ポオのSF 第2巻 エドガー・アラン・ポオ/八木敏雄訳 目 次  ユリイカ……散文詩  エイロスとチャーミオンの会話  モノスとユーナの対話  催眠術の啓示  言葉の力  タール博士とフェザー教授の療法  解説 [#改ページ]  ユリイカ……散文詩 [#ここから2字下げ] 深甚の敬意をこめて、本書をアレクサンダー・フォン・フンボルトに捧ぐ [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] 〔フンボルト(一七六九〜一八五九)はドイツの博物学者、旅行家、政治家で、自然地理学の創始者。一七九九年から一八〇四年にかけて中南米を旅行して、自然地理学の基礎を築いたが、その中心思想は自然哲学の影響下にあり、自然を生命力の発現として捉えた。主著『コスモス』は一八四五年に発表され、ポオが『ユリイカ』を発表した一八四八年頃からようやく英訳が出はじめたばかりなので、ポオがこの著作の第一巻さえ全部読んでいたかどうか、疑わしい〕 [#ここで字下げ終わり]   序  私を愛し、私が愛する数少ない人たちに、考えるより、むしろ感じる質《たち》の人たちに――夢見る人たちに、確固たる現実とおなじく夢を信ずる人たちに――私はこの真理の書を捧げます――本書が真理の語り手としての資格を有するからではなく、その真理に充溢し、かつまた本書をして真たらしめている美のゆえに。そういう人たちに、私はこの仕事をもっぱら芸術作品として――いうなれば一篇の物語《ロマンス》として、あるいは、もしあまりにも過分な要求でないとするならば、一篇の詩として提供いたします。  [私がここに提唱するものは真であります]――それゆえに不滅です――あるいは、よしや踏みにじられて死滅することがあろうと、それは「ふたたび永遠の生命によみがえる」でありましょう。  ともあれ、私の死後、この作品がもっぱら詩としてのみ評価されんことを切望するものであります。  E・A・ポオ   ユリイカ  物質的宇宙ならびに精神的宇宙についての論文  まことに虚心坦懐な気持と――畏怖の念にも通じる思いで――私はこの作品の冒頭の一文をしたためるものである。というのは、あらゆる思考対象のなかでも、もっとも壮大な――もっとも包括的な――もっとも困難な――そしてもっとも厳粛な主題をひっさげて、私は読者に語りかけようとしているからである。  この主題を鮮明にするにあたり、それにふさわしい荘厳にして単純――単純にして荘厳な言葉を選ぶとなれば、私は途方に暮れざるをえない。  私が語ろうとしているのは、[物理学的、形而上学的、数学的宇宙について――物質的ならびに精神的宇宙について――その本質、その起原、その創造、その現状、その宿命について]である。そのうえ、私が性急にもやりかねないことは、もっとも偉大な、もっとも正当に尊敬をかちえている少なからざる人物の結論に挑戦し、つまるところ、それらの人物の賢明さに疑問をさしはさむことである。  まず最初に、できるだけはっきりさせておきたいことは、私の意図が定理の証明などにはなく――なぜなら、数学者たちがどう主張しようと、少なくともこの世では証明などという[代物]はありえないからであるが――主題の提示にあるのであって、それは本書一巻を通じてたえずくりかえすつもりである。  私の一般命題とは、つまり、こうである――[最初の一つのものの原始の単一状態のなかに、その後のすべてのものの原因がひそみ、同時に、それらすべてのものの不可避的な消滅の萌芽もひそんでいる]、ということ。  この観念を明晰にするため、私が提案したいことは、精神をして、宇宙の全容を真の姿でとらえ、かつ知覚しうるような仕方で宇宙を概観することである。  エトナの山頂でさりげなく周囲を見わたす者は、主としてその眺望の[拡がり]と[多様性]に心奪われる。踵《かかと》でくるりと一廻転してみないかぎり、その荘厳な[単一性]としての展望《パノラマ》を視野に収めることは望みがたい。ところでエトナの山頂で踵を軸に廻転してみようと思いついた者がいなかったように、その眺望を完全な単一性として頭にたたきこもうとした者もいまだにおらず、したがってまた、その単一性のなかにいかなる考察にあたいするものがあろうと、それは人類にとって、事実上、いまだ存在しなかったも同然なのである。  私は[宇宙]という言葉をあたうかぎり包括的、かつ唯一正当な意味で用いるものだが――そのように[宇宙]を全体として概観した論考に接したおぼえがない。ところで、ここで断わっておくのがよかろうと思うのだが、私がこの論文でなんらの断わりもなしに「宇宙」という言葉を用いるとき、それは[およそ考えうるかぎり無際限な空間の拡がりのことで、その拡がりの範囲内に、精神的たると物質的たるとを問わず、想像しうるかぎりのあらゆるものが存在しているもの]のことを意味する。「宇宙」という表現が普通に意味するものに言及するとき、私は「星の宇宙」という限定された言葉を用いたい。なぜそのような区別が必要であるかについては、おいおい明らかになるはずである。  いつも[無限]であると仮定されながら、実際には有限である[星の]宇宙についてさえ、この有限な宇宙についてさえ、宇宙をその[独自性]から演繹できるような全体としてとらえている論考を私は知らない。そういう仕事にもっとも近いこころみとしては、アレクサンダー・フォン・フンボルトの「コスモス」がある。だがフンボルトにしても、この問題を独自性として[ではなく]、一般性として扱っているにすぎない。彼が考察の対象としたのは、つまるところ、単なる物理的宇宙の[各]部分の法則であって、この各部の法則が、単なる物理的な宇宙の[他のすべての]部分の諸法則と関連しあっているということが前提なのである。彼の方法論は単なる省略法にすぎないのだ。別言すれば、彼は物質相互の関係の普遍性を論じ、この普遍性の[背後に]これまで隠されていたさまざまな推論の可能性を哲学の眼にさらけ出したわけである。しかしながら、彼がその論題の個々の点を扱うにさいして発揮した簡潔性はなるほど賞賛にあたいするが、それらの論点の多様性は、必然的に、細部の集積という結果をもたらし、印象の[統一性]をそこねている。  この印象の統一性を確保するためには、また、そうすることによって、結果なり――結論なり――暗示なり――あるいは、悪くても、なんらかの思いつきなりを得るためには――あの踵でくるりと一回転するのに似た一種の精神的旋回運動を必要とする。視点を中心とする周囲のすべてが急速に旋回し、細部はことごとく消え去り、より顕著な対象も一つに溶解するような運動を必要とする。こういう概観の仕方によれば、あらゆる地上的なものは消え去る細部のなかに含まれてしまうことだろう。地球は天体との関連においてのみ考えられることになるだろう。こういう観点からすれば、一人の人間は人類となり、人類はまた知的存在としての宇宙家族の一員となる。  さて、本題にはいるまえに、なかなかもって注目にあたいするある手紙から一、二の抜粋をして読者にお目にかけたい。この手紙は栓をした瓶に封じ込められて|暗黒の海《マーレ・テネブラールム》をただよっていたところを発見されたものらしい。この海についてはヌビアの地理学者プトレミイ・ヘフェスチオンによる詳しい記述があるが、現代においては、超絶主義者《トランセンデンタリスト》やその他の奇想を求めて深く潜るのを好む者以外はめったに訪れることはない。白状すれば、私はこの手紙の内容より、その日付にことのほか驚いているのである。というのは、それは二八四八年に書かれているらしいからである。これから引き写そうとしているくだりについては、とやかく言うまでもなく、文章自体がみずからを語るであろう〔プトレミイ・ヘフェスチオンなる「ヌビアの地理学者」は実在しない。また、ここに引用されている二八四八年という日付のある手紙は「メロンタ・タウタ」と大幅に重複する〕 「親愛なる友よ、あなたはご存知ですか」とこの手紙の書き手は書いているが、疑いもなく、当時のある人に語りかけているのである――「[真理に到達する実際的な道は二つしかない]という奇っ怪な考えから人びとを解放するのに形而上学者たちが合意したのは、やっと八百年か九百年ほどまえのことだということをご存知ですか? 信じがたいことでしょうけれど、むかしむかし『時間』の闇夜の時期に、名はアリエス、姓はトットルというトルコの哲学者がいたらしい」(ここで手紙の書き手はアリストテレスのことを名ざしているようだが、偉大な名も二、三千年のあいだにはかくもみじめに風化してしまうものである) 「この偉人の名声は、主として、いびきは天のたまものであって、これによってあまりにも深遠な思索家は余分の観念を鼻を通して放出することができることを証明してみせたことにもとづくのですが、それに劣らぬ名声を、いわゆる演繹的ないし先験的《アプリオリ》哲学の創始者、少なくともその主要な普及者として得ていたのです。彼は公理ないし自明の真理と称するものから出発したのです――ですから、[いかなる]真理も[自]明では[ない]という、いまでは広く知られている事実が彼の思考の邪魔になったことは絶えてなかったわけです。問題の真理が自明でありさえすれば、それで目的は充分に達成されたというわけです。彼は公理から論理的に結果へとすすんでいきました。彼の最高の弟子はテュークリッド(ユークリッドのことならん)という幾何学者とカントというオランダ人でしたが、これは例の超絶主義《トランセンデンタリズム》という哲学の一派の創始者で、その奇妙な名は頭文字がKのかわりにCになっただけで、いまに伝わっています。  ところで、このアリエス・トットルは『エトリックの羊飼い』という異名を持つホッグなる人物が出現するまでは羽振りをきかせていましたが、ホッグは経験的《アポステリオリ》ないし帰納的なる、まったく別の方法を説いたのでした。彼の方法はまったく知覚にたよっていました。彼は事実を――気取って言えば直接的自然《インスタンティエ・ナチューレ》を――観察し、分析し、分類して一般的法則を抽き出したのです。アリエスの方法は、早い話が、[実体]にもとづき、ホッグのは[現象]にもとづいていました。さて、後者の方法が大喝采を博したので、それが最初に紹介されたとき、アリエス・トットルは大いに評判を落としましたが、やがて失地を回復し、彼よりずっと新しい競争相手と哲学の帝国を二分することになりました。学者という人種は、過去、現在、未来を問わず、自分の仲間[以外]のすべての競争相手を非合法化すれば満足なのでして、アリストテレス的道とベーコン的道だけが知識にいたる唯一可能な大道で、また当然そうあるべきだという主旨の[中間]法則を宣言して、この問題に関するあらゆる議論に決着をつけてしまったのです。親愛なる友よ、『ベーコン的』とは(と筆者はここでつけ加える)おわかりのように、ホッグ(豚)的と同義ながら、より婉曲で威厳ある形容詞として発明されたものです」 「私は自信をもって断言しますが」とこの手紙はつづく――「私はこの問題を公正に論述しているのですから、どう見てもまことに愚かしいこの制限が、当時にあって、真の科学の発達をさまたげるのにいかほど寄与したかが容易に理解できるでしょう――あらゆる歴史が示すように――科学のもっとも重要な進歩は一見したところ直観的であるような飛躍によってなされるのです。古代人は思考を這いずりまわることに限定してしまったのです。数ある動き方のうち、這いずりまわる動き方はまことに重要なものであることは言うまでもありませんが――亀の歩みが着実だからといって、鷲の翼を切り取る必要がありましょうか? 何百年にもわたって、ことにホッグの邪説がまかり通っていたため、思考の名にあたいする思考は事実上おこなわれなくなり、自分の魂にのみ恩恵をこうむっていると感じるような真理を、誰ひとり口にしなくなったのです。ある真理が証明可能な真理かどうかさえ、問題でなくなったのです。というのは、当時の独断的な哲学者たちには、真理に到達する[道]だけが問題だったからです。彼らにとって、結果など、どうでもよかったのです。『手段だ!』と彼らは声を大にして叫びました――『手段を見ようではないか!』と。手段を検討してみて、それがアリエス(つまり雄羊のこと)の範疇にも、ホッグすなわち豚の範疇にも属さないとなれば、学者先生はそれ以上さきへすすもうとはせず、『理論家』を馬鹿呼ばわりして、その[人格]も、その唱える真理も無視したのです」 「さて、親愛なる友よ」と手紙の書き手はつづける。「這いずりまわる方法によっては、たとえ何百年かけようとも大量の真理を手に入れることはできないと断言したいのです。なぜなら、想像力の抑圧は、かたつむり式前進法がいかに[絶対的]に確実であるにしても、それによってつぐなえないほどの悪ですから。ところが、その確実さは絶対どころではないのです。わが先人たちが犯した誤りは、ある対象を眼に近づければ近づけるほどよく見えるはず、と信じこんでいる利口馬鹿の誤りによく似ています。こういう連中は、捉えがたい、それでいてスコットランドの嗅煙草のように刺戟性のある[細部]に眼をくらまされているのです〔スコットランド生まれのデイヴィド・ヒューム、アダム・スミス、ジェームズ・ミルなどの功利主義的な哲学者や政治家に対する揶揄〕。ですからホッグ信徒が自慢にしていた事実なるものは、もはやかならずしも事実ではなかったのです――それが事実らしく見えるので、事実であり、事実であるに[ちがいない]と想定するのでなければ、ほとんど意味がないのでした。ベーコン主義の致命的欠陥は――そのもっとも嘆かわしい誤謬の源泉は――単に知覚するだけの人間に権威と思索をゆだねるところにありました。この連中は、いわば鳥なき里の蝙蝠《こうもり》、近視眼的学者先生で、たいていは物理学上のことですが、細かい事実なるものを掘り出してきては、そのことごとくを大道で、しかもみな同じ値段で売りさばいていたのです。その価値はもっぱらそれらが[事実であるという事実]にもとづいていて、それらが窮極的で唯一正当な事実であるところの法則の確立に寄与するかどうかは問題外だったのです」 「こういう連中ほど」と手紙は語りつぐ。「ホッグ流の哲学によってにわかに身分不相応な地位にのしあがった連中ほど――つまり食器置場から科学の談話室に――台所から説教壇に移動した連中ほど不寛容で、頑迷固陋な暴君の一団はいまだかつて地上に存在したことはありません。彼らの信条、彼らの典拠、彼らの説教は、ただおしなべて『事実』なる一語に尽きるのですが――その一語の意味でさえ、連中のたいがいは知りもしなかったのです。彼らの事実なるものを秩序づけ利用するつもりで[かきまぜ]ようとでもしようものなら、ホッグの徒は容赦しなかったのです。あらゆる体系化のこころみは、たちまち『理論的』『理論』『理論家』の名のもとにやっつけられ――つまり、あらゆる思索は彼らに対する個人攻撃と受けとめられ、非難されるのは当然とされたのです。形而上学、数学、論理学を抜きにして自然科学を修めようとするベーコン信者の哲学者たちの多くは――一つの観念にこりかたまり、一方的で、片ちんばなのですが――理解しうるあらゆる知識の対象をまえにしては、みじめなほど無知蒙昧で、自分が絶対的に何も知らないことを認めることによって、すくなくとも何かを知っていることを示す無学文盲の野人にも劣るのです。  また公理にいたる先験的《アプリオリ》な道、つまり雄羊の道を盲目的に突きすすんだわが先祖たちにしても、同様に[確実性]について論ずる資格はなかったのです。この道は無数の地点において雄羊の角なみに曲がっていました。実際のところ、アリストテレスの一派は空気よりはるかにあてにならない土台の上に彼らの城郭を打ち建てたのです。[というのは、公理などというものはいまだかつて存在せず、また存在しえないものだからです]。当時にもせよ、これが見えなかったとは、彼らは相当なめくらであったにちがいない。なぜなら、当時でさえ、長いあいだ『是認されていた』公理の多くが否定されていたからです。たとえば――『|無から有は生じない《エックス・ニヒロ・ニヒル・フィット》』とか、『事物はそれが存在しないところでは行動しえない』とか、『正反対の事物は存在せず』とか、『暗黒は光明から生じえぬ』とか――こういう命題、また、それまでためらいなく公理と認められていた他の多くの命題が、私がいま言及している時代においてさえ、受け入れがたいものと目されていたのです。こういう人たちがなおも『公理』を真理の変らざる基礎として信じていたとは、なんと理不尽なことでしょうか!  とはいえ、彼らがみずからの意に反して提供している証拠によってさえも、こういう先験的《アプリオリ》推論家のあきれはてた背理を――その不毛性を――その公理一般の荒唐無稽ぶりをあげつらうことは簡単です。私はいまここに」――と手紙はまだつづくのであるが――「私はいまここに千年ほどまえに印刷された一冊の書物を持っています。パンディットの保証するところによれば、これはくだんの問題、つまり『論理』について書かれた古代の本〔ジョン・スチュアート・ミルの『論理学体系』(一八四三)〕のなかでは秀逸なものだそうです。その著者は、当時は大いに尊敬されていたそうですが、ミラーとかミルとかいう人で、いくらか重要な関連事項として、この人はベンタムという名の臼ひき馬を乗りまわしていたという記録があるのを私たちは知っています。では、ともかく、その論文をのぞいてみることにしましょう!  ああ! ――『理解しうるかしえないかは、[いかなる場合にも]公理的真実を判定する規準にはなりえない』とミル氏は正当にものたまう。さて、まともな[現代人]で、この自明の理にあえて反対する者がいるでしょうか? この命題を認め[ない]ことは、真理は変わりうると暗に主張することに通じる。ところが真理の真理たるゆえんは、それが不変性と同意語であるところにあります。思考しうるかどうかが真理の規準として採用されるなら、[ディヴィド]・ヒュームの真理が[ジョー]・ヒュームの真理と合致することはめったにないことになり、また天国において否定しがたいことの九十九パーセントは地上においてはあからさまな虚偽ということになるでしょう。そこで、ミル先生の命題は正しいのです。ですが、私はこれを[公理]とは認めない。というのも、いま私は[公理]なるものは存在しないことについて語っているからだけのことですが、ミル先生ご自身でさえも文句のつけようのない条件づきでなら、私は以下のことを認めるのにやぶさかではありません。すなわち、[もし]公理なるものが[ありうる]とするならば、いま問題にしている命題こそが公理の資格を有していること――これ[以上の]絶対的公理は[ありえない]こと――したがってまた、まず最初に掲げられたこの命題と矛盾するような副次的命題は、虚偽であるか――つまり公理でないか――それとも、たとえ公理的であるにしても、それはたちまちみずからを、そして先行する公理をも無効にしてしまうていのものであるにちがいないこと、以上のことを私は認めるのにやぶさかではありません。  さて、では、提唱されたある命題を、それを提唱した本人の論理で検討してみることにしましょう。ミル先生に大いに腕を振るってもらうことにしましょう。問題を矮小化しないように心がけるとします。ありきたりの公理を検討の対象として選ばないようにしたい――深遠そうにみえるからといって、それだけ馬鹿げていないわけではないような、先生のいわゆる副次的な公理などは問題にしないでおきましょう――副次的な公理などとは、まるで断固たる真理にも真理の度合に断固として差異があると言うようなものではありませんか。ユークリッドの場合のように、疑問のなさが大いに疑問であるような公理は選ばないようにします。たとえば、二本の直線は空間を囲みえないとか、全体は部分よりつねに大なりとかいう命題については語らないようにします。論理家の顔はできるだけ立てることにします。論理家が確実性の頂点――否定しがたい公理の精髄とみなしている命題にただちに推参することにします。たとえば、こういうのがあります――『相互に矛盾するものは、ともに真実ではありえない――つまり、両者は自然において共存しえない』。ここでミル氏が言わんとしていることは、たとえば――もっとも理解しやすい事例をあげるとしますが――木は木であるか、木でないかのいずれかでなければならず――木が同時に木であって木でないことはありえない、ということです。以上はすべてそれ自体としては正しく、公理としても立派に通用するでしょう――数ページさきに強調しておいた公理と照らし合わせてみないかぎりでの話ですが――別の言い方をすれば――つまり、私がさきに用いた言葉で言えば――公理の提唱者その人の論理で検討してみないかぎりはの話なのですが。ミル先生は『木は木であるか、木でないかのいずれかである』とおっしゃる。よろしい――でも私は彼に[なぜか]と問いたい。このささやかな質問にはたった一つの答えしかない――別の答えを発明できる人がいるなら、お目にかかりたいものです。その唯一の答えとはこうです――『なぜなら木は木であるか、木でないかのいずれかであって、それ以外のことは[考えられない]からである』と。くりかえしますが、これがミル先生の唯一の答えです――そのほかの答えがあるなどという[ふり]はなさりますまい。それにもかかわらず、先生ご自身が言明されたことにより、これは明らかに答えになっていないのであります。というのは、理解しうるか否かは、[いかなる場合にも]公理的真実を判定する規準にはなりえないことを[公理について]認めるように私たちにお求めになったのは先生ご自身ではなかったでしょうか? これですべての――まったく[すべての]彼の議論は宙に浮いてしまうのです。木が木であって[同時に]木で[ない]ということを理解するように求められるような極端に『理解しがたい』場合には、一般法則から除外さるべきである、というような議論は願い下げにしていただきたいのです。そのようなぐうたらな議論はしていただきたくないのです。というのは、まず第一に、『不可能さ』に[程度]などないからですし、したがって、ある一つの不可能な概念が他の不可能な概念よりも[いっそう]格別に不可能であるというようなことはありえないからです――第二に、ミル先生ご自身が疑いもなく熟考のすえに、まことに明瞭かつ合理的に、いかなる場合にも、理解しうるか否かは公理的真理の規準とされるべきではないと強調されることによって、あらゆる例外を排除されておられるからです――そして第三に、たとえ例外が認められるにしても、どうして[この場合に]例外を認めることができるかが証明されなければならないからです。木が木であって同時に木でないということは、天使や悪魔なら考えられる[かもしれず]、この地上でも、多くの狂人や超絶主義者はげんに[考えている]のです」 「さて私がこういう古代人にけちをつけているのは」と手紙の筆者はつづける。「彼らの論理の見えすいた馬鹿さ加減のせいと[いうより]――遠慮なく言ってしまえば、彼らの論理はまったく根拠に欠け、価値がなく、実にたわけていたことは確かなのです――[むしろ]私が腹を立てているのは、彼らが二つの狭く曲がりくねった道――つまり忍びよるようにしてゆく道と這いずりまわるようにしてゆく道との二つ――[以外の]すべての真理にいたる道を、傲慢かつ愚劣にも、ことごとく排除したからであり――また、偏狭な無知ぶりを発揮して、魂のすすむ道をこの二つの道に限定してしまったからなのです――ところが魂は無際限な直観の領域を天がけるのを何よりも好み、『道』などはあずかり知らぬ存在なのです。  ところで、親愛なる友よ、こういう頑固な連中が真理への道について際限もなくおしゃべりをつづけながら、その一人として、たとえ偶然にもせよ、現代の私たちが、あらゆる道のうちでもっとも広く、まっすぐで、有用であるとこんなに明確に理解している大道――一貫性という偉大な公道にぶつかることがなかったとは、こういう頑固な連中がどんなに豚《ホッグ》や雄羊《ラム》の手合によって精神的奴隷にされていたかの証拠ではないでしょうか? 彼らが神の創りたもうたものから、[完全な一貫性こそが絶対的真理にほかならない]というまことに重要な結論を抽き出さなかったとは摩訶不思議なことではないでしょうか? 近年この命題が提言されてからの人類の進歩はなんと明々白々――なんと急速であったことでしょうか! この方法によって、真理探求の仕事はもぐらどもの手から取りあげられ、真の――[唯一の]真の思索家――広い教養をそなえた熱烈な想像力の持ち主に、仕事というよりは、むしろ課題として、与えられることになったのです。この種の人物――ラプラスのような――ケプラーのような想像力の持ち主は――『推論し』――『理論づける』のでしたが――もし私たちの先祖が私の肩越しに――こういう術語を――私が書いているのを見ることができるなら、彼らがどんな悪口雑言を浴びせかけてくることか、あなたにも想像がつくでしょう。くりかえしますが、ケプラーの仲間は推論し――理論づけるのです。そして彼らの理論はただ矯正され――整理され――修正され――矛盾のかすが少しずつさらわれて――ついには、もっとも愚鈍な者でさえ――それが一貫しているがゆえに――疑問の余地のない絶対の真理である――と認めざるをえないような完璧な一貫性が洗い出されてくるのです。  わが友よ、私はよく思ったものですが、一千年前のこういう独断家たちは、彼らがご自慢の二つの道のいずれによって暗号解読者が複雑きわまる暗号を解いたかを決めるのに――また、この二つの道のいずれによってシャンポリオンがエジプトの表音式象形文字のなかに幾世紀にもわたって埋もれていた、かの重要で数限りない真理に人類をみちびくことになったかを決めるのに、どんなに頭をなやましたことでしょうか。とりわけ、こういう古代の頑迷な連中は、[あらゆる]真理のなかでもっとも重要にして崇高な――かの真理――[重力]なる事実が、この二つの道のいずれによって発見されたかを断定するのに、大いになやんだことでしょう。ニュートンはそれをケプラーの法則から抽き出した。そのケプラーはかの法則を――あらゆる(現存する)物理的原理の基礎であるかの原理に、偉大なイギリスの天文学者をみちびいた法則を――その背後をさぐるとなれば形而上学の領域に足を踏み入れることになる法則を――[ふと思いついた]と称しています。そうです――ケプラーはこういう重要な法則を[思いついた]――つまり想像したのです。この法則に到達した道筋が演繹法であったか帰納法であったか、ともし彼が問われたとしたら、さだめし彼はこう答えたでしょう――『私は[道筋]のことなんか何も知らないね――だが、私は宇宙の仕組は[知っている]。これがそうだ。私はそれを[自分の魂で]つかんだのだ――ただ[直観]だけをたよりに、そこに到達したのだ』と。ああ、なんとお気の毒な無学な老いぼれでしょうか! 往時の形而上学者のだれかが、この老人に、彼のいわゆる『直観』なるものは、演繹法か帰納法かのいずれかに由来する信念にほかならず、ただその過程があまりにも漠然としていたので彼の意識にのぼらなかったか、彼の理性をすり抜けたか、それとも彼の表現能力をうわまわったかだけのことだ、と言ってやれなかったものでしょうか? 『道学者』のだれかが、この点について彼の蒙をひらいてやれなかったとは、なんと残念なことでしょう! 彼が死の床で、自分のすすんできたのが直観的な、したがって恥ずべき道ではなくって、堂々として正当な――つまり豚《ホッグ》的な、あるいは少なくとも雄羊《ラム》的な道であって、その大道を歩んだすえに、それまで人類の手にも眼にも触れたことのなかった不滅の価値ある宇宙の秘密が燦然と輝きながら秘蔵されている広大な殿堂にたどりついたのだと知れば、どんなにか心なぐさめられたことでしょう!  そうです、ケプラーは本質的に[理論家]でした。ですが、この呼称は[いまでこそ]神聖なものですが、むかしは最大級の蔑称でした。人類がかの神聖な老人をうやまうようになり――その不滅な言葉の予言的で詩的な響きに共感するようになったのは、やっと[今日]になってからなのです。私はといえば」とこの無名の手紙の筆者はつづけている。 「彼の言葉を思い出すだけで身内に神聖な火が燃え、それをいくら、くりかえし口ずさもうと飽きることはあるまいと感じるのです――この手紙を結ぶにあたり、その言葉をもう一度引き写す真の喜びを与えたまえ――『わが著作が今日読まれようと、後世になって読まれようと、わが意の介するところではない。神みずからが一人の観察者を六千年にわたって待ちたもうたのだから、私が読者を百年待てないわけがない。私は勝ち誇っているのだ。私はエジプト人たちの黄金の秘密を盗んだのだ。私はこの聖なる歓喜に身をゆだねたい』と」 〔ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラー(一五七一〜一六三〇)は惑星の運動についての精密な理論を『|世界の調和《ハルモニス・ムンディ》』(一六一九)に発表し、その理論はケプラーの法則として知られているが、ここにケプラーの言葉として引用されているのはデイヴィド・ブルースター卿『科学の殉教者』(一八四六)からの孫引き。ちなみにケプラーの法則は、(一)惑星は太陽を焦点とする楕円軌道を描く、(二)惑星と太陽とを結ぶ動径の面積速度は惑星ごとに一定である、(三)太陽と惑星の平均距離の三乗と公転周期の二乗の比は、どの惑星についても同じである、という三法則〕  ここで、このまことに不可解な、そしておそらくかなり不遜な手紙の引用をやめるとしたい。筆者がだれにせよ――その筆者の、革命的とはいわぬまでも、奇異な幻想に――充分に検討を尽くされ、不動のものとされている意見にこうもまっこうから対立する幻想に――いかなる点についてであろうと、解説めいたことを書くのは、おそらく、愚の骨頂であろう。それゆえ、われわれの本来の主題、宇宙にただちに推参するとしたい。  この主題には二つの論述の仕方がある――[上昇]するのと、[下降]するのとの二つである。われわれ自身の観点、つまりわれわれが立つ地球から始めて――わが太陽系の他の惑星におもむき――そこから太陽に――またそこから太陽系全体に――さらにまた他の惑星系をへて無限のかなたにいたるのが一つ。他の一つは、われわれが有限となしうる、あるいはそう考えうる天上の一点から始めて、人類が住む地点に降下してくる法である。通例――というのは、普通の天文学の論文ではということだが――この二つのうち第一の方法が、なにがしかの条件づきで、採用されている。これは、天文学上の単なる[事実]ないし原理の探求こそが目的であるので、近いがゆえによくわかっていることから出発して、遠いがゆえにあらゆる確実性がぼやけてしまう地点にいたるという方法が、この目的によくかなっているという明白な理由による。ところが私の当面の目的は、遠方から一見するように、宇宙を全体として遠眺しようというのだから、大から小へ――中心(もし中心を設定しうるとして)から周縁へ――初め(もし初めなるものを想像しうるとして)から終りへという過程をふむのが好ましいことは明白であるが、ただし、この過程をふむと、天文学の素人に、[量]――すなわち、数、大きさ、距離などの要素をふくむ事項との関連において理解しやすい全体像を提供することが、不可能とはいわないまでも、困難になることは避けがたいので、この道一筋というわけにもいかない。  さて、明解であること――あらゆる点で、わかりやすいこと、それこそがわが企画全般にわたる第一の目標である。重要な問題については、いささか散漫になるにしても、多弁であるほうがよい。難解であるということは、その主題[そのもの]とは無関係な資質である。妥当な順序をふんで問題にとりくむ者にとっては、理解の難易度はみな同じなのである。微分学がソロモン・シーソー氏の十四行詩《ソネット》ほど単純でないのは、それを修得する段階で踏石をここかしこで不注意にも踏み忘れるからにほかならない。  さて、誤解を生む[可能性]を完全に避けるため、天文学上の自明な事実についてさえ読者がご存知ないと仮定して論をすすめるのがよかろうと思う。すでに言及した二つの議論の方法をあわせ用いるにあたり、私はそのおのおのの利点、とくに、私の計画の必然的な結果として生ずる[細部の反復]という利点を利用させていただく。まず下降から始めるとするが、すでに言及した[量]についての不可欠な考察のためには、上昇法も利用することをお断りしておきたい。  そこで、ただちに、もっとも空漠たる言葉「無限」から始めるとする。この言葉は、「神」とか「霊」とかのように、あらゆる言語に同類が存在する表現であるが、それはけっしてある観念の表現ではなく、ある観念をめざす努力の表現である。それは把握不能な概念を把握せんとするはかないこころみを代弁している。人間はこの努力の[方向]を指示する言葉――その背後にこのこころみの[対象]が永遠に隠蔽されている雲を指示するごとき言葉を必要としたのである。つまり、ある人間が他の人間と結びつき、同時に人間の知性のある[傾向]と結びつくための手段として、ある言葉が必要とされたのである。こういう要求から「無限」なる言葉が生じたのであり、それゆえにこそこの言葉は[思考の思考]を代表しているのである。  いま考察した[かの]無限について――空間の無限について――しばしばわれわれが耳にするのは「この観念が精神によって許容され――黙認され――もてあそばれているのは、限界というものを考えるほうがより困難であるためである」という発言である。だがこの発言は、おおむかしから深遠な思想家すらがときおり[みずからを]たぶらかすために好んで口にした文句の一つにすぎない。逃げ道は「困難」という言葉に隠されている。 「[有限]の空間を考えるのがより[困難]であるので、精神は[無限]なる観念をもてあそぶ」と言う。さて、この命題がもっと公正に提示されさえすれば、その馬鹿さ加減はたちどころに露呈するはずである。明らかに、この場合には純然たる[困難]などありはしないのだ。その主張の意図するところは、その意図に[したがい]、かつ詭弁を排して述べるなら、こうなるであろう――「有限の空間を考えるのがより[不可能]であるので、精神は[無限]なる観念を容認するのだ」と。  すぐさまおわかりのように、これは、二つの陳述のうちいずれに信憑性があるか――また、いずれのほうが真実か――を[理性]の応援を求めて決定するたぐいの問題ではない。それは、まっこうから対立し、おたがいに成立不能な二つの概念に関する問題であり、一方の概念をいだくことがより[困難]であるために、他方の概念を[知性]が抱懐しうるはずだということにすぎない。二つの困難性のあいだで選択がおこなわれているわけではない――二つの不可能性のあいだで、それがおこなわれていると[想像されている]だけのことである。なるほど前者には程度の差がある――しかし、後者にはそれがない――それはわが不遜なる手紙の書き手がすでに示唆しているとおりだ。ある仕事は多少とも困難であろうが、その仕事は可能か不可能かであって、そこには程度の差などはない。アンデス山脈をくつがえすのは蟻塚をくつがえすよりずっと[困難]では[あろうが]、前者の物質を無化することと、後者の物質を無化することとでは、[不可能さ]の点では差違がない。人間には二十フィート跳ぶより、十フィート跳ぶほうがより[困難]が少ないだろうが、人間が月まで跳びあがるほうが、狼星《シリウス》まで跳びあがるより[不可能性]がいくらかでも少ないとは言えない。  精神は考えることが[不可能な]二つのことからいずれかを選択するのであるから、また一方の不可能性が他方の不可能性より大きいことはありえないのだから、それゆえに、またどちらか一方がましだとは言えないのだから、つまり以上すべてのことは否定しがたいのだから、哲学者たちが、さきに述べた根拠にもとづいて、人間の無限についての[観念]のみならず、そのような仮定の観念にもとづいて、[無限そのもの]がありうると主張するならば、彼らはあきらかに、ある一つの不可能なことは、別のある一つのことが不可能であると示すことによって、可能になると証明することに血道をあげていることになる。これは、無稽であると言われるであろうし、おそらくそうである――じつは私も荒唐無稽だと考えている――が、これについてとやかく言うのも無意味だと考えて、さきにすすむとしたい。  しかしながら、この問題についての哲学的議論の誤謬をあばく手っとり早い方法は、これまでまったく看過されてきた一つの[事実]――くだんの議論はみずからの命題を肯定しながら同時に否定しているという事実に、注意を向けさえすればたりるのである。神学者やその他の連中は「精神が[第一原因]を認めざるをえないのは、原因のそのまた原因をと際限なく考えることがきわめて困難であることを悟るからである」と言う。曲者《くせもの》は、またしても、「困難」という言葉である――が、ここでその言葉は何を支持するために用いられているのか。第一原因をだ。それでは第一原因とは何か。諸原因の究極的な終着点である。では諸原因の究極的な終着点とは何か。限界――つまり限りあるもののことである。この曲者めいた言葉は二つの経路をたどって、およそ数しれぬ哲学者たちによって、あるときは限界を、またあるときは無限のあと押しをさせられているのである――何か別のもののあと押しをさせるわけにはいかないものだろうか。だが、こういうたわ言をいう[連中]のあと押しだけはするわけにはいかない。そこで――こういう連中と手を切るために言っておくが――ある場合に彼らが立証することも、他の場合に彼らが証明することも、ともに同じ無にすぎないのである。  むろん、どなたもそうはお考えにならないと思うが、ここで私が言わんとしていることは、われわれが「無限」という言葉で意味しようとしているようなことが絶対にありえないというのではない。私の目的は、ふつう用いられているような屁理窟によって、無限そのもの、あるいは無限というわれわれの概念を論証しようとすることが、いかに愚かなことであるかを言っておきたいだけなのである。  とはいえ、個人として、私には「無限」なるものを考えることが[できない]し、また、そんなことができる人間はいないと信じていると言うことは許されているだろう。自己について充分に意識的でなく――自分の思考を内省的に分析することに慣れていない人間なら――いまわれわれが問題にしている概念を[つかんだ]と思いこんで、みずからをたぶらかすことは珍しくあるまい。それをつかもうとして、われわれは一歩また一歩とすすんでゆく――一点また一点と思考の歩をすすめる。その努力を[つづける]かぎり、われわれは意図した観念を形成し[つつある]と言ってもよい。われわれが実際に観念を形成し、また形成したという感じは、われわれが知的努力をつづけた期間の長さに比例するのである。しかし、この努力をやめたとき――この観念をつかんだ(と思った)とき――この概念に最後の仕上げをほどこした(と思いこんだ)とき――われわれはある最終的な、それゆえに限界のある地点に到達し、それまで想像力がつむぎあげた全構造物はたちどころに瓦解してしまうのである。しかしながら、われわれがこの事実に気づかないのは、最終的な地点に到達するのと、思考をやめるのとが、時間的に完全に一致するからである。他方、[有限]の空間についての観念を形成しようとすれば、われわれは思考の過程を逆にたどるだけのことで、これもまた必然的に不可能性に逢着する。  われわれは神を[信じる]。われわれは有限な空間ないし無限な空間を[信じたり、信じなかったり]する。しかし、その場合、われわれの信念はむしろ[信仰]と呼ばれるべきである――なぜなら、それは知的な概念形成の前提となる本来の信念――つまり[知的]信条とは――まったく別物だからである。  実際のところはこうである。「無限」という言語が属する語群――[思考のなかの思考]を代表する語群のある一語を口にしようとするとき、[いやしくも]自分は考えると自任する権利を有する者なら、ある概念をいだくのではなく、解決不能な星雲がただよう知的天空の任意の一点に、ただ知的視線をそそぐだけだと感じなければならないのである。事実、彼はそれを解決しようなどとはしないのである。というのは、迅速な本能でもって、彼はその解決が不可能であるばかりか、あらゆる人間的な目的に照らして、その解決の[不必要性]を悟るからである。神はその解決を[意図されて]いなかった、と彼は理解するのである。その解決は人間の頭脳の[及ぶところではなく]、その正確な理由はさておき、どれほど及ぶところではないかさえ、彼はたちどころに見てとるのである。事実この世には、到達不能なものをめがけることをみずから買って出て、訳のわからぬ言葉を吐くおかげで、暗さと深さを同意語と勘違いしている自分自身を思考家であると思考している連中のあいだには、いわば深海魚なみに深遠なりという名声を獲得している人がいることを私は承知している。思考の思考たるゆえんは、その限界を承知していることである。知性をくもらす霧のうち、知性の領域の境界線にまでひろがり、境界線そのものまでを見えなくしてしまう霧ほど始末におえないものはない、と言ってさしつかえあるまい。  もうおわかりのことと思うが、「無限の空間」という語句を用いるにあたり、私は読者に[絶対的な]無限という不可能な概念をいだいていただくつもりはない。私のつもりでは、それは空間の「考えうるかぎり最大の拡がり」のこと――つねに動揺してやまない想像力の動きにつれ、ときに収縮し、ときに拡大する茫漠として変貌してつねならぬ領域のことである。 [これまでのところ]、星の宇宙は、この論文の冒頭で規定しておいたように、つねに本来の宇宙と同一視されてきた。少なくとも、まともな天文学の幕明け以来――もしわれわれが空間のある一点に到達しうるとしても、その周囲には、なおも限りなく星が連らなっているというふうに、直接的にせよ、間接的にせよ、考えられてきたわけである。これはパスカルが考えた承認しがたい観念であるが、彼はこれをもって、われわれが定義に難儀している「宇宙」なる言葉の概念を、おそらく誰よりも巧みに、説明してみせたのである。彼はこう言った――「それは中心がどこにもあり、周辺がどこにもない球体である〔パスカル『パンセ』に見られる高名な宇宙についての定義〕」と。この定義のこころみは、実際のところ、[星の]宇宙の定義にはなって[いない]が、ある種の思考上の留保を付するなら、[本来の]宇宙――つまり[空間]の宇宙の定義としては充分に厳密で、実際上の役には立つ。それでは後者の宇宙を「中心がどこにもあり、周辺がどこにもない球体」とみなすことにしよう。事実、空間に[終り]を想定することは不可能であるけれども、無限が[始まる]一点を想定することにはいささかの困難もない。  そこで手始めに神をとりあげてみよう。神については、何も語らぬ者だけが愚者たるを免かれ――不敬たるを避けうるのである。ビールフィルド男爵はこう言う――「われわれは神の性質ないし本質については[何も]知らない――神の何たるかを知るためには、われわれ自身が神とならねばならぬ」と。 「われわれ自身が神とならねばならぬ!」――かくも大胆不敵な文句はいまなお私の耳に鳴りやまぬのであるが、私はあえて問いたい――神性についてのわれわれの現在の無知は魂が[永遠に]宿命づけられている種類の無知であろうか、と。  しかしながら、神によって――少なくとも[いまのところ]は「不可知」なる神によって――神を霊として――すなわち、[物質にあらざるもの]として――この区別は、あらゆる明確な目的のためならば、定義として充分に通用するはずのものであるが――つまり[霊]として存在する神によって――われわれが中心であると想定する空間のある一点において――あえて詮索するのはひかえるとするが、ともかくはるか遠いある時期に――神の意志によって無から[創造された]と仮定して、ここのところは満足しておくとするけれども、――ところでさて、神によって創造されたと仮定して――いったいその創造されたものとは[何か]? これは考察をすすめるうえできわめて重要な点である。原始にただそれだけが[創造された]と仮定してしかるべきものとは何か――そう仮定してよい唯一正当なものは何か?  われわれは直観だけが頼りになる地点にさしかかったわけだが――そこで、われわれが正当に直観とみなすことができる唯一のものとして、すでに私が言及した考えに立ちもどってみたい。直観とは[帰納ないし演繹に由来するものだが、その過程が影のごとく判然としないので、われわれの意識にのぼらず、われわれの理性をすり抜け、われわれの表現能力をうわまわる確信にほかならない]。このように理解したうえで、私はかく主張する――なぜとは言えぬが、まことに抗しがたい直観に駆られて、神が最初に創造したものは――つまり神がその意志により、霊から、すなわち無から創造したものとは、およそ考えうるかぎり[単純]な状態にある[物質]以外では[ありえない]のではないか、と。  これが私の論文の唯一絶対の[仮定]であることがおわかりになるはずである。「仮定」なる言葉を私は通常の意味で用いるのだが、それでも私のこの第一命題は単なる仮定とは大いにへだたりがあることを強調しておきたい。これくらい着実に――事実、人間がかち得た結論でこれくらい順序をふんで――これくらい厳密に[演繹]されたものはない。しかし、残念ながら、その過程は人間の分析能力の及ぶところではないのである――少なくとも人間の表現能力の範疇を超えている。  さて物質が窮極的な「単純さ」の状態にあるとき、もしくは、そういう状態があるとすれば、それはどういうものでなければならぬかを考えてみたい。理性はただちに不可能性を示唆する――ある粒子を――ある[一つの]粒子を――[一つの]種類の、[一つの]性格の、[一つの]性質の、[一つの大きさの]、一つの形の粒子――それゆえに「形も間隙もない」粒子――あらゆる点においてまさしく粒子であって粒子以外ではありえぬような粒子――つまり絶対的に単一で、均一で、分割されておらず、さりながら、それをみずからの意志によって[創造]した神なら、当然のことながら、その同じ意志をほんのわずかだけ働かすだけで、分割が不能なわけではない粒子を示唆する。  それゆえ、この[単一性]こそが、もっぱら最初に創造された物質の属性であると私はみなすものであるが、私が示したいことは、この[単一性こそが、少なくとも物質的宇宙の構造、現在の諸現象、および明らかに不可避的なその消滅を充分に説明するにたる原理であること]である。  原始粒子を存在させることが意志されたことによって、創造の行為が、もっと妥当には創造の[概念]が、完成したのである。そこでわれわれは創造された粒子を想定することになった究極の目的へ――とはいっても、われわれの思考力が及ぶ[かぎりにおいての]究極の目的へだが――粒子から宇宙が生成される過程へとすすみたい。  宇宙の生成は原始的な、それゆえに正常な[単一]から、[多]なる異常な状態に移行することを[強いら]れることによってなされた。この種の作用は[反]作用を予測させる。単一からの拡散は、このような条件のもとでは、単一への復帰の傾向――充足させられるまではやむことのない傾向をはらむ。しかし、これらの諸点については、またのちほど詳細に論じることにしたい。  原始の粒子が絶対的に単一であるとする仮定は、無限に分割が可能であるとする仮定を内包する。そこで、粒子は空間に拡散することだけによって完全に消滅するものではないと想定してみよう。一つの粒子を中心に、そこから放射状に――すなわちあらゆる方向に――それまで何もなかった空間を、測定不能ではあるが、なお有限な遠い距離まで――とうてい名ざすことができぬほど多いが、なお無限ではない数の、想像が不可能なほどではあるが、なお無限に微小であるわけではない原子が放射されていると仮定してみよう。  さて、これらの原子がこのように拡散されたとき、あるいは拡散の過程で、どのような状態にあるか――そのことを単に仮定するのではなく、原子の起原のみならず、拡散にともなって明らかになった原子がめざす意図の性格の考察からも、どのように推測することができるか? 単一がその起原であり、[単一]からの離脱が拡散によって呈示された意図の性質であるのだから、ここでわれわれが推定してしかるべきことは、この性質が少なくとも[一般的に]は意図全般にわたって保持されており、かつ意図そのものの一部を形成しているということである――つまり、あらゆる時点において、原始の単一性と単純性からたえず離脱していると考えてしかるべきなのである。しかし、こういう理由によって、われわれは諸原子が異質で、似ておらず、不同で、不等距離にあると想像してもよいのであろうか? もっと端的には――拡散するにあたって、いかなる二つの原子も同一の性質、同一の形、同一の大きさでありえぬと考えるべきだろうか? ――空間への拡散が終了したのち、原子間の距離の絶対的な不等性がすべての原子について言えるだろうか? このように地ならしをし、このような条件を設定すれば、いとも容易に、かつ即座に理解できることは、すでに私が触れた意図――単一から多へ――同一性から多様性へ――同質性から異質性へ――別言すれば、完全に相関性に欠ける[一]から可能なかぎり重層的な[関係]そのものへと志向する意図の達成は容易であろうということである。それゆえ、これまで述べてきたことは、ことごとく信じられて[しかるべき]であることに疑問の余地はないが、ここで再考しておくべきことがある。その第一は、神の行為に無駄があるとは考えられないこと、その第二は、いま問題にしている目的は、くだんの諸条件のいくつかが当初において欠けていても、それらがみな備わっていると理解されているときと同様に達成しうるようにみえることである。私の言わんとしていることは、ある条件は他の条件に含まれているか、あるいは、ある結果が他の条件からたちどころに生じてくるので、条件と結果の区別がつきがたいということである。たとえば、[大きさ]の差は、原子間の相互の距離が不等であるため、ある原子が他の諸原子をさしおいて別のある原子を求める傾向のゆえに生じる。この原子間の相互の距離が不等であるのは、[隣接する形を異にする諸原子の質量の中心間の距離がそれぞれ異なる]ためと理解されてよく――これは諸原子がほぼ一様に均質に分散されていることと矛盾しない。[性質の]差にしても、大きさと形をほぼ同じものとみなすなら、それが大きさと形の差に由来することは容易に理解しうるところである――原始粒子の[単一性]は絶対的な均質性を意味するのであるから、原子が放出されるとき、それぞれの原子の本質的性質を変化させようという目的で神意が特別に作用したと想像しないかぎり、諸原子が拡散の過程で性質を異にすることになるとは考えがたい――が、そのような奇想天外な考えをもてあそぶ必要はさらにないのであって、それというのも、そんな細かく煩雑な手続きをふまなくても、われわれの当面の目的は完全に達成できるからである。そこで、おおよそのところ、以下のように考えればよい――原始の目的とするところに即して、その属性を考えるにあたっては、原子が拡散するときに[形態の差異が]生じること、その後に原子相互間の距離が不等になることの二点以外を考慮に入れることは、その他すべての差異が宇宙形成の最初期の段階における上記二点の差異に由来するのにかんがみ、無益であり、したがって非哲学的である、と。こうすれば宇宙は純粋に[幾何学的な]基礎のうえに築かれることになる。もちろん、拡散された原子が[ことごとく]形態を異にすると仮定する必要はまったくない――それは原子相互間の距離が絶対に不等であると仮定する必要がないのと同じである。われわれが認める必要があるのは、[隣接する]原子はおたがいに同じ形をしていないこと――近接する原子は、終末において不可避的に再統合されるまでは、決して同じ形をしていないことだけである。  すでに述べたように、分離させられた原子にはつねに正規の単一の状態に復帰せんとする切実な[傾向]があることは拡散状態が異常な状態であることを意味するけれども、にもかかわらず、この拡散のエネルギーがその働きをやめ、この傾向を解放し、それが欲するがままにするまでは、この傾向はなんら成果を収めることがなく――ただ傾向であって、それ以外の何ものでもないだろう。しかしながら神の行為には結着点があり、拡散の目的が達成されたあかつきには停止されると考えられるので、われわれが即座に理解できることは、[反作用]が――別言すれば、分離させられた原子が[一]なる状態に復帰しようとする[解放された]傾向があらわになるであろうことである。  しかし拡散力が消滅し、反作用が働きはじめて究極的な意図――すなわち[想像しうるかぎり至上な関係への企て]――がなされることになると、この意図は部分的には阻害される危険にさらされることになり、その理由は、その意図を全般的に達成しようとするかの復帰の傾向そのものに求められる。[多様性]こそが目的なのである。だが隣接する一群の原子が、いまや解放された傾向によって――多様性をめざすいかなる目的も達成されない[うちに]――原子どうしで[一足飛びに]絶対的な単一状態に突入するのをさまたげるものは何もない。幾多の[独自な]塊が空間の各所で凝集するのをはばむものは何もない――つまり、おのおのが絶対的に[一]であるところの各種の塊が集合するのを邪魔するものは何もないのである。  この意図が全般にわたって効果的かつ完璧に達成されるためには、限定された能力を有する反撥力がどうしても必要であり――それは拡散の意志が消滅するとき、原子がおたがいに接近するのは許すが、結合は禁ずるていの分離する力を持つ[何か]でなければならない。その[何か]は原子を無限に接近させるが、実際に接触することは禁じ、つまるところ、[ある時点までは]原子が融合するのをさまたげるが、それらが集合することについては、いかなる場合、[いかなる程度]においても、これを妨害する能力を有しないものでなければならない。くりかえすが、理解していただきたいことは、この反撥力は他の点についても、すでに見たように、[ある時点までしか]絶対的な融合をさまたげる能力を有しない特殊な限定的な力なのである。原子の単一を志向する意欲が[けっして]満足させられない定めになっていると考えないかぎり――初めがあったものに終りがないと考えないかぎり――つまり以上のようなことは、どう広言し、夢想しようと、実際には考えられないのだから――われわれが結論せざるをえないことは、ここに想定されている反撥力なるものは――[全体として]作用する[単一を志向する傾向]の圧力下にあるわけだが、それは神の目的が成就され、そのような全体的な働きかけが自然におこなわれるような事態に[なるまでは]いかなる度合においても決して威力を発揮することはないので――結局のところ、かの究極的な時期において、それがなされるのに必要かつ充分な、それゆえにかの不可避的な、原始的なるがゆえに正常な[一]なる状態に宇宙全体を復帰せしめる至上の力に屈せざるをえなくなるであろう。このような諸条件に折り合いをつけることはまことに困難である。折り合いをつける可能性を考えることさえ不可能である。だが、この一見したところの不可能性が示唆するところのものには驚嘆すべきものがある。  かの反撥力を持つ何かが実在することを[われわれは認める]。二つの原子を融合させるにたる力を人類は用いたこともないし、知りもしない。これは物質の不可入性なる命題によって確立されているところである。あらゆる実験がそれを証明し――あらゆる哲学がそれを認めている。その反撥力の[意図]――その存在の必然性について、私は説明しようとしてきたわけである。だが、その本性の考察については、宗教的な理由からこれを避けてきた。その理由は、当の原理は厳密に霊的なものであり――われわれの現在の理解が及ばない不可侵の奥まったところにあり――また、現在の人間の状態では考察し[えない]ことについての考察――つまり[精神そのもの]についての考察にかかわることを直観的に確信するからである。一言にしていえば、ここにおいて、ここにおいてのみ、神が介入し、またここにおいてのみ、問題の解決のために神の介入の必要を感じたからである。  事実、拡散した原子が単一に復帰しようとする傾向はニュートンの万有引力の法則に合致することがただちに認められるとはいえ、その傾向を(即座に)満足させるのを阻止する働きをなす反撥力として私が語ってきたものは、われわれがときには熱、ときには磁力、ときには[電気]と呼びならわしている[例の]ものと理解されるのであって、その性質についてのわれわれの無知ぶりは、それを規定しようとしてわれわれがさまざまな言葉を無定見に用いているところに露呈されている。  当座の便宜のためにだけだが、かりにそれを電気と呼ぶとするが、われわれの知るかぎり、電気の分析にかかわるあらゆる実験は、その最終的な結果として、[異質性なる原理]、ないし原理めいたものを抽き出している。事物が異質であるところにおいて[のみ]、電気は顕在化し、したがって、顕在化はおろか、それが潜在的にさえ発生しないようなところでは事物は異質では[ない]ことが当然予測される。さて、この結論は、私が実験によらずして到達した結論と完全に一致するのである。反撥力の意図は拡散した諸原子がただちに単一の状態になるのをはばむものであることを私は主張してきたし、これらの原子がそれぞれ異なることも主張してきた。相互に異質であることが原子の特質であり、本質である――[異質でないことが]原子がたどる過程の本質であるように。すると、これらの原子の任意の二つを結合させようとするこころみが反撥力をしてそれを阻止する努力をいざなうことになると言うことができるとすれば、二つの異質なるものを結合しようとするこころみは電気の発生をうながす、という厳密に正反対な言い方も許容することになろう。すべての現存する物体がそういう近接せる原子によって構成されていることは自明のことであり、したがって、あらゆる物体は多少とも異質なものの集合体にすぎぬと考えられてよい。さらにまた、かかる任意の二つの物体を接近させようとするときに抵抗して働く反撥力は、それぞれの物体を構成する原子の総量の差に比例するだろう。このような言い方は、煎じつめれば、次のような命題になる――[二つの物体の接近によって生じる電気量は、それぞれの物体を構成する原子の総量の差に比例する]、と。任意の二つの物体が絶対に同じで[ありえない]ことは、これまで述べてきたことの当然の帰結にすぎない。であるから、電気はつねに存在するとはいえ、それが[発生する]のは任意の物体が近接するときにおいてであるが、それが[顕現する]のは当該物体にかなりの差異が認められるときに限られる。  電気――としばらくのあいだ呼びつづけるとするが――この電気を光や熱や磁気などの各種の物理現象と結びつけても誤っていることには[なるまいが]、しかし、この厳密に精神的原理をさらにいっそう重要な生命力、意識、思考などの諸現象に適用すれば、なおさら誤ちを犯す危険は少なくなろう。しかしながら、この問題については、これらの諸現象は、全体として見ようと細部にわたって見ようと、[少なくとも異質性に比例して]顕現するように思われる、と[ここでは]指摘するにとどめたい。  さて「重力」と「電気」という二つの曖昧な術語を排して、もっと明確な[引力]と[斥力]なる用語を採用するとしよう。前者は物体であり、後者は霊気である。一方は物質についての、他方は精神についての宇宙の原理であって、[その他の原理は存在しないのである]。[すべての]現象はいずれか一方の原理、あるいは両者が結合した原理に帰することができる。これはきわめて厳密なことがらであるので――さらに、引力と斥力によって[のみ]われわれは宇宙を知覚しうること――別言すれば、両者によってのみ物質は精神に顕現しうること――は完全に証明できるのだから、純粋に議論上の目的のためには、あらゆる場合において、物質が引力と斥力としてのみ存在し――引力と斥力[こそが]物質[である]と想定することは絶対に正しいのである。なぜなら、論理上、「物質」という用語と「引力」ないし「斥力」という用語は同義であり、したがって相互に置換しうるのであって、それによって不都合が生じる場合は考えられないからである。  いましがた言ったように、拡散状態にある原子が原始の単一に復帰しようとする傾向として私が記述したものは、ニュートンの重力法則の原理として理解されてよかろう。事実、もしニュートンの重力を物質をして物質を求めしめる純然たる強制力として概観するなら、つまりニュートン的な力の知られている運動様式《モドス・オペランディ》に注意を奪われないようにすれば、そのように理解されてよいのである。全体的に両者が符合することにわれわれは満足する。しかし仔細に検討してみると、細部において符合しない点が多々あり、それらの諸点においては、少なくとも符合が成立していないのである。たとえば、ニュートンの重力をある方式で眺めると、それはとうてい[一点]に向かう傾向とは[みえず]、むしろ、あらゆる物体があらゆる方向に向かう傾向――つまり拡散の傾向を示す動向であるようにみえる。すると、これは符合しない場合である。さらに、ニュートン的傾向を支配する数学的[法則]を考えてみると、存在が確認されている重力と、私がいま仮定した一見単純で直接的な傾向とのあいだには、少なくとも運動様式《モドス・オペランディ》に関して、いかなる符合も成立しえないことは明らかである。  さて、私はこれまでの推論過程を逆転させることによって自分の立場を強化するのが望ましい地点にさしかかったわけである。これまでのところ、私はまず[単純さ]についての抽象的な考察から出発して、それこそが神の原始の行為を性格づけるのにふさわしい資質であるにちがいないというふうに演繹的《アプリオリ》に論をすすめてきた。ところでこれからは、ニュートンの重力説が確立した諸事実から、帰納的《アポステリオリ》に、なにがしの正当な結論を抽き出せないものかどうか、ためしてみたい。  ところでニュートンの法則とは何か――すべての物体が引き合う力は、それらの物体の質量に比例し、物体相互間の距離の二乗に反比例する、というものである。故意に、私はまず法則の通俗版をお目にかけたわけだが、正直なところ、たいていの偉大な真理の通俗版がそうであるように、これにはほとんど暗示的なところがない。そこで今度は、もっと哲学的な言い方でお目にかけよう――「あらゆる物体の、あらゆる原子は、その物体のであろうと他のあらゆる物体のであろうと、自分以外の他のすべての原子を、原子相互間の距離の二乗に反比例して変化する力で牽引する」と。こうなると、まさしく洪水のごとくに暗示が頭に押し寄せてくるではないか。  だがニュートンはいったい何を証明したのかを明確にしておきたい――もっとも、このさい、形而上学派が規定するまことに不合理きわまる証明の定義にしたがうとするが。ニュートンは自分が提唱した法則にしたがって相互に牽引しあう原子群からなる想像上の宇宙の運動が、われわれが観察しうるかぎりでのことだが、実在する宇宙の運動といかによく合致するかを示すことで満足せざるをえなかった。それが彼の[証明]のすべてだった――つまり「哲学」の因習的な用語にしたがえば、それが[証明]というもののすべてなのだ。彼は証拠に証拠を重ねるのに成功し――しかもそれらは健全な知性が承認するていの証拠であったが――形而上学者たちの主張するところによれば、法則そのものの[証明]をいささかも補強するものではなかった。しかしながら、この地球における引力の「[眼に見える、具体的な]証拠」がついに発見されたとき、ある種の知的毛虫たちはさぞかし満足したことだろう。この証拠は(ほとんどあらゆる重要な真理がそうであるように)地球の平均密度を測定しようというこころみに付随して偶然に発見されたのである。この目的のためになされたマスケリン、キャヴェンディシュ、バイイ〔ともにイギリスの物理・天文学者で、「キャヴェンディシュの振子の実験」によって地球の平均密度の測定に成功した〕のかの有名な実験によって、ある山の塊が持つ引力が見られ、感じられ、測定されることになり、それがかの英国の天文学者の不滅の理論と数学的にも合致することが判明したのである。  しかし、なんら確認を要しないことがこのように確認されたにもかかわらず――いわゆる「眼に見える具体的な証拠」によって、いわゆる「理論」が確認なされたにもかかわらず――またこの確認がそのような[性格]のものであったにもかかわらず――真に哲学的な人間でさえ重力についていだいてしまう観念――ことに普通の人間が一度いだくと満足していつまでもいだきつづける重力についての観念は、たいていの場合、その原理が[ただ彼らが立っている惑星においてのみ]作用しているのを見て考えたことから来ているのがわかるのである。  さて、このように片寄った考察はいかなる方向におもむくだろうか――また、どのような誤謬を生み出すだろうか? 地上でわれわれが[見たり感じたり]するのは、ただあらゆる物体を地球の[中心]に向かわせる重力だけである。通例の人間が見たり感じたり[させられる]のは、これ以外のものではありえない――あらゆるものが、あらゆる場所で、地球の中心[以外]のいかなる方向にも向かうことのない永久不変の重力を知覚させられるだけである。にもかかわらず(のちほど特定する一つの例外を除いて)地上のあらゆる事物は(天上の事物のことは言わぬとして)地球の中心にばかりか、およそ考えうるあらゆる方向におもむく傾向があることは事実なのである。  さて、哲学的な人物ならこの点について俗物たちのように[誤ちを犯すはず]はないとされているけれども、にもかかわらず、彼らにしても、知らず知らずのうちに、俗流の考えに[感情的に]毒されてしまうものである。ブライアントは、そのはなはだ該博なる著書「神話学」〔英国の考古学者ジェイコブ・ブライアントは全三巻からなる『古代神話の分析』を一七七四〜七六年にかけて刊行したが、引用はその要約版からのもの〕で次のように述べている――「異教徒の寓話を信じる者はいないが、それでもなお、われわれはついわれを忘れて、それがまるで現実であるかのように思いこみ、そこからつねに類推する」と。つまり私の主張したいことは、この地球上におけるように、重力をつねに[感覚的に]のみ知覚していると、人類は重力を[求心的傾向]ないし[特殊性]と思いなし――ついにはこの幻想を至上の知性であるとさえ思い込むにいたるのである。くりかえせば、無意識のうちにではあるが、人類をしてこの原理の真の特性から眼をそらさせ、かくして、今日にいたると、その正反対の方向にあるもの――その原理の[本質的な]性格の背後にあるもの――求心的傾向でも特殊性でもなく、[普遍性]であり[拡散性]であるものの背後にあるもの――すなわち、かの究極的真理なるものを一瞥することさえかなわなくなったのである。そして、この「究極的真理」とは諸現象の[源泉]である単一性のことにほかならない。  ここで再度、重力の法則を反復させていただく――すなわち、[あらゆる物体の、あらゆる原子は、その物体のであろうと他のあらゆる物体のであろうと、自分以外の他のすべての原子を]、原子相互間の距離の二乗に反比例して変化する力で牽引する、と。  ここでしばらく歩を止め、読者とともに熟考してみたいと思うのだが、それは[すべての原子が他のすべての原子を牽引する]という事実――引力が顕現する法則や様式はいちおう別にして、引力そのものが存在するという事実――一発の砲弾を構成している原子のほうが、おそらく数の点では宇宙を構成する星の数より多いであろうような混沌たる原子の集合体の中においてさえ、すべての原子が他のすべての原子を牽引しているという事実――[単なる]そういう事実に含まれている奇跡的な、言いようもない、まったく想像を絶する複雑な関係についてである。  たとえば、それぞれの原子が特定の好みの一点に――ことさらに牽引力の強い特定の原子に、引き寄せられることをわれわれが発見したとしても、われわれはさらに驚嘆すべき発見を強いられることになろう。だが、われわれが実際に理解を迫られているのはいったい何だろうか? それぞれの原子は牽引しあい――他のすべての原子の微妙きわまる運動に共鳴し、そのそれぞれ、およびそのすべての原子と同時に、また永久に、しかもそれだけを別個に考えるにしても、なお人間の想像力ではとうてい把握しきれない複雑な法則にしたがって共鳴していることを、である。もし私が日光に浮かぶ一つの塵《ちり》が近くの塵に及ぼす影響を確認しようとするなら、私はまず宇宙にあるすべての原子の数と量を算定し、ある特定の瞬間における全原子の正確な位置を決定しなければ所期の目的を達成することはできないのである。いま私の指先についている微小な塵を、たとえ十億分の一インチ動かすにしても、私のしたことは、いかなる性質の行為になるだろうか? 私のしたことは、月をその軌道からそらし、そのために太陽はもはや太陽でなくなり、威厳にみちた創造主の眼前で輝きながら回転している何万億もの星たちの運命を永遠に変える行為に相当するのだ。 [このような]観念――[このような]概念――思考とはいえない反思考――知性に由来する結論や考察というよりは魂の夢想――くりかえすが、そういう観念だけが、[引力]なる偉大な原理を把握するのに役に立つ唯一のものなのだ。  さてそこで――引力というまことに複雑なものについて以上のような観念――以上のような識見《ヴィジョン》をしっかりと頭にたたき込んだ人物に――つまり、そのような問題を考える資格を有する人間に、現存する諸現象の原理――ならびに、それらが出現する条件について想像するという仕事を課すとしてみよう。  原子が相互にこれほど似ていることは親がおなじであることを示していないだろうか? かくも遍在的で、根絶しがたく、そのうえ完全に選り好みしない親和力が原子間に存在することは出生を同じくしていることを示唆していないだろうか? ある一つの極端な状況があることは、理性をして他の極端な状況があることを想定させないだろうか? 無限に分割しうるということは、また完全な非分割性を示唆していないだろうか? 複雑さの極致は完璧な単純さを暗示していないだろうか? 原子は現状において分割されている、あるいは複雑な関係にあるというのでは[ない]――原子は考えられないほど無限に分割されており、表現しきれないほど複雑なのである――私が言わんとしていることは、原子の状態そのものについてというより、むしろその状態の極端さについてなのだ。別言すれば、現在、あらゆる状況のもとで――あらゆる地点で――あらゆる方向で――あらゆる接近の仕方で――あらゆる関係と条件のもとで――諸原子がこの絶対的な、この非相関的な、この無条件な一つに[復帰]しようともがいているのは――はるか昔の一時期に、諸原子は[集合しているといった状態以上]のものであったからではなかろうか――元来が、つまり正規の状態においては、諸原子は一つであったからではなかろうか?  ここで疑問を呈される方がいるかもしれない――「原子がその[一つ]の状態に帰ろうともがいているのなら――なぜ、引力を『中心に向かう単なる一般的な傾向』とみなして定義しないのか――とくに、なぜ、あなたのいう原子は――つまり、一つの中心から放射されたとあなたが記述する原子は――即刻、その原始の中心めがけて一直線に帰ろうとしないのか?」と。 [帰るのだ]、というのが私の答えで、それはやがて明瞭になるはずだが、そうなる原因は中心[といったもの]とはまったく無関係なのである。原子がみな一直線に中心に向かうのは、それが球状に空間に放射されたからである。それぞれの原子は、諸原子からなるほぼ均一な球状をなす集団の一つに所属しているのであるが、当然なことながら、他のいかなる方向よりも、中心の方向により多くの原子が見出され、だからその方向に引きつけられる――だが、そうなるのは、中心が[原始の出発点]だからではないのである。諸原子が集合するのは[点]に対してでは決してない。諸原子が向かうと私が想定しているのは、具体的な意味でも抽象的な意味でも、[場所]といったものではない。[場所]といったものを諸原子の起原と考えることはできない。その起原は[単一]という原理にある。[これこそ]が原子たちのうしなった親なのである。[これをこそ]原子たちはつねに――ためらうことなく――あらゆる方向に――求めているのであって、それが部分的にしか見出されなくとも意に介するところではなく、だから、その欲求が最後には究極的に満足させられることになるとはいえ、その途次においても、ある程度、この癒しがたい傾向は緩和されるのである。以上のことから抽き出せる結論は、引力一般の法則ないし運動様式《モドス・オペランディ》を妥当に説明することができる原理なら、この法則を個々の場合についても説明することであろう――つまり、諸原子がその[放射の中心に]距離の二乗に反比例する力で引きつけられる傾向を説明する原理ならば、それは同時に、同じ法則にしたがって、原子が相互に引きあう傾向を充分に説明するものと認めてよい――[というのは]中心に引かれる傾向は原子が相互に引きあう傾向に[ほかならぬ]からであって、中心といったものに引かれる傾向ではないからだ。さらにまた言えることは、私の命題が確立したところで、ニュートンの重力の定義はいささかの修正も[必要としない]だろうということである。それというのも、その定義はそれぞれの原子は他のそれぞれの原子を引きつける云々と断言し、そう断言しているだけだからである。しかし(私が提唱することが最終的には認められるという仮定のもとにおいてのみだが)明白であるようにみえることは、もっと適切な用語が採用されるならば、科学がたどる将来の過程において、ある種の誤謬が避けられる場合があるだろう――たとえば「それぞれの原子は他のそれぞれの原子を……の力で牽引するが……その一般的結果は、それと同じ力で、すべての原子が共通の中心をめざす傾向となる」とでも言っておけば、である。  議論の過程を逆転してみたところ、このようにわれわれはまったく同じ結果に到達したわけである。しかし、一方の過程においては[直観]が出発点で、他方においては、それが到達点であった。前者の筋道をたどるにあたって、私に言えたことは、抗しがたい直観によって、単純さこそが神の原始の行為の性格であると[感じる]ということだけだった――そして後者の到達点において断言しえたことは、やはり抗しがたい直観によって、ニュートンの重力にかかわる現在の諸現象の根元は単一性にほかならぬと認識したということだけだった。ということは、学者たちに言わせれば、私は何も[実証]していないことになる。それはそれでよい――私の意図はただ示唆することにあり、その示唆によって[確信する]ことだけなのだから。私が誇りに思っていることは、私の示唆によって充分に満足[せざるをえない]ような、まことに深遠で、慎重な識別力をそなえた知性の持ち主がこの世に数多くいるということである。私自身にとってそうであるように、そのような知性にとっては、私が提唱してきたような偉大な[真理]――[原始の単一性こそが起原]であり――[宇宙現象の原理]であるとする[真理]についてこれ以上の[真の証拠]をいささかなりとも出し[うる]ような数学的証明はないのである。私自身について言えば、私が語り、かつ見ていることに――私の心臓が鼓動し、私の魂が生きていることに確信が持てず――太陽があすまた昇るということも未来の蓋然性に属することゆえ確信できないのである。要するに、これらのことを、私は、あらゆる事物と事物に関するあらゆる思考が言語を絶する複雑な関係をもって原始の絶対的な一つから一挙に出現したという再現不能な過去の[事実]について確信していることの千分の一も確信できないのである。  ニュートンの重力説について、かの雄弁なる『天体の構造』の著者ニコル〔グラスゴー大学天文学教授ジョン・プリングル・ニコル博士は、ポオが『ユリイカ』をニューヨークで少数の聴衆を前にして朗読した一八四四年二月三日と同じ週に、ニューヨークで天文学に関する講演をしていた〕博士はこう言う――「実際のところ、いまや明らかにされたこの偉大なる法則が、宇宙という大いなる秩序についての究極的な、あるいはもっとも単純な、それゆえに普遍的で包括的な認識形態であると信ずべき理由はない。距離という要素によって重力の強さが減少するという様式は究極的な[諸原理]としての様相に欠けている。究極的な諸原理とは、幾何学の基礎を形成している諸公理のような単純さと自明性をそなえているのがつねだからである」と。  さて、普通に理解されている意味での「究極的な諸原理」がつねに幾何学の公理のような単純さをそなえている(ちなみに、「自明性」などというものは存在しないけれども)ということはまことに真実である――しかし、以上の諸原理は明らかに「究極的」ではない。別言すれば、われわれが通例複数で原理と呼んでいるものは厳密には原理ではない――というのは、神の意志という唯一の[原理]しかありえないからである。それゆえ、われわれが愚かにも「諸原理」と呼んでいる諸法別に見出されるものから、本来の原理の性格を有しているような、いかなるものをも想定する権利は人間にはないのである。ニコル博士が幾何学的な単純さをそなえていると称している「究極的な諸原理」はたしかにそういう幾何学的な性質を持っているかもしれず、げんに持っているわけだが、それは巨大な幾何学的体系を構成する不可分の一部であり、したがって単純さという体系そのものの一部であるからにすぎず――また、そういう体系においてすら、[真に]究極的な原理とは、[われわれが承知しているように]、複雑さの極致――つまり不可知性の極致のことである――なぜなら、それこそが神の霊的能力であるからではなかろうか?  ところで、ニコル博士の言葉を引用したのは、その哲理に疑問を呈するためというより、誰もが重力の法則の背後にある原理が存在することを認めていながら、この原理が厳密に[いかなるものであるか]を指摘しようとするこころみが、いまだかつてなされていないことに注意を喚起したかったからである。もっとも、ときおりこれをマグネティズムとか、メズメリズムとか、スウェーデンボルギズムとか、トランセンデンタリズムとか、その他同種の同じように甘美な[イズム]と結びつけようとする滑稽なこころみがなされ、これがまた同種の似たり寄ったりの人物たちにもてはやされたことはあるが、こんなものは除外するとしたい。  ニュートンの偉大な頭脳は法則そのものを大胆にとらえながら、その法則の原理にはしりごみしたのである。ラプラスの知力はニュートンのそれより忍耐強く深遠であったとはいえないまでも、少なくとも、より融通がきき包括的であったのだが、それでもこの問題に取りくむ勇気には欠けていた。だが、この二人の天文学者がためらった理由を理解するのはさして困難なことではあるまい。二人は、あらゆる第一級の数学者たちがそうであるように、数学を[もっぱらに]する人たちであった――その知性は、少なくとも、数学と物理に傾斜していたことは明白である。はっきりと物理学ないし数学の領域に属さないものは、彼らにとっては非実在であるか、影であるかに思えたのだ。しかしながら、この点については顕著な例外的存在で、数学的なものと物理学・形而上学的なものとが奇妙にないまじった精神的気質の持ち主であったライプニッツが、当面の問題点についてただちに検討に着手し決着をつけなかったのはあやしむにたることだろう。ニュートンにせよ、ラプラスにせよ、原理を探求しているうちに非[物理学]的な原理を発見したなら、原理などというものは絶対にないのだと結論して満足してしまったことだろう。しかしライプニッッの場合、物理の領域での検索で収穫がなかったからといって、彼の昔なじみの形而上学の王国に勇気と希望をもってただちに推参しなかったとは考えがたいのである。彼はこの王国に宝探しの冒険に出かけたに[ちがいない]――だが、彼がついにその宝を手中にできなかったのは、おそらく、彼の案内人である想像力が未熟であったか、経験不足であったため、彼を正しい方向にみちびくことができなかったせいだろう。  いましがた私は、事実として、重力をある種のきわめて暖味なイズムと結びつけるおぼろげなこころみがあったことについて述べた。そういうこころみは、なるほど大胆ではあったが、ニュートンの法則の一般性――純然たる一般性だけしか見なかったのである。私の知るかぎりでは、その運動様式《モドス・オペランディ》を解明しようというこころみは一切なされなかったのである。そういうわけで、私が自分の所説を述べようとしても、それを判定する能力がある人たちだけの眼に公平にさらす運びになるまえに、頭から狂人呼ばわりされる恐れなしとしないのであるが、ここで私があえて断言したいことは、正しい順序を踏んで正しい方向に徐々にすすんでゆき――つまり、正当な観点からそれを見るならば、重力の法則の運動様式《モドス・オペランディ》はきわめて単純、かつ説明可能なものであるという事実である。  単純さこそが神の原始の行為のもっとも蓋然的な性格であるという考えから出発して、万物の源泉を絶対的な単一性であるとする観念に到達しようと――重力現象間の関係が普遍的であることを突きとめることから同じ観念にゆきつこうと――以上の二つの過程が相互に協力した結果として同一の観念に逢着しようと――いずれにしても、ひとたびこの観念をいだくことになれば、それと不可分の関係でもう一つの観念をいだくことになり――それは星の宇宙の[現状]にかかわる観念――つまり星が宇宙空間に無際限に[拡散している]状態についての観念である。ところで、この二つの観念――単一性と拡散――を結合するためには第三の観念である[放射]の観念の仲介を必要とする。絶対的な単一性を中心とみなすなら、現存する星の宇宙はこの中心からの[放射]の結果である。  さて、放射の諸法則は[すでに知られている]。それは[球体]の諸法則と不可分のものである。それは[反論しがたい幾何学的属性]の範疇に属する。その種のことについて、われわれは「それは真である――明らかである」と言う。[なぜ]それが真であるかを問うことは、その論証の基礎となった諸公理がなぜ真なのかと問うことである。厳密に言うならば、[何ものも]証明しえない。だが、[かりに]証明しうるものが[あるとすれば]、その諸属性――つまり問題の諸法則だけが証明可能なのである。  だが、これらの法則は――いったい何を断言しているのか? 放射とは――どうやって――どういう手順で中心から外方にすすむのか? [発光する]中心から、[光]は放射状に放たれる。そして、ある任意の平面が受ける光の量は、その平面が中心から遠くへも近くへも移動することができると仮定するなら、発光体から平面までの距離の二乗に比例して減少し、また距離の二乗が減少すれば、それに比例して増加するはずである。  この法則は次のように一般化して表現することができる――移動する平面が受ける光の粒子の数(あるいは、もしこのほうがよければだが、光の粒子が衝突する数)は平面までの距離の二乗に[反]比例するだろう。さらに一般化するなら、拡散――あるいは分散――つまり放射は距離の二乗に[正]比例する、と言うことができる。  たとえば、発光する中心Aからの距離Bにおいては、一定数の粒子は面積Bを占めるように拡散する。その二倍の距離――すなわちCにおいては――光の粒子はその四倍の面積を占めるほどまでに拡散する。三倍の距離、すなわちDにおいては、粒子はさらにいっそう分散して九倍の面積を占めることになる。そして四倍の距離、すなわちEでは、粒子はなおも分散して、十六倍の面積にちらばる――という具合に無限に拡散してゆくわけである。  一般に、放射は距離の二乗に正比例して進行する、と言う場合、われわれは放射なる言葉を中心から外方におもむく[拡散の度合]をあらわすために用いる。発想を逆転して、外方の位置から中心にもどるさいの[凝縮の度合]をあらわすのに「集中」という言葉を用いるとすれば、集中は距離の二乗に反比例して進捗する、と言うことができる。別言すれば、もともと一つの中心から放射された物質がいまやその中心に復帰しつつあるという仮定のもとにおいてだが、復帰にさいする集中の進捗状況は[われわれが知っている重力の増大の仕方とまったく軌を一にする]という結論に到達する。  さてここで、もし集中が[中心へ向かう力]を正確に代表し――一方が他方に正確に対応し、また両者が同時に進行していると仮定することが許されるならば――必要なことはすべて説明しつくされたことになろう。すると残る唯一の難題は「集中」と集中[力]とのあいだに正比例の関係を確定することであるが、そのためには、むろん、「放射」と放射[力]とのあいだに同様な比例関係を確認すればよいのである。  天空を一瞥しさえすればわかることだが、星たちがほぼ球状に群をなして分布している空間の全域にわたって、その配置のされ方には、ある種の大まかな一様性、均等性、ないし等距離性がある。この種の、絶対的とは言わぬまでも、きわめて一般的な均等性は、非相関性からきわめて複雑な関係を生み出そうという明白な意図の必然の結果として、原始において拡散させられた原子の相互間の距離が、ある限度内においてだが、不均等であるとした私の演繹による結論といささかも矛盾しないのである。思い出していただきたいのだが、私は原子の分散状態は一般的には均等でありながら個々にわたっては[不]均等であるという考えから出発したのである。くりかえすが、この考えは、現在あるがままの星々を観察してみれば、たちどころに納得がゆくはずである。  諸原子が全体としては均等に分布しているということにさえ、[中心からの放射]が分散の均等性をもたらしたと私が想定したことをご記憶の読者は、当然のことながら、ある疑問をお感じになることだろう。まず放射なる観念を頭に思い浮かべるとなれば、当然われわれは、ある時点までは分離されず、また一見分離不能な状態で一つの中心を核に凝縮しているものが、その中心から遠ざかるにしたがって散乱する状態を考える――つまり、放射された物質は[不]均等に拡散されると考えるのである。  さて、これはすでに別のところ(*)で述べたことだが、いやしくも理性が真理を求めて手探りですすむとなれば、まさしくいま問題にしているような困難さ――かかる手強さ――かかる特異性――かかる尋常の次元からはみ出したものこそが手掛りになる。この困難さ――この「特異性」を手掛りに、私は一挙に[かの]秘密にいどむものであるが――[その特異性がきわめて純粋な性質のものであるがゆえに]見えてくる特異性や、可能になる類推がなかったなら、その秘密を手にすることはできなかったはずである。 [#ここから1字下げ] * ポオ最初の推理小説「モルグ街の殺人」でデュパン氏はこう語る――「いやしくも理性が真理を求めて手探りですすむとなれば、こういう尋常な次元をはずれたことがらこそが手掛りになるのだ――ぼくはやがてこの事件を解決してみせるし、いや、じつはもう解決したも同然なのだが、そんなことは造作もないことで、その造作のなさは、警察がこの事件を解決不能とみている、その不可能性と同じ程度のものさ」と。 [#ここで字下げ終わり]  これまでのところの思考過程は以下のように要約できよう。つまり私は次のように自問するのである――「単一性は、これまで説明してきたように、真理である――私はそう感じる。拡散も真理である――私はそう見る。放射によってのみ以上の二つの真理は調和しうるのであるから、放射もまた付随的な真理である――私はそう考える。拡散の[均等性]は、まずは先験的《アプリオリ》に演繹され、次に現象の観察によって確認されたのであるから、これまた真理である――私はそう確信する。これまでのところ、すべては澄明である。かの秘密――重力の運動様式《モドス・オペランディ》にかかわる大いなる秘密が背後にひそんでいる可能性がある雲など一片としてない。だが、この秘密は、ほぼたしかなところ、[そのあたり]にあるのだ。だから、もし一片の雲でも見えてきたら、私はさっそくその雲に疑念をいだかなくてはならない」と。  そしていまや、そう言ったかと思ったら、一片の雲が見えてきた。この雲というのは、私の言う[放射]なる真理と[拡散の不均等]なる真理とが一見したところ両立不能にみえることにほかならない。そこで私はこう言う――「この[見かけの]不可能性の背後にこそ、私の求めるものが見出せる」と。私は「[真の]不可能性」とは言っていない。これらの真理に対する私の確固不動の信念が保証するところによれば、それはつまるところ単なる困難であるにすぎない。いや、私はひるむことのない確信をもって、さらにすすんでこう言う――この[困難]さえ解消できれば、[解決の途上においては包みかくされてはいるが]、われわれが目ざす秘密を解く鍵がやがて忽然として姿をあらわすであろう、と。そのうえ――私の[感じる]ところでは、この困難を解明する鍵は[ただ一つ]しかない。その理由は、もし二つの解決法があるとすれば、その一つは余計なものであり――無用の代物であり――鍵など含んでいるはずがないからである。自然の秘密を解くのに予備の鍵など必要としないのである。  さて、今度は次のことを見てみよう――われわれの放射についての概念は――いや、われわれの放射についての明確な概念は[例外なしに]――光の事例によって見られる過程によって捉えることができるだけである。この場合には[光線が間断なく]放出され、[その力が変化すると仮定する根拠は少なくとも存在しない]。いかなる場合にせよ、このような放射――つまり間断なく不変な力で行なわれる放射なら――その中心から近い領域には、より遠い領域より、[必然的に]より多くの放射された物質が集まっていることになる。だが、私は[そのような]放射を想定したのではない。私は[間断ない]放射など想定したことはない。その理由は簡単で、そのように想定するとなると、まず第一に、私がこれまで人間がいだき[えない]と証明してきた概念、しかも(のちほど充分に説明する所存だが)あらゆる天体観測が否定しているところの星の宇宙の絶対的な無限性という概念をいだく必要が出てくるからであり、第二に、現に存在している[反]作用――つまり重力を理解するのが不可能になるからだが、それは一つの作用が持続しているかぎり、[反]作用は起こりえないという理由による。だから、私の仮定、いやむしろ正しい前提から必然的に演繹された結論は――[終りのある]放射――最終的には[停止]される放射だったのである。  では、放射の条件と、一般に均等に分散される条件とを二つながら満足させるように物質を空間に散乱させることができたと考えられる唯一可能な様式について述べさせていただく。  便宜のために例をあげるとするが、まず最初に、中空のガラスの球、ないしは同種のものを想像していただきたい。そして、それが占める空間には、その球の中心に置かれた絶対的、非相関的、無条件な粒子から放射された普遍的物質が均等に拡散されることになると考えていただきたい。  さて(神意によると解されるが)ある種の拡散力が作用して――言い換えれば、放出される物質の量、つまり原子の数が尺度をなす一定の[力]が作用して――この一定数の原子が放射状に中心から外側に向かって、進行するにつれて接近の度合を減少させながら、あらゆる方向に投げ出され、ついには、球体の内側の表面にばらばらに分布することになる。  この一群の原子がこの位置に達すると、あるいは、この位置に達する途中においてすら、第二の、そしてより劣勢ではあるが同一の、あるいは同性質の力が作用して、同じ経過をたどり――つまり以前と同じ放射によって――第二層目の原子の群れが放出されて第一のそれに重なる。むろん、このさいも最初の場合と同じく、原子の数が原子を放出した力の尺度である。つまり、この力は、それがめざす目的を達成するために過不足なく見合っている――すなわち、その力と、その力によって送り出される原子の数とは[正比例]するのである。  この第二層目の原子群がめざす位置に達すると――あるいは、それに接近しつつある間にも――第三の、そしてなおいっそう劣勢ではあるが同一の、または同性質の力が作用して、第三層目の原子の群れが放出されて第二のそれに重なることになり――そのいずれの場合にも放出される原子の数が力の尺度であるわけだが――これを反復するうちに、同心円的な原子の層は次第に厚くなり、ついには中心に達し、かくして拡散する物質は、その拡散力とともに消滅するのである。  さて、ここにおいて球体は、放射の作用によって、均等に拡散された原子で充満することになる。二つの必要条件――放射という条件と均等という条件――はともに満足され、しかも、これらの条件が同時にみたされることが考えられる唯一の経過をたどって、それがなされるわけである〔この全過程は一瞬の閃光のうちに行なわれる〕。かような理由によって、私が探求している秘密――かのニュートンの法則の運動様式《モドス・オペランディ》にかかわるもっとも重要な原理――が球体にあまねく分散されている原子の現状のうちに潜んでいるのが発見されるものと自信をもって期待しているのである。そこで、原子の実際の状態を考えてみよう。  原子は中心を共有する一連の層をなして存在している。原子は球体にあまねく均等に分散している。原子は放射によって現在の状態になったのである。  原子は[均等に]分散しているのであるから、こういう中心を共有する層ないし球体の表面積が大きければ大きいほど、そこにはより多くの原子が宿ることになろう。別言すれば、中心を共有する諸球体の任意の一つの表面にある原子の数は、その表面積に正比例する。 [ところが、いかなる球にあっても、その表面積は中心からの距離の二乗に正比例]する。  それゆえ、任意の層における原子の数は、その層から中心までの距離の二乗に正比例する。  しかし任意の層における原子の数は、その層を放出した力の尺度であるから――つまるところ、原子の数はその力と[正比例]する。  したがって任意の層を放射した力は、その層の中心からの距離の二乗に正比例する――さらに、[一般化]すれば、 [放射の力は距離の二乗に正比例している]  ところで、反作用とは、われわれの知るかぎり、逆の作用のことである。重力の[一般]原理を、まず第一に、ある作用の反作用として――拡散の状態にある物質が拡散の出発点である単一性に復帰しようとする欲望の表現として理解し、第二に、その欲望の[性格]――すなわち、それが自然に顕現される様式を決定するつもりなら、つまり復帰にかかわる蓋然的な法則ないし運動様式《モドス・オペランディ》を考えようとするのなら、復帰の法則は出発の法則の正反対であろうという結論に到達せざるをえないのである。いつの日か誰かがそうでは[ない]という納得のゆく理由を提示するまでは――つまり知性が容認しうるような復帰の法則が考案されるまでは――右のような結論を当然のこととして受けとめていけない理由はいささかもない。  すると、距離の二乗に比例して変化する力で空間に放射された物質は、距離の二乗に[反]比例して変化する力で放射の中心に復帰すると先験的《アプリオリ》に想定してもよかろう。それに、すでに述べたように、なぜ諸原子がある法則にしたがって共通の中心へ向かうかを説明する原理は、同時に、なぜ原子が、やはり同じ法則にしたがって、相互に引きあうかも充分に説明できなければならない。というのは、共通の中心に向かうといっても、それはいわゆる点ではなく、それは各原子がもっとも直接的にその真の本質的な中心である単一へ――絶対的で最終的なすべてのものの合一へ向かうような意味での一点だからである。  ここで展開している考察は、私にとってはなんら当惑すべきものを含んでいない――しかし、だからといって、私より抽象的なことがらを扱いなれていない方にとって暖味である可能性があるという事実にまで眼をつむるつもりはない。だから、結局のところ、この問題を他の二、三の観点からも見たほうがよかろう。  神の意志によって創造された絶対的で非相関的な原始の粒子は、積極的に[正常な]、つまり正しい状態にあったにちがいない――というのは、正しくない状態とは[相関性]を含蓄するからである。正しいとは肯定的、正しくないとは否定的なことであり――それはまた正しいことの否定にほかならないのだが、それは冷たいが熱いの否定で、闇が光の否定であるのと同じである。あることが間違っているかもしれないと言えるためには、他の何かとの[関連]において[間違っている]と言えるのでなければならない――それが満足させることができない条件、それが違反する法則、それが排除する他の存在が必要なのである。あることが間違いであることを示すそういう存在、法則、条件がなければ――さらに厳密に言うなら、そのような存在、法則、条件が完全に欠けているような場合には――当のあることは間違いでは[ありえず]、したがって[正しい]のである。正規の状態からの逸脱は、つねに正規の状態に復帰しようとする傾向をはらんでいる。正規からの――正常からの――正当からの――反背は何らかの困難の克服を前提としているのだから、もしその困難を克服する力が無限に持続するのでなければ、復帰しようとする消しがたい傾向はついにはその目的を達成するように作用することが許されることになろう。この力が消滅するとともに、この傾向が作用しはじめる。これは有限な作用の不可避的な結果としての反作用の原理である。いささか気取った言い方になるが、その厳密さに免じて使わせていただくとすれば、次のように言いかえることができる――反作用とは[現在の]、[そうあってはならない]状態から、[過去の]、[原始的な]、[それゆえにそうあるべき]状態に復帰しようとすることである、と。そして、ここで急いでつけ加えさせていただくとするが、その反作用の[絶対]強度は、もしその[原始的存在]の実在性――真実性――絶対性――[独自性]――を測定しうるとするならば、それらとつねに正比例するにちがいないのである。したがってまた、考えうるかぎり最強の反作用は、いまわれわれが問題にしているような、[絶対的な根元]に――[究極的な]原始性に復帰しようとする傾向によってもたらされるにちがいない。すると、引力こそが[その最強の力であるにちがいない]のであり――これはすでに先験的《アプリオリ》に到達した観念であるとともに、帰納的にも充分に確証されている観念でもある。この観念を私がどのように利用するかは、おいおいご披露に及ぶつもりである。  さて、原子はその拡散状態から正規の単一状態への復帰を望んでいる――どこへ? 特定の[点へ]でないことはたしかである。もし全宇宙の物質が放射点から一定の距離にまでいっせいに放出されたのであれば、原子が球の中心へ向かおうとする傾向はいささかも阻害されていないだろうことは明らかである――原子はそれがもともと放出された[絶対空間における]一点を求める必要はないはずである。原子が復帰を望んでいるのは、ある[状態へ]であって、この状態が発生した点へでもなければ場所へでもない――原子が望んでいるのは[原子のあるべきかの正規の状態]なのである。「だが原子が求めているのは中心であり、中心とは点である」と言えるかもしれない。そのとおりだ、しかし原子が求めているのは、点といった性格での点ではなく――(というのは、球全体が移動したにしても、原子はやはり中心を求めるだろうから、[そうなると]中心は[新しい点]であろうから)――たまたま原子は集合的な形態(球という形態)で存在しているので、当の一点――球の中心――を[媒介として]のみ、原子はその真の目的である単一性を達成しうるのである。この中心の方向に、それぞれの原子は他のいかなる方向よりも多くの原子を見出す。原子がそれぞれ中心に引きつけられるのは、原子と中心とを結び、さらに反対側の周辺に達する直線上に、他のいかなる直線上よりも多くの原子――中心を求める物体である個々の原子――単一を求めるより多くの傾向を持つもの――単一の傾向を満足させようとするより多くのものが存在するからである――別言すれば、中心に向かう方向に、各個の原子の欲求をみたす最大限の可能性が存するからである。早い話が、求められているのは単一という[状況]のみなのである。たとえ原子が球の中心を求めているように[みえる]としても、それは、そのような中心がたまたま唯一の本質的な中心である単一性を含蓄し、包含し、内包しているからだけのことである。しかし、こういう含蓄性ないし包含性[のゆえに]、抽象的な意味での単一性をめざす傾向と、具体的な中心へ向かう傾向とを区別することは実際上は不可能である。というわけで、原子が共通の中心へ向かう傾向は、実際的にも理論的にも、相互に引きあう傾向に[ほかならず]、相互に引きあう傾向は中心へ向かう傾向に[ほかならない]。つまり一方の傾向は他方の傾向と[同一なり]と見なしてよいのである。一方に適用しうることは、他方にも完全に適用されなければならない。結論的には、一方を満足に説明する原理なら、他方をも説明することに疑問の余地はないのである。  私が提示してきたことに対する筋のとおった反対がないものかと注意深くあたりを見まわしても、私にはそんなものはまったく見当らないのであるが――疑問のために疑問を呈する連中が通例もち出す種類の反論についてなら、私もただちに[三つ]思い出す。その三つを順番に片づけるとしたい。  まず第一に、こういうのがあろう――「(すでに述べた場合における)放射の力は距離の二乗に正比例するという立証は、各層における原子の数はそれを放出した力の尺度であるとする根拠のない仮定にもとづいている」と。  私の答えはこうだ――私の仮定には根拠があるばかりか、もし別の仮定をするなら、それこそ私の言うことは[無]根拠になるだろう、と。私の仮定は単純そのもので、効果は原因の尺度である――いかなる神意の行使も、それに必要とする努力に比例するであろう――全能にして全知なる神の手段は、その目的に完全に合致しているはずだ――ということにつきる。原因が不足でも過剰でも、所期の成果は期待できない。任意の層の原子をその位置に放射する力が、その目的を達成するのに必要な力より多くても少なくても――つまり目的と[正比例]しないならば――その層が現位置に放射されていることはなかったはずである。全般的に均等な配分になっていることにかんがみ、各層から妥当な数量の原子を放出する力がその数量と[正比例]しないならば、その数量は均等な分散に必要な数量でなかったことになる。  第二に予想される反論はいくらか答えがいがあろうというものだ。  確立された力学の原理によれば、あらゆる物体は、ひとたび衝動ないし運動の意向を与えられると、他のなんらかの力によって屈折あるいは停止させられるまで、衝動力によって強制された方向に一直線に前進しつづけることになっている。そこで疑問が出てくる――私の言う最初の、つまりいちばん外側の原子の層が想像上のガラスの球体の周縁で運動を停止するというふうに想定されているのなら、歴然たる第二の力が出現しないのに、どうしてその運動が停止したことを説明できるのか、と。  答えるとするが、今度の反論は、事実上、反論者が「根拠のない仮定」をしたことに――つまり[何に]関するにせよ、[いかなる]「原理」も存在[しない]一時期に、力学上の一つの原理を仮定したことに由来する。むろん私は「原理」なる言葉を反論者が理解しているものとして用いている。「原始にあって」われわれが是認しうること――まさしく理解しうること――それはただ一つの[第一原因]――真に究極的な[原理]――すなわち神の意志のみである。最初の[行為]――つまり単一からの放射という行為は、われわれが現在「原理」と呼んでいるものとは無関係であったにちがいない――なぜなら、今日われわれがそう名づけているものは原始の行為の反作用の結果にほかならないからである。いま私が「原始の」行為と断ったのは、絶対的な物質粒子の創造は言葉の普通の意味での「行為」というより、むしろ[観念]とみなしたほうが妥当だからである。だから、原始の行為は、いまわれわれが「原理」と呼んでいるものの確立であるとみなさなければなるまい。だが、この原始の行為そのものも[継続的神意]と考えるべきだろう。神の意向が拡散を発動させ――それを持続させ――それを調節し――そして拡散がついに完成するとともに、それから手を引くと理解さるべきである。[そのときはじめて]反作用が始まり、反作用によって、われわれが用いる意味での「原理」が始まる。しかしながら、この語は神意の中絶の直接的な二つの結果にかぎって用いるのが賢明であろう――すなわち[引力]と[斥力]との二つの力にかぎって用いるのが。その他のあらゆる自然の力は、程度の差こそあれ、密接に上記の二つの原理に従属しているので、そういうものは[従属]原理と呼ぶほうが便利がよかろう。  第三の反論は総括的なものであるが、私が原子について述べた特殊な分散の様式は「仮説であって、それ以外の何ものでもない」という説であろう。  さて私は思うのであるが、仮説なる言葉は、いかなる点にもせよ、すこしでも[理論]の気配のある問題が提出されると、卑小な思考家が振り上げるとまでいかなくとも、たちまちつかみかかる重たい金槌《かなづち》のようなものである。しかし、ここで「仮説」を振りまわすのは、たとえそれをうまく持ち上げることができるにせよ――また小人《こびと》にせよ巨人にせよ、あまり有益なことではあるまい。  まず第一に私が主張したいことは、物質が放射の条件とほぼ均等な分散という条件を二つながらみたすように拡散できたことを考えるためには、以上に述べた様式による[ほかない]ということである。第二に主張したいこととは、この二つの条件そのものが[ユークリッド幾何学の証明をするときのように厳密に論理的な]一連の推論の過程で必然の結果として私の頭に浮かんだものであるということである。そして第三の主張は、「仮説」という非難は実際には根も葉もないことだが、たとえそういう非難に根拠があるとしても、私の推論の成果の有効性と無謬性は、いかなる微細な点においても、微動だにしないということである。  それでは説明することにする――ニュートンの重力――自然の法則――狂人ですらその存在自体に疑問をさしはさむことのない法則――それを認めさえすれば宇宙の諸現象を九割がた説明できる法則――そのように諸現象を説明できるがゆえに、その他のことに考慮を払うまでもなく、すすんで法則として認め、また認めざるをえない法則――にもかかわらず、その原理にせよ原理の運動様式《モドス・オペランディ》にせよ、いまだかつて人間の分析が及んでいない法則――要するに、その細部においても全般においても、いまだにまったく説明できかねた法則――そういう法則があることに、もしわれわれが同意するなら、ついにくまなく完全に説明しうるのであるが――さて、それは何か? ある仮説か? もし仮説によって――純然たる仮説によって――純粋な仮説にほかならぬニュートンの法則の場合のように、それを認めるのにいささかも先験的《アプリオリ》な理由づけを必要としないような仮説によって――以上のすべてを包含するほど絶対的な仮説によって、ニュートンの法則に原理を見出せることになるならば――また、重力がわれわれに示す諸関係に含まれているがごとき奇跡的な、言語を絶する複雑さと一見矛盾する諸条件が満足されていると理解しうるならば――およそ理性をそなえた人間で、この絶対的な仮説さえ単なる仮説にすぎないと称しておのれの愚かさを露呈する者は[ありえない]ではないか? ――だが、もっとも、[言葉のうえでの]首尾一貫性を守るためだけに、それは承知でそう称しているのだと主張する者の場合は別だが。  しかしこの問題の真相は何であろうか? その[実体]はいったい何だろうか? 問題の原理が説明されていることを認めるために、われわれが[採用する]ように求められているのは仮説[ばかりでなく]、論理的帰結も[そうであって]、それはもしできうるなら採用[しなくてもよい]――[もしできえないなら否定するのも]ご自由といった結論――きわめて厳密な論理性のゆえに反論するのが厄介至極な結論――その正当性を疑うのは人間の能力を超えているような結論――要するに、どちらを向こうと、避けようのない結論なのであり、現に問題になっている法則にかかわる諸現象から[帰納]的な旅に出かけようと、あるいは考えうるかぎりの仮定のうちでもっとも厳密に単純なもの――つまり[単純さそのものという仮定]――から演繹の巡礼に出発しようと、ともにその旅路の果てに逢着する結論なのである。  またここに、ただけちをつけたい一念から、私の出発点は、私が主張するように、絶対的な単純さという仮定だが、しかし単純さはそれ自体では公理ではありえず、公理から演繹されたものだけが反駁の余地のないものである――と主張するむきには、こう答えておきたい。  論理学以外のあらゆる科学は具体的な関係を扱う科学である。たとえば算数は数の関係を扱う科学であり――幾何学は形の関係を扱い――数学一般は、量一般の関係――つまり増減するものを扱う科学である。ところが論理学は、抽象的な関係――絶対的な関係――関係をもっぱらそれ自体としてしか考えない関係を扱う科学である。したがって、論理学以外の特定の科学における公理とは単なる命題にすぎないのであって、それは議論するまでもなく明白にみえるような具体的な関係について述べるのである――たとえば、全体は部分より大なり、と言うときのように。したがってまた、[論理学的]公理の原理は――別言すれば、抽象的な公理の原理は――[関係の明白さ]についての原理にすぎない。さて、ある人間にとって明白なことが他の人間にとって明白でないことがあるばかりか、ある時点では、ある人間にとって明白であることが、別の時点では、その同じ人間にとってさえ明白でないことがありうることは議論の余地がない。そればかりか、大多数の人類にとって、あるいは大多数の最高の知性の持ち主にとって、今日たしかなことが、明日になると、多少ともたしかでなくなったり、まったくたしかでなくなったりすることがありうることもまた明らかである。してみれば、[公理的原理]そのものが変化を免れないことになり、むろんのこと、公理もまた同様な変化を免れないのである。公理が変化するのであれば、そのような公理から出てくる「真理」なるものも変化するのは必然であり、あるいは、言葉をかえて言うなら、そういうものはまったく真理として信用するにあたらないのである――真理とは不変なるもののことだから。  これは容易に理解していただけることだと思うが、公理的観念――関係の自明さという変動する原理にもとづくいかなる観念も、理性がきずく構築物の基礎としては不安定で信頼できかねるものであって、[かの]観念(それが何であれ、どこで見出すことができるものであれ、あるいは実際に見出すことができるかどうかさえ別にしても)――関係の[自明さ]などは、程度の差としてさえ、考慮の外として理解するに及ばず、わざわざ知性をわずらわしてまで[関係のあるなし]などを見てみる必要がさらにない[かの]関係の安定性と信頼性とは較ぶべくもないものなのである。かかる観念はわれわれが軽率にも「公理」と呼ぶものではないにしても、論理的基礎としては、これまで提示されてきたいかなる公理よりも、また想像しうるあらゆる公理を束にしたものよりも、少なくともましである。私の[基本粒子]とは絶対的な[非相関性]にほかならない。これまで述べてきたことを要約すれば――出発点として私が認めてかかったことは、初めにはその前後に何もなかったこと――それこそが初めであったこと――始まりとは始まりであって他の何ものでもなかったこと――つまり初めとは、[それがあったがままのこと]であるということに尽きる。  ここでこの問題に一段落つけるとするが――[われわれが習慣的に重力と呼んでいる法則が存在するのは、物質がその原始において、原子となって、有限(*)な球体の空間に、一箇の、分割不能な、無条件な、非相関的な、かつ絶対的な基本粒子から、放射と、球体にあまねくほぼ均等に分散するという二つの条件を同時に満足しうる唯一の過程によって――つまり、放射された個々の原子と放射の中心をなす粒子との距離の二乗に正比例して変化する力によって、放射されたがためである]と、私は充分な根拠をもって申しあげることができるのである。 [#ここから1字下げ] * 球は[必然的に]有限である。誤解を避けるため、類語反復をあえてした。 [#ここで字下げ終わり]  物質が拡散されたのは無限に持続する力によるというより、むしろ限定的な力によるというのが私の想定で、その理由についてはすでに述べた。持続的な力を想定すると、まず第一に、反作用がまったく理解できなくなる。そして第二に、物質が無限に拡散するという不可能な観念をいだく必要が出てくる。この観念が不可能であることについて多言を弄するのはやめにするが、物質が無限に拡散するという観念は、積極的に否定できないにせよ、少なくとも望遠鏡による星の観察によってはまったく裏づけられないのであって――この点については、のちほどもっと詳しく説明するつもりである。だが、物質が元来有限であると信ずべき経験的理由は非経験的にも立証できる。たとえば、さしあたって、放射された原子に[充満する]空間を考えうるとすれば――つまり、議論の便宜上、原子の放射が連綿と持続して絶対に[終りがない]と可能なかぎり容認するとすれば――神の意志が中絶し、かくして単一へ復帰する傾向を満足させることが(抽象的に)許されたときでさえも、この許可は役に立たぬ空手形であり――事実上は無価値で、いかなる効能もないことは明白である。反作用は起こりえず、単一へ向かう運動はありえず、したがって重力の法則が発見されることもなかったはずである。  説明――任意の原子が他の任意の原子へ向かう[抽象的な]傾向が、正規の状態である単一から拡散したことの不可避的な結果であることを認めるならば――あるいは、結局は同じことだが、任意の原子がある与えられた方向におもむく[つもり]であると認めるならば――その方向におもむくつもりの原子の四方八方には[無限の]原子が存在していて、その原子が与えられた方向をめざす傾向を満足させようとしても、正反対の方向からまったく同等で相殺するような傾向が働くので、事実上いかなる方向にも動けないことになる。言いかえれば、このとまどえる原子の前にも後にも正確に同数の単一をめざす傾向が存在するのである。というのは、一つの無限の直線が他の無限の直線より長いとか短いとか、あるいは、ある無限の数が他の無限の数より多いとか少ないとか言うのは、まさしくたわごとだからである。そういうわけで、くだんの原子は永遠に一定の場所にとどまらざるをえないことになる。もっぱら議論の便宜のために考えようとしてきた、かような不可能な状況下においては、物質の集合も――もろもろの星も――世界もありえず、あるのはただ永遠に原子の状態にある非生産的な宇宙ばかりだろう。実際のところ、いかなる観点からしても、無際限な物質という考えは支持できないばかりか、不可能で、矛盾する考えである。  ところが、原子が形成する[球体]を考えてみると、諸原子の合一しようとする傾向を[満足させうる]ことがすぐ理解できる。それぞれの原子が相互に引き合う傾向の一般的結果は、すべてが中心に向かう傾向であるので、凝縮ないし接近の[全体的]過程は、神意の中断とともに生じる共通にして同時的な運動によって開始される。原子と原子がそれぞれ[独自に]接近し、融合(集合ではない)するにさいしては、ほとんど無限の時間、程度、条件の差に左右されるのであって、それというのも、もろもろの原子が基本粒子から飛び出したときに性格づけられた形態の差異と、その後の原子相互間の距離の不均等性のために生じた複雑きわまる関係のせいなのである。  ここで読者の注意を喚起したいことは、(拡散力すなわち神意が中断すると)ただちに、先に述べたような諸原子の状態から、全宇宙球体の無数の地点で、形、大きさ、本質、相互間の距離を無限に異にする無数の集合体が出現することの確かさである。斥力(電気)の発達は、むろん、粒子の単一をめざす努力の最初期の段階で開始されたにちがいなく、それはまた集合の度合に比例して――つまり[凝縮の度合]、さらにまた異質性の度合に比例して、つねに増加しつづけたにちがいない。  かくして[引力]と[斥力]なる二つの[基本原理]――物質的なるものと精神的なるものとは――固い友情の絆に結ばれて、永遠にあいたずさえてゆくのである。かくして[肉体と魂とは手に手をとりあってすすむのである]  いまかりに、全宇宙球体のなかで、その初期の段階にある任意の集合体の一つを選び、わが太陽の中心が現に存在している点で――いやむしろ、太陽はつねにその位置を変えているのだから、かつてその中心があった点で――その初期の集合がおこなわれると想像してみるなら、われわれがおのずと遭遇し、少なくともしばし心奪われてしまうのは、あらゆる理論のなかでもっとも壮大なる理論――かのラプラスの星雲宇宙創造説であろう。 〔フランスの数学者ラプラス侯爵(一七四九〜一八二七)はラグランジュ伯爵と協力して、ニュートンの万有引力の法則によって月や惑星の運行を研究し、一七九九年から一八二五年にかけて全五巻からなる『天体力学』にまとめあげ、天体力学を体系化した。なかんずく彼の名前を有名にしたのは、巨大なガス雲が回転するうちに中心部が太陽となる一方、周辺部の物質から惑星が形成されたとする「星雲宇宙創造説」である。カントもラプラスに先立って同様な考えを述べており、ために今日、それはカント・ラプラスの星雲説と呼ばれている〕  とはいえ、この「宇宙創造説」なる言葉は彼が実際に論じていることに比してはるかに広大無辺な言葉で、このさい大げさにすぎるのであるが、それというのも、彼が論じているのはわが太陽系の構造についてのみであり――わが太陽系は、宇宙本来――かの宇宙球体――すべてを包含する絶対的な[コスモス]を構成する何億という同じような太陽系のうちの一つにすぎないからである。ところで私の論説の主題はその[コスモス]なのである。  ラプラスは明らかに[限られた領域]――わが太陽系とそれに隣接する領域にみずからを限定し、かつまた[単なる]仮定によって――つまり、帰納にせよ演繹にせよ、およそいかなる根拠もなしに仮定することによって――私がこれまで仮定などよりはるかに確乎たる基礎の上に築きあげようとしてきたことの[大部分]を扱っている。たとえば、彼の仮定するところによれば、物質はわが太陽系が占める空間およびその周辺の空間に拡散されており(もっとも、その拡散の原因について説明しようとはしない)――それが不均質な星雲状態を形成し、普遍的な重力の法則に従っているわけだが、その重力法則の原理については、あえていかなる推量もしていない。以上のすべてのことを仮定して(彼にはそう仮定する論理的権利はなかったけれども、仮定自体はまったく正しい)、ラプラスは、かような場合に必然的に生じる諸結果は、われわれが太陽系の現状に実際に見出す事態そのものであり、それ以外のものではありえないことを力学的に、また数学的に証明してみせたのである。  説明――いま言及したかの特定の集合――わが太陽の中心によって指示される一点への集合がかなり進行して、その星雲状の物質の巨大な集団がほぼ球状をなしていると考えてみよう。もちろん、その中心は現在の、いや元来の、太陽の中心と一致し、その周辺はわが惑星のうちでいちばん遠くにある海王星〔海王星の外側にある冥王星が発見されたのは一九三〇年〕の軌道の外にまで伸びている――言い換えれば、この球体の直径をほぼ六十億マイルと想定しようというわけである。長い年月のあいだに、この物質の塊は凝縮をつづけ、ついにいまわれわれが想定するほどの大きさに縮んだのであるが、むろん、それは原子的な、知覚不能な状況から、現在われわれが承知しているような眼に見え、形をなし、また他の手段によって認知しうる星雲状態にまで徐々に進行してきたのである。  さて、このような集団の状況は想像上の軸を中心に回転していることを示唆し――その回転は凝縮の最初期から始まって、以来その速度を増していると考えられる。最初の二つの原子が、正反対ではない点から相互に接近し、お互いに通りすぎようとするとき、さきに述べたような回転運動の核が形成されたのであろう。これがどのようにして速度を増したかは、簡単に理解できる。最初の二つの原子に他の原子が加わり――集合体が形成される。その塊は凝縮しながらも、回転をつづける。ところで、周辺にある原子は、むろん、中心に近い原子よりもずっと速く運動する。しかし外側の原子は、より大きい速度をもったまま、中心に近づき、そのすぐれた速力を接近しながら他の原子にゆずり渡したのである。だから、各原子は内側にすすみ、ついには凝縮の中心に到達する過程で、その中心の元来の速度をいくらか加速することになる――すなわち、塊の自転運動の速度を増大せしめるのである。  さて、この塊の凝縮が進行して海王星の軌道によって区切られる空間と[正確]に同じ空間を占めるようになり、全体が回転しているなかで、その塊の表面の速度は海王星が現在太陽のまわりを公転している速度とぴたり一致すると仮定してみよう。すると、この時点において、つねに増大しつつある遠心力は、増大することのない求心力に打ち勝って、外側の凝縮度が最小である層の一つ、またはその二、三を、接線速度が最大である球状星団の赤道上で振り放したと理解さるべきである。その結果、それらの振り放された諸層は球状星団の赤道のまわりに独立した環を形成した――ちょうど回転砥石の外側の材料が固体でないとすれば、その猛烈な回転速度のために、外側の部分が投げ出されるような具合に。もしこれが弾性ゴムとか、その他の同種のものでできておれば、私が述べているのとまさしく同じ現象が出現するはずである。  こうして星雲集団からはじき出された環は、むろん独立した環として[公転した]わけだが、その速度は、その塊の表面上にあったときの自転速度と同じであった。その間にも、凝縮はなおも進行し、はじき出された環と星雲集団本体との距離はいっそう増大し、ついに前者は後者からとほうもなく遠いところに置きざりにされた。  さて、この環が異質な素材で構成されていながら、一見偶然な取り合わせによってほぼ均質な組成を有しているとするならば、この環は、[そのまま]本体のまわりを回転しつづけたであろう。ところが、当然予想されるように、素材の構成はかなりの不均質なものなので、いくつかの密度の大きいものを中心に集結し、こうして環状形は壊されてしまった(*)。 [#ここから1字下げ] * ラプラスが星雲を非均質的であると想定したのは、そうすれば環が分裂するのを説明できるからだけのことだった。星雲が均質的であるとするなら、環は分裂しそうにないからである。私も同じ結論――諸原子から直接的に生ずる副次的な物質の非均等性という結論――に到達するが、それは諸原子の一般的性向――つまり「関係」についての純然たる先験的《アプリオリ》な考察に由来するものである。 [#ここで字下げ終わり]  疑いもなく、この帯はたちまち数個の部分に分断され、それらのうち重量においてまさる一つの部分に、他の部分は吸収されてしまい、かくして全体は一つの球状の惑星になったのである。この後者が惑星[として]、それがまだ環であったときと同じ公転運動をつづけたことは明らかであり、それがまた新しい球体としての条件をそなえたために、さらに新しい運動をつけ加えたことも容易に説明できる。環がまだ壊れず、その全体が親天体のまわりを回転しているときには、その外側は内側より速く動く。となれば、分裂が起こったとき、各断片のある部分は他の部分より大きな速度で動いていたにちがいない。その優勢な運動が支配的になると、それは各断片を旋回させることになったにちがいない――つまり、それぞれに自転運動を起こさせたにちがいないのだ。そしてその自転の方向は、むろん、その運動の原因となった公転の方向と同一であったはずである。このような自転が[すべての]断片に起きると、それらは凝縮しながら、その凝縮によって形成された一つの惑星にその運動をゆずり渡した――この惑星が海王星である。この惑星の素材もまた凝縮をつづけ、やがてその自転によって発生する遠心力が求心力を上まわると、その親天体の場合と同様に、この惑星の赤道表面から、またもや環が放出されることになった。この環もまた、その組成が均等でないために分裂し、そのいくつかの断片は質量が最大のものに吸収され、かくして球状に固まって月となった。その後、また同様な経過がくりかえされ、その結果として第二の月が生まれた。かくして惑星海王星が二つの衛星をしたがえていることが説明できるのである。  太陽は、その赤道から一つの環を投げ出すことによって、求心力と遠心力の均衡を回復することができ、凝縮の過程で生じたそれまでの不安定状態から脱却したが、この凝縮はなおも進行したので、自転の速度が増加して、やがてまた均衡状態がおびやかされることになった。この塊が収縮して、天王星の軌道によって区切られるのとちょうど同じ大きさの球状空間を占めるころまでには、遠心力のほうが優勢になって、新たな救済策が必要になったと理解さるべきである。そこで第二の帯が赤道上から放出され、それは均質ではないので、海王星の場合と同様に分裂し、その破片は固まって惑星天王星になった。この惑星が太陽のまわりをめぐる現在の公転速度は、むろん、それが分離したときの太陽の赤道面での自転速度を示している。天王星は、それを構成している諸断片の自転を集大成してみずからの自転となし、先に説明したような手順で、次から次へと環をはじき出し、それぞれの環は分裂して、月を形成した――かくして三つの月が、それぞれ異なる時期に、三つの別個の不均質な環の分裂と、全体の球体化から生まれてきたのである。  太陽が収縮して、土星の軌道によって区切られるのとちょうど同じ空間を占めるころまでには、凝縮の結果として自転速度が増加するため、太陽の求心力と遠心力の均衡がくずれて、均衡を回復するための第三の努力が必要になってきたと考えねばならない。そこで環状帯が先行する二度の場合のようにはじき出され、この帯は不均質性に由来する分裂によって、惑星土星に凝縮したのである。この土星は、まず最初に、七つの不均質な帯を放出し、それらは分裂し、それぞれ球体化して七つの月になった。だが、その後、三つの、しかしそれほどへだたりのない時期に、土星は三つの環を放出したのであるが、なんらかの偶然によって、その組成がきわめて均質的であったので分裂を起こすにはいたらなかったものと思われる。だから、それらはいまなお環として回転しつづけている。私は「[なんらかの]偶然」という言葉を用いたが、それは通例の意味における偶然ではまったくないからで――さような言葉は[法則]を[識別]することができず、あるいはそれを直接に把握できない場合にのみ用いられてしかるべきである。  太陽はなおいっそう収縮をつづけ、木星の軌道によって区切られるのとちょうど同じ空間を占めるようになると、なおも増大をつづける自転速度によって不断におびやかされる二力の均衡を取りもどす努力がまたしても必要になった。そこで木星が放出され、環状帯から惑星になり、惑星になると、こんどは四つの時期に四つの環を放出し、それらはやがて分解して四つの月になったのである。  なおも収縮して、太陽の球体が小惑星《アステロイド》群の軌道によって区切られる球体とちょうど同じ大きさになると、太陽は八つの中心を持つようにみえる一つの環を投げ出し、これが分裂すると、八つの断片に分離するが、それらのいずれも他のものを吸収するほど質量において優位を占めることはなかったように思われる。したがってこれらすべては、比較的に小さいが個別の惑星となって、それぞれの軌道を公転することになったが、その軌道相互の距離はある意味においてそれらを相互に分離させた力の尺度と考えられてよかろう――だが、それらすべての軌道はきわめて接近しているので、他の惑星の諸軌道と比較するとき、それを[一つ]の軌道と呼んでさしつかえあるまい。  さらに収縮をつづけて、太陽が火星の軌道をちょうど占めるほど小さくなると、こんどはこの惑星を放出したのだ――むろん、これまで述べてきたのと同じ過程をへて。しかし火星には月がないので、環を放出したはずはない。じつのところ、この太陽系の中心である親天体は、いまやその経歴のある転機にさしかかっていたのだ。その星雲状態の[減少]は、とりもなおさず密度の増大であり、また凝縮作用の[衰退]のことであるが――この[減少]は、この時期になると、平衡を取りもどそうとする努力がますます不必要になってくる度合に正比例していっそう無効になってくるような程度にまで達したにちがいない。かくしてこれまで述べてきたような過程は、いずこにおいても、衰弱のきざしをみせることになる――まず最初に惑星において、次いで原始の塊において。太陽に近づくにつれ、惑星間の距離が減少するのを、それらが投げ出される頻度が増加したことを示すものだと思いこむ誤ちにおちいってはならない。まさに正反対だと考えるべきである。内側の二つの惑星が投げ出された間隔がいちばん長く、外側の二つの惑星が投げ出された間隔がいちばん短かったにちがいない。とはいえ、空間距離の減少は、これまで詳述してきた全過程を通じて、太陽の密度の尺度であり、その凝縮作用の衰弱の尺度でもある。  しかしながら、この親天体はなおも縮小して、わが地球の軌道をどうにか占めるほどになると、もう一つの天体である地球を放出したのであるが、この天体はなおもわれわれの月であるもう一つの天体を投げ出すことができるほどには星雲状態をたもっていた――だが、ここで衛星の形成は終了したのである。  最後には、まず金星の軌道にまで、次いで水星の軌道にまで縮小し、太陽はこの二つの内側の惑星を放出したが、そのいずれの惑星も月を生み出すことはなかった。  かくして、その最初の容積から――もっと正確に言うなら、われわれが最初に想定した状態から――[たしかに]直径が五十六億マイルに及ぶ、ほぼ球状をなす星雲状の塊から――この偉大な中心天体、ないし太陽・惑星・衛星系の原型は、凝縮作用により、また重力の法則にしたがって、直径がたかだか八十八万二千マイルの球体にまで徐々に縮小していったのである。だが、このことからただちに、その凝縮作用が完了したとも、もう一つの惑星を放出する能力が消失したとも言うことはできない。  これまで私は――むろん概略にではあるが、正確を期するに必要な細部は省略することなく――星雲説をその創始者の考えに忠実に陳述してきた。いかなる観点から眺めても、この説が[美しいまでに真実である]ことがわかるであろう。それはまさしくあまりにも美しいので、本質的な真理を有しないことはありえない――この点について、私はきわめてまじめにものを言っているのである。天王星の衛星の公転について、ラプラスの仮説がいくぶん矛盾しているようにみえるところがあるのはたしかだが、たった[一つ]の矛盾のために、百万もの錯綜をきわめる事象から抽き出された一貫性によって構築された理論を無効とするのは、空論家にのみふさわしい空論であるにすぎない。いま言及した、一見したところの変則は、やがて、この一般仮説のこのうえない確証の一つとなるであろうと私は断乎として予言するものであるが、私はべつに特別の予言の才能があるふりをするつもりはない(*)。 [#ここから1字下げ] * 天王星の衛星の変則的な公転は、当の惑星の軸が傾斜していることに由来する遠近法上の変則にすぎないことを証明する用意が私にはある。 [#ここで字下げ終わり]  これまで述べてきた過程によって放出された天体は、その発生源である球体の表面における[自転速度]を、その球体を遠い中心としてめぐる[公転]の速度として受けついだことは見てきたとおりである。また、このようにして生じた公転は、求心力、つまり放出された天体が親天体に引きつけられる力が、それを放出した力よりも大きくも小さくもならないかぎり、すなわち、遠心力、さらに適切に言うなら、接線速度がそれよりも大きくも小さくもならないかぎり、持続するにちがいない。しかしながら、この二つの力の発生源が一つであることから、両者が現在あるがままであること――つまり一方が他方と完全に均り合っていることは当然予想されてよかったのである。これまで見てきたことは、つまるところ、放出の行為は、いずれの場合にも、均衡を維持するための行為にすぎないということである。  ところが、求心力を万有引力の法則に結びつけるところまではよいのだが、接線速度という現象を解決しようというだんになると、それを単なる自然の限界を超えたところに――すなわち[第二]原因の埒外に求めようとするのが、これまでの天文学的諸論文のしきたりであった。この接線速度を、これらの論者はただちに[第一]原因――つまり神に結びつけてしまうのだ。ある天体が主星のまわりをめぐる力は――まことに子供じみた言葉が用いられるわけだが――指によって、神の指によって、直接に与えられた衝動に由来したのだと彼らは主張するのだ。こういう見解によれば、惑星は、すっかりできあがった形で、神の手によって、太陽の質量ないし引力に見合う力でもって太陽周辺の特定の位置にはじき出されたことになる。これほど不合理なことが考えられたのは、もともと精神の怠惰のせいであるとはいえ、求心力と遠心力のように、一見したところ相互に独立しているようにみえる二つの力が絶対に厳密な対応関係を有していることを他の方法によって説明しきれなかったからであるにちがいない。しかし、ここで思い出していただきたいことは、月の自転とその親天体の自転とが一致していること――この二つのことは一見したところ先に述べたことよりもいっそう独立しているようにみえるけれども――そのことが長年にわたって絶対的な奇跡だとみなされていたことである。天文学者のあいだにさえ、この驚異を神の力が直接かつ不断に働いているせいにしようとする強い傾向があったのである。この場合、神はその一般法則にとくに補助法則を挿入したもうたと言うのであり、その目的は、月の裏側の――これまで人類の望遠鏡による探索を拒んでき、また永遠に拒むことになるにちがいない、あの神秘的な半球の――壮観を、いやおそらくは惨状を、人間の眼から永遠に隠しておくことにあると言うのである。ところが科学が進歩して間もなく証明したのは――哲学的本能にとっては証明を[必要としない]ことではあるが――ある運動は他の運動の一部にすぎず――他の運動の単なる結果以上の何ものかである、ということである。  私としては、これほど臆病で、怠惰で、不細工な幻想にはとても我慢がならない。これこそ[脆弱]なる思考の最たるものに属する。自然と自然を創造した神が別個のものであることは、およそ理性ある者にとっては疑う余地のないことである。自然とは単に神の諸法則のことである。だが全智全能の神なる観念によって、われわれはまた神の諸法則の[完全無欠性]なる観念を思い浮かべる。神にとっては過去も未来もない――神にとってはすべてが現在である――となれば、神の法則があらゆる可能な偶然事に備えてつくられてはいないと考えるのは不敬にあたらないだろうか? ――いやむしろ、いかなる偶然事にせよ、それが同時に神の法則の結果であり現われでないようなものをわれわれは考えることが[できる]だろうか? あらゆる偏見から解放され、真にみずから考えるという希有な勇気の持ち主なら、かならずや最後には諸法則を唯一の法則に集約することができるだろう――かならずや[自然の各法則はあらゆる点においてあらゆる他の法則に依存している]という結論に到達するだろうし、また、あらゆることは神意の原始の行使の結果にすぎない、という結論にも到達することだろう。これこそが宇宙論の原理であり、あらゆる至当なる畏敬の念をもって、私はここにそれを提示し主張するものである。  こういう観点から、接線力を「神の指」によって直接に惑星に与えられたとする空想をたわいもなく、また不敬でさえあるとみなしてしりぞけ、さて私は考えるのであるが、この力は星の自転に由来し――この自転は、原始の原子がそれぞれの凝縮の中心へ向かって突進することによってもたらされるものであり――この突進は重力の法則の結果として起こり――この法則は、諸原子がその不分割性に復帰しようとする傾向に必然的にあらわれる様式にほかならず――この復帰しようとする傾向は、最初の、そしてもっとも荘厳な行為の不可避的な反作用にほかならず――その行為とは、みずから存在し、おのれのみにて存在する神が、その意志によって一瞬にして万物と化し、かくして同時に万物が神の一部となる行為のことである。  この宇宙論の根底をなす仮説が示唆し、また実際に当然の前提としていることは、ラプラスの星雲説にある重要な[修正]をほどこすことである。反撥力の作用を、私は原子間の接触を防ぐためのもの、したがって接触への接近の度合に比例し――つまるところ凝縮の度合に比例する力であると考えてきた。別言すれば、[電気]は熱、光、磁力などの諸現象と一体をなすものであるが、その電気とは凝縮が進行するにつれて増大し、もちろん、凝固の進行、つまり[凝縮の停止]につれて減少するものとして理解さるべきである。そういうわけで太陽は凝縮しながら反撥力を蓄積し、やがて極端に熱くなった――おそらく白熱することになった、にちがいない。そしてまた、環を放出する作業が、冷却の結果としてできた表面の薄い外皮によってどれほど容易になったかも理解できる。日常の経験に即しても、その種の皮が、その異質性のために、いかに容易に中身から剥がされるかが納得できる。しかし、皮が剥がされるごとに、新しい表面が以前のように白熱して姿をあらわす。そして、その表面がまた充分に外皮でおおわれ、すぐにも剥がされ放出されるようになる時期とは、この全体の塊が、凝縮によって損われることになった平衡を取りもどすための新たな努力を必要とする時期に当るのである。言い換えれば――電気作用(斥力)が表皮を放出する準備ができるころまでには、重力作用(引力)もまたそれを投げ出す準備ができている、と理解さるべきである。それゆえ、ここでもまた、あらゆる場合がそうであるように、[肉体と魂は手に手を取って歩いているのである]  こういう考えはすべて経験的にも確認できることである。あらゆる天体について、凝縮が極限に達して停止するとは考えられないので、幾多の太陽はむろんのこと、その他の[あらゆる]月や惑星などの天体に光が内在する証拠を、その物体を観察する機会さえあれば、いつでも見出すことができると期待してよいのである。われわれの月がみずから強い光を放っていることは、皆既月蝕が起こるごとに見られるところで、もしそうでないなら、その間、月は見えなくなるはずである。この衛星の暗い部分においても、それが欠けたり満ちたりするあいだに、わが地球のオーロラに似た閃光がしばしば認められる。このオーロラは、その他もろもろのいわゆる電気現象とともに、もっとはっきりした光については除外しておくとしても、月の住人にはわが地球が発光するさまに見えるにちがいない。実際のところ、いま言及したすべての現象は、地球がいまなお徐々に凝縮していることの、さまざまな様態と度合における、現れであると見なすべきである。  もし私の考えが正しいとするなら、より新しい惑星――つまり、太陽により近い惑星はより古く遠い惑星よりもより明るいと予想してしかるべきである。それに、金星がきわめて明るいことは(その暗い部分で、それが満ちたり欠けたりするあいだに、オーロラがしばしばあらわれる)中心天体に近いということだけでは説明しきれないように思われる。金星は、水星ほどではないにせよ、みずから明るく輝いていることはたしかである。これに較べれば海王星の輝きは無に等しい。  私のこれまでの主張を認めるならば自明のことであるが、太陽は環を放出した瞬間から、その表面で皮殻の形成が不断におこなわれることになるので、熱と光は不断に減少しないわけにはいかず、またある時期が到来すると――すなわち新たな放出の直前の時期になると――光と熱は[きわめて顕著な減少]を示すにちがいない。さて、そのような激変の歴然たる証拠があることをわれわれは知っている。メルヴィル諸島〔オーストラリアの北西海岸沖、チモール海にある群島〕に――百もの事例からたったの一例をあげるなれば――[超熱帯]植物の痕跡が発見されたが――その植物は、地球上のいかなる場所であろうと、わが太陽が現在そそいでいるよりはるかに大量の光と熱がなければ繁茂することがとてもできそうにないような種類のものである。そのような植物は金星が放出された直後の時期のものであると考えられないだろうか? この時期には、わが地球は太陽の影響を最大限度に受けたにちがいない――もっとも、地球そのものが放出された時期――つまり、それが形成された時期のことは別にしての話だが。  ところでまた――[光を放たない]恒星があることが知られている――すなわち、他の天体の動きによってその存在を確認できるが、その光はわれわれの眼に見えないような恒星のことである。こういう恒星が眼に見えないのは、それが惑星を放出してからの時間の経過が長いためだけのことだろうか? さらにまた――ある場合にだけ限るとしても――思いもかけない場所に、突如として恒星が出現することがあるが、それは次のような仮説によって説明できないだろうか? すなわち、これらの恒星は、いずれもたかだかわが天文学史上の数千年のあいだ、その表面を外皮でおおわれたまま回転していたのだが、二次的天体をほうり出すことになって、ついにまたいまなお白熱する内部の輝きを示すことになったという仮説によって説明できないだろうか? ――これに関しては、地球の内部にくだってゆくにつれて熱が増加するという充分に確認された事実をあげておけば足りるとしたい――それはこの問題について私が語ってきたすべてのことに対する何よりも強力な確証だからである。  すこし先で、反撥作用ないし電気作用について述べたとき、私は「生命力、意識、思考といった重要な諸現象は、全体として見ようと細かく見ようと、[少なくとも異質性に比例して]顕現する」と指摘しておいた。さらに私はこの件についてふたたび述べるつもりだとも言っておいたが――いまこそ、それを論ずべきときである。まず、その件を細かく見てみるならば、生命力の[あらわれ]ばかりか、その重要性、その影響力、その質の向上の仕方といったものも、当の動物の構造の異質性ないし複雑性と歩調を合わせていることがわかる。さて、この問題を全体として眺め、原子が集合体を形成するための最初の運動と照合してみるなら、凝縮によって直接にもたらされる異質性がつねにその活力と比例関係にあることが判明する。かくしてわれわれは[地球の生命力の進化の度合は地球の凝縮の度合と一致する]という命題に到達する。  さて、これは地球上の動物の系譜についてわれわれが知っていることと正確に合致する。地球の凝縮が進行するにつれ、よりすぐれた種類の動物が出現してきたのである。地質上の変革が起こるごとに、それが直接の原因ではないにしても、それにともなって生命体の向上がおこなわれた――あるいは、こういう変革そのものは太陽が惑星を放出するごとにもたらされた――つまり、地球に及ぼす太陽の影響力が変化するごとにもたらされた――ということはありえないだろうか? もしこういう考えが正しいならば、また新たなる惑星が水星の内側に放出されるときには、地球の表面はまた新たなる変貌をとげ、その変貌のおかげで人間よりも肉体的にも精神的にもすぐれた種族が誕生すると考えることも許されていないわけではない。こういう考えは私には強力な真実として迫ってくるのだが――しかし、むろん、私はこれを単なる思いつきであるかに披露しておくにとどめる。  最近、ラプラスの星雲説は哲学者コント〔オーギュスト・コント、一七九八〜一八五七〕によって必要以上に確証された。この二人がともども証明したことは――たしかなところ、物質はいかなる時期においてもすでに述べたような星雲状の拡散状態で存在していたわけでは[なく]、かつて物質は全空間に、わが太陽系がいま占めている空間のはるかかなたにまで拡散していて、[それが中心へ向かう運動を開始した]ことを前提にしたうえで――それは徐々にいまわれわれが太陽系に見るような多様な形態や運動を獲得することになったにちがいない、ということである。このような証明――証明はかくあるべしと思われるような、力学的かつ数学的証明――は疑問をさしはさむ余地がないのであって、それでもなお疑問を呈する者がいるとすれば――かの無益で悪名高い職業的質問屋――フランスの数学者たちがそれを基礎にして幾多の業績をあげたかのニュートンの重力の法則さえ否定する正銘の狂人どもぐらいであろうが――このような証明は大方の知的な人間にとって、その証明がもとづく星雲仮説の有効性を証して余りあるものであり――私にとってもまたそうであることを白状しておく。  このような証明が、「証拠」なる言葉がふつう理解されている意味では仮説を[証拠だてて]いないことは、むろん、私も認める。ある現存する結果や確立された事実が、ある仮説をたてることで説明できるからといって、たとえそれが数学的になされたとしても、仮説そのものを確立することには決してならない。言い換えれば――あるデータが与えられれば、ある現存する結果が出てきたかもしれず、またそうに[ちがいない]と証明してみても、当の結果がその[データから出てきた]という証拠にはならない。それを証拠だてるためには、問題の結果が[同様に]出てきたかもしれない他のデータがないこと、また[ありえない]ことも証明しなければならない。いま問題にしている件については、「証拠」と呼びならわされているものが欠けていることは認めなければならないが、しかしながら、[確信する]ために証拠をいささかも[必要としない]知性の持ち主、しかも最高の知性の持ち主がいるのである。形而上学の秘境にかかわる詳細はさておき、ここで述べておくのが妥当であろうと思われることは、人を確信させる力とは、仮説と結果との間に介在する[複雑さ]の総量に比例するということである。もっと抽象的でない言い方をすれば――宇宙の諸状況に存在することが認められる複雑さの度合は、それらの諸状況のすべてを[一挙に]説明することの困難さに比例して大きくなるわけだが、その複雑さの大きさは、それを説明する困難さと同じ比率で、諸状況を満足に説明する仮説に対するわれわれの信頼の念を強化するのである。そして、[いかなる]複雑さも宇宙の諸状況の複雑さより大きいとは考えられないので、それらの諸状況に数学的な正確さをもって対処することができ、またそれらを一貫した思考体系にまとめあげることができるばかりか、同時に、[いやしくも]それらの諸状況を人間の知性によって説明することをえさしめることになった[唯一の]仮説によって印象づけられた確信より以上に強力な確信は――少なくとも[私]にとっては――ありえないのである。  最近、まことに根拠のない意見が一般大衆ばかりか科学者のあいだにさえ広まっている――いわゆる星雲宇宙創造説はくつがえった、という意見がそれである。この妄想は、これまで「星雲」と呼ばれてきたものをシンシナティの大望遠鏡や世界的に有名なロス卿の機械で観測した結果の最近の報告に由来する。天空のある諸点は、むかしの望遠鏡では、そのもっとも強力なものを用いても星雲状態ないしガス状にしか見えず、これが長らくラプラスの説を裏書きするものとみなされていた。私がこれまで述べようとしてきた凝縮の過程のただなかにある星の姿だと目されたのである。そういうわけで、われわれはその仮説が真実であることの「視覚による証拠」を得たと考えられていたわけだが――ところで、そういう証拠はいつだってまことにあやしげなものなのである。たまたま望遠鏡が改良されると、それまで星雲として分類されてきたあちこちの光点が、じつは距離がきわめて遠いばかりに星雲状を呈していた星団にすぎないことがわかるようになってきたけれども――それでもなお、どうしても分離できない星雲状の塊が無数にあって、それこそが星雲論者《ネビュリスト》の牙城であったわけであるが、その存在については疑問の余地がないと考えられたのである。この種のものでもっとも興味深いのは、オリオン座の大「星雲」である――だが、これもまた、他の多くの「星雲」とあやまち呼ばれているものと同様に、巨大な近代的望遠鏡で眺めてみると、単なる星々の集団であるにすぎないことが判明した。さて、こういう事実はラプラスの星雲説に対する決定的な反証であると広く受けとられてきた。そして問題の発見が公表されると、星雲説のもっとも熱心な支持者で、かつもっとも雄弁な解説者であったニコル博士でさえ、みずからのまことに賞賛にあたいする著書(*)の内容を形成する観念を「放棄する必要を認める」ところまでいってしまったのである。 [#ここから1字下げ] *『天体の構造に関する諸論』。ニコル博士からアメリカの友人に宛てられたとされる手紙が、二年ほどまえ、各新聞に掲載され、私が思うに、その中でいま言及した件についての「必要」を博士は認めていた。しかしながら、その後の講演によると、ニコル博士はどうやらその必要に打ち克ったらしく、またその理論を完全に[否定]してはいないようにみえる。もっとも、その理論を「純粋に仮説的なものである」として嘲笑したいらしい気配は見受けられるが。マスケラインの実験以前には、重力の法則は「純粋な仮説」以外の何であったのか? また、その後いったい誰が重力の法則に疑義を呈したか? [#ここで字下げ終わり]  大方の読者は、当然のことながら、そういう新親の研究結果が少なくともその価値をくつがえす強力な[動機]になるだろうと言いたいところだろうし、また、もっと思慮深い一部の読者は、言及された特定の「星雲」が分離されただけでは理論を否定することには毛頭ならないばかりか、そのような望遠鏡をもってしても、諸星雲を分離[できない]ことは理論を[確証する]輝かしい勝利とみなさるべきだとおっしゃるだろう。ところで、そういう一部の読者も、私がさような意見にさえ賛成できかねると言えば、さぞかし驚かれることだろう。もしこの論文の諸前提が理解されているならば、私の見解では、「星雲」を分解できないことは星雲説を確証するどころか、それを否定することに通ずることがおわかりになるはずである。  説明はこうである――むろん、ニュートンの重力の法則は証明ずみであるとする。この法則は、思い出していただきたいのだが、最初の神の行為に対する反作用――一時的に困難を克服した神の意志の行為に対する反作用にかかわる法則であると私はみなしてきた。この困難は正常をむりに異常に移行させる困難――原始の、したがって正しい状態が[一]であるのに、不当な状態である[多]にみずからを強いたことに由来する困難である。この困難が克服されたのが[一時的]であったと考えることによってのみ、われわれは反作用を理解することができる。その行為が無限につづくなら、反作用はありえなかったはずである。その行為がつづくかぎり、もちろん、反作用が開始されることはなかったはずである。別言すれば、[引力]が発生することはありえなかった――なぜなら、われわれが考えてきたことによれば、一方は他方の現象にすぎないのだから。しかしながら、引力は発生[した]、それゆえに創造の行為は終了したのである。そして引力は遠いむかしに発生した、それゆえに創造の行為は遠いむかしに終ったのである。だからわれわれは創造の[最初の段階を]観察することはもはや期待できないのであり、星雲状態がこの最初の段階に属することはすでにこれまで説明してきたとおりである。  光の伝播についてわれわれが知るところから直接に証明できることは、はるか彼方にある星々は、現にわれわれが見るような姿のままで、考えられないほど長い年月にわたって存在していたことである。だから星の集団形成の過程が開始された時期は、[少なくとも]それらの星々が凝縮の作用を受けた時期にまでさかのぼらなくてはならない。ところで、この集団形成の過程が他のすべての場合には終了しているのに、特定の「星雲」の場合にかぎって、いまなおその過程が進行中であると考えるためには、われわれはなんら根拠もない仮定を採用せざるをえなくなる――理性の反逆に抗してまで、特別介入なる不敬な考えを導入せざるをえなくなる――つまり、特定の「星雲」の場合にかぎって、誤ることなき神が補助規則の導入――一般法則の改訂――すなわち、ある種の手直しと訂正を必要としたと考えねばならなくなるわけだが、この特例たるや、要するに、他のすべての天体がすっかり完成されているばかりか、言いようもなく年を取って頭に霜をいただくようになった期間を何千万年も経過したというのに、こういう特定の星々の完成だけは遅らせているといったものでなければならぬ。  むろん、これにはただちに反論が出ることだろう。すなわち、現在われわれに星雲として見える光は、その表面を離れてから莫大な年月がたっているので、現在観測され、あるいは観測されていると思われている過程は、実際には、現に進行中の過程ではなく、遠い過去において完成している過程であるという反論だが――それは私が星団形成の過程についてもそうであったに[ちがいない]と主張しているのと同じことなのである。  これに対する私の答えはこうである――現在観測されている凝縮した星の状態は、その現状ではなく、遠い過去において完成された状態であるにすぎず、だから星や「星雲」の[相対的]]な状態から引き出された私の議論は微動だにしない、と。そのうえ、星雲の存在を主張している人たちは、きわめて遠いところにあるので星雲状態を呈しているとは言っていない。彼らはそれが本当の星雲であって、単なる視覚上の問題でそう見えるのではないと主張している。いやしくも星雲の塊が眼に見えるとするなら、近代の望遠鏡によって見えるようになった凝縮した星々に比較して、それは[地球にきわめて近いところにある]と考えざるをえない。となれば、見たところが実際の星雲状態を呈していると主張することは、それがわれわれの視点から比較的に近いところにあると主張することに等しい。すると、われわれがいま見ている星雲の状態は、少なくとも大多数の星について現在観測されている状態が属している時期よりも[はるかに近い]時期に属しているとしなければならない。早い話が、そのような意味での「星雲」の存在を天文学が立証することにでもなれば、その立証によって星雲宇宙創造説が承認されないことになるばかりか、永遠に葬り去られることになるものと私は考える。  シーザーの[ではない]ものまでもシーザーに返すゆえんではあるが、ここでついでに指摘させていただければ、ラプラスをしてかくも輝かしい成果にみちびいた仮説を思いつかせた原因の大半は、思うに、一つの誤解――いま論じたばかりの誤解――あやまって星雲と呼ばれているものの性質について一般に流布していた誤解だったのだ。彼は星雲とは実際にその名のとおりのものだと思ったのだ。実のところ、この偉大なる人物は自分の[知覚]力などはあまり信じていなかったのであり、それはきわめて妥当なことであった。だから、星雲が実在するか否かについては――彼の同時代の望遠鏡屋たちはその存在を自信たっぷりに主張していたけれども――彼は自分の眼で見たものより、耳で聞いたもののほうを信用していたのだ。  これでおわかりのことと思うが、彼の理論に対する唯一有効な反論は、その仮説[そのもの]――仮説の前提――に対するものであって、その理論が示唆するものに対する反論ではありえない。彼のもっとも無根拠な前提は、原子が無限に連続して宇宙空間にあまねく拡散していることをよく承知していながら、そういう原子に中心に向かう性向を与えたところにあった。すでに説明したことであるが、そのような状態のもとでは、いかなる運動も起こりえなかったはずである。そこでラプラスは自分が構築しようと意図した理論を確立するために、何かその種のものが必要であるという以外になんら哲学的根拠のない運動を仮定したのである。  彼の独創的な考えはエピキュロス派の正統的な原子説と彼の同時代のまやかしの星雲説との複合体であったように思われる。だからこそ彼の理論は、近代の鈍感さがないまじった古代の想像力が生みだした雑種的なデータから、数学的な結果として、演繹された奇妙な破格的絶対真理といった観を呈するのである。ラプラスの真の長所は、実のところ、ほとんど奇跡的ともいえる数学的本能にあったのであり――彼はこれを信頼し、本能もまたいつの場合にも彼をたぶらかしたり、裏切ったりしたことはなかった。星雲宇宙創造説の場合も、本能は眼隠しされたままの彼を誤謬の迷宮を通り抜けて、もっとも輝かしく豪華な真理の宮殿の一つへとみちびいたのである。  さて、いましばらく、次のように想像してみよう。太陽が放出した最初の環――すなわち、分裂して海王星となった環――は、天王星の発生源となった環を投げ出すにいたるまでは分裂せず、またこの環は土星を生み出すことになった環を吐き出すまでは完全なままであり、この環はまた木星の発生源となった環を投げ出すまでは手つかずであり、そしてまた次の環は――というふうに想像してみよう。要するに、水星を生んだ環が最終的に投げ出されるまでは、それぞれの環は分解しなかったと想像してみようというわけである。そうすると、われわれの頭に一連の同心円が思い浮かぶ。これらの同心円ともども、ラプラスの仮説によってそれらが形成された過程をよく吟味してみると、すぐわかることは、これがすでに述べた原子層の形成、およびその原始の放射過程と奇妙なほど類似していることである。惑星の環が次々に放出されることになった[力]をそれぞれ計算してみれば――つまり、連続的な放出の原因となった自転力の重力に対する余剰を計量してみれば――この類似はなおいっそう決定的なものになるのではなかろうか? [原子の放射の場合と同じく――これらの力は距離の二乗に比例して変化することが判明するのではなかろうか?]  わが太陽系では、一つの太陽を中心に、確認されているところでは十六の、それにおそらくもう二、三の惑星がさまざまな距離を保ち、確実なところは十七の、しかし[かなり]確実にもう数個の月をしたがえて回転しているのだが――その太陽系は、神の意志が手を引くことによって原子の宇宙球体の全域にわたって発生しはじめた無数の星団の[一つの典型]と考えてしかるべきである。私の言いたいことは、わが太陽系はそういう星団、もっと正確に言うなら、それらが到達した究極的な状態の[一般例]であるということである。全能なる神の意図を[至上なる関係]とみなす観念、ならびに原始の原子にみられる形態の差、距離の不等性によってこれを達成しようという意志とみなす観念に注意を集中しつづけるならば、いかなる二つの初期星団にしても、最後にはまったく同じ結果に到達するなどとは、ほんの一瞬にもせよ考えることができないことが納得されよう。むしろわれわれが考えたいのは、宇宙におけるいかなる二つの天体も――それが恒星であれ、惑星であれ、衛星であれ――絶対に同じであることはありえないが、全体的に見れば[みな]似て、いるということである。となれば、そういう天体のいかなる二つの集団にもせよ――いかなる二つの「系」にもせよ――一般的な類似(*)以上のものを有しているとは、なおさら考えがたいのである。この点について、望遠鏡による観測はわれわれの推量を完全に裏書きしている。わが太陽系を他のすべての系の大まかな一般的|型《タイプ》と見なすなら、宇宙を球状をなす一つの空間で、その空間に、ほぼ類似した[諸系]がほぼ均等に分散されていると概観することができる程度にまでわれわれの議論はすすんだことになる。 [#ここから1字下げ] * 光学機械が予想外に改良されて、無数のさまざまな系のなかには、一つの太陽が輝いたり輝かなかったりするいくつもの環に囲まれ、その内側や外側や中間に、月をもつ月――いや、その月もまた月をもつといった――月をしたがえ、輝いたり輝かなかったりする惑星がその太陽のまわりを回転しているといった図がわれわれの眼前に展開されない[とはかぎらない]。 [#ここで字下げ終わり]  この概念を拡張して、これらの諸系のそれぞれを一個の原子であるとみなすとしよう。そのそれぞれを宇宙を構成する数かぎりない巨万の系の一つと考えるなら、事実それは一個の原子なのである。さて、そのすべてを巨大な原子とみなし、それを構成する実際の原子がそうであるように、かの抗しがたい単一へ復帰しようとする性向を有していると考えるなら――われわれはただちに新たなる次元での集合を扱うことになる。比較的小さい系が大きい系の近くにあるときには、その近くへ近くへと引き寄せられることは避けがたいだろう。ここには千もの系が集まり、かしこには百万もの系が集合し――またあるところでは億もの系が寄り集まり――かくして、宇宙空間のいたるところに測り知れぬ虚空を残すことになる。ところで次のような質問が出たとすれば、すなわち、このような系の場合――つまり巨人的な原子の場合――私はただ「集まり」と言っているだけで、実際の原子の場合のように、多少とも凝固した塊のことを言っているのではないのだが――たとえば、そのような場合、なぜ私は自分が示唆したことを正当な結論にまで押しすすめ、ただちに、こういう系・原子が一目散に球状に凝固し――それぞれが一つの巨大な太陽になるありさまを記述しないのかと問われれば、私は「|それは未来に起こるべし《メロンタ・タウタ》」と答えるよりほかはない――私は、いまのところ、おそるべき未来の門口にたたずんでいるにすぎないのだ。当座のところ、私はこういう集合を「星団」と呼び、凝固の前段階にあるものと見なすことにする。それらが[ほんとうに]凝固するのは[未来のこと]に属するのだ。  さて、われわれは宇宙を[星団が不均等に]ばらまかれた球状の空間として眺めうる地点にさしかかったわけである。お気づきのことと思うが、私はここで以前に用いた「ほぼ均等に」という文句のかわりに「不均等に」という副詞を用いた。自明のことながら、分散の均等性は集合がすすむにつれて――つまり、分散されているものの数が少なくなるにつれて――減少することだろう。したがって不均等性の増大は――いちばん大きい集団が他のすべての集団を吸収してしまう時期が早晩おとずれるまでは継続するにちがいない増大は――[単一に復帰する傾向を]裏書きするきざしにすぎないと見なさるべきである。  さて、そろそろここで検討してみてしかるべきだと思うのだが、はたして天文学上の確立した[事実]が、これまで私が演繹的に天界の事象に当てはめてきた一般構想を裏書きしているだろうか。しかり、完璧に裏書きしているのである。望遠鏡の観測は、遠近法の助力も得てだが、可視的宇宙は[不均等に配分された一団の諸星団として存在していること]をわれわれに教えてくれたのである。  この「[一団の諸星団]」なる宇宙を構成する「星団」こそが、われわれが「星雲」と呼びならわしてきたものにほかならず――そういう「星雲」のなかに、ことのほか人類にとって興味深いものが[一つ]ある。私は銀河、つまり天の川のことを言っているのだ。これがわれわれの興味をひくゆえんは、まず第一に、そして明らかに、その見かけの大きさが、天空のいかなる星団よりも大きいばかりか、他のすべての星団を束にしても及ばないほど、群を抜いているからである。これに比較すれば、他の星団は単なる一点にすぎず、しかも望遠鏡の助けをかりなければはっきり見ることさえできない。ところが銀河は全天空にまたがり、肉眼にもきらきらと輝いて見える。しかし、それがとくに人間の興味をそそるのは、前にあげた理由ほど直接的ではないが、銀河は人間の故郷であり、人間が生存している地球の故郷であり、この地球がそのまわりを回っている太陽の故郷であり、太陽がその中心であり主星であり――地球が十六の二次的な星、つまり惑星の一つで、月がその三次的な星、つまり衛星である――諸天体の「系」の故郷だからである。銀河とは、くりかえすが、私が述べてきた星団の一つにすぎず――ときおり望遠鏡によってのみ――空の各所にかすかな霞のような点として姿を見せる「星雲」とあやまり呼ばれているものの一つにすぎないのである。しかし天の川がこういう「星雲」の最小のものより実際に大きいと考える根拠はないのである。その大きさが抜群であるのは、それに対するわれわれの相対的位置のせいで見かけ上すぐれているだけのこと――つまり、われわれの位置がその中心にあるからにすぎない。天文学にうとい人にとっては、このような主張はいかにも奇異に感じられることであろうが、それでも天文学者たちはなんのためらいもなく、われわれは考えきれないほどの星の群――太陽の群――太陽系の群――の[ただなか]にいるのだと主張している。そのうえ、なるほど[われわれは]――いや[わが]太陽は銀河をおのれが属している特別な星団であると主張する権利を有しているけれども、いくらかの保留をつけるなら、天空のあらゆるはっきりと見える星たちも――あらゆる肉眼ではっきり見える星たちも――銀河を[自分たちの]ものであると主張する同等の権利を有すると言ってよいのである。  銀河の[形]については大いにあやまった考えが流布していて、たいていの天文学上の論文でさえ、それが大文字のYに似ているとしている。ところが問題の星団は、実際には、三つの環で囲まれている惑星土星に、[きわめて]一般的にではあるが――一種の一般的類似点を有しているのである。この惑星が凝固した球体であるのに反して、銀河系を考える場合、われわれはレンズ状をした星々の島、ないし星の集団を頭に思い描かねばならない。わが太陽はその周辺部――つまり島の海岸近くの――南十字星にいちばん近い側で、カシオペア座からいちばん遠いところに位置している。島を取り巻く環には、われわれの位置に近いところで、縦ながの[切り込み]があり、そのために[環は、われわれの近辺からは]大文字のYの形にいくらか似た姿に見えるのである。  しかし、いくらか漠然としている帯が、それが取り巻くやはり漠然としたレンズ状の星団から、むろん比較的な話だが、かなり[遠く]にあると考えるような誤謬に陥らぬようにしなければならない。そこで、単に説明上の便宜のためにだが、わが太陽はこのYの字の三つの線が交差する点に位置していると言ってよい。そしてこの文字が一定の容積を――その長さに較べればまことに微たるものにもせよ、一定の厚さを――有していると考えるなら、われわれの位置はその厚みの[真中に]あると言ってよい。このように自分たちを位置づけてみれば、問題の現象を説明するのにもはや困難はなかろう――それはまったく遠近法上の問題になる。われわれが上下を眺めるなら――つまり、文字の[厚さ]の方向に眼を向けるなら――文字の[長さ]の方向に、すなわち文字を形成する三つの線に[そって]眼をやったときより、はるかに数少ない星を見るはずである。もちろん、前者の場合、星はまばらにしか見えないが――後者の場合、それは密集して見える。これを逆から説明してみよう――地球の住人が、通例の表現を用いれば、銀河を眺めていると言うときには、その長さのいずれかの方向を――Yの字のいずれかの線の方向を見ているのであるが――しかし天空全般に眼をやるときには、銀河からは眼をそらしているのであって、そのときは文字の厚さの方向にそれを見ていることになる。そういうことのため、われわれの眼に星はまばらにしか見えないのだが、実際には、星の密度は平均的には星団の塊の密度と同じほど稠密なのである。この星団の驚嘆すべき大きさを伝えるには、これほど巧妙な考察の仕方はまたと[あるまい]。  もし強力な空間透視力をもつ望遠鏡で天界を仔細に調査してみるなら、[諸星団からなる帯]の存在に気づくだろうが――これはわれわれがこれまで「星雲」と呼んできたもので――その幅はところにより異なるが、地平線から地平線にかけて、天の川の流れに直角に延びている。この帯こそが、最終的な[諸星団の星団]なのであり、これこそが[宇宙]なのだ。わが銀河系はその一つにすぎず、またおそらく、この究極的な宇宙のベルトないし帯のうちでは、もっともとるにたらないものの一つにすぎないのだ。この諸星団からなる星団がわれわれの眼にベルトないし帯[として]見えるのは、まったく遠近法上の現象にほかならず、それはちょうどわれわれの独自な、ほぼ球状をなす星団である銀河が宇宙の帯を直角に横切って天界にまたがっているように見えるのと同じ理由による。すべてを包含する星団の形は、むろん[おおよそのところ]だが、それを形成する個々の星団と似た姿をしている。銀河[から]眼をそらして、空全体を眺めてみると散在して見える星が、じつは銀河そのものの一部にすぎず、その塊のいちばん密度が高そうにみえる場所に望遠鏡で識別できるいかなる地点にも劣らず密集しているのと同じように――宇宙の帯[から]眼をそらして、天空のあらゆる場所に見ることができる「星雲」もまたそうなのである――そうなのであると私は言ったが、これらの散在する「星雲」もまた遠近法的に散在しているだけで、一つの雄大な宇宙[球体]の一部にすぎない、と理解さるべきである。  数ある天文学上の謬見のなかでも、星の宇宙が絶対的に[無限]であるとする考えほど支持しかねるものはないにもかかわらず、これほど頑迷に固執されてきたものもない。それが有限である理由は、すでに私が先験的《アプリオリ》に解明したところであるが、これに反論することは容易でないように思われる。しかし、そういう理由をあげるまでもなく、[観測]によっても、われわれの周囲の、あらゆる方向とまでは言わぬまでも、数多くの方向に絶対的な限界があることが確認されている――あるいは、少なくとも、その反対の考えを支持するようないかなる根拠も見出されていない。星がどこまでも無限に存在するとするならば、空の背影は、銀河がそうであるように、一様に輝いて見えるはずである――[なぜなら、その背景の全域にわたって、星が存在しない地点は絶対にありえないのだから〕。そのような状態にありながら、なおかつ数多くの方向に望遠鏡が虚空を発見していることを理解しようというのなら、その唯一の方法は、その眼に見えない背景までの距離があまりにも遠いので、そこから出た光がいまだにわれわれのところまでとどかないのだと想定することである。[そうかもしれない]のであって、誰もあえてそれを否定すまい。ただ私が主張したいことは、[そうである]と信ずべき理由がいまだに皆目ないということだけである。  地球上のあらゆる物体は地球の中心に向かっているとする俗見について言及したさい、私は「のちほど特定する一つの例外を除いて、地球上のあらゆる物体は、地球の中心に向かうばかりか、およそ考えうるあらゆる方向におもむく傾向がある」と言った。この例外とは天空にしばしば見られる間隙のことを指すのであって、そこには、いかほどたんねんに調べてみても天体が見つからないばかりか、天体の存在する気配さえないのである――そこには冥府よりもなお暗い裂け目が大きく口を開き、その星の宇宙の境界を劃す壁をとおして、かなたの無辺な虚無の宇宙をかいま見る思いがする。さて、地球上に存在する物体が、そのものの動きか地球自体の動きかによって、こういう間隙ないし宇宙の深淵とたまたま一直線になるような位置にさしかかると、その物体が[その間隙の方向に]引かれないことはたしかで、ためにその時期には、くだんの物体はその前後のいかなる時期においてよりも「重くなる」のである。こういう間隙のことは考慮に入れず、ただ星々が一般に不均等に配分されていることを見るだけでも、地球上の物体が地球の中心へ向かう絶対的性向なるものも不断の変化を免れないことがわかるのである。  さて、わが宇宙が島のような存在であることがわかった。[すべてのもの]――われわれが五感で把握する[すべてのもの]が孤立した存在であることがわかった。一つの[諸星団からなる星団]が存在することがわかった――その集団の周囲には、[あらゆる人間の知覚]が無効で測り知れない荒涼たる空間が存在することがわかった。しかし、五感によるそれ以上の証拠が得られないので、われわれがこの星の宇宙の限界内にとどまることを余儀なくされている[からといって]、われわれに許されている到達範囲外にはどんな物質的な点も[存在しない]と断定してよいものだろうか? この知覚しうる宇宙――この諸星団からなる星団――は[一連の]諸星団からなる諸星団の一つにすぎず、他のものが見えないのは距離のためか――光の拡散があまりにもはなはだしいので、それがわれわれにとどくまでに、われわれの網膜に光の印象を与えないほど弱くなっているためか――あるいは、こういう気が遠くなるほど遠いかなたの世界では光の放射がないためか――あるいは最後に、あまりにも莫大な距離のために、その空間に星団があることを知らせる電波による通信がいまだに――何万年という時間が経過したいまになっても――その距離を渡ってくることができないためなのか――といった類推による推論をする権利がいったい人間にあるのか、ないのか?  かかる推論をする権利――かかる幻想をいだく根拠がわれわれにあるだろうか? もしそういう権利が[いくらかでも]あるとすれば、それを無限に拡張する権利がわれわれにあることになる。  人間の頭脳は明らかに「無限なるもの」にひかれる傾向があり、その観念の幻影を溺愛するところがある。それは熱烈にこの不可能な観念を求め、いったんその観念をいだくと、こんどはそれを知的に信じこみたがるようである。全人類に共通することをもって、その人類に属する個人を異常であると考えることはむろん許されない。にもかかわらず、いま言及した人間の偏愛は偏執狂のあらゆる特質をそなえているとみなす高級な知能の持ち主がいる[かもしれない]。  しかしながら、私はまだ疑問に答えてはいない。さて、多少とも似たような「諸星団の諸星団」、または「諸宇宙」が際限なく連続していると推論する――いやむしろ想像する――権利が人間にあるだろうか?  答えるとするが、このような場合の「権利」なるものは、そのような権利を主張する想像力の大胆不敵さにもっぱらかかわることがらである。そこで、ただこれだけは言わせていただくとするが、一個人として、私が[空想](あえてそれ以上の言葉は用いないことにする)せざるをえないことは、諸宇宙の無限の連続が実際に存在しているということ――またそれらはわれわれがこれまで認知してきた――そして今後も認知しつづけるであろう宇宙と――少なくともわれわれの特定の宇宙が単一に復帰するまでは――多少とも似ているだろうということである。だが、もしそのような諸星団からなる諸星団が存在するなら――[そしてげんに存在するのだが]――きわめて明白なことは、それらはわが宇宙の起原とは無縁であり、わが諸法則とも無関係なことである。それらはわが宇宙を牽引することなく、わが宇宙もそれらを牽引することはない。それらを構成する物質――および精神はわれらのとは無縁であって――わが宇宙のいかなるところにおいても見出すことができないものである。それらはわれわれの感覚や精神に印象を与えることはできない。彼我のあいだには――当座のところ、すべてをひとまとめに考えているのだが――共通に作用する力はない。それぞれは、別個に孤立して、[それぞれの特定な神の胸にいだかれて存在している]。  この論説をすすめるにあたり、私は物理学的というより形而上学的秩序の建設をめざしているのである。物質的現象を理解するときでさえ、その理解の明晰さが自然の構造の解明に由来することはめったになく、そのほとんどすべては精神的構造の解明に由来することを私はずっと以前から胆に銘じて承知している。それゆえ、私の議論の歩調がいくらかのんびりしすぎていて、まるで論題を一歩また一歩とすすめていくようにみえるとしても、それは[段階的印象]の連鎖を断ち切らないようにという私の配慮によるものであり、そういう方法によってしか人間の知性は、私が語っているような広大無辺なことどもを大づかみにし、その壮大な全体像を把握することを期待しえないからであると申しそえておきたい。  これまでのところ、われわれの注意は、ほぼもっぱら、空間における天体の一般的にして相対的な集団形成に向けられてきた。具体的な議論はほとんどしなかったし、[量]の――つまり数、大きさ、距離といった――観念については述べたにしても――付随的に、かつもっと明確な概念にいたる準備として述べたにすぎなかった。さて、そこでもっと明確な概念の把握をこころみるとする。  わが太陽系は、すでに述べたように、たしかなところ一つの太陽と十六の惑星からなるが、ほかになお二、三の惑星がある可能性は大いにあり、それらが太陽のまわりを公転しているのだけれども、惑星はまた、知られているかぎりでは十七の、そしておそらくまだ知られていないもう数個の月をしたがえている。これらの各種の天体は真の球体ではなく、偏平な楕円体――すなわち、その想像上の回転軸の両極で押しつぶされた球体――であるが、それが押しつぶされたのは自転の結果である。また、太陽がこの系の絶対的な中心ではない。太陽そのものが、他のすべての惑星ともども、つねに移動する一つの点のまわりを公転しているからであるが、この点こそ太陽系全体の重力の中心なのである。さらに、これらのさまざまな楕円体が動く軌道――月が惑星のまわりを、惑星が太陽のまわりを、そして太陽が共通の中心のまわりを動く軌道――を正確な意味での円とみなすべきでもない。それは楕円なのであり――[その焦点の一つを中心に公転運動がなされている]のである。楕円とは閉じられた曲線で、その一つの直径は他のものより長い。長いほうの直径上には二つの点があり、それらはこの直線の中心から等距離に位置し、その二点から曲線上の任意の一点に直線を引けば、この二つの直線の長さの和は直径の長さに等しくなる。さて、そのような楕円を考えていただきたい。いま述べた二点を焦点というのだが、その一点にオレンジを固定するとする。このオレンジを弾力性のある糸で一粒の豆に結びつけ、その後者を楕円の周辺上に置く。そしてこの豆をつねに楕円の周辺上に置きながら――オレンジのまわりをたえず動かしてみよう。弾力性のある糸は、むろん、豆が動くにつれて不断にその長さを変えるが、それが幾何学でいう[動径]になる。さて、このオレンジを太陽とみなし、豆をそのまわりをめぐる惑星の一つとみなすなら、この公転運動は、[動径が同一時間内に同一面積]を通過するような率で――しかもたえず変化する速度をもって――おこなわれることになる。豆の動きは――言いかえれば、むろん、惑星の動きは――太陽から遠ざかるにつれて遅く――近づくにつれて速くなる[はずであり]、また事実[そうなのである]。そのうえ、惑星は太陽から遠いものほど動きが遅い、つまり[諸惑星の公転周期の二乗は相互に一定の比を保ち、この比は各惑星の太陽からの平均距離の三乗に等しい]のである。  しかしながら、ここに述べたおそるべく複雉な公転の法則はわが太陽系においてのみ適用すると考えられるべきではない。これは引力があるところならどこでも適用できる法則である。この法則が[宇宙]を支配しているのである。空に輝くすべての点は、少なくとも一般的な特質においては、われわれのに似た太陽なのであって、わが太陽系より多いか少ないか、大きいか小さいかの惑星をしたがえているのであるが、その惑星のためらいがちな輝きは遠大な距離のためにわれわれの眼に見えるほどではないけれども、にもかかわらず、その主星のまわりを、月を伴い、いましがた述べた原理にしたがって――普遍的な公転の三法則にしたがって――公転しているのであり、この不滅の三法則は想像力ゆたかなケプラーによって[思いつかれ]、のちに忍耐強く数学的なニュートンによって証明され説明されたものである。自明なることに過度の信を置くことを誇りにする哲学者たちの一派では、あらゆる推論を「思いつき」なる[蔑称]で十把ひとからげにして嘲笑する嘆かわしい風潮がはびこっているが、考慮すべき点は、[誰が]思いつくかである。プラトンとともに臆測するのなら、アルクマエオン〔万物は数の関係にしたがって秩序あるコスモスをつくるとした宇宙論者ピタゴラスの弟子〕の論証に耳を傾けるより、ときには暇のつぶしがいがあろうというものだ。  多くの天文学の書物はケプラーの法則が重力なる大原則の[基礎]であるとはっきり述べている。こういう考えが出てきたのは、ケプラーがそういう法則を提示し、それがほんとうに存在することを帰納的《アポステリオリ》に立証したことを、ニュートンが重力の仮設をもうけて説明し、最終的には、その仮説的原理の必然的な結果としてケプラーの法則を先験的《アプリオリ》に証明したからであるにちがいない。だから、ケプラーの法則が重力の基礎であるどころか、重力こそがその法則の基礎であり――実際のところ、斥力のみでかたづかない物質的宇宙のあらゆる法則の基礎なのである。  地球から月までの――すなわち、いちばん近くの天体までの――平均距離は二十三万七千マイルである。太陽にいちばん近い惑星である水星の太陽からの距離は三千七百万マイル。その次に近い金星は六千八百万マイルのところで公転している。その次に近いのは地球で、距離は九千五百万マイル――次にくる火星は一億四千四百万マイルである。その次は八個の小惑星〔イタリアのピアッツィが火星と木星のあいだに小惑星の第一号セレスを発見したのは一八〇一年で、ポオの生前に発見された小惑星は全部で九個〕(セレス、ジューノ、ヴェスタ、パラス、アストレ、フローラ、アイリス、それにヘーベ)であるが、それらまでの平均距離はほぼ二億五千万マイルである。それから木星だが、四億九千万マイル、次が土星の九億マイル、次が天王星の十九億マイル、そして最後は海王星だが、これは最近発見されたもので、二十八億マイルほどの遠いところで公転している。海王星についてはまだよく知られておらず、おそらく小惑星系の一つであるかもしれないので――いちおう考慮に入れないことにすれば、惑星のあいだには、ある種の制限を付しての話だが、一定の[間隔の秩序]があることがわかる。おおよそのところ、外側の各惑星の太陽からの距離は、そのすぐ内側の惑星の太陽からの距離の二倍であると言ってよい。すると、ここで述べた[秩序]は――すなわち[ボーデの法則]は――[私が提示した、太陽の環の放出と原子の放射様式とのあいだに存する類似についての考察から演繹できるのではなかろうか?] 〔ドイツの天文学者ヨハン・ボーデ(一七四七〜一八二六)が一七七二年に発表した太陽と惑星の平均距離をあらわす経験法則。水星に0、金星に3、地球に6、以下公比2の級数値を惑星順に与えて、それぞれに4を加えて10で割ると、太陽と地球のあいだの平均距離を一天文単位としたときの太陽から各惑星までの距離となる。この法則は一七八一年にハーシェルによって発見された天王星についても一致したので信用され、小惑星発見の気運を盛りあげ、海王星の存在の予測と発見につながったが、海王星の距離の場合にはこの法則は当てはまらず、むしろ一九三〇年に発見された冥王星の値に合致した〕  この距離についての要約で早口に述べた数字を抽象的な数学的事実という観点から理解しようとしないのは愚かである。それらの数字は実感できるていのものではない。明確な観念を伝えるていのものではない。太陽からいちばん遠い海王星は太陽から二十八億マイルはなれたところで公転していると私は述べた。そこまではよいのだ――私は数学上の事実を述べただけなのだから。数学的事実なるものは、それをまったく理解していなくても、数学上の用に供することはできる。月が地球のまわりを二十三万七千マイルという比較的近傍を公転していると述べるにあたっても、私は、月が地球から実際にはどんなに[遠いか]を理解してもらおう――知ってもらおう――実感してもらおう――などとは期待しない。二十三万七千マイル! おそらく、大西洋を横断されたことのない読者はあまりおるまい。しかし、大西洋の両岸に介在する三千マイルについてさえ、明解な観念をお持ちの方は何人いることだろうか? 街道の一つの里程標から次の里程標までの距離について、きわめて漠然とした観念でもよいから頭にたたみ込むことができる人間がいるかどうかさえ、私にはあやしいのだ。しかしながら、距離を考えるにさいして、その親類である速度と結びつけて考えてみると、いくらか理解しやすくなる。音は一秒間に空間を千百フィート走る。さて、地球の住人が月で発射される大砲の閃光を見ることができ、またその音を聞くことができるとすれば、その人は光を見てから音らしきものを耳にするまでに、星夜をふくめてまる十三日以上も待たねばならないだろう。  たとえこのように説明したところで、地球から月への実際の距離についての印象としてはいかにも貧弱のきわみだが、それでも、海王星と太陽との二十八億マイルとか、われわれが住んでいる地球から太陽までの九千五百万マイルとかいう距離になると、それを把握しようとするこころみがいかに無益であるかを実感させる役にはたとう。砲弾が、これまでに知られているどんな弾丸よりも速く飛んだとしても、太陽までの距離を二十年以内で横切ることはできず、海王星ともなれば五百九十年はかかるだろう。  われわれの月の直径は二千百六十マイルであるが、それは比較的にはまことに小さい物体で、地球ほどの大きさの球体を形成するためには月なみの球体を五十個ほども必要とする。  わが地球の直径は七千九百十二マイルである――しかし、そういう数字を口にしてみても、どれほど明確な観念をわれわれは抽き出せるだろうか?  もしわれわれが通例の高さの山に登り、その頂上からあたりを見わたし、たとえば四十マイル四方の風景を展望するとすれば、その周囲は二百五十マイル、その面積は五千平方マイルを占めることになる。このような眺望の広がりも、一部分ずつ[連続的に]眼に映ずるほかはないので、まことに貧弱に、かつまことに部分的にしかとらえられないのである――にもかかわらず、この眺望《パノラマ》全体はわが球体の[表面]の四万分の一を占めるにすぎない。この眺望《パノラマ》につづいて、一時間後に、同じ広がりのものがあらわれ、そのまた一時間後に第三番目のが、さらにまた一時間後に第四番目のが――というふうに次々とあらわれ、ついに地球全体の風景を視野に収めることにすると想定し、かつそれぞれの多彩な眺望の調査に日に十二時間ついやすとするならば、その全体を調べつくすのに九年と四十八日かかる計算になる。  だが、単なる地球の表面積を把握することさえ想像力がもてあますとなれば、その体積を考えるときには、いったいわれわれはどうすればよいのか。地球が内蔵する物質の重さは少なくとも二セックスティリオン二百クィンティリオン(2.02×10の21乗)トンはある。それが静止状態にあると仮定し、それを動かすにたる機械的な力をためしに考えていただきたい! わが太陽系の惑星に住んでいると考えられる無数の生物がみんな力を合わせても――その[総]力を結集しても――またこれらの生物がみな人間より力が強いとしても――この巨大な塊の位置を[一インチ]といえども動かすことはできそうにない。  すると、わが惑星のなかで[いちばん大きい]木星を同じ条件のもとで動かすのに要する力をどう考えればよいだろうか。これは直径が八万六千マイルあり、その球体のなかにわが地球と同じほどの大きさの球体を千個も収めてしまう。しかもこの巨大な天体は太陽のまわりを毎時間二万九千マイルという速さでかけめぐっているのである――つまり、砲弾の速度の四十倍もの速度なのだ! このような現象は、思うだに精神を[圧倒する]と言うだけではまだたりない――それは精神を麻痺させ、茫然自失たらしめる。われわれはしばしば想像力を駆使して天使の諸能力を思い描くことがあるが、そのような天使の一人を木星から数百マイル離れたところに置き――この惑星が公転するさまを間近かに目撃せしめると空想してみよう。さて、そのうえでこう問いたい――この巨大無比な物質の塊が言語を絶する速力で、眼前を擦過《さっか》してゆくさまを見れば、天使といえども、驚嘆のあまり圧倒され、たちまち無と化すことがないと仮定しうるほど、この霊的存在の霊的能力がすぐれているという観念をわれわれはいだきうるだろうか、と。  しかしながら、ここで指摘しておくのが妥当かと思われるが、われわれは比較的矮小なものを問題にしてきたのである。わが太陽――それは木星が属する系の中心をなす支配的な球体であるが、木星より大きいばかりか、この系に属するあらゆる惑星を束にしたより大きい。木星の直径については述べた――それは八万六千マイルだが――太陽の直径は八十八万二千マイルである。後者に住人がいるとして、それが日に九十マイルのわりで旅をするとすれば、その大きな周辺を一周するのに八十年間かかる。それは六百八十一クォドリリオン四百七十二トリリオン(6.810472×10の17乗)立方マイルの空間を占める。月は、すでに述べたように、地球のまわりを二十三万七千マイルはなれて公転している――つまり、ほぼ百五十万マイルの軌道上をめぐっている。さて、もし太陽を地球の上に中心を重ねて置くとすれば、前者の球体は、あらゆる方向に、月の軌道ばかりか、それを超えて二十万マイルにわたって拡がることになる。  ここでまた指摘しておきたいのであるが、[これでもなお]比較的とるにたらないことについて語ってきたのである。太陽から惑星海王星までの距離については述べた――それは二十八億マイルあり、したがって、その軌道周辺の長さは百七十億マイルになる。これを念頭に置いて、空に輝くいちばん明るい恒星の一つに眼をやってみよう。これと[わが]系の恒星(太陽)のあいだには、厖大な空間があり、その観念を伝えるためには大天使の舌を借りる必要がある。[わが]系、すなわち[わが]太陽ないし恒星と、われわれが眺めていると仮定する恒星とは途方もなく離れているのである――ところで、こころみに、いましがた太陽を地球に重ねあわせると想像したように、こんどはこの恒星を太陽の上に中心を重ねて置くとしてみよう。さて、そのうえでこの念頭にある特定の恒星をあらゆる方向に拡張し、水星の――金星の――地球の――軌道を超え、さらになお、火星の――木星の――天王星の軌道を超えて、ついにそれが[百七十億マイル]の周辺をもつ円――それはルヴェリエの惑星の公転が描く軌道だが――をみたすことになると考えてみよう。これほどのことを考えたところで、途方もない考えをいだいたことにはならないだろう。星の多くはいまわれわれが想像したのよりはるかに大きいと信ずべき充分な理由がある。さように信ずべき充分な[経験的]根拠があるという意味だ――原始原子の配分の[多様性]は、宇宙を創造するにあたっての神の計画の一部であったとわれわれは想定してきたわけだが、その[多様性]のことを思うなら、星の大きさには、これまで私が示唆してきたよりはるかに大きな規模の不均衡があることが容易に理解でき、また信じることができよう。むろん、最大級の星々は最大に広い星間空間に見出すことができるにちがいない。  いましがた私は、太陽と他の任意の一つの恒星とのあいだに拡がる間隙の観念を伝えるには大天使の雄弁を必要とすると述べた。そう言ったからといって、私は大げさだと非難されることはあるまい。単純きわまる真実だが、この種の話題において誇張などということはほとんどありえないからである。しかし、このことをもっと心眼にはっきりとお目にかけたい。  まず第一に、いま言及した間隙について、おおよその[相対的]概念を得るためには、それを星間空間と比較してみるとよい。たとえば、太陽から実際には九千五百万マイルの距離にある地球が、その発光体から[一フィート]のところにあるとすれば、海王星は四十フィートのところに、[そして琴座のアルファ星は少なくとも百五十九]のところにあることになる。  ところで、この最後の文章に特別に問題がある――はっきりと間違っている箇所があるとお気づきの読者はまずあるまい。私は太陽から地球までの距離を[一フィート]とすると、海王星までが四十フィート、琴座のアルファ星までは百五十九とした。一フィート対百五十九という比率は、二つの距離――つまり太陽から地球までの距離と同じ発光体から琴座のアルファ星までのそれ――との比率の印象を充分正確に伝えているように思われるだろう。しかし、私は実際にはこう書くべきだったのだ――太陽から地球までの距離を一フィートとすると、海王星までの距離は四十フィート、そして琴座のアルファ星までは百五十九[マイル]、と――つまり、私の最初の述べ方によれば、琴座のアルファ星に与えた数字は、それが実際にあると[最小限]に見積った距離のじつに五千二百八十分の一にしかならないのである。  議論をすすめる――単なる[惑星]はどんなに遠くにあろうと、それを望遠鏡で覗くなら、それは一定の形をしている――一定の捉えうる大きさをもっている。ところで、私はすでに数多くの星のおおよその大きさについて示唆しておいたが、さりながら、そのどれ一つとして、たとえどんなに強力な望遠鏡で覗いて見ても、いかなる形もなしては見えず、したがって、いかなる[大きさ]も有さない。われわれはそれをただの一点として見るだけである。  さらに――われわれが夜道を歩いていると想像してみよう。道の片側の野原に、何か高いもの、たとえば木が一列に並んでいて、その姿が夜空を背景にくっきりと浮かびあがって見えるとしよう。この一列の物体は道と直角に、つまり道から地平線に向かって伸びているとする。さて、われわれが道をすすむにつれ、それらの物体は眺望の背景をなす空の特定の一点に対する相対的位置をそれぞれ変えていくことがわかる。この特定の一点を月であるとし――それが当座の目的にかなうほど固定したものだと仮定しよう。そこでわれわれがすぐ気づくことは、われわれにいちばん近い木は月との関係における位置を急速に変えて、まるでわれわれの背後に飛び去るように見えるのに、はるかかなたの木はこの衛星との相対的位置をほとんど変えないことである。そこで、物体がわれわれから遠ければ遠いほど、物体は位置を変えることが少なく、その逆もまた真なることにわれわれは気づく。そのうち、ほとんど無意識に、われわれはそれぞれの木までの距離を相対的な位置の変化の度合で判断しはじめる。そしてついには、この並木の任意の一本の木までの距離を、その相対的変化の量を基準にして、単純な幾何学の問題を解くように決定できるのではないかと思いつく。さて、この相対的変化こそが「視差」と呼ばれているもので、この視差によってわれわれは天体の距離を測定しているのである。この原理を問題の並木に当てはめ、いくら道路をすすんでいっても視差を示さない[遠くにある]木までの距離を判定しようとすると、むろんのこと、われわれは大いに当惑すべき事態に直面する。どだいこの場合、そんなことは不可能なのだ。とはいえ、それが不可能なのは、わが地球上のあらゆる距離はあまりにも小さすぎるからだけのことだ――広大な宇宙的距離に比較すれば、地上の距離など絶対的な無に等しいと言ってよい。  たとえば、琴座のアルファ星が頭上にあると仮定し、しかもわれわれの立っているところが地球上ではなく、地球の軌道の直径に相当する距離まで空間にまっすぐ延長された道路の端に立っている――つまり、[一億九千万マイル]離れたところに立っている、と想像してみよう。そこで精巧無比な精密機械で星の正確な位置を測定してから、この思うだに気の遠くなるような道をたどって、そのもう一方の端にたどりつくとしよう。さて、そこでまた星を見あげるのだ。星は[正確に]元どおりの位置にある。われわれの機械がどんなに精密であろうと、機械の示すところによれば、星の相対的位置は、この想像を絶する旅のはじめに測定したのと絶対的に――まったく同じなのである。視差などは――いささかなりとも――見出せないのである。  実際のところ、恒星の距離については――つまり、わが太陽系とそれが属する星団の兄弟たちとをへだてる恐るべき深淵の向う側できらめく無数の太陽の距離については――ごく最近になるまで、天文学はなんら積極的な発言ができなかった。いちばん明るい星がいちばん近いと想定し、そういう[星]についてさえ、言えたことといえば、ある想像もつかない距離があって、その[こちら側に]そういう星は存在しえない、ということだけだった――その距離からどれほど向うに星があるかについては、いっさい確かなことは言えなかったのだ。たとえば琴座のアルファ星までの距離が十九トリリオン二千億(1.92×10の13乗)マイル以下ではありえないと考えられていたけれども、過去の知識にもせよ、また現在の知識にもせよ、それがいま述べた数字の二乗、三乗、あるいは数乗も遠いところにあるかもしれない。しかしながら、最近物故したベッセル〔ドイツの天文学者F・W・ベッセル(一七八四〜一八四六)。一八三八年に白鳥座六十一番星の視差をみつけ、それによってこの恒星までの距離を測定した。その後一八四一年、この値が正しく、かつ史上最初の恒星の距離の測定であることが公認された〕は、最新の機械を利用して、驚嘆すべき精密細心な観測を長年にわたって継続した苦労が報いられ、晩年になって六個ないし七個の星、とりわけ白鳥座の六十一番星の距離を決定するのに成功した。この星の場合、その距離は太陽までの距離の六十七万倍である。ちなみに思い出していただけば、太陽までの距離は九千五百万マイル。すると白鳥座六十一番星は地球から六十四トリリオン(6.4×10の13乗)マイル――すなわち、琴座のアルファ星の最小限に見積った距離の三倍以上ということになる。  この距離を理解しようとつとめるにあたって、月までの距離を納得しようとこころみたときにしたように、[速力]という観念の助けを借りるにしても、砲弾とか音とかのような無にも等しい速度のことはすっかり念頭から追い出す必要がある。ところでシュトルウフェによる最新の計算によれば、光は毎秒十六万七千マイルの速さで進行する。思考そのものにしても、これほどの距離をこれほど速く飛ぶことはできない――思考に飛ぶことができるとしての話だが。この想像を絶する速さをもってしても、白鳥座六十一番星からやって来る光は十年以上かかり、したがって、その星がこの瞬間に宇宙から消滅したとしても、[なお十年間は]輝きつづけ、その皮肉な栄光はおとろえを知らないだろう。  太陽と白鳥座六十一番星の間隔についてわれわれが獲得した概念はまことに貧弱なものにすぎないにしても、それをしっかりと頭に入れておいてから、さて憶えておいていただきたいことは、この間隔がいかほど厖大なものであるにせよ、それはわが太陽系のみならず、白鳥座六十一番星もまた属している星団ないし「星雲」を構成する数えきれない星の群のあいだでは[平均的な]間隔にすぎないと考えることが許されていることである。事実、私はきわめて控え目にことを述べてきたのである――白鳥座六十一番星がいちばん[近い]星の一つで、またそれゆえに、少なくとも当座のところ、その地球からの距離は天の川なる壮大な星団の星と星との平均距離[以下]であると信じ、かつ結論してしかるべき立派な理由がある。  さてここで、再度そして最後に指摘しておくのが妥当だと思われるのだが、これでもなおわれわれはささいなことを語っているのだ。われわれが属する星団または他の特定の星団における星と星とのあいだに介在する空間に心を奪われるのをやめにして、むしろ、宇宙というすべてを包みこんでいる星団における、星団と星団の間隙に注意を向けてみたい。  すでに述べたことだが、光は毎秒十六万七千マイルの速度ですすむ――すなわち、一分間に約千万マイル、一時間に約六億マイルすすむ。それでも、「星雲」のあるものは非常に遠くにあるので、このような速度ですすんでも、そういう秘境から光がわれわれのところにとどくまでには[三百万年]以上かかっているのだし、今後もかかるのである。そのうえ、こういう計算をしたのは父親のハーシェルだが、それにしても自分の望遠鏡で見える範囲内の比較的近い星団についてのみなのだ。ところがロス卿の魔法の望遠鏡によると、この瞬間にも、[百万世代]も昔の秘密をささやきつづけている「星雲」がげんにいくつも[ある]のだ。別言すれば、いまわれわれが――この瞬間に――かなたの世界で――起こっているのを目撃する事件は、[百万世紀以前]にかなたの住人の興味をそそったのと同一の事件なのである。こういう指摘は頭というより――むしろ魂に訴えかけるものであるが、そういう間隔――そういう距離こそ――これまでおこなってきた取るにたりない[量]に関する考察を締めくくるのにふさわしい主題であることが納得されよう。  このようにわれわれの空想を宇宙の距離につなぎとめておいたうえで、さてこの機会を利用して、天文学上の考察の[通いなれた道]をたどるうちにわれわれがしばしば経験する困難に言及したいのであるが、その困難とは――先に述べた測り知れない虚空を[どう説明すればよいか]――まったく何も存在せず、したがって一見無用と思える深淵が星と星とのあいだに――星団と星団のあいだに――あるのかをどう理解すればよいのか――手短かに言えば、そのうえに宇宙が構築されている[空間]がそれほど巨大な規模でなければならぬ理由をどう考えればよいのか――にかかわる困難である。この現象に合理的な原因を天文学が与えることができなかったのは明白だと私は主張するものであるが――しかし、この論文で一歩一歩と段階をふんですすめてきた考察によって、[空間と時間が一つであること]を明白かつ直截に認識できるのである。宇宙がそれを構成する物質的部分の壮大さと、その高邁なる精神的諸目的とに完全に見あうだけの期間にわたって[持ちこたえ]てきたことの必然的な帰結は、原始原子の拡散が、ただ無限ではなかったというだけのことで、想像も及ばぬほどの広範囲にまたがっていたということである。要するに、星々は眼に見えない星雲状態から眼に見える状態に集結し――星雲状態から凝縮状態に進行し――言葉につくせぬほど数多く複雑な各種の活動力を生み、かつそれらを死滅させながらみずからも年老いる必要があったのである――もろもろの星はこのすべてを経過する必要があったのであり――これらすべての神の諸目的を完璧になしとげるにたる時間を必要としたのである――つまり、[この期間内に]万物は距離の二乗に反比例する速度で、その不可避的な終極である単一に向かって復帰する必要があったのである。  この全過程を通じて、神の意図が[適用される仕方]が絶対に厳密であることを理解するのは苦もないことだ。それぞれの星の密度は、その凝縮作用が減退するにつれ、高くなっていることは言うまでもない。凝縮作用と異質性はたがいに手をたずさえているのであるが、前者の指標である後者によって、われわれは活力と精神の発展段階を察知することができる。ゆえに、球体の密度によって、その目的が達成されている度合を測定することができるのである。密度が増大するにつれ――つまり神意が成就される[につれ]――つまりまた、成就[さるべき]ものが少なくなる[につれ]――それと同じ度合で――[終極]へ向かう加速度が大きくなるものと期待してよい。そして哲学的精神の持ち主なら容易に理解するところであろうが、星を生成するにあたっての神の意図は、その意図の達成をめざして、[数学的に]進行する――したがって、その進行の仕方には容易に数学的表現を与えることができる。すなわち、その進行の仕方は、あらゆる創造物の、それが創造された出発点にして到達点であるところからの距離の二乗に反比例するのである。  しかしながら、この神意の適用のされ方には数学的な厳密さがあるばかりか、ただの人間の創造性の産物とははっきり区別できる[神聖な]特質といったものがある。適用の完璧な[相互性]のことを私は言うのである。たとえば、人間|業《わざ》にあっては、特定の原因は特定の結果を生み、特定の意図は特定の目的をもたらすが、それでおしまいだ。そこに相互性は見られない。結果が原因にふたたび働きかけることはなく、意図が目的との諸関係を変えることもない。ところが神の御業《みわざ》においては、目的は意図であるか、あるいはまた目的であるかのいずれかで、それはわれわれの見方次第である――原因を結果と見ようと、その逆に見ようと、それはわれわれの自由なのである――だからわれわれは絶対にいずれとも決めかねるのである。  一例をあげる――極地においては、人間は体温を保つために、毛細血管組織内での燃焼をうながさねばならず、そのためには高度に窒素を含んだ、鯨油のような食物を大量に必要とする。だが、しかし――極地において人間が入手できるほとんど唯一の食物といえばアザラシや鯨などの脂《あぶら》で、これならふんだんにある。ところで、脂が絶対に必要だから手に入れやすいのか、あるいは手に入れられる唯一のものだから、それが唯一の必需品になるのか? それを決めるのは不可能だ。これが絶対的な[適用の相互性]である。  人間が巧妙さをひけらかして獲得できる喜びの大小は、この種の相互性に[近づく]度合によりけりである。たとえば、小説の[プロット]を構成するさい、われわれはいろいろな事件をあしらえるわけだが、その事件のいずれの一つにせよ、それが他の事件に依存しているのか、あるいはそれを支援しているか、決定しかねるようにあしらえるべきである。もちろん、この意味での[プロットの完璧性]は実際には望みえないし、事実上、望みうべくもない――その理由はただ一つ、プロットを構想する人間の知性が有限だからである。神のプロットは完璧である。宇宙は神のプロットである。  さて、いまやわれわれは、知性がまたしても類推による推論をこととする性癖に対して――無限なるものに挑みかかろうとする偏執狂的な性癖に対して――戦いを挑まざるをえない時点にさしかかってきた。いくたの月がいくたの惑星のまわりを[公転]し、いくたの惑星がまたいくたの太陽のまわりをめぐっていることはすでに見た。ところで人間の詩的本能――たとえその均整が表面上の均整にすぎないにせよ、均整を求める本能――この[本能]は、人間のみならず万物の魂が、天地の開闢にさいして、宇宙全般への放射という[幾何学的]基礎から獲得したものであるが――それがわれわれの空想を刺戟して、この[円環]の体系を無限に拡張せしめることになったのである。[演繹]にも[帰納]にもひとしく眼をつぶり、銀河系に属するあらゆる天体は、その全体の回転をつかさどる中心点とみなされる一つの巨大な球体の周囲を[公転]していると想像していただきたい。諸星団からなる、ひとまわり大きい星団に所属する各星団は、むろん、同様に配置され構成されていると考え、つづけて、この「類推」を満足させるため、これらの諸星団もまた、さらに荘厳な球体のまわりを[公転している]と想をすすめ――さらにまた、この球体はそのまわりを取りまく諸星団[ともども]、なおいっそう雄大な一連の星団の塊の一つを形成しているにすぎず、この一連の星団の塊は[それらの]中心をなすもう一つの球体の――なおいっそう言葉につくせぬほど荘厳な球体の――もしそう言ってよければ、無限に荘厳なるものによって際限なく増幅された無限に荘厳な球体の――まわりを[旋回している]と想像するのである。このように永遠に連続する状態こそ、ある種の人たちが「類推」と称するものの命令によって空想が描き、理性が考えるところの、可能なかぎり満足のゆく全体像なのである。輻輳する旋回の無限の連鎖こそ、哲学がわれわれに命じて、少なくともわれわれにできる最善の仕方で、理解し説明することを求める図式なのである。しかしながら、ときおり、本職の哲学者――つまり、その狂気がきわめて決定的な方向性をそなえ――もっと敬意をこめた言い方をすれば、何もかもいっしょくたに片づけてしまう洗濯女流儀の断固たる偏見を天賦の才とする人種は――問題の円運動の過程が終り、また当然そうなるはずだとする、まさに眼に見えないその点をわれわれに見せてくれることがある。  フーリエ〔フランスの物理学者ジャン・バプティスト・ジョゼフ・フーリエ(一七六八〜一八三〇)のこと〕の夢想はおそらく嘲笑するにも価すまいが――メドラー〔ドイツの天文学者〕の仮説については近年やかましく論じられている――これは銀河の中心に巨大な球体が存在していて、そのまわりをこの星団のあらゆる系が公転しているというものである。わが太陽系の[周期]も決められていて――それは一億一千七百万年だという。  わが太陽が自転し、またその系の重力の中心をめぐって公転しているばかりか、みずからも宇宙空間を移動しているのではないか、という疑念はずっと以前からあった。こういう運動が存在するなら、遠近法的にあらわれてくるはずである。わが太陽系が後にしてきた天空の領域にある星々は、永い年月のあいだには、混みあってくるはずである。さて、天文学史を検討してみると、漠然とではあるが、そのような現象がかつて起きたことが確かめられる。これを根拠に、わが太陽系はヘルクレス座の第六星と正反対の方向にある天の一点に向かって動いているとする説がなされてきた――しかしこの推論は、おそらく、われわれが正当な論理的権利を行使してなしうる推論のぎりぎりの限度であろう。ところがメドラーときては、この限度をはるかに超えて、プレアデス星団のアルシオーネなる特定の星を名ざし、この星のあるところ、ないしその近辺の点を中心に銀河系のすべてが[公転]しているとまで言いきったのである。  さて、われわれは「類推」にみちびかれて、まずはこれらの夢想にたどりついたのであるから、夢想が発展しているあいだは、少なくともある程度、類推に固執すべきであることは理の当然であるが、かの公転を示唆した類推は、同時にまた、公転がなさるべき中心となる天体の存在をも示唆したのであり――これまでのところ、天文学者は首尾一貫していた。しかしながら、この中心をなす天体は力学的にみて、そのまわりのすべての天体を合わせたよりも大きくなくてはならない。しかも、そういう天体は百億ほどある計算になる。となれば、こういう疑問が出るのは当然だ――「なぜ、この巨大な中心をなす太陽がわれわれに[見えない]のか――[少なくとも]わが太陽を一億個あつめた質量に[匹敵する]というのに――なぜ、われわれにそれが[見えない]のか――とくに、[われわれ]がいるのは星団の中心部で――この壮大無比の星が位置しているにちがいない場所の[ごく近く]だというのに」と。待っていましたとばかりの答えはこうだ――「それはわが惑星と同じように非発光体であるにちがいない」と。そして、ここでつじつまを合わせるために、類推はぽいと反故にされてしまう。「そうじゃあるまい」と反論が出るかもしれない――「光を放たない太陽がげんにいくつも存在しているではないか」と。なるほど、少なくともそのように仮定してしかるべき理由はある。だが、問題の光を放たない太陽が[光を放つ]太陽に囲まれ、それがまた光を放たない惑星に取りまかれていると仮定してよい理由は絶対にない。そして、まさしくこういう理窟で、メドラーは天界にそれに類似したものを見出さねばならぬのである――なぜなら、彼の想像した銀河系とはまさしく上記のような状態にあるのだから。たとえ事態がそうであると認めるにしても、[なぜそうなのか]という疑問がすべての先験的《アプリオリ》哲学者たちにとって、いかに当惑すべき難題であるかを、ここで目のあたりにする思いがするではないか。  ところで、類推であろうが何であろうが、そんなものには眼をつぶって、巨大な非発光性の球体が存在することを認めるにしても、それほど巨大な球体が、そのまわりのあらゆる方向で燦然と輝く一億もの太陽から放たれる光を浴びて眼に見えるようにならないのはなぜか、という疑問が残るだろう。この疑問で責め立てられると、中心をなす太陽が実際に存在するという考えは後退せざるをえなくなったようにみえるが、そのかわりに推論がすすみ出てきて、星団の数々の太陽系はそれらすべてに共通する非物質的な重力の中心のまわりを公転するのだ、と主張するにいたった。ここでもまた、つじつまを合わせるために、類推は放棄されたのだ。わが太陽系の諸惑星は、なるほど、共通の重力を中心に公転している。だが、わが惑星は一つの物質的な太陽と関連して、またその存在の結果として、公転しているのであり、その太陽の質量はこの系の他のすべてを合わせたものに匹敵してなおあまりあるほどなのである。  数学でいう円は無限の直線からなる曲線である。しかしこの円の観念は――通例の幾何学的観点からすれば、実際的な観念とは無縁の、単なる数学的な観念にすぎぬわけだが――わが太陽系が銀河の中心にある一点のまわりを公転していると想像する場合に、少なくとも空想上われわれが扱わねばならぬ巨大な円は、まさしく[実際的な]概念であって、これ以外の概念をもてあそぶわけにはいかない。もっとも活溌な想像力の持ち主にもせよ、この言語に絶する円運動を理解しようとして、それに一歩でも近づけるかどうか、いちどためしにやらせてみるがよい! 稲妻がこの言いようもない円の周辺を[永遠に]走るとしても、稲妻はなお[永遠に]一直線上を走っていることになると言っても、べつに逆説を語っていることにはならないのである。そのような軌道上にあるわが太陽が、たとえ百万年たとうと、人間が知覚できる程度に、ほんのすこしでも直線からそれるとするような命題はとうてい受け入れがたい――ところが、われわれが信ずるように求められているのは、わが天文学史上の短期間に――つまり、ほんの一瞬とも言うべき――無にも等しいたったの二、三千年のあいだに――湾曲が眼に見えるようになったというたわごとなのである。  わが太陽系が宇宙空間を進行中であるとはいまや定説であるが、その進行方向が湾曲していることをメドラーがほんとうに確認したとしてもよい。もし必要なら、これが事実であると認めてもよいが、私が主張したいのは、それによって明らかになるのは、この事実――湾曲しているという事実だけで、それ以外の何ものでもないということである。それが[徹底的に]解明されるためには、なお数世代を要することだろうし、それが解明されたあかつきには、その湾曲は、わが太陽とその近くにある一つ、もしくはそれ以上の星とのあいだに二重ないし多重の関係が存在することを示す証拠とされるかもしれない。ところで私は安んじて予言するが、何世紀もたったすえに、太陽が空間をすすむ筋道を決定しようとするあらゆる努力は徒労であるとして放棄されることになろう。他の星々もろともに銀河の核に接近する過程で、太陽は他の諸天体との関係をたえず変えているのだから、太陽は無限に軌道の修正を強いられるにちがいないとわかれば、そんな予測を立てるのは簡単至極である。  しかし天の川以外の「星雲」を調べてみれば――すなわち、宇宙に散在する星団を全体として観察してみれば――メドラーの仮説は確認されるか、されないか? 確認[できない]のである。一見したところ星団の形はまことに多種多様であるが、強力な望遠鏡でよく調べてみると、少なくとも近似的には、それらすべての形態が球状をなしていることが判明するのであって――天体が全体としてこのように構成されていることは、それらが共通の中心のまわりを公転しているという考えと矛盾する。  ジョン・ハーシェル卿はこう言う――「そのような諸系が動的な状態にあるとする概念の形成は困難である。ところが、自転運動と遠心力がないとすれば、それらが[漸進的崩壊]の過程にあると見なさざるをえない。また一方、そういう運動や力があるとしても、系[星団のこと]の全体が一つの軸を中心に自転していることと諸系の形態とを両立させることは、そういう回転軸がなければ内部での衝突が避けがたいように思われるので、やはり困難である」と。[『天文学論考』]  ニコル博士がさきごろ「星雲」について述べた見解は、この論文で私が述べている宇宙の状態についての見解とはきわめてかけ離れているが――いま問題にしている点については奇妙に一致していて有用である。彼はこういう。 「現代の最大級の望遠鏡で星雲を眺めると、かつては不規則な形をしていたと思われたものが、じつはそうでないことがわかる。それらは球に近い形をしている。かつては楕円体に見えたものがあるが、ロス卿の望遠鏡によれば球体に見えるようになった……ところが、これらの全体的にはほぼ球状の塊である星雲について、きわめて注目すべき事態が発生している。星雲は完全な球体ではなく、不完全な球体であることが判明したのである。星雲のまわりの四方八方には多数の星があり、[それらは、ある強大な力の作用によって、一つの巨大な中心をなす塊に向けて殺到しているかのように散開している](*)」 [#ここから1字下げ] * 私が否定しているのは、メドラーの仮説のうち[とくに公転]の部分だけであると理解していただきたい。もちろん、わが星団に[いまのところ]巨大な中心天体が存在しないのなら、それは今後に存在することになろう。それがいつ存在することになろうと、それはつまるところ凝縮の核にほかなるまい。 [#ここで字下げ終わり]  各星雲の現状が必然的にどのようなものでなければならないかを、すべての物質が、すでに述べたように、いまや原始の単一に復帰しつつあるという仮説にのっとって自分自身の言葉で述べねばならぬとしても、私はきっとニコル博士がここで用いた言葉をほとんどそのまま採用することになろうが、それというのも、こういう星雲現象を解く鍵である、かの驚嘆すべき真理を私はいささかも疑っていないからである。  さてここで、メドラーよりも偉大な人物の声を借りて――つまり、メドラーのあらゆるデータなどはとっくの昔から知りつくしており、それを入念かつ徹底的に考察した人物の声を借りて――私は自分の立場をいっそう強固なものとしたい。アルゲランダー〔フリードリッヒ・ウイルヘルム・アルゲランダー(一七九九〜一八七五)はドイツの天文学者で、ベッセルの仕事を継承した〕の丹念な計算について――これこそメドラーの所説の基礎となった研究業績であるが――類まれなる総合力の持ち主である[フンボルト]は次のような見解を述べている。 「実際の、本当の、つまり遠近法によらぬ星々を観察するとき、[それらの多くの集団は相互に反対方向に動いている]ことがわかる。そして現在のところ利用できるデータによれば、天の川を構成している諸系、または宇宙全体を構成している諸星団が、発光休であろうと非発光体であろうと、とにかくいまだ知られていない特定の中心をなす天体のまわりを公転していると考える必要は少なくともない。人間は根源的な第一原因を求めるからこそ、その知性や空想をしてかかる仮説を採用せしめるのである」  ここで言及されている現象――つまり「多くの集団は相互に反対方向に動いている」という現象は――メドラーの観念ではとうてい説明しきれないが、この論文の基礎をなすものからは必然的な結果として出てくる。個々の原子の――個々の月の、惑星の、星の、あるいは星団の――[おおよその運動方向]は、私の仮説によれば、むろん、絶対に直線であり、あらゆる天体の[おおよそ]の軌道もまたすべての中心へ向かう直線であるはずだが、明らかなことは、にもかかわらず、このおおよその直線とは、いささかの誇張もなしに言うのだが、特定の曲線の無限の集積――個々の場所における直線からの無限の逸脱の集積と称してよいものからなっているのであり、そういう逸脱が起こるのは、各自が終極への旅路をすすむうちに、数限りない物質の塊のあいだで不断にその相対的位置を変えることの結果である。  つい先ほど、諸星団に関して言及したとき、私はジョン・ハーシェル卿から、次の言葉を引用した――「ところが、自転運動と遠心力がないとすれば、それらが[漸進的崩壊]の過程にあると見なさざるをえない」と。実際のところ、強力な望遠鏡で「星雲」を観測するにあたって、ひとたびこの「崩壊」なる観念をいだくと、いたるところにこの観念の確証を見出さざるをえなくなろう。星々が殺到しているように見える方向には、かならず核が見つかるし、そういう核が単なる遠近法上の現象と見あやまたれることはありえない――星団は中心に近いところほど[実際に]稠密で――中心から遠ざかるほどまばらである。手短かに言えば、すべてのものは崩壊が起きていれば、[そう見えるであろう]姿をしているのだ。しかし、一般に、これらの星団について言えるかもしれないことは、それらを見ながら、[一点を中心に軌道運動をしている]という観念を正当にいだくためには、宇宙空間の遠い領域では、[われわれ]のあずかり知らぬ力学の法則が存在するかもしれないことをまず認めてかからねばならぬということである。  しかしながらハーシェルの場合、星雲が「漸進的崩壊の過程」にあると見なすのに[一種のためらい]があることは明らかだ。だが、もし事実が――いや見かけでさえもが、星雲がこの状態にあるという推定を正当化するのなら、[なぜ]彼はそれを認めたがらないのか、という疑問が出て当然である。ただ偏見のせいにすぎないのだ――ただこの推定がまったく無根拠な先入観――無限という先入観――宇宙が永遠に安定しているという先入観――とぶつかりあうというだけのことなのだ。  もしこの論文の命題が正しいとするなら、「漸進的崩壊の過程」こそが[まさしく]万物を考えるにさいしての唯一正当な状態なのである。さて、しかるべき謙譲の念をもって、ここで言わせていただければ、事態の現状について[これ以外の]考えがどうして人間の頭にしのび込むことができるのか、私などにはどうしても考えられないのである。「崩壊の傾向」と「重力の牽引力」とは同じことの別の表現にすぎない。いずれの表現を用いるにせよ、最初の行為の反作用のことを言っているのである。物質には、その物質的性格の一部を形成していて消し去ることができない[特質]――それから[永遠に]分離できない特質ないし本能が浸透しており、この非分離の原理のおかげで、すべての原子は[永劫に]自分の相手の原子を捜し求めるさだめになっているなどと仮定する必要は毛頭ないのだ。このように非哲学的な考えをいだく必要は毛頭ないのだ。そんな俗見はさっさと見捨て、重力の原理は物質に[一時的に]付随している――拡散しているあいだにだけ――一ではなく多として存在しているときにだけ付随している――放射状態にあるときにのみ付随している――つまり、ひと口で言えば、もっぱらその[状態]にのみ付随しているのであって、いささかなりとも[それ自体には]付随していない、というふうに形而上学的に考えなければならない。この見解によれば、放射がその出発点に復帰するときには――反作用が終了するときには――重力の原理はもはや存在しないのである。ところで、事実として、天文学者は、いかなる時点においても、ここで述べたような観念に到達したことはないのだが、「もし宇宙にたった一つの天体しかなかったなら、重力なる原理が成立する理由を理解するのは不可能であろう」と主張するようなときには、この観念に近づきつつあったように思われる――すなわち、彼らの流儀で見た物質の考察から、天文学者たちは私が演繹的に到達する結論にたどりつくのである。しかしながら、ただいま引用したような、まことに含蓄にとむ発想が永らく実を結ばぬまま放置されてきたとは、私などには考えられない謎である。  とはいえ、われわれを少なからずあやまらせてきたのは、おそらく、連続性――類似性――そしてとくにこの場合には均整に対するわれわれの好みである。そして事実、この均整に対する感覚はほとんど盲目的に信を置いてよい本能なのである。それは宇宙の詩的本質である――その至上の均整美のゆえに、もっとも壮麗なる詩にほかならぬ[宇宙]の詩的本質である。さて均整と一貫性は同意語である――ゆえに詩と真理とは一つである。何ごともその真実性に比例して一貫しており――一貫性に比例して真実である。[くりかえすが、完璧な一貫性は絶対的な真理にほかならぬ]。人間は詩的本能、すなわち私が均整を求める本能であるがゆえに真理を求める本能であると主張してきたもののことだが、その本能にみちびかれるかぎり、永らく、あるいは大きくあやまちを犯すことはありえないのである。しかしながら、形や動きの表面的な均整をむやみに追求するあまり、それらを決定し支配する原理の真に本質的な均整を見おとさないように注意しなければならない。  天体は最終的には一つところで融合するだろう――ついにすべては[すでに存在する一つの壮大な中心球体]に引き込まれるだろう――という考えは、昔から、おぼろで体をなさぬかたちではあったが、人間の空想をとりこにしていたようにみえる。事実、それは[きわめて自明である]という部類に属する観念である。そういう考えは、もっとも直接かつ詳細に観察できる宇宙の各所の、一見したところ[旋回し、渦を巻く]ように見える円環運動をいささか観察するだけで、たちまち頭に浮かぶたぐいのものである。なみの教養とあたりまえの思索力の持ち主なら、おそらく一生に一度ぐらいは、このような空想じみた思いつきが、おのずと、まるで霊感のように湧き出てきて、しかもそれがきわめて深遠かつ独創的な考えのあらゆる性質をそなえているように思われるといった経験をしない者はおるまい。こういう考えは、なにも珍しくはないが、私の承知するかぎりでは、抽象的な思索のすえに出てきたものではない。反対に、それは例外なく何かを中心とする渦巻き運動から暗示を得ているゆえ、その運動の理由もまた――すなわち、[すでに存在していると見なされている]一つの球体にすべての球体が集合する[原因]は、当然のことながらやはり同じ方面――つまり、円環運動そのものに求められるのである。  そこで次のようなことが起こったのだ。すなわち、エンケ彗星〔この彗星を発見したのはフランスのP・メシアンであるが、ドイツの天文学者ヨハン・フランツ・エンケがその軌道を計算し、それが戻ってくる年月を正確に予告したので、その名を得た〕が太陽のまわりを一周するごとに、その軌道がわずかではあるが規則正しく減少することが公表されたとき、天文学者たちがほとんど異口同音に表明した見解は、問題の原因が見つかった――かの窮極的かつ普遍的な集合を物理学的に説明するにたる原理が発見された、というものであるが、くりかえせば、この集合なる事態は人間の類推的、均整的、ないし詩的本能が単なる仮説以上の何ものかとして理解すべく予定していたものなのである。  この原因――最終的な集合を説明するにたる理由――は宇宙空間に遍在する、きわめて希薄なりとはいえ、なお物質的な媒体に求めうると宣言されたのである。この媒体は、彗星の運動を徐々に遅らせ、つねにその接線力を弱め、かくして求心力を優勢にし、むろん、そのために彗星は一周するごとに太陽にますます近づき、ついには太陽に吸い込まれてしまうと言うのである。  以上はすべてまことに論理的である――媒体ないしエーテルの存在を認めるならの話だが。しかしこのエーテルなるものが想定されたのは、まことに非論理的な話だが、彗星の軌道が縮小するという観測結果を説明するのに、いま話題にした[以外の]説明方法が発見できないからという根拠によるのだ――これではまるで、それを説明する他の方法が[発見]できないのだから、どうしても他の説明方法は存在しない、と言うようなものだ。軌道を縮小させているのには無数の原因が組み合わさって働いているのに、その原因の一つとしてわれわれが知ることなくすんでしまう可能性があることは明瞭である。そのうえ、彗星が近日点を通過するとき、それが太陽の大気圏の周縁に突入するために減速されるとすることが、なぜこの現象を充分に説明することにならないのか、そのへんの納得のゆく説明はいまだになされていないと思う。エンケ彗星が太陽に吸収されるというのはありそうなことだ。太陽系のすべての彗星が吸収されることも単なる可能性の範囲外にとどまることがらではない。だが、その場合、吸収の原理は軌道の求心性に求めらるべきである――彗星がその近日点で太陽にきわめて接近することに求めらるべきである。また、この吸収の原理は太陽のごとき巨大な[球体]にはいささかも影響するものではなく、そういう球体こそが宇宙の真の物質的構成要素と見なさるべきなのである。ここでついでに言っておけば、彗星などは[宇宙の空にひらめく稲妻]ぐらいに思っておけば大した間違いはないのである。  しかしながら減速エーテルの存在、および万物の窮極的な集合がこれによって起こるとする考えは、固体である月の軌道がはっきりと縮小していることが判明したことによって裏書きされたと信じられた一時期もあった。二千五百年まえの月蝕の記録を手掛りに、この衛星の[当時の]公転速度が[現在の]それよりかなり遅いこと、ならびに、軌道上の月の運動がケプラーの法則に完全に合致し、かつ当時の――つまり二千五百年まえの――観測が正確だったと仮定するなら、月は現在それが[あるべき]位置より、ほぼ九千マイルすすみすぎていることがわかったのである。速度の増加は、もちろん、軌道の縮小を意味する。そこで天文学者たちは、この現象を説明する唯一の手掛りはエーテルにあるというわけで、その存在を信じる方向に急速に傾きかけていたところに、ラグランジュが助け舟を出した。彼は、諸惑星の配置が原因で、惑星の楕円軌道の短軸の長さは、長軸は不変のまま、変化をこうむること、また、この変化は持続的かつ振動的で――それゆえ、惑星の軌道は、円から楕円へ、楕円から円へとたえず変化する過渡状態にあることを示したのである。月の場合には、短軸は[減少]しつつあり、軌道は円から楕円へと移行しつつあるので、結果として、軌道そのものも[縮小]していることになるが、長い時間が経過するうちには、離心率が極大になり、短軸が増大しはじめ、ついに軌道は円になる。するとふたたび短くなる過程がはじまり――この過程がいつまでもくりかえされる。地球の場合には、軌道は楕円から円へと移行しつつある。事実がこのように論証されると、エーテルを仮定する必要も――またエーテルによって太陽系の不安定性を理解する必要もまったくなくなる。  私自身が[エーテル]と称してよいものを仮定したことはご記憶のとおりである。私は、つねに物質に付随してはいるが、物質の異質性によってのみ顕在化するものと理解される[影響力]のことに言及したのだ。この[影響力]の恐るべき[性質]を説明する努力はあえて放棄して――私はただ電気、熱、光、磁力、それに――生命力、意識、思考力――つまり精神性――といったさまざまな現象を、この[影響力]に帰したのである。こうなれば、ただちにおわかりのことと思うが、このように考えるエーテルは天文学者たちのエーテルとはまったく違うのである。彼らのは[物質]であり、私のはそうでは[ない]のだから。  そうなると、この物質的エーテルなる考えは、遠い昔から人間の詩的空想が予定していた万物の集合という観念と完全に袂を分かってしまったかにみえるが――この集合なるものに、健全なる哲学は、他の理由はなくとも、この詩的空想が[かつて]そう予定したからという理由からだけでも、少なくともある程度の信を置いてよかったはずである。しかし単なる天文学――単なる物理学が語ってきたことに関するかぎりでは、宇宙の循環には際限がない――つまり、宇宙には考えうるような終りがないのである。しかしながら、たとえエーテルといった純然たる副次的な原因によって終りが証明されることになったとしても、神の[適用力]を信ずる人間の本能はそのような証明に反逆したことだろう。不必要に複雑な人間の手になる芸術作品を眺めるときに経験するような不満足な気持で、われわれは宇宙を眺めざるをえなくなったことだろう。天地の創造は不完全なプロットをもつ物語のようにわれわれの眼に映ったことだろう。ところでそのような物語にあっては、大団円《デヌーマン》は主題からはずれて無縁な事件を挿入することによっておずおずともたらされるのであって、主題の中核から出てくるのではなく――支配的観念から出てくるのでもなく――主要命題の結果としてでも――また本の基本構想の不可分かつ不可避的な部分として出てくるものでもない。  さきに私は単なる表面的な均整という言葉を用いたが、ここでその意味はもっと明瞭に理解されることになろう。メドラーの仮説もその一部をなすところの通念――つまり、諸天体が渦巻き状をなして吸収されるとする考えにたぶらかされたのも、まさしくこの均整美の誘惑による。これほどあらわな物理的な概念を見捨てるとするならば、均整美をそなえた理論は万物の終りに形而上学的に内在する初めを見てとり、この万物の起原にこの終りの[萌芽]を探知し、さらには、この終りのもたらされようが、[創造行為の反作用]に比べて、より複雑――より間接的――より暖味――より非芸術的であろうと考えるのがいかに不敬のいたりであるかを感得する。  ところで、また以前の問題に戻るとするが、系は――つまり惑星を伴うそれぞれの星は――一つの巨大な原子にほかならず、宇宙球体に放射されてからの実際の原子とまさしく同じ単一を指向する傾向を有していると想像してみよう。こういう原始の原子がほぼ一直線に相互にぶつかりあうように、系をなす原子がそれぞれの凝縮の中心に向かう筋道は少なくとも一般的には直線であるとしてみよう――そしてこの原子の諸系は相互に引きあって塊になり、塊は凝固をつづけながらもなお相互に引きあっているという事態に、われわれはついに宇宙の[いま]――恐るべき現在――その現状を見るのである。  さらに恐るべき未来については、合理的な類推によって一つの仮説をもうけることができよう。各糸の求心力と遠心力の均衡は、その系が属する星団の核にある程度接近すると必然的に失われるので、そこでたちまち、混沌とした、あるいは一見混沌とした突入状態が出現し、月は惑星に、惑星は太陽に、太陽は核に重なり合うにちがいない。そしてこの突入の一般的結果は、天空に現存する無数の星が密集して、ほとんど無限に大きく、ほとんど無限に数少ない球体になるにちがいない。世界の数は測り知れぬほど少なくなるのだから、その時代の世界はわれわれの世界より測り知れぬほど大きいはずである。そのあかつきには、測り知れぬほど底なしの深淵のいくつかで、想像を絶する太陽群があかあかと燃えさかるだろう。しかしこのすべても大いなる終りを予告する前奏としての壮麗さにすぎなかろう。この終りに較べれば、私の描いた新しい創世の物語など、まことに取るにたりない。凝縮をつづけながら、諸星団はますます猛列に加速された速力で、共通の中心めがけて突進する――そしていまや、みずからの物質的雄大さと一に帰さんとする精神的渇望にのみ見合う、電気の千倍もの速力で、星族の壮麗なる残党はついに閃光を発して一つに融合するのである。避けがたい破局は間近い。  しかしこの破局とは――いったい何か? われわれは天体の集合が完成されたのをすでに見た。となれば、われわれは[諸球体から]なる一つの物質的球体が宇宙を構成し、包括していると考えるべきではなかろうか? だが、そのような空想はこの論文のこれまでの推論や考察と完全に対立するだろう。  私はすでに[適用の相互性]が絶対的なものであることを述べ、それこそが神の[業]の特質であり――それこそが神業であると断定した。これまでのところ、われわれは電気力を、その反撥力がなければ物質がみずからの目的を達成するために必要な拡散状態にとどまりえない何ものかであると見なしてきた――一口で言えば、くだんの力は物質のために――それが目的をとげるのに役立つように、あらかじめ用意されていたのだと見なしてきた。完璧な相互性という観点からすれば、物質は[もっぱらこの力のために]――もっぱらこの精神的エーテルの目的に奉仕するように――創造されたと見なしてよいはずである。物質の助けと――手段と――媒介により、また異質性のおかげで、このエーテルは顕在化し――[精神は具現化する]。特定の物質の塊が生命力を持ち――知覚力を有することになるのは、異質性を仲介にして、このエーテルの進化にのみ求められ――その進化は異質性の度合に比例するのであるが――あるものは、われわれが[思考]と称しうるものを含むような知覚の程度に達し、かくして意識にまでも到達するのである。  こういう見方からすれば、われわれは物質を目的としてではなく――手段として考えることができる。すると物質の目的は拡散のなかにあったと見なすことができ、単一に復帰するとともに、その目的は終わるのである。絶対的に凝縮した諸球体からなる球体は[目的を有さない]だろう――ゆえに、それは一瞬として存在しつづけることはできまい。ある目的のために創造された物質は、その目的が達成されたあかつきには、もはや物質でありえないことに疑問の余地はなかろう。物質は消滅し、神のみが遍在する、と考えようではないか。  神が構想するあらゆる作品は、その特定の意図とともに存在し、それとともに消滅するということは、私にとってはことさら自明であるように思われる。また、最終的な諸球体からなる球体が[目的を有さない]ことを理解するなら、大多数の読者は「[ゆえに]、それは一瞬として存在しつづけることはできまい」という私の文句に納得されるだろうと私は信じて疑わない。とはいえ、物質が一瞬にして消滅するというような驚嘆すべき考えは、最高の知性の持ち主にしても、かようにまったく抽象的な論拠だけでは、即座に理解しうるていのものではなかろうから、ひとつこの考えをもっと別の、そしてもっと常識的な観点から見ることにしたい――つまりこの考えが、あるがままの物質の帰納的《アポステリオリ》な考察と、いかにぴたりと美しく符合するかを見ることにしたい。  以前に私はこう書いた――「引力と斥力によってのみ、われわれは物質を知覚しうるのであるから、物質は引力と斥力としてのみ[存在する]――つまり引力と斥力こそが物質[である]と想定することは正しい。なぜなら、論理上、物質という用語と『引力』ないし『斥力』という用語は同義語であり、したがって相互に置換しうるのであって、それによって不都合が生ずる場合は考えられないからである」と。  さて、この引力の定義そのものが分割性――つまり部分、粒子、原子の存在を示唆している。というのは、ここで引力は「各原子等々がその他の各原子等々に」一定の法則にしたがって向かう傾向として定義されているのだから。部分が[ない]ところには――絶対的な単一の状態にあるところでは――一なる状態が満足されているところでは――引力はありえない――以上は充分に証明ずみであり、あらゆる哲学の認めるところである。すると、その目的が成就され、物質がその原始の[一]なる状況に復帰するときには――しかしてその状況とは、斥力を有するエーテルがもはや無用となり、究極的にすべてを集合させる引力の圧倒的な力(ゆえに、重力は最強の力である)が支配的になってエーテルを排斥する、かの偉大な日が到来するまで原子を相互に分離させておくことだけにその活動領域と能力を限定されているこのエーテルが排除されることを前提としている状況のことであるが――さて、物質がついにエーテルを排除して、絶対的な単一に復帰するとき――そのとき物質は(しばらく逆説的な言い方をすれば)引力もなければ斥力もない物質――別言すれば、物質を有さぬ物質――さらに別言すれば、もはや[物質ではなくなる]のである。単一に沈みゆくにさいして、物質は同時に、有限なる知覚力が知覚しうるかぎり単一がそうあらねばならぬところのかの無に――そこからのみ物質が生成され――それによってのみ神の意志によって物質が[創造された]としか考えられない物質的虚無に――沈みゆくのである。  ところで私は再度提案する――諸球体からなる究極の球体は一瞬にして消滅し、神のみが遍在することになろう、と考えようではないか、と。  が、ここで万事が終わるのか? そうではない。宇宙の集合と消滅について、われわれがただちに考えうることは、新たな、そしておそらくまったく異質な一連の状況が――再度の創造と放射と自己復帰が――再度の神意の作用と反作用が――つづいて起こるであろうということである。諸法則に卓越するかの普遍法則、周期性の法則に想像力をゆだねて、ここにあえて考察してきた過程は永遠に、永遠に、永遠に反復され、神の心臓が鼓動するごとに、新しい宇宙が悠然と出現し、また無に打ち沈んでゆくという信念をいだいて――あるいは、そういう希望にふけって――いけない正当な理由があるだろうか?  ところで――この神の心臓とは――いったい何か? [それはわれわれ自身の心臓なのだ]  この考えが一見不敬であるからといって、われわれの魂を萎縮させ、かの冷静な意識の働きを停止させたり――かの深く静謐な自己省察をおろそかにしてはならない――というのは、そういう機能を働かせることによってのみ、われわれはこのもっとも崇高な真理の面前に伺候し、その尊顔をつらつら拝することを望みうるのだから。  ここにいたって、われわれの結論が依拠しなければならぬ[諸現象]は純粋に精神的なものの影であることになるが、だからといって、それだけ充分に実質的でないわけではない。  われわれは現実世界のさまざまな因果のさなかをさまよい歩いており、それを取り囲んでいるのは、さらに広漠たる――きわめて遠い昔の、無限に恐ろしい一つの宿命の、漠然とはしているが消え去ることのない[思い出]なのである。  われわれは青年期をことにこのような夢想につきまとわれてすごすが、それを夢だと思いこむことはない。われわれはそれが思い出であることを[知っている]。[青年期においては]両者の違いはあまりにも明瞭なので一瞬たりとも戸惑うことはない。  この青年期がつづくかぎり、[われわれは存在する]という感じほど自然な感情はない。われわれはそのことを[完全に]理解しているのだ。われわれが存在しなかった時期があること――あるいは、たまたまわれわれがまったく存在しなかったことがありうること――これは、青年期にあっては、まことに理解しがたい考えなのである。なぜわれわれが存在[しない]ことがありうるかということは、[壮年期になる]までは、あらゆる疑問のうちでいちばん答えがたいものなのである。存在――自己の存在――時間の誕生から永劫の未来にまでわたる存在――それは壮年期に達するまでは、まことに当然で疑問の余地ない事態であるようにみえるのであり――[そうみえるのは、そのとおりだからである]  だが、やがて因習的な世間知がわれわれの夢の真実を破る時期がやってくる。同時に、疑惑、不安、不可能などの諸観念が訪れる。そして言うのだ――「おまえは生きているが、生きていなかったときもあるのだ。おまえは創造されたのだ。おまえより偉大な英知の持ち主が存在するのだ。そしてこの英知の介在によってのみ、おまえは生きているのだ」と。こういうことを、われわれは理解しようとつとめるが、できない――[できないのだ]、こういうことは真実ではなく、したがって必然的に理解不能なのだから。  いやしくも思考する人間なら、その思考生活の輝かしい一時期に、[おのれの魂より偉大な]何かの存在を理解し、信じようとして、その無益な努力の荒波に呑まれておのれを見失いかけた経験のない者はなかろう。何びとにも、その魂が他の魂より劣ると自覚することは絶対に不可能であり、そのような考えには強烈で圧倒的な不満と反逆心がつのること――これは、人間だれしも完璧性に憧れることを思い合わせると、物質の場合とまったく同様に、原始の単一をめざす苦闘にほかならぬこと――また、いかなる魂も他の魂に劣ることはなく――何ものもいかなる魂より優ることもなく、またそんなことはありえず――それぞれの魂は部分的にはそれ自身の神――それ自身の創造者であり――一口で言えば、神――かの物質的にして精神的な神――は[いまや]拡散状態にある宇宙の物質と精神のなかにのみ存在し、さらに、この拡散状態にある物質と精神の再集合は[純粋に]精神的にして独自な神の再構想のこころみにほかならぬことの、人間が証明と称しているものよりはるかに卓越した一種の証拠であると、少なくとも私には思われるのである。  こういう見方によって、こういう見方によってのみ、われわれは神の不公平――苛酷な運命という謎を理解しうるのである。この見方によってのみ悪の存在が理解可能になるのだが、またこの見方によって、それは[より]――堪えうるものともなるのである。そうなると、はかない望みではあるが――[喜び]を拡張しようと望み――われわれ自身の目的をよりよく達成しようとして、われわれがみずからに課してしまった[悲しみ]に、われわれの魂はもはや反逆することはなくなる。  私はさきに青年期にわれわれにつきまとう[思い出]について語った。それは時には壮年期になってもわれわれに追いすがり――徐々に明確な姿をとり――ときおり低い声でわれわれにこう語りかける。 「時間の暗夜のころに、ある時期があって、そのとき、いまなお存在する一人の存在者がおられたが――それは絶対的に無限な空間の絶対的に無限な諸領域に群がる絶対的に無限な数の同様の存在者の一人であった。自己の存在の喜びをいくらかなりと拡張することは――おまえの場合がそうであるように――この存在者のよくするところではなかったし、また今日でもそうなのだ。しかし(幸福の絶対量はつねに一定であるが)ちょうどおまえが自分の喜びを大きくしたり強めたりすることができるように、この聖なる存在者は同様な能力をお持ちであったし、現在もお持ちであるので、この方は自己の無限性を自己集中とほとんど無限の自己拡散の反復と化されたのだ。いまおまえが宇宙と呼んでいるものは、この方が自己を拡張されている現在の様態であるにすぎない。いまやこの方は自己の生命を無限の不完全な喜びを介して――おまえがこの方の創造物と呼んでいるが、じつはその方自身の無限の個別化にほかならない、想像もつきかねる多数のものの部分的で苦痛のないまじった喜びを介して――おのれの生命を感得されておられるのだ。これらすべての創造物は――[そのことごとくは]――おまえが生物と呼んでいるものも、おまえには生命の活動が見られないからだけの理由で生命がないと見なしているものも――それらすべての創造物は、大なり小なり、喜びと悲しみを感じる能力をそなえているのだ――[だが、それらの知覚力の総和はかの聖なる存在者が自己自身に凝縮するときに当然の権利として有する幸福の量と正確に等しいのである]。また、これらの創造物は、程度の差こそあれ、みな意識をそなえているのだ。まず第一に、自己が自己であることを感得する意識、第二に、そしてかすかで曖昧な一瞥によるものだが、いま問題にしている聖なる存在者との同一性の意識である。これらの無数の個々の意識が――空に輝く星たちともろともに――[一つ]に融合することになるまえにすごさなければならぬ長い歳月のあいだに、前者の意識は弱くなり、後者の意識が強くなるものと想像してみることだ。自己同一性の意識がしだいに普遍的な意識に融けこみ――たとえば、人間はいつのまにか自分を人間であるとは感じなくなり、ついには自分の存在をエホバの存在と同一視するにいたるような輝かしい勝利の時代を迎えるものと考えてみたまえ。ところで、すべては生命――生命――生命のうちなる生命であって――小なるものは大なるもののうちに、そしてすべては聖霊のうちにあることを忘れたもうな」 [#ここから1字下げ] * 注 自己の同一性を失うことを考えるときに生ずる苦痛は、さらに考えを押しすすめて、先に述べたような過程が、個々の意識が他のすべての意識(すなわち宇宙)をおのれの意識に吸収する過程にほかならないことに思いつけば、たちまち霧散してしまう。神は遍在し、すべては神となるのだ。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  エイロスとチャーミオン(*)の会話 [#ここから1字下げ] 〔* シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』に登場するクレオパトラの忠実な二人の侍女の名からの借用。ただしポオの綴りは少し違っている。なおエイロスとチャーミオンはポオ唯一の詩劇『ポリシアン』にも、クレオパトラの死を悼む侍女として引合いに出されている〕 [#ここで字下げ終わり]   われ汝らに火をもたらさん     ――エウリピデス『アンドロマケ』 【エイロス】 なぜ私をエイロスと呼ぶのですか? 【チャーミオン】 これからは、あなたはいつもその名で呼ばれるのです。それに、あなたも[私の]地上での名前を忘れて、私のことをチャーミオンと呼ばねばなりません。 【エイロス】 これはほんとに夢ではないのですね! 【チャーミオン】 私たちには、もう夢などはないのです――その不思議については、すぐにも話してあげますけれど。とにかく、あなたが生き生きとして、理知的にみえるのは私には喜ばしいことです。あなたの眼から影の薄皮が落ちたのです。元気をお出し。こわがることは何もないのです。あなたにあてがわれた無感覚の期限は切れたのです。あすには、[新しい]生命のこのうえない喜びと驚きをあじわわせてあげましょう。 【エイロス】 そうです――私はもう無感覚ではない――まったく、そうではありません。あのはげしい胸のむかつきも、おそろしい暗黒もはや消えて、「多くの水の声」〔ヨハネ黙示録「その頭《かしら》と頭髮《かみのけ》とは白き毛のごとく雪のごとく白く、その目は炎のごとく、その足は炉にて焼きたる輝ける真鍮のごとく、その声は多くの水の声のごとし」(一・一四〜一五)、また「多くの水の音のごとく、大いなる雷《いかずち》の声のごとし」(同一四・二)〕のような狂おしいばかりに烈しい恐怖の音もはや聞こえません。でもチャーミオン、私の五官は[新しいものを]あまりにも鋭敏に感じとり、すっかり戸惑っています。 【チャーミオン】 二、三日もすれば、それもすっかりなおります――でも、私にはよくわかります。同情もします。いまあなたが経験していることを私が経験したのは、地上流に数えて十年もまえのことですのに――それでも、あのときの記憶がまだ消えやらないのですから。でも、あなたが天国で受けるさだめの苦痛は、それですべてなのです。 【エイロス】 天国で?〔原文ではAidennであるが、普通の英語の辞書にはない。アラビア語のAdn(Aden/Eden)に由来し、死後に霊魂が住むところ、すなわち「天国」を指す〕 【チャーミオン】 天国で、です。 【エイロス】 おお神よ! 私をあわれんでください、チャーミオン! 私はあらゆるものの荘厳さの重みに――いま知ることになった未知なるものの荘厳さの重みに――厳然として確実な現在と融合した不確かな未来の荘厳さの重みに喘いでいるのです。 【チャーミオン】 いまは、そのような思いに心わずらわすのはおやめなさい。そのことについては、あす話しあうことにしましょう。あなたの心は揺れ動いているのです。記憶だけを働かせば、そういう動揺もおさまるでしょう。まわりを見たり、先を見たりしないで――ただ、うしろだけを見なさい。あなたを私たちのもとに送りこんだ、あのとほうもない事件の詳細を私は知りたくてたまらないのです。その話をしてください。あんなにも悲惨に消え失せた、あの世界のなつかしい言葉で、なつかしいことどもを語りあいましょう。 【エイロス】 ああ、恐怖、また恐怖! ――あれはほんとに夢ではない。 【チャーミオン】 もう夢はないのです。みんなは私の死をひどく悲しんだでしょうか、エイロス? 【エイロス】 悲しんだか、ですって、チャーミオン? ――ええ、とても。あの万事が終わるときまで、あなたの一家のうえには、ひどく重苦しい悲しみの雲が厚くおおっておりました。 【チャーミオン】 その最後のときのこと――それについて話してください。破滅したということのほか、私が何も知らないことをお忘れなく。人間の世界に別れを告げ、墓場をへて闇夜の世界へ入ったとき――そのとき、もし私の記憶が正しいなら、あなたたちを襲った災害をだれもが予想していなかったはずです。でも、ほんとのところ、私は当時の思弁哲学の動静についてほとんど知らなかったのです。 【エイロス】 おっしゃるとおり、あのような災害はまったく予想されていなかったのです。でも、類似の不幸な出来事なら、昔から天文学者たちの議論の対象になっていました。言うまでもないことですが、あなたが私たちのもとを去ったころでさえ、万物が最後には焼き尽くされて消滅することについて語る、あの聖なる書物の一節〔ルカ伝「天より火と硫黄と降りて、彼等をことごとく滅せり」(一七・二九)。ペテロ後書「その日には天とどろきて去り、もろもろの天体は焼け崩れ、地とその中にある工《わざ》とは焼けつきん」(三・一〇)〕は地球という天体にかぎってのこと、と人間はみんな理解していたのです。でも、破滅の直接の原因については、あの当時から、彗星には火焔の脅威がないとする天文学の知識のところで思索は停止していました。彗星の密度がきわめて希薄であることは確実視されていました。彗星が木星の衛星のあいだを通過するとき、衛星本体にも、その軌道にも見るべき変化が起こらないことが観測されていたのです。長らく、私たちはこういうさすらい星を考えられぬほど希薄なガス状の物体であるとみなし、たとえ接触したところで、堅牢なわが地球はなんら危害をこうむることはあるまいと考えていました。接触など、眼中になかったわけです。というのは、彗星の組成は正確にわかっていたからです。火による破滅の脅威を彗星に求めることは、長年にわたって、受け入れがたい考えとされていたのです。ところが近年になると、どういうわけか驚異の念と奔放な空想が人類のあいだで活溌になり、天文学者が[新しい]彗星〔ポオは一八三五年八月に出現したハレー彗星を見ていたかもしれない〕の出現を公表したとき、ほんとうの恐怖が蔓延したのは少数の無知な人たちのあいだだけとはいえ、それでも、この公表は言い知れぬ不安と疑惑の念をもって一般に受け止められたのでした。  この奇妙な天体の諸要素はただちに計算され、近日点において、その軌道がきわめて地球に接近することをすべての観測者が認めたのです。接触が避けがたいと断固として主張した、それほど著名ではない二、三の天文学者もいました。この情報が人びとに与えた影響について、私はとうていうまく説明できかねます。日ごろ世俗的なことばかり考えてきた頭ではとうてい理解しかねるこの新説を、人びとは二、三日のところ信用しようとはしませんでした。でも、しごく重大なことについての真実は、いかなる愚かな者にも日ならずしてわかるようになるものです。ついに、誰もが天文学上の知見に嘘がないことに気づき、彗星を待ちもうけるようになりました。最初のうち、その接近の仕方はさほど速くはみえず、またその外見もさほど異様にはみえませんでした。それはにぶい赤色で、尾らしきものもほとんど見えなかった。七日か八日のあいだ、その見かけの直径はほとんど増加せず、色がいくらか変化しただけでした。そのうち、人びとは日々の仕事をそっちのけにして、哲学者たちのますます熱のこもる彗星の性質についての議論にすっかり興味を奪われることになりました。ひどく無知な連中でさえ、なけなしの知恵をしぼって議論に参加するありさま。[こうなると]学者たちも、自分の知能や才覚を恐怖をしずめるためとか、自説を補強するためとかには使わなくなりました。彼らは正しい知見を求め――それを渇望するようになったのです。[真理]の女神は純粋な力と、すぐれた威厳をもって立ち現われ、賢者はそのまえに頭をたれ、賛美したのです。  予想される接触の結果として、地球およびその住人が重大な損害をこうむるとする意見は賢者たちのあいだで次第に根拠を失ない、いまや賢者たちは一般大衆の理性と空想を意のままに左右することができるようになりました。彗星の[核]の密度は地上のいかなるガスよりも希薄であると説かれ、同種の彗星が木星の衛星のあいだを難なく通過したことが強調され、そのために恐怖が大いにしずめられることになりました。神学者たちは、恐怖にかられて真剣になり、聖書の予言に思いをいたし、前例のない率直さと飾り気のない態度で、人びとに予言について語りかけました。地球の破滅が火によってもたらされる定めであることが、誰もの確信を強化せずにはおかぬ熱意をもって力説されたのです。それに(誰もが知っていたように)彗星は火気をおびていないという真実が、予言された大災害の恐怖をしずめるのに大いに役立ちました。また注目してよいことは、彗星の出現のたびにきまってはびこる謬見――悪病と戦争が起きるとする謬見は――このときばかりは影をひそめていたことです。まるで発作的な努力によって、理性は迷信をその王座から追放してしまったかのようでした。  接触によっていかなる小災害がもたらされるかが当面の重要問題でした。学者たちは予想される事態として、わずかばかりの地殻変動、気候の変化、それに伴なう植物の異変、それに地磁気と電気に及ぼす影響について語りました。多くの人たちは、あらわに知覚できるほどの影響はあるまいと考えました。このような議論がおこなわれているうちにも、当の対象は次第に接近し、見かけの直径は大きくなり、輝きはいっそう増してきました。それが近づくにつれ、人類の顔色は青ざめました。人間のあらゆる営みは中断されました。  この彗星が、ついに、これまでの記録にあるいかなる彗星よりも大きくなったとき、人びとの感情に大きな転機が訪れました。いまや人びとは、天文学者が間違っているかもしれないという未練がましい希望はすて、災害の必然性を信じるようになったのです。彼らの恐怖の空想的な部分は消えたのです。もっとも豪胆な者の心臓でさえ、その胸のなかで激しく脈打ちました。しかし、たった二、三日のうちに、こういう感情はもっと耐えがたい感情に変貌しました。[通例]の思考はもはやこの奇妙な天体には適用できなくなったのです。その[歴史的な属性]は消えたのです。それは恐るべき[斬新な]感情で私たちを圧倒したのです。私たちはそれを天界における天文学上の現象としてではなく、私たちの心に忍び寄る悪夢、頭におおいかぶさる影として見たのです。彗星は、信じがたいほど急速に、地平線から地平線へとまたがる巨大で希薄な焔のマントといった性格をおびてきたのです。  また一日がたち、人びとは安堵の吐息をつきました。私たちがすでに彗星の影響下に入ったことは明らかでしたが、私たちは生きていたのです。それどころか、全身は不思議なほどしなやかになり、心は活気にみちてくるのでした。私たちの恐怖の対象がきわめて希薄であることは明白でした。というのは、それを通してあらゆる天体ははっきりと見えたからです。そのうち、地上の植物はあらわな異変を示し、これを予言した賢者たちの先見の明に信頼が寄せられました。前例のないことですが、ありとあらゆる植物の葉が異常に豪勢に茂りはじめたのです。  それからまた一日がたち――それでもなお災いはその全貌をあらわにはしませんでした。いまにも彗星の核が地球に達することは明瞭でした。すべての人のうえに大きな変化が訪れ、その最初の[苦痛]の感覚こそが、やがて全人類を襲うことになった悲嘆と恐怖の異様な先触れでした。この最初の苦痛の感覚とは、ひどく胸と肺臓が締めつけられるような感じと、耐えがたいほど肌が乾燥することでした。地球の大気が甚大な影響を受けていることは否定しがたいことで、この大気の構成と、それがその後どういう変化をこうむるかが、いまや議論の焦点となりました。そして調査の結果は、全人類の心に電撃のような強烈な恐怖の衝撃を伝えました。  私たちをとりまく空気は二十一パーセントの酸素と七十九パーセントの窒素からなっていることはかなり以前から知られていました。酸素は燃焼の根元で、熱の源泉ですが、同時に動物の生命を維持するのに絶対に不可欠なもので、自然のなかでもっとも強力かつ活力にとんだものです。反対に窒素は、動物の生命を維持しないばかりか、火を燃やすこともありません。酸素が異常に過剰になると、私たちが経験したように、生気が昂揚することが確認されました。恐怖がまきおこったのは、こういう考えを押しすすめ、拡張解釈したためでした。[窒素が完全になくなったら]どういう結果になるだろうか? 万物を焼きつくす抗しがたい燃焼がいたるところで発生する――となれば、聖書の予言する、火による恐るべき破滅の宣言が、なにからなにまで成就することになります。  ついに鎖を解かれた人間の狂気のさまを、いまさらこと細かに語る必要があるでしょうか、チャーミオン? 以前には私たちの希望をそそった彗星の希薄さが、いまや深い絶望の源泉となったのです。この捉えがたいガス状の気体に私たちは、はっきりと運命の成就を見てとったのです。とかくするうちに、また一日がすぎ――それとともに最後の希望の影も消え失せたのです。急速な空気の変化に私たちは喘ぎました。狭い血管のなかを赤い血が狂暴に荒れ狂いました。すべての者は強度の精神錯乱におちいり、威嚇する天に向かって両手をさしのべ、打ち震えながら絶叫するのでした。が、破壊者の核はすでに地上に達していたのです――この天国においてさえ、それを語ると身が打ち震えるのです。手短かに話します――あの圧倒的な破滅が速かであったように。一瞬のうちに、すさまじい光線が万物に訪れ、それを貫き通したのです。それから――ああチャーミオン、偉大なる神の荘厳さのまえに、ぬかずこうではありませんか――それからです、神みずからの口から発せられたかのような叫びが、あたりに響きわたったのは。私たちを包んでいた大気は一瞬のうちに一種の強烈な焔となって燃えあがり、その比類ない明るさと熾烈な熱気ときては、天国に住む天使の純粋な知識をもってしても、とうてい名状しがたいものでした。こうして、すべては終ったのです。 [#改ページ]  モノスとユーナ(*)の対話 [#ここから1字下げ] 〔ともに「一」を意味するギリシア語とラテン語の形容詞を名詞化したもの〕 [#ここで字下げ終わり]   メロンタ・タウタ(これらは未来に生ずべし)    ――ソフォクレス『アンチゴネー』 【ユーナ】 「生まれ変わる」ですって? 【モノス】 そうだ、うるわしのユーナ、いとしのユーナ、「生まれ変わる」のだ。この言葉の神秘な意味を、牧師たちの説明などには耳をかさず、私は長らく考えていたのだが、ついに死そのものがその秘密をといてくれた。 【ユーナ】 死ですって? 【モノス】 いとしのユーナ、なんと奇妙に、そなたは私の言葉をくりかえすことか! それに、そなたの足は小刻みに震え――そなたの眼は歓喜のないまじった不安をたたえているではないか。そなたは永遠の生命の壮麗なめずらしさに戸惑い、圧倒されているのだ。そうだ、私は死について語った。昔はなべての者の心に恐怖をもたらし――なべての楽しみを萎えさせた言葉が、ここではなんと特異なひびきをもつことか! 【ユーナ】 ああ、死、宴の席にはかならず姿をみせたあの妖怪〔「妖怪」とは具体的には頭蓋骨のこと。人間に死を思い出させるため、死の警告(memento mori)として、されこうべを宴の席に持ち込む古くからの習慣が西欧にはあった〕。モノス、私たちはなんとしばしばその本性について思いふけったことでしょうか! 死はなんと理不尽に人間の幸福に待ったをかけたことでしょうか――「そこまで、それから先はだめ」と声をかけては! ああ、私のモノス、私たちの胸に燃えさかった、あの真摯な愛――それがはじめて芽生えたとき、幸福に酔いしれて、愛が深まるにつれて幸福感も深まるものと信じこんでいたのに、それもはかない夢でした! ああ悲しいかな、愛がつのるにつれ、私たちを永遠に離れさせる、あの不吉な瞬間を恐れる気持もつのってきたのです! そして、やがては、愛することが苦痛になってきたのです。憎しみあっていたほうが、まだしも救いだったのでは。 【モノス】 ここでは、そんな悲しみについて語るのはやめるのだ、愛するユーナ――私の、いまや永遠に私のものなるユーナ! 【ユーナ】 でも、過ぎし悲しみの思い出は――いまの喜びではないのですか? 過ぎし日のことについて、私には話すことがいっぱいあります。なかでも、あなたが死の暗い谷間と闇を通っていった道中で、どんなことが起こったか、私は知りたくてたまらないのです。 【モノス】 このモノスがうるわしのユーナの問いに答えなかったことがあるだろうか? いっさいを、こと細かに話してあげよう――だが、このおぞましい話をどの時点から始めればよいのか? 【ユーナ】 どの時点から? 【モノス】 そなたが言ったのだ。 【ユーナ】 モノス、あなたの言うことがわかります。死のおかげで、私たちは二人とも、定めがたいことを定めようとするのが人間の性《さが》だと知ったのです。命がやんだ瞬間から始めてください、などとは言いません――熱病があなたを見かぎり、あなたが息もせず、身動きもしない無感覚に落ちてゆき、私があなたの青ざめたまぶたを愛のこもった指でそっと押さえた、あの悲しい、悲しい瞬間から始めてください。 【モノス】 まず最初に、ユーナ、あの当時の人間たちの一般的状況についてひと言。そなたも覚えているだろうが、私たちの先祖のあいだの賢者の一人か二人が――世間でこそ認められていなかったけれども、真の賢者だった一人か二人が、人間の文明の進歩について「向上」なる言葉を用いることの妥当性にあえて疑問を呈したのだ。人類の滅亡に先立つ五、六世紀にわたり、各世紀に強力な知性が出現して、いまの私たちの解放された理性からすれば当然至極のことではあるけれども、ある真理を含んだ原理を――人類は自然の法則を支配するより、むしろ自然の法則に従うべきだ、という原理を大胆にも主張したのだ。長い間をおいて、ときおり偉大な精神が出現し、実用科学における進歩なるものは真の有用性という観点からすれば、ことごとく退歩であると見なしたのだ。ときおり詩的知性――現在の私たちには、なにものより卓越していたと思われるあの知性――私たちにとってはもっとも永続的な重要性を有していた諸真理は例の[類推]によってしか把握できず、またそれは想像力にだけ力強く語りかけるけれども、孤高な理性には無用の長物でしかなかったからだが――そういう詩的知性がときおり世にあらわれ、哲学の漠然たる観念の進展に一歩先んじて、知恵の木や、死をもたらす禁断の木の実について物語る神秘的な寓話のなかに、魂が幼稚な段階にある人間にとって知識がいかに不似合いなものであるか、という明解な教訓を読み取ったのだ。こういう人種――すなわち詩人たちは――「功利主義者」たち〔ベンタムやミルなど〕に蔑すまれながら生き、そして死んでいったのだが――こういう粗野な衒学者たちは、蔑すまれた者たちにこそ与えられてしかるべき権利を横領していたのだ――こういう人たち、つまり詩人たちは、人間の欲望が素朴であっただけにその喜びも強烈であった遠い昔を――[享楽]などという言葉はまだ知られず、幸福という言葉が強く荘厳なひびきをもっていた日々を――青い川が堰とめられることなく、人の手が加えられたことのない山々のあいだを縫って、遠い寂寥《せきりょう》たる人跡未踏のかぐわしい原生林へと流れていた、あの神聖・荘厳・至福の時代を――はげしく、しかしなお分別を失うことなく、恋こがれていたのだ。  しかし混乱した世間一般の風潮から超然としていたこういう例外者たちは、そういう風潮に反対することで、かえって混乱を助長することになっただけだった。悲しいかな、私たちは邪悪な時代のうちでもことさらに邪悪な時代に出くわしたのだ。大いなる「運動」――それが合言葉だった――がつづいた。それは精神的にも肉体的にも病める騒乱だった。技術――あらゆる技術――が支配的になり、ひとたび王座につくと、こんどは技術を権力の座に押しあげた知性を鎖でしばりあげてしまったのだ。人間は自然の偉大さを認めないわけにはいかなかったので、その自然の四大要素を支配し、その支配権をますます強化できるようになると、まるで子供のように有頂天になってしまった。おのれを神のごとき者と空想して得意になっているうちに、人間は幼児的な愚かさにとらわれてしまったのだ。人間がおちいった混乱の原因から容易に想像がつくように、人間は体系とか、抽象とかに蝕ばまれることになったのだ。人間は一般論のとりこになったのだ。数ある奇想のうちでも、ことに万民平等なる観念がはびこることになった。類推を無視し神をはばからず――天と地の万物にあまねく認められる[階級]の法則が声を大にして警告したにもかかわらず――民主主義をひろくゆきわたらせようという企てがなされたのだ。しかもこの悪は諸悪の根元たる知識から必然的に出てきたのだ。人間は知り、かつ謙虚であることはできない。そのうちに、無数の煙を吐く都市が出現した。緑の葉は熔鉱炉の熱い吐息をあびて萎えた。美しい自然の容貌は忌わしい病気にかかったようにゆがんだ。うるわしのユーナ、強引で極端なものをきらう人間の感覚がたとえ惰眠をむさぼっていたにもせよ、ここにいたっては気づいてしかるべきだった、と私は思う。私たちは[審美眼]を誤用したため、というより学校で[審美眼]の養成を無視したがために、私たちはみずからの破滅を用意したようなものだ。というのは、事実上、こういう危機にさいしては審美眼だけが――純粋知性と道徳観との中間に位し、それを無視することが絶対に好ましい結果をもたらすことのないこの機能だけが――くりかえせば、この審美眼だけが、私たちをおもむろに美へ、自然へ、そして生命へと連れもどすことができたはずなのだ。だが、ああ惜しむべきは、プラトンの純粋な思弁的精神と雄大な直観力だった! ああ惜しむべきは、プラトンが魂の教育には不可能だとしたμουσικη(音楽)だった! ああ惜しむべきは、プラトンと音楽だったのだ――なぜなら、この二つがなによりも必要とされていたとき、この二つがもっともないがしろにされ、軽視されたのだから(*)。 [#ここから1字下げ] *「幾世代にもわたる経験がすでに見出した例のものよりすぐれた〔教育方法〕を見出すことは困難であろう。すなわち、それは肉体に対する体育と魂に対する音楽に要約することができる」――プラトン『共和国』第二巻。「以下の理由によって音楽教育は不可欠である。すなわち、音楽はリズムとハーモニーをもっとも直接的に人間の魂に滲透させ、魂にしっかりとくいこみ、魂を[美]でみたし、人間を[美しい精神の持ち主]にするからである……そういう人間は[美しいもの]を称え、うやまい、それを喜びをもって魂に受け入れ、それを滋養にし、[自分の状況を音楽に同化させるだろう]」――同、第三巻。音楽は、しかし、アテネ人のあいだでは、われわれのあいだにおけるよりも、はるかに広範囲な意義を有していた。それは拍子や音程のハーモニーのみならず、それぞれきわめて広い意味においてだが、詩の用語、感性、構成なども含んでいた。彼らにとっての音楽の勉強は、事実上、審美眼一般の育成――美しいものを認識する能力の育成であり――真にのみかかわる理性の訓育とは別ものであった。 [#ここで字下げ終わり]  私たち二人がともに愛する哲学者パスカルは「われわれの論証のすべては、結局のところ感情にゆだねられることになる」〔『パンセ』五三〇〕と語ったが、まことに至言である! そして時間さえあったなら、自然な感性が学校で教える粗野な数学的理性にふたたび打ち克つことも不可能ではなかったのだ。だが、実際はそうはならなかった。過剰な知識が誘因となって、世界は時期尚早な老年期を迎えることになったのだ。人類の大多数はこれに気づかなかったか、あるいは、不幸ながら貪欲に生きて、これに気づかぬふりをしていたのだ。ところが、地球の歴史から私自身が読みとっていたのは、高度に文明化することの代償は広範囲にまたがる廃墟であるということだった。素朴で辛棒強い中国を、建築を得意としたアッシリア、天文学を誇ったエジプト、その両者のいずれより巧者な、あらゆる技術の母なるヌビア〔ポオの時代の多くの学者は、エチオピアやヌビアの文化がエジブト文化に先行すると考えていた〕と比較することによって、私は人類の宿命を予知していた。これらの諸地域の歴史(*)に、私は未来からの光を見てとったのだ。後者の三地域における独特の人工性は地球の局所的な病気だった。そして、そのいずれもが滅亡したのは、局所的な対症療法だったと思われる。しかし全世界が汚染されたとなれば、死による再生以外には考えられなかった。類としての人間が消滅しないためには、人間は「生まれ変る」必要があると私はみたのだ。 [#ここから1字下げ] *「歴史」(history)とは「認識すること」を意味するギリシア語ιστορειυから出ている。 [#ここで字下げ終わり]  さて、そういうときだったのだ、いとうるわしく最愛のユーナ、私たちが毎日のように魂をすっぽりと夢にくるんですごしたのは。そのときだったのだ、たそがれどきに、来たるべき日々のことを――技術のせいであばただらけになった地球の表面が、そのごつごつした醜悪さを一掃する唯一の手段である火による浄化(*)をへて、天国のような緑と山並みとほほえむ海におおわれて、ようやく人間にとってふさわしい住みかとなる日々のことを語りあったのは――そしてこのさい人間とは、死によって浄化された人間――その高められた知性にとって知識はもはや有毒ではない人間――償いをすませ、再生し、幸福で、いまや不死身でありながら、なお[肉体]をそなえた人間のことだ。 [#ここから1字下げ] *「浄化」(purification)という言葉の語根は「火」を意味するギリシア語πυρとの関連で用いられているようである。 [#ここで字下げ終わり] 【ユーナ】 その会話のこと、私はよくおぼえてます。でも、火による壊滅の時期は、私たちが信じたほどには、またあなたのおっしゃる頽廃が私たちに確信させたほどには、早くは訪れませんでした。あなた自身も病気になり、墓場に運ばれ、あなたの忠実なこのユーナも、すぐにあなたのあとを追ってかしこに行きました。あれからもう一世紀がたち、その一世紀が過ぎたいま、やっと私たちはまたいっしょになれたのですが、私たちの眠れる感覚にとっては、その長さも耐えがたいほどではありませんでした。それでも、モノス、やはり一世紀はたったのです。 【モノス】 いや、むしろ茫漠たる無限のなかの一瞬と言ったほうがよい。たしかに、私が死んだのは地球の老衰期においてだった。世の中の混乱と腐敗に根ざす不安に心さいなまれ、ついに私は激しい熱病に屈してしまった。苦しい二、三日につづいて、恍惚感にみちた夢のような錯乱の日々を私はすごしたのだが、その錯乱状態をそなたは苦痛と受けとめた。私はそなたに本当のことを教えたかったけれども、その力はなかった――そのうちに、そなたが言ったように、私のうえに息もせず、身動きもしない無感覚状態が訪れ、この状態を私を見守っていた人たちは死と呼んだ。  言葉とはあいまいなものだ。あの状態になっても、知覚は失われていなかったのだ。あの状態は、真夏の昼さがりに、身じろぎもせず、ゆったりとからだを横たえ、長いあいだぐっすりと眠りこんだ人間が、外部からの刺戟によるのでなく、ただ眠りがたりたがゆえにゆっくりと意識を回復してゆくのと、さして変りがないように思われた。  もはや私は息をしなかった。脈は打たなかった。心臓は鼓動をやめた。意志はまだ残っていたのに、力はなかった。五感はつねになく活溌、むしろ異常なほど活溌で――それぞれの感覚がおたがいに他の感覚を無差別に奪いあうのだった。味覚と嗅覚が完全に一体になり、一つの異常に強烈な感覚になるのだった。いまわのきわまで、そなたは私のくちびるをやさしく薔薇香水でしめらせてくれたが、それは私の心に甘美な薔薇の幻想を生んだ――かつての地上で咲いたどんな花よりもはるかに美しい幻の花、しかしその原型はここ天国ではいたるところに咲きほこっている。血の気が去って透明になったまぶたは、視覚の完全なさまたげとはならなかった。意志が中断していたので、眼球を眼窩のなかで動かすことはできなかった――けれども、視野にはいるすべての物体は多少ともはっきりと見えたのだ。網膜の周辺に射す光、あるいは眼の隅から射す光のほうが、正面から、あるいは網膜の中心に射す光より強烈に感じられた。しかし、前者の場合、その効果はきわめて変則的で、私はそれを[音]〔ある刺戟によって別の種類の感覚が生起する現象、いわゆる共感覚〕として感じるだけだった――私のそばに近づく物体の色合が明るいか暗いか――輪郭が円いか角ばっているかによって、甘美に聞こえたり、きしんで聞こえたりするのだった。いっぽう聴覚は過敏になっていたものの、その機能は異常ではなく――意識があったときに劣らず、実際の音を驚くほどの正確さで聞きとるのだった。触覚はもっと異常な変質をとげた。その感触はゆっくりとやってきながら、いつまでも去りやらず、いつも最高潮の肉体的歓喜をもたらすのだった。だから、そなたのやさしい指が私のまぶたに触れると、最初は視覚だけで感じるのだが、その指がのけられてからかなりの時間がたつと、やがて、私の全身は測りしれない官能的な喜びにみちあふれるのだった。よろしいか、官能的な喜びなのだ。私の知覚のすべては純粋に官能的なものだったのだ。五感によって受動的な脳に伝えられる素材は、理解力が機能を停止していたので、いかなる意味あいも持たなかった。苦痛はいくらかあったが、歓喜のほうがずっと大きく、精神的な苦痛や喜びはまったくなかった。だから、そなたのはげしい嗚咽はそのまま物悲しい調べとなって私の耳に流れこみ、その悲しみの調べの変化はすべてよくわかったが、それはものやさしい楽の音にかわりなく、それ以上のものではなかった。その音楽は、働きをやめた理性には、音楽をもたらす原因になった悲しみについては何も伝えないのだった。ところが、私のそばに立ちすくむ人たちの心の痛みを物語る大粒の涙がたえず私の顔にしたたり落ちると、私の全身は恍惚感に打ちしびれるばかり。そして、これこそが、実は、低いささやき声で周囲の人たちが敬虔に口にした死だったのだ――そして、ユーナ、そなたが喘ぎながら声高《こわだ》かに叫んだ死だったのだ。  私は入棺のための装束を着せられた――黒い人影が三つ四つ、忙しげにあちこちと動きまわっていた。そういう人影が私の視線の正面を横切るとき、それは[形]として感じられたが、私の横を通りすぎるときには、その姿は叫びや呻きの観念、あるいは恐怖、戦慄、悲哀といった凄味のある表現として感じられるのだった。ただ白衣を着たそなただけは、どの方向を通ろうと、音楽として感じられるのだった。  たそがれが迫り、日が翳《かげ》ってくると、私は漠然たる不安にとらわれた――それは眠っている者が何かさみしい実際の音をたえず耳にしているときに――たとえば、遠くから長い間をおいて等間隔にひびいてくる低く荘重な鐘の音が憂うつな夢とまじりあうときに――感じるような不安だった。夜が到来し、その闇とともに、重苦しい不快感が私を襲った。それは私の手足を何か茫漠たる重みで圧迫し、それでいてはっきりと感じられるのだった。それに呻くような声がたそがれとともに始まったのだが、それは遠い潮騒のひびきに似ていなくはなかったけれども、もっと持続的で、暗さが増すにつれて大きくなるのだった。この潮騒に似たひびきは、灯火《ともしび》が部屋に持ちこまれたとたんに、たちまち妨害されて途切れがちになり、音色は変らないのだが、以前ほど無気味でも明瞭でもなくなり、高低も定かではない断続音になった。重苦しい圧迫感は大いに軽減され、運びこまれた数多くのランプの焔のそれぞれからは、単調ながらここちよい旋律がたえず私の耳に流れこんできた。そしてそのときだった、いとしのユーナよ、そなたは私が横たわるベッドに近づき、私のそばに静かに腰をかけ、その甘美なくちびるからかぐわしい吐息をつき、そのくちびるを私のひたいに押し当てたのだが、そのとき私の胸のうちには、さようなときにはいつも覚えた純粋に官能的な快感にまじって、感情そのものといった何かが恍惚として湧きあがってきた――この感情は、そなたの真摯な愛と悲しみをなかばよみし、なかばそれにこたえながらも、鼓動をやめた心臓にそれが根づくことはなく、現実というよりはむしろ幻想のような感じで、それはまず最初に極度の静謐さのなかに、次いで以前のような純然たる官能の喜びのなかにすみやかに消えていった。  そしてこんどは、通常の五感の残骸と混沌のなかから、第六の、完全無欠な、ある感覚が私のうちに生まれてきたようだった。その感覚を用いることに、私は狂おしいほどの喜びをおぼえた――しかしその喜びは、理解力がいささかも関与していなかった点において、なお肉感的なものだった。肉体の動きは完全に停止していた。筋肉は震えず、神経はおののかず、血管は脈打たなかった。だが、私の脳には、並の人知にはその概念を漠然とさえ伝えられそうにない[何か]が誕生したようだった。かりにそれを精神の律動的鼓動とでも呼ぼうか。それは人間が[時間]についていだく抽象的観念の精神的具現化だった。この律動の――あるいはこのような運動の――絶対的な均等性に、天空の諸天体の周期も調整されていたのだ。その助けをかりて、私には暖炉のうえの時計や私を見守る人びとの時計の不規則な動きがわかるのだった。真の規則性からすこしでも逸脱すると――そしてそれはいたるところにあったわけだが――地上において、規範的な真実からの逸脱が良心に痛みをおぼえさせるように私に働きかけるのだった。部屋にあるどの二つの時計として正確に同時に秒を刻むことはなかったけれども、それぞれの時計の音色や瞬時の狂いをもしっかりと記憶にとどめておくことはいともたやすかった。そしてこの――この鋭く、完全無欠な、独自に存在する[持続]の感情――あらゆる事象の連続とは無関係に存在する(人間にはとても存在しているとは考えられないような)この感情――この観念――五感の残骸から生まれてきた、この第六感こそ、無時間の魂が時間の永遠の敷居をまたごうとする、明確な第一歩だったのだ。  真夜中だったが、なおもそなたは私のそばに腰かけていた。他のすべての者たちは死の部屋を去っていた。私はすでに棺のなかに入れられていた。ランプはちらちらと燃えていた。それは単調な旋律がふるえていたからわかったのだ。だが、突然、旋律は不明瞭になり、音も小さくなった。そして、ついに消えた。香りも鼻孔から去った。闇の重みも胸もとから離れた。電気によるような、鈍い衝撃が全身を走り、それにつづいて、接触感がまったく失われた。人間が感覚と呼んでいたもののすべてが、唯一の存在感のなかに、また永続的な持続感のなかに消えていった。ついに必滅の肉体はおそるべき腐敗の手によって打ちすえられたのだ。  それでもなお、知覚が完全に失われたわけではなかった。まだ残っていた意識と感情が微弱な直観に助けられて知覚の一部を代行していた。私は肉体に訪れている忌わしい変化に気づいていた。また、夢みる者が自分にかがみこんでくる者の存在を感得することがときおりあるように、やさしいユーナよ、私はそなたが私のそばにいるのをまだぼんやりと感じとっていたのだ。だから、また、翌日の昼になって、そなたを私のそばから去らせ、私を棺に閉じこめ、霊柩車に乗せ、墓地に運び、墓穴に下ろし、重い土をかけ、かくして私を暗黒と腐敗の世界に置きざりにし、蛆虫とともに悲しく厳粛な眠りをむさぼらせることになった一連の動きを私は意識していなかったわけではないのだ。  そしてこの、あばくべき秘密とてほとんどない牢獄で、日が去り週がすぎ月がたち、魂はそれが飛んでいくのを秒ごとにつぶさに眺め、なんら努力もせず、その飛び去るさまを心にとどめたのだ――なんの努力もせず、なんの目的もなく。  一年がたった。[存在]感は刻々と希薄になり、純粋な[場]の感覚がそれにとってかわった。実在の観念は[場所]の観念に吸収されていったのだ。かつて肉体であった部分を直接に取り囲んでいた狭い空間が、いまや肉体そのものとなっていたのだ。ついに、眠っている者がしばしば経験するように(眠りと眠りの世界によってのみ[死]を想像することができるのだ)――ついに、地上で眠っている者が、何か飛び去るような光になかば目をさまし、しかもなおなかば夢に包まれたままでいるという経験をよくするように――すっかり[影]に包まれていた私に、それだけが私を目ざめさす力を持っていたにちがいないあの光――水遠の[愛]の光が射してきたのだ。私がその暗闇に横たわる墓穴を人びとが掘り返したのだ。彼らは湿った土を投げ上げた。そして私の朽ち果てた骨のうえに、ユーナの棺が下ろされたのだ。  そして、いまやまたしてもすべては空となった。かの星雲のごとき光は消えた。かのかすかな旋律も静謐のさなかに解けこんだ。幾多の歳月が過ぎ去った。塵は塵にかえった。蛆虫の糧は尽きた。存在感はついに完全になくなり、そのかわりに――いや、すべてのもののかわりに――絶対的かつ永久的な、かの独裁者、[場所]と[時]が君臨することになったのだ。存在[しなかった]者にとって――形を持たなかった者にとって――思考を持たなかった者にとって――知覚がなかった者にとって――霊魂を持たず、かといって物質がその一部を形成することがなかった者にとって――要するに、まったくの無でありながら、しかも不滅であったすべての者にとって、墓はなおも唯一の住みかであり、腐蝕性の時間はその仲間だったのだ。 [#改ページ]  催眠術の啓示  催眠術の[理論的根拠]に関していまなおどのような疑問があるにせよ、その驚くべき[事実]はいまやひろく世間に認められているところである。この[事実]に疑問をさしはさむ者は、いわば職業的な疑問屋であって――無益で、いかがわしい人種にほかならない。人間は、ただ意志を行使するだけで、他の同胞に催眠術をかけ、異常な状態におとしいれることができ、この状態が示す現象は[死]のそれに酷似していること、あるいは、少なくともわれわれが知覚しうるいかなる正常な状態が示す現象よりも[死]のそれに似ていること――この状態にある間、催眠術にかけられた人物は、努力することによって、わずかに外的な感覚器官を働かすことができるだけだが、鋭敏にとぎすまされた知覚力と、未知なるものとされる経路によって、肉体的な諸器官では捕捉できないことがらを知覚すること――さらに、この人物の知的能力は驚くべきほど高揚し、活気を呈すること――この人物と催眠術をかけた人物が深い共感で結ばれること――そして最後に、催眠術にかけられる頻度がますにつれ催眠効果が促進し、それに比例して、それに付随する特異な現象も広範囲におよび、かつ顕著になること――このようなことを今日になって[証明]しようとこころみるほど絶対的な時間の無駄はない。  私は催眠術の法則の一般的特徴について述べたが――私の言いたいことは、その論証が無益であり、また、今日これほど無用な論証を読者に押しつけるつもりが私にはないことである。さしあたっての私のもくろみは、まったく別のところにある。たとえ世間の偏見を逆撫ですることになろうと、催眠状態にはいったある人物と私のあいだで交わされた会話の驚くべき内容を注釈めいたことは抜きにして詳細にお目にかけたい、というのが私の本心である。  かなり以前から、私はくだんの人物(ヴァンカーク氏)に催眠術をかけるのをならいとしており、氏もまた、たいていの人とおなじく催眠術に鋭敏に感応し、催眠による知覚力の高揚を示した。もういく月にもわたり、氏は結核の末期症状に苦しめられていて、その苦しい症状を私の施術によっていやしていたわけだが、今月の十五日、水曜日の夜、私は彼の枕頭に呼ばれた。  病人は胸のあたりの激しい痛みに苦しんでおり、呼吸も困難で、あらゆる喘息の症状を示していた。このような発作の場合、神経中枢部に芥子を塗ればたいてい楽になったのだが、その夜ばかりは効果がなかったのだ。  部屋に入ってゆくと、患者は快活な微笑を浮かべて私を迎えた。激しい肉体的苦痛におそわれていることは明らかだったが、精神的には、安らかだったらしい。 「今晩あなたをお呼びしたのは」と彼は言った。「肉体的な苦痛をなんとかしてもらおうというよりは、このごろ私を大いに悩まし、おびやかしている、ある種の心理状態に納得のゆく回答を与えてもらいたかったからなのです。ご承知のように、これまでのところ私は霊魂の不滅という問題については懐疑的でした。霊魂が実在しているという漠然とした感情といったものが、まるで私自身が否定してきた自分の魂のなかにでもあるような、そんな感じがずっとあったことは否定しません。でも、この感情らしきものが確信になることは絶対になかったのです。そういうことに、私の理性はまったく関与しなかったわけです。理詰めに問いつめてみようともしたのですが、結果は、いつも以前より懐疑的になるばかりでした。クーザン〔フランスの折衷主義的・啓蒙的哲学者で、当時の思想界や教育界に大きな影響力を有していた〕を読んでみるようにとすすめてくれた人もいた。そこで私はクーザン自身の著作ばかりか、クーザンを反映しているヨーロッパやアメリカの本も読んでみました。たとえば、ブラウンソンの『チャールズ・エルウッド』も手にしてみました。私はそれを熟読玩味しました。それは終始一貫して論理的な本でしたが、ただ単に論理的である[ばかり]ではない部分は、不幸にして、この本の懐疑的な主人公が冒頭で展開する議論だったのです。その要旨を吟味してみると、理窟をこねている本人が自分自身さえ納得させるのに成功していないことが、私には明白であるように思えたのです。トリンキュロ〔シェイクスピア『あらし』二幕一場についての混乱した言及〕の政府のように、結論で出発点がすっかり忘れられているのです。要するに、私にすぐわかったことは、もし人間が自分の不滅性を知的に確信しようとするのなら、イギリスやフランスやドイツのモラリストたちが長らくやってきたような抽象的な論法でやってもだめだということでした。抽象的な議論は精神を楽しませたり活動させたりはするけれど、精神に根を下ろすことはない。私のみるところ、少なくともこの地上では、哲学はつねに[質]と[物]とを同一視するように求めているが、無益なことだ。意志は同意するだろう――だが魂は――知性は、同意することはあるまい。  そこで、くりかえしますが、私はぼんやりとそう感じただけで、知的に信じたわけではありません。ところが最近になって、この感じがしだいに強くなり、ついに理性もそれを黙認するといった状態にきわめて近づいてきたので、両者の区別がつけがたくなったのです。それに、どうしてこういうことになったのか、その由来をたどると催眠術の影響にいたりつく、と私は断定できるのです。私の真意をうまく伝えるためには、催眠術によって知覚力が鋭敏になり、一連の推論が可能になる、とする仮説でも立てるほかないのですが、この推論は、異常な状態においては、私を[確信させる]のですが、催眠現象のつねとして、正常な状態にまでは及ばず、ただその[結果]だけが感じられるのです。催眠状態においては、推論と結論――原因と結果――が共存するのです。自然な状態では、原因は霧散し、結果だけが、しかもほんの一部分だけが残るのです。  こういうわけで、催眠状態にある私に一連の適切な質問をしむけてくれれば、よい結果が生まれるのではないか、と考えるようになったのです。あなたもよく経験されたように、催眠術にかかっている者が深い自己認識を示すことがある――催眠状態そのものにかかわるあらゆる点に関して広範囲にわたる知見を披瀝することがあるし、こういう自己認識から教理問答の正しいやり方についての暗示を抽き出せるかもしれないのです」  むろん私はこの実験に同意した。二、三度|按手《あんしゅ》をするとヴァンカーク氏は催眠状態におちいった。彼の息づかいは、すぐさま以前より安らかになり、もはや肉体的苦痛は感じないようだった。それから次のような会話がおこなわれたが――以下の対話で、Vは患者、Pは私自身である。 【P】 あなたは眠っていますか? 【V】 はい――いや、私はもっと深く眠りたい。 【P】 (もう二、三度按手をしてから)これで眠りましたか? 【V】 はい。 【P】 あなたはいまの病気の結果がどうなると考えていますか? 【V】 [永いあいだためらってから、かなり力むように言った]死ぬさだめです。 【P】 死の思いがあなたを苦しめますか? 【V】 [即座に]いや――まったく。 【P】 その予想に満足しているのですか? 【V】 めざめるぐらいなら、死んだほうがましだと思う。だが、いまはそんなこと、問題ではない。催眠状態はしごく死に似ているので、私は満足している。 【P】 ご自身の気持を説明してくれませんか、ヴァンカークさん? 【V】 そうしたいのはやまやまだが、思ったより骨が折れる。質問が適切じゃないのだ。 【P】 では何をたずねればよいのでしょう? 【V】 そもそもの初めから始めてもらわなければ。 【P】 初めですって! どこに初めがあるのですか? 【V】 あなたも承知のように、そもそもの初めとは神のことだ。[これを言った彼の口調は低く途切れがちで、また深い敬虔の念がにじみ出ていた] 【P】 では神とは何ですか? 【V】 [何分ものあいだためらってから]私には言えない。 【P】 神とは霊のことではないのですか? 【V】 私がめざめていたときには、あなたの言う「霊」という意味がわかっていた。だが、いまでは、ただの言葉――たとえば、真理とか美とかいう言葉――つまり、質としか思えないのだ。 【P】 神は非物質的なものではないのですか? 【V】 非物質性などというものはない――それはただの言葉にすぎない。物質でないようなものはまったく存在しない――[質]が[物]でないなら別だが。 【P】 すると、神は物質的な存在なのですか? 【V】 いいえ。[この答に私は大いに驚いた] 【P】 では何なのです? 【V】 [長い間をおいてから、つぶやくように]わかった――だが話すとなると、むずかしい。[また長い間]神は存在するのだから、霊ではない。また、[あなたが理解しているような]物質でもない。物質にも[諸段階]があるのだが、人間はそれについて何も知らない。粗野な物質は繊細な物質の生成をうながし、繊細な物質は粗野な物質に滲透する。たとえば、大気は電気の原理をうながし、電気の原理は大気に滲透する。こういう物質の程度の差は希薄さ、ないし繊細さの度を加え、ついには[非粒子の]――[粒子のない]――眼に見えない――[単一の]物質に到達する。と、ここで促進と滲透の法則は修正を受ける。究極的ないし非粒子的物質はあらゆるものに滲透するばかりか、あらゆるものの生成をうながす――ゆえに、あらゆるものはこの究極的な物質の内部に[とどまる]。この物質こそが神なのだ。人間が「思考」という言葉で具象化しようとするもの、それはこの物質が運動している状態のことだ。 【P】 あらゆる行為は運動と思考に還元でき、後者は前者の原因である、と形而上学者たちは主張しております。 【V】 さよう。だが、いまの私には観念の混乱が目につく。運動とは精神の活動であって――思考の活動ではない。静止状態にある非粒子の物質、すなわち神は(近似的に)われわれが精神と呼んでいるもののことだ。そして(われわれの意志に相当する)非粒子的物質の自己運動力は、その単一性と遍在性の結果として生ずるものである。[どうしてか]、となると私にはわからない。いや、いまはっきりと私にわかるのは、今後もけっしてわかるまい、ということだ。ところで、非粒子の物質が、ある法則、ないしみずからに内在する資質によって運動を開始すると、それが思考になる。 【P】 あなたが非粒子の物質と呼んでいるものの観念をもっと正確に説明していただけませんか? 【V】 人間の認識する物質は段階の観念ではとらえきれない。たとえば、金属、木片、水の一滴、大気、ガス、熱素、電気、光のエーテルなどがある。さて、われわれはこれらすべてを物質と称し、すべての物質を一つの一般的概念にまとめてしまう。だが、にもかかわらず、われわれが金属に与えている観念と光のエーテルに与えている観念は、まことに異質な二つの観念である。後者の場合、われわれはそれを精神ないし無と結びつけたくなる気持をほとんど押えがたくなる。それをさしひかえる唯一の理由は、エーテルが原子によって構成されているとするわれわれの観念である。ここにおいてさえ、無限に小さいが、なお固体であり、触知可能で、重量がある何か、という原子の概念の助けを借りざるをえないのである。原子構造物であるという観念を放棄すると、われわれはもはやエーテルを実体、ないしは物質とみなせなくなる。そこで他にいい言葉がないまま、それを精神と呼ぶことになる。さて、光のエーテルを一歩こえて――このエーテルが金属より希薄な物質であるとみなすように、エーテルよりも希薄な物質を考えてみるなら、われわれはただちに(いろんな学派の教義がどうあれ)独特な物体――すなわち非粒子的物質に逢着する。というのは、原子そのものが無限に小さいと考えるのはよいとしても、原子と原子の距離が無限に小さいと考えるのは背理だからである。原子の数が充分に多いなら、原子間の距離が消え、一つの塊に融合する時点――あるいは、そういう希薄さの度合に達する点があるだろう。だが、ここで原子構造物という考えを取り去れば、この塊の性質はおのずとわれわれが精神と考えているものの性質に連らなってくる。ところで、このさい明白なことは、それが依然として物質であるということだ。実際のところ、存在しないものを考えることは不可能ゆえに、精神というものを考えるのは不可能なのだ。そういう概念を形成しえたといい気になっているとき、じつはわれわれは無限に希薄な物質を想定してみずからの悟性を欺いているのだ。 【P】 絶対的な融合という観念には越えがたい障害があるように思われます――それは天体が宇宙空間を公転するときに認められる抵抗がきわめて小さいことにかかわるのですが――なるほど、いまではそういう抵抗がごく[わずか]ながらあることは確認されているものの、それがきわめて僅少であるゆえ、ニュートンのような賢明な人物でさえ完全に見落としたほどなのです。物体の抵抗が、主として、その物体の密度に比例することをわれわれは承知しています。絶対的融合とは絶対的密度ということです。原子間の距離が無であれば、他のものが入りこむ余地はない。となれば、絶対的な密度をもつエーテルは、金剛石や鉄のエーテルよりも、はるかに効果的に星の進行をはばむはずです。 【V】 あなたの反論はいかにも反撃の余地がないようにみえるが、そのみかけに比例して答えは容易だ――星の運行について言えば、星がエーテルのなかを通過しているのか、[エーテルが星のなかを通過している]のか、決めがたい。彗星の運行が遅れるのを、それがエーテルのなかを通過するからだとする説ほど理不尽な天文学的誤謬はない。というのは、このエーテルがいかに希薄なものであると想定するにせよ、自分たちが理解できない点はごまかそうとしてきた天文学者たちが認めているよりはるかに短期間に、それはあらゆる星の公転を停止させてしまうことだろう。いっぽう、実際に測定されている星の運行の遅れは、エーテルが一瞬のうちに天体を通過するときの[摩擦]から予測される程度のものなのだ。後者の場合、遅延させる力は瞬間的で、しかもそれ自体で完結している――ところが他方は際限なく蓄積される。 【P】 しかし、こういう議論には――つまり、神を単なる物質と同一視することには――なにがし不敬なところがないでしょうか? [これを相手に充分に理解させるために、私はこの疑問を二度くりかえさざるをえなかった] 【V】 物質のほうが精神より敬われなくてしかるべき理由でもあるのかね? 私が語っている物質とは、その高度な資質に関するかぎり、学者連中の言っている「心」とか「精神」とかと、あらゆる点でまったく同じで、そのうえ、学者連中のいう「物質」とも同じだ、ということをあなたは忘れている。精神の属性とされるあらゆる能力をそなえる神は完璧な物質にほかならない。 【P】 すると、あなたは運動している非粒子的物質が思考である、と主張されるのですね? 【V】 一般に、この運動は普遍的精神の普遍的思考そのものなのだ。この思考が創造する。創造されたものはすべて神の思考にほかならない。 【P】 あなたは「一般に」とおっしゃる。 【V】 そうだ。普遍的な精神は神だ。新しい個体の創造には[物質]が必要だ。 【P】 しかし、あなたはいま「精神」や「物質」について、まるで形而上学者のように話される。 【V】 そう――混乱を避けるためにね。私が「精神」と言うとき、例の非粒子的ないし究極的物質のことを指すのだ。「物質」と言うときは、その他のすべてを指す。 【P】 あなたは「新しい個体の創造には物質が必要だ」とおっしゃった。 【V】 そのとおりだ。それ独自に存在している精神は神であるにとどまる。思考する存在である個人を創造するためには、神の精神の一部を肉体化する必要がある。人間はそのようにして個体化されたのだ。集合体としての資質をはぎとれば、人間は神だろう。ところで、非粒子的物質の肉体化された部分の運動が人間の思考だ。そして全体としての運動が神の思考であるわけだ。 【P】 肉体をはぎとられれば、人間は神になるとおっしゃいましたね? 【V】 [かなりためらってから]そんなことを言ったはずはない。それは馬鹿げた考えだ。 【P】 [メモを参照して]「集合体としての資質をはぎとれば、人間は神だろう」とあなたは[たしかに]おっしゃった。 【V】 それはそのとおりだ。そんなふうに剥奪すれば、人間は神に[なるだろう]――つまり、人間は非個人化されるだろう。だが人間がそんなふうに集合体の資質を剥奪されることはありえない――少なくとも、そんなことは[起こるまい]――でなければ、われわれは神の行為を出発点にもどる行為――無目的で不毛な行為と想像しなければならなくなる。人間は創造物だ。創造物は神の思考だ。そして思考の特質は変更不能なところにある。 【P】 私には理解できない。人間は肉体をかなぐりすてることはない、とあなたはおっしゃる。 【V】 人間が肉体を失なうことはない、と私は言うのだ。 【P】 説明してください。 【V】 肉体には二つある――未完成の肉体と完成した肉体との二つが。これは毛虫と蝶との二つの状態に対応する。われわれが「死」と称しているのは、苦しい変身にほかならない。われわれの現在の化身は進行中で、予備的で、暫定的なものにすぎない。われわれを待ちもうける未来の化身こそ、完璧で、究極的で、不滅なのだ。究極の生命、これこそが意図の成就なのだ。 【P】 しかし毛虫の変身は、われわれにもはっきりわかります。 【V】 たしかに、[われわれ]にはわかる――だが、毛虫にとってはそうではない。われわれの未完成な肉体を構成する物質は、その肉体の諸器官の認識の範囲内にある。あるいは、もっと正確に言えば、われわれの未完成な諸器官は未完成な肉体を構成する物質は認知するが、究極的な肉体を構成する物質は認知しないのである。そういうわけで、究極的な肉体は、われわれの未熟な五官によっては知覚されない。われわれは腐敗してゆく過程で、内なる形態から、外側の皮がはげ落ちてゆくのを知覚できるだけで、内なる形態そのものは知覚できない。しかし、すでに究極的な生命を獲得した者なら、外皮のみならず、内なる形態も知覚できる。 【P】 催眠状態が死に酷似している、とあなたは何度か言われた。これはどういうことですか? 【V】 死に酷似しているということは、究極の生命に似ているということだ。というのは、催眠状態に入ると、わが未完成な生命がそなえる五官は一時機能を停止し、外界の事象を、器官を通さず、究極的な、非組織的生命を得たときに用いることになる手段を媒介にして直接に知覚するのだ。 【P】 非組織的な? 【V】 そうだ。身体器官とは、個体が特定の部類や形態の物質と感覚的な関係をむすび、他の部類や形態の物質との関係を排除するための装置なのだ。人間の諸器官はその未完成な状態に、またこの状態にだけ適合するようにできている。人間の究極的状態は組織化されていないからこそ、ある一点をのぞくあらゆる点で無限の理解力をそなえることになる――その一点とは、神の意図の性質にかかわること――つまり、非粒子的物質の運動のことである。究極的な肉体について明確な観念を得たいなら、すべてが脳であるような肉体を考えるのが便利だろう。実際にはそうでは[ない]。しかしこの種の概念は、それがどんなものであるかを理解する手掛かりにはなる。発光体は光のエーテルに振動を伝える。この振動は網膜に同様な振動を生じさせる。すると、これがまた同様な振動を視覚神経に伝える。神経は同様な振動を脳に伝え、脳はまた、脳にあまねく滲透する非粒子的物質に同様な振動を伝える。後者の運動が思考であり、その思考を知覚することが最初の波動となる。以上のような仕組みで、未完成な生命体の精神は外界と交渉するわけだが、このような外界は、未完成な生命にとっては、その器官が特殊であるために、限定されたものである。ところが究極的な、非組織的生命にあっては、外界は全身(これはすでに述べたように、脳に似た実体からなっている)にじかに接触し、介在するものといえば、光のエーテルよりなお限りなく希薄なエーテル以外には何もない。このエーテルとともに――また、これに調和して――全身は振動し、全身に滲透する非粒子の物質を振動させるのである。それゆえ、究極の生命がほとんど限りない知覚力を有するのは、限定的な感覚器官がないから、とみなさねばならない。未完成な存在にとって、身体の諸器官は、羽が生えそろうまでそういう存在を閉じこめておくのに必要な籠のようなものである。 【P】 いまあなたは未完成な「存在」とおっしゃった。人間以外にも、未完成な思考力を有する存在があるのですか? 【V】 希薄な物質がおびただしく集合して星雲や惑星や太陽、それに星雲でも惑星でも太陽でもないその他の天体になることの唯一の目的は、無数の未完成な存在の限定的な諸器官に[糧]を供給することにある。究極的な生命に先行する未完成な生命が存在する必然性がないのなら、このような諸天体は存在しなかっただろう。これらの天体のそれぞれには独自の有機的な、未完成の、思考する生物が住んでいる。その生物のすべての器官は、住みついている場所の特性によって異なる。これらの生物は、死すなわち変身することによって究極の生命――不滅の生命――を獲得し、[例の一つの]秘密をのぞいてすべてを知り、ただ意志することによって、あらゆる行為をなし、あらゆる場所へ行くことができるのだが、そういう生物が住むのは、われわれにとって唯一の理解しやすい場所であり、それを宿らせておくためにこそ空間が創造されたのだとわれわれが盲目的に信じこんでいる星のうえではなく――空間そのもののなかに住むのである――真の実質をそなえた空漠さが星影を呑みつくし、天使たちの知覚からさえ非実体として星影を消しさる、かの無限のなかに住むのである。 【P】 あなたは「未完成な生命が存在する[必然性]がないのなら」星々は存在しなかったろう、とおっしゃる。では、なぜそういう必然性が出てきたのですか? 【V】 非有機的な生命の場合、非有機的な物質一般についてもそうだが、一つの単純な[普遍的]法則――つまり神の意志が活動するのを抑制するものは何もない。それを抑制する意図のもとに(複雑で、実体的で、法則にしばられる)有機的な生命および物質が創造されたのだ。 【P】 それではまた――なぜ、そのような抑制の必要が生じてきたのですか? 【V】 不可能の法則から生まれるのは完璧性であり――無謬性であり――消極的幸福である。侵犯された法則から生まれるのは不完全性、誤謬、積極的苦悩である。有機的な生命および物質の諸法則の多様性、複雑性、実質性によって、唯一の法則の意図が、ある程度、実現可能になるのである。かくして、非有機的な生命の場合にはありえない苦痛が、有機的生命の場合にはありうることになるのだ。 【P】 苦痛がありうることになると、何かよいことがあるのですか? 【V】 あらゆるものについて、善悪とは比較の問題だ。充分に分析してみればわかることだが、快楽とはあらゆる場合において、苦痛との対比としてあるにすぎない。[積極的な]快楽とは観念であるにすぎない。ある点で幸福であるためには、同時に苦しまねばならない。苦しんだことがないとは、幸福であったこともないことだ。しかし非有機的生命にあっては、苦痛がありえないことはたしかであり、だから有機的生命には苦痛が必要なのだ。この地球における未熟な生命の苦痛は、天国において究極の生命があずかる祝福の唯一の根拠なのだ。 【P】 まだ、あなたのおっしゃったことのなかで、私には理解しかねる表現があります――「真の[実質をそなえた]空漠さ」というやつです。 【V】 それはおそらく、あなたが[実質]という言葉自体の包括的な概念を充分につかんでいないせいだ。それを質としてではなく、感情としてとらえなければいけない――それは、思考する存在が物質を有機体に適合させようとするさいの知覚なのだ。金星の住人には無であるようなものが地球にはたくさんあるし――われわれにはまったく存在しているものとして認識できないが、金星では眼に見え手に触れることのできるものがたくさんある。しかし非有機的存在――つまり天使たちにとっては――非粒子的物質はすべて実質を有しているのだ。つまり、われわれが「空間」と称しているものは、天使たちにとってはすべて真の実質をそなえているのだ。いっぽう、非粒子的物質は、われわれが考えるその非物質性のゆえに有機的生命には感得できないのと同じく、星々は、われわれが考えるその物質性のゆえに、天使たちには知覚できないのだ。  催眠状態の人物がこういう最後の言葉を弱々しい口調で語ったとき、私は彼の顔に奇妙な表情が浮かぶのを認め、いくらか心配になったので、さっそく催眠を解くことにした。催眠が解けると、彼は満面に輝くような笑みを浮かべ、枕にのけぞり、息絶えた。一分もたたぬうちに、彼の死体は石のように硬直していた。これは、通例、死の天使アズリアル〔魂と肉体を分離するのを仕事とするマホメッドおよびユダヤ教の死の天使〕の手に永らく押さえつけられたのちに見られる現象であった。この被術者は、その議論の後半を冥府から私に語りかけていたのだろうか? [#改ページ]  言葉の力 【オイノス】 アガトスよ、永遠の生命を得て天使になったばかりの者の愚かさを許してくれたまえ! 【アガトス】 許しを乞わねばならぬようなことを、オイノス、君は何も言ってはいない。ここにおいてすら、知識は直観とは別物なのだ。英知なら、それを与えてくれるよう、天使たちに遠慮なく求めるがよい。 【オイノス】 しかし天使になれば、ただちにすべてを知り、すべてを知ることにおいて、ただちに幸福になるものとばかり思っていた。 【アガトス】 ああ、幸福は知識にはなく、知識の獲得にあるのだ! とわに知りつづけることによって、われわれはとわに幸福であるが、すべてを知ってしまえば、悪魔の呪いがあるばかりだ。 【オイノス】 しかし、かの至高なる存在はすべてを知っておられるのでは? 【アガトス】 [それは](神はまた至福なる存在でもあるゆえ)神にとってもいまだ知られざる[こと]なのだ。 【オイノス】 しかし、われわれは刻一刻と知識をふやしていくのだから、[ついには]すべてを知ってしまうのでは? 【アガトス】 この深淵のはるか彼方を見おろしてみたまえ! われわれはいまゆっくりと星々のあいだを、こうやって――こうやって――こうやって飛んでいるのだが、その無数の星たちの姿を凝視しようとしたまえ! 天使の視線にもせよ、幾重にも層をなす宇宙の黄金の壁に――数かぎりない輝く天体の壁に、いたるところでさえぎられてしまうではないか? その結果、無数の星々はたった一つに溶けあって見えるではないか? 【オイノス】 物質が無限にあることが幻想でないことが、いまやはっきりと私にはわかる。 【アガトス】 天国に幻想など[ない]のだ――だが、ここで天使たちがささやくことによれば、このように物質が無限にあることの[唯一]の目的は、永遠に抑制しがたい[知りたい]という渇きを魂がいくらかなりといやすことができるように、無限の泉を提供するためなのだ――なぜなら、そういう渇きをいやしてしまえば、魂そのものが消えてしまうだろうから。さあ、プレアデス星団を去って左へ、神の御座から外側へ、オリオン座のむこうの星々の花園へ行こう! そこにはパンジーやすみれ、それに三色すみれのために、三色に輝く三対の太陽の花壇がある。 【オイノス】 さて、アガトス、飛びながら、私に教えてくれたまえ! ――地上の耳なれた口調で語ってくれたまえ! 私にはわからなかったのだ、われわれがまだ人間の身であったころ創造と呼びならわしていたものの様態や方法について、いましがた君が暗示したことが。創造者は神ではない、と君は言うのか? 【アガトス】 神は創造しない、と私は言うのだ。 【オイノス】 説明してくれたまえ! 【アガトス】 神が創造したもうたのは、初めにおいてのみなのだ。いま宇宙のいたるところでたえまなく生まれつつある、一見したところの創造物は、神の創造力の直接的な結果ではなく、二次的な、あるいは間接的な産物としか考えられないのだ。 【オイノス】 人間たちのあいだでなら、アガトス、そのような考えは異端の極致と思われたことだろう。 【アガトス】 天使たちのあいだでは、オイノス、それはただ真実であるにすぎないとされているのだ。 【オイノス】 そこまでは私にもわかる――われわれが自然ないし自然法則と呼んでいるものの働きが、ある条件のもとでは、どうしても創造と[見まがうもの]を生み出す、というところまでは。地球がついに壊滅する寸前に、私はよくおぼえているのだが、哲学者たちが愚かにも微生物の創造と命名した実験が数多く成功したものだ。 【アガトス】 君が言及したのは、じつは二次的創造の事例――しかも、最初の言葉が最初の法則を存在せしめて以来、行われえた[唯一]の種類の創造の事例にすぎない。 【オイノス】 無の深淵から、刻々と天界に生み出されてくる星々の世界――そういう星々は、アガトスよ、神が直接に手がけた創造物ではないというのか? 【アガトス】 私の考えがわかってもらえるよう、オイノスよ、私は君を一歩一歩とみちびいていくことにしよう。君もよく承知のことだが、思考が消滅することがないように、いかなる行為も無限の結果を生ぜずにはおかないのだ。たとえば、われわれが地球の住人だったころ、手を動かすと、そうすることによって、地球を取り巻く大気に震動を与えることになった。この震動は無限にひろがり、ついには地球の空気のあらゆる粒子に衝動を与え、それ以後、[そして永久]に、諸粒子は手の一振りによって運動を得ることになったのだ。わが地球の数学者たちは、このことをよく承知していた。じじつ彼らは、液体に特別な衝動を与えることによってもたらされる特別な効果を正確な計算の対象とした――その結果、特定量の衝動が、いかなる正確な周期で、地球をめぐって伝わり、それを取り巻く大気の各原子にどれほどの衝撃を(永久に)与えるかを決定することが容易になった。ある条件のもとでの与えられた一定の効果から逆算して、当初の衝動力の強さを決定するのはいとも簡単なことだった。さて、数学者たちは、ある一定の衝動がもたらす結果には絶対的に際限がないこと――その結果の一部は代数的分析によって正確にその根元にまでたどりうること――また、その逆算は容易であることを知ったのだが――そういう数学者たちは、同時に、この分析自体のなかに無限の進歩の可能性があること――つまり、それを進歩させ応用した自分自身の頭脳はさておき、分析法の進歩と通用の範囲には考えうるいかなる限界もないことを見てとったのだ。が、この地点で、数学者たちは立ち止まってしまったのだ。 【オイノス】 でも、アガトス、なぜ彼らがその先まで行かねばならぬ必要があったのか? 【アガトス】 その先に、きわめて興味ぶかい問題があったからだ。彼らの知識から予想できたことは、無限の理解力を有する者にとって――代数的分析の[極致]を知った者にとって――空気ないし空気中のエーテルに与えられた衝動のすべてを――無限に遠い一時期の遠い諸原因にまでたどることさえ、困難ではなかったはずだということだ。[空気に与えられた]そのような衝動のことごとくは[最終的には宇宙内に]存在するあらゆる個々のものに影響を与えるにちがいなく、それに疑問の余地はないのだ。無限の理解力を有する者――つまり、いましがたわれわれが想像したような者なら――衝動の遠い波動を――それがあらゆる物質のあらゆる粒子に及ぼす諸影響を――古い形態が変化を受けるさまを――あるいは、別言すれば、[新しいものが創造される]さまを先へ先へと永遠にたどり、[ついには]無力となった衝動力が神の御座から投げ返されるのを見ることになるのは明らかだったのだ。そのような者なら、これが可能なばかりか、いかなる時期にもせよ、ある一定の結果が与えられれば――たとえば、無数にある彗星の一つを調査の対象として与えられれば――彼は代数的逆算によって、その彗星が原初においていかほどの衝動を与えられたかを決定するのに困難はなかったはずである。絶対的に遺漏なく完璧な逆算力――[あらゆる]時期の、[あらゆる]効果を[それぞれの]原因にまでたどる能力――これはもちろん神のみに許されている特権だ――しかし、絶対的な完璧性にまでは達せず、程度の差こそさまざまだが、この能力そのものはまた、すべての天使的知性がそなえている能力なのだ。 【オイノス】 でも君は空気に与えられる衝動によってしか話していない。 【アガトス】 空気について話すことで、私は地球にだけ言及したのだ。しかし一般命題は、エーテルに与えられる衝動に関係があるのだ――エーテルだけが全宇宙空間に滲透しているのだから、これこそが[創造]の大いなる媒体なのだ。 【オイノス】 いかなる性質のものであれ、運動だけが創造するのだね? 【アガトス】 そうだ。真の哲学が長らく教えてきたことによれば、あらゆる運動の源泉は思考であり――あらゆる思考の源泉は――。 【オイノス】 神だ。 【アガトス】 私は君に話してきたのだ、オイノス、さきごろ消滅したうるわしの地球の子に対するように――地球の大気に与えられた衝動について話してきたのだ。 【オイノス】 そのとおりだ。 【アガトス】 私がこんなふうに話しているうちに、君の頭には[言葉の物理的な力]について何かの思いがよぎらなかったか? 一語一語が空気に衝動を与えないだろうか? 【オイノス】 だが、アガトス、なぜ君は泣くのだ? なぜ、おお、なぜ、この美しい星のうえを飛んでいるというのに、君の翼はしおれているのだ――われわれが飛んでいるうちに出くわしたどんな星より緑こく、それでいてもっとも恐ろしい星のうえを飛んでいるというのに? その輝かしい花は妖精の夢のようだ――だが、そのすさまじい火山は荒れ狂う心のようだ。 【アガトス】 [そう]なのだ! [そのとおり]なのだ! この狂おしい星こそ――もう三世紀もまえに、両手を握りしめ、眼に涙をたたえ、愛する者の足もとにひざまずき――情熱的な言葉をつらねて――私が語ったことによって――生み出してしまったものなのだ。その輝かしい花はみたされざる夢のもっとも切実なものに[ほかならず]、あの荒れ狂う火山はもっとも狂暴で罪探い心に[ほかならない]のだ。 [#改ページ]  タール博士とフェザー教授の療法  一八――年の秋、フランス最南端の地方を旅行しているうち、とある「メゾン・ド・サンテ」つまり私立の精神病院から二、三マイルほどのところを通りすがった。この病院については、パリで医者の友人からよく話を聞かされていた。この種の場所は訪ねたことがなかったので、好機逸すべからずと考え、同行の友人(数日まえ、ふとしたことから知りあった紳士だった)に、一時間かそこいら寄り道をして、くだんの施設を見学してこようではないか、と提案してみた。彼はこれに反対だった――第一に、先を急いでいること、第二に、狂人を見ると異常な恐怖に襲われることの二点を、その理由としてあげた。だが彼が懇願して言うには、自分に対する遠慮から好奇心を満足させるのを断念するにはおよばないこと、また、私がその日のうちか、遅くとも翌日には追いつけるよう、馬をゆっくり進めるとのことだった。では失礼、という段になってふと私の頭に浮かんだのは、そういう施設の見学許可を取るには困難が伴うのではなかろうか、ということで、だから私はその点に関する危惧の念を表明した。氏はこれに答えて、なるほど、院長のメイヤール氏を個人的に知っているとか、手紙による信任状とかがないと、困難が予想される、なにせこういう私立の精神病院の規則は公立病院の規則よりやかましいからね、と言った。ところが彼自身はメイヤール氏とここ数年来の知己で、だから玄関先まで同行し、紹介の労をとるぐらいのことはしてもよいが、狂人のことは考えるだけで身震いがするので、建物のなかに入るのはご免こうむる、とつけ加えた。  私はこの好意を多とし、二人して本道をそれ、草の生い茂る間道に入ったが、半時間ほどもゆくと、この小道は山麓を取り囲む奥深い森にほとんど消えてしまった。この湿潤で陰気な森を二マイルほど進むと、めざす「メゾン・ド・サンテ」が見えてきた。それは風変りな館《シャトー》で、荒れはて、年代と手入れ不ゆきとどきで人が住めそうにはみえなかった。その外見に私はすっかりおびえてしまい、馬を止め、なかば引き返す決心をしかけたが、すぐに自分の弱気が恥しくなり、また馬を進めた。  玄関に乗りつけると、門がわずかに開き、こちらをうかがう男の顔に気づいた。が、その直後、この男が出てきて、わが友の名を口にしながら近づき、丁重に握手し、下馬をすすめた。これがメイヤール氏その人だった。恰幅のよい、上品な顔つきの古風な紳士で、洗練された物腰と、ある種の尊厳と威厳と権威の気配をかねそなえていて、なかなかに印象的であった。  わが友は私を紹介し、施設を見学したいという私の意向を伝え、メイヤール氏から最大限の便宜をはかるという確約を取りつけると、そそくさとその場から立ち去り、それっきり彼に会ったことはない。  彼が行ってしまうと、院長は私をきわめて瀟洒な客間に案内した。そこには趣味の洗練ぶりを物語る数多くの書籍、素描、花瓶、楽器がおかれていた。煖炉には陽気に火が燃えていた。ピアノに向かってベルリーニの詠唱《アリア》を歌っていたのは若くて美しい女性で、私が入ってゆくと、歌うのをやめ、優雅に一礼して私を迎えた。その声は低く、その物腰は全体にひかえめだった。それに気のせいか、その表情は一抹の憂愁をたたえ、顔色は極端に青白かったが、私の趣味からすれば、不快というほどでもなかった。彼女は黒い喪服に身をつつみ、私の胸に尊敬と興味と賛嘆のないまじった念をかき立てるのだった。  パリで聞かされていたことによれば、メイヤール氏の病院は俗にいう「鎮静療法」によって運営され――処罰はいっさいなく――監禁もほとんど行われず――それとなく監視されているものの、患者は大幅な自由が与えられ、屋敷や庭を正気な人間と同じ普通の服装で歩きまわっているということだった。  こういう諸点を勘案して、私は若い婦人のまえでは言葉を選んで話をした。彼女が正気かどうか、私には確信がもてなかったからだ。事実、彼女の眼にはいささか落着きのない輝きがあり、それがなかば私に彼女の正気を疑わせた。そこで私は当りさわりのない話題、精神病者にしても不快がったり興奮したりすることがなかろうと思われる話題に限定することにした。私の言うことに彼女は申し分のない正気さで応じ、その独創的な見解にしても、きわめて健全な良識に裏打ちされていた。しかし私は[狂気]の論理には昔から通暁していたので、対談中は、最初の注意を最後まで守りとおした。  ほどなく、お仕着せ姿のスマートな召使が盆に果物、ワイン、茶菓子などをのせて運んできて、私もご相伴にあずかったが、ご婦人はその後まもなく部屋から出ていった。彼女が退出すると、私は問いかけるようなまなざしで院長を見た。 「いや」と彼は言った。「いや、とんでもない――わが家の一員――私の姪《めい》でして、教養ある娘です」 「とんだ思いすごしで、ご容赦のほどを」と私は答えた。「ですが、無理からぬところと、ここはひとつ大目にみてやってください。なにせ、あなたのすぐれた病人管理法はパリでも有名ですので、もしかしたら、と私は思ってしまったもので――」 「いや、いや――弁明はご無用――むしろ私のほうこそ、あなたのお示しになった憤重な態度にお礼申しあげたいぐらいです。お若い方で、あなたぐらい思慮深いひとはめったにいませんからね。見学者の思いやりのなさから、不幸な[事故]が一度ならず起きています。私が以前の療法を実施していたころには、患者たちはあちこち自由に歩きまわるのが許されていたものですから、配慮に欠けた見学者がよく患者を興奮させて危険な事態を招いたものです。そこで厳格な隔離療法を採用せざるをえなくなり、病院内には、私が分別ありと判断した者以外は、絶対に入れないようにしています」 「あなたが以前の療法を実施されていたころ!」と私はおうむ返しに言った。「すると、私がよく聞かされていた『鎮静療法』はもう実施されていない、と理解してよいわけですか?」 「もうかれこれ数週間になります」と彼は答えた。「あの療法を永久に廃止することに決定してから」 「そうですか! 意外でした!」 「私たちにはわかったのです」と彼は溜息まじりに言った。「旧来のやり方に戻るのが絶対に必要であることが。鎮静療法に伴う危険は恐るべきものでして、その利点が過大評価されていたのですな。ともかく当院では、その療法を充分にためしてみたわけです。人間性にかなっていると思われるあらゆる合理的なことはやってみました。もうすこし早くご訪問いただければ、ご自身の眼でたしかめられたのに、残念です。ですが、鎮静療法のことについては、よく存じていらっしゃる――そう考えてよいのでしょうな」 「そうはまいりません。私のは、また聞きのまた聞きといったところですから」 「それでは申しあげますが、一般的に言って、鎮静療法というのは、患者を[あやし]、患者のご機嫌をとるやり方です。患者の頭に入った妄想に異をたて[ない]のです。その反対でして、そういう妄想にふけらせ、それを助長するのですが、当院で完治した者の多くは、この方法によったのです。[帰謬法]という説法ほど、狂人の弱くなった理性に有効に働きかける論法はないのですな。たとえば、自分を[ひよこ]だと思いこんだ患者がいたとする。それに対処するには、それが事実だと強調してやる――それが事実だと充分に納得しないなら、その患者を愚かだと非難してやる――そのうえで一週間にわたり、[ひよこ]にふさわしい食事以外はいっさい与えないようにするわけです。こういうやり方だと、少量の穀物と砂利が奇跡的な効果を発揮するのですな」 「そういう是認法がすべてだったのですか?」 「とんでもない。もっと素朴な娯楽、たとえば音楽、ダンス、体操一般、トランプ、ある種の書物などを重視しましたね。各個人を通例の肉体的病気にかかった者と同じに扱い、『精神異常』という言葉は絶対に用いなかった。肝腎な点は、患者におたがいの動静を監視させたことです。狂人の理解力ないし分別を信頼してやること、これこそ狂人を心身ともに支配する妙手なんです。こうやって、金のかかる看守をたくさん雇わずにすんだわけです」 「処罰といったものは、まったくなかった?」 「いっさいなかった」 「患者を監禁することもなかった?」 「めったに。ときたま、患者の病状がひどくなったり、急に凶暴性をおびるようになったりする、そういうときには、その不穏な病状が他の患者に伝染するといけないので、その患者をひそかに独房に連れてゆき、身内の者に引き取ってもらうまで監禁しておくことはありましたね――凶暴な患者は扱わない方針でしたから。そういうのはたいてい公立病院送りにしました」 「そこで以前のやり方はすべて廃止した――そして、そのほうがよかったとお考えなんですね?」 「まさしく。あの療法には欠陥、いや危険さえあったのです。幸い、いまではこの療法は全フランスの精神病院で廃止されています」 「まったく予想外のお話で、びっくりしました」と私は言った。「現在のところ、あれ以外の狂人に対する療法はこの国にはないものとばかり思っていたものですから」 「あなたはまだお若いのですな」と彼は言った。「だが、そのうちに、世の中で起こっていることについて、他人の言うことなどにまどわされず、自分で判断なさるようになりますよ。ひとから聞いたことなど信用なさるな。自分で見たことの半分だけを信用なさることです。ところで、この『精神病院』について、どうやらあなたは無知なやからに間違ったことを吹聴されてきたようですな。それはともかく、食事がすんで、旅の疲れもすっかりいえたころあいに、病棟にお連れして、療法をお見せしましょう。この療法は、私の意見では、またその実際をごらんになったすべての人の意見でも、これまで発案されたいかなる療法より文句なしにすぐれているのです」 「あなたの?」と私はたずねた――「あなたの発案にかかる療法の一つなのですね?」 「いかにも」と彼は答えた。「誇りをもって、いかにもさようとお答えするわけです――全部ではないにしても」  こんなふうに私はメイヤール氏と一、二時間ほど話を交わしたが、その間、氏は私をこの施設の庭と温室に案内してくれた。 「いますぐ患者をお見せするわけにはいきません」と彼は言った。「見られるってことは、こういう感じやすい精神の持ち主にとっては多少ともショックですからね。それに、食事まえに、あなたの食欲をそこねてもいけませんからね。まず食事にしましょう。サン・マヌール風の仔牛肉に、舌ざわりのよいソースをそえたカリフラワーをご馳走します――そのあとで、クロ・ド・ヴジョ〔ブルゴーニュ産の赤ブドウ酒〕を一杯いきますか――それであなたの神経もすっかりなごみますよ」  六時に晩餐の合図があり、院長は私を大きな食堂に案内してくれた。そこにはかなりの数の人たちが集まっていた――全部で二十五人か三十人。一見したところ、彼らはみな地位があり――血統もよい人たちだったが、着ているものは華美に走りすぎ、古い宮廷のこれみよがしな派手さがめだった。客人の少なくとも三分の一はご婦人だったが、その幾人かの身の飾りようは、今日のパリジャンの趣味の規準からすれば、とても上品とは申しかねた。たとえば、どうしても七十歳以下とは思えないご婦人たちの多くが、指環だの腕輪だの耳飾りだのの宝石類で身を飾りたて、胸や腕をあられもなく露出していた。また気になったことだが、仕立てのよい衣裳はまずなかった――少なくとも、からだに合った衣裳はほとんどなかった。見まわすと、小さな客間でメイヤール氏に紹介された気になる女性もいた。だが、たまげたことに、彼女は|張り輪《フープ》で広げたスカートを身につけ、ヒールの高い靴をはき、ブルッセル・レースの汚れた帽子をかぶり、これがまた彼女には大きすぎて、顔が滑稽なほどに小さくみえた。初対面のときには、黒い喪服を着ていて、それがよく似合っていたというのに。要するに、並みいる人たちすべての服装にはどこか奇妙なところがあったのだ。そこで最初のうち、私はまた例の「鎮静療法」のことを思い出し、食事の最中に私が狂人たちと席をともにしていることに気づいて不快な思いをしないよう、メイヤール氏が善意で私をだましたのではないかと思ったりもした。しかし南部の地方主義者は格別に風変りな連中で、古めかしい考えを頭にいっぱい詰めこんでいるという話をパリで聞かされていたことを思い出した。それに、同席の数人と言葉を交わしてみると、私の疑念は霧散した。  食堂そのものは、いちおう居心地よく広さもたっぷりしていたが、とくに優雅なところは何もなかった。たとえば、床には絨毯が敷いてなかった。が、フランスでは絨毯なしですますことは珍しくない。窓にもカーテンはなかった。鎧戸が下ろされ、アメリカの普通の商店のように鉄棒が対角線にあてがわれてしっかりと締められていた。この部屋は屋敷の一翼を形成し、窓は全部で十をくだらなかった。  食卓は豪奢にしつらえられていた。皿がいっぱい並び、料理が山と積まれていた。その豊富さはまさしく野蛮と言ってよく、アナキム族〔民数紀略参照。アナクの息子たちで巨人〕をもてなすに足る料理の量だった。これほど気前のよい、ふんだんな珍味のおおばんぶるまいはお目にかかったことがなかった。しかしながら、その並べ方は趣向にとぼしく、そのうえ、銀の燭台に立てられ、食卓ばかりか部屋のいたるところに置かれた無数のろうそくが放つ強烈な光は、おだやかな照明になれた私の眼にはひどく不快だった。数人の召使がせわしく動きまわり、食堂のいちばん奥手にある食卓にはバイオリン、横笛、トロンボーン、ドラムを手にした者が七、八人すわっていた。この連中は食事の最中にときおり多種多様の騒音を発し、これには私も悩まされたが、彼らにしてみれば音楽を演奏しているつもりらしく、私を別にすれば、並みいる一同はみなこれを楽しんでいるらしかった。  全体として、眼にするものすべてに、どこか[奇異なる]風情があると思わざるをえなかった――だが、この世にはさまざまな人間、各種の考え方、あまたの習慣があるものだ。私もかなり旅をしたほうだから、「|何事にも動ぜず《ニル・アドミラリ》」といった心境には達していた。だから私は院長の右手に泰然と腰かけ、大いに食欲を発揮して、眼前のご馳走を平げていた。  その間、どの食卓でも活溌に話がはずんでいた。ご婦人たちは、ここでも例外ではなく、大いにしゃべりまくっていた。すぐに気づいたことだが、列席の人たちはほとんどみな教養があり、院長は洒落た話題にこと欠かなかった。彼は自分が「精神病院」の院長であることを好んで口にし、驚いたことに、狂気が一同のお好みの話題だった。患者の[気まぐれ]について面白おかしい話が次から次へと披露された。 「こんな患者がいましてね」と、私の右手の小ぶとりの紳士が言った――「この男は自分のことを茶瓶だと思いこんだのですな。ところで、この茶瓶という特定の奇想がしばしば狂人の頭に忍びこむとは、まことに不思議なことではありませんか? フランスの精神病院で、人間茶瓶のいないようなのは、まずありませんな。[当院の]紳士は英国製の茶瓶でして、毎朝欠かさず鹿皮と胡粉《ごふん》でせっせと自分を磨いておりましたな」 「それに」と、正面に席取った背の高い男が言った。「つい先頃まで、自分のことをロバだと思いこんでいたのがいましたね――比喩的に言えば、まさしくそのとおりでした。こいつは厄介な患者でして、おとなしくさせておくのに手を焼きましたね。長いあいだ、アザミしか食べようとしなかった。そこで、こっちもアザミしか食べないように仕向けたら、これはすぐよくなった。ところが、それからは、たえず足でけとばすのですな――こんなふうに――こんなふうに」 「ド・コックさん! おやめあそばせ!」と、ここで、語り手の隣りにすわっていた老婦人が口をはさんだ。「蹴るのはおやめあそばせ! 私の緞子《どんす》が台なしですわ! そんなに真に迫ったやり方でないと説明がおできにならないのですか? そんなことしなくても、ここにいらっしゃるお客さまは、ちゃんとおわかりになります。言っときますけど、自分をロバと思いこんだ気の毒な患者に負けず劣らず、あなたも大したロバさんですことよ。その身振り、まるでロバそっくりですわ」 「[平にご容赦のほどを]!」と、ド・コック氏はこの叱責に応じた――「平にご容赦のほどを! 他意はなかったのですから。マドモアゼル・ラプラス――このド・コックめに乾杯の栄をたまわらんことを」  ここでド・コック氏は頭を低く垂れ、うやうやしく自分の手に接吻し、マドモアゼル・ラプラスと乾杯した。 「失礼ですが」と、今度はメイヤール氏が声をかけてきた。「失礼ですが、サン・マヌール風の仔牛肉を少々献上いたしたい――なかなかの珍味ですぞ」  その瞬間、三人の屈強な給仕人が巨大な皿、いや木皿をうまく食卓に置くのに成功したが、その皿には、私が思うに、「眼ヲ抜カレタル、恐ルベキ、異形ノ、巨大ナル怪物」〔ユリシーズによって盲目にさせられた一つ目の巨人キュクロプスの記述。ウェリギリウス『アエネイス』参照〕が乗っていた。だが、眼を近づけてよく見ると、それは仔牛の丸焼きにすぎず、英国風の兎料理にまねて口にリンゴをくわえ、膝を折りまげているのだった。 「いや、けっこうです」と私は答えた。「じつのところ、サント――何でしたっけ?――何とか風の仔牛肉はあまり好きでないものですから。どうも好みにぴたりとこないのです。でも皿を替えて、兎の肉をいただいてみます」  食卓には副菜の皿がいくつかあって、見たところ普通のフランス風兎料理らしきものもあった――これはおいしいもので、推奨できるものだ。 「ピエール」と院長は声をあげた。「お客さまの皿をお替えして、副菜のこの猫風兎料理《ラビット・オー・シャ》をさしあげなさい」 「この何ですって?」 「この猫風兎料理《ラビット・オー・シャ》です」 「いや、かたじけないのですが――やはり遠慮させていただきます。ハムを勝手にやらせていただきますから」  この地方の連中ときたら、食卓で何を食べるのやらわかったものじゃない、と私はひそかに思った。猫風兎料理《ラビット・オー・シャ》だろうと、はたまた兎風猫料理《キャット・オー・ラビット》だろうと、こちらは願い下げだ。 「それに」と、食卓の下座にいた、死人のように青ざめた顔色の男が、さっき途切れた会話を接ぎ穂に、また話を蒸し返した――「それに、変り者のうちには、かなり昔になりますが、自分のことをコルドヴァ・チーズだと強情に言い張るのがいましてね、こいつはいつもナイフを手にして歩きまわり、仲間に自分のふくらはぎのところをひと切れ味わってみないかとすすめたものです」 「たしかに、あいつは大馬鹿だった」と誰かが口をはさんだ。「しかし、このお客さんは別だけど、皆さんよくご存知の例の人物とは較べものになりませんね。つまり自分のことをシャンパンの瓶だと思いこんだ男のことですがね。こやつはいつも、こんなふうに、ポン、シュ、ポン、シュとやってましたね」  ここで語り手は、まことに無作法にも、右手の親指を左頬の裏側に突っこみ、それを抜くときにコルクの栓を抜くような音をたて、それから舌と歯をたくみにこすり合わせて、シャンパンが吹き出すときのシューッという鋭い音を出し、これを数分間もつづけたものだ。この行為をメイヤール氏がこころよく思っていなかったのは明白だったが、この紳士は何も言わなかった。と、今度は大きなかつらをつけた小柄な男が話を受けついだ。 「それに、こんな馬鹿者もいましたね」と彼は言った。「自分を蛙だと思いこんだのですな、こいつは。でも、かなりいい線いってましたね。お見せしたかったですね」――ここで語り手は私に話しかけてきた――「さぞかしご満足なさったことだろうに、あの男の蛙そっくりのようすをごらんになれば。あの男が蛙で[なかった]なら、蛙でなかったのが残念としか言いようがありませんね。やつはこんなふうに鳴くのです――グ・グ・グ・グ・グ・グウ――グ・グ・グ・グ・グ・グウとね。天下一品でしたね――変ロ調とくる。やつがワインを一、二杯ひっかけてから、肘をですね、こんなふうに食卓において、頬をふくらませる、こんなふうに、それから眼玉をぎょろつかせる、こんなふうに、そして電光石火の早業で眼をぱちくりやる、こんなふうにですな。あえて自信をもって言わせていただけば、この男の天才ぶりには、あなたにしても感嘆おくあたわず、といったところでしたろうな」 「さぞかし」と私は言った。 「それに」と、また誰かが言った。「プチ・ガイヤールというのがいましてな、こいつは自分のことを一服の嗅ぎ煙草だと信じていたのですが、自分自身をですな、自分の親指と人指し指でつまめないのをなんとも嘆き悲しんでいましたね」 「それにジュール・デズリエールというのがいまして、これはまさしく奇才でしたね。なにせ自分をカボチャだという観念に夢中になったのですから。自分をパイにしてくれと料理人にせがんだのですが――料理人もこれにはへきえきして、断固として拒否したのです。ですが、私としましては、デズリエール風パンプキン・パイが天下の珍味でないとは断定できないと思うのです」 「これはたまげた!」と私は言って、メイヤール氏をいぶかしげに見やった。 「ハ! ハ! ハ!」と院長は笑った。「ヘ! ヘ! ヘ! ――ヒ! ヒ! ヒ! ――ホ! ホ! ホ! ――フ! フ! フ! ――これは傑作だ! たまげる必要はありませんよ。この方は機知にとんでおられる――冗談がお上手なんですな――額面どおりに受け取ってはいけません」 「それに」と、また誰かが言った。「ブフォン・ル・グランというのがいましたね――これもなかなかの奇人でした。彼は恋をして気が変になり、自分には頭が二つあると思いこんだのです。彼の主張するところによれば、一つはキケロの頭、もう一つは複合体の頭で、額のてっぺんから口まではデモステネスの頭、口から顎まではブルーム卿〔ポオによれば、当時の雄弁家〕の頭だと信じていたわけです。彼が思い違いをしていた可能性はなきにしもあらずですが、彼の語るところに耳を傾ければ、彼が正しいのではないかという気にもなったはずです。なにせ、彼は大の雄弁家でしたからね。彼は弁舌に対して燃えるような情熱をいだいていて、それを披瀝せずにはおられなかったのです。たとえば、彼はこんなふうに食卓に飛び乗り、そして――そしてですね――」  ここで、語り手のすぐそばにいた仲間の一人が彼の肩に手を置き、何やら耳もとでささやくと、男は突如として語るのをやめ、また椅子に沈みこんだ。 「それに」と、いまささやいた仲間がいった。「独楽《こま》のブラールってのがいましたね。こやつを独楽と呼ぶわけは、自分が独楽にされてしまったという妄想にとらわれていたからですが、まんざら不合理な妄想とはきめつけられませんね。彼が回転するさまをごらんになったら、抱腹絶倒なさるでしょうな。片足の踵を軸に何時間でも廻りつづけるのですからね――こんなふうに――こんな――」  ここで、さっき何やらささやかれて邪魔をされた仲間が、自分がされたのと同じ役割をこの男のために果してやった。 「でもね」と老婦人が大声で叫んだ。「ブラールさんとやらは気違いでしたわ、しかもたかだか阿呆らしい気違いでしたわ。だって、言わせてもらいますけど、独楽人間なんて聞いたこともありゃしない。馬鹿馬鹿しいったら。そこへいくと、ジョワイユーズ夫人はもっとちゃんとしたお方でしたわ。そりゃ妄想はお持ちでしたけど、ちゃんと常識がありましたもの。それにお近づきになった人に愉快な感じを与えましたわ。あの方は、熟慮のすえ、ご自分が何かのきっかけで牡鶏になったことを発見されたのです。でも、牡鶏としては、たしなみぶかくお振舞いでしたわ。あの羽ばたきようの優雅さったら――ぱた――ぱた――ぱた――それに鳴き声ときたら、もうすてき! コケコッコオ! コケコッコオ! コケコッコオオオオ!」 「ジョワイユーズさん、たしなみをお忘れなく!」と院長はひどく怒ったように、口をはさんだ。「淑女らしく振舞うか、それとも即座に席を立つか――どちらかにしてください」  このご婦人(いましがたジョワイユーズ夫人のことを他人ごとのように話していた当の本人がジョワイユーズ夫人と呼びかけられるのを聞いて、私はひどく当惑した)は眉毛のあたりまで顔をあからめ、叱責されたことをひどくばつ悪がっているようだった。彼女は頭をうなだれ、ただのひと言も発しなかった。すると、また別の若い婦人が話題を引きついだ。それは客間のわがうるわしの乙女だった! 「え、ジョワイユーズ夫人はお馬鹿さんでしたわ!」と彼女は叫んだ。「でも、つまるところ、ユージェニー・サルサフェットの考えのほうがずっと健全だったのですわ。あの方はとても美しく、涙ぐましいぐらい慎みぶかいお嬢さまで、普通の衣裳は慎みがないとお考えになり、衣裳で身をつつむかわりに、衣裳をかなぐり捨てることによって、身を飾ろうとなさったのです。え、それはわけもないことですわ。こんなふうになさればいいの――それから、こう――こう――こう――それから、こう――こう――それから、また――」 「おやめ! マドモアゼル・サルサフェット!」と十二人ばかりの声がいっせいに言った。「何をなさるおつもり? ――やめて! ――それで充分! ――脱ぎ方ぐらい、わかってます! ――やめて! やめて!」数人の者がすでに席から飛び出して、サルサフェット嬢がメディチ家のヴィーナスなみに赤裸になるのを押しとどめようとかかっていたが、そのとき館の母屋のほうから一連の叫び、おらぶ声がしてきて、当面の問題は即刻かつ効果的に決着がついてしまった。  こういう叫び声は私の神経にもかなりこたえたが、他の連中は見るもあわれだった。正気な一群の人たちが、かほどにおびえきったさまは見たこともなかった。みなが死人さながらに青ざめ、座席に身をこごめて坐りこみ、恐怖に身を震わせ、何やらつぶやきながら、断続する音に耳を傾けていた。また音がしてきた――以前より大きく、また近づいている気配。そして三度目のは[非常に]大きく、四度目のはあきらかに音量がへっていた。音が弱まると、一同はたちまち元気を取り戻し、また活気と会話がよみがえった。そこで私はあえて騒動の原因をたずねてみた。 「[くだらん]ことですよ」とメイヤール氏は言った。「こんなことは慣れっこで、本当はほとんど気にしてないんですよ。狂人たちは、ときたま、いっせいに吠えるのです。よく夜中に犬がやるように、一人がやりだすと、みんながやりだす。ところが、あの[合唱]のあとで、またいっせいに逃亡をくわだてることがあるので、そういうときには、むろん、いくらか危険が予想されるわけです」 「収容人員はどれほどですか?」 「現在のところ、全部で十人に満たないほどです」 「主として女性なんでしょうね?」 「いや、とんでもない――ひとり残らず男性で、しかも屈強な連中なんですよ」 「へえ! 精神異常者の大半は女性だとばかり思っていました」 「一般にはそうですが、かならずしもそうではない。すこしまえまでは、ここに二十八人の患者がいましたが、そのうち十八人までが女性でした。しかし最近では、事情が変ってきましてね」 「そうなんです――大いに事情が変ってきましてね」と、ここで、さきほどマドモアゼル・ラプラスの向うずねを打ちくだいた紳士が口をはさんだ。 「そうなんです――大いに事情が変ってきましてね」と一同が声をそろえて言った。 「舌を動かすんじゃない、みんな!」と院長が怒って言った。すると一同は一分間ほど水を打ったように静まりかえった。ある婦人などは、メイヤール氏の言葉を文字どおりに受けとめ、並はずれて長い舌をべろりと出して、食事が終わるまで、それを両手で動かぬようにじっと押さえていた。 「あのご婦人のことなんですが」と私はメイヤール氏にかがみこみ、小声で言った。「さっき話をされたご婦人、コケコッコーをおやりになったご婦人――あの方は、その、無害なんでしょうか――完全に無害なんで?」 「無害!」と院長は掛値なしに驚いたらしく、叫んだ。「いったい――ぜんたい――何をおっしゃりたいのですか?」 「すこし[ふれている]だけなんでしょうね?」と私は頭に手を触れて言った。「私としましては、あのご婦人はとくに――べつに危険なほどいかれてはいない、と信じているわけなんです」 「なんですって! いったいあなたは何を考えているんですか? あの婦人、ジョワイユーズ夫人は、私の古くからの親友で、私と同様に絶対に正気です。なるほど、いくらか変ったところがおありだ――ですが、いいですか、年配のご婦人はみんな――ごく年をめされたご婦人はみんなですな、多かれ少なかれ変っていらっしゃるものですぞ」 「ごもっとも」と私は言った。「ごもっとも――ですが、ほかの紳士淑女は――」 「ことごとくわが友にして同僚です」とメイヤール氏は傲然と胸を張って、私の言葉をさえぎった。「わが親友にして助手です」 「え! みんなが?」と私は訊いた。「ご婦人もふくめてみんなが?」 「まさしく」と彼は言った――「女性抜きではやっていけません。彼女たちは世界でいちばん有能な狂人の看護婦です。彼女たちには独特のやり方があるのですな。あの輝く眼にはすばらしい効能がある――ほら、蛇の眼の魅惑に似た何かが」 「なるほど」と私は言った。「なるほどね! 一風変ってますね、振舞いが――ちょっぴり奇妙ですね――そうお思いになりませんか?」 「変ってる! ――奇妙だ! ――[ほんとに]そう思いますか? なるほど、われわれ南部地方の者はさほど謹厳じゃない――したい放題のことをやる――人生をたのしむ、その他なんでもたのしむんですな」 「なるほど」と私は言った――「なるほど」 「ところで、このクロ・ド・ヴジョはいささか頭にくる――すこし[強い]――おわかりかな?」 「なるほど」と私は言った――「なるほど。ところで院長、高名な鎮静療法のかわりに採用された療法はきわめて厳格なものだ、と理解してよろしいわけでしょうね?」 「とんでもない。監禁は厳格にやらざるをえない。しかし扱いは――つまり医学的治療のことですが――それは患者にとって、むしろ快適なものです」 「その新療法を発明なさったのはあなたなのですね?」 「全部ではないがね。一部はタール博士の発明にかかるものですが、この方については、さぞかしお聞きおよびのことでしょうな。それに私は自分の治療法を一部修正したのですが、その修正部分はかの高名なるフェザー教授に負うところが多いことを認めるにやぶさかではありませんな。ところで、私の思い違いでなければ、あなたはこの方と昵懇《じっこん》でいらっしゃる」 「恥かしながら白状しますと」と私は答えた。「ご両人のお名前は聞いたこともありません」 「これはたまげた!」と院長は椅子をいきなりうしろに引き、両手を振りあげて言った。「どうも私の聞き違いらしい! まさか、かの学識ゆたかなタール博士の名も、かの評判高いフェザー教授の名も[お聞きおよび]でない、などとおっしゃらなかったのでしょうな」 「無知をさらすことにはなりますが」と私は答えた。「ですが、真理はまげるわけにはいきません。それにしても、さように偉大な人物の著作に通じていなかったとは、まことにお恥かしいかぎりです。すぐさまお二人の書物をさがして、熟読玩味してみます。メイヤールさん、ほんとに――正直な話――まさしく[ほんとに]――私は恥かしい気持でいっぱいです」  そして、これに嘘はなかった。 「それ以上おっしゃらないで」と彼は私の手を取りながら、やさしく言った。「さあ、ごいっしょにソーテルヌを一杯やりましょう」  二人は飲んだ。一同も私たちの例にならい、止めどもなく飲んだ。彼らはしゃべり――ふざけ――笑い――愚行の数々を演じ――バイオリンは金切声をあげ――ドラムは鳴りひびき――トロンボーンはファラリスの真鍮の牡牛〔シチリアの暴君ファラリスは真赤に火で焼いた真鍮の牡牛に人を入れて焼き殺した〕さながらに咆哮し――その場の事態は、酒の勢いが増すにつれて悪化の一途をたどり、ついに伏魔殿[さながら]の姿と化した。その間にも、メイヤール氏と私はソーテルヌとヴジョの瓶を何本も空にしながら、大声を張りあげて話をつづけた。普通の調子で話していたのでは、ナイヤガラの滝壺にひそむ魚の声なみに聞こえる見込みはなかったからだ。 「ところで院長」と私は彼の耳もとで叫んだ。「食事のまえに、何だかおっしゃってましたね、鎮静療法にともなう危険について。それはどんな危険ですか?」 「言いましたね」と彼は答えた。「ときたま、どえらい危険が生じましたな。狂人の気まぐれときたら、それこそ見当がつきませんからね。タール博士とフェザー教授の意見もそうだが、私の考えでは、狂人を監視人もつけずにうろちょろさせておくのは安全どころではない。狂人をいっとき『鎮静』させることはできても、結局は手におえなくなるのがおちだ。それに狂人の狡知は、周知のごとく、大変なものですぞ。狂人がある計画をたてると、その意図をかくすのに驚嘆すべき知恵を働かせる。狂人が正気をよそおう巧妙さは、形而上学者に、人間精神の研究における最大の難題を提供しているのですぞ。狂人が[まったく]正気にみえるときには、さっそく狭窄服を着せることですな」 「でも院長先生、あなたのおっしゃる[危険]――あなたがこの病院を経営されているうちに――実際に経験された[危険]についてですが、狂人の場合、自由を与えるのは剣呑だとする具体的な事由があったのですか?」 「この病院で? ――実際に経験した? ――え、まあ、あったと言っていいでしょうな。たとえば――[そんなに]古い話じゃありませんが、まことに珍妙な事態が当院に発生しましたな。当時は、例の『鎮静療法』が行われてまして、患者は自由きままにやっていた。彼らの振舞いは申し分なかった――格別にそうだった――ところで、連中の振舞いが[申し分なく]いいとなれば、まさしくその事実から、奴らが何かたくらんでいるらしいと気づかんようでは、正気の人間ではありませんぞ。はたせるかな、ある晴れた朝、看守たちは手足を縛られ、地下室に投げこまれ、まるで[看守たち]のほうが狂人みたいに、狂人たちに看護されることになったのですな。狂人が看守役割を奪ったというわけです」 「まさか! そんなけったいな話は聞いたこともありませんね」 「ところが事実なんです――しかも、これがみな一人の馬鹿者、狂人のせいで起こったのですな。この男は、ふとしたことから、前代未聞の支配体制を発明したと思いこんだ――つまり、狂人による支配というやつです。彼は自分の発明を実行に移してみたいと思ったのですな――そこで他の患者を説得して、現行体制を顛覆する陰謀に加担させた」 「うまくいったのですか?」 「まさしく。手当をする側とされる側が立場を変えてしまった。いや、そう言ったのでは正確さを欠く――狂人たちはそれまで自由だったのに、看守たちはすぐさま地下室に閉じこめられ、気の毒なことに、そうとう手荒な扱いを受けることになったのですから」 「でも、ただちに反革命が起こったでしょうね。そんなことが長つづきするはずありませんもの。まわりの土地の人たち――それに施設を見学にくる人たちが、急を伝えるはずですから」 「そこのところが甘い。反乱の首領はもっと頭がよかった。訪問者はいっさい入れないことにした――ただし例外があって、ある日やってきた間抜け面の若者は入れてやった。警戒する必要がないとみたもので。首領はこいつを招き入れた――退屈しのぎに――ちょっぴりからかってやろうって魂胆でしたな。すっかりたぶらかしてから、お役ごめんで、お払い箱にしたというわけですな」 「その狂人支配体制はどれぐらいつづいたのですか?」 「え、かなり長くつづきましたね――一ヵ月はたっぷり――それからどれくらい、ということになると確言できませんな。その間、狂人たちがわが世の春を謳歌したこと――こいつはたしかです。自分たちのみすぼらしい衣類を脱ぎすて、館の衣裳や宝石を勝手に身につけましてな。館の酒蔵にはワインはたんまりある。これを飲むことにかけては、狂人たちはまさしく天才的ですぞ。彼らは陽気にくらした――これはもうたしかです」 「ところで治療法ですが――反乱の首領はいかなる種類の治療法を実行したわけですか?」 「その点についてはですな、さっき言ったように、狂人はかならずしも馬鹿ではないのですから、正直なところ、彼の治療法は以前の治療法より数段すぐれていましたね。それはまことに立派な療法でして――単純――適切――面倒もいっさい起こらなかった――まあ、それは甘美というか――また――」  ここで院長の話は途切れた。さきほどわれわれ一同をおびえさせたのと同じ性質の叫び声がまたしてきたからだ。ただし、今回のはこちら目がけて殺到する者の発する声らしく聞こえた。 「大変だ!」と私は叫んだ。「きっと狂人たちが脱走したのだ」 「どうやらそうらしい」とメイヤール氏は答えたが、その顔はまっ青だった。そう言いおわらぬうちに、大声に叫びののしる声が窓の直下に迫ってきた。何者かが外から部屋に侵入しようとしていることは、もはや明白だった。大槌らしきもので扉を打ち、すさまじい馬鹿力で鎧戸をゆすり、こじ開けようとしている。  大混乱が巻き起こった。メイヤール氏は食器棚の下にもぐりこんでしまい、これには私も唖然とした。もっと断固たる処置をとるものとばかり思っていたからだ。この十五分間ほど、酔いがまわりすぎて義務の遂行をないがしろにしていたかにみえたオーケストラの連中は、いまやいっせいに立ちあがり、楽器を手にして食卓によじのぼり、いっせいに「ヤンキー・ドゥードル」〔独立戦争当時アメリカ軍で人気のあった準国歌といった曲。これがフランスの精神病院で演奏されるところが奇想天外〕をおっぽじめた。調子こそ合ってなかったが、その熱演ぶりはまさしく超人的で、演奏は騒ぎのおさまるまでつづいた。  そのうち、瓶やグラスがいっぱいのった主食卓に、さきほど同じことをしようとして押しとどめられた例の紳士が跳びのり、どうやら足場を確保すると、やにわに演説をやり始めたが、もし聞くことができたなら、さぞかし大演説だったにちがいない。同時に、独楽《こま》気違いの男は、両腕をからだから直角に伸ばし、猛烈な勢いで部屋じゅうを旋回しはじめた。彼はまさしく独楽そのもので、当るをさいわい、すべての者をなぎ倒してしまった。すると、思いもかけぬシャンパンを抜く音と泡立つ音がするので、見ると、食事の最中に美酒の瓶を演じた男がやっているのだ。お次は蛙男で、まるでおのれの魂の救済が自分の鳴きざまにかかっているといわんばかりにグー・グー、ゲロ・ゲロとやりだした。また、この騒ぎのさなかに、ひときわ高くロバの鳴き声がひびきわたった。わが親愛なるジョワイユーズ夫人ときては、ただもうどうしてよいかわからぬありさまで、この婦人のために私は涙をもよおさずにはおられなかった。彼女がやっていたことといえば、ただ煖炉のそばに立ち、声をかぎりに「コケコッコー」をくりかえすばかり。  やがて大団円がきた――劇の破局が訪れたのだ。外部からの侵入者に対して、吠え、叫び、コケコッコーをやる以外に抵抗らしい抵抗もなかったので、十個の窓はたちまち、いっせいに打ち破られた。殴る、蹴る、引っかく、叫ぶの大混乱のさなかに窓から飛びこんできたのは、どう見てもチンバンジー、オランウータン、それに喜望峰に住むという黒|猩々《しょうじょう》の一群で、このときの驚愕と恐怖の念は一生忘れられるものではない。  私もしたたか打ちすえられた――それにこりて、私はソファーの下に転がりこみ、じっとしていた。そこにそうやって十五分間ほどひそんでいるあいだ、私は部屋で進行しつつあることに聞き耳をたて、どうやらこの悲劇の[大団円]を満足に理解することができるようになった。メイヤール氏は仲間をそそのかして反乱を起こした狂人の話をしてくれたが、それはどうやら自分自身の話らしいのだ。たしかにこの紳士は二、三年まえまではこの施設の管理者だった。しかし、その後、当の本人の気が変になり、患者になったのだ。私を紹介してくれた旅仲間はこの事実を知らなかったのである。全部で十人の看守は不意を襲われ、まずタールをたっぷり塗られ、それから入念に羽根《フェザー》をくっつけられ、地下室に閉じこめられた。彼らはそこに一ヵ月以上にわたって監禁されることになったが、その間、メイヤール氏はふんだんにタールと羽根《フェザー》を供給したばかりか(それが彼の「療法」の骨子だった)、少量のパンと大量の水を補給した。水は毎日ポンプで送りこまれたのだった。そのうち、ついに一人が下水溝から脱出して、みんなを解放したのである。「鎮静療法」はいくらか手直しをされて、館《シャトー》で再開されたが、それでも私はメイヤール氏の「治療法」はその種のものとしてはきわめて立派なものだと認めざるをえない。それは氏が正当にも述べたように「単純――適切――面倒もいっさい起こらない」ものだったから。  最後につけ加えておくが、タール博士とフェザー教授の著作を求めて全ヨーロッパの図書館をくまなく探したが、今日までのところ、私の努力は報われていない。(完) [#改ページ]  解説     一  一八四九年七月七日、エドガー・ポオは旅先から義母マライア・クレムに、次のようにパセティックな、またいささか理不尽な手紙を書き送っている。 [#ここから1字下げ]  この手紙がつき次第、私のところに|来て《ヽヽ》ください。あなたにお会いできる喜びが私たちの悲しみをほとんどつぐなってくれるでしょう。私たちはいっしょに死ぬよりほかないのです。今は私《ヽ》に道理を説いても無駄です。私は死なねばならないのです。『ユリイカ』を書きあげてしまったので、私にはもう生きる意欲がありません。もうなにも成しとげられそうにありません…… [#ここで字下げ終わり]  ポオは、どこかで種明かしをする意志のない嘘や、なんらかのかたちで実行に移せないような嘘を口にしない種類の人間であった。だから、彼が「私は死なねばならないのです」と言明したからには、まさしく|死なねばならなかったのだろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と思うよりほかはない。事実、彼の律義さは度をこしていて、この手紙を書いてから三月《みつき》とたたぬ十月七日、ボルチモアで客死した。ところで、もしこの死を彼の言明の実行だと信じるのなら、彼が死なねばならぬ理由としてあげたことも信じなくてはなるまい。そうなら、ポオは「『ユリイカ』を書きあげてしまい」また「もうなにも成しとげられそうになかった」ので、|死なねばならなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のである。そうならまた、まさしくポオは|死なねばならぬ《ヽヽヽヽヽヽヽ》ほどの企てを『ユリイカ』において成しとげた、とも信じなければならない理窟だ。それが何であったかはおいおい明らかにするにしても、また私の議論を信じない読者にしても、ポオがこの作品に託した心情の重みを右の手紙の一節から読みとるのにやぶさかではあるまい。  伝記的事実に即していえば、妻ヴァージニアとの死別(一八四七年一月三十日)、経済事情の逼迫、肉体の衰弱にもかかわらず、ポオは一八四七年を通して着実に『ユリイカ』の稿をすすめていた。これをニューヨークの聴衆を前に朗読したのが一八四八年二月。単行本としてパットナム社から出版したのは同年六月と推定される。こういう簡単な伝記的事項の羅列からだけでも、ポオのこの作品に対する執心のほどがうかがえよう。だが、『ポオ書簡集』をひもといてみれば、その感はひとしお深くなる。彼の『ユリイカ』についての言及は意外に多く、いずれも熱っぽい口調で語られており、なかには作品の内容を箇条書きにレジュメした長文の手紙もある。  その長文の手紙は文学上の友人ジョージ・W・エヴェレス宛のものであるが、その箇条書きの部分はポオ自身による『ユリイカ』の要約としての価値もあるので、ここに訳出しておこう。 [#ここから1字下げ]  一般命題はこうである――すべてが無であるが|ゆえに《ヽヽヽ》、あらゆる物質は存在する。  一――重力の遍在性《ヽヽヽ》――すなわち、あらゆる粒子は共通する一点に向かうばかりか、他の|あらゆる《ヽヽヽヽ》粒子へも向かう傾向があるという事実――は、この現象の背後に|完璧な《ヽヽヽ》全体性ないし絶対的《ヽヽヽ》な単一性があることを示唆する。  二――重力はあらゆる物質が原始の単一性に復帰する傾向が顕現する様式にほかならず――また、最初の神の行為の反作用にほかならない。  三――復帰を規制する法則《ヽヽ》――つまり重力の法則《ヽヽ》――は、物質が空間に均等に分散していることの必然的にして唯一可能な様態の必然的な結果にほかならない。  四――星の宇宙(空間の宇宙ではない)は有限である。  五――精神が物質を知覚するのは、その二つの属性である引力と斥力によって|のみ《ヽヽ》である。それゆえに物質は引力と斥力としてのみ|存在する《ヽヽヽヽ》。究極的に凝縮してできる、あらゆる球体の球体は、一つの粒子にほかならぬが、それは引力――すなわち重力を有しないであろう。そのような球体の存在は、現状のように拡散している諸粒子のあいだに存在することが知られている分離力を有するエーテルが排除されることを前提とする。かくして究極的な球体は引力も斥力もない物質であり、引力と斥力|こそが《ヽヽヽ》物質なのである。すると究極的球体は物質を有さない物質――つまり、まったく物質ではない物質であろう。それは消滅する定めである。この単一性こそが無である。  六――単一性から出てくる物質は、無から出てくる――つまり、|創造される《ヽヽヽヽヽ》のである。  七――単一性に復帰することによって、すべては無に帰する。 [#ここで字下げ終わり]  作品をいちばん上手に要約するのは作者であるとはかぎらない。この場合も例外ではなく、また要約はつねに作品本体によって補強されなくてはならぬ性質のものである。たとえば、右に述べられている「一般命題」は『ユリイカ』にかかげられている「一般命題」――[最初の一つのものの原始の単一状態のなかに、その後のすべてのものの原因がひそみ、同時に、それらすべてのものの不可避的な消滅の萌芽もひそんでいる]――と合わせ読まれるとき、いくらかわかりがよくなろう。ただし、|いくらか《ヽヽヽヽ》であって、|全面的に《ヽヽヽヽ》ではない。まして、ポオがこの手紙の結びの部分で述べていること――「私が提唱いたしますことは(やがて)物理学ならびに形而上学の世界に革命をもたらすでありましょう。私はさりげなくこう申しますが、確信をもってそう言うのです」という言明など、あまり真に受けるわけにはいかない。『ユリイカ』は、当時の科学的知識をかなり存分に利用しているとはいえ、物理学や天文学の論文ではない――今日の多くのSFがいかに先端的な科学知識に基づいて書かれていようと、それが科学論文ではないように。また『ユリイカ』がまともな形而上学の書でないこともたしかである。その冒頭で、ポオは西暦二八四八年という「未来」から送られてきた手紙に語らせるという「不可能な」手段を用いて、アリストテレスに代表される先験的方法論、ベーコンに代表される帰納的方法論をともに否定し、直観ないし想像力に訴える第三の方法論を主張しているが、正当な形而上学的、または論理学的手続をふんでのことではない。それはせいぜい、すでに確立していた「真理」の確認法に対する揶揄、あてこすりであり、同時に『ユリイカ』でポオが採用した「憶測法」についての弁護であるにすぎない。この作品が発表された当時すでになされた同種の非難に関して、ポオはある手紙で「私の真意はこうである――アリストテレスの方法もベーコンの方法も絶対的に|正しい《ヽヽヽ》わけではないこと――したがって、いずれの哲学も、それが自負しているほどには深遠なわけではないこと――そして、直観と呼ばれる想像力に訴えるとみえる方法を、そのいずれの哲学も軽蔑する権利はない」と、意外におだやかな調子で書いているが、ここでポオは本心を語っていると受け止めてよい。  的を外れ、正鵠《せいこく》を射てない非難や批判には、人は意外に鷹揚に振舞えるものである。ポオの場合がそうだった。『ユリイカ』は、当時の科学的知識を可能なかぎり利用し、きわめて論理的な口吻で語られていながら、じつは主として想像力にたよる宇宙再構想の詩的なこころみであった。だから、この作品が科学的に荒唐無稽ときめつけられようと、哲学的に無意味と非難されようと、作者は痛痒を感じなかったはずである。それにポオは、そういう非難や攻撃をあらかじめ無効にしておくためかのように、この作品に「散文詩」という副題ないし「品質表示」を付しておいた。そのうえ「序」までつけ、「本書をして真たらしめている美のゆえに」この作品を「真理の書」として「夢見る」読者に捧げると述べ、作者の死後、「この作品がもっぱら詩としてのみ評価されんことを切望するものであります」と結んでいる。コウモリと呼ばれればネズミ、ネズミときめつけられればコウモリと応ずる準備を万端ととのえて、ポオはこの野心的な、思いをこめた作品を残してこの世からみまかったように思われる。  このような韜晦《とうかい》は、しかし、これまで多くの、ことに英語圏の読者の猜疑心をそそってきた。 「大鴉」や「アナベル・リー」などの短い抒情詩の書き手、「詩の原理」や「詩作の哲学」などで、詩の唯一正当な領域は「美」であり、「美」と「真」とは水と油のごとくなじまず、詩の長さは一気に読めるほどのものでなければならぬと主張した詩論家ポオが、この四万語をついやして散文で書かれた奇妙な論文を「詩」として、「真理の書」として読んでくれというのであるから、それも無理からぬ。  だが、純粋に夢見ることの何たるかを知り、|書くこと《ヽヽヽヽ》の極北を見きわめ、想像界の本質的な虚無性を知悉したフランスのサンボリストたちのあいだには、『ユリイカ』をポオが望んだとおりに、あるいはそれ以上に、読みとった書き手たちがいた。一冊の本のなかに、いや書物の一ページのなかにさえ、全宇宙を封じこめようという夢にとりつかれ、ついに白い紙に無限に数少い文字を書きつける破目になったステファヌ・マラルメ。ポオを生涯にわたって「|わが偉大なる師《モン・グラン・メートル》」と呼んで尊敬したマラルメにそのような夢を鼓舞したのは『ユリイカ』であったにちがいない。またマラルメの忠実な弟子ポール・ヴァレリーに、今後ともけっして書かれることのないであろうような美しく洞察に富んだ『ユリイカ』論(一九二三年)があることは周知のとおりだ。解説めいた言辞は抜きにして、次にその一節をいきなり引用してみる。 [#ここから1字下げ]  ポオは数学的な問題を基礎にして一つの抽象的な詩を書いたのであるが、それは物質的ならびに精神的な自然を総体的に説明しようとした、現代には稀な例であり、まさしく天地創造説《ヽヽヽヽヽ》なのである。……そしてこれは各種の聖典や、みごとな詩や、美しさと滑稽さに満ちたきわめて奇異な物語や、宇宙などというつまらない対象には時おりもったいないほど深遠な物理学的な、また数学的な研究を含んでいる。さりながら、虚空に力を費しうるということは人間の栄光であり、また単に彼だけの栄光ではない。気違いじみた探求は思いがけない発見をもたらすものである。つまり想像の機能が実在的なのであって、純粋な論理学はわれわれに|虚偽が真実を含意する《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことを教える。かくして精神の歴史は次の言葉で要約することができる。すなわち、|精神はそれが求めることにおいて無稽であり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|それが発見することにおいて偉大である《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。 (傍点ヴァレリー) [#ここで字下げ終わり] 「想像の機能が実在的」であり、それが機能するとき「虚偽が真実を含意する」という論述ほど『ユリイカ』(「ワレ発見セリ」の意)の完璧な弁護がありうるだろうか。それはポオが一八四七年当時、物理学的な、また形而上学的な意味において「発見した」ことが、その後に発見された幾多のきわめて重要な事実によって否定されもしなければ、また確証されもしない性質のものであることを述べているからだ。ここにおいて『ユリイカ』は物理学的・形而上学的見地からなされる非難に対して一種の無謬性を与えられたことになる。が、そういえば、あらゆるSFないしサイエンス・フィクションは、それが書かれた時代や書き物の質によって程度の差こそあれ、その種の免責条項を享受している。たとえば、火星に生物が存在しえないことが今日判明したからといって、火星人を創造したH・G・ウェルズ(『宇宙戦争』)が非難されることはない。今日の原子力潜水艦にくらべてジュール・ヴェルヌの潜水艦がお粗末にすぎるという非難も当らない(『海底二万リーグ』)。要は文学としての質だ――という議論で片付けばよいのだが、しかしSFの場合、ことはそう容易には運ばない。SFとはその物語から科学的要素を取り除けば無効になるような文学のジャンルだからだ。すると、ここで議論は逆流しはじめる。あらゆるSF作品は科学的見地からなされる査定を免除されてはおらず、それによって文学作品としての価値が左右されることも避けえないからだ。  ポオの『ユリイカ』を一種のSF、科学的装いを持つ宇宙論として読むときも、右の事情に変りがない。この作品は、マラルメやヴァレリーのように高く評価して自己の想像(創造)活動を鼓舞する糧とした者もいたが、その「|書かれたもの《エクリチュール》」としての作品のなかに全宇宙が封じこめられているわけではなく(たとえばジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェーク』のように)、あくまでも|宇宙について《ヽヽヽヽヽヽ》書かれた書きものである。現代の進歩した宇宙論と照らし合わせて『ユリイカ』が読まれなければならぬ理由がそこにある。別言すれば、『ユリイカ』をSFとして読むことは、この作品を現代に救出するゆえんでもあるのだ。     二  そういう作業ないし読み方をいくらか容易にし、かつ正当化する根拠は『ユリイカ』が宇宙論であるところにある。今日の科学的宇宙論にしても、原理的には観測が不可能な領域まで含めての宇宙全体の性質や構造を論ずるもので、これは原理的に観測が可能なものしか対象としない物理学などとは異質なものである。この点について、小尾信彌はその『宇宙の進化』(朝日出版社)で「宇宙論は通常の意味での自然科学ではない、ということもできる。前提となる立場あるいは仮定がないと、宇宙論をつくることができない。現在一般に受け入れられている立場は、『宇宙原理』と呼ばれるもので、宇宙は空間的に一様かつ等方であるとするものである。これが、観測から得られた近似的事実である……大望遠鏡で比較的よく観測されている三十億光年までの範囲では、星雲の空間分布は一様かつ等方である」と述べている。  この現代の科学的宇宙論の立場はポオの『ユリイカ』のそれと基本的に同じではないか。ポオがその宇宙論で「前提とした立場あるいは仮定」は「[最初の一つのものの原始の単一状態]のなかに、[その後のすべてのものの原理がひそみ、同時に、それらすべてのものの不可避的な消滅の萌芽もひそんでいる]」であることはすでに指摘した。そしてポオの「宇宙原理」は「星たちがほぼ球状に群をなして分布している空間の全域にわたって、その配置のされ方には、ある種の大まかな一様性、均等性、ないし等距離性がある」と記述されている。このような仮説に基づき、ケプラーの惑星の公転軌道に関する法則、ニュートンの重力と運動の法則、ラプラスの星雲説や天体力学を援用して「神のプロット」であるところの「宇宙のプロット」の解明のくわだてが『ユリイカ』なる作品である。  その作品の内容をもうすこし具体的に要約するなら、精神的宇宙とは神の意図によって無から有になり、またやがて無に復帰する過程のことであり、物質的宇宙とは原始の考えうるかぎり純粋な単一状態にあった物質が爆発的に拡散・放射されて現在の多様な星々が存在している状態のことであるが、それもまた原始の単一状態に復帰する過程にほかならない。存在とは、ポオによれば、過程なのであり、無数の原子と原子のあいだに引力と斥力が働かなければ物質は存在しえず、したがって宇宙も存在しないのである。ポオ自身の言葉で再説するなら、「引力と斥力によってのみわれわれは宇宙を知覚しうること――別言すれば、両者によってのみ物質は精神に顕現しうること……あらゆる場合において、物質が引力と斥力としてのみ存在し――引力と斥力[こそが]物質[である]」となる。  このような宇宙解明のこころみをヴァレリーは「|精神はそれが求めることにおいて無稽であり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|それが発見することにおいて偉大なのである《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」といくらか文学的に述べたのだが、科学的には、ポオがこの「散文詩」において物質と時間と空間と引力と光とのあいだに均斉のとれた相対的な関係があるとしたことを、アインシュタインの相対性理論と結びつけ、それがアインシュタインの宇宙観と同様にポオの宇宙観を美しくしているとも指摘している。ポオの体系においては「一貫性」こそが発見の方法であり、発見そのものであったわけだが、アインシュタインもまた「自然は単純を好む」という信念のもとに研究をつづけ、例の高名な「質量とエネルギーは同等である」ことを示す単純な式を基礎に今日の驚嘆すべき相対論的宇宙論を構築したのであった。ちなみに、『ユリイカ』の「引力と斥力[こそが]物質[である]」とはポオの(E=m×cの二乗)ではなかろうか。  ところで一般相対論を提出して間もない一九一七年、アインシュタインは重力場方程式に万有斥力を意味する宇宙項をつけ加えて静的宇宙(正の曲率をもつ閉じた有限宇宙)を得たが、その後一九二二年にロシアの数学者アレキサンダー・フリードマンは宇宙原理を仮定してアインシュタインの重力場方程式に解を与え、その結果、一様で等方な宇宙が静的な状態にあるのは不安定であること――つまりアインシュタインの静的宇宙は現実的なモデルでないこと――さらには、宇宙はつねに膨張か収縮の状態になくてはならないことを明らかにした。この結果に基づいて一九二七年に膨張宇宙論を展開したのがベルギーのルーベン大学天体物理学教授ルメートルだった。次はルメートルの『原始原子――宇宙論についての一考察』の一部である。 [#ここから1字下げ]  原始原子仮説は、現在の宇宙を一つの原子の放射能崩壊の結果として説明する仮説である。  私は約十五年以前に、熱力学的考察からこの仮説に導かれたが、それは、エネルギーの均等化を量子論の枠組のなかで解釈しようと試みていたときであった。そのとき以来、人工的につくりだされた放射能崩壊が示す放射能の普遍性と、また地球磁場が宇宙線におよぼす効果によって明らかにされたその粒子性の確認は、放射能の起源をすべての存在する物質と、およびこれら宇宙線に帰する仮説をより確からしいものにした。  それゆえ、私はいまやこの論理を演繹的な形で提出するときがきたと思う。私はまず最初に、これがそもそもの出発点から無意味なものにしてしまいかねないいくつかの大きな困難を、いかにうまく避けることができるかを示したいと思う。それから、私は以下の事柄を十分よく説明するような結果を導くことに努力するつもりである。その事柄というのは宇宙線に関することだけではなく、星とガス雲から構成され、渦巻き星雲あるいは楕円星雲に組織化されて、ときには数千もの星雲からなる大きな集団をつくり、それらが膨張宇宙の名で呼ばれている機構によって互いに遠ざかりつつあるという、いわば現在の宇宙の構造である。 (小尾信彌訳――『宇宙の進化』から) [#ここで字下げ終わり]  これは、もし時間をあと戻りさせるなら、宇宙に浮かぶ無数の星雲は急速に接近して、ついには宇宙に存在するすべての物質を含む「宇宙の卵」あるいは「原始原子」にまで押しつぶされるとする現代の宇宙進化論ないし膨張宇宙説を芽生えさせた画期的な考えを述べた科学論文の一節だが、その語り口、その論のすすめ方、その根本的論旨は、変えるべきところを変え、またこれが百年近くもあとに書かれたものであることをも勘案しながら読むならば、なんとポオの『ユリイカ』の仮説のたて方や論述の方法や論旨と似ていることか。ポオもまた、当時の天文学者の誰もが考えなかったことだが、「原始原子」を想定し、その爆発的な拡散によって「星の宇宙」が形成されたとする進化宇宙論の立場に立っていたのだ。むろん、ポオのは観測によって裏づけされた科学的根拠のある説ではなかった。しかしルメートルの仮説にしてもしばらく無視され、一九二九年になって、遠い星雲はどれも銀河系から遠ざかっており、その後退速度が距離に比例して大きくなるというハッブルの法則が発見されるにおよび、この仮説は英国の天文学者エディントンによって注目され、一九四〇年代にはアメリカの物理学者ガモフによって受けつがれ、今日では天文学上の定説として確立したのである。  くりかえすが、ポオが『ユリイカ』で説いた宇宙創造説は、いくらかの保留を付して言うなら、いわば「原始原子仮説」に基づいて展開される一種の「進化宇宙論」あるいは「爆発説(ビッグ・バン説)」なのである。ポオは「神が最初に創造したもの」とは「およそ考えうるかぎり単純な状態にある物質以外ではありえない」と仮定しているが、現代の天文学も宇宙は原始においては限りなく小さかったと想定している。 「相対論的な膨張宇宙モデル……を過去に向かってどんどんさかのぼると、宇宙は限りなく小さくなってしまい、ついに時刻がゼロにおいて宇宙は無限に小さく、密度は無限大となる。この時刻が、われわれの宇宙の始まり、すなわち開闢の時である」とは小尾の『宇宙論入門』(サンポウジャーナル)の記述だが、このような状態にある物質は、ほとんどわれわれの想像を絶しているがゆえに、ポオのように「およそ考えうるかぎり単純な状態にある物質以外ではありえない」と表現することも許されているだろう。  ところで現代の天文学は開闢期の宇宙をどのように考えているのか。『宇宙論入門』はこう述べる。 [#ここから1字下げ]  宇宙のあらゆるものが一点に集まってしまい、空間の曲率が限りなく大きくなり、密度もまた無限に大きくなるという特異状態は、いわばすべての物理理論を放棄することであり、現存の理論の破綻である。それは、物理法則が沈黙してしまう状態である。特異状態から宇宙が開闢したというのは、神がそのとき宇宙を創造した、というのとおなじことである。なんとかして、始まりや終りの特異状態を取り除きたい、たとえば、小さく収縮していった宇宙が、無限に小さくなる以前に、まるでボールが床の上ではねかえるように、次の膨張宇宙に滑らかにはねかえるようにできる工夫はないものかと、いろいろ研究がされてきたが、成功はしていない。 [#ここで字下げ終わり]  物理法則が沈黙してしまうような特異状態から宇宙が開闢したと想定することは「神がそのとき宇宙を創造した」というのと同じであるというふうに、現在の天文学でさえ「神」を持ちださねばならぬのだ。ポオが神を持ちだしたことに不思議はない。それどころか、科学なるがゆえに今日の天文学がかかえこんでいる困難をポオは『ユリイカ』で「諸法則に卓越するかの普遍法則、周期性の法則に想像力をゆだねて」難なく解決してしまう。すなわち、ポオの「信念」によれば、膨張から収縮に転ずる宇宙はやがて宇宙空間の一点に収斂して「物質的虚無」と化すのだが、そこからまた「神の心臓が鼓動するごとに、新しい宇宙が悠然と出現」してくるのである。これは科学的には無稽な議論であろう。だが、現代の天文学者にしても、大宇宙が閉じていて、膨張がいつしか収縮に転じ、ついに一点に凝縮し、また別の膨張宇宙に滑らかに連なるような宇宙像をいだきたいと願望していることは右の引用からも明らかだろう。そのほうが美しいのだ。しかし科学者は観測の結果や、有効性が実証されている現存の理論を「想像力」によって無視するわけにはいかない。そこで最近とみに脚光を浴びてきたのがブラック・ホールである。「そこでは、重力エネルギーが(m×cの二乗)という質量エネルギーと同程度になっていて、これより強い重力場はない……その正当性については疑問は残っているが、単純さと美しさとが正当性の目安になるならば、他の重力理論より一般相対論ははるかに正しいといえる。宇宙論が一般相対論で主に研究されている理由である」(『宇宙論入門』)となれば、今日の科学者も「単純さと美しさ」をそなえた理論の呪縛からのがれられないのである。そこで、宇宙のあらゆるものを強大な力で吸いこんでしまうブラック・ホールに対して、いわば、あらゆるものの吐き出し口といった存在であるホワイト・ホールというものが考えだされている。そしてこのホワイト・ホールがブラック・ホールとトンネルのようなものでつながっていて、宇宙からブラック・ホールを通して吸いこまれた物質は、別の宇宙に放出され、また新たな宇宙が形成されるとする説も提出されている。が、こうなると、現代の先端的な宇宙論も、原理的に観測が不可能な宇宙の地平線のかなたの領域を考察の対象としているのだから、詩人の想像力が生み出した詩的産物である宇宙論『ユリイカ』と本質的な差はないわけである。この差異のなさを勘案するなら、美と真理と詩を結びつけた「序」の論旨に目くじらたてるまでのことはないのである。いや、ポオはそこで本気でものを言っていると考えてよい。「序」においてだけではない。ポオは『ユリイカ』本文においても次のように語っている。 [#ここから1字下げ]  この均整に対する感覚はほとんど盲目的に信を置いてよい本能なのである。それは宇宙の詩的本質である――その至上の均整美のゆえに、もっとも壮麗なる詩にほかならぬ[宇宙]の詩的本質である。さて均整と一貫性は同意語である。何ごともその真実性に比例して一貫しており――一貫性に比例して真実である。くりかえすが、[完璧な一貫性は絶対的な真理にほかならぬ]。 [#ここで字下げ終わり]  この「散文詩」においては、美と真理、均整と一貫性は同意語なのである。もっと正確には、ポオが想像し、先験的に考えた宇宙は「神の[完璧な]プロット」だから、それを可能なかぎりの「一貫性」をもって解明するなら、その過程も結果も必然的に美であり真でなければならないのである。この態度は「自然はその本質において単純である」(湯川秀樹)という信念をもって物理学の研究をしている現代の科学者のそれと基本的に同一である。だから、アインシュタインより百年近くも早く、ポオが「星の宇宙が絶対的に[無限]であるとする考えほど支持しかねるものはない」と言明しようと、また[時間と空間が一つであること]を発見しようと、さほど驚くにあたらないのかもしれず、視点を変えれば、逆に大いに驚いてしかるべきことかもしれない。が、あまりこの方向に議論をすすめ、詮索をつづけてゆくと、SFとしての『ユリイカ』の読み方から遠ざかるばかりか、文学作品としての価値の崩壊さえ招きかねない。そこで、膨張宇宙そのもののように本質的には不安定なこの作品の解説は、いちおうこのへんでやめるとしたい。     三 『ユリイカ』において、ポオはその想像力を強引に行使して、われわれを宇宙の地平線にまでいざなった。この想像力の旅――それがいわゆるポオのSFの本質を形成している。その仕掛け、その手段、その媒体が――船であろうと(「瓶から出た手記」)、気球であろうと(「ハンス・プファールの無類の冒険」)、アヘンであろうと(「のこぎり山奇談」)、催眠術であろうと(「ヴァルドマール氏の症状の真相」)――ポオのSF作品は想像力の旅であることに変りなく、想像力によって人間の精神を地上の低みから、日常性の桎梏《しっこく》から、肉体の牢獄から、通常の感覚の限界から解放し飛翔させようというこころみであったとみなしうる。ところで、いま題名をあげた作品は『ポオのSF第一巻』に収められているものだが、本編に収録した「エイロスとチャーミオンの会話」「モノスとユーナの対話」「催眠術の啓示」「言葉の力」の四篇も、地上からの、肉体からの、五感からの、そして死からの解放ないし飛翔の物語として読める。 「エイロスとチャーミオンの会話」は一八三九年に発表され、天上における天使たちの対話篇としては最初のものである。これはまたポオが地球壊滅の破局を扱った最初の物語でもある。彗星が地球に異常接近し、大気から窒素を奪って酸素を補給し、そのために地球上に酸素が急増し、ついにこの惑星が燃えつきて消滅するという筋書きで、こう要約するかぎり、これはまことにSF的な「未知との遭遇」の物語だが、残念ながらと言うべきか、この地球の破滅は、その破滅のせいでいまは天使となって宇宙空間のどこかにある「天国《エイドン》」に住むかつての人間たちによって過去形で語られるにすぎない。だが、SF作家の例に洩れず、ポオはこの作品で世界の破滅を予告しているのだ。彗星の異常接近による地球の壊滅――それは確率的にもありえないことではなく、もしそういう事態になれば地上の人類がいかなるパニック状態におちいるかを想像するのは刺戟的なことであるにちがいないのだが、この作品ではそういう事態の描写にはあまり力点が置かれず、この破局を招いたのは人類のよこしまな現状からすれば道徳的、論理的必然であったことを述べることに力点があるようで、そこのところがSF作品として物足りないといえば物足りない。 「モノスとユーナの対話」(一八四一)もまた地球壊滅後の天使たちの追想である。ただしこの作品の場合、地球が壊滅するのは物理的な理由によるのでなく、いわば神学的理由によって聖書が予言するように火によって燃えつきるのである。ところでそのSF的要素は、人類の自然との関係の破綻が十九世紀中葉に聖書の予言の成就、つまり地球の破滅を招いたとするところにある。もっと具体的には、知識の偏重、科学技術の重視、そして審美眼の軽視が人間の内なる自然をゆがめ、その必然的結果として、外なる自然も破壊されねばならなかったとするのだ。「無数の煙を吐く都市が出現した。緑の葉は溶鉱炉の熱い吐息をあびて萎えた。美しい自然の容貌は忌わしい病気にかかったようにゆがんだ。うるわしのユーナ、強引で極端なものをきらう人間の感覚がたとえ惰眠をむさぼっていたにもせよ、ここにいたっては気づいていてしかるべきだった、と私は思う」とモノスは語る。ポオはここで、科学技術がもたらす自然破壊の危機を一世紀半もまえに予見していたことになる。アイザック・アシモフのようにSFを科学と科学者の未来にかかわる物語と規定するなら、「モノスとユーナの対話」もSFのジャンルに仲間入りさせてよい。  しかしこの作品の価値は、科学技術の発展による地球汚染の危険を予測したところにだけあるのではない。「学校で教える粗野な数学的理性」が支配的な時代(それを現代と考えてよい)において、「私たちをおもむろに美へ、自然へ、そして生命へと連れもどす」ことができる「審美眼」の復権を主張したところに、より大きな価値があるだろう。この主張を環境汚染が着実に進行しつつある現代の文脈に置いてみるなら、それはエコロジスト、自然環境保護者たちの主張に似ている。ポオのいう「審美眼」とは、単なる美意識のことではなく、自然の秩序を支配する法則にしたがう感情の規律、または人間の不易の限界に服従する規律のことである。ところがこの規律が自然の支配を意図する「数学的理性」によって廃棄されたのである。あるいは廃棄された、とポオはみたのである。「全世界が汚染されたとなれば、死による再生以外には考えられなかった。類としての人間が消滅しないためには、人間は[生まれ変る]必要があると私はみたのだ」と彼はモノスに言わせている。だがこの判定は――そのために地球を消滅させ、みずからを宇宙空間のかなたで不死を享受する天使になぞらえたのは――作家ポオとしては性急にすぎなかったか。『ユリイカ』「エイロスとチャーミオンの会話」、この作品、また次に扱う「言葉の力」についてもそうだが、ポオは想像力を操作する場をデカルト的純粋空間に移してしまったので、なるほど真がおのずと美で、科学がおのずと芸術でありうる領域に自己の作品を据えることにはなったが、同時に、つまるところ「審美眼」さえ不要で無効な場所に踏みこんでしまう結果となった。この種のポオの想像力をアレン・テートは、この地上では無効な「天使的想像力」と呼んだが、本書に収めた天上における天使たちの対話もののSFとしての弱点は、それらが「天使的想像力」の産物であるところにあるだろう。いかほど遠く地球を離れて宇宙空間を飛翔しようとも、サイエンス・フィクションを支配する想像力は人間的または地上的想像力でなければならないからである。  訳者兼解説者としては悪口じみたことを書きすぎたきらいがあるが、作品の弱点を知らしめるのも解説者の義務であろう。が、閑話休題。「言葉の力」(一八四五)も、場面はまたしても死後の世界、登場するのは二人の天使。ここでは天使的想像力が「天使的知性」の限界にまで押しすすめられ、人間の言葉が創造力を獲得し、物質を創造する力さえそなえるにいたる幻想的な物語である。 「催眠術の啓示」(一八四四)は、生と死のはざまにある人間が、当時の最先端をゆく科学技術でもあった催眠術を媒介に宇宙の物質的性質やその運動様式《モドス・オペランディ》について語る趣向の作品だが、これはまた『ユリイカ』の序章としても読めるものである。  最後に残った「タール博士とフェザー教授の療法」(一八四五)は、はたしてサイエンス・フィクションといえるかどうか、編者にしても心もとないが、精神療法という医学技術にいつもつきまとう不安な不気味さ、狂気と正気の逆転劇の可笑しさをこれほど巧みに表現した作品はあまりあるまい。また、熱いタールを肌に塗り、にわとりなどの羽根《フェザー》でまぶすのがアメリカ南部の黒人リンチ法の一つであってみれば、この作品で揶揄されているのは、いわば黒人に対して「鎮静療法」を施そうと主張した奴隷解放論者であったかもしれない。そういえば、この「メゾン・ド・サンテ」の所在地はフランス最|南端《ヽヽ》の地方になっている。が、それはともかく、これはわれわれに何かを考えさせてしまうポオの秀逸なブラック・ユーモアの代表的な作品の一つである。