ウォー・ヴェテラン フィリップ・K・ディック/仁賀克雄訳 目 次  髑髏《どくろ》  生活必需品  造物主  トニーとかぶと虫  火星人襲来  ウォー・ヴェテラン   訳者あとがき [#改ページ]   髑髏《どくろ》 「機会を与えてくれるのか?」コンガーは尋ねた。「先を続けてくれ。興味がある」  部屋じゅうが沈黙していた。どの顔もコンガーを見つめている。彼はまだ灰褐色の囚人服を着ていた。議長はゆっくり身を乗り出した。 「おまえは刑務所に行くまでは商売はうまくいっていた――すべて非合法だが――かなり儲《もう》かっていた。それがいまは無一文で、これから独房であと六年を過ごすだけだ」  コンガーは顔をしかめた。 「この評議会にとって非常に重要なある状況で、おまえの特殊才能を必要としている。それはおまえにも興味ある状況だ。ハンターだったな? これまで夜になると、狩りのために何度となく罠《わな》を仕掛けたり、藪《やぶ》に隠れたり、待ちぶせしたりしてきたな? ハンティングはおまえにとって満足の源のはずだ。追跡、徘徊《はいかい》――」  コンガーはため息をついた。唇が歪んだ。「分かった。結構だ。要するに誰かを殺せというのだな?」  議長は笑った。「順序を踏んでな」彼は静かにいった。  車がゆっくり停まった。夜である。大通り沿いのどこにも明かりはなかった。コンガーは眼を凝《こ》らした。「ここはどこだ?」  護衛の手が彼の腕に置かれた。「さあ、そのドアを通るんだ」  コンガーは濡れた歩道に下りた。護衛がすばやく後に付き、それから議長。コンガーは冷たい空気を深呼吸した。前にそびえる建物のぼんやりした外郭を頭に入れた。 「この場所は知っている。前に見たことがある」彼は眼を細め暗闇に馴らした。いきなり用心深くなった。「これは――」 「そうとも。第一教会だ」議長は階段の方に歩いて行った。「予想どおりだ」 「予想どおり? ここが?」 「そうだ」議長は階段を上った。「われわれはかれらの教会には立入禁止なのを知っているだろう。特に銃器を持っていてはな!」彼は立ち止まった。二人の武装した兵士が前方の両側に浮かび上がった。 「問題ないか?」議長はかれらを見上げた。二人とも頷《うなず》いた。コンガーは内部に兵士が立哨しているのを見た。大きな眼をした若い兵士はイコンや聖像を見つめていた。 「なるほど」彼はいった。 「やむを得ないことだ。知ってのとおり、第一教会とわれわれとの過去の不和は異常なものだった」 「それはどうにもならないだろう」 「しかしそれはそれなりに価値がある。おまえにもそのうち分かる」  かれらは廊下を通り中央の部屋に入った。そこには祭壇やひざまずく場所があった。議長は祭壇に眼もくれず通り過ぎた。小さな脇戸を開くとコンガーを手招きした。 「この中だ。急ぐのだ。信者たちが間もなく押し寄せてくる」  コンガーは入ってから眼をしばたたいた。天井の低い小さな部屋で、古く黒い板壁に囲まれている。部屋じゅうに灰と香木を焚《た》いた匂いがした。彼は鼻をくんくんさせた。「何だ? この匂いは」 「壁の杯状飾りからだ。何だか知らん」議長はせかせかと奥に行った。「われわれの得た情報では、これまでここに隠されて――」  コンガーは部屋を見回した。書物、書類、神聖な記号と画像。不思議な微かな震えが身体を貫いた。 「おれの仕事は教会の人間を巻き込むのか? もしそうなら――」  議長は驚いて振り返った。「おまえは教祖を信じることが出来るか? それがハンターでも、殺し屋でも――」 「いや。そんなことはない。その宗旨は死への諦観《ていかん》や非暴力で――」 「それでは、この有様は何だ?」  コンガーは肩をすくめた。「おれはもっと純粋なものだと教えられてきた。信者は常人とは異なるものを持っている。あんたはかれらと理詰めで話ができないんだ」  議長はコンガーをじっと観察した。「おまえは誤解している。ここにはわれわれが受け入れるようなものは何もない。信者を殺すのは信者を増やすだけだと分かった」 「それではどうしてここに? 帰ろう」 「だめだ。重要なものがあるので来たのだ。おまえが目指す男の身元を確認するためにも必要なものだ。それがなければその男を見つけられない」議長の顔に薄笑いが掠《かす》めた。「おまえに別人を殺させたくない。それは極めて重要なことだ」 「失敗することはない」コンガーは胸を張った。「いいか、議長――」 「これは通常の状況下ではない。おまえはある人間を追うんだ。その男を見つけるためにおまえを送り込むんだ。彼はここにあるものしか残していない。それは痕跡に過ぎないが身元確認の唯一の手段だ。それがなくては――」 「それとは何だ?」  彼は議長に詰め寄った。議長は退いた。「見ろ」彼は引き戸を開け、暗い四角な穴を見せた。「そこにある」  コンガーは屈んで覗き込み眉をひそめた。「頭蓋骨! 髑髏《どくろ》か!」 「おまえの捜す男は二世紀前に死んだ。これは彼の唯一の形見だ。これだけが彼を捜す手がかりなのだ」  しばらくコンガーは無言だった。壁龕《へきがん》にぼんやり見える髑髏を見下ろした。数世紀前に死んだ男を殺すことが出来るか? 追跡し仕留めることが可能か?  コンガーはハンターで、好きなところで気ままに暮らしてきた男だ。自分の艇に乗り、ハイスピードで地方に飛び、毛皮や生皮を獲り、地球のあちこちの顧客に売っては生計を立てていた。  月の大山脈で狩りをしたこともある。ひとけのない火星の都市を歩き回ったこともある。彼は探険をし尽くして――  議長は命じた。「おい、この髑髏を車に運べ。壊すなよ」  兵士は穴倉に入り、屈んで慎重に手を伸ばした。 「おまえの忠誠心をこの場で見せて欲しいね」議長は穏やかにコンガーにいった。「市民にとって自分を取り戻し、社会への貢献を示す方法は常にある。おまえのためには絶好のチャンスだ。これ以上の機会はあるまい。その努力はもちろん社会復帰に値する」  二人の男は睨《にら》み合った。コンガーはぼさぼさ髪の痩身《そうしん》、議長はしみひとつない制服姿だった。 「分かった。いまがチャンスだということがな。だが、二世紀前に死んだ男をどうして――」 「それは後で説明する。先を急ごう」兵士は毛布に包んだ髑髏を慎重に持って出てきた。議長は戸口ヘ歩きながらいった。「ここに侵入したことは、もうかれらには分かっているはずだ。間もなくやって来る」  かれらは湿った階段を下りて、待機している車に向かった。すぐさま運転手は車を空中へ、屋上より高く飛ばせた。  議長はシートにもたれていた。「第一教会は興味ある過去を持っている。おまえもそれは詳しいはずだ。だからわれわれに関連あるいくつかの事柄を話しておきたい。  その運動が始まったのは周期的な戦争のあった二十世紀のことだ。戦争が終わる見通しのないままに、更に大きな戦争を育てている現実と絶望感に食い込み、野火のように広がっていった。そしてその運動は問題に単純な回答を示した。軍備――兵器――さえなければ戦争はない。機械設備や複雑な科学技術がなければ兵器も存在しない。  戦争を阻止出来なかったのは、そうした考えを実現できなかったからだと運動は説いた。人間は機械と科学に負けつつある。そこから離れないと人間は更に大きな戦争に巻き込まれる。そうした社会、工場、科学を失くせと、やつらは叫んだ。あと何回か戦争があれば世界の大部分は破滅するだろうと。  その教祖はアメリカの中西部の小さな町出身の無名の男だった。その名前さえ分かっていない。分かっているのは、ある日忽然と現われ、非暴力、無抵抗、非闘争の教義を説いたことだ。兵器に税金を払うな、医薬以外の研究はやめろということだった。平和な生活を守り、庭の手入れをし、公務から遠ざかれ、私事に没頭せよ。人目につかず、無名に徹し、貧しくあれ。財産を捨て、町を離れよ。いずれにしろ彼が人々にこう説いたところから運動が発展したんだ」  車は降下し屋上に着陸した。 「教祖はこうした教義を説いた。信者たちがそれに枝葉末節を付け加えた。地元の当局者はすぐさま彼を捕らえた。はっきりと彼の意図を掴んでいたのだ。彼は釈放されることはなく死刑になり、死体は密かに埋葬された。それで教団は終息したように見えた。  ところが弟子の幾人かは死後も彼を見たと証言した。噂は広まった。彼は死を征服し神となった。教団は根づき発展した。そしてわれわれは今日《こんにち》この第一教会と共存している。教会は社会の進歩を妨害し、社会を破壊し、虚無主義の種をまき――」 「しかし戦争はどうなんだ?」コンガーはいった。 「戦争か? もう戦争はない。戦争をなくしたことは大規模な非暴力運動の結果だった。だが今日われわれは戦争に対してもっと客観的な見方をしている。どうしてそれほど恐れるのか? 戦争は深い選別価値がある。ダーウィン、メンデルなどの教えと完全に一致している。戦争がなければ、役立たずの多数の人間、教育も知性もない連中が野放図に増えるだけだ。戦争は暴風、地震、旱魃《かんばつ》みたいに人間の数を減らした。不適当な人間を排除するのは自然の法則だ。  戦争がなければ下層階級はバランスを失って増え続ける。科学知識と教育があり、社会を指導する少数の人間を圧迫する。下層民は理性に基づく科学や科学的社会に目を向けない。この運動はそういう連中を狙って唆《そそのか》した。科学者は完全に支配下に置いた時だけ――」  彼は時計を見た。そして車のドアを蹴り開けた。「残りは歩きながら話そう」  かれらは暗い屋上を横切った。「その髑髏が誰のものか分かったろう。われわれの追い求めている男のだ。彼は死んでちょうど二世紀になる。中西部から出てきたこの無教養な男、教祖だ。悲劇はその時代の権力者による処置が遅過ぎたことだ。彼に演説させ、啓示を与えるのを許したことだ。説教も教団を始めることも認められた。いったんこのようなことが進行すると誰にも止められない。  だが、彼が説教する前に死んだとしたらどうだ? その教義が語られることがなかったとしたら? 教義を話したのはほんの僅かな時間だったのを知っている。一度だけ、たった一度だけ喋《しゃべ》った。当局者がやってきて彼を連行したのは、折しもその時のことだった。彼は無抵抗を教義にしていたので、その出来事は大きくならなかった」  議長はコンガーと向かい合った。 「些細な事件だった。だが今日その結果を刈り取っているんだ」  かれらは建物の中に入った。内部では兵士がすでに髑髏をテーブルに据えていた。兵士たちはその周囲に立ち、若い顔に緊張をみなぎらせていた。  コンガーはテーブルに進み兵士を押し退けた。彼は屈むと髑髏を見つめた。「それでこれが彼の遺物か、教祖の。教会は二世紀の間これを隠していたんだな」 「そのとおりだ。しかしいまはここにある。ホールに行こう」  かれらは部屋を横切ってドアに向かった。議長はそれを押し開けた。技術者たちが振り返った。コンガーは機械が振動し、回転しているのを見た。作業台と蒸留器。部屋の中央に輝くクリスタルの檻《ケージ》があった。  議長はスレム銃をコンガーに渡した。「これは重要だから覚えておけ。髑髏は大事に守り持ち帰るのだ。比較と証拠のためだ。この銃で低く――やつの胸を狙うんだ」  コンガーは手で銃の重みを計った。「ちょうどいい。この銃は知っている――前に見たことがある。使ったことはないが」  議長はうなずいた。「銃とケージの使い方は教える。手元にある教祖出現の時間と場所のデータはすべて与える。場所はハドスン・フィールドと呼ばれている。一九六〇年頃のコロラド州デンヴァー郊外の小さな町だ。忘れるなよ――おまえの待つ相手を見分ける唯一の手段は、その髑髏だ。前歯に特徴がある――特に左の門歯が――」  コンガーはぼんやり聞いていた。ビニール・バッグに頭蓋骨を注意深く包んでいる二人の男を見つめていた。かれらはそれをしっかり縛ると、クリスタル・ケージの中に入れた。 「もしおれが失敗したら?」 「人違いをしたらか? その時はやり直す。教祖に出会うまで戻ってくるな。演説が始まるまで待つな。それは絶対避けることだ! 先手を打つんだ。チャンスを掴み、彼を見つけたと思ったら、直ちに撃て。やつはどこか異質だ。おそらくそのあたりでは見慣れぬ存在だ。みんなに知られていないことは確かだ」  コンガーにはあまり耳に入らなかった。 「覚悟はいいか?」議長は尋ねた。 「いいとも」コンガーはクリスタル・ケージに入って腰を下ろし、ハンドルを握った。 「幸運を祈る。成果を待っているぞ。過去を変えることが出来るかどうか理論的疑問はある。これはその疑問への最終的回答となるはずだ」  コンガーはケージの制御装置をまさぐった。 「ところで、仕事上予期しない目的に、このケージを使うなよ。絶えず追跡しているからな。回収したい時にはそう出来るようになっている。元気でな」  コンガーは無言だった。ケージは閉められた。彼は指を上げるとハンドルに触れた。そして慎重に回した。  外側の部屋が消えても、彼はまだビニール・バッグを見つめていた。  長いこと何も起こらなかった。ケージのクリスタル・メッシュの向こうには何もなかった。コンガーの混乱した脳裏をさまざまな考えが駆け抜ける。どうやってその男を見分けるか? まちがいなく先手を打てるか? どんな格好をしているか? 名前は何というのか? 話す前にどう行動するのか? 普通の男か、それとも奇妙な変わり者か?  コンガーはスレム銃を取り上げ頬に当てた。銃の金属部分は冷たく滑らかだった。照準をつけてみた。美しい銃だ。夢中になりそうな種類の銃だった。もし火星の砂漠でこんな銃を持っていたら――寒さで手足を震わせ縮こまり横になっていた長い夜、暗闇を動くものを待っていたっけ――  彼は銃を置くとケージのメーター目盛りを調整した。うず巻く霧が濃くなり、落ち着きはじめている。いきなり物のかたちが周囲で揺れ震えた。  色彩、音響、動きが、クリスタル・ワイヤーを通して浸透してくる。彼は制御装置をオフにし立ち上がった。  小さな町を見下ろす尾根にいた。真昼だった。大気は身の引き締まるほど寒いが、明るかった。自動車が数台、道を走っている。向こうには平原が広がっていた。コンガーはケージのドアに行き外に出た。空気を嗅ぐ。それからケージに戻った。  棚上の鏡の前に立ち、身なりを改めた。髭《ひげ》をあたり――それまで髭を剃らせてくれなかった――髪を整えた。服装は二十世紀半ばの奇妙な襟の上着、獣皮の靴を履いていた。ポケットにはその時代の現金がある。これは大事だった。これにまさる必需品はない。  自分の手腕以外特別の才能もない。しかしこれまでもこんなことで手腕を発揮したことはなかった。  彼は町に向かって道路を歩きだした。  最初に気づいたのはニューズ・スタンドの新聞である。一九六一年四月五日付だった。それほど遠い過去ではなかった。周囲を見回した。ガソリンスタンド、ガレージ、スナック、十セントストア。通り沿いに食料雑貨店や公共建築物。  数分後、彼は小さな図書館の階段を上り、ドアを通って暖かな館内に入った。  図書館員は顔を上げほほえんだ。「こんにちは」  彼もほほえみ返したが喋らなかった。言葉遣いが妙だろうし、おそらくアクセントもおかしいだろう。テーブルに行き雑誌の山のそばに座った。しばらくそれを見つめていた。それから立ち上がり、ホールを横切って壁際の新聞掛けに行った。心臓がどきどきしはじめていた。  新聞は数週間分あった。その一綴りを取るとテーブルに広げ、急いで眼を通した。印刷は奇妙で文字は見慣れなかった。いくつかの言葉は意味不明だった。  彼はその新聞を脇に置き、更に次の新聞を調べた。とうとう目指す記事を見つけた。その『チェリーウッド・ガゼット』紙の綴りをテーブルに持って行き、最初の頁を開いた。そこに出ていたのだ。 [#ここから1字下げ]  囚人|縊死《いし》  犯罪的サンディカリズム〔ゼネストなどにより生産・分配をめざす労働運動〕の容疑で、郡保安官事務所に拘留された身元不明の男は、今朝死体で発見されたが―― [#ここで字下げ終わり]  彼はその記事を読んだ。漠然としていてよく分からない。もっと情報が欲しい。彼はガゼット紙を新聞掛けに戻し、それからしばしためらったあと司書に近づいた。 「もっと古い新聞はありませんか?」  彼女は眉をひそめた。「どのくらい前のかしら? 何新聞ですか?」 「数か月か、それより前です」 「ガゼット紙ですか? ここにあるだけですが。何をお望みですか? 何をお捜しですの? お手伝いしましょうか?」  彼は沈黙した。 「ガゼット新聞支局ならバックナンバーが揃っているかもしれません」彼女はメガネを外しながらいった。「そこに行かれたらどうですか? お話下さればご協力しますが?」  彼は図書館を出て行った。  ガゼット新聞支局は脇道を入ったところにあった。歩道には割れめが走っている。彼は中に入った。ヒーターが狭いオフィスの隅に輝いている。大柄な男が立ち上がるとゆっくりカウンターにやって来た。 「ご用件は何ですか?」 「バックナンバーが見たい。一か月か、それより前の」 「お買いになるのですか?」 「そうだ」彼は持っているお金を出した。男はじっと見つめていた。 「そうですか。お待ち下さい」彼は急いで部屋を出て行った。しばらくすると真っ赤な顔をして新聞の束を抱え戻ってきた。 「ここにあるはずです。見つけたら取って下さい。一年分あります。もっと古いのが必要なら――」  コンガーは新聞を外に持ち出した。道路脇に座って調べはじめた。  彼が捜していたのは四か月前の十二月の記事だった。小さな記事であまり小さくて見逃すところだった。それを真剣に見ていると古代用語の小辞典を使う手が震えた。 [#ここから1字下げ]  無届けデモの男逮捕  ダフ保安官によれば、クーパー・クリークで逮捕された身元不明の男は、氏名を明かすことを拒んでいる。この男は最近この地区に現われ、継続的に監視されていた由。それは―― [#ここで字下げ終わり]  クーパー・クリーク、一九六〇年十二月。心臓が高鳴った。それが知りたかったことだ。彼は立ち上がると身体を震わせ、冷たい大地に足ぶみした。太陽はすでに大空を横切り、丘陵の端に沈んでいた。彼は微笑した。すでに正確な時間と場所は分かっていた。いまは帰るだけだ。おそらくまだ十一月のクーパー・クリークヘと。  彼は町の中心部を抜け、図書館や食料雑貨店を通り過ぎた。それは難しいことではない。すでに難関は突破した。彼はそこに行き部屋を借り、その男が現われるまで待つ準備をするだけだ。  彼は角を曲がった。一人の女性が荷物を持って戸口から出てくる。コンガーは彼女を通させようと脇に寄った。女性は彼を見つめる。突然顔色が蒼白になった。彼女は口を開けたまま眼を見張っていた。  コンガーは急いだ。振り返ってみる。どこがおかしかったんだろう? 女性はまだ見つめている。彼女は荷物を地面に落としていた。彼は足を速めた。もうひとつの角を曲がり、脇道を歩いて行った。再び振り返ると、その女性は通りの入口まで来ており、彼のあとを追っていた。一人の男が加わり一緒になって彼の方に走ってくる。  かれらをまき町を出た彼は、急ぎ町はずれの丘陵に達した。ケージに着くと立ち止まった。何があったんだろうか? 自分の身なりがおかしかったのか? 衣服だろうか?  彼は思案した。それから太陽が沈むにつれケージの中に入った。  コンガーはハンドルの前に座った。しばらく待ってから手をそっと制御装置に置いた。やがて制御装置の目盛りを注意深く読みながらハンドルをほんの少し回した。  灰色の闇が周囲に立ちこめた。  しかしそれほど長いことではなかった。  その男は疑い深い眼で彼を見つめた。「お入りなさい。外は寒い」 「ありがとう」コンガーは感謝して、開いているドアから居間に入った。部屋は隅のガソリン・ストーヴの熱で暖かかった。だぶだぶで型くずれした花模様のドレスを着た女が台所から出てきた。彼女とその男はコンガーをしげしげと眺め回した。 「いい部屋でしょ。私はミセス・アップルトン。暖かいでしょ。一年のこの時期は暖房が必要よ」 「そうですね」彼はあたりを見回しながら頷《うなず》いた。 「食事を一緒にいかが?」 「何ですって?」 「一緒に食事をしないかね?」男は眉をひそめた。「あんたは外国人じゃないだろうね?」 「いいえ。この国の人間です。ずっと西の方ですが」 「カリフォルニア?」 「いえ」彼はためらった。「オレゴンです」 「そこはどんな様子なのかしら?」ミセス・アップルトンは尋ねた。「緑に溢れていると聞いたけど。ここは草木がまるでないわ。私はシカゴからきたのよ」 「中西部だよ。外国人ではない」男は女にいった。 「オレゴンは外国じゃありません。合衆国の一部です」コンガーはいった。  男は上の空でうなずいた。コンガーの衣服から眼を離さない。「変わった服を着ているね。どこで手に入れたの?」  コンガーはうろたえ、もぞもぞ身体を動かした。「たいしたものじゃありません。お邪魔なら失礼しましょうか」  二人とも手で押しとどめた。女はほほえみかけた。「アカを摘発しているんだよ。政府は常に連中を警戒しているからね」 「アカを?」彼は面食らった。 「政府にいわせればやつらはどこにでもいる。妙なことや普通でないことがあったり、そぶりの怪しい人間を見かけたら報告しなければならないんだ」 「私みたいな?」  かれらは当惑した。「そうね、あんたはアカには見えないよ。でも用心するにこしたことはないからな。トリビユーン紙だって――」  コンガーはあまり聞いていなかった。想像していたよりうまくいっている。教祖が現われればすぐにはっきりと分かる。ここの住民は変わったことには敏感で、噂をしゃべったり広めたりしている。彼の役目はおそらく雑貨店でじっと聞き耳を立てている程度のことだろう。さもなければこのミセス・アップルトンの下宿にいるくらいだ。 「部屋を見せてもらえますか?」 「ええ」ミセス・アップルトンは階段に行った。「さあどうぞ」  二人は階段を上がった。階段は寒かった。それでも外よりましだった。火星砂漠の夜ほど寒くはない。彼には満足だった。  彼は店の中をゆっくりと歩きながら、野菜の缶詰、冷凍庫にきれいに並べられている魚や肉を見ていた。  エド・デイヴィスがこちらにやって来た。「お買物ですか?」  その男は小柄で奇妙な服を着て髭を生やしている。エドの笑顔がこわばった。 「いや」おかしな声で男は答えた。「見るだけだ」 「どうぞ」エドはカウンターのうしろに歩いて行った。ミセス・ハケットがカートを押してくる。 「あれは何者?」彼女はささやいた。角張った顔がこちらを向くと、何か嗅いでいるかのように鼻をぴくぴくさせた。「初めて見る顔だわ」 「私もです」 「うさん臭いわね。どうして髭を生やしているのかしら? 髭なんか生やしている男はいないのに。問題じゃないかしら」 「髭が好きなんでしょう。私の叔父だって――」 「待って」ミセス・ハケットはくんくん嗅いだ。「あのね、ほら、何といったかしら? アカの年寄り。髭を生やしてなかった? そう、マルクス。確か生やしていたわ」  エドは笑った。「彼はマルクスじゃない。前に写真で見たことはあるけど」  ミセス・ハケットは彼を見つめていた。「ほんとうに?」 「ええ」彼は顔を紅潮させた。「どうしたというんですか?」 「彼についてもっと知りたいわ。自分たちのために当然のことよね」 「おーい、おじさん! 乗らないか?」  コンガーは急いで振り返り手をベルトにやった。彼はほっとした。車に乗った若い男女だった。二人に笑顔を見せた。「乗せてくれるのかい? 頼むよ」  コンガーは車に乗り込むとドアを閉めた。ビル・ウイレットがエンジンをかけると、車は唸《うな》りを上げてハイウエイに跳び出した。 「拾ってくれて嬉しいよ」コンガーは用心深くいった。「向こうの町まで歩いて行こうとしたんだが、思ったより遠いな」 「どこからきたの?」ローラ・ハントが訊《き》いた。彼女は小柄で色黒だが可愛らしく、黄色いセーターと青いスカートをつけていた。 「クーパー・クリークから」 「クーパー・クリーク?」ビルは眉をひそめた。「そいつはおかしい。おれはあんたを見かけたことないぜ」 「そうかね。きみはそこの出身なの?」 「そこの生まれさ。みんなを知っているよ」 「私はオレゴンからきたんだ」 「オレゴンから? オレゴン人に訛《なまり》があるなんて知らなかった」 「私に訛があるかい?」 「話し方が変だよ」 「どんなふうに?」 「分からないけど、なあ、ローラ?」 「言葉がはっきりしないのよ」ローラは笑った。「もっと話して。方言に興味があるわ」彼女は白い歯を見せてコンガーを見つめた。彼は心臓が締めつけられる気がした。 「私は言語障害があってね」 「あら、ごめんなさい」彼女は驚いていた。  車の唸りを上げながら二人は不思議そうに彼を見ていた。コンガーとしては何とか妙に思われないようにして、かれらに質問するにはどうしたらよいか思案にくれていた。「町から出て行く連中も、ここにはそれほど来ないようだけど。外来者が多いの?」 「ううん」ビルは首を振った。「それほどいない」 「私はきっと久しぶりのよそ者だな」 「そう思うよ」  コンガーはためらったが思い切っていった。「私の友達なんだが、ここに来るかも知れないんだ。彼に出会うにはどこにいたら――」そこで言葉を途切らせた。「彼を知っている人間がいたら、尋ねたいんだ。彼がやって来たら見逃さないようにね」  かれらは面食らっていた。「眼をしっかり開けておくことだね。クーパー・クリークは大きな町じゃない」 「それもそうだ」  かれらは黙ってドライヴを続けた。コンガーはこの少女の全体像を考えてみた。おそらく少年の恋人だろう。臨時ワイフかも知れない。あるいは試験結婚を発展させたのか? 彼には思いつかなかった。しかしこれほど魅力的な娘なら誰かの愛人になるのも当然だ。外見からして、まだ十六、七歳だろう。もし再会したらそのうち尋ねてみよう。  翌日、コンガーはクーパー・クリークの中心街を歩いていた。雑貨店と二つのガソリンスタンド、それに郵便局を通り過ぎた。ソーダ・スタンドがあった。  彼は立ち止まった。ローラが店の中に座り店員と話をしている。彼女は笑いながら身体を前後に揺すっていた。  コンガーはドアを押し開けた。暖かい空気が押し寄せてくる。ローラはホイップ・クリームをかけたホット・チョコレートを飲んでいた。コンガーが隣の席に滑り込んできたので驚いて見上げた。 「失礼。邪魔かな?」 「いいえ」彼女は首を振った。その眼は黒くて大きい。「構わないわ」  店員がやって来た。「ご注文は?」  コンガーはチョコレートを指さした。「彼女と同じやつを」  ローラは腕を組み肘をカウンターに乗せて、コンガーを見つめにっこり笑った。「ところで、私の名前をまだ知らないでしょう。ローラ・ハントよ」  彼女は手を差し出した。彼はどうしたらよいか分からないのでおずおずその手を握った。「コンガーが私の名前だ」彼は小声でいった。 「コンガー? それ姓なの、名前なの?」 「姓か名前かだって?」彼はためらった。「姓だ。オマール・コンガーというんだ」 「オマールですって?」彼女は笑いだした。「まるで詩人オマール・ハイヤームみたいね」 「そんな男は知らない。詩人などほとんど知らない。一般には教会だけしか興味もたれていないし――」彼は絶句した。彼女はじっと見つめている。彼は赤面した。「私の故郷ではね」と話を終えた。 「教会ですって? あなたのいう教会ってどちらの?」 「教会は教会だ」彼は混乱した。チョコレートが来て、彼は満足そうにすすりはじめた。ローラは依然として見つめていた。 「あなたは変わった人ね。ビルは嫌いらしいわ。でも彼はなんでも変わったものが好きじゃないの。そう、平凡なのよ。人間って齢を取ればものの見方の広い人になるわよね?」  コンガーはうなずいた。 「外国人は自分の国にいればいい。ここには来るなっていうんだから。あなたはそれほどよそ者ではないわ。彼がいうのは東洋人のことよ。ご存知でしょう」  コンガーはうなずいた。  網戸が背後で開いた。ビルが店に入ってきた。二人を見ると「やあ」といった。  コンガーも振り返って「ハロー」といった。  ビルは座った。「これはこれは、ローラ」彼はコンガーを睨《にら》んだ。「あんたがここにいようとは思わなかった」  コンガーは緊張した。少年の憎しみを感じていた。「いると悪いかね」 「いや、悪くない」  沈黙が続いた。いきなりビルがローラにいった。「こいよ。出よう」 「出る?」彼女は驚いた。「どうして?」 「行くんだ!」彼はローラの手を掴んだ。「さあ、車が待っている」 「なぜなのよ、ビル。あんた妬《や》いているのね!」 「この男は何者だ? おまえは知っているのか? 見ろ、あの髭――」  彼女は顔を紅潮させた。「それが何だっていうの? 彼はパッカードも運転しないし、クーパー・ハイにも行かないだけじゃない!」  コンガーは少年の身体つきを測った。大きくたくましい。おそらく何か民間の組織に属しているのだろう。「すまない。私が出て行くよ」 「町で何の商売をしているんだ?」ビルが尋ねた。「ここで何を企んでいる? どうしてローラの回りをうろついているんだ?」  コンガーは少女を見て肩をすくめた。「別に理由はない。また逢おう」  彼は顔をそむけた。そして凍りついた。ビルはもう行動を開始している。コンガーの指はベルトにかかった。圧力は半分でいい。彼はひとりごとをいった。これ限りだ。  彼は圧力を加えた。彼の周囲で店が急に変動した。自分だけは服の裏地のプラスチック防御壁で守られていた。 「まあ――」ローラは手を振り上げた。コンガーは悪態をついた。彼女のためにやったのではない。しかしそれも徐々に納まった。ほんの半アンペアで、ひりひり痛む。  うずき麻痺した。  彼は振り返りもせずドアを出た。ビルがゆっくり出てきて、酔いどれみたいに壁につかまった時、コンガーはもう角を曲がろうとしていた。彼はそのまま歩きつづけた。  コンガーは休みなく歩き続けているうち夜になった。ひとつの人影が目の前にぼんやりと現われた。彼は立ち止まり息を殺した。 「何者だ?」男の声だった。コンガーは緊張して待った。 「何者だ?」男は再びいった。手の中でかちっと音がした。明かりがついた。コンガーは動いた。 「私だ」彼はいった。 「私とは誰だ?」 「コンガーだ。アップルトンの下宿にいる。あんたは誰だ?」  男はゆっくりと彼に近付いてきた。革のジャケットを着て腰に銃を下げていた。 「ダフ保安官だ。一度話したいと思っていた。今日三時頃ブルームにいたな」 「ブルーム?」 「あのスナックだ。ガキのうろついている」ダフはコンガーのそばにきて、顔を明かりで照らした。コンガーは眼をしばたたいた。 「まぶしいな」彼はいった。  しばらくして「わかった」といい、明かりは地面に向けられた。「そこにいた時、おまえとウイレットのガキがトラブルを起こした。間違いないな。ガキの女に手を出したろう」 「話をしていただけだ」コンガーは用心していった。 「その時何があった?」 「どうして訊くんだ?」 「ちょっとばかり興味があってね。おまえが何かしたといっている」 「何かした? 何を?」 「知らん。それはこっちが訊きたい。閃光が起こり、何か生じた。みんな一時的に意識を失った。身動きできなかった」 「いまはどうしている?」 「もうなんでもない」  沈黙があった。 「さてと、それは何だ? 爆弾か?」 「爆弾?」コンガーは笑った。「とんでもない。ライターで火をつけたんだ。ガスが漏れ、ガソリンに引火したんだ」 「どうしてみんな意識を失ったんだ?」 「ガスのせいだ」  沈黙。コンガーは位置を変え、身構えた。その指はゆっくりベルトに動いた。保安官はちらっと見てぶつぶついった。 「そういうならそうなんだろう。とにかく実害はなかったんだから」彼はコンガーから離れた。「あのウイレットはすぐもめごとを起こすやつだ」 「それでは、失礼する」コンガーはそういうと、保安官から離れて歩き出した。 「ひとつだけ訊きたい、ミスター・コンガー。差し支えなかったら身元証明書を見せてくれ」 「ああ。構いませんよ」コンガーはポケットに手を伸ばし札入れを取り出した。保安官はそれを手に取ると懐中電灯で照らして見た。コンガーは呼吸を荒くして見つめていた。彼が持ってきた財布や身分証は、その時代の歴史や遣物を調べ、念入りに偽造したものだった。  ダフはそれを返して寄越した。「問題ない。じゃまして悪かったな」明かりが消えた。  コンガーが帰宅すると、アップルトン一家はテレビの回りに座っていた。彼が入ってきたのに、眼を上げようともしなかった。彼は戸口でぐずぐずしていた。 「訊きたいことがあるんだが?」彼がそういうと、ミセス・アップルトンがゆっくりと振り向いた。「今日は幾日でしたっけ?」 「幾日?」彼女はじっと見つめた。「十二月一日よ」 「十二月一日! どうして? まだ十一月なのに」  家族が一斉に彼を見つめた。突然思い出した。二十世紀にはまだ古い十二カ月暦を使っていたんだ。十一月はすぐ十二月になるのだ。その間にクオーテンバーはないのだ。  彼は息をのんだ。それではあれは明日なのか! 十二月二日! 明日だ! 「ありがとう。ありがとう」彼は繰り返した。  彼は階段を上がっていった。それを忘れるなんて、何たる馬鹿だ。新聞の記事では、教祖は十二月二日には囚われの身となっていた。明日、わずか十二時間後に、教祖は民衆の前に演説に現われ、それから捕まって曳《ひ》かれていくのだ。  その日は暖かく好天だった。コンガーの靴は溶けかけた雪をざくざく踏んでいた。雪で重くなった木々の間を歩きつづけた。丘を登り、滑りながら向こう側に下りた。  彼は立ち止まってあたりを見回した。あたり一帯静かだった。人影もない。腰から細い鞭を取り出すと柄を握った。しばらく何も起こらなかった。それから空中にきらきら光るものが現われた。  クリスタル・ケージが現われ、ゆっくりと降りてきた。コンガーはため息をついた。再び眼にするのは嬉しかった。結局、そこは彼の戻れる唯一の場所だった。  彼は尾根に上がった。腰に手を当て満足げにあたりを見回す。ハドスン・フィールドがずっと町はずれまで広がっている。薄く積もった雪で覆われた大地は平らで木も生えていない。  ここに教祖がやって来るのだ。ここで民衆に演説するのだ。そしてここで当局が彼を捕らえる。  民衆の来る前に彼が死ぬことになるだけだ。演説のはじまらないうちにあの世に行くのだ。  コンガーはクリスタル・ケージに戻った。ドアを押し開けると中に足を踏み入れた。棚からスレム銃を取り出しセットした。これで出かける準備、暗殺の用意ができた。しばらく考えた。あれを持って行こうか?  いや。教祖が来るまでまだ数時間ある。その間に誰かが彼に近付いてきたら? 教祖がフィールドにやって来るのが見えた時、銃を持ち出かければよい。  コンガーは棚を見た。そこにはきれいな包みがあった。それを降ろすと開けた。  彼は髑髏を持つとひっくり返した。思わず悪寒が身体を走り抜ける。これはあの男の頭蓋骨だ。まだ生きており、今日ここにやって来て、五十フィートと離れていないフィールドに立つ教祖の髑髏だ。  彼は黄ばんで腐食した自分の髑髏を見られるだろうか? 二百年経っている。彼はまだ喋るだろうか? この時代がかったあざ笑う髑髏を見て演説できるだろうか? 彼にとってそこに民衆に話すべき何があるだろうか? どんなメッセージを持ってくるだろうか?  歳月を経て黄ばんだ自分の髑髏を見たら、誰しもどんな行動もむなしくなるのではないか? 楽しめるうちにひとときの生命を楽しんでおいた方がいいのではないか。  手中に自身の髑髏を抱いた男は、ほとんど大義や運動は信じないのではないか。むしろ反対の説教をして――  物音がした。コンガーは髑髏を棚に戻し、銃を取り上げた。外で何かが動いている。急いでドアに行くと心臓が激しく鼓動した。彼か? 教祖が冷たい戸外をさまよって演説場所を捜しているのか? 言葉を探し、語句を選んでいるのか?  コンガーが持っているものを見たらどうするか!  彼はドアを押し開け銃を構えた。  ローラ!  彼女を見つめた。ウールのジャケットを着て、ブーツを履き、ポケットに手を突っ込んでいた。口や鼻から湯気が出ている。胸が激しく起伏していた。  黙って二人は見つめ合った。やがてコンガーは銃を降ろした。 「どうしたんだ? ここで何している?」  彼女は指さしている。話すことができないようだ。彼は眉をしかめた。どうしたんだろう? 「どうしたんだ? 何をしたいんだ?」彼は彼女の指さす方を見た。「何も見えないじゃないか」 「かれらはやって来るわ」 「かれら? 何者だ? 誰がやって来るんだ?」 「警察よ。夜の間に保安官は州警察に車を手配させたわ。周辺は包囲されているの。道路はどこも封鎖されているわ。六十名くらいの警察官がやって来るのよ。町とその近隣からね」彼女は言葉を切って息をのんだ。「警察の話では――警察の話ではね――」 「何だ?」 「あなたは一種の共産主義者だといっているわ。その言い分だと――」  コンガーはケージに入った。彼は銃を棚に置き出てきた。飛び降りると少女のそばにやって来た。 「ありがとう。それを知らせに来てくれたんだね。そんな話を本気にしているのかい?」 「わからないわ」 「一人できたの?」 「ううん。ジョーがトラックで連れてきてくれたの、町から」 「ジョー? それだれだい?」 「ジョー・フレンチよ、配管工の。パパのおともだち」 「行こう」二人は雪の中を横切り、尾根を越えて平野に出た。小型のパネル・トラックが平野の中ほどに停まっていた。がっちりした小柄な男が運転席に座り、煙草をふかしていた。二人が近付くと立ち上がった。 「あんたは一人か?」男はコンガーにいった。 「そうだ。警告をありがとう」  配管工は肩をすくめた。「おれは何にも知らんがね。ローラはあんたが正しいというんだ」彼は振り返った。「やつらがやって来るのを知らせたのは、あんたに興味があるからだ。別に警告したいわけじゃない――ただの好奇心さ」 「ずい分大勢だな?」コンガーは町の方を見た。黒い人の群れは雪道を選んでやってくる。 「町の連中だ。こんなことには黙っちゃいない。町の中だけじゃない。みんな警察無線を聞いている。ローラのしたことも同様に知っている。誰かが漏らし町中に広まった」  人の群れはだんだんと近付いてくる。コンガーには二人だけわかった。ビル・ウイレットが高校の友人たちといた。アップルトンはうしろで尻込みしながらついてくる。 「エド・デイヴィスもか」コンガーは小声でいった。  小売商は町からきた三、四人の仲間と野原をせっせとやって来る。 「まったくおかしな話さ」フレンチがいった。「町に帰ろうかな。トラックを蜂の巣にされたくないからな。おいで、ローラ」  彼女は大きな眼でコンガーを見上げている。 「行こう」フレンチは催促した。「ここにはとてもいられないぞ」 「どうして?」 「撃ち合いになるかもしれない。総動員でやって来るんだぞ。わかるだろう、コンガー?」 「ああ」 「銃を持っているか? 一人で大丈夫か?」フレンチはちょっと笑った。「警察はこれまで大勢の人間を捕まえてきた。あんただけじゃない」  彼は十分注意した。ここに、この野原に留まっていなければならない。連行されるのはまずい。いつ教祖が現われてこの野原に足を踏み入れるかわからない。彼は町民の一人としてこの野原に静かに立ち、待ち、見つめているのか?  教祖はジョー・フレンチかもしれない。あるいは警官の可能性もある。群衆の一人が教祖として演説することもあり得る。今日話されるほんのわずかな言葉が、その後ずっと重要なものとなる。  コンガーはそこにいる必要があった。最初の言葉が発せられる瞬間を待たなければならない。 「私のことは心配するな。町に帰った方がいい。彼女を連れて行ってくれ」  ローラはジョー・フレンチのそばで固くなっていた。配管工はエンジンをスタートさせた。「そこに立って連中をよく見てろよ。禿鷲みたいに誰かが殺されるのを見ようと待ち構えているんだ」  トラックは走り去り、ローラは驚いたまま固くなって黙って座っていた。コンガーはしばらく見つめていた。それから急いで林の中に駆け込むと尾根に向かった。  彼は立ち去ることはできた。常に逃げたい誘惑にかられていた。それにはクリスタル・ケージに飛び込み、ハンドルを回すだけでよかった。しかし彼には仕事が、重要な任務があった。この場にいなくてはならなかった。この場所に、この時間にである。  彼はケージに着くとドアを開けた。中に入ると棚から銃を取り上げた。このスレム銃ならやつらを始末することはできる。出力を最大にした。その連鎖反応で警官、好奇心あふれる残忍な民衆を打ちのめせるだろう。  これで安心だ! 自分を撃つ前に全員が死んでいる。彼は逃げられる。その気なら今日中に皆殺しだ。そして彼は――  彼は髑髏を見た。  いきなり銃を下げた。髑髏を取り上げひっくり返した。そして歯を見た。それから鏡に向かった。  髑髏を取り上げ鏡に映してから頬に押しつける。自分の顔のそばで歯をむき出した髑髏が見つめていた。頬に押しつけたされこうべを。  彼は歯をむき出した。そして知った。  彼の持っているのは自分の髑髏だった。彼はこれから死ぬことになっている男だった。彼が教祖だったのだ。  すぐに彼は髑髏を置いた。しばらくの間操縦席に立ち機器を弄《もてあそ》んだ。外でモーターの音が聞こえ、くぐもった人の声がした。議長が待っている元の世界に帰るべきか? 脱出することはもちろんできるが――脱出?  彼は髑髏の方を向いた。そこには年月を経て黄ばんだ自分の頭蓋骨があった。逃亡? 脱出にはそれを持って行くか?  もし一か月、一年、十年、五十年でも延ばせばどうなるか? 時間は無意味だ。彼は百五十年も過去の少女とホット・チョコレートを飲んだ。脱出? おそらくほんのしばらくの間だ。  だが実際には脱出できなかった。今まで脱出しようとした者も、これからそうしようとする者も同じだ。  ただ彼は手にそれを持っていた。自分自身の骨を、自分の死んだ頭を。  やつらにはそれがなかった。  彼は空手でドアを出て野原を横切った。そのあたりには民衆が取り囲み待っていた。喧嘩を期待していた。彼の持っているものを知っていた。スナックでの喧嘩の話を聞いていた。  そこには大勢の警官もいた――銃や催涙ガスを装備して、丘陵や尾根、林間からじりじりと迫っていた。それはこの世紀のうちに昔話となるはずだ。  その一人が彼に向かって何かを投げた。それは彼の足下の雪に落ちた。見ると石だった。彼は笑った。 「さあ、こい!」かれらの一人が叫んだ。「爆弾はもう持っていないのか?」 「爆弾を投げるぞ! 立ち向かう気か! 投げるぞ!」 「やっつけろ!」 「原子弾を投下しろ!」  かれらは笑いだした。彼も笑い腰に手を当てた。かれらは突然静かになり、彼がしゃべろうとするのを見ようとした。 「すまない」彼は簡単にいった。「もう爆弾は持っていない。そちらの誤解だ」  慌てたようなざわめきが起こった。 「銃は持っている」彼は続けた。「性能のいい銃だ。きみらよりはるかに進んだ科学の成果だ。だがそれを使おうとは思わない」  かれらは戸惑った。 「どうしてだ?」誰かが叫んだ。グループの端で中年女が見つめていた。彼はいきなりショックを受けた。前に見たことがある。どこで?  彼は思い出した。あの日の図書館だ。隅を振り向いた時に彼女を見たのだ。彼を見ると驚いていた。あの時彼はどうしてだか理由がわからなかった。  コンガーはにやりとした。そう彼は死を逃れたかった。しかしその昔の自分だった男はたったいま進んで死を受け入れようとしている。かれらは嘲笑している。銃を持ちながら使わない男をあざ笑っていた。しかし時間の奇妙なねじれで彼は再び現われるだろう。牢獄の床下に骨を埋めてから数か月後に。  とにかく彼は永遠の死を免れるのだ。一旦は死ぬだろう。それから数か月おいて、ある午後に短い期間だが甦《よみがえ》るだろう。  その午後、民衆は彼を見てまだ生きていることを理解し、どういうわけでか彼が甦ったのを知るのに充分な時間がある。  それから最後に彼はもう一度姿を現わすだろう。いまから二百年後、二世紀後であるが。  彼は再び生まれるだろう。実際に火星の小さな交易の村に誕生するのだ。そして成長し、狩りや商売を覚え――  パトカーが野原の端にきて停まった。群衆は少し退いた。コンガーは両手を挙げた。 「きみたちのために奇妙な逆説を教えよう。生ある者は滅し、殺す者も死は免れない。しかし自ら生命を捨てる者は再び甦るのだ!」  民衆はわずかに不安そうに笑った。警官は車を降りると彼に歩み寄った。彼は微笑した。話したいことはすべて済んだ。それは彼が作り出した小さな逆説だった。民衆はそれに頭を悩まし、記憶しつづけているだろう。  微笑しながらコンガーは運命づけられた死を待つのだった。 [#改ページ]   生活必需品 「ジョアン、頼むよ!」  ジョアン・クラークは夫の苛立《いらだ》つ声を聞いた。まるで壁のスピーカーががなり立てるようだ。彼女はヴィデオ・スクリーンのそばの椅子から離れ、ベッドルームに急いだ。ボブは怒り狂って戸棚をひっかき回し、コートやスーツを取り出し、ベッドに投げつけている。その顔は激怒で紅潮していた。 「何を捜しているの?」 「制服だ。どこにしまった? ここにはないのか?」 「もちろんあるわ。私に見せて」  ボブは不機嫌に体を交わした。ジョアンは彼を押し退けると、自動分類機のスイッチを入れた。洋服が次々と現われ、その列を彼女は改めた。  朝九時頃だった。空は明るく晴れて青く、雲ひとつ見えない。四月終わりの暖かな春の日である。屋外の地面は昨日の雨で湿って黒々としている。蒸気の上がる地面を貫いて、緑の若芽が突き出しはじめている。歩道も黒く湿っている。広い庭は朝日に輝いていた。 「ここにあるじゃない」ジョアンは分類機のスイッチを切った。制服がその腕に落ちてきた。彼女はそれを夫に手渡した。「この次はもう慌《あわ》てふためかないでね」 「ありがとう」ボブは照れて笑った。彼はコートをはたいた。「でもな、みんな皺《しわ》になっている。少し繕《つくろ》った方がいいんじゃないか」 「きちんとしているわよ」ジョアンはベッドメーカーを始動させた。ベッドメーカーはシーツや毛布をきちんと整えた。掛け布を枕のまわりに注意して直した。「着てしまえば格好よく見えるわ。ボブ、あなたも文句の多い人ね」 「ごめんよ、ハニー」ボブは声を落とした。 「どうしたの?」ジョアンは彼に近寄るとその広い胸に手を置いた。「何か心配ごとがあるの?」 「いや」 「話して」  ボブは制服をひろげた。「大したことじゃない。きみに心配かけたくなかった。エリクスンが昨日仕事中に呼んで、私の部隊にまた行ってくれというんだ。いま同時に二つの部隊が呼ばれているようだ。急にもう六か月も勤務しろといわれる筋合いはないと思うんだが」 「まあ、ボブ! どうして私に打ち明けてくれなかったの?」 「エリクスンと私は長いこと話し合った。『勘弁してくれよ! 帰ってきたばかりなんだ』と私がいうと『よく分かっている、ボブ。まことに済まないが、私の非力ではどうにもならない。みんな一蓮托生《いちれんたくしょう》なんだ。とにかく長びくことはない。早く済ませたい。火星の状況次第だ。みんなすっかりあたふたしているんだ』と彼はいうんだ。厳しい男だが地区組織者としてはすばらしいやつさ」 「いつ――いつ出かけるの?」  ボブは腕時計を見た。「正午までに空港に行くんだ。三時間しかない」 「いつ戻ってくるの?」 「万事うまくいけば二日後にいったん戻る。この仕事のことは知っているはずだ。いろいろと変わる。去年の十月にはまるまる一週間だったろう? しかしあれは特別だ。いまでは部隊の回転が早いから出ていったと思うと戻ってくる」  息子のトミーが台所からのそのそ出てきた「出発するの、パパ?」彼は制服に気づいていった。「ねえ、パパの部隊はまた行くの?」 「そうだよ」  トミーは顔いっぱい笑みを浮かべた。嬉しそうな十代の笑顔だ。「火星のビジネスに参加するんだろう? ヴィデオ・スクリーンで見ていたよ。火星人は枯草を束ねたみたいな格好だね。パパの部隊なら火星人なんか吹き飛ばしてしまうよ」  ボブは笑って息子の背中をぴしゃりと打った。「そうかれらにいっておくよ、トミー」 「ぼくも行きたいな」  ボブの表情が変わった。その眼が急に厳しくなった。「だめだ。おまえはいけない。そんな話はするな」  気まずい沈黙が続いた。 「本気じゃないよ」トミーは小声でいった。  ボブは相好を崩した。「忘れるな。さあ、服を着替えるから出てくれ」  ジョアンとトミーは部屋を出た。ドアが閉まる。ボブはすばやく着替えた。ローブとパジャマを脱いでベッドに放り投げ、ダーク・グリーンの制服を着る。ブーツを履くとドアを開けた。  ジョアンは納戸からスーツケースを取り出した。「これじゃなかったかしら?」 「ありがとう」ボブはスーツケースを取り上げた。「車に運ぼう」  トミーはもうヴィデオ・スクリーンにかじりついていた。その日の授業が始まっている。生物学の講義がスクリーンに映っていた。  ボブとジョアンは玄関の石段を下り、道端に停めてある車に歩いて行った。近づくとドアが開いた。ボブはスーツケースを車内に投げ込み、運転席に座った。 「どうして火星人と戦うのかしら?」ジョアンはいきなりいった。「教えて、ボブ。どうしてなの?」  ボブは煙草に火をつけた。車内に灰色の煙がたなびく。「どうしてかって? そりゃきみも知ってのとおりさ」彼は大きな手を伸ばすと、車の格好いい操縦盤を叩いた。「これのためだ」 「どういう意味なの?」 「操縦メカニズムにはレクセロイドが必要なんだ。太陽系で唯一のレクセロイド埋蔵地は火星なんだ。火星を失えばこれを失う」彼は艶のある操縦盤に指を走らせた。「これが失くなったら、どうやって自動操縦するんだ? 答えられるか?」 「手動操縦に戻れないの?」 「十年前に戻ることになる。十年前には一時間一〇〇マイル以上出せなかった。いまどきそんなスピードでは我慢できない。生活の程度を落とさなくては手動操縦に戻れない」 「それができないのかしら?」  ボブは笑った。「ねえ、きみ。ここから町まで九〇マイルある。毎日時速三五マイルで走っていたら仕事にならないと思わないか? 生涯路上ですごすことになる」  ジョアンは沈黙した。 「というわけで、あいつ――レクセロイドは必需品なんだ。操縦装置には不可欠だ。それに頼っている。生活必需品だ。それで火星に行き、採掘作業を続けている。火星人にレクセロイド鉱山を渡したくないんだ。分かるだろう?」 「分かるわ。でも昨年は金星のクライオンだったでしょう。それも必需品だったわ。それで金星に行き戦ったのね」 「家の壁にはクライオンを使わなくてはどんな温度にも保てない。クライオンはそれ自体で温度の調節が可能な太陽系唯一の物質だ。それを使わなければ、また床暖房に戻ることになる。祖父たちの時代にね」 「その前の年には冥王星のロノライトだったわ」 「ロノライトはコンピューターのメモリー・バンクを作るのに必要な唯一の物質だ。真の記憶能力のある唯一の金属なんだ。ロノライトなしにはスーパー・コンピューターが全部使えなくなってしまう。それがなければ生活が成り立たないのは知っているだろう」 「そうね」 「私だって行きたくはない。でも行かなくてはならないんだ。われわれみんながね」ボブは家を指さした。「あれを捨てたいかい? 昔に戻りたいかい?」 「いいえ」ジョアンは車から離れた。「よく分かったわ、ボブ。それでは明日か明後日に会いましょう」 「そうしたいね。このトラブルはすぐに治まるよ。ニューヨーク部隊の大部分も召集されている。ベルリンやオスロの部隊ももう集合しているだろう。長くはかからない」 「気をつけてね」 「ありがとう」ボブはドアを閉めた。エンジンは自動的に始動した。「トミーにさよならを伝えてくれ」  車は発進するとスピードを増し、自動操縦装置の誘導で主要道路を通りハイウエイに入った。彼の車がめくるめく金属車体のたえまのない流れに巻き込まれ、明るいリボン状の郊外を走り抜け、遠くの町に向かうのを、ジョアンはいつまでも見送っていた。それからゆっくりと家に戻った。  ボブはとうとう火星から戻らなかった。そのためある意味でトミーが世帯主になった。ジョアンはトミーに学校をやめさせた。彼はしばらくして数マイル離れた政府のリサーチ・プロジェクトの技術研究員として働きはじめた。  地区組織者ブライアン・エリクスンがある夕方その生活ぶりを見に立ち寄った。「こぢんまりして住み心地のよい場所だね」彼は歩き回りながらいった。  トミーは得意になった。「本当にそう思いますか? 座って楽にして下さい」 「ありがとう」エリクスンは台所を覗いた。台所では夕食の料理の最中だった。「すばらしい台所だ」  トミーは彼のそばに寄った。「レンジの上の装置を見て下さい」 「何をするものだい?」 「料理選別装置です。毎日新しい組み合わせの料理を並べてくれます。何を食べようか考える必要はありません」 「大したものだ」エリクスンはトミーを見つめた。「万事うまくいっているようだな」  ジョアンはヴィデオ・スクリーンから顔を上げた。「ご期待どおりにね」彼女の声は抑揚がなく単調だった。  エリクスンはぶつぶついって居間に戻った。「さて、帰るとするか」 「何の用で来たの?」ジョアンは尋ねた。 「別に用はない、ミセス・クラーク」赤ら顔した三十代後半の大男エリクスンは戸口でためらった。「ああ、ひとつあった」 「なんなの?」彼女の声には感情が欠けていた。 「トム、きみは地区部隊のカードを作ったか?」 「地区部隊カード?」 「法律ではきみはこの地区――私の担当地区に登録されることになっている」彼はポケットに手を伸ばした。「まだ白紙のカードを持っている」 「ええっ!」トミーはいささか驚いていった。「そんなにすぐ? 十八歳になってからだと思っていた」 「法律が変わったんだ。火星を徹底的に叩くんだ。地区によっては割り当てを満たすことができない。これからもっと大勢の人を捜さなくてはならない」エリクスンは人がよさそうな笑いを浮かべた。「ここはいい地区だ。新しい機械装置を試したり習ったりする楽しみも多い。私はワシントンに出かけて、新しいダブルジェット小型戦闘機の編隊を任せてもらってきた。部下はみんな戦闘機の操縦ができるんだ」  トミーは眼を輝かせた。「ほんとう?」 「実際かれらは週末には戦闘機で家に帰る。この芝生なら着陸できるぞ」 「本当かな?」トミーは机に座った。彼は楽しげにカードに必要事項を書き入れた。 「うそじゃない。大いに楽しめる」エリクスンは小声でいった。 「戦争の合間にね」ジョアンは静かにいった。 「それはどういうことだ、ミセス・クラーク?」 「何でもないわ」  エリクスンは記入したカードを受け取った。彼はそれを財布に入れた。「ところでな」  トミーとジョアンは彼の方を向いた。 「ヴィデオ・スクリーンでグレコ戦争を見たと思う。そのあらましは知っているな?」 「グレコ戦争?」 「カリスト〔木星の第四衛星〕からグレコを入手する。それは動物の皮革から作られるものだ。それで原住民と少しトラブルがあった。かれらの主張は――」 「グレコって何?」ジョアンは強い口調で訊いた。 「玄関のドアを居住者だけに開く装置を作る素材だ。各人の触圧パターンに敏感に反応する。グレコはカリストの動物からできるんだ」  沈黙があった。まるでナイフで裂けそうな張り詰めた沈黙だった。 「それじゃ失礼する」エリクスンはドアに向かった。「次の訓練集会で会おう、トム。いいな?」彼はドアを開けた。 「いいとも」トミーは小声でいった。 「おやすみ」エリクスンは後ろ手でドアを閉め去った。 「ぼくは行くんだ!」トミーは叫んだ。 「どうして?」 「全地区で行くんだもの。命令さ」  ジョアンは窓の外を見つめた。「よくないわ」 「だけどぼくが行かなければ、地球はカリストを失うんだ。そしてカリストを失えば……」 「知っているわ。そうすればドアの鍵を持ち歩く時代に返るというのでしょう、祖父母の時代に」 「そのとおりさ」トミーは胸を張って左右に向きを変えた。「ぼくの格好どう?」  ジョアンは何もいわなかった。 「ねえ、どう見える? いいだろう?」  トミーの深緑色の制服姿は格好よく見えた。彼はスリムで姿勢もよく、父のボブより見栄えがした。ボブは肥っており髪の毛も薄かったが、トミーの髪は黒くふさふさしていた。頬は興奮で紅潮し、青い眼は輝いている。ヘルメットをきちんと被り、バンドで留めている。 「これでいい?」彼は訊いた。  ジョアンはうなずいた。「いいわよ」 「お別れのキスをしてよ。カリストに行くんだ。二日もしたら帰ってくるよ」 「さよなら」 「あまり嬉しそうじゃないね」 「ええ。あまり嬉しくないわ」とジョアン。  トミーは無事にカリストから帰ってきた。しかしその後エウロパ〔木星の第二衛星〕でのトレクトーン戦争中、彼のダブルジェット小型戦闘機が故障し、地区部隊は彼を置き去りにして帰還した。 「トレクトーンはヴィデオ・スクリーンのブラウン管に使われるんだ。非常に重要なものなんだ、ジョアン」ブライアン・エリクスンは説明した。 「分かるわ」 「ヴィデオ・スクリーンがどれほど重要か、きみにも分かるはずだ。すべての教育や情報伝達に使われている。子供たちはそれから学び授業を受けている。夕方になればみんな娯楽番組を見ている。もう一度昔に戻りたくは――」 「ないわ。もちろんよ。ちょっとごめんなさい」ジョアンが合図を送ると、コーヒー・テーブルが居間に滑り込んできた。湯気の立つポットが置かれている。「クリーム? お砂糖?」 「ありがとう。砂糖を貰おう」エリクスンはカップを取り上げ長椅子に静かに座ると、掻き回しすすった。家の中は静かだった。もう夜の十一時ころだ。シェイドは降りている。テレビは隅で映像を写していた。屋外の世界は暗く、動くものもなく、敷地の外れの杉木立を微かな風が通り過ぎるだけだった。 「あちこちの前線からのニュースはないの?」ジョアンはしばらくして訊いた。椅子に寄りかかってスカートを直した。 「前線?」エリクスンは考えた。「そう、イデリウム戦争に新しい進展があった」 「それはどこ?」 「海王星だ。海王星からイデリウムを取るんだ」 「イデリウムって何に使うの?」ジョアンの声は遠くの方から聞こえるようにか細かった。顔はやつれ不自然に白い。マスクを被り、そのマスクを通して遠くから見ているみたいだった。 「あらゆる新聞社の機械にはイデリウムが必要だ」エリクスンは説明した。「イデリウム線はヴィデオ・スクリーンで放映されているニュースを直ちに探索できる。イデリウムなしには、昔みたいな鉛筆と紙のニュース取材になってしまう。それでは個人的偏見や片寄ったニュースも紹介されてしまう。その点、イデリウム・マシンは公平無私だ」  ジョアンはうなずいた。「他には?」 「それほどない。水星でトラブルが発生しそうだといわれているがね」 「水星からは何を持ってくるの?」 「アンブロリンがある。アンブロリンはあらゆる選別機に使われている。お宅の台所にも置かれている選別機だ。料理の選択をする選別機。それもアンブロリン装置だ」  ジョアンはぼんやりとコーヒーカップを見つめた。「水星の住民は地球人を攻撃したの?」 「暴動や扇動があった。いくつかの地区部隊がすでに召集されている。パリ部隊やモスクワ部隊は巨大な戦力だ」  しばらくしてジョアンがいった。「ねえ、ブライアン。何か用事があって来たのでしょう?」 「いや、別に。なぜそんなことをいうんだ?」 「知っているわよ。なんなの?」  エリクスンの顔が紅潮した。人のよい顔はたちまち真っ赤になった。「きみは鋭いね、ジョアン。実は用事があって来たんだ」 「それは?」  エリクスンは上着に手を入れ、折ったガリ版印刷の書類を取り出した。それをジョアンに渡した。「これは私の考えではないことを承知しておいてくれ。私は巨大な機械の歯車のひとつなんだ」彼は神経質そうに唇を噛んだ。「トレクトーン戦争で大損害を蒙《こうむ》ったためなんだ。結束を固める必要がある。敵に対抗するため派遣すると聞いている」 「何のことをいっているの?」ジョアンは書類を返した。「法律用語だらけで分からないわ」 「女性も地区部隊に編入させようということなんだ。家族に男性のいない家は」 「そう。分かったわ」  エリクスンは立ち上がると、自分の役目を終えてほっとしていた。「もう帰らなくては。これをきみに見てもらいたかったんだ。伝達ラインに沿って手渡されるはずだ」彼は書類をまた上着に突っ込んだ。かなり疲れて見えた。 「もうあまり人は残っていないでしょう?」 「どういう意味だ?」 「男性が最初で、次に子供、そして女性。ほとんど根こそぎ連れていくようね」 「そうだな。それには理由がある。前線は守らなければならない。補充を送り続けなければ維持出来ないんだ」 「そうね」ジョアンはゆっくりと立ち上がった。「また逢いましょう、ブライアン」 「そうだな。一週間後に来る。その時また」  ブライアン・エリクスンは土星でナイムファイト戦争が起こった時に戻ってきた。ミセス・クラークが家に入れてくれると、彼は謝るような笑いを浮かべた。 「早朝からすまない。大忙しで地区中を駆け回っていて」 「どうしたんですか?」ジョアンは彼の背後のドアを閉めた。彼は薄緑色の制服に銀色のバンドを肩に掛けていた。ジョアンはまだ部屋着姿だった。 「ここは暖かく気持ちよい」エリクスンは壁で手を温めながらいった。外はもう明るいが寒かった。十一月のことで、あたり一面雪に覆われ、白く冷たい毛布みたいだった。数本の裸木が突き出し、枝に葉はなく凍りついている。遠くのハイウエイには明るいリボン状の車の列が細流になっていた。もう町に向かう人も少なくなっていた。ほとんどの車が車庫で眠っていた。 「土星でトラブルがあったことは知っているだろう」エリクスンは小声でいった。「耳にしているな」 「写真は見たわ。テレビで」 「全く大騒ぎだった。土星人は確かに大きく五〇フィートもある」  ジョアンは眼をこすりながらぼんやりうなずいた。「土星からも何かを漁《あさ》るのは恥だわ。朝食は、ブライアン?」 「ああ、ありがとう。もうすませた」エリクスンは壁に背を向けた。「寒さから逃れるにはこうするのが一番だ。この家は確かに住み心地がいい。妻にも自宅をこの家ぐらい居心地よくしてもらいたいね」  ジョアンは部屋を横切って窓に行きシェイドを上げた。「土星から何を奪うの?」 「もちろんナイムファイトさ。他のものなら諦める。しかしナイムファイトはそうはいかない」 「ナイムファイトって何に使うの?」 「全適性検査装置だ。ナイムファイトがなくては世界評議会の議長をはじめ、どんな職業に適している人物かを見分けられない」 「そうなの」 「ナイムファイト検査機で各人の適性と適職を判断している。ナイムファイトは現代社会の基礎的装置だ。それで人間を分類格付けしている。その供給に何か起これば――」 「それは土星からだけなのね」 「それが心配だ。いま原住民は暴動を起こし、ナイムファイト鉱山を占領しようとしている。かなり苦しい戦争になろう。かれらは体格がいい。政府は派遣できる全員に召集をかけているんだ」  急にジョアンは息を詰まらせた。「全員にですって?」口に手を当てた。「女性も?」 「すまない、ジョアン。それは私の考えじゃない。誰しも好きで決めたんじゃない。しかしここで頑張らなければ地球は――」 「だけど誰が残るの?」  エリクスンはそれには答えなかった。彼は机に座りカードに書き込んでいた。それをジョアンに渡した。彼女は機械的に受け取った。「きみの部隊カードだ」 「だけど誰が残るの?」彼女はもう一度訊いた。「私に話せないの? いったい誰が残るというの?」  オリオン星群からの宇宙船は轟音をあげて着陸した。排気管から廃棄物質の蒸気が放出され、やがてジェット・コンプレッサーが静まり沈黙した。  しばらく静寂が続いた。それからハッチが慎重に緩められ内側に開いた。注意深くヌトガリ3は外に出て眼の前で大気検査器を振った。 「結果は?」同僚が疑問を抱いた。その思考はヌトガリ3に通じた。 「呼吸するには薄過ぎる。われわれにはな。しかし生命体によっては充分だ」ヌトガリ3は身の回りを、丘陵や平野を、そのまた先を見つめた。「全く静かだ」 「物音ひとつしない。生命体の存在もない」同僚が現われた。「あの向こうのは何だ?」 「どこだ?」ヌトガリ3は尋ねた。 「あの向こうだ」ルシン6はポーラー・アンテナで示した。「見えるか?」 「建物の集合体のようだな」  ふたりのオリオン星人は小型ロケットをハッチの高さまで上げ、地上に降ろした。ヌトガリ3が操縦し、平野を横切り、地平線に見える隆起した場所に向かった。いたるところに植物が育っていた。大きいのあり、小さいのあり、逞《たくま》しいのあり、華奢《きゃしゃ》なのあり、さまざまな色の花々が咲き乱れていた。 「変化に乏しいかたちのものばかりだ」ルシン6は観察した。  かれらは灰色のオレンジの畑を過ぎた。数千本の幹が一様に育ちどこまでも同じように植わっている。 「これは自然に育ったものではないな」ヌトガリ3は呟《つぶや》いた。 「ロケットの速力を落とせ。建築物のところに来ている」  ヌトガリ3はロケットの速力を落とし、ほとんど停止状態にした。ふたりのオリオン星人は舷窓に屈むと、興味深げに見下ろした。  きれいな建物だった。背の高い植物、カーペット状の低い植物、驚くべき花をつけた花壇など、あらゆる植物に囲まれている。建物自体こぎれいで、魅力的で、明らかに先進文化の人工物である。  ヌトガリ3はロケットから出た。「伝説的な地球の生物に出会おうとしているんだ」長く一様に地面を覆う植物のカーペットを踏んで建物の入口に急いだ。  ルシン6もそれに続いた。かれらはドアを調べた。「どうやって開けるんだろう?」ルシン6が訊いた。  かれらは錠にきれいな穴を開けドアを押し戻した。照明が自動的に点《つ》いた。家の中は壁の熱で暖かかった。 「何という文化の発達! すばらしい進歩だ」  かれらは部屋から部屋を歩き回り、ヴィデオ・スクリーン、手のこんだ台所、ベッドルームの家具、カーテン、椅子、ベッドなどを見た。 「ところで地球人はどこだ?」ヌトガリ3は最後にいった。 「かれらはまもなく戻ってくるだろう」  ヌトガリ3は行ったり来たりした。「どうも雰囲気がおかしいな。私の触角はごまかせない。居心地が悪い。かれらが戻らないことは考えられないか?」 「どうして?」  ルシン6はヴィデオ・スクリーンをいじりはじめた。「そんなことはないよ。待っていれば帰ってくる」  ヌトガリ3は窓の外をそわそわして覗いた。「誰も見えない。しかし近くにいるに違いない。ここを出たり去ったりするはずがない。どこに行ったのだろう? どうしてだろう?」 「そのうち戻ってくるさ」ルシン6はヴィデオ・スクリーン画面の電波障害を見た。「これはそれほど印象的ではない」 「かれらは戻ってこない気がする」 「地球人が戻ってこないとしたら」そういいながらルシン6は考え深げにヴィデオ・スクリーン調整器を弄《もてあそ》んだ。「これは考古学上の最大の謎のひとつだ」 「私はかれらの見張りを続けるよ」ヌトガリ3は無表情でいった。 [#改ページ]   造物主 「これはいかんな」クリスピン・エラー少佐はいった。彼は舷窓から眺めて眉をしかめた。「この小惑星は水も豊富で気温も温暖、大気も地球に似て酸素と窒素との混合だが――」 「生命体は見られないな」ハリスン・ブレイク副船長はエラーのそばに来ていった。二人は見つめた。「生命体はないが理想的な状態だ。空気、水、適温。どうしていけないかね?」  かれらは向かい合った。宇宙船X―43Yの向こうには、小惑星の平らで不毛な大地が伸びている。X―43Y号は地球を遠く離れ、銀河系の中間まで来ていた。火星・金星・木星の三星同盟に対抗して、地球は将来の鉱石採掘権を獲得するため、銀河系のあらゆる小惑星の踏査測量に駆り立てられていた。X―43Y号は約一年間にわたり、地球の青と白の旗を宇宙のあちこちに立ててきた。三人の乗組員はすでに地球での休暇の権利を獲得していた。これまでに稼いだ金を使う唯一のチャンスである。いま小さな探査宇宙船は危険な毎日を送りながら隕石群、船体腐食バクテリア、宇宙海賊、人工小惑星のピーナッツ・サイズの帝国を避けながら、銀河系の周辺に点在する星群の中を進んでいた。 「見ろ!」エラーは怒ったように舷窓を叩いた。「生命体を育《はぐく》むに完全な状況だ。それなのに剥き出しの岩だけで何もない」 「偶然のなせる業《わざ》かな」ブレイクは肩をすくめていった。 「バクテリア分子が漂っていないところはないはずだ。この小惑星が肥沃でないのには何か理由があるはずだ。何かよくない予感がする」 「さて、それではどうする?」ブレイクは冷たい笑いを見せた。「きみがキャプテンだ。指示書によればクラスD以上の大きさの小惑星に遭遇したら、着陸し探査することになっている。これはクラスCだ。外に出て測量するのか、しないのか?」  エラーはためらった。「したくないね。奥深い宇宙のここからあらゆる致死要素が浮遊しているかもしれない。あるいは――」 「地球にまっすぐ戻りたくはないか。考えてもみろよ、こんなちっぽけな岩だらけの小惑星を見のがしたって分かるものか。こんなことはいいたくないが」 「そんなことはない! 安全を気にかけている。それだけだ。きみは地球帰還を煽《あお》っているのか」エラーは舷窓をじっと見た。「状況がわかりさえすれば」 「ハムスターを出して様子を見るんだ。しばらく走り回らせれば何かわかるに違いない」 「着陸したことさえ悔やんでいるよ」  ブレイクの顔が軽蔑に歪んだ。「用心深すぎるな。もう気持は地球へ向いているんじゃないか」  エラーは憮然《ぶぜん》として灰色の不毛の岩地と、緩やかに流れる水を見つめていた。水と岩と雲と常温。生命体にとっては完全な場所だ。しかし生命体は影すらない。岩はきれいですべすべしている。草木も地衣類もない完全な不毛の地だ。分光器は何も示さない。単細胞水生体もいなければ、銀河に散らばった無数の小惑星で出会った、おなじみの褐色の地衣類もいなかった。 「分かった。それでは檻《ケージ》の一つを開けよう。シルヴィアにハムスターを出させよう」エラーは決断した。  彼は受話器を取り上げると実験室を呼んだ。足下の宇宙船の内部では、シルヴィア・シモンズが蒸留装置や実験器具に囲まれて働いていた。エラーはヴィデオ・フォーンのスイッチを入れた。「シルヴィアか?」  シルヴィアの顔がスクリーンに現われた。「ええ」 「ハムスターを外に出して三十分ぐらい走り回らせるんだ。もちろん首輪と紐はつける。この小惑星については不安だ。あたりに有毒なものや放射能孔があるかもしれん。ハムスターを回収したら厳重に検査するんだ。手を抜くなよ」 「分かったわ、クリス」シルヴィアは笑った。「たぶん間もなく外に出てゆっくり手足を伸ばせるわ」 「実験結果はすぐ知らせてくれ」エラーは回路を切って、ブレイクに向き直った。「これで満足だろう。すぐにハムスターを外に出す」  ブレイクは薄笑いを浮かべた。「地球に戻れるのはおれも嬉しい。きみはキャプテンとして一回つきあえば充分だよ」  エラーはうなずいた。「十三年にわたる勤務も、きみに自己規制を教えなかったのは不思議なことだ。勲章も寄越さないので拗《す》ねているのか」 「いいか、エラー。おれはきみより十歳年上だ。きみがまだ子供の頃から勤務に就いていた。おれの眼から見ればきみはまだ生白い青二才だ。この次は――」 「クリス!」  エラーは急いで振り返った。ヴィデオ・スクリーンがまた点灯した。シルヴィアの恐怖におののく顔が映った。 「何だ?」彼は受話器を握った。「どうした?」 「クリス、檻を見て。ハムスターは全身を硬直させて伸びているわ。一匹も動かないの。何だか怖いわ――」 「ブレイク、宇宙船を発進させろ」エラーは命じた。 「何だって?」ブレイクは混乱して呟《つぶや》いた。「われわれは――」 「発進させるんだ! 早く!」エラーは操縦盤に飛んで行った。「ここから飛び立たねばならん!」  ブレイクはエラーに詰め寄った。「なにか――」といいかけて突然言葉を切った。顔が生気を失い顎《あご》が垂れる。ゆっくりと滑らかな金属床にへたりこむと、空気の抜けた袋みたいに倒れた。エラーは呆然として見つめている。ようやくのことで彼は急いで走り操縦盤にたどり着いた。いきなり痺《しび》れるような炎が頭蓋を貫き、脳髄を焼いた。無数の光の矢が眼の奥で爆発し、眼が見えなくなった。彼はよろめきながらスイッチを掴もうとした。暗黒に引っ張られながら、指が自動発進装置に近づいた。  倒れながらそれを強く引いた。それから痺《しび》れるような暗闇に完全に呑み込まれた。床に叩きつけられても激しい衝撃を感じなかった。  宇宙船は空に飛び出し自動継電器が激しく作動した。しかし船内では誰も動かなかった。  エラーは眼を開けた。頭がずきずきする。やっと立ち上がると手すりにつかまった。ハリスン・ブレイクも意識を回復し、うめきながら立ち上がろうとした。その浅黒い顔は気味悪く黄ばみ、眼は充血し唇から泡を吹いている。クリス・エラーを見つめ、震える手で額をこすった。 「元気を出せ」エラーはブレイクを助け上げた。ブレイクは操縦席に座った。 「ありがとう」彼は頭を振った。「何が――何が起こったんだ?」 「分からん。実験室に行きシルヴィアが無事かどうか見てこよう」 「おれも行こうか?」ブレイクは呟《つぶや》いた。 「いや。ここに座っていてくれ。無理をするな。分かるか? 出来るだけ動くな」  ブレイクはうなずいた。エラーはおぼつかない足取りで操縦室から廊下に出た。エレベーターで階下に降りる。すぐに実験室に足を踏み入れた。  シルヴィアは仕事机のひとつに倒れ硬直して動かない。 「シルヴィア!」エラーは走り寄ると抱き起こして身体を揺すった。身体は冷たく固い。 「シルヴィア!」  彼女は少し身じろぎをした。「起きろ!」エラーは補給庫から刺激剤入りチューブを取り出した。それを破ると彼女の顔のそばに持っていった。シルヴィアはうめいた。彼はまた揺すった。 「クリス?」シルヴィアは弱々しくいった。「あなたなの? 何が起こったの? 他は大丈夫かしら?」彼女は頭を持ち上げ、不安げに眼をしばたたいた。「あなたとヴィデオ・スクリーンで話していたわね。このテーブルにやって来ると、突然――」 「分かった、分かった」彼女の肩に手を置くと、眉をひそめじっと考えた。「何かあったのかもしれん。あの小惑星からの一種の放射能とかな?」彼は腕時計を見た。「しまった!」 「どうしたの?」シルヴィアは起き上がると髪を撫でつけた。「何なの、クリス?」 「われわれは二日も意識を失っていたんだ」エラーは時計を見ながらゆっくりといった。顎に手を当てると「さて、これをどう説明するか」と不精髭をこすった。 「でも私たちは今のところは何ともないでしょう?」シルヴィアは壁際にある檻のハムスターを指さした。「見て――走り回っているわ」 「行こう」エラーは彼女の手を取った。「上に行って三人で会議を開こう。船内のダイアルやメーターをくまなく調べるんだ。何が起こったか知りたい」  ブレイクは顔をしかめた。「認めるよ。おれが間違っていた。着陸しなけりゃよかった」 「放射能があの小惑星の中心からくるのは明らかだ」エラーはチャートのラインを追った。「この表示数値から放射能波が急激に起こり、すぐに消えているのが分かる。小惑星の核心から一種の波動がリズミックに起きている」 「宇宙に逃げていなかったら、第二波にやられていたかもしれないわ」とシルヴィア。 「計器が十五時間に及ぶ波動を捉えている。明らかにあの小惑星は定期的に決まった間隔で、放射能を放出する鉱床を持っている。波長が短いのに注意。宇宙線のパターンによく似ている」 「でも私たちの遮蔽幕を充分通してしまうほど違うわ」 「そうだ。防ぎようがなかった」エラーはシートにもたれた。「あの小惑星に生命がなかった証明でもある。バクテリアが着陸しても、あの第一波にやられるだろう。立ち直るチャンスはない」 「クリス?」とシルヴィア。 「何だ?」 「あの放射能が私たちに及ぼす影響について考えている? 危険はないかしら? それとも――」 「分からない。これを見ろ」エラーは赤で線を引いた図表を彼女に渡した。「われわれの身体の脈管系は十分に回復したが、神経組織はまだ元通りになっていない。変化が起こっている」 「どんな?」 「分からない。神経医じゃないからな。元の記録、一、二か月前に描いたテスト・パターン指標とは明らかに異なる。しかしそれが何を意味するのか途方に暮れているんだ」 「深刻なものかしら?」 「時間が経てば分かるだろう。身体の組織は連続十時間も分類できない放射能の強烈な波に晒《さら》されてきた。それが残した永久効果については語るべくもない。この瞬間は大丈夫だがね。きみはどう感じる?」 「どこも悪くないわ」シルヴィアはそういうと、舷窓を通して宇宙の暗い深淵を覗き込んだ。無数の光のかけらが小さな不動の点としてちりばめられている。「とにかく、とうとう地球に向かっているわ。故郷に戻れるのは嬉しい。すぐに内臓器官を調べてみるべきだったわね」 「少なくとも心臓は何の損傷もなく動いている。血液凝固も細胞破壊もない。それをまず心配していたが。普通にはあのタイプの強力な放射能を一定量浴びれば――」 「太陽系までどのくらいかかる?」とブレイク。 「一週間だ」  ブレイクは唇をこわばらせた。「長いな。それまで生きていたい」 「あまり身体を使わない方がいい。残りの旅程を楽に過ごし、影響を与えるものが何であれ、地球に帰れば大丈夫だという希望を持つんだ」 「実際にはそれほどのことがなくて済むと思うわ」シルヴィアはそういうとあくびをした。「ああ、眠い」彼女はゆっくりと立ち上がると椅子を押し戻した。「休むわ。いいでしょう?」 「どうぞ。ブレイク、カードでもやらないか? のんびりしたい。ブラックジャックはどうだ?」 「いいね」彼はジャケットのポケットからカードを取り出した。「時間がつぶせる。切ってくれ」 「よかろう」エラーはカードを取り上げ、切ってクラブの七を見せた。ブレイクはハートのジャックを引き先手を取った。  二人はそれほど身も入らず、気乗り薄にゲームを続けた。ブレイクは不機嫌で無口で、エラーが正しかったと分かってもまだ怒っていた。エラーは疲れ落ち着かなかった。鎮静剤を飲んでも頭がずきずき痛む。ヘルメットを脱ぐと額をこすった。 「勝負だ」ブレイクが小声でいった。かれらの足下でジェット装置が騒音を上げ、地球へと近づきつつあった。一週間以内には太陽系に突入するだろう。地球とはもう一年以上もご無沙汰している。地球はどうだろうか? 前と変わらないだろうか? 広い海原と小さな島々を持つ大きな緑の球体。やがてニューヨーク宇宙空港に降りる。彼はサンフランシスコに行く。万事快適だ。大衆、地球人、世界に注意を向けない、あのあさはかで非常識な地球人たち。エラーはブレイクに笑顔を向けた。その笑顔はしかめ面に変わった。  ブレイクは頭を垂れていた。眼をゆっくり閉じている。彼は眠ろうとしていた。 「起きろ。どうしたんだ?」エラーは叫んだ。  ブレイクはぶつぶついって身体を起こそうとした。彼は次のカードを出した。またしても頭が低く垂れていく。 「すまん」彼はつぶやいて勝ち札を引こうと手を伸ばした。エラーはポケットをさぐり何クレジットかの現金を引っ張り出した。彼は顔を上げ話そうとした。だがブレイクはもう完全に眠りこけていた。 「驚いたな」エラーは立ち上がった。「どうも変だ」ブレイクの胸は規則正しく膨らみ凹んでいる。少しいびきをかき、大きな身体を投げ出していた。エラーは明かりを消してドアの方に歩いて行った。ブレイクはどうしたのだろう? カードゲーム中に眠ってしまうなんて彼らしくない。  エラーは廊下を自分の部屋に向かった。彼も疲れ眠りたかった。シャワー室に入りカラーをはずした。ジャケットを脱ぎ、湯を出した。これまでに起こったこと――突然の放射能の爆発、身体の痛いめざめ、激しい恐怖――をすべて忘れて眠れるのは嬉しい。エラーは顔を洗いはじめた。ああ、頭がじんじんする。無意識に彼は腕に水を跳ねかえしていた。  それに気づいたのはほとんど洗い終わってからだった。長いこと立ったまま水を出しっぱなしにして、両手を黙って眺めたまま呆然としていた。  爪が消えていた。  鏡を見上げ荒い息遣いをした。いきなり髪の毛を掴むとごそっと抜ける。褐色の抜け毛の束が手に残った。髪の毛も爪も――  身体が震え落ち着かせようとした。髪と爪。放射能。もちろん放射能のせいだ。髪と爪を殺したのだ。手を調べてみた。  爪は全部なくなっていた。その跡もない。手をひっくり返し指を調べた。指先は滑らかで先細りになっている。彼は襲いくるパニックと闘い、鏡からふらふらと離れた。  はっと閃《ひらめ》いたものがある。これは彼ひとりだけのことか? シルヴィアはどうした!  彼はまたジャケットを着た。爪がなくとも指は不思議にも器用にすばやく動いた。何か他にも変化はあったか? 心の準備をしなければならない。彼はもう一度鏡をのぞいた。  そして吐き気を催した。  彼の頭――何が起こっているのか? 両手で頭のてっペんを押さえた。頭がおかしくなっている。それもかなりの程度だ。眼を丸くして見つめる。もう全く毛がなかった。肩やジャケットは褐色の抜け毛で覆われている。頭は禿げ上がってピンクに光っていた。ショッキング・ピンクだ。しかもそれだけではない。  頭は膨らんでいた。丸く盛り上がりつづけている。耳は萎《しな》びていた。耳だけではない鼻もだ。鼻は見る間に細り透明になっていく。彼の身体はまたたく間に変貌しつつあった。  彼は震える手を口の中に伸ばした。歯はぐらぐらしている。引っ張ると数本の歯が簡単に抜けた。どうなっているんだ? 自分は死にかけているのか? 自分だけのことか? ほかの二人は?  エラーは身をひるがえすと、急いで部屋をとびだした。息をするとかすれて痛い。胸は締めつけられるようで、肋骨が空気を絞りだす。心臓は断続的に鼓動を打つ。足が弱くなっていた。立ち止まってドアにつかまる。エレベーターに乗り込んだ。突然音がした。牛の唸り声みたいだ。恐怖と苦悩に満ちたブレイクの声だった。 「そうだったのか」エレベーターで昇りながらエラーは観念した。「少なくともおれだけじゃない!」  ハリスン・ブレイクは恐怖であんぐり口を開け彼を見た。エラーは笑いたかった。ブレイクも毛が一本もなく、頭はピンクに輝いて、かなり印象的な光景だった。その頭蓋もまた肥大しており、爪もなかった。操縦盤のそばに立ち、エラーを見てから自分の身体を振り返った。制服が縮んだ身体にぶかぶかだった。スラックスの裾もだぶついている。 「さて?」エラーが口を開いた。「この状態を抜け出せれば全く幸運だ。宇宙の放射能は人間の身体に悪戯《いたずら》するものだ。あそこに着陸したのは厄日だった――」 「エラー」ブレイクはかぼそい声で呼びかけた。「どうしたものだろう? こんな格好じゃ生きていられない! 見てのとおりだ」 「分かっている」エラーは唇を噛んだ。歯がほとんどないので、今は話すことにも不自由していた。いきなり赤ん坊に返ったみたいだった。歯もなく毛もなく、身体は刻々と絶望的になっていく。終わりはどこにあるのか? 「この姿じゃ戻れない」ブレイクはいった。「元に戻らなくては地球に帰れない。ちくしょう、エラー! おれたちはフリークか、ミュータントか。帰れば地球人から動物並みの檻に閉じ込められるだろう。連中は――」 「やめろ」エラーは制止した。「生きているだけ幸せだ。座れ」彼は椅子を引いた。「足を切り離したいよ」  二人は腰を下ろした。ブレイクは震えながら深呼吸した。柔らかな額を何度もこすった。 「心配しているのはおれたちのことじゃない」しばらくしてエラーはいった。「問題はシルヴィアだ。彼女はひどく悩むはずだ。階下に降りて行くかどうか決めたい。そうしなければ彼女はおそらく――」  ブザーが鳴った。ヴィデオ・スクリーンに実験室の白壁、蒸留器、実験器具が棚に沿ってきれいに並んで映っている。 「クリス?」シルヴィアの細い声がした。恐怖でささくれだっている。彼女の姿は画面には見えない。明らかにカメラから外れた端に立っているのだ。 「何だ、どうしている?」エラーはスクリーンに近づいた。 「どうしたらいいの?」ヒステリックな金切り声だけ聞こえてくる。「クリス、あなたもやられたの? 見るのが怖いわ」しばらくして「やはりそうね。あなたが見えるわ――でも私を見ないで、私の姿をもう見ないで。恐ろしいわ。どうなるのかしら?」 「分からん。ブレイクはこんな姿では地球に帰りたくないといっている」 「そうよ! とても帰れないわ! いやよ!」  沈黙があった。「後で相談しよう」エラーはやっといった。「今のところ手の打ちようもない。この変化は放射能の影響だ。だから一時的なものかもしれない。やがては元通りになることも考えられるし、外科手術が可能かもしれない。とにかくあまり心配しないようにしよう」 「心配しないですって? もちろん心配などしたくはないわ。こんなつまらないことにね! でもねクリス、考えてもごらんなさい。私たちはモンスターなのよ。全身毛のない怪物なのよ。毛もなければ、歯もないし、爪もないわ。頭は――」 「分かってる」エラーは顎をこわばらせた。「きみは実験室にいてくれ。ブレイクと私はスクリーンできみと話そう。きみは身体をわれわれに晒《さら》すことはない」  シルヴィアは深呼吸をした。「あなたのいうとおりにするわ。まだキャプテンですもの」  エラーはスクリーンから離れた。「さて、ブレイク、話す元気があるかい?」  隅にいる大きなドームのような人影がうなずくと、巨大な毛のない頭はわずかに揺れた。ブレイクの大きな身体は縮んで凹んでいた。腕はパイプみたいに細く、胸はくぼみ弱々しい。柔らかい指がテーブルを休みなく叩いている。エラーは彼をじっと見た。 「どうしたい?」ブレイクが訊いた。 「別に。きみを眺めているだけだ」 「いい眺めじゃないな、おたがいに」 「分かっている」エラーは向かい側に腰を下ろした。心臓は高鳴り息が荒かった。「可哀想なシルヴィア。おれたちよりも彼女の方がつらい」  ブレイクはうなずいた。「一番哀れだよ。彼女のいうとおりだな、エラー。おれたちはモンスターさ」彼は華奢《きゃしゃ》な唇を歪めた。「地球に帰れば、殺されるか、閉じ込められてしまう。すみやかな死がよいのかもしれん。モンスター、フリーク、無毛水頭症にはな」 「水頭症ではない。頭脳は損なわれていない。それは感謝すべきことだ。まだ考えることが出来る。正常な神経だ」 「いずれにしろ、あの小惑星に生命体が存在しない理由を知った。おれたちは探査隊としては成功した。情報は得た。放射能、致命的放射能、生物組織を破壊するものだ。器官の構造や機能を変化させ、細胞成長に突然変異をもたらすんだ」  エラーは考え深げに彼を見た。「全くきみのいうとおりだよ、ブレイク」 「厳密な説明さ。現実的になろう。おれたちは激しい放射能のせいで、恐るべき癌に取り憑かれたんだ。それを直視するんだ。おれたちは人間じゃない。もはや人間じゃないんだ。おれたちは――」 「何だ?」 「分からん」ブレイクは沈黙した。 「不思議なことだ」エラーは指を憂鬱そうに調べた。いろいろとテストしたり動かしたりした。だんだんと細くなっていく。テーブルの表面を撫でてみる。皮膚が感じやすくなっている。テーブルの凸凹や、線、印まではっきりと感じられた。 「何をしているんだ?」ブレイクが尋ねた。 「どうも変だ」エラーは指をしげしげと見て調べた。視覚がぼやけつつある。すべてがぼんやりとあいまいだった。向かいにいるブレイクも見つめていた。ブレイクの眼は引っ込みはじめ、毛のない大きな頭蓋の中に潜っている。エラーは突然視覚を失おうとしていた。ゆっくりと眼が見えなくなる。彼はパニックに襲われた。 「ブレイク! 眼が見えなくなるぞ。視力と眼の筋肉の進行性能力の低下だ」 「おれもそうだ」 「どうしてだろう? 実際に視力を失いかけている! 見えなくなるのか、盲目になるのか。なぜだ?」 「退化しているんだ」ブレイクは小声でいった。 「そうかもしれん」エラーはテーブルから航海日誌と光線ペンを取り上げ、日誌のホイル用紙にできごとを記録した。急速に視野は狭まり、視覚は落ちている。しかし指は感覚が鋭くなっている。皮膚が異常反応を示す。視覚の欠落に対する補償だろうか? 「これをどう考える? ある機能を失い別の機能を獲得するのか」 「掌《てのひら》に?」ブレイクは手を調べた。「爪の欠落で指に新しい機能が生まれた」彼は制服を指でこすった。「前には不可能だった新しい機能を感じるよ」 「それでは爪の欠落は意図的なものになるじゃないか!」 「そうだろうか?」 「これはすべて指向性があるとは思えない。偶然の放射能症だ。細胞破壊も体形変化も。だけど――」エラーは光線ペンをゆっくり航海日誌に動かした。手指。新しい知覚の器官。高度な感覚。鋭い触覚反応。しかし視覚の減退…… 「クリス!」シルヴイアの声は高く怯《おび》えていた。 「どうした?」彼はヴィデオ・スクリーンを振り返った。 「視覚が失われたわ。何も見えなくなったのよ」 「われわれもそうだ。心配するな」 「でも、怖いわ」  エラーがスクリーンに近づいた。「シルヴィア、いくつかの感覚を失って別の感覚が得られるはずだ。指を調べてごらん、何か気づくだろう? 何かを触ってごらん」  苦悶に満ちた間隔があった。「かなり変わった感じがするわ。前と同じじゃない」 「それが爪の抜け落ちた理由だ」 「だけどどういう意味があるの?」  エラーは膨れた頭蓋に触り、慎重に滑らかな皮膚に指を走らせた。いきなり拳を固めると息を詰めた。「シルヴィア! X線装置を動かせるか? 実験室を歩き回れるか?」 「ええ、大丈夫よ」 「それではX線プレートが欲しい。すぐ作ってくれ。できたらすぐ知らせてくれ」 「X線プレート? どうするの?」 「きみの頭蓋を撮るんだ。頭脳がどれほどの変化をしたか見たいんだ。特に大脳を。だんだんと分かってきたようだ」 「何が?」 「プレートを見てから話す」エラーの薄い唇に微かな笑いが浮かんだ。「私の考えが正しければ、いま起こっていることに、われわれはとんでもない誤解をしていた」  長いことエラーはヴィデオ・スクリーンに縁どられたX線プレートを見つめていた。頭蓋の線はぼんやりと見分けられる。薄れいく視力で確認しようと懸命になっていた。プレートはシルヴィアの手の中で震えていた。 「あなたには見えるの?」彼女は小声でいった。 「大丈夫だ。ブレイク、出来るならこれを見てくれ」  ブレイクはにじり寄ると、椅子の端で身体を支えた。「なんだい?」彼はプレートを見つめ、眼をしばたたいた。「よく見えない」 「頭脳が非常に変化している。ここが肥大しているのを見ろよ」エラーは前頭葉を指した。 「ここだ。驚くべき成長だ。脳回〔大脳表面の凹凸〕が大きくなっている。前頭葉から奇妙なふくらみが出ている。一種の突起だな。これは何だと考える?」 「分からん。その部分は思考の高度処理に関係しているのではないか?」 「最も発達した知覚機能がそこに位置しているんだ。そこが成長したんだな」エラーはスクリーンからゆっくりと離れた。 「それをどう考えているの?」シルヴィアの声がした。 「仮説を持っている。間違っているかもしれないがこれにぴったりくるんだ。爪が剥がれたのを見た時まずそれを考えた」 「どんな仮説なの?」  エラーは操縦席に座った。「脚を崩した方がいい、ブレイク。心臓がそれほど丈夫だとは考えられない。体重は減りつつある。だからいずれは――」 「仮説とは何なんだ?」ブレイクがにじり寄った。鳥のような薄い胸が上下している。彼はエラーにじっと眼を凝らした。「それは何なんだ?」 「おれたちは進化しているんだ。あの小惑星の放射能は癌みたいに細胞の成長を早めた。しかし意図がないわけはない。この変化には目的と指向性があるんだ、ブレイク。おれたちは急激に変化している。数世紀を数秒で進んでいるんだ」  ブレイクは彼を見つめた。 「それは事実だ。確信している。大きくなった頭、弱くなった視力、毛や歯の欠落。手先の器用さと触感の増大。肉体的には大分失われたが精神的にはかなり向上した。知覚力、概念の受容能力は大いに発達している。精神は未来に進んでいる。進化しているんだ」 「進化している!」ブレイクはゆっくりと座った。「それは本当か?」 「確かだ。もちろんまたX線で撮影してみる。体内器官、腎臓や胃の変化を見るのは心配だ。失われた部分を想像すると――」 「進化したのだ! しかしその進化は偶然の外的ストレスの結果ではないことを意味している。競争と闘争。目的も方向性もない適者生存。あらゆる有機体が内部に進化の経路を持っていることをそれは暗示している。その時進化は目標を持ち、偶然に左右されない目的論になる」  エラーはうなずいた。「おれたちの進化は、はっきりしたラインに添った内部成長や変化以上のように思える。でたらめなものでないことは確かだが。その指向性が何かは興味があるな」 「これは今までにない新しい光を投げかけるよ。そうすればおれたちはモンスターじゃない。おれたちは――むしろ人類の未来の姿だ」  エラーは彼を見つめた。ブレイクの声には奇妙な気高さがあった。「そういうと思ったよ。今のところ地球ではフリークとしか思われないだろうがね」 「それは間違っている。でもおれたちを見ればフリークといいたくなるよ。しかしフリークなんかじゃない。もう数百万年すれば、人類の末裔はおれたちに追いつくよ。おれたちは時代の先を進んでいるんだ」  エラーはブレイクの膨れ上がった頭に眼を凝らした。ぼんやりとだが外郭は分かる。すでに煌々《こうこう》たる明かりの操縦室もほとんど暗く見えた。視力がほとんどなかった。彼が見分けられるのは、ぼんやりとした影だけだった。 「未来の人間か。モンスターではなく明日の世界から来た人間。これは確かに新しい光を与えるかも知れない」ブレイクは神経質に笑った。「しかしすぐに自分の新しい姿が恥ずかしくなる。だがいまは――」 「だがいまは何だい?」 「いまは確信できない」 「どういう意味だい?」  ブレイクは答えなかった。彼はテーブルにつかまりながらゆっくりと立ち上がった。 「どこに行くんだ?」  ブレイクは痛そうに操縦室を横切り、手探りでドアに向かった。「このことをよく考えたい。考えるに値する驚くべき新要素だ。エラー、きみの意見に賛成だ。正論だ。おれたちは進化している。知覚機能は非常に改善された。もちろん肉体機能はかなり低下している。それは予期されたことだ。おれたちはよく考えれば勝利者なんだ」ブレイクは大頭にそっと触れた。「そう、長い道のりの中で獲得できるものだ。これを偉大なる日として振り返ることだろうな、エラー。おれたちの人生の偉大なる日だ。きみの仮説は正しいよ。この進化が続けば概念形成能力にも変化が感じられるよ。形態機能は飛躍的に向上する。その関連性を直感的に理解できるし――」 「待て! どこに行くんだ? 答えろ。おれはまだこの宇宙船のキャプテンだ」 「どこにいくかって? 自分の部屋だ。休みたい。この身体じゃかなり不自由だ。車椅子を作る必要があるし、人口肺や人工心臓のような器官もいるかもしれない。肺や脈管組織は長持ちしない。寿命も疑いなく縮まる。後で会おう、エラー少佐。会うという言葉は使うべきではないかな」彼は微笑した。「もう眼が見えないだろう」彼は手を上げた。「これが視覚に変わろう」彼は頭蓋に触れた。「これが多くの代理を務めるさ」  彼は姿を消し背後でドアが閉まった。手探りで慎重な弱々しい足取りで、ゆっくりと廊下を歩いて行くのが聞こえた。  エラーはヴィデオ・スクリーンに近寄った。「シルヴィア! 聞こえるか? われわれの会話を聞いたか?」 「ええ」 「それでは何が起こったか分かったな」 「ええ、分かったわ、クリス。私はもうほとんど盲目だわ。何も見えないのよ」  エラーはしかめ面をして、シルヴィアの涼しく光る瞳を思い出した。「すまない、シルヴィア。こんなことになろうとは思わなかった。元に戻りたい。何の役にも立たなかった」 「ブレイクは役に立つと考えているわ」 「なあ、シルヴィア。出来ればこの操縦室に来てくれないか。ブレイクが心配だ。ここに来てくれないか」 「心配? どうして?」 「彼は何か考えている。ただの休養で部屋に帰ったのじゃない。ここで私と善後策を検討しよう。数分前には地球に帰るべきだといったが、いまは心変わりしている」 「どうして? ブレイクのせいで? ブレイクにはブレイクの考えがあるとは思わない――」 「きみがここに来たらそれを話したい。手探りで来ればいい。ブレイクはそうしたから、おそらくきみも出来るだろう。結局は地球に帰れないと思うよ。きみにその理由を話しておきたい」 「できるだけ早くそこに行きたいんだけど。しばらく我慢してね。私を見ないでね。こんな姿を見られたくないのよ」 「見ないよ。きみがここに来るまでに、もう完全に眼が見えなくなっているよ」  シルヴィアは操縦席に座った。彼女は実験室のロッカーから宇宙服を出して着ていた。それで身体はプラスティックとメタルのスーツで覆われていた。エラーは彼女が息を整えるのを待った。 「それで」シルヴィアはいった。 「まずやることは船内の武器を集めることだ。ブレイクが戻ってきたら、われわれは地球に戻らないことをはっきり告げる。彼は怒りトラブルを起こす可能性が大きい。私が間違っていなければ、彼はこの変化の意味するところを理解しはじめたので、強く地球帰還を主張するだろう」 「あなたは戻りたくないの?」 「その気はない」エラーは首を振った。「地球には帰るべきでないよ。危険だ。きみにもその危険性は分かっているだろう」 「ブレイクは新しい可能性に取り憑かれているのよ」シルヴィアは考え深げにいった。「私たちは他の人類より進んでいるわ。数百万年もね。この瞬間も刻々と。頭脳も、思考力も、他の地球人とは比べものにならないわ」 「ブレイクは普通の人間としてでなく未来人として地球に帰りたいんだ。他の地球人とは天才と白痴の関係にあるのが分かるだろう。この変化が続くなら、われわれは地球人を他の動物、霊長類並みに見下すことになるな」  二人とも沈黙した。 「地球に戻れば人類は動物としか思えないよ」エラーは繰り返した。「この状況下では当然人類を助けることになるだろう? 結局のところわれわれは数百万年先の未来人なんだ。人類が望むならかれらを指導し、計画を立て大きな貢献が出来る」 「人類が反抗するなら支配することも出来るわ。すべては私たちの意のままよ。いうまでもないわ。あなたが正しいわ、エラー。地球に帰れば、私たちはすぐに人類を軽蔑する自分たちに気づくわ。かれらを指導し生き方を教えたいと思うけど、人類がそれを望むかどうかはわからない。そうね、強い誘惑ではあるけど」  エラーは立ち上がった。彼は武器庫に行き開けた。慎重に頑丈なボリス・ガンを取り出しひとつずつテーブルに置いた。 「まずこれを破壊する。その後、私ときみでブレイクが操縦室から離れているのを確認する。もしわれわれをバリケードで囲む必要があればそうする。宇宙船のルートは私が考えよう。太陽系から離れた遠境の星を目指す。それが唯一の方法だ」  彼はボリス・ガンを分解し、発射装置を外した。ひとつずつ装置を破壊し、足で踏みにじった。  物音がした。二人は振り返り、緊張して眼を凝らした。 「ブレイク! きみなんだな。もう見えないが、しかし――」 「そのとおりだ」ブレイクの声がした。「おれたちはみんな盲目か、それに近い。それでボリス・ガンを破壊したのだな! 地球に戻れないのではないか心配している」 「部屋に帰れ。おれがキャプテンだ。おまえに命令するが――」  ブレイクは笑った。「おれに命令だと? もうほとんど見えないようだな、エラー。だがこれは見えるだろう!」  ブレイクのまわりから何かが立ち上った。青白い雲のようなものだった。その雲が自分の周囲を取り巻いたので、エラーは息をのみ竦《すく》んだ。自分が溶けて無数の細片に分解し、飛び散り漂っているように思えた。  ブレイクはその雲を手に持つ小さなディスクに吸い込ませた。「おれが放射能を最初に浴びたのを覚えているだろう。二人よりほんの少し早かった。それで充分だ。とにかくボリス・ガンは、おれの武器に比べて何の役にも立たない。いいか、この宇宙船全体が百万年遅れているんだ。おれの持っているのは――」 「どこで手に入れた、そのディスクを?」 「どこからでもない。自分で作ったんだ。きみがこの船を地球から遠ざけようとしているのを知ってすぐにな。すぐにきみたちも新しい武器を作るだろう。しかしいまは少しだけ遅れをとっているんだ」  エラーとシルヴィアは息遣いが激しくなった。エラーは船体の手すりに依りかかった。疲れ果て心臓も高鳴る。彼はブレイクの手のディスクを見つめた。 「地球帰還は変わらない」ブレイクは続けた「行先の変更はさせないからな。ニューヨーク宇宙空港に着くまでにはきみの考えも変わるだろう。おれの進化に追いついた時に、きみも同じことに気づくはずだ。帰らなければならないんだ、エラー。それが人類への義務だ」 「われわれの義務だって?」  ブレイクの声には微かに嘲《あざけ》りの色が浮かんだ。「もちろんだ! 人類はおれたちを必要としている。かなりな。地球のために出来ることは沢山ある。君の考えもいくらか分かる。全部ではないがその計画を知れば充分だ。伝達の手段としての会話を失いはじめて、きみもそれが分かるはずだ。おれたちはまもなくそれに頼り――」 「もしわれわれの心が読めるなら、地球に戻らない理由も分かるはずだ」とエラー。 「きみの考えていることは分かるが間違っている。地球のために帰るんだ」ブレイクは静かに笑った。「地球人のためにすることが山ほどある。地球の科学はおれたちの手で変える。人類もまた変わるだろう。地球を再生し強力にするんだ。いまの三頭政治支配体制は、新たな地球、おれたちの作る地球の前に無力になる。おれたち三人は人類を改良し向上させ、全銀河系に飛び出させるんだ。人類はおれたちが型を作る素材となるんだ。地球人はいたるところに入植する。ただの岩塊の星ではなくて、銀河系のすべての星にだ。地球を強くするんだ。地球による全宇宙支配だ」 「それがきみの考えか。もし地球人がわれわれと歩調を合わそうとしなかったら? その時はどうするんだ?」 「理解しないこともありうる」ブレイクは認めた。「結局、おれたちがかれらより数百万年進んでいることを認めさせるしかない。かれらはずっと遅れている。多くの場合、命令の目的を理解出来ないだろう。しかしかれらが意味を理解しなくとも、命令は守らせる。きみは船団を指揮したので、それを知っているな。おれたちの地球のためなのだ。そのためには――」  エラーは跳びかかった。しかし華奢《きゃしゃ》で脆《もろ》い身体がそれを裏切った。激しく盲目的にブレイクに手を伸ばしたが足りなかった。ブレイクは悪態をつき退った。 「ばかめ! 貴様なんか――」  ディスクがきらめき、青い雲がエラーの顔に飛んだ。彼は一方によろめき手を上げた。いきなり倒れ、金属床にぶつかった。シルヴィアはどたどた歩いてブレイクの方に向かって行った。重い宇宙服なので遅くぎこちなかった。ブレイクは彼女を振り返りディスクを振り上げた。もうひとつの雲が起こり、シルヴィアは悲鳴を上げた。雲は彼女を呑み尽くした。 「ブレイク!」エラーは立ち上がろうともがいた。シルヴィアのぎこちない姿はよろめき倒れた。エラーはブレイクの腕を掴んだ。二つの姿が前後に揺れた。ブレイクは逃れようとした。突然エラーの力が尽きた。彼は滑って後ろに倒れ、金属床に頭を打ちつけた。そばにはシルヴィアが声もなくぐったりと横たわっていた。 「おれから離れろ」ブレイクはディスクを振りわめいた。「彼女と同じ目に遭わせるぞ。分かったか?」 「彼女を殺したのか」エラーは金切り声を上げた。 「それはおまえのせいだ。争えばどうなるかわかったろう? おれから離れるんだ! 近づいたらまた雲をお見舞いするぞ。そうすればおまえは一巻の終わりだ」  エラーは動かなかった。彼は身動きもしないシルヴィアを見つめていた。 「そうだ」ブレイクの声はまるで遠くの方から聞こえてくるようだった。「いいか、おれたちは地球に向かう。おれが実験室で仕事をしている間、おまえはこの船を操縦するのだ。おれにはおまえの考えが読める、コースを変えようとすればすぐ分かるんだ。彼女のことを忘れるなよ! まだおれたち二人は残っている。やらなければならないことは山ほどあるんだ。数日中に太陽系に入る。やることは多いが、まず」ブレイクの声は実に冷静だった「起きられるか?」  エラーは船側の手すりにつかまって、ゆっくりと身体を起こした。 「よしよし。おれたちは万事を慎重にうまくやらなければならない。まず地球人との接触が難しい。その準備が必要だ。必要な器具を作る時間はまだある。後でおまえの進化がおれに追いついた時に一緒に必要なものを作ろう」  エラーは彼を見つめた。「きみに従えというのか?」エラーは床のシルヴィアに眼を移した。静かに動かない彼女に。「本気でそう思うのか?」 「まあまあ、エラー」ブレイクは苛立たしげにいった。「あんたには驚くよ。新しい立場から物事を見ることだな。あまり自分の考えに没頭していると――」 「それでこれが人類を扱う方法か! これがかれらを救う手段か。こんなやり方が!」 「もっと現実的になるんだな」ブレイクは静かにいった。「未来人としてそれを理解するんだ――」 「おれがそんなことをすると本気で思っているのか?」  二人の男は睨み合った。  ゆっくりと疑惑の影がブレイクの顔をかすめた。「やらなくてはならん、エラー! 新しい方法で物事を考えるのはおれたちの義務だ。おまえもそうだ」彼は眉をひそめるとディスクを少し持ち上げた。「よくもそんな疑いが抱けるな?」  エラーは答えなかった。 「おそらくきみはおれに恨みを抱いているだろうな。きみの見方はこのできごとで曇るだろう。たぶん……」ディスクが動いた。「いずれにしろおれは今後の計画を実現するために、できるだけ早く自分を適応させる必要がある。おれに協力してくれないのなら、きみ抜きでやるしかない」指でしっかりディスクを握った。「力を貸さないのなら独力でやるまでだ、エラー。その方がよいかもしれん。遅かれ早かれその時が来る。それはおれにとっては好都合で――」  ブレイクは悲鳴を上げた。  壁から巨大な透明体が極めてゆっくりと操縦室に入り込んできた。その背後からもうひとつ、またひとつ、とうとう五つになった。それらは微かに波動し、内部からぼんやりと輝いている。みんな同じで特徴がない。  操縦室の中央に留まり、床から少し浮かんで漂い、何かを待つように音もなく静かに波動している。  エラーはそれを見つめた。ブレイクはディスクを下げ、驚いて口を開けたまま蒼白になり、緊張して立っている。いきなりエラーは冷たい恐怖が全身を走り抜けるのを感じた。彼にはそのものは全く見えなかった。完全に盲目状態だった。しかし新たな方法、新しい知覚手段でそれを感じた。それを理解しようとし神経を配った。やがて突然彼は理解した。それがはっきりとした姿形を持たない理由を知った  それは純粋なエネルギーだった。  ブレイクは気を静めわれに返った。「何だ――」彼は口ごもりディスクを振った。「何者だ――」  ある思考が閃きブレイクを遮った。その思考はエラーの心を激しく鋭く貫いた。冷たい非人間的思考で超然とし、そっけないものだった。 『女がはじめだ』  その幻影の二つはエラーのそばに横たわったシルヴィアの動かない身体に近づいた。彼女の上に来て、僅かな距離を置くと輝き波動した。それから輝くコロナの一部が飛び出し、彼女の身体に突進し、ちらちらする炎を浴びせた。 『それで充分だ』しばらくしてもうひとつの思考が示唆した。コロナは引っ込んだ。『さあ、あとは武器を持ったやつだ』  幻影はブレイクに近づいた。ブレイクは背後のドアの方に退く。その縮んだ身体が恐怖でおののいた。「おまえは何だ?」彼はディスクを振り上げ問い質《ただ》した。「何者だ? どこから来た?」  幻影は迫って来た。 「来るな! 向こうへいけ! さもないと――」ブレイクは叫んだ。  彼はディスクを掲げた。青い雲が幻影を襲った。幻影は一瞬振動すると、その雲を吸収した。それからまた近づく。ブレイクの顎が垂れた。彼は慌てて廊下に出る。よろめき倒れかけた。幻影は戸口でためらった。やがてそばに来たもうひとつの幻影と合流した。  光の球が最初の幻影を離れブレイクに向かった。それが彼を覆った。光はまたたいて消えた。ブレイクが立っていたところには何もなくなっていた。跡形もなかった。 『運が悪かったな』幻影の思考が聞こえた。『しかし必要だ。女は甦ったか?』 『ああ』 『それはよかった』 「おまえたちは何者だ?」エラーは尋ねた。「いったい何なんだ? シルヴィアは助かったのか? 生きているのか?」 『女は無事だ』幻影はエラーに近づいてまわりを取り巻いた。『女が傷を負う前に間に入るべきだったろうが、武器を持った男が自制心を取り戻すまで待ちたかったのだ』 「それでは何が起こっているのか知っていたのか?」 『すっかり見ていた』 「何ものだ? どこから――どこから来たのだ?」 『ここにいたのだ』 「ここに?」 『宇宙船にだ。最初からここにいたのだ。初めて放射能を浴びたのはわれわれだ。ブレイクは間違っている。彼より先に変化は始まっていた。その上われわれはもっと先行していた。きみらの種族はあまり進化してない。頭蓋が数インチ膨らみ毛がなくなったくらいだ。現実にはそれほどの進化ではない。ところがわれわれの種族はそれどころではない』 「きみたちの種族だって? 最初に放射能を浴びた?」エラーは新たな認識で周囲を見つめた。「それではきみたちは――」 『そうだ』静かで断固とした思考が答えた。『そのとおりだ。われわれは実験室のハムスターだ。実験のために連れて来られた動物だ』その思考にはユーモアの響きがあった。『しかしながら、われわれはきみたちに対抗するものがなかった。実をいえばきみらの種族にはあまり興味がない。いずれの点でもな。しかし多少の借りはある。われわれの未来に手をさしのべてくれた。われわれの運命を数分間で五千万年後に変えてくれたのだ。そのことには感謝している。そのお礼はもう済んだ。女は無事だ。ブレイクは死んだ。きみらの星に戻ることが認められた』 「地球へ?」エラーは口ごもった。「しかし――」 『ここを去る前にもうひとつすることがある。われわれはその問題を討議した。そしてこのことについては完全な意見の一致をみた。結局きみらの種族は時の自然の流れの中で正当な地位を獲得するだろう。あまり急ぐことは価値がない。きみらの種族のためにも、きみたち二人のためにもな。われわれは去る前に最後のことをしたい。きみたちも分かってくれるだろう』  最初の幻影からすばやく炎の球が生まれた。それはエラーの周りを漂い、彼に触れるとシルヴィアに移った。『それはきみたちにとって願ってもないことだ』思考がささやいた。『疑うなかれ』  二人は黙って舷窓の外を見つめた。船腹から最初の光の球が飛び出し、虚空に煌《きら》めいた。 「見て!」シルヴィアが叫んだ。  光の球は速度を増した。宇宙船から飛び出した光の球は信じられない速度で動いた。次の光球が船腹から離れ、最初の光球に続いて宇宙に飛び出した。  その後に第三の光球、第四、最後に五番目が。ひとつずつ光球は虚空に突進し、宇宙の深淵に消えた。  それらがすべて消えると、シルヴィアはエラーのそばに寄った。その眼は輝いていた。「かれらのいうとおりね。でもどこへ行くのかしら?」 「想像もつかないな。おそらく長い道のりだ。この銀河系のどこかではないだろう。もっと遠いところだ」エラーはいきなり手を伸ばすと、シルヴィアの黒褐色の髪に触れた。彼はほほえんだ。「きみの髪は本当に見ごたえがある。全宇宙で最も美しい髪だ」  シルヴィアは笑った。「いまの私たちにはどんな髪だって美しく見えるわ」微笑する彼女の赤い唇は暖かかった。「あなただってよ、クリス」  エラーは彼女を長いこと見つめた。「かれらの言葉は正しかった」彼は最後にいった。 「正しいですって?」 「そう、願ってもないことだ」エラーはうなづいてそばにいる彼女を見下ろした。その髪を、黒い眼を、しなやかで優美な肉体を。「賛成するよ――確かにかれらの処置は間違っていなかった」 [#改ページ]   トニーとかぶと虫  赤みがかった黄色い陽光が、厚い石英の窓を通して寝室に差し込んできた。トニー・ロッシは伸びをし、もぞもぞ身体を動かすと、黒い眼を開け急いで飛び起きた。一気に上掛けを投げ出すと、暖かい金属床に下りる。目覚し時計のベルを切り、すぐさま洋服ダンスに向かった。  今日も天気がよさそうだ。外の景色は風や砂埃《すなぼこり》で乱されていない。少年の心は興奮で高鳴っていた。ズボンを履くと、補強したメッシュのジッパーを引き上げ、厚いキャンヴァス・シャツと格闘し、ベッドの端に座ってブーツを履いた。服とブーツの合わせ目を閉じ、手袋も同じようにした。次に空気ポンプの圧力を調整し、肩甲骨の間に装着した。ドレッサーからヘルメットを取り出し、今日一日の支度を終えた。  ダイニング・ルームでは父母が朝食を終えていた。彼が階段をガタガタ下りて行くと、二人の声が聞こえてくる。わけありげな小声。彼は立ち止まって聞き耳をたてた。何を話しているのだろう? また自分が何か悪いことでもしたのだろうか?  その時それが耳に入ってきた。両親の声の背後から別の声がする。空電と雑音。リゲル4から金星系へのオーディオ・シグナルだ。それを音響化して聞いていた。モニターの声が鈍い雷鳴みたいに大きく響く。戦争。いつも戦争だ。彼はため息をつき、食堂に入って行った。 「おはよう」父が小声でいった。 「おはよう、トニー」母がぼんやりと答えた。母はそっぽを向いて座っており、額に縦皺《たてじわ》を寄せている。その薄い唇は不安で固く結ばれていた。父は汚れた食器を押し戻し、煙草を吸っている。テーブルに肘《ひじ》を突き、黒く毛深い腕をむき出しにしていた。しかめ面をして、流しの上のスピーカーから聞こえてくる混乱したわめき声に聞き耳を立てている。 「どうしたの?」トニーは尋ねた。彼は椅子に滑り込むと、無意識にグレープフルーツの代用品に手を伸ばした。「オリオン星から何かニュースが入ったの?」  どちらも返事しなかった。彼の言葉を聞いていなかった。彼はグレープフルーツを食べはじめた。金属とプラスティック製の小さな住宅の外は生活の騒音に満ちている。大声やくぐもった大音響。田舎の商人たちと、そのトラックがガタガタと音を立て、ハイウエイをカーネットに向かっていた。赤っぽい陽光が溢れている。ベテルギュース星が静かに荘厳に昇りつつあった。 「いい天気だな」トニーは独り言をいった。「風もない。しばらく原住民地区に行きたいな。原住民の友達と、きれいな宇宙空港を作っているんだ。もちろん模型だけど。滑走路作りに必要な材料は手に入れたし――」  怒声とともに父が手を伸ばし、オーディオ装置を叩いた。オーディオの声は直ちに消えた。「分かっていたんだ!」父は立ち上がると憤然としてテーブルから離れた。「おれがいったとおりのことが起こった。すぐに動くべきではなかったんだ。まずAクラスの補給基地を造るべきだった」 「味方の主力艦隊はベラトリックスから支配権を奪っていないの?」トニーの母は不安気に身を震わせた。「昨夜の大ざっぱな説明では事態は更に悪くなり、オリオン≪九≫と≪十≫は放棄されるだろうということよ」  ジョゼフ・ロッシは耳障りな笑い声を立てた。「昨夜の説明なんぞくそ喰らえだ。そんなことは誰でも知っている」 「何があったの?」トニーはグレープフルーツを脇に押しやり訊《き》き返した。そしてドライ・オートミールをスプーンで掬《すく》い出した。「ぼくたちは戦争に負けるの?」 「そうとも!」父は唇をかみしめた。「地球人はかぶと虫野郎に負けている。だからいったのに。待てなかった。ちくしょう、この星系に残されてからもう十年経つ。どうして攻め込まれるままなんだ? オリオンがしぶといのは誰でも知っている。あのいまいましいかぶと虫艦隊はそこいらじゅうにいる。いつまでおれたちを待たせるんだ。すぐにでも反撃しなくては」 「かぶと虫が戦うとは誰も思わなかったわ」リー・ロッシはやんわりと反論した。「かれらはわずかばかり熱線を放射するだけだと、それに――」 「やつらは戦うさ! オリオンは最後の決戦場だ。かれらはここで戦わなくて、いったいどこで戦うんだ?」ロッシは怒って主張した。「もちろんかれらは戦う。われわれはオリオン星座以外はかれらの星を押さえているし――オリオンはそれほど重要じゃない。しかし筋は通さなくてはな。もし強力な供給基地を作っていれば、かぶと虫艦隊など蹴散らし、こてんぱんにやっつけていたはずだ」 「かぶと虫なんて呼ばないで」トニーはオートミールを食べ終えると小声でいった。「かれらはここではパス=ウデチだよ。かぶと虫という言葉はベテルギュースから来たんだ。ぼくらが作ったアラビア語の言葉はパス=ウデチだ」  ジョー・ロッシは口をぱくぱくさせた。「おまえは何だ、あのかぶと虫野郎が好きなのか?」 「あなた」リーはたしなめた。「お願い、やめて」  ロッシはドアの方に歩いて行った。「おれが十歳若かったら、あそこに行ってたよ。ピカピカした殻を被った昆虫どもに人間の力を見せてやりたい。やつらとその使い古しのボロ宇宙船にな。あんなもの、改造した貨物宇宙船じゃないか!」その目は光っていた。「やつらが地球の若者の乗ったクルーザーを撃墜するのを考えると――」 「オリオンはかれらの星系だよ」トニーは呟《つぶや》いた。 「やつらの星系だと! おまえいつから宇宙法規の権威になったんだ? おれは当然――」彼は怒りで絶句した。「トニー、もう一言でも喋《しゃべ》ってみろ。一週間は痛い目をみる一発を喰らわすぞ」  トニーは椅子を引いた。「今日はこの辺にいないよ。ロボットとカーネットに行ってくる」 「ふん、かぶと虫と遊ぶためか!」  トニーは無言だった。ヘルメットを被ると、止め金をしっかり締めた。裏口を押し開けると仕切り膜に入り、酸素弁を緩め、タンク・フィルターを稼働させた。異星系の植民地で生活する人間にとっては無意識の習性だった。  微風が彼を捉え、ブーツに黄赤《おうせき》色の埃《ほこり》を吹き寄せた。陽光が家族住宅の金属屋根から輝いている。砂地の斜面にずんぐりした箱型住宅が長く一列に並び、地平線を背にした一連の鉱石精錬装置で守られている。彼はもどかしげに合図を送り、収納倉庫から自分のロボットをそっと出した。ロボットのクロム外装に陽光が当たる。 「これからカーネットへ行くぞ」トニーはいつの間にかパスの方言で喋っていた。「急げ!」  ロボットは彼の後に従った。彼は斜面を素早く駆け降りると、流砂を越え道路に向かった。今日は商人はごく少なかった。絶好の市場|日和《びより》で、この星では一年の四分の一だけが外出に適していた。ベテルギュース星は風変わりな頼りにならない太陽で、地球の太陽とは全く異なっている(これは一週六日、一日四時間学習のトニーの教育テープによる――彼は地球の太陽を見たことがなかった)。  彼がやかましい道路に出ると、至るところにパス=ウデチがいた。かれらはみんな幼稚な燃焼エンジンの壊れかけた汚いトラックに乗っている。そのモーターは抗議するような音で軋《きし》る。トニーは自分を追い抜いて行くトラックに手を振った。すぐにその一台が停まった。灰色の野菜チスの束が満載されている。これを乾燥させて料理する。パス=ウデチの主食である。ハンドルの後ろでは黒い顔の年老いたパスがぐったりし、片手を開いた窓から出し、巻いた葉を唇で噛んでいた。彼はパスの典型といってよい。脆《もろ》い莢《さや》に包まれたほっそりした堅い殻を生涯付けている。 「乗るかい?」パスは小声で訊《き》いた。徒歩の地球人に出会った時の必要な外交辞令だ。 「ぼくのロボットの乗る場所ある?」  パスは爪を無神経に動かした。「無理だな」その醜い顔に悪魔的な喜びがかすめる。「カーネットに行くなら、そのロボットをスクラップで売ってやる。コンデンサーやリレー管は使える。電子機器の保守部品が足りないんだ」 「知ってるよ」トニーはトラックの助手席に乗り込みながらしかめ面でいった。「みんなオリオンの大修理基地に送られるんだな。あんたたちの艦隊用にね」  革みたいな顔から喜びが消えた。「そう、艦隊用さ」彼は振り向くとトラックをまた発車させた。トニーのロボットはチスの上によじ登り、その磁力線で心もとなくつかまっていた。  トニーはパス=ウデチの表情の急変に気づき当惑した。彼に話しかけようとして、自分の前後や他のトラックにいるパス=ウデチたちの不自然なだんまりに気づいた。もちろん戦争のせいだ。百年前この星系は平定されてしまったのだ。この連中はあとに残された。いますべての眼がオリオンに向けられている。地球艦隊とパス=ウデチの武装貨物宇宙船隊との戦闘に。「あんたたちが勝っているのは本当だろう?」トニーは遠慮深く尋ねた。  年老いたパス=ウデチはぶつぶついった。「そういう噂は聞いている」  トニーは考えた。「地球はあまりに早く前進しすぎたとパパはいっている。もっと足下を固めるべきだと。充分な供給基地でさえ作っていない。パパは若い頃将校だった。艦隊に二年いたんだ」  パスは一瞬黙っていた。「坊やたちは故郷から大分離れているのだから、供給が大問題なのは当然だ」やっと彼は口を開いた。「一方わしらも供給基地は持っていない。それを補うほどの距離じゃないし」 「戦っている人に知り合いはいるの?」 「わしには遠い親戚はおらん」その答は漠然としていた。パスがそのことについて話したくないのは明らかだった。 「あんたたちの艦隊を見たことある?」 「いま存在しているものは見たことないね。この星系が敗北した時、わしらの部隊はほとんど消え失せた。残りはやっとオリオンに逃れて、オリオン艦隊と合流したんだ」 「あんたの親戚はその残りにいるの?」 「いる」 「それじゃこの星が占領された時に、あんたは生きていたわけだ?」 「どうしてそんなことを訊くんだね?」老いたパスは激しく身体を震わせた。「それは坊やと関係あるのかい?」  トニーは身を乗り出すと、前にそびえるカーネットの外壁と建物を見つめた。カーネットは古い都市だった。そこには数千年の歴史がある。パス=ウデチの文明は安定したものだった。すでに科学技術発達のある段階に達しており横ばい状態だった。パスは星間連絡ロケットを持ち、地球連邦以前に人民や貨物を運んでいた。かれらはすでに燃焼エンジン車、オーディオ・フォーン、磁力線のパワー・ネットワークを持っていた。設備工事の技術は満足のいくものであり、薬品は高品質だった。情緒的で刺激的な芸術もあった。つかまえどころのない宗教もある。 「戦争に勝てると思う人がいるかい?」トニーは尋ねた。 「分からん」老パスは突然ガクンとトラックを停めた。「ここまでが限界だね。降りてロボットを連れて行ってくれ」  トニーは驚きでたじろいだ。「でも乗せてやるって――」 「ここまでだ!」  トニーはドアを開けた。何となく不安だった。革みたいな顔には厳しい断固とした表情が浮かんでいる。老人の声は今まで聞いたこともないほどささくれ立ったものだった。「ありがとう」トニーは呟《つぶや》いた。赤い塵の上にとび下りるとロボットに合図した。それが磁力線を解除すると、トラックはすぐに唸《うな》りを上げ、町の中に入って行った。  トニーはそれを見送り、まだ呆然《ぼうぜん》としていた。熱い塵埃《じんあい》が踝《くるぶし》にかぶさる。彼は無意識に足を動かしズボンを払った。トラックが警笛を鳴らし、ロボットは急いでトニーを道路から歩道に連れて行った。パス=ウデチの群れが往来している。田舎に住む人々が果てしない行列を成し、日々の仕事でカーネットヘ急いでいた。巨大なバスが門のそばに停まっており、乗客を降ろしている。パスの男女や子供たち。かれらは笑い、わめき、その声は町の低い騒音と混じり合っていた。 「入るの?」パス=ウデチの鋭い声がすぐ後ろでした。「早く歩いて――じゃまよ」  それは若い女性のパスで、爪で一抱えもある荷物を持っていた。トニーは当惑した。女性パスにはテレパシーとセックス・アピールがある。地球人のそばにいると、それは効果的だった。 「ねえ、手を貸して」  トニーがうなずくと、ロボットは女性の重い手荷物を引き受けた。「ぼくは町に行くんだ」門へ向かって群衆と歩きながらトニーはいった。「ずっと車に乗ってきたのに、運転手にここで降ろされたんだ」 「あなたは居留地から来たの?」 「うん」  彼女は皮肉な目で彼を見た。「この星に住んでいるの?」 「ここで生まれたんだ。家族はぼくが生まれる四年前に地球から来た。パパは艦隊の士官だった。植民優先権を持っていた」 「それであなたは自分の星を見たことないのね。いくつ?」 「十歳」 「運転手にあまり訊くべきでなかったわ」  かれらは汚染除去シールドを通り抜け町に入った。情報広場が目の前に浮かび上がる。パスの男女がそのあたりに群らがっていた。輸送管や運搬車が至るところで轟音《ごうおん》を立てている。建物、傾斜路、戸外機械装置。町は防塵|気嚢《きのう》に覆われていた。トニーはヘルメットを外すとベルトに留めた。空気は人工的な澱《よど》んだ臭いがしたが、呼吸はできた。 「訳を話してよ」娘は傾斜路をトニーと登りながら慎重にいった。「今日はカーネットに来るのに、あなたにとってよい日かしら。いつもならお友達と一緒にここにくるんでしょう。今日は自宅に、居留地にいた方がよかったんじゃない」 「どうして?」 「今日はみんなが動揺しているわ」 「知っている。パパもママもだ。リゲル星系のぼくらの基地からのニュースに耳を傾けているんだ」 「あなたの家族だけじゃないわ。ほかの人たちもよ。ここにいる人みんな。私たちも」 「分かったよ。みんな動揺している」トニーは認めた。「だけどぼくはいつでもここに来ているんだ。居留地で遊ぶ者はいない。とにかくぼくたちは計画に取り組んでいるんだ」 「宇宙空港の模型ね」 「そうなんだ」トニーはうらやましそうだった。「テレパシーがあればなあ。もっと面白いんだけど」  パス娘は沈黙しじっと考えていた。「あなたの家族がここを去って地球に帰るとしたら、どうなるのかしら?」 「そんなことないよ。地球にはぼくたちの居場所なんかない。二十世紀にコバルト爆弾でアジアと北アメリカの大部分が破壊されてしまったんだ」 「もし戻ることになったら?」  トニーは理解出来なかった。「出来ないってば。地球で人間の住める場所は満員なんだ。他の星系に地球人の住める場所を見つけるのが先さ」彼はつけ加えた。「とにかく特に地球へ行きたいとは思わない。ここが住み慣れているし、友達もみんなここにいるから」 「荷物を持っているから、この路を行って第三階層の傾斜路を下りるわ」  トニーはロボットに顎《あご》をしゃくると、ロボットは荷物を娘の爪に戻した。彼女はしばらく適当な言葉を捜しあぐねていた。 「うまくいくように祈るわ」 「何が?」  彼女は皮肉っぽく微笑した。「あなたの宇宙空港の模型が。あなたやお友達が完成させますように」 「もちろん完成させるさ」トニーは驚いていった。「もうあらまし出来ているよ」。彼女はどういう意味でいったんだろうか?  パス=ウデチの女性はトニーが尋ねる前に急ぎ足で去った。トニーは面喰らい心配になり、更に疑いでいっぱいになった。彼は町の居住区に通じる小道をゆっくり歩いていった。商店や工場を過ぎ、友達の住んでいる場所へ。  彼のやって来るのを、パス=ウデチの子供のグループが黙って見ていた。かれらは巨大なベンゲロの木陰で遊んでいた。その古い枝は町にポンプで送り込まれる空気の流れで弛《ゆる》み反《そ》っている。いま子供たちは動かず座っていた。 「今日は来ないと思っていたよ」その一人ブプリスは感情のこもらない声でいった。  トニーはおずおず立ち止まると、ロボットもそうした。「元気かい?」トニーは小声でいった。 「ああ」 「途中で車に乗せてもらったんだ」 「そう」  トニーは木陰に屈んだ。パスの子供たちは誰も動かなかった。かれらは地球の子供より小さかった。かれらの殻はまだ固くなく、黒ずんでなく、不透明でもなく、まるで角みたいだった。そのせいで柔らかく未熟な姿をしていたが、同時にかれらの重荷を軽くしていた。かれらは老人よりも機敏に動いた。まだ跳びはねることも出来る。しかし今はそれもしていなかった。 「どうしたの? まずいことでもあるのかい?」トニーは尋ねた。  誰も答えなかった。 「空港の模型はどこ? きみたちはそこで遊んでいなかったの?」彼は重ねて訊いた。  しばらくしてライレがわずかにうなずいた。  トニーにやるせない怒りが込み上げてきた。「なんとかいったらどうだ! どうしたんだ? みんな怒っているのか?」 「怒る?」ブプリスはおうむ返しにいった。「怒ってなんかいない」  トニーは手持ちぶさたで埃の中を引っ掻いていた。彼はその理由を知っている。また戦争だ。オリオンの近くで戦闘が続いている。彼の怒りが爆発した。「戦争なんか忘れろ。昨日は、戦闘のはじまる前は、仲良くしていたじゃないか」 「そう。仲良かったな」とライレ。  トニーは険《けん》のある声でいった。「戦争は百年前からのことじゃないか。ぼくの責任じゃないよ」 「うん」とブプリス。 「ここはぼくの故郷じゃないか? 他のみんなと同じようにここにいる権利がある。ぼくはここで生まれたんだ」 「うん」ライレはぼそっといった。  トニーはやけくそでかれらに訴えた。「こんな仕打ちをするのか? 昨日と違うじゃないか。ぼくは昨日ここにいた――みんなもここにいた。それが今日はどうしたんだ?」 「戦闘だ」とブプリス。 「それがどうしたというんだ? どうして手の裏を返すんだ? いつも戦争だった。覚えている限り戦闘は続いていた。今度のとどこが違うんだ?」  ブプリスは強い爪で埃の塊を砕いた。そしてそれを投げ捨てると、ゆっくりと立ち上がった。「それはね、おれたちの放送で聞くと、こっちの艦隊が勝ちそうなんだ、今度はね」 「そうとも」トニーは分からなかったが認めた。「パパは充分な供給基地を作らなかったせいだといっていた。おそらく退却することに……」その時はっと思い当たった。「そうか、百年間で初めて――」 「そうとも」ライレはまた立ち上がった。他の子供も立ち上がった。かれらはトニーから離れると、近くの家の方に行った。「おれたちは勝っているんだ。三十分前に地球軍の側面を突いた。おまえたちの右翼は完全に包囲されたんだ」  トニーはびっくりした。「それは大変だ。きみたちみんなの大問題だ」 「大問題だとも!」ブプリスは立ち止まると突然怒りをぶちまけた。「本当に大変なことなんだぞ! 百年間で――初めてだ。おまえたちをやっつけるのは生まれて初めてだ。おまえは逃がしてやるよ。この――」彼は言葉を詰まらせ吐き出すようにいった。「この白|蛆《うじ》め――」  かれらは家の中に消えた。トニーは座ったまま呆然と地面を見つめ、意味もなく腕をぶらぶらさせていた。その言葉は前に聞いたことがあった。居留地近くの塀や埃の中の落書で見たことがある。白蛆。地球人に対するパスの嘲《あざけ》りの言葉だ。地球人の身体が軟らかく白いためだ。堅い殻がない。ぐにゃぐにゃした青白い皮膚。しかしこれまではそんなことを大声で喋ることなどなかった。地球人に面と向かって。  彼のそばでロボットは休みなく動いていた。その複雑な無線メカニズムはあたりの敵意を感じていた。自動継電装置は引っ込み、回路は閉じたり、開いたりしていた。 「分かったよ」トニーは呟くとゆっくりと立ち上がった。「帰った方がよさそうだ」  彼はおぼつかなげに傾斜路に向かったが、全身が震えていた。ロボットは静かに前を歩き、その金属顔は無表情で自信に満ち、何も感じず沈黙している。トニーの頭はひどく混乱していた。頭を振ってもめまいは変わらなかった。気持ちを落ち着けることも抑えることも出来なかった。 「待て」声がした。ブプリスの声が開いた戸口から聞こえた。冷たく内気な親しみのない声だ。 「何だ?」  ブプリスが彼の方にやって来る。爪を背中に回す、初対面のパス=ウデチの礼儀だった。「今日はここに来ない方がよかった」 「分かったよ」とトニー。  ブプリスはチスの茎を引っこ抜くと丸めはじめた。彼はそれに気を取られているふりをした。「ねえ、きみはここにいても当然だといったろう。だけどいられないよ」 「ぼくは――」トニーは呟いた。 「なぜいられないかわかるか? それは自分のせいじゃないといった。ぼくもそうじゃないと思う。だけどぼくのせいでもない。おそらく誰のせいでもないんだ。長いつき合いだったけどね」 「五年だ。地球年で」  ブプリスは茎を捩《ね》じると投げ捨てた。「昨日は一緒に遊んだ。宇宙空港の模型も一緒に作った。だけど今日はもう一緒に遊べない。もうきみにここに来て欲しくないと、うちの家族がいうんだ」彼はためらいトニーの顔を見ないようにした。「とにかく話しておきたかったんだ。家族にいわれる前にね」 「ああ」とトニー。 「みんな今日起こったことなんだ。戦闘、ぼくらの艦隊の反撃。ぼくらは知らなかった。希望も持っていなかった。だって百年戦争だもの。まずこの星系、それからリゲル星系すべての星を巻き込んだ。やがて別のオリオン星座の星も。ぼくらはあちこちで戦った。そして闘いが広がった。逃げていた連中も加わった。ぼくらはオリオンに基地を提供した――きみたちはそれを知らなかった。だけどもう希望はなかったんだ。とにかく希望があると考える者はなかった」彼はしばらく沈黙した。「おかしいよ。何か起これば、きみらは進退きわまり、もう行くところもない。だから戦うしかない」 「もしぼくらの供給基地が――」トニーがだみ声でいい始めると、ブプリスはそれを冷たくさえぎった。 「おまえたちの供給基地だって! 分かっていないんだな? おまえたちは負けたんだぞ! ただちに逃げ出すんだな! おまえたち白蛆はな。おれたちの星系からだ!」  トニーのロボットは不気味に前に出た。ブプリスはそれを見た。彼は身を屈めると石をつかみ、ロボットに向かって投げつけた。石は金属の胴体に当たって音を立てたが、傷もつかず跳ね返った。ブプリスはもうひとつ石をつかんだ。ライレや他の子供が家から飛び出してきた。大人のパスがかれらの背後に浮かび上がった。あらゆることが素早く起こった。石がいくつかロボットに当たる。その一つはトニーの腕を打った。 「出て行け!」ブプリスは金切り声をあげた「戻ってくるな! ここはおれたちの星だ!」彼は爪でトニーをつかもうとした。「帰らないならバラバラに引き裂くぞ――」  トニーはパスの身体に胸をぶつけた。その柔らかな殻はゴムみたいな感じだった。パスはよろめいて下がった。つんのめり倒れてあえぎ、金切り声をあげる。 「かぶと虫め」トニーは息を切らせた。急に恐怖にかられた。パス=ウデチがにわかに群れを成し、四方から押し寄せてきた。敵意に満ちた顔、不機嫌さと怒り、沸き上がる逆上の叫び声がする。  石が雨あられと降ってきた。いくつかがロボットに当たり、トニーのブーツのそばにも落ちた。ひとつがヒューと顔をかすめる。慌ててヘルメットをかぶった。彼は怯《おび》えた。ロボットの緊急シグナルはもう壊れてしまった。救助ロケットが来るまでには時間がかかる。その上、町には救助が必要な地球人は他にもいた。この星じゅうに地球人がいる。すべての町に。二十三個あるベテルギュース星系の星全部に。十四個のリゲル星系の星に。他のオリオン星系の星にもだ。 「ぼくらはここから出て行かなくちゃ」彼はロボットにささやいた。「何とかしてくれ!」  トニーのヘルメットに石が当たった。プラスチックが割れそこから空気が漏れたが、すぐ自動シールドで覆われた。石はなおも飛んでくる。パスたちは群れを成し、騒然とした黒い莢《さや》状の生物集団となった。トニーは昆虫のきつい体臭を嗅ぎ、爪の音を聞き、その圧力を感じた。  ロボットは熱線を放ちつづけた。熱線はパス=ウデチの集団に向かって広範囲に飛んだ。群衆から粗末な手製の銃が現われた。銃声がトニーの周囲に響く。かれらはロボットを目がけて撃ってくる。トニーはそばにいる金属体のことを思い出した。地響きを立ててロボットが倒れた。群集が押し寄せ、ロボットは一時視界から消えた。  気の狂った動物のように、群集は抵抗するロボットを引き裂いた。頭をもぎ支柱や輝く腕をちぎった。ロボットは抵抗をやめた。群集は移動し、息を切らせ、バラバラになったロボットの残骸をつかんでいた。かれらはトニーと対決した。  かれらの先頭がトニーに近づいた時、頭上の保護気嚢が破れた。地球の偵察ロケットが轟音を立てて降下し、熱線を放射した。群集は混乱して散った。あるものは撃ち、あるものは石を投げ、あるものは安全な場所に跳び込んだ。  トニーは起き上がると、ふらつきながら偵察機の着陸した場所に歩いて行った。 「ごめんよ」ジョー・ロッシは優しくいうと息子の肩に触れた。「今日はおまえを外出させるんじゃなかった。すっかり忘れていた」  トニーはプラスチックの大きな安楽椅子にうずくまっていた。身体を前後に揺り、ショックで蒼ざめている。彼を救い出した偵察機は直ちにカーネットに取って返し、他の地球人も助けた。トニーは無言だった。心は空白状態だった。まだ群集の叫びが耳に残り、その憎悪――一世紀にわたり鬱積した怒りと敵意を感じていた。パスにとっては憎悪の記憶しか残っていなかった。それがいまでもトニーを取り巻くすべてだった。そしてじたばたするロボットの姿。腕や足がもがれる時の金属的な破壊音。  ママは彼の切り傷や怪我に消毒薬を塗ってくれた。ジョー・ロッシは震える手で煙草に火をつけた。「ロボットが一緒でなかったら、おまえは殺されていたろう。あんなところに行かせるべきでなかった。全く今度は……いや、いつか、いつの日か、やつらはそういうことをしたかもしれない。おまえをナイフで刺したり、あの小汚い爪でおまえを引き裂いたりな」  居留地の下方で赤黄色い陽光が砲身を照らしていた。すでに鈍い砲音が崩れかけた丘陵にこだました。防衛網が作動していた。黒いかたちをしたものが飛んだり、斜面をちょこちょこ駆け上がっていた。同盟の測量技師が百年前に設定した分割線を越えて、黒い斑点がカーネットから地球人の居留区へと動いている。カーネットは活気が沸騰する坩堝《るつぼ》だった。全市が熱っぽい興奮で騒然としていた。  トニーは顔を上げた。「やつらは――やつらはぼくらの側面を突いたんだ」 「そうとも」ジョー・ロッシは煙草を押し潰し火を消した。「確かにそうだ。一時だった。二時には味方の防衛線の真ん中に楔《くさび》を打ち込んだ。艦隊は二分された。防衛線は破壊され敗走した。撤退中も一人ずつ狙撃されたんだ。ちくしょう、やつらは狂っている。いまもわれわれの臭いを嗅ぎつけ、血を味わっているんだ」 「でも好転しつつあるわ」リーはどぎまぎした。「味方の主力艦隊は姿を見せはじめたわ」 「やつらに勝てる」ジョーは呟いた。「すぐにな。必ず一掃するさ。一人残らずだ。たとえ千年かかっても。最後の一機まで追いつめる――全滅させるさ」彼の声は熱狂を帯びた。「かぶと虫め! いまいましい昆虫め! 汚い黒爪で息子を傷つけようとしているやつらを考えると――」 「あなたが若ければ戦闘に加わるでしょうに。歳を取っているのはあなたの責任じゃないわ。心臓はまだ大丈夫よ。仕事は充分こなしているわ。年寄りに参戦の機会を与えないのよ。あなたが悪いのじゃないわ」  ジョーは拳を握り締めた。「無駄だと感じるよ。おれに出来ることがあってもな」 「艦隊がやつらを始末するわ」リーは宥《なだ》めた。「そういったでしょう。かれらをひとりひとり狩り出し全滅させるわ。心配することないのよ」  ジョーは哀れなほど元気がなくなった。「無駄だ。やめさせろ。ぬか喜びさせるな」 「どういう意味?」 「よく見ろ! 今度は勝ち目はない。やり過ぎた。最期の時がきた」  沈黙。  トニーは少し腰を浮かせた。「いつ知ったの?」 「ずっと知っていた」 「ぼくは今日だ。はじめ理解出来なかった。ここは盗んだ土地だ。ぼくはここで生まれたけど、盗んだ土地なんだ」 「そうとも。盗んだ土地だ。われわれのものじゃない」 「ぼくらは強かったからここにいた。だけどもう強くない。負けたんだ」 「やつらは地球人を負かせることを知った。他の連中のようにだ」ジョー・ロッシの顔は灰色でたるんでいた。「われわれはこの星をやつらから取り上げた。そしていまやつらは取り戻した。もちろんしばらくだ。われわれはゆっくりと退却する。そして五世紀後に戻ってくるだろう。ここと太陽系の間にはたくさんの星系があるからな」  トニーはまだ理解できないように首を振った。「ライレやブプリスもみんな自分たちの時代が来るのを待っていた。それはぼくらにとっては負けてここを去ることなんだ。生まれた土地を」  ジョー・ロッシは行ったり来たりした。「そうだ。われわれはこれから撤退するんだ。敗北を受け入れ退くんだ。今日みたいに闘いに負ければ引き揚げる。さもないと手づまりでさらに悪くなる」  彼は熱っぽい目を上げ、情熱と悲哀の混じる顔で狭い金属住宅の天井を見た。 「だけど、必ずやつらのエネルギーを消耗させてやる。完全に復帰するんだ! じわじわとな!」 [#改ページ]   火星人襲来  テッド・バーンズは顔じゅうをしかめ、震えながら帰ってきた。上着と新聞を椅子に投げ捨てる。「またやって来た。やつらの大群だ! その一匹がジョンスンの屋根にいたんだ。そいつは長い棒のようなもので、群衆に追い回されていた」  レナは奥から出てくると上着をクロゼットにかけた。「急いで帰宅できてよかったわ」 「やつらの一匹を見た時には震えたよ」テッドは長椅子に身を投げると、ポケットの煙草を探った。「本当に危なく捕まるところだった」  彼は煙草に火をつけると、まわりに灰色の煙を吐いた。手の震えが鎮まりかけていた。上唇の汗を拭い、ネクタイをゆるめた。「夕食のおかずはなんだい?」 「ハムよ」レナは身体を曲げて彼にキスした。 「どうした? 何かあったのか?」 「いいえ」レナは台所のドアの方に行った。「義母《かあ》さんがくれたオランダ製の缶詰ハムよ。それを賞味しようと思って」  テッドは台所に消えて行く妻の後ろ姿を見送った。明るいプリントのエプロンをつけた妻はほっそりして魅力的だった。彼はため息をつくと、身体を楽にして椅子に寄りかかった。静かな居間、台所にレナ、隅のテレビはつけっ放しになっている。それらを見ていると、心が少しなごんだ。  靴を脱ぐと蹴飛ばした。あの出来事はわずか数分間のことだった。しかしもっと長かったように思える。まるで永久に歩道に根を生やして立ち、ジョンスン家の屋根を見つめていたみたいだ。叫ぶ群衆、長い棒。そして……  ……そいつ、屋根の頂上にだらりと垂れ、形の定まらない灰色の束みたいなものが、群衆の長い棒の先を逃れようとしていた。こちらに這いながら、追い払う手から遠ざかろうとする。  テッドは身体が震えた。胃がひっくり返った。その場に立ちつくし、眼を逸《そ》らすことができなかった。結局誰かが走り抜けようとして彼の足を踏んだので、呪縛が破れ身体が自由になった。彼は急いで出来る限りその場を離れると、ほっとして震えがきた。ちくしょう……!  裏口のドアがバタンと鳴った。ジミーがポケットに手を突っ込んだまま居間に入ってきた。「やあ、パパ」彼は洗面所の前で立ち止まると父を振り返った。「どうしたの? 何だか変だよ」 「ジミー、こっちに来なさい」テッドは煙草をもみ消した。「話があるんだ」 「夕食だから手を洗うんだ」 「いいから、ここに来て座りなさい。夕食は後だ」  ジミーはやって来ると長椅子に滑り込んだ「どうしたの? 何の用?」  テッドは息子をじっと見た。丸い小さな顔、眼まで垂れたくしゃくしゃの髪の毛。片頬の汚れ。ジミーは十一歳だ。もう話してもいい頃だろう。テッドは顎を引き締めた。いまがチャンスだ――印象が強い間に。「ジミー、火星人がジョンスンの屋根にやって来た。それをバス停から帰宅途中に見たんだ」  ジミーは眼を丸くした。「火星人が?」 「長い棒で追い回されていた。あたりにその一群がいた。かれらは数年ごとに大群を成してやってくる」手がまた震えはじめた。もう一本煙草に火をつけた。「二、三年ごとだ。昔みたいにしばしばではない。やつらは火星から群れを成して漂ってくる。世界中至るところに――枯葉のように」彼は震えた。「吹き飛ばされて落ちた枯葉みたいにな」 「くそっ!」ジミーはそういうと長椅子から下りて立った。「まだそこにいるの?」 「いや。群衆が叩き落とした」彼は息子に身を寄せた。「いいか――これを話しておけば、おまえもかれらに寄りつかないだろう。もしその一匹に出会ったら、おまえは身をひるがえし一所懸命走るんだ。聞いているか? そばに寄らないんだ――離れているんだぞ。決して――」  彼はためらった。「興味を持つんじゃない。身をひるがえして逃げるんだ。誰かを捜して、出会った最初の人に訳を話し、付いて来てもらうんだ。わかったな?」  ジミーはうなずいた。 「やつらの格好は知っているな。学校で写真を見たろう。おまえは絶対に――」  レナは台所のドアに来ていった。「夕食の用意が出来たわよ。ジミー、手を洗った?」 「私が止めたんだ」テッドは長椅子から身を起こすといった。「話があってね」 「お父さんの話を忘れちゃだめよ。火星人のことは――よく憶えておくのよ。さもないと、ひどいお仕置きをするわよ」  ジミーは洗面所に駆けて行った。「手を洗ってくる」彼は背後のドアをバタンと閉めて消えた。  テッドはレナと顔を見合わせた。「すぐに片付けて欲しいものだ。外に出るのさえ嫌になる」 「そうするはずよ。テレビで聞いたところでは、火星人たちはこの前より組織化されているそうよ」レナは頭の中で数えた。「これで五回目だわ。だんだんと先鋭化しているようね。前ほどしばしばじゃないけど。最初は一九五八年のことよ。その次は五九年。どこで終わりになるのかしら」  ジミーは急いで洗面所から飛び出して来た。「さあ食べよう!」 「よし」テッドはいった。「食事だ」  いたるところ夕焼けの照り返しで明るい夕方だった。ジミー・バーンズは校庭を跳び出すと、門を抜け歩道に出た。胸が興奮で高鳴っていた。駆け足でメイプル・ストリートを横切りシダー・ストリートに出る。  ジョンスンの庭では数人の男がまだ地面を突き回していた――警察官と好奇心にかられた男たち。庭の中央には大きな穴が開いていた。草が引きちぎられ地面が裂けている。家の周囲の花は踏みにじられていた。しかしどこにも火星人の痕跡はなかった。  それを見つめていると、マイク・エドワーズがやって来て彼の腕を叩いた。「どうしたい、バーンズ?」 「やあ、あれを見たかい?」 「火星人か? 見なかった」 「パパは仕事の帰りに見たって」 「うそだ!」 「ほんとさ。そいつを棒で捕まえようとしていたってさ」  ラルフ・ドレイクはバイクに乗ってやってきた。「そいつはどこにいる? もう終わったの?」 「もう引き裂いてしまったよ」マイクはいった。「バーンズのおやじが昨夜帰宅途中見たってさ」 「それは長い棒で突かれていたって。屋根に上がろうとしていたんだ」 「みんな干からびて縮んじゃうんだ。まるでガレージに干された洗濯物みたいにな」 「どうして知っているの?」ラルフが訊く。 「一度見たからさ」 「そう。間違いないよ」  かれらは歩道を歩き出した。ラルフはバイクを引きずりながらそれを声高に話していた。ヴァーモント・ストリートを曲がると、広い空き地を横切った。 「テレビのアナウンサーはやつらの大部分はもう捕まったといっていた。今度はそれほど多くはなかった」とラルフ。  ジミーは石を蹴飛ばした。「全部捕まる前に一度見たいな」 「ぼくは捕まえたいんだ」とマイク。  ラルフはあざ笑った。「それに出会ったら急いで逃げるさ。太陽が沈むまで止まらないよ」 「えっ、ほんと?」 「馬鹿みたいに逃げるよ」 「へっ。老いぼれ火星人なんて石で叩きのめしてやる」 「そしてブリキ缶に入れて家に持って帰るか?」  マイクは怒ってラルフを追いかけ回し隅に追いつめた。その口論は町を越え、線路の向こうに行くまで休みなく続いた。歩きながらインク工場や西部丸太会社の積み出し場を過ぎた。太陽は沈みかけている。だんだんと夕暮れが迫っていた。冷たい風が起こり、ハートリー建設会社の敷地の外れの棕櫚《しゅろ》の木を吹き過ぎた。 「あばよ」ラルフはそういうと、バイクに跳び乗り走り去った。マイクとジミーは歩いて町に戻った。シダー・ストリートで二人は別れた。 「火星人に会ったら電話をくれよ」マイクはいった。 「いいとも」ジミーはポケットに手を突っ込んでシダー・ストリートを歩いて行った。太陽は沈み夕風は寒かった。暗闇が迫っていた。  彼は下を向いてゆっくり歩いて行った。街灯が点《つ》いた。通りを走る車も少ない。家々のカーテンの後ろには明るい電灯、暖かい台所や居間があった。テレビの音が暗闇に響いてくる。彼はポメロイ不動産の煉瓦壁に沿って行った。壁は鉄のフェンスに変わった。フェンスの上には大きな常緑樹が、夕闇の中に黒々と不動で聳《そび》えていた。  しばらくジミーは立ち止まると、屈《かが》んで靴の紐を結び直した。寒風が周囲を吹き常緑樹をかすかに動かした。遠くで汽車の汽笛が闇の中に陰気な泣き声を響かせた。彼は夕食を考えた。パパは靴を脱ぎ、新聞を読んでいるだろう。ママは台所にいる――テレビは隅でつけ放しだ――暖かく明るい居間。  ジミーは立ち上がった。頭上の常緑樹の中で何かが動いた。彼は眼を上げいきなり身体を固くした。暗い枝の間に何かがいて、風と一緒に揺れている。彼は息を呑み、その場に釘づけになった。  火星人だ。樹間に静かにうずくまり、待ち、見つめている。  老いぼれだ。彼はそれを一度だけ見たことがある。それは干からびていて歳月と塵埃の臭いがした。古ぼけた灰色のかたちをし、じっと動かず常緑樹の樹間にうずくまっている。蜘蛛の巣の塊、樹のまわりに張り巡らされた埃まみれの撚《よ》り糸と網。つかみどころのないほっそりした生き物に、彼のうなじの毛が逆立った。  そいつは動きはじめたが、彼の眼に留まらないほどゆっくりだった。先を確かめながらほんの少しずつ枝を滑り降りて来る。まるで眼が見えないみたいだった。一インチずつそろそろと降りてくる、蜘蛛の巣と埃まみれの眼の見えない灰色の塊。  ジミーはフェンスから遠ざかった。そこは完全な闇だった。頭上の空は真っ暗だった。遠くに星が火の粉のように輝きはじめた。通りの向こうをバスが走り、角を曲がった。  火星人は――彼の頭上の木にしがみついている。ジミーは何とかして逃れようとした。心臓が痛いほどドキドキし、息が詰まった。ほとんど息ができなかった。視界がぼやけ薄れ、遠くなって行く。火星人は彼のすぐそば、わずか頭上一ヤードのところにいた。  助けて――彼は救いを乞うた。あの火星人をはたき落とす棒を持った男たちがすぐに来てくれるようにと。眼を閉じフェンスから離れた。まるで大洋の大潮の中にいて、引きずり込まれ呑み込まれ、火星人のいるところに連れ込まれそうだった。それから逃げることはできなかった。彼は捕まってしまった。金縛りに遭い、押し戻そうとした。一歩……また一歩……更に一歩――  そしてその時彼はそれが聞こえた。  あるいはむしろ感じた。はっきりした物音ではなかった。ドラムのような潮騒《しおさい》みたいな音が頭の中でした。その音は彼の心を打ち、周囲に優しく鳴った。彼は立ち止まった。そのささやきは柔らかでリズミックだった。しかししつこく――急いでいた。それは分かれはじめ、かたちを作った。溢《あふ》れ、全く異なる感覚、かたち、光景に分解した。  別世界の光景だった。火星の風景。火星人は彼に話しかけ、その世界を語り、不安げな性急さで、次々にその光景を説明した。 「いっちまえ」ジミーはしゃがれ声でつぶやいた。  しかしその光景は忙しく執拗《しつよう》に彼の心を打っていた。  平原――果てのない広大な砂漠だった。赤黒くひび割れた渓谷がある。遠くに埃に覆われ腐食したなだらかな丘の稜線。右手のはずれに大盆地。白い塩が縁《ふち》に付いた大きなからっぽのパイ鍋《なべ》みたいだ。かつては水が打ち寄せていた灰の堆積地。 「あっちへ行け!」ジミーは再びつぶやいて一歩退いた。  その光景ははっきりしてきた。死んだような空、砂の粒子が激しく叩き、果てしなく運ばれて行った。砂の層、砂と埃の雲の大きなうねり、この星のひび割れた大地を永遠に吹き抜けて行く。まばらな痩せこけた草が岩のそばに生えている。山陰には数世紀前に張られ、埃にまみれた蜘蛛の巣に大きな蜘蛛の群れ。死んだ蜘蛛が割れ目に転がっていた。  光景が広がった。人工のパイプが赤く灼《や》けた大地から突き出している。地下居住区の通気孔だ。光景が変わる。彼はこの星の地底、中心部を見ていた――幾層もの砕けた岩石。生命も、火も、水もなくて萎縮した星。その皮膚はひび割れし、体内は干上がり、砂埃《すなぼこり》が吹き上がる。はるか地下の中心部にはタンク――居住室が沈められている。  彼はタンクの中にいた。火星人はいたる所にいて動き回っている。機械や奇怪な建築物、建物、植物の群落、ゼネレーター類、住宅、部屋。  タンクの区域は閉鎖され――閂《かんぬき》で閉じられている。錆《さ》びだらけの金属扉――機械類は腐食の中に沈み――ヴァルブ類は閉じ、パイプ類は錆つき――ダイアル類は壊れている。線条はもつれ――ギアから歯車はなくなり――いくつもの区域は閉じられていた。火星人はほんの一握りだった。  光景は変わった。地球がはるかに離れて見え――遠い緑の球体はゆっくりと回転し、雲に覆われている。広い海、何マイルもの青い海――豊富な水。毎年火星人たちは虚空を漂い、ゆっくりと地球に流れて行く。苦悶に満ちた緩慢さで、暗い荒野をあてもない漂流。  場面は地球に変わった。この光景は見慣れている。海の表面、泡立つ深い水、空にはかもめ、遠くに浜辺。海、地球の海。空を漂う雲。  水の表面を平べったい球体が漂う。巨大な金属ディスク。人工的に作られた浮かぶ居住区は周囲が数百フィートある。火星人たちはディスクの上で静かに休み、下の海から水分やミネラル分を吸収している。  火星人はそれらについて何かを語ろうとした。水に浮くディスク――かれらは水を使いたい、水の上に生きたいのだ。かれらでいっぱいの巨大なディスクの表面――かれらは彼がそれを知り、ディスクを、水に浮かぶディスクを見て欲しかったのだ。  火星人たちは陸地でなく海で生活したかった。水だけのために彼の許可を求めていた。かれらは水を使いたかった。彼に話しかけたのはそのためだった――大陸の間にある海の表面を利用したかったのだ。いまかれらはそれを求め切望していた。彼に回答を、許可を求めていたのだ。それを聞いてもらい、哀願するために待っていたのだ……  その光景は彼の心から一瞬にして消えた。ジミーはよろめき縁石に倒れた。彼は飛び上がり、手から濡れた草を払った。溝の中に立っていた。常緑樹の枝に腰かけている火星人がまだ見えた。それは見えにくかった。彼にはほとんど見分けられなかった。  ドラムの音はすでに遠くなり、彼の心から消えた。火星人は引き下がっていった。  ジミーは身を翻《ひるがえ》して逃げた。息を切らして大通りを横切り向こう側に走った。角を曲がりダグラス・ストリートに出た。バス停には弁当箱を下げた大柄な男がいた。  ジミーはその男に向かって駆けていった。「火星人が。あそこの木に」彼は息を切らしていった。「あの大きな木に」  男はぶつぶついった。「逃げな、ぼうず」 「火星人だよ!」ジミーの声はパニックに駆られ甲高かった。「あの木に火星人が!」  二人の男が暗闇からぬっと現われた。「何? 火星人?」 「どこに?」  人々が集まってきた。「どこにいる?」  ジミーは指さした。「ポメロイの空き地だ。フェンスのそばの木に」彼は喘《あえ》ぎながら手を振った。  警官が現われた。「何があったんだ?」 「この子が火星野郎を見つけたんです。棒を持ってこい」 「どこにいるのか教えるんだ」警官はそういうとジミーの腕を掴んだ。「一緒に来い」  ジミーはかれらを連れて通りを戻り煉瓦塀に行った。そこで尻込みしフェンスから遠ざかろうとした。「あそこの上だ」 「どっちの木だ?」 「あっちの――じゃなかったかな」  懐中電灯が閃《ひらめ》き、常緑樹の間を照らし出した。ポメロイ邸の明かりもついた。入口のドアが開く。 「何をしているんだ?」ミスター・ポメロイの声が怒りをこめて響いた。 「火星野郎だ。離れていろ」  ポメロイ家のドアが急いでバタンと閉まった。 「あそこだ!」ジミーは指さした。「あの木だ」心臓が止まるかと思った。「あそこだ。その上の方」 「どこだ?」 「わかった」警官は下がるとピストルを抜き出した。 「撃つな。弾丸は貫通するだけだ」 「棒を持って来い」 「棒ぐらいじゃ届かない」 「松明《たいまつ》だ」 「松明を持って来い!」  二人の男が走り去った。車が数台止まった。パトカーが滑り込み、サイレンを静寂の中に響かせた。家々のドアが開き男たちが走り出てくる。サーチライトが閃き、みんな眩《まぶ》しそうだった。火星人を照らし出し、逃げられないようにした。  火星人は動かず常緑樹の大枝にしがみついていた。眩しい光の中で、そいつは産み落とされた場所にしがみついている巨大な繭《まゆ》みたいだった。火星人はおそるおそる動き出し、幹を這って行く。その触手を伸ばして支えにしている。 「松明だ、ちくしょうめ! 松明を持って来い!」  一人の男が塀から薪《たきぎ》にする板を剥《はが》してきた。その木の根本に丸く積み重ねる。新聞紙にガソリンを撒《ま》いた。根本から燃え上がり、はじめは弱かったがだんだんと勢いが強くなった。 「ガソリンをもっとかけろ!」  白い制服の男がガソリン容器を引きずってきた。それを全部木にかける。すばやく炎となって燃え上がった。枝は焦げパチパチと音を立て激しく焼けていった。  かれらの頭上はるかで火星人は活動を始めた。火星人はおぼつかなげに高い枝に登り、逃げようとしていた。炎は近くに迫った。火星人はペースを早めた。身体をくねらせ次の高い枝に移ろうとした。高く高く登りつめた。 「逃げるぞ」 「逃げられないさ。もう頂上だ」  ガソリンがまた撒かれた。炎が更に高くなった。群衆が塀のそばに集まってきた。警官がかれらを退がらせた。 「あそこだ」火星人が見えるようにライトを動かした。 「木の頂上だ」  火星人は頂上に達した。それは枝に跨《また》がって休み、身体を前後に揺らした。炎は枝から枝へと飛び、しだいに火星人に迫って行った。火星人もためらいながらやみくもに支えを求めた。触手を伸ばし感覚を確かめようとした。炎の先端が火星人に達した。  火星人はパチパチと音を立て、煙が上がった。 「火がついたぞ!」興奮に満ちた囁《ささや》きが群衆に広がった。「もうおしまいだ」  火星人は火に包まれていた。ぎこちなく身体を動かしながら逃れようとしている。いきなり棒立ちになると下の枝に落ちた。ほんのしばらく枝につかまっていたが、パチパチと音を立て煙を上げた。その時枝が裂けた。  火星人は地面に、新聞紙とガソリンの間に落ちた。  群衆はどよめいた。木の方に騒然と流れて行った。 「踏みつぶせ!」 「やっちまえ!」 「あんちくしょうを踏んづけろ!」  ブーツが何度も何度も踏みつけ、火星人を押し潰した。男が一人倒れ起き上がったが、耳からメガネが吊り下がった。揉み合う群衆の集団が互いに殴り合いをはじめ、押し合いながら木に向かっていた。燃えていた枝が落ちてくる。群衆の一部が退いた。 「やっつけたぞ!」 「帰れ!」  また枝が落ちて音を立てた。群衆が解散し、人の流れが笑いながら押し合い戻ってきた。  ジミーは警官に腕をつかまれているのに気づいた。太い指が腕を押した。「終わりだ、坊や。もうおしまいだよ」 「やっつけたの?」 「間違いない。きみの名は?」 「ぼくの名前?」ジミーが警官に名前を告げようとした時、二人の男が乱闘をはじめ、警官はそっちに駆けつけて行った。  ジミーはしばらく見つめたまま立っていた。夜は寒かった。冷たい風が吹きつけ、洋服を通して身体が冷える。急に夕食のことが頭に浮かんだ。パパは長椅子に身体を伸ばし新聞を読んでいる。ママは台所で夕食の支度をしている。優しく黄色い灯の家庭の暖かさ。  彼は身をひるがえすと、人込みを縫って通りの角に出た。背後で焦げた木が黒々と立ち、夜空に煙を上げていた。まだ木の根本には火が残り、踏み消されていた。火星人は死んだ。それで終わりだ。もう見るものもなかった。  ジミーは火星人にでも追いかけられているように急いで家に向かった。 「なんていったんだ?」テッド・バーンズはテーブルから椅子を下げ、足を組んで座り尋ねた。カフェテリアは騒音と食物の匂いに満ちていた。人々は目の前に並んだトレイと皿を取った。 「おまえの子供が本当にあれを見つけたんだって?」ボブ・ウオルターズは彼の前で好奇心をあからさまにして尋ねた。 「おれたちを騙《だま》すんじゃあるまいな?」フランク・ヘンドリックスはしばらく読んでいた新聞を下げ訊いた。 「うそじゃない。ポメロイ不動産で見つかったんだ――おれもその話をしたんだが。紛れもなくうちの子供が見つけたんだ」 「そのとおりだ」ジャック・グリーンも認めた。「新聞でも最初に見つけ、警官に知らせたのは子供だと書いている」 「それがおれの息子だ」テッドは胸を張っていった。「おまえたちはそれをどう思う?」 「息子は怪我をしたか?」ボブ・ウオルターズは知りたがった。 「とんでもない!」テッド・バーンズが強く否定した。 「それは賭《か》けてもいい」ミズーリ生まれのフランク・ヘンドリックスがいった。 「間違いないさ。警官を見つけ、現場に連れて行ったんだ――昨夜な。家族は夕食のテーブルに座っていて、息子はどこに行ったんだろうと思っていた。おれもいささか心配していた」テッド・バーンズはまだ誇り高き親だった。  ジャック・グリーンは立ち上がり時計を見た。「もうオフィスに戻る時間だ」  フランクとボブも立ち上がった。「じゃあな、テッド」  グリーンはテッドの背中を突いた。「いい息子を持ったな、バーンズ。父親生き写しだ」  テッドは微笑んだ。「やつは勇気がある」友人たちがカフェテリアから、人通りの多い真昼の通りに出て行くのを見つめた。すぐにコーヒーの残りを飲み干すと、顎を拭《ぬぐ》いゆっくり立ち上がった。「何も恐れない――勇気あるやつだ」  彼はランチ代金を払い表に出た。胸を反らしていた。彼はオフィスに戻りながら、誇らしげに通行人に微笑みかけていた。 「何も恐れるものはない」彼はプライドを持って、大きな輝くプライドを持ってつぶやいた。「少しも怖くないんだ!」 [#改ページ]   ウォー・ヴェテラン  その老人は眩《まぶ》しいほど暑い陽射しを浴び、公園のベンチに座りながら行き交う人々を眺めていた。  公園はこぎれいに整備されていた。何百本もの輝く銅管から送られてくる散水で、芝生は濡れて光っている。洗練されたロボット庭師があちこちを這い回り、草取りをし、ごみを集めては処理穴に入れていた。子供たちは走り回り歓声を挙げている。若いカップルは座って陽光を浴びながら眠そうに手を組んでいる。ハンサムな兵士のグループはポケットに手を突っ込み所在なさそうに歩き回り、プールの縁で日光浴中の陽に焼けた裸の娘たちを羨《うらや》ましげに見ていた。公園の外では騒音を立てる車が走り、ニューヨークの聳《そび》え立つビル群がきらきら輝いている。  老人は咳払いをすると、不機嫌そうに木陰に唾を吐いた。ぎらぎら輝く灼熱の太陽のせいで不安にかられていた。太陽はあまりに強烈な黄金色に輝き、みすぼらしいぼろコートの下を玉の汗が流れる。老人は白髯《しらひげ》混じりの顎《あご》と失われた左眼を気にかけた。深く醜い火傷《やけど》は片頬の肉を焦がしている。痩せこけた首の回りに下げた携帯電話を邪険に扱った。コートのボタンを外すと、ベンチの輝く金属床から身を起こした。退屈で孤独で切なくて、身をよじると、樹木や草花の牧歌的風景や、幸せそうに遊ぶ子供たちに興味を向けようとした。  三人の金髪の兵士たちは老人の向かい側のベンチに座って、ピクニック用のランチ・ボックスを開きはじめた。  老人のいくらか臭い息が喉に絡まった。古い心臓は痛いほど高鳴り、久しぶりに活気を取り戻した。無気力さからやっとのことで立ち直り、兵士たちにぼんやりした眼を向ける。ハンカチを取りだし汗まみれの顔を拭い、それから声をかけた。 「気持ちのよい午後だね」  兵士たちはちらっと目をくれた。「そうだな」と一人が答えた。 「かなりのものだ」老人は灼熱の太陽と高層ビルを指さした。「脱帽する」  兵士たちは何もいわなかった。熱く濃いコーヒーとアップルパイに夢中だった。 「ただの冗談さ」老人は悲しげに続けた。「きみらは選抜チームか?」老人は思い切って訊《き》いた。 「いや」兵士の一人が答えた。「ロケット乗組員だ」  老人はアルミニュームの杖を握りいった。「わしは爆破班だった。昔のBa―3分隊だ」  兵士たちは誰も応答しなかった。かれらの間で囁《ささや》きを交わしている。向こうのベンチの娘たちはこちらを注目していた。  老人はコートのポケットに手を伸ばし、擦り切れたティッシュ・ペーパーに包まれたものを取り出した。震える手でそれを開くと立ち上がった。おぼつかない足取りで砂利道を横切り、兵士の方にやって来た。「これが分かるか?」彼はきらきら光る小さな四角い金属片を差し出した。「八七年に貰ったものだ。おそらくきみたちの生まれる前のことだろう」  若い兵士たちはひととき僅《わず》かな興味をそそられた。「おい」一人がそれと知ると口笛を吹いた。「これはクリスタル・ディスクだぜ――最高勲章だ」彼は不思議そうに眼を上げた。「あんたがこれを?」  老人は得意げな高笑いをすると、メダルを包み、コートのポケットにしまいこんだ。「わしはネイザン・ウエスト将軍の部下で『風の巨人』号に乗り組んでいた。やつらが反攻しているのを知ったのは最後の時空ジャンプの時だった。わしは分隊とそこにいた。通信網を破壊した日は多分覚えているだろう。すっかり準備して――」 「悪いけど」兵士の一人があいまいにいった。「そんな昔のことは知らない。何しろ生まれる前のことだから」 「そうだな」老人は熱心に相槌《あいづち》を打った。「六十年以上前のことだ。ペラチ少佐のことを聞いたことがあるかね? やつらが最後の攻撃に集中している時、彼はその援護宇宙艦隊を流星雲に激突させた。惨敗するまでBa―3分隊は数か月も持ちこたえたんだ」彼は苦々しげにいった。「やつらを一歩も近寄らせなかった。残り数名になるまでな。やがてやつらは禿鷹《はげたか》のようにやって来た。そこで見つけたものは――」 「ごめんよ、じいさん」兵士たちは身軽に立ち上がりランチをかたづけ、娘たちのベンチに向かった。娘たちは恥ずかしげにちらっとかれらを見て、期待に胸をふくらませくすくす笑った。「じゃあ、またな」  老人はきびすを返し、激しく足を引きずりながら自分のベンチに戻った。落胆してぶつぶつ呟《つぶや》きながら濡れた植え込みに唾を吐き、落ち着きを取り戻そうと努める。しかし太陽の暑さに苛立ち、人ごみや車の騒音に気分が悪くなった。  老人は公園のベンチに座って半眼を閉じ、苦々しさと敗北感を歪んだ唇から吐き出していた。老いぼれた半盲の年寄りに関心を払う者もない。老人の加わった戦闘や目撃した作戦について、手前味噌のとりとめもない話に耳を傾ける者もなかった。ぼけた老人の脳髄の中で、いまだにめらめら蝕む炎のように燃えている戦争を覚えている者は誰もいない。聞いてくれる人さえいれば、老人はいつまでも戦争の話を続けたろう。  ヴァシェル・パタースンは急停車し、緊急ブレーキを踏んだ。「そういうことだ」彼は肩越しにいった。「楽にしてくれ。しばらく待たざるを得ない」  その光景は見慣れたものだった。灰色の帽子をかぶり腕章をした数千の地球人が通りを練り歩き、スローガンを叫び、街路でも見える粗末な大プラカードを持ち、大通りを行進している。 『交渉無用! お喋《しゃべ》りは裏切り者に任せろ!』 『人間なら行動を!』 『やつらに告げたり、教えたりするな!』 『強い地球は最良の平和保証だ!』  車のバックシートでは、エドウィン・ラマールが眼の前に見たものへの驚きでぶつぶついいながら、報告テープを脇に置いた。「どうして停めたんだ? あれは何だ?」 「別のデモ行進よ」イヴリン・カッターはよそよそしくいった。彼女は座席に寄りかかり、うんざりしたように煙草に火をつけた「どれもこれも似たり寄ったりね」  デモ行進は最盛期だった。男、女、午後の学校をさぼった若者たちが、興奮と緊張で険悪な表情でプラカードや粗末な武器を持ち、一部は制服姿で行進している。歩道沿いには沢山の野次馬が引っ張り出されていた。青い制服の警官が交通止めをしている。かれらは無関心で見張りに付き、妨害する者を待ち構えていた。もちろんそんなことをする者はいない。それほど愚か者はいなかった。 「幹部会はどうしてこれを止めないんだ?」ラマールは尋ねた。「武装した二列縦隊で、きっぱりかたをつけられるんだが」  彼の横でジョン・スティヴンスは冷たく笑った。「幹部会が金を出し、組織し、テレビでいつも放映しているんだ。不満をいう連中を殴ることさえある。誰かが暴力を振るうのを待っているんだ」  ラマールは眼をしばたたいた。「パタースン、本当か?」  怒りに歪んだ群衆の顔がピカピカの六四年型ビュイック車のフード越しに不気味に迫ってくる。重い足音がクロムのダッシュボードをがたがたと鳴らした。ドクター・ラマールはテープを注意深くメタルケースにしまい、怯《おび》えた亀みたいにあたりをきょろきょろと見た。 「きみは何を心配しているんだ?」スティヴンスは嗄《しゃが》れ声でいった。「きみには触れもしないよ――地球人だからな。冷汗を流すのは私だ」 「やつらは狂っている」ラマールは呟いた。「白痴どもの行列だ――」 「白痴じゃない」パタースンは穏やかに応じた。「かれらは信用し過ぎているだけだ。いわれたことをうのみにしているんだ。他の連中みたいにな。唯一のトラブルはかれらの聞いた話が真実でないことだ」  彼はばかでかいプラカードの一つを指さした。その巨大な立体写真は行列が進むにつれ捩《よ》じれたり、ひっくり返ったりした。「やつを非難しろ。彼がその嘘を考え出したのだ。幹部会に圧力をかけ、憎悪と暴力を作り出す男だ――それを煽《あお》る資金を持っている」  プラカードの写真は厳しい顔付きの白髪の紳士で、きれいに髭をあたり威厳があった。五十代後半の学者風の大柄な男である。親切そうな青い眼、しっかり張った顎、印象的な尊敬すべき政府高官である。彼のハンサムな写真の下には個人的なスローガン、一瞬のインスピレーションが浮き彫りにされている。 『裏切り者だけが妥協する!』 「あれがフランシス・ガネットだ」スティヴンスはラマールにいった。「格好いい男じゃないか?」彼は訂正した。「地球人にしては」 「かなり気障《きざ》な男じゃない」イヴリン・カッターは反論した。「あんな知的に見える男に、よくこんなことが出来るわね?」  スティヴンスはこわばった高笑いをした。「彼のきれいな白い手は、そこを行進している鉛管工や大工とは比較にならない汚れ方をしているのさ」 「しかしどうして――」 「ガネットとそのグループはトランスプラネット・インダストリーズを所有している。太陽系の貿易の大部分を支配している持ち株会社だ。われわれ金星人や火星人に独立を与えたら、彼の貿易に割込むことになる。すなわち競争相手になる。しかしこのままでは、不正な商業組織に封じ込まれたままだ」  デモ行進は交差点にさしかかった。ひとつのグループがプラカードを降ろし、こん棒や石塊を取り出した。かれらは大声で命令し、他の連中に合図した。それから意図的に近代的な小ビルに向かった。そのビルは『カラー・アド』とネオンサイン表示されている。 「ああ、ちくしょう。やつらはカラー・アドのオフィスを狙っているんだ」パタースンはそういうとドアのハンドルを掴んだが、スティヴンスが止めた。 「やめておけ。とにかくあそこには誰もいない。いつも事前に警告を受けているんだ」とスティヴンス。  暴徒たちはプラスティック板の窓を壊し、派手な装飾の商店になだれ込んだ。警官は腕組みしてぶらぶら歩き回りながら、その光景を楽しんでいる。めちゃめちゃになった表通りのオフィスから、破壊された家具が歩道に投げだされる。ファイル、机、椅子、テレビ、灰皿、地球世界の幸福な生活の華やかなポスターまであった。物置は熱線銃で火をつけられ、ひりひりする黒煙が渦巻いている。やがて暴徒たちは一斉に外に飛び出した。破壊に飽きて浮かれている。  歩道沿いにはさまざまな感情でそれを見つめている人々がいた。ある者は喜びを現わし、ある者はあいまいな好奇心の虜《とりこ》だった。だが大部分は怖れと心配に駆られている。凶暴な顔をした暴徒がしゃにむに押し寄せてくると、かれらは慌《あわ》てて逃げ、盗んだ品物の処理に困っていた。 「分かったろう?」パタースンはいった。「このデモは二、三千人で組織されているんだ。ガネット委員会の金でな。先頭のやつらはガネット工場の労働者だ。ごろつきどもの休日出勤さ。いかにも人類の代表のように見せかけているがそうじゃない。やかましい少数派、勤勉な狂信者の群れだ」  デモ行進は解散しかけていた。カラー・アドのオフィスはすっかり焼け、惨たる廃墟となった。交通はストップし、ニューヨークのダウンタウンの大部分には扇情的なスローガンが見られ、行進の足音が響き、憎悪の叫びが聞こえた。人々はオフィスや店に戻りはじめ日常の仕事に就いた。  その時暴徒たちは、閉ざされた戸口にうずくまっている金星娘に眼を留めた。  パタースンは車を加速させた。乱暴に車を押し分けて転回し、通りをつっ走り歩道に乗り上げ、黒い顔のマスクを被った群衆に向かった。車の先端が先頭集団を捉え、木の葉のように宙に舞わせた。残りの連中は車体とぶつかり、手足をもがきながら団子状になってひっくり返った。  金星娘は自分の方に滑ってくる車を見た――フロント・シートには地球人がいた。瞬間彼女は麻痺するような恐怖でうずくまった。それから振り向くと、パニックに駆られて慌てて走り歩道へ、通りいっぱいに右往左往する群衆の中に飛び込んだ。暴徒たちはまたスクラムを組み、精一杯の悲鳴を上げる彼女を追った。 「水かき女を捕まえろ!」 「水かきどもは自分の星に帰れ!」 「地球は地球人の手に!」  唱えるスローガンの下には、言葉にならない欲望と憎悪の醜い底流があった。  パタースンは車をバックさせ車道に戻した。彼の拳《こぶし》はホーンの上できつく握り締められている。車は娘の後を追い、ゆっくり駆ける暴徒たちと並行に走り、やがて追い抜いた。車の後部窓が投石で壊れ、しばらくして瓦礫《がれき》が雨あられと降ってきた。前方では群衆があてどなく分かれ、車と暴徒に道を空けた。絶望的に走る娘に手をさしのべる者もなく、彼女は車と人込みの間をすすり泣き喘《あえ》ぎながら駆けつづけた。彼女を救いに駆けつける者もない。みんなぼんやりした目つきで見つめ、巻き込まれるのを避けている。遠くの見物人は自分たちの加われない出来事を眺めているだけだった。 「あの娘を助けてやる!」スティヴンスはいった。「彼女の前に停めろ。先回りして行く手を遮るんだ」  パタースンは娘を追い越しブレーキを踏んだ。彼女は怯えた兎みたいに通りで身を翻《ひるがえ》した。スティヴンスは一足飛びに車を飛び出すと、やみくもに暴徒の方に向かう娘を追い、彼女をひっ攫《さら》うと車に飛び込んだ。ラマールとカッターは二人を車中に引きずり込み、パタースンは急発進させた。  すぐさま町角を曲がり、警察の張ったロープを外し危険地帯の向こうに逃げた。背後の群衆の喚声、舗道の足音は絶えた。 「もう大丈夫だ」スティヴンスは優しく繰り返し娘にいった。「われわれは仲間だ。見てごらん、私にも水かきがあるだろう」  娘は車のドアを背にうずくまり、緑の眼を恐怖で見開き、細い顔を痙攣《けいれん》させ、膝を胸に引き寄せている。おそらく十七歳くらいだ。水かきのある指で、裂けたブラウスの襟を意味もなくかき合わせている。靴の片方はなくなっていた。顔は引っ掻き傷だらけで、黒い髪は乱れている。震える口元から溜息ばかり漏れた。  ラマールは彼女の脈拍を診《み》た。「心臓が破裂しそうだ」彼は小声でいった。上着から非常用カプセルを取りだすと、彼女の震える腕に鎮静剤を注射した。「これで安心だ。彼女は助かった――やつらの手に落ちずに済んだ」 「もう大丈夫だ」スティヴンスは小声で娘にいった。「われわれは市立病院の医師だ。ミス・カッターは患者のファイルや記録を扱っている。ドクター・ラマールは神経医、ドクター・パタースンはガンの専門医、私は外科医だ――手を見てごらん?」彼は外科医の手で娘の腕を触った。「そしてきみと同じ金星人だ。きみを病院に連れて行き、しばらく匿《かくま》ってあげるよ」 「かれらを見たろう?」ラマールは早口で喋った。「彼女を助けようと手を差し伸べる者もいない。そこに立っているだけだ」 「かれらは怯えているんだ。トラブルを避けたいんだ」とパタースン。 「それは無理よ」イヴリン・カッターは無表情でいった。「誰もこのトラブルは避けられないわ。安全圏に立って見物出来ないのよ。フットボール・ゲームじゃないわ」 「何が起こるの?」金星娘は震えた。 「地球を離れた方がいい」スティヴンスは優しくいった。「ここは金星人には危険だ。自分の星に帰って騒動が静まるまで待ったほうがいい」 「どのくらい?」娘はあえいだ。 「結局のところ」スティヴンスは手を伸ばすと、イヴリンの煙草を彼女に渡した。「こんな事態がいつまでも続くわけはない。われわれも自由が欲しい」 「落ち着いて」イヴリンは恐ろしげな声でいった。彼女の眼から憎悪の怒りが消えていた。「あなたはとりわけね」  スティヴンスの深緑色の顔が紅潮した。「同胞が侮辱され殺されるのを、私が無為《むい》に見過ごしていると思っているのか。われわれの利益は無視され、膏血《こうけつ》を絞って肥えるガネットみたいなのっペり面《づら》を知らない振りをし――」 「のっペり面?」ラマールは不思議そうにおうむ返しにいった。「どういう意味だ、ヴァシェル?」 「それは地球人に対する言葉だ」パタースンは答えた。「そうだろう、スティヴンス。われわれに関する限り民族差別はない。みな同じ民族だ。きみの先祖は二十世紀末に金星に移住した地球人だ」 「形態の変化はごく些細な適応進化だ」ラマールはスティヴンスに保証した。「われわれはまだ異種交配できる――それは同種である証拠さ」 「そうよ」カッターも小声でいった。「でも水かきやカラスと結婚する気になれる?」  しばらく沈黙が続いた。車内の空気は敵意で緊張した。パタースンは病院に向けてスピードを上げた。金星娘はうずくまって座り、黙って煙草をふかしており、揺れる車内で怯えた眼をしている。  パタースンは検問所でスピードを落とし身分証を見せた。病院の守衛は車に許可の合図をし、再びスピードが上がった。身分証をしまった時、ポケットに入れておいたものに指が触れた。突然記憶が甦《よみがえ》った。 「きみの心からトラブルをなくすものがある」彼はスティヴンスにそういうと、封をしたチューブを投げた。「軍は今朝それを返してよこした。事務的ミスだ。見終わったらイヴリンに渡してくれ。彼女にいくべきものだが、私も興味あった」  スティヴンスはチューブを開け、中のものを取り出した。それは国営病院の許可を求める普通の申請書で、退役軍人番号が刻印されている。長い年月を経た汗まみれのテープと破れた書類。油じみのメタル・フォイルは何度も折りたたまれ、シャツのポケットに詰め込まれていたのだろう、汚い胸毛がついていた。「これが重要なものかい?」スティヴンスは我慢しながら尋ねた。「どうして事務的なつまらないことを心配するんだ?」  パタースンは病院の駐車場に車を停めエンジンを切った。「申請番号を見ろ」彼は車のドアを押し開けながらいった。「それを時間をかけて調べれば尋常でないことが見つかるよ。申請者は古い退役軍人の身分証を持っているが、その番号はまだ発行されていないものなんだ」  ラマールはひどく困惑し、イヴリン・カッターからスティヴンスに眼を移したが、何の説明も得られなかった。  老人は携帯電話の呼びかけで快いうたた寝からめざめた。「ディヴィド・アンガーさん」女性の小さな声は繰り返した。「病院にお戻り下さい。すぐに帰るように願います」  老人はぶつぶついいながら何とか身を起こした。アルミの杖をつかむと、汗で光るベンチを足を引きずりながら離れ、公園の出口に向かった。眩《まぶ》し過ぎる太陽、子供や娘や若い兵士たちの甲高い笑い声から遮断されるのは眠りに落ちた時だけだ……  公園の端で二つの人影がこそこそ木陰に潜り込んだ。その人影が小径に沿って背後を通り過ぎると、ディヴィド・アンガーは立ち停まって、信じられないように立ち尽くしていた。  自分でも驚くような声を出した。あらん限りの金切り声を上げた。怒りと嫌悪の叫びは静かな樹木や芝生の間を通って公園中にこだました。「水かきだ!」彼は叫んだ。そしてぎこちなくかれらの後を追いはじめた。「水かきとカラスだ! 助けてくれ! 誰か来てくれ!」  アルミの杖を振り回し、足を引きずりながら激しくあえぎ、火星人と金星人の後を追いかけた。通行人が現われたが、呆れてポカンとしていた。老人が怯えた二人連れを追っていると群衆が増えた。疲れ果てて飲料噴水でつまずき倒れると杖が指から離れ跳んだ。その皺《しわ》だらけの顔は土気色をし、火傷は斑《まだら》の皮膚に醜く目立つ。良い方の眼は憎悪と憤怒で赤い。ひび割れた唇からよだれが流れる。骨張った爪みたいな手をむなしく振っていたが、二人のフリークは杉の茂みに潜り込み、公園の向こうの端に消えた。 「やつらを止めろ!」ディヴィド・アンガーはわめき散らした。「逃がすな! おまえたちは何をしている? この人種差別反対の臆病者め。それでも男か?」 「落ち着けよ、じいさん」若い兵士は親切にいった。「あの連中は誰も傷つけはしないよ」  アンガーは杖をとり直し兵士の頭の後ろでしゅっと振った。「おい――口先男」彼は怒鳴った。「おまえはどんな兵隊なんだ?」咳き込んで言葉がとぎれた。身体を二つ折りにするとぜいぜい喘《あえ》いだ。「わしらの時代にはやつらにロケット燃料をぶっかけて吊るしたもんだ。汚い水かきやカラスどもをバラバラにした。見せしめにだ」  ぬっと現われた警官が二人のフリークを止めた。「立ち去れ」警官は命令した。「ここではおまえたちに権利はないんだ」  二人のフリークは慌てて逃げようとした。警官はゆっくり警鞭《けいべん》を振り上げると、火星人の眉間をぴしっと打った。もろく薄い頭蓋は割れ、火星人はぐらっと身体が傾き、眼が見えなくなり怒りに駆られた。 「もっとやれ」アンガーは息を切らせながらいささか満足した。 「全くひどい年寄りね」恐怖で顔を蒼白にした婦人が小声で彼に抗議した。「あなたのような人がすべてのトラブルの元なのよ」 「そういうおまえは何だ? カラスの愛人か?」アンガーは鼻を鳴らした。  群衆は三々五々散った。アンガーは杖を握り出口の方によろめきながら悪罵《あくば》を呟《つぶや》き、木陰に唾を吐き散らし首を振った。  病院の敷地に着いた時もまだ怒りと不快さで身震いしていた。「何の用で呼びつけた?」中央ロビーの大きな受付デスクに来るとくってかかった。「出頭する理由が分からん。ここに来て初めて熟睡していたのに起こした。それに二人の水かきが白昼堂々歩き回っているのは何だ。生意気千万だ――」 「ドクター・パタースンがお呼びです」看護婦は忍耐強くいった。「三〇一号室です」そしてロボットに命じた。「ミスター・アンガーを三〇一号室にご案内して」  老人は滑らかに動くロボットの後を、不機嫌そうに足を引きずりながら歩いて行った。 「おまえたちブリキ野郎は八八年のヨーロッパ戦争で使われたものだな」彼は文句を並べた。「ばかげた話だ。みんな制服を着た人種差別反対の小僧ばかりだ。その辺をぶらぶらしているやつらはいい時期に生まれ合わせたものだ。裸で草の上を寝っころがるしか能のない小娘を笑わせたり、だまくらかしたりしている。どこかおかしい。何かが――」 「ここです」ロボットがいった。三〇一号室のドアが開いた。  ヴァシェル・パタースンは腰を浮かした。老人は入ってくると、診療机の前でアルミの杖を握り締め苛立たしげに立ちはだかった。ディヴィド・アンガーと顔を合わせるのはこれが初めてだった。どちらもお互いに相手を値踏みした。痩せて鷹《たか》のような顔をした老兵と、黒く細い髪にべっ甲縁の眼鏡、親切そうな顔をした身なりのよい若い医師。その机のそばにはイヴリン・カッターが赤い唇に煙草をくわえ、金髪をなびかせ無表情で聞き耳を立てている。 「私がドクター・パタースンです。こちらがミス・カッター」彼は机にばらまかれた、擦り切れ腐食したテープをいじっている。「お座り下さい、ミスター・アンガー。いくつかお尋ねしたいことがあります。あなたの書類にあれこれ不明な点が出てきました。おそらくよくある間違いですが、私の手元に差し戻されました」  アンガーは用心しながら椅子に座った。「質問と赤いテープか。わしはもう一週間ここにいるが毎日何かある。道路のその辺で行き倒れて死んでしまった方がよかったな」 「これによればもう八日いますね」 「そうだな。そう書いてあるなら間違いあるまい」老人の見え透いた皮肉は気持がひどく煮えくり返っていることを示していた。「それが事実でなくともけちはつけられん」 「あなたは退役軍人として認められています。生活費はすべて幹部会から支給されます」  アンガーは苛立った。「それがどうだというんだ? わしはそれ相応のことはしたんだ」パタースンに向かって身を屈め、曲がった指で彼を突いた。「わしは十六歳で軍役に就いた。これまでの生涯を地球のために戦い尽くしてきた。やつらの汚い掃討作戦で半殺しにされなかったらまだ働けたはずだ。生きていただけ幸運だが」彼は意識して土気色の顔を擦《こす》った。「おまえさんなどまだ生まれてもいなかった頃の話だ。こういう逃げ場所があったとは知らなかったよ」  パタースンとイヴリンは顔を見合わせた。「あなたは何歳です?」イヴリンはいきなり尋ねた。 「いわなかったかね?」アンガーは怒りの小声でいった。「八十九歳だ」 「何年生まれです?」 「二一五四年。想像もつかんだろう?」  パタースンはメタル・フォイルの報告書に記入した。「所属は?」  それにはアンガーもほっとした。「Ba―3分隊。聞いたことがあるかもしれん。ところでやつらがまだこの辺りにうろついているが、これまでやつらと戦争をしていたことを知っているのかね」 「Ba―3か」パタースンは繰り返した。「何年くらい勤務しました?」 「五十年。それから退役した。最初の兵役という意味だ。六十六歳だった。定年だ。年金と土地を少しばかりもらった」 「それでまた呼び返されたのですか?」 「当然のことだ! Ba―3分隊が前線に復帰した模様は覚えておらんだろう。わしら老兵だけでほとんどやつらを喰い止めたんだ、最後まで。あんたはまだ子供だったろう。だが当時は誰もがわしらのことを知っていた」アンガーは最高勲章クリスタル・ディスクを掴み出し、机にバタンと置いた。「これを貰ったんだ。わしら生き残り全員がな。三万人のうち僅か十人だった」震える指で勲章を掴み上げた。「わしは重傷を負った。この顔を見ろ。ネイザン・ウエスト将軍|麾下《きか》の戦闘宇宙船が爆発した時の火傷だ。わしは二年間軍病院にいた。それはやつらに地球が手ひどくやられた時のことだ」歳老いた手をむなしく握り締めた。「わしらは地球が燻《くすぶ》る廃墟と化すのを座視しなければならなかった。鉱滓《こうさい》と灰塵以外何も残っておらず、死の荒野だった。町も都市もなかった。わしらがそこに座っていると、やつらのCミサイルが音を立てて飛んで行った。とうとうやつらに息の根を止められ――わしらもまた月に追いつめられた」  イヴリンは口をきこうとしたが言葉が出てこなかった。診療机の後ろでパタースンの顔がチョークのように白くなった。「続けて」彼はやっと小声でいった。「話を続けて下さい」 「わしらはそこで、コペルニクス・クレイターの地下で頑張っていた。やつらはCミサイルをがんがん撃ち込んできた。おそらく五年は持ち堪えた。やがてやつらが着陸しはじめた。わしらは高速攻撃地雷のなかに取り残され、外惑星間にゲリラ基地を設営した」アンガーは休みなく身を捩《よ》じった。「そのあたりのことは話したくない。敗戦だった。万事休した。どうしてわしに訊くんだ? わしは3―4―9―5を作るのを手伝った。最良の人工基地で天王星と海王星の中間にあった。やがて再退役した。汚い鼠どもが滑り込んでくるのを暇に任せて吹き飛ばしていた。五万人の男と女と子供たち。全くの植民地だった」 「そこから脱出したの?」イヴリンは小声で訊いた。 「もちろん脱出したさ! わしはパトロール中だった。水かきの宇宙船を一隻やっつけた。撃ち落とし、やつらがくたばるのを見届けた。いささか気持が良かった。わしは3―6―7―7に移り数年暮らした。そこが攻撃されるまでな。それが今月初めのことだった。わしは背水の陣で戦っていたんだ」汚い黄色い歯が怒りできらりと光った。「その時は逃げる場所がなかった。知っているところはどこもなかった」赤っぽい眼が贅沢なオフィスを探る目付きで見た。「ここのことは知らなかった。こんなすばらしい人工基地を用意しておくとはなかなかやるものだな。わしの覚えている本物の地球にそっくりだ。少しばかり動きが速く明るいが。本当の地球はこれほど平和ではなかった。しかし空気の匂いさえ同じだ」  沈黙があった。 「その植民地が破壊された後、ここに来たんですね?」パタースンは嗄《しゃが》れ声で尋ねた。 「そうらしい」アンガーはうんざりしたように肩をすくめた。「最後に覚えているのは気嚢《きのう》が破裂し、空気、熱、重力が漏れてしまったことだ。カラスと水かきの宇宙船が至るところに着陸した。周囲で大勢の人が死んだ。わしはその衝撃で気を失った。次に気づいた時にはここの通りに倒れており、通行人が起こしてくれた。あのブリキ男とドクターの一人がここに連れて来てくれたのだ」  パタースンは深く身を震わし溜息をついた。「分かりました」かれの指は無意識に、腐食し汗で汚れた身分証を毟《むし》っていた。「さて、それでこの書類の不備は説明された」 「それで全部かね。何か足りないものは?」 「あなたの書類はすべてここにあります。ここに連れてこられた時、手首に下げていたのがこのチューブです」 「そのとおりだ」アンガーの鳥みたいな胸は誇りで盛り上がった。「十六歳の時に教えられた。死んだ時でも、そのチューブを持っていろとな。記録をそのまま保存しておくのは大事なことだ」 「記録は信頼出来ます」パタースンはだみ声で認めた。「部屋にお帰り下さい。あるいは公園でもどこでも」彼が手で合図すると、ロボットは静かにこの老いぼれた年寄りをオフィスから廊下に連れ出した。  ドアが閉まるとイヴリン・カッターはおもむろに一本調子で罵《ののし》りはじめた。ハイヒールで煙草を踏みつぶすとしきりに部屋を行き来した。「ああ、何が癪《しゃく》の種なのかしら?」  パタースンはヴィデオ・フォーンをひったくると、外部に電話し交換手に告げた。「軍司令部に繋いでくれ、至急だ」 「月のですか?」 「そうだ。月の中心基地だ」  緊張し歩き回っているイヴリンの向こう、オフィスの壁のカレンダーは二一六九年八月四日と読める。ディヴィド・アンガーが二一五四年の生まれだとすれば、まだ十五歳の少年ということになる。彼は二一五四年に生まれている。破れて黄色くなり、汗の染みのついたカードにはそう記されている。その身分証明書はまだ起こっていない戦争を経て持ち込まれたものだった。 「彼は退役軍人だ、もちろん」パタースンはスティヴンスにいった。「これから始まる戦争に加わるはずもない。申請書がIBMコンピューターから差し戻されたのも不思議はない」  スティヴンスは濃緑色の唇をなめた。「その戦争は地球と二つの植民星との間のものらしい。それで地球は敗れるのか?」 「アンガーはその戦争を戦い抜いた。最初から最後まで――地球の完全な破滅まで見てきた」パタースンは窓辺に歩き外を眺めた。「地球は戦争に負け、地球人は一掃されたんだ」  スティヴンスのオフィスの窓から、パタースンは外に広がる都市を見た。何マイルも続くビルディングが午後の陽射しを浴びて白く輝いている。一千百万の人口。太陽系の商業、工業、経済の中心である巨大なセンター。その向こうにはあまたの都市群と農地とハイウエイ、三十億人の世界がある。繁栄する健やかな星。金星や火星の野心的移住者、フリークを初めに生み出したその母なる世界。鉱石や生産物を積んで地球と植民星を往来する無数の貨物宇宙船。すでに外惑星を探し回り、原料の新しい供給源を確保するために、幹部会の名で所有権を主張する調査隊。 「彼はここのすべてが放射能塵で死滅するのを見た。地球への最終攻撃でわれわれの防衛網が破られ、やがて月の基地も全滅してしまうのもな」 「高級将校は月からここへ逃げてくるというのか?」 「かれらが移動を開始するに都合の良い話を吹きこんでやったよ。この連中を扇動するにはいつも数週間はかかる」 「そのアンガーに会いたいな」スティヴンスは思案げにいった。「何とか手段はないかな――」 「会ったじゃないか。彼を激励したろう。覚えていないのか? 彼を見つけてここに連れてきた時のことを」 「ああ、そうか」スティヴンスは穏やかにいった。「あの汚い老人か?」その暗いまなざしがしばたたいた。「あれがアンガーか……これから闘おうとしている戦争の古参兵だな」 「きみらが勝とうとしている戦争だ。地球は負けようとしているが」パタースンは急に窓辺を離れた。「アンガーはここが天王星と海王星間の人工衛星だと考えている。ニューヨークの一部分を再建したものだと――プラスティック・ドームの下に数千人の人々と機械がある。彼は自分に実際に起こったことについてまるで分かっていない。どういうわけか時の進路に沿って投げ戻されたのだ」 「私はエネルギーの解放だと思うね……脱出するための熱狂的な欲求かもしれない。しかしたとえそうであっても、全体があまりにも非現実的だ。それは一種の――」スティヴンスは言葉を探した。「一種の神秘の輪か。一体なんだろう? 天恵か? 天国から来た予言者か?」  ドアが開き金星娘ラフィアが滑り込んだ。「あら」彼女はパタースンを見ていった。「知らなかったわ――」 「構わんよ」スティヴンスは彼女に入るように合図した。「パタースンを覚えているだろう。きみを助けた時、車に一緒にいた」  ラフィアは数時間前と見違えるほど元気になっていた。彼女の顔にはもう引っ掻き傷はなく髪も梳《と》かされていた。新品のグレイのセーターとスカートに替えていた。スティヴンスに歩み寄る彼女の緑の皮膚は輝いていたが、まだ緊張し不安げだった。「ここに留まります」彼女は受け身でパタースンにいった。「ちょっとの間でもあそこには戻れません」彼女はスティヴンスに訴えるような素早い視線を走らせた。 「地球に身寄りがないんだ」スティヴンスは説明した。「彼女は二級生化学者としてここに来た。シカゴ郊外のウエスチングハウス研究所で働いていたんだ。ニューヨークヘ買物旅行にやって来た。それが間違いだった」 「デンヴァーの金星人居留地に入れなかったのか?」パタースンは尋ねた。  スティヴンスは顔を紅潮させた。「このまわりに水かきを増やしたくないのか?」 「彼女に何が出来る? 安全な保護場所がない。彼女を貨物急行ロケットでデンヴァーに送れない理由はあるまい。誰もそれを妨害しなかろう」 「それは後で議論しよう」スティヴンスは苛立たしげにいった。「もっと重要な話がある。アンガーの書類をチェックしたかい? あれが偽造でないことを確かめたかい? 信用出来ると思う。しかし確かめなければ」 「これは口止めしておく必要がある」パタースンはラフィアを見ながら早口でいった。「外部の人間を入れるべきでない」 「私のことをいっているの?」ラフィアはもじもじして尋ねた。「失礼した方がいいと思うけど」 「その必要はない」スティヴンスは彼女の腕を乱暴に掴みながらいった。「パタースン、口止めは出来ないよ。アンガーはおそらく五十人には話しているだろう。彼は終日公園のベンチに座り、通行人をだれかれなく引き止めては長話をしているんだ」 「それは何なの?」ラフィアは興味深げに尋ねた。 「大したことではない」パタースンは警戒していった。 「大したことではない?」スティヴンスはおうむ返しにいった。「ちっぽけな戦争だ。前売りのプログラムさ」彼の顔をかすめて痙攣《けいれん》が走った。興奮と同情の強い感情が内部から溢れた。「いま賭けてもいい。そんな危険は冒さない。それは請け合う。結局それは歴史だ。そうじゃないか?」彼はパタースンを振り返ったが、その顔は確認を求めていた。「きみは何をいおうが、ぼくは戦争を止められない――きみもそうだよ。違うか?」  パタースンはゆっくりうなずいた。「きみのいうとおりだと思う」悲しげにいった。そして力任せに掴みかかった。  金星人は急に身をかわしたので、パタースンは裾を掴んだだけだった。スティヴンスは冷凍光線銃を抜き出し震える腕で狙いを定めた。パタースンはそれを手から蹴飛ばすと、彼を足下に引きずった。「間違いだったよ、ジョン。アンガーの身分証のチューブをきみに見せなければよかった。知らせるべきではなかった」 「そのとおりだ」スティヴンスはやっと小さな声でいった。パタースンを見つめながら、彼の眼は悲しみに呆然としていた。「いま私は知った。これでわれわれ二人が知った。きみたちは戦争に負けようとしている。たとえアンガーを箱に閉じ込め地球の中心に埋めても、もう遅すぎる。私がここから出るや、カラー・アドの知ることとなるだろう」 「ニューヨークのカラー・アドのオフィスは焼き払われた」 「それならシカゴかボルチモアで見つける。必要とあらば金星に戻るよ。私はこの耳寄りな情報を広めたい。戦争はつらく長いものになるだろう。でもわれわれは勝つ。きみたちには打つ手がないんだ」 「きみを殺すことは出来るんだ」パタースンはそういったが心は激しく動揺していた。まだ遅くはなかった。スティヴンスを阻止し、ディヴィド・アンガーを軍に引き渡せば―― 「何を考えているか分かっているぞ」スティヴンスはあえいだ。「地球が戦わず、きみらが戦争を避ければ、まだチャンスがあるかもしれない」彼の緑の唇が激しく歪んだ。「われわれにも戦争を避けさせようと考えているな? もう遅い! きみらのスローガンに従えば裏切り者だけが妥協するんだ。すでに手遅れだ!」 「そう手遅れだ」パタースンがいった。「ここから出ようとしてもな」彼の手が机上を探り文鎮を掴んだ。それを自分に引き寄せた。すると肘に冷凍光線銃の滑らかな先端を感じた。 「この連中の言葉ではどうなのか分からないけど」ラフィアは銃を手にゆっくりいった。「でもこれはボタンを押すだけだわ」 「そのとおりだ」スティヴンスはほっとしていった。「しかしまだ押すな。もう少し彼と話してみたい。理性を回復させられるかもしれない」パタースンの手を振り放して身を起こすと数歩退き、切れた唇と欠けた歯を手探りした。「きみがこれを持ち込んだのだ、ヴァシェル」 「狂気の沙汰だ」パタースンはどなった。その眼はラフィアの危なっかしい指に揺れている冷凍光線銃の筒先に据えられていた。「負けることが分かっている戦争を始めろというのか?」 「きみたちには選択の自由がない」スティヴンスの眼が光った。「きみたちに戦いをはじめさせるさ。われわれが都市を攻撃すればしっペ返しをくわせるだろう。それが――人間の本性だ」  冷凍光線銃の一発目はパタースンを外した。彼は片側に除け、娘の細い手首に手を伸ばした。その指は空を掴み、冷凍光線は再び発射され、彼は身を伏せた。ラフィアは退き、その眼は恐怖と怯えで見開き、起き上がろうとする彼を盲目的に狙った。彼は飛び起き、怯えた少女に大手を広げた。彼女の指は曲がり、銃の筒先は黒ずみかちっと音がした。それだけだった。  蹴り開けられたドアから、青い服の兵士が冷凍光線の死の十字砲火をラフィアに浴びせた。冷たい微風がパタースンの顔を覆った。冷気が背後で動くにつれ、彼は手を狂気のように上げばったりと倒れた。  ラフィアがわずかに痙攣した。冷気の雲が彼女のまわりに輝く。それから彼女の生命のフィルムが映写機の中で急に止まったかのように、硬直して動かなくなった。彼女の身体から色彩が一斉に消えた。静止した立像のグロテスクなイミテーションは無言で立ったまま、片手を上げむなしい防御姿勢を取っていた。  やがて凍った人柱が爆発した。膨張した細胞が破裂し結晶分子の雨となって、うんざりするほど部屋の隅々まで飛び散った。  フランシス・ガネットは赤ら顔に汗をかきながら、注意深く兵隊の背後から出てきた。 「きみがパタースンか」彼は尋ねると大きな手を差し出したが、パタースンは握手をしなかった。「軍関係者は当然のこととしてわしに報告をくれた。あの老人はどこだ?」 「どこかそのあたりにいるでしょう」パタースンは小声でいった。「護衛付きで」彼はスティヴンスを振り返り、一瞬眼が合った。「分かるか?」パタースンは嗄れ声でいった。「こういうことが起こるんだ。これがきみの本当に望むことか?」 「なあ、ミスター・パタースン」フランシス・ガネットはもどかしそうに太い声でいった。「わしは忙しいのだ。だがきみの文書からこれは重要なことのような気がした」 「そうです」スティヴンスは静かに答えた。彼はハンカチで口から滴る血潮を拭った。「それは月から旅する価値のあるものです。私の言葉を信じて下さい――私は知っているんです」  ガネットの右側に座っている男は中尉だった。彼は黙ってスクリーンを畏敬の眼で見つめている。その若くハンサムな金髪の顔は驚きでいきいきしていた。画面では灰色の霞の峯から、巨大な戦闘宇宙船が大儀そうに動きだした。原子炉の一基は粉砕されており、船首の砲塔は崩れ巨体は亀裂が走っている。 「何たることだ」ネイザン・ウエスト中尉は小声を漏らした。「あれが『風の巨人』か。地球最大の戦闘宇宙船。これじゃ――使いものにならない。全くの退役艦だ」 「あれがきみの宇宙船になるはずだ」パタースンはいった。「二一八七年、金星と火星の連合艦隊にあの宇宙船が破壊された時、きみは司令官だった。ディヴィド・アンガーは部下だった。きみは戦死しアンガーは逃れる。金星と火星のCミサイルによって地球が計画的に破壊されるのを、あの宇宙船の少数の生き残りが月から目撃するはずだ」  スクリーン上には、塵埃の充満した貯水槽の底の魚みたいに人影がとび跳ねたり、くるくる回ったりしている。激しい大渦巻が中心に押し寄せ、エネルギーの旋風が巨大な波動となって宇宙船団を襲った。銀色の地球宇宙船団は逡巡し、次の瞬間爆破された。黒く輝く火星の戦闘宇宙船団は広い防衛線を難なく通り抜け――地球軍の側面は待機していた金星軍に同時に破られた。かれらは共に鋼鉄ペンチのごとく地球軍の残余を挟み撃ちにして粉砕した。光の一閃にも似て地球の宇宙船団は消滅した。荘重な青と緑の天体、地球は緩やかに威厳をもって回転していた。  すでに地球は醜いあばたを見せていた。防衛網を貫通したCミサイルの爆破孔である。  ラマールは映写機をパチンと止め、スクリーンの映像は消えた。「重要場面はそれで終わりだ。入手できたのはこのような映像断片で、アンガーに強い印象を残した短いものだ。連続したものはない。次のフィルムはそれから数年後に人工衛星の一つで撮影したものだ」  明かりが点《つ》き、見物人はぎこちなく立ち上がった。ガネットの顔は血色が悪く、パテのような灰色をしていた。「ドクター・ラマール、あの場面をもう一度見たい。地球の最期だ」彼はやりきれないそぶりをした。「わしの意図は分かろうな」  明かりは消され再びスクリーンは甦った。今度は地球だけを映した。ディヴィド・アンガーの乗った高速度の空雷が外宇宙に突進し、遠ざかる天体は置き去りにされた。アンガーがかつて身を置いた死の世界は最後に映っている。  地球は廃墟と化していた。それを見ている将校グループは息を呑んだ。生きているものはいない。動くものも皆無だった。放射能の死の灰だけが弾孔だらけの地表をあてもなく大きくうねっている。三十億人が住んでいた星は焦げた燃えかすになっていた。瓦礫以外は何もなく、絶え間なく唸る風が空虚な海を横切って吹き過ぎる。 「ある種の植物が地球を支配することになるでしょうね」イヴリン・カッターはかすれ声でいった。スクリーンの映像が消え、頭上の明かりが再び点いた。彼女は激しく身震いし顔をそむけた。 「雑草かも知れない」ラマールはいった。「黒い枯れた雑草が鉱滓《こうさい》の間から突き出ている。おそらく昆虫が後に出てくる。もちろん、バクテリアが先だろう。バクテリアの行動は灰塵を有用な土壌に変えるはずだ。そして何億年間も雨が降り続くだろう」 「それを直視しよう」ガネットはいった。「水かきやカラスは再移住してこよう。われわれ全員が死んだ後、かれらがこの地球に住むのだ」 「われわれのベッドに眠るのか?」ラマールが穏やかに尋ねた。「われわれの浴室、居間や交通機関を使うのか?」 「何をいっているんだ」ガネットは苛立って答えた。彼はパタースンに合図した。「このことはこの部屋にいる人間以外誰も知らないな?」 「スティヴンスは知っている」パタースンはいった。「しかし彼は精神病院に監禁されている。ラフィアも知っていたが、彼女は死んだ」  ウエスト中尉はパタースンに迫った。「アンガーを尋問できないか?」 「そうだ。アンガーはどこにいる?」ガネットは訊いた。「わしのスタッフがぜひ彼に直接面談したいといっているんだ」 「あなたはあらゆる重要な事実を掴んでいる」パタースンは答えた。「戦争が起ころうとした原因も。地球の運命も」 「きみは何をいわんとしているんだ?」ガネットは用心深く訊いた。 「戦争の回避です」  ガネットは栄養のいい丸々肥った身体を竦《すく》めた。「結局のところ歴史は変えられない。これは未来の歴史だ。われわれに選択の余地はない。前進し戦うだけだ」 「少なくとも私たちには応分の責任はあるわ」イヴリン・カッターは冷たくいった。 「何の話をしているんだ?」ラマールは興奮してどもった。「きみの職務は病院にある。関係ないじゃないか?」  彼女の眼は光った。「地球がどうなったか見たでしょう。私たちはやつらのために破滅するのよ」 「それを超えることだ」ラマールは反論した「もしもわれわれがこの憎悪や暴力に引きずられていったら――」彼はパタースンに訴えた。「なぜスティヴンスは監禁されたんだ? イヴリンの方がよほどおかしいのに」 「そのとおりだ」パタースンは同意した。「しかし彼女は地球の人間だ。その程度では閉じ込められないよ」  ラマールは彼から離れて行った。「きみは撃って出て戦おうとしているのか? ガネットや軍隊の側に立って?」 「戦争は避けたいんだ」パタースンはぼんやりいった。 「それが出来るか?」ガネットは訊いた。貪欲《どんよく》な光が薄青い眼の奥で瞬間またたき、それから消えた。 「可能かも知れない。賛成だ。アンガーがここに戻ってくれば新しい要素が加わる」 「もし未来を変えることが出来れば、その時はさまざまな可能性の選択が出来るかもしれない」ガネットはおもむろにいった。「仮に二つの可能的未来があれば、それは無数の未来につながる。各々が異なる点で分岐するからだ」無表情さが顔から消えた。「われわれにはアンガーの戦闘知識が利用できる」 「ぼくに彼と話させて下さい」ウエスト中尉は興奮して口を挟んだ。「水かきの戦術が手に取るように分かるかも知れない。アンガーはおそらく心の中で何千回と戦闘を繰り返したはずです」 「彼はきみを知っている。何といってもきみの指揮下にいたのだ」とガネット。  パタースンは深く考えた。「私はそうは思わない」とウエストに向かっていった。「きみはディヴィド・アンガーより遙かに年上のはずだ」  ウエストは眼をぱちぱちさせた。「どういう意味です? 彼は老いさらばえた老人で、ぼくはまだ二十代だ」 「ディヴィド・アンガーはいま十五歳だ」パタースンは答えた。「この時点できみは彼の二倍の歳を取っている。月の政府職員としてすでに将校だ。アンガーは兵役にさえ就いていない。戦争が起こった時、訓練も経験もない二等兵として志願することになる。きみが年配に達し『風の巨人』号を指揮している時、アンガーは中年の平凡な兵士として砲塔で勤務につき、きみはその名前すら知らないだろう」 「それではアンガーはすでに生きていたのか」ガネットは当惑して訊いた。 「アンガーはどこかその辺にいて舞台に上がるのを待っていた」パタースンは将来の研究のためにその考えを記憶に留めておいた。それは価値が出てくるかもしれなかった。「彼がきみに気づくとは思えないよ、ウエスト。逢うことさえないかもしれない。『風の巨人』は大きな宇宙船だからな」  ウエストは急いで同意した。「盗聴装置をぼくに提供して下さい、ガネット。そうすれば司令部のスタッフはアンガーの話の聴覚的、視覚的イメージを掴めます」  明るい朝の陽射しを浴びながら、ディヴィド・アンガーは憂鬱そうにベンチに座っており、節くれた指でアルミの杖を握り、通行人をぼんやりと見つめていた。  彼の右側では造園ロボットが同じ場所で何度も草を刈っており、その金属眼はいわくありげに、皺だらけの背を屈めた老人を見つめている。砂利道ではぶらついている男たちのグループが、公園中にまき散らされたさまざまの監視装置に手当たり次第コメントを送り、中継装置に伝えている。トップレスの若い女性がプールのそばで陽に灼けながら、公園を歩き回る二人連れの兵士にウインクを送っていた。それらは絶えずアンガーの視界に入ってきた。  その朝は大勢の人々が公園にいた。かれらは半ば眠っている怒りっぽい老人を取り囲むスクリーンの一部に組み込まれていた。 「オーライ」パタースンはいった。彼は車を緑の樹木と芝生の一区画の端に停めた。「彼をあまり興奮させてはいけないことを忘れるな。スティヴンスはアンガーを元通り回復させた。アンガーの心臓がもし悪くなっても、スティヴンスにはもう頼めないぞ」  金髪の若い中尉はうなずくと、しみひとつない青の短い制服をピンと伸ばし、歩道にゆっくりと出た。ヘルメットをかぶり直し、きびきびと大股で砂利道を公園の中央に向かった。彼が近づくとぶらぶらしていた連中が少し動いた。一人ずつかれらは場所を決めた芝生に、ベンチに、プールのあちこちに固まっている。  ウエスト中尉は自動噴水の水飲み器に立ち止まり、冷たい水に口をつけた。彼はゆっくりと歩きだすと、両腕を垂らしてしばらく立ち止まり、若い女性をぼんやり見つめた。その女性は服を脱ぐと、多色彩の毛布をもの憂げに被った。目を閉じ赤い唇を開き、心地よさそうな溜息をついてリラックスした。 「まず、彼に喋らせましょう」数フィート離れたところで、黒いブーツをベンチの端にのせて立っている中尉に向かって、彼女は小声でいった。「話しかけないで」  ウエスト中尉はしばし彼女を見つめ、それから小径に沿って歩きつづけた。通りすがりのがっちりした体格の男が素早く耳打ちした。「急がないで。時間を取ってゆっくり現われて下さい」 「暇で仕方がない印象を与えて下さい」乳母車を押して通り過ぎた、痩せて尖った顔の看護婦が囁《ささや》いた。  ウエスト中尉は出来るだけゆっくりと歩いた。所在なさそうに小径から濡れた植え込みに砂利を蹴った。ポケットに深く手を突っ込み、ぶらぶらと中央プールに行くと、立ち止まってぼんやり中を覗き込んだ。煙草に火をつけ、通りかかったロボットの売り子からアイスクリーム・バーを買った。 「上着に少し垂らした方がいいですよ」ロボットはこっそり助言した。「悪態をつきながら軽く払うんです」  ウエスト中尉はアイスクリームを暑い夏の太陽で溶かした。それが手首から糊の効いた青い制服に垂れると、顔をしかめてハンカチを取り出してプールに浸し、ぎこちなくアイスクリームを拭きはじめた。  ベンチでは顔に火傷のある老人が片眼でそれを見つめ、アルミの杖を握り締めながら甲高い笑い声を立てた。「気をつけなさいよ」彼はぜいぜい喉を鳴らした。「ほらほら!」  ウエスト中尉は心配げに眼を上げた。 「また垂れるぞ」老人は高笑いをし、嬉しげに歯のない口を弛《ゆる》め、いくぶん楽しんでいる様子だった。  ウエスト中尉は人のよさそうな笑顔を浮かべた。「おっと危ない」彼はそれを認め、溶けかけたアイスクリーム・バーを処理穴に捨て、上着を拭《ふ》き終えた。「全く暑いな」彼はそういうと漠然と歩きだした。 「いい日和《ひより》だ」アンガーは鳥みたいな頭で頷《うなず》いた。首を伸ばしウエストを見つめ、この若い兵士の肩に印された階級章を見分けようとした。「あんたはロケット乗組員か?」 「破壊工作隊員だ」ウエスト中尉はいった。その朝だけ彼の肩章は取り替えられていた。「Ba―3分隊だ」  老人は身を震わせた。咳払いをし、近くの植え込みにせかせか唾を吐いた。「ほう、そうか?」興奮と怯《おび》えで半ば身を起こした。中尉は立ち去りかけていた。「おい、わしも昔Ba―3分隊にいたんだ」声を普段のままに落ち着かせようとした。「あんたの生まれる前のことだ」  驚きと疑惑がウエスト中尉の金髪のハンサムな顔をかすめた。「からかわないでくれ。生き残りの先輩がまだ少しはいるんだ。その手には乗らないよ」 「わしも、わしもそうだったんだ」アンガーはぜいぜいいいながら、震える手を急いでポケットに突っ込んだ。「なあ、これを見てくれ。ちょっと見せたいものがあるんだ」恭《うやうや》しく自分のクリスタル・ディスクを取り出した。「これが何だか知っているだろう?」  ウエスト中尉は長いことその勲章を見入った。感情がむき出しになってくる。それを隠せなかった。「それを見せて貰えますか?」彼はやっと訊いた。  アンガーはためらった。「いいとも。手に取ってくれ」  ウエスト中尉は勲章を受け取ると、しばらくその重さを確かめ、滑らかな指先でその冷たい表面に触れていた。やがてそれを老人に返した。「八七年に在役していたんですか?」 「そのとおりだ。覚えているかね?」彼は勲章をポケットに戻した。「いや、あんたはまだ生まれていなかったな。だが聞いたことはあるかね?」 「ええ、何度も」とウエスト。 「覚えていてくれたか? 大部分の人間は忘れてしまったが。わしらがやったことをな」 「その時期は勝てなかったんですね」彼は老人の隣のベンチにそっと腰を下ろした。「地球にとっては不運な時代でした」 「わしらは負けた」アンガーは認めた。「地球を脱出したのはごく少数だった。わしは月へ行った。そこで地球が徐々にだめになるのを見た。そして後には何も残らなかった。わしは悲嘆にくれた。泣き疲れて死人のように横たわっていた。兵士も、労働者も、みんながそこで絶望に駆られて涙を流していた。やがてやつらのミサイルはわしらを狙った」  中尉は乾いた唇をなめた。「司令官は脱出しなかったんですか?」 「ネイザン・ウエスト将軍は所属の宇宙船で死んだ。前線では最も優秀な司令官だった。『風の巨人』号にふさわしい人だった」その老いて萎《しな》びた顔が記憶の中にくすんだ。「ウエスト将軍みたいな人はもう二度と出ないだろう。わしは一度だけ見たことがある。大きないかめしい顔をした肩幅の広い人だった。巨人だった。偉大な老人だった。彼ほどの男は他にいない」  ウエストは躊躇《ちゅうちょ》した。「もし他の人間が指揮していたらとは――」 「とんでもない!」彼は金切り声を上げた「誰にでも出来るものじゃない! 深々とした安楽椅子に座った戦略家がそんなこと話すのを聞いたことがある。だが間違っとる! あの戦いに勝てる者などいない。わしらにはチャンスがなかった。数で叶わなかった。五対一だった――敵は二つの巨大宇宙艦隊を持ち、その一方がわしらの中心を真っ向から攻め、もうひとつはわしらを噛み砕き、呑み込むため待機してたんだ」 「それで」ウエストはだみ声でいった。どうしてよいか分からないが仕方なく続けた。「その戦略家はいったいどんなことをいったんですか? そんな話は上司にも聞いたことがない」彼は笑おうとしたが無理だった。「われわれは戦いに勝てたし、『風の巨人』も救えたかも知れないと聞いていました。しかし――」 「いいかな」アンガーは窪んだ眼を異常に輝かせ熱心に説いた。アルミの杖の先で足下の砂利の中に乱暴な線を引きはじめた。「この前線にわが艦隊がいた。ウエスト将軍は艦隊をどう配列したか覚えているか? あの時代、艦隊を操作する参謀だった。天才だ。全滅するまで十二時間持ち応えた。そこまでやれるチャンスを持てたとは誰も思わなかった」アンガーは乱暴にもう一つの線を引いた。「あれはカラスどもの宇宙艦隊だった」 「なるほど」ウエストは呟いた。彼は身体を傾け、胸のレンズで砂利道に描かれた乱れた線を映し、頭上をゆっくりと旋回している小型機の監視センターに映像を送ろうとした。そこから月の中央司令部に転送するのだ。「それで水かきの宇宙艦隊は?」  アンガーは抜け目なく彼の表情を窺《うかが》うと、急に恥ずかしげにいった。「あんたを退屈させないかね? 年寄りの繰り言でな。ときどき人を退屈させ、貴重な時間をつぶしてしまうんだ」 「そんなことはありません」ウエストは答えた。それは本心だった。「その配置図を続けて描いて下さい――見てますから」  イヴリン・カッターは腕を組み、怒りで赤い唇をかみしめ、ソフトな明かりのアパートの自室を歩き回っていた。「あなたが理解出来ないわ!」彼女は立ち止まり、重いカーテンを降ろした。「この間はスティヴンスを進んで殺そうとしたわね。いまはラマールを阻止する手助けさえしない。ラマールが事態を掴んでいないのは知っているでしょう。彼はガネットが嫌いで、科学者の惑星間組織や、全人類への私たちの義務や、その行動方法についてつまらないお喋りをしているわ。スティヴンスが彼の言動を知っているかどうか、あなたには分からないかしら――」 「おそらくラマールは正しいよ」パタースンはいった。「ぼくもガネットは嫌いだけど」  イヴリンは激怒した。「私たちは全滅するのよ! とてもかれらと戦争などできるものでないわ――勝利の機会なんてほんの僅かもないのよ」彼女はパタースンの前で立ち止まると眼を輝かせた。「だけどかれらはまだそれを知らない。少なくともしばらくはラマールの口を封じておきたかったわ。彼はいつも気ままに歩き回って、この世界を危険に陥れようとしているでしょう。三十億人の生命がこれを隠し通せるかどうかにかかっているのよ」  パタースンは考え込んでいた。「ガネットは今日ウエストが試みた最初の調査を、きみに説明したはずだ」 「大した成果はなかったわ。老人は戦闘の模様をすっかり暗記しているの。地球は全滅したのよ」彼女はうんざりしたように額を擦《こす》った「全滅することになるという意味よ」痺《しび》れた指で空になったコーヒー・カップを集めた。「コーヒーをもう一杯どう?」  パタースンは耳に入らなかった。自分の考えに集中していた。部屋を横切って窓辺に行くと、彼女が新しいコーヒーを入れて戻るまで外を見つめていた。 「ガネットがあの娘を殺すのを、きみは見なかったな」パタースンはいった。 「どんな娘? あの水かき娘?」イヴリンは自分のコーヒーの砂糖とクリームをかき回した。「彼女はあなたを殺そうとしたわね。スティヴンスはカラー・アドに放火するでしょうよ。それで戦争が起こるわ」苛立ちながら彼女はコーヒー・カップを彼に押しやった。「とにかくあれは私たちが救った娘よね」 「そうだ。それで悩んでいるんだ」彼は無意識でコーヒー・カップを取り上げると味もみないですすった。「暴徒から彼女を救った目的は何だった? ガネットの仕事のためだ。われわれはガネットの部下だからな」 「それで?」 「彼が演じたゲームがどんなものか知っているだろう!」  イヴリンは肩をすくめた。「私はただ現実的なだけよ。地球を滅ぼそうなんて思わないわ。ガネットもそうでしょうよ――戦争は避けたいはずよ」 「彼は数日前には戦争する気だった。勝てると思った時はね」  イヴリンは高笑いした。「もちろんよ! 負けると分かっている戦争をやる者がいる? そんなの馬鹿げているわ」 「いまガネットは戦争を控えている」パタースンはやっと認めた。「植民星を独立させ、カラー・アドを認知する。ディヴィド・アンガーと彼を知る者を抹殺する。優しい平和主義者を装うはずだ」 「もちろんよ。彼はすでに金星への人気取りの旅を計画しているわ。戦争を防ぐためカラー・アドの幹部と土壇場の会議を開催する気よ。幹部会に手を引くよう圧力をかけ、火星と金星の仲を裂こうとするでしょう。彼は太陽系の偶像になるわ。でも地球が破滅し、人類が全滅するよりましじゃない?」 「いまや巨大な機械は戦争反対に唸《うな》りを立てて回りはじめるか」パタースンの唇は皮肉っぽく歪んだ。「憎悪と破壊的暴力の代わりに平和と妥協か」  イヴリンは椅子の肘掛けに腰かけ、急いで計算した。「デイヴィド・アンガーは兵役に就いた時いくつだったかしら?」 「十五歳か、十六歳だ」 「兵役に就く時は自分の身分証番号を貰うんだったわね?」 「そのとおり。それで?」 「たぶん私の間違いね。でも私の計算によれば――」彼女は顔を上げた。「アンガーはもうすぐ現われて番号を要求するはずよ。その番号は数日内に出てくるわ。兵籍登録の処理能力の早さで決まるけど」  奇妙な表情がパタースンの顔をかすめた。「アンガーはもう生まれていて……十五歳の少年だ。若いアンガーと老いた退役軍人のアンガー。両方とも同時に生きていることになる」  イヴリンは身を震わせた。「気味悪いわ。もしお互いが出会ったら? 二人の間の違いが大きすぎるわ」  パタースンは心の中で、眼を輝かせた十五歳の少年像を描いた。戦闘に熱中しているアンガーを。理想主義的情熱で水かきやカラスの群れに飛び込み、殺戮《さつりく》しようと構えているアンガーだ。この瞬間にアンガーは迷わず新兵徴募所に向かっている……そして片目で腰の曲がった八十九歳の老残の身は、アルミの杖をつき他人に聞かせる哀れな声を呟き、よぼよぼと病室から公園のベンチにためらいながら歩いている。 「眼を離さないことだ。番号が出た時は知らせてくれるように、軍の関係者に頼んでおいた方がいい。アンガーが申請に来た時の用意にね」  イヴリンはうなずいた。「それはいいアイデアだわ。たぶん人口調査局にチェックを依頼しておくべきね。おそらく所在を確認でき――」  彼女は言葉を切った。アパートメントのドアが静かに開いた。エドウィン・ラマールがノブを握り、薄暗い中で赤い眼をしばたたいていた。荒い息遣いをしながら彼は部屋に入って来た。「ヴァシェル、話したいことがある」 「何だい?」パタースンは訊いた。「何かあったのか?」  ラマールは激しい憎悪の眼でイヴリンを睨《にら》んだ。「彼がそれを見つけたぞ。そうすることは分かっていた。その分析結果とテープに納められたすべてを入手すれば、すぐ――」 「ガネットが?」冷たい恐怖がパタースンの背筋を刺した。「ガネットは何を見つけたんだ?」 「戦争の開始時期だ。あの老人が口走ったんだ。五隻の宇宙船団、カラスの艦隊の燃料、護衛なしの戦線への移動。アンガーによれば、わが方の斥候《せっこう》がミスを犯すんだそうだ」ラマールは嗄《しゃが》れた声で興奮していた。「彼はいうんだ、予《あらかじ》め知っていれば――」彼は必死の努力で立ち直ろうとした。「その時撃滅出来るとね」 「分かった」パタースンはいった。「そして地球の好意ある均衡を崩すんだな」 「ウエストがやつらの船団のルートを予測出来たら、地球は戦争に勝てる。それはガネットが戦うことを意味している――正確な情報を入手次第直ちにだ」とラマールは話を締めくくった。  スティヴンスは精神病棟の椅子兼テーブル兼ベッドの一人用ベンチにうずくまって座っていた。濃緑の唇には煙草がぶら下がっている。立方体の部屋は禁欲的で殺風景だった。四方の壁は鈍く輝いている。ときおりスティヴンスは腕時計を見ては、入口のロックの密閉された縁辺《えんぺん》を上下するものに注意を注いでいた。  それはゆっくりと慎重に動いている。二十九時間連続して施錠を調べていた。その場所の厚い金属板に溶接してある電線をたどっていく。端末にあと一インチのところまでレクストロイドの表面を切り開いていた。その這い回りながら調べ上げていた小物体は、スティヴンスの外科用手術機器、いつも右手首につけている精密な万能ロボット・ハンドだった。  それも今はそこになかった。彼はそれを引き剥がすと、出口を探すために部屋の壁を隈なく這い回らせていた。金属指で滑らかな鈍色の壁に不安定に取り付き、カッターの親指で苦労して出口を掘っていた。ロボット・ハンドにとっては大仕事だった。この後は手術台ではあまり使えそうもない。しかしスティヴンスは別のを簡単に入手出来る――それは金星の医療機器店ならどこにでも売っている代物だった。  ロボット・ハンドの人差し指は陽極の端末に届き、迷ったように休んだ。残りの四本の指を立て昆虫の触角みたいに揺らす。一本ずつ削った穴に差し込み、近くの陰極を確かめた。いきなりめくるめく閃光が走る。刺激臭のある白煙が沸き上がり、それからポンという鋭い音がした。入口のロックは効かなくなり、ロボット・ハンドは仕事を終え床に落ちた。スティヴンスは煙草を消すとのろのろ立ち上がり、それを拾いに部屋を横切った。ロボット・ハンドを自分の神経筋肉組織の一部みたいに動かしながら、スティヴンスは極めて慎重にロックの外延を掴み内側に引いた。ロックは抵抗もなく開き、彼はひとけのない廊下に出た。物音も動きもなかった。警備員もいない。精神病患者をチェックする組織もなかった。スティヴンスはぴょんぴょん跳びながら角を曲がり、一連の接続通路を進んだ。  すぐに町並みや周囲の建物、病院の敷地の見下ろせる大きな眺望窓に出た。  彼は腕時計、ライター、万年筆、鍵、コインを集めた。それらを使いながら敏捷な指先とロボット・ハンドで、複雑な形をしたワイヤとプレートをすばやく作った。カッテイングの親指をぽきりと折ると、それでその場所の電極を回した。人目につかない窓棚の下方、廊下から見えないところ、床から離れたところにある監視装置を慌《あわただ》しく溶解させた。  廊下を進んで行くと、物音に緊張して立ち止まった。人の声でいつもの病院警備員と別の人間だった。聞き慣れた声だった。  彼は精神病棟に戻り密閉された部屋に入った。磁気ロックは何とか働いており、締め金がショートして熱が生じていた。足音がして部屋の外で停まった時、彼はそれを切った。ロックの磁場は消えたが、当然訪問者は知らなかった。訪問者は磁場があると思い、慎重にそれを無効にする作業をはじめ、スティヴンスは楽しげに耳をそば立てた。やがてロックが押し開けられた。 「どうぞ」スティヴンスはいった。  ドクター・ラマールが片手にブリーフケース、片手に冷凍光線銃を持って入ってきた。 「ぼくと一緒に来ないか。すべてを準備してある。現金、偽の身分証、パスポート、切符、許可証。きみは水かきの商人として通る。ガネットにばれるまでには軍監視装置を通り抜け、地球の司法権外に出ているよ」  スティヴンスは驚いた。「しかし――」 「急ぐんだ!」ラマールは冷凍光線銃を振って、彼に廊下に出るよう合図した。「病院の幹部として精神病棟に顔がきくんだ。法的にきみは精神病患者として登録されているが、ぼくはそうは思わない。いずれにしろそういう訳でここに来たんだ」  スティヴンスは疑わしげな目付きをした。「きみは自分の行動が分かっているんだろうね?」彼はラマールに付いて廊下に出て、呆然たる顔のガードマンの前を過ぎ、エレヴェーターに乗った。「きみは捕まれば裏切り者として処刑されるぞ。あのガードマンはきみを見たし――きみはこの平和をどうやって守ろうとしているのか?」 「守れるとは思わないね。ガネットがここにいるのは知っているだろう。彼と部下があの老人を徹底的に調べているんだ」 「どうしてそれを私に話すんだ?」二人は傾斜路を下りて半地下の車庫に行った。係員はラマールの車を出してくれ、かれらはそれに乗り込み、ラマールが運転した。「私が精神病棟に放り込まれた理由は知っているな」 「これを持っていたまえ」ラマールは冷凍光線銃をスティヴンスに投げると、トンネルを通って地表に出て、明るい真昼のニューヨークの車の往来に入った。「きみはカラー・アドと連絡を取り、地球が必ず負けることを知らせようとしていた」大通りから車を脇道に乗り入れ、惑星間のスペースフィールドに向かった。「妥協の働きかけをやめ、猛攻撃するようかれらに話すんだ――直ちにな。全面戦争だ。いいな?」 「了解。結局、われわれが勝利を確信すれば――」 「きみは確信していないな」  スティヴンスは緑の眉を上げた。「えっ? 私はアンガーが完敗した戦争の古参兵の一人だと思っているよ」 「ガネットは戦争の道筋を変えようとしている。開始時期は分かった。正確な情報を得れば直ちに幹部会に圧力をかけ、金星と火星の徹底的攻撃に入るだろう。戦争は避けられないよ。いまでなくとも」ラマールは急ブレーキをかけて、車を惑星間フィールドの端に停めた。「まず戦争は避けられないとしても、不意打ちによって起こるとは誰も考えていない。きみならその植民地行政機構に、地球の宇宙艦隊が接近中だと伝えることはできる。かれらに準備をしておくように話せよ。話すんだ――」  ラマールの声は小さくなって消えた。ゼンマイの緩んだ玩具みたいに、彼は座席にぐったりして静かに身体を滑らし、ハンドルにそっと頭を置いた。その眼鏡が鼻から床に落ちた。すぐにスティヴンスは元に戻した。「すまん。きみのいうことはよくわかるが、それは反則だ」  彼はラマールの頭蓋の表面をちょっと調べた。冷凍光線銃の衝撃波は脳髄まで届いていない。ラマールはひどい頭痛ぐらいで数時間で意識を取り戻すだろう。スティヴンスは冷凍光線銃をポケットに入れ、ブリーフケースを掴むと、ラマールのぐったりした身体を運転席から押し出した。それからエンジンをかけ車をバックさせた。  病院に急いで戻りながら腕時計を見た。それほど遅くなかった。彼は屈むと、ダッシュボードに備えつけのヴィデオ・フォーンに二十五セントを入れた。機械的なダイアル操作の後、カラー・アドの受付が画面にちらついた。 「こちらスティヴンス。事態は悪くなった。私は病院から連れ出された。いまそこに戻る途中だ。時間には間に合うはずだ」 「振動装置は組み立てられますか?」 「もちろん組み立ててある。だが私じゃない。私はそれを磁気溶剤で融合し、分極化した。すでに稼働準備はできている――そこに戻れたらすぐにでも」 「最後に障害があります」緑色の皮膚をした娘がいった。「これは閉回路ですか?」 「開回路だ」スティヴンスは認めた。「しかし公衆電話でおそらく盗聴はない。そこに隠しマイクを置くのは成功しなかった」彼は装置に固定された保証シールのある電流計を調べた。「まだ使われていない。それで」 「ロケットはその町であなたを拾い上げることはできないでしょう」 「ちくしょう」とスティヴンス。 「自力でニューヨークを脱出するしかありません。そこではあなたを助けられません。暴徒はニューヨーク空港の施設を破壊しました。あなたは車でデンヴァーに向かって下さい。宇宙船はその近くに着陸します。そこが地球での私たちの最後の拠点です」  スティヴンスは唸《うな》った。「運を天に任すしかないな。私がやつらに捕まったら、どんなことになるかわかっているな?」  彼女はちょっぴり微笑んだ。「すべての水かきは地球人から同じように見られています。私たちは見境なく吊るされるでしょう。みんな一緒です。では幸運を祈ります。お待ちしてますわ」  スティヴンスは怒って通信回路を壊し、車の速力を遅くした。薄汚い脇道の公共駐車場に車を停めると、急いで飛び出した。彼は公園の芝生の端にいた。その向こうに病院の建物が聳《そび》えている。ブリーフケースをしっかり握り締めると、中央出口に駆けて行った。  ディヴィド・アンガーは袖で口を拭《ぬぐ》うと、ぐったりと椅子にもたれた。「わしは知らん」彼は繰り返した。その声は弱々しく掠《かす》れていた。「もうこれ以上覚えていないといったろう。かなり昔のことだ」  ガネットは合図した。将校たちは老人から離れて行った。「戦争は近づきつつある」彼は疲れ切っていった。額の汗を拭った。「ゆっくりと確実に。あと三十分以内に望みのものを手に入れなくてはならん」  治療所の一角が軍の星図室になった。星図の表面には水かきとカラスの艦隊の集団を表す駒が並べられていた。地球の宇宙船を表す白く光る駒は、太陽系第三衛星のまわりの隙間のない輪の中に並んでいる。 「この近くのどこかだ」ウエスト中尉はパタースンにいった。赤い眼、顎の不精髭、疲労と緊張で手を震わせ、星図の一角を指さした。「アンガーは将校たちがこの船団について話していたことを覚えている。船団はガニメデ〔木星の第三衛星〕の供給基地を飛び立った。それは計画的にいくつかのでたらめなコースに消えた」彼の手がその星域を撫でた。「その時地球には誰も注意を払う者はいなかった。見失ってから気がついた。何人かの軍のエキスパートはそれを思い出して星図を書き、テープに吹き込み回覧した。将校が集まりその事件を分析した。アンガーは船団のコースがエウロパ〔木星の第二衛星〕の近くだと考えていた。しかしそれはカリスト〔木星の第四衛星〕だったかも知れない」 「それじゃ充分じゃない」ガネットはどなった。「今までのところ、その時の地球の戦略参謀が持っていたルート・データ以外は入手していない。必要なのは事後に公表された正確な知識と基礎資料だ」  ディヴィド・アンガーは水のグラスをぎこちなく掴んだ。「ありがとう」若い将校の一人がそれを手渡すと感謝をこめて呟いた。「もっとお役に立ちたいと願っている」彼は悲しげにいった。「わしも思いだすように努めている。だが昔みたいにはっきりと頭に浮かんでこない」その萎びた顔は無駄な集中力で歪んだ。「あの船団は一種の流星雨のため火星のそばでストップしたはずだ」  ガネットは前に乗り出した。「それで」  アンガーは悲しげに訴えた。「できるだけ役立ちたい。戦争について本を書こうとする人は多いが、みんな他人の本からの孫引きだ」腐食された顔には哀れっぽい感謝の念が浮かんだ。「あんたの著書にはわしの名前が残ることになる」 「そうだな」ガネットは打ち解けていった。「きみの名は第一頁に書こう。写真も載せられるかもしれない」 「あの戦争については一部始終知っている。時間を貰えれば整理してみる。時間さえあればベストを尽くすのだが」  老人は急速に元気がなくなった。その皺だらけの顔は不健康な灰色をしている。乾いたパテみたいな肉体は、脆《もろ》い黄色の骨にへばり付いている。喉をぜいぜいさせた。ディヴィド・アンガーが死にかけているのは、誰の目にも明らかだった。 「もし彼が思い出す前にくたばったら」ガネットは穏やかにウエスト中尉にいった。「わしは――」 「何の話だ?」アンガーが鋭く尋ねた。その見える片目は急に険しく用心深くなった。「よく聞こえないが」 「不明な部分を穴埋めすることだ」ガネットは疲れたように言い、振り返った。「状況が分かるように星図のそばに連れて行ってやれ。いくらか助けになるだろう」  老人はやっと立ち上がると、テーブルによろよろ進んだ。技術者と高級将校がその周囲を取り巻いた。かすんだ眼の心もとない姿が視界から消える。 「そう長くはもつまい」パタースンは遠慮会釈なくいった。「休ませなければ心臓が参ってしまうぞ」 「まず情報を得ることだ」ガネットがいい返し、パタースンを睨んだ。「他の医者はどこだ? ラマールには電話したはずだ」  パタースンはちらりと見回した。「彼を見かけない。おそらく我慢できなかったんだ」 「ラマールは来るはずない」ガネットは感情抜きでいった。「呼びにやるべきかどうか迷っている」彼はイヴリン・カッターを指さした。彼女は到着したばかりで蒼白な顔をし、眼には黒い隈《くま》を作り呼吸もせわしなかった。「彼女の意見では――」 「いまとなっては問題じゃないわ」イヴリンはそっけなくいうと、すばやい一瞥《いちべつ》をパタースンにくれた。「あなたやあなたがたの戦争とは関わりたくないのよ」  ガネットは肩をすくめた。「とにかく通常の防衛網を送る。安全地帯の確保だけだ」彼は離れて立っているイヴリンやパタースンを残して立ち去った。 「聞いてよ」イヴリンは嗄れ声でいった。その唇は熱くかれの耳元に寄せられた。「アンガーの番号が出てきたわ」 「いつきみに知らされた?」パタースンは訊いた。 「私がここに来る途中よ。あなたにいわれたことをやったわ――軍の事務員と一緒に手配したのよ」 「どのくらい前?」 「たった今よ」イヴリンの顔は震えた。「ねえ、ヴァシェル。彼はここにいるわ」  すぐにパタースンは事態をのみ込んだ。「アンガーをここに送り込んだというのか? この病院に?」 「私はそれを話したのよ。アンガーが進んで情報を提供する気になった時、その番号が明らかになった時に――」  パタースンは彼女の腕を掴むと、急いで治療所から外の明るい陽光の中に出た。彼女を傾斜路に押し上げぴったりくっついていた。「彼をどこにおさえてある?」 「一般用応接室よ。お決まりの身体検査だって話したわ。簡単なテストだと」イヴリンは怯えていた。「どうしたらいいかしら? 何とか打つ手はあるかしら?」 「ガネットもそう考えるよ」 「もし私たちが――アンガーを足止めしたら? 寄せつけないことが出来るかも?」彼女はぼんやりした頭を振った。「どんなことが起こるのかしら? ここに彼を閉じ込めておいたら未来はどうなるの? あなたなら彼を軍務に就かせないことができるわ――ドクターだから。彼の健康カードに小さな赤い要検査マークがあるのよ」彼女は狂ったように笑いはじめた。「私はいつも見ているの。小さな赤い要検査マーク。もうディヴィド・アンガーはおしまいよ。だからガネットは彼に会うこともないわ。地球は勝てないし、勝つとしてもずっと先のことなど知る由もないわ。それにスティヴンスを狂人として閉じ込めてはおけないわ。あの水かき娘だって」  パタースンは平手で彼女を張り飛ばした。「黙れ。元気を出すんだ! もうそんな時間はないんだ!」  イヴリンは震えた。彼はその身体を捕まえると、顔を上げるまでしっかりと掴んでいた。赤いみみずばれが彼女の頬に現われた。「ごめんなさい」彼女はやっと小声でいった。「ありがとう。もう大丈夫だわ」  エレヴェーターは中央フロアに着いていた。ドアが開きパタースンは彼女を廊下に導いた。「きみは彼に会わなかったのか?」 「ええ。私がその番号が現われたのを知らされた時、彼はまだ来ていなかったわ」イヴリンは息を切らせてパタースンを追いかけた。「できるだけ急いできたけど、もう遅いかもしれない。待つのに飽きて帰ったかもしれないわ。まだ十五歳の少年ですもの。戦闘に参加したがっていたの。おそらく行ってしまったわ」  パタースンはロボット係員を止めた。「忙しいか?」 「いいえ」ロボットは答えた。  パタースンはロボットにディヴィド・アンガーの身分証番号を与えた。「中央応接室からこの男を連れてきてくれ。ここに来たらこの廊下を閉鎖しろ。両側を封鎖し、誰も出入りさせるな」  ロボットはあいまいなカチッという音をさせた。「他に命令はありませんか? 私の思考は完全ではありませんので――」 「後でまた指示する。彼のことは誰にも知らせるな。ここで二人だけで会いたいんだ」  ロボットは番号に目を通し、それから応接室に消えた。  パタースンはイヴリンの腕を握った。「怖いか?」 「怖いわ」 「ぼくがうまくやる。きみはそこに立っているだけでいい」彼女に煙草を渡した。「二人のために一本火をつけてくれ」 「三人よ多分。一本はアンガーに」  パタースンはにやりとした。「彼は若すぎやしないか? まだ喫煙年齢になっていない」  ロボットは戻ってきた。連れてきたのは金髪でふくよかな顔をした青い眼の少年で、その顔には当惑の皺が寄っていた。「ぼくに用事ですか、ドクター?」彼は不安げにパタースンに近づいた。「ぼくにどこか悪いところがありますか? ここに来るようにいわれましたが、何のためか話してくれませんでした」彼の不安は津波となって押し寄せる。「兵役からぼくを締め出すことは何もないでしょうね?」  パタースンは少年の新しく刻印された身分証をひったくり、番号を見てからイヴリンに渡した。彼女は麻痺した指でそれを受け取った。その眼は金髪の少年に注がれていた。  少年はディヴィド・アンガーではなかった。「きみの名前は?」パタースンが訊いた。  少年は恥ずかしげに名前を口ごもった。「バート・ロビンスン。ぼくの身分証には書いてありませんか?」  パタースンはイヴリンの方を向いた。「これは正しい番号だ。しかしアンガーじゃない。何か起こったんだ」 「ねえ、ドクター」ロビンスンがぶっきらぼうに尋ねた。「兵役からぼくを締め出すものがあるんですか? 教えて下さい」  パタースンはロボットに合図した。「廊下の封鎖を解け。終わりだ。元の仕事に戻っていい」 「納得いかないわ」イヴリンは呟いた。「意味がわからないわ」 「きみはもういいよ」パタースンは少年にいった。「徴兵許可を報告しておく」  少年の顔がほっとしてゆるんだ。「ありがとう、ドクター」彼は少しずつ下りの傾斜路に向かった。「本当に感謝します。決死の覚悟で水かきをやっつけます」 「さてどうするの?」少年の広い背中が消えた時、イヴリンははっきりいった。「ここからどこへいくの?」  パタースンは身体を揺すって元気を取り戻した。「人口調査局にチェックさせよう。アンガーの身元を突き止めるんだ」  送信室には映像と報告の不明瞭な低音が響いていた。パタースンは肘で押し開け、開回路で呼び出しをかけた。 「その情報提供にはしばらく時間がかかります」人口調査局の女性は告げた。「このままお待ちになりますか? それともこちらからかけ直しましょうか?」  パタースンは携帯電話を掴み上げると、襟にクリップで留めた。「アンガーについての情報が見つかり次第、すぐこちらに連絡してくれ。この電話を直ちに呼んでくれ」 「はい、わかりました」その女性は従順に答えると回路を切った。  パタースンは部屋を出て廊下に向かった。イヴリンは急いで後を追った。「これからどこへ行くの?」彼女は尋ねた。 「治療所だ。あの老人と話したい。尋ねたいことがあるんだ」 「ガネットもそうしているわ」イヴリンは一緒に地階に下りながら息を詰まらせていった。「あなたがどうして――」 「ぼくは現在のことが訊きたいんだ。未来じゃない」かれらはめくるめく午後の日射しの中に出た。「いま進行しつつある事柄を尋ねたい」  イヴリンは彼を止めた。「それを私に説明してくれないの?」 「ぼくは仮説を持っているんだ」パタースンは急いで彼女の背を押した。「さあ、手遅れにならないうちに」  二人は治療所に入った。技術者と将校が巨大な星図机の周囲に立ち、計算機やメーター表示ラインを調べている。「アンガーは?」パタースンは尋ねた。 「ここにはいないよ」将校の一人がいった。「ガネットは今日の尋問を諦めた」 「どこへ行った?」パタースンは悪態をつきはじめた。「何があったんだ?」 「ガネットとウエストは老人を本館に連れ戻した。あまりにも疲れ切っていて、これ以上続けるのは無理だった。あらまし情報は手に入れた。ガネットは癇癪《かんしゃく》を起こしたが、待った方が賢明だ」  パタースンはイヴリン・カッターの腕を掴んだ。「きみは全緊急警報を作動させてくれ。あの建物は包囲した。急げ!」  イヴリンはぽかんと口を開けて彼を見た。「でも――」  パタースンは彼女を無視し治療所を飛び出すと、病院本館に向かった。目の前に三人の人影がゆっくりと歩いていた。ウエスト中尉とガネットが老人を挟んで歩いていた。よろよろ進むアンガーを支えていた。 「離れろ!」パタースンは大声で叫んだ。  ガネットが振り返った。「何があったんだ?」 「彼を離すんだ!」パタースンは老人に向かって突進した――しかし手遅れだった。  エネルギーの爆発が老人を貫いた。高温を発しためくるめく白い炎の輪が全身を包む。老人の背を屈めた姿が揺れ動き、やがて黒焦げになった。アルミの杖が溶けて塊になる。老人は煙を吹き出した。身体がひび割れし、縮んでいった。それから極めて緩慢に水分が抜け、干からびた塊は軽い灰の山に変わる。徐々にエネルギーのサークルは消えていった。  ガネットはあてもなくそれを蹴っていた。その厳しい顔はショックと不信で麻痺している。「彼は死んだ。手がかりを失ってしまった」  ウエスト中尉はまだ燻《くすぶ》っている灰燼をじっと見つめていた。その唇を歪めていった。「もう事実を知ることはできないでしょう。それを変えることも不可能です。われわれは勝てません」そしていきなり指で上着を掴んだ。階級章をむしり取り、四角い布切れを乱暴に投げ捨てた。「私は命を捨てるようなことは断じてしません。そんなことをすれば、あなたが太陽系を窮地に追い込むのを助けるだけだ。死の罠《わな》には足を踏み入れるつもりはない。私を除外して下さい!」  全緊急警報の泣くような唸《うな》りが病院の建物から鳴り響いた。慌てふためいた人々がガネットの方に走ってくる。兵士、病院の警備員たちが混乱し、急いで逃げてきた。パタースンはかれらには何の関心も払わなかった。彼の眼は真上の窓に据えられている。  そこには何者かがいた。男は器用な手つきで、午後の太陽に反射する物体を動かしている。その男はスティヴンスだった。金属とプラスチック製の物体を外すと、それを持って窓を離れ姿を消した。  イヴリンはパタースンに走り寄った。「何なの――」彼女はアンガーの死骸を見て悲鳴を上げた「まあ、誰がやったの? 何者なの?」 「スティヴンスだ」 「ラマールは彼を放免すべきでなかったわ」涙が眼に溢れ、声はヒステリックに甲高くなった。「あの男ならやりかねないといったでしょ! あなたに警告したはずよ!」  ガネットは子供っぽくパタースンに助けを求めた。「われわれはどうすればいいのか? 彼は殺されてしまったんだ」怒りが急にこの大物の恐怖を一掃した。「この星の水かきどもを皆殺しにしてやる。やつらの住まいを焼き払い吊るしてやる。わしは――」彼は怒りでどもった。「しかしもう遅くはないか? 何も打つ手はない。負けたんだ。打ちのめされたんだ。戦争がまだはじまりもしないのにな」 「そのとおりだ」パタースンはいった。「もう手遅れだ。あんたのチャンスは去った」 「彼に喋らせることができたら――」ガネットは絶望的に唸った。 「あんたには無理だ。不可能だった」  ガネットはまばたきした。「どうしてだ?」生まれつきの動物的|狡猾《こうかつ》さが滲み出た。「どうしてそんなことをいうんだ?」  パタースンの襟の携帯電話が大きく鳴った。「ドクター・パタースン」交換手の声がした。「人口調査局から至急の呼び出しがかかっています」 「つないでくれ」パタースンは答えた。  人口調査局の事務員の声がキンキン響いた。「ドクター・パタースン。ご依頼の情報です」 「それは何だ?」パタースンは訊いた。しかしもうその答を知っていた。 「得られた結果を確かめるためにクロスチェックをしてみました。ご依頼の人物は存在しません。ご説明のあった、確認できる特徴を備えたディヴィド・L・アンガーなる人物の記録は、現在も過去も存在しません。頭脳、歯、指紋も、現存するファイル中に該当するものはありません。お望みの――」 「いや」パタースンはいった。「予想したとおりの答だ。それでいい」彼は電話のスイッチを切った。  ガネットはぼんやりと聞いていた。「これは全くわしの頭では無理だ、パタースン。説明してくれ」  パタースンは彼を無視した。うずくまるとディヴィド・アンガーだった灰燼を突いた。そしてすぐにまた電話のスイッチを入れた。「この灰燼を階上の分析室に運んでくれ」彼は静かに命じた。「ここに一チームすぐ寄越してくれ」ゆっくりと立ち上がると、優しくつけ加えた。「それからぼくはスティヴンスを捜しに行く――見つかればだが」 「彼はもう金星に向かっているところよ」イヴリン・カッターは苦々しくいった。「さて、これで一件落着。すべては後の祭りよ」 「戦争への道を歩んでいるわけだ」ガネットは認めた。彼はゆっくりと現実に戻ってきた。懸命の努力で周囲の人々に焦点を据えた。白い長髪を梳《と》かし、上着を整える。威厳ある風格が、昔の印象的な外見に戻ってきた。「われわれは人間らしく戦争と対決するのがいい。それから逃げようとしても無駄だ」  病院ロボットのチームが焼け焦げた残骸に近付き、堆積物の中から慎重にサンプルを集めはじめた。パタースンは脇に避けた。「完全な分析をしてくれ」彼は業務を担当している技師にいった。「基礎細胞組織を破壊するんだ。特に神経組織をな。わかったことをできるだけ早く報告してくれ」  ほぼ一時間かかった。「自分の眼で見てください」分析室の技師がいった。「これです。素材はいくつかわかりました。信じられません」  パタースンは乾いた脆い有機成分を受け取った。何か海洋生物の燻製《くんせい》の皮みたいだった。それは手の中で簡単に崩れた。試験器具の中に落とすと、ポロポロと粉末状になった。「そうか」彼はゆっくりといった。 「かなり良質のものです。しかし弱くなっています。おそらくあと二日は保たなかったでしょう。急速に身体は衰えていました。太陽、空気、あらゆるものが生体組織を分解させたんです。先天的修復組織が体内にありません。われわれの細胞は絶えず再処理、清浄化され、維持されています。これは組み立てられ、それから活動を始めたものです。この生命合成体は明らかに先人の長い努力の結晶です。これは傑作です」 「そうとも、いい作品だ」パタースンは認めた。彼はディヴィド・アンガーの肉体成分のサンプルをもうひとつかみ取ると、考えながら細かく乾いた粉末に砕いた。「われわれは完全に欺かれたな」 「あなたは知らなかったんですか?」 「最初はな」 「ご存じのとおり、われわれは全体像を再現しようとしており、この灰を元の物質に戻そうとしています。パーツは当然失われていますが、それでも全体像は掴めます。製作者たちにぜひ逢いたいものです。これは実際よく働いた。ただの機械ではありません」  パタースンはアンドロイドの顔を再現できる焦げた灰を捜し当てた。萎びて黒ずんだ紙みたいな薄い皮膚だった。死んだ眼は輝きを失い虚ろに見つめていた。人口調査局は正しかった。ディヴィド・アンガーは存在しなかった。そのような人間は地球上にも、他の星にも生存していなかったのだ。ディヴィド・アンガーと呼ばれたものは、まさに人工合成体だったのだ。 「みんないっぱい喰わされたんだ」パタースンは認めた。「どのくらいの人間が真相を知っているかね、われわれ二人以外に?」 「他には誰もいません」分析室の技師はロボットの一団に指示を与えた。「私が詳細を知る唯一の人間です」 「秘密を守れるか?」 「もちろん。ボスはあなたですから」 「ありがとう」パタースンはいった。「だが必要とあらば、この情報をいつでも他のボスにも伝えてくれ」 「ガネットさんですか?」技師は笑った。「あの人のために働きたいとは思いません」 「きみに充分酬いてくれるよ」 「そうですか。しかし近いうちに前線に行きますよ。この病院にいるより好きなんです」  パタースンはドアに向かった。「他の者に訊かれたら、まだ分析が充分済んでいないといってくれ。この残骸を処分してくれるか?」 「気が進みませんがやります」技師は彼を興味深げに見つめた。「これを作り上げた連中に心当たりはありませんか? かれらと握手したいですね」 「こちらも唯一の興味あることなんだ」パタースンは遠回しにいった。「スティヴンスなら分かるだろう」  鈍い夕方の陽射しが脳裏に差し込んできたので、ラマールはまばたきした。彼は姿勢を立て直そうとし、車のダッシュボードに激しく頭をぶつけた。痛みでくらくらし、しばらく苦悶の闇に沈み込んでいた。やがてゆっくりと起き上がってあたりを見回した。  彼の車は小さな荒れ果てた公共駐車場の裏に停まっていた。五時三十分頃だった。狭い道を通って駐車場になだれ込む車で混み合っている。ラマールは手を伸ばすと慎重に頭のまわりを探った。銀貨ぐらいの大きさの箇所が麻痺し、全く感覚がなかった。その箇所はまるで宇宙の結び目とぶつかっているかのように、熱が全くなく冷気を発散していた。  彼は正気を取り戻そうと努めており、意識を失う前のできごとを思い出そうとした。その時ドクター・スティヴンスが素早い身のこなしで現われた。  スティヴンスは片手を上着のポケットに入れ、眼を油断なく動かしながら、駐車している車の間をしなやかに走ってくる。彼の身辺には何か異質なものがあった。混乱状態のラマールが身動きできないのとは大違いだった。ラマールがなんだか分からないうちに、スティヴンスはもう車のそばにやって来ていた――そして同時に記憶がどっと戻ってきた。彼はできるだけ身体を柔らかくして屈み込むと、ドアの方を向いて横になった。ささやかな努力にもかかわらず、スティヴンスはドアをぐいと開けると、運転席に滑り込んできた。  スティヴンスはもはや緑色をしていなかった。  この金星人はドアをバタンと閉めると、車のキーをロックに差し込み、エンジンを回転させた。煙草に火をつけ重い手袋を改め、ラマールにちらっと目をやってから、駐車場を出て夕方の往来に入って行った。しばらく手袋をした片手でハンドルを握り、片手は上着のポケットに突っ込んでいた。それからフルスピードを出すと、冷凍光線銃を取り出しちょっと握ると、そばのシートに置いた。  ラマールはそれに飛びついた。眼の隅でスティヴンスは、ラマールのぐったりしていた身体が急に元気を取り戻すのを見た。彼は急ブレーキを踏み、ハンドル操作が留守になった。二人は無言のまま懸命に取っ組み合った。車は軋んで停まると、すぐに他の車の怒りの警笛が殺到した。二人の男はすてばちな激しさで息も継がず闘い、一時は互角の力でどちらも動けなかった。やがてラマールがぐいと身体を起こし、冷凍光線銃をスティヴンスの青白い顔に向けた。 「何があったんだ?」彼は嗄れ声でいった。「五時間も気を失っていた。その間おまえは何をしたんだ?」  スティヴンスは何もいわなかった。彼はブレーキを緩めると、ゆっくりと車の渦の中に入って行った。灰色の煙草の煙が唇の間から漏れる。半ば開いた眼は霞《かす》んで不透明だった。 「おまえは地球人だな」ラマールは訝《いぶか》しげにいった。「水かきではなかったのか」 「私は金星人だよ」スティヴンスは無頓着に答えた。彼は水かきの付いた指を見せ、それからまた重い運転用手袋をはめた。 「しかしどうして――」 「必要に応じて色を消すことが出来るのを知らなかったのか?」スティヴンスは肩をすくめた。「染色と化学ホルモンと僅かな外科手術だ。トイレで三十分あれば皮下注射と軟膏で……ここは緑色の皮膚をした人間の星じゃない」  通りには急ごしらえのバリケードが立っていた。不機嫌な顔をした男たちの一群が銃や粗末なこん棒を手に立ち、何人かは国防義勇兵の帽子を被っていた。かれらは通りかかる車に一台ずつ合図して検問している。太った顔の男がスティヴンスに停まるよう手を振った。彼はのんびり歩いてくると、車の窓を開けるように合図した。 「何をしているんだ?」ラマールが不審げに尋ねた。 「水かきを捜しているんだ」男は吼《ほ》えた。にんにくと汗の強烈な臭いがその厚いキャンヴァス・シャツから漂った。すばやく疑い深い視線を車内に投げかけた。「その辺で見かけなかったか?」 「いや」スティヴンスは答えた。  男は車のトランクを開け覗き込んだ。「数分前にひとり捕まえた」彼は親指で合図した。「やつはそこだ。見るか?」  金星人は街灯に吊るされていた。緑色の身体は夕方の風にぶらぶら揺れている。その顔は苦痛で醜くまだらになっていた。街灯の周囲には残忍で卑しい容貌の群衆がたむろし、待機している。 「まだ増える」トランクを叩きながら男はいった。「沢山な」 「何が起こったんだ?」ラマールはやっと尋ねた。彼は吐き気と恐怖に囚われた。その声はほとんど聞き取れなかった。「なぜこんなことを?」 「水かきが人間を殺したんだ。地球人をな」男は後退して車を叩いた。「オーケー、行ってもいい」  スティヴンスは車を動かした。うろついている人間の何人かは国防義勇兵の灰色と地球の青とのコンビネーションの制服を着て、ブーツ、重いベルト・バックル、帽子、ピストル、腕章をつけている。腕章には赤い生地にくっきりと黒で、DCと読める。 「あれは何だ?」ラマールは小声で訊いた。 「防衛委員会《ディフェンス・コミティー》だ」スティヴンスが答えた。「ガネットの前衛隊だ。水かきやカラスから地球を守るためのな」 「しかし――」ラマールは処置なしという身ぶりをした。「地球が攻撃されているのか?」 「知らないな」 「車を回して病院に戻せ」  スティヴンスはためらい、それからいうとおりにした。すぐに車はスピードを上げ、ニューヨークの中心へ戻った。「何のためだ?」スティヴンスは尋ねた。「なぜ戻る気になった?」  ラマールは耳を貸さなかった。彼は恐怖から抜けきれず街路にいる連中に、じっと目を注いでいた。何か殺すものを捜している獣同然に徘徊する男女。「やつらは狂っている」ラマールは呟いた。「けだものだ」 「いや」スティヴンスは否定した。「これはまもなく鎮まるよ。委員会の資金援助で引っ張り出された連中さ。まだ爆発寸前だが、すぐに風向きが変わり、大きな歯車は逆に回り出す」 「どうして?」 「ガネットがもう戦争をしたくないからだ。新しいラインが徐々に動きだすにはしばらくかかる。ガネットはおそらくPCと呼ぶ運動に資金提供するだろう。平和委員会《ピース・コミティー》だ」  病院は戦車、トラック、重砲車の壁に取り巻かれていた。スティヴンスはゆっくり車を停めると、煙草をもみ消した。車は一台も通れない。グリースでピカピカ光る頑丈な兵器を装備した戦車の間を兵士たちが動いていた。 「さて、これからどうするか? きみは銃を持っていたな。そいつは危険な問題だぞ」スティヴンスはいった。  ラマールはダッシュボードに据え付けられたヴィデオ・フォーンにコインを入れた。病院の番号を押し交換手が現われると、嗄《しゃが》れ声でヴァシェル・パタースンを頼んだ。 「どこにいるんだ?」画面に現われたパタースンは訊いた。彼はラマールの手の冷凍光線銃を見て、それから視線をスティヴンスに移した。「彼を捕まえたのか」 「そうだ」ラマールは頷《うなず》いた。「しかし何が起こったのか理解できない」彼はパタースンの小さな映像にやるせなく訴えた。「どうしたらいいんだ? この事態は何だ?」 「きみのいる場所を教えてくれ」パタースンは緊張していった。  ラマールは教えた。「彼を病院に連れていって欲しいんだな? おそらくぼくは――」 「その冷凍光線銃をしっかり握っていればいい。すぐそこに行く」パタースンは接続を切り画面は消えた。  ラマールは当惑して頭を振った。「ぼくはきみを逃がそうとした」彼はスティヴンスにいった。「その時きみは冷凍光線銃でぼくを撃った。どうしてだ?」いきなりラマールは激しく震えだした。彼はすっかり理解したのだ。「ディヴィド・アンガーを殺したのはきみだな!」 「そのとおりだ」スティヴンスは答えた。  冷凍光線銃はラマールの手中で揺れた。「直ちにきみを殺すべきなのだろう。窓を開け、あの狂人どもにきみを捕まえるよう叫ぶのが当然かもしれない。ぼくには分からない」 「自分の最善だと思うことをしろよ」スティヴンスはいった。  パタースンが車のそばに現われた時、ラマールはまだ決心しかねていた。パタースンは窓を叩きラマールはドアを開けた。パタースンは急いで車に乗り込むと、背後のドアをバタンと閉めた。 「車を出せ」彼はスティヴンスにいった。「ダウンタウンから離れて走らせ続けろ」  スティヴンスは一瞥し、それからゆっくりと走らせた。「ここで片づけた方がいい」彼はパタースンにいった。「誰にも邪魔されないだろう」 「町の外に出たいんだ」パタースンは答え、説明をつけ加えた。「ぼくのスタッフはディヴィド・アンガーの遺骸を分析した。あの合成体の大部分は再現できた」  スティヴンスの顔には激情の高まりが認められた。「ええっ?」  パタースンは手を差し伸べた。「握手しよう」彼は冷たくいった。 「どうして?」スティヴンスは怪訝《けげん》な顔で尋ねた。 「こうしろといわれたんだ。きみたち金星人はあのアンドロイドを作って見事な仕事を成し遂げたのだからね」  車は夕闇の中をハイウエイに沿って唸《うな》りを上げた。「デンヴァーは残された最後の場所だ」スティヴンスは二人の地球人に説明した。「あそこは金星人でいっぱいだ。カラー・アドによれば、少数の委員会メンバーがわれわれのオフィスを砲撃しはじめたそうだ。しかし幹部会はそれに突然ストップをかけた。おそらくガネットの圧力だろう」 「それで」パタースンは促した。「ガネットのことは知らない。その立場は分かっている。きみらがやろうとしていることを知りたい」 「カラー・アドが合成体を設計したんだ」スティヴンスは認めた。「きみたちよりも未来についてはよく知らない――それは全くの無だ。ディヴィド・アンガーは存在しなかった。われわれは身分証を偽造し、全く偽りの人物像、ありもしない戦争の歴史――すべてをでっちあげたんだ」 「どうしてだ?」ラマールは尋ねた。 「ガネットに戦争を止めさせる脅《おど》しのためだ。金星と火星を独立させるために恐怖を与えたのだ。経済的締めつけから守るため、戦争を煽《あお》ることを邪魔するためだ。アンガーの心に作り上げた偽の歴史は、ガネットの九つの世界帝国を崩壊させた。ガネットは現実家だ。勝ち目のある時だけ危険を冒す――しかしわれわれの歴史は彼に対して一〇〇パーセント勝ち目のあるものだった」 「それでガネットが手を引いたのか」パタースンはおもむろにいった。「そしてきみも」 「こちらからは常に戦争を仕掛けたことはない」スティヴンスは静かにいった。「この戦争ゲームにも関係ない。われわれの望みは自由と独立だ。戦争が実際どのようなものか知らないが推測はできる。あまり楽しいものじゃない。どちらにとっても価値はない。しかし事態の進行につれ、戦争の起こる危険はあった」 「いくつかの点を率直に聞きたい」パタースンはいった。「きみはカラー・アドのスパイか?」 「そうだ」 「ラフィアも?」 「いかにも。実際に金星人や火星人は地球に着くと、カラー・アドのスパイになった。ラフィアを病院に送り込んで、私を救い出そうとした。私が適当な時に合成体を破壊するのを妨害される可能性があった。もし私ができなかったらラフィアがやったろう。しかしガネットが彼女を殺してしまった」 「どうしてアンガーに冷凍光線を撃ち込まなかったんだ?」 「まず第一に合成体を抹殺したかった。それはもちろん不可能だ。灰に分解してしまうことが次善の策だった。充分細かく分解してしまえば、通り一遍の検査では何も見つからないだろう」彼はパタースンを見上げた。「どうしてこんな本質的な検査を命じたんだ?」 「アンガーの身分証番号が上がってきたんだ。アンガーはその請求に現われなかった」 「そうか」スティヴンスはぎこちなくいった。「そいつはまずかった。番号が出てきたら言い訳に窮したんだ。数か月前にしかるべき番号を拾い出そうとしたんだ――しかし兵役登録のことが、いきなりこの二週間に持ち上がったんだ」 「万一アンガーを破壊できなかったら?」 「合成体に成功の見込みがなかった場合に備えて爆破装置を持っていた。それはアンガーの身体に向けてあった。私の役目はアンガーを人前で活動させることだった。私が殺されるか、そのメカニズムを作動できなかったら、合成体はガネットが望む情報を得る前に当然死んでいたろう。むしろガネットとその部下の面前で破壊すべきだった。その戦争についてはわれわれが熟知していると、かれらに考えさせることが重要だった。アンガー殺害を目撃させる心理的ショックの方が、自分の逮捕される危険に勝るものがある」 「次に何が起こる?」パタースンはしばらくして訊いた。 「私はカラー・アドに加わることになっている。元々ニューヨークのオフィスでロケットに乗るはずだった。ところがガネットの暴徒がそれを監視していた。もちろんこれはきみらが私を足止めしないことを想定してだが」  ラマールは汗をかきはじめていた。「ガネットが騙されていることに気づいたら? ディヴィド・アンガーなど存在しないのを発見したら――」 「われわれがそれを収拾することになっている」スティヴンスはいった。「ガネットが調査するころには、ディヴィド・アンガーは存在しているはずだ。その間――」彼は肩をすくめた。「それはきみたち二人次第だ。銃を持っていたな」 「勝手にしろ」ラマールは激しくいった。 「それはあまり愛国的ではないな」パタースンは指摘した。「水かきが何かするのを助けることになる。あの委員会のメンバーの一人に電話すべきだ」 「くそくらえだ」ラマールはかんに触った。「おれならあのリンチ狂どもに誰も渡さない。一人だって――」 「水かきでさえもか?」スティヴンスは尋ねた。  パタースンは暗く星が点々とした空を仰いだ。「とどのつまり何が起ころうとしているんだ?」彼はスティヴンスに尋ねた。「このくだらん騒動も終わりだと思うのか?」 「そうだ」スティヴンスは急いでいった。「近いうちにわれわれは他の星に去る。別の星系にな。そこで他種族とぶつかることになるだろう――それは全くの異種族だ。言葉の真の意味で非人類だ。その時人類はわれわれを含めてみんなが同根だと分かるだろう。それはわれわれが自分たちと比較するものに出会った時、明らかになるはずだ」 「分かった」パタースンはいった。彼は冷凍光線銃を取るとスティヴンスに手渡した。「それだけが心配だった。こんな騒動が繰り返されると思うとうんざりする」 「それはないだろう」スティヴンスは静かに答えた。「非人類の種族のあるものはかなりおぞましいはずだ。それらを見た後で地球人は、自分たちの娘が緑色の皮膚の男と結婚したことを喜ぶだろう」彼は少しにやりとした「非人類のあるものは全く皮膚など持っていないかも知れないからね……」 [#改ページ]  訳者あとがき  ディックとの付き合いも、もうかれこれ二十年になる。これまでに二作の長篇、五十三作の中短篇を訳している。ディックという特異なSF作家が、これほどのブームになろうとは当初は誰も思わなかったろう。一九七〇年代の初め、たまたま暇があったので、訳しはじめたのが長い付き合いになってしまった。面白い短篇なのにアメリカの三流SF雑誌に掲載のまま、あちらでも単行本にならず、未訳で残されているのを残念に思った。誰も積極的に手がける人がいなかったので、専門のSF翻訳家でもないのに、買って出ただけのことだった。当時すでに発表後二十年は経っていたし、日米ともにSF短篇ブームは去っており、それに乗り遅れたディックの短篇を高く評価する人もいなかった。  それがリドリー・スコット監督の映画『ブレードランナー』と、彼の突然の死が契機となって俄《にわ》かにブームとなった。それが十年以上たった今でも続いているのは不思議な現象である。余談だが、カルト映画となった『ブレードランナー』のデレクター・カットを見ると、スコットの趣味に淫《いん》した凝り方が興味深い。ハリソン・フォードの手にするグラス一個でさえ、思わず欲しくなるほどの代物である。背景作りだけでどれほどの時間と手間と金を要したことだろう。カルト映画になるのも当然だと納得がいった。  ディックのファンには、全作品が好きと、その一部が好き、長篇好きと、短篇好きがいる。これはそれぞれの読者の趣味でよしあしではないが、読者のアンケートを取ってみると面白いかもしれない。私は中短篇が好きで、しかも初期(一九五〇年代)の作品に惚れ込んでいる。従って訳した作品もその時期の短篇が多い。初期短篇はディックのアイデアがそれこそ惜し気もなく注ぎ込まれている。時代が経ち文章や技法がプリミティーヴといわれても、それを凌駕《りょうが》するすばらしいアイデアが読者を魅了してくれる。「安っぽい道具立てのSF」などと、スタニフワム・レムも初期短篇をそれほど買ってはいないが、内容は決してそんなものではない。私はレムの短篇も大好きで、ディックとレムの作品にはどこか共通点があると思う。ファン層も重複しているのではないか。レムの短篇集は講談社文庫の上下巻の薄い本が出たきり絶版になっているが、どこかで全短篇集を出してくれないものだろうか。同好の士もいるはずである。  ディックの初期短篇には、かつてSFの読者が愛した Sense of Wonder が沢山詰まっている。SFはそれだけではないといっても、屁理屈や科学知識百科みたいな小説ではつまらない。当時この種の短篇はアイデア・ストーリーと、いささか馬鹿にされた呼び方をされたものだが、フレドリック・ブラウン、ロバート・シェイクリイ、ウイリアム・テンなどのSF短篇の名手たちの奇想天外な物語は、当時の日本のSF読者にとっては限りなく楽しいものだった。あれからもう三十年経つ。現在のサイバーパンクから見れば幼稚なものであれ、SFがまだ宇宙ほら噺《ばなし》だったころの大人の童話だったのだ。ディックの短篇が当時前記の作家の短篇ほど持て囃《はや》されなかったのは、いまから考えると不思議だが、これはアメリカでも同じで死後の人気である。この短篇に最初に目をつけハードカヴァー出版したのがイギリスであることは、彼我《ひが》の評価の差を考えるのに役立つ。同じSF作家でアラン・ナースやリチャード・ウイルスンの短篇もイギリスでは高く評価されたのに、日本ではその一部をアンソロジーでしか読めなかったのは残念なことである。  私は五〇年代のアイデア・ストーリーが大好きだった。奇抜なアイデア、中途のサスペンス、最後の意外性。これはミステリとも共通するものだった。ディックの短篇にはそれが多い。たとえば『偽者』は、ディック短篇中で最もSFアンソロジーに再録されることの多かった作品だが、その典型である。主人公は自分が地球人だと信じて疑わない外宇宙のスパイ・アンドロイドだが、その正体が本人にも、読者にも分からないままに追われて逃げ回る。自分が何者か知った時には体内爆弾が爆発し、地球と共に消え去るのである。ディックのシミュラクラ(仮想)感覚がここに出ているというが、そんなことはどうでもいい。サスペンス小説として読んでもすばらしい緊迫感に満ちている。特に最後のシーンで、まるでカメラがズームアウトするように、はるか離れたアルファ・ケンタウリからも地球の爆発がはっきりと見えたという描写が映像的である。この結末の意外性は深い印象を残すものだった。この作品を収録したグルフ・コンクリンのアンソロジー『宇宙恐怖物語』(元々社版)で、ディックははじめて日本に紹介されたのだ。もう四十年前のことだが、その印象はいまも鮮やかである。結局はそれが私のディックの小説に対する興味の原点となり、現在でも変わっていない。  本書収録の『髑髏』もディック・ワールドをよく表している。いきなり主人公と議長の対話からはじまる。主人公は何者なのか、職業がハンターとしか分からない。議長の正体も分からない。時代も背景もほとんど説明がない。その極端な省略が読者の想像力をかきたてる。彼は二世紀前の教祖の暗殺を命じられる。囚人らしく命令に従わなければ刑が延長されるので、教祖の髑髏を持ってタイムマシンで過去の世界に向かう。キリストを思わせるような教祖は、後世に影響を及ぼし、信者たちがこの議長の支配に従わないことがおぼろげに分かってくる。そこで宗教の源を断つために教祖を消してしまおうという計画である。原爆戦争で世界が破滅してしまった後の世界らしい。すべてが謎のまま進行し、それが少しずつモザイクのように明らかにされていく面白さ。最後に分かる意外性。ディックならではの抜群のテクニックに魅了される。  私はミステリ以外はSFでも、ホラーでも短篇が好きである。ディックにしたところが好きな長篇は、当時読んだ『宇宙の眼』ぐらいなものである。その後三十年ぐらい読んでいないので、いま読めば別な感想があろうが、あえて読む気にもなれない。放射能を浴びたせいで、他人の思考が順番に脳裏を占める発想が奇抜で新鮮だった。後は『宇宙の操り人形』の前半部が面白かったぐらいである。この二長篇もエース・ダブルブックスで出版されたもので、枚数からいえば中篇である。他の長篇は読んでもほとんど記憶に残っていない。幻視者の眼だの、現実崩壊感覚だのという裏読みには全く興味がない。ましてや晩年の抽象的な神学論などは退屈なだけで、アイデア枯渇の産物としか思えない。具体的で独創的なアイデアは中短篇に最も生かされている。  ディックも死んでからカルトの神になり、やたらに持ち上げられているが、私には懐かしい五〇年代のSF作家の一人である。ブラウンやシェイクリイを愛したように、その初期短篇が好きなだけである。その短篇にも出来不出来があり、かなり書き飛ばされた粗雑な、矛盾に満ちた作品もある。それでも独自のディック・ワールドに引き込む文章力、不可思議なシチュエーションで読者を惑わす魅力を持っている。後に長篇で使われたアイデア、プロットは大部分が、初期短篇の中に含まれているのである。  私はラヴクラフト、ブロック、ムーア、ブラッドベリ、ディックと、自分の好きな作家の短篇を手がけて久しくなるが、ディックとの付き合いが一番長い。私が慶応病院に入院して生死に関わる手術を受けていた時、ディックの死を聞き感無量だった。生前に一度だけファンレターを出し、まだ未読だった短篇の入手方法を訊《き》いたことがあるが返事は貰えなかった。幸い命を全うしてこれだけの仕事ができたことは嬉しい。ポール・ウイリアムス氏から依頼を受けて、ディック作品の邦訳リストを作ったり、ディック・ソサイティの日本人会員の第一号にもなった。ディックを充分堪能してきたわけである。これで翻訳はひとまず終わりとして、別の仕事に打ち込みたい。この機会に読者の方々には長い間の御愛読のお礼を申し上げます。(訳者)  一九九二年十一月二十日