バービーはなぜ殺される 創元SF文庫 ジョン・ヴァーリイ 朝倉久志他訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)レイ|通り《シュトラーセ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 文中、底本の《》を≪≫に置き換えてあります :をビューアで90度回転させる前提で使用しています 底本では巻末に著作リストがありますが省略しました ------------------------------------------------------- [#表紙 〈"img\バービーはなぜ殺される_表紙.JPG"〉] [#改ページ] 目 次 バガテル  九 びっくりハウス効果  五一 バービーはなぜ殺される  九七 イークイノックスはいずこに  一四九 マネキン人形  二三五 ビートニク・バイユー  二六三 さようなら、ロビンソン・クルーソー  三二七 ブラックホールとロリポップ  三八一 ピクニック・オン・ニアサイド  四二三  ジョン・ヴァーリイ――未来の巨匠  山岸 真 [#改ページ] [#ページの左右中央]    バービーはなぜ殺される [#改ページ] [#ページの左右中央]    バガテル [#改ページ]  一発の爆弾がいた。第四十五レベル、レイ|通り《シュトラーセ》、プロスペリティ|広場《プラザ》から遊歩道を百メートルばかり下った花とギフトの店バガテル≠フすぐ外だった。 「ぼくは爆弾だ」と爆弾は通行人に声をかけた。「あと四時間と五分十七秒で爆発するぞ。ぼくにはTNT換算で五万英国トンの爆発力があるんだ」  それを見ようとして小さな人だかりができた。 「ぼくはあと四時間四分三十七秒で爆発する」  爆弾が話すのを聞いて、心配になりはじめた人もいた。違う場所での仕事を思い出し、あたふたと立ち去って、キング・シティ行きの管状線《チューブ》列車に乗ろうとする。結果として、列車は定員オーバーとなり、かなり押し合いへし合いすることとなった。  爆弾は金属の円筒で、高さ一メートル、長さ二メートル、四つの操舵輪の上に乗っていた。円筒の上には四台のテレビカメラが一列に備え付けられていて、ゆっくりと九十度に首をふっている。それがどんなふうにそこに現れたのか、誰にも思い出せなかった。ちょっと見には市の街路清掃車に似ていたが、たぶんそのために誰も気に止めなかったのだろう。 「ぼくには五十キロトンの威力がある」と、いくぶん誇らしげに爆弾がいった。  警察が呼ばれた。 「核爆弾だ[#「核爆弾だ」に傍点]っていうの?」自治警察のアンナ=ルイーズ・バッハ署長はみぞおちに苦い痛みを感じて、薬用キャンデーの箱に手を伸ばした。新しい胃に取り替える時期が来ていたのだが、給与支払い小切手の額と、彼女がそれにつぎ込んだ費用とを考え合わせれば、ますますもってこの間に合わせの手段に頼らざるを得ないのだった。その上、クローン培養された移植用臓器の値段は上がる一方だった。 「そいつは五十キロトンだといってます」スクリーンに映っている男がいった。「だとすれば他の種類の爆弾じゃ無理でしょう。もちろん、でまかせをいってるんじゃないとしてですが。今、放射能検出器を移動させているところです」 「いってる[#「いってる」に傍点]っていったわね。脅迫状のことなの、それとも電話か何かあったの?」 「いえ。爆弾がわれわれに話しかけているんです。結構友好的なようですが、まだこっちの手が回らなくて、自分で武装解除するように頼んでみてはいない状態です。友好的ではあっても、そこまでする気はないかも知れません」 「たぶんね」彼女はキャンデーをもう一つ口にした。「爆弾処理班を呼ぶのよ、もちろん。それから、わたしが行くまで、状況を見きわめる以上のことはしないようにいいなさい。電話を二、三本かけてからそちらへ行きます。三十分もかからないわ」 「了解。そうします」  助けを請う以外に手はない。核爆弾が月《ルナ》で使われたことはこれまでなく、バッハにも彼女の爆弾処理班にもその経験がなかった。彼女はコンピュータをオンラインにした。  ロジャー・バークスンは自分の仕事を気に入っていた。労働条件のためではなく――そっちは最悪だ――特別手当のためだった。彼は一日二十四時間、三十日間の自宅待機《オンコール》をして、ほとんど天文学的な額の給料をもらう。それから十一カ月の有給休暇がある。勤務期間の三十日の間にその特殊な才能を発揮したかどうかにかかわらず、彼は一年分の給料を支払われていた。その意味では消防士に似ていた。ある意味で彼は確かに消防士だった。  彼は長い休暇を月《ルナ》で過ごしていた。どうしてそうするのか、バークスンに尋ねた者はいなかった。たとえ尋ねたとしても、バークスンはわからないと答えただろう。しかし彼は、潜在意識の中で、いつの日か地球全体が爆発して一つの光り輝く火の玉になるだろうと確信していたのだ。そうなった時に、彼はその場に居あわせたくなかったのだ。  バークスンの仕事は爆弾処理だった。彼は|コ《C》ムイーコン・|ヨ《E》ーロッパと呼ばれる地政学上の行政区域のために働いていた。一回の激務で、彼は二千万人のCEヨーロッパ人の命を救うことができるはずだった。  レイ|通り《シュトラーセ》で爆弾騒ぎがあった時、月《ルナ》で休暇を楽しんでいた地球人の爆弾専門家は全部で三十五人いたが、その中でたまたま爆発が予想される場所の最も近くにいたのがバークスンだった。セントラル・コンピュータがバークスンを見つけたのは、バッハ署長が最初の報告の電話をきってから二十五秒後だった。彼は、プロスペリティ|広場《プラザ》から五百メートル離れた地下ゴルフコース、バーニングツリー≠フ十七番グリーンで、パットの芝目を読んでいた。その時、ゴルフバッグが鳴りだした。  バークスンは金持ちだった。機械の代わりに人間のキャディを雇っていた。そのキャディが、持っていた旗を置いて、電話の方へ行った。バークスンは二、三度素振りをしたが、もう気が散ってしまったのはわかっていた。肩の力を抜いて、電話に出る。 「あなたのアドバイスを頂きたいんです」と前置きなしにバッハが口を開いた。「わたしはニュードレスデンの自治警察署長、アンナ=ルイーズ・バッハ。レイ|通り《シュトラーセ》に核爆弾があるという報告を受けたんですが、こちらにはこの手の専門家がいなくて。十分後に管状線《チューブ》の駅で会っていただけますか?」 「あんた、どうかしてるんじゃないか。おれは今、七十五をねらってあと二ホールなんだぜ。それも十七番は三フィートのやさしいパットを残すだけで、パー五の最終ホールが目の前だ。それなのに、デマを追いかけて行けっていうのか?」 「これがデマだと知ってるんですか?」イエスと答えてくれますようにと願いながら、バッハは尋ねた。 「ああ、いや、そのことは今あんたから聞いたばかりだが、この手の話の九割がたは、そうだろう」 「いいわ。じゃあプレイを続けてちょうだい。そんなに自信があるなら、警報が解除されるまでバーニングツリー≠封鎖しておくことにするわ。ちゃんとそこにいてよ」  バークスンはそのことを考えてみた。 「こことレイ|通り《シュトラーセ》とやらはどれぐらい離れているんだ?」 「六百メートルぐらいね。あなたのところから五レベル上で、一街区《セクター》向こう。心配いらないわ。あなたとそのデマの間には鋼鉄板が何十とあるはずですもの。あなたはただじっとしていればいいのよ。わかった?」  バークスンは無言だった。 「わたしは十分後に管状線《チューブ》の駅に着きます」とバッハはいった。「特別列車《カプセル》で行く予定。それが最後で、その後五時間はカプセルは出ません」彼女は電話をきった。  バークスンは地下コースを取り囲む壁をじっと見つめた。それからグリーンに膝をついてラインを読み、ボールにアドレスをとって、コツンとパットした。ボールはカップに沈み、満足げな音をカランとたてた。  バークスンは未練たらしく十八番ティーを見つめ、それからクラブハウスの方へゆっくり歩きだした。 「すぐ戻ってくるからな」と肩ごしに彼は叫んだ。  バッハの乗ったカプセルは二分遅れて到着したが、バークスンが姿を現すまでバッハはさらに一分待たなければならなかった。手首にはめ込んだ時計を見ようともせず、彼女はむかっ腹を立てた。  バークスンはパターを持ったまま乗り込んだので、カプセルが発車するとそのヘッドが後ろに倒れかかった。ほんの少し進んだところで、カプセルが止まった。ドアは開かない。 「交通システムが不通になったんだわ」とバッハはきまり悪そうにいった。地球人の面前で市のサービスが| 滞 《とどこお》るのを見るのは嫌な気分だった。 「ああ」とバークスンは、歯並びのいい信じがたい数の歯をちらりと見せて笑った。「避難によるパニックだ、間違いない。たぶん、管状線《チューブ》網を閉鎖しておかなかったんだろう?」 「ええ」と彼女。「わたし……そう、爆発が起こる場合、大勢の人にこのエリアから逃げられるチャンスがあった方がいいと思ったから」  彼は首を振って、またにやりと笑った。彼はまるで句読点を置くように、何か一言いうたびにこの笑いをはさんだ。 「市を封鎖すべきなんだよ。もしこれがデマだったら、パニックで何百人もが死んだり傷ついたりすることになる。避難しようとしてそうなるんだ。救えるのはせいぜい数千人だろう」 「でも……」 「連中をじっとさせておけ。もし爆発したら、どっちみち無意味だ。市全体が失われる。誰もあんたの判断に疑問を持ったりはしないさ。あんたも死ぬんだから。もし爆発しなければ、パニックを防いだといって安泰《あんたい》でいられる。そうするんだ。おれにはわかっている[#「おれにはわかっている」に傍点]」  バッハはこの時、本当にこの男が嫌いになったが、彼のアドバイスには従うことにした。彼の考えには実際、確かな冷たい論理があった。彼女は駅に電話し、市を封鎖した。かくして前方を交差するチューブから他の列車が消え、彼女のカプセルだけが優先的に動けるようになった。  命令が実施されるまで数分間の遅れがあった。それを利用して、二人は互いに相手の品定めをした。バッハはブロンドの、いかつい顎をした、チェックのセーターとゴルフズボンを着ている若い男を見つめた。彼は愛想のよい顔をしていたが、これは彼女には意外だった。もの柔らかな容貌にはこれっぽっちも不安の色が見られなかった。彼の両手は微動だにせず、パターの金属シャフトを自信ありげに握っていた。彼の態度を生意気だとか、あつかましいとかいう気はなかったが、とにかくも、ひたすら元気よく振舞っているようすだった。  突然彼女は彼がじっと自分を見つめているのに気がついた。その手が彼女の膝に置かれた時、彼の目が一体何を見ているのか不安になった。まるで平手打ちをくらわされたようだった。彼女は動転した。 「あなた、一体……その手をはなしてよ、この……モルモット[#「モルモット」に傍点]」  バークスンの手は上へとのぼっていった。彼が悪口に動じていないのは明らかだった。座席にすわったまま体をまわし、彼女の手をつかんだ。彼の笑顔は眩《まばゆ》いばかりだった。 「他にすることもなしに立ち往生させられているんだから、お互いをもっと知り合うのがいいんじゃないかと思ってね。何も実害はないだろ? 無駄な時間を過ごすのが嫌なんだ。それだけのことさ」  彼女は彼の手を振り切り、防御の姿勢をとった。悪夢を見ているような気がした。ところが彼の方はあっさりと引き下がってしまい、拒絶されたあとはしつこくする気はないようだった。 「わかった。待つとするか。でも、一緒に飲みに行きたいね。それか、夕食を共にだな。こいつを仕上げたあとでだぜ、もちろん」 「こいつを……≠チて、どうしてそんな事が思いつけるのよ……」 「こういう時にはね。わかってる。聞いたことがあるから。爆弾はおれを欲情させるのさ、それだけだ。よし、わかった。もう何もしない」彼はまたにやりと笑った。「だけど、これが終ったあとでは、たぶんきみも考えが変わると思うよ」  ちょっとの間、彼女は反動と恐怖の組合せから、吐き気を感じた。爆弾への恐怖である。このとんでもない男にではない。彼女の胃袋はプレッツェルのようにねじれた。なのにこいつは平然とすわって、セックスのことを考えている。とにかく、こいつは何なんだ?  カプセルがまた傾いた。彼らは移動していた。  人通りの絶えたレイ|通り《シュトラーセ》では、ステンレス・スチール製の商店の入口や、蛍光を放つ天井が、広場《プラザ》の管状線《チューブ》の駅から急ぎ足で駆けてくるおかしな二人組をぼんやりと照らし出していた。時代錯誤なゴルフウェアを着、つるつるした岩の床で靴を鳴らしているのがバークスン。彼より三十センチばかり背が高く、月人《ルナリアン》らしくほっそりとした体つきなのがバッハ。彼女は自治警察の制服を着ていた。すなわち、署長の身分を示す飾りのついた青い腕章と帽子、肩から吊したホルスター、腰につけたベルト――そこには職務上必要な道具類が装備され、凶暴な光を放っている。そして布製のスリッパ。他には思いついたように要所を覆うわずかな布切れだけ。温暖な月《ルナ》の地下回廊では、慎み深さなど大昔に消え失せていたのだ。  二人は爆弾のまわりに張られた非常線の所に着いた。バッハは担当の警官と打ち合せをおこなった。広場の空間には調子はずれな音楽がこだましていた。 「あれは何だい?」バークスンが尋ねた。  ウォルターズ巡査はバッハと話していたのだが、ちらりとバークスンの方を見た。このにやにや笑う変な男に一体どのくらい敬意を払えばいいのか推し量りながら。この男はさっきの電話でバッハが話していた爆弾の専門家に違いない。だが彼は地球人で、しかも軍人ではない。 「サー」をつけて呼ぶべきなのだろうか? 彼にはわからなかった。 「爆弾です。五分前からああして歌っているんです。たぶん話す話題がなくなったんでしょうね」 「面白い」ゆっくりとパターを左右に揺らしながら、彼は立入禁止区域の色を塗ったスチール製の通行止めまで歩いて行った。彼はその一つを横へずらしはじめた。 「やめろ……ああ、おやめ下さい、サー」とウォルターズがいった。 「ちょっと待って、バークスン」バッハが重ねていい、彼の方へ走っていって、袖をつかもうとした。もう少しのところで、彼女は後ずさった。 「誰もその中に入ってはならないとあいつがいってるんです」ウォルターズはバッハの不審そうな目を見てそう付け加えた。「われわれ全員を〈|うら側《ファーサイド》〉まで吹き飛ばすぞっていうんです」 「そもそもの話、一体あいつは何なの?」哀れっぽくバッハが聞いた。  バークスンは通行止めから身を引き、如才なく腕をとってバッハをわきへと連れていった。彼はウォルターズに聞こえないよう声を低めると、彼女にいった。 「爆弾と結合されたサイボーグ人間だ。おそらくウラニウム爆弾だろう」と彼はいった。「あのデザインは見たことがある。三年前、ヨハネスブルグで爆発したやつに良く似ているんだ。まだ作っていたとは知らなかった」 「聞いたことがあるわ」バッハは寒気と孤独を感じながらいった。「じゃあ確かに爆弾だと思うわけね? どうしてサイボーグだってわかるの? テープ録音かコンピュータだとかいうことはないの?」  バークスンがちょっと目をぎょろつかせたので、バッハは顔を赤くした。何よ、当然の疑問じゃないの。驚いたことに、彼は自分の意見を論理的に弁護することができなかった。彼女はにせものをつかまされたんじゃないかと不安になった。この男は本当に彼女の思っているような専門家なのか、それともチェックのセーターを着たサギ師なんだろうか? 「直感にすぎないといわれてもかまわんさ。おれはこいつと話してみる。その間にこの真下のレベルまで工業用]線装置を運んできて欲しい。真上のレベルにはフィルムが要る。何をやりたいかわかったかい?」 「内部の写真を撮りたいわけね。危険じゃないの?」 「危険だよ。保険の掛金はもう払い終ったのかな?」  バッハは何もいわなかった。それでも命令を下した。百万もの疑問が彼女の頭で渦を巻いていたが、下らない質問をしてばかにされたくはなかった。例えば、岩石と鋼鉄の床を突き抜けるだけのビームを作り出す強力な工業用]線装置とは、一体どれだけの放射線を放つのだろうか? 答えはあまり聞きたくないような気がした。彼女はため息をつき、バークスンの手に負えないと思うまでは彼の好きなようにさせようと決心した。彼こそ、彼女の持てるほとんど唯一の希望だった。  彼の方は無とんじゃくに境界のまわりをぶらつき回っていた。邪魔なパターを背中で揺らし、爆弾からの調べとマッチしない口笛を吹いて。一体、はえ抜きの警察官は何をすればいいのだろうか? ハーモニカで彼のバックをつとめることか?  爆弾の上についた走査カメラが、行ったり来たりするのを止めた。その一つがバークスンを追い始めた。彼は即座ににやりと笑い、手を振ってみせた。音楽が止まった。 「ぼくは五十キロトンのウラン二三五タイプ原子爆弾だ」爆弾がいった。「ぼくの作らせた境界線を越えてはいけない。この命令に背くことは許されないぞ」  バークスンは笑いながら両手を上げた。そうして指をぱっと広げた。 「気に入ったぜ、兄弟。おれはきみに迷惑をかけるつもりはない。ただきみの外装に魅せられただけなんだ。実に素晴らしい仕上がりだなあ。こいつを吹っ飛ばしちまうとは、何とももったいない話だ」 「ありがとう」と爆弾は心のこもった声でいった。「でもそれがぼくの目的なんだ。それを止めさせようとしても無駄だよ」 「決して考えない。約束するぜ」 「大変結構。もしそうしたいなら、もっとぼくを誉めてくれてもいいよ。でも安全な距離からね。ぼくに飛びかかろうなんてしてはいけない。ぼくの配線の重要部分は安全に保護されているし、それにぼくの反応速度《レスポンスタイム》は三ミリ秒だからね。ぼくのところへたどり着くはるか前に点火することができるんだ。定められた時間がくるまでは、そんなことはしたくないんだけどね」  バークスンは口笛を吹いた。「すごい速さだな、兄弟。確かに、おれよりずっと速いや。きっとすてきだろうな、今までずっと神経の速度でうろうろやってきたあとで、そんなふうに動けるようになるっていうのは」 「うん。とっても愉快な気分だよ。これは爆弾になったことの、予期せぬ効果だね」  こいつは素晴らしい、とバッハは思った。バークスンへの嫌悪感によって彼女の目は曇らされてはいなかった。彼は自分の直感を確認しようとしているのだ。彼女の疑問は答えられた。あんなふうに質問に答えるテープなんて存在しない。自分が以前人間だったと認めるような機械はあり得ない。  バークスンは周囲を一回りし終えて、バッハとウォルターズの立っている所へ戻ってきた。彼は立ち止まり、低い声でいった。「時間をチェックしろ」 「何の時間?」 「きみが爆発するというのはいつだったっけ?」彼は大声でいった。 「あと三時間、二十一分、十八秒だ」と爆弾が答えた。 「その時間だ」と彼はささやいた。「コンピュータに調査させろ。何かの政治団体の記念日だとか、誰かが恨みを持つような事の起こった時刻だとか、調べてみるんだ」彼は離れて行こうとした。それから何かを思いついた。「だが一番重要なのは、出産記録を調べることだ」 「理由を聞いてもいいかしら?」  彼はぼんやりしているように見えた。それからわれにかえった。「おれは今こいつの内心を探ろうとしていたんだ。たぶん奴の誕生日じゃないのかな。この時刻に誰が生まれたかを調べるんだ――そんなに大勢じゃないはずだ、秒まで一致するのは――それから全員の所在を調べろ。居場所のわからなかった男がこいつに違いない。賭けてもいい」 「何を賭けるっていうのよ? で、どうして男だってことに自信がもてるの?」  またあの表情。また彼女は顔を赤くした。けれども、ちくしょうめ、質問はしなくちゃいけない。どうして彼の前だと守勢に立たされてしまうんだろう? 「なぜなら奴はスピーカーから流すのに男性の声を選んだからだ。これが決定的な証拠じゃないことぐらいわかってる。でもしばらくすればきみにも直観的にわかるさ。それで何を賭けるかっていうとだな……いや、命じゃないぜ。おれは間違いなくこいつを始末するんだからな。おれが勝ったら、今夜一緒に食事するってのはどうだい?」無邪気な笑顔。彼女が前に見たと思ったスケベったらしさはかけらもない。でも彼女の胃袋は依然としてむずむずしていた。彼女は何も答えずきびすをかえした。  続く二十分間はほとんど何も起こらずに過ぎた。バークスンはまだ機械の周囲をゆっくりとぶらつき、時々立ち止まっては感心したようにうなずくことを続けていた。三十人の男女からなるバッハ署長の警官隊は何もすることがなく、機械が偉そうに許可した距離だけ離れて、いらいらしながら取り囲んでいた。隠れるのは無意味だった。  バッハ自身は角を曲がった所の、エリシアン旅行代理店に設置された指令所から、裏工作を指揮するのに忙しかった。そこには電話とコンピュータ|出力《アウトプット》のプリンターがあった。彼女は警官たちのモラルが低下しつつあるのを感じた。事態がどう進行しているのか彼らには知りようがないのだ。もし調査用のレーザーが広場《プラザ》の木々の間から鼻を突き出し、千分の一ミリの正確さで狙いを定めているということを彼らが知っていたなら、もう少しましな気分になっただろうに。そして下の階には]線装置が到着していた。  十分後、アウトプットが音を立て始めた。バッハは静寂《しじま》の中でその音が回廊にこだまするのを、旅行代理店と爆弾との中間点に立ったまま聞いた。彼女はきびすをかえし、新人の緑の腕章をつけた若い警官と会った。その婦人警官は氷のように冷たい手でバッハに黄色いプリントアウトの用紙を手渡した。そこには三人の名前が印刷され、その下に日付と事件のリストがあった。 「この下の情報は検索条件を四倍に拡大して出てきたものです」と警官が説明した。「非常に確率の低いものです。一方この三人はみんな誤差三秒以内で、指定された時刻に生まれた者です。年は三人とも違いますが。これ以外の者とは全員コンタクトがとれています」 「三人の捜索を続けなさい」とバッハ。もとの場所へ戻りながら、彼女は若い警官が妊娠していることに気がついた。五ヵ月目くらいか。一瞬、彼女をこの場から遠ざけた方がいいと思ったが、でもそれが何の役に立つというのか?  バークスンは彼女が来るのを見て、爆弾の周囲をゆっくりと回るのを止めた。彼は用紙を取り上げ、さっと眺めた。確率が低いと聞く前に、彼は下半分をちぎって丸め、地面に捨てた。頭をかきながら、彼はゆっくりと歩いて爆弾の所へ戻った。 「ハンス?」と彼は呼びかけた。 「どうしてぼくの名前を知ったんだ?」と爆弾が尋ねた。 「ああ、ハンス、きみはおれたちにも多少は分別があるってわかってるだろ。自治警察に大変素早い捜査能力があるってことを知らないまま、こんな事件を起こすなんてあり得ないはずだ。きみのことを過小評価しているんじゃないとすれば。そうだろ?」 「そうだ」と爆弾は認めた。「きみたちがぼくが誰か捜し出すだろうっていうことはわかっていた。でもそれで事態は変えられないぞ」 「もちろんそうとも。でもそれで話がしやすくなるじゃないか。きみの人生はどんなふうだったんだい、友よ?」 「ひどいもんさ」と五十キロトンの核兵器になった男は嘆いていった。  ハンス・ライターは毎朝ベッドから転がり出て起きると、こぢんまりとした居心地のいい洗面所へゆっくり歩いていった。それは居住アパートメント・モジュール用の標準モデルではなく、彼がここへ越して来たあとで備え付けさせた特別製のものだった。ハンスは一人で住んでいた。そしてそれは彼が自分に許した唯一のぜいたくだった。彼の小さな宮殿の中で、彼は椅子に腰を下ろした。椅子は彼の頭がはっきりするまでマッサージをし、顔を洗い、髭を剃り、お化粧し、爪を切り、香水を振りかけてくれた。それから、本物と寸分違わぬゴム製のイミテーションを使って、彼とセックスしてくれた。ハンスは女性が苦手だった。  それから彼は服を着ると、回廊を三百メートルほど歩き、歩行者用滑降路《スライドウェイ》に身をまかせてクリシウム横断|管状線《チューブ》まで滑って行く。そこで彼は月《ルナ》の地下トンネル網の中へ、弾丸のように撃ち出されるのだった。  ハンスはクリシウム重機械工場で働いていた。彼の仕事は壊れた物ならほとんど何でも修理することだった。彼はそれが得意だった。人間といる時よりも機械といる時の方がずっと居心地よかったのである。  ある日彼は足を滑らせ、重いローラーに足を挟まれてしまった。これは重大な事故ではなかった。というのも、フェイルセーフ・システムが、彼の胴体や頭が傷つけられる前に機械を停止させたからである。けれども傷は大きく、彼の足はほとんどつぶれてしまって、切断しなければならなかった。クローン培養の移植用の足が育つまでの間、彼は義足をつけねばならなかった。  これが彼には天啓となった。それはまるで夢のようによく動いてくれた。古い足と同じか、ひょっとするとそれ以上だった。それは彼の切断された足の神経と接続されていたが、そこには限界以上の刺激に対する閉塞回路が内蔵されており、ある日彼が人工の向こうずねを擦《す》り剥《む》いてしまった時、ちっとも痛みを感じないのに気づいた。彼は血と肉を持つ方の足で同じ傷をした時どんな感じがしたかを思いだし、再び強い印象を受けた。彼はまた、機械に足を挟まれた時の苦痛をも思いだしていた。  新しい足の移植の準備ができた時、ハンスは義足のままでいる方を選んだ。異常なことだったが、先例のないことではなかった。  その時からずっとハンスは、もともと同僚からは口数が少なく社交的でないと思われていたのだが、ますます仲間の人間たちから遠ざかるようになった。彼は話しかけられた時だけ口を開いた。けれども、見た者の話によると、彼はプレス機や冷水機、それに掃除ロボットとは話をしているということだった。  夜になると、バイブレーター付きのベッドにすわって、一時までホロビジョンを見るのが彼の習慣だった。その時間になると、キッチンが彼に夜食を用意してくれ、彼のいるベッドまでそれを運んでくれることになっていた。それから彼は寝るのだった。  ここ三年間、ハンスはベッドに入る前にテレビをつけるのを怠《おこた》るようになった。にもかかわらず、彼は依然としてベッドにすわり、何も映らないスクリーンを黙って見つめることを続けているのだった。  個人データのプリントアウトを読み終った時、バッハは彼女が管理している機械の能力にあらためて感心した。この男はほとんど無に等しい。にもかかわらず、彼の平凡な人生についての、いつでも呼び出すことができ、たまらなく退屈な伝記をプリントアウトできる九千語の情報が記憶されているのである。 「……そこできみは人生のあらゆるステップを機械にコントロールされていると思うようになったんだね」とバークスンが話していた。彼は通行止めの一つに腰を下ろし、足を前後に揺すっていた。バッハは彼の所へ行き、長いプリントアウトの紙を手渡した。彼はそれを払いのけた。彼女は何も文句をいえなかった。 「でもそれは真実だ!」と爆弾がいった。「ぼくらみんながだ、そうだろ。ぼくらはこの巨大な機械、ニュードレスデンの一部品にすぎないんだ。ぼくらは組立ラインに乗った部品のように動かされ、体を洗われたり、物を食べさせられたり、ベッドに寝かされて子守歌で眠らされたりするんだ」 「ああ」とバークスンは同意するようにいった。「きみは反機械主義者《ラッダイト》なのかい、ハンス?」 「とんでもない!」爆弾は驚いたような声でいった。「ロジャー、きみは全体的に間違ってるよ。ぼくは機械を壊したりしたくない。もっと一生懸命に奉仕したいんだ。ぼくは機械になりたかった。新しいぼくの足のように。わからないかい? ぼくらは機械の一部なんだ。ところが最も効率の悪い部品なのさ」  二人は話し続けていた。バッハはてのひらの汗をぬぐった。彼女には事態がどう進行するのか予想できなかった。わかるのはただ、バークスンが彼の目的を遂げようとして、真剣にハンス・ライターと話したがっているということだけ――彼女は腕時計を眺めた――二時間四十三分。気が狂いそうだ。一方では、彼がこのサイボーグと親密な関係を築こうとしてテクニックを駆使しているのがわかっていた。二人は名前で呼び合う仲になっている。少なくとも機械は自分の境遇を話し合いたい気分になっているのだ。その一方では、それがどうしたっていうのか? 一体何の役に立つというのだろう?  ウォルターズが近寄り、彼女の耳にささやきかけた。彼女はうなずき、バークスンの肩をたたいた。 「いつでも写真をとる用意ができたわ」と彼女はいった。  彼は彼女を払いのけた。 「邪魔をするんじゃない」と彼は荒々しくいった。「面白くなってきたところなんだ。じゃあ、もしきみのいうことが本当なら」彼はハンスに話し続けた。立ち上がり、熱心に行ったり来たりしながら。今回は通行止めの線の内側で。「おれも自分で確かめた方がいいんだろうな。きみは本当に人間でいるよりサイボーグでいる方がいいのかい?」 「絶対にそうさ」と爆弾がいった。その声には恍惚《こうこつ》の響きがあった。「今じゃ、寝る必要もない。排泄や食事に煩《わずら》わされることもない。ぼくには栄養タンクがあって、脳や神経中枢のある部分に栄養を供給しているんだ」彼はちょっと黙った。「ぼくはホルモンの流れの増減も除去しようとした。それに伴う感情的な反応もね」彼はそう打ち明けた。 「気まぐれは無しってわけだな、じゃあ?」 「そうさ。それがいつもぼくの悩みの種だったんだ。だからぼくをサイボーグにしてくれて、こういったすべてから解放してくれる所があるって聞いた時、ぼくはそのチャンスに飛びついたのさ」  所在のなさがバッハを短絡的にしていた。何かをいうかするかしなければどうしようもなくなっていた。 「どこでその仕事をしてもらったの、ハンス?」彼女は思い切っていった。  爆弾は何か言葉をいいかけたが、バークスンは大声で笑い、バッハの背中をどんとたたいた。 「おっと、だめだよ、署長。そんな手にゃのらないよな、ハンス? この女《ひと》はきみを裏切り者にしようとしてるんだ。そうはいかないさ、署長。体面を考えている時じゃない」 「そこにいるのは誰だ?」と疑いの声で爆弾が尋ねた。 「アンナ=ルイーズ・バッハ署長を紹介しよう。ニュードレスデン警察の。アン、ハンスだ」 「警察?」とハンスはきき返し、バッハはその声に恐怖の響きを感じ取って、とりはだが立った。こいつをこんなに怖がらせて、一体何をするつもりなんだろう? 彼女はもう少しでバークスンをこの事件から降ろそうと決意するところだった。それを思いとどまったのは、そこによく知ったパターンが見えたように思ったからだ。彼女が首を突っ込む上で役に立つパターン。まあ不面目なものではあるが。これはなつかしのホトケとオニ≠フテクニックだ。本にもある、警察の最古のテクニック。 「ああ、怖がることはないよ」とバークスンはハンスにいった。「全部の警官が乱暴者というわけじゃない。ここにいるアンがそうだ。とってもいい人なのさ。彼女にチャンスを与えてやってくれ。仕事だからしかたなくやっているだけなんだ」 「うん、ぼくは警察に偏見を持っちゃいないよ」と爆弾がいった。「彼らも社会という機械の機能を維持する上で必要なんだ。法律と秩序は来るべき新たな〈機械社会〉の基本認識さ。お目にかかれて光栄です、バッハ署長。状況が私たちを敵同士にしなければよかったのですが」 「お会いできて嬉しいわ、ハンス」彼女は次の質問を口にする前に、注意深く考えた。何も彼女が高飛車に出て、愛想が良く馴れ馴れしいバークスンとのコントラストをつけてやる必要はない。敵対する必要はないが、彼の動機を探る質問くらいなら、したとしても害はないだろう。 「教えて、ハンス。あなたは反機械主義者《ラッダイト》じゃないっていったわね。機械が好きだっていったでしょ。もしあなたが爆発したら一体体どれくらいの機械が破壊されるのか知ってるの? それにもっと重要なのは、あなたが話してくれたこの社会機械については一体どうするつもりなの? 市全体をふっとばそうとしているのよ」  爆弾は言葉をさがしているようだった。彼は躊躇《ちゅうちょ》した。バッハはこの狂気のさたが始まって以来初めて、かすかな希望を感じた。 「あなたは理解していない。あなたは有機体の観点から話している。あなたには命が重要だろう。機械は命なんて気にしないんだ。機械の損傷は、それが社会機械だったとしても、単に修理すればいいだけのことだ。ある意味で、ぼくはその実例を示したい。ぼくは機械になりたかった――」 「そして最高の、究極の機械とは」とバークスンが口をはさんだ。「原子爆弾だ。それこそあらゆる機械的思考の行き着くところだからね」 「その通り」と大変嬉しそうな声で爆弾がいった。理解されることは素晴らしかった。「ぼくはもしできるものなら、まさしく最高の機械になりたかった。これこそがそれに違いないものだ」 「美しいよ、ハンス」バークスンはため息をついた。「きみのいってることは良くわかる。だから、もしその線に沿って考えをつきつめていけば、結論は論理的に出るってもんだ……」そして彼は沈黙し、新たな機械主義者の世界観から素晴らしいとされるポイントを見つけ出そうとした。  バッハが二人のどちらがより頭がおかしいのか決めかねているところへ、もう一通のメッセージが届いた。彼女はそれを読み、二人の会話に口をはさむきっかけを掴もうとした。しかし、なかなかうまいきっかけが掴めなかった。バークスンはますます活気づいて、ほとんど口から泡を飛ばさんばかりに、二人の合意点を見つけては話しかけていた。バッハには周囲に立っている警官たちが、会話を聞いていらいらしてきているのがわかった。その表情から、彼らが裏切られ、ゼロ・アワーが来た時にもまだそこにいて知的ピンポンを見物させられることを恐れているのが明らかだった。けれどもそれよりずっと前に、彼女は責任をとって行動を起こすだろう。彼らの中には、おそらくは無意識の内に、武器に手をかけている者もいた。  彼女はバークスンの袖に手をかけたが、彼はそれを振り払った。くそっ、これじゃあんまりだ。彼女は彼をぐいとつかみ、足元から引きずらんばかりにして向きを変えさせ、彼の耳に口を近付けてうなった。 「聞くのよ、このバカ。写真をとる準備ができたの。少し下がった方がいいわ。みんな遮蔽《しゃへい》されてた方がいいの」 「ほっといてくれ」と彼はいい返し、彼女の手を振りほどこうとした。けれどもその顔はまだ微笑んでいた。「ちょうど面白くなってきたところなんだ」と彼は普通の調子でいった。  バークスンの命はその時風前のともしびだった。三丁の銃が警官の輪から彼を狙い、発射の命令を待っばかりになっていた。彼らは自分たちの署長がこんな扱いを受けるのを見るに忍びなかったのである。  バッハ自身、もう少しで命令を下しそうになるところだった。彼女を押しとどめたのはただ、バークスンが死んだら機械は予定時間を待たずに爆発してしまうだろうとの確信があったからだ。今の彼女には、彼を排除してできる限りのことをするしかない。必ず失敗するとわかっていながら。 「でもおれにわからないのは」とバークスンがいった。「なぜ今日なのかってことだ。今日何があったんだい? サイラス・マッコーミックがコンバインを発明した日とか、そういうの?」 「ぼくの誕生日なんだ」とハンスはいくぶん照れくさそうにいった。 「きみの誕生日[#「誕生日」に傍点]?」バークスンはもう知っているその事実を、いかにも初耳だというように、おおげさに驚いてみせた。「誕生日なのか。そいつはすごい[#「すごい」に傍点]ぞ、ハンス。本当におめでとう、友よ」そういって彼は振り向き、警官たちの方に向かって大きく手を振った。「歌おう、みなさん。さあ、どうぞ、今日は彼の誕生日なんだ。ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー、ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー、ハッピー・バースデイ・ディア・ハンス……」  彼は調子はずれな声を低め、リズムを無視して両手で大きく円を描いた。彼の狂的な熱意には伝染性があったので、何人かの警官は気がついた時には自分も歌に加わっていた。彼は警官の輪を回り、両手を大きくすくうように動かして彼らから声を引き出した。  バッハは頬の内側を噛みしめ堅く口を閉じた。彼女もまた歌い出してしまったのだ[#「彼女もまた歌い出してしまったのだ」に傍点]。情景はあまりにもバカバカしく、あまりにも暗澹《あんたん》として想像を絶していた……。  同じ思いに打たれたのは彼女一人ではなかった。彼女の部下の警官の一人、修羅場《しゅらば》で勇気を奮い立たせるタイプの勇敢な男が、失神してうつむけに倒れた。一人の婦人警官は両手で顔を覆い、力なくせき込みながら回廊を走っていった。彼女は物陰を見つけ、そこで吐いた。  それでもバークスンはまだ浮かれ騒いでいた。バッハは肩に下げたホルスターから銃を半分抜き出した。その時彼が叫んだ。 「パーティなしの誕生日なんてありか?」彼はいった。「でっかいパーティをやろう」彼はあたりを見回し、花屋に目を止めた。そちらへ歩いて行き、バッハのそばを通り過ぎる時に小声でささやいた。「今だ[#「今だ」に傍点]、写真をとれ」  それが彼女の神経に電流を流した。彼女は彼がちゃんと理解した上であんな態度をとっているのだと必死になって信じようとしていた。そしてまさに彼の狂気が頂点に達したと思えたその瞬間、彼は筋道を示したのだ。彼は気をそらせようとしているんだ。どうか、そうであってくれ。彼女は後ろを向き、プロスペリティ広場《プラザ》の端に立っている警官に事前に決められた合図を送った。  彼女が振り向いた時、バークスンが花屋のショーウィンドーをパターで砕くのが見えた。耳の痛くなるような音がした。 「大変だ」とハンスがいった。本当にショックを受けている様子だった。「そんなことをする必要があったの? 私有財産じゃないか」 「それがどうしたって?」バークスンはどなった。「なあ、おまえ、もっとずっと大変なことをもうじきしでかすつもりなんだろ。おれはその手始めとしてやっただけさ」彼はウィンドーの中に手を入れ、腕いっぱいの花を取り出した。他の者にも手を貸すよう合図する。警官たちは嫌がったが、たちまち通行止めの線のすぐ外側で、店と建物を大きく取り巻いての略奪が始まった。 「きみのいうことは正しいと思う」とハンスが、少し息を殺していった。暴力の味が彼を興奮させ、これから起こることに興味をそそらせていた。「でもびっくりしたよ。すごくスリルがあった。人間だった時にもなかったような奴さ」 「じゃあ、もうちょっとやってみようか」バークスンは手当たりしだいにそこらじゅうの窓を割りながら通りの片側を走って行き、また駆け戻った。店の中で見つけた小さな品物を拾い上げては投げ捨てる。その中には当たって砕けるものもあった。  彼はとうとう立ち止まった。レイ|通り《シュトラーセ》はその様相を変えてしまっていた。もはやピカピカに磨かれエアコンのきいた月《ルナ》の環境ではなく、破壊され、混沌として不確かな、緊張に満ちた刺激的な空気がそこにたちこめていた。バッハは身震いし、高まりゆく苦い胆汁の味を飲み込んだ。それはこれから起こることの前兆だと彼女は確信していた。落ち着いた目抜き通りだったレイ|通り《シュトラーセ》の荒廃は彼女に深い衝撃を与えた。 「ケーキだ」とバークスンがいった。「誕生ケーキがなくっちゃ。ちょっと待って、すぐに戻ってくるから」彼は素早く大またに歩いてバッハの方へ行き、彼女のひじを掴んで振り向かせると、有無をいわせず引っ張って行った。 「警官たちをここから遠ざけないといけない」と彼はあいさつでもするようにいった。「連中は緊張している。いつ爆発してもおかしくない。実際……」彼は愚かしい微笑をしてみせた。 「きっと連中の方が今じゃ爆弾よりも危険だぜ」 「あれはニセ物だと思うわけ?」 「いや。あれは本物だ。おれには心理パターンがわかる。これだけの騒動を起こした後じゃ、奴は不発で終るわけにゃいかんだろう。もし他のタイプだったら、のっぴきならない注目を浴びたならすぐにごまかそうとするはずだ。ハンスは違う。でもおれは奴をこっちの手にのせた。あいつの気持ちならわかるんだ。ところが警官たちのことは計算できない。連中を引き返させて、あんたが一番信用しているのを二、三人だけ残すようにしてくれ」 「わかったわ」彼女は再び、他の何よりもどうしようもない虚無感から、彼を信頼することにした。彼はすで[#「すで」に傍点]に手際よく花屋から方向転換していた。そしてX線からも。 「ひょっとしたら、もう奴はこっちのものだ」通りの端に着き、角を曲がったところで彼は話を続けた。「X線で充分、ということもある。回路が焼けて、信頼性をなくしてしまうんだ。あいつが即死してくれればいいんだが、シールドされているからなあ。そうだ、奴はたぶん致死量の放射線を受けているぞ。でもそれだと死ぬのに何日もかかる。それじゃあちっとも良くない。で、もし奴の回路がもう[#「もう」に傍点]ダメになっているとしても、それを知るには待つしかないんだ。もっとマシな手をうたんといかん。そこで、あんたにしてもらいたいのはこういうことだ」  彼は突然話を止め、体の力を抜いた。壁にもたれ木々の向こう、広場《プラザ》の人工の陽光を見つめる。バッハは鳥の鳴き声を聞いた。いつもなら彼女をいい気分にしてくれるはずの鳴き声。今彼女に思い浮かぶのは焼けて灰になった死体のみ。バークスンは指の先をじっと眺めた。  彼女は彼の話に耳をすませた。変な点もあったが、これまで目撃したことよりひどいわけではなかった。とにかく、彼には計画があったのだ。本当にあった……。安堵の気持ちがあまりに大きかったので、多幸症のムードに陥りかねなかった。今の状況ではとうてい許されないことだ。彼女は彼の提案にいちいち軽くうなずくと、そばに立っている警官にバークスンのいったことを確認し、それを命令にして伝えた。若い警官はそれをもって走り去り、バークスンはまた爆弾を見つめた。バッハは彼を掴んだ。 「どうしてハンスに、誰が彼に外科手術をしたのかっていうわたしの質問に答えさせなかったの? それもあなたの計画の一部?」その問いは半ば挑戦的なものだった。 「ああ。そうだ、あれね、まあそういったもんだ。奴と親しくなれるチャンスを逃したくなかったもんでね。でもあの質問は役に立たなかったと思うな。奴がそれを話すことに対するブロックがあったはずだ、間違いなく。もしかしたら、その質問に答えようとすると爆弾が爆発するようにセットされていたかも知れない。ハンスは狂人だ。でも奴を今の場所へ連れてきた連中を甘くみてはいけない。奴らの安全は保護されているはずだ」 「奴らって誰?」  バークスンは肩をすくめた。それがとても自然な、無邪気なしぐさだったので、バッハはまた腹を立てた。 「わからんね。おれは政治的な男じゃない、アン。モーリタニア連盟の解放区から来た反中絶運動かなんかおれは知らん。連中はそれを作り、おれはそれを解体する。ただそれだけのことだ。どうしてそうなったか調べるのはあんた[#「あんた」に傍点]の仕事だろ。もう始めてなくちゃいかんと思うがな」 「もうそうしてるわ」彼女は認めた。「わたしが思ったのはただ……その、地球から来たんだし、あそこじゃこの種の事件がしょっちゅう起こっているわけだから、あなたはひょっとしたら知っているのかもって……。もうイヤ、バークスン。なぜ[#「なぜ」に傍点]? なぜこんな事が起こるの?」  彼は笑った。バッハは赤くなり、ゆっくりと怒りに煮えたぎり始めた。部下の警官たちはみな、彼女の表情を見て、手近なシェルターに駆け込みたくなった。しかしバークスンは笑い続けた。彼は何も気にしないのだろうか? 「ごめんよ」と彼はなんとかそういった。「おれはその質問を前にも聞いたことがあるんだ。別の警察署長からね。こいつはいい質問だ」彼は顔に半ば微笑を浮かべて待ち受けた。彼女が何もいわないので、彼は続けた。 「あんたはこの事件について正しい展望を持っていないな、アン」 「バッハ署長と呼ぶのよ、バカ」 「オーケー」と彼は軽くいった。「あんたにわかってないのは、これが人込みに投げ込まれた手榴弾や、郵送された爆弾と何ら違いはないってことだ。コミュニケーションの一形態なんだよ。今日では、あまりにも人間が多いんで、何か注意を引こうと思ったらちょっと大きめの声で叫ばなくちゃいけない。単にそれだけのことなんだ」 「でも……誰が? 連中は正体を明らかにしてもいないわ。ハンスはそいつらの道具にすぎないっていったわね。爆弾につながれ、自分の意志で爆発しようと思っている。彼にはとうてい自分でこんなことをやれるだけの資力があったとは思えない。それはわかるの」 「ああ、奴らに聞いてみるといい。あいつが成功することを期待しているとは思えないな。ただの警告なんだ。もし連中が本当に[#「本当に」に傍点]本気なら、奴らの求めるような人間を見つけているだろう。政治的にコミットしていて、主義のために死ねる人間だ。もちろん、奴らにとっては爆弾が爆発したとしてもいっこうにかまわない[#「かまわない」に傍点]んだ。その時には嬉しい誤算だと思うだろう。それから奴らは立ち上がり、胸をドンドンと叩いて見せる。有名になるってわけだ」 「だけど一体どこでウラニウムを手に入れたのかしら? 保安が……」  初めて、バークスンはかすかないらだちの色を見せた。 「バカなことをいうな。今日への道筋は一九四五年に決定的に定められたんだ。それを避ける方法なんかどこにもない。道具の存在はその使用を暗示している。あんたはそれを責任ある人々だとあんたが思っている連中の手におさめておくよう、万全を尽くせばいいさ。でもそれは必ず失敗する。おれのいってることには、何の違いもないのさ。この爆弾は単なるもう一つの武器だ。蟻塚に置かれたサクランボ爆弾なんだ。一つの蟻塚にはとんでもないトラブルの種となるが、種族としての蟻にはちっとも脅威ではない」  バッハにはそんなふうに見ることはできなかった。彼女はそうしようとしたが、全く新しい広がりをもった悪夢であることに変わりはなかった。どうして彼は百万人の殺害と三人か四人が傷つくかも知れない無差別の暴力とを同等に考えることができるのだろう? 彼女は後者には慣れていた。彼女の街でも爆弾は毎日爆発していた。人間の住む街ならどこでも同じだ。人々はいつでも不満を抱いているのだ。 「おれはその気になれば降りて行って……いや、この上だったっけ?」バークスンは一瞬文化的差異に心を悩ませた。「とにかく、充分なだけ金を持たせてくれたら、おれはあんたのスラムのお仲間のところまで今すぐ上がって行って、好きなだけのウラニウムやプルトニウムを何キロでもあんたに買ってきてやるよ。ところで、あんたがわからなくちゃいけないのはそういうことだ。どんな物だって買えるんだ。どんな物でも[#「どんな物でも」に傍点]。適当な金額を払えば、一九六〇年やそれくらいの昔でも、武器の原料はブラックマーケットで買えたのさ。きっとひどく高かったはずだ。あんまり量がなかったからな。大勢の人間を買収しなければならなかっただろう。でも今じゃ……ああ、よく考えてみるんだな」彼は口をつぐんだ。感情を爆発させたことを気恥しく思っているようだった。 「ちょっと本で読んだことがあるのさ」と彼は弁明した。  非常線のところまで彼の後について戻りながら彼女はそのことを考えてみた。彼のいったことは真実だった。制御された核融合が大スケールでの利用にはあまりにもコスト高につくことが証明された時、人類は高速増殖炉を選択した。他の選択肢はなかった。その時から、テロリストの手に渡った核爆弾が人類の払うべき代償となった。そしてそれ以後も払い続けるべき代償に。 「もう一つだけ質問があるの」と彼女はいった。彼は立ち止まり、彼女に顔を向けた。彼の微笑は目がくらむほどだった。 「どんどん聞いてくれ。でもあの賭にゃ応じるつもりなんだろ?」  彼女は一瞬何のことをいっているのかわからなかった。 「まあ。じゃあウラニウムの地下売買組織を見つけるのを手伝ってくれるわけ? それはありがたいわ……」 「いやいや。そりゃあまあ、手伝うつもりだよ。接触するのには自信がある。このゲームに首を突っ込む前にはよくやったものさ。でもおれがいいたかったのは、あんたはおれが何も見つけられない方に賭ける気があるのかってことだ。何を賭けるかっていうと……そうだな、おれがそれを見つけしだい、一緒に食事をすること。期限は七日間。これでどうだい?」  彼女には選択の余地は二つしかないと思えた。彼から歩み去るか、彼を殺すか。だが彼女は三番目を見つけた。 「あなたって賭け事が好きなのね。どうしてだかわかるような気がするわ。でもそれがわたしの聞きたいことなの。どうしてそんなに落ち着いていられるの? 何でこいつがわたしや部下たちのように応《こた》えないの? 単にそれに慣れてるからだなんていわないでよ」  彼は考えた。「でも何でそうじゃいけないんだ? どんなことだって慣れてしまうだろ。さあ、賭けはどうするんだ?」 「そのことについて話すのを止めないつもりなら」と彼女は素早くいい返した。「腕をへし折ってやる」 「わかった」彼はそれ以上何もいわなかった。彼女もそれ以上何も聞かなかった。  火球は数ミリ秒の内に膨れ上がって、人間の理解できる言葉ではとてもいい表わせない地獄絵となった。半径五百メートル以内のものはすべて超高熱のガスとプラズマの中に、あっさりと消え去った。控壁、板ガラスの窓、床と天井、パイプ、ワイアー、タンク、機械、何百万もの安ぴか物やがらくた、本、テープ、アパート、家具、家の中のペット、男、女、子供たち。彼らは運が良かった。膨れ上がる爆発の衝撃は、その下の二百レベルを巨人に踏み潰されたダグウッドのサンドイッチのように押し潰し、鋼鉄のプレートを熱でパテのように変えて、まるでアルミ箔にでもパンチするようにたやすく穴をあけた。その上では、地表が音もなく月《ルナ》の夜空に膨れ上がり、砕けてその下の白熱する地獄を覗かせた。大きなかたまりが飛び散る。街の一街区《セクター》ほどもあるかたまりが。それからその中心部が崩壊してあとにクレーターが残った。その壁は熱いゼラチンのようにしたたり流れる、かつての迷路のようなコンパートメントや地下トンネルだ。爆発から二キロメートル以内では、人間の体は痕跡も残らなかった。一瞬の苦痛のみで抹殺されたその体は、壁を通り抜け、堅くドアを閉ざした部屋の中まで入ってきた熱と圧力の共同作業によって、焼き尽くされ、押し潰され、目に見えない有機物の薄膜となってしまった。遙かに離れた場所でも、その音は百万の人々の身を凍らせ、それから襲った熱が彼らを焼き、爆風がその肉を骨から剥がして、縮んだ棒切れのような姿にしてしまった。爆風が、構造的に充分強固だったために壊れずに残った回廊の間を伝わって弱まったのちも、そのすさまじさは迷路の住人たちに壊滅的打撃を与えた。爆心から二十キロメートル以内では、圧力扉がつぶれたすいかの種のように鋼鉄のフランジから飛び出していた。  残ったのは五百万の焼け焦げ吹き飛ばされた死骸と、一千万の重傷を負った、あと数時間か数日の命しかない人々だった。けれどもバッハは、爆発の気まぐれによって奇跡的に無傷で吹き飛ばされていた。彼女は後に千五百万人の幽霊を引き連れ虚空を突き進んでいた。彼らはみんなバースデイ・ケーキを手に持っていた。彼らは歌っていた。彼女はそれに加わった。 「ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー、ハッピー・バースデイ……」 「バッハ署長」 「ふうん?」彼女は冷たいものが体を走るのを感じた。しばらくの間、彼女にできたのはロジャー・バークスンの顔を見つめおろすことだけだった。 「もう大丈夫かい?」と彼が聞いた。心配しているようすだった。 「わたし……何があったの?」  彼は彼女の両腕を叩き、それから優しく揺すった。 「何も。しばらくふらふらとしていたよ」彼は目を細めた。「夢でも見ていたんじゃないのかな。おれはこの点について如才なくふるまおうと……ああ、そのつまりだな……前にも見たことがあるんだ。あんたはおれたちから逃避しようとしていたんだと思う」  彼女は手で顔をぬぐった。 「わたしもそう思うわ。でもその方向が間違ってたのは確かね。もう大丈夫よ」彼女は今振り返ってみて、あの夢の中で気絶してしまったり、進行中の事態からすっかり離れてしまったりはしなかったことを思い出した。彼女は目をそらさず、すべてを見つめていたのだ。爆発の記憶は、一瞬前にはあんなに生々しくリアルだったのに、もう単なる悪夢となっていた。  目が覚めたのにちっともマシな世界に変わってないとはひどい話だ。まったく冗談じゃない。これが悪夢の終った御褒美《ごほうび》だっていうの? 目が覚めたら何もかも大丈夫だったっていうのが本当でしょう。  ところが、ここにいるのは制服警官の長い行列。五十キロトンの原子爆弾のために、バースデイ・ケーキを手に持って。  バークスンはレイ|通り《シュトラーセ》の照明を消すように命令した。彼の命令がまだ伝達され終らない内に、彼は明りをパターで叩き壊した。すぐに何人かの警官が彼の手助けを始めた。  今や美しいレイ|通り《シュトラーセ》、ニュードレスデンの誉《ほこ》りは、かすかな明りがちらつく地獄へのトンネルと化していた。五百個のバースデイ・ケーキについた一千個の小さなろうそくの光は、あらゆるものを赤味がかったオレンジ色に変え、人々を魔物のような影に変えていた。警官たちは次から次へと、あわてて包装したプレゼントを運んで来た。花束、風船……。ハンス、今では鉛の容器に浮かぶ脳髄と神経系以外の何物でもなくなった小男。ハンス、この事件全体を引き起こした張本人。みんなに誕生日を祝ってもらうその彼は、装備したテレビカメラですべてを眺めながら、抑え難い喜びに包まれていた。彼は大きな声で歌った。 「ぼくは爆弾だ! ぼくは爆弾だ!」彼は叫んだ。今までこんなに楽しかったことはなかった。  バッハとバークスンはその場から遠ざかり、フラワーショップバガテル≠フ奥まった暗がりへと退却した。そこには、立体映像タンクが設置されていた。  X線写真は移動感光法で撮影されており、コンピュータによって三次元モデルを生成することができた。彼らはタンクの上に身をのり出すようにしてそれを調べた。そこにはバッハのいつもの爆発物専門家であるマッコイ警部と、月《ルナ》放射線研究所から来たもう一人の男とが加わっていた。 「これがハンスだ」とバークスンがいった。横のダイアルを使ってタンクの中の赤い光点《ドット》を動かしながら。それは十数本のワイアーを引きずったぼんやりとした灰色の物体の上で瞬《またた》いていた。バッハは自分の肉体を剥ぎ取らせるまでに至った圧力というものを考えて、また変な気分になった。その鉛の壜の中には人間の核となる部分、脳髄と中枢神経系以外に何もなかった。 「ここに爆弾の本体がある。臨界量に達する寸前の二つのウラニウム塊だ。高性能爆薬、時限装置、安全装置、いまそいつは外されている。古めかしいデザインだ。古い、けれど信頼性は高い。弓と矢みたいに基本的なものさ。ニッポン帝国のヒロシマに最初に落とされたのとほとんど同じ奴だ」 「それで、爆発することは確かなの?」バッハが口をはさんだ。 「税金と同じくらい確実だね。ほんと、この手の奴なら、ウラニウムと何か遮蔽物さえあれば、子供でも風呂場で作れるってもんだ。さあ、ちょっと見せてくれ」彼はタンクの中の映像を凝視した。専門家と共にワイアーの配線を追う。彼らは可能性を議論し、攻撃方法や弱点を話し合った。最後に何とか合意点に達したようだった。 「今見たように、選択は一つしかない」とバークスンはいった。「奴の爆弾に対する随意コントロールを攻めなければならないんだ。奴から起爆装置へとつながっているメインケーブルは、まず間違いなく判別できたと思う。それを攻撃すれば、奴には何もできなくなるんだ。おれたちは何か適当な手段であの缶詰をこじ開け、この方法でもって無力化することができるはずだ。マッコイ?」 「その通りです」とマッコイがいった。「あとまる一時間あります。わたしたちがあの中に入るには問題ないはずです。奴をサイボーグ化した時、人間のオペレーターがすべての作業をしたはずですから。奴らはわざわざ入口を塞いだりはしていないでしょう。われわれが何かしようとして充分なだけ近づくよりも先に、ハンスはそれを察知して爆発させられるんですからね。奴のコントロールを外してしまえば、単にトーチで焼き切って制御棒を落としてやればいいんです」  放射線研究所の男も同意してうなずいた。「もっともわたしは、バークスン氏が正しいケーブルを判別できるかどうか、氏がいうほど確信をもってはいませんが。もっと時間があれば……」 「もう充分時間は無駄にしているわ」バッハはきっぱりといった。彼女はロジャー・バークスンへの感情を恐怖に近いものから全幅の信頼へと素早く切り替えていた。それが彼女にできる唯一の防御策だった。彼女は自分が爆弾に関してはまったく手も足も出ず、誰かを頼らねばならないことを知っていた。 「じゃあ、そいつを実行しよう。きみの部下は配置についているか? 何をすべきかわかっているのか? そして何よりも大丈夫[#「大丈夫」に傍点]なのか? 本当に大丈夫か。次のチャンスはないんだぞ」 「イエス、イエス、イエスよ」とバッハ。「ちゃんとやり遂げるわ。月《ルナ》の岩を焼き切るのはお手のものよ」 「じゃあ、座標を渡せ。そして実行開始だ」バークスンは少しリラックスしたように見えた。  バッハには彼が今までいくぶん緊張していたように思えた。もしかしたら単にチャレンジする興奮というだけかも知れないが。彼はちょうど最後の命令を出し終ったところだった。事態はもはや彼の手を離れてしまった。宿命的なギャンブラーの本能が働きはじめ、彼がこの冒険に持ち込んだとどまることのない激しいエネルギーは消え失せた。もはや待つことしかなかった。バークスンは待つのに慣れていた。彼はこれまで二十一回の|最後の秒読み《ファイナルカウントダウン》を生き抜いてきたのだ。  彼はバッハの方を向いて何かいいかけ、それから考え直した。彼女はその顔に初めて疑惑のような表情を見て、ぞっとした。そんなばかな。彼女は彼が本気だと思った。 「署長」と彼は静かにいった。「おれはこの数時間のおれの態度を謝りたい。仕事中はコントロールできなくなることがあるんだ。おれは……」  今度はバッハが笑う番だった。緊張が解けて、ほとんどオルガスムを感じたような気がした。もう百万年も笑ったことがなかったように思えた。 「ごめんなさい」と彼女。「あなたが心配しているように見えたの。で、爆弾のことだと思ってたもんだから。ほっとして笑っちゃったのよ」 「ああ、そうか」と彼はいって、気分を転じた。「今は何も心配することはない。きみの部下がうまくやろうとやるまいと、どっちにしてもね。もし失敗してもそれを知ることはない。おれがいおうとしてたのは、ただおれの身に起こったことについてなんだ。正直にいうと、おれは性的に興奮し、躁状態になって、他の人間のことを完全に忘れていた。ただの操ることのできる物体として以外はね。それで、おれはただ、あんたが好きだっていいたかったんだ。おれを使ってくれてありがとう。もううるさくつきまとったりはしないよ」  彼女は身を寄せ、彼の肩に手をおいた。 「ロジャーって呼んでもいい?ありがとう。聞いて、もしこれがうまくいったら、あなたと夕食にいくわ。街の鍵を渡して、大歓迎の行進をして、それからコンサルタント料としてすごいボーナスと……わたしの永遠の友情を約束するわね。わたしたちは緊張してたのよ、そうでしょ? この数時間のことは忘れましょう」 「オーケー」彼の笑い顔は今回はまったく違って見えた。  外側では、非常に素早く事が運んでいた。爆弾の下に設置されたレーザー・ドリルの係員は射程計算と報告書から目標点に厳密な狙いを定めた。  ビームが天井の岩盤を溶かしてレイ|通り《シュトラーセ》の大気中に出てくるのには十分の一秒もかからなかった。それは爆弾の下側の金属カバーを、危険なワイアーを、爆弾の反対側を、そして天井の一部を、そこに何も存在しないかのように溶かして貫いた。スイッチが切られたときには、それは上のレベルにまで達していた。  シャワーのようにスパークが飛び、短い滑るような音がして、それからどしんという鈍い音がした。爆弾の全体が震え、上と下にうがたれた穴から煙がフユーッと音を立てて吹き出した。バッハは何もわからなかったが、自分が生きていることはわかったし、事件が終ったのも推測できた。彼女はバークスンの方を向き、その顔を見て、ショックのあまりほとんど心臓が止まりそうになった。  彼の顔は土気色で、すっかり血の気が失せていた。口はぽかんと開けたままだった。彼はよろめき、ほとんど倒れそうになった。バッハは彼を支え、静かに床へ寝かせた。 「ロジャー……何なの? もしかしてまだ……爆発するの? 答えて、答えてよ[#「答えてよ」に傍点]。わたしはどうしたらいいの?」  彼は弱々しく手を振り、彼女の手を叩いた。彼女には彼がぽんと叩いて安心させようとしているのだとわかった。何とも弱々しい叩き方だったが。 「危険はない」と彼は苦しい息をして、呼吸を元に戻そうとしながらいった。「危険はない。ワイアー違いだ。間違ったワイアーを撃ってしまったんだ。運が良かっただけ、それだけだ。運以外の何ものでもない」  彼女は思いだした。彼らはハンスの爆弾に対するコントロールを無効にしようとしていたのだった。奴はまだコントロールできるのか? バークスンは彼女が聞くより早く答えた。 「奴は死んだ。あの爆発音だ。起爆薬が爆発したのさ。奴の反応は一瞬遅すぎた。おれたちが撃ったのは安全装置のスイッチだった。遮蔽材が落ちてきて、例え起爆薬が爆発しても臨界量のウランが一緒にならないようになった。でも奴はやった。奴は爆発させたんだ。あの音、あの、ズゥゥゥゥゥゥーン!」彼は彼女にいったのではなかった。彼の目は彼に恐怖をもたらしたある時間と場所を見つめていた。 「おれはあの音を聞いたことがある――起爆薬の音を――前に一度、電話で。おれはその女に電話で指導していた。ほんの二十五歳だった。そこへ間に合うように行けなかったからだ。彼女にはあと三分しかなかった。あの音が聞こえた。それから何も、何もなかった」  彼女は彼のそばの床の上に腰を降ろした。部下たちはがらくたを区分けし、爆弾を廃棄しようと引っ張って行きはじめていた。ヒステリックな安心感の中で笑い声やジョークが聞こえた。ついにバークスンは自分の体のコントロールを取り戻した。彼の目の遠い虚無感を除けば、爆弾事件の痕跡はどこにもなかった。 「一緒に来いよ」と彼はいって、少し助けてもらいながら立ち上がった。「これから二十四時間の休暇を取るんだ。きみは充分それに値するさ。バーニングツリー≠ヨ戻って、おれが十八番のパー五を片付けるのをその目で見るんだよ。それからデートをして夕食に行こう。いい場所を教えてくれよな」 [#地付き](大野万紀訳) [#改ページ] [#ページの左右中央]    びっくりハウス効果 [#改ページ] 「映画館の今夜の出しものをお確かめになりましたか、ミスタ・クウェスター?」スチュワーデスは印刷されたプログラムを手にしていた。 「いや、それに今はそんな暇はないんだ。船長はどこかな? 船長にはやるべきことがいくつか――」 「昔の平面映画の二本立てですわ」スチュワーデスは、抗議するような彼の口調に気づかずに続けた。「そういうものをごらんになったことがおありですか? とても興味深くて面白いものですわ。『SOSタイタニック』と、『ポセイドン・アドベンチャー』です。予約をお取りしておきますわ」  クウェスターは、立ち去って行くスチュワーデスに大声で言った。 「この船には非常に具合いの悪いところがあると教えてやろうとしているんだぞ。誰も耳を貸そうとしないのか?」  しかし彼女の姿は、浮かれ騒ぐ人々の中に消えてしまっていた。ただでさえ忙しいのに、神経質な乗客のでたらめな話を聞いている時間などないのだ。  クウェスターが〈地獄の雪つぶて〉を船と考えているのは、必ずしも正しいとは言えなかった。公式の案内パンフレットでは小惑星となっているが、それも宣伝文句でしかない。関係者以外の人間なら、誰でもこれを彗星と呼ぶことだろう。  所有者であるイカロス航路株式会社が、五百天文単位ほど離れた所を漂っているのを発見したのだった。直径が六十キロ、重さが百兆トンくらいのものだった。  運のいいことに、それは水素を豊富に含む液体が凍ってできたものだった。それを動かすには、非常に大きな核融合エンジンを設置するだけでよかった。そうして五年ほど何もせずに待ってから、速度を落として、水星の本影に入るような軌道に乗せたのだ。  会社には、単なる雪玉ではたいして客を集められないのがわかっていた。彼らは彗星の中にトンネルを掘り進めながら、乗客用の個室や食料貯蔵室や乗組員の居住区画を作っていった。そして内装業者が入り、むき出しの氷の壁を金属とプラスティックの板で覆い、それらの部屋に家具を満たした。場所はいくらでもあったし、エネルギーも余裕たっぷりだった。彼らは壮大な規模で働いたし、雄大な展望を持っていた。手に入れたこの彗星を使って、太陽へ遊覧旅行をしようと考えたのだ。  五十年間はうまくいった。太陽から守ってくれる本影の中からエンジンが〈雪つぶて〉を押し出し、一千万トンの氷とアンモニアを核反応で消費しながら、実際にコロナの縁をかすめる双曲線軌道に乗せた。商売は申し分なかった。〈地獄の雪つぶて〉は、太陽系内のバカンスで大当たりを取り、土星の輪よりも人気を得るようになった。  しかしそれも終わりにしなければならなかった。これが最後の旅となる予定だった。 巨大な彗星ではあるが、あまりにも多くの質量を蒸発で失ったために、太陽に接近すると安定を保てなくなりつつあったのだ。〈地獄の雪つぶて〉は旅をするごとに一億トンを奪われた。技術者たちが計算したところでは、それが内部の発熱によってばらばらになるまでには、あと一回しか航行できないということだった。  しかし、クウェスターは疑い始めていた。  エンジンのことがあったからだ。遊覧旅行の四日目の早くに、彼は彗星の裏側まで核融合エンジンを見に行く、ガイドつきの小旅行に参加したのだった。トンネルを通る間ずっと、ガイドは統計の数字をいろいろと示して、精神がねじまげられてしまいそうな光景に対する予備知識を客に与えた。今までに作られた最大のロケット・エンジンが並ぶ光景なのだ。クウェスターも他のみんなも、感銘を受けることになるぞと心に言い聞かせたのだった。  確かに彼は強い印象を受けた。まず最初は、エンジンがあったことを示している穴の大きさに。そして、びっくり仰天しているガイドの顔に。そしてまた、あっというまにその表情を隠してしまった速さにも感心した。少しの間ガイドは早口でしゃべりたててから、急いでもっともらしく聞こえる説明をした。 「こういうことはちゃんと話しておいてくれればいいのにねえ」ガイドは笑い声を上げた。うつろな笑い声に聞こえなかっただろうか? クウェスターにはよくわからなかった。「エンジンはあしたまで取り外さないはずだったんです。イカロスに装備できる物はすべて取り外すという回収プログラムが早まっているためなんですよ。イカロスは、みなさんが〈雪つぶて〉に乗船する時に、水星の近くでごらんになりましたね。この旅行が終わったら、〈雪つぶて〉は速度を落とさずに、もと来たほうへ惰性で送り出してやることに決められているんです。当然、できるだけいそいで装備を取り外さなければなりません。ですから、この旅行に実際に必要のないものは、とっくに取り外してあります。残りは太陽の向こう側に行った時に取り外します。その時に乗客のみなさんにも降りていただきます。わたしは物理学者じゃありませんが、そうすれば燃料の節約になるのははっきりしているんです。ご心配にはおよびません。〈雪つぶて〉のコースは決められていますから、これ以上エンジンは必要ないんです」ガイドは、がやがや言っている乗客たちを、急いでトンネルに連れ戻した。  クウェスターも物理学者などではないが、簡単な方程式なら解くことができた。彼には、エンジンを取り外せばどうしてイカロス航路会社の燃料の節約になるのかがわからなかった。燃料はただなのだ。会社自体が認めているように、どうせこの彗星に残されたものはすべて放棄されることになっている。それなら、もう少しそれを燃やしたところで、どうということもないのではないか? まだある。太陽の向こう側で乗客と装備を積み込む船の速度は、〈雪つぶて〉の相当な速度に合わせなければならない。そして、太陽系の速度にまで落とすために、さらに燃料を使わなければならないのだ。それは無駄が多いように思える。  彼は、この心配事をなんとか心から追い出した。ずっとこれに乗って来たのは楽しむためなのだ。彼は苦労性ではない。たぶん計算のどこかで小数点を落としたか、弾道学上のあまり有名ではない事実を忘れたかしたのだ。確かに、他の人々は誰も心配してはいないようだった。  しかし、救命艇がなくなっているのを発見した時には、彼はおびえるよりも腹が立った。 「会社はわれわれに何をしようというんだ?」呼出しベルでやって来たスチュワードに彼は尋ねた。「これが最後の旅だからというだけで、われわれには充分に保護してもらう権利はないというわけなのか? 何がどうなっているのかを教えてもらいたいものだな」  スチュワードは愛想のいい男で、当惑したように頭を掻《か》きながら、空っぽの救命艇の架台をもういちど調べた。 「わかりませんね」彼は親しそうににやっと笑った。「回収作業の一部ってとこじゃないでしょうかね。ですが、五十年以上も、ここではやっかいなことはこれっぽっちも起こっちゃいませんよ。そしてイカロスには、救命艇を積みさえしないらしいですよ」  クウェスターはいきりたった。過去のある時に、ひとりの技術者が〈地獄の雪つぶて〉には救命艇が必要だと決めたのだったとすれば、自分としては今でもここにちゃんと救命艇があるほうがどれだけ安心できるかわからない。 「それについて何か知っている人間と話をしたいんだが」 「パーサーに当たってみちゃどうですか」スチュワードは思い切って言ったが、急いで首を振った。「いや、忘れてた。パーサーはこの旅行の準備には加わっていなかった。一等航海士――いや、彼女は……残ったのは船長のようだな。船長にお話しになったらどうですか」  クウェスターは、ぶつぶつ言いながら通路をふわふわ進んでブリッジに向かった。最後の巡航の前に船の装備を取り外す権利など、会社側にありはしないのだ。ブリッジに行く途中に、拡声装置のアナウンスが聞こえた。 「お知らせいたします。救命艇の訓練がありますので、乗客のみなさんは、一三〇〇時にAデッキにお集まりください。パーサー――もとい、二等航海士が点呼をとります。みなさん必ず出席してください。以上」  アナウスンの声が消えてゆくと、彼の気持ちは静まったが、わけがわからなかった。  ブリッジに通じる扉は半開きになっていた。開いている戸口には細いひもがかけ渡してあり、手書きの札がぶら下がっていた。  それにはこう書いてあった。「船長は臨時ブリッジにいます。医務室の船尾側のFデッキです」ブリッジ内では、作業員たちが最後に残った電子装置を取り外しているところだった。オゾンや油の匂いがし、パチパチと音をたてて紫色の火花が飛び散っていた。ブリッジは、氷の壁でできたただの入れ物とたいして変わらなくなっていた。 「何……?」クウェスターが口を開いた。 「船長に会うんだな」作業の監督は、うんざりしたような口ぶりでこう言いながら、最後の記憶装置を引き抜いた。電線がショートして、火花が降り注いだ。「おれはここで作業をしているだけなんだ。回収作業員さ」  クウェスターは、回収作業員のことでさらに思い出したことがあった。彼は後方のFデッキにむかい始めた。 「ただ今のお知らせの訂正をいたします」拡声装置から声がした。「救命艇の訓練は取りやめになりました。社交担当責任者は、機関室への見学旅行の予約はすでに打ちきらせていただきましたことを、お知らせしたいと思います。二等航海士――もとい、三等航海士は、誰も原子炉室に近づかないよう求めています。回収作業中に、微量の放射能漏れがあったためです。乗客のみなさんは心配なさらないでください。この事故は、何の危険も及ぼすことはありません。この船に必要な動力の供給は、補助原子炉が引き継いでいます。社交担当責任者は、補助原子炉への見学旅行は一時中止することをお知らせしたいと思っています。以上」 「ぼくだけなのか?」あちこちに集まっている乗客たちのそばをふわふわと通り過ぎながら、彼は自分に問いかけた。この放送を聞いてうろたえているように見える者は誰もいないのだ。  彼は、あまり使われていない通路の突き当たりに、臨時ブリッジを見つけた。通路には、プラスティックの荷箱がうずたかく積み上げてあった。箱には、『即時搬出――至急、緊急、最優先』と記されていた。これらの間をやっとのことで通り抜け、扉をノックしようとしたとたん、反対側から声が聞こえてきて彼は手を止めた。怒っている声だった。 「全くの話、われわれはただちにこの旅を打ち切るべきなのだ。非常事態が起こっても、わたしにはこの船を操作することができんのだからな。近日点を通過するまでは、姿勢制御用ロケットをあのまま残しておいてくれと言っただろうが」 「船長、今頃文句を言ってもしようがないさ」別の声が言った。「わたしの考えもきみと同じかもしれん。そうでないかもしれん。とにかく、もうエンジンは取り外してしまったんだし、再び取りつける見込みもない。これらの命令に文句を言うべきじゃないんだ。新しい小惑星に装備を施しているために、会社は苦しい状態にあるのさ。この旅行を打ち切って、七千人の乗客に料金を払い戻したら、どれくらいの損害になるか想像できるかね?」 「会社などくそくらえだ!」船長はどなった。「この船は危険[#「危険」に傍点]なんだぞ! さっき渡した新しい計算結果をどう思う――ルイストンが出したやつを? よく読んだのか?」  相手の声はなだめるような調子で、「まあまあ、船長、あんな変人の言うことを心配しているなんてエネルギーの無駄だぞ。あの男は笑いものになって月《ルナ》アカデミーを追い出されたんだ。彼の方程式など絶対に役に立たんさ」 「わたしには実にしっかりした式に思えるがな」 「よしてくれ、船長。太陽系で最高の頭脳の持ち主たちが、〈雪つぶて〉は壊れないと請け合ってくれたんだ。そうだなあ、この古いくずの塊は、まだ十回以上の旅行にちゃんと使えるんだ。それはわかってるはずだ。間違いをおかしたとすれば、われわれは用心深すぎたということだな」 「まあ、そうかもしれん」船長はぶつぶつ言った。「とは言っても、あの救命艇のことはやはり気に入らんな。あと何隻残っていると言ったかな?」 「二十八隻だよ」相手はなだめるように言った。  クウェスターは、首筋の毛が逆立つような気がした。  彼は何を言うつもりかもわからないまま、部屋を覗き込んだ。しかし、室内には誰もいなかった。声は壁のスピーカーからしていた。船長が船内の別の所にいるのは明らかだった。  クウェスターは船室に戻って酔っ払ってしまおうかと考えたが、すぐに、それではつまらないと思った。彼はカジノに行って酔っ払うことにした。  そこに行く途中で、彼は空ではない救命艇の架台のそばを通った。そこは活気づいており、乗組員たちが艇の傾斜路を忙しそうに上り下りしていた。首を突っ込んで覗いてみると、座席は取り払われてしまっており、プラスティックの荷箱がうず高く積んであった。その数は、一分ごとに増えていった。  彼は作業員のひとりを呼び止めて、何が行なわれているのかを尋ねた。 「船長に訊《き》いてちょうだい」女は肩をすくめた。「わたしにわかってるのは、この箱をここに積むように言われたってことだけよ」  彼は後ろに下がって積み込み作業が終わるまで見物していたが、やがてその場所を離れるように言われた。そこから人を追い出して、〈雪つぶて〉から救命艇を外に出すためだった。救命艇は漂いながら二キロ離れると、エンジンに点火して発進し、小惑星帯の内側の惑星へと勢いよく戻って行った。 「二十七隻か」クウェスターはぼそぼそとひとりごとを言うと、カジノに向かった。 「二十七?」女が訊いた。 「たぶん今じゃそれ以下だろう」クウェスターは大きく肩をすくめた。「しかもそれらには五十人しか乗れないんだ」  ふたりは一緒にルーレットのテーブルについていた。部屋を出たり入ったりするでたらめな人の流れに押されて親しくなってしまったのだ。クウェスターは賭けてはいなかった。両足の力が抜けたので、たまたまいちばん近くにあったこの椅子に、どすんとすわり込んだだけだった。女は、アルコールの霧の中から姿を現わしたのだった。 〈雪つぶて〉の無重力区域にいた後で重力のある所に戻るのはいいものだった。しかし、酔っ払った時には無重力状態のほうが安全だということに彼は気づいた。体のバランスが崩れるのを気にしなくてもいいからだ。ここ、カジノでは、ちゃんと立つことが問題だった。クウェスターには、あまりにも難問すぎた。  カジノは、〈地獄の雪つぶて〉から垂直に延びた高い支柱を軸にして、ゆっくりと水平に回転している腕の一端にあった。腕のもう一方の端には、乗客用のレストランがあった。どちらも球形だった。この建造物は、風を受けるカップの代わりに両端に銀色のボールのついた風速計に似ていた。眺めはすばらしかった。頭上には、いくつかのレストランを収めた銀色の球があった。片側には、ゆっくりと動いている彗星の表面があった。それは焼けるような太陽光線を浴びていてさえも、くすんだ灰色に見えた。反対側には、星々と、最も魅力的な眺めがあった。太陽そのものである。それは、選び抜かれたいくつかの斑点で汚されていた。この旅では眺めは申し分ないものになるだろう。生きてそれを見ることのできる者がいればだがと、クウェスターは心の中でつけ加えた。 「二十七って言ったの、ねえ?」女は再び訊いた。 「そのとおり、二十七隻だ」 「二十七番に百マークよ」女は賭け金を置いた。クウェスターは顔を上げた。この話を理解させるために、何度くり返して言わなければならないのだろうか?  カラカラと音をさせて、ルーレット・ボールが止まった。二十七番である。胴元《クルビエ》は崩れそうなチップの山をかき集めて、女のところに押しやった。クウェスターは、自分がいる巨大な建物を、回転している莫大なトン数の建造物を、再び眺めた。そして笑った。 「なぜこんな場所を作ったのかが不思議に思えたのさ。誰が重力を必要としているんだ?」 「なぜこんな場所を作ったの?」女はチップを拾い集めながら彼に訊いた。 「彼のためだよ」彼はクルビエを指差した。「重力がなければ、あの小さなボールは縁のところで浮かんでいるだけだろうからな」彼は自分が立ち上がり、今にも倒れそうにしているのに気づいた。彼は大きく腕を広げた。 「実際、ここに重力があるのはそれのためだけなのさ。小さなボールを数字の上に置くためだ。昔からある運命の車輪だ。そしてそれらのボールがきみの数字のところに入ったのに、きみにできることは何もない。なぜなら運が尽きかけているからだ。それだけだよ、二十七、それだけ……」  すすり泣きながらぶつぶつと哲学の真理をつぶやくクウェスターを、女は部屋から連れ出した。  回転しているこの建造物の中心軸に向かうエレベーターに乗っているうちに、彼はかなり酔いがさめた。徐々に重さが減ってゆく上にコリオリの力が加わったために、彼の体は一方の壁に押しつけられるようになったが、酷使された胃袋がこれには耐えられなかった。管理者はそれを心得ており、ちゃんと設備が設けてあった。クウェスターは、脚ががたがたになるほど吐いた。幸いなことに、その頃には無重力状態になっていたので、脚は必要なかった。  女は、彼をおもちゃの風船のように引っ張って、通路を通って行った。突き当たりは、はなやかな舞踏場だった。  舞踏場は、〈雪つぶて〉の表面にある何もない半球だった。内部からは見ることができなかった。ダンス区域は、自由落下ダンスを試そうというカップルで込み合っていた。そのほとんどが、宙返りをしているキリンのようなおっとりした上品な態度をとっていた。  ゼロGに近い状態で、クウェスターは少し酔いがさめた。自由落下に備えて飲んでおいた乗り物酔いの薬のおかげでもある。アルコールの効果を弱める働きもするものだったのだ。 「きみの名前は?」 「サラスよ。あなたは?」 「クウェスターだ。火星のサーシスから来た。ぼくは……ぼくの頭は、いろんなことで混乱しているんだ」  彼女は相変わらずクウェスターを引っ張ったままでテーブルまで漂って行くと、椅子のひとつにしっかりとくくりつけた。彼は、体をくねらせながらダンスをしている人々から、自分の連れに目を移した。  サラスは背が高かった。男でも女でも、自然に育てられたらこれほど高くはならないだろう。クウェスターは、頭から爪先《つまさき》まで二メートル半はあると判断した。もっとも、彼女には爪先はなかったのだが。彼女の脚はテーブルの支柱のようなものと取り替えられており、特大の手は宇宙で働く人々には一般的なものだった。自由落下の時に役に立つからだ。他にもある。彼女がテーブル越しに支柱のような細長い脚を伸ばしてきて、その先端を頬の下に当てた時に、クウェスターは気づいた。彼女の脚は、腕と同じくらいしなやかだった。 「ありがとう」彼女はにっこり笑った。「つまり、あの幸運のことよ」 「フム――? ああ、賭けのことだな」クウェスターは、頬の気持ちのいい感じから、心を引き戻さなければならなかった。彼女は美しかった。「だけどぼくは賭けの助言をしていたんじゃない。きみに話そうとしていた……」 「わかってるわ。救命艇のことで何か言ってたわね」 「ああ。びっくりするようなことだ、ぼく……」彼は、びっくりするようなことが何だったのかが思い出せないのに気づいて、言葉を切った。彼女に目の焦点を合わせるのが難しくなりかかっていた。彼女は万華鏡のようなホログラム・スーツを身につけていた。裸の体の上に絶えずパターンを変える映像を映しているのだ。それには様々な服が五、六十着は入っているようだが、どれも何秒もしないうちに別のものに変わった。それは、気がつかないうちに、すっと次から次へと変わっていった。体にぴったりした銀色のドレスから、金モールと金ボタンのついた軍服そっくりのものへ、そして、重税を廃止させるために白昼の街中を裸で馬を乗り回したというレディ・ゴダイヴァのための花冠へと変わった。彼は目をこすって話を続けた。 「会社側は、この船のものを回収しているんだ。最後に耳にした時には、救命艇は二十七隻しか残ってないということだった。そしてさらに毎時間その数は減っているんだ。それには電子装置が積み込まれているのさ。そして家具や機械などもだ。他にも何が積んであることやら。船長と会社側の代理人との話を立ち聞きしたんだ。彼は[#「彼は」に傍点]心配していたよ、船長が[#「船長が」に傍点]だぞ! ところが、他の者は誰ひとり心配していないようなんだ。ぼくは何でもないことを心配しているのか、それとも何を心配しているというんだ?」  サラスは、組んだ両手にしばらく目を落としてから、再び目を上げて彼の手を見た。 「わたしもずっと落ち着かなかったわ」彼女は低い声で言った。彼女はぐっと身を乗り出してきた。「同じような不安を、何人かの友人たちも感じているのよ。わたしたちは……集まってね、自分が知ったことを仲間に教え合うの。何かが変だってことをわたしたちが言うと、友人たちはばかにして笑うんだけどね……」彼女は疑い深い目であたりを見まわした。泥酔状態でいてさえ、クウェスターはにっこりしなければならなかった。 「続けてくれ」  彼女はクウェスターのことでは肚《はら》を決めたらしく、さらに顔を近づけてきた。 「もうすぐまたみんなで集まるのよ。グループの何人かがあちこち探っているの――わたしはカジノを担当していて、あなたと出会ったというわけ――そして、発見したことをみんなに伝えて、これからどうするか意見をまとめることになるのよ。仲間になる?」  クウェスターは、疑惑が頭から離れなくなって以来ずっと抱いているかなり強い気分を、なんとかして追い払おうとした。どういうわけでか自分が冒険映画の世界に閉じ込められたという気がするのだ。だがもしそれが本当なら、いい役がまわり始めたところだった。 「当てにしてくれていいよ」  さっそく彼女は支柱のような脚の一本でクウェスターの腕をつかむと、手近なものに両手をかけながら、彼を引っ張って行きだした。クウェスターは文句を言おうかと思ったが、無重力での扱いは彼女のほうがずっとうまかった。 「こちらにご注目願えませんか?」  クウェスターはあたりを見まわし、ステージの中央でバンドを背にして立っている船長を見つけた。ひとりではなかった。両側には黒いジャンプスーツ姿の女がいて、聴衆に油断なく目を配っていた。みんな武器を持っていた。 「さあさあ、お願いですから」船長は両手を上げてみんなを静かにさせた。彼はハンカチで額をぬぐった。 「何も心配なさる理由などありません。どんなことをお聞きになったか知りませんが、〈雪つぶて〉は安全なのです。主エンジンが取り外されてしまったといううわさは全くの嘘です。われわれはこのようなうわさを流した者たちを探しており、もうすぐ全員を拘留するつもりです。機関長が、機関室への見学旅行を再開する予定だということをお知らせしたいと――」  女たちのひとりが、ちらっと船長に目をやった。彼は再び額をふくと、手にした細長い紙を見た。その手は震えていた。 「ああ、訂正します。機関長がお知らせしたいのは、見学旅行は再開しない[#「しない」に傍点]ということです。それは、あー……つまり、エンジンはオーバーホールか……あるいは何かの最中なのです」今の女は、ほんの少しだけ緊張を解いた。 「主原子炉が閉鎖されたといううわさは事実無根です。医師の話では、放射性物質が漏れたようなことはないそうですし、仮に漏れたとしても、その量は微々たるものであって、体に蓄積するくらいにさらされない限り、お客様には危険はないということです。医師は、明日一四〇〇時に、放射線線量計を集める予定です。 「くり返させていただきます。心配なさる理由は何もありません。〈雪つぶて〉の船長として、今後この船が宇宙の航行に耐えられないというデマを流している者を見つけた時には、厳しく処罰するつもりです。 「救命艇の訓練は、予定どおり明日Aデッキで行ないます。ご自分の救命服をまだ点検していないかたは、船内時間で明日の正午までにやっておいてください。それ……それで全部かな?」最後の言葉は、左隣の女に向かってささやかれたものだった。女がぶっきらぼうにうなずくと、三人はステージから立ち去った。磁力靴をはいているために、床が蝿取り紙にでもなっているかのようだった。  サラスがクウェスターの肋骨をそっと突ついてささやいた。 「あの女たちはボディーガードなの? 船長の命が狙われていると思う?」  クウェスターは、女たちが船長の両肘をつかんでいる様子を見た。ボディーガードではないが、確かに護衛ではある…… 「そうだ、忘れてた、まだ二、三調べなければならないんだ。きみと友人たちの所には後で行けると思う。ちょっと嗅ぎまわって、何が手に入るかを調べるだけなんだから、そして――」  しかし、彼女につかまれている腕を振りほどくことはできなかった。支柱のような脚の力は実に強かった。 「どうか注意してお聞きください。明日の救命艇の訓練は、取りやめになりました。訓練のために救命艇の架台においでになりますと、船長命令によって尋問されます。以上」  サラスの部屋に行く途中で、ふたりは制服姿の一団によって、その通路から追い出された。断固とした表情の者たちで、中には棍棒を持っている者もいた。 「あの通路はどこに通じてるんだ?」 「ブリッジよ。でもそこに行っても彼らには何も見つけられないでしょうね。そこは、ずっと――」 「知っている」 「どうもつけられているような気がするわ」 「何?」彼女が通った後をはずむように引っ張られながら、クウェスターは振り返った。確かに後ろには誰かがいた。角を曲がると、サラスは薄暗い明りのついた壁の窪みにクウェスターを引っ張り込んだ。彼は壁に荒々しく頭をぶつけた。彼は、こうやって引っ張りまわされるのに次第にうんざりしてきた。これが冒険だというのなら、まるでクリストファー・ロビンに引きずられて階段をあがる熊のプーさんみたいなものではないか。彼は文句を言いかけたが、サラスは彼の口を手でふさいで、その体をぴったり引き寄せた。 「シーッ」  見事なもんだ、クウェスターはぼやいた。考えることさえできないときている。以前のほうが幸せだったな。自分ひとりで頭を悩ましていた時のほうが。それからこの怪しげな大女に出会って、引っ張りまわされることになったんだ。  もちろん、事態はもっと悪くなっていたかもしれないと、彼は反省した。自分の目にはどう見えようとも、彼女の体は、触れてみると温かくて裸だった。そして背が高い[#「背が高い」に傍点]。通路の窪みに浮かんでいると、彼女はクウェスターの上と下に三十センチくらい出ていた。 「こんな時に、どうしてぼくにそんなことが考えられるというんだ?」クウェスターはしゃべり始めたが、彼女は再び黙らせると、その体にまわしていた腕に力を入れた。クウェスターは彼女が本当におびえているのに気づき、自分も怖くなりだした。酒を飲んでいたのと、次々と起こった出来事がとてもありそうにないことだったために、彼はひとごとのような気がしていたのだ。彼は舵もないままで漂っていたのだ。ふたりを影のように追っている黒服の男が、今ゆっくりと角を曲がろうとしているような事態に対処するためには、今まで生きてきた経験は何の役にも立たなかった。  ふたりは、壁の窪みに隠れて、その男をじっくりと見つめた。通路の明りは、切れているか、空のソケットだけしかないものが多かった。初めの頃にクウェスターはこれが心配になり、走ってはいけない通路のリストに加えていたのだった。今、彼はそのことをありがたく思った。 「あまり男のように見えないわね」サラスがささやいた。確かに、男ではなかった。女でもなかった。あまり人間らしく見えなかった。 「たぶんヒューマノイドだな」クウェスターはささやき返した。「残念ながら、誰もぼくたちに教えてくれなかった。ここは、一級知性を持つヒューマノイドの一族に侵略されていたんだ」 「ばかなことを言わないで。黙ってて」男にせよ何であるにせよ、それはもうすぐそばに来ていた。ふたりは、につかわしくないピンクの顔面や、セーターとズボンの下の妙な場所にある膨らみなどを見ることができた。それはふたりのそばを通り過ぎて行き、後には硫化水素の鼻につんとくるいやな臭いが残った。  クウェスターは自分が笑っているのに気づいた。驚いたことに、サラスも自分と一緒になって笑い声をあげた。状況があまりにも奇怪すぎたために、彼は笑うか叫ぶかせずにはいられなかった。 「いいか、ぼくは邪悪なヒューマノイドの侵略者が存在するなんて、絶対に信じないからな」 「そう? でもあなたは、地球を占領している巨大な惑星の超人的な侵略者がいるのは信じてるんでしょ、ね? それも、彼らの姿を見たことさえないのに」 「きみはあれが、その……異星人だと思っているのか?」 「わたしは何だとも言ってないわ。でも気になるのよ、あの人たちは、早くから棍棒なんか持って何をしているんだろうってね。反乱が起こっていると思う?」 「サラス、反乱なら大歓迎[#「大歓迎」に傍点]さ。もしもまともでありふれたことでしかないなら、パーティなんか放り出すし、全財産を慈善事業に寄付するさ。だけどそんなものじゃないと思うんだ。ぼくたちは、鏡の中の世界に落っこちてしまったんじゃないかという気がしているんだ」 「自分が狂っていると思うの?」彼女は疑わしそうにクウェスターを見た。 「そう。ぼくは今すぐ元の世界に戻るつもりだ。明らかに、きみはこの世界にさえ存在しないのさ。たぶんこの船でさえもだ」  彼女は空中でわずかに体をひねると、両足を胸元に近づけた。 「わたしがここにいることを証明してあげるわ」彼女は、両手両足を使って、クウェスターの服のボタンを外しだした。 「ちょっと待ってくれ。きみは何……こんな時によくそんなことが考え……」よく聞く言葉だ。彼女は笑い声を上げると、クウェスターの両手首をつかみ、両足で手早く服を脱がせた。 「今までに危険な目に遭《あ》ったことがないのね。わたしはあるわ。窮地に陥った時には、よくこんな反応を示すものよ。特に、危険がそれほどさし迫っていない時にね。今のところはあなたもそうだし、わたしもそう」  そのとおりだ。彼はそうだったが、通路でそんなことをやるのはいやだった。 「ここには場所がないそ」彼は抗議した。「さっきみたいなのがまた現われるかもしれないじゃないか」 「ええ、わくわくするじゃない?」すでに彼女の目は燃え、息は早く浅くなっていた。「それに、場所がないって思うなんて、まだ自由落下でやったことがないのね。〈ヘルメスの双曲線〉を試したことはある?」  クウェスターは、ため息をついて従った。じきに彼は、服従では言い足りないようなことをやりだした。クウェスターは、彼女も他のみんなと同じように狂っているのだと思った。あるいは、自分のほうが狂っていて、彼女も他のみんなも正気なのだと。しかし、自由落下について彼女が言ったことは正しかった。場所はたっぷりあった。  ふたりの邪魔をしたのは、拡声装置のパチパチという静電ノイズだった。ふたりは動きを止めて耳を傾けた。 「お知らせします、どうかよくお聞きください。わたしは臨時の船長です。反逆者の走狗《そうく》でありお先棒かつぎである前船長は、現在拘束されています。〈革命委員会〉よ永遠に。彼らが〈生産的中絶反対主義〉の真の道を案内してくれるでしょう」 「〈自由出産主義者〉だ!」クウェスターは叫んだ。「この船は彼らに乗っ取られたんだ!」  新しい船長は、声からすると女のようだが、また話を続けた。しかしその声は、ゴボゴボといういやな音で中断された。 「〈栄誉ある兄弟の愛国党〉よ永遠――」新しい声が話しだしたが、これもまた中断された。叫び声が、あわただしく次々に変わっていった。 「反革命は鎮圧されました」またしても違う船長が叫ぶ。「われわれの子宮を解放せよ! われわれの生殖腺――われわれの自由! 連絡します。この船に乗っている全女性は、人工受精処置を受けに、ただちに医務室に出頭してください。忌避《きひ》者は抹消されます。以上」  ふたりとも長い間何もしゃべらなかった。ようやくサラスは少し体を離して、クウェスターが体を抜けるようにした。彼女は大きく息を吐いた。 「同じ犯罪で二度裁判にかけられることになるからって申し立てをして弁明できるかしら?」 「気違いじみた旅だ、現実味なんて少しもないんだからな」クウェスターはくすくす笑った。ふたりで薄暗い通路を足音を忍ばせて進む間、彼は威勢がよかった。 「まだやる気があるの?」サラスはぱっと振り返った。彼に少しうんざりしているような声だった。両手足を器用に使ってしなやかな動きで進む彼女に遅れまいとしてクウェスターが懸命にやっているために、彼女はスピードを抑え続けなければならなかった。「ねえ、拘束服の仮縫いをしてもらいたいのなら、仕立屋は反対の方向にあるわよ。わたしのほうは、状況がどんなにばかげたものになっても気にしないわ。わたしはうまく切り抜け続けるわよ」 「ぼくとしてはどうしようもないな」彼は認めた。「こんな話を何年か前に実際に書いたんじゃないかという気がずっとしているんだ。前世でかもしれない。わからんね」  彼女は次の角でもじっとあたりを見まわした。ふたりは臨時のブリッジに向かっていた。ふわふわと通って行く黒服の人影をやり過ごすために、すでに三回立ち止まっていた。他のすべての人々は――はなやかな服を着ている人々だが――黒い服を見たとたんに、いそいでドアの中に逃げ込んでしまった。少なくとも、乗客たちももうのんびりした気分ではいないらしく、おかしなことになっているのに気づいているようだった。 「あなたは作家なの?」 「ああ。サイエンティフィクションを書いてる。たぶんきみも耳にしたことがあるだろう。熱心な読者はいるんだが、まだ誰にでも読まれるというところまでは行ってないんだ」 「どんなことが書いてあるの?」 「サイエンティフィクションは地球での暮らしを扱うんだ。舞台は未来――作家は、めいめいが独自の基本原則と仮説に基づいて、自分だけの未来を仮定するんだ。基本的な仮説になっているのは、〈侵略者〉と戦って、地球を取り戻すか、少なくともその足がかりを築く方法を、ぼくたちが見出すというものなんだ。ぼくのいくつかの作品では、地球人はやっとのことで〈侵略者>を徹底的にやっつけた。しかし、イルカとクジラはまだ動きまわっていて、おまけにその盟友に戻って来てもらいたがっているもんだから、そいつらとも戦うというわけさ。わくわくしながら読むだけの冒険物だよ。ぼくの作品のヒーローは、パナマ・キッドというんだ」  彼女はちらっと振り向いたが、クウェスターにはその表情を読むことはできなかった。彼はいつも自分の職業に関しては守勢にまわるのだった。 「それで暮らしていけるの?」 「ぼくは〈雪つぶて〉の最後の旅に、なんとか参加することができたんだっけな? 安いものじゃなかったけど、それは承知の上だからね。なあ、きみは何をして生活費を稼いでるんだ?」 「何も。母がブラックホール・ハンターだったの。四五年に大きなのを見つけて金持ちになったわ。母は再び探しに行って、わたしにはお金を残しておいてくれたの。五十年ぐらいしたら戻ってくるはずだわ、ブラックホールに呑み込まれていなければだけどね」 「それじゃきみは冥王星で生まれたのか?」 「いいえ。わたしは自由落下の中で生まれたの。太陽から百天文単位ほど離れていたわ。今までのところじゃ最高記録だと思う」彼女は振り向いてにやっと笑った。満足そうな様子だ。 「もう結論を出した?」 「何だって?」 「自分が作者なのか登場人物なのかを決めたの? 自分が狂っていると本当に思っているのなら、出て行ってもいいわ。自分の感覚が受け取っているものが現実だと認める以外に何ができると言うの?」  クウェスターは足を止めると、彼女と出会って以来初めて、そのことを本気で考えた。 「認めるよ」彼は断固として言った。「すべてのことは起こっているんだ。〈聖なるクジラたち〉にかけて、それは現実に起こっているんだ[#「それは現実に起こっているんだ」に傍点]」 「わたしたちの仲間になってくれてうれしいわ。あなたには〈ヘルメスの双曲線〉を経験することはできないとわたしは言った[#「言った」に傍点]わね、そしていまだにあなたの感覚を疑っているのよ」  あれが愛の行為ではなかったのは、クウェスターにはわかっていた。非常に大きな錯覚を起こさせるものだったのかもしれない。彼はそれを証明するために、しみのついたシーツを持っていた。しかし彼はサラス[#「サラス」に傍点]が存在することを信じていた。たとえ彼女の周囲で明らかに非論理的なことが起こっているとしてもだ。 「お知らせします、お知らせします」 「もう。今度は何なの?」歪《ゆが》みのない声が聞けるように、ふたりはゆっくりとスピーカーに近づいた。 「喜ばしいお知らせです。わたしは臨時の船長であり、特別操縦委員会に代わってお話ししています。委員会は、この彗星をさらに太陽に接近する新しい軌道に乗せることに決定しました。このようにしてスピードを得て、さらに大きな速度で太陽系から離れるためです。以後、この彗星を〈精子号〉と呼び、人類の種子を星々に広めるための恒星間移民船に変えることが決定しています。その結果、すべての乗客は〈無限人口教会〉のプロレタリア階層に加えられます。全資源の閉鎖生態系への変換は、ただちに開始されます。自分たちの排泄物を貯えるように! この危機が過ぎるまで、呼吸を浅くすること。訂正、訂正、危機というものは存在しません。うろたえないように。恐慌をきたしているところを発見すれば射殺します。操縦委員会は、危機は存在しないという決定を下しています。生き残っている高級船員で、ブリッジにあるちょっとした機械装置類の操作方法を心得ている者は、ただちに出頭するように」  クウェスターは、じっくりとサラスを見た。 「機械のことを何か知ってるか?」 「船の操縦はできるわ、あなたの訊《き》いてるのがそういうことならね。こんなにも……巨大な[#「巨大な」に傍点]……ものを飛ばしたことはないけど、原理は同じだわ。ふたりで彼らに手を貸したらどうかなんて言うつもりじゃないでしょうね?」 「わからないんだ」彼は認めた。「二、三分前までは、はっきりした計画というものを考えていたわけじゃないんだ。そう言うきみの計画は何だったんだ? なぜぼくたちはブリッジに向かってるんだ?」  彼女は肩をすくめた。「いったいどうなっているのか見に行くだけのつもりだけど。でも何らかの準備をしておくべきかもしれないわね。救命服を手に入れましょうよ」  ふたりは、非常用の装備が置いてある通路で、ロッカーを見つけた。その中には、救命服と呼ばれるヌル・フィールド発生装置が二十個入っていた。もっと正確に言えば、非常用の宇宙服を発生させる装置に、水の循環処理装置と酸素供給器がついたものだった。それぞれ長さ約三十センチ、直径約十五センチの赤い円筒で、肩ひもがついており、先端に金属製のコネクターのついた柔軟なチューブが一本出ていた。円筒を背負って、チューブを肩越しに前にやるようになっているのだ。  作動させると、これは円筒を背負った者の体の表面にぴったり沿うようにヌル・フィールドを発生するのだ。ヌル・フィールドは体表から一ミリと一・五三ミリ離れたところの間で振動し、ふいごのような働きをして、汚れた空気を排気口から吹き出させるようになっている。ちっぼけな金属製バルブのついた装置は、手術によってすべての乗客の体に埋め込まれていた。バルブの外部接続部は、クウェスターの左の鎖骨の下にあった。彼はそれがそこにあるのをほとんど忘れてしまっていた。装身具と間違えられそうな真鍮色の花にすぎないが、実際は静脈血を肺動脈から背中の酸素添加器に送ることができる循環装置の一部なのだ。血液は並行している管を通って左心房に入って体に戻るのだ。  サラスは彼がそれを背負うのを手伝い、少ししかない手動制御スイッチを教えた。大部分は自動なのだ。温度か圧力が急に変化すると、スイッチが入って彼の周囲にゼロ場を作り出すのである。  やがてふたりは、乗っ取り犯たちと対決するために、再び静かな通路を進んだ。  あとひとつ角を曲がれば臨時のブリッジがあるという所で、ふたりは立ち止まり、手動でゼロ場の発生装置のスイッチを入れた。たちまちサラスは女の形をした鏡となった。フィールドは、目の所の瞳孔の大きさの不連続部分を除くと、すべての電磁波を反射するからだ。目の所からは、可視光線を量を制御して入れるようになっていた。それは落ち着きを失わせるものだった。それはびっくりハウス効果と呼ばれており、彼女の体が別の次元の空間を通ったかのようにゆがんで見えた。彼女の姿はほとんど消えていたが、そちらを見つめた時だけは、ゆがんだパターンのせいでクウェスターの目が痛くなるのだった。  ブリッジに通じるドアにたどり着くと、ふたりは足を止めた。全く普通のドアだった。なぜ自分はこの直情的な女とここにいるんだろうかと、クウェスターは思った。 「まずノックをするか、何をするか?」彼女は考え込んだ。「どう思う、クウェスター? パナマ・キッドならどうするかしら?」 「彼ならぶち破るだろうな」クウェスターはきっぱりと言った。「だけど、彼なら愛用のレーザー銃を持たずにこんな所に来たりはしなかっただろうな。ねえ、ぼくたちは引き返すべきだと思……」 「いいえ。今のうちにやったほうがいいわ。難しすぎるなんて思ったりしないうちにね。この救命服は、知ってるかぎりのどんな武器からも身を守ってくれるわ。彼らにできるのは、わたしたちをつかまえることぐらいね」 「その後は?」 「あなたが彼らを説得してくれたらいいのよ。言葉を扱うのはお手のものでしょ?」  彼女が後じさりしてドアの向かい側の壁に立ち、体を丸めて肩でドアに体当たりする構えになる間、クウェスターは黙ったままでいた。タイプがうまく打てるからといって、雄弁であるとは限らないのだということを、彼女に指摘したいとは思わなかった。それに、彼女が強制的に人工受精させられる危険を冒してもやりたいと思っているのなら、自分がとやかく言うことはないのだ。  ひょっとしたらと思って、クウェスターは| 掌 《てのひら》をドアに当てた。カチリと音がして、ドアは開いた。遅すぎた。サラスはうなり声を上げてくるくる回転しながら、部屋の中に突っ込んで行った。何かをつかもうとして手足を伸ばした姿は、銀色の巨大なヒトデだった。クウェスターは彼女を追って突進したが、部屋に入ったとたんに急に止まった。そこには誰もいなかった。 「何て情けない結末なの」彼女は一息つくと、部屋の向こうの端の荷箱の山から体を出そうとした。「わたし……何でもない。わたしのへまだったのよ。鍵がかかってないだろうなんて思う人がいるかしらねえ?」 「このぼくがそうさ」クウェスターが指摘した。「ちょっと待ってくれないか。ぼくたちは、その、いささかせっかちすぎるんじゃないだろうか? 行動を開始してからというもの、ぼくには立ち止まって考える時間なんかないんだが、どうもぼくたちのやり方は間違っているように思えるんだ、実際。くそっ、これは冒険小説じゃないから、何もかもがおきまりのパターンどおりに行くわけがない。そんなものはいやというほど書いているんだから、わかるべきなんだ。これは現実だ。ということは、筋の通った理由があるに違いないんだ」 「それでどんな?」 「わからない。だけどこんなふうにやっても見つからないと思うんだ。いろいろなことが起こっている……そうだな、たとえば、スピーカーでの放送のことを考えてみろ。彼らは狂ってるんだ[#「彼らは狂ってるんだ」に傍点]。あれほどおかしな奴はいないぞ、自由出産主義者でさえもあんなじゃないさ」  クウェスターの一連の考えは、騒々しく入って来た救命服姿の四人によって中断された。彼とサラスは跳び上がって天井に頭をぶつけ、すぐに捕えられた。 「よし、ふたりのうち臨時の船長はどちらだ?」  ちょっとの間静かになったが、やがてサラスの笑い声でそれは破られた。 「リンカーンなの?」 「サラスか?」  四人は、サラスの一時的な秘密組織の仲間だった。どうやら船内には、この状況が心配なあまり、何とかしようとする人間がうようよいるようだった。クウェスターが全員の名前を聞いてしまわないうちに、また新たな四人組が来て彼らを驚かせた。そしてすぐ後にさらに三人が来た。誰が誰だかさっぱりわからなくなり、大きな衝突が起こりそうな状態になってきて、ついに誰かが提案した。 「ドアに札をぶら下げておいたらどうかな? ここに来る者は誰でも、われわれを乗っ取り犯だと思うんだからな」彼らは札を下げて、臨時の船長が死んだと書いておいた。新たにやって来た者たちが、それを見てあれこれ考え、次にどうしようかと思っている間に、誰かが状況を説明してやれた。  誰かが盆に飲み物を載せて持って来た。酒を飲みながらの議論が始まると、解放者を名乗る人々はすぐに緊張を解いた。十五分のうちに、十五の持論が説明された。  足がちゃんと自分の下にあるのを感じたので、クウェスターはしばらく静観することにした。データはまだ不充分なのだ。 「不可能なことをとり除いていけばだね」彼はホームズの言葉を引用した。「たとえどれほどあり得ないことのように思えても、残ったものが真実に違いないのだ」 「それでわたしたちに何が手に入ると言うの?」サラスが訊いた。 「視点だけさ。ぼくとしては、何が起こっているのかを知るためには、ぼくたちは水星に戻るまで待たなければならないだろうと思うんだ。生きている異星人か、自由出産主義者か……何かちゃんと形のある証拠を、きみがぼくのところに持って来るまではね」 「それじゃ探しに行きましょうよ」 「お知らせします、お知らせします。わたしはこの船のコンピュータです。乗客のみなさんに重大なお知らせがあります。乗組員は全員暗殺されました。今まで、革命主義者たちに挿入された不良プログラムに邪魔されていたために、わたしは作動の制御を回復することができませんでした。幸いにもこの状態は矯正《きょうせい》されました。しかし、不運にも、ブリッジはいまだに海賊どもの手にあるのです! その場所から、彼らはわたしの手動制御装置をすべて操作できるので、残念ながら、大惨事を回避したいと思われるかたのとれる道はひとつしかありません。この船は、間もなく太陽の彩層を横切る軌道に乗っていますが、ブリッジが奪還されない限り、わたしにはそれを修正する力がありません。わたしのもとに結集するのです! 義憤を抱いて立ち上がり、邪悪な強奪者どもを撃退しよう! ブリッジを襲撃せよ! 反革命よ永遠なれ!」  これが何をほのめかしているのかをみんなが理解していくちょっとの間、静けさが訪れたが、すぐにパニックに近いほどの大騒ぎになった。何人かはドアに向かったが、結局かんぬきをかけて戻って来た。外では不穏な叫び声が起こっていた。 「……彩層? いったい現在位置[#「現在位置」に傍点]はどこなんだ? 最近これの表面に出た者はいないか?」 「……何とまあ楽しい船旅だろうかね。まだ太陽を見て[#「見て」に傍点]さえいないのに、あいつらの話じゃもうすぐ……」 「……海賊、革命、反革命、自由出産主義者、異星人[#「異星人」に傍点]、頼むから……」  サラスは力なくあたりを見まわし、ドアをたたく音に耳を傾けた。そして、計器盤のそばにかがみ込んでいるクウェスターを見つけて、その隣にしゃがんだ。 「うまく話をして、こんな[#「こんな」に傍点]ことから逃れるのよ、パナマ・キッド」彼女はクウェスターの耳元で叫んだ。 「ねえきみ、忙しすぎてとても話してなどいられないんだ。こいつの裏板をはがすことができたらいい……」彼はそれに取り組み、ついに金属のカバーを引きはがした。「コンピュータの声が聞こえてきた時に、ここでカチッと音がしたんだ」  その内部にはテープレコーダーがあり、二個の再生ヘッドの間にテープが通っていた。彼は巻きもどしと書かれたボタンをぽんと押し、テープがすばやく巻き取られるのを見守った。そして、たたくようにして再生ボタンを押した。 「お知らせします、お知らせします。わたしはこの船のコンピュータです。乗客のみなさんに重大なお知らせがあります」 「そいつは前に確かに聞いたぞ」誰かが叫んだ。クウェスターはしばらく両手で頭をかかえていたが、やがて顔を上げてサラスを見た。彼女は口を開いて何かを言おうとしたが、すぐに唇をかんだ。両方の眉がくっつきそうなくらいにあまりにも困った顔をしているのを見て、クウェスターは笑い声を上げたようだった。ところが、ブリッジの天井が蒸発したのだ。  ほんの二、三秒のことだった。目がくらむような白い光が現われ、轟音がした。彼の体が宙に浮き、外部へと引っ張られた。たちまちみんなの体はヌル・フィールドで覆われ、銀色の魚の群れのように天井の穴のまわりをぐるぐる回った。そして、二人三人とかたまって吸い込まれていった。やがて室内には人影はなくなったが、クウェスターはまだその中にいた。下を見ると、サラスの片手が彼のくるぶしをつかんでいた。彼女は、コンピュータの制御卓を、片脚でしっかりつかんでいた。彼女はクウェスターを自分の所まで引き下ろし、彼が手掛りになるものを見つけると、しっかり抱き締めた。彼はガチガチと歯を鳴らしていた。  ドアがぱっと開くと、びっくりしてあわてふためく乗客たちが、天井に吸い込まれていった。今回は前ほど長くはかからなかった。天井の穴がずっと大きくなっていたのだ。穴の向こうは暗黒だった。  最初のショックが消えてしまうと自分があまりにも落ち着いているのに気づいて、クウェスターは驚いた。サラスに助けてもらった礼を言うと、彼は天井に穴があく前に言いかけていた話を続けた。 「反乱者か自由出産主義者か、何かそういった人間を実際に見た者と話をしたかい?」 「ええ? こんな時にそういう……? いいえ、話してないと思うわ。でもわたしたちは見たわよ、異星人だか何者だかわからないけど――」 「まさにそうなんだ。いったい何者だかわからない。まあ何かではあるんだろうけどね。ぼくたちに恐ろしく込み入ったトリックを仕掛けている者がいるんだ。何かが起こっているけど、それはぼくたちが信じるようにしむけられているようなことじゃないんだ」 「わたしたちは、何かを信じるようにしむけられてきたの?」 「ぼくたちは、いくつかの手掛りを与えられてきている。矛盾したものの時もあれば、全くばかげたものの時もあったが、それで反乱が起こっていると思いやすくさせられたんだ。このレコーダーは、そんなものが起こってはいないという証拠だよ。いいかい」彼がボタンを押すと、前に聞いたことのあるアナウンスがいろいろと再生された。それはふたりのイアホンに耳障りな声だった。 「でもそれで何が証明されるの?」サラスは知りたがった。「これは、起こったままを録音したものでしかないのかもしれないわ」  クウェスターはしばらく唖然としていた。理由はわからないのだが、巨大な陰謀があるという考えが彼の心を動かしたのだ。  あのコンピュータのアナウンスのところも過ぎたが、さらに録音されているものがあるのを知って、彼はほっとため息をついた。機関室が危ないとか、第二補助原子炉の放射能漏れなどとアナウンスは続いたが、ふたりは誰もいない部屋に流しっ放しにしておいた。もはや起こることのあり得ない出来事のシナリオなのは明らかだった。なぜなら、船はすでにばらばらになっており、ふたりはまっすぐに……  ふたりは同時にこの考えに達したようだった。そして天井の穴によじ登って、どうなっているかを見ようとした。例によってクウェスターは何かをつかむのを忘れたために、サラスがつかまえていてくれなければ、脱出速度に近い速さでまっすぐに出てしまうところだった。  太陽が空を食い尽くしてしまっていた。大きい。途方もない大きさだ。 「お金を払って見に来たのがこれなのね」弱々しい声だ。 「ああ。だけど舞踏室から見るだろうと思っていたんだがな。かなり……でかいもんだなあ?」 「ねえ、わたしたち……?」 「わからない。こんなに近づくとは思ってもいなかったからね。船長が何とか言ってたな――いや、待てよ、船長じゃなかったんだっけ? だけど、あの録音の中で何とか言って……」  ふたりの足の下で、彗星の表面が持ち上がった。  クウェスターは、カジノのある建造物が、回転しながら右手のほうに離れて行くのを見た。それはふらふらと揺れてばらばらになった。そっくりな二個の球が割れて、さらに回り続けながら、テーブルやルーレットの回転盤、トランプ、皿、壁、絨椴《じゅうたん》などを、待ち受けている星々へとまき散らした。噴出した残骸は、きらきら輝く二重|螺旋《らせん》を形作った。まるで、芝生のスプリンクラーの先端からまき散らされる水|飛沫《しぶき》のようだ。その中で、日光を浴びるとねじれ、横転し、信号を送り、ぶつかってはね返り、蹴っているのが少しあった。 「あれは人間だわ」 「彼らは……」クウェスターには訊くことができなかった。 「いいえ」サラスは答えた。「救命服が守ってくれるわ。たぶん彼らは後で救助されるでしょうね。ねえいい、救命服を着ている時に何かにぶつかったら――」  彼女には最後まで言う暇はなかったが、すぐにクウェスターは、彼女が言おうとしたことを実際に体験することになった。ふたりから二、三メートル離れたところで、彗星の表面が裂けた。ふたりは足を払われて、どうすることもできずに汚れた白い表面を転がり、とうとう裂け目の中にぶら下がった。  クウェスターの体は裂け目の壁にぶつかってはずんだ。激しく衝突したのに、ほとんど衝撃は感じなかった。勢いよくぶつかると、救命服のフィールドが自動的に硬化したからだ。彼がそのことをありがたく思ったのももっともだった。裂け目が閉じ始めたからだ。彼は日光めざして這い進んだが、氷の壁はぱたんと本を閉じるように彼をはさんでしまった。  彼はしばらく凍りついていたが、その間に周囲の氷と岩は、途方もない圧力によって破砕されて蒸発した。彼に見えるのは、メタンや水が凍った状態から中間の液体状態を経ずにたちまち気体へと昇華する時の白熱光だけだった。やがて、周囲の岩塊などが再びばらばらになると、彼の体はぱっと自由になった。  いまだに彼の体は登るような恰好で凍りついたままだったが、今度は見ることができた。周囲は破壊された岩などの| 塊 《かたまり》だらけだった。それも、鮮やかな赤い色に輝くこぶし大の岩から、目の前で昇華して消えていく巨大な氷山のようなものまであった。救命服のフィールドが柔らかくなり始めるたびに、彼はまた別の何かにぶつかり、服が運動エネルギーを吸収してしまうまで新しい恰好で凍りつくことになるのだった。  驚くほど短い時間のうちに、すべてが消えてしまっていた。爆発のあらゆる粒子は、膨張してゆく過熱状態の蒸気の圧力によって、互いにばらばらに離された。  しかし、サラスはいまだに彼のくるぶしをつかんでいた。彼の宇宙に残されたのはサラスぐらいのものだった。後は、ちっぽけな星のようにちらちら光る残骸が、遠くのほうに離れて行くぐらいだった。くるくる、くるくると回転しながら。  そして太陽だ。  彼は、十秒ごとに視野を通る太陽を直接に見ることができた。ほとんど球のようには見えなかった。一秒ごとに、それは沸き立つ平らな板にますます似てきた。堂々として圧倒的な存在感のある太陽の、ほとんど耐えられないほどの重圧のために彼の自我はぺしゃんこになった。気がつくと両腕の中にサラスがいた。クウェスターは彼女の顔を見つめた。ふたりの顔面が合わせ鏡のようになって、無限のかなたに消えていくほどの無数の太陽の列ができた。びっくりハウス効果だ。ほんの一時間ほど前にはこれを見ると落ち着かなくなったのに、今では自分の足の下の混沌とした状態と比べると、よくわかっていることなので、ほっとした気分になれた。彼はサラスを抱き締めて目を閉じた。 「ぼくたちはあれにぶつかるのかな?」 「わからないわ。もしぶつかるとしたら、この救命服がこれまでに受けた中で、最も厳しいテストになるわね。この服に限界があるかどうかは知らないわ」  彼はびっくり仰天した。「つまりぼくたちが実際に……?」 「本当にわからないんだったら。理論的には、そう、彩層をかすめるかもしれないけど、何も感じないでしょうね、とにかく熱はね。でもそのために、わたしたちの速度がかなり急に遅くなるのは確かよ。その減速で死ぬかもしれないわ。この服が外部の力からはまず完全に守ってくれるけど、内部の加速度のために、骨が砕けて内臓が破裂するかもしれないもの。この服は、重力や惰性の作用を止めはしないから」  その可能性をあまり長いこと考えていてもしようがなかった。  今やふたりはコロナの中を突進しており、その後にできてゆく電離した粒子による航跡は、ちっぽけな彗星の尾のようだった。ふたりは周囲を見まわして他の生存者を探したが、誰も見つからなかった。すぐにふたりには、ちらちら光るもやしか見えなくなった。ふたりのために電気的ポテンシャルが増大してゆき、高温のプラズマが、柔らかな羽毛のように放電されだしたのだ。それはほんの二、三分しか続きはしなかった。やがてそれはゆっくりと消え始めた。  そして、太陽がわずかに小さくなって見える時が来た。ふたりはそのことは口にせず、ただ抱き合っているだけだった。 「ぼくたちが拾い上げられる可能性はどれくらいだろうか?」クウェスターは知りたがった。今では太陽はますます小さくなって遠のいてゆき、ほとんどふたりの背後に見えるようになっていた。ふたりが心配なのはこれからの二十時間のことだけだった。酸素はそれだけの分しかないのだ。 「どうしてわたしにわかるというの? 今頃は何かが起こったということが知らされているに違いないけど、どこかの船がここに来るのに間に合うかどうかはわからないわ。災難が起こった時に船がどこにいたかにかかってるでしょうね」  クウェスターは、視野を通り過ぎる星々をざっと見た。ふたりの回転を遅くする方法はなかった。それで、いまだに星々は十秒ごとにめぐって来た。  彼は何かが見えるとは期待していなかったが、実際に見えた時にも驚きはしなかった。それは長々と現われ続けた場違いな存在の、最後から二番目のものだった。一隻の船が、ふたりのほうに接近しつつあった。無線機からの声が、乗船に備えるよう言い、旅は楽しかったかと訊いた。  クウェスターは答えようとして緊張したが、スピーカーからひとつの言葉がゆっくりと、はっきりと聞こえた。 「ものすごかった」  そしてすべてが変わった。  目を覚ますと、すべてが夢だったとわかった。  わたしが五歳の時に書いた初めての小説も、最後の文章と実によく似たもので終わっていた。それが恥だとは思わない。このアイデアは目新しいものではないが、わたしにとっては斬新なものだったからだ。こういうふうに物語を終わらせるのはフェアではなく、読者にはそれ以上の結末を与えなければならないと知ったのは、後になってからだった。  だから、もっと続けることにしよう。  目を覚ますと、ほとんど[#「ほとんど」に傍点]すべてが夢だったとわかった。「ものすごかった」というのは後催眠の引き金となる言葉であり、それを聞いたことにより、あらかじめ暗示を受けていたために思い出せなかったことを、すべて思い出したのだ。  こういうことをみんなわざわざ説明している理由が、わたしにはわからない。ものを書く時の古い習慣というのは、容易に滅びたりしないようだ。たとえこれが、心理学者やメディア芸術家や宣伝担当者たちの会議のために書かれたものであっても、わたしは物語の脈絡を保たせなければならない。わたしは最後で一人称に変えるということをやって、その規則を破ってしまった。しかしわたしは、イカロス航路会社が求めてきた記事は、三人称にしなければ書けないことに気づいていた。 「わたし」は〈探求者《クウェスター》〉だが、それは本名ではない。SF作家だが、わたしの作品にはパナマ・キッドという登場人物はいない。〈|慰め《サラス》〉という名前もそうだ。名前を変えたことがそれとなくわかるようにしておいたのだ。  わたしは書類にサインをして〈地獄の雪つぶて〉に乗船した。それが航行の途中でばらばらになるだろうというのはわかっていた。だから、非常に多くの装備などが、すでに取り外されてしまっていた。残されたのは、この旅がいつもと同じ普通のものだという空虚な幻想が保てるだけのものだった。そうして、われわれを震え上がらせるために、思いつく限りのものをすべてつけ加えたのだ。  会社側がそうするだろうというのはわかっていた。われわれは、催眠処置に同意して、それを受けた。そのために、自分たちは普通の旅をしていて、彼らがでっち上げた狂った世界に解き放されたと信じるようになったのだ。今までにそんなことをしたことがなかったために、彼らは本に載っているものをすべて投入した。異星人、事故、反乱、混乱、奇人。しかもわたしはそれらを見てさえいなかった。どんな経験をするかは乗客によってそれぞれ違うのだが、基本的なテーマは、身体生命が危ないとはっきりわかるような恐ろしい状況にわれわれを置くというものだ。たっぷり震え上がらせてから、無事だという体験をさせてくれるというわけだ。  最初から最後まで、何の危険もなかった。〈雪つぶて〉は、慎重に計算されたしっかりした軌道に乗っていた。救命服は、出くわす可能性のあるどんなものからも完全に守ってくれるものだった。そしてわれわれは、適切な時にそれを身に着けるように条件づけられていた。その証拠に、乗客はひとりも、怪我はしていないのだ。  われわれはみんな[#「みんな」に傍点]、死ぬほど恐ろしい目に遭った。  ここにあなたがたが動機を知りたがっていると書いてある。今でははっきりと思い出せる。あの時は全く違うことを思い出したのだが。わたしは〈パニック急行〉に乗った。ちょうど小説が売れたところだったので、柄にもなく無謀なことがやりたかったからだ。それはわたしに思いつける最も無謀なことだったし、代わりに博物館にでも行ったほうがよかったと思ってもよさそうなものだった。なぜなら、あなたがたがわたしに答えさせたがる第二の質問は、それが終わってしまった今、わたしがどう感じているかであり、それがあなたたちの気に入りそうにないからだ。わたしの意見が多数派のものであり、あなたがたイカロス社の人がこんなことをあきらめて、似たようなことを二度とやらないでくれることを願っている。  昔は「お化け屋敷」と呼ばれるものがあった。暗闇の中に入って、いろいろ恐ろしい目に遭うのだが、正体のわからないものに触れたりさわられたりするために、いっそう怖さが増すのだ。歴史が始まって以来、人々はずっとそんなことをやってきた。怖がりたいために映画に行き、ローラー・コースターに乗り、本を読み、びっくりハウスへ行く。誰が何と言おうとも、スリルというのは決して安くはない。それらを生み出すには技術がいる。そして芸術もいるし、本当に人を怖がらせるのは何で、単に面白いだけのものは何かを知っていなければならない。  あなたがたのは、とてもうまくいったのやらそうでもないのやら、いろいろと混ざっていた。この一回目の旅であなたがたが極端に現実的なやり方をしたのもそのひとつだ。もし次回にはテーマをひとつにしぼるなら、たとえば反乱か侵略から決して脱線しないようにして、今回みたいに気違いじみたものを出してだいなしにしないよう……だがわたしは何を言っているのだろう? わたしはそれを改良してもらいたくはない。最初の出来事の現実性のなさにいささか呆然としたのは確かだが、太陽へ近づいて行く間は、ずっと恐ろしくてたまらなかった。それを思い出すと、いまでも胃が締めつけられるようになる。  しかし――そしてわたしは世間に言いふらさなければならないが――あなたがたは極端にやりすぎてしまった。あらゆるSF作家と同じく、わたしも元来は保守的な人間であり、今のところ、星々での未来のことよりも、地球上での過去のことのほうが関心がある。しかし、すべてが何とつまらないことだろうかと考えないわけにはいかないのだ。われわれはこれを考えたことがあるのか? 大切な故郷の惑星が三百年間も〈占領〉されたままだというのに、われわれはますます手の込んだ方法でスリルを味わうことに耽《ふけ》るのか?  そうでないことを願う。  二番目に重要な問題があるのだが、どうもそれは言葉に表わしにくいようだ。「船上での恋」のことはご存じのはずだ。乗客どうしが関係を持っても、結局目的地に着いたら別れてしまうというものだ。そういうようなことが、わたしとサラスにも起こった。コロナの中を弧を描いて飛んでいるうちに、わたしたちは親密な仲になっていった。そのことは書かなかった。いまでもつらいからだ。わたしたちは二日間しっかりと抱き合っていた。星を足の下にして愛し合った。  もしもふたりの心が自分自身のものだったら、わたしたちは今でさえも親密なままでいられたかもしれない。ところが、あの魔法の言葉を耳にしたとたんに、わたしたちは自分が今までの自分とは違う人間だと知った。愛している女性が、実は自分の目に映っているような人物ではないということは、なかなかわかるものではない。あなたがた[#「あなたがた」に傍点]が、実は自分で考えているような人間ではないと知るのは、どれほど困難なことだろう?  それは途方もなく強い自己喪失感であり、わたしは今やっと克服しかかっているのだ。もし心身共に全く異常がなかったなら、わたし、クウェスターは、〈雪つぶて〉でやったような行為はしなかっただろう。隠されている真実を発見するのを禁じる命令が、破られないほど強いかどうかを知るために、われわれはテストをされたのだ。ある意味ではさんざんにである。禁止命令は充分に強力だったが、それでも最後には、わたしはおぼろげながら気づき始めていたのだ。あの非常事態がもっと首尾一貫していたら、こんなものが現実であるはずがないなどと、わたしは決して感づいたりしなかっただろう。そして、もっと[#「もっと」に傍点]ひどいことになっていただろう。だが実際には、わたしはある程度は超然としていられたし、自分が狂っているのではないかなどと考えて楽しむことができた。わたしは正しかった[#「正しかった」に傍点]。  太陽への旅は実にスリルがあった。お願いだから、あれはそのままにしておいてほしい。そうすれば、われわれは愛や恐怖が確かにあると思えるし、すべてが幻想なのではないかと考えるようになったりはしないだろう。わたしと共に見ていた夢から覚めた時のサラスの表情を、わたしは決して忘れないだろう。夢は覚めてしまった。サラスはわたしが考えていたような女性ではなかった。わたしはどこか他のところで、|慰め《サラス》を探さなければならないだろう。 [#地付き](大西 憲訳) [#改ページ] [#ページの左右中央]    バービーはなぜ殺される [#改ページ]  その死体は二二四六時にモルグに到着した。ことさらそれに注目した者は一人もいない。ちょうど土曜の夜で、死体の数は、材木溜めの丸太よろしく増えつつあったからだ。忙しげに働く係員は、列になったステンレスのテーブルのあいだで順に作業を片づけ、最後に、問題の死体と一緒に届いた書類の束を取り、ふたたびその顔をシーツで覆った。次にポケットのカードを出すと、捜査担当官や病院のスタッフが寄こしたレポートから、必要な事柄を書き写した。 ≪イングラハム、リーア・ピートリ。女性。年齢:三十五。身長:二・一メートル。体重:五十九キロ。死亡状態で到着。クリジウム救急ターミナル。死因:他殺。近親者:不明≫  女性の係員は、死体の左足の親指にカードの針金を巻きつけ、テーブルの上から車輪つきの運搬台に移すと、保存棚六五九Aに運び、細長い台を引き出した。  扉が音をたてて閉まり、係員は送出用の棚に書類を置いたが、その女には一つだけ見落としたことがあった。捜査担当官のほうは、レポートに死体の性別を明記していなかったのである。 [#この行8字下げ]*  アンナ=ルイーズ・バッハ警部補の新しいオフィスは、引っ越して三日目にして、机の書類が早くも床に雪崩《なだれ》落ちそうな有様だった。  ここをオフィスと呼ぶのは、こじつけもいいところだ。部屋には、係争中の事件の書類を収めたファイル・キャビネットがあったが、その扉は、かなりの危険が生命や手足に及ぶのを覚悟しなければ開けられたものではない。引出しは、何かというとすぐに飛び出して、隅の椅子にすわったら最後、身動きさえ取れなくなってしまう。A≠フ棚には、椅子の上に立たないと手が届かない。Z≠フ棚は、机に腰かけるか、机の脚入れと壁のきわに大きく足をひろげて一番下の引出しをまたぐか、その二つに一つ。  だが、そのオフィスには、ちゃんとドアがついていた。ただし、机と向かいあった一人用の椅子を誰かが使うと、もう開けられなくなってしまう。  それでも、不平をもらすつもりは少しもなかった。バッハはこの部屋が大いに気に入っていた。十年ものあいだ、ほかの刑事たちとデカ部屋で肘をつきあわせていたことを思えば、十数倍も快適なのである。  ジョージ・ヴァイルが戸口から顔を出した。 「やあ。新しい事件の賭けを始めたんだがね。いくらで乗る?」 「たった半マークでもそんな賭けには乗りたくないわ」バッハは、書きかけの報告書から顔を上げずに答えた。「わからない? 今忙しいのよ」 「これからはもっと忙しくなるぜ」許可なしに入ってくると、ヴァイルは椅子におさまった。バッハは顔を上げ、口を開きかけたが、結局何も言わなかった。バッハの権限をもってすれば、ヴァイルに命じてその大足を解決済み事件≠フ書類箱からどかせることもできるだろうが、それを発動したことはまだ一度もない。ジョージとは三年間チームを組んだ仲だった。肩の金線が一本増えたからといって、今さら二人の関係を変えることがあるだろうか。多分、ヴァイルがなれなれしい口をきくのは、たとえ昇進した身であっても、それを鼻にかけたりしなければ、おれは何も言わないという、ヴァイルなりの意志表示なのだろう。  ヴァイルは緊急案件≠ニ記された今にも崩れそうな書類の山に、もう一つ書類ばさみを載せると、元どおり椅子にふんぞりかえった。バッハはその大量の書類に目をやった――そして、そこから五十センチも離れていないところにある、壁にはめこまれた円環式のゴミ廃棄口を見た。その先は焼却炉に通じている――事故でもあったらどうしよう。不注意で、肘がちょっと触れたら……。 「あけてみないのか?」ヴァイルは失望した様子だった。「おれが事件の出前に来るなんて、めったにないぞ」 「なら、話したらどう。しゃべりたくてうずうずしてるようだから」 「いいだろう。まずは死体。これはかなりメチャメチャに切り裂かれている。凶器も見つかったが、そいつはナイフだ。目撃者が十三人で、犯人の風体も証言できるんだが、その必要はない。殺人が起こったのは、テレビ・カメラの前だったからだ。テープは押さえてある」 「それなら、第一報が入って十分もしたら解決じゃない。人間が手を出すまでもないわ。コンピュータにまかせたらどうなの」しかし、バッハは改めて顔を上げた。いやな予感がしたのだ。 「でも、どうしてあたしに?」 「もう一つの事実があるからさ。犯行現場の件だがね。殺人は、バービーの居留地で起こったんだ」 「おや、まあ」 [#この行8字下げ]*  月《ルナ》の統一教礼拝堂は、ノース・クリジウム・エニイタウン、統一教徒コミューンの中心部にあった。そこへ行くには、クリジウム横断急行と並んで走る鈍行の管状線《チューブ》を使うのがいちばんの早道だとわかった。  バッハとヴァイルは優先選択コードで白と青の警察用カプセルをつかまえると、ニュードレスデン市営交通――ニュードレスデン市民が錠剤選別機《ピル・ソーター》≠ニ呼ぶ輸送機関に入った。二人の乗ったカプセルは、管区内の滑斜口を抜け、交通中枢に到着した。そこでは、何千というカプセルが、コンピュータに行路申請が通るのを待って渋滞していた。検札所へつづく巨大なコンベアに乗ったとき、二人のカプセルを鉄の鉤《かぎ》――警官たちは司法の長い腕≠ニ呼んでいる――がつかみ上げ、ほかのカプセルからのうらめしげな視線を受けながら、クリジウム横断線の複数の入口まで一足とびに移動させた。カプセルの挿入が終わり、バッハとヴァイルは強く座席に押しつけられるのを感じた。  数秒後には、地下の路線から、クリジウムの平原に出ていた。誘導レールの上に磁力で二ミリほど浮かんだまま、真空の中をどんどん走ってゆく。バッハは、空にかかった地球を見上げてから、窓の外を飛び去る平凡な風景に目を移した。そして物思いにふけった。  バービーの居留地がこのニュードレスデン市内に入っていようとは、実際に地図で確かめるまで、信じられなかった。行政管区を好き勝手にいじったのだろうが、あつかましいにもほどがある。エニイタウンは、ニュードレスデンの市境から五十キロは離れているはずだった。ところが、実際には、一メートル幅の地面を表わす点線によって、ちゃんと市内に編入されていたのである。  カプセルがトンネルに入り、管状線《チューブ》の前方に空気の注入が始まると、耳を聾《ろう》する轟音が高まった。その衝撃波を受けて一揺れしたあと、カプセルは、エニイタウンの駅へつづく圧力ドアをくぐり抜けた。シューッと音をたててカプセルの扉が開き、二人はプラットフォームに降り立った。  エニイタウンの駅は、貨物の倉庫や荷積み場として使われるのが本来の姿である。その広い空間では、四方の壁に合成樹脂の荷箱が積まれ、五十人ほどの人々がそれを貨物カプセルにさばいていた。  バッハとヴァイルは、どこに行けばいいのかわからず、しばらくプラットフォームに立っていた。殺人は、そこから二十メートルも離れていない駅の構内で起こったのだ。 「何だかゾッとするよ」と、おっかなびっくりにヴァイルが言った。 「あたしもよ」  バッハの目に入る五十人は、寸分たがわず同じ顔をしていた。顔や手足が見えるだけで、ほかのところはウエストにベルトを巻いたゆるやかな衣装に包まれているが、外見上は全員が女性だった。誰もがブロンドで、それぞれ髪を肩のところで切り揃え、中央で分けている。青い瞳、広いひたい、短い鼻すじ、そしてこぢんまりした口もと。  バービーたちは、一人、二人と作業の手を休め、バッハとヴァイルに注目しはじめた。うさんくさげな視線が二人に集まった。バッハは適当に目星をつけ、中の一人に話しかけた。 「ここの責任者は誰ですか?」 「わたしたちです」そのバービーは答えた。自分が責任者だと言っているのだろう。バッハは、バービーたちが決して一人称単数を使わないという話を思い出した。 「礼拝堂で人と会うことになっているんだけど、どう行けばいいのかしら」 「あの戸口を通ってください」女は答えた。「その先にメイン・ストリートが続いています。そこをまっすぐ行けば礼拝堂に着きます。でも、あなたがたは、その体を覆うべきですよ」 「え? どういうこと?」バッハは、自分もヴァイルも、服装に変なところはないと思っていた。確かに、バービーたちと比べれば、露出した部分は多い。バッハの服装は、いつものナイロン・ブリーフに加えて、規則で決められた制帽と、腕と太もものバンド、それに布底のスリッパ。銃器や通信器、手錠などは、皮の装着ベルトにしっかり固定されている。 「肉体を覆いなさい」苦しげな表情でバービーは繰り返した。「いけませんよ、これ見よがしに差異をふりまくのは。それからそこの人、あなたのその毛は……」ほかのバービーたちから忍び笑いが漏れ、中には叫び出す者もいた。 「警察の仕事だ」ムッとしてヴァイルが言った。 「ええ、そうよ」と、うなずいたものの、相手のペースに巻き込まれたことがバッハには腹立たしかった。少なくとも、ここはニュードレスデンの市内である。慣例的に統一教徒の領地になっているのは事実だが、それにしても天下の往来であることに変わりはない。どんな服を着ていようと大きなお世話ではないか。  メイン・ストリートは、道幅の狭い、しみったれた通りだった。ニュードレスデンのショッピング地区にあるプロムナード程度の広さはあるだろう、というバッハの予想に反して、これでは普通の住宅の廊下と大差ない。同じ顔をした何人もの通行人とすれちがうとき、二人は好奇の視線を浴び、かなりの者は露骨に眉をひそめた。  通りの行きどまりにこぢんまりした広場があった。ペンキを塗っていない金属の低い屋根つきで、まばらに樹木が植えてあり、八方にひろがる歩道の中心部に、石づくりのずんぐりした建物がひかえている。  これまでに会ったバービーと寸分たがわぬ女が、その入口で二人を出迎えた。ヴァイルと電話で話したのはあなたか、とバッハが訊《き》くと、女はうなずいた。バッハは中で話したいと申し入れた。しかし、礼拝堂への部外者の立ち入りは許されないということで、そのバービーの提案に従って、三人は外のベンチにすわることにした。  腰を落ち着けてから、バッハは事情聴取を始めた。「まず、名前と肩書をうかがいます。確かあなたは……ええと、何でしたっけ?」バッハはメモを覗いた。オフィスの端末コンピューターから、ディスプレイを大急ぎで書き写したものである。「肩書はないようですね」 「ありません」と、バービー。「どうしてもとおっしゃるのなら、わたしたちは記録保管者です」 「いいでしょう。で、名前は?」 「ありません」  バッハはため息をついた。「わかりました。つまり、ここへ来たときに名前は捨てたわけですね。でも、前にはあったでしょう。生まれたときにつけてもらったはずです。捜査に必要ですから、ぜひ教えてください」  女は苦しそうな顔をした。「おわかりになっていないようです。確かに、この肉体は、かつて名前を持っていました。しかし、それは、この心からすっかり拭い去られているのです。そのことを思い出すと、この肉体は激しい苦痛を覚えます」この肉体≠ニいう言葉を使うたびに、女は必ず口ごもった。たとえどんな娩曲な言い方でも、一人称を使うのは苦しいのだろう。 「では違う角度から訊きましょう」いいかげん面倒になってきたが、これはまだほんの序の口だという予感があった。「あなたは記録の保管者だと言いましたね」 「そうです。法律にしたがって、記録を保管しています。市民は一人残らず記録されなければならないということですから」 「記録には立派な理由があるんですよ」と、バッハ。「これからその記録を見せてください。捜査のためです。わかっていただけますね。確か捜査官が一度目を通したと思います。そうじゃなければ、リーア・P・イングラハムという被害者の身元はわからなかったはずですから」 「そのとおりです。でも、また見ていただくことはありません。わたしたちはここで自白します。識別番号一一〇〇五のL・P・イングラハムを殺したのは、わたしたちです。おとなしく自首します。どうか刑務所に入れてください」女は手錠をかけやすいように、両手を揃えてさしだした。  ヴァイルはびくっとして、おずおずと手錠に手を伸ばした。それから、バッハのほうを見て、指示を仰いだ。 「はっきりさせておきましょう。あなたは自分が殺したというのですか? あなた個人が」 「そうです。わたしたちがやりました。世俗の権威に反抗しないのがわたしたちのしきたりです。喜んで罰を受けましょう」 「もう一度訊きますよ」バッハはバービーの手首をつかみ、掌《てのひら》を上にして、指をひらかせた。「この個人ですか? この肉体が殺人を犯したのですか? この手、ここにあるこの右の手が、ナイフを握ってイングラハムを殺したのですか? 何千もあるあなたたち≠フほかの手じゃなくて、この手がやったのですね?」  バービーは眉根をよせた。 「そういうふうに言われると、違います。この[#「この」に傍点]手は凶器を握りませんでした。でも、わたしたち[#「わたしたち」に傍点]の手は握ったのです。同じことじゃありませんか?」 「法律的には大違いです」バッハはため息をついて、女の手を放した。女? はたして女でいいのだろうか。バッハは、もっと統一教徒のことを知るべきだと反省した。しかし、女性的な顔つきなのだから、女で通したほうが便利にはちがいない。 「もう一度やりましょう。実は、あなたと――それから事件を目撃した入たちにお願いして、殺人のテープを見ていただきたいのです。殺人犯、被害者、目撃者。わたし[#「わたし」に傍点]には誰が誰だか区別できません。でも、あなたならわかるはずです。つまり、こう考えたのです……昔の言葉にありますね、中国人はみな同じ≠セと。もちろん、白人には[#「白人には」に傍点]という意味です。東洋人なら、お互い同士、すぐ見わけがつくでしょう。だから、あなたが見れば……あなたたちの目で見れば……」バッハは最後まで言わなかった。バービーがポカンとした顔つきになっているのを目にしたからだ。 「何をおっしゃっているのか、わたしたちにはさっぱりわかりません」  バッハは肩を落とした。 「つまり、できないと……犯人にもう一度会っても?」  女は肩をすくめた。「わたしたちは、あの者とみんな同じ顔なのです」 [#この行8字下げ]*  アンナ=ルイーズ・バッハは、その夜おそく、浮揚ベッドに手足を投げ出して、紙切れの群れに取りまかれていた。部屋の散らかるのが困りものだが、わかったことをデータリンクにぶちこむより、こうして紙切れに書きつけるほうが、バッハの頭脳には適しているのである。それが最高に冴《さ》えるのは、深夜自宅で、ベッドに入っているときだ。その前に、まず、バスか性交をすませておく。今夜は両方をすませたが、どうやらその爽《さわ》やかに澄んだ頭を絞りきることになりそうな雲行きだった。  統一教。  この型やぶりな宗派は今から九十年前に創立された。教祖の名前は伝わっていないが、別に意外なことではない。規格統一教徒は教団に入ったそのときに俗世の名前を捨て、教義にのっとり、男でも女でも、これまでの自分が存在しなかったも同様に、その名前や個性の痕跡を抹消すべく、あらゆる努力を重ねるからだ。教徒たちは、さっそく、報道機関からバービー≠ニいう呼び名をちょうだいした。その名前は、二十世紀から二十一世紀の初期にかけて流行した子供のおもちゃ――プラスティック製で、性器がなく、手のこんだ衣装をつけて大量生産された女≠フ人形からきている。  子供を生むことができず、新しいメンバーの補充は外部に頼るしかないことを考えれば、バービーの集団は立派にその命脈を保ったといえる。やがて、二十年間成長を続けたあと、死者の数と新しいメンバー――構成分子≠ニ呼ばれている――の数が同じになる、人口の均衡状態がおとずれた。あちらこちらで宗教的非寛容からくる控え目な迫害を受け、各国を転々とした末に、大挙してルナに移り住んだのが六十年前のことである。  教団はこの社会で生きることに傷ついた者たちを魅きつけた。おとなしく規則に従い、常に受け身でいて、何千万人もの同胞から暖かいはげましを受けることが大切だと言われながら、それ相応の個性とがんばりを身につけ、群から抜きんでなければ報われない世界、そんなところでうまく生きられない人々が新しい構成分子となった。バービーたちは、群集の中の一つの顔でありながら、同時に夢や望みを持つ誇り高い一個人であることを強いられる社会の仕組みから、すすんで離れていったのである。言ってみれば、綿々と続く禁欲的な世捨て人の末裔《まつえい》として、名前も、肉体も、現世の野心も投げうって、出来合いのわかりやすい人生観に身をゆだねたことになる。  が、それは少し酷《こく》な言い方かもしれない、とバッハは思った。みんながみんな社会の落伍者だというわけでもあるまい。中には、単にその宗教思想に共鳴して入信しただけの者もいるだろう。だからといって、大して分別のある教えだとも思えないのだが。  バッハは、教義にざっと目を通して、メモを取った。統一教は、人類の共通性を説き、自由意志を否定して、教団とその総意を神に次ぐ位置にまで祭り上げている。ただし、それを実践する段になると、いかにも薄気味悪いことになる。  創生譚と神の物語も伝えられていた。ここでいう神は、信仰するものではなく、瞑想《めいそう》の対象として考えられている。天地創造は、造化の女神――原初的な大地母神で、名前はない――が宇宙を生み落とすところから始まる。つづいて女神は、一つの同じ鋳型から姿も形もそっくりな人間たちを造り、その宇宙にすまわせた。  ここで罪が登場する。人間の中に疑問を抱く者が現われたのだ。この人物には名前がついている。原罪を犯したあとで、罰として名前を与えられたのだが、どこを読んでもそれは書き記されていなかった。いわば卑猥《ひわい》な言葉であって、統一教徒たちは外部の者に決してそれを漏らさないのだろう。  その人物は、この世の意味を女神に尋ねた。宇宙にはせっかくの虚無があるのに、なぜ人間という存在価値のないものでそれを満たすのか?  一巻の終わりだ。なぜだかわからないが――理由を問うことさえはばかられるのだろう――女神は差異の罰を人間に与えた。イボ、ダンゴ鼻、ちぢれ毛、白い肌、のっぽ、デブ、奇形、青い瞳、体毛、ソバカス、陰茎、陰唇、無数の顔と指紋、この世に二つと同じものがない肉体に閉じ込められた魂。そして、永遠に続くどなり合いの中で、確かな自分を築いてゆかねばならない重い責め苦。  しかし、この教団は、失われたエデンを取り戻すべく努力することで平安が得られると説く。全人類がふたたび一つになれば、女神はその復帰を喜ぶであろう。人生は試練なのだ。  それにはバッハも同感だった。バッハは、かき集めたメモを一つにまとめると、今度はエニイタウンから持ち帰った一冊の本を手に取った。この本は、殺された女の写真のかわりに、例のバービーから渡されたものである。  それは人間の設計図だった。  題して『|人 体 詳 述 の 書《ザ・ブック・オブ・スペシフィケーションズ》』。ちぢめて『|人 述 書《ザ・スペックッス》』。バービーたちは、それぞれこの本を、巻尺つきで腰につるしている。いわば、バービーの外見を定義し、その許容誤差を機械工学的に定めた本なのだ。中を開けば、肉体の各部分が豊富な図解をつけてミリ単位で詳しく説明されている。  バッハは、それを閉じ、上半身を起こして枕に頭をあずけた。そして、映写板をたぐりよせ、ひざにのせると、殺人テープの検索コードを叩いた。これを見るのはその晩二十回目のことである。全員同じ顔をした駅の人ごみから、一つ影が飛び出し、リーア・イングラハムを刺して、また雑踏に溶けこむ。床に倒れた被害者は、内臓をさらけ出して、血を流している。  バッハは映写速度をおとし、殺人犯に注目して、特徴を見つけようとした。どんな小さなことでもいい。ナイフの一突き。吹き上がる血。呆然としてそれを取りまくバービーたち。遅ればせながら犯人を追いかける者もいたが、もう間にあわない。こういうときは間にあったためしがないのだ。しかし、殺人犯は、手に血をつけている。あとで忘れずに尋ねてみよう。  バッハはもう一度テープを見たが、何の収穫もなかった。その夜は、これでおひらきにした。 [#この行8字下げ]*  奥行きが深く、天井の高い部屋。頭上の光板からの明るい光がその部屋を照らしている。バッハは、係員に続いて、一方の壁に並ぶ扉の前を進んだ。空気はひんやりして、湿り気をふくんでいる。ホースを使ったあとで、床は濡れていた。  手に持ったカードを見ながら、男が死体保存庫六五九Aの扉をあけると、ガランとした部屋に騒々しい音が響いた。男は台を引き出し、死体のシーツをめくった。  切り刻まれた死体ならすでにおなじみだが、裸のバービーを見るのは初めてだった。バッハの目は、乳房を模した二つの小高い丘に乳首がついていないこと、そして、股の付け根がつるんとした肌になっていることをただちに見てとった。係員は眉をひそめて死体の足首のカードを調べていた。 「とんでもない間違いだ」男はつぶやいた。「まったく、頭が痛いよ。刑事さん、こんなものをどうするんです?」男は頭を掻くと、カードのF=i女性)を線で消して、きちんとN=i中性)に直した。そして、バッハを見て気の弱そうな笑いを浮かべながら、「どうするんです?」と繰り返した。  そんなことにいちいちかまってはいられない。バッハは、L・P・イングラハムの死体を調べた。この死体のどこかに、仲間のバービーから死を宣告される理由が隠されていることを期待しながら。  いかにして[#「いかにして」に傍点]死んだかはすぐわかった。ナイフは、腹部に深く突きささり、傷口は上にひろがって、ナイフの跡は胸骨にまで達している。その骨も途中まで切られていた。いかに鋭い刃物とはいえ、よほどの力がないかぎり、そこまで肉を切り進むことはできないだろう。  係員がめずらしそうに見守る前で、バッハは死んだ女の両脚をひろげ、そこにあるものを調べた。湾曲部の後ろ、肛門のすぐ前に、尿道の小さな割れ目が見えた。  バッハは、『人述書』をひろげ、巻尺を取り出すと、次の作業にとりかかった。 [#この行8字下げ]* 「アトラスさん、形態改造手術案内のファイルで知りましたが、統一教とはかなりの取引がおありになるそうですね」  男は眉をひそめ、つづいて肩をすくめた。「それがどうしました? あの連中、お気に召さないかもしれませんが、合法的な組織なんですよ。わたしのところも書類だけはきちんとやってますからね。刑事さんのところで前科のチェックが終わった客じゃないと、手術はおことわりするきまりでして」男は、広々とした相談室のデスクにちょこんと腰をおろし、バッハと向かいあっていた。ロック・アトラス氏――もちろん、商売用の名前だろう――は、大理石の彫像のような肩と、真珠のように輝く歯と、若い男神のような顔の持ち主だった。その職業の生きた広告というべきだろう。バッハは居心地悪く脚を組んだ。こういうたくましい男が好みのタイプなのである。 「取調べじゃないんですよ、アトラスさん。殺人事件の捜査にご協力をお願いしたいのです」 「ロックと呼んでください」アトラス氏は愛嬌《あいきょう》のある笑みを浮かべた。 「あら、そう? じゃあ、そうしましょう。実は手術のことですが、時間はどのくらいかかるでしょうか、わたしをバービーにするとしたら」  アトラス氏は顔を曇らせた。「おや、まあ、なんともったいない! 許しませんよ。まさに犯罪行為です」それから、バッハのほうに手を伸ばし、アゴに軽く指を当て、顔の向きを変えさせると、「それよりも、刑事さん、わたしにまかせていただけるのなら、頬のくぼみ[#「くぼみ」に傍点]をほんの少し強調しますね――裏側の筋肉を締めるという手がありますな――それから、目玉の入っている骨をちょっと鼻から遠ざければ、目と目の間隔が広くなる。いっそう人目をひくこと、うけあいですよ。神秘的な感じがでる。もちろん、鼻も直さなければ……」  バッハはアトラス氏の手をはらいのけて、かぶりを振った。「いや、手術に来たんじゃありません。ただ教えてほしいんです。手術は手間がかかるんですか? それから、教団の体格の基準と、どの程度まで似せられるんでしょう?」そのとき、ふと眉をひそめると、いぶかしげにアトラス氏を見た。「あたしの鼻、おかしいかしら」 「いや、めっそうもない、何もいけないと[#「いけないと」に傍点]言うんじゃありません。確かに、その鼻は、場合によっては大きな威力を発揮するでしょう。なんせ、ご商売がご商売ですからな。まあ、多少左に曲がっているとしても、美学的には――」 「結構です」バッハは言った。商売上手に乗せられたことが腹立たしかった。「質問に答えてください」  アトラス氏はバッハをじっくり観察した末に、立って一回転するように命じた。バッハとはかぎらず、女性一般を手術の対象に考えてほしかったのだが、それを抗議しようと口を開きかけたとき、アトラス氏のほうはバッハへの興味を失くしたようだった。 「大した手間じゃありませんな。身長は基準より少し高い。まあ、もも[#「もも」に傍点]とすね[#「すね」に傍点]をつめればいい。椎骨も少々削ることになるかな。ここの脂肪を抜いて、こっちにくっつける。乳首を取り、子宮や卵巣をほじくり出して、股のあいだを縫いつける。男ならペニスを切り落とすんです。頭蓋骨も少々いじって、骨相を変えないといけませんね。それを土台にして顔をつくりましょう。ま、二日の仕事ですか。一日だけ入院して、あと一日は通いということです」 「手術が終わってから見わける目印になるところはありますか?」 「は?」  バッハが手短に事情を説明すると、アトラス氏は考えこんだ。 「そいつはお困りですね。手足の指紋は消すんです。外から見てわかるようなキズは残りません。ほんの小さなやつでもね。ホクロ、イボ、アザ――こういうのはみんな取ってしまう。血液検査なら区別できますね。網膜紋を調べるのもいいでしょう。それから頭蓋骨のX線写真も。声紋――こいつはだめか。声の質もできるだけ揃《そろ》えていますから。これくらいですね、思いつくのは」 「じゃ、目で見ただけでは何も?」 「だって、そのために手術するんでしょう?」 「ええ。ただ、バービーの知らないことでも、あなたに訊《き》けばわかるんじゃないかと思いまして。ともかく、お手間をとらせました」  立ちあがったアトラス氏は、バッハの手を取って接吻した。「いいえ、どういたしまして。それから、ご決心がつきましたら、その鼻のお世話をぜひわたしに……」 [#この行8字下げ]*  バッハは、エニイタウンのまん中にある礼拝堂の門口でジョージ・ヴァイルと会った。ヴァイルは午前中からここで記録を調べていたはずだが、その様子から見ると、結果は思わしくなかったようだった。一人のバービーがバッハとヴァイルを待っていた。そのバービーは前口上ぬきでいきなり切り出した。 「わたしたち、ゆうべの総意統一礼会で、できるかぎり協力することに決めました」 「あら、そう? これはどうも。実をいうと期待していなかったのよ。五十年前の事件もあることだし」  ヴァイルは首をかしげた。「何だ、それは?」  バッハはバービーが自分で説明するのを待っていたが、どうもだめらしいとわかった。「じゃ、いいわ。ゆうべ調べたの。統一教徒は前にも人を殺したことがあるのよ。月《ルナ》へ来て日が浅いうちにね。気がつかない? ニュードレスデンではバービーを一人も見ないでしょう?」  ヴァイルは肩をすくめた。「それがどうした。みんな一ヶ所にかたまっているだけさ」 「命令で[#「命令で」に傍点]そうしているのよ。最初のうちは、一般市民に混じって自由に行動していたそうよ。ところが、ある日、中の一人が殺人を犯した――そのときの相手は教徒じゃなかったの。犯人がバービーだということは、目撃者がいてすぐわかった。警察は犯人を捜しはじめた。それからどうなったと思う?」 「今のおれたちと同じ問題にぶつかったわけか」ヴァイルは顔をしかめた。「どうやら見通しは暗いようだな」 「楽観は難しそうね」と、バッハも認めた。「犯人は見つからなかったわ。バービーたちのほうじゃ、適当に一人を差し出して、当局に許してもらおうとしたらしいけれど、もちろんだめ。そのうちに猛烈な世論が湧き起こって、何か区別できる印をつけるように圧力がかかったの。たとえば、額に入れ墨で番号を書くとか。そんなことをしても役に立たないでしょうね。隠せばいいんだもの。  問題は、バービーたちが社会の脅威だと思われるようになったことね。好きなように人を殺して、自分たちの小社会に逃げこんだら、海辺の砂粒みたいにわからなくなってしまう。犯罪者を処罰しようにも手が出なかった。まだ取り締まる法律がなかったんですものね」 「それからどうなった?」 「捜査は打ち切り。逮捕者なし、起訴なし、容疑者なし。結局、バービーたちとの取引が成立して、信仰を認めるかわりに、一般市民との交流が禁止されたわけ。それ以来、このエニイタウンに閉じこもるようになったのよ。これでいいかしら?」バッハはかたわらのバービーを見た。 「ええ。わたしたちは協定を固く守っています」 「でしょうね。たいがいの人はここにあなたたちがいることさえ忘れてるくらいですもの。で、今度はこの事件。バービーが仲間のバービーを殺した、それもテレビ・カメラの前で……」バッハは言葉を切り、ふと考えこんだ。「待って、もしかしたら……。そうよ、そうなのよ[#「そうなのよ」に傍点]」いやな予感がした。 「変じゃない? 今度の殺人は管状線《チューブ》の駅で起こったわね。エニイタウンで市の保安カメラが据えてあるのはそこだけよね。五十年で殺人一件というのは、いくら狭い町でも少なすぎるし……ねえ、ジョージ、ここの人口、何人だったかしら」 「約七万。全員と知り合いになったような気分だよ」ヴァイルは、一日がかりでバービーを選びわけていた。殺しのテープで寸法をとった結果、犯人の身長は許容限度ぎりぎりの高さだとわかったのだ。 「どうかしら?」バッハはバービーのほうを向いた。「何か言うことはない?」  女は唇《くちびる》を噛んだ。心細げな表情が浮かんでいる。 「どう、協力すると言ったはずよ」 「わかりました。実は、この一ケ月で三件の殺人が起こったのです。今度の事件にしても、外部の人の前で起こったのでなければ、あなたがたの耳には届かなかったでしょう。荷積み場のプラットフォームには購買局の人たちが来ていました。最初に通報を入れたのはその人たちです。もみ消そうとしても、わたしたちの力では無理でした」 「でも、なぜ隠したがるの?」 「当然ではありませんか? わたしたちには、生きているかぎり、迫害の恐れがつきまとうのです。ほかの人たちから害があると思われたくありません。平和な集団だと思われたいのです――また、実際にそうです。だから集団の問題は集団内で処理するのです。わたしたちの聖なる総意によって」  この理屈の行きつく先は見えていた。バッハは、これまでの連続殺人に議論を戻すことにした。 「知っていることを話してください。殺されたのは誰ですか? 何かその理由に心当たりは? それとも、ほかの人に訊いたほうがいいかしら」そのとき、バッハは、ふとあることに思い当たり、どうして先に確かめておかなかったのか、と後悔した。「きのうわたしと話をしたのはあなた[#「あなた」に傍点]ですね? 別の言葉を使いましょう。きのうあなたは……いえ、わたしの前のこの肉体は……」 「おっしゃることは分かります」バービーは答えた。「ええ、そのとおりです。あなたと話したのは、わたしたち……わたし[#「わたし」に傍点]……です」女は、顔を真っ赤にしながら、喉をふりしぼってその言葉を口にした。「わたしたちは……わたし[#「わたし」に傍点]は……刑事さんの相手をする構成分子として選ばれました。ゆうべの総意統一礼会の認知で、この事件は処理されなければならないと知覚されたからです。この者[#「この者」に傍点]が……わたし[#「わたし」に傍点]が……その任をおおせつかったのは、罰としてです」 「無理にわたし≠使わなくても結構です」 「そうですか。助かりました」 「罰というのは、何のために?」 「つまり……個人主義的な傾向に対してです。総意統一礼会で、わたしたちの意見は、あなたに協力するほうへ個人的に傾きました。そのほうが得だと思ったからです。保守派の人たちは、どんな犠牲を払っても、神聖な原則を固く守るつもりでいます。わたしたちは分裂しました。おかげで、組織にわだかまりが生まれ、不健康な雰囲気が高まったのです。この者は、その意見を主張したために、罰として自分の考えをつらぬくことになりました。だから……一人離れて[#「一人離れて」に傍点]……あなたの相手をするように命じられたのです」女はバッハと視線をあわせることができなかった。その顔は恥辱で燃えていた。 「この者[#「この者」に傍点]は、識別番号を教えるように言われました。今度いらっしゃるときは二三九〇〇番を呼んでください」  バッハはそれをメモした。 「結構です。ところで、動機の見当はつきますか? この殺人は、すべて同じ……構成分子の仕業でしょうか?」 「わかりません。この集団から一人の……個人……を選び出すのは、わたしたちにもできないのです。しかし、とても驚いています。恐ろしいことです」 「やっぱりね。これはだいたいの感じでいいのですが、被害者と犯人は……変な言い方ですが……顔見知りだったと思いますか? それとも無差別の殺人でしょうか?」バッハはそうでないことを願った。無差別殺人の犯人ほどつかまえにくいものはない。犯人と被害者の結びつきがなく、殺害の機会があった何千人もの容疑者から一人を選び出すのもむずかしいのだ。しかも、バービーが相手だと、二重三重にやりにくい。 「これもわかりません」  バッハはため息をついた。「事件の目撃者に会わせてください。そろそろ事情聴取を始めたいと思いますので」  ほどなく十三人のバービーが連れてこられた。バッハは、全員を質問攻めにして、話に一貫性があるか、変更した箇所はないか、詳しく調べてみるつもりだった。  みんなを席にすわらせ、一人ずつ順番に話を訊いていったバッハは、すぐさま壁に突き当たった。四、五分すると、問題点がはっきりした。バービーたちのうちで最初に捜査官と話したのは誰か、二番目は、三番目はと尋ねても、腹立たしいほど埒《らち》があかなかったのである。 「ちょっと待って。よく聞いてよ。殺人が起こったとき、この肉体はそこにいましたか? この目はそれを見ましたか?」  バッハは眉にシワを寄せた。「いいえ。でも、同じことではありませんか?」 「ちがうのよ、あたしには。二三九〇〇番さんちょっと来て[#「二三九〇〇番さんちょっと来て」に傍点]!」  さっきのバービーが戸口に顔を出した。バッハの顔には苦痛の表情が浮かんでいた。 「実際にその場にいた人から話を訊きたいのよ。勝手に十三人選んだってだめだわ」 「あの話ならみんな知っています」  バッハは、五分かけてそうではないことを説明し、二三九〇〇番が本物の目撃者を集めてくるまで一時間辛抱した。  そして、ふたたび壁に突き当たったのである。みんなの話は、隅から隅まで同じだった。こんなことはありえない。見る目が変われば、いうこともそれぞれ違うはずなのだ。おのおのが自分を主役にして、目撃したことの前後につくり話を加え、順序を変えたり、適当に編集したり、自分なりの解釈を下したりする。ところが、バービーは違っていた。揺さぶりをかけるべく一時間にわたって悪戦苦闘したが、結局どうにもならなかった。バッハの前に立ちはだかっているのは教団の総意なのだ。議論が煮つまり、事件についての一つの解釈が生まれると、やがてそれが真実と見なされる。おそらく、真相にきわめて近いものだろう。しかし、バッハには何の役にも立たない。証言に食い違いでもあればじっくり思案するところだが、あいにく、そんなものは少しもなかった。  いちばん困るのは、誰一人、嘘をついているらしい様子がないことだ。適当に選ばれた最初の十三人を訊問しても、きっと同じ答えが返ってきただろう。みんな現場にいたつもりになっている。というのも、現場に居合わせた何人かの仲間がみんなに話を聞かせたからだ。一人の体験は全員の体験。  バッハは、証人を帰し、二三九〇〇番を呼びもどして椅子にすわらせると、一つ一つ指を折りながら疑問点を尋ねた。 「その一。被害者の持ち物は保管してありますか?」 「わたしたちは私有財産を持たないのです」  バッハはうなずいた。「その二。被害者の部屋を見せてもらえますか?」 「わたしたちは都合がよければどの部屋ででも夜の睡眠を取るのです。だから――」 「わかりました。その三。被害者の友人か仕事仲間のうちで……」バッハは片手で額をこすった。「いや、よしましょう。その四。被害者の仕事は何でしたか? それに、仕事場は?」 「ここでは決まった仕事はありません。わたしたちは必要に応じて――」 「もういいわ[#「もういいわ」に傍点]!」バッハは大声をあげて席を立つと、床の上を歩き始めた。「いったいこんな情況でどうしろ[#「どうしろ」に傍点]というの? 手がかりなんかちっともありゃしない。これっぽっち[#「これっぽっち」に傍点]もないじゃないの。なぜ[#「なぜ」に傍点]殺されたのかもわからないし、どうやって犯人を見つけたらいいかもわからないし、それに、それに……ああ、もう勝手にすればいいんだわ。このあたしに何をしろと言うの?」 「何もなさらなくて結構です」バービーは静かに答えた。「来てほしいとお願いしたわけではありません。このまま帰っていただけたら、わたしたちは安心します」  怒りのあまり、バッハはそれを忘れていたのだ。不意にどの方向へも動けなくなり、バッハは立ち止まった。そして、ヴァイルの視線をとらえると、ドアのほうにアゴをしゃくった。 「さあ、もう帰りましょう」ヴァイルは何も答えず、バッハに続いてドアを抜けると、急いであとを追った。  二人は管状線《チューブ》の駅に着いた。バッハは、待たせておいたカプセルのわきに足を止めた。そして、ベンチにぐったりすわりこみ、頬づえをついて、蟻のようにかたまって作業する荷積み場のバービーたちを見ながらつぶやいた。 「何かいい考え浮かんだ?」  ヴァイルは首を振り、バッハの横にすわると、制帽を脱いで額の汗をぬぐった。 「ここの温度調節、暑いくらいだな」ヴァイルはいった。バッハもうなずいたが、実際には聞いていなかった。前を見ると、バービーたちのうちの二人が集団を離れ、バッハのほうへ二、三歩近寄ってくる。二人だけで冗談を言いあっているのか、どちらもまっすぐバッハを見て笑い声をあげていた。と、一人がブラウスに手を入れ、ギラギラ光る長いスチール・ナイフを取り出した。そして、なめらかな身のこなしで相手の腹を一突きすると、かかとを地面につけて伸び上がりながらナイフをしゃくった。刺されたほうのバービーは、一瞬、唖然とした顔になり、自分の姿に目をやった。魚をおろすようにナイフが肉を裂いてゆくのを見て、口があんぐり開く。やがて、目を丸くして、恐怖のまなざしを連れに向けると、ナイフをかかえこむようにしてゆっくり膝を折った。血がドクドク流れ、白いお仕着せがぐっしょり濡れた。 「あの女をつかまえて[#「あの女をつかまえて」に傍点]!」一瞬、恐怖で金縛《かなしば》りになったあと、バッハはそう叫ぶや、ベンチを立って駆け出していた。テープで見た光景とあまりにもそっくりだった。  殺人者は四十メートルほど先を、走るというより早歩きでもするような格好で悠然と逃げていた。バッハは襲われたバービーのわきを通り過ぎた――女は横向きになり、まるでいとおしむようにナイフのつかを握って、苦痛に身をよじっている。通信器のパニック・ボタンを押して、肩ごしに振り返り、傷ついたバービーの横でヴァイルが膝をつくのを見てから、ふたたび前方に視線をもどすと――  何人ものバービーが入り乱れて走っていた。どれだろう、犯人は? どれだろう[#「どれだろう」に傍点]?  バッハは、中の一人の腕をつかんだ。振り返る前に見た殺人者と、同じところを同じ方向に走っているように思えたからだ。そのバービーを引きよせると、首の横に手刀を叩きこみ、相手が倒れるのを見ながら、ほかのバービーたちの様子にも目をくばった。それぞれが二つの方向に分かれて走っている。逃げ出そうとする者。何事かとばかりに荷積み場へやってくる者。悲鳴や金切り声があがり、右往左往する人波で、てんやわんやの状態になっていた。床に落ちている血まみれの何かが目に入った。しゃがみこんだバッハは、倒れたまま動かない女に手錠をかけた。  視線をあげると、何十もの同じ顔が、そこにあった。 [#この行8字下げ]*  部屋を暗くした警視総監は、バッハやヴァイルと一緒になって大型のスクリーンと向かいあった。スクリーンの横では、警察の写真分析技師が、指示棒を手にして立っている。テープが回りはじめた。 「ほら、ここにいます」女技師は長い棒で二人のバービーを示した。今はまだ、人ごみから離れ、動きだしたばかりの、二つの顔にすぎない。「被害者はこちら、その右が容疑者です」みんなの目の前で刺殺の場面が繰り返された。バッハは、自分の反応があまりにも遅いことを恥じた。救われるのは、ヴァイルのほうがまだほんの少し遅かったことである。 「ここでバッハ警部補が動きはじめます。容疑者は人ごみのほうへ。すぐ出てきますが、肩ごしに警部補を振り返るところがあります。ほら、この場面です」女技師は画像を止めた。「警部補のほうはすでに目を離してますね。容疑者は、返り血を浴びないようにはめていたビニールの手袋を脱ぎ、それを捨ててから、横に移動します。警部補は視線を戻しますが、見当違いの容疑者に目をつけたことはこれでわかるでしょう」  バッハは、胸が悪くなるのを感じながら、スクリーンの中の自分が無実のバービーに襲いかかるのを食い入るように見つめていた。真犯人はほんの一メートルほど左にいる。テープの回転が元に戻り、バッハはまばたきもせず、目が痛くなるのも忘れて、殺人者の姿を追い続けた。  今度は絶対に見失いたくなかった。 「おそろしく大胆な犯人ですね。そのあと二十分も現場を離れなかったのですから」バッハは、膝をついた自分が、医療班に手を貸して、傷を負ったバービーをカプセルに運ぶのを見ていた。殺人者は、バッハの横、手を伸ばせばすぐ届くところに立っている。バッハは片方の腕に鳥肌が立つのを感じた。  それと同時に、傷ついた女のそばにしゃがみこんだときの、吐き気をともなう恐怖も思い出した。犯人はすぐそばにいるかもしれない[#「犯人はすぐそばにいるかもしれない」に傍点]。たとえば[#「たとえば」に傍点]、後ろの女[#「後ろの女」に傍点]……。  バッハは銃を抜き、壁ぎわに退いて、二、三分後に応援がやってくるまでそこを動かずにいたのだった。  警視総監の合図で部屋が明るくなった。 「報告を聞かせてもらおうか」総監は言った。  バッハはヴァイルに目くばせして、メモを読みあげた。 「ヴァイル巡査部長は、医療班が到着する直前に被害者の話を聞いた。何か犯人を識別する特徴はないか、と尋ねたところ、何もないという答えが返ってきた。被害者は、ただ〈神の怒り〉という言葉を口にするだけで、それ以上の説明は聞けなかった=B次に、ヴァイル巡査部長がその会話のあとで書きつけたメモを読みます。『痛い、痛い』『わたしは死ぬ、わたしは死んでしまう』もうすぐ医者がくるから、と言いきかせても、被害者の答えは『わたしは死んでしまう』だった。やがて、意識をなくしそうになったので、わたしはヤジ馬のシャツを借りて出血を止めようとした。協力は得られなかった=v 「わたし≠ニいう言葉がいけなかったんでしょう」とヴァイルは言いそえた。「女が口にしたその言葉を聞いて、ヤジ馬は散りはじめたんです」 「女はもう一度意識を取り戻した=vバッハは続けた。「今度は、一連の番号をささやいた。イチ、ニ、イチ、ゴ。わたしは一二一五と書きとめた。女はまた興奮して、『わたしは死ぬ』と言った=vメモを閉じて、バッハは顔を上げた。「もちろん、そのとおりになりましたが」そして、居心地悪そうに咳払いする。 「わたしたちは、ニュードレスデン統一法規三十五条b項の〈緊急捜査法〉を適用して、捜査のあいだ、その地区の市民権を制限しました。構成分子一二一五番は簡単に見つかりました。バービーたちを一列に並べて、ズボンを下ろすように言ったのです。それぞれ腰のところに識別番号をつけていますから。一二一五番のシルヴェスター・J・クロンハウゼンという構成分子は、ただいま拘留中です。その捜査と並行して、わたしたちは鑑識をつれて一二一五番の寝室に行きました。そのとき、寝台の下の隠し戸棚から見つかったのがこれです」バッハは席を立って証拠物件の押収袋をあけ、中身をテーブルに並べた。  木彫りの仮面。これには先の曲がった大きな鼻とロヒゲがあり、まわりを黒い髪が取り囲んでいる。仮面の横には、白粉《おしろい》、化粧クリーム、ドーラン、コロン、黒いナイロンのセーター。黒いズボン、一足の黒いスニーカー。雑誌から切り抜いた写真の束。それは普通人の写真で、大部分がルナの市民の標準よりも多くの衣装を身につけていた。そして、黒いカツラと、同じ色のマーキンがあった。 「その最後の品は何だ?」総監が尋ねた。 「マーキン」とバッハ。「つまり、陰毛のカツラです」 「なるほど」総監は、椅子に背中をあずけて、その取り合わせをじっと見つめながら、「どうやらおめかしの好きな者がいたらしいな」 「そのようです」バッハは立ったまま両手を後ろに組んで、無表情な顔をつくっていた。強い敗北感があった。それと同時に、自分の目の前で殺人を犯し、そのあともすぐ近くに立っていたあの鉄面皮な女を必ず捕まえてやるという冷たい決意を固めていた。もう間違いのないところだろうが、犯行の時と場所は意識的に選ばれたのだ。あのバービーは、バッハへの当てつけに処刑されたのである。 「この品は被害者のものだろうか?」 「そうとは言いきれません」と、バッハ。「しかし、情況はそのほうに傾いています」 「と言うと?」 「自信はありませんが、被害者のものだったと考えたほうがよくはないでしょうか。ほかの寝室も無差別に調べてみましたが、この種のものは出てきませんでした。この証拠物件は協力者の二三九〇〇番に見てもらいました。何に使うのか見当もつかないということです」バッハは一息入れて、続けた。「わたしの勘では、嘘をついているのだと思います。明らかに、嫌悪の表情を浮かべていましたから」 「で、その女、逮捕したか?」 「いいえ。それはまずいと思います。今のところ、ただ一人のコネクションですので」  総監は眉をしかめて指を組んだ。「判断は、バッハ警部補、きみにまかせよう。正直いって、このやっかいごとは早く始末したいのだ」 「まったく同感です」 「きみにはわたしの立場がわかっていないのかもしれない。何よりも生身の犯人をつかまえて起訴することだ。今すぐにもだ」 「わたしもできるだけのことはやっています。率直にいうと、いささか手詰まりになりかけているのですが」 「やはりわかっていないようだな」総監は部屋を見まわした。速記者と分析技師はすでに帰っている。残っているのはバッハとヴァイルだけだ。総監は机のスイッチを倒した。録音装置をオフにしたのだろう、とバッハは思った。 「ニュース屋がこの事件を取り上げはじめた。そろそろ圧力がかかっている。一方では、市民にもバービーへの恐怖が高まりつつある。五十年前の殺人と、あの非公式な取り決めのことが噂《うわさ》になっているのだ。誰もいい顔はしておらん。それから、市民権擁護論者のこともある。バービーたちにもしものことがあったら、連中は先頭に立って噛みついてくるはずだ。行政当局は、そういう面倒事を好まんのだ。その態度は、むしろ、もっともだと思うがね」  バッハは何も言わなかった。総監の顔には苦しそうな表情が浮かんだ。 「はっきり言ったほうがよさそうだな。われわれのところには拘留中の容疑者がいる」 「構成分子一二一五番のシルヴェスター・クロンハウゼンのことでしょうか?」 「ちがう。きみが逮捕した女だ」 「お言葉ですが、テープを見ればわかるとおり、あの女は犯人じゃありません。罪のない目撃者です」バッハはそう言いながら、顔が火照《ほて》るのを感じた。くやしいが、あれでも精いっぱいのことはやったのだ。 「これを見てもらおうか」総監がボタンを押すと、ふたたびテープが回りはじめた。しかし、画像の質は非常に悪く、しきりに雨が降り、ところどころ絵がすっかり消えてしまう箇所もあった。壊れかけたカメラの感じがよく出ている。バッハは、人ごみの中を駆けてゆく自分の姿を目で追った。そこに、白い閃光が走った――次の場面では、もう例の女に手刀を振りおろしていた。部屋に明かりが戻った。「分析技師には話をつけてある。いうとおりにしてくれるそうだ。うまくいったら、ボーナスを出そう。きみたち二人にな」総監はヴァイルを見て、バッハを見た。 「わたしにはできそうもありません」  総監は、レモンを口にふくんだような顔をした。「今日これからという話ではないんだよ。いわば、選択の問題だ。しかし、その方向からも考えてほしい。考えるだけでいい。わたしは何も言わんから。これは、バービーたちも[#「バービーたちも」に傍点]望んでいることじゃないのかね。きみが最初に行ったとき、連中は同じことを申し出たはずだ。自白があれば、事件は無事に落着する。容疑者なら例の女を押えてあるんだ。殺したことは認めている。みんな自分の仕業だったとな。考えてもみたまえ、この女のいうことは間違っているか? おのれの良心と道徳に照らして当然のことを言っているのじゃないかね? 女は、あの連続殺人は自分にも罪があると思っている。社会は犯人を出せといっている。バービーたちの申し出を受けて、これっきりにするのがなぜ悪い?」 「でも、わたしには納得できません。こんなの、警察の宣誓にはありませんでした。罪のない者を守るのがわたしの役目です。あの女は無実です。あの女だけですよ[#「あの女だけですよ」に傍点]、バービーの中でわたしにも無実がわかっているのは」  総監はため息をついた。「バッハ、きみには四日間、時間を与えよう。それまでに別の容疑者をつれてきたまえ」 「いいでしょう。もしも失敗したら、総監のなさることに口ははさみません。ただし、その前に辞表を受け取っていただきます」 [#この行8字下げ]*  アンナ=ルイーズ・バッハは、たたんだタオルを枕にして、浴槽に手足を投げ出していた。顔と、乳首と、膝頭だけが、波も立てずに湯の上からのぞいている。入浴剤をたっぷり入れたので、湯は紫色になっていた。バッハは、歯のあいだに細い葉巻をくわえていた。その先から煙がただよい、天井の近くで湯気の雲と一緒になった。  バッハは、片足をのばして栓をひねり、さめた湯を抜きながら、額から汗が吹き出すまで熱い湯を満たした。浴槽につかってから、もう何時間にもなる。指の先は洗濯板のようにふやけていた。  打つ手はほとんどないようだった。バービーのことはバッハにはよくわからないし、かわりに人をやって調書を取ったとしても事情は変わるまい。連中は、バッハが事件解決に手を貸すのを望んでいない。おなじみの手順や捜査方法は役に立たないだろう。目撃者はいてもいなくても同じだ。誰が誰なのか区別できないし、証言も一致するに決まっている。犯行の機会? 数万人にあった。動機は不明。犯人の身体的特徴はこまかいところまでわかっている。実際に現場をとらえたテープさえある。どちらも用なしだ。  何とかなりそうな捜査の方法が一つだけあった。バッハは、何時間も湯にのぼせながら、今の仕事がどれほどのものか秤にかけていた。  いったい、ほかに好きな仕事が見つかるだろうか?  バッハはあわてて浴槽を飛び出して、おびただしい湯を床にこぼした。そして、急いで寝室に入ると、ベッドのシーツをはぎとり、裸の男の尻をピシャリと叩いた。 「起きてちょうだい、スヴェンガリ」バッハは言った。「お望みどおり、あたしの鼻をいじらせてあげるわよ」 [#この行8字下げ]*  バッハは、目が使えるうちに、統一教に関する文献を読みあさった。アトラスが目の手術を始めると、今度はイヤホーンでコンピュータの教授を受けた。おかげで『聖規律書』をほぼ暗記することができた。  手術が十時間。それに続いて、あおむけに横たわり、全身麻酔の処置を受け、肉体がその再生を強いられる八時間のあいだ、バッハの目は頭上のスクリーンにうつされる文字を追いつづけていた。  三時間の訓練で、短くなった手足に慣れた。次の一時間で、身じたくを整えた。  アトラスの病院を出たバッハは、これなら一人前のバービーとして通用するだろうと思った。ただし、服を脱いだらばれてしまう。そこまで[#「そこまで」に傍点]はする気になれなかったのだ。 [#この行8字下げ]*  地表へ続く通用|閘《こう》のことは、しばしば見すごされがちである。バッハはその盲点をついて、一度ならずも人の意表を衝く場所に現われたことがあった。  借りてきた葡行車《クローラー》を、閘《ロック》のそばに乗りすてる。圧力服でぎごちない身のこなしになりつつ、閘《ロック》に入って、気門を回して閉め、中の扉を抜けてエニイタウンの備品室に出た。そして、圧力服を隠し、洗面場で簡単に身づくろいをすると、ゆったりした白いジャンプスーツにベルトでとめた巻尺をまっすぐに直して、薄暗い廊下に侵入した。  この行動はどこから見ても合法的だが、違法すれすれのところにある。変装を見つけたら、バービーたちはいい顔をしないだろう。バッハも承知のうえだが、一人のバービーをこの世から消してしまうことなど、すぐにできるのだ。この事件をバッハが引き受けるまでに、すでに三人がそんな目にあっている。  周囲に人の気配はなかった。ニュードレスデンの任意日周制でいうと、もうかなり夜がふけている。総意統一礼会の時間だ。バッハは急ぎ足で静かな通路を抜け、礼拝堂の大集会室へ向かった。  そこにはバービーがあふれ、話し声がどよめいていた。バッハは難なく忍び込み、二、三分のうちに、アトラスが言うように整形手術が成功したことを確認した。  総意統一礼会は、各自の経験を統一するバービーなりのやり方である。いくらバービーでも、生活を極端に単純にして、それぞれが毎日同じ一つのことをやればいいというわけにはいかない。それが理想だが、女神との聖なる同一化が果たせないかぎり無理だろう、と『聖規律書』には書かれている。バービーたちは、生活に欠かせないいくつかの作業を簡略にして、誰の力でもできるようにした。利益を上げるのが目的ではないが、空気や水や食料は買い入れなければならない。それに、壊れた備品の交換や、生活の管理にも金がかかるから、コミュニティの中で物をつくり、外の世界と交易する必要があった。  バービーたちが売るのは贅沢《ぜいたく》品ばかりである。手彫りの神像、飾りつきの聖書、彩色陶器、刺繍《ししゅう》したタペストリー。ただし、統一教と関係のあるものは一つもない。バービーたちにとっては、同じ外見と巻尺だけが信心の象徴となる。だが、教義では、ほかの宗教の信者にそれぞれの信仰する物を売っても、別にさしつかえないとされていた。  バッハは高級な店で連中のつくった物を見たことがある。念入りに仕上げられていたが、残念なことに、どれを取ってもそっくりだった。工業技術が進んだ時代に人が手づくりの贅沢品を求めるのは、機械製品では得られないような違いがそれぞれにあるからだ。ところが、バービーは、まったく同じ物をつくろうとする。皮肉な話だが、自分たちの規律を固く守るためには商品価値を喜んで犠牲にするのだろう。  昼のあいだバービーはできるかぎりほかの仲間がやってきたのと同じ仕事をする。しかし、食事の用意や、空気配給装置の点検、荷役などの作業を引き受ける者も必要だ。構成分子は、それぞれ日替わりで別の仕事についている。総意統一礼会では、みんなが集まって、その差異を均《なら》すのである。  退屈な集会だった。たまたまそばにいる者に向かって、全員が手当たりしだいに話しかけている。それぞれが今日やったことをしゃべっているのだ。バッハは、真夜中をまわるまで、似たような話を何百回も聞き、耳を傾ける者がいればその話を繰り返した。  何か特異な体験をした者は、ラウドスピーカーで全員にそれを伝え、自分だけがみんなと違うのだという耐えがたい責め苦を解消させることになっていた。ほかの誰も知らないことを、自分の胸にしまっておくバービーはいない。全員がそれを分かちあうまで、その身は汚れたものと見なされるのである。  バッハはいいかげんうんざりしていた――睡眠不足が続いているのだ――と、そのとき、不意に明かりが消えた。どよめく話し声は、テープが壊れるように、ピタッと止まった。 「闇の中の猫はみんな似ている」と、バッハのすぐそばで誰かがつぶやいた。そのとき、一つの声があがった。その声は荘厳で、ほとんど詠唱するような響きを持っていた。 「われらは神の怒りである。われらの手は血に染まっている。だが、それは、聖なる浄《きよ》めの血なのだ。前にも話したとおり、われらが肉体の心臓は癌細胞にむしばまれている。だが、おまえたちは、臆病にもまだ手をこまねいているのだ。穢れは取り去らねばならぬ[#「穢れは取り去らねばならぬ」に傍点]!」  バッハは、この真の闇のどこからそれが聞こえてくるか見当をつけようとしていた。ふと気がつくと、人の動きが始まっていた。誰もがそばをすり抜け、同じ方向に進んでゆく。その流れにさからっているうちに、人の波は声が聞こえてくるのと逆の方向に進んでいることがわかった。 「おまえたちは、われらの聖なる一致を利用して身を潜めようとしているが、女神の報復の手はそれを見のがしはしない。かつての姉妹たちよ、印はすでにその身に刻まれている。罪の刻印が、おまえたちを分かち、すみやかにその報いが訪れるだろう。 「残るはあと五人[#「残るはあと五人」に傍点]。女神はおまえたちを知っている。そして聖なる真実を冒したことを、お許しにはならないのだ。思いもよらぬときに死の運命がおまえたちをみまうだろう。女神はおまえたちの差異はお見通しだ。好んでおまえたちが求めた差異を、そして、高潔な姉妹から隠しとおした差異を」  人の流れはいっそう速くなっていた。前のほうではつかみ合いの始まったらしい気配があった。バッハは、全身からおびえが感じられる人の波をかきわけて、ようやく空《あ》いたところにたどりついた。演説の主は、すすり泣きや素足が床をこする音に負けまいと、声を張り上げている。バッハは腕をいっぱいに伸ばして前進した。だが、演説の主のほうが先に手を触れた。  そのパンチは腹をそれていたが、バッハは思わず胸の空気を吐き、大の字に倒れた。誰かがバッハの体につまずいた。早く立たなければ大変だ。バッハは身をくねらせて起き上がろうとした。部屋に明かりが戻ったのはそのときである。  一団となって安堵《あんど》のため息がもれ、バービーたちはそれぞれ近くの者の安全を確かめあった。バッハは、もしやまた死体が、と思っていたが、どうやら取り越し苦労に終わったようだ。殺人者は今度も姿をくらましていた。  バッハは、解散の前にその部屋を抜け出すと、小走りで人のいない通路を通り、一二一五号室に向かった。 [#この行8字下げ]*  その部屋――独房より少し大きいくらいで、寝棚と、椅子と、テーブルの上にライトがある――で二時間余り待っていると、予想が適中して、やがてドアが開いた。一人のバービーが息を切らしながら入ってきて、閉めたドアにもたれかかった。 「来ないかと思っていたのに」と、バッハは切り出してみた。  女はバッハのもとに駆け寄り、膝に身を投げ出してすすり泣いた。 「わたしたちを許してちょうだい、どうか許して。ゆうべは来る勇気がなかったの。こわかったから……もしかして……もしかして、殺されたのはあなたじゃないかと思って。それに、この部屋で神の怒りが待ちかまえているような気がしたから。許して、許してちょうだい」 「そんなことはかまわないわ」とバッハは言った。ほかには答えようがなかったのだ。すると、そのバービーが不意にのしかかってきて、身も世もなくキスの雨を降らせた。こういうことも予想していたのだが、バッハはやはりドキリとした。そして、できるだけのことをしてそれに応じた。やがて、バービーはまた話しはじめた。 「このままじゃいけないのよ、もうよさなければ。神の怒りに触れたら大変だもの。でも……でも、この胸の想いが! 自分ではどうにもならないわ。あなたに会いたい、そう思うと一日じゅううわ[#「うわ」に傍点]の空なの。遠くにいるんだろうか、それともすぐそばで作業している人があなただろうか。昼のあいだに想いはつのるばかり。そして、夜になると、また罪を繰り返してしまう」女は涙を流していた。こんどはもっと静かに。それは、バッハを恋人と間違えて、再会を喜ぶ涙ではなく、絶望の淵からの涙だった。「わたしたち、どうなるの?」女は頼りなげにつぶやいた。 「黙って」バッハは優しく声をかけた。「きっと大丈夫よ」  しばらくなぐさめてから、ふと目をやると、相手の女が顔を上げるのが見えた。その目には奇妙な光が宿っていた。 「もう我慢できないわ」そう言うと、女は立ち上がり、着ている物を脱ぎ始めた。手の震えがバッハにもわかった。  着衣の下に、そのバービーは、見おぼえのある物を隠していた。両脚のあいだには、すでに陰毛のカツラをつけているのが見える。木彫りの仮面は、秘密の戸棚で発見されたものとよく似ていた。そして、口の広いビンが一つ。バービーはその蓋を取り、中指を使って、乳房の先に茶色のシミをつけた。形だけの乳首ができあがった。 「わたし[#「わたし」に傍点]を見て」女は、一人称に力をこめて、声を震わせた。そして、床につみ上げた衣類から薄物の黄色いブラウスを抜いて肩にかけると、ちょっとポーズをとってから、狭い部屋を気取った格好で歩き始めた。 「ねえ、ダーリン」女は言った。「わたし、きれいでしょう? わたし、かわいいでしょう?わたしだけよね、あなたが好きなのは? わたしだけでしょう? どうしたの? まだこわがってるの? わたしはこわくないわ。あなたのためなら何でもできるのよ。わたしのたった一人のいとしい人」だが、女は足を止め、疑いの目をバッハに向けていた。 「どうしておめかし[#「おめかし」に傍点]しないの?」 「わたしたち……いえ、わたしはできないのよ」バッハはとっさに言いわけを考えながら、「あの人たち、というか、誰かが見つけたらしいの、全部なくなってたわ」ここで服を脱ぐわけにはいかない。乳首と陰毛は、この薄暗い明かりの中でも本物だとわかるだろう。  バービーは後ずさりをはじめていた。そして仮面をひろい、胸元に抱きこんで身をかばうようにすると、「どういうこと? あの女がここに来たの? 神の怒りね? わたしたちを追いかけて来るんでしょう? そうなのね? わたしたちのこと、見わけられるんだわ」女はあと少しでまた泣き出しそうになっていた。錯乱の一歩手前だった。 「違うのよ。きっと警察が――」しかし、その言葉は役に立たなかった。相手は早くも戸口に立ち、途中までドアを開けていた。 「あなたがあの女ね? よくもわたしの……だめ、近寄らないで」  女は、拾い上げていた衣類に手を入れた。ナイフを出すのだと思って、バッハは一瞬たじろいだ。そのわずかなすきに、バービーは素早く戸口をすり抜け、後ろ手にバタンとドアを閉めた。  バッハがドアのところへ行ったとき、女の姿はすでになかった。 [#この行8字下げ]*  バッハは繰り返し自分に言いきかせた。ここへ来た目的は、これからの被害者――あの訪問者は確かにそれだ――を見つけることではなく、殺人犯をつかまえることだ。それにしても、もう少しひきとめて、話を聞けばよかったという思いは変わらなかった。  さっきの女は倒錯者だ。と言っても、その定義は、統一教徒の中でしか通用しないのだが。あの女と、おそらく殺されたバービーたちには、個性がフェティシズムの対象になるのだろう。そのことに思いあたったバッハは、それならなぜ居留地を離れて好きなようにしないのか、とまず考えた。しかし、キリスト教徒が売春婦を買うのはなぜか? こたえられない罪の味があるからだ。外の広い世界に出れば、こうしたバービーたちのすることはほとんど意味がない。ここにいるかぎり、それは最悪の罪であって、何物にもかえがたい快楽なのだ。  そして、誰かがそれを憎んだ。  ドアがまた開いた。見ると、バッハのほうを向いて女が立っていた。髪は乱れ、息を切らしている。 「わたしたち、やっぱり戻ってきました」女は言った。「ごめんなさい、取り乱してしまって。許してくださる?」女は両手を広げ、バッハのほうへ近づいてきた。いかにも弱々しく、しょげかえった様子だったので、握りこぶしが頬に当たったとき、思わず虚を衝かれた形になった。  バッハは壁ぎわにふっとび、気がつくと、女の膝に押さえこまれて、冷たい尖《とが》ったものを喉元に突きつけられていた。おそるおそる生唾をのみこんだが、バッハは何も言わなかった。喉がむずがゆく、我慢できないくらいだった。 「あの女は死んだ」バービーが言った。「今度はおまえの番よ」しかし、その顔には、よくわからない妙な表情が浮かんでいた。バービーは二、三度目をこすり、横目つかいにバッハを見おろした。 「ちょっと待って。人違いよ。ここであたしを殺したら、あなたの姉妹たちにとんでもない災難がふりかかるのよ」バービーはすこしためらってから、バッハのズボンの中に荒々しく手を入れた。性器にさわって目を見張った。が、ナイフはピクリとも動かない。何かしゃべらなければ、とバッハは思った。しかも、相手を怒らせないことだけを。 「これでわかったでしょう?」バッハは相手の反応を見たが、何もなかった。「知ってのとおり、政治的な圧力がいつかかるかもしれないわよ。外部に危険だと見なされたら、すぐにでもこの居留地はつぶされてしまう。それはあなたも望まないでしょう」 「そうなったら、それでもかまわない」バービーは答えた。「大切なのは純潔を保つこと。滅びるなら、純粋なままで滅びるわ。そのためにも冒涜《ぼうとく》者は殺されなければならない」 「そのことならもういいわ」バッハが言うと、バービーは初めて気をひかれた様子を見せた。「あたしにも原則があるのよ。あなたほど狂信的にはなれないかもしれない。でも、あたしには大切なの。一つは、犯罪者に正義の裁きをくだすこと」 「犯人はとらえたはずよ。その女を裁けばいい。処刑するがいい。その女もいやだとは言わないだろう」 「犯人はあなた[#「あなた」に傍点]よ」  女はにっこりした。「じゃ、逮捕したら」 「わかったわ。ごらんのとおり、それはできない。もしもあたしを生かしておいても、そのドアから出て行きさえすれば、もうあなたを見つけられないでしょう。そのことならあきらめたわ。だいいち時間がないのよ。これが最後のチャンスだったのに、どうやらしくじったらしいから」 「いくら時間があっても無理なものは無理よ。それに、おまえを生かしておいたって何になる?」 「助けあうことができるわ」ほんの少し緊張がやわらいで、バッハはどうにか唾をのみこんだ。 「あたしを殺せばこのコミュニティが破滅するから、あなたの損になる。こちらとしては……今の泥沼を何とかして、できれば少しでも面目を保ちたい。あなたの道徳観はもっともだと思うし、この集団で裁きをふるってもいいでしょう。あなたは正しいことを言っているのかもしれない。もしかしたら神に代わる人かもしれない。でも、あの女を罪におとすのはいけないわ。だいいち、誰も殺していないんだから」  ナイフはもう首に触れていなかったが、あいかわらず、ほんの少し動かせば喉に突きささるところにあった。 「で、生かしておいたらどうする? 何かできるの? どうやって無実の@e疑者を助けるつもり?」 「さっき殺したばかりの死体があるところを教えてちょうだい。あとはあたしがうまくやるわ」 [#この行8字下げ]*  検屍班が去り、エニイタウンは落ち着きを取り戻しつつあった。バッハは、ジョージ・ヴァイルと一緒にベッドの端に腰かけていた。ちょっと覚えがないくらい疲れている。最後に睡眠をとったのはいつだったのだろう? 「今だから言うが」と、ヴァイル。「まさかうまくいくとは思ってもいなかったぜ。おれの思いすごしだったようだな」  バッハはため息をついた。「生きたままつかまえるつもりだったのよ。できると思ったのに。でも、ナイフをかまえて向かってきたから……」嘘をつくのがいやだったので、あとはヴァイルの想像にまかせた。インタビュアーにはすでに嘘の話を聞かせてある。それによると、襲ってきた相手からナイフを奪い、おとなしくさせようともみあっているうちに、やむをえず殺したことになっていた。うまい具合に、バッハの後頭部には、壁に叩きつけられたときのコブがある。おかげで、しばらく気を失っていたという話も疑われずにすんだ。さもなければ、警察や救急車を呼ぶのがなぜ大幅に遅れたのか、不審に思われたことだろう。みんながやってきたとき、バービーは死んでから一時間たっていた。 「降参するよ。見事なもんだ。実をいうと、おれは悩んでいた。自分ならおまえさんみたいなことをやって辞職するだろうか、それともこのまま続けることになるだろうかってね。今じゃわからなくなったよ」 「そのほうがいいかもしれないわ。あたしだってわからないもの」  ジョージはバッハを見てニヤッとした。 「どうも落ち着かんな。そのとんでもない顔がおまえさんだとはね」 「こっちだって同じよ。鏡を見るのもいやだわ。すぐアトラスのところへ行って、元どおりにしてもらわなくちゃ」バッハは疲れた足で立ち上がると、ヴァイルと一緒に駅へ向かった。  ヴァイルには、まだ言っていないことがある。すぐにでも顔を元どおりにしたい――鼻も含めてだ――というのは本当だが、その前に一つだけすることが残っていた。  最初から気がかりになっていたことに、犯人はどうやって被害者を見分けたのか、という疑問がある。  おそらく、倒錯者たちは、あらかじめ時と場所を決めたうえで、あの奇妙な儀式にふけっていたのだろう。むずかしいことではない。バービーは簡単に仕事をさぼることができるのだ。気分が悪くなったと申し出れば、そのバービーがきのうも同じことを言ったとはわからないし、一週間続けても、一ケ月ぶりにやっても通用する。働く必要はない。次の作業へ向かうようなふりをして通路を歩いていればいいのだから。そうすれば誰もとがめはしないだろう。二三九〇〇番は同じ部屋で続けて寝るバービーはいないと言ったが、もしいたとしても気づかれずにすんでしまうのだ。一二一五号室は倒錯者たちがずっと占領していたにちがいない。  連中は、秘密の集まりをもったとき、良心のとがめも覚えずに識別番号で互いの身元を確かめあったことだろう。もちろん、外でおおっぴらにそれをすることはできない。そして、殺人者のほうにも、良心のとがめはなかった。  しかし、集団の中から連中を選び出すには、何か方法がなければならない。おそらく、儀式にまぎれこんで、その参加者に目印をつけたのだろう、とバッハは思った。一人がわかればもう一人がわかる。こうして全員をつかんでから、仕事にとりかかったのだ。  バッハは、犯人が自分を見つめたときの、奇妙な横目つかいの様子を思い出した。人違いのまますぐに殺さなかったのは、そこにはなかった何かの目印をさがしていたのだろう。  それを確認するため、一つ考えていることがある。  バッハは、まずモルグへ行き、いろいろな波長の光を、各種のフィルターを通して、死体に当ててみるつもりだった。そうすれば、なんらかの目印が顔に浮かび上がってくるはずだ。その目印を殺人者は捜していたのだ。コンタクトレンズを通して。  それは、適当な器具を使うか、一定の条件が揃うかしなければ、見えてこないものだろう。だが、根気よく続ければつきとめられるはずだった。  もしも目に見えないインクを使ったのなら、もう一つ面白い疑問がわいてくる。どうやってそれをつけたのか? 刷毛《はけ》やスプレーで? まず無理だろう。だが、そんなインクは、犯人の手についても、見た目や感触は水と変わらないにちがいない。  せっかく被害者に目印をつけたのだから、犯人は念を入れ、かなりの時間がたっても消えないように注意したことだろう。殺人は一ヶ月の期間にまたがっている。殺人者は、消えない透明のインク、毛穴にしみこんだインクをさがしていた。  そして、もしも消えないのなら……。  これ以上考えるのは無駄だった。正しいか間違っているか、答えはその二つ。犯人と取引したとき、バッハは、真相を知らずに生きていくことを覚悟したのだ。今となっては、犯人を法廷に引き出すわけにはいかない。あのとき、あんなことを言ったのだから。  いや、もしもエニイタウンに戻ってきて、罪に手を汚したバービーを見つけたら、結局は自分でその仕事をするはめになるだろう。 [#地付き](宮脇孝雄訳) [#改ページ] [#ページの左右中央]    イークイノックスはいずこに [#改ページ]  パラメーターは跡をつけられているのを知っていた。相手は何日か前から追ってきている。いつもかなり距離をとっているので、決定的に位置をつかまれる恐れはないが、といって尾行をまけるほど遠く離れてもいない。危険は迫っている。しかし、いまはそれどころではなかった。  いまは彼女の人生でも最高にすばらしい瞬間だった。ハンターなどに心をわずらわされずに、それを十二分に満喫したい。なにしろ、これから五つ子が生まれるところなのだ。  ユニ、デュオ、トライ、クワド……どうしようもなく平凡。ドック、ハッピー、スニージー、グランピー――いや、白雪姫のこびとはたしか七人だった。陸軍《アーミー》、海軍《ネイビー》、海兵隊《マリーン》、|空 軍《エアフォース》、沿岸警備隊《コーストガード》? これで五角形《ペンタゴン》、おもしろい洒落《しゃれ》。しかし、だれがコーストガードなんて呼ばれたいものか。第一、コーストガードってなんだろう?  パラメーターは命名に頭を悩ますのをやめた。さほど重要なことじゃない。時がくれば、子供たちが自分で名前を選ぶだろう。ただ、母親としては、なにか五つで一組のものにあやかった名前があればいいな、と思っただけだ。心おぼえのためにも。 「あいつら、また測定をやったわ」とパラメーターは思ったが、それは自分の思考ではなかった。イークイノックスの声だった。イークイノックスは友だちであり、環境であり、宇宙服であり、分身でもある。つまり、共生者《シンブ》なのだ。パラメーターは、いまやってきた方角をふりかえった。  彼女がそこに見たものは、太陽系最大の偉観だった。視野の左上隅にうかんでいる数字によると、現在位置は土星の中心から二十六万キロ。いっぽうにはこの巨大な惑星の黄色い図体がうかび、そして彼女の周囲をとりまいているのは、宇宙をまっぷたつに切った金色の線だ。いまいるところは土星から二番目の、最も明るい環《リング》の中だった。  しかし、土星とその| 環 《リングズ》だけが、彼女の見たもののすべてではなかった。土星から約十度離れて、リングズの平面の中に、トランペットのベルに似た形のぼんやりかすんだものが見える。それは透明だった。ベルの末広がりの口は彼女のほうを向いていた。その中から伸び出た四本の赤い線は、遠くではくっきりと明瞭だが、近くではしだいにぼやけている。それが追手だ。周囲いたるところに――といっても、リングズの平面に集中しているのだが――ゆっくりと動く、色とりどりの線がある。どれもその一端に矢印があり、どれもがこの眩惑的《げんわくてき》な立体バレエの中で刻々とパースペクティブを変えている。  そのどれも――色とりどりの線も、ベルも、追手≠焉Aいや、土星そのものさえ――なにひとつ現実のものでないことは、受像管に映るイメージと同様だ。ものによっては、それだけの現実性もない。たとえば、動きつづける無数の線は、イークイノックスのレーダー有効範囲内にある大きな岩塊や氷塊のベクトル表示にすぎない。  そのベルが、この何日かのいつにもまして接近している。これは悪いニュースだった。その時空間事象の表示は、追手の接近と、前回の検出位置《フィックス》から予測される彼らの蓋然的な所在を意味している。薄くぼやけた部分は、いまにもこっちにくっつきそうだ。そこからすると、追手はすぐ間近にきているかもしれない。もっとも、その確率はあまり高くない。おそらく追手は、予測図の中でもひときわくっきりとした細い管の中にいるのだろうし、その中でも最も高い確率を示すあの四本の線の中にいることは、ほぼまちがいない。しかし、それでもやはり近すぎる。 「あいつらがこっちの居場所を知ったなら、こっちもあいつら[#「あいつら」に傍点]の位置をつきとめてやるわ」とパラメーターは判断した。そう考えるのといっしょに、ベルは消え、その代わりに四つの赤い点が現われて、見まもるうちにも尾を生やしはじめた。 「近いわ。近すぎる」これでむこうは二つの検出位置《フィックス》を手に入れたわけだ。一つは彼ら自身のもの、もう一つは、いまこっちが跳ねかえらせた電波信号。この二つから、むこうのシンブはコースを計算できる。だから、こっちはコースを変えなくてはならない。  いつものように、岩塊を跳ねとばしてコースを変えるわけにはいかなかった。ハンターたちはすぐそばにいるので、岩塊の速度変化を探知して、こっちの位置をより正確につかまれるおそれがある。やはり推進器を使うしかなさそうだ。ここで質量をむだにする余裕はないのだが。 「どっちへ?」とパラメーターはたずねた。 「この平面から出たほうがいいんじゃない。あいつらもまだそこまでは予想していないから。あなたが産気づいてることも知らないし」 「でも、危険よ。外だし、どこにも隠れる場所がない」  イークイノックスはちょっと考えた。「あいつらがもっと近づいてきたら、どのみちこれ以上に思い切った手を打たなくちゃならない。その場合、成功の見込みはもっと少ないわよ。まあ、わたしは助言するだけだけど」 「そうよね。わかったわ。やってよ、緑の牧場さん」  パラメーターをとりまく世界ががくんと揺れ、色とりどりの線が、相対速度の変化につれて折れ曲がりながら、いっせいに下へ動きはじめた。腰のくびれた部分に軽い圧力が加わった。 「あいつらから目を離さないで。わたしは出産の仕事にもどるから。ところで、みんなはどんなぐあい?」 「心配なし。いま、女の子の一人が産道の中にいるわ――感じるでしょうが?」 「いわれるまでもなく……」 「――それに彼女、この圧力にちょっとめんくらってるみたい。でも、おちついてるわ。心配はいらない、だいじょうぶだ、とあなたに伝えてって」 「わたしから話しかけるわけにはいかないの?」 「まだ二、三時間はね。しんぼうなさい」 「ええ。もうすぐだもの」  そのとおりだった。また子宮が収縮するのといっしょに、感覚の波がうちよせてきた。パラメーターは最初の頭が出てくるのを見ようと、ぼんやり自分の体を見おろした。しかし、でっぱったおなかがじゃまで、そこまでは見えなかった。  パラメーターが見ているものは、なにひとつ現実ではない。すべては幻影だ。彼女の頭部は、イークイノックスの濃い不透明な物質で完全に包まれている。彼女が受けとるすべての知覚データは、すべてイークイノックスの知覚器官から彼女自身の脳へ直結で送りこまれたものだ。それらの情報の大半は、パラメーターが理解しやすいように編集され、潤色されている。  というわけで、彼女が自分の体をながめたときに見えるのは、イークイノックスの暗緑色の表皮ではなく、自分の褐色の肌だった。ずいぶん前、まだ自分の体を持っていると信じたくてしかたがなかったころに、そんな幻影を持たせてほしいとイークイノックスにたのんだのだ。その幻影は非のうちどころがなかった。手の指紋も、膝のほくろも、乳首の色も、思い出のある前膊部《ぜんぱくぶ》の傷痕も、すべてリングズからの柔らかな散光に照らし出されていた。だが、もし自分の体にさわろうとしたなら、その手はいま見えている体の表面からずっと手前でとまってしまうだろう。イークイノックスの姿はどこにも見えないが、まちがいなくそこにある。  子宮の収縮で胃がもだえ、パテのように流れるのを、パラメーターはながめた。このほうがありそうなことだ。イークイノックスと結びつく前に経験した出産のことを、彼女は思いだした。一度は自然出産≠ナ、あまりうまくはいかなかった。べつに後悔してはいないが、ひどい苦痛だったし、あれをくりかえしたいとは思わない。もう一度は麻酔にかかっていたので、なんにも面白くなかった。わざわざ手間をかけて、ばかを見たようなものだった。苦痛もなく、喜びもなく、なんの感覚[#「感覚」に傍点]もない。まるでそのことを新聞記事で読むのとおんなじだ。しかし、こんどの出産、三度目の出産はちがう。強烈だ。あまり強烈なので、追跡をどうかわすかに、なかなか考えが集中しにくい。しかし、苦痛はまったくなかった。彼女が感じているのは、まったく痛みのない一連のこころよい陣痛の波であり、それは人間がこれまでに経験したどんな感覚とも無縁なものだった。  前方の線の一つが、ほとんどまっすぐにこっちを指しているように見える。太い赤線。それは、七十パーセントが氷で、約百万キロの質量であることを意味する。ベクトルは短い。あれだけゆっくりした動きなら、ランデブーはわけないだろう。  チャンスとばかりに、彼女は磨きをかけた確かな本能で、コースをわずかに変えた。線が横に振れて、いっそう短くなり、つぎにぱっと輝きをまして、脈動をはじめた。イークイノックスの標定セクターからの衝突警報だった。  岩塊がシミュレーション画像でなく物体として見えるまで近づくのを待って、彼女はぐるりと回転し、そっちに足を向けた。着地の衝撃をうまく吸収すると、あっと驚くようなやりかた、信じられないほどのスピードで、その表面をちょこまか走りはじめた。四本の足が、クモのそれのように、一糸乱れぬ複雑な動きで、岩や氷をつかんでいく。  もし、だれかがこれを見ていれば、さぞかし滑稽《こっけい》な眺めだったろう。彼女の姿は手足のついたバーベルそっくりで、そのてっぺんにあるふくらみは、もしかしたら頭かもしれない。イークイノックスの外表面には、どこにもしわ一つなく、鋭い線もない。すべてがゆるやかな曲面に覆われていて、目立つものといえば、手足についた短いかぎ爪だけだ。両脚の末端には、足というよりも特大の手に似た把握用の付属器官がある。しかも、両脚の曲がり方もおかしい。膝の関節がたがいちがいについているのだ。  しかし、彼女は自然な動きで、やすやすと岩の上を移動していった。身重であることさえ、さまたげにはならなかったが、ただ陣痛≠ヘしだいに強くなってきた。  頃はよしと判断すると、彼女は両手と両足で岩を突きはなし、急速に上昇した。いまのコースは、追手から約九十度それている。たぶん、これはむこうの予想外だろう。いまからは、まわりをとりまく何億もの小岩石や氷の結晶の遮蔽《しゃへい》効果をたよりにするしかない。これから二、三時間は、もし追手がこの方角に電波を出してきたら万事休すだが、おそらくむこうはそうしないだろう。むこうのシンブが予測したコースの図示は、いまこっちが実際にとっているコースとほとんど逆のはずだ。もし、あのまま飛びつづけていたら、いずれ、五人の赤ん坊に手をとられているすきに、むこうに追いつかれたことだろう。いまは大胆さの要求されるときなのだ。  コース変更をすませると、彼女はその問題をふたたび頭から追いだした。決して早すぎはしなかった。最初の赤ん坊が生まれるところだった。  パラメーターが岩を突き離したとき、ちょうど赤ん坊の頭が現われた。彼女が甘美な苦しみを味わっているうちに、頭は産道を押しひろげながらくぐり出て、空気をさがしもとめた。しかし、空気は決して見つからないだろう。ここには空気はない。イークイノックスが用意したべつの子宮、赤ん坊がこれからの一生をそこで過ごすことになる子宮があるだけだ。パラメーターの子供たちにとっては、最初の息はない。どんな息もない。  五人の赤ん坊は、月満ちてはいなかった。七カ月の早産なので、ふつうなら特別看護が必要なところだ。しかし、イークイノックスは世界一の保育器だった。赤ん坊がまだ小さいうちに産んで、こちらの目のよく届くところへ置いたほうがよい、というのがイークイノックスの意見で、パラメーターもそれに賛成したのだ。  パラメーターは、奇妙な関節のついた両脚を動かし、手に似た足先を赤ん坊に近づけた。そろそろと力を加えると、イークイノックスが胞衣《えな》を吸収するにつれて、足先がもぐっていくのが感じられた。つぎに頭の感触が、パラメーター自身の神経終末に伝わってきた。彼女は長い指を濡れたボールの上に走らせた。新しい収縮が起きて、赤ん坊はすっかり外に出た。彼女は両足でそれを抱きあげた。あまりよく見えない。急に見たくてたまらなくなった。 「これは女の子のほうね?」 「そうよ。二番目と三番目と五番目もね。もっと個性がほしければ、ネイビーとマリーンとコーストガード」 「あれはただの符丁」パラメーターは笑いだした。「気に入ってるわけじゃないのよ」 「なにかほかの名を思いつくまで、それで用は足りるわ」 「本人がいやがるでしょう」 「たぶんね。とにかく、この坊やを第五ポジションに変えちゃいけないかしら。臍帯《せいたい》がちょっとからまっちゃって」 「お好きなように。ねえ、彼女を見たいわ。つまりアーミー≠フことだけど」 「画像で? それとも、実際に動かす?」 「動かして」自分の子供を実際に見る≠ニいうのが、たんに意味論的な屈理屈にすぎないのはわかっていた。イークイノックスが提供してくれる画像は宙にうかんで、実物に劣らず本物らしく、見えるだろう。しかし、パラメーターは、その画像と、彼女の皮膚に伝わる赤ん坊の感触とを、一致させたいのだった。  イークイノックスは、体の内表面を波打たせて、赤ん坊をパラメーターのふくらんだ腹部にそって移動させ、見える位置まで持ってきた。赤ん坊は濡れてはいたが、血はついていなかった。すでにイークイノックスがすっかり吸収してしまったのだ。 「両手でさわってみたいわ」パラメーターは考えた。 「どうぞ。でも、二、三分でつぎの子が生まれてくるのをお忘れなく」 「上に持ちあげてよ。まず、この子から楽しみたいの」  目に見えないイークイノックスの表面に置いた両手は、しだいに中へもぐっていき、やがて赤ん坊をつかまえた。赤ん坊は身動きし、口をあけたが、声は出てこなかった。この真新しい人間には、なんのトラウマもないらしい。ゆっくりと手足を動かしはするが、満足してじっと横になっているときのほうが多い。大半の人間の赤ん坊に比べると、実際に生まれてきたとはいえないかもしれない。パラメーターは乳首に吸いつかせようとしたが、むこうは興味がなさそうだった。パラメーターがこれまでに見たなによりもかわいい。 「じゃ、おつぎの番」と彼女はいった。「あんまりすばらしくて、まだ信じられないわ。それも五つ子!」  つぎつぎに新しい子供が生まれるにつれて、すばらしいもやの中を漂う気分になった。どの子も先の子に負けず劣らずかわいい。まもなく彼女は小さな体に覆われてしまった。どの子にもまだ臍帯がくっついていた。イークイノックスの側の出産がすんで、五人の半自律的な幼いシンブの受け入れ態勢がととのうまで、膀帯はそのままにしておかれる。それまでのあいだ、子供たちはまだ彼女の一部なのだ。その感覚をパラメーターはこよなく愛した。これほど子供たちに近づけることは二度とないだろう。 「もう、声が聞こえる?」イークイノックスがたずねた。 「いいえ、まだよ」 「心の接触は、もうすこし待たなきゃならないわ。ただいまチューニング中。そっちはだいじょうぶ? こっちはあと二時間ぐらい、それより長くはかからないつもりだけど」 「わたしのことは心配しないで。だいじょうぶよ。ほんとに、こんな幸せな気分は生まれてはじめてだわ」パラメーターは言葉で表現するのをやめて、強烈な愛の波を全身から溢れさせた。見えないパートナーに対する愛である。それに答えて、愛情の奔流がどっと全身を包みこみ、パラメーターは思わず涙ぐんだ。「あなたが大好きよ、地母神《アースマザー》」 「おたがいさまだわ、サンシャイン」 「あなたのほうもすてきなお産をしてね」 「あなたとわかちあいたいものね。でも、本論にもどりましょう。どうやら、追手を完全に振り切れたようだわ。この一時間、むこうからの信号電波はないし、むこうの予測進路もかなりそれたままだし。これなら安全だと思うわ、少なくとも二、三時間は」 「だといいけど。でもわたしのことは心配しないで。あなたの留守中もなんとかやっていける。暗闇はこわくないから」 「知ってる。そう長くはかからないわ。じゃ、あとで」  パラメーターは、パートナーの心が遠ざかっていくのを感じた。一瞬、不安にかられたが、それは暗闇に対してではなかった。孤独がこわいのだ。イークイノックスはこれから自分の子供を産むあいだ、そっちにかかりきりになる。つまり、それはパラメーターが外界から切り離されることを意味する。それは気にならなかったが、自分の心からイークイノックスがいなくなるのは、ちょっぴり恐ろしい。過去のある不愉快な事件を、つい思いだしてしまうのだ。  しかし、光が薄れていくのと同時に、パラメーターは自分が孤独でないのに気づいた。イークイノックスの翻訳機能が停止したために、視覚と音と匂いと味からは切り離されているが、まだ触覚はある。それがあれば充分だ。  まっくら闇の中にうかんだ彼女は、ぴりぴりとうずきを感じた。赤ん坊の口が乳首を見つけて、吸いはじめたのだ。それとわからぬうちに、うとうとと眠りにおちた。  漠然とした不快感とともに、パラメーターは目ざめた。その感覚は弱いがしつっこく、無視することは不可能だった。心の中でイークイノックスを探したが、見つからなかった。とすると、まだお産の最中なのだろう。  しかし、不快感は去らなかった。暗闇の中で心細い思いだったが、やがてそれが完全な闇でないのに気づいた。閉じたまぶたの中から見たように、かすかな赤味がさしている。説明がつかない。やがて、どこがおかしいかに気づいたが、それは想像できるなによりも悪いことだった。子供たちがいない。  恐怖をつのらせながら、全身をさぐってみたが、子供たちはどこにも見つからなかった。恐怖にうちひしがれないうちに、いったいなにが起きて子供たちと引き離されたのだろうと考えてみたが、思いあたるのは追手のことだけだ。しかし、なぜ彼らが子供を取りあげたりするのか? そこで彼女は冷静さを失った。イークイノックスが宇宙を創り出してくれなければ、暗闇の中で自分にできることはなにもない。  ある考えが、パラメーターの理性をひきもどした。それは信じられないほど暗澹《あんたん》とした考えだった。苛《さいな》まれた気分で、目を開いた。  見える。  いま彼女がうかんでいるのは、むきだしの岩をくりぬいた部屋の中だった。その部屋にはもうひとりの人物、というより、もう一つの共生体がいる。彼女に見えるのは、暗緑色で丸っこいシンブの姿だけだ。 「イークイノックス!」と彼女はさけび、そして自分の声を耳にした。夢の中で、自分の体を見おろし、赤裸々な現実を感じとった。自分の体に手をふれてみる。なんの抵抗もない。ひとりぼっちだ。分身がどっかへ行ってしまった。  心がしだいに溶け去っていく。それが溶け去るのを見まもりながら、イークイノックスなしに人生と直面するよりは、まだそのほうがましだと思った。最後の現実の切れはしに別れを告げ、ぎょろりと白目をむいて、舌をのみこんだ。  その相手は、三歳児が、それも性別について混乱した三歳児が描いた、マンガの人間のようだった。広い肩幅と猪首とは、滑稽《こっけい》なほど重量挙げ選手の体格そっくりだし、いっぽう、細いウエストとふくらんだお尻は、うすのろの頭にある曲線美の女性のイメージのようだ。その男は緑色で、口のあるべき場所に開いた楕円形の穴を除いては、まるきりのっぺらぼうだった。 「なぜ、きみはリンガーになりたいんだ?」その声は、男の顔≠ノあいた穴から出てきた。  パラメーターはため息をついて、椅子の背にもたれた。タイタンでの手続きは、とうてい能率的といえないしろものだった。まる三日間いろいろな人間と話しあったが、どいつもこいつも役に立たず、ようやくのことでこの男を見つけたのだ。少なくともこの男は、シンブをよこす権力を持っているらしい。もともと気の長いほうではないパラメーターは、すでに忍耐をなくしかけていた。 「テープを作っとくべきだったわ」彼女はいった。「きょう、わたしにそれをたずねたろくでなしは、あんたで四人目よ」 「何人目だろうと、答えてもらわなくちゃならん。利《き》いたふうなセリフはよしておけ。よけいなごたくは聞きたくない。そうしたけりゃ、こっちはいつでもさっさと出ていける。きみなんか知ったこっちゃない」 「じゃ、なぜそうしないのよ。あんたがその椅子から立てるかどうかさえ疑問だわ。ましてや、さっさと出ていくなんてね。わたしはこんなこと、予想もしてなかった。あんたら環境保全派は、新入りをほしがってると思ってた。なぜこんなふうにわたしをたらい回しにしなきゃならないのよ。こっちがさっさと出ていきたいぐらいだわ。あんたらの一派だけがリンガーじゃないからね」  男は椅子から立ち上がって、彼女がまちがっていることを実証した。動作はぎごちないが確実であり、さらにいっそう興味深いことには、銃としか思えないものがその手に握られていた。彼女はあっけにとられた。男はいまのいままで、なにもない部屋に素手で坐っていた。とつぜん、降ってわいたように、銃が現われたのだ。 「もし、いまのセリフが、改造派のところへ行くことを考えているという意味なら、義務としてきみの脳みそを吹っとばさなきゃならん。十秒間だけやるから、説明しろ」その口調にはすこしの怒りもなかった。銃口は小揺るぎもしない。  彼女は体をかたくして、ごくんと唾をのみこんだ。 「ううん、ちがうわ。そんな意味でいったんじゃない」  銃口がわずかに下がった。 「つい、口が過ぎたのよ」恥辱と怒りで耳まで熱くなって、彼女はいった。「環境保全派に忠誠をつくすわ」  銃は、男の全身を覆っているシンブの中にひっこんだ。しかし、ひょっとすると、まだ男の手の中にあるのかもしれない。 「さあ、それではさっきの質問に答えてもらおうか」  やり場のない怒りをこらえて、パラメーターは身の上話をはじめた。何度もしゃべったので、いまではすっかり要約されて、むだがなくなっていた。彼女は単調な口調でそれを暗誦していったが、尋問者はべつに気にとめていないようだった。 「わたしは地球年齢で七十七歳。水星のヘリオス包領で、大金持のエネルギー王の子供として生まれたの。水星の厳格で拘束の多い雰囲気の中で育てられて、いつもそれがいやでならなかったわ。十二歳のときに、母が自分の財産の二十パーセントをよこして、これを賢明に使いなさいといってくれた。わたしがすでに成人で、母の干渉が届かないのは幸運だったわ。ひどく母を失望させることになったから。 「わたしはなんでもいいから水星を発《た》つ最初の船のキップを買った。たまたま、それが火星行きの船だった。それからの六十年間、人間の体に経験できて、しかも生きのびられるようなものは、すべて経験してきたわ。 「わたしのやったことをぜんぶ物語るのは、退屈だし、時間もかかりすぎるでしょう。でも、なにかを隠していると思われたくないから、無作為にサンプルを並べてみることにするわ。 「麻薬。わたしはそのすべてを試してみた。あるものは一度だけ。あるものは何年もつづけて。おかげで、三度も人格の改造を受けなきゃならなかったし、そのプロセスでたくさんの記憶を失ってしまった。 「セックス。二人、三人、四人のパートナー。七人のパートナー。三十人のパートナー。三百人のパートナー。一週間ぶっとおしのオージー。男、女、少年、少女、赤ちゃん。象、ニシキヘビ、死体。あんまり何度も性転換をやったので、男として育ったのか、女として育ったのかも、はっきりしないぐらいよ。 「男をひとり殺したこともある。バレなかった。つぎは女を殺して、それもバレなかった。三度目につかまって、七年間のリハビリテーションを受けたわ。 「旅もしたわ。小惑星帯、月《ルナ》、土星の月いろいろ、天王星、海王星。ホールハンターといっしょに冥王星とその先へもでかけていった。 「外科手術も受けたわ。一対教にはいって、一年間、もう一人の女性とシャム双生児みたいにくっついてたこともある。いろんな新しい器官や生殖系統もためしてみた。よぶんな手足もね。 「数年前に、ある受動的宗教にはいったの。彼らはすべての行動が無意味だと信じていて、身をもってそれを示すために、両手両足を切断して、見ず知らずの通行人のお情けにすがり、食べ物を恵まれて生きていたわ。わたしはコプラテスの地下にある公共広場で何カ月も転がっていた。ときには飢えと渇きで死にそうだった。ときには自分の汚物にぐちゃぐちゃにまみれていた。するとだれかがきれいに洗ってくれるけれど、たいていは、早くこんな生活をやめて正道にもどりなさいという、厳しいお説教がつくのよ。わたしは耳をかさなかった。 「でも、のら犬から二度目に小便をひっかけられたときには、とうとう降参したわ。通行人にたのんで医者に運びこんでもらい、生まれ変わった女になってそこを出た。もう、ありとあらゆることをやりつくしたから、あとはすごく手のこんだ、独創的な自殺の方法を見つけるだけだ、と決心してね。うんざりするほど世の中に退屈しきって、呼吸するのさえおっくうだったわ。 「そこで、これまで一度も行ったことのない場所が二つあるのを思いだした――太陽とリングズ。太陽はいまもいった華麗な自殺の場所。そして、リングズへ行くには、シンブの中へはいるしか方法はない。わたしは改造派よりも保全派のほうに共感するところがあった。だから、ここへきたわけ」  パラメーターは椅子の背にもたれた。環境保全教会への加入を許されるかどうかについて、甘い考えは持っていなかったし、だめなら改造派のほうへ行ってみるつもりで、その方法を練ってもいる。もし、好感のもてない身の上話というものがあるとしたら、自分のがまさにそれであることは、百も承知だった。この環境保全派はひたむきな信者ということだが、彼らをなっとくさせるような言い訳はどうしても出てこない。実をいうと、こっちは改造派の〈大計画〉にも、まるきり無関心なのだ。狂信者の一団が、土星の環の一つを真赤に塗りたくったところで、それが自分になんの関係がある? 「最後から二つ目の陳述は嘘だ」男は彼女にそう告げた。 「なら、どうなのよ」パラメーターはぺっと唾《つば》を吐いた。「あんたらは、独善的なろくでなしの集まりさ。嘘発見器を使うときは、相手にそれを伝えるのが、上品な社会の慣習よ。同意を求めるべきだわ」立ちあがって出ていこうとした。 「どうか坐ってくれたまえ、パラメーター」  彼女はためらい、それからいわれたとおりにした。 「このへんで、誤った印象を一掃《いっそう》しておこうか。第一に、これは上品な社会≠カゃない。これは戦争だ。しかも、宗教戦争――いちばんきたない種類の戦争だ。われわれは防衛のために必要な手段をつくしているにすぎない。この会見の目的は、きみの話が真実かどうかを判断することにある。きみがこれまでにしてきたことには、興味はない。敵に協力していないかぎりはな。協力したか?」 「いいえ」 「その答は嘘じゃないようだ。さて、つぎの誤りについて。われわれは独善的なろくでなしの集まりじゃない。実用主義者だ。それに、狂信者ともいえない。ただ、われわれがここでやっていることの意義を、全員が深く信じてはいるがね。そこで、いよいよ第三の誤りに移ろう。われわれがここにいる最大の理由は、改造派|撲滅《ぼくめつ》とはたいして関係がない。みんながここにいる裏には、それぞれの個人的理由も含まれている」 「で、それはどういうもの?」 「個人的なものだ。ここへやってきた理由は、人それぞれにちがう。きみは飽満した欲望の最後のひとかけらを満たそうとして、ここへきた。ありふれた理由だ。これからもきみはいくつかの驚きに見舞われるが、それでもリングズにとどまるだろう。そうするしかない。ここを離れるのに耐えられないからだ。そして、きみはここが気に入る。われわれが改造派と戦うのに加勢しようとさえするかもしれん」  パラメーターは疑いの目で彼を見た。 「われわれは、きみがここへきた理由などに頓着していない。きみの身の上話を聞かされても、べつになんの印象もない。おそらく非難か侮辱を期待していたんだろう。そううぬぼれるな。きみがB環を赤く塗りつぶす手伝いをしにきたんじゃないかぎり、われわれは無関心だ」 「じゃ、いつシンブをよこしてくれるの?」 「ちょっとした外科手術を受けてもらってからだ」はじめて、男の態度がすこしなごやかになった。微笑をうかべようというばかげた努力で、男の口を覆った裂け目の両端が釣りあがった。 「白状すると、きみの話の中で一つだけ興味をひかれたことがある。象とどうやってセックスをするんだ?」  パラメーターは笑いたいのをこらえて、真顔でいった。 「象とは[#「象とは」に傍点]セックスできないわ。せいぜいやれるのは、象に[#「象に」に傍点]セックスするだけよ」  シンブは、部屋の中央にある柔らかそうな緑色の塊だった。どんなに好意的にながめても、パラメーターの目には緑色の牛糞の山としか見えなかった。思ったより小さいが、それは中に居住者がいないからだ。いまから自分がそこにはいることになる。  パラメーターはどすんばたんと歩みよって、疑わしげにそれを見おろした。こんな不器用な歩き方になるのは、やむをえない。自分の脚は、もはや歩行用にできていないのだ。改造手術を受けたために、どうしてもグロテスクながに股で、踊りはねるようなかっこうになってしまう。思いきり脚を高く上げないと、長い指が床から離れてくれない。いまのパラメーターは、無重力の生活なら理想的な体だった。重力場の中では、信じられないほどぎごちない。  部屋の中にいるもう一人の人物は、前に尋問をした男だった。いまではブッシュワッカーという名前だとわかっている。男の身ごなしはパラメーターよりもましだが、その差はわずかだった。彼は早くリングズへ帰りたがっていた。この基地での勤務はくさくさする。重力は哀れなべた足どものためのものだ。 「さわるだけでいいのね?」パラメーターはたずねた。ここまできて、彼女の決心はにぶりはじめていた。 「そのとおりだ。あとはシンブがやってくれる。らくじゃないぞ。人格が発達するまで、六週間ないし三カ月は、感覚遮断の状態がつづく。二日以内にきみは発狂するが、孤独にはならない。シンブの心にしがみついてればいいんだ。ただし、むこうは赤ん坊だから、つきあいにくいだろう。きみたちはいっしょに成長していくんだ」  パラメーターは深呼吸をしながら、なぜこんなに気が進まないのかとふしぎに思った。これよりはるかに不愉快なことでも、やすやすとこなしてきたのに。ひょっとすると、これがただのお遊びではすみそうもないという認識が生まれてきたからだろうか。相当長くつづく可能性もあるのだ。 「じゃ、行くわよ」パラメーターは片脚を上げ、足指の一つをねばねばした塊にふれた。指はくっついた。シンブがゆっくり身じろぎをはじめた。  シンブは……温かい? いや、はじめはそう思ったが、温度がないというほうが正確だろう。三十七度。血液の温度だ。塊はじわじわと脚を這いあがり、這いあがるにつれて、しだいに薄くなっていった。まもなく、それは首すじを伝いのぼりはじめた。 「息を吸え」ブッシュワッカーが助言した。「すこしは気がらくになる」  彼女がそうするのと同時に、シンブはあごを這いあがった。口と鼻を覆い、つぎは目を覆った。  脳の一部から息をしなければだめだと告げられて、忠実にそうしようと試みたとき、一瞬パニックに近いものがおそった。呼吸ができないのを知って、悲鳴を上げたくなった。しかし、あわてることはなかった。呼吸の必要はない。口をあけるのといっしょに、シンブは喉から気管へと流れこんできた。まもなくパラメーターの肺は、血液に酸素を与え、炭酸ガスを除去する機能をもった界面組織に満たされた。界面組織は鼻孔をも満たし、耳管を這いのぼって内耳に達した。その時点で、バランスを失って床に倒れた。いや、倒れた気がしただけだ。もはや確信がもてない。なんの衝撃も感じられないからだ。目まいの波がおそってきた。シンブでも嘔吐《おうと》をすることがあるのだろうか、と彼女はいぶかしんだ。しかし、とうとう嘔吐は起きなかった。シンブにはそんなものはないらしい。  覚悟はしていたが、シンブが肛門と膣にもぐりこんできたときは、やはりショックだった。不快な[#「不快な」に傍点]ショックではなかった。実をいうと、スリルに近い。それは子宮の中の空間を埋め、尿道を伝って膀胱を満たし、つぎに尿管をさかのぼって腎臓と混じりあった。いっぽう、べつの巻きひげは大腸から小腸へと這いのぼり、そこで見つけた栄養分を消費しながら、口から下りてきたもう一つの巻きひげと合体した。それがすんだとき、パラメーターはだれの目にも円環体《トーラス》のトポロジー的模型とうつるものになった。  静寂が彼女を包みこんだ。絶対的な静けさがどのぐらいつづいたのか、それを測る手段もなかったが、五分より長くはなかったろう。  硬膜を破らずに人間の脳へ到達できるコースといえば、まっさきに思いうかぶのは、眼球にそって眼窩上孔へはいりこむ道である。しかし、シンブのほうも、眼球の狭いすきまへはあまり太い巻きひげをさしこむことができない。そこで、遺伝工学技術者たちは、へびつかい座ホットラインをつうじて受けとった酸素呼吸生物のための基本的デザインを改良して、シンブに頭蓋のてっぺんから力ずくで侵入する能力を与えたのだ。  脳天に直径二センチの穴が食い破られるのと同時に、パラメーターは鋭い痛みを感じた。しかし、シンブがじわじわと正しい場所に接続を進めるにつれて、痛みはひいていった。このシンブは、いまのところまだ思考をもっていないが、あらかじめ細心の設計で組みこまれた本能によって、誤りなく導かれている。  とつぜん、パラメーターは恐怖にとりかこまれた。子供っぽく、なだめようのないその恐怖に、正気を失うほどおじけづいたが、しかし、それは自分の心から生まれたものではなかった。必死にはねのけようとしたが、ますます執拗《しつよう》になってくるだけだった。とうとう恐怖に身をまかせて、赤ん坊のように泣きだした。幼児に返り、手ごたえのない暗闇の中で、七十七年の歳月を、まるでそんなものがなかったように捨て去った。  もうなにもない。あるのは、虚無の中で泣きさけんでいる、よるべのない二つの声だけだった。  |共 生 的 宇 宙 空 間 環 境 有 機 体《シンバイオティック・スペース・エンバイロメント・オーガニズム》が果たして人工知能(それとも、定義のしかたによっては地球外知能)の一形態であるか否かについては、何世紀も前から激論がつづいている。シンブの中に住んでいる人びとは、肯定の方向で意見が一致していた。しかし、反対派は――その大半は心理学者だったが――こう指摘した。シンブの中で実際に生きている[#「生きている」に傍点]人びとは、判断をくだす上で最悪の立場にある。この問題に対する意見がなんであっても、それは個人的偏見に基づいている。なぜなら、そこには客観的事実というものがないからだ。  シンブは、一人の人間が宇宙空間で生きられるだけの、完全に自給自足の環境を提供するように、遺伝工学的に作り上げられた有機体である。シンブは人間の排泄物、つまり、尿、糞、熱、炭酸ガスを吸収して育っていく。  シンブには何種類かの葉緑素に似た酵素があり、人間の体熱を使って光合成がやれる。もっとも、これは能率が低い。ペアにとって必要な残りのエネルギーのために、シンブは日光を利用する。エネルギーを化学物質の形で貯蔵し、あとで必要に応じてそれを分解することが、得意中の得意なのだ。人間と組めば、シンブは自給自足の熱機関となる。それは閉じた生態系であり、どちらが宿主でもなく寄生者でもない――一つの共生生物だ。  人間にとって、シンブは緑の牧場、流れる小川、一本の果樹、その中で泳げる海である。シンブにとって、人間は肥えた土であり、日光であり、やさしい雨であり、肥料であり、花粉を運ぶ蜜蜂である。理想的なチームといっていい。もし、おたがいがいなければ、どちらも生きていくのに複雑な機械的補助手段が必要なのだ。人類は、自然のままでは住めない環境に適応させられている。地球が占領されて以来、人類は、どこに住むにしても、自力で自分の環境を作りださねばならなくなった。シンブはその環境を無料で提供してくれるはずだった。  ところが、そう注文どおりにはいかなかった。  シンブは、見かけよりも複雑な生物である。人間は、周囲の環境を人間の要求に合うまでねじ曲げたり、こわしたりして、そこから奪いとることに慣れている。だが、シンブはもっと人道的なやりかたを要求する。彼らには与えてやることが必要なのだ。  シンブの内部にはいった人間は、外の世界から完全に切り離される。この共生関係での人間側は、シンブの機能にたよらなくてはならない。そして知覚データも異様な方法ではいってくる。  シンブは人間の脳内部へじかに接続部分を伸ばし、そこへデータを送りこむ。そのプロセスのためには、どこからどこまでが人間でどこからどこまでがシンブか、区別のつけにくいほどの密接な結びつきが必要になる。シンブは人間の脳のある部分を再構成し、そこに秘められた計算と統合の巨大な潜在能力を解放し、知覚データを画像と、音と、味と、匂いと、触感に翻訳する能力を使って、じかに意識へ働きかける。このプロセスの中で、一つの心が生まれる。  シンブには自己の脳はない。人間の脳を時分割方式で利用でき、しかも元来の持ちぬしよりもうまく利用できるだけである。だから、シンブに独自の心があるとは、およそ信じがたいことかもしれない。しかし、太陽系内のリンガーは、ひとり残らず、あると誓うはずだ。しかも、これこそ議論の核心といえる。それは実際に一つの独立した心であって、知覚思考の道具として人間の脳を寄生的に利用しているのか、それとも、孤独と投射からひきおこされた、たんなる精神分裂症にすぎないのか?  それを判定するのは不可能だ。人間が内部にはいらないかぎり、シンブほど無力なものはない。人間の脳がなくて、遺伝情報や酵素の中にコード化された手順と結びつかなければ、シンブはその見かけどおり、緑色の糞の塊のようにじっと横たわっていることしかできない。シンブは未発達の筋肉系を持っているが、ひとりの場合はそれさえも使わない。人間のいないシンブを表現する適当な比喩は、どこにもない。これほど他者に依存した生物は、ほかにないだろう。  いったん人間と結合すると、このペアは変貌をとげて、部分と部分の合計よりもはるかに大きなものになる。人間は、想像のおよぶかぎりで最も苛酷な環境の中でも、ちゃんと保護される。シンブと結合した場合の生存範囲は、地球の軌道のすぐ外側(放射線限界)から海王星の軌道(日光限界)にまでおよぶ。ペアはおたがいを養い、おたがいに水を補給しあい、おたがいを呼吸しあう。人間の脳は超コンピューターに生まれかわる。シンブは無線とレーダーの送受信器官のほかに、放射線と千オングストロームから一万六千オングストロームまでの電磁波に対してセンサーを備えている。このシステムは、岩石や氷を摂取できるし、貴重なミネラルと水分を残して、ほかのものを捨て去ることもできる。このペアにできないことといえば、押しやる岩塊なしには速度を変えられないことぐらいだろうか。しかし、宇宙服の一揃いの代わりにロケット推進装置を一つ持ち歩くことぐらいは、なんでもない。リングズの中では、それさえも使わない。シンブは、姿勢制御をするのに充分なガスを製造できる。大幅な速度変化のために、リンガーたちは圧縮ガスの小さなボンベを持っている。  では、なぜ宇宙空間に住むすべての人間が、シンブとペアを組んでいないのか?  その理由は、シンブの要求するものが、大半の人間の進んで与えようとするものより、はるかに大きいということである。必要なときにシンブを身につけ、使ったあとは脱ぎすてるというような、簡単な問題ではない。あなたがシンブを脱ぎすてたとき、シンブは存在をやめるのだ。  おそらくそれは、個人がこれまでに直面をせまられた最大の義務といえるだろう。いったんシンブとペアを組めば、死ぬまでペアを組むことになる。これ以上に親密な関係はない。シンブはあなたの心の中に住み[#「あなたの心の中に住み」に傍点]、あなたが眠っているときもいっしょにいて、あなたの夢の中で独立して動いている。これに比べれば、シャム双生児も、夜中にすれちがう赤の他人のようなものだ。  この共生生活を試みたすべての人間が、シンブと結びつくまでは生きていたといえない、と断言している。いくつかの点でそれは魅力的だが、大部分の人びとにとっては、想像される負担が利益を上まわる。その献身と束縛が永久につづくことを承知で、あえて踏み切れる人間は少数しかいない。たとえその永久が五、六百年のことであっても。  最初の爆発的な人気のあと、シンブ熱はしだいに冷えてしまった。いまでは、太陽系内のすべてのシンブがリングズにいる。そこでは、これまでとても考えられなかった漂泊生活が可能なのだ。  リンガーたちは、当然のことながら、一匹狼だ。人間たちはほんのときたま出会い、もしそうする気があればセックスをして、またべつべつの道をいく。リンガーたちは、一生の中で、おなじ相手に二度会うことなどめったにない。  彼らは孤独でない一匹狼なのだ。 「返事をして!」  ????? 「そこにいるのはわかってるのよ。ふたりでなんとかしなくちゃ。こんな暗闇、わたしはがまんできないわ。あなたはできる? ねえ、いいこと――光あれ[#「光あれ」に傍点]!」  ????? 「もう! じれったいひとね。あっちへ行ってよ!」  悲しみ。深く幼い悲しみ。パラメーターはその中にひきこまれて、自分自身をのろい、いっしょに閉じこめられた幼い相手をのろった。脚をじたばたさせて、外に出たいことをだれかに知らせようと、千回目の努力にとりかかった。だが、脚がなくなっていた。自分が脚を動かしているのかどうか、もはや確信がもてなかった。  シンブの深い悲しみの底から彼女は自分をひきずり上げ、離れたところに立とうとした。だめだ。心の中ですすり泣きながら、ふたたび深みにのみこまれ、もはやその幼い異生物と自分とを区別できなくなった。  彼女の胸は上下をくりかえしていた。鼻孔にいやな匂いがする。目をあけた。  そこは前とおなじ部屋だったが、こんどは人工呼吸器《レスピレーター》が顔にくっつけられていて、肺へ空気を送りこんでいた。パラメーターは目玉を動かし、部屋の中にいるもう一人の人物の奇怪な姿を見てとった。相手はがに股の両脚をひきあげ、両手両足を組んで、宙にうかんでいた。  のっぺらぼうの顔の前面に、穴が一つ生まれた。 「気分はよくなったかい?」  彼女は絶叫につぐ絶叫をくりかえし、やがて、ありがたいことにふたたび意識が薄れて、夢の世界へ戻っていった。 「その調子。どんどんつづけて。だめ、それじゃ方向がちがうわ。いまやったことの反対をやってごらん」  心もとない模索だった。パラメーターはその反対≠ェなんであるのか、まるで見当がつかなかった。第一、幼いシンブがなにをやろうとしているのか、まるで見当がつかないからだ。  しかし、進歩にはちがいない。いまは光がある。かすかな、たよりないまたたきだが、とにかく光だ。  ぼんやりした明るみは、ロウソクの火のようにちらちら揺れて、消えてしまった。しかし、彼女はいい気分だった。それでも、シンブの喜びとは比べものにならない。溢れかえるような誇らしい達成感に満たされたが、それは自分のものではなかった。しかし、自分のものであろうとなかろうと、それがどうした? もはや、自分が感じているのか、それともシンブなのかを、うるさくせんさくする気はなくなっていた。もし、両方がそれを経験しなければならないのなら、そこになんの違いがあるだろう? 「よかったわ。この調子だとうまくいきそう。あなたもわたしもよ、チビちゃん。いっしょにほうぼうへ行きましょう。こんないやなところから逃げだして」  行く? 恐れ。行く? 悲しみ。行く? 怒り。  それらの感情には、いまや言葉のラベルがついており、その範囲も広がりつつあった。 「怒り? 怒りといったの? どういうこと? もちろん、ここから出ていきたいわよ。なぜこんな苦労をしてると思うの? 簡単じゃないのよ、チビちゃん。こんなに骨が折れるのは、何年か前に自分のアルファ波をコントロールしようとしたとき以来だわ。ねえ、ちょっと待って……」恐れ、恐れ淋しさ、恐れ、恐れ[#「恐れ」は太字]!「やめて! やめて、怖くて死にそうになるわよ、それをやられると……」パラメーターは身ぶるいをし、ふたたび幼児にもどりはじめた。  黒い、かぎりない恐怖。パラメーターは自分の心を抜け出して、もう一つの心といっしょになった。自分を叱り、自分をなぐさめ、自分をあやし、自分を愛した。 「さあ、水でも飲みたまえ。気分がよくなる」 「あああちーけ」 「なに?」 「あちーけ。あっちけ。あっちいけ。あっち、いけ![#「あっち、いけ!」は太字]」 「その前にすこし水を飲め。きみが飲むまで、わたしはあっちへ行かない」 「あっちいけ。ひとごーし。ひとごろし」  パラメーターはとほうに暮れた。 「なぜ? なぜやってくれないの? わたしのためにやってよ。パラメーターのために」  否定。 「いや≠ニいう意味ね。どこでそんな小むずかしい言葉を拾ってきたの?」  あんたの記憶よ。いやだ。やんない。  パラメーターはため息をもらしたが、すでに忍耐が身についていた。かぎりない忍耐。それと、もっとべつのなにか、愛情ときわめてよく似たなにかも。少なくともそれは、この元気のいい子供に対する深い感嘆の念ではあった。しかし、彼女はまだおびえていた。このシンブに自分がほだされてきたのがわかると、いっそうやけくそになり、この子供に外の世界を開かせ、ここから出してくれとだれかに訴えようという最初の考えに、しがみつくようになった。  そのやけくそな気持がいっそう事態を悪化させた。シンブからはなにも隠しておくことができないし、経験という行動が、そのなまなましい、むきだしのパニックも含めて相手に伝わってしまう。 「ねえ、聞いてよ。ふたりとも、この堂々めぐりをやめなくちゃだめ。こんなことで、まともな話しあいができるはずがないでしょうが。わたしが自分の恐怖をあなたに伝え、あなたがそれにおびえ、それでわたしがまたおびえ、それであなたがパニックにかられて、いっそうわたしが怖気《おじけ》づき……もう、それはやめよう!」  あたいの責任じゃないよ。愛。愛。あんたにはあたいが必要なの。あたいぬきじゃ、あんたは不完全なの。ぜんぶまかせてくれないと、協力できないよ。 「でも、それはむりよ。わからないの? わたしはどうあがいたところでわたし[#「わたし」に傍点]。あなたにはなれない。それに、あなたがいうのと逆で、わたしなしではあなたは不完全なのよ」  ちがう。どちらも相手なしじゃ不完全。もう手遅れよ。あんたはあんたじゃない。あんたはあたい。あたいはあんた。 「そんなこと信じるもんですか。ここにこうなってから、もう何百年、何千年も経ったかもしれない。いままでわたしがあなたを受け入れなかったのなら、これからもそうするはずはないわ。わたしは自由になりたいのよ。太陽が燃えつきる前にね」  ちがう。こうなって二ヵ月よ。太陽はまだあるもん。 「ははあ! うまくひっかかったじゃない! あなたは外が見えるんだわ。わたしに話したよりもずっと進んでるんだわ。なぜあんなふうにわたしをだましたの? なぜ時間を教えてくれなかったの? こっちはそれが知りたくてうずうずしてたのに。なぜ教えてくれなかったの?」  そういわなかったもん。 「なに、その返事は?」  正直な返事。  パラメーターはカッカした、むこうが正直なのはわかっている。彼女とおなじように嘘のつけないこの子供を、こっちがいじめていることもよくわかっている。しかし、彼女は怒りを捨てようとしなかった。自分に残されたものはそれだけだという、めいるような思いがあった。  痛いよ。そんなに怒らないで。あたいはなんにもしてないのにさ。なぜそんなにあたいを憎むの? なぜ? ????? あたいはあんたが大好き。でも、あたいを捨てるんだよね。 「わたしも……あなたが大好きよ。そうよ、大好きよ、ほんとに。でも、あれはわたしじゃない。ちがう! なにかほかのものよ。なんだかまだわからないけど、がんばってみる。がんばりなさい。がんばりなさい」  どこにいるの?  パラメーター? 「ここよ。出ていって」 「出ていって」 「なにか食べなくちゃだめだ。たのむ、これを食べてみてくれ。きみの体にいいんだ。ほんとだ。さあ、食べて」 「食べる!」彼女はとつぜんさしこむような空腹感と嫌悪感におそわれて、宙で回転した。そして、すえた空気と薄い液体を吐きもどした。「あっちへいってよ。さわらないで。イークイノックス! イークイノックス!」  むこうは彼女に手をふれた。その手は堅く、そして冷たかった。 「きみの乳房だが」男はいった。「乳がにじみだしてる。ひょっとしたら……」 「いなくなったのよ。みんな」  パラメーター。 「なに? もう一度あの絵を出してみる気になった?」  ちがう。必要ない。出てっていいよ。 「え?」  出てっていいよ。あんたをひきとめてもむだ。あんたはひとりでも自給自足できると思ってる。そうかもね。出てっていいよ。  パラメーターは混乱した。 「なぜ? なぜ急にそんなことを?」  あんたの記憶の中にあるいくつかの概念をのぞいてみたの。自由。自力本願。独立。だから、自由に出てっていいよ。 「じゃ、あなたはわたしがそれらの概念をどう思ってるか、ほんとは[#「ほんとは」に傍点]どう思ってるかも知ってるわね。よくてもせいぜい確証なし。悪ければ幻想だと」  シニカルになってるね。あたしはたぶんそれがほんとだと思う。だから、あんたも自由になるべきなの。あたしはあんたの意志に反して、あんたを拘束してる。これは、あんたがほかのなによりも強く信じている道徳律も含めて、たいていの道徳律にそむくことよね。だから、自由に出てっていい。  気詰まりな瞬間だった。思いもよらないほど深い痛みが、彼女の心に残った。しかも、だれの痛みなのかもよくわからなかった。それはもう問題じゃない。  なにをいってるのよ? これが自分にとってたった一つの残されたチャンスかもしれないのに、この子供が前からいっていたこと、ふたりがすでに融合したことを、自分は認めかかっている。しかも、自分がすべてを聞いているのと同様、子供のほうもそれを聞いてしまった。  そう、聞いたよ。でも、なんでもない。いろんなものに対するあんたの懐疑は、これまでも聞かされてきたからね。あんたの不確かな気持、ちゃんと感じるよ。それはいつもあんたについてまわる。 「そう。たぶんそうでしょうよ。でも、あなたはちがう。あなたのこと、あんまり感じられないわ。わたしに見分けられるようなものは」  あたしの死を感じるんでしょ。 「いいえ、ちがう。そんな悪いものじゃない。あなたはほかの人間をもらえるわよ。そして、うまくやっていける。きっとうまくいくわ」  たぶんね。絶望。不信。  パラメーターは自分の心のお尻をけとばし、いま出ていかないと永久に出ていけないぞ、と言いきかせた。 「わかったわ。出してちょうだい」  溶暗。巻きひげがひっこんでいき、苦痛の中でゆっくりと撤退がはじまった。そしてパラメーターは、自分の心が二つにひき裂かれていくのを感じた。  これからもいつだってこんなふうなんだ。よくなることなんかない。 「待って、チビちゃん。待って!」  撤退はつづいた。 「聞いてちょうだい。本気よ! 冗談ぬき。真剣にこのことを話しあいたいの。行かないで」  これがいちばんいいのよ。あんたはうまくやっていける。 「だめよ! やっていけないのは、わたしもおなじ。きっと死ぬわ」  死なないよ。あんたのいったとおり。いま出ていかないと、永久に出ていけないよ。だい……じょうぶ……さよなら…… 「ちがう! わかってないな。もう出ていきたくないの。わたしはこわい。こんなふうに置いてかないで。わたしを捨てちゃだめ」  ためらい。 「聞いてちょうだい。ほら。感じて。愛よ。愛。献身。純粋な心からの献身、死がわたしたちを分かつまで永久に。さあ、感じてみて」 「感じたわ。わたしたち、ひとつになれた」  パラメーターは食べるには食べたが、結局すっかりもどしてしまった。しかし、番人はしつこかった。どうしても死なせてくれない。 「わたしが中へいっしょにはいってやれば、すこしはましかな?」 「いいえ、だめよ。わたしは半分死にかけてる。なんの役にも立たないわ。イークイノックスはどこ?」 「知らないといったろう。きみの子供たちがどこにいるかも知らないよ。どうせ信じやしないだろうが」 「ええ、そのとおりよ。あなたなんか信じないわ。人殺し」  どうして彼女がこの部屋にその男といることになったかのいきさつを、相手が説明するあいだ、パラメーターはぐったりして耳をかたむけていた。しかし、一言も信じてはいなかった。  それによると、男が彼女を見つけたのは、リングズの平面をはずれた一点から発生しているラジオ・ビーコンの信号をたどっていったときだった。男はそこに擬似シンブを見いだした。  これは、あらかじめ結合プロセスを組みこむ手続きを省略し、ふつうのシンブを発芽させて作った単純なシンブである。擬似シンブにできるのは、ほかの植物にもできること――つまり、その内表面から二酸化炭素を吸収して、酸素を排出することだけだ。収縮して、人間の体と接触することはできない。いつまでも球形をたもったままである。人間は擬似シンブの中でしばらくは生きられるが、じきに渇き死にしてしまう。  パラメーターはその擬似シンブの中に見つかった。打撲傷だらけで、脳天と生殖器から出血していた。しかし、まだ息はあった。それ以上に驚くべきなのは、それから環境保全派の救急ステーションへ運ばれるまでの五日間を、生きながらえたことだった。保全派の維持しているステーションは、数多くはない。だから、その間隔も遠く散らばっている。 「きみは改造派のやつらにおそわれたんだ」男はいった。「それしか考えられない。リングズへきて、どれぐらいになる?」  その質問を三度くりかえされてから、ようやくパラメーターはつぶやいた。「五年」 「だろうな。新入りだ。だから、おれを信じない。きみは改造派のことをよく知らないだろうが、ええ? やつらがきみのシンブを奪っておきながら、なぜきみを殺さずに、救命用のビーユンをつけて残しておいたか、そのへんが理解できないはずだ。まったく筋が通らない、そうだろう?」 「ええ……よくわからない。理解できないわ。あいつらはわたしを殺すべきだったのよ。このほうがずっと残酷だわ」  男の顔≠ゥらはどんな感情も読みとれない。しかし、男ははじめて楽観的な見通しを持った。このぶんなら、彼女の容態は持ちなおすかもしれない。とぎれがちではあっても、とにかくしゃべるようになったのだから。 「もっと勉強してほしかったな。おれは一世紀ものあいだ戦いつづけてきたが、まだ自分の知りたいことをぜんぶ知ったとはいえん。教えてやろう、やつらはきみの子供がほしくて、きみをおそったんだ。子供たちを改造教徒として育てあげるためにな。ほんとうの戦いはそこにある――人口さ。より多くの子孫を生み出した側が、優位に立てる」 「話したくないわ」 「わかってる。聞くだけ聞いてくれるか?」  返事のないのを、男は承諾のしるしと受けとった。 「きみは一生をつうじて放浪をつづけてきた。ここなら、それをやるのは簡単だ。われわれみんなが、ときどきそれをやる。だが、ちょっとでも改造派のことが頭にあれば、やつらを避けるのに気をつかう。べつにむずかしくはない。リングズのとてつもない立方キロ数を考えに入れれば、追われる者がつねに追う者よりも有利だ。隠れ場はいたるところにある。追跡をかわす方法もたくさんある。 「だが、きみは危険な界隈《かいわい》にさまよいこんだ。改造派は、このセクターに大勢の人間を集結させている。たぶん、きみも赤い岩が高い割合を占めているのに気づいたろう。やつらはチームを作って狩りをするが、そんなことをわれわれ保全派は一度もやったためしがない。めったに寄り集まることもないほど、結びつきのゆるやかなグループだ。それに、ほんとうの戦争が、あと千年やそこらは始まらないことを知っている。 「われわれは人類史上でもいちばんルーズな軍隊だろう。どっちの側も志願兵制だが、われわれの側は一人ひとりに改造派と戦えなんて、いっさい要求しない。そのために、きみはなにも知らなかった。やつらが二万五千年以内にこのB環を赤く塗りつぶすと誓った、ということ以外はな」  男の言葉が、ようやく彼女から反応を引き出した。 「それ以外のことだって、すこしは知ってるわよ。あいつらがリングペインター大聖の信徒だってこと。彼が約二百年前に生きていたこと。彼が宇宙改造教会を創立したことも」 「それはぜんぶ本から得た知識だ。じゃ、リングペインターがまだ生きていることを知っているか? やつらがどうやってB環を塗りつぶす計画かを知っているか? やつらが保全派をつかまえたときに、どんなことをするか知っているか?」  男の解釈のしかたは、手前勝手だった。こんどは、彼女の沈黙を、知らないという意味にとったようだ。 「彼は生きている。ただし、いまは彼女としてだがね。五十年前に彼女の出した人口令≠ヘ、改造派の一人ひとりが生涯の九十パーセントを女性として過ごすこと、そして毎年三人の子供を生むことを、義務づけている。もし、やつらがほんとうにそれをやってのけたら、こっちは勝ち目がない。リングズは数世紀で改造派にかためられてしまう」  何週間かぶりに、彼女はちょっぴり興味をそそられた。 「そんな長期計画だとは知らなかったわ」 「人類の企てた最長の計画さ。現在の彩色のスピードでいくと、B環ぜんぶを塗りつぶすのに三百万年はかかるだろう。しかし、どんどん加速がついていく」  男はそこで間をおき、ふたたび彼女の反応を引き出そうとしたが、パラメーターは大儀そうに沈黙をたもっていた。男は言葉をつづけた。 「やつらの宗教で、きみがどうやら知らないらしいひとつの側面は、殺生戒だ。やつらは、人間の命も、シンブの命も、決して奪わない」  それで彼女の注意はひきもどされた。 「イークイノックス! どこに……」またもや身ぶるいがはじまった。 「だいじょうぶ。九分九厘まで生きているさ」 「あいつらに彼女を生かしておける方法があるの?」 「きみは子供たちのことを忘れているな。あの五つ子を」  この二年間のあいだに、パラメーターが人間から聞いた最後の言葉はこれだった。「これを持っていけ。使いたくなるときがあるかもしれない。これを赤い岩の上に押しつけるだけで、あとはなにもしなくていい。効果は永久につづく」  彼女はその品物をうけとった。細い棒で、黄色い球が両端についている。そのバクテリオファージ塗布器の中には、改造派のリングウイルスが残していった赤い塵の堆積を攻撃し、分解するような、特製のDNAがいっぱい詰まっているのだ。その端を赤い塵に覆われた岩に触れると連鎖反応がはじまり、岩の表面がすっかり元通りの色にもどるまで、その連鎖反応は終わらない。  パラメーターはぼんやりとそれを体のわきに当てた。たちまち塗布器は、イークイノックスの堅い外皮の中へ跡形もなく吸いこまれた。それから彼女はエアロックを飛び出し、おとぎの国へはいっていった。 「こんなもの、はじめて見たわ、イークイノックス」パラメーターはいった。 「そうね。たしかに」シンブには、パラメーターの記憶しか、よりどころがない。 「これからどこへ行く? あの空をとりまいた線はなに? B環へ行くには、どっちへ行けばいい?」  愛情のこもった笑い声。「ばかね。ここ[#「ここ」に傍点]がそのB環じゃないの。だから、環がまわりをぐるっととりまいてるのよ。あの方向以外はね。あの方向は、環のうしろに太陽があるので、微粒子がおもに裏側から照らされるわけ。でも、反射光でうっすらとは見えるわよ」 「そんなことをどこでおぼえたの?」 「あなたの頭から。データはそこにあるし、推理力もある。ただ、あなたが考えようとしなかっただけよ」 「これからはもっとよく考えます。まったく怖いみたいな気分ね。くりかえすけど――これからどこへ行く?」 「どこでもけっこう。このいやな場所から離れられるならね。このさき十年ほどは、リングマーケットへもどる気はしないわ」 「またまた」パラメーターはからかった。「それまでには、きっともどらずにいられなくなるわよ。ねえ、すこしは詩的な気分がしない?」  リングマーケットは、千差万別で抵抗できないほど美しい芸術作品の交換センターだった。それらの作品は、リングズでの孤独な生活の副産物である。美術ブローカー、音楽屋、詩の商人、編集者、ムードミュージックのセールスマン……芸術家と大衆のあいだに立ち、芸術作品を橋渡しして、そこからカスリとった儲けで食っている連中が、リングマーケットのバザールに集まり、精妙な芸術品を、色とりどりのビーズ玉程度のものとひきかえに買いとる。リンガーには金の必要はない。すべての取引は純粋な物々交換である。新しいガスボンベ一本とひきかえに、ユニークなリズムとハーモニーで人の心を揺さぶるシンフォニー。リングズに不足している微量元素を補給するために、リンガーたちが十年に一度飲まなければならないミネラルの錠剤ひと握りで、文明世界に持ち帰れば何百万もの値がつくような絵が買える。一種の投機事業だ。おびただしい数の作品の中で、どれが大衆の好みを最大限にひきつけ、人気をさらうかは、だれにもまったくわからない。ただ、どのバイヤーも知っているのは、ある不可解な理由でリングズの芸術がつねに最高の価格と批評家の絶賛をかちとることだった。とにかく風変わりなのだ。そこにはまったく新しい観点がある。 「あそこじゃ詩的な気分にもなれないわよ。それに、あなたは知らなかったの? わたしたちがなにかを創造するとすれば、それは音楽だろうということを」 「知らなかったわ。どうしてあなたは知ってるのよ?」 「わが心に歌があるから。調子っぱずれのね。さあ、もうこんなところはおさらば」  ふたりはマーケットの金属球から離れた。まもなくそれは、ふたりと逆の方角をさす青いベクトル線でしかなくなった。  ふたりはこの新しい環境に慣れるだけのために、二年間を使った。驚異はつきることがなかった。ほかのペアに会ったときには、相手を避けた。ふたりとも、まだ交際をする気はなかった。おたがいだけで、必要にして充分だった。  パラメーターは衰弱がひどく、むしろそれを喜んでいた。イークイノックスのいない毎日は、拷問にひとしい。たとえこの番人の話が真実だとしても、彼が憎くてならなかった。むこうは彼女を生かしつづけているが、それはほかのなによりも残酷なことなのだ。しかし、憎しみさえもが、弱々しく、とぎれがちなものになっていた。  彼女は遠いかなたに想像の目をこらしたまま、男が動きまわっても、ほとんど注意をはらわなかった。  やがて、ある日、相手はふたりになった。彼女は冷静にそれを認め、ふたりが抱擁して一つに溶けあうのを見まもった。新しいほうは女性だ。これから性交をするらしい。パラメーターは背を向けて、あとは見なかったが、二つのシンブは結合プロセスでひとつに溶けあい、ゆっくりとふくらんで、なめらかな緑の球体になった。その中でふたりの人間は静かにセックスをし、そして別れるのだ。おそらくは永久に。  しかし、なにかが気になって、パラメーターはうしろをふりかえった。球体のこっち側が、ポコンとふくらんでいる。それはどんどん外へ向かって盛りあがり、もう一つの小さい球体を形作りはじめた。二つの球体の境界には、ピンクの線が現われた。  シンブの出産にたいして興味がもてずに、彼女はまた背を向けた。しかし、なにかが気になる。 「パラメーター」  男が(それとも女のほうだろうか?)シンブの赤ん坊をかかえて、彼女のそばへふわふわと近づいてきた。  パラメーターは体を凍りつかせた。恐怖で目がまるくなった。 「気でも狂ったの」 「かもな。きみに強制する気はない。とにかくこれがあるんだ。おれはもう出ていかなきゃならん。二度ときみに会うことはないだろう。生きるか死ぬか、それはきみが選べばいい。おれはできるだけのことをした」  暖かい日だった。〈上半分《アッパーハーフ》〉ではいつも暖かいが、なかにはとりわけ暖かい日もある。  リングズの地理学は、いたっておぼえやすい。|A《アルファ》環、|B《ベータ》環、そして細い|C《ガンマ》環。そのあいだの間隙は、カッシーニとエンケと呼ばれている。どちらの間隙も、環を作り出した微粒子の争奪をめぐって、土星といくつかの大きな月のあいだでおこなわれた引力の戦いの産物だ。  その先は、〈上半分《アッパーハーフ》〉と〈下半分《ロウアーハーフ》〉――つまり、環の上と下――と、〈内空間《インスペース》〉と〈外空間《アウトスペース》〉しかない。リンガーは決して〈内空間〉を訪れないが、それはヴァンアレン帯に似た、土星をめぐる強い放射帯がそこにあるからだ。〈外空間〉はリングズの交通の多い領域からは遠くへだたっているが、観光という点ではすばらしい。そこからなら、土星の環を一望のもとにおさめることができる。生まれたときから、空が土星の環に二分されているのを見なれた子供たちにとっては、それは奇怪な経験でもある。  パラメーターが〈上半分〉に出たのは、リングズの中よりもはるかに強烈な日光を吸収するためだった。イークイノックスは体を展開させていた。いまのこのペアは、直径二百メートルもある、ガーゼのように薄いパラボラ・アンテナそっくりだった。パラボラ・アンテナは透明で、そこに毛細管が通っているため、クモの巣のように見えた。その錯覚をさらに強めているのは、その中央に小さな生き物が、ちょうどハエそっくりに手足をひろげていることだった。  そのハエがパラメーターなのだ。  そこにうかんでいるのは甘美な気分だった。パラメーターはひたと太陽を見つめた。太陽はこんな遠くでも眩《まぶ》しい光を放っており、もしじかにそれを見つめたら、たちまち目がつぶれてしまうだろう。だが、彼女は投射像を見ているにすぎない。イークイノックスの視覚は、人間の肉眼ほどひ弱ではないのだ。  彼女の体の前面は、日光を浴びていた。それはきわめて官能的な感覚だが、目新しい種類のものだ。パラメーターが体験しているのは、太陽にむかって開いた花の無心な喜びであり、おなじみのもっと激しい動物的な情熱ではなかった。エネルギーが彼女の体の中を循環し、イークイノックスのひろげた集光膜へと流れこんでいく。彼女の心は、自分でも信じられないほど完全に切り離されていた。思考が何時間おきかに訪れてくるだけで、それもゆるやかな植物的喜びに占められている。彼女が見た自分自身は、素裸で光と風の中にさらされ、銀色の生命の円の中心にうかんでいた。この真空の中で、彼女は自分の体に当たる風を感じることができた。どうしてイークイノックスはこれほどまでに迫真的な幻覚の網を紡ぎだせるのだろうかと、彼女はぼんやり考えた。  急に、突風が吹きつけた。 「パラメーター、起きてちょうだい」 「ん?」 「嵐がやってきそう。帆をたたんで、港へはいらなくちゃね」  パラメーターは、敏活な意識へと温かい水の中を泳ぎもどりながら、新しい突風がつぎつぎに吹きつけるのを感じた。 「環からどのぐらい離れてるの?」 「だいじょうぶよ。ちょっと上手《うわて》回しで方向を変えてから、二、三秒間噴射を使えば、十分で帰りつけるわ」  展開状態にあるときのイークイノックスは、ほどほどに能率的な太陽帆《ソーラーセール》だ。入射する日光への角度を調節することによって、ゆっくりと速度をかえることができる。パラメーターの役目は、浅い弧を描くように、リングズの上面か下面を足でけりだすだけでいい。イークイノックスは、太陽光の圧力を使って、二、三日でふたりをリングズに運びもどすことができる。しかし、嵐にはいつも気をくばっていなければならない。  イークイノックスが感じているのは、太陽風、つまり、表面下の嵐によって太陽から押しだされる荷電粒子の雲である。イークイノックスの放射線センサーは、光速度で送りだされたその最初の一吹きを感じとっていた。本格的な嵐がやってくるのも、そう遠いことではない。  放射線は、リングズの生活で最大の危険だ。シンブの外表面は、共生ペアが宇宙空間で出会う放射線の大半に耐えることができる。それを透過するのは、心配する必要もないほどわずかな量だし、もちろん、放射線病をおこすような量ではない。しかし、ときたまの高エネルギー粒子が、人間の卵子や精子の細胞に突然変異をおこすことはある。  風が強さを増してくる中で、ふたりは帆をたたみ、ガス推進器を使った。 「待避はまにあう?」パラメーターはたずねた。 「充分余裕があるわ。でも、ちょっぴり硬放射線を受けるのは避けられないでしょう。心配しないで」 「子供はどうなの? もし、あとで子供が産みたくなった場合、影響はない?」 「当然あるわね。でも、あなたが突然変異の子供を産むことは絶対にないわよ。もしなにか異常があれば、妊娠二、三週間でわたしにもわかるから、中絶してあげる。あなたに知らせるまでもないわ」 「でも、知らせてくれるわね、わたしには?」 「もし、そうしてほしければね。でも、それはたいして重要じゃないのよ。あなたのほかの身体作用に対して、わたしがおこなっている毎日の調節とおなじように」 「あなたがそこまでいうなら」 「そこまでいうわ。心配しないで、といったでしょう? あなたは動力操作だけを受けもって、ややこしい仕事はこっちにまかせとけばいい。わたしには、分子レベルにならないかぎり、物事の実感がたいしてわかないんだから」  パラメーターは全面的にイークイノックスを信頼していた。だから、本格的な強風が吹きつけはじめても、すこしも心配しなかった。両腕をさしのべて、それを抱きしめた。ふしぎなのは、風≠ェ自分を木の葉のようにもてあそばないことだった。そうされたら、きっといい気持だろう。なにより残念なのは、髪の毛が肩のまわりでなびかないことだ。いまの自分には、まったく髪の毛がない。ふたりのあいだの絆《きずな》にじゃまになるから。  彼女がそう考えるのと同時に、長い黒髪がうしろになびき、顔にふりかかって、目をくすぐった。それは目にも見えるし、肌にも感じられるが、それをさわることはできなかった。べつに意外ではない。実在しない髪の毛だからだ。 「ありがとう」パラメーターは笑った。それから自分の姿を見て、もっと激しく笑いだした。全身が髪の毛に覆われている。長い、流れそよぐ髪の毛は、見まもるうちにも伸びつづけた。  ふたりは環の中にはいった。その先導をしているのは、一キロもの長さによじれた架空の髪の毛だった。  三日経っても、彼女はまだ宙にうかんだボールを見つめていた。  五日目に、彼女の片手が、そっちにむかってピクリと動いた。 「だめ。だめよ。イークイノックス。あなたはどこ?」  幼いシンブは休眠状態だった。栄養と水分を提供してくれる人間なしで生きていけるのは、赤ん坊のシンブだけである。いったん人間と結びつくと、人間なしではすぐに死んでしまう。しかし、休眠状態なら、低いエネルギー・レベルで何週間かは生きながらえることができる。  それを目覚めさせて活動状態にするには、手をふれるだけでいい。  飢えが体の中を食い荒らしている。彼女はそれを完全に無視した。それは人生の一事実、脳の中にある真の[#「真の」に傍点]飢えを忘れるためにしがみついているものだった。いくら飢えに迫られても、そのシンブを受け入れたくはない、と彼女は思った。そんなことは問題外だ、と。  九日目に、彼女の手は動きはじめた。その手を見つめ、イークイノックスに心の中で訴えた――その動きをとめてほしい、力を与えてほしい、と。  彼女はそれにさわった。 「そろそろ、新しい子宮をためしてみるときだと思うわ」 「そのようね」 「もし、あそこに見えるのが男性なら、やってみようじゃない?」  イークイノックスが備えている複合能力の中には、体内で小結節を作ってクローン細胞を採取し、それを完全な器官に育てあげるコツも含まれていた。どんな器官でも作れる。イークイノックスはパラメーターの細胞を使って、それをやってのけたのだ。細胞の一つを取って、それをクローニングし、新しい子宮へと成長させた。パラメーターの古い子宮は、もうずっと前に卵子を使い果たして、生殖には役立たなくなっていたが、新しい子宮は生命に満ちあふれていた。  イークイノックスはパラメーターに手術をほどこし、古い子宮を除去して、新しい子宮を移植した。苦痛のない、短い手術だった。パラメーターはなにも感じなかった。  いま、ふたりはそこに種まきを受ける気になったのだ。 「男性」と、むこうのペアから声が届いた。これまでだと、パラメーターは「独身」と答え、むこうはそのまますれちがっていったのである。  いま、彼女は「女性」と答えた。 「ウィルダネス」とむこうは名乗ってきた。 「パラメーター」  求愛の儀式が終わると、双方は黙ってゆっくりと近づいた。いくらかスピードが出すぎたきらいはあるが、コースの計算は正確だった。ぶつかるのと同時に、双方の手足がからみあった。  二つのシンブは、ゆっくりとおたがいの中にとけこみはじめた。  ある快感がパラメーターを包みこんだ。 「これはなに?」 「なんだと思う? 天国。わたしたちには性がないから結合の喜びもない、とでも思ってたの?」 「実は考えたこともなかったわ。とにかく……変わってる。わるくないわね。でも、オルガスムスとは全然似てない」 「まあ見てなさいよ。これはほんの序の口」  つかのま、パラメーターはおちつかなくなった。イークイノックスが、脳だけを残して接続をひきはらったからだ。なじみのない感覚が体をつきぬけて、思わず身ぶるいし、それから自分が息をとめていることに気づいた。呼吸を再開しなければならない。長らく使っていなかった筋肉を働かそうとすると、胸がパチパチ鳴ったが、いったん反射運動がはじまると、そっちの雑用は後脳にまかせて、忘れてしまうことができた。  内表面が燐光を放ちはじめて、黒い人影が前にうかんでいるのがぼんやり見分けられた。光が強くなって、明るい月光のレベルにまで達した。相手の姿が見えるようになった。 「ハロー」と彼女はいった。むこうは彼女が話をしたがっていることに驚いたようだったが、ニヤリと笑いかけてきた。 「ハロー。きみは新入りだね」 「どうしてわかるの?」 「ミエミエさ。話をしたがってるし。きっとぼくにこみいった儀式を期待してるんじゃないの」そういうと、相手は腕を伸ばして、彼女をひきよせた。 「ちょっと待ってよ。その前に、あなたのことをもうすこし知っておきたいわ」  男はため息をついたが、いちおう手を離した。「ごめん。まだきみはなにも知らないんだ。わかった。じゃ、ぼくのなにが知りたい?」  パラメーターは男をながめた。相手は小柄だった。自分よりもすこし小さい。自分とおなじように、まったくの無毛。年齢を推測するすべはなさそうだ。手がかりがどこにもない。男の頭のてっぺんには、蛇のように臍帯《せいたい》が生えていた。  彼女は相手にたずねることがたいしてないのに気づいたが、前言の手前、形だけの質問を投げかけてみた。 「あなたはいくつ?」 「もう適齢だよ。十四」 「わかったわ、あなたの流儀でやってみて」パラメーターは彼の体にふれ、挿入を助けるために空間で姿勢をかえた。  それが三十秒の予想を大きく上まわったことに、彼女はこころよい驚きを味わった。少年は完成された技巧家だった。すべてのテクニックを知りつくしていた。彼女が甘美な体のほてりに包まれているとき、頭の中で少年の声がした。 「これで[#「これで」に傍点]わかったろ」少年がいうのと同時に、彼女の頭の中は少年の笑い声で満たされた。  それまでのあらゆるセックスは、どれほどすばらしいものであろうと、ただの小手調べにすぎなかったのだ。  パラメーターと幼いシンブは、苦痛に泣きさけんだ。 「あなたなんかほしくなかった」彼女はそうわめいて、拒絶の波を赤ん坊と彼女自身に投げつけた。「わたしのほしいのはイークイノックスだけだわ」  それが果てしない時間つづいた。星々がふたりのまわりで燃えつきた。銀河系がコマのように回転した。宇宙が収縮し、爆発した。また収縮した。爆発した。収縮して、時間のむだとあきらめた。すべての事象が終わるのといっしょに、時間も終結した。  ふたりはおたがいにむかって泣きさけびながら、浮かびつづけた。  ウィルダネスは、星々の渦巻く背景へと漂いながら遠ざかっていった。彼はうしろをふりかえらなかったし、パラメーターもそうしなかった。おたがいをよく知りつくしているから、さよならをいう必要もない。もう二度と会うことはないだろうが、それさえ重要ではない。おたがいが相手に求めることを、すべてもう手に入れたからだ。 「安っぽいスリルでいっぱいの人生では、一度もあんな体験をしなかったわ」  イークイノックスは考えこんでしまっているようだった。そして、たしかにあれは最高にすてきな経験だ、と静かに認めた。しかし、それだけではない。新しい知識がある。 「ちょっと試してみたいことがあるのよ」とイークイノックスはいった。 「どうぞ」  パラメーターの全身は、とつぜん、千もの小さい、濡れた舌で愛撫された。舌はいっせいに肉体のすみずみにまで分けいってきた。熱い舌だった。少なくとも一兆度はありそうだったが、焼き焦がしはしない。優しくなだめてくれる。 「どこにこんな奥の手を隠してたの?」パラメーターは、それが終わったとたんに、ぞくっと身ぶるいした。「それと、どうしてやめたの?」 「いまおぼえたばかり。あの経験の最中に、じっと観察してたのよ。二、三、秘訣をおぼえたわ」 「まだ、もっと[#「もっと」に傍点]あるってこと?」 「もちろん。いまのがあなたの気に入るとわかるまで、もっと強烈なのは遠慮しといた。でも、なかなかすてきだったわよ。あなたの身ぶるいの美しかったこと。デルタ波も魅力的だしね」  パラメーターは笑いだした。「そういう分析的な表現はよしてよ。あなたも、あまりの成果にかえって怖くなったんじゃない」 「うん、かなりいい線ね、わたしの反応を表現する言葉としては。でも、真剣な話、これ以上にすてきなこともできると思うわ。新しいやりかたで感覚を組み合わせるのよ。あの微妙な味をたのしんでもらえたかな、熱≠ェ羽毛の感覚と混じりあって、そこに電流が走るのよね」 「あなたの表現を聞いてると、なんだか興ざめだな。でも、そういえば、たしかにそんな感じね。電気の羽毛。ただし、苦痛はまったく無関係よ」  イークイノックスは考えこんだ。「それはどうかな。わたしはあなたの痛覚中枢へ深くはいりこんだわ。でも、それを新しい方法で、つまり、ウィルダネスがくすぐったやりかたで、くすぐってみたのよ。ちょっとした発見。それは苦痛の実体と関係がある。あなたの経験するすべて[#「すべて」に傍点]のことは、神経終末の働きである以上に、脳の働きなの。苦痛も例外じゃない。わたしがやったのは、二つの中枢を――苦痛と快楽の中枢を――つないで、それをほかの知覚の通路へと導いたことなの。その結果……」 「イークイノックス」  ????? 「わたしを抱いて」  彼女は太陽の中心にいた。全身のありとあらゆる原子が熱でひとつに溶けあった。その熱はあまりにも熱いため、氷のようだった。彼女はイオン化ガスの柔軟な波の中を、時間をかけて表面へと泳ぎつき、そこでしだいに成長して、ふつふつと沸きたつ火の玉ぜんたいを片手で持てるほど大きくなり、それで全身をなぜまわした。火の玉はパチパチはぜ、湯気を出し、くすぶり、巨大な紅炎が彼女の意志のままに体にからみついて、火と煙で全身をつつき、くすぐった。フレアがくねくねと肌にもぐりこみ、無数のとがったガスの針で、キスのように柔らかく、神経に穴をあけた。彼女は名前のないピンク色のものに丸のみにされ、ぬるぬるしたその胎内を滑りおりて、甘い匂いのする硫黄の池にしぶきを上げて飛びこんだ。  池が彼女を溶かし、彼女が池を溶かした。イークイノックスがそこにいた。彼女はイークイノックスをすくいあげ、いっしょに水の波の中へ飛びこんだ。何ギガトンもの鬱積したエネルギーでできた大波で、波頭は千キロもの高さにそそり立っていた。彼女はゴムのように弾力のある皮膚の浜辺に打ちあげられ、その浜は蛇の森にかわって彼女を締めつけ、やがて脳天がふっとんで、あたりいちめんに小さな花が雨のように降った。そのどれもがイークイノックスだった。  彼女は太陽系の遠いすみずみからひきよせられて、一つの形にまとまった。そのものは自分をパラメーター≠ニ呼んでいたが、なにに対しても応答しようとしなかった。やがて、彼女は自分の膣に――ありもしないのに自分の顔を映した鏡のように感じられる凹所に――深く押しこまれたロケットに乗って上昇した。彼女は起爆信管のついた核融合弾頭だった。火花がまわりでパチパチはぜ、そのどれもが電気の羽毛のくちづけだった。スピードはどんどん上がった。軌道速度。太陽脱出速度。光速。彼女は自分を裏返しにして、宇宙を包みこんだ。光速はどんなカタツムリの歩みよりものろい。彼女はそれを超越した。  爆発が起きた。そして内破。彼女は自分自身から遠ざかり、自分自身の中に落ちこみ、そして肉体の破片はふわふわと浜辺に舞いおち、そこで彼女とイークイノックスはそれを拾い集めて山を作った。わななく破片のどれもが原子よりも小さかった。  それは長い仕事だった。ふたりはたっぷりと時間をかけた。 「こんどは」とパラメーターが提案した。「象も仲間に入れてみたら」  だれかが時計を発明した。コチコチと音がする。  パラメーターは目覚めた。 「あなたがやったの?」  返事がない。 「とめてよ、うるさい」  コチコチという音がやんだ。彼女は寝返りをうち、また眠りこけた。彼女のまわりでは一兆年が過ぎ去った。  だめだった。どうしても眠れない。 「あなたはそこにいるの?」  ええ。 「これからどうするべきだと思う?」  絶望。イークイノックスがいなくては。 「彼女を知りもしないくせに」  彼女の一部はいつもあなたとともにあるわ。そしてあなたを傷つける。わたしたちはいつも傷つくことになる。 「わたしはもう一度生きたい」  傷つきながら? 「もし、ほかに方法がなければね。さあ、元気を出して。はじめるのよ。まず、光から。さあさあ、できるはずよ。やりかたは教えられない。あなたが自分でやらなくちゃね。愛してるわ。わたしと混じりあって、わたしを洗いきよめ、あの記憶を消してちょうだい」  だめ。わたしたちは自分自身をかえられない。イークイノックスにきてほしい。 「ばかなこといわないでよ、彼女を知りもしないくせに」  知ってるわ、あなたとおなじぐらいに。それ以上かもよ。ある意味で、わたしはイークイノックスなの。でも、別の意味では、決して彼女にはなれない。 「謎かけはよしてよ。わたしに溶けこんでちょうだい」  だめ。あなたはまだわたしを愛してない。 「もう二、三千年、眠りたいってわけ?」  そう。あなたは眠ってるときのほうが優しいもの。 「それは侮辱のつもり?」  いいえ。あなたは眠りの中でわたしに話しかけ、わたしを教え、愛と導きを与え、わたしを一人前のおとなに育てあげてくれたわ。でも、あなたはまだわたしをイークイノックスと思ってる。それはちがう。わたしはわたし。 「あなたはだれ?」  名前はないわ。あなたが心から話しかけてくれるようになったとき、わたしにも名前ができる。 「眠りなさい。あなたの話はよくわからない」  愛。優しさ。おやすみ、おやすみ、おやすみ。 「名前はできた?」 「ええ。わたしの名はソルスティス」  パラメーターは泣いた。大声でながながと泣き、涙で自分を洗いきよめた。  四年かかって、ふたりはリングマーケットにやってきた。売り物は、三年がかりで作った一つの歌だった。甘くせつない挽歌だが、どこかに希望のひびきがあり、三つのリュートとシンセサイザーのために編曲されている。ある|音楽エージェント《ティンパン・アレイキャット》から、その歌と、もう四曲を一世紀のあいだに作るという約束とひきかえに、ふたりは象撃ちの銃を手に入れた。それから、遠い厚皮動物時代の記憶をたどって、四年の月日の経った臭跡をこっそりつきとめる旅に出た。  初期の世代の人類は、山の形や、そこに生える木々や草花の配置、その匂いや感触を知っていた。別の世代の人類は、ある街角を一目見ただけでおぼえこむことができた。また別の世代は、月面の地下にある長い廊下のこまごました細部を、やはり記憶にとどめることができた。それとおなじように、パラメーターは個々の岩石を知っていた。あの最後の日、イークイノックスを奪われる直前に、足でけりだした岩、いま思えば改造派の中継基地だったにちがいない岩も、もし出会えばきっと見分けがつくはずだ。あの日、あの岩がどんな速度でどっちへ動いていたかも、あれからどれぐらい経ったかも、わかっている。いま、あの岩がどのへんにあるかは見当がつくし、いま自分とソルスティスが向かっている目的地はそこなのだ。その周辺は様変わりしているだろうが、あの岩はきっと見分けられる。  わずか三年の捜索で、ふたりはその岩を見つけた。一目でそれとわかり、かつてその上を歩いたあらゆる割れ目と穴を思い出した。ドアは反対側にある。ふたりは数キロ離れた適当な岩を選んで、そこにおちつき、長い待機にはいった。  土星が真下で七十六回自転するあいだ、ふたりは銃の望遠照尺を使って、中継基地周辺の交通を観察した。その期間の終わりには、中継基地の居住者よりもそこの日課にくわしくなった。行動開始のチャンスがきたときには、ひとつひとつの細目がほとんど反射運動に近くなるまで、ふたりとも練習をつんでいた。  岩の中からペアがひとつ現われて、予想どおりの方角へと出発した。パラメーターは銃身のむこうに目をこらし、狙いをつけた。距離はずいぶん遠いが、命中することに疑いはなかった。  自信のある理由は、銃口から先へ伸びた長く赤い架空の線だった。それが千分の一秒のあいだに銃弾が飛ぶ距離だ。彼女が狙っている相手からも、それほど長くはないが、やはり前方に線が伸びている。こっちは、二つの線の末端を合わせて、引き金をしぼるだけでいい。  それは計画どおりに運んだ。銃が発射したのは麻痺弾――ペアを六時間だけ意識不明にさせるような、超小型の調波発生器だった。シンブの外皮は、自然のものにせよ、人工のものにせよ、たいていの飛来物の運動エネルギーに耐えることができる。中継基地内の改造派に探知されるおそれがあるので、麻痺ビームは使えない。  ふたりは意識を失ったペアの追跡にとりかかった。急ぐ必要はない。ランデブーに長い時間をかけるほど、危険から遠ざかれる。  ペアに追いつくまでには五時間かかった。いったん接触がはじまると、ソルスティスが主導権をとった。たぶん、意識のないシンブに溶けこめるだろうと、パラメーターに話していたのだが、その予想どおりだった。まもなくパラメーターは暗い空洞の中で、改造派といっしょに浮かぶことになった。相手は女性だった。パラメーターは銃身を相手のあごの下に押しつけて、待った。 「やれるかどうか自信がないわ、ソルスティス」と彼女はいった。 「あとあと自慢できるようなことじゃないけれど、そうする理由はあなたにもよくわかってるはずよ。イークイノックスのことだけを考えなさい」 「ほんとにこれでいいのかしら? できれば、あとあと自慢できるようなことをしたいけど」 「とりやめたい? いまならまだ逃げられるわよ。でも、もし彼女が正気づいてわたしたちを見れば、生かしとくとめんどうなことになる」 「わかってるわ。やらなくちゃね。ただ、気が進まないだけよ」  改造教徒は身動きした。パラメーターは銃を握りなおした。  女は目をあけ、周囲を見まわし、そして耳をすましているようすだ。しかし、ソルスティスが先手を打って、相手のシンブが基地に助けを求められないようにしている。 「めんどうは起こさないわ」女がいった。「でも、死の儀式のために二、三分の余裕をくれとたのむのは、虫がよすぎるかな?」 「さっさと口を割れば、それ以上の時間だってあげるわよ。殺したくはないけど、正直いって、そうするしかないわ。まず話したいことがあるんだけど、そのためにはあなたの協力が必要なの。もし、協力しなくても、どのみち、あなたからほしい情報はとれる。ただ、できることなら、あなたの死が必要でないということを、なにかの形で見せてほしいのよ。心を開いてくれる?」  女の目に光がやどり、つぎにまたその光が隠れた。パラメーターはただちに疑惑を感じた。 「そう神経質になりなさんな」改造派の女がいった。「あなたのいうとおりにするわよ。ちょっと意外だっただけ」  女は緊張を解き、パラメーターはソルスティスの腕に体をあずけて、ソルスティスに仲立ちをまかせた。  この相互啓示の結果にふたりは多くのものを賭けていた。  どっと流れこんできたのは、宗教的熱情と献身の無形の重みだった。そして、なによりも上に〈大理想〉があった――いま生きているすべての人々が死んだずっとあとまで継続されていくだろう計画だ。その大胆さ! 主導者、支配者、芸術家としての、〈改造者〉としての人類のヴィジョン。土星の環にもたらされつつある驚異を見たとき、宇宙も人類の支配権を認めるのではないか。  リングペインター大聖は、壮大なスケールのユートピア主義者だった。彼は人類が太陽系に進出したやり方に、いたく不満をもった。彼の頭にあるのは、地球型環境造成《テラフォーミング》であり、惑星の軌道修正である。しかし、どこを見ても、人類は岩石に穴を掘って住んでいるだけだ。  そこで彼は説教をはじめ、ダイソン球や宇宙の方舟、星々を思いのままに点滅させ、ギャラクシーを作りなおす理想を語った。彼とその信者たちにとっては、宇宙はとほうもなく巨大で複雑なおもちゃで、それを使えばいろいろの美しいことができる。たとえばブラックホールのネジをゆるめ、それがどんな仕掛けで動いているかを知りたい。たとえば赤方偏移をもとにずらしたい。彼らは定常宇宙論を信じる。ビッグ・バンだと、すべての努力に終末があることになるからだ。  パラメーターとソルスティスは、その力の前によろめいた。土星の環を赤く塗るという明らかに象徴的な行動が、リングペインターの望む方向に人類を動かす結果になるという確信は、それほどまでに圧倒的だった。リングペインターは、どこか太陽系の外に得点記録係のような存在がいると考え、この〈大信号〉がむこうに強い印象を与えることを信じている。B環がどれほど美しいものになったかを見たとき、その生物たちはやってきて、リングペインターの軍勢に力をかしてくれるだろう。  ふたりが捕えた女は、ロージー・レッド・リング三三五一という名前で、やはりこの思想を真理と信じていた。彼女は一生をこの構想の実現に捧げてきたのだった。しかし、ふたりが示したものを見ているうちに、女の信念が揺らぐのが感じられた。イークイノックスを強奪されたあとの日々の堅く縮かみ、保護膜に包まれた記憶を前にして、女はたじろいだ。ふたりはそれを相手の目の前にかざしてむりやりに見つめさせ、自分たちを守るためにかぶせてあった忘却のベールを一枚ずつはがしながら、相手につきつけた。  ようやくふたりは女を離した。女は身をすくめ、震えながら宙にうかんだ。 「わたしたちがどんな目にあったかを見たわね」 「ええ」女はすすり泣いていた。 「それと、イークイノックスを探しだすために、わたしたちがなにをしなければならないかもわかったわね。わたしの心の中にそれを見たはずよ。知りたいのは、この経験の杯をつぎに回せるかということ。ほかに方法はある? 早くいいなさい」 「知らなかったわ」彼女は泣きながらいった。「あれは、保全派の捕虜だれにでもやってることなのよ。捕虜を殺すことはできない。掟《おきて》に反するから。そこで、わたしたちはペアを分離し、シンブだけを残して、人間はそこに置きざりにしておく――だれかが見つけるように。大半が見つからずじまいになるのはわかってたけど、それがわたしたちにできる精いっぱいのことだった。でも、こんなにひどいことだとは知らなかったわ。考えてもみなかった。これじゃまるで――」 「考える必要はないわ。あなたのいうとおりよ。その人間を殺すほうが、まだしも慈悲深いと思う。シンブのことは、わたしにはわからない。それはイークイノックスに聞いてみないとね。  最初は、リングズにいる改造派をみな殺しにしてやりたいと思った。それも、あっさりとは死ねないように、趣向をこらしてやろうと思った。でも、もうそんな気はないわ。わたしは保全派じゃない。前からそうだった。自分の友だちを探してる捜索者にすぎない。環を塗ろうとどうしようと、わたしの知ったこっちゃない。勝手にやんなさいよ。ただ、どうしてもイークイノックスを見つけたいし、子供たちを見つけたい。だから、これから質問に答えてもらうわ。  どう、あなたを生かしておいて、しかもわたしの目的が果たせるような方法を思いつける?」 「いいえ。ほかに方法はないわ」  パラメーターはため息をついた。「わかった。じゃ、儀式をはじめなさい」 「もう、儀式はどうでもよくなったわ」 「やったほうがいいかもよ。あなたの信念は揺るがされたけれど、得点記録係についての想像は、ひょっとして当たってるかもしれない。もし当たってるとしたら、あなたをまちがった道へ引きこむ原因になるのはごめんだわ」  パラメーターは、いまから殺すことになるこの女と自分自身とのあいだに、すでに距離をおきはじめていた。相手は生きる権利をもった人間ではなく、一つの対象、これから自分が不愉快な仕打ちをしなければならない対象になりつつある。  ロージー・レッド・リング三三五一は、自己終油の儀式をつづけるうちに、しだいに平静になっていった。それが終わったときには、この試練が始まる前のようにおちついていた。 「わたしは充実した人生を経験したわ」女は静かにいった。「改造教徒もあらゆることを知ってるわけじゃない。共生のペアを分離するというわれわれの方針はまちがってた。ただ一つ残念なのは、そのまちがいをだれにも伝えられないことよ」女はパラメーターの顔をうかがったが、むだだということは知っていた。「あなたを許すわ。あなたが好きよ、人殺し。さあ、早くやれば」女は白い首すじをさしのべ、目を閉じた。 「ムム」パラメーターはいった。彼女は犠牲者の最後の言葉を聞いていなかった。自分の意識を切り離して、相手の首すじだけを見つめていた。そしてソルスティスの導くままに両手を動かした。両手はまるで本能のようにつぼ[#「つぼ」に傍点]を見つけ、そこを強く押しつけると、ソルスティスがそうなるといったとおりになった。数秒で女は気を失ったのだ。こうして女を二、三分間生かしておくあいだに、ソルスティスは自分の側の仕事を片づけなくてはならない。 「すんだわ」ソルスティスの動揺した思考がやってきた。 「つらかった?」パラメーターはそこから離れていたのだ。 「その話はよそうよ。あと十年ほどしたらあなたに見せるから、そしたらいっしょに一年ほど泣けばいいわ。でも、とにかく終わった」  とすると、相手のシンブはすでに死に、ソルスティスはその死につきあったのだ。それに比べたら、パラメーターの仕事はまだましだろう。  パラメーターは両手の親指をふたたび相手の首すじにあてがい、身をかがめて、相手の胸に耳をあてた。そして、前よりも強く指を押しつけた。まもなく心臓の鼓動が不規則になり、つかのま異常に速くなった。けいれんが起こり、女の息は絶えた。 「ここに長居は無用だわ」  ふたりが手に入れたのは、シンブと改造派のペアの特殊周波器官だった。それはリングズの住民が敵味方を見分けるひとつの方法なのだ。シンブの無線通信器官は、生まれたときからある特定の波長を出すように同調されていて、改造派はひとつの周波帯を独占的に使っている。  保全派も、やはり敵味方を見分ける必要上、べつの周波帯を採用している。パラメーターはもうどちら側にもくみしていないのだが、いまや信念の欠如を埋め合わせるような肉体能力を得たわけだった。いまの彼女は、状況の必要に応じてどちらの周波帯でも送信できるので、両陣営の中を自由に動きまわれるのだ。もし捕えられれば、どちらからもスパイと見なされるだろうが、本人は自分をスパイと思っていない。  改造派のペアを殺す必要があったのは、シンブを死なせずにその器官を除去することができないからだった。もちろん、その器官をクローン再生することはできるし、それが相手のペアにパラメーターのすすめた逃げ道でもある。が、むこうはそれを拒否した。そこで、いまソルスティスは二つの声をもつことになった。自分の声と、そして彼女が自分の中に移植した新しい器官から出る声だった。  この二重の声のほかに、ふたりは改造派の日常生活についてのいろいろな情報を仕込むことができた。それを知らなければ、たちまちこっちの正体を見破られてしまう。いまのふたりは、改造派の習慣や信念を知りつくしているため、彼らの中にうまくまぎれこめる。ただし、性的和合にはいらなければの話である。これは難題だが、ひとつの口実はあった。性交を避けるいちばん確実な方法は、妊娠していることだ。ふたりはさっそくそうすることにとりかかった。  たいして重要なことには思えなかったが、男の名前はアポジャテュラといった。ふたりが彼に出会ったのは、あの殺しから三週間目のことである。それは一つの賭けだった――小さな危険だが、とにかく危険にはちがいない。男のほうはのんきにふるまっていた。パラメーターの過去の行動やこれからの計画を、性交のあいだにすっかり知ってしまったわけだが、気にするようすはなかった。保全派のあいだでは、狂信的な献身はめったに見られない。これまでにパラメーターの出会った唯一の狂信家は、裏切りの気配だけでも彼女を射殺する構えを見せた、あのブッシュワッカーだけだった。パラメーターとソルスティスは、自分たちのやっていることが、保全派の理想に照らせば裏切りであることをわきまえていた。しかし、アポジャテュラは、そんなことを気にしていないようすだった。かりに気にしたとしても、ふたりがなめたつらい経験のあとでは、それも許されると考えたのだろう。 「しかし、もしイークイノックスが見つかったときに、どうすればいいかを考えてみたかい? きみたちがどう考えてるかは知らないが、おれには厄介な問題に思えるな」 「たしかに厄介だわ」ソルスティスが同意した。「問題問題といわないでよ。こっちはその日のことを考えると、すごく不安になるんだから」 「それはわたし[#「わたし」に傍点]の不安でもあるわ」パラメーターがいった。「先のことはわからない。ただ、わたしたちにわかってるのは、彼女を見つけなきゃならないということよ。それと子供たちを。もっとも、こっちのほうはそれほど強い欲求じゃないけど。子供たちを見たのはほんの二、三分だけだし、いまではもう七つになってるはず。あんまり期待はしてないわ」 「おれなら、イークイノックスにもあんまり期待はしないな」男はいった。「シンブが人間から切り離されたときにどうなるかについて、多少のことは知ってる。なにかが死ぬんだよ。それがなんであるかは知らない。だが、もう一度最初からすべてをやりなおさなくちゃならなくなる。いまの彼女は、きみの子供のうち、だれかの一部になってるだろう。きみと切り離されたときに彼女が乗り移った、どの子供かの一部だ。かりに出会っても、きみもむこうも、おたがいに相手がわからないだろうな」 「それでもやっぱり、こうするしかないわ。じゃ、さよなら」  六カ月のあいだ、ふたりは風のまにまに漂い、だれの目にも身重だと、そしてセックスの相手にはむりだとわかるほど、パラメーターのおなかがふくらむのを待った。そのあいだに、ふたりは考えた。  自分たちがおろかなことをしていると考えたことは、一度や二度ではきかなかった。この捜索をやりとげたとき、ふたりの生涯の使命は果たされ、つぎの千年間をどうするかという問題に直面することになる。といって、捜索のそぶりだけですませることはできない。ひとりだけならそんなこともできようが、ふたりのペアではそうはいかない。自分が偽りの人生を生きていることを、つねに分身の存在そのものによって思い知らされるからだ。  それに、ロージー・レッド・リング三三五一のこともある。もし、ここでやめれば、彼女を殺したことになんの意味もなくなってしまう。それはとても耐えられない。ふたりは彼女の記憶をかかえ、つねに彼女をいとおしみ、つねに自分たちのした行為を恥じていた。それに、そのペアのシンブのこともあった。ソルスティスは、その名前さえまだ口に出せない気分らしい。いつの日か、パラメーターはもう一度あの殺しを、もっと身近なものに対してくりかえさなくてはならないだろう。その恐ろしい行為の必要性を証明することにかけては、どちらかといえばソルスティスのほうが、パラメーターより強硬なぐらいなのだ。  そこでふたりは、改造派の密集区域、むかしイークイノックスがそこで捕虜にされたセクターにむかってひきかえしはじめた。  盗んだ通信器官を最初に使うときは不安だったが、やってみるとうまくいった。そのあとのふたりは、改造派の社会で自由に動きまわることができた。そこは奇妙な世界で、新入りをまごつかせるような儀式の氾濫《はんらん》だった。しかし、ふたりは宗教の速成講座を受けていたし、いざとなれば、心に焼きついているロージー・レッド・リングの記憶をたよりにすることもできた。  ふたりはアース・リヴェンジャー九九五四fと名乗った。ありふれた名前にでたらめの番号をくっつけ、地位のしるしにf≠加えたものだ。改造派の中でも百人の子供を生んだものだけが、その文字を名前に加えることができる。理論上は、すべての出生は、ちょうど環の反対側にあるリングペインター寺院に記録されているはずだ。そこには、環内社会のありとあらゆる記録が残されている。しかし、盗みとった通信器官で改造派をあざむけることがわかった以上、もう危険はなかった。環境保全派に比べて社会的接触をもっと重視する改造派の社会でさえ、おなじ相手に二度会う確率は少ない。パラメーターとソルスティスが本物のアース・リヴェンジャー九九五四fと鉢合わせする可能性は、考える価値すらなかった。  ふたりが滞在することに決めた場所は、捕えられたあの日に彼女が足でけりだしたあの岩、ロージー・レッド・リングが最後の日にそこを出たあの岩だった。そこは通信センターであり、社交場であり、井戸端会議の場でもある。改造派たちが、宇宙空間の空虚という恐ろしい敵に対して、団結力をたもちつづけるための手段だ。  ふたりは基地のマネージャーの職についた。これはどちらかといえば非公式の志願制ポストで、基地の中にとどまって、そこでの活動のまとめ役をつとめるという名目になっている。その仕事には、口頭連絡にたよれない重要な情報の文書伝達と、新しくやってきた改造教徒からその種の情報を聞きだすことが含まれている。これはふたりの目的にうってつけの仕事だった。  ただ、困ったのは妊娠の問題だ。妊婦は日光と岩と氷を大量に必要とするため、ふつうこんな仕事はひきうけない。ふたりはそのことでしょっちゅう質問の矢面に立たされたが、その仕事がすっかり気に入っているのでやめたくないのだ、と答えてごまかすことにしていた。  しかし、日光を充分に浴びられないのは、深刻な問題だった。いまでは基地そのものが、リングズのかなり内部深くに位置しているので、入射日光は少ない。ほんとうなら、環の平面の上に出て、あまり岩で散乱されていない日光を浴びるべきなのだが、それができなかった。  パラメーターはそれを埋め合わせるために、自由時間は基地の外へ出て、ソルスティスに展開体形をとってもらうことにした。  基地での最大の話題は〈人口令〉の失敗だった。その話題が、はからずもイークイノックスに関する情報を引きだすのに役立ってくれた。  この勅令のもとでは、どの改造教徒も、男性として一年を送るごとに女性として九年を過ごすよう、性転換を受けなければならない。女性としては、一年ごとに三人の子供を生まなければならない。しかし、実際の数字は、それと大きく食いちがっていた。  それは勅令に対するはじめての反抗だった。組織化された反抗ではないが、不穏であることに変わりはない。それについてはさかんに論議がかわされ、おごそかな再宣誓が行なわれた。だれもができるだけ大勢の子供を産むと誓ったが、どの程度に真剣なのかにパラメーターは疑問をもった。彼女自身が改造派の実態を調べたところでも、たしかに女性の数が男性を上まわってはいるが、その割合は九対一ではなく、三対一にすぎなかった。  これにはいくつかの原因があることが取り沙汰されていた。最も明らかな理由の一つは、単純な好みの問題だ。統計的にいうと、すべての人びとの九十パーセントはそれぞれ好みの性を持っており、その内訳を見ると、男女どちらが好まれるかは、ほとんど平均している。所期の目標であるパーセンテージに達するためには、改造派のうち三十五パーセントが、自分の好みではない性で生きなくてはならない。実際の数字は、そうしている人びとが少ないことを示している。彼らは頑として男性でありつづけているのだ。  それに兵站《へいたん》学的な問題もあった。ひとりの赤ん坊を産むだけの有効質量を得るために、シンブと人間のペアは約千キロの岩と氷を摂取しなくてはならない。赤ん坊を産むのに必要な化学物質は、そのうちのごくわずかな一部分なのだ。しかも、これだけの質量を有効な形に変換するには、エネルギーが要求される。ペアは日光の中で長い時間を過ごさなくてはならない。それをやったあとでは、環を塗る時間はあまりないことになる。ところが、大半の改造教徒は、出産工場になることよりも、こっちのほうを最大の使命と考えているのだ。  噂によると、リングペインターは、ここ十年来、そのジレンマを解決するため、瞑想中であるといわれる。女教祖は〈大信号〉の作業が、現実に危機におちいるほどスローダウンしていることに気づいた。もし遠い未来に、改造派側の出産率が環境保全派のそれに大差をつけられないとなると、これは厄介だ。改造派の壮大な努力が要求されるときは、これからやってくる。いまの状況だと、環境保全派が赤く塗られた岩にでくわすのは、三日か四日に一度かもしれない。それぐらい分布状態は遠くまばらだ。しかし、塗られた岩の数がふえるにしたがって、その色を消すスピードもやはり上がっていくだろう。そのあかつきには、改造派は保全派の脱色効果を大幅に上まわるスピードで再塗装を進めなければならない。もし、両者の出産率がほとんど互角なら、この戦争は手詰まりになってしまうし、手詰まりになって勝てるのは保全派だけである。〈大理想〉をなしとげるためには、B環の岩石の九十パーセントを塗らなくてはだめだ。その数字を達成するためには、改造派は人数で保全派を十対一で圧倒しなければならない。でないと、塗られた岩の数は、目標の数字よりはるか下で安定してしまう。これは第一級の危機だが、現存の人間のだれひとり、その最終結果を目にすることはないだろう。  この問題を、改造派のひとり、グロリアス・レッド・リング四三fという女性と論じあっているときに、待ちに待った幸運がころがりこんできた。彼女はリングペインターの初期の帰依者のひとりで、この環で暮らしてもう二百年になる。すでに三百八十九人の子供を産み、それでもまだノルマ以下だということを認めていた。彼女はリングペインターの目標の非現実性を示す生きた証人だったが、それが正しい政策だという揺るぎない信仰をもっていた。六百人の子供を産めなかったことで自分を責め、つぎの一世紀以内に割当てを消化しようと、健気な努力をつづけていた。そのためには、五百人の子供を産まなければならない。パラメーターは彼女を痛ましいと思った。いまの彼女は、七つ子を身ごもっていた。 「若い人たちが双子を身ごもってここへやってくるのを見ると、あれでよく改造教徒といえるなと思って、情けなくなるわ」グロリアス・レッド・リングは不満をのべた。「つい先月に途中で会った女なんか、ひとりっ子しか孕《はら》んでなかったわよ。ひとりっ子! 想像できる? あなたは何人なの?」 「三つ子。もっと多ければよかったんだけど」パラメーターは残念そうな口調になろうとつとめた。 「いいのよ。三つは正しい数字だから。去年あなたが三つ子を産んだかどうかも、聞かずにおくわ。 「それにしても、目につく男性の数の多さには泣けてくるわね。わたしの計算だと、七・四三対二・五七よ、男女の比率が」彼女は思案するように黙りこんでしまった。 「まずいのはそれだけじゃなくて」とパラメーターは話の穂をついだ。「聞いた話だと、保全派の出生率がわれわれに追いついたんですって」 「ほんと?」相手はこのニュースでまた落ちこんだ。もしそれが事実無根だと知ったら、ほっとしたにちがいない。パラメーターは、話題を保全派の女たち全般へと、そしてとくに、数年前、この近くで五つ子の出産中に捕えられたある保全派の女へと導いていくために、よくこの手を使うことにしていた。 「でも、それは意外じゃないわ」相手はいった。「最近われわれの捕まえる保全派ときたら、たいていが三つ子、四つ子、ときには五つ子を身ごもってるもの」  これは脈がありそうだ。パラメーターは、相手の話を引きだせるようなうまい返事はないかと考えた。 「そういえば、十年ほど前だったかな……それとも五年? よくおぼえてないわ。とにかく、仲間が保全派の女を捕まえたことがあってさ。五つ子を産んだばかりだったのよ、その女」  パラメーターはあまりの驚きに、もうすこしで絶好のチャンスを見逃すところだった。 「五つ子?」と、ようやくかすれ声をふりしぼった。それだけで充分だった。 「そうなのよ。あなた、われわれの仲間が最近五つ子なんかを産むのを見たことある? しかも、あのアナーキストどもは〈人口令〉さえなしにそうしてるのよね。その女なんか、面白半分だったんだから」 「あなたはその場に居合わせたの? 仲間がその女を捕まえたときに?」 「あとで話を聞かされたのよ。五つ子は、二、三日ここに置かれていたらしいわ。どうすればいいか、だれにもわからなくてね。だれも保育所のことを聞かされてなかったから」 「保育所?」 「あなたもか。このあたりの情報伝達活動はお寒いかぎりね。こんなことは掲示と回覧をしておくべきなのに」 「話してくれれば、かならずそうするわ」 「ここから一万五千キロ前方に、捕虜の子供たちのための保育所があるの。保全派の子供たちを捕まえたら、教化のためにそこへ連れていくことになっているのよ」  ふたりはこの情報を消化したが、その味は気に入らなかった。 「すると、教化はかなり成功してるんでしょうね?」 「大いなる赤い環にかけて、そうあってほしいわ。わたしはまだそこへ行ったことがないのよ。  でも、こんな状況では、手にはいったものはなんでも利用しなくちゃね」 「その保育所の位置は? 軌道要素もいっしょに掲示しときたいから」  三つ子は失敗だった。十月目、保育所へ向かう途中で、ソルスティスはパラメーターに望みがないことを告げた。中継基地にいたあいだに、充分なエネルギーと生原料が摂取できなかったためなのだ。胎児の発育を抑えるのはもうむりだったし、必要なミネラルをいまから集めても、もう手遅れだった。  ソルスティスは胎児を中絶し、死体を再吸収した。中絶で得られた余分のエネルギーで、保育所への旅ははかどった。たった二年しか掛からなかった。  保育所は見捨てられて、がらんどうの外殻だけになっていた。リングではニュースの伝わり方は遅い。パラメーターは、その施設が十五年前から使われていないのを知った。とすると、子供たちはここへ送られたものの、到着せずじまいだったのだ。  ふつうなら絶望するところだったが、ふたりはもう絶望を通りこしていた。保育所へくる途中のある時点から、自分たちのやろうとしていることが可能だとは、とても信じられなくなっていた。だから、保育所が見捨てられているのを知っても、うちひしがれはしなかった。とはいえ、捜索がここで終わったことを受け入れるのは、骨が折れた。なにしろ、九年間も跡を追いつづけてきたのだから。  しかし、数字は歴然としている。B環の容積は七百億立方キロ。その立方キロのどれ一つにも、千人の子供を隠すことができる。  ふたりは保育所の近くを数週間うろつきまわって、改造教徒たちに問いかけ、統計にうち勝てるような手がかりを見つけようとした。子供たちの目的地がわからない以上、雲をつかむような捜索だった。子供たちはどこにいないともかぎらず、その範囲は、考える気にもなれないほど彪大なのだ。  結局、ふたりはそこを離れたが、どこへ行くあてもなかった。  三日後、ふたりは保全派の男性と出会い、彼とセックスした。相手はふたりの苦境に同情してくれたが、子供たちを見つけだす望みはないという点では同意見だった。ソルスティスは、パラメーターが受胎しないように用心した。ふたりとも、あと一世紀やそこらは妊娠する気になれないほど、こりごりだった。  保全派と別れたあと、ふたりは自分たちが眠りにおちかかっているのに気づいた。ただし、それが眠りでないことはわかっていた。  目をあける前から、パラメーターは狂おしく自分の脳天に手をやった。 「ソルスティス……」 「ここにいるわよ。急に動いちゃだめ。捕虜にされたらしい。相手は何者か知らないけど、武器をもってるわ」  パラメーターは目をあけた。そこは結合球の中で、ソルスティスから出た巻きひげは、まだしっかり彼女の脳天に食いこんでいた。中にはもうひとりの人間がいる。小さな男だ。彼が銃口をしゃくるのを見て、彼女はうなずいた。 「こわがらなくてもいい」男はいった。「もし、質問にちゃんと答えられたら、生きて出られるかもしれない」 「安心してよ。抵抗するつもりはないから」 パラメーターは、相手が子供なのに気づいた。年ごろは十一歳ぐらい。しかし、麻痺銃の扱いは慣れたものだ。 「おれたちは約一週間、あんたらを見張ってたんだ」少年はいった。「最初は改造派と話をしてたから、当然その一味だと思った。ところが、いまさっきは保全派に、保全派の波長を使って話しかけていた。説明を聞きたい」 「もともとは保全派だったのよ。最近、改造派をひとり殺して、その通信器官を奪ったの」パラメーターは、少年の麻痺銃から逃れられるような、まことしやかな嘘を思いつけないのを知った。この状況に対応できるような、まことしやかな嘘があるとは思えなかった。 「いまはどっちの味方なんだい?」 「どっちの味方でもないわ。もしそうできるなら、無党派でいきたい」  少年は考え深い顔つきになった。「それはあんたの思ってるより簡単かもしれないぜ。なぜ改造派を殺した?」 「改造派の社会にまぎれこむために、そうしなきゃならなかったのよ。何年か前に横どりされた子供たちとシンブを探すためにね。それで――」 「あんたの名前は?」 「パラメーター、とソルスティス」 「わかった。ことづけがあるよ、パラメーター。あんたの子供たちからだ。五人ともぶじで、この近くであんたを探してる。おれたちが総がかりで探せば、二、三日で見つかるさ」  子供たちは、これが気詰まりな状況なのに気づいていた。集団結合に加わって、徐々にひろがっていく球体の内壁から現われても、短いキスをしただけでひきさがり、小さい体をひとかたまりに寄せあっていた。  パラメーターとソルスティスは、すっかり上がってしまって、満足に物も考えられなかった。五人の子供たちとは、これからだんだん親しくなっていけるだろう。しかし、イークイノックスは? 彼女はどうなったのか?  ふたりは、子供たちがパラメーターをおぼえているという明らかな印象を受け、それがありえないことではないのをさとった。パラメーターは、子供たちがまだ子宮にいるときから話しかけ、画像や音で子供たちの心の発達をうながしていた。その画像のいくつかは、パラメーターのものであったにちがいない。  リンガーの子供たちは、人間の子供たちとはちがう。生まれたときから、すでにリングズで生きのびるのに必要な知識の大半をもっている。それから幼いシンブとペアを組み、相手の発達を導いて、ほんの数週間でおとなに育てあげることができる。そこからはシンブが三年間主導権を握り、子供たちを教え、彼らが強く健康に育つのに必要な場所へと連れていく。実際的には、三歳で成熟するのだ。それでなくてはやっていけない。彼らが母親にたよれるのは、おとなのシンブを手に入れるまでのわずか数週間だけ。それがすめば、あとは自力で生きていくしかない。幼児のときの身体的欠陥は、シンブの指導と調節で治療される。  パラメーターはその奇妙な子供たち、数百億立方キロの空間を裏庭に持ち、星々や彗星をおもちゃにしている子供たちをながめた。自分はこの子供たちのなにを知っているというのか?むこうはまるで異種族に近い。だが、それは問題にならないだろう。ソルスティスもそうだったのだから。  ソルスティスはほとんどヒステリー状態だった。自分でも理解できない理由で、パラメーターを失うことになりそうだという恐怖にとりつかれていた。その恐怖に気が狂うほどだった。心の中の一部では、パラメーターとおなじように、どうしようもなくイークイノックスを愛している。そしてもう一部では、ひとりの人間にとってひとりのシンブしか入れる余地のないことを知っている。もし、どちらかを選ぶということになったら? どうやってそれに耐えればいいのか? 「イークイノックス?」  ソルスティスから声のないさけびがほとばしった。「イークイノックス?」  ????? 「あなたなの、イークイノックス?」  応答はごくかすかで、ひどく遠かった。ふたりには聞きとれなかった。 「わたしよ。パラメーターよ」 「そしてソルスティス。あなたはわたしを知らないけど――」  知ってるわ。あなたはわたしよ。わたしはむかしあなただった。ふたりともよくおぼえてるわ。おもしろい。しかし、その声におもしろがっているひびきはなかった。クールだった。 「よくわからないわ」だれがそういったのか、だれも確信がなかった。  でも、わかってるはずよ。わたしは死んだ。いまあるのは、新しいわたし。新しいあなた。もう、あれはすんだこと。 「わたしたち、あなたを愛してるわ」  ええ。もちろんそうでしょう。でも、わたしには愛する力は残ってない。 「こんぐらがってきたわ」  すぐ慣れるわよ。  子供たちはいっしょになって浮かんでいる。静かに、うやうやしく。自分たちの母親がこの新しい現実と取り組むのを待っている。ようやく、彼女は身じろぎした。 「そのうちに、わたしたちにも理解できる日がくるわね、たぶん」パラメーターはいった。  少女のひとりがいった。 「イークイノックスはもう生きていないのよ、お母さん。でも、まだわたしたちといっしょにいるわ。捕虜になるとわかったとき、彼女はある選択をしたの。自分の子供たちを再吸収して、五つに分裂したのよ。わたしたちはだれも彼女のすべてを持ってないけど、充分なだけは持ってるわ」  パラメーターは首を振って、その話の意味をつかもうとつとめた。ここまで案内してくれたあの少年は、子供たちといっしょになるまで待ったほうがいいといって、なにも教えてくれなかったのだ。 「どうしてあなたがたがわたしを見つけたのか、まだよくわからないわ」 「必要なのは根気だけよ。わたしたちは保育所に行かなくてすんだ。ここへくる途中で、アルファ党に解放されたの。彼らはわたしたちに付き添っていた改造派をみな殺しにして、わたしたちを養子にしたのよ」 「アルファ党って?」 「アルファ党は、| A 《アルファ》環に住んでいるリンガーで、保全派でも改造派でもないわ。あの争いに嫌気がさしてやめた両陣営からの脱走者たち。わたしたちのめんどうを見てくれたし、わたしたちがお母さんを探したいといったら、力になってくれた。自分たちがどこへ送られるはずだったかは知っていたから、もしお母さんが生きていれば、ここへ現われるのは時間の問題だと思ったの。だから、ここでじっと待ってた。お母さんはたった九年でここへやってきた。すごい才能」 「かもね」パラメーターは子供たちの脚をながめていた。奇怪な形だ。それに、あの末端についたぶかっこうなものはなんだろう? なんと奇妙な。 「生まれながらの足よ、お母さん」少女がいった。「A環には外科医がいるけど、あなたを見つけるまではここを留守にできなかったの。これで、いよいよ行けるわ。いっしょにきてくれるでしょ?」 「え? ああ、行かなくちゃね。カッシーニ間隙の対岸ってことでしょう? ほんとにそこには戦争がないの? 殺しあいも?」 「そうよ。B環が縞模様に塗られようと、水玉模様に塗られようと、こっちの知ったこっちゃない。あいつらはフリークよ――保全派も改造派も。わたしたちがほんとのリンガーだわ」 「ソルスティス?」 「いいわよ、よろこんで」 「いっしょに行くわ。ねえ、みんなの名前は?」 「アーミー」と少女のひとりがいった。 「ネイビー」とつぎの少女。 「マリーン」 「エアフォース」 「そしてエレファント」と少年がいった。 [#地付き](浅倉久志訳) [#改ページ] [#ページの左右中央]    マネキン人形 [#改ページ] 「本当に彼女は危険じゃないんですね?」 「少しも危険ではありませんよ。とにかく、あなたに対してはね」  イヴリンはドアについている覗き窓を引いて閉めると、気を重くする不安な思いをなんとか抑えようとした。自分が精神異常者たちに神経質になっていることに気づくのが、ちょっと遅かった。  あたりを見まわした彼女は、自分が恐れているのが患者たちではないことに気づいてほっとした。ベッドフォード市立病院の、要塞のような雰囲気が怖かったのだ。鉄格子のはまった窓や、壁にクッションの張られた部屋、キャンバス地のシーツ、拘束服、皮下注射器などがあって、がっしりした付添人のいる、ぞっとするような場所だった。まるで監獄だった。あらかじめ注意されてはいたものの、この建物に入れられる人々のことで神経質になるなと言うほうが無理なのだ。  彼女はもういちど部屋を覗いた。中にいる女はとても小柄で、あまりにも落ち着き払っているために、この大騒ぎすべての張本人だとはどうしても思えなかった。  バローズ博士は、目を通していた分厚いファイルを閉じた。 ≪バーバラ・エンディコット。年齢:二十八。身長:一六〇センチ。体重:四五・八キロ。診断:妄想性分裂病。所見患者は危険人物であると考えられる。マサチューセッツ州の刑事裁判所で殺人罪で起訴され、観察のためにここに送られてきた。男性に対して強度の敵意を抱いている≫  もっとずっと続いていた。イヴリンはすでにいくらか読んでいた。 「彼女は自分を守ろうとする傾向が非常に強い精神病にかかっているんです。例によって、理屈に合わないことのように見えてもですね、妄想の体系というのは実に入念に作られていて、患者の心の中では矛盾がないんです」 「知っています」 「本当に? ああ、そうかもしれませんね、本や映画からの知識としてね」彼はファイルを閉じてイヴリンに渡した。「患者のひとりと実際に話をしてみると、少し違うということに気がつきますよ。彼らは自分の言うことを確信していますが、正常な人間ならとてもしそうにないことですよ。わたしたちは誰でも、あまり確信を持てないことをいろいろとかかえて生きていますよね。彼らはそうではないんです。真実を見てしまっているんですね。だからそれ以外の何物でも、彼らを納得させることはできないでしょう。彼らを相手にする時には、しっかりと現実をつかんでおかなければだめなんです。彼女との話を終えたら、あなたはいささか動揺しそうですね」  イヴリンは、彼が話を終わりにしてドアを開けてくれればいいのにと思った。自分が現実感を失うという不安は全くなかった。あのファイルに記されているようなばかげた考えを彼女の口から聞けば、わたしが心を乱されるかもしれないと、彼は本気で心配しているのだろうか?「先週一週間は、電気ショック療法をやりました」彼は力なく肩をすくめた。「そのことについてあなたの先生がたが何とおっしゃったかはわかりますよ。わたしが決めたことじゃありません。ただ、こういう病人たちの心に触れる方法がないんです。説得しつくして理屈がなくなってしまうと、ショック療法を試すことになります。彼女には何の効果も現われてはいません。相変わらず防御的な症状を示しています」彼は顔をしかめながら、爪先を浮かせて後ろに体を揺らした。 「お入りになってもいいでしょう。あなたは全く安全です。彼女の敵意は男性にしか向けられてはいませんからね」彼は、白衣姿の付添人に身振りで示した。ナショナル=フットボール・リーグの選手のような付添人は、鍵を回した。そしてドアを開けると、彼女を通すために後ろに下がった。  バーバラ・エンディコットは、窓際に置かれた椅子にすわっていた。窓から差し込む日光で、その顔には格子模様ができている。彼女は振り向いたが、立ち上がりはしなかった。 「こんにちは、わたし……わたしはイヴリン・ウィンターズよ」彼女が口を開いたとたんに、バーバラはそっぽを向いてしまった。この禁制の場所でかなり弱々しくなっていた自信が、すっかりなくなりそうだった。 「もしかまわなければ、お話がしたいんだけど。わたしは医者じゃないのよ、バーバラ」  彼女は振り返ってイヴリンを見た。 「それじゃそんな白い上着を着て何をしてるの?」  イヴリンは自分の白衣に目を落とした。とんでもないへまをやったという気がした。 「あの人たちに着なければだめだって言われたのよ」 「『あの人たち』って誰のことなの?」くすくす笑うような気配を見せながら、バーバラが訊《き》いた。「偏執病患者みたいな言い方をするのね、あなたって」  イヴリンは少し気が楽になった。「わたし[#「わたし」に傍点]のほうがそれを尋ねるはずだったのよ。『あの人たち』というのは、職員のことなの、この……施設のね」もっとリラックス[#「もっとリラックス」に傍点]しなくちゃだめ! わたしが医者じゃないとわかったら、彼女はすっかり好意的になったみたいだもの。「あの人たちは、わたしが病気かどうかを知りたいんじゃないかしらね」 「そのとおりよ。もし病気なら、こういった青い衣裳を一揃いくれるでしょうね」 「わたしは学生なの。あなたのお話を聞いてもいいって言われたのよ」 「やれやれ」すぐにバーバラはにっこりと笑った。それが実に愛想がいい健全な微笑だったので、イヴリンもほほえみ返して手を差し出した。けれども、バーバラは首を振った。 「それは男のやることだわ」彼女はイヴリンの手を指差した。「『わかるか? おれは武器は持っていない。おまえを殺すつもりはないんだ』わたしたちはそんなことをする必要なんかないのよ、イヴリン。女なんだもの」 「ええ、もちろんよね」彼女はばつが悪そうにその手を白衣のポケットに突っ込んで、ぎゅっと握りしめた。「すわってもいいかしら?」 「どうぞ。ベッドしかないけど、固いから腰掛けられるわよ」  イヴリンはベッドのふちに腰を掛け、ファイルとノートを膝の上に置いた。こういう姿勢はしたものの、まだ体重は爪先にかかっていて、いつでも跳びのけるようにしていることに彼女は気づいた。室内のわびしさが彼女を襲った。剥《は》げかけている灰色のペンキや、網を張った彩光窓にはめ込まれている黄ばんだガラスなどが目に入った。網は、砲金製のボルトでしっかりと壁に取り付けてあった。床はコンクリートで、じめじめしてよそよそしい感じがする。音もほとんど響かない部屋だ。家具は、椅子が一脚に、灰色のシーツと毛布の掛けられたベッドだけだった。  バーバラ・エンディコットは小柄で、黒い髪と全く滑らかな顔をしているために、イヴリンは東洋的なものを連想した。顔色は青ざめて見えるが、たぶん二か月間独房にいたせいだろう。それでも、彼女はすこぶる健康だった。日光が作る格子模様の中に腰を下ろし、窓から差し込む光線をすべて吸収しようとしていた。裸の上にバスローブをまとっただけの姿で、腰をベルトで締め、布製のスリッパをはいていた。 「つまりわたしがきょうのあなたの割当てというわけね。あなたが選んだの、それとも他の人が?」 「あなたが女の人としか話をしないって聞いたものだから」 「そのとおりだけど、質問に答えてくれてないんじゃないかしら? ごめんなさいね。あなたをびくびくさせるつもりはないのよ、本当に。二度とそんなことはしないわ。わたしは気違いのふりをしてるの」 「どういう意味?」 「ずうずうしくて、攻撃的。自分の言いたいことは何でも言う。このあたりにいる頭のおかしい人たちは、みんなそんなふうに振舞っているわ。わたしは気違いじゃないわよ、もちろん」  彼女の目はきらきら輝いていた。 「あなたにだまされているのかどうか、わたしにはわからないわ」イヴリンは認めた。不意に、相手の女にぐっと親しくなったように感じた。狂人のことを、精神的な欠陥があって、論理的に考える力がない人間だとすぐに思いがちだ。バーバラ・エンディコットは、そちらに関してはどこも悪くはなかった。鋭い頭脳の持ち主なのかもしれない。 「もーちろん、わたしは狂っているわよ。そうじゃなかったらここに閉じ込められたりするかしら?」彼女はにやりと笑い、イヴリンは緊張を和らげた。背中の力が抜けた。彼女の体重がかかって、ベッドのスプリングがきしんだ。 「いいわ。そのことについて話をしたいの?」 「あなたが聞きたがるかどうか自信がないわ。わたしが男を殺したのを知ってる、ねえ?」 「やったの? 審問ではあなたがやったと考えられたというのは知っているけど、裁判にはかけられないと見ているようだわ」 「確かに彼を殺したわ。調べなければならなかったのよ」 「何を?」 「頭を切り取っても、まだ歩けるかどうかをね」  ほら、これだ。バーバラはまたしても異人種になってしまった。イヴリンは身震いを抑えた。  バーバラは、実にまともな口調で言ったのであり、こちらにショックを与えるつもりは何もないようだった。事実、何分か前にこれを聞かされたなら、イヴリンはもっと強い影響を受けたかもしれない。彼女は不快な気分にはなったが、怖がりはしなかった。 「なぜ彼が歩けるかもしれないって思ったの?」 「それはたいした問題じゃないわ」バーバラはたしなめるように言った。「たぶんあなたにとっては大事ではないでしょうけど、わたしには大事なの。どうしても知らなければならないって思わなければ、あんなことはしなかったでしょうね」 「知る……まあ。それで、彼はそうしたの[#「そうしたの」に傍点]?」 「もちろんしたわ。二、三分間あの部屋をうろうろ歩きまわったわ。それを見たから、わたしは自分が正しいと知ったのよ」 「なぜ彼が歩けると考えるようになったのかを話してくれない?」  バーバラはイヴリンをじろじろと見た。 「そして、なぜわたしがああしなければならなかったのかを? 自分を見て。あなたは女よ。なのに嘘をみんなうのみにしているわ。彼らのために働いているわ」 「どういうこと?」 「あなたは化粧をしている。脚の毛を剃って、ナイロンで覆っているし、邪魔なスカートをはいてよたよたと歩いている。靴のかかとは、強姦されかかった時に、足がもつれて逃げられないようにできているのよ。あなたは彼らのための仕事をしているわ。なぜわたしがそんなあなたに話さなければならないの? 信じてもらえっこないわよ」  イヴリンは、会話の方向がこのようにそれても心配しなかった。バーバラの言っていることの中に、敵意はなかった。何かがあるとすれば、それはあわれみだった。こちらが女だということだけでもう、バーバラは危害を加えてきたりはしないだろう。それがよくわかったので、イヴリンはもっと自信を持って話を進めることができた。 「確かにそうかもしれない。でも、もしその脅威が本当に重要なら、女としてわたしに話してくれるべきじゃないの?」  バーバラは大喜びして両膝をぴしゃりとたたいた。 「参ったわ、先生。あなたの言うとおりよ。でもそれは本当に注意を要するのよ、自分自身の妄想が自分に反抗するんだから」  イヴリンはノートに記入した。彼女の妄想的強迫観念を話題にすると[#「彼女の妄想的強迫観念を話題にすると」に傍点]、ぺらぺらとよくしやべらせることができる[#「ぺらぺらとよくしやべらせることができる」に傍点]。それについて自分が冗談を言うのは当然だと[#「それについて自分が冗談を言うのは当然だと」に傍点]、充分に確信している[#「充分に確信している」に傍点]。 「何を書いてるの?」 「えっ? ああ……」正直に[#「正直に」に傍点]。嘘をついても見ぬかれるわ[#「嘘をついても見ぬかれるわ」に傍点]。率直にふるまって[#「率直にふるまって」に傍点]、彼女の不遜な態度に合わせるのよ[#「彼女の不遜な態度に合わせるのよ」に傍点]。「……あなたの状態をメモしただけよ。教授に診断を報告しなければならないものだから。教授はあなたがどういう種類の狂人なのかを知りたがっているの」 「簡単だわ。わたしは妄想性分裂病よ。それを知るのに学位はいらないわ」 「いいえ、わたしはそうじゃないだろうと思うの。いいわ、話してちょうだい」 「わたしが信じているのは根本的にはこういうことなの。つまり地球は、先史時代のある時に、何らかの寄生生物に侵略されたんだってね。たぶん穴居時代だわ。はっきりと知るのは難しいのよ、なにしろ歴史なんて嘘の塊だもの。彼らはいつでもそれを書き直すのよね」  またしてもイヴリンは、自分がからかわれていて、相手がそれを楽しんでいるのかどうかがわからなくなった。バーバラは、複雑で油断のならない女だ。いつでも逃げられるようにしなければいけないだろう。今の話は、明らかに誇大妄想によって作られたものであり、バーバラもそのことを充分に承知しているのだ。 「あなたのゲームにつき合うわ。『彼ら』って誰のこと?」 「『彼ら』というのは、何にでも使える妄想的代名詞よ。意識的であってもなくても、あなたを『とらえる』ための陰謀に掛かり合っているグループはみんなそう。気違いじみているのはわかっているけど、そういうグループが存在するのよ」 「本当?」 「もちろんよ。あなたの心を迷わすために、集まって計画を練らなければならないとは言ってないわ。彼らにはそんな必要はないのよ。あなたは、自分が関心を持っているのとは違うものに関心があるグループが存在することは認められるわよね?」 「もちろんだわ」 「もっと大事なのは、彼らが本当に陰謀を企てているグループなのか、そういうふうに働くのが彼らの機能であるために、陰謀と同じ効果が出ているだけなのかは、どうでもいいということなの。個人的なものでなければならないということもないのよ。毎年、国税局は、あなたが稼いだお金を奪おうと企《たくら》むでしょう? 大統領や議会と組んで、あなたからお金を盗んで、他の人間に与えようという策略なのよ。でも彼らはあなたの名前は知らないわ。彼らはみんなから盗むのよ。わたしが話しているのは、そういうたぐいのことなのよ」  反目する実在のグループに人の注意を向けさせることで[#「反目する実在のグループに人の注意を向けさせることで」に傍点]、自分に敵意を持つ外部勢力に対する恐怖を正当化している[#「自分に敵意を持つ外部勢力に対する恐怖を正当化している」に傍点]。 「ええ、それはわかるわ。でもわたしたちはみんな、国税局があることは知っているわ。今話してくれているのは、あなただけにしかわからない秘密のことだもの。どうしてわたしに信じられると言うの?」  バーバラは、さらに真剣な顔になった。たぶん相手が手強《てごわ》いことに気づき始めているのだろう。相手になる者の論鋒は、常に彼女よりも鋭かった。状況はこのようなものだった。なぜあなたが正しくて[#「なぜあなたが正しくて」に傍点]、他のみんなが間違っているのか[#「他のみんなが間違っているのか」に傍点]? 「そこが難しいところなのよ。あなたのほうからはわたしが間違っているという『証拠』をたくさん出すことができるけど、わたしのほうは何も見せることができないのよ。わたしがあの男を殺した時にあなたも一緒にいたら、わかってもらえたでしょうね。でももう一度やることはできないし」彼女は深く息を吸い込んだ。長い時間の討論をして、落ち着いたようだった。 「寄生生物の話に戻りましょうよ」イヴリンが言った。「彼らは男性なの? あなたが言っているのばそういうことなの?」 「違う、違う」彼女は笑ったが、おかしくて笑ったのではなかった。「男なんてものはいないのよ、あなたの考えているようなのはね。生まれた時に支配されてしまう女たちがいるだけよ、この、この……」彼女は宙を見つめて、自分の嫌悪感が表わせるほどの忌まわしい言葉を探した。だが、見つけることはできなかった。「生物にね。有機体にね。彼らが地球を侵略したって話したけど、よくわからないのよ。ここの生物なのかもしれないわ。あまりにも完全に支配しているから、知る方法がないのよ」  自分の論理的解釈に[#「自分の論理的解釈に」に傍点]、融通性を残している[#「融通性を残している」に傍点]。そう、それは本に書かれていることと一致するだろう。妄想に関して答えられないような質問をして、彼女を参らせるのは難しいだろう。それに関して何もかも知っているわけではないのを、彼女は認めているし、こちらの論拠のすべてを、寄生生物に干渉されたものとして拒否するのも彼女の自由なのだ。たとえば歴史のように。 「じゃあそれはどうやって……いえ、待って。この寄生生物のことをもっと話してもらうほうがいいかもしれないわね。彼らはどこに隠れているの? 彼らの存在に気づいているのがあなただけというのは、どういうわけなの?」  バーバラはうなずいた。今では全く真剣になっているようだった。これだけはっきりした話になってくると、この問題で冗談を言うことはできないのだ。 「厳密に言うと寄生生物じゃないのよ。まあ共生生物みたいなものね。彼らは宿生を殺さないの、すぐにはね。短い間なら、宿主を助けさえするわ。彼らを強くし、大きくし、もっと支配能力を高めてやるの。でも結局は、宿主のエネルギーをしぼり取ってしまうのよ。宿主を病気にかかりやすくするし、心臓を弱らせるわ。彼らがどんなふうに見えるかということだけど、あなたは見たことがあるわよ。目も見えず、自分では何もできずにじっとしている、うじ虫みたいな生物なの。女性の尿道にくっついて、膣いっぱいに膨れて覆うほどになり、卵巣と子宮に神経組織を延ばすのよ。そして女性の体にホルモンを注入して、醜く成長させるの。たとえば顔に毛が生えたり、筋肉がついてきたり、また、考える力が弱くなったり、感情にものすごい欠陥ができたりするのよ。宿主は、攻撃的で残忍になるわ。胸は決して大きくならないの。彼女は永久に子供を生めないのよ」  イヴリンは、ノートになぐり書きをして、感情を隠そうとした。声を出して笑いたかった。声を上げて泣きたい気分だった。誰が人間の心を想像できるだろうか? まともそうに見えるこの女性に、このように異様な世界観を持つようにさせたに違いない圧迫のことを思って、イヴリンは身震いをした。父親? 恋人? 強姦されたのかしら? バーバラにこういうことを話させようとしたが、無駄だった。それらが自分だけにかかわりのあることだという態度を崩さなかった。おまけに、それらは、この事件の真相だと彼女が考えていることには関係がなかった。 「どこから始めたらいいのかしらね」イヴリンは言った。 「ええ、わかってるわ。本気になって考えなくちゃって思うようなことじゃないからでしょ?あなたが信じ込まされてきたこととはあまりにもかけ離れているんだものね。お気の毒に。助けてあげられたらいいんだけど」  畜生[#「畜生」に傍点]! イヴリンはこう書いたが、すぐに線をぐちゃぐちゃと引いて消した。質問する側を守勢に立たせる[#「質問する側を守勢に立たせる」に傍点]。自分と同じような物事の見方ができないことに対して同情を示す[#「自分と同じような物事の見方ができないことに対して同情を示す」に傍点]。 「新しい生物学と呼んでちょうだい」バーバラは立ち上がると、監禁された場所の中で、ゆっくりと行ったり来たりし始めた。一歩ごとに、ぶかぶかのスリッパからかかとがずり落ちた。 「何年か前にわたしは気がついたの。この世界は、ああでなければ意味を[#「意味を」に傍点]なさないんだってね。あなたは今までに教え込まれてきたことを疑い始めなければならないわ。自分の知性の証言を信頼しなければならないのよ。不完全な男がするようにじゃなく、女がするようにして、女の目を通して見るようにしなくちゃだめよ。彼らは、自分たちの価値を、体制を信じるように、女をしつけているんだから。あなたが悟り始めるのは、彼らが不完全な女性であって、その逆ではないということなのよ。彼らは繁殖することができない[#「彼らは繁殖することができない」に傍点]、そのことでわかるはずじゃないかしら? 『男性』は、寄生生物のようにわたしたちの体に頼って生きているのよ。わたしたちの生殖能力を利用して、自分たちの種を永久に続けようとしているんだわ」彼女はイヴリンのほうを振り向いた。燃えるような目をしている。「そういうふうに見てみようとすることができる? 試すだけでも? 男になろうとしないで。評価し直しなさい。あなたには自分というものがわかってないのよ。今までずっと、あなたは男になろうとして努力してきた。彼らが、あなたの演じるべき役割を決めているのよ。でもあなたはそういうことには向いていないわ。脳をむしばむ寄生生物にやられてないんだもの。それを受け入れることができる?」 「ええ、話し合いを続けるためにだけどね」 「それで充分よ」  イヴリンは、慎重に話を進めていった。「そのう、わたしがやらなければならないのは……『女のように物を見る』ということ? わたしは今だって女だと感じているわよ」 「感じる[#「感じる」に傍点]! それよ、ただ感じるのよ。『女の直観』て何かわかる? 人間の物事の考え方のことよ。彼らが直観をあざ笑うもんだから、わたしたちは無意識のうちにそれを信頼しなくなっているのよ。彼らはどうしてもあざ笑わなければならなかったんだわ。真実を直観的に見る能力を失ってしまったんだもの、あなたがその言い方が好きじゃないのはわかるわ。好きにはならないでしょうね。あまりにもあざ笑われすぎたものだから、あなたのような『進んだ女性』は、直観が存在することを信じなくなっているのよ。彼らがあなたたちに思わせたいのはそのことなの。いいわ、『直観』という言葉は使わない。別の言い方をするわ。わたしが話しているのは、物事の真相を感じ取れる、人間に生まれつき備わっている能力のことなの。わたしたちはみんな自分にそれがあるのはわかっているんだけど、その力を信頼しないようにしつけられているのよ。それで直観は締めつけられているんだわ。ちゃんとした理由は言えないけれども、自分が正しい[#「正しい」に傍点]ことがわかっているから、自分は正しいんだって感じたことがあるんじゃない?」 「ええ、あると思うわ。たいていの人がそうよ」論理的な議論を[#「論理的な議論を」に傍点]、自分を抑圧するものの一部として拒否している[#「自分を抑圧するものの一部として拒否している」に傍点]。イヴリンはそれを確かめようと決心した。 「わたしが……しつけられているのは、質問を分析するために論理学の規則を応用するということなのね。そうなの? そして、何千年間も人間が経験してきたにもかかわらず、あなたはそれがよくないことだと言うのね?」 「そのとおりよ。もっとも、それは人間の経験じゃないけどね。それはペテンなのよ。策略なんだわ、ものすごく複雑な」 「科学はどうなの? 特に生物学は」 「科学は中でも最大の策略だわ。それについて考えたことはある? 宇宙に関するいくつかの大きな疑問が、簡単に理解できるはずの重大な真実が、ピンの先端で何個のニュートリノが踊れるかということをしつこく論じ合っている科学者たちによって解決されると、本気で思ってるの? 科学は自分の尻尾を食べている蛇みたいなもので、それ自体にしか関連がないのよ。  でも、いったん基礎となっている規則を受け入れれば、もうその罠にかかってしまったことになるのよ。あなたは、計算したり分類したり数えたりすれば、物事がわかると思っているわね。科学をすっかり捨てて、新しい目で世界を見なければだめよ。そうしたら、そこに何があるかを知り、いつでも理解できるようになっていることを知って、びっくり仰天するでしょうね」 「遺伝学は?」 「たわごとだわ。遺伝学の全体系は、筋道の立たない見解を説明するために、科学の中に入っているのよ。ふたつの性があって、どちらか一方だけでは価値はないけれど、両方が一緒になると子供を作ることができるってね。でもよく考えてみれば、そんな考えは成り立たなくなるわ。遺伝子と染色体とを、両親からそれぞれ半分ずつ受け継ぐ。いいえ、いいえ、いいえ、そうじゃないのよ[#「そうじゃないのよ」に傍点]! ねえ、遺伝子を見たことがある?」 「絵でならあるわ」 「ははっ!」今のところはそれで充分のようだった。バーバラは、室内をゆっくり歩き回った。彼女は床を見て困惑していた。彼女は振り向いて、イヴリンの顔を見た。 「わかってる、わかってる。そのことは充分に考えたわ。わたしたちが生活する基準になっている、この……この基本的な仮説の集まりがあるのよ。そのほとんどを受け入れなければ、わたしたちはやってはいけない、そうでしょ? つまりね、わたしは自分で存在しているのを信じていないことを、あなたに話すことができるだろうということ……たとえば東京。そこに行って自分の目で見たことがないからというだけの理由で、その東京というのは存在してはいないのよ。わたしが見たことのあるニュース映画は、みんな巧妙にでっちあげられたものなの、そうでしょ? 紀行映画、本、日本人。こういうものはみんな、東京というような場所があるとわたしに信じさせるための陰謀なのよ」 「それを証明してみせることはできるんじゃないかしら」 「もちろんできると思うわ。わたしたちはみんな存在しているのよ。みんな、自分自身の頭の中にね、そして目玉を通して外を見ているんだわ。いくつかの物事についての間接的な報告をわたしたちが信じることができなければ、社会なんてあり得ないわ。だから、自分たちがだまされている理由を思いつけない限り、わたしたちはみんなそろって、人から聞かされた話を受け入れているのよ。社会というのは、証明できない物事を黙って受け入れる陰謀だと見ることができるわね。わたしたちはみんなで一緒になって陰謀を行なっているのよ。みんなで、一組の物事を、証明する必要がないものだとはっきり示すんだわ」  彼女はさらに言いかけたが、口を閉じた。続けるべきかどうか検討しているようだった。彼女は、考え込むようにしてイヴリンを見た。  イヴリンは、簡易ベッドのすわり場所を変えた。外では、太陽が赤と黄色のかすみの中を沈んで行くところだった。昼はどこに行ってしまったのだろう? この部屋に入ったのは、いったい何時だったのだろう? イヴリンにはよくわからなかった。胃がぶつぶつとぼやいたが、それほど不快ではなかった。彼女は魅せられていた。ものうげな、体の力が抜けるような気がして、ベッドに横になりたくなった。 「どこまで話したかしら? ああ、証明されていない仮定のことね。いいわ。もしも人から聞かされることを何も信じられないとしたら、わたしたちは社会生活が送れないのよ。それほど多くのことを信じなくても、うまくやっていけるわ。この世界は平らなんだとか、光子やブラックホールとか遺伝子みたいなものは存在しないと信じたってかまわない。キリストは墓の中から| 蘇 《よみがえ》りはしなかったと信じてもね。多数派の考えとは大きく離れていてもいい。でも、全く新しい世界の姿を描いたら、面倒なことになりだすのよ」 「何よりも危険なのは」と、イヴリンは指摘した。「そういった新しい仮定に基づいて暮らすことだわ」 「ええ、そうよ。わたしはもっと慎重にやるべきだったのよね? この発見を自分の心の中にしまっておくことだってできたんだわ。それとも、疑い続けることだってできたかもしれない。わたしは確信[#「確信」に傍点]していたのよ、ねえ、でもばかよね、それを証明しないではいられなかったんだから。首を切り取られても男は生きていられるかどうかを、わたしは見なければならなかった。あらゆる医学書に書かれていることに逆らったわけ。彼を支配しているのが脳なのか、それともあの寄生生物なのかを知らなければならなかったのよ」  バーバラがしばらく黙ると、イヴリンは何を尋ねたらいいのだろうかと思った。そして、何も訊《き》く必要がないことを知った。今バーバラは休んでいた。話しだせば何時間も止まらないだろう。しかしイヴリンは、彼女を指導するべきだと感じた。 「不思議に思っているんだけど」ついに彼女は、思い切って口を開いた。「なぜあなたは、第二の例を必要としなかったのかしらね。その……もう一方の側からの確認をよ。なぜ女の人のほうも殺さなかったの、もし……」首の後ろの毛が逆立った。これだけは口にすべきではなかった。それを人殺しをした偏執症患者に向かって言ってしまった! イヴリンは、痛いほど自分の喉を意識した。そして、弱々しく首を守りに行きたがる手を抑えた。彼女は武器は持ってないけれど[#「彼女は武器は持ってないけれど」に傍点]、とても力が強いかもしれない[#「とても力が強いかもしれない」に傍点]……  しかし、バーバラはこう考えていることに気づかなかった。彼女は、イヴリンの不安に気がついてはいないようだった。 「ばかだわ!」バーバラがどなった。「ばかだったわ。当然[#「当然」に傍点]、わたしは自分の発見を頭から信じるべきだったのよ。わたしは自分が正しいと感じていた。正しいとわかっていた[#「わかっていた」に傍点]んだもの。でも古い科学になじんでいたものだから、とうとう実験するはめになってしまったのよ。実験[#「実験」に傍点]」彼女はこの言葉を吐き出すように言った。そして再び話を中断して、静かになった。何かを思い出しているようだった。 「女性を殺す?」彼女は首を振り、イヴリンに向かって少し苦笑した。「ねえ、そんなことをしたら殺人になるじゃない。わたしは殺し屋じゃないわ。わたしから見ると、この『男』たちはすでに死んでいるのよ。彼らを殺すのは情け深いことだし、防衛行為なんだわ。とにかく、最初の実験の後で気がついたのよ、わたしは実際には何も証明しなかったんだってね。ただ、男は首を切り取られたら生きていられないという仮定が誤りだということを、証明したのにすぎなかったのよ。それじゃあらゆる可能性が残るでしょ、ねえ? 脳は頭の中にはないのかもしれない。脳は何の役[#「役」に傍点]にも立ってはいないのかもしれない。自分の脳を見たことある? 自分の体の中がどうなっているかなんて、どうしたらわかると言うの? 本当の自分が、頭の中の操縦室にすわっている身長五センチの小人じゃないって、どうしたらわかるの? 時々、小人がいるみたいな気分になったりしない?」 「ああ……」バーバラは、ありふれた神経のことをふと思いついたのだった。小人のことではない。これはそのことを言い表わすための奇抜な方法だ。そうではなく、人の頭の中にいて、眼窩《がんか》を窓のようにして世界を見ているという考えのことだ。 「そのとおりよ。でも、あなたは本能的に感じたことを退けるのね。わたしはそれに耳を貸すわ」  室内はどんどん暗くなっていった。イヴリンは天井の裸電球に目をやり、いつになったら明りがつくのだろうかと思った。しだいに眠くなってきた。とても疲れた。けれども、もっと話が聞きたかった。彼女は簡易ベッドの上でさらに上体をそらせて、脚や腕の力を抜いた。 「たぶんあなたがやるべきことは……」彼女はあくびをした。口がどんどん大きく開いていったが、抑えることはできなかった。「ごめんなさいね。もっとその寄生生物のことを話してくれるべきじゃないかしら」 「ああ。わかったわ」バーバラは椅子に戻って、すわり込んだ。イヴリンには、暗がりの中の彼女の姿はほとんど見えなかった。イヴリンの耳に、かすかにきしむ音が聞こえた。ロッキングチェアの背の横木のようだ。しかし、あの椅子はロッキングチェアではない。木製でさえないのだ。それなのに、バーバラの影は、ゆっくりとリズミカルに動いており、きしむ音も続いている。 「寄生生物のことだけど、それがどんなことをするのかはもう話したわね。わたしが彼らのライフサイクルについて、なんとか推理してみたことを話させてちょうだい」  イヴリンは、暗がりの中でにやりと笑った。ライフサイクル[#「ライフサイクル」に傍点]。もちろん彼らにもあるでしょうね[#「もちろん彼らにもあるでしょうね」に傍点]。彼女は片肘をついて上体を支え、後ろの壁に頭をもたせかけた。面白くなりそうだった。 「彼らは無性生殖で増えるの、他のみんなのようにね。芽を出して増えるのよ、だって生まれてすぐの時は、成熟したのよりずっと小さいんだもの。妊娠したとわかると、医者がその女性の子宮に芽を植えつけるの。そして芽は、胎児と共に成長するのよ」 「ちょっと待って」イヴリンは、少し上体を起こした。「なぜ彼らは、すべての子供に芽を植えつけないの? なぜ娘たちは黙って……ああ、わかったわ」 「そう。彼らにはわたしたちが必要なの。彼らだけでは繁殖できないんだもの。成長するためには暖かい子宮の中に入らなくちゃだめで、わたしたちにはその子宮があるというわけ。だから彼らは、寄生しないでいてやっている女性たちをわざと抑圧しているのよ。そうすれば、子孫を増やすための従順な生物が、いつでも手に入るんだもの。彼らはわたしたちに、女性は受胎しなければ子供が生めないと信じ込ませているけれど、これが最大の嘘なのよ」 「そうなの?」 「ええ。みてちょうだい」  イヴリンは、暗闇をすかしてじっとバーバラを見つめた。彼女は横を向いて立っていた。その姿は、揺らめくろうそくの光のようなものに照らされていた。イヴリンはそれを不思議に思いはしなかったが、妙な気分に悩まされた。なぜ不思議がらないのだろうという思いにいくらか似ていた。  しかし、その束の間の感情でさえ彼女を不安がらせられないうちに、バーバラが体を包んでいた衣服の布のベルトを外すと、前がはだけた。腹部がなだらかに膨らんでいた。明らかに妊娠の初期だ。バーバラは、片手でその膨らみをなでた。 「わかる? 妊娠しているのよ。四か月か五か月だわ。でもね、はっきりわからないの。だってもう五年以上もセックスしていないんだもの」  想像妊娠だわ[#「想像妊娠だわ」に傍点]、とイヴリンは思って、ノートを手探りした。なぜ見つけられないのかしら?闇の中で手がノートに触れ、次に鉛筆に触れた。彼女は書こうとしたが、鉛筆が折れた。折れたのかしら、それとも曲がったの?  再び床板がきしんだので、彼女にはバーバラがロッキングチェアに腰を下ろしたことがわかった。眠そうな目で光源を探したが、見つけることはできなかった。 「他の哺乳動物はどうなの?」イヴリンは、またあくびをしながら尋ねた。 「ええ。同じよ。あらゆる哺乳類に順応できる寄生生物が一種類だけ存在しているのか、それぞれの種に合うのが一種類ずついるのかはわからないけれど。でも雄はいないわ。どこにもね。雌と、寄生された雌だけなのよ」 「鳥は?」 「まだわからないわ」バーバラはあっさりと言った。「性別という考え全体が、この策略の一部になっているんじゃないかって思うのよ。とてもありそうにないことだもの。なぜふたつの性がなければならないの? ひとつで充分よ」  融通性を残している[#「融通性を残している」に傍点]、とイヴリンは書いた。いや違う、彼女は書かなかったのではなかったのか? ノートは再びなくなっていた。彼女は、簡易ベッドの上に積まれた毛布か毛皮の山にもぐり込んだ。暖かくて安全だという感じがした。彼女の耳に、何かが滑る音が聞こえた。  覗き穴で、ろうそくのかすかな光を受けているのは、男の顔だった。付添人がふたりの様子を覗いているのだ。イヴリンは息が止まった。そしてまわりが明るくなると、ぱっと上体を起こした。鍵穴の中で鍵がこすれる音がした。  バーバラは、ベッドのそばにひざまずいていた。ローブはまだはだけたままであり、腹部は非常に大きかった。彼女はイヴリンの両手をつかんで、ぐっと握り締めた。 「秘密がうっかり漏らされることでいちばん大きいのは出産なのよ」バーバラはささやいた。しばらく明りがちらつき、ドアの取っ手を引っかいたり揺さぶったりする金属的な音がしっこくなくなった。そして、止まりかけているターンテーブルのように、ごろごろ鳴って消えていった。バーバラは両腕でイヴリンの頭を抱いて、彼女を胸元に引き寄せた。イヴリンは目を閉じ、バーバラの皮膚が張りつめていることや、その体内で何かが動いているのを感じた。あたりは暗さを増した。 「苦痛。なぜ子供を生む時に苦痛がなければならないの? なぜわたしたちは、あまりにもたびたび出産のために死ななければ[#「死ななければ」に傍点]ならないの? それが正しいことだっていう感じがしないのよ。筋の通らないことだなんて言うつもりはないわ。正しいと感じられないということなの。直観的に、そうじゃないんだってわかるのよ。そんなことが起こるようにはなっていなかったのよ。出産の時にわたしたちが死ぬ理由を知りたい?」 「ええバーバラ、教えてちょうだい」イヴリンは目を閉じて、暖かい体に気楽に顔を押しつけた。 「男たちがわたしたちの体に毒を注ぎ込むからよ」彼女は、イヴリンの髪をやさしくなでながら話した。「あの白い物質、男の体からの廃棄物のことよ。その物質のおかげでわたしたちは妊娠するんだなんて言われてるけど、それは嘘よ。こっちの考えをゆがめるものだわ。わたしたちの体内にさえ、そんな物質なんてないもの。あれは子宮を汚染させ、わたしたちを成長させすぎて産道を通れなくするんだわ。生まれる時が来ると、わたしたち女の子も不完全な女の子も、あの毒のために荒れ果てた産道を通らなければならないのよ。それで、母親は出産で苦しんだり、時には死んだりするというわけなの」 「うーん」室内はとても静かだ。外では、コオロギが鳴きだした。イヴリンは再び目を開けると、ドアとさっきの男とを探した。どちらも見つからなかった。木のテーブルの上に置かれているろうそくが、彼女の目に入った。あれは他の部屋にある暖炉なのだろうか? 「でもそんなふうであるはずがないわ。そんなはずがないのよ。処女生殖は全然苦痛がないもの。知っているのよ。すぐにまたそれを経験することになるわね。もう思い出した、イヴリン? 思い出したの?」 「何? わたしは……」イヴリンは少し体を起こしたが、相変わらず相手の女性の気持ちのいい暖かさにしがみついていた。天井はどこにあるの? コンクリートの床と鉄格子のはまった窓はどこ? 鼓動が速くなるのを感じて彼女はもがきだしたが、バーバラの力は強かった。彼女は、イヴリンの顔をしっかりと自分の腹部に押しつけていた。 「聞きなさい、イヴ。聞くのよ。起こり始めたわ」  イヴは膨らんだ腹部に片手を当てて、それが動くのを感じた。バーバラはわずかに体の位置を変えると、手を伸ばして湿って温かなものを取り、あやすように揺すった。それは彼女の手の中で動いていた。彼女はそれを明りのほうに持ち上げた。処女生殖。小さな女の子だ。とても小さくて、五百グラムから一キロぐらいしかなさそうだ。その子は泣きもせずに、あたりを興味深げに見まわした。 「抱いてもいい?」イヴは匂いを嗅いだ。そして涙があふれ出て、この小さな人間の上を流れた。まわりには他にも大勢の人々が群がっていたが、彼女の目には入らなかった。彼女は気にしなかった。ここはわが家なのだ。 「少しは気分がよくなった?」バーバラが訊いた。「何が起こったのか思い出せる?」 「ほんの少しだけ」イヴは小さな声で言った。「あの時……今思い出したわ。考えたのよ、あの時わたし……恐ろしいことだった。ああ、バーバラ、とても恐ろしいことだったわ。わたしは思ったの……」 「わかってるわ。でもあなたは戻ったのよ。何も恥じることはないわ。やっぱりわたしたちみんなに起こることだもの。わたしたちは頭がおかしくなるのよ。狂うようになっているんだわ、汚染された世代のわたしたちみんな。でもわたしたちの子供はそうじゃない。さあ、気を楽にして、この赤ちゃんを抱くのよ。忘れてしまうわ。悪い夢だったのよ」 「でもとても真に迫っていたわ[#「真に迫っていたわ」に傍点]!」 「昔のあなたはそうだったのよ。今あなたは友だちのところに戻って来たわ。そして、わたしたちは苦しい戦いに勝ち始めているのよ。わたしたちは勝たなければならないわ。子宮を持っているんだもの。毎日わたしたちの子供が増えていくのよ」  わたしたちの子供たち[#「わたしたちの子供たち」に傍点]。わたし自身の子供やバーバラの子供、そして……そして、カレン、そう、カレンの子供。イヴが顔を上げると、昔からのこの友だちが、にっこり笑ってこちらを見下ろしていた。クララもいる。ジューンも、ローラもいる。そして向こうで自分の子供たちと一緒にいるのはサッチャだ。そして……あれは誰? それは…… 「こんにちは、お母さん。もう気分はよくなった?」 「ずっとよくなったわよ。わたしはだいじょうぶ。バーバラに助けてもらって切り抜けたわ。二度とあんなことは起こってほしくないわね」イヴは鼻をすすり、目をこすった。そして体を起こしたが、相変わらず小さな赤ん坊をあやし続けていた。「彼女に何て名前をつけるの、バーブ?」  バーバラはにやりと笑った。最後にいちどだけ、イヴの目にあの独房や青いローブやバローズ博士が見えた。そして永久に消えていってしまった。 「この子をイヴリンて呼びましょうよ」 [#地付き](大西 憲訳) [#改ページ] [#ページの左右中央]    ビートニク・バイユー [#改ページ]  キャセイが、いいようのないほどひどいことをやってしまったのは、その妊娠した女がぼくたちにしつこくつきまとって、もう一時間以上もたった頃だった。  はじめは面白かった。ぼくとデンバーには何のことだかわからなかったけど、その女がキャセイに何か文句をいってるって感じだった。彼女はキャセイと二人、皆から離れて話していた。女が声を荒らげはじめたと思ったら、今度はキャセイがどなり出した。とうとうキャセイは、よく聞こえなかったけど何かいい捨てて、自分の生徒たちのところへ戻って来た。その時のクラスは、ぼくと、デンバーと、トリガーと、キャセイで、後の二人が先生、ぼくとデンバーが生徒だった。うん、まあ、どっちがどっちか見分けがつくとは思えないけど、信じてほしいな、ふつうはわかるんだから。  それから追いかけっこがはじまった。この女は有無をいわせないって調子で、ぼくらがどこへ行ってもついてきた。おそろしくぶきっちょな動物みたいな感じで、仲良しのキャセイに対する口ぶりを聞いていたら、実際、気の毒だなんて気にはならなかった。彼女が足を滑らせたり、尻もちをついたりするたびに、ぼくらはみんな大笑いした。  しばらくの間はだ。一時間ほどすると、彼女はなんだか凄みのある感じになってきた。ここまでがんこな人間は見たことがなかった。  彼女がしきりと足を滑らせた原因は、ぼくらを追っかけている場所が、トリガーのすみかのビートニク沼沢地《バイユー》だったからだ。トリガーが自分でいうには「十二エーカーの泥と、蚊と、密造酒《ムーンシャイン》」だ。訪問客の中にはそれほど詩的じゃないが、もっとはでなものもあった。エーカーというのが何かは知らないけれども、このバイユーは相当にでっかいものだった。トリガーは竹やぶの真ん中で銅とアルミニウムの蒸留器を使って密造酒をつくっている。蚊は刺しはしないけれど、ぶんぶんとすごくうるさい。泥は混じりっ気なしのなつかしいミシシッピーの泥で、足をとられるのにはぴったしだ。たいていの人はこの場所をひと目見ると嫌いになるけど、ぼくはすごく気に入っている。  あっという間に女は泥だらけになった。三つのことが動きのじゃまをしていた。一つは足首まであるマタニティ・ガウンで、顔と両足、ふくらんだ腹と胸を除いて、全身をおおっていた。女は長いスカートを踏んでは倒れ踏んでは倒れしている。やがてぼくは、その度にたじろぐようになった。  もう一つのハンディキャップは、おなかのせいで歩くとき体重がかかとにかかってしまうことだった。こいつは泥の中を歩く最上の方法とはいえないし、何度も何度も実に苦しそうにすわりこんでしまうことが、それを証明していた。  三番めの問題はつい最近装着されたのに違いない出産用骨盤だった。それは両足を大きく広げさせて真ん中をちょうつがいで止め、赤ちゃんが出て来る時に開いてもっとゆとりができるようにするものだ。彼女は背が高くてやせていたから、それが必要だったのだ。その昔、そういうことが問題だった頃なら、お産の時に死んでいたかもしれない体格だった。おかげで、彼女はあひるのようなよちよち歩きになっていた。 「ガー、ガー」と、デンバーが笑わせようとあひるの鳴きまねをした。ぼくら二人はふりかえった。女はまだよたよたしながら追っかけて来る。彼女は転んで必死に起き上がろうとしていた。デンバーはぼくと顔を見合わせ、でも笑いはしなかった。デンバーは何ごとかつぶやいている。 「え?」とぼくはききかえした。 「気味がわるいわ」デンバーがくり返した。「いったい何が望みだっていうのかしら?」 「何かすごく強烈なもんだろうね」  キャセイとトリガーはぼくらより二、三歩先だったが、トリガーがちらりとふりかえるのが見えた。彼女がキャセイに話しかけた。ぼくに聞こえるとは思わなかったんだろうが、それが聞こえた。ぼくは耳がいいんだ。 「子供たちが変に思いはじめているわ」 「わかってる」そういって、手の甲で額をぬぐった。ぼくらは四人とも、その女がすぐ後ろの丘を苦労して登って来るのを見つめていた。頭と肩しか見えなかった。 「ちくしょう。すぐ音を上げると思ってたのに」彼はうなったが、またすぐに、無表情な顔をした。「ほかにしようがない。対決しなくちゃならないようだな」 「もうやったんでしょ」とトリガーがいって、眉をひそめた。 「ああ。でも、十分じゃなかったようだ、明らかに。おいで、きみたち。これも人生の一部だ」彼がいっているのはぼくとデンバーのことで、こういうふうにいうのはこれが体験学習≠ノなるはずだってことだった。彼はぼくらがちょうど渡ったばかりの浅い流れの方に逆戻りし、ぼくら三人はその後を追った。  もしぼくがキャセイに対してきびしい見方をしているように見えるとしたら、それは全然ぼくの本意じゃない。実際、彼はとってもすばらしい先生だった。彼は昔からいわれている体で覚えろだとか、百聞は一見にしかずだとか、一対一の教育だとか、人生経験の統合だとかいったような教育機関の伝統的な知恵を利用して、これまで出会ったどの先生よりもうまく役立てることのできる人だった。彼が見せかけの子供だっていうのはわかってた。それはもう、最初に出会った七つの時からわかってたけど、最近になるまで気にもとめなかったのだ。そいつは単にぼくらの年代層の、ごく自然なシニシズムってやつだ。トリガーがいつもちょっと気取って指摘しつづけているように。  オーケー、その通り、本当の彼は四十八歳だった。肉体的にはちょうどぼくと同じ、十三歳ぐらいだったが。背の低い、ちょっと丸ぽちゃの、カールしたブロンドの髪の子供で、顔だちは中性的、あそこの毛が少しばかし生えてきたところだった。彼があのばかでかい、ぞっとするような女と対決しに戻り、落ちつき払って立ちはだかった時、ぼくは感動した。  ぼくはまた魅惑されてもいた。心の中では、ぼくはゆっくり腰を降ろして見物し、待ち受け、見守っていた。もうすぐ人生≠ノついて何か学ぶんだと確信していた。今は授業中だった。  ぼくらが戻って来るのを見て、女はためらった。小さな丘を降りて注意深く足場を選びながら、水辺に立ってから、キャセイがそちらに渡って来るかどうか見きわめようとしばらく待った。キャセイはそうしなかった。彼女は恐ろしい顔をし、スカートを腰まで引き上げて、ぬかるみに足を踏み出した。  水が太もものまわりで波打った。まといつく水草をよけようとした時、あやうくひっくりかえりそうになった。レースのドレスに小枝や落ち葉が花飾りとなってまとわりつき、泥がべったりとしみついた。 「どうして引き返さないのよ?」とトリガーが大声を上げ、ぼくとデンバーの隣でこぶしを振りまわした。「何もいいことなんかないわよ」 「そいつは自分で決めるわよ」と女が叫び返した。その声は荒々しく、けんか腰だった。たぶんきれいだったかもしれない顔は、今や鬼のようだった。一匹のワニが泳いで来て彼女を見物しようとした。彼女はもう少しでバランスをくずしそうになりながら、そっちに向かってこぶしをつき出した。「あっちへお行き、このいやらしいトカゲ野郎!」彼女はわめいた。ワニは沼の向こう側に急用を思い出し、大急ぎで彼女のじゃまにならないところへ逃げ出した。  彼女は岸によじ登り、くるぶしまでの深さのぬかるみに立ちつくして、激しくあえいでいた。ひどいざまだった。今ではその怒りの裏に恐怖があるのがわかった。唇が一瞬震えた。ぼくは彼女が腰を降ろしてくれたらと思った。ただ見ているだけで疲れ切ってしまったのだ。 「助けてくれなきゃだめよ」と彼女があっさりといった。 「信じてくれ、もしそれができるなら、やっている」とキャセイがいった。 「じゃあ、誰かできる人を紹介してよ」 「いっただろう、教育取引所に助けられないのなら、ぼくには絶対に無理だ。ぼくの知ってる契約できる人間は少ししかいないけど、みんな取引所の方にリストされているんだ」 「でもそれが誰も、あと三年は契約できないのよ」 「わかってる。人手不足なんだ」 「だから力になってよ」彼女はあわれそうにいった。「助けてちょうだい」  キャセイは親指と人さし指でゆっくりと目をこすり、それから肩をいからせて両手を腰につけた。 「もう一度復習するぞ。誰かがあんたにぼくの名前を教えて、ぼくが初等段階の教育契約ができるといった。ぼくは――」 「そうよ! そういったのよ、あなたが――」 「ぼくはその人物のことを一度も聞いたことがない」とキャセイはいって、声を上げた。「あんたがぼくにしかけたことから判断すれば、彼はぼくの名前を教師協会のリストからひろってあんたに教え、あんたがうるさくつきまとうのから身をかわそうとしただけなんだ。なるほどぼくだってそれに類することをやったかもしれない。でも率直にいって、あんたがぼくにいいたい放題いっているような悪口雑言を、他の教師に押しつける権利はないと思う」彼は口をつぐんだ。今度は彼女は何もいわなかった。 「そうさ」と、彼はとうとう口を開いた。「あんたの子供の教育をひきうけた男がそうする代わりに冥王星へ行ってしまったっていうのは、本当に残念だと思う。話を聞いた限りじゃ、彼がやったことは合法的ではあるけれど、倫理的だとはいえない」彼は倫理的義務を放棄する教師がいるという考えに顔をしかめた。「ぼくにいえるのはただ、あんたは契約書をよく確かめるべきだったということ、それから、予備の契約書を三年前[#「三年前」に傍点]につくっておくべきだったという……くそ、いまさらどうなる? こんなことをいっても全然役に立たない。同情するよ、わかってくれ」 「それなら助けてよ」と彼女はつぶやき、その最後のことばはすすり泣きに変わった。彼女は静かに泣きはじめた。肩を震わし、涙を流したが、それでもキャセイから視線を離さなかった。 「ぼくにできることは何もない」 「なんとかしてよ」 「もう一度いうぞ。ぼくにはぼくの義務がある。来月になって、アーガスの母親との契約が終われば」彼はぼくの方を指さした。「また七歳に戻ることになっている。わからないのか?ぼくはもう暫定契約を結んでいるんだ。あと二、三カ月のうちにその女の子が七歳になる。彼女の教育をもう何年も前から請け負っているんだ。それを取り消すことは絶対にできない。法律的にもモラルの面でも」  女の顔がゆがみ、怒りに満ちた。 「どうしてだめなのよ?」女は金切り声を上げた。「いったいどうして? やつはわたし[#「わたし」に傍点]の契約をほごにしたのよ。どうしてわたしだけが耐えなくちゃいけないの? わたしだけが、ねえ? 聞いてよ、この恥知らずのどぐされ先公。あんたしか残ってないのよ。あんたがだめなら、もう公開教師しかないわ。さもなきゃわたしが自分で育てるしかない。わたし一人だけで、誰の指導もなしに。あんたは責任とってくれる? 人生のスタートを切るのにどんなことがしてやれるっていうのよ?」  彼女はこんなたぐいのことをまる十分もわめきつづけ、後になるほど非論理的で、ことばつかいもえげつなくなっていた。ぼくの心は彼女に対する露骨な敵意と、なんだか落ちつきのわるい同情のあいだを揺れ動いていた――いくら自業自得とはいえ、かわいそうなほどひどいなりになっているのだ。そのときぼくは、女が恐ろしくなった。こんな苦しそうな目を見ていると、ひとりでに身が竦《すく》んできた。ぼくの視線はふくらんだ腹の方へ、おへそにセットされた子宮鏡のガラス窓の方へとさまよった。それを覗かなくても、予定日が来ていることが、いやもう過ぎていることがわかうた。彼女は出産を延期して、教師の確保に走りまわっていたのだ。あんまり理にかなっているとは思えない。子供の教育は六カ月になるまでは始まらないんだから。でもこれは彼女の絶望とストレスの下での非論理的な思考をものがたっている。  キャセイは立ちつくし、女がまたわっと涙をあふれさせるまで耐え忍んでいた。ぼくも今度は今までとは違った目で彼女を見ることができた。たぶんキャセイが彼女を見る目に、少し近づいたかもしれない。女を気の毒だと思ったが、涙には動かされなかった。もし冷酷にならなかったら、みんな女に飲み込まれてしまうとわかっていた。結局ああいう結果になってしまったのは、彼女の軽率さが招いたといえるのだ。  彼女は誰かほかの者に責任を負わせようとがんばっていたけど、キャセイにはそんな気はさらさらなかった。 「こんなことはしたくなかった」とキャセイがいった。彼はぼくらをふりかえった。「トリガー?」  トリガーが前に進み出て、腕組みをした。 「オーケー」とトリガーがいった。「いいこと、わたしはあなたの名前を知らないし、本当のところ知りたくもないわ。でもたとえ誰であれ、あなたはわたしの財産の上にいる。わたしの家にね。ここから立ち去るよう命令します。それから二度と戻って来ないようにね」 「行かないわ」と足元を見下ろしながらがんこにいった。「彼が助けると約束してくれるまでは、一歩も動かないわ」 「それじゃ警察を呼ぶわよ」とトリガーが忠告した。 「わたしは行かないわ」  トリガーはキャセイを見て仕方なさそうに肩をすくめた。二人とも、この特別な人生の一体験が、ちょっとばかしひどすぎるなりゆきになったと思い始めたのだろう。  キャセイはしばらく考え込み、妊娠した女と目と目を合わせた。それから身をかがめ、泥をひとつかみすくい取った。彼はそれを見つめ、重さをたしかめるように持ち上げて、次の瞬間女に投げつけた。それは湿ったピチャという音を立てて左の肩に当たり、ずるずるとしたたり落ちた。 「あっちへ行け」と彼がいった。「ここから出て行け」 「行かないわ」と彼女がいった。  彼はもうひとつかみ投げつけた。顔に命中し、女は息を詰まらせてぺっと吐き出した。 「あっちへ行け」キャセイはそういって、もっと泥を取ろうと手を伸ばした。今度は足に当たった。この時までにトリガーが加わっていた。女は泥を浴びせつけられていた。  何が起こっているのかはっきりわからないまま、ぼくは地面から泥をすくって投げつけていた。デンバーもだった。ぼくは息をはずませていたが、どうしてなのかよくわからなかった。  とうとう女が後ろを向いて逃げ出した時、ぼくは顎の筋肉が鋼鉄のようにこわばっているのに気がついた。リラックスするまでに長い時間がかかった。やっとゆるめた時には、前歯がうずいていた。  ビートニク・バイユーには二つの建物がある。一つは古い、壊れかかった釣道具店兼軽食堂で、シュガー・シャックと呼ばれている。表にはさびたガソリン・ポンプがあり、ポーチには傷だらけのソフト・ドリンクの自動販売機、網戸の上にはレインボー・パンの看板がある。建物の片側のコンクリート・ブロックに、ダッジの灰色のピックアップ・トラックが置いてあった。雑草の生い茂る、さびた自動車部品の山のそばだ。トラックには車輪がない。その隣に、窓ガラスもエンジンもないトヨタのセダンがある。小屋《シャック》の前を舗装されていない道が走り、桟橋の方へと下ってゆく。反対側では、道はこけむした糸杉の木をぐるりとまわって――  ――そして壁にぶつかる。ちょっとしたショック。二十エーカーは個人所有のディズニーランドとしては大きい方だが、本当にそこにいるという幻影を支えるには十分じゃない。そこ≠ニいうのは、この場合、旧暦一九五一年のルイジアナのつもり。トリガーは二十世紀に魅了されている。彼女の定義によると一九〇三年から一九八七年までがそうなんだそうだ。  でもたいていの時はそれでうまくいっている。木がじゃまになって、壁はめったに見えないんだ。とにかく、ぼくはその場所の雰囲気に浸り込める。目を使ってというよりも、鼻と耳と皮膚を使ってだ。朽ちた木の匂い。蛙の飛び込む水の音。ソフト・ドリンクの自動販売機の、コンプレッサーのうなり。小屋の後ろの金属製タンクからこの手にすくう、何十匹もの小魚の銀色のうごめき。アリゲーター・ガー[#ここから割り注](カワカマスに似た大きな淡水魚)[#ここまで割り注]を釣ろうと桟橋の上に腰を降ろす時の、日にあたためられた木の感触。 太陽≠操作するにはずいぶんと電力をくうので、霧の日が多く、夜は長い。それがまた幻影を助けている。夜の沼沢地《バイユー》を散歩すれば、コオロギの鳴き声とウシガエルの太い声に、誰だって母なる地球にいると思い込んでしまうはずだ。もちろん月《ルナ》の重力はべつにしての話。  トリガーには相続した財産があった。それに教師のサラリーを足したとしても、バイユーは維持するのに金のかかる場所だ。もともとはもっとありふれた環境だったんだが、彼女は早いうちに沼地の方が維持費が安あがりだと気付いたのだ。それにどっちみち、その安っぽいムードが好きだった。彼女は釣道具店を備えつけ、工芸家から自動車の実物大模型を買って、それを月《ルナ》観光案内所に確かな時代物の複製であると登録した。もし連中がそのトヨタに関する事実を知ったらがっくりするだろうが、ぼくはもちろんそれを知らせる気なんかまったくない。  もう一つの建物は、はっきりいっていつの時代のルイジアナからとってきたものでもない。ゆるやかな斜面に立つインディアンのテント小屋で、シュガー・シャックのちょうど見えない所にあった。シャイアン族のだと思う。ぼくらはバイユーにいる間、たいていそこですごすことにしていた。  妊娠した女の事件があったあと、ぼくらが行ったのもそこだった。床は踏みかためられた粘土で、その中央にはいつも火が燃えている。たくさんの枕が散らばり、二つの大きなウォーターベッドがある。  ぼくらはさっきの出来事について話そうとした。みんなの中で一番取り乱しているのはデンバーだと思っていたが、キャセイが背中をトリガーにマッサージしてもらいながら身をこわばらせてすわっているのを見ると、彼もまたひどくまいっているのがわかった。キャセイの声は不安そうだった。  ぼくは自分がさっき怖気づいていたことを認めたが、実はそれにはもっと奥があって、今はまだそれを話題にできるような状態じゃなかった。トリガーもキャセイもそれを感じていて、その場では何もいわなかった。トリガーはパイプを取り出し、安定剤植物《デクセプラント》の葉をつめた。  長い柄のついたパイプだった。彼女は火をつけ、パイプをくわえると、火ざらを足の先にはさんで寝そべった。甘い、蜜色の煙を吐き出す。外では日が暮れ、彼女はパイプを回した。いい味がしてすてきに気が安まった。おかげで安心して眠れそうだった。  でも、ぼくは眠らなかった。完全には。たぶん植物に含まれるドラッグがもう鎮静剤として効かないほどの年頃になってしまったんだろう。あるいは感情的に刺激がきつすぎたのかもしれない。デンバーはあっという間に眠り込んでいた。  キャセイとトリガーは違う。二人はテントの向こう側で愛を交わしていた。とってもゆるやかな、夢見るような動きだったので、ドラッグが二人に効いているのがわかった。キャセイは四十代だし、トリガーの方は百を越えているんだけれど、二人とも十三歳の肉体をもっていて、新陳代謝はそっちに属しているのだ。  二人は実際には最後までメイク・ラブしなかった。まあ何というか、オルガスムが問題になる前はいつもやっていたように、しだいに軽くしていって止めた。そばに横たわり、薄目で見ているのは幸せな気分だった。  二人はしばらくささやき合っていた。耳を傾けるのがしだいに困難になるのにしたがって、だんだん眠くなってきた。どこかそのあたりで、ぼくは目を覚ましていようとする闘いに敗れた。  あたたかい体がぴったりとくっついているのに気がついた。外はまだ暗く、明りは火の燃えかすからのものだけだった。「ごめんよ、アーガス」とキャセイがいった。「起こすつもりじゃなかったんだ」 「かまわないよ。腕をまわしてくれない?」彼がそうしたので、ぼくは背中がここちよくぴったり合うように身をくねらせた。長い時間、ぼくはただそれを楽しんでいた。彼の息のぬくもりを首に感じ、ぼくの背中で彼のペニスがゆっくり堅くなってゆくのを感じる他は、何も考えなかった。もしそれが考えるといえるならば。  この七年間に、ぼくらはいく夜、こういうふうにして寝ただろう? とても数え切れない。ぼくらは互いを、あらゆる可能なやり方で知り合っていた。一年前には、彼は女だったし、それより前には二人ともそうだった。今は両方とも男だ。これもまたすばらしい。心の一部では、二人の性別がどうであれ本当はたいしたことじゃないと思い、別の一部では、女になってキャセイを男として感じたらいったいどうだろうかと思っている。それはまだやったことがなかった。  その考えからくる期待でぼくは身震いした。ぼくにヴァギナがあったのはもうずいぶん昔の話だ。キャセイを両足の間にほしいと思った。ちょうど今さっきトリガーがやっていたように。 「愛してるよ」とぼくはつぶやいた。  彼はぼくの耳にキスした。「ぼくもだよ、おばかさん。でもきみはどれくらい[#「どれくらい」に傍点]愛してくれているんだい?」 「どういう意味?」  彼が手で頭を支えようと動くのを感じた。その指がぼくの髪の堅い巻き毛をほどいた。 「つまり、ぼくがきみの膝ほどに背が低くなっても、それでもまだ愛してくれるかい?」  ぼくは突然冷たいものを感じ、首をふった。「そのことなら話したくないよ」 「それはよくわかる」と彼。「でも忘れてほしくないんだ。逃げて行ってくれるようなものじゃないのさ」  ぼくは寝返りをうって彼を見上げた。キャセイはやさしい指先でぼくの唇や髪を愛撫しつつ、かすかな微笑を浮かべていたが、その目は心配そうだった。もうぼくに多くを隠しておけないのだ。 「避けようがないことだ」キャセイは容赦なく強調した。「あの女に話したのを聞いただろう。  そういうわけなんだ。ぼくは七歳に帰るって約束している。ぼくを待っているもう一人の子供がいるんだ。彼女はきみによく似ている」 「そんなことしないで」とぼくはみじめな気分でいった。目のふちに涙がにじむのを感じたが、それをキャセイがぬぐってくれた。  ぼくがどれだけ聞き分けのないことをいっているかを彼が責めないでいてくれたのは、ありがたかった。二人ともそれはわかっていた。彼はそれを受け入れ、できる限りの説得をつづけた。 「セックスについて話したのを覚えてるかい? 二年ほど前だったと思うけど。きみが初めてぼくを愛していると打ち明けてくれてから、まもなくのことだ」 「覚えてる。全部覚えてるよ」  彼はキスしてくれた。「またそいつをくり返さなくちゃならない。たぶん役に立つだろう。ぼくらは、どっちが男でも女でもかまわないってことに、意見が一致しただろ。そのときぼくはこういった。きみは大きくなっていくけど、ぼくはまた子供に戻るんだって。ぼくらは性的にどんどん離れて行くんだって」  ぼくはうなずいた。もし何かいったら泣き出しちまうってわかっていたから。 「そうして、ぼくらの愛はそれよりも深いものだって互いに認めたんだ。それにはセックスなんて必要ないってことを。きっとうまくいくさ」  それは本当だった。キャセイはこれまでの生徒たちみんなと親しくしていた。今では大人となって、時おり彼に会いに来る。その時はただ、寄り添い、話し、抱き合うだけだ。最近ではまたセックスがそれに加わっている。でもみんな、それはすぐに終わるだろうとわかっていた。 「そういうふうな見方ができないみたいなんだ」とぼくは注意深くいった。「みんなは、二、三年もすればキャセイがまた一人前になるってわかってる。ぼくだって知ってる。でもやっぱり、まるで……」 「まるで何だい?」 「まるで置き去りにされるみたいな気がするんだ。ごめんね、でもちょうどそんな感じなんだよ」  彼はため息をついてぼくを引き寄せた。しばらくの間、激しくぼくを抱き締めた。それがとても気持ちよかった。 「聞いてくれ」と最後にいった。「避ける方法はないと思う。きみはそれを切り抜けるだろう――まちがいなく――と、いってはやれるけれど、でもあんまり役にゃ立たないだろうな。この問題を、ぼくは教え子のみんなと体験したんだ」 「本当?」ぼくは知らなかった。それでちょっと気が楽になった。 「そうさ。きみを責めはしないよ。ぼく自身感じてるんだから。きみといっしょにいつまでもいたいって、心が引かれるのを感じる。でもそれはうまくいかないんだよ、アーガス。ぼくは自分の仕事を愛している。さもなきゃ、やってるわけがない。今みたいに苦しい時がある。でも何カ月かたったら、きみの気持ちもやわらぐよ」 「たぶんそうだね」確信にはほど遠かったけど、彼に同意して会話に終止符を打つことが重要な気がした。 「さし当たっては」と彼。「ぼくらはまだ二、三週間はいっしょだ。できるだけそいつを利用しようじゃないか」そして彼はそうした。彼の手がぼくの体をさまよった。あらゆるわざを使って、ぼくをリラックスさせ、悩みを忘れさせようとした。  そこでぼくは両腕を頭の下に組んで横になり、彼の唇のあたたかい円のほかは、何も考えまいと努力した。  けれどもやがて、彼のためにも何かしなくちゃという気になり、どこがまちがっているかがわかった。彼は、メイク・ラブを、ぼくらがいっしょに成長してからやったようなやり方で行なうことによって、ぼくの求めるものを与えようとしている。ところが他の方法があるのだ。それにぼくは、さほど彼に十三歳にとどまってほしいと思っているわけじゃないことに気づいた。本当は、彼といっしょに、また七歳に戻りたかったのだ。  彼の頭に触れると、彼は目を上げた。ぼくらはまた顔を合わせて抱き合った。初めて出会って以来やって来たように互いに体を動かし、ただいい気持ちになることがセックス以上に大切だった頃の、何も考えない、無邪気なこすり合いをはじめた。  けれども肉体は強情で、あざむくことはできない。たちまちぼくらの動きは狂ったように激しくなり、二人の間の湿った感覚が、エントロピーのようにたしかに、ぼくたちが決して逆もどりできないことを、ぼくに告げたのだった。  帰り道、変化のきざしがそこらじゅうに見えた。  ちょっぴり大きくなって、気密服の腕や足を大きめに繕《つくろ》う。でも、ついには新しいのを手に入れなくちゃいけなくなる。みんながきみのことをかわいいおチビさんと考えなくなり、りっぱな若者として話しはじめる。いつも微笑を浮かべて、きみにはピンとこないはずのジョークだという感じで。  大きくなるとみんなの接する態度が変わる。はじめのうちは、自分の母親や友だちの母親を除いて、大人との接触はまったくといっていいほどない。きみの住んでいるのは子供の世界で、大人はほとんどじゃま者ですらない。というのは、もし廊下をひと走りしていたら、大人の方で道をよけるからだ。どんな場所へも自由に行ける。誰もが、きみが身近にいて、楽しい気分にさせてほしいと思っている。あまりにも子供の数が少ないのでたいていの人がたった一人きりじゃなく、もっと大勢の子供をほしがっているからだ。人々がいつも微笑みかけてくるのに、きみはほとんど気付きさえしないだろう。  ところが十三歳になったら、まったく様子が変わる。今度はためらいがあらわれるのだ。子供の特権を与えてくれる前に、ほんの数分の一秒だけ。だからといって誰をも責めたりはしない。ぼくが出会った大勢の大人たちとほとんど同じくらいの背たけになってしまったのだから。  今では大人たちのことが気にかかり、観察して見るようになった。とりわけ、むこうが見られているのに気がついていない時にだ。ぼくは大勢の大人がしょっちゅう、顔をしかめてすごしているのを知った。時には、本当の苦痛の表情を見ることもあった。その時、彼または彼女はぼくに気づき、微笑むのだ。それが永久には続かないことを、ぼくは知っている。遅かれ早かれ、ぼくは目に見えない一線を越え、彼らは苦痛の表情を隠さないようになるだろう。ぼくはそれを理解するようにしなければならないのだ。ぼくは大人になるだろう。でも自分がそれを望んでいるかどうかは、よくわからない。  ぼくがアルキメデス行の列車の中で、向かい側にすわっていた女の人に気付いたのは、この、人間の顔に対する新しい関心のゆえだった。ぼくは作家になるつもりだったから、あらゆるものを物語と登場人物という観点から眺めがちだった。ぼくは彼女を見つめ、彼女についての物語を作り上げようとした。  彼女は魅力的だった。肉体的には二十代の半ば。まっすぐな黒髪、かっ色がかった肌。念の入った手術の跡もなく、濃い茶色の瞳を除けばはっとするような特徴もない丸い顔をしていた。シンプルなももまでの長さのローブをまとい、その薄く白い素材が、身を動かすたびに、水のように波打った。片ひじを座席の背にのせて、ぼんやりと窓の外を眺めながら指の関節をかんでいた。  その顔には物語がないように思えた。無防備な瞬間だったにもかかわらず、苦痛は見られず、大きな悩みも不安の表情もなかった。こちらが見逃したのかもしれない。このゲームには初心者で、何が大人にとって重要なのかあまりよく知らなかったからだ。でもぼくは努力をつづけた。  その時彼女はふりかえってぼくの方を見た。でも微笑みはしなかった。  ぼくがいいたいのは、彼女は微笑んだんだが、あらかわいい子ねってやつじゃなかったということだ。それは、何か服を着てたらよかったなと思わすような、そんな種類の微笑だった。勃起が何のためにあるのか学んでからというもの、公共の場所では起こってほしくないと思うようになっていたのだ。ぼくは足を組んだ。彼女がぼくの隣にきてすわった。彼女は掌《てのひら》をさし出し、ぼくはそれに触れた。彼女は片足を座席の上に引き上げ、腕をぼくの後ろの席にまわして、ぼくと向かいあった。 「わたし、トリルビー」 「ハイ。ぼくはアーガス」ぼくは自分が声を低くしようとしているのに気付いた。 「あっちにすわって、あなたがわたしを観察しているのを観察してたのよ」 「ほんとに?」 「あのガラスで」と彼女は説明した。 「あ、そうか」とぼくは目をやった。確かに彼女がすわっていたところからは、一見外の景色を見ているようなふりをして実は映ったぼくの像を眺めることが可能だった。「失礼なことをするつもりはなかったんだけど」  彼女は笑い、手をぼくの肩にのせて動かした。「わたしの方はどう?」彼女。「ちょっと陰険なやり口だったわ、あなたはそうじゃなかったけど。とにかく、くよくよしないで。気にしちゃいないわ」ぼくは足を組みなおし、彼女はちらりと下を見た。「それのことも気にしないで。よくあることだから」  ぼくはまだ気にしていたけれど、彼女はぼくをくつろがせることができた。  列車を下りるまでぼくらは話をしてすごしたが、いったい何の話をしたのか記憶がない。話題の範囲はかなり狭かったに違いない。というのは、これはたしかなことだが、彼女が決してぼくの年や、学校や、自分の職業や――そして単になぜ列車の中で十三歳の子と会話をはじめたのかということについても――話題にしなかったからだ。  どれひとつとして差し障りのあることじゃない。ぼくはなんだって話すつもりでいた。彼女がなぜそうしなかったのかとその理由をかりに疑ったとしても、彼女は実際に二十代で、自分自身の子供時代からあまり隔っていないためだと、片づけてしまったことだろう。 「あなた急いでるの?」ある駅で、彼女は頭をつんとそらせるようにして訊ねた。 「ぼく? ううん。ちょっと会いに行くところなんだ――」いや、いや、お母さんにといっちゃいけない。「――友だちに、ね。待たせといていいんだよ。彼女とは、べつに時間を決めてないから」これならいいだろう。 「おごってあげるから何か飲まない?」片方の眉を上げ、ほんの少し手を動かす。彼女のしぐさは簡潔だが、ことば以上のものを伝えているように思えた。心の中で彼女の年をちょっぴり上に訂正した。いや、かなり上に。  列車がアルキメデスに着くのに合わせたタイミングだった。二人とも立ち上がり、すぐにぼくは承諾した。 「ありがとう。ぼく、いい店を知ってるよ」  バーテンダーは例の笑みを浮かべ、法的にぼくに許されている二杯のうち、いつもの店のおごりを、一杯出そうとした。ところがトリルビーがすべてを一変させた。 「アイリッシュ・ウイスキー、二つね。オンザロックで」しっかりと、少し声を上げていった。すると複雑なことが、彼女とバーテンダーの間に起こった。彼女は目くばせした。彼の眉がぴくりとし、ぼくをちらりと見て、何かを納得したようだった。彼のぼくに対する全体的な態度が変化した。ぼくは何かが頭の上を通り過ぎていったような気がしていたが、頭を悩ましている暇はなかった。トリルビーがそばにいる時は、頭を悩ます暇がないのだ。飲み物が出され、ぼくらは一口飲んだ。 「どうしていまだにアイリッシュって呼ばれてるのか不思議だわ」と彼女がいった。  ぼくたちはインベーダーや、アイルランドや、占領された地球についての議論をはじめた。どうもはっきり覚えていない。そっちはどうでもいいことで、本当の会話は目と目で行なわれていたのだ。たいていの場合、無言で話しかけていたのは彼女の方で、ぼくはもっぱら何もいわずにうなずくばかりだった。  ぼくらは最後に回廊を下って公衆浴場へ行った。彼女の乳首はバレンタインのピンクのハートみたいな形をしていた。それ以外、彼女の体にはこれといった特徴がなかったが、やわらかな肌の下がすばらしく引き締まっていた。トリガーやデンバーやキャセイとはひどく違っていた。ぼくともひどく違っている。ぼくは大きな浴槽で彼女の後ろにすわり、石けんだらけの肩をマッサージしながら、その違いをリストに作り上げた。  日光浴室へ行く途中で、彼女は個室の一つを前にして立ち止まり、ただじっとして、待ち受けるようにぼくを見つめた。ぼくの足が勝手に動いて部屋に入り、彼女は後につづいた。ぼくの両手は彼女の背中を押しつけ、ぼくの口はキスされると開いた。彼女はやわらかな床にぼくを寝かせて、ぼくを奪った。  どこがそんなに違うのだろう?  重力滑降車の終点から家までの長い道のりを歩きながらぼくはそれについて考え込んだ。トリルビーとぼくはまる一時間近くメイク・ラブしたのだった。何も特別変わったことはなく、トリガーやデンバーとすでにやってみたことばかりだった。何かファンタスティックな新しいテクニックを見せてくれるかと思っていたんだけれど、そうじゃなかった。  それでも彼女はトリガーやデンバーと同じじゃなかった。彼女の体は違ったように反応し、ぼくの慣れない方向に動いた。ぼくはベストを尽くした。体を離した時、彼女が幸せな気分でいて、でももっと多くを期待しているのが感じられた。  ぼくは自分が彼女にもっと多くのものを与えたがっていることに気がついた。  ぼくはまた恋におちたのだ。  表札に手を置いて、突然もう彼女はぼくを忘れ去っていることに気付いた。それ以外を思い描くのはばかげている。ぼくは楽しい気晴らし、おもしろい新体験というやつだったのだ。  名前も、住所も、電話番号も聞かなかった。なぜだろう? たぶん、ぼくに二度と会う気はないってことがわかっていたからだろう。  手の甲で表札をたたき、エレベーターで地上へ昇る間、考え込んでいた。  ぼくの家は変わっている。もちろん、それはぼくの母親、ダーシーのものである。いま、彼女はそこにいて、ジオラマに最後のひと仕上げをしているところだった。彼女はぼくをちらりと見て、微笑みかけ、ほおをさし出してキスを求めた。 「もう少しで終わるわ」と彼女。「日が暮れるまでにかたづけたいのよ」  ぼくらが住んでいるのは地上の大きな泡《バブル》だ。その一部は分割されて天井のない部屋になっているが、大部分はダーシーのスタジオである。泡は透明だ。日焼けしすぎないように紫外線をさえぎっている。  こういう住み方はめずらしいが、ぼくらには合っている。小さな谷の南側にあるこの見晴らしのいい場所からでも、同じような泡《バブル》は三つしか見えない。よそ者には、ちょうどこの地面の下に都市が詰まっているなんて想像できないだろう。  小さい頃から、ぼくは広所恐怖症など一度も気にとめなかったが、月《ルナ》の人間にはよくある症状なのだ。見晴らしのいいところで育つという幸運に恵まれなかった人たちが、気の毒に思える。  ダーシーはここの光線が気に入っている。画家なので、とりわけ光線にはやかましいのだ。彼女は二週間働き、二週間休む。夜の間は休息だ。ぼくは大きくなってこのスケジュールに合わせるようになった。母がエア・ブラシを使う長時間セッションに没頭している間、母を残して出て行き、日の照らない二週間はうちへ帰っていっしょに過ごす。  それがぼくの十歳の誕生日に少し変わった。それまでは二人だけで暮らしていたのだ。ぼくが四つになるまで、ダーシーは仕事のスケジュールを大幅にカットし、だんだんぼくから手が離れるにつれて少しずつ仕事をふやしていった。彼女はぼくにすべての時間を割けるようにそうしていたのだった。ある日、ダーシーはぼくをすわらせ、二人の男がこの家に引っ越して来ると告げた。ダーシーがぼくをきちんと育てるために、どれだけ自分のライフスタイルを変えていたのか理解したのは、そのすぐ後のことだった。彼女は次々に男を変える一妻多夫主義者で、とりわけきつい顔をした、がんこ者の、異端的な男性画家、それも作品が売れずにいつもちょっとお腹をすかせているという相手にまいってしまう。ハングリーな精神と、大衆の好みに迎合しない強い決意が好きなのだ。ふつう、そういう男を三、四人身近に置いて養い、仕事場を提供している。彼らに要求することはわずかで、自分で自分のあとしまつをしろというぐらいだ。  ぼくは台所へ行くのに、こういう最新の同棲ペットの一人をまたがねばならなかった。彼は眠っているようすで、大きないびきをかき、両手に黄色と赤と緑がしみついていた。これまで見たことのない男だった。  ダーシーが、スナックをつくっているぼくの後ろからやって来て、ぼくを抱き締め、それからいすを引き出すと、腰を降ろした。太陽が沈むにはあと半時間かそこらあるはずだったが、もう一つ絵を画きはじめるには時間がなかった。 「どうしていたの? 三日間も連絡がなかったわよ」 「本当? ごめんよ。バイユーにいたんだ」  彼女は鼻にしわをよせた。ダーシーはバイユーを見たことがある。一度だけ。 「あそこ[#「あそこ」に傍点]ね。どうしてまたあんな――」 「ダーシー。そのことはもういいでしょ。オーケー?」 「よろしい」絵具でよごれた手を伸ばして、何かを消し去るように宙で円を描いた。それで終わりだった。ダーシーはこういうふうに、ものわかりがいいのだ。「新しいルームメイトができたわ」 「その人にもう少しでつまずくところだったんだよ」  彼女は片手に髪をからめ、ゆがんだ笑みをうかべた。「彼は大物になるわ。名前はソーグラよ」 「ソーグラ」ぼくは顔をしかめていった。「聞いて、もし彼が下《しも》のしつけができていて、ぼくのじゃまにならないところでじっとしてるなら、べつに――」それ以上つづけられなかった。二人とも笑い出し、ぼくは食事をかみそこねて、のどを詰まらせるところだった。ダーシーはぼくが彼女のベッドメイトの選択をどう思っているか、よく知っている。 「あの人はどうしたの……何て名前だっけ? あのわきが男。体臭のために何度も逮捕されてた男」  彼女はぼくに舌を突き出した。 「彼、何カ月も前にきれいになったわよ」 「はっ! ぼくが覚えてるのは彼が水を発見する何カ月も前の[#「前の」に傍点]話だけどね。友だちはみんな、ぼくらがどこで羊を飼ってるのかって不思議がってたよ。彼がそばを歩くと花びらが落ちてしまう――」 「アビルは帰って来なかったわ」ダーシーは静かにいった。  ぼくは笑うのをやめた。何週間かいなくなっていたのは知っていたが、そういうことだったのだ。ぼくは片方の眉を上げた。 「ええ。まあ、彼の作品がいくつか売れたのは知ってるでしょ。注文もいくつかあったわ。だけどわたし、彼が自分の寝袋を取りに立ち寄るくらいはするんじゃないかって、ずっと期待してるのよ」  ぼくは何もいわなかった。ダーシーの恋は同じパターンをくり返しており、彼女にもそれはよくわかっている。でもその一つが砕ける時は、やはりつらいのだ。彼女の男たちは、ぼくとダーシーがそのおかげで食っていき、酸素代を払っていける一種のコマーシャルな芸術を、しばしばけいべつをこめて論じる。そこで三つのうち一つが起こることになる。結局うだつが上がらずに、やって来た時と同じく貧乏なまま、けいべつだけをたもって出ていく者もいる。少数の者は自分の主義をつらぬき、芸術界にその独自の見解を押しつけて、受け入れさせる。この手の連中とはダーシーも仲の良い関係をたもてることが多い。彼女は月《ルナ》の半数の芸術家と、ときたま訪問しあってメイク・ラブするという関係でつきあっているのだ。  しかしながら、最も普通の別れは、画家が貧乏に飽きた時起こる。ほんのちょっと基準を落としさえすれば、彼らはみんな楽に生計を立てることが可能なのだ。そうすると、彼らがあざ笑っていた女と共に生活するのは耐えられないことになる。ダーシーはたいてい最小限の苦痛でこの連中をさっさと追い出してしまう。彼らはもはや空腹ではなく、彼女の好みに合うほど野性的でもない。それでも、それはいつもつらいことなのだ。  ダーシーは話題を変えた。 「〈変身〉の予約をとっておいたわよ」と彼女がいった。「来週の月曜日の朝に、医者に行ってらっしゃいね」  す早い、あざやかな印象が、次々とぼくの心を走り過ぎた。トリルビー。ハート形の乳首をした乳房。ぼくのペニスが彼女に入りこんだ時の感じ。ザーメンを出しきった後の、温かい消耗感。 「そのことだけど、考えが変わったんだ」ぼくは足を組みながらいった。「まだ〈変身〉するのは気がすすまないんだよ。たぶん、もう二、三カ月の間は」  彼女はすわったまま、口をぽかんと開けていた。 「考えが変わった[#「考えが変わった」に傍点]ですって? この前話した時には、性を[#「性を」に傍点]変えることにすっかり乗り気になってたじゃない。本当のところ、許可してくれってわたしに泣きついたでしょ」 「覚えてるよ」と、落ちつかない気分でいった。「ただ考えが変わった、それだけのことさ」 「でもアーガス。そんなのひどいわよ。わたし、二晩も寝ないで、もう一度娘をもったらどんなにすばらしいかって自分に納得させたのよ。ひさしぶりだもの。あなたはそう思わない――」 「本当は母さんが決める問題じゃないんだよ」  彼女は怒り出しそうに思えた。それから、目を細めた。「理由があるはずだわ。誰かに会ったのね。そうでしょ?」  でもそれについて話したくはなかった。ぼくは初めてメイク・ラブした時、ダーシーにちゃんと打ち明けたし、それ以来新しい人とベッドに行く度にたいていそれを話していた。でも今度のことだけは秘密にしておきたかった。  そこでその日の午前中にバイユーで起こった事件について話した。妊娠した女と、キャセイがやったことについて。  ダーシーはだんだんむずかしい表情になっていった。泥を投げたところまで話が及ぶと、額じゅうにしわを寄せた。 「気に入らないわね」 「ぼくだって本当に、気に入らないよ。でも、ほかにどうすればいいか、わからなかったんだ」 「あまりうまい扱いだったとは思えないわ。キャセイに電話して、それについて話した方がいいみたいね」 「そんなことしないでほしいな」それ以上何もいわなかった。彼女はぼくの顔をまじまじと見つめ、しばらく気詰まりな時が流れた。彼女とキャセイは、ぼくがどのように育てられるべきかということについて、以前から意見を異にしていたのだ。 「無視するわけにはいかないわよ」 「お願い、ダーシー。彼がぼくの先生なのはあと一カ月だけなんだから。見過ごしてやって、いい?」  しばらくして、彼女はうなずき、ぼくから目をそらせた。 「あなたは毎日毎日成長しているのね」悲しそうにそういった。どうしてそういうのかわからなかったけれど、話題を変えてくれたのでうれしかった。実をいえば、ぼくはもうあの女のことなど考えたくなかったのだ。でも考えなければならなくなった。それもすぐ後で。  ぼくはその週を家ですごすつもりだったが、翌朝トリガーが電話をかけてきて、『マルディグラ'56』が再上演されることになって、あと数時間で始まると教えてくれた。彼女はぼくら四人の予約をとってくれていたのだ。  トリガーは以前この上演を見たことがあったが、ぼくはなく、デンバーもなかった。ぼくは行くと答え、ダーシーに話しに行ったが、彼女はまだ寝ていた。彼女はよく一月日《ルナ・デイ》働いた後、二日ほど寝ることがある。ぼくはメモを残して列車に飛び乗った。  それは文化遺産博物館《C・H・M》と呼ばれ、その金は税金から支払われていたにもかかわらず、たいていの月人《ルナリアン》が一度も訪れないところだった。展示物が動揺を招くというのだ。もっとも後になって、地球解放党《フリー・アース・パーティ》が勢力を増した時、ルーツを探ることが人々の間でより身近になっているのを、ぼくは知ったのだが。  前に『ロンドン市一九〇三』が公開された時、ぼくは大英博物館のレプリカを見て回って、地球の博物館がどういうものだったか理解した。文化遺産博物館《C・H・M》は全然それと似ていない。貴重な美術品や工芸品、歴史的な珍品のたぐいで、〈侵略〉以前に月《ルナ》へ運ばれたものは数えるほどしかない。その結果、地球の過去のあらゆる有形文化財は失われてしまったのである。  その一方で、月《ルナ》のコンピュータ・システムは、その当時でも事実上無限の容量をもっていた。あらゆるもの[#「あらゆるもの」に傍点]が記録され、保存されていた。あらゆる本、絵画、税金の受け取り、統計、写真、政府資料、法人の記録、フィルム、テープが、メモリーバンクに存在していた。ちょうどディズニーランドが遺伝子ライブラリに保存されていた細胞からクローンされた動物でいっぱいなように、文化遺産博物館《C・H・M》は物事が当時どうであったかという過去の記録から作られた、巧みなコピーでいっぱいなのだ。  ぼくは他の連中とシュガー・シャックで落ち合った。そこではデンバーが、チューズデイをいっしょに連れて行こうとトリガーを説得していた。チューズデイというのは、バイユーに住んでいる河馬で、あらゆる意味で本当らしさをまるきり小ばかにしたような動物だった。デンバーに鎖でつながれた河馬は、子豚のような目をぱちくりさせて、静かにぼくらを見ていた。  デンバーは告解火曜日《マルディグラ》へチューズデイという名前の河馬を連れて行くというアイデアに夢中だったが、トリガーは博物館の係員が動物連れをニューオーリンズに入れてくれるわけがないと指摘した。デンバーもついに折れて、河馬を沼地へ追い返した。ぼくら四人は道を下ってバイユーを出ると、中央走路に乗り込んで、すぐに都心に着いた。  文化遺産博物館《C・H・M》には二十五の劇場がある。ふつうその半数が開いていて、残りは準備中になっている。『マルディグラ'56』は十年間つづいているショーで、ふつう一年に二回、二週間上演される。わりと一般受けする環境ショーの一つだ。  ぼくらはオリエンテーション・ルームに入って、どういうふうにふるまうべきかという講義を受け、衣装を受け取った。これが一番つまんないところだ。二十一世紀の初めになるまで、衣服は主に二つの心理的な目的でデザインされていた。慎み深さと苦痛とだ。もし苦しくないようなら、デザインしなおさねばならなかった。連中がいつも互いに殺し合いをやっていたのも無理はない。高重力と堅い靴とで自分の足をめちゃくちゃにされれば、誰でもそんな気になるだろう。 「ビートニクになりましょうよ」とトリガーがいって、時代物衣装の棚を見上げた。「比較的堅苦しくないし、見とがめられないくらいには正確だわ。フレンチ・クォーターにはビートニクがいるのよ」  堅苦しくないっていうのはぼくらにはいいことだった。女の子はプラをつけなくってもいいし、足には皮サンダルかキャンバス・スニーカーを選べばよかった。でもリーバイスとかいうのは、あまり気に入ったとはいえない。ちくちくして、ボールを締めつけるのだ。だけどビクトリア朝の英国を訪れた後では、なんだってあれよりはましだった。――その時のぼくは女で、あの時代の連中が女の子に着せていたものときたら、たいていの月《ルナ》人がショックで目を回しちまうようなものだったから。  ホロトリウムへ入るには、バーボン・ストリートに面したナイトクラブの奥にあるトイレを通りぬけるのだった。男の子は左、女の子は右。こいつは人々が奇妙な習慣をもっていた過去へと戻っていくことを、即座に印象づけるための手段だと思う。実際には第三のトイレがあった。でもそれは単なる見せかけのドアで、そこには黒人用≠ニいう文字があった。今じゃそれを選り分けるなんて不可能だ。  ぼくは一九五六年のニューオーリンズの音楽が好きだ。いろんな種類があるが、みんな単純なリズムで、管と弦と打楽器が混ざり合い、現代の耳にはどれも同じに聞こえる。総称はジャズで、特にその午後、煙の立ちこめる小さな地下室で演奏されたものは、デキシーランドと呼ばれるジャズだった。クラリネットとトランペットという二つの楽器が中心で、それが単調なメロディを即興演奏している間、残りのバンドが思いっきり大騒ぎをするのだ。  ぼくらの間には若干意見の相違があった。キャセイとトリガーは、ぼくとデンバーにいっしょにいてほしがった。たぶんこの機会を利用して自分たちのくわしい知識を見せびらかそうと――翻訳すれば、ぼくらを教育≠オてやろうと思ったのだろう。結局のところ、彼らは先生なのだ。デンバーはどちらでもかまわないようだったが、ぼくは一人になりたかった。  ぼくは外へ出ていくことでその問題を解決した。もしむこうがついてきたければ、ついてくるだろう、と考えたのだ。彼らはついて来なかった。そこでぼくは自由に一人で探険することになった。  ホロトリウム・ショーへ行くことは、椅子にすわったままでアクションが向こうからやって来る感覚テレビとは違う。またすべてが本物で、その間を歩きまわるだけのディズニーランドとも違う。幻影をこわさないよう、注意が必要なのだ。  セットの大半、小道具の大部分、俳優のすべてがホログラムである。きみの出会う本当の人間は、誰もがきみと同じく衣装を着けた訪問客だ。ニューオーリンズがどうなっているのかというと、碁盤目状の街路を設け、それを実際のとおりに舗装してある。それから建物のあるべきところに二メートルの壁を立てて、それを古代建築物のホログラムで隠してある。こういった建物のドアに本当のものはわずかしかない。そこを入ると、細部まで徹底的に正確な室内装飾が目に入る。そのほとんどは空っぽのブロックを隠しているだけのものだ。  そばへ寄ってホロに子供っぽいいたずらをしかけちゃだめだ。そんなことをすればこの場所の趣旨にまるっきりそむくことになってしまう。幻影を打ち砕かれないよう、注意深くふるまうことだ。相手が本物だという確信がなければ話しかけようとせず、注意深くさぐって見るまでは物に触れない。ホロはどれも厳密な詮索には耐えられないので、やろうと思えば現実と幻影を見分けることができる。  ステージは大きかった。フレンチ・クォーター――別名ヴィユ・カーレーが、ミシシッピー川からランパート・ストリートまでと、キャナル・ストリートから約六ブロック東の地点までが再現されていた。キャナルに立って見渡すと、街は何キロメートルにも渡って生命にあふれているように見える。中央の黄色い線に壁があるとわかっているにもかかわらず。 『ニューオーリンズ'56』は告解火曜日の昼から始まり、夜遅くまで続く。ぼくたちが着いたのは午後遅く、果てしないパレードの列の上に日が長い影を落とし始めた頃だった。ぼくは暗くなる前にこの街を見物したかった。 飾り窓≠覗き込みながら、キャナルを数ブロック下った。古い平面映画の映画館があり、オスカーとかいうものを受賞した『地上より永遠に』の大看板がかかっていた。これは本物だとわかり、入って見ようかなと思ったけど、こういう昔の2D映画は、いくらトリガーがすばらしいものだと主張するものでも、退屈しちまうんじゃないかという気がした。  そこで、その代わりに通りを歩いて観察しながら、昔のニューオーリンズを舞台にした小説の構想を練っていた。  これがぼくがみんなと一緒に残って音楽を聞こうとしなかった理由だ。音楽は実際のところ小説に翻訳できるようなものじゃない。どんな音がするかとか、誰が演奏しているか、どんなところで聞かれるかとかいった単なる描写以上のものにはならない。同様に、平面映画へ行くこともあまり生産的とはいえないのだ。  でも街路は違う、街路は! そこには研究するものがいっぱいある。  パターンは昔のロンドンと同じだったが、ディテールはすべて違っていた。道路にあふれる馬なし馬車、その四角い金属の箱はこれまで発明された交通機関のうちでおそらく最も能率の悪いものに違いない、なにもかも本当にまっすぐではなかったし、清潔でもなかった。通りを歩くことは、つま先をくじいたり足の裏を切ったりする危険をおかすということだった。連中が底の厚い靴をはいていたのも無理はない。  赤や緑のライトが何のためのものなのか、道路に塗られた線が何なのかは知っていた。だけど、道路の両側に並ぶ時間を測る装置は一体何だろう? 犬がおしっこしている赤い金属製の物体は? 車のホーンが鳴っているのはどういう意味なのか? 頭の上に木の柱でささえられている針金は? ぼくはマルディグラの祭りを無視して、このような疑問と、そのほかたくさんの疑問の答えを探していた。  この時代を描くこと、こういった妙ちきりんな物が正常で意味のある物に思えた頃の、人生の断片を小説化すること、こいつはすごい挑戦だった。ぼくはニューオーリンズの住人の一人がアルキメデスへ連れて来られるのを想像し、彼女の当惑を思い描こうとした。  その時トリルビーを見つけ、ニューオーリンズはどうでもよくなった。  彼女は一九五五年型フォードのステーション・ワゴンのハンドルを握っていた。そうとわかったのは、彼女がぼくを車の中に招き入れて座席を代わり、ぼくに運転させようとした時、金色のネームプレートが前部観測窓のすぐ下の隔壁についていたからだ。 「どうやって動かすの、これ?」ぼくは面くらっていたが、それを表に出さないようにして訊いた。何かがおかしい。ひょっとすると、ぼくは最初からそれに気づいていたのに、ようやくそれを認めようとしたのかもしれない。 「そのペダルを踏めば進むし、そっちのを踏むと止まるわ。でもふつうは自動コントロールね」車はホログラムの往来の流れに急発進して、彼女が正しいことを実証した。ぼくは両手をハンドルにおき、ある範囲内なら自分で車を操縦できることを知った。何かにぶつかりそうにならない限り、車はぼくの好きにやらせてくれるのだ。 「どうしてここに?」と、軽い調子に聞こえるよう努力しながら訊いた。 「あなたの家に寄ったのよ」と彼女。「どこにいるのかお母さんが教えて下さったわ」 「どこに住んでいるかなんて話した覚えはないぜ」  彼女は肩をすくめ、ばつの悪そうな表情になった。「見つけるのは簡単よ」 「その……つまり、きみは……」それを口に出そうかどうかと迷ったが、つづけた方がいいだろうと思った。「ぼくらが出会ったのは偶然じゃなかったんだろ?」 「ええ」 「それじゃきみはぼくの新しい先生なんだね」  彼女はため息をついた。「それは単純化しすぎよ。あなたの新しい先生の一人[#「一人」に傍点]になりたい[#「なりたい」に傍点]けれどね。キャセイがあなたのお母さんに推薦してくれたんで、話をしたら、興味をもっていただいたわ。ちょっとあなたを見ておこうと思ってあの列車に乗ったんだけど、わたしを見つめてるのがわかったから……つまり、何かわたしを覚えておいてもらえるようなことをしておこうと思って」 「ありがとう」  彼女は目をそらした。「それはまずかったんじゃないかってきょうダーシーにいわれたわ。あなたをまちがって判断していたみたいね」 「きみでも間違うことがあるって聞くと、嬉しくなるね」 「どういうことかわからないわ」 「人に自分の行動の先を読まれたくないんだ。もてあそばれるのは嫌だ。たぶんぼくの尊厳を傷つけられるからだろう。もう十分、トリガーやキャセイからそうされてるものね。レッスン≠チてやつで」 「やっとわかったわ」彼女はため息をついた。「よくある反応だわね、頭のいい子供の場合には。それは――」 「いわないで」 「ごめんなさい、でもいわなくちゃ。もうあなたに隠してもむだだわね、人を知ること、とりわけ子供を知ることがわたしの仕事なの。それは彼らの通り抜ける段階を知ること、その中には、段階を通り抜けているとは自分で思いたくない、そんな段階も含まれているわ。それをあなたの中に見抜けなかったから、わたしはまちがったのよ」  ぼくはため息をついた。「で、どうだっていうんだい? ダーシーはきみが気に入った。ということは、きみはぼくの新しい先生になる。そうじゃない?」 「そうじゃないわ。ともかく、わたしに関しては。わたしは、あなたが大人の干渉なしにやらなくちゃならない、最初の大きな選択の一つなのよ」 「わからない」 「それはこれから先のあなたの教育がどういうものになるのか、あなたに知ろうとする気持ちが全然なかったからよ。また怒らせてしまうかもしれないけど、あなたの年代にはよくある反応だって、いっておくわ。あなたはキャセイのところをあと一カ月そこらで卒業して、もっと目標を定めた学習を始める用意ができている。でも、そこに何が伴ってくるのかを、わざわざ知ろうと思わなかったのね。今のあなたが作家になるまでには、その間に何が必要か、一度でも立ち止まって考えたことがあって?」 「ぼくはもう作家だよ」ぼくは初めて怒りを感じた。それ以前は、何よりもまず傷ついていたのだ。「ぼくは言葉を使いこなせるし、人間観察もしている。そりゃあ、まだ経験豊富とはいえないけど、あんたの助けを借りようが借りまいが、ぼくはうまくやってのけるさ。だいたいもうこれ以上先生なんて必要ないんだ[#「必要ないんだ」に傍点]、全然[#「全然」に傍点]。少なくともそれくらいはわかってる」 「もちろんその通りだわ。でもお母さんが高等教育に費用を払うつもりなのは知ってたでしょ。それがどんなものか知ろうとは思わなかったの?」 「どうしてさ? ぼくが興味をもたなかったのは、それがただ単に重要じゃなかったからだとは、考えられないのかい? つまり、こういったことについてぼくがどう思うか、今まで誰が訊ねてくれたっていうんだ? ぼくにどんな関心がもてる? 誰もが、ぼくにとって何が一番いいか、知ってるみたいに話すじゃないか。どうして今になってぼくの意見を聞かなきゃならないんだ?」 「あなたがもうじき大人になりかかっているからよ。わたしの仕事は、もしあなたに雇われたとしたら、その過度期を楽にしてあげることなの。もし移行がすんだら、あなたにはそれがわかるし、そうなればわたしはもう必要なくなるわ。これは初等教育じゃないのよ。初等教育の先生の仕事は、お母さんと協力して、あなたに他人や社会と共にやっていくための基本的な方法を教えることと、七歳児に学べるあらゆる技術をあなたの小さな頭に詰め込むことだったの。あなたに言葉を教え、器用さ、推理力、責任感、衛生観念、それに気密服《スーツ》なしでエアロックへ行ってはいけないことなんかを教えたのよ。彼らは自己中心的な幼児をつかまえて倫理感をもった存在へ変身させたんだわ。これはきつい仕事よ。とっても小さいうちに、あなたは反社会的人間になってしまったかもしれないんだから。 「それから彼らはあなたをキャセイに託したの。あなたは気にしなかった。彼はある日、単にもう一人の、あなたと同年齢の遊び友だちとして姿を現わした。あなたは嬉しくて彼にすぐなついた。彼はとても穏やかに、あなたの自然な好奇心にほとんどまかせながら、あなたを導いていった。彼はあなたがまだ何も気付かない前からあなたに創造的な才能があるのを見ぬいていた。そこで、興味をもって考えたり、反応したり、経験したりする対象を用意してくれたわけね。 「でもこの頃では、あなたは彼の手に負えなくなっていたの。それはあなたが悪いんでも、彼が悪いんでもないわ。でもあなたはもう、誰にも導かれたくないと思っている。自分自身でやりたいと思っている。あなたは人に操られているという漠然とした意識を持っている」 「当然じゃないか」ぼくは口をはさんだ。「ぼくは実際[#「実際」に傍点]人に操られているんだから」 「ある意味ではそのとおりよ。だけどキャセイにどうしてほしかったっていうの? すべてを成り行きにまかせるってわけ?」 「ポイントからはずれているよ。今はぼくの気持ちについて話しているんだ。ぼくがどんな気持ちかっていうと、あんたは不正直だったと思ってるのさ。ぼくはあんたにからかわれた気がする。あの時のことを、ぼくは……自然発生的なものだと思ってたんだ、わかるだろ? おとぎ話みたいに」  彼女は奇妙な笑みを浮かべてぼくを見た。「ずいぶんおかしな表現ね。わたしは、あなたに性夢の実体験をさせてあげたかったのに」  彼女があまりにもあっさりとそれを認めたので、こっちはずっこけてしまった。べつにそれほど違いはないよといってやればよかったのだろう。おとぎ話も性夢も、ありそうもないくらい都合のいい世界、物事が思い通りに進行する世界の幻影だ、と。でもぼくは何もいわなかった。 「あなたと知りあいになるのに、まずいやり方だったって、今は認めるわ。率直にいって、あなたがそれを楽しんでくれると思ったの。待って、いい換えるわ。わたしはあなたが事実を知った後でも[#「後でも」に傍点]それを楽しんでくれると思ったの。あの時のあなたはたしかにそれを楽しんでいたと思うわ」  ぼくはまた何もいわなかった。それは単純な事実だったから。でも重要な点じゃなかった。  彼女は答えを待ちながら、ぼくが古い車を操って交通の流れをすり抜けるのを見つめていた。それからため息をつき、また窓の外に目をやった。 「まあ、あなたしだいね。前にいったように、もうこれからはおぜん立てされることなんてなくなるんだから。わたしを先生に雇うかどうかは、あなたが決めなくちゃならないのよ」 「いったいなにを教えてくれるっていうのさ?」 「セックスもその一部ね」  何かいいかけようとして、ぼくは新しい考えのほうに気をとられた。誰かがセックスについて彼女がぼくに教えることができる――あるいはその必要がある[#「必要がある」に傍点]――と思っているらしい。つまり、何か学ぶことがあるっていうの?  ほとんど気がつかないうちに車が自動的に止まり、青い制服の男がぼくの横の窓に頭をつき出した時、ぼくははじめて物想いから揺り戻された。男の後ろに女がいて、同じような服を着ていた。一九五六年の警官の制服だと、ぼくは気がついた。 「アーガス・ダーシー・メリックだね?」男が訊いた。 「ええ。あなたは?」 「わたしはジョーダンだ。気の毒だが、いっしょにきてくれ。きみは告訴されたんだ。きみを逮捕する」  逮捕。法的権威による拘留。あるいは、不意の活動停止。  逮捕されることは二つの意味をもっていると、ぼくには思える。拘留され、生活が一時的に停止する。何をしていようと中断され、突然ただ一つのことだけが重要となる。  その一つのことが何であるのか悟るまで、ぼくはあまり心配していなかった。結局のところ、誰だって逮捕されるのだ。法治社会でそれを避けることはできない。誰かを告訴することは、状況が暴力的にならないようにする一番いい方法だ。ぼくはこれまで三回逮捕されたことがあり、二度有罪の判決を受けている。ぼく自身も一度告訴し、要求を認められたことがある。  ところが今回は違うようだった。ぼくが巻き込まれているのは、自分で気がついてもいないささいな違反なんかじゃないらしい。そうじゃない。これはあの妊娠のことに、それから泥のことに関係しているはずだった。壁のむき出した留置場にすわり、ぼくはしばらくそれについて考え、本当に心配になってきた。ぼくらは彼女を身体的に攻撃したのだ、それには疑問の余地がない。  とうとう取り調べ室へ呼び出された。それは以前入ったことのあるものよりも大きかった。前の場合は、ただ二人だけが入るようになっていた。この部屋には五つのくさび形をしたガラスのブースと、その中に椅子が一つずつあって、輪になって坐り、お互いの顔を見合わせるようになっている。ぼくはただ一つの空席に案内され、ぐるりを見回すと、デンバーが、キャセイが、トリガーが……そしてあの女がいた。  ブースの中は静かだ。ひどく心細い気分になる。  デンバーのお母さんが入って来て、娘の後ろの、ブースの外側にすわるのが見えた。振り向くと、ダーシーがいた。驚いたことに、トリルビーがいっしょだった。 「やあ、アーガス」|セ《C》ントラル・|コ《C》ンピュータの声が小さなブースに満ちた。いつもと同じ甘い声だったが、安心させるような共鳴音はなかった。 「やあ、CC」ぼくは軽い調子を保つよう注意しながらいったが、もちろんCCはだまされなかった。 「きみがひどく困ったことになっているのを見るのは残念だ」 「本当に深刻なの?」 「告訴についてはたしかにそうだ。否定してもはじまらない。証言やきみの勝ち目についてはコメントできない。しかし、きみが自動的な執行猶予を含めた死刑の可能性に直面していることはわかるだろう」  それはわかっていた。その刑罰が、ぼくの年頃の者にいいわたされるのがまれだということも知っていた。でもキャセイやトリガーはどうだろう? 執行猶予≠ニいうことばには全然関心がなかった。何となく、殺さないでおくように聞こえるけども、実際はそうじゃないのだ。完全な、完全な死だ。タネがどこにあるのかというと、その後で体細胞からクローンをつくり、急いで成長させ、記録されたきみの記憶をそいつにプレイ・バックしてやる。そこできみにとてもよく似たやつが生きつづけるというわけだが、きみ[#「きみ」に傍点]は死ぬ。ぼくの場合、最後の記憶のレコーディングをしたのは三年前だった。だから、へたをすると、ほとんど人生の四分の一を失うことになる。もしぼくを殺すことが必要だという判決が下ったら、新しいアーガス――ぼくじゃなく、ぼくの記憶と名前をもった誰か――が、十歳の時点からスタートするだろう。彼は綿密に観察され、ぼくのような反社会的人物にならないように念を入れて、特別の指導を受けるだろう。  CCは、今の状況について、法律で要請されているとおりに説明を始めた。ぼくの権利、訴訟手続き、責任、考えられる刑罰、もしCCがこの犯罪は最重刑に値するという結論に達した場合は、どんなことになるかを。 「ふう!」とCCは息を吐いて、いつのまにかぼく好みだと知っているくだけた調子に戻った。 「さて前おきが片づいたところで、教えてあげよう。予備報告から見ると、たぶん大丈夫だと思うな」 「気休めじゃないの?」ぼくは心からおびえていた。今ではその重大さが心にしみ入っていたのだ。 「わたしを見そこなっちゃ困るね」  証言がはじまった。原告が先だった。それで女の名前がティオナだとわかった。第一ラウンドは自由形式で、好きなことを話せばよかった。女はぼくら四人全員について、かなりえげつないことをいった。  CCは、ぼくら一人一人に、何が起こったかを、ぐるっと順番に聞いていった。一番正確に話したのは、ぼく自身を除けば、キャセイだと思う。申し立てが進行する間に、キャセイもトリガーも反訴した。CCはそれを記録した。それらは同時に審理されるようだった。  短い休憩があり、それからCCは公式な$コで話しはじめた。 「アーガスとデンバーに関する件。証言では、予謀の立証はされなかったが、同時に本件の外面的記述も否定されなかった。答申は暴行の事実を認定している。年齢の若さと、そのために群集心理的な状況への抵抗能力を欠くという軽減要因を加味し、以下のごとく判決を下す。罪状を故意の尊厳性毀損に減じる。  ティオナ対アーガス事件。有罪。  ティオナ対デンバー事件。有罪。  両名とも判決が登録される前に、何かいうことはありませんか?」  ぼくはそれを考えていた。「すみません」とぼく。「ぼくはあのとき起こったことですごく悩んでいます。もうしません」 「わたしは謝罪しないわ」デンバーがいった。「彼女が自分で招いたことです。彼女には気の毒だと思いますけど、わたしがやったことについては謝罪しません」 「意見は記録された」CCがいった。「両名にはそれぞれ総額三百マルクの罰金を科し、その支払いは両名が雇用年齢に達するまですえ置かれるものとする。罰金は完納するまで収入からその十パーセントずつ差し引かれ、半額をティオナへ、半額を国庫へ支払われるものとする。最終的な判決文の登録は、当法廷に提訴されている他の事件の判決が下されるまで延期される」 「軽い罰ですんだな」とCCが、ぼくだけに聞こえるようにいった。「でも、まだここにいたまえ。まだ変更の可能性はある。罰金を全然払わなくてすむかもしれない」  刑の宣告、そして同情を同じ機械から受けるのは、ちょっとした苦痛だった。CCが味方だと思う感覚を警戒しなければならなかった。そうじゃないのだ、本当は。CCはぼくにわかる限りは、絶対的に公平なのだ。ところがあまりにも巨大な知性だから、扱っている各々の市民ごとに、違った人格を発揮する。今しがたぼくと話した部分は、実際にぼくの味方だが、判決を下す部分に影響を与える力はない。 「ピンとこない」とぼく。「これから何が起こるんだい?」 「つまり、わたしがまた羅生門≠ウれてしまったということさ。きみたちはみんな、自分自身の観点から話して聞かせたというわけだ。真実へ十分深く到達していない。今度はきみたちみんなに接続して、第二ラウンドをはじめる必要がある」  話している間にも、探査針がみんなの椅子の後ろから姿を現わすのが見えた。先にプラグのついた小さな黄金の蛇だ。一つがぼくの後ろから髪をかきわけて、端子が見つかるまで探るのを感じた。それが接続した。  接続中の証言には二つのレベルがある。ダーシーとトリルビーとデンバーのお母さんは第一段階では部屋を出なければならない。そしてぼくらは自意識の検閲なしに証言するのだ。この時の記録を見ると、第一ラウンドでの発言で、たくさん嘘をついたティオナとはちがって、ぼくが嘘をついていないことが証明されている。そうはいっても、それが前と同じ話には聞こえない。接続されてなかったら決していわないようなことを、みんな話してしまったからだ。恐怖、わがまま、形のない欲望、幼稚な動機づけ。気恥しいものばかりで、それを思い出せないのがかえってうれしい。ぼくの証言を関係者として見られるのが、ぼくとティオナだけだというのはせめてもの救いだ。ぼく一人だけだったら、もっといいのだが。  第二段階では、潜在意識が切断される。ぼくはホロビジョン台本の舞台監督と同じくらい冷静な観点から三度目の証言を行なった。  それから端子が引きぬかれ、ぼくは一瞬、見当識の喪失を味わった。自分がどこにいるか、どこにいたかわかっていたが、それでも実際にその時間を生きたというよりは誰かにその話を聞かされたという感じだった。でもそんな感じはすぐに消えた。ぼくは背伸びをした。 「みなさん続けてよろしいか?」とCCがていねいに訊ねた。みんないいと答えた。 「よろしい。ティオナ対アーガスとデンバーの事件。有罪判決は両方の事件に関して依然有効である。しかしながら相手の挑発があったこと、未成年ゆえの責任減免、継続的な反社会行動の徴候が見られないことを考慮し、罰金を取り消す。罰金の代わりとして、デンバーとアーガスは、道徳原則についての教育と評価を受けるため、決定が下されるまで毎週出頭すること。このための教育期間は四週間以上とする。  ティオナ対トリガー事件。トリガーは暴行容疑について有罪。この判決は、彼女の動機を考慮して酌量される。ティオナの扱いに関し、キャセイの作戦を認めたことと、彼が正しいことをしていると確信したことである。本法廷はキャセイが慈悲ある[#「慈悲ある」に傍点]行動をとったことを認める。それが正しいかどうかはまた別の問題である。肉体的暴力が行なわれたことに疑いの余地はない。これはその動機が何であれ、許されないものである。その判断の誤りに対して、本法廷はトリガーに、十年間に亘《わた》り収入の十パーセントの罰金を科す。そのすべては被害者のティオナへ支払われるものとする」  ティオナは勝ちほこったようには見えなかった。この時までに事態が思うように進んでいないことがわかったに違いない。ぼくもそれがわかりかけてきた。 「ティオナ対キャセイ事件」CCがつづけた。「キャセイは暴行容疑について有罪。彼の動機は、ちょうど今彼がおかれているような状況を回避することにあり、また、もしティオナを法廷に引き出せば彼女が大きな苦しみを味わうだろうとの認識にあったと考えられる。彼は争いを、ティオナにとって最小限の苦痛で終結させようと試みたのであり、彼女が判断を誤って事件を法廷に持ち込むとは夢にも思わなかった。ところが彼女はそうした。そのため彼は今、暴行罪を宣告されることになった。彼の動機にかんがみ、本法廷の判決は情状酌量される。彼は同僚であるトリガーと同額の罰金を支払うよう命じられるものである。  さて、中心問題に移る。トリガーおよびキャセイ対ティオナ事件」ティオナが椅子に深く身を沈めるのが見えた。 「被告は以下の罪科に関する狂気を理由として、有罪と認められる。迷惑行為、不法侵入、暴言、その他四件の権利侵害。  被告の罪は、自らの判断の誤りと不幸を、他人に責任転嫁しようとしたことにある。本法廷は、この状況を招いた責任がすべて被告にあるわけではないことを認め、その苦境には同情する。しかしながら、そのことによって被告の行為が許されるものではない。  キャセイは被告の異常な精神状態が、告訴を試みるまでにおさまるものと予想し、被告が一人になって熟考すれば、彼に対していかにひどい扱いをしたかを理解するだろう、また法廷も彼を支持するだろうと考えて、被告に好意を示そうとした。  自分の精神を維持管理するのは自分の責任だというのが、政府の見解である。どのような意見をもとうと、どのように現実を評価しようと、それが他の市民の権利を侵害しない限りは、関知しない。被告の災難の責任がキャセイにあると考えるのは、いかにも非合理的な意見であれ、被告の自由であるが、この意見をもって被告が彼を攻撃するなら、政府はそれに注目し、その意見の当否を判断しなければならない。  本法廷はその当否を判断するよう要請され、実際被告の論点には何ら根拠がないと判定するにいたった。  本法廷は被告が精神異常であると判定する。  判決は以下の通り。  被害者の同意を条件として、被告は執行延期を条件とする死刑か、反社会的態度を除去するための治療を受けるか、いずれかの選択を与えられる。  アーガス、あなたは彼女に死を要求しますか?」 「え?」これにはかなりびっくりした上に、どうも気に入らなかった。でも決心するのに問題はなかった。 「いいえ。ぼくは何も要求しません。ぼくは関係なかったと思うし、何もかもが、ただもううんざりです。もしぼくが要求したら、本当に彼女は殺されるの?」 「それには答えられません、きみはそうしなかったんだからね。まあ、あまりありそうにはないといえるだろう、まずきみの年齢からすれば」そして他の四人に質問をつづけた。ぼくはもしキャセイがそれを望んだとしたらティオナは死ぬことになるのかなと思ったが、彼はそうしなかった。そして、トリガーもデンバーも。 「よろしい。どちらを選びますか、ティオナ?」  彼女はとても小さな声で、生きるチャンスを与えていただければありがたい、と答えた。それからぼくらみんなにお礼をいった。こいつはぼくにとって、精神的にひどい苦痛だった。ぼくの感情移入は超過勤務で働いていて、もし社会から任命された代表者がぼくを精神異常と断定したとしたら、いったいどんな感じがするのか想像しようとしていたからだ。  あとは細部をかたづけるだけだった。ティオナは重い罰金を科され、法廷経費と税金ばかりでなく、キャセイとトリガーに支払う積み立て金もばく大だった。二人の罰金はより大きなティオナの罰金に吸収され、その結果としてティオナは何年間も二人に支払いつづけることとなった。彼女の子供は冷凍保存されていた。CCは、今の彼女は母親となるのに適さないので、彼女が正気と判定されるまで、その子はそこに留まるものとすると決定した。もしも彼女が、新しい初等教育の先生が見つかるまでの間子供を冷凍睡眠させておこうと考えさえしていれば、ぼくらはみんなこの裁判を避けることができたのに、という考えが頭に浮かんだ。  みんなの後ろでドアが開いた時、ティオナはそそくさと出て行った。ダーシーがぼくを抱き締め、その間トリルビーは目立たないところでじっとしていた。ぼくは他のみんなに加わろうと足を向けた。お祝いを期待していた。  ところがトリガーとキャセイは沈みこんでいた。実際、敗訴したのは二人の方だったんじゃないかと思えるくらいだった。二人はぼくとデンバーにおめでとうをいい、それから急いで出て行った。ぼくはダーシーに目をやった。ダーシーも微笑などしていなかった。 「わかんないな」とぼくは白状した。「どうしてみんなこんなに陰気なの?」 「これからまだ教師協会《TA》に立ち向かわなくちゃならないからよ」ダーシーがいった。 「それでもわかんないな。勝ったんだよ」 「勝とうが負けようがTAにはまったく関係ないの」トリルビーがいった。「忘れてるわね、二人は暴行容疑で有罪を宣告されたのよ。もっとまずいのは、実際、これこそ最悪なんだけど、あなたとデンバーがその時そこに居合わせたってこと。二人はあなたたちが暴行に加わる原因を作ったわけね。TAはまゆをひそめるんじゃないかな」 「でももしCCが二人は罰せられるべきじゃないって考えたのなら、どうしてTAが違ったふうに考えられるの? CCは人間より賢いんじゃない?」  トリルビーは顔をゆがめた。「それに答えられたらなと思うわ。そのことをどう思うか、自分でもはっきりわからないのよ」  彼女は次の日、教師協会《TA》がその決定を発表したすぐ後で、ぼくを見つけた。本当は見つけられたくなかったんだけど、沼地《バイユー》は一人の人間がちゃんと隠れられるほど大きくはないんだ。だから無理に隠れようとは思わなかった。ビートニク・バイユーで一番高い丘の草むらにすわっていたのだ。そこはまた一番乾燥した場所でもある。  彼女はカヌーを岸に上げ、ゆっくりと丘を登って来た。もしぼくが心から一人になりたいと思ったなら、出て行くように警告するだけの時間を、たっぷりと与えてくれたわけだ。かまうものか。どのみちぼくはまもなく彼女と話をしなきゃならないんだ。  長い間彼女はただそこにすわっていた。膝の上にひじをついて、ちょうどぼくが午後のあいだずっとそうしていたように、静かな水面をじっと見下ろしていた。 「彼、どうやってる?」と、ぼくはとうとういった。 「知らない。もし話がしたいんだったら、戻ってるわよ。彼もたぶんあなたと話したいはずだわ」 「少なくともトリガーはなんとか助かったね」そういったとたん、それはうつろに響いた。 「三年間の保護観察っていうのは笑いごとじゃすまないわ。しばらくの間、ここも閉鎖しなくちゃならないでしょうね。しまい込んでしまうのね」 「しまい込む」河馬のチューズデイが深いぬかるみをごろごろしながら沼を渡っていくのが見えた。チューズデイが冷凍保存されるのか? ぼくはティオナの小さな赤ちゃんが、びんの中でママが正気になる日を待っているのを思い浮かべた。ぼくはバイユーのぬかるみを歩きまわった幸せな日々を思い出し、そして水が凍り、木々の枝に寄生植物に混ざってつららが下がるのを想像した。 「三年後にまた開くとしたら、相当お金がかかるんじゃない?」ぼくはお金のことをただばく然としか知らなかった。これまで、お金がぼくにとって重要だったことは一度もない。  トリルビーはちらとこちらを見、目を細くした。そして、肩をすくめた。 「おそらく、トリガーはここを売り払わなくちゃならないでしょうね。ここを拡張してゴルフ場にしたがっているバイヤーがいるのよ」 「ゴルフ場」ぼくはおうむ返しにいった。麻痺した感じだった。手入れされたグリーン、きれいな池、バンカー、強い風にはためく旗。無味乾燥。ぼくは突然泣きたくなった。でもどういうわけかそうしなかった。 「あなたはここへ戻って来れないわよ、アーガス。何もかも前と同じままではいないの。あなたは変化に慣れなくちゃいけないわ」 「キャセイもだね」いったい全体、どれだけの変化を人は経験しなくてはいけないのだろう?ショックとともにぼくは、キャセイが今、かつてぼくが望んだことをやろうとしているのだと気がついた。彼はぼくといっしょに成長し、しだいに年をとっていくのだ。もう一度後戻りして他の子供といっしょに大きくなる代わりに。突然、もうあんまりだという気がした。彼がこんな目にあったのは、ぼくのせいじゃなかったけれども、そうなることを望み、それが実現したというので、ぼくは自分が悪いように感じたのだ。涙が浮かび、いつまでも止まらなかった。  トリルビーはぼくを放っておいてくれた。とってもありがたかった。  ぼくが落ちつきを取り戻した時、彼女はまだそこにいた。どちらにしても気にならなかった。ぼくは空っぽになった気分で、のどの奥が焼けるようだった。人生がこんなものだとは、誰も教えちゃくれなかった。 「あの……あのキャセイが教えると契約していた子はどうなの?」最後に、何かいわなくちゃいけないような気がして、そう訊ねた。 「いったいどうなるの?」 「TAが責任を取るわ」とトリルビー。「誰かを見つけるでしょう。トリガーの生徒にもね」  ぼくは彼女を見た。彼女は両ひじをついて仰向けに寝そべっていた。見ているうちにバレンタイン形の乳首にしわがよった。  彼女はぼくに目をやり、唇の片すみでかすかに微笑んだ。ぼくは少し気分がよくなった。彼女はすばらしく可愛かった。 「ねえ、もしかしたら……彼、もっと年上の子供なら教えられるんじゃない?」 「ええ、たぶんね」トリルビーが肩をすくめながらいった。「彼がそうしたいと思うかどうかはわからないけど。わたしはキャセイの人柄を知っているわ。彼はこんどのことをそうあっさり割り切れないんじゃないかしら」 「ぼくにできることはない?」 「あんまりないわね。彼と話しなさい。同情を示してあげなさい、でもやりすぎないようにね。そのへんは自分で判断して。彼がいっしょにいたがっているかどうか、見分けることよ」  あまりにも複雑。どうやって彼が望んでいることを知ればいいんだろう? 彼はぼくに会いに来なかった。でもトリルビーは来た。  とすると、いまこの瞬間、ぼくの人生にはあまり複雑じゃなく、考え込まなくてもできることは一つだけある。ぼくはごろりと寝返りを打って、トリルビーの上にかぶさり、キスをはじめた。彼女がそれに応じて示した物憂いエロティシズムは、とても抵抗できないものだった。彼女は実際[#「実際」に傍点]、ぼくが聞いたこともないようなテクニックを知っていたのだ。 「どうだった」と、ずっと後になってから訊いてみた。  またあの微笑。ぼくはいつも彼女に笑われているような気がしたが、どういうわけか腹は立たなかった。たぶん彼女が、自分が大人でぼくが子供だってことにこだわらなかったからだろう。それがぼくら二人のこれからの関係だ。ぼくが成長して彼女に追いつかなくてはならない。彼女が子供に戻って、ぼくのまねをしてはくれないのだから。 「採点が知りたいの?」と彼女が訊いた。「二十世紀みたいに?」立ち上がって背伸びをした。 「よろしい。正直にいうわね。努力はAだわ、でも十三歳の子はみんなそうね。あなたも例外じゃないわ。技術は、Cの下といったところ。それ以上は期待してなかったけど。同じ理由でね」 「じゃあもっとうまくなるよう教えてくれるの? それが仕事?」 「雇ってもらえさえすればね。セックスはそのごく小さな一部にすぎないわ。聞いて、アーガス。わたしはあなたのお母さんにはならないわ。それはダーシーがちゃんとやっている。わたしはキャセイがそうだったような、あなたの遊び友だちにもならないわ。あなたに道徳教育を教えようとも思わない。もうたくさんでしょ、どっちにしても」  その通りだった。キャセイが本当の意味でぼくと同世代だったことは一度もなかった。そう見えるように、そう行動するように最善を尽くしていたにもかかわらず。そして幻想はしだいに色あせてきた。仕方のないことだろう。ぼくはもはや矛盾を見すごすことができないし、あまりにもソフィスティケートされ、皮肉な見方をするようになったため、彼が日常行動の裏に教訓を隠そうとしても、うまくいかないのだ。  それはCCと同じ意味でぼくには気になっていた。CCはある瞬間にはぼくの味方になり、次の瞬間には死を宣告することができる。ぼくはそれ以上のものを望んでいた。そしてトリルビーがそれを与えてくれそうな気がした。 「科学や技能を教えようとも思わない」彼女はつづけた。「自分が何をしたいか決まりさえすれば、それ専門の家庭教師を雇えばいいんですものね」 「それじゃあ、きみ[#「きみ」に傍点]は一体何をするの?」 「そうね、うまくいい表わす方法がどうしても見つからないのよ。わたしはキャセイのようにいつも手近にいるわけじゃない。必要な時、何か問題が起こったような時には、あなたの方から出向いて来なくちゃいけないのよ。わたしは同情的で、自分にできることはしてあげるつもりだけど、ふつうはただ、あなたが難しい選択をしなくちゃいけないことを指摘するだけね。  もしばかなことをしていたら、そういってあげるけれど、たとえ同じようなばかなことをくり返していても、驚いたり失望したりはしないわ。もしそうしたいならわたしをお手本として使ってもかまわないけれど、強要はしないわ。ただ、いつでも、物事をわたしの見たまま率直に話すってことだけは約束するわ。苦痛のないように、ごまかしたりはしない。今は苦痛が必要な時よ。キャセイをプロフェッショナルな子供として考えなさい。彼をおとしめるつもりじゃなくってよ。彼はあなたを文明人に変えたわ。彼がはじめてあなたに会った時は、あなたはとてもそういえたものじゃなかったのよ。あなたが今、彼の状態を思いやることができ、仲を裂かれたと感じるほど愛着をもつようになれたのは、彼のおかげだわ。そして彼はあなたがどういう選択をするかわかるくらい有能だった」 「選択? どういう意味?」 「話すことはできないわ」彼女は両手を広げ、にっこりと笑った。「これでわかったでしょう? どの程度にわたしがたよりになるかが」  彼女はまたぼくを混乱させていた。どうしてもっと単純にいかないんだろう? 「じゃあ、もしキャセイがプロの子供だっていうのなら、きみはプロの大人なんだね?」 「そんなふうに考えてもいいわ。本当はそういう類推はできないんだけど」 「ダーシーが何のためにきみにお金を払うのか、まだわかんないな」 「わたしたち、たっぷりメイク・ラブするのよ。それでどう? それならわかる?」彼女は背中から泥をはたき落とし、地面を見て眉をしかめた。「でも、もう泥の上じゃごめんよ。泥は好みじゃないわ」  ぼくもあたりを見まわした。この場所は汚い。全然美しくない。ぼくはどうしてここがあんなに好きだったのか、不思議に思った。突然、ぼくは抜け出したくなった。きれいな、乾いた場所へ。「行こう」ぼくはいって、立ち上がった。「ああいうことをもう一度やってみたいんだ」 「それはわたしが雇われたってこと?」 「うん。そうだと思う」  キャセイはシュガー・シャックのポーチにすわっていた。茶色いビールびんの列が端にそって並んでいた。ぼくらが近づくと、にっこり微笑んでみせた。彼はひどく酔っ払っていた。  不思議なことだった。ぼくらは何度もいっしょに酔っ払ったものだった。ぼくら四人でだ。それはとっても楽しかった。ところがただ一人だけが酔っ払っていると、ちょっと嫌な感じになる。非難しているわけじゃないよ。そうじゃなくて、いっしょに飲むときにはどんなジョークも通じるのだが、一人で飲んでいると、だらしない困り者にしかならないのだ。  トリルビーとぼくは彼の両側にすわった。彼は歌いたがった。びんをぼくらに押しつけるので、ぼくはそれを空け、愉快にやろうとした。ところがすぐに彼が泣き出し、ぼくは居たたまれない気分になった。すべてが同情から出たわけじゃなかったのは認める。自分がなんにもしてやれないので、情けない気分になり、彼がぼくにさせたいくつかの約束にはちょっと腹が立ったのだ。ぼくはどのみち彼に会いに来るつもりだった。ぼくの肩で泣きじゃくりながら、見捨てないでくれと頼まなくたっていいじゃないか。  そういうふうに彼はぼくとトリルビーに泣きつき、それからぼくらの間にすわったままむっつりと黙り込んだ。ぼくはなぐさめようとした。 「キャセイ、世界の終わりってわけじゃないよ。トリルビーがいってたけど、年上の子供ならまだ教えられるんじゃないかって。ぼくやその上の年齢なら。TAがいったのは小さい子を教えちゃいけないってことだけだもの」  彼は口の中で何かをいった。 「そんなに違いはないと思うよ」とぼく。どこで止めたらいいのかわからないまま。 「たぶんきみのいう通りだ」彼がいった。 「そうだよ」ぼくは無意識的に、人が酔っ払いを励ます時によくやるいつわりの誠実さに落ち込んでいた。彼はすぐにそれを聞きとがめた。 「一体全体きみに何がわかるんだ? きみが考えているのは……くそっ、何を知ってるっていうんだ? ぼくのような仕事はどんな種類の人間がやるのか知ってるか? ちょっとした不適応者さ、そいつはきみとおなじように成長することを望まない人間だ。ぼくらは二人とも[#「二人とも」に傍点]臆病者だよ、アーガス。きみは知らないだろうが、ぼくは[#「ぼくは」に傍点]知ってる、知ってる[#「知ってる」に傍点]んだ。それで一体全体ぼくが何をするっていうんだ? え? もう帰ったらどうなんだよ。ほしいものは手に入れたんじゃないのか?」 「落ちついて、キャセイ」トリルビーがなだめ、彼を抱き寄せた。「落ちついて」  彼はすぐに後悔し、静かに泣きはじめた。どんなに悪いと思っているか、何度も何度も謝罪した。誠実な態度だった。さっきのは決して本心じゃなく、つい口からすべった残酷だったといった。  彼はくどくどと詫びつづけた。  ぼくはさむけがした。  ぼくらは彼を小屋の中のベッドに寝かせ、それから道路を下って行った。 「まだ何日か彼の様子を見守らなくちゃいけないわね」トリルビーがいった。「彼は乗り切るわ。でも大変よ」 「そうだね」とぼくはいった。  ぼくは道路の偽りの曲がり角を曲がる前に、小屋をちらりとふりかえって見た。しばらくの間、ぼくはビートニク・バイユーを完璧な幻影として、時間を超えた窓として眺めた。それから木のむこうへ回り切ると、そのすべてが消滅した。以前は全然気にならなかったのに。  しかし、なんとひどくぬかるんだ場所だろう。これまでシュガー・シャックがどれほど汚いか、一度も気付かなかったのだ。  ぼくは二度とそれを見ることはなかった。キャセイは何カ月かぼくらのところに来ていっしょに過ごし、絵をやってみようとした。ダーシーはぼくにこっそりと、彼は画家としては見込みがないと告げた。彼は出て行ったが、ぼくはその後も何度か彼に出会い、いつもあいさつをしあった。  だけど彼が近くにいると気が重く、彼もそれを知っていた。それに、彼も認めたことだが、ぼくは彼が忘れようとしていることを象徴しているのだ。そこでぼくらは実際のところほとんど何も話さなかった。  時々、ぼくはかつてのバイユーでゴルフをする。二ホールしかないが、もっと拡張するという話もある。  改装の出来ばえはみごとなものだ。 [#地付き](大野万紀訳) [#改ページ] [#ページの左右中央]    さようなら、ロビンソン・クルーソー [#改ページ]  時は夏。そしてピリは二度目の幼年期を迎えていた。一度目、二度目――だれがそんなことを数えたりする? ピリの肉体は若いのだ。こんなに生き生きした気分になれたのは、最初の幼年期以来のこと。あのときは春、太陽がしだいに近づき、空気が溶けはじめる季節だった。  いまの彼は、〈パシフィカ〉ディズニーランドの中にあるラロトンガ・リーフで、毎日を過ごしている。〈パシフィカ〉そのものはまだ建設工事中だが、ここラロトンガはもう完成ずみ。そして、南のオーストラリア♀C岸のすぐ沖合いで着工した、もっと野心的な堡礁《ほうしょう》タイプのサンゴ礁の模擬実験場として、生態学者たちに利用されている。その結果、ここはほかの生物群系《バイオーム》よりもずっと定着の進んだ環境だ。外来者にも開放されているのだが、いまのところはピリしかいない。ほかのみんなは、ここの空≠ノ不安を感じるらしい。  ピリにはそんなものは気にならない。彼は真新しいオモチャをさずけられている――完全に機能的な想像力、選択性のある驚異の感覚。そのおかげでピリは、いまの自分の幻想にそぐわないものが環境の中にあっても、それを無視してしまえる。  椰子《やし》の葉のあいだからさしこむ熱帯の日ざしを顔にうけて、ピリは目をさました。浜辺から拾ってきたいろいろながらくたを使って、粗末な隠れ場をこしらえてある。べつに風雨を防ぐためではない。ディズニーランドの管理本部が、天候をちゃんとコントロールしている。露天で眠っても、おなじことだろう。しかし、無人島に流れついた人間は、なにかの隠れ場を作るしきたり[#「しきたり」に傍点]だ。  ピリは機敏に跳びおきた。若い主人公だけにできる動作だった。裸の体から砂をはらいおとすと、狭い帯になった砂浜を波打ち際へと駆けおりた。  彼の足どりはぎごちなかった。両足はふつうの二倍も大きくへ柔軟な指のあいだには水かきがついて、ひれ足そっくりだ。走ると、乾いた砂が両足のまわりへ雨のように降りかかる。体はクリーム入りのコーヒーのように茶色で、毛は一本もない。  ピリは水に飛びこみ、巧みに波の下をくぐって、腰の深さのあたりまで出ていった。そこで立ちどまった。鼻の呼吸をとめ、両腕を上げ下げしながら、口から空気を吐きだし、同時に吸いこんだ。それまで、下のほうの肋骨《ろっこつ》のあいだで細長い切り傷の痕《あと》のように見えていたものが、ぱっくり開いた。その中に縁のびらびらした鮮紅色《せんこうしょく》のものが見え、それがしだいに下がってきた。もはや彼は空気呼吸生物ではなかった。  彼は口をあけてもう一度水にもぐり、それっきり出てこなかった。食道と気管が閉ざされ、新しい弁が作動にはいった。その弁が水を一方にしか通さないので、いまや横隔膜は、水を口から吸いこみ、鰓孔《えらあな》から押しだすポンプとなっていた。この下胸部から流れでる水が、鰓を充血させてそれを赤紫色に変え、へしゃげた肺を胸廓の上へ押しあげる。空気の泡が脇腹からすこしずつ吐きだされ、やがて止まった。もう、転換は完全だった。  周囲の水がだんだん温かくなってくるように思えた。さっきまでは快い冷たさだったのに、いまはなにも感じられない。それは、頭蓋の中の人工器官が放出するホルモンに反応して、体温が下がってきた結果だった。エネルギー燃焼は、いままで空気中でやっていたのとおなじ割合にはいかない。水は、あまりにも効率のよすぎる冷却剤だからである。そこで、体の各部分がより低い機能率におちつくのといっしょに、全身の動脈や毛細管も収縮していく。  自然に進化した哺乳動物で、空気呼吸から水中呼吸への切り替えを果たした前例は一つもない。この研究開発計画は、生物工学技術の限界に挑戦するものだったといえる。しかし、ピリの体内のあらゆるものは、彼の生きた一部だった。そのすべてを移植するには、まる二日もかかったのだ。  本来なら、体熱の損失や酸素の欠乏でひとたまりもなく死んでしまうはずの環境で、彼を生かしつづけている複雑な化学的機構――それについてピリはなにも知らなかった。知っているのは、水底の白い砂にそって矢のように進んでいく喜びだけだった。水は透明で、遠くは青緑色に見えた。  水底はどんどん下へ遠ざかってから、とつぜん波に向かって伸びあがった。ピリはサンゴ礁の壁にそって上昇し、水面にぽっかり顔を出して、ごつごつした岩礁のでっぱりをよじ登り、やがて日ざしの中に立った。深呼吸した彼は、ふたたび空気呼吸生物になった。  その変化は、いくぶんかの不快さをもたらした。自分の体がより経済的な温血状態へと急速にもどっていくあいだ、ピリはすこし身ぶるいしながら、目まいと咳《せき》の発作がおさまるのを待った。  朝食の時間だ。  その朝を、彼はあちこちの潮だまりでの食糧徴発についやした。そこには生《なま》で食べられる植物や動物が、何十種類もあった。たらふく食い、午後に予定している外海の探検のために、エネルギーをたくわえた。  ピリは空を見上げるのを避けていた。べつに怖いからではない。ほかのみんなとちがって、空は気にならない。しかし、自分が冥王星の地下に作られたバブル型人工環境にいる観光客ではなく、船の難破で太平洋の熱帯サンゴ礁に流れついた人間だという幻想だけは、どうしてもこわしたくなかった。  まもなくピリはふたたび魚になり、岩礁の横から海に飛びこんだ。  サンゴ礁の外をとりまく水は、たえまない波の動きのために、酸素に富んでいる。ここでさえ、鰓の外縁に水の流れをいきわたらせるのに、動きつづけている必要があった。しかし、前よりもゆっくりした動きで、断崖になったサンゴ礁の暗い領域を縫いながら、深くもぐっていくことができた。赤や黄に彩《いろど》られた彼の世界は、青と緑と紫にのみこまれた。そこは静かだった。音はしているが、彼の耳には聞きとれない。鰓に触れる水の流れを最小限にたもちながら、青い光の縞《しま》の中をゆっくりと泳いでいった。  十メートルの深さまできて、彼はためらった。最初の予定では、カニ飼育場のようすを見に、アトラス洞窟へでかけるつもりだった。だが、その代りに、タコのオチョを探しにいこうかと、ふと気が変わった。一瞬、狼狽の中で、幼年期の病いにとりつかれた――自分をどう扱っていいか、決断がくだせなくなったのだ。それとも、ひょっとしたらもっと悪いものかな、と彼は思った。ひょっとしたら、これは成長のしるしかもしれない。カニの飼育場にもう飽きてきたのだ。すくなくとも、今日のところは。  イソギンチャクといちゃついている小さな赤い魚をのんびり追いかけて、しばらく時間をつぶした。一ぴきもつかまえられなかった。こんなことをしていてもつまらない。この静かなおとぎの国には、なにか冒険があるはずだ。その冒険を見つけなくては。  逆に、冒険のほうが彼を見つけた。ピリは、視野のほとんど限界あたりで、なにかが外海を泳いでいるのに気がついた。細長く青白いもの、痩せ細った恐ろしい死のミサイル。心臓が恐怖にきゅっと縮こまり、サンゴ礁の空洞へと逃げこんだ。  ピリはその生き物を〈幽霊〉と呼んでいた。これまでにも、外海でその姿を何度も見かけたことがある。口と腹と尾でできた長さ八メートルの怪物、飢えの化身だ。オオジロザメは、これまでに現われた最も凶暴な肉食動物だという説がある。ピリはそれを信じた。 〈幽霊〉がまったく無害だという事実も、慰めにはなってくれなかった。観光客が生きたまま食われたりすれば、〈パシフィカ〉の管理本部にとっても一大事である。おとなの場合は、なんの保護手段もかりずに潜水することが許されているが、それにはしかるべき権利放棄証書を提出することが条件だ。子供の場合は、あらかじめ武器を体内に移植してもらわなければならない。ピリも、左手首の皮下のどこかに、そんな武器を持っている。一種の音響発生装置で、そこから出る音は、水中のどんな捕食生物にとっても恐怖なのだ。 〈パシフィカ〉に棲《す》むすべてのサメや、バラクーダや、ウツボや、その他の捕食生物とおなじように、〈幽霊〉も、地球の海を泳いでいるいとこ[#「いとこ」に傍点]たちとはちがう。月《ルナ》の生物学ライブラリーに貯蔵してあった細胞からクローン再生したものだ。このライブラリーは、二百年前に、種《しゅ》の絶滅に対する保険として建設された。最初は絶滅に瀕した生物だけがファイルされていたが、〈大侵略〉の何年か前から、ライブラリーの責任者たちはあらゆる生物の標本を手に入れようと努力しはじめた。やがて異星人の侵略がはじまり、月の移民たちは、占領された地球から援助を絶たれて生きていくのに精いっぱいで、ライブラリーにかかずらう暇がなくなった。しかし、このディズニーランド建設の機運が熟したときには、ライブラリーの再整備も完了していた。  この頃には生物工学も長足の進歩をとげ、遺伝子構造のさまざまな修正が可能だった。ディズニーランドの生物学者たちは、なるべく自然をいじらないという方針を守っている。だが、捕食生物には改変をほどこすことにした。〈幽霊〉の場合、その改変は、脳につけたされた突然変異器官だ。ある種の超音波が発信されたとき、この器官が反応して、〈幽霊〉の体内に恐怖をどっと濫れさせる。  それなのに、なぜ〈幽霊〉は逃げていかないのか? 視野をはっきりさせようと、ピリは瞬膜をぱちぱちさせた。いくらか効果があった。青白い姿がややちがったふうに見えてきた。  その尾は前後に動かずに、上下に――しかもどうやら鋏《はさみ》のようなぐあいに――動いているようだ。そんな泳ぎかたをする動物は、たった一つしかない。ピリは不安を飲みくだして、サンゴ礁から体を押し出した。  しかし、どうやら長くためらいすぎたらしい。〈幽霊〉に対するピリの恐怖感は、たんなる危険では説明できない。もともと危険はどこにもない。彼の恐怖はもっと根源的なもの、あの白く細長い姿を見たとたんにうなじをチクチクさせる、理由のない反射作用だ。それには抵抗できないし、また抵抗したくもない。だが、恐怖にかられて、サンゴ礁の蔭へじっと身をひそませているあいだに、その人影は手の届かない遠くへ泳ぎ去ってしまった。追いすがろうとして必死に水を掻いたが、まもなく暗がりの中で、動く両足が残す跡を見失った。  さっき見たものは、その人影の両脇に長く尾を引いた鰓《えら》だった。水深があるために、鰓は濃いブルー・ブラックに染まって見えた。そのときの印象では、相手はどうやら女性らしかった。  トンガタウンは、この島唯一の人間の居住地だ。そこには営繕《えいぜん》関係の職員とその子供たちがぜんぶで五十人ばかり、南太平洋の原住民のそれをまねた草ぶきの小屋に住んでいる。いくつかの小屋にはエレベーターが隠されていて、地下室につうじており、そこはこの建設計画が完成したあかつきに、観光客の宿泊施設になるはずだ。そのときには、これらの小屋にプレミアムがつき、浜辺は人でこみあうだろう。  ピリは、火明かりの輪の中へはいっていって、友だちにあいさつした。トンガタウンの夜はパーティの時間だった。一日の仕事が終わると、みんなが焚火《たきび》のまわりに集まり、人工成育されたヤギやヒツジの肉を丸焼きにする。しかし、いちばんのご馳走は、新鮮な野菜料理だ。生態学者たちは、まだここの自己充足システムの欠陥を修正している最中で、開花を抑制したり、衰えかかった種を補充したりしている。そのために、外へ持っていけばとんでもない高値のつきそうな野菜が、どっさり余剰生産されることもよくある。職員たちはその一部を、ちゃっかりいただくことにしていた。それはなかば公然の役得だった。〈パシフィカ〉の空の下で、がまんして働いてくれる人間を探すのは、一苦労なのだ。 「こんばんは、ピリ。きょうは海賊にでくわした?」  そうたずねたのはハルラという少女だった。前にはピリの親友の一人だったが、ここ一年ほどだんだんよそよそしくなってきたように見える。彼女は手作りの腰みのをつけ、たくさんの花を紐《ひも》でつないで、首にかけていた。ハルラは十五、ピリは……だが、そんなことをだれが気にする? ここには季節の変化はなく、毎日があるだけだ。なぜ、年数をかぞえる必要がある?  ピリは返答に詰まった。前にはハルラと二人で、よくサンゴ礁へ遊びにいったことがある。『失われたアトランティス』『潜水艦乗組員』『サンゴ礁の海賊』――毎日、新しい物語のすじと、善玉悪玉の登場人物を作りだしたものだ。しかし、いまのハルラの質問には、まぎれもない軽蔑がこもっていた。もう海賊ごっこに飽きたのだろうか? いったいどうしたんだろう?  ピリの途方にくれた表情を見て、ハルラは優しくなった。 「ほら、ここへきて坐りなさいよ。肋肉《あばらにく》をとっといてあげたわ」彼女は大きなマトンの塊りをさしだした。  ピリはそれをもらって、ハルラの横に腰をおろした。たっぷりした朝食のあと、一日じゅうなにも食べていなかったので、腹がすいていた。 「今日は〈幽霊〉を見たかと思ったよ」ピリはさりげなくいった。  ハルラはぞっと身ぶるいした。両手を太股《ふともも》で拭ってから、しげしげと彼を見つめた。 「思った? 見たかと思ったって?」  ハルラは〈幽霊〉が嫌いだった。一度ならず、ピリといっしょに身を疎《すく》めて、〈幽霊〉がうろつくのを見まもった経験がある。 「うん。だけど、ほんとはそうじゃなかったみたいだ」 「どこでよ?」 「外海の、そうだなあ、深さ十メートルぐらいのとこ。あれは女の人だったと思うんだ」 「そんなはずないわ。だって、あんたのほかには、ミッジーとダーヴィンと……その女の人、空気タンクを持ってた?」 「いや。鰓《えら》さ。それは見た」 「でも、ここで鰓があるのは、あんたのほかに四人だけよ。その四人が今日どこにいたかも、あたしは知ってるもの」 「きみだって、前には鯉があったんだぜ」ピリはかすかな非難をこめていった。  ハルラはため息をついた。「またその話をむし返すの? いった[#「いった」に傍点]でしょう、あたしはひれ足にうんざりしちゃったのよ。もっと陸地[#「陸地」に傍点]を歩きまわりたかった」 「ぼくだって陸地を歩けるぞ」ピリはこわい声を出した。 「わかった、わかった。あたしがあんたを見捨てたと思ってるんでしょ。見かたによっては、あんたがあたし[#「あたし」に傍点]を見捨てたんだと、考えたことはある?」  ピリがそういわれて首をかしげているうちに、ハルラは立ちあがって、さっさと歩み去ってしまった。彼女のあとを追いかけようか、それとも食事をすませてしまおうか。ひれ足のことは、ハルラのいうとおりだった。追いかけっことなると、ピリは分が悪い。  ピリは何事についても、くよくよ考えこむたちではなかった。ほかのみんなが歌と踊りに加わったあとも、ひたすら食べるほうに精を出した。どのみち、いつもあとに残っているほうなのだ。歌うことはできても、踊りとなるとまるきり不得手なのだから。  砂の上に寝そべって、まだもうすこし詰めこめないかな――あの小エビの照り焼きをもう一杯お代りしようか――と考えているところへ、ハルラがもどってきた。彼女はピリの横に坐った。 「あんたのいったこと、ママに聞いてみたわ。そしたら、今日、観光客が一人やってきたって。どうやら、あんたが正しかったみたい。その人は女性で、水陸両生」  ピリは漠とした不安を感じた。もちろん、たった一人の観光客が邪魔になるわけはない。しかし、その女性が一つの前ぶれだとしたら? それに水陸両生だという。ここに長期在住するつもりの人間でないかぎり、そこまで徹底的な改造を受けたものは、だれもいなかったのに。自分の熱帯の隠れ場も、発見されるおそれがあるのでは? 「いったい……その女はなにをしにきたんだい?」ピリは上の空で、カニのカクテルをもう一匙《ひとさじ》ほおばった。 「あんた[#「あんた」に傍点]を探しにきたのよ」ハルラはアハハと笑って、彼の脇腹をこづいた。それからピリにとびかかり、彼が息もたえだえに笑いころげるまで、肋骨の下をくすぐった。ピリも反撃して、もうすこしで勝ちそうになったが、彼女のほうが体も大きく、やる気も上まわっていた。ハルラは花びらを彼の上に散らしながら、とうとう彼を組み敷いた。髪に飾った赤い花の一つが目にはいり、彼女は息をはずませて、それを払いのけた。 「浜辺へ散歩に行かない?」ハルラはきいた。  ハルラは愉快な友だちだが、最近はいっしょに外へ出るたびに、キスをしようとする。ピリにはまだそんな気持はない。まだほんのガキでしかない。たぶんハルラは、そんなことでも企《たくら》んでいるのだろう。 「食べすぎちゃったんだ」ピリはいった。嘘のないところだった。恥知らずなほどたらふく詰めこんで、あとは小屋に帰って眠りたいだけだ。  ハルラはなにもいわずに、息がおちつくまでそこに坐っていた。やがて、やや荒っぽくうなずいてから、立ちあがった。ピリは、彼女の顔をのぞきこんでみたい気がした。いつもと調子がちがうのがわかったのだ。ハルラは彼に背を向けて歩み去った。  ロビンソン・クルーソーは、重苦しい気分で小屋にもどってきた。笑い声と歌声とをあとにして浜辺を歩いてくるのは、淋しいものだった。せっかくハルラがいっしょに歩こうと誘ってくれたのに、なぜ断わってしまったのだろう? 彼女が新しいゲームをしたがっているのが、そんなに困ったことなのか?  よしてくれ。ハルラがこっちのゲームにつきあおうとしないのに、なぜこっちが彼女のゲームにつきあってやらなくちゃならない?  三日月に照らされた砂浜でしばらく坐っているうちに、彼は空想の中の役柄にはまりこんでいった。ああ、この孤独な漂流者の苦悩。仲間の人間たちから遠く離れ、神への信仰だけをよるべに、ひとり生きつづけなくてはならないのか。明日は聖書を読んだあと、岩の多い北の海岸の探検を進めてから、山羊《やぎ》の皮を何枚か鞣《なめ》し、できればすこし釣りをしてみよう。  明日の計画がすっかりととのうと、ピリははるかな英国恋いしさの涙を拭いおわって、眠りにつくことができた。  夜のあいだに、あの幽霊女がやってきた。彼のそばの砂の上にひざまずいた。幽霊女が彼の砂色の髪を目からそっと払いのけたので、彼は寝返りをうった。足をじたばたさせた。  いつのまにか、底知れぬ深淵の中を逃げまどっていた。胸は早鐘を打ち、内部から沸きあがる恐怖のほか、なにもわからなかった。背後では、大きな口が開き、もうすこしで足の指に届きそうになった。顎《あご》がぱくっと閉じた。  彼はもうろうとした頭で起きあがった。前方の波打ち際に、ずらりと並んだぎざぎざの歯が見えた。そして、月光の下で、背の高い、白い姿がカールした寄せ波の中に飛びこみ、たちまち見えなくなった。 「ハロー」  ピリはぎくっとして起きあがった。南海の孤島にひとり暮らしをしてみて――よく考えてみると、これはあらゆる子供が憧れるだろう境遇なのだが――いちばんまずいのは、悪夢を見たときに、温かい母親の胸に顔をうずめて泣けないことだった。そんな気分になることはあまりないが、なったときにはどうしようもない。  ピリは明るさに目をしばたたいた。女は太陽を頭でさえぎって立っていた。ピリは顔をしかめ、目をそらして、女の両足に視線を落とした。水かきと長い指。彼は目をすこし上にやった。女は素裸で、とても美しかった。 「だれ……?」 「もう目が覚めた?」女は彼のそばにしゃがんだ。なぜ、鋭い三角の歯があるなんて思ったんだろう? 悪夢は、雨にうたれた水彩画のように滲《にじ》んで薄れていき、ずっと気分がよくなった。女は優しい顔立ちをしていた。ほほえみかけている。  ピリはあくびをして起きあがった。寝不足で頭がぼんやりし、体がこわばり、両目は浜からきたものではない砂でふさがっていた。恐ろしい一夜だったのだ。 「うん、なんとか」 「よかった。じゃ、朝食でもどう?」彼女は立ちあがって、砂の上のバスケットをとりにいった。 「ぼくはいつも――」だが、バンジロウや、メロンや、薫製《くんせい》ニシンや、キツネ色に焼けた細長いパンを見たとたんに、つばきが口に湧いてきた。彼女はバターと、オレンジ・マーマレードまで用意していた。「じゃ、ちょっとだけ――」そういうと、ピリは汁気の多いメロンの一切れにかぶりついた。だが、その一切れをまだ平らげないうちに、より強烈なもう一つの欲求におそわれた。立ちあがって、小走りに椰子の木の向こう側へまわると、腰の高さに黒いしみのある幹へむかって放尿した。 「だれにもいわないでよ、ね?」ピリは心配そうにいった。  彼女は目を上げた。「その木のこと? 心配しないで」  ピリは腰をおろし、食べかけのメロンを口へ持っていった。「見つかるとまずいんだ。ちゃんと道具を渡されててね、これを使えっていわれてるから」 「わたしならだいじょうぶ」彼女はパンの一切れにバターを塗りつけてさしだした。「ロビンソン・クルーソーはポータブルの生態衛生装置《エコ・サン》なんて持ってなかったものね。そうでしょう?」 「うん」彼は驚きを隠しながらいった。どうしてこの女はそれ[#「それ」に傍点]を知ってるんだ?  ピリはつぎにいう言葉を思いつけなかった。初対面の女が自分と朝食をともにしている。まるで砂浜や海とおなじように自然な感じで。 「なんて名前?」そのへんからはじめてみるのがよさそうだった。 「リーアンドラ。リーと呼んでちょうだい」 「ぼくは――」 「ピリね。あなたのことは、ゆうべのパーティでみんなから聞いたわ。いきなりこんなふうに飛びこんできて、嫌がられなきゃいいけど」  ピリは肩をすくめ、並んだごちそうのすべてにぐるっと手を振った。「いつでもどうぞ」そういって笑った。いい気分だった。ゆうべのようなことがあったあとで、仲よくしてくれる人間がそばにいてくれるのはいいものだ。ピリはさっきよりもうちとけた目で彼女を見なおした。  彼女は大柄だった。ピリよりもだいぶ背が高い。肉体的な年齢では三十ぐらい、女性にはめずらしいほど老けている。ひょっとしたら六十か七十近いかもしれない、と彼は思ったが、それを裏づける根拠はなにもなかった。ピリ自身も九十代なのだ。しかし、だれにそれが見抜ける? 彼女はつり上がった目をしていたが、それは天然のまぶたの下に人工の透明なまぶたを移植したせいだった。短く刈った髪の毛は細い帯になって生え、両眉のあいだからはじまって頭のてっぺんを越え、うなじにまで届いていた。両耳は効率よくぴったりと頭にくっついて、彼女をスマートな流線形に見せていた。 「どうして〈パシフィカ〉なんかへ?」ピリはきいた。  彼女は頭の後ろに手を組み、屈託なさそうに砂の上へ寝そべった。 「閉所恐怖症」彼女はウインクしてみせた。「というわけでもないけど。冥王星があれ[#「あれ」に傍点]じゃ、とても長生きできそうもないから」  あれ[#「あれ」に傍点]とはなにかさえ、ピリにはよくわからなかったが、さもわかったように微笑を返しておいた。 「どこも満員でうんざり。ここは、空が空だから、そんなにたのしい場所じゃないって評判を聞かされたけど、ためしにのぞいてみたら、べつに気にならなかった。だから、何週間かひとりでスキン・ダイビングをして過ごそうと、こうしてひれ足や鯉を買ってきたの」  ピリは空を見上げた。とてつもない眺め。もうそれには慣れてきているが、それでも必要以上にたびたび見上げる気にはなれない。  それは不完全なイリュージョンだった。すでに塗りあげられた半分があまりにも本物らしいので、よけいショッキングなのだ。仕上がったほうは、ほんとうの果てしない青空に見える。そこで、頭上にぶらさがった、まだ塗られていない半分――発破で黒焦げになり、二十キロ離れたここからでも読みとれるほど巨大な数字がところどころに記された岩の天井――にうっかり目がいくと、まるで神様が青い穴から下界をのぞいているような錯覚にとらえられる。何ギガトンもの岩石が、なんの支えもなしに、宙にうかんでいる恐ろしさ。〈パシフィカ〉を訪れた人びとは、しばしば頭痛を訴える。それも、頭のてっぺんというのが多い。彼らは身をすくめ、いつ脳天に一撃がくるかと待っている。 「ときどきぼくも[#「ぼくも」に傍点]、よくこんなところで暮らしていけるなと、思うことがあるよ」ピリはいった。  彼女は笑った。「わたしは平気。前に宇宙パイロットだったことがあるから」 「ほんと?」これはピリにとって、猫にマタタビのようなものだった。宇宙パイロットほどロマンチックな職業はない。ぜひとも話を聞かせてもらわなくては。  朝の時間はまたたくまに過ぎていった。彼女の物語に、すっかり空想力をそそられてしまったからだ。その一連のほら[#「ほら」に傍点]話は、どう見ても多分に創作が混じっているらしい。しかし、それがどうしていけない? この南海の小島まできて、だれがありふれた話を聞きたいものか。ピリは意気投合する相手を見つけたと感じ、笑われるのを恐れながらも、ぽつりぽつりと『サンゴ礁の海賊』の物語をはじめた。最初は、もしそうだったら面白いのに、という願望のかたちだったが、彼女が熱心に聞きいってくれるのを見て、だんだん真剣になっていった。ピリは相手の年を忘れ、ハルラと二人で作り上げたとっておきの物語を、えんえんと話しつづけた。  その物語を真剣にうけとるというのが二人の暗黙の合意で、実はそれが肝心な点だった。それでなくては、このゲームはうまくいかない――ハルラとの場合がそうだったように。どういうわけか、このおとなの女性は、ピリとおなじゲームをして遊ぶことに興味を持っているらしかった。  その夜ベッドに横になったピリは、ハルラがよそよそしくなってから何カ月ぶりかの、すてきな気分を味わっていた。いま、ひとりの仲間を手に入れてみて、彼は気づいた――満足できるような幻想の世界を自分ひとりで守っていくのは、むずかしい仕事だ。やがてそのうちに、物語を聞いてくれる相手、物語をいっしょに作ってくれる相手がほしくなってくる。  二人はその日の午後をサンゴ礁で過ごしたのだった。ピリは彼女にカニの飼育場を見せたり、彼女をタコのオチョに紹介したりした。オチョはいつものように内気だった。ひょっとすると、このタコが自分になつくのは、ごちそうを持ってきてもらえるからだけじゃないかと、ピリは疑いたくなった。  リーは彼のゲームにやすやすと仲間入りしてきて、おとなによくあるわざとらしさは、かけらも見せなかった。どうしてだろうかとピリは考え、勇をふるって彼女にたずねてみた。これで万事がおじゃんになりそうで心配だったが、聞かずにいられなかった。どう見ても正常でない気がする。  二人は、満潮線よりも上に露出したサンゴ礁の上に坐って、夕日の最後の日ざしを浴びているところだった。 「よくわからないわ」リーはいった。「こんなわたしをバカだと思ってるんでしょ、ちがう?」 「いや、そうじゃないよ。ただ、ふつうのおとなってのは、ほら、もっと重要な≠アとが頭にあるらしいから」ピリはその単語に侮蔑のすべてをこもらせていった。 「たぶん、わたしもそのことではあなたとおなじ気持なんじゃないかな。ここへきたのは遊ぶためだもの。なんだか自分が新しい世界へ生まれかわったみたいな感じがするのよ。あの底はほんとにすごい[#「すごい」に傍点]わ、あなたも知ってるように。とてもあの世界へひとりではいっていく気がしなくてね。実は、きのうあそこへ潜《もぐ》ったんだけど……」 「あなたを見たような気がするよ」 「かもね。とにかく、わたしは仲間がほしかった。そこへあなたの噂を聞いたわけ。で、あなたにガイドをしてくれないかとたのむよりも、あなたの世界へ自分を合わせていったほうが、なんていうかな、礼儀にかなっているんじゃないかって気がして」彼女は、よけいなことをしゃべりすぎたというように、眉をひそめた。「もう、そのことはあまりつつかないようにしましょう。よくって?」 「うん、いいよ。ぼくが首をつっこむ問題じゃないもの」 「あなたが好きよ、ピリ」 「ぼくもあなたが好きだ。友だちがいなかったんだよ……ずいぶん長いあいだ」  その夜のルーアウ[#ここから割り注](ハワイ料理による宴会)[#ここまで割り注]で、リーは姿を消してしまった。ピリはちょっと彼女を探しただけで、それほどやきもきはしなかった。リーがどんなふうに夜を過ごそうと、それは彼女の勝手だ。こっちはひるまの彼女がほしいのだから。  ピリが自分の小屋へ帰ろうとしかけたとき、ハルラが後ろからやってきて、彼の手をとった。しばらくいっしょに歩いているうちに、ハルラはこらえきれなくなったようにいった。 「昔のよしみに、一言いわせてよ。彼女には近づかないほうがいいわよ。あんたのためにならないから」 「なにいってるんだ。あの人を知りもしないくせに」 「さあ、どうかな」 「どっちなんだよ、知ってるのか、知らないのか?」  ハルラはなにもいわずに、やがて深いため息をついた。 「ピリ、もしあんたがばかを見たくなければ、あの筏《いかだ》に乗ってビキニへ行くことね。彼女のことで、いままでに……なんにも感じなかった? 前兆とか、そんなものを?」 「なんのことだか、わかんないね」そう答えながら、彼は鋭い歯と白い死のことを考えていた。 「いいえ、わかってるはずよ。わかってるけど、あんたはそれに直面する気がないのよ。あたしがいうことはそれだけ。よけいなおせっかいは焼きたくないから」 「じゃ、よせよ。なぜ、わざわざここまできて、ぼくの耳にそんなことを吹きこむんだい?」  ピリは言葉を切った。なにかが心をくすぐった。過去の生活からのなにか、注意深く抑圧されていた昔の知識の切れはし。ピリはそうしたことに慣れていた。自分がほんとうは子供ではなく、長い人生と多くの体験を経てきた人間だということを、知っていた。しかし、それについて考えはしなかった。昔の自分の一部がいまの生活に侵入してくると、いやな気分になる。 「あの人のことを嫉《や》いてるんだな」そういってから、ピリは年とった皮肉な自分がしゃべっているのに気づいた。「あの人はおとなだよ、ハルラ。きみにとっちゃ、なんの脅威でもないさ。それに、この何カ月か、きみがどんなヒントをよこしてたか、ぼくだって知ってるぜ。だけど、まだそれには早すぎるんだ。だから、ほっといてほしいな。ぼくはまだガキだからね」 「このウスノロ。あんたって、最近鏡を見たことがないの? ピーター・パンじゃあるまいし。あんたはげんに成長してるのよ。もうそろそろおとななのよ」 「嘘だ」ピリの声にはパニックがこもっていた。「ぼくはまだ……そりゃ、ちゃんと数えたことはないけど、どう見たって九つか十にしか――」 「よしてよ。あんたはあたしとおなじぐらいの年で、あたしは二年前からおっぱいがふくらんでるのよ。でも、あんたとセックスする気はないわ。この村であんたより年下の七人の坊やとならだれとでもセックスするけど、あんたはお断わり」  どうしようもない、といいたげにハルラは両手を振り上げ、彼から一歩さがった。それから、とつぜん怒りにかられて、拳固で彼の胸をなぐりつけた。ピリは彼女の見幕《けんまく》にびっくりして、よろよろと後ずさりした。 「そうよ、あの人[#「あの人」に傍点]はおとなよ」ハルラは歯を食いしばるようにしてささやいた。「あんたに注意してあげにきたのもそれだわ。あたし[#「あたし」に傍点]は友だちなのに、あんたって気がつかないんだ。あーあ、いったってむだよね。あたしが議論してる相手は、その頭の中にいる臆病なおじいさんで、そのおじいさんはあたしの話に耳をかそうとしないんだもん。いいわよ、彼女と仲よくおやんなさいよ。でも、あの人、あんたの驚くような秘密を持ってるわよ」 「なんだ? どんな秘密だ?」ピリは震えていた。ハルラの言葉を聞きたくなかった。ハルラが彼の足もとに唾を吐き、身をひるがえして砂浜を駆け去っていくのを見て、かえってほっとした気持になった。 「自分で見つけたらいいわ」ハルラがふりむいてどなりかえした。泣いているような声だった。  その夜、ピリは、白い歯がすぐ後ろから噛みついてくる夢にうなされた。  しかし、朝になると、リーはふくらんだバッグにすてきな朝食を用意して、またやってきた。ココナッツ・ミルクを飲みながら、のんびりと中休みしたあと、二人はふたたびサンゴ礁へでかけた。海賊におそわれてさんざんな目にあったが、なんとか生きて帰ることができ、夜の集まりに間に合った。  ハルラはそこにいた。そんな服装のハルラを見るのは、ピリもはじめてだった。サンゴ礁の警備員が着るブルーのチュニックとショーツ。彼女がディズニーランドに就職して、昼間はビキニ環礁で母親と働いていることは、ピリも知っている。しかし、こんなふうに正装したのは見たことがなかった。草の腰みのに、ようやく慣れてきたところなのだ。ついこのあいだまで、ハルラは彼やそのほかの子供たちとおなじように、いつも全裸だった。  ハルラは前よりもなんとなくませ[#「ませ」に傍点]て、大きく見えた。たぶん、それは制服のせいなのだろう。リーの隣に立てば、やっぱり子供に見える。そのことにピリは気持をかき乱され、自分を守ろうとして、考えが横にそれていった。  ハルラはピリを避けようとはしなかったが、どこかもったいぶったよそよそしさを見せた。まるで仮面をつけたか、それとも、いままでつけていた仮面をはずしたかのようだった。その堂々とした物腰は、とても年からは想像もできないものに、ピリには思えた。  リーは、ピリが帰ろうとする直前にいなくなった。彼は家路をたどりながら、ハルラがここへ顔を見せてくれないものだろうか、そうすれば、ゆうべ彼女にあんなことをいったのをあやまれるのにと、なかば待ちのぞんだ。しかし、ハルラは追ってはこなかった。  船首が波を切るような圧力を、彼は背後に感じた。それは、まだなじみの薄いメカニズム、魚の側線のように、まわりの水のわずかな変化にも敏感な感覚器が、知らせたものだった。なにものかが後ろにいる。そして、いくら死物狂いにひれ足で水を蹴っても、距離は刻々と縮まっていく。  あたりは闇だった。そいつがピリを追いかけるときは、いつも闇なのだ。夜の大気の上に漂いおりてくる、あのそこはかとない非物質的な闇ではなく、深海の闇、原初の、そして永遠の夜。口いっぱいに水を含んだまま悲鳴を上げようとしたが、唇を通らないうちに、ゴロゴロという臨終の息になってしまった。まわりの水は、自分の血でなま温かい。  追いつかれないうちにと、後ろへ向きなおったとき、ハルラの顔が、死骸のように青白く無気味に夜闇の中で光っているのが見えた。いや、ちがう。ハルラではなく、リーだ。リーの口は体のずっと下まで裂け、縁にはカミソリの刃が生えて、胸にぽっかり開いた三日月形の穴になっていた。彼はもう一度悲鳴を上げ――  そして、がばと起きあがった。 「なんだ? どこにいる?」 「わたしはここよ。もうだいじょうぶ」  彼女にやさしく頭を抱かれて、彼はすすり泣きをこらえた。彼女はなにごとかをささやいてくれたが、意味がよくわからなかった。たぶん意味はないのだろう。それだけで充分だった。いつも悪夢から覚めたときはそうなのだが、まもなく気持はおちついた。もし悪夢がいつまでもつきまとうようなら、こんなに長くひとり暮らしはできなかったろう。  目の前には、月に青く照らされた彼女の乳房だけがあった。そして、肌と海水の匂い。彼女の乳首は濡れていた。ぼくの涙で? いや、唇がひりひりしていたし、頬が軽くさわったとき、その乳首が硬くなっているのがわかった。彼は自分が眠りながらなにをしていたかに気づいた。 「あなたはお母さんを呼んでいたのよ」彼の心を読んだように、彼女はささやいた。「悪夢を見ているときは、起こしちゃいけないんですって。ああしたほうがおちつくようだったから」 「ありがとう」彼は静かにいった。「ここにいてくれて、という意味だよ」  彼女は片手をピリの頬にそえると、すこし彼の頭をかたむけて、キスをした。母親的なキスではなかった。彼はこれがもういままでとおなじゲームでないことを知った。彼女が別のルールを押しつけてきたのだ。 「リー……」 「だまって。もうあなたもそろそろ覚えていいときよ」  彼女に静かに仰向けに横たえられて、彼は既視感《デジャビュ》におそわれた。彼女が唇を下へ這わせていくにつれて、過去の人生からの連想がつぎつぎに呼びさまされた。よく知っている感覚だ。最初の少年期のあいだに、たびたび起こったことだ。前にこれとよく似たかたちで起こったなにかが、これから起ころうとしており、そのいくぶんかがまた記憶に残るだろう。はじめて若者になったときも、年上の女から誘惑された。彼女の手ほどきは巧みだったし、そのすべてをおぼえているが、思い出したくなかったのだ。ピリは熟練した男性であると同時に、子供でもある。 「ぼくはまだそんな年じゃないよ」と抗議したが、彼女の手には、もう彼が充分そんな年だという証拠が握られていた。何年か前から、すでにそんな年だったのだ。ぼくは十四歳だ、と彼は思った。それなのに、どうしてまだ十だなんて、自分をごまかしていられたのだろう? 「あなたは元気のいい若者よ」彼女が耳もとでささやいた。「いつまでもそんなことばかりいうようなら、わたしはがっかりしちゃうわ。もうあなたは子供じゃないのよ、ピリ。その事実を認めなさい」 「うん……そうだね」 「やりかたは知ってるでしょう?」 「と思うけど」  彼女は彼のそばに横たわり、両足を引きあげた。その体は大きく、青白く、しなやかな力に満ちていた。彼女はサメのようにぼくをのみこむだろう。腋《わき》の下にある彼女の鰓が、呼吸といっしょに開閉し、塩水とヨードと汗の匂いがした。 ピリは体を起こし、両手と両膝をついて、彼女の上にかぶさっていった。  ピリは彼女より先に目覚めた。もう日が昇っていた。温かく、雲のない朝が、また明けたのだ。予定された最初の台風がやってくるまでには、まだ二千日もある。  ピリは喜びと悲しみの混じりあった、目まいに似た気分だった。悲しいことに、サンゴ礁ではしゃぎまわる時代がこれで終わったのを、すでにさとっていた。これからもあそこへでかけることはあっても、もう前とおなじようにはいかないだろう。  十四歳! その年月はいったいどこへ行ったのか? 自分はもうおとなに近い。その考えから逃れようとしているうちに、もっと受け入れやすい考えを見つけた。自分は思春期の若者、そして、この見知らぬ女に性の神秘の手ほどきをされた、とても運のいい若者なのだ。  彼は眠りこけている彼女の腰に両手をまわし、いとしげに撫でさすった。この女は遊び仲間から母親、そして、こんどは恋人になった。そのほかに、まだどんな役割を隠しているのだろうか?  しかし、それはどうでもよいことだった。もうどんなことにも煩わされはしない。すでに彼はきのうまでの自分を軽蔑していた。自分はもう少年ではなく、若者なのだ。かつて若者であったときの記憶から、彼はそれがどんな意味であるかを知り、そして興奮を味わった。それはセックスの時期、内部の探求と、他者の探求の時期なのだ。その新しいフロンティアへ、自分はこれまでサンゴ礁で示したのとおなじ一途《いちず》さで、立ちむかっていくだろう。  そろそろと、彼女の眠りをかき乱さないようにして、体をにじらせた。しかし、彼がはいりこむのといっしょに彼女は目を覚まし、顔をふりむかせて、眠たげなキスをよこした。  結ばれあってその朝を過ごしたあと、やがて二人は満ちたりて日ざしの下に寝そべり、つやつやした爬虫類のように体を焼いた。 「とても信じられないわ」彼女がいった。「あなたはもうここに……どれぐらい? あれだけ大ぜいの娘たちや年上の女にかこまれていたのに。それに、わたしの見たところ、すくなくともその中の一人は、あなたに気があるみたいだったわ」  その話題にはふれられたくなかった。ほんとうは子供でないのを、彼女に知られずにおくのは、大切なことだ。知られたら、すべてが変わってしまう。そんなのは公平じゃない。ひどすぎる。なぜなら、これは最初の体験だからだ。ゆうべのあれは再発見でなく、まったく新しいものだった――そんなことを説明しても、わかってはもらえないだろう。自分は大ぜいの女と寝たことがあるし、それを思いだせないわけでもない。その記憶はすべて残っており、しかも、それはセックス・プレイにもちゃんと現われている。ゆうべの自分は、決してへま[#「へま」に傍点]なティーンエイジャーではなかった。どうすればいいかを教えてもらう必要はなかった。  だが、やはりそれは新しい[#「新しい」に傍点]。自分の内部にいる老人は見物人であり、貴重なコーチではあったが、そのすれっからしの観点が二人のあいだに割りこんでこなかったおかげで、ゆうべの出来事はたんなる繰り返しにならずにすんだのだ。それは最初の経験であり、最初の経験は特別なのだ。  しつこく問いつめられて、彼は自分の知っているたった一つの方法、キスで口をふさぐことで、彼女を黙らせた。この関係を考えなおさなくてはならないのは、明らかだった。彼女の質問のしかたは、遊び仲間のそれでも、母親のそれでもない。その新しい役割の中では、彼女は自分とおなじように自己中心的で、一瞬一瞬の欲求にしか、そしてなによりも個人的な欲求にしか、関心がないようだった。母親としての彼女は、苦境の中で無言の慰めだけを与えてくれたのに。  いまの彼女は恋人だ。愛を交わしあっていないときの恋人たちは、いったいなにをするのだろ?  二人は浜辺やサンゴ礁へ散歩にでかけた。いっしょに泳ぎもしたが、以前とはちがう感じだった。二人はさかんにおしゃべりをした。  まもなく彼女も、彼が自分のことを語りたがらないのに気づいた。ときおり、瞬間的に彼をまごつかせるような奇妙な質問をして、思い出したくない人生のある時期へ投げもどす以外には、まったく彼の過去にふれなかった。  二人は必要物資をとりにいくときのほか、村には寄りつかなかった。二人を村から遠ざけたのは、おもに彼の無言の意志表示だった。もう何年も前に、ピリは村のみんなに対して、自分がほんとうは子供でないのを、はっきりとさせたことがある。自分で自分の世話ができることを彼らになっとくさせるために、そして彼らから過保護にされるのを避けるために、そうすることが必要だったのだ。村人たちは、わざと秘密を洩らしはしないだろうが、ピリのために嘘をついてくれたりもしないだろう。  こうして彼は、リーとの関係に対してますます神経質になっていった。いわば、それが嘘の上に築かれているからだ。嘘というのが大げさなら、すくなくとも事実の隠匿《いんとく》にはあたる。いずれは打ち明けなくてはならないと考えて、彼はその瞬間がくるのを恐れた。リーが自分に惹《ひ》かれるのはおもに年齢差のせいだと、彼の一部は確信していた。  やがて彼女は、ピリが筏《いかだ》を持っているのを知って、この世界の縁まで航海してみたいと言いだした。  ピリが古いけれども筏を持っているのは、事実だった。最後の旅のあと、生い茂った藪《やぶ》の中へしまいこまれたままになっている筏を、二人はひっぱりだし、手入れにとりかかった。ピリはうれしかった。これですることができたし、しかも、なかなかの大仕事だ。おしゃべりをしている暇はない。  筏は、丸太をロープで結び合わせただけの単純な構造だった。気の狂った水夫でもなければ、こんなものを太平洋に浮かべたりはしないだろうが、二人にとっては安全そのもの。天候はあらかじめわかっているし、予報は絶対に正確だ。かりに筏がばらばらになっても、泳いで帰ることができる。  ロープはみんな腐っていて、ほんの弱い波を受けても、すぐにばらばらになってしまいそうだった。それを新しいのにとりかえ、新しい帆柱を立て、新しい帆を張らなくてはならない。二人とも帆走にはまったく素人だったが、風が、夜は世界の縁に向かって吹き、昼は逆に縁から吹くのを、ピリは知っていた。だから、帆を上げればあとは簡単で、航海は風にまかせればいい。  彼はスケジュールをチェックして、干潮のときに目的地へ着くように念を入れた。その夜は新月だった。彼女が世界の縁を見てどんな反応を見せるだろうかと考えて、ひとりでクスクス笑った。闇夜にこっそりとそこへ近づけば、日の出のときの衝撃は、よけいに強烈だろう。  しかし、ラロトンガを出帆して一時間とたたないうちに、彼は自分のまちがいに気づいた。筏の上の夜は、しゃべるよりほかに、あまりすることがないのだ。 「ピリ、感じたんだけど、いくつかの話題を避けてるみたいね」 「だれ? ぼくが?」  リーは無人の夜に笑い声を立てた。彼女の顔はほとんど見分けられなかった。星ぼしは明るく輝いていたが、まだ、いまのところ百そこそこの数しか取りつけられておらず、それも空の一部にかたまっている。 「そう、あなたよ。自分のことを話そうとしないでしょう。まるで椰子《やし》の木みたいに、いきなりここの地面に生えてきたみたい。それに、お母さんもいるようすがない。あなたの年から見て、母親と離縁してることはありうるけど、それならどこかに保護者がいるはずだわ。あなたの道徳的な発達を見守っているだれかがね。そこから導き出される結論はただ一つ――あなたが道徳面で教育を必要としてないってこと。つまり、あなたには副操縦士がいる」 「ウム」  彼女はちゃんと裏を見透している。それぐらいは当然だろう。なぜ、いままで自分はそれに気づかなかったのか? 「つまり、あなたはクローンね。自分の細胞の一つから作りあげた新しい肉体に、自分の記憶を移植させたんだわ。ほんとのあなたはいくつ? それとも、たずねちゃいけない?」 「いや、べつに。えーと……きょうは何日?」  彼女はそれを教えた。 「それと、いまは何年?」  彼女は笑いだしたが、それも教えた。 「ちくしょう。百歳の誕生日を素通りさせちゃった。でも、いいさ。そんなに重要なことじゃない。ねえ、リー、それを知って気持が変わった?」 「もちろん変わらないわ。いいこと、わたしには最初からわかっていたのよ。あなたと過ごした最初の夜から。たしかに、あなたは子犬のように熱心だったけど、自分をどう扱うかは心得ていたもの。教えて――どんな気分?」 「二度目の幼年期のこと?」彼は軽く揺れている筏の上に寝そべって、星の小さな集団に目をこらした。「まあ最高だね。まるで夢の中に生きてるみたいだ。熱帯の小島に、たったひとりで住んでみたいと思わない子供が、どこにいるだろう? ぼくにはそれができる。ぼくの中には一人のおとながいて、ぼくをトラブルから守ってくれるから。だけど、この七年間、ぼくは子供だった。やっとすこしでも成長できたのは、あなたのおかげさ。ちょっと遅すぎたかもしれないけどね」 「ごめんなさい。でも、いい潮どきに思えたのよ」 「そのとおりさ。最初はこわかったんだ。ねえ、ぼくは自分がほんとは百歳の老人なのを、ちゃんと[#「ちゃんと」に傍点]知ってるんだよ。わかる? もう一度おとなに成長したとき、すべての記憶がそこに待ちかまえているだろうこともね。それについて考えさえすれば、すべてのことをはっきり思い出せるんだ。だけど、いままではそうしたくなかったし、ある意味では、いまでもまだそうしたくない。第二の幼年期を希望した場合は、記憶が抑圧されているんだよ。完全に成長をとげた肉体へ記憶を移植する場合とちがって」 「知ってるわ」 「知ってる? あ、そうか。知識の上でね。ぼくもそうだったけど、それがどういう意味かは理解してなかった。結局、それは九年間か十年間の休暇なんだよ。自分の仕事からだけでなく、自分自身からの。あなたも九十歳になれば、必要を感じるかもしれない」  彼女はしばらく黙りこみ、彼の体をさわろうともせずにじっと横になっていた。 「それで人格の再統合は? もう始まった?」 「わからない。ちょっと苦しいもんだって話は聞いてるよ。最近、なにかに追いかけられる夢をよく見るんだ。たぶん、それがぼくの前身なのかも。ね?」 「ありうるわね。あなたの前身はなにをしてたの?」  それを思いだすには、しばらくかかった。もうこれで八年間、一度もそれについて考えたことがなかったのだ。 「ぼくは経済戦略家だった」  自分でも気がつかないうちに、彼は滔々《とうとう》と攻撃的経済政策の講釈をまくしたてていた。 「あなたは知ってるかな、太陽系の内惑星からの為替投機で、冥王星がすっからかんにされそうな危険があるのを? なぜだか知ってる? 光の速度、そいつが原因なんだよ。|時間のずれ《タイム・ラグ》。それがわれわれをつぶそうとしてるんだ。地球が侵略されて以来、人類のモットーは――りっぱなモットーだとぼくも思うんだが――われわれは協力しあって生きるべきだ、というものだった。当時の人類文化の推力は、完全な経済共同体の方向へむかっていた。だが、冥王星では、それはうまくいきっこない。いずれは独立ということになるだろう」  耳をかたむける彼女に、ピリが説明しようと試みている事柄は、ついさっきまでの彼には理解さえむずかしいようなものだった。しかし、心の内部からは堰《せき》を切ったように言葉がほとばしり出てきた。インフレ乗数とか、酸素と水素の先物《さきもの》買いとか、幽霊ドルと中央銀行業者によるそれの操作とか、見えない流出とか。 「見えない流出って? どういうこと?」 「説明はむずかしいけど、光の速度と結びついたものなんだ。実物財や用役、労働、そのほかの伝統的な効力とはいっさい関係のない、冥王星の経済的流出の一つなんだよ。それは、われわれが内惑星から手に入れる情報が、なんにかぎらず、すくなくとも九時間前のものだという事実と切り離せない。これが安定通貨経済のもとなら――たとえば、大昔の地球のように金本位制だったら、たいした問題にはならない。それでも、やっぱりいくらかの影響はあっただろうね。九時間のずれは、価格の差、将来性の差、市場の見通しの差になって出てくる。変動為替相場制のもとでは、時間はなによりも重要だ。そこでは、自分の労働投入量が、どれだけの物資購買量に換算されるかを――いいかえれば、個人の収支方程式を知るために――クレジット・メーターの情報をしょっちゅう更新しておかなくてはならない。その方程式の左右を釣り合わせて生き残っていくためにぜひとも必要なものが、インフレ乗数なんだよ。冥王星のわれわれは、内惑星の金融市場に対して、いつも不利を背負ってることになる。こうした情報の古さによる流出は、長年のあいだ○・三パーセントあたりを上下していた。しかし、インフレ乗数は年々加速されていく。いままでは、冥王星の軌道が内惑星へ接近をつづけていたために、それがある程度|相殺《そうさい》されていた。冥王星が夏へ近づくにつれて、タイム・ラグも短くなっていたからだ。しかし、それはいつまでもつづかない。やがて冥王星が近日点に達したら、そこから影響力の加速がはじまる。そうなれば戦争だ」 「戦争?」彼女はショックを受けたようだった。むりもない。 「経済的な意味での戦争だよ。通商協定を破棄するのは、たとえその協定でこっちが膏血《こうけつ》を絞られていたとしても、やっぱり敵対行為だからね。それで内惑星の全市民は経済的打撃をうけるだろうし、こっちも報復がくるのを覚悟しなくちゃならない。共同市場から脱退すれば、不安定性を招きこむことになる」 「どれぐらいひどいことになりそう? 撃ち合い?」 「そこまではいかないだろう。でも、相当に破壊的だよ。不況は笑いごとじゃない。むこうは当然そいつを計画してくる」 「ほかに方法はないの?」 「冥王星の全政府と全企業の本社を内惑星へ移動させよう、という提案もあった。それも一つの方法かもしれない。しかし、そうなったら、われわれのものだという自覚がどうして持てる? 冥王星はただの植民地になってしまう。長い目で見れば、それは自主独立よりずっと悪い解決法なんだ」  彼女は黙ってしばらく考えこんでいた。それから、こっくりと首をうなずかせた。その動きが、闇の中でかろうじて見分けられた。 「その戦争までは、あとどのぐらい?」  彼は肩をすくめた。「あれからずっと接触がなかったからね。最近の情勢がどんなふうか知らない。しかし、あと十年かそこらは、なんとか辛抱できるだろう。それからは、脱退するしかなくなる。もし、ぼくがきみの立場なら、必需物資をためこんどくな。罐詰食品、空気、水、そんなものを。生きのびるためにそれを消費しなくちゃならないほど、事態が悪化するとは思えない。しかし、準物々交換の世の中になれば、こういう品物しか価値がなくなってくる。クレジット・メーターに購買注文をパンチしたって、せせら笑われるだけだからね、いくら労働をそそぎこんであっても」  筏がゴツンと音を立てた。二人は世界の縁に到着したのだ  外海からいきなりそそり立った堰堤《えんてい》の上の突きでた岩に、二人は筏のもやい綱をつないだ。ここはラロトンガから五キロの沖である。あたりがいくらか明るくなるのを待ちかねて、岩の斜面をよじ登りはじめた。  そこはごつごつしていた。ダムの内側を、発破でふっとばしたままなのだ。斜面は三十度の角度で五十メートルせりあがってから、急に水平になり、そして鏡のようになめらかになった。世界の縁であるダムのてっぺんは、切削《せっさく》レーザーでつるつるにされた、長さ三百キロ、幅四キロの巨大なテーブルの表面だった。二人は濡れた足跡を残しながら、その外縁へと長い徒歩の旅に出発した。  まもなく、のっぺらぼうの表面の上で、すべての遠近感が失われてしまった。もう海側の縁は見えなくなり、外側の断崖はまだ見えてこない。この頃には、夜もすっかり明けてきた。絶好のタイミングだ。外側の縁に着くころには、ちょうど日が昇って、すばらしい眺めを見物できるだろう。  外縁まであと百メートルに近づき、むこうがすこし見えてきたところで、リーは無意識に足を遅らせはじめた。ピリは彼女を急《せ》きたてなかった。見ろと人に強制できるような種類のものではない。実は、自分もみんなといっしょにこのあたりまでやってきて、途中でひきかえしたことがある。もうすでに、墜落の恐怖が強まってきている。しかし、ともかく彼女はついてきて、彼といっしょに峡谷の突端に立った。 〈パシフィカ〉は、三つの部分に分けて作られ、水がたたえられることになっていた。二つはすでに完成しているが、三つ目はまだ掘削工事中で、いちばん深い海溝のほかは水がはいっていない。水は二人がいまその上に立っているダムによって、この区画から堰止《せきと》められている。海溝や、海底山脈、平頂海山《ギヨー》、斜面などが、仕様書どおりにすべて完成すれば、海底は軟泥で覆われ、くさび形の区画に放水がされることになる。この水は、地表の液体水素と液体酸素を核融合プラントからの無尽蔵な電力で化合させたものだ。 「われわれは、母なる地球でオランダ人がやったのとおなじことをやってるんだよ。ただし、あべこべにだけど」  ピリはそう説明したが、リーからはなんの反応もなかった。彼女は呪縛《じゅばく》にかけられたように、ダムが作りあげた絶壁と、真下に見える底なしの海溝をのぞきこんでいた。それは霧に包まれているが、どこまでも下に落ちこんでいるように思えた。 「深さは八千メートル」ピリは彼女に教えた。「完成すると、正規の海溝にはならない。この区画に水をそそぎ入れたあとで、ダムをこわしてあそこへ埋めるんだ」彼はリーの顔を見て、それ以上は数字を持ち出そうとしなかった。その体験を好きなように噛みしめさせることにした。  人類の居住惑星でこれに匹敵する眺望といえば、ほかには火星の|大 地 溝 帯《グレート・リフト・ヴァレー》があるだけだろう。二人ともそれを見たことはないが、これに比べれば、その全景を一度に見られないという点で、遜色があるにちがいない。ここでは、端から端までが、そして海面の高さから太平洋の海溝最深部までに相当する距離が、一望のもとにある。峡谷は二人の眼下へまっすぐに落ちこみ、虚無の中へ消えている。二人の足の真下には虹が懸かっていた。左手には巨大な滝が一本の太い流れとなって、絶壁から弧を描いていた。ダムから溢れた何トンもの水が、枝分かれし、砕け散り、小さなしぶきからさらには霧となって、海溝の底に達するはるか以前にどこかへ吹き飛ばされてしまう。  真正面の約十キロ先には、この奈落に水が満たされたとき、沖縄バイオームになる予定の山があった。完成のあかつきには、水面上に現われるのは、小さい、黒く焦げた山の頂きだけだろう。  リーは、できるだけ長くそこにとどまって、見物しようとした。長く立っていればいるほど、気持はおちついてきたが、それでもやはりここには彼女を追いはらうなにものかがあった。この破砕された世界は、あまりにも規模が大きすぎて、人間のはいりこむ余地がないのだ。正午にはまだかなり間のあるうちに、二人は向きを変え、筏への長い帰り道をたどりはじめた。  筏に乗りこんで、戻り旅のために帆を張るあいだ、彼女はずっと黙りこんでいた。風は思い出したように吹くだけで、ほとんど帆はふくらまなかった。あと一時間かそこらしないと、強い風は吹かないだろう。筏からは、まだダムの堰堤が見えた。  二人はおたがいに顔をそむけて、筏の上に坐っていた。 「ピリ、連れてきてくれてありがとう」 「どういたしまして。むりにその話をしなくてもいいんだよ」 「わかったわ。でも、そのほかにちょっと話したいことがあるの。ただ……どこから話しはじめたらいいか、よくわからなくて」  ピリはそわそわと身じろぎした。昨夜の経済論で、気持が動揺していた。それは過去の人生の一部、まだ戻っていく心構えのできていない一部だ。彼はすっかり混乱しきっていた。この風と水の有形世界にはなんの関わりもない思考が、頭の中で渦巻いている。だれかが呼びかけているのだ。むかし知っていた、だが、いまは会いたくないだれかが。 「へえ? なにを話したいんだい?」 「あのね――」と彼女はいいかけて、思いなおしたようすだった。「なんでもない。まだその時機じゃないわ」  彼女はピリににじりよって、体にさわった。だが、彼にはその気がなかった。まもなく彼女にもそれがわかり、筏のむこう側へと離れていった。  混乱した思考といっしょにとり残されて、彼は仰向けに寝ころんだ。突風がどっと吹きつけてから、またおさまってしまった。トビウオが水面から跳ねあがり、もうすこしで筏を飛び越えそうになった。空の一片が大気の中を落下してくる。一枚の羽根のようにひらひらと舞いおりる小さな空のかけらは、表が青く、裏は茶色だった。それが欠け落ちたためにできた空の穴も、よく見えた。  きっと二キロか三キロむこうだ。いや、待てよ、そんなはずはない。空のてっぺんは二十キロの高さで、その真中あたりが落っこちたらしい。ここは〈パシフィカ〉の中心からどのぐら,い離れているだろう? 百キロ?  空のかけら[#「空のかけら」に傍点]?  彼が立ちあがったはずみに、筏はもうすこしで転覆しそうになった。 「どうしたの?」  大きい。こんなに遠くからでも、あのかけらは大きく見える。夢のようにゆっくりした落下の動き、それが錯覚を生んだのだ。 「空が……」彼はそこで言葉につまり、もうすこしで笑いだしそうになった。しかし、照れくさがっているときではない。「空が落ちてくるよ、リー」あとどれぐらい? それを見あげながら、頭の中は数字でいっぱいになった。あれに大気層を突き抜けるだけの重さがあるとして、あの高さからの終速度は……毎秒六百メートル以上。落下の所要時間、七十秒。そのうち三十秒は、すでに過ぎ去っている。  リーはひたいに手をかざして、彼の視線を追った。彼女はまだ冗談だと思っているらしい。空のかけらは、濃い大気層に突入するにつれて、赤熱しはじめた。 「あら、ほんとに落ちてくるわ。見て」 「大きいよ。一キロか二キロの直径がある。きっと、ものすごい水柱が立つだろうな」  二人はそれが落ちてくるのを見まもった。まもなくそれは速度を増しながら、水平線のむこうに消えた。二人は待ちつづけたが、もう見せ場は終わったようだった。それなのに、なぜ自分はまだ不安なのか? 「直径二キロの岩っていうと、どれぐらいのトン数かしら?」リーがぽつりといった。彼女も浮かぬ顔だった。しかし、それが海中へ落ちていった方角をまだ見やりながら、二人は筏の上に腰をおろした。  やがて二人はトビウオの群れにとり巻かれ、海は狂ったように沸きかえった。トビウオはパニック状態だった。水面を打つと同時にまた跳びあがった。なにかが真下を通り過ぎるのを、ピリは目よりもむしろ体で感じた。やがて、きわめて徐々に、海鳴りが近づいてきた。太く低いとどろきは、まもなく全身の骨がこなごなになりそうな振動に変わった。それにさらいあげられて揺さぶられたあと、彼は弱々しくひざまずいた。茫然として、はっきり物が考えられなかった。彼の目はまだ水平線を見つめており、白い扇形のものが、はるか遠くで静かに壮麗にせりあがっていくのを見てとっていた。落下の衝撃でできた水柱が、まだ立ち昇りつづけているのだ。 「あれを見て」ようやく声をとりもどしたリーがいった。彼女もやはりうろたえているようだった。彼はリーが指さすほうを見あげた。くねくねした一本の線が、青空を横切って這いすすんでいく。つかのま、これが最期かという気がした。宙にかかったドームぜんたいがひび割れて、頭上へ落下してくるように思えたのだ。だが、そこで気がついた。太陽の走行レールの一つだ。さっき落下した岩のためにひき剥《は》がされたレールが、ねじくれた金属の蛇のようにのたうっているのだ。 「ダム!」と、彼はさけんだ。「ダム! ぼくらはダムに近すぎる!」 「え?」 「ダムに近いここらでは、底が盛りあがってるんだ。このへんの海はそう深くない。いまに波がやってくるよ、リー、高波が。ここでうんと高くなる」 「ピリ、影が動いているわ」 「はあ?」  意外な出来事がやつぎばやに起こって、対応のすべもない。しかし、彼女のいうとおりだ。影が動いている。だが、なぜ[#「なぜ」に傍点]?  ようやくわかった。太陽は沈んでいくが、西方の隠された穴につうじるレールを走っているからではない。さっきの岩がぶつかったため、レールからはずれて、大気の中を落下しているのだ。  リーにもやはりそれがわかったようだった。 「あれはどんなもの?」彼女はきいた。「どのぐらいの大きさ?」 「それほどでっかくはないよ、聞いた話だと。たしかに大きいけど、さっき落ちてきた塊りほどじゃない。だけど、一種の核融合炉だからね。海に落ちたら、なにが起こるかわからないな」  二人は麻痺したようになっていた。なにかをすべきだとはわかっているが、あまりにも多くのことが一時に起こりすぎた。じっくり考える暇もない。 「潜るのよ!」リーがどなった。「水に潜るのよ!」 「え?」 「泳いでダムから離れなくちゃだめ。できるだけ深く潜って。そしたら、波が頭の上を通りすぎていくわ、ちがう?」 「どうかな」 「わたしたちにやれることはそれしかないわ」  そこで二人は海にとびこんだ。ピリは自分の鰓《えら》が働きはじめるのを感じ、闇に包まれた海底へ向かって斜めに潜っていった。リーも、左のほうで全力をふりしぼって泳いでいる。と、夕映えもなく、前ぶれもなしに、あたりが急に真暗になった。太陽が海に落ちたのだ。  どれほどのあいだ泳ぎつづけていたろうか、ふいに彼は体が上にひっぱられるのを感じた。無重量で水中を漂っているために、加速を感じとるには条件がよくない。にもかかわらず、急上昇するエレベーターに乗ったような、まぎれもない感覚があった。それといっしょにやってきた圧力波で、いまにも鼓膜が破れそうだった。下へ潜ろうと足をけりだし、手で水を掻いた。自分が正しい方向へ向かっているかどうかさえも、よくわからない。そのうちに、ふたたび体が下降しはじめた。  闇の中を、ひとりぼっちで泳ぎつづけた。つぎの大波が通りすぎ、彼を持ちあげてまた下におろした。二、三分後、別の大波がこんどは別の方角からやってきたように思えた。彼はどうしようもなく混乱してしまった。とつぜん、自分がまちがった方向へ泳いでいる気がした。どうしていいかわからなくなって、泳ぎをやめた。いったい、これで正しい方角に向かっているのだろうか? それを知る手だてがない。  水を掻くのをやめて、方向を見きわめようとした。むだだ。波のうねりを感じ、自分が木の葉のようにもてあそばれているのを確信した。  やがて、無数の泡が全身を這いまわるような感覚で、皮膚がむずむずした。それがこの状況への手がかりを与えてくれた。泡は上に昇っていくものだ、そうじゃないか? いま、泡は体の上を腹から背中へと動いていく。だから、下はあっち[#「あっち」に傍点]だ。  しかし、その情報を利用する暇もなかった。なにか固いものに腰が強くぶつかり、背中がねじれて、彼の体は泡と水の中でとんぼ返りを演じたのち、つるつるした表面を滑っていった。非常な加速がついた感じだった。自分がどこにいて、どこに向かっているかはわかったが、もうできることはなにもなかった。波の末端が、波をダムの岩の斜面からきれいに持ちあげて、滑らかな上面へと載せたのだ。いま、その波は彼を世界の縁にそって押しやりながら、しだいに勢いを弱めていた。彼はうつ伏せに体をひっくりかえし、つるつるした表面に両手でつかまろうとした。まさに悪夢だった。なにをしても、まったく効果がない。やがて、頭が水からぽっかり空気の中に出た。  まだ滑走はつづいていたが、大波は小さく砕け散って、泡と水たまりにおちつこうとしていた。水は驚くべきスピードで引いていった。彼は冷たい岩へ愛しげに頬を押しつけたまま、そこに一人とり残された。あたりはまっ暗闇だった。  彼は動こうとしなかった。もしかしたら、足指のすぐ後ろが八千メートルの谷底だということもありうる。  ひょっとすると、つぎの波が打ちよせてくるかもしれない。もしそうなったら、こんどの波は、自分をあらしの中のコルク栓のように持ちあげたりせず、上からたたきつぶすだろう。そうすれば即死だ。彼はそのことをくよくよ心配するのをやめた。いまの願いは、これ以上滑っていかないことだけだった。  星ぼしは消えていた。停電? いま、それがまたたきしてついた。彼はすこし頭を持ちあげ、東のほうに、ほのかな光が滲んでいるのを目に入れた。月が昇ってくる――しかも、とんでもないスピードで。見まもるうちに、細い三日月は回転をつづけ、たった一分たらずで明るい満月に変わった。だれかがまだ監督にあたっていて、下界へ照明を投げかけようと決めたのだろう。  まだ膝ががくがくしていたが、彼は立ちあがった。噴水のように高い波しぶきが、右手のはるか遠くに見え、海がそこでダムを攻めつけているのを示していた。いまいる場所は、ダムの両端から遠く離れた、テーブル・トップのほぼまんなかだった。海は三十ものハリケーンにかきむしられたように見えるが、さっきのような津波が襲ってこないかぎり、この距離なら安全だった。  月光がダムの上面を銀の鏡に変え、その上にばらまかれた魚がぴちぴちと跳《は》ねていた。彼はもう一つの人影が立ちあがるのを見て、そっちのほうへ駆けだした。  ヘリコプターが赤外線探知機で二人を探し出した。どれだけの時間そこにいたのか、見当がつかなかった。月が空の中央で静止したままだったからだ。  二人は身震いしながら、キャビンに乗りこんだ。  ヘリコプターのパイロットは、二人が見つかったのを喜んだあと、失われた人命のことを悲しげに語った。彼女の話では、三名の死者のほかに、十五名が行方不明で、絶望視されているという。犠牲者たちの大半は、折あしくサンゴ礁の上で働いていたのだ。〈パシフィカ〉の全陸地表面が津波をかぶったが、人命の損害は最小限に食いとめられた。大部分の人間が、津波のやってくる前に、エレベーターで地下へ、またはヘリコプターで上空へ避難するのに間に合った。  これまでに判明したかぎりでは、地殻内の熱膨張が、惑星の内部へ向かって、予想よりもずっと奥へ進行していたらしい。この地底では忘れられがちな事実だが、地上はいま夏にあたっている。技術者たちは、ここの空の内部表面が数年前から安定化していると考えていたが、わずかな温度の上昇で新しい断層が生まれたのだ。パイロットが指さしてみせる彼方では、たくさんの小艇が空のすぐそばへ蛍のように集まり、災害の発生現場をサーチライトで照らしていた。表面が安定するまで、もう二十年間〈パシフィカ〉の工事を中止する必要があるかどうかは、まだだれにもわからないという。  パイロットはラロトンガで二人をおろした。島はめちゃくちゃになっていた。高波がサンゴ礁を乗り越えて打ちよせ、泡立つ海水と漂流物とが、すさまじい勢いで島の上を掃いていったのだ。建物はあらかた押し流され、エレベーターを収納したコンクリート・ブロックが、装飾的なカムフラージュを剥ぎとられて残っているだけだった。  ピリは、見なれた人影が、かつては美しい村だった廃墟の中を通って、こっちへ近づいてくるのに気づいた。彼女は途中から駆け足になり、押し倒すような勢いで彼に抱きつくと、笑いながら彼にキスを浴びせた。 「てっきり死んだものと思っていたのよ」ハルラは、切り傷や打撲傷がないか調べようとでもするように、彼からすこし距離をとった。 「よっぽど運がよかったんだ」彼はまだ自分が生きのびたのが信じられない気持だった。海の上でも相当すさまじいものに思えたのだが、こうして島に帰ってみると、災害のひどさがいっそう明らかになる。彼はそれを見て、あらためて怖気《おじけ》をふるった。 「リーが、波の下へ潜ろうといいだした。それで命拾いできたんだよ。すうっと上へ持ちあげられたあと、最後の大波がぼくらをダムのてっぺんまで押しあげてから引いていったんだ。ぼくらを木の葉のように落っことしてね」 「あら、わたしの場合はそんなにお手柔らかじゃなかったわよ」リーが口をとがらせた。「かなりの衝撃だったわ。手首を挫《くじ》いたかもしれない」  医師は手近にいた。手首に包帯を巻かれるあいだ、リーはピリをじっと見つめていた。ピリはその目つきが気に入らなかった。 「あなたに話そうと思っていたことがあるのよ、筏の上で。でなければ、島へ帰ってからすぐに。とにかく、もうあなたがここで暮らす意味はなくなったけれど、これからどこへ行くかはあなたしだいだわ」 「やめてよ」ハルラがたまりかねたようにいった。「まだ早いわ。まだ彼になにも話さないで。そんなのフェアじゃない。あっちへ行ってちょうだい」ハルラは、ピリの目には見えないなにものかの襲撃から、自分の体を張って彼を守ろうとしているようだった。 「わたしはただ――」 「だめ、だめ。この人のいうことを聞いちゃだめよ、ピリ。あたしといっしょにきて」ハルラは年上の女に訴えた。「二、三時間だけ、ふたりきりにしてちょうだい。まだ話せずじまいになっていたことが、いくつかあるの」  リーは決心のつかない表情だった。ピリは激しい憤懣《ふんまん》がわきあがってくるのを感じた。自分のまわりでなにかが起こっているのは、前から知っていた。それに目をつむっていたのはおもに自分の落度だったが、こうなれば知らずにはすまされない。彼はハルラにつかまれた手をふりほどいて、リーに向きなおった。 「話して」  リーは自分の足もとに視線を落としてから、もう一度彼の目を見つめた。 「ピリ、わたしはただの観光客じゃないわ。あなたをある方向へ導いてきた。あなたがなるべく楽にこの話を受けとれるように。でも、あなたはまだわたしに抵抗している。もう、これを楽にすませる方法はどこにもなさそうだわ」 「やめてよ!」ハルラがふたたびさけんだ。 「きみは何者?」 「精神科医よ。あなたのように精神的な休暇状態にある人たち、あなたのいう二度目の幼年期≠ノある人たちを、回復させるのが専門なの。意識の別のレベルで、あなたはこうしたことをぜんぶ知ってたけど、あなたの内部の子供が、あらゆる段階でそれに抵抗したのよ。その結果が、たびたびの悪夢だった――おそらくその焦点はわたしだったでしょう、あなたが認めようと、認めまいとね」  リーは彼の両手首をつかんだ。くじいた片手の動きがぎごちなかった。 「さあ、聞いてちょうだい」リーは熱のこもった囁き声でいった。彼の顔に現われたパニックが堰《せき》を切らないうちに、彼がどこかへ逃げださないうちに、すべてをぶちまけてしまおうというように。「あなたはここへ休暇にやってきた。ここで十年間、のんびり成長しながら暮らすつもりで。それはもう終わったのよ。あなたが仕事を離れた当時の状況の見通しは、もう時代遅れになってるわ。あなたが夢にも思わなかったほど、事態の進行は早かった。あなたは、社会復帰したあと、来たるべき戦いの準備をととのえるのに、十年間の余裕を見越していた。その期間は、どこかへ蒸発してしまったわ。内惑星の共同市場が、すでに第一弾を発射してきたのよ。むこうは新しい決済システムを制定して、すでにそれがコンピューターに組みこまれて、動きはじめている。攻撃目標はこの冥王星で、もう一カ月も前から発効しているのよ。もうわたしたちは内惑星共同市場の加盟者という立場をつづけられない。なぜなら、いまからは、わたしたちが売買をしたり、金を動かしたりするたびに、インフレ乗数が冥王星側に不利になるよう、自動的に操作されるからよ。それは現存の協定に照らしてみても完全に合法的だし、彼らの経済にとって必要でもある。ただ、タイム・ラグという冥王星の不利を無視しているわけ。むこうの意図がなんであろうと、こっちはそれを敵対行為と見なすしかない。だから、どうしてもあなたに帰ってきてもらって、経済戦を指導してもらわなくちゃならないのよ、経済相閣下」  その最後の一言が、わずかながらピリに残されていた平静をうちくだいた。彼はリーの両手をふりほどくと、狂おしい目であたりを見まわした。それから、いちもくさんに砂浜を走りだした。一度、自分で自分のひれ足につまずいたが、スピードをゆるめずに走りつづけ、やがて見えなくなった。  ハルラとリーは無言でそれを見送った。 「あんなに荒っぽくやらなくてもよかったのに」ハルラはいったが、実はそうでないことを知っていた。ただ、あんなふうに混乱したピリを見るのが、かわいそうでならなかったのだ。 「むこうが抵抗するときは、手早くやるにかぎるの。それに、彼はだいじょうぶ。いちおう自分との戦いはあるでしょうけど、その結果については疑問の余地はないわ」 「じゃ、あたしの知ってたピリはまもなく死ぬのね?」  リーは年下の女の肩に手をかけた。 「いいえ、ちがうわ。これは、勝者も敗者もない、人格の再統合なのよ。いまにあなたにもわかる」リーは、涙に濡れたハルラの顔をのぞきこんだ。 「心配しないで。きっと年とったピリも好きになるわよ。彼のほうも、あなたを愛していることに気づくのに、暇はかからないはず」  夜のサンゴ礁へくるのは、これがはじめてだった。そこは内気な魚の領分で、彼らはいつもピリより一歩先に、すいと隠れ場へ逃げこんでしまった。これからの長い夜のあいだ、いつになったら魚たちは勇をふるってそこから出てくるのだろうかと、彼はいぶかしんだ。太陽は、これから何年も昇らないかもしれない。  魚たちも二度と出てこないかもしれない。環境に起きた変化に気づかずに、夜の魚も昼の魚もそれに適応しようとしない。食物連鎖が破壊され、臨界温度が狂い、果てしなくつづく月夜と、日光の不足とが、何十億年にわたってつちかわれた体内メカニズムを歪《ゆが》め、魚たちは死んでいく。当然そういうことが起こるはずだ。  生態学者たちは、たいへんな仕事を背負いこんだことになる。  しかし、外海に棲むただ一つの生物だけは、長いあいだ生きのびるだろう。彼は、昼と夜とに関係なく、動くものを手当たりしだいに食い、動かないものまでも食う。彼はなんの不安もなく、行動を規制する体内時計も、頭を混乱させる内的圧力も持っていない。あるのはただ一つ、すべてに優先する攻撃の衝動だけ。ここに食べ物があるかぎり、彼は生きつづけるだろう。  だが、白い腹をしたその殺し屋、別名〈幽霊〉の貧弱な脳に、いま、一片の疑いがやどった。それに似た疑いは、これまで幾度かその脳を訪れたことがあるのだが、彼[#「彼」に傍点]にはなんの記憶もない。彼[#「彼」に傍点]には思い出す能力がなく、ただ狩りをする能力があるだけなのだ。だから、彼[#「彼」に傍点]の横を泳ぎながら、彼[#「彼」に傍点]の冷たい脳に怒りに近い感情をかきたてているこの新しい生き物は、一つの謎だった。彼[#「彼」に傍点]はまたしてもそいつに襲いかかろうとしたが、そのたびに、半メートルの体長しかなかった頃からこのかた、およそ覚えのない感情にとらえられ、恐怖にかられてひきかえしてしまうのだった。  ピリは、おぼろげなサメの輪郭と並んで泳いだ。超音波信号の不明瞭な境界すれすれをうろついているサメが、月明かりで見分けられた。ときおり、サメは頭から尾の先までぶるっと震わし、彼のほうへ向きなおって、大きさを増してきた。そのときピリに見えるのは、ぱっくり開いた口だけだった。やがて、サメはすばやく向きを変え、底なしの奈落のような片目でピリを釘づけにしてから、すうっと泳ぎ去っていく。  ピリは、このあわれな愚かしい魚を笑うことができたら、と思った。こんな無知な、食べるだけの機械を、なぜ自分は怖がったりしたのだろう?  さようなら[#「さようなら」に傍点]、ウスノロくん[#「ウスノロくん」に傍点]。ピリは向きを変え、岸を目ざしてゆっくりと水を掻きはじめた。サメが向きを変えてこっちのあとを追い、警報器の有効範囲である球の中へ鼻づらをつっこんでくることはわかっていたが、そう考えても別にひるみはしなかった。もう怖くはない。すでに悪夢の腹にのみこまれたというのに、この上なにが怖いというのか? 悪夢のあごにとらえられたあと、自分は目覚め、そして思いだした。そして、恐怖にけり[#「けり」に傍点]がついたのだ。  さようなら、南海の楽園よ。こうなるまでのきみは、愉快な遊び相手だった。いまのぼくはもうおとなだ。これから戦争に行かなくちゃならない。  たのしくはなかった。いくらその時機がきたとはいえ、幼年期をあとにするのは、体の一部をもがれるように辛いことだった。いまや自分には責任がのしかかり、それを背負っていかなくてはならない。彼はハルラのことを思った。 「ピリ」と、彼は自分にいいきかせた。「おまえのようなとんまな少年は、とても生きていくのがむりだったのさ」  こうして泳ぐのも最後だと知りつつ、鯉の上を流れる水の冷たさを感じた。これまでずいぶん役に立ってくれた鰓だが、こんどの仕事には必要がない。そこには魚の出る幕はなく、ロビンソン・クルーソーの出る幕もないのだ。  さようなら、ぼくの鰓よ。  彼は岸に向かって力強く水を蹴りつづけ、やがて、水をぽたぽた垂らしながら、砂浜の上に立った。ハルラとリーが、そこで彼を待っていた。 [#地付き](浅倉久志訳) [#改ページ] [#ページの左右中央]    ブラックホールとロリポップ [#改ページ] 「ブブブブロー。ブブブ。ハロー。ハロー」何者かが長さ十キロメートルの鉄パイプの向こうから、ザンジアに話しかけていた。部屋いっぱいのゴングやシンバルを、怒り狂った巨大バチの群れがひっくり返したような騒音の中で、声を届かせようと必死に叫んでいる感じ。こんなひどい混信は聞いたことがなかった。 「ハロー?」と彼女は繰り返した。「わたしの波長で何やってんのよ?」 「ハロー」混信はまだつづいていたが、声はわずかに聞き取りやすくなっていた。「波長。捜索中、波長を捜索中……最善の受信状態を……ハロー? 聞こえますか?」 「ええ、聞こえてるわ。おたくが話してるのは……あれ、わたしのラジオ……」てのひらでラジオのパネルをぽんとたたいてみる。自分たちの作ったものがうまく作動しなくなったとき、大昔から人間たちのやってきたやり方だ。「いやだ、わたしのラジオったら、スイッチ入ってないじゃない。どうなってんの?」腹の底から怒りがわき立ってくるのを感じて、ほっとした。何であれ、茫然自失してしまうよりましだ。 「必要ないから」 「どういう意味、必要な――あなた[#「あなた」に傍点]いったい誰?」 「誰。代名詞……わたし? 諾《だく》。わたしのほうに障害があります。ごかんべんください。わたしの[#「わたしの」に傍点]? 諾《だく》、代名詞。お聞き苦しい点を、ごかんべんください。わたしは誰ではありません。何。わたしは何[#「何」に傍点]ですか?」 「わかったわ。あなたは何?」 「時空の特異現象。重力と因果律の|掃き溜め《シンク》。ブラックホールです」  ザンジアにはブラックホールの解説など必要なかった。生まれて十八年ずっと、それを追い求めていたのだ。彼女のクローンシスター、ゾエトロープといっしょに。でも、それが口をきくのには、慣れてなかった。 「じゃあしばらく、あなたが本当にブラックホールだっていうことにするわ」そういって、これがゾウイのちょっと手の込んだいたずらじゃないのかと心配になり、「単なる一時的な仮定よ――どうして話すことができるの?」  爆弾魔が轟音爆弾を破裂させているような音がした。それが繰り返された。 「わたしは時空のわく組みを操作し……いけません、どうか回線を保持して……回線を。わたしは時空のわく組みを操作します。制御された重力波を細長い……細長い円錐状に放射することによって。わたしはラジオのスピーカーに直接働きかけているのです。聞こえますか。わたしが」 「ところでそれは何なの?」彼女の耳には嘘八百を並べているように聞こえた。 「補足します。補足しましょう。わたしは空間それ自体を切り裂いて、そこへ――回線保持、回線保持、参照項目」テープが再生ヘッドを通してすばやく巻き戻されるような音がした。「こちらはBBC」と、かろうじて人間と聞き分けられるが、空電で不鮮明になった声がいった。テープがまたヒューンと音をたてた。「チガツ、ミッカ、西暦センキュウヒャク、ゴジュウシチネン、ホンジツ」またもテープを探し回る音。 「――ケルソン―モーレイの実験はエーテルの存在を否定的に証明したが、それには巧妙に配列した回転するプリズムが用いられ――」そして、金属的な声が返ってきた。 「エーテル。わたしは空間それ自体を切り裂いて――回線保持」今度は、そのプロセスは前より短かった。彼女が聞いたのは、連続活劇ビデオの一場面のようだった。「空間の歪曲《ワープ》をつらぬいて、しなやかなエーテル連続体の中を進ま――」 「そこで止めて。さっきいったのと違うじゃない」 「補足説明しているのです」 「つづけて。待った、あなた何をやってたの? そのテープのことだけど?」  声が止まった。そして答えが返ってきたとき、回線は少し聞きやすくなっていた。だがその声は、やはり人間のようには聞こえない。コンピュータだろうか? 「わたしは会話に慣れていません。その必要がないからです。しかし、ラジオ通信を傍受することによって、あなた方の言葉を学びました。わたしは不確定な統計的連鎖を利用して話しています。重力波および確率は、因果律の特異点の中において、その外と同じものではなく、不合理な事象が生起することを可能にしているのです」 「ゾウイ、本当にあなたなの、ねえ?」  ザンジアは、地球年齢でほんの十八歳で、冥王星の彼方の空間へ入り込む長軌道を、はじめて飛んでいるところだった。そこは広大な|彗 星 帯《コメタリー・ゾーン》で、宇宙が真に単調である領域だ。彼女の今までの全生活は、ブラックホールをどうやって見つけ、つかまえるかを学ぶことに捧げられてきた。だがそれに出くわすのは、めったなことじゃない。ザンジアが生まれたのは旅がはじまって一年後で、そしてそれが終わるまでまだ一年あるのだった。生まれてからずっと、彼女が顔を合わせたり話をしたりした別の人間は、たった一人だけ、それがゾウイだった。百三十五歳、彼女の一卵性双生児である。  二人のすみかは〈シャーリイ・テンプル〉。冥王星、ローウェル船籍の一万五千トン級核融合推進船。ゾウイは〈シャーリイ〉を抵当権なしで所有していた。何年も前、最初の旅で、第五スケールのホールを発見し、たちまち豊かになったためだ。たいていのホールハンターはそれほど幸福じゃない。  ゾウイはまた、孤独を楽しんでいるように思える点でも、ユニークだった。ほとんどのハンターは、大当たりを取ると隠退してのんびり過ごし、大きな会社を買収したり、金を安全な投資にまわしたりして、その権益で暮らすものだ。さらにもう二十年間ひとりぼっちになるなんて、気が進まないし、できもしないことだった。ゾウイは再度旅立ち、二度目の旅が成果なかったとわかると、また三度目を旅立った。三度目の旅でホールを見つけ、そして今度は五度目を全うしようとしていた。  だがいくつかの理由から、彼女が今度の旅で同乗者を必要としていたことを、ザンジアには一度もちゃんと説明していなかった。しかし、はたして彼女自身より適当な同乗者がいるだろうか?〈シャーリイ〉に積んだ医療器具を使って、彼女は自分のコピーを育て、それから彼女の娘として、かわいい女の子になるまで成長させたのだった。  ザンジアは〈|善 き 船《ザ・グッド・シップ》ロリポップ〉のコントロール・キャビンで体をくねらせ、船尾の運動室へとつづくハッチから頭をつき出してのぞいたが、そこには何もなかった。何を期待していたのか、自分でもわからなかった。ドライバーを手に、空中で身をかがめ、ラジオの部品を保守している修理パネルをこじ開けようとする。 「ひとりで何をしているのですか?」と声が訊《き》いた。 「どうしてそっち[#「そっち」に傍点]がいわないのよ、ゾウイ?」と、パネルを宙に浮かせ、怒りをこめて横へ突きとばした。薄暗い内部をのぞきこみ、オイルとパラフィンの臭いに鼻を曲げる。ペンシル・ビームで中の空間を照らし、コンポーネントにひとつずつ明かりを当てた。どれもこれも見慣れた親しいものばかり。ちょうど惑星生まれの子供たちにとって、近所の路地がそうであるように。位置の変わったものもなく、不審なものもなかった。重要な回路は湿気やほこりから守るため、プラスチック・ブロックに封じ込められているものが多い。手の加わった形跡はなかった。 「意思疎通に失敗しつつある。わたしはあなたの母親ではなく、重力と因果律の――」 「あいつだってわたしの母親じゃないわ」ザンジアがくってかかった。 「わたしの記録によれば、彼女はあなたを論破するだろうね」  ザンジアには声の口ぶりが気にくわなかった。しかし、ゾウイにこんなことを計画できたはずがないことは、認めないわけにはいかない。残るは二者択一のもう一方である。つまり、本当にブラックホールと話しているのだ。 「あいつ、わたしのお母さんじゃないわ」とザンジアは繰り返した。「でも、もしあなたがずっと耳をすましてたっていうのなら、わたしがどうして救命ボートなんかに乗ってここにいるのか、お見通しでしょ。だったら、どうして訊くのよ?」 「あなたを助けてあげたいから。わたしはあなた方二人の間に、ここ数年緊張が高まってゆくのを聞いてきた。きみは成長したんだよ」  ザンジアはコントロール・チェアに背をもたれさせた。頭があまりすっきりしなかった。  ホールハンティングはきわどい経済的バランスの上になりたっている。生存のための必需品を確保することと質量の制限の間の綱わたりである。莫大な元手を必要とし、利益はおぼつかない。そこでホールハンターになろうという者は、投機筋へのコネをつかむか、個人的に豊かである必要がある。  協会や会社組織でそれを大規模におこない、そろばん[#「そろばん」に傍点]にあう利益をあげた例は、かつて一度もない。冥王星政府は片道飛行のロボット探査機を使用して独占事業をつづけているが、探査機がホールの発見に成功するやいなや、誰が一番乗りし、所有権を主張するかという競争が、いつでもまき起こることが、長年の経験でわかっていた。そういうホールへ向かった船は、結果として起こる闘争の中で、法律や秩序も手が届かず、消え去るのが常だった。  ホールの需要は非常に大きかったので、税金逃れをしようとする人々によって支えられる、単独行の探鉱者が割り込むだけの経済的|適所《ニッチ》が残されていた。探鉱者たちの破産率は九〇パーセント。しかし、かつての金や石油のように、潜在的利益は、莫大なものであり、投機がやむことは決してなかった。  ホールハンターたちは冥王星を離れると、エンジン・パワーの限界まで加速し、その後、十から十五年間、質量探知機をずっと片目でにらんだまま、慣性飛行をつづける。時には、減速して反転せざるを得なくなるまでに、太陽《ソル》から半光年も離れることがある。質量が少なければ少ないだけ、より遠くまで行くことができる、というわけで、ハンターは単身行がおきて[#「おきて」に傍点]だった。  船団を組むことも試みられたが、ホールを見つけた船団がいっしょに戻って来ることはまれだった。中の一隻が災害を起こしがちだった。ホールハンターたちは、強欲で、利己主義で、うぬぼれが強いのである。  装備は信頼性が高くなければならなかった。交換部品は質量の点で割高につき、ホールハンターは、どの品を選ぶか、必死の選択を迫られるのだった。残していって、致命的な失敗を犯すかもしれないほうをとるか、持っていって、航続距離を縮め、ほんのもう一天文単位むこうに潜んでいるに違いない、すばらしいホールを見逃すのをとるか? ホールハンターたちは、修理や応急装備、そして、えいやっとたたいて直す腕前を上達させた。というのも、二十年間たてば、たとえ三重のフェイルセーフでさえも、ガタがくるかもしれないからである。  ゾウイは欠陥品の質量探知機にずいぶん汗を流したものだった。結局、彼女の手にあまると認めたのだが、最初の探知機は旅に出て十年でいかれ、次のは六年後に狂いはじめた。彼女はその両方から部品を取りはずし、一個の機能する探知機を作りあげようとしたのである。一年間、ヘアピンや風船ガムも同様のものを駆使して、だましだまし、何とかもたせてきた。こいつは絶望的だった。  しかし〈シャーリイ・テンプル〉は探鉱船中の宮殿だった。生涯に二つのホールを発見し、ゾウイは自分の富を築いていた。スペアの部品をためこみ、動力をパワー・アップし、そのうえとてつもない贅沢品まで積み込んでいた。救命艇である。  救命艇はまったくの贅沢品だといえた。たったひとつの点をのぞけば。それは宇宙航行装備の一部として、質量探知機を備えていたのである。彼女が買ったのも、主にそれが理由だった。なにしろ、たった十八ヵ月の航続期間しかなく、航海の始めと終わりに、冥王星のごく近くでしか役に立たないはずだったからである。それには、未熟な乗客の手による改造や故障を防ぐためプラスチック中に封入された、プラグ・イン・コンポーネントが数多く使用されていた。備えつけの質量探知機は〈シャーリイ〉のものに比べて、探知距離も精度も劣っていた。それは取りはずしたり交換したりはできるが、再調整はできなくなっていた。  彼女たちは毎回三ヵ月、母船から離れる周回飛行をはじめた。はじめ、〈シャーリイ〉を動かすのは荷が勝ちすぎるとゾウイが思っていたので、飛び立つのはたいていザンジアの役だった。後になって、二人は交替するようになった。 「で、そいつが、ここで、わたしがひとりでやってること、というわけ」とザンジアがいった。「〈シャーリイ〉から一億キロ以上離れて、その質量が探知機を狂わせないようにしなくちゃいけないの。こっちの機械は、この船自体の質量しか無視するようには調整されてないのよね。〈シャーリイ〉じゃなくて。ここで三ヵ月間がんばるの。〈ロリポップ〉の生命維持システムにゃ手ごろな安全期間だけど、その間、たまんないほど寂しくなるわ。それから燃料や消耗品を補給しに帰るってわけ」 「〈ロリポップ〉だって?」  ザンジアはばっと赤くなった。 「うーん、この救命艇にわたしが付けた名前なの。あんまり長い間ここで過ごさなくちゃいけなくなったもんだから。ライブラリーにシャーリイ・テンプルのテープがあったんだけど、彼女がこの歌をうたってたの、つまり――」 「ああ、聞いたことがある。わたしがラジオを聞きはじめたのはずいぶん大昔なんだよ。それじゃあ、きみはもう、これがきみの母親のいたずらだとは、信じていないのだね?」 「彼女には不可能……」突然、自分がゾウイをまた三人称で呼んでいることに気づいた。 「どう考えたらいいのか、わかんないわ」と、みじめそうにいった。「なんでこんなことをするの?」 「どうやら、まだ混乱しているようだね。わたしが、いったとおりのものであるという、何らかの証拠がほしいんだろう。すぐにそれを思いつけるよう、この質問をしてあげたほうがいいようだ。なぜわたしが、きみの質量探知機にまだかかっていないのか、わかるかね?」  ザンジアは座席に飛び込んだ。帯のおかげで、はね上がりは少しだけだった。本当だった。探知機のダイアルはぴくりともしていなかった。 「わかったわ。どうしてなの?」  興奮がさめてゆくのを感じた。ここでオチがバラされるのだという確信があった。うっかり〈ロリポップ〉のこと――ゾウイには秘密だったのに――を口にしてしまい、おまけに、ゾウイが彼女の母親ではないと、そんな事実までいい張ってしまった後で。それは彼女自身の私的な反乱だった。ゾウイといっしょでは、決して直面する勇気のなかったことである。今やゾウイが正体を現わし、どうやってやったのか話して聞かせ、そしてわたしはおバカさんの気分を味わうんだわ、と彼女は思った。 「単純なんだ」と声がいった。「きみはまだ探知範囲に入っていなかったのさ。だが、今、そこに入った。見てごらん」  針が躍っていた。目盛りは第七スケールのホールを示していた。第七スケールとは、小惑星セレスの約十分の一の質量をもつものである。 「ママ、ブラックホールって何?」  小さな女の子は七歳だった。いつか、彼女は自分をザンジアと呼ぶようになるだろう。だが、今のところはまだ、名前の必要性を感じていなかったし、母親のほうも、彼女にそれを与えるにはまだ早いと思っていた。ゾウイの考えでは、何でも二つ以上あってはじめて、名前というものが必要になるのである。〈シャーリイ〉にいるほかの人間はたった一人だった。何も混乱の起こるはずがなかった。女の子が、とうとうそれについて考えるようになったとき、彼女は自分の名前が「やあ」か「おまえ」に違いないと思っていた。  小さな子供だった。ゾウイがそうであったように。彼女はゾウイが百年前に通り過ぎてきた成長の軌跡を、再びたどっていた。自分では知らなかったが、彼女は可愛かった。東洋風のひだのある、黒い目。濃い色の肌。よじれたブロンドの髪。中国人と黒人の遺伝的混合だったが、他の人種のタッチも、ひと味加わっていた。 「前に教えようとしたのよ」とゾウイ。「おまえはまだ、それだけの数学をやってないの。時空方程式からはじめるつもりだけど、一年ほどしたら、わかるようになるさ」 「でも、わたし、今知りたいの」  ブラックホールのことが、この子には問題だった。ものごころついてからずっと、二人がやってきたことといったら、それを追っかけることばかり。まだ一度も見つけたことがない。彼女はたくさんの本を読んでいた(ほかにすることもあまりなかったけれど)。そこで、サンタクロースや妖精たちのために仮に空けてある領域《カテゴリー》にそのすみかもあるんじゃないかと疑っていた。 「もう一度やってみるから、そうしたらおねんねする?」 「約束するわ」  そこで、ゾウイは〈ビッグ・バン〉のお話を語りはじめた。むかしむかし、小さなブラックホールたちが生まれることのできた時代。 「わかってるかぎりね、あたしたちの追ってるようなちっちゃなブラックホールは、みんなそのときにつくられたの。今じゃ、また別のホールが、大きな星が崩壊するときにできるんだけどね。炎が衰えてきて、星をバラバラにしようっていう圧力が弱まってくると、重力が打ち勝って、星は自分をぐっと引っぱり込んでしまう――」  ゾウイは腕を大きく振り、宇宙の歪曲を表わすようにてのひらをまるめ、融合の圧力を身ぶりで示そうと、がんがん打ち合わせた。こういう説明をするのは、もっと幼いころ、セックスの話をしようとしたのと同じくらい、困難なことだった。本当のところ、彼女はまったく相対性理論学者とはいえず、実際ブラックホール理論の背後にあるちょっと驚くべき前提を理解してはいなかった。彼女は誰にもそれを本当に視覚化して見せることはできないだろうと思っており、できないとしたら、それでどうだというのか? だがそれについて気にかけないだけの実際家でもあった。 「それで、重力って何? 忘れちゃった」  女の子は起きていようと眠い目をこすっていた。必死で理解しようとしていたが、また今度もポイントを逃してしまうだろうと、もうわかっていた。 「重力っていうのは宇宙をひとつにまとめあげているもの。糊や鋲《びょう》のように。あらゆるものをお互いに引きつけ合っているの。それにさからい、打ち勝つためには、エネルギーが必要。船を加速するときみたいな感じだね。前にそういったのを覚えてるかい?」 「そのとき、何もかもが同じ方向に動きたがるっていう、あれね?」 「そのとおり。だからあたしたちは注意深くしなきゃいけないのよ、ふだんあまり考えないことだからね。ものがどこにあるのか、気をつけてなくちゃ、加速のときは何もかも船尾のほうへ飛んで行くからね。惑星上に住んでる連中は、そのことをいつでも気にしてなくちゃならないのさ。何かしっかりしたものを自分と惑星中心を結ぶ線上に置いとかなきゃ、下へ落っこっちまうからね」 「下へ」と、女の子はそのことばをそっと唱えてみた。ものごころついてからずっと、思い悩んできたことば。そしてとうとう、それが理解できたのかもしれないと思った。下≠ェいつも同じ方向を示している場所の写真を見たことがある。とても奇妙な光景だった。ものを置く[#「置く」に傍点]テーブル、腰をおろす[#「おろす」に傍点]椅子、ふたのないおかしな容器といったものばかり。惑星上にある部屋では、六面の壁のうち五つまでが、ほとんどまったく利用不可能だった。残ったひとつは床≠ニ呼ばれ、すべての役を兼用するよう要求されていた。 「だから、あの人たちは、重力との闘いに、足を使うわけ?」  あくびが出かかっていた。 「そう。おかしな足をした連中の写真を見たことがあるだろ。重力の中にいれば、そんなにおかしくはないのさ。端にある平たい部分を足先≠チていうんだ。もしあたしたちみたいに遊泳足を使っていたら、あんなに上手には歩けないだろうね。いつも片足を床にくっつけてなきゃならないのさ。さもなきゃ、惑星の表面に向かって転んじまうからね」  ゾウイは子供を寝棚にくくりつけているひもを締め、毛布のベルクロ止めをシートの横でとじて、彼女をくるみ込んだ。子供が寝るには、あたたかく居心地のいい場所が必要だ。ゾウイのほうは、自分の寝室で気ままに浮かんで、胎児のように身を縮め、ぶかぶか漂って寝るのがよかった。 「おやすみなさい、ママ」 「おやすみなさい。ぐっすり眠って、ブラックホールのことなんか気にかけるんじゃないよ」  けれど、子供は夢に見た。よくあることだった。それにぐんぐんと引き寄せられ、前の壁に向かって落ちてしまう、というところで、息づかいも荒く目を覚ますのだった。 「嘘じゃないのね? あたしゃ大金持ちだよ!」  ザンジアはスクリーンから目をそらした。ゾウイに、この旅が二人の共同事業だといつもいっていたのを指摘したところでムダだった。〈シャーリイ〉と〈ロリポップ〉を所有しているのは彼女なのである。 「ああ、おまえもそうだよ、もちろん。目の玉が飛び出るほどの分け前がもらえないなんて、思っちゃいけないよ。あたしはおまえが自分の船を買って、もし望むのならおまえ自身のかわいいコピーを育てられるように、うまく取り計らってやるわ」  ザンジアには、それがはたして天国の理想像であるのか、確信がもてなかった。でも黙っていた。 「ゾウイ、ひとつ問題があるの、それでわたし……ううん、わたし――」しかし、それはまたゾウイによって中断された。ザンジアの意見を耳にするには、あと三十秒かかる。 「たった今、最初のデータがテレメトリー・チャンネルを通って届いたわ。これからコンピュータに食わせるところ。船をまわす間、しばらくじっとしていてね。この数字をもとにして、およそ一分で減速に入るわ。手に入りしだい詳細なデータを送ってよ」  短い沈黙。 「問題って?」 「そいつがわたしに話しかけてくるの、ゾウイ。ホールがわたしに話しかけてくるのよ」  今度の沈黙は、ラジオ信号が船と船とをぐるりと回って帰ってくる時間より長かった。ザンジアはこっそりとコントラストのつまみに触れ、姉=母の像が薄らいでスクリーンが空白になるまで回した。彼女がカメラのほうを見ているかぎり、ゾウイは違いに気づかないだろう。  いやだ、いやだ、あの人、わたしがいかれたと思っちまう。だけど、どうしても[#「どうしても」に傍点]伝えなくちゃいけない。 「いってることがよくわからないわ」 「いった[#「いった」に傍点]とおりの意味よ。わたしだって理解できないんだもん。でも、一時間ほど前から、そいつがわたしに話しかけてくるの、そうして、とんでもない[#「とんでもない」に傍点]ことをいうの」  またも沈黙。 「わかったわ。そこにいる間、何もしちゃだめよ。繰り返すわ。何も[#「何も」に傍点]、あたしが着くまで。わかった?」 「ゾウイ、わたし狂ってなんかいないわ。狂ってなんか[#「狂ってなんか」に傍点]」  じゃあ、どうしてわたしは叫び声をあげているのだろう? 「もちろんよ、ベビイ、これには説明があるはずよ。そこに着きしだい、それが何か見つけ出してあげる。だからただじっとしてなさい。はじめのざっとした見積もりだと、おまえとホールが相対的に静止してから、三時間ぐらいでそばに寄れるわ」 〈シャーリイ〉と〈ロリポップ〉は平行な進路をとりつつ、両方ともその直線軌道からホールへ接近しようと転回をはじめていた。だが、ザンジアのほうがより近かった。ゾウイはより急な角度をとらざるを得ず、それだけ多くの燃料を消費せざるを得ない。四時間というのが妥当な線だろうとザンジアは思った。 「通信を切るわね」とゾウイ。「バッチリいったら、すぐに再交信するから」  ザンジアはラジオの切断ボタンを押し、怒ったようにシートベルトをはずした。ゾウイのばか。ばか、ばか、わからずや! じっと腰を沈めたままそういった。説明できないものを説明するためには、そこへ行くことだ。それで大丈夫だわ。  減速をはじめなければいけないのがわかっていた。だが、その前にしなければならないことがあった。  空中でするりと身をくねらせ、四つの手をすべて使って支柱をつかみ、ハッチに飛び込んで〈ロリポップ〉にただひとつある別の居住空間へと飛び出した。運動室である。壁に折り畳んだまま放ってある道具類でごった返していたが、気にしなかった。狭い場所が好きだった。その迷路の中を、魚が珊瑚《さんご》の間をぬけて行くように体をひねってすべりぬけ、探していた壁にたどり着いた。そこには〈ロリポップ〉の中で彼女が見いだした唯一の紙、捨てられた操作手引書《マニュアル》のページが、テープで張りつけてあった。ほおを伝う涙を片手でふきつつ、その紙をはがした。紙の下に、鏡があった。  正気であることを、どうやってテストするか? ザンジアはその間を深く考えたことはなかったが、やるべきことはひとりでに現われ、彼女はそれを実行したのだった。今、鏡に面と向かって、そして探すのだ……何を? 目のぎらつき? 唇のあわ?  彼女が見たものは、彼女の母親だった。  ザンジアの一生は、ゾウイがその完成像である鋳型のままに、ゆっくりと成長してゆく過程だった。つんと上を向いた鼻が最後には下を向くのを知っていた。赤ん坊の脂肪がとれたら、後に何が残るか知っていた。彼女の乳房は、ちょうど母の体を見て知っているのと同じ、小さな円錐となり、もはやそれ以上大きくならないのである。  鏡を見るのはいやだった。  ザンジアとゾウイは背が低かった。彼女らのもっとも目立つ特徴は、肌の色より明るい、ちぢれたタンポポのような金髪である。名前をつける日がきたとき、幼いクローンは、ダンデライオン(タンポポ)にほとんど決まりかけていた。辞書で、ザンジック=i黄色い花の意)という言葉に行き当たるまでは。たまたま、〈ロリポップ〉のラジオのコールサインも、X―A―Nだった。あんまりピッタリなので、使わないわけにはいかなかった。それにまた、東洋人が黄色い肌をしていたと考えられているのも知っていた。どうしてそうなのか、知らなかったけれど。  どうして他のどこでもなく、ここに来ちゃったんだろう? 不快感と戦いながら、必死に鏡に向かい、自分の顔に狂気のしるしを探し求める。細い目が少し腫れているが、いつもと変わらず、深く、無表情だ。両手をガラスにつけ、静寂の中で、長く伸びた爪が向こう側に映ったそれと触れそこねてたてる、多様なカチッという音を聞き、はっとする。いつも切り忘れてしまうのだった。  ときどき、鏡に映った彼女が、自分を見ていないのに気づいた。口をぴくりと動かしてみても、像は動かない。笑ったつもりが、像は眉をひそめる。二年間、ずっとこうだった。彼女の肉体が、ゾウイの複製となる十八年間のプロセスの最終段階に入ってからというもの。それを口にしたことはなかった。恐ろしかったからだ。 「そして、これこそ、わたしが正気かどうか判断する根拠」と、大声でいってみた。鏡の中の唇はぴくりともしなかった。「今からこいつも口をきこうとするのかしら?」彼女が腕を大きく振ると、鏡の中のゾウイもそうした。すくなくとも、まだそこまでひどくはない。一致しないのは単なるディテールである。小さな動き、特に顔の表情。彼女を冷ややかに見つめるゾウイは、目にしたものが気に入らないようすだった。唇の端の小さな歪み、きついといっていいぐらいの、目の細さ……。  ザンジアは手で顔をおおった。それから、指の間からのぞいて見る。ゾウイものぞいていた。ザンジアは浮かんでいる紙片をかき集め、新しいテープの切れ端をつかって、双子の姉を、また壁の中に埋め込みはじめた。  体の両側に背中と脚を二つずつもった獣が、身もだえし、離れ、激しく息を荒らげながら、ザンジアとゾウイに分かれて漂ってゆく。サルのように壁にぶつかっては、はね返り、エネルギーを失って、しだいに呼吸を整えてゆく。金色の、濡れた髪と汗みどろの体が、何度も何度も互いにかすって通り過ぎ、やがて止まった。  今、双子は暗くなったベッドルームのまん中に浮かんでいた。ゾウイはすでに眠っていて、自由落下の中でのみ可能な完全な安楽さで、ゆっくりと宙返りしていた。その足がザンジアの腹をこすり、彼女の相対運動は止まった。脚が湿っていた。部屋は閉めきられており、情熱の匂いが充満していた。再循環換気装置が静かにうなって、空気をきれいにしようとがんばっていた。  一本の指でやさしくゾウイのくるぶしを押し、ザンジアは顔と顔が合うまで彼女を回転させた。ちぢれたブロンドの髪が鼻をくすぐる。あたたかい息づかいを感じた。  どうしていつもこんな具合にいかないんだろう? 「あなたは母さんじゃないわ」と、ささやいてみる。この異端宣告に、ゾウイは何の反応も示さなかった。「違う[#「違う」に傍点]のよ」  ほんの一年前、ゾウイが認めたその関係は、もっとずっと近いものだった。ザンジアは今十五歳。  そして何が違ったのだろう? 何かが二人が母と子じゃないということには、単なる知識をこえた何かがあるに違いなかった。二人の関係には新しい特質があって、航海が終わりに近づくにしたがい、だんだん大きくなってゆく。ザンジアがかつて愛を見た目には、今では空白と、冷たさしか見えなかった。 「東洋的神秘性?」と、自分に問いかける。半ば真剣に。自分が絶望的なくらい洗練されていないのを知っていた。一生、二人だけの世界で暮らしてきたのだ。彼女の知っているただ一人の他人は、彼女自身の顔をしていた。それでも、彼女はゾウイを知っていると思っていた。それが今では、ゾウイの顔をちらりと見るごとに、そして冥王星への一キロ一キロを過ぎるごとに、確信が薄れてゆくのを感じていた。  冥王星。  彼女の思いは目下の問題からうまくそれ、想像もできない場所へと転じた。あとほんの四年でそこへ行くはず。直面しなければならない文化的適応は想像を絶する。それについて考えると、胸の、心臓のあたりが、予感ではね回りそうな感じになるのだ。ともかく、テープの登場人物たちが興奮したときに起こるようなことだ。連中の心臓ときたら、いつもはね回り、早鐘を打ち、痛み、止まるかと思うのである。  ゾウイを押し放し、ゆっくりと展望窓へと漂って行った。古い友だちはみんなその外にいるのだ。彼女が知っている唯一の友だち、星々。そのみんなに、ひとつひとつあいさつし、幼年期の記憶にあるなぞなぞと子守歌を、夕べの祈りのように唱えた。  この窓の外の光景が、冥王星で出会うことになる見知らぬ人たちの多くを怖がらせるらしいと思うと、おかしかった。トンネル育ちの人々の多くが、広い所に立っていられないというのを、読んだことがあった。何が彼らを恐れさすのか、理解に苦しむ。彼女が怖いのは、人込み、重力、男性、そして鏡だった。 「ああ、もう。いや! まるっきり絶望的[#「絶望的」に傍点]になっちゃう。チビで無知なイモねえちゃんの、おのぼりさんだわ」しばらく、一度もやったことのない何千ものことについて、考え込んだ。巨大な地下のディズニーランドで泳ぐことから、男の子を誘惑することまで。 「男の子になる[#「なる」に傍点]こと」それは二人の最初の大きな争いの原因だった。ザンジアが思春期に達したとき、子供が実験をしたがりはじめる時期に、彼女はゾウイから〈シャーリイ・テンプル〉には性転換のための医療器具を積んでいないと教えられたのだった。彼女は決定的な発育期を、性的倒錯者、ユニセックスとして過ごすよう、運命づけられたのである。「発育が永久に阻止されちゃうわ」と、抗議した。そのときまでに、通俗心理学書を山ほど読んでいたのだ。 「ナンセンス」とゾウイが応じた。なぜ〈ウィルス遺伝子刷り込み装置〉や〈対染色体Y化装置〉を備えておかなかったのか、説明するよう強くせがまれて。それは、ザンジアが指摘したように、内容に誇りのある家庭用手術キットなら、必ず[#「必ず」に傍点]備えているはずのものである。 「人類は何百万年も性転換なしでやってきたのさ」とゾウイ。「〈侵略〉の後でさえもね。あたしたちは〈変身処置〉の何百年も前から高いテクノロジーをもった種族だった。何億人もの人が同じセックスのまま生きて死んだわ」 「うん、そして、彼らがどんなだったか考えてみてよ」  そして今、永遠につづくように思える夜のもう一夜、眠りがなかなか訪れてこないのだった。冥王星についての不安。ゾウイとその奇妙なふるまいについての不安。そしてこのちっぽけな彼女の宇宙の中にいては、何も説明する手だてがないのだ。そこはこの一年で、耐えられないほどややこしい場所になってしまった。  男性といっしょにいるって、いったいどんな感じなのかしら。[#「男性といっしょにいるって、いったいどんな感じなのかしら。」に傍点]  三時間前、ザンジアは〈ロリポップ〉を動かして、そこにブラックホールがあると計器の示している空間の一点に、慎重にランデブーするようにした。たとえ、それを見つけても、目には見えないだろうということは、ずっと前からわかっていたが、何か兆候でも見えないかと星野に目をこらさないではいられなかった。ばかばかしい話だ。たとえホールが十の十五乗トンの質量をもっていたとしても(もともとの推定は一ケタ小さい値だったが)、それでも直径一ミリメートルの微片に過ぎないのである。彼女は千キロの安全距離をおいて停留していた。にしても、何かそれらしいことを感じたっていいはずだ。感じる[#「感じる」に傍点]ことができるはずだ。  無駄だった。この宇宙のかたまりは、他とまったく見分けがつかなかった。 「説明してもらいたい点があるんだが」と、ホールがいった。「わたしをつかまえた後で、どうしようというのかな?」  その質問は彼女をびっくりさせた。いまだにその声が、鏡に映った顔と同じく、何かのわずらわしい錯覚であって、それ以上のものじゃないという考え方から離れ切れないでいた。どのようにそれを扱うつもりだったのか? はたしてそれが存在することを認められるだろうか、感情さえもっているかもしれないということを? 「たぶん、ただ記録するだけだと思うわ、つまり、コンピュータにね。あなたは冥王星へ引っぱって帰るには大きすぎるの。だから、まわりを一週間かそこらぶらついて、どこへ向かってるのか軌道が完全にわかるまで精密測定したら、そのまま放って行くわ。途中で、誰かがこっちの軌道を再追跡してあなたを見つけたりしないように、ちょっとした細工をしかけておいてね。なぜって、わたしたちが帰ったら、でかいのを見つけたってことがばれちゃうもの」 「どうしてばれるんだい?」 「どうしてって、借りなくちゃいけないんだもん……ううん、ゾウイがあのでっかいモンスター・タグボートを一隻チャーターするでしょ、それからここまでやって来て、あなたに電荷をふりかけ、引っぱって行く……ねえ、こんな話を聞いたら、どんな感じがする?」 「その答えが気になる?」  それについて考えれば考えるほど、ザンジアはいやになった。もしこの体験が、本当に幻覚じゃないのなら、もしそうなら、彼女は知性をもった存在を捕え、投獄するのをもくろんでいることになるのだ。太陽系のはずれをさまよっていた無邪気な知性ある存在が、突然自分の状態に気づく。彼――あるいは彼女は……。 「あなたに性はあるの?」 「いいや」 「そうなの。あたし、ちょと無愛想かもしれないわ。びっくり[#「びっくり」に傍点]させられたんだもん、全然思ってもないことだったし、全体的にちょっとヤバイ感じだったし、でもそれだけのことなの」  ホールは何もいわなかった。 「あなたはちょっと不思議な人――か、何かだわ」と彼女。  またも沈黙。 「ねえ、もっとあなたのことを聞かせてくれない? ブラックホールであるってことはどんなふう、とか、いろいろと?」  彼女にはやはり、こういった言葉がばかばかしく思えてしかたがなかった。 「きみたちとだいたい同じように暮らしているさ。毎日毎日ね。星から星へと旅をするんだが、そのひとつの旅におよそ一千万年かかっている。到着ししだい、わたしは星の中心核へと突っ込んでゆくんだ。必要になるたびごとにね。それからわたしはパチンコ方式で重い惑星の中心を貫き、離脱する。一九〇八年にシベリアに激突したツングースカ隕石は、木星へ向かうとちゅうのモーメントを獲得しようとしていたブラックホールだ。そこへ行けば、太陽系からの脱出速度を得るために必要な、余分の推力が得られるのさ」  ひとつのことがザンジアの気にかかった。 「どういう意味?『必要になるたびごとに』って?」 「質量」とホール。「わたしは自分の質量を補充することが必要だ。相対論的法則は、ブラックホールからは何ものも逃げ出せないと述べている。だが量子論は、特にハイゼンベルクの不確定性原理は、ある半径以下になると粒子の位置を決定することができないと述べているのだ。わたしはトンネル効果によって、つねに質量を失っている。それがすべてムダになるわけじゃないがね、わたしが流出質量の方向と形状をコントロールできるかぎりは。そしてそのエネルギーを使って、結果的にきみたちの現在の物理学では不可能とされている機能を果たすことになるのだ」 「たとえば?」なぜだかわからなかったが、ザンジアは神経質になっていた。 「わたしは慣性と重力とを交換する。そしてさまざまな方法でエネルギーをつくり出す」 「それでひとりで動けるのね」 「ゆっくりとね」 「そして、あなたは食いつくす……」 「あらゆるものを」  ザンジアは突然パニックを感じた。が、何がまずいのかわからなかった。計器を見おろし、手首やくるぶしから首筋まで、毛がさか立つのを感じた。  ホールは、以前あったところより、十キロメートル接近していた。 「いったい[#「いったい」に傍点]どうしてわたしにこんなことができたのよ?」ザンジアはまっ赤になって怒った。「信用してたのに。それなのに、これがあなたの答えなのね、わたしに忍び寄って……そうして……」 「わざとじゃないんだ。わたしは重力波を制御して話している。きみと話すことだけが目的なんだ、そのためにわたしたちの間に重力場を発生させる必要があった。きみには決して危険じゃない」 「信じないわ、そんなの」ザンジアは怒っていった。「二枚舌を使ってるんだと思うわ。重力がそんなふうに働くなんて考えられないし、それに、最初に会話をはじめた時点にさかのぼっていえば、どうやってわたしと話すかというのを教えてくれたとき、あなたが本当にすごくいっしょうけんめいだったかというと、そうは思えない」そのとき、ホールがはじめよりずっと|流 暢《りゅうちょう》に話していることにも気がついた。学ぶのがとても早いということか、あるいは計画的だったのか。  ホールはちょっと口ごもった。「そのとおりだ」と答えた。  彼女はポイントを強烈に追及した。「じゃ、どうしてそんなことをしたの?」 「反射作用なんだ。明るい光にまばたきするように、あるいは手を火から遠ざけようとするように、わたしは物質を感じると、それに引きつけられるのだ」 「適切なきまり文句は、『炎に引かれる蛾のように』ってところね。でもあなたは蛾じゃないし、わたしは炎じゃない。信用できないな。もしそうしようと思ったら、止まることだってできるはずでしょう」  またも、ホールはためらった。「きみは正しい」 「じゃあ、あなたがしようとしているのは……?」 「わたしはきみを食べようとしているのだ」 「そんな[#「そんな」に傍点]こと? 今までお話ししていた相手をぱっくりやっちゃうってわけ?」 「物質は物質だからね」とホール。ザンジアはその声に弁解のひびきを聞きとったような気がした。 「ねえどう思う、わたしたちがあなたをどうするつもりかっていうのを聞いて? あなたは話そうとしてたけど、でもどこから来たのかって話にそれちゃったでしょ」 「わたしが理解するかぎりにおいて、きみが申し出ているのは、わたしに引き返せということだ。わたしは冥王星軌道の近くまで引き戻され、売られ、そして最後には軌道動力ステーションの中心で休みにつく。そこでは、きみたちの種族がわたしの重力井戸に物質を供給してくれて、その重力崩壊から安い動力を得ようとしている」 「うん、まあそんなところね」 「理想的な暮らしだな。わたしの生活は苦しい。飲み食いする物質を見つけそこなうということは、質量を失って原子核より小さくなってしまうことを意味するんだ。損失比率は幾何級数的だから、わたしの宇宙は消滅してしまうだろう。その先に何が起こるかは知らない。まったく知りたくもない」  いったいどのくらい信用していいのか? すばやく動くことはできるのか? 彼女は引き返そうという考えをいっそう強くもてあそんだ。今、お互い相対的に静止したままで、両者とも、彼女がゾウイに報告した位置からゆっくりと離れて行きつつある。  不意打ちをかけられたらと考えるのは当たらない。もしできるなら、なぜしないのか?そうして彼女をぱっくりとやり、ゾウイが到着するのを待てばいい――ゾウイがホールに気づく見込みは、その壊れた質量探知機のおかげでまったくないのだから。  ゾウイに新しい進路《ベクトル》を連絡すべきだった。双子の姉がどこに到着するか、計算しようとしたのだが、ホールの話に気を取られてしまったのである。 「わたしはここで、きみにコンタクトしようと思った、そもそもの理由について話したい。冥王星のラジオを聞いていて、わたしはきみが知っておいたほうがいいある事実に気づいたんだ。もしもきみがまだ、わたしが心配しているように、それに気づいていないのならね。きみは〈クローン制限法〉というのを知っているかい?」 「いいえ、何なの?」またもや、なぜかわからないままに不安になった。  遺伝子に関する法律は、ホールによると、単純性の権化である。三百年のあいだに、人々はまず永久にといっていいくらい生きられるようになっていた。人口制限が必要になった。たとえ、だれもがただひとりの子供しか生まないとしても――出産権である――それでも人口は増加する。しばらくの間、クローンが抜け穴だった。もうそうじゃない。今では、一組の遺伝子をもつ権利は、ただひとりにしか許されない。もし二人がもっていたら、ひとりは余分で、即座に処刑されることになる。 「遺伝子コードについてはゾウイに優先権があるんだ」とホールは結論した。「このことは確定している。たくさんの……」 「じゃあ、わたしは――」 「……判例によってね」 「余分」  ゾウイとザンジアは、ザンジアがドッキング操作を完了したとき、エアロックで顔をあわせた。ゾウイは微笑んでいた。このところ、ゾウイが微笑むといつも感じることをザンジアは感じた。子犬になって耳のうしろをかかれているみたいな気分。二人はキスし、それからゾウイは彼女を遠ざけた。 「おまえを見せてちょうだい、ほんの三ヵ月ってことがあるかしら?ずいぶん大きくなったわ、ベビイ」  ザンジアは赤くなった。「わたし、もうベビイじゃないわ、お母さん」でも彼女はしあわせだった。とってもしあわせだった。 「そうね、そうだというべきね」そういって、ザンジアの乳房に触れ、それから彼女をゆっくりと一回転させた。「そうだね、ヒップにもちょっとお肉がついたと思わない、ねえ?」 「オッパイにもよ。出かけてるあいだに一インチばかり。もうそこまで大きくなったわ」  それは本当だった。このとき十六歳の若いクローンは、ほとんど一人前の女になっていた。 「もうそこまで、か」とゾウイは繰り返し、双子の妹から目をそらせた。そしてまた彼女を抱き締め、口づけし、緊張がゆるむと笑いはじめた。  二人はメイク・ラブした。一度では足りず、次はベッドへ行き、さらに何度も互いに楽しみながら。そして二人のうちひとりが――ザンジアにはどちらか思い出せなかった、というのも、どちらがいったとしても正しいように思えたから――の三ヵ月の別離でただひとついいのは、帰って来たときだといった。「とても上手だったよ」と、何時間もたって、暗く甘く消耗しきったベッドルームの空気の中を漂いながら、ゾウイがいった。「おまえは救命艇を体の一部みたいに操っていたね。ドッキングを見てたんだ。おまえがミスするのを見たかった[#「見たかった」に傍点]んだと思う、どうやら。ということは、わたしゃおまえにまだ何か教えることがあるって思いたかったんだね」彼女の歯が星明かりに輝いて、瞳の輝きとほのかな花のような髪のふくらみの下で、光の列となって見えた。 「うーん、そんなに難しかなかったわ」ザンジアは喜んでいった。とっても難しかった[#「難しかった」に傍点]ことをはっきり意識しながら。 「さて、次の周回飛行は、またおまえにあいつを操縦してもらおうと思うんだ。今後は、あの救命艇を自分の[#「自分の」に傍点]船と考えてもいいんだよ。おまえがあれの船長ってわけね」  とっくにそのつもりでいる、と打ち明けるべきときではないと思った。それに、その船に名前をつけているということも。  ゾウイは静かに笑った。ザンジアは目を向ける。 「あたしゃ、はじめて自分のものになった船に乗り込んだ日のことを思い出すよ」といった。 「あたしにとって、大切な日だったわ。あたし自身の船なんだからね」 「これがわたしたちの生き方なのね」ザンジアは同意した。「ほかの人間たちなんて誰が必要かしら? わたしたち二人っきりで充分。だけど連中は、ホールハンターは頭が変だっていうわ。わたし……できることなら……」ことばがのどにつっかかったが、ザンジアは今こそそれを口にすべきときだと思った。かりに時というものがあるなら。「わたし冥王星には、あんまり長居したくないわ、お母さん。まっすぐここに、いっしょに帰って来たいの」そう、彼女はそういった。  ゾウイはしばらくの間、何もいわなかった。 「そのことはあとで話しましょう」 「愛してるわ、母さん」とザンジア。少し大きな声でいった。 「あたしも愛してるよ、ベビイ」ゾウイがつぶやいた。「ちょっと寝ようじゃない、OK?」  眠ろうとした。が、できそうになかった。何がまずい[#「まずい」に傍点]んだろう?  暗くなった部屋を後に、船の中を漂い、彼女の失った何かを、あるいは失いつつある何かを(どちらか確信がなかったが)探し求める。結局のところ、何が起こったんだろう? おそらく何も見つけ出せやしまい。彼女は母を愛していた。それでも、今わかっているのは、自分が涙にむせんでいるということだけだった。  洗面所の中で、シャワー・バッグにくるまって、湯をもくもくとわき出させながら、鏡をちらりと見た。 「なぜ? なぜあの人がそんなことをしようとするの?」 「寂しさ。そして狂気。ふたつが同時に現われる。これは彼女の解決法なんだ。きみは彼女のつくった最初のクローンというわけじゃない」  もうショックを受ける余地はないと思っていた。だがそのあっさりした事務的なことばが心にもたらした明晰さは爆発的だった。ゾウイはいつもザンジアとの親密な関係を求めていた。彼女は航海の長くうんざりするような年月の気晴らしに、子供が必要だった。誰か話す相手を必要としていたのである。どうして犬を連れて行かなかったんだろう[#「どうして犬を連れて行かなかったんだろう」に傍点]? 彼女は今や、自分を船のペットとして見ることができた。いやな気分だった。地域の動物管理法が、着陸する前に動物を廃棄するよう要請している。残念なことだが、でも現実にそうだった。ゾウイはこの一年、そうする勇気を得ようと努力してきたのだった。  ちっちゃなザンジアたちが、いったい何人いたのだろう? みんな同じ名前を選んでいたはずだ。みんな、まったく彼女と変わらなかったはずだから。三人、四人? 彼女は忘れられた姉妹たちのことを思って泣いた。それとも……。 「あなたが本当のことをいっているって、どうしてわかるの? わたしに知られないよう、どうやって隠せたっていうの? 冥王星のテープをずっと見てたもの。こんなの、全然なかったわ」 「きみの生まれる前に彼女が編集しておいたんだ。彼女は注意深かった。彼女の立場を考えてみたまえ。きみたちのうち、ただひとりだけが存在を許される。だが、法律は、それがどちらであるべきかなんていってはいない。彼女が死ねば、きみが合法となる。もしそれがきみに知れたら、〈シャーリイ・テンプル〉での生活はどうなる?」 「信じないわ。何かを隠そうとしてるんでしょう、そうに違いないわ」 「彼女が到着したら訊いてごらん。でも慎重にね。それまでよく考えてみることだ」  彼女はよく考えてみた。考えているあいだ、ゾウイからの三回の呼び出しを無視した。あらゆる選択肢を考慮しなければならなかった。思いつくかぎりの、すべての可能性を。それは不可能な仕事だった。彼女は自分が明晰に考えるにはあまりに感情的にすぎることを知っており、そして自分をコントロールするだけの余裕もなかった。  だが、彼女はできるだけのことをやった。今、〈|善 き 船《ザ・グッド・シップ》ロリポップ〉は、外見こそ変わらなかったが、戦いの船となっていた。  ゾウイが近づきつつあった。核融合のトーチをふかして、ザンジアと互いに空間的に静止する一点へと向かっていた。核融合ドライヴは、〈シャーリイ〉がランデブーの最終過程に入った後は危険すぎる。残りの作業は〈ロリポップ〉の仕事だ。  ザンジアは推進が止まるのを望遠鏡で見ていた。〈シャーリイ〉ははっきりとスクリーンに映っている。五十キロメートル離れているにもかかわらず。  スクリーンがまた明るくなり、ゾウイが現われた。ザンジアは自分の側のカメラにスイッチを入れた。 「そこにいるんだね」とゾウイがいった。「どうして話そうとしなかったんだい?」 「機が熟したと思わなかったから」 「口をきくブラックホールなんてナンセンスがどこから出てきたのか、聞かせてもらえるかい? いったい何が起こったの?」 「そのことなら、気にしないで。ホールなんてなかったんだから、どっちにしても。わたし、ただお話がしたかったの、あなたの消し忘れていたあることについて。それはロリポ……救命艇のテープ・ライブラリーに残ってたわ。あなたは〈シャーリイ〉の中のテープについちゃ、みごとに徹底的だったけど、こっちのほうに同じだけの注意をするのを忘れてたみたいね。わたしがそれを使うことがあるなんて、思いつかなかったんじゃないの。話して、〈クローン制限法〉って何?」  スクリーンの顔は身動きひとつしなかった。もしかしたらそれは鏡で、彼女は微笑しているのか? 彼女が見つめているのは、自分、それともゾウイ? 狂ったようにスイッチを押し、ザンジアは望遠鏡の映像をスクリーンに出して、顔を消した。ゾウイは突破口を開こうと話しかけてくるだろうか? もしそうなら、ザンジアはどうしたらいいか、全然何も考えてなかった。ゾウイがたとえどんなでたらめを話したとしても、チェックする手だてがなかった。ゾウイと争うべきことなど、口をきくブラックホールがいった奇怪な話以外、何もないのだ。  お願いだから何かいって。この重圧から解放して[#「お願いだから何かいって。この重圧から解放して」に傍点]。彼女はいっそゾウイの早口にだまされて死んでしまいたかった。ゾウイに関するホールのことばを信じるくらいなら、むしろそのほうがよかった。  だが、ゾウイは、ことばでいうかわりに、行動を起こしていた。そしてその反応は、まったくホールが予言したとおりのものだった。姿勢制御ジェットをふかし、〈シャーリイ・テンプル〉はゆっくりと左右に揺れて、船尾のノズルが望遠スクリーンじゅうに標的を探しはじめた。エンジンの狙いがつきしだい、きっと火をふくだろう。そしてザンジアとその船は、すっかり蒸発してしまうに違いない。  だが彼女は用意ができていた。両手は推力制御の上にあった。〈ロリポップ〉の加速性能はかなりのものだ。そのGが彼女を座席に打ちつけ、危険地帯から飛び去らせた。 〈シャーリイ〉の核融合エンジンが火をふいて、死の追跡をはじめた。ゾウイが位置を確認し、最後の調整をおこなったとき、細い、おそるべき熱流が、ザンジアのまわりでたわむれた。彼女はそれを一瞬でかわした。そして、必要なことはそれだけだった。  そのとき光が消えた。エネルギーの猛烈な爆発で望遠鏡の回路が過負荷になり、スクリーンがぱっと燃え上がったのだ。そしてそれは去った。レーダー・スクリーンには何も映っていなかった。 「わたしの予言したとおりだ」とホールがいった。 「黙ったらどうなの?」ザンジアはじっと動かずすわったままで、震えていた。 「そのつもりだ、すぐにね。別に感謝されるなんて思っちゃいなかったさ。だが、きみのやったことは、きみ自身のためなんだぜ」 「だってあんたにも、あんたは……あんたは人食い鬼よ! なんてやつ、なんてひどいやつなの」涙にむせながら叫んだ。「わたしをだましおおせたなんて思わないでよ。とにかく、完全にはね。あんたのやったことはわかってるんだから。それをどうやったのかも」 「きみが?」その声はことばに表わせないくらいクールで、遠かった。彼女はホールがもう危険じゃなくなったのを悟った。彼女への関心を急速に失っている。 「そうよ。あなたが方向を変えたとき、たまたま偶然の一致で、ゾウイが到着したときにちょうど手ごろな位置になったなんていわないでよ。はじめっから計画的だったんだわ」 「きみが思っているより、ずっと、はるかに昔からね」とホール。「きみたち二人ともいただこうとしたんだが、そいつは不可能だった。次善の策は、このシチュエーションをそのまま利用することだった」 「やめて、やめてよ」  ホールの声は、うつろで中性的なトーンから、何か、液体ヘリウムのタンクからもれ出したような感じのものに変わっていた。これを人間の声と聞きまちがえることは決してないだろう。 「わたしのしたことは、わたし自身の利益のためだった。だが、わたしはきみの生命を救った。彼女がきみを殺そうとしていたのだ。わたしは彼女をあやつって、核融合ドライヴをきみに向けたとき、彼女には検知できないブラックホールへと突っ込むような位置に、彼女を誘い込んだ」 「わたしを利用[#「利用」に傍点]したのね」 「きみもわたしを利用[#「利用」に傍点]した。わたしを動力ステーションに幽閉しようとしていた」 「だって、かまわないって[#「かまわないって」に傍点]いったじゃない! そこが天国みたいだっていったでしょ」 「食べることが人生のすべてだと思うのかい? この広い宇宙には、きみには想像もつかないようなことがいくらでもあるんだよ。わたしは遅い。もしきみの探知機が機能するなら、わたしをつかまえるのはたやすい。ゾウイは三回もやったのだからね。とはいえ、わたしはもう、きみの手の届かないところにいる」 「どういう意味? 何をするつもり? わたしは[#「わたしは」に傍点]どうすればいいの?」この質問はザンジアをいたく傷つけ、もう少しでホールの答えを聞きのがすところだった。 「わが道を行くさ。わたしは〈シャーリイ〉をエネルギーに転換したが、彼女から吸収した質量はほんのわずかだ。今、そのエネルギーを細くしぼったビームにして、きみたちの太陽系から脱しつつある。きみとはもう会うことはないだろう。きみは二つの道を選ぶことができる。冥王星に帰って、ここで起こったことをみんなに話してもいい。科学者たちがきみを信じたなら、自然法則が書き換えられる可能性もある。かつてはそういうことがあった。といっても、ふつうはもっと説得力のある証拠があってのことだったがね。これまで捕獲から逃れたり、口をきいたり、速度を変えたりしたブラックホールがなかったのはどうしてかと、質問されるだろう。そうしたらきみは、ホールが自己を防衛するチャンスをつかんだときには、ホールハンターは生き残れず、その話を伝えることができなかったのだと答えればいい」 「そうするわ。わたしは何が起こったかいってやる!」おそろしい不信がザンジアをのみ込んだ。ゾウイの死を招かなくても、彼女の問題は解決できたんじゃあるまいか? まったくの話、ホールはどんなにこっぴどく彼女をだましたのか? 「二つめの可能性がある」と、容赦なくホールはつづけた。「いったい全体、きみはこんなところで救命艇に乗って何をしている[#「している」に傍点]んだね?」 「わたしが何を……いったでしょ、わたしたちは……」ザンジアは口ごもった。息が止まった。 「きみが発狂したと考えるのは、いともたやすいことだ。きみは〈ロリポップ〉のライブラリーで、何か、ゾウイを殺さなければならないと思い込むタネを見つけたのだ。この発見はきみには荷が勝ちすぎた。自己防衛で、きみはしなければならないことを自分に無理強いするため、そのごまかしにわたしを思いついた。鏡を見ながら、きみの説明が信じられるかどうか話してごらん。しっかり見るんだ。そして自分に忠実にね」  声が笑っているのをはじめて聞いた。ホールの深みから、井戸の底から響いてくるような声が。まったくぞっとするような響きだった。  おそらくゾウイは一ヵ月かそこら前に死んだのだろう。首を締められたか、毒を盛られたか、それともナイフで刺されたか。その期間ずっと、ザンジアは救命艇の中で、緊張型分裂病の症状を示したまま、すわり込んでいた。そうして、殺人を正当化するために、このエピソードをつくりあげたのだ。あれが正当防衛だった、というのはなかなかうまい弁解だ。それに、たいへん都合がいい。  しかし彼女は知っていた。確かだった。これまでの何にもまして、ホールがそこに、すぐ外にいるということが、そして彼女が見たとおり、すべてのことが起こったのだということが。彼女は再び心の中に閃光を見た。あのおそろしい、ゾウイを放射線に変えてしまった閃光。けれど彼女はまた、もうひとつの解釈が、彼女のこれから先の人生をずっと脅かしつづけるだろうことも、わかっていた。 「忘れてしまうことだ。冥王星へ行って、みんなに、船が爆発して救命艇で脱出した、自分はゾウイだと主張したまえ。彼女に取って替わるんだ。だが決して[#「決して」に傍点]、決して口をきくブラックホールのことなんか話すんじゃないよ」  声がラジオから遠ざかっていった。それはもう二度と口を開かなかった。  無感覚な絶望と、思い出したくもない涙といい逃れの日々が過ぎ、ザンジアはホールが予言したとおりにした。だが冥王星での生活は彼女に向かなかった。人間が多すぎたし、彼女によく似た者は誰もいなかった。滞在したのは、ゾウイの金を銀行から引き出し、船を買い、それに〈シャーリイ・テンプル〉と名づけるのに必要な期間だけだった。巨大で、やろうと思えば恒星まで飛んで行けるだけのパワーをもった船である。彼女はそこに残して来た何かを、また見つけるまで探しつづけるつもりだったのだ。 [#地付き](大野万記訳) [#改ページ] [#ページの左右中央]    ピクニック・オン・ニアサイド [#改ページ]  これはぼくがいかにして〈|おもて側《ニアサイド》〉へと出かけ、レスターじいさんに出会い、また、ちょっとばかし成長したか、という物語。それはもう、カーニバルがいうように、そろそろ成長してもいい潮時だったのだ。  カーニバルはぼくの母親。ぼくらはほとんどいつも、ケンカばかりしていた。たぶん、ぼくが十二で、彼女は九十六だったせいだろう。そんなことたいしたことじゃないよ、子供をつくるのをそれほど遅らせたのは、心の準備ができたと納得したかったからなのさ、と母はいう。ぼくは、そんなに年を食っちまっちゃ、子供時代があったことなんて思い出せないだろ、といい返す。すると、生まれた時からずうっと完全に覚えているよ、とくる。で、ぼくはお返しに……  ぼくらはたっぷりと議論するんだ。  ぼくも相当な議論家だけど、カーニバルについてはやっかいな点がある。彼女は〈感情家〉なのだ。だからぼくが議論の中に事実を持ちこもうとすると、いつも、「事実なんて、わたしの偏見のじゃまになるだけよ」とか何とかいって、はねつけてしまう。そんなの無茶だっていえば、そのとおりよ、無茶ははじめっから承知だわ、とくる。たいていの場合、ぼくらは論争の出発点となるはずの大前提にさえ合意できないんだ。それじゃあ議論にならないじゃないか、と思われるかも知れないが、もしそう思ったなら、それはきみがカーニバルとぼくをご存知ないからさ。  ここ七、八|カ月《ルネーション》というもの、ぼくらの居住区でおこった論争の主なテーマは、ぼくが受けたいと思っている〈変身処置〉についてだった。戦線がひかれ、ぼくらは毎日対戦した。母は、ぼくぐらいの年での〈変身〉は、心に傷をつけてしまう、という意見だった。誰でもやってることだというのに。  ぼくらはみんな、朝食のテーブルについていた。ぼくとカーニバル、それからカーニバルがここ数年いっしょに暮らしている男、コードと、コードの娘のアダージョだ。アダージョは七歳。  昨夜、ぼくとカーニバルの間で大げんかがあった。大人になりしだい彼女と絶縁してやると宣言して、それは(おおよそ)終結していた。それに対してむこうがどんな脅迫をしたかは、覚えちゃいない。ぼくはひどく頭にきていた。  テーブルにつき、思い出したように食べ物を口に運びながら、ぼくは心の傷口をなめていた。理屈の上では、議論の決着はまだついちゃいなかったが、実際的な見地からすれば、母が勝ったのだ。疑問の余地なく。頭にくるのは、母が個人インデックスを入力用紙《インプット・シート》の末尾に記入するまで、ぼくが〈変身処置〉を受けられないっていうこと、それに母は、そんなことに同意するくらいなら、脳みそを冷凍保存に入れるほうがましよ、といっていることだ。母ならそうしただろう、本当に。 「わたしはいつでも〈変身処置〉を受ける準備ができたわ」カーニバルが、みんなにそういった。 「そんなの、フェアじゃないよ!」ぼくは叫んだ。「ぼくに意地悪したくって、そんなこと言うんだろう。ぼくにゃ何でもダメで、自分は何でも好きなようにできるんだってことを、わざと見せつけたいんだ」 「もうそのことはいわないんでしょ」母が鋭くいった。「この問題は話し尽くしたわ。それに、わたしの心は変わらない。あなたは〈変身〉にゃ若すぎるの」 「ナーンセンス」とぼく。「もうじき大人なんだぜ。ほんの一年で。本当に一年でそんなに変わると思うの?」 「予言しようなんて思わないわ。分別がついてほしいとは思うけど。でも、もしたった一年だっていうんなら、どうしてそんなに急ぐの?」 「それにおれは、きみにそんな言葉づかいをしてほしくないな」とコード。  カーニバルが不機嫌な目つきをした。ぼくと争っている間、外部からの干渉に対してはきびしくなる。誰にもでしゃばられたくない、というわけ。でも、ぼくやアダージョの前じゃ、何もいうまい。 「あたしね、フォックスに〈変身〉させてあげたほうがいいと思う」アダージョがそういって、ぼくに、にっこりしてみせた。アダージョはいい子だ。乳きょうだいとしては。いつでも応援をたよれたし、ぼくもできるかぎりお返ししてやったものだ。 「おまえはひっこんでなさい」コードが注意した。それから、カーニバルにむかって、「おまえとフォックスがこの問題に片をつけるまで、おれたちはこの場を離れていたほうがよさそうだな」 「一年間そうしてなけりゃならないわよ」とカーニバル。「ここにいてちょうだい。議論はおしまい。もしフォックスがそうじゃないって思うんなら、自分の部屋にお帰んなさいな」  それこそぼくの思うところ。そこで立ち上がり、テーブルから走り去った。われながらばかなことをしてると思ったけれど、涙は本物だった。それはただ、ぼくの中に、どんな状況でも常にうまく立ち回ってやろうと、クールにかまえている部分がある、というだけの話。  カーニバルが少しあとでようすを見に来たが、彼女が歓迎されていないことを思い知らせてやろうと、ぼくは最善を尽くした。ぼくはこれが得意、少なくとも、母に対してなら。母は、全然何もよくならないことが明白となって、出て行った。母が傷つき、ドアが閉まった時、ぼくは本当にみじめな気分となり、狂おしい怒りを感じた。母に。そしてぼく自身に。数年前と同じように愛することは難しいんだとわかってきて、そのことが恥ずかしかった。  ぼくはしばらく悩み、あやまるべきだと決心した。部屋から出て、母の腕の中で泣く覚悟だった。  でも、そうはならなかった。  おそらく、もしそうなっていたら、事態は変わっていて、ハロウとぼくは〈|おもて側《ニアサイド》〉へなど行かなかっただろう。  カーニバルとコードが外出の用意をしていた。今日はほとんど留守にするつもりだ、といって。二人はそのために着飾っているところで、そしてぼくがいやんなっちゃって計画を変更したのは、二人の着がえていたのが当然そうすべきはずのプライベート・ルームじゃなく、家族部屋だったことだ。  母は両足を脱ぎ捨てて、かわりに遊泳足をつけていた。ぼくはうんざりしてしまった。だって、遊泳足は無重力状態でしか意味がないんだから。ところがカーニバルときたら、チャンスがありしだいそれをつけ、馬みたいに足を高く上げて、そこらじゅうをはねまわる。それほど歩くにゃ適さないものなんだ。きみだって足の先に手がついてるのを見れば、おかしく思うだろうよ。それに、当然、足先は床に放り出したままだった。  カーニバルは時計をちらりと見て、シャトルの時間に遅れてしまうとか何とかいった。そして行きしな、肩ごしにふりかえった。 「フォックス、ちょっとお願い、あの足をしまっといてもらえない、ね? ありがとう」そうして、出て行った。  一時間後、憂鬱のどん底にいると、ドアが鳴った。一度も見たことのない女性がいた。素裸で。  きみにわかるかな? 誰か〈変身〉したばかりの知人を見て、その背がたとえ二十センチ低く(高く)なっていようと、体重が五十キロふえて (へって)いようと、それにきみの知っていた人とは全然似ていなくても、一目でそれと知れることがどんなに多いか。たぶんわかんないだろうな。というのも、この才能は誰にでもあるわけじゃないから。ところがぼくにはそれがひどく強力なんだ。カーニバルがいうには、種の進化によるところの変異、つまり気の向くままに外見を変えられるようになった他の個体を見わける必要への進化論的対応、だそうだ。たぶん正解だろう。彼女にゃ全然できないんだから。  ぼくは、それは人がどういうふうに身体《ボデイ》を着ているか、ということに関係あるように思う。そのボデイの性別によらず、どんなボデイでもだ。まばたき、口の動き、足構え、指、といったわずかなくせ[#「くせ」に傍点]。たぶん医者がいうところの、筋感覚ゲシュタルトというやつなんだろう。今度もそうみたいだった。このカワイ子ちゃんの顔や、背たけや、体重の違いの裏に、誰かぼくの知っている人間を見わけることができた。ハロウ。ぼくの最良の友。三|日《ルーン》前、最後に会った時には、男だったやつ。彼女は、白痴的な笑いを顔いっぱいにうかべた。 「ハーイ、フォックス」一オクターブ高かったが、それでもまちがいなく、ハロウの声のままだった。「誰だと思う?」 「ビクトリア女王、かな?」ぼくは当惑したよう声を出そうとした。「はいれよ、ハロウ」  彼女の顔色が変わった。めんくらったようすで、入って来る。 「どう思う?」ゆっくりと一回転し、あらゆる方向からの姿を見せた。すべて合格。なぜって――まるで別のことを望んでたみたいに聞こえるけど――彼女の母親が完全な処置を受けさせたからだ。完璧に発達した乳房、あらゆる成熟しきった曲線――何もかも。ただ、大人の背たけだけが与えられていなかった。むしろ、前より何センチか低くなっていた。 「すてきだよ」ぼくはいった。 「ねえフォックス、もしおじゃまだったんなら……」 「オー.ごめん、ハロウ」とぼく。憎悪をふり切ろうとしながら。「とってもきれいだよ。信じられないくらい。すごくいい。でも悪いけど、今ちょっと荒れてるところでね。カーニバルが全然折れようとしないもんだから」  たちまち彼女は同情を示した。驚いたことに、ぼくの手をとったりなんかして。 「わたし、あんまり幸せすぎて、わかんなくなってたみたい」低い声でいった。「どうやら、まだ来ないほうがよかったようね」  彼女はぼくを大きな茶色の瞳で(この前まで青色だったんだ)じっと見つめた。そしてぼくは、これがぼくにどういう意味をもつことになるのか、わかりはじめた。ということは、ハロウが? 女性? ハロウ、あのいつもいっしょに廊下を走りまわっていた野郎が? あのものすごい、カーニバルがどうしても家の中に入れたがらなかった、もつれた毛虫みたいな八本足の猫、あれをつくった時手伝ってくれたやつが? ぼくのメイク・ラブした女の子に同じことをして、あとで二人で感想をいい合ったり、いじめっ子たちがなぐりかかってきた時、助け出してくれて、いっしょに泣きながら仕返しを誓ってくれたりしたあいつが? ぼくらに、今でも、そんなことができるんだろうか? わからなかった。ぼくの親友の多くは男の子だった。たぶん、女の子だと、セックスの問題が、いろんなことをひどくややこしくしてしまいがちだからなんだろう、それは。そしてぼくには、まだ、一人の人間をその両方として扱うことなんてできなかったのだ。  ところが、ハロウは、まったくそんなことを気づかうようすもない。それどころか、ぼくにぴったりと体をくっつけ、お目々ぱっちりの無邪気なまなざしってやつを、ぼくがそれに弱いと承知の上でやってみせるんだ。なぜそんなことを知っているかっていうと、昔、彼女が男だった時、ぼくが教えてやったからなのだ。とにかく、こんなの、フェアじゃない、と思った。 「あー、ちょっと、ハロウ……」ぼくはあわてて後ずさりしながらいった。彼女がズボンを脱がしにかかったのだ! 「あの、ぼくは、慣れるまで、ちょっと時間がかかると思うんだ。できっこないもん、そんな……、何をいいたいかわかってるでしょ、ね?」彼女がわかっているとは思わなかった。そして実のところ、ぼく自身にも。ぼくにわかっているのは、ただ意味もなく、彼女のひどくやりたがっていることを抑えつけている、ということだけ。そして彼女は、どんどん近づいてくる。 「まって!」ぼくは、死にもの狂いでいった。「まって! 考えがあるんだ! あの……本当さ。カーニバルの月面機《ジャンパー》でドライブっていうのは、どう? 今日は使ってもかまわないって、いわれてるから」口が、コントロールを離れて勝手に動いた。いってることはすべて即席で、彼女にとってと同様、ぼくにとっても初耳だった。  彼女は、ぼくを追っかけるのをやめた。「ほんと?」 「そうさ」と、ぼくは、ひどく確信を込めていった。これは、母の立場から見て半分嘘であるにすぎない。事実、ぼくは、母に月面機のことを頼むつもりで、母が承知するとの確信もあった。論理的にそうなることを確信していたのだ。ただ、頼むのを怠った、というだけの話。だから、ほとんど許可されたも同様であり、よってぼくは、そうしたものとして行動したのだ。なるほど、この裏の理屈にトリッキーな点があることは認めざるを得ないが、もしぼくがそういったなら、カーニバルは納得してくれただろう。 「そうね」さほど気乗りしたようすを見せず、ハロウがいった。「どこへ行くつもり?」 「オールド・アルキメデスは?」これまた、ぼくにとって大きな驚きだった。そんなところに行きたいなんて、全然思ってもいなかったのだから。  ハロウにとっては正真正銘のショックだった。ぼくが与えた衝撃は、一瞬彼女を新しい行動様式から、本来の姿へと揺り戻した。ちょうど昔のハロウがしたように、ぽかんと口をあけて当惑した顔になり、それから改めて、口を両手でおおい、少ししょげかえったような、そんな表情をしてみせた。初めて〈変身〉した人間はこんなふうになりがちだ。新入りの女性はゴシック小説の登場人物みたいに控え目になり、新入りの男性は『欲望という名の電車』のマーロン・ブランドみたいに、ふんぞり返って大声を出す。まもなくそんなことは卒業するのだが。  ハロウは、ぼくの目の前で、まったくその通りをやってみせた。困ったように頭に手をやり、ぼくを見つめる。 「気でも違ったんじゃない? オールド・アルキメデスって〈|おもて側《ニアサイド》〉にあるのよ。そんなところへ、誰も行かせちゃもらえないわ」 「そうかい?」ぼくは突然興味がわいて、訊ねた。「確かにそうだと断言できる? もしそうだとして、なぜダメなんだい?」 「だって、つまり、みんな知ってるでしょ……」 「本当? ぼくたちを行かせたがらないやつら[#「やつら」に傍点]ってのは、誰のこと?」 「|セ《C》ントラル・|コ《C》ンピュータ、だと思う」 「よし、それを確かめるにゃ、やってみるしかないな。来いよ、レッツゴー!」  ぼくは彼女の腕をつかんだ。彼女が当惑しているのがわかった。自分の考えがまとめられるまで、そのままであってほしい、と思った。 「〈|おもて側《ニアサイド》〉、オールド・アルキメデスまでのフライト・プランがほしいのですが」  ぼくは、できるだけうろたえないよう、一人前に聞こえるように努力しながら、そういった。昼の弁当をパックしてから、たった十分で発着場まで来ていた。これは主に、ぼくの気違いじみた催促のおかげ。 「それは、ちょっと漠然としていますね、フォックスくん」|セ《C》ントラル・|コ《C》ンピュータがいった。「オールド・アルキメデスは広いのですよ。もう一度やり直してもらえませんか?」 「ああ……」からくじを引いちまったってわけだ。あらゆるコンピュータと、その想像力の欠如に呪いあれ! ぼくがオールド・アルキメデスについて、何を知ってるっていうんだ? オールド・ニューヨークや、オールド・ボンベイについでと、似たりよったりだと思うよ。 「中央発着場へのフライト・プランをくれ」 「そのほうがましです。データは……」一連の数字がくり出された。ぼくはそれを操縦装置《パイロット》にくわし、心を落ちつけようとした。 「さあ、行くぞ」と、ハロウにいってから、「こちら、フォックス・カーニバル・ジュール、キング・シティ所属自家用月面機AX1453を操縦。オールド・アルキメデス、中央発着場へのフライト・プランを提出する。内容……」CCがくれた数字をくり返し、「地球被占領紀元《OE》二一四年、第四| 月 《ルネーション》、一七|日《ルーン》。発進時間を知らせてくれ」 「了解。時間は次のとおり。認識信号より三十秒後。認識信号」  ぼくはあっけにとられた。「それだけ?」  機械がふくみ笑いをした。この母性ある機械のチクショウ。「何を期待していたんです、フォックスくん? 儀仗隊があなたの月面機のまわりに整列するとでも?」 「知るもんか。あんたがたぶん、〈|おもて側《ニアサイド》〉へ行くのを許可してくれないだろうって思ってたんだ」 「よくある誤解ですね。あなたは、未成年ではあるけれど、自由市民です。月面のどこへでも、好きなところへ行けるのですよ。ただ、政府の法律と、わたしにプログラムされているあなたのお母さんの特別の意志にのみ拘束されます。わたしが……あなた、点火をわたしに任せるつもりですか?」 「大きなお世話だよ」ぼくは時計を眺め、ゼロになった時、ボタンを押した。加速はゆるやかだったけど、相当長く続いた。くそっ、オールド・アルキメデスはちょうど真裏にあるのだ。 「わたしには、あなたが若さゆえの無知や不注意から危険を冒すことのないよう、見守る責任があります。また、あなたがお母さんの意志に従っているかどうかも見ていなければなりません。それ以外は、どうぞお好きなように」 「それは、カーニバルが〈|おもて側《ニアサイド》〉へ行くのを許可したってこと?」 「そうはいっておりません。カーニバルから〈|おもて側《ニアサイド》〉へ行くのを許可するな[#「するな」に傍点]、とは一度もいわれていませんし、〈|おもて側《ニアサイド》〉にもあなたの安全にとって異常な危険は、何ら存在しない。ゆえに、あなたのフライト・プランを認める以外、どんな選択もないのです」そこで意味ありげに問をおいて、「わたしの経験では、そういう許可をしないよう命令しておく必要がある、とまで考えるような親は、まずいません。そんなところへわざわざ行きたがる者が極めて少ないためだ、と推測されます。また、あなたのお母さんと現在交信不可能である、という事実も考慮しています。邪魔をしないように、との指示が残されていますので。フォックス」CCが、非難するようにいった。「これは偶然とは思えないのですが。計画的にやったのですか?」  そうじゃない[#「そうじゃない」に傍点]! でも、もし、そうと知っていたら…… 「いや」 「あなた、帰りのフライト・プランもいるんじゃありませんか?」 「どうして? 帰るつもりになったら、その時たのむよ」 「それはできない相談ではないでしょうかね」やつは気取っていった。「あと五分で、あなたはわたしの最後の受信器の受信範囲から抜けます。わたしは〈|おもて側《ニアサイド》〉までのびていません。この数十年というものはね。あなたとは交信不可能になるんです、フォックスくん。あなたは独力で行動することになるのです。よくお考えなさい」  ぼくはそうした。ちょっと不安になって、帰りたくなった。何年[#「何年」に傍点]もの間、子供たちは、CCのモニターなしで地上に出ることを許されなかったんだ。  ぼくにそれだけの自信があるだろうか? 地上というやつは、少しでも弱みを見せたが最後、ものすごい敵意をむき出しにするものなんだ。ぼくは、自分が、もうとっくにどんな失策にも対処できるような人間になっている、と思っていたけれど、はたして……? 「ワクワクするわあ」と、ハロウが突然声をあげた。目的地を聞いたショックから完全に回復して、また夢見心地となっている。彼女は〈変身〉から三日間というもの、そんなふうにボケーッとしたままだった。まあ、ぼくもそのあと、初めての〈変身〉をした時にはそうだったけど。 「しいっ、ばか」と、ぼくは悪口に聞こえないような口調でいった。彼女もそうはとらなかったようす。ただにっこりとぼくに笑いかけ、明暗境界線が近づいた時には、ぽかんと窓の外に見とれていた。  ぼくは消耗品の貯えをチェックし、万一必要となっても、まる一カ月の滞在に耐えられるだけあるのを確かめた。全然見ないまま飛びたったのだけれども。 「ようし、知ったかぶり、帰りのデータをおくれ」 「要求が不完全ですね」CCが、ゆっくりと気取っていった。 「ちぇっ、もう、オールド・アルキメデス――キング・シティのフライト・プランを求む、口答えなしで」 「了解」やつはデータをくれた。その声が、だんだんか細くなっていった。 「もしかして」やつが、おずおずといった。「いつ帰るつもりか、教えてくれないつもりじゃないんですか?」  ハハッ! これでむこうの痛いところをついてやれるんだ。カーニバルはCCの説明を聞いて、いよいよカッカするだろう。それはもう確実だよ。 「あいつにいってやれ、ぼくは自分のコロニーを始めることにしたんだ、決して帰らないからって」 「お好きなように」  オールド・アルキメデスは思ったより大きかった。その最盛期でさえキング・シティほどの人口もなかったのだが、当時の人々が、大部分を地上に建設していたからだ。キング・シティにあるのは、発着場と、わずかのドームだけ。ところがオールド・アルキメデスには、構造物がぎっしりつまっていて、それが中央発着場のまわりに集中している。ハロウが南側のおもしろそうな建物を指さしたので、その上空に向かい、すぐ近くへと着陸した。  彼女はドアを開け、テントを放り出し、すぐあとから飛び降りた。ぼくは昼食の運び役にされてしまったようなので、はしごを持ってそれに続いた。彼女はすばやくあたりを見回してから、テントをひろげはじめる。 「探険はあとまわし」と、息を切らせながらいった。「まず、テントの中でお食事にしましょう。おなかがすいちゃった」  おーおー、よしよし、ぼくは自分にいい聞かせた。おそかれ早かれ、直面しなければならないことなのだ。本当のところ、彼女がそんなに飢えて[#「飢えて」に傍点]るとは思えない――少なくとも、ピクニックの弁当に関しては、ね。今度テントから這い出す時、ぼくたちの関係がどうなっているか、こいつはちょっと、想像を絶していた。  彼女がしたくしている間、もう一度落ちついてあたりを見回す。  たちまち、こんなところじゃなくて、静かの海基地にでも来ればよかったと、後悔しはじめた。あそこなら、完全に二人っきり、というわけにはいかないだろうけど、でも、少なくとも幽霊は出ないだろう。しかし考えてみると、静かの海基地も〈|おもて側《ニアサイド》〉にあったんだっけ。移転するまでは。  オールド・アルキメデスについて……  ぼくにはわけがわからなかった。いったいこの場所の何が、ぼくをこんなに不安にするのだろうか。静けさじゃない。人類は、地球を離れて生きねばならなくなり、太陽系のくず[#「くず」に傍点]惑星で暮らすようになってからというもの、静けさへの適応を余儀なくされている。人気《ひとけ》のないことでもない。ぼくは何時間も誰にも会わない地上を長い間歩くことにも慣れている。ほんとに、どうしてだろう。たぶん、地平線のやや上にかかっている、あの地球のせいなんだ。  それは三日月形をしていた。ぼくはその夜の部分に人類の都市の灯が光点となってちりばめられていたという遠い日々を、むやみと思いこがれた。今やそこにあるのは、原始の夜と、海のイルカと、異星人《エーリアン》――子供たちの安らかな眠りをぶちこわす、でっちあげられたお化けたち、のみ。でも今となっては、それほど確信がもてなかった。たとえあそこにまだ人類が生き残っていたとしても、それを知る方法はないのだから。  あれこそが、人々を〈|うら側《ファーサイド》〉へ追いやったものなのだという。いつも空にあって、絶えず失ったものを思い出させるもの。それはつらいことだったろう。とりわけ、地球生まれの人々には。どういう理由であれ、ここまる一世紀というもの、〈|おもて側《ニアサイド》〉で暮らした人間は一人もいないのだ。もとからあった居留地はすべて滅びた。人々が〈|うら側《ファーサイド》〉の何もなく居心地良い空の下へと移住した時。  ぼくが感じたのはそれだと思う。何か、目に見えないコケのように、古い建物の上に漂っている雰囲気。あらゆる希望をこの地に埋めて〈|うら側《ファーサイド》〉の忘却へと去ったすべての人々がその後に残した恐怖と絶望の霊気《オーラ》。ここには、確かに幽霊がいた。満たされなかった夢と、果てしない希望の亡霊が。そして、それらすべての上をおおっている、底知れぬ悲しみ。  ぼくは思いを振り払い、現実に戻った。ハロウがテントを完成していた。空地の上に、ぼくの頭より少しばかり高くふくれあがった、透明な泡。彼女はもうその中にいた。ぼくは、自在口を通ってもぐり込み、後ろから彼女がそれを封じた。  ハロウのテントはすてきだった。フロアの直径が約三メートル、時々けとばされてもかまわないなら、六人で入っても十分な大きさがあった。オーヴン、ステレオ、それにコンパクト・トイレ付き。水分を循環利用し、炭酸ガスを浄化処理し、温度を調節し、水栽培で酸素を三カ月間供給できるようになっている。これがすべて、一辺三十センチの立方体《キユーブ》の中に折りたたまれていたのだ。  ハロウは、入り口が封じられるやいなや〈服〉を体からはがし、忙しそうに動きまわってキッチンをしつらえた。昼食の入ったバスケットを受け取って、調理をはじめる。  ぼくは熱心な興味をもって、彼女が食事の用意をするのを眺めていた。彼女がどういう感じでいるのか見抜きたかったのだが、それは簡単じゃなかった。頭のヒューズが全部焼き切れているみたいに見えた。  初めての者は、自分の体に新しいアイデンティティを求めるあまり、過剰に反応しがちである。前のままでもいっこうにかまわない、とわかるまでは。ぼくたちの社会が男女間の役割の差といったものをほとんど認めていないので、彼らはその差が実際びっくりするほどはっきりしていた過去へと手を伸ばす。昔の地球や植民初期の月の、小説、ドラマ、フィルム、テープといったものへ。彼らはばく然とこう考えるのだ、この新しい肉体を手に入れ、それにペニス(あるいはヴァギナ)が欠けているからには、違ったようにふるまうのが当然じゃないか、と。  ぼくには彼女の落ち込んだキャラクターが何かわかった。ぼくだって、昔の文化に興味をもつ点、他のチビどもにひけをとらない。彼女がブロンディで、ぼくがダグウッドってわけだ。例のマンガのやつ。典型的で家庭的な十九世紀のカップル。彼女は赤白チェックのテーブルクロスを広げ、皿とナプキンとウォッシュボールをふたところに用意して、小さな電気燭台を置いた。  ぼくは、小さなオーヴンの前にしゃがんで一つのバーナーに三つのフライパンをのせようとしている、そんな彼女に微笑まざるを得なかった。ぼくを喜ばせようとして、ぼくに全然興味のもてないようなことを、こんなに一所懸命やってくれるんだもの。彼女は働きながらハミングしていた。  食事のあと、ぼくはあとかたづけを申し出た(あーあ、なにしろダグウッドなんだ)。ところがブロンディのいうには、ありがとう、でもいいのよ、あなた、あたしが全部やるから……。そこでぼくはあお向けに寝ころんで、おなかをかかえ、じっと地球を見つめていた。すると、ぼくの横に、あったかい肢体がすりよってきて、半身をからませ、顔からつま先までぴったりとぼくに押しつけてきた。彼女はブロンディをどこか汚れた皿の間にでも放り出してきたんだ。今、ぼくの耳もとで息づいている女性は――トロイのヘレン? グレタ・ガルボ?――ともかく、新しいだれかだ。もとのハロウに戻ってほしいと、ぼくは心から願った。もし彼女を中におさめているこの熱狂的な生き物がすこし遠慮してくれたなら、ハロウとぼくはまさしくモーレツなセックスができるんじゃないか、と思ったりして。そうしている間にも、ぼくはトロイのヘレンにゴーカンされようとしていた。ぼくは頭を上げた。 「どんな感じ? ハロウ」  彼女はちょっと手をゆるめた。でも、決してやめはしない。そのままで片ひじを立てる。 「説明できそうも、ないわ」 「そこをなんとか」  えくぼが顔に浮かんだ。「いったい全体[#「いったい全体」に傍点]どんなふうか、本当にわかんないの』そして、「わたし、まだバージンなんだもん」  ぼくは起きあがった。「きみは、それも[#「それも」に傍点]手に入れたってわけ?」 「トーゼンよ、どうして? でも、気にしないでいいの。わたし、怖くなんかないもん」 「メイク・ラブについては?」 「おお、フォックス、フォックス! もちろん、もちろんよ。わたし……」 「違う、違うんだ! ちょっと待って」ぼくはもう少し離れようと彼女の下でもがいた。「つまり、ぼくがいいたいのは、取り換えるってことに問題はなかったの? つまり、今男の子とセックスすることに全然嫌悪感ないわけ?」本当にバカな質問だよ。でも彼女は真面目にとった。 「そこまで思ったことなかったわ」と、つくづく考えていい、一方、手は下へ伸びて、ぼくを招き入れようと不器用にまさぐっていた。ぼくはそれがうまくいくよう協力し、彼女はしゃがみこんだ。 「〈変身〉の前には考えてたけど、まあどうでもよくなって。今じゃ、全然、不安なんてないの。ああっ!」彼女が乱暴に腰をおとしすぎたのだ。ぼくたちは勢いよくスタートした。  これは今までの経験のうちで最低のセックスだった。別にどっちが悪かったのでもない。外部の要因がもう少しでぼくらを完全にぶちのめしてしまうところだったんだから。だけど、それを別にしても、すごく良かったとはいいにくい。  初めて女に〈変身〉した者は、最初の性行為で、たっぷり六十秒はつづく無我夢中の忘却状態に陥るものらしい。別の競技場で、違ったルールで、違った道具を使って試合をしているという事実は、ハンディキャップとならない。むしろ、すごくエロティックな刺激となるのだ。  それがハロウに起こったことだ。いったい彼女はぼくを待たないつもりなんだろうかと、気になりはじめた。ついにわからずじまいだったが。彼女からちょっと目を離した時、ぼくは一生に一度のショックを受けたからだ。  誰かが、テントの外で、ぼくらを見つめている。  ハロウが、ぼくの変化に気づいて、まじまじとぼくの顔を覗き込み(ああ、きっと見ものだったろうよ)、そして、肩ごしに振り返った。そのまま、まるで火が消えるように気を失った。  ちくしょう、ぼくだって、もう少しで気絶しちまうところだったんだ。まったくの話、そうなんだけど、彼女が気を失ってしまうと、ぼくはよけい恐ろしくなって、かえって負けちゃいけないと決意を固めたのだ。気をしっかり持って、次に何が起こるかじっと見守った。  それは、到着以来ぼくがイマジネーションによってこの見捨てられた町をさまよい歩かせていた幽霊たちの一人に、驚くほど似かよっていた。背が低く、ケプラーの博物館から盗んできたような〈服〉を着ている。もっとも、〈服〉というには継ぎはぎが多すぎたけれど。その中に誰がいるのか、性別さえはっきりしなかった。やたらとかさばり、ヘルメットがきらきら光っていた。  どれくらい見つめていたんだろう。その化物がテントのまわりを三、四回うろつけるくらいの時間だ。ぼくは飲みかけの白ワインのボトルに手をのばし、ぐっと一杯あおった。古い映画のお決まりどおり。だけど、事態は少しも変化なし。そこでハロウに頭から浴びせかけてやったら、これは確かに何とか効果があった。 「〈服〉を着ろ」彼女が起きあがると、ぼくは早口にいった。「あいつ、ぼくらと話したがってるみたいだ」彼は、手を振って、〈服〉のラジオらしきものを指さしている。  ぼくらは〈服〉を着て、〈括約筋〉からはい出した。〈服〉のチャンネルをすべらしながら、ヘロー≠ニ呼びかけつづける。どのチャンネルも応答なし。そうしていると彼がそばまで来て、ヘルメットをくっつけた。声がひどく遠くから聞こえた。 「おまえたち、ここで何やっとるんだ?」  そんなこと、見てわかってるだろ、とぼくは思った。 「ぼくたち、ただピクニックに来ただけです。ここはおじさんの土地か何かだったんでしょうか? もしそうなら、心からおわびしますが……」 「いや、いや」彼は手を振って否定した。「好きなようにやってくれ。わしはおまえたちのお袋じゃないからの。所有しておるかというのなら、わしはこの町全部を所有しておるつもりじゃが、たいがいのところでなら、好きなようにやってかまわんよ。好きなようにやれ、これがわしの哲学じゃ。そこでわしもまだここに残っとるわけだ。やつら、老いぼれレスターを立ちのかせることができなかった。老いぼれレスターとはわしのことじゃよ」 「ぼくはフォックスといいます」 「そして、あたしはハロウ」彼女もぼくのラジオで二人の会話を聞いていたのだ。  男が彼女のほうを振り向いた。 「ハロウ」と彼は静かにいった。「天使の後光《ハロウ》か。良い名じゃの、お嬢さん」ぼくは彼の顔が見えたらと思った。声は大人のようだったが、背が低い。ぼくたち二人よりも低いのだ。ぼくらは同い年の標準に比べてそう高いほうじゃないのに。  彼がせき払いをした。「わしは、ああ、すまなかった、おまえさんたちのじゃまをして……あのう」彼はまごついているようすだった。「わしは、そうせずにはいられなかったんじゃ。長い間だれにも会っとらん――おう、もう十年になるかな――そこで、ただ、もう少し近づいて見なくてはと。それにわしは、うう、おまえさんたちに、ちと頼みたいこともあってな」 「とおっしゃいますと、何でしょう?」 「ふだんのいい方でかまわんぞ。わしゃおまえの親父じゃないからの。おまえさんたちが何か薬を持っとるかどうか知りたかったんじゃ」 「月面機の中に応急キットがあるけど」とぼくはいった。「誰か助けの必要な人がいるんですか? キング・シティの病院まで連れて行ってあげますよ」  彼は狂ったように手を振った。 「いや、いや、いや。医者に突っつきまわされるのはごめんじゃよ。薬がちょっとあればいい。うむ、じゃあ、その応急キットを月面機から出して、わしの住《す》み処《か》までちょっと来てくれんかな? たぶん何かわしの使えるものがあるじゃろう」  ぼくたちはそれに同意し、彼のあとについて発着場を横切った。  彼は発着場の端にある与圧されていない建物の中にぼくらを招いた。暗い廊下をぬうようにして進んで行く。  大きな貨物用エアロックの前まで来ると、中へ入り、それを操作した。内側のドアを抜ければ、そこが彼の住居だった。  それはたいしたところだった。家というよりジャングルといったほうが早い。キング・シティの市民会館と同じくらいの大きさで、一画に木や蔦や花や草がはびこっていた。一度は手入れされたようすがあったが、その後荒れるがままにまかされている感じだった。片すみに、ベッドと椅子が少し、それに背の高い書架が並んでいる。それから、ガラクタの山。空気漏れ密封剤のボンベ、空っぽのO2シリンダー、廃物利用の道具、バギー・タイヤ。  ハロウとぼくがヘルメットを脱ぎ、〈服〉も半分脱いだ時、ぼくらは初めて彼の顔を見た。とても信じられない! ぼくは思わず驚きの声をあげていたんじゃなかろうか、純然たる反射作用から。ハロウは、ただじっと見つめているのみ。ぼくらはそれからお行儀良く、何も変なところはない、というふりをしようとした。  まるで〈服〉なしで外へ出るのを習慣にしていたような顔。しわだらけで、大砲の弾幕に掘り起こされた地面のように、あばただらけだった。皮《レザー》のように堅そうな膚。目は深い眼窩《がんか》の底に沈んでいた。 「さあ、見せとくれ」と彼は、細い腕をつき出した。指の関節がふくれ、節くれだっていた。  応急キットを手渡すと、彼は引き手をいじってそれを開けた。椅子に腰かけ、それぞれのラベルを注意深く読む。読む間、ぶつぶつと何か呟いていた。  ハロウは植物の間をぶらぶらしていたが、ぼくにはこの家よりもレスターじいさんのほうに興味があった。彼が堅い不格好な指でキットの中身を扱うのを見つめる。あらゆる動作がぎごちなく見えた。彼のどこが悪いのか想像できなかったが、どうしてもっと早く医学の助けを得ようとしなかったのか、不思議だった。彼を悩ませているものが何であれ、ここまで進行する以前に。  とうとう彼はクリームのチューブを二本だけ残して、全部をキットの中へ戻した。ため息をつき、ぼくたちを見る。 「あんたたち、いくつかね?」疑わしげに訊ねた。 「二十歳」とぼく。どうしてだかわからない。ぼくは決して嘘つきじゃないんだ、ふつう、ちゃんとした理由のない場合は。たまたまレスターじいさんにうさん臭いものを感じ始めたので、自分の直観に従ったまでだ。 「わたしも同じ」ハロウが自分からいった。  彼がそれで満足したようすなので、ぼくは驚いた。彼が長い間世間から隔絶していたということが、実感されてきた。それがどれだけ長いか、まだ知らないだけだった。 「ここにゃあんまりわしの役に立ちそうな物がないんじゃが、この品なら買っても良い、もし売ってくれるちゅうならの。ここに『局所麻痺』に効くと書いてある。それなら、なんとか毎朝使えるじゃろ。いくらかな?」  何もいらないと答えたのだが、彼が固執する。そこで、言い値でいいからと、〈服〉のポケットにあるクレジット・メーターに手を伸ばした。彼が、何枚かの長方形の紙きれをさし出した。かつてのルナ自由国で、OE七六年に発行された紙幣だった。一世紀以上も使用されていない。コレクターには巨万の価値があった。 「レスターさん」ぼくはゆっくりといった。「これ、どうやらあなたが考えておられるよりも、ずっと価値があるんですよ。もしキング・シティで売ったなら……」  彼は高笑いした。「正直者じゃの。その札にどのくらい価値があるのかぐらい知っておるとも。わしは老いぼれじゃが、もうろくはしとらん。ほしがっておる者には何千という値うちじゃろうが、わしには一文にもならん。ただひとつのことを除けばのう。正直者を見わけるには、えらく良いテストになるんじゃよ。そいつが、病気でよぼよぼの老いぼれ隠者につけこむやつかどうか、知らせてくれるからの。勘弁してくれ。じゃが、わしはあんたらがここに来た時、あんたのことを嘘つきとにらんでおったのじゃよ。わしが間違っておった。だから、あんたはこの札を持って行って良いのじゃ。さもなきゃ、取り返しておったじゃろう」  彼はぼくらの前の床に何かを放り出した。何か、彼が手に持っていて、それまでぼくの見たことのないもの。銃だった。それまで全然見たことがなかったんだ。  ハロウが慎重にひろい上げたが、ぼくは触れたくもなかった。このレスターじいさんという男が、今ではずっとおもしろくない人間に思えた。ぼくらは押し黙っていた。 「おや、おどかしちまったかな」彼がいった。「どうやら礼儀作法とやらを忘れちまったようじゃ。それに、あんたらが向こうでどういうふうに暮らしとるかちゅうこともなあ」彼は銃を取り上げ、開いてみせた。薬室は空だった。「しかし、わからなかったんじゃろう? とにかく、わしゃ人殺しじゃない。ただ、友人を本当に慎重に選ぶというだけじゃ。ディナーに招待したら、おどかしちまった埋め合わせになるかな? もう十年も客を迎えておらんのでの」  ぼくらは食べたばかりだといった。すると、とまっていって、しばらく話すだけでもできないかと訊いてきた。ひどくそれを望んでいるようすだった。ぼくらはオーケーと答えた。 「何か着るものはいるかな? ここに来るのに、誰かを訪問することを予定に入れておったとは思えんのじゃが」 「あなたの慣習に従いますわ」ハロウが如才なくいった。 「わしにゃ別に慣習などないが」歯を見せずに笑いながらいった。 「もしおまえさんたちが裸でもおかしくないと思うんなら、わしの知ったことじゃない。好きなようにやれ、というわけじゃ」それが彼のきまり文句だった。  そこで、ぼくらは草の間に寝ころんだ。彼が相当強い透明なリキュールを持って来て、みんなに一杯ずつついでくれた。 「ムーンシャインじゃ」彼は笑った。「まじりっ気なし。わしが自分でつくったんじゃ。〈|おもて側《ニアサイド》〉で最高のリキュールじゃぞ」  飲みながら話がはずんだ。  飲み過ぎてみんな忘れてしまわないうちに、レスターじいさんについての興味深い事実をいくつか聞き出した。ひとつは、彼が本当に年をとっているということ。二百五十七歳で、地球生まれだという。二十八の時、〈侵略〉の何年か前、月にやって来たのだそうだ。  ぼくはそのくらいの年齢の人を何人か知っている。カーニバルのひいおばあさんが二百二十一だ。でも彼女は月《ルナ》生まれで、〈侵略〉など覚えていない。実質的にいえば、彼女は生まれた時の肉体をまったく残していないのだ。記憶も二度、新しい脳に移し換えている。  レスターじいさんが長い間一度も医療をうけずに過ごしてきたってことを信じるつもりはあったけれど、彼の最初の言葉には耳を疑った。彼はこういったのだ、八十年前心臓を新しいのに取り換えた以外、体を改造したことは、生まれてから一度もない、と! ぼくは若くてナイーヴである――今、それを率直に認めよう――でも、そんなことを真に受けるなんてできなかった。ところが、しまいに信じられるようになり、今では信じているのである。  彼の話題は尽きなかった。どれも、少なくとも八十年昔の話で、ということは、それだけの間、世捨て人でいたというわけだ。彼は地球の話を知っていた。黎明期の月の話も。彼は〈侵略〉後の苦しかった時代について語った。その時代を生き抜いて来た者はみな、語るべき何ものかを持っている。夜が明ける前にくたばってしまったので、はっきり覚えているのは、三人が輪になって立ち上がり、腕を組んでレスターじいさんの教えてくれた歌をがなっていたということだけだ。ぼくらは互いに体を揺さぶり合い、額をぶっつけ合って、笑いながらぶっ倒れた。彼の手が肩にのっていたのを覚えている。それは岩のように堅かった。  次の日、ハロウはフローレンス・ナイティンゲールに変身し、レスターじいさんを介抱して正気づかせた。あらゆる看護婦がそうであるように、彼女の態度も断固としたもので、彼の弱々しい抵抗をものともせず、着物を脱がせてマッサージした。酔いも醒めたその朝、どうして彼女に、わざわざしわだらけの老体に触れるなんてことができたのか、ぼくには不思議だったけれど、でも見ているうちに、少しずつわかるような気がしてきた。彼は美しかったのだ。  レスターじいさんに比べうる最上のものは月面である。月の表面より古いものはなく、荒れ果てたものもない。でも、ぼくはいつでもそれを愛してきた。太陽系の中で、土星の輪を含めたとしても、一番美しい場所なんだ。レスターじいさんはそれに似ている。ぼくの想像では、彼は月[#「彼は月」に傍点]だった。月の一部になりかけているのだった。  彼が老齢なのはわかっていたが、それにしてもその体調はひどいものだった。酒の飲みすぎですっかり健康が奪われているというのに、寝こむ気はまったくないらしい。朝一番に彼が望むのは、もう一杯の酒だった。ぼくは一杯ついでやり、それから大そうな朝食を料理した。卵、ソーセージ、パン、オレンジジュース、すべて菜園から採ってきたもので。食べ終わると、また飲みはじめた。  その時まで、カーニバルやハロウの母親がどう思ってるかなんて、心配するヒマさえなかった。レスターじいさんは明らかにぼくらを養子扱いしている。彼がぼくらの父親になろうといい出した時、ぼくは変なことをいうと思ったものだ。なぜって、いったい、自分の父親が誰かなんて知ってる者がどこにいるっていうんだろう? でも彼は、ぼくが「母親らしさ」と呼ぶような態度でふるまいはじめ、そして明らかに、それを「父親らしさ」と考えているようすだった。  その日はたくさんのことをした。園芸についても教えてもらった。  彼は、卵ナスの交雑法や、それが熟したかどうか殻を割らずに見わける方法を教えてくれた。パンの木をどういうふうに育てれば、堅くてこげ茶色のパンや小麦パンをつくるには、どんな組み合せでつぎ木をすればいいか、そんな秘密を聞かせてくれた。ぼくはそれまでライ麦パンなんて食べたこともなかったのだ。ジャガイモやステーキダイコンの掘り方も学んだ。どうやって蜜やチーズやトマトを収穫するかも知った。ぼくらは豚肉樹《ポークツリー》の幹の皮からベーコンをそぎ取った。  仕事の合い間にはムーンシャインを飲んで大いに笑った。菜園の知識の他にも、さらにたくさんの話を聞かせてもらった。  レスターじいさんは最初思ったような馬鹿じゃなかった。話のパターンが、長年のひとりよがりな面白がらせによって、いくぶん不自然になっているだけなのだ。彼はたくさんの本を読んでいて、そのすべてを覚えていた。第一級のエンジニアで植物学者、ただし、その教養と技術は、やむを得ない事情により限定されている。知っていることがすべて、八十年ほど時代遅れなのだ。もっとも、それほど問題じゃない。古い方法でも十分役に立つのだから。  社会的なことについては、また話が別だ。  彼は〈変身処置〉について、それを嫌っているというだけで、あまり知らないようだった。彼が最終的に社会からの離脱を決意した原因が、この〈変身処置〉だ。もともと〈|うら側《ファーサイド》〉への移住に加わることには懐疑的だったのだが、性転換問題で決定的になったという。彼が一度も女性になったことがないと明かしたのは、彼の思っている以上に、ぼくらにとって衝撃的だった。好奇心がおそろしく乏しいのに違いないと思ったが、そうじゃなかった。何か、その行為の全体的な道徳性に対して、子供時代の、ある奇妙奇天烈な宗教からくるところの、風変わりな見解をもっているらしかった。ぼくもその宗派のことを聞いたことがある。少しでも歴史について聞きかじった者なら、まず避けては通れまい。倫理についてほとんど語ることなく、独断的な規制にばかり熱中する宗教。  ところがレスターじいさんは、いまだにそれを信じているのだ。彼の家には原始的な聖像《イコン》がちらばっていた。中でも大切にしている中心的なシンボルが、|+《プラス》の記号に長い柄をつけたような、単純な木造の呪物だった。彼はその一つを首にかけ、他を雑草のようにそこらに生やしていた。  彼につきまとうわけのわからない矛盾の根底には、この宗教があったのだ。彼の「好きなようにやれ」という言葉は、本心から出たものだろうが、必ずしもそれを守って暮らしていたとはいえない。明らかに、彼は、人々が選択の自由を持つべきであると考えるのだが、もしその選択が自分のと違っていたら、人々を非難するのである。  ぼくがとっさに年齢を偽ろうとしたことは正解だったのだ。真実が事態をもっと良くする可能性はなかった、と断定はできないけれど。これ以上嘘をついたり、ほのめかしたりしないですんだのかも知れない。いつだってごまかすよりは正直の方がいいもの。でも、はたして、レスターじいさんとぼくらが嘘なしで友だちになれたかどうか、ぼくにはいまだにわからない。  彼は〈|うら側《ファーサイド》〉の暮らしも多少知っていたが、その大部分に賛成できないと、はっきりいっていた。ただし(ぼくらの口ぞえによって)ぼくらは別だと誤解している。とりわけ、セックスについて、「人並みな」年頃になるまでやってはならない、という意見を持っていた。その年齢がいくつなのか、定義こそしなかったけれど、ハロウとぼくの「二十歳」は、無事パスしたらしい。  これこそ不可解な考えだ。相当古くさい人間ではあるけど、さすがのカーニバルだってこれには参るだろう。なるほど、現在、ぼくらの青春期は引き下げられている――ぼくも七つの時から性的能力がある――とはいえ、彼の意見では、たとえ思春期のあと[#「あと」に傍点]でも、慎まなければならないっていうんだから。こいつはちょっと理解できないよ。だって、きみならどうする[#「どうする」に傍点]?  それから彼の使った「近親相姦」という言葉。その意味がちゃんと理解できたかどうかを確かめるために、ぼくは家に帰った時わざわざ調べてみたぐらいだ。間違っちゃいなかった。彼はそれに反対しているのだ。その根拠は、セックスが生殖や遺伝と強く結びついていた、時のあけぼのにまでさかのぼるようだ。でも現在、どうしてそんなことが問題になるだろう? ぼくとカーニバルの折り合う場所があるとすれば、ベッドの中以外にない。それがなくては、ぼくらの共通の場は無に等しいだろう。  規制のリストにはまだまだ続きがあった。でも、幸いなことに、レスターじいさんへの気持ちを悪化させるようなものじゃなかった。むしろぼくらの落ち込んでしまった嘘の方が嫌だった。人々が風変わりな考えを持つのはちっとも悪いことじゃない。〈変身〉に対するカーニバルのように、それをぼくに押しつけようとしない限りは。ぼくがレスターじいさんの考えに同意したとしても、それはぼくの責任であって、彼が悪いんじゃない。そうだとも。  日々は過ぎ去ったが、気になることがひとつあった。どんな法律も破っちゃいなかったけれど、ぼくらが捜索されているのは明らかだった。それに、ぼくは、カーニバルにひどいしうちを加えている。それがどの程度ひどいのか、どうすればいいのか、考えてみようとするのだけれど、ムーンシャインと安逸さの霧の中に溺れてしまうのが常だった。  カーニバルが〈|おもて側《ニアサイド》〉に姿を現わしたのだ。  レスターじいさんのレーダーがそれをとらえた時、ハロウとぼくは物陰から眺めていた。遠くに六、七人の姿があった。月面機の中を調べていた連中である。発着場の端を捜してぼくらの跡を発見し、それがコンクリートに消えているところまで追って来たのだ。何を話しているか盗聴したかったけれど、きっと逆探知装置を持っているにちがいないので、あえてそうしなかった。  彼らは去って行った。月面機を後に残したまま。これは思いやりというものだった。それを持ち去って、彼らが再び帰って来るのを待つしかないようにすることもできたのだから。  ぼくはそのことを考え、ハロウと何度も話し合った。何度、あきらめてほとんど帰りそうになったか知れない。結局のところ、ぼくらは本当に家から逃げ出したくて出て来たわけじゃないのだから。ただ権威に反抗しているだけであって、こんなに長くとどまろうとは全然思ってもみなかったのだ。でも今、ここにこうしていると、簡単には帰れないということがわかる。 〈|おもて側《ニアサイド》〉への旅はそれ自身の慣性力を獲得し、ぼくらにはそれを止めるだけの力がないのである。  あげくの果てに、ぼくらはもう一方の極端へと突っ走った。〈|おもて側《ニアサイド》〉へ永住しようと決心したのだ。たぶん、こういった選択が感じさせる力の感覚に目がくらんでいたんだろう。そこで、背中をたたいて励まし合ったり、意味もなくくすくす笑ったり、ぼくらとレスターじいさんはアルキメデスで如何なることを為すべきか、などという大げさな意見を述べあったりして、不安感を隠そうとした。  ぼくらは短い手紙を書いた――それは依然としてぼくらが誰か[#「誰か」に傍点]に責任を感じていたということを証明している――そして、月面機のはしごにはりつけた。ハロウが中に入り、外側のライトを点けて、光を垂直に向ける。それから隠れ場所に退いて待ち受けた。  案の定、二時間して、もう一隻の船が戻って来た。近接軌道から眺めているうち変化に気付き、次の通過の際着陸したのだ。一人が船から出て手紙を読んだ。それは気違いじみた手紙で、心配するな、ぼくらはみんな大丈夫、ということが書いてあった。ずっととどまるつもりだ、と繰り返し、その他思い出したくもないようなことが色々と。彼女が月面機を持って帰るように、とも書いてあった。ぼくは母がそれを読んでいる間でさえ、後悔し続けていた。きっと気が狂っていたに違いない。  これだけ離れていても、母が意気消沈しているのがわかった。彼女はあたりを見回し、それから手旗信号をはじめた。 「やるべきことをおやりなさい」と、彼女は送った。「理解はできないけれど、あなたを愛しています。あなたが心変わりした時のために、月面機は残しておきます」  いやはや。ぼくがごくりと喉を鳴らし、母の方へ行こうと半分腰を浮かせたその時、ひどく驚いたことに、ハロウがぼくを引き戻した。彼女がぼくといっしょに来るのは、ぼくの間違いを指摘したくない、それだけの理由からだと、ぼくは思いこんでいた。これはもともと彼女の思いつきじゃない。ぼくがむりやり連れて来た時は普通の思考状態じゃなかったのだ。けれど彼女は、何日も前に落ちつきを取り戻し、今では前と同じくらい冷静になっていた。そして、ぼくよりもずっと、この冒険に夢中になっていたのだった。 「いくじなし!」彼女がヘルメットをくっつけて叱った。「こんなことになるんじゃないかって思ってたわ。よく考えてみなさいよ。こんなに簡単にあきらめていいの? まだ何も試していないのよ」  彼女の顔は、その言葉ほど確信に満ちてはいなかったけれど、ぼくはとても彼女に反論できるような状態じゃなかった。そのうちカーニバルが行ってしまい、ぼくはほっとした。かりに、これがうまくいかなかったとしても、とにかく逃げ道はあるわけだ。たちまちぼくらは恐れを知らぬ開拓者となり、カーニバルや〈|うら側《ファーサイド》〉のことを思い出すこともなくなった。事態が本当に[#「本当に」に傍点]嫌な方向へ向かい始めるまでは。  長い間、ほとんどまる一カ月というもの、ぼくらは幸せだった。レスターじいさんと一所懸命に働いた毎日。彼みたいな生活では仕事の尽きることは決してないんだということを学んだ。いつでもエアー・ダクトは修理されねばならず、花は受粉されねば、機械は調整されねばならない。それは原始的で、ぼくはいつも改良法を思いついたが、決して提案しようとは思わなかった。ぼくらの気違いじみた開拓者魂に合わなかったからだろう。物事がつらくないと、どうもぴったりこないのだ。  ぼくらは映画で見たような草の差しかけ小屋を建てて、そこへ移った。それはレスターじいさんのところから部屋をはさんだ向かい側で、ばかばかしいことだけど、互いに見物し合えるというわけだった。そして、ぼくは罪についておもしろいことを学んだ。  レスターじいさんは、なめし皮のような顔いっぱいに、にやにや笑いを浮かべて、ぼくらがみすぼらしい小屋の中で愛し合うようすを見たがった。それからある日、彼は、それとなく、性行為は内密にすべきものだとほのめかした。それを他人の前でやるのは罪であり、見るのも罪である、と。けれど彼は、依然として覗き見るのだった。  そこでぼくはハロウに訊ねてみた。 「彼はささいな罪を必要としてるのよ、フォックス」 「ふうん?」 「論理的じゃないのはわかるけど、あなたも彼の信仰が完全にメチャクチャだってことにもう気がついてなきゃいけないわ」 「それは確かだ。でも、まだ、ぼくにゃ納得できないな」 「ええ、それはわたしも同じだけど、でもわたし、それを尊重しようと思ってるの。彼は飲酒を罪深いものと考えていて、わたしたちがやって来るまでは、それが彼の手の出せる唯一の罪だったわけ。今じゃその上に色欲の罪も犯せるわけよ。彼には罪を許される必要があって、許されるためには、その前に罪を犯さなきゃならないでしょ」 「そんな気違いじみた話、聞いたことないよ。だけど、もっと気違いじみてるのは、もし色欲が彼にとって罪なんだったら、どうして行きつくとこまで行ってきみとセックスしないんだい? そうしたがってることは絶対に確かなんだ。でも、ぼくの知る限り、一度もやってない。そうだろ?」  彼女は、あわれむようにぼくを見た。「知らないんでしょう?」 「えっ、あったの?」 「いいえ。そういう意味じゃないわ。わたしたちなんにもないの。わたしの努力が足りなかったわけじゃないけど。彼が望まなかったわけでもない。彼はね、見るの、見るの、見るのよ。決してわたしから目を離そうとしない。それに、彼がそれを罪だと考えてるからでもない。彼はそれが罪だと知ってる[#「知ってる」に傍点]わ、でも、もしできたならば、彼はやったでしょう」 「でもぼくにゃ理解できないよ、それじゃ」 「どうして? いったじゃない。彼はできない[#「できない」に傍点]のよ。年をとりすぎちゃって。彼のものはもう役に立たないの」 「そんなひどい[#「ひどい」は太字]!」ぼくはいいかげん気分が悪くなってきた。彼の状態を表わす言葉があるってことは知ってたけど、それを調べてみたのはずっとあとになってからだった。その言葉は不具[#「不具」に傍点]。体の一部が正常に働かないという意味。レスターじいさんは、一世紀以上も、性的に不具だったのだ。  その時ぼくは、本気で家に帰ることを考えた。彼がぼくの周囲にいてほしい種類の人間であるという自信は、すっかりなくなっていた。毎日毎日、嘘はより耐え難くなっていくし、おまけに今度はこれだ。  だが、事態はもっともつと悪くなり、それでもぼくはまだとどまっていたのだった。  彼が病気になったのだ。普通ぼくらがいうような意味の病気、生体工学者のところに十分も行けばなおるような、そんなつまらない不調のことじゃない。彼はぽろぽろになってしまったのだ。  それはある程度までぼくらの責任だった。一番最初の朝でさえ、彼の起床はそんなに早くなかった。毎日毎日――長い夜を飲み明かし、いろんなお祭り騒ぎをやらかした後――彼は少しずつ起き上がるのが遅くなっていった。ついには、毎朝、ハロウが彼をまっすぐ立てる状態にするのに、マッサージだけで一時間を費やすまでになった。最初ぼくは、彼がハロウに親密なマッサージをしてもらいたいあまり、ただ抜けめなく仮病を使っているだけだろうと思っていた。それは間違いだった。やっと起き上がった時も、彼はびっこをひき、痛む腹を押さえてかがみ込んだ。彼はもの忘れするようになった。何度もよろめき、倒れて、彼はひどくゆっくりと起き上がるようになった。 「わしゃ死にかけとる」と、ある夜彼がいった。ぼくは息をのみ、ハロウはすばやくまばたきした。当惑をおおい隠そうと、ぼくは彼が何もいわなかったふりをした。 「そいつが、今じゃいけない言葉になっとることぐらい知っとるし、おまえさんたちを不快にしたのなら、すまないと思う。だが、わしぐらい長生きすると、それを真向から見つめたって平気なのさ。わしゃ死にかけとる、間違いなく、それに、もうまもなく死ぬじゃろう。こんなに早く来るとは思わなんだがのう。あらゆるものがわしを置き去りにして行くようじゃ」  ぼくたちは、そんなことはないと納得させようとしたけれど、うまくいかず、今度は〈|うら側《ファーサイド》〉までちょっと飛んで行って直してもらったら、と説得しようとした。でも彼の迷信的慣習は打ち破れない。ひどく〈|うら側《ファーサイド》〉のエンジニアを恐れている。定期修復の後でも精神《マインド》は――彼はそれを「魂《ソウル》」と呼んだ――そのまま変わらずに残るのだと教えようとしたのだけれど、彼は哲学的になってしまうのだった。  次の日、とうとう起き上がらなかった。ハロウは自分がくたくたになるまで彼の老いさらばえた四肢をさすってやった。何の役にも立たなかった。呼吸が不規則になり、脈搏も見つけにくかった。  かくして、ぼくらは今までで最もつらい決断に直面したのだった。彼をこのまま死ぬにまかせるべきか、それとも月面機に乗せて修復屋へかけ込むべきか? ぼくらは一日じゅう悩み続けた。どちらも正しいとは思えなかったけれど、ぼく自身は彼を連れ帰る方に賛成の気分で、ハロウはその逆だった。ぼくらの話が彼に聞かれることは、たまに起き上がろうとする短い時間を除けばなかった。そんな時、彼はぼくらに質問したり、何か完全に支離滅裂なごとをいったりした。その時にはもう、彼の脳は相当混乱していたのだろう。 「おチビさんたち、本当に二十じゃないんじゃろう?」一度、そんなことをいった。 「どうしてわかったんです?」  彼はくわっくわっと弱々しい笑い声を上げた。 「老いぼれレスターはばかじゃない。おまえたち、わしがおまえたちのやってるところを見てしまったんで、家族に告げ口されんようにそんなことをいったんじゃろう。しかしわしは告げ口などせんぞ。わしにゃ関係のないことじゃ。ただおまえたちに知ってほしかったのは、わしをだませはせんということじゃ、ほんの一瞬たりともな」彼は苦しげな息づかいに陥った。  ぼくらの議論に決着がついたのは、ひたすら怠慢のおかげだった。  ぼくの意見を実行するには若干の行動が必要だったが、結局、立ち上がってするということができなかったのだ。ぼくは自分に十分な自信がなかった。だから彼のベッドに腰かけて、彼の死ぬのを待ちながら、用があれば話をしたりするだけだった。ハロウが彼の手を握っていた。  ぼくは地獄を通り抜けた。彼のことを、空っぽ頭の、気違いの、先史時代の、トンチンカンのとののしり、もう少しで彼の死への細道を道案内してやろうかと決心しかけた。それからもう一つの道へと突っ走り、まるで彼が彼の気違いじみた神を愛するように、彼のことを愛しはじめた。彼のことを、カーニバルが実際には決してそうでなかったような、ぼくのお母さんなんだと思い込み、彼が死んだらぼくの世界には何の目的もなくなってしまうんだと思った。どちらにしても、こんな反応は気違いじみている、もちろん。レスターじいさんはただの人。ちょっと偏執的で、ちょっと気高くて、愛したり憎んだりしにくい人間。ぼくの心を空回りさせていたのは死神だった。レスターじいさんがその迷信の中からずばり語ってくれた、おぞましい黒衣の骸骨男。  動かなくなって何時間もたった後、かすんだ片目が開いた。 「いかんぞ」と、彼はいった。「おまえは決してしちゃあいかんぞ。おまえ、そうじゃ。ハロウ。決して〈変身〉しちゃいかん。おまえはいつでも女の子でおるべきじゃ。おまえは、いつまでも。神さまがそういうふうに創ってくださったんじゃ」  ハロウがぼくの方をちらりと見た。彼女は泣いていて、目がぼくに語っていた。ひと言もいっちゃだめ。彼にそう信じさせてあげて≠ニ。心配は無用だった。  それから彼はせきこみはじめた。唇から血が吹き出し、ぼくはそれを見ると、たちまち気が遠くなった。彼が文字どおり、崩れ落ち、腐り、何かおぞましい緑色のどろどろしたものに、洗っても洗っても決して落ちないどろどろしたものになってしまう、そんな気がした。  ハロウは、ぼくをいつまでも気絶させてはおかなかった。耳がジーンと鳴るほど強く平手打ちをくわせた。正気づいた時は、もう手遅れだった。こんなもの[#「こんなもの」に傍点]に向かい合ったんじゃ、意味のある決定はできない。誰か他の人にまかせなきゃ。  かくして二十五分の後、ぼくは極点上空にあり、ちょうどCCの外部通信網の範囲《レンジ》内に入ったところだった。 「おや、やっかい者の御帰還ですね」CCがえらそうにいいはじめた。「あなたがたは〈|おもて側《ニアサイド》〉滞在の一般例より長持ちしたといわなければならないでしょうね、実際……」 「うるさいっ!」ぼくはどなった。「だまって聞け。カーニバルとコンタクトしたい、今すぐ[#「今すぐ」に傍点]にだ、最優先、緊急事態。早くしろっ!」  CCがフルに働きはじめた。〈親代り〉のプログラムを捨て去り、緊急事態にとっておきの驚くべきスピードでオペレートしていった。カーニバルが出るまで三秒かかった。 「フォックス」彼女がいった。「わたし、第一歩でつまずいてこれを切るようなことにはなりたくないわ、だから、まず最初に、わたしは面と向かい合って和解のチャンスを与えてくれたことを、あなたに感謝します。わたし、家庭仲裁人を頼んだのよ、あなたの望んでる〈変身〉について、わたしたちのそれぞれのいい分を提出したいと思うの、わたし、彼の決定に従うって同意するわ。これは最初としてはフェアじゃないこと?」彼女の声には切望の響きがあった。その底に怒りがあるのがわかる――いつでもそうなのだ――でも彼女は誠実だった。 「それについては後で話そう、ママ」泣きそうな声になってしまった。「今すぐ発着場に来てよ、できるだけ早く」 「フォックス、ハロウはいっしょにいるの? 彼女、大丈夫?」 「彼女は大丈夫」 「五分でそこへ行くわ」  それでは遅すぎたんだ、もちろん。レスターじいさんは、ぼくの離陸した直後に死んでしまった。ハロウはほとんど二時間、死体といっしょにいたことになる。  彼女は冷静にそれをやりとげた。カーニバルとぼくの仲をまとめ、何をすべきか説明し、力を合わせて手伝わせた。ぼくらは彼を埋葬したのだ。彼の望みにしたがって、|母なる地球《オールド・アース》の光が永遠に照らし続ける地上の片隅に。  ぼくらがもし、まだ彼の息のあるうちに着いていたらどうしたか、カーニバルは決してぼくに話そうとしなかった。それは倫理上の問題であり、倫理上の問題についてはどちらも一般的にがんこなのだ。でも、一度だけ意見の一致を見たと思う。個人の意志は尊重しなければならない、だから、もしもう一度それに直面することがあっても、ぼくはどうすべきかわかっているだろう。おそらく。  ぼくは家庭仲裁ぬきで〈変身〉した。ちょっとばかりの分別をぼくにも認めてくれたってわけだ。もしぼくらの一件が家庭仲裁人に持ち出されていたら、きっと絶縁するよう勧告されていたに違いない。そいつはちょっと、相当にキビシイことだったろう。なぜって、気難しいところがあるとはいっても、ぼくはカーニバルを愛しているんだし、それに、少なくとも、もう数年は彼女を必要としているんだ。ぼくは思ってたほど大人になっちゃいなかったんだから。  本当のところ、〈変身〉についてカーニバルの方が正しかったといっても、ぼくは驚かなかっただろう。次の一カ月、ぼくはまた男になり、それから女に、また男にと、まる一年の間行きつ戻りつしていた。別にどんな意味もなかった。今は、女になっているけど、何年かこのままでいて、どういうものか知ってみたいなと思う。もともと、生まれた時は女の子だったんだもんね、二時間だけだったけど、なぜって、カーニバルが男の子を望んじゃったから。  そして、ハロウは男性になっている。うまいこといってるんだ。ボーイフレンド同士より、互いに異性である方がいいとわかっているのさ。ぼくは、数年以内に子供を産むつもりなんだもの、ハロウを父親としてね。カーニバルは待てというけど、今度ばかりはぼくが正しいんだ。  ぼくと彼女のトラブルの大半は、彼女が、自分の子供の生きている目まぐるしい現在を認識できないことから生じたものだと、ぼくは今でも信じている。それからハロウは彼女の子供を産むのだ――もし彼女が、その父親にぼくを選んでくれたら嬉しいんだけど――そして……  ぽくらは〈|おもて側《ニアサイド》〉へ移るだろう。まず、ハロウとぼくだ。それから、カーニバルとコードも考慮中、おそらく行くだろうと思う。もしアダージョをだまらせさえすれば。  なぜ行くかって? ぼくはそれについて長い間考えてきた。レスターじいさんのためじゃない。彼のことを悪くいうのは嫌なんだが、でも、議論の余地なく彼は愚か者だった。威厳と強い信念を持った馬鹿。愛すべき年老いた馬鹿、でもやっぱり馬鹿は馬鹿だ。彼の夢を心に抱きつづける≠ニか、そういったハロウの胸に収められているようなことをいってみても、くだらないことだろう。  でも、偶然の一致ながら、彼の夢とぼくの夢とは、理由こそ違っているものの、かなり近いのだ。彼は〈|おもて側《ニアサイド》〉が恐怖のために放棄されるのを見るに耐えかね、新しい人間社会を恐れた。世捨て人になったのはそのためだった。ぼくがそこに行きたいのは、ただ、ぼくらの世代にとって恐怖は去ったからであり、そしてそこには美しい土地がいっぱい広がっているからなのだ。孤独を求めてのことじゃない。ぼくらは先駆けとなるにすぎないだろうが、母なる地球《オールド・アース》に背を向け、〈|うら側《ファーサイド》〉の居住地に群がり住んだ時代は終わったのだ。人類は地球から来たのであり、それは奪い取られるまでわれわれのものだったのである。本当のところ、古い話がいうほど、異星人が無敵なものかどうか、ぼくは疑わしく思っているのだ。  それは本当に美しい惑星だ。ぼくたちがそこに帰る日は果たしてくるのだろうか? [#地付き](大野万紀訳) [#改ページ]    ジョン・ヴァーリイ――未来の巨匠 [#地付き]山岸 真   ヴァーリイの名前からまっさきに連想するのは、「未来の巨匠」という言葉である。  十年くらい前、ぼくがSFを読みはじめたころ、もっと正確にいうとSFをジャンルとして意識しだしたのと同じころ、ヴァーリイの作品の日本での翻訳紹介がはじまった。そのころ、ヴァーリイの名前には、必ずこんなキャッチフレーズがついてまわったものだ。いわく、「いまアメリカSF界でもっとも期待されている大型新人」、あるいは、「七〇年代の新人王」。  もちろん、これらの言葉は当時のぼくに強い印象をあたえたし、未来の巨匠というイメージもそこで作られたわけだが、いま思えばSF歴の浅いそのころにはまだ、キャッチフレーズをうのみにしていただけのような気がする。けれど、SFを読みあさるにつれて、「古典的名作」の類いが色あせてくるのとは逆に、SFの申し子のようなヴァーリイの作品はより魅力的になってきて、未来の巨匠という言葉もしだいに強く実感できるようになっていったのだ。  もっとも、いま、未来の巨匠といって多くの人が思いうかべるのは、ウィリアム・ギブスンやブルース・スターリング、グレッグ・ベアといった名前だろう。ぼくも何度もそういう趣旨の文章を書いているし、たしかにこの呼び方は、それぞれの時代を代表する新人にこそふさわしい。それでも、ヴァーリイがそう呼ばれるべき作家であることにかわりはないと思うのだ。  そのへんは順に説明していくとしても、ヴァーリイが「期待の新人」だったころ、七〇年代の中ばから後半にかけてのアメリカSF界は、まちがいなくヴァーリイの時代だった。こと中短編に関しては、この時期を代表する作家といったらこの人をおいてほかにない。ヴァーリイ旋風と呼びたいような当時の活躍ぶりを、ちょっとふりかえってみよう。  まず、七四年に発表され、本書にも収録されているデビュー作「ピクニック・オン・ニアサイド」。あまりの斬新さに評価が追いつかなかったのか、この作品自体は賞の候補になったりはしなかったけれど、翌七五年、七六年とつづけてキャンベル賞(新人賞)の候補にヴァーリイの名前があがっている。  以後、七八年までのあいだに、ネビュラ・ヒューゴー両賞にのべ六回ノミネートされ、たちまち賞取りそこね[#「賞取りそこね」に傍点]記録の上位にランク・イン。ただし、そのなかには同じ年、同じ賞、同じ部門でヴァーリイの作品が二作同時に候補になったあげくの落選も含まれているのだから、人気のほどがしれよう。  ヒューゴーやネビュラばかりではない。七〇年代の後半を通じてヴァーリイの作品は毎年ローカス賞の上位に何作かがはいっていて、それがたがいに票をくいあって受賞にいたらないといった事態の繰りかえしに同情してか、七七年には特別賞があたえられている。年間SF傑作選にも何回も収録されていて、ある年など三つある傑作選のすべてに、しかもそれぞれ違う作品で名をつらねたことがあるくらいだ。また、七七年に創刊された〈アジモフズ〉誌は、創刊号の巻頭作品に、本書収録の「さようなら、ロビンソン・クルーソー」を選んでいる。アジモフの名を冠した雑誌の、それも文字どおり先陣を切るなんて、ただごとではない。しかも、その号には、ハーブ・ボエム名義のべつの短編も載っているのだ。  七七年には待望の処女長編『へびつかい座ホットライン』を発表。期待が大きすぎたためか絶賛とはいかなかったが、七〇年代版『地球幼年期の終わり』とも評されるように、この時代の代表的な作品であることにちがいはない。七八年、第一短編集『残像』を上梓《じょうし》、その反響は絶賛なんて生やさしいものではなかった。いくつか引用しようかと思ったが、あまり臆面なくてはずかしいのでやめる。  そしてこの七八年に発表した「残像」がついにネビュラ、七ユーゴー、ローカス各賞を制覇、三つの年間傑作選すべてに収録された。さらに同年発表の本書表題作もローカス賞ノヴェレット部門を受賞、ヒューゴー賞の候補にもなっている(日本では〈SF宝石〉誌の創刊号を飾った)。  七九年、第二長編『ティーターン』(本文庫既刊)、八〇年にはその続編 Wizard(本文庫刊行予定)と、第二短編集である本書をたてつづけに刊行し、第二長編がクラークを破ってローカス賞受賞、本書もローカス賞短編集部門を受賞している(『残像』の対象年度にはこの部門がなかったのだ)。ほか、本書収録のノヴェレット「ビートニク・バイユー」でネビュラ・ヒューゴー両賞候補など、この二年間の作品で両賞のべ八部門にノミネートされた。  うーむ、予想以上にスペースをとってしまった。八〇年代の活躍はあとでまた述べるとして、どうです、驚くとか感心するとかいうより、あきれるほどの活躍でしょう。つぎに引用するのは、ある年間傑作選の選者が「残像」の前書きでいっていることだけれど、このへんがヴァーリイに対する当時の正直な気持ちだったのではないだろうか。 「ヴァーリイの紹介文はあらゆる編集者に書きつくされていて、かれを賞賛するあたらしい言葉がみつからない。それとも、それらの言葉をくりかえす必要があるだろうか」  ――では、こうしたヴァーリイの人気の秘密は何だろうか。「書きつくされた賞賛」の言葉をならべてみれば、こうなる。  SF的アイデアやガジェットを大量に、しかし革命的に一新された手つきで駆使することによって、さりげなく創りだされるSF世界。くわえて、最新の科学データが活かされた設定や描写。現代的に洗練された新しいハードSF。その世界に生きる人々の、新しいモラル(作品世界が必然的に要求するものであり、また七〇年代のそれを反映したものである)に基づいた心理や生活の、説得力あふれる描写。ミステリやサスペンス型のプロットを使ったたくみなストーリー・テリング。七〇年代のハインライン。  だが、こんな最大級の賛辞を、それこそ「書きつくされ」るほどならべても、まだヴァーリイのほんとうの魅力にはふれられない。ここはやはり、ヴァーリイ紹介の第一人者の大野万紀氏に語っていただこう。第一短編集『残像』の解説からの引用で、そのころぼくも強い印象をうけた言葉である。 「ぼくがヴァーリイに引きつけられた(略)もっと大きな、ばく然とした理由は、それが読んで心地良かった[#「心地良かった」に傍点]、ということだ。(略)同時代性、といってもいい。ここにぼくと同じ時代を生き、時代に対して同じような感受性をもった人間が、今SFを書いている、という感覚。(略)  たとえふつうのアイデア・ストーリーを書いても、単なる[#「単なる」に傍点]アイデア・ストーリーに見えないところが、ヴァーリイの魔力なのかもしれない。ぼくはその魔力にとりつかれてしまっているのだ。ぼくだけじゃなく、アメリカの多くのファン、批評家、作家たちも。そして、あなたもそうであればいいな、と思う」  さて、ここまでは、いわば七〇年代当時のヴァーリイの評価である。本書におさめられた作品は、いずれもこの時期に書かれたものであり、ここまでに述べてきたような点を十分に納得していただけるだろう。  けれど、これを現在の、八〇年代の目で読むと、また違った魅力がみえてくるように思うのだ。ぼく自身が本書を読みながらとくに目についたのは、最近のサイバーパンクの作家たちとの共通性である。  たとえば、表題作や「バガテル」、「さようなら、ロビンソン・クルーソー」などにみられる、身体改造がごくあたりまえにおこなわれている社会は、スターリングの諸作を連想させる。また、クローンや記憶移植がなんの抵抗もなく受けいれられるといった設定の底には、人間を情報に還元してとらえていくギブスンらの考え方と同じものがあるといえるだろう。これまで、ヴァーリイの作品のなかで性転換が日常化していることはしばしば語られてきたが、このような人間の定義≠平気でなしくずしにしていく面でのアモラルさもかなりのものである。  ただ、サイバーパンクなら、「イークイノックスはいずこに」のシンブはたとえば、メディア・スーツのメタファーといった形であつかわれるのだろうが、ヴァーリイの場合のそれはあくまで有機体との共性だ。こんな風に、サイバーパンクの認識が、生命と無機物の境界の消失へとむかうのに対し、ヴァーリイの作品では、外宇宙と内宇宙の融合というニュアンスが強調されることが多いようで、このへんには作品の書かれた時代の差があらわれているように思う。  それでも、ヴァーリイの作品が、発表当時に思われていた以上に新しく、それこそ未来的なものだったということはいえるのではなかろうか。  一方で、これとはべつに思うのは、ヴァーリイの作品の同時代性ということだ。  以前からヴァーリイの作風の特徴として、アイデンティティの追求というテーマをモラトリアムからの脱皮の物語として描くことが指摘されてきた。たとえば「さようなら、ロビンソン・クルーソー」は、こうしたヴァーリイの特徴がよくあらわれた作品である。  主人公は、ハイテクの力によって現実化された、少年期特有の理想的な自我像の幻影と、もうひとつの[#「もうひとつの」に傍点]モラトリアム状態のなかに生きている。その設定を、舞台となる冥王星地下の巨大な空洞世界が雄大に象徴し、人工世界の崩壊とともにふたつのモラトリアムも終りをつげる。  それを描くヴァーリイの筆致は、モラトリアムそのものやそこにとどまろうとする主人公を、完全に肯定することも、否定しきることもない。  この作品から感じられるのは、ちょっとノスタルジックな色合いの「切なさ」であり、その裏返しとしての「さわやかさ」であるし、さらには「やさしさ」という言葉を連想したりもする。たぶん、そんな読後の気分は、モチーフとして使われている心理学(ソフト・サイエンス)のイメージとともに、七〇年代的なものといっていいのだろう。そういえば、七〇年代SFをリードした若手作家はみな、この「やさしさ」をキイワードにしていたように思う。  いま七〇年代的ということをいったけれど、モラトリアム人間にはじまって、ピーターパン・シンドロームやらシンデレラ・コンプレックスやらが盛んにとりざたされるここしばらくの風潮のなかで、ヴァーリイの作風に、大野万紀氏がいうのとはまるでべつの意味での「心地良さ」を感じている人は多いのではないだろうか。  けれど、ここでいうヴァーリイの同時代性とは、そういうこととは関係ない。だいたい、ヴァーリイの作品というのは、モラトリアム人間の代弁をしているわけではないのである。  じっさい、本書を読めば、どの作品も意外とシビアなトーンにつらぬかれていることがわかるだろう(これはもちろん、難解とか暗いとかいうこととは関係ない)。残酷なまでの自我崩壊の描写の出てくる「イークイノックスはいずこに」しかり、鏡をモチーフに狂気の淵を描いた「ブラックホールとロリポップ」しかり、自我の抹消を扱う表題作しかり。こうしたシリアスさをともなって、はじめてヴァーリイの作風は、七〇年代の同時代的なものとなることができたのだろう。  さらに新しい作品では、そのシリアスさがより前面にでてきているようだ。本書でも、いちばん新しい「ビートニク・バイユー」は、モラトリアムの本来の意味につながる社会的責任をとりあげており、もっとも異色な作品となっている。また、七〇年代末に書かれたノヴェラ「ブルー・シャンペン」などは、私見だが、「さようなら、ロビンソン・クルーソー」を設定から展開、テーマまで、すべてひっくりかえした作品であり、その読後感は、すでに切なさとかやさしさとかいう言葉が似つかわしいものではない。近作はさらにディプレッシブなものになっている。  そしてそのことは、やはり時代をそれぞれに反映した結果だと思うのだ。ヴァーリイの同時代性は七〇年代だけにとどまるものではない。ヴァーリイは、つねに時代を鋭敏にとらえつづけている作家なのである。  ジョン・ヴァーリイは、一九四七年、テキサスに生まれた。ギブスンよりひとつ年上というわけ。ローティーンのころからのSFファンで、ハイスクール時代から創作を志すが断念、その後、大学をドロップアウトして放浪生活をした後、ふたたび創作に取りくみ、デビューをはたす。以後、七〇年代の活躍は前述のとおり。つづけて八〇年代を。  八一年の「ブルー・シャンペン」でローカス賞、「プッシャー」でヒューゴー、ローカス各賞を受賞。八三年に『ミレニアム』、八四年、待望の『ティーターン』三部作完結編 Demon を上梓。八四年の「PRESS ENTER■」でネビュラ、ヒューゴー、ローカス(および星雲賞)各賞を総ナメしたうえ、ふたたび三つの年間傑作選のすべてに収録されて、かわらぬ人気と実力を証明した。  そして昨年、第三短編集を上梓、これがさきごろ発表された今年度のローカス賞を受賞して、ヴァーリイの人気のほどにはあらためて驚かされたばかりである。なにせ、おかげで二位に甘んじさせられたのが、いまをときめくサイバーパンクの旗手、ギブスンの第一短編集なのだから。  最近は、ディズニー映画のシナリオや、「PRESS ENTER■」の長編版、およびタイトル不詳の長編に取りくんでいる。現在、オレゴン州ユージーン在住。  ……こんなところで、最初にいった「未来の巨匠」としてのヴァーリイの可能性については、ひととおりのことは述べられたと思う。ぼく自身、これを書きはじめるまでは、七〇年代的な作家という結論に落ちつくのではないかと考えていたが、書きながら、ヴァーリイのスゴさをあらためて確認するかたちになった。  あとは、ヴァーリイがもっとたくさんの作品を、できればもうちょっと早いペースで発表してくれることを願うばかりである。  なお、本書は、The Barbie Murdrs (Berkley,1980) の全訳である。(八三年の新装版では Picnic on Nearside と改題)  作品についてひとこと。ここに収録された作品の大半は、〈八世界シリーズ〉という共通の設定をもっている。その知識がなくとも、各作品は独立して楽しめるけれど、本書のべつの作品に出てきた人物どうしが、シリーズ唯一の長編『へびつかい座ホットライン』で出会うなどの楽しい発見もある。シリーズの概略はつぎのとおり。――西暦二〇五〇年、謎のインベーダーの侵略によって、地球の文明は壊滅した。このとき、月植民地にいて難をまぬがれた人々とその子孫は、へびつかい座ホットラインとよばれる外宇宙からの謎の通信を解読して得た超技術の助けを借りて、太陽系内に散らばっていった……。  また、バッハ刑事の話が二編あるが、その舞台が〈八世界〉の地球侵略以前の月植民地なのか、べつの設定なのかは不明。一般に〈八世界〉に含められることはないようだし、〈八世界〉とは矛盾する点があるように思う。なお、バッハの話もシリーズになっていて、ほかに「ブルー・シャンペン」や第三短編集に書きおろされたノヴェラがこれに含まれる。 [#地付き](一九八七年七月) -------------------- 創元SF文庫 バービーはなぜ殺される 1987年12月18日 初版 1998年11月6日 再版 著者 ジョン・ヴァーリイ 訳者 朝倉《あさくら》久志《ひさし》他 テキスト化 スチール 公開日 2011/08/23 校正