若きウェルテルの悩み
目次
あわれなウェルテルについての話を、見つけられるかぎりさがして、できるだけ集めました。ここに、お目にかけます。おそらく、喜んでいただけると思います。あなた方は、ウェルテルの精神と心情を讃(たたえ)られ愛され、ウェルテルの運命に涙を惜しまれないでしょう。
心やさしい読者よ、もしあなたが、ウェルテルと同じようにせっぱつまった思いを胸に抱いておられるなら、ウェルテルの受けた苦しみからどうか慰みを汲みとって下さい。まだ、運命のまわりあわせか、あるいはご自身のせいでか、あなたが親しい友だちを見つけられないでおられるなら、どうか、このささやかな本をあなたの伴侶(はんりょ)にして下さい。
一七七一年五月四日
きみと別れてここに来たことを、ぼくはどんなに喜んでいるだろう! 友よ、人間の心なんて妙なものだね。ぼくの大好きなきみ、とうていそばを離れられないと思っていたきみを置き去りにしておきながら、こんなに喜んでいるなんて! でも、きっときみは許してくれるだろう。きみ以外のいろんな連中とのつながりは、運命が、ぼくのような人間の心を不安にさせるために、わざわざ選び出したようなものではなかったろうか。思えば、あのレオノーレには気の毒だった! だが、ぼくの罪ではない。彼女の妹のいっぷう変わった魅力にひかれて、ぼくがなんとなく楽しくなっていたとき、気の毒にもレオノーレの胸に恋心が芽ばえてしまったというわけだ。どうしようもないではないか。でも――まったくぼくの罪ではない、などと言えるだろうか? レオノーレの気持ちをかき立てるようなことはなかっただろうか? レオノーレの生まれながらの素振りはぼくたちをよく笑わせたけれど、たいしておかしくもないのに、ぼくだって楽しそうにしてはいなかっただろうか。それに、ひょっとしてぼくは――。ああ、人間なんて妙なものだね、勝手な愚痴をこぼせるんだから。ねえ、きみ、きみに約束するが、ぼくは心がけを改めるよ。運命がしかけるちょっとした 災 難 を 、いままでのようにくよくよ反芻(はんすう)するのはやめよう。現在を楽しむことだ。過去の事は過去の事だ。きみ、きみの言ったとおりだ。人間が――なぜ、そんなふうになっているのかわからないが――いろいろと想像力を働かせて過ぎ去った不幸の思い出をつぎつぎに呼び戻したりせずに、現在を恬淡(てんたん)として過ごすようになれば、ひとびとの苦しみや悲しみはもっと少なくなるだろう。
すまないが、母に伝えてくれないか。頼まれた用件はちゃんとかたづけて、なるべくはやく結果を報告すると。このことで叔母に会ったけれど、われわれのほうで考えていたような悪い女では全然ないことがわかった。明るい、はきはきした、とてもいいひとだ。ぼくは、遺産の分け前をくれないので母が困っている、と話した。すると叔母は、いろいろ理由や原因を述べ、いくつか条件を出して、それをのんでくれれば何もかも渡そう。しかもわれわれが望んでいる以上に渡すつもりだ、というのだ。――しかしまあ、いまはこの件について何も書きたくない。万事うまくいくだろうと母に伝えてくれたまえ。ねえ、きみ。それにしても、こんどの小さな事件でもわかったんだが、世の中のいざこざは、悪意や策謀から起こるというよりは、むしろ誤解や怠慢から起こるのではないだろうか。少なくとも、悪意や策謀なんて場合は、めったにないのだ。
とにかく、ぼくはここでとても元気だ。楽園のようなこの土地では、ひとりぼっちというのは、ぼくの心にとって得がたい清涼剤だよ。春らんまんのいまの季節は、凍(こご)えがちなぼくの心をあふれるばかりのあたたかさで包んでくれる。木という木、生垣(いけがき)という生垣は、まるで花をいっぱいつけた花園のようだ。ああ。こがね虫にでもなって芳香の海の中を泳ぎまわり、ありとあらゆる養分を見つけることができたらいいんだが。
町自体(じたい)は、そういいところではない。けれども、周囲一帯は自然のえもいえぬ美しさ。だからこそ、あの亡(な)くなったフォン・M伯爵がここの丘のひとつに庭園をつくったのだ。いくつもの丘が交わって、千変万化の美を競(きそ)い、すばらしい谷間をつくり出している。庭園は簡素だが、一歩足を踏み入れれば、設計したのは学者づらした造園家ではなく、ここで悠々(ゆうゆう)自適を楽しもうとした感情こまやかなひとだということがすぐわかる。くずれかかった四阿(あずまや)のなかで、ぼくは亡くなった伯爵を思って、ずいぶん涙を流した。そこは、むかし、伯爵のお気に入りの場所だったが、いまはぼくの好きな場所になった。そのうち、ぼくがこの庭園の主(あるじ)になるだろう。知り合ってほんの二、三日なのに、庭番は、ぼくに好意をもっている。今後もぼくをいやがることはないだろう。
五月十日
ふしぎな明るさが、ぼくの魂のすみずみまでひろがっている。それは、まるでぼくが胸いっぱい味わっている美しい春の朝のような明るさだ。ぼくはひとりだ。ぼくみたいな人間におあつらえむきのこの土地で、しみじみ自分の生活を楽しんでいる。ねえ、きみ、ぼくはとても幸福だ。静かな生活の実感にひたっている。そのため制作のほうはすすまない。いまは画筆をとっても、ひと筆だって描けそうにない。しかし、いまほどぼくが偉大な画家だったことはないのだ。周囲の美しい谷間はけぶっている。高くのぼった太陽が、森の昼なお暗い闇の上層にかかり、神聖な森の奥には、わずかに数条の光がもれてくるだけだ。たぎり落ちる谷川のかたわらの深い草のなかに、ぼくはごろっとして大地に身を寄せ、千差万別の小さな草に好奇の目を見張る。茎と茎のあいだの小さな世界のうごめき、いも虫や蚊の見きわめもつかない数かぎりない姿に、深く心を動かされる。そして、ぼくは感じるのだ。その姿に似せてわれわれを創(つく)った全能の創造主の存在を。永遠の歓喜のなかに、われわれを漂わせ支えてくれる全愛の神のいぶきを。友よ、やがて視界は薄れてあたりの天も地も、恋人の面影のようにぼくの魂のなかに安らう。こんなときに、しばしばあこがれてぼくは思うのだ。「ああ、おまえの内部にこんなに豊かに、こんなにあたたかく生きているものを、おまえは再現することができ、画用紙に浮かびあがらせることができたなら、それはおまえの心の鏡となるだろう。ちょうどおまえの魂が無限の神の鏡であるように」――友よ――だが、そのためにぼくは滅びるだろう。これらのさまざまの現象の壮大な力に圧倒されて、ぼくは、くずおれてしまう。
五月十二日
この地方には、ひとをまどわす妖精が飛びまわっているのだろうか。それとも、この世ならぬ美しい空想力がぼくの胸にやどって、あたりのものをこんなに天国のように見せるのだろうか。町のすぐ近くに泉がある。その泉にぼくはメルジーネ(フランスの古い伝説に出てくる水の精)とその姉妹たちのように、すっかり魅せられてしまった。――小さな丘を降りると、アーチの前に出る。それから二十段ほど降りていくと 、大理石の岩のあいだから 、澄 み きった清水(しみず)がわき出ている。上のほうをおおっている大きな木々。あたりの冷気。すべてが、ひとをひきつけ、胸にしみ入るようだ。ぼくは一日として、ここに腰をおろしてしばらくの時を過ごさない日はない。すると、町から娘たちがやってきて水を汲んでいく。これこそ、古代の王族の娘たちも手ずからやったという、きわめて素朴な、そしてもっともたいせつな仕事なのだ。ぼくがそこにすわってると、むかしの族長時代のイメージがいきいきとよみがえる。かれら族長時代のものたちは、みな泉のそばで知り合い、求婚したものだ。井戸や泉のまわりには、恵みふかい霊がただよっていた。ああ、ぼくのこの気持ちがわからないものは、苦しい夏の日の旅のあとで、泉の冷たさで疲れをいやした経験がないにちがいない。
五月十三日
ぼくの本をこちらに送ってよこそうかと言ってくれたが、きみ、お願いだからよしてくれたまえ。本で首をしめられるのは、まっぴらだ!もう、これ以上教えられたり、励まされたり、促(うなが)されたりしたくない。この胸は、ひとりでじゅうぶんにわき立っている。ぼくに必要なのは子守歌だよ。それなら、ぼくのホメロスのなかに、ふんだんに見つかる。たぎり立つぼくの血潮を、ぼくは子守歌でいくたび寝かしつけたことだろう。きみも知ってるように、ぼくの心みたいに変わりやすく移りやすいものはない。ねえ、きみ、いまさらきみに言うでもあるまい。きみはずいぶんいやな思いをがまんして、ぼくが悲痛から奔放へ、甘い憂いから破滅の激情へ移っていくのを見ていてくれたからね。ぼくは、自分の心を、まるで病気の子供のように扱っている。まったく好きなようにさせているのさ。このことは、あんまり言わないでほしい。ぼくを悪くとる連中もいるからね。
五月十五日
この土地の、身分の低いなんでもない人たちが、もう、ぼくとなじみになり、好意を寄せてくれている。ことに、子どもたちがそうだ。はじめ、ここのひとたちのところへ行って率直にいろいろたずねたりすると、自分たちがばかにされているのかと思って、そっけなく顔をそむける連中もいた。そんなことにいちいちぼくは向かっ腹を立てたりはしなかった。むしろ、これまでに、しばしばそうだと思っていたことが、あらためてはっきりわかっただけだ。つまり、いくらか身分の高い連中は、身分のいやしいひとたちにうっかり近づいたら損をするとでも思っているのか。いつも冷たく遠ざかっている。かと思うと、気まぐれな連中やたちの悪いいたずら者がいて、貧しいひとたちにわざわざ腰を低くして見せ、自分たちが偉いんだということを、いっそう強く思わせようとするんだ。
われわれ人間は平等ではない。いや、平等であることもできない。そんなことは、ぼくもよく承知している。けれども、偉く思われたいために、いわゆる下層の人たちから遠ざかっていなくてはならぬなどと信じている手合いは、負けるのをおそれて敵から姿をかくす卑怯者と同じように唾棄(だき)すべき人間だと思う。
このあいだ、あの泉のところへ行ったとき、小間使いらしいむすめがいた。水桶を石段のいちばん下のところに置いて、だれか知っているものが来て、手を貸して頭に乗せてくれないかとあたりを見まわしていた。ぼくは降りていって、娘の顔を見た。「手伝ってあげようか」と、ぼくは言った。――娘は真っ赤になった。「いえ、結構ですわ」と、言った。――「遠慮することはないさ」――娘は頭にのせる下敷きを置きなおし、ぼくは手を貸した。礼をいって、娘は階段をのぼって行った。
五月十七日
ここで、知り合いがずいぶんできた。だが、まだ、ほんとうに友だちと呼べるものは見つからない。自分にはわからないが、ぼくには、どこかひとに好かれるところがあるらしい。いろんなひとが、喜んでぼくに接してくれる。それで、つらいんだよ。おたがい道連れになったって、せいぜいわずかのあいだなんだから。どうだい、そっちのひとたちは、ときみが聞くなら、どこだって同じさ、と答えるしかない。人間なんて、だいたい似たようなものだ。たいていは、生きるためにあくせく働いて、時間をうんと費やす。ところが、ほんの少しでも自由な時間ができると、こんどはそれが不安になり。それから逃(のが)れ出ようと、ああもしよう、こうもしようとあせるのさ。これが人間のさだめなのだ。
それにしても、ここの連中はほんとうにいいひとたちだよ。ときどき、ぼくは自分を忘れて、みんながやれる範囲のいろんな楽しみをいっしょになってよくやる。ご馳走(ちそう)の並んだテーブルのそばで、勝手に愉快な冗談をとばしたり、これはというときには馬車で遠出したり、ダンスをしたりしてね。そんなことで、ほんとうにぼくは気が晴れるんだ。ただ、そんなとき、思い出してはいけないんだが、じつは、ぼくには別の大きなエネルギーがひそんでいる。そいつは全然使わなければだめになってしまうし、しかも、それを用心ぶかく、かくしておかなくてはならないんだ。ああ、それを思うと胸が苦しくなる。――それにしても、誤解されるということは、ぼくらのような人間の宿命なのだ。
ああ、ぼくが子どものころから親しんでいたあの女性(ひと)が死んでしまったなんて。いっそ、あのひとと知り合っていなかったら――でも、あのひとを知らなかったら、いまのぼくは、「おまえはばかだ、この世で見つからないものを求めている」などと、自分に言っているだろう。しかし、ぼくにはあのひとがいてくれたのだ。ぼくは、あのひとの心に、あのひとのおおらかな魂にふれたのだ。いっしょにいると、ぼくは自分が実際以上の自分になっているような気がしたものだ。ぼくは、ありったけの自分になりえたからだ。そうだ、あのころ、ぼくの魂のエネルギーは、けっして眠ったままではいなかった。あのひとの前で、自然をとらえるときの不思議な感情が、おもうさま発揮されたのではなかったろうか? あのひととぼくとの交わりこそは、ほんとうに繊細な感情と、ほんとうに鋭敏な知性が織りなした永遠の織物ではなかったろうか? その多様な稜線の変化は、どんなに歪(ゆが)んだものでも、天才の極印がおされていなかったろうか? それなのにいまは!――あのひとはぼくより先に生まれたばかりに、もう帰らぬひととなってしまった。ぼくはけっしてあのひとを忘れないだろう。あのひとのしっかりした気性と、神々(こうごう)しい忍苦を。
二、三日まえ、ぼくは若いYという男に会った。顔だちのととのった、さばさばした青年だ。大学を出たばかりで、秀才づらをしているわけではないが、それでも、ほかの連中よりは物知りだと自負している。いろんな点でわかるのだが、やはり勉強家らしい。とにかく相当な知識をもっている。ぼくがよく絵をかいたり、ギリシャ語もできるということを聞いて(このふたつは、ドイツでは天から降った星のように珍重される)ぼくをたずねてきたんだ。いろんな知識をならべたて、バトー(十八世紀フランスの美学者)からウッド(十八世紀イギリスのホメロス研究家)、ド・ピル(十八世紀フランスの美学者)からヴィンケルマン (十八世紀ドイツの美術史家)まで披瀝(ひれき)して、おまけにズルツァー(十八世紀のスイスの美学者)の理論の第一部はすっかり読み、ハイネ(十八世紀ドイツの文献学者)の古代研究の講義のノートまで持っている、とまでいう。ぼくは、まあ神妙に聞いていたが。
もうひとり、これはなかなか立派なひとと知り合いになった。公爵家の法官(ドイツ諸連邦国家のひとつである公爵領の司法と行政を扱った高官)で、率直で誠実な人物だ。九人も子どもがあるそうだが、子どもたちに囲まれている有様は、見ただけでまったく楽しくなるらしい。とくに上の娘の評判はたいしたものだ。僕は招かれたので、いちど近いうちに行ってみるつもりだ。ここから一時間半ばかりの道のりの公爵の狩猟館に住んでいるのだが、奥さんに死なれてから町の官舎に住むのがつらくて、公爵家の許可を得て、そこに移ったのだそうだ。
そのほか、変ちくりんな人物に二、三人出くわしたが、まったく鼻もちならない。友情の押し売りには、すっかり耐えられなくなってしまった。
では、ごきげんよう。この手紙は、君の気に入るだろう。まったく事実に即して記録ふうに書いたからね。
五月二十二日
人生が一場の夢にすぎないとは、昔からいろんなひとが言っている。そんな思いが、いつもぼくにつきまとう。人間の行動力や探求力にはたしかに限界というものがあって、それは超えられない。ぼくにいわせれば、人間のすべての活動は、要するに欲望を満足させることでしかない。その欲望にしたって、ぼくらのあわれな生存を引きのばす以外に、何をしようという目的もない。しかも、目的を追求して、あるところからまでいったからといってすっかり安心してしまうのは、ひとりよがりの夢を見てそれでもうあきらめているだけのことなのだ。それは、自分が閉じこめられている四方の壁に美しい姿や明るい風景を描いて悦に入っていることなのだから。――ウィルヘルム、こうみてくると、もう、ぼくは何も言えなくなってしまう。ぼくは自分の内部にまたもぐりこむ。すると、そこにひとつの世界を見いだす! そこには、目に見えて生きて働く力というよりは、むしろ漠とした予感や暗い衝動が働いているのだ。そこではすべてのものが、ぼくの感覚の前にただよう。そして、ぼくは夢みごごちでこの世界にほほえみかける。
子どもたちは、自分の欲望の理由を知らない。というのが、博学なすべての学校の先生や家庭教師の一致した意見だ。けれども、おとなだって、子どもと同じようにふらふらこの地上を歩きまわっているのだ。子どもたちのように、自分らがどこから来てどこへ行くのか知っていない。ほんとうの目的にしたがって行動しているなどといえるものではない。おとなだってビスケットやお菓子や白樺の鞭(むち)で動かされているのだ。そんなことはだれも信じようとしないだろうが、ぼくにいわせれば、それはわかりすぎるほどわかるのだ。
こういえば、きみがどう応じてくるか、ぼくにはわかっているのだから、それはよろこんで認めよう。要するに、子どもみたいに毎日のんびり暮らしている人間、つまりお人形を引っぱりまわして着物を脱がせたり着せたりし、ママがお菓子をしまった戸棚のそばをひどく気にして歩きまわり、首尾よく望みのものを手に入れると、それをほうばって、それから「もっと」と叫ぶ、そんな人間がいちばんしあわせなのだ。――こうしたひとがいちばん幸福者なのだ。また、自分のくだらない仕事や自分の勝手な道楽にまで仰々しく名前をつけて、人類の幸福や平和のための大事業などとふれまわる人間だって幸福なんだ――平気でそんなことのやれる人間は幸いなるかな! だがしかし、こんなことが結局どうなるかということを謙虚な気持ちで見抜いているひともある。しあわせな市民ならば、自分の小さな庭をどんなに美しく楽園に仕上げることができるか、ふしあわせな人はふしあわせなりに重荷をせおって、いかにたゆまず自分の道を歩きつづけるか、そして、だれもが同じように太陽の光を一分間でも長く拝みたいと願っている。こういうことをよく理解するひと――まさしく、そういうひとは多くを語らないが、自分のうちから自分の世界をつくりあげて、人間として生きていることで、幸福なのだ。こういうひとは、どんなに制約を受けても、心にはすばらしい自由の感情を持っていて、出ようと思えばいつでも好きな時にこの牢獄を(プラトンのいう意味での肉体をさす)おさらばすることができるはずだ。
五月二十六日
むかしからきみも知っているはずだろう。どこかに住みつくなら、気持ちにいいところに小さな小屋を建てて、できるだけつつましくぼくが暮らしたいと言うのは。ここでも、とても気に入ったちょっとした場所が見つかったのだ。
この町から一時間半ばかりのところにワールハイムという村がある。丘の斜面にあるその位置がなかなかおもしろい。上の小道を通って村を出はずれると、たちまち谷の全景がひらける。この村のレストランに、年のわりに元気で愛想のいい親切なマダムがいて、ぶどう酒やビールやコーヒーを出してくれる。けれども、ぼくにはとって何よりもうれしいのは、二本の菩提樹だ。この菩提樹は、枝をひろげて教会のまえの小さな広場をおおっている。広場のまわりには、農家や納屋や中庭がならんでいる。こんなに気持ちのいい親しみの持てる場所は、やすやすと見つかるものではない。ぼくは、レストランから、ぼくの小さなテーブルと椅子(いす)を運ばせ、コーヒーを飲みながら、ぼくの好きなホメロスを読むのだ。
ある晴れた午後、はじめてぼくは偶然に菩提樹の下へやってきた。そのとき、この広場は、とてもひっそりとしていた。村人は、みな野良(のら)へ出ていたのだった。四つばかりの男の子が地べたにミとり坐って、もうひとりの生まれて六か月くらいの赤ん坊を足のあいだに入れて、両腕で自分の胸に抱きよせていた。いってみれば、その男の子が安楽椅子の代わりになってやっていたわけだ。黒い目であたりを見る様子は、いかにもやんちゃそうなのに、とてもおとなしくすわっているのだ。この光景を見て、ぼくはうれしくなった。そこで、向こう側にあった鋤(すき)の上に腰をかけて、この兄弟のポーズをスケッチして大いに楽しんだ。かたわらの垣根、納屋の入り口、いくつかの車輪のこわれたのも、並んでいるとおりに描きそえた。一時間ばかりたって気がついたのだが、何ひとつ自分勝手のものを加えないのに、構図がよくととのった、たいへんおもしろい絵ができていた。このことから、ぼくはいまさらながら、これからは自然だけを頼りにしようという決意をつよくしたのだった。ただ自然が無限に豊かで、ただ自然だけが偉大な芸術家をつくりだすのだ。画法やら規則やらの利益について、いろいろとご託宣を並べることはできよう。市民社会をほめるために、法律や儀礼が並べたてられるように。法規や礼法の型どおりに生きる人間が、けっして近所迷惑な厄介者や目にあまる与太者になれないように、芸術の規則どおりに修行したものは、絶対に没趣味な稚拙な作品は制作しないだろう。とはいえ、なんといっても規則というものは、だれが弁護しようとも、自然の真の感情と自然の真の表現を破壊してしまうものなのだ! きみは言うだろうよ、「それは、あんまりひどい! 規則というものは、ただ制限するだけのものだ、よけいな蔓(つる)を切りとるだけだ」などと。
ところで、きみ、ひとつたとえ話をしようか。いってみれば、恋愛のばあいと同じなんだよ。ある青年が少女に夢中になっていて、朝から晩まで少女のあとを追って、全力をつくし全財産を投じて、自分が彼女に身も心もささげつくしていることを休みなく示そうとしている、とする、そこへ、お役所づとめか何かしている俗物がやって来る。そして、その男が言うんだ。「やあお若い紳士、恋愛するのは人間的なことです。もっぱら、きみは人間的に恋愛するんですな。君の時間を区分したまえ。ある時間は仕事にあて、休養の時間は、きみの恋人にささげたまえ。君の財産をちゃんと計算して、必要な経費の残りのうちから彼女にプレゼントを贈るのはまあ結構、しかし、それもあまりたびたびではなく、たとえば誕生日とか、命名日とかにかぎるんですな」などと。――このとおりにしたら、あっぱれ有為(ゆうい)な青年はできあがるだろう。こういう青年なら、ぼくだってお役所づとめにもってこいだと、どんな上司にも推薦しよう。ただし、その青年の恋愛はおしまいだ。もし、彼が芸術家なら、その芸術はおしまいだ。ああ、天才の流れが堰(せき)をやぶり、高潮となって奔流し、きみたちの心を驚かせることがめったにないというのは、どうしてだろう? ――ねえ、見たまえ、その流れの両岸には、のんびりした紳士方が居(きょ)を構えて、四阿(あずまや)やチューリップ畑や菜園が洪水に流されないようにと、あらかじめ土手や排水溝をこしらえて、いつの日かの恐ろしい危険にそなえているのさ。
五月二十七日
思えば、ぼくはいい気になって、比喩を使ったり熱弁調になったりして、例の子どもたちがあれからどうなったか、しまいまで述べるのを忘れていた。きのうの手紙で断片的に記したような絵画的な気分にひたりきって、ぼくは二時間ばかり鋤(すき)のうえに腰をかけていた。もう夕方ちかくになっていた。それまでずっとおとなしくしていた子どものほうへ、ひとりの若い女が小さな籠(かご)かごを腕にさげて、駆けてきて、「フィリップスや、おりこうちゃんね」と、呼びかけた。その女は、ぼくにお辞儀をした。ぼくもお辞儀をして立ちあがり、この子どもたちのお母さんですか、とたずねた。女はそうだと言って、白パンを半分やりながら、小さな子を抱きあげて、いかにも母親らしく愛情をこめて接吻した。――「このフィリップスに小さいのをおもりさせて、長男をつれて町に行ってました。白パンとお砂糖と土鍋(どなべ)を買いに」――そういえば、それらの品物がふたのはずれた籠(かご)の中にはいっているのが見える。――「このハンス(というのが下の子の名前だった)に、晩ごはんにスープをこしらえてやりたいんですの。上の子が腕白で、きのうフィリップスとかゆ(・・)の残りを取りっこしてけんかして、土鍋をこわしてしまいました。――上のお子さんは、とぼくがたずねると、原っぱで鵞鳥(がちょう)を追いまわしています、と答えたが、まだすっかり言い終わらないうちに、その子が飛んできて、二番目の子にはしば(・・・)み(・)の鞭をくれてやった。ぼくはなおしばらくこの女と話をして、彼女が学校の先生の娘であること、夫が従兄の遺産を受けとりにスイスへ出かけていること、などを知った。「先方は主人をだまそうとしていましてね。手紙を出しても返事がございません。それで主人が自分で出向いたわけなのです。変わったことがなければいいんですが、ちっとも便りがないもので」と彼女は言った。――ぼくは、おいそれと別れを告げにくくなったが、子どもたちに一クロイツァーずつあたえ、一番下の子には、町へ行ったときにスープに入れる白パンでも買ってくれるようにと、この母親に一クロイツァー渡して別れを告げた。
きみ、聞いてくれたまえ。ぼくの気分がどうにも堪えられなくなったとき、せまいながらも自分に与えられた生活の範囲で落ち着いて幸福に暮らし、その日その日をどうにか過ごし、木の葉が落ちるのを見ても、冬が来るのだな、としか考えないひとたちを見ると、胸の不安がすっかりおさまるのだ。
あれ以来、ぼくはよく出かける。子どもたちはすっかりぼくになつき、ぼくがコーヒーを飲むときは砂糖をやるし、夕方には一緒にバタ付きパンとヨーグルトを食べる。日曜日には必ず一クロイツァーやる。夕方の祈祷の時間が過ぎてもぼくがいかないときは、レストランのマダムにその金を代わりに渡してもらっている。
子どもたちは打ちとけて、何でも話してくれる。いちばんおもしろいのは、村の子どもたちが大勢集まるようなときに、あの子どもたちがむきになってあれもくれ、これもくれと言い張ることだ。
子どもたちがご迷惑をおかけしているのではないでしょうか、と母親が心配しているのを、なんでもないと言って安心させるのにずいぶん骨が折れたよ。
五月三十日
このあいだ、絵について書いたが、あれは文学についてもいえる。つまり、すぐれたものをよく見、そしてそれを思いきって言いあらわすのだ。もちろんこれでは、重要な問題にたいして舌足らずだがね。きょう、ぼくはある場面に接した。これをそっくりそのまま描写すれば、とても美しい田園詩ができるだろう。それなのに、やれ詩がどうの、情景がどうの、牧歌がどうのなんていったって、いったいそれでどうなるというんだ。ぼくらが自然の現象とひとつに融け合って共感しなければならぬときに、どうして、わざわざ技巧なんか使わなければならないのだろう。
こんなふうに書きだすと、きみは何か高遠な詩でも出てくると思うかも知れない。が、それはまたしても、当てがはずれるよ。ぼくはこういう実感を強く抱くようになったのは、ほかでもない、ひとりの若い農夫からだった。――例によってこの話は、ぼくにはうまく書けそうもない。いつもながらきみはぼくが誇張して言っているのだと思うかもしれないが。場所はまたワールハイムなんだ。こうした珍しい話がおこるのは、きまってワールハイムだ。広場の菩提樹の下で、何人か集まってコーヒーを飲んでいた。その連中とは肌(はだ)が合わないので、口実をもうけて、ぼくはずっと離れていた。
すると、ひとりの若い農夫が隣の家から出てきて、このあいだぼくが写生した鋤の手入れをやり出した。その様子が気に入ったので、ぼくは声をかけたんだ。身の上をたずねたりなどして、すぐに仲良くなったよ。こういうひとたちを相手にしているときはいつもそうなんだが、すぐに親しくなる 。農夫の話によると 、ある後家(ごけ)さんに雇われていて、いろいろ目をかけてもらっているらしい。その女主人のことをあれこれ話して、しきりにほめるのだ、それで、この男がその後家さんに首ったけというのがすぐにわかった。「おかみさんはもう若くはねえだ。以前の旦那にひでえ目に合わされたもんで、もう再婚するつもりはねえだよ」と、言うんだ。話の裏にはっきりうかがえるのだが、この男にとって、その女主人がどんなに美しく、どんなに魅力的な女になっていることだろう。前の亭主のいやな思い出を消すために自分をえらんでくれ、と、この男はどのくらいはげしく願っていることか。この農夫のひたむきな気持ちや愛情や、まごころをありありと伝えようと思ったら、それこそぼくは一語ももれなくここにくり返さなければならないよ。そうだ、この男の表情なり、声の調子なり、情熱の火を秘めたまなざしなりを同時にいきいきと描き出すには、大詩人の天分をぼくが持っていなくてはならないだろう。いや、この男の人柄や表情のすべてにあふれているやさしさは、どんな言葉を使っても言いあらわすことはできない。ぼくなんかがどんなに言葉で表現しようとも、しょせん、やぼな話になってしまう。ぼくがとくに動かされたのは、後家さんとの関係が妙に思われ、女の身持ちが疑われはしまいかと、この男が気づかっていることだった。女主人の容貌(ようぼう)や、また、もう若さの魅力がなくなっているのに、それでもぐいぐい彼を引きつけて放さない女主人のからだつきについて話すとき、それがどんなにすばらしいものだったか。ぼくはただ、心の奥で思いかえすのが関の山だ。いままでに、これほど純粋な切ない情熱や熱い思慕を、ぼくは見たことがない。というよりは、これほど純粋に考えたり夢みたりしたことなど、ぼくは一度もなかったといっていい。きみにしかられるかもしれないが、はっきりいうと、ぼくは、あの無垢(むく)とあの真実を思い出すだけで、胸の底から熱くなる。あの誠実と愛情の姿は、どこへ行ってもぼくのあとを追ってくる。そしてぼく自身火をつけられたように、胸が燃えさかるのだ。
ぼくは、できるだけ早くその女主人に会ってみようと思っている。だが、よく考えるとよしたほうがいいな。恋人の目をとおして見るほうがいいからね。ぼく自身がこの目で見たら、その女主人はおそらく、いま、ぼくが心に描いているような姿ではあるまい。どうしてこの美しいイメージをぶちこわす必要があろう。
六月十六日
どうして手紙を書かないかって?――そんなことをたずねるなんて、きみもやっぱり学者先生のお仲間なのかい。察しがつきそうなものだね。ぼくは元気でしかも――簡単にいえば、ぼくは、あるひとと知り合いになったんだ。そのひとのことで、まあ胸がいっぱいなんだ。ぼくは――なんといったらいいか。
順序だてて、きみに話すのがむずかしい。どうやって、あんなにも愛すべき女性のひとりと知り合いになったか、ことの次第を話すのが。ぼくは、満足していて幸福なんだ。だから、事実を述べたてるのは、どうもうまくいかない。
天使のようなひと! ――などといえば、これはだれでも自分の恋人について語るせりふ(・・・)だ。そうだろう。それにしても、どんなにあのひとが非のうちどころがないか、あのひとがどうして非のうちどころがないのか、それをきみに説明できない。要するに、彼女は、ぼくの心をすっかりとりこにしてしまったのだ。
あんなに聡明(そうめい)なのに、とても無邪気で、あんなにしっかりしているのに、とてもやさしく、あんなにせっせと働きながら、あんなにおだやかなひと。――
あのひとについて、こんなことを言ってみたところで、結局くだらないおしゃべりだ。あのひと自身の面影を少しも伝えない。ばからしい抽象だ。いつか、あらためて――いや、いつかではいけない。いますぐ、きみに話そう。いま話さなければ、話すときは絶対にない。じつは、打ち明けるが、ぼくはこの手紙を書きかけてから、もう三度もペンをおいて、馬に鞍をつけさせて飛んで行こうとしたんだからね。でも、ほんとうは、けさぼくは出かけまいと心に誓ったんだ。そのくせ、しょっちゅう窓のところへ行って、太陽がまだどのくらいの高さにかかっているか、眺めている有様なのだ。
やっぱりぼくは抑えきれなかった。どうしても彼女のところへ行かずにはいられなかった。いま帰ってきたところなんだよ。ウィルヘルム、バタ付きパンの夜食をたべて、きみに手紙を書こうとしているところなんだ。あのかわいらしい元気な子どもたち、六人の弟妹に彼女が取り囲まれているのを見ることは、ぼくにとって、なんという喜びだろう!
こんなふうに書いていたんでは、いつまでたってもきみにはよくわからないだろう。では、聞いてくれたまえ。できるだけ、くわしく話してみるから。
法官S氏と知り合ったこと、そのうち氏の隠居所、というよりは、彼の小さな王国を訪れるように、招待を受けていたことは、先に知らせたとおりだ。ぼくは、それを果たさずにいた。もし、ふとした偶然から、あの静かな土地にかくされた宝を発見しなかったら、おそらく行かずじまいになっていただろう。
ここの若い連中が近郊で舞踏会を催したことがあった。ぼくもそれに喜んで参加することになった。ぼくがダンスの相手になってもらうことにしたのは、気立てのいい、きりょうよしの、ほかに取り立てていうほどのこともない。この土地の娘だった。そこで馬車をやとって、ぼくの相手の娘とその従妹を連れて会場に行くことにしたが、途中でシャルロッテ・S嬢を誘おうという話になった。――馬車が広い切りひらいた森の道をとおって狩猟館にむかっていたとき、ぼくの相手の娘が、「きれいな方とお近づきになれるわ」と、言った。それにつづけて、従妹が、「恋をなさらぬようにご用心あそばせ」と、言った。――「どうしてですか?」と、ぼくが聞いた。――「あの方、もうおきまりになってますのよ。とても立派な方と。その方、いま旅に出てらっしゃるの。おとうさまが亡くなって、そのあと始末をしたり、それに何か相当な地位につくためですって」と、娘が答えた。――こんな話には気もとめず、ぼくは聞きながしていた。
ぼくたちの馬車が狩猟館のまえに着いた。太陽が山の端に沈むまでには、まだ十五分ほどの間(ま)があった。とても蒸し暑かった。婦人たちは雷雨が来るのではないかと心配した。じじつ、灰白色の雨をふくんだ雲が、地平線のあたりにむらがる気配である。ぼくは知ったかぶりの気象学をふりまいて、彼女たちの不安をまぎらした。だが、ぼく自身も、せっかくの楽しみがおじゃんになるのではないかと気になり出していた。
ぼくは馬車を降りた。すると、女中が門のところへ出てきて、「少々お待ち下さいまし。ロッテお嬢さまはすぐおいでになりますから」と、言った。ぼくは庭を通り、みごとな造りの家へ歩いていった。その家のまえの階段をのぼって玄関に足を踏み入れたとたんに、いままで見たこともない。うっとりするような光景が目にはいった。玄関のホールに、子どもが六人、上は十一から下は二つまでの子どもたちだったのだが、見るからに美しい中肉中背の娘のまわりにむらがっていた。その娘は清楚(せいそ)な白いドレスを着て、腕と胸にピンクのリボンをつけていた。――彼女は黒パンをかかえていた。まわりの子どもたちの年令や食欲を考えてちょうどいいように切り、めいめいにやさしく分けてやっていた。子どもたちはちいさい手を高くさしのべて、パンがまだ切れないうちから「ありがとう」と、じつにあどけなく叫ぶのだった。さて、子どもたちは、夕食のパンをもらうとうれしそうに、よそのひとたちやロッテ姉さんの乗っていく馬車を見ようとして、門のほうへ飛んでいくものもあれば、性質がおだやからしく、ゆっくり歩いていくものもあった。
「申しわけございませんでした。あなたさまには、なかまでお越しいただいたり、みなさまにはすっかりお待たせしたりして」と、彼女は言って、「わたくし、着替えをしたり、留守のあいだのこまごました用事をかたづけたりして、つい、子どもたちに晩のパンをやるのを忘れておりましたの。わたくしがパンを切ってやらないと、子どもたちはどうしても承知しないものですから」――ぼくは、なにげない挨拶をした。けれども、ぼくの心はもう、その姿、その声、その態度にすっかり吸いつけられてしまっていた。そして彼女が手袋と扇子を取りに部屋(へや)へ駆けて行ったとき、やっとぼくは我にかえって落ちつくことができたのだった。子どもたちは、ちょっと離れて、横からぼくを見つめていた。とても顔だちのかわいい、いちばん下の子のところへぼくが近づくと、その子はあとずさりした。ちょうどそこへロッテがドアから出てきて、「ルーイ、お従兄(にい)さまに握手なさいよ」と、言った。――その子は、じつにあどけなくそのとおりにしたので、ぼくは少し鼻汁(はな)が出ていたけれども、その子にやさしくキスせずにはいられなかった。「お従兄さまですって」と、ぼくはロッテに手を差し出しながら、「このぼくが、あなたの親戚だとはありがたいことです。さあ、それほどのぼくでしょうか」と言うと、ロッテは気安く微笑して、「わたくしどもは従兄(いとこ)がとても多いんですの。あなたがそのなかでいちばん悪いひとだったら困りますけど」と、言った。
歩きながらロッテは、すぐ下の十一ばかりになる妹のゾフィーにいいつけて、「小さい子どもたちによく気をつけるんですよ。それからお父さまが遠乗りから帰られたらお迎えにお出なさい」と言った。小さい子どもたちには、「ゾフィーお姉ちゃんをわたしだと思って、よく言うことを聞くのよ」と、言いふくめた。「わかったよ」と、はっきり言う子も二、三人いたが、六つぐらいのかわいいブロンドのおませな女の子は、「だって違うわ、ロッテお姉ちゃんのほうがいいわ」と、言った。――上のほうの男の子がふたりで馬車のうしろによじのぼっていた。ぼくがとりなしたので、ロッテは、ふたりがふざけ合ったりしないでしっかりつかまっていると約束するなら、森の手前まで乗せて行ってあげてもいい、と言った。
ぼくたちは席についた。婦人たちは挨拶をかわし、おたがいに衣装のことや、とりわけ帽子のことで、何やかやと言い、今夜の会に集まる顔ぶれの噂をいろいろはじめた。それが終らないうちに、ロッテは馭者に馬車をとめさせ、弟たちを降ろした。弟たちはもう一度、姉の手にキスしたいとせがむ。上の子は、十五の少年らしい優しさたっぷりに、下の子はむぞうさに接吻した。ロッテは、小さい子どもたちをよろしくね、と重ねて言い、それから馬を走らせた。
連れの従妹のほうがロッテに、「このまえ、お送りした本はもうお読みになりまして?」とたずねた。「いいえ」と、ロッテは答えて、「あまりおもしろいと思いませんので、お返ししますわ。前のもたいしたことはありませんでした」と、言った。ぼくは、それはどんな本かとたずねて、ロッテの返事を聞いたとき、びっくりした。――彼女の言うすべてのことに、はっきりした個性が出ている、と思った。一語一語にあたらしい魅力、知性のあたらしい輝きが、彼女の表情からほとばしるのがわかった。彼女のほうでもぼくの様子を見て、自分の言うことがぼくによく通じると思ったのだろう。その顔は満足の色をたたえ、ますます晴れやかになっていった。
ロッテはこんなことを言った。「わたくし、以前には、小説ほど好きなものはございませんでしたの。日曜日など部屋のすみっこにすわりこんで、ミス・ジェニー(当時愛読されたヘルメスの家庭小説の主人公)なんかの喜びや悲しみに胸をおどらせたりしたものでしたけれど、どんなに楽しかったかわかりません。いまだって、ああいうものなら、まだ、興味がないわけではありませんわ。でも、いまは本を手にする暇がめったにないものですから、読むからには自分の好みにぴったり合うものが読みたいんですの。いちばん好きなのは、わたくしの世界と同じような世界を描いてくれる作家のものですのよ。わたくしの身辺にあるようなことが書かれていて、わたくしの家の日々の生活と同じくらい興味があって、心のこもった物語です。わたくしの家といったって、もちろん天国のようなものではありません。でもまあ、とにかく言いようのない幸福のみなもとですわ」
ぼくはこの言葉に感動したが、それをできるだけ抑えるようにした。もちろん、そんなことが、いつまでもつづくものではなかった。ロッテが話のついでに、「ウェークフィールドの牧師」(ゴールドスミスの小説)について語ったとき、事実をついていたので、ぼくは思わず我を忘れて、自分の知っていることを洗いざらいしゃべりまくった。そして、しばらくたって、ロッテが他のふたりに話しかけたとき、ぼくはやっと気がついたのだが、このふたりは、ぽかんとしてまったく無視された格好で坐りつづけていたのだ。従妹のほうは、一度ならず鼻でせせら笑うようにぼくを見た。でも、ぼくは意に介さなかった。
話題がダンスのたのしみに移った。――ロッテは言った。「ダンスにこりすぎすぎるのはいけないことでしょう。けれども、正直申しますと、わたくし、ダンスほどすばらしいものはないと思いますの。なにかくさくさすることがあっても 、調子のくるったわたくしの ピアノ で対舞曲(コントルダンス)でも弾いていれば、胸がせいせいいたしますわ」
こうした話のあいだにも、どんなにぼくはロッテの黒い瞳にぼんやり見とれていたことだろう。ああ、そのさわやかな唇(くちびる)、はつらつとした明るい頬(ほほ)に、どんなにぼくの心がひきつけられてしまったことだろう。その話の内容のすばらしさに、ぼくはうっとりしてしまい、ロッテの口から出てくるいちいちの言葉を、しばしば聞きもらしてしまったほどだ。――ぼくという人間をよく知っているきみのことだから、想像してわかってもらえると思う。要するに、会場のまえまで来たとき、ぼくはまるで夢遊病者のように馬車から降りたのだ。そして、あたりのたそがれのなかへ夢みるようによろめいて吸いこまれた。明るく輝くホールからひびいてくる音楽もほとんど耳にはいらなかった。
アウドラン氏と、それからなんとかいう紳士――名前なんかいちいち覚えていられない! ――このふたりが、従妹のひととロッテのダンスのパートナーで、馬車の扉のところまで出迎えた。そして、それぞれ相手の女性の手をとった。ぼくも自分のパートナーの手をとって上がって行った。
ぼくたちはメヌエットを踊った。ぐるぐるまわって、たがいにすれちがった。ぼくは次々にいろいろな婦人たちの手をとって踊ったが、ありがたくない相手にかぎって、こちらが切りあげようとしてもなかなか離してくれない。ロッテとその相手はイギリス舞踊をはじめた。やがて、ぼくたちと同じ列にはいって踊り出したとき、ぼくがどんなにうれしくなったか、きみも察しがつくだろう。彼女の踊りを見せてやりたいよ。ほんとうに身も心も打ちこんで踊っているんだ。からだ全体がひとつのハーモニーだ。なんのこだわりもなく、何にもとらわれずに、まるで踊ることがすべてであり、踊ること以外は、何も考えず、何も感じないかのようだ。たしかに、踊っているときには、ほかのことはいっさいロッテの目のまえから消え去るにちがいない。
ぼくは二回目の対舞(コントルダンス)をロッテに申しこんだ。すると、彼女は三回目のを約束してくれ、じつに愛らしく、快活に、ドイツ・ワルツ(当時ようやく盛んになりはじめた)が踊りたくてたまらない、と、はっきり言うのだ。そして言葉をつづけて、「この土地のしきたりでは、組(ペア)になっている同士が、ドイツ・ワルツのときもそのまま組になることになってますの。でも、わたくしの相手はワルツがあまりじょうずではありませんから、自由にしてあげたら喜びますわ。あなたのお相手の方もワルツはおできになりませんし、お好きでもありません。さっきのイギリス舞踊のときにわかりましたけれど、あなたはワルツがおじょうずですわね。ですから、もしワルツのときわたくしと組んでいただけるなら、わたくしの相手のところへ行って頼んでみて下さいません? わたくしは、あなたのお相手のところへお願いに行ってみますから」
ぼくは、ロッテの手を握った。そして、ワルツのあいだはロッテの相手にぼくのパートナーと話をしていてもらうことにした。
いよいよはじまった。ぼくたちはしばらく腕をいろんなふうに組み合わせて楽しんだ。ロッテの身の動きの、なんという魅力、なんという軽妙さ! やがてワルツになって天空の星の群れのように旋回しはじめると、これをこなせるものが少なかったので、もちろん、はじめはすこしごたごたした。ぼくたちはそのあいだをうまく泳いで、混乱のしずまるのを待った。へたな連中がホールを退散してしまうと、さっと乗りこんで、別のもう一組、アウドランたちの組といっしょに、さっそうと踊りぬいた。こんなに軽々と身が動いたのは、はじめてだった。ぼくは、もう人間ではなかった。またとなく愛らしい女性を腕に抱いてまるで電光のように飛びまわると、まわりのものはくるくる飛び去る。――ウィルヘルム、打ち明けていうが、ぼくはこのとき誓いを立てたのだ。ぼくが愛し愛されたいと思う娘には、ぼく以外の男とは絶対にワルツを踊らせまい。たとえ、ぼくがそのためにどんなにひどい目にあっても。わかるかい。
ぼくたちは一息入れるために、ホールのなかを歩きながら、二、三回、廻舞(トゥーレ)をした。それからロッテは腰をかけた。ぼくが取りのけておいた、もうそれだけしか残っていなかったオレンジは、すばらしい効きめがあった。ただ、ロッテが隣席のあつかましい女にていねいに分けてやるのを見て、そのひと切れごとにぼくは胸を刺される思いがした。
三回目のイギリス舞踊のとき、ロッテとぼくは二番目の組になった。列のなかを踊りぬけ、ぼくはいい知れぬうれしさにひたって、ロッテの腕に、そして、あふれるばかりの純粋な喜びをありありと浮かべている瞳に心をうばわれていた。そのうちにひとりの婦人のそばに来た。そのひとは若いとはいえないが、顔に愛らしい表情がただよっていたので、まえから目にとまっていた。そのひとがにっこり笑いながらロッテをにらんで、おどすように指をあげて、アルベルトという名を意味ありげに二度呼んで、通り過ぎた。
「アルベルトってどなたです?」と、ぼくはロッテにたずねた。「こんなことお聞きして失礼でしょうか」ロッテは返事をしようとしたちょうどそのとき、ぼくたちは踊りの大きな8の字をかくために、離れ離れにならなければならなかった。そして、その次にふたりがたがいに十字にすれちがったとき 、ぼくはロッテの 額(ひたい) に一抹(いちまつ)の暗い物思いの影を見たように思った。
プロムナードに移ろうとして、ぼくに手を差し出しながら、ロッテは「何もおかくしすることはありませんわ」と、言った。「アルベルトはまじめなひとで、わたくしの許婚者(いいなづけ)になっていますの」――それはべつに耳あたらしいことではなかった。(ここにくる途中で娘たちが話していたことだったから)それなのに、ぼくは、まったくはじめて知るような気持ちだった。それというのも、そんなことを、わずかの間にぼくのとても大切なひとになってしまったロッテの身に結びつけて、考えていなかったからだ。とにかく、ぼくは取り乱し、我を忘れた。そして、まちがった組にはいってしまい、ダンスはめちゃくちゃになった。が、ロッテがしっかり落ちついて巧みにリードしてくれたおかげで、すぐまたもとどおりになった。
だいぶ前から地平線に稲妻が光るのが見えた。そのたびにぼくは、一雨きて涼しくなるでしょう、などと冗談めいたことを言っていた。が、ダンスがまだ終わらないうちに、その光が猛烈になってきた。そして雷鳴が音楽をかき消してしまった。三人の婦人が、列から走り去り、パートナーの男たちがあとを追った。場内は混乱し、音楽はとまった。楽しみごとの最中に、われわれが災難や椿事(ちんじ)に襲われると、ふだんよりずっと強烈な印象を受けるのは当然だ。ひとつには、反対の度合いがあまりにもはっきりと感じられるからだし、ひとつには、それよりもむしろ、われわれの感覚がいったんのびやかに感じやすくなったため、それだけ敏捷(びんしょう)に印象を受け入れるからだ。何人かの婦人が、急に妙な顔をしておびえたのも、そうした理由からにちがいない。いちばんしっかりした婦人はすみにすわって窓に背を向け、両耳をおさえた。ひとりは、そのまえにひざまづいて顔を相手の膝(ひざ)にうずめた。もうひとりは、このふたりの間にわりこんで、ふたりを抱きしめながらぽろぽろ涙をこぼした。家に帰ろうとした婦人もいた。が、何人(なんにん)かはおろおろするばかりで、何をしているのか自分でもわからず、若い男たちのあつかましい仕草をふせぐ気力もなくなっていた。この手合いは、どうやらいまこそとばかり、取り乱した美しい婦人たちの唇から、天の神さまにささげられた不安のお祈りをそっくりさらっていこうとしていたのだ。紳士たちの何人かは、ゆっくりパイプをふかそうと下へ降りて行った。この家の女主人が機転をきかせて鎧戸(よろいど)とカーテンのある部屋へ移って下さいと言ったので、残っていた人たちも異存なく従った。みんながそこへはいるとすぐに、ロッテはせっせと椅子をまるく並べて、一同をうながして席につけ、何かゲームをしましょうと提案した。
みると、はやくも甘い接吻の賭けをせしめるぞと、唇をとがらせ、からだを動かしている男どもがいた。「数遊(かずあそ)びをしましょう」と、ロッテは言った。「さあ、よろしいこと。わたくしが右から左へ回りますから、みなさんも順にご自分の番がきたらその数をおっしゃって下さい。火縄に火が移っていくようにするのですよ。つかえたり、数をまちがえたりした方は、ほっぺたをたたかれましてよ。こうして千まで数えましょう」
なるほど、見ているとおもしろいゲームだ。ロッテは腕をのばしてぐるぐるまわった。「一」と最初のものがいうと、その隣りが「二」、その次が「三」とつづける。そんな調子で進んだ。ロッテはしだいに早くまわり出し、ますますスピードを加える。ほら、だれかまちがえたぞ、ピシャリと頬(ほほ)打ちだ。笑いこけるうちに次のものもピシャリ。どんどん早くなった。ぼくも二度、頬打ちをくらった。他の連中のよりも手きびしく打たれたらしく、それがわかると、たまらなくうれしかった。千まで数えきらないうちに、一同が大笑い大はしゃぎで、そのゲームは終った。 親しい者同士が、それぞれかたまった。雷雨はもう通りすぎていた。ぼくは、ロッテについてホールにはいった。彼女は、歩きながら言った。「頬打ちに気をとられていて、みなさん、嵐のことも、何もかも忘れていらっしゃいましたわね」
ぼくは、何も返事ができなかった。彼女は、つづけて言った。「わたくしこそ、いちばん怖(こわ)がりのお仲間だったんですけれど、みなさんのお気を引き立ててあげようとして気丈なふりをしているうちに、自分でも気がまぎれたんですわ」
ぼくたちは、窓ぎわに近よった。雷鳴は空のかなたに去った。はげしい雨がすっかり大地をあらい、さわやかな匂いがあたたかい靄(もや)となってぼくたちのほうへ漂ってくる。ロッテは肘(ひじ)をついて窓にもたれていた。そのまなざしは戸外の風景にそそがれていた。やがて空を仰ぎ、ぼくを見た。瞳に涙があふれているのをぼくは見た。ロッテは自分の手をぼくの手のうえにのせて、「クロップシュトック!」と、言った。――彼女の胸に浮かんだクロップシュトック(十八世紀ドイツの国民詩人)の荘厳な頌歌(しょうか)を、ぼくはすぐ思いおこした。そして、その端的な言葉で切っておとされた情感の流れに、身をひたした。ぼくは堪えきれなくなって、彼女の手のうえに身をかがめ、感涙にむせびながら、その手に唇を押しあてた。そして、もう一度、彼女の瞳を見た。――けだかいクロップシュトックよ。あなたに見てほしかった。このまなざしにやどる、あなたへの崇拝の念を! ぼくはもう二度と聞きたくない。これまでのようにあなたの名が幾度となく汚されて呼ばれるのを。
六月十九日
先日、どこで話をやめたか、もうおぼえていない。おぼえているのは、夜中の二時に床についたことだけだ。あれが手紙なんかでなくて面と向かってしゃべるんだったら、朝まできみを引きとめておいただろう。
舞踏会の帰りにどんなことがあったか、まだ話していなかったね。
でも、きょうもやはりペンがすすまない。
帰りは、日の出がじつにすばらしかった。森には露がしたたり、野は一面によみがえったよう。連れの婦人たちはこっくり、こっくり。ロッテは、ぼくに「あなたもお仲間入りなさったらいかが。わたくしのことはどうぞおかまいなく」と、言った。
「あなたの目がふさがらないかぎりは」と、ぼくは答えて、ロッテをじっと見つめ、「ぼくは、けっして眠ったりしませんよ」
ぼくたちふたりは、彼女の家の門に着くまでがんばりとおした。女中がしずかに門をあけた。ロッテがたずねると、「旦那さまやお小さい方々もお変わりございません。まだお休みでございます」という返事だった。そこでぼくは別れを告げ、きょうのうちもう一度お目にかからせていただきたいと頼んだ。彼女は承知してくれた。ぼくは去った。ああ、あの時からずっと、太陽も月も星も依然としてその運行をつづけているのに、ぼくには、もう昼もなければ夜もないのだ。全世界がぼくのまわりから消えうせてしまった。
六月二十一日
幸福な日々を過ごしている。まるで、神さまが聖者のためにとっておかれたような毎日だ。今後はどうなろうとも、ぼくが喜びを、人生のもっとも純粋な喜びを、経験したことがない、などとは絶対にいえない。――きみもよく知っている、わがワールハイム。ぼくはあそこに入りびたりだ。そこからロッテのところまではわずかに半時間。あの村でぼくは、ほんとうの自分を、人間にあたえられる幸福のすべてをしみじみと感じるのだ。
考えてもみなかったよ。散歩の目的地にワールハイムをえらんだとき、よもやそのすぐそばに天国があろうなどとは。いま、ぼくのあらゆる願いがこもっているあの狩猟館、あの館(やかた)を、散歩の足をのばしながら、ときには山から、ときには平地から川をへだてて眺めたことも、幾度となくあった。
ウィルヘルム、ぼくはいろいろ考えてみた。人間には、自分というものを拡大し、あたらしい発見をし、さらに遠くへさまよい出ようとする欲望がある。そうかと思えば、自分がすすんで制約に従い、慣習の軌道をたどり、右にも左にも気をとられまいとする内的な衝動もある。
じつに不思議ではないか。はじめてここへやってきて、丘から美しい谷を眺めて、あたりの景色(けしき)に心ひかれたときのことだ――あそこに森が見える!――ああ、あの森の木かげにみをひそめることができたらなあ!――あそこに山の峰が見える!――ああ、あの頂きからひろい一帯を見わたすことができたらなあ!――つらなる丘、なつかしい谷!――おお、あの中にさまよい入ることができたら!――そう思って、ぼくは急いで行ったものだ。そして、むなしく帰ってきた。望んだものは見つからなかったのだ。ああ、遠いかなたは未来に似ている! ひとつの大きな、おぼろげな全体が、われわれの魂の行く手に浮かんでいる。われわれの感覚は、ちょうどわれわれの目と同じように、その全体に吸いこまれてしまう。ああ、われわれの存在のすべてをささげて、ただひとつの大きなすばらしい感情の歓びという歓びで心を満たそうとあこがれる。――ところが、ああ、われわれがそこへ急いで行って「あそこ」が「ここ」になってみると、すべては前と変わりないのだ。われわれは相変わらず貧しく、制約を受けている。そして、われわれの魂は、するりと逃げて行った幸福を求めてあえぐだけだ。
だから、どんなに落ちつかぬ放浪児(バガボンド)でも、最後にはまた父祖の地をなつかしみ、自分のささやかな家に、妻の胸に、子どもたちのまどいに、妻子を養う仕事に、広い世界でむなしく求めた喜びを見いだすのだ。
毎朝、日の出とともに家を出て、ぼくはわがワールハイムへ出かける。例のレストランの菜園で豌豆(えんどう)を摘み、腰をおろして莢(さや)のすじを取りながらホメロスを読む。それから小さな台所で鍋を取り出し、バターをすくって莢豌豆(さやえんどう)を火にかけ、ふたをしてそばにすわり、ときどきかきまぜる。そのときぼくは、あのペネローペ(ホメロスの「オデュッセイアの主人公オデュッセウスの妻。夫の留守中、言い寄る男たちをこばみつづけた貞淑な女性)の思いあがった求婚者たちが、牛や豚を殺して肉を裂き火にあぶったさまを、まざまざと思い浮かべる。こんな族長時代の生活の姿ほど、ぼくの心をしずかな真実の感情で満たしてくれるものはない。ありがたいことに、ぼくは、そういう昔の生活の面影をありのままに自分の生活の中に織りこんでいける。
なんと楽しいことだろう。自分のつくったキャベツを自分の食卓にのせる人間の素朴な無邪気な喜びを、ぼくが味わえるということは、いや、キャベツばかりではない。それを植えた美しい朝、それに水をやって、一日一日育っていくのをよろこんで眺めた楽しい夕べ。それらすべてを一瞬のうちにふたたび味わえるのだ。
六月二十九日
おととい、この町の医者が法官の家へやってきた。ちょうどそのとき、ぼくはロッテの弟妹たちにかこまれて地べたで遊んでいた。子どもたちは、ぼくにからみつくやらふざけるやら、ぼくはぼくでくすぐってやったり、いっしょになって大はしゃぎ。このお医者さんは、およそ融通のきかない操(あやつ)り人形氏で、話ながらもカフスの折り目をただし、襟飾りをやたらつまみ出すといった先生だったが、この場の光景を見て、紳士たるものにあるまじきふるまいと思ったらしい。この先生の鼻先にそれがよくうかがえた。だけど、こっちはそんなこと、いっこうにおかまいなしさ。分別くさいお説教も聞きながし、子どもたちがこわしたカルタの家を建てなおしてやった。この先生、それからおさまらず、町中を歩きまわって、法官の子どもたちはただでさえしつけが悪いのに、あのウェルテルという男 が すっかり だいなしにしてしまっている と吹聴(ふいちょう)した。
そうだ、ウィルヘルム、この世で子どもたちがぼくの心にもっとも近いのだ。子どもたちを眺めていると、ちょっとしたことにも、かれらがやがて必要とするあらゆる美徳やあらゆる能力の 萌芽(ほうが) がうかがえる 。意地っぱりは未来の不撓不屈(ふとうふくつ)の性格の下地だし、わがままは世の中の荒波を乗り切るための楽天的な気軽な気性の素地だと思う。――しかも、そのすべてがまったくそこなわれずに丸出しになっているのだ。これを見ると、ぼくは、いつも必ずあの人類の教師(キリスト)の金言をくりかえす。「おまえたちが幼子のようにならなければ」(「マタイによる福音書」第十八章第三節)
きみ、ところが、われわれと変わらぬ子どもたち、むしろ、われわれは自分らの模範とすべき子どもたちを、家来のように扱っている。子どもには意志というものを持たせてはならぬ、という。どこにそんな特権があるのか。――それは、われわれのほうが年上で分別があるからなのか? ――天にいます神よ、あなたの目から見れば、大きい子どもと小さい子どもがあるばかりです。しかも、どちらをあなたがお喜びになるかは、あなたの御子が、ずっとむかしにお告げになったことです。それなのに、世のひとびとはあなたの御子を信じながら、その言葉を聞かず――それもいまにはじまったことではない。――おとな自身の思いどおりに子どもを育て、そして――さようなら、ウィルヘルム、ぼくはもうこれ以上、駄弁を弄(ろう)したくない。
七月一日
ロッテのような女性は、どんなに病人の慰めになるだろう。それは、ぼくには胸にこたえてわかるのだ。だって、ぼくのこの胸は病床で悩んでいるひとたちよりも、もっと病んでいるんだから。二、三日、ロッテが町のある実直な婦人のところへ看病にいくことになった。この婦人は、医者の見立てではもう長くはない。それで、死ぬ前の少しの間でもロッテにそばにいてもらいたいというのだ。
先週、ぼくはロッテといっしょに聖××村の牧師をたずねた。そこは、一時間ばかりはいった山のなかの小さな村で、ぼくたちは四時ごろ着いた。ロッテは二番目の妹を連れて行った。ぼくたちが二本の大きな胡桃(くるみ)の木がこんもりしている牧師館の庭へはいると、人の好さそうな老人が玄関のまえのベンチに腰かけていた。老人はロッテの姿をみとめるなり、生きかえったように元気になり、節のある杖を取るのも忘れて迎えに出ようとした。ロッテは駆(か)けよって老人をむりにすわらせ、自分もそのわきに腰をおろした。そして、父からくれぐれもよろしくということづてを伝え、年を取ってからできたという、牧師の見るからにきたない甘えんぼうの末子を抱きしめた。きみにも、あのときのロッテの様子を見せたかったよ。老人をいたわり、すっかり遠くなった耳にも聞き取れるように声を大きくして、若い丈夫なひとが思いがけず亡くなったとかいう話をしたり、カールスバートの温泉がよくきくというような話をしたりして、老人がこの夏ぜひそこへ行きたいというと、よくその気になったとほめ、このまえお目にかかったときよりもお顔の色もいいし、ずっとお元気でいらしゃいます、などと言っていたロッテを。
その間、ぼくは、牧師の奥さんとの挨拶をすませていた。老人がすっかりほがらかになったので、ぼくも、ぼくたちの上にこんなに気持ちのよい陰(かげ)を落とす胡桃の木をほめずにいられなかった。すると、いくぶんもたつきながらも、老人はその木の来歴を次のように話してくれた。
「古いほうの木は、そもそも誰が植えたのか、いまでははっきりしません。あの牧師だったというのもあれば、この牧師だったというものもありまして。だが、奥のほうの若い木は、わしの家内と同い年で、この十月には五十になりますわい。家内の父親があれを朝、植えて、その日の晩に家内が生まれたとか。家内の父親は、わしの前任の牧師で、あの木を口では言えんほど大切にしておりました。あの木は、わしも劣らず大事にしておりますが。なにせ、いまから二十七年まえ、一介の貧乏書生のわしがはじめてこの庭にはいってきたとき、ちょうど家内があの木の下の材木に腰かけて編物をしとりましたわい」
ロッテは、牧師の娘のことを聞いた。シュミット君といっしょに、牧場で働いている人たちのところへ出かけたということだった。老人は自分の話をつづけて、彼が先代に目をかけられ、娘にも愛され、まず副牧師となり、それから先代の牧師の後継ぎになったいきさつを語った。話が終るときもなく、牧師の娘がシュミット君なるひとと庭からやってきた。娘はロッテに、あたたかく歓迎の意を述べた。ぼくも、かなり好感がもてた。きびきびした、褐色の髪をした大柄の、しばらくのあいだなら、いっしょに田舎で暮らしても、おもしろそうな娘だった。その恋人(ということをシュミット君はすぐ態度にあらわした)は、上品な、だが無口なひとだった。ぼくたちの会話にロッテが引き入れようとしても、加わろうとしなかった。ぼくたちの話の仲間にはいらたがらないのは、知識が狭いからではなく、わがままで不機嫌のせいらしいのが、その顔つきから察せられ、ぼくはすっかり失望した。残念ながら、時間がたつにつれてそれがいよいよはっきりしたのだ。というのは、散歩にいくことになり、フリデリーケがロッテと並んで歩いたり、ときにぼくと連れ立って歩くと、それでなくても浅黒いこの男の顔が目に見えて暗くなったからだ。それで、ロッテがぼくの袖を引っぱって、ぼくがフリデリーケとあんまり親しすぎると注意してくれたほどだった。
ぼくが何より不愉快に思うのは、人間がおたがいに苦しめ合うことだ。とりわけ、若いひとたちが人生の花ざかりに、喜びという喜びをほんとうに自由に楽しめるのに、その楽しい日々をおたがいに仏頂面してだいなしにしてしまい、気がついたときには、もうあとの祭りになってしまっていることである。こうした思いが腹にすえかねた。それで、夕方、われわれが牧師館に戻って、一つテーブルでミルクを飲んで話し合いながら、人生の苦しみや喜びに話題が移ったとき、ぼくは話の糸口をとらえて、あの不機嫌というものに、正面から攻撃を加えないわけにはいかなかった。「世間のひとは、よく、良い日が少なくて悪い日ばかりが多いとこぼします。しかし、ぼくにいわせると、それはたいていまちがいです。われわれがいつも何のこだわりもなく、その日その日、神さまがめぐんで下さる幸福をかみしめて味わうならば、たとえ不幸がやってきても、それにじゅうぶん耐えられる力をもっているはずです」
すると、牧師夫人が言った。「でもね、わたくしたち、自分の気持ちが自分で思うようにならないものですわ。からだの調子に左右されますもの。からだの調子がよくないと、つい気持ちもくさくさしてしまいます」
ぼくは、それはそのとおりです、と答えて言った。「では、それは一種の病気とみとめて、その手当てはないものか、考えてみようじゃありませんか」――「おっしゃるとおりですわ」と、ロッテが答えてくれた。「たいていは、自分しだいだと、わたくしも思います。何よりも、わたくしがそうなんですもの。何かにむしゃくしゃして腹が立ったとき、わたくし、ぱっと飛び出して対舞曲(コントル)を二つ三つ口ずさみながら、庭を行ったり来りしますの。すると、もうさっぱりいたします」
「それなんですよ、ぼくが言いたかったのも」と、ぼくは言った。「だいたい不機嫌なんて怠慢と変わりがありません。怠慢の一種ですからね。ぼくたちの本性は、とかく怠慢に流れやすいのですが、一度ふんばって大いに奮起すれば、仕事はどんどんはかどり、働くことが本当に楽しくなるものです」――フリデリーケはひどく熱心に耳をかたむけていたが、シュミット君は、だれしも自分が意のままにならない、自分の感情を統率することは不可能だ、と、ぼくに反論した。――ぼくは、それに答えて言った。「いまここで話題になっているのは、不快な感情のことなんですよ。そんな感情からのがれたくないものはないでしょう。でもどこまで自分の力でやれるかは、やってみなければわかりません。いうまでもなく、病気になればだれでも、いろんな医者にみてもらい、健康をとりもどそうと、どんなつらい節制もするでしょうし、どんな苦い薬も飲むでしょうから」
気がつくと、実直な老人は耳をそばだてて、ぼくたちの議論に仲間入りしようとしていた。ぼくは声を大きくして、話を老人のほうに向けた。「いろんな悪徳を犯さぬように、という説教がありますが、これまで説教壇から不機嫌をいましめる説教がなされた、ということは、あまり聞いたことがないのですが」――「やるとすれば、それは、町の牧師の仕事でしょう。百姓には不機嫌なんてものはないんだから。時にはそんな説教も悪くはあるまい。少なくとも、うちの奥さんや法官様にはな」――一同は笑った。老人もおもしろそうにいっしょになって笑ったが、とうとう咳(せ)きこんだ。それで、ぼくたちの議論はしばらくとぎれた。やがて、また例の青年が言い出した。――「あなたは不機嫌を悪徳だと言いましたが、それは大げさだと、ぼくは思います」――「そんなことはありませんよ」と、ぼくは言いかえした。「自分自身を傷つけ、すぐそばの人を傷つけるようなことは、当然、悪徳といわなければなりませんよ。われわれはお互いをしあわせにすることもできないくせに、なおそのうえにどうしてお互いの楽しみを奪い合わなければならないのでしょう。それも、たまに自分だけに与えられるような楽しみなんですよ。不機嫌でいながら、しかもまわりのひとたちの喜びをこわさないように、その不機嫌さを押しかくしてひとりで耐えていけるような立派なひとがあったら、教えてもらいたいものです。不機嫌というのは、むしろ自分のくだらなさに対する内心の憤懣(ふんまん)ではありませんか。自分が自分を気に入らないというやつで、かならず嫉妬と結びついているんではありませんか。そいつは愚劣な、見栄(みえ)にあおり立てられます。目の前に幸福なひとがいる、だがそのひとは自分が幸福にしてやったのではない。これがしゃくなんです」
熱中してしゃべっているぼくを見て、ロッテがほほえみかけてくれた。フリデリーケの目には涙が浮かんでいた。ぼくは、それに刺激され、勢いづいて話しつづけた。「ひとの心に芽ばえる素朴な喜びを奪い取るために、暴力を使って相手を支配する、といった人間は言語道断だ。こういう暴君の嫉妬からくる不快さでわれわれの心の喜びがひとときでもだいなしにされたら、それは、この世のどんな贈り物でも、どんな好意でも、けっして償(つぐな)うことはできません」
こう言ったとき、もうぼくの胸はいっぱいだった。いろんな過去の思いでが胸にせまって、目には涙がわいてきた。
「毎日、だれでも自分に向かってこう言いきかせることができればいいんだが」と、ぼくは叫んだ。「おまえは友だちに何もしてやれないんだ。ただ、友だちの喜びをさまたげず、いっしょなってよろこんでやるのが精一杯で、それ以上の幸福にはなんの役にも立たないんだ。友だちの目に見えない心が不安の衝動にさいなまれ、苦痛にかきむしられているとき、おまえは一滴の鎮静剤でも与えてやることができるだろうか。そして、青春の日々をおまえのためにささげつくした女性(ひと)が、恐ろしい瀕死(ひんし)の病に襲われるとき、おまえに何ができるんだ。そのひとは、いま見るかげもなく衰えて病の床に臥(ふ)し、目はぼんやりと空を眺め、青白い額には末期の汗がにじんでいる。おまえは呪われたもののようにベットの前に立っている。どんなに力をつくしても、おまえは何もできないことを心の底から感じるのだ。おまえは不安にただわななくばかりだ。おまえはいっさいを投げ出して、この死にかかっているひとに、一滴の活力を、一条の気力でもそそいでやれたらいいと思うだろうが」
こう言っているあいだに、ぼくはかつて経験したそういう場面の思い出が、すさまじい勢いでぼくを襲った。ぼくは目にハンカチをあてて席を立った。「さあ、帰りましょう」というロッテの声に、はっと我に返った。帰りの道々「あなたはすべてに熱中しすぎますわ。そんなことでは身を滅ぼしますよ。ご自分を大事になさいませ」と、ロッテにどんなにしかられたことだろう。――おお、天使よ! あなたのためにぼくは生きなくてはならない!
七月六日
ロッテは、ずっと例の危篤の夫人のところにいる。相変わらずの彼女で、いつもよく気がついて、やさしい。ロッテが目をそそぐと苦痛はやわらぎ、ひとびとはしあわせになる。きのうの夕方、ロッテはマリアーネと小さなマールヒェンを連れて散歩に出かけた。ぼくはそれを知って、途中で会って同行した。一時間半ばかり歩いてから町へ引きかえし、泉のところまで来た。ぼくにはなつかしい泉だが、いまはそれが千倍も尊いものになったんだ。ロッテは低い石垣に腰をかけ、ぼくたちはその前に立った。あたりを眺めた。すると、ああ、ぼくがあんなにも孤独だったときのことが、目の前にありありと浮かび出た。
「おお、なつかしい泉」とぼくはひとりごとを言った。「あれから、ぼくはこの泉の冷気のそばで憩うこともなかった。たいてい急いで通りすぎて、振りむきもしなかった」
下のほうに目をやると、マールヒェンがコップに水をくんで、ちょこちょこと階段をのぼってくるのが見えた。――ぼくは、ロッテを見つめた。そして、このひとが自分にとって大事なひとであることをしみじみ感じた。そこへマールヒェンがコップを持ってやってきた。マリアーネがコップを取ろうとした。
「だめ!」と、小さな子がかわいい顔をして叫んだ。「だめ! ロッテお姉ちゃん、お姉ちゃんいちばん先に飲んで!」
そう叫んだマールヒェンの純真さとあどけなさに、ぼくはすっかりうれしくなり、自分の気持ちをあらわしようもなく、マールヒェンを抱きあげて思いっきり接吻した。とたんにマールヒェンが大きな声で泣き出した。
「あなたがいけないんですわ」と、ロッテに言われて、ぼくは困ってしまった。――「さあ、いらっしゃい、マールヒェン」と、ロッテは妹の手を取って石段をおりながら言った。「きれいな水ですぐ洗うのよ。すぐね。そうすれば、なんでもないわ」
立ったまま見ていると、マールヒェンは小さな手を水にぬらして、きゅっきゅと頬をこすっている。この奇跡の水で洗えばどんな不浄でも流し落とせるし、いやらしい髭(ひげ)が生えるという災難(幼い女の子が男のひとにキスされると髭が生えるという迷信があった)からのがれられる、と子どもは信じきっているようだ。ロッテが、「もういいわ」と言うのにもかまわず、子どもは少ないよりも多いほうがききめがあると思っているのかのように、相変わらずせっせと洗っている。――ウィルヘルム、ぼくは、きみに明言する。これ以上敬虔な気持ちで、ぼくが洗礼の席に臨んだ事はないのだ。そして、ロッテがあがってきたとき、国民の罪をはらいきよめた予言者の前に出たように、ロッテの前にひれ伏したい気持ちだった。
その晩、ぼくはある男に、このことをうれしさのあまり話さずにいられなかった。その男は分別のある男だったから、人情も解せるだろうと思っていた。ところが、とんでもないことだった。そいつが言うのには、「それはロッテさんがいけませんな。子どもをだますのはよくないですよ。そんなことが無数のいつわりや迷信のきっかけになるんです。子どもは小さいうちから、そうしたことにならないように気をつけてやるべきですよ」
――ぼくは、この男が一週間前に洗礼を受けたばかりだったのを思い出して、おとなしく聞いていた。けれども、ぼくは、「神さまがわれわれを酔わしたまうそのとき、もっとも大きな幸福をあたえて下さるのだ。神様がわれわれにそのようになさるように、われわれも子どもにそうしなければならぬ」という真理を、心に深くかみしめていた。
七月八日
なんて、子どもみたいなんだろう。見たいと思うと、もう見たくてたまらなくなるんだ。まったく子どもみたいだ。――ぼくたちはワールハイムへ出かけた。婦人たちは馬車で行った。そして散歩しているあいだ、心なしかぼくは、ロッテの黒い目に――ぼくはどうかしている。許してくれたまえ。きみがあれを、あの目を見なくては話にならない。――もう眠くて目がふさがりそうだから、この先は簡単に書く。婦人たちが馬車に乗りこんだあと、馬車のまわりに若いW、ゼルシュタット、アウドラン、そして、ぼくが立っていた。もちろん、とても気軽で陽気な連中だから、ひとしきり、窓越しに婦人たちとおしゃべりしていた。――ぼくはロッテの目を追った。ああ、その目は誰彼に向けられる。それなのに、ぼくには、ぼくには、やるせなくただひとり立ちつくすぼくには、一度もロッテは目をそそいでくれなかったのだ。――ぼくは幾度となく、心のなかでロッテにさよならを言った。ロッテはぼくのほうを見てくれなかった。馬車が走り出した。ぼくの目に涙が浮かんだ。ぼくはロッテのほうをじっと見た。ロッテの髪飾りが扉から出ているのが見えた。ロッテがふりかえった。ああ、ぼくをふりかえって見てくれたのだろうか。――きみ、それがよくわからないので、気持ちが落ち着かないんだ。おそらく、ぼくをふりかえって見てくれたのだろう、と、ぼくは自分を慰めている。おそらくね。――おやすみ。なんてぼくは子どもみたいなんだろう。
七月十日
何かの席でロッテの話が出ると、ぼくがどんなに、あたふたしてしまうか。きみ、想像してくれたまえ。ことに「あのロッテさんが気に入りましたか?」なんてたずねられると――気に入る、こんな言葉は、死ぬほどいやだ。ロッテさんが気に入りました、なんて言う男、ロッテのために、感覚のすべて、感情のすべてが満たされないような男は、どんな人間だろう。気に入る、ついこのあいだ、ぼくに「オシアン(三世紀のアイルランド詩人と言われている)が気に入りましたか?」なんて聞いたやつはいたけれど。
七月十一日
M夫人の容態がひどく悪い。ぼくは、夫人の命を、ほんとうに気づかっている。ロッテと苦しみをともにしているぼくだもの。ロッテとは、ぼくの女友だちのところでも、めったに会わない。が、きょう彼女は、ぼくに妙なできごとを話してくれた。
年とったM氏は強欲な守銭奴で夫人を暮らしのことでひどく苦しめ、窮屈な目に合わせてきた。それでも夫人は、それをどうやら、こんにちまで切り抜けてきたのだ。
つい二、三日前、医者から絶望の宣告を受けると、夫人は夫を枕べへ呼んで(そのときロッテも病室にいた)、こう話したというのだ。
「あなたにひとつ打ち明けておかなくてはならないことがございますの。わたくしが死んでからいざこざが起こったり、いやなことがあったりしてはいけませんから。いままでわたくしは、できるだけきちんと、できるだけつつましくやりくりしてまいりました。でも、お許しいただきとうございます。わたくし、この三十年間、あなたの目をごまかしてまいりました。結婚したばかりのとき、あなたはお勝手やそのほかの費用をまかなうために、ごくわずかな額をお決めになりました。うちの商売が大きくなって家計がふくらんでも、あなたはわたくしが、毎週いただく分をそれ相応にふやすことを、どうしても聞き入れては下さいませんでした。あなたも覚えておいででしょう。つまり、家計がいちばんふくらんだときでも、一週間七グルデンでやっていけとおっしゃいました。この額を、わたくしは黙っていただきました。けれども、不足分は毎週の売り上げから取っておいたのです。よもや主婦が帳場の金を盗むなんて、だれひとり考えもしませんでしたから。わたくしは、びた一文むだ使いはいたしませんでしたし、こんな告白をしなくたって安心して天国にいけるでしょうけれども、ただ、わたくしのあとでこの家をやっていく方が、やりくりがわからなかったり、あなたがきっと前の妻はそれでやっていたとおっしゃると思いまして」
ロッテと話しあったことだが、人間の心なんて、ばかばかしいほど目先のきかぬものだね。すでに費用が倍になっているのを見ながら、七グルデンでやっていけるなどというのは、当然なにか奥にからくりがあると疑うべきではないだろうか。ところが、予言者から絶えることない油びん(聖書の「列王記」上 第十七章第十四節〜第十六節予言者エリアの奇跡)が自分の家にころがりこんでいると思って平気でいるような強欲な連中がほんとうにいるものなんだ。ぼくもそんなやつを知っているよ。
七月十三日
いや、ぼくの思い違いではない! 彼女の黒い目のなかに、ぼくとぼくの運命に対するまぎれもない関心が読みとれるのだ。それどころか、ぼくははっきり感じられるし、その点では自分の心を信じて疑わないのだが、ロッテが――ああ、こんなにすばらしいことを口に出して言っていいのだろうか、言うことができるだろうか――ロッテがぼくを愛しているなんて、
ぼくを愛している!――そのため、ぼく自身がどんなに大切なものになり、ぼくが――きみには言ってもいいだろう、きみはわかってくれるから――ぼくが彼女に愛されるようになってから、ぼくは自分をどんなに尊敬するようになったことか。
これは自惚(うぬぼ)れだろうか。それとも、事実にもとづく感情だろうか。ロッテの胸のなかにいる人物で、ぼくが引け目をおぼえるような男はいない。だが――ロッテに許婚者のことを、あんなにあたたかく、あんなに愛情をこめて話されると、そのときばかりは、ぼくは名誉も位階も剥奪(はくだつ)され、帯剣まで取りあげられた人間のような気持ちになる。
七月十六日
ふとこの指があのひとの指にふれるとき、この足がテーブルの下であのひとの足に接するとき、ぼくは全身の血がわななく。火にさわったときのように、急に身を引いてしまうのだが、不思議な力がぼくの前に引きよせ――ぼくの全感覚がもうろうとしてしまう――ああ、それなのに、彼女の無邪気さ、彼女の天真らんまんな心は、こうしたひょっとした親しみが、どんなにぼくを悩ますか知らないのだ。それどころか、話し合っているうちにその手をぼくの手に重ね、話に身がはいるとのり出して、あの唇の清らかなすばらしい息吹きがぼくの唇にふれそうになるとき――ぼくは雷に打たれたときのように、いまにも倒れそうになる。――そしてウィルヘルム、もしぼくが大胆にも、この天国を、この信頼を――きみ、わかってくれるだろう、ぼくはそこまで堕落していない! でも弱いんだ。――いかにも弱いんだ。――だが弱いということは堕落ではないのだろうか。
ロッテは、ぼくにとっては神聖だ。彼女のまえに出ると、あらゆる欲望が沈黙する。彼女のそばにいると、自分がどうなっているのかわからなくなる 。まるで神経のすみずみまで 魂 が顛倒(てんとう)したみたいだ。――ロッテはある曲をよくピアノでひく。天使がひくような力があって、実に素朴で精妙な曲だ。それは彼女の好きな歌曲だ。その最初の一節をひいてくれるだけで、ぼくはすべての苦痛、混乱、動揺から救われるのだ。
むかし音楽には魔力があった、と伝えられているが、これはけっしてまちがいではないとぼくは思う。あの単純な歌がどんなにぼくの心をとらえるだろう。しかも、どんなに巧みにロッテはその歌を奏(かな)でることができるだろう。ときどき、ぼくは一発ピストルの弾丸をこの額に撃ちこみたくなる、ちょうどそんなときに! すると、ぼくの心の迷いも闇も四散して、ぼくは、ほっとして息をつくのだ。
七月十八日
ウィルヘルム、愛のない世界なんて、ぼくたちの心にとって何だろう。あかりを入れない幻灯みたいなものではないか。小さいランプを入れて、はじめて、いろんな映像が白い壁のうえに映るじゃないか。それが、束の間の幻影にすぎないとしても、あどけない少年のようにそのまえに立って、不思議な映像に大喜びすれば、それで、やはりぼくたちは幸福なのだ。きょうはロッテのところへ行けなかった。やむをえない集まりがあって、しかたがなかった。それでどうしたと思う。代わりに召使いをやったのだ。というのも、きょうロッテのそばにいた人間が、ぼくの身近に欲しかったばかりに。召使いの帰りがどんなに待たれたことだろう。そして帰ったときはどんなにうれしかったことだろう。恥ずかしくさえなければ、召使いの首を抱(だ)いて、接吻してやりたかったのだが。
ポロニア石(螢光石)を太陽にあてておくと、日光を吸収して、夜でもしばらくは光っているという。この若者がそうだった。ロッテのまなざしが、その顔、その頬、その上着のボタン、その外套(がいとう)の襟に向けられていたかと思うと、それらがすべて、このうえなく神聖で尊いもののように感じられるのだ。あのときには、たとえ百ターレルくれたって、この若者を手放しはしなかったろう。彼がそばにいると、とても幸福だった。――頼むから、笑わないでくれ、ウィルヘルム。幸福だからといって、それが幻影だろうか。
七月十九日
「あのひとに会おう」ぼくは、毎朝そう叫ぶ。目をさまして、元気よく、美しい太陽を仰ぐとき、「あのひとに会おう」と、叫ぶ。ほかに願いなど、一日中ないのだ。何もかもが、この希望のなかにのみこまれているのだから。
七月二十日
公使(当時ドイツの連邦諸国は互いに外交官を交換していた)といっしょに×××に赴任したらいいというきみたちの考えを、ぼくは承認するわけにはいかない。下働きなんて、ぼくはあんまり好きじゃない。それに公使がいやなやつだということは、だれもが知っているからね。きみの話では母がぼくに仕事をするように切望しているということだが、これには思わず笑ってしまった。いまだって、ぼくは仕事をしているじゃないか。豌豆の数をかぞえようが、いん(・・)げん(・・)の数をかぞえようが、それは結局おなじことではないか。世の中のすべてのことは、要するにくだらんことだよ。自分自身の情熱も欲求もないのに、ただ金銭や名誉やその他の何かを求めて他人のためにあくせくしている者は、愚か者にきまっている。
七月二十四日
絵のほうを怠けていまいかと、きみがとても気にしてくれているので、ぼくとしてはその話は避けたいところなんだが、じつをいえば、その後ほとんど何も描いてないんだ。
ぼくはこれまでになくしあわせだし、自然にたいする情感が、小さな石や草にまで、こんなに敏感になり、こんなに充実したことはない。それなのに――どう描写していいものやら自分でわからないのだ。ぼくの表現力がきわめて乏しいのだ。何もかもが、ぼくの心のまえで浮遊し、動揺するばかりで輪郭がつかめない。しかし、うぬぼれかもしれないが、もし粘土かワックスでもあれば、ぼくは何か形づくってみるだろうと思う。むろん、こんな調子がつづいたら、ぼくだってほんとうに粘土を手にしてこねあげるにちがいない。たとえお菓子ができたにしたって。
ロッテの肖像を三度描きかけて、三度とも恥さらしの失敗に終った。すこし前には、まだかなりよくできたのに、それだけむしろ、くしゃくしゃする。それでロッテの影絵をつくった。まあ、これで、がまんしなければならぬ。
七月二十六日
ロッテ様、承知いたしました。万事よろしく手配しておきましょう。どしどしぼくに用事をお言いつけ下さい。どうぞ何度でも。ただひとつだけお願いがあります。ぼくに下さるお手紙には、砂を(当時はインクを吸い取るために砂をふりかけた)ふりかけないで下さい。きょう、急いで唇におしあてたら、歯がじゃりじゃりしましたので。
七月二十六日
もう、こんなにたびたびロッテに会うまい、とぼくは何度決心しただろう。それがほんとうに守れればいいんだが、くる日もくる日も誘惑に負けては、明日こそいくまいと胸に誓う。しかし、その明日がくると、うっちゃっておけないような理由を見つけて、いつのまにやら彼女のそばへやってくる。前の晩に「明日もいらっしゃるでしょうね」とロッテに言われたとか――そう言われてどうして行かずにいられよう――用事を頼まれたら返事は直接自分が伝えるのがほんとうだとか、お天気がとてもいいからワールハイムまでぶらっと来て、ここまで来れば、あと半時間で行けるじゃないか――もう、ぐずぐずしてはいられない――あっという間に来てしまっているという始末。ぼくの祖母がよく話してくれたおとぎ話に、磁石の山の話があった。船がこの山にあまり近よると、たちまち金具がすっかり吸いとられ、釘は山の方へ飛んでいく。あわれな乗組員は、ばらばらになって落ちる板にはさまって、海のもくずになってしまうというのだ。
七月三十日
アルベルトが帰ってきた。ぼくは、もうここを立ち去ろう。たとえ彼が世にもすぐれた立派な人間で、あらゆる点でぼくが尊敬せずにいられないとしても、ぼくの目の前で、ロッテのような完全無欠の女性を手に入れているのを見せつけられては、たまったものではない。――そうだ、手に入れてるんだ――とにかく、ウィルヘルム、婚約者があらわれたんだ。立派な、愛すべき人物で、だれだって好意を寄せざるをえない。運よく、ぼくは出迎えの場にいなかったが、もし居合せたら、この胸は引き裂かれただろう。アルベルトという男はとても慎み深くて、ぼくのいるところでは、まだ一度もロッテにキスしたこともない。ほんとうに見あげたものだよ。ロッテを心から尊敬しているので、ぼくもこの男を好きにならずにいられない。アルベルトはぼくに好意的だが、それはきっと、本人自身の気持ちから出ているというよりは、むしろロッテがそうさせているのだろう。そうしたことでは、女というものは敏感でぬかりがないからね。そうめったにうまくはいかないけれど、ふたりの崇拝者をおたがいに仲よくさせておくことができれば、得をするのはいつも女だからね。
とにかくぼくは、アルベルトには敬意を表さないわけにはいかない。彼の冷静な風貌(ふうぼう)は、ぼくの落ちつきのない性格と、じつにいい対照だ。アルベルトは感情も豊かで、ロッテのことを彼相応によく理解している。不機嫌になるようなことはないらしい。不機嫌こそ、人間のあらゆる悪徳のうちで、ぼくがいちばん憎んでいるものだ、ということはきみも知っているとおりだ。
アルベルトはぼくを分別のある人間だと思っている。ぼくがロッテを慕い、ロッテの一挙手一投足に夢中になって喜ぶものだから、彼はますます優越感をおぼえて、いよいよロッテを愛するばかりだ。たまには、彼だってちょっと焼きもちを焼いてロッテを苦しめることがあるんじゃないかな。そこまでは詮索(せんさく)しないでおこう。少なくとも、ぼくが彼の立場にいるとすれば、この嫉妬(しっと)という悪魔からは完全にのがれられないだろう。
アルベルトがどうであれ、とにかく、ロッテのそばにいるぼくの喜びはもう消えてしまった。愚かといおうか、目がくらんだといおうか、なんと言ったってかまわない。事実は事実なのだ。――こんなふうになることは、アルベルトが帰ってくる前からすべてわかっていたのだ。ロッテに野心を抱いてはならないことは知っていたし、また野心を起こすようなこともなかった。――という意味は、あんなに愛らしいひとのそばにいながら望みを起こさずにいられるかぎりは、ということだが。――ところがいま、現実にほかの男があらわれて娘を奪っていくというので、ぼくは目を丸くしているんだから、まったく情けない。
ぼくは歯をくいしばる。そして、自分のみじめさをあざける、だが、どうしようもないんだからあきらめろよ、なんてぬけぬけ言うやつは、二倍も三倍もあざけってやる。――そんな木偶(でく)の坊はくそくらえだ。――ぼくは森のなかを駆けまわる。ロッテのところへいく。アルベルトは庭の四阿(あずまや)でロッテと並んで腰をかけている。これでは、もう手も足も出ない。そこで、ぼくは、はめをはずし、おどけたふりや、とんちんかんなまねを、やたらやりだす。――ロッテは、きょう、ぼくに「後生ですから、昨夜みたいな悪ふざけはなさらないで下さい。あんなにはしゃいでらしゃるのを見ると、あなたがこわくなりますわ」と、言った。――ここだけの話だが、ぼくはアルベルトが用のあるときをねらっているのだ。そして、それっとばかり駆けつける。ロッテがひとりだと、いつもほっとするんだよ。
八月八日
申しわけなかったね。ウィルヘルム、避けられない運命には従えと要求するような連中は、ぼくにはがまんがならないとののしったが、あれは、けっしてきみをさして言ったわけではなかったんだよ。きみが同じような意見をもっていようとは、じつは考えてもいなかったんだ。しょせん、きみの言うとおりだ。ただ、きみ、これだけは言わしてくれたまえ。世の中には、あれかこれかでかたづくことはめったにない。感情と行為のあいだには、いろんな度合いのニュアンスがある。その度合いは、わし鼻とだんご鼻とのあいだにいろんな段階の鼻があるようなものさ。
だから、ぼくはきみの議論を全面的に受け入れながらも、なおぼくが、あれかこれか(・・・・・・)の間をすりぬけようとつとめても、悪く思わないでくれたまえ。
ロッテに望みがあるか、ないか、そのどちらかだ、ときみはいう。そのとおりだ、第一の場合は、その望みを達成するようにつとめ、自分の願いが実現するように努力しなくてはならない。第二の場合は、勇気をふるいたたすんだ。そして、自分のあらゆる精力を消耗しつくすにちがいない。みじめな感情をふりきるように努力しなくてはならない。――きみ、よく言ってくれた。――だが、早まった言い方だ。
ここにひとりの不幸な男がいて、流行性の病気のために、毎日じりじりと命をちぢめているとする。そんな男に向かって、きみは、いっそ短刀でひとおもいに突いて苦しみの根を絶て、と要求できるかい。それに、あらゆる力を食いつくしていく病気そのものが、同時にまた、それからのがれようとする勇気をも奪ってしまうのではないだろか。
なるほど、きみは同じような比喩(ひゆ)を使って、ぼくに応酬するかもしれない。ぐずぐずためらって命を危うくするよりは、むしろ、あっさり腕の一本ぐらい切ってもらった方がましじゃないか、と。――ぼくにもわからない。だから、比喩で噛み合うのはよそう。とまれ、ウィルヘルム――そうだ、ぼくにだって、ときにはふるい立って振り切ろうとする勇気が生まれる瞬間もないわけじゃない。――そんなとき、どこへいったらいいかわかれば、ぼくはきっとここを去るよ。
夜
しばらく怠けてつけずにいた日記を、きょうまた手にとってみて驚いた。なんでもかんでもよくわかっていたはずなのに、一歩、また一歩と、こんなところに落ちこんでしまった。自分の状態をはっきり見ていながら、子どもみたいにふるまってきたのだ。いまだって、よく見ているけれど、好転する見込みなんかまったくない。
八月十日
ぼくがこんなにばかでなければ、きっと、このうえなく幸福なすばらしい生活が送れるだろう。いま、ぼくのおかれている環境ほど、心を楽しませてくれるいい条件がすっかりそろっているところなんて、めったにない。幸福になれるのは、われわれの心の持ち方ひとつだ、というのは、たしかにまちがいない。――愛すべき家庭に仲間入りし、老人から息子のように愛され、小さな子どもたちからは父親のように慕われている。そして、ロッテからも! ――それに、誠実なアルベルト、彼は気まぐれな不作法さなどで、ぼくの幸福を乱すようなことはしないし、あたたかい友情でぼくをつつんでくれ、ロッテの次にはこの世でぼくをいちばんたいせつだと思ってくれている。――ウィルヘルム、ぼくとアルベルトが散歩しながら、ロッテのことをたがいに話し合うのを聞いたら、きみも、きっと楽しくなるんじゃないか。たしかに、ぼくたちふたりの関係ほどおかしなものは、世の中にはまあないだろう。でも、それを思うと、よく、ぼくの目に涙がにじんでくる。
たとえば、アルベルトは、ぼくにロッテのお母さんがきちん(・・・)としたひとだったことを話してくれたりする。お母さんは臨終の床で、ロッテに家のことや子どもたちのことを頼み、アルベルトにはロッテのことを托した、というのだ。そのときから、ロッテは別人のようになって真剣に家事の面倒を見、まるでほんとうの母親のようになった。片時も、慈愛や仕事を忘れず、しかも持ちまえの明朗さと快活な気性を失わない――といった話を聞きながら、ぼくはアルベルトと並んで歩いていく。そして道ばたの花を摘み、念入りに花輪を編む。それを、かたわらを流れる小川に投げ込み、静かに波に乗って流れ去るのを見送るのだ。――まえに知らせたかどうか忘れたが、アルベルトはここにとどまることになるようだ。宮廷で相当の収入のある職につくらしい。宮廷での評判はとてもいい。仕事にきちょうめんで熱心なことにかけては、アルベルトほどのものを、ぼくはあまり見たことがない。
八月十二日
たしかに、アルベルトは世にもめずらしい、いい男だ。ぼくは、きのう、彼と妙な場面を演じたよ。アルベルトのところへ、ぼくは別れの挨拶に行ったんだ。馬に乗って山岳地方に出かけようという気になったからだ。いま、きみに便りを書いているのも、じつはその山からなんだ。アルベルトの部屋を歩きまわっているとき、彼のピストルがぼくの目にとまった。「このピストルを貸してもらえないか、旅行に持って行きたいんだ」と、ぼくが言った。「いいとも」と、彼は答えた。「ただ、きみが自分で装填(そうてん)するんならね。ぼくのところでは、飾りにかけてあるだけなんだから」
ぼくは、ピストルを一丁取りはずした。アルベルトは言葉をつづけて、「用心していたのに、とんでもない失敗をしてからと言うものは、ぼくはそんなものを二度とさわりたくないんだ」と、言った。――ぼくは、どんな話か、ぜひ知りたくなった。――彼はこんな話をした。
「いぜん、ぼくが田舎の友だちのところに三か月ほど厄介になっていたときのことだ。ぼくは小型のピストルを二丁持っていてね。装填しなくても、これさえあれば夜も枕を高くして眠れたものだ。ところが、あるとき、雨降りの午後だったが、ぼんやりすわっていると、どうしてだか、なんとなく気になり出したんだ。ひょっとして強盗にでも襲われて、このピストルが必要になるかもしれない。もしかして――こんな気持ちは、きみにもわかるだろう。それで、ピストルを下男に渡して、みがいて弾丸(たま)をつめておくように頼んだのだ。すると、下男のやつが女中たちとふざけて、おどかそうとしたらしい。どうしたはずみか、槊杖(さくじょう)がはまったままピストルが発射し、女中の右手の親指のつけ根のところに槊杖が突きささって、指をめちゃくちゃにしてしまった。おかげでぼくは、慰謝料は取られる、おまけに治療代は取られる、といったわけで、それ以来どんな銃にもいっさい弾丸はこめないことにしてるんだ。ねえ、きみ、用心したってどうなるっていうんだ。どんな危険が起こるものかわかりゃしない。もっとも……」――ところでウィルヘルム、きみも知っているように、ぼくはアルベルトという男が大好きなんだが、口ぐせにいう「もっとも」だけは、やりきれない。だって、どんな原理や原則だって例外があることはわかりきっているじゃないか。それなのに、この男の周到さといったら! なにか早まったこと、漠然としたこと、なまはんかなことを言ったかと思うと、それを限定したり、装飾したり、削ったり、加えたりして、いつまでもやめないんだ。最後には、本題はどこへ行ったのかわからなくなってしまう。このときも、あの男は、とんでもないところにはまりこんでしまった。ぼくは、しまいには耳をかさず、勝手なことを考えていた。そして、発作的な身振りよろしく、ぼくはピストルの銃口を右目のうえの額に押しあてた。
「冗談じゃない」と、アルベルトはぼくからピストルを奪いあげながら、「何をするんだ?」と言った。「弾丸ははいってないぜ」と、ぼくが言うと、「それにしても、どうしようというんだ?」と、彼はいらだたしげに言った。「人間が自殺するなんてばかなまねをどうしてするのか、ぼくには想像もできない。考えただけで、腹が立つ」
「とにかく、きみたちは」と、ぼくは叫んだ。「何か、ことを論ずるとなると、すぐ、ばかげているだの、賢明だの、それはよいがこれは悪いだの、ときめつけないと承知しない。そんなことを言って、それがいったい何になるというんだ? きみたちは、そんなことを言いながら、ある行為の内部の事情を深く考えたことがあるのかい? どうしてそんな行為がなされたか、なされざるをえなかったか。その原因をはっきりつきとめることができたのか。もしそこまでいってたら、きみたちだって、そんなに性急な判断は下せまいと思うよ」
すると、アルベルトは言った。「たとえどういう動機があったにせよ、ある種の行為は絶対に罪悪であるってことはきみだって認めるだろう」
ぼくは肩をすくめて、それを認めた。「しかし、きみ、それでも」とぼくは言った。「その場合にも、いくつかの例外はあるんだよ。窃盗(せっとう)が罪悪であることはまちがいない。だが、ここに、目前にせまった餓死から自分や家族を救うために盗みを働いたものがあるとして、これは同情に値するのか、刑罰に値するのか。不貞な妻と卑劣な誘惑者を、当然の怒りから血祭りにあげた夫に、だれがまず石を投げつけるだろうか。胸のわくわくするようなひととき、押さえがたい恋の喜びに我を忘れて身をまかせた娘に、だれがまず石を投げつけるだろうか。われわれの法律、冷酷な杓子定規(しゃくしじょうぎ)の法律だって、そんな場合には同情して刑を免ずるだろう」
「それは、問題が別だよ」と、アルベルトは言いかえした。「激情にかられた人間は、どんな判断力も失なってしまう。だから、酔っ払いや気違いと同じようなものさ」
「なるほどきみたちは理知的なもんだ」と、ぼくは笑いながら言った。「激情とか、酔っ払いとか、気違いとか言いながら、きみたちはすまして悠然(ゆうぜん)とかまえていて、じつはなんの関心も払わない。きみたちは品行方正なのさ。酔っ払いをとがめ、気違いを毛嫌いし、坊さん然(聖書「ルカによる福音書」第一〇章第三十一節)としてそのそばを平然として通り過ぎる。そして、自分がそんな連中の仲間でなかったのを、パリサイ人(「ルカによる福音書」第十八章第一一節)よろしく神さまに感謝するってわけさ。ぼくは何度も酔っ払ったし、激情にかられて気違いと紙一重のときだってあった。だが、ぼくは両方とも後悔していない。何か大きいこと、何かできそうもないことをやってのけた。けたはずれの人間が、昔から、やれ酔いどれだの、やれ気違いだのとののしられねばならなかったわけが、ぼくなりにわかってきたからだ。
だが、われわれの平凡な日常生活でも、だれかが自由な気高い意想外なことをやり出すと、きまって、『あいつは酔っ払いだ! あいつはばかだ!』と陰口がたたかれる。そんなのを耳にするのは、まったく不愉快だ。しらふで賢明なものたちこそ恥を知るべきだよ」
「それも、また、きみの妄想さ」と、アルベルトは言った。「きみはなんでも誇張する。いま問題になっている、自殺を偉大な行為とくらべたりするのは、ここでは少なくともまちがいだよ。自殺は要するに弱さと考えていいからね。苦悩に満ちた生活をじっと堪えていくよりは、死ぬほうがやさしいにきまっているものね」
ぼくは、議論をやめようとした。こちらが心の底から話しているのに、相手はいい加減なきまり文句でやってくる。そんな議論ほど、ぼくにとって向かっ腹の立つものはないからだ。だが、そんな議論はこれまでにたびたび耳にしたし、そのためにいつも腹を立てていたのだけれど、ぼくは腹の虫を押さえて、いくぶん激しい調子でやりかえした。
「きみは、弱さなんて言うのかい? 外見に惑(まど)わされないでもらいたい。暴君の耐えがたい圧制に呻吟(しんぎん)していた民衆がついに激昂して鎖を断ち切った場合。君はそれを弱いなんて言えるのか。火災にわが家がつつまれ呆然(ぼうぜん)としながらも、全力をふりしぼって、ふだんだったらとても動かすことのできない荷物をやすやすと運び出す人間を、弱いなんていえるのか。侮辱を受けて激怒し、六人もの相手を向こうにまわしてやっつけた男を、弱いなんて言えるのか。ねえ、きみ、力をつくすことが強さなら、どうして力をつくしすぎることがその反対ということになるのだろう」
アルベルトは、じっとぼくの顔を見ながら言った。「失礼だが、きみがあげた例は、この場合にはまったくあてはまらないと思うよ」
「そうかも知れない」と、ぼくは言った。「ぼくの連想のしかたはたわごとに近い、とこれまでにもよくしかられたよ。それでは、こんどは別の方法で、普通なら楽しいはずの生命の荷物を投げすてようと決意するひとがどういう気持ちを抱いているか、考えてみようではないか。気持ちがわかってはじめて、その問題を語る資格があるんだからね」
ぼくは、さらに言葉をつづけた。「人間の本性には、限界というものがある。喜びも、悩みも、痛みも、ある限度までは耐えることができる。しかし、その限度をこえると、たちまちめちゃめちゃになる。だから、ここで問題になるのは、そのひとが弱いとか強いとかではない。その苦しみの限界に耐えられるかどうか、これが問題だ。精神的な苦しみでも、肉体的な苦しみでも、どちらでもそうだ。自分の生命を絶つひとが卑怯だなんていうのはおかしな話だ。悪性の熱病で死ぬひとを卑怯よばわりすると同じように見当ちがいだ、とぼくは思う」
「詭弁(きべん)だ、ひどい詭弁だ」
「いや、きみが考えているほどひどい詭弁じゃない」と、ぼくは答えた。「きみだって認めるだろう。われわれが『死にいたる病(「ヨハネによる福音書」第十一章第四節)』と名づけるものがあることは。それにやられると、体力は消耗するし、機能はだめになるし、再起不能になって、どんなに病状が好転しても、生命の正常ないとなみは回復できなくなるんだ。
ところで、きみ、これを精神の場合にあてはめてみよう。ある人間が精神的にゆきづまっている。いろんな印象が殺到する。いろんな観念がわだかまって身動きがとれない。そんな人間を考えてみたまえ。ついには昂(こう)じてかっとなり、あらゆる平静な思考力を失って破滅してしまうのだ。
このような不幸な人間の状態を、冷静な理知的な人間がいろいろ観察してみたって、何にもなりはしない。慰めてやったって、何にもなりはしない。健康な人間が病人の枕べに立っていたって、自分の体力のほんの少しでも病人には注ぎこんでやれない。これと同じだ」
こんな言い方はアルベルトには抽象的すぎた。そこで、ぼくはしばらく前に水死体となって発見されたひとりの娘を例にひいて、その話をくり返した。「気だてのいい娘だった。せまい環境に生い立ち、家の手伝いをしたり、毎週きまった仕事をしたりしていた。日曜日には少しずつ集めたものでおめかしをして、同輩といっしょに郊外をぶらつくとか、お祭りともなればかかさずダンスに出かけたり、そのほか喧嘩や陰口の詮索に熱中して、近所の女たちと時間を忘れておしゃべりするのが関の山、といった、それ以上たのしむあてもない娘だったんだ。――ところが、もともと、この娘は性質が情熱的だったので、いつしか、何かしらえもいえぬ胸のときめきを覚えるようになった。男たちにちやほやされ、そのときめきは、いっそう油を注がれた。これまでの楽しみごとが、だんだんつまらなくなってくる。そのとき、ひとりの男に出会ったというわけさ。はじめて知った感情にどうしようもなく、娘はぐいぐい引っぱられる。いっさいの望みをその男にかけるようになって、もう世間の手前も何も眼中にない。この男だけがすべてで、ほかのことには目もくれず、耳もかさず、気持ちひとつ動かさず、ただひたすらこのひとりの男に恋こがれる。浮わついた虚栄にその場の満足を見いだすような、すれた女ではなかったから、娘の思いは、いちずに目的めがけてつきすすむ。あのひとの妻になりたい、あのひとと永遠に結ばれて自分に欠けているあらゆる幸福をつかみたい、あこがれていた喜びをすっかり味わいたい、と思う。男の度重なる約束は、望みのすべてが必ず実ることを保証し、大胆な愛撫は娘の欲情をいよいよ募らせて、娘はおのれをすっかり忘れてしまう。意識は朦朧(もうろう)とし、あらゆる喜びの予感にひたって、極度に思いを張りつめて、ついに娘は胸をひろげて、いっさいの願いをかき抱こうとする。――だが、男は娘を捨ててしまう。娘は呆然(ぼうぜん)として身動きもせず、深淵の前に立つ。まわりのすべては闇。さきの見込みもなければ、なんの慰めもない。自分の生きがいと思っていた、ただひとりの男に棄てられたのだから。目のまえの広い世界も見られなければ、失ったものを補ってくれるかもしれない多くのひとびとのことも目にはいらない。世間からは見棄てられ、まったく孤独になってしまったと思い――何も見えなくなり、恐ろしい心痛に締めつけられ、深淵に身を投じて、あたりを取りまく死の中でいっさいの苦悩を絶ち切ろうとする。――どうだ、これが、アルベルト君、多くの身の上なんだ! 君はどう思う、病気の場合だってこれと同じじゃないか。錯雑矛盾する、さまざまの力の迷路から抜け出す道がなくなれば、人間はどうしても死ななくてはならないのだ。
それをわきから眺めていて『ばかな女だ、もうしばらく時間をかけて待っていたら、絶望もおさまっただろうし、別の男だって出てきて慰めてくれただろう』なんて言えるやつに禍あれだ。――それをわきから眺めていて『ばかなやつだ、熱病で死ぬなんて。もう少し待ってりゃ、体力も回復し、元気も出てきて、血のさわぎもおさまったろうに。そうなれば、万事うまくいって、きょうまで生きられたろうに』というのと同じことなんだ」
この比較でもアルベルトはまだのみこめなかったので、さらに二、三の異論を述べた。そのなかにこんなのがあった。「きみが話したのは単純な小娘のことにすぎない。しかし、そんなに心がせまくはない。いろんな事情も分別のある人間が自殺した場合、きみはどういうふうに弁護するつもりだ。ぼくは理解に苦しむよ」
「ねえ、きみ」と、ぼくは叫んだ。「小娘であろうがなかろうが、人間は人間だ。激情にかられて、人間のぎりぎりの限界まで押しつめられれば、少々分別があろうがなかろうが、ほとんど、いや、まったく問題にならない。むしろ――いや、またこんどにしよう」と言うなり、ぼくは帽子をつかんだ。もう、ぼくの胸はいっぱいだった。――こうしてぼくたちは別れたが、理解し合わなかった。おそらくはこの世では、ひととひとが理解し合うなんてことは、容易にできないのだ。
八月十五日
なんといったって、この世で愛ほど人間を尊いものにするものはない。ぼくはロッテの様子を見ていて、彼女もぼくを失いたくないと思っているように感じるのだ。子どもたちときたら、次の日もまたぼくが来ると信じきっている。きょう、ぼくはロッテのピアノの調律に出かけた。が、それどころではなかった。子どもたちからおとぎ話をせがまれ、ロッテまでも子どもたちの願いを聞いてやってくれ、というものだから。ぼくは、子どもたちに夕食のパンを切ってやった。いまでは、子どもたちも、ぼくから分けてもらうのを、ロッテの手から渡されるのと同じくらい喜ぶ。それからぼくは十八番(おはこ)の「たくさんの手で給仕される王女様(王女が幽閉されたとき、たくさんの手が天井から現われ食物を出したという昔話)」を話してやった。
たしかに、こうして話してやっていると自分でもいい勉強になる、といっていい。こっちがびっくりするほどのいろんな印象を、子どもたちは受けているのだ。二度目には話のこまかいところは忘れてしまっているので、適当に創作しなければならない。すると子どもたちはすぐ、この前はそうじゃなかったと言う。それでいまは、内容を変えず、歌うように抑揚をつけてすらすらと話せるような練習をしている。このことからわかったのだが、作家が作品改定の第二版を出す場合、文学的にはたとえよくなっても、必ずその本は傷つけられる。第一印象は新鮮で、どんなとっぴなものでも読者には諒承(りょうしょう)される。それは、頭にすぐこびりついて、なかなか離れない。だから、あとから削ったり、消したりするなんてよくないんだ!
八月十八日
人間に幸福をあたえるものが、一方では不幸のみなもとになる。これが現実の運命なのだろうか。
生きた自然にたいする充実したぼくのあたたかい感情は、かつては歓喜の洪水にぼくをひたして、あたりの景色をパラダイスにしてしまうことができた。それなのに、いまはたまらなくぼくを苦しめ、迫害の幽霊となって、どこへ行ってもぼくにつきまとう。以前ぼくは岩のうえに立って、川をへだてて向こうの丘までつづく、ゆたかな深い谷を見渡し、周囲の生きとし生けるものが芽ぐみ萌(もえ)出るのを眺めた。かなたの山々はふもとから頂きまで繁茂する高い木々でおおわれ、まがりくねる多くの谷間は美しい森のかげを宿している。ゆるやかな流れは、そよぐ葦の間をすべるように流れ、そよ風になびく夕空の雲を映している。やがて小鳥たちがあたりの森にさえずり、数知れぬ蚊の群れが赤い落日のなかに元気よく踊りまわり、沈む陽(ひ)の最後のきらめきとともに草むらから甲虫がぶんぶん飛び立つ。このようなあたりのざわめきや動きに誘われて、ぼくは大地に注意を向ける。すると、ぼくの立っている堅い岩から水分を取っている苔(こけ)や、やせた砂丘の斜面を這(は)っている潅木が、自然のふところ深く燃えている神聖な生命を、ぼくに明らかに示してくれる。まさにこのようなときに、ぼくはこれらすべてをぼくの熱い胸に抱きしめて、あふれるばかりの豊かさを感じて、まるで自分が神になったような気がするのだ。そのとき、無限の世界の荘厳なあらゆる姿が、ぼくの心のなかにほんとうにいきいきと動いていたのだ。大きな山々がぼくをかこみ、目のまえには深い淵がのぞく。雨をあつめて渓流(けいりゅう)がたぎるかと思うと、大きな河が足もとをながれ、森と山とがどよめく。すると、ぼくは、いっさいの底知れぬ力が大地のふところ深く入り乱れて作用し、創造するのをありありと見る思いだ。また、天と地のあいだには、さまざまな生きものの種族がむらがっている。どれもこれもが千態万様に棲(す)みついている。そのなかで、人間は小さな家に集まり住んで、寄り合って身の安全を守っているのに、頭のなかでは広い世界を牛耳っているつもりなのだ。なんというばからしさ! 自分がちっぽけだから、何を見てもちっぽけにしか見られないなんて。――だれも行けないはるかな高山から、人跡未踏の原野を越えて未知の大海のいやはてまで、永遠の創造者の霊のいぶきが吹きかよう。よしんば、それが一抹(まつ)の塵であろうと、この霊のいぶきに浴して生きる以上、神はそれを嘉(よみ)したまう。――ああ、あのころぼくは、頭上を飛び去る鶴のつばさを借りて、はてしれぬ大海の岸辺に飛んでいきたいとどんなにあこがれたことか。無限の神の泡立つ盃からふきこぼれる生命の歓喜をすすり、森羅万象(しんらばんしょう)をおのれのなかにおのれを通じて生み出す神の祝福を、一滴なりとも、ぼくの胸の限られた力のうちに、ただひとときでも味わいたいとどんなに思ったことか。
友よ、あのときの思い出だけが、いまのぼくを幸福にしてくれる。名状しがたいあの感情を呼びかえし、もう一度語ろうと努力するだけでも、ぼくの魂は高揚する。だが、それがかえって、いまぼくを取りまく状態が不安でたまらないという気持ちにぼくを追いこむのだ
ぼくの魂のまえに垂れ下がるカーテンが取りはらわれると、無限の生命の舞台だと思っていたものは、ぼくの眼前で永遠に閉じることのない墓穴の深淵に一変している。「それは存在する」と、きみは言いきれるだろうか。すべてのものが移り去り、稲妻のような早さで転がり、存在の完全な力が持続することなどほとんど考えられないのに。ああ、流転の流れに拉(らつ)し去られ、沈んで岩にぶつかって粉々になるのに、きみを、きみの愛する身辺のひとびとをとらえて消耗させないような瞬間は、ただの一瞬たりともない。そのきみが、いついかなる瞬間でも破壊者でもあるのだし、破壊者でないわけにはいかないのだ。なにげない無心の散歩をする時でも、無数のあわれな虫たちの命を奪う。ただの一足が、蟻たちの営々辛苦の建造物をゆり動かし、小さいながらもひとつ世界を踏みにじって、見るも無残な墓場にしてしまうのだ。ああ、ぼくの心をゆさぶるのは、まれにしか起こらないこの大災害、きみたちの村を流し去る洪水や、きみたちの町をのみつくす地震などではない。ぼくの胸を掘りかえすのは、自然のすべてのもののうちにひそむじりじりとむしばむ破壊力だ。隣人も、自分さえも破壊しないようなものは自然は何ひとつつくり出さなかった。これを思うとぼくは不安におののき、ふらふらする。天と地とその織りなす力は、ぼくの周囲にある。だが、ぼくはそこに永遠にのみつくし、永遠に反芻する怪物を見るだけだ。
八月二十一日
重苦しい夢の一夜が、やっと白みはじめる。そうした朝、ロッテのほうへ腕を差しのべても、もはやなんの甲斐もない。毎夜、幸福な罪のない夢にあざむかれ、ロッテと並んで草原にすわってその手をとり、幾度となく口づけする。ぼくはベットに彼女を求めるのだが、それはむなしい。それでもなかば夢ごこちで彼女を手さぐりし、やがて我に返ると――締めつけられた胸からほとばしるように涙がわき出し、ぼくは、はかなく暗い未来へむかって泣くのだ。
八月二十二日
困ってるんだ、ウィルヘルム! ぼくの活動力がすっかりにぶって、不安な怠けぐせがついてしまった。のんびりともできないし、さればといって、何ひとつ仕事もできない。想像力もなくなり、自然を見ても感動がないし、本なんか吐き気を催してくる。自分に身がはいらなければ、何もかも、もぬけの殻(から)さ。ほんとうのところ、ぼくは、せめて日雇い人夫にでもなれたら、と思うことがしばしばある。そうすれば、朝目をさましても、その日のあてもあり、ああしよう、こうしようという気になれるだろうと思う。耳のうえまで、書類の山にうずまっているアルベルトを見ていると、ぼくはほんとうにうらやましくなる。そして、もし彼の代わりになれたらどんなにいいだろう、といつも思うのだ。じつは、これまで何度も思い立って、きみに、大臣にも手紙を書いて、公使館づきの地位をあたってもらおうかと考えたりした。この地位なら断られることはなかろう。きみもそう言ってくれているし、ぼくもそう思うよ。大臣は前からぼくをかわいがってくれ、何か職につくようにすすめてくれていた。それで、ぼくもしばらくそうするのもいいなあと思ってたんだ。だけど、あとで考えなおしてみると、おのれの自由をもてあまし鞍や馬具をつけてもらって乗りつぶされてしまう馬の話が思いおこされ、――ぼくは、どうしたらいいかわからなくなるんだ。ねえ、きみ、自分の現状を改めたいと願うぼくのあこがれは、ひょっとしたら一種の不快な心のいらだちで、どこまで行ってもぼくにつきまとってくるんじゃないだろうか。
八月二十八日
ぼくの病(やまい)がもし治せるものなら、きっとこのひとたちが治してくれるだろう。じつは、きょうはぼくの誕生日だったんだが、朝早くアルベルトから小包を受けとった。あけると、すぐに一本のピンク色のリボンが目にはいった。それは、はじめて会ったときロッテが胸につけていたもので、その後、何度かねだった品だった。小包には、十二折版の小さな本が二冊はいっていた。小型のウェートシュタイン版(アムステルダムの出版社の版)のホメロスで、かねがねこれが手にはいったら、散歩のさいに大型のエルネスト本(ライプツィヒの文献学者がギリシャの原典にラテン語訳を付したもの)なんか引きずって行かなくてもすむのに、と思っていた本だった。まったく、こんなふうに、あのひとたちはぼくの望みを先まわりして、あれこれとさがして友情の心づくしを見せてくれるのだ。このほうが、贈り主の虚栄心に辟易(へきえき)させられるような仰々(ぎょう)しい贈り物よりどんなにありがたいか知れない。ぼくはこのリボンに何度接吻したことだろう。そのたびごとに、あの短かった幸福な、過ぎ去った日々のまたとない喜びの思い出を唇に吸うのだ。ウィルヘルム、しかたないことだ、泣き言は言うまい。人生の花は幻にすぎない! どんなに多くの花が、跡かたもなく消えうせてしまうことだろう。実を結ぶ花は、なんとわずかだろう。そして、ほんとうに実が熟するものは、さらになんとわずかだろう! それでもなお熟した実はそれなりにちゃんとあるじゃないか。それなのに、きみ、ぼくたちはその熟した実を、無視したり、みくびったりして、味わってもみずに腐らせてしまっていいのだろうか。
ごきげんよう! すばらしい夏だ。ときおり、ぼくはロッテのところの果樹園の木にのぼり、長いくだもの竿で梨を高い枝から取る。ロッテが下に立っていて、ぼくが落とすのを受け取るのだ。
八月三十日
不幸なやつだ! おまえという男はばかじゃないのか。自分で自分をだましているんじゃないのか。この狂ったような果てしない情熱がどうなるというんだ。ぼくの祈りには、ロッテにささげる祈りしかない。ぼくの想像には、ロッテの姿以外どんな姿も浮かばない。周囲の世界のすべてが、ぼくの目にはあのひととの関係でしか映ってこない。だからこそ、ぼくにとって多くの楽しい時間が生じるのだ。――いずれあのひとから、いやでもまた身を引き離さなければならなくなるときがくるのだが。ああ、ウィルヘルム、ぼくの心は、しばしば、むりにもあのひとと別れるようにぼくに迫る! ――あのひとのそばにすわって、二、三時間もあのひとの姿、ふるまいにみとれ、この世のものとも思えない美しい言葉にうっとりしていると、ぼくの全感覚がしだいにしびれてきて、目のまえがまっくらになり、耳もろくに聞こえなくなる。だれかに後ろから抱きつかれ、喉がしめつけられるような気持ちだ。心臓ははげしく鼓動して、息づまるような状態から抜け出そうとしながら、感覚は混乱を増すばかり。そんなときウィルヘルム、ぼくはもう生きた心地もないんだ。そして、たびたびではないが、悲しみに打ちのめされ、みじめにロッテに慰めを求めて、その手に顔をうずめ、泣いて胸のもだえを流すのだ。――そうしたとき、ぼくはもうロッテから立ち去らずにはいられない! 飛び出さなくてはならないのだ! そして、野原を遠くさまよい歩く。けわしい山によじ登り、道なき森にわけ入り、藪(やぶ)やいばらをかきわけて身を刺され、肌を傷つけ、しゃにむにつき進んでいく。それがせめてもの喜びだ。そうすれば、気持ちもいくらかはよくなる。いくらかだが! ときには、途中で疲れと渇きで、もう参ってしまうこともある。そして、満月が頭上たかくかかる深夜、さびしい森なかで傷ついた足の裏を少しでもいたわろうと、曲がった木のうえに腰をおろし、やがて疲れが出てきて、薄明かりのなかでとろとろとまどろむ。おお、ウィルヘルム、僧房のひとりずまい、皮の衣といばらの帯、それが、あえぐぼくの魂の清涼剤なのではあるまいか。では!このようなみじめさの行きつくところは、おそらく墓場以外にはない。
九月三日
ぼくは必ず去る! ありがとう、ウィルヘルム。きみのおかげで、ぐらつくぼくの決心も固まった。もう二週間も、ロッテから離れようと思いつづけていた。ぼくは必ず去る! ロッテはまた町の友だちのところに来ている。そして、アルベルトは――でも、ぼくは必ず去る! ぼくは必ず去る!
九月十日
忘れがたい一夜だった! ウィルヘルム、ぼくは、もう何にだって負けはしない。今後ロッテには会わない! ウィルヘルム、きみの首に飛びついて、はげしく泣いて、思いっきり、この胸にあふれる感慨を打ち明けることができたらなあ! ぼくは、ここにすわってあえいでいるのだ。気を落ちつけようとして、朝を待っている。日の出とともに馬車の用意ができるはずだ。
ああ、ロッテはいまごろぐっすり眠っていて、二度とぼくと会えないなんて思ってもいないだろう。ぼくは思いきって別れてきた。二時間も話し合いながら、自分の本心をもらすまいとがんばりとおした。ああ、それにしても、なんというすばらしい会話だったろう。
きのう、アルベルトとの約束で、夕食がすんだらすぐ、ロッテと三人で庭園で会うことになっていた。ぼくは高台の大きな栗の木の下で落日を見おくっていた。太陽が、あの美しい谷、ゆるやかに流れる川の向こうに沈んでいくのを、これが見おさめだと思いながら。これまでぼくは、ここにロッテと並んでたたずみ、いくたびとなくこれと同じ荘厳な光景を眺めたものだ。だが昨夕は――ぼくは、なつかしい並木道を行ったり来たりした。まだロッテを知らないまえから、ぼくはえもいえぬ不思議な魅力にひかれて、よくここへ足を運んだ。そして、知り合ってまもなく、お互いにこの場所が好きだということがわかり、どんなに喜んだことだろう。ほんとうにこの並木道は、庭園芸術としていままでぼくが見たもののうちで、いちばんロマンチックなものなのだ。
まず栗の木立のあいだに広い眺望がひらけている――ああ、そうだったね、これはいままでずいぶん、きみに書いてきたと思うよ。歩いていくうちに高いぶなの木が壁のように取り囲み、それに茂みが接して並木道はますます暗くなる。突き当たりが小さな一区画の空(あき)地で、そこには恐ろしいような寂寥(せきりょう)がただよっている。ある日の真昼、ぼくがはじめてここに足を踏み入れたとき、どんなにしんみりした気持ちになったか。いまでもよく覚えている。そのとき、この場所がやがてどんな幸福や、どんな苦痛の舞台になるかをかすかながら、予感したのだった。
三十分ばかり、別離のやるせなさや再会の楽しさについていろいろ思いふけっていると、高台をあがってくるふたりの足音が聞こえた。ぼくは駆けていき、ふたりを迎えた。そして、ふるえながらロッテの手をとって接吻した。ぼくたちが階段をのぼりきったちょうどそのとき、月が、茂みにおおわれた丘のかなたに浮かび出た。あれこれ話し会いながら、ぼくたちは暗い四阿(あずまや)のちかくに来ていた。ロッテはそのなかにはいって腰をおろした。アルベルトがそのとなりにすわった。ぼくもそうした。けれども心が落ちつかず、ぼくは長く腰をおろしていられなかった。立ちあがり、ロッテのまえに立った。そして、あちこち行ったり来たりして、また腰をおろした。どうにも不安でならなかった。ロッテは、まあすばらしい、とぼくたちに注意を促した。みると、月の光は立ち並ぶぶなの木々の端から前方の高台全体をひときわ美しく照らしていた。まったくすばらしい光景だった。ぼくたちの周囲が濃い闇につつまれているだけに、いっそうあざやかにみえた。ぼくたちは黙っていた。しばらくすると、ロッテが言いはじめた。
「月の光のなかを散歩すると、きまってわたくし、亡くなった人たちのことを思い浮かべますの。必ず、死とか来世とかいった考えにとらわれるのです。わたくしたち、きっと天国に行くんでしょうから」と、その声に崇高な感情をこめて語りつづけ、「でも、ウェルテル、わたくしたち、天国でお会いできますかしら、お互いにわかりますかしら? あなたどうお思いになって? どうお考えになって?」
「ロッテ」と、ぼくは彼女に手を差し出し、目に涙があふれるままに、「会えますとも! この世でも、天国でも、きっとお会いできますよ」と、言った。――それ以上は言えなかった。ウィルヘルム、ぼくがつらい別離を秘めているときに、えりにえってどうしてこんな質問がされなければならなかったんだろう!
「そして、亡くなったひとたちは、わたくしたちのことを知ってくれているでしょうか?」と、ロッテは言葉をつづけた。「わたくしたちが楽しいときに、あたたかい愛情をこめてあのひとたちのことを思い出しているのを、わかってくれているでしょうか? ああ、静かな晩、母の子どもたち、いいえ、わたくしの子どもたちの間にすわり、ちょうどあの子どもたちが母を取り巻いたように、わたくしを取り巻いて集まったときなど、母の姿がいつも近くに浮かんできますの。そんなとき、わたくしはなつかしさのあまり、涙を浮かべて天を見あげて思うのです。母の臨終のとき、わたくしがこの子たちのお母さんになってあげると約束した言葉をこうして守っているのを一目でも見ていただけたら、と。すると胸がいっぱいになって、こう叫ばずにはいられません。『お母さま、もし、わたくしがあの子どもたちにとってお母さまのような立派な〈母〉でなくても、どうぞおゆるし下さい。ああ、できるだけのことはしております。わたくしはあの子どもたちに、ちゃんと着物を着せ、ご飯を食べさせ、いいえ、そんなことよりももっとたいせつなこと、いつくしみ、そして愛してやっていますわ。天国にいるお母さま、あなたは臨終の床で悲しい涙を流している子どもたちのしあわせを神さまにお祈りなさいましたが、いま、わたくしたちの仲むつまじいところをごらん下さいましたら、きっと心から感謝して神さまをおたたえになることでしょう』」
ロッテがそう言ったのだ! おお、ウィルヘルム、このロッテの言葉をくり返して語れるものがどこにいよう。冷たい死んだ文字で、どうしてこの清らかな心の花を表現することができよう。アルベルトがやさしく口をはさんだ。「ロッテ! きみは興奮しすぎているよ。きみがそんな思いにとらえられる気持ちはわかるけれども、お願いだから」――「いいえ、アルベルト」と、ロッテは言った。「あなただって、忘れてはいらっしゃらないと思いますわ。お父さまが旅行に出てお留守のとき、子どもたちを寝かせてからお母さまといっしょに小さい丸いテーブルをかこんで過ごした晩がありましたわね。あなたは、よくいいご本を手にしていらしたけれど、めったにお読みになりませんでした。そんなことより何より、お母さまの立派な魂にふれるほうが、ずっとよかったからではなかったのでしょうか? お母さまは、美しい、やさしい、ほがらかな、年じゅう仕事をしている方でした。わたくしは、よくベットのなかで神さまのまえにひれ伏して、どうかお母さまのような人にして下さい、と泣いてお願いしたものですけれど、神さまはあの涙をきっとご存じですわ」
「ロッテ!」と、ぼくは叫んで、彼女のまえに身を投げるなり、その手をとってとめどなく涙を注いで、「ロッテ! あなたには、神さまの祝福もお母さまの霊(みたま)も、必ず宿ってますよ」
「あなたも母をご存じだとよかったのですが」とロッテはぼくの手を握りしめながら言った。「あなたに知っていただける値打ちのある母でした」
ぼくは、自分が消え入りそうな思いだった。これ以上に立派な尊い言葉がぼくについて言われたことはかつてなかったからだ。ロッテは言葉をつづけた。
「でも、母は働きざかりの年ごろに亡くなってしまいました。いちばん下の男の子はまだ六か月にもなっていませんでした。べつに長わずらいをしたわけでもありませんのに、母は落ちついていて、何事も平気でしたが、ただ心にかかるのは、子どもたちのこと、とりわけ赤ちゃんのことでした。死期がせまると、母は『みんなを連れてきておくれ』と言いますので、わたくしは子どもたちを部屋に入れました。下の子どもたちには何のことだかわかりませんし、上の子どもたちは、ただおろおろするばかりでした。みんながベットのまわりに並びますと、母は両手をあげて子どもたちのためにお祈りをいたしました。一人ひとり接吻して、部屋を立ち去らせたあと、わたくしに『あの子たちのお母さまになってね!』と、申しました。わたくしは母の手をとって誓いました。――――『これは大変なお約束ですよ』と、母は言いました。『母の心と母の目が必要ですよ。このことは、あなたにはよくわかっていると思います。あなたが感謝の涙を浮かべているのをみて、お母さまはよくそれを察していましたもの。弟妹(きょうだい)たちには、そうした心を持って下さいよ。それからお父さまには、妻の真心と従順をもってお仕えするのですよ。お父さまをお慰めするのよ』――それから母は父のことをたずねました。父は耐えがたい悲しみを見せまいとして外に出ていました。父は胸が張り裂けそうだったのでしょう。
アルベルト、あなたはお部屋にいらしたわね。母は足音を聞いてだれかとたずね、あなたを枕もとに呼んだのでした。そして、あなたとわたくしをじっと見つめていました。それは、ふたりが幸福になれる、ふたりがいっしょになって幸福になれるという、安堵(あんど)した、静かなまなざしでした……」
そのとき、アルベルトは、いきなりロッテの首に抱きついて接吻し、「ぼくたちはしあわせだ! しあわせになれるとも!」と叫んだ。――あの落ちついたアルベルトがすっかり度を失っていた。ぼくも我を忘れていた。
「ウェルテル」と、「ロッテは話しはじめた。このような母が亡くなってしまったのです! ああ、わたくし、ときどき考えると、たまらなくなります。自分の生涯でいちばん愛する人を奪(と)って行かれるなんて。こういうことをだれよりも敏感に感じるのは子どもですわ。『ママを黒い服を着た男たちが奪ってった』っていつまでも泣いていましたもの」
ロッテは立ちあがった。ぼくは我に返り、心をゆすぶられ、すわったまま彼女の手を握った。ロッテは「もう行きましょう。おそくなりますから。」と、言って手を引っこめうようとしたが、ぼくはいっそう強く握りしめた。
「ぼくたちは、また会えますとも」、とぼくは叫んだ。「おたがいに見つかりますとも。どんな姿をしていたって、きっとわかりますよ。ぼくは行きます」と、言葉をつづけた。「喜んで行きます。でも、永遠にというんだったら、ぼくはとても耐えられません。さようなら、ロッテ! さようなら、アルベルト! また、会えるでしょう」――「あしたね、きっとよ」と、ロッテは冗談のように言った。
この、あしたという言葉に、ぼくの胸はぐっときた! ああ、彼女は何にも知らずに、自分の手をぼくの手から引っこめてしまった。――ふたりは並木道を出ていった。ぼくは立ちつくして、彼らを月明かりのなかに見送った。それから地面に身を投げ、思いっきり泣いた。やがて飛び起きて、高台へ走って出た。向こうの下の高い菩提樹の陰に、ロッテの白い服が庭園の門の向こうへかすかに光って動いていくのが見えた。ぼくは手を差しのべた。ロッテの姿は消えた。
一七七一年十月二十日
きのう、当地へ着いた。公使は加減が悪いとかで、二、三日ひきこもるらしい。このひとがあんなに意地悪でさえなかったら、文句なんか何もないんだが。考えてみると、運命はどうやらぼくにきびしい試練を課そうとしているらしい。でも元気でやるよ! 気楽にしていれば、どんなことだって耐えられるさ。気楽なんて言葉がぼくのペンからどうして出てきたのか、苦笑せざるをえない。ああ、ぼくがもうちょっとのんびりした気性なら、この世でいちばん幸福な男にだってなれるんだが。なんということだ。わずかな力量や才能がない連中がいい気になってぼくの面前で肩で風を切っているのに、ぼくだけは自分の力量や才能に絶望しなくてはならないなんて。ぼくに、こうしたすべてをお与え下さった神さま、どうして、それを半分にしておいて、その代わりに自信と満足を与えて下さらなかったのでしょうか。
辛抱! 辛抱! いまによくなるよ。まったく、きみの言うとおりだ。ぼくが毎日ひとびとのあいだに追いまわされ、そのひとたちのやることなすことを見るようになってから、ぼくは前よりもずっとぼく自身がたいせつに思えてきたのだ。たしかに、われわれはすべてのものを自分とひきくらべ、また自分をすべてのものとひきくらべるようにできているのだから。幸福とか不幸とかいっても、結局それは、われわれが自分とひきくらべる対象しだいなのだ。そのさい、孤独ほど危険なものはない。われわれの想像力というやつは、もともと高きを求めるものなのに、文学の空想的なイメージに影響されて、いつしか人間の序列をつくりあげてしまう。そこで自分がいちばん劣ったもので、自分以外のものはことごとく自分より立派に見え、他のものがいっそう完全なものになってくる。これが自然の傾向だ。われわれは、しばしば自分にはいろんなものが欠けていると感ずる。すると、自分に欠けているものは、必ず他人が持っているように思われる。そればかりではない。自分が持っているものをすっかり他人に献上して、そのうえ一種の安易な理想化までやってしまう。出来上がった幸福な人間とは、なんのことはない、それはわれわれ自身の産物にすぎない。
これに反して、どんなに自分が弱くても、どんなに苦労しても、ただ一筋に進みつづけて行けば、たとえのろくてよろめくことがあっても、帆をあげ、櫂(かい)をあやつって進んでいた連中より、いつしか遠くまで行っているということが、実際しばしばあるものだ。――そして――ほかのひとと並ぶか、先を越すことができると、そのとき、ほんとうにおれこそは、という感情が生まれるのだ。
十一月二十六日
ぼくは、当地でなんとかがまんしてやっていけそうだ。何より幸(さいわい)なことには、仕事がいやというほどあるのだ。それに、さまざまの人間、いろんな新しい登場人物が、ぼくの見ている前でにぎやかなお芝居をやってくれる。ぼくはC伯爵と知り合いになった。日ごとに尊敬の念を増さずにはいられないひとだ。見識がきわめて高く、視野も広いからといって、心が冷たいということはない。このひととつき合っていると、友情や愛情というものにたいして、じつに豊かな感受性をもっていることがはっきりとわかる。伯爵がぼくに関心を寄せるようになったのは、ある頼まれた仕事をやってあげたときからで、そのとき、ふたこと、みこと話しているうちに、伯爵はこれなら話が通じる、ぼくとなら、ほかの連中とちがってよく話ができる、とわかってくれたのだ。ぼくにたいする伯爵のざっくばらんな態度は、ぼくのほうでも、どんなにほめてもほめ足りないくらいだ。偉大な魂が胸襟(きょうきん)をひらくのをみることくらい、この世でうれしい、またとない喜びはあるまい。
十二月二十四日
公使のやつにはいろいろ向かっ腹が立つが、これはまあ予期していたことだ。こんなに杓子(しゃくし)定規(じょうぎ)なばか者はないだろう。几帳面(きちょうめん)で、うるさくてまるで小姑(こじゅうと)だ。満足するということを知らない男で、どんなことをしてもらっても、ありがたいと思わない。ぼくは仕事をさっさとかたづけるのが好きで、すませたことはそのままにしておく。そこに奴(やっこ)さんはつけこんで、ぼくに文案を突っ返して、お説教をする。
「いちおうは結構だがね、もう一度、検討して見たまえ。もっといい言 葉 や 、もっと適切なてにをは(・・・・)が、かならず見つかるはずだよ」
――こんなことを聞くと、ぼくは癪(しゃく)にさわる。「と」という単語ひとつ、接続詞ひとつ抜けていてもいけないのだ。ぼくがうっかりして自己流の倒置法を使おうものなのなら、ひとつひとつ目の仇(かたき)だ。お役所流の一本調子で書かれてなければ、複合文など何が書いてあるのか、てんでわからないのだ。こんな男を相手にするのは、まったく災難だ。
フォン・C伯爵の信頼だけが、わずかにその埋め合わせをしてくれる。先日、伯爵はぼくに向かって、きわめて率直に、公使のまだるっこさと小心翼々は不愉快だ、と打ち明けてくれた。「ああいうひとは、自分のことでも他人のことでも、事を面倒にする。けれども」と、伯爵が言って、「これもがまんするよりしかたがない。山越えをする旅人だと思って。もちろん山がなければ、道はずっと楽で、近いだろう。しかし、現に山がある以上、越えて行かざるをえない!」
公使のやつは、伯爵が彼よりもぼくのほうに好意をもっていることを感づいたようだ。それが癪(しゃく)にさわってしかたがないので、機会あるごとに、やつは、ぼくに伯爵の悪口をいう。ぼくは、もちろん反発する。事態はますます悪化する。昨日なんかは、ぼくのことまで当てこすりを言ったので、ぼくはむかむかしてきた。公使は、「あの伯爵は世間仕事もちゃんとおやりになれる。仕事はさっさとかたづけるし、筆もたつ。しかし、文学づいた連中と同じで、どうも基礎的な学識が不足している」と言って、「おまえも痛かろう」と言わんばかりの顔つきをするのだ。だが、ぼくは痛くもかゆくもなかった。こんな考え方をし、こんな態度に出る人間を軽蔑するからだ。ぼくは、たじろがずに、かなりはげしく渡り合った。
「伯爵は、人柄からいっても知識からいっても、尊敬の念をいだかずにはいられない方です」と、ぼくは言ってやった。「ご自分の精神をひろめ、それをいろんな対象に及ぼし、しかも世俗の生活のために、あのように働いていらっしゃいます。あんなにみごとになさる方をまだ見たことがありません」――こう言って見たところで、あの石頭にはちんぷんかんぷんだった。それで、このうえ愚にもつかぬ議論をしていやな思いをするのはごめんだから、おさらばして帰った。
こんなことになったのも、きみたちみんなの責任だよ。なんとかかんとか言ってぼくに軛(くびき)をかけ、やれ働け、やれ仕事だ、とはやし立てたんだから。働けか! 馬鈴薯を植えたり馬に乗って町へ荷物を売りに行ったりする人間より、ぼくのほうがまだましな仕事をしている、とすれば、こうしてつながれている、この奴隷船のうえで、ぼくはこのさきまだ十年くらいは働いてみせるよ。
こんなところで肩を並べて高いの低いのとにらみ合っている不潔な連中のきらびやかなみじめさ、やりきれなさ! おたがいに一歩でも相手を出し抜こうと、目を皿のようにしている彼らの出世欲、まったくみじめな、あさましい欲望がまる出しになっている。例をあげると、誰彼をつかまえては、自分の生まれのよさを吹聴(ふいちょう)し、お国自慢をやらかす女がいる。よそから来た人なら、「少々の家柄や、故郷(くに)の評判を奇跡のようにありがたがるなんて、ばかな女だ」と思うにちがいない。――ところが、事実はもっとひどいんだ、この女は、たかがこの町の近在の書記の娘にすぎないんだ。――まったく、こんなに平気で恥さらしができる人種がいるなんて、ぼくは理解に苦しむ。
もちろん、きみ、ぼくだって自分の尺度で他人を測るのが愚かだ、ということは、だんだんわかってきた。しかも、ぼくは自分のことで手一杯だし、ぼくの胸には嵐が吹きまくっている。――ああ、他の連中がぼくをそっとしておいてくれさえしたら、ぼくだって喜んで彼らには好きな道を行かせるよ。
何よりもぼくがいらいらさせられるのは、いまわしい世間の身分関係だ。ぼくだって身分の差別がどんなに必要か、ぼく自身がどんなにそのおかげをこうむっているかは、人並みには知っているよ。ただこの地上で、ほんの少しの喜びや、かすかな幸福を楽しもうとしているときに、それを身分の差別なんかで邪魔されたくないだけなのだ。このごろ、ぼくは散歩の途中で、フォン・B嬢と知り合いになった。堅苦しい生活をしていながらも、自然のままのすなおさを失わない愛すべき女性だ。話をしているあいだに、おたがい気に入ってしまった。別れぎわにぼくはお宅に一度伺(うかが)わせていただきたい、とたのんだ。いささかもこだわりなく承知してくれたので、待ちかねる思いで適当な折りをみてたずねてみた。彼女はこの土地の生まれではなく、いま、叔母さんのところに身を寄せている。年寄りの叔母さんの顔つきは、どうも気に入らなかったが、じゅうぶん敬意を表して話もほとんどこのひとに向けた。三十分足らずで、ぼくはおおよその事情はわかったが、それは、あとでB嬢から、なおくわしく話されたとおりだった。この叔母さんはあの年になって無いものづくしで、しかるべき財産はなし、才覚もなし、身寄りもない。あるのは先祖の系図だけ、かくれ場所といえば、自分がたてこもる身分だけ。楽しみといえば、二階から下を通る町のひとびとを見おろすぐらいしかない。若いころはきれいだったそうで、ついおもしろおかしく遊びくらし、はじめはいたずら半分にいろんな若い男たちを悩ましたこともあったらしい。年とってからはある老士官を尻にしいて満足した。この士官は尻にしかれながら、かなりの生活費を出して四十代をこの女と暮らして亡くなった。さて、いま彼女は五十代ではかないひとりぼっち、こんなに愛らしい姪(めい)がいなかったら、だれからも相手にされないだろう。
一七七二年一月八日
なんという情けない連中だろう。格式一点ばりの儀礼のことに無我夢中になって、会食のときには一つでも上席に割りこんでやろうと年がら年中やっきになっているなんて。ほかに仕事がないわけじゃない。いや、むしろ仕事は山積みしているのだ。愚にもつかぬ些事(さじ)にかかずらって、大事なことの処理をあとまわしにしているからだ。先週も橇(そり)の遠出のさいにひと悶着(もんちゃく)おきて、せっかくの楽しみがまるっきりだいなしになってしまった。
こんな、ばか者たちにはわかっていないのだ。もともと席次なんか問題じゃない。第一の席を占めるものが第一の役割を演ずるなんてことはめったにない、ということなど。どれほど多くの国王が大臣に牛耳られ、どれほど多くの大臣が秘書に牛耳られていることか! そうなると、いったいだれが第一人者なんだろう。ぼくはこう思うのだ。ほかの人たちよりよく先が見え、自分の計画を実行するために、そのひとたちの力と情熱をじゅうぶんに発揮させるだけの手腕や才能をそなえている人間こそ、第一人者だ。
一月二十日
愛するロッテ、あなたに一筆したためずにはいられなくなりました。はげしい吹雪をさけて、粗末な農家の一室に逃げこみペンをとりました。D町という、あの悲しい人間の巣で、縁もゆかりもない、ぼくの心に触れるものが全然ない、他人のあいだを動きまわっていたときには、お便りをさしあげようという気持ちなど、まったく片時もおこりませんでした。それが、いまこうして、この茅屋(ぼうおく)でただひとり、雪と霰(あられ)が猛烈に吹きつける一室に閉じこめられますと、まっさきに念頭に浮かんだのは、あなたでした。この部屋に足を踏み入れたとたん、ああ、ロッテ、あなたのお姿、あなたの思い出が、ほんとうにきよらかに、あたたかくぼくによみがえったのです。ああ、あの最初の幸福だった瞬間がふたたび!
放心の波間を浮き沈みするぼくの姿を、なつかしいロッテ、あなたがごらんになったらどう思われるでしょう! ぼくの感覚は、すっかりひからびてしまいました。心が充実したときは一瞬もありません。幸福なひとときもありません。何も、何もないのです! のぞき眼鏡(めがね)のまえに立って、その奥に小さな人間や馬がぐるぐる動きまわっているのを見てでもいるように、ときどき、これは目の錯覚ではなかろうかと自問いたします。そういうぼく自身も、そのなかにまじって芝居をしているのです。というよりも、あやつり人形のように芝居をさせられているのです。ぼくは、ときどき隣りのひとの木の手をつかんで、びっくりして飛びのきます。まえの晩には、朝になったら日の出を見ようと心に決めながら、さてそのときになってもベッドから出られません。昼間のうちは、夜になったら月の光を賞(め)でようと願っているのに、いざ夜となると部屋にこもったきりです。なんのために起き、なんのために寝るのか、自分でもよくわかりません。
ぼくの生命を躍動させていた酵母がきれてしまったのです。夜ふけまでぼくを溌剌(はつらつ)とさせておいてくれ、朝には眠りから呼びさましてくれた刺激が、なくなってしまったのです。
こちらに来て、ただひとり女性の知り合いができました。フォン・B嬢というひとで、あなたに似ています。ロッテ――もし、あなたに似るということができるとすれば。「まあ、お世辞のおじょうずなこと!」と、あなたはおっしゃるでしょう。それも、必ずしも嘘(うそ)とはいえません。近頃ぼくは、なかなか愛想がよくなりました。というのは、そうするよりほかに、しようがないからです。それに、機智も大いに働かせています。ご婦人がたの説によると、ぼくぐらいひとをほめることのじょうずな者はないとか(それから嘘をつくことが、と付け加えて下さい。だって、嘘をつかずにはやっていけませんもの。わかりますか)B嬢のことをお話するはずでしたね。このひとは心の豊かなひとで、それが青い瞳からあふれ出ています。このひとには身分なんてものは重荷なのです。身分が心の願いを満たしてくれるわけではありませんからね。このひとは周囲のわずらわしさからのがれたがっています。それで、ぼくたちは何時間も田園風景のなかで、まじりけのない幸福を想いふけったりします。ああ、あなたのことも語ったりして! そんなとき、あのひとは、いつもあなたに敬意を表さずにはいられないのです。敬意を表さずにはいられない、というよりは、すすんで敬意を表しているのです。あのひとはしきりにあなたのことを聞きたがり、あなたを愛しています。――
ああ、あのなつかしい、ここちよいお部屋で、あなたの足もとにすわっていられたら! かわいい子どもたちが、みんなぼくのまわりを転(ころ)げまわることでしょう。騒々しくてあなたの邪魔になるようだったら、ぼくのまわりに車座にすわらせて、おっかないおとぎ話を聞かせて、しいんとさせてやるんですがね。
太陽が、雪にかがやく野山のかなたに、おごそかに沈んでいきます。吹雪(ふぶき)はおさまりました。そして、ぼくは――ぼくの鳥籠におさまらなければなりません。――さようなら! アルベルトは、あなたのそばにおりますか? どうしているでしょうね。――こんなことを聞いてお許し下さい。
二月八日
一週間前から、とてもひどい天候がつづいている。ぼくにはこれがありがたい。というのは、ここへ来てから、お天気の日にかぎってだれかに邪魔されたり嫌な思いをさせられるからだ。どしゃ降りだったり、吹雪だったり、霜がおりたり、雪どけだったりすると、「しめた!」と、ぼくは思う。「この分なら家にいたって、外に出るより悪くなることはない。家にいたって別によくはならないが、まずまず結構だ」とね。だが、朝、太陽が出て上天気の一日を約束すると、ぼくは叫ばずにはいられない。「やれやれ、また天の贈物を手に入れようと、やつらは奪い合いをおっぱじめるぞ」あの連中ときたら、この世のものは、なんだって奪い合いするのだ。健康、名声、娯楽、休養、なんでもだ。しかも、それが、たいていは、愚昧(ぐまい)、無知、狭量から出ているのだが、その言い分をきいてみると、なかなか立派な意見を吐くんだからね。ときどき、ぼくは、そんなめちゃくちゃをやってお互いの腹わたをかきむしるような乱暴はよしてくれ、と、やつらに手を合わせて頼みたくなるくらいだ。
二月十七日
公使とぼくとは、もうこれ以上とてもいっしょにやっていけそうもない。あの男は、まったくがまんがならない。仕事のやり方も事務の運びも愚劣きわまるので、思わずぼくは盾(たて)をついて、自分なりのやり方で処理してしまう。すると、これが、むろんあの男の気に入らない。さいきん彼は、ぼくのことを宮廷に訴えた。おかげで、ぼくは大臣から譴責(けんせき)を受けた。穏やかであったが、譴責にはちがいない。そこで、辞表を出そうかと思っていたところへ、大臣から私信が来た。それはほんとうに額(ぬか)づいて感謝したくなるような、高潔と深慮に満ちた手紙だった。大臣は、ぼくが神経過敏になりすぎるのをいましめたが、行動や他人への影響や仕事への没頭について、ぼくが過激な考え方をしているのも、青年らしい立派な意気だとして敬意をはらってくれた。そうしたぼくの考えを一掃しようというのではなく、いくらかやわらげ、それが本領を発揮して、すばらしい成果をあげるように導いてくれようとしているのだ。そのおかげで、一週間ほどぼくは力づけられ、気持ちも乱れなかった。心の安らぎというのは、じつにいいものだ。それ自身が喜びだ。ただ、きみ、この宝石が美しく高価であるからこそ、それだけにこわれやすくなければいいんだが。
二月二十日
親愛なるあなた方、あなた方を神が祝福し、ぼくに恵まれなかったすべてのよき日々をあなた方におあたえ下さるように!
アルベルト、ぼくをだましてくれたこと、きみに感謝しなければなりません。あなた方がいつ結婚式を挙げるのか、その知らせをぼくは待っていました。そして謹(つつし)んで、その日にはロッテの影絵(シルエット)を壁からはずして、ほかの反古(ほご)紙のなかに葬ろうと心に決めていました。ところで、あなた方はもうご夫婦になりましたが、あの絵はまだ壁にかかっています。こうなった以上、このままにしておきましょう。いけないわけはないでしょう。きっと、ぼくもあなた方のそばにいるんです。きみを傷つけずにぼくはロッテの胸のなかにいるんです。そこで第二の席を占めているんです。ぼくはその席を確保したいし、確保せずにはいられません。ああ、ロッテに忘れられるようなことがあったら、ぼくは気が狂ってしまいます。――アルベルト、考えただけでも、それは地獄だ。アルベルト、ごきげんよう! 天使よ、ごきげんよう、ロッテ!
三月十五日
ひどい目にあったんだ。これじゃあ、ここにはいられない。ぼくは歯を食いしばっている!畜生、この埋めあわせがどうしてつくというんだ。これというのも、責任はきみたちにある。だって、きみたちがぼくの尻(しり)をたたいて追いたて、ぼくを自分の性に合わない地位につかせたんだから。ぼくは身にしみてわかった! きみたちだってよくわかるはずだ! もう二度ときみたちに、すべてがぶちこわされるのはぼくの過激な考えのためだなどと言わせないために、きみに、親愛なるきみに、ここでひとつの事実を話そう。平明に、直截(ちょくせつ)に、年代記作者の書くように記してみる。
フォン・C伯爵がぼくに好意をもち、目をかけてくれていることは、もう世間承知で、きみにもすでに何度も話した通りだ。さて、ぼくは、きのう、伯爵のところへ食事に招かれた。ちょうどその晩に、上流の紳士淑女たちの集まりが伯爵邸であることになっていたが、そんなことは、ぼくは考えてもいなかった。まして、ぼくらのような下っぱの人間が仲間入りをしてはならない、などということは、夢にも思っていなかった。
とにかく、ぼくは伯爵のところでご馳走になった。そのあと、大広間を行ったり来たりし、伯爵と口をきいたり、そこに来合わせたB大佐と言葉をかわしたりしていた。そのうちに夜会の時間が迫ってきた。神ならぬ身のぼくは何も知らないわけだ。そこへご入来なさったのが、やんごとなきS夫人とご父君。およびそのご令嬢。このご令嬢たるや、平べったい胸当てをし、コルセットで締めあげた、それこそうまく孵(かえ)った鵞鳥(がちょう)のような娘さん。お三方はお通りのみぎり、先祖伝来のいとも高慢な目つきをして鼻のあなをふくらませた。ぼくは、もとからこういう人種に反感をおぼえるので、すぐおいとま乞いをしようと思って、伯爵がくだらないおしゃべりからからだがあくのを、ただ待っていた。すると、フォン・B嬢がやってきたのだ。このひとを見ると、ぼくはどんなときでも少しは気が晴れるものだから、そのままとどまって彼女の椅子のうしろにまわった。ところが、しばらくたってから気がついたのだが、彼女の様子がいつものように打ちとけたものでなく、ぼくにむかって話すのがいくらか迷惑そうなんだ。これは意外だった。「このひとまであの連中と変わりがないのか」と思うとぼくはむかっとしてきて、立ち去ろうかと思った。しかし、そこまで疑ってはいけないし、そんなことは信じられないことだし、それに、理解ある言葉をひとことでもかけてもらいたかったし――後はきみの想像にまかせるが、とにかくその場にとどまった。そのうちにお客がぞくぞくとつめかけた。フランツ一世戴冠式当時の衣装を一式着用に及んだF男爵、当地では官職上、貴族なみにフォン・R氏とよばれる宮中顧問官のRと、つんぼのその夫人など、それから古代フランク式の衣装のほころびを新流行の布地でつくろった、身なりのよくないJも忘れられないが、こうした連中が乗りこんできたのだ。ぼくは、二、三の顔見知りと言葉をかわしたが、そろいもそろってどのひとも口数が少ない。ぼくはどうしてなんだろうと思った――そして、B嬢だけに注意を向けた。それで気がつかなかったのだが、婦人たちが広間の隅(すみ)で何やらこそこそ耳うちし、それが男たちにも伝わり、フォン・S夫人が伯爵へ話しに行った(これはすべてB嬢があとで話してくれたことなのだ)とうとう伯爵がぼくのところに来て、ぼくを窓の引っ込んだところに連れていった。
「きみもご存じだと思うが」と、伯爵は言うんだ。「われわれの社会には変なところがあってね。きみがこの席にいるのが、みんなおもしろくないらしいんだ。わたしは、けっして……」
「閣下」と、ぼくは口をはさんで、「幾重にもお詫び申しあげます。もっと早く気がつくべきでした。閣下はこの不始末をお許し下さることと存じます。じつは、さっきからおいとましようと思っていたのですが、ついうっかりして、ぐずぐずしてしまいました」と、ぼくは笑いにまぎらして、そう言ってお辞儀をした。
伯爵は、ぼくの手をにぎってくれた。その感じで、ぼくは何もかもわかった。ぼくは上流社会の集まりを抜け出して外へ出ると、一頭立ての馬車に乗ってMへ出かけた。そこの丘から、沈む陽(ひ)を眺め、ぼくのホメロスをひらいて、オデュッセウスが立派な豚飼いからもてなしを受ける、あのすてきな歌章を読んだ。どれもすばらしかった。
夜、帰って食卓についた。食堂にはまだ何人か残っていて、隅のほうでさいころ(・・・・)をころがしていた。テーブルクロスは、もう取ってあった。そこへ正直者のアーデリンがはいってきた。帽子を脱ぐなりぼくを見つめて、そばに来て低い声で言った。「ひどい目にあったそうだね?」
「ぼくがかい?」と、ぼくは言った。
「伯爵が、きみを夜会から追い出したというじゃないか」
「夜会なんてくそくらえだ」と、ぼくは言った。「外に出たらせいせいしたよ」
「きみがそう気にしていないなら結構だ。ただ癪にさわるんだが、もう、どこに行っても評判だよ」
そう言われてはじめて、この件がぼくの心をかきむしった。ははあ、ここへ食事に来てぼくのほうを見ていたやつらは、みんなそのためにぼくをじろじろ見てたんだな、と思うと、血が煮えくりかえった。
そして、きょうなんか、行くさきざきでお気の毒に、なんて言われたり、前からぼくをねたんでいた連中は、ざまあ見ろといった顔つきをするんだ。そして、「少しばかり頭がいいからって思いあがり、世の中の身分の掟を無視できるなんて考える高慢ちきなやつは、いつかこういう目にあうんだ」とかなんとか、さらにもっとひどい悪口雑言を耳にすると――われとわが胸に短刀でも突きたてたくなる。だって、どんなに自立とか独立とかいってみたところで、こちらの落ち目につけこんでいい気になって、卑劣なやつらから言いたい放題なことを言われて、平気でいられるひとがあったら、お目にかかりたい。やつらのおしゃべりが根も葉もないものだったら、ああ、まだしも軽く聞き流せるんだが。
三月十六日
何から何までぼくをいらだたせる。きょう、並木道でB嬢に会った。話しかけずにはいられなかった。連れの人たちから少し離れると、すぐに先日の彼女の態度について、ぼくの感じていることをぶちまけたのだ。「まあ、ウェルテルさん」と、彼女はしんみりした口調で言った。「あなたはわたくしの取り乱した様子をそんな風におとりになりましたの? わたくしの気持ちはわかっていただいているはずですのに。あの広間に足を踏み入れた瞬間から、わたくし、あなたのためにどんなに心を痛めたことでしょう。わたくしには、はじめからすべて見通しがついておりましたので、それを申しあげようと幾度も口まで出かかりました。フォン・S夫人やフォン・T夫人が、あなたとずっと同席するくらいなら、いっそご主人たちといっしょに引きあげたほうがいいと思っておられたのもわかってましたし、伯爵があの方々のご機嫌を悪くなさらないようにしていらっしゃったのもわかっていました。――そして、いまはこんな騒ぎに!」
「えっ、何ですって?」と、ぼくは驚きをかくしながらたずねた。おとといアーデリンが言った言葉が、すべてこの瞬間に煮え湯のようにぼくの血管を走ったのだ。
「わたくしも、どんなにつらい思いをしたことでしょう!」と、目に涙を浮かべながら、このやさしい娘は言った。――ぼくは、もう自分を抑えられなくなり、あやうく彼女の足もとに身を投げかけるところだった。「わけを聞かせて下さい」と、ぼくは叫んだ。彼女の頬には涙がながれた。ぼくは呆然(ぼうぜん)とした。彼女は涙をかくそうともせず、ぬぐいながら話しはじめた。
「わたくしの叔母をご存じでいらっしゃいますわね。叔母もあの席におりましたの。そして、どんな目であれを見ていたことでしょう! ウェルテルさん、昨夜もさんざん聞かされましたが、きょうも朝からお説教です。あなたが侮辱され、こきおろされるのを、だまって聞いているよりしかたがありませんでした。あなたを弁護することなど、思うことの半分もできませんでした。言うこともゆるされませんでした」
彼女の語る一語一語が、剣のようにぼくの胸を刺した。こんなことを何も言わないでくれたら、どんなにありがたいか。そんなことは彼女にはわからず、そのうえ、なお付け加えてこんなことまで言うんだ。これから先、どんな噂がひろまるだろうか、とか、どんな種類の人間が凱歌(がいか)をあげるだろうか、とか、高慢ちきで人を見下すといってずっと前から非難の的だったぼくに、天罰があたったとくすくす笑ってうれしがるだろう、とか。ねえ、ウィルヘルム、こんなことまで彼女の口から聞かされたんだよ。しかも、心から同情をこめた声でだ。――ぼくは打ちのめされた。いまでも胸はかきむしられている。だれかが、思いっきり、こういうことをぼくの前で面罵(めんば)してくれたら、と思う。そうすれば、そいつの脇腹に短刀を突きさしてやるんだ。血を見れば、気持ちもしずまるだろう。ああ、ぼくは何度短刀をにぎって、この息苦しい胸に風を入れようとしたことか。なんでも優秀な血統の馬は、はげしく駆り立てられて苦しくなると、本能的に自分の血管をかみ切って呼吸を楽にする、という話だ。ときどき、ぼくもそんな気持ちになる。血管を切りひらいて、永遠の自由をぼくの肉体にあたえたい。
三月二十四日
辞職を宮廷に願い出た。きっと聞きとどけられると思うよ。前もってきみたちの諒承を求めなかったことを許してほしい。ぼくは、どうしてもここを去らなければならない。きみたちがここにとどまるようにすすめることは、よくわかっている。それで――母には、なんとかおだやかに、このことを伝えてくれたまえ。ぼくは、わが身ひとつを扱いかねているのだから、母をどうにもしてあげられなくても、許してもらうほかはない。むろん、母は悲しむだろう。枢密顧問官や公使をめざしてスタートを切った息子のすばらしい晴れのレースが、こんなに突然ストップして、馬がまたぞろ、厩(うまや)へ逆もどりなのだから! まあ、あとは好きなようにきみたちでしてくれたまえ。こうすれば、ぼくが留任できただろうとか、ああすれば、ぼくが留任せざるをえなかったとか、いろんな場合を組み合わせて考えてくれて結構だ。とにかくぼくは、ここを出る。どこへ行くか、知っておいてもらうために言うが、ここに××公爵という方がいて、ぼくがお相手することにとても興味を感じておられる。ぼくの考えを話したら、それではいっしょに荘園に行って楽しい春を過ごそうじゃないかと、さそって下さったんだ。好きなようにしていいという約束だし、ある程度までは、理解し合える相手だから、ぼくは運を天にまかせて同行するつもりでいる。
四月十九日 追伸
二度も、お手紙ありがとう。返事をしなかったのは、じつは宮廷から退職の辞令がおりるまで、同封の手紙(三月二十四日の手紙)を出すのを思いとどまったためだ。これを見て、ひょっとして母が大臣に請願したりして、ぼくの計画を困難にしやしないかと心配したからさ。だが、けり(・・)がついて、辞令がとどいた。宮廷ではなかなか退職が認められず、大臣からも手紙をもらったけれど、それは、あまり話したくない。話せば、きみたちが嘆くのが関の山だからね。太子からは餞別(せんべつ)として二十五ドゥカーテンいただき、あわせて胸がいっぱいになるようなお言葉まで賜わった。それで、このまえ母に頼んだお金は、もういらなくなった。
五月五日
あした、ここを出発する。ぼくの生まれ故郷はこの道から六マイルしか離れていないから、久しぶりに訪れて、むかしの幸福な夢のような日々を思いおこしたい。父が亡くなってから母は住みなれたなつかしい土地をあとにして、今の堪えがたい町に引きこもった。あのとき母がぼくをつれて馬車に乗って町を出た、あの同じ城門をくぐって行くつもりだ。さようなら、ウィルヘルム、旅先から、また便りをする。
五月九日
巡礼者のようにほんとうに敬虔な気持ちで、ぼくは故郷の遍歴をおえた。思いがけない、いろんな感情におそわれた。まず、町へはいるには十五分ばかりかかるところ、Sへ行く道すじに立っている大きな菩提樹のそばで、ぼくは車を止めさせて降りた。駅馬車を先にやって歩きながら、思い出をひとつひとつ、新しくいきいきと心ゆくばかり味わいたかった。さて、ぼくは菩提樹の下に立った。むかし子どものころ、この木を目あてにして、ここまでよく歩きに来たものだ。なんという変わりよう! あのころは、しあわせにも何も知らずに、ぼくは未知の世界をあこがれていた。そこには、心の糧(かて)となり、楽しみとなるものがいっぱいあって、ぼくが胸にいだく、ああもしよう、こうもしたいと思うことはじゅうぶんかなえられ、満足することができるだろうと思っていた。今ぼくは、その広い世界から、ここへ帰ってきた。――ああ、きみ、どんなに多くの希望が敗れ、どんなに多くの計画がくずれたことだろう!――いま、眼前に横たわる山々は、そのむかし幾度となくぼくの願いの対象になった。ここにぼくは何時間も腰をおろして、はるかかなたに憧れを馳(は)せ、せつない思いで遠くの森や谷を見とれたものだ。その森や谷は、ぼくの目には親しげに青く、かすんで映るのだった。やがて帰るべきときになっても、この好ましい場所を出るのが、どんなに辛(つら)かったことだろう! ぼくは、やっと町に近づいた。昔なじみの古い家や庭は、どれもこれも心からなつかしさを覚えたけれども、新築のものには目もくれなかった。新築ではなくても、模様がえされていたらどんなものでも気にくわなかった。だが、城門を通って町へはいってみると、ぼくはむかしながらの自分にかえった思いがした。きみ、細かいことまで記すのはよそう。ぼくにはどんなに魅力があったにせよ、いざそれを語るとなると、平板なものになってしまうだろうからね。ぼくは、町の広場に面した、むかしのぼくの家の隣りの宿に泊まることにしていた。行く道で気がついたのだが、実直な年とった女教師がぼくたち子どもを閉じこめて教えた塾の教室が、いまは小間物屋に変わっていた。思い出すと、幼いぼくはあの穴ぐらのようなところへ閉じこめられて不安な思いをし、涙を流し、もうろうとして、胸がどきどきしたものだった。――一歩あるくごとに、すべて、心ひかれるものばかりだった。聖地をいく巡礼だって、こんなに多くの宗教的な記念の場所にぶつかることはないだろう。その巡礼のたましいも、これほど神聖な感動に満たされることはないだろう。
書きたいことは山ほどあるが、もうひとつだけ、ぼくは川にそって下っていき、ある屋敷のそばまで来た。道は、むかしぼくがよく通った道だったし、その場所は、ぼくら少年たちが平べったい石を投げて、できるだけ遠くまで水切りをする練習をした場所だった。まざまざと思い出はよみがえった。むかし、よくここに立って水の流れを見入ったものだが、そのとき水のゆくえを追いながら、ぼくはなんという不思議な予感を覚えたことだろう。そして、この川の流れゆく先の国々を、どんなに冒険的(ロマンチック)に思い描いたことだろう。すぐにぼくの想像力は限界点に達してしまうのだったが、それでもなお、無理に空想の羽をのばし、ますます先に行って、ついには目に見えない遠方の眺めに茫然自失してしまう。――ところが、きみ、あのすばらしい祖先(古代ギリシャ人たち)は、あんなに制約を受けながら、あんなに幸福だったじゃないか! その感情、その詩歌のみずみずしさ! オデュッセウスが限りない海や果てしない大地について語るとき、その言葉はあくまでも真実で、人間的で、切実で、緊密で、神秘に満ちているのだ。いまさら、ぼくが小学生のまねをして、地球はまるい、などと言ってみたところで、それがなんの役にたつだろう。人間は地上で生きていくうえには、ほんのわずかの土塊(つちくれ)があればいいが、地下で永遠の眠りにつくには、さらにわずかの土塊があれば足りるのだ。
目下、ぼくは公爵家の狩猟館にいる。公爵となら、いまのところとても気持ちよく暮らせる。このひとは誠実で素朴(そぼく)だ。だが、取り巻きが、どうも変な連中で、正体がつかめない。べつに悪いひとたちではなさそうだが、見たところまじめな人間ではない。正直そうに見えることもあるけど、やはりぼくには信用できない。どうも残念なのは、公爵がしばしば、ただ聞いたり読んだりしたにすぎないことを、しかも第三者から吹きこまれたと思われる観点に立って平気で述べたてる、ということだ。
それに、公爵はぼくの心よりも、ぼくの知性や才能を高く買っている。だが、ぼくに言わせれば、この心こそぼくが誇る唯一のものだ。これだけがいっさいの源泉、ぼくのあらゆる力、あらゆる幸福、あらゆる不幸のみなもとなのだ。ああ、ぼくが知っていることくらい、だれだって知ることができる。。だが、ぼくの心は、ぼくだけしか持ってない。
五月二十五日
じつは、あることを計画していたのだ、実行に移すまでは、きみたちには何も言わないつもりだった。けれども、その計画がだめになったいまとなっては、もう言ったってかまわない。ほんとうは戦争に行こうと思っていたんだ。これは、ずっとまえから考えていたことだった。公爵は××勤務の将軍なのだ。散歩の途中で、ぼくは公爵にこの意向を打ち明けた。ところが、よしたまえ、といましめられた。ぼくにしても情熱というよりはきまぐれに近かったから、公爵のあげるいろいろな理由に耳をかさないわけにはいかなかった。
五月十五日
きみからなんと言われようと、ぼくはもうここにはいられない。ここにいて何ができるというのだ。ぼくは退屈するばかりだ。公爵はできるだけのことをしてくれている。それでも、ぼくは落ち着けないのだ。ぼくと公爵は結局おたがいになんら共通するものがない。公爵は知性のひとだ。が、それもまったく月並みな知性だ。このひととつきあっていても、もうおもしろくない。よく書けている本を読むくらいの興味しかわかない。まだ一週間はここにとどまるが、それからまた、あてどない旅に出る。ここでぼくがやったいちばんいいことは、絵を描いたことだ。公爵は、まあ芸術のわかるほうだが、つまらぬ学問の知識や月並みな術語に禍(わざわい)されていなければ、もっと深くはいっていけるんだが。ぼくが熱心に想像力を働かせて、自然や芸術のことをいろいろ話してやっているのに、紋切り型の芸術用語をもち出して、くちばしを入れ、それで、たちまちかたがついたつもりでいられると、ときどきぼくは歯ぎしりしたくなる。
六月十六日
そうだ、たしかにぼくは一介の放浪者にすぎない。地上の一巡礼にすぎない。いったいきみたちは、それ以上のものなんだろうか。
六月十八日
どこへ行くつもりかって? きみには内緒で打ち明けよう。まだ二週間はここにいなければならないが、それから××地方の鉱山をたずねるつもり――などというのは、じつは自分をだますための口実で、鉱山なんかどうでもいいんだ。ただ、ロッテの近くへまた行きたいだけのこと。それがすべてだ。われとわが心を笑っている。しかし、したいようにさせてやろう。
七月二十九日
なに、かまわない。――ぼくが――あのひとの夫になったって、なにもかもうまくいくはずだ! おお、ぼくをお作りくださった神よ、あなたがぼくに、そうした幸福をお与え下さっていたら、ぼくは一生涯、祈りつづけたことでしょう。ぼくは、あなたに盾をつくわけではありません。ぼくに、泣きたいだけ泣かせて下さい。むなしい願いをいわせて下さい。――あのひとがぼくの妻だったら! ぼくが、この世でいちばん愛したひとをこの腕に抱くことができたなら――それなのに、アルベルトがあのすんなりしたからだを抱いているかと思うと、ウィルヘルム、ぼくは思わず身ぶるいをする。
こんなこと、言っていいかな。いけないわけはないだろう。ウィルヘルム、彼女だってあの男といっしょにいるよりは、ぼくといっしょになったほうが幸福になれたはずだ! ああ、あの男は、彼女の心の願いをすべて満たす人間ではない。感受性にある種の欠点、欠陥があるんだ――これはどのように取ってくれてもいいが、要するにあの男の心は共鳴しない。――そうだ、たとえば好きな本を読んで、ぼくの心とロッテの心が触れ合うようなところでも、ぴんとこないんだ。そのほか、いろんな場合に、ぼくとロッテが第三者の行動を見て思わず感じたことを口に出すようなときでも、あの男には、打てばひびくとはいかないのだ。ウィルヘルム! たしかにアルベルトは心の底から彼女を愛している。あれほどの愛だから、報われないわけはないだろうが!
おもしろくないやつが来て、邪魔された。涙は乾いた。気も散った。さようなら、友よ。
八月四日
ぼくだけが、こんなにひどい目にあうのではない。人間はすべて、希望に欺かれ期待に裏切られるのだ。ぼくは、あの菩提樹の下の例の善良なおかみさんをたずねてみた。いちばん上の男の子が走って出迎えてくれた。その歓声を聞いて、母親も出てきた。たいへんに沈んだ様子だった。口をひらくなり、「ああ、旦那(だんな)さま、うちのハンスが死んじまいました」と言った。ハンスというのは、いちばん下の男の子だ。ぼくは口をきけなかった。彼女はつづけた。「主人はスイスから戻ってきましたが、すっからかんでした。ひとさまのお情けにおすがりしなかったら、乞食をしてこなければなりませんでした。途中で熱病までわずらいまして」――ぼくは、何も言うことができなかった。ただ、子どもたちに幾らかくれてやった。おかみさんがリンゴを二つ三つ受け取ってくれというので、それをもらって、そして、この悲しい思い出の場所を去った。
八月二十一日
手のひらを返すように、ぼくの気持ちも変わることがある。ときには、人生の明るい展望がひらけそうに思われることもあるのだ。それも、ああ、わずか一瞬のことだが、――そんなふうに夢想にふけってると、アルベルトが死んだらどうなるだろう。そうなれば、おまえはきっと、いや彼女のほうこそ、などといった考えをおさえることができない。こんなふうに妄想を追いつづけ、はては深淵に行きついて、身ぶるいしてあとずさりするのだ。
町の城門を出て、ロッテを舞踏会に誘うためにはじめて通ったあの道を行ってみたが、なんという変わりようだ! 何もかもが過ぎ去ってしまった。あのころのすべての面影も、以前のぼくの胸のときめきも、もはやそこにはなかった。むかし王侯が、全盛の時代に城を築き、豪華きわまりなく飾り立て、死にのぞんで、愛する嗣子(しし)に望みを托して遺したのに、その王城は焼き払われ破壊しつくされ、いまその廃墟に亡霊となってもどってきたなら、こんな気持ちになるにちがいないと思った。
九月三日
どうして、ほかの男がロッテを愛することができよう。そんなことが許されよう。ときどき、ぼくは不思議に思う。だって、ぼくは、ただただ彼女ひとりを、こんなに熱烈に、こんなにいっさいをささげて愛しているのだし、ぼくはロッテのほかにはだれも知らず、理解もせず、心にはロッテひとりしか 持 っ ていないじゃないか!
九月四日
そうだ、そういうものなんだ。自然が秋に傾くにつれ、ぼくの心のなかも、ぼくの身のまわりも、秋の色を深めていく。ぼくの木の葉は黄ばみ、隣りの木々の葉はすでに落ちている。ぼくがここへ来たばかりのころ、一度ある農夫のことをきみに書いたことがあったね? こんどもワールハイムで彼のことをたずねてみた。奉公先を追い出された、ということだった。それ以上のことは、だれも知らないという。ところが、昨日、偶然にもほかの村にいく道でばったり彼に出会った。こちらから声をかけ話しているうちに、彼は身の上ばなしをしてくれた。それを聞いて、ぼくは二重三重に心を打たれた。どうしてだか、きみに話して聞かせれば、すぐわかってくれるだろう。でも、いまさらそんな話をして何になるんだ? 自分のことを不安にし悩ますような話を、なぜ、胸におさめておかないんだ? なぜ、きみまで煩わすんだ? いつもきみから気の毒がられたり、しかられたりする機会を、なぜ、ぼくのほうから提供するのか? まあ、しかたがないよ。これもぼくの運命のひとつなんだから。
はじめ、農夫は静かに悲しそうな様子で、ぼくの問いに答えるだけだった。いくらかはおじけているようにも思えた。やがて、ふいに、もとの自分をもぼくをも思い出したように、率直に自分の過失を告白し、不幸を訴えはじめた。きみ、その一語一語をそのまま聞いてもらって、きみに判定してもらえたら、と思うよ。彼が告白した、というよりは回想にともなう一種の喜びに酔って語ったところによると、女主人に対する情熱は日増しにつのるばかり、しまいには自分が何をしているのかわからなくなり、彼の言葉を借りれば、頭をどこに向けたらいいかわからなくなった。食べることも、飲むことも、眠ることもできなくなる。喉がしめつけられたようで、してはならないようなことをしたり、いいつけられたことを忘れたりする。まるで悪霊に追われるみたいになって、ついにある日、女主人が上の部屋にいるのを知って、あとを追った。というよりは、引き寄せられて行った。女主人が頼みを聞いてくれなかったので、とうとうむりやりにわがものにしようとかかった。どうしてあんなことになったのか、じぶんでもわからない。主人にかけた自分の想いは、どこまでもまじめなものだったこと、ただ主人と結婚して、いっしょに生涯を送ることばかり、熱望していたこと、このことは神かけて明言できるというのだ。しばらくそのように語っているうちに、彼は口ごもりだした。まだ何か言うことがありながら、思いきって言い出せないものがあるようだった。しかし、ついに、はにかみながら打ち明けたのだが、以前から女主人はちょっとぐらい馴(な)れ馴れしい態度をとったって許してくれていたし、ずいぶんそばに近寄ることだって、いけないなどとは言わなかった。こう言いながらも、二度三度と言葉を途切らせ、彼の言葉を借りれば、なにもおかみさんを悪者にするためではない、自分はいまでも相変わらず好きなんだし、尊敬している、と、一生懸命に弁明をくりかえした。こんなことはまだだれにも口をすべらしたことはないのだが、ただ、自分がとんでもないことをするような男でないことを信じてもらいたいばかりに申し上げたというのだった。――さて、きみ、ここでぼくは、またいつもの口ぐせの、古い歌の文句を使ってみれば、彼がわが前に立った姿で、いまもなお立つ姿で、きみの前に立たせられたら! ああ、あの男の運命に、ぼくがどれほど共感し、共感せずにいられないかをきみにわかってもらえるように、ぼくがいっさいをあるがままに伝えられたらいいんだが! だがもうやめよう。きみは、ぼくという人間も、ぼくの運命も知っているのだから、なぜぼくがあらゆる不幸な人間に心をひかれるか、とりわけどうしてこの不幸な男に心をひかれるかは、よくわかってくれるだろう。
この手紙を読みかえしてみて、話の結末を落としていることに気がついた。だが、結末は容易に想像がつくだろう。女主人はこの男から身を守ったんだ。そこへ前からこの男を嫌(きら)っていて、家から追い出したいと考えていた彼女の兄がやってきた。兄は、いまなら妹に子どもがないから遺産が自分の子どもにころがりこむ見込みは大いにあるけれども、妹に再婚されたら、それがふいになるので、それを恐れていたのだ。そんなわけで、兄はこの男をさっそく追っぱらい、事を大げさに騒ぎ立てたので、たとえ女主人がもう一度彼を家に入れようと思っても、それはもう二度とできなくなってしまった。目下、女主人は別の作男を雇っているが、この男のことでも兄妹は仲たがいをしているという。うわさによると、女主人が今度の作男と結婚するということは確からしい。
「そうなったら、しかし、むざむざ生きてはいられまいと覚悟しています」と、彼は言うのだ。
きみに話したことに誇張もなければ、粉飾もない。むしろ、押さえに押さえて述べたといっていい。しかも、ありきたりの風俗用語で語ったため、あらっぽい話になってしまった。
この愛、この誠実さ、この情熱は、もちろん詩人のつくり話ではない。それは生きているのだ。われわれが無教養だの粗野だのと呼ぶ階級のひとたちのなかに、もっとも純粋に生きて存在しているのだ。われわれ教養人は――なまじっかな教養のために片輪者になっているんだ!お願いだから、この話を素直な謙虚な気持ちで読んでくれたまえ。きょうは、この手紙を書いて気持ちが落ちついている。ぼくの筆跡からもわかるだろうが、いつものようにせっかちでも、ぞんざいでもない。きみ、これを読んで考えてくれたまえ。これがまた、きみの友だちの身の上でもあることを。そうだ、ぼくもいままでこんなようだった。これから先もこんなふうだろう。しかし、ぼくには、このあわれな不幸な男の半分の勇気も、半分の決断もない。比べることさえ、おこがましいくらいだ。
九月五日
ロッテは、用事のため田舎に行っている夫に簡単な手紙を書いたのだが、それは「最愛のあなた、できるだけ早くお帰り下さい。千秋の思いでお待ちしております」という書き出しだった。―― そこへやってきたある知人がアルベルトはさしつかえができて、そんなにすぐに戻れないという知らせを伝えた。それで、手紙はそのままにして置いてあった。夕がた、ぼくは、ふとそれを手にとって読んで、思わずにっこりした。「何がおかしいんですの?」と、ロッテに聞かれて、――ぼくは言った。「想像力というものは、なんという神の賜物でしょう。これが、ぼくに書いて下さった手紙のように、ちょっと考えられたんです」――彼女は口をつぐんでしまった。どうやら気にさわったようだ。ぼくもだまった。
九月六日
はじめてロッテと踊ったときに着ていた青い簡素な燕尾服(えんびふく)を、やっと脱ぎすてる決心をした。なかなか思いきれなかったが、なにぶん見すぼらしくなった代物(しろもの)だから。それで、襟も、袖口も、前のと寸分違わないのを一着新調した。それから、黄色いチョッキとズボンも。
しかし、どうも感じが出ない。どういうわけだろう――まあ、日がたつにつれ、これも好きになるだろう。
九月十二日
旅先のアルベルトを迎えに行って、ロッテは二、三日前から家をあけていた。ところが、きょう彼女の部屋へ行ってみると、ロッテが出迎えてくれたのだ。ぼくはむしょうにうれしくなって、その手に接吻した。
一羽のカナリヤが鏡のところから飛んできて、ロッテの肩にとまった。――彼女は「あたらしいお友だちよ」と、と言って、小鳥を手にとまらせ、「これ、子供たちにやるおみやげですの。とてもかわいいんですよ。ごらんなさい! パンをやると、羽をぱたぱたさせて、お行儀よくつつきますわ。わたくしにキスもしますのよ。ほら!」
ロッテが口を向けると、カナリヤは、とてもかわいらしく、彼女の美しい唇に嘴(くちばし)を入れた。まるでカナリヤは、えもいえぬ幸福の味を本当に味わい楽しんでいるかのようだった。
「あなたにもキスさせましょう」と、彼女に言って、小鳥をこちらに渡した。小さな嘴は、彼女の口からぼくの口に移った。そのつつくような感触は、愛にみなぎる喜びの息吹きでもあり、予感のようでもあった。
「この鳥のキスは、もっと何かを求めているようですね」と、ぼくは言った。「餌が欲しいのでしょう。ただ形ばかりの愛撫では物足りなくて、あなたのところへ戻っていきますよ」
「口うつしで、えさも食べますわ」と、言って、ロッテはパンくずを少し唇にのせて小鳥にあたえた。その唇は、無邪気にほほえんで、愛の歓びにあふれるばかりだった。
ぼくは、思わず顔をそむけた。ああ、こんなことまでしなくたっていい! こんなすばらしい無邪気な幸福の場面を見せつけて、ぼくの想像力を刺激するなんて! せっかく世の中のことを忘れて、子どものように眠りこもうとしているぼくの心をゆり起こそうとするなんて! だが、どうして彼女がしていけないというんだ! 彼女はぼくを信じているからこそ、どんなにぼくが愛しているか知っているからこそ、あんなこともできるのだ。
九月十五日
まったく腹立たしくなるよ、ウィルヘルム、この世に値打ちのあるものはわずかしか残されていないのに、そのわずかなものに対して、いささかの理解も感覚も持ち合わせていない人間どもがいるんだから。きみも知っている、あの胡桃(くるみ)の木、ぼくが聖××村の誠実な牧師のところでロッテとともに木陰にすわったことのあるすばらしい胡桃の木。あの木を見ると、どういうわけか、ぼくの心は大きな喜びに満たされた。おかげで、あの牧師館がなつかしかった。あの枝ぶりのみごとだったこと! 涼しかったこと! 思い出は、ずっとむかし、あの木を植えた実直な牧師たちにさかのぼる。その牧師たちのひとりのことを、村の学校の先生に聞いたといって、よく話してくれたっけ。なかなか立派なひとだったそうだ。あの木の下に立つと、ぼくはいつも神聖な気持ちで、そのひとのことを偲(しの)んだものだ。ところが、その木が切られてしまった――切り倒されてしまったのだ! きのう、その話を先生と話し合ったとき、先生は目に涙を浮かべたよ。ぼくは気が狂いそうだ。最初の一撃を加えたやつを殺してやりたいくらいだ。このような木が二、三本、うちの庭にもあったとして、その一本が老衰して枯れてしまったら、それだけでぼくは悲しくてたまらないだろう。それなのに、ぼくは黙って見送っていなくてはならないんだ。
だが、きみ、ここになおひとつ残っているものもある。人情というものさ。村じゅうのひとが、ぶつぶつ言っているんだ。牧師の奥さんはバターや卵やそのほかの寄進の様子でこれに気がつくはずだ。つまり自分がこの土地にどんなひどいことをやったかをね。いうまでもなく、この女(・・・・)、新任牧師の細君が張本人だったんだ。(あの老牧師は亡くなったよ)やせた病身の女で、世間のことには何も関心を払おうとしない。というのも、たしかに世間のほうでもこんな女にはだれも関心をもっていないからだ。愚かにも学者づらして、聖書経典の研究の尻馬に乗り、当世流行のキリスト教の道徳的批判的改革にまで力こぶを入れ、ラファーター(十八世紀スイスの神学者)の狂信には肩をすくめる。健康がひどく悪いので、神の創(つく)り給うたこの地上になんの喜びも持っていない。こんな女だからこそ、あの、ぼくの胡桃の木だって、切り倒すことがやれるんだ。まったく、きみ、ぼくは腹の虫がおさまらない! 思ってもみたまえ、やれ落葉が庭をよごしてじめじめしてしかたがないとか、やれ木のせいで日当たりが悪くなるとか、やれ、実がなれば子どもが石を投げるので神経がいら立って、ケニコット(十八世紀のイギリスの神学者)やゼムラー(十八世紀のドイツの神学者)やミヒャエーリス(十八世紀のドイツの東洋学者)を比べて調べているのに深い考えが乱されるとか、ぬかすんだからね。
村の連中、とくに老人たちが不満らしいので、ぼくは言ってやった。「なぜ、あんた方はこんなことを黙って見てたんですか?」 すると彼らは言うんだ。「この土地では、村長さんがその気になれば、どうにもしようがないんですよ」
けれども、ひとつ愉快なことがおこった。細君がとても気まぐれで、ふだんうすいスープしか作ってもらえない牧師は、このときとばかり村長とはからって、木の売り上げを山分けしようとたくらんだ。ところが財務局の耳に入り「当方ニ納入スベシ」ときた。というのは、牧師館の中庭の胡桃の生えている一部の地所の権利は、むかしから財務局がもっていたからで、胡桃の木はついに競売になった。あの木は横倒しになっている。ああ、もしぼくが領主だったら、ぼくはきっと牧師夫人も村長も財務局も――領主か!――いや、ぼくが領主なら、領内の木の事なんか気にするもんか!
十月十日
ロッテの黒い瞳を見るだけで、ぼくはもう幸福なんだ。それなのに癪(しゃく)にさわるじゃないか、アルベルトはそんなに幸福そうに見えない。――彼が――願ったほど――ぼくが――信じたほど――もし――。こんな文章のなかにダッシュを引きたくはないんだが、これ以外に言いあらわしようがないし――これでも、よくわかるだろう。
十月十二日
ぼくの胸のなかで、オシアンがホメロスを押しのけてしまった。このすばらしい詩人が、なんという神秘な世界へぼくを連れていってくれることだろう! さまよいながら荒野をいくと烈風が吹きすさび、ほの白い月光をあびて、もうろうとした靄(もや)さながらに、祖父たちの亡霊が飛んでいく。森の瀬のどよめきにまじって山のほうから聞こえてくるのは、洞窟の亡霊のなかばかき消された呻(うめ)き声、それに雄々しく討ち死にした勇士の、苔むし草しげる四つの墓石のかたわらで絶え入るばかりに悲しむ、恋する乙女のむせび泣く声。やがて、ぼくは、果てしない荒野に祖先の足跡をたずねてさまよい歩く白髪の吟遊詩人に出会う。詩人はついにその墓石を見つけ、慟哭(どうこく)しながら、さかまく海に落ちてゆくなつかしい夕べの星を仰ぐ。するとこの英雄詩人の胸のうちに、過ぎし日のことどもがありありとよみがえってくる。あのころ、まだ勇者たちの危険な行く手にはやさしい光が射し、花環を飾った凱旋(がいせん)の船には月が輝いていたものだ! 吟遊詩人の額にはふかい苦悩が読める。この最後に残された勇者も疲れはてて、墓場へよろめいていくではないか。彼は死んだひとびとのはかない亡霊のまえで、苦しみの中にある喜びを味わいつづけ、つめたい大地を、風にゆらぐ高い草を見おろして絶叫する。「美しかりし日のわが姿を知る旅人は、いつか来るであろう。そして、たずねるであろう。『フィンガル(オシアンの父)のすぐれた息子、かの歌人(うたびと)はどこにいるか』と、旅人の歩みはわが墓を越え、この地上にわれを求めてむなしくさすらうであろう」――おお、きみ、ぼくも誇り高い従者となって、剣を抜いてわが君オシアンを、その徐々に絶えゆく生命の苦しみからすぐに救いたい。そして、この救われた半神のあとを追って、自分も死んでいきたいと思うのだ。
十月十九日
ああ、この空隙(くうげき)! おそろしい空隙が、ぼくの心にぽっかりあいている――ぼくはいくたび思うことだろう、おまえが、あのひとをたった一度、せめて一度でも胸に抱きしめることができたら、この空隙はすっかり満たされるのだ、と。
十月二十六日
そうだ、きみ、たしかに人間の存在なんて、はかないものだ。まったく取るに足らないものだ。ぼくには、それがますますはっきりしてきたよ。
ロッテのところへ女の友だちがやってきたので、ぼくは隣室にはいって本を手にとったが、読む気になれない。それで一筆しようとペンを取ったのだ。ふたりの話し声が、かすかに聞こえてくる。町のうわさ話で、たとえば、だれが結婚するとか、病気だとか、それも重態だとかいったたぐいの、くだらないおしゃべりさ。
「あのかた、空咳(からせき)をなさるし、頬の肉もこけ、衰弱しきってらっしゃるんですよ。もう長くないと思うわ」と、客が言うと、ロッテも「××さんも、とてもお悪いんですってね」と、言う。すると相手は「もう、むくみが来てますわ」と、言った。――ぼくは想像力を働かせて、この気の毒なひとたちの病の床を思い浮かべた。このひとたちは、人生を棄て去ることをどんなにいやがっていることか。それが、ぼくの目に映った。――ウィルヘルム、それなのに、ふたりの話しぶりときたら、まるで――見も知らぬひとが死んだうわさ話をするみたいな調子だ。
ぼくは、あたりを見まわし、部屋のなかを眺めた。周囲にはロッテの衣装がある。アルベルトの書類がある。いまではすっかりなじみになった家具がある。このインク壷(つぼ)だってそうだ。それらを見ながら考える。「見ろ、この家にとって、おまえがなんだというんだ! 要するに、こうなんだ。この家のひとたちは、おまえを尊敬はしている。おまえは、しばしば彼らを喜ばせる。そして、おまえも彼らがいなくなってしまえば生きていけない気がしている。とはいうものの ―― おまえが行ってしまったら、この団欒(まどい)から抜けていったらどうなるだろう? 彼らは、おまえがいなくなったからといって、はたして自分たちの運命の空白を感じるだろうか? いつまで感じるだろう? いつまで?」
ああ、人間なんて、はかないものなのさ。自分の存在が確実に信頼できるような場所、自分の姿を本当に印象づける唯一の場所、つまり愛する人たちの思い出や魂のなかでさえ、そこでさえ消え去り、忘れられてしまわねばならぬ、しかも、またたくまに。
十月二十七日
人間が、おたがいにこんなにも無縁な存在にすぎないかと思うと、ぼくはときどき胸をかきむしり脳天に穴でもあけたくなる。ああ、愛も喜びも情熱も感激も、こちらが差し出さなければだれもぼくに与えてくれない。こっちがどんなに幸福で胸があふれていても、目の前の相手が冷淡で無感激なら幸福をわかつことはできないのだろう。
十月二十七日 夜
ぼくがどんなに豊かでも、彼女に寄せる思いに何もかも呑みこまれてしまう。ぼくがどんなに豊かでも、彼女なしでは何もかも無になってしまう。
十月三十日
あやうく彼女の首にだきつこうとしたことが、何度あっただろう! 愛らしい仕草をつぎつぎに見せつけられながら、手を出してはいけないなんて、こんな気持ちは、ああ、けだかい神さましかわかるまい。取ろうとして手を出すのは、人間のもっとも自然な本能じゃないか。子どもは、目につくものは何にでも手を出すじゃないか?――それなのに、このぼくは?
十一月三日
神さまはごぞんじだ! しょっちゅうぼくは、二度と目がさめないように願い、それどころか、よく、もうこれで目がさめまい、と思ってベッドにはいる。だが、朝になると目がひらき、太陽を見てがっかりする。ああ、もう少しぼくが気まぐれになれたら、天候のせいにしたり、計画の失敗にしたりすることができたら、このやりきれない不満の重荷も半減するんだが、悲しいかな、いっさいの罪がぼくひとりにあることを、ぼくはあまりにもはっきり感じているのだ。――いや、罪ではない! 要するに、あらゆる不幸のみなもとは、ぼく自身のうちにひそんでいるのだ。かつて、あらゆる幸福のみなもとがぼく自身のうちにあったように。かつて、ぼくは豊かな感覚の流れに身をゆだね、一歩ごとに天国がひらき、世界のすべてを抱擁する心をもっていた。あのころのぼくとこのぼくとは、いつまでも同じ人間ではないのか? しかし、この心もいまでは死んでしまい、どんな感動もその心から流れてはこない。ぼくの目は乾ききり、さわやかな涙で感覚がもはや洗われることもなく、額に不安の皺(しわ)が寄るばかりだ。ぼくの悩みは深い。それというのも、ぼくの生活の唯一の喜びであったものを失ったからだ。ぼくの身のまわりにいろんな世界を創造した、あの神聖な、すべてに生命を吹きこむ力を失ったからだ。その力がなくなってしまったのだ!――窓から、はるかな丘を眺めると、朝日が霧をすかして、かなたから静かな草原に光を流している。ゆるやかな川は、落葉した柳のあいだを縫って、こちらのほうへうねっている。――ああ、このすばらしい自然も、いまのぼくの目にはニスを塗った一枚の絵のように、凝結した物体にすぎない。どんな喜びも、ぼくの心臓の血の一滴をもたぎらせ、ぼくを有頂天にさせるようなことはできない。そして、男一匹が神の御前にあること、まるで、涸(か)れた泉やこわれた水がめ(聖書「伝道の書」第一二章第六節)のごとしだ。しばしば、ぼくは大地に身を投げ、涙を与えたまえと神さまにねがった。ちょうど大空が黄銅のように輝き、あたりの大地が乾ききってしまったとき、農夫が雨乞いをするように。
けれども、ぼくにはよくわかっている。われわれが性急にねがったからといって、神さまは雨も日光も与えて下さるものではない。思い出すだけで心の痛むあの時代、あのころは、どうしてあんなに幸福だったんだろう。たしかにあのころ、ぼくは辛抱づよく神霊の訪れを待ち、自分に注がれる歓喜を、心から深い感謝の念をもって受けたからではなかったか?
十一月八日
彼女から、しまりがないといってしかられたよ 。ああ 、そのしかりかたの愛らしかったこと! ぼくは、ぶどう酒を一杯飲むとやめられなくなり、ついに一びんあけてしまうんだ。まったくだらしがない。――「そんなことなさってはいけません」と、ロッテは言うんだ。「この、わたくしのことをお考えになって!」
「考えるだって?」と、ぼくは言った。「どうして、わざわざそんなことをおっしゃるんです。考えてますとも!――いや、考えてませんよ!あなたは、いつもぼくの心から離れたところにはいないんですから、きょうだって、ぼくは、あなたがたがこのあいだ、馬車からお降りになったところに腰をおろしてましたよ」
これ以上この話に深入りさせまいと、ロッテは話題を転じた。きみ、ぼくはもうだめなんだ。あのひとは、ぼくを思いのままにできるんだ。
十一月十五日
ウィルヘルム、きみが心からぼくのことを心配してくれて、好意のある忠告を寄せてくれたこと、感謝する。どうか安心してくれたまえ。できるだけ、がんばるから。ずいぶん参ってはいるけれど、なんとか切り抜ける力はあるつもりだ。きみもよく知っているように、ぼくは宗教を、ありがたいものと感じている。宗教は疲れた多くのものには杖(つえ)となり、弱った多くのものには強壮剤となることもわかっている。――ただ、宗教は、はたしてどんなひとにでもそうなることができるだろうか? そうなくてはならないのだろうか? 広い世間を見わたすと、説教を聞いても聞かなくても、宗教がそうならなかったひとたちが何千人もいる。――そうなりそうもない人たちが何千人もいる。それなのに、ぼくにとって宗教が、いやでも杖となり強壮剤となってくれるといえるだろうか。神の子(イエスのこと)さえ、父なる神(エホバのこと)が自分に与えてくださった者でなければ自分のまわりに集まることはできないと言ってるじゃないか。もしも、このぼくが神の子に与えられていなかったら、どうだろう? 心中ひそかにささやく声が聞こえるのだが、もしも父なる神が自分のお手もとにぼくをとどめておこうとしていらっしゃったら、どうだろう?――お願いだから、誤解しないでくれたまえ。まじめに言っているのだから、嘲笑(ちょうしょう)しているなどと思ってもらいたくない。ぼくはきみに、心の底をさらけ出しているんだ。でなければ、ぼくはむしろ黙っていただろう。事実ぼくだって、ひとさまにも自分にもたずねてもわからぬようなことは、むだに言葉をついやしたくないからね。人間の運命というのは、自分の分を堪え忍び、自分の杯を飲みほすこと、これ以外のものだろうか?――そして、この杯が、天にいます神(イエスのこと)にとっても、人間であられたときの唇には苦(にが)すぎたのに(聖書「マタイによる福音書」第二六章三九節)、どうしてぼくが虚勢をはって、それを甘いなどというふりをする必要があろう。ぼくの存在のいっさいが生きるか死ぬかということで戦慄(せんりつ)し、過去が稲妻のように暗い未来の深淵のうえにきらめき、ぼくを取り巻くすべてのものが沈み込んで、世界がぼくとともに滅びようとしている。この恐ろしい瞬間に、どうしてぼくは自分を恥ずかしがる必要があろう。いくらもがいてもどうにもならぬ自分の非力を深く感じて歯ぎしりしながら、「わが神! わが神! どうして私をお見捨てになったのですか(聖書「マタイによる福音書」第二七章四六節)」と、叫ぶのは、完全な窮地に追いつめられ、自分自身を失ってとめどなく転落していく人間の声ではないだろうか。それなのに、ぼくはこの叫びを発するのを恥じなければならないというのか? そして、もろもろの天を幕のように巻きおさめたまう神の子さえ(聖書「詩篇」第一〇四章第二節)、のがれられなかったこの瞬間を恐れなければならないというのか?
十一月二十一日
ロッテは、自分では知らないし、感じてもいないが、自分もぼくも破滅させる毒薬を調合している。そして、ぼくはこの身を滅ぼす杯(さかずき)を、彼女からさし出されるままに喜んで夢中になって飲みほすのだ。ロッテはぼくをしばしば――しばしば?――いや、しばしばではないが、ときおり見つめる。あのやさしいまなざし。思わず知らずあらわれるぼくの気持ちを受け入れるときのこころよいふるまい。そして、彼女の額に浮かび出るぼくの忍苦にたいする同情の色。あれは何を意味するのだろうか。
きのう帰るとき、ロッテはぼくに手をさしのべて言った。「さようなら、愛するウェルテル!」――愛するウェルテル! 彼女がぼくに「愛する」なんて呼びかけたのは、これがはじめてだ。ぼくは骨身にしみた。ぼくは百ぺんもそれをくり返した。そして、ゆうべ床につこうとしていろいろひとりごとをいっているうちに、思わずぼくは、「おやすみ、愛するウェルテル」と、言ってしまった。そのあとで、自分を笑わずにはいられなかった。
十一月二十二日
「あのひとをぼくの手から取りあげないで下さい!」と、ぼくは祈るわけにはいかない。それでも、ぼくはときどきロッテが自分のもののような気がするのだ。とはいえ、「あのひとをぼくにお与え下さい!」と祈ることはできない。彼女はほかの男のものなんだから。僕は自分の苦しみを種にして、いろんな理屈をこねまわす。ほうっておいたら、つぎつぎに反対の繰り言がいつまでも出てくるばかりだろう。
十一月二十四日
ぼくがどんな苦しみに堪えているか、ロッテは感じているのだ。きょうも彼女のまなざしは、ぼくの胸を深く貫いた。たずねると、ロッテはひとりきりだった。ぼくが黙ってると、じっとこちらを見つめる。いまさら、ぼくは彼女の愛らしい美しさやすぐれた知性の輝きを見ることはなかった。そうしたものはすべて、ぼくの目からは消えていた。ぼくが打たれたのは、もっとすばらしいまなざしだった。それは心からの思いやりと、このうえなくやさしい同情をたたえていたのだ。どうして、彼女の首にとめどない接吻の雨を降らしてやれなかったのだろう?ロッテはピアノのほうにそっと行ってひきながら甘い低い声で美しい調べを口ずさんだ。彼女の唇がこんなに魅力的なのを見たことはなかった。それは、まるで楽器からわき出る甘美な音色をすすりこむために、あえぐようにひらき、そして、その清らかな口から秘めやかなこだま(・・・)だけがひびきかえってくるかのようだった。――いや、こう言ったところで、何を伝えられよう!――ぼくはもう堪えられなくなり、ただうなだれて心に誓った。――「天の霊ただよう唇よ、ぼくはもう接吻しようなどと大それたことは決して思うまい」――それなのに――ぼくはこの唇が欲しい――ああ、それは隔壁のようにぼくの魂のまえに立ちはだかっているのだ――この幸福を――味わったうえなら、罪ほろぼしに滅んでもいい――だが、罪だろうか?
十一月二十六日
よく、ぼくは自分にむかって言う。「おまえの運命は例外だ、たしかにほかの者たちはしあわせなんだ――こんなに苦しめられた者なんか、いないんだから」と。――それから、ぼくは、むかしの詩人の作品を読む。すると、そこに自分の心がのぞかれる気がする。ぼくは、こんなにも堪えぬかねばならないのだ! ああ、いったい人間は、ぼく以前にもこんなにみじめだったのだろうか?
十一月三十日
ぼくは、ぼくは、もう正気に返ってはならないのだろうか。どこへ行っても、取り乱してしまうようなことばかりに出くわす。きょうも、こうだった! なんという運命! なんという人間!
昼ごろ、ぼくは川沿いの道をぶらついていた。食事をする気がしなかったのだ。あたりは荒涼としていた。しめった冷たい西風が山から吹きよせ、灰色の雨雲が谷へ流れこんでいた。遠くのほうに人影が見えた。緑色の粗末な着物を着ていた。岩のあいだをかがんで歩きながら、薬草でもさがしている様子、ぼくが近づいていくと、足音でふりむいた。その顔つきに、ぼくはひきつけられた。とりわけ目につくのは、その静かな悲しそうな表情だった。何よりもすなおな善良な気立てがよくうかがえた。黒い髪をふたつの輪にしてピンでとめ、残りを太く編んで背にたらしていた。身なりからみて、身分の低いひとのようだった。それで、何をしているかとたずねても別に気を悪くしないだろうと思って、さがしているのは何かと聞いてみた。
「花をさがしているのですが――ひとつも見つかりません」そう答えて、男はふかい溜息をついた。ぼくは微笑しながら言った。「でも、季節はずれですからね」
「花はたくさんありますよ」と、言いながら、男はぼくのほうへ降りてきた。「うちの庭には薔薇(ばら)と忍冬(すいかずら)と、二種類の花があるんです。ひとつは親父がくれたもので、雑草のように伸びますよ。もう二日もそれをさがしてますが、わたしには見つからない。この辺はいつも花が咲いていて、黄色いのや、青いのや赤いのが絶えたことがありません。せんぶり(・・・・)なんかもきれいな花が咲きますよ。でも何ひとつ見つかりません」
ぼくは、なんだか気味悪いものが感じられたので、遠まわしにたずねてみた。「花を、いったいどうするつもりなんです?」
すると、男の顔はひきつり、異様な薄笑いを浮かべた。「あなたが内緒にしておいてくれるなら」と、男は口に指をあてて言った。「じつは好きな娘(こ)にやる約束をしたんですよ」
「それはすてきだ」と、ぼくは言った。
「ところがその娘は、いろんな物をたくさん持ってるんです、金持ちなんでね」
「それでも、きみの花束はうれしいでしょうよ」
「おお!」と、男は言葉をつづけ、「宝石も持っているし、冠も持っている」
「その娘(こ)の名前はなんていうんです?」
「オランダ(当時ヨーロッパ第一の金持ちの国)がわたしに金を払ってさえくれれば」と、返事代わりにその男は答えた。「わたしもこんな人間にはなっていなかったんだ! ああ、以前は暮らしがよかったんですが、いまは左前ですよ!」そう言って空を仰いだ男の目は濡れていた。その目がすべてを物語っていた。
「じゃあ、前はしあわせだったんですね?」と、ぼくが聞くと、男は言った。「ああ、もう一度ああなれたらなあ! ほんとにあのころはしあわせで、愉快で、気楽で、水のなかの魚みたいでした」
「ハインリヒ」と呼ぶ声がして、老婆がこちらへやってきた。「ハインリヒ、どこへいたんだい? みんなで方々さがしまわったよ。ご飯だから帰っておいで」
ぼくは老婆のほうに歩み寄ってたずねた。「あなたの息子さんですか?」
「はい、ふびんな伜(せがれ)でございます」と、老婆は答えた。「この子のために、わたしはひどい難渋をしております」
「いつごろからこんなふうになったんですか?」と、ぼくはたずねた。
「こんなにおとなしくなったのは、かれこれ半年ぐらい前からでございます。おかげさまで、やっとこれくらいになりましたが、その前はまる一年、あばれ通しでした。気違い病院で鎖をつけられてました。いまではもうどなたにも何もいたしません。ただ、いつも王様だの皇帝だのをお相手にしておりますが、もともとは気立てのいい、おとなしい子で暮らしの手助けもしてくれました。字もきれいでした。それが、とつぜんふさぎこむようになり、ひどく熱を出して、それからあばれ出しました。いまはごらんのとおりの始末です。こう申すのもなんですが……」
ぼくはつづけさまに言う老婆の言葉をさえぎって、「前はよかった、しあわせだった。と、息子さんは自慢しておられましたが、いつごろの話ですか?」と、たずねた。
「ばかなことを言うんですよ」と、老婆はふびんそうに微笑しながら言った。「それは、正気を失っていたころのことを言っているのですよ。いつもそれを自慢しましてね。気違い病院にはいっていて自分のことなど何もわからなかったときのことなのに」
この言葉は、電撃のようにぼくの心を打った。ぼくは老婆の手に一枚の貨幣をにぎらせて、急いで別れた。
ぼくは、急ぎ足でどんどん町のほうへ歩きながら叫んだ。「おまえがしあわせだったとき!おまえが水のなかの魚のように楽しかったとき、というのはそんなときだったのか」――天にまします神よ! あなたは、人間がまだ分別がつかないときと、分別を失ったときしか幸福になれないように、人間の運命をお定めになったのですか?――ふびんな男よ! とはいうものの、ぼくはきみの狂気がうらやましい。五官が混乱して、きみのやつれ衰えていくのが、どんなにうらやましいことか! きみは、きみの女王のために花を摘もうと希望にあふれて家を出る。――冬のさなかに――そして花が見つからないと悲しみ、なぜ見つからないか、きみは理解できない。ところが、ぼくは、希望も目的もなく家を出て、出かけたときのままの姿で帰ってくる。――きみは、オランダが金を払ってくれれば別の人間になっている。などとたわいもないことを考えている。きみはしあわせな人間だ、きみが幸福になれないのは世の中の障害のせいだ、と単純に考えることができるんだから。きみは感じていないのだ、自分の不幸が、破壊された自分の心のなかに、錯乱した自分の脳髄のなかにあるということを。この世のどんな王者もきみを救い出すことはできない、ということをきみは感じていないのだ。
はるかに遠い霊泉を求めて旅に出、かえって病を重くし臨終の苦しみを増した病苦のひと。また良心の呵責(かしゃく)をのがれ、心の悩みを癒(いや)そうと聖なるキリストの墓に巡礼する傷心のひと。このようなひとたちをさげすみあざける者は、みじめにくたばるがいい。道なき道を踏みわけて、足裏を傷つけながら進んでいく一歩一歩が魂の不安を癒す清涼剤の一滴一滴であり、一日の苦しい旅を堪えぬくごとに多くの悩みから心は軽くなり休める。――これをしも、きみたちは妄想などと言うのか? 寝そべっておしゃべりをしているきみたちが――妄想などと?――おお、神よ! あなたはぼくの涙をごらんになっているでしょう。あなたは人間をたいへん貧しくお創りになりました。そのうえ、なおあなたは、このわずかの貧しさを、あなたに、あなたに寄せるわずかの信頼さえも奪うような兄弟を、なぜ人間に与えねばならなかったのでしょう? 万物を愛する神よ! 病を癒す草の根やぶどうの滴に寄せる人間の信頼、それは、われわれの周囲のすべてのもののうちに、いつもわれわれが必要とする治癒や鎮静の力をお与え下さるあなたへの信頼でなくてなんでしょう。ぼくのまだ見ぬ父よ! 父なる神よ! どうかぼくをおそばに呼んで下さい! もうこれ以上、黙っていないで下さい! あなたの沈黙は、ぼくの渇(かつ)えた魂にはもう堪えられません。――思いがけず息子が帰ってきて、父の首に飛びついて「お父さん、ぼくは帰ってきました。旅を途中でやめてしまったといって怒らないで下さい。お父さんは、もう少しがまんして旅を続けさせるおつもりだったでしょうが。世の中は、どこへ行っても同じです。苦労と労働のあとに、報酬と喜びがあるだけです。しかし、それがぼくにとって、なんだというのです? あなたのいらっしゃるところだけが、ぼくにとってしあわせなのです。あなたの目のまえでぼくは苦しんだり、楽しんだりしたいのです」と、叫んだとき、それを怒る人間が、父があるでしょうか。――天上の父よ、あなたは、こんな息子をもはねつけるのでしょうか?
十二月一日
ウィルヘルム! 前便に書いたあの男、あのしあわせな不幸者は、ロッテの父の書記だったのだ。ひそかにロッテに想いを寄せ、胸に秘めていたのだが、ついにそれを打ち明けた、そのため馘(くび)になり、そして発狂してしまった。この話を聞いて、ぼくがどんなに気も狂わんばかりの感動を受けたか。味気ないこの文字から察してほしい。じつはこの話は、アルベルトが平然として話してくれたんだ。きみだって平然としてこれを読むかもしれないが。
十二月四日
おねがいだ――ねえきみ。もうぼくはだめなんだ。これ以上堪えられない! きょう、ぼくはロッテのそばにいた――腰かけていた。彼女はピアノをひいていた 。さまざまな旋律を 。そこには、ありとあらゆる感情が表現されていた!――ありとあらゆる!――きみならどうする?――かわいい妹が、ぼくの膝(ひざ)のうえで人形に着物を着せていた。ぼくの目に涙が浮かんできた。うつむくと、ロッテの結婚指輪が目にとまった。――涙がぼくの目から流れ出た。――とつぜん、ロッテは、聞き覚えのある、うっとりするような、うつくしいメロディーをひきはじめた。まったく思いがけなかった。慰めの感情と過ぎ去った日々の思い出がぼくの胸に染みわたった。この歌を聞いたころのこと、その後のにがにがしい暗い時期のこと、挫折した希望のかずかず。さらに――ぼくは部屋を行ったり来たりした。こみあげてくる思いに、ぼくの胸は苦しくなった。ぼくは、いたたまれなくなって、彼女のそばへ飛んでいって叫んだ。
「おねがいだから、後生だからやめて下さい!」
ロッテはひく手をやめ、ぼくをじっと見つめた。そして、ぼくの胸にじいんとくるような微笑を浮かべながら、「ウェルテル」と、言った。「ウェルテル、あなたはひどいご病気よ。あなたのお好きな曲なのに、はねつけてしまうんですもの。お帰りになって! おねがいですわ。ゆっくりおやすみなさいな」
ぼくは、身を振り切るようにして立ち去った。――神よ、あなたは、このみじめなぼくをごらんになって、どうか結末をおつけ下さい。
十二月六日
ロッテの姿がどこまでもぼくを追ってくる!起きていても、夢のなかでも、ぼくの心は、あの姿でいっぱいだ! 目をつむると、この額のなかに、心の目が集中するところに、彼女の黒い瞳があらわれる。ここに! だが、きみにうまく言いあらわすことができない。目を閉じると、いつもそこにあの黒い瞳があるのだ。それは、海のように、深淵のように、ぼくのまえに、ぼくの内に横たわり、ぼくの額の感覚を満たすのだ。
半神などとたたえられてはいるが、人間なんて、なんだというんだ! いちばん力が必要なとき、まさにそのときに、力が抜けていくじゃないか。人間は喜んで飛び上がるにせよ、悲しみに打ち沈むにせよ、どちらの場合でも、かぎりない神の力に身をまかせ我を忘れようとする。だが、まさにそのときに、引きとめられ、にぶい、つめたい意識につれもどされるではないか。
われわれの友ウェルテルの異常な最後の数日間について、自筆の資料がじゅうぶんに残っていれば、編者は、彼が書き残した手紙のつづきを、編者の説明なんかで中断しなくてもすむのに、と、どんなに思ったかわかりません。
編者は、ウェルテルの身の上をよく知っているようなひとたちの口から正確な報告を集めようと、できるだけつとめました。話されたこと自体は簡単なものですし、どのひとの語るところもわずかな細かい点をのぞいては、すべて一致しています。ただ、当事者たちの気持ちということになると、意見はまちまちですし、判断もさまざまです。
けっきょく、編者としては、苦心を重ねて知りえたことを良心的に物語り、個人が残した手紙をそのままそこへ取り入れ、そのさい発見されたかぎりの断簡零墨(だんかんれいぼく)も粗末にしないこと、これよりほかに考えられるやり方はなかったのです。ことに凡庸(ぼんよう)でないひとたちのあいだに行われる行為ともなれば、ちょっとしたひとつの行為であっても、そのほんとうの正しい動機を見つけることはきわめて困難ですから、なおさらそうなります。
ウェルテルの心のなかで不満と不快がますますふかく根を張って、いっそう堅くからみ合い、彼の全部を占めてしまいました。精神の均衡はすっかり破壊され、内心の興奮と激情は彼の生来のエネルギーをことごとくかき乱し、このうえなくいまわしい結果をひきおこしました。最後には、一種の虚脱感だけしか残らなかったのです。そこから抜け出そうとあせるものの、神経はたかぶるばかりで、それは、これまでに彼がさまざまの困難とたたかってきた以上の、不安ないらだちでした。心の不安は、精神のほかの力をむしばみ、快活さや鋭敏さを食いつくし、人前に出ても沈みこんでしまい、ますます不幸になり、不幸になるにつれて、ますます偏屈になっていきました。少なくとも、アルベルトの友人たちは、そう言っています。アルベルトが純粋なおだやかな人柄で、長らく願っていた幸福をやっと手に入れ、この幸福を末永く大事にしていこうとしていたことを、ウェルテルは理解できなかった、と、言い、「なにぶんにもウェルテルは、いわば毎日、自分の財産を食いつぶし、夕方になると腹をへらして困っているという男でしたから」と、彼らは主張して、こうつづけます「アルベルトは、そう短期間のうちにひとが変わるわけはなく、ウェルテルが最初に知ったとおりの、高く評価し尊敬したときのままのアルベルトでした。アルベルトは、ロッテをだれよりも愛し、誇りとし、ロッテがあらゆるひとからすばらしい女性だと認められることを望んでいました。だから、疑惑の影は、どんなものでも払いのけようとしたでしょうし、また、そういう影が、ちょっとでもさした場合、たとえどんな罪のないたわむれからにせよ、他人がこの貴重な宝を手にするなんてことがあれば、アルベルトには堪えられなかったでしょう。それだからといって、アルベルトを責めることができるでしょうか?」さらに、かれらは、つぎのようにもらしていました。「ウェルテルが、ロッテのそばにいると、アルベルトはちょいちょい部屋を出ていきました。けれどもそれは、友人ウェルテルにたいする憎しみや嫌悪からではなくて、自分がいてはウェルテルが気づまりだろうと思ったからにすぎません」
ロッテの父が急病になり、ずっと引きこもらなくてはならなくなりました。それで、ロッテを迎えに馬車をよこしました。彼女はそれに乗って出かけました。初雪がたくさん降って、あたり一面が銀世界の、美しい冬の日でした。
ウェルテルは、その翌日、ロッテのあとを追いました。もしもアルベルトが迎えに来ることができなかったら、彼女を連れて帰るつもりだったのです。
澄みきった天候も、憂鬱(ゆううつ)なウェルテルの気持ちを、ほとんど明るくすることができませんでした。鈍い重圧が胸をおさえつけ、悲しいイメージがこびりついて離れません。心はただ、悲痛な思いをつぎからつぎへと追いかけるばかりでした。
自分自身にたえず不満を抱いて生きているうちに、ウェルテルは他人の状態までもがいよいよ危険で混沌としたものになっていくように思われました。彼は、アルベルトとロッテの美しい夫婦仲を自分がぶちこわしたものと思いこみ、そのことでわれとわが身を責めましたが、そこにはアルベルトにたいするひそかな反感がまじっていました。
このときも、道々ウェルテルの考えは、この問題に集中したのです。「そうか、そうか」と、彼は自分にむかって言いながら、ひそかに歯ぎしりしました。「あれが親密な、仲のいい、情愛のこもった、何事にも思いやりのある夫婦仲というものか! 落ちついた,いつまでも変わらぬまごごろの正体というものなのか! あんなのは倦怠(けんたい)にすぎない、無関心にすぎない! あの男はたいせつないとしい妻よりも、くだらない仕事にいちいち心をひかれているじゃないか。いったいあの男は、自分の幸福の値打ちがわかっているのだろうか。ロッテにふさわしい尊敬を払うことができるのだろうか。あの男はロッテを妻にしている。それはまちがいない。ロッテはあの男のものだ。――そんなことはわかっている。百も承知だ。そう思うことにも慣れたつもりだ。だが、やはり考えると、気が狂いそうになる。死んでしまいそうだ――いったいあの男は、ぼくにたいしてずっと友情を持ちつづけているだろうか? あの男は、ぼくがロッテに夢中なっているのを、自分の権利を侵害されていると思っているのではないか。ぼくがロッテに気を配っているのを、無言の非難だと思っているのではないか。ぼくにはよくわかる。感じでわかるさ、あの男はぼくに会いたくないんだ、ぼくを避けようと思っている。ぼくがいては目ざわりなんだ」
急ぐ足をとめて、ウェルテルは何度も立ちどまりました。引き返そうとしたようでもありました。でも、やはり歩きつづけ、以上のような考えごとやひとり言をつづけて、いわば、心ならずも、とうとう狩猟館に着いたのでした。
ウェルテルは玄関にはいり、老法官とロッテのことをたずねました。家のなかが少しざわついているようです。いちばん上の男の子が「ワールハイムの村で人殺しがあったんだよ。百姓がひとり殺されたんだって」と、ウェルテルに言いました。――が、ウェルテルはこの話をかくべつ気にもとめませんでした。――部屋にはいってみると、ロッテが老人をしきりに説きふせていました。老法官は病をおして実地検証に行くのだ、と言い張っていたのです。犯人はまだわかっておりません。被害者の死体が、けさ、家の戸口で発見されたのでした。いろいろ憶測が伝えられ、なんでも殺されたのは、ある後家のところで働いている作男で、後家は以前にも、別の男を雇っていましたが、何かいざこざがあってその男は家を出た、ということでした。
この話を聞くと、ウェルテルはびっくりして飛びあがりました。「とんでもないことだ! すぐ行かなくちゃ。一刻も、ぐずぐずしてはいられない」と、叫ぶなり、彼はワールハイムへ急ぎました。思い出がひとつひとつありありと浮かびました。そして、自分が幾度か言葉をかわして、あんなに好意を持つようになったあの男が、下手人にちがいない、ということをもはや一瞬も疑うわけにはいかなくなりました。
死体が置いてある料亭のほうに行くには、菩提樹のあいだを通って行かなければなりませんでしたが、まえにあれほど好きだった場所が、恐ろしくてなりませんでした。近所の子どもたちがよく遊んでいたあの敷居が、血に汚されたのです。愛と誠、このもっとも美しい人間感情が暴力と殺人に変わったのです。太い木々は落葉して、白い霜をおいていました。教会の墓地の低い壁をこんもりおおっている美しい生垣も、葉が散っていて、その隙間(すきま)から、雪をかぶった墓石がのぞいていました。
料亭のまえには村中の人が集まっていましたが、ウェルテルが近づいたとき、とつぜん叫び声がおこりました。遠くのほうから武装した人たちの一隊が見えました。もうこれ以上疑う余地はありません。やっぱりそうです。例の後家を熱愛していた作男でした。いつだったかウェルテルが出会った、静かな怒りとひそかな絶望を抱きながらうろついていた、あの男でした。「なんということをしでかしたのだ? かわいそうな男だ!」と言いながら、ウェルテルは捕えられた男のほうへ駆けよりました。男は、じっとウェルテルを見つめました。黙っていましたが、やがて落ち着いた口調で、「だれだって、あのひとは渡せねえ、あのひとだって、だれともいっしょにならねえだ」と、言いました。男は料亭に連れこまれ、ウェルテルは急いで立ち去りました。
恐ろしい激しいショックを受けて、ウェルテルは身も心もゆり動かされ、混乱してしまいました。これまでの憂鬱、不満、なげやりの虚脱感が、一瞬吹きとびました。同情の念が沸きおこり、あの男を救ってやろうという、口に出して言えないほどの願いを、ウェルテルは抑えることができませんでした。まったく不幸な男だと同情し、犯人には違いないとしても罪はない、と思うのでした。そして、ウェルテルは、彼の身になって深く考えて、ほかの人たちにも納得させられると思い込んでしまいました。はやくもこの男のために弁護に立ちたいと願い、熱烈な弁論が、もう唇をついて出かかるほどでした。ウェルテルは、狩猟館へ急ぎました。そしてその道々、法官にむかって申し立てようということを、始めから終わりまで、もう小声で口に出して言わずにはいられませんでした。
部屋にはいっていくと、そこにはアルベルトがおりました。一瞬ウェルテルは、いやな気持ちにさせられました。けれどもすぐに気を取りなおし、法官に自分の意見を熱っぽく述べ立てました。法官は、二、三度首をふりました。ウェルテルがありったけの精気と情熱と熱誠とをかたむけて、人間が人間を弁護するために言えるかぎりのことを述べたのですが、いうまでもなく、法官は少しもそれに心を動かされませんでした。それどころか、法官は、ウェルテルに最後まで口をきかせず、はげしく反撥して、人殺しをかばうとは何ごとだ、と、非難したのでした。そんなことが通れば、いっさいの法律は空文と化し、国家の治安はすべて破壊されてしまうと説きました。さらに付け加えて、法官は、このような事件においては、自分が個人的に動くとすれば、どんな些細なことでも最大の責任を負わねばならないのであって、すべては法規どおりに所定の手順をふんで処理しなければならぬ、と言いそえるのでした。
ウェルテルはそれでも承服しませんでした。しかも頼むに事欠いて、万一だれかがあの男の逃亡を助けてやるようなことがあっても、法官はお見のがし願いたい、と、言ったのです! むろん、そんなことは法官に、はねつけられました。ついにアルベルトまでが口出しして、老法官の肩をもったのです。ウェルテルは言い負かされてしまいました。「いかん、あの男を助けることはできん」と、再三きっぱりと言い切られ、ウェルテルはなんとも言いようのない苦痛を胸に抱いて帰ってきました。
この言葉がウェルテルにどんなにひどくこたえたかは、書き残した紙片の一枚にうかがうことができます。疑いもなく、それはその日のうちに書かれたものです。
《おまえは救われない。不幸な男よ! ぼくにはよくわかるのだ、われわれは救われない》
つかまった男について、アルベルトが法官のいるまえで最後に言ったことが、ひどくウェルテルの気にさわりました。そこに若干の底意があると思いこんだからです。法官やアルベルトの言い分が正しいということぐらい、少し考えれば明敏なウェルテルにわからないはずはなかったのです。が、もしそれを認め、話すとなると、自分の生きていくうえでのいちばん大事な点を放棄しなければならないように思えたのです。
このことに関して、おそらくウェルテルのアルベルトにたいする関係のいっさいが端的に示されていると思われる紙片が、ウェルテルの書き残したもののなかにあります。
《彼は立派だ、善良だ、などといくら自分にいってみたところで、それがなんの役に立つだろう。断腸の思いをするだけだ。ぼくは公正ではありえない》
おだやかな夜で、雪解けになりそうな天候でしたので、ロッテはアルベルトといっしょに歩いて帰りました。ロッテは、途中で何度かあたりを見まわしました。ウェルテルがいっしょにいてくれないのがさびしいような様子でした。アルベルトはウェルテルの話をはじめ、公平な態度を示しながらも彼を非難しました。ウェルテルの不幸な情熱にふれ、彼を遠ざけることができればいいのだが、と言いました。
「ぼくたちのためにもそう願うんだが」とアルベルトは語って、さらにつづけて、「頼むから、おまえにたいする彼の態度が別の方向に向かうようにしてほしい。あんまりひんぱんにやって来ないように気をつけてほしい。世間の目もあるからね。もう、ちらほら噂にのぼっていることも、ぼくは知っているんだ」
ロッテは黙っていました。この沈黙がアルベルトにはこたえたようでした。少なくとも、このとき以来、もうアルベルトはロッテにむかってウェルテルの話はしなくなったのです。ロッテのほうから、ウェルテルのことを口にしても、アルベルトは話を打ち切るか、話題をそらしてしまうのでした。
例の不幸な男を助けようとしてウェルテルが試みたむなしい努力は、消えようとする灯火(ともしび)がぱっと炎をあげて燃えあがったようなものでした。そのため、いっそう深い苦悩と無為に打ち沈んでいくばかりでした。とくに、あの男がいまは犯行を否認しはじめたので、もしかしたら、それを反論する証人として呼び出されるかもしれないと聞かされたとき、ウェルテルはほとんど気も狂いそうになりました。これまで実生活のうえでなめた、ありとあらゆる不愉快なこと、公使館での腹立たしさ、そのほか、いろいろしくじったり心を傷つけられたりしたいっさいのことが、彼の心のなかで次から次へと、浮かんだり沈んだりしました。こんな目にあってきたのだから、自分が無為にひたるよりしかたがないのだと思い、世俗の実務につく手がかりさえつかめぬ、ふがいなさだから将来の望みはすっかり断たれてしまった、と考えたのです。このようにして、ウェルテルは、ついに彼一流の奇妙な感じ方や考え方、果てしない情熱にすっかり身をゆだね、愛するやさしい女性と悲しい交渉をいつまでも断ち切ることができず、しかもそのひとの平和をかきみだしておりました。そして自分の精力をがむしゃらにかり立て、目的も希望もなく、精根をすりへらしながら、じりじりと悲しい破局へ近づいていくのでした。
ウェルテルの混乱と情熱、やすむことない苦闘とあがき、生の倦怠を示すものとして、次に挿入する二、三の残された手紙が、もっとも有力な証拠となりましょう。
十二月十二日
親愛なるウィルヘルム! いまのぼくは、むかし悪霊に追いまわされていると思われた不幸なひとたちと同じような状態だ。ぼくは、何ものかに襲われる。不安でもなければ欲求でもない――えたいの知れないものが内部で荒れ狂う。それが胸をかきむしろうとし、喉(のど)をしめつける。苦しくてたまらない! するとぼくは、人間に酷薄(こくはく)ないまの季節の恐ろしい夜の景色のなかを、あてどなく歩きまわるのだ。
夕べも出かけずにはいられなかった。急に気温が上がって氷雪が解け、河は氾濫(はんらん)し、小川という小川は水を増し、ぼくの好きな谷間は、ワールハイムから下流にかけて水浸しになっているということを耳にした。もう夜の十一時を過ぎていたが、ぼくは飛んで行った。恐ろしい光景だった。岩のうえから見おろすと、激流が月光をあびて渦をまいている、畑も牧場も生垣も、すべてが水にのみ込まれ、広い谷が上流も下流も一面の海原となり、風がぴゅうぴゅううなっている! やがて、ふたたび月がくろぐろとした雲のうえに出てくると、見渡すかぎりの水が、凄絶(せいぜつ)な月の光に反射しながら、さかまき、どよめいている。そのとき、戦慄と同時にあこがれがぼくをおそった。ああ、ぼくは腕をひろげて深淵にむかって立ち、水底へ! 水底へ! 吸い込まれるような息をした。そして、自分のあらゆる苦悶や悲痛を水底へ波とともにおし流し、洗い去ろうという喜びに、陶然として我を忘れた。おお!――ところがおまえは、足を大地から離して、おまえの苦悩に終止符を打つことが出来なかった。――ぼくの砂時計の砂はまだ落ちつくしてはいないのだ。ぼくにはそれがわかる。おお、ウィルヘルム、あの嵐とともに雲を引き裂き、怒濤をつかむためなら、ぼくの人間存在なんかくれてやってもいい、とどんなに思ったことだろう! ああ、囚われの身にもいつかはこうした喜びが与えられるのではないだろうか?――
それから、暑い日盛りの散歩の途中でロッテといっしょに柳の木陰で休んだことのある場所を、悲しい思いで見おろした。そこも水浸しで、柳の木もほとんど見分けがつかないほどだったのだ! ウィルヘルム、ぼくは、ロッテの家の牧場や狩猟館のあたりはどうなっているだろう、と思いを馳せた。もはや、ぼくたちの四阿(あずまや)だって、いまは激流のために見るかげもなく破壊されているだろう! などと思っているうちに、囚人にも家畜や牧場や栄職の夢が訪れるように、過ぎし日の明るい陽光がぼくの胸に射して来た。ぼくはじっと立ちつくした! 自分を責めはしなかった。死ぬ勇気だってぼくにはあるんだから。――ぼくがその気になりさえすれば。――ところが、いま、ここにこうしてすわっているぼくは、くたばりそこねた喜びのない老い先を、ひとときでも生き永らえ楽にしようと、よその垣根から薪(たきぎ)をくすね、戸口に立ってパンを乞う老婆そっくりじゃないか。
十二月十四日
きみ、これはどうしたことだろう? ぼくは自分で自分が恐ろしい。ロッテにたいする愛は、このうえなく神聖な、純粋な、兄妹のような愛ではないか? これまで一度でも、ぼくはけしからん望みを胸に感じたことがあったろうか?――ぼくは誓いを立てて言ってるつもりではない。――ところが、変な夢を見てしまったのだ。夢と現実がこんなにくいちがうのを、昔のひとは異様な何ものかの力のせいにしたが、そうした感じ方こそ真実ではないのか! ゆうべのことだ! ああ、口にするだけで、ぼくのからだはふるえる。ぼくは彼女を胸に抱きしめ、胸におしつけ、愛をささやく彼女の唇を、いつまでも接吻でおおったのだ。ぼくの目は、恍惚(こうこつ)としている彼女の目に見とれた。神よ、この燃えるような歓びを、心からせつない思いでおもい返してみるだけで、いまなお、ぼくが幸福を覚えるからといって、罰せられるべきでしょうか。ロッテよ! ぼくはもうおしまいだ! 感覚は混乱し、もう一週間もまえから思考力も失われ、目は涙でいっぱいだ。どこへ行っても気分がよくもならないし、悪くもならない。何も願わず、何も欲しない。おさらばしてしまったほうがよさそうだ。
*
この世を去ろうという決心は、このごろ、こうした事情のもとに、ウェルテルの心のなかでだんだん力を増してきました。ロッテのところへ帰ってからずっと、それが彼の最後の希望であり、念願でした。けれども、彼は自分に言いきかせました。早まってはならぬ、急いではならぬ、最善の確信をもって、できるだけ冷静な決断をもって実行に移ろうと。
ウェルテルの懐疑、自己自身とのたたかいは、おそらくウィルヘルムにあてた手紙の書き出しと思われる次の紙片からうかがうことができます。これは、彼の書き残したもののなかから見つかったのですが、日付はありません。
《彼女がいてくれるということ、彼女の運命、そして、ぼくの身のうえに心を寄せてくれている彼女の気持ち、それを思うと、ぼくの焼けただれた心から、最後の涙がにじみ出る。
幕をあげ、その奥に踏み入る。それだけのことなんだ! それなのに、なぜためらい、ひるむのか? 幕の向こうの様子がわからないからか? そこから戻ることができないからか? はっきりしたことがわからないところに混乱と暗黒を予想するのが、われわれの精神の特質なのだろうか》
*
とうとう、彼には自殺という悲しい考えが何でもないものになってしまい、彼の決心は堅く、あとにひけなくなってしまいました。このことについては、次の二様に解することのできる手紙が、ひとつの証拠となります。
十二月二十日
ぼくは、君の愛情に感謝する、ウィルヘルム、あの言葉をそんなふうに受け取ってくれて。たしかに、君の言うとおりだ。行ってしまったほうがよさそうだ。きみたちのところへ帰るようにという、きみの提案は、そのまま受け取るわけにはいかない。少なくとも、もっと回り道がしたいんだ。ことに寒さが続いて、道がよくなりそうだからね。ぼくを迎えにきみが来てくれるというのも、ほんとうにありがたい。ただ、あと二週間先にしてほしい。それまでにもう一通くわしい手紙を書くから、それを待っていてくれたまえ。物事は熟すまでは何ひとつ摘まないようにすることが、かんじんだ。二週間おそいか早いかは、たいへんなちがいだ。母に伝えてほしい。息子のために祈ってもらいたいと。そして、いろんないやな目にあわせてすまなかったと許しを乞うていることも。どうやらぼくの運命は、しょせん、喜ばせるひとを悲しませているのだ。ごきげんよう! 親愛な友よ。天のすべての祝福がきみに恵まれるように! ごきげんよう!
*
このころ、ロッテの胸のなかでどんなことがおこっていたか。夫に対する気持ち、不幸な友ウェルテルにたいする気持ちはどうだったか。こういうことについて、はっきり言いあらわすことはなかなかできません。もちろん、ロッテの性格がわかっているのですから、なんとなく想像することはわれわれにもできますし、美しい心をもっている女性だったなら、ロッテの身になって考え、ロッテとともに感じることもできるでしょうけれど。
とにかく、ロッテはウェルテルを遠ざけるために、あらゆる手段をつくそうと堅く決心しました。このことだけは確かです。彼女がためらったとすれば、それは、心からの友情のこもった、あたたかい思いやりからでした。というのは、ウェルテルにとって、彼女と別れることがどんなにつらいか、いや、ほとんど不可能にちかいということを、ロッテはよく承知していたからです。とはいえ、このころになると、ロッテも断固たる態度に出なければならないはめになっていたのです。ウェルテルとの関係については、ロッテは沈黙をまもりつづけておりましたが、夫のアルベルトもいっさい何も言いませんでした。それだけにいっそうロッテは心をくだき、自分の考えが夫の気持ちにたいして、恥ずかしいものでないように、行動によって示そうとしたのです。
最後に挿入した手紙をウェルテルが友にしたためた日は、ちょうどクリスマスのまえの日曜日でした。夕方ウェルテルはロッテのところへやってきました。彼女はひとりきりで、小さな弟や妹たちのために、クリスマスのプレゼントにと思って用意したおもちゃなどを整理しているところでした。ウェルテルは、子どもたちがさぞ大喜びするでしょうとか、自分の子どものころは、急にドアが開いて、ろうそくや砂糖菓子やりんごで飾り立てたクリスマス・ツリーがあらわれると、まるで天国にでも行ったように有頂天になったものです、と言いました。
「あなたにも」と、ロッテは困ったような気持ちを、やさしい微笑でかくしながら言いました。
「あなたにもさしあげますわ、ちゃんとお行儀よくしていらっしゃれば、巻きろうそく(らせん状に巻いた長いろうそく)やなんかをね」
「お行儀よくするって、どういうことなんです?」と、ウェルテルは叫びました。「どうしろとおっしゃるんです? どうしたらいいんでしょう、ロッテ!」
「木曜日の晩はクリスマス・イヴでしょう」と、ロッテが言いました。「この晩に子どもたちが来ることになっていますの。それに父も。それから、それぞれプレゼントをもらうことになっています。そのときにあなたもいらっしゃいまし。――でも、その前ではだめですわ」
ウェルテルは、はっとしました。ロッテは話しつづけました。「そうするよりしかたがありませんわ、お願いです、私をそっとしておいて下さいまし。いつまでもこんなふうにしてはいられません。このままではいけませんわ」
ウェルテルはロッテから目をはなし、部屋のなかを行ったり来たりしながら――このままではいけない――と、ぼそぼそつぶやきました。ロッテは、この言葉で相手のウェルテルがどんなに恐ろしい状態に突き落とされたかと考えて、あれこれたずねて彼の考えをそらそうとしましたけれども、役に立ちませんでした。ウェルテルは叫びました。「そうです、ロッテ。もうお目にかかりますまい!」
「まあ、なぜですの?」と、ロッテは聞きかえしました。「ウェルテル、あなたはまたわたくしたちに会いに来てくださってよろしいのよ。会いにいらっしゃらなくては行けませんわ。ただ、ほどほどにしていただきたいのです。ああ、あなたはどうしてこんなに激しい気性をもっていらっしゃるんでしょう。一度おつかみになったら最後、どんなものにだって情熱をかたむけて執着なさるんですもの。お願いしますわ」と、ロッテはウェルテルの手を取りながら、言いつづけました。
「自制して下さいまし。あなたほどのお心、あなたほどの学問、あなたほどの才能がおありなら、どんなにさまざまな楽しみがあるかわかりません。どうか男らしくして下さい! ただ、あなたを気の毒と思うほかに何もできないような女から、こんなかなしい愛着をきっぱりお棄てになって下さいまし」
ウェルテルは歯を食いしばり、暗い面持ちでロッテを見つめました。ロッテは相変わらずウェルテルの手を握ったまま、言いました。「ちょっとでもよろしいから、落ちついて考えていただきたいんですの、ウェルテル! あなたはご自分をあざむいて、わざと身を滅ぼそうとしていらっしゃいます。それがご自分でおわかりにならないのでしょうか。どうして、わたくしでなければならないのでしょう? ウェルテル。えりにえって、ひとのものであるわたくしを、いまさらひとのものを。あなたは、わたくしをご自分のものにできないばっかりに、かえってご自分のものにしたいということを、たいへんすばらしいことのように思っていらっしゃるのではないでしょうか、そんな気がしてなりませんの」
ウェルテルは、じっと不愉快そうなまなざしをロッテに送りながら、自分の手を彼女の手から離しました。
「図星です!」と、彼は叫びました。「まさしく図星です! アルベルトに入れ知恵されましたね。ずるい、まったくずるいやり方だ!」
「だれにだって考えられることですわ」と、ロッテは言葉を返しました。「いったい、この広い世間で、あなたのお気に召すようなお嬢さんがひとりもいないってことがあるでしょうか?その気になってさがしてごらんなさいまし。きっと見つかりますわ。あなたのためにも、わたくしたちのためにも、前から心配でなりませんでしたが、あなたはずっと狭い殻(から)のなかにご自分を閉じこめていらっしゃいます。思い切って旅行でもなさったら、きっと気が晴れるにきまっていますわ。どうぞ、あなたにふさわしい立派なお相手をおさがしになってお帰りくださいまし。そして、みんなでいっしょに、ほんとうの友情の幸福を楽しみたいものでございます」
「これはどうも」と、ウェルテルはつめたく笑いながら言いました。「印刷にしておくといいですね。あちこちの家庭教師に配るといい。ロッテ! ほんのちょっと、ぼくをそっとしておいて下さい。万事かたがつきますから」
「ただ、これだけはお願いしましてよ、ウェルテル。クリスマス・イヴまではいらっしゃらないで下さいましね!」
彼がこれに答えようとしたそのときに、アルベルトが部屋にはいってきました。ふたりは凍りついたような挨拶をかわし、気まずそうに並んで、部屋を行ったり来たりしました。ウェルテルはとりとめのない話をはじめましたが、それもすぐ尽きてしまい、アルベルトもおなじでした。それからアルベルトは、何か頼んであった用事を妻にたずねましたが、まだ済ませてないと聞くと、ふたことみこと言いそえました。その言いそえた言葉が、ウェルテルには冷たく、いや過酷にさえ聞こえたのです。ウェルテルは立ち去ろうと思いましたが、それもなかなかできず、ぐずぐずしているうちに八時になりました。胸の不快と不満は、つのるばかりでした。とうとう食事の用意ということになって、やっと彼は帽子とステッキをとりました。アルベルトに引きとめられましたが、から世辞と思ったウェルテルは、すげなく辞退して立ち去りました。
ウェルテルは、家に帰りました。明りをつけて先に立とうとする従僕の手から、そのあかりをひったくってひとりで部屋にはいり、声を立てて泣きました。それから興奮してひとり言をいい、いらいらと部屋のなかを行ったり来たりしました。が、とうとう服のままベッドに身を投げかけました。十一時ごろ、おそるおそる従僕が部屋にはいってきて、靴をお脱がせしましょうか、とたずねたときも、そのままの姿でした。ウェルテルは従僕に靴を脱がせてもらうと、あしたの朝はこちらから呼ぶまで部屋にはいってはならないと、言いつけました。
十二月二十一日、月曜の朝、ウェルテルはロッテに次のような手紙をしたためました。これは彼の死後、封をしたまま、机の上に発見され、ロッテに届けられたものです。いろんな事情からウェルテルが断続的に書いたことがわかりますので、これを断続的に以下に挿入していきましょう。
《覚悟はできた、ロッテ、ぼくは死にます。あなたにお会いするのも、きょうかぎりだという日の朝なのに、なんのロマンチックな誇張もなしに落ちついて、あなたに書いています。最愛のロッテよ、あなたがこれを読まれるころ、この心の不安な不幸な男の硬くなった亡骸(なきがら)は、つめたい墓石の下に横たわっているでしょう。この男は、生涯の最後のひとときも、あなたとお話すること以上に楽しみを知りませんでした。ぼくは恐ろしい一夜を過ごしました。が、それは、思えば恵みふかい一夜でもありました。そのあいだに死のうという覚悟がきまり、それが固まったのです!きのうは、恐ろしく興奮して、身をふり切ってあなたとお別れしました。いろんなことが胸に押しよせてきて、あなたのそばにいながら希望もなく喜びもなかった自分を考えると、冷たい戦慄におそわれました。――ぼくはようやく部屋にたどりつき、我を忘れてひざまづきました。おお、神よ、あなたがぼくにお与え下さった最後の慰めは、苦い涙でした!数かぎりないもくろみ、数かぎりない見込みが心のなかを荒れ狂い突きぬけていきましたが、最後に、ついにただひとつの考えが、しっかりとゆるぎなく立ちはだかりました。死ぬのだ、というぎりぎりの考えが!――ぼくは横になりました。夜が明けて、落ちついた気持ちで目がさめたときも、しっかりと完全なつよさをもって、ぼくのなかに決心は固まっているのです。死ぬのだ!――これは、絶望ではありません。確信です。自分は絶えぬいてきた、そして、あなたのための犠牲になる、という確信です。そうだとも、ロッテ!どうしてこのことを黙っていなければならないのでしょう! ぼくたち三人のうちのひとりは、去らなくてはならない。そのひとりにぼくはなろうと思うのです。おお、最愛のロッテよ! この引き裂かれた胸に、狂ったように忍びこんで来る考えが、しばしばありました。――あなたの夫を殺そう!――あなたを!――いや、ぼくを!――こうなったのもやむをえない! もし、あなたが美しい夏の夕べに丘の頂に立ったときには、ぼくもよくこの谷をのぼってきたものだったと、ぼくのことを思い出して下さい。それから、沈む陽の光を受けて高くのびた草が風にゆらぐあたり、ぼくの墓地のほうを眺めて、ぼくの墓に目をおくって下さい。――書きはじめたときには落ちついていたのですが、いま、いまは、ぼくは子どものように泣いています。いっさいのことが、まざまざと目に浮かんでくるものですから》
*
十時ごろ、ウェルテルは従僕を呼びました。着替えをしながら、二、三日のうちに旅に出るから服にブラシをかけ、すべて荷づくりができるように整理してくれ、と言いつけました。それから、払いが済んでいないところは残らず催促して勘定書きをもらい、貸してある数冊の本を取りもどし、毎週いくらかずつ恵んでやることにしていた何人かの貧しい人たちに、二か月分を先払いしてやるように命じました。
ウェルテルは食事を部屋にもってこさせ、食事がすむと馬に乗って法官のところへ出かけましたが、あいにく留守で会えませんでした。思いに沈んで庭を行きつ戻りつしました。これを最後に、思い出のあらゆる悲しみを胸にたたみこもうとしているかのようでした。
子どもたちは、ウェルテルを長くそのままにしてはおきませんでした。あとを追いかけたり、飛びついたりして、明日の、そのまた明日の、次の日になれば、ロッテ姉さんのところへクリスマス・プレゼントをもらいに行くんだと言い、幼い空想力で描き出せるだけのさまざまな夢を物語りました。明日の! そのまた明日の! 次の日! と、ウェルテルは叫んで、心をこめて子どもたち一同に接吻しました。そして、立ち去ろうとすると、小さな男の子が、まだ何か耳にささやこうとするのでした。上の兄さんたちがきれいな年賀状を書いたよ、とっても大きいんだ! 一枚はお父さまに、一枚はアルベルトとロッテ姉さんに、ウェルテルさんにも一枚、元旦の朝、兄さんたちが届けるつもりなんだよ、とその子が内緒話をしたのでした。これには、ウェルテルも胸がつまる思いでした。で、それぞれの子どもに幾らかのものをやって馬に乗り、お父さまによろしくと言って、涙を浮かべながら駆け去りました。五時ごろウェルテルは帰宅しました。暖炉のかげんに注意して、夜半まで火を絶やさないようにしてくれ、と女中に命じました。従僕には、階下で本や下着を鞄につめ、洋服を袋に入れて、縫いつけておくように言いつけました。おそらく、それからロッテにあてた最後の手紙の次の断篇を書いたもののようです。
《あなたはもう、ぼくが行くとは思っていらっしゃらないでしょう! ぼくが言うことを聞いて、クリスマス・イヴになってからはじめて姿をあらわすと思っていらしゃるでしょう。でも、ロッテ! きょう、でなければ、もう二度と。クリスマス・イヴには、あなたはこの手紙を手にとって身をふるわせ、これをやさしい涙でぬらすでしょう。ぼくは思いきって、いやどうしても! ああ、心が決まったら、ほんとうに楽になりました》
ロッテは、そのあいだに異様な心境におちいっていたのです。ウェルテルとあのような話をして最後に別れてから、彼との別離がどんなに自分もつらいか、自分から遠ざけられて彼がどんなに苦しむか、それが身にしみて、しみじみと感じられるのでした。
ウェルテルがクリスマス・イヴまではもう来ないということは、アルベルトのまえでそれとなく話してありました。アルベルトは仕事の都合で近在の役人のところへ馬に乗っていき、そこで一泊してくることになりました。
ロッテはそのとき、ひとりですわっていました。弟も妹も、そばにはいませんでした。静かに物思いにふけって、自分の境遇をあれこれ思いめぐらしていました。いま、自分は夫と永遠に結ばれている。夫の愛とまごころは自分にもよくわかっている。自分も心から夫を愛している、このひとの落ちついた人柄と頼もしさは、善良な妻が生涯の幸福を必ずそこへ築きあげるために天からさだめられたもののように思われました。夫こそ、自分や自分の幼い弟妹たちがいつまでも頼りにできるひとであることが、はっきりと感じられるのでした。けれども、また、ウェルテルもロッテにとってはとてもたいせつなひとになっていました。知り合った最初の瞬間からおたがいの心が気持ちよく一致し、やがて交際が長くつづいて、いろんな状況をいっしょに体験してきたことは、彼女の心に、もはや拭い去ることのできない印象をきざみつけてきました。ロッテは、何事にかぎらず、自分が興味を持って感じたり考えたりしたことは、すべていつでもウェルテルに打ち明けました。その彼がいなくなれば、自分のほんとうの心のなかに、もはや二度と埋めることのできない穴があけられそうでした。ああ、いまこの瞬間に、ウェルテルを自分の兄弟に変えることができたらどんなにしあわせだろう! そうだ、自分の友だちのだれかと結婚させることができれば、ウェルテルとアルベルトの仲だってすっかり元通りにすることができるかもしれないのに! ロッテは、自分の友だちのひとりひとりを考えてみました。けれども、どのひとにも何かの難色があって、ウェルテルを渡してもいいと思うような相手は見つかりませんでした。このようにいろいろ考えているうちに、自分では、はっきり意識したわけではなかったのですが、ウェルテルを手放したくないのが自分の心の底のひそかな、ほんとうの願いである、と、はじめて深く感じたのでした。それでありながら、彼女は自分に言って聞かせたのです。ウェルテルを自分の手もとにおくことはできない、そんなことは許されないことだ、と。ロッテの心は汚れなく美しく、いつもはあんなに快活で何事にもこだわることがないのに、いまは重苦しい憂鬱におさえつけられ、幸福へののぞみが断たれたと感じるばかりでした。胸はしめつけられ、瞳にはどんよりとした雲がかかりました。
このようにして六時を三十分も過ぎたころ、ロッテは階段をのぼってくるウェルテルの気配を感じました。ウェルテルの足音、自分のことをたずねている彼の声が、すぐに聞きわけられました。ロッテの胸は、どんなに激しく打ったことでしょう。ウェルテルが来た、というだけでこんなに胸さわぎがしたのは、これがはじめてだったといっていいでしょう。できれば、留守だといって断らせたかったのです。それで彼がはいってくると、ロッテは取り乱したはげしい調子で叫びました。「約束を守ってくださらなかったのですね」――「約束なんかした覚えはありません」というのが彼の返事だった。彼女は言い返しました。「それなら、せめて、わたくしのお願いを聞き入れて下さったってよかったではありませんか。おたがいに苦しまないですむようにと、あれほどお願いしておきましたのに」
ロッテは、自分で何を言っているのか、何をしているのか、じつはよくわからなかったのです。が、わからないままに、彼女はウェルテルとふたりっきりでいないですむようにと、二、三の女友達のところへ使いを出しました。ウェルテルは、持ってきた二、三冊の本を下において、女の友達が来るのかとたずねました。彼女は友達が来てくれることを願ったり、留守だったらいいが、と思ったりしました。女中が帰ってきて、おふたりともいらっしゃれません、と伝えました。ロッテは女中を隣の部屋にやって、何か仕事をしてもらおうと思いましたが、また考えなおしました。ウェルテルは部屋を行ったり来たりしてます。ロッテはピアノに向かい、メヌエットを引きはじめましたが、調子が出ませんでした。それから気を取りなおして、いつものように長椅子に腰かけているウェルテルのそばに、わざとゆっくり腰をおろしました。
「何か読んでいただけるもの、お持ちですの?」と、ロッテが言いました。ウェルテルは別に何も持っていませんでした。彼女はあらためて言いました。「あのわたくしの抽出(ひきだ)しに、あなたがお訳しになったオシアンの歌がいくつかはいっておりますわ。わたくしはまだ読んでおりませんの。いつか、あなたに朗読して聞かせていただきたいと思ったものですから。でも、いままでそんな折りもありませんでしたし、そんな折りをつくろうともいたしませんでしたわね」――ウェルテルは微笑してその訳詞を取りに立ち、それを手にしたとき、はげしく身ぶるいしました。原稿を見つめていると、ウェルテルの目に涙があふれました。ウェルテルは腰をおろして、朗読しはじめました。
たそがれゆく夜の星よ、美しく西空にきらめき雲間よりかがやく面(おもて)をもたげて、おごそかに丘を渡ってゆく。星は何をもとめて荒野を見つめるのか。荒れ狂う風はおさまった。遠くから小川のつぶやきが聞こえる。せせらぐ波がはるかの岩にたわむれ、夕べの羽虫は野にむらがりうなっている。美しい光よ、何を求めて見ているのか。だが、その光は微笑して移ってゆく。彼はうれしげに抱きよせ、愛らしい光の髪を洗う。さらば、静かな星の光よ。あらわれよ。オシアンのたましいの壮麗な光よ!
すると、その光は力づよくあらわれる。わが目には、亡き友らの姿が見える。彼らは、ありし日のままに、ローラの野(オシアンの父フィンガルの城があったゼルマ高地の荒野)に集(つど)う。――フィンガルが歩み出る。濡れた霧の柱さながらに、勇士たちがそのまわりを取り巻く。見よ、吟遊の詩人たち、白髪のウリーン! たくましいリーノ! 愛 ら し い歌人(うたびと)アルピーン! そしてやさしく嘆くミーノナ!――おお友らよ、ゼルマ城の宴(うたげ)の日よりこのかた、きみたちはなんと変わったことか。あの時、春風が丘を吹きわたり、かすかにささやく草をなびかせるよう、たがいに歌のほまれを競ったものであったのに。
そこへミーノナが美しい姿で歩み出た。まなざしを伏せ、瞳に涙をたたえ、髪は丘から吹きよせる定めない風に、重くゆらいだ。ミーノナがやさしい声で歌いあげると、勇士らの心はかきくもった。なぜなら、勇士らはしばしばザルガル(コルマの恋人)の墓を見、肌(はだ)白いコルマの暗い家を見たからだ。コルマは見捨てられて丘のうえにたたずみ、美しい声で嘆いた。ザルガルは来ると約束していたのに、あたりは夜の闇に閉ざされてしまった。聞け、丘のうえにひとり歌うコルマの声を。
コルマ
夜です!――でも、わたしはただひとり、嵐の丘で途方にくれています。風が山々にざわめき、川は岩を噛(か)んでほえています。嵐の丘に見捨てられたこのわたしを、雨から守る小屋とてありません。
おお、月よ、出ておくれ、雲間から! 夜の星たちよ、姿をあらわしておくれ! 一条(ひとすじ)の光でもよい。わたしを導いておくれ、わたしのいとしいひとが狩りの疲れをやすめ、弦(つる)をはずした弓をかたわらに置いて、猟犬がまわりで鼻をならしているあの場所に。でも、わたしはただひとり、この草ぶかい流れの岩のうえにすわっていなければなりません。流れと嵐はざわめいて、恋びとの声は聞こえません。
なぜ、わたしのザルガルはすぐに来てくれないのでしょう。約束を忘れたのかしら。あそこには岩と木、ここにはせせらぐ流れ! 夜になったら、ここに来て下さるというお約束でしたのに。ああ、どこへ、わたしのザルガルは迷いこんでしまったのかしら。わたしはあなたといっしょに逃げるつもりでした。誇り高い父も兄も捨てて! わたしの一族とあなたの一族はずっと敵であっても、わたしとあなたは敵ではありません。おお、ザルガル!
ああ、嵐よ、しばらく黙っていておくれ!ああ、流れよ、ちょっと静かにしておくれ!わたしの声が谷間にひびき、さまようあのひとの耳に聞こえるように。ザルガル! 呼んでいるのは、わたしですよ! 岩と木はここよ ! ザルガル ! わたしのいとしいひとよ! なぜ、あなたは来るのをためらっていらっしゃるの?
ごらん、月が出て川は谷間に輝き、岩の群れは灰色に丘高くそそり立っています。けれども、どの頂きでも、あのひとの姿は見えません。駆けてきてあのひとのお着きを告げる猟犬どもも見あたりません。わたしは、ひとりここにすわっていなければならないのです。おや、だれでしょう? あの麓(ふもと)の荒野で倒れているひとたちは。――もしや、わたしの恋びとではないかしら? それとも兄上かしら? 何かおっしゃって下さい! おお。わたしの親しいひとたち。ふたりの答えはない!なんという、この胸さわぎ!――ああ、ふたりは死んでいる。剣が戦(いくさ)の血で赤くそまっている。おお、兄上、兄上、なぜ、あなたはわたしのザルガルを殺したのですか? おお、わたしのザルガル、なぜ、あなたはわたしの兄を殺したのですか? あなたも兄も、ふたりとも、わたしにはとても大事なひとでしたのに! おお、あなたは、この丘のほとりに集う幾千ものひとのなかで美しい方でした。戦いに臨んでは、おそるべき勇者でした。答えて下さい! わたしの声を聞いて下さい!いとしいひとと、なつかしい兄上よ! けれども、ああ、ふたりとも黙っている! 永久に黙っている! ふたりとも、その胸は土のように冷たい!
おお、丘の岩から、嵐の峰から語りたまえ、死者たちの霊よ! 語りたまえ! わたしがおびえるはずはない。――どこかへ、あなたたちは安らぎを求めてゆかれたのでしょう?山なみのどこの祠(ほこら)に、あなた方をさがせばよいのでしょう?――嵐に耳をすましても、かすかな声さえ聞こえません。丘の嵐に耳をかたむけても、なんの答えも流れてきません。
悲しみに沈んで、わたしはここにすわり、涙ながらに朝を待っています。墓を掘ってあげて下さい。おお、亡きひとたちの友よ、けれど、閉ざさないで下さい、わたしが行くまでは。わたしの命は夢のように消えてゆきます。どうして、わたしひとり、おめおめと生きながらえることがありましょう! このざわめく岩の流れのほとりに、わたしは親しいひとたちといっしょに住みたいものです。――丘のうえが夜になり、風が荒野に吹きわたるころ、わたしの霊は風のなかにたたずみ、いとしいひとたちの死を悼(いた)むでしょう。猟人(かりうど)は小屋のなかで、わたしの声を聞いて、こわがりながらいとしんでくれるでしょう。わたしの声が、いとしいひとたちを求めて甘く美しくひびくので。ああ、ふたりとも、わたしにはほんとうに大事なひとでした。
これがおまえの歌だった。おお、ミーノナ、トルマンのやさしい頬を赤らめる娘よ。われらはコルマのために涙を流し、われらの心はかきくもった。
ウリーンが竪琴をたずさえて進み出て、われらにアルピーンの歌を聞かせてくれた。――かつてアルピーンの声はやさしく、リーノの心は炎の輝きのようだった。けれどもいま、ふたりともすでにせまい墓所に憩い、ゼルマの城にその声は消え失せた。かつて、このふたりの勇士が生きていたころ、ウリーンは狩りから帰ってきて、丘のうえでふたりの競(きそ)う歌を聞いた。その歌はやさしい、だが、悲しい歌だった。ふたりは、勇士のなかの勇士、モーラルの落命を悼(いた)んでいたのだ。モーラルの魂はフィンガル(オシアンの父)の魂をおもわせ、その剣はオスカル(オシアンの子)の剣のようであった。――だが、彼は討ち死にした。父は悲嘆にかきくれ、妹の目は涙にあふれた。雄々しいモーラルの妹ミーノナの目には涙があふれた。ウリーンの歌がはじまると、ミーノナは退いた。さながら、西空の月が風の訪れをさとってその美しい顔を雲のなかにかくすにも似て。――われ、オシアンは、ウリーンとともに嘆きの歌を竪琴でかなでた。
リーノ
風はなぎ、雨はすぎ、昼は明るく、雲は散る。さだめなき陽は、流れつつ丘を照らす。山あいの流れは赤くそまり、谷を走る。流れよ、おまえのつぶやきは、やさしい。けれど、わが耳にはさらにやさしく、やさしく聞こえる声。それはアルピーンの声。アルピーンは死者を悼む。年老いて首(うなじ)は垂れ、目は涙にあかい。アルピーンよ、すぐれた歌人(うたびと)よ! どうしておまえは物言わぬ丘にひとりたたずみ、なにゆえにおまえは嘆くのであろうか。梢(こずえ)ふく峰の嵐のように、はるかなる荒磯の波のように。
アルピーン
リーノよ、わが涙は死者を悼み、わが声は墓穴に住むものたちを嘆く。おまえの丈高い姿も、おまえの美しい顔も、丘のうえで、荒野の息子たちのあいだで、よく知 ら れ て いる! けれども、おまえもいつかはモーラルのように命を落とし、おまえの墓にすわってとむらうひとがあるだろう。丘という丘はおまえを忘れ、おまえの弓は弦を失って広間にかけられるのだろう。
おお、モーラルよ、丘の小鹿のようにはやく、空をこがす夜の火のように荒々しかった。おまえの怒りは嵐のようで、戦場のおまえの剣は、荒野をはしる稲妻のようだった。おまえの声は、雨のあとの森の激流か、はるかな丘にとどろく雷鳴のようだった。おまえの手にかかって多くのものが倒れ、おまえの怒りの炎は、彼らを焼きつくした。しかし、戦い終わって帰るとき、おまえの額の、なんとおだやかだったことか! おまえの顔は雷雨のあとの太陽か、静かな夜の月のようだった。おまえの胸は、暴風の凪(な)ぎやんだ湖のように静かだった。
いま、おまえの家はせまい! おまえの臥(ふし)床(ど)は暗い! おお、かつてあんなにも偉丈夫(いじょうふ)だったおまえなのに、おまえの墓は、わずかに三歩で測れるのだ! 墓のうえに苔むす四つの石だけが、おまえの記念(かたみ)、落ち葉した一本の木、風にそよぐ高い草が、猟人の目にたくましいモーラルの墓を示すにすぎぬ。おまえには泣いてくれる母もない、愛の涙を注いでくれる乙女もない。おまえを生んだひとは亡(な)く、おまえを慕うモルグラーンの娘も仆(たお)れた。
あの杖にすがったひとはだれであろうか。老いて髪白く、涙で目をあかくしたひとはだれであろうか ? おまえの父だ ! ああ 、モーラル! おまえのほかに息子のない、おまえの父だ! おまえの父は、おまえの戦いの功(いさお)を、追いはらわれた敵のことを聞いた。モーラルの誉(ほまれ)を聞いた。だが、ああ、息子が深傷(ふかで)を負ったことは聞かなかったのか? 泣け、モーラルの父よ、泣け! けれども、おまえの息子は、おまえの泣く声を聞かない。死者の眠りはふかく、その墓の枕は低い。叫んでも聞こえず、呼んでも目ざめない。ああ、いつの日か、墓のなかに朝が来て、まどろむものに目ざめよと、だれか告げるであろうか。
さらば! もっとも高貴なるもの、戦場の征服者よ! もはや、戦場はおまえを見ることなく、暗い森はおまえの剣の輝きに照らされることはない。おまえは息子を残さなかった。だが、歌はおまえの名をとどめ、のちの世のひとびとは、おまえのことを聞くであろう。戦って仆れたモーラルのことを。
並(な)み居(い)る勇士たちの悲しみの声は高かった。ひときわ高く聞こえるのは、アルミーンの胸も張り裂けるばかりにせきあげる声。アルミーンは若くして戦場に仆れた息子の死を思い出していた。音に聞こえたガルマンの領主カルモルが、勇士アルミーンのすぐかたわらにすわっていた 。「 アルミーンよ 、なにゆえ嗚咽(おえつ)にむせぶのか」と、カルモルが言った。どうして泣くことがあろうか。詩歌は心を融かし、楽しませるために歌われるのではないか。それは湖から立ちのぼり、谷にふりそそぐやわらかい霧のようなもの。霧がかれれば、咲く花々はあまねく露でうるおう。けれど、陽がふたたびつよく射せば、霧は晴れる。なにゆえおまえは、それほど嘆き悲しむのか?アルミーンよ、湖をめぐらすゴルマの支配者よ」
「嘆き悲しむといわれるのか! たしかに、わしは悲嘆にくれている。が、それは、けっしてかりそめのものではない。――カルモルよ、あなたは、まだ息子を失ったことはない。花のさかりの娘を失ったこともない。雄々しい息子コルガルはすこやかで、だれよりも美しい娘アンニラも生きておられる。おお、カルモルよ、あなたの一族の枝葉は茂っている。ところがこのアルミーンは、この幹の最後のものだ。おお、わが娘ダウラよ、おまえの臥床は暗く、墓のなかで、おまえは深く眠っている。――いつの日、おまえはおまえの歌とともに、おまえの調べよい声とともに目ざめるのか? 吹け、秋風よ、吹け! 暗い荒野を吹き荒れよ! 森の激流よ、どよめけ! ほえよ、嵐よ、樫(かし)の梢に! おお、月よ、ちぎれ雲のなかを渡って、見えかくれにおまえの青い顔を見せよ! わが子らが死んだあの恐ろしい夜を、わたしに思い起こさせよ。勇ましいアリンダルが仆れ、やさしいダウラが生き絶えたあの夜を。
わが娘ダウラよ、おまえは美しかった! フラの丘にのぼる月のように美しく、降る雪のように白く、そよ吹く風のように甘かった! わが息子アリンダルよ、おまえの弓は強く、槍(やり)は戦場ではやく、まなざしは波のうえの霧のごとく、楯は嵐のなかの火の雲にも似ていた!
戦いで名をあげたアルマルがやってきた。そして、ダウラの愛を求めた。娘は拒みつづけることはできなかった。ふたりの未来を思う友人たちの願いは美しかった。
けれども、オトガルの息子エーラトは、うらみを抱いていた。弟がアルマルのために討たれたからだ。エーラトは舟夫(かこ)に身をやつしてやってきた。その小舟は波間に美しかった。齢(よわい)のためにエーラトの捲き毛は白く、思いつめたその顔は静かであった。『世にも美しい乙女よ』と、エーラトは言った。『アルミーンの愛らしい娘よ、ほど遠からぬ海のうえ、あの岩のほとりのあかい木の実の見えるところに、アルマルがおまえを待っている。わたしはさかまく波をこえ、アルマルの恋びとを案内するためにやってきたのだ』
ダウラはエーラトについてゆき、アルマルの名を呼んだ。答えるものとては、むらがる岩の声ばかり。『アルマル、わたしのいとしいひとよ! なぜ、こんなにわたしを心配させるのですか? 聞こえませんか。アルナルトの息子よ、聞いて下さい。ダウラがここにいてあなたを呼んでいるのです!』
いつわりの言葉を吐いたエーラトは、笑いながら陸へ逃げかえった。ダウラは声をはりあげて、父を呼び、兄を呼んだ。『アリンダル! アルミーン! ダウラを救ってくれるものはいないのですか?』
その声は海を越えてひびいてきた。わが息子アリンダルは丘を駆けおりた。狩りの獲物に気負いたち、矢はその腰に音を立てた。手に弓を握りしめ、五匹の黒い猟犬をまわりに従えて。不敵なエーラトを岸に見つけ、捕えて樫の木にしばり、その腰を堅く巻いた。捕えられた男のうめき声は風をうならせた。
アリンダルはダウラを連れ戻そうと、小舟をあやつって波のうえにこぎ出た。アルマルは憤りに燃えて駆けつけ、灰色の羽をつけた矢を放った。矢はうなって、おお、アリンダル、わが息子よ。おまえの心臓に突きささった。倒れたのはいつわり者のエーラトではなく、おまえであった。小舟は岩にただよい着き、アリンダルはくずおれて死んだ。おお、ダウラよ、おまえの足もとに兄の血は流れた。おまえの嘆きはいかばかりだったろう!
波が小舟を打ち砕いた。アルマルは海に飛びこんだ。ダウラを救うためか、みずから死ぬためか。そのとき、突風が丘から波に吹きよせた。アルマルは沈んだ.そして二度と浮きあがらなかった。
波に洗われた岩のうえに、ただひとり立って、わしはわが娘の嘆きの声を聞いた。その悲しい叫びは絶えまなく激しかったが、娘を救うことは父のわしにもできない。夜もすがらわしは岸辺に立って、かすかな月の光のなかに娘を見ていた。夜どおし、わしは娘の泣き声を聞いた。風の音はつよく、雨は山肌をはげしく打った。夜の白むまえに娘の声は弱まり、娘の息は絶えた。岩間の草を吹く夕べの風のように。悲しみに絶えられず、娘は死んだのだ。このアルミーンをひとり残して!戦さに強いわが力も失せた。乙女たちにたたえられたわが誇りは地に落ちた。
山の嵐が吹きよせるとき、北風に波が打ちあげるとき、わしはどよめく海辺にすわって、あの恐ろしい岩を眺めやる。いくたびかわしは、沈みゆく月明りにわが子らの霊を見たことであろうか。子どもらは悲しく仲むつまじく、おぼろげな姿でさすらっている」
*
ロッテの目から涙がどっと流れて、あふれるばかりの胸の切なさをいくらかやわらげました。ウェルテルの歌の朗読は、中断させられました。彼は訳稿を投げ出すと、ロッテの手を握ってはげしく泣きました。ふたりは、この気高いひとたちの運命のなかに、自分たち自身の不幸を感じたのです。ふたりは共感し、涙をともにしたのでした。ウェルテルの唇と目は、ロッテの腕のなかに燃えました。戦慄がロッテをおそいました。ロッテはからだを引きはなそうとしたのですが、苦痛と同情が鉛のようにのしかかって、全身がしびれたようでした。彼女は気をとりなおすためにほっと息をついて、しゃくりあげながら先を読んでほしいとたのみました。その切ない声は、この世のものとも思えないほどのものでした! ウェルテルの身はふるえ、胸はいまにも張り裂けんばかりでしたが、訳稿を手にとって声もたえだえに読みつづけました。
なぜわたしを目ざますのか、春のそよ風よ。おまえはたわむれながら、こう語る。「わたしは天上のしずくでうるおす」と。だが、わたしの凋落(ちょうらく)のときは近い。わが木の葉を吹き散らす嵐はせまる! あしたになれば旅びとは来るであろう。はなやかなりし日のわたしを知っている旅びとは来るだろう。野辺のあたりにわたしをたずねても、しかし、わたしを見いだせないであろう。
この言葉のはげしい力が不幸なウェルテルの心を圧倒しました。彼は絶望に打ちのめされて、ロッテのまえに身を投げ出し、両手をつかんで自分の目や額に押しあてました。そのときロッテには、ウェルテルの恐ろしい計画に対する予感が自分の胸をかすめたように思われました。彼女の感覚は混乱しました。ロッテはウェルテルの両手を握りしめ、自分の胸に押しつけ、苦しそうな身ぶりで彼のほうに身をかがめました。ふたりのもえるような頬はふれ合いました。世界は消え失せました。ウェルテルはロッテのからだに自分の腕をまわし、ひしと胸に抱きしめました。そして、ふるえながら口ごもっているロッテの唇を、物狂おしい接吻でおおいました。「ウェルテル!」と、彼女は顔をそむけながら、息づまるような声で叫びました 。「 ウェルテル!」そして力ない手でウェルテルの胸を自分の胸から押しのけました。それからロッテは落ちついた調子で、ほんとうに気高い感情をこめて、「ウェルテル!」と叫びました。ウェルテルはさからわず、ロッテを腕からはなし、正気を失ったように彼女のまえに身を伏せました。ロッテはふり切るように立ちあがり、気もそぞろに打ち乱れ、愛と怒りに身をふるわせながら、「これが最後です! ウェルテル! もう二度とお目にかかりません」と、言ったのです。こう言うと、ロッテは不幸な男に愛情のこもったまなざしをなげて隣室にかけ入り、ドアをしめました。ウェルテルは彼女のほうに両腕をさしのべましたが、もう引きとめようとはしませんでした。彼は長椅子(いす)に頭をもたせかけたまま、床に身を横たえ、そのまま半時間以上も動きませんでした。やがて物音で我に返りました。女中が食事の用意をしにきたのでした。ウェルテルは部屋のなかを行ったり来たりしてましたが、女中がいなくなると、隣りの小部屋のドアのところへ歩みよって、小声で声をかけました。「ロッテ! ロッテ! せめてもう一言だけ、さようなら、と!」ロッテは返事をしませんでした。彼は待ちました。それから哀願しました。待ちました。ついに身をふり切るようにしてドアを離れ、「さようなら、ロッテ! 永久にさようなら!」と叫びました。
ウェルテルは、歩いて町の城門のところへ来ました。もう彼のことになれきっていた番人は、黙って門から出してくれました。みぞれが降っていました。ようやく十一時ごろ、ウェルテルはふたたび城門をたたきました。ウェルテルが帰宅したとき、従僕は主人の頭に帽子がないのに気がつきました。けれども、こちらからものを言いかけることもはばかられ、そのまま主人の服を脱がせたのでした。何もかもびしょぬれです。あとになってからその帽子は、谷を見おろす丘の崖の岩のうえで見つかりました。あんな暗い雨降りの夜に、どうして落ちもせず、あんな岩までよじ登れたのか、不可解なことです。
ウェルテルは、ベットに横になって長いあいだ眠りました。あくる朝、従僕が呼ばれてコーヒーを持って行ったとき、主人は書きものをしていました。ウェルテルは、ロッテにあてた手紙の次の箇所を書いていたのです。
《いよいよ最後です。ぼくがこうして目をあけるのも、これが最後です。この目はもう二度と太陽を見ないでしょう。どんよりと靄がたれこめて、太陽もかくれています。では、自然よ!悲しんでおくれ、おまえの息子、おまえの友、おまえの愛するものが、最後のときに近づきつつあるのだ。ロッテよ、これが最後の朝だと自分に言い聞かせるのはなんとも言えない気持ちです。けれど、うつらうつら夢見ている気持ちにいちばん近いでしょう。この、最後! と、いう言葉が、ぼくにはよくわからないのです。ロッテよ、この、最後、が。ぼくはいま、力いっぱいにこうしてここに立っているのではありませんか。それなのに、あしたはだらりと手足をのばして床(ゆか)に横たわる。死ぬ! これはどういうことでしょう、ぼくらが死について語るのは、夢でも見ているようなことではないのでしょうか。ぼくは、いままでに人が死ぬのを見たことは何度かあります。しかし、人間の能力なんてきわめて限られていて、自分の生存のはじめと終わりについては、何もわかっていないのです。この存在は、まだぼくのものです! いや、あなたのものです! おお、愛するロッテよ! あなたのものだ! それが一瞬のうちには――別れて離れてしまう。――おそらく永遠に? そんなことがあるものか。ロッテ、ぜったいにあるものか。ぼくが滅びることが、どうしてあるでしょう? あなたが滅びることが、どうしてあるでしょう? たしかにぼくたちは存在しているのだ。――滅びるなんて――これはどういうことなのか。これはただの言葉にすぎません! 空虚なひびきにすぎません! ぼくの胸にはなんの実感もあたえないのだ。――死んで、ロッテよ! 冷たい土に埋められる。あんなにせまく、あんなに暗く! ぼくには、かつてひとりの女の友達がありました。まだ、ぼくがたよりない少年だったころ、ぼくのいっさいであったといえるひとでした。このひとが死んで、遺骸についてぼくは墓地まで行きました。棺がおろされ、縄がするするとその下から引き抜かれ、たぐりあげられ、それから、最後のシャベルが土塊(つちくれ)をほうり込み、さびしげな棺のふたがにぶい音を立て、その音はだんだんにぶくなって、とうとう土に埋められてしまいました! ぼくは墓のそばに倒れてしまいました。ぼくの心は奥底から感動し、ゆさぶられ、おびやかされ、引き裂かれたのです。でも、自分がどうなったのか――どうなるのか――ぼくにはわかりませんでした。死ぬ! 墓! ぼくにはこうした言葉が理解できないのです!
どうかお許し下さい! お許し下さい! きのうのことは。ああ、ぼくの生涯の瞬間にするつもりでしたのに。おお、天使よ、はじめて、はじめて、「このひとがぼくを愛している! ぼくを愛している!」といううれしい感情が、なんの疑いもなしに、ぼくの深い内心を貫いて燃えあがりました。いまなお、ぼくの唇に燃えています。あなたの唇から流れ出した神聖な炎が、あたらしい熱い喜びが、ぼくの胸に宿っています。お許し下さい! お許し下さい!
ああ、ぼくは知っていました。あなたが愛していて下さることを。心のこもった最初のまなざし、最初の握手で、ぼくはそれを知りました。でも、ぼくがあなたから離れたり、あなたのそばにアルベルトがいるのを見たりすると、ぼくはまた、熱病のような疑惑にとらわれて、ひるんでしまうのでした。
あなたは覚えていらっしゃるでしょうか。いつか、いまいましいパーティーで、あなたがぼくに言葉をかけることも、手を差しのべることもできなかったとき、ぼくに下さった花のことを。ああ、ぼくはあの花のまえで夜なかまでひざまずいていました。あの花こそ、あなたの愛を証(あか)すものでした。それにしても、その印象も、ああ、消えてしまいました。ちょうど、神聖な目に見えるしるしで、いともおごそかに豊かに授けられる神の恩寵の実感も、時がたつにつれて信者の心からうすれていくのと同じように。
こうしたことは、しょせん、消えていきます。しかし、ぼくがきのう、あなたの唇に味わった、そして、いまぼくの心に感じている、あの燃えるいのちは、どんな永遠も消し去ることはできないでしょう。ロッテがぼくを愛している! この腕があのひとを抱擁し、この唇があのひとの唇のうえでふるえ、この口があなたの口もとで口ごもったのだ。ロッテはぼくのものだ! そうだ、ロッテ、永遠に。
アルベルトがあなたの夫だなんていうことが、いったいなんでしょう? 夫! こんなものはこの世だけのことではありませんか。――そして、この世のこととしては、ぼくがあなたを愛していることも、あなたをアルベルトの腕からぼくの腕にもぎとろうとしたことも、罪悪かもしれません。罪悪? よろしい、ぼくはそのため自分を罰します。ぼくはこの罪を、この罪が与えるありったけの天上の歓びで味わったのです。生命の香油と力を、ぼくの心に吸いこみました。その瞬間からあなたはぼくのものになったのです! ぼくのものになったのです! おお、ロッテよ! ぼくは先に行きます! ぼくの父であり、あなたの父でもある方のところへ参ります。その方に、ぼくは訴えましょう。父なる神は、あなたが来るまでぼくを慰めて下さるでしょう。あなたが来たら、ぼくは飛んで迎えにいき、あなたを抱いて、無限の神のおん前で、永遠の抱擁のうちに、いつまであなたのそばにいるでしょう。
ぼくは夢を見ているのではない、妄想しているのでもない! 墓に近づくにつれて、ぼくの心は、いよいよ明るくなっているのです。ぼくたちはずっと存在し、ふたたびまた出会うでしょう! あなたのお母さんにも会うでしょう!お母さんにお会いします。きっと見つかるでしょう! ああ、ぼくはあなたのお母さんのまえで、ぼくの心のありったけをぶちまけます! あなたのお母さんは、あなたの似姿ですから》
十一時ごろ、ウェルテルは従僕に、もうアルベルトは帰ってきたかとたずねました。従僕は、「はい、馬をひいていらっしゃるところを見ましたから」と、答えました。するとウェルテルは、次のような内容の、むき出しの紙片を従僕に渡しました。
《旅行に出たいと思うので、恐縮ですが、あなたのピストルを拝借願えませんか。どうぞ、ごきげんよう》
ところで、ロッテのほうは、ゆうべはほとんど眠りませんでした。かねてから恐れていたことが起こってしまったのです。それも、自分が思いもかけず、気にもしていなかったようななりゆきで起こったのです。ふだんは清らかにかろやかに流れる血が、熱病にでもかかったように、煮えくりかえりました。千々に乱れる思いが、ロッテのやさしい心をゆり動かしました。ロッテが胸に感じていたのは、ウェルテルの抱擁の火だったのでしょうか 。それとも 、彼の不埒(ふらち)なふるまいに対する怒りだったでしょうか。あるいは、以前の、なんのくったくもなくのびやかに無邪気に自分を安心し、信頼していたころと、いまの状態をくらべてみて、そこから出た不快だったでしょうか。自分は夫をどんなふうに迎えたものかしら、あの場面をどんなふうに告白したものかしら、打ち明けたところでやましいことは少しもないとはいえ、いざ打ち明けるとなるとそれだけの勇気はロッテにはないのでした。ふたりはこれまでお互いに、ずっとウェルテルのことにはふれないできていたのです。それなのに、ロッテのほうからまっ先に沈黙をやぶり、おまけにこんな具合の悪いときに、思いもよらないようなことを打ち明けるべきでしょうか。夫はウェルテルがたずねてきたと知らせるだけでも感じを悪くするのではないかと気になるのに、ましてや、このような予期しない破局までも! 夫がそれをすなおに正しく見てくれ、他意なく受け取ってくれるなどということが望めるだろうか? 自分の心のなかを読んでほしいなどと願えるだろうか? とはいうものの、夫にたいして自分をいつわることができるだろうか? これまで、夫にたいして、自分は澄んだ透明なガラスのように、いつもあからさまになんのこだわりもない態度をとってきたのだし、心に思ったことをいままで何ひとつ夫にかくしたこともなければ、かくすこともできなかったではないか。あれを思い、これも思うと、ただ、ロッテは心配し、困惑するばかりでした。そして、考えはいつもウェルテルに帰りつくのでした。ウェルテルは自分の手から失われてしまったけれど、手放すことのできないひとだ。もう、いまは残念ながらあのひと自身にまかせるほかはないけれど、ああ、あのひとは自分を失ってしまえば、何も残らなくなってしまうのだ。
はっきり自覚したわけではありませんでしたが、夫婦のあいだで根をおろしていたわだかまりが、このときほどロッテを苦しめたことはなかったでしょう! こんなにものわかりのいい、こんなに善意のある夫婦が、何か目に見えない食い違いからおたがいに口をきかなくなりはじめ、双方とも自分が正しくて相手がまちがっていると思いこんでいたのです。事態はいっそうこんがらがって輪に輪をかけたかたちとなり、いまは、なんとかしなければならないという危機の瞬間になっても、その結び目がとけなくなっていたのでした。もし、かりにもっと早く、何かのきっかけで運よく夫婦の仲が元通りに融け合い、愛といたわりの気持ちがふたりのあいだに働いて心を打ち明けるようになっていたならば、おそらくわが友ウェルテルを救う道はまだあったかもしれません。
そのうえ、もうひとつ特別な事情が加わったのです。ウェルテルはその手紙から察せられるように、この世を去ろうという気持ちを少しも秘密にしていませんでした。そのことで、アルベルトはウェルテルとよく口論しましたし、ロッテとアルベルトのあいだでも何度かそのことが話題になりました。アルベルトは自殺行為には徹底的な反感を抱いていましたから、ふだんの気性にはまったく見られない一種の痛烈さをこめて、「ほんとうに自殺したいなどとまじめに考えているかどうか、はなはだ疑わしい」と、いつも主張していました。それどころか、ときには茶化して、そんなこと本気にしてたまるものか、などとロッテに告げていたのでした。とかく悲しい場面を想像しがちなロッテには、これは一面、気休めにはなりましたが、他面では、いま自分を苦しめている心配ごとを、そんな夫に打ち明けることがいよいよしにくくなるように思われるのでした。
アルベルトが帰宅しました。ロッテはどぎまぎしながら出迎えました。アルベルトは機嫌がよくありませんでした。仕事はかたづきませんでしたし、近在の法官というのが頑迷で料簡のせまい男だったとわかったうえに、途中の道の悪さも不愉快にさせられたのでした。
アルベルトは、何か変わったことがないかとたずねました。ロッテはあわてて答えました。「ゆうべウェルテルがたずねてきました」アルベルトは手紙が来ていないかとたずねると、手紙が一通と小包が書斎に置いてあるとロッテは答えました。夫がそちらに行ってしまい、ロッテはひとり残されました。愛し尊敬する夫がいまいてくれるということで、彼女の気持ちはいくぶん改まりました。そして、夫の高潔さと愛と善意を考えると、ロッテの気持ちはさらにやすまり、なんとなく夫のそばに行きたい気になりました。それで、いつもよくするように、手仕事をもって夫の部屋にはいっていきました。夫は、そこで小包を解いたり、手紙を読んだりしていました。そのなかに若干おもしろくない内容が書かれてあるようでした。彼女が二言三言たずねてみると、アルベルトは手短に返事をして、それから机に向かい、書き物をしはじめました。
このようにして、ふたりは一時間ばかりいっしょにおりました。ロッテの気分はだんだん暗くなってきました。たとえ夫の機嫌がとてもよいときでも、いざ自分の胸にあることを打ち明けるなんて、それがどんなにむずかしいか、しみじみと感じたのです。彼女は、憂鬱な気分におちいりました。そんな気分をかくし、涙を見せまいとすればするほど、いっそうその憂鬱は堪えられないものになっていったのです。
ウェルテルからの使いの従僕があらわれたとき、ロッテはひどく狼狽(ろうばい)しました。従僕はアルベルトに紙片を渡しました。アルベルトは事もなげに妻のほうをむいて「ピストルを渡してあげなさい」と言い、そして従僕には、「お元気で旅立たれることを祈っている、と、お伝え下さい」と、言いました。――この言葉は落雷のようにロッテを打ちました。彼女はよろめいて立ちあがり、自分がどうしているのか自分にもわかりませんでした。のろのろと壁のほうへ行って、ふるえる手でピストルをおろし塵を払いましたが、そのままぐずぐずしておりました。もし、アルベルトがいぶかるような目つきでうながさなかったならば、まだそのままでいたことでしょう。ロッテは不吉な武器を従僕に渡しました。ひと言も口がきけませんでした。従僕が帰ると、ロッテは手仕事をかたづけて、言いあらわしようのない不安な心持ちで自分の部屋にさがりました。胸には恐ろしい出来事のいっさいが予感されました。そして、いっそのこと夫の足もとに身を投げかけて、何もかも洗いざらいゆうべの出来事から自分の罪や自分がいま予感していることまで打ち明けてしまおうかと思いました。とはいえ、そんなことをして、どういう結果になるか見当もつかなかったのです。ましてや夫を説き伏せてウェルテルのところへ行ってもらえそうな見込みなど、まったくありませんでした。やがて食事の用意ができました。折よく、ひとのいい知り合いの婦人がちょっとしたずねごとにやってきて、すぐ帰りそうになりそうでしたが、そのまま残っていてくれましたので、食卓の会話がどうやら救われたかたちでした。やっとの思いでいろんな話をして、気をまぎらすことができました。
従僕はピストルを持ってウェルテルのところへ戻ってきました。ウェルテルはロッテが渡してくれたのだと聞いて、狂喜してピストルを受け取りました。パンとぶどう酒を持って来させると、従僕を食事に立たせ、ウェルテルは腰をおろして書きつづけました。
《このピストルは、あなたの手を通ってきたものです。あなたが塵を払って下さったのですね。ぼくはくり返しくり返し、このピストルに接吻しました。あなたの手がさわったものですから。天の霊よ、あなたはぼくの決心を嘉(よみ)して下さいます! それにロッテよ、あなたは、ぼくに武器を渡してくれました。ぼくは、あなたの手から死を受け取りたいと願っていました。そして、いま受け取ったのです。ぼくは使いのものに根掘り葉掘りたずねました。ピストルをお渡し下さるとき、あなたはぶるぶるふるえていたそうですね。でも、さようなら、と言って下さらなかった! ――まったく悲しい! さようならがないなんて!――あの瞬間にぼくはあなたに永遠に結びついたのに、まさかあなたは、ぼくにたいして心を閉ざしてしまわれたのではないでしょうね!
ロッテ、千年の長い月日も、あの印象は消し去ることはできません!――しかも、ぼくは感じます。あなたのために、これほど心を燃やしている男を、あなたは憎むはずがない》
食後、ウェルテルは従僕に荷物をすっかりまとめるように言いつけ、いろんな書類を破いて棄て、外出して、まだ残っているわずかな借金をかたづけました。それから、いったん帰宅して、外出し、雨が降っていたのに城門のそとの伯爵の庭園へ出かけ、さらにそのあたりをうろついて、夜になるころ帰ってきました。そして、ふたたびペンをとりました。
《ウィルヘルム、これが見納めと、ぼくは今、野原や森や空を見てきたよ。きみもお元気で!お母さん、お許し下さい! ウィルヘルム、どうか、母を慰めてやってくれたまえ。神が君たちを祝福したまうように! ぼくのものはすっかりかたづいた。ごきげんよう! ぼくたちはまた会おう、もっと楽しい気持ちで》
《アルベルト、あなたにはすまないことをした。けれど許して下さい。ぼくはあなたの家庭の平和を乱し、あなたたちのなかに不信を持ちこんでしまった。ごきげんよう! もう、それもおしまいです。ああ、ぼくが死んで、あなたがたが、幸福になられるように祈ります! アルベルト! アルベルト! どうか、天使をしあわせにしてやって下さい! そして、あなたのうえに、神の祝福がありますように!》
ウェルテルは、その夜もなおしきりに書類をかきまわし、たくさんのものを引き裂いて、暖炉のなかへ投げ入れ、二、三の包みはウィルヘルムの名あてにして封をしました。なかにはいっていたのは、短い論文や断片的な感想といったもので、編者もそのいくつかを見ることができました。ウェルテルは十時に暖炉に火をつぎたさせ、ぶどう酒を一本持ってこさせてから、従僕を寝かせました。従僕の寝室は、家人の部屋と同じようにずっと裏のほうにありました。従僕は朝早く間に合うように、服のまま横になりました。というのは、主人が、六時まえに駅馬車が家のまえに来ると言っていたからでした。
十一時すぎ
あたりは静まりかえっています。ぼくの心も、とても平静です。神よ、感謝します。この最後の瞬間に、これほどの熱と力をおあたえ下さったことを。
ぼくは窓ぎわへ行く、最愛のロッテよ! 空を見上げる。すると、飛ぶように流れていく嵐の雲のあいだを、永遠の天空のいくつかの星が見える。そうだ、この星たちは落ちることはない! 永遠の神がおまえたちを抱くのだ。そしてこのぼくをも。あらゆる星座のなかでぼくのいちばん好きな大熊座の北斗七星が見える。夜、よく、あなたのもとを去って、あなたの家の門から足を踏み出したとき、いつもこの星座がぼくの真向かいに輝いていました。ぼくがどんなにうっとりして、しばしばこれを見つめ、両手をあげて、あの星をぼくの現在の幸福のしるし、神聖な目じるしの石とあがめたことでしょう!そして、いまもなお―― おお、ロッテ、どんなものだって、あなたの思い出につながらないものはありません! あなたがぼくのまわりにいないなんてことはないのです! ぼくは、神聖なあなたが触れたものならば、どんな小さなものでもまるで子どものようになんでもかんでもかき集めてきたではありませんか!
なつかしい影絵(シルエット)! これは形見としてあなたに残します。ロッテ、どうか大事にして下さい。ぼくは外に出るときも、家に帰ったときも、いつも何千回となくくちづけをし、何千回となく挨拶の目くばせを送ってきたのです。
ぼくの亡骸(なきがら)の後始末については、父上に一筆したためて頼んでおきました。墓地に菩提樹の木が二本立ってますね。奥のほうの片隅の畑に面したところです。あそこにぼくは眠りたいと願っています。父上は友人のためにそうすることがおできになるし、そうなさって下さるでしょう。あなたからも頼んでみて下さい。ぼくは信心深いキリスト教徒たちに頼んで、彼らの亡骸をこのあわれな不幸な男のそばに葬ってほしいなどと、いまさら言うつもりはありません。ああ、ぼくはあなた方の手で道ばたか、さびしい谷間にぼくの遺骸を埋めていただき、司祭やレビ人(聖書「ルカによる福音書」第一〇章第三十節―第三十四節)が、自分のことでなくて幸いとばかりに、墓石のまえを素通りしても、サマリア人(同情心に富んだ親切な人)が一滴の涙を注いでくれさえしたら、それでいいと思ってるくらいですから。
さあ、ロッテ! ぼくはびくびくせず、冷たいおそろしい杯を手にとり、死の陶酔を飲みほすのだ。これは、あなたが手渡してくれたものだから、ぼくはたじろぎません。すべてが、すべてが! ぼくの生涯のすべての願いや望みが、これで満たされます! 死の青銅の門をたたくのに、こんなにも冷静で、こんなにも不屈なのです!
ああ、ほんとうにあなたのために死ぬという幸福に、ぼくがあずかることができたら! ロッテ、あなたのために身をささげることができたら! あなたの生活のやすらぎとよろこびをあなたに返してあげられるなら、ぼくは喜んで、いさぎよく死にたいのです。しかし、ああ、昔から、親しいものたちのために自分の血を流し、死ぬことによって、自分の親しいひとたちの命の炎を百倍にもかき立てられるなどということは、ただごくわずかな気高いひとたちにしか許されませんでした。
ロッテ、この服のままで、ぼくは葬ってもらいたいと思います。あなたがこの服に触れ、きよめてくれたのだから。そのことも父上にはお願いしておきました。ぼくの魂は、すでに棺の上にただよっています。ポケットのなかのものはさがさないで下さい。このピンクのリボンは、あなたが胸につけていたものだ。ぼくがはじめて子どもたちのなかにいるあなたを 見 た と きに!――おお、子どもたちには数限りない接吻をしてやって下さい。そして、不幸な友の身の上を 話してやって下さい 。かわいい子どもたち! みんな、ぼくのまわりにむらがってくる。ああ、どんなにぼくは、あなたに結びついていたことか。あの最初の瞬間からあなたを離すことはできなかった! ―― このリボンをぼくといっしょに葬って下さい。ぼくの誕生日にあなたが贈ってくれたものです! こうしたすべてのものを、ぼくはどんなにむさぼるように愛したことでしょう! ああ、あのときには、こうなろうとは思いもかけなかったのに! ―― おどろかないで下さい! では、ロッテ! ロッテ、さようなら! さようなら!
*
隣りのひとが火薬の閃光(せんこう)を見、そして銃声を聞きました。けれども、それっきり静かになったので、それ以上気にしませんでした。
あくる朝、六時、従僕があかりを持って部屋にはいっていくと、主人が床に倒れていました。かたわらにピストルがあり、血が流れていました。大声で呼んでからだをつかみましたが、答えはなく、わずかに喉がごろごろ鳴っているだけでした。従僕は医者のところへ走りました。それからアルベルトのところへ駆けつけました。ロッテは呼鈴の音を聞きました。全身に戦慄がはしりました。夫を起こし、ふたりはベッドを出ました。従僕はわめくようにどもりながら、事を告げました。ロッテは気を失い、アルベルトのまえに倒れました。
医者がやってきたとき、不幸なウェルテルは床に倒れたまま、手のほどこしようもありませんでした。まだ、脈は打っていましたけれど、手足はすっかり麻痺(まひ)していました。ウェルテルは、右の目のうえから頭を撃ち抜いたのでした。脳漿(のうしょう)が流れ出ていました。医者はもう無駄と知りながら、腕の血管をひらきました。血が流れました。ウェルテルは、まだ息をしていました。
肱掛椅子(ひじかけいす)の背に血がついていたことから推して、机に向かってすわったまま自殺を決行したもののようで、それから、下へずり落ち、身もだえながら椅子のまわりをころがったようです。ウェルテルは、窓のほうにぐったりあお向けに倒れていました。きちんとした服装で、長靴をはいていました。青い燕尾服に黄色いチョッキでした。
家のものや隣近所はもちろん、町中が大騒ぎになりました。アルベルトが部屋へはいってきました。もうウェルテルは、ベッドに寝かされておりました。額には繃帯(ほうたい)がしてありました。顔はすでに死人の顔となり、手も足もまったく動きませんでした。肺だけが、まだおそろしく、ときには弱く、ときに強く、ごろごろ鳴っていました。もうすぐ臨終と思われました。
ぶどう酒は、グラスに一杯しか飲んでいませんでした。『エミーリア・ガロッティ』(十八世紀ドイツの作家レッシングの代表的悲劇)が、机のうえにひらいたままになっていました。
アルベルトの狼狽ぶりやロッテの悲嘆については、何も語らないでおきましょう。
老法官は、知らせを聞くなり馬で駆けつけました。瀕死のウェルテルにあつい涙を流し、接吻をしました。そのあとから間もなく、上の息子たちがやってきました。おさえようもない悲しみを顔にあらわして、ベッドのそばにうずくまり、ウェルテルの手に接吻しました。ウェルテルがいちばんかわいがっていた長男は、ウェルテルが息を引きとり、周囲のひとびとに無理に引きはなされるまで、唇にしがみついて離れようとしませんでした。正十二時にウェルテルは死にました。法官がいて手配してくれたおかげで、たいした騒ぎにならずにすみました。夜の十一時ごろ、法官は、ウェルテルが自分でえらんだ場所に遺骸を葬らせました。老法官と男の子たちが遺骸について行きました。アルベルトはいっしょに行けませんでした。ロッテの生命が気づかわれたからです。棺は職人たちがかついで行きました。僧侶は、ひとりも同行しませんでした。 (完)
人と文学
[かぎりなき前進]
「人間は人間を無限に越えていく」というパスカルの言葉がある。この言葉の真実をだれよりもみごとに実証したのがゲーテである、と現代ドイツの有数の詩人ベッヒャーは話っている。その意味は、個人としてのゲーテが、生活と仕事のなかで絶えず自己を乗りこえて発展し、それとともに、かぎりなく人間的内容を拡大し深化していった、というのであるが、同時に、その全業績によって人間ゲーテは過去のあらゆるドイツ人を無限に乗りこえてしまっている、ということをいっている。
こうしたゲーテ観は、最新の解釈とはいえ、けっして新しいものではない。別の言い方で、同じ内容がすでにくりかえし語られているからである。だが、それは、おそらく不変の真理のように、ゲーテについて次々にいろいろ違った表現で、これからもひきつづき語られるにちがいない。
[愛の出発]
ゲーテは、一七四九年八月二十八日、マイン河畔のフランクフルト市で生まれた。よく指摘されるように、ゲーテの素質のなかには両親から相反するさまざまの要素が植えつけられていた。北ドイツの職人階級から出た父方の頑固で厳格な悟性と、南ドイツの学者の家柄から出た母方のやさしい感性、それが統一をもとめてゲーテの内部で発展した。宮中顧問官の称号をもつ裕福な上流家庭の恵まれた環境に育ったゲーテは、幼いときから芸術や語学に親しみ、天才の輝きを示していた。一七五五年、リスボンに大地震があったが、この被害の報を知って、六才のゲーテは、はやくも神の恩寵に疑いをさしはさむような子どもであった。形式をもっぱら尊ぶ既存の教会的宗教には満足できず、革新的な現実の精神を求める傾向はだんだん強くなった。ゲーテは、自伝「詩と真実」のなかで、一七六四年フランクフルトで挙げられたヨーゼフ二世の戴冠式の祝典を語ったさい、ある少女にたいする初恋の物語を織り込んでいる。それは「ファウスト」のヒロインと同じ名前のグレートヒェンであるが、彼女はゲーテを十四歳の子どもとしか見なかったらしく、この愛は発展しなかった。それにしてもゲーテは、グレートヒェンをはじめとして、その後、生涯にわたってさまざまな恋愛体験をした。
ゲーテの文学は、ある意味では女性との複雑な交渉のなかから生まれたともいえる。そしてそのたびごとに、ゲーテは大きな犠牲と大きな収穫を得た。彼は、女性を異性として、と同時に永遠の母なるものとして、精神と肉体とを通して自己に同化したのであった。
[文学の新生]
一七六五年、ゲーテは父の希望にもとづき、法律を修めるためにライプツィヒ大学に学んだ。小パリとよばれたこの都会は、ゲーテの近代的感覚をいやが上にもやしなう場となった。やがて、ケートヒェンという少女を愛し、詩を書いたり劇を書いたりしたが、まだロココ趣味を脱しないものであった。一七六八年、病気になって帰郷し、病後、錬金術に親しんだり神秘主義に興味を寄せたりした。
ゲーテは一七七〇年シュトラスブルクの大学におもむき、ヘルダーを知り、シェークスピアの真価にふれた。同時に、ホメロスやオシアンの詩を読んで感激し、ルソーの自然に帰れという主張に共鳴した。したがって、ドイツの中世的なもの、偽善的なもの、俗物的なもの、いわゆるドイツ的みじめさに反逆し、文学革命の火を己れを中心にして燃え立たせた。ゲーテの心のなかで「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」や「ファウスト」の創造のプランが動き出した。
[すべてが神]
同じ年、ゲーテはゼーゼンハイムにある牧師館を訪れ、フリデリーケを知り熱愛した。しかし、結婚のきずなに縛られることを嫌い、翌年、大学卒業とともに帰郷して、七二年ヴェッツラールヘおもむき高等法院の見習となった。ここで、官吏の娘シャルロッテ(ロッテ)を知って愛した。彼女には婚約者があり、「若きウェルテルの悩み」のモデルとなった。この名作を書く以前に、シュトラスブルク遊学後まもなく、ゲーテは、ドイツ農民戦争を背景とする革命的ドラマの初稿「鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」を書きあげている。この劇作によってゲーテはドイツの作家となり、次作「若きウェルテルの悩み」によって世界の作家となったのである。両作は、まさしくドイツ文学におけるシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)の代表作にほかならない。そのころ、ゲーテはスピノザに傾倒した。そして、神はいっさいのものを支配し、いっさいもののなかに神がある、すなわち、神が自然であり物であり、物が、自然が神である、という汎神論的世界観を把握した。なによりも、ゲーテの文学、芸術、自然科学の思想的基盤にスピノザ主義があることを、見のがすわけにはいかない。
[宰相ゲーテ]
ゲーテは一七七五年、フランクフルトの銀行家の娘リリーと恋におちいった。が、彼は、市民生活の沈滞した雰囲気を脱して婚約を破棄した。そして、ワイマル公国の領主カール・アウグストに招かれて首都ワイマルヘいき、ここでやがて政治実践の積極的生活にはいった。
ゲーテは、宰相となり、さまざまな社会改革を試みた。とりわけ軍備の縮小、農民の苦役の撤廃、十分の一税の免除、鉱山の開発などに力をそそいだ。が、広汎な詩人宰相の実践的努力も、やがて挫折しなければならなかった。ゲーテは、ある時には特権階級ともたたかわずにはいられなかったが、自己の所属する階級の立場上、ドイツの封建的な絶対権力を正面から敵とすることはできなかった。いや、むしろ国家の安寧に献身するために、ぎりぎりのところで和解しなければならぬという矛盾におちいった。軽蔑せざるを得ない環境に生活し、しかもその環境が行動しうる唯一のものであったために、それに従ってなし得るだけのことはしたのであったが、ゲーテはついにワイマルを逃亡せざるをえなくなった。ワイマルにおけるゲーテの十年の生活は、芸術的な意味では、一種の空白時代だった。それにしてもこの間、地質学、鉱物学、植物学、解剖学などの自然科学への情熱を燃え立たせたことも見のがすことはできない。また、シュタイン夫人を知り不倫の恋を経験し、これを清算する意味もあって、ワイマルをのがれイタリアヘ旅に出たのであった。(「イタリア紀行」参照)
[古典主義と自然]
一七八六年から一七八八年にわたるイタリア旅行は、ゲーテにとって詩人としての再出発であったと同時に、ドイツ古典文学の輝かしい開拓でもあった。古代およびその壮麗な再生であるルネサンスの建築、絵画、彫刻がゲーテをぐいぐいと引きつけた。こんにち失われた古典芸術のもつ真実、素朴、調和、均整をいかに生きかえらせるか、そして芸術のリアリティをいかに正しく表現するか、ゲーテは全身をもって深く追求したのであった。古典主義の秀作「イフィゲーニエ」、名作「エグモント」を完成し、さらに「タッソー」も旅の途次に書きすすめた。
同時にこの旅のあいだに、ゲーテはまた自然探求者として、鉱物、植物、気象学などへの関心をふかめた。そして、人間も自然も同じような総合的原理のもとに理解しようとし、生成交替するものと永遠不変のものとの関係に思いをいたした。後年の有名な「植物変形論」は、この旅において、その土台がかためられたのである。
[革命と戦争とゲーテ]
ゲーテはワイマルに帰ってから、願いを出して煩雑な公務からは解放されたが、名誉職の国務大臣としてとどまり、芸術、科学関係の仕事にたずさわった。いちおう自由人にかえったゲーテは、十六歳年下の貧しい庶民の娘クリスティアーネ・ヴルピウスを愛し、彼女と同棲した。その体験とローマの生活とを織りまぜて、大胆な官能的生活を古典詩の形式につつんで「ローマ悲歌」を作ったのである。
一七八九年、フランスに大革命がおこると、それにともなう破壊と混乱とに堪えられず、ゲーテは革命の精神そのものには賛成であったにかかわらず、眉をひそめ顔をそむけた。そして、きわめて冷淡な態度をとった。古典主義の叙事詩「ヘルマンとドロテーア」などにも革命にたいするゲーテの嫌悪の情が示されている。直接革命をとりあつかった彼の作品が幾つかあるけれども、いずれもゲーテのものとしては凡作である。
一七九一年、宮廷劇場の設立とともにゲーテはその監督にあたり、九四年以後はシラーと親しく交わって相互に創作のうえで刺激しあった。二人の交友はドイツ文学、いな世界文学史上でも、まれに見る美しいものであった。シラーの熱意あふれる激励によって、長篇小説「ウィルヘルム・マイスターの修業時代」も完結した。ゲーテ生涯の大作、劇詩「ファスト第一部」も完成した。
フランス革命につづくドイツ解放戦争がようやくおさまるころ、ゲーテは、すでにクリスティアーネとは正式に結婚していたにかかわらず、十八歳の少女ウィルヘルミーネ(ミンナ)を愛し、それが動機となって自然界に働く親和力が人間をも支配することを取り扱った有名な小説「親和力」を書いた。
ナポレオンからの解放という、いわゆるドイツ解放戦争の激動期に、ドイツに湧きおこったフランス排斥の偏狭な愛国的激情に、ゲーテはよろこんで共鳴することはできなかった。動乱のさなかにゲーテは、ナポレオンとも会う機会をもったのであるが、この英雄を侵略者として見るよりは、その政治的才能を高く認め、人間的魅力にひかれた。ゲーテは、たんなるドイツ人としてフランス人を憎むことができず世界市民としての自己を強く感じたのである。それとともに、ゲーテの晩年の思想を特徴づける諦念の人生智がゆるぎがたいものとなっていった。
ドイツ解放戦争は、ゲーテの真意にそむきナポレオンの没落とともに終わった。ゲーテは混沌としたヨーロッパの状態からのがれるようにして、人間の原始のすがたを東方にもとめた。そして、ペルシア詩人ハーフィスに傾倒した。
一八一四年、ゲーテは、詩的天分に恵まれたマリアンネを知り、彼女の結婚後も精神的に情愛ふかい関係をつづけた。こうした事情から、ゲーテの詩集として最高の、東西をむすぶ高度な思想と愛にみなぎった「西東詩集」が書かれた。
[諦念者ゲーテ]
一八一五年のウィーン会議によってヨーロッパに平和はよみがえったけれども、それとともに反動的専制政治がドイツを支配しはじめた。そのころから、ゲーテの静寂な哲人的な生涯の晩秋がおとずれる。ゲーテの私生活は平穏だった。彼は、静養のためしばしば温泉地をおとずれたが、一八二一年マリエンバートヘ行ったとき、十七歳の少女ウルリーケに出会い、つよく心をひかれた。
その翌年も翌々年も夏をこの少女とすごしたゲーテは、齢(よわい)すでに七十を越していたにかかわらず、情熱を抑えられなくなってしまった。晩年の愛と悩みのなかから絶唱「マリエンバートの悲歌」が生まれた。老年の叡智はいよいよたかまり、純粋な人間性への信念はいよいよふかまった。
一八二六年ごろから、ゲーテは美と真による統一した理想的人類のありかたを洞察した。そして「世界文学」の理念を確立し、本来は個性的な文学がその個性をいっそう徹底することによって全体に奉仕し世界化することを念願した。ゲーテのこうした晩年をもっとも意味ぶかく決定し、芸術作品に完成させたものは、「ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代」と「ファウスト第二部」であった。前者は、いわば否定を否定する積極的な意味をもつ「諦念」思想の集大成であり、人生と社会たいする安易な合理的解釈をすてて、無限のなかの真の有限をさぐって人間肯定の明るい眺望を打ちひらいている。後者においては、宇宙の根源をもとめ人生の真実に迫ろうとするファウストが、あたらしい世界の天地開拓の事業を行ない、崇高な愛と共有によって人間の純粋生命の最高の境地をかぎりなく追求している。
一八三〇年、全ヨーロッパをゆるがしたフランスの七月革命にたいして、晩年のゲーテはほとんど無関心であった。この点にゲーテの保守性を見ることは、もちろん可能であろう。が、ゲーテは、自然と同じく人間と社会の永遠の進化の法則を信じて、うつろいやすい現象のために動かされるには、あまりにも大きかったという逆説的な見方もできるであろう。
[未来の光]
一八三二年三月二十七日、ゲーテは「もっと光を」という言葉とともに八十三年の生涯を終えた。この最後の言葉は、実際には部屋をもう少し明るくしてくれという平凡な意味のものであったとしても、それはゲーテの生涯を端的に伝える標語となっているといえよう。
ゲーテとても、けっして完璧な人間ではなかった。もとより傑作ばかりを書き残したのではなかった。ときには、徹底したエゴイストともなり、変革する時代を白眼視し、また一種の俗物ともなり、ワイマルの宮廷でさまざまの妥協や屈服もした。にもかかわらず、彼は、詩人作家としても自然科学者としても汎神論を堅持し、ヒューマニストとして人類の向上のために努力しつづけ、真実と美の高度な理想主義をつらぬいた。
ゲーテはあらゆる古いものを吸収し、それを消化しつくして、もっとも新しいものへ転化し、未来の無限へ大きな予言の光を投じた。それゆえ、ゲーテを導きの糸として、無限の将来へつながる精神の後継者は、尽きることなくあらわれるであろう。
作品解説
[成立の背景と経過]
一七七一年、ゲーテは二十三才のとき、ヴェッツラールの高等法院の事務見習になった。ヴェッツラールは、当時人口五千、古代の遺物のような田舎町だったが、その郊外の自然は詩的なすばらしさだったという。この町が小説「若きウェルテルの悩み」の舞台となったのである。
この町の広場の一隅にあった料亭で、ゲーテはイェルーザレムとケストナーの二青年と親しくなった。イェルーザレムは僧院長の息子で公使付書記官だったが、はげしい感情の持ち主で人妻に恋して拒絶され、ニヒリズムにとりつかれ自殺してしまった。ケストナーはブレーメン公の書記官をつとめていたが、頭脳明晰、趣味ゆたかな紳士だった。ケストナーには許嫁があり、それがロッテ(くわしくはシャルロッテ)であった。彼女は高官の娘で、うつくしく素朴であり、小説にあらわれているロッテ同様、母代わりに九人の弟妹の世話をしていた。七二年六月、ちょうど小説にみられるように、ある舞踏会の席で彼女を知ったゲーテは、たちまち心をうばわれてしまった。
その後、ゲーテは、毎日のようにロッテを訪れた。ロッテも情熱的な非凡な詩人に心をひかれたことは、想像にかたくない。それにもかかわらず、ケストナーは寛容であくまでも紳士的だった。小説の第二部にあるように、ゲーテは、ロッテにとうとう接吻までしたが、これがかえってロッテに衝撃をあたえ、反発をうけることになった。ロッテがケストナーと結婚すると、ゲーテ自身、自殺を考えたほどだった。
以上のような若いゲーテの体験からもわかるように、「若きウェルテルの悩み」は、ヴェッツラールにおけるゲーテの恋愛とイェルーザレムの死が、作品を生む主要な背景となったのである。そのほかにも、ヴェッツラールからの帰途ゲーテがおとずれたラロッシュ夫人の娘マキシミリアンがたどった不幸な結婚の生活も、この作品成立の動因のひとつに数えられている。
「若きウェルテルの悩み」が完成したのは、一七七四年である。一年半ほどの歳月のあいだに題材が熟したものだったが、ペンをとると一気阿成に四週間で書きあげられた。まさしく作者が自分の血をながして、自分の心臓から自己の真実の体験を吐露した作品にほかならない。もし、この作品を書くことができなかったら、ゲーテ自身は現実におのれの命を絶つか、苦悶のうちに枯死したかもしれない。要するに、「若きウェルテルの悩み」は、二十五才の青年ゲーテが書いた大胆な自己告白の小説であって、一七八六年ゲーテの著作集が刊行されたとき、内容が若干改訂され、こんにち、われわれが読むような完稿になったものである。
[構成]
この作品は、いうまでもなく書簡体の小説である。主人公ウェルテルの残した手紙を編者が整理して順序よく並べたという、一見平凡な体裁をとっている。が、じつは作者によって綿密に計算された近代的小説手法が駆使されている。編者は、もとよりこの作品の作者そのひとにほかならないが、同時に第三者のレポーターの役割も果たしており、主人公と編者との関係が二重構造になっているのである。
全篇は、二部に分かれている。冒頭に簡単な読者におくる前書きがあって、若い読者にたいする伴侶としての働きかけが述べられている。第一部、第二部の大部分がウェルテルの手紙からなり、最後に「編者から読者へ」という付録があり、この作品の結末が編者の書いた事実の記録にもとづく物語となって終わっている。ウェルテルの手紙そのものは、ほとんどすべて友人ウィルヘルムにあてたもので、一七七一年五月初句から翌七二年十二月下旬に終わるものである。
第一部で、すぐに主人公ウェルテルが純粋な感情にあふれた芸術家的青年であることがわかる。すでにウェルテルは、心は不安にとざされ、しずかな田園のうつくしい自然にひたろうとする。とはいえ彼は万有に共感しながらも、ただおだやかな小市民的幸福に安住することはできない。ロッテの出現によって、ウェルテルは、自分が求めていたうつくしい魂の力にぐいぐいひきよせられ、彼女に深い愛情をおぼえる。しかし、歓喜の絶頂に達したのも束の間、ロッテの許婚者アルベルトが帰ってくると、ウェルテルは、愛の灼熱と絶望の予感の交錯する暗い谷間を彷徨する。ウェルテルの魂が共感する自然さえも、やがて重苦しいものとなってくる。
第二部では、ウェルテルは知友のすすめにより公的職務について働く。けれども、そこに見いだしたものは、およそ芸術家的な純粋な心情とは一致しない官僚主義の俗物根性であった。位階の差別を第一とする愚劣な杓子定規に、ウェルテルの心はふかく傷つけられる。ウェルテルは幼少を過ごした故郷の地にもどり、そして、ふたたびロッテのもとへたどりつく。だが、すでに結婚していたロッテにたいして、彼がいかに自己の救いを見いだそうとして愛情を燃えたたせても、社会の規律はきびしく、ロッテと結ばれる可能性はまったくない。人生のすべてからしめ出されたウェルテルは、自殺によって自由の解決を求めるほかはなかった。自己の内部の真実を外界の蹂躙(じゅうりん)から守るための、ぎりぎりの人間悲劇に終わったのである。こうした物語が展開するうちに、ある農家の未亡人に仕えている正直な純情な作男がその未亡人に恋し、ついに我を忘れて不作法なことをして解雇され、のちには殺人を犯すといった事件や、もとロッテの父の書記だった男がロッテに恋をして失職し発狂したというエピソードなどが、ウェルテルの恋愛と自殺の伏線としてこの作品にない合わされている。これらの挿話は、独立した短篇にもなるような深刻なものである。とくに、第二部の俗悪な上流社会のえぐり出しからはじまって、ついに信頼するS嬢やS嬢の叔母をめぐってウェルテルに知らされる思いもかけなかった貴族社会の実体は、ウェルテルにとってあまりにも残酷な描き方がなされている。けれども、筆力は、それだけいっそう卓越しているといえよう。
大小のシチュエーションの設定と人物の組み合わせ方は、こんにちからみれば、やや常套的であるともみられようが、破綻のない対置法は、作品の魅力を永続化することに大いに役立っていると思う。主情的な作品でありながら、客観的妥当と主観的感動がふしぎな均衡をたもってととのえられているので、ゲーテという作家の才能の幅ひろい弾力性が感じられる。部分部分がほんとうに澄んでいて、全体に濁った渋滞のあとをとどめていないのである。
[文学史的な位置づけ]
画期的という言葉が文字どおり実質的内容をもって使われるとすれば、「若きウェルテルの悩み」は、ドイツ文学史におけるまさしく画期的な散文芸術であり、世界の文学史においても画期的な恋愛小説であるといっても過言ではない。
十八世紀ドイツの文学革命、いな、ドイツ文学全史で革命の名に価する文学運動の代表的なものは、シュトゥルム・ウント・ドラングであったといえる。この術語は「疾風怒濤」とも「嵐と迫り」とも訳されるが、それは前代のすでに形骸化した規律や法則に束縛され、冷たい悟性のとりことなってしまっていた観念的保守主義にたいする反逆として爆発した、自由のための文学精神のたたかいであった。従来、安易にいわれているような、ドイツの合理的な啓蒙主義に反対するたたかいではなく、それは生きた情感による啓蒙主義の本質の拡充と発展のためのたたかいであった。
シュトゥルム・ウント・ドラングは、十八世紀の七〇年代から八○年の初めにかけて、ドイツの大きな文学湖流となっているが、現実にフランスで行なわれた大革命のドイツ的先駆であり、そのドイツ的表現であった。思想的源流が、ルソーの「自然に帰れ」であったことはいうまでもない。本来、それはたんに文学思潮としてあらわれたにもかかわらず、この運動を推進した若い世代は、政治、社会、文化のあらゆる旧秩序を否定しようとした。そして理想にむかって感情をおもむくままに高楊させ、独創と天才を高唱した。クロップシュトックの宗教的感激、祖国愛、ハーマンの神秘的精神、それにヘルダーの総合的直観なども加わって、シュトゥルム・ウント・ドラングは未曾有の文学的開花を示したのである。その文学的潮流の最大のチャンピオンが、ほかならぬ若いゲーテであった。
ゲーテは戯曲「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」を書き、つづいて小説「若きウェルテルの悩み」を書いて、文学の古い殻を打ちやぶり、偉大なシュトゥルム・ウント・ドラングの担い手となった。シュトゥルム・ウント・ドラングの何よりの特徴は、心情、予感、衝動などの内奥の促しによる激発的な、同時に必然的な、自然の法則にもひとしい活動である。そのエネルギーを最大限に働かせて、あらゆる現実の制約を打破しようとすれば、シュトゥルム・ウント・ドラングに生きる人間は、個人として自己の限界をふみ破り、生をも破砕しかねない。ロッテにたいする捨て身の愛のためにみずからの命を絶ったウェルテルの運命は、シュトゥルム・ウント・ドラングの破壊的な本質を象徴しているといえるだろう。
シュトゥルム・ウント・ドラングは、ドイツでは古典主義をへて、ロマン主義につづき、二十世紀の新ロマン主義、表現主義にまでつながるものだが、世界的視野からみれば、十八世紀後半以後ヨーロッパのロマン主義的風潮ともむすばれ、これらすべての文学潮流の源泉のひとつが「若きウェルテルの悩み」であるといってもさしつかえない。
書簡体形式の文学としては、「若きウェルテルの悩み」以前にも恋愛小説としてルソーの「新エロイーズ」があり、更にさかのぼってリチャードソンの諸作もあるが、それぞれの影響を大なり小なり受けながら、「若きウェルテルの悩み」が恋愛文学として永遠の生命をたもち、複雑な二十世紀のひとびとにひろく読まれ感動をあたえているという事実が、何よりもこの小説の古くしていつまでも新しい世界文学史的意義を示しているといえるだろう。
作品鑑賞
[青春の書]
だれでも「若きウェルテルの悩み」が自分だけのために書かれたように思う時期が一生のうちになかったら、それは不幸なことだといわなければならない……こんな意味のことを晩年のゲーテは語っている。若き日の自作にたいするよほどの自信がなければ大ゲーテといえども、まさかこんな言葉は口から出なかっただろう。
よしんばこのゲーテの言葉に誇張があるにせよ、人間は青春を青春らしく生き抜くことがきわめて大事であって、そのことを感傷的だといって拒否したり否定したりしてはならぬ。そういう意味で、読者は「若きウェルテルの悩み」を読み味わうべきである、と作者ゲーテが願っていることはまちがいない。
文学は自然がわたしたちにこばむもの……さびることのない黄金時代とおとろえることのない春と、くもりのない幸福と永遠の青春とをわたしたちにあたえるものだ。これは、人生と文学とをくらべながら、ベルネというドイツ急進派の評論家が語った言葉である。だが、そういう文学というのは、じつはめったにあるものではない。「若きウェルテルの悩み」は、しかし、まさしくそういう文学であり、文字どおりさびることのない黄金時代を、われわれに与えてくれる稀有の青春の書なのである。
いうまでもなく、この小説は恋愛小説であり、ウェルテルの恋愛体験が外からも内からもさまざまな角度から語られている。けれども、主人公が恋愛のためにすべてを忘れるという、いわゆる恋愛至上主義の文学だったろうか。表面的には、たしかにそう読むこともできるであろう。しかし、それだけでこの作品が終わっているだろうか?
[時代と社会]
まずこの作品を理解するために、ウェルテルが生きていたドイツの時代と社会はどうであったかを考えてみる必要がある。
前世紀の三十年戦争(一六一八〜四八)のために荒れはてたドイツは、十八世紀の後半に七年戦争(一七五六〜六三)までひきおこし荒廃につぐ荒廃の状態にあった。「若きウェルテルの悩み」が書かれたのは、まさにこうした時代であった。
数百を数える驚くべき多数の君主が主権をにぎって、それぞれ大小の領土に割拠して、絶対的封建支配をつづけていた。当時は、もちろんドイツでは統一国家の成立など夢にも考えられなかった。ヨーロッパでもっとも遅れた、資本主義の曙光からも遠い、前近代的というよりは中世的な暗黒にもひとしい、いわゆるドイツ的悲惨が、全社会をおおっていたのである。
国民の大多数を占める下層農民は、まだ肉体の苦役でしか生きられない農奴制を脱することができず、食うや食わずであった。商業や家内工業にたずさわるひとびとも、中世的なギルド(同業組合)にしばられていた。ごく一部の富裕な商人、ギルドの親方などをのぞいて、民衆は、王侯、貴族、さらに僧侶などの上層階級から徹底的に収奪されるばかりであった。
「若きウェルテルの悩み」も注意して読んでみれば、こうしたドイツ的悲惨が作品の端々にうつし出されている。この作品にあらわれている、救いようもない農民のくらし。農民ばかりではなく、たとえば、ロッテの弟妹のような中流階級の子どもらさえ夕食にパンをちぎって分けてもらっていることなどから窺えるように、中流以下の人びとが平常どんなものしか食べられなかったか。村の教師の娘の子どもたちが土鍋に残ったかゆを取りっこするような日常の生き方を見ても、当時のドイツ人の生計のみじめさがわかるのである。生活を維持するためにわずかな物の所有欲から、どんなみにくい争いが行なわれていたか。聖職にある村の牧師さえ村長と共謀して牧師館のたいせつな記念の胡桃の木を売って金もうけをたくらんだとは。遺産の相続をめぐる争いごとも、しばしばこの作品に出てきて、それが、どんな不幸を生んでいることか。百姓の後家さんの兄弟は遺産をねらって、作男の恋をさまたげ惨憺たる悲劇の種をつくるなど、おそらく日常茶飯事だったのだろう。
「人間なんて、だいたい似たようなものだ。たいていは、生きるためにあくせく働いて、時間をうんと費す」(第一部五月十七日)とか、「ぼくにいわせれば、人間のすべての活動は、要するに欲を満足させることでしかない。その欲望にしたって、ぼくらのあわれな生存を引きのばす以外に、何をしようという目的もない」(第一部五月二十二日)とかいうウェルテルの言葉は、ただあくせくと働いて暮らしに追いまくられていた当時の大部分のひとびとのみじめな状態を、もっとも端的に批評したものだといえるだろう。
これに反して、民衆の労働を徹底的に搾取していた上流階級はいかに腐敗していたか。それをゲーテは、「きらびやかなみじめさ」(第二部十二月二十四日)という言葉で説明しているが、するどい諷刺の名言であろう。俗悪な官僚主義、愚劣な位階主義、卑小な形式主義は、もっともみごとに二部の初めのいくつかの手紙に暴露されている。まさしくこれこそ、当時の典型的な上流社会の真実の描写にほかならなかったのである。
それらの場面は、現実の人物イェルーザレムの生活と行動を作品のなかに描出したものだといわれるとおり、たしかにウェルテルのように教養もあり情感にも恵まれていたイェルーザレムは、上官である成り上がりの貴族と何かにつけて衝突し、大公から叱責を受けたこともあった。あるとき高等法院長のお茶の会に偶然いあわせたが、この会は上流貴族の集まりだったため、平民のイェルーザレムは退場しなければならなかった。
もちろん、こうした事実は文学的潤色をされて描かれているが、とりわけウェルテルの敬愛するS嬢の叔母の言動を叙述するあたりは、ゲーテがドイツ的悲惨を凝視して、それと対決しながら解決しえなかった芸術的表現のぎりぎりのリアリズムというべきである。
[ウェルテルの見た自然]
この作品できわめて重要な要素をなしている「自然」は、しばしば人間から切り離されたところでウェルテルによって観察され賛美されているようである。だが、よく見れば、それも社会や歴史と密接につながっている。いうまでもなく、ウェルテルは強い自然愛好癖をもっている。このような自然愛好癖は、じつは当時のいわゆる啓蒙時代につづくシュトゥルム・ウント・ドラングの青年たちの流行思想であって、ある種の青年のロマンチシズムのあらわれでもあった。だから、ウェルテルの自然への憧れは、虚飾や虚偽におおわれた現実からの脱走ないし逃避あり、一種のロマンチックな夢想家の審美的耽溺であったとも見られよう。
しかし、ウェルテルの自然没入は、ルソーの「自然に帰れ」の本質と通じているものである。ルソーの自然観は、文明以前の原始状態に重点をおいて自然状態が強調されているとはいえ、それがフランス革命のイデオロギーを準備したように、不自然なものを自然なものへ、虚飾から真実へと現実を変革する能動的な力をもつものであったことはいうまでもない。ウェルテルの自然感情も静止的、回顧的ではなく力動的であったのである。すなわち、ゲーテがウェルテルによって表現した自然は、同時に人間の心のもっとも自由な活動のすがたであり、自然をうたうことによって束縛の多い社会生活の内部にある真実の自己を発揮することだった。このことを、われわれは見抜かねばならない。
「ぼくの胸を掘りかえすのは、自然のすべてのもののうちにひそむじりじりとむしばむ破壊力だ。隣人も自分さえも破壊しないようなものは、自然は何一つつくり出さなかった。これを思うとぼくは不安におののき、ふらふらする。天と地とその織りなす力は、ぼくの周囲にある。だが、ぼくはそこに永遠にのみつくし、永遠に反芻する怪物を見るだけだ」(第一部八月十八日)……これは「自然」を追求し、自然淘汰や生存競争のおそろしい真実を明言したあとで語られる、ウェルテルの自然にたいする考察の結論であるが、ウェルテルの心の内面にふかくかかわり、この作品の破壊的な結末がそこに予想される。
[ウェルテルの生いたち]
ところで、主人公ウェルテルとはどういう階級の出身で、どういう経歴の持ち主であったか? それは、この小説で断続的に語られているけれども、総括的に、はっきり把握することがたいせつである。
ウェルテルの両親は、中部ドイツの田舎町のかなり裕福な市民であった。ウェルテルは生来多感で芸術家肌で、美しい自然と共鳴し、川の流れゆくかなたに未知の世界を憧れたり、菩提樹の木かげで目にうつる山や谷のかなたに憧憬の国土を予想したりする少年だった。父の死後、母にともなわれて都会に住み、やがて現世的な成功を願う母の希望にしたがい大学で法律を修めた。しかし、ウェルテルの興味は芸術、主として絵画のほうへ瀕いた。
若き日のウェルテルの精神形成にあずかって力のあったひとりの年長の女性があった。ウェルテルは彼女によって魂の活動を触発され、汚れ多き時代のなかで自己のあるべき姿を見つめるようになる。彼女が死んだとき、死というものの意味をはじめて痛切に考えた。この女性のあとにふたりの姉妹と知り合うが、姉がウェルテルに心ひかれたのにウェルテルは妹のほうに動かされる。
そうした人生の運命を経験したあとで、母からの依頼で叔母に会って遺産処理の問題をかたづけるために、ある田舎町へ来る。作品はそこから始まるのだが、ウェルテルは、パンのためにかせぐ必要はなく、絵を描いて自然にしたしんでいればいいという、いわば幸福な自由な市民的インテリゲンチャの青年だったのである。
[ウェルテルの恋愛]
このようなウェルテルが、ロッテを知って、愛し、自殺するという、一見単純な恋愛小説が、「若きウェルテルの悩み」にほかならない。その中心のテーマが恋愛であることはいうまでもないが、それにしても、主要な問題となるものは何であろうか。
「若きウェルテルの悩み」は小説として、恋愛のなりゆき、一言でいえば、愛の悲劇が描かれてありながら、そこに、それ以上にさまざまなものがふくまれている。愛の悲劇は、ふつうなら実生活のなかに分散してそのまま個別的にあらわれるものだが、ここでは、恋愛が灼熱する統一的な集合体の全情熱から光芒を放って悲劇的に爆発したものにほかならない。中心の課題は端的にいえば、人間の個性のいっさいを包括する統一的発展の現実の追求である、と要約されよう。そうした個性の発展と現実の市民社会とのあいだの解けがたい矛盾が、この作品の最大のテーマであったといわなければならない。
ウェルテルの愛がこの作品で芽ばえていく有様が最初にうつくしく描写されているが、ウェルテルは自分の恋愛が解決できない葛藤におちいっていることを認めると、彼は社会の実際生活にとびこんで、公使館のある地位を引き受ける。そこでウェルテルの才能はいちおう認められるが、貴族的社会が市民的なものに張りめぐらした壁と激突して、身をしりぞき、ロッテとの再会となる。このように回り道をしてこの作品は破局へみちびかれる。
ひそかに心の奥底でウェルテルを愛していたロッテは、彼の情熱の爆発により、あきらかに自分の恋が燃えあがるのを知ったが、そのことがかえって愛の破局をもたらす。ロッテは、世間から尊敬される有為な青年アルベルトと結婚して幸福に暮らしている。だから、自分の胸にわきおこる、おさえがたい情熱に恐れをいだいてたじろぐ。当時の市民的な結婚の社会的、経済的存在が、純粋な自然の人間的恋愛と両立しがたい矛盾におちいることを、この作品は明確にわれわれに教えている。
[ロッテの人物]
ロッテはいかなる女性であったか? もちろん、ロッテは第一部では中流市民階級の主婦代わりの誠実な娘であり、第二部では堅実な市民の家庭的な妻として描かれている。
ロッテは、しばしば自然そのもののような清純な美しい心情のシンボルのように見られる。が、それは、あくまでもウェルテルの目を通してである。たとえロッテがいかにウェルテルによって美化され純化されていても、ダンテにとってのベアトリーチェのような、女性の絶対化された典型ではない。彼女は、男性の抱擁と接吻の対象となる肉体をもった異性の一人であるにすぎない。ロッテがベアトリーチェならば、どんなに愛が深刻でもダンテが死ななかったようにウェルテルも死ななかったであろう。
ロッテは、ウェルテルを愛すまい愛すまいとしても、心の底では愛さずにはいられなかった。しかも、妻として市民社会に生き立派な夫を愛しつづけるために、ウェルテルの愛を自分に代わって受け入れてくれるような他の女性を自分の友だちのなかから探そうとした。ロッテの考えでは、ウェルテルの愛の対象はウェルテル自身の情熱の幻影であって、ロッテという特定の恋びとに限ったことはないのである。ロッテの場合、彼女ただひとりに限るという真にウェルテル的な愛に生きる自信のない、市民社会のきわめて道徳的な小市民的な女性だったといわざるをえない。
[作品のむすび]
ウェルテルはなぜ死んだか? この問題は、この作品の最終的な問いとなるであろう。「若きウェルテルの悩み」の読者は、それぞれの立場からさまざまの答えを引き出すにちがいない。それにしても、作者ゲーテが作品の主人公ウェルテルであり、ゲーテはウェルテルと同じ経験をしながらけっして死ななかったのである、などという講壇学者的な俗説などに耳をかさず、われわれはゲーテがこの作品でウェルテルを殺した、いや、殺さねばならなかったという意味をふかく考えなければならない。
こんにちの読者からみれば、表現の古めかしさ、まどろっこしさ、大げさな言いまわし、無駄な飾り……それらは古典的作品には付きものと言えるものだが、これは時代のへだたり、生活様式の異なりなどから必然的に派生する芸術の宿命にほかならない……そうしたものが、この作品のなかにいろいろあるだろう。ひとつには書簡形式という文体が自己告白的で必ずしも客観描写的でなところから、いっそう、そうなっているのかもしれない。
とくに第二部に出てくるオシアンの詩など、こんにちの読者が卒読しただけでは、その伝説的内容がつかみにくく、全体との関連もわかりにくい。たしかに、ややゲーテの個人的趣味に深入りしてしまっているきらいもないではなかろう。とはいえ、このウェルテルの訳詩の悲劇的な死のモチーフ、自然と人間とのふかい関連などをとやかく論じなくとも、やるせない言葉の抒情のひびきをゆっくり読みながら、われわれも神秘的世界にひたれるのではなかろうか。最後の「アルピーン」の詩篇の、ひとりの女性をめぐってふたりの男性が罪なくして絶望と死におちいる内容は、ロッテをめぐるウェルテルとアルベルトを想起させ、いちばん最後のウェルテルが朗読する断片詩は、死を予測させる哀歌となっているのである。
それにしても、この作品は、読みすすむうちにいつしか、人間の息づかいがわれわれの胸にひびき、感情の起伏や心理の変化がわれわれの心にひたひたと伝わってくる。それはまた、手紙という形式手法による作者の自由な筆の運びが、われわれに親しく働きかけるからでもあろう。こうした文学形式は、ロバートソンやルソーの小説の伝統にもとづいているわけではあるが、この作品のすべての手紙がこれまでになく清新で充実していること、そのひとつひとつが一貫した内容の流れにしたがって、編者によって緻密に結合され構成されていること、そして、みごとな芸術作品に結晶していること、それこそ、まさしく他に類のないゲーテの芸術的天才のあらわれである。
「若きウェルテルの悩み」が、世界文学における最もすぐれた恋愛小説であることは、いうまでない。そのわけは、何よりもゲーテが彼の時代の生活そのものを、その時代の矛盾と相克そのものを、だれよりも典型的にこの恋愛悲劇のなかに集約しているからであるにちがいない。まさにそれゆえ、この作品は特定の時代をはるかに超えた永続的な生命をもち、こんにちのわれわれにも訴えてくるのであろう。
一七四九 八月二八日、マイン河畔のフランクフルトに生まれる。父ヨーハン・カスパル(三九歳)は法学士で、名目上の帝室顧問官。母カタリーナ・エリーザベト(一八歳)の父はフランクフルト市長。
一七五〇(一歳) 一二月、妹コルネーリア生まれる。他の弟妹四人は夭折。
一七五九(一〇歳) 人形劇でファウスト伝説を知る。グレートヒェンを知る。
一七六四(一五歳) グレートヒェンとの関係断たれる。
一七六五(一六歳) 法律学を学ぶためライプツィヒの大学に入学。
一七六六(一七歳) アンナ・カタリーナ(ケートヒェン)を愛す。
一七六八(一九歳) ケートヒェンと別れる。ライプツィヒを去り帰郷。ライプツィヒ時代の作品の大部分を自ら焼く。療養生活にはいる。
一七七〇(二一歳) シュトラスブルクの大学に入学。フリデリーケを知り愛す。ヘルダーに会い、以後多大の感化をうける。
一七七一(二二歳) 八月、法律得業士となる。フリデリーケとの別離。一月〜一二月、「ゲッツ」の初稿を一気に書きあげる。
一七七二(二三歳) 五月、法律実習のためヴェッツラールに行く。シャルロッテ・ブフ(ロッテ)とその婚約者ケストナーを知る。ロッテヘの愛に耐えかねて、九月フランクフルトヘ帰る。一〇月、友イェルーザレムの自殺。絵の勉強に熱中する。
一七七三(二四歳) 四月、「鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」完成。一一月、妹コルネーリア、友人シュロッサーと結婚。
一七七四(二五歳) 二月〜三月、「若きウェルテルの悩み」を一気に書く。五月、戯曲「クラヴィーゴ」を一週間たらずで書きあげる。
一七七五(二六歳) 四月、エリーザベト・シェーネマン(リリー)と婚約。九月破棄。一一月、ワイマル公子カール・アウグストの招きでワイマルにはいる。シュタイン夫人を知り、やがて愛す。
一七七六(二七歳) 枢密院の顧問官に任ぜられる。イルメナウの鉱山に行きその復興をはかる。
一七七七(二八歳) 六月、妹コルネーリア死す。「ウィルヘルム・マイスターの演劇的使命」起稿。
一七七九(三〇歳) 散文「イフィゲーニエ」完成。
一七八〇(三一歳) 七月、「ファウスト」を朗読。一〇月、戯曲「トルクワート・タッソー」を書きはじめる。
一七八二(三三歳) 五月、父死す。六月、貴族に列せられる。
一七八四(三五歳) この年から翌年にかけて、ヘルダーおよびシュタイン夫人らと熱心にスピノザを研究する。
一七八六(三七歳) 六月、ゲッシェン書店と全集出版の契約を結ぶ。九月、イタリアヘ向かい、一〇月末ローマ着。
一七八七(三八歳) 韻文「イフィゲーニエ」、戯曲「エグモント」成る。
一七八八(三九歳) 六月、ワイマルに帰る。七月、女工クリスティアーネ・ヴルピウスとの内縁関係はじまる。シラーに会う。
一七八九(四〇歳) 四月、「ローマ悲歌」完成。シュタイン夫人に決裂の手紙を書く。六月、「タッソー」完成。一二月、長子アウグスト誕生。
一七九〇(四一歳) 「植物変形論」脱稿。自然科学に傾倒する。
一七九一(四二歳) 五月、ワイマル宮廷劇場の劇場監督になる。
一七九三(四四歳) 四月、喜劇「市民将軍」を三日で書く。叙事詩「ライネッケ・フックス」を書く。五月〜八月、マインツ攻囲に従軍する。
一七九四(四五歳) 「ウィルヘルム・マイスターの演劇的使命」の改作「ウィルヘルム・マイスターの修業時代」を書きはじめる。シュタイン夫人との文通再開。シラーとの親交はじまる。
一七九六(四七歳) 「ウィルヘルム・マイスターの修業時代」完結。九月、叙事詩「ヘルマンとドロテーア」を書きはじめる。
一七九七(四八歳) 「ヘルマンとドロテーア」完成。八月、母と最後の対面。
一八〇一(五二歳) 一月、カタルと顔面丹毒を病み重態におちいる。「ファウスト」第一部中の〈市門の前〉〈ヴァルプルギスの夜〉など成る。
一八〇六(五七歳) 「ファウスト」第一部完成。一〇月、フランス軍ワイマルにはいり、生命をおびやかされるが、クリスティアーネに救われる。クリスティアーネと正式に結婚式をあげる。
一八〇七(五八歳) 「ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代」の口授をはじめる。ミンナ・ヘルツリープ(一八歳)を愛する。
一八〇八(五九歳) 六月、「親和力」を書きはじめる。九月、母死す。一〇月、皇帝ナポレオンに三度謁見。
一八〇九(六〇歳) 一〇月、「親和力」完成。ウィルヘルム・グリム来訪。
一八一一(六二歳) 自伝「詩と真実」を書きはじめる。第一部完成。
一八二一(六三歳) べートーヴェンに会う。「詩と真実」第二部刊行。
一八一四(六五歳) ハンマー訳のハーフィズ「ディーヴァン」を読み、「西東詩集」を作りはじめる。「詩と真実」第三部刊行。
一八一五(六六歳) 二月、二十巻の新版著作集の出版についてコッタ書店と協約。
一八一八(六七歳) 「イタリア紀行」第一部刊行。六月、クリスティアーネ死す。九月、ロッテと再会する。
一八一七(六八歳) 「イタリア紀行」第二部刊行。
一八一九(七〇歳) 「西東詩集」刊行。
一八二二(七三歳) ウルリーケ・フォン・レヴェッツォを愛する。
一八二三(七四歳) 六月、エッカーマン来訪。ウルリーケをしのび「マリエンバートの悲歌」を書く。一一月、病気ぎみ。
一八二五(七六歳) 「ファウスト」第二部ヘレナの場面成る。
一八二九(八〇歳) 「ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代」完成。
一八三一(八二歳) 一月、遺言状を書く。八月、「ファウスト」第二部完成、「詩と真実」完成(刊行一八三三年)
一八三二(八三歳) 三月二二日、「もっと光を!」という言葉を残して永眠。二六日、大公爵家の墓地に、アウグスト大公、シラーと並んで安置される。
あとがき
若いゲーテがこの作品を一気呵成に書きあげたので、はじめ、私もゲーテと同じくらいのスピードで渋滞することなく訳出しようと筆をとった。この作品は、もちろん私にとっても青春の愛読書であり、大部分の手紙がかつて同感を禁じえなかったので、きっとスムーズに訳筆が運ぶと思ったのであった。
原文のドイツ語は、以前に暗誦した部分もないではなかったのに、さて改めて読みかえし翻訳しはじめると、日本語に移すことがどんなに困難であるかを思い知らされた。何よりも、私は、こんにちの青年の気持ちになって、こんにちの青年の感情をもってこの作品と対決し、清新な訳を試みたいと念願した。それで、ひとつひとつの書簡の拙訳そのものも読みかえしてみて、ときには全面的に書き改めなければならず、それだけいっそう筆がおそくなったのである。
直訳ですますことができれば比較的楽であるが、文学作品のリズム、ことに若いゲーテの魂のリズムはそれでは到底とらえられない。語学的に忠実であることと芸術的に忠実であることとは、必ずしも両立しない。私は、そのへんのところも苦心しなければならなかった。先訳にはいろいろ教られながら、私の考えはあくまでもつらぬいた。たとえば、第二部の十一月三十日の手紙のなかの Tausendgueldenkraut は、どうしても「せんぶり」であって、多くの訳者のように「矢車草」などとは訳せなかった。最近のいろんな訳者がオシアンの詩の直前にある編者の物語中の一文を「ウェルテルはたずさえてきた数冊の本を下に置いて、別の本(・・・)がきていないかとたずねた」(傍点筆者)といったような意味に訳してあるところを、私は、「ウェルテルは、持ってきた二、三冊の本を下に置いて、女の友達が来るのかとたずねました」と、原文の真意から訳さずにはいられなかった。
それにしても、シュトゥルム・ウント・ドラングのゲーテの躍動する文体は、とうてい日本語に置きかえることはできない。私は私なりに、あたらしい「若きウェルテルの悩み」の文体を作り出すほかはなかった。もし、若い人たちによって拙訳がいささかでも共鳴をえられるならば、このうえない喜びである。巻末の付録に、編集部からの依頼にもとづいて、ゲーテの人と文学、「若きウェルテルの悩み」の作品解説、作品鑑賞その他を書いたが、作者および作品案内としてなるべく客観的な判断に従おうとはしたけれども、あたらしい解釈や評価もいくぶんは打ち出そうとして、私の思いきった考えも若干披瀝した。ご批判を仰ぎたい。
なお、本書中の挿絵やカットは、すべて東京ゲーテ記念館の粉川忠氏のあたたかいご好意によるものである。しるして感謝の意を表したい。
一九六五年五月(訳者)
〔訳者紹介〕井上正蔵(いのうえしょうぞう)東京都立大学教授。一九一三年(大正二)生まれ。東大独文卒。著書「ハインリヒ・ハイネ」「ドイツ近代文学研究」、訳書「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」(ゲーテ)、「歌の本」(ハイネ)他。
◆若きウェルテルの悩み◆
ゲーテ/井上正蔵訳
二〇〇三年三月二十日 Ver1