闇の奥

目次

第一章
第二章
第三章
訳者あとがき

第一章

遊覧帆船ネリー号は、帆を動かすこともなく潮の流れに揺れながら、錨を下ろしていた。上げ潮になり、風はほとんど凪(なぎ)だったから、河を下るならこのまま潮の変わりめを待つしかなかった。
テムズ河の水路は、果てしない水路の始まりのように、我々の眼の前に広がっていた。沖合では海と空はひとつとなって溶け合い、輝く空間の中を潮に乗って遡ってくる船の日に焼けた帆は、ワニス塗りの斜桁(しゃこう)が光る中で、鋭く尖った赤い群れをなして静止しているようだった。海に向かって消えていく河岸一帯には、霞が低く立ちこめていた。グレイヴズエンド〔イングランド、ケント州北西部のテムズ河に臨む人口約五万の港市〕あたりでは空気も薄黒く、更に奥の方では悲しみに沈んだ暗黒色となり、地上最大の大都市〔ロンドンを指す。小説の舞台となる一九世紀末には約五〇〇万の人口を擁した〕の上に静かに垂れこめていた。諸会社の重役をしている男が我々の船長で、主人役だった。海の方を見ながら、舳(へさき)に立っている彼の背中を、我々四人は親しみのこもった目で見ていた。このあたりの河一帯で、彼の半分でも船乗りらしく見える者はいなかった。彼は水先案内人のように見えたが、それは船乗りにとって信頼の化身とも言うべきものだ。彼の仕事場があの白く光る河口ではなく背後の垂れこめた暗黒の中にあるとは、理解しがたいことだった。
他の所で既に言ったことがあるが(*)、我々の間には海という絆(きずな)があった。長い間離れていた為に心が結ばれる上、その結果お互いの話――そして信念に対してさえ寛容になるのだった。弁護士は――中でも最もよくできた老人だったが――徳を重ねて生きてきたから、甲板にある唯一のクッションを独占し、一枚しかない敷物に横たわっていた。会計士は既にドミノの箱を持ちだし、牌を積んだりくずしたりしてもて遊んでいた。ちょうど艫(とも)の方ではマーロウが足を組み、後檣(こうしょう)に寄りかかっていた。頬はこけ、顔色は黄色く、背中をまっすぐに伸ばし禁欲的な容貌をしていたが、両腕を下ろして手の平を外側に向けた様子は、どこか偶像神に似ていた。重役は錨が充分利いているのに満足し、艫の方に来て我々の間に座った。我々は物憂げに二、三言言葉を交したが、その後船の上はまた静かになった。どういう訳か、我々はあのドミノのゲームを始めなかった。瞑想的な気分になり、ただ静かに眺めていたかったのだ。静かでこの上ない輝かしさの中で、一日が穏やかに終わろうとしていた。水面は平和に輝き、空には雲ひとつなく、汚れない光が恵み深く広がっていた。エセックス〔イングランド南東部の州〕の沼沢地の薄い霧は、まるで薄く透き通った輝く織物のようで、奥地の木の茂った丘からかかり、透明な襞(ひだ)となって低い海岸一帯を蔽っていた。ただテムズ河の上流に垂れこめた西の方の薄暗闇だけが、太陽の接近に怒ったかのように、刻一刻と暗くなっていった。

* コンラッドは『闇の奥』より一年前に書いた「青春」(一八九八)でも登場人物兼語り手マーロウを使っている。またこの後『ロード・ジム』(一九〇〇)、『チャンス』(一九一二)でもマーロウを登場させている。『チャンス』を除く三作におけるマーロウは登場人物としてほぼ一貫した性格づけをされ、特に『闇の奥』と『ロード・ジム』では、現代小説としての語りの技法が戦略的に使われている。


そしてついに曲線を描きながらわずかに落下すると、太陽は低く沈み、群衆の上に垂れこめたあの暗闇に触れて突然息が絶えたかのように、輝く白色から光も熱もない鈍い赤色へと変わっていった。
直ちに水面に変化が起こり、穏やかさは輝きを失い、更に深遠さを増していった。両岸に住む人々に幾千年もの間奉仕してきた後、老大河は一日の終りに広々とした流れの中にさざ波ひとつ立てず横たわり、地上の最奥へと通じている水路の静かな威厳を湛えて広がっていた。我々はこの尊い流れを、永遠に来ては去る短い一日の鮮やかな輝きの中にではなく、記憶に残る荘厳な光の中に見ていたのだ。そして実際、敬意と愛をもって「海に生きてきた」者にとって、テムズ河の下流を眺めながら過去の偉大な精神を思い起こすこと程、容易なことはない。家庭での休息、あるいは海での戦いへと運んだ人々や船の記憶で溢れながら、潮の流れは絶えまなく干満を繰り返しているのだ。フランシス・ドレイク卿〔一五八八年にスペインの無敵艦隊を破った英国の航海者〕からジョン・フランクリン卿〔英国の北極圏探検家〕まで、爵位があろうとなかろうと皆騎士であり――海の偉大な修行者だったこの国が誇る全ての人間を河は知り、仕えてきたのだ。船倉を財宝でふくらませて帰り、女王陛下の訪問を受けた後、膨大な海洋征服史から消えた金鹿号〔ドレイクが世界一周した英国船〕から、新たな征服をめざして出発しながら、ついに戻らなかったエレバス号とテラー号〔フランクリンが最後の航海で使った船〕にいたるまで、時という闇の中にきらめく宝石のような船を運んでいたのだ。そうした船と人々を河は知っていた。冒険家、移住者、王室の船、商人の船、船長、提督、東洋貿易の謎めいた「もぐり商人」、東インド艦隊の委任された「将軍達」――彼らはデットフォード、グリニッジ、イアリスから出発していた。黄金を捜しに、あるいは名声を追い求めて剣と文化の炬火(たいまつ)を携え、彼らは皆、力の使者、神聖な炬火の火花を運ぶ者として、この河の流れに乗って出て行ったのだ。この河の潮が未知の国の神秘へと運んだものは、何と大きかっただろう!……人々の夢、共和国の種子、帝国のめばえ。
太陽は沈んだ。夕闇が河の流れの上に落ち、光が岸に現われ始めた。泥地に三本足で立つチャップマン灯台の灯が、強く輝いた。船の光が航路であちこち揺れながら――行ったり来たりしていた。そして上流の更に西の方では、怪物のような大都市の場所が不吉な様子でまだ空に照り映え、陽の光の中の垂れこめる暗闇、あるいは星々の下で赤く輝く光のようだった。
「そしてここも又」と、マーロウが突然言った(*)。「地上の暗黒地帯のひとつだったんだ」

* 『闇の奥』の語りは二重の構造になっている。即ち、自らの体験を語る内側の語り手マーロウと、その話をネリー号の上で聞き、読者に伝える外側の語り手である。


彼は我々の中では、今でも「海に生きている」ただ一人の人間だった。彼について言える最も悪い点は、典型的な船乗りのタイプではないということだった。確かに船乗りではあったが、放浪者でもあったのだ。これに対して大抵の船乗りは、こう言ってよければ、定住性の生活を送るものだ。彼らの気性は出無精で、家はいつも彼らと一緒――つまり船なのだ。そして彼らの故国も同じ――それは海だ。一隻の船は他の船ととてもよく似ているし、海はいつも同じだ。環境が変わらない中で、見慣れない土地も、人々も、様々な生活様式も、神秘的な感じではなく、無知の為にいくらか軽蔑の気持ちに包まれて通り過ぎてしまう。というのは、彼らの存在を支配し、「運命」と同じ位測りしれない海以外は、船乗りにとって謎めいたものはないからだ。後は何時間も働いた後、陸を呑気に散歩したり飲み騒いだだけで、陸の全ての秘密が分かったと思い、大抵はその秘密も知る価値はないと思ってしまうのだ。だから船乗りの見聞談は直接的で単純で、全体の意味などほとんどない。だがマーロウは(話をでっちあげるという癖を除いては)、例外だった。彼にとって挿話の意味は、月の幽霊のような光によって薄ぼんやりとした暈輪(かさ)のひとつが時に見えるように、陽の光が輝いた時だけ霞が見えるように、話の内側ではなく、話を包みこんでいる外側にあるのだった。
我々は彼の言葉に全く驚きはしなかった。むしろそれはマーロウらしい言い方だったから、皆黙って聞いていた。不平の声さえもらす者もいなかった。やがて彼は、ゆっくりと話し始めた――。
「僕は、ずっと大昔のことを考えていたんだ。ローマ人が最初にここにやって来た一九〇〇年も前のことだが――ついこの間のことだ……それ以来、光がこの河から現われた――海の騎士達のせいだと言うのかい? そうだ。だがそれは、平原を駆け抜ける閃光、雲間に閃く稲光のようなものだ。我々は、明滅する光の中に生きている――この古い地球が回り続ける限り、それが続くことを祈るよ! しかし、暗黒はついこの間までここを蔽(おお)っていたんだ。考えてみてくれ、地中海に浮かぶ立派な――何て言ったっけ――ガレー船の指揮官が、突然北進を命じられた時の気持ちを。陸路ガリアを通って駆けつけ、ローマ軍の兵が作った船の指揮を任せられた時のことだ――彼らは皆器用でもあったにちがいない――読んだ本によると、一ヶ月か二ヶ月で百隻の船を作ったらしいからね。その男がここにいると想像してみてくれ――まさにこの世の果て、海は鉛色、空は煙のような色、船はアコーディオンのようにがっしりとしている――そして食料や命令やらを乗せて河を遡っていくんだ。砂洲、沼地、森、未開人達――テムズ河の水を除いては文明人の口に合うものはほとんどない。ここにはファレルノ酒もないし、上陸することもできない。荒野に迷いこんだ軍の野営隊もある、干し草の中の針のようにね。寒さ、霧、暴風雨、疫病、流浪、そして死――死が大気、水、茂みの中に潜んでいるのだ。彼らは、ハエのようにここで死んでいったにちがいない。ああ、そうだ――しかし彼は、やり遂げた。しかも疑いなく見事に――年をとって若い頃の経験を自慢する以外には、おそらくあまり考えることもなくね。彼らは暗黒に立ち向かうに足る人間だった。そしてもしローマにいい友人がいて、このひどい気候に耐えたなら、彼はやがてラヴェンナの艦隊の司令官に昇進できるだろうと考えて、慰められただろう。あるいは、きちんとトーガ服に身を包んだローマの青年市民を考えてみてくれ――彼はたぶんサイコロ遊びが過ぎて、一旗上げようとして長官か集税吏か、それとも商人にさえついてここへやって来たのだ。沼地に上陸し、森の中を抜け、どこか奥地の駐屯地で、全くの未開状態に取り囲まれているのを感じる。森の中、ジャングルの中、未開人の心の中に蠢(うごめ)いている荒野のあの神秘的な生命力だ。そんな神秘を、我々は知ることもできない。彼は不可解な環境のまっただ中で暮らさなければならないが、それは又、嫌でたまらないことだ。しかしそれは魅惑でもあり、彼に影響を及ぼし始める。憎悪するものに魅了されるんだ――分かるだろう。想像してみてくれ、次第に募る後悔の念、逃げたい気持ち、無力な嫌悪感、屈服、憎しみ」
彼は言葉を切った。
「いいかい」と、再び彼は始めた。肘のところから片方の腕を上げ、手の平を外に向け、両足を前で組み、彼は洋服を着て蓮の花がない、教えを説いている仏陀の姿勢をしていた(*)。「いいかい、全くこんな風に感じる者は誰もいないだろう。僕達を救っているものは、効率――効率に専念することにあるんだ。だがこうした連中は、本当に大した連中ではなかった。彼らは植民者では全くなかった。彼らの支配は単なる搾取で、それ以上のものではなかったと僕は思う。彼らは征服者だったから、その為には暴力だけあればいいんだ――そんなものはあったって、誇れるようなものじゃない。というのは、その力は相手の弱さから生じた偶然にすぎないからだ。彼らは手に入れられるものが目的で、それらを略奪したにすぎない。それは単に暴力による強奪、大規模の凶悪な殺人で、盲目的にやるんだ――暗黒に立ち向かう者にふさわしいようにね。地上の征服は僕達と肌の色のちがう人達や、ちょっと鼻の低い人達から奪い取ることなんだが、よく考えればきれいごとじゃない。それを償うのは理念だけだ。その背後にある理念。感傷的な見せかけじゃない、ひとつの理念だ。理念に対する非利己的な信念――前に掲げ、ひれ伏し、犠牲を捧げられるようなもの……」

* 前の段落はローマ人の征服について語りながら、同時にクルツのアフリカでの変化と二重写しになっている。「仏陀の姿勢」は、物欲の虜(とりこ)となったクルツに対するマーロウの態度を暗示的に示している。


彼の言葉がとぎれた。輝く光が滑るように海面を流れていた。小さな緑色の光、赤い光、白い光が追いかけ、追いつき、出会い、交わりながら――それからゆっくり、あるいは慌(あわただ)しく離れていった。巨大な都市の交通が、夜が深まっていく中で眠りのない河の上で続いていた。我々は辛抱強く待ちながら、傍観していた――満ち潮が止むまでに他に何もすることはなかった。だがしばらく黙っていた後、マーロウがためらいがちな声で、「昔ちょっとの間、僕が河船の船乗りをしていたことを覚えているだろう」と言いだしたから、引き潮へと変わる前に、我々は終りのない体験談のひとつを聞く運命なのだと知った。
「僕の個人的な体験談で、君達を困らせるつもりはないが」と彼は始めたが、この言葉には、聞き手が何を一番聞きたいかに気づいていない多くの話し手の弱点が表れていた。「だが、この体験が僕にどんな影響を与えたか分かってもらう為には、どうやって僕がそこに行ったか、何を見たか、あのかわいそうな男に初めて会った場所にどうやって河を遡っていったかを、知ってもらわなくてはならない。それは僕にとって最も遠くまで行った航海だったし、経験の極点でもあった。そしてどういう訳か、僕についてのあらゆることに――そして考え方について、一種の光を投げかけるように思えた。それは充分暗い事件でもあった――そして哀れで――すばらしいものでは全くなく――はっきりもしない。そうだ、はっきりしない事件だ。それでも、一種の光を投げかけてくれるように思えたんだ。
君達も覚えているだろうが、僕はその時インド洋や、太平洋、シナ海といった東洋を一人前に経験して、ロンドンに戻ったばかりだった――六年ばかり前のことだけどね。それで僕は君達の仕事を邪魔したり、家に押しかけたりして、ブラブラしていた。まるで君達を啓蒙するという天からの使命を授かったと言わんばかりにね。しばらくの間はそれでよかった。だがちょっとすると、そんな状態に飽きてきた。それで僕は船を捜し始めた――だがそれは、ものすごく難しかった。船が僕の方を見てもくれなかったんだ。そして、そのゲームにもうんざりしてきたって訳さ。
ところで僕は、小さい頃地図が大好きだった。南米やアフリカやオーストラリアを何時間も見て、探検のあらゆる栄光に我を忘れたものだ。その頃は地上にはまだたくさんの空白部があったから、特に心を奪われるような所を見ると(実は、皆そうだったんだ)、その上に指をおいて、大きくなったらここに行くんだと言ったものだ。北極はそのひとつだったと覚えている。まあ、そこにはまだ行ってないし、これからも行かないだろうけどね。魅惑がなくなってしまったんだ。他にも行きたい所は赤道近くや、両半球のあらゆる緯度にあった。いくつかの場所には実際に行った、そして……でもそのことについては話すまい。だがまだひとつ行きたい所があった――言ってみれば最も大きい空白部で、強い憧れをもっていたんだ。
確かに、その頃にはそこはもう空白部ではなかった。僕の少年時代から、河や湖やその他の名前でいっぱいになっていた。それは楽しい神秘の空白部――少年がはなばなしく夢見る白い部分ではなくなっていた。暗黒の場所になっていたんだ。だがそこには、ひとつの河があった。それは地図にはっきり見てとれるものすごく大きな河で、頭の部分が海に入り、胴体は巨大な国の上にくねりながら横たわり、しっぽは大陸の奥に消えている、とぐろを解いた大蛇に似ていた。そして僕はその地図を店屋のショーウィンドゥの中に見ていると、小鳥が蛇に魅いられるように魅せられた――愚かな小鳥さ。それから僕は大きな会社、つまりその河で交易をしている会社があることを思いだした。畜生! 僕は内心考えた。これだけの河で何らかの船を使わずに商売ができる筈がない――蒸気船だ! 僕がその蒸気船のひとつの船長になってもいい筈だ。フリート街を歩きながら、僕はこの考えをふり捨てることができなかった。あの蛇が僕を魅了していたんだ。
その貿易会社が大陸の会社だったことは、君達も知っているだろう。だが僕には、大陸で暮らしている親戚がたくさんいるんだ。暮らしは安いし、それ程ひどい所でもないらしいからね。
気の毒にも、僕は彼らを悩ませ始めた。それは僕には、既に新しいやり方だった。そんな風に物事を運ぶのは、慣れていなかったからね。いつも自分の行きたい道を行き、行きたい所には自分の足で行ったからだ。そんなやり方は自分でも信じられなかった。だがその時は――分かるだろう――どういう訳か、どうしてもそこに行かなくてはと思ったんだ。それで僕は彼らを悩ました。男達は『おいおい、なんて奴だ』と言うだけで、何もしてくれなかった。それから――君達は信じるだろうか?――僕は女達にあたったんだ。このチャーリー・マーロウが、女達にせっついたんだ――仕事にありつく為にね。大変だ! そう、分かるだろう、あの考えが僕を駆り立てたんだ。僕にはおばがいた(*)――熱狂的な人でね。彼女は手紙を書いてよこした。『すばらしいことだわ。あなたの為なら、何だってするつもりです。本当にすばらしい考えだわ。執行部にいる大変偉い方の奥様、それに大変影響力のある方も、私は知っています』等々といった具合だ。僕がそうしたいなら、彼女は河蒸気船の船長の口を得る為に、努力を惜しまないつもりだった」

* 『闇の奥』は作者の一八九〇年のコンゴ旅行での体験に基づいているが、書簡集によると、その時もベルギー在住のおばポラドフスカ夫人の紹介によって、コンラッドはコンゴでの蒸気船の船長の口を見つけた。


「僕はその地位を手に入れた――もちろんさ。しかもあっという間にね。船長の一人が原住民との乱闘で殺されたという知らせが、会社に入ったらしい。これはチャンスだったから、僕はますます行きたくなった。元のけんかが牝鶏についての誤解から起こったことを聞いたのは、何ヶ月も後に、残された遺体を収容しようとした時だった。そうだ、二羽の黒い牝鶏だ。フレスレーベン――これがその男の名前でデンマーク人なんだが、どういう訳か売買で不当に扱われたと思ったらしく、上陸して村長を棒きれで殴りだしたんだ。ああ、この話を聞いて、同時にフレスレーベンが普段はものすごく礼儀正しくおとなしい人物だったと聞いた時も、僕は全く驚かなかった。確かにそうだったんだろう。しかし彼は崇高な大義の為にそこで働いてもう二年になっていたし、分かるだろう、多分何らかの方法で、ついに自尊心を主張する必要を感じたんだろう。それで彼は、年老いた黒んぼを容赦なく叩いた。その間その様子を見ていた村人達は仰天し、ある男が――村長の息子だと聞いたが――老人の叫び声を聞いて、死に物狂いになってその白人を槍で突いたんだ――もちろん槍先は肩甲骨の間にいとも簡単に突き刺さった。それから住民達は皆、あらゆる種類の災難を予想して森の中に逃げ去った。他方フレスレーベンが指揮していた蒸気船も、ひどいパニック状態になっていなくなってしまった。機関士が運転したんだと思うけどね。その後は僕があちらへ行って後を継ぐまで、フレスレーベンの遺骸について誰も頭を悩ませなかったようだった。僕は放っておけなかったけどね。だが僕がこの前任者に会う機会がついに来た時には、肋骨の所から生えてきた草が彼の骨を隠すまで伸びていた。彼の骨は全部残っていた。超自然の存在は、倒れた後も触れられることはなかったんだ。そして村は捨てられ、家々は倒れた囲い地の中に傾き、黒い口を開け朽ちかかっていた。惨禍が訪れたのだ、確かに。人々はいなくなっていた。気違いじみた恐怖の為に、男や女や子供達は散りぢりになって森の中に逃げてしまい、誰も戻って来なかった。牝鶏がどうなったかについても、僕は知らない。進歩という大義に捕えられたのだろう。しかしながら、このすばらしい事件のおかけで、僕は手に入れたいと思う間もなくこの仕事にありつけたんだ。
準備をする為に、僕は狂ったように飛び回った。そして四十八時間と経たない内に、雇い主に会って契約書にサインする為に、海峡を渡っていた。ほんの二、三時間で、僕には白く塗られた墓〔マタイ伝第一三章第二七節に拠る。パリサイ人の偽善が、外側は美しいが中は不浄なもので満ちた白塗りの墓に喩えられている。この比喩は作品全体の主題と密接に関わる中心メタファーとなっている〕がいつも思い出されるある都市(*)に着いた。確かに偏見だろうけどね。会社の事務所を捜すのは手間どらなかった。それはその街で一番大きな会社だったから、僕が出会った人達は皆よく知っていた。彼らは海外で帝国を経営し、貿易でぼろもうけをするつもりだった」

* 朱牟田夏雄氏も中野好夫氏もこの都市を「パリ」としている(マーロウが後の場面でフランス語を使っている為であろう)が、現実レベルではアフリカの中心部、即ちコンゴを支配していたのはベルギーなので、ブリュッセルを指すと思われる。作品中マーロウの旅先について特定する語は一語もないが、当時の読者には了解ずみのことであっただろう。


「深い影の中の狭くて見捨てられたような通り、高い家々、上げ下げ式のブラインドのついた無数の窓、死のような静寂、石の間から芽を出した草、左右の堂々とした馬車用の拱道(アーケイド)、重々しく少し開いた大きな二重扉。僕はこれらの隙間のひとつの間をそっと入って行き、よく掃かれてはいるが砂漠と同じ位何もない階段を上り、目の前の最初のドアを開けた。二人の女が、一人は太り、もう一人は痩せていたが、座部が藁(わら)でできた椅子に座って黒い毛糸を編んでいた。痩せた方が立ち上がり、僕の方にまっすぐ歩いてきた――目を伏せて編物をしながらね。そして夢遊病者の為にそうするように、僕が道を開けようとちょうど考え始めた時、彼女は立ち止まり、目を上げた。服は傘カバーのように地味で、それから彼女は何も言わず振り返って、待合室に僕を案内した。僕は名前を告げ、あたりを見回した。真中にはもみ材のテーブル、壁の回りには質素な椅子があり、一方の端には、虹のようにあらゆる色で塗られた輝くばかりの地図があった。かなり広い地域に赤があった――いつ見ても気持ちがいいもんだ。そこでは何か本当の仕事がされているということを知っているからね。それからたくさんの青、小さい緑、しみのような橙、そして東海岸には紫の斑点があって、進歩を唱える陽気な開拓者達が愉快にビールを飲んでいることを示している。けれども僕は、これらの場所に行くのではなかった。僕が行くのは黄色だった。全くの中心部だ。そしてそこには河があった――蛇のようにものすごく魅惑的な河が。ああ! ドアが開いて、白髪の秘書長が同情するような表情で現れ、痩せた人差し指で僕を聖所に招き入れた。部屋の照明は薄暗く、重々しい書き物机が中央にあった。その後ろから、フロックコートを着て、顔色が悪く丸々と太ったような印象の男の姿が見えた。彼は大した男だった。背の高さは五フィート六インチ位あったと思う。そして何百万もの人々を支配していたのだ。彼は僕の手を握ったと思う。そして何かブツブツ呟き、僕のフランス語に満足した。では、よい旅を。ボン・ボワイヤージュ。
およそ四十五秒経つと、僕はあの同情深い秘書とまた待合室にいた。彼は悲しみと同情に満ちた様子で、書類のようなものにサインさせた。特にどんな商売上の秘密も漏らさないことを、約束したように思う。だからそのことは話さないけどね。
僕は少しばかり不安になり始めた。君達も知っての通り、僕はそんな儀式には慣れていないし、その雰囲気には何か不吉なものがあった。ちょうどまるで何かの陰謀に――僕にはよく分からないが――全く正しいとは言えないものに巻きこまれているようだった。だから外に出た時はうれしかった。外の部屋では、二人の女が熱心に黒い毛糸を編んでいた。人々が次々とやって来て、若い方の女が案内する為に行ったり来たりしていた。年をとった方は椅子に座っていた。彼女の平たいラシャのスリッパは足温器に乗せられ、一匹の猫がその膝の上で休んでいた。彼女は糊で固くなった白いものを頭にかぶり、片方の頬にはイボがあり、鼻の先に銀縁(ぎんぶち)眼鏡をひっかけていた。彼女は眼鏡ごしに、僕をチラッと見た。その視線のすばやい、無関心なまでの落ち着きに、僕は不安になった。愚かで陽気な顔をした二人の若者が案内され、彼女は彼らにも同じような賢明で無関心な視線をすばやく投げかけた。彼女は彼らについて、そして僕についても、全てを知っているように見えた。僕は恐ろしい気持ちに襲われた。薄気味悪く不吉な女だった。向こうに行ってからも、度々僕はこの二人の女のことを考えた。暖かい棺衣(かんい)でも作るつもりか、黒い毛糸を編みながら『暗黒』の入口を守っている女。一人は未知の世界へと絶えまなく案内し続け、もう一人は陽気で愚かな顔を無関心な年老いた目でじろじろ眺めていた。万歳! 黒い編物のおばさん。まさに死なんとする者達が陛下に敬礼す〔ローマの歴史家スエトニウスに拠る。ローマの闘士が闘技前に皇帝クラウディウスに述べた言葉〕。彼女が見た男達の多くは、再び彼女に会うことはなかった。とうてい半分にも及ばなかった。
まだ医者にも会わなければならなかった。『形式だけですから』と、秘書があなたの悲しみは充分お察ししますと言いたそうな様子で言い切った。そこへ、左の眉毛の上まで帽子を下ろした若い男が、事務員か何かだと思うが――その建物は死の街の家のように静かだったが、その仕事に事務員はいるにちがいなかった――どこか二階から下りてきて僕を案内した。彼はみすぼらしく無頓着で、上着の袖にはインクのしみがついて、古靴のかかとのような形の顎の下に大きなネクタイが波のようにうねっていた。医者が来るまでには少し早過ぎたから、何か飲みましょうと言ったら、嬉しそうな様子を見せたよ。ベルモットを飲みながら座っていると、会社の仕事をほめちぎったから、僕は何気なく彼があちらへ行かないことに驚きを示してみせた。すると彼は急に冷静になり、もったいぶって言った。『私は見かけ程愚かではない、とプラトンは弟子に言いけり』彼はいっきにグラスを飲み干し、僕達は立ち上がった。
老医者は僕の脈を測ったが、その間明らかに何か別のことを考えていた。『よし、これなら向こうでも大丈夫だ』と呟き、それから幾分熱心に僕の頭の大きさを測らせてくれないかと頼むんだ。僕はかなり驚いたが、いいですよと答えた。すると彼は測径器のようなものを取りだして、後部、正面とあらゆる角度から寸法を測り、注意深くノートを取った〔頭の大きさを測るというこの医者の行為は一見奇妙に見えるが、頭蓋の計測によって進化論的ランクづけをする頭蓋計測学(craniology)は一九世紀後半のイギリスで受け入れられていた新しい学問であった〕。彼は髭を剃っていない小男で、ユダヤ人が着るようなすりきれた上着を着て、足には上靴だけだったから、無害な馬鹿だと思った。『科学の利益の為に、あちらに出て行く人の頭蓋骨を測る許可をいつももらうんです』と彼は言った。『それで、その人達が帰ってからも測るんですか?』と僕は尋ねた。『いや、彼らと会うことは絶対にないよ』と彼は言った。『その上内面にも変化が起こるんだ、お分かりの通り』彼は何か遠回しの冗談を言った時のように、微笑んだ。『それで君はあちらへ行くんだね。大したもんだ。興味深いことでもあるよ』彼は探るような目で僕を見て、またノートを取った。『君の家族には、これまで狂人はいたかい?』と、彼は事務的な調子で聞いた。僕はひどい苛立ちを感じた。『その質問も科学の為ですか?』彼は僕の苛立ちに気づかずに言った。『現地でそれぞれの人の精神的変化を観察すれば、科学にとって面白いだろうな。だが……』『あなたは精神科医なんですか?』と、僕は言葉をさえぎった。『医者というものは皆そうだよ――多少はね』と、この一風変わった男は動じないで言った。『現地に行く君達に証明を手伝ってほしい、ちょっとした理論があるんだ。それが、この国がすばらしい属領をもっている利点から私が与(あずか)れる分け前ってとこだ。単に富のことなら他の奴に任せるよ。いろいろ質問して許してくれ。だが君は、僕が観察する最初のイギリス人なんでね……』僕はあわてて、自分は典型的なイギリス人では全くないとうけあった。『もしそうなら、あなたとこんな風に話をしないでしょう』と僕は言った。『君の言っていることは、なかなか深遠だね。だが、多分考えちがいだよ』と、彼は笑いながら言った。『日にさらされることを避ける以上に、苛々することを避けたまえ。それじゃ、アディユー。あー、君達イギリス人は何と言うのかな。ああ、グッバイだ。アディユー。熱帯地方では何よりも平静を保つことだよ』……彼は警告するように人差し指を上げた……『デュ・カーム、デュ・カーム。アディユー』
済ませなければならないことが、もうひとつ残っていた――あのすばらしいおばに、別れを告げることだった。行ってみると、彼女は意気揚々としていた。お茶を一杯ごちそうになったが――それはこの何年間かぶりで最もちゃんとしたお茶だった――そして婦人の応接室らしい本当に心を慰めてくれるような部屋の炉辺で、長いこと静かにおしゃべりをした。そんな風にうちとけて話をする内に、会社の首脳部の奥さんやその他何人だか分からない人達に、僕がひときわ優れた才能のある――会社にとっては財産ともなる――そう簡単には見つからない人物だと説明されていることが明らかになった。やれやれ! それで僕ときたら、あの安物の汽笛のついたつまらない河蒸気船の船長になろうとしていたんだからね! しかしながら、僕もまた、分かるだろう、大文字で書かれた『労働者』の一人でもあったんだ。光の使者、あるいは少々位の低い十二使徒のようなものだ。ちょうどあの頃は、そうしたたわ言がよく新聞に書かれたり話されたりしていたから、あのすばらしいおばは、そういったたわ言のさ中で足をすくわれた状態だった。『あの無知な多くの人々をひどい生活状態から救いだす』ことについて彼女が話し始めたから、誓って言うが、全く居心地が悪くなった。僕は思い切って、会社は利益の為に経営されているんですよ、とほのめかした。
『まあ、チャーリー、はたらき人のその値を得るはふさわしきなり〔ルカ伝第一〇章第七節〕っていう言葉をお前は忘れているわ』と、彼女は快活に言った。女達がどんなに真実からかけ離れているかは奇妙なものだ。彼女達は自分達だけの独自の世界に住んでいるが、そんなものはこれまでなかったし、これからもないんだ。全くあまりにも美しすぎて、もしそんなものがうち立てられたら、一日と経たない内にこなごなになるだろう。天地創造の日以来、僕達男達が甘んじて生きてきたままならぬ人生の真実が突然立ち上がって、そんなものは全て打ち壊してしまうだろう。
この後僕は抱擁を受け、フランネルの肌着を着るようにとか、必ずまめに手紙を書くようにとか、いろんなことを言われ――そして彼女と別れた。通りに出ると――なぜだか分からないが――自分が詐欺師だという奇妙な感情に襲われた。たいていの人が通りを横ぎる時に考える程にも考えることなく、二十四時間の予告で世界中のどんな所にも出かけていた僕が、このありふれた事件の前で一瞬――ためらいとまでは言わないが、ハッとして立ち止まったというのは妙なことだ。僕が君達に最もうまく説明できる言い方で言えば、一、二秒の間だったが、言わば大陸の中心に行くというより、まるで地球の中心に出発するような気持ちになったということだ。
僕はフランスの蒸気船で出発した。船はあちらにあるあらゆるいまいましい港に寄港した。僕が知る限り、兵士達と税関吏を上陸させるのが唯一の目的らしかった。僕は海岸を眺めた。船の上から通り過ぎる海岸を眺めることは、謎について考えるようなものだ。それは君達の前にあって――微笑んだり、眉をひそめたり、誘ったり、広大だったり、卑小だったり、つまらなかったり、残忍だったりする。そして、こちらに来て見つけてごらんと囁くような様子で、いつも黙っているんだ。今見ているのは、まだ作られている途中であるかのように、変化もなくいかめしい様子で、ほとんど特徴がなかった。巨大なジャングルのはずれはほとんど黒と言える位の濃い緑だったが、白い波で縁どられ、あたりを蔽っている霧で輝きがかすんでいる青い海に沿って、物さしで引いた線のように、はるかかなたまでまっすぐに広がっていた。太陽の光は烈しく、陸地はギラギラ輝き、蒸気でしずくがしたたり落ちているようだった。白い波間に、灰色がかった白の斑点があちこち鈴なりになって見えたが、その上には多分旗がはためいていた。何百年も前の居留地だろうが、背景の前人未踏の広がりに比べるとピンの頭にしかすぎなかった。僕達は波に揺れながら前進し、寄港し、兵士を上陸させた。そしてまた前進し続け、トタン張りの小屋と旗竿がうち捨てられたようにかかっている、神に見捨てられたような荒野で、関税を徴収する為に税関吏を上陸させた。それから更に兵士達を上陸させた――たぶん税関吏の身を守る為だろう。聞くところによると、波に溺れた人もあるらしかった。だが本当にそうなのかは、誰も特に気にかけていないようだった。彼らはそこに投げだされるだけで、僕達は前進し続けた。まるで動いていないかのように、海岸は毎日同じに見えた。だがいろんな場所――貿易港を通った。それらはグラン・バッサム、リトル・ポポといった不吉な背景幕の前で演じられる、何かあさましい茶番劇に出てくるような名前だった。乗客の無為、全く接触をもたない人々の中での僕の孤独、油を塗ったようなものうい海、海岸の果てしなく続く陰欝さ、こういったものが僕を物事の真実から遠ざけ、悲しく無感覚な妄想の網の中にからめとるように思えた。時々聞こえてくる波の音は、兄弟の言葉のように全くの喜びだった。それは自然な何物かで、存在理由と意味を持っていた。時々海岸の方から見えるボートが、一瞬現実と接触しているという気持ちへと心を引き戻してくれた。それは黒人達が漕いでいるボートだった。遠くからでも眼球が光っているのが見えるんだ。彼らは叫び、歌っていた。体からは滝のように汗が流れていた。彼らの顔はグロテスクな仮面のようだった。だが彼らには骨格、筋肉、激しい生命力があり、海岸に寄せる波と同じ位、自然で真実の激しい活動力があったのだ。そこにいるのに言訳などいらなかった。彼らを見ているのは大きな慰めだった。しばらくの間、僕はごまかしのない事実の世界に自分がまだいるのだと感じるのだった。だが、この気持ちは長くは続かなかった。何かが現れて、追い払ってしまうのだった。思いだすが、僕達は一度沖合に停泊している軍艦に出くわした。そこには小屋さえないのに、その船は未開墾地を砲撃していた。フランス軍がそのあたりで戦争を始めていたようだ。国旗がくたくたに疲れたぼろきれのように落ちていた。長い六インチ砲の砲口が、船体の低いところに突きだしていた。油じみたぬるぬるした波が船をものうげに上下に揺らし、細いマストを揺らしていた。陸と海と空の空虚な広がりの中に、その船は不可解に浮かび、大陸に向かって大砲を撃ちこんでいるのだった。パンという音が六インチ砲のひとつから鳴った。炎が飛び、さっと消えた。小さい白い炎が消えた。小さい弾丸が弱々しくかん高い音を立てながら飛んでいくが、何も起こらなかった。いや、起こりえなかったのだ。そのようなやり方にはちょっと狂気じみた所があり、その光景には何か悲しいような滑稽さがあった。乗船していたある男が、どこか見えない所に原住民の――彼は敵と言ったが!――野営地があるのだと説明してくれたが、僕のこの気持ちは消えなかった。
軍艦に手紙を届け(その孤独な船では、一日に三人の割合で船員が熱病で死んでいると聞いた)、僕達は進み続けた。いくつかの茶番じみた名前の港に寄ったが、そこではまるで過熱した地下墓地のように静かで土臭い大気の中で、あるいは自然そのものが侵入者を拒もうとするかのように、危険な波に縁取られた形のない海岸に沿って、生きながらに死んだような流れの河で、死と貿易の陽気な舞踏が続いているのだ。河土手は腐敗して泥土となり、水は濁ってどろどろになり、ねじ曲がったマングローブの森を侵食していた。そして森はどうしようもない無力な絶望の中で、僕達に向かって身悶えしているようだった。詳しく話せる位の印象がもてる程長くは、船はどこにも止まらなかったが、全体として漠とした重苦しい感じが次第に募ってきた。それは悪夢が暗示されるような、物憂い遍歴の旅だった。
巨大な河の河口を見たのは、三〇日以上も経ってからだった。僕達は政府所在地に停泊した。だが僕の仕事は、およそ二〇〇マイル先に進むまで始まらなかった。それでできるだけ急いで、更に三〇マイル上流に向かって出発した。
僕は小さい遠洋航海用の船で進んで行った。船長はスウェーデン人だったが、僕が海員だと分かると船橋(せんきょう)に呼んだ。彼は若く、痩せていて色が白く、むっつりとして、髪は長く、足をひきずるような歩き方をした。みすぼらしい小さな波止場を出ると、彼は海岸の方を見ながら軽蔑するように頭を上に向けた。『あそこに住んでいたのか?』と彼は尋ねた。僕は『ええ』と答えた。『あの政府の奴らは大した連中だよ――そう思わないかい?』彼はとても正確な英語で、かなりの皮肉をこめて続けた。『月に数フランでこんなことをする人がいるなんて、奇妙なもんだ。ああいった奴らが奥地に行ったらどうなるんだろう』それを早く見たいと思っているんだと、僕は言ってやった。『そうか!』と彼は叫んだ。そして足をひきずりながら船橋を横ぎり、片方の目を油断なく前方に注いでいた。『あんまり自信をもたんことだよ』と彼は続けた。『この前一人の男を乗せてやったが、そいつは途中で首をくくったよ。その男もスウェーデン人だったがね』『首をくくったって! 一体どうしてですか?』と、僕は叫んだ。彼は注意深く前を見つめたままだった。『そんなこと誰が知るかい。太陽が強すぎたのかもしれんし、それともこの国がそうだったのかもしれんなあ』
ついに河筋が見えてきた。岩だらけの崖が現れ、岸の傍の掘り返された土の山、丘の上の家々、掘りだされた土砂の中に埋もれたトタン屋根の家、斜面にすがりつくように立っている家が見えた。上流の早瀬の絶えまない音が、人は住んでいるのに荒廃したこの風景の上にふり注いでいた。たくさんの人間が、大抵は黒人で裸だったが、蟻のように動き回っていた。桟橋が河に突きだしていた。目の眩むような太陽の光が、眩しい輝きの突然の照り返しの中で、時々こうした風景を見えなくした。『あれが君の会社の出張所だ』と、そのスウェーデン人は岩だらけの斜面に立っている三つの木造の兵舎のような建物を指しながら言った。『君の荷物は上げるからね。四箱だと言ったね。それじゃ、ごきげんよう』
僕は草の中にボイラーが転がっている所にやって来たが、それから丘に通じている小道を見つけた。その道は、丸石や、車輪が空中でひっくり返った小型の鉄道トラックの為に、横にそれていた。車輪のひとつはなくなり、まるで何かの動物の死体のようだった。それから僕は、さらに朽ちかかっている機械類やさびついたレールが積み重ねられてある所にやって来た。左手には小さい森をなしている木々が日陰を作っていたが、そこには何か黒いものが弱々しく動いているように見えた。僕は目をしばたいた。道は急な坂道だった。角笛が右手で鳴り、黒人達が走っているのが見えた。重々しく鈍い爆発音が地面を揺るがし、煙が断崖から吹いてきたが、それだけだった。岩の表面には何の変化も表れなかった。彼らは鉄道を作っているのだった。断崖がじゃまになっているとかいう訳ではなかった。だがこの目的のない爆発だけが、そこで続いているのだった。
背後でかすかなチャリンという音がしたから、思わず僕はふり返った。六人の黒人達が、一列になり骨折って小道を歩いていた。彼らは頭の上に土を一杯入れた籠を乗せて、バランスを取りながら背筋を伸ばしてゆっくり歩き、チャリンという音が足音と歩調を合わせていた。黒いぼろきれを腰に巻きつけ、うしろの短いきれはしがしっぽのように揺れていた。肋骨のひとつひとつが見え、手足の関節はロープの結びめのようだった。皆首に鉄の首輪をはめられ鎖でつながれ、ロープのたるんだ部分がリズミカルな音を立てながら揺れていた。また断崖の方から爆発音がしたから、僕は大陸に砲弾を撃ちこんでいた軍艦のことを突然思いだした。それは同じ種類の不吉な音だった。だがこの人達は、どう考えてみても敵と呼べるような人達ではなかった。彼らは罪人と呼ばれ、ひどい法律が炸裂する砲弾のように彼らにやって来たのだが、それは海からやって来た解き難い謎のようだった。彼らの痩せた胸は一緒にあえぎ、激しく開いた鼻孔は震え、表情のない目は丘の上をじっと見ていた。このかわいそうな未開人達は、僕から六インチもない所を、こちらをチラッと見ることもなく、全く死のように無関心に通り過ぎた。この新兵達の後ろには教化された兵の一人が、言わばここに働いている新しい力の産物なんだが、銃の中ほどを持って意気消沈して歩いていた。ボタンをひとつはずして制服の上着を着ていたが、白人が道にいるのを見ると、武器をすばやく肩まで持ち上げた。これは単に用心の為だった。白人は少し離れた所から見るととてもよく似ているから、僕が誰だか分からなかったんだ。彼はすぐに安心して、白い大きな歯を見せてニヤリと卑しそうに笑い、囚人達をチラッと見て、彼の高尚な信頼へと僕を招き入れようとしているようだった。結局僕もまた、こうした高尚で正当な事業の偉大なる大義の一部だったのだ。
僕は上って行くのをやめ、向きを変え左の方に下りていった。丘を登る前に、鎖につながれた一群を先に行かせようと考えたからだ。知っての通り、僕は特に軟弱という訳じゃない。一撃を食らわして、身を守らなければならなかったこともある。僕がこれまで迷いこんだ生活の中では、必要に応じて結果を考えることもなく、時には抵抗したり、攻撃しなければならなかった――それが唯一の抵抗の方法なんだ。僕はひどい暴力や貪欲、情欲を見たことがある。だが誓って言うが、こうした人達を――言っておくが彼らも人間なんだ――支配し駆り立てたのは頑丈で、元気で、血走った目をした悪魔だった。だが僕はこの丘の斜面に立った時、目の眩むような太陽の光の中で、貪欲で無慈悲な行ないをした、無力で、偽った、目の弱い悪魔と知り合いになるだろうということを予見した。彼は何て狡猾でもあったのか、僕は何ヶ月も経って一〇〇〇マイルも進んでから知ることになった。一瞬僕は警告を受けたかのように、愕然として立っていた。ついに僕は、さっき見た森に向かって丘を斜めに下りて行った。
僕は誰かが斜面に掘っていた大きくて人工的な穴を避けた。その目的が何なのか、僕には分からなかった。それは、とにかく石切り場でも砂掘り場でもなかった。ただの穴だった。罪人達に何か仕事を与えようとする、博愛的な欲求と関係していたのかもしれない。だが僕には分からない。それから僕は、丘の斜面の傷跡にすぎないような、とても小さい峡谷にあやうく落ちそうになった。居留地の為に輸入されたたくさんの排水管が、そこに転がっているのに気づいた。壊れていないものはひとつもなかった。それは気まぐれに壊されたのだった。ついに森の下までやって来た。ぶらぶら歩いて、木陰でちょっと休む為だった。だがその中に入った途端、何か薄暗い円状の地獄に足を踏み入れたような気がした。早瀬が近くにあって、絶えまなく、単調で、激しい、突進するような音が、森の中の悲しみに満ちた静けさを満たしていた。そよとの風もなく、木の葉ひとつ動かず、神秘的な音がするだけだった――まるで動きだした地球の激烈な足音が、突然聞こえたかのようにね。
何か黒いものが木々の間にうずくまったり、横になったり、座ったりしていた。そして木の幹にもたれたり、地面に這いつくばっているのが、薄暗い光の中で半分位ははっきり見え、あとの半分は見えなかったが、皆、苦痛と自暴自棄と絶望の様子だった。断崖の上のもうひとつの鉱山で砲弾が破裂し、足下の地面がかすかに震えた。仕事は続いていた。仕事なんだ! そしてここは、協力者達の何人かが退いて死ぬ場所だったのだ。
彼らはじりじりと死にかけていた――それは見るも明らかだった。彼らは敵でも罪人でもなく、今ではこの世のものでもなかった――病気と飢えの黒い影にすぎず、緑がかった暗闇の中で折り重なるように横になっていた。年期契約という合法性の下に、海岸地帯のあらゆるひっこんだ所から連れて来られ、適さない環境の中で働かされ、慣れない食べ物を与えられた為に病気になり、役に立たなくなり、這って行って休むことを許されたのだ。これらの死にかかった姿は空気と同じ位自由で――ほとんど空気と同じ位痩せていた。木々の下で彼らの目がキラリと光るのが、分かるようになってきた。それから見下ろすと、手の近くにひとつの顔が見えた。黒い骨ばかりの人間が片方の肩を木にもたせかけ、長々と横になっていた。ゆっくりと瞼が上がり、窪んだ目が僕を見たが、大きくうつろな目で、眼球の奥には一種物が見えていないような白いきらめきがあったが、それもゆっくり消えていった。その男は若く見えた――ほとんど少年と言ってもいい位だ――だが彼らの場合、年は分かりにくいからね。他にすることもないことに気づいたから、僕はポケットの中にあった、あの人のいいスウェーデン人がくれた堅パンを差しだした。指がゆっくりとそれを掴んだ――他に動きはなく、こちらを見ることもなかった。彼は少しの白い毛糸を首に巻きつけていた。バッジのつもりなのか――装飾品か――護符なのか――それとも縁起をかついだものだろうか? 毛糸と関わる考えがあったのだろうか? 海の向こうからやって来たこの白い毛糸が、彼の黒い首に巻きつけられていることには、何かぎょっとさせるものがあった。
同じ木の近くには、更に二人の男が体を折り曲げて足を引き寄せて座っていた。一人の男は顎を膝の上に乗せて、耐えられない程ぞっとする様子で虚空を凝視していた。もう一人の幽霊はものすごく疲れて、うちひしがれたかのように、顔を伏せていた。そしてあたりには、まるで大虐殺か悪疫の絵を見るように、体をねじ曲げ虚脱状態の姿勢をした人達が散らばっていた。恐怖にうたれて立っていると、その中の一人が立ち上がって、水を飲みに四つん這いになって河の方に行った。彼は手で水をすくって飲んでいたが、それから日の光の中で立ち上がると、体の前でむこう脛を組み合わせ、しばらくすると縮れた頭が胸骨の上に落ちた。
僕はそれ以上木陰を歩きたくなかったから、出張所に向かって急いだ。建物の近くまで来ると、一人の白人に出会ったが、あまりにも優雅な服装だったから、最初は一種の幻影かと思った。彼は糊のきいた高い襟、白いカフスに軽いアルパカの上着、雪のようにまっ白なズボン、清潔なネクタイを身につけ、磨かれたブーツをはいていた。帽子はかぶっていなかった。髪を分け、櫛を入れ油をつけ、緑の線のはいった傘を大きな白い手に持っていた。驚くべき男で、耳にはペン軸をかけていた。
僕はこの奇跡のような男と握手した。それから彼がこの会社の会計主任で、この出張所で全ての帳簿をつけているということが分かった。『新鮮な空気を一息吸いに』ちょっと出て来たと彼は言った。この言い方は、座りがちな机での生活をほのめかしていて、ものすごく奇妙に聞こえた。この男のことを君達に話すつもりは全くなかったが、ただあの頃の記憶と分かちがたく結びついた男の名前を最初に聞いたのは、彼の口からだったのだ。それに僕はこの男を尊敬した。そうだ、彼の襟、大きなカフス、櫛をいれた髪を尊敬したのだ。彼の外観は確かに床屋の人形そのものだった。だが道徳がひどく腐敗したこの土地で、彼は体裁を保っていた。それは気骨というものだ。糊のきいた襟と飾りたてたシャツの胸は、性格の強さを表すものだった。彼はあちらに行って三年近く経っていた。僕は後になって、どうやったらそんな亜麻地の服を見せびらかすことができるのか、と聞かずにはいられなかった。すると彼は、顔をちょっと赤らめて控えめに言った。『出張所の近くにいる土地の女を教えていたんだ。大変だったよ。仕事が大嫌いなもんでね』こうしてこの男は、何かを本当に成し遂げていた訳さ。そして彼自身は一心に帳簿をつけていたが、それは整然としていた。
その他は人々も物も建物も、出張所では全てが混乱状態だった。扁平足の埃にまみれた黒んぼ達が、やって来ては出て行った。加工製品やつまらない綿製品、ガラス玉、真鍮線が流れるように暗黒の奥地へと出発し、その代わりわずかの高価な象牙が運ばれてきた。
出張所では十日間待たなければならなかったが――永遠のように思えた。僕は構内の小屋に住んでいたが、混乱状態から逃れる為に、時々会計士の事務所に出かけたものだ。その建物はその面が水平な厚板でできていたが、合わさり方がひどくて、彼が高い机に向かって身をかがめていると、首から踵まで太陽の光が細く縞状に写っていた。外を見る為に、大きなよろい戸を開ける必要もなかった。そこも暑かった。大きなハエがものすごい唸り声を上げていたが、それは刺すというより突き刺すといった感じだった。僕は大体床の上に座っていたが、その間彼は申し分のない服装で(かすかに香水まで匂わせていた)、高い腰かけに座って書きまくっていた。時々彼は運動する為に立ち上がった。病人が寝ている脚輪つき寝台がそこに運ばれて来ると(奥地からやって来た病気の代理人かなんかだろう)、彼は穏やかに不快感を表して言った。『この病人の呻き声を聞いていると気が散るよ。そうでなくても、この気候じゃ書き誤りをしないようにするのはものすごく難しいのに』
ある日彼は、頭を上げずに言った。『奥地に行ったら、きっとクルツさんに会えるよ』クルツって誰なのかと聞くと、彼は一等代理人だと答えた。この情報に僕ががっかりしているのを見ると、彼はペンを置きながらゆっくりつけ加えた。『彼はものすごく非凡な人物だ』更に聞くと、クルツはこの象牙の国で、現在交易所、しかもとても重要な所を任せられているということだった。『一番奥地だ。他の出張所が送ってくるのを全部合わせた位の象牙を送ってくるんだ……』彼はまた書き始めた。病気の男はあまりに具合が悪くて、呻くこともできなかった。ハエが非常な静けさの中でブンブン唸っていた。
突然、かすかな人声と大きな足音が近づいてきた。隊商が到着していたのだ。無骨な激しいしゃべり声が、厚板の反対側から聞こえてきた。運搬夫達が皆同時に話しだし、騒音のさ中、主任代理人が悲しそうな声で『それは諦める』と、涙ながらにその日の内に二〇回も言っているのが聞こえた。彼はゆっくりと立ち上がり、『何て恐ろしい騒ぎだ』と言った。病人を見る為に、彼は静かに部屋を横切り、戻って来て言った。『耳が聞こえないようだ』『何だって、死んだのか?』僕はぎょっとして聞いた。『いや、まだだ』と、落ち着き払って彼は答えた。それから頭を上げ、出張所構内の騒ぎをほのめかしながら言った。『帳簿を正確につけなければならないとなると、誰だってあいつら土地の者達を憎むようになるさ――死ぬ程ね』彼はしばらくの間考えに耽っていた。『クルツさんに会ったら』と、彼は続けた。『僕からのことづてだと言ってくれ。ここでは全てが』――彼は机をチラッと見た――『大変上首尾に行っているとね。手紙は書きたくないんだ――あんな使いじゃ、誰が手紙を取るか分かったもんじゃない――あの中央出張所ではね』彼はしばらくの間、優しそうな出目で僕をじっと見ていた。『ああ、彼は偉く、とても偉くなるだろう』と彼はまた話し始めた。『その内幹部の中でもひとかどの人物になるだろう。上の者達は――つまりヨーロッパの首脳部のことだが――きっとそのつもりだ』
彼は仕事に戻った。外の騒ぎはやみ、まもなくして外に出ると、僕はドアの所で止まった。ハエが絶え間なく唸る中で、本国に帰る予定の代理人が頬を紅潮させ、意識を失って横たわっていた。もう一人の方は帳簿の上にかがみこみ、完全に正確な取引を正確に帳簿をつけていた。そして戸口から五〇フィート下には、死の森の静かな木の先端が見えていた。
翌日僕はついにあの出張所を後にして、六〇人の隊商と共に二〇〇マイルの徒歩の旅に出た。
そのことについて、君達に色々話しても無駄だろう。どこもかしこも道ばかりだった。背の高い草や燃えた草、藪を通って、冷え冷えする峡谷、暑さで燃えたっているゴツゴツした丘を通ると、踏みならされた小道が、この何もない土地に網の目状に広がっていた。あるのは孤独、孤独だけで、誰もいないし、小屋もない。住民達はずっと前にいなくなっていた。そうだ、もしありとあらゆる恐ろしい武器を身につけた黒んぼ達の謎のような大群が、突然ディールとグレイヴズエンドの間の道路を歩き、重い荷物を運ばせる為にそこら辺にいるいなか者を捕まえ始めたとしたら、その辺の農場も小屋も皆すぐに空っぽになるだろうと思うよ。ただここでは、建物もなくなってしまっていた。それでも僕は、いくつかの見捨てられた村を通って行った。壁に草がおい茂った廃墟には、哀れな程子供じみたものがある。
来る日も来る日も後ろには六〇人の裸足が、それぞれ六〇ポンド〔一ポンドは約四五〇グラム〕の荷物を背負って足を踏み鳴らしたり、引きずったりしていた。キャンプ張り、料理、睡眠、キャンプの片づけ、行進。時々仕事の最中に死んだ運搬夫が、空っぽのひょうたんと長い杖を横に置いたまま、小道の傍に横たわっていた。周囲は恐ろしい程の静寂だ。静かな夜には、遠くから太鼓のぼんやりしたかすかな震えるような音が、沈んだりうねったりしながら聞こえてくる。ぶきみで、訴えるようで、暗示的で、熱狂的な音だ――キリスト教の国で聞く鐘の音と同じ位深い意味が、多分あるのだろう。ある時ボタンをはずして制服を着た一人の白人が、武装したひょろ長いザンジバリス島人を護衛に連れて小道で野営していたが、そいつは酔っているとまでは言わないとしても、とてももてなしがよく陽気だった。道路の修繕を監督していると、彼は言った。それから三マイル程行った所で、僕が本当につまずいた額に弾丸の痕がある中年の黒人が永久の修復と考えられないなら、道路も修繕もなかったと思うけどね。僕には白人の同伴者もいた。なかなか面白い男だったが、肉づきがよすぎて、木陰も水も何マイルもない所で暑い丘の斜面で倒れるという腹の立つ癖があった。彼が正気に返る間、頭の上に上着を傘のようにかざしてやるのは苛々したよ。僕は一度、一体何のつもりでここに来ているのか聞かずにはいられなかった。『金を儲ける為さ、もちろん。何の為だと思っているんだい』と、彼は軽蔑するように言った。それから彼は熱病にかかり、棒に吊したハンモックに乗って運ばれなければならなかった。彼は体重が一六ストーン〔一ストーンは約一四ポンド(六三五〇グラム)〕もあったから、僕は運搬夫と何度も喧嘩した。彼らは進もうとせず逃げだし、夜になると荷物を持ってこっそり消えてしまった――全くの反乱だよ。それである夜、ジェスチャーを交えて英語で演説をしたら、ジェスチャーの方は目の前にいた六〇人の目に通じたようだった。そして翌朝僕は、ハンモックをうまく先頭において出発した。一時間も経つと、ジャングルの中で荒廃した事件に出くわした。男、ハンモック、呻き声、毛布、恐怖の叫び声。かわいそうに、重い棒で彼の鼻の皮は擦りむけていた。彼は僕に誰かを殺してほしいようだったが、近くには運搬夫の影もなかった。僕はあの老医者のことを思いだした。『現場で一人一人の心理的変化を観察するのは、科学的見地から見て面白いだろうな』僕は自分自身が、科学的に面白くなりつつあると感じた。しかしながら、そんなことは全て全く無駄だけどね。一五日めに、僕はまた大きな河の見える所に出た。そして、中央出張所に足をひきずりながら入って行った。それは雑木林と森に囲まれた淀みにあって、一方の面は悪臭のする泥土と見事に隣接し、残りの三方は、い草のぐらぐらする柵で囲まれていた。そのままにされた隙間がそこにある唯ひとつの入口で、その場を一目見ただけで、だらしない奴がそこを経営していることはすぐ分かった。手に長い棒を持った白人達が建物の間からものうげに現れ、僕を見る為に近づいてきて、それからどこか見えない所に消えてしまった。僕が名前を告げるとすぐに、その中の一人の黒い口髭を生やした頑丈で興奮しやすい男が、ペラペラと何度も脱線しながら、僕の蒸気船が河底にあることを教えてくれた。僕は仰天した。『何だって、一体どうして、なぜなんだ?』『いや、大丈夫だ。支配人自身がそこにいたからね。全くうまくやったよ。皆すばらしくやったよ! すばらしくね!』それから興奮して言った。『すぐに支配人に会いに行ってくれ。彼は待っているよ!』
僕は船が難破したことの本当の意味が〔マーロウが河の上流で病気になっているクルツの元に行くことを妨害する為に、支配人達が意図的に船を難破させたのだということ〕、すぐには分からなかった。今は分かっていると思っているが、確信はない――全くね。考えてみると、その事件があまりにも馬鹿げていて、全く不自然なのは確かだ。それでも……だがその時は、それは全く途方もなく厄介なことに思えた。蒸気船が沈んだのだ。彼らは二日前に突然支配人を乗せて、自ら買って出た船長が指揮して、急いで出発し河を上ろうとしたのだが、三時間も進まない内に岩礁にぶつかって船底が破れ、船は南の岸近くに沈んでしまったのだ。船が沈んだからには何をしたらいいのだろうかと、僕は自問した。実際、河から船を引き上げる時にすることはたくさんあった。僕はまさに次の日から仕事に取りかからなければならなかった。その仕事とバラバラになった部品を出張所に運んでの修繕は、数ヶ月かかった。
支配人との初めての会見は奇妙なものだった。午前中二〇マイルも歩いてきた僕に、彼は座れとも言わなかったのだ。彼は顔色も顔立ちも行儀作法も、そして声も平凡だった。体格は中肉中背だった。目は普通の青色だったが、驚く程冷たくて、確かに斧と同じ位鋭く重々しく人を見ることができた。しかしそんな時でさえ、彼の体の他の部分はそうした意図を否定しているように見えた。他の点では、彼の唇には言いようのないかすかな表情だけがあった。何か人目を盗むような――笑い――いや笑いとも言えない――覚えているがうまく説明できない。この笑いは何か言った後、一瞬はっきり現れるのだが、無意識の笑いとでも言ったらいいだろうか。それは話をした後に現れた。ありふれた言葉の意味を全く不可解にする為に、言葉に貼りつける封印みたいにね。彼は若い時からこのあたりの地区で雇われた普通の商人で――それ以上の人物ではなかった。皆彼に従っていたが、愛も恐怖も尊敬の念さえも感じさせなかった。ただ不安の念だけを引き起こすのだ。そうだ! 不安の念だ。はっきりした不信感ではなく――単なる不安――それ以上のものではない。そんな――何と言ったらいいか、そんな……能力が、どんなに効果的か、君達には分からないだろう。組織したり、イニシアティヴを取ったり、命令する才能さえ彼には全くなかった。出張所のひどいありさまという点から見ても、それは明らかだった。彼には学識も知性もなかった。それなのに、なぜこんな地位に上がれたのだ? 多分それは、決して病気をしなかったからだろう……彼はそこで三年の任期を三期務めていた……皆体質だけが自慢の輩の中で健康状態がいいということは、それ自体がひとつの力だったからだ。休暇で故郷に帰った時は、相当放埓(ほうらつ)な生活をしたようだ――派手にね。陸に上がった船乗りってとこだ――違いはあっても――見かけだけだ。それは彼の何気ない話から、すぐ察しがついた。何も始めず、決まりきった仕事を続けている――ただそれだけだった。しかし彼は偉大だった。何がこんな男を支配しているのか分からないという、このちょっとしたことで偉大だった。彼は決してその秘密を漏らさなかった。おそらく彼の内面には何もなかったのだろう。そんな風に疑うと、考えこんでしまった――というのは、あちらでは外から確かめる手段がなかったからだ。一度熱帯のいろんな病気に出張所のほとんど全ての代理人がやられた時、彼はこう言ったそうだ。『こちらにやって来る者は、内臓なんかもってるべきじゃないね』とね。彼はその言葉を、例のあの笑いで封印した。まるでそれが、彼の中にしまってある暗黒の入口のようにね。それは一瞬見えたと思うんだが――封はされたままだ。食事の時で、上席をめぐって白人の間で絶えず喧嘩があって困った時、彼はとてつもなく大きな円卓を命じて作らせたが、その為に特別の家を建てなければならなかった。それが出張所の食堂だった。彼の座った席が上席で、残りは皆違いはなかった。これが彼の不動の信念のようだった。彼は礼儀正しくもなかったし、無礼でもなかった。ただ静かだったんだ。彼の「ボーイ」が――海岸地方出身の大食漢の黒人の少年なんだが――彼のまさに目の前で白人達に癪にさわる程横柄にふるまっても、彼は放っておいたのだ。
僕を見るとすぐに、彼は喋りだした。僕が途中で大分手間どって待てなかったから、僕なしで出発しなければならなかったという。上流の出張所への交代要員を送ってやらなければならなかったらしい。既に大分遅れていたから、誰が生きて誰が死んでいるのか、どんな風にやっているのかも分からなかった――とか何とかね。彼は僕の説明には全然気もとめず、封蝋(ふうろう)の棒をいじりながら、『状況はひどく重大、ひどく重大だったんでね』と何度も繰り返した。重要な出張所が危機状態で、その主任のクルツが病気だという噂があったという。本当でないといいのだが、クルツさんという人は……と彼は言った。僕はうんざりし、苛々してきた。クルツなんか犬にでも食われろと思った。クルツさんの噂は海岸で聞きましたと言って、僕は彼の話をさえぎった。『ああ、そうかい! それじゃ下の方では彼のことを話しているのか』と、彼は一人でぶつぶつ呟いた。それから彼はまた話し始め、クルツは彼の部下の中で最も有能な代理人で、ひときわ優れていて会社にとっても大変重要な人物だから、自分の心配も分かるだろうという。彼は『ものすごく心配なんだ』と言った。確かに彼は椅子の上でひどくそわそわし、叫んだ。『ああ、クルツさんが!』彼は封蝋の棒を折ってしまい、自分でもこの事故にびっくりしたようだった。次に彼が知りたかったのは『修理にどれ位かかるか』ということだった……僕はまた彼をさえぎった。腹がすいていたし――分かるだろう――立ち続けだったから、だんだん苛々してきたんだ。『そんなことどうやって分かるんですか。沈んだ船をまだ見ていないし――数ヶ月かかるでしょうね、確かに』と僕は言った。こんな話は、僕には全く無駄に思えた。『数ヶ月ねえ、それじゃ、出発までに三ヶ月ということにしておこう。そうだ、それだけあれば大丈夫だろう』と彼は言った。僕は彼のことをぶつぶつ呟きながら、その小屋(彼はヴェランダのようなものがついた土でできた小屋に、一人で住んでいた)を飛びだした。彼はおしゃべりの馬鹿だった。だが後になって、彼が見積もったこの『仕事』に必要な時間がどんなに正確か驚く程はっきり確信するようになって、僕はこの意見をひっこめた。
翌日から僕は、言わばあの出張所に背を向け仕事に取りかかった。そんな風にしてだけ、無意味さから救ってくれる人生の真実を掴(つか)んでいられるように思えたのだ。それでも人は、時には周囲を見回さなければならない。それで僕はこの出張所と、陽を浴びながら構内を目的もなくブラブラ歩き回っている男達を見た。一体これは何を意味するのだろうかと、時々僕は自問した。彼らは馬鹿げた程長い棒を手に持ってあちこち歩き回っていたが、まるで魔法にかけられて、不潔な囲いの中に閉じこめられた、信仰のない巡礼のようだった。『象牙』という言葉が大気中に響き渡り、囁かれ、溜息が聞こえた。象牙に向かって祈っていると、誰でも思うだろう。愚かな貪欲さの臭いが、死体から漂ってくる風のように大気の中に感じられるのだった。ああ! 僕はこんなにも現実感のない光景をこれまで見たことがない。そして外では、この地上の切り開かれた地点を囲んでいる沈黙する荒野が、人間のこの滑稽な侵入が撤退するのを辛抱強く待っている悪か真実のように、何か巨大で打ち勝ちがたいものに突然思えたのだ。
ああ、この数ヶ月! いや、気にしないでくれ。いろんなことが起こった。ある晩なんか、キャラコ、捺染(なっせん)綿布、ガラス玉、その他いろんな物がいっぱい詰まった草葺小屋が突然燃えだして、この大地が復讐の炎で全てのガラクタを焼き尽くす為に、口を開いたのではないかと思う程だった。僕は艤装を解かれた船の横で静かにパイプをくゆらしていたが、彼らが腕を高く上げ、光の中で跳ね回っているのが見えた。するとその時、口髭を生やして太った男が、手にバケツを持って河の方に猛烈な勢いで走って来て、『皆本当に立派にやってくれている』と僕に言い、水を一リットル程すくい、また大急ぎで戻って行った。気がつくと、そのバケツの底には穴があいていたんだ。
僕はブラブラ近づいていった。急ぐ必要は全くなかった。分かるだろう、小屋はマッチ箱のように燃えていた。最初から望みはなかったんだ。炎が高々と燃え上がって、その為に皆後ずさりし、炎は全てのものを照らしだした――そして消えてしまった。小屋はすでに真っ赤に輝く残り火の山だった。一人の黒んぼが近くで叩かれていた。彼が何らかの方法でこの火事を起こしたというのだ。そうかもしれないが、この男は恐ろしい程泣き叫んでいた。後になって、この男が何日間か、ちょっとした日陰でひどく具合悪そうにしていて、落ちつこうとしているのを見かけた。その後彼は立ち上がり、どこかへ消えてしまった――そして荒野は音もなくその胸に再び彼を呑みこんだ。暗がりから火の輝きの方へ近づくと、話をしている二人の男が後ろにいることに気がついた。クルツという名前が発音され、『この不幸な事故につけこんで』という言葉が聞こえた。その内の一人は支配人だった。僕は彼に『こんばんは』と言った。『こんな話を聞いたことがあるかね――ええ? 信じられんよ』と言って彼は去った。もう一人の男は残っていた。彼は一等代理人で、若く紳士的で少し内気だったが、ジグザグの顎髭と鷲鼻をしていた。他の代理人によそよそしかったから、彼らの方ではこの男のことを支配人のスパイだと話していた。僕について言えば、それまで彼にほとんど話しかけたことはなかった。僕達は話し始め、やがてジュッ、ジュッと音を立てている焼け跡を後にして歩きだした。それから彼は部屋に来ないかと言ったが、それは出張所の本館にあった。彼はマッチを擦った。それで僕はこの貴族然とした若者が、銀作りの化粧箱だけでなく蝋燭(ろうそく)まで専有しているのに気がついた。ちょうどあの頃は、蝋燭を持つ権利があるとされていたのは、支配人だけだった。土壁には黒人が作ったマットが張ってあり、槍、投げ槍、楯、小刀が戦利品の形でかかっていた。この男が指図された仕事はレンガを作ることだと――僕は聞いていた。しかし出張所にはレンガのかけらさえ見当たらなかった。そして彼は一年以上もそこにいた――待ちながらね。何かが足りなくてレンガが作れなかったようだ。それが何なのか僕には分からないが――多分藁(わら)だろう。とにかくそれはそこにはなく、ヨーロッパから送ってきそうにもなかったから、彼が何を待っているのか僕にははっきりしなかった。多分何か特別なものを作る仕事だったんだろう。しかしながら、彼らの内の十六人だか二〇人だかの巡礼達は、皆何かを待っていた。誓って言うが、彼らの受け取り方からして、肌に合わない仕事でもないようだった。僕に分かる限り――彼らにやってきたのは病気だけだった。彼らは馬鹿げた種類のやり方でお互いを中傷したり、陰謀を企てたりして時間を紛らしていた。出張所の回りには陰謀の空気が漂っていたが、もちろん何も起こらなかった。他のあらゆること――会社全体の見せかけの博愛精神、彼らの話、統治法、仕事の企画と同じように、それは現実味がなかった。ただひとつ現実感のある感情は、象牙が取れる交易地に任命されたいということだけだった。そうすれば手数料が取れるからだ。その為に彼らは陰謀をめぐらし、中傷し合い、お互いに憎み合っていた――だが効率的に指一本でも動かすとなると――ああ、全くそんなことはないのだ。神かけて言うよ! 結局この世は一方では馬を盗むことが許されるのに、他方では端綱(はづな)を見てもいけないという所がある。徹底的に馬を盗んでしまえ〔ヨーロッパ列強の帝国主義支配を婉曲的に言っているが、作者の鋭い皮肉が窺える〕。よろしい。彼はそれをやり遂げた。多分乗り回すこともできる。ところが、端綱を見るだけで、最も慈悲深い聖人でさえ怒らせてしまう所があるんだ。
彼がどうして愛想がいいのか、僕には全然分からなかった。だがそこで喋っている内に、そいつが何かを嗅ぎだそうとしていることに突然気がついた――いや、実際かまをかけていたのだ。彼はヨーロッパについて、僕がそこで知っていることになっている人々について絶えずほのめかし――あの墓のような街にいる僕の知り合いについて、誘導的な質問をした。彼の小さな目は好奇心で――雲母盤のようにキラキラ輝いていた――ちょっと横柄ぶった態度を保とうとしていたけどね。最初僕はひどく驚いたが、まもなく彼が僕から何を聞きだそうとしているのかものすごく知りたくなった。彼の役に立ちそうなことを、僕が知っているとはどうしても思えなかったんだ。彼が困っているのを見るのはとても面白かった。というのは、実際僕の態度は冷淡そのものだったし、頭の中はあの哀れな蒸気船のことしかなかったからだ。彼が僕のことを全く恥知らずの嘘つきだと考えたことは明らかだった。ついに彼は腹を立てたが、すさまじい苛立ちを隠す為にあくびをした。僕は立ち上がった。それから画板に描かれた一枚の小さな油絵に気がついた。体には布をまとい目隠しをされ、矩火を持った女が描かれていた。背景は薄暗く――ほとんど黒と言ってよかった。その女の動きには威厳があったが、顔に映える矩火の効果には不吉なものがあった。
僕はその絵に注意をひかれた。そして彼の方は、蝋燭をさした空の半パイントのシャンパンの瓶(医学的慰めの為だ)を手に持って礼儀正しく立っていた。僕の質問に彼は、クルツがこの絵を描いたのだと言った――『まさにこの出張所で一年以上も前に――交易地に行く船を待っている間にね』『教えてくれ、お願いだ。このクルツさんって、どういう人なんだ?』と僕は言った。
『奥地出張所の主任さ』と、彼は顔をそらしながらそっけなく答えた。『どうもご親切に』と僕は笑いながら言った。『そして君は、中央出張所のレンガ作りって訳だ。そんなことは誰でも知ってるよ』しばらくの間彼は黙っていた。『彼は天才だ』と彼はついに言った。『彼は憐れみと科学と進歩と、その他諸々の使者なんだ。我々は』と、突然彼は熱弁をふるい始めた。『ヨーロッパから任せられた目的の指標の為に、いわゆるより高い知性と広い同情と目的への専心を必要とするんだ』『誰がそんなことを言っているんだ?』と僕は尋ねた。『誰でも言っているさ』と彼は答えた。『書いている人もいる。それで彼はここに来たんだ。君も知っての通り、特別の人材としてね』『なぜ僕が知っている筈なんだ?』僕は本当に驚いてさえぎった。彼は僕の言葉を無視した。『そうなんだ。現在彼は一等の出張所の主任だが、来年は副支配人になるだろう。そしてもう二年もすれば……だがもう二年もすればどうなるか、多分分かるだろう。君は新米組で――善人組さ。特別任務として彼を送った奴らが、君のことも誉めていたよ。いや、否定しなくてもいい。僕はちゃんとした眼を持っているからね』これで分かってきた。あの親愛なるおばの影響力のある知り合いが、その若者に思いがけない効果を与えていたんだ。僕はあやうく笑いだす所だった。『君は会社の機密文書を読むのかい?』と尋ねると、彼は何も言わなかった。とても面白かったよ。『クルツさんが総支配人になったら、君にはチャンスはないだろうね』と僕は厳しい調子で続けた。
彼は突然蝋燭を吹き消し、僕達は外に出た。月が出ていた。黒い人影が物憂げにあたりを歩き回り、燃えさしに水をかけ、そこからジューという音がした。蒸気が月光の中に立ち上り、叩かれた黒んぼがどこかで呻いていた。『何てうるさい奴だ!』とあの口髭を生やした疲れを知らない男が現れ、僕達に近づいて来て言った。『ざまあみろ。違反したら――罰だ――バーンとな! 容赦なく、容赦なくだ。ああするに限るよ。そうすれば火事も起こらないだろう。ちょうど支配人に言おうと思って……』彼は僕の相棒に気がつくと、たちまち意気消沈した。『まだ休んでいなかったんですか』と、心はこもっているが、一種卑屈な調子で言った。『当然ですよ。ええ! こんな危険な所では――動揺もあります』そう言って彼は消えてしまった。僕が河の方に行くと、もう一人の男もついて来た。耳元で冷酷な呟き声が聞こえた。『どいつもこいつもとんまばかりだ――どこかへ行ってしまえ』巡礼達が三々五々身ぶりで話したり、論じ合っているのが見えた。何人かはまだ手に棒を持っていた。きっと彼らはあの棒をベッドにまで持っていったんだろう。囲いの向こう側では森が月の光の中で幽霊のように聳え、かすかな動きと悲しげな中庭のかすかな音を通して、この大陸の沈黙が人のまさに心に深く迫った――その神秘、巨大さ、隠された生命力の驚くべき実在感だ。傷を負った黒んぼがどこか近くで弱々しく呻いていたが、深々と溜息をついたから、僕は足を早めてその場から離れた。僕は誰かが腕の中に手を入れるのを感じた。『やあ、君』とそいつは言った。『僕は誤解されたくないんだ。特に、僕よりずっと前にクルツさんに会える君にはね。ぼくの意向について、彼にまちがった考えを持ってほしくないんだ……』
僕はこの張子細工のメフィストフェレス〔ファウスト伝説、特にゲーテの『ファウスト』に登場する悪魔。陰険な人物を指す〕に喋らせておいた。そしてもし、彼の体に人差し指でも突っこんだら、多分ゆるい泥がちょっと出てくるんじゃないかと思えた。『ねえ君、彼は現在の支配人の下でその内副支配人になるつもりだったんだ。そこヘクルツが来たもんだから、あの二人は少なからず狼狽したようだよ』と、彼はせっかちに話したから、僕は止めようとはしなかった。何か巨大な河の生き物の死体のように斜面に引き上げられた蒸気船の残骸に、僕は肩を寄せかけていた。泥、しかも太古の泥の臭いが(神かけて!)鼻をつき、原始時代の森のものすごい沈黙が眼の前にあった。黒い支流の水面には光る斑点が見えた。月は全てのもの――繁茂した草々、泥の上に寺院の壁より高く聳える壁のように蔽われた草木、薄暗い隙間を通して見える、音もなく広々と流れながらキラキラ輝いている大河――の上に銀色の薄い光の膜を投げかけていた。全てのものが偉大で、期待に満ちて静まり返っていたが、その男は自分のことを早口で喋っていた。僕達二人を眺めている、この見た所巨大な風景の沈黙は、何かを訴えているのだろうか、それとも威嚇しているのだろうか。ここに迷いこんできた僕達は何者なのだろうか? 僕達はあのおし黙った物を支配できるのだろうか、それとも奴が僕達を支配するのだろうか? 話すことのできない、そしておそらく耳も聞こえないあの物がどんなに途方もなく巨大であるか、僕は感じていた。そこには何があったのか? 少しばかりの象牙がそこからやって来るのは知っていたし、クルツがそこにいることは聞いていた。そのことについても充分に聞いていた――誓って! だがどういう訳か、はっきりしたイメージが湧いてこなかった――まるで天使か悪魔がそこにいると言われただけのようにね。君達の誰かが火星に住人がいると考えるのと同じように、僕はそのことを考えていた。僕はかつて、火星に人々がいるということを全く信じているスコットランド人の帆作りの職人を知っていた。彼等がどんなに見えるのか、どんな風にふるまうのか聞いてみると、恥ずかしがって『四つんばいで歩いている』とか何とか呟くんだ。笑おうものなら――六○の男がだよ――決闘でも申しでただろう。僕はクルツの為に決闘する所まではいかなかったが、彼の為にほとんど嘘をつく所までいった。知っての通り、僕は嘘が本当に大嫌いで耐えられないんだ。他の人より正直だからという訳じゃなくて、ただ単にゾッとするからだ。嘘には死の匂い、死すべき運命の匂いがあるが――それは僕がこの世で憎み、嫌い――忘れたいと思っているものだ。何か腐ったものを噛んでいるように、惨めで気分が悪くなるんだ。気質だろうと思うけどね。それで僕は、そこにいた愚かな青年にヨーロッパでの僕の影響について勝手に想像させることによって、ほとんど嘘をついたも同然の所までいった。僕は一瞬他の呪われた巡礼達と同じ位、虚偽の世界に足を突っこんだのだ。これはただ単に嘘をつくことによって、その時は会ったこともないあのクルツの役に立つのではないかと考えたからなんだ――分かるだろう。僕にとって、彼はただ単に言葉に過ぎなかった。君達と同じように、名前を聞いただけではどういう男か分からなかった。君達には彼の姿が見えるかい? この話が分かるかい? 何か分かるかい? 僕は君達に夢の話をしようとしているようだ――虚しい努力をしながらね。なぜって、夢のどんな関係を話しても、その感じは伝えられないからだ。あの反乱の中でもがいている、恐怖の中で感じる当惑と驚きと途方もなさが入り雑じったような感情、そして夢のまさに本質である信じられないような事に捕えられたという考え……」彼はしばらくの間黙っていた。
「……そう、不可能だ。人間の存在の一時期の生の感情――その真実、その意味を作り上げているもの――その微妙で透徹した本質を伝えることはできない。それはできないんだ。僕達は夢を見るように生きている――たった一人で……」
彼は考えこんでいるかのように言葉を切り、それからつけ加えた――
「もちろん、このことについては君達の方がその時の僕よりもよく分かるだろう。御存知の通り僕は……」
真っ暗闇になっていたので、我々聞き手はお互いの顔がほとんど見えなかった。既に長い間離れて座っていた彼は、我々にとって声でしかなかった。誰も言葉を発しなかった。他の者達は眠っていたのかもしれないが、私は起きていた。そして耳を傾けていた。河面にかかる重苦しい夜気の中で、人間の口からではなく、それ自身出てくるようなこの物語によって、掻き立てられたかすかな不安に糸口を与えてくれそうな文、言葉を待ち構えて、耳を傾けていた。
「……そうだ――僕は彼に喋らせておいた」と、マーロウは再び話し始めた。「そして僕の背後にある力については、好きなように想像させておいた。僕はそうした! だが実際何もなかったんだ! 僕が寄りかかっていたあの惨めで、古い、壊れた蒸気船以外は何もなかった。一方彼の方は、『立身出世の必要性』についてよどみなくまくしたてていた。『そして人がこんな所に来るのは、君も分かっているように、月を眺める為じゃない』とね。クルツさんは『万能の天才』だが、天才でさえ『充分な道具――つまり利口な人間』と一緒に仕事をした方が楽だと分かるだろうと、言うのだ。『俺はレンガは作っていない――なぜって、物理的に無理なんだ――君も気がついているようにね』そして彼が支配人の為に秘書の仕事をしているとしたら、『上司の信頼を気まぐれに拒むのは、賢明なことじゃない』からだと言うのだ。『君、分かったかい?』僕は分かっていた。『これ以上何が欲しいんだ? 君が本当に欲しいのはリベットだね、神かけて! リベットだ。穴を塞ぐ仕事をする為にね。リベットが欲しいんだね。それなら海岸に何箱もある――何箱もね――積まれて――壊れて――こぼれているよ。丘の斜面のあの出張所の構内なら、歩く度に蹴とばす位散らばったリベットがあった。リベットはあの死の森にも転がっていた。身をかがめるだけでポケット一杯にすることができるさ』――だが必要な所には一本も見当たらなかった。役に立ちそうな鉄板はあったが、それらを締めるものはなかった。毎週一人の黒人の使いが郵便袋を肩にかけ、手に杖を持って海岸の方へ出て行った。そして週に何度か海岸地方の隊商が交易品――見るだけでゾッとするような、ひどくつやつや光るキャラコ更紗や、一クォーツで一ペンス位のガラス玉、いまいましい斑点模様の綿のハンカチ――を持ってやって来た。だがリベットはなかった。三人の運搬夫がいれば、あの船を浮かせるのに必要な物は持って来れたのに。
彼は今では打ち解けてきたが、僕の鈍い態度についに腹を立てたにちがいなかった。というのは、神も悪魔も恐くない、まして人間なんか全然恐くないということを僕に言う必要があると判断したからだ。それで僕も言ってやった。『そのことはよく分かるが、僕が欲しいのはいくらかのリベットなんだ――そしてリべットはクルツさんが本当に欲しかったものだ。そのことを知ってさえいたらね。今では手紙が毎週海岸まで行っている筈だ……』『ねえ君、僕は口述筆記をしているんだ』と彼は叫ぶように言った。僕はリベットを要求した。頭のいい人間なら――方法はある筈だった。彼の態度が変わった。ひどくよそよそしくなって、突然河馬の話を始めた。蒸気船で寝ている時(僕は昼も夜も引き揚げ作業を続けていた)、驚かされないかと言うんだ。河岸に這い上がり、夜に出張所構内をうろうろするという悪い癖を持った年とった河馬がいたんだ。巡礼達は一団になってやって来て、持てるだけの小銃を持ってそいつに向かって撃ったものだ。その為に、中には幾晩も起きて見張っている奴さえいた。こうしたことに費やされたエネルギーは皆無駄だったけどね。『あの動物は不死身なんだ。だがこの国では、それは畜生についてだけ言えることだ。誰も――僕の言うことが分かるかい?――誰もここでは不死身ではないんだ』と彼は言った。彼は繊細なかぎ鼻をちょっと斜めにして、雲母盤のような目をまばたきひとつしないで、月光の下にしばらく立っていた。それからそっけなく『さようなら』と言うと、立ち去った。彼が動揺し、かなり当惑しているのが分かったから、僕はこの数日で初めて楽しい気分になった。僕の親友とも言える、壊れ、ねじ曲がったおんぼろ蒸気船に向かえるのは、大きな慰めだった。僕は甲板によじ登った。すると、ハントリー・パーマー製のビスケットの空缶を転がしたような音がした。その船は決してそれ程頑丈ではなかったし、形だってきれいじゃなかったが、一生懸命修理をしている内に、愛着を持つようになったんだ。どんなに影響力のある友達でも、これ程役には立たなかっただろう。船はここへやって来るチャンスを与えてくれ――僕ができることを発見するチャンスを与えてくれた。いや、僕は仕事は好きじゃない。むしろブラブラして、自分ができそうな面白いことを考えている方が好きだ。仕事は好きじゃない――誰だってそうさ――だが仕事の中にあるものが好きなんだ――自分自身を発見するチャンスだ。自分自身のリアリティ――他人じゃなく自分自身の為のだ――それは他の人には決して分からないものだ。他人に見えるのは単に外見だけで、本当の意味は分からないんだ。
その時僕は誰かが両足を泥の上でブラブラさせながら甲板の船尾に座っているのを見たが、驚かなかった。知っての通り、僕はあの出張所にいた二、三人の機械工と随分親しくしていたが、彼らは行儀がよくないからだと思うが、他の巡礼達は当然ながら軽蔑していた。そこにいたのは職工長で――仕事はボイラー造りだったが――腕のいい職工だった。ひょろ長く骨ばっていて黄色い顔色だったが、大きな情熱的な目をしていた。心配そうな顔つきで、頭は僕の手の平と同じ位禿げていた。だが彼の髪の毛は、落ちる時顎にひっかかって、新しい場所で繁殖していた。というのは、顎髭が腰まで垂れていたからだ。彼は六人の幼い子供がいる男やもめで(そこに来る為に子供達は妹に預けていた)、趣味は伝書鳩飼いだった。ひどく熱心で、鑑識眼があった。鳩について夢中になって喋ったもんだ。仕事の時聞が終わると時々小屋から出て来て、子供や鳩のことを話すんだ。仕事中に蒸気船の下の泥の中を這い回らなくてはならない時は、あの顎髭をその為に持ってきた白いナプキンのようなもので包んでいた。それには両方の耳にかける輪までついていた。夜になると、河岸に座ってその包みを注意深く洗い、それから乾かす為に、重々しい様子で灌木の上に広げているのが見えるんだ。
僕は彼の背中を叩いて叫んだ。『リベットが手に入りますよ!』彼は自分の耳が信じられないかのように、急に立ち上がって叫んだ。『まさか! リべットが!』それから低い声で言った。『君……本当かね?』僕達がなぜ気狂いみたいにふるまったのか分からない。僕は指を鼻にあてて、訳ありげにうなずいた。『よかったじゃないか!』彼は叫び、片足を上げながら、頭の上で指をパチンと鳴らした。僕も踊りだした。僕達は鉄の甲板の上ではね回った。ものすごい騒音があの廃船から鳴りだして、河の向こう岸の原始林から、割れるような轟音が寝静まった出張所に返って来た。その音で、何人かの巡礼達は小屋の中で目を覚ましたにちがいなかった。黒い人影が支配人の小屋の明かりのついた玄関口に現われ、消えた。それから一、二秒すると、玄関そのものも消えてしまった。僕達は踊りをやめた。すると僕達の足音で破られた沈黙が、再び大地の奥から波のように返ってきた。巨大な壁のようにそそり立つ草木、おい茂り絡まり合った樹幹、枝、葉、大枝、花が月光の中で静止し、声なき生命が暴動を起こして襲いかかり、波のようにうねる植物が積み重なり、うねり立ち、今にも入江に倒れかかって、僕達のつまらない存在を、全て押し流そうとしているようだった。そしてそれは微動だにしなかった。まるで魚竜が月光の下の大河で水浴びでもしているように、息が止まる程のものすごい跳ねる音と鼻息が遠くから聞こえてきた。『結局リベットが来ない筈がないよ』と、ボイラー造りの男が訳の分かったような調子で言った。『もちろんだとも、本当に!』来ない理由が全く分からなかった。『三週間もすれば来るよ』と、僕は自信をもって言った。
だが来なかったんだ。リベットの代わりに来たのは、侵入、難儀、災いだった。それから三週間の内にそれは別々にやって来て、どの組も先頭には新調の服を着てなめし皮の靴をはいた白人がろばに乗り、その高みから畏れいった巡礼達に向かって左右に挨拶をするのだった。足を痛めて不機嫌な黒んぼ達の喧嘩好きな一団が、ろばの後ろから歩いて来た。たくさんのテント、腰かけ、ブリキ缶、白い箱、茶色の梱(こり)が中庭に投げだされ、神秘的な空気が出張所の混乱状態の上に、少しばかり深まっていった。そんな分隊が五つやって来たが、数えきれない程の服飾店や食料品店から略奪して、騒々しく逃走しているような馬鹿げた様子だったから、侵入した後公平に分配する為に、荒野に持ち去ろうとしていると誰でも思うだろう。それら自体はこみ入った混乱状態で見苦しくはなかったが、あの人間の愚かな様子の為に、盗んだ略奪品のように見えたんだ。
この熱心な一団は自らをエルドラド探検遠征隊と称していたが、秘密を誓っていたらしかった。だが彼らの話はあさましい海賊のそれだった。向こう見ずだが大胆さはなく、貪欲だが勇敢さはなく、無慈悲だが勇気はなかった。その一団全体には先見の明や真剣な目的は少しもなく、この世の仕事にはそうしたものが必要だということに気がついていないようだった。この国の内臓部から財宝をもぎ取ることが彼らの欲望で、その背後には金庫に押し入る強盗と同じように、何の道徳的目的も持っていなかった。この崇高な事業の経費を誰が出していたのか僕は知らないが、僕達の支配人の伯父があの連中のリーダーだった。
彼の外見は貧民街の肉屋に似ていて、目は活気のない狡猾な様子をしていた。太った腹をこれ見よがしに短い足で運んでいたが、彼の一団が出張所にはびこっている間、甥以外には誰にも話しかけなかった。この二人が顔を寄せ合って果てしなく談笑しながら、一日中ブラブラ歩き回っているのが見えた。
僕はリベットのことで悩むのはやめていた。そういった種類の愚かさに対する人間の受容力には、想像する以上に限界があるのだ。畜生! と僕は呟いた――そしてあとは成り行きに任せた。じっくり考える時間がたくさんあったから、僕は時々クルツのことを考えた。彼にそれ程興味を持っていた訳じゃない。そうじゃないんだ。それでも、何らかの道徳的理念を持ってやって来たこの男が、結局トップの座に上りつめることができるのか、そしてそうなった時、どうやって仕事に着手するのか見たかったんだ」

第二章

「ある晩蒸気船の甲板に寝そべっていると、声が近づいてくるのが聞こえた――あの甥と伯父が土手をブラブラ歩いていた。僕は頭をもう一度腕の所に置き、もう少しでうとうとする所だったが、その時誰かが、言わば耳元で囁くように言うのが聞こえた。『私は小さな子供と同じ位悪意はありません。でも指図されるのは好きじゃありません。私は支配人でしょう――そうじゃないんですか? それなのに、彼をあそこに送るように命令されたんです。信じられませんよ』……僕はこの二人が蒸気船の最前部に沿った河岸で、ちょうど僕の頭の下に立っているのに気がついた。僕は動かなかった。動くなんて考えは起こらなかった。眠かったんだ。『本当に不愉快だ』と、伯父が唸るように言った。『彼はあそこに送ってくれるように、執行部に頼んだんです』と他方が言った。『自分にできることを見せようと思ってね。それに従って私は指図されたんです。あの男が持っているにちがいない影響力を見てください。恐るべきものじゃないですか?』その点については二人とも意見が一致したが、それから幾つか奇妙なことを言った。『天気さえ左右する――一人で――重役会議――鼻づらで』――ばかげた文章の断片に眠気を覚まされて、伯父の方がこう言った時には僕はかなり油断なく気を配っていた。『天候がお前の為にうまく始末をつけてくれるかもしれんよ。あいつはあそこで一人なんだろう?』『そうです』と支配人が答えた。『彼は私宛ての手紙を持った助手をよこしたんです。その手紙には、このかわいそうな奴をこの国から追い払ってくれ、そしてこれ以上こんな男をわざわざ送らないでくれ、君が手放せるような人間と一緒にいるより一人でいた方がいいと、書いてありました。一年以上も前のことでした。こんなあつかましいことって考えられますか!』『それから何かあったのか?』と他方が尋ねたが、しゃがれ声だった。『象牙ですよ』と甥が突然言った。『ものすごい量です――第一級品で――すごい量で――本当に不愉快ですが、彼から送ってきたんです』『一緒に何かついてたか?』と重苦しいガラガラ声が尋ねた。『送り状です』というのが、言わば突然発された答えだった。それから沈黙になった。彼らはクルツのことを話していたのだ。
僕はこの時までにはすっかり目を覚ましていたが、全くくつろいで横になっていたから、場所を変える気にはならず、じっと横になっていた。『あの象牙はどうやってここまで来たんだ?』と年長の方が唸るように言ったが、ひどく苛々しているようだった。クルツが使っていた、混血のイギリス人書記が率いるカヌー船隊で送られてきたと、他方が説明した。そしてその頃には出張所にも物資や食料の貯えがなくなっていたから、クルツ自身は明らかに帰るつもりだったが、三〇〇マイル下った後で突然戻ることを決め、混血の男は象牙と一緒に河を下らせ、四人の漕ぎ手を乗せた小さな丸木舟で一人で戻り始めたのだとね。こんなことをしようとするなんてと、そこにいた二人は仰天したようだった。彼らには充分な動機が分からず当惑していたのだ。僕について言えば、初めてクルツを見たような気がした。それははっきりした一瞥(いちべつ)だった。カヌー、四人の現地人の漕ぎ手、そして突然本部に対し、任務交代に対し、そして多分故郷への思いに対して背を向け、荒野の奥地、何もない荒れ果てた出張所に向かう一人の孤独な白人。動機は分からなかった。おそらく、仕事そのものの為に仕事から離れられなかった、ただ単に立派な奴だったんだろう〔この時点でのマーロウの推測である。マーロウの話は数年前の自らの体験に基づいており、語りの時点ではクルツがどういう人物か分かっている訳であるが、様々な印象、判断は旅の経過の時点のものと現在のものとが混在している。しかしこれは作者の混乱ではなく、意図されたものである〕。彼の名前は、分かるかい、一度も出なかった。彼は『あの男』だった。とても慎重に勇敢にあの困難な旅を導いた混血の男は、僕が知る限りいつも『あの悪党』という言い方でそれとなく言われた。『あの悪党』の報告によると、『あの男』はひどい病気で――充分に回復していなかった。……僕の足下にいた二人はそれから二、三歩歩きだし、少し離れた所を行ったり来たりした。それから『陸軍駐屯地――医者――二○○マイル――今では全く一人で――遅れは避けられない――九ヶ月――全く知らせがない――奇妙な噂が』といった言葉が聞こえてきた。彼らは又近づき、ちょうどその時支配人が言った。『大した奴じゃないんです。私が知る限り、一種のさすらい商人ですよ――いやな野郎だ、土人達から象牙をかき集めるなんて』今彼らが話しているのは誰のことだったんだろう? 話の断片から僕は、クルツの地区にいる誰かで、支配人が気に入らない誰かのことだろうと思った。『こういう連中が見せしめに絞首刑にでもされるまでは、不公平な競争から逃れられませんよ』と彼は言った。『確かにそうだ』と、他方が唸るように言った。『彼を絞首刑にしてしまえ! もちろんだ。この国では何でも――何でもできるんだ。それが俺の言いたいことだ。誰もここでは、分かるだろう、《ここでは》お前の地位を危うくはできない。なぜかって? お前はここの気候に耐え、奴ら全員より生きのびたんだ。危険はむしろヨーロッパにある。だがそこに発つ前に俺がうまく――』彼らはそこを離れ小声で話したが、声がまた高くなった。『一連のこの異常な遅れは、私のせいじゃありません。私はできる限りのことはしたんです』太った方が溜息をついた。『本当にけしからん』『それに彼の話は実に困ったもんで、非常識で』と、他方は続けた。『ここにいる時は充分悩まされました。それぞれの出張所はよりよきものへの指標のようなもので、交易の中心でもちろんなければならないが、それだけでなく文明、進歩、教化の中心でなければならないと、言うんです。考えてもみてください――あの馬鹿野郎! その上支配人になりたがっているんです。いや、そんなことは――』あまりに憤慨してこの時彼は息がつまりそうになったから、僕はほんの少しだけ頭を上げた。彼らがどんなに近くにいるか分かって驚いた――ちょうど僕の下だったのだ。帽子に唾を吐きかけることもできる位だった。彼らは地面の上で、考えに心を奪われていた。支配人は細い小枝で脚を打っていた。彼の利口な親類が頭を上げた。『お前は今回ここに来てからは、調子はいいんだな?』と聞いた。もう一人の方ははっとした。『誰がですって? 私ですか? ああ! ものすごくいい――ものすごくいいですよ。でも他の連中は――やれやれ! 皆具合が悪いんです。彼らもすぐ死んでしまうんで、この国から送り返す時間がなくて――信じられませんよ!』『うむ、そうか』と伯父が唸った。『ああ! だがお前、これだけは信用してくれ――頼むからこれだけは信用してくれ』そして僕は彼が水かきみたいな腕を伸ばして、森も、入江も、ぬかるみも、河も抱えこむようなしぐさをするのを見たが――屈辱を与えるような腕のひと振りで、太陽の照りつけるこの国を前に潜んでいる死、隠された悪、その中心にある深淵な暗黒に対して、裏切りに満ちた訴えを招き入れているように見えた。僕はぎょっとして飛び上がった。そしてあんな風に自信を見せられたことに対してまるで何らかの答えを期待したかのように、森のはずれを振り返った。人は時々馬鹿なことを考えるもんだ。滑稽な侵入が通り過ぎるのを待っているかのように、ものすごい沈黙が不気味なまでに辛抱強くこの二人の人物と向かい合っていた。
彼らは大声で罵り合っていた――全くの恐怖心からだと思うが――それから僕がいることに気がつかないふりをして、出張所に戻った。太陽はもう傾いていた。並んで前かがみになり、不揃いな二つの滑稽な影を骨折りながら、上り坂を引きずっているようだったが、その影は木の葉一枚返さず、高い草むらの中を後ろからゆっくりとついて来た。
二、三日の内にエルドラド探検隊は辛抱強い荒野へと出かけて行ったが、海が飛びこんだ人間を呑みこむように、荒野は彼らを呑みこんだ。ずっと後になってロバが死んだというニュースが届いた。だがロバより価値のないものの運命については何も知らない。彼らは疑いもなく他の者と同じように、当然の運命にあったのだろう。僕は尋ねなかった。その時はもうすぐクルツに会えるという期待で、かなり気持ちが高ぶっていた。もうまもなくというのは、比較的という意味だ。クルツの出張所の下の河岸に僕達が着いたのは、入江を出た日からちょうど二ヶ月のことだった。
その河を遡ることは、草木が繁茂し、巨木が王者であった世界の始まりへと戻っていく旅だった。空虚な河の流れ、ものすごい沈黙、見通せない森。大気は生ぬるく厚く、重苦しく、よどんでいた。太陽の輝きには喜びなど全くなかった。水路はどこまでも広がり、陰になった薄暗闇の中に捨てられたように続いていた。銀色の砂洲には、河馬と鰐が並んで日向ぼっこをしていた。広々と広がる水流が木の茂った島の大群の間を流れ、砂漠で道に迷うようにその河では迷うのだった。そして水路を求めて一日中浅瀬にぶつかっていると、魔法にでもかかってかつてはよく知っていた全てのものから切り離され――どこか――遠い所に――多分別世界にでも来たような気持ちになった。時間がなくて忙しい時に時々こういうことがあるように、自分の過去が蘇ってくる瞬間があった。だがそれは落ちつかない、騒々しい夢の形でやってきて、植物と水と沈黙のこの奇妙な世界の圧倒的な現実の中で、驚異の念を抱きながら思い出されるのだった。そしてこの生命の沈黙は、平和とは似ても似つかないものだった。それは測りしれない意図を持った無情な力の沈黙だった。それは復讐心に満ちた顔つきで人間を見ていた。後になってそれには慣れた。それ以上見なかったんだ。そんな時間はなかった。水路を探り続けなくてはならなかったからね。大抵はインスピレーションで隠れた砂洲を見分けなければならなかった。僕は沈んだ石を見張っていた。安物の蒸気船を引き裂いて、巡礼達全員を溺れさせる、いまいましく陰険な古い倒れ木をまぐれですれすれに通った時には、肝をつぶしたりせずに舌うちする位のことは覚えていた。翌日の燃料の為に、夜の内に切り分けることができる枯れ木のありそうな場所を見張らなくてはならなかった。そうした種類のこと、つまり単なる表面的な事に注意しなければならなくなると、物の本質は――いいかい、本質は――消えてしまう。内側の真実は隠れてしまうんだ――幸いに、幸いにね。それでも僕はずっとそれを感じてはいた。あの謎めいた沈黙が、僕のつまらない芸当を見ているのをしばしば感じていた。ちょうど君達それぞれが張り綱の上で――何て言ったっけ、半クラウン〔イギリスの二シリング六ペンス貨幣。一九七一年に廃止〕でとんぼ返りの演技をするのを見るように――」
「言葉を慎むようにしろよ、マーロウ」と誰かの声が唸ったので、私は話を聞いている人間が自分以外にも一人いることを知った。
「これはすまない。値段の不足分を補う心の痛みのことを忘れていたよ。それに実際芸当がうまく行けば、値段なんか問題じゃないじゃないか? 君達は自分の芸当をとてもうまくやっている。そして僕だってまんざら悪くはなかった。最初の旅で、あの蒸気船を何とか沈まないようにしたんだからね。僕にとっては今でも驚きだ。ひどい道路を目隠しされて、荷馬車を運転しなきゃならない男のことを想像してみてくれ。言っておくが、僕はその仕事でかなり汗を流したり、震えたりした。結局、船乗りにとって自分の責任で始終浮いている筈の船の底に擦り傷をつけることは、許されない罪だからね。誰も分からないだろうが、あのドシンという音は絶対忘れないね――そうじゃないか? まさに心臓に一撃だ。それはいつまでも覚えていて、夢に見るし、夜目が覚めて考えたりする――何年も経ってね――そして体中熱くなったり、寒気がしたりするんだ。あの蒸気船がずっと浮いていたと言うつもりはない。一度ならず、二〇人の人食い人種に水をはねながら押してもらって渡らなくちゃならないこともあった。僕達は途中でこいつらの何人かを乗組員として集めていた。立派な連中だったよ――人食い人種だったが――持ち場ではね。僕達が一緒に働くことができる連中だったし、今でも感謝している。そして結局、僕達の前では共食いはしなかった。彼らは食糧として河馬の肉を持って来ていたが、腐っていてね、荒野の神秘の臭いが鼻についたよ。チェッ! 今でもその臭いを覚えている。船には支配人と三、四人の巡礼達を乗せていたが、皆申し分なかった。時々僕達は河岸近くに立っている出張所にやって来たが、未知の世界の端っこにしがみついているようだった。そして白人達が、喜びと驚きと歓迎の大袈裟な身ぶりでくずれかかった小屋から飛びだして来たが、とても奇妙に見えた――魔法でそこに捕まっているように見えたんだ。象牙という言葉が、しばらくの間大気中に響いていた――それから僕達は何もない河筋に沿って、曲がりくねる河の両岸の高い壁の間の静かなカーヴを曲がり、船尾外輪の重々しく打つ音をうつろに反響させながら、再び進み続けた。樹、樹、何百万もの樹々が、どっしりと限りなく続き、高く聳えていた。そしてその足下を流れに逆らって岸側に寄りながら、小さな汚れた蒸気船は這うように進み続けた。高い柱廊の床を甲虫がのろのろと這うようにね。そんな風にしていると、自分達がつまらない存在で、道に迷ったような気持ちになった。だがそれは、全く意気消沈した気持ちではなかった。結局卑小だとしても、汚れた甲虫は這い続けた――そしてそれはまさに求められたことだった。あの巡礼達がどこに進んでいると考えたか、僕には分からない。何かが得られると期待できるようなどこかだろう、きっと! 僕にとっては、それはクルツの方に向かって這っていた――ただひたすらにね。だが蒸気管が漏りだしてからは、僕達はとてもゆっくり這って行った。まるで帰り道を塞ごうとして、森がゆっくりと水路を横切って迫ってくるかのように、河筋が前に開けては後ろに閉じた。僕達は更に深く深く闇の奥に突き進んで行った。そこはとても静かだった。夜になると、時々カーテンのような森の背後から太鼓の轟きが河を伝って上ってきて、頭上の高い所でたゆたっているように、夜が明けるまでかすかに音が続いたまま残っていた。それが戦争を意味したのか、平和を意味したのか、それとも祈りのつもりだったのか、僕達には分からなかった。
冷たい静寂が下りると、夜明けの兆しがしてきた。木こり達は眠り、火は小さくなっていた。小枝のポキッと折れる音がして、ハッとした。僕達は先史時代の地球、言わば未知の惑星の様相を湛えた地球の放浪者だった。自分達が呪われた遺産を手に入れ、深い苦悩と過度の労苦を犠牲にして征服された、最初の人間だと想像することができただろう。だが突然、やっとのことでカーヴを曲がると、草が重々しくじっとしおれている下で、い草の壁、尖った草屋根がチラッと見え、突然叫び声がして、黒い手足が動き回り、打ち鳴らすたくさんの手、踏み鳴らす足、揺れる体、ぎょろぎょろしている目が見えるのだった。黒人達の不可解な狂乱を横目に、蒸気船はゆっくりと進んで行った。先史時代の人間達は僕達を呪っていたのか、祈っていたのか、それとも歓迎していたのだろうか――一体誰が分かっただろう? 僕達は環境に対する理解から切り離されていた。正気の人間が精神病院の熱狂的な狂乱の前でそうするように、僕達は驚きながら、そして密かに恐れながら、幽霊のように滑るように通り過ぎた。僕達はあまりにも遠く隔たっている為に思い出せなかったから、既に消えほとんど痕跡もなく――記憶など全く残っていない原始時代の夜を旅していたから、理解できなかったのだ。
大地はこの世のものとは思えなかった。僕達は手かせをはめられ、征服された怪物を見ることは慣れている。だがそこでは――そこでは解放された恐るべきものを見ることができた。それはこの世のものとは思えなかった。そして人間達は――いや、彼らは非人間的ではなかった。うん、分かるだろう、彼らが非人間的じゃないというこの疑念が最悪のことだった。それはゆっくりと分かってくる。彼らはわめいたり、跳ねたり、走ったり、恐ろしい顔つきをしたりした。だがゾッとするのは、彼らの人間性を――君達のと同じように――まさに考えた時、この熱烈な興奮した騒ぎとの間に遠い血縁関係があると考えた時だった(*)。不快だった。そうだ、それは充分に不快だった。だが君達が勇気ある人間なら、あの叫び声の恐ろしい程の率直さにかすかながらも反応するものがあり、そこには君達が――原始時代の夜からあまりにも遠ざかった君達が――理解できる意味があるというおぼろげな疑念を認めるだろう。もちろんそうだろう。人間の心は何だってできるんだ。なぜって、全てのもの、つまり全ての未来と同様、全ての過去がそこにはあるからだ。そこにあったのは、結局何だったのか。喜び、恐怖、悲しみ、献身、勇気、怒り――誰が分かるだろう――だが真実が――時という外被を剥がされた真実があった。愚か者には口を開け、身震いさせよう――本当の人間だけが知り、まばたきせず見ることができる。だがそうする為には、少なくともあの河岸にいる人間と同じ位の人間らしさを持たなくてはならない。その真実に自分自身の本当の素質――内面の力をもって立ち向かわなくてはならない。主義だって? 主義なんか役に立たないさ。習得したもの、衣服、きれいなぼろきれだ――それらはひと振りしただけで飛んでしまうぼろきれだ。そんなものではだめだ。よくよく考えた信念が必要なんだ」

* マーロウは河岸の森の中で叫びながら踊る黒人達を見て、その意味が理解できないと語っているが、同時に彼らとのつながりをも認めている。このようなマーロウの認識には、社会ダーウィニズムの影響が見てとれる。後に語られるように、クルツ自身は原始の森の中で黒人達を支配する内に先祖返りしてしまう。


「この悪魔じみた騒ぎの中に僕への訴えが――あるのだろうか? よろしい。僕には聞こえる。認めるよ。だが僕にも声がある。そしてよかろうと悪かろうと、それは黙らせられない言葉だ。もちろん愚か者は全くの恐怖や繊細な感情とやらで、いつでも安全だ。ぶつぶつ言っているのは誰だ? わめいたり踊ったりする為に僕が河岸に行かなかったことを、君達は不思議に思うかい? いや――僕は行かなかった。繊細な感情だって言うのかい? 繊細な感情なんかこん畜生さ! 僕には時間がなかった。言っておくが――あの漏れやすい蒸気管を包む為に、白鉛(はくえん)と毛布を持ってぶらぶらしなくちゃならなかったからね。船の操縦を見張り、あの隠れ木をよけ、何としてでもボロ船を動かさなければならなかった。こうしたことの中には、もっと賢明な人間なら救ってくれる、表面の真実があった。それから僕は、火夫をしていた土人の世話も時々しなければならなかった。彼はおとなしくなった見本で、直立汽罐を焚くことができた。僕の下にいて、誓って言うが、彼を見ることはズボンをはいて羽根つき帽子をかぶり、後ろ足で立っている犬の芝居を見ているのと同じ位有益だった。二、三ヶ月の訓練でできるようになったんだから、本当に大した奴だった。彼は大胆になろうと明らかに努力して、蒸気圧力計と水量計を見ていた――そしてかわいそうに、歯にはやすりをかけられ、縮れた髪の毛は奇妙な形に剃(そ)られ、両頬には三つの装飾的な傷跡があった。改善する為の知識をつめこまれ、奇妙な魔法の奴隷になってあくせく働く代わりに、彼は河岸で手を叩き、足を踏み鳴らすべきだった。彼は教えこまれた為に、役に立っていたのだ。そして彼が知っていることは――あの透明なものの中の水がなくなれば、ボイラーの中の悪霊がひどく喉が乾いて怒りだし、ひどい復讐をするということだった。それで彼は汗をかいて火を焚き、恐れながらガラス管を見張っていたが(ぼろきれで作った即席の魔よけを腕に結びつけ、懐中時計ほどもある磨きあげられた骨を、下唇に水平に突き刺していた)、その間木の生えた両岸が、僕達をゆっくり滑るように通り過ぎて行き、つかのまの騒ぎを後に、沈黙が限りなく何マイルも続き――クルツに向かって僕達は這うように進み続けた。だが隠れ木がひっきりなしにあったし、水は浅くて油断ができず、ボイラーの中には機嫌の悪い悪魔が本当にいるようだったから、あの火夫も僕もお互いのぞっとするような考えを凝視する時間はなかった。
奥地出張所から五〇マイル程下ると、僕達は葦ぶきの小屋に出くわした。そこには傾いたもの悲しい棒があり、何か旗のようなもので、今では何か分からなくなったぼろきれがそこからはためいていて、きちんと積み重ねられた薪の一山があった。これは予想していないことだった。僕達は河岸までやって来ると、薪の山の上に、何か色褪せた鉛筆で書いた一枚の平たい板を見つけた。解読してみると、こう書いてあった。『君達の薪だ。急げ。用心して接近せよ』署名があったが判読できなかった――クルツではなく――もっとずっと長い綴りだった。『急げ』どこへ? 上流へ? 『用心して接近せよ』僕達はそうしてはいなかった。だがこの警告は、接近してやっと分かるようなこの場所の為に書かれたとは思えなかった。上流では何かが狂っていた。だが何が――そしてどれ位? それが問題だった。僕達はあの電報のような書き方の馬鹿さ加減について、悪口を言った。周囲の薮は何も言わず、ずっと奥の方まで見通すこともできなかった。赤い綾織りの破れたカーテンが小屋の入口にかかり、僕達の前で悲しげにはためいていた。その小屋には家具がなくなっていた。だが白人が最近までそこに住んでいたことが、僕達には分かった。粗末なテーブルが残っていて――二本の柱に板がついていた。ガラクタの山が暗い隅に置いてあった。そしてドアの傍で、僕は一冊の本を拾い上げた。表紙はなくなっていて、ページは何度もめくった為に、ひどく汚れて柔らかい状態になっていた。だが背表紙は白い木綿の糸で愛情こめて縫い直され、まだ汚れていないようだった。それはすばらしい掘り出し物だった。その題名は『船舶操縦術研究』で、タウザーとかタウスンとか――何かそんな名前の人によって書かれ――帝国海軍の将校だった。その本には例証の為の図表やゾッとするような数字の表がついていて、読むには充分退屈そうで、しかも六〇年前の代物だった。この驚くべき骨董品を、僕は両手の中で溶けてしまわないように、できるだけ優しく扱った。その中でタウスンとかタウザーとかいう人は、船の錨鎖(びょうさ)と滑車装置の緊張の限界点やその他のことについて、まじめに調査していた。それほど魅力的な本ではなかった。だが一目見ただけで、意図の誠実さ、仕事に対する正しいやり方への正直な関心が見てとれ、何年も前に考えぬかれたこれらの慎ましいページを、職業的見識以上のもので輝かせていた。純真な老水夫の錨鎖や起重装置の話で、僕はまちがいなくリアルな何かに遭遇し、とても楽しい気持ちになり、ジャングルや巡礼達のことを忘れてしまった。そんな本がそこにあるということだけで、充分驚くべきことだった。だが更にもっとびっくりしたのは、余白に鉛筆で書かれたメモで、明らかにテキストに言及していたことだ。僕は自分の目を信じられなかったね! それは暗号で書かれていたんだ! そうだ、それは暗号のように見えた。あんな本をこんなどことも分からない所に持ち込んで研究している男のことを想像してみてくれ――しかもメモまでとって――その上暗号でだ! それはものすごい謎だった。
僕は苛々する騒音に、しばらくの間何となく気がついていた。そして目を上げると、薪の山がなくなっていた。支配人は巡礼全員の手助けをうけ、河岸から僕に向かって叫んでいた。僕は本をポケットに滑りこませた。言っておくが、その本を読むのをやめるのは、古くて親密な友情という避難所から、引き裂かれるような思いだった。
僕はのろいエンジンを動かし始めた。『それはこの哀れな商人にちがいない――この侵入者は』と、僕達が後にした場所を憎らしそうに振り返りながら、支配人が叫んだ。『イギリス人にちがいありませんよ』と僕は言った。『注意しないと、彼はゴタゴタから免れる訳じゃない』と支配人が陰気に呟いた。僕は無知を装って、この世界じゃ厄介事から免れた人はいませんでしたよと、言ってやった。
河の流れは今では更に速くなり、蒸気船はこれが最後とばかりの喘ぎ方で、船尾外輪はものうく動き、気がつくと僕は、ボートの水を打つ最後の音に聞き耳を立てていた。というのは、もう本当にこのオンボロ船が今にも止まるんじゃないかと思ったからだ。それは生命の最後の明滅を見ているようだった。だがそれでも僕達は、這うように進んで行った。時々僕はクルツの方にどれ位近づいているかを測る為に、少し前方の木を選んだ。だがそれと並ぶ前に、必ず見失うのだった。ひとつのものをそんなに長く見ていることは、人間の忍耐力にはできないことだった。支配人は、見事な諦めを見せていた。僕はひどく苛々して、クルツと大っぴらに話すかどうかについて、心の中で議論し始めた。だが結論に達する前に、僕の話や沈黙、そして実際行動でさえ、単に空しいものではないかという気持ちになった。誰かが何を知ろうと無視しようと、それが何だというのだろう。誰が支配人だろうと、それが何だろう。人は時にはそんな洞察が閃くものだ。この事件の本質的な部分は、表面の下の深い所に潜んでいた。僕の手の届かない所、干渉する力の及ばない所にね。
二日目の夕方頃、僕達はクルツの出張所から約八マイルの所にいると判断した。僕は前進したかった。だが支配人は心配そうな顔つきで、そこまで遡って行くことはとても危険だから、太陽も既に大分低くなったことだし、翌朝までここで待った方が賢明だろうと言った。その上、用心して近づけという警告に従わなければならないとしたら、僕達は夕暮れや夜にではなく、日中に近づかなければならないと指摘した。これは充分分別のある意見だった。八マイルというのは、僕達にとって三時間近くの航行を意味したし、河筋の上流には早瀬らしいものも見えたからだ。にもかかわらず、僕はこの遅れに言葉では言い表せない程苛立っていた。こんなに何ヶ月も経った後では、あと一晩位遅れたって大したことはないのだから、これはひどく筋の通らないことでもあったけどね。薪はたくさんあったし、慎重さが必要だったから、僕は河の真中あたりに船を止めた。河筋は狭くまっすぐで、両岸は鉄道の切り通しのように高かった。太陽が沈むずっと前に、夕暮れが滑るように訪れた。河の流れは滑らかで速かったが、両岸には不動の沈黙が居座っていた。生きている木々は、ツタカズラや下生えのあらゆる生きている灌木と絡み合い、最も細い小枝や軽い葉まで石に変わったようだった。それは眠りではなかった――それは不自然で、昏睡状態のようだった。どんな種類のちょっとした音さえ、聞こえなかった。驚いて眺め、耳が聞こえなくなったのではないかと思い始めた――それから突然夜になり、目も見えなくなったかと思うのだった。朝方の三時頃、何か大きな魚が跳ね、大きな水のはねかける音がして、僕はまるで銃が発射されたかのように飛び上がった。太陽が昇ると白い霧が出てきた。とても暖かくてじっとりとした、夜よりも先の見えない霧だった。それは全く動かなかった。ただそこにあって、何か塊のように取り囲んでいるのだった。多分八時か九時頃だったろうが、それはシャッターが上がるように上がった。聳え立つたくさんの木々、草木に蔽われた巨大なジャングルがチラッと見えた。そこには燃え立つ小さな球のような太陽がかかっていた――全てが全くの静寂で――それから白いよろい戸がまるで油を塗った溝を滑るように、再びするすると下りてきた。僕は引き上げ始めていた錨鎖をもう一度繰り出すよう命じた。その錨鎖のガラガラいう音が小さくなって止まらない内に、叫び声が、とても高い叫び声が、まるで限りない悲しみのように、不透明な大気の中にゆっくりと舞い上がった。その声はやんだ。不平を言っているような叫びが荒々しい不協和音に変わり、僕達の耳を満たした。それは全く突然だったから、帽子の中で髪の毛が逆立つようだった。他の奴がどう思ったのかは知らない。だが僕にとってはそれはまるで霧そのものが突然、しかも明らかにすぐに四方から叫び声を上げ、この荒々しく悲しげな騒ぎが起こったように思えた。それはほとんど耐えられない程のひどい叫びになり、突然止まったから、僕達はそれぞれ愚かな様子で体をこわばらせ、ほとんどぎょっとするようなすごい沈黙に、しつこく耳を傾けていた。『ああ、驚いた! 一体どういうことなんだ――』と巡礼の一人が僕の横で吃(ども)るように言った――砂色の髪と赤い頬髭をはやした太った小男で、深ゴム靴をはいて、ピンクのパジャマを靴下の中にたくしこんでいた。あとの二人は丸一分間ポカンと口を開けたままだったが、それから小さい船室に駆けこみ、すぐに出て来て怯えた目をして立っていたが、手にはウィンチェスター銃を構えていた。見えたのは、その輪郭がまるで船が今にも消えてしまうのではないかと思える程ぼやけている僕達が乗っていた蒸気船と、多分二フィート程の広さの船の回りの霧のかかった水面――それだけだった。それ以外の世界は、目と耳に関する限り存在しなかった。まさに無の世界だった。なくなり、どこかへ消えてしまっていた。呟き声、影ひとつ残さず、運び去られていた。
僕は前進した。そして必要ならば錨を揚げ、すぐ蒸気船を動かす為に、要するに錨鎖をゆるめるよう命じた。『彼らは攻撃してくるだろうか』と恐れた声で誰かが呟いた。『我々は霧の中で皆虐殺されるだろうよ』と別の声が呟いた。顔は緊張でひきつり、手はかすかに震え、眼はまばたきすることも忘れていた。白人達と乗組員の黒人達の表情の対照的な様子を見るのは奇妙だった。というのは、彼らの故郷はほんの八〇〇マイル離れているだけだったが、この河のあたりのことは、僕達と同じ位知らなかったからだ。もちろん白人達はひどく動揺していて、その上あんなひどい騒ぎに痛々しい程ショックを受けていた。他方黒人達は警戒し、当然ながら興味をそそられた表情をしていた。だが彼らの顔は平静そのもので、錨鎖をたぐり上げながらニヤニヤ笑っている者さえ一人か二人いた。何人かは短くブツブツ不平を言い合っていたが、それでそのことについては満足したようだった。彼らの首長だった若い胸幅の広い黒人が、濃青の房の布地を重々しくまとって恐ろしい鼻孔をし、油を塗った巻き上げに髪を巧みに結い上げ、僕の傍に立っていた。『やあ!』と、僕はただ仲間の挨拶の意味で声をかけた。『あいつを捕まえてくれ』と、彼は血走って大きくなった目をし、鋭い歯をキラリと光らせながら大声で言った――『あいつを捕まえてくれ。あいつを俺達にくれ』『君達にだって?』と僕は聞いた。『あいつらをどうするんだ?』『食べるんだよ!』と彼はぶっきらぼうに言った。そして肘を欄干にもたせかけながら、威厳がありひどく考えこんだ態度で霧の中を覗きこんでいた。彼とその仲間達がひどく腹がへっているに違いないということ、つまり少なくともこの一ヶ月間段々腹をすかしてきていたに違いないという考えが思い浮かばなかったら、僕は全くゾッとしただろう。彼らは六ヶ月間この仕事に携わっていて(彼らの内の一人でも、何千年と離れた僕達と同じ時間のはっきりした概念をもっているとは思えなかった。彼らはまだ原始時代に属していて――言わばそこから学ぶような受け継ぐ経験を全く持っていなかった)、そしてもちろん河下で作られた馬鹿げた法律のようなものに従ってびっしり書かれた一枚の紙きれがある限り、彼らがどうやって生活するのかについて頭を悩ますことは、誰にも思い及ばなかった。確かに彼らは腐った河馬の肉のようなものを持って来ていたが、とにかくそれはそんなに長くもつ筈はなかった。たとえ巡礼達がショッキングな騒ぎの最中に、そのかなりのものを船外に捨てなかったとしてもだ。それは高圧的な処置のように見えた。だが本当の所は、正当な自己防衛だった。目が覚めても、眠っていても、食べている時も、死んだ河馬の臭いをかぎながら、同時に何とか生き続けることはできないからね。その上彼らは、それぞれ九インチ程の真ちゅうの針金を三本、毎週貰っていた。その理屈は、河沿いの村でそれを使って食糧を買えるだろうということだった。その理屈がどんな風に働いたか、分かるだろう。村が全然なかったか、人々が冷淡だったか、あるいは他の者達と同じように缶詰を食べたり時々雄ヤギの肉を貰っていた首長が、何だか難しい理由の為に船を止めたがらなかったんだ。だからその針金そのものを飲みこむか、魚を釣る為にそれで輪を作るかしないなら、このすばらしい給料が彼らにとって何の役に立つのか、僕には分からない。それは栄誉ある大貿易会社にふさわしく、きちんと支払われていた。それ以外のものについて言えば、食べられる唯一のものは――それは全然食べられるように見えなかったが――彼らが持っているものは、汚れたラベンダー色の半焼きの生パンのようなものがいくつかで、葉っぱに包んで時々飲みこんでいたが、とても小さかったから、体を維持するという真剣な目的の為というよりは体裁の為にしているように見えた。僕達を苦しめるあらゆる悪魔のような飢えという名目で、なぜ彼らが僕達を襲わなかったのか――僕達五人に対して、彼らは三〇人だった――そして一度きりのたらふく食べられる食事をしなかったのか、そのことを考えると本当に驚くよ。肌にはもはや艶(つや)はなかったし、筋肉も固くはなかったが、彼らは大きく逞しかったし、結果をよく考えるだけの能力はあまりなくて、勇気と力はまだあったからだ。僕は何か自制心のようなもの、可能性を裏切る、あの人間性の秘密のひとつがそこに働いているのを見たのだ。僕は急に興味をそそられて彼らを見た――もうすぐ彼らに食べられるかもしれない、という考えが起こったからじゃない。と言っても、白状すると、ちょうどその時気づいたんだ――言わば新しい見方をすると――巡礼達がどんなにまずそうに見えたかにね。そして僕の顔つきはそれ程――何て言ったらいいか――それ程――まずそうではないだろうと、断然思ったんだ。その当時の毎日を満たしていた夢のような気持ちにピタッとくる、ちょっとした気まぐれなうぬぼれかな。多分熱もちょっとあったんだろう。いつも指を脈に当てて生きている訳にはいかないからね。『ちょっとした熱』や、他にもちょっとしたことはよくあった――荒野にいたずら半分ひっかかれたようなもので、その内やって来る本格的な攻撃の前のいたずらみたいなものだ。そうだ、君達が他の人間を見るように、容赦なく肉体的に必要なことに迫られた時、彼らの衝動、動機、能力、弱さがどうなるのか好奇心に駆られて見ていた。自制心だって! どんな自制心があるというのだろう。それは迷信か、嫌悪か、忍耐か、恐怖か――それとも何らかの原始的な名誉心だろうか。どんな恐怖も飢えには抵抗できないし、どんな忍耐も飢えを消すことはできない。嫌悪なんか飢えのある所ではないも同然だし、迷信や信念、いわゆる主義なんか風の中を舞うもみがらの価値もない。君達はあの悪魔のようないつまでも続く飢え、苛々する苦痛、ぶきみな考え、陰鬱で考えこむような残忍さを知らないだろう。だが僕は知っている。飢えと徹底的に戦うには、内なる力が必要なんだ。こうした種類の長びく飢えと戦うより――死別や不名誉や魂の破滅と向かい合う方が、本当に簡単だ。悲しいことだが本当だ。そしてこうした奴らもためらう理由なんか全然なかった。自制心だって! 戦場の死体の間をうろついているハイエナに期待する方がましだね。だがそこに僕と向かい合っている事実があった――深海の泡のように、底知れない謎の上に浮かぶさざ波のように、見た所目も眩むような事実で――そのことを考えると――回りが見えない程の白い霧の背後で、河岸の僕達の傍をさっと通り過ぎる、この荒々しい叫びの中にある、絶望的な悲しみの奇妙で不可解な調子よりはるかに大きな謎だった。
二人の巡礼がどっちの岸かについて、慌てた調子の小声で喧嘩していた。『左だよ』『いやいや、どうやって分かるんだ。右だ、もちろん右だ』『大変重大なことだ』と背後で支配人の声がした。『我々が着く前にクルツ氏に何か起こったら、私はみじめだろうね』僕は彼を見た。そして彼が正直に言っていることは少しも疑わなかった。彼はまさに体裁を保ちたい種類の人間だった。それが彼の自尊心だった。だがすぐ出発することについて彼が何かブツブツ言った時は、僕はわざわざ答えることさえしてやらなかった。それができないことを僕は知っていたし、彼も知っていた。もし万一僕達が錨を上げてしまえば、空中を全くさ迷うことになるだろう。どこに進んでいるのか――上流に向かっているのか下流に向かっているのか、それとも横切っているのか――河岸かどこかにぶつかるまでは、分からないだろう――それからどっちになったのかも、最初は分からないだろう。もちろん僕は動かなかった。衝突する気はなかったからね。難破するのにこれ以上よい場所は考えられないだろう。すぐに遭難しようとしまいと、何らかの方法ですぐに死ぬことは確実だった。『全ての危険を君が引き受けることを認めるよ』と彼はちょっと黙って言った。『どんな危険も引き受けることを断ります』と、僕はそっけなく言った。その言い方に驚いたかもしれなかったが、それはまさしく彼が予期していた答えだった。『ふむ、私は君の判断に従わなければならんな。君は船長だからね』とひどく丁寧に言った。僕は感謝の印に彼の方を向き、霧の中を覗きこんだ。こんな状態はどれ位続くんだろう。本当に前途は絶望的だった。みじめなジャングルの中で象牙を探し求めているクルツに近づくことは、まるで彼がおとぎ話のお城の中で眠っている魔法にかかったお姫様のように(*)、多くの危険に囲まれていた。『彼らは襲って来ると思うかね』と、支配人は打ち解けた調子で聞いてきた」

* 『グリム童話』の「眠り姫」を指す。コンラッドの幾つかの小説には、グリム童話の影響が見られる。この場合マーロウは、王子が眠り姫を百年の眠りから目覚めさせるように、クルツと会い対話することによって覚醒へと導く役割を果たす。


「いくつかの明らかな理由から、僕は彼らが襲って来ないだろうと思った。濃い霧が理由のひとつだった。もし彼らがカヌーで河岸を離れたら、僕達が動こうとしたらそうなるのと同じように、彼らは霧の中で迷ってしまうだろう。それでも猶(なお)、僕は両岸のジャングルが全く見通せないとも判断していた――それでもそこには、僕達を見ているいくつかの目があった。河岸の灌木は、確かにこんもりとしていた。だが背後の下生えは明らかに見通せた。しかしながら霧が上がった短い間、手の届く所にはカヌーは全く見えなかった――蒸気船と並ぶ所には確かに見えなかった。だが僕にとって襲撃ということが考えられなかったのは、その声の性質――僕達が聞いていた叫び声の性質にあった。それらには即刻の敵意のある意図が感じられるような、凶暴さはなかった。意外で、荒々しく、暴力的だったが、僕にはどうしても悲しみの叫びという印象を与えたんだ。蒸気船をチラッと見たことが、何らかの理由であの蛮人達の胸を抑えきれない悲しみで満たしたんだ。僕は説明したが、もし危険があるとしたら、解放された非情な人間の情熱に近づくことにあった。極度の悲しみでさえ、ついには暴力にはけ口を求めるかもしれない――だが大抵は無感動の形をとるものだ……
君達に巡礼達が凝視している様子を見せたかったよ! 彼らには歯を見せて笑う勇気も、僕を罵(ののし)る勇気さえもなかった。だが彼らは僕が――多分恐怖で気が狂ったと思ったと思うね。僕はきちんと説教をしてやった。ねえ君達、悩んでも無駄だよ、ってね。見張りを続けろと言うのか? うん、君達も推測するかもしれないが、僕は猫が鼠を見張るように、霧が上がるのを見張っていた。だがそれ以外は、僕達の目は何マイルもの綿花の山の中に埋もれたのと同じように、役に立たなかった。それは又同じように――息苦しく、生暖かく、窒息するような感じでもあった。その上僕が言ったことは全て突飛に聞こえたとしても、全く事実に合っていた。僕達が後になって攻撃とほのめかしたものは、実際は抵抗の試みだった。その行動は攻撃的であるどころか――普通の意味での防御でさえなかった。それは必死の状態に迫られてなされたもので、その本質は純粋に防御だったんだ。
それは多分、霧が晴れ上がってから二時間後に起こった。そしてその始まりは、おおざっぱに言って、クルツの出張所から一マイル半程下流の所だった。僕達はもがくように進み、カーヴを何とか曲がると、流れの真中に明るい緑色の、草が茂っただけの小さな島を見つけた。そんな島はひとつしか見えなかった。だが更に視界が開けてくると、それは長く続く砂洲というか、むしろ河の中流に広がる、ひと続きの浅瀬の先の部分だと気づいた。それらは波に洗われ変色し、全体はちょうど人間の背骨が皮膚の下の背中の真中を走っているのが見えるように、水の下に見えていた。今や目に見える限り、その右でも左でも行くことができた。もちろん、どちらの水路がいいのか分からなかった。河岸はどちらもかなりよく似ていて、深さも同じに見えた。だが出張所は西側にあると教えられていたから、僕は当然西側の水路に向かった。
そこにかなり入るとすぐに、僕は思っていたより大分狭いことに気がついた。僕達の左側には長いとぎれのない浅瀬があり、右側には灌木にぎっしりおおわれた、高く切り立った土手が聳えていた。灌木の上には木々が密集隊形になって聳えていた。小枝が流れの上に生い茂るようにせりだし、遠くの方では何かの木の大枝が、河の流れの上にいかめしく突き出していた。その時は午後になって大分時間も過ぎていて、森は陰欝な面持ちで、幅の広い影がすでに水面に落ちていた。この影の中を僕達は蒸気船で進んで行った――君達が想像するように、とてもゆっくりとね。僕は河岸近くに船の向きを変えた――測深棒で分かったんだが、河岸の近くが最も水が深かったからだ。
腹がすきながらも我慢している友人の一人が、ちょうど僕の下の舳(へさき)で水深を測っていた。この蒸気船は、まさしく甲板を張った平底船のようだった。甲板にはチーク材でできた二つの小さな小屋があった。ボイラーは前部にあって、その機械はちょうど船尾にあった。その全体の上には軽い屋根がついていて、支柱で支えられていた。煙突がその屋根から突き出し、煙突の正面には軽い小枝でできた小さい船室があり、操舵室になっていた。そこには長椅子、折りたたみ式の腰掛けが二つ、装填したマルティニ銃が隅に立てかけてあり、小さいテーブルと舵輪があった。正面には幅広い扉があり、それぞれの側には広いよろい戸があった。もちろん、これらは全ていつも開け放されていた。僕は日中はドアの前の屋根の一番前の所で、立って過ごした。夜は長椅子で眠った、と言うか眠ろうとした。海岸の部族に属し、かわいそうな僕の前任者に教育されたたくましい黒人が、操舵手だった。彼は真ちゅうのイヤリングを見せびらかすようにつけ、腰から腫まで青い布きれをまとい、自分のことをひどく高く評価していた。だが彼は、僕がこれまで見た内で最も落ち着きのない奴だった。誰かが傍にいる時はひどく威張って操縦したが、誰もいなくなるとすぐに卑屈なおじけ心の餌食になり、すぐにあの不具者のような船をコントロールできなくなったんだ。
僕は測深棒を見下ろしていた。そして深さを測る毎に、河から突き出る棒の長さが長くなるのを見て、ひどく苛々していた。とその時、操舵手が突然仕事をやめ、その棒をわざわざ引き上げもしないで、甲板の上にパッタリ倒れてしまった。だが棒をしっかり握っていたから、その棒は流れの中を引きずっていった。と同時に、僕の下にいた火夫も突然ボイラーの火炉の前に座りこみ、頭を上げ下げした。僕は仰天した。それから僕は、すぐに河を見なければならなかった。水路に一本の倒れ木があったからだ。小さい棒のようなものが飛んで来た。それらは僕の鼻の前をヒューと鳴りながら飛んで来て足下に落ち、背後の操舵室に当たった。この間中ずっと、河も河岸も森もひどく静かで――完璧に静かだった。船尾舵輪が重々しく水をはねる音と、そういったものがパタパタいう音が聞こえた。僕達は倒れ木を無器用にかわしていた。おや、神かけて! 僕達は狙われていたんだ。僕は河岸側のよろい戸を閉める為に、すばやく小屋の中に入った。あの馬鹿な操舵手は舵輪の取っ手に手を置いて、手綱を絞られた馬みたいに膝を高く上げ、足を踏み鳴らし、歯を鳴らしていた。あいつめ! そして僕は岸から一〇フィートとない所をよろよろと進んでいた。よろい戸を閉める為に、体を傾けなければならなかった。その時木の葉の間の僕の頭と同じ高さの所に、ひとつの顔がすさまじい様子でじっと僕を見ているのが見えた。そしてそれから目からヴェールが剥ぎ取られたかのように、もつれた暗闇の奥に裸の胸、腕、足、睨みつけている目が見えた――ジャングルが動く人間の手足で群れをなし、赤銅色の体で輝いているのだった。小枝が揺れ、カタカタ音を立て、そこから矢が飛んで来て、よろい戸が閉まった。『まっすぐ舵をとれ』と僕は舵手に言った。彼は頭をこわばらせ、顔を前に向けていた。だが目をギョロギョロさせ、足をゆっくり上げたり下ろしたりし続け、口にはちょっと泡を吹いていた。『落ちつけ!』と僕はひどく怒って言った。むしろ木に風の中で揺れるなと命令した方がよかった。僕は飛んで行った。下では鉄の甲板の上で足を引きずる大きな音がして、支離滅裂な叫び声がした。誰かが『引き返せないのか』と叫んだ。前方の水面には、V字形のさざ波が見えた。何だ? 又倒れ木か! 足下で一斉射撃が突然始まった。巡礼達はウィンチェスター銃を撃ち始めていたが、ただ単に銃をジャングルに撃ちこんでいるだけだった。ものすごい煙が立ち上り、ゆっくりと前方に消えていった。僕はそれに向かって罵った。今ではさざ波も倒れ木も見えなかった。僕は凝視しながら、戸口に立っていた。すると矢が群れをなして飛んで来た。毒が塗られていたかもしれないが、まるで猫一匹も殺せないように見えた。ジャングルが吠え始めた。木こり達が好戦的な鬨の声を上げた。ちょうど背後で、ライフル銃が耳をつんざくばかりに鳴った。そして舵輪に駆け寄ってみると、舵手室は騒ぎと煙でいっぱいだった。あの愚かな黒人は全てのものを放してしまい、よろい戸を開けてマルティニ銃を撃っているのだった。彼は大きく開いた窓の前で前を睨みつけるようにして立っていたから、僕は彼に戻れと叫んだ。その間僕は突然曲がったあの蒸気船を元に戻した。そうしたくても戻れる余地はなかった。倒れ木はあのいまいましい煙の中で、前方のどこかにある筈だったし、グズグズしている時間はなかったから、僕はとにかく船を河岸に押しこんだ――そこは水深が充分あると知っていたからね。
僕達は折れた小枝や葉がひとしきり飛んでくる中を、生い茂るジャングルに沿って、ゆっくりと進んで行った。下での一斉射撃は突然やんだ。水鉄砲が空になったらそうなるだろうと、予測していたようにね。操舵室を通り抜ける、キラキラ光りピューと音をたてるものがあったから、そっちの方に顔を向けると、よろい戸のひとつの穴から入り、別の穴から出て行った。空の銃を振り回し、河岸に向かって叫んでいるあの気の狂ったような舵手の向こう側を見ると、ぼんやりした形の人々が体を曲げて走ったり、跳んだり、滑るように動いたりして、はっきり見えたかと思うと、見えなくなったり、消えてしまった。何か大きなものがよろい戸の前に現われ、銃が船外に発射された。そしてその男はすばやく後ずさりし、異様な程深くて親しみのこもった様子で肩越しに僕をじっと見つめ、僕の足下に倒れた。彼の頭のこちら側は二度舵輪にぶつかり、長い杖のようなものの端がカタカタ音を立てて転がり、小さい折りたたみ式腰かけをひっくり返した。それはまるで岸にいる誰かからそれをもぎ取った後、奮闘する内に体のバランスを失ったかのようだった。細い煙はなくなり、僕達は倒れ木から免れ、前を見るとこれから一〇〇ヤードも行けば、岸から離れ進路から反れてもいいように見えた。だが足がひどく温かくべっとりと感じたから、僕は下を見なければならなかった。あの男が仰向けに転がり、僕をまっすぐに見上げていた。彼の両手はあの杖を握っていた。それは槍の柄で、あの窓に投げられたか突き刺したかして、彼のあばら骨のちょうど下の脇腹に刺さっていたんだ。槍先が恐ろしい程の傷口を作り、見えなくなるまで突き刺さっていた。僕の靴は血で一杯だった。血が静止して溜り、舵輪の下で濃い赤に輝いていた。彼の目は驚く程光り輝いていた。一斉射撃が再び始まった。彼はその槍を何か大切なものであるかのように握りしめながら、僕がそれを取らないかと恐れるような様子で、僕の方を心配そうに見ていた。僕は何とかして彼の凝視から目を反らし、船の操縦に集中しなければならなかった。片方の手で頭上の蒸気船の汽笛の紐を捜し、急いで何度も引っぱった。荒れ狂った好戦的な叫びがすぐにやみ、それから森の奥から、この地上から最後の希望が逃げるのを追うかのような、悲しみに満ちた恐怖と全くの絶望の叫びが震えながら続いた。ジャングルの中でひどい動揺があったんだ。雨のような矢の群れはやみ、いくつかの銃声が鋭く響いた――それから沈黙になり、その中で船尾外輪の物憂く打つ音が、僕の耳にはっきり聞こえてきた。僕が舵を右舷に向けた時、ひどく怒って動揺したピンク色のパジャマを着た巡礼が入口に現れた。『支配人が僕をよこし――』と彼は役人じみた調子で言い始めたが、突然やめた。『おや!』と、傷ついた男を睨むように見ながら言った。
僕達二人の白人は、彼の上にかぶさるように立っていた。そして彼の光る何か問いたげな視線が、僕達二人を包んでいた。本当にまるで彼が今にも僕達に向かって分かる言葉で質問しそうに見えた。だが彼は一言も発せず、手足を動かしもせず、筋肉を動かすこともなく死んだ。まさに最後の瞬間にだけ、僕達に見えない何かの合図、聞こえない囁き声にまるで反応するかのように、彼は重々しく顔をしかめたが、その顔は彼の黒い死に顔に驚く程陰鬱で、考えこむような、威嚇的な表情を与えていた。物問いたげな視線の光はすぐに消え、うつろなどんよりした目になった。『君は操縦できるかい』と、僕は代理人に熱をこめて聞いた。彼はひどく心もとないように見えた。だが僕が腕を掴むと、彼はできようができまいが僕が舵を取らせるつもりだとすぐに分かった。実を言うと、僕は靴と靴下をひどくはきかえたかった。『彼は死んだよ』と、そいつはものすごく感動して呟いた。『そのことについては疑いないね』と、僕は靴紐をむきになって引っ張りながら言った。『ところで、今頃はクルツさんも死んでいると思うね』
しばらくの間、そんな思いが僕の心を占めていた。まるで全く実態のないものを捜し求めていたことが分かったかのように、極度の失望感があった。もし僕がクルツと話すという目的の為にのみずっと旅をしていたなら、こんなにうんざりすることはなかっただろう。彼と話す……僕は片方の靴を放り投げると、それこそが――クルツと話すことが――まさしく自分が求めていたことだと気づいた。僕は彼が何かしている所ではなく、分かるだろう、話している所をいつも想像していたことが奇妙にも分かったんだ。『ああ、もう彼には会えないだろう』とか、『彼と握手することもないだろう』とかではなく、『ああ、彼の話を聞くことはないだろう』と、独り言を言った。彼は声として存在したんだ。もちろん、彼を何らかの行動と結びつけなかった訳じゃない。彼が他の全ての代理人達の集めたものより多くの象牙を集め、売買し、だまし取り、あるいは盗んだことを、あらゆる嫉妬や賛嘆の調子で聞かされなかっただろうか。だがそんなことは問題ではなかった。問題なのは、彼がずばぬけた才能の持ち主で、彼の全ての才能の中で最も顕著で、本当に存在しているという感じを与えたのは、彼の話す才能、彼の言葉――表現の才能で、それは人を当惑させ、啓蒙し、最も高尚で、同時に卑しむべきもので、見通せない程の暗黒の心から流れ出る脈動する光の流れか、はたまた偽りの流れだった。
もう一方の靴は、あの河の魔神に投げてやった。僕は思った、ああ! 全て終わった。僕達は遅すぎた。彼は消えてしまった――あの才能は、槍か矢か棍棒かによってなくなってしまったんだ。僕は結局あいつが話すのを聞くことはないだろう――そして僕の悲しみは、感情の驚く程の浪費だった。僕は気づいた、ジャングルのあの蛮人達の泣きわめいている悲しみのようにね。たとえ信念を奪われ、人生の目的を見失ったとしても、これ以上孤独な悲しさを感じることはなかっただろう……誰か知らないが、どうして溜息なんかつくんだ? 馬鹿げてるって? うん、馬鹿げてるよ。ああ! だが人間は――ああ、煙草でもくれ……」
深い沈黙のとぎれがあり、それからマッチの炎がゆらめいて、マーロウの痩せた顔が現れた。やつれて落ち窪み、皺は下向きで瞼は垂れ、集中して注意を傾けている様子だった。それからパイプを威勢よく吸うと、その顔は小さい炎が規則的に明滅する中で夜の中に退却し、そこから出てくるようだった。マッチの炎は消えた。
「馬鹿げているか!」と彼は叫んだ。「ここが話そうとしても一番難しい所だ……君達は皆ここにいて、それぞれが二人のいい隣人達と繋がっている。二つの錨で繋がれた船のようにね。一方の角には肉屋がいて、もう一方にはおまわりさんがいて、食欲はすばらしくあり、体温は普通で――聞いてるかい――一年中普通だ。そして君達は馬鹿げていると言う! 馬鹿げているだって――この野郎! 馬鹿げているだって! ねえ君達、全くのイライラから新しい靴を河に投げた男から、何が期待できるかい! 今そのことを考えると、僕が涙を流さなかったのは驚くべきことだ。僕は総じて不屈の精神を誇りにしている。あの才能あるクルツの話を聞くという、この上ない特権を失ったと考えると、本当に胸にこたえたよ。もちろん、僕は間違っていた。特権は僕を待っていた。うん、そうだ、僕は充分すぎる程話を聞いた。そして僕は、正しくもあった訳だ。声なんだ。彼はただ声に過ぎなかった。そして僕は聞いた――彼の声を――それを――その声を――それらの全てがただ声に過ぎず――あの声の記憶そのものが耳を離れない。ひとつの途方もないおしゃべりが震えながら消えていくようで、実体がなく、愚かで、身の毛がよだつようで、浅ましく、残忍で、あるいはただ単に卑劣で、何の意味もない。声、声――あの女性自身でさえ――今頃は――」
彼は長い間黙っていた。
「僕はついに彼の才能の亡霊を嘘で調伏(ちょうぶく)したんだ」と彼は突然始めた。「女性! 何だって? 僕は女性って言ったかい? ああ、彼女はこの話とは関係ない――完全にね。彼らは――女達のことだが――全く関係ないし、あってはならないんだ。僕達は女達を彼女達だけのあのきれいな世界にいることを助けないといけないんだ。そうしないと僕達の世界が悪くなるからね。ああ、彼女はこのことと関係があってはならなかった。君達にクルツ氏の掘りだされた死体が、『私の婚約者』と言っているのを聞かせたかったよ。そうすれば、すぐに彼女がどんなにこのことと無関係か気づいただろう。そしてクルツ氏の高い前頭骨! 髪の毛は時に伸び続けるという。だがこの――ああ――標本は印象的な程禿げていた。荒野が彼を愛撫し、そして――ああ!――彼はしぼんでしまったんだ。荒野が彼を捕え、愛し、抱擁し、血管の中に入りこみ、彼の肉体を消耗し、悪魔のようなイニシエーションの驚くべき儀式によって、彼の魂を封印したんだ。彼は甘やかされ、増長したお気に入りだった。象牙だって? そう思うね。山のようにあったからね。古い泥土でできた掘立小屋は象牙で溢れそうだった。この国中で、地上にも地下にも一本も残っていないと思う位だった。『ほとんどが化石だね』と、支配人が軽蔑するような調子で言った。僕が化石でないように、それは実際、化石ではなかった。だが、掘り起こされたものをそう呼んでいるんだ。あの黒んぼ達は、時々埋めるようなんだ――だが明らかに彼らは、あのような運命をたどった才能あるクルツ氏の目から逃れる程深く、その包みを埋めることはできなかった。僕達は蒸気船をそれで一杯にし、甲板にもたくさん積み上げなければならなかった。かくして彼は、それらが見える限り見て楽しむことができた。というのは、象牙に対する眼識力は最後まで残っていたからだ。彼が『私の象牙』と言うのを、君達に見せたかったよ。うん、そうだ、僕は聞いたんだ。『私の婚約者、私の象牙、私の出張所、私の河、私の――』全てが彼のものだった。僕は荒野が突然恒星を揺さぶるようなものすごい爆笑を始めるのではないかと思って、固唾を飲んだ。全てが彼のものだった――だがそんなことは些細なことだった。大事なのは、彼が何に属したかということ、どれ程の闇の力が彼を自分のものとして要求したかだ。それを考えると、体中がゾッとした。そんなことを想像しようとすることはできなかったし――役にも立たなかった。彼はこの土地の悪魔の中で高い地位を占めていた――文字通りにね。君達には想像できない。どうしてできるだろうか――足下には堅固な歩道があり、君達を喜んで励ましたり、襲ったりする親切な隣人達に囲まれ、醜聞と絞首台と精神病院の神聖な恐怖の中で、肉屋とおまわりさんの間を優雅に歩いている君達に、人間の拘束されない足がどんな孤独を通して、どんな原始時代の特殊な地域に入っていったのか――それは一人のおまわりさんもいず、孤独で――沈黙を通って――親切な隣人の警告する声が世論を囁くこともない、全くの沈黙なんだ。こうした些細なことが、あらゆる大きな違いを作っているんだ。そうしたものがなくなれば、君達は君達自身の内なる力、誠実さに対する自分自身の能力に頼らなければならない。もちろん、君達は道を踏み外すには、あまりにも馬鹿かもしれないし――暗黒の力に襲われていることが分からない程鈍いかもしれない。これまで悪魔と取引して魂を売った馬鹿はいないと思う。つまり、馬鹿が馬鹿すぎるか、悪魔が悪魔すぎるか――どっちか知らないけどね。あるいは君達は、神の姿と声以外には全く耳も聞こえず目も見えない位、とてつもなく高尚な人物かもしれない。そうすると、この地上はただ立っているだけの場所で――そうなることが得なのか損なのか、僕には分かったふりをするつもりはない。だが僕達の大方はそのどちらでもない。僕達にとってこの地上は生活する所で、そこでいろんな光景、音、臭いにも我慢しなくちゃならない。神かけて!――言わば死んだ河馬の臭いを嗅ぎながら、それに染まらないようにしないといけないんだ。そしてそこで、分からないかい? 力が湧いてくる。あの品物を埋める為の目立たない穴を掘る能力に対する信念――自分自身にではなく、はっきりしない骨の折れる仕事に対する献身の力だ。そしてそれは充分難しいことだ。いいかい、僕は言訳したり、説明しようとさえしてるんじゃない――僕自身に対して――クルツ氏のことを――クルツ氏の亡霊を説明しようとしているんだ。どこからともなくやって来たこの秘儀を得た亡霊は、全く消えてしまう前に驚く程自信たっぶりに僕を丁寧に扱ってくれた。というのは、そいつは英語を話すことができたからだ。元のクルツはある程度イギリスで教育を受けていた――そう彼が教えてくれたんだが――そして彼は憐れみ深い人だった。彼の母親は半分イギリス人で、父親は半分フランス人だった。ヨーロッパ全体が、クルツを作るのに貢献したって訳だ。そしてまもなく分かったんだが、ふさわしいことに、国際蛮習防止協会が将来の指導の為に報告書を書くことを彼に委託していたんだ。そして彼はそれを書いてもいた。僕はそれを見、読みもした。それは雄弁で、その雄弁さの為に感動するようなものだったが、あまりにも緊張していたと思う。びっしりつまった文字で一七ページ、彼は書く時間を見つけていたんだ! だがこれは彼の――何て言うか――神経が狂う前で、口では言えないような儀式で終わるあの深夜の踊り――それはいろんな時に聞いたことから、気が進まないが推測する限り――彼に捧げられた――分かるかい?――クルツ自身に捧げられたんだが、その前だったに違いない。だがそれは見事な文章だった。しかしながら最初の一節は、後で分かったことに照らして考えると、今では不吉に思える。彼は、我々白人は到達した発達段階からして『彼らにとって、超自然の存在のように必ず見えなくてはならず――我々は彼らに神のような力をもって近づかなければならない』等といった議論で始めていた。『我々の意志を行使するだけで、我々は実際限りない善への力を行使できる』等々といった具合だ。その点から彼は舞い上がり、僕を魅了した。結論は格調高かった。思い出すのは難しいけどね。それは尊厳な『博愛』に支配された、異国的な『無限』といった感じだった。僕は感激でワクワクした。それは雄弁の――言葉の――燃え上がる崇高な言葉の限りない力だった。それらの言葉の魔法のような流れを中断するような、現実的な暗示は全くなかった。最後のページの一種の脚注を除いてはね。それは明らかにずっと後で、フラフラする手で走り書きされたものだったが、方法の説明のようなものだった。それはとても簡単で、あらゆる愛他的感情に感動的な程訴えた後で、澄んだ空の稲光のように、恐ろしい程の輝く光を投げかけた。『全ての獣を根絶せよ!』と。奇妙なのは、彼があの貴重な後記について明らかに全て忘れていたということだ。というのは、後になって彼がある意味で正気に返った時、彼は『私のパンフレット』(彼はそう呼んだのだが)を大事にしておいてくれ、きっと将来には自分の経歴に影響を及ぼす筈だからと、繰り返ししきりに頼んだからだ。僕はこうした全てについてたくさんの情報をもっていたし、その上結局の所、彼の死後の名声の世話をすることになった。僕はその為に、明らかな権利を与えてくれる程充分にしたつもりだ。そしてそうするつもりなら、進歩というゴミ箱の中に、あらゆるゴミの間に、例えて言えば、あらゆる文明という死んだ猫の中に、永遠に葬ることもできたんだ。だが分かるだろう、僕にはできない。彼のことが忘れられないんだ。彼がどういう人間であれ、普通の人間ではなかった。彼は未発達な魂を魅了し、あるいは脅し、彼を讃える恐ろしい魔女の踊りをさせるだけの力をもっていた。彼はまた、巡礼達の卑しい魂を苦々しい不安で満たすこともできた。彼には少なくとも一人の献身的な友人がいたし、未発達でもなく、利己主義で汚されていない、この世でたったひとつの魂を征服していた。そうだ、僕は彼のことを忘れることができない。彼の所に行く途中、僕達が失った命に奴がまさしく価するとまでは断言するつもりはないけどね。僕は操舵手が亡くなって、ひどく寂しかった――彼の体がまだ操舵室にある間でさえ寂しかった。多分君達は、黒いサハラ砂漠の一粒の砂の価値もない蛮人のことをこんなに悲しむなんて、ひどくおかしいと思うだろう。ああ、分からないかい、彼は何かをしていたんだ。彼は舵を取っていた。何ヶ月もの間彼は僕の後ろにいて――助手というか――手先だった。それは一種の協力関係だった。彼は僕の為に操縦したし――僕は彼の世話をしなければならなかった。僕は彼の欠点で気をもんだから微妙な絆ができていたが、僕はそれが突然なくなってそのことに気づいた。彼の傷を受けた時のこの上なく親密な様子は、今でも記憶に残っている――最後の瞬間に確認された、遠い血縁関係のようにね。
かわいそうな奴だ! あのよろい戸をそのままにしてさえおけば。彼には自制心が全然なかった。自制心が全然なかったんだ――ちょうどクルツのように――風に吹かれる木のように。乾いた上靴にはきかえると、僕はまず槍を脇腹から抜いた後、彼の体を引きずりだした。白状するが、その作業を目をきつく閉じてやった。僕は必死で後ろから彼を抱いていた。ああ! 彼は重かった。重かったよ。この地上の誰よりも重かったと思う。それからは苦労することもなく、彼の体を船外に滑らせた。河の流れは一握りの草のように、彼を運び去った。そして僕は、その体を永遠に見失う前に二度回転するのを見た。巡礼達全員と支配人がそれから操舵室の横の甲板に集まって、興奮したカササギの群れのように喋っていて、僕の薄情で迅速な処理に憤慨してブツブツ言っていた。あの死体を何の為に置いておきたかったんだろう。僕には分からない。多分防腐処理でもするんだろう。だが僕は、下の甲板で別の不吉な呟きも聞いた。僕の友人の木こり達も同じように中傷されていたが、それにはもっとちゃんとした理由があった――その理由そのものは許せないけどね。ああ、全く! 亡くなった舵手が食べられるとしたら、魚だけがそうすべきだと僕は心に決めていた。生きている時彼はまさに二流の操舵手だったが、今彼は亡くなると、一流の誘惑物になったかもしれない。そしておそらく驚くべき悩みの種となっている。その上僕は舵を取りたかった。というのは、ピンクのパジャマを着た男は、どうしようもない程下手だったからだ。
簡単な葬式が終わると、すぐに取りかかった。僕達は流れのちょうど中程を半速力で進んでいたが、僕についての話に僕は耳を傾けていた。彼らはクルツを諦め、出張所を諦めていた。クルツは死んでいて、出張所は焼けていた――等々。赤毛の巡礼は、少なくともかわいそうなクルツの仇は討ったと考えて我を忘れていた。『ねえ、僕達はジャングルの中の奴らを、見事に殺したに違いない。ええ? どう思うかい? ねえ?』血に飢えた赤毛の小男は小躍りさえしていた。しかも彼は傷ついた男を見た時は、危うく倒れる所だった! 僕はこう言わずにいられなかった。『君達は、とにかく煙だけははなばなしく出していたね』とね。ジャングルの上がカサカサ音を立てて翻る様子から、ほとんど全ての弾が高すぎることが僕には分かっていた。狙いを定めて肩の所から発射しないと、当たりはしないんだ。だがこいつらは、目をつぶって腰の所で撃っていた。僕は強く言ったんだが、退却は――そして僕は正しかったんだが――汽笛の鳴る音が原因だった。こう言うと、彼らはクルツのことを忘れ、憤慨して抗議しながら、僕に向かってわめき始めた。
支配人は舵輪の側に立ち、とにかく暗くなる前に河に沿って逃げておかなくてはならないと、小さい声で打ち明けてきたが、その時遠方の河岸に空地と何かの建物の輪郭が見えた。『あれは何だい?』と僕は尋ねた。彼は驚いて、両手をピシャリと打った。『出張所だ!』と彼は叫んだ。僕は半速力のままで、すぐにじりじりと接近した。
双眼鏡を使うと、丘の斜面に木がまばらに生えているが、下生えは全くないのが見えた。頂上の朽ちかかった高い建物は、高い草の中に半分埋もれていた。尖った屋根の大きな穴が、遠くから黒々と口を開けていた。ジャングルと森が背景をなしていた。囲いやどんな種類の柵もなかった。だが明らかに、以前ひとつだけあったのだ。というのは、家の近くに六本の細い柱が、一列になって残っていたからだ。それは荒っぽく整えられ、上部の端が丸い球体で飾られていた。横木は、というかその間にあったものは何であれ、なくなっていた。もちろん、森がこうしたもの全てを取り囲んでいた。河岸には何もなく、水辺に車輪のような帽子をかぶった白人が、しきりに腕をふって招いているのが見えた。上流と下流の森の端を調べてみると、確かに動くものが見えた――人間の影があちこちで滑るように動いていた。僕は用心深く船を進め、それからエンジンを止め、船を漂流させた。河岸の男が叫び始め、上陸するようにとせきたてた。『我々は攻撃されたんだ』と支配人が叫んだ。『分かった――分かった。大丈夫だ』と、他の奴がひどく元気な声で叫び返した。『いらっしゃい。大丈夫です。僕は嬉しいですよ』
彼の顔つきは、僕が見たことのある何かを連想させた――どこかで見ていた奇妙なものだ。船を横づけする為操縦しながら、僕は自問していた。『こいつは誰に似ているんだろう?』突然僕は分かった。彼は道化に似ていたんだ。彼の服は多分茶色の亜麻布でできていたが、全体がつぎはぎで、青、赤、黄と派手なつぎはぎで――背中も正面も肘も膝もつぎはぎなんだ。上着のまわりには色物の縁飾りがあり、ズボンの裾には真赤な縁取りがあった。その上、日光がひどくはなやかに驚く程小綺麗に見せていた。というのは、このつぎはぎがどんなに美しくできていたか分かったからだ。顎鬚のない子供じみた顔で金髪だが、これという程の特徴はなく、鼻の皮がむけ、小さな青い目をして、その正直な表情の上をまるで光と影が風の吹く草原を交錯するように、笑顔と渋顔が追いかけっこしていた。『気をつけて、船長!』と彼は叫んだ。『ここには昨夜倒れ木があったんです』何だって! また倒れ木が? 白状すると、僕は恥ずかしい程罵った。僕は危うくボロ船に穴をあけて、あの楽しい旅を終わりにする所だった。河岸の道化は、小さい獅子鼻を僕の方に向けた。『あなたはイギリス人ですね』と、彼は満面の笑みで聞いた。『君は?』と、僕は舵輪から叫んだ。笑みは消え、彼は僕の失望にすまないと言わんばかりに頭をふった。それから晴れやかな顔になった。『気にしないで下さい!』と彼は励ますように叫んだ。『僕達は間に合いましたか?』と僕は尋ねた。『あの人はあそこにいます』と、彼は丘の頂上の方に頭を上げて答えたが、突然暗い顔になった。彼の顔は一瞬曇ったかと思うとまたすぐ晴れる、秋の空のようだった。
完全に武装した巡礼達に護衛されて支配人が小屋に入ると、こいつが船に入って来た。『ねえ、これが気に入らないんだ。土人たちはジャングルの中にいるんだろう』と僕は言った。彼は真剣な表情で、大丈夫だと請け合った。『彼らは単純なんです』と彼はつけ加えた。『ああ、あなたが来てくれて嬉しいですよ。彼らを遠ざけるのに大分時間がかかりました』『だが、君は大丈夫だと言っただろう』と僕は叫んだ。『ええ、彼らは危害を加えるつもりは全くありません』と彼は言った。そして僕が凝視すると、彼は言い直した。『正確に言えば、そうとも言えませんが』それから陽気に『本当に、この操舵室は掃除しないと!』と言った。そして次の瞬間には、困った時に汽笛を鳴らす為に、ボイラーの蒸気は充分にしておくように忠告した。『銃を撃つより一回汽笛を充分嗚らす方が、効果があるんです。彼らは単純なんです』と彼は繰り返した。そんな調子でペラペラ喋るから、僕は全く圧倒されたね。彼はものすごい静けさを埋めようとしているように見えたが、笑いながら、その通りだと実際ほのめかした。『君はクルツさんと話さないのかい』と僕は聞いた。『あの人と話なんかしません――耳を傾けるだけですよ』と、彼はひどく得意になって叫んだ。『でも今は――』彼は腕をふり、瞬く間にひどく落胆してしまった。かと思うと、飛び上がってすぐに元気を取り戻し、僕の手を握ってずっとふりながら、その間早口で喋った。『仲間の船乗り……光栄です……嬉しい……喜びです……自己紹介します……ロシア人……大司教の息子……タムボフの政府……何? 煙草? イギリスの煙草、すばらしいイギリスの煙草! ああ、それは親切に。吸うかですって? 煙草を吸わない船員がどこにいるんです?』
煙草の一服が彼を落ち着かせた。そして彼が学校を逃げ出し、ロシア船の船員になり、また逃げだし、しばらくイギリス船で働き、今では大司教と和解していることが段々分かってきた。彼はそのことを強調した。『でも若い時はいろんなものを見て、経験し、心を広げなくてはなりません』『ここで!』と僕は遮った。『そんなこと分かりませんよ。ここで僕はクルツさんに会ったんですから』彼は若さに溢れてまじめに、咎めるように言った。僕はその後黙ってしまった。彼は沿岸のオランダ貿易会社を説得して用具や物資を積み、何が起こるか赤ん坊程にも考えず、軽い気持ちで奥地に出発したらしい。彼はあらゆる人、あらゆる物から切り離されて、一人でこの河の流域を放浪していた。『僕は見かけ程若くはありません。二十五才ですから』と彼は言った。『最初ヴァン・シュイッテンさんは、出て行けと僕に言いました』と、彼はひどく楽しそうに話した。『でも僕は食いついてしつこく喋りまくったらとうとう折れて、安い商品と銃をいくつかくれて、二度とお前の顔なんか見たくないと言ったんです。いいオランダ人だったなあ、ヴァン・シュイッテンさんは。僕は一年前に小さい象牙を一組送りました。だから戻ったら、僕のことを泥棒なんて言わないでしょう。きっと受け取ってくれたと思います。後のことは構わないんです。あなた達の為に、薪を積んでおきました。あれが僕の昔の家です。御覧になったでしょう』
僕はタウスンの本を彼に渡した。彼はまるでキスでもしたい様子だったが、我慢した。『僕が忘れたのはこの本だけで、なくしたと思っていました』と、彼は我を忘れて、その本を見ながら言った。『一人で旅をする人間には、いろんなことが起こるんです。お分かりでしょう。丸木舟がひっくり返ることもあるし――土人達が怒った時には、大急ぎで逃げなくてはいけない時もあります』彼は本のページを親指でめくっていた。『君はロシア語で書きこみをしていたね?』と僕は聞いた。彼はうなずいた。『暗号で書かれているのかと思ったよ』と僕は言った。『彼らは君を殺したかったのかい』と僕は聞いた。『ああ、とんでもない!』と彼は叫んで、自分を抑えた。『どうして彼らは僕達を襲ったんだい』と、僕はしつこく聞いた。彼はちょっとためらったが、それから恥ずかしそうに言った。『彼らはあの人に行ってほしくないんです』『そうなのかい?』と、僕は好奇心をそそられて言った。彼は謎と知恵に満ちた様子でうなずいた。『言っておきますが』と彼は叫ぶように言った。『あの人は僕の心を広げてくれたんです』彼は腕を大きく広げ、全く丸い小さい目で僕をじっと見た」

第三章

「僕は驚きで我を忘れて彼を見た。彼はまだらの服を着て僕の前にいたが、まるで道化師の一座から逃げだしてきたかのようで、情熱的で、信じられなかった。彼の存在そのものがありそうもなく、説明もできず、全く当惑するものだった。彼は解くことのできない問題だった。彼がどうやって生きていたのか、どうやってこんな遠くまで来るのに成功したのか、どうやって生き残ったのか――なぜすぐに消えてしまわなかったのか、想像もできなかった。『僕は更に奥へと入って行ったんです』と彼は言った。『それから更に奥へ――そしてついにはどうやって戻ったらいいのか、分からなくなったんです。でも気にしません。時間は充分あります。何とかやって見せますよ。あなたは早くクルツさんを連れて行って下さい――早く――お願いです』青春の魅力が、彼のまだらのぼろ服、窮乏、孤独、無駄な放浪の本質的な悲しさを包んでいた。何ヶ月――何年もの間――彼の命は明日を知らない命だった。そして彼はそこに勇敢に、考えもなく生きていた。見た所、若さと無分別な大胆さの力だけで破滅しなかったんだ。僕は感嘆の念――羨望の念のようなものを感じていた。魅惑が彼を駆り立て続け、魅惑が彼を無傷にしていたんだ。彼は呼吸し、押し進んで行く空間以外には、確かに荒野に何も求めていなかった。彼の要求は生きることで、できるだけ大きな危険を冒し、最大限の窮乏状態で前進することだった。絶対的に純粋で非打算的で非現実的な冒険精神が、これまで一人の人間を支配していたとしたら、それはこのまだら服の若者だった。僕はこの謙虚で曇りない情熱の炎をもっていることが、ほとんど羨ましくなった。それは自我のあらゆる考えを完全に焼き尽くしているようで、彼が話している時でさえ、それが彼で――目の前にいる男で――こういったことを経験した人間であることを忘れてしまった。と言っても、彼のクルツに対する献身は羨ましくはなかったけどね。彼はそのことについては、深く考えたことはなかった。それは彼にやって来て、一種の宿命論として切望して受け入れたんだ。僕にとっては、それは彼がそれまで遭遇した中で、あらゆる意味において最も危険なことのように見えたと言いたいけどね。
彼らは避けようもなく出会ったんだ。まるでお互いに風が凪いで止まった二隻の船が、ついに接舷しているようにね。クルツは聞き手が欲しかったんだと思う。というのは、ある時森の中で野営した時、彼らは一晩中話していたからだ。というか、多分クルツが話していたんだろう。『僕達はあらゆることについて話しました』と、彼はその思い出に全く夢中になって言った。『眠りというものがあることも忘れてしまいました。その夜は一時間も続くように思えませんでした。全てです! 全てについてです!……愛についても』『ああ、彼は愛についても君に話したんだね』僕はひどく面白くなって言った。『あなた達が考えているようなものじゃありません』と、彼はほとんど情熱的な程叫んだ。『それは愛一般についてでした』彼はいろんなこと――いろんなことを僕に見せてくれました』
彼は両腕を上げた。その時僕達は甲板にいて、近くをブラブラ歩いていた木こり頭が、悲しそうなキラキラ輝く視線を彼に投げた。僕はあたりを見回した。そしてどうしてだか分からないが、誓って言うが、この土地、この河、このジャングル、この燃えるような空が、これ程絶望的で暗く、人間にとって分かり難く、人間の弱さに対して無情に思えたことはなかった。『そしてそれ以来、もちろん君は彼と一緒だったんだね?』と僕は聞いた。
ところが全く正反対だった。彼らのつきあいはいろんなことが原因でよくとぎれたようだ。彼が誇らしそうに教えてくれたんだが、彼はクルツが二度病気した時、何とか看病していた(彼はまるで危険な離れ業でもやってのけたように、そのことについてほのめかした)。だが大抵は、彼は一人で森の奥にさ迷って行った。『よくこの出張所に来ても、彼が現れるまで何日も待たなくてはなりませんでした』と彼は言った。『ああ、でも待ちがいはありました――時にはね』『彼は何をしていたんだい? 探検かい、それとも?』と僕は聞いた。『ええ、もちろんです』彼はたくさんの村や湖を発見していた――だがどのあたりなのか、彼は正確には知らなかった。あまり尋ねるのは危険だった――だが大抵は、彼の探検は象牙の為だった。『でもその時には、もう交換する品物はなかったんだろう』と、僕は異議を唱えた。『まだ弾薬がたくさん残っています』と、彼は視線をそらしながら言った。『はっきり言うと、彼はこの地方を急襲したんだね』と僕は言った。彼は頷いた。『一人ではないね、もちろん!』彼はその湖の回りの村について、何かブツブツ言った。『クルツはその部族を従わせたんだね?』と僕はほのめかした。彼はちょっとソワソワした。『彼らは彼のことを崇めていたんです』と彼は言った。こうした言葉の調子はとても異常だったから、僕は探るように彼を見た。彼のクルツについての話し方には、熱心さと気が進まない様子が入り交じっていて奇妙だった。クルツは彼の人生を満たし、考えを占め、感情を揺さぶっていた。『何が期待できるんですか?』と彼は突然言った。『彼は彼らの所に雷電のようにやって来たんです。分かるでしょう――彼らはそんなものを見たことがなかったんです――とても恐ろしいことです。彼はとても恐ろしいこともありました。普通の人を判断するように、クルツさんを判断することはできないんです。いやいや、できません! 例えば――あなたに分かってもらう為に――言ってもいいと思うんですが、彼はある日僕をも撃とうとしたんです――でも僕は彼を裁きません』『君を撃つだって!』と僕は叫んだ。『何の為にだい?』『というのは、僕の家の近くの村の村長がくれた象牙を少し持っていたんです。御覧の通り、僕は彼らの為に、よく鳥や獣を撃っていましたからね。とにかく彼はそれが欲しくて、理由を聞こうとしなかったんです。もし僕が象牙を渡してこの土地から立ち去らないと、僕を撃つ、なぜなら自分はそうできるし、その気になれば、殺したいと思う奴を殺すことを妨げるものはこの地上にないって、断言したんです。そしてそれは本当だったんです。僕は象牙を渡しました。僕が何を気にしたでしょうか! でも僕は立ち去りませんでした。そうです、立ち去らなかった。彼をおいては行けなかったんです。又しばらくの間仲良くなるまでは、もちろん気をつけなくてはなりませんでした。それから彼は二度めの病気になりました。その後僕は、彼から離れていなければなりませんでした。でも構いませんでした。彼は大抵は湖の近くの村に住んでいました。彼が河の方に下りて来ると、時には僕のことを好いてくれましたが、用心した方がいい時もありました。この人はあまりにも苦しんでいたんです。彼はこうしたこと全てを憎みながら、どういう訳か逃げることができなかったんです。機会を見て、僕は時間のある内にここを去るように頼みました。彼と一緒に戻ることを申し出たこともありました。そうすると彼は、そうしようと言いながら留まり、また象牙狩りに行ってしまうんです。そして何週間も姿を消して、黒人達の中で自分自身を忘れるんです――自分自身を忘れてしまうんです――分かるでしょう』『何だって! 彼は気が狂っていたんだね』と僕は言った。彼は憤慨したように抗議した。クルツさんが気が狂っている筈はありませんと。もし彼が話しているのを二日前に聞いたら、そんなことをほのめかしたりはしないだろうとね……僕は話している間双眼鏡を取り上げ、河岸の方を見、両岸と家の背後にある森の縁を見渡した。丘の上の荒れ果てた家と同じ位、静かでひっそりとしたあの森の中に人がいるのだと思うと――僕は不安になった。肩をすくめて終わる暗い叫びや、遮られた言葉、深い溜息に終わる暗示の中で、語られるというよりは暗示されたこの驚くべき物語の印は、この自然の表面には全くなかった。森は仮面のように動かず――牢獄の閉まった扉のように重々しく――隠された知識、辛抱強い期待、近づくことのできない沈黙の様子で見ていた。ロシア人はクルツ氏が河まで下りて来て、あの湖畔の部族の戦士達を連れて来たのは、つい最近のことだと説明していた。彼は何ヶ月も姿を消し――彼を崇めさせていたんだと思うが――河の反対側か河下を、見た所襲うつもりで、突然下りて来たのだった。明らかにもっと象牙を手に入れたいという欲望が――何て言ったらいいんだろう――小さい物質的野望を征服してしまったんだ。しかしながら、彼は突然病気が更にひどくなったんだ。『彼がどうにもできないで寝ていると聞いたので、河を上がって来たんです――運に任せて来てみたんです』とロシア人は言った。『ああ、彼は悪いんです。ひどく悪いんです』僕は双眼鏡を家の方に向けた。人がいる兆侯はなかったが、壊れた屋根、草の上にのぞいている高い泥壁があり、そこには小さい四角の窓穴があったが、同じ大きさのものはなかった。こうしたことは、言わば手の届く所にあるようだった。それからぞんざいに動かすと、あの見えなくなった柵の残っている杭のひとつが双眼鏡の視界の中に突然入ってきた。君達は覚えているだろう、僕が遠くから見ると、何か装飾しようとしたようなものが、その場の荒れ果てた様子の中で驚くべきものに見えたと言ったことを。ところが突然近くで見え、その結果僕はまるで一発食らったように、頭をそらせたんだ。それから僕は注意深く双眼鏡で杭から杭へと見回し、自分が間違っていたことに気づいた。あの丸い球体は装飾的ではなく象徴的なものだったんだ。それらは表現的で、悩ませ、印象的で、当惑させるもので――思考の糧であり、もし空から見下ろしている禿鷹がいたら、そいつらにとってもやはりそうだっただろう。だがとにかく、杭を上る勤勉な蟻にとってはそうだっただろう。杭の上の頭が家の方を向いていなかったら、更にもっと印象的だっただろう。僕が最初に分かったひとつだけが、こちらを向いていたんだ。君達が考えている程には驚かなかった。僕が頭をそらせたのは、実は驚きの動きに過ぎなかった。そこで木の球体を見ることを予期していたからね。分かるだろう。僕は用心して最初に見た奴に戻った――それはそこにあり、黒く、乾燥し、窪んで、瞼は閉じられ――頭はその抗の上で笑っているようで、萎びて乾いた唇は歯の細い白い線を見せて、あの永遠のまどろみの中で果てしない滑稽な夢を見て、絶えまなく笑ってもいたんだ。
僕は取引の秘密を暴くつもりはない。実際支配人は、クルツ氏の方法がこの地域を荒廃させたのだと、後になって言った。そのことについては意見はないが、あの頭がそこにあっても、必ずしも何の得にもならなかったということを君達にはっきりと分かってもらいたいんだ。それらは様々な欲望を満足させるのに、クルツ氏が自制心を欠いていたということ、彼には何か欠けるものが――小さいことで、差し迫って必要なことが起こった時には、壮大な雄弁の下では分からないものがあったということを示しているだけだった。彼がこの欠点について知っていたかどうかについては分からない。そのことについては、最後には分かったと思う――まさに最後の瞬間になってね。だが荒野は早くから彼を見抜いていて、途方もない侵入に対して恐ろしい復讐を行なっていた。荒野は彼が知らなかった彼自身のこと、この非常な孤独と相談するまでは知らなかったことを彼に囁いた――その囁きは抵抗できない程魅惑的だった。そして彼は心がうつろだったから、それは彼の中で音高く響いたんだ……双眼鏡を下ろすと、充分話しかけられる位近くに思えたあの頭は、すぐに手の届かない所になくなってしまった。
クルツ氏の崇拝者は、ちょっとしょんぼりしていた。急いだはっきりした声で、彼は敢えてこれらの――言わば象徴を――取らなかったんだと強く言い始めた。彼は土人達は恐くなかった。クルツ氏が命令するまでは動かないからだ。彼の支配力は並外れていた。このような人々の部落がその場所を取り囲んでいて、首長達が彼に会いにやって来た。彼らは這うようにしてやって来た……『クルツ氏に近づく時にされた儀式については、何も知りたくないね』と僕は叫んだ。奇妙なことだが、そんな細かいことは、クルツ氏の窓の下の柵の上の干からびたあれらの頭より、もっと耐えられないだろうという感情に襲われたんだ。結局それは野蛮な光景に過ぎなかった。それでも僕は、ひととびで不思議な恐怖の何か光のない領域に――そこでは純粋で単純な蛮習は全くホッとするもので――明らかに――太陽の下で存在する権利をもっていたが――運び去られたように思えた。若者は驚いて僕を見た。クルツは僕にとっては全く偶像ではないということは、思い浮かばなかったんだろう。僕は、何だっけ、愛、正義、人生の行ない――等について、これらのすばらしい独白を聞いていなかったということを彼は忘れていた。クルツ氏の前で這いつくばるということに至っては、彼ら全てのまさしく蛮人達と同じ位這いつくばっていた。僕がその時の状況について知らないからだと彼は言った。つまりこれらの首は、反逆者のものなのだ。僕は笑いだして彼をひどく驚かせた。反逆者だって! 僕が聞く次の定義は何だろう。敵、罪人、労働者がいて――そしてこいつらは反逆者だった。あの反逆者の首は、杭の上でとてもおとなしそうに僕には見えた。『あんな生活がクルツさんのような人をどんなに苦しめているか、あなたは知らないんです』とクルツの最後の弟子は叫んだ。『じゃあ、君には分かるのかい?』と僕は言った。『僕が! 僕がですって! 僕は単純な人間です。偉大な思想なんか全くもっていません。誰からも何も要求しません。なぜ僕なんかと比べることができるんです……?』彼は感情に圧倒されて話せなくなり、突然取り乱した。『僕には分かりません』と彼は呻(うめ)くように言った。『僕は彼が生き永らえるように、最善を尽くしてきました。それだけです。こうしたこと全てと、僕は関係ありませんでした。そんな能力はありません。もう何ヶ月もここには、一滴の薬も一口の病人食もありませんでした。彼は気の毒な位見捨てられました。すばらしい思想をもった人が、けしからんことです! 本当に! 僕は――僕は――この一〇日間寝ていません……』
彼の声は夜の静けさの中で消えていった。僕達が話している間、森の長い影は丘を滑り下り、荒廃した小屋を越えて、あの象徴的な杭の並びの向こう側まで伸びていた。こうしたもの全てが影の中にあり、一方低い所にいた僕達はまだ日向にいた。そして空き地に沿った河の流れは、静かで目も眩む程の輝きの中でキラキラ輝いていたが、河の上流と下流のカーヴのあたりは暗く曇っていた。河岸には人っ子一人見えなかった。ジャングルは音ひとつしなかった。
突然家の隅のあたりから、一団の男達がまるで地面から湧いたかのように現れた。彼らは一団となり、真中あたりに即席の担架を持って、草の中を腰までつかって歩いていた。たちまち風景の空虚さの中で叫び声が起こり、その鋭さはこの土地のまさに心臓部に鋭い矢がまっすぐ突きささるように、静かな空気を貫くように響いた。そしてまるで魔法にでもかかったように、人間の流れ――裸の人間の流れが――手には槍、弓、楯を持ち、狂気じみた目つきをし、荒々しく動きながら、暗い顔つきで、憂いに沈む森の側の空き地に流れるように入って行った。ジャングルが揺れ、しばらくの間草々が揺れた。それから全てが耳を傾けているように、動かずじっとしていた。
『ああ、もし彼が彼らに適切なことを言ってくれなければ、僕達は皆駄目になってしまいますよ』と、あのロシア人が僕の横で言った。担架を担いだ男達の一群も、まるで石になったように、蒸気船の中程まで来ると止まっていた。担架の上のひょろ長く痩せた腕を上げた男が、担ぎ手達の肩の上で起き上がるのが見えた。『愛一般についてそんなにうまく話せるなら、今度は僕達の命を救う特別の理由を見つけてくれることを期待しようじゃないか』と僕は言った。まるであの残虐な亡霊のなすがままになっていることが不面目な宿命であるかのように、僕は自分達の状況が馬鹿々々しい程危険なことに苦々しく憤慨した。声は聞こえなかったが、双眼鏡を使って見ると、痩せた腕が命令するように伸び、下顎が動き、あの亡霊の落ち窪んだ目が陰欝に輝きながら、頭をグロテスクに痙攣させながら頷いた。クルツ――クルツ――それはドイツ語で短いという意味だ――そうじゃないかい? うん、その名前は彼の生と――そして死において、他の全てのことと同じ位真実を語っていた。彼は少なくとも七フィートはあるように見えた。覆いが落ち、彼の体が死衣から出てきたように、憐れでぞっとするような様子で現れた。鳥籠のような肋骨が皆動き、骨のような腕が合図しているのが見えた。それはまるで、古い象牙に刻みこまれた死のイメージが生命を吹きこまれ、黒光りする青銅でできた不動の群衆に脅すように手をふっているようだった。彼が口を大きく開くのが見えたが――まるで全ての空気、全ての大地、彼の前にいる全ての人々を呑みこもうとしているかのように、気味悪い程貪欲だった。低い声がかすかに聞こえた。叫んでいるに違いなかった。彼は突然倒れた。担ぎ手達が再び前によろめくと、担架が揺れた。それとほとんど同時に、土人達の群れがはっきりと分かるような後退の動きもなく、消えるのに気づいた。まるで彼らを突然吐き出した森が、大きく息を吸い込む内に再び彼らを扱い込むようにね。
担架の後ろの巡礼達の中には、彼の武器を持っている者達がいた――猟銃を二挺、大型のライフル銃、小型の連発式騎兵銃――あの憐れなジュピターの雷電だ。支配人は彼の頭の横を歩き、何か呟きながらかがみこんでいた。彼らは彼を小さい船室のひとつに寝かせた――ベッドと軽便腰掛け〔X形の足に帆布を張った折りたたみ式の腰掛け〕がひとつか二つ、かろうじて入る位の部屋だった。分かるだろう。僕達は彼の遅れた郵便物を持って来ていたが、たくさんの破れた封筒や開封された手紙がべッドの上に散らかっていた。彼の手がそれらの書類の間を弱々しくさ迷っていた。僕は彼の目の燃えるような光と、表情の疲れてはいるが落ち着いた様子に圧倒された。それは病気の疲労といったようなものではなかった。苦しみはないようだった。この影のような男は、まるであらゆる感情を充分経験したように満足し、落ち着いているようだった。
彼は手紙のひとつをガサガサ集めると、僕の顔をまっすぐに覗き込みながら言った。『来てくれて嬉しいよ』誰かが僕のことを書いていたんだ。またしてもこの特別の推薦状だ。彼が苦もなくほとんど唇を動かすこともなく発した声の大きさに、僕は驚いた。声だ! 声なんだ! それは威厳があり、深遠で、響き渡っていた。彼自身は囁くことすらできないように見えたのに。だが彼には充分な力が残っていた――疑いなく不自然なものだったが――その声を聞くと、すぐにほとんど息の根が止まる程のね。
支配人が戸口の所に静かに現れた。僕がすぐに出ると、彼は後ろでカーテンを引いた。ロシア人は、巡礼達からものめずらしそうに見られていたが、河岸の方をじっと見ていた。僕は彼の視線を追った。
暗い人影が遠くに見えたが、森の薄暗い縁を背景に、ぼんやりと行ったり来たりしていた。そして河の近くでは、長い槍に寄りかかっていた二つの青銅色の人影が、斑点のある皮でできた奇妙な頭飾りをつけ、好戦的で彫像のようにどっしりとして、太陽の光の下に立っていた。そして野性的でグロテスクな幻影のような女が、明るい河岸を右から左へと動いていた。
彼女は縞模様の房飾りのついた布をまとって、ゆっくりとした足取りで歩いていた。野性的な装飾品をかすかに音を立て輝かせながら、誇らしげに地面を歩いていた。頭を高く上げ、髪はヘルメットの形に結(ゆ)っていた。膝には真ちゅうの膝あて、肘には真ちゅうのおおいをし、黄褐色の頬には深紅色の斑点があり、首には無数のガラス玉のネックレスをしていた。奇妙なもの、護符、まじない師の贈り物をつけていて、歩く度にキラキラ輝き揺れた。何本かの象牙の価値のあるものをつけていたに違いなかった。彼女は野性的で、華麗でもあり、目は凶暴で、堂々としていた。その落ち着いた足取りには、何か不吉な中にも威厳があった。そして悲しみに満ちた、広大な荒野全体に突然訪れた静けさの中で、豊饒で神秘的な生命の巨大な一団が、まるでそれ自身の暗く情熱的な魂の姿を見ているかのように、物思わしげに、憂いに沈んで見ていた。
彼女は蒸気船の所までやって来て黙って立ち止まり、僕達の方を向いた。彼女の長い影が水際に落ちた。激しい悲しみと言葉では言い表せない苦痛が、戦いながらまだ形をなしていない決意への恐れと交じり合って、その顔は悲劇的で恐ろしい形相をしていた。彼女はじっとして動かず、僕達を見ていた。そして荒野そのもののように、計り知れないことを企んでいるかのようだった。まる一分が過ぎ、それから一歩前に踏み出した。低くリンリンと鳴る音がして、黄色の金属がキラキラ光り、房飾りのついた布が揺れた。そして彼女は、まるで心臓が止まったかのように止まった。僕の傍にいた若者が唸った。巡礼達は僕の後ろで呟いていた。彼女はまるでその生命が自分の確固とした動かない視線にかかっているかのように、僕達全員を見た。突然彼女はまるで空に触れたいという欲望を押さえきれないかのように、あらわな腕を広げ、硬直したように頭へと持っていった(*)。と同時にすばやい影が地面を通り過ぎ、河の上をさっと通り、蒸気船を影の中に包みこんだ。その光景には、恐ろしい程の沈黙があった」

* マーロウが連れて帰ろうとするクルツを追いかけて来たこの女性は、クルツの情婦であると思われ、クルツの情欲を暗示している。しかし後の場面で明らかになるように、クルツにはヨーロッパに残してきた婚約者がいる。


「彼女はゆっくり振り返ると河岸を歩き続け、左手のジャングルの中に消えた。姿を消す前に、一度だけ彼女の目が茂みの薄暗がりの中で、僕達の方を振り返ってキラリと光った。
『もし彼女が船に乗ると言ったら、僕は彼女を撃とうとしただろうと、本当に思いますよ』と、道化服の若者は苛々して言った。『僕はこの二週間というもの、彼女を家に入れないようにする為、毎日生命をかけてきたんです。彼女はある日中に入って来て、僕が繕おうと思って物置で見つけたあのぼろきれのことで、騒ぎを起こしたんです。僕は礼儀を失ってしまいました。少なくともそうにちがいなかった。というのは、彼女は時々僕を指差しながら、一時間もクルツさんに興奮して話していたんです。この部族の言葉は僕には分かりませんけどね。幸いなことに、クルツさんはその日ひどく具合が悪くなって、構っていられなかったようです。そうでなかったら、ひどいことになっていたでしょう。僕には分かりませんが……いや、僕はもう我慢ができない。ああ、もう全て終わったんだ』
このカーテンの後ろでクルツの低い声が聞こえた。『俺を救うだと!――象牙を救うつもりだろう。もうやめてくれ。俺を救うだと! なぜって、俺の方こそお前達を救わなくてはならなかったんだ。病気のことばかりだ! お前達が思っている程病人じゃないぞ。構わないでくれ。俺はまだ自分の考えを実行するんだ――俺は戻るぞ。俺ができることを見せてやる。お前達はつまらない考えしかもたないくせに――俺の邪魔をしようとする。俺は戻る。俺は……』
支配人が出て来た。彼は敬意を表して僕の腕を取り、横に連れていった。『あの人は大分弱っているようだ』と支配人は言った。溜息をつく必要があると考えたようだが、一貫して悲しそうな様子はしなかった。『彼の為にできることは全てやった――そうだろう? だがクルツ氏は、会社の為にはむしろ害になることをしたという事実を隠すことはできんよ。まだ積極的な行動の時期じゃなかったということが、彼には分からなかったんだ。慎重に、慎重に――これが私の主義だ。我々はまだ慎重にしなくてはならん。この地方から我々はしばらく閉め出されるな。嘆かわしいことだ。全体として交易は被害を被るだろう。ものすごい量の象牙があることは、否定しない――だがほとんどが化石だ。とにかくそれらは救い出さなくてはならない――だがこの状況は何て危険なんだ――そしてそれはなぜだ? やり方が健全じゃないからだよ』僕は河岸を見ながら言った。『あなたはこれを不健全な方法だと言うんですか?』『もちろんだ』と彼は熱して叫んだ。『そう思わないかい?』『方法なんか全くありませんよ』と僕はしばらくして言った。『まさしくその通りだ』と彼は嬉しそうに言った。『私はこういうことを予想していたよ。判断力を全く欠いている。このことをしかるべき方面に知らせるのが、私の義務だ』『ああ、それならあの男――何ていう名前でしたっけ――あのレンガ作りが、あなたの為に読みやすい報告書を作ってくれるでしょう』と僕は言った。彼は一瞬困惑したようだった。僕には、これ程下劣な空気を吸ったことはないように思えた。そして救済を求めて――全く救済を求めて、心の中ではクルツの方を向いていた。『それでもクルツさんは、非凡な人だと思いますよ』と、僕は強調して言った。彼はハッとして、僕の方に冷たく陰気な視線を落として、とても静かに言った。『昔はね』そして僕に背中を向けた。僕の信用の時期も終わってしまった。僕は強硬手段組として、クルツとひとまとめにされてしまっていた。僕は信用されていなかった! ああ! だが、少なくとも悪夢を選ぶ方が、慰められるというものだ。
僕は実際、荒野の方を向いていた。しかしクルツの方ではなかった。認めるが、彼は埋葬されたも同然だった。そして一瞬僕もまた、口にするのも恐ろしい秘密で一杯の大きな墓に埋められているように思えた。湿った土の臭い、勝ち誇った腐敗の目には見えない存在、見通せない夜の暗黒の中で、僕は耐え難い重力が胸を圧するのを感じた……あのロシア人が僕の肩をポンと叩いた。彼が何かブツブツ言って『仲間の船乗り――隠せなかった――クルツさんの評判に影響を与えるというようなことについての知識』について、何か口ごもるのが聞こえた。僕は待った。彼にとっては、クルツ氏は明らかに墓の中の人間ではなかった。『それじゃ!』と、僕はついに言った。『はっきり言ってくれ。偶然僕はクルツさんの友人なんだから――ある意味ではね』
彼はひどく形式ばった調子で、でも僕達が『同じ職業』でなかったら、自分は結果に構わずこのことを胸に秘めていただろうと言った。『あの白人達には、僕に対して非常な悪意があると思うんです』と彼は言った。『その通りだよ』と、僕は偶然耳にしたある会話を思い出して言った。『支配人は、君が絞首刑にされるべきだと考えているよ』そう聞くと、彼は心配そうな様子をしたから、最初は面白かった。『静かに身を引いた方がいいですね』と、彼はまじめに言った。『今ではクルツさんの為にこれ以上何もできないし、彼らはすぐに何か口実を見つけるでしょう。何が彼らを止められるでしょうか。軍の駐屯地は、ここから三〇〇マイルの所ですからね』『うん、誓って言うが、近くの土人の中に友人がいれば、君は多分立ち去った方がいいだろう』と僕は言った。『たくさんいますよ』と彼は言った。『彼らは単純で――知っての通り、僕は何も要求していませんからね』彼は唇をかみながら立っていた。それから続けた。『ここにいる白人達に危害が及ぶのを、望んではいません。でももちろん僕は、クルツさんの評判のことを考えていたんです――でもあなたは仲間の船乗りだし、それに――』『分かったよ』と、しばらくして僕は言った。『クルツさんの評判は、僕がいれば大丈夫だ』どれ位真実をこめて言ったか、僕には分からなかった。
彼は声を落としながら、蒸気船の攻撃を命じたのはクルツだと教えてくれた。『彼は連れて帰られるということを、時々すごく嫌がっていたんです――それからまた……でも僕にはこうしたことは分かりません。単純な人間ですから。彼はそうすれば、あなた達を脅して追い払えるだろうと――つまり、死んだものと思って諦めるだろうと思ったんです。僕には止めることはできませんでした。ああ、この一ヶ月間は恐ろしかった』『よろしい、分かったよ』と僕は言った。『彼はもう大丈夫だ』『そ、そうですね』と、彼は見た所あまり分かっていないような様子で呟いた。『どうもありがとう。これから気をつけるよ』と僕は言った。『でも静かにしていてくれますね?』と、彼は心配そうに迫った。『彼の評判はひどいことになるでしょう。もしここにいる誰かが――』僕はとてもまじめに、全く慎重にすることを約束した。『僕には丸木舟があって、三人の黒人がそう遠くない所で待っています。僕は出て行きます。マルティニ銃の薬包を貰えますか?』僕はいいよと言って、こっそり渡した。彼は僕にウィンクしながら、僕の煙草を片手一杯分取った。『船乗りの間では――ご存知の通り――上等のイギリス煙草ですよ』操舵室の入口で、彼は振り返った――『あのう、靴を一足貰えませんか』彼は片足を上げた。『見て下さい』靴底は裸の足の下に、サンダルのように結びめのある紐でしばっているのだった。僕は古い一足を捜して出すと、彼は左腕の下にたくしこむ前に、感嘆して見ていた。彼のポケットのひとつは鮮やかな赤だったが、薬包で膨れていて、もうひとつのポケットからは(濃い青だったが)『タウスン航海術』やその他のものがのぞいていた。彼は再び荒野と出会うのに、すばらしくきちんと準備をしたつもりのようだった。『ああ! あんな人には決して二度と会うことはないでしょう。あなたはあの人が詩を読むのを聞くべきでしたよ――彼が作ったんだと言っていました。詩ですよ!』彼は楽しそうに思い出しながら、目をぎょろぎょろさせた。『ああ、彼は私の心を広げてくれたんです!』『それじゃ、さようなら』と僕は言った。彼は握手をし、夜の中に消えた。僕は本当に彼に会ったのかと、時々自問するんだ――あんな変わった人物に会うことができるものかとね!……
夜中過ぎに目が覚めると、彼の警告を思い出した。それは危険を暗示していて、この星の出た暗闇の中でリアルに思え、僕はあたりを見回す為に起き上がった。丘の上では大きな火が燃え、出張所の建物の歪んだ角を断続的に照らしだしていた。代理人の一人が武装した二、三人の黒人の監視人を率いて、象牙を守っていた。だが森の奥深くには真黒な、見分けのつかない円柱形のものの間でゆらめき、地面から沈んだり上がったりしているような赤い輝きが、クルツの崇拝者達が不安な様子で寝ずの番をしている野営地の正確な場所を示していた。大きな太鼓の単調な音が、こもった音でいつまでも震えながら大気を満たしていた。何か奇妙な呪文のようなものをそれぞれに唱える、たくさんの男達の単調でものうい声が、蜂のブンブン唸る音が蜂の巣から聞こえるように、暗く平たい壁のような森から聞こえてきて、半分目覚めた感覚に奇妙な眠りを誘った。僕は手すりにもたれてうとうとしていたと思うが、突然叫び声がし、それは鬱積した神秘的な熱狂が抗しきれず圧倒的に爆発したようで、当惑しながら驚き、完全に目が覚めた。それはたちまちとぎれ、低いものうい声がかろうじて聞き取れる程だったが、なだめるような静けさと共に続いた。僕は何気なく小さい船室を覗きこんだ。中ではランプの火が燃えていたが、クルツ氏はそこにはいなかった。
もし自分の目を信じていたら、僕は叫び声を上げていただろう。だが最初は自分の目を信じなかった――それはあまりにもありえないことに思えたんだ。事実は全くのぼんやりした恐怖、はっきりした物理的危険とは無関係の、純粋に抽象的な恐怖に完全に気力を失ったんだ。この感情をそんなに圧倒的にしたのは――何て言ったらいいのか――道徳的なショックだった。まるで考えることもできず、魂にとって唾棄すべき、全くゾッとするような何かを突然押しつけられたようだった。このことは、もちろんほんのちょっとの間続いたに過ぎなかった。そしてそれから、ありふれた致命的な危険、突然の攻撃や大虐殺とか、そういった種類の可能性といったものが迫って来るという感じに変わっていったが、むしろその方が嬉しく落ち着くものだった。実際僕の心は静まったから、叫び声は上げなかった。
アルスター外套のボタンをかけて、三フィートと離れていない甲板の椅子の上で眠っている代理人がいた。彼は叫び声を聞いても起きなかったんだ。かすかにいびきをかいていた。僕は彼をそのままにして、河岸に飛び下りた。僕はクルツ氏を裏切らなかった――彼を裏切ってはならないということは、言わば命じられていた――自分が選んだ悪夢に忠実でなければならないと、定められていたんだ。僕は一人だけでこの影と取引したかった――そしてあの経験の特異な陰欝さを、なぜ誰かとあんなにも共有したがらなかったのか、今日まで分からない。
河岸に下りると、すぐ足跡を見つけた――草原の中に大きな足跡があったんだ。僕は大喜びで独り言を言ったのを覚えている。『彼は歩けない――四つんばいで這っている――彼を捕まえたぞ』草は露で濡れていた。僕は拳を握り締め、すばやく大股で歩いた。彼を襲って殴ってやろうと、ぼんやりと考えていたんだと思う。分からないけどね。何か馬鹿なことを考えていたんだ。猫を抱いて編物をしている老女が、こうした事件の端に座っているひどくそぐわない人物のように、僕の記憶に現れた。僕にはまた、巡礼達が一列に並んでウィンチェスター銃を腰に構え、撃っている姿が見えた。蒸気船には絶対戻らないつもりで、年をとるまで森の中で武器も持たず、一人で暮らしている自分を想像した。愚かなことだけどね――分かるだろう。そしてまた僕は、太鼓の音と自分の心臓の鼓動をごっちゃにして、その静かな規則正しさを喜んでいたんだ。
だが僕は、足跡をつけ続けていた――それから耳をすまそうとして止まった。とても澄みきった夜だった。露と星明かりできらめく濃い青の空間に、黒いものがとても静かに立っていた。僕は前方に何かが動いているのが見えたように思った。その夜は、全てのことに奇妙にも自信があった。実際足跡を離れ、僕が何か見たとしたらだが、あの動くものの前に出る為に、大きく半円形を描いて回った(僕は一人でほくそ笑んでいたと本当に思う)。まるで子供じみたゲームのように、僕はクルツを迂回していたんだ。
僕は彼にぶつかった。そしてもし彼が僕が近づく音を聞いていなかったら、僕も彼の上に倒れていたかもしれない。だが、彼はすぐに立ち上がった。彼は起き上がったが、地面から吐き出された霧のようにぐらぐらして細長く、青ざめぼんやり見えた。そしてかすかに体を揺らし、僕の前で霧のように静かだった。彼の背後では木々の間で火がぼんやり現れ、たくさんの声の呟きが森の中から起こった。僕はうまく彼を遮っていた。だが実際彼と向かい合うと正気に戻り、その危険が本当に分かってきた。それはまだ終わっていなかった。もし彼が叫んでいたとしたら? 彼はほとんど立つことさえできなかったが、声にはまだ充分な力が残っていた。『あっちに行ってくれ――隠れるんだ』と、彼は深遠な調子で言った。それはとても恐ろしかった。僕はチラッと振り返った。彼らは、最も近い焚き火から三〇ヤードとない所にいた。黒い影が立ち上がり、長く黒い腕を振りながら、火を横切って長く黒い足で大股に歩いて行った。それは頭に角を――カモシカの角だと思うが――つけていた。きっと魔法使いか祈祷師か何かだ。それは充分悪魔のように見えた。『あなたは自分のしていることが、分かっているんですか』と僕は囁いた。『完全に分かっている』その一言を声を張り上げながら言った。それは拡声器を通して叫んでいるように、遠くて声高に聞こえた。もし彼が騒ぎを起こしたら最後だと、僕は内心思った。この影――このさ迷い苦しんだものを、当然ながら叩きたくないという思いは別にしても、これは明らかに殴り合いの場合ではなかった。『あなたはだめに――全くだめになってしまいますよ』と僕は言った。時にはそんな風にインスピレーションがひらめくことがあるもんだ、分かるだろう。僕の言っていることは、実際正しかった。と言っても、この時彼はこれ以上取り返しがつかない程自分を見失っていたんだが。そしてこの時、僕達の親密な関係の基礎が築かれつつあった――最後まで――最後まで――死の世界まで――いやそこをも越えて。
『私には壮大な計画があった』と、彼はゆっくり呟いた。『分かります』と僕は言った。『でもあなたが叫ぼうとしたら、僕はあなたの頭を殴りますよ――』だが近くには棒きれも石ころもなかった。『僕は永久に、あなたの喉を絞めますよ』僕は言い直した。『私は今にも偉大なことを手がけようとしていたんだ』と、彼は思い焦がれるような、切望するような声で言ったから、僕は血管が冷たくなるような気がした。『そしてこの馬鹿な悪党の為に――』『ヨーロッパでのあなたの成功は、どんな時でも請け合いますよ』と、僕は落ち着いて言い切った。僕は彼の喉を絞めたくはなかった、分かるだろう――そして実際、それはどんな実際的な目的があったとしても、ほとんど役には立たなかっただろう。僕は呪縛を破ろうとした――荒野の重々しい無言の呪縛――忘れ去られた獣のような本能の目覚めと、満足した恐ろしい激情の記憶によって、彼をその無慈悲な胸へと抱きこんだ呪縛を――破ろうとした。この呪縛だけが彼を森の奥へ、ジャングルヘ、焚き火の方へ、太鼓の鼓動の方へ、不思議な呪文の音へと駆り立てたのだと僕は確信する。これだけが彼の不道徳な魂を、許された野望の限界を越えて欺いたのだ。そして君達には分からない。その立場の恐さは、頭を殴られることにあったんじゃなくて――その危険性もはっきり感じてはいたが――つまり、何か高尚なものや卑しいものの名によって訴えることができないような人物と交渉しなければならない、ということにあった。僕は黒人達のように彼に――彼自身に――彼自身の高尚で信じられない程の堕落に――訴えなければならなかった。彼の上にも下にも何もなかったんだ。そして僕はそのことを知っていた。彼は自分自身をこの地上から解き放っていた。畜生! 彼はまさにこの地上をバラバラに蹴散らしていた。彼はただ一人だった。そして僕は彼の前で、自分が地上に立っているのか、空中に浮かんでいるのか分からなかった。僕は僕達が語ったことを君達に話してきた――僕達が交した言葉を繰り返してきた――だがそれが何になるんだ? それらは普通の毎日使う言葉で――毎日交されるありふれた曖昧な声だ。だが、それがどうしたというんだ。僕にとってはそれらの言葉の背後には、夢の中で聞いた言葉、悪夢の中で話された言葉を恐ろしい程連想させるものがあった。魂だ! 魂と格闘した人間があるとしたら、それは僕に他ならない。そしてまた僕は、狂人と議論しているのではなかった。信じようと信じまいと、彼の知性は完全に明晰だった――恐ろしい程強烈に自分自身に集中していたのは事実だが、明晰だった。そしてそこに僕の唯一のチャンスがあった――もちろん、その場ですぐに彼を殺してしまうことを除いてね。そうすると、騒ぎになることは避けられなくて、あまりよくなかったからだ。だが彼の魂は狂っていた。たった一人で荒野にいて、魂そのものを見つめていた為に、神かけて言うが! それは狂ってしまったんだ。僕は――僕の罪の為にそう思うのだが――自分自身の魂を覗きこむという、試練を経験しなければならなかった。どんな雄弁も、彼の最後の真実の叫び程、人類の信頼を萎えさせるものはなかっただろう。彼もまた自分自身と戦ったのだ。僕はそれを見――聞きもした。どんな束縛も信仰も恐怖も知らない魂、だがそれ自身と盲目的に戦っている魂の想像もつかない程の神秘を僕は見たんだ。僕はかなり落ち着いていた。だが最後に彼を寝椅子に寝かせた時は、額をぬぐった。そしてまるであの丘を一トンもの荷物を背負って運んだかのように、両足はブルブル震えていた。それでも彼の骨ばった腕は僕の首に巻きつけられ、僕はただ彼を支えているだけだった――そして彼は子供位の軽さしかなかったんだ。
翌日昼頃に僕達が出発する時、カーテンのような木々の背後でその存在を僕が始終鋭く意識していた群衆が、再び森の中から流れ出て来て空き地を満たし、裸で息をし、震える青銅色の体の人々が斜面を覆いつくした。僕は蒸気船を少し進め、それから下流に旋回すると、荒々しい悪魔が恐ろしいしっぽで水を打ち、黒い煙を空中に吐き出しながら水をはね返し、ドシンドシンと音を立てて動くのを、二〇〇〇の目が追っていた。岸に沿った一番目の列の正面には、真っ赤な土を頭から足先まで塗った三人の男達が、落ち着かない様子で行ったり来たりしていた。僕達が再び並ぶと、彼らは河の方を向き、足を踏み鳴らし、角をつけた頭を振り、緋色の体を揺さぶった。彼らは恐ろしい河の悪魔の方に向かって、黒い羽の束と垂れ下がったしっぽのようなもの――乾燥したひょうたんのように見えたが――がついた汚い毛皮を振った。彼らは人間の言葉とは似ても似つかないような、驚くべきひと続きの言葉を時々一緒になって叫んでいた。そして群衆の低い呟きは突然中断されたが、何か悪魔の連祷(れんとう)への反応のようだった。
僕達はクルツを操舵室に運んだ。そちらの方が空気がよかったからだ。寝椅子に横たわりながら、彼は開いたよろい戸を凝視していた。人だかりのひとつの渦があり、ヘルメットをかぶり黄褐色の頬をしたあの女が、河のまさに水際に走り出して来た。彼女は両手を差し出し、何か叫んだ。するとひどく興奮した群衆がその叫びに唱和し、はっきりした、早くて息もつかない言葉の唸るような合唱になった。
『あなたはこれが分かりますか』と僕は聞いた。
彼は悩みと憎悪の交った表情と燃えるような憧れる目で、僕の向こう側を見ていた。彼は答えなかった。だが僕は笑みが、名状しがたい意味のこもった笑みが、彼の血の気のない唇に現れたが、すぐに発作的に引きつるのを見た。『そうじゃないと言うのかね』と、彼はまるで言葉が超自然的な力によってもぎ取られたかのように、ゆっくり喘ぎながら言った。
僕は汽笛の紐を引っ張った。僕がそうしたのは、甲板にいる巡礼達が何か面白いことを期待するような様子で、銃を持って出て来たからだ。突然の鋭い音に、あの楔形の一団の人々は、絶望的な恐怖の為に動きだした。『やめろ! 彼らを驚かすのはやめろ』と、甲板にいた誰かがやるせないように叫んだ。僕は何度も汽笛を引っ張った。彼らは散り散りに走り去り、跳び上がり、うずくまり、迷い出し、飛んで来るその恐ろしい音から身をかわす者もいた。三人の赤い奴らが、全く撃たれたように顔を岸に向けて、バッタリ倒れた。あの未開の華麗な女だけが、たじろぎもしなかった。そして暗く光る河の上に、僕達の方を追ってあらわな腕を悲劇的に広げていた。
そしてそれから甲板の上のあの馬鹿な集団は、ちょっとした面白いことを始めた。そして煙のせいで、それ以上は何も見えなかった。

茶色い河は、上流への旅の時の二倍のスピードで海に向かって僕達を運びながら、闇の奥から急速度で流れて行った。そしてクルツの生命も、彼の心臓から無情な時の海へと流れ出していた。支配人はひどく落ち着いて、今では重大な心配はなかったから、僕達二人を寛容で満足した様子で見た。あの「事件」〔作品前半部でマーロウが出張所に到着した時、蒸気船が壊れていてその修理に約三ヶ月かかるという場面があるが、そのことを指しているようである〕は、彼が最も願う形で起こっていたんだ。僕は「不健全な方法」組として、そっとしておかれる時が近づいているのが分かった。巡礼達はうとましい目で僕を見ていた。僕は言わば、死者と共に数えられていた。この不測の友情、このあさましく貪欲な亡霊達によって侵略された暗黒の土地で押しつけられた悪夢の選択を、僕がどのようにして受け入れたのかは不思議だ。
クルツは語った。声だ! 声なんだ! その声はまさに最後まで低く鳴り響いた。それは彼の体力がなくなっても残り、雄弁の壮大な襞(ひだ)の中に彼の心の荒れ果てた暗闇を隠していた。ああ、彼は戦った! 戦ったんだ! 彼の疲れ果て荒廃した頭脳は、今や影のようなイメージ――崇高で高尚な表現力の消えずに残っていた才能の囲りで、媚びへつらうようにめぐっている富と名誉のイメージにつきまとわれていた。私の婚約者、私の出張所、私の思想――これらはしばしば述べられた高尚な感情の主題だった。元々のクルツの亡霊が、その運命は原始の地面にまもなく埋められることになっていたうつろな偽物の枕元にしばしば訪れたんだ。だが彼が探検した神秘に対する悪魔的な愛とこの世ならぬ憎悪が原始の感情に飽き飽きし、偽りの名誉、偽りの名声、あらゆる成功と権力の見せかけを貪った彼の魂を占有しようと戦っていた。
彼は時々情けない程子供っぽいことがあった。彼は偉大なことを成し遂げるつもりだった。ゾッとするような、どこともしれない所から戻った時、鉄道の駅に王を伺候させることを望んでいた。『本当に有益なものが君にあるということを、彼らに見せてやるんだ。そうすれば、君の手腕を限りなく認めてくれるだろう』と、彼は言うのだった。『もちろん、動機には気をつけなくてはならん――正しい動機だ――いつもな』どこも同じ河筋で、全く似ている単調なカーヴが、幾千年も続くたくさんの木々がこの別世界の汚れた断片、変化、征服、交易、虐殺、祝福の前触れを辛抱強く見ている中で蒸気船を滑るように過ぎて行った。僕は舵を取りながら――前方を見た。『よろい戸を閉めてくれ』と、ある日クルツが突然言った。『これを見ていることには耐えられない』僕は従った。沈黙があった。『ああ、だが俺はいつかお前の心臓を締めつけてやるぞ!』と、彼は目に見えない荒野に向かって叫んだ。
僕達の船は故障した――僕が予期していた通りだ――それである島の先端で、修理の為に停泊しなければならなかった。この遅れはクルツの自信をぐらつかせた最初のことだった。ある朝彼は書類の束と一枚の写真を――靴紐で結んだ一組だったが――僕に渡した。『私の為にこれを預かってくれ』と彼は言った。『あの不愉快な馬鹿が(支配人のことだが)、私が見ていない時箱を覗きかねないからな』午後になって僕は彼を見舞った。彼は目を閉じて仰向けになっていたから、僕は静かに出ようとしたが、彼が呟くのが聞こえた。『正しく生きるんだ。そして死ぬ時は……死ぬ時は……』僕は耳をすました。それ以上は聞こえなかった。彼は眠りの中で、何か講演の稽古をしていたのだろうか、それとも何か新聞記事の文句の断片だったのだろうか。彼は新聞に寄稿していたし、『彼の思想を発展させる為に、そしてそれは義務なのだが』、再び書くつもりだった。彼の暗黒は測り知れなかった。僕は太陽が決して輝くことのない断崖の底に横たわっている男を凝視するように、見ていた。だが僕には彼の為に割く時間はあまりなかった。というのは、機関士が漏れやすいシリンダーを分解したり、曲がった連接棒を伸ばしたり、その他そんなことをするのを手伝っていたからだ。僕は錆、やすり粉、留めねじ、ねじ釘、スパナ、金槌、追歯ぎり――うまくいかないから、大嫌いなものだが――こうした我慢できない程の混乱の中で生活していた。僕は運よく積んでいた小さいふいごを見張ったり、汚いごみの山の中でうんざりしながら働いた――我慢できない程の震えがなければね。
ある夜蝋燭を持って行くと、彼がちょっと震えながら『私は死を待ちながら、ここで闇の中で横たわっている』と言うのを聞いて、僕はぎょっとした。ランプの炎は彼の目から一フィートとない所にあったのだ。僕は無理に『ああ、何て馬鹿げたことを!』と呟き、まるで釘づけになったように彼を覗きこんだ。
彼の顔を襲ったあの変化に似たものを、僕は以前に見たことがないし、また二度と見たくない。いや、僕は感動したのではなかった。魅了されたんだ。それはあたかもヴェールが引き裂かれたようなものだった。僕はあの象牙のような顔に暗い自尊心、無情な力、臆病な恐怖――強烈で希望のない絶望の――表情を見た。彼は完全に物が見えた至高の瞬間に欲望、誘惑、降伏を細かにたどりながら、再び彼の人生を生きていたのだろうか。彼は何かのイメージ、何かのヴィジョンに向かって叫んだ――ほとんど息にすぎない声で二度叫んだ――。
『恐い! 恐いよ!』
僕は蝋燭を吹き消して船室を出た。巡礼達は食堂で食事をとっていた。僕が支配人の反対側の席に着くと、彼はいぶかしそうな目で僕を見上げたが、うまく無視した。彼は後ろにもたれ、外には表れない彼の卑しさの深さを封印する、あの独特の笑みをもらして、落ち着いていた。小さい蝿の群れがランプ、布きれ、僕達の顔を流れるように絶え間なく襲った。突然支配人のボーイが戸口の所に横柄な黒い顔を出し、冷酷で軽蔑するような調子で言った。
『クルツさん、死んでるよ』〔T・S・エリオットの詩『うつろな人間たち』のエピグラフとして引用され、現代人の精神的荒廃、死を暗示する言葉として有名である〕
巡礼達が皆、見に走り出した。僕は残り、食事を続けた。僕はひどく冷淡だと思われたと思う。食はあまり進んでいなかったけどね。そこにはランプがあった――光だ、分からないかい――そして外はすごく、ものすごく暗かった。僕はこの世での魂の冒険に審判を下した非凡な男に、それ以上近づかなかった。あの声はなくなっていた。そこに他に何があっただろうか。だが僕は、翌日巡礼達が何かを泥の穴に埋めたことにはもちろん気づいていた。
そしてそれから、彼らは危うく僕をも埋める所だった。
しかしながら、御覧の通り、僕はそこですぐにクルツの元には行かなかった。そうはしなかった。僕は最後まで悪夢を見、もう一度クルツヘの忠誠を示した。運命、運命なんだ! 人生は茶番のようなものだ――空しい目的の為に、無情な論理が謎のように配列されているだけだ。君達がそこから望みうる最大のことは、自分自身に対する何らかの知――それはあまりに遅くやって来るが――消すことのできない後悔の収獲物だ。僕は死と格闘した。それは君達が想像できる、最も面白くない戦いだ。それは実体のない灰色の世界で、足元には何もなく、周囲にも何もなく、見物人もおらず、叫び声もなく、栄光もなく、勝利の大きな欲望もなく、敗北への大きな恐れもなく、生ぬるい懐疑主義のうんざりするような雰囲気の中で、自分自身の正しさをそれ程信じることもなく、まして敵の正しさを信じることなんかない中で起こるんだ。それが究極の知の形なら、人生は僕達の何人かが考えているよりも大きな謎だ。僕はもう少しで最後の通告を受ける所だった。そして恥ずかしいが、多分僕には何も言うことがないのだと気づいた。そういう訳で、僕はクルツが非凡な人間だったと判断するんだ。彼には言うことがあった。そしてそれを言ったのだ。僕は死の縁を覗きこんでいたから、蝋燭の炎は見えないのに、全宇宙を抱擁する程大きく、闇の中で脈打つあらゆる心臓を貫通する程鋭い彼の凝視の意味が、よく理解できるのだ。彼は全てを要約していた――彼は判断を下していたんだ。『恐いよ!』と。彼は非凡な人だった。結局これは何らかの信念の表明だった。そこには率直さがあり、確信があり、その囁きの中には反乱の響きがあり、真実を一瞥して愕然とした顔――欲望と憎しみが奇妙に交り合った顔があった。そして僕が最もよく覚えているのは、自分自身の最後の苦しみではない――肉体的苦痛に満ちた形のない灰色の幻影、そしてあらゆるもののはかなさに対する無頓着な侮蔑――この苦痛そのものについてさえも。いや、そうじゃない! 僕が生きたように思えるのは、彼の最後の苦しみだ。確かに彼は最後の一歩を踏み出し、断崖に足をかけていた。一方僕は、ためらう足を後ろに引くことを許されていたのだ。そしておそらく、ここに大きな違いがある。多分あらゆる知恵、真実、誠実さは、僕達が目に見えない世界の閾をまたぐ、感知できない瞬間に凝縮されているのだ。多分ね! 僕は自分の要約が、無頓着な侮蔑の言葉ではなかったと考えたい。彼の叫びの方がいいのだ――はるかにね。それは数えきれない程の敗北と忌まわしい恐怖と満足を犠牲にして得られた肯定の言葉であり、道徳的勝利だった。だがそれは勝利だった! そういう訳で、僕は最後まで、そして死を越えてまで、クルツに忠実であり続けたのだ。そしてそのずっと後になって、僕は彼自身の声ではなく、水晶の断崖と同じ位透明で純粋な魂から投げられた、壮大な雄弁の響きをもう一度聞いたのだ。
いや、彼らは僕を埋めはしなかった。希望も欲望もない、想像もできないような世界を通るように、震え驚きながらぼんやり思い出す時期もあったけどね。お互いにちょっとした金をくすね、ひどい料理を貪り、体に悪いビールをがぶ飲みし、愚かでつまらない夢を見て、通りを急いでいる人々の様子に憤然としながら、気がつくと僕はあの墓場のような町に戻っていた〔小説前半部でマーロウがアフリカに向かう前に、会社と契約した町〕。彼らは僕の考えの中に侵入してきた。彼らが人生について知っていることは、苛々する見せかけにすぎない侵入者だった。というのは、彼らは僕が知っていることをとても知りえないということを、確信していたからだ。完全な安全を確信して、せっせと仕事をしている平凡な個人の態度でしかない彼らの態度は、危険を前にして理解できない愚行をこれみよがしに見せびらかしているように、僕には癪にさわるものだった。僕は彼らを啓発したいという気持ちは特になかったが、愚かな尊大さに満ちた彼らの顔を前にして、笑うことを抑えきれなかった。おそらくあの頃は、具合もよくなかったのだろう。僕は通りをよろよろと歩いた――解決しなければならないいろんな事件があって――申し分なく上品な人々を苦々しげに笑っていた。僕の態度が、言訳できないものであったことは認める。だが僕は、その頃はあまり元気じゃなかった。親愛なるおばの『健康を回復させる』という努力は、全く的外れのように思えた。看病を必要としていたのは僕の体力ではなく、なだめる必要があったのは僕の心だった。僕はクルツから預かった書類の束を、どうしてよいか分からずに持ったままだった。彼の母親は、聞いた所によると、彼の婚約者に看護されて最近亡くなったらしかった。きれいに髭を剃り、役人ぶった態度の金縁眼鏡をかけた男が、ある日僕を訪ねて来て、最初は遠回しに、後になると慇懃に急き立てるように、彼のいわゆるある種の『書類』と称するものについて尋ねた。僕は驚かなかった。というのは、その問題については、向こうで支配人と二度喧嘩していたからだ。僕はあの包みから最も小さい切れ端も渡すことを拒否していた。そして眼鏡をかけた男も同じ態度を取った。彼はついに険悪な程威嚇的になり、ひどく激怒して、会社はその『領土』について全ての情報を、手に入れる権利があると主張した。そして彼は言った。『クルツ氏の未踏の地域についての知識はきっと広く、特別に違いありません――彼の非常な能力と置かれていたひどい状況によると、それ故――』僕は彼に、クルツ氏の知識はどんなに広くても、交易や管理とは関係ないと断言した。彼はそれから科学の名を引き合いに出した。『莫大な損失になるだろう、もし』等々だ。僕は『蛮習の防止』についての報告書を、後記を破いて彼に渡した。彼は熱心に読み始めたが、しまいには軽蔑した様子でそれを鼻であしらった。『これは、我々が見る権利があると思っていたものじゃありません』と彼は述べた。『他に期待できるものは何もありません。後は個人的な手紙だけです』と僕は言った。彼は何か法律的処置のことで脅して、帰って行った。そして僕はその後、彼とは会わなかった。だがクルツの従兄弟だと称する別の奴が二日後に現れて、親類の最後について、詳しく知りたいと言ってきた。そしてその時彼は、クルツが本来すばらしい音楽家でもあったと、僕に教えてくれた。『成功する素質が非常にあったんです』と、オルガン奏者だったと思うが、長い灰色の髪を脂じみたコートの襟まで垂らした男は言った。彼の言葉を疑う理由は、僕にはなかった。クルツの職業が何だったのか、彼は職業を持っていたのか――彼の才能で最も優れたものは何だったのか、僕は今日まで分からない。僕は彼のことを、新聞に描いていた画家か、そうでなければ、絵が描けるジャーナリストだと思っていた――だがその従兄弟でさえ(彼は会見の間かぎ煙草を吸っていたが)彼が何だったのか――正確には言えなかった。彼は万能の天才だと言った――その点については僕はその男に同意したが、そこで彼は大きな木綿のハンカチで鼻をかみ、家族の手紙と重要でもない備忘録を持って、老いぼれた様子で興奮して帰って行った。最後に、『親愛なる同僚』の運命について知りたがっているジャーナリストが現れた。この訪問者は、クルツの本領は『民衆の側での』政治であった筈だと言った。彼は太い一文字眉に、短く刈りこんだ硬い毛をしていて、幅広のリボンのついた片眼鏡をかけていたが、愛想よくなって、クルツは実は全く文章なんか書けなかった、とまで言った。『だが、ああ、あの人は何て話がうまかったことか! 彼は大衆を感動させたんです。彼には信念があった――分かりませんか?――信念があったんです。彼は何でも――何でも信じることができたんです。彼は急進党の立派なリーダーになっていただろうに』『何党だって?』と僕は聞いた。『何党でもいいんです』と彼は答えた。『彼は何て言うか――過激派でしたからね。あなたもそう思いませんか?』僕は同意した。彼は突然好奇心に駆られて、『彼が向こうに行く気になったのは何故か、知っていますか』と聞いた。『ええ』と僕は言い、すばらしい報告書を手渡して、もしよければ出版したらどうかと言った。彼はずっとぶつぶつ言いながら、慌ただしくそれを見て『いいだろう』と言って、この戦利品を持って帰って行った。
かくして最後に僕の手元に残ったのは、手紙の小さな束とある女性の写真だった。彼女は美しいと僕には思えた――僕が言うのは、彼女の表情が美しいという意味だ。日光が嘘をつくことがあることは、僕も知っている。だが光とポーズでどんなにごまかしても、あの顔立ちの真実溢れる微妙な綾を伝えることはできないだろうと感じたんだ。彼女は隠しだてをしたり、疑いをもったり、自分で物を考えたりしないで、喜んで人の話に耳を傾ける人のように思えた。僕は一人で会いに行って、彼女の写真と手紙を返すことにした。好奇心かって? そうだね。それに多分、別の気持ちもあった。クルツの物だった物は、全て僕の手から離れた。彼の魂も、肉体も、出張所も、計画も、象牙も、経歴もね。彼の記憶と婚約者だけが残っていた――そして僕はある意味ではそれをも過去に葬り――彼についての記憶の全てを、僕達の共通の運命の最後の言葉である忘却へと、個人的に手渡したかった。自己弁護をするつもりはない。僕には自分が本当にしたかったのは何だったのか、はっきり分からない。多分それは無意識の忠誠への衝動か、あるいは人間存在の事実に潜んでいる、あの皮肉な宿命のひとつを実現することだったのかもしれない。僕には分からない。分からないんだ。だが僕は行った。
彼の記憶は、全ての人の人生にふり積もる死者の記憶――すばやく訪れては通り過ぎる影が、脳裏にぼんやりと刻みつけるようなものだと思っていた。だが高くてどっしりとしたドアの前で、墓場の手入れの行き届いた小道と同じ位静かできちんとした通りの高い家々の前で、僕は担架の上で全ての人間と共に大地全体を呑みこむように貪欲に口を開けている彼の幻影を見ていた。彼はその時僕の前で生きていた。彼はかつてと同じ位生き生きと生きていた――すばらしい見かけ、恐るべき現実に飽くことを知らない幻影、夜の影より暗く華麗な雄弁の襞に崇高に包まれた幻影として。その幻影は僕と一緒に家に入って来るように思えた――担架、幻影の担ぎ手、柔順な崇拝者の凶暴な群れ、森の暗闇、暗いカーヴの間の河筋の輝き、心臓――征服する闇の心臓の鼓動のように、規則正しく低く響く太鼓の音。それは荒野が復讐に燃えて侵入しようと押し寄せる勝利の瞬間だったが、もうひとつの魂の救済の為に、僕は一人で妨げなければならないように思えた。そして辛抱強い森の中で焚き火が燃え、角をつけた影が背後で動き、あの遠くで彼が言うのを聞いた思い出、あのとぎれとぎれの言葉が戻ってきて、不吉で恐ろしい程単純に、再び聞こえたんだ。僕は彼の惨めな弁解、あさましい脅し、途方もない程下劣な欲望、卑劣さ、苦悩、魂の激しい痛みを思い出した。そして彼が後になってある日『このたくさんの象牙は、今では本当は私のものだ。会社は金を払わなかったからな。私は大きな危険を冒して一人でこれを集めたんだ。だが彼らはこれを自分達のものだと主張するだろうと思うが。うむ、難しい状況だ。私はどうするべきだと思うかね――抵抗するか? 私は正義だけが欲しい』と言った時の、落ち着いた物うい様子を見ているようだった……彼は正義が欲しかった――正義だけが。僕は二階のマホガニーのドアの前でベルを鳴らした。そして僕が待っている間、彼はガラス質の鏡板から僕を凝視して――全宇宙を抱擁し、糾弾し、嫌悪する大きく見開いた目でじっと見ているように思えた。『恐い! 恐いよ!』という囁きにすぎない叫びを、僕は聞いたように思えた。
夕暮れが迫っていた。三つの輝き、布をまとった柱のような、床から天井まである三つの長い窓のある、堂々とした応接室で僕は待たなくてはならなかった。調度品の金箔を施した曲がった脚と背もたれが、ぼやけた曲線の中で輝いた。高い大理石の暖炉は、冷たい墓石のように白かった。グランドピアノが隅にどっしりとあり、くすんで磨かれた石棺のように、平らな表面には暗い輝きがあった。背の高いドアが開き――閉まった。僕は立ち上がった。
彼女は薄暗がりの中で黒い服に身を包み、青白い顔をして、浮遊するようにこちらにやって来た。彼女は喪に服していたのだ。彼の死から一年以上が経ち、そのニュースが届いてから一年以上が経っていた。まるで永遠に彼のことを覚え、悼(いた)んでいるようだった。彼女は僕の両手を取り、呟いた。『あなたが来られることは、聞いていました』僕は彼女がそんなに若くない――つまり少女らしくないことに気づいた。彼女は貞節、信頼、苦しみを受け入れる成熟した力をもっていた。まるで曇った夜の全ての悲しい光が彼女の顔に避難しているかのように、部屋は更に暗くなったようだった。この金髪、青白い顔、清らかな額は灰色の光輪に包まれ、そこから黒い瞳が僕をじっと見ているようだった。その目は率直で、深遠で、信頼に満ちていた。彼女はまるでその悲しみを誇っているかのように、私――私だけがあの人の死の悼み方を充分知っているのですとでも言うように、顔を高くもたげていた。だが僕達がまだ握手をしている間、ひどい悲しみの様子がその顔に表れたから、僕は彼女が時の慰みものではない人間の一人だと気づいた。彼女にとっては、彼はつい昨日亡くなったのだ。そして誓って言うが! その印象はものすごく強烈だったから、僕にとっても彼はつい昨日――いやまさにこの瞬間に亡くなったように思えたんだ。僕はこの同じ瞬間に彼女と彼を見――彼の死と彼女の悲しみを見――彼女の悲しみをまさに彼の死の瞬間に見たのだ。君達に分かるかい? 僕はそれらを同時に見――それらを同時に聞いたんだ。彼女は深々と息を呑むと、言った。『私は生き残ってしまいました』その間僕の緊張した耳は、彼女の絶望的な悲しみの調子と混り合って、彼の永遠の宣告である要約の囁きをはっきりと聞いたように思えた。僕はまるで人間が見てはならない残酷で不合理な謎の場所に迷いこんだかのように、心に恐怖を感じながら、お前は何をしているのかと自問した。彼女は僕に合図して、椅子に座らせた。僕達は座った。僕が包みをそっとテーブルの上に置くと、彼女はその上に手を置いた……『あなたはあの人のことをよく知っていらっしゃったんですね』と、彼女は一瞬悲しそうに黙った後、呟いた。
『向こうでは、すぐ親しくなるんです』と僕は言った。『僕は他の人が知りえない位、彼のことをよく知っていました』
『そしてあなたはあの人を尊敬していらっしゃったんですね』と彼女は言った。『あの人と知り合いになれば、誰だって尊敬しますわ。そうじゃありません?』
『彼は非凡な人でした』と、僕は動揺しながら言った。それから僕の口からそれ以上の言葉が出てくるのを見守っているかのように、訴えるようにじっと見ている前で、僕は続けた。『僕にはそうせざるをえませんでした――』
『あの人は愛さずにはいられない人です』と彼女は熱をこめて言ったから、僕はびっくりして黙った。『その通りです! その通りですわ! でも私程あの人のことをよく知っていた人間はいません。私はあの人から本当に信頼されていました。あの人のことを一番よく知っていたのは、私なんです』
『あなたは彼のことを一番よく知っていたと言うんですね』と僕は繰り返した。多分そうだったんだろう。だが彼女の言葉と共に部屋は暗くなっていき、滑らかで白い顔だけが、信頼と愛の消えることのない光で照らされていた。
『あなたはあの人のお友達でいらしたんですね』と彼女は続けた。『お友達で』と、彼女は少し声を上げて繰り返した。『あの人がこれを渡し、あなたを私の所によこしたのなら、そうだったにちがいありません。あなたにはお話ができるような気がします――そして、ああ! 私は話さなければなりません。私はあなたに――あの人の臨終の言葉を聞かれたあなたに――私があの人にふさわしい女性であったことを、知ってほしいんです……思い上がりではありません……いえ、そうかもしれません! 私は、この世の誰よりもあの人のことを分かっていたということを知っていることを、誇りに思っています――あの人は、そう言ってくれたんです。そしてあの人のお母様が亡くなられてからは、私は誰も――誰も――』
僕は耳を傾けた。夕闇が濃くなった。彼が渡した包みが正しいものだったのかどうか、僕には自信さえなかった。彼が亡くなった後、支配人がランプの下で調べていた別の束を預けたかったのではないかと、むしろ思っているんだ。そしてその女性は僕の同情を確信し、悲しみの苦痛を忘れて話し続けた。彼女は渇いた人が水を飲むように話した。僕は、クルツとの婚約が彼女の家族から賛成されなかったと聞いていた。彼が充分裕福ではないとか、そんなことでだ。そして実際僕は、彼がずっと貧しくなかったかどうかは知らない。彼が向こうに行ったのは、比較的貧乏だったことに我慢できなかったからだと推論せざるをえない理由を、彼が言っていたからだ。
『……あの人が話すのを一度聞いて、友達にならない人はいなかったでしょう』と彼女は言った。『あの人は人々の一番いい所によって、その人達を自分に引きつけたんです』彼女は一心に僕を見た。『それは偉大な人の才能ですわ』と彼女は続け、その低い声は、僕がかつて聞いた謎とわびしさと悲しみに満ちたあらゆる別の音――河のさざ波、風に揺れる木々の鳴る音、黒人達の呟き、遠くから聞こえる理解できない叫び声のかすかな響き、永遠の暗黒の入口を越えた所から聞こえる囁きを――伴っているように思えた。『でもあなたはあの人の話を聞かれたんですね。あなたは知ってらっしゃるんですね!』と彼女は叫んだ。
『ええ、知っています』と、僕は心中絶望のようなものを感じながら言った。だが彼女の信頼の前で、彼女を守ることのできない――自分自身さえ守ることのできない勝ち誇った暗黒の中で、この世のものとは思えない程輝いているあの偉大で、彼女の救いとなっている幻影の前で、僕は頭を下げた。
『私にとって――私達にとって何という損失でしょう!』――彼女は見事な程寛大に、言い直した。それから、呟きながらつけ加えた。『世界にとって』黄昏の最後の輝きによって、涙で――落ちようとしない涙でいっぱいの彼女の目が、きらめくのが見えた。
『私はとても幸福で――とても幸運で――とても誇りに思っていました』と彼女は続けた。『幸福すぎたんです。しばらくの間は幸福すぎる位でした。そして今では私は不幸です――一生』
彼女は立ち上がった。彼女の金髪は、金色の光の中でまだ残っている全ての光を集めているようだった。僕も立ち上がった。
『そしてこうしたもの全ては』と彼女は悲しそうに続けた。『あの人の約束も、偉大さも、寛大な精神も、高潔な心も、何も残っていません――ただ思い出しか。あなたと私が――』
『僕達はいつでも彼のことを憶えていますよ』と、僕は慌てて言った。
『いいえ!』と彼女は叫んだ。『こうしたこと全てが失われるなんて――あの人の生命が犠牲にされ――悲しみしか残らないなんて、ありえませんわ。あの人がどんなに大きな計画をもっていたか、あなたは御存知です。そのことについては、私も知っていました――多分理解はできていませんでした――でも他の人達は知っていました。何かが残るにちがいありません。少なくとも、あの人の言葉はなくなっていません』
『彼の言葉は残るでしょう』と僕は言った。
『そしてあの人の模範も』と、彼女は小声で言った。『人々はあの人を尊敬していました――あの人の徳が、全ての行いの中に輝いていました。あの人の模範は――』
『その通りです』と僕は言った。『彼の模範もです。そうです、彼の模範もです。そのことを忘れていました』
『でも、私は忘れていません。私にはできません――信じられないんです――まだ。もう二度とあの人に会えないなんて。二度と、永遠に、誰もあの人に会えないなんて信じられません』
彼女はまるで退いていく影を追うかのように両腕を差し出し、黒い腕を広げた。そして握りしめた青白い手は、窓の消えていく細い光の方に差し出された。決してあの人に会えない! その時僕ははっきりと彼の姿を見た。僕は生きている限り、この雄弁な幻影を見ることだろう。そして悲劇的でよく知っている亡霊である彼女をも見るだろう。そして彼女のこの身振りは、これもまた悲劇的で、効能のない護符に飾られ、暗黒の流れの輝きの上にあらわな茶色の腕を広げていた、もう一人の女性に似ていた。彼女は突然、ひどく低い声で言った。『あの人は生きていた時と同じように、亡くなりました』
『彼の最後は』と、鈍い怒りが体に湧き上がるのを感じながら、僕は言った。『全ての点において、彼の人生にふさわしいものでした』
『でも私は、あの人の傍にはいなかったんです』と彼女は呟いた。僕の怒りは、限りない同情を感じて静まった。
『できることは何でも――』と、僕はブツブツ言った。
『ええ、でも私はあの人のことをこの世の誰よりも――あの人自身のお母様より――あの人自身よりも信じていました。あの人には私が必要だったんです! 私が! 私はどんな溜息も、言葉も、徴候も、まなざしも大事にしたでしょう』
僕は胸を冷たいもので掴まれたように感じた。『もうお止めになった方が』と、声を押し殺して言った。
『許して下さい。私――私――誰にも話さず――誰にも話さず、本当に長い間悲しんでいたんです……あなたはあの人と一緒だったんですね――最後まで。あの人はどんなに孤独だったかと思います。私のようにあの人を理解できる者は、誰も傍にいなかったんですもの。多分誰も聞く人が……』
『まさしく最後までいました』と、僕は震える声で言った。『僕は彼のまさに最後の言葉を聞き遂げました……』僕はぎょっとして、言いやめた。
『その言葉を言って下さい』と、彼女は悲嘆にくれた調子で呟いた。『私は――何か――何か――生きる支えがほしいんです』
僕は彼女に向かって叫ぶ所だった。『あなたはあれが聞こえないんですか』と。黄昏が僕達の周囲で、しつこい囁きの中で、風が起きる時の最初の囁きのように、脅すようにうねっているような囁きの中で、その言葉を繰り返した。『恐い! 恐いよ!』と。
『あの人の最後の言葉を――生きる支えになるような』と彼女は迫った。『私があの人を愛していたことが、あなたには分からないのですか――私はあの人を愛していたんです――愛していたんです!』
僕は気を静め、ゆっくりと言った。
『彼が言った最後の言葉は――あなたの名前でした(*)』

* マーロウがクルツの婚約者にクルツの最後の言葉を教えずに、言わば嘘をついたことについては、様々な解釈がなされている。最近の批評では、ニーナ・ペリカン・ストラウスに見られるように、彼女が真実を知らされないことを女性排除であり、女性蔑視的だと見なす研究者もいる。自分がクルツを最も理解していたという彼女の言葉に対するマーロウの反応には、確かに幾分アイロニイも感じられる。しかしマーロウの女性観は、女性を「家庭の天使」と見なし、神聖視していたヴィクトリア朝のそれであり、彼女を醜い現実から守る為に敢えて真実を言わなかったと考える方が妥当ではないだろうか。又この作品に女性が周辺的にしか登場しないことについては、男性読者を中心とした『ブラックウッド誌』に最初掲載されたという状況をも考慮する必要があるだろう。スーザン・ジョウンズによると、この雑誌は紳士のクラブ的な性格をもち、しばしば帝国主義的で愛国主義的であったという。


「かすかな溜息が聞こえ、それから僕の心臓はものすごい狂喜の叫び、信じられない程の勝利と言葉では言えない程の苦痛の叫びの為に静かになり、突然止まったようになった。『私には分かっていました――きっとそうだと思っていました!』……彼女には分かっていた。彼女は確信していた。彼女が泣いているのが聞こえた。彼女は両手で顔を隠していた。僕が逃げる前に家が崩れ、天が頭上に落ちて来るのではないかと思えた。だが何も起こらなかった。こんな小さいことで、天は落ちたりしないのだ。だがもし僕が、当然彼が受けるべきあの正義を彼に明け渡していたら、どうなっただろうか。彼は正義だけが必要だと、言わなかっただろうか。だが僕にはできなかった。彼女に言えなかった。そんなことをしたらあまりにも暗く――全くあまりにも暗かっただろう……」
マーロウは話をやめ、瞑想する仏陀のような姿勢で、ぼんやりと静かに離れて座っていた。しばらく誰も動かなかった。「最後の潮を逃してしまったな」と、重役が突然言った。私は目を上げた。沖合には黒い層雲が立ちこめ、この世のさいはてへと通じる穏やかな水路は、曇った空の下を陰気に流れ――限りない暗黒の奥へと通じているようだった。(完)

訳者あとがき

本書はJoseph Conrad, Heart of Darkness, Doubleday, Page & Company, 1903 の全訳である。コンラッドは一九世紀末から二〇世紀初頭というイギリス文学の転換期に、現代小説の先駆となるような実験的小説を書いたイギリス文学史にも名を残す作家であり、世界文学全集や文庫本にも作品が収められているので、改めて紹介する必要もないかもしれない。しかしながら、コンラッドの作品を初めて読まれる人もあると思われるので、ここで作家と作品について、コンラッドの文学を理解するのに重要と思われる点に絞って簡単に紹介したい。
コンラッドは一八五七年一二月三日、ポーランドにアポロ・コジェニオフスキ-とエヴァ・コジェニオフスカの一人息子として生まれた。両親共、ポーランドの人口の約一〇パーセントを占めるシュラフタと呼ばれる貴族階級の出身である。一八六五年、父アポロが反ロシア的な政治活動をしていた為逮捕され、北ロシアに流刑となるが、流刑地での苛酷な生活の為か、一八六五年、母エヴァが肺結核で亡くなり、その四年後父アポロも亡くなり、コンラッドは一一才で孤児となる。その後コンラッドは母方の叔父タデウスにひきとられ養育されるが、一六才の時海員になりたいとの志を告げ、故郷クラコフを後にフランスに向かい、フランス船の船員となる(陸に囲まれたポーランドに生まれたコンラッドが海員になることを希望したことについては、幼い頃から海洋文学に親しんでいたことから生じた海への憧れからだったのか、あるいは政治的な理由からだったのか、現在でもはっきりしないようである)。その後二一才でイギリス船の船員となり世界各地を航海し、最終的には資格試験を経て船長にまでなっている。そして約二〇年間の海員生活を経て、一八九四年に『オールメイヤーの阿呆宮』を世に問い、作家としてデビューしている。一九二四年に亡くなるまで約三〇年間の作家活動の中で、多くの長編小説、中編小説、随筆、劇を書いている。日本で『青春』『台風』等が早くから翻訳され、海洋作家として広く知られている。その他、『ナーシサス号の黒人』『ノストローモ』『密偵』『西欧人の眼に』『勝利』等がこれまでに翻訳されている。
『闇の奥』は蒸気船の船長としてアフリカの奥地に向かったマーロウが、クルツという青年の道徳的堕落を目のあたりにした体験談を、数年後、暮れかかるテムズ河に浮かぶ帆船の上で友人達に語るという設定をとっている。ここでマーロウは、クルツと出会い、再びヨーロッパに戻るまでの旅のプロセスを、時間や距離を提示しながら、そこで出会った様々な風景や人々の印象を語っている。しかし旅行記といっても、マーロウの話は、船上の聞き手「私」が注意を促しているように、決して簡単で直接的ではない。マーロウは、過去の体験をほぼ時間通りに辿ってはいるが、実はその記憶は現在と過去を行きつ戻りつし、その語り方もアイロニイや遠回しな言い方、暗示的表現が多い。文学史的に言えば、印象主義的な語りと言われるものである。読者はそうした様々な表現を注意深く読み取り、クルツ像をイメージしなければならない。
ひとつの文学作品に向かい合う時、読者の経験、知識、感受性は多種多様であり、その受け取り方は千差万別であり、また自由である。そういう意味では、文学作品を読む時、作品に関する知識は必ずしも必要ではない。しかしながら、ある程度の知識が作品の理解を助け、深めることも事実である。特にその作品が時代も遡り、異なった言語で書かれている場合はそうであろう。そこで『闇の奥』を読む時、認識しておいてほしい点をここで書いておきたい。
まず『闇の奥』は、一九世紀末というヨーロッパ列強による植民地戦争が激化し、イギリスでは植民地支配を正当化する愛国的雰囲気が濃厚な時期に書かれたという点である。確かに作品の中には、固有名詞はほとんどでてこない。マーロウが契約のために向かった町は、「白塗りの墓」を思わせるある町にすぎないし、マーロウが向かう場所は大陸の奥地であり、蒸気船で遡って行く河は、その大陸の中央部を流れるとぐろを解いた蛇のような河とされている。このような点では、『闇の奥』は時と場所を越えた普遍的で象徴的な物語としても読める。しかしこの作品が発表された当時の読者にとっては、マーロウが向かったのはコンゴであり、契約の為に訪れた町は当時コンゴを支配していたベルギーの首都ブリュッセルであることは明白である。そのような歴史的状況の中で、白人によるアフリカ支配を痛烈に批判する作品を書くことは、大変勇気のいることだっただろう。『闇の奥』は一八九〇年のコンゴ旅行での体験に基づいていると言われているが、その時の衝撃がこのような作品を書かせたのだろう。ポストコロニアル批評が盛んになってきた今日、コンラッドをレイシストとする批評家もいる。確かに作品中には黒人達に savage や nigger という言葉を使い(この点では、コンラッドが使った言葉に忠実に訳した)、人種差別だと取られかねない箇所もある。しかし全体としては、白人の行いに対して鋭い批判が向けられている。コンラッドは一八八六年にイギリスに帰化しているが、言わば植民地戦争の筆頭に立って戦っていた国の臣民である人間が、このような作品を書いたという点を忘れるべきではないだろう。そしてコンラッドがこのようにヨーロッパ列強の白人達を言わば外から眺め、批判的に書くことができたのは、彼がポーランドという、ロシアによって支配された国に生まれ育ったという背景と切り離せないだろう。
『闇の奥』は一九五八年に、著名な英文学者であり翻訳も広く手がけておられた故中野好夫氏によって翻訳され、岩波文庫から出版され版を重ねて現在に至っている。このような中で、翻訳経験もない私が、難解なことで知られるこの小説の翻訳を思い立ったのは、授業で中野氏の翻訳を使ったのがきっかけであった。確かに翻訳経験が豊かな中野氏の訳は、個性的で見事な言い回しが随所にあり読ませる。しかし現在の大学生にとっては、中野氏の日本語は難しく、古めかしいと感じられる言葉が多く、結果として読みにくいという感想を漏らす者が多かった。私自身マーロウの言葉使いはしっくりしないものがあり、自分ならこのような言葉や表現は使わないだろうと感じた。それは四〇年という時間の経過を考えれば、当然かもしれない。更に、私自身大学時代、授業で『闇の奥』を読んだ時は、中野氏のこの訳に随分御世話になったのだが、授業を進めていく上で原文と照らし合わせていく内に、誤訳が幾つかあることを発見したのである。又内容的にも、理解してもらうには文学的技法や作品が書かれた時代背景について、かなりの説明が必要であった。このような理由から、本訳ではこの小説がマーロウという語り手が自らの体験を友人達に語っているという設定に留意し、作者が使った言葉を大事にしながら、分かり易く自然な言葉で訳すことを試み、註をつけた。勿論、読まれた人は気づかれたと思うが、言葉では表現できないことを表現しようとするマーロウの言葉は決して単純ではなく、非常にレトリカルであるから、この試みには無理がある。しかしそれは作品そのものが内包する矛盾である。このような作品の翻訳を浅学非才な私が試みたのは、活字離れ、文学離れが言われる昨今であるが、コンラッドの小説の面白さを一人でも多くの人に味わってほしかったからである。原文に当たるのが一番よいのだが、英語は難しく、英語の得意な大学生でも、読みこなすには相当の努力が必要だからである。
『闇の奥』の翻訳を始めたのは、五年も前のことである。東北の小さな城下町で、しんしんと雪の降る夜、最後まで訳し終えることができるのだろうかと思いつつ、原稿用紙の升目を埋めていった。その間論文や本を書いたりしたこともあり、いつのまにか五年という歳月が経ってしまった。そして翻訳を終えた今実感しているのは、母国語でない言語でこれだけの作品を書くことのできたコンラッドの偉大さと、自らの日本語、英語力のなさ、そして弁解がましくなるが、翻訳そのものの難しさである。しかし一人でも多くの人がコンラッドと出会うきっかけを作ることができたとしたら、私の少しばかりの努力は意味のあるものになるだろう。
尚、本書は、長崎県立大学学術研究会の助成金(翻訳の部)の交付を受けて発行されたものである。
二〇〇一年二月


主要参考文献

Joseph Conrad, Heart of Darkness,(ed.)Robert Kinbrough(Norton Critical Edition, 1988)
ジョウゼフ・コンラッド『闇の奥』朱牟田夏雄解説註釈(研究社、一九五三年)
ジョウゼフ・コンラッド『闇の奥』中野好夫訳(岩波文庫、一九九四年)
The Shorter Oxford English Dictionary (Oxford UP, 1973)
The Concise Oxford English Dictionary(Oxford UP, 1973)
研究社大英和辞典(研究社、一九八〇年)
リーダーズ英和辞典(研究社、一九九一年)
The 1890s : An Encyclopedia of British Literature, Art, and Culture, (ed.) G.A.Cevasco(Garland Publishing, 1993)
A Dictionary of Symbols, (eds.) Jean Chevalier & Alain Gheerbrant (Blackwell, 1994)
イメージ・シンボル辞典 アト・ド・フリース(大修館書店、一九八四年)
The London Encyclopedia, (eds.) Ben Weinred & Christopher Hibbert (Macmillan, 1993)
The Collected Letters of Joseph Conrad, vol.1, (eds.) Frederick R.Karl & Laurence Davies (Cambridge UP, 1983)
Remond O'Hanlon, Joseph Conrad and Charles Darwin : The Influence of Scientific Thought on Conrad's Fiction (The Salamander Press, 1984)
Zdzislaw Najder, Joseph Conrad : A Chronicle(Rutgers UP, 1984)
Susan Jones, Conrad and Women(Oxford UP, 1999)
沼野充義(監)『世界の歴史と文化――中欧』(新潮社、一九九七年)
加藤正泰(編)『ポーランドの文化と社会』(大明堂、一九七五年)
中野好夫(編)『二十世紀英米文学案内」(研究社、一九七六年)
西脇順三郎(訳)『エリオット詩集』(新潮社、一九七八年)
◆闇の奥◆
コンラッド/岩清水由美子訳

二〇〇七年一月二十五日

著作権所有者 岩清水由美子(C)Yumiko Iwashimizu 2007

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