に帰ってきたのかわからないが、朝食に下へおりると、ホームズは片手にコーヒーのカップを、片手に新聞を持って、この上なく元気に、小ざっぱりした身なりで座っていた。
「お先にはじめていて失礼、ワトスン。依頼人が今朝早めに来るという約束だったからね」
「おや、もう九時すぎだね」私は答えた。「あれがそのお客でも不思議はない。ベルの音がしたようだよ」
まさしく依頼人の銀行家だった。その男の変わり方には驚いた。顔は、もとは広くて肉ばっていたのが、くぼみにくぼんで、髪の毛までがいくらか白さを加えたようである。疲れ果て、気力もなくなった様子で入ってきて、昨日の朝のはげしさよりも、もっと痛ましいほどだった。ホールダーは私が前へすすめたアーム・チェアにどっかりと腰を落とした。
「なんの因果(いんが)でこんなひどい目にあうのでしょう。二日前までは幸福で順調だったのに。心配ごとなどもなくて。それが今では一人ぼっちの恥さらしの年寄りになりました。一つ悲しみがあれば、あとからつづいてやって来ます。姪のメアリが私を見捨ててしまったのです」
「あなたを見捨てたのですって」
「そうなんです。今朝はあれの寝床に寝ていませんで、部屋はからっぽ、玄関ホールのテーブルに、私あての置き手紙がありました。昨夜あれに言ったのです。悲しみのあまりのことで、怒ってはいなかったのですが、息子と結婚していてくれたら、万事息子もうまくいっていたろうに、って。そんなことを言うなんて、浅はかだったようです。この置き手紙にも書いてあるのは、私がそう言ったからなんです。
叔父さま……叔父さまの身にこんなご迷惑を引き起こしましたし、私がちがったようにふるまっていましたら、こんな恐ろしい災難も起こりはしなかったろうと思っております。こう思いましては、これからはお膝元にいてしあわせではいられませんし、永遠にお別れしなければならないと思います。これからの私の身はご心配下さいませんように。用意もしてございます。わけてもお願いいたしますが、どうか私を捜さないで下さいまし。むだなことでもございますし、また私のためにもならないのです。生きていましても、死んでいましても、私はいつまでも叔父さまを愛しております。 メアリ
この手紙はどういうつもりでしょうか、ホームズさん。自殺するとでも言っているのでしょうか」
「いや、いや、そんなことはありません。まあ、その手紙がこの上ない解決になりますよ。ホールダーさん、あなたの災難もどうやら終わりに近づいたようです」
「はあ! ほんとですか! 何かお耳に入りましたね、ホームズさん。何かおわかりになりましたね! 宝石はどこにあるのです」
「あの宝石一個について、千ポンドでは高すぎるとお思いにならないでしょうね」
「一万ポンド払ってもいいくらいです」
「そんなにはいりませんよ。三千ポンドあれば十分なんです。それに報酬(ほうしゅう)を少しばかりお足し願えれば。小切手帳をお持ちですか。ここにペンがあります。四千ポンドとお書き下さるといいのです」
あっけにとられた顔をして、銀行家は言われただけの小切手を書いた。ホームズは自分の机へ歩いて、三つの宝石がはまっている、三角形の金の一片を取り出すと、それをテーブルの上に投げ出した。
ひと声、鋭い喜びの叫びをあげて、依頼人はそれをつかみあげた。「あった!」彼はあえいだ。「助かった! 助かった!」
悲しみがひどかっただけに、その喜びもはげしかった。ホールダーはもどってきた宝石を胸に抱きしめた。
「もう一つほかに、あなたは借りがあるのですよ、ホールダーさん」シャーロック・ホームズはいくらかきびしく言った。
「借りですって!」彼はペンを取り上げた。「額をおっしゃって下されば、お払いします」
「いや、私への借りではありません。あの気高い青年、あなたの息子さんに謝らなければいけません。今度の事件に処せられたやり方は、私に息子でもあれば、あっぱれな奴だと誇りに思いたいところです」
「じゃ、宝石をとったのはアーサーではなかったのですか」
「昨日申し上げましたね。今日もくり返しますが、そうではなかったのです」
「確かなんですね! それじゃ、すぐに息子のところへ急いで、真相がわかったと知らせてやりましよう」
「もう知っていますよ。すっかり真相がわかってから、息子さんに会いました。向こうから話をしてくれないとわかったので、こちらから話しました。私の正しいことをどうやら認めた上で、私にはまだはっきりしなかった点を一つ二つ教えてくれました。でも今朝のことを知られたら、口を開くかもしれません」
「ぜひともお聞かせ下さい。この異常な不可解な事件はどういうことだったのですか」
「お聞かせしますとも。私が結論に到達していった順序をお話ししましょう。まず申し上げておきたいのは、まことに話しにくいことで、あなたもお聞きずらいことなんです。サー・ジョージ・バーンウェルとあなたの姪ごさんのメアリさんとの間にはある種の諒解があったのです。その二人は手をとって出奔(しゅっぽん)してしまいましたがね」
「私のメアリが? そんなことはない!」
「残念ながら大ありなんです。確実なのです。あなたも、あなたのご子息も、あの男にご家庭への出入りを許しておかれたにしては、あの男の正体をご存じなかった。あれはイギリスでも最も危険な男の一人で、身を持ち崩した博徒(ばくと)、救いようのない悪党、情けも良心もない人間です。メアリさんはそんな男たちのいることなど、つゆ知らない。これまで百人もの女性に言いよったのと同じように、メアリさんにも甘い言葉をささやいたのを、自分一人があの男の心を動かしたのだと、心ひそかに信じておられたのです。どんなことを言ったものか、ともかく姪ごさんはあの男の言いなり放題になってしまい、ほとんど毎夜のように逢いびきを重ねていたのです」
「信じられない。信じたくもありません」銀行家は顔色を蒼白にして叫んだ。
「ではあの夜、お宅に起こったことをお話ししましょう。メアリさんは、あなたが寝室にひきとったと思われて、そっと下へおり、窓ごしに恋人と話をしました。うまやの小道が見える窓です。男の足跡が雪の上にはっきりとついていました。長いことそこに立っていたのですね。メアリさんは男に宝冠のことを話しました。それを聞くと、男に金(きん)を手に入れたいという欲望がつのりました。姪ごさんを説きふせて、自分の意に従わせました。メアリさんがあなたを愛しておられたことは疑いませんが、恋人への愛情がほかの愛情を消してしまうような女性が数あるものです。姪ごさんもそうした一人にちがいありませんね。恋人の指し図を聞きおわるかおわらないかのうちに、メアリさんにあなたが下へおりてこられるのが見えた。そこで急いで窓をしめ、女中が義足の相手とふらちな逢いびきに出かける話をしたわけですが、これはこれで真実、そうだったのです。
息子さんのアーサー君はあなたと話をしてから寝床へ入りましたが、クラブの借金のことが気がかりで寝つかれません。真夜中にドアの前を通っていく静かな足音が聞こえたもので起き上がり、のぞいて見ると驚きました。いとこのメアリさんが廊下を忍び足で歩いていくのが見えたのです。やがてメアリさんはあなたの化粧室に姿を消しました。驚きのあまりに身のすくむ思いで、アーサー君はありあわせのものを身につけると、この奇妙な事件がどうなりゆくものか見ようと思って、その暗がりの中で待っていました。ほどなくメアリさんがまた部屋から出てきましたが、廊下のランプの明かりで、メアリさんがあの貴重な宝冠を手にしているのが見えました。メアリさんは階段をおりてゆきますので、アーサー君は恐怖におののきながら、廊下を走って、あなたのドアに近いカーテンのうしろへ滑りこむようにかくれました。そこからは下の玄関のホールで行なわれていることが見てとれます。
見ていると、メアリさんがそっと窓をあけて、宝冠を誰か暗がりに立っている男へ手渡しました。それからまた窓をしめて、急いで自分の部屋へとって返しました。カーテンのうしろにかくれているアーサー君のすぐ前を通っていったものです。
メアリさんがその場にいる間は、アーサー君にしても妙に騒ぎたてれば、愛している女性の悪事をばくろすることになるので、どうすることもなりません。しかし、メアリさんが部屋に消えるとすぐ、これがあなたにどんな致命的な災難となるか、何よりもそれを取り返すのが大事だと気づきました。はだしのままにかけおり、窓をあけて雪の上に跳び出すと、小道を走りました。月の光をあびて、先に黒い人影が見えます。サー・ジョージ・バーンウェルは逃げようとしましたが、アーサー君が飛びかかって格闘となり、アーサー君が宝冠の一方のはしを、相手はもう一方のはしをもって、引っぱり合いをしました。つかみ合いで、アーサー君はサー・ジョージをなぐりつけて、目の上に傷をつけました。そのときふと何かがぽきんと音を立てました。アーサー君は、宝冠がこちらの手に入ったことを知ると、とんで帰って窓をしめ、あなたの部屋へ上がりました。宝冠があの格闘でゆがんでいるのに気がついて、それをもとのように直そうとしているところへ、あなたがその場にあらわれたのです」
「そんなことがあるでしょうか」銀行家はあえいだ。
「そこであなたはさんざん悪口をあびせて、アーサー君を怒らせました。それもあなたから大いに感謝をされてもしかるべきだと思っていた失先にです。アーサー君には事件の真相が話せませんでした。話せば、今となってはかばってやるにも値しない女ながら、メアリさんの罪をあばかねばなりません。でも騎士的な仁義のほうをえらんで、メアリさんの秘密を守ってやりました」
「それでメアリが宝冠を見たときに、悲鳴をあげて気を失ったのですね」ホールダー氏が叫んだ。「ああ、私は愚かなめくらでした。それにアーサーは五分間だけ表に出してくれと頼んだ! あの子は格闘をした現場に、なくなったきれはしが落ちていはしないか、見にゆくつもりだったのです。なんという思いやりのない誤解をしたものか!」
「お宅に着きましたとき」ホームズがつづけた。「私はすぐに家のまわりを念入りに調べてみました。手がかりになるような痕跡(こんせき)が雪の上に残っていないかと思いましてね。前の晩から雪はやんでいましたし、それにきびしい寒さでしたから、足跡なら残っているわけです。ご用聞きの通路を通ってみましたが、踏み荒らされて、見分けのつけようもありません。でもその少し先の、台所口のドアの向こう側で、女が立って男と話をしたと見えて、男の片一方の足跡がまるいところから、この男は義足をはいていたのがわかりました。この二人にじゃまが入ったのもわかります。女のほうが急いで入口へかけもどっています。つま先が深くて、かかとのほうの跡が浅いので知れますよ。義足の男のほうは、しばらく待っていてから立ち去っています。そのとき、これは女中とその恋人のものだなと思いました。あなたからお話を聞いていましたからね。調べてみたら確かにそうだとわかりました。庭をまわってみましたところが、乱れた足跡ばかりで、これは警官のものだと思いました。ところが、うまやの小道に入ると、目先に見えている雪の上に、相当いわくのありそうな話が書かれていたのです。
二すじ、靴をはいた男の足跡と、もう二すじ、うれしいことに、素足(すあし)の男のものと思える足跡がありました。あなたのお話から、すぐに素足の跡は息子さんのものだと確信しました。靴跡は行き戻りとも歩いているが、はだしの跡は急いで走っていまして、それがところどころで靴跡の上を踏んでいるところを見ると、明らかに、靴の男を追っかけたものです。足跡をたどってみますと、玄関ホールの窓へつづいていまして、そこで靴の男は待っている間に、雪を一面に踏みつけています。私はそれからもとのほうへ歩いてもどりました。うまやの小道を百ヤードと少し行きましたか。そこで靴の男が向き直ったのがわかりました。雪がけちらされ、どうやら格闘でもあったようで、血のしずくが二つ三つ落ちているからには、私の考えにまちがいないことは確かです。靴の男はそれから小道をかけ去っていて、そちらにもちょっと血が落ちているので、けがをしたのはこの男だとわかります。小道のはずれの大通りまで逃げた様子ですが、鋪道の雪がすっかり片づけられているので、ここで手がかりがきれました。
しかし家へ入って、ごらんのように、ホールの窓台と窓わくをレンズで調べてみました。するとすぐに誰かが抜け出たのがわかりました。入ってくるときに濡れた素足を踏みおろした足裏のあとがはっきり認められました。こうなると、どんなことが起こったのか、考えをまとめみことができるというものです。一人の男が窓の外に待っていた。誰かがその男に宝石を渡した。息子さんがその次第を見やっていて、泥棒を追っかけ、格闘となった。二人が宝冠を引っぱり合って、二人の力が加わって損傷をつけた。どちらか一人だけではつくことのない傷です。息子さんは戦利品を持って帰ってきたが、切れはしが相手の手に残っていた。そこまでは、はっきりしていました。ところで問題は、相手の男は誰か、誰が宝冠をその男に手渡したのか、ということです。
私の昔ながらの公理では、あり得べからざることを除去すれば、あとに残るものが、どんなに信じがたいことであっても、それが真実にちがいない、ということになります。すると、あなたが宝冠を持ち出すわけはありませんから、残るのは姪ごのメアリさんと女中たちだけです。しかし女中がやったとすると、アーサー君が身代りに罪を背負ったりするわけがありましょうか。そんな理由のあるはずがない。しかし、いとこのメアリさんを愛していたからには、アーサー君がメアリさんの秘密を守るという理由は立派に説明がつきます。この秘密が不名誉なものであるというのではなおさらです。あなたが、窓のところにいるメアリさんを見かけられたし、メアリさんはまた宝冠を見て気を失ったということを思い合わせて、私の推測は確信に変わりました。
そこで、メアリさんの共犯者はいったい誰でしょうか。明らかに恋人です。恋人でなくては、あなたによせる愛情や感謝の気持を上まわることはありませんからね。あなた方は出不精(でぶしょう)だし、おつき合いの範囲も狭くかぎられている。しかし、そのわずかなお近づきの中に、サー・ジョージ・バーンウェルがいます。前から噂を聞いていたところでは、女性方の間で評判のよくない男です。あの靴ばきの男で、なくなった宝石を手に入れたのは、その男にちがいありません。アーサー君に顔を見られたと知っていたにしても、まず自分は安全だと内心で思っていたでしょう。アーサー君がひとことでも事を洩らせば、一家の立場を危くすることになりますからね。
さて、それから私がどんな手段に出たかは、あなたも物わかりのいい人だからおわかりでしょう。浮浪者になりすましてサー・ジョージの家をたずね、その侍僕とうまく近づきになって、主人のサー・ジョージが前の晩に頭にけがをしていたのを知りました。とうとう六シリングを投じて、うまうまと主人のはき古しの靴を一足買いとりました。これを持ってストレタムへ出かけ、雪の上の足跡にぴたりと合うのを確かめたのです」
「昨夜、小道に、ぼろを着た浮浪者を見かけましたよ」ホールダー氏が言った。
「そのとおり。私だったのです。犯人の目星がつきました。そこで帰って着がえをしました。それからの私のやらねばならない役割はむずかしいことになりました。スキャンダルを起こさないためには告訴というわけにはゆきません。それに相手は悪がしこい悪党のことだから、こちらが身動きならぬのを知っているにちがいないからです。私はこの男に会いに行きました。むろんはじめはいっさいを否定しました。しかし、事のてんまつをあれこれと話してやると、おどしにかかって、壁の仕込み杖をひきおろしました。しかし相手がどんな男かわかっているので、向こうで杖を振りおろさないうちに、奴の頭へピストルをつきつけてやりました。すると向こうはいくらか物わかりがよくなりました。持っている宝石を買いとろうじゃないか……一個千ポンドと持ちかけました。それを聞くと、はじめてしまったといった様子を見せましてね。
『ちぇっ、しまった! 三個を六百ポンドで手放したよ』と言いました。すぐに買いとった先の住所を聞き出しましてね。告訴などはしない、と約束をした上でです。そちらへまわって、さんざん値切ってから、目的の宝石を一個千ポンドで手に入れました。それからアーサー君をちょっと訪ねて、万事うまく片づいたと知らせてきました。やっと床に入ったのが二時ごろというわけで、それまでかかって、まことにはげしい一日の仕事というところです」
「その一日が、イギリスを一大スキャンダルから救ってくれた次第でして」銀行家は言って、立ち上がった。「ホームズさん、お礼の言葉も見当たりませんが、お骨折りに対しては十分感謝をさせていただきます。あなたのご手腕は全く聞きしにまさるものでございました。ではこれから息子のところへとんでまいりまして、私のあさはかな仕打ちを詫(わ)びるといたしましょう。かわいそうなメアリのことは、お話をうかがって胸もつまる思いです。あなたのご手腕ででも、あれが今どこにおりますか、おわかりにはなりますまいね」
「これだけは言えるようです」ホームズは答えた。「サー・ジョージ・バーンウェルのいるところなら、どこであろうと、一緒におられるでしょう。これも同じく確かなことですが、メアリさんの罪がなんであろうと、あの二人はやがて十二分に報(むく)いの罰を受けるでしょう」
「芸術のために芸術を愛する者には」シャーロック・ホームズは言って、デイリー・テレグラフ紙の広告面をわきに投げ出した。「くだらない低級な作品にも、しごく強い喜びが感じられることがよくあるものだ。僕は喜んでいるよ、ワトスン君、君がこの真理をしっかり把握(はあく)していてくれるのがわかるんでね。僕たちの扱った事件をこうして上手に書きとめてくれて、それもときにはおもしろおかしくこしらえてくれているわけだが、僕が名をあげた有名な事件や世間を騒がした裁判よりも、事件はそれなりに小さくとも、僕の本領である推理力や論理的な総合能力を発揮できた事件のほうを、高く買っていてくれるからね」
「それでも」私は笑った。「僕の書いた記録が大向こうの当たりをねらっていると非難されもするけれど、まんざらそうでないとも言いきれないのでね」
「君はまちがっているんだな、おそらく」ホームズは赤くなった燃えがらを火ばしでつまんで、長い桜材のパイプにその火をうつした。陶器のパイプをやめて桜材にかえるのは、考えごとをしようという気分から議論をしたくなったときである。
「君のまちがいは、おそらく、君の書くものに、それぞれ[あや]や[つや]をつけようとすることなんだ。仕事を、原因から結果へとたどるきびしい推理の過程に限定するといいんだ。その推理過程だけが本当に注目に値する要点なんだからね」
「そこのところは、十分まちがいなくやって来たと思うよ」私は少々冷淡に言った。ホームズの自負心に気を悪くしたからである。もっともそれがホームズの風変わりな性格の強い要素をなしていることは、一度ならず気づいたことである。
「いや、わがままやうぬぼれで言っているんじゃない」ホームズは例によって、私の口先よりも、心の中を見抜いて答えているのである。「僕が自分の芸術を正しく評価してくれというのは、個人的な事がらではないからだ。……つまり個人を超越した事がらなんだ。犯罪はざらにある。論理のとおった推理はめったにない。だから君は犯罪よりも推理を書かなくてはいけないんだ。一連の講義であるべきものを、連続物語にまで下落させているんだよ」
早春のまだ肌寒い朝のことで、私たちは朝食をすませて、ベイカー街のいつもの部屋で、心地のいい火を囲んでいた。濃い霧が暗褐色の家並(やなみ)のあいだを流れて、向かいの家の窓は黄色く垂れこめた霧のうずを通して、黒く、形もおぼろな[しみ]のようにもうろうとしていた。私たちの部屋にはガス灯がともって、白いテーブル・クロスに映(は)え、陶器や銀器をきらきらさせた。テーブルはまだ片づけられないままだった。シャーロック・ホームズは朝のうちずっと黙りこんでいて、次から次に新聞をあれこれと広告欄に目をやっていたのが、とうとうしまいに探しものをあきらめたらしく、ごきげん斜めな調子で、私の書いたものに文句を並べはじめたのであった。
「と同時に」ホームズはしばらく間をおいてから言った。それまで長いパイプをふかしながら、炉の火を見つめていたのである。「君の書きものが向こう受けをねらっていると非難されるのは当たらないね。君も興味をもって手をかしてくれた事件は、その多くが法律的な意味では犯罪にならないものが大部分だからね。ボヘミア王に助力した小さな事件といい、ミス・メアリ・サザランドの奇妙な経験といい、唇の曲がった男にまつわる問題にしても、独身の貴族の事件にしても、みんな法律の埒(らち)がいにある事件だったよ。むしろ君は向こう受けを避(さ)けようとして、平凡に近づいてしまったきらいがあるようだ」
「結果はそうなったかもしれないけれど」私は答えた。「僕の扱った方法は、斬新(ざんしん)にして興味豊かなものだったよ」
「ふうん、ワトスン君、大衆がだね、不注意な大衆がだよ、歯を見て職工だとわからず、左手の親指を見て植字工だと見きわめられないような連中が、分析とか推理といった細かな[あや]のわかるはずもないじゃないか! しかし、君の書くものが平凡だからって、君ばかり責められない。大事件の時代は過ぎてしまったからね。人間は、いや少なくとも犯罪者は、進取(しんしゅ)の意気や独創性をすっかり失っているよ。僕のやる仕事にしても、なくなった鉛筆を探し出すとか、寄宿学校を出たての若い娘さんたちに忠告をしてやるとかいったところまで格下げになっているらしいものね。どうやらすっかり落ちるところまで落ちてしまったらしい。今朝受け取ったこの手紙だが、まずこれがどん底だろう。読んでごらん!」ホームズはくしゃくしゃになった手紙をぽんと投げてよこした。
昨夜モンタギュー・プレースからよこしたもので、次のような文面である。
ホームズさま
ぜひともご意見をお聞かせいただきたいと存じます。家庭教師の口をすすめられているのでございますが、これを引き受けたものかどうか迷っております。明朝十時半におうかがいさせていただきますから、どうぞよろしく願いあげます。かしこ。
ヴァイオレット・ハンター
「この娘さんを知っているのかい」私はたずねた。
「知らないね」
「もう十時半だぜ」
「そうだね。今ベルを鳴らしているのがきっとそうだよ」
「君が思っているよりおもしろい事件になりそうだよ。覚えているだろう、青い紅玉(ルビー)事件を。はじめは単なるいたずらみたいだったが、重大な捜査へと発展したからね。今度の話もそうなるかもしれない」
「うん、そうありたいものだね! まあ今にわかるよ。まちがいなければ、当のご本人がおいでになったようだ」
ホームズがそう言ったとき、ドアが開いて、若い女性が入ってきた。質素だが小ぎれいな身なりをして、明るい利口そうな顔をして、千鳥の卵のようなそばかすがあるが、自分の力で世渡りをしてきた女に見られる、きびきびした態度をしていた。
「おじゃまをしてすみません」ホームズが立って迎えると、女が言った。「でも、とても奇妙な目に会ったのです。相談にのってくれる両親も、親類といったものもございませんので、あなたさまなら、どうしたらいいものか教えていただけるだろうと思いまして」
「どうぞお掛け下さい、ハンターさん。お役に立てば何よりです」
ホームズが新来の依頼人の態度や話しぶりに好ましい印象を受けたのがわかった。いつもの探るような目で彼女を見やってから、まぶたを垂れ、指先を差し合わせて話を聞こうとかまえた。
「私は五年間、家庭教師をしてまいりました。スペンス・マンロー大佐のお宅におりましたが、二た月前に大佐がノヴァスコシアのハリファックスに転任になりまして、お子さまたちをアメリカへお連れになりましたので、私は職をなくしてしまいました。広告を出しましたり、出ている広告に応じたりいたしましたが、うまくまいりません。とうとう貯えておりました小金もつきてまいりまして、これからどうしたものかと思案にあまっておりました。
ウェスト・エンドにウェスタウェイという有名な家庭女教師の周旋所(しゅうせんじょ)がございます。そこへ一週に一度は、私に適当な口でも来てはいまいかと足を運んでみました。ウェスタウェイというのはこの周旋所をはじめられた方でございますが、実際にやっておられるのはミス・ストーパーという人です。自分の小さな事務室におられて、職をさがす女の人たちは控え室で待っていて、一人ずつ通されると、台帳を調べて、適当な口があるかどうかを見てくれるのです。そうです、先週まいりましたところ、いつものように小さな事務所へ通されましたが、おられたのはストーパーさんだけではありませんでした。とても肥った男の方がにこにこ顔で、たっぷりした顎を二重に、のどに垂らして、ストーパーさんと並んでおられ、鼻めがねをかけて、入ってくる女の人たちを熱心に見ておられました。私が入りますと、その方は椅子からふと腰を浮かして、すぐストーパーさんのほうへ向きました。
『この人でいい』と言われました。『これはまたとない人だ。すてき、すてき』
すっかり気のりがされたようで、ひどく親切げに両手をすりあわしておられました。まことに気安い方に思えましたので、私もうれしい気持でお会いしました。
『仕事を探していらっしゃるんですね』
『はい』
『家庭教師をね』
『はい』
『月給はどのくらいお望みですか』
『この前のスペンス・マンロー大佐のところでは、月四ポンドいただいておりました』
『おや、ひどいね! 虐待だ……搾取(さくしゅ)ですな!』その方は大声で言って、憤慨やるかたないといったように、肥った両手を突き出されました。『よくもそんな情けない額を出したものですな、こんな美しい教養のある人に』
『お考え下さるほど教養はございません。フランス語を少し、ドイツ語を少し、音楽と絵が……』
『いや、はや。そんなことは全く問題になりません。要はです、あなたに淑女(しゅくじょ)としての態度ふるまいがそなわっているかどうかということです。話は簡単至極(しごく)です。あなたにそれがなければ、他日この国の歴史に重大な役割を演じかねない子供を育てあげるのには不向きというわけ。それがあれば、さよう、どうしたって三けたの額にも足らぬ報酬でお願いするという法はない。こちらでお願いできれば、年百ポンドからはじめていただくというのでは』
おわかりでございましょうが、ホームズさん、私は、どんなに困っておりましても、そのような申し出は、あまり話がよすぎまして、本当とは思えませんでした。でもその方は、私の顔に信じられないといった様子をごらんになられたらしく、紙入れをひらいて、お札を一枚取り出されました。
『これも私の習慣でしてね』と大へん愉快そうに笑いながら申されました。目を糸のように細めて、顔をしわだらけにしてにこにこしておられるしまつです。『きめた方には月給の半額を前渡しすることにしています。旅費や衣類の費用に当てていただくようにね』
こんなにすてきな、思いやりのある方にお会いしたのははじめてでした。あちこちのお店にも借りがありましたこととて、前渡しをいただけますのは大助かりです。でもこのお話にはどことなく不自然なものがございましたので、話をとりきめます前に、もう少しくわしいことをお聞きしたいと思いました。
『お住いはどちらでございましょうか』
『ハンプシャーです。うっとりとするような田舎でね。ぶなの木館(やかた)というところです。ウィンチェスターから五マイル先でね。この上なく美しい田舎ですよ。それに古風ないい屋敷でしてね』
『私のいたしますことは? どういうお仕事か、うかがわせていただけますれば』
『子供が一人……ちょうど六つになるいたずらっ子でね。ああ、いや、スリッパで油虫を殺すところをお目にかけたいものだ! ばた! ばた! ばた! とほんの目ばたきする間に三匹は殺しますな!』
その方は椅子によりかかって、また目を細くすぼめて笑われました。お子さんがそんな遊びをなさるのに驚きましたが、お父さまの笑い方を見ていますと、それも冗談ですることだろうと思いました。
『では私は、そのお子さまお一人のご面倒を見ればいいのでしょうか』とたずねてみました。
『いや、いや。一人ではありません。一人だけではありませんよ』と大きな声でおっしゃいました。『お利口なあなたにはおわかりだろうが、家内の言うこともきいてやってもらわねばならん。といっても、女の方にたやすくやれるようなことばかりですがね。やれないこともないと思うが』
『お役に立てば何よりです』
『立ちますとも。たとえば着物のことですがね! うちは物好きな連中でしてな……物好きだが心根(こころね)はいいのです。こちらのお仕着せを着てほしいと言ったら、こちらのつまらない気まぐれをかなえてくれるでしょうね』
『はい』とは答えましたものの、その言葉にはいささか驚きました。
『それにまた、ここへ座ってほしいとか、あちらへ座ってほしいとか申しても、べつにお気にさわりますまいね』
『ええ、かまいませんとも』
『それに、宅へ来られる前に、髪をずっと短く切っていただくのも』
私は自分の耳が信じられないくらいでした。ごらんのように、ホームズさん、私の髪はふさふさとしているほうでして、まあ特殊な栗色でございます。芸術的だと思われておりました。むげにこれを犠牲にすることなど、思いも及びません。
……『そればかりはお許し願いますわ』と言いました。その方はしげしげと小さな目で私を見つめておいででしたが、私の言葉をお聞きになると、顔を曇らせたのがわかりました。
『じつはそれが肝心(かんじん)なところでしてね。家内のちょっとした気まぐれなんだが、女の気まぐれというのは、それがねえ、かなえてやらなくてはならんもんでして。とすると、髪を切ってはいただけませんな』
『ええ、とても切れませんわ』私ははっきりとお断りしました。
『ああ、ではよろしい。それなら話はそれまでということです。残念ですな、ほかの点ではどれもこれも申し分がないというのに。それではストーパーさん、もう二、三人、ほかの女の方に会わせていただきましょうか』
ストーパーさんは、こちらの話のあいだじゅう、ずっと忙しそうに書類を見ておいでで、ひとことも口をはさまれませんでしたが、私をちらりと見られて、ひどく困ったような顔つきをされましたので、私がお断りしたためにかなりの手数料をふいにされたのではないかと思わずにはいられませんでした。
『まだあなたの名前を登録しておかれますか』とストーパーさんが聞きました。
『どうぞお願いします、ストーパーさん』
『そうですか。むだだと思いますがね。これほどまたとない、いい口を断るんですからね』と、とげとげしく言いました。『こちらでまたこんないい就職口は見つけてあげられませんから、そう思っていて下さいよ。ではまた、ハンターさん』
ストーパーさんはテーブルの鐘を鳴らしました。私は給仕に送り出されました。
それで、ホームズさん、下宿へ帰ってまいりますと、食器棚には食料もほとんどなく、請求書が二、三枚、テーブルにのっかっています。それを見ますとひどく馬鹿なことをしたものだという気もしないではありません。つまりは、あの人たちが妙に気まぐれな物好きで、その奇妙なことを承知してほしいと思えばこそ、その風変わりな好みをおしつけるかわりにそれだけのお礼をしようというのです。
イギリスで年に百ポンドとっている女の家庭教師はめったにあるものではありません。それに、この髪とて私になんの役に立つというのでしょう。髪を短くして、かえってずっと美しくなった人も多いのですし、私だってそうかもしれません。その翌日には私がまちがっていたと思うようになり、また次の日には、確かにまちがったことをしたと、そう信じるようになりました。見栄(みえ)も外聞もないような気になりまして、周旋所へまいもどり、まだその口が残っていますかどうか、たずねてみようという気になりかけておりましたところへ、あの紳士ご自身からこの手紙を受け取ったのでございます。ここに持ってまいりました。読ませていただきますわ。
ウィンチェスター近くの、ぶなの木館にて
拝啓……ストーパーさんからあなたのご住所を教えていただきましたので、お願いの件をご再考願えないものかと、当地から一筆いたしました。家内があなたにお出で願いたいと切望いたしております。あなたのことを話しましたところが、ひどく気に入ったもようなのです。当方といたしましては三か月に三十ポンド、つまり年百二十ポンド差し上げたいと思っております。何ぶん当方の気まぐれには何かとご迷惑と存じますので、それを償(つぐな)う意味でもあるのです。もっとも気まぐれと申しても、さして無理なことをお頼みするわけではありません。家内は鋼青色(こうせいしょく)の変わった色合いが好きなもので、朝など家のうちではそうした色の着物を着ていただきたいというわけです。しかし、そちらでそれをお買い下さるには及びません。娘のアリス[目下フィラデルフィアにおります]のものがあります故(ゆえ)、どうやらあなたにぴったりかと思っております。
なおまた、こちらへ座っていただいたり、あちらへ座っていただいたり、あれこれおもしろいことをお願いいたしますが、決してご迷惑はおかけいたしません。髪の件につきましては、まことにお気の毒に存じます。先日ちょっとお目にかかりましたさいにも、その美しさを重々承知いたしている次第で、それだけにすまないことだと存じているのですが、このことだけは当方の申し出を守っていただきたく、そのためにも、給料の増額でご海容(かいよう)くだされば幸甚(こうじん)です。
お仕事も、子供の面倒のほうは、大したこともありません。まげてお越しいただきたく、ウィンチェスターまで馬車でお迎えにあがります。汽車の時間をお知らせ下さい。 敬具
ハンターさま ジェフロー・ルーカースル
これが先ほど受け取ったばかりの手紙でございまして、ホームズさん、お引き受けしようときめております。でも、はっきり話をきめます前に、あなたさまにすっかり申し上げたうえで、ご意見をお聞かせいただけたらと思ったのです」
「なるほど、ハンターさん。でも行くおつもりなら、問題はありませんね」ホームズは笑った。
「でもお断りするほうがいいとは、おっしゃらないのですね」
「申せば、僕の妹になら引き受けさせたいと思うような仕事ではありませんね」
「どういう意味でございましょうか、ホームズさん」
「いや、材料がありませんので、申し上げようもありません。あなたのほうにご意見がおありでしょう」
「ええ、私にはただ一つ、こうとしか思いようがありません。ルーカースルさんは大へん親切で人のいい方のように思います。でも奥さんは気が狂っていらっしゃるのではないでしょうか。奥さんを精神病院へ送るようになるのを恐れて、事を内聞(ないぶん)にすませ、発作を防ぐためにあれもこれもと奥さんの気まぐれをかなえてあげようとしていらっしゃるんじゃないでしょうか」
「ありそうな話ですね……確かに、今のところでは、その説明がいちばん当てはまりそうです。しかしいずれにしても、若い女の方には立派な家庭とは思えませんね」
「でもお金が、ホームズさん、お金が!」
「ええ、そう、むろん、給料はいい。……よすぎるぐらいです。それが不安に思えるんですよ。なぜあなたに年百二十ポンドも払うんでしょう。四十ポンドも払えば、人がありますのにね。裏に何か深いわけがあるにちがいありません」
「事情をお話し申し上げておけば、あとでお助けいただきたいときは、よくわかって下さると思ったものでございますから。あなたさまがうしろについていて下さると思えば、どんなにか気強いことでございましょう」
「ああ、そう思って向こうへいらっしゃい。あなたの話は、この数か月出あわなかったほどの、おもしろいものになりますね。いくつかの点で、全く目新しいものがあります。何か不審なことや危険な目にあうようでしたら……」
「危険ですって! どんな危険がありそうなんですか」
ホームズは重々しく首をふった。「それがはっきりわかるようなら、危険とは言えませんからね。まあ、いつでも、昼でも夜でも、電報一本よこされれば、助けに行ってあげますよ」
「それでけっこうです」
ミス・ハンターは心配の影をすっかりはらい落として、椅子から元気よく立ち上がった。「これで安心して、ハンプシャーへ参れます。さっそくルーカースルさんへ手紙を書きまして、今夜髪を短く切り、明日はウィンチェスターへ発(た)つといたしますわ」
ホームズへ二こと三ことお礼を述べて、私たちにさようならを言うと、あたふたと帰っていった。
「少なくとも」しっかりした、足早な足音が、階段をかけおりていくのが聞こえると、私は言った。「あの人は若いけれど、自分のことは十分気をつけておられそうだね」
「その必要がありそうだ」ホームズはまじめに言った。「まず、まちがいなく、そのうちにあの人から便りが来るよ」
わが友ホームズの予言がまもなく適中した。二週間を過ぎていたが、その間、私はただただ彼女のことが頭に浮かび、あの淋しい女性は、なんという奇妙な人生の裏道へ迷いこんだものであろうと思ったものだ。並々ならぬ給料、奇怪な条件、大したこともない仕事、すべて思い合わせば何か異常なもののけはいがする。気まぐれなのか。計画的なものか、あの男は慈善家なのか悪漢なのか、私の力ではどちらとも見当がつかない。ホームズといえば、しばしば半時間も座りこんだままでいて、眉をしかめ、何かに気をとられている様子でいたものだ。だが私がこの話を持ち出すと、手をふって私の言葉を払いのけるのだった。
「材料だ! 材料だ! 材料だ!」ホームズはじれったそうに叫んだ。「粘土がなければ、れんがは造れやしない」それなのに、自分の妹ならあんな仕事は引き受けさせやしないと、つぶやいてばかりいたものだ。
電報がついにまいこんだのは、ある夜、おそくなってからだった。私は寝室にさがろうと思ったばかりのときで、ホームズはよく夢中になって徹夜でやる化学実験にとりかかっていた。ホームズは夜になるとレトルトや試験管にかじりついていて、私は先に寝てしまうのだが、朝になって食事におりてみると、ホームズはまだ同じところで実験をやっているということがよくあったのだ。ホームズは黄色の封筒を開いて、電文に目をとおすと、私のほうへ投げてよこした。
「ブラッドショー鉄道旅行案内で、汽車の時間を見てくれないか」
そう言うと、また化学実験をやりだした。
電文は簡単だが急を要するものだった。
あす正午、ウィンチェスターのブラック・スウォン・ホテルにお出で乞う。ぜひ。途方にくれた。ハンター
「一緒に来てくれるかい」ホームズはちらりと見上げてきいた。
「ぜひ行きたいね」
「じゃ、その案内書を調べてくれ」
「九時半の汽車がある」私は案内書に目をやりながら言った。「ウィンチェスター着は十一時三十分だ」
「それは都合がいい。するとアセトンの分析はまたに延ばしたほうがいいようだ。明日の朝はうんと張りきらなくてはならないからね」
次の日の十一時ごろには、私たちはイギリスの旧都であったウィンチェスターへ近づいていた。ホームズは途中ずっと朝刊をあれこれと読みふけっていたが、ハンプシャーの郡内に入ってからは、新聞をわきにのけて、景色に見とれはじめた。うららかな春の日で、明るい青空には小さな白い綿のような雲が点々と、西から東へただよっていた。太陽はきらきらと照っているわりに、空気にはさわやかな冷気が流れて、人の精気を鋭くするものがあった。田園一帯に、遠くオルダーショットの町をとりまく丘々のうねりのあたりまで、小さな赤や灰色の農家の屋根が、明るい緑の若葉の間から、見えがくれしていた。
「さわやかで、きれいじゃないか」私は大声をあげた。霧深いベイカー街から出てきたばかりの私には心の晴れる思いだった。だがホームズは重々しく頭をふった。
「わからないだろうね、ワトスン。因果(いんが)なことに、僕のような気質の男は、あれもこれもを自分の専門に結びつけて見なくちゃならないんだ。君はああしてちらほらしている家を見て、その美しさに打たれている。僕は見ても、頭に浮かんでくるのは、あの家がそれぞれ孤立している感じ、人知れず犯罪が行なわれるな、ということだけなんだ」
「やれやれ! あんな美しい古い農家を見て、犯罪を連想する奴があるものか」
「ところがいつでもあれを見ると、その恐怖を感じるよ、僕の経験にもとづく信念なんだがね、ワトスン、どんなに下層の下劣な、ロンドンの裏町よりも、このほほえましい美しい田園のほうが、ずっと恐ろしい犯罪の温床なんだよ」
「驚かさないでくれよ」
「でも、その理由はきわめて明瞭なんだ。都会では世論の監視があって、法律の手がとどかないところを見はっている。ひどく下劣な裏通りでも子供がいじめられて泣きわめくとか、酔っぱらいがなぐりつける音が聞こえるとかすれば、隣り近所の連中が、かならず同情したり、憤慨したりするにきまっている。それに警察機構がすっかりゆきわたっているから、ひとことでも訴え出ようものなら、すぐと活動開始で、犯罪から被告席まではほんの一歩にすぎない。
だが、ああして孤立している家を見てごらん。それぞれ周囲に自分の農地をめぐらしていて、家の中にはまるで法律を知らない無知なあわれな連中が住んでいるのだ。こんなところでは、毎年毎年、凶悪残忍な犯罪が目に立たず行なわれて、それとわからず、すんでしまっているかもしれないじゃないか。
僕たちに助けを求めているあの女性にしても、ウィンチェスターの町に住みついたというのならば、僕はいっこう心配しなかったろうがね。危険なのは、五マイルはなれている田舎ということだ。それでも確かに、まだその身には危険がせまっていないらしい」
「そうだね。ウィンチェスターへ僕たちに会いに出てこられるものなら、逃げようと思えば逃げ出せるわけだ」
「そのとおりだ。自由にふるまえるのだ」
「じゃ、どういうことなんだろう。見当はつかないかい」
「僕の考えた説明は七通りあるんだ。そのどれもが、今までにわかっている事実を説明できる。しかし、そのうちのどれが正しいかは、新しい情報が得られるまではきめられない。そいつは向こうで握れるにきまっているよ。おや、大伽藍(がらん)の塔が見える。まもなくハンターさんが、すっかり聞かせてくれるよ」
ブラック・スウォンは本通りにある有名なホテルで、駅からは遠くない。若いハンターさんが僕たちを待ちうけていた。部屋を一つとってくれてあって、お昼の食事がテーブルにしつらえてあった。
「よくおいで下さいました」彼女は真剣に言った。「お礼を申し上げます。本当にどうしていいか、わからないのです。お教え願えれば、全くありがたいのですが」
「どんなことがあったのか、お話しになって下さい」
「そういたしますわ。取り急いで。三時までには帰ると、ルーカースルさんにお約束しましたので。今朝町へ出るお許しをいただきました。なんの目的かはご存じないのですけれど」
「すっかり、順序を立てて聞かせていただきましょう」ホームズはほっそりした長い両足を炉火のほうへさしのべて、話を聞くかまえをした。
「はじめに申し上げておきますが、ルーカースルご夫婦からこれといってひどい取り扱いを受けたことはありません。あの方たちのために、これだけは申し上げておきます。ですけれど、あの方たちがわからないのです。あの方たちのことが不安なんです」
「どういうことがわからないのですか」
「なぜあんなことをなさるのか、わけがわかりません。あったとおりのことをそのままお話しいたします。私が当地へ着きますと、ルーカースルさんが迎えに見えまして、その二輪馬車で、ぶなの木館まで乗せて下さいました。お屋敷は、お話のとおり、美しいところにありましたが、建物そのものは美しくはございません。四角い大きなお屋敷で、白く塗ってございますが、風雨に荒れて、すっかりいたんで汚れております。まわりに広い土地があり、三方は森、もう一方は草地になっていまして、これがサザンプトンの街道のほうへ傾斜しております。街道は玄関から百ヤードほど先のところで曲がっています。前面のこの土地だけがこの屋敷のもので、まわりの三方の森はサザトン卿の禁猟地区の一部なのです。玄関のすぐ前に、こんもりしたぶなの木立がありまして、ここの屋敷の名になっております。
馬車を走らせて下さいましたのはご主人のルーカースルさんで、あいかわらず愛想がよく、その晩、奥さんやお子さんに引き合わせて下さいました。ホームズさん、私の推測はあたりませんでした。ベイカー街では、まずそうだろうと思っておりましたのに、ルーカースル夫人は普通の人です。無口な、顔色の青白い方で、ご主人よりはずっとお若く、三十にはなっていらっしゃらないように思います。ご主人のほうは四十五の上でしょうに。お二人の話からしますと、結婚して七年ぐらいの様子、ご主人は再婚で、前の奥さんにお嬢さんがあって、フィラデルフィアに行っていらっしゃるということがわかりました。ルーカースルさんがそっとおっしゃったところでは、そのお嬢さんが膝元を離れられたのは、なんとなくあとのお母さんと気が合わないからだそうです。お嬢さんも二十にはなっておられるでしょうから、若いお母さんとでは、気づまりなことだったことはよくわかります。
ルーカースル夫人は、お顔ばかりでなく、心の中も血の気のないように思えました。好感を持てる方とも、嫌な方とも思えませんでした。どうということもない方です。ご主人と小さなお子さんには深い愛情をもっておられるのがよくわかりました。そのうすい灰色の目はたえずお二人にそそがれていまして、小さなことでも、できるだけ先にまわってしてあげようと気を配っておられます。ご主人も持ちまえのあけすけな荒っぽさながら、奥さんにはやさしくて、まあ、お見かけしたところ幸福なご夫婦のようです。
でもこの奥さまには何か秘密の悲しみがあるようで、ときおりぼんやりと考えに沈んでおられまして、とても悲しそうな顔つきをなさいます。涙を流しておられたのも、一度ではありません。心にかかっておられるのはご自分のお子さんの性質のことかと思ったこともあります。あんなに増長(ぞうちょう)して、性(しょう)わるになったお子さんにはお目にかかったことがありません。
お子さんは年のわりには小柄でして、頭だけがひどく不釣合いに大きいのです。四六時(しろくじ)中、かっとなってあばれるかと思えば、むっつりとすねてふさぎこんでいます。自分より弱い動物をいじめるのが何よりの楽しみらしく、鼠や小鳥や昆虫を捕える工夫にかけては、それはすばらしい才能を示します。でもお子さんのことはこれぐらいで、ホームズさん、私の話にはあまり関係がありませんから」
「すっかりくわしくお聞きしたいですね」ホームズが言った。「関係のあるなしはともかくとしてです」
「大切なことは洩らさないようにいたします。このお屋敷で不愉快なことは、すぐに気がついたのですが、召使いたちの様子やふるまいでした。夫婦の者が二人だけおります。トウラーというのが夫のほうの名で、がさつな無骨(ぶこつ)もので、髪の毛も頬ひげもごま塩まじり、それにいつもお酒の匂いをさせております。私が一緒に暮らすようになりましてからも、酔いつぶれましたことが二回ありましたが、それでもルーカースルさんはまるで気にかけておられない様子です。おかみさんは非常に背が高くて力の強い女で、しぶい顔つきをしていまして、ルーカースルの奥さんと同じように無口ですが、愛嬌(あいきょう)のないことははるかにそれ以上です。全く不愉快な夫婦ですが、いいことに、私はほとんどの時間を子供部屋か私の部屋で過ごします。この二つの部屋は、建物の一隅で、隣り合っているのです。
ぶなの木館に着きましてから二日ほどは、これといったこともありませんでした。三日目になりまして、ルーカースル夫人が朝食のすぐあとでおりてこられまして、何かご主人にささやかれました。
『ああ、よろしい』とおっしゃって、ルーカースルさんは私のほうに向かれました。
『大へん感謝していますよ、ハンターさん、こちらの気まぐれをかなえて下さって、髪まで切っていただいたりして。でもあいかわらず美しいことで。ところで例の鋼青色の着物があなたにどうお似合いか、ひとつ拝見いたしましょうか。お部屋のベッドに出してありますから、着てみていただければ、家内も私も大いにありがたいんですがね』
置かれていました着物は、ちょっと変わった青色のものでした。すばらしい生地でベイジュの一種ですが、前に誰かが手を通したあとのあることは確かでした。私が仕立てをたのみましても、これ以上にはいかないくらいに、ぴったりでした。ルーカースルさんご夫婦ともこれを見られてお喜びの様子で、大げさ過ぎるぐらいのはしゃぎようでした。お二人は客間で待っておられました。そこは大きなお部屋で、お屋敷の正面ぞいにずっとひろがっているのです。長い窓が三つありまして、床までとどいています。椅子が一つ、まん中の窓のそばに置かれていまして、背を窓に向けてあります。これに腰をおろすように言われ、それからルーカースルさんが、お部屋の向こう側を行ったり来たりされながら、これまで聞いたこともないような、とてもおもしろいお話をひとつづき、話しはじめられました。ホームズさんにはご想像もつかないくらい、ルーカースルさんのお話がおかしくて、あまり笑ったもので、すっかり疲れてしまいました。
でもルーカースル夫人のほうは、ユーモアのまるでわからない方ですから、にこりともなさらずに、手を膝に置いて、腰をおろしたまま、悲しい、心配そうな顔つきをしておられました。一時間ほどしましてから、ルーカースルさんはとつぜん、日課の勉強をはじめる時間だから、着物を着がえて、子供部屋のエドワード坊っちゃんのところへ行くように言われました。
それから二日のちも、全く同じ状態で、これと同じことがくり返されました。また着物を着がえ、窓のところに腰をかけ、おもしろい話をつぎつぎに聞かされて、笑いこけました。ご主人の話の種はそれは豊富なもので、話しぶりも真似手(まねて)がないほどお上手でした。それからご主人は私に背の黄色い小説を渡され、私の椅子を少し横へよせられて、こちらの影が本にささないようにして、声高に読んでくれと申されました。十分ほど読みました。章の中ほどからはじめたのですが、そのときとつぜん文章の途中で、もう止めて着物をかえるようにとおっしゃいました。
よくわかっていただけるでしょうが、ホームズさん、どんなつもりで、こんな奇妙なふるまいをさせられるのかと、ひどく不思議に思えてきました。気がついたのですが、お二人はいつも私の顔が窓のほうを向かないようにとても気をつけていました。そこで、私のうしろのほうで何が行なわれているのか、なんとかしてそれを見たいと思うようになりました。はじめはとてもできそうにありませんでしたが、すぐに一つの手段を考えつきました。私の手鏡がこわれていたのを幸いに、うまいことを思いつき、小さな鏡のかけらをハンカチの中へひそませました。次のおり、笑いにむせんでいると見せて、ハンカチを目に持っていきますと、ちょっと動かしただけで、うしろにあるものがすっかり見えました。正直申して、がっかりいたしました。何も変わったことはなかったのです。
少なくとも、はじめはそう思いました。でも二度目に見てみますと、一人の男がサザンプトン街道に立っているのが見えました。灰色の服を着た、ひげを生やした小柄な男です。その男がこちらをのぞいているように思えました。その街道は主要道路ですから、いつも誰かは通っています。でもこの男は、屋敷の草地を仕切ってある柵(さく)にもたれて、熱心にこちらをのぞきこんでいるのです。私はハンカチをおろして、ルーカースル夫人を見やりますと、奥さんはひどく探るような目つきで私を見つめています。なんにもおっしゃいませんでしたが、私が鏡をかくし持って、うしろのものを見てとったのを、確かに見抜かれたようです。奥さんはすぐに立ち上がって、言いました。
『ジェフロー、街道にずうずうしい人がいて、ハンターさんをじろじろ見ていますよ』
『あなたのお友達じゃないですか、ハンターさん』ご主人がおききになりました。
『いいえ、このあたりで知った人はありませんわ』
『やれまあ、なんてずうずうしい! 向こうへ向いて、手をふって追っぱらって下さい』
『知らない顔をしているほうがいいんじゃありませんか』
『いやいや、しじゅうここらをうろつかせることになりますからね。向こうを向いて、こういうふうに手をふって追っぱらって下さい』
言われるとおりにしましたところが、ちょうどそのとき、ルーカースル夫人がブラインドをひきおろしました。それが一週間前のことなのです。それからはもう窓のところに座りませんし、青い着物を着ることもありません。街道にその人を見かけもいたしません」
「どうかつづけて下さい」ホームズは言った。「お話が大へんおもしろくなりそうです!」
「すこし横道にそれた話と思われるかもしれませんが、それにお互いに関係のない、別々の話かもしれませんけれど、二、三のことをお話し申し上げます。
はじめてぶなの木館にまいりましたその日に、ルーカースルさんに勝手口の近くにある、小さな下屋(しもや)に連れていかれました。そこに近づきますと、鎖がするどく鳴る音が聞こえました。大きな動物が動きまわっているような音でした。
『ここをのぞいてごらん』ルーカースルさんがおっしゃって、二つの羽目板の間にあるすき間を教えてくれました。『すてきなやつじゃありませんか』
のぞいてみますと、二つの目がきらきらと光っていまして、何かおぼろな形が闇の中にうずくまっているのが見てとれました。
『こわがらなくてもいい』ご主人は私のびっくりしたのを笑われました。『なあに、カーロといって、わたしのマスチフ種の犬だよ。私の犬といったが、実は馬丁のトウラーしきゃ、この犬を扱えないんでね。一日に一度だけ食事をやる。あまりやらないことにしてあるので、いつでも芥子(からし)のようにぴりぴりしていますよ。トウラーは夜になるといつでもこいつをはなすので、屋敷へ入りこむ者があれば、ひとがぶりにやられますな。あなたも夜になったら、どんなことがあっても家から出ないようにして下さいよ。命にかかわりますからね』
この注意はけっしてむだではありませんでした。その二日目の夜、ひょいと寝室の窓から外に目をやりました。真夜中の二時ごろだったでしょうか。いい月の晩で、家の前の芝生は一面銀色に輝き、まるで日中のような明るさでした。このおだやかな美しい景色に見とれて立っていますと、そのとき、何かが、ぶなの木陰の下で動いているのに気づきました。やがて月の明かりのほうへ出てまいりましたので、それがなんだかわかりました。大きな犬で、まるで子牛ほどです。黄褐色で、のどの肉が垂れ、鼻面(はなづら)が黒く、からだの、太いとがった骨が浮き出ています。のっそりと芝生をよぎって、向こうの木陰に姿を消しました。あの恐ろしい無言の番兵には骨の髄(ずい)までぞっとしまして、強盗にあったときのこわさどころではありませんでした。
それにまた、こんな、とても不思議なことがございました。ご存じのように、ロンドンで髪を短く切ってしまいましたが、切った髪を大きく巻いて、トランクの底へしまってあったのです。
ある晩、坊っちゃまがお休みになってから、おもしろ半分にお部屋の家具を調べたり、自分の持ち物の整理などをしはじめました。部屋には古箪笥(たんす)が一つありまして、上の二つの引出しは空っぽで開いていますが、下の一つには鍵がかかっていました。開いている二つにとりあえずリンネル類を入れましたが、それでも入りきらないのがたくさんありましたので、三つ目のが使えないのに困ってしまいました。何かのまちがいで鍵をかけたのかもしれないと思いつきましたので、鍵たばを取り出して、あけてみようとしました。最初の鍵がうまくぴたりと合いまして、引出しがあきました。中に入っているものは一つだけでしたが、それがなんだとお思いですか。私の髪を巻いたたばでした。
取り出して、調べてみました。風変わりな色合いといい、そのかさといい、私のものと寸分ちがいません。それにしましても、そんなことのありようがないことで、私の髪が鍵のかかった引出しに入っているわけがございません。手がふるえる思いで、トランクをあけまして、中身をひっくり返して、底から私の髪たばを抜き出しました。それから二つのたばを並べてみました。確かに、まるで同じ髪たばでした。おかしいじゃございませんか。いくら考えましても、これはどういうことだか、さっぱりわかりません。もとの妙な髪の毛を引出しにもどしまして、このことはルーカースルさんには何も申しませんでした。あちらでわざわざ鍵をかけた引出しをあけたりして、悪いことをしたと思ったのです。
おわかりでございましょうが、私は生まれつき目ざといほうでして、ホームズさん、まもなくこの家の構造がのみこめました。どうしたことか、一棟(ひとむね)がつき出ているところは、まるで使っている様子がありません。前のドアを行けば、トウラー夫婦が住んでいる所へ出るのですが、こちらのドアにはいつも鍵がかかっています。でも、いつでしたか、階段をあがっていますと、ルーカースルさんがそのドアから出ていらっしゃるのに出会いました。鍵たばを手にしていまして、いつものほがらかで陽気な方とは似ても似つかない顔つきをしていらっしゃいました。頬(ほお)がまっ赤で腹立ちに眉をしかめて、こめかみには興奮で血管が浮いていました。ドアに鍵をかけると、急いですぐそばを走り足で行かれ、私には声もかけず、目もくれませんでした。
これはおかしいなと思いました。それで坊っちゃんのおともをして庭地へ散歩に出ましたとき、横手へまわってみました。ここからはこの家の、この張り出している棟(むね)の窓が見えるのです。四つの窓が並んでいまして、うちの三つは埃(ほこり)まみれで、残りの一つには鎧戸(よろいど)がおろしてありました。どの窓もすっかり荒れ果てたままです。行ったり来たりしながら、時々その窓のほうへ目をやっていますと、ルーカースルさんが私のほうへ出ていらっしゃいました。いつものように、にこにことほがらかなご様子でした。
『やあ! さっきは失礼しました、知らん顔をして行き過ぎたりして。仕事に気をとられていたもんで』
べつに気を悪くもしていないと答えまして、『それはともかく、あそこは空き部屋が並んでいますのね。一つは鎧戸がしまっていますわ』と申しました。
『写真が道楽というわけでね。暗室にしてあるんですよ。これはまた、よく気のつく人だね。思いがけないことだ。全く思いがけないことでしたな』
冗談めかしておっしゃいましたが、こちらを見ている目には冗談どころの色もありません。疑わしそうな、また、困ったようなけはいで、冗談とは見えませんでした。
で、ホームズさん、あのひとつづきの部屋には、私に知られてはならない何かがあるのだとわかりましてからは、なんとかそこを探ってみたい気持にかられました。好奇心からだけではありません。そんな気持もありましたけれど。でも義務感といったような、ここを探ればいい結果になるといった気持が強うございました。よく女の本能と申されますが、そんな気がしましたのは、まあ女の本能でしたろうか。ともかくそんな気がしまして、禁断のドアを入れないものかと、しきりに機会をねらっていました。
その機会をつかみましたのは、ほんの昨日のことでございました。申しておきますが、ルーカースルさんのほかに、トウラー夫婦の二人があのほったらかしの部屋へ用があると見えまして、一度トウラーが大きな黒いリンネルの袋を持って、ドアを入っていくのを見かけました。近ごろ、ひどく酔っぱらってばかりおりますが、昨夜もうんと飲んでおりました。
階段をのぼりますと、あのドアに鍵が差しこんだままになっていました。トウラーがそのままにしていったのにちがいありません。ルーカースルさん夫妻は下におられて、坊っちゃんも一緒です。これはまたとない機会でした。そっと鍵をまわしてドアをあけ、そっと入ってみました。
前に小さな廊下がついています。壁紙もはってなく、じゅうたんも敷いてありません。それが少し先の突き当たりで、直角に曲がっています。その角を曲がりますと、ドアが二つ並んでいまして、前と奥の二つが開いていました。二つとも中は空き部屋で、ほこりっぽく、陰気で、一つのほうには窓が二つ、もう一つは一つ窓で、よごれきっているものですから、夕日がぼんやりとさしこむだけです。まん中のドアはしまっていまして、外側に鉄ベッドに使う幅広の鉄棒がわたしてありました。一方のはしは壁についている輪に南京錠(なんきんじょう)でとめてあり、もう片方はがんじょうな太縄(ふとなわ)でしばってあります。ドアにもしっかり鍵がかかっていますが、鍵は見あたりません。この柵をしたドアが外の鎧戸をおろした窓と同じ部屋のものであることは明らかです。それでもドアの下から洩れる明かりで、部屋は暗くないことがわかりました。天窓があって、上から光がさすのにちがいありません。廊下に立って、このいまわしい部屋を見つめながら、どんな秘密をひめているのかと思っていますと、とつぜん部屋の中から足音が聞こえまして、影が一つ、あちらへ行ったり、こちらへ来たりするのが見えました。ドアの下から洩れている、鈍い光にさす影がゆらぐのです。それを見ますと、ぞっとする、とてつもない恐怖をおぼえました、ホームズさん。
とたんに張りつめた神経がゆるみまして、向きかえるなり走りました。……何か恐ろしい手がうしろにせまって、スカートをつかまれでもしたような気持で、いっさんに走りました。廊下をかけもどり、ドアを飛び出ますと、ルーカースルさんの腕にだきとめられました。外で待っていたのです。
『すると』ルーカースルさんは言いました。『やっぱり、あなただったんだね。ドアが開いているのを見て、そうにちがいないと思ったがね』
『ああ、こわかったこと!』私はあえぎながら言いました。
『しっかりして、しっかりして!』……ルーカースルさんはそれはそれはやさしく慰めて下さいました。……『何がそんなにこわかったのですか、ハンターさん』
でもあの方の声は、いくらか猫なで声すぎるのです。つくりすぎでした。私はこれはと警戒しました。
『馬鹿でしたわ。空き部屋の棟へ入ったりして』私は答えました。『薄暗くて、妙にさびしく、気味がわるいんですもの。こわくてすぐ飛び出しましたわ。ああ、ぞっとするくらい、ひっそりしているんですのね』
『それだけでしたか』と、鋭く私を見ました。
『あら、どうしてですか』
『このドアに鍵をかけてあるのは、なぜだかわかりますか』
『そんなこと、わかりませんわ』
『用のない人を入らせないためですよ。わかりますね』ルーカースルさんは、とてもにこにこ笑っていました。
『そうと知っていましたら……』
『よろしい。もうおわかりですね。今後二度とこの敷居をまたいだら……』ここでたちまち笑いが消えて、にやりとすごむと、悪魔のような形相(ぎょうそう)で私をにらみつけました。『マスチフ犬へくれてしまいますよ』
とても恐ろしかったものですから、それからどうしたのか覚えておりません。そばをかけ抜けて、自分の部屋へ逃げ帰ったのにちがいありませんわ。あとで気がつきますと、ベッドでぶるぶるふるえていました。それから、あなたのことを思い出しましたの、ホームズさん。何か力になる助言を受けなくては、もうとてもあそこでは暮らせませんでした。あの家が、ご主人が、奥さんが、召使いたちが、坊っちゃんまでがこわかったのです。みんなが恐ろしくてなりません。あなたにいらしてさえいただければ、何もかもうまくいくでしょう。もちろん、逃げようと思えばあの家から逃げ出せたかもわかりませんが、こわいもの見たさで、好奇心も強かったのです。すぐに決心しました。あなたに電報を打とうと思いました。帽子をかぶって、外套を着て、郵便局へ行きました。あの家から一マイル半ばかりのところです。それからもどってまいりますと、安堵(あんど)の思いをいたしました。玄関に近づきましたとき、あの犬が放たれていやしまいかと、恐ろしく心配いたしましたが、その晩はトウラーがぐでんぐでんに酔っていたのを思い出しました。あの猛犬を扱えるのは、この家ではトウラーだけです。放してやれるのはトウラーだけですもの。そっとうまく家に入って、あなたにお目にかかれると思うと、うれしくって夜中まで眠れませんでした。今朝ウィンチェスターへ出てくる許可を得るのは、わけはありませんでした。でも三時までには帰っていなくてはなりません。ルーカースルご夫妻が人を訪ねにお出かけで、一晩ずっとそちらにいらっしゃいますので、お子さまのお世話をしなければならないものですから。これですっかりお話しいたしました、ホームズさん、いったいどういうことなのか、教えていただければうれしいのです。また、特に、私、どうしたらいいものかを」
ホームズと私はこの異様な話に聞きほれていた。ホームズは立ち上がると、部屋をあちらこちらへと歩いた。両手をポケットに突っこみ、真剣きわまりない顔つきだった。
「トウラーはまだ酔っぱらっていますか」ホームズはきいた。
「ええ。おかみさんがルーカースルさんの奥さんに言っているのが聞こえました、トウラーはどうしようもありませんって」
「それはいい。それにルーカースル夫妻は今夜外出するのですね」
「ええ」
「地下室で、しっかり鍵のかかるのがありますか」
「ええ、ございます。酒倉ですが」
「この件では勇敢によく気をおくばりのようでしたね、ハンターさん。も一つ手柄を立ててみませんか。あなたを見込んでのお願いなんですが」
「やってみますわ。どんなことでしょうか」
「ワトスン君と私とは七時にぶなの木館へ行きます。ルーカースル夫妻はその時刻にはまだ外出中で、トウラーも正体ない、というところでしょう。残るのはトウラーの細君だけというわけですが、これが騒ぎ立てるかもしれませんね。この細君を、何か用事にかこつけて地下室へやり、鍵をかけてしめこんで下さると、仕事が非常にしやすくなるんですが」
「やってみますわ」
「それはいい! では事件を徹底的に調べてみましょう。もちろん、妥当な説明は一つだけです。あなたがあの館に連れてこられたのは誰かの身代りのためで、当の人物はその部屋に閉じこめられているのです。これは明らかです。その閉じこめられている人物は誰かというと、きっと娘さんにちがいありません。たしかアリス・ルーカースルさんという、アメリカへ行っているという人です。あなたが選ばれたのは、疑いなく、背たけや、体つきや、髪の色が似ているからです。
アリスは髪を切っている。何か病気にでもかかったせいだと思われますが、もちろんそれで、あなたも髪を切らせられたのですよ。ほんの偶然から、あなたはアリスさんの髪たばを見つけられた。道路にいた男というのは、まちがいなくアリスさんの友達です。……婚約者とも言えます。……あなたがアリスさんの服を着て、しかも瓜(うり)二つというわけで、その婚約者は見ればいつでもあなたが笑いこけているし、あとで手をふって追いはらう様子から見て、アリスは幸福そのもので、もう自分のことなど意に介していないと思いこんだでしょう。夜になって犬を放してあるのはその婚約者がアリスさんと連絡しようとするのを防ぐためです。ここまではすっかり明らかです。この事件で最も重要な点は、子供の性質ですね」
「それはまた、どんな関係があるんだい」私は思わず大声を出した。
「ねえ、ワトスン君、君は医者なんだから、両親を研究して、子供の性向を見きわめるということをたえずやっているね。逆もまた真だと思わないか。僕はこれまでに、子供を研究して、親の性格がはっきり本当のところをつかめたということがたびたびある。この子供の性質は異常に残虐だ。たんに残虐のために残虐なんだ。にこにこしている父親から受けついだのか、どうやら母親から受けついだのだとも思えるが、彼らの手中にある娘さんには危険がせまっているよ」
「確かにおっしゃるとおりですわ、ホームズさん」ミス・ハンターが大きな声で言った。「あれこれ考えますと、それと思い当たることがたくさんございますわ。ああ、すぐにもその気の毒な方を助けてあげなくては」
「用心してやらなくてはいけません。ひどく悪賢い奴を相手にしているんですからね。七時まではどうにもできません。その時刻になればあなたにお目にかかれます。それからはすぐにもこの不思議な事件が解決するでしょう」
私たちは約束にたがわず、七時ちょうどにぶなの木館に着いた。乗ってきた二輪馬車は路傍の居酒屋にあずけておいた。ひと群れの木立が、黒い葉を夕日にみがきあげた金属のように輝かせて、すぐにそれが目ざす館と知れた。ミス・ハンターが玄関の石段に笑いながら立っていたが、そうでなくても、それとわかるに十分だった。
「うまくやってくれましたか」ホームズがたずねた。
どたばたいう大きな音が、どこか地下のあたりから聞こえた。
「あれは地下室に入れたトウラーのおかみさんなんです」ミス・ハンターは言った。「夫のトウラーは台所の敷物にころがって、いびきをかいています。トウラーの持っていた鍵束はこれで、ルーカースルさんのものと合い鍵になっているんです」
「よくやってくれましたね」ホームズは感きわまったように叫んだ。「さあ、案内して下さい。すぐにこの悪らつな犯罪も解決しますよ」
私たちは階段をのぼり、ドアの鍵をあけて廊下を行くと、ミス・ハンターが言っていたとおり、塞(ふさ)がれたドアの前に立った。ホームズは縄を切って、横に渡してある鉄棒をはずした。それから錠束の鍵をあれこれと錠に差しこんでみた。しかし、いっこうにうまく合わなかった。中からはなんの音も聞こえず、こう静まり返っていることにホームズの顔がくもった。
「まだ遅すぎるということはない」ホームズは言った。「ハンターさん、あなたは入らないほうがいい。さあ、ワトスン、肩で押してみてくれ。中へ入れないものかどうか、やってみよう」
古ぼけたぐらぐらのドアで、二人の力を合わせると、わけなく開いた。私たちは一緒になって部屋に飛びこんだ。もぬけのからだった。家具といえば、小さな藁(わら)ぶとんのベッドと、小テーブルと、衣類入れの篭(かご)が一つあるきりだった。上の天窓が開いていて、捕われのアリスの姿はなかった。
「ここで悪事が行なわれていたのだ」ホームズが言った。「あの大将、ハンターさんのおもわくを読みとって、娘さんを連れ出してしまったのだよ」
「でも、どうやって」
「天窓からだ。どうやって抜け出したか、すぐにわかる」ホームズは飛びついて屋根へ上がった。「ああ、これだ。長い軽梯子(かるばしご)が軒に立てかけてある。これを使ったんだな」
「でも、そんなことはありませんわ」ミス・ハンターか言った。「ルーカースルご夫婦がお出かけになったときには、そんな梯子はありませんでしたわ」
「引き返して、やったんですよ。なにしろ悪賢い危険な奴ですからね。思ったとおり、どうやら階段に奴の足音が聞こえるようですよ。ワトスン、ピストルの用意をしておくほうがいいらしいぜ」
その言葉が口から出るか出ないかのうちに、一人の男が部屋のドアに姿を現わした。ひどく肥って逞(たくま)しい男で、手に重い棍棒を握っていた。その男を見るなり、ミス・ハンターは悲鳴をあげて壁にしがみついたが、シャーロック・ホームズは前へ飛び出て、立ちはだかった。
「悪党め」ホームズは言った。「娘さんをどこへやった」
肥った男はあたりを見まわし、天窓へ目をあげた。
「ききたいのはこっちのほうだ」男は鋭い声を立てた。「泥棒め! スパイの泥棒野郎! さあ捕まえたぞ! もうこっちのもんだ。お礼をしてやるよ!」
男は向きを変えるなり、階段をさっとばかりに、がたがたとかけおりていった。
「犬を連れに行ったのですわ」ミス・ハンターが叫んだ。
「ピストルがありますよ」私は言った。
「玄関のドアをしめたほうがいい」ホームズが叫んだので、私たち三人はいっせいに階段を走りおりた。玄関ホールに着くか着かないかのうちに、犬の吠え声が聞こえ、つづいて苦悶(くもん)の悲鳴があがった。聞くも恐ろしい、ぞっとするばかりの叫びだった。赤い顔の年配の男が、手足もふらふらとよろめきながら、横手のドアから出てきた。「ありゃあ!」その男は叫んだ。「誰かが犬を放したな。二日も何も食わしてないぞ。早く、早く、でないと手おくれだ」
ホームズと私はかけ出して、建物の角を曲がった。トウラーが急いで後についてきた。
大きな、飢えきった猛獣が黒い鼻面を埋めるばかりにルーカースルののどにかぶりつき、ルーカースルは地面をのたうちながら絶叫していた。
かけよって、私は犬の脳天に一発くれた。犬は倒れたものの、その鋭い白い牙は、まだ主人の首の大きな肉に喰いついたままだった。やっとのことで、私たちはそれをひきはなし、ずたずたに噛み傷をつけられて、息もたえだえのルーカースルを、家の中へ運びこんだ。それを客間のソファに寝かせ、酔いもさめはてたトウラーを夫人のところへ知らせにやらして、私はルーカースルの苦痛をのぞいてやろうと、できるだけの手当てをしてやった。
私たちみんながルーカースルのまわりに集まっているところへ、ドアが開いて、背の高いやせた女が入ってきた。
「トウラーのおばさんですわ!」ミス・ハンターが叫んだ。
「そうですよ、ハンターさん。ルーカースルさんが帰ってこられると、私を地下室から出してくれて、それからあんたのところへ行ったんですよ。ああ、ハンターさん、いやですよ、あんたの企てを知らせてくれなかったなんて。そんなことは骨折り損だって、言ってあげたのに」
「ははあ」ホームズはおかみさんを鋭く見やった。「トウラーのおかみさんは、今度のことでは誰よりもよく知っているね」
「ええ、知っていますよ、旦那。知っていることはお話ししてもいいですよ」
「じゃ、まあおかけ。聞かせてもらおうか。実のところ、僕にもまだわからないところがいくつかあるんでね」
「すぐわかるようにしてあげますよ」トウラーの細君は言った。「もっと早く話してあげたのに。地下室から出ておられたらね。これが警察沙汰になれば、あたしゃあんた方の側で、アリスさんの味方だったのがわかりますよ。
アリスさんはこの家でしあわせじゃあなかったね。お父さんが新しい奥さんをもらってからは、気の毒だった。まるでそっちのけで、なんにも口出しができませんでね。でも本当にいけなくなったのは、お友達の家でファウラーさんに会ってからでしたよ。
あたしが聞いたところでは、アリスさんは母の遺言で自分の財産があったんですけれど、おとなしくて、辛抱(しんぼう)づよい方だったので、そのことはひとこともおっしゃらず、いっさいルーカースルさんまかせにしておられましてね。まあルーカースルさんはアリスさんには安心だったですがね。でもお婿(むこ)さんができるということになりますとねえ。お婿さんは法律どおりの割り前をほしがるでしょうしね。そこでお父さんのルーカースルさんは、もうこのあたりで手を打つときだと思われたんですよ。アリスさんが結婚しようがしまいが、お嬢さんの金は自分が自由に使えるという書類にサインさせようとしたんです。アリスさんが断りますとね、責め立てつづけたもんで、とうとう脳をわずらいましてねえ、六週間というもの、生きるか死ぬかの境でしたよ。どうやらよくなりはしましたが、すっかりやつれて幽霊みたいになり、あのきれいな髪も短く切ってしまいましたよ。でもファウラーさんは心変わりもせず、アリスさんにはよく実をつくしておられましたね」
「ああ」ホームズは言った。「それだけ話を聞かせてもらうと、事件がはっきりわかったようだ。あとはこちらですっかり推測ができる。そこでルーカースル氏が幽閉(ゆうへい)という手段に出たわけだね」
「そうですよ、旦那」
「それからハンターさんをロンドンから連れてきた。ファウラー君が目ざわりだから、これを追っ払おうというためだ」
「そのとおりです」
「だがファウラー君は立派な船乗りそこのけに、根気のいい人だったから、この家をずっと見張っていた。おかみさんと出会ってから、お金か何かでうまく相談を持ちかけて、あんたとは利害が一致すると言いふくめた」
「ファウラーさんは口のやさしい、気前のいい人ですよ」トウラーの細君は静かに言った。
「それであんたのご亭主には酒を切らさぬようにし、ルーカースルが出かけたらすぐに梯子を用意する、という手筈をきめたんだね」
「よくわかりますね、旦那。そのとおりなんですよ」
「こちらはあんたにお託びを言わなくちゃ、トウラーのおかみさん」ホームズは言った。「あんたの話を聞いて、わからなかったところがすっかり明らかになったよ。やあ、こちらのお医者さんを連れて、ルーカースル夫人がお帰りだ。さてワトスン君、ハンターさんをご一緒して、ウィンチェスターへ引き上げたほうがよさそうだよ。こちらの法的立場が少々あやしいことになったようだからね」
かくして、玄関前に黄ぶなの木立のある、邪悪を秘めた館の謎が解かれた。ルーカースル氏は一命をとりとめたものの、まるで廃人になってしまって、献身的な夫人の世話をうけながら、どうやら生きながらえているというにすぎない。二人はまだトウラー老夫婦を手元においているが、ルーカースルの過去をすっかり握られているので、まず追い立てることはできない相談であろう。ファウラー君とアリスさんは駈落(かけお)ちしたその翌日、サザンプトンで特別認可証によって結婚した。ファウラー君は今はモーリシャス島で官吏になっている。ヴァイオレット・ハンターさんといえば、いささか失望したことに、わが友ホームズは、ひとたび事件の中心人物でなくなってしまうと、いっこう彼女に興味を示さなくなったが、今ではウォルソールで私立学校の校長をしていて、かなり成功をしているものと思われる。(完)
[翻訳 鈴木幸夫 (C)Yukio Suzuki]
作者コナン・ドイル(一八五九〜一九三〇)の名にまさって、名探偵シャーロック・ホームズの名を不朽にしたのは、その短篇小説の傑作の数々であった。
ホームズ探僚の登場は『緋色の研究』(一八八七)と『四つの署名』(一八九〇)にも見られるが、『緋色の研究』は出版社から二度もつきかえされて三度目に二十五ポンドで買われ、『四つの署名』も日の目は見たものの、当初はほとんど評判にならなかった。探偵小説というもののおもしろさが、まだ充分に読者の間にわかっていなかったからである。
そうした読者を啓蒙して、がぜん探偵小説のおもしろさに陶酔(とうすい)させたのは、「ストランド」誌に連載されたホームズ探偵譚の短篇である。一篇ごとに人気はあがって、六つ目ごろにはもはや動かない王座を占めていた。七つ目を書きしぶっていると、原稿料が一躍(いちやく)、三十五ポンドから五十ポンドにはね上がったという挿話があるくらいである。
『シャーロック・ホームズの冒険』はその第一短篇集であり、『シャーロック・ホームズの回想』『シャーロック・ホームズの生還』『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』『シャーロック・ホームズの事件簿』とつづく五冊の短篇集のうち、『冒険』にはもっとも多くの傑作が収められている。さすがに情熱をこめて短篇執筆にのりだしただけのことはあって、ホームズはもとより、わき役の語り手ワトスン博士も生気はつらつとしており、優れた知能の推理的解決と、きわめて自然な謎の設定、人間的な愛情、紳士的な節度、たくまざるヒュマーは、エドガー・アラン・ポーより出て、近代探偵小説の基礎をきづくと同時にこれを完成させた巨匠の精髄を見ることができる。
『冒険』に収められている「赤毛連盟」「ふきかえ事件」「ボスコム谷の秘密」「唇の曲がっている男」「まだらのひも」「ぶなの木館」等々はいずれの短篇傑作選集にも収められている作品である。これらが「ストランド」誌に掲載されたのは、順に一八九一年七月から翌年六月に至っている。
最初の「ボヘミア王家の色沙汰」にはホームズの強敵として、珍らしくアイリーニ・アドラーなる女性を描いている。アドラーが所有する写真のあり場所をつきとめようとして、火事によるトリックから女の心理的行動を見てとるのであるが、この着想はポーの「盗まれた手紙」から出て、のち自作の『生還』にふくまれている「ノーウッドの土建屋」へと発展している。ただその結末において、王家の名誉にかかわりない解決と同時に、まんまとアイリーニに裏をかかれるのは、いわばホームズをもアイリーニをも立てた作者ドイルのほほえましい演出であって、アイリーニの写真をもらいうけるホームズの心境にも、読者はくつろいだ親近感を覚えるであろう。
「赤毛連盟」は探偵小説を読みなれた読者にもっとも喜ばれる作品の一つである。赤毛という異常な特色と、百科事典の筆写という単調な仕事、その仕事に似あわない大きな報酬といった伏線が、奇妙な味をふくみながら、主人公をも、ホームズをも、さては読者をもさえまごつかせて、まことに意外な犯罪を構成させる興味は、最後のスリリングな描写とともに、基本的にして独創的な探偵小説の面白さを満喫(まんきつ)させてくれるものがある。
「ふきかえ事件」の花婿の失踪はよくあるトリックながら、フランスのガストン・ルルーが『黄色い部屋の秘密』で部分的に使用して効果を生んでいるものが、この作品では主軸として使用されるだけの、心理的必然を持っていて、しかもそれに充分な肉づけがほどこされ、トリックのためのトリックに堕していないのは大いに買われていい。
「ボスコム谷の秘密」でも、犯罪の動機が悪のための悪ではなく、悪くゆけば人情話になるところを、ホームズの科学的な推理の糸がこれを知的に救っていて、そうかといって知的推理の単調さのみにおちいることもなく、情味豊かな一篇の物語を作りあげている。謎解きの知的推理一点ばりではないホームズの血もあれは涙もある解決ぶりに、読者は正しい者に恵みがある快さを与えられるとともに、悪へも涙する同情を感じさせられるであろう。ホームズ探偵物語が健全な家庭物語でもあった特質といっていい。
「五つぶのオレンジのたね」は不思議な贈り物にからむ政治的な秘密結社の、かくされた暴力と、復讐の執念と、ホームズの挑戦、天の配罪と、事件は国際的陰謀に発展する。
「唇の曲がっている男」では異様なホームズの出現から事件は不気味に展開する。乞食の収入の魅力という着想はすでに奇抜であり、無気味な阿片窟、夫の失踪、殺人、死体と犯人の消失、窓にのこる血痕、密室めいた秘密の部屋、見るもいまわしい顔つきのびっこ、思いがけない手紙、誠実な妻といたいけな子供、インド人水夫の仁義、テムズ河畔の陰気な荷揚げ波止場と、ひいては満ちるテムズの流れ。編中もっとも物語性に富んだ一篇であって、動機の奇抜さもさることながら、ワトスン博士はブラッドストリート警部とともに、意外なホームズの解決と推理の明快さに驚き、犯人への温かい思いやりにはっと胸をなでおろすのも一興であろう。
「青い紅玉」は宝石のかくし場所として、まことに意外で奇抜な着想を持っている。ことにホームズの手元にとどいた帽子とガチョウという珍妙な品から、宝石盗難事件へと発展し、ホームズの不思議なガチョウの追求となる。プロットは巧妙で、どこかにヒューマーの味もあり、ドイルの物語のうまさをまざまざと見せてくれる作品である。
「まだらのひも」はシャーロック・ホームズの全短篇を通じて、最高傑作の一つに数えられるもの。不気味なサスペンスはページを追ってたかまり、意外な犯人を仕とめるまで、姉の怪死、義父の奇妙な動物趣味、ジプシーの口笛など、もっぱら読む者の心をひきしめてはなさない。E・A・ポーの「モルグ街の殺人」がそうであったように、ここでも直接の犯罪は実に思いがけない人によって行なわれるのである。
「技師のおや指」ではスリリングな冒険小説的恐怖と、犯行場所の推定という推理的要素が混交している。窓敷居に残る不気味な技師のおや指は、いっそうの謎をひめて、この作品をおもしくしている。
「独身の貴族」はいわば花嫁の失踪の秘密であるが、結婚式場でのささいな行動から、女の心理の急変を追って、過去の秘密を明らかにしていく。ホテルの計算書と、その裏に書かれた伝言への推理は、やはりホームズがあくまで推理的名探偵であることを示している。
「緑柱玉(エメラルド)の宝冠」の最も中心的な推理的興味は足跡の分析である。ここにも意外な犯人と共犯者があらわれる。二つの恋愛とあいびき、入り乱れた二組の足跡と、もう一つの裸足の跡、ホームズの推理は文字どおり快刀乱麻をたつおもむきがある。
最後の「ぶなの木館」は、巻頭、女家庭教師への奇妙な要求から、いきなり不吉な謎が提供される。短く切らされる美髪、鋼青色(こうせいしょく)のドレス、主人のこっけいな話術、つめたい新夫人、異様な性質の子供、閉ざされた部屋、のんだくれの下僕、道路に立って家の中をのぞきこむ男、髪たばが二つと、黄ぶなの木立のある館をめぐる秘密がつぎつぎに展開する。不気味な館の雰囲気はドイルの作家的成長を物語るものと言えよう。
ドイルは何よりもプロットの作家である。そのたくみさのために、ホームズの推理は知らず識らず読者になっとくされてくる。これほどプロットによって推理を生かし、推埋によってプロットを生かしている作家はないであろう。(鈴木幸夫)
◆シャーロック・ホームズ全集(上)
コナン・ドイル作/鈴木幸夫・鮎川信夫・齊藤重信訳
二〇〇六年四月二十五日 Ver1