リングワールドの子供たち ラリイ・ニーヴン 小隅黎/梶元靖子訳 [#(img/04/000a.jpg)入る] [#改ページ] [#(img/04/000b.jpg)入る] [#改ページ] [#(img/04/000c.jpg)入る] [#改ページ] [#(img/04/001.jpg)入る] [#(img/04/002.jpg)入る] [#(img/04/003.jpg)入る] [#改ページ] [#(img/04/005.jpg)入る] [#(img/04/006.jpg)入る]      序  文  リングワールドの質量は木星のそれにほぼ等しい。幅百万マイル、長さ六億マイル──これは地球の軌道よりわずかに大きい──、厚さ数マイルのリボンをクルリと環《リング》にした形で、それが黄色い矮星の周囲をまわっている。毎秒七百七十マイルの自転速度によって、ほぼ地球の重力に等しい遠心力が生みだされる。両縁にそびえる高さ千マイルの壁は、何百万年にもわたって大気を保持しておくことができる。  リングワールドにおけるその他もろもろの事項は、すべてこれらの基本的仮定条件から派生している。  内側の表面は惑星地球の三百万倍の面積を持つ居住地帯である。その地形たるや、誰にせよこれをつくった製作者が刻みこんだ、まさに芸術品と呼ぶべきもので、下から見ると仮面の裏側のように見える。  内側にめぐらされた|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の環《リング》が太陽をさえぎって夜をつくりだす──さもなければ、いつも正午ということになってしまう。排出管《スピル・パイプ》システムが海底からリングワールドの床面の下を通り、外壁の裏をのぼって縁を越え、海底の軟泥(もしくはフラップ[#「フラップ」に傍点])を|こぼれ山《スピル・マウンテン》へと循環させている。外壁のてっぺんには巨大な姿勢制御ジェット──陽子《プロトン》の太陽風を燃料とするパサード式ラムジェット──が設置され、リングワールドに内在する不安定性を補正している。壁の外側には岩棚のように張りだした宇宙港がある。ふたつの広大な塩海は海洋生物の生簀《いけす》の役割を果たすと同時に、いくつかの惑星の実物大地図を擁している。リングワールド床面を構成する材質はスクライスと呼ばれ、異常なほどの強度をはじめとするなみはずれた特性をそなえている。  リングワールドの隕石防禦システムには、太陽そのものも組みこまれている。リングワールドの床面に埋めこまれた超伝導ネットワークが、太陽のフレア内に超高温レーザー効果を生じさせるのだ。欠点は──リングワールドそのものを貫通しては撃てないことだ。したがって、リングワールドを襲う隕石は、〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉山をつくったもののように、おおむね下から上方向へつきあげるかたちで激突することになる。  いくつかの事柄が、〈建設者〉の特性を知るための手がかりを与えてくれる。  港湾とフィヨルドがやたら多いことに加え、海洋(のほとんど)が浅いことから、〈建設者〉は海洋の表層だけを利用する種族だと推測できる。  たちのわるい生物──蚊、蝿、ジャッカル、鮫、吸血|蝙蝠《こうもり》は存在せず、その生態学的間隙のいくつかにヒト型種族がはいりこんでいる。〈建設者〉たちは生態学者ではなく、庭師だったのだ。  住人はおそろしくバラエティに富んだヒト型種族で、知的なものもいれば、そうでないものもいる。彼らは地球なら各種哺乳類──とりわけ、ジャッカルや狼、吸血蝙蝠といった不愉快な生物──が占めている生態学的間隙を埋めている……あたかもそれは、人類の祖先ホモ・ハビリスが数千億に増えるまで保護され、そのあと放置されて、際限なく突然変異をくり返したかのような状況である。  リングワールドを知ろうと思うなら、まずその大きさを把握しなければ話ははじまらない。  拙著が出たあと、ある友人がきたるべきコンベンションに向けてリングワールドのスケールモデルをつくろうとした。比較用に地球にあたるものとして青いビー玉を用意した。すると幅五フィート(約一・五メートル)、長さ半マイル(約八百メートル)のリボンが必要になることがわかった。とてもじゃないが会場のホテルはそこまで大きくはなかった。  リングワールドの地図をつくろうとしたある人物は、コンピューターの空き容量があっという間に足りなくなったといった。十の何十乗、何百乗の世界に突入してしまったのだ。  ディヴィッド・ジェロルドは とんでもなく巨大なもの≠ニ称される小説群について語っている。いまではその種の小説でかなりの大きさの本棚がいっぱいになるはずだ。アーサー・C・クラークの『宇宙のランデヴー』やボブ・ショウの Orbitsville がそうだし、わたしの Rainbow Mars もこの分類にはいる。  しかし、一番手は一九七〇年に出版された『リングワールド』だ。  ひょっとしたら笑いものになるかもしれない。大きすぎる。いくらなんでもありえない。ありきたりの建材では自転でバラバラになってしまう。わたしは少々不安を抱きつつ書評が出るのを待った。  ジェイムズ・ブリッシュは、この作品はおそらくヒューゴー賞をとるだろうが、とるべきではない[#「べきではない」に傍点]と思う、と書いた。  とにもかくにも、読者はヒューゴー賞を与えた。  そして、作家たちはネビュラ賞を与えた。  続篇を書く予定はなかった。あっちもこっちも設計変更個所だらけになるとは考えてもいなかった。  ところが、あるところで講演した折に、リングワールドの数学はいたって単純だと指摘された──リングワールドは両端のない吊り橋だというのだ。  イギリスではある学者氏が、リングワールドの骨組のひっぱり強度は原子核内で働く力にほぼ匹敵するものでなければならないと指摘した。(そこで、スクライス[#「スクライス」に傍点]が登場した。)  またフロリダの小学校のあるクラスでは、一学期まるごとをリングワールドの研究にあてた。生徒たちが出した結論は──最大の問題は、地殻変動がないため、表土が数千年ですべて海洋に流れでてしまうこと、というものだった。(そこで、フラップ[#「フラップ」に傍点]と排出管《スピルパイプ》の登場だ。)  一九七〇年の世界SFコンベンションでは、|マサチューセッツ工科大学《MIT》の学生たちがホールで、「リングワールドは不安定! リングワールドは不安定!」と節をつけて囃《はや》したてた。(わたしは最善を尽くし……その結果が姿勢制御ジェット[#「姿勢制御ジェット」に傍点]だ。)  さらにある人は、|遮 光 板《シャドウ・スクエア》では薄明時が長すぎるという結論を出してくれた。これを修正するには、逆方向に回転する長い|遮 光 板《シャドウ・スクエア》が五枚必要だ。  ここまで設計変更の機会を与えられては、さすがにわたしも『リングワールドふたたび』を書かざるをえなかった。  上記の読者たちはみな、なにかしら知る価値のあることを発見してくれた。リングワールドは壮大で、派手で、知的なおもちゃ、大きく門戸をひらいた遊び場なのだ。  本を読んで、それでおしまいという読者もいる。  また、登場人物や仮定条件や環境を材料にして遊ぶ読者もいる。この手の人たちはみずからに宿題を課する。わたしたち読者ははるか大昔からそうしてきた──たとえば、プラトンにアトランティスのもっと詳しい情報を求め、天国と地獄のあいだに煉獄をこしらえ、ダンテの地獄をつくりかえ、あらたなるオデュッセイアを書くといった具合に。スター・トレックの周辺には驚くほど多くのサブカルチャーが発生している。  こういう人たちにまったく新しい|超越的遊び場《メタプレイグラウンド》を提供しているのがインターネットで、ラリイ・ニーヴンの小説を主題にしたウェブサイトもおびただしく(まあ、少なくともふたつは)生まれている。  一九九九年九月、わがうるわしきエージェント、エレノア・ウッドからこっそり耳打ちされて、わたしは larryniven-1@bucknell.edu. にアクセスしてみた。するとそこでは、プロテクターのクローンがつくれるかどうか、はたまた〈|探す人《シーカー》〉とティーラ・ブラウンが子供を残していた可能性があるかどうかが議論されていた。もし彼らの考えが正しかったら、なんのストーリーも浮かばなかったと思うが、彼らは出だしから間違っていたし、わたしにはそれを正すことができた。さてそれ以降、めったに口をはさむこともなくこのディスカッションを追って数ヵ月もすると、『リングワールドの子供たち』の素材がたっぷり集まっていたというわけだ。  本書は頭の遊び場である。パズルであり、迷路でもある。曲がり角ごとによく考えないと迷子になってしまう。読み終えたら、門には鍵をかけずにおくことをお忘れなく。 [#改ページ]      登場人物一覧 【訪問者たち】 ルイス・ウー: [#ここから4字下げ] 地球生まれ。第一次および第二次リングワールド探検隊員。 [#ここで字下げ終わり] ティーラ・ブラウン: [#ここから4字下げ] 地球にて、〈ピアスンの|人形師《パペッティア》〉の操作による幸運の血統に生まれる。『リングワールドふたたび』においてプロテクターに変化。死亡。第一次リングワールド探検隊員。 [#ここで字下げ終わり] ネサス: [#ここから4字下げ] 〈ピアスンの人形師《パペッティア》〉。〈至後者《ハインドモースト》〉の配偶者にして伴侶。第一次リングワールド探検隊を率いる。 [#ここで字下げ終わり] 〈至後者《ハインドモースト》〉: [#ここから4字下げ] 〈ピアスンの人形師《パペッティア》〉。かつては種族の最高指導者。第二次リングワールド探検隊を率いる。 [#ここで字下げ終わり] ハミイー、かつての〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉: [#ここから4字下げ] クジン人。第一次および第二次リングワールド探検隊員。 [#ここで字下げ終わり] ロクサニー・ゴーチェ: [#ここから4字下げ] 地球生まれ。ARM一等捜査官。|人食い鰐《グレイ・ナース》号(グレイ・ナース号)搭載の|巻き貝矢魚《スネイル・ダーター》号(スネイル・ダーター号)クルー。 [#ここで字下げ終わり] オリヴァ・フォレスティア: [#ここから4字下げ] ウンダーランド生まれ。ARM捜査官。スネイル・ダーター号クルー。 [#ここで字下げ終わり] クラウス・ラシッド: [#ここから4字下げ] 地球生まれ。ARM二等捜査官。スネイル・ダーター号クルー。 [#ここで字下げ終わり] シュミット主席捜査官: [#ここから4字下げ] 地球生まれ。グレイ・ナース号クルー。 [#ここで字下げ終わり] ウェス・カールトン・ウー: [#ここから4字下げ] 地球生まれ。袋熊《コアラ》号(コアラ号)のフライトキャプテン。 [#ここで字下げ終わり] ターニャ・へインズ・ウー: [#ここから4字下げ] 地球生まれ。コアラ号のパーサー。 [#ここで字下げ終わり] 【リングワールドの子供たち】 〈|探す人《シーカー》〉: [#ここから4字下げ] 種族不明。最後にティーラ・ブラウンと同行しているところを目撃された。 [#ここで字下げ終わり] 〈侍者《アコライト》〉: [#ここから4字下げ] クジン人。ハミイーの息子。国を追放された。 [#ここで字下げ終わり] ブラム: [#ここから4字下げ] 吸血鬼《ヴァンパイア》より変化したプロテクター。ルイス・ウーの手を借りた〈作曲家《テューンスミス》〉によって殺害されるまで、非常な長期間にわたって〈補修センター〉を支配していた。 [#ここで字下げ終わり] ウェンブレス: [#ここから4字下げ] 種族不明。リングワールド生まれの旅人。 [#ここで字下げ終わり] 〈作曲家《テューンスミス》: [#ここから4字下げ] 〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉(〈|屍肉食い《グール》〉)より変化したプロテクター。 [#ここで字下げ終わり] 〈竪琴笛《カザープ》〉: [#ここから4字下げ] 〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉。〈作曲家《テューンスミス》〉の息子。 [#ここで字下げ終わり] ハヌマン: [#ここから4字下げ] 〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉より変化したプロテクター。 [#ここで字下げ終わり] ヴァラヴァージリン: [#ここから4字下げ] 〈機械人種《マシン・ピープル》〉。〈|先 見 通 商 隊《ファーサイト・トレーディング》〉の代表。 [#ここで字下げ終わり] プロセルピナ: [#ここから4字下げ] パク人プロテクターの生き残り。 [#ここで字下げ終わり] 〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉: [#ここから4字下げ] 大昔に死んだパク人プロテクター。 [#ここで字下げ終わり] スゼブリンダ: [#ここから4字下げ] ヒンシュ人。〈長身人種《ジラフ・ピープル》〉。 [#ここで字下げ終わり] カワレスクセンジャジョク: [#ここから4字下げ] 〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉。 [#ここで字下げ終わり] フォータラリスプリアー: [#ここから4字下げ] 〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#改ページ] [#(img/04/015.jpg)入る] [#改ページ]    AD二八九三年      1 ルイス・ウー  棺の蓋の下で、ルイス・ウーは燃えあがる新たな活力とともに目覚めた。  目の上でディスプレイが光を放っている。骨の配置、血液の諸数値、深部反射、尿素とカリウムと亜鉛のバランス。何を意味するのかはほぼ理解できる。  リストアップされている傷はたいしたものではない。刺されえぐられた傷、疲労、靭帯《じんたい》損傷、広範囲にわたる打ち身、折れた肋骨が二本。どれもが吸血鬼《ヴァンバイア》のプロテクター、ブラムとの戦いでうけた傷だ。しかしそれもすべて治癒している。医療機《ドック》が細胞のひとつひとつにいたるまで、彼を再生したのだろう。集中治療装置《インテンシヴ・ケア・カヴィティ》にもぐりこんだとき、彼はすでに死んでつめたくなりつつあるように感じていたものだ。  八十四日前のことだ、とディスプレイは告げている。  六十七リングワールド日。ほとんど一ファランに近い──一ファランはリングワールドの十回転、一日三十時間のリングワールド暦で七十五日だ。  この怪我なら二、三十日で治癒できたはずだ!  ブラムとの戦いで負傷した自覚はあった。だが全身を打撲したことはともかく、背中を刺されていたとは気づいてさえいなかった。  はじめてこの箱にはいったときは、この二倍の治療時間がかかった。あのときは、結腸と膀胱が穴でつながって、内容物が互いに漏れている状態で、しかも彼は細胞賦活剤《ブースタースバイス》と呼ばれる延命薬を十一年間のんでいなかった。  彼は年をとり[#「年をとり」に傍点]、死にかけていたのだ。  テストステロン値が高い。アドレナリン値も高く、さらに上昇している。  ルイスは根気よく医療機《ドック》の蓋を押しつづけた。蓋の動きはひどくのろかったが、彼はひたすら身体を動かし[#「動かし」に傍点]たかった。装置を抜けだして降り立つと、石の床が素足につめたかった。  石だって[#「石だって」に傍点]?  彼は裸だった。広大な洞窟の中に立っていた。  ニードル号はどこだ?  最後に見たとき、恒星間宇宙船|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号は冷えた熔岩に埋もれ、カルロス・ウーのナノテクを用いた肉体修復装置の試作品は、その居住区画にあった。いま、その装置が冷えた熔岩の床の上で、ケーブルと機械の山に埋もれている。医療機《ドック》はその一部がバラバラにされながらも、いまだすべてが稼働していた。  傲慢で、とほうもなくて、すさまじい。これがプロテクターのやり方だ。 〈|屍肉食い《グール》〉のプロテクター〈作曲家《テューンスミス》〉が、ルイスの治療中に医療機《ドック》を調べたのだろう。  すぐ近くでは|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号が、鰭《ひれ》のない魚のように三枚に下ろされていた。ほぼ船首から船尾にいたるまでの船殻が薄く剥がされ、居住区と貨物区画、いまや破壊された着陸船《ランダー》の格納庫、スラスター・プレート、そして超高速推進《ハイバードライヴ》モーターのケースまでがむきだしになっているのだ。船の容積の半分以上がタンクなのだが、もちろんすべて空《から》になっている。切り口は銅かブロンズのような色に縁どられ、金属に埋めこまれた何本ものケーブルがいくつもの機器と原動機につながっている。  切り離された船殻は巨大な機械によって脇によせられていた。その切断面もまたブロンズ色に塗られ、ケーブルが縦横に走っている。  ハイパードライヴ・モーターは船の全長にわたって設置されていた。いまではそれが熔岩の上で、さまざまな装置の上にのっている。これもまた〈作曲家《テューンスミス》〉のしわざだろうか?  ルイスはフラリと近寄ってながめた。  すっかり修理されている。  十二、三年前、ルイスはハイパードライヴを真っ二つに切り裂くことで、〈至後者《ハインドモースト》〉をリングワールド星系に足止めした。船から降ろされていなければ、一光年を三日で航行する量子第二段階《クワンタムU》の速度で、いまにもニードル号を星々の世界に連れていってくれそうだ。  ──故郷にもどれるかもしれない──。  そう思うと、帰りたい気持ちでいっぱいになる。  ──みんなはどこだ──?  周囲を見まわすとアドレナリンが高まった。寒さに身体がふるえはじめる。  彼はもうそろそろ二百四十歳になる。ここで生命を落としていたとしてもおかしくはない。だがカルロス・ウーの試作医療装置のナノマシンは、彼のDNAを読んで、細胞核にいたるまでのすべてを修復した。ルイスは以前にもこの身体の状態を経験している。ちょうど思春期を過ぎたあたりの感覚だ。  ──落ちつけよ、若いの。まだ誰もおまえに挑戦してきちゃいないんだ──。  宇宙船、切り離された船殻、医療機《ドック》、移動させ修理するための機械、ズラリとならんだそれらを調べるための一見原始的な装置が、広大な空間の中で一ヵ所にかためられている。  巨大な洞窟は、その大半が空っぽだった。浮揚プレートがポーカー・チップのように積みあげられ、その向こうには、傾いた巨大な円環体《トロイド》が床の裂け目を貫いて塔のように天井までそびえている。床の裂け目近くには、〈作曲家《テューンスミス》〉の機械を納めた円筒がさらにいくつも寝かせてある。そのひとつひとつがニードル号よりも大きく、どれもが少しずつ異なっている。  以前にも一度この場所を通ったことがある。ルイスは顔をあげながら、何を見ることになるかすでに承知していた。  ──上まで五、六マイルというところだろうか──。  火星の〈地図〉は高さが四十マイルある。このフロアは地表のすぐ下に位置するらしい。輪郭が見わけられた。仮面の裏側を想像してみるといい……小惑星ケレス級の大きさの楯状火山を刻んだ仮面だ。  ニードル号はオリンポス山の火口から、実物大の火星の〈地図〉の下にある〈補修センター〉に突入した。プロテクターに変じたティーラ・ブラウンが、そこに罠を仕掛けていた。通路を抜けて八百マイルも船を移動させ、その周囲に熔岩を流しこんだのだ。彼らは|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》──パペッティア人の簡易移動システム──を使ってティーラのもとにとんだ。それ以来ずっと、船は埋もれたままになっていたはずだ。  その船を、いま〈作曲家《テューンスミス》〉がオリンポス山の下にある作業場にもどしている。  ルイスは〈作曲家《テューンスミス》〉を知らないわけではないが、よく知っているというわけでもない。〈夜行人《ナイト・パーソン》〉の繁殖者《ブリーダー》であった〈作曲家《テューンスミス》〉にルイスは罠を仕掛け、彼をプロテクターに変化させた。〈作曲家《テューンスミス》〉とブラムの戦いも見守った。プロテクターとしての〈作曲家《テューンスミス》〉について、ルイスが得ている情報はそれだけだ。いま〈作曲家《テューンスミス》〉はルイスの命をその手に握っているが、ルイスにとってそれは自業自得というものだろう。  プロテクターの知力はルイスよりも優れているはずだ。それを出し抜こうとするのは……クソッ……無茶だろうとやらなくてはならない。文明のはじまりから、人はつねに神を出し抜こうとしてきたではないか。  とにかく。ハイパードライヴを搭載することさえできれば、ニードル号は恒星間宇宙船となるのだ。あのとんでもなく大きな斜塔は──〈補修センター〉の床まで届いているのだとしたら、高さが四十マイルあることになる──発射装置、|線 形 加 速 器《リニア・アクセラレーター》だ。  いずれ〈作曲家《テューンスミス》〉も宇宙船が必要になる。そのときまで彼はニードル号の中身を抜いたままにしておくのだろう。さもなければルイス・ウーと〈至後者《ハインドモースト》〉がそれを使って逃亡し、プロテクターは船を失うことになるからだ。  ニードル号が頭上にそびえる場所まで近づいてみた。腹部がたいらになった直径百十フィートの円筒だ。船から剥ぎとられた部分はそれほど多くはない。ハイパードライヴと、医療機《ドック》と、ほかには? 高さ八十フィートの階層で、居住区画が横断面を見せている。その下の階では供給装置《キッチン》と再循環《リサイクル》システムがむきだしになっている。  あそこまでのぼることができれば、朝食と衣服が手にはいる。のぼれそうな経路はなかった。|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》でつながっているのだろうか。だがルイスには、〈作曲家《テューンスミス》〉がどこに|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を設置しているのかも、それがどこにつながっているのかも、推測できなかった。 〈至後者《ハインドモースト》〉の操縦区画もむきだしになっている。クジン人とっては天井の低すぎる部屋が、三層に重なっている。いちばん下の階にならあがれそうだ。プロテクターなら易々と侵入するだろう。  ルイスは首を横にふった。 〈至後者《ハインドモースト》〉はどう思って[#「思って」に傍点]いるだろう? 〈ピアスンの人形師《パペッティア》〉は百万年にわたって怯懦《きょうだ》に基づいた人生観を抱いてきた。ニードル号を建造したとき、〈至後者《ハインドモースト》〉はいかなる者も、異星人のクルーたちすらも侵入できないよう、自分の操縦区画を隔離した。出入口はなく、一千種類もの罠を仕掛けた|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》があるだけだった。いま……パペッティア人はルイスと同じくらい裸にされた気分でいるだろう。  ルイスは空気生成システムと思われるてっぺんがたいらな機械の前に行き、反動をつけて飛びついた。身体をひきあげ、さらによじのぼっていく。彼の身体は医療機《ドック》の治療により、ガリガリといってもいいほどに細くなっている。持ちあげる体重もたいしたことはない。五十フィートの高所で、彼は一瞬指だけで全身を支えた。  ここは〈至後者《ハインドモースト》〉の船室、もっとも私的な区画の、いちばん下の階だ。なんらかの防禦があるだろう。〈作曲家《テューンスミス》〉が停止させているかもしれないが……もしかすると。  彼は身体をひきあげ、禁断の場所にはいりこんだ。 〈至後者《ハインドモースト》〉がいた。そしてテーブルの上にルイスのドラウドがのっていた。  ドラウドとは、壁のソケットと彼の脳髄をつなぐ機械だ。ルイスは以前それを破壊した……ハミイーにわたして、クジン人が粉々に砕くのを見守ったのだ。  では、予備の機械か。ルイス・ウー、すなわちドラウド常用者、電流中毒者《ワイアヘッド》をおびき寄せる餌というわけだ。ルイスは弁髪の下、後頭部の髪の中に手をすべりこませた。ドラウドを差しこみ、快楽中枢に微弱な電流を流しこもう……ソケットはどこだ?  ルイスは狂ったような笑い声をあげた。ソケットがない! 自動医療装置《オートドック》のナノマシンは、ドラウド用のソケットなしに、彼の頭蓋骨を再生したのだ!  ルイスは考えこんだ。それからドラウドを手にとった。混乱したときは、相手も混乱させてやれ。 〈至後者《ハインドモースト》〉は三本の脚とふたつの頭を胴部の下にたくし込んで、宝石をちりばめた足台のようになっている。ルイスのくちびるがゆがんだ。彼は歩みより、宝石を編みこんだたてがみに手をつっこんで揺すぶってやろうとした。 「さわらないでください!」  ルイスはギョッとして手をひっこめた。コントラルトの音楽のように轟いたのは、音量をあげた〈至後者《ハインドモースト》〉の声で、|共 通 語《インターワールド》で話していた。 「望みがあるなら言葉で伝えてください。さわらないでください」 〈至後者《ハインドモースト》〉の声──ニードル号の自動機構《オートパイロツト》はルイスを──少なくともルイスの言語を──知っていて、彼を殺したりはしなかった。  ようやくルイスは声をあげた。 「ぼくがくることを予測していたのか」 「はい。わたしはあなたに、この場所における制限つきの自由を与えます。電流発生装置が──」 「いや、朝食だ」  ふいに胃袋が、空腹で死にそうだと悲鳴をあげはじめた。 「食べ物をくれ」 「あなたの種族のための供給装置《キッチン》はここにはありません」  なだらかな斜路が壁ぞいに螺旋を描いて、上の階層に通じている。 「すぐにもどる」ルイスはいった。  はじめはゆっくりと、それから駆け足で斜路をあがった。落差八十フィートの高さまで達し──落ちる恐怖は感じたが困難ではなかった──居住区画にはいった。  床に残された溝を見れば、医療機《ドック》のおいてあった場所がわかる。それ以外、居住区画に変化はなかった。植物もまだ生きている。  ルイスは供給装置《キッチン・ウォール》に歩みより、カプチーノとフルーツをダイヤルした。それを食べた。ズボンとシャツとポケットだらけのベストを着た。ポケットのひとつがドラウドでふくらんでいる。果物を食べ終え、オムレツとポテトと、カプチーノをもう一杯と、ワッフルを一枚ダイヤルした。  食べながら考えた。  自分は何を[#「何を」に傍点]望んでいるのだろう? 〈至後者《ハインドモースト》〉を起こすか?  何が起こっているかを知るには〈至後者《ハインドモースト》〉にたずねなくてはならない……だがパペッティア人はごまかしがうまく、秘密主義で、おまけに〈補修センター〉の権力バランスはつねに変化している。  まずは情報を集めたほうがいい。真実を得ようとする前に、少しばかり力を手にいれておこう。  朝食の皿を再循環《リサイクル》システムに放りこんだ。そして慎重に壁ぞいの斜路をおりながら呼びかけた。 「おい、〈至後者《ハインドモースト》の声〉」 「ご用でしょうか。落下の危険を冒す必要はありません。|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》のリンクがあります」  居住区画の床に矢印があらわれ、その場所を示した。 「隕石防禦室を見せてくれ」 「その言葉はわかりません」  立体映像《ホログラム》の窓が左舷《ボート》の壁にひらいた。 「この場所のことでしょうか?」  火星の〈地図〉の下にある隕石防禦室は、広大な薄暗い場所だ。全宇宙の星が、高さ三十フィートの楕円形の壁と床と天井をめぐっている。ラップ・キーボードつきのシートを先端にとりつけた三本の可動アームも、いまは壁のディスプレイの前で黒い影になっている。  ポップアップ・ウィンドウの端、まばゆい光の下に、調べてくれといわんばかりにこぶだらけの骨が展示されている。これは彼の知るかぎり最古のプロテクターで、ルイスは彼をクロノスと名づけた。遠くの暗がりに、てっぺんに巨大なプレートをのせた、機械の茸のような柱が幾本も立っている。  ルイスは窓を指さした。 「あれはなんだ?」 「|積 層 盤《サーヴィス・スタック》です」〈至後者《ハインドモースト》の声〉が答えた。「浮揚プレートを重ねた上に、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》をのせたものです」  ルイスはうなずいた。  リングワールドの〈建設者〉たちは、〈補修センター〉のいたるところに浮揚プレートを残していった。積み重ねればさらに浮力が増す。|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を付け加えたのは……余分があるのならば……当然の改良といえるだろう。  一本のアームが星空を横切って移動した。その先端にこぶだらけの痩せた人影が乗っている。  プロテクターはすべて、中世の鎧のような姿をしている。  そのプロテクターはちりばめられた星をながめていた。リングワールドそのもの、おそらくは外壁の外側に、太陽に背を向けて、いくつものカメラが設置されているのだろう。彼は自分が観察されていることには気づいていないようだった。  小惑星帯や惑星は見えない。未知のリングワールド〈建設者〉たちは、星系からそれらすべてを排除したのだ。漂うように移動する光点は、さまざまな種族の所有する宇宙船だ。画面は薄ぼやけてもろそうなアウトサイダー人の船から、所属不明のガラスの針のようなゼネラル・プロダクツ製二号船殻へ、そしてかなてこ型のARM戦艦へと、焦点を移していく。 〈作曲家《テューンスミス》〉は全神経を集中している。星野が拡大し、模糊とした原彗星が画面にひろがった。小さなとがった機械が周囲を飛びかい、丸いカーソルがそれを示して点滅している。より明るい光の槍がひらめいた。戦艦の核融合ドライヴ。またべつの船がヒュッとスクリーンを横切っていく。武器は発射されない。  ──〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉はいまだ休止中というわけだ──。  だがいつまでそれがつづくことだろう。精神性の異なる種族がこれほど多く集まっていては、正式な停戦協定など結ぶこともできない。  プロテクターの腕がキーボードの上でいらだたしげに動いた。  視野の隅に陽光が射しはじめている。ルイスはふり返った。  ニードル号の上でオリンポス山の火口が徐々にひらき、生のままの陽光が洞窟内にあふれはじめていた。  |線 形 加 速 器《リニア・アクセラレーター》がうなりをあげ、環状の稲妻が底からてっぺんへと走り抜けた。  火口が閉じはじめた。  ルイスはディスプレイに向きなおった。〈作曲家《テューンスミス》〉の肩ごしに、核融合光がスクリーンの外でひらめき、徐々に薄れていくのがわかる。なんであれ〈作曲家《テューンスミス》〉の発射したものは、遠すぎてすでに見えなくなっていた。 〈作曲家《テューンスミス》〉は〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉に参戦していたのだ!  たとえ行動すれば自分たちの頭上に戦いを呼び招くことになろうとも、プロテクターに何も行動せずにいることを期待するのは無理というものだ。  ルイスは眉をひそめた。プロテクターのブラムは優れた知性を持っていたが、狂っていた。〈作曲家《テューンスミス》〉も同様に狂っているのかどうか、その場合にはどうすればいいのか、最終的にはルイスが決定しなくてはならない。  とりあえず、いまプロテクターはこの作戦で手がふさがっている。さて、ルイスにはどれほどの自由が許されているのだろう。 「〈至後者《ハインドモースト》の声〉、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の全配置を示せ」 〈至後者《ハインドモースト》の声〉が三百六十度にわたる〈地図室〉の全景を浮かびあがらせた。ルイスをとりまく長さ六億マイル、幅百万マイルのリングワールドには、曖昧模糊とした夕闇と曙のひろい境界地帯をあいだにはさんで、青い昼と黒い夜が縞模様を描いている。その表面全体に、オレンジ色のカーソルが点滅していた。矢印の形をしているものもあった。  最後に見たときから大きく変更されている。 「いくつあるんだ?」 「現在使用されている|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》は九十五枚です。二枚が破損。三枚が深宇宙に落とされ、探査機《プローブ》の移動に使われましたが、艦隊によって撃墜されました。十枚が保存されています」 〈至後者《ハインドモースト》〉はたしかに|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号に|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を貯めこんでいたが、百十枚はなかったはずだ! 「〈至後者《ハインドモースト》〉は|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》をつくっているのか?」 「彼の手を借りて、〈作曲家《テューンスミス》〉が|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》工場をつくりました。製造には時間がかかります」  |跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を示して点滅するオレンジ色の光は、〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉のある弧、つまりリングワールドのこちら側に集まっている。反対側には少ないようだ。ふたつの点滅するオレンジの矢印が、〈他方海洋《アザー・オーシャン》〉の端近くに到達し、ほかのものもそちらに向かって移動しつつある。  ダイヤモンド型の〈他方海洋《アザー・オーシャン》〉は、〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉から百八十度反対側の弧に位置し、リングワールドの幅いっぱいにひろがっている。このように二ヵ所にかたまった大量の水が、たがいにバランスをとりあっているのだろう。〈至後者《ハインドモースト》〉のクルーたちは〈他方海洋《アザー・オーシャン》を探検したことがない。  潮時だ──とルイスは考えた。  ほとんどの|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》は〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉の周辺に配置され、さらにその大半は火星の〈地図〉と思われる場所に集中している。  ルイスは火星の沖合いに見えるものを指さした。 「あれはなんだ?」 「|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号の着陸船《ランダー》です」  着陸船《ランダー》は最後の戦いにおいてプロテクターのティーラが爆破したはずだ。 「動くのか?」 「|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》のリンクは稼働しています」 「着陸船《ランダー》はどうなんだ?」 「生命維持システムはかろうじて動いています。駆動システムと武器は破損しています」 「あの|積 層 盤《サーヴィス・スタック》の一部を、リンクからはずすことはできるか?」 「それはすでになされています」  地図上に線があらわれ、点滅する光点をつないだ。丸に×の禁止<}ークがついているものもある。通行止めだ。迷路は複雑で、ルイスは理解しようとする試みを放棄した。 「わたしの主人がコードを変更しました」〈声〉がいった。 「そいつを教えてくれ」 「できません」 「じゃあ|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》にナンバーをふって、配置図を印刷してくれ」  リングワールドは巨大で、そのスケールは想像を絶する。裸眼ではけっして詳細を見ることができない。いずれにしても、彼は出てきた地図をたたみ、ポケットに押しこんだ。  昼食をとって、もどってきた。  ふたつの|積 層 盤《サーヴィス・スタック》を移動して、多くのリンクを変更した。その変更を付け加えて、〈至後者《ハインドモースト》の声〉が新たな地図を印刷した。ルイスはそれもまたポケットに納めた。両方とも持っていたほうがいい。これで、運がよければ〈作曲家《テューンスミス》〉の知らない移動方法を手にいれたことになる。  それとも結局は無駄骨だろうか。〈至後者《ハインドモースト》〉が目覚め、一瞬のうちにすべてをもとにもどしてしまうこともありうる。 〈声〉は武器の製造を拒否した。もちろん、ニードル号居住区画の供給装置《キッチン》も同様だった。 〈作曲家《テューンスミス》〉はまだアームの端に陣取って、発射した何かのあとを追っている。 「ほかの連中はどこだ?」ルイスは〈声〉にたずねた。 「誰を探しているのですか?」 「〈侍者《アコライト》〉だ」 「その名前はわかりません──」 「いっしょに船にいたクジン人、ハミイーの息子だ」 「その法適者《LE》の登録名は──」  血も凍るような怒号が響く。ルイスはテーブルの端からやっとのことで指を離した。 「です。〈侍者《アコライト》〉に変更しますか?」 「たのむ」  地図がもう一度あらわれ、〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉山のすぐそばに光が点滅した……〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉から十万マイル左舷反回転方向《ボート・アンチスピンワード》──これは地球の外周の四倍に相当する──そして火星の〈地図〉から回転方向《スピンワード》にその二倍の距離だ。リングワールドがいかに巨大であるかは、何度もくり返しくり返し実感しなおさなくてはならない。 〈声〉がいった。 「三十一日前に、〈侍者《アコライト》〉は|積 層 盤《サーヴィス・スタック》とともにこの場所にいました。その後、千百マイル移動しています」  光点がわずかに移動した。 「〈作曲家《テューンスミス》〉が|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の設定を変更しました。これは地球の〈地図〉の観測地点につながっています」 〈侍者《アコライト》〉の父親の住処《すみか》だ。 「あいつはそれを使用したのか?」 「いいえ」 「〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉たちはどこにいる?」 「司書のことでしょうか? カワレスクセンジャジョクとフォータラリスプリアーと三人の子供は故郷にもどりました──」 「よかった!」  ルイス自身も故郷に帰りたかった。 「|浮 遊 都 市《フローティング・シティ》の図書館です。あなたの賛同を認識しました。ほかに誰を追跡しましょうか?」  ほかにいっしょにいたのは誰だったろう?  プロテクターがふたり。吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクター、ブラムは死んだ。〈作曲家《テューンスミス》〉は……まだ忙しそうにしている。隕石防禦室でプロテクターの展望スクリーンが、小さくなりつつある光点──さいぜん発射した乗り物を追っている。そのドライヴが停止し……明るくひらめき、瞬《またた》いて消えた。  あれは戦艦だ。戦争においてはいまでも反動モーターが必要とされる。最新式のスラスターでは、迅速な切り替えができないのだ。  ルイスはたずねた。 「ヴァラヴァージリンの足跡はたどっているか?」  地図が移動した。 「ここ、|浮 遊 都 市《フローティング・シティ》の近く、〈機械人種《マシン・ピーブル》〉の文化の中心にいます」  よし。しかも吸血鬼《ヴァンバイア》からも充分に離れている。彼女とは十二年も会っていない。 「〈至後者《ハインドモースト》の声〉、なぜ[#「なぜ」に傍点]彼女を追尾していた?」 「命令がありました」  慎重に。 「おまえは誰から命令を受けている?」 「あなたと〈作曲家《テューンスミス》〉と──」  甲高く美しい混沌としたオーケストラの音。〈至後者《ハインドモースト》〉の真の名だ。 「です。しかしそれらすべては──」  ふたたび〈至後者《ハインドモースト》〉の名前。 「によって撤回される可能性があります」 「この船の興味深い場所で、〈作曲家《テューンスミス》〉が出入りを制限されているところはあるか?」 「現在のところ、ありません」 〈至後者《ハインドモースト》〉はまだ緊張病で固く丸まっている。 「彼はいつから食事をしていない?」ルイスはたずねた。 「二リングワールド日です。目を覚ませば食事をします」 「では起こせ」 「精神的外傷なしに起こすことはできません」 「以前、彼がダンスの輪の中にいるのを見たことがある。あれを点《つ》けろ。食事の用意をしてやれ」 [#改ページ]      2 〈|至 後 者《ハインドモースト》〉 [#ここから3字下げ] 〈至後者《ハインドモースト》〉は間違いなく安全な状態にいる夢を見ていた。  自分がふたたび〈至後者《ハインドモースト》〉──一兆からなる同族の統治者──に返り咲いた夢ではない。そのような野望を抱くなど気が狂っていたのだ。彼はつねに、それが不動の地位ではないこと、彼の実験党が一瞬のうちに権力を失う可能性があることを知っていた。そしてそれは現実となった。  彼はふたたび若くなった夢を見ていた。遠い昔、心を悩ますつまらない問題は何ひとつない。彼の中にはただ、小さくて庇護のもとにある比類なき存在という、子供の感覚だけが記憶されていた。  夢の中では、いかなる道具も彼の手に噛みついたりはしない。  そしてそのときダンスがはじまった──。 [#ここで字下げ終わり]  不思議な幻影だった。  ルイスは広大なホールに立っていた。フロアは広くて段差の低い階段状になっていた。千人の異星人が周囲で動いている。二千ののどがどうしようもなく複雑なオーケストラ音楽を奏でて会話をかわしている。  ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトなら気がおかしくなってしまうだろう。ビートルズなら……彼らは最初から狂っていた。クソッ、モーツァルトだって同様だ。  ──キック、スライド、左の頭を舌指とすりあわす。後足でキック、パートナーは飛びのき──。 〈至後者《ハインドモースト》〉が蹴った。ひとつ目のたいらな頭が胴の下からあらわれる。  ──クルリとまわって、キック──。 〈至後者《ハインドモースト》〉は前足でヨロヨロと立ちあがると、ターンしようとした。これはダンスだろうか、それとも武術だろうか。 〈至後者《ハインドモースト》〉が口笛を吹いた。舞踏会が雲散霧消した。 「ルイス」パペッティア人が声をあげた。 「いつからそうしていた?」 「眠りすぎたようです。〈作曲家《テューンスミス》〉はどこです?」 「戦争をしているらしい」  ひとつの頭がディスプレイの隕石防禦室に向きなおった。 「わたしは彼があの機械をつくるところを見ていました。〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉はどんどん激化しています。リングワールド侵略はもうはじまっていますか?」 「ぼくにはわからない。〈至後者《ハインドモースト》〉、ニードル号はどうしてこんな状態になったんだ?」 「覚えていますか、〈作曲家《テューンスミス》〉はあなたの忠告に従って、わたしを教師として受け入れました」 〈|屍肉食い《グール》〉の音楽家〈作曲家《テューンスミス》〉はプロテクターとして生まれ変わったばかりで、知識に飢えていた。 「あいつには訓練が必要だった、それも早急に」ルイスはいった。「あいつがわれわれから知識を吸収すれば、こちらはその分あいつの行動が予測しやすくなると思ったんだ。あんたは秘密を維持しようとしたんだろう?」 「はい」 「そしてもちろん、操縦区画《フライトデッキ》から締めだしておいたんだな」 「そうです」パペッティア人は答えた。「わたしは居住区画のディスプレイを使って教えました。よい授業をしたのですが、彼の学習速度はそれよりもはやかったのです。彼はつねにさきを学ぼうとしました。そしてわたしの機械へのアクセスを要求しました。わたしはことわりました。あなたが医療機《ドック》にはいった六日後のことです。目を覚ますと、けっしてくるはずがないと思っていたここに[#「ここに」に傍点]、彼が立ってわたしを見おろしていました。わたしはすべてを譲り渡しました」 「あんたの船をバラバラにしたのはいつだ?」 「その後しばらくしてからです。わたしは十一日間、恐怖による昏睡状態にはいっていました。目が覚めるとこうなっていました。それからはほとんど変化はありません。ルイス、彼はハイパードライヴを修理したのです!」 「それでいったい──」 「彼は船を組み立てなおすでしょう。そうしたらわたしは逃亡します。あなたもいっしょにきなさい」 「それはいつのことだ?」  パペッティア人はふたつの目を見あわせた。  そのしぐさは混乱しているか、面白がっているか、またはなんらかの内部分裂を起こしていることを意味していた。  ルイスはたずねた。 「あいつは何をしているんだ? 戦艦を組み立て──」 「はい、〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉を追い、わたしの機械類の秘密をあさり──わたしがすべてを教えると信じてはいなかったのです──それからわたしとあなたの味方を追いはらいました。〈機械人種《マンン・ピーブル》〉は故郷に帰されました。〈侍者《アコライト》〉はなんの意味もないものをさぐりにいかされました。彼はあなたを集中治療装置で安全に眠らせておき、そこでも広範囲にわたる実験をおこないました。ルイス、お伝えすることがいろいろとあります。あなたは必要なことすべてを知っておかなくてはなりません」  ルイスはたずねた。 「なぜだ?」 「わたしたちは同盟を結んでいるからです!」 「なぜだ?」  ドラウドは最初におかれていた場所から消え、いまではルイスのポケットをふくらませている。〈至後者《ハインドモースト》〉はこのことに触れるだろうか? 「〈作曲家《テューンスミス》〉はわたしたちを奴隷にしたのです! 彼があなたに関してどのような計画を立てているか、わからないのですか?」 「わかっているさ。彼はぼくをプロテクターにしようとしているんだ」  プロテクターは人類の成人形態である。  幼年《チャイルド》、繁殖者《ブリーダー》、プロテクター。繁殖者《ブリーダー》は中年──種族によって上下に幅が生じるが、人類では四十五歳前後に相当する──においてプロテクターに変態することができる。皮膚は皺がよって分厚い鎧のようになる。脳の容器は拡張する。大腿動脈が脚に流れこむあたりに、二心室からなる第二の心臓が形成される。関節はふくらみ、筋肉や腱がより強大な作用能率《モーメント》を得て、より大きな力を揮《ふる》えるようになる。  心理的な変化も生じる。プロテクターは性的属性を失う。嗅覚によっておのが子孫を識別し、それを守ろうとする。突然変異体は死ぬがまま放置される。子孫を失ったプロテクターはたいてい食を絶って死ぬが……ときとして、全種族を守り育てることを選択する者もある。脅威が明らかな場合、その選択はうまく働く。  だが、生命の樹の中に生き、変化をひきおこすウィルスがなければ、そのいずれも生じることはない。  生命の樹は地球では正常に生育しない。リングワールドにおいては、火星の〈地図〉の地下においてのみ発見されている。地球とリングワールドのヒト型種族は繁殖者《ブリーダー》として進化したが、それはウーパールーパー同様、未完成の形態なのである。  若すぎるヒト型種族は生命の樹の根の匂いに反応しない。老齢のヒト型種族にとって、その根は毒となる。カルロス・ウーの自動医療装置《オートドック》によって改造される前のルイス・ウーは年をとりすぎていたが、いまの彼は若すぎる。 「少なくみても、あと四分の一世紀は無事だろう」  パペッティア人がいった。 「カルロス・ウーの自動医療装置《オートドック》をうまく使えば、それ以上の期間無事でいられます。医療機《ドック》で若返ることができますから。〈作曲家《テューンスミス》〉は阻止しようとするでしょうが」  なるほど。 「もし彼が、そのときまでニードル号をなおそうとしなければ?」  パペッティア人が悲しみに満ちた音楽を奏でた。 「そうなったらわたしはおしまいです。故郷からも家族からも切り離されて。進化に縛られおのが血統以外になんの価値も見出さない生き物の奴隷にされたまま。ルイス、あなたも同様ですよ。あなたは〈作曲家《テューンスミス》〉の種族ではないのですから」 「リングワールドにぼくの種族はいない」 「ええ、ルイス、そのとおり[#「そのとおり」に傍点]です」  声がしだいに大きくなる。 「その意味がわからないのですか? 彼はあなたに生命の樹を食べさせるでしょう。あなたはプロテクターになります。でもあなたに彼を[#「彼を」に傍点]越える力が与えられることはありません。あなたは守るべき子孫を持たないプロテクター、単なる助言者たる捕虜、単なる語り手となるのです。あなたはリングワールドそのもののために語る〈声〉となるのです!」 「そうだ」ルイスは辛抱強く答えた。「だが二十五年の猶予がある。ぼくは若返った。根の匂いに反応しない。変化するだけの年齢に達していないのだから」 「でも、あなたはそれを希望するのですか?」 「いいや。とんでもない。あんたはぼくのために何ができる? ぼくは|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の配置を調べてみた。そしていくつか変更を加えた」 〈至後者《ハインドモースト》〉が口笛を吹いて、〈地図室〉のディスプレイと、リングワールドと|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》と、すべてのベクトルを映しだした。そして最大の視野が得られるようふたつの頭を大きくひらいてクルリとまわった。 「よろしい」 「あんたはすべてをもとにもどせるはずだ。だがいいか、〈至後者《ハインドモースト》〉、もし|積 層 盤《サーヴィス・スタック》が期待する場所になければ、ぼくは死ぬことになる。アクセスコードを教えてくれ」 「いいでしょう」 「〈作曲家《テューンスミス》〉はもう医療機《ドック》に関するすべての知識を得ているだろう。ぼくが知らないことはなんだ?」 「あなたはそれがわかるだけの知的能力を持っていません」  ルイスは沈黙した。 「カルロス・ウーは二百年以上昔に、ナノテクを基礎とした実験的医療装置をつくりました。国連は彼を国連所有の天才と見なし、その発明品を接収しようとしました。彼は医療機《ドック》とともに姿を消しました。カルロス・ウーは二度と見つかりませんでした。しかし医療機《ドック》は六年後にシャシット/ファフニールで発見されました。わたしの代理人ネサスがその購入に成功しました。わたしの研究班はクジン人とピアスンのパペッティア人にも適用できるよう改良を加え、融通性と信頼性を高めました。  いま、〈作曲家《テューンスミス》〉がこの機械を組み立てなおしました。おそらく〈夜行人種《ナイト・ピーブル》〉向けに改良されているのでしょう。彼はこのナノテクノロジーを習得し、ナノマシンを使ってさらなる|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を製造しています。  ほかに何を知っておかなくてはなりませんか? この医療機《ドック》は遺伝子コードから生命形態を再生するよう調整されています」 「ニードル号について話そうじゃないか。武器をさらに搭載したのか?」 「はい。そして彼はわたしの武器の操作方法を習得しました。そしてわたしのスラスターを安全性の限界を超えたとんでもないレベルまで──」 「あいつはいま何をしている?」  ポップアップ・ウィンドウの中で、〈作曲家《テューンスミス》〉である黒い影は何もしていない。すべての活動は深宇宙でおこなわれているのだ。いまひとつの点が高速でリングワールドから離れつつある。〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉の各船はまだその存在に気づいていない。 「ごく小さい船室をひとつだけ備えた高速船です。小柄な〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉のプロテクターがパイロットをつとめています」〈至後者《ハインドモースト》〉が説明した。「燃料はわずかで、巨大なスラスターと反動モーターと、わたしの記録装置《ライブラリ》にはない武器を積んでいます。そしてあなたも見たように、|線 形 加 速 器《リニア・アクセラレーター》を使って発射します。積載燃料は攻撃回避と減速のみに使用されます。〈作曲家《テューンスミス》〉は探査機《プローブ》一号と名づけました」  探査機《プローブ》一号がモーターを停止していると探すのは困難だが、いまそのモーターは炎を噴出しながら、プラズマ兵器もミサイルも、そしてどうやっているのかレーザーまでも回避していた。〈作曲家《テューンスミス》〉の装置が、恒星間宇宙に向かうそのあとを追っている。  リングワールド星系にはリング外彗星が残っている。近くにあった質量──惑星、衛星、小惑星──はすべて遠い昔に排除されてしまったが、彗星群はリングワールドに対する脅威にならないと判断されたのだろう。つまるところ、彗星の軌道を変えて内側に引き寄せるほどの質量を持ったものはないのだ。  四十年近く前、ルイスとハミイーがリングワールドの存在を明らかにして以来ずっと、五、六の種族が船を出して彗星群のあいだに潜伏している。  いまスクリーンにはいってきたのは、ARM──人類がつくった、国連における軍事と警察を扱う部門──の船だ。周囲に小型艦をくっつけたそれらの船は、船というより数珠《じゅず》のように見える。探査機《プローブ》一号がフラッシュバルブのような閃光を放ち──レーザーに対する予測を誤ったのか[#「予測を誤ったのか」に傍点]! ──消えてしまった。 〈作曲家《テューンスミス》〉のスクリーンが、何を追っているともわからないままに大きく移動した。  ルイスには破片のひとつも見えなかった。 〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉とは、猿のような生活様式を持つヒト型種族の総称である。知性を持たないものもある。それでも〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉のプロテクターは、人間なみか、それ以上の知性を得る。あわただしく宇宙航行の訓練を受けたそいつはARMの防禦を回避できたようだが、〈作曲家《テューンスミス》〉はそれ以上に優秀で、そいつを支配している。  プロテクターはすべてを支配せずにはいられないのだ。 〈作曲家《テューンスミス》〉の望遠鏡が空の半分、百八十度近くを移動した。不鮮明な物体が焦点にはいってきた……彗星だ。まといついた氷が漂い離れようとしている。その雲の中から一隻の宇宙船があらわれた。  黒い塗装のレンズ形の船には、鮮やかなオレンジ色の点やコンマからなるクジン文字が描かれている。 「識別標識《マーキング》によると、この船の名前は外交官《ディプロマット》号です」〈至後者《〈インドモースト》〉が告げた。「わたしたちはずっと観察していました。外交官《ディプロマット》号は充分に武装しているようですが、けっしてリングワールドの恒星に近づきません。いつも彗星のあいだを潜行しています。いつでもハイパードライヴで逃げだせる用意をしています」 「クジン人らしくないじゃないか」 「彼らも学習します。おそらく外交官《ディプロマット》号は、〈族長世界〉艦隊の旗艦なのでしょう」  探査機《プローブ》一号がもどってきた。三十分とたたないうちに、超空間《ハイバースペース》を通って、リングワールド太陽の反対側までまわったのだ。その膨大な固有速度は太陽から逆方向に向けられている。いま探査機《プローブ》はその速度をたもったまま、まっすぐ外交官《ディプロマット》号へと近づいていった。  空の反対側からのメッセージはまだ外交官《ディプロマット》号に届いていない。数分後にようやく、クジン艦クルーが侵入者に対して反応を起こした。外交官《ディプロマット》号のレーザーによって惑星間塵が筋状に輝き、ひと握りの小型艦が氷の雲からとびだした。  探査機《プローブ》一号が回避行動にはいった。レーザー発射。探査機《プローブ》一号が輝かしいひらめきを放つ。ルイスはまぶしさに目をすがめた。〈作曲家《テューンスミス》〉のスクリーンには見る者の目を守る防禦がないのだ。探査機《プローブ》一号はビームをかわし、衝撃に閃光をあげながら、なおも前進する。  ルイスはたずねた。 「ゼネラル・プロダクツの船殻なのか?」 「それはリングワールドの床物質の下に埋もれています」  船がもう一隻すぐそばに出現した。ルイスにも充分見ることができる距離だ。外交官《ディプロマット》号よりもかなり大きく、船殻の内部に複雑な機械をギッシリと詰めこんだ透明な球体で……ルイスがその姿を目にとどめたつぎの瞬間、石鹸の泡のように消えてしまった。 「|のるかそるか《ロングショット》号じゃないか」  ルイスの中に怒りが高まった。 「わたしも見ました」〈至後者《ハインドモースト》〉が答えた。 「あの船は逃げた。クジン人はそんなことはしない」 「|のるかそるか《ロングショット》号は伝令船として使われています。危険を冒すには貴重すぎますし、〈族長世界〉も武器を搭載するだけの余地を見つけることはできないでしょう」 「あの船はARMと〈族長世界〉で共有[#「共有」に傍点]することになっていた。ハミイーとぼくはそのつもりで引き渡したんだ」  探査機《プローブ》一号がレンズ船の間際まで接近し、エネルギー源や小型船と戦いながら横向きに加速してレンズ船を迂回した。ふいに化学線がひらめいた。ルイスはあわただしくまばたきした。ふたたび視覚がもどったとき、探査機《プローブ》一号の姿はなかった。 「いったいぜんたい、なんだったんだ?」彼はたずねた。 「反物質弾です。ARMの新造艦はすべて反物質を動力源としていますが、〈族長世界〉があれを使うところをはじめて見ました。どこかの粒子加速器で製造したのでしょう。ARMには反物質星系というエネルギー源がありますが」 「反物質だって? 〈至後者《ハインドモースト》〉、それじゃ〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉はとんでもなく危険になる。リングワールドといえどもそれに耐えられるほど頑丈じゃない」 「そのとおりです」 「あいつ、こんどは何をしているんだ?」  プロテクターの影が椅子からとびあがり、彗星と戦艦の映像の前でバレエのスーパースターのように弧を描き、楕円形の部屋の一点に着地して、姿を消した。  袋に詰めたボールベアリングのような手がルイスの前腕をつかんだ。彼は感電したかのように身体を硬直させた。 「ルイス! よかった、目覚めたのだな」〈作曲家《テューンスミス》〉はきびきびと話しかけた。「おまえなしでは困難なのだ。〈至後者《ハインドモースト》〉、そこから出てこい。危険はわたしたちの都合にあわせてはくれないぞ。ルイス、身体は大丈夫か? 心臓の鼓動が妙だぞ」 [#改ページ]      3 ス カ ウ ト 〈作曲家《テューンスミス》〉はプロテクターとしては若い。 〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉の壮年の男が、生命の樹の育つ洞窟に誘いこまれた。そして今から百十日前、〈作曲家《テューンスミス》〉は繭の状態から目覚めた。そのヒト型の肉体は果てしのない闘いにそなえて硬くなり、とほうもない精神は訓練を求めていた。  はじめのうちは彼も、司書たちの不完全な知識と、〈侍者《アコライト》〉と〈至後者《ハインドモースト》〉がわずかずつ洩らす情報で満足していたはずだ。 〈作曲家《テューンスミス》〉はけっしてためらいがちに侵入を試みたりはしなかっただろう。それならば〈至後者《ハインドモースト》〉が防禦しただろう。暇にあかせてこの重たげな装置を組み立ててプログラムし、それからいっせいに稼働させて、〈至後者《ハインドそースト》〉のロックをこじあげたのだ。  ──既成事実《フェタコンプリ》というやつだ──。  とつぜん〈作曲家《テューンスミス》〉はパペッティア人の居住区画で相手を指図する立場に立った。とつぜん〈至後者《ハインドモースト》〉の宇宙船を三枚に下ろして、鱒《ます》のわたを抜くようにその中身をとりのぞいた。  いかなる種族の出身であれ、プロテクターは人を操るのがうまい。知性とはそもそもそうしたものではないだろうか。卓越した知性は教師を支配しようと[#「支配しようと」に傍点]する。しばしば教師を攻撃して動揺させる。知性の差があまりにも著しい場合は、同盟者と召使いと奴隷と橇犬の区別が曖昧になる。  ついさっきまで、ルイスはプロテクターをのぞき見していた。そのプロテクターが、ふいにかたわらにあらわれ、彼の手首を握っているのだ。 「ぼくは元気だ。この若さなら心臓発作を起こす心配もない」  パペッティア人の頭と脚が身体の下にもぐりこんだ。 「彼を起こせ」〈作曲家《テューンスミス》〉が命じた。「これから忙しくなる」 「質問がふたつある」  だがプロテクターはすでにいなくなっていた。〈至後者《ハインドモースト》〉がそろそろと片方の頭をのぞかせた。首は出さず、目と口だけが見えている。 〈作曲家《テューンスミス》〉は|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号の周囲を駆けまわり、制御装置を操作し、そして何か叫んだようだ。重たげな機械が動きはじめた。組み立てなおされたハイパードライヴ・モーターが稼働している。ふたつに裂かれた大きさのちがう船殻があわさりはじめた。|線 形 加 速 器《リニア・アクセラレーター》のてっぺんがオリンポス山の天井にせまっていく。 〈至後者《ハインドモースト》〉が口笛を吹いた。 「わたしは間違っていなかった! 彼は──」  頭が身体の下にひっこんだ。〈作曲家《テューンスミス》〉がもどってきたのだ。  彼はかがみこんで、隠された|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の制御装置を操作した。それから、くりだされる後足の攻撃を巧みに避けて、丸まったパペッティア人をひろいあげた。おそらく両者の体重は同じくらいだろう。 「ルイス、ついてこい」  彼は怒鳴り、足を踏みだして姿を消した。  一瞬、ルイス・ウーは反発した。  もちろん、これはテストだ。ルイス・ウーは疑念を持たずについてくるか? あまりにもおなじみの状況だ。  異星人の指導者がルイス・ウーの人生に乱入してきて部下を集め、本人だけが知っている使命のためにとびだしていく。まずはネサスが、つづいて〈至後者《ハインドモースト》〉が、それからプロテクターのティーラ・ブラウンが、そしてブラムが、今度は〈作曲家《テューンスミス》〉が、それぞれに勝手な理由でルイス・ウーを選び、彼には理解できない状況のただなかに放りだし、人形のように操ろうとする。ようやく理解が追いついたときには、狂気の沙汰にまきこまれているのだ。  ピアスンのパペッティア人は異常なまでにすべてを管理しようとする。真の臆病者はけっして危険に背を向けることをしないのだ。プロテクターという存在も、管理と支配欲の塊りだ。  何かがわかるまでに、ルイス・ウーはどこへ行き、何をすることになるのだろう?  一瞬が過ぎた。もしついていかなければ、すべての行動が封じられてしまう。ルイスは一歩進みでて周囲の床と見分けのつかない|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》に足をのせ、そして姿を消した。  あふれる陽光に目をすがめた。  彼は六枚の浮揚プレートと|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を積み重ねたてっぺんに立っていた。背後では〈作曲家《テューンスミス》〉と〈至後者《ハインドモースト》〉が半透明の灰色の地表に立っている。  ルイスはまず〈アーチ〉を探し、現在位置を確認した。  反対側のリングである〈アーチ〉は地平線から地平線まで弧を描き、回転方向《スピンワード》と反回転方向《アンチスピンワード》では霞の上で幅ひろく、中天に向かうにつれて細くなって太陽の背後を通っている。〈アーチ〉を見るのは久しぶりだった。  左舷《ボート》では〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴット》〉山が、失われた月のように、大気圏のはるか上方までそびえている。そのふもとの周辺は砂漠というより月面のようで、何倍マイル四方にもわたって生物のいないあばた状の岩場がひろかっている。 〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉は逆向きのクレーターなのだ。何百年も昔に、流星体がリングワールドの床面を下からつきあげ、つきぬけた。その衝撃で、これほど離れた場所までもりあがり、土が剥がれてしまったのだ。むきだしのスクライスはおかしなほどにすべりやすい。  手前には、いく筋もの銀色の糸のような川と、銀色のしみのような海、そして徐々にひろがりつつある生命を意味する濃緑が見える。山の周囲は広大なジャングルになっていて、それを切り裂いて幅何マイルにもおよぶ川が流れている。 「足もとに気をつけろ」〈作曲家《テューンスミス》〉が忠告した。  ルイスは慎重に、むきだしのスクライスに降り立った。  覚えておかなくてはならない。この景色がのっている殻の下には星々と真空しかないのだ。このあたりには泉も、地下水も、生命を支える何ものも存在しない。詮索好きな誰かか迷いこんで、遺棄された|積 層 盤《サーヴィス・スタック》の制御盤をいじることもない。このようにむきだしであるため、かえってここは高度な機械を隠しておく絶好の場所となっているのだ。  ルイスはたずねた。 「何が起こっているのか、説明してくれないか」 〈作曲家《テューンスミス》〉が答えた。 「簡潔に話そう。繁殖者《ブリーダー》であったとき、わたしはほとんど何も知らなかったが、膨大な記憶を持っていた。繁殖者《ブリーダー》からプロテクターへの変態を遂げて最初に確信したのは、リングワールドが非常に脆弱だということだった。わたしは自分がリングワールドとそこに住むすべての種族を守るために生まれ変わったことを知った。  そういったことは徐々にわかってきた。わたしはブラムの匂いを嗅ぎ、彼を殺さなくてはならないと知った。〈至後者《ハインドモースト》〉とその記録装置《ライブラリ》からしばしの時間を使って学び、〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉の進展を観察した。しばらくのあいだはわたしひとりで、もしくは〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉のプロテクター数人を使って動くのが賢明であると思われた。だがいまはチームが必要となった」 「なんのために?」 〈作曲家《テューンスミス》〉は制御盤に触れた。|積 層 盤《サーヴィス・スタック》が浮かびあがった。その底から四枚の浮揚プレートがはずれ、離れていった。〈作曲家《テューンスミス》〉が二枚重ねのプレートに乗り、パペッティア人と人間に一枚ずつよこした。  パペッティア人が周囲を見まわしていった。 「斜面をくだれば生き延びることができます。リングワールドの民は概して来訪者に親切です。〈作曲家《テューンスミス》〉、あなたは自分で試せるときにはけっしてわたしの言葉をそのままには受け入れません。ならばなぜわたしを[#「わたしを」に傍点]まきこむのです?」 「そしてなんのためなんだ?」ルイスもたずねた。 〈作曲家《テューンスミス》〉が斜面をくだりはじめた。ルイスとパペッティア人もプレートに乗り、あとにつづいた。プロテクターの明瞭な言葉が聞こえてきた。彼は腹の底から声を出して、口をはさまれることなど想像もしない王のように、みごとな|共 通 語《インターワールド》を話した。 「〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉は激化している。ARMは動力源と武器に、水素核融合ではなく反物質を使っている。ルイス、このままではリングワールドは生き残れない。何か手を打たなくてはならない」 「とりあえず説明してみろよ!」 「ルイス、計画[#「計画」に傍点]を練るにはもっと学ばなくてはならない。〈至後者《ハインドモースト》〉は伝令船のことを話したか? パペッティア製で、実験的なドライヴ装置を積んでいる──」 「|のるかそるか《ロングショット》号か。ぼくはあれを飛ばしたことがある。|戦 猫《ウォー・キャット》が奪ったんだ!」  クジン人を|戦 猫《ウォー・キャット》と呼ぶのはずいぶん久しぶりのことだった。 「あれをとりもどす。そのためにまず〈侍者《アコライト》〉を招集する」〈作曲家《テューンスミス》〉がいった。  まもなくジャングルの端にたどりつく。 「〈侍者《アコライト》〉があんたに協力するかな」 「おまえが説得しろ。〈侍者《アコライト》〉は父親によって、知恵と分別を学ぶため=Aおまえのところに送りこまれたのだ」 「あんたの海賊行為に協力する──それが分別なのか?」  パペッティア人がたずねた。 「あなたはわたしたちを必要としているのですか? わたしたちを信用しているのですか? ひとりで戦えないのですか?」  プロテクターは答えた。 「|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号を飛ばす者が必要だ。さもないとニードル号は、操縦者のいないまま彗星のあいだを漂流することになる」  すぐさま〈至後者《ハインドモースト》〉が申しでた。 「わたしはニードル号を飛ばせます」 「〈至後者《ハインドモースト》〉、おまえは逃げるつもりだろう」 「ルイスとふたりであなたのために──」 「ルイスは以前、|のるかそるか《ロングショット》号を飛ばしたことがある。だからもう一度それをする。おまえと〈侍者《アコライト》〉はニードル号を飛ばす」 「わかりました」〈至後者《ハインドモースト》〉は答えた。 〈作曲家《テューンスミス》〉はつづけた。 「ルイス、おまえは誓いを立てた。だからリングワールドを守らなくてはならない」  ルイス・ウーはたしかに以前、狂気にかられ、リングワールドを救う[#「救う」に傍点]と誓いを立てたことがある。十二年前、リングワールドの中心がずれたときだ……ルイスはそれには答えなかった。 「ぼくは〈侍者《アコライト》〉に強制はしない」 「では結果を待とう」  ジャングルには尾の長い〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉が住んでいる。彼らが棒や糞を投げつけてきた。ルイスと〈至後者《ハインドモースト》〉は梢よりも高くあがったが、〈作曲家《テューンスミス》〉は地面すれすれまで浮揚プレートを降下させた。見ていると彼は鬨《とき》の声をあげ、飛び道具を放った。〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉がかわせないほどの石や棒が、すばやく正確に降り注いだ。一分とたたないうちに彼らは姿を消した。 〈作曲家《テューンスミス》〉がふたりのところまで浮上してきた。 「リングワールドの民はつねに親切だと、もう一度いってみろ!」 「〈作曲家《テューンスミス》、あれは猿だ」 ルイスはいった。「ヒト型種族のすべてが知性を持っているとはかぎらない。あれに探査機《プローブ》を操縦させたのか?」 「そうだ、プロテクターにした。ホモ・サピエンスの親戚だろう」  プロテクターにはほんとうに、あの猿とルイス・ウーの違いがわからないのだろうか。プロテクターのくちびると歯茎はくちばしのように固まっているため、顔をしかめることも、微笑することも、冷笑することも、ニヤリと笑うこともできないのだ。  行けども行けどもジャングルで、ルイスには名前のわからない木々や蔓植物が生い茂り、セコイアほどもありそうな|ひじ根植物《エルボー・ルート》の一種が、六十度の角度で連なっている。  ルイスはフェイスプレートの赤外線表示をオンにした。地上の光がたがいに入り乱れ、ひそみ、突進し、溶けあっている。頭上の何千もの光は鳥だろう。木々にまぎれたやや大きめの光は、ナマケモノと〈|ぶらさがり人種《ハンギンク・ピープル》〉と──ルイスはコースを変えて、耳と牙ばかりの頭部を持った五十ポンドもある飛行リスをかわした。そいつは彼の下を通りすぎながら、ゾッとするような罵り声をあげた。  ──ヒト型種族なのか──?  空中を旅するにはよい天気だ。 〈作曲家《テューンスミス》〉が輪になった|ひじ根植物《エルボー・ルート》の中に着地した。地面はたいらではなくあちこちででこぼこし、育ちすぎた草がもつれている。 〈至後者《ハインドモースト》〉がプレートを降下させ、ルイスもそれにつづいたが、やはり何も見えなかった……それから、遺棄された浮揚プレートが目にはいった。  なぜこんなものがここにあるのだ?  着地してディスクを降りると、三人はかこまれていた。不気味な小男たちが|ひじ根植物《エルボー・ルート》のあいだから進みでて、女たちが地面からとびだしてきた。全員が短刀をかまえている。心臓くらいまでの背丈しかない。耐衝装甲服《インバクト・アーマー》を着ていたルイスは、さして脅威をおぼえなかった。 〈作曲家《テューンスミス》〉が挨拶をして、早口に話しはじめた。ルイスの翻訳機にははじめての言語で、翻訳機も彼もただ耳を傾けるしかない。ちぎれた草の向こうに、地下深くまで掘られた穴が見える。同じように草のちぎれた場所が五十ヵ所もある。  彼はいま都市の上に立っているのだ。  ヒト型種族──リングワールドを建設したパク人の末裔だ──は五十万年前に数兆からはじまり(この数字も推測にすぎないが)、可能なかぎりすべての生態学的間隙を埋めてきた。この人々は穴を掘って住んでいるのだ。まっすぐな茶色い体毛以外何も身につけておらず、動物の皮でつくった袋を持ち、その身体はイタチのような流線型をしている。  彼らの警戒心が弱まったようだった。笑っている者もいる。〈作曲家《テューンスミス》〉の話に反応してさらに笑い声があがった。ひとりが、もりあがった地面に歩みよって指さした。 〈作曲家《テューンスミス》〉が一礼していった。 「〈侍者《アコライト》〉は左舷回転方向《ボート・スピンワード》に、一から三|日徒歩距離《デイウォーク》の場所まで狩りに行っている。ルイス、彼らになんと伝えればよいか? 彼らはリシャスラを申しでている」  彼は一瞬その気になりかけ、それからきまりが悪くなった。 「ルイスはいま発情期ではない」 〈作曲家《テューンスミス》〉が爆笑した。〈穴居人種《バロイング・ピープル》〉も近視の目をルイスに向けて、甲高い笑い声をあげた。  ルイスはたずねた。 「あんたはなんといいわけしてことわったんだ?」 「わたしは以前にもここにきたことがある。彼らはプロテクターのことを知っている。ディスクに乗れ」 [#改ページ]      4 〈|侍 者《アコライト》〉 [#ここから3字下げ]  目がまわるほど豊かな匂い。何百種類もの植物、何十種類もの動物の匂いだ。ここでならクジン族は優雅に暮らしていけるが、いずれ個体数が増えすぎる。いま〈侍者《アコライト》〉はいかなるクジン人からも何百万マイルも遠くにありながら、仲間たちを懐かしんではいなかった。だがいつか必ずこの場所のことを父に話そうと思う。  彼はとらえにくい匂いを嗅ぎとろうとした。大きなもの、危険なものはないか。  ここにはいない。さまざまな腕渡り種族の匂いだけだ。  父の狩猟公園のほうが危険だった。父の公園では、それぞれの茂みの配置と同じように、慎重に危険度が計算されていた。活気を維持し、かつ個体数が増えすぎないよう制限するために、クジン族は危険を必要とするのだ。  パク人のプロテクターはそのような考え方をしなかった。  ルイス・ウーは説明した。プロテクターは〈球状世界〉で進化した生命パターンを模倣してこの土地に生命体を播種したが、パク人|繁殖者《ブリーダー》を害したり悩ませたりするものは、肉食獣から寄生虫やバクテリアにいたるまで、すべて排除された。今日とほうもないほどに枝分かれしたヒト型種族を襲うものはすべて、その後百万年──四百万ファランのあいだに進化したものなのだ、と。  むろんルイスの話は推測にすぎず、彼自身もそういっていた。  というわけで、ここは安全に遊べる場所だ。いつか〈作曲家《テューンスミス》〉かルイスが〈侍者《アコライト》〉を呼ぶ。そうすればまたたっぷり危険が見つかるだろう。夜空で光るすべてのものが星だとはかぎらない。 [#ここで字下げ終わり]  赤外線表示の視野で、ほかのものよりもやや大きな影が完全な静止状態からにじむ尾をひいてすばやく木に駆けあがり、小さな光にまじって動きをとめ──。 〈作曲家《テューンスミス》〉が遠吠えをした。  返ってきた遠吠えはいくぶんくぐもっていた。ルイスののろまな翻訳機もなんとかそれに追いついた。 「〈侍者《アコライト》〉!」「ここだ、待て」それから、「ルイス!」 「やあ、〈侍者《アコライト》〉」ルイスは声をかけた。 「ルイス! 心配したのだぞ! 具合はどうだ?」 「若返った。腹が減っていて、落ちつかない。気が変になっているみたいだ」 「永遠に治療箱の中にいるのかと思っていた!」 〈作曲家《テューンスミス》〉がいった。 「〈侍者《アコライト》〉がしじゅうどうなったどうなったとうるさいので、とうとうよそに仕事を探してやったのだ」  ルイスは心をうたれた。〈侍者《アコライト》〉が心配してくれた……ルイスが医療機《ドック》にはいったままなのは、まだ治療が必要だからだと考えたのだろう。それとも、〈作曲家《テューンスミス》〉が邪魔をされないよう閉じこめたと疑ったのだろうか。あるいは、〈作曲家《テューンスミス》〉が若返りプロセスを改良しようとしているとか、ナノテクノロジー研究の実験体にルイスを利用しているとか。カホナ。十二歳は、たとえクジン人の十二歳であろうとも、そのように疑り深い思考はしないものだ。  巨大な猫は木の幹をなかばのぼった場所で食事をしており、〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉たちが遠くから固い木の実を投げつけていた。〈作曲家《テューンスミス》〉が浮揚プレートをひとつ分離させ、〈侍者《アコライト》〉に近づけた。  数十年前、パペッティア人ネサスはクジン人ハミイーを探検隊に加えた。〈侍者《アコライト》〉はハミイーの長男であり、ルイス・ウーについて知恵を学ぶ≠スめ、父親に追放されて送りこまれてきた。  身長は父親よりも低い七フィートで、毛皮はオレンジと濃いチョコレート色──両耳と背中の縞が黒に近く、尾と脚にチョコレート色の小さな斑点がとんでいる。腹に並行して走る三本のみみずばれは、ルイスは一度もたずねたことはないが、たぶん父親の餞別だろう。濃い緑の葉群の下、傾いた幹にのった彼は、わが家にいるようにくつろいでいた。 「ではとうとう準備ができたのか?」 「そうだ」〈作曲家《テューンスミス》〉が答えた。 〈侍者《アコライト》〉は五十フィートの落下距離を目測した。ひねりをいれて跳躍しなくてはならなかった。四つ足をついてディスクに降り立ったものの、体重でディスクが沈んだため、〈侍者《アコライト》〉はすべってもがき、ようやくつかまることができた。  クジン人の手は器用だが、爪がのびたままだとすべりやすい。怒ったままでは生命が危ない。これは冗談だろうか、テストだろうか──〈作曲家《テューンスミス》〉は彼の下にまわりこんで、いつでも受けとめられる準備を整えている。 「おれの浮揚プレートをとりもどしてくる」 〈侍者《アコライト》〉はそういうと地面にとびおり、ルイスには見えない道をたどって傾いた幹のあいだに姿を消した。  オレンジ色の豪華な花の山の上に、浮揚プレートがあらわれた。〈侍者《アコライト》〉がそれをもう一枚の浮揚プレートにゆっくりと近づけると、カチリと音をたてて二枚が磁気で連結した。 「下方人種《アンダー・ピープル》のもとに一枚おいてきたのだ。おれが必要とするときまで、玩具《おもちゃ》にしてかまわんといってな」クジン人が説明した。「おれはがら[#「がら」に傍点]が大きいから、一枚だけだと心もとない」  二重ディスクが発進した。〈作曲家《テューンスミス》〉があとを追い、ふたりは競争をはじめた。  ルイスは遅れまいとしたが、それはとてつもなく危険な走行だった。〈至後者《ハインドモースト》〉ははるか後方に取り残されている。 〈作曲家《テューンスミス》〉が声をかけた。 「何かわかったか?」  クジン人が怒鳴った。 「この前話したときからは何も。ティーラの足跡は、彼女がおれの父やルイスと別れて二ヵ月後に、〈機械工《メカニクス》〉のところでとぎれている。おれは五つの文明、六つの種族とともに暮らした──〈機械工《メカニクス》〉はさまざまな〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉と興味深い共生文明を築いているのだ。ティーラ・ブラウンや〈|探す人《シーカー》〉や、光を投げる武器や、先進医療や飢饉の回避やフライサイクルにっいて語る者はいなかった──彼らはそのようなものの話は耳にしたこともないようだ」 「だまされたのではないのか」 「そのような勇気があるものか。なぜそんな必要がある? ティーラの足跡はとぎれている。むろん空まで追っていってはいないぞ! ただ彼女と〈|探す人《シーカー》〉が着陸した場所を探しただけだ。〈機械工《メカニクス》〉は百五十ファラン前、|浮 揚 建 造 物《フローティング・ビルディング》が通りすぎてから二、三ファラン後に彼女と会ったことを記憶している。おまえは飛行物体の噂がないか探したのか? 矛盾する報告は調べたのか?」 「ああ」 「ルイス──」 〈侍者《アコライト》〉はふり返り、そこで速度をゆるめた。〈作曲家《テューンスミス》〉もそれにならった。競争は終わった。 「ルイス、おれは〈|探す人《シーカー》〉とティーラ・ブラウンの足跡をたどるよう命じられたのだ。成果は少ない。ふたりは七、八十ファラン前に姿を消してしまった。吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクター、ブラムは、ふたりが繁殖者《ブリーダー》として〈補修センター〉にはいったと話した。男は生命の樹を食べて──年をとりすぎていたため──死に、ティーラはプロテクターとなって昏睡から覚めた」 〈作曲家《テューンスミス》〉がさらに説明した。 「わたしは、繁殖者《ブリーダー》たちがどうやって火星の〈地図〉の内部にはいる道を見つけたのか知りたい。なぜブラムがティーラを目覚めさせたのか知りたい。眠っている彼女を調べ、殺すことは簡単だったはずだ。ささいな疑問かもしれないが、納得がいかないのだ」  ルイスは肩をすくめた。彼もまた疑問に思っていたのだ。ブラムは繁殖者《ブリーダー》であれプロテクターであれ、他者の生命をまったく尊重していなかった。 〈侍者《アコライト》〉がたずねた。 「何がどうなっているか、ちゃんと把握できているのか?」 「カホナ、いいや。〈作曲家《テューンスミス》〉の秘密主義のおかげで気が狂いそうだよ」  プロテクターがいった。 「移動しながら話そう。ルイス、わたしをつくったのはおまえだ。おまえはリングワールドの運命を決定する役目に、吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクターは、もしくはブラム個人は、ふさわしくないと判断した。〈|屍肉食い《グール》〉がよいと考えた。おまえはわたしを〈補修センター〉に誘いこんだ。わたしは生命の樹の庭によってプロテクターになった。そしておまえの期待どおりにブラムを殺した。おまえは当然、その含意について考えただろう」  怒りも苦々しさもない。プロテクターの顔は硬くなった革のようだ。 「この含意を考えろ。自分の子孫が危機にさらされたときに傍観していられるプロテクターはいない。おまえはほかのヒト型種族が栄えれば〈|屍肉食い《グール》〉の子供の利益になると考えた。だが考えたことがあるか? 賢明であろうとなかろうと、われわれは行動せずにはいられないのだ。おまえが医療機《ドック》にはいったとき、〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉はすでに激化していた。いま、ARMは反物質ドライヴの船をくりだし、その数は二十を数える。しかもクジン人はパペッティアの量子第二段階《クワンタムU》ハイパードライヴ船を盗みだしたようだ。あれを伝令船に使っていることが何を意味するのかわかるだろう?」  ルイスはうなずいた。 「連中はあの船を危険にさらそうとしない。つまり、同じドライヴをつくることができないんだ。あれはいまでも、ただ一隻の船なんだ」 〈作曲家《テューンスミス》〉がたずねた。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、おまえなら[#「おまえなら」に傍点]、|のるかそるか《ロングショット》号をもう一隻つくることができるか?」 「いいえ。わたしの研究チームは成功しましたが、試行錯誤の連続で、膨大な費用がかかり……わたしは権力の座を失い追放されました。わたしの犯した過ちのひとつです」  彼らは〈作曲家《テューンスミス》〉の|積 層 盤《サーヴィス・スタック》の周囲をまわって着地した。 〈作曲家《テューンスミス》〉がいった。 「わたしには手をこまねいていることができないのだ。|のるかそるか《ロングショット》号を理解できれば──。ここで目標を変えるとしよう。〈侍者《アコライト》〉、この設定はおまえの父親のもとにつながっている。もどりたいか?」 「まだ父に報告できるだけのものを手にいれていない」 「では最後までついてこい」 〈作曲家《テューンスミス》〉が浮揚プレートから降りて、姿を消した。  移動先は地下で、そこに浮揚プレートが待機していた。空気の匂いから、火星の〈地図〉の下だとわかる。トンネルや洞窟を抜けながら、〈作曲家《テューンスミス》〉が自分の玩具を自慢げに見せた。  十数枚の浮揚プレートが歩くほどの速度で、巨大なレーザー砲を運んでいる。 「〈至後者《ハインドモースト》〉の記録にあった仕様書から製造した」プロテクターが説明した。「いくつかの改良を加えてある。わたしはこれをオリンポス山に設置するつもりだ。光通信で外壁のプロテクターたちにも設計図を送った。まもなく太陽にたよらずとも話せるようになる。〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉にも一台設置する。ほら──」 〈作曲家《テューンスミス》〉が下方に手をのばし、クネクネとした管をとりあげた。いっぽうの端を口にくわえると、荒々しい音楽があふれだした。 「どうだ?」  そしてもう一度吹いた。おかしなことに、ルイスはいもしないパートナーと浮揚プレートの上で踊りはじめた。 〈作曲家《テューンスミス》〉がプレートを停めて巨大な機械を調べ、それからスプレーガンを使って超伝導回路を修正した。機械は六、七十枚の浮揚プレートに乗ってゆっくりと移動していく。 「隕石痕補修装置だ。すでに完成しているが、発射台まで運ばなくてはならない」  さまざまな機器によって金属含有量がモニターされている液体の中で、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》が成長している。〈作曲家《テューンスミス》〉は完成した|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を使って、一同を隕石防禦室に運んだ。  自分がどこにいたのか、ルイスには見当もつかなかった。自分たちが何をしているのかもわからなかった。  プロテクターの精神という巨大な迷路の中で迷子になってしまったような気分だ。ブラムとのときも同様だった。吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクターは許しがたい罪を犯しており、ルイスはそれを見破った。そして策を講じ、ブラムのかわりに〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉──〈|屍肉食い《グール》〉──を採用した。  交代劇はうまくいった。だが彼はそのとき、自分がすぐさま自由を得られると期待していたのだろうか。  プロテクターは自由などというものとは無縁な存在だ。つねに正しい答を得られるならば、それ以外の選択など不要ではないか。ならば弱くて愚かな繁殖者《ブリーダー》は、ただ〈作曲家《テューンスミス》〉についていくだけだ。  だがルイスとしては、すぐさまなんらかの答を見つけだしたい──。  隕石防禦室の床から天井までを占めるスクリーンのすべてで、〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉が展開していた。さまざまな色彩のカーソルが点滅しながら船や基地を示している。おびただしい数のクジン人と人類の船がいる。  ほかの種族の船も姿をあらわしていた。パペッティア人、アウトサイダー人、トリノック人、〈作曲家《テューンスミス》〉には識別できない船や探査機。リングワールドの存在を知った者は、興味を抱かずにはいられないのだ。  クジン族の船が一隻やすやすと太陽をまわってリング内にはいりこんでいる。 〈作曲家《テューンスミス》〉がいった。 「ARMが通信を送ってきたが、わたしは返信しなかった。ほかの船は沈黙している。ごくはじめに侵入の試みがいくつかあった。隕石防禦システムがすべてを阻止したものの、極小探査機《マイク口プローブ》は防ぎきれなかった。いまもいたるところにはいりこんでいる。船同士の通信と思われるものも傍受したが、複雑に暗号化されていてわたしには解読できなかった。ニードル号のデータベースより、彗星群内にひそむARMと〈族長世界〉とトリノックとアウトサイダーに所属する船と基地、星系から充分に距離をとってうろついているピアソンのパペッティアの三隻の船、そして数千いる正体不明の探査機《プローブ》が識別できる。あらゆる者のあらゆる行動が、すべての者に筒抜けになっていると考えておくべきだろう。わたしでさえも、秘密を維持するのは困難になりそうだ」  ディスプレイの映像が拡大した。 「ルイス、これはなんだ?」  光点がひろがり、糸のからみあう黒いレースでできた、影のような円環体がぼんやりと浮かびあがった。中心に黄白色の小さな点光源があるが、明らかに宇宙船ドライヴと思われる部分はない。 「三十二リングワールド半径距離だ──」  ルイスは答えた。 「これもアウトサイダー人だよ。彼らはつねに|光 帆《ライト・セイル》を使うとはかぎらない。ぼくたちは彼らから超空間駆動《ハイパードライヴ》技術を買ったが、彼らはもっと進んだ技術を使っている。ありがたいのは、彼らが水と高重力に無縁で人間の世界に関心がないってことだね」 「ではこれは?」  尾から炎を噴き、真ん中あたりに窓がきらめく、つぶれた円筒形の船だ。 「フム? 形は大昔の国連のものに似ている。たぶん、ハイパードライヴを積みなおした移民船《スローボート》だろう。鉤爪鞘《シースク口ウズ》からきたのかもしれない。彼らも参戦しようってのか? あの惑星にはクジン族のテレパスと人類が住みついているんだが」 「鉤爪鞘《シースクロウズ》か。脅威となりそうか?」 「いや。問題となるほどの武器は持っていない」 「よし。〈至後者《ハインドモースト》〉、彼に外交官《ディプロマット》号を見せたか?」 「はい。わたしたちはあなたの探査機《プローブ》一号が外交官《ディプロマット》号と|のるかそるか《ロングショット》号のランデヴーを妨害するのを目撃しました。|のるかそるか《ロングショット》号は超空間《ハイパースペース》に退避しました」 「ルイス、〈侍者《アコライト》〉、〈至後者《ハインドモースト》〉、わたしの考えがまともかどうか確認してくれ」〈作曲家《テューンスミス》〉がいった。「この仮説は筋が通っているだろうか。|のるかそるか《ロングショット》号はわたしの探査機《プローブ》一号に怖じ気づいて、計画されていたランデヴーを中止する。そしてハイパードライヴで姿を消し、だが遠ざかることなく、数光分はなれた安全な場所から観察している。脅威がなくなったと判断し、パイロットはもどってきて、外交官《ディプロマット》号とデータや荷物の交換をおこなう。だがそれはすでに予定より遅れている。  パイロットは遅れたまま、いそいで〈族長世界〉にもどる。報告には|のるかそるか《ロングショット》号自身が向かう。ほかに誰が行くというのだ? |のるかそるか《ロングショット》号よりはやい船など存在しないのだからな。ここからクジン族の世界までは二百三十光年。片道三百分だ。|のるかそるか《ロングショット》号がリングワールド星系にもどり、いそいでつぎのランデヴーをおこなうまで、われわれには十時間の行動時間がある。どうだ?」 「クジン族のことだ、どっちにしてもまっすぐとびこんでくるだろうね」ルイスはいった。 〈侍者《アコライト》〉が毛を逆立てた。 「〈作曲家《テューンスミス》〉、おれたちは時計や暦を重視したりはせん。その外交官《ディプロマット》号という船は攻撃されたのだ。警戒するだろう」  ルイスはいった。 「宇宙生まれはいつだって時計と暦を重視するさ。軌道とはそういうものだからね」 「〈至後者《ハインドモースト》〉の意見は?」  パペッティア人がたずねた。 「その推測に何がかかっているのですか?」 「非常に多くのことがだ」〈作曲家《テューンスミス》〉は答えた。「だが賭けなくてはならない。〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉の動きは特異点に向かって加速している。わたしにとって最悪の行動は、何もしないことだ」 「どうするつもりなのです?」 「|のるかそるか《ロングショット》号を捕獲する」  ルイスは自分の推測が正しかったことを知った。狂っている。  彼は指摘した。 「ハイパードライヴ航行中の|のるかそるか《ロングショット》号は、ぼくたちの三千倍は高速だし、けっしてリングワールドの特異点にはいってはこないよ」 「他船とドッキングしている最中はハイパードライヴにははいれない。ついてこい」 〈作曲家《テューンスミス》〉は大股に前進して姿を消した。ふたたび、ルイスはそれに従った。 [#改ページ]      5 ハ ヌ マ ン [#ここから3字下げ]  自分で理解できるかぎり、探査機《プローブ》二号は完壁な機械だった。いずれにせよハヌマンは、ずっとこれに取り組んでいる。〈作曲家《テューンスミス》〉の支配圏にあるあらゆる魅力的な機械の中で、これだけは彼が自分のものと主張してよい品だ。彼の命はこの船にかかっているのだ。  彼は隕石痕補修システムを操作する〈作曲家《テューンスミス》〉を見守った。 〈作曲家《テューンスミス》〉は作業をしながら話をしていた。ハヌマンにも理解できるような気がした。リングワールドにあいた孔の中で、莫大な数の極小部品が低次物質からスクライスの繊維をつくりだし、孔をふさいでこの巨大な構造体を修繕する。ナノマシンが働いているあいだに、べつの作業もおこなわれる。同じく極小の部品が、ハヌマンの体毛よりも細い磁気ケーブルをつくり、リングワールドの破れた床面の内側にすでに存在している超伝導ケーブルをつなぎあわせるのだ。  プロテクターは行動する生き物である。だがいまハヌマンは、隕石痕補修システムから離れて立ち、リングワールドを救い、ハヌマン自身の種族もふくめてそこに住むすべての種族を救うはずの機械には、指一本触れずにおくしかなかった。理解できないことに手を出す勇気はない。  空が千五百回転するあいだ、ハヌマンは仲間たちとともに木の上に住んでいた。恋をし、子をなし、年をとった。それから、革鎧に身を包んだこぶだらけの生き物が、食べろといって根をくれた。  ハヌマンが知性を得てからまだ一ファランほどしかたっていない。彼が知っているのはただこれだけだ──〈作曲家《テューンスミス》〉は彼よりも優れた知性を持っている。的確な指示と説明なしに〈作曲家《テューンスミス》〉の機械にさわれば、ただ壊してしまうだけだろう。  探査機《プローブ》二号ならば操縦できる。だがこの機械は彼を殺しかねない。もっとよく理解しなくてはならない。ハヌマンが同族の繁殖者《ブリーダー》たちより優れているのと同じくらいハヌマンより優れている〈作曲家《テューンスミス》〉も、これについてはあまりよく理解していない。  かすかな音にハヌマンはふり返った。〈作曲家《テューンスミス》〉が客を連れてもどってきたのだ。 [#ここで字下げ終わり]  そこはオリンポス山の下の洞窟だった。〈作曲家《テューンスミス》〉が半分ほどの背丈の者に向かって大股に歩みよった。 「ハヌマン、この者たちは友人だ。これはハヌマン、探査機《プローブ》二号のパイロットだ」  そいつが甲高いが子供っぽくはない声で話しかけてきた。 「〈侍者《アコライト》〉、ルイス・ウー、そして〈至後者《ハインドモースト》〉。こんにちは」 「はじめまして。ハヌマンだね?」  ルイスはそういいながら、目の前のものの正体を見きわめようとした。体重は五十ポンドもなさそうだ。三フィートの身体に二フィートの尾。関節や頭蓋はふくらみ、皮膚は乾燥皮革のように皺がよっている。 「〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉のプロテクターかな?」 「そうだ。〈作曲家《テューンスミス》〉がわたしをつくり、名前をつけた。ハヌマン≠ニいうのは、|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号の記録装置《ライブラリ》にある文学作品からとった」  ハヌマンがべつの言語に切り替えた。〈|屍肉食い《グール》〉語のようだが、あまりにもはやい。彼と〈作曲家《テューンスミス》〉がしゃべっているあいだに、ルイスの翻訳機がいくつかの単語をひろいあげた。 「──いそいで──」 「──指定の位置までおろす」 「検証すべき仮説だ。おまえの乗り物が無事ならば──」  |線 形 加 速 器《リニア・アクセラレーター》の脇で円筒型のものが待機している。人が乗るには小さすぎるようだが、船首は完全に透明で、背後には直径一マイル以上もある磁気コイル──|線 形 加 速 器《リニア・アクセラレーター》だ──が控えている。  機械群はすでに組み立てなおしたハイパードライヴ・モーターをニードル号の内部に搭載し終えていた。いま、はずされていた船殻が、ニードル号とゆっくりとあわさろうとしている。  剥ぎとられた壁に太鼓型の円筒がはめこまれている。円筒の外側、船殻に触れている部分は透明だが、ブロンズ色の物質が塗られている。船殻部分が|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号と合体すべく近づいていくにつれて、円筒はゆっくりと、かつてニードル号の着陸船《ランダー》格納庫だった場所にはいっていった。  あれはエアロックだろう。かなり大きな、一度に十人以上の人間がはいれるものだ。  ブロンズ色の端と端があわさった。それからブロンズ色がジワジワとにじみ出し、蛇のように熔岩の上でとぐろを巻いた。エアロック上のブロンズの斑点はそのまま残っている。  ルイスはたずねた。 「気持ちの悪いものだな。あのブロンズ色はなんなんだ?」 「接着剤だ」と、ハヌマンが答えた。  ルイスは待った。 〈作曲家《テューンスミス》〉が不本意そうに付け加えた。 「もう少し複雑なものだ。ゼネラル・プロダクツ製船殻については知っているか? どの船殻も、原子間の結合を人為的に強化した分子からなっている。これは非常に強力だが、分子が切断されるとバラバラになる。わたしはその原子間結合にとってかわる物質を開発した。それによって、船殻を切断する以上の作業が可能になった。ゼネラル・プロダクツ製船殻をべつの船に結合することもできるのだ。ハヌマン、準備はいいか」 「はい」 「まずは使命を果たせ。そしてできれば生きて帰れ。行け」  ハヌマンは石の床を駆けて小型ミサイルにはいりこみ、透明な船首を閉じた。彼の船は床よりもさらに下まで落ちていった。 [#ここから3字下げ]  ハヌマンはほんの一瞬、〈作曲家《テューンスミス》〉の連れたちについて考えた。ひとりは、種族はわからないものの繁殖者《ブリーダー》だ。三人ともがよそ者、リングワールドではない星の生まれだ。ハヌマンはニードル号とそのコンピューター・ファイルから、わずかながら彼らについて学んでいた。  彼らの立場はハヌマンとどのように関わっているのだろう? 「接着剤だ」と、ハヌマンは答え、ルイス・ウーがその後どのように推測するかを待った。だが彼は何も推測できなかった。それほど賢くはないということだ。  ハヌマンは〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉よりも賢いが、〈作曲家《テューンスミス》〉が理解するものを理解することはできない。いつでも正しい答を導きだすことはできない。ルイス・ウーは〈作曲家《テューンスミス》〉を選んだ。つまり、彼の知力は信頼できるということだろうか? 大きな毛むくじゃらの異星人はまだ若くて問題にならない。ふたつ頭は海や山と同じくらい年をとっている……。  探査機《プローブ》二号の発射準備が整い、ハヌマンに指示がくだされた。生きてもどることができたときには、誰を信頼すればいいか、知らなくてはならない。 [#ここで字下げ終わり]  ニードル号のタンクに水素燃料が注入された。 〈作曲家《テューンスミス》〉が積みあげた環《リング》を指し示す。 「これは隕石防禦・補修システムを発射させるためにブラムがつくったものだ。わたしはそれに変更を加えた。おかげで燃料やスラスターを使うよりも大きな初速が得られるようになった。ではニードル号に乗って与圧服を着用し、ベルトを締めろ。〈至後者《ハインドモースト》〉、わたしとともに操縦席につけ。探査機《プローブ》二号につづいて発進する」  |尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号が熔岩の上をすべっていく。ルイスは船を追って走らなくてはならないのだろうかと心配したが、〈作曲家《テューンスミス》〉が|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を示し、一瞬のうちに乗船することができた。〈至後者《ハインドモースト》〉と〈作曲家《テューンスミス》〉が操縦区画に移動し、〈侍者《アコライト》〉とルイスは居住区画に残った。  ルイスが与圧服を着ているあいだに、探査機《プローブ》二号は稲妻のような炎とともに発進し、空に消えていった。効率の悪い発進システムだ。環境にもよくない。これだと〈作曲家《テューンスミス》〉には捨てるほどのエネルギーが必要だろう。  ニードル号が発進台の基部に向かって沈んでいった。 〈作曲家《テューンスミス》〉はほかの者たちよりもずっとはやくスーツを着終えて怒鳴った。 「ヘルメットをかぶる前に食事をしておけ! その時間はある」  そしてものすごい勢いで診断プログラムを調べ、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を使って船内をとびまわり、足をとめては観察し、設定をいじった。そして二、三分後には操縦区画にもどっていた。  ニードル号の操縦区画には副操縦士のためのスペースがある。〈作曲家《テューンスミス》〉の座席は幾層ものプレートを積みあげたもので、それが彼の体格にあわせて変形した。  彼はクルーを見まわし──隣の〈至後者《ハインドモースト》〉をはじめ全員席についてベルトを締めている──発進した。 [#改ページ]      6 |盲 点 空 間《ブラインド・スポット》 [#ここから3字下げ] 「もう一機きました!」フォレスティアがさけんだ。  視線を向けると、壁のディスプレイの中、リングワールドの端からあがってくるものは、ぼんやりとした光点にすぎない。|人食い鰐《グレイ・ナース》号はリングワールド上の出来事とは無関係に、内圏の彗星群を巡回していた。  ロクサニー・ゴーチェ捜査官はたずねた。 「どこから出てきたかわかるかしら?」 「前のやつと同じです。片方の広大な塩水海にある、群島からだ」  戦闘偵察機のクルーは、実際のところは何ひとつ知らない。彼らは管制室から中継されてくる壁のディスプレイをながめているだけなのだ。管制室の上官は、自分たちの好む情報だけを与えることもできる。だからといってクルーが推測をしなくなるというわけではない。  ロクサニーはいった。 「さっきのはひどく小さかったわ。これも同じ。船ではない、ただの探査機《プローブ》ね」 「だが高速だ。ゴーチェ捜査官、あれはなんです?」 〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉の同じ島から、さっきよりも大きく細長い点がとびたち、探査機《プローブ》と同じ驚くべき速度で移動している。 「あれは[#「あれは」に傍点]船ね」  司令部は当然反応しているだろう! |人食い鰐《グレイ・ナース》号自体は戦わない。すらりと細長く、緊急時には回転によって重力を作り出す、二十機の戦闘偵察機を搭載した空母なのだ。ロクサニーは戦闘機|巻き貝矢魚《スネイル・ダーター》号のクルーである。  搭乗員の男女比はおよそ二対一、全員が四十歳以上八十歳以下である。司令部は四十歳未満の判断力を信用していない。八十歳を超えていれば当然この職種から昇進してしまっている。彼らは太陽系《ソル・システム》では最高の人材だ。だがこの奇妙な場所では自分が平均値だと知って、仰天する者もいる。  ロクサニー・ゴーチェは五十一歳で、ここでも最優秀クルーのひとりだ。出動がないことでいらだったりはしない。彼女はこの二年間、|人食い鰐《グレイ・ナース》号のささやかなレクリエーション設備を楽しみ、体調を維持し、猛烈な勢いで戦闘シミュレーションを競い、訓練をこなしてきた。支配ゲームを楽しんでもいる。戦闘機クルーの中には、彼女を威圧的だと考える者もいるようだ。 (周辺戦争《フリンジ・ウォー》)も永久にはつづかない。参戦している各勢力があまりにも強大な力を握っている。もしリングワールドそのものも参戦してくるならば、持ちこたえられるものなど、なにひとつありはしないだろう。  |人食い鰐《グレイ・ナース》号がパワーをあげ、船首の向きを変えた。司令官の声──穏やかだが不安をかきたてる声──が告げた。 「戦闘偵察機のクルー諸君、われわれは五十から六十時間のうちに内惑星系を通過する。それまでは息抜きの時間だ。食い、眠り、風呂にはいりたまえ。でないと発進後に後悔することになるだろう」  一、二人のクルーが嘲笑の声をあげた。十ヵ月前に到着して以来、|人食い鰐《グレイ・ナース》号は一度も戦闘機を発進したことがなかったのだ。 [#ここで字下げ終わり]  発進はすさまじかった。船室の重力発生装置がうなりをあげ、惑星ほどの質量がのしかかってルイスからすべての空気を押しだした。こんなはずはない! そして──。    ──断絶──  展望がとつぜん変化し、濃紺の背景に黒い円盤をとりまく炎がひらめいた。炎が消え、太陽の漆黒の円盤が黒い空に残った。  やっとまた呼吸できるようになった。  船の壁が太陽に黒いパッチをあてて、直射日光をさえぎってくれている。目が慣れてくると、星々が見わけられるようになり、核融合光が筋をひいてあたりをとびかっているのがわかった。ふいに、一隻の恒星船がギリギリのところをすりぬけていった。改良型のARM艦だ。 〈作曲家《テューンスミス》〉がいった。 「すまない。停滞《ステイシス》フィールド発生機に手を加えたのだ。停滞《ステイシス》効果があまりにも長時間つづきすぎるのでな。あのままでは危険にさらされる時間が長すぎたが、今度は作動にはいるのが遅くなってしまった。あとで修正する。全員無事か?」 「あやうく衝突するところでした!」〈至後者《ハインドモースト》〉が泣き言を洩らした。 「ハヌマンはどこだ?」〈侍者《アコライト》〉がたずねた。  |仮 想 画 面《ヴァーチャル・スクリーン》がひらいて映像が接近した。 「あそこ、われわれの前方だ」 〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉はハヌマンの小型艇と、四分遅れてあとを追うそれよりも大きな船に気づきはじめている。〈作曲家《テューンスミス》〉が見えない危険を避けて船を上下に動かした。前方ではハヌマンの探査機《プローブ》二号が宙を自在にとびまわっている。太陽を蔽う黒いパッチはひろがりつつあった。 〈作曲家《テューンスミス》〉がスラスターを使って急上昇をかけ、その真っ最中に向きを変えた。前方の視野が真っ黒になり、それからまた透明になった。  探査機《プローブ》二号がいなくなっていた。  結局、あの小さなプロテクターと知りあう機会は持てなかったようだ。  ルイスはたずねた。 「それで〈作曲家《テューンスミス》〉、何が達成できたんだ?」  発光弾が彼らを照らしだし、〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉の兵器がジグザグの航跡を追ってくる。〈作曲家《テューンスミス》〉はそのすべてを無視した。 「いまおまえが見たものからは、まだなんの結果も得られてはいない──」  探査機《プローブ》二号がもどってきた[#「もどつてきた」に傍点]。とんでもないことに二十五万マイルも前方を進んでいる。  ──カホナ、ちくしょう。ハヌマンはいったい何をやったんだ──? 〈作曲家《テューンスミス》〉がいった。 「われわれはつねにたがいを試しあっているようだな、ルイス。わたしが何を学んだか、おまえに見せてやろう[#「見せてやろう」に傍点]」  オーケストラのようなパペッティア人の悲鳴がルイスの「待て!」という言葉をのみこみ、〈作曲家《テューンスミス》〉の手が動いた。  色彩が流れている。形状というものはなく、パターンをつくって流れる光と、いくつかの小さな黒いコンマの形をした点があるだけだ。  ハイパードライヴの盲点空間《ブラインド・スポット》の中では、ルイスはいつも何も見ることができない。  このように太陽に近い場所でハイパードライヴにはいるとは、まったく正気の沙汰ではない。だがいずれにせよ、ハヌマンの探査機《プローブ》二号はそれをやってのけ、ふたたび出現している。そして〈作曲家《テューンスミス》〉もまた同じことをやろうとしている!  彼らは悲鳴をあげたが、〈作曲家《テューンスミス》〉は敢行した。太陽の至近距離でハイパードライヴにはいったのだ。  地球の〈地図〉で生まれ育った〈侍者《アコライト》〉には、その危険を想像することもできないだろう。だが発進は恐ろしかったはずだ。この乱舞する光ととびかう黒点の悪夢の中で、彼がわめき声をあげようと息を吸った瞬間、船はふたたび通常空間に出ていた。  星々。特異点は彼らを食らうことなく、無事吐きだした。ルイスは周囲を見まわし、ものが見えることに感謝した。すぐ背後には炎に縁どられた黒い半月がある。半分に切られた太陽だ。  ハイパードライヴの作動が狂うと、理論上はどこに連れていかれるかわからない。ルイスはまさか太陽を蝕しているリングワールドの黒い弧を見ることになろうとは考えてもいなかった──宇宙には何百京の太陽が存在するというのに、まだこれの[#「これの」に傍点]そばにいられるとは──だがたしかにそれはそこにある。 〈作曲家《テューンスミス》〉がいった。 「〈至後者《ハインドモースト》〉……駄目か? ではルイスだ。説明してくれ、あれがおまえたちの歴史に語られている盲点空間《ブラインド・スポット》というものなのか?」  ルイスは答えた。 「盲点空間《ブラインド・スポット》とは、|超 空 間《ハイパ〜スペース》で何も見えなくなる状態を指している。窓の外を見ようとしても、何も見えない。船室の中しか見ることができないんだ。多くのパイロットがゼネラル・プロダクツ製船殻をカーテンや塗装で蔽うのはそのためだ。狂気に陥ることなく質量指示器《マス・ポインター》を使える人間やその他の法適者《LE》も、例外的にいなくはない。ぼくもそのくちだ。〈至後者《ハインドモースト》〉はどうだ?」  パペッティア人は足台モードにはいっていた。 「〈侍者《アコライト》〉は?」  クジン人が答えた。 「何も見えずに|超 空 間《ハイパースべース》を飛ぶもの[#「もの」に傍点]に乗るのは、面白そうだ」 「問題はそういうことじゃない!」ルイスは明白な事実を説明しようとした。「巨大質量の近接距離で|超 空 間《ハイパースペース》にはいると、船はただ消滅してしまうんだ。空間がひどく歪曲しているからね。何が起きたんだろう? 死んでいたかもしれないし、宇宙のどこかわからないところへ、もしかするとべつの宇宙へ飛ばされていてもおかしくない。なぜそうなっていない? ぼくたちはまだリングワールド星系にいるじゃないか!」 〈作曲家《テューンスミス》〉が語った。 「記録のどこにも納得のいく理論は見つからなかった。ではひとつ考えてみよう。|超 空 間《ハイバースペース》≠ニいう言葉が間違っているのだ、ルイス。アウトサイダー人のドライヴを使って接触できる宇宙は、われわれのアインシュタイン宇宙と点対点で一致しているが、そこには量子化された固定速度がある。  数学的領域はどれも、あらゆる領域に写像《マップ》できることを知っているだろう? ひとつの領域のすべての点は、ほかの領域の点にそれぞれ対応づけられる。すぐそばの質量によって歪曲された空間がないかぎり、ここにおける関係は点対点なのだろうとわたしは考えた。だがそうすると、ハヌマンがやったことを試みる船は、どこへも行けないことになってしまう。そこでわたしは、べつのモデルを考えた。わたしが正しいかどうか記録を調べなくてはならないが、つまるところ、ハヌマンは実際に、そこにはいって出てきたのだ──ちょっと待て」 〈作曲家《テューンスミス》〉が制御盤に向きなおった。|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号が回避運動にはいった。  戦争は彼らを見逃さなかった。熱核兵器による炎が船外にひろがる。船は急上昇し、保護のための黒い色がサッと壁一面にひろがった。  ルイスは何か重いもので、口をとざしたままでいる〈作曲家《テューンスミス》〉の頭を殴りつけてやりたいと思ったが、閃光のあいだを縫って船を飛ばしているいま、それは賢明な行動ではなさそうだ。  やがて〈作曲家《テューンスミス》〉が話しはじめた。 「いいか、ハイパードライヴを使いながら、われわれはさほど遠くまでは行かなかった。ハヌマンも同様だ。一光年を三日で行くというのは、質量に影響されない空間での数値だ。これほどの至近距離に恒星があると、空間は平坦ではない。光速を超えられたかどうかすらたしかではない。  われわれは〇・一Cで発進した。数時間で彗星群に到達する。そこでなら安全にハイパードライヴができる。〈至後者《ハインドモースト》〉、操縦を代わってくれないか?」  宝石を編みこんだたてがみの上に片方の頭が出てきた。 「駄目です」 「では船の記憶《メモリ》を呼びだし、集めた情報をまとめてくれ」  質量指示器は記録を残すことができない。使用者の精神が重要な構成要素になっているからだ。 〈作曲家《テューンスミス》〉はもっとよい、ハイパードライヴ航行を撮影する機械を組み立てていた。|仮 想 画 面《ヴァーチャル・スクリーン》ではルイスにも覚えのあるとおり、色彩が流れ、深紫色の点が拡大してオタマジャクシの形をつくっていた。 〈作曲家《テューンスミス》〉がいった。 「これで、われわれがなぜ遠くまで行かなかったかが説明できる。太陽の質量に近すぎるため──」 「特異点の内側だ」ルイスはいった。 「ルイス、ここに数学的な特異点はまったく存在しないとわたしは考える。〈至後者《ハインドモースト》〉の記録装置《ライブラリ》に、質量指示器に関する言及があった。おまえは質量指示器を使ったことがあるか?」 「あんたの目の前にある。そいつはハイパードライヴでしか作動しない」 「これか?」  いまはなんの動きも示していない水晶球だ。 「おまえはこれで何が見えると考えているのだ?」 「星だ」 「星の光か?」 「……いや。質量指示器は超感覚を必要とする装置だ。通常の感覚によって感知するんじゃない。全星系を見ているかのように、星が本来よりも大きく見える」 「おまえが感知したのはこれ[#「これ」に傍点]だ」 〈作曲家《テューンスミス》〉が、オイルの中を流れるネオン塗料のような記録映像に向かって手をふった。 「暗黒物質。失われた質量だ。アインシュタイン空間の装置でこれを見つけることはできないが、おまえたちが|超 空 間《ハイパースペース》と呼んでいるもうひとつの領域では、太陽のすぐそばに群がっている。暗黒物質は銀河の質量をより巨大化させ、その回転を変え──」 「ぼくたちはそれをつきぬけてきたのか?」 「そういうことではない、ルイス。わたしの機械はいかなる[#「いかなる」に傍点]抵抗も、記録してはいないからな。それはあとで検証しよう。だがもしこれが[#「これが」に傍点]わたしたちに追いついていたら、事態は異なっていたかもしれない」  彼は深紫のコンマ型の影を示した。 「この宇宙ではいたるところに生命体が見つかる。暗黒物質の内に生態系が生じていたとしても、捕食生物がいたとしても、驚くことはあるまい」  もしかすると〈作曲家《テューンスミス》〉は狂っているのかもしれない。  ルイスはたずねた。 「つまり、恒星の近くでハイパードライヴを使う船は、食われる[#「食われる」に傍点]というのか?」 「そうだ」〈作曲家《テューンスミス》〉が答えた。  狂っている。だが……〈至後者《ハインドモースト》〉は記録とニードル号の装置に向かって仕事をつづけている。捕食生物が宇宙船を食うという考えに、怯えた様子を見せてはいない。  パペッティア人はすでに知っていた[#「すでに知っていた」に傍点]のだ。 「われわれはほんの一瞬しかハイパードライヴ状態にとどまっていなかった」〈作曲家《テューンスミス》〉が説明した。 「その仮説上の捕食生物の速度は一定で、速い[#「速い」に傍点]。特異点≠ニいうのは数学的な用語だ。もちろん数学が関係してはいるが、方程式が無限をもたらすような場所よりもそいつは複雑だ。この暗黒物質の沼地の中では、特性速度は徹底的に遅くなる。われわれが生きているのがその証拠だ」 「わたしたちは観察されています」〈至後者《ハインドモースト》〉が報告した。「ARMと〈族長世界〉の望遠鏡とニュートリノ探知機から測定ビームが出ています。各艦が内側に向かって加速をはじめました。鉤爪鞘《シースクロウズ》船には両種族のテレパスが乗っていますが、まだこちらを捕捉することはできずにいます。クジン族の旗艦|外交官《ディプロマット》号が隠れている彗星群を発見しました。この星系の反対側、七光時間の距離で、背後に遠ざかりつつあります。〈作曲家《テューンスミス》〉、何か計画があるのですか?」 〈|屍肉食い《グール》〉のプロテクターが答えた。 「わたしの計画は単純だ。外に向かって慣性航行をしながら、〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉を観察する。速度にまかせて危険地帯──捕食生物がひそむ暗黒物質の領域を越える。それからハイパードライヴで星系内を半周して、反対側から外交官《ディプロマット》号に近づき、展開を待つ」  数時間が過ぎた。〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉はニードル号の防禦をそれ以上試してはこなかった。太陽が明るい点になり、リングワールドもそれ相応の大きさになったころ、〈作曲家《テューンスミス》〉がたずねた。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、おまえは|超 空 間《ハイバースペース》を直接感知できるか?」 「はい」 「わたしはできない。だがおまえが恐怖で操縦できないならば、わたしがニードル号を飛ばすしかあるまい」  パペッティア人が丸まった身体をほどき、ニードル号の操縦席についた。 「どこに飛びますか?」 「外交官《ディプロマット》号の最終位置から十光分外側だ」  人類は盲点空間《ブラインド・スポット》の中でものを見ることはできない。ほとんどの人間は気が狂う。しかし質量指示器を使って|超 空 間《ハイパースペース》の中で船を進め、しかも正気を保っていられる者もいる。|超 空 間《ハイパースべ−ス》を直接感知できるクジン人もいる。そうした一族の牝は五百年にわたって〈族長〉一族と関係を持ちつづけている。  今回、そこには何もなかった。暗闇も、形のない灰色も、景色の記憶さえもだ。ルイスは悪戦苦闘のすえ、居住区画の船殻を不透明にした。 〈侍者《アコライト》〉がいった。 「ルイス、おれは気のきいた質問ができるだけの知識を持っていない」 「大丈夫さ。ぼくもこれだけは理解している。これはぼくが見慣れているハイパードライヴだ。ぼくたちは……境界の外側にいるんだよ。これまでの知識をすべて訂正しなくてはならないけれどね」  彼はこれまでの生涯ずっと、数学的特異点という考え方をしてきた。そのような場合、重質量──太陽や惑星──の領域は|超 空 間《ハイパースペース》において不確定となり、船はそこに行くことができない。 「これはごく標準的な操作だよ。まず速度がある、そうだろう? ぼくたちはリングワールドから放りだされて太陽に向かい、それを通りすぎて外に向かっていた。いまもかなりの高速で、太陽からまっすぐ離れつつある。  だが〈至後者《ハインドモースト》〉はハイパードライヴを使って、この星系の反対側に出ようとしている。外に出たとき、ぼくたちは出発時と同じ速度を維持しながら、太陽とリングワールドに向かって飛んでいることになる」 「外に出ました」〈至後者《ハインドモースト》〉が告げた。  明るすぎる恒星がひとつ輝いている、暗黒の宇宙だ。ハイパードライヴ状態にいた時間はおよそ五分だった。 〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。 「〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉は通常、このような遠方まではやってきません。いましばらくは安全です。わたしたちの速度ベクトルは内側に、外交官《ディプロマット》号に向かっています。行動を起こすならば、外交官《ディプロマット》号がわたしたちのニュートリノ航跡とチェレンコフ放射に気づく前、十分以内です」 「外を見せろ」〈作曲家《テューンスミス》〉が命じた。  十光分というのは、地球から太陽《ソル》までの距離よりも遠い。|仮 想 画 面《ヴァーチャル・スクリーン》がひらき、倍率をあげて、星野からまばらに集まった彗星を映しだし、さらにズームして……。  鋼鉄とガラスでできたレンズ形のクジン族旗艦|外交官《ディプロマット》号が彗星の巣から姿をあらわした。  より大きな球体|のるかそるか《ロングショット》号がポンと視野にとびこんできて、どんどんそれに近づいていく。 〈作曲家《テューンスミス》〉は目もくれなかった。 「接近には数分かかる。時間はある。〈至後者《ハインドモースト》〉、さっきのハイパードライヴ・ジャンプのあいだの記録を見せろ」  超空間カメラは空白を記録しているだけだった。ルイスは小さく笑った。 〈作曲家《テューンスミス》〉がとがめた。 「ルイス、ここには見るべきものはない。われわれは恒星を包む暗黒物質の蔽いの外にいる。暗黒物質が存在しないところには宇宙も存在しない! だからこそわれわれは、真空における光よりも高速で移動できる。この領域においては、距離が大幅に短縮されるからだ。  いまわたしが知らねばならないのはただひとつ、なぜ複数の特性速度が存在するかだ。それは|のるかそるか《ロングショット》号を研究すればわかるだろう。〈至後者《ハインドモースト》〉、外交官《ディプロマット》号の捕捉距離内まで移動しろ」 「彗星側は二隻の戦艦が守っています」 「わかっている。ハイパードライヴを使え。光を出し抜いてやろう」  ほんの一瞬、盲点空間《ブラインド・スポット》がひらめいた。まだ遠いため視認はできないが、|仮 想 画 面《ヴァーチャル・スクリーン》はしっかりと目標を捕捉している。輪郭が曖昧なフワフワした黒い彗星と、その周囲を漂うホコリタケのような氷の衛星群と、四隻の船。そのうちの二隻はつながっている。 〈作曲家《テューンスミス》〉のこぶだらけの手が踊り、ニードル号がとびだした。船室の重力モーターがまたうなりをあげはじめる。エアロックでつながれた二隻の大型艦|外交官《ディプロマット》号と|のるかそるか《ロングショット》号がどんどん接近する。  速度を落とせ。ゆっくりと。 「わたしが操縦する」〈作曲家《テューンスミス》〉がいった。  外交官《ディプロマット》号からレーザーが発射され、居住区画が暗くなった。  |仮 想 画 面《ヴァーチャル・スクリーン》は光ではない何かを映している。一群の薄暗い光点が近づいてきた。ニードル号はロケットモーターを搭載していない。〈作曲家《テューンスミス》〉が使っているのは反応の鈍いスラスターだけだ。  |仮 想 画 面《ヴァーチャル・スクリーン》が消え、船穀がガクンと横に、それから後方に動いた。  ルイスはそのときになってようやく、ニードル号があとの二隻と接続していることに気づいた。重力発生装置がうなりをあげ、室内重力が不快なほどに高まる。つながった三隻が質量の中心を軸に回転しはじめる。  外交官《ディプロマット》号が離れ、ころがりながら小さくなっていった。  |尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号はスラスターを全開にして、|のるかそるか《ロングショット》号を押し進めた。ニードル号の超大型スラスターならば、|のるかそるか《ロングショット》号のようなかなりの質量にも、そう、十Gは与えられるだろうか。ルイスが操縦したとき、|のるかそるか《ロングショット》号は船室重力を持たなかった。おそらく、あのギッシリと混みあった船内に余分な機械をいれるスペースがなかったのだろう。十Gとなると、船内のクジン人はすべて失神しているか死んでいるはずだ。  クジン族旗艦|外交官《ディプロマット》号が大量のミサイルを発射し、それから黒い芯を持った火の玉の中に見えなくなった。  ミサイルがきらめきを放った。〈作曲家《テューンスミス》〉が射撃の腕を試しているのだ。戦艦は攻撃してこない──|のるかそるか《ロングショット》号を傷つけることを恐れているのだろうか? 〈作曲家《テューンスミス》〉が追いすがる艦を爆破した。もう一隻は遠く引き離した。  ──反物質搭載艦はひどく危うい──。  これは安堵すべきことだろうか、それとも恐れるべきだろうか。  ニードル号の推力が停まった。〈作曲家《テューンスミス》〉は座席をとびだしながらさけんだ。 「着陸船《ランダー》格納庫だ!」  そして|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》に駆けより姿を消した。  ルイスが行動を起こす前に、〈侍者《アコライト》〉がつづいた。壁がふたたび窓となった。惑星のような|のるかそるか《ロングショット》号がニードル号の船殻に押しつけられている。ニードル号の新しいエアロックの真上に船室がきているが、ブロンズ色の接着剤≠ェ視野をふさいでいる。  ルイスは武器を手に緩衝ベルトを抜けだし、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》へといそいだ。〈侍者《アコライト》〉をすぐうしろに従えた〈作曲家《テューンスミス》〉が格納庫を駆け抜け、エアロックにとびこみ、あたりを見まわして第二のドアをあけ、跳躍した。ルイスも格納庫に出現した。  ルイスは〈侍者《アコライト》〉の十フィート後方を全力疾走しながら、レーザー片手に、自由落下にそなえて前傾姿勢をとった。  ──海賊だ──!  そう思うと気分が昂揚したが、実際に戦闘があるとは考えていなかった。  しかし〈作曲家《テューンスミス》〉が姿を消した場所に光がひらめいた。〈侍者《アコライト》〉が唐突に足をとめ、そして視野から消えた。  さあ自由落下だ。  ルイスは壁を両足で蹴り、武器を前にかまえて跳躍した。  重力が彼を床にたたきつけた。  考える余裕があったらとまどっていただろう。|のるかそるか《ロングショット》号には重力発生装置がなかったはずだ。  |のるかそるか《ロングショット》号の生命維持システムは、狭苦しい操縦室と、その上の狭苦しい睡眠兼レクリエーション室にしか設置されていない。いまそこは、〈作曲家《テューンスミス》〉と三人のクジン人でいっぱいになっていた。  ふたりのクジン人はオレンジ色の血の池の中に横たわり、引き裂かれ焼け焦げて死んでいた。三人めは歯を持った黄色と黒の雲のようにふくれあがっている。それが〈侍者《アコライト》〉であると確信が持てるまで、ルイスは武器の狙いを定めたままでいた。 〈作曲家《テューンスミス》〉の声がルイスのヘルメットに響いた。 「時間がない。ルイス、操縦席につけ。〈侍者《アコライト》〉はニードル号にもどれ。〈至後者《ハインドモースト》〉、彼とともに行け。おまえにも指示がある」  ルイスは〈侍者《アコライト》〉の横をすり抜け、操縦席についた。〈侍者《アコライト》〉が〈族長世界〉戦士の死体をレクリエーションスペースに押しこみ、エアロックにとびこんだ。パペッティア人はすでにいなくなっていた。 〈作曲家《テューンスミス》〉の通信機が彼らの背後から声をかけた。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、|のるかそるか《ロングショット》号の船室に重力があるとは、つまりどういうことになる?」  沈黙。 「〈至後者《ハインドモースト》〉!」  パペッティア人が不本意そうに答えた。 「つまり、〈族長世界〉がわたしたちの秘密のいくつかを解明したということでしょう。わたしたちは|のるかそるか《ロングショット》号にいくつものデータ収集装置を搭載しました。単なるごまかしを目的としたものもありました。〈族長世界〉の科学チームは、船内にどれだけ余分のスペースがとれるか、調べたのでしょう。そして船室内重力発生装置や、その他さまざまなものを搭載したのでしょう。このような高速船にスラスターや戦闘機や兵器を積みこむ余剰空間があるとわかれば、人間やクジン人の戦士が何をすると思いますか? 〈作曲家《テューンスミス》〉、想像できないならばルイスにたずねてごらんなさい」 「ルイス?」 「この船がまたぼくたちのものになったのを喜んだらどうだい」ルイスはいった。  そして|のるかそるか《ロングショット》号の制御盤を調べた。もとからある盤の脇に間に合わせの第二制御盤が設置されている。すべての表示は点とコンマからなるクジン文字に書き換えられていた。  重力が気持ち悪くうねっている。|のるかそるか《ロングショット》号の船室内重力発生装置がバランスの悪い状態を嫌って揺れているのだ。 〈作曲家《テューンスミス》〉が背後に立ち、あごをルイスの肩にのせてたずねた。 「飛ばせるか?」 「ああ」ルイスは答えた。「目を閉じていなければならないかもしれないが──」 「〈ますらおことば〉は読めるのか?」 「いや」 「わたしは読める。そこをどけ。ニードル号にもどれ」 「ぼくはロングショット号を飛ばせる。制御方法は覚えている」 「変更されている。行け!」 「あんたは飛ばせるのか?」 「やってみるしかあるまい。行け」  ルイスがニードル号の格納庫にもどったとき、〈侍者《アコライト》〉はすでにいなくなっていた。  怒りをおさめるのにしばしの時間がかかった。まだ完全ではない自分の能力と曖昧な仮説をあてにして、ルイスが十代や二十代のころにすら冒さなかったような危険に、自分とすべての者の生命をさらすとは、いかにもプロテクターがしそうなことだ。  しかもそれだけではない。彼は自分が必要とするかもしれないからとルイス・ウーの生命を賭け……そしていまはそんなものは必要ではないというのだ。  かまうもんか。  うまくいかなかった賭けのひとつでしかない。  鼻から息を吸ってとめ、腹をたいらにして、吐く……十代、二十代にもどるというのは、なんともすばらしい感覚だ。このままで生きていくことができたら最高だろう。  ニードル号がガクンと揺れて、|のるかそるか《ロングショット》号から分離した。  ルイスは隠してあった|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を見つけて居住区画にもどった。〈侍者《アコライト》〉がそこにいた。〈至後者《ハインドモースト》〉は操縦区画で背中を向けている。 「|のるかそるか《ロングショット》号とは別行動をとります。ルイス、〈侍者《アコライト》〉、ベルトを締めてください」 〈侍者《アコライト》〉が抗議した。 「おれが副操縦士をつとめるはずだ」 「計画に変更はつきものです」〈至後者《ハインドモースト》〉はふり返りもせずに答えた。 〈至後者《ハインドモースト》〉がどうやって船殻をつないでいたブロンズ色の接着剤≠フ扱い方を知ったのか、ルイスは疑問にも思わなかった。〈作曲家《テューンスミス》〉もまたためらわなかった。  |のるかそるか《ロングショット》号から返事があった。 「好きにしろ、〈至後者《ハインドモースト》〉。この宙域におけるおまえの敵は、すべてのARMと〈族長世界〉船と、おそらくすべての異星人だ。ニードル号の船殻はスクライスで蔽い、二重の防禦を施してあるが、それでも反物質は危険だ。最善の経路をとって火星の〈地図〉にもどれ」 〈至後者《ハインドモースト》〉は答えなかった。|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号は星間宇宙へと向きを変えた。 [#改ページ]      7 逃  走 〈侍者《アコライト》〉がたずねた。 「ルイス、おれたちは間違った方向に向かっているのではないか?」  |のるかそるか《ロングショット》号の四つの核融合ロケットモーターが青い光を放ち、船はいま小さくなっている。あの巨大船は急激な加速ができず、しかもすべて核融合でおこなわなくてはならないため、その炎は、敵だらけのこの宙域でひどく目立つ。  ARMは、〈族長世界〉は、|のるかそるか《ロングショット》号を破壊しようとするだろうか。捕獲できる希望がわずかでもあるうちは、それはあるまい。量子第二段階《クワンタムU》ハイパードライヴはあまりにも貴重だ。もっとも、ほかの勢力が捕獲しようとしたら話はべつだ。そのときはどうなる?  プロテクターはあの巨大船をどうやって隠すつもりなのだろう。直径一マイル……だがそれも、深宇宙のスケールからすれば砂粒のようなものだ。  しかし、〈至後者《ハインドモースト》〉の現在の行動と〈作曲家《テューンスミス》〉の抱える問題は無関係だった。彼は恒星間宇宙に、故郷へと、船首を向けていた。  ルイスはすぐには答えなかった。〈侍者《アコライト》〉がいった。 「父はよく、おれが知らないことを知っていて当然だと考える。父にとっては当たり前で、簡単に学べたことだ。球面幾何学、遠心力、季節、〈球状世界〉における光のあたり方──」 「彼は逃げようとしているのさ」ルイスはいった。 「逃げる?」  もちろん〈至後者《ハインドモースト》〉は聞いているし、もしかすると〈作曲家《テューンスミス》〉にも聞こえているかもしれないが、隠さなくてはならないことでもあるまい。 「〈至後者《ハインドモースト》〉は壊れていない宇宙船を手にいれたんだ。彼はリングワールドには虚弱性があると考えている。そのため、囚われているかのように感じてしまう。いま彼は宇宙に出た。そして〈惑星船団〉に向かおうとしている……パペッティア人が住む〈球状世界〉にね」 「では、おれはさらわれたのか! 〈至後者《ハインドモースト》〉!」  パペッティア人は答えない。 「ぼくもさらわれているさ。落ちつけよ」ルイスはなだめた。「時間はある。この船は人類空域に到達するのに二年近くかかる。〈惑星船団〉だって何ヵ月もさきだ。考える時間はたっぷりある」 「ルイス、おれに忍耐を教え終わったら、おまえはどうするのだ?」  ルイスは微笑した。 「あんたを台座に載せてやるよ、親父の宮殿に立っている彫像のようにね」  これは彼らのあいだだけに通じるジョークだ。 〈至後者《ハインドモースト》〉は〈惑星船団〉をめざしているのだ。〈惑星船団〉の政界は彼を最高位から追い落とした。あれからずいぶんの年月がたっているとはいえ、パペッティア人は非常に長い時間単位で思考する。〈至後者《ハイノドモースト》〉は歓迎されないかもしれない。  希望は持とう。  そしてルイス・ウー自身は、情報保持者として国連に指名手配されている……知りすぎている罪というわけだ。国連は人類空域の世界において強大な力を持つ。だがそれでもすべての場所を支配しているわけではない。彼らの支配がおよぶのは、地球と月と──その領域を脅かす可能性のある対象のみでしかない。 〈至後者《ハインドモースト》〉は十五年ほど前にキャニヨン星でルイス・ウーを見つけ、誘拐した。あの星における彼の財産は、地元政府かARMのものとなっているだろう。地球の家も没収された。 では、どこに行く? どこかに安全な場所があるはずだ。この日がほんとうにくるとは、考えていなかった。  ルイスはいった。 「弁論に磨きをかけておこう。うまくすれば人類空域のどこかにあんたとぼくを落としていくよう、〈至後者《ハインドモースト》〉を説得できるかもしれない。それからあんたを故郷にもどす方法を探すよ。だがまず人類空域を見てみろよ。きっと楽しいぞ」 「なぜ人類空域なのだ? 行くならば〈族長世界〉だ! おれがおまえを[#「おれがおまえを」に傍点]案内してやる」  |のるかそるか《ロングショット》号を持ち帰ったとき、ルイスはつかのま両種族のあいだで英雄となった。 「ぼくは〈族長〉の宮殿と、狩猟公園を訪問したことがある。あんたは?」 「ではおまえが案内してくれ。父が育ったところを見せてくれ」 「あそこにいくのは怖いな。地球かキャニヨンについたら記録映像を見せてやるよ……だがそれも危険か」  どう考えても、彼の財産がARMに差し押さえられていることは間違いない。 「だがとにかく、ここにもどる前に〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉について調べられる。〈作曲家《テューンスミス》〉は充分な情報を持っていない。そんなものを持っているやつなんていないだろうけれどね。もしかすると薔薇戦争やベトナム戦争やメッカの報復みたいなもので、永遠につづくのかもしれない。誰も戦争の停め方なんか知らないからな」 「|わかった《ステット》、おれを人類空域に連れていってくれ。おれの地位と権利は保証されるか?」  ルイスは笑った。 「いいや。ハミイーとぼくが教えたように、|共 通 語《インターワールド》だけを話すんだね。鉤爪鞘《シースク口ウズ》かファフニールの出身で、クジンと人類の共同社会で育ったことにしよう。少しくらい変わっていても当然だと思ってもらえる。  カホナ、なぜ動いていないんだ? 〈至後者《ハインドモースト》〉!」  |のるかそるか《ロングショット》号は星野と太陽光の中に消えてしまったが、ニードル号はまだまったく何もしていないではないか。  ルイスは怒鳴った。 「何か[#「何か」に傍点]しろよ、〈至後者《ハインドモースト》〉!」  パペッティア人が悲鳴をあげた。それから抑揚のない声がいった。 「ルイス、〈侍者《アコライト》〉。あの腐肉食らいがわたしのハイパードライヴ・モーターを無力化していました」  ルイスにはいうべき言葉がみつからなかった。 「|超 空 間《ハイパースペース》で迂回して、リングワールド星系への帰還地点を隠すつもりだったのです! なのにこれでは、安全な場所に到達するまでのあいだ、全星系の望遠鏡がわたしたちを見張ることになるでしょう。もっとも楽観的に計算しても……二日のあいだ、砲火にさらされることになるでしょう。〈作曲家《テューンスミス》〉はなぜこんなことを」 「あんたが逃亡すると考えたんだろう」  パペッティア人が鼻息も荒く不協和音のオーケストラを奏で、ニードル号の船体がグラリと揺れた。 〈至後者《ハインドモースト》〉が逃走をはじめて一時間後、彗星のあいだからミサイルの大群と二十隻ほどの船があらわれた。その接近を目《ま》の当たりにしながら、ニードル号は太陽に向かって加速した。 〈至後者《ハインドモースト》〉は操縦区画にとどまっている。〈侍者《アコライト》〉とルイスは居住区画に締め出され、盗聴を恐れるかのように小声で話しあった。 〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉がすぐそこまでせまっていた。  高速ミサイルに危険はない。高推力のものに反物質は搭載できないからだ。反物質が容器にぶつかるような危険は冒せない。一部の船、とりわけARMの細長い船は、反物質弾とそれを発射するリニア・モーターを積んでいるだろうが、それらは船足が遅く、ニードル号に追いつくことはできない。  |のるかそるか《ロングショット》号の追尾は、侵略者たちにとってなんの問題もない。直径一マイルの球は目立つし、防御の策もないからだ。  二日めになってミサイルが届きはじめた。その大半は|のるかそるか《ロングショット》号の周囲に群がっている。 〈作曲家《テューンスミス》〉はニードル号にレーザー砲を追加していた。〈至後者《ハインドモースト》〉はニードル号を追ってきた何十発かのミサイルを撃ち落とした。太陽のきらめきが大きくなってきた。内星系にはさらなる船が待ちかまえているのではないだろうか。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、方向転換したほうがいいんじゃないか」 「それこそ思うつぼです」パペッティア人が答えた。  ルイスはパペッティア人の意図を推し量ってみた。それから前方を見て、理解した。  ──危険の大きさはどれくらいだ? パペッティア人は臆病だ、そうだろう──?  ルイス・ウーがクジン人の前で恐怖心を表に出すわけにはいかない。自分は楽しんでいるんだと思いこんだほうがいい。──|遊園地の乗り物《ライド》だ! 〈至後者《ハインドモースト》〉は現在の自分の行動よりも、追跡者のほうを恐れているらしい。  ルイスはしばし自分の言葉を反芻してみた。それから彼はいった。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、ニードル号の新しい設備は、ハイパードライヴもふくめてすべて、〈作曲家《テューンスミス》〉によって製造、あるいは改造されたもので、一度もテストされていない。それでもすべて信頼できるか? 停滞《ステイシス》フィールドも?」 「信頼するしかありません」〈至後者《ハインドモースト》〉が答えた。「このようなむきだしの状態では簡単にやられてしまいます。望遠鏡さえあれば、|のるかそるか《ロングショット》号が襲撃されるのは誰にでも目撃できたのです。わたしたちは単なる囮《おとり》なのでしょうか? 〈作曲家《テューンスミス》〉はわたしたちの生命を捨て駒にしようとしているのでしょうか? ルイス、種族的に、わたしよりあなたのほうが彼をよく理解できるでしょう!」 〈作曲家《テューンスミス》〉について意見をたずねられ、ルイスは答えた。 「あいつを信用してはいけない。対応には最善を尽くせ。あいつの反応は非常に迅速だと考えておけ」 「たとえリングワールドに到達できたとしても、わたしは相変わらず彼の捕虜のままです」〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。「ですがわたしはそれを受け入れません。けっして。理解できない目的のために危険にさらされるのはもううんざりです」 「たしかにそうだな」  |尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号はかなりの速度を得、外壁を通りすぎるときもなお加速しつづけていた。外壁を越えるとき、何隻もの船がリングワールドの暗い裏側から上昇した。そしてニードル号は、まばゆい陽光と何千もの小さな探査機《プローブ》によって形づくられた光輪の中を、リングワールドの弧の内側へとはいっていった。  骨も砕けそうな咆哮と、ドスドスという規則正しい音が聞こえたが、ルイスは供給装置《キッチン・ウォール》をまわって確かめにいくことはしなかった。〈侍者《アコライト》〉が運動のため、壁を攻撃しているだけのことだ。  船は空をジグザグに飛びまわっていたが、動きまわる星野を見なければ、それを実感することはできなかった。船室重力はニードル号のすさまじい加速に耐えている。それからふたたび、探査機《プローブ》がよってきた。攻撃してくるものはなく、ただどの種族もニードル号を観察したがっていた。  彼らは何を見ることになるのだろう? パペッティア人のつくったゼネラル・プロダクツ製三号船殻と、操縦区画にすわったパペッティア人。ニードル号は安全なはずだ。パペッティア人を怖がらせようとする法適者《LE》はめったにいない。  太陽を隠す黒いしみがひろがっていく。  とんでもない道程になるのはわかっていた。ふいに白と黒の閃光が走った。 〈侍者《アコライト》〉が皮肉っぽくたずねた。 「ミサイルに反物質は搭載されていないといったな?」 「船が反物質弾にやられたんだろう。そういう光だ。もちろん推測だがね。〈至後者《ハィンドモースト》〉、回避をつづけてくれ」  パペッティア人の声が歌った。 「何に[#「何に」に傍点]対してですか? ほかのことを考えてはどうです。もし〈作曲家《テューンスミス》〉が殺されたらどうするのです? またべつのプロテクターを選ぶのですか? それとも誰も選ばないのですか?」 「あいつはどうしている?」  |仮 想 画 面《ヴァーチャル・スクリーン》が出現した。  大量のミサイルと船が、直径一マイルの透明な球体を蔽うように集まっていた。レーザーと爆弾がとびかっている。一隻の船が理性を失って|のるかそるか《ロングショット》号に向かって発砲したため、ほかの船も攻撃をはじめた。レーザー光が織りなす明暗の縞模様の中、四基の古風なロケットモーターが炎を噴き、球体が回転しはじめた。  そして、|のるかそるか《ロングショット》号は姿を消した。 「ハイパースペースにはいったな」ルイスはいった。「いかれたやつだな。食われなければ、あとの連中を振り切ることができるだろうが」 「もし〈作曲家《テューンスミス》〉が死んだら、あなたはどうしますか?」〈至後者《ハインドモースト》〉が執拗にたずねた。 「生命の樹はいやというほどあるからな。なんとかするさ」ルイスは答えた。「さもなければ、外壁のプロテクターがすべて引きつぐことになる。そいつは[#「そいつは」に傍点]あまりいいことじゃないがね。彼らの進化はヒト型種族の主流からあまりにも遠く離れてしまったし、充分な知識を持ってもいない。〈至後者《ハインドモースト》〉、やはり最上の選択は〈|屍肉食い《グール》〉なんだ。彼らの生活様式はジャッカルと同じだ。すべての生き物はいずれ彼らのものになる。あらゆる生き物の生活をよりよく安全に導くことで、彼らの種族もまた最高の境遇を得られるんだ。それはそれとして、彼らの光通信システムはすばらしいな。ぼくたちにもあれは必要だ」 〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。 「〈作曲家《テューンスミス》〉は傲慢で信頼できません」  太陽を蔽う黒いしみがひろがり、彼らをのみこんだ。    ──断絶── [#改ページ]      8 反物質爆弾を試す [#ここから3字下げ]  |人食い鰐《グレイ・ナース》号は二日間加速をつづけ、それから太陽とリングワールドに向かって落下していった。母艦はあと数時間で外壁を通過する。選択肢がつきつけられるのはその瞬間だ。|人食い鰐《グレイ・ナース》号の船殻には、全長にわたってリ二ア・モーターが設置されている。戦闘偵察機をリングワールド空域内に送りこむこともできるのだ。  クルーたちは待った。  クジン族が占領したあの彗星と真空のあいだで何があったにせよ、それは|人食い鰐《グレイ・ナース》号のはるか上、氷の結晶がつくりだす霧に隠されていた。もちろん戦闘員たちもあれこれと推測することはできる。探査機が犯罪捜査のためにとびたっていった。そのあいだに、何機もの攻撃機が視野にはいっては、通りすぎていく。 「あの小さなやつはGP船殻だ」クラウス・ラシッド二等捜査官がいった。「どこの船かはわからない」 「パペッティア人じゃないことだけはたしかね」とロクサニー。「連中にそんな度胸があるはずはないもの」 「しかしあの大きくてのろいやつ、あれは|のるかそるか《ロングショット》号だ」 (周辺戦争《フリンジ・ウォー》)の他勢力も気づいたようだった。二隻の船はいまや半ダースもの文明が放つ探査機《プローブ》にとりかこまれている。休憩室のモニターに映しだされているのは生映像だ。ピアスンのパペッティア人がGP3号船の操縦席にすわっている。|のるかそるか《ロングショット》号のパイロットは人間のようだ。 「|のるかそるか《ロングショット》号はわれわれのものだ」クラウスがいった。「これはとりもどすチャンスかもしれないな」  クルーたちは映像に見入った。ふいに|のるかそるか《ロングショット》号が炎に包まれ──計り知れない価値を持った試作船への脅威だ──罵声があがるのを聞いて、ロクサニーは微笑した。そのとき水晶球が消失し、彼女の微笑が消え、罵声もとまった。  ついに司令官の声が命じた。 「乗船! 戦闘機クルーは全員持ち場につけ!」  ──しゃぼん玉みたいに消えた──とロクサニーは考えた──どうやって?  彼女はこんな狭い場所でも飛べると考えているらしい馬鹿でかい無謀な戦闘機乗りたちをかわしながら、持ち場に向かって通路をいそいだ。  彼女は|巻き貝矢魚《スネイル・ダーター》号のクルーだ。エアロックをすり抜け、自分の座席にすべりこんだ。クラウス・ラシッドがそのあとにつづく。三人めのクルー──。 「フォレスティアはどこ?」彼女は鋭い声でたずねた。  オリヴァ・フォレスティア捜査官がとびこんできて自席についた。三人は背中あわせでそれぞれのウォール・ディスプレイに向かっている。  オリヴァがたずねた。 「今回は出動できるでしょうかね?」  ロクサニー・ゴーチェはニヤリと笑った。  あらゆるフェロモンを抑えきれない環境の中、いちゃつく以上のこともできない狭苦しい空間で、ふたりの男とともに過ごすこの状況が、彼女は好きだった。彼女の威圧的な性格はクラウスとオリヴァもすでに承知している。 「出動するわよ」彼女はいった。 「あの船の動きしだいでは、わたしたちもリングワールドをすぐ近くで見られるでしょう。もしかしたら着陸だってできるかもしれないわ。気をひきしめなさい、|法 適 者 た ち《リーガル・エンティティーズ》! これから出撃よ」 [#ここで字下げ終わり]  ニードル号が激しく揺れ、ルイスも揺れ、周囲のすべてが動いている。停滞《ステイシス》が解除されたのだ。  側面の展望スクリーンでは黒く蔽い隠された太陽の周辺に恐ろしいコロナがひるがえり、船尾には暗黒があるばかりだった。太陽は背後に遠ざかりつつある。 〈至後者《ハインドモースト》〉の船室に何が映っているのか、ルイスにはわからない。  ──まあいい──。  グラフや疑似カラーを見ると、船殻温度の上昇を感じる[#「感じる」に傍点]ことになりかねない。けっして危険を無視せず、危険がないふりもしないのがピアスンのパペッティア人というものだ。蹴り飛ばすときをのぞき、けっして脅威に対して背を向けない。  前方では弧を描くコロナガスが輝きながら流れていく。星々を隠すルビー色の光は、ニードル号の透明な船殻が放つ黒体輻射だろう。 〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉の各船は……見えない。パペッティア人は太陽をつきぬけることによって、追跡をふりきったのだ。  彼らはすでに、リングワールドに夜を投げかける巨大な長方形が集まってつくりあげた輪に近づきつつあった。〈至後者《ハインドモースト》〉は船を|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の向こう側にすべりこませ、それからすさまじい加速をかけてリングワールドに向かった。  ルイスはぼんやりと、〈作曲家《テューンスミス》〉は隕石防禦装置を切っているだろうかと考えた。かつて彼は隕石防禦装置に撃ち落とされたことがある。|うそつき野郎《ライイング・バスタード》号は停滞《ステイシス》状態のままリングワールドに激突し、床面に長い溝を刻んだ。あのとき乗員は傷ひとつなく無事だった……だが〈作曲家《テューンスミス》〉は停滞《ステイシス》フィールドの作動タイミングを変更している。  今回、太陽エネルギーを利用したリングワールドの超高温レーザーは発射されなかった。もしくはニードル号をとらえられるほど迅速には反応しなかった。  だが〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉が彼らを追いかけてきた。 「つけられているぞ」〈侍者《アコライト》〉が警告する。 〈至後者《ハインドモースト》〉が歌った。 「ふりきります。邪魔をしないでください」  リングワールドが巨大な蝿たたきのようにせまってくる。ニードル号はまっすぐ夜に蔽われた土地に向かった。いくつもの島をちりばめてダイヤモンドのように輝く広大な〈他方海洋《アザー・オーシャン》〉がほぼ真下に見え、ニードル号が降下するにつれてゆっくりと側面に流れていく。〈至後者《ハインドモースト》〉は、地球の数倍も大きなひしゃげた砂時計を形作っている、稲妻のひらめく雲をめざしていた。  嵐の〈目〉は、リングワールドの床面に孔があいていることを示す目印である。  これはリングワールドにおける、惑星でいえばハリケーンやトルネードのようなものだ。孔から空気が洩れることによって部分的な真空が生じる。回転方向《スピンワード》から流れこんだ空気は、回転速度によって速度がそがれる。その空気は軽いため、上昇しようとする。反回転方向《アンチスピンワード》から流れこむ空気は速度をあげ、重さを増し、沈もうとする。  上空から見るとそれらの流れは、たいらな砂時計の素描のようで、くびれの部分に孔が位置している。だが左舷《ボート》もしくは|右 舷《スターボード》からは、上目蓋と下目蓋の真ん中にトルネードの渦を水平におき、高所の筋雲を眉毛とした、〈目〉のように見えるのだ。  大きな孔ならば、〈作曲家《テューンスミス》〉にせよその前任のブラムにせよ、リングワールドのプロテクターたちがすでにふさいでいるはずだ。失われた空気はとりもどせないのだから。つまりこの嵐の中心にあいた隕石孔は、小さくかつ古いものにちがいない。こうした嵐が発生するには数世代かかる。 〈至後者《ハインドモースト》〉は一隻の大理船と二隻の小型船を従えたまま、渦を巻く砂時計のくびれに向かって急制動をかけながら突進した。そしてニードル号は自殺熱にかられたかのように黒い渦巻きにとびこみ、つきぬけた。隕石孔から漆黒の恒星間宇宙にとびだし、急な螺旋を描きながら上昇する。 〈至後者《ハインドモースト》〉がリングワールドの黒い底面に向かってレーザーを発射した。ルビー色の閃光が、またべつの古い隕石によって破壊された排出管《スピルパイプ》の列を照らしだす。  ──〈作曲家《テューンスミス》〉に話さなくてはならないな──とルイスは考えた。──リングワールドは疲弊しつつある。水も空気も失われていく。底面も、外壁も、表面も、すべてに補修が必要だ。そうだ、いつか時間がたっぷりあるときにでも──。  いま彼らは氷の結晶が形作る雲の中を進んでいた。凍った海水が沸騰して蒸発したものだ。 〈侍者《アコライト》〉がふいにいった。 「ルイス、そういういい方はやめろ!」 「なんだって」 「おれだってライド≠フ意味は知っている。何十億ものおまえの同類は、わざわざ金をはらって、安全が保証された条件下で、肝がつぶれるほど怖い目にあおうとする。英雄は真の危険を冒さなくてはならない!」 「ブラムと戦ったときのあんたは、ちゃんとそれをやったな」  ニードル号が急上昇した。 「さあいくぞ」  ──これは命を賭けた航行などではない。単なる|遊び《ライド》だ──  海水でできた黒い氷が泡立ちながら蒸発しようとしている。ニードル号は氷のバリアをつきぬけると、破れた排出孔を通って、その上にある海へといきおいよく上昇した。  |尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号は黒い水の中を沈んでいき、停止した。 「船はここに停めておきます」〈至後者《ハインドモースト》〉が宣言した。  そして|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の縁をはねあげて制御装置をいじりはじめた。  ルイスはたずねた。 「いまの出来事を、あんたはどこまで予測していたんだ?」 「偶然からのなりゆきです」〈至後者《ハインドモースト》〉が答えた。「もしニードル号を飛ばす機会が手にはいるならば、それを隠す場所が必要になることはわかっていました。ルイス、このリンクは〈補修センター〉に通じています。|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》のネットワークは自由に使えます」 〈侍者《アコライト》〉の耳が立った。彼はテニスの試合でも見ているかのようにふたりをかわるがわる見つめた。  ルイスはじっくりと考えた。氷が孔をふさぐまで周囲の海水は排出されつづける。手がすいていれば、〈作曲家《テューンスミス》〉は水蒸気の柱から彼らを発見するだろう。だが|のるかそるか《ロングショット》号は通常空間では足が遅いし、もはや死を意味しないとしても恒星至近距離におけるハイパードライヴがカホなほど危険な行為であることに変わりはない。〈作曲家《テューンスミス》〉と|のるかそるか《ロングショット》号は、まだ数日のあいだ追われながら空を飛びまわっているだろう。  では、|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号は……。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、この船を隠す[#「隠す」に傍点]ことはできない」 「もう隠しました」 「食べ物や寝床やシャワーや与圧服が必要になればニードル号にもどらなくてはならない。ぼくたちには|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》のリンクが必要だが、〈作曲家《テューンスミス》〉にとってもそれは同様だ」 「ですが船の位置を秘密にすることはできます」 〈至後者《ハインドモースト》〉はありもしない幻の支配力を求めているのだ。無益なことだが、それをいうならば、ルイスも同じことをしている。 「考えてみようじゃないか」 ルイスは提案した。「〈作曲家《テューンスミス》〉が|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号に気をとられているあいだに、|のるかそるか《ロングショット》号を盗むっていうのはどうだ?」 「どうやるのです?」 「わからない。だがぼくは、あいつやあんた[#「あいつやあんた」に傍点]に操られて走りまわるのにはもううんざりしているんだ、〈至後者《ハインドモースト》〉。この苦境を抜けだす方法があるはずだ!」 「〈作曲家《テューンスミス》〉が手一杯なこの一、二日のうちに、何か手を打ちましょう」  彼らは隕石防禦室へと移動した。  昼はすでに嵐の〈目〉を通りすぎていた。ルイスは太陽の縁と|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の黒い端の向こう、一億九千万マイルの彼方をながめた。  銀色の糸と結び目はいまも川と湖と海の存在を示してはいるが、時間と孔がすでにこの土地に乾燥をもたらしている。三隻の船が嵐のつくるひしゃげた砂時計を出入りしていた。ニードル号を追跡してきた船にちがいない。大型艦はクジン族のもので、いちばん小さなものはARM戦闘機、もう一隻もARMの船だ。探深《ディープ》レーダーを持っていれば当然、雲の中でもたがいを探知しているだろう。  くびれの中でときどき稲妻が光っている。だがふいにひらめいた光は、稲妻にしてはあまりにも明るすぎた。 「反物質弾の問題点は」ルイスが推測した。「クルーがありとあらゆる理由をつけて船外に出そうとすることだろうな」  二隻のARM船がクジン船を追っている。クジン船が雲の中にもどる。探深《ディープ》レーダーに嵐の〈目〉の中心部を行くその影が映る。ARM船の片方がそのあとを追い、もう一隻が雲の外で前方にまわりこんでいる。クジン船が排出孔を抜けて外にとびだし、姿を消した。  二隻のARM船はいまや一兆マイル四方にわたるその地域の支配者だ。つづく数時間、彼らはしばしば嵐の〈目〉にもどりながらそのあたりを捜索した。 「誰もはいってこないよう、孔を守っているのでしょう」〈至後者《ハインドモースト》〉が告げた。「あなたとハミイーがあの秘密を既知空域《ノウンスペース》中にひろめてしまいましたね、ルイス。リングワールドの出入りには隕石孔を使う。さもなければ、隕石防禦装置の太陽エネルギー超高温レーザーに撃たれる」 「もしニードル号を見つけたら」ルイスはいった。「やつらは|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》のネットワークを手にいれることになる。〈至後者《ハインドモースト》〉、この技術は簡単に複製できるのか? 国連にはこれまで一度もそのチャンスがなかった。だがこのシステムは転移ボックスよりはるかに進歩している」 〈至後者《ハインドモースト》〉はもちろん答えなかった。  ルイスはいつのまにやら、ディスプレイに映る〈他方海洋《アザー・オーシャン》〉を凝視していた。広大な水面と地面は、城の壁にかかったタペストリーのようだ。そして群島……いや、大陸の群れだ。あれは〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉に散らばる〈地図〉──そのひとつは地球の実物大地図だ──と同じくらいの面積を持っているのだろう。だがこの海の大陸は密集していて、どれも同じ形をしているようだ。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、リングワールドをつくったのはパク人なのか?」 「わたしにはわかりません」 「あんたならもう見当がついていると思っていたよ。このじつに多様なヒト型種族のどこかに、ほんもののパク人がいるんじゃないかとね。ぼくたちは古い骨をのぞいて、ほんもののパク人を見たことがない」  パペッティア人が答えた。 「パク人の繁殖者《ブリーダー》に関してはかなりの推測ができます。彼らは昼間と夜には眠るか姿を隠し、薄明時に狩りをしたり働いたりしました。そして海岸地域で暮らしていました」  ルイスはびっくりした。 「どうしてそんなことがわかる?」 「あなたがたの体毛が一部にしか生えていないことから、その祖先が定期的に泳いでいたことがわかりますし、水中にいるあなたを見たこともあるからです。薄明時についてですが、このリングワールドには惑星よりはるかに長時間にわたって、本来まったく不必要な薄明時があります。いいですか」 〈至後者《ハインドモースト》〉がぎごちない動きで椅子にすわり、その口が制御盤をさぐった。壁のディスプレイがとび出してきて、その色が単調な青に変わった。 〈至後者《ハインドモースト》〉が白い線をひきはじめた。白い点は太陽だ。リングワールドの円。はるかに小さな同心円は、複雑な糸でつながれ、軌道よりもややはやい速度で回転する三十数枚の|遮 光 板《シャドウ・スクエア》だ。 「リングワールドはこのように設計されています。一目三十時間のうち、夜が十時間、太陽が一部隠れている時間は一時間以上あります。ですが──」  リングワールドの回転と逆行する五枚の長い|遮 光 板《シャドウ・スクエア》が描かれた。 「この形態ならば、いたずらに長い薄明時をなくし、等間隔の昼と夜をつくることができます。しかし〈建設者〉たちはそれを望みませんでした。その正体がなんであれ、リングワールドを建設した者たちは、終わりのない夏と長い薄明時を欲したのです。これを建設したのはパク人のプロテクターだと推測されます。ならばパクの世界はそのようなものだったのでしょう」  ルイスは図をじっくりと見た。  ──もしかすると、より進んだモデルがどこかにつくられているかもしれない──。 〈至後者《ハインドそ1スト》〉が訴えた。 「わたしは空腹です。あなたたちで監視をつづけてくれますか?」 「おれも空腹だ」クジン人がいった。「はやくしろよ」  いつのまにかかなりの時間が過ぎている。気がつくと、ルイスもなかば飢えかけていた。  パペッティア人は肉食生物よりも頻繁に食事をとらなくてはならない。〈至後者《ハインドモースト》〉はたっぷり一時間は姿を見せなかった。もどってきた彼は、結いなおしたたてがみに宝石をきらめかせ、飼い葉をのせた浮揚プレートを従えていた。 「時間を無駄にしては後悔することになります。〈作曲家《テューンスミス》〉なしに過ごせる最後の数時間です。しかしどう使えばよいのでしょう? わたしはそこまでの計画を立ててはいませんでした。ごらんなさい、また戦艦です」  三隻のクジン船、それから見たことのない大型艦、さらに三隻を加えたARM船が|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の内側を飛びまわっているが、まだ砲撃ははじまっていない。 「〈侍者《アコライト》〉、食事をしてこい」と、ルイスはいった。  飢えたクジン人のそばにいたい者などいるわけがない。  ルイスと〈至後者《ハインドモースト》〉は飛びかう戦艦を観察した。 「あのすべての艦に停滞《ステイシス》フィールドが装備されているとは思えない」ルイスは考察した。「停滞《ステイシス》フィールドは高価だが、それほどあてにならないし、それにもちろん船が機能停止してしまう。だから連中はリングワールドの隕石防禦装置を警戒しているだろう。だが〈作曲家《テューンスミス》〉が装置を停止してしまい、連中もそれに気づきはじめた。つまり」  三隻のクジン船がはるかリングワールドの地表に向かって急降下しはじめた。 「ほら、さっきのARM船を阻止しようとクジン船がやってきて、それを[#「それを」に傍点]とめようとさらにARM船がやってくる──カホナ、なんてこった!」  大気圏内にまばゆい筋が描かれ、終着点の砂漠に閃光をもたらした。 「反物質弾でしたね」パペッティア人がいった。 「そしていまは小さな嵐の〈目〉が生じている。カホナ、まだメインイベントははじまってもいないんだぞ! やつらがほしがっているのは|のるかそるか《ロングショット》号だ。ニードル号なんて無意味だってのに」 「干し草の中の 針《ニードル》 ですか? ですが、あなたの話はほとんど想像に基づくものでしょう」〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。「戦争の大半は目に見えないところでくりひろげられているのですよ。あの大型船ですが、正体がわかりました。クダトリノとジンクスの業務提携によるルア・オヴ・ファーランズ社です。彼らは参戦せず、ただ観察しているだけでしょう。〈侍者《アコライト》〉がもどってきましたね。ルイス、食事をして、ひと風呂浴びていらっしゃい」  ルイスはハッと目覚めた。何かに眠りをさまたげられた……スクリーンの閃光だろうか? 〈侍者《アコライト》〉と〈至後者《ハインドモースト》〉は隕石防禦室の壁の前、固い床の上のそれぞれ離れた場所で手足を投げだして眠っている。清潔でいられるのはいい気持ちだ。一軍隊分ほどの食事もとった。睡眠プレートで休めればいうことはなかったのだが。しかしニードル号で眠れば必ず何かを見損なうことになるだろう。  ルイスは身体を起こした。  どこも痛くない! 二百歳の誕生パーティーで、彼よりも年長のある女がいった言葉を思いだしてニヤリとした。 『ねえあなた、ある朝日を覚まして関節と筋肉がどこも痛まなかったら、それはその夜のうちに死んだってことなのよ』 〈至後者《ハインドモースト》〉がふたたび全方位スクリーンをセットしていた。空の中に窓が浮かび、嵐の〈目〉と〈他方海洋《アザー・オーシャン》〉が映しだされている。窓の周囲では星々が落ちつきのない様子で動いている。〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉の船だ。すべての景色がいまでは静穏だった。  見守る以外何もすることを思いつけず、それがいらだたしかった。プロテクターを出し抜く方法を考えよう。〈作曲家《テューンスミス》〉が星系中を追いまわされているいま策を見つけられなくて、あとでどのようなチャンスがあるというのだ?  リングワールドには何百万もの海がある。〈至後者《ハインドモースト》〉が|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号をどこに隠したのか、ルイスには見当もつかなかった。行きたければ|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を使えばいいのだ。  最初のARM船二隻はいまだニードル号を見つけることができず、いまは戦略を練るのに忙しい。嵐の〈目〉の上の戦いは、ここ数時間はおさまっているが、それでも各船は位置を変えつづけている。  ファーランド船の周囲でとつぜん光がひらめいた。反物質弾がその進路をさえぎったのだ。ファーランド船は加速して戦闘空域を離脱したが、あらたな進路はリングワールドから船を遠ざけることになった。ルビー色のレーザーがまばゆく輝き、拡散する。攻撃者はすでに大気圏の奥深くにはいりこんでいる。何千万マイルも離れた船にはさしたる影響もないだろう。  嵐の〈目〉の上の戦いは緊迫度を増していく。  二隻のARM船が隠れている雲の中で、閃光が炸裂した。  ルイスはさけんだ。 「起きろ! 起きろ! 戦闘を見逃してしまうぞ!」  ふたりがモゾモゾと動いた。 〈作曲家《テューンスミス》〉の探深《ディープ》レーダーの窓に、孔にとびこんでいくARM船が映しだされている──苦労して手にいれた縄張りを放棄し、調査データを守ろうというのだろう。だがそれも、リングワールドの床面の裏側で待ち受けているものがなければの話だ。もう一隻も急激に加速して、〈目〉の瞳孔部分、嵐の軸にあたる晴れ間をくだっていく。  クジン船もまた探深《ディープ》レーダーを持っている。二隻のレンズ船が降下した。そのあとを炎が追う。  嵐の〈目〉が青白い炎に包まれた。  全員の目が焼かれる前に、〈至後者《ハインドモースト》〉が窓の倍率を落とした。縮小された景色の中──〈作曲家《テューンスミス》〉は|遮 光 板《シャドウ・スクエア》にカメラを設置したにちがいない──〈他方海洋《アザー・オーシャン》〉の近くでひとつの星がきらめいた。それは大きく……とてつもなく大きく……信じられないほどに大きく……。  パペッティア人がいった。 「ARM船が一隻爆発したもようです。反物質を搭載した船です。生じた孔の大きさは……」  〈至後者《ハインドモースト》〉はしばし考え、それから丸くなって沈黙した。  嵐の〈目〉は爆発で散り散りになって消滅した。雲の形状が、衝撃の輪が海と灰緑の土地を越えてひろがりつつあることを示している。雲のドームが薄れゆく火球を包んでいる。 「何があったのだ?」 〈作曲家《テューンスミス》〉と小柄な猿人プロテクターが|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》にあらわれた。不出来な弟子を前にして説明を求める魔法使いの図だ。ルイスののどが詰まった。  自分があれを阻止すべきだったのではないか。きっと〈作曲家《テューンスミス》〉は責めるだろう。いや、責めるべき[#「べき」に傍点]だ。 「反物質が爆発した」〈侍者《アコライト》〉が答えた。 「あの雲の下に孔があいているのか?」  馬鹿げた質問だった。雲のドームは中心がへこんでいる。恒星間宇宙に吸いだされているのだ。 〈侍者《アコライト》〉が答えなかったので、ルイスはいった。 「もともとあそこには孔があいていて──」 「わかっている。迅速に行動しなくてはならない。こい」 〈作曲家《テューンスミス》〉は|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の縁を持ちあげ、設定を変えた。  気がつくとルイスは口に出していた。 「そうだ。いまこそ[#「いまこそ」に傍点]迅速に行動すべきときだ。あんたは戦争を自宅に持ちこんでしまった! そしてリングワールドの空気が吸いだされようとしている!」  火球はほとんど消えようとしていた。ゆっくりとひろがりつつある雲の輪の中で、リングワールドの床面はスクライスがむきだしになっている。そして雲は孔の方角に流れていく。 〈作曲家《テューンスミス》〉はルイスの前腕をつかむと、全員を|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》へと追いたてた。 [#ここから3字下げ]  ハヌマンはひと目でそれらすべてを見てとった。  彼はこの宇宙と仮説によるもうひとつの宇宙を支配する法則を曲げた。任務は成功裏に終わった。だがいまはそれどころではない。リングワールドに存在するすべてを救わなくてはならないのだ。リングワールドの床面が引き裂かれて口をあけている。  その孔は〈アーチ〉の反対側にあいている。それはよくもあり、悪くもある状況だ。死が弧をたどってここにまで到達するには長い時間がかかるだろう。だが〈作曲家《テューンスミス》〉の対抗手段もまた、それだけの距離をたどらなくてはならないのだ。  異星人たちもそれに気づいている。最年長の異星人はもっとも異質で、もっとも経験豊富で、おそらくもっとも賢いが、いまは心を閉ざしている。ヒト型種族は絶望している。いちばん若いただの大猫にすぎないやつは──ハヌマンと同じく──誰かが解決してくれるのを待っている。 〈作曲家《テューンスミス》〉はどうだ?  ハヌマンが事態を理解しようとしているあいだに、〈作曲家《テューンスミス》〉はもう行動をはじめていた。〈|屍肉食い《グール》〉のプロテクターはなんの迷いも見せない。〈作曲家《テューンスミス》〉とルイス・ウーが姿を消すのを見て、小さなプロテクターもそれにつづいた。 〈作曲家《テューンスミス》〉がすべてを正してくれる。 [#ここで字下げ終わり]  巨大国のようなスケールの機械装置がオリンポス山の下にある作業場に運びこまれていた。 〈作曲家《テューンスミス》〉はルイスの腕を放すと、全速力で機械のあいだを走りまわった。小さなプロテクター、ハヌマンも、そのあとを追ってはねまわっている。  ルイスのかたわらに〈侍者《アコライト》〉があらわれた。 「ルイス、何が起こっているのだ?」 「リングワールドから空気が洩れはじめている」 「それはつまり……すべてが終わるということか?」 「ああそうだ。反対側からはじまった。まだ数日は大丈夫だろう。でもそれは、ただリングワールドがとてつもなく大きい[#「大きい」に傍点]からにすぎないんだ。〈作曲家《テューンスミス》〉がどうするつもりなのか、ぼくには見当もつかないよ」 「あの大きな機械はなんだ? 以前見たことが──」  ハヌマンがもどってきた。 「あれは隕石栓《メテオブラグ》の大型版だ。もちろんまだ一度も試したことはない」  それはアスピリン錠剤のような形で、大きさはおよそツインピークス環境都市《アーコロジー》か小さな山ほどもあり、それでもリングワールドにあいた孔に比べれば小さかった。  ルイスはいった。 「思い出した。洞窟のひとつにあったやつだ。山ほどの浮揚プレートを使ってここに運びこんだんだな」  見ているうちに、それは磁気フィールドに導かれてすべるように床の孔にはいり、線形発射装置《リニアランチャー》の基部に向かった。〈作曲家《テューンスミス》〉は孔の端で監督している。ルイスと〈侍者《アコライト》〉もそれに加わった。 〈補修センター〉の床から天井までの四十マイルにわたって、線型発射装置《リニアランチャー》の環が積み重なっている。|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号のような小型船には巨大すぎる機械だ。幅が半マイルもある〈作曲家《テューンスミス》〉のこの栓《プラグ》にならばちょうどいい。発射装置はズラリとならんだ浮揚プレートに載っていて、それが移動しながら照準をあわせている。  栓《プラグ》は底に近づきながらさらに落下したが、その速度は遅くなりつつあった。 〈作曲家《テューンスミス》〉がいっしょにながめているふたりに気づき、すぐさま孔のそばから追いはらった。  背後で雷鳴が轟いた。ルイスがふり返ると、何か恐ろしい閃光がオリンポス山の火口からとびだして消えた。 〈侍者《アコライト》〉の耳は硬く丸まっていた。ハヌマンが両手を耳から離して何か話したが、ルイスには聞こえなかった。何ひとつ聞こえなかった。彼の耳はまだあのまばゆい爆発の恐ろしい轟音でいっぱいだった。  しばらくたっても聴力はもどらなかった。〈侍者《アコライト》〉のほうがすみやかに回復した。クジン人が〈作曲家《テューンスミス》〉とハヌマンを相手に……何かを……討論している。全員が、隕石防禦室のウォール・ディスプレイにあらわれた動きを追っていた。〈至後者《ハインドモースト》〉は足台モードにはいったままだ。  ルイスはただ見ているしかなかった。 〈作曲家《テューンスミス》〉の隕石栓《メテオプラグ》が太陽に向かって漂っていく。ニードル号は十分の一光速で発進した。あの発射装置にはそれだけの力があるのだ。だがこれほどの距離になると、栓《プラグ》の動きはむしろ緩慢に見える。  倍率をあげた窓が映しだす、銀色の水も深い灰緑色の生命もないクッキリとむきだしになった月面のような景色の中で、問題の孔が黒い点となっている。  あの孔は直径六、七十マイルにおよぶだろう、とルイスは見積もった。それをとりまく霧の輪は地球よりも大きく、なおも拡大しつつある。  リングワールドはまだおのが死に気づいていない。水と空気が孔から真空に流れだす。だが、リングワールドの反対側から〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉のあるここ[#「ここ」に傍点]まで衝撃が伝わるには……弧の両側でそれぞれ三億マイルを経てこなくてはならない。〈作曲家《テューンスミス》〉の栓《プラグ》が百六十分をかけてリングワールドの直径を横切っていくあいだには、たいしたものは失われまい。〈他方海洋《アザー・オーシャン》〉そのものも、まだ沸騰しはじめてはいないのだから。  ハヌマンがうろうろと近づいてきて、子音を吐きだすように大声でいった。  ──彼のくちびるを見ているのは面白い──。 「わたしがこの状態になって、まだ一ファランにもならないのだ。物事のスケールがうまく把握できない。わたしは五百億ファランの歴史を持つ宇宙、十の二十乗も存在する光点の、そのひとつの周囲をまわっている環《リング》の上で育ったのではない。わたしの世界にはそれほど大きな数は存在しなかった。こぢんまりとして、居心地のよい、理解できるものだった」 「すぐに慣れるさ」ルイスは慰めた。  ようやく自分の声が聞こえるようになった。 「ハヌマン、あれはなんだ? 何をするものなんだ? ぼくたちは空気を失いつつあるんだぜ!」 「わたしの知っていることは、ごくわずかだ」 「そのごくわずかなことを教えてくれ」ルイスは求めた。 「ひとつのゴールを与えられたふたつの聡明な精神は、問題解決に向かって同じ方法を考えだすものらしい。吸血鬼《ヴァンバイア》のプロテクター、ブラムは、隕石孔をふさがなくてはならないことに気づいていた。最初につくりあげた隕石栓《メテオプラグ》は小さなものだったが、彼は数百ファランも前からオリンポス山の下に巨大な宇宙空間機材発射装置《マスドライバー》を建造していた。〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉山の原因となった流星体の衝撃は、狂気をもたらしそうなほどブラムを脅かしたのだろう。  だが〈作曲家《テューンスミス》〉はさらに大きな栓《プラグ》をつくっている。さっきのやつは、彼が製造した中でも最大のものだ」  ハヌマンは話しながら、ルイスの周囲をはねまわり、腕をふりまわし、少しもじっとしていなかった。 「いまからその作動を見る。〈作曲家《テューンスミス》〉はわれわれが現場に行って観察することを望んでいる。何か不都合があった場合、どこを修正すればいいか、見てくるのだ」 「超特大の隕石継当《メテオパッチ》か。どのように働くんだ?」 「わたしには推測しか語れない」 「一度もテストしていないのか?」 「いつテストするというのだ? おまえは一ファラン近く医療機《ドック》にはいっていた。そのあいだに〈作曲家《テューンスミス》〉は、〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉のプロテクターを四人つくって訓練し、より大きな隕石栓《メテオプラグ》をつくるためにナノテク工場を建設し、〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉を観察し、いくつもの探査機を設計し、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》工場をつくり、おまえたちの|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号を──」 「つまり忙しかったんだな」 「|針 虫《ステイングバグ》の巣のようなあわただしさだった! そしてもし栓《プラグ》がうまく働かなければ、すべては水の泡になってしまう」 「あんた、子供はいるかい?」 「いる。孫もいる。〈作曲家《テューンスミス》〉につくられてから、わたしは彼らの数をかぞえる暇も、匂いを嗅ぐ時間もない。〈作曲家《テューンスミス》〉の計画と〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉が悪い方向へ運べば、彼らもすべて滅びることになる」 「ぼくたちみんなそうさ。そもそも〈作曲家《テューンスミス》〉はそれほどの危険を冒すべきだったのだろうか?」 「どうしてわたしにわかる?」  両手で胸を打ちたたくハヌマンの狂乱の踊りは、人間ならば抑えきれない怒りをあらわすものだろう。 「もっとも大きな危険は行動しないことだと〈作曲家《テューンスミス》〉はいう。ルイス、おまえはなぜそんなにじっとしていられるのだ?」 「五十年……二百ファランほどヨガをやったからね。教えてやるよ」 「わたしは動かずにはいられない[#「動かずにはいられない」に傍点]」ハヌマンはいいつのった。「だがそれは、じっとしていることが悪いからではない。〈作曲家《テューンスミス》〉も同じかもしれない。どうしてわたしにわかる? わたしは怒るべき相手もわからず激昂しているのだ」  太陽の重力がわずかに栓《プラグ》のコースを曲げた。 〈作曲家《テューンスミス》〉と〈侍者《アコライト》〉が近づいてきて、〈作曲家《テューンスミス》〉がたずねた。 「ルイス、聴力はもどったか? ゆっくり休んだか?」 「睡眠はとった。|のるかそるか《ロングショット》号をどこに降ろしたんだ?」 「なぜおまえに教えなくてはならない?」〈作曲家《テューンスミス》〉は一笑に付した。「おまえと〈侍者《アコライト》〉とハヌマンで、栓《プラグ》の働きを見てこい。ハヌマンが何か話したか?」 「あれが超特大の隕石栓《メテオプラグ》だってことは聞いたよ」 「よし。わたしは|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を──」 「あんたはこうなることを知っていたんだな」ルイスはいった。 「そうだ」 「とめられなかったのか?」 「どうやって?」 「|のるかそるか《ロングショット》号を強奪しなければ?」 「わたしは量子第二段階《クワンタムU》ハイパードライヴの仕組みを理解しなくてはならない。ルイス、〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉の各勢力が永遠に彗星の中にとどまったままでいるはずのないことは、おまえもわかっている[#「わかっている」に傍点]だろう。〈球状世界〉の種族どもはリングワールドを建造したテクノロジーをのどから手が出るほど欲している。リングワールドそのものを存続させようと望んでいるわけではない。彼らがほしいのは知識だけ、しかもたがいに相手を出し抜こうとしている」  ルイスはうなずいた。べつに目新しい考えではない。 「スクライスの装甲服とか。安価な核融合プラントとか」 「くだらぬことだ」と、〈作曲家《テューンスミス》〉。「リングワールドの〈建設者〉たちはこの構造体の回転を維持するためにモーターを必要とした。彼らは十以上ものガス型巨大球状世界に匹敵する質量の水素を封じこめ、配置した力場すべてに流しこんで水素核融合炉として作動させた。おまえたち〈球状世界〉の盗賊どもは、適切な磁気制御法を持たず、いまあるものもそれ以上には発展できない。だが外壁に設置されたモーターを調べることによって、何かを学べるかもしれない。彼らはリングワールドそのものを研究するかもしれない。だが彼らにはリングワールドを維持する必要性はないのだ。わたしのいっていることが正しいと思うか?」 「たぶんね」 「ルイス、隕石継当《メテオパッチ》の働きを観察できる現場に行ってほしい」 「〈作曲家《テューンスミス》〉、ぼくは消耗品になりたくはないんだがね」 「わたしはそのような言葉は使わない、ルイス。そのような概念もない。すべての生命体は死を迎え、すべての生命体は死に抵抗する。わたしはおまえを不必要な危険にさらすことはしない」 「面白いいい方だね」 「観測できる場所に|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を配置した。見逃すことはできない。ハヌマンは行く。行ってくれるな。〈侍者《アコライト》〉、おまえも行ってくれるか? それともここでのんびり休んだまま、われわれの知るすべてのものが破壊されつつあるかどうかを知るほうを選ぶのか?」 〈侍者《アコライト》〉がルイスを見つめている。  ルイスは両手をあげた。 「了解《ステット》。つまり、与圧服を着ろってことだな」 「たのむ」〈作曲家《テューンスミス》〉が答えた。「フル装備をしろ」 [#改ページ]      9 高所からのながめ  ニードル号で装備を整え出発した。〈至後者《ハインドモースト》〉は同行していない。鬱状態で自閉したパペッティア人はそのままおいていかれた。  光速の|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を使えば、〈作曲家《テューンスミス》の栓《プラグ》よりもさきに到着できる。 〈侍者《アコライト》〉はニードル号の保管庫にあったハミイーの予備の与圧服を引っぱりだして着こんでいる。その姿はまるで葡萄の房のようだ。金魚鉢形のヘルメットをつけた密着型スーツのハヌマンが、最初に姿を消した。つづいてルイスがプレートに乗った。  底が消失した。  自由落下になるとは思っていなかった。数千マイルの高みに出るとも予想してはいなかった。ルイスは手近なものにかじりついた。ハヌマンの手だった。ハヌマンが|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》へとひきよせてくれた。  二、三千マイルも下方で、リングワールドがすさまじい速度で走りすぎていく。どの方角も無限にひろがっている。外壁などはあまりにも遠いため、一本の線にしか見えない。 〈侍者《アコライト》〉が苦しげな遠吠えをあげた。  恐慌を起こして腕をふりまわしているクジン人に近づく勇気はない。〈侍者《アコライト》〉の父親の予備与圧服は風船のようで、四肢の先端に爪のようなウォルドーがついている。そんなものに近づくのは、脱穀機の中に手をつっこむようなものだろう。 「大丈夫だ。姿勢制御ジェットがついている」ルイスは怒鳴った。「必要ならそれを使え」  遠吠えがやんだ。  ルイスは磁気靴で足を固定させた。ハヌマンが|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》をオフにした。でなければみなニードル号にもどってしまうだろう。 「時間はたっぷりあるさ、〈侍者《アコライト》〉」ルイスはいった。「ぼくたちは太陽のまわりをまわっているんだ」  彼はなだめるように冷静な声をかけた。  ──彼はまだほんの十二歳じゃないか──。 「基本的に、ぼくたちはただじっと立っていればいい。そうすればリングワールドがいつものように秒速七百七十マイルで回転し、七日半のあいだに足もとで一周する。ハヌマン──?」 「八つだ」ハヌマンがいった。「いま軌道上には八枚の|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》がある。〈作曲家《テューンスミス》〉はもっと設置するつもりでいた。これがいちばん近いものだ。わたしは|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》のシステムを記憶している。地表にいく必要があるならば、それほど遠くないところに|積 層 盤《サーヴィス・スタック》があるが、こうしていればすべてを見ることができる。孔の位置はわかるか?」 「まだ見えない」 「反回転方向《アンチスピンワード》だ」 「背後[#「背後」に傍点]なのか? 了解《ステット》、あれか。射的の的みたいだな」  雲に縁どられた空気のない月のような景色の中で、黒い点に向かって幾筋もの線がひかれている。  眼下を走り抜けていく地表には、まだ深緑色の生命に縁どられた川が網の目のように流れている。その地面を横切って、反回転方向《アンチスピンワード》に向かって白い筋が刻まれている。ルイスはその正体に気づいたが、いまは孔のほうが重大だった。 「〈侍者《アコライト》〉──?」 「傷は見える。栓《プラク》は見えない」 「それはまだわたしも見つけていない」ハヌマンがいった。「小さすぎるのだ。〈作曲家《テューンスミス》〉、聞こえるか?」 「半時間の時差がある」ルイスは指摘した。「光速でも片道十六分かかるんだ」  これでもプロテクター[#「プロテクター」に傍点]なのか? しかし獣から昇格したやつだ。プロテクターが何かを失念することはありえない……だがハヌマンは、つねに〈作曲家《テューンスミス》〉の導きに従って行動してきたのだろう。 〈侍者《アコライト》〉が|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》にぶつかってきた。磁気靴がカチリと音をたてて固定し、不安定ながらも彼は立っていた。 「父が自由落下について説明してくれた。父は一度たりともこれを恐れたことなどあるまい」 〈作曲家《テューンスミス》〉が十六分の過去から語りかけてきた。 「超特大|隕石栓《メテオプラグ》に作動開始の信号を送った。見えるものを伝えてくれ、三人ともだ。重なってもかまわない。声の区別ならできる」  的の上に光がともった。  街灯とたいしてかわらない明るさだが、その大きさは……ルイスは目をすがめてまぶしい光のさきにあるものを見た。 「何かがひろがっている。〈作曲家《テューンスミス》〉、|火 龍《サラマンダー》の交尾か……ふくらんでいく風船のようだ……帆船の救命具のように大きくなっていく。核融合温度でジェットが火を噴いている。いったい何を送りこんだんだ?」 〈侍者《アコライト》〉の報告。 「速度が落ちて、安定しつつある。円環体《トーラス》だ。孔よりずっと大きくて、直径は千キロか二千キロ。おまえが知りたいのはこういうことなのか?」  ハヌマン。 「リングを構成するスクライスの地盤は、とほうもないひっぱり強度を持つ。計算してみた。スクライスをつないでいる力は、引き離せばクォークのシャワーを生じるほどだ。そのような物質でつくられた袋は、核融合爆発を内側におさめられるほどに強靭だ。危険ではあるが、〈作曲家《テューンスミス》〉、保《も》ちそうだ」 〈侍者《アコライト》〉。 「おさまりつつある──」  ルイス。 「──孔をとりまいている。孔が標的の中心点《ブルズアイ》のようだ。あんたの風船は、高さ五十マイルくらいだろうか。あれがあるあいだは空気が洩れることもないな」  ハヌマン。 「〈作曲家《テューンスミス》〉、スクライスの風船は隔壁としてどれくらい優れているのだ? エネルギーが洩れていないとしても、わたしたちにはそれを見ることができない。熱を失えばこれもしぼむだろう。〈作曲家《テューンスミス》〉、そうすれば空気が洩れる。下の地面もでこぼこになるだろう」  返事はなかった。 〈作曲家《テューンスミス》〉の反応は、リングワールドの直径分、遅れるのだ。したがって、彼の言葉は十六分前のものということになる。 「第二の栓《プラグ》に注目していろ。その輪の内側におさまるかどうか、報告してくれ」 〈侍者《アコライト》〉。 「何も見えない。ルイス? ハヌマン?」  ルイス。 「あれは隕石の尾ではないな──」 〈侍者《アコライト》〉。 「ロケットだ! 見えたぞ。色からするに核融合だ。ゆっくり孔の縁に近づいている。着地した」  ルイス。 「かなり通りすぎてしまった。もう孔が見えない」  ハヌマンが|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の緑にかがみこんだ。 「なんとかしよう。つぎの|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》はリングワールドの弧を三十度まわったところにある。準備はよいか?」  彼らは移動した。  足もとでリングワールドが回転している──三十度、およそ五千万マイルを移動したことになる。ルイスは前方をながめ、惑星数個分の幅を持つ白い筋と、その中心からとびだすより明るい筋を見つけた。 〈侍者《アコライト》〉がいった。 「あそこだ。細かいことまでは見えないぞ、〈作曲家《テューンスミス》〉。あの上空に届くには、あと半日かかる」  ルイス。 「フェイスプレートにズーム機能がある。〈作曲家《テューンスミス》〉、変化はないようだ。あんたの風船|栓《プラグ》はまだ膨張しつづけている。風船の外側はすべて霧に蔽われている。すでにリングワールドの……数パーセントが失われている」  霧の周囲では、大気と海と地面と、そしてスクライスの土台を走り抜けた衝撃波によって、土地は荒れていくだろう。天候パターンはズタズタになるだろう……ルイスは自分が楽観していることに気づいた。〈作曲家《テューンスミス》〉が孔をふさぎ、被害をくいとめてくれると信じているのだ。  彼はかつて、生態学的に可能なあらゆる間隙を埋めるすべてのヒト型種族をふくめて、リングワールドの人口を三十兆と見積もったことがある。あの広大な霧のひろがりは、気圧の低下によって凝縮した水滴だ。その霧の毛布の下で、生態系は空気と水を失う。そしてその周囲では、やがて気候の変化が住民たちを苦しめるだろう。  だが〈作曲家《テューンスミス》〉が奇跡を起こしさえすれば。 「孔の反回転方向《アンチスピンワード》に、停滞《ステイシス》状態の船が墜落したようだ」ルイスはいった。「ここからは見えないが」  ハヌマンがいった。 「真上に到達するまで、あと半日はかかる。いったんもどろう」  一瞬──プラス十五分──後、彼らはニードル号にもどっていた。  ほどなく〈作曲家《テューンスミス》〉もやってきた。 「ハヌマン、報告しろ」 「あなたの装置は作動していた。数日は保《も》つだろうが、いずれ空気は洩れはじめる。このあとどうなるのだ?」 「わたしが送りこんだのは、さらなるスクライスをつくりだす補修システムだ。ニードル号の医療機《ドック》で使われていたナノテクノロジーを基盤に設計した。非常に複雑な仕組みだ。このシステムはスクライスの床だけでなく、内部の、超伝導グリッドも復元させる」  ハヌマンがいった。 「繁殖者《ブリーダー》でありながら進化して知恵を持つにいたった種族はたくさんある。こうした問題に関しては、そのような種族のプロテクターが、あなたの助けとなるのではないか」 「知性は諍《いさか》いのもとにもなるし、そうした者らはリングワールドを我がものとし、おのが遺伝子プールの利益を計ろうとする。ルイス、墜落した宇宙船についてわかっていることを話せ」 「条痕を見ただけだ」ルイスがいった。 「ふつうの条痕とはちがうのか?」  非常に辛抱強いたずね方だ。ルイスは赤面した。 「ずいぶん遠くから見ただけだが──ぼくは以前、停滞《ステイシス》状態の船でリングワールドに接近した。|うそつき野郎《ライイング・バスタード》号はリングワールドをかすめるすべての物体と同じように、秒速七百七十マイルの水平速度で落下した。そして熔岩とむきだしのスクライスの条痕を残したんだ。さっき、それとそっくりなものを見た。たぶん、一隻が爆発したときに、もう一隻が墜落したんだろう」 「それを見つけなくてはならない」 「難しいことではないが、いまは無理だ」ルイスは懇願した。「いずれにしても軌道上の|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》は、あと十二時間は孔の見える位置にこない。少し眠らせてくれないか」  肉体も精神もクタクタに疲れ、彼はいまにも泣きだしそうだった。 「では眠るがいい」  彼らはニードル号で睡眠をとった。ルイスはハヌマンと睡眠プレートを共有した。小さなプロテクターが、それを試さずにはいられなかったのだ。 [#改ページ]      10 素 性 隠 蔽  彼らは目を覚まし、朝食をとり、〈作曲家《テューンスミス》〉が待っているオリンポス山の下の作業場にもどった。 〈作曲家《テューンスミス》〉は新たな装備を準備していた。その中に、二台のフライサイクルがあった。  ネサスと彼の混成クルーはかつて四台のフライサイクルを持ちこんだ。亜鉛の真ん中に座席をとりつけたような形の飛行機械だ。どれも最初の探検で壊れてしまった。この二台はその残骸をもとにしてつくったものなのだろう。だが以前のものよりも長く、ふたり乗りで、大きな収納庫がついている。  ルイスは片方をじっくりと調べた。供給変換装置《キッチン・コンバーター》はスウィングアウト式で、収納庫におさめられている。ダッシュボードには携帯レーザー灯といくつかの道具がはいっている。  ネサスの探検隊も同じような装備でリングワールドに到着した。一部はパペッティア製だったが、人類空域で簡単に手にはいるものもあった。 「音波シールドも改良した」〈作曲家《テューンスミス》〉がいった。「ハヌマン、軌道上|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》八号がほぼよい位置にある。ここから飛べる」 「了解《ステット》」  それからハヌマンが〈侍者《アコライト》〉とルイスに向かって命令した。 「与圧服を着て、荷物を詰めろ。まずフライサイクルを送りこむ」 「〈至後者《ハインドモースト》〉はどこだ?」ルイスはたずねた。 「まだ鬱状態にはいったままだ」〈作曲家《テューンスミス》〉が答えた。「どうも心配だ。化学バランスが狂って具合が悪いのかもしれない。おまえたちが出発したら、医療機《ドック》にいれようと思っている」  ルイスはコメントをさしひかえた。一行は装備を整えて出発した。  そして出現したさきは自由落下状態だった。足もとにリングワールドが輝いていた。クジン人、プロテクター、ルイス、そして二台のフライサイクルがバラバラに浮遊しはじめる。フライサイクルの停泊灯がともった。  軌道上の|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》八号は、夜のうちに二十度、三千三百万マイルを移動していた。放射状の流線と凍ってきらめく川床の筋が走っている月面のような景色の中に、縁のきらめく黒い孔が、ほぼ真下に見おろせた。それをとりまく山のような円環体《トーラス》は、内側からルビー色の光を放ちながら、すでにしぼみはじめている。  神が玩具を落としたかのような景色だ。惑星数個分よりも大きな円環体《トーラス》を平らな白い雲がとりまいている。雲の蔽いがまばらな反回転方向《アンチスピンワード》の方角に白い引っ掻き傷が走っていた。  ルイスは指さした。 「船があの溝を刻んだんだ。反回転方向《アンチスピンワード》の、溝の終わりまで行けば見つかる。ここからは見えないから、小型船だろう。ハヌマン、そろそろ減速しないか?」 「そうしよう。フライサイクルに乗れ。わたしはもう一台に乗る。〈侍者《アコライト》〉は好きなほうに乗ればいい。〈侍者《アコライト》〉?」 「おまえと乗ろう」〈侍者《アコライト》〉が答えた。 「|よし《ステット》。ルイス、相対速度がさがるまで高度を維持しろ。音波シールドは音速の数倍までしか保《も》たない。わたしはつねにおまえを視野にいれておく。問題の船まで案内しろ」  リングワールドの床面の下には超伝導物質のグリッドが走っている。ネサスのフライサイクルは磁気浮力によって飛行した。磁気浮力により浮揚するだけで、強力なスラスターは必要なかった……だがこの改良版の機械はかなり大きな推力を発揮している。  景色に対する相対速度が妥当なほど落ちてきた。ルイスはゆっくりと大気圏に突入すると、音波シールドの中でかすかなうなりが聞こえるようになるまで降下していった。もう一台のフライサイクルの周囲にレースのような水滴がつきはじめた。彼自身の衝撃波は、ほとんど見えなかった。  ふいに〈作曲家《テューンスミス》〉がヘッドホンに話しかけてきた。 「おまえたちの任務は、墜落船を発見することだ。ルイス、先導しろ。こまめにすべての状況を報告しろ。墜落した船は一隻ではないかもしれない。二本の溝がごく接近して平行に走っている可能性もある。  わたしはそれがどの種族に属し、どのように行動するかを知りたい。だがそれをつきとめるために生命を投げだしてはならない。また避けられない場合をのぞき、いかなる法適者《LE》も殺してはならない。だがやむをえないときは痕跡を残すな。可能ならば交渉しろ。わたしに会う客は必ず喜ぶことになるだろう。  話し忘れていることがあるようで気になる。  ルイス、情報蓄積が容易であることを忘れるなよ。人類の情報はすべて、おそらくあらゆるARM艦に搭載され、機密事項にはブロックがかけられているだろう。一部の将校だけが正しいパスワードを知っている。〈侍者《アコライト》〉、もし見つかった船が〈族長世界〉のものであった場合は諦めろ。情報はあるかもしれないが、英雄はそれをおまえに与えたりはしない──」  ルイスは口をはさんだ。 「テレパスならどうだ」  しかし〈作曲家《テューンスミス》〉の独白はさらにつづいた。 [#ここから3字下げ]  話し忘れたことがあるようで気になる……それは、歩いて帰るには三億マイルの距離があり、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》は手のとどかない軌道上。そして〈至後者《ハインドモースト》〉は医療機《ドック》にはいっている。したがって、彼の力をあてにすることはできず、医療機《ドック》を使って若返ることもできない。ルイス、機が熟せば、わたしはおまえをプロテクターにしよう。 [#ここで字下げ終わり]  いいや、〈作曲家《テューンスミス》〉がこのようなことを話すはずはない。  ルイスは飛行に専念した。  低い霧の壁ははるか背後に遠ざかった。目的の船は海を越え、川を越え、さらにもう一本の川を越えている。山の背では船が高くはずんだのだろう、むきだしのスクライスがきらめきを放っている。矢のようにまっすぐな溝はその向こうでふたたびはじまり、はね散る熔岩に縁どられたスクライスを見せて、さらに遠くまでつづいている。  たどっていくのは簡単だった。森を越え、白い砂浜を越え、ひろい草原を越え……あった……。  あのように小さなものが、これほどの被害を与えうるとは。  片面がたいらになった優雅な形の半円柱が、またべつの山の背にもたれていた。鏡のような表面には、片端をのぞいて、船室も窓も亀裂もない。ルイスはフェイスプレートの倍率をあげた。 「あれはARM船か?」〈侍者《アコライト》〉がたずねた。「それとも〈族長世界〉の船なのか? あのようになめらかということは、パペッティア人のものかもしれんな。だがパペッティア人どもはゼネラル・プロダクツの船殻を使うのだろう?」  数マッハの速度で接近する。片端から蜂の針のような突起がつきだしている。 「あれは落下増槽《ドロップタンク》だ」ルイスが断定した。 「説明しろ」ハヌマンが怒鳴った。 「宇宙船じゃない。余分の燃料を運び、遺棄可能な、宇宙船の一部だ」  彼は自分自身に猛烈に腹を立て、それからふいに昂揚した。 「あの船は停滞《ステイシス》状態で墜落した。停滞《ステイシス》フィールドが消えてからも、宇宙船はちゃんと機能していたんだ」  ──機能している宇宙船か──! ──話をつづけなくては──。  なんとか声を冷静に保つことができた。 「こういうタンクを切り離すのは、機動性を重視したり、航続距離をのばしたいときだ。つまり、連中は空中戦に備えたんだろう」  ──とにかく、機能している宇宙船だ──!  ハヌマンがいった。 「|くそ《フラップ》。その船を見つけなくてはならない。おまえはこのような事態を予測していたのか?」 「いいや。|うそつき野郎《ライイング・バスタード》号はこうした設計になっていなかったからね。攻撃されてそのまま墜落した。それで、どうするんだ?」 「やるべきことはおのずから明らかだ」ハヌマンがいった。「第一に、わたしは〈作曲家《テューンスミス》〉とリンクしている。〈作曲家《テューンスミス》〉、ルイスの説明は聞いたな。われわれは船が燃料をとりにもどるのを待つべきか? その船はARM船か、クジン艦か、それともべつのものか? われわれは交渉すべきか、挑戦すべきか?」 「ARMだ」ルイスはいった。  クジン族は所有物に印をつける。ピエリン人やクダトリノ人やトリノック人はクジン族や人類に挑戦したりはしない。彼らはクジン族に支配されているのだ。パペッティア人はいかなる相手にも直接挑みはしない。アウトサイダー人はこのような距離まで恒星に接近しない。 「人類の別勢力かクジンの無法者かトリノック人の可能性もなくはない……だがたぶん、ARMだね。  このタンクは小さいから、船も小型だ。戦闘機は反物質動力を使わない。エネルギーはバッテリーに蓄積される。反動質量には水が使われる。水は貯蔵も注入も簡単だからだ。反物質兵器は搭載されているかもしれない。このような小型船が停滞《ステイシス》フィールドを持っているのは驚くべきことだ。もしかすると国連の技術が進歩したのかもしれないな」  戦艦はありとあらゆる場所に極小カメラを仕込んでいる。 「いまぼくたちを監視する者がいなくても、録画はされているかもしれないぞ」ルイスはいった。「それで、どうするんだ?」  小さなホログラムで映しだされた仲間たちの顔に表情はない。  ルイスは説明した。 「ぼくたちは、かつて死体食らいだった超知的プロテクターのために働く工作員だ。ひどく気味の悪い話じゃないか。そんな[#「そんな」に傍点]話を聞かされたら、どんな軍人だってその場でぼくらを射殺するだろう。それに、ARM船はプロテクターに関する記録を持っている。当然怖がるさ。  ならば、ぼくらは何になればいい? クジン人と人間と〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉のプロテクター。〈族長世界〉の一員になるのはまずい。あれもまた恐れられているからね。ARMの身分証もない──」 「ああ」ハヌマンがいった。「つまり、嘘が必要なのだな」 「ハヌマン? そういう概念を知らなかったのか?」 〈侍者《アコライト》〉が不満そうなうなり声をあげ、ハヌマンが答えた。 「わたしの種族の繁殖者《ブリーダー》は知性を持たない。わたしが考えたり話したりできるようになってからまだ一ファランもたたない。誰に嘘をつくというのだ? 〈作曲家《テューンスミス》〉にか?」  犬は人間の主人をだまそうとする。だけどそれがうまくいくことは──。 「|なるほど《ステット》。だが彼らをプロテクターに出会わせたくはないんだ。ハヌマン、繁殖者《ブリーダー》であったころの行動様式を覚えているか? もう一度そんなふうにふるまえるか?」 「わたしを愛玩用の猿[#「愛玩用の猿」に傍点]にしようというのか?」 「そうだ」 「|わかった《ステット》。話さなければ嘘がばれることもない。では〈侍者《アコライト》〉のペットだな。おまえはどうするのだ?」  ルイスはいった。 「たぶん〈作曲家《テューンスミス》〉はこのような事態を予測していたんだ。ぼくらの装備はネサスが|うそつき野郎《ライイング・バスタード》号に積みこんだものとよく似ている。〈至後者《ハインドモースト》〉の新しいクルーでいこう。パペッティア人は例によって、ずううぅっと背後で指図しているんだ。それでフライサイクルの説明もつく。ハヌマン、ほかに何かあるか?」 「わたしたちは作り話をする。ルイス・ウーがプロテクターをつくり、リングワールドの管理をまかせたことは洩らさない。それではおまえが強大な力を持っているかのようだし、そのことを明かすのは無防備すぎる。ナノテクノロジーを使った実験的医療装置のことにも触れないほうがいい。あれは八百ファラン前とはいえ、国連から盗まれたものだ。彼らがとりもどそうとするかもしれない」 「そいつは考えても[#「考えても」に傍点]いなかったな。|わかった《ステット》。それでいこう。〈侍者《アコライト》〉──」 「おれはおれ自身であることを誇りにしている! それにおれは嘘をつくような教育を受けていない。おれたちは強力な主人に仕えている。なぜほしいものをほしいといってはならないのだ?」 「ハミイーがあんたをぼくのところに送りこんだのは、こういうことを学ばせるためなんじゃないかな。〈侍者《アコライト》〉、これは戦闘機にすぎないが、その母船は反物質動力[#「反物質動力」に傍点]を積んでいる。ハヌマン、〈作曲家《テューンスミス》〉のところには超特大|栓《プラグ》がいくつあるんだ?」 「未完成のものがひとつだ」  予想以下だ。  ではリングワールドはもう二度と、反物質爆発を食らうわけにはいかない! 「〈侍者《アコライト》〉、あんたはハミイーの息子だ。できるかぎりその事実のみを語れ。〈補修センター〉や〈作曲家《テューンスミス》〉やカルロス・ウーのナノテク自動医療装置《オートドック》については口をつぐんでいろ。あんたの父親ハミイーは、地球の〈地図〉を支配している。〈至後者《ハインドモースト》〉があんたにある申し出をしたので、あんたは父親に再挑戦するのをやめて、彼についていった。人質にされたわけだが、あんたは自身はそれを知らない」 「それで、おれはどうやってルイス・ウーと知りあったのだ?」クジン人がたずねた。 「それは……考えていなかった」 「着地する」ハヌマンが命じた。「船がもどるのを待つあいだに、供給装置《キッチン》のスロットを満たしておこう。ルイス、空中戦はどれくらいの時間がかかるものなのだ?」 「そんなに長くはない、数時間ってところだろう」  彼らはセコイアほどもあるタンポポのような樹木のあいだに着陸した。ほかの場所でも見たことのある植物だ。  船がもどったら光と音でわかるだろう。彼らはフライサイクルを降りて身体をのばし、与圧服を脱いだ。〈侍者《アコライト》〉は空気の匂いを嗅ぐとすぐさま咆哮をあげ、ほかの者には見えなかった何かを追って夢中でとびだしていった。  ルイスは供給変換装置《キッチン・コンバーター》をひきだし、その取り込み口に草や小さい植物をつぎつぎといれた。ハヌマンも同じことをしている。もしこの|食 料 箱《キッチン・ボックス》が二十数年前の機械をもとにしているならば、現地の野菜や動物の肉を加工して、彼にも食べられる固形食《ブリック》をつくり、残りかすを廃棄する。いずれ肉質のものもつかまえなくてはならない。  固形食《ブリック》が出てきた。 「設定が間違っている。こっちだ」  ハヌマンがそういって、ルイスの供給装置《キッチン》のダイアルをまわした。 「さっきのは果実を食べるわたし用のものだ」  ルイスはプロテクターの固形食《ブリック》を割って味わってみた。 「だがうまいぞ。ぼくたちも果物は食べる」  なんの前触れもなく、郷愁がこみあげてきた。以前もこんなことがあった。このあまりにも広大な[#「あまりにも広大な」に傍点]リングワールドの見知らぬ景色の中で、ティーラと|軽 食《ハンドミール》の固形食《ブリック》をわけあったのだ。涙がにじみ、彼はハヌマンから顔をそむけた。  ティーラ・ブラウンが思いだされた。  彼女はすらりと背が高く、まだ三十代にもかかわらず、百を越えているかのような自信に満ちた歩き方をした。はじめて会ったときの彼女は、青い皮膚に銀色のネットをまとい、逆立てた緋色とオレンジと黒の髪が|かがり火《ボン・ファイア》の炎と煙のようだった。  だがのちに彼女は|平 地 人《フラットランダー》スタイルをやめてしまった。北欧系の純白の肌に卵形の顔、大きな茶色の目、小さくきりりとした口。黒い巻き毛は与圧服のヘルメットにおさまるよう、短く切ってあった。  彼女はルイス・ウーの誕生パーティに出席するその日まで、一度もつまずいたことがなく、恋愛に傷ついたことも、病気や怪我をしたことも、スキャンダルにまきこまれたことも、社交的な失策を犯したこともなかった。ルイスはいまも、それが統計的な偶然にすぎないと信じている。百億の人口の中には、もちろんティーラ・ブラウンのような人間もいるだろう。  しかしピアスンのパペッティア人の実験党は、自分たちが交配によって人類のうちに幸運の血統をつくりだしたのだと信じていた。ティーラは出産権抽籤に勝ちつづけてきた六代めの子孫だったのだ。  ティーラの身に起こったことはすべて、幸運という言葉に置き換えられる。ルイス・ウーと恋に落ちたことも。彼についてここまできたことも。地球の三百万倍の面積を持つこの世界でひとりはぐれたことも。リングワールドの多くの秘密を見せてくれるたくましい探検家、〈|探す人《シーカー》〉と出会ったことも。  彼女は火星の〈地図〉の下に〈補修センター〉を見つけ、生命の樹の根の貯えを見つけた。昏睡状態のあいだに関節と頭蓋骨が拡張し、性が消滅し、歯茎とくちびるが融合して蹄鉄形の鋭い骨となり、皮膚は分厚く皺がよって鎧のようになり……そして彼女はプロテクターになった。  ネサスがぼくらを、ぼくがティーラを、宇宙でもっとも大きく豪華な玩具へと導いた。彼女は当然、それを手にいれようとした。だがリングワールドを安全に維持できるのはプロテクターの知力だけだ。そしてリングワールドが危険にさらされたとき、プロテクターのティーラ・ブラウンは、自分が死ななくてはならないことを悟った。  死はプロテクターにとって不運ではない。それもまた道具のひとつにすぎない──。 〈侍者《アコライト》〉が口を血に濡らしてもどってきた。 「ここはよい狩場だ。父はまたひとつ、面白い冒険を逃している」  ハヌマンがたずねた。 「ルイス、おまえはARM船のクルーとして通らないか?」 「たしかにひとつのアイデアだ」  ルイスは考えてみた。必要なだけの情報をまだ記憶しているか……? 「リングワールドの原住民として通すことだけは不可能だ。ぼくは地球のホモ・サピエンスだからね。だがなぜクルーでなきゃならないんだ、ハヌマン? そもそもなんのクルーだ?」  ハヌマンが説明した。 「わたしたちはプロテクターの召使いであってはならない。ならばわたしは樹上生活をする獣だ。おまえは放浪者でないかぎり、なんらかの偉大な力に仕えているはずだ。その力は〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉の勢力の中の──」 「むろんARMだろう。だがぼくはARMのやり方を知らないし、彼らの記録に載っていない」 「行方不明者として通すことはできないか?」 「……駄目だ。ほかの方法を考えよう」  彼は考えながらムシャムシャと固形食《ブリック》を食べた。  いまの話は諦めて最初から考えなおそう。単純なほうがいい。ルイス・ウーにとっても〈侍者《アコライト》〉にとっても破綻の生じないもの。 「一般的なARM戦闘機のコンピューターに何が記録されているか、考えてみようじゃないか。  連中はぼくたちが帰国したことを知っている──ハミイーとルイス・ウーは傷ついたネサスをともない、ティーラ・ブラウンを連れずにもどった。ティーラが生きているとしたら? 彼女が〈補修センター〉も生命の樹も見つけなかったとしたらどうなるだろう?  二十三年後に〈至後者《ハインドモースト》〉がキャニヨン星を訪れ、それからルイス・ウーが姿を消したことも知っているかもしれない。クジン世界のひとつからハミイーの足跡をたどり、〈至後者《ハインドモースト》〉が彼をとらえたこともつきとめているかもしれない。  ならば、〈至後者《ハインドモースト》〉がぼくたちふたりを隊員としてリングワールドに連れもどしたんだ。それは事実だからな。だが彼の計画はティーラと会うことだった。そしてそれ以後、彼女とルイス・ウーはいっしょに暮らしている」  これはそうあったかもしれない可能性だ。いや、そうあるべきだったのだ! 一年後にリングワールドがバラバラになっていたとしても。  白昼夢を見ながら、なおもルイスはつづけた。 「やがて彼女の避妊結晶体《インプラント》が溶け、子供が産まれた。それがぼくだ」 「その仮説はARMの記録と合致しない」ハヌマンがいった。  カホナ! 「どうして?」 「それらの出来事はいつ起こったのだ? ルイス・ウーは十三年前にここにもどった。ARMはそれを知っているのか?」 「……ああ、知っている。ぼくはキャニヨンで、〈至後者《ハインドモースト》〉につかまる直前、ARMに見つかったからな」  そしてふたりのARM局員を殺したのだ。 「カホナ! ということは、ルイス・ウーの息子はせいぜい十二歳ということか」 「おまえは十二歳としてとおるか?」ハヌマンがたずねた。 「ハハハ」 「おまえ、ルイス本人が、妊娠しているティーラを残していったとしたらどうだ? その場合、子供は百六十ファランになる」 「およそ四十歳か。無理だな。ティーラは五年の避妊処置を受けていたはずだ。その効果が切れるまで待たなくてはならない。ぼくたちにそれだけの時間はなかった」 〈侍者《アコライト》〉がたずねた。 「ティーラと〈|探す人《シーカー》〉の子というわけにはいかないのか?」 「まさか! 無理だ。種族がちがう」  ハヌマンと〈侍者《アコライト》〉は待っている。  はじめからやりなおそう。 「三十八年前、最初の探検を終えたハミイーとぼくは、ノウンスペースと〈族長世界〉にもどった。そして|のるかそるか《ロングショット》号と、リングワールドに関する情報のいくばくかを引き渡した。合同委員会はぼくらに秘密の厳守を約束させ、それからぼくはARMから山ほどの質問を受けた。連中もたいした情報は得られなかったよ。ぼくらの探検はごくささやかなものにすぎなかったからね。第二の遠征は二十三年後だ。もしそのあいだにべつの探検隊がやってきたとしたらどうだ?」  ハヌマンがたずねた。 「誰が送りだしたのだ?」 「〈至後者《ハインドモースト》〉だ。遠征ナンバー一・五さ。それならでっちあげられる。ぼくは〈惑星船団〉でキロンという名のパペッティア人と会った。真っ白で、たてがみに一連の見事な宝石を編みこんで完壁な形に結っていて、ネサスより少しだけ小さかった──」  仲間たちは一度もネサスに会ったことがない。 「〈至後者《ハインドモースト》〉より三十ポンドくらい軽い感じだな。話し方は〈至後者《ハインドモースト》〉とよく似ていた。きっと同じ訓練を受けたのだろう。  これで彼に関する説明はできる、|そうだろう《ステット》? 〈至後者《ハインドモースト》〉がキロンに命令したんだ。そこでキロンは、ハミイーとぼくが人類空域にもどってまもなく出発した。ここに着いたのは……ええと……少なくとも三十年前だな。彼はティーラを見つけた。彼女の避妊処置は効果がなくなっていた。ティーラはキロンの隊員のひとりと暮らしはじめた。そしてぼくが生まれた」 「おまえの名前は?」 「ルーイス」 〈侍者《アコライト》〉が忘れるかもしれない。だがそれでも音は同じになる。 Luis 、ルーイス[#「ルーイス」に傍点]だ。 「ルーイス・タマサン」  最初に思いついた東洋系の名前──これで蒙古襞の説明がつく。 「キロンが記録を抹消した。パペッティア人が記録に干渉してくることはARMでも知られているからね。出生管理局にも記録はない。ぼくの父親……ええと、ホーレス[#「ホーレス」に傍点]・タマサンは、未婚の母の違法出産で産まれたんだ。多くの私生児が宇宙に旅立っている」  ハヌマンがいった。 「矛盾はなさそうだ。それで、わたしたちの演技力でうまくその話にあわせられるだろうか?」 〈作曲家《テューンスミス》〉の声が前触れもなく割りこんできた。 「ハヌマン、おまえはARMの戦闘機が付属の燃料タンクを落として戦闘に行ったと説明した。惑星数個分より広大な範囲を調べたが、戦いは見られない。ニュートリノ探知機にもエネルギー源は表示されない。バッテリー式の船は捕捉できない。彼らがレーザーか反物質弾を使うまで監視をつづけなくてはならないのか」  ルイスはつぶやいた。 「そのうちにこの半時間の時差で、気が狂いそうになるだろうな」 「〈作曲家《テューンスミス》〉の装置は小型船を見逃すことはあっても、レーザー兵器や反物質の閃光は必ず探知する」ハヌマンがいった。「そうした武器を使わずに戦闘をおこなうだろうか? それはない。つまりルーイス、戦闘などまったく存在しないのではないか」  ルイスは考えこんだ。  戦闘に備えたのでなかったとしたら、ARM船はどこに行ったのだ? なぜタンクを落としたのだ? 「あのタンクは空になったのかもしれない」ハヌマンが推測した。「航続距離をのばそうとしたのだ。もどってはこない」  ルイスはいった。 「いいだろう、考えなおしてみよう。回転方向《スピンワード》には船が隠れるほど大量の霧がある。船は追いかけっこをしているのかもしれない。ああ、くそ《フラップ》、忘れてくれ」  ふたりの異星人が彼を見ている。 「戦う相手がいないのなら、孔を見にいったに決まっているじゃないか! ほかに何がある? リングワールドは死に向かいつつある。連中はここで起こっていることを母船に報告しなくてはならない。そしてすばやく脱出することになるかもしれないので、タンクを捨てたんだ」  ハヌマンがとっくりと考え、うなずいた。 「与圧服を着ろ」 [#改ページ]      11 傷ついた大地 [#ここから3字下げ] 〈|鼠 食 い《マウス・イーター》〉のほとんどが朝食のあと穴の中でまどろんでいた。  ウェンブレスにその習慣はない。ウェンブレスは旅人だ。受けいれてくれる種族の習性にあわせて行動する。彼は空が何度か回転するあいだこの夜行狩猟人種とともに暮らし、食べ物と女をわかちあいながら、よそで学んできた道具のつくり方、使い方を教えている。  村人のほとんどが地下の家にはいっていた。片付けをする年長の子供と年寄りを手伝っているうちに、影が太陽から離れていった。ウェンブレスにとってはありがたいことだ。健康を維持するためには、ある程度の日光を浴びなくてはならない。まもなくみんな穴に──。  そして、ふいに周囲が真昼のように照らし出された。  子供たちが悲鳴をあげた。 〈|鼠 食 い《マウス・イーター》〉はふつうの陽光にも耐えられない。このまばゆい閃光を浴びてはどうなる? ウェンブレス自身の目も涙をあふれさせながら細くなっている。彼はふたりの小さな子供をかかえ、その顔を自分の胸に押しつけながら、残りの者たちに向かってさけんだ。 「中にはいれ!」  そしていちばん近くの家にとびこんだ。ほかの者たちもあとについてくるか、自分の家にとびこんでいるだろう。 〈|鼠 食 い《マウス・イーター》〉の家の窓はただの隙間にすぎない。ウェンブレスはふたりを闇の中におろし、恐怖にかられる子供たちのあいだをすり抜けてふたたび外に出た。  恐ろしい光の中で、子供も年寄りも目が見えずに走りまわっていた。〈|鼠 食 い《マウス・イーター》〉はいずれにしても年をとると視力を失い、昼間でも動きまわれるようになる。細くしたウェンブレスの目はまだものを見ることができるが、彼らには何も見えていない。大人の〈|鼠 食 い《マウス・イーター》〉は彼よりも大柄だ。ウェンブレスは懸命に彼らを戸口のほうへと押しやった。  どれだけの時間が過ぎただろう。光はしだいに薄らいでいった。猛烈な熱風が広場を吹き抜け、村の焚火の燃えさしを撒き散らし、やがて静まった。いまはいくらか穏やかな風が反対方向に吹いている。誰もいない。何も見えない。ウェンブレスは家の中に這いずりこんだ。屋内は完全な闇だ。暗闇でものを見る力はなくなり、あの恐ろしい光も消えている。ウェンブレスは身を横たえ、空気を求めてあえいだ。  変化が訪れようとしていた。変化の前には、いつも何かしらの兆しがある。そのあとにつづくチャンスを見逃さないようにしなくては。  だがいま、ウェンブレスは窒息しかけていた。  |巻き貝矢魚《スネイル・ダーター》号は停滞《ステイシス》状態のまま、爆風によって広大なジャングルの上にそびえる崖にたたきつけられた。時間が通常の流れにもどったとき、船は砕かれた泥板岩とともに大規模な土砂崩れの一部となっていた。  はるか彼方の回転方向《スビンワード》では、霧の海が地平線を蔽い、〈アーチ〉の根もとにいたるまでのすべてを隠している。惑星数個分も離れたところで、霧が上昇しながらドームをつくっている。その霧の端では、いまもまだ衝撃波が緩慢に|巻き貝矢魚《スネイル・ダーター》号に向かって進みつつある。 「世界の終わりのようだ。どんな世界でも。数多くの世界の終わりだ」オリヴァがいった。 「周囲に誰かいないか見てちょうだい」ロクサニーは命じた。  オリヴァ・フォレスティア捜査官がさまざまなセンサーを調べはじめた。ARMの大型巡洋艦|背 美 鯨《ライト・ホエール》号が、クジン人の名前もわからないジャガーノート級に挑戦し、その直後に火球が炸裂して交信がとだえた。ほかにも船はいたはずだ……だがいまは何もない。 「明らかな航跡はありません」オリヴァが報告した。「雲はニュートリノを放出しています……反物質の影響の消え残りだと思われますが、それも減少しつつあります。輝点なし。大型艦影なし」 「火球が縮んでいる。吸いこまれて[#「吸いこまれて」に傍点]いるみたいだ」クラウスが不安そうに口をはさんだ。 「そう」ロクサニーは答えた。「見にいきましょう。つまり、敵はいなくなったってことね、フォレスティア捜査官? あの爆発でみんなたたきつぶされたんでしょう。味方もね。となればわたしたちの任務はデータの収集よ。クラウス、離陸しなさい」  |巻き貝矢魚《スネイル・ダーター》号は離陸した。  クラウス・ラシッド二等捜査官がたずねた。 「ロクサニー、まっすぐあそこに向かうのか?」 「低空維持、ゆっくり行きましょう。ごらんなさい。クラウス、なにもかも中心に孔があいているわ。リングワールドにあいた孔は故郷に通じる道なのよ」 「ロクサニー、なぜそんなに嬉しそうなんだい?」  ロクサニー・ゴーチェははじけるように笑った。 「わたしたちは生きてるわ! それだけで充分じゃないの。わたしたちが残した痕跡をごらんなさい! あれをたどれば爆発の現場までもどれるわ。クラウス、オリヴァ、わたしたち、停滞《ステイシス》フィールドに関する知識は持っていたけれど、ほんとうに信じていたかしら? 時間を停めてまた動かすことができるなんて、とんでもない話だもの。あの光を見たとき、反物質が爆発したんだとわかったわ。わたし、自分たちはもう死んだと思ったのよ!」 「ここは都市だったようです」  オリヴァは網の目になった街路や建物にそって装置を動かしている。 「かなり大きい。シドニーのようにひろがっている」 「クラウス、速度を落として」ロクサニーは命じた。「死体が見えないわね。死者はどこかしら?」  オリヴァが推測した。 「衝撃波から逃れようと建物にはいったんでしょう。ディスプレイを見てください、ロクサニー。気圧がどんどんさがっている。住人たちは衝撃波から隠れて、そして──」 「窒息したのか? 空気が流出しているんだ」  クラウスは馬鹿ではない。彼はようやく現実を認識した。 「おれたちはリングワールドのすべてを殺してしまったのか。おや──」 「一万年かけてこの構造物の秘密を学ぶことになるわね」ロクサニーはいった。「何をしているの、クラウス?」 「着陸する。生存者発見」  ウェンブレスは地下で窒息しかかっていた。  必死で明るいほうに這っていったが、空気が濃くなるようすはなかった。  光はもう昼間ほどの明るさまでにおさまっているものの、回転方向《スピンワード》では霧と混沌だけを残して、世界の半分が失われてしまったかのように不気味な光景がひろがっている。ウェンブレスは苦しい胸をかかえて広場へと向かった。  一時間前にはみなが食事をしていた。いまは誰もいない。火も消えている。〈|鼠 食 い《マウス・イーター》〉たちは非常のときには外に出てこない。ウェンブレスも彼ら以上に事態を理解しているわけではなかった。  銀色のヴィンチ鳥の卵のようなものが空から降りてきた。  ウェンブレスは立ちあがり、気を失いそうになりながら両手をふった。疑わしいときは助けを求めろ。それが彼の正常な本能だったが、薄れつつある思考がさらにそれを後押しした。  空を飛ぶ力を持つ者がやってきた!  物語にはそうした力も出てくるが、彼らはいま、この大災害の強風の中を飛行しているではないか。そのような者ならば、きっと何か[#「何か」に傍点]を知っているだろう。  この災害のことをほかの種族たちにも伝えなくてはならない。  手と膝をつき、視野が暗くなってきたころ、種族のわからない者がふたり降りてきた。伝説のヴァシュネーシュトのような固い鎧を着ている。彼らは袋をさしだして、中にはいれと身ぶりで告げた。  ウェンブレスはそれに従った。  袋の中に空気がはいってきた。これで息ができる。  ほかの者たちも助けてほしいと、ヴァシュネーシュトにどうやって伝えればいいかわからなかった。このヴァシュネーシュト──魔法使い──たちが世界を破壊する災厄の原因であるかもしれないとは、ウェンブレスには考えもつかなかった。 [#ここで字下げ終わり] 〈球状世界〉近辺の重力は逆二乗法則に従う。だがリングワールドは平面である。上昇しても重力は小さくならず、回転重力も磁力も同様に、何十万マイルも離れてリングワールドが平面というよりリボンのように見えてくるまで、小さくなることはない。  リングワールドの〈建設者〉はリングワールドの床面にレース細工のような超伝導ケーブルを埋めこんだ。そのグリッドは太陽フレアを磁気操作することによって超高温レーザー効果を生じることができる。リングワールドの隕石防禦装置である。  またこのグリッドは、リングワールド全体に磁気浮力を与えてもいる。つまり、磁力を使う乗り物はどこまでも上昇できるのである。  スカイサイクルは夜になってから出発した。六十マイル上昇して大気圏を離れ、溝をたどって回転方向《スピンワード》へと向かう。緑豊かな景色が嵐の眺めに変わった──だが渦巻き雲ではなく、稲妻のひらめく千切れ雲と筋雲の流れだ。やがて空全体が雲に蔽われた。  |遮 光 板《シャドウ・スクエア》の影の端、明暗境界線《ターミネーター》が頭上を通りすぎた。銀色の太陽がしだいに明るさを増して昼になる。いったいいつから日の出を見ていないだろう。  かすかな光を放ちながらしぼみつつある巨大なチューブを通りすぎた。馬の尾のような霧がグンニャリとしたチューブを越えて、真空へと消えていく。〈作曲家《テューンスミス》〉の栓《プラグ》も永遠に保《も》つわけではない。  スクライスの床面に土と岩がまだ張りついている。泡立った氷の塊りや筋もあり、それらが放射状にひろがっている。それをたどって内側へ、孔へと向かった。孔の縁はギラギラ光っていた。おそらく──たぶん──〈作曲家《テューンスミス》〉の補修<Vステムが働いているのだろう。 「宇宙船だ」〈侍者《アコライト》〉がいった。「孔の上に」  排気ガスは出ていない。スラスターでホバリングしているのだ。底面がたいらな円筒で、捨ててきたタンクよりもわずかに大きいだけだが、船首に丸く透明なキャノピーがついている。 「あれはARMのキティキャッチャー級だ」ルイスはいった。「三人乗り戦闘機だよ。そろそろぼくらに気づいているだろう」 「攻撃してくるだろうか?」 「無害そうに見せておくんだ」  ルイスは自分自身を納得させようとしていた。  仲間ふたりの小型ホログラムがかすみ、ARMの制服を着た肌の黒い女の映像がふたつ浮かびあがった。コントラルトの声が彼のスピーカーで耳障りな音をたてる。 「侵入者、すぐさま返答しなければ攻撃する! あなたがたは戦闘区域にはいりこんでいる!」 「ぼくはルーイス・タマサンだ」ルイス・ウーは答えた。「聞こえるか?」 「聞こえている、ルーイス・タマサン。|巻き貝矢魚《スネイル・ダーター》号のほうにきてほしい」 「なんのために?」 「わたしたちは国連の偵察員だ」女がいった。「この地域でおこった出来事について、あなたがたは何を知っている?」 「ぼくたちはリングワールドの床面にあいた孔を見にきた」 「クジン人を連れているな」  ルイスは笑った。 「〈侍者《アコライト》〉はこの世界、リングワールド生まれの原住民だ。ぼくも同じだ」  女は彼のホログラムを見つめた。 「あなたは人間のように見える」 「ぼくは人間だ。ここで生まれた。〈侍者《アコライト》〉も同じだ。そして彼はクジン人だ」 「ここにクジン人がいるというの?」 「古代クジン族が〈|大 海 洋《グレート・オー・シャン》〉に住んでいる」  この情報は彼らの好奇心を刺激するだろう。  ARMの女は気難しげにたずねた。 「わたしたちは可能な周波数すべてを試した。あなたがたの通信はなぜ〈惑星船団〉モードを使っている?」 「リングワールドを発見し、最初に探検したのはパペッティア人だ」  ルイスは声にわずかな冷ややかさをこめた。 「ぼくの両親と〈侍者《アコライト》〉の父親は、ピアスンのパペッティア人とともにここにきた」 「孔の縁に着地しなさい」 「ぼくたちはこの孔を調べにきた。グルッと上空を飛んでもいいか?」 「いますぐ[#「いますぐ」に傍点]着地しなさい、リングワールドの子供たち」  ルイスは答えた。 「降りよう、〈侍者《アコライト》〉」  そしてフライサイクルを降下させた。  ARMの女がたずねた。 「〈侍者《アコライト》〉、あなたは|共 通 語《インターワールド》を話せるの?」 「話せる、マダム法適者《LE》」クジン人はうなった。 「国連勤務についているあいだ、わたしのことは|法 適 者《リーガル・エンティティ》ではなく、副操縦士もしくは捜査官と、地位で呼びなさい。あなたのことはなんと呼べばいいかしら?」 「より立派な名をもらえるまでは、〈侍者《アコライト》〉だ」 「あなたは〈族長世界〉とどのような関係にあるの?」 「その世界については父から聞いている。〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉の光も見た」  スカイサイクルがむきだしのスクライスに着地した。  |巻き貝矢魚《スネイル・ダーター》号が見るからに用心をはらいながら降りてきた。丸くなった船首の下部でエアロックがひらく。人らしいものがあらわれた。それからもうひとりが球状のものをひいて、狭すぎる開口部を無理やり通過させた。  ARM捜査官のひとりがフライサイクルに近づき、もうひとりが球体を乾燥した芝地におろした。それは救命ポッドで、ふくらんだ風船からいくつかの不透明な生命維持装置がつきだしている。フライサイクルに向かってころがってくるその中に、歩いている人影が見えた。  ゴーチェ一等捜査官──金魚鉢形のヘルメットごしにすぐさま見わけられた──は、〈侍者《アコライト》〉の膝に警戒しながらもちょこんとすわっているハヌマンをはっきり目にしたはずだ。逃げだすのを防ぐためだといわんばかりに、〈侍者《アコライト》〉は〈|ぶらさがり人《ハンギング・パーソン》〉の与圧服に紐をつけている。  ふたりがフライサイクルを降り、ルイスとならんだ。ゴーチェが彼らの前に立った。 「なんだか小さくなってしまったみたいな気分だ」〈侍者《アコライト》〉が不安そうな声をあげた。  孔のすぐそばでは、床面が反物質爆発によって磨かれたようになっている。特色のない人工的スクライスが半透明でなめらかなまま無限につづいている。ルイスと仲間たちの存在はちっぽけだった。クジン人にいわれてはじめて、ルイスもそれに気づいた。 「LE〈侍者《アコライト》〉、LEルーイス──」ゴーチェが呼びかけた。 〈侍者《アコライト》〉もルーイス・タマサンも一度として|法 適 者《リーガル・エンティティ》として登録されたことがないのだから、これは社交的な配慮だろう。 「──こちらはオリヴァ・フォレスティア捜査官とLEウェンブレス。わたしはロクサニー・ゴーチェ捜査官よ」  彼女の態度は軟化していた。  もうひとりの飛行士フォレスティア捜査官は、大柄で色が白く、おそらく低重力で育った小惑星帯人《ベルター》だろう。ゴーチェと同じく、錆色の巻き毛を短く刈りこんでいる。  彼は微笑して、ルイスと、つづいてクジン人と手袋を触れあわせた。 「きみたちと出会えて嬉しいよ」  ゴーチェがたずねた。 「ウェンブレスを連れていってくれないかしら。この船には乗せられないのよ」 「三人乗りなんでね」フォレスティアが説明した。 「それでウェンブレスというのは? 原住民なのか?」  ウェンブレスはまだ背後でノロノロしている。底面を歩いて風船をころがす作業にさしていらだってはいないようだが、速度は遅い。とまろうとしたが、風船が動きつづけたので転倒し、それでも困惑するふうもなくまた立ちあがる。  ウェンブレスにもこの会話は聞こえているのだろうか? 話そうとはしていないが。  フォレスティアが説明した。 「空気がひどく薄くなっているところで発見したんだ。そこらじゅうに死体がころがっていて、穴居住宅が壊れていた。なんの種類かわかるか?」 「種族のことか?」  ルイスはウェンブレスを観察した。  ウェンブレスは光に目が痛むかのように瞬きながらも、ひるむようすもなくルイスを見つめ返した。  身長はルイスより八インチ低い五フィート六インチと少々。織り布のズボンと、縫い付けポケットのゆったりしたシャツは砂色だ。靴のない足は大きく、硬化していて、親指の爪が武器のようにギザギザになっている。肌はルイスよりも黒いがロクサニー・ゴーチエよりは白く、手と顔と首に皺がよっていた。ふさふさした黒と白の毛が、顔の大半を隠している。  ひたいと頬に青い渦巻き模様があるのは、儀式的な入れ墨だろうか、それともカモフラージュとして自然に進化したものだろうか。ふつうの人間ならば恐怖にすくむところだが、彼は微笑を浮かべ興味深そうにしている。 「はっきりとはわからない」  ルイスはこの数億マイル四方の原住民にはひとりも会ったことがない。だがそれは口にしなかった。ルーイス・タマサン≠ェどれだけの旅をしてきたか、設定していなかったのだ。 「リングワールドには数千のヒト型種族が住んでいる。もしかすると数万かもしれない。そのほとんどが知性を持っている。ウェンブレスの体格は中くらいだね。浅黒い肌もよくあるものだ。歯は──」  ウェンブレスがニヤリと笑い、ルイスはたじろいだ。  ウェンブレスの歯はゆがみ変色していた。四本が欠けていて、黒い隙間になっている。そのような状態がどんなものか、ルイスは感じる[#「感じる」に傍点]ことができた。しじゅう舌を噛むのではないか?  だがそれでもまだ三本の犬歯が残っている。  ルイスはたずねた。 「肉食なのか?」  ゴーチェ捜査官が肩をすくめた。 「標準タイプの配給|固形食《ブリック》を与えたわ。クジン人を捕虜にしたときのために生肉の設定があるのよ。それを少し食べたわ」 「だったら、ぼくたちにもウェンブレスを食べさせることはできる。たとえ彼の生態系がすべて死に絶えてしまったとしてもね」ルイスは答えた。 「よし! もうひとつ問題がある。あれに[#「あれに」に傍点]関して知っていることを話してくれ」  オリヴァ・フォレスティアが片手でグルリと周囲をさした。 「急に山ができたんだ」  当然まず第一にたずねられるであろうことだったが、ルイスは答を準備していなかったのでとっさにでっちあげた。 「空から降りてきた。こんなスケールのものは──リングワールド・スケールのものは、ぼくの両親もわけがわからないといっていた。調べてくるようにと、キロンがぼくたちを送りだしたんだ」 「キロンとは?」 「ぼくの父をここに連れてきたパペッティア人だ」 「|わかった《ステット》。こっちへきてくれ、ルーイス」  フォレスティアは七十フィート向こうの孔に歩みよった。ルイスもそれについていった。  フォレスティアが足をとめた。爪先が縁のギリギリにかかっている。ここから見たそれは、いまもなお直径十から十五マイルもある底無しの穴だ。だがそれはどんどん縮まりつつあった。縁を見極めることは難しい。頭を動かすと、チラチラ光を放ちながらかすんでしまうのだ。  フォレスティアがたずねた。 「これはよくあることなのか?」 「ぼくは世界の床にできた裂け目をのぞきこんだことはないよ」ルイスは答えた。「恐ろしいな」  まったくの嘘というわけではない。彼は〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉の火口を見たことがある……だがルーイス≠ノそんな経験はないのだ。  ゴーチェがいった。 「いいわ、どうやら自己修復しているみたいね。いつもこうなの? この数年のあいだに、こんな砂時計の嵐がいくつか消えるのを見たわ。あれは孔と空気洩れなのでしょう」  ルイスは顔をしかめ理解できない[#「理解できない」に傍点]を表現した。そしてはるか昔から、魔法使い[#「魔法使い」に傍点]を意味し、実際にはプロテクター[#「プロテクター」に傍点]をあらわす言葉をひっぱりだした。 「ヴァシュネーシュトだ。ぼくたちにはけっして解明できないいくつもの秘密があるんだ」  ゴーチェ一等捜査官が命じた。 「オリヴァ、あなたは船にもどりなさい! ルーイス、〈侍者《アコライト》〉、わたしたちはテントを張りましょう」  ロクサニーとオリヴァはエアロックからかさばる荷物をひっぱりだし、スクライスの上にひろげて固着剤でとめはじめた。テントは自動的にふくらみ、身をよじってはずもうとする。もちろん、固着剤がスクライスに効かなかったのだ。ロクサニーはオリヴァにその始末をまかせ、供給医療装置《キッチン・ドック》をとりにもどった。  オリヴァが彼女の行動に気づいて爆発した。 「LEゴーチェ、正気ですか! それをなくすわけにはいかないんですよ!」 「数時間なくても生きていけるわ」 「それになぜウェンブレスを捨てようとしたんです? リングワールドの原住民ですよ! すばらしい発見じゃありませんか!」 「たしかにウェンブレスは貴重ね。全員手にいれたいところだけれど、彼は結局この地域の住人にすぎないわ。たいしたことは知っていないでしょう。わたしがほしいのはルーイス・タマサンよ! 船に乗せられるならクジン人もほしいわ。でもそれは無理だから、まず彼から尋問しましょう」 「ロクサニー、それでもあれはクジン人です!」 「怖いの? まだ子供じゃないの。ふたりとも十代の子供だわ。あの親たちは艦隊よりも前にリングワールドにきたのだから、子供たちは生まれたときからずっとその話を聞かされているはずよ」  オリヴァが考えこんだ。 「子供を取り返すために、親たちが何をするかわかりません」 「たぶんそれもいずれわかるわ。あの子たちの持つすべての情報を手にいれたらね」  彼女はニヤリと笑った。 「オリイ、ルーイスの顔を見た? まるで──」  オリヴァの声に怒りがこもった。 「一度も女を見たことがないみたいだ。いいですよ、ロクサニー、好きにしてください。クジン人といっしょにテントにはいりましょう。そしてフィネグルに賭けて、まずやつに食事をさせましょう! それにしてもぼくらは、意図したよりも多くのデータを手にいれましたね。あとはそれを持って帰るだけだ!」  ARM捜査官たちはテントの設営に忙しい。〈作曲家《テューンスミス》〉の小さな上半身がダッシュボード上に出現したとき、ルイスを見ている者はなかった。  プロテクターがいった。 「補修システムがうまく働いているかどうか、至急知らなくてはならない。孔は縮んでいるのか? 何かを[#「何かを」に傍点]救うために、どれほど思いきった手段が必要となるだろう? 孔に落ちるなと警告する必要はあるまいな」  |巻き貝矢魚《スネイル・ダーター》号かその母船が盗聴しているのではないか? この回線は非公式なものだが、輝く小さなホログラムの頭部は目立つだろう。  ルイスはいそいでいった。 「孔は縮んでいる。縮みつつある[#「縮みつつある」に傍点]。いまは同行者がいる」  そしてホロスクリーンをオフにした。これで〈作曲家《テューンスミス》〉は受信することしかできなくなった。  ふくらんだテントは円筒形で、大型エアロックと、宇宙用装備を収納する凹所《アルコーヴ》と、居室と、トイレを隠すためだろう銀色の壁が設置されている。ゴーチェが中にはいり、フォレスティアが外に残って、三人の入室に手を貸した。 〈侍者《アコライト》〉はハヌマンを抱いて運んだが、与圧服は脱がせなかった。 「スーツが排泄物の処理をするんだ」〈侍者《アコライト》〉が説明した。  ハヌマンがうなった。  ゴーチェはヘルメットをうしろにはねのけたが、スーツを脱ごうとはしなかった。オリヴァも同様だ。ARM捜査官たちは、さしたる疑惑を抱いてはいないようだ。  ルイスと〈侍者《アコライト》〉もヘルメットをひらいた。さまざまな種族が、小さな小型供給装置《キッチン・ボックス》の周囲に集まった。  ウェンブレスが聞いたことのない言葉を発し、ルイスのポケットで翻訳機が告げた。 「よかった。ここのほうがひろい」  毛むくじゃらの男は救命ポッドをひらいて抜けだし、満足の吐息をついた。 「三人乗りの船なのに、ウェンブレスを乗せれば四人になってしまう」フォレスティアが説明した。「ぼくたちが見つけたとき、彼はもっと大柄でもっと毛深い種族の死体にかこまれて、岸にあげられた魚のようにあえいでいた。それでもちゃんと立って、嵐に飛ばされずにすんだ壊れた壁につかまりながら、こちらに歩いてこようとしていた。ぼくらは武器管制室《ミッション&ウエポンズ》のすべての機能を切って、そこに彼をいれた。そして質問した──必要な情報を持っているからね──だけどそんなふうにしたまま飛ぶわけにはいかないんだ、LEルーイス。ぼくらも自分を守らなくてはならない」 「無事に生きていけそうなところまで連れていこう」ルイスは請けあった。 「なんとかして救命ポッドをきみたちの乗り物につなごう。彼にあうスーツはないからね」  ゴーチェ捜査官が小型の供給装置《キッチン》から出てきた配給|固形食《ブリック》を配っている。〈侍者《アコライト》〉にはねっとりと赤い固形食《フリック》が、ハヌマンには果実らしきものが、ちゃんと与えられている。 「これはわたしたちの持っている唯一の供給装置《キッチン》で、しかも医療機《ドック》も兼ねているのよ。飛行中や平時には、このテントを船殻の外に設置するの。そうしないと身動きするスペースもないのよ。戦争は地獄だわ」彼女は穏やかにいった。「飲み物はどう?」 「驚いた」ルイスはいった。「お茶? ジュース?」 「ビールもあるわよ」 「やめておこう。それに〈侍者《アコライト》〉は若すぎる」 〈侍者《アコライト》〉がうなり声をあげた。  ロクサニーが笑った。 「それはあなたも同じでしょ、ルーイス!」  ルイスは子供だと思われているのだ! 「そうだね、LE」  搾り出しボトルがわたされた。ルイスにはクランペリー味の何か、〈侍者《アコライト》〉とウェンブレスにはブイヨンだ。 「あなたがたはふたりともリングワールドで育ったのね。お父さんから惑星の話は聞いている?」 「おれはそうやって物理学を学んだ」〈侍者《アコライ卜》〉が答えた。「父は──ハミイーは──コリオリの嵐、ハリケーンについて説明しようとした。だがおれは理解できたとはいいがたい」 「ぼくは地球を見たいな」ルイスはいった。  機能している宇宙船だ! 脱走のチャンス。言語道断なブラムに見つかって以来はじめての……いや、それ以前からだ。ニードル号のハイパードライヴ・モーターを真っ二つにして以来の!  なんとかしてロクサニー・ゴーチェとふたりきりで話をしなくては。  彼女のスーツはそれほど身体に密着してはいない。それとなく想像される体型に、彼の心臓は躍った。鍛えあげた強靭な女。角張ったあごとまっすぐな鼻を持ったいかめしい顔。身ぶりと、フォレスティアが敬意をはらっているところから判断するに、五十代だ……それとも、彼女のほうが階級が上というだけのことだろうか。ホコリタケのような黒く薄い髪は、定期的に剃っているか脱毛しているのだろう。  さまざまなヒト型種族と会ってきたあとで、自分がどれほど人間の女の姿に飢えていたかに気づき、ルイスは愕然とした。  彼女が何かたずねている。 「大きな透明な船について何か知らないかしら?」  ルイスはかぶりをふった。〈侍者《アコライト》〉のほうが不用心だった。 「ゼネラル・プロダクツのような船か? ガラスの泡みたいな?」 「そう、大きなガラスの泡よ。ゼネラル・プロダクツ製船殻について何を知っているの?」 「ルーイスの父親が二号船殻に乗ってここにきた」〈侍者《アコライト》はいった。  詳細を語りすぎだ。いずれ辻褄があわなくなる……だが最初の探検について話したときに、ハミイーが二号船殻であるライアー号について説明したのだろう。 〈侍者《アコライト》〉は楽しげだった。 「装置でいっぱいの巨大なガラスのしゃぼん玉よ。内側に大きな機械がいろいろ詰まっているわ」ゴーチェが説明した。  フォレスティアがさらにたずねた。 「それとも、空を横切る四本の炎を見なかったかな。核融合モーターが四基ついているんだ。盗まれたものだ。たぶんきみたちのキロンによってね」  ルイスは答えた。 「キロンはぼくたちにすべてを教えてくれるわけじゃない。何も話さないこともある」 「実際のところ、それは二度盗まれているの。最初はクジン人によって、そしてこんどはクジン人から。リングワールドに接近するのを見たわけではないのだけれど、きっとここにあるはずなの。とりもどしたいのよ」と、ロクサニー。 「キロンの旅について教えてくれないか」オリヴァが求めた。  ルイスはでっちあげた。 「二年かかったそうだ。窮屈だったと父は話している」  ──可能なかぎり事実に固執しろ──。 「母は最初の遠征隊に加わっていた。|うそつき野郎《ライイング・バスタード》号は、そもそもは二号船殻だったのだけれど、パペッティア人が安全な仕掛けを思いつくたびに大きくなっていった。最終的な|うそつき野郎《ライイング・バスタード》号は、大きな翼にゼネラル・プロダクツ製円柱をはめこんだものだった。円柱は停滞《ステイシス》フィールドによって守られたけれど、翼に載っていたものはすべて失われてしまったそうだ」  これらすべての話は、ルイス・ウー自身の見解とともに、ARMの記録に残っているはずだ。同様に、キロンに関する話も見つかるだろう。 「だから、キロンが自分の[#「自分の」に傍点]船をつくったときは、すべてを船殻の中にしまいこんだ。ぼくは中にはいったことがあるけれど、これくらい[#「これくらい」に傍点]の背丈のときのことで、そのときでもものすごく窮屈だった──」 「キロンと話がしたいな」と、オリヴァ。「どこに行ったら会える?」 〈侍者《アコライト》〉が答えた。 「キロンは、くれぐれも自分の居所を教えてはいけないとおれたちに命じた」  オリヴァが、こんどはロクサニーに向かっていった。 「|のるかそるか《ロングショット》号はクジン人の手にあった。パペッティア人はそれが不安だったんじゃないでしょうかね。パペッティア人ならとりもどそうとするでしょう」  それからルイスにたずねた。 「キロンの船はなんという名前なんだ?」 「偏執病《パラノイア》号」ルイスはニコリともせずに答えた。 「搭載兵器は?」 「偏執病《パラノイア》号に武器はない。武器としても使える道具ならある。でもそういうもののことは話せない」 「偏執病《パラノイア》号はこのリングワールドのどこに着陸したんだ? 最初の探検隊がティーラ・ブラウンを残していったという、〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉の近くか?」  それも考えていなかった。 「話せない」 「やれやれ、あなたは取り引き材料を何も持っていないようね」ロクサニー・ゴーチェが口をはさんだ。「わたしたちから何か知りたいことがある? キロンから、たずねるべき質問を教わっていない?」 「キロンはリングワールドが無事でいられるかどうかを知りたがっている。その孔は自然に閉じようとしているね。だけど〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉はどうだろう? あれはどこかよそに行くかな?」 「どうかしらね」ロクサニーは答えた。 「それとも、どんどんひろがって激化して、すべてを破壊してしまうだろうか?」 「そんな事態をひきおこしてはならないわ」彼女はきっぱりと断言した。  オリヴァが笑い声をあげ、ロクサニーがいらだたしげにそちらをふり返った。  オリヴァがいい訳した。 「ちょっと思いついたことがあっただけです。ルーイス、きみは何歳だ?」  ルイスは三十代と自称するつもりでいたが、ARMのふたりはどうやら彼のことを思春期を過ぎたばかりと考えているようだ。なぜか嬉しかった。  カホナ、いいじゃないか。 「八十ファランと少しだ」 「ファランというのは?」 「空が十回転すること」 「だいたい七十五日か? リングワールドの一日は三十時間だったな」  オリヴァが一般用より大型のポケットコンピューターにつぶやきかけた。 「つまり、地球年齢でだいたい二十歳ということか。ぼくは四十六だ。ロクサニー?」 「わたしは五十一よ」彼女はためらいもせずに答えた。 「ぼくたちはもちろん細胞賦活剤《ブースタースパイス》を使っている。おかげで老化しない。気づいたんだが」オリヴァ・フォレスティアはつづけた。「ルーイス、お母さんをべつにして、きみははじめて人間の女性に会ったんじゃないか」  ロクサニーはいくぶん不本意そうにニッコリした。ルイスはふいに、自分があまりにも長くロクサニー・ゴーチェを見つめていたことに気づいて赤面した。それに、いくら狭いとはいえ必要以上に近づいているし、彼女の顔を見てはっきり話すこともできない。  この閉鎖空間にはフェロモンがあふれているようだ……当然ロクサニーとオリヴァのものもふくまれている。オリヴァはこの二十数年ではじめて見た、もしくは匂いを嗅いだ、人間の男だ──|巻き貝矢魚《スネイル・ダーター》号にはシャワー室を設置するスペースはない──ルイスが欲情し、同時に威圧されても、驚くにはあたらなかった。 「すまない」  彼は謝ってわずかに身体を離した。  威圧とはさまざまな形をとりうるものだ。彼らはルーイスから何かを得ようとしている。ルイス・ウーはその情報をでっちあげなくてはならない。だがそれでも──。  ロクサニーが軽やかな笑い声をあげた。 「気にしなくていいわ。ルーイス、|巻き貝矢魚《スネイル・ダーター》号を見たい? 〈侍者《アコライト》〉、あなたを連れていくことはできないの。あの船は狭すぎるもの。あとでルーイスから話を聞けばいいわ」  ハヌマンと視線があったが、彼は何もいわなかった。ウェンブレスと〈侍者《アコライト》〉はつかえながらも会話をはじめている。ウェンブレスはクジン人に大いに好奇心を燃やしているようだ。  ルイスはフェイスプレートをおろして、ARMたちについて外に出た。  その船はおそろしく狭苦しかった。  中心の柱をかこんで、三つの座席が背中あわせになっている。ひとつはすでに埋まっていた。エアロックの横に、いまは切り離されているテントをいれるくぼみがある。床にあいた穴は、人ひとりがはいれるほどのスペースにつづいている。武器管制室《ミッンョン&ウエポンズ》だ。  まずロクサニーが中にはいり、第二の座席にすべりこんだ。 「LEルーイス・タマサン、クラウス・ラシッド二等捜査官よ。クラウス、こちらはルーイス。生粋の原住民ではないそうよ」  クラウスがふり返って手をさしだした。ロクサニーより色が黒い男で、オリヴァより背が高く、腕も長い。 「ルーイス、おれはパイロットだ。そこにすわりたまえ」  ルイスはロクサニーとふたりきりで話したかった。オリヴァとふたりきりでもいい。〈侍者《アコライト》〉とウェンブレス(とハヌマン)を残してここまできたが、いささかうまくいきすぎて不安になる。  ルイスは三番めの座席にすわった。座面が動いて彼の身長と体重と与圧服の形状にあわせて調整されるのがわかった。基本的な設定だ。あまりピッタリあってはいない。  ロクサニー・ゴーチェが両手を使ってチェアアームに指示をうちこんだ。動く間もなく、緩衝ウェブがルイスを包みこんだ。  緩衝ウェブの力場は乗客を衝撃から守るためのものだが、人を拘束することもできるのだ。  ルイスはすぐには反応しなかった。  ルーイス[#「ルーイス」に傍点]ならどう反応するだろう? パニックに凍りつく。少なくともルイスが考える[#「考える」に傍点]あいだだけでも。それからどうすればいい? 「あなたの安全のためよ。地球を見たいといったでしょ」  ロクサニーは猫のように笑った。  エアロックからはいってきたオリヴァが、ハッチを抜けて第四の座席におりていった。武器管制室《ミッション&ウエポンズ》が密着スーツのように彼を包んだ。  ルイスは軽く身動きした。力場にもそれくらいの余裕はある。  彼はたずねた。 「ぼくたちは地球に行くのか?」 「いずれにしても、|人食い鰐《グレイ・ナース》号にもどる」三人めのクルーがいった。「一時間で着く。でなければ困ったことになる。ロクサニー、供給装置《キッチン》を残していくのか?」 「しかたないわ」 「|わかった《ステット》。だがもし何かまずいことになったら──そうか。ルーイス、最初の目的地は母艦|人食い鰐《グレイ・ナース》号だ。きみがそこからどこへ行くかはわれわれ以外の者が決める。地球か、少なくともソル星系になると思うよ。なあ、向こうにつくまでのあいだ、何か話してくれよ。もうキロンもきみをとめることはできない。きみは人類空域にやってきたふたりめのリングワールド人になるんだ」 「その孔を抜けていってはいけない」ルイスは警告した。  三人のARM捜査官がいっせいに彼をふり返った。  ロクサニーがたずねた。 「なぜいけないの?」  難しい質問だった。〈作曲家《テューンスミス》〉がこのように簡単にARM船の脱出を許すはずがないと、ルイス・ウーなら断言できる。必ず何かがはばもうとするだろう……しかしそのような指摘はルーイス[#「ルーイス」に傍点]・タマサン[#「タマサン」に傍点]の役柄にはあわない。 「ハミイーは〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉を通ってこの世界から出ていったそうだ。ぼくの父はまたべつの孔からはいってきた。ふたりともこのような……チラチラする光は見ていない。〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉は自己修復なんかしないだろう? でもこの穴は小さくなっている」  クラウスが反論した。 「〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉も同じさ。数週間前、おれたちが気がつかないあいだに火口がふさがった。きみがそれについても話してくれるんじゃないかと期待していたんだがね」  ──〈作曲家《テューンスミス》〉が補修システムを実験したのだ──。  ルイスはそう推測し、ルーイスは何も語らなかった。  クラウス・ラシッドが|仮 想 画 面《ヴァーチャル・スクリーン》に何かを映しだした。 「現在地はここだ。ルーイス、これをたどってみろ。わかっているいちばん近くの孔は百万マイルも離れている。遠すぎる。地表を横切っての大追跡がはじまってしまう。〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉に参戦しているカホな種族はみんな、ぼくらがきみをほしがるのと同じくらい熱烈にぼくらをほしがるだろう。ぼくらが持っているかもしれない情報のためにね。だがいますぐ[#「いますぐ」に傍点]、ここから、モーターを切ったまま[#「切ったまま」に傍点]脱出すれば、それも避けられる」  船が離陸した。 「母艦|人食い鰐《グレイ・ナース》号が待機しているのはここだ。闇の中で、リングワールドの床の裏側の──」  下からオリヴァが怒鳴った。 「ラシッド! 何を遊んでいるんだ?」  ルイスはさらに大声でわめいた。身動きできないので気が狂いそうだ。 「まず何かを落としてみるんだ! そうすればどうなるかわかる!」 「母艦にもどるんだよ」ラシッドがオリヴァに答えた。  船が横にゆっくりと移動して孔の上に到達した。 「全動力源オフ[#「オフ」に傍点]。ルーイス、予備のタンクがあれば落としてみるんだがね、ないんだよ」  彼らは落下した。スクライスの上に残されたテントが見える。彼らなら大丈夫だ、と自分にいい聞かせる。ハヌマンが導いてくれるだろう。孔がひろがる。星でいっぱいだ。  |巻き貝矢魚《スネイル・ダーター》号が何かしなやかなものにぶつかった。  緩衝ウェブがはねあがろうとする乗員の身体を押さえる。頭蓋骨の中で脳がとびはねたような気分だ。最初にわれに返ったのは、はじめから緩衝ウェブに包まれていたルイスだった……だが身動きはできない。  足もとからオリヴァの悲鳴が聞こえた。  クラウスが怒鳴った。 「何にぶつかったんだ?」 「外に[#「外に」に傍点]出なさい! 外に[#「外に」に傍点]出るのよ!」ロクサニーがさけんだ。 補修システム=Aと〈作曲家《テューンスミス》〉はいっていた。  スクライスの糸はどれほどの強度を持っているのだろう? 落下する宇宙船をとどめるほどか? 船殻がバラバラになるかもしれない。孔にはレースのように、スクライスの糸が張りめぐらされているはずだから。 「スラスターが動かない」クラウスがいった。 「どこにあるんだ?」ルイスはたずねた。  クラウスが首をのばしてふり返り、罵声を浴びせた。  ルイスはさらにたずねた。 「船尾なんだろう?」  大昔からの習慣だ。造船技師たちはスラスター・モーターを、本来ロケットのあった場所にとりつけたがるのだ。 「何かはわからないがあの孔にあるものが──孔を修理している[#「修理している」に傍点]ものが──スラスターを切り離したんだ。ぼくたちはその中に沈んでしまう。動力源に達するまでにどれくらいかかる? 動力には何を使っているんだ? どこにあるんだ?」  彼はひたすらにしゃべりつづけた。なぜ停滞《ステイシス》フィールドが発生しなかったんだ? だがもし発生していたら、彼らは永久にここにとどまることになる。  クラウスはまだ事態が把握できずにいる。ロクサニー・ゴーチェが答えた。 「船の真ん中。バッテリーよ。もしあれが切られたりしたら──」  船はいままさに一インチ一インチと沈んでいく。さらに悪いことに、傾きはじめている。  クラウスは彼らをにらんでいるが、まだ頭が追いつかないようだ。ようやく理解したのだろう、恐怖の悲鳴をあげ、両手を制御盤の上にひらめかせた。  ロクサニーがさけんだ。 「待ちなさい!」  床のハッチが閉じ、オリヴァの悲鳴が聞こえなくなった。  ロケット・モーターが大きくうなりをあげた。船室区画が切り離されてよろめきながら急上昇し、やがて安定した。クラウスは手動で操縦している。船室がさらに傾き、落下し、また垂直になった。 「彼を殺したわね[#「殺したわね」に傍点]!」ロクサニーが非難の声をあげた。「オリヴァを!」 「あいつのいた場所がまずかったんだ」  クラウスはオリヴァの椅子にすわっているルイス・ウーをにらみつけ、それからロクサニーに視線を向けた。 「あんただって『外に出ろ』とさけんでたじゃないか」  脱出ポッドが落下し、爆風にテントが揺れた。反動でロクサニーとクラウスが数インチとびあがり、緩衝ウェブにとらえられる。  テントの壁ごしに、〈侍者《アコライト》〉とハヌマンが救命ポッドをひろげてウェンブレスをいれているのが見える。  孔のほうでまばゆい光がひらめき、船室のそちら側が暗くなった。  ルイスはさけんだ。 「ロクサニー、これを[#「これを」に傍点]はずしてくれ!」 「待ちなさい、ルーイス」  衝撃波が船室を襲った。 「彼らが死んでしまう! はずしてくれ! クラウス!」 「そら」  クラウスの手が動いてルイスを自由にした。彼は椅子からころがりおりて、小さなエアロックに向かった。  テントは破裂した風船のようにバラバラになっていた。爆風によって中身も撒き散らされている。ルイスがエアロックから這いだすと、救命ポッドが石油時代の乾燥機にいれた服のようにクルクルとウェンブレスを回転させながら、目の前をゆっくりところがっていった。 〈侍者《アコライト》〉は懸命に立ちあがろうとし、ころび、また立とうとしている。ハヌマンの姿はない。ウェンブレスが正気にもどったのだろう、依然としてクルクルまわりながら固く身体を丸めた。 「〈侍者《アコライト》〉、大丈夫か? 気圧は無事か?」 「おれのスーツは気圧を維持している。ハヌマンを見たか?」 「いや」  ウェンブレスがいちばん近いところにいる。ルイスは姿勢制御ジェットをふかして前方に降り、風船にそって走りながら回転をとめた。リングワールド人も協力した。回転はとまったが、ウェンブレスがバランスを失った……バランスがとれないのは、ハヌマンが彼の胸に顔を押しつけて、しっかりしがみついていたからだった。ハヌマンは与圧服を着たままだ。 「〈侍者《アコライト》〉、ふたりとも無事だ」  彼らは壊れたテントにもどった。〈侍者《アコライト》〉とクラウスとロクサニーもそれに加わった。ロクサニーは重そうな長方形のものを胸にかかえている。  供給医療装置《キッチン・ドック》はおいた場所にあった。壊れてはいないようだ。  彼らはそれをルイスのフライサイクルに、ウェンブレスの救命ポッドは〈侍者《アコライト》〉のフライサイクルにつないだ。ARM捜査官たちは、まるで上官ででもあるかのように命令をくだしている。  ルイスが作業の途中でたずねた。 「脱出艇も持っていくつもりなのか? フライサイクルのモーターでは無理だと思う」 「あれはおいていきましょう」ロクサニーが答えた。「もう使えないわ」  ──戦闘機のバッテリーの爆発で、〈作曲家《テューンスミス》〉の補修システムが損傷を受けたかもしれない──。 〈作曲家《テューンスミス》〉に知らせなくては……だがもちろん、音声とカメラ映像によって彼はすでに知っているはず[#「知っているはず」に傍点]。ただ返事ができないだけのことだ。  ルイスはそれでかまわなかった。 [#改ページ]      12 〈|長 身 人 種《ジラフ・ピープル》〉  超特大|栓《プラグ》の光が薄れていった。チューブはしぼみ、白く太い川のような対流嵐が幾筋も洩れている。  問題ない。  彼らはほぼ閉じた孔を残して出発した。  一行は燃料タンクを残してきた場所とは正反対の、回転方向《スピンワード》に向かった。 「あれは囮として残していくわ。そしてわたしたちは近づかない」ロクサニー・ゴーチェが命じた。「あの風船みたいな山を落とした者が興味を持つかもしれないわね。ヴァシュネーシュトといったかしら? あなたはヴァシュネーシュトについて何を知っているの?」  ルイスは答えた。 「ヴァシュネーシュトとは、誰にも何もわからないときに使う言葉だ。魔法使いとか、魔法とかいう意味だ」  ルーイスは両親から|共 通 語《インターワールド》を教わっている。  ロクサニーがルイスのフライサイクルの前部シートについて操縦を試みたが、動かなかった。ルイスが後部シートから操縦した。ロクサニーもクラウスも口にはしないものの、ルーイスたちが協力者としてARMに徴用されたことは明らかだった。  もう一台のフライサイクルは無事らしい。〈侍者《アコライト》〉が前部シートにすわり、後部座席のクラウスの姿はその背後に隠されて見えなくなった。原住民はフライサイクルの背後にひかれていくふくらんだ救命ポッドの中で満足そうにしていたが、やがてあえぎはじめた。 「〈侍者《アコライト》〉!」 「どうした、ルイス」 「救命ポッドの空気がなくなりかけている。ウェンブレスが苦しんでいる」 「カホナ、どこか故障したな」と、クラウスがいった。 「降りるか?」  フライサイクルが着地した。ウェンブレスは気を失っていた。  彼らはスーツをつけたままだった。空気は薄い霧のようで、ハリケーンが吹き荒れている。それがヘッドホンの声をかき消す。  ルイスは怒鳴った。 「救命ポッドをひらくのはまずい──」 「ほかにいい考えはないのか?」と、〈侍者《アコライト》〉。 「ぶらさがり《ツリー・スウィンガー》にヘルメットをひらかせよう。スーツに再循環システムがついている」  小さな類人猿はすぐさま〈侍者《アコライト》〉の身ぶりに反応した。ヘルメットをはねのけ、悪臭にくしゃみをし、だがもう一度閉じることはしなかった。そして心配そうにウェンブレスに顔を近づけ匂いを嗅いだ。ウェンブレスが身動きし、やがて起きあがった。  なぎ倒された森の上を飛んでいく。細く背の高い幹の上にフワフワした樹冠を持つ木々だ。反物質爆弾がすべての木を回転方向《スピンワード》に向けて倒している。さらに進んだ場所では、気圧低下による風のため、木々は反回転方向《アンチスピンワード》に向かって倒れている。低木は無傷のままだ。  気圧の低下は波となって、まだこの土地にひろがりつつあった。フライサイクルはゆっくりと衝撃波に追いつこうとしている。彼らはすでに何万マイルにもわたる災厄と嵐を通りすぎてきたのだ。  倒木の中に、無事なフワフワ樹冠があらわれはじめた。ずっとつづいていた森が、やがて低地に向かうにつれてほかの生態といりまじりはじめる。  ルイスはフワフワ樹冠の森の切れ目、勢いよく流れる小川にそった草地に一行を導いた。  空気だ!  ウェンブレスをバブルからひっぱりだしてから全員がスーツを脱いだ。ウェンブレスは歓声をあげ、こわばった身体で踊りだした。それから水にとびこみ、織りの粗いシャツとズボンを脱いで、それで身体をこすった。  水だ! 流れる水。  くるぶしの浅さからはじまり、かなり深くなっている。ARM捜査官たちは顔を見あわせ、それから密着型の服を脱いで水にはいった。空中で、ロクサニーの笑いをこめた視線がルーイス・タマサンの視線をかすめる。ルイスの息が詰まった。 〈侍者《アコライト》〉が力強いしぶきをあげてとびこんだ。毛皮がペッタリと身体に張りつき、すばらしく滑稽だ。呪文が解けたかのように、ルイスは笑い声をあげた。  ハヌマンがスーツと格闘している。ルイスは手を貸してやった。ハヌマンは親しみをこめて彼に抱きつき、ささやいた。 「ARM捜査官たちは小型の武器を隠しもっている」 「驚いたな」ルイスはつぶやいた。 「キイ、キイ、おまえも裸になるのか?」 「ちょっと問題が──」 「彼らは気づいている。ウェンブレスのようにすればいい」  ハヌマンは彼の腕からすり抜けて四つ足で水に駆けより、水しぶきをあげずにとびこんだ。ルイスは大声をあげて彼を追いかけると、両膝をかかえ、身体を丸めて飛びこんだ。  つめたい!  深い水の中で張りつく服をひきはがした。身体にこすりつけて洗おうとしたが、結局服を丸め、水を切るために岩だらけの岸に放りあげた。  やれやれ。  一行は全員、ルーイス・タマサンが性的に興奮していることに気づかないふりをしてくれている。  ARM捜査官たちには近づかないでおこう。ふたりは──楽しくやっているのだろうと思っていたのだが、いまやクラウスがあとずさりし、ロクサニーは早口で聞きとれない言葉を発している。喧嘩だろうか? しばらくふたりだけにしておいたほうがいい。 〈侍者《アコライト》〉は泳ぎが下手だった。だが流れはそれほど深くない。彼はハヌマンをすくいあげると、水の中を歩いているルイスに近づいてきた。  ハヌマンがきびきびといった。 「孔の近くに光が降りたのを見た。〈作曲家《テューンスミス》〉がどこの船か見きわめるだろう」 「〈作曲家《テューンスミス》〉から話しかけてくることはできない。回路を切ったからね。ぼくは──」 「わかった。わたしは今後も〈侍者《アコライト》〉のフライサイクルに乗る。わたしが先導する。|積 層 盤《サーヴィス・スタック》のあるところに案内しよう」  |積 層 盤《サーヴィス・スタック》があれば火星の〈地図〉にもどれる。  ルイスはたずねた。 「どれくらいの距離がある?」 「いまは軌道上だ。〈作曲家《テューンスミス》〉がまっすぐわれわれのほうに送りこんでくれる」 「ARM捜査官に|積 層 盤《サーヴィス・スタック》を見せるのはどうだろう」 「あとで、〈作曲家《テューンスミス》〉にきけばいい。ほかの侵入者を見たかどうかをたずねるときに。おまえの意見は?」  ルイスは考えた。 「彼らは所属する船にもどりたいだろう。それはかまわないな? あまり多くの情報を与えないかぎり」  ハヌマンがほとんど聞こえない、鋭い鞭のような声をあげた。 「ゴーチェは記録装置《ライブラリ》をもちだした! わたしはあれがほしい! 解放する前に、彼らがあれを使うところを見なくてはならない。だがあのARM捜査官たちは連れとしては危険だ。全員が危険にさらされる必要はない。ルイス、〈侍者《アコライト》〉とわたしは逃げてもかまわないか? |積 層 盤《サーヴィス・スタック》のところで落ちあおう。おまえはここにとどまり観察しろ」  思いがけない提案だった。 「なぜぼくなんだ?」 「この広大なリングワールドにおいて、ロクサニー・ゴーチェはおまえにとって唯一の交配可能な相手だ。これからどうするか、おまえは自分の計画を立てていないのだろう?」  ルイスは肩をすくめた。 〈侍者《アコライト》〉が口をはさんだ。 「見物がいることに気づいているか?」  ルイスは周囲を見まわした。  上流のARM捜査官たちは腰まで水につかって話しあっているが、その身ぶりは自分たちだけで何かを企んでいるようだ。ルイスは無理やり女の胸から視線をひきはがした。ウェンブレスは岸にあがって温かいたいらな岩の上で仰向けになり、日光浴をしている。  フワフワ樹冠の森の上で黒い鳥が輪を描き、角のある四足獣が一対、それを疑わしげな目でながめている。 「どこにも人間は見えないぞ」 〈侍者《アコライト》〉が答えた。 「ヒト型種族が七人。男が三人、女が四人だ。匂いでわかる。おれたちは──」  何かに気づいたのだろう、ウェンブレスが立ちあがり、森に向かって声をあげた。  ひとりの男が進みでてきた。角のある獣のそばを通り抜けたが、獣は逃げださない。男はウェンブレスから十ヤードほど離れた場所で足をとめ、話しはじめた。よく見えるよう、両手は身体の脇におろしている。ウェンブレスも同様だ。  ふたりとも服をつけていない。男はウェンブレスよりもずっと背が高い。たぶん〈侍者《アコライト》〉よりも高く、八フィート弱くらいあるだろう。周囲の木々のように細く、身体のあらゆる部分がひきのばされているようだが……頭部だけが例外だった。角張って強靭なあごを持ち、髪は森のフワフワ樹冠と同じ色だ。  川の中で、裸のARM捜査官たちはとまどっている。ふたりは流れに逆らってルイスと〈侍者《アコライト》〉のほうへと近づいてきた。 「武器を抜いてはいない」ハヌマンがつぶやいた。「ルイス、彼らは冷静にふるまえるだろうか?」  もちろんARM捜査官たちのことをいっているのだ。  ルイスは答えた。 「わからない。誰かがリシャスラについて説明しなきゃいけないな」  ウェンブレスと男は、いまではのんびりと言葉をかわしている。  クラウスが声の聞こえるところまでやってきてたずねた。 「どうすればいい?」 「ウェンブレスがうまくやっている」ルイスは答えた。「彼に代弁させればいいだろう。仲間がいるようだし」 「どこに?」 〈侍者《アコライト》〉が指さした。 「森の中だ。あのあたりに、ぜんぶで六人」 「あいつ、キリンみたいだな」  クラウスが笑った。 「むしろ月人《ルニー》みたいよ」  ロクサニーの言葉は明らかな拒絶だ。  ルーイス・タマサンは月《ルナ》市民を見たことがないはずだ。 「友好的な種族だよ。あのあごを見てごらん。草食性だとわかる。たぶんあの木の果実を食べるんだろう。決めなくてはならないのは──」 「カホナ。翻訳機にふたりの話を聞かせなきゃ」  クラウスが水からあがった。ほかの者たちもあとにつづいた。クラウスが服をとりあげて身体を拭き、また地面に落とし、こんどは物入れをひろいあげた。あの原住民たちが裸でかまわないのなら、服は必要ない。だが物入れには翻訳機と、おそらくは武器がはいっているのだろう。  背が高く細いヒト型種族が六人、背が高く細い木々のあいだから出てきた。  ──リシャスラしようというのだろうか? やはりARM捜査官たちに説明しなくては──。  ウェンブレスが早口で話しながら、〈侍者《アコライト》〉とハヌマンに手をふった。長身のヒト型種族は深々と頭をさげ、それからまたウェンブレスと話しつづけている。ルイスとロクサニーも自分の翻訳機をとり出して彼らに加わった。  ARMの翻訳機がいくつかの言葉をひろった。ウェンブレスから収集したものに近いが、この土地の言葉は〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉近辺で聞かれるものとは非常な隔たりがあるようだ。  ウェンブレスがふいにロクサニーをふり返った。原住民の言葉とたいしてちがわないように聞こえたが、すべての翻訳機が反応した。 「彼らはあんたたちの種族が──」  翻訳できない何か。 「──をするかどうか知りたがっている。なんと答えればいい?」  ロクサニーがたずねた。 「どういうこと?」  ウェンブレスが説明しようとした。女が子供をさずかる行為? だが種族が異なるとそうはならない? クラウスとロクサニーは耳を傾け、それからルイスに助けを求めた。  ルイスは説明した。 「彼はべつの言葉を使っているけれど、それはリシャスラだ。リシャスラとは、異なる知的ヒト型種族とのあいだでおこなうセックスだ。この言葉は──」 「ませた小僧だな」  クラウスは面白がっているわけではない。  ルイスはクラウスを怖れている自分に気づいた。 「冗談じゃないんだ、クラウス。新しい種族に出会ったら、最初にそのことを知らなくてはならない。自分には伴侶がいて、単婚主義だといってもかまわないんだから」  クラウスは四人の女に目を向けた。男たちと同じくらい背が高く、八フィートかそれに少し足りないくらいだ。月人《ルニー》でもキリンでもない、エルフ[#「エルフ」に傍点]だ。女たちは男たちと同じくらいあけすけな視線をよこしている。  男たちに凝視されて、ロクサニーは赤面していた。気がつくと、ルイスもまた赤面していた。 「ウェンブレス、〈侍者《アコライト》〉はわれわれの種族ではないといってくれ。彼はリシャスラしない」  ウェンブレスの言葉に、女のひとりが笑った。ルイスの翻訳機がその言葉をひろう。 「しないと思った!」  ルイスはさらにつづけた。 「だがぼくたちは決定しなくてはならない。どうする、クラウス、ロクサニー?」  クラウスがたずねた。 「ルイス、きみは[#「きみは」に傍点]それをしたことがあるのか?」 「もちろん!」  ルーイス[#「ルーイス」に傍点]ならなんと答えるだろう? 若者はけっして童貞だと認めたりはしないものだ! むしろ誇張していうだろう。 「──いくつもの種族とね──彼らみたいなのははじめてだけれど──話はもっといろいろ聞いている。なぜいけないんだ?」  ロクサニーとクラウスを直視することができない。 「友好にもなるし安全な行為だ。妊娠することもない。病気も種族の境界を越えては伝染しない。それに、ぼくにとってほかに誰がいるんだ? 人類の女なんて、星と同じくらい遠いお話にすぎないんだから」  ウェンブレスが声をはりあげた。 「おれも同じだ! おれもひとりきりだった。クラウス、なぜそんなに悩む? 人々は出会えば必ず最初にこの質問をする。子供の数を増やさないためにレシュトラを使う種族もある。水棲の種族は──そう、彼らにとってこれはジョークにすぎない。ものすごく長いあいだ息をとめておかなくてはならないからな。レシュのできない種族や、生涯を通じてひとりの伴侶としかつがわない種族もある。形がかわっているため、レシュトラ──リシャスラか? ──できず、礼儀上たずねるだけの者もある。本気の者もいる。ロクサニー、ヒンシュたちが当惑しているのがわからないのか。あんたが答えないからだ」  ルイスはルーイス≠轤オく憧れをこめていった。 「ぼくは〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉に会いたい。彼らはこの技にものすごく優れているそうだ。リシャスラによって交易帝国をつくりあげ、惑星間にまで出ていこうとしたんだ」  クラウスがニヤリと笑った。 「ノーといったらどうなるんだ?」 「ではそういおう」  ウェンブレスがそくざに答え、ヒンシュたちに向かって話しはじめた。クラウスがそれをさえぎった。 「待て、ウェンブレス。おれはやってみよう[#「やってみよう」に傍点]」  彼はチラリと視線をロクサニーのほうに向け、そして目をそらした。  ウェンブレスがたずねた。 「集団でか、ふたりだけでか?」  クラウスは動転していた。 「エーと、集団でだ。ふたりだけだと、どう話せばいいかわからない」  ロクサニー・ゴーチェがウェンブレスに歩みより、低い早口で何かを告げた。ウェンブレスはうなずいて言葉を変えた。いまでは翻訳機もヒンシュの言葉をいくつかひろえるようになっている。  ひとりの女が深くかがみこんだ。長い指がマスクメロンほどの大きさの黄色い果物に巻きついている。彼女は皮のまま少しそれをかじり、それからいくつかに割って、ウェンブレスに、つづいてクラウスに、そしてほかのヒンシュたちにわたした。ウェンブレスは自分の果物をさらに割って、ルイスとロクサニーにわたした。ここにいる者たちを分類しているのだ。  クラウスとウェンブレスは女たちとリシャスラし、ルイスとロクサニーは加わらない。ハヌマンは自分の果物をとっているが、彼もリシャスラはしない。  ──彼らは肉食種族ともリシャスラするのだろうか? そのときはメロンをさしだしたりはしないのだろう。だがこの儀式は〈|屍肉食い《グール》〉を排除する。たぶん、それが目的なのだろう──。  果物の中は赤く、味は少しペリーに似ていた。  訪問者たちが食べたのをきっかけに、祝宴となった。周囲にはいくらでも果物がある。彼らは草食性なのだ。つまり、大量に食べなくてはならない。女たちはウェンブレスとクラウスに果物を与えながら、しだいに親密な接触へと移行していった。  ロクサニーが背を向け、歩み去った。  ルイスはメロンをとりあげ、膝で割った──カホナ、なぜいけない? ──そして彼女のあとを追った。はじめからロクサエーの関心を惹きたいと願っていたのだ。  彼女がふり返り、彼を待っている。視線を落とし、笑みを投げ、そしていった。 「わたしたちは恋人同士だと話すよう、ウェンブレスにいったのよ」  そしてメロンの半分を受けとって食べた。それから彼女は爪先立って近づいてきた。彼よりも頭半分背が高い。そして身体をすりよせながらゆっくりと膝をついた。  かすれたさけびをあげながら、ルイスは彼女を草の上に押し倒して突入した。  女をこのように扱ったのははじめてだった。ロクサニーも驚いている。彼女はまだ準備が整っていなかったが、いずれにせよ両腕と両脚を巻きつけてふたたび彼を虜とした。ルイス・ウーの心はどこかへ飛び去ってしまった。  正気をとりもどしたとき、彼はわけのわからないことをつぶやいていた。何か秘密を洩らしてしまったのではないだろうか。まだ両脚で彼をつかまえたままのロクサニーが笑った。 「坊や、とても情熱的だわ!」  いつのまにかヒンシュたちがふたりをとりかこんでいた。  リシャスラする女たちはひざまずいている。ヒンシュ同士でつがうときは、両方ともが膝をついた。女たちとリシャスラしている客人たちをながめながら男たちのならべるかなり露骨な言葉を、翻訳機が半分だけ伝えてくる。背の低い男がおかしいらしい。いちばん小さなウェンブレスがいちばん面白がられている。しかも彼はくすぐったがりだった。 「すまない、ロクサニー。なんだか夢中になってしまった」ルイスは謝った。  リングワールドの吸血鬼《ヴァンパイア》とつがったような気分だった。それほどまでに惑溺し、それほどまでに強烈だった。だがけっしてそんな話をしてはならない!  彼女が軽く頬をたたいた。 「新鮮だったわ。わたしの避妊結晶体《インプラント》はあと九年は保《も》つんだけれど、カホなほどよかったわ」 「ぼくは生殖能力がある」ルイスはいった。 「もちろんそうでしょうね」  彼女は立ちあがって背を向け、腰に手をあてた。 「さっきは気にいらなかったんだけれど。リシャスラだった? あなたは事実をぜんぶは話さなかったわね。ルーイス。でも……わたしたちも加わりましょうか」  なんだって? 「ぼくらは伴侶なんだぞ! 彼らを驚かせるだけだ!」  ロクサニーがメロンをとりあげ、半分に割って、ひとりのエルフにさしだした。エルフは仰天した。それから笑って膝をつき、彼女を抱きよせた。ルイスは赤面し……メロンをとりあげた。  日暮れになり──どれが完熟した果物なのか判断できないほど暗くなって──ヒンシュたちは食事とリシャスラと交合をやめて自己紹介をはじめた。奇妙な順番だ。彼らの名前は長くものものしかった。  ウェンブレスがルイスを脇に連れだして告げた。 「ヒンシュはおれがこれまで旅をしてきたほかの種族とさして変わらない。旅人が短期間しかとどまらないつもりでいるときは、覚えやすいように短い名前を教える。つまりこれは、すぐさま行っちまえ≠ニいうことなのかもしれない。だがあの果物を見たか? 風が何百|人 重《マンウエイト》もの果物を地面に落とした。すべての客が食べれば、腐る果物は少なくなる。おれたちは歓迎されている」  ルイスにも歓迎[#「歓迎」に傍点]されていることはわかる。だがリシャスラはセックスではない。身体が知っている。彼の身体はロクサニーを求めていた。  そしてクラウスは彼の血を欲していた。  リングワールドの夜は、何も見えないほど真っ暗になることはまずない。ヒンシュたちは眠らず、話をした。ARM捜査官たちはもっぱら聞き役にまわった。  ルイスは角のある獣についてたずね、ひとりの男が答えた。 「草食いのことか? あれはわれわれをわずらわせず、われわれもあれをわずらわせない」  それから空について語った。 「星々の道筋はいつも定まっていた。われわれは時を知るために星を使った。だが星々はいまや規則をなくし、好き勝手に空を移動している。ヴァシュネーシュトだけがその理由を知っている」  そして彼らはあとに残してきた穀物のこと、天気のことを話した。じつに退屈な連中だ。  それから、とつぜんの嵐に話題が移った。 「気候が変わるだろう」ルイスは隣にすわった女にいった。  名前はスゼブリンダと記憶している。彼の翻訳機ならば八つの音節すべてをひろいあげるのだが。 「フワフワ樹冠の木が枯れはじめたら、きみたちも森にそって反回転方向《アンチスピンワード》に向かわなくてはならない。メロンを持っていって、収穫がほしいと思ったところに種を落とすんだ。ほかの種族もこの災厄から逃げだしてくるだろう。彼らがやってきたら、それにも対応しなきゃならない」 「わたしたちと一緒にいて、教えてくれないのですか?」 「ぼくらはそれより早く移動しなくてはならない。ぼくらは、このすべてを[#「すべてを」に傍点]解決しようとしているのだから」ルイスは語った。 [#改ページ]      13 |人食い鰐《グレイ・ナース》号  朝になり、ルイスは草に蔽われた丘に寝ている自分に気づいた。彼は立ちあがって周囲を見まわした。  二台のフライサイクルは川岸に停めた場所から移動していない。〈侍者《アコライト》〉はそのあいだで眠ったはずだ。ハヌマンと地球人たちの姿は見えなかった。ヒンシュたちもいなくなっている。  川に向かってくだる斜面に、メロンの木と割れたメロンの皮がころがっている。水辺のオレンジとチョコレート色の毛皮の固まりは〈侍者《アコライト》〉だろう。  彼は斜面をくだっていった。  近づけば目覚めるだろうと思っていたのに、〈侍者《アコライト》〉は動かない。脇腹は動いている。よし。呼吸はしている。では、ARMはいったい何を企んでいるのだ?  ルイスはフライサイクルを浮上させた。  クラウスとロクサニーは小川を渡ってさらに丘の向こうにいた。ルイスの収納庫に詰めこんできた、重たい長方形の固まりをいじっている。ひらかれたその機械は、ホロ表示キーボードのように見える。彼らが小型宇宙船から持ちだした記録装置《ライブラリ》だ。  ウェンブレスとハヌマンが、ふたりの肩ごしにホログラム・ディスプレイをのぞきこんでいる。ロクサニーがルイスを見つけて手をふった。彼も手をふり返した。  つまり、秘密の作業をしているわけではないのだ。ルイスは川にもどった。〈侍者《アコライト》〉が身体を起こしてのびをしていた。  周囲を見まわして、彼はいった。 「あとの者たちはどこにいる?」 「川の向こうだ。大丈夫か?」 「たっぷり食って、たっぷり眠った。小型の鹿のようなものを見つけたのだ。ルイス、誰も食べすぎるなとはいわなかったぞ。見張りを立てておくべきだったのではないか」  ルイスも身体をのばした。 「連中があんたを眠らせたのかと心配しちまったよ。おい、ぼくもあんたと同じくらいグッスリ眠った。ARMの捜査官たちが何か怪しげなことをはじめているようだぞ。だがハヌマンが見張っている。見にいくか?」  ふたりはフライサイクルで川の向こう側へと移動した。  クラウスがフライサイクルを降りるふたりを待ちかまえていった。 「ルーイス、〈侍者《アコライト》〉、孔のところで見たことについて話を聞きたいんだが。いいか?」  ルイスは反対する理由を探したが、ルーイスとしてふさわしい答は何も思いつかなかった。 「どうやるのか教えてくれ」 「クジン人からはじめよう」クラウスはいった。 「ふたりで相談しながら答える」  ルイスは答え、〈侍者《アコライト》〉も同意のうなり声をあげた。ウェンブレスも加わりたがった。三人はおたがいをいい負かそうとし、活発な会話がはじまった。  声のふるえを調べる嘘発見器がないことに、ルイスは賭けた。|人食い鰐《グレイ・ナース》号か、ARM艦隊のほかの船にはあるかもしれないが。 ルーイス≠ェ見たことについては、極力真実のみを述べた。屋内にいたから、爆発そのものは見ていない(工業用反物質については何も知らない)。ルーイスと〈侍者《アコライト》〉が……某所から……到着したとき、巨大な光があらわれた。太陽ほど明るくはないが、ものすごく大きなものだった。そして、山のように大きな黄色く輝くドーナツが調べたい場所を蔽い隠してしまった。  彼自身の背景についても質問された。適当にこしらえあげたが、簡潔な答を心がけた。二十歳の若僧は何世紀にもわたる記憶を有してなどいない。話術も巧みではないだろうし、年長者の前ではいくぶん内気にもなるだろう。ほんとうに十二歳にすぎない〈侍者《アコライト》〉は、実際の記憶どおりに話せばいい。  キロンはこの未成年のクジン人には一度も会ったことがない(とルーイスは話した)。たぶん怖がっているのだろう。  そして尋問を受ける三人は夢中で記録装置《ライブラリ》に見入ったのだった。    プロテクター── [#ここから5字下げ] 1.パク種族の成人形態。彼らは幼年《チャイルド》から繁殖者《ブリーダー》、そして成人へと変化する。 2.ヒト型種族は概してパク人の血をひいている。彼らもまた繁殖者《ブリーダー》段階を持つが、ほとんどの者はその形態で生涯を過ごし、成人形態に達することはめったにない。 3.古代の──。 [#ここで字下げ終わり]  クラウスとロクサニーが記事を探すたびに、ウェンブレスとルイスと〈侍者《アコライト》〉が押しあうようにしてそれをのぞきこんだ。ハヌマンも同様だったが、彼はたいていの場合無視されていた。ロクサニーは彼に近づこうとしなかった。ハヌマンもクラウスのほうを好み、クラウスは彼をペットのように扱った。  テキストのいたるところにホットリンクがある。    ピアソンのパペッティア人── [#ここから5字下げ] 偉大なる工業技術と知恵を持った種族。かつては既知空域《ノウンスペース》内外に多数存在したが、現在は銀河中心核の爆発から逃走していると考えられる。ゼネラル・プロダクツ社参照。 生態……。 [#ここで字下げ終わり]    銀河中心核の爆発── [#ここから5字下げ] 超新星の多発と考えられる……二万年のうちに地球に到達すると計算される。充分な研究はおこなわれていない。 [#ここで字下げ終わり]    ゼネラル・プロダクツ社── [#ここから5字下げ] かつてピアソンのパペッティア人によって所有経営されていた企業。人類空域において、もっぱら宇宙船の船殻のみを販売した。 [#ここで字下げ終わり]    既知空域《ノウンスペース》── [#ここから5字下げ] 既知の知的種族によって探検・理解されたと考えられる銀河の主要渦状肢《メイン・アーム》領域。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] リンクワールドの生命体についてはほとんどわかっていない。生態系は見慣れたものであるが、訓練を受けた生物学者が研究する機会はいまだ得られていない。 [#ここから5字下げ] 哺乳類──  ヒト型種族──地球のヒト属と同種。これらすべての種族は、銀河の核から移住させられたパク人|繁殖者《ブリーダー》より派生し、さまざまな方向に進化したものと考えられる。  ルイス・ウー──(回転するホログラム) [#ここで字下げ終わり] 「そろそろわたしたちも、少しばかりのプライヴァシーがほしいわ」ロクサニーが顔をあげずにいった。  ルイスと〈侍者《アコライト》〉はその場を離れ、ハヌマンはクラウスの膝によじのぼった。クラウスは猿人の頭を掻いてやりながら、頭蓋の容量がひどく大きいことにも、頭頂がでっぱっていることにも気づいていない。尋問がはじまって、二時間近くがたっていた。  ルイスと〈侍者《アコライト》〉はフライサイクルのかたわらに落ちつき、ルイスが供給装置《キッチン》を引き出した。 〈侍者《アコライト》〉がいった。 「ハヌマンは記録装置《ライブラリ》をほしがっている」 「〈作曲家《テューンスミス》〉もほしがるだろう」  ルイスはクジン人に肉汁の搾り出しボトルをわたした。 「ハヌマンをおれかおまえの膝にすわらせれば、フライサイクル一台で三人全員が乗れる」〈侍者《アコライト》〉がいった。「ハヌマンは迅速に学習する。もうすでに記録装置《ライブラリ》の操作方法を覚えただろう。おまえが本気でARMの女を伴侶としたいのでなければ出発するぞ」 「いい計画だ。ハヌマンの準備ができたら出発しよう」  ルイスは答え、緑茶の搾り出しボトルを吸った。だが言葉ほど確信を持つことはできなかった。  記録装置《ライブラリ》のコードを破るのは簡単ではないかもしれない。ARM捜査官たちは簡単に彼らを解放しないかもしれない。何が起こるかわからない。  ARMのふたりが怒鳴りあいをはじめたが、遠すぎるため、ルイスと〈侍者《アコライト》〉にはその内容はわからなかった。クラウスが記録装置《ライブラリ》に向きなおり、ウェンブレスとハヌマンがその肩ごしにのぞきこんでいる。  ロクサニーがいそぎ足でフライサイクルに歩みより、鋭く声をかけた。 「ルーイス!」  ルイスは彼女に搾り出しボトルをわたした。ロクサニーはびっくりしたようだ。 「あら! ありがとう。|人食い鰐《グレイ・ナース》号と接触したわ」 「それで?」  彼女は〈侍者《アコライト》〉をチラリと見やった。 「場所を変えましょうよ」  ロクサニーがさきに立って、ふたりは飛び石づたいに川を渡り、低い茂みの背後にはいった。腰をおろすと姿が見えなくなる。ルイスはキスをした。  彼女はキスを返すことなく、たずねた。 「あなたはまだ救助を求めている? 地球を訪ねたいと思っている?」 「前回は選択肢がなかった」  彼女は肩をすくめた。 「あなたの価値は計り知れないわ。できれば市民権をとってあげたいと──」 「ロクサニー、ぼくの父は合法的な生まれじゃない」  ルーイス・タマサンの記録はないのだ[#「ないのだ」に傍点]。彼女が架空の人物について調べはじめる前に、そこははっきりさせておかなくては。 「でも市民権ってなんの? それをとればどうなるんだ?」  彼は注意深く彼女の答に耳を傾けた。彼の出発後、文明世界に変化があったかもしれない。さらに法が増え、規制も増えているようだ。太陽系だけの話かもしれないが。  おっと、これはルーイスにはわからないはずのことだ──。 「出産権? ロクサニー、出産権ってなんだ?」 「あとで記録装置《ライブラリ》で探してあげるわ。人は基本的に──カホナ──だいたいにおいて遺伝子パターンに基づいて、ひとつかふたつの出産権を持っているのよ。健康ならたいていふたつの出産権ね。失うこともあるし、増やせることもある。出産権ふたつで子供ひとりをつくれるの」  ルイス・ウーはすでに出産権を使い終わっている。身許を偽れば、それも[#「それも」に傍点]偽ることになる。罰則規定は恐ろしく厳格だ。 「なんだかそんな話を聞くと、地球に住みたくなくなるな」 「私生児の父親をもっていればそうかもね。でも最高に面白い世界よ」  もしかすると、ルーイス・タマサンはまったく新しい人間になれるかもしれない。ウイ・メイド・イット星かホーム星に定住すれば、いったい誰が彼の遺伝子パターンをルイス・ウーのものと結びつけたりするだろう? 税金ならはらえる。勉強して新しい職業につこう。そして結婚し──。 「ぼくらが宇宙に出られる見込みは?」 「ほかにも孔のある場所はわかっているわ。もしその誰かが──魔法使いが──ふさいでいなければね」 「|幻の補修者《ファントム・ウイーヴァー》さ」  彼女は肩をすくめた。 「好きに呼べばいいわ。|人食い鰐《グレイ・ナース》号が下からミサイルを撃ちこめば、孔がふさがっているかどうかわかるでしょう。それ以上のことは、誰にもわからない。〈侍者《アコライト》〉は同じ意見?」 「たぶんね」 「彼もついてくるかしら?」 「でも彼に市民権をとることはできないんだろう? 〈侍者《アコライト》〉はクジン人だ。あんたたちはクジン人と戦っているはずだ」 「正式な戦争は、そうね、もう四百年くらい起こってないわ」  彼女は袖を指で軽くたたき、あらわれた文字を読んだ。 「千六百ファランよ。彼も大丈夫。人類空域には何十万ものクジン人がいるから」 「でも、こいとはいえない。彼はぼくより子供なんだから」 「もどりましょうか」  ルイスは動かなかった。 「ウェンブレスはどうする? 彼も連れていくのか?」 「そうね。つまるところ、彼はほんものの原住民よ。すばらしい情報を持っているにちがいないし、なんとしても彼の遺伝子パターンを読みたがる連中もいるでしょうね」  ロクサニーは立ちあがってクラウスに合図を送った。 「もどりましょう」  ほんのひと筋を残して|遮 光 板《シャドウ・スクエア》が太陽を蔽い隠した。 〈侍者《アコライト》〉は記録装置《ライブラリ》の前にすわりこみ、その背後にクラウスが立っている。すぐそばではハヌマンが、真面目くさって毛皮から寄生生物をとるふりをしている。小さなプロテクターはルイスを見あげ、すばやく手をクルクルとまわした。  クラウスが片手をあげた。L字型のものが握られている。  すぐうしろでロクサニーが鋭い声をあげた。 「ルーイス、とまりなさい!」  その声にハヌマンが奇声をあげた。彼女の手にも同じものがあった。ハンドガンの銃床のような細くたいらなもの、明らかに武器だ。昔受けたヨガツーの訓練から、どれほど手をのばしても彼女には届かないことがわかる。  ロクサニーの背後で、山の背から太陽がのぼろうとしている。  本来ならば光に気をとられていただろう。だがルイスは、ロクサニーとクラウスと、二挺の銃と直面しているのだ。思考がひどくのろい。隠されていようといまいと、太陽はつねに中天に位置する。  あれが太陽であるはずはない。  地面が揺れた。 〈侍者《アコライト》〉は動かない。動くなと警告されているのだろう。 「おれたちは別行動をとったほうがいいと思うんだよ」  クラウスは邪悪な笑みを浮かべている。 「フライサイクルは一台でいいが、使い方を教えてもらわなくてはな。おまえたちはふたりともそれを知っている。ひとりいれば充分だ」  ルイスは山の上にあがってくる火球から目をそらした。  クラウスの目が光にくらんだ。地面が揺れ、ルイスもクラウスもよろめいた。ハヌマンがクラウスの腕にとびついた。クラウスは彼をふりはらおうとしたが、〈侍者《アコライト》〉が立ちあがりざまにふり返った。彼の爪がクラウスを薙《な》ぎ、のどもとに突き刺さった。  ルイスはすばやく向きを変えて二歩とびだした。拳がロクサニーのあごをとらえる。つづいて何発も殴った。彼女が倒れてころがる。ルイスはさらにとびかかった。きつく殴りすぎたかと心配ではあったが、銃をとりあげなくてはならないのだ。視野の隅で、〈侍者《アコライト》〉が血しぶきとともに、クラウスを地面にたたきつけている。  ルイスの足が彼女の利き手を踏みつけた。銃は彼の手にある。 「動くな」  だが彼女はじっとしていなかった。はねあがった脚が彼の腹にぶちあたる。ルイスが手を動かした。発射された銃は当たらなかった。土煙がまきおこる。ソニック銃だ。  彼は立ったままあとずさろうとした。彼女のもういっぽうの脚が彼の膝に当たる。彼はよろめいた。彼女が立ちあがり、その掌底が頬を殴りつける。彼は発砲しまいとつとめながら、大の字に倒れた。そこを彼女が彼の右腕をとらえてひねり、銃をとりあげた。そして浮上したフライサイクルに狙いをつけた。彼の蹴りで彼女のバランスが崩れる。彼女は倒れながら銃を撃った。  ルイスは悲鳴をあげながら地面をのたうちまわった。左半身の腰と脚の骨すべてが砕かれたような苦痛だった。ロクサニーが空に向かって発砲し、腕をおろして毒づいた。  目が焦点をとりもどしたとき、彼女は四フィート離れた場所で彼に銃を向けていた。  山上の火球は消えつつあった。その炎の中から宇宙船があらわれて、着陸しようとしていた。  一台のフライサイクルはまだ停まったままだ。もう一台はなくなっていた。ハヌマンと〈侍者《アコライト》〉とウェンブレスの姿もだ。クラウスはなかば首をひきちぎられ、はらわたをはみださせて、仰向けになっていた。  ロクサニーが銃で脅したままたずねた。 「なぜわたしは、あなたを撃って片づけてしまわないのかしらね」 「ロクサニー、よせ」皮肉の天才ルイス・ウーが訴えた。  動く度胸も、考える力もない。それがかえってよかった。二十歳の若僧など、彼女の目に燃える怒りの前では敵のうちにはいらない。 「撃たないでくれ。あんたの好きなところにフライサイクルを飛ばす。ただ動けないんだ」  木の背後からウェンブレスがあらわれ、ロクサニーの手の銃を見てすぐにひっこんだ。 「フライサイクルはいらないわ」と、ロクサニー。「船がきたもの。ウェンブレス! 乗船して席につきなさい。ルーイス、立てる?」 「くそ、無理だ!」ルイスは答えた。  彼女がかがみこんで彼を抱きあげた。腰と脚の骨がなくなったかのように、ダラリとたれさがる。悲鳴をあげ、危うく落とされそうになった。痛みが思考を吹き飛ばし、あとは何もわからなくなった。  ルイスは仰向けになっていた。天井に何かの対談番組が映っているが、声があっていない。  ああわかった、音声がオフになっているんだ。  戦艦の音と思われるものを背景に、声はしばらく以前からつづいているようだった。 「以前は何人かの兄弟がいた」  ウェンブレスの声は薬でものんだかのように間延びしているが、彼の翻訳機は簡潔で明快な音声を発した。 「おれと父が移動するときも、彼らはいつも縄張りにとどまって……」 「おまえたちは始終移動していたのか?」  聞いたことのない、居丈高な男の声だ。 「そうだ」と、ウェンブレス。  ロクサニーが撃った。  信じられない。傷はどれくらいひどいのだろう? 頭がぼんやりしている。筋道を立てて考えることすら困難だ。ルーイス・タマサンを尋問すれば、連中は非常に多くの情報を得るだろう。ルイスは身体を動かそうとした。  あまり感覚がない。うなじのあたりがむずむずする。目は動くし、頭も少しなら動かせる。自分が裸で仰向けのまま、簡易寝台のようなもの……もしくは、軍用|自動医療装置《オートドック》の集中治療装置のようなものに縛りつけられていることはわかった。騒がしい背景音は戦艦だ。  彼は声に耳を澄ませ、理解しようとした。 「……兄弟とは?」と、男性士官。 「選ばれし兄弟たちだ。おれより成長がはやく……故郷にとどまり、伴侶を見つけた」 「いろいろな人種に会ったのか……?」 「二十か三十……レシュした……」と、ウェンブレス。  何が起こったか、わかったような気がした。  リングワールドの裏側にいた船が、上向きに反物質弾を撃ったのだ。すでに存在する嵐の〈目〉を探す必要もない。弾丸ひとつで、隕石をもさえぎる発泡スクライスを引き裂くことができる。もう一発ぶちかませば、スクライスとその上の地面をつきぬけて、小型輸送艦が通れるほどの孔があくだろう。  猛烈、凶暴、単純、直接的なやり方だ。複雑な長距離飛行計画を立てるのではなく、このような解決策をとる可能性があることを、ルイスは予測しておくべきだった。 「知らなければどこへも……レシュトラは……推測し──」と、ウェンブレス。  ロクサニーの声。 「戦争は? 戦ったことはあるの──」 「肉食人種が草食い人種と戦うのを見た……おれも食われた。そういうことか?」 「ウエッ」  フム。首をめぐらすのも楽ではない。身体は網状の金具に拘束され、首から下の感覚がまったくない。クジン人でもはいれそうな大きな檻の中にハヌマンがいる。ふたりは暗黙の了解をこめて視線をかわしあった。それから何かがルイスの視野をさえぎった。  ロクサニー・ゴーチェが、おそらくジンクス人と思われるたくましい男の背後に控えている。ふたりともにARMの記章のついた、自由落下用ジャンプスーツを着ている。  男が値踏みするようにルイスをのぞきこんだ。 「きみがルーイス・タマサンだな」 「そうだ」ルイス・ウーは答えた。 「きみはわれわれの仲間を攻撃した」  ──ちゃんと後悔しているよ──。 「すまない」 「わたしはシュミット主席捜査官だ。きみは民間人捕虜だ。ある程度の権利は保証されるが、きみはいまそれを充分に行使できる状況にない。あのスタンナーは充分な距離をとっていれば麻痺するだけですんだはずなのだが、きみはゴーチェ一等捜査官に真っ正面から挑もうとした。腰から膝までの骨が粉々に砕けている。しばらくじっとしていれば、医療機《ドック》が治療してくれる。五日かかる」 「カホナ」  いや、ここはいい子にしていたほうがいい──。 「ありがとう。あんたが助けてくれなければ、ぼくは一生このままなんだろう?」  士官はニヤリと笑った。 「ああ、そうだな。さて、それでは腕を解いても大丈夫かね? そうすれば食事ができる。さもなければチューブだ」 「無理やりはずそうなんてしない」ルイスは答えた。 「そんなことをすれば自分が痛い目を見るだけだ。|わかっているな《ステット》?」  うなじのムズムズが背骨を伝って降下し──腕の感覚がもどった。左はひどく敏感で、肘から指先まで打ち身があり──そしてさらにさがって──「ウワァァァ」──むずむずが一インチ上にもどった。肋骨周辺の打ち身はまだ感じられるが、左の腰からはじまる、粉々に砕かれたような恐ろしく鋭い痛みは消えた。  シュミットの手がルイスの視野の隅で映写装置を操作した。対談番組が消え、リングワールドが浮かびあがった。天井だけではおさまりきらず、長方形の壁にまで進出している。  シュミットがたずねた。 「きみはどこからきたのだ?」 「回転させて。もっと。|よし《ステット》。あれが〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉だ。回転方向《スピンワード》の海岸線にそって……」ルイスは昨年住んでいた〈|機織り《ウイーヴァー》〉の村について詳しく語りはじめた。  人々、家、川、訪れる〈|漁 師《フィッシャー》〉、谷間の岩に〈至後者《ハイントモースト》〉(キロン≠セ)が張りつけた蜘蛛巣眼《ウエブアイ》カメラ。ARMたち三人に確認することはできない。もし確認したら、〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちは、ヴァンュネーシュトである〈至後者《ハインドモースト》〉とルイス・ウーの諍《いさか》いについて語るだろう。  心に霧がかかってきた。ずいぶん長いあいだ酒をのんでいないが、なんだか酔っぱらったような気分だ。  シュミットが〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉地域を拡大した。 「きみはあそこに住んでいるのか? 両親と? ほかに誰がいる? クジン族の家族か? きみが話したパペッティア人も?」 「いや、キロンはいっしょじゃない。キロンがどこに住んでいるかはフィネグルしか知らないさ」  抑えきれない笑いがこぼれた。舌はコントロールを失っていた。 「クジン族はその村には住んでいない。連中は〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉のどこかからくる」  もうひと押しされれば、彼はさらなる真実を明かすだろう。クジン族が地球の〈地図〉の原住民とそのすべてを支配し、ハミイーがその彼らとともに暮らしていることも。  シュミット主席捜査官がいった。 「クジン族の多くがハミイーと称している。伝説の英雄のひとりらしいが。地球の〈地図〉とはどういう意味だ?」  ルイスは自分が思考をそのまま口にしてしゃべっていることに気づいた。  シュミットがくり返した。 「地球の〈地図〉とは?」  鋼の声だ。 「あそこですよ」  ルイスは天井の〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉を指さした。火星の〈地図〉の十万マイル回転方向《スピンワード》に、北極を中心として地球の各大陸が展開している。  秘密を維持しておけないことはわかった。たぶん自白剤を打たれたのだろう。ただの鎮痛剤かもしれない。できるかぎりは耐えてみるが、やがて彼は自分の名前を告げるだろう。きっとロクサニーが目の前で爆発する。  ロクサニーがたずねた。 「なんてこと。そいつら、人間を奴隷にしているの?」 「ホモ・ハピリス。パク人の繁殖者《ブリーダー》だ」と、ルイス 「変化していないのか。オルドヴァイ峡谷で発見された骨みたいな?」と、シュミット。 「ぼくは会ったことがないからね。連中の鼻を見てみたいな」 「たぶん、少しゆがんでいるだろう」  シュミットは明らかに録音機に向かって話している。 「一兆のパク人|繁殖者《ブリーダー》が、突然変異を淘汰するプロテクターなしに、二十五万年をかけて進化してきたことはすでに明らかだ。そのクジン族もなんらかの品種改良をおこなったかもしれない。いずれにせよ、それらの獣がほんものの人類に進化しているはずはないんだ。わかったな、ルーイス?」  言葉がゆっくりとこぼれた。 「彼らだって知性を進化させたかもしれない。ぼくらはそうしたじゃないか。あんたも侵略したかった?」  ルイスは笑った。 「それとも救助かな? 古代クジン族は史上最大の海洋船を建造したよ、それも千年前にだ。槍や棍棒を使っているわけじゃない」 「海を行く船など問題にならない。ところで、そのパペッティア人はどのような技術を持っている? 何か変わったものは?」  ──ドキン──。  ルイスはルーイスとして答えた。 「何が変わっているかどうか、どうしてぼくにわかる?」  だが彼は気がつくとつづけていた。 「銅色の蜘蛛の巣みたいなカメラ? 銃でスプレーする?」  轟く録音音声が彼の声をのみこんだ。天井に見慣れない緊急信号が光っている。 [#ここから2字下げ] 【船殻損傷位置船尾左舷増槽。動力低下位置第二区画及び第三区画】 [#ここで字下げ終わり]  シュミットとロクサニーは武器を抜いて向きを変え、身をかがめて小さな楕円形のドアから出ていった。  ルイスは誰にともなくつづけた。 「それに|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》だ。あの音はなんだ?」  |人食い鰐《グレイ・ナース》号が振動している。重力が消えた。  ハヌマンがいった。 「侵入者だ。わたしたちは救助されるか殺されるかどちらかだぞ。奇襲を覚悟しろ。わたしたちを異星人の手に残していくプロテクターはいない」 「なぜだ?」  ルイスは哀れっぽい声をあげた。 「なぜぼくらをそっとしておいてくれないんだ?」  ハヌマンの答は聞こえなかった。騒音が激しくなっていたのだ。宇宙船全体がおそろしい反響室と化している。  ロクサニー・ゴーチェが楕円形のドアからもどってきて、またルイスの視野の外に消えた。一瞬後、薬でフラフラになったウェンブレスが漂ってきた。つづいてロクサニーがハヌマンの檻の角に触れて入口をあけた。  彼女はヒステリックな声でささやいた。 「いったいどういう連中なの。クジン族じゃないわ。悪夢みたい」  そして医療用檻の中で身動きのできないルイスを見ていった。 「ごめんなさい」 「何が起こってるんだ?」ルイスはたずねた。  彼女のひとさし指がルイスのくちびるに触れる。そして彼女はルイスの医療装置の背後で身構え、銃口だけをのぞかせて戸口を狙った。  どこからか声が響いてくる。あまりにも冷静すぎるシュミット捜査官の声だ。 「全乗員に告ぐ。われわれは放射線保護区より応戦中。船殻および、第四、第五、第六、第十区画に侵入者。燃焼終了、なれど加速は継続している。理由は不明。友軍も応戦中、六十を数えるARMミサイルが到来、異星船はいまだ攻撃をはじめていない。レイン司令はわれわれが捕虜になることを望まれない」 「なぜ接近に気づかなかったのかしら」彼女がささやいた。「あいつら、見えない船を持っているんだわ! シイッ」  シュミットの声。 「──ミサイルが進路を変えた! ──」  雑音が高まって聞こえなくなった。  影が戸口を走り抜けた。ロクサニーが銃を撃って毒づく。映画を早まわししたような小さな人影だ。それはロクサニーがふり返るよりもさきに彼女の背後にまわりこんだ。そのあとは見ることができなくなった。  よりたくましい大型の者が三体、いくぶんゆっくりとすべりこんできて、ドアを閉めた。密着型の与圧服を着て、空気注入用のチューブを巻きつけたぺしゃんこの風船をひろげている。非標準型の大型救命ポッドだ。彼らはそれがふくらむまで待ってはいなかった。 〈|こぼれ山人種《スピル・マウンテン・ピーブル》〉はさまざまな種族からなるが、すべて似通っている。たくましい身体に太くて短い手足、大きな肺活量、保温のための厚い毛皮、無毛の顔。  この三人はかつて〈|こぼれ山人種《スピル・マウンテン・ピープル》〉だった。だがいまはちがう。与圧服を着て大きな球形ヘルメットをつけているが、顔を見ればその正体は明らかだ。歯のない口は硬く、平たいくちばしのよう。大きな|鼻梁の高い鼻《ローマン・ノーズ》、革の鎧のように皺が刻まれた無毛の皮膚。ひからびたような外見に、不自然なほど優美な物腰。  生命の樹を食べたのだ。  彼らはプロテクターだった。  視野にはいった四人めは、意識を失ったロクサニーをひきずっていた。それもまたプロテクターだが、〈|こぼれ山人種《スピル・マウンテン・ピープル》〉ではない。より小柄で、さらに細く、枯れたような顔には猿ほどの鼻しかない。種族はわからないが、〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉でないことはたしかだ。  ルイスはこれまで、すべては〈作曲家《テューンスミス》〉のしわざだと考えていたのだが、いまやその確信は揺らぎつつあった。  彼らはウェンブレスを、つづいてロクサニーを救命ポッドに押しこんだ。ハヌマンもスルリとはいりこんだ。  プロテクターたちがルイスをふり返った。 「ぼくは怪我をしている」  いってみたが、反応はなかった。彼らはルイスをつなぐ機械を調べ、ルイスの翻訳機にはない言葉で短く話しあった。それからすべてのスイッチを切り、ひとりがルイスの背中に腕をまわした。トラックに轢《ひ》かれたかのような激痛が走った。  気を失わないよう、呼吸しつづけることに意識を集中した。あとになって思いだすと、ずいぶん多くのことを記憶していた。  彼らの手は大きく、指は太くて短く、関節はゴツゴツとしていた。目は茶色く、蒙古襞があった。ひとりだけ異質な細身のプロテクターが、短く命令をくだしていた。ほかの者たちがルイスを集中治療装置《CC》からはずし、救命ポッドにいれて封をした。装具に支えられているため、脚と腰は動かない。ルイスのはいっていた機械をふたりが調べているあいだに、もうひとりが船殻に大きな穴をあけた。  空気とともに、救命ポッドが宙に吸い出された。 [#改ページ]      14 〈|こぼれ山人種《スピル・マウンテン・ピープル》〉  ARMの戦艦|人食い鰐《グレイ・ナース》号は、船というより槍のように細長く、その全長にそって幾隻もの小型船が繋留されている。  侵入者は小判鮫のように、その船首近くにドッキングしていた。それは|人食い鰐《グレイ・ナース》号より軽量で、まんぼうの骨格のような船だった。船室があり、岩や鉱石を運ぶ小惑星の採鉱船のように、支柱を網目状に交差させたグリッドがその周囲にひろがっている。一瞥しただけでは動力部らしきものは見あたらなかった。  プロテクターたちも救命バブルのあとから宇宙に出た。ほかにも幾人かが|人食い鰐《グレイ・ナース》号の船尾のほうから出てきたが、すべて〈|こぼれ山人種《スピル・マウンテン・ピープル》〉のプロテクターだった。そのうちの数人が救命バブルをひいていって、まんぼう船のグリッドにつないだ。そして彼らは、捕虜をむきだしの宇宙空間に残したまま、ロケットをふかして去っていった。  薬のせいだろうか、肉体の防禦本能だろうか、苦痛が潮のように退いていった。ルイスは周囲の宇宙を見まわした。  一瞬前まであたりに散らばってじっとしていた光点が、瞬きする間にすべて一掃された。神の手がすべてのスパイ探査機《プローブ》を片づけたかのようだ。  だがどうやって?  目覚めようとしているのか、ロクサニーが身動きした。ハヌマンはただ見守っている。ウェンブレスはひどく不安そうだ。何かを話し、通じていないのに気づいて、言語を変えた。  翻訳機がいった。 「おれにはわからない」 「何がだ、ウェンブレス?」ルイスは促した。 「おれはいまどこにいるのだ、ルーイース?」 「リングワールドの裏側だ」  ウェンブレスは空の半分を蔽っている黒い壁を見あげた。 「落ちてしまう」 「ぶつかりはしないさ。そのうちに慣れて──」  プロテクターたちがもどってきた。ふたりがかなり大きな荷物を押している。医療装置だ。彼らはそれを救命バブルの隣の貨物グリッドにくくりつけた。ほかにも荷物をつないでから、彼らはひとりをグリッドに残したまま、船室へともどった。  |人食い鰐《グレイ・ナース》号が急速に遠ざかっていった。  かすかな震動よりほかに加速は感じられなかったが、髪がのたくっている。何百Gもの荷重がかかっているにちがいない。|人食い鰐《グレイ・ナース》号はただ消えて[#「ただ消えて」に傍点]しまった。ロケット・モーターも、スラスターも、見あたらなかった。  ウェンブレスが両腕で顔を蔽った。  まんぼう船はリングワールドの黒い底面に走る糸のような排出管《スピルパイプ》にそって進んでいる。ルイスの手の甲に埋めこまれた時計が長すぎる一時間を示すころ、彼らは排出管《スピルパイプ》にそって外壁を越え、まばゆい太陽のもとにあがっていった。  ルイスは外壁の内側を見おろした。千マイル下方で、外壁にそっていくつかの小さな円錐がならんでいる。その向こうには広大な海岸──現在の高度を考えると二、三万マイルはあるだろう──がひろがり、さらに無限の青い水がつづいている。これほどの高みからだと、海底の形と、いくつかずつかたまった大きくたいらな群島まで見ることができる。  その群島には風変わりな特色があった。すべてが似通っていて、しかもそれだけではない。このようなものを見るのははじめてだ。ルイスはただそれだけの事実から、自分がいま〈他方海洋《アザー・オーシャン》〉を見ているのだと悟った。  船は外壁に向かって降下している。まだ一時間もたっていない。 「ウェンブレス?」 「ロクサニー! 話せるのか」  彼女は瞬きをした。 「ルーイスなの? あいつら、あなたも連れてきたのね。ここはどこ? あいつらはいったい──」 「〈|こぼれ山人種《スピル・マウンテン・ピープル》〉だ」ルイスは答えた。「さまざまな種族がいる。あんたたちARMは──」 「わたしたちの下にあるもの、あれが[#「あれが」に傍点]|こぼれ山《スピル・マウンテン》よ。見かけよりも大きいわ。あなたはあれが何か知っているの?」 「あれはただの山さ」ルイスは内心面白がりながら答えた。  |こぼれ山《スピル・マウンテン》が大きくなってきた。それぞれの小円錐の基部から、川である銀色の糸が幾本か流れだしている。 「リングワールドの床面の下にはパイプが通っているのよ。それが海底の軟泥を吸いあげて外壁の上から落としているのね。さもないと肥沃な土がすべて海底に流れこみ、何も育たなくなるから」  彼らは山頂のひとつに向かって降下していた。  ロクサニーがいった。 「あの山は高さ四十から五十キロの、外壁にもたれかかっているごみの堆積よ。その上に住んでいる者もいるわ。山から山へ気球が渡っていくのを見たもの。でもルーイス、わたしたちを攻撃したのはプロテクターだったわ。あなたがたはプロテクターのことを知っているかしら?」 「ヴァシュネーシュトと同じものだろ? 魔法使いさ。ものすごく頭がよくて、ものすごく獰猛で、鎧を着たまま生まれる。あれは神話なんだろうか。遺物がいくつかあるんだ」 「あら、彼らは実在するのよ。あの中のひとりは、ほかの連中とちがってたわね」ロクサニーが説明した。「七百年前、銀河の核から太陽系までやってきた原初のプロテクターがいるの。あれはそっくり同じ顔だったわ」 「|切り札《ジョーカー》だ。指揮をとっていた」ルイスはいった。 「どうしてわかるの?」  |こぼれ山《スピル・マウンテン》のプロテクターが奴隷として使いやすいことに気づいたのは、吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクター、ブラムとアンだった。〈|こぼれ山人種《スピル・マウンテン・ピープル》〉は平地では暮らせない。一種族全員がひとつの山に隔離され、逃げ場を持たない人質となる。|こぼれ山《スピル・マウンテン》のプロテクターは生まれながらに囚われているのだ。  だがルーイスがそのようなことを知っているはずはない。そこでルイスは答えた。 「命令を出しているのを聞いたんだ」  彼らはノロノロと|こぼれ山《スピル・マウンテン》のひとつに向かって降下している。バブルの壁がわずかに震動し、かすかなうなりが聞こえる。まんぼう船は流線型にはほど遠い。凍りついた山頂をすぎて降下していく。はるか下に緑が見える。  まんぼう船が階段状の岩棚に近づきその横を通り抜けると、木々や段々畑や、きれいな円錐形に雪を積みあげたようなものがいくつも見えはじめた。何マイルも下方には、どこまでも果てしなくつづく大地に小さな海や川や丘陵が複雑な模様を描く、息をのむような景色がひろがっていた。  衝撃があった。ルイスはバブルの壁のほうに漂っていった。そのとき重力制御装置が切れ、彼はフルGで壁の曲面にたたきつけられた。脚と腰に痛みが襲いかかる。  気は失わなかった。ロクサニーがささやきかけた。 「戦争ではいろいろなことが起こるものよ、ルーイス。悪く思わないでね」  そのあいだにプロテクターたちは氷と岩の上を動きまわり、|人食い鰐《グレイ・ナース》号からの戦利品をはずして運び去った。|人食い鰐《グレイ・ナース》号の医療機《ドック》を調べている者もある。  ジョーカーが救命バルーンをひらいた。温かな空気が抜け、薄いつめたい空気がはいりこんでくる。ジョーカーもはいってきて匂いを嗅ぎ、中の者たちを順に見つめた。  ロクサニーは慎重にかまえている。ウェンブレスは恐怖に縮こまっている。ハヌマンとプロテクターの視線があった。言葉はかわさなかったが、彼らはたがいに相手が何者であるかを理解した。  ジョーカーが恐ろしく慎重な手つきで、ルイスの脚と装具に触れた。  ウェンブレスが出口に向かって突進した。ジョーカーはとびつこうとしたが失敗した……いや、気が変わったのかもしれない。ウェンブレスは岩棚を駆け抜け、円錐形の家の前を通りすぎて、姿を消した。  ウェンブレスはまた息が苦しくなってきた。空気が足りない。だが周囲の人々は苦労しているようすもない。子供たちが数人、不思議そうにウェンブレスをながめている。  彼はロクサニーにわたされた翻訳装置を持ちだしていた。これで言葉を学ぶのが楽になる……だがそれでも数時間はかかるだろう。訪問者はつねに歓待されるが、あのヴァシュネーシュトもまた訪問者だ。  いまは[#「いまは」に傍点]隠れなくてはならない。誰の助けも借りずに。  家はみな雪を高く積みあげたもので、出入口のために小さな穴がひとつあいている。そこに逃げこんでもすぐに見つかるし、出口はひとつしかない。吹き溜まりの雪の中に隠れようか。いや、凍えてしまって長くは保《も》たないだろう。この服装では無理だ。それに足跡が残る!  雪のない岩棚なら足跡をごまかせる。それをたどっていくと、斜めになった|ひじ根植物《エルボー・ルート》の幹にとびうつれそうな場所があった。雪を越えてジャンプした瞬間、膝の力が抜けた。彼は斜面に落ちてすべったが、どうにか体勢をたてなおして、むきだしの幹を六十フィートよじのぼった。樹冠はこんもりとした緑の葉むらだ。ウェンブレスはその中にもぐりこんだ。  わずかだが、外を見ることもできた。  寒さの中、自前のふさふさした白い毛皮以外は服をつけていない四人の|こぼれ山《スピル・マウンテン》プロテクターが、|人食い鰐《グレイ・ナース》号の医療機《ドック》を救命バブルに運びこんだ。  ルイスは動かされてうめき声をあげた。プロテクターたちは恐ろしく力持ちで、驚くほど丁寧だったが、それでも痛かった。彼らはルイスを集中治療装置の中におろし、ひとりが背後に手をまわした。腰から下ですべての感覚が消失した。  |人食い鰐《グレイ・ナース》号から切り離してきた軍用|医療機《ドック》だが、どうにか動かすことができたらしい。 「あなたがたはARMとその関連省庁が定めた何十もの法を犯している」  ロクサニーの言葉にジョーカーがふり返り、聞いたことのない言葉で答えた。  ロクサニーの翻訳機が言葉をひろうだろう。よし。ルイスの翻訳機も同じことをしているはずだ。動くことのできないいま、ほかにできることはない。  ルイスは眠りにはいった。  青々とした葉むらのあいだからのぞいていると、プロテクターが救命バブルを離れた。ロクサニーがそれに従っている。十人あまりの子供がそのあとにつづいた。プロテクターはしばらくウェンブレスの足跡をたどっていたが、やがて岩棚にとびのり、地面に鼻を近づけて、まっすぐ彼のほうに向かってきた。軽やかに幹を駆けあがり、葉むらに手をつっこんで彼をひっぱりだした。  プロテクターは彼を片手で吊りさげたまま降りていく。ウェンブレスは恐怖と寒さで身を縮めた。  救命バブルの中で十人あまりの子供がひしめきあい、周囲にはさらに大勢が群がっていた。ハヌマンが道化を演じている。ルイスが目覚めて身動きすると、彼らはあとずさった。  彼は白い毛皮の壁と二十あまりの目に向かって微笑した。 「やあ」  いくつかの声が何か答えたが、翻訳機は沈黙を守ったままだった。  腰から上の痛み──左腕、肋骨──はほとんど消えていた。いったいいつまでこの状態がつづくのだろう。ロクサニーとジョーカーが言葉を教えあったとしても、ジョーカーがこの土地の言葉を使っていなければ、ルイスは子供たちと話すことはできないのだ。  ロクサニーとジョーカーがもどってきた。ロクサニーはウェンブレスの手をひいている。  子供たちの群れをかきわけて救命バブルに近づくことはできそうにない。彼らはそれを試みようともしなかった。ジョーカーが人間とウェンブレスを指さしながら、何か講義をはじめた。バブル内の子供たちには聞こえない。そこで彼らも外に出た。やがてジョーカーがウェンブレスとロクサニーをバブル内に送りこみ、残っていた四人の子供に外に出るよう身ぶりで示して、バブルを閉じた。  貨物グリッドの上をはねるように遠ざかっていくジョーカーの後ろ姿をにらみながら、ロクサニーが苦々しくいった。 「あいつ、話そうとしないのよ」 「翻訳機が働かないのか?」 「翻訳機は問題ないわ。ただ話すべき言葉をひろえないの」  ルイスはたずねた。 「あんたはARMの機密を維持しているのか?」 「あの女もよ! そう、女[#「女」に傍点]だってことだけは教えてくれたわ。名前はプロセルピナですって」  ウェンブレスが歯をカタカタ鳴らしながら何かをいった。  彼の翻訳機が告げた。 「また旅をするんだそうだ」  ルイスはたずねた。 「あんた、大丈夫なのか?」  男は激しくふるえている。 「前のときは小便を洩らしてしまった。気がつかないでくれて助かった」  ルイスは匂いを嗅いだ。バブル内の空気はいつも清潔で新鮮だ。 「プロテクターたちはいい機械をつくっている。大丈夫さ」  ジョーカーが船室にはいるのが見えた。重力が消えた。 「大丈夫だよ」彼はくり返した。  まんぼう船は崖から離れ、まっすぐに上昇した。青空が暗く色を変える。  ルイスはいった。 「この船の仕組みがわかった。重力制御は──」 「磁力よ」ロクサニーが短く答えた。「グリッドを使っているんだわ。ルーイス、リングワールドの床面には超伝導グリッドが走っているの。磁気ドライヴを使えば、リングワールドに対する反発力が得られるわ。モーターが家においてあるようなものよ。髪の毛が逆立つのを感じたもの。あなたはどうだった?」 「|そうだな《ステット》、だがぼくがいったのは船室内重力のことだ。強力だが、安定性に欠ける。なぜヴァシュネーシュトは調整しないんだ? たぶん連中はひどく傲慢で、試すということをしないんだろう。完成したらそれっきりというわけだ」 「すべてお見通しってわけね、坊や?」  ルイスは赤面した。 「|そうだ《ステット》、磁力だよ。超伝導ネットの近くにとどまっているかぎり、無限に近い航続可能距離と莫大な加速が得られる。これは武器としても使える。船やミサイルを射出させるんだ。メッセージとして見ることもできる」 「メッセージですって?」 「『われわれは侵略しない。防禦するだけだ』。砦みたいなものさ」 「そうね。それともただ、『立入禁止』かしら」 「また落ちている!」ウェンブレスがさけんだ。「ロクサニー、おれたちはどこに行くんだ?」  ロクサニーは首をふった。  入り江や砂浜がすべて渦巻き模様を描くまるでフラクタル図形のような海岸線を越えて、船は海の上に出た。海と、散らばる島々だ。それらを島と考えるならば、さして速度が出ていないように感じられるかもしれないが、これらはすべて惑星の実物大地図なのだ。 〈他方海洋《アザー・オーシャン》〉の海岸近くの群島はいくぶん小さく見える。そのことをのぞけば、それらはすべて同じ世界の地図だった。中心に山がそびえる広大な大陸がひとつ。大陸の反回転方向《アンチスピンワード》に、やや小さめの陸地が四つと、小さな島が散らばる群島。表面がすべてザラザラしているように見える。  現在位置を誰かに説明しなくてはならないとしたら──たとえば、なんらかの通信手段を得て〈作曲家《テューンスミス》〉に話すならば──なんといえばいいだろう?  だが影の様子が変だ。筋や斑点や塊りという、それぞれに異なる影が見られるのは、いくつかの島においてのみだ。  ロクサニーがいった。 「これは〈第二海洋《オーシャンU》〉ね! どこかの〈地図〉に行くのかしら?」 「もちろん。あの影をどう思う、ロクサニー?」 「高すぎてわからないわ」  ルイスは口をつぐんだ。ルーイス・タマサン≠ェそんなことを知っているはずがない? つねに正午である場所では影は生じない。だがルイス・ウーはそれを異常と感じることができるのだ。  ロクサニーがいった。 「ルーイス、ウェンブレス、リングワールドにはふたつの海洋があるのよ、知ってる? もちろん、原住民が便利に使える湾や港をつくるために海岸線を入り組ませた浅い小さな海は何十億[#「何十億」に傍点]とあるし、何兆キロもの川が曲がりくねって流れているけれど。でもふたつの大きな海洋が向かいあわせにバランスをとっているの。ひとつにはノウンスペースのあらゆる居住惑星の地図があって──あなたの海洋よ、ルーイス──そしてこっちの海洋には、この同じ地図が延々とつづいているの。たぶん何か[#「何か」に傍点]の実物大地図なんでしょうけれど、ARMの把握している世界ではないわ」  ルイスは笑いはじめた。  ロクサニーがギロリとにらみつけた。 「ここには三十二の地図があって、そのすべてが同じ世界なのよ! だから着陸しても、わたしたちにはやはり、自分がどこにいるかわからないのよ。それがそんなに面白いことかしら?」 「なるほど。ARMはパク人の故郷について何も知らないんだな」 「永遠の戦場よ。すべてのパク人プロテクターが、自分の遺伝子血統に世界を支配させようとするから。でもわたしは記録の要点をくり返しているにすぎないわ。それもジャック・ブレナンを通じて放浪のバク人プロテクターから得た情報だし、そのジャック・ブレナンからして、プロテクターになった小惑星帯人《ベルター》で、カホなほど信頼できないわ。だから、そうよ、わたしたちはパクの大陸の形など知らないわ。たぶん変化するでしょうしね。あいつらはおそろしく強力[#「おそろしく強力」に傍点]だから。  あのジョーカー──彼女、アジアやアフリカでいまも発見されるパク人|繁殖者《ブリーダー》の骨格に似ている。だったらジョーカーはどこからきたの? パクの母星から? もしかしたら地球の〈地図〉からかもしれないわ。ルーイス、地球の〈地図〉はもともとパク人繁殖者《ブリーダー》のものだったといっていたわね」  まんぼう船は〈他方海洋《アザー・オーシャン》の反回転方向《アンチスピンワード》側の岸に近い群島に向かって降下しつつあった……およそ五万マイルというところだろう。接近するにつれて詳細が明らかになり、すべてのひずみが消失した。  地表には三日月形や丸い影溜まりがあり……だが太陽がいつも真上にかかっているのに、どうして影ができるのだろう? まるで象形文字か碑文のようだ。大陸の中央近くにひとつだけそびえる山がきらめきを放つ。  住居群か? 窓のある?  地表のザラザラした感じは、無数の隕石が落ちたかのような、さまざまな大きさの円の重なりだとわかった。船は森をかすめてゆっくりと移動していく。連なった|ひじ根植物《エルボー・ルート》やいくつかの見慣れた植物も目にはいった。  ルイスはいった。 「リングワールドにあるほとんどのものは、パクの植物や動物と同じ進化をたどったはずだ」 「よくできました」  頭をなでられたような気分だ。このパターンは何か──。 「これは庭園ね」ロクサニーがいった。 「ロクサニー? こんなに大きい[#「大きい」に傍点]のに?」  高度はまだ数マイルある。  だがそれでも彼女のいうとおりだった。この景色は農耕地ではないが、たしかに形づくられた[#「形づくられた」に傍点]ものなのだ。多様な種類と色彩。虹色のさざ波がひろがるあれは、何千平方マイルもある花壇にちがいない。  秋のすべての色彩やその他の色を持ったさまざまな木立が、いまはまだ酒落男の口髭ほどの大きさにしか見えない。黒い弧が影をつくる草原。池。湖。中心に島が点在している銀の皿のような海。  ロクサニーがいった。 「野趣を表現しようとする場合をのぞいて、正式な庭園はすべて四角を基調とするものなのよ。すべて円形で、しかもふたつとして同じ大きさのものがないなんて、いったいどういう庭園かしらね。これはまるで……そうね」  ──月のようだ──とルイスは考えた。 「戦争のよう?」  すべて円。すべてクレーター。パクの故郷。 「ヴァシュネーシュトだ」ウェンブレスが断言した。 「そうね、ジョーカーはわたしたちを圧倒しようとしているのよ」  ロクサニーの言葉にルイスは笑った。  入り乱れる色彩の向こうから直線的な輪郭がのぞいている。船が降下した。ドシンと衝撃があり、重力のゆらぎが消えた。 [#改ページ]      15 プロセルピナ  プロセルピナは本土にある〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉の住居から斜面を六マイルくだった庭園に磁気船を降ろした。モーターを停めるとすぐさま船室をとびだし、船尾に向かった。  順序立ててことを進めれば異星人たちも適応するだろうが、時間を与えすぎると得られる情報がそれだけ少なくなる。  何百万ファランものあいだ感覚機器を奪われて〈隔離地帯〉にただひとり閉じこめられていたとはいえ──リングワールドがどのような歴史をたどってきたのか、細部まで推測することはできる。  内輪もめ、支配ゲーム、惑星規模にわたる地形の変化、同盟の締結と破棄、遺伝子パターンの変更……。 〈補修センター〉はこの〈隔離地帯〉からリングワールドを半分まわったところにひとつあるきりだ。 〈補修センター〉は実質的に、リングワールドにおける玉座の間だ。いま権力を握っているのは〈|屍肉食い《グール》〉らしい。それはよいことだ。経験不足で、無鉄砲な(これはよいことではない)、おそらく雄性だろう。そのほうがより遠出する。生命の樹が少ない場所ではまず雄性がそれを発見する。  すべては管理と支配にかかっている。その昔、彼女は陰謀につぐ陰謀を目《ま》の当たりにしながら、破滅させられることなく中立を保つ手段を見つけてきた。創造の指導者はつねにいたが、プロセルピナは──ごくごく初期に一度きり機会を得て以来──二度とその地位につくことがなかった。  貨物グリッドの柱の上をとびはねて、救命バブルにすべりこんだ。  女が話しかけてきた。 「話をしなくてはならないわ」  プロセルピナはゴーチェ一等捜査官のいらだちを読みとって面白く思った。この女は若いが、繁殖者《ブリーダー》としてはそれほどでもない。その姿勢は異なる重力で育ったことを示しており、言葉はプロセルピナがぬすみ聞きした〈|屍肉食い《グール》〉の部下たちのものとはいくぶん異なっている。  ゴーチェは侵入者のひとりなのだ。その気になりさえすれば、さまざまなことを話してくれるだろう。  プロセルピナの沈黙に、女は不安になったようだった。 「話してくれなくては翻訳機が作動しないのよ」彼女は付け加えた。  プロセルピナは微笑しなかった。できないのだ。ふたりは|こぼれ山《スピル・マウンテン》の村でウェンブレスを狩りだすときに少し話をしたが、彼女は名詞と動詞をいくつか口にしただけで、ゴーチェ捜査官の話す機械がひろえるほどの言葉は発しなかった。  ゴーチエは秘密をかかえている。プロセルピナもだ。  話す必要ができたときに話せばいい。  手長猿は彼女を見守りながら、なんの行動もとろうとはしていない。彼が追従してくるのではないかと彼女は考えていた。だがたぶん小さなプロテクターはべつの誰か──おそらくはあの〈|屍肉食い《グール》〉に仕えているのだろう。  片方の雄が穏やかな声で何かをたのんでいる。プロセルピナにはわからない言葉だ。そのうちに解明しよう。彼は原住民らしく、猫背ぎみではあるが、リングワールドの回転重力に慣れた姿勢を保っている。情報はたいして持っていないだろう。彼の求めているものは明らかだ。腹が減っているのだ。  もうひとりの雄は怪我をして動けず、裸で、無力だ。彼はじっと観察している。驚くべき忍耐力だ。プロテクターではないが、女と同じ種族に属する古老だ。これが〈|屍肉食い《グール》〉に仕える繁殖者《ブリーダー》、〈球状世界〉のルイス・ウーかもしれない。 「みなさん空腹でしょう」プロセルピナは|共 通 語《インターワールド》でいった。  男たちは驚かなかったが、ゴーチェはとびあがった。 「全員、果物なら食べられますね。いずれそれぞれの食事について詳しく調べます。わたしたちはみな雑食性ですが、あなただけは──」  彼女は小さな者に目を向けた。 「ちがいますね。あなたがたの名前を教えてください」  女が冷静さをとりもどし、ひとりずつを示しながら告げた。 「ルーイス・タマサン。ウェンブレス。ロクサニー・ゴーチェよ。あなたはプロセルピナ? どうやってわたしたちの言葉を学んだの?」 「記録装置《ライブラリ》に侵入しました」  プロセルピナの答に、女の髪が怒りに逆立った。  ──|人食い鰐《グレイ・ナース》号のコンピューターが! 盗まれていたなんて──! 「わたしの名前は、あなたがたの文学からとりました」  その言葉はルーイス/ルイスに向けたものだ。ウーと小さなプロテクターも秘密をかかえている。  そして彼女は手をたたいた。 「食事にしましょう。外に、果物と、小川があります」 「ルーイスに食べさせなきゃならないわ」ロクサニーがいった。 「あなたは何が食べられるかを知らなくてはなりません。いらっしゃい。ルーイス、すぐにもどります。その機械で栄養はとれますが、消化器官を動かしたほうがいいでしょう」 「ありがとう」彼が答えた。  ロクサニーは疑わしげな表情を浮かべながらも出ていった。  ロクサニーはプロテクターについていった。ウェンブレスがハヌマンの手をひいて、そのあとにつづく。猿は小さな脚を懸命に動かしている。  うしろから見るジョーカーは、髪のない小柄な痩せた女に見える。身長は一メートル半。すべての関節がふくらんでいて、背中は小さなこぶの連なりだ。恐ろしい生き物だとわかってはいたが、威圧感は感じなかった[#「感じなかった」に傍点]。  プロセルピナが|共 通 語《インターワールド》でウェンブレスに話しかけ、ウェンブレスが自分の言葉で答えている。ロクサニーはなんとなく彼の翻訳機に耳を傾けた。 「母さんはおれたちを捨てた。父さんには一度もそのことをたずねていない。母さんの話になると父さんはすぐに怒りだす。でもおれは耳を傾けた。ふたりはしじゅう探検に出かけていた。ある日、母さんは出かけたまま帰ってこなかった。ときどきそんな種族がいる。〈|沼 の 民《スワンプ・フォーク》〉みたいに、とつぜんすべてに敵意を持ってひとりで暮らすようになる。若いときは人なつこくて好奇心にあふれて、ものすごく[#「ものすごく」に傍点]リシャスラをするのに、何かのきっかけで体が大きくなり、態度を硬化させて沼地に行ってしまうのだ。おれも同じようになるのではないかと心配だった。異種族間の交配はめったにうまくいかないし、どんな子供が生まれるかわからない」 「あなたは〈|沼 の 民《スワンプ・フォーク》〉ともリシャスラをしたことがあるのですか?」 「〈|沼の少女《スワンプ・ガール》〉と、彼女が伴侶を見つけるまでのあいだ。そのあとも彼女とは友達だった。それから彼女は身ごもって、子供を育てるためにひとりで出発した」  森の中に、背の低い建物がいくつかあった。木々に隠されていたのだ。木々が屋根や高みにある尖塔の脇から生えている。ドーナツ型になった二階建ての建物の中心からも、巨木がそびえていた。  視野の隅で影が動いた。真昼と夜しかないこの薄気味の悪い場所で、木の影が動くはずはない。それを見てロクサニーは、森には動物がいるのだと確信した。  プロセルピナは木々のあいだを矢のように駆けまわり、さまざまな色と形の果物をもいでいる。 「これを食べてごらんなさい」  彼女がルーイスの腕の長いペットにいって、紫色の小さいブヨブヨとした実をその手にのせた。ナスのようだが、ハヌマンがかぶりつくと赤い果汁が飛び散った。ハヌマンはその中に顔をうずめた。 「さあ。さあ」  プロセルピナがさまざまな果物を配り、反応を見守った。黄色い丸い果実は苦かったので、ロクサニーは地面に捨てた。ひと握りの緑のさくらんぼは食べられたが、種のまわりが酸っぱかった。ウェンブレスは黄色いまだら模様の環状果実の内側と──輪の中に頭をつっこまなくては食べられない──ハヌマンも食べている紫の実が気にいったようだった。 「ロクサニー、ここはあなたの〈球状世界〉とひどくちがいますか?」 「ずいぶんちがうわね」 「どのようにでしょう?」 「ここにはきたばかりで、まだよくわからないわ」  そういう話はしたくない。いずれプロテクターは、彼女が答えるわけにはいかない質問をしてくるだろう。それでも──彼女がプロテクターから学べるものはないのだろうか?  ロクサニーは一時しのぎに答えた。 「ここに船が降りるようになる前にいろいろなことを学んだわ。ここはいつでも正午なのね。気が狂うんじゃないかしら。日没を見たら、きっと世界の終わりだと思うでしょうね」 「そして採鉱機械は真空にぶつかる。それもけっして悪いことではありません。真空を使う産業もあるのですから」 「一年前、あなたはリングワールドに近づくすべての船を撃ち落としていたわ。なぜあんなことをしたの? そしてなぜやめたの?」 「〈補修センター〉に吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクターがいました。船を撃ち落としたのは彼です。いまはべつの者が代わっていますが」 「それでいまは、穏やかな友好的な期間というわけ?」 「あなたがたが反物質をもてあそんでいるかぎり、そうはなりません! やめなくてはなりません! 反物質はわたしたちすべてだけではなく、あなたがた自身をも破滅させてしまいます。精神病だとしか思えません。ロクサニー、いまギクリとしましたね」 「わたしが?」 「あなたは精神病なのですか? 精神病だったのですか? もしそうだったとして。どうやって治療したのです?」  ロクサニーは怒鳴った。 「薬をのむのをやめたのよ!」 「薬?」 「|広 域 合 同 国 民 軍《アマルガメイテッド・リージョナル・ミリーシヤ》は以前、下っぱの兵士に精神病患者を雇ったのよ。わたしたちはずっとその形質を除去しようとしてきたから、いまでは真性の精神病はほとんどいないわ。でも精神病の症状をひきおこす生化学物質があるの。ふつうの市民が夢にも思わないようなものを見、思考し、声を聞くの。わたしも訓練のあいだその薬をのんでいたわ。任務中は注射をすれば、物事が簡単になる。でもわたしはできるだけ控えているの。だからわたしは精神病ではないわ、プロセルピナ。わたしの遺伝子はきれいよ」  ロクサニーはくちびるを噛みしめた。このように個人的な事情を打ち明けるつもりなどまったくなかったのに。 「下っぱの兵士ですか? では地位の高い人たちは精神病にならないのですか? いいえ、気にしないでください。ロクサニー、あなたのような戦士も子供がいるのですか?」 「いいえ。わたしはもてないわ。避妊薬を注射しているから」  プロセルピナは彼女をじっと見つめた。それから向きを変えて、さらに果物を集めた。 「怪我人に食べさせてきましょう。食べて、探検をして、楽しんでいらっしゃい」  彼女は手をふって森と森に隠れた建物のあたりを示した。 「小川はあっちです。それをたどっていらっしゃい。あとで話しましょう」  ロクサニーは歩み去る彼女を見送った。ほんとうに監督なしに探検するよう、おいていかれたのだろうか。その考えは恐ろしいと同時に抗しがたい魅力をともなっていた。  ここはエデンの園だ。神がここを歩いている。ほかに害をなすものなど何もない。  あの建物は──。  それはドーナツ型だった。入口がひとつ。窓はない。中心にセコイアほどの木が生えていて、基礎から二メートルほど建物を持ちあげている。ロクサニーがためらっているあいだに、ウェンブレスが敷居に手をかけて身体を持ちあげ、中にはいった。ロクサニーも一瞬待ってからあとを追った。腰にさした短針銃よりましな武器があればよかったのに。  ロクサニーはゆっくりとした駆け足で内部を一周した。わずかに傾いていて、ひとつながりのチューブのようだ。見るべきものも盗む価値のあるものもない。床は泥と腐りかけた葉が深く積もり、透明な天井をのぞいて照明も見あたらない。区分けされた部屋はなく、トイレもない。  彼女はウェンブレスにたずねた。 「こんな形の建物を知っている?」 「ヴァシュネーシュトが建てたものだ。とても古い。この壁は傷つけることができないが、何世代にもわたる風で角が丸くなる。たぶんヴァシュネーシュトの召使いが住んでいたんだ。ほら、これがベッドだ」  この野菜屑が?  ベッドといえばロクサニーは浮揚プレートを思い浮かべるのだが。  つぎの建物はポンプ室のようで、山ほどのパイプが詰めこまれていた。そこにはトイレと巨大な浴槽もあり、タオルであったにちがいない塵の山が積もっていた。  ウェンブレスはすぐに理解した。より原始的な方法ではあれ、排泄物を肥料に使うことを知っていたのだ。汚水と風呂に使った水はスプリンクラー装置に流れこむ。すべてのエネルギーは、屋根で太陽光から変換してまかなわれている。  ロクサニーとウェンブレスは一時間かけて風呂にはいり、その後システムを調べた。驚くべきは、それらがまだ動いていることだった。  ロクサニーは川ぞいをさきに立って、|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の移動に従い、反回転方向《アンチスピンワード》へと向かった。広大な白い砂浜に行きあたった。果てしのない海から巨大な波が押しよせてくる。  ロクサニーは拡大眼鏡を試してみた。見るべきものはわかっていたが、水平線は曖昧な筋にすぎなかった。眼鏡はそれを拡大し、熱量の流れをひろっただけだ。この同じ小地図に属する亜大陸を見るにも、数百マイルの距離があるのだ。いったいいつになったら、リングワールドのスケールに慣れることができるのだろう?  あの環境都市《アーコロジー》の屋上からならば、もっとよく見えるかもしれない。だが徒歩で行ける距離ではなかった。  プロセルピナは庭園の端に立ちどまって、召使いたちに指示をくだした。異星人に姿を見られてはならない。異星人の行動を妨げてもならない。異星人が〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉の長く放置された建物に近づこうとしても、追いはらってはならない。  ハヌマンは高木のはるかてっぺんで、食べながら彼女を見守っている。プロセルピナは降りてくるよう合図を送った。 「あなたは誰に仕えているのですか?」彼女はたずねた。  手長猿は音楽的な言葉で答え、それから|共 通 語《インターワールド》に切り替えた。 「〈作曲家《テューンスミス》〉だ。いくつかに枝分かれした〈夜行人種《ナイト・ピーブル》〉の一種族の出身だ。彼の秘密は彼のものであり、わたしが洩らすわけにはいかない」 「あなたはなぜARMに本来の特質を隠しているのです? なぜわたしもそうしなくてはならないのです?」 「三日前にARMの船が爆発し、リングワールドの床面に孔があいた。わたしたちのすべてが破滅していたかもしれない」  ハヌマンはすばやく正確に、その位置を説明した。 「〈作曲家《テューンスミス》〉がそれを修理して──」 「どうやったのです?」 「秘密だ。だが彼のやり方には限界がある。またあのような事件が起これば、すべておしまいだ。あなたと〈作曲家《テューンスミス》〉とわたしは、その点において意見を等しくしている。唯一の希望は、ARM艦隊をリングワールドから遠ざけておくことだ。クジン族も同様に近づけてはならない。パペッティア人は危険のないようわれわれを支配したがるだろう。彼らは居住性をはるかに越えた安全さを確保しようとするだろう。アウトサイダー人の意図は誰にもわからない。ほかにもいくつかの勢力がある。ゴーチェ捜査官に質問するか、ARM船の記録装置《ライブラリ》を調べればいい。これら侵略者のどれであろうと、情報を与えれば、さらに多くを知ろうとここにひきよせられてくる。プロテクターについて知れば肝をつぶしてふるえあがるだろう。侵入者に貴重なデータをわたすと──」 「おしゃべりはもうたくさん。わかりました。ルーイス・タマサンとは何者ですか?」 「あなたはどの情報源を調査《スキャン》しているのか」 「調査《スキャン》というのはあまりにも広範囲な言葉です。|人食い鰐《グレイ・ナース》号と|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号の記録装置《ライブラリ》にざっと目を通す時間しかありませんでした」 「『ルイス・ウー』を探せ」 「|人食い鰐《グレイ・ナース》号には、|うそつき野郎《ライイング・バスタード》号による探検後、彼が国連に提出した報告書がありました。彼の正体も隠しておかなくてはならないのですか?」 「好きにしてかまわない。彼はARMの女を相手に、交配と支配のくだらないゲームを演じているわけだ」 「|わかりました《ステット》。ではしばらくそのままにしておきましょう」  ハヌマンがたずねた。 「この場所はなんなんだ? わたしが庇護する者たちに危険はないのか?」 「危険はありません。でも気になるならば守ってあげなさい。ここは最後からふたりめの反逆者、ペナルティメイトの領地です」プロセルピナはいった。「わたしに仕えませんか?」 「ことわる」  ためらいも曖昧さもない答だった。 「わたしは〈作曲家《テューンスミス》〉と話してみたい。どうすればいいでしょう?」 「伝えたいことをわたしに話せ。乗り物をくれ」 「わたしはこの構造物とその支配者の歴史すべてを知っています。取り引きしましょう。〈補修センター〉だけがリングワールドの秘密なのではありません。あなたはわたしの教えた情報を知っていることを〈作曲家《テューンスミス》〉に黙っていられますか?」 「駄目だ。〈作曲家《テューンスミス》〉はあなたやわたしよりも賢い。だが彼もデータなしには行動できない」 「彼はどこにいるのです?」 「弧をいくらかのぼったところだ」 「あなたがたは、反物質の爆発を調べにきたのですね。そしてARM船につかまったときに乗り物を残してきた」  ハヌマンは反応しない。プロセルピナはつづけた。 「あなたがたは移動手段を持たない。わたしにはこの磁気船が一隻あるきりです。べつのものをつくるには数日かかります。無駄にする時間はありません」 「なんとしてもあなたを〈作曲家《テューンスミス》〉のもとに案内せねばならない」  プロセルピナはその意見を検討した。自分の身を守れるだろうか? それとも、もし〈作曲家《テューンスミス》〉がその気でいるなら、いまこそ死を迎えるときなのだろうか? 「まずここをきちんと片づけてしまいましょう」彼女はいった。「明日の夜まで待ってください」  不満はなかった。ルイス・ウーは集中治療装置にうつ伏せたまま、長い休息をとっていた。いま彼は、誰からも何も期待されていない。〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉も、反物質燃料のタンクも、プロテクターたちのダンスも、すべてほかの者たちにまかせておこう。  彼はうとうとし、考え、またまどろみ……。  そして彼は本格的な眠りに落ちた。もしくは眠らされた。目覚めたとき、彼は背の高い黒々とした木々の下にいた。巨大なARMの自動医療装置《オートドック》はもはやまんぼう船につながれてはいなかった。ジョーカーが彼を見おろしていた。  ルイスは彼女がひとりでもどってきたことにハッとしたが、狼狽を押し殺した。ハヌマンはほかの者たちといっしょにいるのだろう。彼がみなを守ってくれる。  彼女がたずねた。 「気分はいかがですか?」 「医療装置の表示を見てくれ」  彼女はルイスの返事を文字どおりに受けとった。 「回復しています。栄養分と、気持ちを落ちつけるものが与えられています」  スクリーンをトントンとたたく。 「これらの薬が投与されているということは、内臓が損傷していたのでしょう。現在まだ回復中です。もうひとつの調合薬は、生命の樹の根かよく似た合成物からつくられていますが、いずれにせよ投与されていません」 「ほんとうに? 生命の樹だって? その薬は──」 「ほら、このチューブです」  ルイスは身体を起こそうとした。 「見えない」  彼女が空中に記号を描いた。ルイスはその記号を知っていた。五百年の昔から使われている商標。 「細胞賦活剤《ブースタースパイス》だ」 「老化した繁殖者《ブリーダー》の肉体を回復させるためのものですか? あなたには必要ありません。あなたは若返った老人です。この細胞賦活剤《ブースタースパイス》も、〈作曲家《テューンスミス》〉の秘密のひとつなのですか?」  ルイスは瞬きした。 「いや。どちらかといえばARMの秘密だな」  彼は子供のころに、細胞賦活剤《ブースタースパイス》はブタクサを遺伝子操作することによって製造されると教えられた。いま思えば、この長寿薬が導入され人間の特質を永遠に変えたのは、およそ二百年前、異星人のラムシップが太陽系にやってきて以後のことだった。ピッタリ符合するではないか。 「あなたには生殖能力がありますね。匂いでわかります。ロクサニーは人を不妊にする薬について話していましたが」  ルイスは微笑した。性のないプロテクターに、果たしてこれが理解できるだろうか。 「ぼくはポーラ・チェレンコフという女の子を追いかけていた。彼女は子供をほしがっていた。ぼくはときどき人類空域から逃げだす習慣を持っていた。いつか何かをこっそり持ちこんでやろうとずっと考えていたんだが……結局そんなことは一度もしなかった。そしてそのころ、ぼくはジンクス星に行ったんだ。  人口爆発が起こると、|平 地 人《フラットランダー》と同じように考える世界もある。居住可能領域が充分にない世界もね。だけどジンクスはそうじゃない! 必要になると、彼らは地球化《テラフォーム》して土地をひろげるんだ。ぼくはそこで精管をつなぎなおしてもらったのさ。  そして、大家族[#「大家族」に傍点]をほしがったポーラは地球を離れた。  数年後、ぼくは新たな知的種族をノウンスペースに連れもどった。国連はトリノック人の発見と初代大使を務めた褒賞として、ぼくに出産権を与えようとした。まだ修復されてはいないはずのものを修復しようと、医者たちが待ちかまえていた。それでぼくは、ネサスの申し出を受けてリングワールドに旅立ったんだ」  プロセルピナは両手をルイスの腹部においてさぐった。左腰を押して、彼女はいった。 「内臓に古い傷がありますね」 「ああ」 「ほとんど痕跡も残っていません。浮遊肋骨に新しくひびがはいっていて──」 「痛い!」  二十個の胡桃のような手が感覚のない腰を触診し、それから脚をさがっていった。 「骨折が六ヵ所。もしかするともっと。すべて左側です。それは問題ではありません。すべて同時に治癒するでしょう。四日で歩けるようになり、七日たてば走れます。固形物を食べてみますか?」  ルイスは指さした。 「あれがいい。ヒンシュがくれた」  彼女はマスクメロンほどの大きさの黄色い果物を割ってルイスに食べさせ、自分でも少し食べた。  彼はたずねた。 「あんたは何者なんだ?」 「わたしはもっとも古いプロテクター、最後の反逆者です」彼女は答えた。「あなたは誰なのですか。あの女は知りませんでした。ハヌマンのことにも気づいていません。彼女は彼[#「彼」に傍点]のことを、なんだと思っているのですか?」 「ぼくらは彼女に、ハヌマンはよく慣れた猿だと思わせている。ぼくのことは、ここに座礁した地球人の息子だと思っている。そうしておいてくれないか。ロクサニーはARMの捜査官だ。知られてはならないことがある」 「ARMというのは、戦っている者たちの一勢力ですね?」 「|広 域 合 同 国 民 軍《アマルガメイテッド・リージョナル・ミリーシヤ》さ。地球の組織で、八百年前から国連の警察機構として活動している。〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉にはARMの船が何百も加わっているよ。プロセルピナ、あんたはどこまで知っているんだ? ニードル号に進入していたのか?」 「ええ。パペッティア人の文明は非常に興味深いものです。夢中になってしまいました。そのうえ、この〈至後者《ハインドモースト》〉という者は人類の文明に関して膨大な記録を保持しています。あなたはプロセルピナ≠ニいう名前を知っていますか?」 「プルートーの妻で、地獄を支配する女神だ。ギリシャ神話の、エリザベス朝の発音だな。ここはあんたにとって地獄なのか?」 「ある意味では。〈作曲家《テューンスミス》〉について話してください」 「まだだ。ぼくはあんたのことを知りたい。あんたは何者なんだ?」  彼女がニヤリと笑ったような気がした。 「あなたの筋肉の動きを読むのは難しい。腰と脚が麻痺したまま仰向けに寝ていて、その他の部分はポンプやセンサーにつながれていますから。それでもあなたはみずからを所有者と考えている。あなたが〈作曲家《テューンスミス》〉を支配しているのですか?」  ルイスは声をあげて笑った。 「向こうは自分がぼくを支配していると考えているよ」 「あなたはそれに同意しない。でも彼を憎んではいないのですね。あなたは時がくれば自由になるつもりでいる。わたしのために働きませんか? 駄目ですか。しばらくのあいだだけでも? わたしのことをもっとよく知ったら? わたしは怒りっぽくもないし、とつぜん狂ったように働きはじめることもないし、誇大妄想狂でもありません。あなたは吸血鬼《ヴァンバイア》のために働いたけれど、わたしは血も吸いません。仲間たちが燃えつきていった何百万ファランものあいだ、じっとおとなしくしていることもできました。もちろん、まずはわたしを知ってもらわなくてはなりませんが、時間がないのです。わたしの話はとてもこみいっているのです。わたしはリングワールドの建設を手伝ったのですよ」 「そんな話なら、前にも聞いたことがあるよ」ルイスはいった。 「大ぼら吹きの繁殖者《ブリーダー》からですか? 彼らはほんとうに多様な種に変化してしまいましたね。わたしの望遠鏡は大気中ではあまり精度がよくありませんし、みずから旅してまで見にいこうとは思いませんが、でもわたしは|こぼれ山《スピル・マウンテン》のいくつかの種族たちと交渉を持っているのです。ルイス、それともルーイスかしら。わたしはほんものです。建設作業が終わる前に約束を破ってしまったので、最終段階はわたし抜きにおこなわれました。ですが建設者で生き残っているのは、たぶんわたしひとりでしょう。あなたは脚をとりもどしたいですか?」  いったいどういう意味だろう?  彼女がかがみこみ、彼の背後に手をのばした。痛みが高まった。 「我慢できますか? 何が起こっているか感じられたほうがいいのですが」 「ちょっときついな」  彼はあえいだ。 「投入量を半分にします──」  痛みが薄れた。 「──そしてあなたの化学バランスを少し変える」  痛みがフッと消えた。 「これでいい。排泄しますか? 医療機《ドック》にはそれを補助する機能もあります」 「プライヴァシーを要求したい」 「了解《ステット》」  彼女は背を向けた。 「そのあとで、リングワールドの住人について話してください。あなたは誰に会いましたか? それはどのような人々でした? わたしには知る権利があります。彼らの祖先はわたしたちの子供なのですから」  沈黙を守ることも考えてみた。だがそれは性にあわない。いずれにせよプロテクターからは何ひとつ隠しておくことなどできない。ルイスは、プロセルピナがARMの自白剤を注入したかもしれないとすら考えていた。  だが吸血鬼《ヴァンバイア》の巣について黙っていても意味はない。それにとてつもなく面白い話だ。繁殖者《ブリーダー》たち──リングワールドのヒト型種族──は進化の末、よその世界ならば吸血蝙蝠が占めるべき生態学的間隙を埋めるにいたったのだ。  ルイス・ウーはかつて、惑星規模にわたる地域の気候に干渉した。よかれと思ってしたことではあったが──ある危険な植物の生育環境を破壊するためだった──その後数年のあいだに、ルイス・ウーのつくりだした永遠にたれこめる雲の下に吸血鬼《ヴァンパイア》が移住してきて、|浮 揚 工 場《フローティング・ファクトリー》に住みついた。  ルイスが〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちと暮らしていた場所から、リングワールドの弧を遠くのぼった場所での出来車だ。彼はそれを、〈至後者《ハインドモースト》〉の蜘蛛巣眼《ウエブアイ》カメラを通して目撃した。ルイスはプロセルピナにその話をし、〈|機織り《ウイーヴァー》〉の村について語り、どんどん過去へとさかのぼっていった。  浮揚建造物が集まってつくりあげた都市の下に|くらやみ農場《シャドウ・ファーム》があり、そこに百種類ものキノコが生えていること。リングワールドの中心がずれ、太陽をかすめる危険に陥ったこと。  過去へ過去へ。いつしか彼は、自分の知る世界を越えた不思議を探検する旅に誘われ、いかにしてリングワールドにやってきたかを説明していた。  彼女はたずねるべき質問と、沈黙を守るべきときと、休憩して果物を食べさせるべき時期を心得ていた。 「ほら、この機械は滋養流動食もつくれます。食べてみますか?」  試してみた。負傷兵に与える基本的な食事だ。 「悪くない」 「あなたがたは肉も食べるのでしたね。新鮮なものがよいのでしょうか? 明日狩りをしますから試してみてください。わたしはどちらかといえば古い肉のほうが好きです。それで、どうやって星々の世界にもどったのですか? 嵐の〈目〉を抜けて?」 「そんな感じだ」  彼はハールロプリララーのことを話した。自分の祖先がリングワールドを建設したのだと主張していた〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉だ。 「彼女はぼくをからかったんだ。建設どころかその逆さ。彼女とその同族が、もう少しでリングワールドを破壊するところだったんだ」 「どうやって?」 「彼らは外壁の姿勢制御ジェットをはずして、自分たちの宇宙船に搭載した。プロセルピナ、なぜそんなことを許したんだ?」  ポーカーフェイス。 「姿勢制御ジェットが簡単にはずせるのは、取り替えを容易にするためです。そのうちに傷《いた》むだろうことはわかっていましたから。それも〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉の一環なのですか?」 「いいや、もっと前の話だ」 「その話はまたあとにしましょう。〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉はいつはじまったのですか?」 「カホナ、知らない。最初の船がやってきたのは〈至後者《ハインドモースト》〉よりもさき、百ファランも以前のことだろう。あんたは|人食い鰐《グレイ・ナース》号の記録装置《ライブラリ》を盗んだんだろう? 調べてみなかったのか? ニードル号の到着場面があるかもしれない」 「調べてみましょう」プロテクターは答えた。  ルイスは彼女の背に声をかけた。 「ほかの連中に気をつけてやってくれ」 「ここにいれば安全です。でも気をつけていましょう。眠りなさい」  夜だった。話しすぎて声が嗄れている。彼は眠った。  目が覚めると、ロクサニーとウェンブレスがビニールシートの上で眠っていた。起こさずにおいたが、一時間もしないうちにふたりとも目覚め、積みあげた果物を見つけて食べはじめた。  ロクサニーが上手に、ルイスにも食べさせてくれた。きっと子供を育てたことがあるのだろう。  彼女とウェンブレスは昨日、ルイスが集中治療装置《CC》の中で寝ているあいだに探検をしてきたのだ。 「あの|ひじ根植物《エルボー・ルート》はのぼりやすいのよ。ロープを見つけたから、安全といってもいいくらい。すばらしくながめがいいの。何もかもたいらで、地平線がさがって見えなくなることもなくて。それにわたしはこれを持っているから」  拡大眼鏡だ。 「ルーイス、ここにくるとき、中心部に大きな山がひとつあったのに気づいた?」 「ああ、奥のほうに」 「上から下まで窓がギッシリで、でも|はめ殺し窓《ピクチャー・ウインドウ》はほんの少ししかないのよ。残りの窓はいたるところで反射を撒き散らしているわ。わたしはあの建物を環境都市《アーコロジー》と名づけたの。大きくて[#「大きくて」に傍点]、たぶん軍か、被害妄想狂によって建てられたんでしょうね。終点にそれぞれ塔のあるまっすぐな道が何本も走っていて、すばらしい演習場や、広いヘリポートがいくつもあったわ。大砲は見あたらなかった。砲架らしいものは確認できたんだけど。  ここにあるのはあの巨大な宮殿ひとつだけよ。島のほかの部分は──島といっているのはただ、その大部分を見わたすことができるからよ。もっとも、最後には霧みたいなものの中に消えてしまうんだけれど。正確には大陸[#「大陸」に傍点]ね。このあたりにある建物はみんなとても原始的で、たいして大きなものはないの。ウェンブレスは、これらはみんな繁殖者《ブリーダー》たち、ホモ・ハピリスのための家だろうといっているわ。ひとりも見かけないから、みんな死んでしまったんだろうけれど。でもルーイス、もしここがプロテクターの住処ならば、防禦機構と研究施設と記録保管庫があるはずじゃない?」 「その環境都市《アーコ口ジー》があるじゃないか」ルイスは答えた。  彼女はニヤリと笑った。 「あなたは環境都市《アーコ口ジー》の意味を知っているの?」 「大きな建物さ」 「うん……まあそうね。でもプロセルピナがあれを使っているとは思えないのよ。あれは前の住人が残したものよ。たぶんプロセルピナは小さな大陸に、もしかするとべつの〈地図〉に、自分の基地を持っているんだわ。自分の本拠地でわたしたちを野放しにしておくわけがないもの。この場所は……わたしが庭園≠ニ言ったのを覚えている? 地球全体を庭園にしなくてはならないと考えてみて。地球の生態系は閉ざされているけれど、それでも変化はあるわ。ゆっくりと流されていくのよ」  彼女は理解を求めるようにじっと彼の目の奥深くを見つめた。 「庭師は雑草を嫌うわ。砂漠だってなんとかしようとする……冬がないのだから凍原《ツンドラ》のことは考えなくていい……でも天候のコントロールはしなくてはならないかもしれない」 「天候には秩序なんてない。コントロールは不可能だ」ルイスはいった。 「もし、操作可能な巨大な[#「巨大」に傍点]空気の塊りを持っていたら? 地球千個ぶんもの地域がひろがっていて、回転する球体ではないんだから、すべてをだいなしにするハリケーンが起こることもない。空気の塊りは高速では[#「高速では」に傍点]移動しない──」  ルイスは笑った。 「|わかった《ステット》。不可能じゃない」 「ほかの地図を見ることはできないわ」ふいに失意のこもった声で、彼女はいった。「客のための船はないのよ。ルーイス、あなたはどう思う? ひとつの超大陸がまるまる庭園になっていて、その中に繁殖者《ブリーダー》も組みこまれている。防禦機構は島にある。望遠鏡と研究施設も。鉱山も……リングワールドに鉱山はないのよね?」 「|こぼれ山《スピル・マウンテン》に行けば、比重に応じて鉱物が層になっているかもしれないね。それ以外に鉱山といえるものはない。石油を求めて地面を掘っても、スクライスにあたり、その下には真空があるだけだ」 「プロセルピナは|こぼれ山《スピル・マウンテン》に行けるわ」  ルイスは肩をすくめた。 「ぼくにはあんたの探検を手伝うことはできない。気をつけてくれよ。どの文化のおとぎ話にも、見てはならないものを見ようとする者が出てくる」 「たとえそうでも」ロクサニーはいった。「わたしはあの建物にはいりたいわ」  朝食が終わると、ウェンブレスとロクサニーはまた出かけていった。昼頃にプロセルピナがもどってきた。  彼女はたずねた。 「|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》とはなんですか」 「どこで見つけた?」 「あなた自身がARMに報告していますよ、ルイス・ウー。充分な情報ではありませんが。もしわたしが|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》をつくらなくてはならないとしたら[#「ならないとしたら」に傍点]、どうすればいいでしょう? 〈|屍肉食い《グール》〉のプロテクターはそれをしているのでしょう?」 「あんたがさきだ。ぼくの連れはどうしている?」 「探検しています。ハヌマンはひとりで出かけました。ウェンブレスとロクサニーはいっしょにいます。ここではほとんど何も学ぶことはできません。ここは死すべき最後の反逆者が住んでいた場所なのです。わたしはこの土地を管理していますが、〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉の宮殿には罠が仕掛けられています。ですからそこには手を出していません」  彼女は自分の体重ほどもありそうな小型の鹿を持ちあげてみせた。首が折れ、ダラリとぶらさがっている。大きな虫が飛びまわっていた。 「わたしはこの獣で食事をしますが、あなたも食べますか?」 「そうだな──」 「熱するのですか?」 「ああ。内臓を抜いて。ぼくが──?」 「上半身は動かしてもいいですが、それ以外のところは安静にしておきなさい。いま固定してある骨が、つながらなくてはならないのですから。料理はわたしがします。研究してみます」  肉を焼く匂いに空腹が意識された。一時間後、彼女は丸焼きにした肉を持ってもどり、小さく切りわけてくれた。世話をしてもらうのは心地よかった。 「『だがわたしは翼もつ時の足音が背後にせまりくるのをつねに耳にしている』」彼女が引用した。「さあ、食べなさい。わたしはこの〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉がどれほど緊急な問題であるかを知らなくてはなりません。〈作曲家《テューンスミス》〉はこれを制御しているのですね?」 「多少はね」 「食べなさい。多少というのは多いほうなのですか、少ないほうなのですか?」  そしてルイスの顔に浮かんだものを見て眉をひそめた。 「少ないほうなのですね。ハヌマンが、宇宙に通じる孔をあけた爆発のことを話してくれました。わたしも遠くからそれを目にして、行動しなくてはならないときであることを悟りました。反物質爆弾ですね。すべての生命体が死を迎えたかもしれないのでしょう? 〈作曲家《テューンスミス》〉はほんとうにそれを防いだのですか?」 「そうだ」 「あなたは何を見たのです?」 「ウェンブレスとロクサニーもこれを食べたがるよ」と、ルイス。  心臓がゆっくりと鼓動を打つあいだ、プロテクターがじっと彼の目を見つめた。 「連れてきましょう」  そして大きな肉の塊りを彼の手の届く場所において、その場を去った。  彼らがもどってきたのは昼の光が薄れるころだった。プロセルピナとふたりは外で夕食を調理した。木の燃える煙と肉をあぶる匂いが漂ってくる。ロクサニーの持ってきた食事には、野菜もふくまれていた。緑と黄色の葉菜と、焼いたヤム芋だ。  プロセルピナはさらに料理の腕をあげつつあった。彼女もいっしょに食事をしたが、食べているのは生の肉と生のヤム芋だ。  食事が終わると彼女がいった。 「わたしを信頼してください」  太古のプロテクターは一同と視線をあわせた。口のきけない動物であるかのように、ハヌマンのことは無視している。 「ウェンブレス、ロクサニー、ルーイス、ですが何も知らないまま、信頼してもらえるわけはありませんね」 「話してくれ」ルイスは促した。  プロセルピナはハヌマンの秘密を、ルイスの秘密を、そしておそらくはロクサニーの秘密を守っている。いま彼女を信頼することはできないが、話を聞く理由ならいくらでもある。 「すべての出来事は、銀河の核近くで起こりました。わたしたちの世界を維持していたのは、一千万から一億に及ぶパク人プロテクターです」プロテクターは話しはじめた。「その数は、果てしのない戦争のためつねに大きく変動していました。  およそ四百万ファラン以上も昔のこと──わたしの時間感覚はいくぶんおかしくなっているのですが──一万人のプロテクターが集まって、一隻の輸送船と、数機の戦闘偵察機を建造しました。八十年後、生き残ってそれに乗りこんだのは六百人でした」  プロセルピナは遠い記憶をたどりながらゆっくりと話した。|共 通 語《インターワールド》は柔軟な言語だが、こうした概念を伝えるようにはできていないのだ。 「この地図はパク星を忠実に写しています。見ましたか? いたるところに円が描かれているでしょう。古いものも新しいものもすべて、ありとあらゆる種類の武器がつくりあげた爆破痕です。つくられたとき、これらの地図はすべて同じだったのですが、以後それぞれに変化がありました。パク星においてと同じように、わたしたちはここでも自分の血統が優位に立てるよう戦いつづけたのです。ルーイス、どうしたのですか[#「どうしたのですか」に傍点]?」 「ああ、不思議だと思って」ルイス・ウーはいった。「ひとつの世界で、くり返しくり返し戦ったのか? パク星は銀河の核にある。あたりには恒星がひしめきあっているだろう。あんたたちはここ[#「ここ」に傍点]まで、三万光年をひと飛びしてやってきた。なぜもっと近くの星を使わなかった?」 「そうですね、あのあたりの惑星はあなたがたの世界よりもずっと近接していました。無限の土地に、無限の欲望。ですが宇宙船に繁殖者《ブリーダー》を乗せてそれらの惑星に到達することはできませんでした。わたしたちはおのが繁殖者《ブリーブー》の利益のために戦っているのです。たとえ移住したとしても、新たな問題に直面するだけです。  どの惑星も、何千年にもわたる改造が必要となります。どの惑星であろうと、その作業が終了する前に、ほかのプロテクターの軍団に奪われてしまうでしょう。事実そのとおりのことが起こりました。パク近辺の惑星はすべてパクの理想に基づいて改造され、それから爆破されて不毛の世界となっていました。  わたしが生まれるはるか以前のことです。わたしたちを形成した周囲の環境を変えないかぎり、ほかの世界を手に入れる方法はありませんでした。  わたしたち六百人がめざしたのはそれでした。わたしたちはまず、近隣の惑星を諦めました。ほかの船が追いついてこられるならば、その世界は近すぎるのです。わたしたちは銀河渦状肢に向かった初期の移民船の航行記録を見つけました。移民は失敗しましたが、彼らはいかなる危険にも妨げられることなく、目標の世界に到達していました。  第二に、わたしたちは繁殖者《ブリーダー》と自分たちを切り離しました。わたしたちは彼らを、内側に地形を刻みこんだ円筒内部におさめました。食料もそこで育ち、水と空気と廃物は再循環する。閉ざされた生態環境です。  繁殖者《ブリーダー》居住区域から航行制御区画までは、いかなるフェロモンも届かないようにしたのです。繁殖者《ブリーダー》たちがわたしたちを愛したりすることがないように。われわれの存在すら忘れてしまうように。この禁令を破ったプロテクターには死が与えられました。  もちろん自然淘汰が働き、死を迎える繁殖者《ブリーダー》もあるでしょう。事実、多くの繁殖者《ブリーダー》が、プロテクターに見守られることなく息絶えました」  プロセルピナの目が彼らの視線をとらえた。 「四百万ファランが過ぎたいまにいたっても、あなたがた〈球状世界人〉はときとして、おのれよりも偉大な存在との触れあいを必要とするのではありませんか?」  ロクサニーが答えた。 「いいえ」 「何十もの宗教が記録されていますね」 「そのようなものは、もう卒業したわ」ロクサニーは主張した。  一瞬の間をおいて、プロセルピナはつづけた。 「|わかりました《ステット》。わたしたちと切り離されたため、多くの繁殖者《ブリーダー》が死を迎えましたが、世代が進むにつれてその数は減っていきました。多くのプロテクターもまた、おのが繁殖者《ブリーダー》の匂いを嗅ぐことも触れることもできないため、苦しみました。多くのプロテクターが繁殖者《ブリーダー》の居住区に侵入しようとし、とらえられて死にました。食事を絶つ者もいました。  最初の千年で、わたしたちは半分に数を減らしました。危険が伴うため、繁殖者《ブリーダー》の中からその補充をとることもできませんでした。自然淘汰は大きな損失をもたらしました。  そして三十五万ファランの旅の末に、血族の匂いをつねに嗅いでいなくても生きられる種族が出現したのです。  わたしたちは目標としていた世界に向かうのをやめました。そこのコロニーについては、失敗したという以外どのような状態になっているかわからなかったのです。その世界を支配するプロテクターに出くわすかもしれません。わたしたちの船はもろい泡のようなものです。わたしたちは──なんですか、ロクサニー?」 「それが地球なの?」 「そう、あなたがたの世界、地球です。わたしたちは地球を手にいれることもできたのですよ。地球では生命の樹が正しく育ちませんでした。あなたがたのプロテクターは死にました。その子孫はさまざまな方向に変異していました。わたしたちはそれを知らなかったのです。あなたがた、進化した繁殖者《ブリーダー》たちが星々に向かって電波を送りだしはじめるまで、地球コロニーのことはほとんど何もわかっていなかったのです。そしてそのころには──」  プロセルピナは彼らに向かって瞬きをし、話をつづけた。 「わたしたちもこの近辺に到着していました。いくつかの惑星を候補に考えましたが、わたしたちの野望はそれよりもはるかに遠大なものでした。わたしたちは巨大ガス惑星と恒星が密着している星系を選びました。それが円盤状にひろがり、惑星になるだろうと考えたのです。それは何十億年もかけてひろがりながら、小さな世界を吸収していきました。そして最終的に、わたしたちに都合のよい、細かなものが一掃された惑星系ができあがりました。質量のほとんどは、木星二十個分もあるたったひとつの天体に集約されていました。  そしてわたしたちは建設作業にとりかかりました。太陽付近での作業は困難でしたが、太陽の磁場を使って大量のさまざまな物質──とりわけ、環《リング》を回転させる核融合モーターに必要な水素を封じこめることができました。  広大な惑星系をつくることのできる恒星は密集しているものです。わたしたちが船を停めた周囲には、惑星をともなった恒星が数多くあり、中にはパクに似たものや、それに近いものもありました。わたしたちはそれを、進化して敵になるかもしれない危険対象と見なしました。そこでその土地の生物を集め、それぞれの世界の〈地図〉に移住させました。  わたしたちは一度も地球に近づいたことはなかったのですよ、ロクサニー。わたしたちは怖かった。ですから遠くから、熱心に太陽系を研究しました。地球の〈地図〉はわたしたちの繁殖者《ブリーダー》の故郷となりました。リングワールドの内側に生態系をつくりあげるには五万ファランが必要でしたが、わたしたちはそこからはじめました。地球の〈地図〉は実験場だったのですよ」 「鯨だ」ルイスはいった。「〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉には鯨がいる。プロテクターの誰かが[#「誰かが」に傍点]地球に行ったはずだ」 「わたしが隔離されてからのちのことでしょう」プロセルピナが答えた。「ウェンブレス、理解できていますか?」  プロセルピナは言語を変えて、早口に話した。それからまた|共 通 語《インターワールド》にもどっていった。 「あとでウェンブレスに宇宙図と表を見せてあげましょう。あなたがたふたりは、〈球状世界〉がどのようなものか話してあげてください。ロクサニー、ここにあるわたしたちの世界の〈地図〉はみな牢獄なのです。わたしたちはいずれ誰かが唯一の掟を破るだろうことを知っていました。ですからたがいに対する警告として、まず牢獄をつくったのです。罪人はみなそれぞれ、支配すべき世界とおのが血をひく住民を与えられて隔離されました。それはあたかも各自がその故郷世界を征服しえたかのようでしたが、じつのところ、大多数のもとに人質をおいてきたのです。  そしてわたしは、そのひとりでした」 「なぜなの?」 「まあ、ロクサニー」  プロセルピナは身体でいらだちと苦々しい笑いを表現した。 「わたしたちは勝てると思っていたのですよ! 十一人で〈補修センター〉を占拠できると考えていたのです。子孫をすべての血統と交配させて、わたしたちの特質が優勢になるように淘汰するつもりでした。千年のうちには、たとえ権力バランスが変わろうと、反乱軍が殺しにきても、安全になっているはずでした。わたしたちはある午後にそうした計画を立て、できるだけ迅速に方策を講じました。それでも少しばかり遅すぎたのです。  わたしは〈地図〉のひとつに──ここではないのですよ──閉じこめられました。わたしの血族の者百人が集められ、番《つが》いにして〈地図〉の中にばらまかれました。わたしは彼らが住めるような土地をつくらなくてはなりませんでした。近親交配の末に滅びることのないよう、ほかの者たちと出会えるよう導いてやらなくてはなりませんでした。そうした仕事にかかずらっているあいだに時が過ぎていきました。わたしは孤立していました。〈地図〉に連れてこられなかったわたしの子孫たちは、リングワールドじゅうで膨張する人口のあいだに暮らし、その遺伝子もまた人質とされたのです」  プロセルピナが口をつぐんだ。ルイスはたずねた。 「それはどれくらいのあいだつづいたんだ? 何がそれをとめたんだ?」 「数十万ファランのあいだです──おそらく。ルーイス、ウェンブレス、ロクサニー、わかりませんか? わたしたちが建造したリングワールドにおいて、繁殖者《ブリーダー》の人口は一兆にまでふくれあがりました。そしてある時点から突然変異によって混沌たる状態に陥ってしまったのです。突然変異はプロテクターにとっては受け入れがたいものです。正しい匂いがしないのですから。ルーイスが、プロテクターがいつ、なぜ、それぞれの種族の淘汰をやめたのかとたずねています。わたしが目撃したのはほんのわずかです。理由はわかりません。その時期についても推測しているにすぎません。  わたしは囚人でした。鬱状態に陥ったまま、何にも気づかず長い時を過ごしました。食を絶ったことは一度もありません。正気でいられるときは望遠鏡をつくりましたが、探査機をつくることはしませんでした。移動手段をもたらす研究は妨げられました。その望遠鏡で、近くのものを見ることはできませんでしたが、反対側の弧で起こっている物事が観測できました。いくつもの隕石が撃ち落とされました。嵐の〈目〉が発生しました。その力学についても私は推測しました。嵐が消失するのも見ました。つまり、プロテクターたちはまだ修復をおこなっているのです。ルーイス、なんでしょう?」 「鬱状態というのは……失礼、邪魔をするつもりでは──」 「あなたが話したがっているのに、気づかないわけはないでしょう?」 「その鬱状態の期間だが、そのせいであんたは何にも気づかなかったのか? つまり、外壁の姿勢制御ジェットと、〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴット》〉山のことなんだが」 「それはどこにあるのです?」 「向こうの海洋の近く。底面から巨大な隕石がぶつかった痕跡だ。地面が非常な高所まで持ちあがったので、空気はほとんど洩れなかった」 「気づいていたとしても行動はしなかったでしょう。それは統轄プロテクターの仕事ですから」 「統轄プロテクターの座を賭けて、戦いが[#「戦いが」に傍点]あった」  ロクサニーとプロセルピナがルイスを凝視した。  やがてプロセルピナが悲しげな声をあげた。 「わたしは怠慢だったようですね」  ルイスはたずねた。 「あんたの看守たちは、生命の樹を与えてくれたのか?」 「ええ、ですが中性化されたものでした。繁殖者《ブリーダー》からプロテクターになるには、遺伝子がウィルスによる刺激を受けなくてはなりません。そのウィルスは生命の樹の根に宿っています。中性化された生命の樹は、わたしの食料にも、あらゆるプロテクターの食料にもなりますが、繁殖者《ブリーダー》を変化させることはできないのです。なぜそんなことをたずねるのですか、ルーイス?」 「思いついただけだ」  ルイスの知るかぎり、生命の樹は〈補修センター〉でしか育たない。明らかに、それ以外の場所にあったものはすべて絶滅してしまったのだ。 「プロテクター・ウィルスを除去するのは簡単なのか?」 「ええ」 「でもあんたは手にいれた?」 「なぜわかるのです? そうです。リングワールド創造より四十万ファランののち、ウィルスがひろがり濃度を増してきたのです。わたしは空気中からそれを抽出し、培養して植物の中で育てました。そして何人かの召使いをつくりましたが、発見されないよう人数を抑えなくてはなりませんでした。それぞれ用事に送りだしたのですが、みなわたしを裏切ったので、しかたなく殺しました。もう一度試みたとき、それはうまく働きませんでした。わたしの植物はふたたび中性化されていました。どのような方法を用いたのかはわかりません。そしてもはや空気中にもウィルスは存在していませんでした。あなたがたは今夜、生命の樹を食べたのですよ」  ロクサニーが驚きの声をあげ、ルイスは息をのんだ。  彼はいった。 「ヤム芋みたいな味だった。あれはおそらくヤム芋だと思うよ、ロクサニー。プロセルピナ、それはいつのことなんだ?」 「創造から百万ファラン以上たったころです。何が起こったのか、あなたは知っているのでしょう、ルーイス? 話してください」  ルイスはかぶりをふった。 「プロテクターがいなくなった。ぼくが知っているのはそれだけだ」  プロセルピナがつづけた。 「いまなら理解できます。この二百万ファランのあいだ、種族の分化が極度に激しくなっています。ロクサニー、わたしはあなたがたの[#「あなたがたの」に傍点]種族が、知性や無毛や水泳の能力や二本足での走行を好む力に押されて、どれほどの変化をとげたのか、わかるのですよ。わたしの望遠鏡は|こぼれ山《スピル・マウンテン》を観測できます。自分がこれらの土地における最後のプロテクターであると確信できたとき、わたしは思いきって彼らを訪問しました。  彼らはほとんど同じ条件のもとで、別々の種族に分化しました。わたしは〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉によって、考案された光通信ネットワークを傍受しました。彼らは死者を食べる者なのでしょう? そして繁殖者《ブリーダー》なのにとても知能が高い! 〈補修センター〉ではあまり知能が高くないプロテクターが長いあいだ支配者の座についていたというのに。わたしには、いま現在どれくらいの変種が存在するのか、想像もつかないのです」  ロクサニーが答えた。 「数千ね」 「ですが地球の〈地図〉では、突然変異種が競いあってその変化に適応し、定着するだけの余裕がありません。召使いたちはわたしの繁殖者《ブリーダー》を地球の〈地図〉に住むパク人のあいだに移住させました。わたしの血統はいまもあそこで栄えているでしょう。ルーイス、あなたは何を隠して[#「何を隠して」に傍点]いるのです?」 「すまない」  彼女がのしかかってきた。小柄だが危険だ。 「話しなさい」  箱の中にうつ伏せたまま、彼は答えた。 「地球の〈地図〉に友人がいる。彼を守りたい」 「〈作曲家《テューンスミス》〉はほかのプロテクターが地球の〈地図〉に近づくことを許さないでしょう。統轄プロテクターに挑戦しては、わたしも[#「わたしも」に傍点]生き残ることはできないでしょう。あなたは何を隠しているのです?」  ロクサニーが口をひらいた。 「地球の〈地図〉にはクジン人が住んでいるのよ。ルーイスはそういっていたわ。彼の友人〈侍者《アコライト》〉はそこからきたんですって」 「古代クジン族だ」ルイスはいった。「〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉に参戦しているのとはべつの連中だ。彼らは〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉を渡って地球の〈地図〉にコロニーを築いた。それほど昔のことじゃない」 「鬱状態のあいだ、わたしはあまりにも多くのことを統轄プロテクターにまかせきりにしていたようですね。|わかりました《ステット》。古代のものも現代のものも、クジン族について調べておきましょう。たぶん折りあいはつけられる。でもまず統轄プロテクターと対決しなくてはなりません。  今夜、出発します。なんとかして〈作曲家《テューンスミス》〉と折りあいをつけなくては。数日のあいだ留守にします。ゴーチェ捜査官、ルーイスの世話をお願いします。ルーイス、感覚をもどしてあげましょうか?」 「やってくれ」  苦痛がもどった。プロセルピナは凶報のもたらし手に報復しようとしているのだろうか? だが腰から踵にかけて鈍い痛みが走っただけだった。 「じっとしているのがつらければ身体を動かしてもかまいませんが、何ひとつはずさないように気をつけてください」  そして木のぼり猿の頭をなでた。 「小さなハヌマン、わたしといっしょにきますか?」  ハヌマンは少し考え、彼女の腕の中にとびこんだ。彼女は一同を見まわした。 「ひとつだけ禁じておきます。手の届くところにあるものはすべて自由にしてかまいませんが、ただひとつ、右舷回転方向《スターボード・スピンワード》にある大きな建物と、反回転方向《アンチスピンワード》のもっとも近い小大陸だけはべつです。あの大きな建物には罠が仕掛けられています。わたし自身も試してはいません。小大陸には〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉がパクから連れてきた危険な種が住みついています。狼や虎や虱《シラミ》や蚊やサボテンや毒キノコの類など、繁殖者《ブリーダー》にとって望ましくない動植物です。その大半は銀河の核を離れたときに絶滅しましたが、いくつかの種を残してあるのです。繁殖者《ブリーダー》たちが進化してその生態学的間隙を埋めると知っていたら、わたしたちもそれらを解き放っていたのですが」  そして彼女は背を向け、幽霊が消えるように、静かにそっと去っていった。 [#改ページ]      16 知性の出会い  彼女が操縦をまかせてくれた!  ハヌマンは準備をした。椅子が身体にあっていなかったので変形させた。プロセルピナが見ている。  ふたりは森にはいって果物を集めた。稲妻のようにとつぜん、プロセルピナがイタチに似た動物を茂みからつかみとり、首を折った。彼女はそれを、果物や水といっしょに船内に放りこんだ。  彼女が馬蹄型のカウチに座り、間に合わせの緩衝ウェブをセットした。ハヌマンは輪になった表示器と制御装置を数秒間調べてから、思いきって手を触れた。なかば無作為にならんでいるようだが、それらの作動を確認するたびに納得できた。  その乗り物は飛行艇とはまるでちがっていた。  カウチに流しこまれたかのようにくつろぎながら、プロセルピナは彼が離陸し、急降下し、きりもみをし、木々と尖塔を砕きそうな低空まで落下し、改めて急上昇し、風が起こす振動が消えるまで速度を落とし、それからようやく、ある程度の速度[#「速度」に傍点]が出せる真空中へとゆっくり上昇するのを見守った。  その磁気船は〈作曲家《テューンスミス》〉のどの船にも負けないくらい驚異に満ちていた。その驚くべき荒々しい力は、いまにもみずからを引き裂いて金属の破片にしてしまいそうなほどだ。モーターはリングワールドの床面そのもので、数兆平方マイルの|遮 光 板《シャドウ・スクエア》に降り注ぐ太陽光によって動力を得ている。磁力線にそって移動するそれは、飛行艇というよりも海底の乗り物のようだ。  制御装置のすべてが飛行のためというわけではなかった。ハヌマンは高空をしばらく飛びまわってから、秘密の仕掛けを試してみた。プロセルピナはじっと見守っているが、彼が地形の下の磁場を操作しても干渉しようとはしなかった。地面が盛りあがって移動する。背後で川がその道筋を変える。 〈作曲家《テューンスミス》〉が〈補修センター〉の司令席で同じような力を揮《ふる》うのを見たことがある。これは単なる宇宙船ではない。リングワールド全体の防禦機構だ。  磁気船の導きによって、地形の下の超伝導ケーブルはありとあらゆる金属質のものをひきよせ、あるいははじき、あるいは移動させる。侵入してくる隕石も、異星人の船やミサイルも、ときおり起こる太陽嵐や死をもたらす宇宙線の急増も例外ではない。  うまくすればハヌマンにも、これらの防禦機構を操れるかもしれない。彼は〈作曲家《テューンスミス》〉の作業を見たことがあるのだから。  眼下の地形は真空を蔽う仮面にすぎない。リングワールドの裏側で、谷間や川床がもりあがり、山脈が深く刻まれているところを実際に[#「実際に」に傍点]目にし、腹の底から理解したとき、生まれたてのプロテクターは危うく自己崩壊するところだった。どうしてもその考えになじむことができなかった。だがいまようやく、彼は自分がリングワールドの支配者であると感じはじめている。  リングワールドの支配者は、自分よりも強大なプロテクターの存在を許さない。プロセルピナはハヌマンよりも賢い。繁殖者《ブリーダー》であったときに、知性を持つ寸前まで進化していたのだ。生命の樹のウィルスは大きな脳により優れた効果をもたらす。彼女は経験も積んでいる。だが〈作曲家《テューンスミス》〉の知力は彼女よりも勝っている。  操縦をまかされているのは一種の賄賂だ。ハヌマンはそのことをよく承知している。彼はまた、自分の一挙一動が秘密を明かしていることをも理解していた。  ──ハヌマンは優れたパイロットで、しかも消耗品だ。彼は何を飛ばしていたのだ──?  彼女はどこまで見抜くだろう? すでにどれだけのことに気づいているだろう? 彼女はカウチに寝そべって、じっと見守っている。  土がとりのぞかれてむきだしになり、雲の層になかば隠された土地の上を旋回した。孔は閉じていたが、部分的な真空を埋める空気はまだ流れこんできてはいない。 「これのせいで、リングワールドの空気はすべて星々のあいだに流出してしまうところだった。〈作曲家《テューンスミス》〉がそれをくいとめた」 「どうやったのです?」 「話せない」 「彼がその手段を知っていてよかったと思います。あなたがたはどうやってここまできたのですか? わたしの検出装置はそれだけの大きさの船を捕捉していません」 「話せない」 「|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》ですね。ルイス・ウーがARMに説明していました。それをひとつ見つけなくてはなりませんね。あの残骸を見せてください」  ハヌマンは〈作曲家《テューンスミス》〉の隕石栓《メテオプラグ》であった、いまはしぼんでしまった巨大な風船の上をかすめ飛んだ──もちろん、彼が手伝わなくとも彼女はそれを見つけていただろう──それからARMの与圧テントの残骸の上空で船を静止させた。 「着地するか?」 「ええ」  ふたりは与圧服を着て残骸のあいだを歩いた。彼女の質問に沈黙を守る理由はなかった。その問いから、彼女の思考と目的がわずかながらも推測できる。だがプロセルピナはハヌマンよりも多くの情報を入手しつつあった。  彼らは重たいARMの供給医療装置《キッチン・ドック》を貨物グリッドに結びつけ、ふたたび離陸した。  戦闘のあった場所は荒らされていた。プロセルピナは歩きまわりながらまず観察し、それから質問を放った。ハヌマンは彼女の考えを追おうとした。ソニック兵器は弾丸の破片や焼け焦げを残さない。クラウスが死んだ場所には何かが飛び散った痕跡だけがあり、そこに蟻が群がっていた。蹄の跡──小型の草食動物がその後ここを駆け抜けていった。大きな手と足の跡──腐肉食らいたちが血の匂いにひきよせられてきたものの、何も見つけることはできなかった。ARMの着陸船《ランダー》がクラウスの死体を持ち去ったのだ。  フライサイクルは座席と荷台を下に向けてひっくり返されていた。その上に、そして周囲に、腐肉食らいたちの掌紋が残っている。〈|屍肉食い《グール》〉たちはこれを飛ばそうとしたが、〈作曲家《テューンスミス》〉の強固なロックにはばまれ、結局面白半分にひっくり返していったのだろう。  ハヌマンはいった。 「〈作曲家《テューンスミス》〉はあなたよりも賢い。なぜ彼にまかせておかない? これまでも長いあいだそうしてきたのに」 「それでも彼の適性を確かめなくてはなりません。彼と話をしなくてはならないのです」  フライサイクルはプロテクターふたりがかりでも重すぎた。ハヌマンはその下にもぐりこんだ。フライサイクルが浮かびあがって、正常の姿勢にもどる。彼はホロスクリーンをオンにした。ルイスは受信を切り、送信だけを生かしておいたはずだ。さて、光速による時差をごまかして〈作曲家《テューンスミス》〉の位置を隠すにはどうすればいい?  わからない。そこでハヌマンは率直に告げた。 「これで〈作曲家《テューンスミス》〉と話せる。彼のほうからこちらは見えない。半時間の時差がある」 「〈アーチ〉の向こう側にいるのですか? 会話はつらいでしょうね。|わかりました《ステット》。はじめましょう。〈作曲家《テューンスミス》〉!」  そして彼女は、ハヌマンが彼の真の名だと告げたものを大声でさけんだ。 「あなたはリングワールドの基本計画を混乱させています。あなたはすでにわたしの存在に気づいているでしょう。わたしの名は──」  きっぱりとした非音楽的な音。 「といい、〈隔離地帯〉に住んでいます。ルイス・ウーもあなたのパイロットも無事です。ルイス・ウーは怪我をしていて、現在治療中です。〈球体人種《ボール・ピープル》〉のARM捜査官ロクサニー・ゴーチェもわたしたちのもとにいます。クジン人〈侍者《アコライト》〉の行方はわかりません。たぶんあなたといっしょにいるのではないでしょうか。  わたしはあなたと取り引きをしたい。わたしから提供できるのは、リングワールド建設に関わる知識と歴史、そしてロクサニー・ゴーチェから得られる情報です。わたしたちは全員、ルイスが〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉と呼んでいるものからこの構造体を守ることを望んでいるはずです。いそがなくてはなりません。  わたしがあなたに求めるのは、ふたたび反物質が爆発したときにその孔をふさいでくれるという保証です。あなたはあの侵略者たちよりも優れていると信じてもいいのでしょうか。ハヌマンは有能で利発ですが、道具でしかありません。また直接わたしの血をひく子孫は──」  プロセルピナは口をつぐみ、さらにつづけた。 「わたしは地球の〈地図〉の状況について知らなくてはなりません。話せることを話してください。ハヌマンに代わります」  ハヌマンは延々と詳細にわたって報告した。プロセルピナ、ロクサニー、|人食い鰐《グレイ・ナース》号とARMの戦士たち、まんぼう船、外壁からの航行、パク星〈地図〉の大陸、おそらくパクから持ちこまれたものと思われる植物、プロセルピナのなかば公然たる召使いたち……。〈|屍肉食い《グール》〉の言語は簡潔であるにもかかわらず、話は長くつづいた。  ようやく話をやめたのは、プロセルピナに制止されたからではなかった。彼は知るかぎりの秘密を打ち明けたが、プロセルピナは彼を殺して口を封じようとはしなかった。  プロセルピナがフライサイクルから降りてきた。 「では、どうやって時間をつぶしましょうか?」 「食事だ」 「いいですね」  ふたりは草の上に果物をひろげ、それにイタチの肉を加えた。プロセルピナがたずねた。 「お客人たちはどうしているでしょうね」  ハヌマンは小人《ドワーフ》りんごを食べながら、ニードル号の記録装置《ライブラリ》で見つけた言葉を引用した。 「『猫のいぬ間に鼠が暴れる』。船を残してきたか? ほかに何か空を飛ぶものは? 残していない? では彼らは〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉の宮殿にはいろうとするだろう」 「はいる方法はありません」 「あなたでも?」 「仮説に基づくルートマップをいくつかつくってみましたが、受容しがたい危険があると判断しました。〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉の意図は、わたしには想像もつかないので。ハヌマン、彼らは繁殖者《ブリーダー》にすぎないのですよ」 「彼らはきっと探検する」 「ねえ、退屈していない?」 「まあね」 「何をしてるの?」 「自分の間違いを数えあげている」ルイスは答えた。  ──またひとつ。若者はあまり間違いを記憶しないものだ──。  そうだっけ? 思いだせなかった。あまりにも遠い昔のことだ。 「わたしたちはまだ友達かしら」 「もちろんさ、なぜ?」  彼女は首をかしげ、皮肉の色を読みとろうとした。 「ルーイス、あなたを撃ったこと、許してほしいのよ」 「気にしていないさ」 「カホナ、なんて簡単なの。代わりにクラウスのことを許してくれということだってできるのに」 「クラウスのは自殺みたいなものだ」ルイスはいった。 「あなたの友人が殺したのよ」 「好機を逃さずにね。|当然だろう《ステット》、なぜいけない? 脱走は捕虜の義務だ。それにクジン人に銃口を向けるなんて、クラウスの正気を疑うね」 「これは戦争なのよ」 「誰が宣戦布告をした? ロクサニー、誰がぼくの拘留を決めた? うまくだまして船に乗せることだってできただろう。そうやっていれば、〈侍者《アコライト》〉だってつかまえられたかもしれない」 「もしあなたがいやだといったら?」  彼は純粋な好奇心からたずねた。 「あんたは精神病なのか?」 「なんですって? ……いまはちがうわよ」  ARMは精神病の患者を徴用する。誰もが知っていることだ。実生活においてはいかなる医療機《ドック》からも正気を維持する化学薬品が入手できるが、ARM局員たちは少なくとも一定期間を化学薬品なしで過ごす。  口をつぐんでいると、ロクサニーがにらみつけてきた。 「それは個人的な事情よ、ルーイス。わたしは精神病ではないと診断されているわ。わたしがARMにはいったのは、精神病だからじゃなくて、冒険がしたかったからよ」 「なるほど」 「でもたしかに、向精神薬をのんでいても船を飛ばせるわね。いまはもうのんでいないけれど、訓練に使われたから」  肩をすくめて、彼女は話題を変えた。 「散歩に行きたくない?」 「あと二日はここから出られない」 「きっと気にいるわ。ここはエデンの園よ。害になるものは何ひとつなくて、神様が歩いているの。いまはちょっと出かけているけれどね」 「どこに行ったかわからないか?」 「わからないわ。なぜあの小猿を連れていったのかしら? あれはペットだと思っていたんだけど。でももしかしたら、親族の匂いがしたのかもしれないわね。あなたはどう思う?」 「親族じゃない。あんたやぼくと同じくらいにね」  沈黙。そしてささやき。 「ルーイス、わたしたちは恋人同士でしょ?」  彼は微笑した。 「この状況で?」 「彼女が神経ブロックを切っていったでしょ。ひどく痛む?」 「たいして。少しうずくくらいだ」  見ていると彼女が服を脱ぎはじめた。彼の服は|人食い鰐《グレイ・ナース》号に残されている。ふいに心もとなくなった。もし「ノー」といえば、彼女はどうするだろう?  彼女の手が脚をすべる。 「感覚はあるの?」 「ああ」  マッサージをするかのように、愛撫するかのように、手が上にあがってくる。痛みにビクリとするたびに、その感触が軽くなる。  興奮は少しも衰えない。〈長身人種《ジラフ・ピープル》〉とともにいたときは、欲望にひきまわされていそいでしまった。  彼女がICCによじのぼってくる。 「全体重をかけてきたら、ぼくは大声をあげるからな」 「誰も聞いてないわよ、かわいそうな坊や。ウェンブレスは空を飛ぶものを探しにやったわ。さて、あなたを楽しませてあげられるかしら。ルーイス、あなた、何歳なの?」 「二百と──」 「真面目に答えて」  思いきり抱き締められた。 「ときどきとっても年上に見えるのよ。知っているはずのないことを知っているし」  彼女の身体が少しだけ離れ、乳首の先端が胸毛をかすめる。 「〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉に鯨がいるなんて、どうして知ってたの?」 「父親が話していた。高いところからながめれば、水中のことだって驚くほど詳しくわかるんだ」 「ああ、そうなの」 「ロクサニー、あんたはぼくを子供扱いしている。それが気にいっているのか気にいらないのか、自分でもわからない。だがいまはたしかに、あんたのなすがままだな」 「そうね。じゃあわたしがどれほど巧みか見せてあげる」  スルリと彼女の身体が重なった。 「わたしは五十を過ぎてるわ、ルーイス。この医療機《ドック》はこれからの将来、わたしの細胞賦活剤《ブースタースパイス》の供給源となるはずのものよ」 「だったらあんまり動くなよ、壊してしまうぞ」  彼女は笑った。たくましい腹筋の揺れが感じられる。 「ロクサニー。あんたは……細胞賦活剤《ブースタースパイス》が生命の樹からつくられることを知っていたか?」 「なんですって? まさか! 誰がそんなことをいったの?」 「プロセルピナだ。その……意味について考えてみよう。国連が生命の樹をもてあそんだとしたら……五百年前に……ほかに何をしただろう? もしかすると、ARMを動かしているのはプロテクターかもしれない」  彼女の目が見ひらかれた。 「信じられないわ。ルーイス、ARMの首脳陣はみんな精神を病んだ誇大妄想狂よ! 薬ものまずにそうなっているのよ! そんなこと──」 「動いて。それはただの噂だと思っていた」 「そうね、みんなそういってる。連中がプロテクターの支配を許すはずはないわ。地球の支配にも通じるのよ!」 「だけどもし独走を許せば、プロテクターはARMを支配するだろう。そして精神を病んだ誇大妄想狂のように思考する。そうだろう? いや、あんたの気を散らすのはやめるよ」 「カホナ、そうしてちょうだい。ARMのことなんて考えたくもないわ。これはいい?」 「ああ」 「あなた、くすぐったがりじゃないわね?」 「昔はそうだった」 「いまはぜんぜん?」  彼はクスクス笑った。 「ああ。ぜんぜんだ」  くすぐったがりの神経は、遠い昔に支配下におさめたつもりだった。  だがそれは間違っていた。 〈作曲家《テューンスミス》〉のホロスクリーン映像はプロセルピナの想像したとおりのものだった。長いあご、髭のない顔、あごの関節はふくらみ、鼻孔はたいらで、頬骨は鋭くとがっている。〈|屍肉食い《グール》〉から転じたプロテクターだ。 〈作曲家《テューンスミス》〉は〈|屍肉食い《グール》〉の言語を使っていた。プロセルピナはほんの一瞬混乱した。光通信によって共通言語はひろがりつつある。彼女は書かれた〈|屍肉食い《グール》〉語と、|こぼれ山近《スピル・マウンテン》辺で話されるその派生言語に通じている。ホロスクリーンに向かって話すハヌマンの話にも耳を傾けた。発音が異なっているだけだ。 「雑食性の平原を走る者だな。ずっと以前からおまえたちのことを不思議に思っていた。おまえの種族は地球の〈地図〉で生き残っているが、変化していないわけでもない──」  プロセルピナは悲痛な声をあげた。ハヌマンは事態を理解するよりもはやく木に駆けあがり、樹冠のフワフワの中に身を隠した。プロセルピナはホロスクリーンから視線をはなさず、〈作曲家《テューンスミス》〉は話しつづけた。 「肉食種族──移住してきたクジン族が、おのが好みにあわせて原住のヒト型種族を選別してきたのだ。例外は、第一次探検隊とともにやってきた侵入者だ。ハミイーは〈地図〉上のささやかな領土でヒト型種族を育てて野生にもどした。彼はその肉を食わないし、自分の部下たちにも彼らを傷つけないよう命じている。おまえの問題を解決するもっとも簡単な方法は、地球の〈地図〉をハミイーに与えることだ。彼の息子か、同盟者ルイス・ウーを通じて交渉できる。 〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉のほうが厄介だ。わたしはおまえと会わなくてはならないようだ。〈補修センター〉を見せたいし、おまえを監視なしに放置しておくわけにもいかない。  おまえに関する情報から推測するに、おまえは行動しないことを学んだようだな。それほどまでの自己抑制はわれわれのあいだでは希少だ。おまえの身の安全について納得のいく保証を与えるかぎり、わたしの身に危険がおよぶこともあるまい。  おまえに与える保証とは、すでにおまえも知っているわたしが何者であるかという情報そのものだ。われらは知性ある繁殖者《ブリーダー》として進化した。そして死者を食う者としていくつかの種族が生き残った。したがってわれわれは、すべての種族に対する危害を悪と見なす。ほかのヒト型種族の繁栄は、すなわちわれらの繁栄なのだ。  争いは有害であり、闘いは飢餓をもたらす飽食だ。旱魃《かんばつ》は望ましくないゆえに、われわれは民に灌漑や水路について教える。砂漠は好ましくないゆえに、植樹を教える。治水を、農耕を教える。原住民の宗教は尊重するが、非倫理的な儀式や聖戦や、生贄や火葬は禁ずる。われわれはつねに外壁の民の使う光通信から情報を得る。そしてわれわれの人口を調整している。  明確な理由がないかぎり、わたしがおまえを傷つけることはない。わたしはおまえの善意を望むのだから、おまえの利益のために行動する。わたしに関して学べるかぎりのことを学び、会いにくるかどうか決めるがいい。ハヌマンのフライサイクルと合流するよう、|積 層 盤《サーヴィス・スタック》を送りだそう」 〈作曲家《テューンスミス》〉の顔が消えた。背景であった恒星間宇宙の映像が残り、その前に骸骨のような黒い装置が浮かんでいる。  プロセルピナは声をあげた。 「ハヌマン!」  ハヌマンが木から降りてきた。  きつく握りしめていたため、フライサイクル前部シートのアームレストが曲がっている。 「わたしの子孫たちが、オレンジ色の大型肉食動物に食べられています」 「昨夜まで知らなかったのか?」 「わたしが知っていたのは、リングワールドの大半が自分の支配下にはなく、自分が隔離されているということです。想像していた最悪の事態にくらべればはるかにましですが、前脳ではわかっていたことです。ハヌマン、腺ではなくてね。ところで、|積 層 盤《サーヴィス・スタック》≠ニいうのはなんですか?」 「浮揚プレートを積みあげたてっぺんに|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を載せたものだ。|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》のシステムを使って〈作曲家《テューンスミス》〉のところに案内できる」 「まず客人たちのようすを見てきましょう。フライサイクルに乗っていきなさい。わたしは磁気船で帰ります。用事があるのです」  夕方。 「これはリシャスラとはべつのものだ」ルイスはいった。「なぜだかわかるか?」 「坊や、それについてはあなたのほうがわたしよりもずっと経験豊富なのよ」ロクサニーが答えた。「自分でそういったじゃないの。夕食はどうする?」 「狩りに行くかい?」 「行きたくないわ」 「この装置は配給|固形食《ブリック》をつくれるのかな?」  ロクサニーが調べた。 「スープだけね」 「じゃあ、マグカップで一杯」  彼女は二杯分ダイヤルした。 「ルーイス、あなただったらどうやってあの山にはいる?」 「ぼくはまだ現物を見てもいないんだぜ。いまのところぼくの夢は、人口の山にはいりこむことじゃなくて、まっすぐ立って歩くことなんだ。あんたはどう思うんだ?」  ロクサニーは答えた。 「乗り物が必要ね。地球でも、環境都市《アーコロジー》は徒歩で探検するには大きすぎるもの。それから防禦機構が心配だわ。プロテクターはひどく縄張り意識が強いというから」 「これはうまいな!」  ロクサニーも口をつけた。穀物がたっぷりはいった濃いスープだ。 「すぐに飽きるわよ」 「繁殖者《ブリーダー》について考えてみよう」 「なんですって?」 「繁殖者《フリーダー》。プロテクターに転じていないパク人だよ。平原の猿、成人も子供もだ。彼らは|羚 羊《アンテロープ》と並走し、ころぶことなく棍棒でその頭を殴りつけることができる。たぶん、バランスを維持することで大きく複雑な脳を手にいれたんだろう。だが木登りを忘れたわけでもない。あのくそ馬鹿でかい建物に罠が仕掛けられているとしたら、それは繁殖者《ブリーダー》を追いはらうためのものだろう」 「そうね。それとも繁殖者《ブリーダー》を遠ざけておくべつの何かがあったのかもしれないわ。わからないけれど、柵[#「柵」に傍点]のようなものかしら?」 「それじゃその柵を探してみよう」  彼はうなずいた。 「ロクサニー? ひとりで行っちゃ駄目だぞ、|いいか《ステット》?」 「あれは何?」  外で光がひらめいている。 「フライサイクルの走行灯だ」  確かめにでたロクサニーは、ハヌマンの手をひいてもどってきた。 「プロテクターが自動でフライサイクルを送ってよこしたのね」 「自動操縦装置《オートパイロット》があるんだ。それを調節したんだろう。彼女はどこだ?」  ロクサニーは肩をすくめた。 「乗っていたのはこの猿だけよ」 [#改ページ]      17 〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉の城砦  四日め、ロクサニーが歩くよう命じた。 「まだもう一日だ」彼は答えた。 「わかってるわ。でも診断はほぼ全快と出ているの。若さのおかげね。ルーイス、戦いがせまっているとき、兵士は診断なんか無視して医療機《ドック》を出るものよ。それでなんともないわ」  心が動いた。だが──。 「なぜいそぐんだ、ロクサニー?」 「ウェンブレスが中にはいる道を見つけたといっているの」 「なるほど」 「フライサイクルも手にはいったわ。だけどあなたじゃないとあれは飛ばせない。プロセルピナは自動で飛ぶよう設定したみたいだけれど、わたしにはできなかったのよ。プロセルピナはまだもどってこないし──」 「ハヌマンはどこだ?」 「森のどこかで果物をお腹に詰めこんでいるんでしょ。なぜ?」 「世話をしてやらなきゃならない」 「いいえ、その必要はないわ。ルーイス、ジョーカーがいま何をしているかはわからないけれど、彼女だって永遠に留守にしているわけじゃないのよ!」  そこでルイスはICCから起きあがった。片手をロクサニーのたくましい肩において、足をひきずりながらフライサイクルまでたどりつくと、そこにウェンブレスが待っていた。左脚と腰とあばら全体に、わずかながら鋭い痛みが残っている。  ロクサニーがたずねた。 「これ、三人乗れるの?」 「もちろん。ウェンブレスは真ん中にすわれ。ぼくが前に乗る」  ルイスはシートについて、もっとも苦痛のない姿勢を慎重にさぐった。ウェンブレスが彼とロクサニーのあいだにはいりこんだ。窮屈だし、原住民の剛毛で首と耳がくすぐったい。  彼はたずねた。 「何を見つけたんだ、ウェンブレス?」 「砦にはいる道だ」皺だらけの男は答えた。 「|わかった《ステット》。案内してくれ」  ルイスはフライサイクルを発進させた。  それは対称形でもなければ、美意識あふれる建物でもなかった。まるで山──マッターホルンのようで、すべての斜壁が黒い石で蔽われ、いたるところにはめこまれた何千もの窓がきらめいている。周囲をとりまく広大な草原は、切り立った崖につきあたって終わっていた。  草原は金と黒のゆるやかな斜面だ。金色の野に、黒い草で直線や弧が描かれているのだ。 「あれをどう思う?」ルイスはたずねた。  ウェンブレスが答えた。 「黒いところは枯れかけているのだろう」 「黒い植物がないわけではないのよ」ロクサニーが教えた。「葉緑素は緑の光すべてを反射させるの。でももしそれをすべて吸収したとしたら? ノウンスペースにはそんな植物もあるのよ」 「そうだな。だがウェンブレスも正しい。これはまるで……一部消えたか浸食された文字のようだ。どういうことだ? 遺伝子工学か。〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉は装飾のためにこれを植えた。だが牧草や小麦ほど丈夫ではない」  高所から見た崖は、人為的なもののようだ。ルイスは崖に近づき、縁にそってかすめるようにフライサイクルを飛ばした。 「これで平原の猿をくいとめることはできるけれど」と、ロクサニー。「フライサイクルは無理ね」 「ああ。幸運だと思うかい? プロテクターは──」 「縄張り意識が強いんでしょ、ルーイス。ウェンブレス、まだなの?」 「もっとゆっくり飛んでくれ。上だ」  ルイスは上昇した。 「ここから」崖の縁あたりでウェンブレスが指示した。「左のほう、|右 舷《スターボード》に向かえ」  傾斜した草原は、これほどひろくなければ芝地と思えたかもしれない。その広大な表面は絶えず落ちつきなく揺れ動いている。風だろうか? ロクサニーの拡大眼鏡を借りると、羊に似た黄色い生き物が何千と見わけられた。  前方では岩の防壁が崩れ、土がなだれ落ちている。 「地震か? ウェンブレス、リングワールドでどうして地震が起こるんだ?」  ウェンブレスが肩をすくめ、ロクサニーがいった。 「隕石かしら?」 「クレーターはない」 「じゃあ考えてみてよ、坊や。ここにプロテクターの要塞があるわ。もしほかのプロテクターが侵入しようとしたらどうする?」 「遠い昔の話だろう」ルイスは答えた。  何種類もの草とフワフワ樹冠の森をはじめとして、すべての生態系が崩れた岩と土を乗り越えて侵入している。 「だがこの痕跡は新しい」  かつて壁であり、いまは生い茂る木々に蔽われた斜面に、焼け焦げたクレーターがあらわれはじめた。はじめは散らばる点にすぎなかった、ごく最近砲撃を受けて炭化した地面が、やがて点々と連なって芝を横切り、斜面をあがって、要塞そのものの湾曲した壁までつづいている。 「防禦機構に関しては間違っていなかったようだな」ルイスはいった。「何かがこのスロープをのぼってきた。なんらかの武器がずっとそれを追って攻撃した。ウェンブレス、どうやって見つけたんだ?」 「ロクサニーにいわれてあちこちを見てまわった。この斜面は危険そうに思えた。何かが[#「何かが」に傍点]この被害を与えたのだ。おれはもっとよく見ようと木に登った。見ろ、壁にあいたあの穴までずっとこれがつづいている」  ロクサニーがいった。 「あのあとをたどっていけば安全だわ。罠はすべて誘発されてしまっているだろうから」 「ほんとに? いいだろう。それじゃ音波シールドはつけないぞ」 「シールドがあるの? |そうか《ステット》、それはつけてよ!」 「冗談だよ。ロクサニー、あそこにはいりこむのは狂気の沙汰だ。あれはプロテクターの城砦だ。どんな仕掛けをそいつが──彼女はなんと呼んでいたっけ?」 「〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉。この〈地図〉の海で最後から二番めのプロテクターよ。あそこには百万年にわたる奇跡があるのよ。ルーイス、いまさら引き返すことなんてできないわ」  戦えないとき、走れないとき、人は臆病風に吹かれるものだ。ルイスは味方を求めてふり返った。ウェンブレスはロクサニーと同じくらいの熱意ともどかしさをこめて、前進を促している。  ルイスは音波シールドをポンとオンにした。目に見える変化はない。まだ音速にはほど遠いのだ。  さっきまで草に隠れて黄色い羊をとりまいていた黒っぽい獣が、狂ったように牙をむいてうなりながらフライサイクルに向かって突進してきた。古代狼に似ている。  もちろん、ここまでやってきたホモ・ハピリスをとめようとしているのだ。ルイスは彼らの頭上をかすめ、クレーターだらけの草原を抜けて、爆撃痕をたどっていった。  意外性のない長い長い時を過ごしてきたと思ったら、こんどは驚きの連続だった。磁気船を基地に降ろし、プロセルピナは気づいた。  フライサイクルがない。  みんな、いなくなっている。  ハヌマンは果樹のあいだにいた。彼はフライサイクルがないことに気づいていなかったが、その推測はプロセルピナと同じものだった。  ふたりは磁気船に駆けより、〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉の要塞に向かって離陸した。  爆撃痕をたどっていくと、〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉の防禦機構は何ヵ所かでみずからの分厚い岩壁を吹き飛ばしていた。人間の大きさほどもある六角形の窓は、そのまま立っているものも、倒れているものもあるが、どれも割れてはいない。壁の石よりも硬いのだ。ダイヤモンドだろうか?  機械センサーがこちらを監視しているのが感じられる。  ヨットほどもある隙間にフライサイクルを乗り入れた。轟音が襲いかかった。音波シールドによって弱められてはいるものの、百万もの声が怒りをこめてわけのわからないことをわめいているかのようだ。強烈な光も浴びせられた。ルイスは拡大眼鏡をはずし忘れていたため影響はなかったが、背後のウェンブレスとロクサニーは顔を伏せ、涙を流している。  ルイスは掩護物を探した。いちばん近いのは、二枚めの壁にあいた溶けた孔だ。あの狭さでは音波シールドを張ったまま通り抜けるのは無理だ。ルイスはシールドを切り、轟音に負けじとさけびながら孔をつきぬけ、すぐさまシールドを張りなおした。  音が弱まり、光も弱まった。  そこは幅二十メートル、天井はそれよりも高い、機械がゴタゴタおいてある通路の中だった。建設機械のように骨組みがむきだしの背の高い機械もある。ほとんどがつくりかけのようだ。〈作曲家《テューンスミス》〉の、でなければブラムの作業場に似ているが、それ以上にギュウギュウ詰めになっている。  ロクサニーがいった。 「なんだかは知らないけれどここを通り抜けたものが、防禦機構をつぶしていることを期待していたのに」  彼女は目をこすっている。ウェンブレスは大丈夫そうだ。だが──。 「ひどい匂い[#「匂い」に傍点]!」ロクサニーがさけんだ。「サーカスみたいだわ!」  たしかにそのとおりだが、ルーイス≠ヘ一度もサーカスを見たことがないはずだ。  ウェンブレスがいった。 「トロールを追う〈金色肉食獣《ブロンド・カーニヴォア》〉みたいだ。なんでここに?」  音波シールドで緩和されていてもまだひどい。  ルイスはたずねた。 「パク星の豹かな? これとあの音と光があれば、繁殖者《ブフリーダー》を追いはらうには充分だろう。だがプロテクターはこの匂いをどんなふうに感じるだろう。この不潔な群れが放つような悪臭は、ほかの種族の子孫が百万も集まった匂いかもしれない。怒ったプロテクターが千人寄れば、こんな悪臭になりそうだ。そうか、つまりこれはプロテクターへの警告なんだ」  ロクサニーがいった。 「わたしたちにとってもよ。そろそろ──」  ウェンブレスがフライサイクルからとびだし、膝を曲げて一メートルほど下に着地した。床に点々とつづく溶け痕をたどり、機械や機械部品のあいだを縫って走り抜けていく。彼はフライサイクルをふり返り、楽しそうに手をふって前進を促した。 「『そろそろ引き揚げ時よ』といおうとしたんだけど」と、ロクサニー。「でもウェンブレスについていきましょう。ルーイス、彼のすぐあとに[#「すぐあとに」に傍点]つけて。近道はなしよ。たぶん彼が正しいわ。高くあがりすぎれば攻撃される。近づきすぎないようにしてちょうだい」 「|わかった《ステット》」ルイスはつぶやいた。「あのかわいそうな男が何かに焼き殺されるようなことになったとき、その場にいてもなんの益もないからな」  爆破の傷痕は通路を曲がり、壁をのぼっていた。徒歩であとを追うことはできない。ウェンブレスが手をふってフライサイクルの高度をさげさせ、ふたりのあいだにもぐりこんできた。  そしてルイスの耳ごしに指さした。 「あそこ、ずっと上のほう」  破壊の道筋が、上のほうで壁を突き破っている。ルイスはふり返って、ウェンブレスからロクサニーへと視線を移した。  彼女は肩をすくめた。  掩護物はない。ルイスはフライサイクルをまっすぐ上昇させ、壁を抜けると落下するにまかせた。  ビームが──レーザーではなく、プラズマジェットが──彼らが抜けたあとの孔に向かって放射され、迷路のように入り組んだ斜路にもぐりこむまで追ってきた。その激しさに壁が崩れたが、その狙いはフライサイクルに被害を与えるには十数メートル高すぎた。  彼らは人工の山の内部に深くはいりこんでいた。中はほとんど空洞だが、巨人国のようなスケールの傾斜路がレース細工のように交錯している。戦士の訓練場だったのだろうか。たとえそうだとしても、ほかの用途もあったはずだ。  ロクサニーの推測どおり、砦の内にはさまざまな驚異があふれていたが。こっちでは荒っぽいつくりの機械が磁気か反重力によって一列に浮揚している。あっちでは塵煙の中で何本もの光線がキラキラ光る焦点に集中し屈曲している。斜路が交差しているところには、銃器や機器が積みあげてある。だがそれらもすべて、熱で破壊されているようだった。  爆破の道筋からはずれようか?  ロクサニーのいうとおりだ。ここでは大量の銃器が粉々に撃ち砕かれ……だが彼をさぐるセンサーの気配はいまもまだ感じられる。  あとにするか[#「あとにするか」に傍点]?  壊れた斜路を横切って、黒くなった階段に近づいていった。死の罠がくり返されることはないと信じるのは愚かなことだが、ロクサニーの楽観論が働いているようでもある。銃器の降らせる金属の雨をすべて音波シールドで防ぎながら、ルイスは斜路の下にフライサイクルをすべりこませた。進路を離れ、崩れた壁を迂回する。  何かがまばゆい光を放って爆発し、爆音がかろうじて耳に届いた。 「待て」ウェンブレスがとどめた。「あれはなんだ?」  立体映像広告《ホロフリック・アド》のように、戦闘ゾーンが浮かびあがった。光の中で、パンケーキを積み重ねたような大きな塊りが溶け崩れかけている。かつては〈作曲家《テューンスミス》〉の|積 層 盤《サーヴィス・スタック》だったものだ。はるか頭上の壁から、レーザーがその瓦礫に真珠色の光を浴びせている。彼らが近づいていくあいだに、レーザー光は焼き切れた。  |積 層 盤《サーヴィス・スタック》はまだ白く高熱を発していて、てっぺんは黒くなっている。このような扱いを受けてしまえば、浮揚プレートは飛ぶことができない。てっぺんの|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》は──。  それはあとで考えろ。 「ここで終点だ」ルイスは宣言した。  ロクサニーが答えた。 「そうね。わたしたちが追ってきたのはこれだったんでしょう。そしてこれは武器を搭載していた。ほらあそこ──」  彼女は|積 層 盤《サーヴィス・スタック》の下部を示した。 「何が見える?」 「溶けた機械」  レンズのきらめき。 「レーザー砲かな?」 「シールド装備の兵器よ。あの──あの塔の上に、帽子みたいにのっていたのね。攻撃してくるすべてのものを破壊したんだわ──」 「ひとつを除いてだ、ロクサニー。最後のやつにやられた」 「その最後の兵器は十秒前に焼き切れたわ! わたしたちを傷つけるかもしれないものはすべて破壊されている[#「破壊されている」に傍点]! ルーイス、ウェンブレス、探検するならいましかないわ!」  信用するにはいささかうますぎる話だ。 「焼き切れたといったな。もしそれがただ休んでいるだけだとしたら?」 「どういうこと?」 「もどろう。道筋からそれず、そしてすべてを撮影しよう。なんとかしてもどるんだ。そして入手した情報を調べる。ぼくたちで解決できなければ、プロセルピナに見せて──」 「ルーイス、それでどうなるというの?」 「またべつの侵入路がわかるかもしれない」と、ルイス。「ロクサニー、ほかにいい考えがあるのか?」 「降りて、見てまわりましょうよ。ルーイス、徒歩なら繁殖者《ブリーダー》みたいに見えるわ。わたしたちは実際に繁殖者《ブリーダー》なんだから。防禦装置も、徒歩の繁殖者《ブリーダー》を攻撃してはこないと思うわ」 「繁殖者《ブリーダー》は服を着ていない。裸になるのか?」 「あなたはもう裸よ」 「そしてあんたは精神病か」  ルイスはフライサイクルを反転させてもどろうとした。最後のプラズマビームが壁に、床まで届くすてきな大穴をあげてくれている。侵入よりは脱出のほうが安全だろう。  ウェンブレスが彼の肩をつかんだ。 「見ろ。植物だ」  はるか頭上、斜路の端から緑がこぼれている。庭をつくるにはずいぶんと奇妙な場所だ。 「脱出路ははっきりしている」ルイスは主張した。「ひとつだけだ」  ロクサニーもまた彼の腕をつかみ、なだめるような声を出した。 「何を恐れているの、ルーイス? ごらんなさい。この斜路はレース用サーキットみたいにひろいわ。まっすぐのぼるだけでいいのよ。攻撃されたらここに降りて、安全な道筋をたどってもどればいいの。|わかった《ステット》? まっすぐ上昇しなさい」  斜路にはガードレールがない。だがルイスはそのことを口にはしなかった。ロクサニーは彼を臆病者と考えているのだ。なぜかそれが我慢できなかった。彼はフライサイクルをまっすぐに上昇させた。  攻撃してくるものはない。  頭上にある斜路の両端から、緑のジャングルがこぼれている。  ロクサニーがいった。 「銃器は植物だって攻撃しないわ。これは〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉の食料供給庫だったのよ」 「なんの確信もないだろう。あんたは三人の生命を危険にさらしているんだぞ!」 「ARM捜査官とはそういうものよ、ルーイス。プロセルピナに知らせずわたしたちが情報を得るチャンスはいましかないの。そしてプロセルピナはわたしの上官じゃないわ! あそこに向かいなさい、ルーイス」 「ジャングルに?」 「そうよ」  向きを変えようとしたそのとき、何かが彼らを発見した。  音波シールドが大きな鐘のように轟き、いつまでも鳴り響きつづけた。ルイスは負けじと大声をあげた。上昇モーターをオフにした。ロクサニーのいうとおりならいいが!  フライサイクルが落下する。彼はその途中で気を失った。  要塞が視野にはいった瞬間から、磁気船は監視下におかれていた。プロセルピナはできるかぎりのレーダー波を吸収したが、山に近づくにつれてそれも困難になっていった。弾丸が磁気船に向かって撃ちだされ、それていった。光線が発射されたが、それもまた船には当たらなかった。  ハヌマンは船を飛ばしつづけた。プロセルピナが防戦しているあいだ、それしかできることはないのだ。  進むべき道は明らかだった。ゴーチェ捜査官が爆撃痕をたどってくれていればいいのだが。たとえそうしていたとしても、彼女を、その連れたちもろとも死に至らせる可能性は百とおりもある。  ハヌマンはたずねた。 「彼らは生きているだろうか?」  プロセルピナは答えなかった。フィールドがそっと壁の一部を剥ぎとった。内壁がある。彼女はそれも剥ぎとった。光がひらめき、消えた。蜂の巣のようなものがハヌマンの目の前にあらわれた。  プロセルピナは船をその中へ進めた。  強靭な腕がルイスをかかえ、そっと床に横たえた。全身が痛い。  覚えのある苦痛だった。治りかけの怪我に加え、あごを強打したうえに、耳鳴りが轟いている。  ルイスは目をあけた。ロクサニーがウェンブレスを前方のシートに押しやろうとしている。ウェンブレスは鼻と耳から出血していた。  ロクサニーが叫んでいる。 「気がついた?」  かすかに聞こえる。 「さあ、手を貸してよ」  ルイスを引き起こし、手伝わせた。彼女はウェンブレスを医療システムにつなごうとしているのだ。 「わたしたちには緩衝フィールドが効いたんだけど、彼は守られていなかったのよ。背中か首の骨が折れているかもしれないわ。見て、鼻血が出ている」 「あんたもだ」彼は怒鳴った。  彼女がこちらを向いた。 「あなたもよ。音波攻撃だと思うんだけど。カホナ、死んでしまったかしら?」  ルイスはロクサニーに身体を支えられながら、ウェンブレスを医療システムにつなぎ終えた。データが表示された。 「生きている。だが、くそ、全身傷だらけだ。目が覚めたらちょうどぼくみたいな感じだろう」 「いまシステムが投与しているのは、細胞賦活剤《ブースタースパイス》じゃない?」  昔から使われているこの商標は──。 「ああ。彼はこれまで一度も細胞賦活剤《ブースタースパイス》を使ったことがない。たぶんかなりの老人だろう。貯蔵量をぜんぶ使いきってしまうかもしれないな」 「カホナ。わたし[#「わたし」に傍点]の細胞賦活剤《ブースタースパイス》になるはずだったのに。いいわ、ルーイス、制御装置に手をおきなさい」 「この体勢では飛べない。シートにすわらなくては」 「わかってるわ」  ロクサニーが彼の両手を操縦桿とキーパッドにかけさせ、上昇スイッチをいれた。それからグイと彼の胸を押した。ルイスの身体はうしろ向きに宙にとびだした。  二メートル下の岩にぶちあたった。怒濤のような苦痛が全身を襲う。息もできない。フライサイクルが上昇し、頭上で停止した。 「あなたはルイス・ウーなんでしょ」  ロクサニーが後部シートから身を乗りだして彼と視線をあわせた。 「二百五十歳で、以前はピアスンのパペッティア人のために働いていた。その後主人を変えてきたみたいだけれど、いまは誰のために働いているのか、口にしたくもないわ──」  ルイスはうめきながら身体をころがして膝をつき、かろうじて立ちあがった。背伸びをしたが、フライサイクルには手が届かない。制御装置は彼以外の手では動かないはずなのだが、たぶんプロセルピナが自分でも使えるようセキュリティを書き換えたのだろう。  ルイスはもう一度たずねた。 「いったいどういうことだ?」 「プロセルピナから聞きだしたのよ。でもその前に察しはついていたわ。ルイス、あなたの行動には間違いが多すぎた。あなたはわたしを馬鹿にしてたのでしょうけれど──」 「それはちがう、ロクサニー。若返って、もう一度子供のように扱われるのが楽しかったんだ。なんの責任もなしにね! ロクサニー──」  ルイス・ウーはARMから逃亡中の身だ。そのことを彼女に告げることはできなかった。自由の身でいるためには、彼女に知られてはならないことがほかにもいくつもある。 「あんたを愛してる」  彼女はまだ赤く熱い塊りを指さした。 「あれは何?」 「|積 層 盤《サーヴィス・スタック》。環《リング》の……どこからかやってきた浮揚プレートだ」 「あの武器はなに? あれよ」 「知らない」  推測はできる。 〈作曲家《テューンスミス》〉は|積 層 盤《サーヴィス・スタック》を要塞探検に出して、それを失った。そこでつぎのものには武器を備え、ここまで侵入することができたのだ。 「そして、あの銀色の蓋は?」  それは答えるわけにはいかない。 「あれがパペッティア人の|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》なんでしょ? 光も弾丸も、その他なんでも降ってくるものすべてを吸いこんで、ほかの場所に移動させているのね。つまり、あれはまだ動いている。だからこそ[#「だからこそ」に傍点]、まだ無事でいられるのよ──」 「危険だ! ロクサニー、どこにつながっているか見当もつかないんだぞ!」 「あなたの話は嘘ばかりよ! わたしは子供じゃないわ」  ロクサニーは彼をじっと見つめた。 「わたしはプロセルピナの話を信じなかった。あなたのセックスは年寄りっぽくはなかったもの。でもかま[#「かま」に傍点]をかけてみたら、あなたはまんまとひっかかったのよ」 「よくもそんなことを──」 「教えてくれる人がいたのよ」 「ロクサニー──」 「ここにいたら格好の的になってしまうわ。とにかくわたしは試してみる」  フライサイクルが上昇し、横向きに移動した。  積み重なった浮揚プレートの残骸は暗赤色に光っている。てっぺんのプレートは鈍い銀色だ。ロクサニーがフライサイクルをその上に降下させたとたん姿が消えた。  頭から落下していた。ロクサニーは息を吐きながら音のない長い悲鳴をあげた。ツルツルした垂直の赤い岩にそって、はるか下方の黄土色の砂に向かって落ちていく。足のさきにはピンクがかった濃紺の空があった。  ようやくフライサイクルが反転し、また上昇しはじめた──だが彼女は悲鳴をあげつづけた。フライサイクルは音波シールドを張らないまま、火星に出現したのだ。真空の中では悲鳴をあげていなければ肺がつぶれてしまう。  火星ですって? 馬鹿な。狂っている。  しかし彼女はこの場所を知っていた。彼女は火星で訓練をしたのだ。目眩《めまい》を起こしていた感覚がもどり、〈アーチ〉に、空にひろがるリングワールドに気づいた。  ではほんとうに狂ってしまったわけではない。ここはリングワールドの反対側、〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉の火星の〈地図〉だ。だがたとえ空気がそれほど薄くなくとも、有害な大気の中にいては彼女もウェンブレスも数分で死んでしまうだろう。  鼻からこぼれる血が泡をふきはじめた。ウェンブレスも口をあけて長い悲鳴をあげている。彼の手がしがみつくようにフライサイクルの操縦装置を握りしめた。  フライサイクルがゆっくりと、いま通り抜けてきたのと同じような、だが単独の銀色の円盤の上にのった。裏返しの|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》だ。  フライサイクルの医療機《ドック》につながる数本の|臍の緒《アンビリカル》をひっぱりながらウェンブレスが手をのばし、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の端に向かって拳をふりあげた。蓋がポンとひらいてキーボードがあらわれた。拳がボタンをたたく。操縦装置をひねると、フライサイクルは降下し、身をよじり、上昇して、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の裏側に接触した。  空気と淡青色の空があった。  ロクサニーは空気を吸い、くり返しあえいだ。 「最高だわ」  のどが荒れ、ガサガサの声がとびだす。彼女はウェンブレスを抱き締めた。 「最高よ。あなたのおかげで助かったわ。あいつ[#「あいつ」に傍点]は──プロセルピナは、必ずわたしたちのあとを追ってきたでしょうからね。それとルーイス。いえ、ルイス・ウーも」  しばらくして彼女は頭をあげた。 「適当にスイッチを押したんでしょ? ここはどこなのかしらね」  そこにあるものはすべて見てとれた。穏やかにひろがる海の真ん中の、小さな島だ。植物といえばいじけた低木ばかり。|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》と浮揚プレートの束の保管にむいた、安全そうな場所だ。  ロクサニーはカバーをあけてスイッチを押した。 「これでよし」彼女はいった。「見つけられるものなら見つけてごらんなさい」  ルイスはヨロヨロと|積 層 盤《サーヴィス・スタック》に近づいていった。杖か松葉杖がほしいところだ。熱に耐えられなくなって足をとめた。  彼女のあとを追わなくてはならない[#「ならない」に傍点]……だが近寄ることもできない。彼は腰をおろして考えた。  上方の斜路から|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》にとびおりるか?  ああ、|それがいい《ステット》。  |積 層 盤《サーヴィス・スタック》だって永遠に赤熱のままでいるわけではない……だが冷めるにはかなりの時間がかかるだろう。一日か? 二日か? 待っているあいだの食料もいる。すぐにも空中庭園に向かってのぼりはじめよう。  飛びかう光で目が覚めた。うたた寝をしていたか、気を失っていたらしい。降下してくるプロセルピナの船を見ても、驚きはなかった。十以上もの方角からレーザーが浴びせられている。  まんぼう船が揺らめいた。すべてのレーザーがホコリタケのように火を噴いて消滅し、巨大なまんぼう船が頭上に停止した。  与圧服を着こんだハヌマンがハッチの開口部から出てきた。 「ふたりはあれを抜けていった」ルイスは声をあげた。「追いかけなくてはならない。だが熱すぎるんだ。待て[#「待て」に傍点]!」  ハヌマンが|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》にとびおり、姿を消した。  いずれにしても、なぜスイッチがはいったのだろう? プラズマの熱のせいか? 偶然に弾があたったのか? たぶんそういったことだ。〈作曲家《テューンスミス》〉が、稼働している|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》をのせた|積 層 盤《サーヴィス・スタック》を送りこむわけはない。  ハッチに与圧服を着たプロセルピナがあらわれた。  ルイスは声をかけた。 「気をつけろ、あれはまだ作動している!」  彼女もまた|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》にとびおり、姿を消した。  向きを変えたまんぼう船が方角をさぐっている。そして船は上昇し、壁の穴から外に出ていった。  いったい自分はどれほどの厄介事にまきこまれているのだろう?  みんながルイスをおいていってしまった。これほどの孤独を感じたのは、いつ以来だろう……思いだせない。  ロクサニーは彼を捨てていった。説明のしようがなかった……それとも思った以上に理解していたのか?  彼は彼女を自分の女だと、広大なる三百万世界の中でただひとりのホモ・サピエンスの女、運命によって定められた相手だと思っていたのに。  フライサイクルは彼女に奪い去られ、まんぼう船はプロセルピナが自動装置で返してしまった。ルイスは徒歩だ。この状況は、よくもあり、悪くもある。食べ物のあるところはとんでもなく遠いが、すべてくだりだ。飢えで死ぬことはない。  ロクサニーの分析を信じるならば、〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉の防禦機構に殺される心配もない。ホモ・ハピリスがうろうろしていると見なされるだけだろう。彼はすでに、ほとんど裸なのだ。  だがそれよりも、早々に水を見つけなくてはならない。  あの大草原を潤す水があるはずだ。いや、もっと近く。頭上からそれほど遠くない場所にある。ルイスは、螺旋を描いて空中庭園にのぼっていく斜路を目でたどった。  歩きはじめた。何も攻撃してこない。もしかするとプロセルピナが、残っていた〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉の防禦機構すべてを停止させたのかもしれない。  休憩が頻繁になってきた。やがて彼はノロノロと這っていた。杖がほしくてたまらなかった。空中庭園で若木を探そう。そしてプロセルピナの基地まで歩いてもどろう。ARMの医療機《ドック》にもぐりこんで治療を終えよう。それからつぎの行動について考えよう。  この匂いはよく知っている。  ここは〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉の生命の樹の供給源なのだ!  フライサイクルをこの庭園に降ろさなかったのは、とてつもなく幸運だった、とルイスはぼんやり考えた。  きっとロクサニーが口にいれただろう。何十年にもわたって細胞賦活剤《ブースタースパイス》を摂取してきた彼女は……適齢を過ぎているかもしれない、いないかもしれない。プロテクターになれただろうか、死んでいただろうか。ウェンブレスもきっと食べただろう。あの原住民の優雅な黒と白の髪は、加齢の印なのだろうか。  湧きでる水が池をつくり、それから植物のあいだに流れこんでいる。ルイスは四つん這いになってその中にはいった。水は腹にまで届いた。  鮮やかな布を踏んでいるのに気づいて、一度足をとめた。女性用のスカートで、ホログラムが一面に浮きあがっている。ワイオミングの丘の麓《ふもと》で野生馬がくり返しくり返し走っている図だ。水溜まりの底にどれくらいのあいだ沈んでいたのだろう。質のいい布は傷《いた》むことがない。ティーラがこんなスカートを持っていた。フェニックスの店で買ったやつだ。  ルイスはさらに這い進んだ。  水をしたたらせ、スカートをひきずったまま、庭園にはいりこんだ。木々が生い茂っている。ルイスはどうにか立ちあがった。ここに植わっているのは生命の樹だけではない。果物、莢豆、拳ほどの大きさのトウモロコシ……。彼は膝をついて地面を掘った。  黄色い根をひきずりだして泥をはらい、かじりついた。木を噛んでいるみたいだ。  二重の意味で狂気の沙汰だ。彼は若すぎる。カルロス・ウーのナノテク医療機《ドック》は、彼を必要以上に若返らせた。この年齢で生命の樹に魅了されるはずはない。これによって命を落とすかもしれない。  ルイスは食べつづけた。 [#改ページ]      18 リングワールドの床面  ハヌマンは片手片足で|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の端をつかんだ。はるか下方では、錆色の歯のような岩が待ちかまえている。何百万ファランも前から、彼の一族は落下[#「落下」に傍点]について熟知していた。  プロセルピナが出現した。ハヌマンは彼女のベルトをとらえたが、その必要はなかった。彼女もすでに|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の端をつかんでいた。 「罠ですね」  彼女はいって、黄土色の岩に降り立った。 「雑な罠。異星人たちは?」  ハヌマンはいった。 「〈作曲家《テューンスミス》〉は用心深い。〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉の住居から何がくるかわからないからな。プロセルピナ、彼は待つようにと命じた。|積 層 盤《サーヴィス・スタック》が送られてくる」 「ついてきなさい」  プロセルピナは命じ、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の縁をつかんで身体を揺すり、その表面に足を押しつけた。  何も起こらない。 「ゴーチェがリンクを書き換えたのですね」 「プロトコルはわかっている」  ハヌマンは制御装置をひらき、手をディスクから離してすばやく打ちこんだ。 「ゴーチェとのリンクは失われてしまう。捜査官と原住民の行き先を知りたいか?」 「どうせ彼女はまた設定を変えるでしょう。ふたりはネットワークの中で行方知れずになってしまいました。行きなさい」  ハヌマンは身体を揺すって、どこともわからない場所へととびこんでいった。  人工的につくられた空の半球の下で、押しつぶされたような太陽が低く赤く燃えている。周囲には草原がひろがり、遠くに湖と低い森が見える。  ハヌマンの背後からプロセルピナが出現し、沈みつつある太陽を見てハッと息をのんだ。 「惑星生まれのプロテクターがいたのですか?」 「そうだ。詳しいことは知らないが」ハヌマンは答えた。 「急にとてもお腹がすきました」  プロセルピナが木立に向かって大またに走る。  ハヌマンはいった。 「プロテクターは守るものが少ないと空腹を感じなくなるらしい。あなたはあまりにも長いあいだ義務を怠っていたのではないか」  黄色い穀物の畑を駆け抜けるうちに、ハヌマンははるか後方に引き離されてしまった。前方の森に見覚えがある。  繁殖者《ブリーダー》であったときの記憶はあいまいだ。年をとって動きが鈍くなり、関節も痛みはじめていた。群れがひとりの侵入者と戦った。雄のなかでももっとも勇猛だったハヌマンは、敵に近づき、すさまじい飢えを燃えあがらせる匂いを嗅いだ。彼は狂ったように食べ、それから眠り、そして……このような姿になって、地下深く、移動する太陽のかかった移植林のあいだで目覚めた。正気を維持するための自分だけの森を持ち、新たに拡張した頭脳を鍛えるための謎に取り組んだ。  そこは果樹の森だった。端のほうに低木が生えている。リングワールドの生命はすべてパクの生命であり、これらはすべて食用となる作物だ。プロセルピナが両手を黒い土につっこんで黄色い根を掘りだし、自分で食べながら、もう一本をハヌマンによこした。  やがて彼女はたずねた。 「〈作曲家《テューンスミス》〉はどこにいるのですか?」 「こちらから呼び出すことはできない」  プロセルピナが準備してくれた与圧服は間にあわせのものだった。身体にあっていないし、〈作曲家《テューンスミス》〉との通話装置も装備されていない。 「向こうから見つけてくれるだろう」 「わたしは百万ファラン以上ものあいだ、ひとつの〈地図〉に閉じこめられていました。パクの仲間たちがリングワールドの管理をやめたあとも、わたしは〈補修センター〉のプロテクターたちを調べつづけました。〈補修センター〉は活動をつづけ、わたしはずっと鳴りをひそめていました。わたしが最後の防禦なのです。いつの日か、わたしが必要とされるときがくるでしょう。いまもまだその日ではないのかもしれませんが、わたしは彼に会わなくてはなりません。確かめなくてはならないのです。さあ、連れていってください」 「あなたの関心は、太陽の周囲に集まっている異星人の船にあるのだろう?」 「そうです」  ハヌマンは設定を書きなおした。 「こっちだ」  彼らは暗く広大な楕円形の空間にいた。  壁にも床にも天井にも妨げるものはなく、星々が強い光を放っている。宇宙船はほとんど見えない。 〈作曲家《テューンスミス》〉が発見した船は点滅する円カーソルでかこってあった。それ以外のものは見すごしたのだろうか。何千もの船がいるのだ。そして何十万の点滅する中点は、探査機《プローブ》だ。  プロセルピナは首だけ動かして周囲を見まわした。  先端にラップ・キーボードつきシートを備えつけた三本の長い可動アームがあった。どのシートも無人だ。  ハヌマンがたずねた。 「あなたの──」 「シイッ」  彼女は黙らせて、すべての状況を頭におさめた。|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》──見えるものはひとつだけ。いま彼女が上に乗っているディスクは見えない。武器とカメラ──それらも見えない。星の映像の奥には何が隠されているかわからない。 〈作曲家《テューンスミス》〉が攻撃してくるとしたら上からだろうし、そのときにはハヌマンも襲ってくるだろう。準備はできている──といっても気持ちの備えだけで、実のところ〈作曲家《テューンスミス》〉が彼女の生命を欲しているならば、手にいれるのはたやすいことだろう。  彼女はたずねた。 「あなたはあの船を見わけられますか?」 「少しならば」  ハヌマンはいくつかの点を示した。パペッティア人、トリノック人、アウトサイダー人、クジン人、ARM、鉤爪鞘人《シースクロウズ》。 「傍観しているだけの船もあります」プロセルピナはいった。「戦闘態勢にはいっているものもあるようです。すっかりその気になっている。あそことあそこを攻撃すれば、ARMが勝利をおさめるでしょう……」  彼女は声をとぎらせた。 「そうすれば、この船かあの船の残骸がリングワールドにぶつかってくる。あの船尾の形は、反重力燃料を積んでいるということでしょう? 〈作曲家《テューンスミス》〉はあの艦隊すべてを破壊するつもりなのでしょうか」 「〈作曲家《テューンスミス》〉はあらゆる事態を考慮にいれている」 「ですがわたしは、彼のとっている手段を知りません。〈作曲家《テューンスミス》〉はなんらかの攻撃準備をおこなっているはずなのです! 単なる隕石防禦装置だけではなく。どのような敵と戦うのか、どこを味方につけて協力しあっていくのかを知るまで、わたしには何も判断できません」  ハヌマンが問い返した。 「協力しあう?」 「その可能性もあるでしょう」  プロセルピナは光を放つ湾曲した壁にそって歩を進めた。まばゆい光の下に、古いプロテクターの骨が、道具とともに展示されている。関節がこぶのようにふくらみ、脊髄は融合している。 「すでに突然変異がはじまっていますね」彼女はいった。「わたしたちが突然変異体を始末することは知っていますか? あなたがたはいまもそれをしているのですか?」 「もちろん。匂いや行動がちがっていれば」 「この者はとても優れた仕事をしたようです。骨の状態をごらんなさい。早い時期に変化がおきた跡があります。一万ファランは生きていたでしょう。ハヌマン、わたしたちは捕食動物を放つべきだったのでしょうか?」 「そんなことはない」 「ですが、わたしたちと同じ形態を持ったものたちが、そうやって生じたあらゆる生態学的間隙を埋めるにいたったのですよ」  彼女はひたとハヌマンを凝視した。その突然変異種特有の匂いさえ、なんとか無視することができそうだ。 「あなたのいいたいことはわかります。単にこの者のような腐肉処理係のみならず、あなたがたのような木登り生物も。種が変化を必要としなくなったそのときに[#「そのときに」に傍点]、いつでも好きなときに[#「好きなときに」に傍点]とめることさえできるならば、突然変異も進化も悪いものではないのでしょう」  ハヌマンは答えなかった。彼女は明白な事実を述べていたのだから。  だが〈作曲家《テューンスミス》〉が口をひらいた。 「おまえの種、本来のパク人は生き延びることができなかった[#「できなかった」に傍点]。だから突然変異と進化が生じたのだ、プロセルピナ。おまえの形を模したものは数十兆にも枝分かれした。おまえにとって好ましくないものがいるというのか? おまえたちはこれまで、すべての隣人を好ましく思ったことなどないだろう」 〈作曲家《テューンスミス》〉は彼女の頭上にのびた可動アームのシートに立っていた。一瞬のうちに彼女を押さえこめる。あまりにも巧妙、あまりにも俊敏。  プロセルピナは答えた。 「賭けましょう。わたしの読みが正しければ、十九ファラン後にわたしたちが死んでいる可能性は五分。あなたはわたしよりも長期にわたって調査しているのでしょう。こんにちは、〈作曲家《テューンスミス》〉」 〈作曲家《テューンスミス》〉のシートがスルリとさがった。 「はじめましてだな、プロセルピナ。敬愛すべきご先祖。客人たちは無事でいるのか?」 「彼らの生命より、この問題のほうが緊急だと判断しました。あなたはわたしたちの基本計画に干渉しましたね!」 「そうだ、だがそれでも遅すぎた。手にはいるかぎりの援助が必要なのだ」 「どのような変更を加えたのです? どのような変化を計画しているのです?」 「おまえならば〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉に対してどのように行動する?」 「わたしならば……図を描く方法はありませんか?」 〈作曲家《テューンスミス》〉がシートを楕円形の壁に近づけた。星野が消え、壁が濃紺に染まる。〈作曲家《テューンスミス》〉が手をふると白い線が何本かあらわれた。  プロセルピナもべつのシートにとびのり、手をふって形に生命を与えた。太陽。|遮 光 板《シャドウ・スクエア》。リングワールド。それらが白い直線と曲線で描かれ、しだいに写実的な映像となっていく。プロセルピナの両腕がコンサートで指揮をしているように動いた。詳細に映しだされた太陽の内部に、磁気フィールドが育成される。フィールドが変化した──圧縮[#「圧縮」に傍点]されたのだ。太陽の南極が攪拌されて揺れ動き、光が放出される。 「これまでに試しておけばよかったのですね」プロセルピナはいった。「リングワールドを建設したとき、わたしたちは基礎構造の中に超伝導体のネットワークを埋めこみました。ですから磁気フィールドの操作ができるのです」  太陽の南極が]線色の炎を噴出した。太陽がゆっくりと、リングワールドをあとに残して北に移動する。その引力が青い壁にかすかな線を残し、リングワールドがひかれていく。 「太陽を推力として使えば、標準単位でいえば数メートル/秒の2乗までの加速度が出せます。それを越えるならば──」  流線が描かれる。リングワールドだけが動き、太陽はない。 「リングワールドを通り抜けていく恒星間物質の流動を軸のほうに導き、核融合させます。太陽風からさらなる燃料が得られます。磁気フィールドによって閉じこめられた核融合の排気が、太陽に代わってリングワールドを照らし、ラムジェットの役割も果たします。リングワールドは生き残ることができるでしょう。さらに加速をつづけることも可能です」 「それで問題点は?」 「減速が困難ですが、不可能ではありません。フィールドが前方に向くように調節します。それで流れが逆行します」 〈作曲家《テューンスミス》〉は待っている。 「停止した場所に太陽はありません」  プロセルピナは肩をすくめた。図表がゆがむ。 「ですが問題にはなりません。そもそもが無理な話なのですから。加速させれば太陽は熱くなりすぎ、そうすればそれを遮蔽しようと、|遮 光 板《シャドウ・スクエア》が太陽に接近して隙間を縮めるでしょう。でも|遮 光 板《シャドウ・スクエア》との位置関係がずれれば、大地は焼かれてしまうのです。  そして何より問題なのは、のろすぎることです。太陽では充分な引力が出せません。リングワールドに強く作用するよう太陽の磁気フィールドを操作することはできますが、それでも充分ではないのです。異星人の侵入者たちはあとを追ってくるでしょう。わたしには彼らを引き離す方法を思いつくことができません」 「根本から間違っているからだ」〈作曲家《テューンスミス》〉がいった。「おまえは何も知らず、情報も持っていなかった。ルイス・ウーからカルロス・ウーの医療システムの話を聞かなかったのか? クジン族から盗んだ宇宙船の話は?」 「聞いていません」 「必要になれば詳しく話そう。ところで──〈補修センター〉を占拠していたよこしまなプロテクターどもは、いつも勤勉だったというわけではない。隕石の衝突や、嵐の〈目〉や、浸食や、ときには海底がむきだしになる事態すら放置してきた。あの愚かな吸血鬼《ヴァンパイア》は、リングワールドの基礎構造が見える場所を数千も残している。そうした場所を見つけてある粉を混入するために、おまえとおまえの同盟者と召使いたちの手を借りたい。これまではわたし自身の種族の者たち、リングワールド全域にネットワークを持つ〈|屍肉食い《グール》〉と働いてきた。だがそれでは充分な数の裂け目に手が届かないのだ。われわれの動きはあまりにものろい」 「粉とは? 何をするものなのです?」 「おまえはただ──」 「わたしは自分で判断します!」 「プロセルピナ、わたしは対等のパートナーなど必要としていない! その粉はみずからスクライスの中にひろがっていくが、まずスクライスに触れさせなくてはならないのだ。どうすればより多くの粉を、リングワールドの床材と接触させられる?」 「|こぼれ山《スピル・マウンテン》にいるわたしの召使いたちは、平地では役に立ちません。窒息してしまうのです。ですがその粉を届けることができるならば、外壁で|こぼれ山《スビル・マウンテン》の稜線ぞいに撒き散らさせましょう。彼らは峰から峰へ気球で移動するのです」 「知っている。わたしの|こぼれ山《スピル・マウンテン》プロテクターたちもすでにそれをしている。ほかには?」 「〈|水 の 民《ウオーター・フォーク》〉がいます。彼らも使えるでしょう。海底の沈殿物を循環させる排出管《スピルパイプ》にも接触させる必要が──」 「フラップだな」 「ええ、フラップです。わたしたちもそう呼んでいます。フラップは海底に堆積します。わたしたちが手を出さなければそれはそこにとどまったまま、リングワールドじゅうの表土が四、五千年のうちに海の下に失われてしまうでしょう。ですからわたしたちは、スクライスの床面の下を通って外壁の外側をあがり、縁を越えてくるよう排出管《スピルバイブ》による循環システムを設置しました。それが|こぼれ山《スピル・マウンテン》となって、最終的に土を補充するのです。その粉を海底まで持っていくことができれば、そこからスクライスにひろげることもできるのではありませんか?」 「そうだな」 「どれくらいの時間がかかるでしょう?」 「いますぐにはじめれば、二ファラン以内に」 [#改ページ]      19 目 覚 め  ルイスは食べては、隠れた。  植物のあいだを這って、ジャングルの奥深くにもぐりこんだ。つねにうつ伏せたまま、物陰から手をのばして黄色い根を掘った。空中庭園はあまりにも狙われやすい。彼にはそれをどうすることもできなかったし、食料庫を去ることもできなかった。  地球とリグワールドのあらゆるヒト型種族が維持しつづけている特質が、少なくともひとつはある。プロテクターに変化する繁殖者《ブリーダー》は、ほかのプロテクターから見つからないよう隠れなくてはならないのだ。  影と光。数日がまたたくまに過ぎていった。  彼を探しにきたものはいないようだ。不思議だ。所属の決まっていないプロテクターは当然問題になるはずなのだが。つまり、リングワールドのプロテクターたちは、ほかに対処すべき問題をかかえているということか。〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉に関わっているため、お決まりの生死をかけた支配ゲームを無視しているのだろう。これはまずい。自分も手伝わなくては。  身体は変化し、精神は休みなく活動している。なぜ二十歳やそこらの彼が生命の樹を食べて、有効な変態を遂げることができたのか? 答は明らかだが、そこには重大な意味がふくまれている。  医療機《ドック》は彼の見かけを若返らせはしたが、ほんものの若者の身体を与えたわけではなかった。なぜだ? 〈作曲家《テューンスミス》〉は検屍解剖をするかのようにカルロス・ウーの自動医療装置《オートドック》試作品をひらいて、そのすべての謎を解明しようとした。また自分の理解した事実を確認するため──ほかにも理由はあったのかもしれないが──必要以上の長時間、ルイス・ウーをその中にとどめおいた。医療機《ドック》のナノテクノロジーは、おそらくは何度もくり返してルイス・ウーの遺伝子を書き換え、彼の身体は〈作曲家《テューンスミス》〉が望むときにいつでもプロテクターに変態できるよう、つくりかえられたのだ。  ナノテクノロジーをそこまで深く研究したのだとすれば、〈作曲家《テューンスミス》〉は現在、ノウンスペースのいかなる頭脳よりもこの問題に詳しいといえるだろう。  さて、彼はいまそれを使って何をしているのだ?  |のるかそるか《ロングショット》号の強奪とあわせて考えてみれば、答は明らかだ。  ルイスの思考はつぎつぎとわきあがる直感に導かれつつ、さまざまな謎を求めてさまよった。 〈至後者《ハインドモースト》〉はどこだ? |尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号の中だ。ガラス瓶のような船にはまだ隠された制御室がある。|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号はどこにある? それは問題ではない。|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を使えばいつでもたどりつくことができるし、問題はそれだけだ。ただ──あれは飛べるのだろうか? それを知らなくてはならない。  なぜ〈作曲家《テューンスミス》〉の鼻はあんなに大きく、プロセルピナの鼻は低いのだろう? 〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉の船の中には、ルイス・ウーの子供や直系子孫《N−チャイルド》がいるのだろうか?  |のるかそるか《ロングショット》号はどこにある? 〈作曲家《テューンスミス》〉があの船を調べるとしたら、ニードル号や自動医療装置《オートドック》の研究と同じく、火星の〈地図〉にあるオリンポス山の下の発進室だろう。あの発進室なら充分なスペースがある。この……無感覚状態をのりこえたら、まず第一に見にいくべきはそこだ。  すさまじい速度で思考が回転しているようなのに、精神は野原を舞う一万もの蝶のように、いたるところを照らしながらどこへも行けずにいる。そして身体は……なんといえばいいのだろう。  彼は隠れては、食べた。  ロクサニーはウェンブレスをどこへ連れていったのだろう? 彼女はルイス・ウーとそのプロテクターの同盟者たちから逃げた。もちろん、渡った橋は焼き落としたはずだ。|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の設定を変更し、もしかすると身を隠す前に最後のディスクを焼いたかもしれない。どうすればふたりを見つけられるだろう?  百五十一日が過ぎた。それはまどろみから目覚めたかのようだった。  彼は以前と同じように、泥と植物の茎になかば埋もれていた。両手で顔と身体をさぐり、新たな形態を知った。関節がふくらんでいる。睾丸が消え、ペニスも縮んでなくなった。頭蓋は一度柔らかくなって拡張したあとまた硬化して、てっぺんがわずかにとがっている。顔はこわばった仮面のようで、くちびると歯茎が溶けあって骨化している。鼻は大きくなっている。まるで道化のようだ。そしてその嗅覚は、まるで奇跡のように鋭敏だった。  ほほう! これでわかった。鼻の問題は解決だ。  人間の鼻はフードのような形をしている。そのおかげで、泳ぐときに空気を溜めておける。猿がフードのような鼻孔を持たないのは泳がないからだ。人間は、水中生活をふくめ、ありとあらゆる方角に向かって少しずつ進化した。なめらかなイルカのように、皮膚の大半が無毛であるのもそのためだ。  人間はまさしく、泳ぐよう運命づけられているのだ。  繁殖者《ブリーダー》が嗅覚の大半を失ったのは、そんなものがあれば気が狂ってしまうからだ。彼らは自分の子供に近づく見知らぬ者、それが医者であろうと教師であろうと、すべてを殺そうとするだろう。子供をあらゆるものから[#「あらゆるものから」に傍点]守ろうとし、その結果、狂気に奔《はし》ることになる。  ルイスの鼻は、〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉の環境都市《アーコロジー》大の隠れ家に敵がひとりもいないことを告げている。ここにある生命体といえば穴居動物と昆虫の類だけで、さらにもうひとつ、古い匂いが後脳にまっすぐ突き刺さってくる。  手の甲に埋めこんだ時計に目をやった。ふくらんだ指関節と手首の骨が、デジタル表示をゆがませている。これはキャニヨン時間だ。計算の結果、二ファランを無為に過ごしたことがわかった。あまりにも長い。だが間違いない。一日三十時間で百五十一日。古いARMの記録によると、ジャック・ブレナンはそれよりもかなりはやくプロテクターに変化したはずだ。  何か彼の変態を遅らせたものがある。  立ちあがろうとしながら、彼はすでにその答の見当がついていた。  まっすぐ立つことができなかった。黄色い根を食べはじめたとき、彼の身体は完治してはいなかった。負傷した形態のままに再成長が進められ、彼は障害を持ったプロテクターになってしまったのだ。左半身の膝と脚と腰とあばらがゆがんでいる。長すぎる仮眠のあいだにすべて燃焼しつくされ、脂肪はほとんどなくなっていた。  足をひきずりながら空中庭園を歩きまわって、身体の動かし方を学習しなおした。戦うことのできないプロテクターだ。手をのばしてアナグマのような動物の後脚をつかまえたが、それもひたすらにそいつがのろかったおかげだ。いそいで食べると、ようやく腹がくちくなった。  眼下に焼け焦げてなかば溶けた|積 層 盤《サーヴィス・スタック》がある。足をひきずりながら幾本かの斜路を降り、じっくりとながめた。もちろんもうつめたくなっている。制御装置をひらこうとしたが、金属が溶けて固まってしまっていた。  苦労して|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》によじのぼった。  何事も起こらない。  拳で縁を強く殴った。  火星だ!  身体をひねり、落下する前に両手をのばして、裏返しの|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》に押しつける。一瞬後、彼は長い草のそよぐ草原で逆立ちをしていた。すばやく[#「すばやく」に傍点]両足で立つと(〈作曲家《テューンスミス》〉はどこだ?)、そこは青い半球が蔽う生命の樹の庭園、かつて彼がティーラ・ブラウンを殺した場所だった。 〈作曲家《テューンスミス》〉は?  どこにもいない。  |跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の制御装置をひらいていじりはじめた。順番に片づけていこう。 〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉に長さ一マイルにおよぶ船が浮かんでいる。何世紀もの昔、地球の〈地図〉を征服するべくクジン族を運んだ、|秘密の族長《ヒドウン・ペイトリアーク》号だ。そこにも|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》がある。コードは記憶していなかったが、見つけだした。  |秘密の族長《ヒドウン・ペイトリアーク》号。ルイスは戦いか死かに遭遇することを覚悟し、神経をはりつめてそこに出現した。  襲ってくる者はいない。錆びた鉄壁で、ブロンズ色のフラクタルな蜘蛛の巣が彼を見つめている。 〈至後者《ハインドモースト》〉の蜘蛛巣眼《ウエブアイ》だ。それ以外に、防禦らしきものは見あたらなかった。  彼が|秘密の族長《ヒドウン・ペイトリアーク》号を離れたのは、リングワールドの|右 舷《スターボード》側外壁のほぼ真下だった。人を陽子《ブロトン》のようにちっぽけに感じさせる光景だ。あふれんばかりの緑に蔽われたエヴェレスト級の山がずらりとならんでいる。|こぼれ山《スピル・マウンテン》は、肥料そのものといっていい海底の泥でできているのだ。  船はあれから移動していなかった。司書たちは故郷に帰ったと、〈至後者《ハインドモースト》〉はいっていた。つまり、|秘密の族長《ヒドウン・ペイトリアーク》号は無人なのだろう。  ルイスは制御装置をひらき、このディスクをネットワークから除外した。これで誰もここにくることはできない。  わずかな時間をかせいで、ルイスはひたすら考えた。記憶は──長期にわたる繁殖者《ブリーダー》としての記憶は、混沌としている。だがこの一時間の記憶はダイヤモンドのように鮮明だ。  遠い昔──と思えるころ──彼は〈至後者《ハインドモースト》〉の|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》システムのネットワークを調べた。いま彼はその記憶をたどり、さまざまな場所の設定と配列を見つけだした。ほとんどが失われているが……いま必要なのは、最近組みこまれたものだ。  思考と記憶を働かせて、〈至後者《ハインドモースト》〉が|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》にあてたコードを割りだす。〈作曲家《テューンスミス》〉もこれを使っているだろうか? いくつかの設定を試してみよう。  与圧服を着ていたほうがいい。  彼は|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号に出現してさけんだ。 「〈至後者《ハインドモースト》の声〉! ルイスだ!」  のどの構造が変化していたにもかかわらず、ルイス・ウーらしい[#「らしい」に傍点]声が出せた。 「動かないでください。あなたはルイス・ウーではありません」〈至後者《ハインドモースト》〉に似た平板な声が命じた。  ルイスは静止した。ここは居住区画だ。一瞬、懐かしい食事とシャワーと着替えのことが頭に浮かんだが、いまはどうでもよかった。 「〈至後者《ハインドモースト》〉に、ルイス・ウーがプロテクターになったと伝えろ。話さなくてはならないことがある」 「ルイスなのですか? 警告したではありませんか!」同じ声がいった。 「わかっている。あんたがいまどこにいるかを話す必要はない。ぼくは与圧服をとりにきたんだ。〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉の監視はつづけているか? 何かあったか?」 「反物質ミサイルが外壁のラムジェットを一基、破壊しました」パペッティア人の声が告げた。「二十八リングワールド日前のことです。すさまじい爆発でした。反物質だけではなく、何キロトンものプラズマが圧縮されて核融合を起こしました。いくつもの|こぼれ山《スピル・マウンテン》が溶けました。どの勢力による行為なのかはわかりません。大混乱が生じると予測して出発の準備を整えたのですが、何も起こりませんでした」 「あの姿勢制御ジェットはあまりにも無防備だったからな。いまごろはもう〈作曲家《テューンスミス》〉が何かほかのものを準備しているだろうよ」  思考が言葉よりもさきにころがっていく。 「外壁のラムジェットは、リングワールドの建設者にとって、あくまで一時しのぎの安全装置にすぎなかったんだ。太陽に対する反発力を得るためには、システムを磁気的に動かす超伝導グリッドがある。いまそれは〈作曲家《テューンスミス》〉が制御しているよ」 「それは推測にすぎません」 「ぼくの推測はあたるんだ。プロテクターだからね。〈至後者《ハインドモースト》〉、ぼくの自由にさせろ。そうしたらあんたの船から出ていってやる」 「どのような気分ですか?」と、〈至後者《ハインドモースト》〉。 「自由がきかない感じだ。障害があるからね」ルイスは答えた。「ぼくは戦えないし走れない。これまでにない速度で思考できる。答もたくさん得られる。不自由な感じがするのはそのせいもある。毎回正しい答が得られるなら選択肢などいらないじゃないか。 〈作曲家《テューンスミス》〉は計画を立てている。彼がぼくの直系子孫《N−チャイルド》を脅かさないかぎり干渉するつもりはないが、それでも話はしなきゃならない。まずやらなくてはならないことがあるんだよ。あんたはどうだ? 何か計画があるか?」 「機会がありしだい逃げだすことです」 「よし。〈作曲家《テューンスミス》〉がニードル号を分解した場所を覚えているか? あそこに蜘蛛巣眼《ウエブアイ》のカメラは設置してあるのか?」 「オリンポス山の下です」 「|のるかそるか《ロングショット》号もそこにあるのか? あの船は動くのか?」 「彼はあの船を分解してもう一度組み立てなおしました。それ以来、試験飛行はしていません」 「カルロス・ウーの自動医療装置《オートドック》はどうなっている?」 「誰も手を触れていません」 「まだ床にひろげられたままなのか?」 「はい」 「ぼくが騒動をひきおこすから、それを待て。その後|自動医療装置《オートドック》を|のるかそるか《ロングショット》号にのせて、いつでも稼働できるようにしておけ。できるか?」  狂ったオーケストラのような悲鳴。 「なぜわたしがプロテクターの縄張りで盗みを働かなくてはならないのです!」 「だがそれで、ひとりのプロテクターを味方につけることができるんだぜ。〈至後者《ハインドモースト》〉、もう時間がない。〈作曲家《テューンスミス》〉はあんたの都合なんか考えない。彼は可能なかぎりすぐさま行動にはいるだろう。〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉がいつ激化するか予測できないからだ。いますぐリングワールドを離れなければあんたは永久に故郷にもどれなくなる。それはぼくも同じだが、ぼくにはもっと悪い運命が待っているのさ」  つづく沈黙の中で、ルイスは言葉を継いだ。 「あんたはぼくを捕虜にして、〈作曲家《テューンスミス》〉に引き渡そうかと考えている。それで何か買えるかもしれない。だがなぜそれが無駄か、話してやろうか? 隕石防禦室に、シートのついた可動アームが三本あっただろう。覚えているか?」 「覚えています」 「〈作曲家《テューンスミス》〉に必要なのはひとつだけだ」 〈至後者《ハインドモースト》〉は理解した。ある種のプロテクターくらいにはすばやく思考できるのだ。 「三頭政治ですね」 「彼はわざとぼくにあれを見せた。あれはメッセージ、約束だったんだ。〈作曲家《テューンスミス》〉とプロセルピナとぼく。彼は生き残ったパク人プロテクターの存在を推測し、いずれぼくにも生命の樹を食べさせるつもりでいた。ぼくが野放しになるとは考えていなかっただろうけれどね。古代ギリシャの奴隷のようにぼくの身体が不自由でも、気にしないだろう。彼が必要としているのはぼくの情報だ。〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉がどう展開するか、彼にはぼくほど的確な推測ができないんだ。  あんたはぼくを〈作曲家《テューンスミス》〉に売ることもできる。だがそのあとで結局、ぼくと取り引きをしなくてはならなくなる」 「船内を自由に動いてくれてかまいません」〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。  ルイスはゆがんだ身体にいちばん楽な姿勢でドサッとすわりこんだ。 「|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の主制御装置へのアクセスを許可しろ。いくつかの指示を書きなおさなくてはならない」 「あなたを見つけにくくするためにですか? 手伝いましょう」 「ぼくと、あとふたりのためにさ。手伝いはいらないよ」  |跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》のシステムを書きなおしてから、ルイスはニードル号の貨物区画に出現して与圧服を出した。ゆがんだ身体にはあわないが、なんとかなる。ロープ、拡大眼鏡、携帯レーザー灯など、いくつかの装備も手にいれた。  そして|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の制御装置をたたいて姿を消した。  軌道上だ。こういうこともあるだろうと思っていた。彼が求めていたのはごく最近配置された設定であり、中には軌道上の|積 層 盤《サーヴィス・スタック》にあたるものもあった。  ちょっとのあいだリングワールドの表面を見おろした。ふたつの〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉の中間にあたる、これまで一度も詳細にながめたことのない地域だ。ここにも黄土色の砂漠がいくつかひろがり、隕石孔が小さなあばたとなっている。そして雲の塊りが三つ──嵐の〈目〉だ。 〈作曲家《テューンスミス》〉はいまのところ、必要がないかぎり補修作業をおこなってはいない。いま取り組んでいる仕事のことを思うと、スクライスがむきだしになった地表を見つければむしろ喜ぶかもしれない。  飛行艇や宇宙船はひとつも見あたらない。これは予想していたよりましだ。〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉が地表まで到達していてもおかしくはなかったのだ。まだ時間はある。  たとえ〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉が間近にせまっていようとも、ルイスはこの遠出をしなくてはならなかった。プロテクターにはめったに選択肢がないのだ。そして彼はべつの設定を打ちこんだ。  やはり軌道上だが、べつの場所だ。二メートルほど離れたところで、ブヨほどの大きさのARMのカメラが彼を見つめている。  これでは計画がメチャメチャだ!  プロテクターの実物を見せてしまった。それとも、与圧服とゆがんだ身体のせいで、ほんの一瞬なら正体をごまかせるだろうか。  彼はディスクをたたいて、また姿を消した。  リングワールドの夜はそれほど暗くない。ここにあるものといえば、砂と低木と〈作曲家《テューンスミス》〉の|積 層 盤《サーヴィス・スタック》と、そして穏やかな海だけだ。ルイスはしばし歩きまわってみた。  砂は足跡を残していない。だが臭跡をたどることはできる。  ふたりはここに出現したが、長くとどまりはしなかった。彼らはフライサイクルという移動手段を持っている。ルイスは島をひとまわりして、拡大眼鏡で遠くの岸を調べた。フライサイクルは目立つはずだ。  何もない。もう一度やってみよう。  どことも知れぬ場所。出現した彼は枝と棘にとらえられた。  行動に移る前に周囲を見まわし、さぐった。革のような皮膚は棘などものともしない。固まった顔の背後で、心がニヤリと笑った。 〈作曲家《テューンスミス》〉はルイスのフライサイクルとランデヴーするよう、ここに|積 層 盤《サーヴィス・スタック》を送りこんでいた。  半年前のことだ。フライサイクルに乗ったロクサニーは何度も移動をくり返したのち、結局は諦めたのだろう。〈作曲家《テューンスミス》〉のプログラムは効力を保ち、|積 層 盤《サーヴィス・スタック》はフライサイクルを追いつづける。しかもロクサニーの知るかぎり、それにはセンサーとカメラが山盛りとりつけられているかもしれないのだ!  ついに彼女はフライサイクルをジャングルに乗り入れ、フライサイクルと|積 層 盤《サーヴィス・スタック》の両方の周囲に棘植物が生い茂るにまかせたのだった。  ルイスは携帯レーザー灯で慎重に植物を切断した。周囲の茂みが燃えはじめた。これはまずい。彼は棘の下に這いこむと、引っ掻き傷をつくりながら|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の周囲をまわり、さらに枝を切った。そして縁をたたいて|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》のスイッチを切り、丸焼けになる前に積み重なった浮揚プレートのてっぺんにのぼった。  この森は川にそってはるか彼方までつづいている。彼が出現したのはその真ん中あたりだが、いまは上空からみごとな景観を見おろしている。  移動手段を遺棄したあと、ふたりの異邦人はどこへ行くだろう?  それほど遠くまでは行かないだろう。ウェンブレスはロクサニーを、いちばん近い文明の中心地に連れていくだろう。彼は[#「彼は」に傍点]、異邦人がいずれの地でも歓迎されることを知っている。川をくだっていけば何かが[#「何かが」に傍点]見つかる。  二本の川が合流する場所に小さな村があった。円錐形の家に向かって漂っていくと、さけび声がした。 「ヴァスネーシットだ!」  ルイスは心の中で答えた。 「|そのとおり《ステット》」  森の火事がひろがりつつある。ロクサニーとウェンブレスがフライサイクルを捨てていったまさしくその場所で、衆目を集めようとするかのように煙の柱が立ちのぼっている。火のほうに目を向ければ、煙に縁どられた浮揚プレートの積層が見えるだろう。  それからどうする? 隠れるか? 逃げるか?  隠れる。彼らは|積 層 盤《サーヴィス・スタック》よりはやく走ることはできない。  ルイスは匂いを嗅いだ。人口は千から千五百、肉食性で、年寄りは少なく、寄生虫は多いが、病気は少ない。そして──。  よし。  彼は|積 層 盤《サーヴィス・スタック》を村の広場におろした。村人たちが集まってくる。背が低くてたくましい、狼のような顔をした男女だ。深い眼窩におさまった両眼は正面を向いて、小さく鋭い口もとがわずかにつきだしている。  話しかけてきた長老の言葉は、ルイスには理解できないものだった。身ぶりで黙らせようとしたがうまくいかなかったので、長老の鼻をつまんで押し倒した。ちょっとしたこぜりあいののち、男はおとなしくなった。  これでいい。  ルイスは匂いをたどった。その源はいくつもの家を転々としていたが、戸外を通って移動したのならば匂いはもっと強いはずだ。村の下にトンネルがあるのだろうか?  いきなりひとりの若者がロクサニーのソニック銃を手に、戸口からとびだしてきた。  ルイスのレーザービームが金属の銃把をとらえる寸前に、音波が彼をかすめた。  ──慎重にいけ──!   男は銃をとり落とし、家に逃げこんだ。いまの男は〈|狼 人 種《ウルフ・ピープル》〉ではなかった。ルイスより数センチ背が低く、頭と顔のまわりに茶色い巻き毛が生えているが、それ以外は無毛だ。明らかに人間だった。  そしてルイスの鼻は彼を知っていた。 「ウェンブレス!」  ルイスは脚をひきずりながら彼のあとを追った。 「話をしたいだけだ」  逃げられるのではないかと不安にかられながら、家の中へと追っていく。足をひきずってはいても、ルイスの動きは彼らよりもすばやかった。頭にふりおろされたものを受けとめて向きなおり、金属棒と手首をつかむ。 「ロクサニー」  彼女の戦意が消えた。彼女は底無しの恐怖をこめて彼を見つめていた。 「いったい何者なの?」 「ヴァシュネーシュトを信じていないのか?」  彼女は反応しない。冗談が通じなかったようだ。 「ルイス・ウーだ。あんたのソニック銃のせいで身体がゆがんだままだが、とにかくぼくはプロテクターになった。あんたたちは運がよかった。あんたの指示した場所に行っていたら、あんたたちも生命の樹を食べていただろう」 「ルイスですって?」  彼は匂いを嗅いだ。彼女はルイスの血に連なる子供を宿している。いまや彼女は、危害を加えられる前にルイスを殺すことができる。 「気づいているのか──?」 「妊娠のことね。よくあることよ」  ロクサニーは彼の目を見つめた。 「あなたは生殖能力があるっていってたわよね」 「それはウェンブレスの子供だ。匂いでわかる」 「|それはいいの《ステット》。でもあなたは[#「あなたは」に傍点]、なぜ生殖能力があったの? ほとんどの男は出産権を使い果たしているわ。ルイス・ウーはちがったの?」 「ロクサニー、人生では思いもかけないことが起こるもんだ」  彼女の顔を微笑がかすめた。 「そして、なぜわたしに[#「わたしに」に傍点]生殖能力があったの? これはほんとうに[#「これはほんとうに」に傍点]、あなたが仕組んだことではないの?」  ルイスは答えた。 「誰かがあんたの医療指示を書き換えたんだろう。|人食い鰐《グレイ・ナース》号では全員が同じ医療機《ドック》を使っていたんじゃないのか? 誰かがあんたを妊娠させたくて、避妊処置をオフにしたんだ」  それがもっとも合理的な回答だった。  ロクサニーがいった。 「ジンナ・へンダースダッター一等検視官だわ。わたしがオリヴァを奪ったと思っていたから」  彼女は落ちつきをとりもどした。 「それじゃ、プロテクターも間違うことはあるのね?」 「充分なデータがなければね。プロテクターがたがいに後知恵で批判しあうのはそのためさ。ロクサニー、ぼくはただ話をしたいだけで、すぐに消える。ウェンブレス?」 「彼女に怪我をさせるな」  土間にあいた穴から、ウェンブレスが頭と両腕をつきだした。しばらく前からそこにいたのだ。彼の茶色い髭はいくぶんカールしていて先端が白い。細胞賦活剤《ブースタースパイス》によって若返った彼は、ティーラ・ブラウンの面影を宿すと同時に、若いときのルイス・ウーにとてもよく似ている。彼はボウガンをかまえている。 「近づくな」  手を離すとロクサニーがあとずさった。ウェンブレスは矢を放つだろうか、自分はその矢を素手でつかむことができるだろうかと思案ながら、ルイスはじっと立っていた。 「|共 通 語《インターワールド》を覚えたんだな」 「そうだ。ロクサニーはARM艦隊にもどりたがっている」  ──どうやって──?  もどる方法がわかったら、すでに阻止していたはずだ。 「ロクサニー」彼はたずねた。「|巻き貝矢魚《スネイル・ダーター》号の記録装置《ライブラリ》をどこにおいてきた?」 「|人食い鰐《グレイ・ナース》号にもどしたわ。なぜ?」 「ぼくの子供、そしてその直系子孫《N−チヤイルド》が何人か、ARM艦隊に加わっているかもしれない。名簿を見なくてはならない。艦隊の全艦に最新情報があるはずだ」  彼女は笑った。 「ARM艦隊には何万もの人間が加わってるのよ! それをぜんぶ調べるつもり?」 「ああ」  彼女は肩をすくめた。 「プロセルピナがとってきたかもしれないわね」 「あんたたちはここを離れなくてはならない。|積 層 盤《サーヴィス・スタック》を持ってきた。設定を書き換えるから、フライサイクルを追うこともない。見つかってはならないんだ。ぼくは|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の設定をたどるだけで、ここまで追ってこられた。森からは匂いをたどってきた。ウェンブレス」 「そんな鼻だ、驚くことでもない」ウェンブレスが無礼な言葉を吐いた。  ルイスは大きくなった鼻に触れた。 「知っているか、あんたはぼくの息子なんだぜ」  ウェンブレスが不信をこめて鼻を鳴らした。 「むしろおまえがおれの息子だという話のほうが信じられる! だがおまえは見かけよりも年をとっているんだったな」 「あんたは見かけよりも若いんだ。ぼくは近代的な医療技術を使っていない人間を見たことがなかった。脱毛処理も、タンニン剤《ピル》も、歯科治療もしていない。てっきりべつの種族だと思っていたよ。だが、あんたの母親はティーラ・ブラウンだったんだ」  ロクサニーが首をふった。 「彼女は五年の避妊処置をしていたはずよ」 「ぼくの子供がほしかったんだ。地球を離れる前に避妊処置を取り消したにちがいない。それには出産権をふたつとも使うことになる。ぼくには[#「ぼくには」に傍点]一度も打ち明けてくれなかったがね」  ウェンブレスがさえぎった。 「待て。ほんとうなのか。おまえが[#「おまえが」に傍点]おれの父親だと?」  彼は愕然としていた。 「ああ──」 「なぜおれたちを捨てた?」 「ティーラがぼくを[#「ティーラがぼくを」に傍点]捨てたんだ。ぼくはあのとき、彼女は〈|探す人《シーカー》〉のためにぼくを捨てたんだと思っていたが──」 「だが、おまえは何をしたんだ?」 「ぼくは彼女を守らなかった」  彼女自身の幸運に逆らってそんなことができるわけもなかった。 「彼女は嵐の〈目〉につっこんでいって、ぼくらは彼女を見失った。再会した彼女は〈|探す人《シーカー》〉といっしょだった。〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉の近くでぼくらと別れたとき、彼女はあんたを身ごもっていたんだろう。その後の行動は推測でしかないが」 「おまえはヴァシュネーシュトだ」ウェンブレスがいった。「推測を誤らない。おれにはどうしてもわからなかった。なぜ母さんはおれたちを捨てた?」  もう出発しなくてはならない。一秒一秒が貴重なのだ。その昔、プロセルピナの仲間たちはリングワールド星系から脅威となる岩をひとつ残らず排除した。いま、そこには船があふれている……。  だが息子とまだ生まれていない孫を前にして、ルイスはここにとどまりたい思いにかられていた。それにウェンブレスを安心させてやらなくてはならない。 「ぼくはティーラと〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉の近くで別れた。あのころのリングワールドには、まだ|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》はなかった。〈|探す人《シーカー》〉── 彼女がぼくの代わりに選んだ男──は、外壁ぞいに走る輸送手段の使い方を知っていたんだろう。磁気浮揚システムだよ、ロクサニー。彼らは外壁まで行くなんらかの方法を見つけた。〈建造者《ビルダー》〉の技術がやまほど残っていたからね。そして磁気浮揚システムを使って〈他方海洋《アザー・オーシャン》〉まで行ったんだ。  狂気の沙汰だと思うかもしれないが、彼らは何か恐ろしいものから逃げていた。ぼくじやない、と思う。彼女はぼくがそれを持ちこむだろうと考えていたかもしれないけれどね。つまり、〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉さ。あるいはティーラはパペッティア人を恐れていたのかもしれない。ネサスは彼女の人生に干渉し、だいなしにした。彼女は二度とごめんだと考えたにちがいない。その場所にとどまれば、いつかまたぼくらが探しにくるとわかっていたんだ。  だから弧を半分も移動した場所に住みついて、〈|探す人《シーカー》〉とあんたとの生活をはじめた。幸せな暮らしだったことを祈るよ」 「母さんは幸せだった」ウェンブレスがいった。「だがいつも落ちつかない感じだった。つぎの子供も生まれなかったし──」 「そりゃ当然だ。〈|探す人《シーカー》〉とは種族がちがうんだから」 「母さんと──〈|探す人《シーカー》〉──おれの父さんは」  彼はジロリとにらみつけた。 「かわるがわる探検に出かけた。ふたりが何を探していたのか、おれは知らない。どちらかひとりが必ずおれのもとに残ってくれた。おれが大きくなると、それはさらに頻繁になった。おれが八十ファランに近くなったころ、母さんが姿を消した」 「そして二度ともどらなかった?」 「そうだ」 「生命の樹を見つけたんだな」  ──ティーラの幸運か。かわいそうなティーラ。むしろ幸運だったのは、彼女の遺伝子のほうだろう──。 「どのようにそれが起こったのか、正確なことはわからない。だがあの芋はパク世界の〈地図〉ひとつひとつで生育し、ほとんどの〈地図〉にはかつてプロテクターの囚人が閉じこめられていた。プロセルピナのように、あの根に生命の樹のウィルスを感染させる方法を見つけたプロテクターもいただろう。そしておそらく、ティーラは〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉の庭園を見つけたんだ。ひとりで探検していたおかげで、〈|探す人《シーカー》〉はまきこまれずにすんだ。彼女はプロテクターとなって目覚めた。ウェンブレス、あんたをより大きな危険から守るためでなければ、彼女はあんたのもとを去ったりはしなかったはずだ」  ウェンブレスが顔をしかめた。 「いや、ほんとうだ。彼女はぼくら全員と同じことに気づいた。火星の〈地図〉の下に何があるかも推測したにちがいない。ロクサニー、そこには地球の陸地すべてと同じくらいの容積を持った、高さ四十マイルの空洞があるんだ。見落とすはずはない。リングワールド全体の〈補修センター〉だよ。ティーラは外壁のラムジェットがほとんどなくなっていることにも気づいた。誰かが〈補修センター〉にはいって、太陽をかすめる前にリングワールドを安定させなくてはならない」  ──彼女は権力を欲してもいた。なんといったってプロテクターだったんだからな──。 「彼女は外壁の磁気浮揚システムに乗って、そのあとはなんらかの手段を講じて、〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉の火星の〈地図〉までやってきた」  思考が口よりもはやく走る。 「もしかするとまず、古代パク人らがどう暮らしているかを見ようと地球の〈地図〉に行って、そこで|秘密の族長《ヒドウン・ペイトリアーク》号を見つけたのかもしれない。だからあの船が火星にあった──」  ロクサニーがたずねた。 「何がですって?」 「いや、気にしないでくれ。とにかくつぎに、ティーラはブラムを殺そうとした」 「ブラムって?」と、ロクサニー。  そしてウェンブレスがたずねた。 「殺す? 母さんが?」  ルイスは説明した。 「〈補修センター〉にはすでにプロテクターがいたんだ。ティーラはブラムのことは知らなかったが、たとえ[#「たとえ」に傍点]誰かがそこにいたとしても、義務を果たしていないことは明らかだった。外壁の姿勢制御ジェットの盗難を放置していたんだからね。だったらそいつの首をすげかえなくてはならない。  ウェンブレス、ぼくはブラムと話した。そして何が起こったのか、彼なりの解釈を聞かされたよ。ブラムの知性はプロテクターとして最上級のものではなかった。彼はけっして、つぎの段階を予測することができなかったんだ。  ティーラはプロテクターだった。だからやるべきことをやった。彼女はおそらくどこかの〈地図〉でひとりの老人を選び、自分も変装した。そしてその男といっしょに、繁殖者《ブリーダー》の夫婦を装って火星の〈地図〉に行き、〈補修センター〉を調べた。生命の樹の庭を見つけたとき、ティーラはすでに見るべきものは見つくしていたか、あるいはブラムの匂いを嗅ぎつけるかしていただろう。どこかにプロテクターがいるんだ。彼女は男に生命の樹を食べさせ、自分も食べた。  男は死んだ。ティーラは昏睡にはいったふりをした。しばらくのあいだじっと横たわっていただろう。ブラムがやってきて彼女の正体を調べ、プロテクターとして目覚める前に殺そうとするのを待ったんだ。そこを不意打ちにして、彼を殺すつもりだった。  だがブラムはこなかった。やつはそのまま彼女を目覚めさせようと考えたんだ。そこで彼女はもうひとつの計画に移行した。自分がブラムの存在に気づいていることを悟らせないまま、火星の〈地図〉を去った。そして外壁ジェットの修復にとりかかり、それから……首尾よく自分を殺させた」 「どうやって? ルイス、母さんはどうやって死んだんだ?」ウェンブレスが詰問した。  ボウガンをかまえたままだ。  彼女はルイスとその仲間を襲い、わざと戦いに負けた。ルイスは自分の手で彼女を殺したのだ。 「ぼくらはブラムの手の内にあった。生きているかぎり、ティーラはぼくらを人質にとられ、やつのために働かなくてはならなくなる。だがやつは無能だった。リングワールドを救うために、彼女は死ななくてはならなかった。そして死んだ」 「だけど──」  ルイスは強引に話題を変えた。 「いま大事なのは、あんたたちのためなら、ぼくはなんだってするということだ。実際問題として、あんたたちはもう一度行方をくらませなくてはならない。支配者であるプロテクターたち、〈作曲家《テューンスミス》〉とプロセルピナに見つからないでいるということが、言葉に尽くせないほど重要なんだ」 「彼らが何をするというの? わたしたちを殺す? 尋問する?」 「彼らはあんたたちを守ってくれるさ」  ウェンブレスがボウガンをおろした。手がふるえている。 「ヴァシュネーシュト! |わかった《ステット》。おれはここの連中が好きだが、よそへ行こう。おまえはその行き先を知っていないといけないのか?」 「ぼくがそれを知ってはならないんだ」ルイスはきっぱりといった。  外に出た。〈|狼 人 種《ウルフ・ピープル》〉の若者たちが|積 層 盤《サーヴィス・スタック》によじのぼっている。ルイスは彼らを追いはらい、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》と浮揚プレートの制御装置を設定しなおした。  ウェンブレスとロクサニーもあとについて出てきた。 「ぼくは消える。ぼくが行ってしまったら設定を書き換えろ。それからこの#記号のスイッチ[#「#記号のスイッチ」に傍点]を押して、姿を消すんだ。あとは好きなところへ行けばいい」 「そうすればあとを尾《つ》けられないの?」 「そう仕組んでおいた、ロクサニー。姿を消す前に#記号のスイッチを押しさえすれば、あんたたちは幽霊《ゴースト》になる。だがそうしておいても、〈作曲家《テューンスミス》〉なら間もなく見つけてしまうだろう。だからせめて……半日くらいはあちこちをとびまわって時間をかせいでくれ……それから移動をやめて、|積 層 盤《サーヴィス・スタック》から離れるんだ」  そしてルイスは姿を消した。 [#改ページ]      20 隠 蔽 工 作  発進室。  ここの用事は一瞬で片づく。  ルイスは作業場と、|のるかそるか《ロングショット》号と、ナノテクの自動医療装置《オートドック》を見たかったのだ。  組み立てなおされたカルロス・ウーの自動医療装置《オートドック》は、ルイスが出現した|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の周囲に部品ごとにならべられていた。道具が散らばっている。その用途は大半が推測できる。ケーブルと虹のようなレーザー光の糸が二十もの機器の山につながっている。この迷路を解くには数分かかる……〈至後者《ハインドモースト》〉ならば一時間以上かかるだろう。  高さ一マイルの球体、|のるかそるか《ロングショット》号がそびえている。一見したところ、一部が解体されているようだ。底近くで、それだけで見本市の会場ほどもありそうな湾曲したハッチが大きな口をあげている。周囲にはいくつもの装置が積みあげられ、軽そうな緩衝材がいたるところに散らばっている。  もう一度見てみると、それらはハイパードライヴ・システムに必要不可欠な機械ではなかった。ゼネラル・プロダクツ製二号船殻──これは救命艇だ。あれはタンク。使用時にふくらませるタイプの、地上用および軌道上用の居住室。海水を吸いあげる重水素精製装置。明らかに場所ふさぎのためだけのものもある。ゆがんだ船殻備品は、つけっぱなしの立体映像投射機《ホロプロジェクター》が見せている映像だった。 〈作曲家《テューンスミス》〉は作業にあたって貨物と緩衝材をすべてとりだし、調査を終え、船を組み立てなおしていた。ハッチを閉じ、そして──ルイスは一瞬とほうにくれた。  どうやってこの洞窟を出るのだろう。  フウム?  線形加速砲《リニアキャノン》が世界の終焉のような轟きをあげた。稲妻が床の穴から上昇し、オリンポス山をつきぬけていく。そのあとの静寂の中にプロセルピナの声が響いた。 「気づかれてしまいます!」 〈|屍肉食い《グール》〉語を使っている。  彼らは孔のそばで線形加速砲《リニアキャノン》を見おろしていた。プロセルピナと〈作曲家《テューンスミス》〉と、小さなプロテクターがふたり──どちらかがハヌマンかもしれない。 〈作曲家《テューンスミス》〉が吼えた。 「彼らはわたしの存在を知っている。わたしが行動していることにも気づくだろう。頭のある者ならば、いまごろはもう火星の〈地図〉の下に何があるか推測している。わたしがリングワールドの床面の孔をふさいでいるので、胸をなでおろしている者だっているだろう」 「……危険は?」 「ほとんどの艦隊はミサイルを使っているが、反物質爆弾ひとつでは〈補修センター〉にさしたる損傷を与えることはできない。敵はわたしが傷ついたか怒ったかもわからず、逆に自分の所在を知らせるだけのことだ。たしかに危険はある。時間かせぎだ。ARMやその他の連中に、火星のプロテクターが何を企んでいるかと首をひねらせたくないのだ。そう、わたしはいま孔をふさいでいる。だから悪さをしている暇はない」  彼らには与圧服を着こんだルイスの匂いは伝わらない。ルイスのほうも匂いを嗅ぐことができないので、ひたすら周囲を見まわした。離れた場所に〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉のプロテクターが何人か。医療機《ドック》の集中治療装置には蜘蛛巣眼《ウエブアイ》のカメラがスプレーされている。  彼はそれに向かって手をふった──やあ、〈至後者《ハインドモースト》〉──! 〈作曲家《テューンスミス》〉もこのカメラを使っているということはありうるだろうか? 「……孔が必要ですか?」 「それは片づいた。われわれはほとんど……」  聴力がもどってきたのだろう、彼らの声が低くなった。このままではこれ以上の情報を得ることはできない。  彼らが耳をふさいだので、ルイスもそれにならった。線形加速砲《リニアキャノン》の雷鳴が上昇すると同時に、ルイスは汎用道具《グリッピ》をひろいあげて、六十メートル離れたプロセルピナの頭に向かって投げつけた。プロセルピナがそれを受けとめ、ヒュッと投げ返した……危ない──そのままでは供給装置《サービス・ウォール》にあたって、破片の雨を降らせるところだ。  ルイスは踊るように供給装置をまわりこみ、飛んできた汎用道具《グリッピ》をとらえて斜めに床に投げつけ、バウンドさせてプロセルピナを狙ったが、彼女はそれをも受けとめて返してきた。  ふいに、道具やさまざまな大きさのコンクリート塊や、ルイスほどもある細長い動物の死骸など、雑多なものが宙を飛びかいはじめた。動物は手の中でバラバラになってしまったが、それ以外のものは受けとめて投げ返した。タンクの栓をひねって供給装置《サーピス・ウォール》の背後にはいり、ヒョイと顔を出して汎用道具《グリッピ》と熔岩片を投げ返す。  タンクから噴きだした羽毛のように軽い梱包用プラスティックの背後にまわりこみ、頭上に蹴りあげ、彼らがその中にルイスを探しているあいだに、タンクのうしろに身を隠す。汎用道具《グリッピ》が発泡プラスティックを貫いて切り裂き──。  いまやあまりにも多くのものが動いていた。胴や腰がバラバラになりそうだ。ルイスは飛んできた物体を受けとめ、しばらくお手玉にして見せてから、下におろした。そして足をひきずりながらプロテクターたちのほうに向かった。  プロセルピナがいった。 「妙な男ですね──」 「なぜそのように自分の身が安全だと信じられるのだ?」〈作曲家《テューンスミス》〉がたずねた。 「ぼくのための椅子が用意されている。あんたはぼくの変態に手を加えた」 〈作曲家《テューンスミス》〉がいった。 「ルイス、予定がすっかり狂ってしまった。おまえが根を食べるのははやすぎ、変化は遅すぎた。ARM船の爆発ははやすぎた。おかげでこっちは〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉の各勢力の行動を予測できるだけの時間がとれなかった。では──話せ。彼らはどう出る?」 「まずは、まともかどうかのチェックをしたらどうだ?」 「誰の?」 「|のるかそるか《ロングショット》号の仕組みを解読したな?」 「ああ」 「そしてその原理を百京のナノテク装置に埋めこんだ。多大な改良を加えた自動医療装置《オートドック》試作品を使って」 「その数は──」 「それからリングワールドに埋めこまれた超伝導ネットワークに微小塵《ナノダスト》を流しこんで、その構造を変化させた?」 「そうだ。プロセルピナと協力者たちの手を借りて」 「プロセルピナ、あんたも賛成したのか?」 「そうです、ルイス。地表に充分な孔がなかったので、ところどころで穿孔しなくてはなりませんでしたが──」 「そいつはうまく働いているのか[#「うまく働いているのか」に傍点]?」 〈作曲家《テューンスミス》〉が答えた。 「おそらく」 「|わかった《ステット》。ぼくは正気で、あんたたちも正気だ。さもなきゃ全員が狂っているんだろう。出発の準備は整っているのか?」 「貯蔵エネルギーが保《も》てば、おそらくうまくいく。|遮 光 板《シャドウ・スクエア》と太陽はともに数にいれていない。実施期間はせいぜい二日だ。だがルイス、わたしはナノシステムによる変質が全グリッドにいきわたったかどうか、確信できないのだ。あとどれくらいの時間があるか、知らなくてはならない。〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉はどう出る?」  ルイスの思考が躍り、新たな道筋をひらいた。 「新しい昼夜システムをつくったらどうだ、〈作曲家《テューンスミス》〉。ほんもののダイソン 球《スフィア》 がいいじゃないか。太陽を中心に、直径一千万マイル。リングワールドはその周囲をまわる。光圧でふくらむように、太陽帆《ソーラーセイル》くらいに薄くつくれ。リングワールドの昼をつくるために窓をあけて。ほかの部分が光電変圧器の役目を果たす。太陽エネルギーのほとんどを集めることができるぞ」  プロセルピナがいった。 「あなたはフレッシュすぎます」 〈|屍肉食い《グール》〉語では、まだ食べる時期にいたっていない肉を意味する。未熟さを非難する言葉だ。 「プロテクターは注意散漫になる危険性があります。問題はひとつずつ解決していかなくてはなりません。いまは〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉艦隊の問題です。彼らはいつ攻撃してくるでしょう?」 「ほかの問題もあるぞ──」 〈作曲家《テューンスミス》〉が吼えた。 「やめろ! すでにどこかの勢力が姿勢制御ジェットを破壊しているのだ。誰が? なんの目的で? 故意に挑発しようとしているのか?」 「それを見せてくれ。隕石防禦室に行こう」  そして彼らは姿を消した。 〈至後者《ハインドモースト》〉に合図を送る暇はまったくなかった。パペッティア人にはいますぐ[#「いますぐ」に傍点]、行動してほしいのに。  隕石防禦室。  プロセルピナと〈作曲家《テューンスミス》〉がそれぞれ自分の席へととびのった。身体のゆがんだルイスは三番めのシートによじのぼらなくてはならなかった。  彼は|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》があるはずの場所を探した。いま通ってきたものには明確な印がついている。〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉のプロテクター、ハヌマンが、印のないディスクから出現して指示を待っている。ほかにもあそこ[#「あそこ」に傍点]かあそこ[#「あそこ」に傍点]に隠してあるはずだ。おそらく三枚か四枚。それ以上ということはない。  それにしても、アームに載せたこのシートはなぜこんなに大きいのだ?  壁には太陽から眺めたリングワールド星系が映しだされている。星野を背景に、白い糸のような輪郭だけが見わけられる。 「ポインターはないのか」  そうたずねてから、タッチポイントのついたノブを見つけた。 「|よし《ステット》。あれはアウトサイダー船だ、そうだな? 二隻。ほかにもいるのか?」 「いや」 「あのように異質な存在が、ぼくらに真の関心を抱いているわけはないさ。これが」  レンズ形と球形の船をポインターで示した。 「クジン族で、こっちはARMだ」  いくつもの小型船をくっつけた長い挺子だ。 「鉤爪鞘《シースクロウズ》の船が見あたらないな」 「彼らは姿を消した」 「退去命令が出たか、あるいはクジン族から逃げたのかもしれない。クジン族はテレパスを奴隷として使っているからな。あんたたちの頭を悩ませている問題はなんだ?」 「相互作用です」プロセルピナが答える。  なんとかして時間をかせぎ、プロテクターたちの注意を何かにひきつけなくてはならない。ルイスはいくつもの船を線でつなぎ、ベクトルの矢印を書き加えた。 「いいか? 距離と速度と重力だ。このすべてを考慮にいれなくてはならない。複雑で──」  プロセルピナが鋭い声をあげた。 「複雑ではありません! ただ異質なだけです。わたしたちは銀河の核からリングワールドの現在地までずっと同じことをしてきたのですから! いまは拮抗していますが、ここが[#「ここが」に傍点]不安定で──」 「ああ。そのバランスも長くは保《も》たない──どこかの反体制派が、たとえば〈第一種族〉の派遣軍がこの[#「この」に傍点]船を動かして──」 「なぜいままで保《も》っていたのか、どうやれば今後もこの状態を維持できるのか、わたしにはわからない」と、〈作曲家《テューンスミス》〉。「だがルイス、おまえは彼らのことをぜんぶ知っているはずだ」 「いまはもう無理だよ。あんたたちはアウトサイダー人の影響を忘れている。彼らはほかのどの勢力よりも強力で、それはみんなが承知していることだ。彼らはただこの場にいるだけで、いままですべてに安定をもたらしてきた。みんな、アウトサイダー人がつぎにどう出るか、頭を悩ませてきたんだ。だがアウトサイダー人は何もしない。そして〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉全体が徐々にそのことに気づきはじめている」  いまや彼には崩壊のパターンが見えはじめていた。こっちでは戦力を増強し、こっちでははったりをかませている。棒のようなARM船が二隻、巨大なクジン族のレンズを破壊しようしている。三十一隻の船が保護を求めてアウトサイダー船の周囲に集まっているが、その保護は月面の夜明けの霜のように消えてしまうだろう。  クソッ、バランスなどありはしない。 「〈作曲家《テューンスミス》〉、これはいつ崩れるかわからないカードの家だ。待つな。いつ移動できる?」 「半日後だ。運がよければ」  ルイスは衝撃を受けてふり返った。 「なぜそんなにかかる?」 「|遮 光 板《シャドウ・スクエア》内のパワーすべてを超伝導グリッドに流しこまなくてはならない。いそぎすぎると洩れて──」 「縁《リム》のラムジェットから電磁流体パワーをとれないか?」 「すてきなアイデアだな。それにはかなりの変更と、二、三十日の期間と、|こぼれ山《スピル・マウンテン》のプロテクターが千人ほど要る。いまの計画に必要なのは半日、そして出発[#「出発」に傍点]、それで〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉の心配はなくなる」 「いますぐはじめろ」ルイスはせかした。 〈作曲家《テューンスミス》〉は辛抱づよく説明した。 「おまえはいまやってきたばかりだ。わたしたちは、もちろんおまえも[#「おまえも」に傍点]、二十八日前に攻撃してきた相手が誰かすら、知ってはいない。危険はどこからくる? それをなくすことはできるか? 超伝導ネットが再編成され、新たな形態に結晶してからまだほんの二ファランだ。変化が完了していたとしても、テストは必要だ」  ──ときには賭けも必要だ──。  だがもっと圧力をかけないと〈作曲家《テューンスミス》〉はすぐには行動しないだろう。 「どのように起こったのか、見せてくれ」  空が変化した。船の位置が変わっているが、星はその場にとどまっている。リングワールドの確固たる存在が浮かびあがる。ひとつのフレームが姿勢制御ジェットを拡大した。軸に白い火の筋が走る、透き通ったきらめくネットで磁気的に組み立てられた回転双曲面体だ。  ふいにそれがひどく明るく輝き、光が薄れたときには──モーターはなくなっていた。外壁が一部削りとられ、そのふもとでは|こぼれ山《スピル・マウンテン》が炎をあげている。 「わかったのはこれだけ[#「これだけ」に傍点]なのか?」 「さまざまな周波数で撮っている」  水素アルファ線で再生。ルイスは手をふってそれを消した。 「パペッティア人にしてはあからさますぎるし、クジン人にしては控えめだ。たぶんクジンの反体制派だろう。ロクサニーにたずねてみることもできるが、ARMにも反体制派はいるはずだ。あるいは、両サイドともにいくぶん弱体化してほしいと望んでいる誰かだな。トリノック人とパペッティア人については何事も断言できない」 「たいした役には立たん」〈作曲家《テューンスミス》〉が同意した。 「ティーラ・ブラウンについて知っていることを教えてくれ」  プロセルピナがたずねた。 「それは誰ですか?」 「かつてパペッティア人が馬鹿げた計画を立てた」〈作曲家《テューンスミス》〉が語った。「彼女はその犠牲者だ。ピアスンのパペッティア人は人類空域にゼネラル・プロダクツという商社をひらき、地球で出産権籤引きをはじめた。幸運な人間の血統をつくろうとしたのだ。実際に彼らの手にはいったのは、ティーラ・ブラウンのような数人の統計的まぐれ当たりにすぎなかった。彼女は……ルイス! おまえとティーラ・ブラウンのあいだに子供がいるのか[#「子供がいるのか」に傍点]!」  ルイスは口をつぐんだままだ。 「おまえの子供はどこにいる[#「どこにいる」に傍点]?」  ルイスは何も答えない。  プロテクターにとってポーカーフェイスは簡単だ。むしろ身体表現のほうが難しい。動きがあるまでじっと待った。  プロセルピナが大きくジャンプしてシートを離れた。〈作曲家《テューンスミス》〉もべつの方角にとびおりる。ハヌマンは迷いながら、印のついた|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》──遠くのやつだ──のそばにとどまっている。プロテクターたちが立場を明らかにすると同時に、ルイスは〈作曲家《テューンスミス》〉の席に向かってとびだした。  いずれかのシートが|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》のはず[#「はず」に傍点]だった。うってつけの隠し場所だ。ふたつ用意することはないだろうが、三つのシートすべてが厚く大きくつくられている──もちろん〈作曲家《テューンスミス》〉のすわっていた席がそれだろう。この部屋のほかの|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》はすべてガードされている。  もし推測が正しければ──正しかった。ハヌマンがすぐさま同じシートに向かってとびだしてきたのだ。  さきにたどりついたのはハヌマンだった。アームが大きく横揺れをはじめる。だがルイスもすでにたどりついていた。ハヌマンが強力な蹴りを放ったが、ルイスのほうが重い。彼はハヌマンを|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》にたたきつけ、目眩を起こしている彼の身体ごしに縁をたたき、ディスクを稼働させた。ふたりの姿が消えた。  掌底を頭部にたたきつけると、ハヌマンはグッタリとなった。ルイスがグイと押すとハヌマンの身体が宙に舞った。腰がズキズキする。さっき受けた蹴りでどこか折れたらしい。  ここは火星の地下のどこかだ。彼はディスクの縁をたたき、すばやく[#「すばやく」に傍点]制御装置に指を走らせた。  出現し、さらに縁をたたいた。  もし〈作曲家《テューンスミス》〉がこの砂だらけの不毛の島まで追ってきても──もしくはハヌマンがいまから一、二分後に信号を送っても──見つかるものは数時間前につけられたルイスの足跡だけだ。もしかするとウェンブレスとロクサニーの臭跡に気づくかもしれないが。  そしてもしティーラの遺伝子が幸運ならば、ウェンブレスとロクサニーとその子供は、いまごろはるか〈作曲家《テューンスミス》〉の手の届かない場所にたどりついているだろう。だが、生き残っている遺伝子パターンはすべて、非常識なまでに[#「非常識なまでに」に傍点]幸運なのだし、ティーラの幸運は〈作曲家《テューンスミス》〉にとってカホなほどどうでもいいことだ。それが何を意味するのか──。  ルイス・ウーが自分の血統を利するためには、答を隠しておけるかぎり〈作曲家《テューンスミス》〉の問いに対して冷静でたしかな回答を与えるわけにはいかない。  もう一度移動しよう。制御装置をひらいて#記号をたたき、姿を消す。  |尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号の居住区画で、ルイスはすばやくブルー・チーズとマッシュルーム入りオムレツと、サラダを打ちこんだ。与圧服とその下の服を脱ぎ、自由落下用ジャンプスーツをダイヤルしてそれを着た。それからシャワーをひねって密封式浴室《シャワー・バッグ》の内部をざっと濡らす。  パペッティア人の声が話しかけてくるのではないかとなかば予測していたが、呼びとめるものはなかった。  貨物区画に出現した。フライサイクルでは大きすぎるので、磁気浮力を持つよう設定しなおした飛行ベルトをダイヤルする。サラダとオムレツの大半をたいらげながら、飛行ベルトが組み立てられるまでハラハラしながらの四分間を待つ。それからベルトを締めて居住区画にもどった。  さて、パペッティア人はどこに|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を隠しているだろう? 逃亡用出口があるはずだ。人間とクジン人によって居住区画に閉じこめられるかもしれないのだから。  便座か? 小さすぎる。シャワーか?  その天井[#「天井」に傍点]だ。大きさもちょうどいい。コードはパペッティア人の音楽だ。ルイスには歌うことができない。プログラムになら介入できるかもしれない。だがまずは──。  彼は両手を天井に押しあてて声をかけた。 「〈至後者《ハインドモースト》の声〉、ぼくを通せ」  制御室だった。  彼はそこに設置された|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を使った。 〈作曲家《テューンスミス》〉とプロセルピナが最初の移動でたどりついた場所には、ハヌマンもルイス・ウーもいなかった。第二の移動でやってきたのは、荒れ果てた島だった。ぐったりしたハヌマンが身体を起こそうとしている。プロセルピナが調べたが、たいした怪我はしていなかった。 〈作曲家《テューンスミス》〉がたずねた。 「具合はどうだ?」 「怪我をした、それほどひどくはない。彼はわたしの生命を手中にしながら、生かしておいた」ハヌマンが答えた。 「みごとな自制心だ。プロセルピナ、逃亡した客人たちの痕跡を追えるかどうか、やってみてくれ。ハヌマン、おまえは休め」 〈作曲家《テューンスミス》〉は|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》のコントロールをいじりはじめた。 「匂いが残っています」プロセルピナが声をかけた。「何ファランも前のもの。発情しています」 「すべてが変わる」と、ハヌマン。「わたしの部族に警告しなくてはならない」 「おまえの種族は樹上生物だ! これから起こる現象からどうやって身を隠すというのだ?」 「|そうかもしれない《ステット》。だが何をなすべきか、わたしは心得ている」 「わたしたちが消えてからにしろ」〈作曲家《テューンスミス》〉が命じた。「それを終えたら、隕石防禦室でわれわれに合流しろ」  そして彼とプロセルピナは姿を消した。  発進室。  オリンポス山の下の洞窟では、小さな〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉のプロテクターたちがうつ伏せに倒れ、〈至後者《ハインドモースト》〉がレーザープロジェクターに取り組んでいた。 「どんな具合だ?」ルイスはたずねた。 「まだ接続をはずしているところです。どこが安全か、判断が難しいのです」  ルイスは必要に応じて〈作曲家《テューンスミス》〉の装置の機嫌をとりながら、レーザーや接続ケーブルをはずしはじめた。もっとてきぱき動ければいいのだが。腰の内側で鋭利な何かがはずれ、肉がひどく腫れあがっていた。 「リングワールドで安全ではいられない。医療機《ドック》の部品をどうやって移動するつもりだ?」 「まだ決めかねています」 「あんたが何か思いついていることを期待していたんだがな。|よし《ステット》。ここはきわどいぞ」  ルイスはセンサーをはずし終えた。医療機《ドック》の構成部品はまだつながったままだ。それはそのままにしておく。 「少なくとも一時間は出かけてくる。こいつを磁気フィールドで持ちあげられるよう、準備しておいてくれ。そして天井をあけておいてくれ」 「待ってください。何をしようというのです?」 「時間がない」 「わたしたちが盗んでいる品々の持主はどこにいるのです? いつ死に見舞われるかわからないいま、何が達成できるのでしょう? あなたが何をしたのか[#「何をしたのか」に傍点]、話しなさい!」  知らせておいたほうがいい。ルイスはすでに少なくとも一時間を費やしているのだ。〈至後者《ハインドモースト》〉のために一分間だけ割こう。 「ぼくは〈作曲家《テユーンスミス》〉に、〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉がいまにも勃発しそうだと思いこませた──」 「ヒイィィ!」  耳障りな不協和音。 「──いまいった言葉のとおりにね。身体の下に頭をつっこむなら、あんたはその姿勢のまま死ぬことになる。ぼくを信用するか?」 「はい」 「ぼくに子供がいると、〈作曲家《テューンスミス》〉が推測するよう仕向けた──事実さ、ティーラの遺伝子を持った息子だ。ありがたいことに、彼らは生き延びる。あんたたちの繁殖計画はまだ効力を持っているんだ──」 「いずれ近親交配になりますが?」 「ああ、〈至後者《ハインドモースト》〉、リングワールドに墜落した船はきっとほかにもあるさ。ウェンブレスの子供たちも伴侶を見つけられるだろう」 「|わかりました《ステット》」 「ぼくは何ヵ所か移動したあげく、〈作曲家《テューンスミス》〉がウェンブレスの痕跡をたどれるところに誘導した。それから、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》のブロック機能を使ってニードル号にとんだ。〈作曲家《テューンスミス》〉はたいした時間もかけずにそのブロックを解除するだろう。そしてぼくが|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号に行ってのんびり過ごし、そのままとどまっていることを知るだろう。  ぼくはまだニードル号にいるはずなんだよ。ウェンブレスを連れに行ったんだからね。つまり、ぼくらはリングワールドを脱出しようとしているんだ。〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉の均衡はいますぐにも[#「いますぐにも」に傍点]崩壊する。 〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉艦隊に撃ち落とされたり、ニードル号のように〈作曲家《テューンスミス》〉によってたやすく阻止されてしまう船を使って、プロテクターが自分の子供の生命を危険にさらすような真似をする理由は、それ以外には考えられないんだ。 〈作曲家《テューンスミス》〉とプロセルピナがこの論理に従って推論を重ねるなら、彼らは〈周辺戦争《フリンシ・ウォー》〉に終止符を打つ準備にとりかかり、ここまでぼくらの邪魔をしにくることはありえない。あんたがあのプロテクターたちを眠らせておいて、あのカメラの機能をとめておけるかぎりね。わかったか?」 「信頼してください」〈至後者《ハインドモースト》〉は答えた。  ルイスは一瞬思考をめぐらせた。〈至後者《ハインドモースト》〉はオリンポス山の天井のあけ方を知っている。|のるかそるか《ロングショット》号は大きすぎるため、線形加速器《リニアキャノン》を使って発進させることはできない。核融合ジェットを使ってゆっくり上昇しなくてはならないが、そんなことをすれば格好の標的になってしまうだろう。 〈至後者《ハインドモースト》〉にはそれだけの豪胆さはないし、いずれにしても恐ろしく危険な行為だ。だから〈至後者《ハイントモースト》〉はルイスなしには発進しない。  信頼していい。問題はない。  ルイスは姿を消した。  隕石防禦室。 「結局あの船の所在は確認できなかった」〈作曲家《テューンスミス》〉はいった。「発進を阻止できるか?」 「はい。それに、周辺宙域で彼を追撃するARM艦も探知できます。どうやってもわたしから逃れることはできないでしょう。それにしても狂っています。プロテクターへの変態が失敗すると、繁殖者《ブリーダー》の脳がゆがみを生じることがありますから」 「とつぜんすべてが理解できたせいかもしれない。恐怖に狂ったか?」 「彼が恐れているのは〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉でしょうか、それともわたしたちがしようとしていることでしょうか?」  プロセルピナはなかば目を閉じている。そうしていると、いくらかハヌマンに似ている。 「彼はわたしたちを長くひきとめられると考えてはいませんでした。ルイス・ウーとその私生児にかまわずいますぐはじめれば、彼もギリギリ脱出できるでしょう」 〈作曲家《テューンスミス》〉は混みあった空を見あげた。 「でははじめよう」  ハヌマンはむきだしのスクライスの尾根の上に出現した。  彼は何マイルもつづく森を見おろし、自分の選択肢を検討した。  ルイス・ウーはリングワールドに子孫を持たないプロテクターだ──ティーラ・ブラウンとのあいだに子供がいる場合を除いて。プロテクターのルイスはすでに死んでいるティーラには関心を持たない──彼女が子供を残している場合を除いて。  つまりルイス・ウーには子供がいる。論理の鎖はあまりにもまっすぐで、〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉のプロテクターにすらたどることができる。 〈作曲家《テューンスミス》〉は一瞬にしてそれを読みとった。そしてその瞬間、ルイス・ウーは自分の子供を救い、安全な場所に連れていくべく姿を消した。  つまり、リングワールドの死はすぐそこまでせまっているのだ。〈作曲家《テューンスミス》〉は行動に移る。  さて、どうすればいい?  ハヌマンの種族は樹上生物なのだ! 知性も持たない。指示を与えても、それに従うことはできない。どうやれば空から彼らを守ることができるだろう?  暴風雨を願うか?  ティーラ・ブラウンの幸運な子供を見つけてここに連れてきて、それから[#「それから」に傍点]暴風雨を願うか?  ハヌマンは決意した。  すでに残り少ない|積 層 盤《サーヴィス・スタック》から浮揚プレートを一枚切り離し、森の上空にとどまったまま、樹冠の下にいる数千の仲間の匂いを楽しんだ。兄弟たち、姉妹たち、直系子孫《N−チャイルド》たち。彼らを見るため高度をさげることはしない。そんな時間はない。 〈作曲家《テューンスミス》〉はいますぐにも行動に移るだろう。樹冠が太陽をさえぎるところでは、すでに|遮 光 板《シャドウ・スクエア》のきらめきが見えはじめている。パワーが送射されようとしているのだ。  荒れ果てた土地にディスクをおろすと、〈|穴 居 人 種《バロイング・ピープル》〉が数人顔を出した。 「おまえたちは二日のあいだ、地下にとどまらなくてはならない。おまえたちにとっては容易なことだ。空を見てはならない。できるかぎり遠くまでこの言葉をひろめろ。だが影が太陽を隠す前に、地下にはいらなくてはならない。  これまで見たこともないような光が照るだろう。その光が消えるまで空を見てはならない。そのあと、空は真っ暗になる。左舷回転方向《ボート・スピンワード》に行って〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉を探し、彼らを助けてやってくれ。彼らはわたしの種族だ。放っておくと気が狂ってしまうだろう」 [#改ページ]      21 脱  出  〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉の宮殿。焼け焦げた積層プレートの上に出現したルイスは、身を丸くしてとびおりた。攻撃してくるものはない。  飛行ベルトで外へ出、下降する。黄色い芝のすぐ上をかすめながら、黒い印はなんだろうといぶかしむ。ひとつは〈|終わりから二番め《ペナルティメイト》〉の名前か肖像にちがいない……あそこの、マンガのようにひどく単純化された、ウィリアム・ロツラーの画風を彷彿とさせるもの。あとのものは演説だろうか。  このロゼッタストーンを解き明かそうとしてみた。プロテクターは侵入者に何を語ろうとするだろう? これは象形文字の駄洒落かもしれない。「入る」や「消滅」、「こんにちは」や「墓碑銘」といった単語かもしれない。そこから言語を類推することはできるか?  無理だ。  ルイスは低く飛びながら、木々のあいだをすり抜ける技を楽しんだ。プロセルピナが彼を探しに自分の大陸までもどってきたときには、木々が身を隠してくれるかもしれない(無理だ、匂いでわかる)。難しいターンに強烈なG、頭を悩ます問題からほんのしばし解放される。  まんぼう船はプロセルピナの基地に近い木々のあいだに停まっていた。グリッドのあいだを縫って、低い木々が伸びている。ルイスは飛行ベルトを太い幹の背後にかけ、ジャンプスーツもそこに脱ぎ捨てた。そして徒歩で前進した。  ──足をひきずる裸の繁殖者《ブリーダー》だ──。  |人食い鰐《グレイ・ナース》号から持ってきたARMの医療機《ドック》があった。いまの彼はどのように診断されるだろう。突然変異種? 人ではない? 死にかけている?  足をとめずにその横を通りすぎた。時間がないのだ!  |巻き貝矢魚《スネイル・ダーター》号の記録装置《ライブラリ》の脇で足をとめた。──時間がない──だがプロテクターにはいつでも選択肢があるわけではないのだ。  クラウスとロクサニーがこの機械を操作するところを見たことがある。機械をだまして〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉艦隊の名簿を呼びだすのは難しくなかった。ウーは何十人もいて、ハーモニーは六人だった。彼の最初の娘はハーモニーという男と結婚した。IDナンバーの配列を見れば彼の子孫かどうかがわかる──。  孫息子とその娘が何十年か前に宙軍にはいった。|情 報 艦《ラーカー・シップ》|袋熊《コアラ》号ではウェス・カールトン・ウーがフライトキャプテンとして、ターニャ・ウーがパーサーとして勤務している。もう一度すばやく調べたが、ほかに親族らしき者はなく、時間はさしせまっていた。  ルイスはまんぼう船に近づいた。  パク人のように思考しろ。  プロテクターは匂いの異なるすべての繁殖者《ブリーダー》を殺し、自分の繁殖者《ブリーダー》により広大な土地を与えようとする。おまえはプロセルピナだ。順応することによって百万年を生き抜いてきた。おまえは繁殖者《ブリーダー》を傷つけたくはない。それは強大な敵の直系子孫《N−チャイルド》かもしれない!  船室にあがる階段はなかった。ルイスは〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉のようによじのぼった。  内部は広々としていた。いたるところに手がかり足がかりが設置してある。プロセルピナの足にはどれだけの握力があるのだろう? センサーやタッチパッドやトグルスイッチやレバーが雑然とならんでいる。馬蹄型のカウチがおいてあるが、操縦席はひとつだけで、ルイスの身体にはあわなかった。形を変えなくてはならない──だが船には、彼のことをプロセルピナだと思わせておいたほうがいい。 〈至後者《ハインドモースト》〉にはガッカリだ。彼は、その道具と知識で人類を零落させた一種族全体の指導者だった。なのになぜ数キロトンの医療装置を動かせないのだ? そうすればかなりの面倒が解決し、二、三時間がかせげるのに。 〈惑星船団〉の実験党はきっと、ニューオーリンズの伝統的な〈愚者の王〉のようなものなのだろう。自由に行動させてもいいが、監視を怠ってはならない。極端に金のかかることや危険なことをしはじめたら、処分するのだ。そしてときには立派な功績をあげることもある──。  気が散っているぞ。  ──汝、我面《わがかお》の前に我の外《ほか》何物をもプロセルピナとすべからず──。  彼女はほかのプロテクターが船を操作しないよう、防衛措置を講じているかもしれない。だが──〈作曲家《テューンスミス》〉のように、彼女自身よりも聡明で危険だと認めた者に対しても、死の罠を仕掛けるだろうか? その報復は終焉をもたらすだろう。  そしてプロテクターの奴隷たちはどうだ? この座席は〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉用に変化させたあとで、もう一度プロセルピナの設定にもどしたようだ。つまり、彼女はハヌマンに操縦をまかせたのだ!  クソッ!  この船に侵入防止の備えはない。彼女の存在そのものがそれだったのだ。いったい誰があえてプロセルピナの船を盗むというのだ? ──そして肝腎なのはその点だ。ルイス・ウーにとって危険なのは、何もしないでいること[#「何もしないでいること」に傍点]なのだ。  彼は座席を調節して腰をおろし、ベルトを締め、発進した。  船の金属レースの隙間にのびていた木々が引き裂かれる。ルイスは大気圏の上まで上昇し、それから外壁に向かった。  太陽は荒れはじめているか? じっと見ていると目を焼かれてしまう。ガラスを暗くする方法があるはずだが、どれだ? 〈作曲家《テューンスミス》〉は隕石防禦システムを動かしはじめているだろう。  ルイスは船をジグザグに飛ばしながら、制御装置を調べた。これか?  視界を陰らせるだけではなかった。輝度増幅器でもあったのだ。暗度をかなり高め、視線をあげた。  太陽プロミネンスが長く長くのびている。  ルイスは高Gで船を操った。眼下で大地が飛び去っていく。追跡ビームが見えた。それを回避し、ついでに人の住む|こぼれ山《スピル・マウンテン》からわずかにそれるよう誘導してやる。それからリングワールドの外に飛びだして降下し、床面の裏側へとはいっていった。  弧を半分、三億マイルたどらなくてはならない。重大な危険をもたらしそうなものといえば異星人の船だ。磁気グリッドにそってジグザグに進み、高分子サイズのカメラが船の表面にあたるカチカチという音を聞きながら、猛烈に加速した。  まもなく〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉が彼を追ってくる。  リングワールドの裏面で何かがひらめいた。危うくつぎの閃光につっこみそうになった。ルイス自身がきっかけとなって戦争がはじまったのかもしれない。 〈作曲家《テューンスミス》〉の隕石痕補修システムは〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉を封鎖してしまった。そのためルイスは縁《リム》をまわっていかなくてはならない。めざす火星の〈地図〉まではあと五十万マイルと少しだ。  太陽がまた荒れはじめた。  閃光がとびだして上昇した。オリンポス山の発進室だ。ルイスはちょっとのあいだ、まんぼう船を隕石栓《メテオプラグ》の進路の下にすべりこませた。〈作曲家《テューンスミス》〉も隕石防禦システムをここに向けているはずはない! 速度を落とし、クレーターの中にはいって、船をホバリングさせる。  船室からなかば身を乗りだして怒鳴った。 「〈至後者《ハインドモースト》〉! あれを閉じろ!」  クレーターの天井が閉じはじめた。  ルイスはまんぼう船の制御装置をいじった。医療機《ドック》の集中治療装置が持ちあがり、空中でクルリと向きを変えて、いくぶん荒っぽく|のるかそるか《ロングショット》号の格納庫に積みこまれた。それから供給装置《サーピス・ウォール》と、長く尾をひくケーブル。それからほかの小型部品。それから救命艇。  それから、以前に確認しておいたタンク。  パペッティア人が何かさけんでいる。 「──て固定するのですか?」  ルイスは残っていた医療機《ドック》の機材とともにタンクを納めた。まんぼう船をおろして外に出る。 〈至後者《ハインドモースト》〉が小走りに近づいてきてたずねた。 「離陸の衝撃に対してこれらの部品をどのように固定するのです?」 「〈作曲家《テューンスミス》〉は発泡プラスティックのタンクを使っていた。そいつを作動させておいてハッチを閉じ、乗船するんだ」  蓋を閉じると、タンクから発泡プラスティックが噴出した。ルイスは無言で操縦席についた。おい、こいつは人間用じゃないか。 〈至後者《ハインドモースト》〉がたずねた。 「クレーターをもう一度ひらきますか?」 「〈至後者《ハインドモースト》〉、べつの方法を試してみようじゃないか」  彼はハイパードライヴを作動させた。洞窟が消えた。量子第二段階《クワンタムU》船はまっすぐ、色彩の渦の中へとびこんでいった。  地球の〈地図〉。  日が暮れてまもなく、〈侍者《アコライト》〉はハミイーに謁見を願いでた。  衛兵のひとりがいった。 「よそで遊ぶがいい、坊や。おまえの父親は忙しいんだ」  そしてニヤリと笑った。 「おれは〈作曲家《テューンスミス》〉からのメッセージを預かっている」 「妙な名前だな」 「火星の〈地図〉の下に住んでいる〈作曲家《テューンスミス》〉といえば、ハミイーにもわかる」  退屈していた衛兵はさらにしばらく〈侍者《アコライト》〉をからかっていたが、やがてテントにはいっていった。  出てきた彼はたずねた。 「おまえはそのメッセージとやらをどうやって受けとったんだ?」 「山地から|右 舷《スターボート》向けの光通信でだ」  謁見が許された。這いつくばった〈侍者《アコライト》〉に、父親がたずねた。 「その〈作曲家《テューンスミス》〉というのは、おれに地球の〈地図〉を与えようといったやつか? おまえがそのメッセージを伝えて以来、ひと言の連絡もないが」 「彼は、ほかの勢力の者どもが狂気に陥ったあとで、この〈地図〉を父上のものにすればよいといっている」  沈黙が訪れた。ハミイーの廷臣たちが注目している。  ハミイーがたずねた。 「狂気に陥るだと?」  そして息子をしげしげと眺めた。従順な態度の下に鞭のような激しい熱意が見てとれる。 「よし、説明しろ」 「〈作曲家《テューンスミス》〉の指示だ。おれたちは丸二日、空から身を隠さなくてはならない。女も子供もふくめて全員、屋根の下かテントの中にとどまらなくてはならない。できれば眠っていたほうがいい。太陽が影から姿を見せる前に、すべての者が蔽いの下にはいるか、目隠しをしなくてはならない」 「ずいぶん早くなのだな。どうやってやればいいのだ?」 〈侍者《アコライト》〉はあえてニヤリと笑った。 「ルイス・ウーならなんというだろう?」 「『おかげで大金が手にはいる』だろうな。空に何が起きるというのだ?」 「それは聞いていない。空に光の筋を残す船を見ただろう。〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉の話も聞いているだろう。おれは〈作曲家《テューンスミス》〉の隕石防禦室でそれを見た。〈作曲家《テューンスミス》〉は戦争を終わらせるといっている」  ハミイーはうなずいた。 「すぐ出発できるか? よし」  彼は声を高めて吼えた。 「この声の届いた者たちよ、おまえたちひとりひとりがわが遠隔領土への使者となる! 厨房で腹を満たせ。おれの示す地へ旅立て。いつ何時でも使えるよう、目隠しを用意していけ。使う時機はいずれわかる。狂うやつ、目をつぶすやつは愚か者だ。  この言葉を伝える相手よりも、おまえたちのほうがおれにとってははるかに大切だ。それゆえ|遮 光 板《シャドウ・スクエア》が通りすぎる前に蔽いの下にはいれ。二日間身を隠せ。さもなければ容赦せんぞ。かねてからの望みどおり、われわれが地球の〈地図〉を制覇することとなろうぞ」  少年〈竪琴笛《カザープ》〉はボカンと口をあげて空を見つめた。  影が太陽を蔽い、|遮 光 板《シャドウ・スクエア》はかつて見たことのないきらめきを放っている。やがて彼は楽器をとりあげ、奏ではじめた。音楽に紛れて、そっと姿勢を変える音が聞こえた。  他人がこれほど近くまでくるはずはない。 「そこにいるのはわかってるよ」 「ふり返るな。わたしはヴァシュネーシュトになった」  父親は数ファラン前に姿を消し、こんどはこれだ。おとぎ話の中の、恐ろしくて不思議なもの。 〈竪琴笛《カザープ》〉はふり返らなかった。 「父さんなの? 母さんは知ってるの?」 「おまえが話してやれ。優しくな。そして、二日のあいだ空から身を隠していなくてはならないことを伝えろ。おまえもだぞ。でないと気が狂う。この言葉をひろめろ。屋根よりも穴のほうがいい。そのあとは、世話をしてやらなくてはならない狂人が世界中にあふれる。われわれがかつて望んだこともないほどの御馳走もな」 「父さんはここにいてくれるの?」 「いまは駄目だ。できるだけ来るようにしよう」  |のるかそるか《ロングショット》号の船室は球体の底、四基の核融合ドライヴの噴出孔の中心に位置している。ハイパードライヴにはいった|のるかそるか《ロングショット》号は、うしろ向きに未知の中へ突入するのだ。  ルイスはまっすぐ下に発進し、リングワールドの床面の内部を通って一瞬、超高密度のスクライスの引力を感じ、宇宙へと飛びだした。  太陽を背に、〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉艦隊がもっとも集中している中へとつっこんでいく。だがべつに問題はない。それらの船はすべて、大質量のそばでアインシュタイン空間にいるのだ。ルイスはもちろん何も見えないまま|超 空 間《ハイパースペース》を飛んでいる。彼の願いは、この高速船が捕食生物から逃げおおせることだ。  パペッティア人は固い結び目のように丸まっている。彼を[#「彼を」に傍点]あてにすることはできない。  この巨大質量の近くで、|のるかそるか《ロングショット》号はどれくらいの速度で移動できるのだろう? 光速を上まわることはできるだろうか。〈作曲家《テューンスミス》〉は量子第二段階《クワンタムU》システムの作用について解明したかもしれないが、ルイスには充分な手掛かりがない。  だがすぐにわかる。質量探知器である水晶球が働きはじめれば、特異点≠フ外に出る。  十一時間後、ルイスはプロテクターも疲れるのだと知った。疲労は無視できる。空腹と渇きも、内臓と関節の痛みも、頭痛と副鼻腔の痛みもだ。それらはまさしく、年をとる未開人にのみ属するものなのだ。まったく問題ではない。  リングワールドははるか彼方に遠ざかった。リングワールドに住む三十兆のヒト型種族の中で、かなりのものが生き延びるだろう。ウェンブレスとロクサニーとその子供は喧騒の中にまぎれた。彼らの真の正体に気づいたとしても、〈作曲家《テューンスミス》〉は探したりはしないだろう。運がよければ、彼はルイスがウェンブレスを星々の世界に連れ去ったと考えるかもしれない。  勝利が多大な苦痛を癒してくれる。  窓となった床が暗くなって輝度を増幅し、録画しながら記録映像を映し出したり、拡大したりしている。ルイスは流れすぎる色鮮やかな光と、飛び去るコンマ形の黒い点を見つめた。  視界が一変した。窓はもはやそこにはない。目がその周囲をさまよう。  質量探知器に目をやった。光の筋がこちらに向かって進んでくるはずだ。何も見えない。ぼんやりと曇ったただの水晶だ。  ルイスは切断スイッチをたたいた。  降るような星。足もとには美しく広大な宇宙。  彼はアインシュタイン空間にいた。  以前なら、|のるかそるか《ロングショット》号を人類空域のどこかの強盗団に売って満足したことだろう。それとも自分で強盗団を結成するか! だがいまではとてもそうは思えない。  ルイスは窓の映像を拡大し、わずかに暗くしてまばゆい黄道光を遮断した。リングワールドにさえぎられ、太陽はかすかな銀の光を放っているにすぎない。  リングワールド星系から六光時間──計算した──太陽も|のるかそるか《ロングショット》号をそれほど照らしだすことはないだろうが、リングワールドの陰に入れておけば、船は宇宙のように真っ黒だ。核融合モーターは使っていないから、ニュートリノ流束によって発見されることもない。目を向ければその他の電磁スペクトルが見えるかもしれない。だが〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉の連中は、プロセルピナのまんぼう船をさがし出すのに忙しいだろう。  そしてまもなくそれ以上に面白いことが起こる……そう、いますぐにも。  上のレクリエーション室は下の船室と同じくらい狭かったが、|娯 楽 施 設《ゲームルーム・ウォール》と食料供給機《フード・ディスペンサー》と密封式浴室《シャワー・バッグ》が設置してあった。天井にハッチがある。以前はなかったものだ。  壁ごしに、それが人ひとりが通れるくらいの迷路のような連絡チューブにつながっているのがわかった。巧妙なパズルのようで、たどるのは困難だったが、一本が救命艇と自動医療装置《オートドック》を収納した船倉に通じている。  ──よし──。  ゆっくりとシャワーを浴びた。もしその瞬間を見逃しても、|のるかそるか《ロングショット》号はあとで光波に追いつくだろう。  身体を乾かし終えたときも、まだ変化はなかった。彼は〈至後者《ハインドモースト》〉のたてがみに指をつっこみ、後足の蹴りを避けた──つもりが、わずかにかわしきれなかった。 「起きろよ」 「怪我をさせてしまいましたか?」 「気にするな」 「なぜ船が停止しているのです?」 「あるものを見たいからさ。それにぼくは質量探知器を使えない」 「ヒイイィィ!」〈至後者〉が口笛を吹いた。 「あれは超感覚装置だ。あんたは自分で船を飛ばさなくてはならない。だがぼくらは自由の身だし、ぼくの愛する人たちは全員安全だし、〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉はぼくらを探したりはしないし、キャニヨン星への道を邪魔するものもない」 「キャニヨンに行くのですか?」 「そうだな、なんなら〈惑星船団〉でもいいさ。あんたは〈船団〉を離れるときに、当然配偶者と子供たちを連れ出したと思っていたんがね」 「もちろんです」 「詳細を詰めることができるなら、ぼくもほしいものがあるんだが」 「またはったりですか、ルイス、以前と同じです。あなたは死にかけているのではありませんか?」 「そうさ。生命の樹が変化をもたらしはじめたとき、ぼくの身体はひどくゆがんでいたんだ。ぼくは死にかけている、|たしかにね《ステット》、だがはったりじゃない。すべてはうまくいっている。だがもしカルロス・ウーの自動医療装置《オートドック》をもう一度稼働させられるなら、ぼくとしては嬉しいね」 「それには……ウウム」 「かなり厄介な作業だし、大変な肉体労働だ。ぼくはあんたに何を提供できる?」 「|のるかそるか《ロングショット》号はあまりにも速すぎます。まず確実にどこかの恒星に衝突するでしょう。わたしの神経ではホーム星までこれを飛ばすことはできません」 「キャニヨンじゃないのか?」 「ホーム星です」パペッティア人が答えた。「キャニヨン星では隠れることはできないと判断しました。小さすぎるのです。ホーム星は地球に似ています、ルイス、そしてすばらしい歴史を持っています」 「じゃあホーム星だ」ルイスは機嫌よく応じた。「おい」  拡大された太陽がきらめき、制御室にくっきりとした影を投げかけた。  パペッティア人が片方の頭をそちらに向け、ついでもう片方も向けた。瞳孔がいまにも閉じんばかりに絞られている。〈至後者《ハインドモースト》〉はひどく単調な声をあげた。動揺しているのだ。 「リングワールドはどこです?」 「ああ」 「ああ?」 「ああ、〈作曲家《テューンスミス》〉はナノテクノロジーで、|のるかそるか《ロングショット》号に使われていた配列どおりに超伝導グリッド全体を変質させた。量子第二段階《クワンタムU》ハイパードライヴで|うさぎ《バニー》みたいに逃げだしたんだよ。リングワールドもいっしょに連れてね」 「どこまでです?」 「なんだって?」  リングワールドに追いつけるのはただひとつ、この船だけだ。一リングワールド日は三十時間。量子第二段階《クワンタムU》ハイパードライヴで、二リングワールド日と少し……四|分《ぶん》の五|分《ふん》で一光年を飛べるのだから……。 「エネルギー切れを起こすまでに三千光年だ。とっくに[#「とっくに」に傍点]人類空域を抜けだしているな。百世代のあいだ、望遠鏡でも何も見えないだろう。あれだけの質量の移動なんだから、重力波探知機を使えば捕捉することはできる。だがそれでどうするんだ? 追いかけるのか?」 「無限の富が」〈至後者《ハインドモースト》〉が嘆いた。「すべて失われてしまいました。わたしはリングワールドの知識という富を追って、〈至後者《ハインドモースト》〉の地位を失ってしまったのです。ところでさっきの話ですが、ルイス、あなたの愛する者たちがどうしたのです?」 「二度と会えない連中さ。〈至後者《ハインドモースト》〉、そこが肝心なんだ。さて、ぼくの身体の奥でくっついていなきゃならない何かがはずれる前に、自動医療装置《オートドック》を組み立てようじゃないか」 「潮汐効果は無視できると思う」〈作曲家《テューンスミス》〉がいった。「どうだ?」  プロセルピナの指が踊る。ウォール・ディスプレイ──すべてが灰色の塊りのようで、何も映してはいない──が暗くなった。何百万ファランの歴史を持つパクの数学システムが働いて、白い象形文字が踊る。 「リングワールドに太陽があったときは、ごくわずかに内側寄りにひっぱられていました。太陽がなくなったいま、すべての海は外壁寄りにあふれようとするでしょう。飛行は二日間ですね? |わかりました《ステット》。それは無視できます。心配なのは──」  ふたたび象形文字が踊る。 「接近です」  空が狂ったようになっている。ロクサニーとウェンブレスはテントから抜けだし──ロクサニーの動きはいくぶんぎごちない──どこへ出しても優勝もののすばらしい光のショーを見つめた。  ウェンブレスがたずねた。 「何が起こっているんだ?」 「見当もつかないわ。何かの超秘密兵器かしらね。クソッ、クジン族のしわざでなきゃいいんだけど。船は一隻も見えないわね。でも──いまのはなに?」  小さな黒いコンマがうねりながら、|右 舷《スターボード》から左舷《ボート》へと空を横切っていく。拡大眼鏡ごしに、それが外壁のてっぺん近くにあばたを残していくのが見えた。 「わからない」ウェンブレスは答えた。 「|のるかそるか《ロングショット》号よりも大きな船? わたしの[#「わたしの」に傍点]知るかぎり、どの種族もそんなものはつくっていないわ」 「また変わりはじめたぞ、ロクサニー」  一瞬、色彩が褪せ、それから空[#「空」に傍点]全体が消滅し、ふたりは視力を失った。かつて目が見えた記憶をとどめておくことも困難だ。 「盲点空間《ブラインド・スポット》だわ」  ロクサニーは訓練を受けている。足もとを見た。そう、足はある。 「なんてこと、信じられない。わたしたち、ハイパードライヴにはいっているんだわ! 下をごらんなさい。視線を──」  ウェンブレスは目が見えないままフラフラと歩きだしている。ロクサニーは視線をあげないよう気をつけながらあとを追い、手さぐりで無理やり頭を下に向けさせた。 「テントにはいりましょう」  ふたりは二日間を与圧テントの中で過ごした。ふたたびあらわれた空には、漆黒を背景に、星がきらめいていた。 「ずいぶん多くの住民が正気を失うでしょうね」ロクサニーはいった。「リングワールドがこんなに暗くなったことは一度もないもの。フライサイクルのヘッドライトが考えられないくらい貴重になるわよ」 「こんなに明るい星は見たことがない」ウェンブレスがいった。「まったく新しい時代だ、ロクサニー。ほとんどの星のまわりには〈球状世界〉があるのだといったな? おれたちの子供はそれを受け継ぐことになるかもしれない」  左舷《ボート》の外壁の上で、明るい星がひとつ、さらに輝きを増した。  隕石防禦室のウォール・ディスプレイに空がもどった。  プロセルピナはいった。 「太陽を探さなくてはなりませんね、|いいですか《ステット》? リングワールド全体を横向きに移動させてとりこみます。反発する土台がなければ磁気フィールドは役に立たないので、使えるのは姿勢制御ジェットだけです。恒星との相対位置を定めてからそちらに向かって落下し、フィールドを使って静止します。海が移動するでしょうね、〈作曲家《テューンスミス》〉」 「わかっている。われわれとほぼ等しい速度の黄白恒星を見つけた。あそこ、あの明るいやつだ。見えるか?」 「ええ。拡大してください」  恒星が拡大し、それから暗くなった。 「この空域は]線出力が高いですね。|遮 光 板《シャドウ・スクエア》システムができあがるまで、オゾン層を厚くしなくてはなりません」 「そうだな」 「わたしは潮汐のほうが心配ですが」 「ああ、海と大洋にまた圧力がかかるだろう」 「凍らせることも考えたのですが、それは無理です。わたしたちは──」 「もちろんだ。だが太陽そのものに磁気効果を使うことはできる。見ろ、あの星がまっすぐ軸にはいるよう、斜めに移動する方法を考えた。あの太陽を中心におくのだ。安定するまでに幾度か揺れるだろう。そうすれば海も動く。しかも方向は一定していない。ひどい災害が起こる」  星野を横切って、白い象形文字が踊る。 「うまくいきます」プロセルピナはいった。「多くの人口と、種族もいくつかは失われるでしょうが」 「わかっている」 「希望がひとつあるのですが。実現可能かどうかを教えてください」 「説明してみろ」 「リングワールドの軸にそった太陽の揺れは放置しましょう。そうすれば潮汐が生じます。季節ができ、天候の変化が生まれます」 「なんだと? 〈球状世界〉のように?」 〈作曲家《テューンスミス》〉は笑った。 「おまえの世界、パク世界のようにだな。繁殖者《ブリーダー》たちはどうするのだ? さらに気が狂うのではないか?」 「この二日間、正気を保っていられた者なら、何があっても大丈夫でしょう」プロセルピナはいった。 [#改ページ]      22 |繁 殖 者《ブリーダー》  ルイス・ウーは燃えあがる新たな活力とともに目覚めた。自由落下状態なので用心しつつ、棺の蓋が脇に動いてあくのを待つ。ホログラムの〈至後者《ハインドモースト》〉が彼を見おろしていた。  ルイスは身をよじって棺から出た。 「どこも痛まない」 「結構なことです」 「痛みに慣れてしまっていたんだな。ああ、クソッ、ぼくは気が狂ってしまった!」 「ルイス、装置があなたを繁殖者《ブリーダー》として再生することを知らなかったのですか?」 「知っていたさ。だが……頭がクラクラする。綿《わた》が詰まっているみたいだ。プロテクターだったときはあれほど自覚[#「自覚」に傍点]があったのに」 「医療機《ドック》の設定を──」 「いや、だめだ[#「だめだ」に傍点]」  彼は拳で棺の蓋を殴った。 「それくらいのことは覚えている。ぼくは繁殖者《ブリーダー》でいなくてはならない。でなきゃ死んだほうがましだ。プロテクターのままなら、ぼくはどうしてもウェンブレスとロクサニーを追わずにいられないだろうし、そうなれば、〈作曲家《テューンスミス》〉とプロセルピナもぼくを追うだろう」 「ですが彼らはもちろん、あなたの血統を守るでしょう」 「ああ、そうだな。だがウェンブレスがリングワールドで自由でいられるなら、彼の幸運は……おっと」 「あなたはティーラ・ブラウンの幸運を信じていないのでしょう?」 「信じていなかったさ。だけどプロテクターだったときには……あんな考えは本物の科学とはいえない、|そうだろう《ステット》? 反証不可能だからね。だが考えてみろよ。ウェンブレスはぼくの女を奪った、|そうだろう《ステット》? まんまと彼女を手にいれたのさ。あいつをふたたび若返らせ、そのうえあいつの子を生むことのできる、あのあたりで唯一の女をね。それにあいつは窒息して全滅した村の唯一の生き残りで、恒星間宇宙から救助が降ってこなかったら、あいつもあそこで死んでいたんだぜ!」 「ルイス! ティーラは幸運ではありませんでした!」 「|そうさ《ステット》、そしてウェンブレスは友人をみんななくしちまって、結局は逃亡者として狩りたてられるんだ。幸運な遺伝子がそういうものだとしたらどうだ? ティーラの遺伝子は再生を望んでいる。いつだって物事には両面があるのさ。  すべてははかない月の光にすぎないのかもしれない。反証可能な予測を立てられないものは科学じゃない。たぶんぼくたちが見つけるまで、ティーラの存在は単なる統計的な偶然にすぎなかったんだ。そのあと彼女の身に起こったことはどれも、起こりえたほかの何かよりも幸運だったとして説明できる。『カンディード』を読んでみろよ」 「さがしてみます」 「反証不能なんだ。間違っていたとしても、証明できない。プロテクターだったとき、ぼくは不信を抱かなかった。おそらくティーラの子供たちがリングワールドにとっての幸運なんだろう。所在が明らかでないかぎり、彼らがリングワールド全体を守ってくれる。量子力学の基本だよ。そして必要なのはそれさ! 彼らは一と四|分《ぶん》の一|分《ぷん》で一光年を進む速度で宇宙に旅立っていったのだから──」 「ルイス」 「なんだ?」 「あなたが地球時間で二ヵ月前に医療機《ドック》にはいって以来、わたしたちは移動していません。わたしたちは宇宙の温点です。いずれ〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉が気づくでしょう。わたしたちを見つけだして船をとりあげるよりほかに、あの寄せ集め艦隊にどのような楽しみがあるというのです?」 「たしかに」  ルイスは連絡チューブにはいりこんだ。一度は迷子になったものの、背後のパペッティア人に案内されて迷路を抜ける。そして操縦席についてハイパードライヴにはいった。星々を示している放射状の線が、質量指示器の端から伸び出してくる。  ルイスは|のるかそるか《ロングショット》号をホーム星へと向けた。 [#改ページ] [#改ページ]      リングワールドの諸元 30時間=1リングワールド日 1リングワールド回転=7と1/2日 75日=10回転=1ファラン 質量=2×10の30乗グラム 半径=0・95×10の8乗マイル 周囲=6×10の8乗マイル 幅=0・997×10の6乗マイル 表面積=6×10の14乗平方マイル    =地球表面積の約300万倍 表面重力=0・992G(自転による) 側壁の高さ=(中心向きに)1000マイル 主星:G1もしくはG2、太陽よりわずかに小さく低温。 [#改ページ]      用語・事項解説 〈アーチ〉 [#ここから2字下げ]  リングワールドの表面からみたリングワールド。原住民の中には、この世界は平坦で、そこに細い放射線形のアーチがついていると信じている種族もある。 [#ここで字下げ終わり] |ARM《アーム》 [#ここから2字下げ]  |広 域 合 同 国 民 軍《アマルガメイテッド・リージョナル・ミリーシヤ》。  かつての広域合同国民軍。数百年にわたって国連軍・国連警察を勤めている。本来その所轄権は地球・月のみに限られる。 [#ここで字下げ終わり] アウトサイダー人 [#ここから2字下げ]  液体ヘリウムと熱伝導効果を代謝の基礎とする知的生命形態。アウトサイダー人は亜光速船で恒星間空間を放浪し、情報の交易を行っている。 [#ここで字下げ終わり] アウトサイダー人のハイパードライヴもしくはハイパードライヴ [#ここから2字下げ]  ノウンスペースでひろく用いられている超高速推進法。 [#ここで字下げ終わり] 嵐の〈目〉 [#ここから2字下げ]  リングワールドの床物質にあいた隕石孔の上に発生する風のパターン。横向きになったトルネード(たいらなリングワールド・システムでは、ハリケーンやトルネードは起こりえない) [#ここで字下げ終わり] 反回転方向《アンチスピンワード》 [#ここから2字下げ]  リングワールドの回転する方向と反対の方角。 [#ここで字下げ終わり] 隕石防禦装置 [#ここから2字下げ]  リングワールド・システムは太陽フレアを起こし、超高温レーザーを発射することができる。その出力エネルギーにはすさまじいものがあるが、効果の発現は遅い。 [#ここで字下げ終わり] ヴィシュニシュティ(ヴァシュネーシュト、ヴァスネシュト、ヴァスネーシット等) [#ここから2字下げ]  魔法使いもしくはプロテクター。 [#ここで字下げ終わり] ウイ・メイド・イット星 [#ここから2字下げ]  低重力で、地上は強風のため居住に適せず、地下生活をしている住民は一様に白子《アルビノ》でひょろ長い体格をもち、不時着人《クラッシュランダー》≠ニよばれる。 [#ここで字下げ終わり] 蜘蛛巣眼《ウエブアイ》 [#ここから2字下げ]  パペッティア人の科学技術で、多感覚機能を持つ探査送信装置。 [#ここで字下げ終わり] 大気制動《エアロブレーキ》 [#ここから2字下げ]  惑星大気圏への突入によって減速すること。 [#ここで字下げ終わり] N−チャイルド    直系子孫。 LE(|法 適 者《リーガル・エンティティ》) [#ここから2字下げ]  (人間であろうとなかろうと、有機体であろうとなかろうと)法によって市民権を与えられた存在。 [#ここで字下げ終わり] |ひじ根植物《エルボー・ルート》 [#ここから2字下げ]  リングワールドの原産植物で、自然の垣根となる。 [#ここで字下げ終わり] 自動医療装置《オートドック》 [#ここから2字下げ]  自動医療治療をおこなうすべての機械。 [#ここで字下げ終わり] カホナ(カホな) [#ここから2字下げ] 「神《カみ》も仏《ホとけ》もナいものか( There ain't no justice )」の頭文字をとってつくられたスラング( TANJ )で、強意をあらわす間投詞。 [#ここで字下げ終わり] ガミジイ産の蘭状生物 [#ここから2字下げ]  ガミジイ星は中篇 "Grendel" の舞台。 [#ここで字下げ終わり] カルロス・ウーの自動医療装置《オートドック》 [#ここから2字下げ]  医療装置の試作品。初出は「プロクルステス」。 [#ここで字下げ終わり] 〈管理センター〉→〈補修センター〉 キャニヨン [#ここから2字下げ]  人類空域の惑星。かつて〈族長世界〉の領土だった。 [#ここで字下げ終わり] 銀河の中心核の爆発 [#ここから2字下げ]  短篇「銀河の〈核〉へ」に詳しい。 [#ここで字下げ終わり] クジン人 [#ここから2字下げ]  人間とクジン族との関係については、第一巻『リングワールド』の説明を参照されたい。なお、黄金時代末期の闘争を忘れた地球人と、クジン人の最初の接触は、短篇 "The Warriors" に描かれている。 [#ここで字下げ終わり] クダトリノ人 [#ここから2字下げ]  盲目で巨体の、触感彫刻にすぐれた才能をもつ異星種族。中篇 "Grendel" 「太陽系辺境空域」などに登場する。 [#ここで字下げ終わり] クリスマス・リボン [#ここから2字下げ]  一般にはクリスマス・プレゼントにかけるリボンのことだが、ここでのイメージは、パーティの席などで、持ちよられた贈りものをクリスマス・ツリーの根本にあつめ、長いリボンでかこんでおく慣習から出ているようだ。 [#ここで字下げ終わり] 汎用道具《グリッピ》    あらゆる用途に使える工具。 クルーザー [#ここから2字下げ]  〈機械人種《マシン・ピープル》〉の乗り物。 [#ここで字下げ終わり] グロッグ [#ここから2字下げ]  短篇 "The Handicapped" に登場する。獲物の動物をひきよせるぶきみな超能力を持つ。 [#ここで字下げ終わり] |量子第二段階《クワンタムU・》|超空間駆動《ハイパードライヴ》 [#ここから2字下げ]  〈ピアスンの|人形つかい《パペッティア》〉により開発されたふつうの超空間駆動《ハイパードライヴ》より格段に速い、先進的実験的な超光速推進法。その試作第一号機〈|のるかそるか《ロングショット》〉号は、はじめて銀河の〈核〉への訪問を果たした。  初出は「銀河の〈核〉へ」。量子第二段階《クワンタムU》ハイパードライヴでの一リングワールド日=千四百四十光年。 [#ここで字下げ終わり] ケンプラーの|ばら飾り《ローゼット》 [#ここから2字下げ]  天体力学における多体問題の特殊解のひとつ(中心解という)だが、ケンプラー=i Kempler )の出所は 不明。 [#ここで字下げ終わり] |ひまわり花《サンフラワー》 [#ここから2字下げ]  十五億年前、スレイヴァー族に対して奴隷種族のトゥヌクティパンが反乱を起こしたとき、奇襲に用いた武器 のひとつ。その詳しいいきさつは、長篇 "World of Ptavvs" の中で語られている。 [#ここで字下げ終わり] 鉤爪鞘《シースクロウズ》 [#ここから2字下げ]  人類とクジン人双方によって治められている世界。 [#ここで字下げ終わり] 実験党 [#ここから2字下げ]  ピアスンのパペッティア人の政党。現在権力を失っている。 [#ここで字下げ終わり] ジンクス人 [#ここから2字下げ]  これは異星種族ではなく、ジンクス星へ植民した地球人の末裔で、おそろしく力が強い。この惑星(じつは巨大惑星の衛星)の詳細は、「太陽系辺境空域」で語られる。 [#ここで字下げ終わり] 人類宇宙(人類空域) [#ここから2字下げ]  地球人類によって探検され植民された恒星間宇宙の一区域。 [#ここで字下げ終わり] 〈スクライス〉 [#ここから2字下げ]  リングワールドの構成材。リングワールド内面の地球的な地形はすべてこの〈スクライス〉にきざみこまれたものである。縁《リム》の壁も〈スクライス〉でできている。きわめて密度が高く、原子核内の粒子をつなぎとめている核力に匹敵する引張り強度を持つ。 [#ここで字下げ終わり] 星間種子《スターシード》 [#ここから2字下げ]  卵からかえった星間種子《スターシード》が恒星の光圧に帆≠張って回遊の旅にのぼる壮観については、 "Grendel" に詳細な描写がある。 [#ここで字下げ終わり] |右 舷《スターボード》 [#ここから2字下げ]  リングワールドの回転方向に向かって右の方角。 [#ここで字下げ終わり] 停滞状態《ステイシス》 [#ここから2字下げ]  時間経過が極度におそい状態。その比率は、常態の数億年が停滞状態では数秒にしか当たらないくらいまで高めることができる。停滞フィールド内のものはほとんどいかなるものにも侵されない。 [#ここで字下げ終わり] |停 滞《ステイシス》フィールド [#ここから2字下げ]  本シリーズでさまざまな役割を果たす古代種族スレイヴァーの遺産のひとつ。このほかにも、|自 在 剣《ヴァリアブル・ソード》≠竍掘削機械″などいろいろな「遺産」がある。 [#ここで字下げ終わり] ステット [#ここから2字下げ]  放っておけ、書面どおりに承認する、変化なし、そのとおり、もとにもどせ等の意。 [#ここで字下げ終わり] |跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》 [#ここから2字下げ]  パペッティア人の〈惑星船団〉で使われているテレポーテイション交通システム(既知空域《ノウンスペース》に住むこれ以外の種族は、密蔽式の転移ボックスというもっと原始的な機構を使用している)。 [#ここで字下げ終わり] スパゲッティ植物 [#ここから2字下げ]  リングワールドの原産で食料になる。 [#ここで字下げ終わり] |こぼれ山《スピル・マウンテン》 [#ここから2字下げ]  外壁に沿ってずらりと立ちならぶ山。縁《リム》の排出管《スピル・パイプ》による留出物の堆積。フラップ循環の一段階。ここには独自の生態圏がある。 [#ここで字下げ終わり] 回転方向《スピンワード》 [#ここから2字下げ]  リングワールドの回転方向に一致する方角。 [#ここで字下げ終わり] スラスター駆動 [#ここから2字下げ]  無反動推進。ノウンスペースでは戦闘用以外のあらゆる宇宙船は、おおむね核融合にかえてこの方式を採用している。 [#ここで字下げ終わり] ゼネラル・プロダクツ社 [#ここから2字下げ]  ピアスンのパペッティア人が経営する会社で、もっぱら宇宙船の船殻を売っていた。二百年前に閉業。 [#ここで字下げ終わり] 〈族長世界〉    クジン人の星間帝国。 ソーセージ植物 [#ここから2字下げ]  メロンや胡瓜に似ているがリング状につながって生えるリングワールド原産の植物。そのつなぎ目から地面に根をおろす。湿地帯に多生し、食料になる。 [#ここで字下げ終わり] タスプ [#ここから2字下げ]  離れたところから人間の脳内の快感中枢を刺激する小型の装置。 [#ここで字下げ終わり] 地球(火星、クジン、クダット等)の〈地図〉 [#ここから2字下げ]  〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉には、リングワールド建設当時の生態系を完全に移植した、近隣居住惑星の実物大の〈地図〉が散らばっている。 [#ここで字下げ終わり] チュフト船長 [#ここから2字下げ]  その名のクジン人をネサスが蹴倒した挿話は、じっさいに中筋 "The Soft Weapon" に出てくる。 [#ここで字下げ終わり] ツィルタン・ブローン [#ここから2字下げ] 〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉が使っていた装置。貨物や旅客などあらゆる固形物を〈スクライス〉を透過できるようにするビーム発生機。実在の疑わしい装置。 [#ここで字下げ終わり] 日徒歩距離《デイウォーク》 [#ここから2字下げ]  種族によって異なるが、一般に食物収集と体力保持を考慮に入れた上で、ひたすら前進した場合で規定する。 〈機械人種《マシン・ピープル》〉の一|日徒歩距離《デイウォーク》はおよそ十マイル。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉ではそれより少ないが、ずっとその速度を維持できる。〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉は二時間で〈機械人種《マシン・ピープル》〉の一・五|日徒歩距離《デイウォーク》を走破する。 [#ここで字下げ終わり] 地球化《テラフォーム》 [#ここから2字下げ]  環境に手を加えて地球のように変えること。 [#ここで字下げ終わり] ドラウド [#ここから2字下げ]  電流中毒者が頭蓋のソケットにさしこむ小さな装置。中毒者の脳の快楽中枢に流す電流を調整するもの。 [#ここで字下げ終わり] トリノック人 [#ここから2字下げ]  この種族とのファースト・コンタクトの経緯は、短篇 There is a Tide" で語られる。 [#ここで字下げ終わり] 既知空域《ノウン・スペース》 [#ここから2字下げ]  人類と交渉のある知的種族によって探検解明されている恒星間宇宙の一区域。 [#ここで字下げ終わり] 超空間駆動《ハイパードライヴ》 [#ここから2字下げ]  アウトサイダー人の大きな交易品目のひとつである超光速推進法。アウトサイダー人自身はまったくこれを使わないが、既知空域《ノウンスペース》内の宇宙旅行種族にひろく用いられている。 [#ここで字下げ終わり] パペッティア人 [#ここから2字下げ]  短篇「中性子星」以来おなじみのところ。ついでながら、第一巻『リングワールド』に登場するふたりのパペッティア人ネサス≠ニキロン≠ヘ、ともにダンテの『神曲・地獄篇』に出てくるケンタウロスの名前をそのままいただいている。 [#ここで字下げ終わり] 春を送る [#ここから2字下げ]  こっそり誰かに向かってタスプを使うこと。 [#ここで字下げ終わり] バンダースナッチ [#ここから2字下げ]  これも十五億年前、トゥヌクティパンがスレイヴァーへのみつぎもの[#「みつぎもの」に傍点]として(かつ反乱の準備のために)創造した食肉用の知性生物。プロントザウルスの二倍もある白いなめくじのような怪物で口のまわりの触毛以外に感覚器官をもたないという、ある意味では哀れな存在でもある。ジンクス星の低地に住むバンダースナッチの一族は、人間に義手をつけてもらうかわりに人間の狩猟獣になるという契約をかわしている(前記 "Handicapped" )。なおそれが突然変異を起こさないのは、人工生命なので染色体の大きさが人間の指ほどもあり、ミクロ段階の変動に強いためだという。作品中には、この名称の出どころであるルイス・キャロル『鏡の国のアリス』に現われるおどろしき[#「おどろしき」に傍点]バンダースナッチ=i Frumious Bandersnatch )という形容が、そのまま使われている。 [#ここで字下げ終わり] 反物質の小惑星 [#ここから2字下げ]  ゼネラル・プロダクツ製船殻の唯一の泣きどころがこれ。 [#ここで字下げ終わり] 細胞蹴活剤《ブースタースパイス》 [#ここから2字下げ]  ジンクス星の|知 識 学 会 研 究 所《インスティテュート・オブ・ナレッジ》で開発された文字どおりの不老長寿薬で、その出現により臓器銀行《オーガン・バンク》のもたらした悪弊にようやく終止符が打たれた。(もっとも、臓器銀行については、のちにニーヴン自身、現実にはクローン培養技術が先行するので、臓器故売といった問題は起こらないだろうとのべている) [#ここで字下げ終わり] フーチ(フーチスト) [#ここから2字下げ]  クジンの狩猟公園全域にわたって散在する石の寝椅子。 [#ここで字下げ終わり] フライサイクル [#ここから2字下げ]  一回目のリングワールド調査に用いられた単座、もしくは復座の飛行機械。 [#ここで字下げ終わり] |平 地 人《フラットランダー》 [#ここから2字下げ]  小惑星帯人や他星系の植民者に対して、地球に住んでいる人間をこう呼ぶ。この時代の|平 地 人《フラットランダー》は、男も女もおそろしく濃いメークアップをしていて、めったに他人に素顔をみせない。その他さまざまな奇習が、中篇 "Flatlander" などに出てくる。 [#ここで字下げ終わり] フラップ    海底の軟泥。 |高所催眠への耐性《プラトー・アイズ》 [#ここから2字下げ] 高所催眠《プラトー・トランス》≠ヨの耐性。長篇 "A Gift from Earth" の主人公マット・ケラー(山頂平原《プラトー》$ッの住民)がこの素質の持ちぬしである。 [#ここで字下げ終わり] 〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉 [#ここから2字下げ]  既知空域《ノウンスペース》のあらゆる宇宙航行種族がリングワールド星系に船を送りこんでいるらしい。〈補修センター〉を支配しているブラムは、接近しすぎた船を撃ち落としていた。〈作曲家《テューンスミス》〉はそれをしておらず、〈周辺戦争《フリンジ・ウォー》〉はもっか静止状態である。 [#ここで字下げ終わり] 荷台外殻《ペイロード・シェル》 [#ここから2字下げ] 〈機械人種《マシン・ピープル》〉のクルーザーの、鍵のかかる鉄製の外被。 [#ここで字下げ終わり] 小惑星帯人《ベルター》 [#ここから2字下げ]  太陽系の小惑星帯に籍をおく人々。 [#ここで字下げ終わり] 〈補修センター〉 [#ここから2字下げ]  〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉の火星の〈地図〉の下におさめられた、リングワールドの修理保守と維持制御を行なう古代の中枢。 [#ここで字下げ終わり] |尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号(ニードル号) [#ここから2字下げ]  (実験党の計画によって)リングワールドを訪れた二番目の船。 [#ここで字下げ終わり] 左舷《ボート》 [#ここから2字下げ]  リングワールドの回転方向に向かって左の方向。 [#ここで字下げ終わり] ホーム星 [#ここから2字下げ]  異常なほど地球に似た、人類空域の惑星。 [#ここで字下げ終わり] 毎秒九・九八メーター [#ここから2字下げ]  地球の重力加速度は約九・八〇メーター/秒である。たぶん作者の思いちがいか、ヤード・ポンド法で頭にはいっている数値からの換算誤差といったところだろう。 [#ここで字下げ終わり] マウント・ルッキットザット [#ここから2字下げ]  別名山頂平原《プラトー》≠ニもよばれる植民星(長篇 "A Gift from Earth" の舞台)で、その名のとおり、人間の居住可能地域は、この惑星唯一の超高峰の山頂のみにかぎられている。 [#ここで字下げ終わり] |うそつき野郎《ライイング・バスタード》号 [#ここから2字下げ]  (実験党の計画によって)リングワールドを訪れた最初の船。 [#ここで字下げ終わり] ラムシップ [#ここから2字下げ]  宇宙ラムジェット・エンジンを装備し、恒星間物質をあつめて核融合燃料とする宇宙船で、質量比の問題を気にすることなく光速の近くまで加速できる。地球では二十一世紀に、この種の無人探査艇《ラムロボット》≠ェ、植民可能惑星発見のために使用され、二十五世紀には有人ラムシップも可能になった(短篇 "The Ethics of Madness" )が、超空間駆動《ハイパードライヴ》の実現で無用の長物と化した。 [#ここで字下げ終わり] 着陸船《ランダー》 [#ここから2字下げ]  地上と軌道を結ぶ宇宙船の総称。 [#ここで字下げ終わり] リシャスラ(レシュトラ等) [#ここから2字下げ]  たがいに異なる、ただし知的なヒト型種族間における性交。リングワールド外では使われない用語である。 [#ここで字下げ終わり] リングワールド全体のイメージ [#ここから2字下げ]  要するに、一見ごく細くみえるリングワールドの幅が、地球の周囲の四十倍もあるということである。なおこれは、地球から月までの距離のおよそ四倍にあたる! [#ここで字下げ終わり] 〈|のるかそるか《ロングショット》〉号(ロングショット号) [#ここから2字下げ]  はじめて銀河の〈核〉を訪れた、試作品の量子第二段階《クワンタムU》ハイパードライヴ船。 [#ここで字下げ終わり] 〈惑星船団〉 [#ここから2字下げ]  ピアソンのパペッティア人の故郷惑星と農業用に接収された四つの惑星。ケンプラーの|薔薇飾り《ローゼット》を構成して、光速に近い速度で移動している。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#改ページ]      訳者あとがき [#地付き]小隅 黎    本書『リングワールドの子供たち』は、ラリイ・ニーヴン氏|畢生《ひっせい》の大作『リングワールド』にはじまり、第二巻『リングワールドふたたび』、第三巻『リングワールドの玉座』とつづいた連作の第四巻に当たる。  そもそも第一巻の『リングワールド』は、ニーヴン氏初期の諸作を代表する〈ノウンスペース〉シリーズの掉尾《とうび》を飾る長篇として一九七〇年に出版され、SF読書界をあげての支持を一身に集めて、その年のヒューゴーとネビュラの両賞を独占した傑作である。ところがやがて、いわば読者に愛されすぎた[#「愛されすぎた」に傍点]結果、氏は最初の予定になかったその続篇を書かざるをえなくなった。そうなったいきさつは本書の「序文」の中で、作者自身が詳しく告白している。(同じことが、『リングワールドふたたび』の「献辞」でも述べられている。)  作品の内容をここでぶちまけるわけにはいかないが、一応これだけは申しあげておきたい。本書ではついに、パク人の一団が故郷の星域を脱出してリングワールドを構築するにいたる事情が、はじめて具体的に、かつ詳細に語られる。また、前の第二巻と第三巻が、さらなる続篇を期待させるような終わりかただったのにくらべると、この第四巻の結末は、およそ大方の想像を絶した終幕の展開によって、さし迫った諸問題からは脱却できたかたちになっている。それやこれやで、もしかするとニーヴン氏は、この一冊を連作の打ちどめとするつもりなのかもしれないという気もするのだが……。  それはともかく、リングワールド建設までの経緯を知る意味でも、ニーヴン・ファン諸兄姉には、ぜひ本書をご一読願いたいものである。    *    *    *  さて、その第一巻『リングワールド』の訳出にわたしが手をそめたのは、いまからおよそ三十年も前のことである。ニーヴン氏にはそれよりさらに前の一九六八年の夏、わたしがアメリカのファンたちに招かれてはじめて渡米した折に顔を合わせていたのだが、そのさいの印象はあまり強いものではなく、おっとりした氏の人柄の良さに好感を持った程度に終わっていた。たしかそのときは、少し前に発表された氏の短篇「中性子星」のことが話題にのぼったように覚えている。だが白状すると、わたしはこのときまだそれを読んでいなかった。わたしの知識は、SFマガジンに載っていた浅倉久志さんの紹介文から得たものだったのである。しかしその翌年、同じSFマガジンに浅倉さんご自身の手で訳載されたその作品に接するに及び、わたしは改めてニーヴン氏の発想のすばらしさに驚嘆し、そのときの感動が忘れられず〈ノウンスペース〉の作品群を追いかけはじめた。そしてやがてどなたかのご推薦により『リングワールド』を翻訳することになったわけで、以後は文字どおりこのシリーズに惚れこみ、身も心も入れあげたかたちで、結局シリーズの大半を手がけることとなった。思えばふしぎなご縁だったとしかいいようがない。  だが、それほど惹かれていたにもかかわらず、当初から現在までずっとわたしの心の片隅にひっかかっていた疑念がひとつある。失礼を承知であえて言わせていただくが、それは、このリングワールドというまさに超絶的な──というよりむしろ超常識的な──構造物の実体を、ニーヴン・ファン諸兄姉の中でもどれだけのかたがしっかり把握し理解しておられるのだろうかという、一抹の不安感であった。  もう少しくだいていえば、宇宙におけるリングワールドの「見えかた」ということになるのだろうか。問題は、まず自然界の天体にも比肩《ひけん》するスケールの巨大さと、それに加えて各部分の比率のすさまじさにある。そのイメージは、本書にも載っている「リングワールドの諸元」の数値などをいくら見つめても浮かんでこない。またそうしたわたしの不安をかき立てた原因のひとつは、これまで描かれてきた表紙や口絵などのどれにも、その比率を的確に反映したものがついぞ見当たらなかったことにもあった。端的に言うと、まずどの絵もリングワールドの床面が妙に幅広く、ガッチリ[#「ガッチリ」に傍点]しすぎているように見え、また一部を拡大した図では、その床面の曲率が誇張されすぎているように思われるのである。むろんのことそのどちらも、全体のスケールをいかにも小さく感じさせる方向にしか働かないわけだ。  もともとニーヴン氏は、作家として、物語の基礎となるアイデアそのものをとくに重視するほうである。この点については氏自身も自分の作風のひとつとして自覚しており、例えば、たしかSF情報誌「ローカス」に載ったインタビューのひとつだったかと思うが、「わたしは小うるさい教師のようなものかもしれない。物語の設定への正しい理解を読者に押しつけようとするからだ」と述べている。  当然ながら、第一巻『リングワールド』には、この構造物のすごさ[#「すごさ」に傍点]を読者に理解させ納得させるための書きこみが随所に見てとれる。一例をあげると、第六章「クリスマス・リボン」で、氏はまずその形状を説明するため、極端な縮尺を利用している。曰く: [#ここから2字下げ] ──幅一インチの青いクリスマス・リボンを用意する。プレゼントを包むのに使うような種類のものをだ。何もない床の上に、火のついたろうそくを一本立てる。リボンを五十フィートほどとり、それで、ろうそくを中心とする円形の輪をつくり、内側の面が照らされるように、床の上に緑で立てて置いたと思えばよい。──(拙訳) [#ここで字下げ終わり]  おそらくこの譬《たと》えが、縮尺によって各部分の大きさの比率をもっとも正しく示したものといえるだろう。ただし難点がひとつ──これだと構造物全体がひどくヘロヘロした存在のように感じられ、「剛体」のイメージとはほど遠いのだ。  また第八章に出てくる、外壁の間近で──といっても五百マイルの距離からだが──眺めたときの形容も強烈だ。曰く: [#ここから2字下げ] ──直角とその他いくつかの性質だけを持った、一次元の直線宇宙──(拙訳) [#ここで字下げ終わり]  全体の巨大さを読者に実感させるのに、これにまさる殺し文句は誰にもちょっと思いつかないだろう。  そこでわたしも翻訳者としての責任上、邦訳文庫版の「訳者あとがき」で二種類の縮尺模型──十六億分の一と一六〇〇万分の一──を提示することにより、及ばずながらその傍証を試みた。詳しくはそちらを参照していただきたいが、かいつまんで説明すると、前者(十六億分の一)ではリングの直径が約二百メートル、リング床面の幅は約一メートル、その左右両舷の縁《へり》にそそり立つ外壁の高さはおよそ一ミリメートルとなる。このしろもの[#「しろもの」に傍点]を遊園地の観覧車のように垂直に立てて見あげたと考えることで、なみはずれたその偉容の一端はご想像いただけよう。また後者(一六〇〇万分の一)の場合、リングの直径は約二十キロメートルで、水平に置くとその中に東京の1R山手線がすっかりその中に収まることになる。ここでその全長にわたって高さ約百メートルの床面が垂直にえんえんと連なりそびえているさまを想像していただきたい。なおこの縮尺だと、外壁は高さわずか十センチメートルの折り返しにすぎないし、床面を構成する「スクライス」の厚みはおよそ一ミクロンかそこらしかない。  ちなみに、前掲のニーヴン氏による「クリスマス・リボン」の譬えは、縮尺およそ六百億分の一の超マイクロ・リングワールドだということになる。あの「リボン」が超薄手の超強力な物質で出来ていたら、それでよかったわけだが……。  そしてもうひとつ……この縮尺だと、光速は毎秒約五ミリメートルである。もしかするとこういう指摘も、状況をなんとなく身近に感じとっていただくため少しはお役に立つかもしれない。    *    *    *  ところで、本書『リングワールドの子供たち』では、これに先立つ三巻と違い、訳者名がわたし(小隅)と、RAY会の梶元靖子さんとの共訳になっているので、その事情を説明しておかなければならないだろう。以下、話がいささか私事にわたることをお許しいただきたい。翻訳者や翻訳界に興味のないかたは、どうかお気になさらずお読み捨てくださるようお願いします。  実のところ、最初わたしは、翻訳者名を 「小隅黎&RAY会」としたかったのだが、それでは読者に通じにくいということで実現しなかった。この「RAY会」というのは、いまから二十数年前の一九八三年春、四月から五月にかけて、バベル翻訳学院が開いたワークショップでわたしが講師を務めたのがきっかけで生まれた集会主体のグループである。ワークショップも最終日を迎えていよいよお別れというとき、受講者の中でも生っ粋のSFファンでSF翻訳家を志していた坂井星之さん、高林慧子さん、小木曽絢子さん、小野田和子さん、梶元靖子さんの五人がわたしを囲み、このまま別れてしまうのは惜しいからということで──いい出したのは坂井さんだったと覚えているが──以来毎月一回、新宿で会合を開くようになったのが最初だった。  全員が翻訳家志望だから、まずはその修行のため、わたしが手がける作品の下訳を各人にお願いし、集会には英語を母国語とする日本在住のSFファンを招いて、原文の意味や狙いが不明瞭なところを質問したり、また英文のいいまわしやその裏に隠された作者の意図を訳文にどう反映させるかを互いに研究し合ったりするのが会合の主目的だったが、余った時間はもちろん定石どおり情報交換と称する気楽な雑談の場となった。  いまではもう最初のメンバーは首尾よく翻訳家としてデビューを果たし、途中から翻訳家の卵たちの参加もあり、そこに、わたし個人との付き合いから翻訳の道に進んだ酒井昭伸さん、大西憲さん、久志本克己さんといった人たちも合流して、だんだん大所帯となった。その後、矢野徹さん主宰の、翻訳家グループとしては先輩筋に当たる「SF翻訳勉強会」のメンバーだった人々も、わりと頻繁に──ときにはほとんど常連なみに──立ち寄るようになり、毎年末の忘年会には早川書房や東京創元社の編集者諸氏も顔を見せるし、ときにはグルーブ旅行や、ブランチ・パーティを催したこともある。とくに先年は──うれしいことに──わたしの喜寿の祝賀パーティを、このRAY会が率先して開いてくれた。そんなぐあいで、なかなか積極的に活動する頼もしいグループとなっている。  ところがその一方、わたし自身は、二〇〇二年の暮れごろから、持病の喘息を遠因とするさまざまな症状に悩まされるようになり、せっかく毎月開かれる会合にも体調不良のためほとんど出席できない状態に陥ってしまった。  しかももっと悪いことに、本書の翻訳を引き受けた二〇〇五年のはじめごろから、加齢による黄斑変性という網膜の病気が急速に悪化して視力が落ちはじめ、半年かそこらのうちに、こまかい活字などは拡大鏡でひと文字ずつ拾い読みする始末で、気楽に読書を楽しむこともできなくなってしまったのである。  そこでやむなくこの一冊では、これまでもたびたび翻訳を手伝ってもらっていた「RAY会」の有志諸氏に全面的な協同作業をお願いすることにした。その実行グループの中心となってくれたのが梶元靖子さんである(彼女は『リングワールドの玉座』でも事実上の共訳者だった)。実際にはまず彼女が通して訳したものを久志本さん、坂井さん、小木曽さん、小野田さんの四人がチェックした上で、最後にわたしがまとめるという、まさしく万全の──というと聞こえはいいがその実はむしろ「おんぶに抱っこ」に近い──態勢で臨んだ。それでも、最終チェックのさいには、わたしの長女(筆名:すみ・れいこ)に、ほとんどつきっきりで手助けしてもらわなければならなかった。さらに今回は、編集担当の上池利文さんや校閲部のかたがたによる精細な再チェックが、仕上げに大きく貢献してくれた。  そうした多くのプロまたはプロ級の人たちの強固な、そして温かいご援助の結晶として生まれたのが本書である。いつもの何倍か手間のかかったこの翻訳に親身のご助力を賜わった大勢のかたがた、それにこれまで浅学非才のわたしを支え励ましてこの道を歩ませてくださった皆様、さらに永らくご愛顧を賜った読者のみなさまに、この場を借りて心からの感謝を捧げたい。  本当にありがとうございました! [#改ページ] [#改ページ] [#(img/04/343.jpg)入る]