リングワールドの玉座 ラリイ・ニーヴン 小隅 黎訳 [#(img/03/000a.jpg)入る] [#(img/03/000d.jpg)入る] [#(img/03/000b.jpg)入る] [#改ページ] [#(img/03/000c.jpg)入る] [#改ページ] [#(img/03/001.jpg)入る] [#(img/03/002.jpg)入る] [#(img/03/003.jpg)入る] [#改ページ] [#(img/03/005.jpg)入る] [#(img/03/006.jpg)入る] [#(img/03/007.jpg)入る] [#(img/03/008.jpg)入る]      あらすじ        ──『リングワールド』          『リングワールドふたたび』  リングワールドは、とてつもなく強靭な物質──〈構造材《スクライス》〉──でできた、幅百万マイル、長さ六億マイルのリボン状建造物である。直径一億九千万マイルのその巨大環状世界は、その中心にG2型の主星を置き、秒速七百七十マイルで自転することによって、外向きに一Gの重力を作り出している。その内側の表面は、土壌と海洋と大気の層で蔽われ、また両方の縁に築かれた高さ一千マイルの外壁によって、その大気が逃がれないよう施されている。二十枚の長方形の遮光板から成る内側の環が、太陽系なら水星軌道にあたる位置にあり、リングワールド上に三十時間周期の昼夜を作り出している。リングワールドは、いわば面積六百兆平方マイルの居住可能惑星であり、その面積は地球表面の三百万倍にあたるのだ。  何世紀も昔、臆病さと卑怯さで知られたピアスンのパペッティア人は、銀河系の中心部における新星の連鎖反応を発見、爆発する〈核《コア》〉の放射波から逃れるため、自らの惑星五つを準光速にまで加速させた〈惑星船団〉を率いてマゼラン雲に向けて移住を開始した。そして、行手の空間に一個の巨大な環《リング》を発見する。  探検隊を派遣すべく白羽の矢が立てられたのは、非常識なほど大胆なパペッティア人、気の触れたネサスだった。地球上で彼は、慎重に異星人の部下を選んで徴用する──齢《よわい》二百歳をかぞえる練達の探険家ルイス・グリドリー・ウー、六代つづけて地球の出産権抽籤によって生まれてきた子孫のティーラ・ブラウン、好戦的な猫族クジン人の見習い外交官〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉の三人である。探検の褒賞として、ルイスと〈|話し手《スピーカー》〉には、ハイパードライヴ装置を搭載した宇宙船とその建造仕様書、そして気ちがいパペッティア人自身には、子孫を残す権利──パペッティア人全体の指導者〈至後者《ハインドモースト》〉を配偶者とする権利──が与えられることになっていた。  探険家一行の|うそつき野郎《ライイング・バスタード》号は、リングワールドの隕石防禦装置に撃墜され、原住民が〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉と呼ぶ高さ一千マイルの山≠フ麓近くに激突する。超高速駆動装置は何とか無事に残ったものの、主星重力圏内ではそれを作動させることはできなかった。  ひとり乗りフライサイクル四機を連ね、一行は救いを求めるため、その地球的景観の上を数十万キロにわたって探検する。そこに住んでいたのは何種類かの亜人種だったが、かつてリングワールドを支配していた高度の文明は、既に廃墟と化していた。  ついにルイスと〈|話し手《スピーカー》〉は、齢《よわい》一千歳になる旧文明の生き残りをひとりさがしあてる。ハールロプリララー・ホトルーファンと名乗るその女性の乗り組んでいた宇宙船が、近隣の恒星系から帰還したとき、ここの文明は崩壊していた。突然変異種の細菌によって、超伝導物質が食い荒らされたのだ。浮かぶビルの群が空から落下した〈都市の墜落〉の際、支配階級だった技術エリートのほとんどが死に絶え、文明は二度と興隆しなかった。ハールロプリララーは、ここへ帰ってから、浮遊する監獄を住み家とし、長命薬と、彼女を女神と仰ぐ原住民たちの供物によって、生き延びていたのである。  ハールロプリララーの助力を得て、ルイス、〈|話し手《スピーカー》〉、ネサスの三人は、リングワールドの自転速度を利用して、帰還のためハイパードライヴ・モーターの使える恒星間宇宙へ船を放り出すことに成功する。しかし、ティーラ・ブラウンは、あとに残る道を選んだ。  そして、二十三年の歳月が流れた……。  二十三年後、キャニヨン星で電流中毒《ワイアヘッド》になり果てていたルイス・ウーの元に、ネサスの配偶者〈至後者《ハインドモースト》〉が訪れる。莫大な富をもたらすリングワールドの物質変換機を手に入れるべく、今一度リングワールドを探検したいというのだ。かくして、ルイスはかつての盟友〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉──ハイパードライヴ装置を手に入れた功績により、いまやハミイー≠ニいう名前が授けられていた──とともに再び旅立つことになる。報酬として、ハミイーにはクジン人用の細胞賦活剤《ブースタースパイス》、そしてルイスにはトラウド──脳の快感中枢に微弱な電流を流し込む装置──が与えられることになり、|尋問用の焼け火箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》″と命名された船は一路リングワールドの宇宙港を目指す。  旅の途上、ルイスは〈至後者《ハインドモースト》〉からリングワールド崩壊の危機を聞かされる。いまから一年半後、中心のずれたリングワールドは太陽と接触しこなごなに分解してしまうという。その構造上、リングワールドは軸方向には安定だが、軸道平面上では不安定であり、そのため、リングワールドの〈建設者〉は、環を中心に保持するための姿勢制御ジェット──パサード式ラムジェット──を予め外壁に沿って取り付けておいたのだ。だがそれら姿勢制御ジェットも、他の星系へと向かう宇宙船の動力機関に転用すべく、ハールロプリララーの種族によって既に大部分取り外されていたのだ。ルイスとハミイーは、〈建設者〉によって巧妙に秘匿された〈補修センター〉を目指し、着陸船を駆ってリングワールド表面上の探索に赴く。  途中二人は|ひまわり花《サンフラワー》によって生態系の破壊された地域を通過するが、原住民たちを災厄から救うべく、ルイスは海を沸騰させ、その水蒸気の雲によって|火の植物《ファイア・プラント》を死滅に追いやることに成功する。そして原住民の〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉が身に纏っていた甲冑の際立ったその形状から、ある事実を突き止める。  リングワールドの〈建設者〉はパク人のプロテクターだったのだ。  元来銀河の〈核〉の中の惑星に住んでいたパク人は、その一生を幼年《チャイルド》段階、繁殖者《ブリーダー》段階、プロテクター段階の三期に分けることができる。中年にはいるまで長生きできた繁殖者は生命の樹≠ニ呼ばれる植物に共生するウィルスによって、その植物に対する猛烈な食欲を持つようになるが、リングワールド上では二十五万年以上の期間にわたって、様々な亜人種が、繁殖者段階のまま独自の相離進化を遂げていたのだ。そして自分の子孫を守ることが唯一の行動目的であるプロテクター自身──彼らが自らの子孫の突然変異を容認することなどありえない──は既に死に絶えていた。  ルイスが強力なフェロモンを発する吸血鬼に襲撃された隙を突き、ハミイーはひとり着陸船で〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉のクジン星の〈地図〉へ飛び立って行ってしまう。だが、ひとり取り残されたルイスは〈機械人種《マシン・ピープル》〉ヴァラヴァージリンの手引きで|浮遊 都 市《フローティング・シティ》に潜入することに成功する。そして〈図書館《ライブラリー》〉から〈スクライス〉に関する資料を盗み出し、ニードル号に送り込む。  リングワールド救済に〈至後者《ハインドモースト》〉とハミイーを全面的に協力をさせるべく、ニードル号のハイパードライヴ・モーターを破壊した後、〈図書館《ライブラリー》〉司書ハーカビーパロリンとカワレスクセンジャジョクの協力のもと、ルイスはついに〈補修センター〉の所在を突き止める。リングワールドは超伝導体によって磁化された〈スクライス〉によって太陽光面体のプラズマを操作するが、その〈管理センター〉が〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉の火星の〈地図〉にあったことが判明したのだ。〈補修センター〉はその火星の〈地図〉にあったのだ。  だが、火星の〈地図〉で待ち受けていたのは、プロテクターと化したティーラ・ブラウンの奸計だった。熔岩に閉じ込められたニードル号から脱したルイスたちは、リングワールド全住民の五パーセントを救うべく猛攻をかけてくるティーラを死闘の末打ち倒し、リングワールドの弧に沿って五パーセントの区域に取り付けられた姿勢制御ジェットを稼動させるため、太陽フレアを発生させる。かくして、プラズマ・ジェットの放射能による五パーセントの住民の犠牲の上に、リングワールドは安定を取り戻し、一行は新たなる旅に出る。  熔岩に閉ざされたニードル号に〈至後者《ハインドモースト》〉をひとり残して。 [#改ページ] [#改ページ]      プロローグ       セントへレンズ山の〈地図〉 AD一七三三年 [#ここから2字下げ] 〈都市の墜落〉(パペッティアの実験党政権がリングワールドに超伝導体腐食菌を持ちこむ) [#ここで字下げ終わり] AD二八五一年 [#ここから2字下げ] 第一次接触《ファースト・コンタクト》。|うそつき野郎《ライイングバスタード》号、リングワールドに衝突。 [#ここで字下げ終わり] AD二八七八年 [#ここから2字下げ] |尋問用の焼け火箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号、キャニヨン星を出発。 [#ここで字下げ終わり] AD二八八〇年 [#ここから2字下げ] |尋問用の焼け火箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号、リングワールドに到着。 [#ここで字下げ終わり] AD二八八一年 [#ここから2字下げ] リングワールド、安定をとりもどす。 [#ここで字下げ終わり] AD二八八二年 〈至後者《ハインドモースト》〉が踊っている。  たいらな鏡になった天井の下、目のとどくかぎり彼らが踊っている。数万ものパペッティア人が、位置決めのためふたつの頭を上下にかまえ、隙のない動きで、絶え間なく変化する大きな渦を描いている。十万ものカスタネットのように、蹄の音が音楽の一部となって鳴りひびく。  ──短くトン、つづいてトン、クルリとまわって。片目を相方に。その動きとつぎの動作のあいだは花嫁が隠れている壁のほうを見てはいけない。触れてもいけない──。  何百万年ものあいだ、配偶者を得られる者と得られない者とが、このダンス競技やさまざまな社会的力関係によって選別されてきたのだ。  ダンスの幻影の向こうに、遠く巨大な窓の幻影が浮かんでいる。|秘密の族長《ヒドウン・ペイトリアーク》号からの映像は集中をさまたげ、基本ルールを崩し、ダンスの邪魔になる。   ──頭をのばして、はいお辞儀──。  三本足の踊り手たちと広大な天井と床は、|尋問用の焼け火箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号のコンピューター・メモリがつくり出した映像だ。〈至後者《ハインドモースト》〉はダンスによって運動機能と反射神経と健康を維持する。今年は休眠と回復と黙想の年だった。だが、そんな状況はいつ変わるかわからない。  一地球年前、パペッティア人惑星の古代暦における半年前、そしてリングワールドの四十回転前……〈至後者《ハインドモースト》〉とその異星人の奴隷たちは、火星の〈地図〉の下に繋留された長さ一マイルにもわたる帆船を発見した。奴隷たちはそれを|秘密の族長《ヒドゥン・ペイトリアーク》号と名づけ、〈至後者《ハインドモースト》〉をあとに残して出帆していった。〈至後者《ハインドモースト》〉の踊りの中にひらいた窓は、その船の船首見張り台につけた蜘蛛巣眼《ウエブアイ》がとらえているリアルタイムの映像だった。  窓に映っているものは踊り手たちよりはるかに現実的だ。  手前のほうに、ハミイーとルイス・ウーがグッタリしている。反乱奴隷たちはいささか疲れているようだ。 〈至後者《ハインドモースト》〉が医療プログラムでふたりを若返らせたのは、ほんの二年かそこら前のことだ。若さと健康をとりもどしたはずなのに、同時に柔弱で怠惰にもなったらしい。  ──後ろにトン、蹄にチョン。クルリとまわって、たがいに触れ合う舌と舌──。 〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉は霧の海に埋もれている。風に乱された霧が巨大な船の上空で流線型の渦を描く。霧は岸辺では砕ける波のように重なり合っている。霧の上に出ているのは高さ六百フィートの見張り台だけだ。はるか内陸、白い毛布のかなたでは、山脈が頂を黒々ときらめかせ、そびえ立っている。  |秘密の族長《ヒドウン・ペイトリアーク》号は故郷に帰ったのだ。〈至後者《ハインドモースト》〉はまもなく異星人の仲間たちを失うことになる。  蜘蛛巣眼《ウエブアイ》が声をひろいあげた。  ルイス・ウーがいう──。 「あれはフッド山とレーニア山だな、うん、たしかにそうだ。あっちの[#「あっちの」に傍点]はなんだろう。セントへレンズ山かな。あれは千年前の噴火で山頂が吹き飛んだはずなんだが」  ハミイーがいう──。 「隕石でもぶつからないかぎり、リングワールドの山は爆発したりしないぞ」 「まさに[#「まさに」に傍点]そのとおりだ。あと十時間もしないうちにサンフランシスコ湾の地図を通過する。〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉の風と波を考えると、着陸船《ランダー》の着地点は慎重に選んだほうがいいな、ハミイー。目立ってもかまわなければ、ここから侵略をはじめるがいい」 「目立つのは望むところだ」  クジン人が立ちあがって身体をのばすと、ニュッと爪がむきだしになった。全身くまなく短剣を埋めこんだような八フィートの毛皮──悪夢の幻影だ。これは立体映像《ホログラム》にすぎないと、〈至後者《ハインドモースト》〉は自分にいい聞かせた。クジン人も|秘密の族長《ヒドウン・ぺイトリアーク》号も、火星の〈地図〉の下に埋もれたこの宇宙船から三十万マイルも離れた場所にいるのだ。  ──クルリとまわって、前足をすべらせ、左へ一歩。気を散らさないで──。  クジン人がまたすわりこんだ。 「これがこの船の宿命だとは思わんか? こいつは地球の〈地図〉を侵略するためにつくられたが、プロテクターになったティーラに略奪され、火星の〈地図〉と〈補修センター〉を乗っとるために使われた。そしていま、ふたたび地球を侵略するためにもどってきたのだ」  狭苦しい恒星間宇宙船の中を、涼やかな風が吹きぬけていった。踊りがさらにスピードを増す。汗が優雅に結ったたてがみを濡らし、脚を伝って流れ落ちる。  窓が映すのは可視光線による景色だけではない。レーダーは地図方位の南に位置する大きな湾や、その岸辺に古代クジン族たちがつくりあげたひと塊りの都市も見せてくれる。球体の惑星だったら地平線の下に隠れているところだ。  ルイスがいう──。 「あんたが行っちまうとさびしくなるな」  つかのま、ハミイーはそれが耳にはいらなかったかのようだった。だがやがて、巨大なオレンジ色の毛皮の塊りがふり向かずに答えた。 「ルイス。あそこでは領主どもがおれに倒されるのを、女たちがおれの子をはらむのを待っている。あそこ[#「あそこ」に傍点]におれの場所はあるが、おまえの場所はない。あそこではヒト型種族は奴隷だ──もっともおまえの種族ではないがな。おまえはくるべきではないし、おれはとどまるべきではない」 「ぼくが反対したかい? 行けばいいさ、ぼくは残る。たださびしくなるなといっただけだよ」 「知的な意見ではないな」 「ああ」  ハミイーがいう──。 「ルイス、おれは数年前におまえの噂を聞いた。真実をたしかめておきたい」 「なんだい?」 「われわれが故郷世界にもどってパペッティア人の船を調査のため政府の手にひき渡したあと、おまえはチュタルラ=リットに招待されて、|チュワランブルの血《ブラッド=オヴ=チュワランブル》シティ郊外の狩猟公園を訪れただろう。異星人であそこから生きて出てきたのはおまえがはじめてだ。おまえはあそこでひと晩と二日を過ごした。その感想を聞きたい」  ルイスはまだ寝そべったままいった。 「うん、だいたい気にいったよ。名誉だと思ったしね。でもしじゅう運だめしをしている気分だった」 「おれはその翌晩、チュタルラ=リットの晩餐で噂を聞いたのだ」 「どんな噂だい?」 「おまえは輸入区画のいちばん奥まではいりこんだ。そこで貴重な獣に会ったとか──」  ルイスはがパッと飛び起きた。 「白いベンガル虎さ! 赤とオレンジだらけのクジン星の植物生態の中にあのすてきな緑の森がちゃんとはいりこんでいるのを見て、ぼくは安らいでくつろいで、郷愁さえおぼえていた。そしたらあの──あの美しいがとほうもない|人食い虎《マンイーター》が繁みから飛び出してきて、ぼくをにらんだんだ。ハミイー、あんたくらいの大きさで、八百ポンドはありそうで、腹をへらしていた。すまない、それで?」 「それはどういうものなのだ? ベンガル虎とは?」 「ぼくらの、地球産のものだよ。古くからの仇敵といってもいい」 「聞いた話では、おまえはすばやくそいつのわきをすりぬけて、木の枝をひろったそうだな。虎と向き合って枝をふりかざし、『おぼえているか?』といったとか。そうしたら虎は背を向けていってしまった」 「ああ」 「なぜそんなことをしたのだ? 虎は言葉をしゃべるのか?」  ルイスは笑った。 「獲物らしからぬ行動をとれば追いはらえるんじゃないかと思っただけさ。あれがうまくいかなかったら鼻面をぶんなぐってやるつもりだった。ちょうど立木が折れて、棍棒向きのかたい木の枝があったからね。話しかけたのは、クジン人が聞いているかもしれないと考えたからだ。〈族長〉の狩猟公園で無能な旅行者として死ぬなんて頭にくるじゃないか。泣きながら食われるなんて、|とんでもない《ニエット》」 「〈族長〉がおまえにボディガードをつけていたことは知っていたか?」 「いや。モニターかカメラくらいはあるだろうと思っていたがね。だから、虎を見送ってふり返ったとたん、目の前に武装したクジン人がいたのには仰天したよ。もう一匹虎がいたのかと思ってね」 「気絶させるつもりだったそうだ。おまえは、棍棒でそいつに殴りかかろうとしたそうだな」 「気絶させるだって?」 「そいつがいったのだ」  ルイス・ウーは笑った。 「そいつは銃把のついたARM製の麻痺銃《スタンナー》を持っていた。あんたたちの〈族長〉は人殺しをしない武器の作りかたをどうしても学ぼうとしないから、そういう武器は国連から買わなきゃならないんだな。ぼくが棍棒をふりあげたら、そいつは銃を落として[#「落として」に傍点]爪をむきだした。それでぼくにもそいつがクジン人だとわかった。だからぼくは笑っちまった」 「どんなふうに?」  ルイスは頭をのけぞらせて大きく口をあけ、歯をすっかり見せて笑った。このしぐさはクジン人にとっては真っ向からの挑戦を意味する。  ハミイーの耳がピタリとひらたくなった。 「ハハハハハ! どうしようもなかったんだ。でもぼくはカホなほど運がよかった。そいつはぼくを気絶させようなんてしなかった[#「しなかった」に傍点]。爪のひとふりで殺そうとして、それから自制をとりもどしたんだ」 「いずれにしても、おもしろい話だ」 「ハミイー、ちょっと思いついたんだがね。もしリングワールドを脱出できたら、あんたはハミイーとして故郷にもどりたいんだろう?」 「おれだと認識される可能性は低い。〈至後者《ハインドモースト》〉の若返り治療で傷痕も消えてしまったことだしな。長男の少し年上くらいにしか見えんだろう。いまではそいつがおれの領地を治めているにちがいない」 「ああ。それに〈至後者《ハインドモースト》〉も助けては──」 「おれは頼まんぞ!」 「ぼくになら頼むかい?」 「その必要もあるまい」と、ハミイー。 「〈族長〉にあんたの身元を納得させるのにルイス・ウーの言葉が役に立つだろうなんて、思ってもいなかったよ。でも〈族長〉はぼくの言葉なら信じると思わないか?」 「それは信じるだろう、〈|虎への話し手《スピーカー・トゥ・タイガーズ》〉よ。だがおまえは死ぬことを選んだではないか」  ルイスは鼻を鳴らした。 「おい、ハミイー、ぼくはあんたより先には死なないぜ! たぶんあと五十年は生きられるだろう。ティーラ・ブラウンが〈至後者《ハインドモースト》〉の魔法の自動医療装置《オートドック》をドロドロに融かしちまったからね」  もうその話はたくさんだ! と、〈至後者《ハインドモースト》〉は思った。 「やつは自分の医療設備を操縦区画においているはずだ」クジン人がいった。 「ぼくらには使えない」 「供給装置《キッチン》には医療用プログラムもあるぞ、ルイス」 「そしてパペッティア人に施しを乞うわけか」  だがここで会話を中断させたらふたりはカンカンに怒るだろう。話題をそらす方法がないだろうか?  パペッティア人の言語は人間やクジン族のいかなる言葉よりも正確で融通が効く。〈至後者《ハインドモースト》〉はいくつかの語句を、甲高い口笛のような声でさえずった──コマンド*ダンス*複雑さを一レベルダウン*くり返し*|秘密の族長《ヒドウン・ぺイトリアーク》号の六番|蜘蛛巣眼《ウエブアイ》に移動*双方向通信*視覚・音声オン、嗅覚・触覚オフ、麻痺銃《スタンナー》オフ──。 「ハミイー、ルイス──」  ふたりは飛びあがり、あわてて立ちあがって目を見はった。 「邪魔をしたでしょうか? あなたたちにある映像を見せたいのです」  いまこの瞬間、ふたりには、踊る〈至後者《ハインドモースト》〉の映像が見えているはずだ。自分がどれほどばかげて見えるかはよくわかっている。ふたりの顔に笑いがひろがった。ルイスは面白がっているだけだが、ハミイーの顔に浮かんでいるのは怒りの表情だ。 「きさま、のぞいていたのか」ハミイーがいった。「どうやったのだ?」 「上を見なさい。壊さないように、ハミイー、頭の上、ラジオ・アンテナを支えているマストです。ちょうどあなたの爪がとどくあたりの──」  異星人の巨大な顔がアップになった。ルイスがいった。 「真ん中に黒い蜘蛛がとまっているブロンズ色の蜘蛛の巣みたいだな。フラクタル図形だ。よく見えない……端がどこなのかもはっきりしない。リングワールドにもこんな巣をつくる虫がいるのかと思っていた」 〈至後者《ハインドモースト》〉はいった。 「これはカメラであり送話機であり望遠鏡であり映写機であり、ほかにもいくつかの機能をそなえています。スプレイして付着させます。その船だけでなく、さまざまな場所につけてあります。ルイス、客人たちを呼んでくれませんか?」  口笛──コマンド*〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉たちの居場所確認──。 「あなたたちに見せたいものがあるのです。彼らにも見せるべきだと思います」 「あんたは何をしているんだ? テコンドーみたいだが」と、ルイス。  ──コマンド*テコンドーをチェック──。  情報が表示された。格闘技の一種だ。ばかばかしい。パペッティア人は決して戦いなどしない。 〈至後者《ハインドモースト》〉はいった。 「筋力を衰えさせないためです。予期せぬ出来事というものはつねにもっとも都合の悪いときに起こります」  踊り手たちのあいだにふたつめの窓がひらいた。 〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉たちは巨大な厨房で食事の支度をしていた。 「あなたたちに──」  ハミイーの爪がパペッティア人の目をないだ。六番窓がパタリと白くなって閉じた。  ──キック。リードするパートナーの横をすり抜けて、その場に停まり、一ミリ移動。また停まる。そのまま待って──。  あの者たちは彼を避けているのだろうか。もう十時間も応答がないし、それ以前は古代暦で半年間無視された。だが彼らも食事をしないわけにはいかない。  クジン族の晩餐用につくられた木製テーブルはとほうもなく大きい。一年前、〈至後者《ハインドモースト》〉はテーブルからたちのぼる古い血の匂いに辟易して、蜘蛛巣眼《ウエブアイ》の嗅覚入力をオフにした。その匂いもいまではかなり薄らいだ。クジン族のタペストリと粗野な彫りのはいったフレスコ画は、ヒト型種族の趣味には血なまぐさすぎるため、壁からはずされた。その一部はハミイーの船室に運ばれたはずだ。  魚を焼く匂いが濃厚に漂っている。カワレスクセンジャジョクとハーカビーパロリンが間に合わせの厨房で働いているのだ。  テーブルの端にしごく満足そうに腰かけているのは、彼らの幼い娘だ。反対側の端には、巨大な生魚の半身がクジン人を楽しませるべく待機している。  ハミイーが魚に目をとめて「いい獲物だ」と賞賛し、天井と四方の壁を見まわした。求めていたものが見つかった──丸天井の頂点にとりつけられたオレンジ色の巨大な球体のすぐ下に、きらめくフラクタルの蜘蛛の巣がかかっていたのだ。 〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉たちが手をふきながらはいってきた。青年期に達したばかりのカワレスクセンジャジョクと、数歳年上のその伴侶ハーカビーパロリンだ。ふたりとも頭頂は無毛だが、髪は肩甲骨にかぶさるほど長い。ハーカビーパロリンが赤ん坊を抱きあげ、乳を含ませた。  カワレスクセンジャジョクがいった。 「もうすぐあなたはいなくなるんだね」 「この船にスパイがいる。そうだろうと思ってはいたが、こんどこそはっきりとわかった。パペッティア人がカメラを仕込んでいたのだ」と、ハミイー。  少年が彼の怒りを笑った。 「ぼくらだって同じことをやったさ。知識を求めるのは当然のことだもの!」 「一日もしないうちにおれはパペッティア人の目から自由になる。カワ、ハーキー、おれもおまえたちと別れるのはひどくさびしいぞ。おまえたちとのつき合いも、その知識も、そしてひねくれたその知恵も。だがおれの思考はおれだけのものだ!」  わたしはそのすべてを失いつつあるのだと〈至後者《ハインドモースト》〉は考えた。彼らをわたしのもとへ呼びもどす道をつくれば生き残ることができるかもしれない。 「みなさん、一時間ばかり娯楽を提供したいのですが」 〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉たちが息をのんだ。クジン人はニヤリと笑い、ルイス・ウーがいった。 「娯楽ね……ああいいとも」 「明かりを消してもらえませんか」  ルイスが明かりを消した。パペッティア人は口笛のようなさえずりをあげ、ディスプレイをのぞきこんで彼らの顔を観察した。  蜘蛛巣眼《ウエブアイ》があった場所に窓が開いた。たたきつけるような雨の中、巨大な建造物の縁ごしに見おろした眺めだ。はるか下方に数百もの青白いヒト型種族が群がっている。集団を好む種族らしい。争っているわけではなく、さかんに身体をこすりつけ合い、あちこちで周囲の目も気にせず媾合がおこなわれている。 「これは現在の状況です」と、〈至後者《ハインドモースト》〉。「わたしはリングワールドが安定をとりもどしてからずっと、この場所をモニターしてきました」  カワレスクセンジャジョクがいった。 「吸血鬼《ヴァンパイア》だ。|そんなばかな《フラッブ》、ハーキー、きみはこんな大集団を見たことがあるかい?」  ルイスがたずねた。 「それで?」 「わたしは探査機《プローブ》を〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉まで呼びもどす前に、さまざまな場所に蜘蛛巣眼《ウエブアイ》をスプレイしました。いま見ているのはわたしたちが最初に探索した場所で、もっともよい景観が得られるよう、いちばん高い建造物を使いました。雨と雲のためつねに視界が不鮮明なのは残念ですが。しかしルイス、そこに生き物がいることはわかりますね」 「吸血鬼《ヴァンパイア》だ」 「カワレスクセンジャジョク、ハーカビーパロリン、ここはあなたたちが住んでいた場所のやや左舷《ボート》よりです。ここで生命が生き延びているのがわかりますか? あなたたちはもどることもできるのですよ」  女は判断を保留している。少年は動揺し、翻訳しがたい言葉をひとつ、つぶやいた。 「実行できない約束はするなよ」と、ルイス・ウー。 「ルイス、あなたはリングワールドを救って以来、ずっとわたしを避けてきました。そして、わたしたちが数十万マイルにわたる居住地域に溶接ランプを向けたかのような口をきいてきました。わたしはあなたのあげる数字に異議を唱えましたが、あなたは耳を貸しませんでした。自分の目で見てごらんなさい。彼らはまだ生きているのですよ!」 「すばらしい」と、ルイス。「吸血鬼《ヴァンパイア》は生き延びたってわけか!」 「吸血鬼《ヴァンパイア》だけではありません。見なさい」 〈至後者《ハインドモースト》〉が口笛を鳴らすと、遠い山脈がズームアップした。  三十数人のヒト型種族が山頂のあいだの小道を進んでいる。吸血鬼《ヴァンパイア》が二十一人。以前の訪問で出会ったことのある小柄な赤い皮膚の牧人《ハーダー》が六人。もっと大柄で色の黒いヒト型種族が五人。あまり賢そうでない頭の小さな種族がふたり。  餌食はみな裸で、逃げ出そうとするものはいない。疲れてはいるが、楽しそうだ。そのひとりひとりに吸血鬼《ヴァンパイア》が一匹ずつ寄り添っている。肌寒い雨の中でも、衣類をつけている吸血鬼《ヴァンパイア》はごくわずかだ。その衣服も明らかに借り物で、寸法がまったく合っていない。  吸血鬼《ヴァンパイア》は知性を持たない。少なくとも〈至後者《ハインドモースト》〉はそう聞かされた。動物がはたして奴隷や餌を飼っておこうとするだろうか……だがそれはいい。 「ルイス、ハミイー、わかりますか? ほかの種族もまた生きているのです。〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉の姿も一度見ています」  ルイス・ウーがいった。 「ぼくも見たわけじゃないが、癌や突然変異が、発生しているはずだ。〈至後者《ハインドモースト》〉、ぼくはティーラ・ブラウンから聞いたんだ。ティーラはプロテクターで、ぼくやあんたよりも賢かった。一兆五千億の死と彼女はいったんだ」 〈至後者《ハインドモースト》〉は答えた。 「たしかに聡明ではありましたが、ティーラは人間です。ルイス、変化したとはいえ、やはり人間なのです。人間は危険を直視しません。あなたたちはパペッティア人を臆病と呼びますが、見ようとしないことこそ──」 「もうよせ。あれからまだ一年だぜ。癌が出るには十年か二十年かかる。突然変異が現れるのはつぎの世代だ」 「プロテクターにも限界はあります! ティーラはわたしのコンピューターの能力[#「能力」に傍点]を知りませんでした。あなたはわたしに調整をまかせましたね、ルイス──」 「もうやめろ[#「もうやめろ」に傍点]」 「わたしは見つづけます」パペッティア人はいった。 〈至後者《ハインドモースト》〉は踊りつづける。この長時間ダンスは彼がミスをするまでつづく。いくら体力を消耗させても、回復すれば身体はさらに強靭になっているはずだ。  異星人たちの食事をのぞくことはしなかった。ハミイーは蜘蛛巣眼《ウエブアイ》を壊さなかったが、その視野内で秘密の話をかわすこともしないだろう。  その必要もない。一年前、混成クルーたちがまだリングワールドの安定性とティーラ・ブラウンの問題にとりくんでいたころ、〈至後者《ハインドモースト》〉の飛行探査機《フライング・プローブ》は|秘密の族長《ヒドウン・ペイトリアーク》号のあらゆる場所に蜘蛛巣眼《ウエブアイ》をばらまいておいたのだ。  いまはダンスに集中しよう。  時間は充分にある。  ハミイーはまもなく行ってしまう。ルイスはまた沈黙するだろう。一年もすれば彼も船をおり、〈至後者《ハインドモースト》〉の手がとどかなくなるかもしれない。だが〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉の司書たちは……彼らに働きかけてみようか?  だがある意味では、〈至後者《ハインドモースト》〉はすでに彼らを失っているのだ。〈至後者《ハインドモースト》〉はニードル号の医療設備を手にしている。力ずくで彼らの目に真実をつきつけてやることもできる。だがこれまで彼のやりかたはあまりにも直接的すぎた。その結果ハミイーもルイスも、医療処置を拒否したのだ。  ルイス・ウーとハミイーが薄暗い廊下を歩いていく。受像状態はきわめて劣悪だが、この暗さでは|蜘蛛の巣《ウエブ》が見つかることもないだろう。〈至後者《ハインドモースト》〉がとらえたのは会話の途中からだった。のちに彼は何度かその会話を再生した。  ルイスがいった──。 「つまり、支配ゲームだよ。〈至後者《ハインドモースト》〉はぼくたちを支配せずにはいられなかった[#「いられなかった」に傍点]んだ。ぼくたちがあまりにも彼の身近にいて、彼を傷つけるかもしれなかったからだ」  ハミイーが答えた──。 「おれにはわからん考えかただ」  ルイスがいう──。 「わかろうとしたのかい? まあ気にするなよ。彼は一年間ぼくたちを放っておいたくせに、日課の体操の真っ最中に介入してきた。どうしてわざわざそんな真似をしたんだ? いそぐ必要のある話なんかひとつもなかったじゃないか」  ハミイーが答える──。 「いいたいことはわかる。やつはおれたちを盗み聞きしていたのだな? もしわが〈族長世界〉にもどることができても、おれは領地をとりもどすために〈至後者《ハインドモースト》〉の手は借りんぞ。おまえがいる。おまえは代価を取ろうとはしないからな」 「ああ」と、ルイス。 〈至後者《ハインドモースト》〉は口をはさもうかと思った。だがなんといえばいいのだ?  ハミイーがいった──。 「やつはおれの失った領地を利用しておれを支配したが、おまえはどうだったのだ? はじめは電流《ワイア》で支配されたが、おまえは中毒を断ち切った。着陸船《ランダー》の自動医療装置《オートドック》は破壊されたが、供給装置《キッチン》には細胞賦活剤《ブースタースパイス》をつくるプログラムがあるのだろう?」 「たぶん。あんたのぶんもね」  ハミイーは手をふってそれをしりぞけた。 「だがおまえがあえて年をとる道を選べば、やつにはもう何もない」  ルイスはうなずいた。 「だが〈至後者《ハインドモースト》〉は信じているのか? パペッティア人にとって……いや、おまえを侮辱するつもりはない。おまえが本気なのはわかる、ルイス。だがパペッティア人にとって、みずから年をとるというのは自殺行為に等しいのではないか」  ルイスは無言でうなずいた。 「それは一兆の死に対する贖罪《しょくざい》か?」  ほかの夜だったらルイスは会話を打ち切っていただろう。 「ぼくら両方に対する罰さ。ぼくは年をとって死ぬ。〈至後者《ハインドモースト》〉は奴隷を失い……状況をコントロールできなくなる」 「だがもし住民が死んでいなかったら?」 「もし彼らが死んでいなかったら。そうだな。実際にプログラミングしたのは〈至後者《ハインドモースト》〉だ。ぼくは〈補修センター〉のあの区域にははいれなかった。生命の樹で汚染されていたからね。ぼくはリングワールドの五パーセントの区域に太陽のプラズマ・ジェットを吹きつける作業を、彼のために[#「彼のために」に傍点]お膳立てした。もし彼があれをやっていないのなら、そうしたらぼくも[#「ぼくも」に傍点]……生きていられる。それで〈至後者《ハインドモースト》〉はぼくをまた手にいれられる。そこがポイントなんだ。彼があんたを[#「あんたを」に傍点]支配できないのはぼくの[#「ぼくの」に傍点]せいなんだからね」 「まさにそのとおり[#「まさにそのとおり」に傍点]」 「だったらルイスに古い録画を見せて、生の映像だといえばいい──」  風が高まり、突然の騒音が声を消した。  ハミイーがいった──。 「もし……人口が……」 「……〈至後者《ハインドモースト》〉がやらなかったと……」 「……おまえの脳は身体よりも早く老いぼれるんだな!」  クジン人が堪忍袋の緒を切らし、四つん這いになってデッキへ飛びおりた。かまうまい。ふたりはすでに視野の外に出ていた。 〈至後者《ハインドモースト》〉は世界最大のエスプレッソ・コーヒー・メーカーがふたつに裂けたような悲鳴をあげた。その悲鳴には地球やクジン星のいかなる生物にも聞きとれない音域と倍音が混じり、そのハーモニーには少なからぬ情報が含まれていた。  ようやく森を離れて草原へ出て行きはじめたふたつの種族の血統。太陽にフレアを起こさせ、それをレーザーに変えてリングワールド規模の大砲《キャノン》をつくりあげる装置の設計図。量子レベルまで縮小され、ペンキのように〈至後者《ハインドモースト》〉の部屋の壁一面に吹きつけられたコンピューター装置のスペック。巨大な弾性エネルギーとパワーのプログラム。  ──未開で愚かな種族のできそこないどもよ! おまえたちの哀れなプロテクター、幸運な生まれのティーラは、融通性にも理解力にも欠けていたのに、おまえたちには、話を聞くだけの分別もない。  わたしは住民全員を救ったのだ!  わたしが、わたしの船のソフトウェアを使って──!  ひと声悲鳴をあげたきり、〈至後者《ハインドモースト》〉はまた黙りこんだ。ステップのひとつもまちがえてはいない。  ──うしろに一歩、はいお辞儀、そのあいだにパートナーが|中 庭《クアドレット》の花嫁に求婚する──水を飲むチャンスだ、ひどくのどが渇いた──。  片方の頭を低くして水をすすり、片方は高く掲げてダンスを見まもる。ときには変化をつけてもいい。  ルイス・ウーはもう老化しかけているのだろうか? こんなに早く? 彼は二百歳をはるかに越えている。細胞賦括剤《ブースタースパイス》によって五百年か、ときにはそれ以上も健康な身体と頭脳を維持できる人間もいる。だが医療の恩恵がなければ、ルイス・ウーは急速に加齢するだろう。  そして、ハミイーは行ってしまう。  かまわないではないか。〈至後者《ハインドモースト》〉は考えうるかぎりもっとも安全な場所にいるのだから。彼の船はリングワールド〈補修センター〉の中心に近い数立方マイルの冷えた熔岩の中に埋もれている。  何もいそぐことなどない。待つことはできる。司書たちもいる。  いずれ何かが変わるだろう──いまはダンスをつづけよう。 [#改ページ] [#改ページ]    第 一 部 〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉      1 匂いの戦い 【AD二八九二年】  雲が灰色の石板のように空を蔽っている。黄色い草がしおれかけている。雨が多すぎ、ろくに陽光を浴びていないせいだ。もちろん太陽は真上にあり、〈アーチ〉もいつもの場所にあることはわかっているが、ヴァラヴァージリンはここ二十日というもの、そのどちらも目にしていない。  人の背丈ほどの車輪を持ったクルーザーの一隊は、高い草をかきわけ、やむことのない霧雨の中を進んでいた。ヴァラヴァージリンとケイワーブリミスは運転席についている。サバロカレシュはその頭上の砲手席に陣どっている。バロクの娘フォラナイードリは陽よけの下で眠っている。  あとどれくらいだろうか──もしかするといますぐにでも──。  サバロカレシュが指さした。 「あんたがさがしてるのはあれか?」  ヴァラヴァージリンは座席から立ちあがった。同時に、見わたすかぎりの草原が見わたすかぎりの刈り跡に変わっているのが目にはいった。  ケイワーブリミスがいった。 「連中のいるしるしだ。そのうち歩哨か刈り入れ隊が見えてくるだろう。ボス、あんた、いったいどうしてこのあたりに〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉がいるなんてことを知ってたんだ? おれだってこんなに|右 舷《スターボード》のほうまで来たことはない。あんたは〈中央都市《センター・シティ》〉から来たんだろう? あそこは百|日徒歩距離《デイウォーク》も左舷《ボート》寄りなのに」 「話を聞いたのよ」と、ヴァラヴァージリンは答えた。  彼はそれ以上たずねなかった。商業上の秘密はその人ひとりのものだ。  クルーザーを刈り跡に乗り入れ、向きを変える。スピードがあがった。右手には刈り跡、左手には肩まである草原。はるか頭上では鳥が輪を描いたり急降下したりしている。大きな黒い鳥──|腐肉漁り《スカヴェンジャー》どもだ。  ケイワーブリミスが傍らのハンドガンに手をのばして位置を確認した。先ごめ式の、銃身が彼の前腕ほどもあるしろものだ。サバロカレシュの巨体がスルリと砲塔《タレット》の中にひっこんだ。荷台外殻《ペイロード・シェル》の上についたその小さな塔には大砲《キヤノン》がおさまっており、いつそれが必要になるかわからない。安全に調査できるよう、あとの二台が左右に展開してケイのクルーザーを警護した。  鳥どもが輪を描いて飛び去った。その黒い羽根がいたるところに散らばっている。飛べなくなるくらい飽食した大型の鳥が二十羽。  それほど多量の餌とは?  死体だった。頭蓋のとがった小柄なヒト型種族が、刈り跡の上にものびたままの草のあいだにも、ほとんど肉をはぎとられて横たわっている。それが数百も! 子供だろうかと思ったが、それよりさらに小さな子供の死体もあった。  どこかに衣類のようなものはないか? はじめての土地ではどのヒト型種族が知性を持っているのか、見分けるのはむずかしい。  サバロカレシュが銃を手に車を降りた。ケイワーブリミスはちょっとためらったが、草の中からふいに飛び出してくるものがないことを確認してあとにつづいた。フォラナイードリが窓から眠そうな顔をつき出し、息をのんだ。彼女は歳のころまだ六十ファランかそこらで、ようやく適齢期にはいったばかりだ。 「昨夜だな」やがてケイがいった。  腐臭はまだそれほど強くない。鳥の前に〈|屍肉食い《グール》〉が来ていないとすると、殺戮があったのは夜明けの直前だろう。  ヴァラはたずねた。 「どうやって殺されたのかしら? これがこの地方の〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の慣習だとするとまずいわね」 「烏がやったのかもしれない。骨が砕けてるの、わかるだろう? 大きなくちばしが骨髄をほじくったんだ。これは〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉だよ、ボス。ほら、これが着ていたもの──羽根だ。こいつらは刈り入れのあとを追っていく。スミープやファイアドットみたいな穴掘り動物を狩るんだ。草を刈ったあとは巣穴がむきだしになるからね」  ──羽根か、なるほど。散っている羽根は黒だけではなく、黒や赤や|紫  緑《パープルグリーン》など色とりどりだ。 「じゃ、いったいここで何があったの?」  フォーンがいった。 「この匂い、わたし知ってる」  腐臭にまじって、なんだ?  なじみ深く、不快な匂いではない……だがフォラナイードリは落ちつきを失っている。  ヴァラヴァージリンがこの一隊の指揮官としてケイワーブリミスを雇ったのは、彼がこの土地に詳しく、また有能そうに見えたからだ。隊員はぜんぶ彼の手のものだった。これほど|右 舷《スターボード》まで来たことのあるものはひとりもいない。  ヴァラは誰よりもこの場所のことをよく知っている……ここがどこなのか、彼女の考えが正しければだが。 「で、連中はどこにいるの?」 「こっちを見張ってる、たぶんな」と、ケイ。  クルーザー最前部の席からはかなり遠方までが見わたせる。平坦な草原、短く刈られた黄色い草。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の身長は七、八フィートもある。刈られていなくてもその半分しかない草の中に隠れられるものだろうか?  商人《トレーダー》たちは三角形の三辺をなすようにクルーザーを停めた。その広い踏み板の上にすわりこみ、貯えの果物と根菜で正午の食事をとる。根菜といっしょに土地の草も煮こんだ。新鮮な肉は手にはいらなかった。  食事にはゆっくり時間をかけた。たいていのヒト型種族は食後のほうが近づきやすい。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉が〈機械人種《マシン・ピープル》〉と同じ考えかたをするなら、はじめての相手と接触するにはその食後を選ぶだろう。  使節らしいものは現れなかった。一行は先へ進んだ。  のんびりと草原を渡っていく三台のクルーザー。それを牽く動物の姿はない。大きな四角い板台の四隅に車輪がつき、中央後方に設置されたモーターがあとふたつの駆動車輪をまわしている。太い煙突のついた鉄の家みたいな鋳鉄製の荷台外殻《ペイロード・シェル》がモーターから前部を蔽っている。先端にある運転席の下にはいくつか大きな板ばねがある。  キャノンを知らない未開人は、|荷 台 外 被《ぺイロード・ハウジング》の上の砲塔をなんだと思うだろうか?  危険なものには見えないだろう。  黄金の草と同じ色、人間にしては大きすぎる──二体の巨大なヒト型種族がはるかな丘の尾根から見おろしていた。ヴァラがそれに気づいたのは、ひとりがクルリと向きを変えて軽やかに草原を走り去ったときだった。残ったほうは尾根沿いに、クルーザーの進路をさえぎる方向に走ってくる。  それは正面に立って、近づいてくる彼らを見つめていた。金色の草と同じ、黄金の肌と黄金のたてがみを持った巨人だ。大きな湾曲した剣を手にしている。  ケイワーブリミスが巨人に近づいていった。ヴァラヴァージリンの運転するクルーザーがおとなしい騎獣のようにそのあとに従う。  距離は交易のための共通言語にも奇妙な歪みを生じさせていた。ケイワーブリミスはヴァラに異なる発音や新しい単語や変化した意味を教えようとしてきた。彼女はいま耳をすましてケイのいうことを理解しようとした。 「平和のうちに訪れ……交易のために……〈|先 見 通 商 隊《ファーサイト・トレーディング》〉……リシャスラをするか?」  ケイが話しているあいだ、巨人はしきりと視線を動かしていた。一行のあごにつぎつぎと目を移していく。フォーン、ヴァラ、ケイ、そしてバロクへ。いかにも感に打たれたような顔つきだ。  でもこの巨人の顔はどんな〈|機械の民《マシン・パーソン》〉よりも毛深いのだ! かわいいフォーンの髭はあごの線にそってのびはじめてようやく先端がカールしたところだが、ヴァラのはもうあごの先端二ヵ所が優雅に白くなりはじめている。どうして〈機械人種《マシン・ピープル》〉の髭、とりわけ女性の髭は、こんなにほかのヒト型種族の目を惹くのだろうか。  巨人はケイの饒舌が終わるのを待ってから、そのわきをすり抜け、クルーザーの踏み板にあがってすわりこんだ。そして荷台外殻《ぺイロード・シェル》にもたれかかったが、その金属外壁の熱さにギョッとして身を離した。ようやく威厳をとりもどすと、前方を指さしてクルーザーを先へ進めさせた。  一行の中でいちばん大柄なバロクは巨人のちょうど真上に当たる本来の持ち場に座を占めた。フォーンも父親のそばにあがっていった。彼女も長身のほうだが、巨人を見たあとではふたりとも発育不全みたいに見える。  ケイワーブリミスがたずねた。 「おまえたちの宿営地はこの先か?」  巨人の言語はさらに聞きとりにくかった。 「そうだ。来い。おまえたちは宿がほしい。われわれは戦士がほしい」 「おまえたちはどのようにリシャスラをする?」  商人《トレーダー》なら誰でも、また第二雄性《ベータ・メイル》なら誰でも、まず最初に知りたがるのがそれだ。もしこの連中もほかの〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉と同じだとしたら。  巨人はいった。 「早く来い。さもないと、リシャスラを知りすぎることになる」 「なんだって?」 「吸血鬼《ヴァンパイア》だ」  フォーンが目を見ひらいた。 「あの匂いね!」  ケイが微笑したのは、そこに脅威ではなくチャンスを見出したからだった。 「おれはケイワーブリミス。こちらはおれの出資者のヴァラヴァージリン、それにサバロカレシュとフォラナイードリ。ほかのクルーザーにも〈機械人種《マシン・ピープル》〉が乗っている。われわれの〈帝国〉に加わることをおまえたちに勧めにきた」 「おれはパルーム。族長のことは|牛の股関節《サール》という称号で呼ぶことになっている」  ヴァラは交渉役をケイにまかせた。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の剣−鎌では遠くの敵にとどかないから吸血鬼《ヴァンパイア》の襲撃は防ぎきれないだろう。だが〈|先 見 通 商 隊《ファーサイト・トレーディング》〉の銃なら簡単に撃退できるだろう。そうやって親玉《ブル》に感銘を与えれば──取り引きにかかれる。  数十人もの〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉が、草を満載した荷車を曳いて、土を積みあげた塀の隙間を通り抜けていく。 「こんなばかな」と、ケイワーブリミス。「〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉が塀をつくるなんて」  パルームがそれを聞きつけた。 「必要があったからだ。四十三ファラン前、われわれは〈赤色人《レッド》〉と戦った。やつらから塀を学んだのだ」  四十三ファラン前とは星座が四百三十めぐりする時間で、一めぐりには七日半かかる。四十ファランのあいだにヴァラヴァージリンはひと財産を築き、伴侶を得て四人の子供を生み、そしてすべての富を失った。そのあとの三ファランは族をしていた。  四十三ファランはかなり長い期間だ。  彼女はたずねた──たずねようとした。 「それは雲が来たときのこと?」 「そうだ。先代サールが海を沸騰させたあとだ」  やった!  さがしていた場所はまさしくここだったのだ。  ケイワーブリミスは土地の迷信とでも思ったのか、肩をすくめてその話を無視した。 「吸血鬼《ヴァンパイア》はいつからやってきた?」  パルームは答えた。 「ずっと前から何匹かはいた。ここ数ファランのあいだに、急にどこででも見られるようになった。毎夜増えていく。今朝も二百近い〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉を見つけた。みんな殺されていた。今夜、やつらはまた腹をへらす。塀と石弓で追いはらう。ここだ──」  パルームが一行に向かって指し示した。 「この隙間から車を中に入れて戦いの準億をしろ」  この連中は石弓[#「石弓」に傍点]を持っているのか?  そして日は暮れようとしていた。  塀の中は混み合っていた。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の男女が荷車の荷をおろしていたが、しょっちゅうその手をとめては草を食べている。〈機械人種《マシン・ピープル》〉が通りかかると、顔をあげ、一様にポカンと口をあけ、また仕事にもどる。  この連中はこれまで自力推進の車を見たことがないのだろうか?  だがいまは、吸血鬼《ヴァンパイア》のほうがさしせまった問題だ。革製の鎧をつけた男たちがすでに塀沿いに並んでいた。それ以外のものは土や石を積みあげて隙間をふさいでいる。 〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉たちがヴァラの髭をじろじろ見ている。  ざっと見たところ数は千人ほど、男女ほぼ同じくらいのようだ。だが通常〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉のあいだでは男よりも女のほうが数が多いし、しかもここには子供がひとりもいない。してみるとあと数百人の女が建物の中で子供の世話をしているのだろう。  見慣れない銀色の巨体が大股に斜面をおりてきた。頭環のとがった兜を脱ぐと、黄金のたてがみが現れた。 〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の男の中でもサールはひときわ大柄だ。着ている甲冑のあらゆる関節部分が大きくふくらんでいるせいで、彼はヴァラの知っているいかなるヒト型種族とも異質に見えた。 「サール」ケイワーブリミスが慎重に口をひらいた。「〈|先 見 通 商 隊《ファーサイト・トレーディング》〉が手助けにきた」 「ふむ。おまえたちは何者か、〈機械人種《マシン・ピープル》〉よ? おまえたちの話は聞いたことがあるが」 「われわれの帝国は強大だが、戦いによってではなく通商によってその版図をひろげている。われわれがおまえたち一族に求めるのは、燃料や、パンや、その他いろんなものをつくることだ。ここの草はよいパンになる。おまえたちの口にも合うはずだ。代わりにわれわれはかずかずの奇跡を見せてやる。たとえば銃だ。このハンドガンは石弓よりも遠くの敵を倒せる。近い敵は火炎器《フレーマー》で──」 「人殺しの武器だな? おまえたちが来たのは幸運だった。おまえたちにとっても、安全な場所にたどり着けたことは幸運だった。いますぐ武器を持って塀に移れ」 「サール、大きな銃はクルーザーに据えつけられているんだ」  塀の高さは〈|機械の民《マシン・パーソン》〉の身長の二倍ほどもある。ヴァラヴァージリンはこの土地の言葉を思い出してそれを口にした。 「坂道《ランプ》よ。サール、塀にあがるための坂道《ランプ》はないの? クルーザーでものぼれるような?」  昼間の色彩に濃い陰りがさしてきた。雨が降りはじめた。雲のはるか上空では夜の影が太陽をほぼ蔽いつくしたにちがいない。  坂道《ランプ》などないことがわかり、サールが大声で命令をくだすと、巨大な男女全員が仕事を中断して土運びにとりかかった。  ひとりの女が塀によじのぼり、大声で指示を与えている。成熟した大柄な女で、その声は岩をも砕きそうだ。ムーンワという名前が聞きとれた。おそらくサールの第一の妻なのだろう。  金属の荷台外殻《ぺイロード・シェル》と金属のモーター、手のひらほどの厚みがある幅広い木製の踏み板──クルーザーは重い。ともすれば崩れそうな斜路を、クルーザーは右端で塀をこすり、左側を〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の男十人に支えられながら、一台ずつのぼっていった。だが、そこからおろすときはどうするつもりなのだろう?  塀の上はクルーザーのホイールベースほどの幅があった。歩哨たちが一行を案内した。 「武器を右舷回転方向《スターボード・スピンワード》に向けろ。吸血鬼《ヴァンパイア》はそっちから来る」  やがてクルーザーの指揮官たちは車を停め、打ち合わせにはいった。  ケイが問いかけた。 「おい、どう思う? キャノンに榴散弾をこめるか? やつらは固まってやってくるだろう。たいていはそうだ」  三号車を指揮しているアンスランティリンがいった。 「巨人たちに砂利を集めさせよう。弾は節約したい。だが今回はハンドガンのほうが頼りになる。散らばったほうがいいんじゃないかな?」  二号車のホワンダーノスティが答えた。 「巨人たちはそうしてほしいみたいだな」 「おれもそう思う」と、ケイワーブリミス。  ヴァラは口をはさんだ。 「〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉たちには石弓があるのに、何が心配なのかしら? 石弓には銃ほどの射程距離はないけど、吸血鬼《ヴァンパイア》の匂いよりは遠くまでとどくでしょう」  三人は顔を見合わせた。アンスランティリンがいう──。 「やつら、草食いだから1」 「そんなことはない。よそじゃ連中、ものすごい戦士だと考えられているんだぜ」と、ホワンド。  誰も答えなかった。  ホワンダーノスティとアンスランティリンのクルーザーが、それぞれ反対方向に動きだした。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の戦士たちが停止の合図を送るころには、その姿は雨と闇にまぎれてほとんど見えなくなっていた。  ケイワーブリミスがいった。 「バロク、キャノンを頼む。だが銃も手もとにおいておけよ。おれはハンドガンを使う。フォーンはキャノンの装填係だ」  彼女の年齢ではそれ以上の仕事は無理だろう。 「ボス、あんたは火炎器《フレーマー》がいいかい?」  ヴァラは答えた。 「そんな近くまでは来られないでしょう。わたしは石投げも得意よ」 「それじゃ火炎器《フレーマー》と|手投げ弾《フィストボム》を。火炎器《フレーマー》を使うチャンスがあるといいが。連中にアルコールの使いかたをもうひとつ教えてやれる。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉は自分で荷車をひっぱるから燃料なんか必要ない。吸血鬼《ヴァンパイア》には知性がないんだってな?」 「〈中央都市《センター・シティ》〉のあたりにいたやつらはそうね」  フォーンがいった。 「だいたいどの言葉でも、やつらのことは〈吸血鬼《ヴァンパイア》〉じゃなく、括弧抜きで吸血鬼《ヴァンパイア》と呼んでるわね。動物と同じに」  言語のことなどケイにはどうでもよかった。 「押しよせてくるのか、ボス? いっせいに?」 「わたしは吸血鬼《ヴァンパイア》と戦ったことは一度しかないから」 「それじゃおれより一回多い。おれは話を聞いたことがあるだけだ。どんなだった?」 「生き残ったのはわたしひとりだったわ」と、ヴァラヴァージリン。「ケイ、あなた、話を聞いただけですって? タオルと燃料の使いかたは知ってるの?」  ケイは眉間にしわをよせた。 「なんだって?」  ──歩哨の低い呼び声に、ヴァラはハッとふり返った。  とっぷりくれた闇の中から、ピンと張った糸のあいだを風が吹き抜けていくような音色が聞こえ、つづいて石弓が矢を放つ音がはじまった。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉たちの攻撃は矢を惜しんでか慎重なようだ。弾もまた貴重だった──新しい弾をつくってくれる取り引き相手などこのあたりにはいないのだから。  ヴァラにはまだ何も見えない。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉たちには見えているようだが、それはここが彼らの土地だからだろう。  また石弓が鳴り、青白いものが立ちあがるとバッタリ倒れた。風が鳴っている……いや、風ではない。  歌だ。 「白いのを見つけて」フォーンがいわずもがなのことを告げた。  ケイが一発撃ち、銃をとり替えてまた撃った。  クルーザーを離して配置しておいてよかった。ハンドガンの閃光でヴァラは目がくらみ、暗い視野の中で踊る炎の風船のようなその影が消えていくまでただぼんやりしていた。それからあわててクルーザーの下にもぐりこみ、火炎器《フレーマー》と|手投げ弾《フィストボム》の網袋を引きよせた。ここなら車体が閃光をさえぎってくれる。  キャノンは何をしているんだろう?  周囲では火が乱れ飛んでいるが、ようやく視覚がもどってきた。あそこだ、人間の形をした青白い影。  もうひとつ。二十以上もいる!  ひとつが倒れ、残りが後退した。すでにほとんどが石弓の射程範囲から出ている。歌が神経をかき乱す。 「キャノン発射」  バロクが声をかけ、彼女が目を閉じると同時に撃った。  炎が刈り跡を照らし出す。青白い死体が六つ……八つさらに三十から四十の吸血鬼《ヴァンパイア》が立っているのがはっきりと見える──だがまだ銃の射程距離内だろう。  石弓を持った男たちがなぜ吸血鬼《ヴァンパイア》を恐れるのか? それはこれまで誰ひとり、こんな大群を見たことがなかったからだ! おぞましくも気違いじみた光景だ。どうしてこれほどの数が飢えずにいられるのだろうか?  かつて|特 別 警 備 通 商 隊《ハイ・レンジャーズ・トレーディング・グループ》が、とある古い都市の廃墟の塔で死んだ。四十三ファラン前のことだ。その夜彼らが相手にしたのはせいぜい十五匹。倒したのはやっと八匹かそこらだった。ほぼ全員が死に、ヴァラヴァージリンひとりがまったくの偶然によって生き残った。  街路からのぼってきた歌声を彼女はおぼえている。吸血鬼《ヴァンパイア》は青白く、裸で、美しかった。そして恐ろしい相手だった。特別警備隊員《ハイ・レンジャー》たちは十階の窓から銃撃するとともに、吹き抜けの階段にも階ごとに歩哨を配置しておいたのだが、その歩哨がひとりずつ消えていき、そして──。 「風向きは絶好だな」と、ケイ。  バロクがいう。 「キャノン、いくぞ」  閃光にそなえて彼女はまたギュッと目を閉じた。頭上のキャノンがうなりをあげ、ついでもうひとつ、遠くのキャノンの轟音がかすかに聞こえた。  バロクがかすれた声をあげた。 「やつら、包囲するつもりらしい」 「そんな頭があるもんか」と、ケィ。  左手のキャノンが発砲した。右でさらに一発。  吸血鬼《ヴァンパイア》は道具を持たず、服も着ない。彼らの死体の頭を飾る白金色の美しい豪華な髪に手をさし入れてみると、驚くほど多量の髪が小さくひらたい頭蓋を包んでいるのがわかる。都市を築かず軍隊も組織しない彼らが、包囲作戦など思いつくはずがない。  だがいま塀の上の戦士たちはたがいにささやきかわし、指さしながら、回転方向《スピンワード》へ、|右 舷《スターボード》へ、また反回転方向《アンチ・スピンワード》へと、闇の中へ矢を放っている。 「ケイ? あいつらにも鼻はあるのよ」  バロクが見おろし、ケイが問い返した。 「なんだって?」 「作戦なんかじゃない」ヴァラヴァージリンはいった。「お粗末な下水溝から立ちのぼる〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉千五百人分の匂いを避けようとしているだけ。そしてやつらをここに惹きつけたのもその同じ匂いなのよ! 風上にまわれば匂いは薄れる。でもそうするとこっちが、やつらの風下になる」 「ホワンダーノスティのクルーザーを移動させよう」  バロクが走り出した。ヴァラはその背中に向けて叫んだ。 「布とアルコールよ!」  彼がもどってきた。 「なんだって?」 「燃料をタオルにかけるの、ほんのちょっとだけでいい。それを顔に巻きつければ匂いが防げる。ホワンドに伝えて!」  ケイが頭上で声をあげた。 「まだこっちにも敵はいる。ボス、石を投げて当たる距離じゃないから、あんたも行って、アンスにも移動するよう伝えてくれないか。タオルと燃料のこともだ。それから〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉もこのことは知らないんじゃないかな? 燃料にもいろんな使い道があることを連中に教えてやるのも商売のひとつだぜ」  ──こんなさなかに何を考えているのか──。  彼女は自分用にタオルを一枚濡らし、さらに二枚のタオルを準備した。危険はもう間近に迫っているのかもしれない。  闇の中で左右が急斜面だから、慎重に足を運ばなくてはならない。雨はもうやんでいた。吸血鬼《ヴァンパイア》の歌が風に乗って聞こえてくる。彼女は顔に巻いたタオルからアルコールの匂いを吸いこんだ。頭がクラクラする。  遠くで「キャノン、いくぞ」と声がしたので、彼女は目を閉じて轟音が過ぎるのを待ってからその四角い影に向かって進んだ。 「アンスランティリン!」声をかける。 「いま彼、いそがしいのよ、ヴァラ」  タラタラファシトの声だ。 「もっといそがしくなるわ、タルファ。吸血鬼《ヴァンパイア》どもは包囲にかかっているの。タオルを出して燃料をたらし、それで口を蔽いなさい。それから車を円周の六分の一だけ移動させて」 「ヴァラヴァージリン、わたしに命令するのはアンスランティリンよ」  ばかな女だ。 「クルーザーを動かさないと、ふたりとも〈|屍肉食い《グール》〉の前で説明することになるわよ。アンスにもタオルを一枚あげて。でもまず巨人たちのための燃料ポットをちょうだい」  沈黙。 「わかったわ、ヴァラヴァージリン。でもタオルは足りてるの?」  燃料ポットは重かった。武器を持っていないことが痛いほど意識される。目の前に大きな人影が立っているのを見たとき、ヴァラは自分でも戸惑うほどの安堵をおぼえた。 〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉はふり向きもしなかった。 「防禦はどんなぐあいだ、ヴァラヴァージリン?」  ヴァラは答えた。 「こちらをとり囲もうとしている。いまにも匂いがしてくるはずよ。これを顔に──」 「ウワッ[#「ウワッ」に傍点]。なんだ、この匂いは?」 「アルコール。クルーザーを動かすものだけど、これで助かるかもしれない。このタオルを首に巻いて」  歩哨はすぐには答えず、顔を向けようともしなかった。遠来の客を侮辱するわけにはいかない、だから──ヴァラヴアージリンは話しかけなどしなかったのだ──。  だがそんな駆け引きにつき合っている時間はない。 「サールがどこにいるか教えて」 「その布をよこせ」  タオルを投げてやると、巨人は不快そうに鼻を鳴らしながらも、それを首に巻きつけた。それから指さしたが、すでに彼女は光輝く甲冑を目にとめていた。  族長のしるしの甲冑を着こんだサールは匂いにあとずさりながらも、彼女の手の中の布を見つめた。 「だが、なぜだ?」 「吸血鬼《ヴァンパイア》のことを何も知らないの?」 「聞いたところだと、吸血鬼《ヴァンパイア》は考えることもしないし、殺すのは簡単だ。あとは……その布で耳をふさぐのか?」 「どうして?」 「そうすれば、死に誘う歌を開かずにすむ」 「音じゃない、匂いなのよ!」 「匂いだと?」 〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉たちが愚かだったわけではない……ただ彼らは運が悪かったのだ。まず吸血鬼《ヴァンパイア》の襲撃を生き延びたものがいなくてはならない。子供が生き残っても、なぜ大人がみんないなくなったのかは理解できないだろう。いかにあわただしかったにせよ、ここに着いたとき彼女かケイかが──誰でもいいが──まずそのことを話題に出しておくべきだった。 「吸血鬼《ヴァンパイア》は性交に誘う匂いを出すのよ。それを嗅ぐと誰でも欲望が高まって脳がひっくり返って、行ってしまう[#「行ってしまう」に傍点]の」 「燃料の匂いでそれが防げるのか? だが別の問題もあるぞ。〈機械人種《マシン・ピープル》〉と燃料の帝国の話を聞いたことがある。おまえたちはほかの種族に車のためのアルコールをつくらせる。彼らはそれを飲むことをおぼえる。すると、仕事にも遊びにも、生きることにも関心をなくし、燃料のことしか考えられず、若死にしてしまう」  ヴァラは声をあげて笑った。 「吸血鬼《ヴァンパイア》の匂いは、百呼吸をするより早く、同じことをやってのけるのよ」  それでも、サールの言葉は的を射ている。──吸血鬼《ヴァンパイア》が塀を包囲しているとき、石弓の射手が酔っぱらっていていいものだろうか──? 「燃料のほうがましだというのか? 強い香草《ハーブ》ならどうだ?」 「その香草《ハーブ》がいつとどくの? 燃料はいまここにあるわ。明日では遅いのよ」  サールはふり返り、大声でつぎつぎと命令をくだした。男はもうほとんど塀の上にいたが、女たちが駆けまわりはじめた。大量の布が現れた。女たちが塀にのぼってクルーザーの前に列をつくるのを、ヴァラはありったけの忍耐をふり絞って待った。  サールが「来い!」といって、二番めに大きな土の建物にはいった。  中央に柱を一本立て、土の壁に屋根をかぶせた建物だ。乾草の山がいくつもうずたかく積まれているが、ほかの植物もあり、一千種類もの匂いがたちこめている。  サールは数枚の葉を持ってくると彼女の鼻の下でもみつぶした。彼女はあとずさった。また別の葉。そっと匂いを嗅いでみる。また別の。  彼女はいった。 「ぜんぶ試してみましょう。でも燃料も忘れずに。どれがいちばんよく効くか見つけないと。でもどうしてこんなものを集めているの?」  サールは豪快に笑った。 「これは調味料、ペパーリークとミンチだ。これは女が食うとよい乳が出る。われわれは草しか食わんと思っていたのか? 枯れた葉や酸っぱい草には味つけが必要だ」  サールは腕いっぱいに植物を抱え、大声をあげながら外に出た。〈中央都市《センター・シティ》〉までもとどきそうな声だ。彼の声と女たちの声、つづいて大きな足が塀をのぼる音。  ヴァラも燃料の瓶を抱えなおし、あとについてのぼった。  塀の上に立って彼女は周囲を見わたした。じっと立っている戦士たちの影のあいだを女たちの影が動きまわって、つぎつぎと匂いをつけたタオルを手渡している。  ヴァラは成熟した大柄な女の前に立った。 「ムーンワね?」 「ヴァラヴァージリン、あいつらは匂いで殺すのか?」 「そうよ。でもどの匂いがそれをいちばんよく防げるかわからない。もうアルコールのタオルを持っているものもいるから、それはそのままにして、あとの人にサールの植物を渡しなさい。それでわかるでしょう」 「誰が死ぬか、がね?」  ヴァラはまた歩きだした。アルコールの匂いで少しめまいがする。だがそれはなんとか耐えられるし、それをいうなら彼女のタオルはもうほとんど乾いていた。  ヴァラは今朝、フォーンもそろそろリシャスラを試すか、そのまま伴侶を見つけてもいい歳だろうかと考えていた。だが先を越されたようだ。フォーンが吸血鬼《ヴァンパイア》の匂いを知っていたはずがない。彼女はそれを愛の香りと認識したのだ!  遠い昔の欲望と死の匂いが鼻の奥でうずき、脳を侵す。  動きまわる女たちの影のあいだで、〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の戦士たちの影がじっとたたずんでいる。しかし……前よりその数が少ないようだ。 〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の女たちにも影響が出はじめていた。怒りと恐怖のこもった喘ぎと悲鳴。ついでふたつ、いや四つの影が、叫びながらサールのほうへ土手を駆けおりていった。そしてもうひとりが、うめきながら反対側へ、刈り跡の草原へと向かっていく。  ヴァラは残った戦士たちのあいだを動きまわり、タオルに燃料をかけてまわった。女であれ男であれ、見つけられるかぎりの相手に。  あわてると命とりになる。燃料で身を守るのだ。香草《ハーブ》では? そう、サールの香草《ハーブ》のほうが長くもつかもしれない。  あらゆる方角に青白い影が見える。細部はほとんどわからない。やつらがどんな姿をしているかは想像してみるしかない。後脳を刺激する匂いは壮麗なる幻想を見せてくれる。  さらに近づいてくる。なぜ銃の音が聞こえないのか?  アンスランティリンのクルーザーにたどり着いた。踏み板によじのぼる。 「どう? アンス?」  荷台外殻《ペイロード・シェル》の中は空っぽだった。彼女は|仕掛け錠《トリック・ロック》をはずして荷台外殻《ペイロード・シェル》の中にはいった。  誰もいない。損傷の痕も。争った跡もなく、ただいなくなっただけ。  タオルを濡らす。それから──キャノンだ。吸血鬼《ヴァンパイア》どもはお誂え向きに回転方向《スピンワード》にかたまっている。その中心のどこかにアンスが、タルファが、ヒンプがいるのだろうか?  かまってはいられない。キャノンを撃つと、半数が倒れた。  どれだけの時間がたったものか──外から「アンスランティリン?」とくり返しささやく声が聞こえた。 「いないわ」  そう答えたが、自分にも聞こえない。彼女は叫んだ。 「いないわ! わたしはヴァラヴァージリンよ!」  やっと聞こえた。彼女の声も相手の声も、耳をつんざくキャノンの轟音で耳がおかしくなっているため、ささやき声のようにかすかだ。  そろそろクルーザーを動かそう。正面の吸血鬼《ヴァンパイア》どもは引きさがり、かたまらないことをおぼえたようだが、ほかにいけば新たな標的が見つかるだろう。|右 舷《スターボード》と回転方向《スピンワード》では銃は要らない。こっちが風上にいるため、石弓で充分とどく。 「ケイだ。みんないなくなっていたのか?」 「そうよ」 「あっちでは火薬が尽きかけている。あんたのほうは?」 「まだ充分あるわ」 「朝までに燃料が底をつくな」 「そうね。わたしが持って出た分はぜんぶ渡して、女たちに教えておいたの。思うんだけど、ムーンワ──戦士たちにタオルを配っていた〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉だけど──にキャノンの使いかたを教えられないかしら? わたしたち──」 「だめだ、ボス、いけないよ。秘密だ!」 「どっちにしろ、教えるには時間が足りないわね」  ケイが頭を砲手室につき出し、火薬の瓶をひっぱり出すと、うなり声を立てながらグイと持ちあげた。 「仕事にもどる」 「|霰 弾《スモールショット》、要る?」 「まだ砂利がたっぷりある」  視線が彼女をとらえた。それがそのまま凍りつき、瓶を下におろした。彼女は席からすべりおりた。ふたりの動きが一致した。 「タオルを濡らしておけばよかった」不安げなつぶやき。  そのあとしばらく彼女は明確な思考を失っていた。  ドアをすり抜け、横なぐりにたたきつける雨と泥の中に転がり出たのは、ヴァラではなく彼、ケイ[#「ケイ」に傍点]だった。ヴァラは彼を引きもどそうとあとを追った。  彼が彼女のシャツを引き裂いた。彼女はまた身体を押しつけたが、彼はわめきながらそのシャツをふたつに裂き、抱きつかれたまま向きを変え、ふたたび向きなおると、グッショリ濡れた切れ端の一枚を彼女の顔に、もう一枚を自分の顔に押し当てた。  深くアルコールの香りを吸いこみ、彼女は息がつまった。 「もう大丈夫」  彼はその一枚を彼女にわたし、もう一枚を自分の首に巻きつけた。 「おれはもどる。あんたはひとりで銃を扱っていたほうがいい。この──」 「──状況じゃね」  神経質な笑い。 「あなたは大丈夫? ひとりで?」 「やってみなきゃね」  彼女は男を見送った。  こんなことがあってはならない。二度と。これまでほかの男と交わったことなどなかったのに。彼女の心が、彼女自身[#「彼女自身」に傍点]が、欲望の奔流に押し流されてしまったのだ。タラブリリアストがいたらどう思っただろう?  ターブとの交わりもこれほど激しかったことはなかった。だがいま心が漂いもどってくる。彼女には伴侶がいる[#「いる」に傍点]のだ。  タオルを顔に当てる。アルコールが頭に直行し、思考がすっきりした──錯覚でなければいいのだが。塀に沿って目を走らせると、大きな人影はもう残り少なく、また暗い草原の人間の形をした影も前より数は減っていたが、かなり近づいてきていた。  彼女の種族よりも背が高く、ほっそりしている。彼らは歌っていた。呼びかけていた。一団となってもう塀のすぐ下まで来ている。  彼女はクルーザーに飛びこみ、キャノンを装填した。 [#改ページ]      2 回  復  青白い光がひろがり、回転方向《スピンワード》が明るくなりはじめた。歌声はもう聞こえない。少し前から石弓の音も途絶えている。吸血鬼《ヴァンパイア》の姿も見えなくなった。  いつのまにか、おぞましい夜は終わっていた。  こんなに疲れたのは生まれてはじめてのような気がするが、もしかすると疲労が過去の記憶を押し流してしまったのかもしれない。  ケイワーブリミスがもどってきてたずねた。 「|霰 弾《スモールショット》は残っているか?」 「少しだけ。砂利が手にはいらなかったから」 「おれがクルーザーにもどったとき、バロクもフォーンもいなくなっていた」  ヴァラは目をこすった。何もいうことはなさそうだ。ホワンダーノスティとソパシンテイが身を寄せ合いながらあがってきた。  ホワンドがいった。 「なんて夜だ」  スパッシュがいった。 「チットがあの歌に夢中になっちゃって。縛りあげなきゃならなかったわ。でもタオルに燃料をかけすぎたみたい。グッスリ眠ってる。わたし……わたしだって──」  両腕で自分の身体を抱きしめる。 「──この震えがとまってくれたら、わたしだってグッスリ眠れるのに」  眠りたい。だが〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の男たち数百人が期待しているとなると──。 「リシャスラなんてとてもできないわ」と、ヴァラ。  ケイとの性交の記憶を押しやる。あの結果がどう出るかはまだわからない。  ケイワーブリミスがいった。 「クルーザーで眠るがいい。少なくとも今夜はな。やあ──」  彼の手が彼女の肩にのびてふり向かせた。  仲間だ。歩みよってきたのは、九人の〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉と銀の甲冑姿がひとつ。疲労のさまがうかがえ、匂いにも感じられる。  サールがたずねた。 「〈機械人種《マシン・ピープル》〉はどんなぐあいだ?」 「半分が行方不明よ」ヴァラヴァージリンは答えた。  ホワンドがいった。 「サール、あんなに多いとは考えていなかったんだよ。どんな敵にも対応できる装備だと思っていたんだが」 「旅人から聞いたところだと、吸血鬼《ヴァンパイア》は歌で破滅をもたらすということだったが」  ケイがいう。 「みずからの誤りを知るのは知恵を半分得たのと同じさ」 「われわれは敵の正体を知らなかったのだ。吸血鬼《ヴァンパイア》の匂いとはな! 考えてもいなかった。だがわれわれは吸血鬼《ヴァンパイア》を敗走させた!」  サールは声を高めた。 「草をかき分けて狩り立てるべきだろうか?」  ホワンドが両腕をあげてあとずさった。  ヴァラとケイとスパッシュは顔を見合わせた。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の戦士たちにまだ余力があるのなら……。疲れきったホワンドは無理としても、〈機械人種《マシン・ピープル》〉からも誰かが[#「誰かが」に傍点]行かなくてはならないだろう。  彼らは戦士たちについて、湿った刈り跡の中におりていった。  塀の根もとで何かがうごめいた。二体。裸の人間だ。石弓と銃がそっちを狙ったが、相手は腕をふって何か叫んだ。  射つな[#「射つな」に傍点]! 吸血鬼《ヴァンパイア》じゃない[#「じゃない」に傍点]ぞ!  大柄な女と小柄な男が、たがいに支え合って立ちあがった。  吸血鬼《ヴァンパイア》ではない。そう、〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の女と──。 「バロク!」  サバロカレシュの顔は深い恐怖のため表情を失っていた。ヴァラヴァージリンを見つめるその顔は、幽霊が幽霊を見つめているかのようだ。なかば狂って、汚れて、疲れ果て、傷つき──それでも生きている。  ──これにくらべたら、わたしの疲れなんて──!  ヴァラは彼の肩をたたき、たしかな手応えをうれしく思った。彼の娘はどこに? でもたずねたりはしなかった。 「いっぱい話すことがあるんでしょうね。あとで?」  サールが石弓の射手パルームに何か命じた。パルームはバロクと〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の女を連れて──ひっぱって──斜面をあがっていった。  サールは駆け足で塀から離れ、右舷回転方向《スターボード・スピンワード》に向かった。彼の配下たちがつづき、それから〈機械人種《マシン・ピープル》〉たちもあとを追った。眠れない恐怖の一夜と荒っぽい性の饗宴が彼ら全員から力を奪っていた。  吸血鬼《ヴァンパイア》の死体のそばを通り過ぎた。死体からは生前の美しさは微塵もうかがえない。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉のひとりが立ちどまり、石弓で倒されたその女を調べた。スパッシュも足をとめた。  ヴァラは四十三ファラン前の同じ行為を思い出した。  ──まず、腐っていく肉の匂いがする。それから、心の奥底で別の匂いが爆発する──。 〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の男がはっきりとよろめいた。男はしばらくうつむいて嘔吐していたが、やがて顔を隠すようにしながらゆっくり身を起こした。スパッシュも突然立ちあがるとヴァラのほうによろめいてきて、その肩に顔をうずめた。  ヴァラヴァージリンはいった。 「スパッシュ、あなたのせいじゃないわ。あの死体と交わりたいような気分になったのでしょう? でもそれはあなたの心が[#「心が」に傍点]そうしたがったわけじゃないのよ」 「わたしの心はね。でもヴァラ、調べることができなければ、やつらのことは何もわからないわ!」 「やつらがひどく恐れられているのも、ひとつにはそのせいね」  欲望と腐肉の臭気がひとつの脳に併存することはできない。  塀の周囲の吸血鬼《ヴァンパイア》は石弓の矢に貫かれていた。もっと遠くの死体は銃弾や|霰 弾《スモールショット》でやられている。ヴァラの見たところ、〈機械人種《マシン・ピープル》〉は〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の百倍も多くの敵を倒したようだ。  塀から二百歩も離れると、吸血鬼《ヴァンパイア》の死体は見えなくなった。裸もしくは半裸で横たわっているのは〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の死体で、みな不気味なほど目と頬が落ちくぼみ、首筋や手首や肘におぞましい傷口がひらいている。  あの弛緩した顔……ヴァラはその女が何時間か前に闇の中に駆け出していくのを見ていた。  傷はどこだろう?  のどはきれいなままだ。投げ出された左腕の手首も無傷だ。右腕は身体に乗っているが、しわのよった上衣《チュニック》に血の跡はない……ヴァラは歩みよって、女の右腕を持ちあげてみた。  脇の下が裂け、血まみれになっていた。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の男のひとりが吐きそうになり、向きを変え塀のほうへとよろめきもどっていった。  ──大きな女と小さな吸血鬼《ヴァンパイア》。首まではとどかなかったのだ。スパッシュのいうとおりだ。われわれは知らなくてはならない──。  さらに進むと、草地との境界付近に鮮やかな布が落ちていた。ヴァラは走りだし、それからふいに足をとめた。  タラタラファシトの作業着だ。  ヴァラはそれをひろいあげた。きれいだった。血も、泥の汚れもついてない。なぜタルファはこんな遠くまで連れてこられたのだろう? いまどこにいるのだろう?  サールはひとりでかなり先まで進んでいた。そこはもう刈り跡から草地にはいったところだ。あの甲冑はどれくらいの重さがあるのだろう? 十|歩高《ペースハイ》ほどの小山へ一気に駆けあがると、頂上に立って、あとのものたちが集まるのを待っている。 「吸血鬼《ヴァンパイア》の気配はない」と、彼はいった。「どこかに隠れたのだろう。旅人の話では、やつらは太陽の光に耐えられないそうだが……?」  ケイが答えた。 「その話は本当だ」  サールはつづけた。 「ではきっと行ってしまったのだろう」  誰も何もいわない。  サールが大声をあげた。 「ビージ!」 「はい、サール!」  男が小山を駆けあがった。抜きんでた体格を持つ成人で、熱意とほとばしるようなエネルギーにあふれている。 「おれについてこい、ビージ。タルン、おまえたちは逆方向に向かい、刈り跡の境界沿いに歩いて反対側の端で出会う。会えなければ戦いが起きたものと考えるぞ」 「はい」  ビージとサールが一方に進み、残りの巨人たちは別の道をとった。ヴァラは一瞬迷ってから、サールのあとを追った。  サールが彼女に気づいた。歩調をゆるめ、追いつくのを待ってくれている。ビージも速度を落としたが、サールが身ぶりで先に行かせた。  サールがいった。 「草のあいだに生きている吸血鬼《ヴァンパイア》が隠れていることはありえない。この草はまっすぐ上にのびる。〈夜〉は太陽をさえぎるが、太陽が動くことはない──もういまではな。吸血鬼《ヴァンパイア》はどうやって陽の光から身を隠す?」  ヴァラは質問した。 「太陽が動いたときのことをおぼえているの?」 「おれは子供だった。あのときは恐ろしかった」  だが、ヴァラの見たところ、言葉ほど恐ろしがっているわけではなさそうだ。ルイス・ウーはこの巨人たちのところも訪れているが、ヴァラヴァージリンに語ったことをこの連中には話さなかったらしい。 『この世界は環《リング》なんだ』と、彼は話してくれた。『〈アーチ〉はそのリングの、きみたちが立っている場所の反対側だ。太陽が動くようになったのはリングの中心がずれたからだ。数ファランのうちにリングは太陽をこすりはじめるだろう。だがぼくはそれをとめてみせる──とめようとして死ぬことになるかもしれないがね』  そしてやがて太陽は安定したのだ。  ビージはまだ駆け足をつづけながら、あちこちで立ちどまっては死体を調べている。隠れているやつがいないか、剣をふるって草を切ってはそれを口にいれ、またパトロールにもどる。サール以上の熱意に燃えている様子だ。ふたりのあいだに緊張感はない──気軽な命令と素直な服従──だがヴァラは彼こそ次代のサールであることを確信しはじめていた。  思い切ってたずねてみた。 「サール、見たことのないヒト型種族が空から来たといって、ここを訪れたことはなかった?」  サールは目を見はった。 「空から[#「空から」に傍点]だと?」  忘れることはありえないだろうが、もしかすると秘密にしている話かもしれない。 「男の魔法使いよ。毛のない細い顔で、肌はブロンズ色で、頭の毛は黒くてまっすぐで、わたしの種族より背は高いけれど、肩や腰は細いの」  指先を両目の端に当ててつりあげてみせる。 「目はこんな[#「こんな」に傍点]感じ。ここいらの海を沸騰させて、|鏡 花《ミラー・フラワー》の災害を終わらせてくれたはずよ」  サールはうなずいた。 「それは先代サールが、ルイ様──つまりそのルイス・ウーという男の手を借りてやりとげたことだ。だがなぜおまえがそれを知っている?」 「ルイス・ウーとわたしはいっしょに旅をしたのよ、ここよりずっと左舷《ボート》のほうでだけど。太陽の光がないと|鏡 花《ミラー・フラワー》は自分の身を守れないと彼は話してたわ。でもそのあと、雲はずっとかかったままなの?」 「ずっとそのままだ。われわれはその魔法使いに教わったとおり草の種をまいた。スミープなど穴掘り動物のほうがわれわれよりずっと早くやってきた。どこへ行っても|鏡 花《ミラー・フラワー》の根は食われていた。薄暗い中では草の成長が悪いので、最初のうちわれわれは|鏡 花《ミラー・フラワー》を食わなければならなかった。  父の代のときわれわれの草を家畜の餌にしようとして戦いを挑んできた〈赤色人《レッド》〉たちも、いくらか遅れてこの新しい草地にはいってきた。〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉は穴掘り動物を狩った。〈水棲人種《ウォーター・ピープル》〉は|鏡 花《ミラー・フラワー》に占拠されていた川をさかのぼって帰っていった」 「吸血鬼《ヴァンパイア》は?」 「この雲はやつらにとっても好都合だったようだ」  ヴァラは顔をしかめた。サールはつづけた。 「われわれの誰も足を踏みいれない地域があった。吸血鬼《ヴァンパイア》には陽の光から身を隠す場所が必要だ。洞穴でも、樹でも、なんでもいい。雲がかかるとやつらはそれほど太陽を恐れなくてすむ。そこで巣窟から遠出をするようになった。それ以上のことはわからない」 「〈|屍肉食い《グール》〉にたずねてみなければならないようね」 「〈機械人種《マシン・ピープル》〉は〈|屍肉食い《グール》〉と話をするのか?」  サールはその考えが気にいらないようだ。 「彼らは自分たちだけでかたまっている。でも〈|屍肉食い《グール》〉はどこに死者が倒れていたかを知っているわ。吸血鬼《ヴァンバイア》がどこで狩りをしているか、昼間どこに隠れているかも知っているはずよ」 「〈|屍肉食い《グール》〉は夜にしか行動しない。〈|屍肉食い《グール》〉と話すにはどうすればいいのか、おれにはわからない」 「一度話したことがあるんだけど」  思い出そうとしたが、頭がうまく働いてくれない。疲労のせいだ。 「話したことがあるのよ。新しい宗教が生まれたり古い神官が死んだりすると、新しい巫師《シャーマン》のために試練の儀式がおこなわれるわね。〈|屍肉食い《グール》〉は死者のためにおこなわれる儀式を知って受けいれなくてはならないの」  甲冑姿のサールは重々しくうなずいた。〈|屍肉食い《グール》〉は、むろんある限界内でだが、あらゆる宗教の葬儀をとりおこなう。 「では、どうするのだ?」 「彼らの注意を惹きましょう。誘い出すの。どんな形でもいいけど、彼らは人目につきたがらないから、これはテストにもなるわ。新しい神官は〈|屍肉食い《グール》〉と交流できないかぎり本物とは認められないのよ」  サールがたてがみを逆立てた。 「やつらを誘い出す[#「誘い出す」に傍点]だと?」 「わたしたちは商人《トレーダー》としてここに来たのよ、サール。〈|屍肉食い《グール》〉はわたしたちの求めるものを持っているの──知識をね。わたしたちは〈|屍肉食い《グール》〉のほしがる何を持っているかしら? たいしたものはないわね。〈|屍肉食い《グール》〉は世界を、〈アーチ〉とすべてのものを所有しているんだから、ただお願いするしかないでしょう」 「誘い出す、か」  きしむような声だ。 「どうやって?」  何を聞いたんだっけ? いくつもの夜語り。取り引き上の話としてはあまり聞いていない。だが〈|屍肉食い《グール》〉と会って話したことはある。 「〈|屍肉食い《グール》〉はずっと左舷《ボート》寄りの、浮揚している建物の集団の下で|くらやみ農場《シャドウ・ファーム》をやっているの。わたしたちは道具で支払いをするし、〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉は彼らに図書閲覧権を与えている。情報と交換なら取り引きできるわ」 「われわれは何も知らない」 「まあそれに近いわね」 「ほかに何があるかな?」と、サール。「ああ、ヴァラヴァージリン、なんたることだ」 「どうしたの?」  サールが前方を手でさし示した。塀の周囲に百近い吸血鬼《ヴァンパイア》の死体が横たわり、また石弓の射程限界から草原までのあいだにその半数ほどの〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の死体が散らばっているのが目にはいった。  ビージがやや小柄な死体を調べている。視線に気づいたらしく頭を持ちあげて、ヴァラにも死体の顔が覗き込めるようにした。アンスランティリンの部下のヒマパーサリイだった。  ヴァラの背筋を戦慄が走った。しかしサールのいうとおりだ。 「〈|屍肉食い《グール》〉だって食っていかなきゃならないけど、でもそれだけじゃない──このたくさんの死体を放置しておいたら、疫病がはやるでしょう。すべて〈|屍肉食い《グール》〉の責任になるわ。〈|屍肉食い《グール》〉は片づけにくるはずよ」 「だがどうしておれの話を聞いてくれる?」  ヴァラは首をふった。まるで頭に綿がつまっているみたいな気分だ。 「とにかくそうして吸血鬼《ヴァンパイア》の巣窟がわかったあとは[#「あとは」に傍点]どうする? われわれのほうから襲撃をかけるのか?」 「それも〈|屍肉食い《グール》〉が教えてくれると──」  サールがふいに走り出した。ビージが何かを腕に抱えて手を振っている──何を?  つぎの瞬間、彼はそれを乱暴にふりまわして投げ捨て、反対の方向に自分の身体を投げ出した。投げ捨てられたものは落ちたところでうずくまり、静かになったが、ビージはまだうなり声をあげていた。  その吸血鬼《ヴァンパイア》は生きていたのだ。  ビージが声をあげた。 「サール、すまない。あれは生きていた。怪我をしていたが、矢が尻に当たっただけだった。話ができるかどうか調べてみようとしたら──だが──そうしたら──匂いが!」 「落ち着け、ビージ。急に匂いがしたのか? おまえが襲いかかったので、そいつが身を守ったのだろう?」 「屁みたいにか? 制御できたり、できなかったりするのか? ……サール、おれにはわからない」 「先へ進もう」  ビージの剣が荒々しく草にたたきつけられた。サールはまた歩きだした。  ヴァラはようやく考えをまとめ、口をひらいた。 「この場所に代表団をおきましょう。テントを張って、何人かで──」 「朝までにみんな血を吸いつくされてしまうぞ!」 「いいえ、今夜と明日の夜は大丈夫。吸血鬼《ヴァンパイア》はここでの狩りを終えたのだし、仲間の死体の匂いがするから。それでもみんなには武装させて、そうね、男も女もいっしょにいたほうがいいでしょう」 「ヴァラヴァージリン──」 「あなたがたの慣習は知ってるけど、そうすれば吸血鬼《ヴァンパイア》が歌っても、仲間同士で交わるだけですむわ」  こんなことをいってよかったのだろうか? もちろん彼以外の〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉に聞かせるわけにはいかない。  サールはうなりながらいった。 「ウム、わかった。そしてサールが目にしない限り、それは存在しないのだ。それで──」  ビージを手招きしながら、彼はヴァラに向かってたずねた。 「〈|先 見 通 商 隊《ファーサイト・トレーディング》〉も加わってくれるのだろうな?」 「そうするべきでしょうね。必要に迫られた種族がふたつ寄れば、ひとつよりも大きな声が出せるわ」 〈|先 見 通 商 隊《ファーサイト・トレーディング》〉は面倒な事態には立ち入らないようにしているのだが、今回はそうもいかない。燃料の大半をタオルの匂いつけに使ってしまったのだ。 「では三つの種族だ。一昨日の夜、〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉が大勢死んだ。彼らも代表を出すだろう。もっと多いほうがいいか? 吸血鬼《ヴァンパイア》は〈赤色人《レッド》〉も襲っているにちがいない」 「当たってみる価値はありそうね」  ビージがやってきた。サールが話しはじめたが、早口すぎてヴァラには聞きとれなかった。ビージは反論しようとしたが、結局黙りこんだ。 「昼間のうちに眠っておきましょう」ヴァラはいった。  全身が眠りを求めて悲鳴をあげていた。  何かが手首をつかんだ。 「ボス?」  彼女はハッと目覚めた。金切り声をあげようとしたが、きしむような音しか出なかった。身体を転がして起きあがる──ケイワーブリミスだった。 「ボス、あの親玉《ブル》に何を話したんだ?」  まだ頭がフラフラする。水が飲みたいし身体を洗いたいし、それとも──あのたたきつけるような音は雨だろうか? 閃光と轟音はもちろん雷だ。  汚れた服は眠る前に脱いでいる。彼女は毛布を抜け出し、荷台外殻《ぺイロード・シェル》からつめたい雨の中に出た。雨に打たれながら踊る彼女を、ケイが砲手室から眺めている。  あのときの結果がどう出るか。  商人《トレーダー》は仲間同士は交わらない。出会った種族とリシャスラはするが、媾合はまた別のものだ。仕事のパートナーを妊娠させたり、男女の支配ゲームにあけくれたり、恋愛にうつつを抜かしたりはしない。  だが遠くの土地で見知らぬヒト型種族のあいだにいるときに、たがいを避けることはむずかしい。  彼女は手招きし、叫んだ。 「いっしょに身体を洗わない? いま何時?」 「もうすぐ暗くなる。ずいぶん長いあいだ寝ていたようだ」  何かホッとしたような様子でケイも服を脱いだ。 「吸血鬼《ヴァンパイア》に対して武器を用意する時間が必要だと思っていたんだが」 「それくらいやれるわよ。バロクのぐあいはどう?」 「知らない」  ふたりは水を飲み、たがいに身体を洗い、乾かし、そしてホッとした──欲望を抑えることができたのだ。  雨がやみ、風が最後の雨を運んで刈り跡を吹き抜けていくのが見えた。流れる雲の細い切れ間から幾筋か濃紺の空がのぞき、それを垂直に貫く白っぽい細い線が切れ切れに現れた。  ヴァラは息をのんだ。〈アーチ〉を見たのは四回転ぶりだ。  明るいアーチ光で刈り跡の模様が見えた。弧を描いて並ぶ青白い長方形。その弧の中にテントがひとつ立っている。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉たちが行き来し、それよりずっと小柄なヒト型種族が数人それに立ちまじって働いている。  長方形……シーツだろうか? その上に死体を並べているところだ。 「あんたが指示したのか?」 「ちがうわ。でも悪くない考えね」と、ヴァラ。  見捨てられたアンスランティリンのクルーザーの中で、ふたりはバロクとその二倍もありそうな大女を見つけた。彼は異常なほど穏やかで、顔に微笑を浮かべていた。 「ウェンブ、おれの仲間のヴァラヴァージリンとケイワーブリミスだ。こちらはウェンブだ」  ケイが口をひらいた。 「ひょっとして、とは思っていたが──」  バロクの笑い声はどこか常軌を逸していた。 「そうさ。おれたちが寝たと思うならそのとおりだよ!」  ウェンブが割りこんだ。 「いっしょにここで眠って、もっとリシャスラしたいほかのものたちから、おたがいを守る! ふたりでいて運がよかった」  疲れきった心をさぐってバロクはもうひとつの気がかりを思い出した。 「フォーンだ。フォラナイードリを見なかったか?」  ヴァラは答えた。 「行ってしまったわ」  バロクの身体に抑えきれない震えが走った。彼の手がヴァラの手首をつかんだ。 「おれは 『弾こめ!』とどなったんだが、返事はなかった。行ってしまったんだ。歌を追っていったのなら引きとめなければと、おれはさがしに出た。出たとたん、何もわからなくなっちまった。気がつくと塀の根もとで、身体が地面にめりこみそうなほど雨にたたきつけられていた。誰かがぶつかってきて、おれを泥の中に押し倒した。ウェンブだった。おれたちは──あれはリシャスラなんて言葉でいい表わせるもんじゃない」  ウェンブがバロクの肩をつかみ、自分のほうを向かせた。 「愛を交わしたにしろ性交したにしろ、でもあれはリシャスラだった[#「リシャスラだった」に傍点]と、そういわないと」 「──服を引き裂いて、何度も何度もリシャスラして、それからフッと我に返ると、青白いやつらが半円を描いて近づいてきていた。雨が匂いをいくらか洗い流したんだろう。あたり一面に石弓が落ちていた。夜のあいだずっと〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の戦士はつぎつぎと塀を駆けおりて、石弓やなんかをぜんぶ放り出して──」 「わたしたち、石弓をひろった」ウェンブが口をはさんだ。「マキーが吸血鬼《ヴァンパイア》を腕に抱えて死んでいて、矢がふたりを貫いて、矢筒がそばに落ちていた。矢筒をひろって中身をぶちまけ、ひと握りバロクに押しつけて、いちばん近くの吸血鬼《ヴァンパイア》を撃った。それからつぎのを」 「最初おれは、石弓の打ち金が起こせなかった」 「それからつぎのを。それであなたは叫んだのか? あとは話をする暇もなかった」 「叫びながらひっぱったんだ。力いっぱい叫んだ」と、バロク。「おまえたちの道具はちっぽけな〈機械人種《マシン・ピープル》〉向きじゃないんだよ」  ヴァラはたずねた。 「ひと晩じゅうそこにいたの?」  ウェンブがうなずき、バロクが答えた。 「雨が小降りになったらタオルを使った。山ほど落ちていたよ」  つかまれた手首が痛いほどだ。 「ケイ、ヴァラ、それでやっと何が起きたのかわかったんだ」 「戦士たちがそばを通り過ぎていった」ウェンブがつづけた。「わたしはヒアストの脚を撃ったが、あの子はそれでも歌を追って歩いていった。吸血鬼《ヴァンパイア》が近づいてきて、顔からタオルを引きはがし、連れていってしまった。わたしの息子を」 「顔を蔽っていても、やつらはそれを引きはがしてしまうんだ! ヒアストのタオルは燃料をたらしたものだった。雨で洗い流されてしまったんだ。おれたちは別のタオルを──なんだっけ、ウエンブ?」 「ペパーリーク、ミンチ」 「そう、それだと匂いが残る。そのタオルとリシャスラのおかげでおれたちは生き延びた。我慢できなくなるとリシャスラした。それから石弓の矢だ。剣や石弓はいくらでもあったが、矢筒は落ちていない。あちこちさがしまわって、死体からとってきた」 「わからないことがある」と、ウェンブ。「サールに話さなくてはならない。吸血鬼《ヴァンパイア》は何人かとリシャスラして、それから草の生えているもっと遠くへ連れていった。なぜ生かしておくのか? まだ生きているのだろうか?」  ヴァラは答えた。 「〈|屍肉食い《グール》〉なら知ってるかもしれないわ」 「〈|屍肉食い《グール》〉はほかの種族に秘密を明かさない」と、ウェンブ。  雲の隙間が閉じた。闇の中でバロクがいった。 「おれはアンスがついていこうとしている吸血鬼《ヴァンパイア》を撃った。二発でやっと倒せた。別のやつが歌を引き継いだので、その女も撃ったが、あいつはもう三人めの女を追って矢のとどかないところに行ってしまった。草の中にはいっていったきり、姿を見ていない。おれはあいつを[#「あいつを」に傍点]撃つべきだったんだろうか?」  ふたりには、彼を見つめることしかできなかった。 「不寝番はとてもつとまらない」と、バロク。「いまはリシャスラもできない。頭が──うまく説明できないが──」  ふたりは理解したことを伝えるため彼の腕をギュッと握り、その場を立ち去った。 [#改ページ]      3 嵐 の 気 配  そのテントは塀の根もとにうずくまり、半円を描いて並ぶ灰色のシーツに出入ロを向けていた。  シーツにはそれぞれ巨人が二体、吸血鬼《ヴァンパイア》なら四体ずつ死体が頭をそろえて横たえられている。巨人たちはアンスランティリンとその部下のヒマパーサリイも見つけ、一枚のシーツに並べて寝かせた。タラタラファシトとフォラナイードリはまだ見つかっていないようだ。小さな〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉を六体並べたシーツもあった。  作業はもう終わりに近づいていた。小さなヒト型種族も巨人とともに働いていたが、あまり助けにはならず、食べ物や小さな荷物を運ぶくらいのものだ。全員がシーツをまとい、中央にあけた穴から首を出している。 〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉は吸血鬼《ヴァンパイア》の死体をひとりで軽々と運べるが、巨人の死体を運ぶのはふたりがかりだ。  だがビージは〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の女の死体をひとりで背中にかついで運んできた。ドサリとシーツにおろし、きちんと置きなおす。ついでその女の手をとり、悲しげに話しかけた。ヴァラは声をかけようとしたが思いとどまった。  ふたりの女が吸血鬼《ヴァンパイア》の死体を並べ終えた。そのひとりが近づいてきた。 「シーツの縁にペパーリークをこすりつけた。それで小さな|腐肉漁り《スカヴェンジャー》は追いはらえる」ムーンワが三人の〈機械人種《マシン・ピープル》〉に説明した。「大きな|腐肉漁り《スカヴェンジャー》には石弓を使う。これで〈|屍肉食い《グール》〉たちは獲物を手にいれるために戦わなくてすむ」 「いい心遣いね」ヴァラヴァージリンはねぎらった。  テーブルに乗せれば|腐肉漁り《スカヴェンジャー》はとどかないだろうが、木材をどこで手にいれたらいいのか? 「これからどうする?」ムーンワがたずねた。 「いっしょに不寝番をするつもりよ」 「あなたの一族は戦いで大きな被害を受けた。〈|屍肉食い《グール》〉は最初の夜にはやってこない。休んでください」  ヴァラはいった。 「でも、わたしがいい出したことだから」 「サールの考えです」ムーンワが訂正した。  ヴァラは慎重に微笑を抑えてうなずいた。そういう慣習なのだ。──サールが海を沸騰させ、ルイス・ウーがそれを手伝った──というわけだ。  彼女は小さなヒト型種族をさし示した。 「あれは誰?」  ムーンワが声をかけた。 「ペリラック、シラック、マナック、コリアック──」  四つの小さな頭があがった。 「──この人たちも仲間だよ、ケイワーブリミスとヴァラヴァージリンとホワンダーノスティ」 〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉たちはニッコリ笑って頭を上下に動かしたが、すぐに近づいてこようとはしなかった。  死体やテントからずっと離れた場所で〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉たちが慎重にシーツを裏返しながら脱ぎ、鎌と石弓をひろいあげている。〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉たちもそこへ行って汚れたシーツを脱ぎ、細い剣を背中に吊るした。  シーツを脱いで武装したビージがやってきた。 「テントの中にタオルがある。ミンチをこすりつけておいた。好きに使ってくれ」 〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉の身長は〈機械人種《マシン・ピープル》〉の脇の下あたり、ビージとムーンワの臍のあたりまでしかない。顔には毛がなく、とがっていて、笑うと大きな口から歯が、ちょっと異様なほどむきだしになる。身につけているのはベージュ色の毛を残してなめしたスミープ革の上衣《チュニック》で、それに豪華な飾りの羽根をつけている。  ふたりの女、ペリラックとコリアックの羽根は、小さな翼の形をとっている。歩くときにはそれをこわさないよう気をつけなくてはならない。マナックとシラックも身体つきは女たちとよく似ているが、服装はまったくちがう。羽根をつけてはいるが、腕をふりまわしても──戦っても──触れないようになっているのだ。  また大粒の雨が降ってきたので、〈機械人種《マシン・ピープル》〉たちはテントにはいった。床に分厚く草が敷きつめてある。寝床でもあり〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の食糧でもある草だ。ヴァラは仲間たちに注意して履物を脱がせた。  すでに暗く、みんなの顔が見えないほどだ。リシャスラは夜になってからはじめるのがいちばんいい。  しかし戦場ではそうもいかない。 「ひどいことですね」ペリラックがいった。  ホワンダーノスティがたずねた。 「おまえたちは何人失った?」 「これまでに二百近くです」 「われわれは十人で来て、四人がいなくなった。ソパシンテイとチタクミシャドはこのすぐ上のキャノンのところで監視についている。バロクは地獄の夜の痛手からまだ回復していない」 「女王の手のものがひとり、別の種族と交渉するためサールの配下の女と同行しました。もし──」  小さな女の目がキラリと光った。 「──|夜 の 主《ロード・オヴ・ナイト》が話をしにこなければ、明日には別の声が仲間入りするでしょう」  伝説によれば、〈|屍肉食い《グール》〉は、真昼でないかぎり──というものもいるが──自分たちについて語られるすべての言葉を聞いているという。〈|屍肉食い《グール》〉はいま現在もこのあたりにいるかもしれないのだ。  ケイがたずねた。 「おまえの女王の配下は、本当に旅の連れとリシャスラするのか?」  四人の〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉たちが忍び笑いをもらした。ビージとムーンワは哄笑を爆発させた。  小柄な女──ペリラック──がケイに答えた。 「〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の女が相手だと、大きさが問題ですが。でもあなたがたとわたしたちならうまくいくかもしれない」  ペリラックとケイワーブリミスが、同じことを考えているかのように見つめ合った。小柄な女がケイの肘をとった。ケイの腕が〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉の羽をかすめた。  彼はたずねた。 「おまえたちは自分たちが使う以上に革を集められるか?」  彼女が答えた。 「いいえ、革はすぐに傷みます。取り引きできるものはわずかで、多くはありません」 「傷みを遅らせる方法があるとしたらどうかね?」  戦場の悪臭が風に乗って漂ってくるたびに、ヴァラヴァージリンは鼻を鳴らしてそれを追いはらった。だがその匂いも、もはやケイワーブリミスにはとどいていないだろう。ケイは商人《トレーダー》として行動しはじめていた。彼の心はいま、数の上下だけで勝ち負けが決まり、決断が感情に左右されることのない、ある種族の廃棄物が別の種族にとって黄金の臥所となるがゆえに帝国が存続できる、そうした場所にはいりこんでいた。  とっぷりと夜が更けた。昼の光に照らされた〈アーチ〉のかすかな光にビージの大きな笑いが浮かぶ。  ヴァラは〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉にたずねた。 「商売の駆け引きを見たことがある?」 「何度か見た。ルイス・ウーがきたのはおれが子供のころだったが、彼は先代サールとふたりだけで契約をとりかわした。三十ファラン前には〈赤色人《レッド》〉と和睦を結び、居住地を分け合った。二十四ファラン前には〈赤色人《レッド》〉と〈|海の人種《シー・ピープル》〉が集まって住み分けを決めた。全員が新しい領地について学んだ。だがどの種族も〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の大きさには面食らう」  丁重な否定を真に受けてはならない。ヴァラはのびあがって〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の肘をつかんだ。夜の中に〈|屍肉食い《グール》〉の音を聞きとろうと耳をすませていたのだが、聞こえたのは雨の音だけだった。  雲が空を蔽い、真の闇が訪れた。 〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉のひとりがたずねた。 「待つだけなのか? そのほうが礼儀にかなっているのか?」  マナック、だったろうか? のどのまわりの毛が濃いのは、彼が第一雄性《アルファ・メイル》で、シラックが第二《ベータ》ということなのだろうか。ヒト型種族の多くでは、大部分の雌の関心はひとりの雄に集中する。〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉はどうなのか、ヴァラは知らない。  ヴァラは答えた。 「マナック、わたしたちはここに[#「ここに」に傍点]いるのよ。彼らの領域にね。わたしたちはその|夜 の 主《ロード・オヴ・ナイト》を喜ばせるために来たのだと思ってもらってもいいわ。あなたがたもリシャスラするの?」  そしてすばやくビージに向かってつづけた。 「ビージ、問題は大きさだから、大きな相手はわたしに。まずホワンドがムーンワと──」  だが気がつくと、ケイとペリラックはもはや商売の話をしてはいなかった。どうやら見解がちがったようだ。 〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉の男とのリシャスラは前戯のようなものにすぎなかった。  次期サールとのリシャスラはそれとまったくちがって、それなりに楽しかった。彼は大きく、熱意にあふれていた。自己抑制が誇りらしく、そのギリギリのところで制御したが、とにかく[#「とにかく」に傍点]身体が大きいのだ。  ケイワーブリミスもすばらしい夜を過ごした──ようだ。いま彼はムーンワと何か内緒話をかわしている。たしかにいい商人《トレーダー》だし、全般的に標準以上の男でもある。ヴァラは彼から視線をはずすことができなかった。  彼と交わった。どうしてもそのときの気分が心を離れない……たぶんこのままのほうがいいのだろう。リシャスラ・パーティへの心構えにもなる。いまのところは。  性媾合はむしろ手順の問題だ。長年の進化で多くのヒト型種族はそのための反応を形成してきた──接近、匂い、体位と位置関係、視覚と触感による合図。文化はさらに多くの形態をつくりあげた──ダンス、派閥、話しかた、使っていい単語と語句。  だが種族外とのセックスは進化に影響されることなく、リシャスラはつねに一種の技術だった。ある形がピッタリいかなくても、ほかの形が見つかるかもしれない。参加できないものも、横で見ていて茶々を入れることはできる……。  身も心も休息を欲しているときは見張りに立てばいい。  夜の静寂は深かったが、ときたまそれをかき乱すざわめきは風の音ばかりではなさそうだった。〈|屍肉食い《グール》〉はもうすぐそこまで来ているにちがいない。それが彼らの義務だからだ。だがもし死体を並べた戦場の噂が彼らの耳にとどいていなかったとしたら、あの音は吸血鬼《ヴァンパイア》かもしれない。  ヴァラは〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉用の頑丈な三|歩高《ペースハイ》のスツールにのぼってその上にすわりこんだ。今夜は暖かいので──彼女が[#「彼女が」に傍点]暖かいのかもしれないが──裸でいても平気だ。でも背中には装填した銃がある。  目の前は雨が降りしきり、何も見えない。背後では少し前からすべての興奮が静まっている。 「われわれと〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉はたがいに好意を抱いてはいるが、われわれは単なる寄生者ではない」〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉のひとりが話している。「かつて|鏡  花《ミラー・フラワー》が群生していた場所にはすべて草食動物が棲みつき、それがわれわれの食用になる。われわれの探索はサールの一族に先行しておこなわれる。調査し、案内し、地図をつくるのだ」  あの声はマナックだ。彼は〈機械人種《マシン・ピープル》〉の女性と組むにもちょっと小柄すぎ、経験もなかった。だが学習はできる。容易に正しい態度をとれるものもいれば、どうしてもそれが身につかないものもいる。  媾合は結果を生じる。ヒト型種族のそれに対する反応は単なる心理的なものではない。リシャスラは結果を生まず、それを支配するのは心理作用だけだ。当惑はふさわしくないし、笑いはつねに共有される。リシャスラは娯楽であり、外交であり、友好手段であり、また闇の中でも武器に手がとどくのを知ることでもある。 「われわれの願いはひと身代築くことなんだ」ケイがいっている。「帝国を拡張するものには大きな報酬が与えられる。帝国は燃料の供給にともなって拡大する。燃料をつくって帝国に売るようひとつの共同体を説得できれば、その報酬でわれわれ全員が家族をかまえることができるんだ」  ムーンワがいった。 「あんたたちはそれでいい。でもその相手の部族はどうなる? 燃料を飲むことをおぼえたものは意欲をなくし、友人も伴侶も失い、堕落して早死にするよ」 「気が弱くて『もうたくさん』といえないものもいるが、ムーンワ、あんたはもっと強いだろう?」 「もちろん。今夜、いまだっていえる。もうたくさん[#「もうたくさん」に傍点]、ケイワーブリミス!」  ふり返ると大小さまざまの笑顔が並んでいる。  ビージがいった。 「昨夜燃料を浸したタオルを顔につけたときは、頭がクラクラして、何をしているのかわからなくなった」  ケイが巧みに話題を変えた。 「ヴァラヴァージリン、あんたは〈中央都市《センター・シテイ》〉にもどったら、伴侶をさがして一家をかまえるのかい?」 「伴侶はもういるのよ」  ケイがふいに口をつぐんだ。  彼は知らなかったのだ! では何を考えていたのだろう? 自分と彼女が正式な伴侶になることをか?  ヴァラヴァージリンは説明した。 「わたしは〈球体人種《ボール・ピープル》〉のルイス・ウーからもらった贈り物でひと財産つくったの」  どうやったかは他人の知ったことではないし、そもそもが不法行為だった。 「そのとき伴侶を持った。ターブの両親はわたしの家族の友人だった──よくあることなのよ、ムーンワ。彼、お金はなかったけど、いい父親になってくれて、わたしが事業に打ちこめるように配慮してくれたわ。  でもだんだん落ちつかなくなったの。ルイス・ウーがいったことを思い出して……いいえ、彼、すすめてくれたの、アルコールを抽出したあとの滓から何か道具をつくらないかって。プラスティック≠ニいってた。彼の話す機械も翻訳してくれなかったけど、彼の言葉をおぼえたの。形がないという意味なんですって。プラスティックは作り手が望むままの形をとることができるのよ。滓は役に立たない邪魔物よね。それを引きとってあげたら、お客たちは喜ぶでしょうね。  それでわたしは化学研究所に出資したの」  闇の中で、彼女は肩をすくめた。 「よくあることだけど、費用は予測よりかさんだわ。やっと答は出たけど、ベタベタの滓は謎のままだった。  そしてとうとうお金がほとんど底をついたので、タラブリリアストと子供たちをわたしの父かたの家族にあずけて、わたしはもう一度彼らを養えるようになるまでここに出てきているというわけ。コリアック、つぎの見張りはあなたじゃない?」 「そうね。いますぐ行く、ホワンダーノスティ。ヴァラ、外はどうなっている?」 「雨が降ってるわ。ときどき何か黒く光るものが見えて、忍び笑いのような声が聞こえる。吸血鬼《ヴァンパイア》の匂いはしないわ」 「わかった」  ムーンワがさっきから〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の言葉にもどって何かジョークをいっているらしく、ビージがうなり声でそれに答えている。灰色の夜明けの中で〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉たちも外の明るい地面を指さしながら仲間うちで話し合っていたが、やがて折り重なるようにして眠りこんだ。 「彼ら、来たのかしら?」  スパッシュが誰にともなくいい、テントから外をのぞいた。  ホワンドがいった。 「どっちでもかまわん。眠ろうぜ」 「来たようね」と、スパッシュ。  ヴァラも外に出た。  はじめは気づかなかったが、一枚のシーツが空っぽになっていた。どれだろう? 左端の……〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉の死体が六つ並べてあったやつだ。ほかのシーツに手を触れた形跡はなかった。  ビージが剣−鎌をふりまわしながら飛び出してきた。それに加えて何人もの巨人たちが土塀からおりてきた。一同は相談の結果、〈|屍肉食い《グール》〉の仕事の痕跡をさがすため四方に散っていった。  だがヴァラは荷台外殻《ペイロード・シェル》でひと眠りするべく、その場を離れて塀をのぼった。  真昼ごろ、鼻孔をくすぐるあぶり肉の芳香に空腹を刺激されて、目が覚めた。その匂いをたどって彼女はテントに向かった。 〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉と〈機械人種《マシン・ピープル》〉が席をともにしている。〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉たちは狩りをしてきたらしい。彼らが獲物を料理するために起こした火をうまく使って、バロクとホワンドはこの土地の草からパンをこしらえていた。 「われわれは一日に四度、五度、六度、食事をする」シラックがいった。「ホワンドの話では、おまえたちは一日に一度しか食事をしないそうだが?」 「そうよ。でもたくさん食べるわ。肉は足りている?」 「おまえの仲間が食事におりてきたとき、おれの仲間がもう一度狩りに出た。ここにあるものはどれでも食っていい。もうすぐ狩人たちがもどる」  ひらたいパンはなかなかの力作で、ヴァラは男たちに称賛を送った。スミープの肉もうまかったが、少しばかり痩せていて固かった。少なくとも〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉は、塩や香草《ハーブ》や木の実をまぶして肉の匂いを消すという、ほかの種族のあいだで見られる習慣を持っていないらしい。  ヴァラはこのスミープをほかの場所で飼育する可能性について考えてみたが、商人《トレーダー》なら誰でもその答はわかっている。  ある土地に棲む種族にとっての恩寵が、他の土地では厄災となりかねない。数を制限してくれる捕食動物のいない土地に放たれたスミープは必要以上に増えて穀物を食い荒らし、そのあげく飢餓に陥って衰弱し、疫病流行の原因となるのだ。  そんなことを考えながら、彼女は目にとまるかぎりのものを口に運んだ。〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉も〈機械人種《マシン・ピープル》〉も、おもしろそうに彼女を見つめている。  シラックがいった。 「昨夜は重労働だったからな」 「わたしが寝ているあいだに何かあった?」  ケイが答えた。 「〈|屍肉食い《グール》〉が活躍した。塀と草原のあいだにもう〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の死体はひとつもない。ビージが草の中にきっちり積みあげた骨の山を見つけた。吸血鬼《ヴァンパイア》の死体はまだそのままだ。たぶん今夜の分なんだろうよ」 「彼ら、親切なのね」  死体がなくなれば〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の嘆きは終わる。ただ……。 「わたしたちのほうの死体も持っていってくれてたらもっと親切だったのに。ほかには?」  シラックが指さした。  もう雨はやんでいる。はるか上空で雲が果てしなくたいらな屋根をつくっており、草原のはるか彼方までが見わたせる。その中を獣に牽かせた大きなワゴンが近づいてくるのが目にとまった。  大きな肩をした五頭の巨獣。脇板を高くしたそのワゴンも大きいが、あんな獣が五頭も必要だとは思えない。 「暗くなるかなり前にここに着く。それでもいますぐ眠りにつけるなら、時間はある」  ヴァラはうなずき、もう一度睡眠をとるため塀をのぼった。  パルームがはるかに小柄な赤い皮膚の男と並んで御者台にすわっていた。一段低くなった囲いの内側に、さらに三人の〈赤色人《レッド》〉が乗っている。  ワゴンは入口に近い塀のすぐ下に停まった。彼らが荷台から何かをとりあげた。ヴァラは目をすがめて透明なそれを見つめた。金の匂いを嗅ぎつける本能がつぶやきをあげて神経を走り抜けていった。 〈都市の墜落〉のさい、いちばん多く落下してきたものは空飛ぶ乗物だった。この湾曲した透明な板は落下した車についていたものだ。ほとんどの板は粉々に壊れてしまったが、これは無傷らしい。はかり知れない価値があるだろう!  その四隅を支えて〈赤色人《レッド》〉たちが進み出てきた。それぞれが自分の背丈ほどもある剣を革鞘にいれて背中に下げている。染色した革の短衣《キルト》を着て革の背嚢を背負っているのは男女とも同じだが、女のほうが色彩が鮮やかだ。犬歯がずらりと並んだように、二列の歯はすべてとがっている。  迎え出たのは、ヴァラヴァージリン、ケイワーブリミス、ムーンワ、完全武装のサール、マナック、コリアックだった。あらかじめ絞っておいたメンバーだ。 「サール、これは窓だ」〈赤色人《レッド》〉の男が厳粛に告げた。「居住地を離れることができない〈沼沢人種《マーシュ・ピープル》〉から託された贈り物だ。彼らはわれわれが、ひろがりつつある吸血鬼《ヴァンパイア》の災厄を防いでくれることを願っている。〈沼沢人種《マーシュ・ピープル》〉は沼地を離れると生きていけないため、それから逃れることができないのだ」  サールの問いかけるような視線を受けて、ヴァラヴァージリンは答えた。 「そういう種族の話は聞いたことがあるわ。沼地や、砂漠や、山の中腹や、一種類の木しか生えていない森などに住んでいるの。身体が変化してひとつの食べ物しか受けつけなくなったとか、寒さや暑さに耐えられないとか、湿気が少なすぎてはいけないとか、多すぎてはいけないとかの理由でね。でもこれはすばらしい贈り物よ」 「なるほど。ではその〈沼沢人種《マーシュ・ピープル》〉のために、できるだけのことをしなくてはな」サールがいった。「ここにいるのはいままでに集まった同志だ……」  そして〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉と〈機械人種《マシン・ピープル》〉たちを紹介した。ゆっくりしゃべっているのだが、名前によって発音の正確さには差がある。 「おれはテガー・フーキ=サンダーサル」〈赤色人《レッド》〉の男が名乗った。「こっちはワーヴィア・フーキ=マーフ・サンダーサルだ。ともに旅をしてきたのはアナクリン・フーキ=ホワンハーハーとチェイチンド・フーキ=カラシク」  最後のふたりの〈赤色人《レッド》〉は荷獣の世話をするためすでにその場を離れていた。  サールがたずねた。 「おまえの種族はどのようにリシャスラするのか?」 「わたしたちはリシャスラしません」ワーヴィアがさりげない口調で答えた。  パルームがニヤリと笑い、ヴァラも〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の男の失意を想像して笑い返した。しきたりどおりサールが全員を代表したが、そのあいさつはごく簡潔だった。まったくリシャスラをおこなわない種族に対して、その技能を誇張して話したところでいったいなんになるだろう?  彼が口をつぐむと、テガーとワーヴィアは黙ったままコクンとうなずいた。あとふたりの〈赤色人《レッド》〉たちは話すら聞こうともせず、シーツに寝かせた吸血鬼《ヴァンパイア》の死体を調べながら、早口に言葉をかわしている。  テガーとワーヴィアはほとんどそっくりに見えた。皮膚はなめらかで、顔にも毛はない。着ている短衣《キルト》は装飾的な縫いとりをした柔らかい革だ。身長は〈機械人種《マシン・ピープル》〉と同じくらいだが、ずっと細い。細長い頭の両側に大きな耳がつき出ている。歯は削ったのではなく、生まれつきとがっているらしい。ワーヴィアの胸には乳房らしいものがあるが、それもほとんど目につかないほどだ。 「こんなに多くの吸血鬼《ヴァンパイア》が一度に見つかった話など、聞いたことがありません」とワーヴィアがいった。 「ずいぶん殺したもんだ」と、テガー。「吸血鬼《ヴァンパイア》だらけじゃないか。近隣の種族はさぞ喜んでいるだろう」  ワーヴィアがたずねた。 「〈|屍肉食い《グール》〉は来ましたか?」  サールが答えた。 「吸血鬼《ヴァンパイア》の襲撃があったのは一昨日の夜だ。影が太陽から去ると、やつらもいなくなった。ここにはやつらが残していった死体はあるが、われわれの死体はすでに〈|屍肉食い《グール》〉が片づけた。数は吸血鬼《ヴァンパイア》の半分かそれより少し多いくらい。それに百人の〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉と、四人の〈機械人種《マシン・ピープル》〉だ。吸血鬼《ヴァンパイア》は恐ろしい敵だ。おまえたちが来てくれてありがたい」 「われわれはその脅威にまったく気づいていなかった」と、テガー。「若い狩人たちが姿を消しはじめたので、教師の技量が落ちたのか、あるいは新しい肉食獣が出現したのだろうと思っていた。パルーム、おまえの知らせを信じなかったことを許してほしい」  パルームは優雅にうなずいた。サールが話を引き継いだ。 「われわれが吸血鬼《ヴァンパイア》に関して持っていた知識は半分がまちがいだった。ちょうどいいときに〈機械人種《マシン・ピープル》〉の帝国が助けにきてくれた」  彼以外の〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉にはこのような話しかたができない[#「できない」に傍点]ことにヴァラは気づきはじめていた。種族を貶めることは、サールを貶めることになるからだ。 「われわれの防禦を見せよう」と、彼はつづけた。「だがもう食事はすませたのか? 光があるうちに料理をしたらどうだ?」 「われわれは調理しない肉を食う。種類は多いほうがいい。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉は肉を食わないというが、〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉と〈機械人種《マシン・ピープル》〉はどうだ? 食事をともにするかどうか、われわれの食糧を見てくれ」  五頭の荷獣のほかに、ワゴンの上にも檻が積んであった。檻の中のものが一同の視線を感じてうなりをあげた。大きさは〈草食巨人《グラス・ジヤイアント》〉ほどもあり、獰猛そうだ。  ヴァラはたずねた。 「あれは何?」 「ハカーチだ」テガーがいかにも誇らしげに答えた。「〈|境界の丘《バリアー・ヒル》〉の猛獣だ。われわれの楽しみにと、〈庭師人種《ガードナー・ピープル》〉が二頭を放してよこした。はじめての土地で追われながら、この雄は捕まるまでにひとりを殺した」  自慢話だ。  ──われわれは勇猛な狩人だ。われわれより劣った狩人を狩る。吸血鬼《ヴァンパイア》も狩ってやろう──。  ヴァラは提案した。 「ペリラック、いっしょに食事してみる? 今夜じゃなく明日、わたしたちの日一回の食事のときに」 〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉の女が答えた。 「こうしましょう。ワーヴィア、今夜は荷獣を殺して食事にしてください。明日とそのあとはわたしたちがもてなします。死者を食うものたちの話が聞けるまでは──」  影の端が太陽の一部を翳らせたが、あたりはまだ明るい。 「──わたしたちがみんなを養いましょう。あなたもスミープの肉を試してみたいでしょう」 「感謝する」  焚火が唯一の明かりとなった。調理をするには暗いがもうそれは終わっている。あとふたりの〈赤色人《レッド》〉のうち、アナクリン・フーキ=ホワンハーハーはしわだらけの年寄りだが、まだ敏捷さを失ってはいない。もうひとりのチェイチンド・フーキ=カラシクは、昔の戦いでだろう、顔に大きな傷痕があり、片腕をなくしていた。  ふたりは彼ら自身の贈り物として、大きなセラミック製の壺にはいった強い黒ビールを持ってきていた。決してまずくはない。ヴァラはケイの反応をうかがった。  ──お手並み拝見といこうじやないの──。  ケイは叫んだ。 「これを自分たちでつくっているのか? たくさんつくるのか?」 「そうだ。取り引きすることを考えているのか?」 「チェイチンド、値段さえ安ければ扱う価値はある──」 「〈機械人種《マシン・ピープル》〉についての噂は誇張ではないらしい」  ケイは腹を立てたようだ。これはまずい、仲裁にはいらないと。 「ケイワーブリミスがいいたいのは、もしこれをたくさん蒸留できれば、クルーザーの燃料ができるだろうということよ。クルーザーは武器やその他いろいろなものを運べるし、荷獣より速く走れるけれど、燃料がなければ動かないの」 「贈り物としてほしいのか?」  チェイチンドはそう聞き返したが、同時にテガーがわめきだした。 「われわれのビールを燃料にするというのか?」 「戦いのための贈り物よ。全員が何かを提供するの。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉は戦士、〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉は偵察員、あなたの種族は燃料──」 「われわれは目だ」 「なんですって?」 「〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉ほど遠目のきく種族はほかにいない」 「ではあなたがたは目ね。わたしたちにはクルーザーとキャノンと火炎器《フレーマー》がある。吸血鬼《ヴァンパイア》との戦いに、三百|人 重《メンウエイト》のビールを寄付してくれないかしら? 蒸留すれば三十|人 重《マンウエイト》の燃料ができる。持ってきた蒸留器は簡単だから、すぐ複製がつくれるわ」  ワーヴィアが叫んだ。 「それだけあれば世界中が酔いつぶれてしまう!」  だがテガーは冷静にたずねた。 「|人 重《マンウエイト》とはどれくらいだ?」  ──やった──!  ヴァラは答えた。 「あなたの大きさくらいね」  テガーは当然の質問をしたのだが、それは同時に同意を前提とした返事でもあった……〈機械人種《マシン・ピープル》〉の|人 重《マンウエイト》ならその六分の一増しというところだが。 「遠征には二台のクルーザーを使って、一台はここに残しておこうと思うの。サールが三台めのクルーザーの燃料を補給してくれるでしょう」 「ホワンドとチットが監督すればいい」ケイがいった。 「そうね。あら?」  そういえばふたりの姿が見えない。 「ふたりともくたばったよ、ボス。スパッシュもフラフラだな。バロクもだ」 「敵を知らないかぎり、いかなる攻撃も自殺行為になります」と、ワーヴィア。「〈|屍肉食い《グール》〉はもう何か話しましたか?」 「死体がいくつかなくなった」  サールが、そう答えて肩をすくめた。 「こっちはちゃんと礼儀をつくしているわ」と、ヴァラ。  商人《トレーダー》は必要に応じて言葉を使い分けることを知っていなくてはならない。 「だから|夜 の 主《ロード・オヴ・ナイト》も、害獣よけを施した死体は最後にまわすでしょう。〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉の死体を持っていったのは、死んだのが一日早かったからでしょうね」  夜が聞き耳を立てているのだ。  今夜はケイとホワンドが、バロクとともにキャノンをかまえて、塀の上で監視についた。彼らに代わってスパッシュとチットがテントにおりてきている。  前夜よりは楽だが、それだけ楽しみも少なそうだ。 〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉たちと〈機械人種《マシン・ピープル》〉と、トゥウクという名のやや小柄な〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の女が何かやりだしているだけで、サールは甲冑を脱ごうともしない。四人の〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉は手のとどかない場所から大喜びでそれを見まもり、自分たちの言葉でさかんにはやしたてているが、全体としていまひとつしっくりいっていない感じだ。 〈赤色人《レッド》〉はつき合いにくい連中ではなかった。サールのそばではいくらか緊張を見せるが、ほかのものとはうちとけた態度で言葉をかわしている。スパッシュと三人の〈赤色人《レッド》〉がいま情報を交換している。〈赤色人《レッド》〉は悪条件にもかかわらず、ヒト型種族との交流にかなり経験を積んでいるようだ。  ヴァラは聞くともなしに耳をかたむけていた。 〈赤色人《レッド》〉は食物に導かれて移動する。生肉を食べ、それなりに舌も肥えているのだ。ただ一種類の家畜──ごくまれに二種類になることもあるが──しか飼育しないのは、多種類の食用動物を一度に飼うよりそのほうが簡単だからだ。〈赤色人《レッド》〉の各部族はたがいに交差するように移動のルートを定め、出会っては食糧を交換する。  彼らは情報も取り引きし、さまざまな環境にあるヒト型種族と交流している。二種類の〈水棲人種《ウォーター・ピープル》〉について話が出たが、それはどうやらヴァラが知っているのとは別の部族のようだった。  もうひとりの〈赤色人《レッド》〉テガーは、チットといっしょにテントの外を見張っている。サールは完全武装のまま眠っている。リシャスラにも〈|屍肉食い《グール》〉にも関心がないかのようだ。  ソパシンテイがテントの柱に寄りかかり、つぶやいた。 「今夜は塀の中じゃどうしてるんでしょうね」  ヴァラは考えてみた。 「サールがここに出ていて、中ではビージが守りについているのよね。『サールが目にしない限り、それは存在しない』のよ」  スパッシュが肘をついて身体を起こした。 「それ、どこで聞いたの?」 「サールから。いまごろ第二雄性《ベータ・メイル》たちは大いに楽しんでるでしょうし、喧嘩もはじまってるでしょう。わたしたちはそういうお楽しみをぜんぶ見逃してるというわけで──」 「わたしはいつもはずれ籤《くじ》ばかりね」と、スパッシュ。 「──でも彼らだって身内に相手が得られるならリシャスラはしないわ。それでわたしはゆっくり休める」 「サールもそうね。死んだように眠りこけてる」と、スパッシュはいった。  チットが女たちのほうをふり向いて微笑を見せ、軽やかな足どりでテントの外へ出た。今夜は深い霧がたちこめている。チットは夕食の残骸からひろっていった骨をポンと投げた。  くぐもった音がひびいた。  巨大な銀色の塊りが音もなくそばに立ったのにヴァラは気づいた。サールは鼻を鳴らしながら、やはり音もたてずにやすやすと石弓の打ち金を起こした。 「まだ近くにはいない。吸血鬼《ヴァンパイア》も、〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉もな。チタクミシャド、何か見えるか? 匂いは?」 「何も」  ついさっきまで眠っていたとは思えないほど、サールの全身は緊張感にあふれている。彼は兜の面頬をおろすと外に出ていった。護衛の〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉タルンがあとにつづいた。  スパッシュがいった。 「わたし、思いちがいしていたのかしら? でもなぜ──」  ヴァラはささやいた。 「〈赤色人《レッド》〉がいるからよ。昔からの仇敵にとり巻かれているんだもの。だから甲冑もつけたままで、眠ったふりをしていたのよ。賭けてもいいわ」  朝になると、塀と丈高い草のあいだには、シーツに並べられたものを除いて、死体はひとつもなくなっていた。 〈|屍肉食い《グール》〉はヴァラの言葉どおりに行動しているらしい。  チェイチンドが誰にともなくたずねた。 「どこにハカーチを放そうか?」  コリアックがマナックに目を向け、答えた。 「長い草のすぐそばがいいでしょう、でもまずその前にみんなと相談しないとね。ヴァラ、あなたの種族は狩りをしますか?」 「しないと思うけど。一応きいてみるわ」  たずねてみたが、名乗りをあげるものはいなかった。〈機械人種《マシン・ピープル》〉は肉も食べるが、一般に肉食獣の肉は匂いがよくない。  だがケイはいった。 「誰も狩りに参加しないと、臆病と思われるんじゃないかな」 「いっぱい質問しておきなさい」と、彼女。「あれ、危険そうだったわ。知識が多いほど殺される回数は少なくなるっていうから」  その諺を聞いたことがなかったのだろう、彼は驚き、笑い、それからいった。 「死ぬのは一回未満[#「一回未満」に傍点]にしておきたいってわけか?」 「そうよ」  彼女は狩りのあいだずっと眠っていた。  正午に目を覚まし、食事に加わった。ケイワーブリミスは前腕をひと筋切り裂かれていた。ばかなやつ。ヴァラは燃料で濡らしたタオルで傷口を縛ってやった。ハカーチの肉は猫科の獣に似た匂いがした。  死体の数は減ったものの、その腐敗臭はテントのあたりにも漂っているし、もうすぐおぞましい夜がやってくる。  今夜も〈|屍肉食い《グール》〉は彼女の言葉どおりに行動するだろう──。 『|夜 の 主《ロード・オヴ・ナイト》も、害獣よけを施した死体は最後にまわすでしょう』  では、今夜だ。 [#改ページ]      4 〈|夜 の 人 々《ピープル・オヴ・ザ・ナイト》〉  影が太陽をほぼ蔽いつくしたころ、ヴァラが塀の外へおりていくと、〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉と〈赤色人《レッド》〉が火の周囲に集まって肉を焼いていた。〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉は食事をしながら、ほかのものたちにもすすめている。〈赤色人《レッド》〉はもう獲物を食べてしまったのだ。  霧雨が降りだし、燃えさしがシュウシュウ音をたてた。交渉係たちはテントの中にひっこんだ。〈機械人種《マシン・ピープル》〉からはヴァラヴァージリンとチタクミシャドとソパシンテイ、〈赤色人《レッド》〉の三人、〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉の四人だ。テントの中にはすでにアナクリン・フーキ=ホワンハーハーと、サールと、ヴァラの知らない女がいた。  古くなった草は新鮮なものととりかえられていた。  サールの力強い声がすべての会話を圧してひびいた。 「おれの交渉係のワアストから話がある、聞いてくれ」  ワアストが巨体に似合わない優雅な身のこなしで立ちあがった。 「パルームとわたしは二日前に、歩いて|右 舷《スターボード》に向かいました。パルームはジンジェロファーの民であるこの〈赤色人《レッド》〉たちといっしょにここへもどりました。わたしは〈赤色人《レッド》〉の戦士に護衛してもらってさらに旅をつづけ、〈|泥川の人種《マディ・リヴァー・ピープル》〉と話をしました。〈|泥川の人種《マディ・リヴァー・ピープル》〉はここで仲間に加わることはできませんが、われわれの問題のことを〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉に話してくれるでしょう」 「彼らもいずれは同じ問題を抱えることになるでしょう」コリアックがいった。 (何かが識閥下で関心をくすぐっている、なんだろう?)  ワアストは腰をおろし、〈赤色人《レッド》〉に向かってたずねた。 「あんたたちはリシャスラできない。でも交わらないわけはないよね?」 「いまはその時期ではありません」ワーヴィアがツンとした声で答えた。  アナクリンとチェイチンドはニヤニヤしている。テガーは腹を立てているようだ。 (風らしい)  多くのヒト型種族は一夫一婦制だが、もちろんリシャスラは話が別だ。テガーとワーヴィアはたぶん伴侶なのだろう。  サールがいった。 「この甲冑を脱ぐわけにはいかん。何が来るかわからんからな」  まずいことになった。この連中は何か新しいゲームをはじめたみたいだ。 (音楽だろうか?)  スパッシュが不安そうに問いかけた。 「何か音楽が聞こえない? あれは吸血鬼《ヴァンパイア》の音楽じゃないわ」  その音はまだ小さかったが、可聴域の上限ギリギリの高さで少しずつ強まってきた。うなじから背筋にかけて毛が逆立つのをヴァラは感じた。管楽器がひとつ、弦楽器がいくつか、そして軽快な打楽器がひとつ。歌声らしいものはない。  サールが兜の面頬をおろして外に出た。手にした石弓は空に向いている。チットとシラックは戸口の両脇に陣どって武器をかまえた。テントの中の全員が武装をととのえた。  小柄なシラックがテントの中にもどってきた。匂いがそれについてきた。腐肉と濡れた毛皮の匂いだ。  つづいて大柄なヒト型種族がふたり現れ、それからさらに大きなサールがはいってきた。 「客人だ」と、彼がどなった。  テントの中は真っ暗に近かった。ヴァラに見分けられるのは〈|屍肉食い《グール》〉の光る目と歯と、そして雲にぼやけてかすかに明るいアーチ光を背景としたふたつの黒いシルエットだけだった。だがやがて目が闇に慣れ、細部まで見えはじめた。  それはひと組の男女だった。ほぼ全身くまなく毛に蔽われている。黒いまっすぐな毛が雨に濡れてつややかだ。ニヤリと笑ったような大きな口から鍬のような歯がむきだしになっている。首から袋を紐でさげているほか、衣類は身につけていない。指の短い大きな両手も空っぽだ。  いまは食事中ではないらしい。ヴァラは心の底から安堵しながらも、逃げ出したくなる衝動を必死に抑えた。  だがおそらくヴァラヴァージリン以外、〈|屍肉食い《グール》〉に会ったことのあるものはひとりもいないはずだ。ひどい反応を示しているものもあった。チットは戸口の警備の位置に残ったまま顔をそむけている。立ちあがったスパッシュは、しりごみしてこそいないが、それが自制の限界のようだ。〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉のシラックと、テガーとチェイチンドは、目と口を大きくあけてあとずさりした。  自分がなんとかしなくてはならない。彼女は立ちあがり、一礼した。 「ようこそ。わたしは〈機械人種《マシン・ピープル》〉のヴァラヴァージリンです。あなたがたの助けをいただきたくお待ちしていました。ここにいるのは〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉のアナクリンとワーヴィア、〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉のペリラックとマナック、〈機械人種《マシン・ピープル》〉のチタクミシャドとソパシンテイ──」  平静をとりもどしたと思われるものから順に紹介していく。 〈|屍肉食い《グール》〉の男がそくざに答えた。 「おまえたち各種族のことはよく知っている。わたしは──」  息の洩れるような音。くちびるが完全には閉じないのだ。それ以外の点では流暢な通商言語で、ヴァラよりはケイのアクセントに近い。 「だがわたしのことは奏でる楽器にちなんで〈|竪琴弾き《ハープスター》〉と呼んでくれればいい。連れは──」  また息のまじったささやき声。まだ外で奏でられている音楽に似ていなくもない。 「〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉と呼んでほしい。おまえたちはリシャスラするかね?」  身を縮めて伴侶のそばにすり寄っていたテガーがそくざに答えた。 「しない」 〈|屍肉食い《グール》〉の女が隠しきれない笑いを浮かべ、〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。 「それは知っている。気楽にするがいい」  サールが直接〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉に話しかけた。 「このものたちはおれの保護下にある。われわれの安全を保証してくれるなら、おれは甲冑を脱いでもいい。あと問題となるのはおれの大きさだけだ」  ついでワアストが〈|竪琴弾き《ハープスター》〉に向かって承諾の微笑を返したのは、まさしく称賛に値する勇気だった。 〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉も四人一列になって、シャッキリ背筋を伸ばした。 「われわれはリシャスラします」コリアックが告げた。  どうしようもなく故郷が懐かしかった。伴侶と子供を養うことくらい故郷でもできたろうし、冒険を愛する心だって、しばらくなら抑えておけただろうに……だがもう遅い。 「リシャスラはわたしたちの帝国をひとつにまとめています」ヴァラヴァージリンは|夜 の 主《ロード・オヴ・ナイト》たちに答えた。 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。 「リシャスラは〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉の帝国をまとめているというのが真実だ。おまえの帝国をまとめているのは燃料だ。われわれもリシャスラはするが、今夜はやめておこう。〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉たちの困惑が推測できる──」 「わたしたちは臆病ではない」と、ワーヴィア。 「──理由はほかにもある。そっちの頼みというのを聞かなければなるまいが?」  全員がいっせいに口をひらいた。 「吸血鬼《ヴァンパイア》が──」 「恐怖の──」 「死が──」  サールの声が他を圧してひびきわたった。 「吸血鬼《ヴァンパイア》は十|日徒歩距離《デイウォーク》内にあるすべての種族を破滅に追いやっている。その脅威を終わらせるために手を貸してもらいたいのだ」 「せいぜい二、三|日徒歩距離《デイウォーク》というところだ」と、〈竪琴弾き《ハープスター》〉はいった。「吸血鬼《ヴァンパイア》は襲撃のあと隠れ場所にもどらなくてはならない。それでも広大な領域で、十以上ものヒト型種族が住んでいる──」 「でも彼らはわたしたちに食糧を提供してくれる」〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉が連れよりもわずかに高い声で穏やかに口をはさんだ。「おまえたちが直面している問題はわたしたち[#「わたしたち」に傍点]にとっては問題とならない。いずれかの種族にとってよいことは、〈|夜 の 人 々《ピープル・オヴ・ザ・ナイト》〉にとってもよいものをもたらすのだ。ヴァラヴァージリン、吸血鬼《ヴァンパイア》は、おまえたちの取り引き相手のあいだでひろがっているアルコール中毒と同じくらい確実に、わたしたちに食糧を供給してくれる。でももしおまえたちが吸血鬼《ヴァンパイア》を征服することができるなら、それもまたわたしたちの役に立つだろう」  いま語られたわずか数節の言葉でどれだけの真実が暴露されたか、彼らは気づいているのだろうか?  だがまたほかのものたちが一度に話しはじめたので、ヴァラは沈黙を守った。 「考えてみればわかると思う」と、〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉はいった。「マナック、もしおまえの女王がサールの一族と争いを起こしたとしたらどうだ? おまえはわたしたちに、サールの塀のそばに横たわるいかなる死体にも手をつけないよう、頼むかもしれない。そうなったらサールはやがて降参するだろう」  マナックがいった。 「しかしわれわれと〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉は──決して──」 「もちろんそうだろう。でもワーヴィア、おまえたちと先代サールは五十ファラン前には戦争状態だったのだよ。そこでもし長老のジンジェロファーがわたしたちに、家畜を殺しにくる〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉をバラバラに引き裂くよう頼みにきていたらどうなっただろうね?」 「なるほど、わかりました」と、ワーヴィアは答えた。 「本当に? わたしたちはヒト型種族間の争いのどちらにも味方してはならないのだ。どの種族もわたしたちなしには暮らせない。〈|夜 の 人 々《ピープル・オヴ・ザ・ナイト》〉がいなければ、死体はその場に放置され、病が発生してひろがり、水は汚染されるだろう」〈|屍肉食い《グール》〉の女は息の音のまじった高い声で歌うように語った。  ──彼女は以前にもこの演説をしたことがあるのだ──。 「わたしたちは火葬を禁じているが、もしそうでなかったら? そして、あらゆる種族に死者を焼くだけの燃料があったとしたら? 海が沸騰してからもう四十三ファランにもなるのに、まだこの地の空は雲に蔽われている。もし死体を焼く煙が立ちのぼり、一ファランごとに臭気がこもっていったとしたら? それぞれの種族で一ファランごとにどれだけの死者が出るか、おまえたちは知っているかね? わたしたちは知っている。  わたしたちは味方する相手を選ぶことができないのだ」  チェイチンド・フーキ=カラシクが浅黒い肌を紅潮させた。 「なぜ吸血鬼《ヴァンパイア》に味方するなんてことが考えられるんだ? あんな獣に!」 「彼らには思考力がない」と、〈|竪琴弾き《ハープスター》〉。「おまえたちにはある。だが、つねにそうだと確信をもっていえるかね? 〈アーチ〉のこちら側の弧だけでも、思考力の有無を確言できないヒト型種族はいくつも存在する。火が手にはいれば使う種族や、獲物が大きくて食べきれないときには貯蔵する種族もある。ある種族は枝を削って槍をつくる。ある水棲種族は火を使うことはできないが、岩を割ってナイフにする。どうやって判断すればいい? どこで一線を引く?」 「吸血鬼《ヴァンパイア》は道具も火も使わない!」 「火は使わないが、道具は使う。この長雨のもとで、吸血鬼《ヴァンパイア》は餌食から衣類を剥いで身にまとうことをおぼえた。乾けばまたごみのように捨ててしまうが」 〈|屍肉食い《グール》〉の女があとをつづけた。 「おまえたちのほかの願いを断わらなければならないとしたらリシャスラはできない。そのわけはわかるだろう」 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉はその言葉が喚起した複雑な感情の渦を見てはおらず、むしろ目をそむけようとしているかに見えた。  では、自分がやってみなくては。  ヴァラは口をひらいた。 「あなたがたの助力は言葉につくせないほど貴重なものとなるでしょう──問題はあなたがたが助力に見合うだけの見返りを得られるかどうかです。すでにいまのお話だけでも、吸血鬼《ヴァンパイア》の侵攻範囲と、やつらが巣窟にもどらなくてはならないことと、その巣窟がひとつしかないことがわかりました。ほかに教えていただけることはありませんか?」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が肩をすくめ、ヴァラはたじろいだ。その肩が、まるで個々の骨が皮膚の下で勝手に動いて、いまにもバラバラになりそうに見えたからだ。  それでも彼女は話しつづけた。 「噂を聞きました。ただの作り話かおとぎ話かもしれませんが、吸血鬼《ヴァンパイア》の出る土地で、〈機械人種《マシン・ピープル》〉が聞いてくるのです。わたしたちが取り引きしている〈中央都市《センター・シティ》〉から遠く離れた多くの種族は、どうしてこんなに急に吸血鬼《ヴァンパイア》が増えたのか理解できないのです」 「彼らは繁殖率が高い」と、〈|竪琴弾き《ハープスター》〉。 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉がいい添えた。 「そう。そして一部が集団から分かれて、新しいねぐらを見つける。十|日徒歩距離《デイウォーク》という見積もりも大きすぎるとはいえない」  全員が、チェイチンドまでが、ヴァラに話をまかせている。  ヴァラはつづけた。 「でもそれよりもっとばかげた話がひろまっています。吸血鬼《ヴァンパイア》の犠牲者は、死から甦ってそのまま吸血鬼《ヴァンパイア》になるのだというのです」 「それはまったく根も葉もない虚言だ!」と、〈|竪琴弾き《ハープスター》〉。  当然そうだろう。 「もちろんそうですが、そう考えれば、なぜやつらがこんなに急激に増えたか説明がつきます。例えば──」  ここは慎重にいかないと。 「──夫を失った子持ちの〈|ぶらさがり人《ハンギング・パーソン》〉の身になって考えてみてください」 〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉はどこにでもいる。ヴァラは片手を頭上の梁にかけ、両足を持ちあげてぶらさがりながらつづけた。 「死んでしまったわたしのヴェイニヤが夜のうちに敵になるのを防ぐにはどうすればいいんだろう? |夜 の 主《ロード・オヴ・ナイト》は死者を焼いてはいけないという。でもときには許してくれることも──」 「それは許せない」〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チュープ》〉がいった。 「でも〈中央都市《センター・シティ》〉から右舷回転方向《スターポード・スピンワード》へ十二|日徒歩距離《デイウォーク》の土地の住民のあいだには疫病がはやったときの記憶が──」 「ずっと昔、遠い場所でのことだ」〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がすばやく口をはさんだ。「あのときはわれわれみずから火葬場を設計し、使いかたを教え、ひきあげた。数年後にもどってみると疫病は終熄していた。〈|穴掘り人種《ディギング・ピープル》〉がまだ火葬をおこなっていたので、われわれはまた死体を放置しておくよう告げた。説得は簡単だった。薪が不足していたからだ」 「危険はおわかりでしょう」と、ヴァラ。「どこでもまだ吸血鬼《ヴァンパイア》の犠牲者の死体を焼きはじめてはいませんが──」 「そうだ。そうなれば煙の柱が見えるはずだ」 「──でも、ひとつの種族がはじめれば、あとのものたちもそれにならうでしょう」 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉が悲しげにいった。 「そうなれば、わたしたちは殺戮をはじめなくてはならない」  ヴァラヴァージリンは身震いをこらえ、深く頭をさげながら答えた。 「では、いまはじめてもいいのではありませんか、吸血鬼《ヴァンパイア》を相手に?」 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉は考えこんだ。 「それほど簡単なことではない。彼らもまた夜を統べるものたちなのだから──」  ヴァラは一瞬、目を閉じた。  ──さあ問題だ。難題だ──。  これに対する解答を、劣った種族たちに示してほしい。これでもう味方につくほかあるまい。 〈|屍肉食い《グール》〉はテントの床に敷かれた草の一部を取り除くと、闇の中で、さえずるような言葉で話し合いながらそこに図を描きはじめた。何を議論しているのかほかのものたちにはわからなかったが、やがて結論が出たらしく、〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が立ちあがった。 「影が退いて明るくなったら、この地図を見るがいい」と、〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。「いまは暗くてもわかることだけを説明しておこう。左舷《ボート》寄り回転方向《スピンワード》に二|日徒歩距離《デイウォーク》半進むと、かつて工業の中心地だった古い建物が地上二十|身長高《マンハイト》のところに浮かんでいる」 「〈|浮 揚 都 市《フローティング・シティ》〉のことなら知ってます」と、ヴァラ。 「もちろんだ。〈中央都市《センター・シティ》〉の近くにも連結されたその集団があるからな。だがそれも最近は数少ない。たぶんその建物では〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉のための機械がつくられていたのだろうが、のちに遺棄されたのだ。  吸血鬼《ヴァンパイア》はこの〈|浮 揚 都 市《フローティング・シティ》〉の下に、数百ファランの昔から何世代にもわたって住みついている。吸血鬼《ヴァンパイア》にとって、恒久的な影は願ってもない環境だ。地元の住民たちはとっくに彼らの手のとどかないところに移住してしまった。平和裡に旅するものや移り住むものはその地を避けるよう警告される。その点、戦士は自分で自分の面倒をみなくてはならない。  その〈|影の巣《シャドウ・ネスト》〉の左舷《ボート》寄り反回転方向《アンチスピンワード》、こことそことのあいだに、山脈がそびえている。この山はまた、|鏡  花《ミラー・フラワー》に対する防壁となっていた。山向こうの種族はこれを〈|炎 の 障 壁《バリアー・オヴ・フレーム》〉と呼んでいた。山頂に沿って火炎がひらめくのがしばしば見られたからだ。  いずれは花が山頂を越えて、例のごとく〈|影の巣《シャドウ・ネスト》〉を焼きつくすところだった。いかな吸血鬼《ヴァンパイア》も水平に[#「水平に」に傍点]走る光からは隠れようがない。だがそのとき雲がやってきた」  闇の中でいくつもの頭がうなずいた。〈|竪琴弾き《ハープスター》〉は言葉をついだ。 「吸血鬼《ヴァンパイア》の行動範囲はそれによって一|日徒歩距離《デイウォーク》ほどひろがった。〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉のいうとおり、被害の拡大はそれ以上だった。彼らの数は増加し、飢えに駆られた集団がよその領域にまでくり出すようになった」  ヴァラヴァージリンはたずねた。 「雲を吹きはらうことはできませんか?」  ふたりの〈|屍肉食い《グール》〉は笑い声をあげた。〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉が問い返した。 「雲を動かしてほしい[#「雲を動かしてほしい」に傍点]というのか?」 「お願いします」 「なぜわたしたちが雲を動かせるなどと考えるのかね?」  のどがつまったような笑いに負けじとヴァラヴァージリンは声を高めた。 「ルイス・ウーがそれをしたからです」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。 「ああ、あの雑食性の修繕屋《ティンカー》か。ヒト型種族としてもおかしくはないが、あやつは〈アーチ〉の外の星の世界から来たものだ。そのことを証明する道具類を持っていたが、彼が雲をつくったのかどうかわれわれは知らない」  サールが口をはさんだ。 「彼がやったんだ! 彼と先代サールが海を沸騰させ、頭上を蔽う雲をつくり──」 「では彼に頼むがいい」 「ルイス・ウーはもういない。先代サールもいない」 「雲を動かすことはわれわれにはできない。たいへん困ったことだな」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉は笑った。 「ほかに、われわれにはできるがおまえたちにできないことはないか?」  サールがいった。 「その地図を使わせてくれればたいへんありがたい。おれは戦う意志のあるあらゆる種族の部隊を率いて、吸血鬼《ヴァンパイア》の巣を滅ぼしに行く」 「サール、おまえが[#「おまえが」に傍点]行くことはできない」と、〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉がいった。 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が理由をたずね、〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉が説明をはじめたが、サールは聞こうともしなかった。 「おれはわが部族の守護者だ! 戦いがあるときには先頭をきって戦う──」 「甲冑を着てな」〈|屍肉食い《グール》〉の女が指摘した。 「もちろんだ!」 「甲冑を着てはならない。甲冑は匂いをこもらせる。おまえをはじめ、戦うものは全員、何も身につけてはならない。水のあるところではそれを浴び、クルーザーとワゴンの全表面を洗うように。吸血鬼《ヴァンパイア》に匂いを嗅ぎつけられてはならないことがわからないのか?」  なるほど[#「なるほど」に傍点]、とヴァラは思った。 「問題は燃料です」と、チタクミシャドが話している。「〈赤色人《レッド》〉がつくるビールから燃料ができるが──」 「〈赤色人《レッド》〉の牧草地を経由して戦場に向かうがいい。おまえたちの蒸留器の設計図を秘密の方法で明日のうちに〈赤色人《レッド》〉に送っておこう。向こうで彼らに燃料をつくらせ、同時におまえたちもここで、自分の蒸留器と腐らせた草で燃料をつくればいい。遅くとも一ファラン後には〈|影の巣《シャドウ・ネスト》〉に着けるだろう」  チットはうなずいた。いろんな計画で頭をフル回転させているらしい。 「二台のクルーザーでそこまで行ってもどってくるには──」 「〈|炎 の 障 壁《バリアー・オヴ・フレーム》〉も越えなくてはならないが、おまえたちのクルーザーでも大丈夫のはずだ。道がある」 「さらに燃料が要る」 「遠征のためと、タオルを濡らしたり火炎放射機を使うための燃料は、いまあるもので間に合うだろう。ほかに何がある? ここにもどるための燃料が必要になるのは勝利をおさめたあとのことで、そのときは三台めのクルーザーが迎えにいけるし、一台をあとに残してきてもよい。  旅は伴侶となるふたりひと組でするがいい」〈|竪琴弾き《ハープスター》〉はつづけた。「〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉とわたしもいっしょに行く。サール、おまえたちの慣習は知っているが、おまえの種族もときには別れることはあるだろう。そのときのやりかたにならうがいい。テガー、おまえとワーヴィアは吸血鬼《ヴァンパイア》の誘惑にも抵抗できると思っている。そうかもしれないが、あとのものはどうかな? 吸血種族とのリシャスラを避けるために、必要なときにはたがいに交わるのだ。アナクリン、チェイチンド、おまえたちには伴侶がいない。おまえたちは故郷にもどって──」  そこで議論がはじまった。この場で〈|屍肉食い《グール》〉の計画を無条件で受けいれようとするものはひとりもいないようだ。しかしヴァラは黙って、自分がかち得たものを噛みしめていた。  ──彼らが味方についた。本当に。では彼らも身体を洗わないと……──。 [#改ページ]      5 〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉 【〈|機織りの町《ウイーヴァー・タウン》〉──AD二八九二年】  その魔法使いがいつからそこにいたのかはわからない。  年長の子供たちは鳥狩りの競争をしに〈|大 森 林《グレート・ウッド》〉へやってきたのだった。少年のひとり、パラルドがひときわ優雅に網を投げた。その網はもっとも長いあいだ形を保ち、もっとも遠くまで飛んだが、獲物はたったの二羽だった。  ストリルは顔をあげながら、なんと話しかけようかと思案した。  魔法使いは直径が人間の身長くらいしかない分厚い円形の台に乗って、銀色に光る川面の上のかなり高いところを飛んでいた。  子供たちはおりてくるようにと大声で呼びかけた。魔法使いは彼らに気づくと、梢をかすめて進んでいた円盤の動きを停め、ゆっくり降下してきた。  彼は微笑を浮かべ、聞き慣れない言葉を話した。身体の大部分が無毛だったが、それは訪問者にはよくあることだ。  彼を家に案内する道々、彼らはずっと話をつづけた。魔法使いの知識をためそうと失敬な質問をする少年もあった。ストリルはそれを苦々しく感じたが、やがてその自分の直感が正しかったことを知った。  魔法使いはフラップ≠ニかリシャスラ≠ニいった二、三の基本的な単語のほかには彼らの言語を知らないようだったが、村にたどり着く前に、身につけていた首飾りが、教師のように話をはじめたのだ。  見知らぬ種族のものは誰でも教師になりうる。空を飛び、魔法の翻訳機を持った魔法使いならば、ずいぶんいろいろなことを教えてくれるにちがいない。  カワレスクセンジャジョクとハーカビーパロリンと別れてから九年になる。ハミイーが地球の〈地図〉に出発してから十年。一行が|秘密の族長《ヒドウン・ペイトリアーク》号で航海に乗り出してから十一年。リングワールドにもどってからは十二年。ルイス・ウーとその混成クルーが停滞《ステイシス》に守られて秒速七百七十マイルで最初の着地をおこなってからは四十一年だ。  いちばんはじめに出会ったヒト型種族は毛深い小柄な狂信者の一団だった。  ペチャクチャしゃべるこの若い連中はそれと同じか、それに近い種族だ。背丈はルイス・ウーのあごのあたり、全身フワフワした金色の毛皮に包まれ、渋い茶色の短衣《キルト》を身につけている。それぞれがきれいな模様のついた網を持っていて、幹だけがまっすぐにのび、頭上でまるで茸のように枝をひろげたこの森の迷路の中で、すばらしい投網の技を披露してくれた。  彼らは友好的だ。〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉の周囲の種族はみな、訪問者に対して親切だ。ルイスももうすっかりそれに慣れていた。  いちばん年かさの少女がたずねた。 「世界はどんな形をしてるの?」  沈黙が訪れ、全員がふり返った。ためされているのだろうか? 「ぼくのほうから質問を返そう、ストリル。この世界はどんな形なんだい?」 「円よ、それが無限の形だって〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉はいったわ。でもなんのことかわからない。だって、あの──」  ストリルは指さした。木々のあいだに小さな円錐形の屋根がつらなり、川沿いにかなりの大きさの村がひろがっている。その上流に、何代目かのセントルイス・アーチのような、裾が幅広く上のほうがしだいに細くなっているアーチ形のものが望まれた。 「──あの〈|上 流 水 門《アップストリーム・ゲート》〉みたいなアーチが見えるだけなんだもの」  それももっともだ。 「あのアーチは、こことは反対側の環《リング》なんだよ」と、ルイスは答えた。  だが、〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉とは?  彼はもう貨物プレートから地上におり、傍らに浮かぶいくつも積み重ねたその円盤形のプレートに片手をかけて曳いて歩いていった。  火星の〈地図〉の下に隠された〈補修センター〉で、この種のものはいくらでも[#「いくらでも」に傍点]手にはいった。いちばん上に重ねた|浮 揚 円 盤《フローティング・ディスク》には、旅に必要なものがいくつか溶接されている。  |手摺り《ハンドレール》、背もたれ、着替えを入れる箱と食糧を入れる箱、小型の姿勢制御スラスター、〈至後者《ハインドモースト》〉の探査機《プローブ》のためのスペア部品。そして……そう、十一年前の戦いのときからすでにそこにとりつけてあったもの──ティーラ・ブラウンの医療キットだ。  フカフカの大人たちとフカフカの小さな子供たちが、予定より早く帰還した鳥狩りたちに目を向けた。ほとんどはそのまま仕事をつづけたが、ひと組の男女がアーチのところで彼らを出迎えた。  ストリルが声をあげた。 「この人は魔法使いよ! キダダさま、世界は環《リング》なんですって!」  男のほうが|浮 揚《フローティング》プレートにチラリと目を向けてたずねた。 「あなたはそれを知っておられる[#「知っておられる」に傍点]のかな?」  ルイスは答えた。 「見たからね。ぼくは〈球体人種《ボール・ピープル》〉のルイス・ウーだ」  彼らにその言葉がなんらかの意味を持つとは思いもよらないことだった。だが長老たちは息をのみ、子供たちは声をあげた。  女がいった。 「〈球体人種《ボール・ピープル》〉のルイス・ウーですって?」  彼女の金色の毛皮には年齢による白いものがまじり男のほうはそれよりもっと白い。膝丈の短衣《キルト》はどこの文化でも高い評価を得られるだろう手のこんだつづれ織りだ。 「わたしはサウール、こちらはキダダ。ふたりとも〈|機織りの民《ウイーヴァー・フォーク》〉の〈評議員〉です。あなたは〈アーチ〉の外から来たのですね? 〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉があなたの力と知恵について語ってくれました」 「〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉だって?」  どうしてこの土地に彼のことを知っているものがいるのだろう?  キダダがいった。 「〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉ももちろん別の世界から来たものとみえる。なにしろ頭がふたつあるのだ! そして自身とよく似た数えきれないほどの召使を従えている」  カホナ、なんてこった[#「なんてこった」に傍点]。 「ほかに〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉は何をいっていた?」 「〈アーチ〉のはるか上空からの映像というものを見せてくれたよ」 「何が見えた? 吸血鬼《ヴァンパイア》か?」 「闇に生きる奇妙な亜人類《ヒューマノイド》と、それを襲撃するために同盟を結んだいくつかの種族だ。彼らのことを話してくれないかね?」 「吸血鬼《ヴァンパイア》のことなら少しは知っている。〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉はもっと知っているだろうが、ぼくは彼と三十六ファランも話をしていないんだ」 「あなたはどのようにリシャスラをしますか?」サウールが笑いをこらえてたずねた。  ルイスはニヤリとした。 「できるときはいつだって。きみたちは?」 「われわれ〈|機織り《ウイーヴァー》〉は手先が器用だといわれていますし、訪問者たちは毛皮の感触も褒《ほ》めてくれます。ひとつだけ聞きますが……水浴びをしますか?」 「そいつはいい」 〈|機織り《ウイーヴァー》〉、と彼らは自分たちを呼んでいた。  その村──都市[#「都市」に傍点]──には混み合った場所などひとつもなく、巨大な森林の木々のあいだに散らばって、川の両岸沿いにどこまでもひろがっていた。枝編み細工の家は背の低い茸のような形で、森の木と似ていなくもない。  ルイスはむきだしの青白い岩が切り立った崖へ案内された。  キダダがいった。 「崖の表面を水が流れ落ちているのが見えるかね? 水浴場はその下にある。太陽が、流れ落ちる水を少しだけ温めてくれるのでな」  細長い水浴場だった。低い台の上に刺繍した短衣《キルト》が何枚か積み重ねてある。サウールとキダダも自分たちの短衣《キルト》をその上にのせた。老人の尻に白い毛に縁どられた三本の平行な古傷が走っているのを見て、ルイスはこの土地にはどういう肉食獣がいるのだろうと思案した。  もうすでに何人かの〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちが水を浴びていた。子供と年配のものたちがかたまり、若者はバラバラになっているが、カップルになっているものはほとんどいない。ルイスは経験からそうした状況を読みとれるようになっていた。  水は濁っていた。タオルもないようだ。彼は身につけているもの──二百光年の彼方から持ちこんだキャニヨンふうの野外服とバックパース──をテーブルにのせ、水の中にはいった。郷に入ってはなんとやら……。  ぜんぜん温かくはなかった。  教師となる異星人の訪問者を囲んで、あらゆる年齢層の〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちがいりまじった。新しく出会った種族は必ず同じ質問をする。 「ぼくは四十ファラン前に、仲間たちといっしょに巨大な船で、〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉の岸に着いた。そこは荒れ果てた土地だった。きみたちが生まれるずっと以前に、〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉が二万|日徒歩距離《デイウォーク》にわたる海岸線を四十|身長高《マンハイト》も隆起させたんだ……」  しばしの混乱。ルイスの翻訳機は太陽系の単位をリングワールドの一目三十時間、一ファラン七十五日の時間に換算するが、日徒歩距離《デイウォーク》と身長高《マンハイト》は種族によって異なる。彼らが距離と時間と高さについて論じ合っているあいだに、ルイスは水を蹴って背泳ぎをした。  いそぐことはない。すでに何度か経験済みのことだ。 「回転方向《スピンワード》に住む人々は〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉を伝説として記憶している。三千五百ファラン前、どんな山よりも大きな物体が、ものすごいスピードで裏側から世界の床にぶつかったんだ」  およそ紀元二一〇〇年というところだろう。 「それは地面を押しあげ、それから火の玉となって突きぬけていった。十万マイルも離れたここからでも、そのときにできた山とその周囲の砂漠を見ることができる。〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉の岸は千マイルも海のほうへ動いた。あらゆる生命パターンが変化し……」  水の深さは胸のあたりまでで、子供たちが集まっている端のほうはもっと浅い。一種の踊りのようなものがはじまった。求愛ゲームではないが、ルイスの周囲に伴侶選びにふさわしい年齢の女が集まり、同じ年ごろの青年たちはうしろにさがっている。輪ができた。  これはリシャスラの踊りなのだろうか?  彼の視線はともすると、ストリルの熱心な顔とすばらしい微笑に惹きよせられた。誰もがたずねたいことを持っている。いつも同じ質問だ。だがルイスは頭上の崖の岩壁にブロンズ色のきらめきを見つけた。〈|機織り《ウイーヴァー》〉には手のとどかないあたりに、岩を流れ落ちる水に洗い落とされることもなく、フラクタル図形のような蜘蛛の巣がかかっていたのだ。  そこでルイスは、目に見えない相手に聞かせるために話しはじめた。 「食糧を確保するためには岸からあまり離れるわけにいかない。二ファランのあいだ海岸沿いに旅をつづけて、気がつくと河口にたどり着いていた。そこで川をさかのぼった。このシェンシイ川峡谷の土地にはもう実りがもどっている。この巨大な渓谷の中にはいってからもう三十五ファランになる。仲間の〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉たちは二十ファラン前に下流の村で船を降りた」 「なぜ?」 「子供ができたからさ。だがぼくはさらに上流まで旅をした。どこでも人々は友好的で、喜んでぼくの話を聞いてくれた」  サウールがたずねた。 「でも、そんなことは当たり前じゃないですか、ルイス・ウー?」  彼は年配の女に微笑を投げた。 「ここへくる人たちは、たぶんきみたちが食べるものを食べず、きみたちが眠るところで眠らず、きみたちの家の中でくつろぐことができないだろう。そういう相手とは争いにならないし、何か役に立つことを教えてくれるかもしれない。だが〈球体人種《ボール・ピープル》〉はどこの世界でも種としてはひとつなんだ。訪客は悪い知らせにもなりうるんだよ」  一瞬、ぎごちない沈黙が流れた。ストリルの背後にいたたくましい少年のひとりが口をはさんだ。 「これ、できるかい?」  彼は上と下からそれぞれ背中に腕をまわして自分の手首を握ってみせた。  ルイス・ウーは笑った。かつては彼にもできたのだが。 「いや」 「それじゃ背中は誰かに洗ってもらわなきゃね」  少年がそういい、全員が彼の周囲に集まってきた。  リングワールドの偉大さはその多様性にある。そしてその多様性の大きさたるや、複雑な手続きを経ないとリシャスラがまったく成立しなくなるほどのものだった。 「あなたの民は、どうやってリシャスラをするのか?」 「あなたの性別を教えてくれれば──」 「あなたはどれくらいのあいだ息をとめていられるか?」これは〈|海の民《シー・フォーク》〉の場合だ。 「リシャスラはしないがリシャスラの話をすることは好きだ」 「わたしたちはリシャスラできない。怒らないでほしい」これは〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉。 「われわれはリシャスラによって世界を支配している!」そういうのは〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉。 「知性ある種族とだけだ。そら、この謎を解いてみろ」 「知性のない種族となら。われわれはもめごとに巻きこまれたくないのでな」 「あなたが伴侶とするのを見ていてもいいか?」  かつてルイスは、ハミイーがヒト型種族ではないこと、だがそれでも雄であることを説明しなくてはならなかった。  それにしても〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちは頭上のブロンズの蜘蛛の巣についてどれだけのことを知っているのだろう?  いまでは男女がそれぞれカップルになっていたが、彼らも人前で交わったりはしない。〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちはどのようにリシャスラするのだろう?  サウールに導かれてルイスは水からあがり、彼女の茶と白の毛皮から大量の水を絞りとるのに手を貸した。彼が震えているのに気づいて、彼女がシャツで身体を拭いてくれた。  鳥肉を焼く匂いが漂ってきた。  服を着ると、枝編み細工の家が丸く並んでいる場所に連れていかれた。 「〈評議会の館〉です」家のひとつを指さしてサウールが教えた。  鳥は竃《かまど》のようになった穴の上で焙《あぶ》られていた。すばらしい匂いだ。鳥と大きな魚。料理しているのは……。 「サウール、あれは〈|機織り《ウイーヴァー》〉ではないね?」 「ええ。〈|舟 漕 ぎ《セイリング・フォーク》〉と〈|漁 師《フィッシャー》〉たちです」  中年の〈|機織り《ウイーヴァー》〉ひとりを七人の異種族が囲んで料理をしていた。その七人も同一種族ではない。ふたりの男は手に水かきがあり足がひらたく、なだらかな曲線を描く身体は油を含んだまっすぐな毛で蔽われている。あとの五人は男三人女二人で、あごの形はちがうが〈|機織り《ウイーヴァー》〉をたくましく頑丈にしたような種族だった。おそらく人種的にはまだ交配が可能なほど近いのではないだろうか。七人全員がみごとな〈|機織り《ウイーヴァー》〉の短衣《キルト》を身につけている。  蛇殺しのシャンスという大柄な〈|漁 師《フイッシャー》〉が紹介役を引き受けた。ルイスは彼らの名前をおぼえようとした。一音節でも記憶できれば、あとは翻訳機が再生してくれる。  シャンスが説明した。 「おれたちは布地を買いたい、わかるか? これは競争だ。おれと岩もぐりのヒシュサールが〈舟人《セイラー》〉たちが川下でつかまえてきたこの化け物魚を料理しようと申し出ると、〈舟人《セイラー》〉たちも同じことをいいだす。おれたちがキダダと話をするのではないか、必要なことを教えてもらうのではないか、代価を安くしてもらうのではないかと気にするのだ」 「魚の焼きかたについては、意見が合わない」〈舟人《セイラー》〉のホイークだ。「でも鳥だけはキダダの好みと合う」 「ところでその鳥はもう出来ているんじゃないか?」ルイスはいった「魚のほうはわからないがね。いつ焼きはじめたんだ?」 「あと百呼吸で完璧だ」と、シャンス。「〈舟人《セイラー》〉たちは下側を料理し、われわれは上側を食う。おまえはどちらがいい?」 「下側だな」 〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちの半分が身体を乾かして食事にやってきた。鳥が熱い石からおろされ、分配された。魚はまだ焼きあがらない。明日にでも自分で野菜をさがしにいこう。  そして、彼らは語り合った。 〈|機織り《ウイーヴァー》〉らは器用な指で網をつくり、森に住む中型の鳥や獣をつかまえる。また川を行き来するものたちのために布を織る。貫頭衣、ハンモック、漁網、巾着、背嚢、さまざまな種族のためのさまざまな品だ。 〈|漁 師《フイッシャー》〉と〈舟人《セイラー》〉は川を上下しながら、〈|機織り《ウイーヴァー》〉がつくった短衣《キルト》や、燻製や塩漬けの魚、塩、根菜などを商う……。  商売の話だ。  ルイスはその話題を避けた。キダダの傷のことをたずねると、彼は化け物みたいに巨大な熊と戦った話をしてくれた。すでに聞いたことがあるのだろう、〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちはなんの関心も示さない。キダダはみごとな話し手だったが、もし話のとおりなら、その傷は身体の前面になくてはならないはずだった。  日没とともに〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちは溶けるように姿を消した。サウールに案内されて輪になった小屋のひとつに向かうルイスの足もとで、乾いた枝がカサカサ音をたてた。 〈舟人《セイラー》〉と〈|漁 師《フイッシャー》〉は消えかけた炭火のそばに残って話をつづけている。  ひとりが背後から忠告した。 「外をうろつくなよ。夜中に出歩くのは〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉だけだ」  ふたりは身をかがめて枝編み細工の小屋にはいった。サウールはルイスの傍らで横になると、すぐ眠りこんでしまった。ルイスは一瞬いらだちを感じたが、なにせ異種族同士のことだ。  ルイスは数ファラン前から……いや、数年前から、はじめての場所で眠ることがあまり苦にならなくなっていた。見知らぬ女の腕の中であろうと、フワフワの毛皮を押しつけられていようと──大きな犬と寝ているようなものだ──その両方であろうと。  しかし〈至後者《ハインドモースト》〉の目が近くにある。それ[#「それ」に傍点]が気になって、ルイスはしばらく寝つくことができなかった。  その夜何時ごろだろうか、怪物に足を噛まれる夢を見て、彼は悲鳴をこらえながら目を覚ました。  サウールが目を閉じたままたずねた。 「どうしたの、教師さん?」 「足がつった」  彼女の腕からころがりでて入口のほうに這っていった。 「わたしも足がつった。歩きましょう」  だがサウールは眠ったままだ。  ルイスは足をひきずりながら外に出た。ふくらはぎの横が悲鳴をあげている。  まったく、筋肉痙攣とは!  昼光に照らされた〈アーチ〉からの反射光は地球の満月よりはるかに明るい。医療キットをさがせばこむらがえりの薬があるだろうが、歩いて治すほうが早い。  足もとで乾いた小枝が踏まれて音をたてる。  丈の低い乾いた藪が客用の小屋を囲んでいる。親切な〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちも泥棒よけの工夫は怠らない。この乾いた小枝が彼らの防禦手段なのだ。  痙攣はおさまったが、すっかり目が覚めてしまった。貨物プレートは客用の小屋の外に浮かべてある。彼はプレートによじのぼり、音をたてずに藪の防壁を越えて、木の幹のあいだをすり抜けていった。 〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちは完全な昼行性なのだろう、ひとりも姿が見えなかった。死んだように眠りこんでいて、どうやって泥棒を捕まえるつもりなのだ?  異種族の訪問客たちもひきあげていた。さっきは気づかなかったが細長い帆船が停泊していて、船首と船尾に明かりがともっている。  一、二分のあいだ、ルイスはアーチ光とその照り返しだけを頼りに、音もなく水浴場の上を漂った。  崖で何かが動き……光がカッと顔を照らした。  ルイスは顔をしかめて罵りの声をあげた。目をすがめて光のほうを見やると……輪郭が曖昧な窓ごしに、汚れた雪らしいものをかぶった印象的な円錐形の山が見えた。ほかの世界だったら火山だが、ここでは隕石が裏側から激突してあけた穴だ。山頂を真空までとどかせリングワールドの床素材をむきだしにした〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》とそっくり同じ形だ。 〈至後者《ハインドモースト》〉からのメッセージだろうか?  ルイスが川をさかのぼっていることがわかれば、探査機《プローブ》を先に飛ばしておくこともできる。この岩壁をはじめ、いたるところにスパイ装置をスプレイしたにちがいない。そして〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちと話をした……たいした手間ではないが、なぜわざわざそんなことを?  何が目的[#「目的」に傍点]なんだ?  画面の火口から何かが飛び出した。つづいてひとつ、またひとつ、十秒のあいだに三つ。 「六百十時間前の映像です」おなじみのコントラルトがいった。「見なさい」  三つの物体がズームアップした。レンズ型の巨大な宇宙船。クジン族の設計だろうとルイスは思った。それらはいったん山頂の真上に滞空し、ついで二、三メートルの高度を維持してガラス状の山腹に沿って降下しはじめた。 「この軍艦の移動速度はきわめて遅いので、早送りにします」 〈至後者《ハインドモースト》〉の言葉とともに、三隻の船はたちまち降下の速度をあげた。後方と下方の雲景が流線模様を描いて飛びはねる。 「亜音速で二時間二十分に千四百マイル。クジン族としたら驚くべき慎重さです。それから彼らはふた手に分かれました──」  雲景と円盤が一瞬ほとんど動きをとめた。二隻が直角に曲がった。三隻めはそのまま直進をつづける。  白い光がひらめいた。それが消えると、三隻の船はなかば溶けたように輪郭がぼやけ、鏡面のようにきらめいていた。そして降下……墜落した。 「停滞《ステイシス》フィールドだな。あんたのビームも効かなかったってわけか」ルイスはいった。 「あいにくですが、ルイス。五秒間にふたつもまちがえましたね。脳が退化したのではありませんか?」 「そうかもしれないな」ルイスは落ちついて答えた。 〈至後者《ハインドモースト》〉はつづけた。 「あのピームはとにかく強力なのです。停滞《ステイシス》フィールドが形成されるより早く、その内部に莫大なエネルギーが流れこみ、閉じこめられたはずです」 「しかし──」 「ネサスとあなたたちが同様の攻撃を生き延びることができたのは、わたしたちの[#「わたしたちの」に傍点]防禦機構の反応が迅速[#「迅速」に傍点]だったからです! あのクジン族の軍艦は、いまや爆弾以外の何物でもありません。またあれはリングワールドの隕石防禦システムですが、わたしが使用したわけではありません」 「ああ、わかった」 「見なさい」  画像がとんだ……直視できる程度まで光度を落として拡大された太陽。早送り映像で、その表面の流動する嵐の中から噴流が上昇する。まっすぐカメラのほうに向かって、さらに高く……何十万マイルも。その根元からさらに鮮やかな衝撃波がわきあがる。それが噴流の柱を駆けのぼり、ふいにおそろしい閃光を放った。 「超高温レーザー効果。明らかにリングワールドの隕石防禦システムです、ルイス。しかしわたしがやったのではありません」 〈至後者《ハインドモースト》〉が嘘をついているということはありうる[#「ありうる」に傍点]。だが、彼が侵入してきた船を撃墜したりするだろうか? 「ルイス、わたしは侵入してくる宇宙船を撃墜したりしません! わたしなら接触を試みます。ハイパードライヴ装置があればここから脱出できるのです!」 「たしかにそのとおりだが──〈至後者《ハインドモースト》〉、〈補修センター〉にはあんたのほかに誰かいるのか?」 「わたしの防禦が破られたとは思えません。ルイス、〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉はふたつあるのです」  ルイスは一瞬〈至後者《ハインドモースト》〉の言葉の意味が理解できなかった。 〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉がひとつではリングワールドのバランスが狂う。そこにたたえられる水はおそらく木星の大型の月くらいの量があるだろう。向かい合うふたつの海が必要だ。現実にそうなっている。 〈至後者《ハインドモースト》〉とその仲間は、片方の〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉の火星の〈地図〉の下に〈補修センター〉を見つけた。もうひとつの大洋はまだまったく探検していない。  そしてそれはリングワールドの直径を横断した向こう側にある。リングワールドの直径は十六光分だ。もうひとつの〈補修センター〉にいるものが〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉から侵入してくる船を見る[#「見る」に傍点]には光速で十六分かかる。太陽に働きかけるのにさらに八分。太陽から数百万マイルのプラズマ柱をひき出し、レーザーとして発射するにはさらに多くの時間──一時間か? 二時間か? ──がかかる。そして恐ろしい光の剣が地上までとどくのにもう八分。  二時間二十分というのは、うなずける数字だ。  ルイスはいった。 「|なるほど《ステット》。リングワールドの反対側の〈アーチ〉にもうひとつ〈補修センター〉があって、そこにプロテクターがいると考えるべきだろうな」 「なぜプロテクターなのです? わたしもそう考えてはいますが」 「プロテクターなら、はいりこむ方法を見つけるだろう。それにもしヒト型種族が──繁殖者《ブリーダー》が──何かの拍子に紛れこんだとしても、いまごろはもうプロテクターになっている。もうひとつの〈補修センター〉も、ここと同じように、生命の樹に汚染されているにちがいないからね。それでぼくを呼んだのか? あんただってぼくと同じくらいプロテクターのことはよく知ってるじゃないか。それにここはいま真夜中なんだ。ぼくの頭は完全には機能しないよ」 「年齢もまた、あなたの脳に影響しているはずです。わたしたちは話し合わなくてはなりませんし、あなたに見せたいものはほかにもあります。ルイス、〈|機織り《ウイーヴァー》〉の前に姿を見せて、あなたの力について話しましょうか? それともそんなことはしないほうがいいと?」 「お心づかいはありがたいが、ぼくらの手には余るんじゃないかな」  土地のものたちは眠っているが、〈|漁 師《フィッシャー》〉と〈舟人《セイラー》〉はこの光を見ただろうし、〈|屍肉食い《グール》〉も近くにいるのでは?  そうとも[#「そうとも」に傍点]……。  ルイスはニヤリと笑ったが、〈至後者《ハインドモースト》〉は気づかなかった。 「ここの〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちはとても友好的ですね」 「口に気をつけてさえいれば、〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉の周囲の種族はどこも友好的だよ」 「お仲間はどうしています?」 「ハミイーは装備を運ぶために攻撃舟艇に乗っていった。あんた、あれには蜘蛛巣眼《ウエブアイ》をつけなかったのか?」 「地面に埋められてしまいました」と、〈至後者《ハインドモースト》〉。  ルイスは笑った。 「必要になれば掘り出すでしょう。〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉たちはどうしています?」  ルイスは答えた。 「カワレスクセンジャジョクとハーカビーパロリンはふたりの子供を育てていて、まもなく三人めが生まれる。ぼくらは別に仲違いしたわけではないんだが……ちくしょう。攻撃舟艇をつけて、下流の村でおろしてやった。その村と対岸一帯で何か教えているよ。あんたはどうしている?」 「お話しするほどのことは何も。ルイス──」 〈|神 の 拳《フィスト・オブ・ゴッド》〉の山腹を三つの銀色の点が跳ねながら転がり落ちていく眺めが、まばゆい雪景色に変わって、白昼の陽光を浴びた山の尾根が映し出された。その尾根の裂け目をゆっくり進んでいくふたつの点を緑色にまたたく輪郭が囲んでいる。 「──これをよく見なさい。十年前にも見せましたが──」 「おぼえているよ。あれと同じ場所なのか?」 「ええ、ですがこれは三日前のものです。吸血鬼《ヴァンパイア》の巣の上に浮かんでいる建造物の縁から撮影しました」 「あんたが〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちに見せていたのもこれかい?」 「そうです」  映像がズームアップした。それは六つの車輪を持ち、蒸気機関で動いていると思われる、不格好で巨大な乗物だった。一台が向きを変えて斜面をのぼりはじめた。  カメラがもう一台の運転席をアップにした。 「あれは〈機械人種《マシン・ピープル》〉ですか?」  ルイスは見た。 「そうだ。髭があるだろう。乗物も〈機械人種《マシン・ピーブル》〉のものらしいし。おや……」 「ルイス、わたしのコンピューターの認識プログラムは──」 「あれはヴァラヴァージリンじゃないか!」 [#改ページ]      6 〈|雪走り《スノーランナー》の道〉 〈|炎 の 障 壁《バリアー・オヴ・フレーム》〉は浅い浸食の様相を与えられていた。  山並みをそんなふうに見られるのはヴァラヴァージリンだけだ。〈球体人種《ボール・ピープル》〉のルイス・ウーが、この世界を仮面として見る方法を教えてくれたのだ。彼とそのふしぎな仲間たちは世界の黒い裏側を見た。そこでは海がふくらみ、山々が溝のつらなりとなって、おびただしいパイプが世界の裏側から緑《リム》を越えて海底の軟泥《フラップ》を運び、|こぼれ山《スピル・マウンテン》を形成していた。  なんらかの存在が、美学的な気まぐれに合わせて〈|炎 の 障 壁《バリアー・オヴ・フレーム》〉を刻んだ[#「刻んだ」に傍点]。そして旅行者のために、尾根に沿って道を刻んだ。さまざまな〈赤色人《レッド》〉の部族とその家畜が、後退する|鏡  花《ミラー・フラワー》を追って、この〈|雪走り《スノーランナー》の道〉を越えた。いまクルーザーの案内に立っているのはそうした〈赤色人《レッド》〉のふたりだ。  クルーザーがその峠を越えたあたりで、夜が太陽の端を浸食しはじめた。しばらく青空を見ていなかった一行は、喜んでそれを鑑賞した。眼下には切れ目のない雲がひろがっている。地面に積もった雪はさほど深くないが、車輪を横すべりさせるには充分だ。ヴァラにとっても運転は容易ではなかった。左右では雪原が直射日光を反射させて、山々が炎をあげているようだ。  背後の低くなった場所でワアストが誰かに話しかけていたが、運転席からその相手の姿は見えない。 「わたしたちがここを渡ったときは雪がありませんでした。|鏡  花《ミラー・フラワー》がみんな焼いてしまったからです」  彼女の巨体になかば隠れているのはテガーだった。 「|鏡  花《ミラー・フラワー》は雲を嫌う。それに動くものはなんでも焼きはらう。ワアスト、こんな遅い時間に車が別々の場所にいていいのか?」 「そう決めたのよ」ワアストがきっぱりと答えた。 〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉は顔をしかめた。 「もちろん指揮をとるのは操縦者《パイロット》だ。しかしこれでは伴侶が引き離されてしまう。ヴァラヴァージリンとケイワーブリミス。〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉と〈|竪琴弾き《ハープスター》〉もだ。ケイワーブリミスとチタクミシャドはどちらも男[#「男」に傍点]だ。もし吸血鬼《ヴァンパイア》がきたらどうする? ワーヴィアとおれは離れていても大丈夫だ。おまえはビージといるし、パルームはトゥウクと、マナックはコリアックといる。だがほかのものたちはどうだ?」  ヴァラは聞かないふりをした。一号車はなだらかな坂をくだっている。〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉はただ不満を声に出しているだけだ。  伴侶だって[#「伴侶だって」に傍点]!  つぎのカーヴを曲がると、幅の広い褐色の川が見えた。 〈赤色人《レッド》〉は一夫一婦制を守っており、伴侶となったふたりは別々に行動することを嫌う。だが二台のクルーザーにはそれぞれ案内人が必要だった。ケイとヴァラもまた別れなければならなかった。二台のクルーザーにはそれぞれ操縦者が必要なのだ。ただし彼女とケイワーブリミスは伴侶ではない!  二号車に乗っていたシラックが背後から追いかけてきた。ヴァラは燃料系を閉じてクルーザーを停めた。 〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉は風のように走る。シラックは彼女を見あげ、ニッコリ笑いながら呼吸をととのえた。 「ケイワーブリミスはもっと上までのぼりたいそうだ」  ヴァラはふり返った。道の左側の斜面は山頂までゆるやかだ。もうすぐ二号車は尾根に達し、視界がひらけるだろう。 「ここで待ったほうがいいかしら?」 「ケイは待たなくていいといった。危険があればクルーザーを停めろと。いずれおまえたちが見える。すぐに追いつく」 「わかったわ」  シラックは駆け去った。急坂をのぼるためケイの乗員たちは荷物をおろしている。何トンもの荷だ。パルームとトゥウクがいなければどうにもならなかっただろう。  しばらく見ているうちに、ケイが運転席にすわり、他のものを背後に徒歩で従えて、二号車は動きだした。もちろん〈|屍肉食い《グール》〉は別だ。〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉は|薄 暮《ハーフナイト》まで目を覚まさない。  そこでカーヴを曲がったため、二号車は見えなくなった。  一号車に乗っているのは、ヴァラヴァージリンとサバロカレシュ、ワアストとビージ、マナックとコリアック、それにテガーと〈|竪琴弾き《ハープスター》〉だ。いまはみんな荷台外殻《ぺイロード・シェル》の外側に乗っている。荷台外殻《ペイロード・シェル》はかつてなかったほど清潔で、匂いも完全に洗い流されていた。 〈|屍肉食い《グール》〉の〈|竪琴弾き《ハープスター》〉は本来は暗闇が好きなのだが、いまは交代で外に出て、陽よけの下で踏み板に毛布を敷いてどうにかしのいでいる。  二号車の〈機械人種《マシン・ピープル》〉はふたりとも男だ。チタクミシャドを連れてくるかどうか、彼女とケイはずいぶん迷った。できればスパッシュにしたかったのだが、妊娠している彼女の生命を危険にさらすわけにはいかなかった。チットは先日の吸血鬼《ヴァンパイア》の襲撃のあいだ、縛りつけておかなくてはならなかったが、彼は頭がいいし、機械類の扱いも手慣れている。  まあいいだろう。最後にはリシャスラがあるのだから。  やがて一号車は雲の下に出た。暗くなってきたのは太陽がなかば影に隠されたからだ。  川で何かが起きているようだが? 「テガー、見てちょうだい。川のところよ」 〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉は近視で、自分の爪先より先はほとんど見えない。〈機械人種《マシン・ピーブル》〉は目がいい。しかし〈赤色人《レッド》〉ほどの視力を持つものはない。  テガーが運転席によじのぼり、手をかざして目をこらした。それからさらに高い砲塔にあがった。 「吸血鬼《ヴァンパイア》だ。二匹いる。おぞましい、ヴァラ。何か聞こえるか?」 「何も」 「歌っているようだ、ヴァラ。それから……何か黒いものが水から出てくる。〈|川の人種《リヴァー・ピープル》〉というのはどんな姿をしているのかな?」 「濡れた黒ね。大きさはあなたくらいだけど、流線型にまとまっていて──」 「短い腕に、水かきのある大きな手か? 足も同じようで? ひとり誘い出された。もう一匹の吸血鬼《ヴァンパイア》は川下に向かっている。性別が合わなかったのだろう。ここからではわからないが。もっといそげないのか?」 「無理よ」  いそいでも間に合わない。  かなり近づいてきた。ヴァラにも青白い姿がふたつと黒いものが見分けられた。青白いほうのひとつが岸を離れていき、黒いのがヨタヨタともう一方の白い影に近づいて両腕で抱きしめた。数瞬後、白いほうが飛びすさって、川岸の泥の中に尻餅をついた。  ずんぐりした黒い姿が両腕をひろげてさらに近づく。白い影は痩せた尻をついたままあわててあとずさったが、勇気を奮い起こしたのか飢えに駆られたのか、立ちあがって抱擁を受けいれようとした。  黒が白にすりよった。山猫のような悲鳴があがり、白い姿が身をもぎはなして岸沿いに川上へ逃げ去った。  黒い姿はあとを追わず、立ちどまって悲しげな咆哮をあげた。 「もっと速度をあげられないのか?」テガーがまたせかした。 「|薄 暮《ハーフナイト》までには着くわ。水浴びの時間くらいあるでしょう。それから防衛態勢をととのえればいい。二号車は上にとどまってくれたほうがいいわね。マナック、聞いてる? コリアック?」 「聞いています」コリアックが答えた。「二号車は夜明けまで上にいる」 「ケイワーブリミスにそう伝えて。そしてあなたは二号車に残るのよ! 暗くなってからひとりでもどってくるのは危ないわ」  ビージが立ちあがり、石弓の打ち金を起こして右手前方に歩いていった。バロクはキャノンをかまえた。テガーはそのまま砲塔の上に陣どっている。  黒いヒト型種族は悲しみに沈んだ様子でぬかるみに横たわっていたが、やがて寝返りをうって起きあがり、近づいてくるクルーザーを目にとめて待ちうけた。  マナックが踏み板から飛びおりて走り出した。ヴァラの手には装填すみの銃がある。  吸血鬼《ヴァンパイア》の歌が聞こえた。  神経をかき乱すあの音楽はまちがえようもない。ふいにマナックが立ちどまった。ヴァラには標的が見えない。 〈|川 の 人《リヴァー・パースン》〉はただひとりで、ヨタヨタと繁みに向かっている。  二匹めの吸血鬼《ヴァンパイア》が出迎えるようにおずおずと進み出た。雄だ。懇願するようにその両腕があがる。頭の中で音楽と匂いが高まるのを感じて、ヴァラは銃を発射した。  銃弾が脇の下に当たり、吸血鬼《ヴァンパイア》は激しい勢いではじき飛ばされた。夕闇の中に流れる血は、どのヒト型種族とも変わらない赤だ。強烈な匂いに襲われ、ヴァラはタオルをとってペパーリークを吸いこんだ。  マナックがあとずさった。〈|川 の 人《リヴァー・パースン》〉がドサリと吸血鬼《ヴァンパイア》にのしかかった。吸血鬼《ヴァンパイア》は苦悶の痙攣を起こし、やがてグッタリとなった。  ヴァラはふたりのわきにクルーザーを停めた。乗客たちが踏み板からおりた。  なめらかな黒い毛、短く太い四肢、大きな手足、流線型の身体……衣服。女性だ。胴体を何か別の生き物の茶色い毛皮で蔽っている。  彼女は顔をあげ、それからなんとか雄の吸血鬼《ヴァンパイア》から身を引き離した。 「ごきげんよう」彼女がいった。「わたしはワーブリチューグ──」  流れるような音節とかすかな微笑。──とても真似のできない音だ──。  ヴァラは答えた。 「ごきげんよう、ワーブル。わたしはヴァラヴァージリン。なぜ吸血鬼《ヴァンパイア》はあなたを殺さなかったの?」 「これのせい」  女は両手で樽のような身体を示した。きっちりのどまでを蔽うその服は、ほかの水棲生物の毛皮を使ったもので、胸や背中の部分はそのままだが、脇腹は毛を剃り落としてなめらかな皮になっている。  彼女が説明した。 「陸から半|日徒歩距離《デイウォーク》の〈|深 淵 湖《レイク・ディープ》〉に住んでいる浮遊性肉食生物からゼリーをとる。漁師水母《ゼリー・フィッシャー》といって、魚に棘を刺して食用にする生物で、棘はゼリーの中にある。カワウソの毛皮でつくった胴衣《ヴェスト》にゼリーを塗り、泳ぐときに腕が当たる部分だけ毛を剃っておく。吸血鬼《ヴァンパイア》は棘を嫌う。でも……あんなことの……あとでは……」  マナックに向きなおるとたずねた。 「あなた、泳げるか、勇敢な小さな人? しばらく息をとめていられるか?」 「溺れてしまうよ」と、マナック。 〈|川の人種《リヴァー・ピープル》〉の女はこんどはヴァラに向かうと、 「〈|故郷の流れ《ホームフロー》〉の一族は四枚しか胴衣《ヴェスト》を持っていない。吸血鬼《ヴァンパイア》のため、わたしたちは何ファランも岸に近づけない。ときどき誰かが胴衣《ヴェスト》を着て吸血鬼《ヴァンパイア》に抱きつかれれば、吸血鬼《ヴァンパイア》も〈|川の人種《リヴァー・ピープル》〉には手を出せないことをおぼえる。そうすればしばらく岸辺で漁ができる」 「あなた、とても勇敢なのね」 「ボラブルに勇気を見せたい。彼を伴侶にする」 「吸血鬼《ヴァンパイア》の匂いをあなたの身体につければいい」ワアストがからかった。 「|とんでもない《シャッブル・フラップ》! そんなことを口にしてはいけない。あなた、赤い人、数十呼吸のあいだ水にもぐっていられないか?」  テガーが首をふった。この手の質問にはもううんざりしている。  相手の女はため息をついた。 「リシャスラの話はよく聞く。でもやったことがない。同じ種族内でするだけ! ボラブルにいいニュースをとどける。客がきたことを知らせる。しばらくここにいるといい。吸血鬼《ヴァンパイア》が来ても遠くから見える」  ヴァラが気のきいた答を思いつくよりも早く、彼女は泥土の上を横切って水の中に飛びこんでしまった。  吸血鬼《ヴァンパイア》のほかにも水中には敵が隠れているかもしれない。全員が武器をかまえたまま水を浴びた。そのあとバロクと〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉たちは上流に釣りにいった。ちょっぴりうらやましく思いながら、ヴァラはあとに残って警備に当たった。  一号車は川岸の泥地で夜を過ごした。吸血鬼《ヴァンパイア》も〈|川の人種《リヴァー・ピープル》〉も、誰ひとり訪れるものはなかった。  すべてがきわめて順調に運んでいるような気がした。何もかもが予測し計画したとおりだ。それがかえって彼女には不安だった。  作戦計画の最終的な形が決まったのは、三日前の夜のことだった。  戦いに参加した〈赤色人《レッド》〉は四人だったが、残ったのはワーヴィアとテガーだけで、伴侶のいないふたりの男、アナクリン・フーキ=ホワンハーハーとチェイチンド・フーキ=カラシクは、全員を救うことになるかもしれない指示をたすさえて〈赤色人《レッド》〉の領土にもどることになった。ホワンドはもう吸血鬼《ヴァンパイア》には辟易していたし、スパッシュを妊娠させたのはどうやら彼らしいので、ふたりは三号車の燃料補給に当たることとなった。  そんなわけで、残りの操縦者であるヴァラヴァージリンとケイワーブリミスが二台のクルーザーに分乗した。  まずメンバーが選ばれ、以後は毎夜のように議論が戦わされた。  数日にわたって〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉が廃棄したごみの山を漁ったことが、〈機械人種《マシン・ピープル》〉の評価にプラスしたとは思えないが、その排泄物からは硝石結晶が大量に得られた。  壁の外には複雑で美しい立体地図がつくられた。 〈|屍肉食い《グール》〉がほかの種族のものたちとともに作業をおこなえるのは、|薄 暮《ハーフナイト》から薄明《ハーフデイ》までの暗い時間だけだ。だが一ファラン、七十五日という日数がある。  土を色粘土にとり替え、訪れたことのあるものたちに地形を確認させて、炭火で焼き固め、それから色砂を使って、クルーザーの通れそうな道筋を示した。みんな日がとっぷり暮れるまで働き、それから中にひきあげる毎日だった。  吸血鬼《ヴァンパイア》は毎夜はこなかったが、やってくるときは大群だった。  吸血鬼《ヴァンパイア》は懲りるということを知らず、意思の疎通もできない。ムーンワが右舷回転方向《スターボード・スピンワード》の壁の曲面部に〈沼沢人種《マーシュ・ピープル》〉のドーム窓をとりつけた。吸血鬼《ヴァンパイア》はいつもそっちから押しよせ、四つの種族からなる戦士たちは透明な防壁の隅から銃と石弓を撃って敵を倒した。  ヴァラはこうして数夜のあいだに石弓の使いかたを学んだ。錯覚ではあれ、無敵の戦士になったようないい気分だった……もちろんその窓も、吸血鬼《ヴァンパイア》の匂いを遮ることはできなかったが。  集落の中心にある建物は、中央に立てた一本の柱から土壁の上に屋根をひろげたドームのようなものだった。おそろしく大きく、おそろしく混み合っていた。千五百人の〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉──男よりも大勢の女、数えきれないほどの子供、いたるところにいる幼児──が、鎌−剣で切り裂けそうなほど濃密な悪臭をつくり出している。  妻たちの一群がウェンブを囲んでいた。女たちは自分も食べながらウェンブの口に食事を運んでやっており、ウェンブもそれを楽しんでいるようだ。バロクが手をふると、彼女も横になったまま手をふり返した。彼女もバロクも吸血鬼《ヴァンパイア》に囲まれて過ごした夜の痛手から順調に回復しっつあるようだ。  バロクは二号車に乗ることになっている。ホワンドやスパッシュといっしょに遠征をおりるか、それとも娘を連れ去った吸血鬼《ヴァンパイア》を追い詰めるか、どちらを選ぶだろうかとヴァラは思案していたのだが。 〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉は身体が大きいのに、混雑は平気らしい。〈機械人種《マシン・ピープル》〉は踏まれないよう気をつけなくてはならなかった。〈赤色人《レッド》〉は怒りっぽいので、〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉のほうで踏まないよう気をつけているようだった。 〈赤色人《レッド》〉と〈機械人種《マシン・ピープル》〉にとっても威圧的なその巨体を、さらに小柄な〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉はどう感じているのだろうか? だが彼らはうまい策略を実践していた。子供と遊んだり、大人の毛づくろいを手伝ったりしてやるのだ。彼らの近視眼は寄生虫を見つけ出すのにもってこいだった。  サールが十人の妻から離れ、厭味ではなく礼儀正しくヴァラにたずねた。 「糞溜めで必要なものは見つかったのか?」  そろそろ秘密を明かしてもいいころだろう。 「ええ、ありがとう。この結晶を〈赤色人《レッド》〉が集めている炭と硫黄に混ぜれば、弾丸を発射するものができるのよ」 「なるほど」  サールが驚きを隠してうなずいた。  調合比率は明かしていないのだから彼に火薬はつくれない、とヴァラは自分にいい聞かせた。だがこれで、〈機械人種《マシン・ピープル》〉がおかしな好みを持っているのでないことは理解してもらえただろう。  静かな室内に吸血鬼《ヴァンパイア》の歌がはいりこんできて、かすかなざわめきもすべて途絶えた。  だがすぐその歌に楽器の伴奏がついた。はじめは吸血鬼《ヴァンパイア》の歌に合わせていた。竪琴《ハープ》と、低い悲しげな管楽器と、高い口笛のような管楽器と、打楽器の音が聞き分けられた。〈|屍肉食い《グール》〉の音楽が高まって吸血鬼《ヴァンパイア》の歌をかき乱し、圧倒し、その一方、打楽器は心臓の鼓動をうながすようにどんどん早くリズムを刻んでいく。そしてやがて、吸血鬼《ヴァンパイア》の歌はまったく聞こえなくなった。  つぎの夜明けに彼らは出発した。夜には川に面した絶壁で野営した。吸血鬼《ヴァンパイア》はやってこなかった。  二日めの早い時刻に、一行はジンジェロファーの領土についた。〈赤色人《レッド》〉たちは燃料を用意していた。また、遠くからわざわざ木炭と硫黄を買い入れてくれていたが、そのことを誇示する様子はなかった。  荷積みが終わる前に夜が太陽を蔽った。〈赤色人《レッド》〉たちはクルーザーの周囲で野営した。吸血鬼《ヴァンパイア》が来たとき、〈赤色人《レッド》〉の兵士たちの頭ごしにキャノンが火を噴いた。夜明けに見つかった吸血鬼《ヴァンパイア》の死体は四十を越えていた。  ヴァラはクルーザーに積んできた交易品で贈り物をした。だが彼らを結びつけるには四十の吸血鬼《ヴァンパイア》の死体で充分だった。  三日め、彼らは〈|雪走り《スノーランナー》の道〉を渡った。一|日徒歩距離《デイウォーク》という距離は地形や高度や傾斜や種族によって異なる。それでももう二|日徒歩距離《デイウォーク》は進んだはずだ。このまままっすぐ進めば──そこまで愚かな真似はしないが──明日の正午には吸血鬼《ヴァンパイア》の巣に着く計算だ。  翌朝、二号車がおりてきた。キャノンの外被の上、陽よけの下にワーヴィアがすわっている。  トゥウクが陽気な声をあげた。 「ワアスト! あの〈|雪走り《スノーランナー》の道〉が山を抜けるいちばん楽なルートだっていうの?」 「〈赤色人《レッド》〉と〈|屍肉食い《グール》〉がそういったのなら、疑うわけにはいかないでしょう?」 「吸血鬼《ヴァンパイア》もきっとそう考えているわ!」  二号車は勝利にわきかえっていた。〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チュープ》〉までが光の中に黒い頭を突き出し、目をすがめながらグロテスクな笑みを見せて、またひっこんだ。ワーヴィアだけが黙りこんでいたが、ヴァラは気にとめなかった。もともと〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉は陽気な種族ではない。  その喧騒に呼び寄せられたものがほかにもあった。濡れた黒い頭が岸沿いの水面に一列に並んでいた。〈|川の人種《リヴァー・ピープル》〉はそれ以上近づいてこなかったが、ヴァラも声をかけようとはせず、ケイとチットとトゥウクとパルームとペリラックとシラックが交互に語る話に耳をかたむけた。  昨夜、ケイワーブリミスが二号車を停めたのは、道を眼下に見おろす岩山の上だった。視界は途切れのない雲で、期待していたほど見晴らしはよくなかったが、待てばいい。ここまでくる三日のあいだに二回、川を渡るたびに、全員が身体を洗っていた。完全に無臭とはいかなくても、少なくとも努力はしたわけだ。 (いまはまた匂いがもどり、話しながらも笑い合い、触れ合い、言葉遊びに興じている。昨夜がどんなふうだったか推測できるというものだ。)  あたりが闇に包まれると、吸血鬼《ヴァンパイア》が道の上に現れた。見張りについていた〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チュープ》〉がみんなに警告を発した。  道に山積みされている積荷が匂いを放って彼らをひき寄せたのだろう。ケイは|右 舷《スターボード》にキャノンを向けて待った。三発で二十匹が倒れた。  しばらくのあいだ吸血鬼《ヴァンパイア》は道から完全に姿を消した。それから猛然と道の上を駆け抜けはじめた。ケイの仲間たちは機を見て狙い撃ちをしたが、ほとんどの吸血鬼《ヴァンパイア》はそのまま見逃された。矢と弾は回収できるが火薬はそうはいかないからだ。  彼らがふたたび一団となるのを見て、ケイはまたキャノンを撃ちはじめたが、すぐに中止した。 「捕虜がいたんだよ、ヴァラ。手が大きくて肩幅が広い鈍重そうな大きな男たちと、それより頭ひとつ背が低くてずんぐりした胴体の女たちだ。どっちも頭のまわりに茸みたいに黄色い毛を生やしていた。ワーヴィアの観察がいちばんたしかだろう。な、ワーヴィア?」  ワーヴィアが立ちあがった。 「あれは〈農業人種《ファーミング・ピープル》〉、草食種族です。根菜を育てるかたわら動物も飼い、〈赤色人《レッド》〉と協力関係を結んで守ってもらっています。昨夜は〈赤色人《レッド》〉の姿は見えませんでした」  パルームがいった。 「彼らは捕虜同士で集まっていなかったし、逃げようともしていなかった。全員にそれぞれ、その、番いとなる吸血鬼《ヴァンパイア》がついていた。だからうまく射ることができなかった。相手のいないやつを何人か射たが──」 「やつらはわたしたちにも歌いかけてきました。〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チュープ》〉が音楽を奏でると、やつらは怯えていました!」と、トゥウクがいう。 「捕虜がいたからキャノンは使えなかった。おれたちでは助けることもできなかったし。そもそも吸血鬼《ヴァンパイア》が捕虜をどうしようってんだ?」と、ケイがいった。 「食用に飼うのだろう」と、テガー。  そういいながらテガーは、ぼんやりとワーヴィアを見つめている。彼女は誰とも視線を合わそうとしない。それにしても恐ろしい意見だ。吸血鬼《ヴァンパイア》に知性があることを認めているという点で、二重に恐ろしい。  ケイワーブリミスが話をつづけた。 「夜がなかば過ぎるまで、鼻孔に感じられる風はつめたく湿っていて清潔だった。吸血鬼《ヴァンパイア》どもがまたやってきたが、こんどのやつらは捕虜を連れていなかった。走っていた。たぶん仲間の死体の匂いに不安をおぼえたのだろう。おれたちはおもしろいようにやつらを倒した。それから風向きが変わり、おれたちのほうにやつらの匂いが漂ってきた」 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉の顔は影になって見えなかったが、陽よけの下で耳をかたむけていたらしい。 「狩り立てようと思ったのだ、ケイ。わたしたちの音楽は彼らを混乱させ怯えさせる」  ケイはヴァラに視線を向けたままいった。 「ともかく、おれは〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉をリシャスラに誘った」  口にされなかった言葉。  ──〈|屍肉食い《グール》〉の女は吸血鬼《ヴァンパイア》のもとにいこうとしたのだ──! 「彼女が奏で、おれたちは踊った。ワーヴィアは戦いを放棄するなと非難したが、あとのものたちはすぐに理解して──」  一同の笑いの中に〈|竪琴弾き《ハープスター》〉の低音のささやきが鮮明にひびいた。 「彼はどうだった?」 「新鮮だった。パルームも同じ」と、〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉が答えた。 「それでおれたちみんな──」  ケイがふいに言葉をとめた。心臓がひとつ鼓動を打つ間にも満たない沈黙だったが、ヴァラは聞き逃さなかった。 「みんなそれに加わった。わかるな、ヴァラ、やつらは下の道で立ち往生していた。それが攻撃をやめた瞬間、大河のようにドッと通り抜けていったんだ。あの匂いときたら、ぶつ切りにして煉瓦に塗りこめ、年寄り連中に売ってやればよかった」  テガーは自分の伴侶を見つめている。ワーヴィアの沈黙が気になるが、ほかにおかしな点は見てとれないでいるらしい。  ケイワーブリミスがいった。 「サールがトゥウクをよこしたのは小柄だからなんだ。実に気がきいている」  トゥウクが輝くような笑顔を見せた。ワーヴィアは石のように無表情な顔で遠くを見つめている。 「そんなふうに過ごしたのはたぶん夜の十分の二くらいだな。それから風向きが変わった。すぐには気がつかなかったが吸血鬼《ヴァンパイア》の匂いがしなくなった。だがそれと同時にこっちの匂いが向こうへ伝わったんだな。チットがそれに気づいて──」  チットがあとをつづけた。 「吸血鬼《ヴァンパイア》どもが氷の上を近づいてきたんだ。あいつらは雪とあまり変わらないくらい白い」  ケイがいう。 「強い風がそっちへ吹いていた。匂いに気づいて見まわせば、すぐ見つかる場所だ」 「十の何十倍もいた」と、パルーム 「でも朝が近づくと、やつらはどこにもいなくなった。おれたちは吸血鬼《ヴァンパイア》の死体を道いっぱいに残してきた」と、ケイ。  トゥウクがいった。 「吸血鬼《ヴァンパイア》百匹の死体ほど悪臭を放つものは〈アーチ〉の下にありません。やつらは仲間の死体を避けます」  ヴァラは答えた。 「それはおぼえておかないと」  トゥウクがつづける。 「|未 明《ハーフドーン》に荷物と矢と弾丸をひろい集めました。ヴァラ、わたしたちは、おそらく〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉を見つけた[#「見つけた」に傍点]と思います」 「その話をして」 「ワーヴィア、話して」 〈赤色人《レッド》〉の女は遠くを見やったままいった。 「わたしたちのいる場所はまだ暗かったけれど、回転方向《スピンワード》から昼間の明るさがもどってきました。みんな疲れ切って、でもわたしは自分の持ち場のこの砲塔にいました。雲の切れ間に二本の黒い水平な線が見えました。距離も高さもわかりませんが、真ん中が高くなった銀色の輝く建造物を乗せた黒いプレートが浮かんでいて、その下に黒い影があったのです」 「それじゃ〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいったのと同じじゃないの」と、ヴァラは指摘した。  チラリと怒りの色──だがワーヴィアはすぐにそれを抑えた。 「銀色にうねる川も見えました。その川が影の下を流れているんです」 「わたしたち、〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉のことを知っている」  新しい声が割りこんだ──年齢も性別もわからない黒い光沢のある身体が水からすべり出て、泥の上に直立した。 「わたしはルーバラブル。〈|故郷の流れ《ホームフロー》〉にようこそ。どこでも自由に通ってよろしい。わたしは一族の誰よりもよく言葉が話せる。あなたがたは誰もリシャスラしないとのことだが?」 「水の中ではね、ルーブラ」ヴァラは残念そうに答えた。  これは期待できそうだ。 「〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉を知ってるって?」 「〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉は壁のない洞窟。まわりがあいていて、黒い屋根は周囲千五百|歩幅《ぺース》。吸血鬼《ヴァンパイア》はわたしたちが生まれる前からその下に住みつき繁殖している」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が陽よけの下から口をはさんだが、その声を聞いたのはヴァラひとりだった。 「周囲が千五百|歩幅《ぺース》なら、直径は〈水棲人種《ウォーター・ピープル》〉の五百|歩幅《ぺース》弱というところだ。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の二百、ほかのものならば三百だな。直径三百|歩幅《ペース》、聞いていたとおりだ」  ヴァラはたずねた。 「ルーブラ、その屋根の高さはどれくらい?」  ルーバラブルは川の中にいる誰かと警笛のような言葉をすばやく交わしてから答えた。 「ファドガブラドルにもわからない」  そしてさらに警笛のような声で語り合ったあと、ルーバラブルはつづけた。 「風が強いときでも雨がはいりこまないくらい低い。わかってほしいが、そこまでいったことがあるのはファドガブラドルだけだ」 「〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉の下で〈|故郷の流れ《ホームフロー》〉はどうなっているの? 吸血鬼《ヴァンパイア》は泳げるの?」  早口の警笛。もうひとり──頭とあごに当たる部分の毛の縁が白くなっている──が姿を見せ、ルーバラブルと言葉を交わした。  ルーバラブルが説明した。 「あそこを通るときは底にはりつくようにしなくてはならない。われわれの誰もそれ以上は行かない。汚物が流されているし、ホンキー[#「ホンキー」に傍点]なときもあるので」  知らない言葉だ。 「吸血鬼《ヴァンパイア》は泳がない」〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が姿を見せないまま教えてくれた。「ホンキー[#「ホンキー」に傍点]とは死者の道という意味だ」  ヴァラはうなずいた。  ワーヴィアが砲塔の中に姿を消した。  議論がつづけられているあいだ、ヴァラは二号車に目をとめていた。ワーヴィアは出てこない。それにテガーはどこへいったのだろう? 〈|川の人種《リヴァー・ピープル》〉は数世代にわたって吸血鬼《ヴァンパイア》を観察してきたものの、それは彼らなりの視点からだ。吸血鬼《ヴァンパイア》はときおり〈|故郷の流れ《ホームフロー》〉に死体を投げ入れる。一度に数百体。そこには十から二十の異種族のものも混じっている。しばらくたつと魚が群がるので、知っておく価値があったわけだが……老ファドガブラドルは二十ファラン以上ものあいだ〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉に近づいていない。〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉の向こうには、魚以外にわざわざ出向いていくだけの価値あるものは何もなかった。  ヴァラは声を落とした。 「〈|竪琴弾き《ハープスター》〉。〈|故郷の流れ《ホームフロー》〉に死体を流すってことは、あなたがたにとって損失なんじゃないの?」 「魚が死体を食い、〈|漁 師《フィッシャー》〉たちが魚を食い、最後にはすべてわれわれのものになる」 「|冗談じゃない《フラップ》。あなたがた、泥棒されているのよ」 「ヴァラ、吸血鬼《ヴァンパイア》は獣だ。獣は泥棒などできない」 「〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉に近づいて生きて還れるのは〈|川の人種《リヴァー・ピープル》〉だけだ。なぜそんなことをたずねるのか? どうしてあなたがた、そんなにいろいろな種族の人たちがここにきているのか?」と、ルーバラブル。  ヴァラが口をひらく前にビージが答えた。 「われわれは吸血鬼《ヴァンパイア》の脅威を終わらせるためにきた。やつらの根城を襲撃する。旅のできないヒト型種族も支持してくれている」 〈|川の人種《リヴァー・ピープル》〉たちが相談をはじめた。声にならない笑いが聞こえたような気がする。  だがもしかするとヴァラの気のせいかもしれない。  ルーバラブルがいった。 「ヴァラヴァージリン、あなたのお仲間に〈|屍肉食い《グール》〉がいるようだが?」 「〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉がふたり、いっしょに旅をしているわ。ほかにも何人かが少し離れて同行しています。彼らは太陽が嫌いだから」 「〈|屍肉食い《グール》〉も吸血鬼《ヴァンパイア》も同じ〈|夜 の 人 々《ピープル・オヴ・ザ・ナイト》〉だ」  ルーバラブルは吸血鬼《ヴァンパイア》と〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉が結託しているといいたいのだろうか? 「ひとつの領土で同じ獲物を競い合う敵同士よ。実際にはもっと複雑だけれど──」 「彼らが味方であると断言できるか?」  この一ファランのあいだ、ヴァラはずっと〈|屍肉食い《グール》〉の動機について頭をひねってきたのだ。 「ええ、断言できるわ」 「われわれはあなたがたといっしょに旅することはできない」 「そうね」 「しかし〈|故郷の流れ《ホームフロー》〉沿いに移動してくれれば、わたしとファドガブラドルが同行する。あなたがたにいろいろ教えることもできるし、胴衣《ヴェスト》を持っていって下流のものたちに伝えることもできる」  一同はこまかい点の打ち合わせにはいった。これはまったく予期せぬ幸運だ。逃すわけにはいかない。  だが、テガーとワーヴィアの姿はどこにも見えなかった。 [#改ページ]      7 |道 の 精 霊《ウェイスピリット》  テガーは大きな青白い岩に背中をあずけ、尻の下に足を敷いてじっとすわっていた。まわりじゅうに藪が繁って姿を隠してくれる。 〈赤色人《レッド》〉はこうやって狩りをする。テガーはいま心の中で、テガー自身を求める狩りをしていた。両手はゆっくりと剣をとりあげ、刃を研いでいる。  さまざまな思考が心の表層でざわめいている。その奥へもぐればワーヴィアのことに行き当たる。自分がそれに直面できないことはわかっていた。  間断ない水のとどろきにうたた寝をしそうだ。近づいてくるものがあっても聞こえないだろう。だが匂いか周囲の藪の動きでわかるはずだ。身を守るには剣がある。  岸辺は相変わらず騒々しい。話し合いはいつのまにか水浴びになっていた。  剣は自分自身にふるうこともできる。向きを変えるだけでいい。それとも岩のてっぺんから飛びおりようか? そんな考えがチラリと心をよぎった。 「テガー・フーキ=サンダーサル」  テガーは岩の上に飛び乗ると、考えるよりも前に剣をグルリとふりまわした。  ──吸血鬼《ヴァンパイア》は話せない。いったい何が……?  その声は川の音よりもわずかに大きいだけで、テガーの想像の産物ではないかと思われるほど低かった。 「おまえを傷つけるつもりはない、テガー。おまえの願いをかなえてやろう」  見える範囲に生き物はいない。テガーはたずね返した。 「願いだって?」  自分は|道の精霊《ウェイスピリット》に出会ったのだろうか? 「わたしもかつては生きた女だった。いまは自己の向上をめざすものに手を貸している。おまえの望みはなんだ?」 「死にたい」  間《ま》。それから声。 「無駄なことを」  ささやきの奥深くに抑制されたいらだちが感じられた。なぜか、自分の剣では間に合わないだろうことが確信できた。 「待ってくれ」 「待とう」  ささやく声が、いまはずっと近くなっていた。すでに二度、テガーは衝動的に答えていたが、いまは──とにかく死にたい気持ちはどこかへ消えていた。  自分は本当に死にたがっているのか? だが、望みがかなえられるとしたら……。 「昨夜あることが起きた。それがなかったことにしてほしい」 「それは不可能だ」  形状も体質も食物もさまざまな二号車の男全員がテガーの伴侶と交わった。みな殺し[#「みな殺し」に傍点]にしてやりたい。だが女たちはどうする……? そのことを知っているもの全員をだ。そう、ワーヴィアも。心はそんな考えを否定しているけれども。  ──ワーヴィアとおれをそんな立場に追いこんだのは吸血鬼《ヴァンパイア》どもだ! 仲間の半分を殺すことを願うつもりか? そうしたら守りを失った残りのものたちも死ぬだろう。そしてジンジェロファーの一族もだ──。  ふいに、吸血鬼《ヴァンパイア》の蔓延によって〈赤色人《レッド》〉が滅亡するさまが脳裏に浮かんだ。男も女もたがいを信じることができなくなり、怒りにまかせて相手を捨てる。家族も部族もバラバラになる。吸血鬼《ヴァンパイア》がそれをひとりずつ連れ去る。  テガーはいった。 「おれの願いは〈アーチ〉のもとに生きる吸血鬼《ヴァンパイア》を皆殺しにすることだ」  ささやきが答えた。 「わたしにはそんな力はない」 「ではどんな力があるんだ?」 「テガー、わたしは心であり声だ。さまざまなことを知っている。おまえより早くものごとを見ることができる。決して嘘をつかない」  役に立たないやつだ。 「|道の精霊《ウェイスピリット》、おまえにあるのは好意だけなのか。もしおれが魚を食いたいといったらどうする?」 「それならできる。しばらく待てるか?」 「待つのはいいが、なぜだ?」 「わたしは誰にも姿を見られてはならないからだ。それよりもおまえに魚の採りかたを教えるほうが早い」  たしかに岸辺はまだ騒々しい。 「おまえに名前はあるのか?」 「好きなように呼んでくれてかまわない」 「では〈|ささやき《ホイスパー》〉と呼んでいいか?」 「いいだろう」 「〈|ささやき《ホイスパー》〉、おれは吸血鬼《ヴァンパイア》を殺したい」 「おまえの仲間たちもそう願っている。彼らのもとにもどるか?」  テガーは身震いした。 「いやだ」 「おまえに何が必要かを考えろ。もう、吸血鬼《ヴァンパイア》の力がおまえの剣より遠くまでとどくことはわかっているはずだが──」  テガーはうなり声をあげて低くうなだれ、両手で耳を押さえた。ささやきの主はしばらく沈黙していたが、やがてまた話しだした。 「おまえも身を守らなければならない。何が必要か、それを数えあげてみよう」 「〈|ささやき《ホイスパー》〉、おれは仲間の誰とも話したくないんだ」  いまになって思い出す。サールのもとにとどまっていた一ファランのあいだ、彼とワーヴィアは毎夜のように、体質的に一夫一婦制の自分たちは吸血鬼《ヴァンパイア》の誘惑にも決してまどわされないことを力説した。ほかの種族のものたちはそれにいらだっていた。 〈|ささやき《ホイスパー》〉がいった。 「一号車にはいま〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が眠っているだけだ。目を覚ましていたとしてもおまえの邪魔はしないだろう。必要なものをとってくるがいい」  ヴァラはずっと、ものごとの本質を知りたいと願っていた。  水はつめたかった。絶えず動いていないと身体が冷えてしまう。全員がたがいに身体の洗いっこをしている。表情を読みながらの討論もリシャスラも、結局は具体的な指摘が基本だ。  チタクミシャドとルーバラブルが、チットの顔を水面に出したままの体位をためしている。ビージとトゥウクは見物しながらあれこれ口をはさんでいる。あらかたの寄生虫は洗い落としているはずだが、それでも〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉たちは、身体のかゆいところを見つけてくれる。  バロクがふり返ってニヤリと笑い、その両手がヴァラの肩をとらえてグイとうしろを向かせると、目の粗い水藻らしいものでゴシゴシ背中をこすりはじめた。  利害が異なる種族のあいだで見られるすばらしい友情。あとはただ、ワーヴィアとテガーが荷台外殻《ペイロード・シェル》から手をとりあって出てきてくれるのを願うだけだ。  彼女は肩ごしにふり返った。小声なら川の音にまぎれるはずだ。 「サバロカレシュ、手を貸してほしいんだけど。あなたとケイワーブリミスとチタクミシャドで」  バロクは手を休めずに訊いた。 「手を貸すって何に?」 「二号車を調べるからついてきてほしいの」  彼は手をとめ、見まわした。 「チットをわずらわせるべきじゃないと思うがね」 「そうね。あれ、うまくいくと思う?」 「溺れるのがおちだろう。ケイはあそこだ。珍しい眺めだな」  ケイワーブリミスはほとんど全身を水につけて腹這いになり、指先で泥に地図を描いていた。誰だかわからないが〈|川の人種《リヴァー・ピープル》〉のひとりが助言を与えている。  ヴァラはその横からのぞきこんでたずねた。 「何かわかった?」 「まあね」 「ちょっと時間もらえる、バロクといっしょに?」  彼はふり返って彼女の顔を見つめ、何もいわずに立ちあがると、先に立って歩きだした。バロクも含め、三人とも裸だ。積みあげておいた服をとりにいっている暇はなかった。  雨がこれほどひどくなかったら、裸でいるのも悪くないのだが。衣服は本当にそんなに危険なのだろうか? だがただ清潔にしていればいいという問題ではない。吸血鬼《ヴァンパイア》は織った布やなめし革の匂いの下に血があることを学習するかもしれない。  ともあれ、いま必要なのは服ではない。背嚢だ。  裸の女が背嚢を背負っているのは、ちょっとちぐはぐに見えるかもしれないが。……いや、べつにどうということはないはずだ。  誰にも聞こえないところまでくると、ヴァラはたずねた。 「ケイ、昨夜のワーヴィアだけど──」 「おれたち全員とリシャスラしたよ」  彼女は踏み板に足を乗せて、たずねた。 「彼女、気にしてた?」 「ああ。何度か外に出ようとした。おれたちから離れたかったのか、吸血鬼《ヴァンパイア》のところに行こうとしたのか。どっちにしてもやつらにつかまっただろう。自分たちは誘惑にも耐えられるという連中の考えはまちがってたんだ」 「ケイ、誰もあんな話、信じてなかったわよ──」 「ワーヴィアは[#「ワーヴィアは」に傍点]信じてたんだ。外に出すわけにはいかなかった。明るくなってから落ちつかせようとしたんだが──」  彼はくちびるを噛みしめた。 「だめだった。女だったら、あるいはあそこにいなかった人間だったら、心をひらくことができたかもしれん」 「わたしが話してみるわ」  ヴァラは|仕掛け錠《トリック・ロック》をひらいて荷台外殻《ペイロード・シェル》にはいった。  真っ暗ではない。上の砲塔から光がはいってくる。以前積んでいた荷物の残り香を嗅ぎながら、目が慣れるのを待った。  火薬。ミンチとペパーリーク。トゥウクとパルームのための大量の草。石鹸──はるか|右 舷《スターボード》に住む種族がつくった奇妙な品だ。古い異臭──襲撃者から隠れようとする人々の恐怖の汗と負傷者の苦悶の匂い。だがそうしたものはもう洗い流されている。いまはもう血の匂いはしない。  梯子をのぼって砲塔にあがった。テガーの姿はなかった。  ケイワーブリミスの手が足首に触れた。彼女は半泣きの声でいった。 「アァ、|どうしよう《フラップ》。何もかも血まみれになっていると思ったわ! テガーは気づいたにちがいない。ワーヴィアには嘘なんてつけないもの。ワーヴィア[#「ワーヴィア」に傍点]!」  キャノンのスロットからワーヴィアの脚がダラリとぶらさがっている。ヴァラはその隙間に上半身をさし入れた。 「ワーヴィア、彼はどこ?」  ワーヴィアは答えない。 「ねえ、彼はこんどのことをどう思っているの?」  ワーヴィアが答えた。 「心が死んでしまった」 「ワーヴィア、ねえ、あなたがたが吸血鬼《ヴァンパイア》の匂いに平気だなんて、誰も信じてはいなかったのよ」 「きっとわたしを殺すと思ったのに」ワーヴィアが答えた。「でも、彼の心にそんな考えは浮かびもしなかった」 「何か彼のためにできることはある?」 「いまはひとりになりたいんでしょう」 「あなたのためには?」 「わたしも同じです」  ヴァラは梯子をすべりおりた。 「あいつだって、われわれから離れることはないだろう」ケイワーブリミスがいった。「川沿いに行けば、車輪の跡をたどれる。たぶん、起きてしまったことを自分に納得させる時間がほしいだけなんだ。考えなおすための」  彼女はにがい顔でうなずいた。 「ヴァラ、もう車を動かさないと」 「わたしはあとからいくわ」  一号車が出発準備をととのえるまでに、テガーを見つけ出せるかもしれない。本気でそう信じているわけではなかったが。 「ワーヴィアから目を離さないで。それともこっちの車に乗せましょうか?」 「そうしてくれ。あんたがボスだ。それに視力は彼女がいちばんいいんだし──」 「そういうことじゃ──」 「いいわけにちょうどいいだろ。彼女もあんたになら話すかもしれん。だって……」  彼は口ごもった。 「一号車には彼女がリシャスラした相手はいないから?」 「そのとおりだ」 「あなたは男なんだから、ケイ──」 「ボス、おれにはテガーのいまの気持ちはわからない。こういう事態は〈赤色人《レッド》〉には起きない[#「起きない」に傍点]んだ」  テガーは砲塔から音もなくすべりおりた。周囲に生き物は何ひとつ見えない。すぐそばの耳もとで声がささやいたとき、彼は思わず飛びあがった。 「旅に必要なものは手にはいったか?」  テガーはうずくまったまま小声で答えた。 「タオルとペパーリーク。石鹸。清潔な服。おれの剣。川沿いに進めば水はいらないから、水筒には燃料を詰めた。これは役に立つ」 「飲むのではないだろうな」 「燃料は燃やすものだ」  おまえには関係ない[#「おまえには関係ない」に傍点]ことだ! 「おまえの頭にあるのは手当たりしだいに殺すことか? それとも、もっと計画的な何かなのか?」 「おれは何も知らない[#「知らない」に傍点]。やつらは大きな浮かぶ建造物、工場都市の下に住んでいる。〈|ささやき《ホイスパー》〉、もしおれたちが──」 「おまえが、だ」 「やつらの巣を破壊できないなら、おれにとっては何もしないのと同じだ。おれはやらなければ……何か大きなことを……」 「おまえの名誉のために?」 「そうだ。ワーヴィアのしたことで──おれの存在はゼロになってしまった。おれは自分の価値を見つけなくてはならない」 「それを望め」 「〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉を破壊したい」 「できるとも」 「落とすんだ。やつらを押しつぶしてやる」 「それはむずかしいだろうな」 「むずかしいって?」  テガーは背嚢を背負った。三人の〈機械人種《マシン・ピーブル》〉が裸のまま二号車にはいるのが見えた。別にかまわないが、つぎはこっちの車を見にくるかもしれない。テガーはこっそり藪にもどった。  独り言のように何もない空中に向かって話した。 「むずかしいとは。不可能なのか! 吸血鬼《ヴァンパイア》の巣にはいりこむことはできない。もしやつらの頭上の、あの|浮 揚 工 場《フローティング・ファクトリー》にはいりこむことができたら──だがそれには空を飛べないと」 〈|ささやき《ホイスパー》〉が答えた。 「ヴァラヴァージリンが隠しているものは?」  なんだって? 「〈機械人種《マシン・ピープル》〉ももちろん秘密は持っているだろう」と、テガーは答えた。 〈|ささやき《ホイスパー》〉がいった。 「彼女はおまえとワーヴィアが吸血鬼《ヴァンパイア》の誘惑に屈するだろうことを知っていた。それでもあのささやかな部隊が勝利をおさめるものと思っている。彼女は何かほかのものが知らないことを知っているのではないかね?」  テガーは耳を蔽いたかった。のどもとにうめき声がこみあげた。  ──聞こえてしまう。見つかってしまう──。  しっかりしろ。身体がヒステリーを起こしても心まで負けてはならない。考えろ[#「考えろ」に傍点]。  しばらくして最初に浮かんだ筋の通った思考は──いま耳にしたのが、いいかたはどうであれ、〈|ささやき《ホイスパー》〉が実際に[#「実際に」に傍点]発したはじめての命令だということだった。 〈球体人種《ボール・ピーブル》〉のルイス・ウーはジンジェロファーの部族を訪れた。ヴァラヴァージリンも彼のことを知っていた……リシャスラの技能を持っている彼女のほうが、深く彼と知り合えただろう。ルイス・ウーが彼女に何かを告げたのだろうか?  ついさっき、自分は裸の彼女を見た。 「彼女の衣服といっしょに背嚢があるはずだ。〈|ささやき《ホイスパー》〉、ヴァラヴァージリンの服はどこにある?」 「岸のほう……あそこだ。背嚢は泥地においてあるが、棒があればとどくだろう」 「〈|ささやき《ホイスパー》〉、おれは泥棒ではない。ただ見たいだけだ」  声がささやいた。 「もしヴァラヴァージリンが仲間を助けることのできる情報を隠していたらどうする?」 「情報は財産だ」  沈黙が答えた。 「おれは気が狂っているんだろうか?」と、彼は自問した。  この|道の精霊《ウェイスピリット》の提案や指示は、どれもテガー自身の頭でも思いつける範囲を出ていない。彼のような目に遭えば誰だっておかしくなるだろう。 〈|ささやき《ホイスパー》〉は実在するのだろうか?  ワーヴィアにとっては[#「ワーヴィアにとっては」に傍点]それこそひどいショックだったはずだ。彼女はいまどんな気持ちでいるのだろう? 彼と同じく気が狂いかけているのではないかと思うとゾッとする。  そしてテガーはいま、肉食獣のように繁みを這い進み、自分のものではない革の背嚢という獲物を狙っている。  停まれ。  藪の葉ずれが、〈|ささやき《ホイスパー》〉が、仲間たちの声が聞こえないか? いや、大丈夫だ。  あの〈機械人種《マシン・ピープル》〉の女を疑うなんて、自分は狂ってしまったにちがいない。これは実はヴァラヴァージリンの戦いなのだ。誇大妄想狂なら指揮権にしがみつくところなのに、彼女は〈|屍肉食い《グール》〉を仲間に引き入れた。ヴァラヴァージリンの武器が彼らの生命を守っている……。  さあ、彼女の服だ。洗って、枝にかけてある。背嚢もいっしょに吊るしてある。ほらそこだ。  姿を見せる必要はない。剣をのばせばとどく。剣先を肩紐の下にすべりこませて引き寄せ、腹這いのままあとずさりして繁みの中にもどった。  背嚢はこれまで見てきたのと同じく簡単にひらいたが、内部にはポケットがやたらとついていた。外側は革で、裏地には織りが非常に細かい布が使われている。火付け道具は、遠い土地から交易で手にいれた彼のものと同じくらい立派なものだった。毛布、奇妙な水筒(何もはいっていない)、湿った石鹸を入れた箱、銃弾と空っぽのハンドガン。  銃だ。  テガーにとって、これは生死を分けるものになるかもしれない。でもそれはまた、泥棒という行為と現在の彼とワーヴィアの状態──それをいい表わす言葉はないが、泥棒[#「泥棒」に傍点]という言葉はあらゆるヒト型種族が知っている──とを分ける問題でもあるわけだ。 「狂気の沙汰だ」  荷物をもとのようにつめようとした。疑われずに背嚢をもとにもどせるだろうか?  静寂の中に彼はつぶやいた。 「おれには〈機械人種《マシン・ピープル》〉の火薬を要求する権利はない。その秘密を盗めばれっきとした泥棒[#「泥棒」に傍点]だ」  そして背嚢を閉じ、またひらいた。何かヒヤリと[#「ヒヤリと」に傍点]した感触があったのだ。  裏地だった。ひどくつめたい。だが触れているとすぐ冷気は消えた。  指でこすってみた。目を近づけてみてもわからないほど織り目が細かい。その裏地が何枚も重なってついている。  つまんでひっぱってみた。弱い素材の縫い糸がほつれ、一枚がはがれた。  向こうがすけて見えそうなほど薄い。もとへもどす方法もない。これはなんだろう? 〈|ささやき《ホイスパー》〉は何を気にしていたのか?  布を短衣《キルト》の懐につっこんだ。そこのほうが背嚢より見つかりにくいだろう。それからヴァラヴァージリンの背嚢を閉じた。剣で枝にもどす──たぶん同じ枝にもどせたはずだ。  かつての仲間たちが岸辺の上流にも下流にも、繁みの中にもいる。おそらく彼を追っているのだろう。もうここを離れたほうがいい。  テガーは藪がとぎれるまで膝で這って進んだ。それからしだいに濃くなる霧にまぎれて、むきだしの泥の上を走った。  川幅が広くなり、それにつれて泥地の岸もひろがった。やがてクルーザーは見えなくなった。 〈|川 の 民《リヴァー・フォーク》〉のことは気にならなかった。空中と水中の両方でものを見る目では、彼を見分けることはできないだろう。テガーの足ほど速くは泳げないし、歩くこともほとんどできない。クルーザーに知らせられるはずがない。たとえ知らされても、そのときにはさらに遠くまで逃げている。  もう完全にひとりぼっちだ。  そう考えると、引き裂かれそうに胸が痛んだ。四つの種族からなる仲間は同志であり友だったが、彼らのことはほとんど気にならなかった。彼の嘆きはただワーヴィアのためだった。伴侶となってから、いや、ほんの子供のころから、ふたりは数日と離れていたことがなかったのだ。  世界が変わらないかぎり、もう二度と彼女と顔を合わせることはできない。  走りつづけるうちに川の様相も変わっていった。岸が砂地になり、砂利になり、いまは水辺近くのむきだしの岩に一群の木が根をおろしていた。幅のせまい急流になったので、それに沿って行くにはわきの崖をのぼらなければならなかった。  川向こうの、張り出した岩のささやかな日陰に、三匹の吸血鬼《ヴァンパイア》とその子供がうずくまって逃げ出す彼を見ていたが、追ってこようとはしなかった。  一日じゅう彼は走りつづけた。 [#改ページ]      8 ワーヴィアではないという理由で  正午からずっと雨が降りつづいている。  ヴァラヴァージリンはいたるところ泥だらけの岩の上で懸命に道をさがした。車は転倒こそしなかったが、しじゅうかたむきスリップしながら、下流の〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉に向かっていた。  夜が太陽の一端をかじりはじめたころ、ヴァラはすでに戦いに有利な場所を選び出していた。  このあたりの川幅は四百|歩幅《ペース》だ。ルーバラブルとファドガブラドルに危険が及ぶおそれはない。クルーザーは水タンクをいっぱいに補充して頂上に向かった。このあたりの山は〈|炎 の 障 壁《バリアー・オヴ・フレーム》〉の麓の丘にすぎないが、あのいちばん高い山ならいいだろう。  クルーザーがスリップして崖から落ちそうになった。この雨は吸血鬼《ヴァンパイア》の歩みもさまたげてくれるだろうか? もっと早く野営をはっておけばよかった。  それでも昼の光が残っているあいだに、選んだ野営地にたどり着くことができた。  二台のクルーザーをいくらか離し、キャノンが外へ向くよう背中合わせに配置した。食事に煮炊きが必要なものたちは、光があるうちに陽よけの下で料理をした。ワーヴィアがかなりの大きさの獲物をしとめ、〈機械人種《マシン・ピープル》〉たちにも分けてくれた。最後の光の中で水を浴び、それからクルーザーから少し離れた場所にタオルを積みあげた。 〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉たちは中にひっこんだ。彼らは雨を嫌うし、夜は必ず睡眠をとる。残りのものたちは話したり眠ったり、あるいは何もせずただじっと待った。 〈|屍肉食い《グール》〉の忠告がほしいところだ。彼らは〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉を見おろす花崗岩のてっぺんにすわりこみ、火の消えた焚火と仲間たちに背を向けて、自分たちの言葉で話し合っていた。ヴァラヴァージリンの目にはふたりしか見えないが、声はもっと大勢いるようだ。  話をするのはもっぱら〈機械人種《マシン・ピープル》〉ばかりだった。それならそれでかまわない。  ヴァラはいった。 「吸血鬼《ヴァンパイア》がきたとしても、ここまでのぼってくるあいだには疲れはてているはずよ。こっちの匂いはみんなタオルにしみついているから、それがやつらの気を逸らしてくれる。簡単にやっつけられるわ」  ──意見を聞かせてほしい。何か見落としはないか──?  バロクがいった。 「吸血鬼《ヴァンパイア》どもは狩りからもどって[#「もどって」に傍点]くるんだ。巣のこんな近くで狩りができるとは考えてもいないだろう。獲物なんかもう残っていないはずだからな」 「そうね」  チットがいう。 「くるときは集団だな」 「それはそうと」と、ケイ。「川の砂利を三樽ほど集めておいた。ヴァラ、あんたも要るかい? どっちにしても火薬は使うが、弾の節約になる」 「助かるわ」 「ワーヴィアのぐあいはどうかな?」  ワーヴィアがいった。 「ワーヴィア・フーキ=マーフ・サンダーサルは自分で話せます、ケイワーブリミス。ワーヴィアは健康です。テガーを見かけましたか?」  ヴァラは答えた。 「いくつかなくなってるものがあったわ。背嚢いっぱい分くらいの必需品よ。ぜんぶ一号車から。テガーの泥棒の腕は最高ね」  彼女の背嚢もかきまわされていたが、なくなったものはないように思われたので、そのことは口に出さなかった。 「つぎの質問。明日はどうしましょうか? 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉? 〈|嘆 きの 管《グリーヴィング・チューブ》〉?」 「ちょっとあれを見てくれ」〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉がいった。  ヴァラも彼らのいる岩にのぼった。頂上は平坦で、触れるとつめたい。ワーヴィアがついてきたのに気づいた彼女は、手をのばしてひきあげてやった。  下流では〈|故郷の流れ《ホームフロー》〉がいくつにも分かれている。その主流を目でたどっていくと、影の下にはいりこむ。〈|浮 揚 工 場《フローティング・ファクトリー》〉は不吉なほど近く、大きく見える。  湿った毛皮の匂い以外、〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チュープ》〉からはほとんどなんの匂いも漂ってこない。 「ヴァラヴァージリン、あの〈|浮 揚 工 場《フローティング・アーファクトリー》〉の下が見えるか? こちら側のちょっと右よりに、螺旋状のものがさがっているだろう?」  ワーヴィアが説明したとおり、円盤は真ん中が高くもりあがっている。その下は……下は影で、端のあたりが絶えずざわめいているようだ。 「いいえ」ヴァラは答えた。 「見えます」と、ワーヴィア。「昼になったら絵を描きましょう」 〈|屍肉食い《グール》〉はつづけた。 「ワーヴィア、あのぶらさがった螺旋は、大きな機械でもあがれるほど幅の広い斜路なのだ。機械がすべらないよう片方の端に歯が刻んであり、もう一方の端は階段になっている。もう何世代ものあいだ、あれを見たものはいない。いまいった話は、ずっと回転方向《スピンワード》にある図書館に保存されていた、二十世代以上も昔の情報だ。数日前サールの砦でわたしに伝えられた」  伝えられたってどうやって?  しかし通信手段は〈|屍肉食い《グール》〉の秘密であり、ヴァラがいま知りたいのは──。 「あの浮揚物の地図[#「地図」に傍点]があるというの?」 「そうだ。〈都市の墜落〉以前、さまざまなものが作動をやめてしまうより前のものだ。詳しいことは昨日、まだ雲の上にいるときにとどいた」 「それは──」 「あれは地面に触れていません」ワーヴィアがいった。 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉がこたえた。 「そうではないかと思っていた」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。 「われわれとても誰ひとり、ずいぶん長いあいだ、あれに近づいたことはなかったのだ。ルイス・ウーが海を沸騰させる以前は無意味だったし、それ以後はあまりにも危険だった──」  ヴァラは口をはさんだ。 「ワーヴィア? 斜路は地面に触れていないのね?」 「遠くてよくわからないけど、宙づりになっています。斜路のいちばん下はシャベルのようにたいらで、まわりの吸血鬼《ヴァンパイア》の身長の二倍くらいの高さにあるようです」 「それは予想していなかった」と、〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉。「なんとかしてあの〈|浮 揚 工 場《フローティング・ファクトリー》〉にはいりこめないかと考えていたのだが。そうすれば吸血鬼《ヴァンパイア》はわれわれを追って、せまい道に押しよせてくるだろう。やつらは群れになって行動するからな。そして上までくれば、直射日光を浴びることになる」  ヴァラはグッと怒りをこらえた。長年の訓練のおかげで、そうむずかしいことではなかった。 「わかったわ。でも、とどかないんでしょ?」 「わたしにはどうすればいいかわからない」と、〈|竪琴弾き《ハープスター》〉。「だがここにはわれわれ以外にも頭脳がある。みんなで考えるとしよう」  人生から逃げようと、霧と靄《もや》をついて走りながら、ずっと足もとに気をとられていたテガーには、周囲の脅威に目をとめるだけの余裕がなかった。だが嗅覚が危機を告げた──ワーヴィアの記憶に顔面を殴りつけられたかのように感じて、呼吸がとまった。  彼は立ちどまって身がまえ、肩ごしに手をのばして剣をとった。  いくつもの指が顔をまさぐった。彼は耳と目で正体をとらえるより早く、腰の高さで前後に剣を振りまわした。  女の歌が苦痛の悲鳴にかわった。のどの高さに剣を突き出すとその歌はとまった。テガーは両手で耳をふさいで走った。  ひたすら走った。  この匂いは知っている!  女は背後で死にかけているが、鼻孔に襲いかかる匂いは走りつづける足よりも鮮明に女の姿を見せつけた。着ている革のマントは大きすぎ、ボロボロで、それを翼のようにひろげると、その下は裸体だった。歌は苦しいほどに甘い。おそらくまだ若いのだろう、しなやかで青白い肌、豊かな白い髪、とがった犬歯が赤いくちびるからのぞいている。  吸血鬼《ヴァンパイア》だ!  毎夜毎夜、やつらはサールの砦の外で歌った。自分はあんな誘惑には屈しない──テガーは繰り返しそう主張した。だが漂ってくる匂いはさらに奥深く、いちばんやさしいときのワーヴィアの香りだった。だがもっと強烈だ。  荒い息をついて鼻から、心から、それを閉め出し、彼は走りつづけて──。  霧を抜け、ようやく足をゆるめて立ちどまった。  この一ファランのあいだ、彼はほとんどの時間を、サールの集落の外につくった焼き物の浮き彫り地図を調べて過ごした。いま目の前に展開しているのは、彼が蟻になって、その目の高さでそれを見ているような眺めだった。  這いずるように大きな岩のうしろにまわってもう一度ふり向き、〈|浮 揚 工 場《フローティング・ファクトリー》〉の周囲の生き物を眺めた。  蟻塚を見つめる蟻だ。  まだかなり遠方だが、〈赤色人《レッド》〉の視力は優秀だ。人間の形をしたものが、人間らしい動きをしている。仕事をしているのか、あるいは小さなグループごとに集まっているみたいだ。姿勢から見て赤ん坊と思われる荷物を負っているものもいる。巨大な円盤の下にひろがる黒い影から出たりはいったりしている──その頭上には、一個の都市に当たる質量が浮かんでいるのだ。 〈|屍肉食い《グール》〉はあれを工場の集合体と呼んだが、テガーにとっては〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉の都市にほかならない。それがいまは吸血鬼《ヴァンパイア》の都市だ。  川のほうに出ている数人を含めても、いま目にとまる吸血鬼《ヴァンパイア》は二十匹ほどだが、〈|浮 揚 都 市《フローティング・シティ》〉の影にいるその数は何千にものぼるだろう。もしあれを落下させれば大半を押しつぶすことができる。榴散弾を水平にばらまけば、残りの連中もほとんどやっつけられるだろう。  何かがぶらさがっているのが見えた。支えのない螺旋階段みたいだ。下の端は見えない。もしかするとあそこから都市にはいれるかもしれない。  だがどうやってあそこまでいく?  流れる霧を透かして見るかぎり、〈|浮 揚 都 市《フローティング・シティ》〉は〈|故郷の流れ《ホームフロー》〉がいくつもの支流をきざんだ広い泥地ぞいに千二百|歩幅《ぺース》ほども下流にある。主流は都市の下にはいりこみ、多くの支流がそれをとりまいている。川のいたるところで吸血鬼《ヴァンパイア》が陽光のもとに出てきて水を飲んでいる。  その〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉のすぐ近くで、水路は巨大な何かをあいだにはさんでふたつに分かれている。それは明らかに人工物で、なかば泥に埋もれ、傾いた大きな四角い面をこっちに向けている。〈都市の墜落〉の遺物にちがいない。付近の吸血鬼《ヴァンパイア》はそれを気にかけてもいないようだ。  残念なことに彼は泳げない。水に姿を隠したまま下流までいけるだろうか? それとも凍えてしまうだろうか? それとも吸血鬼《ヴァンパイア》に近すぎるため匂いに負けてしまうだろうか?  さっきの吸血鬼《ヴァンパイア》の女の匂いは鼻からは消えたものの、まだ心に残っている。  近くに〈|川の人種《リヴァー・ピープル》〉はいないだろうか? 助けてもらえるとありがたいのだが。  霧が視界を横切り、こまかい雨が身体を濡らす。その彼の耳もとで、霧の中の声がささやいた。 「ではおまえは、本当に自分で信じていたほど強かったわけだ」  テガーは鼻を鳴らした。丸腰の女[#「丸腰の女」に傍点]──攻撃されたわけでもない。あれはただの殺戮だった──。瀕死の吸血鬼《ヴァンパイア》によって見せつけられた自分の本性から目をそらそうとして、彼は別の謎にしがみついた。 「どうやっておれより先まわりできたのだ、〈|ささやき《ホイスパー》〉?」  沈黙。 〈|ささやき《ホイスパー》〉は〈都市の墜落〉のあとが残っている機械のようなものなのではないかとテガーは思った。さもなければ、恐るべき秘密をかかえた|道の精霊《ウェイスピリット》だ。〈|ささやき《ホイスパー》〉は〈|ささやき《ホイスパー》〉自身に関する質問には答えない。  では別の質問──。 「あの〈|浮 揚 都 市《フローティング・シティ》〉を〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉の上に落とす方法はないのか?」  ささやきの主が答えた。 「わたしにはわからない」 「父から聞いたんだが、〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉は稲妻を銀の糸に通してエネルギーを得ていたそうだ。だからそれをとめればいい! 糸を見つけ、切るんだ!」 〈|ささやき《ホイスパー》〉が答えた。 「〈|浮 揚 工 場《フローティング・ファクトリー》〉のプレートはそのエネルギーを使ってつくられたが、そのエネルギーで浮かんでいるわけではない。あれは、〈アーチ〉の床材であるスクライスに反発するようにつくられており、その力で浮かんでいるのだ」  では落とすことは不可能だ。最初から不可能だったのだ。テガーはいくぶん苦々しさをこめていった。 「おまえはいろんなことを知っているな。それに、いろんなことを隠している。おまえは〈|屍肉食い《グール》〉なのか?」  沈黙。  |道の精霊《ウェイスピリット》には、距離などないに等しいのだと考えることもできるだろう。あるいは狂気の妄想なら思考と同じくらい速くてもおかしくない。でも、〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉が〈赤色人《レッド》〉よりも、死にもの狂いのテガーよりも速く走れるのなら、〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉より速く走れるものがいるかもしれない。  だが、〈|屍肉食い《グール》〉にはそんなことはできない。〈|屍肉食い《グール》〉なみに謎めいた何かだが、〈|ささやき《ホイスパー》〉は〈|屍肉食い《グール》〉ではありえない。  霧が流れ、景色が見え隠れする。あたりはもう夜の暗さに近い。ときおり雲の切れ間から垂直な青白い輝きがのぞく。テガーの世界に何が起きようと、〈アーチ〉は何ひとつ変わらない。  浮揚物の下の動きが活発化したような気がする。暗くなったからだろう。吸血鬼《ヴァンパイア》たちが起き出してきたのだ。  テガーはいった。 「隠れなくては」 「場所はあるが、おまえには役に立たないかもしれない」 「なぜだ?」  たずねると同時に、汗が腕をつたい落ちているのに気づいた。大半は雨だ。でもこの匂いは一|日徒歩距離《デイウォーク》離れたところからでも吸血鬼《ヴァンパイア》を惹きつけるだろう。  じっとしていると霧があたり一帯を包み──〈|ささやき《ホイスパー》〉の声もとだえた。  テガーは四つん這いになって川のほうへおりていった。水の中に踏みこむ前に剣を抜いた。茶色い水の下に何がひそんでいるかわからない。魚がかすめていけば夕食にありつけるのだが。  短衣《キルト》が水に触れたところで足をとめた。ヴァラヴァージリンの布は濡らしても大丈夫なのだろうか?  短衣《キルト》から布をとり出した。半透明で、とても薄く、とても強靭だ。さっきは布を透して自分の手が見えたが、いまはもう暗すぎる。彼がこの布の存在に気づいたのは、ヒヤリとつめたかったからだ。だが短衣《キルト》の中におさめた瞬間につめたさはあとかたもなく消え、半日走っているあいだ、まったく思い出しもしなかった。  端っこを川につけてみた。  溶けない。大丈夫だ。だがその瞬間、指でつまんでいる上端が、足を洗っていく川と同じくらいつめたくなった。  全身を川に浸して苔で手足をこすり、すぐにあがっていそいで身体を拭いた。風雨の中でも走っているあいだは暑かったが、いまは走っていない。背嚢にポンチョと火付け道具がはいっている。  ヴァラの布は熱や冷気を伝えるものらしい。  もしそうなら──。 「〈|ささやき《ホイスパー》〉、ヴァラヴァージリンの布の端を火に入れるとどうなる? 燃えるのか? 手に持っていられないくらい熱くなるのか?」  だがこのむきだしの泥の上に〈|ささやき《ホイスパー》〉がいられる場所はない。  ここで火を燃やすのは気違い沙汰だ。ヒト型種族は火を使う。吸血鬼《ヴァンパイア》がいかに愚かでも、火を目標にすることくらい知っているだろう。それでもテガーはためしてみたい気持ちを捨てきれなかった。  顔を拭き、タオルをおろしたとたん、こちらに向かって走ってくる六匹の吸血鬼《ヴァンパイア》が目にとまった。彼らは歌っていなかった。足をとめ裸体を見せて誘惑しようともせず、ひたすら近づいてくる。  テガーは剣をひっつかんだ。  彼らは剣にひるむ様子も見せなかった。速度をそろえて展開しながら一団となって襲ってくる。テガーは左に走って剣をふるった。まぐれ当たりで手傷を負ったらしい二匹が戦列を離れたようだが、たしかめている余裕はない。残る四匹が彼をとり囲んだ。  彼は動きをとめて剣を垂直にかまえると、一挙動で後方を牽制し、ついでまた前方に向きを変えた。子供のころ、木の棒を使って遊んだのと同じ要領だ。大人たちはこのやりかたで〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉と戦ったのだ。  負傷した二匹が坂上の影のほうへ後退した。いま彼を囲んでいるのは三匹の男と一匹の女だ。  彼は知らなかったが──遠征隊の誰も知らないことだったが──獲物よりも六対一以上に数で勝っているときには、吸血鬼《ヴァンパイア》どもは歌や匂いで誘惑する手間をかけない。ただ単純に攻撃してくるのだ。  生きのびられたらクルーザーにもどって、このことを知らせなくてはならない。またワーヴィアと顔を合わせることになっても。  ああ、ワーヴィア。  吸血鬼《ヴァンパイア》どもにいそぐ気配はなかった。そうする理由など何もない。さらにいくつもの影が〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉からこちらに向かってくる。山の向こうの土地からもどってくる連中もいるだろう。  闇が落ちようとしていた。 「〈|ささやき《ホイスパー》〉」彼は叫んだ。「おれを隠してくれ!」  何も起こらない。雨はやんでいた。ここは広い泥地だ。こんどこそ|道の精霊《ウェイスピリット》の隠れる場所はどこにもない。  匂いだ。  強烈ではないが、頭の中にはいりこんで出ていこうとしない。さっき殺した吸血鬼《ヴァンパイア》の女のことが脳裡に浮かぶ──殺したのは、彼女がワーヴィアではなかったからだ。思考の暴走──でもそれをとめなくてはならない理由もない。  女が両腕をひろげて懇願した。  テガーは飛びすさり、ふり向きざまに剣を横にはらった。  やはり!  女に心を奪われているあいだに、男どもが背後に集まっていた。彼の剣がその目をなぎはらい──二匹めのははずれたが──返す刀がそいつののどを切り裂いた。ついでふり向きもせず、女がいるはずの場所に突きを入れた。柄まで刺し貫かれた女の身体がのしかかり、バランスを崩した彼の腕に歯が食いこんだ。片手で女を突き飛ばしながら、彼は悲鳴をあげていた。  男の一匹は血の跡を残しながら這いすさっている。もう一匹は目が見えなくなったようだ。三匹めの、目にはいった血をぬぐいながらこっちを見つめているやつののどを、テガーは両手でつかみ、体重をかけて泥の中に押し倒した。  あとはもう無我夢中だった。  男がテガーの肩をつかんで引きよせ、歯を立てようとする。テガーはそいつを激しく揺すぶりながら首を絞めた。それからようやく岸にあがりかけた女を追って、その身体から剣を引き抜いた。  すぐ近くに倒れて死んでいたはずのやつが足に噛みつこうとしたので、とどめをさして先へ進んだ。目をやられたやつが匂いを頼りに近づいてきた。テガーはそいつの首に三度斬りつけてようやく切り落とした──刃が棍棒のようになまくらになっていたのだ。  気がつくと彼は病気の家畜のように鼻を鳴らしていた。流れる霧の中に〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉からやってくる影が見える。  ──背嚢だ。背嚢を忘れるな。いいぞ。ではどこへいく──? 「〈|ささやき《ホイスパー》〉、おれを隠してくれ!」  答える〈|ささやき《ホイスパー》〉の声は、すでにささやきではなかった。 「こっちへ向かって走れ!」  ややどもりがちだが笞のように鋭い命令が、〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉のあるはるか下流から聞こえた。  テガーは走った。  百|歩幅《ペース》ほど進むと、こんどはかなり近くでまたその声がいう。 「川にはいれ!」  その声のする左のほうへ向きを変え、テガtは川の中へ踏みこんだ。  そっちに何かあるのか?  雨と闇の中で霧に映る影。物体にしては大きすぎる。そして一条の黒い筋……島だろうか?  吸血鬼《ヴァンパイア》は泳げない。泳げるなら〈|水棲人種《ウォーター・ピープル》〉は知っていたはずだ。だがテガーも平地の住民で、泳いだことは一度もない。  くるぶしの深さ、膝の深さ……。立ちどまって背嚢を背負いなおす。短衣《キルト》はない。おいてきてしまった。剣は背中の鞘におさまっている。泳ぐには両手をあげておかなければ……ルーバラブルのようにはいくまいが……いや、そもそも〈赤色人《レッド》〉が泳げるとしての話だが。  そして彼は走りつづけた。膝の深さ、ずっと膝の深さ……そしてまた浅くなった。 「こっちだ」どこかずっと遠くから〈|ささやき《ホイスパー》〉の声が呼ぶ。「下流の端までいけ」  膝の深さの川を三十|歩幅《ぺース》ほどいったところで、彼は島[#「島」に傍点]というにはあまりにもお粗末な黒い中州にたどり着いた。吸血鬼《ヴァンパイア》どもは岸に群がっている。一匹、また一匹と、彼を追って水にはいりはじめた。  彼は下流に向かって泥の上を走った。  頭上の影が、霧のいたずらとしか思えないほど大きくなった。吸血鬼《ヴァンパイア》は水の中に踏みこんでまで戦うだろうか。ここが自分の終焉の地となるのだろうか。  死を恐れはしない。おれが吸血鬼《ヴァンパイア》の女を殺したのは、単にそれがワーヴィアではないという理由からだった。だが六匹を殺したときは、あの夜の所業を責めて、繰り返しワーヴィアを殺しているような気分だったし、それを誇りとさえ感じていた。  これ以上|吸血鬼《ヴァンパイア》を殺したら、心の中のワーヴィアまで失ってしまいそうだ。  泥地を進んでいくうちに、巨大な影が様相を変えた。霧にしてははっきりしすぎている。それが間近に吃立していた。剣で切りつけると何かに当たった。拳でたたいてみた。  霧のいたずらではない。打ちのばして重ねた金属のように、脆弱そうだが弾力がある。  ずっと遠くから見えた、あれだ。  明らかに人工物らしく四隅が直角の、あの傾斜したプレートだ。大きさは、半分が埋まっているとして、十五|歩幅《ペース》四方というところだろうか。うず高く積もった泥の山から四十度の角度で突き出している。  縁に沿って、ケーブルをとりつけるのにちょうどいい大きさの刻みが並んでいる。中央には太い柱が立っていて、地上に出ている角のひとつは滑車のようだ。いまは失われているが以前はケーブルが張られていたのだろう。  いちばん高く突き出た一端が大きくふくらんでいるのが見てとれた。 (〈|ささやき《ホイスパー》〉は黙っている。めったに話さないのは、こっちが自分の力で事態を切り抜けることを期待しているのかもしれない。でも、なぜ?)  吸血鬼《ヴァンパイア》の匂いもここまではやってこない。  数百ファランの昔、都市の墜落のときには、さまざまな乗物が雨のように空から降ってきたという。そのほとんどは埋もれたり腐食したりして消えてしまった。いまでも|浮 揚 車《フローティング・カー》の外殻や、それにたいていは壊れているが水のように透明な湾曲した板が見つかることがある──窓だ。ときにはもっと大きなものも。  たとえば、大きすぎて車には乗せられない荷物を運ぶための、こういった大型プレートだ。  霧がたちこめ、また晴れた。プレートのてっぺんのふくらみは石鹸の泡がくっつき合ったような切り子面で、やはり石鹸の泡のように内側が透けて見える。面のひとつは地虫の巣に蔽われたみたいに綱目模様になっているが、あとのものはきれいだ。  よじのぼろうとしたが、表面が雨と泥でツルツルすべって、とても無理なようだ。なんとかしなければ。吸血鬼《ヴァンパイア》の追跡を引き離したことはたしかだが、やつらだっていずれは水を渡ってでも追いついてくるだろう。  テガーは数歩うしろにさがり、プレートに向かって駆けだした。半分ほど駆けあがったところで勢いが尽き、両手を大きくひろげて前に倒れこんだ。泥もここまではとどいていない。しかもこのプレートは金属ではないのか、それとも金属の表面を何かが蔽っているのか──雨に濡れてもザラザラしている。テガーは四つん這いになってのぼりつづけた。  てっぺんのふくらんだ部分は一個のドームになっていて、いくつかの窓と彩色した金属でできていた。ドアらしいものが蝶番からぶらさがっている。テガーは指先で開口部の端をさぐり、身体を引きあげて中にすべりこんだ。  そこから下向きの窓ごしに見おろすと、女の吸血鬼《ヴァンパイア》が一匹、こっちを見あげているのと目が合った。  それが二匹になった。そして四匹に。  テガーは外側にぶらさがったままのドアに手をのばした。ふんばった足が何かパリパリしたものを踏み砕いたが、かまってはいられない。ドアは思ったよりも軽かった。それを持ちあげてきちんと閉め、ロックできないかと見まわすと、鍵と思われるものはあったが、かけかたがわからない。  吸血鬼《ヴァンパイア》どもがプレートをのぼりはじめた。すべり落ち、またのぼってくる。  このドアは防禦の役に立たない。やつらはこの傾斜をのぼれるだろうか? もしのぼってこられたら、そのときはここがやつらの食糧庫となるだけだ。 「〈|ささやき《ホイスパー》〉? つぎはどうすればいい?」返事のないことを知りつつ彼はたずねた。  返事はなかった。  あいつは下にとり残されたのだ。吸血鬼《ヴァンパイア》といっしょに。だが奇妙なことに、〈|ささやき《ホイスパー》〉の身を心配する気にはなれなかった。  背嚢をおろした。明かりがほしかったし、ここなら火を起こしても大丈夫だ。炎があがるまで火付け道具を打ちつけた。  それから、足の下でパリパリ音をたてたものを調べた。獲物や家畜の骨なら見たことがあるし、触れることで自分の骨格も理解している。踏み砕いたのは肋骨だったらしい。  この乗物の操縦者は見知らぬ種族で、〈赤色人《レッド》〉よりも身体が大きく、長い腕の持ち主だった。衣服はボロボロで色もわからない。頭蓋骨が床に落ちているのは、地面に激突したとき首が折れたのだろう。草食動物特有の大きなあごをしている。  ヒト型種族の骸骨。  してみると、結局〈|屍肉食い《グール》〉もここには来なかったわけだ。  都市が墜落したとき、〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉は想像を絶する忙しさで飽食したにちがいない。だからこの乗物によじのぼって|操 縦 室《コントロール・バブル》の死体を手にいれることができないと知ると、あっさり諦めたのだ。そのあと別の誰かがここまでよじのぼり──よほどの動機が必要だ──放棄された死体を見つけて〈|屍肉食い《グール》〉の怠慢を咎めるということもなかった。  ともした火の光の眩しさで、眼下の吸血鬼《ヴァンパイア》は見えなくなった。周囲の壁が輝いている。湾曲した窓の網目模様は、はじめに考えたような虫の巣ではなく、砕け散ってはいないがこまかく割れて縦横に走ったひびだった。ほかの窓は無事だ。  水平方向か垂直方向に動く、彼の指にちょうどいい大きさのスイッチが目の前に並んでいる。横の壁に手のひらの幅ふたつ分くらいの小さな開き戸と、その二倍ほどのドアもあったが、どちらもひらかなかった。床から突き出たハンドルがあり、六つの方向すべてに動かすことができたが、それには両手をかけ渾身の力をこめなくてはならなかった。すべてのスイッチを上下か左右の動かせる方向に動かしてみた。だが何も起きなかった。  火口《ほくち》が燃えつきそうになったが、ここには燃やせるものなど何もない。  もしワーヴィアがここにいたら。彼女ならなんとかするのでは?  もしワーヴィアがここにいたら。自分は決して疑ってなどいないといってやったのに。彼女はふたりの結婚を裏切ろうとしたわけではない。心の奥にはいりこんで魂を締めつける匂いに圧倒されただけなのだ。  自分はどれだけのあいだ、あの吸血鬼《ヴァンパイア》の歌を聞いていたというのか?  光が薄れると、いまや物欲しげに窓からのぞきこんでくる三角形の顔が見えた。  獣だ。脳は彼の半分しかない。あの女がドアというものを知っていたら、彼の生命はなかっただろう。だが真に危険なのは、匂いに惑わされて自分から出ていくことだ。  テガーは叫んだ。 「〈|ささやき《ホイスパー》〉!」  女は一瞬大声にひるんだが、答えるように歌いだした。 彼は拳を握り、全身の力を開き戸のひとつにたたきつけた。  開き戸がはじけるようにひらいた。そして、さして大きくはないその収納場所に、彼は必要なものを見つけた──燃えやすそうな乾いた薄いものでできた分厚い本だ。  吸血鬼《ヴァンパイア》の女──もう二匹になっている──は光にしりごみした。だがさらに男の顔が加わり、頭上の窓にしがみついて、待ちうけている。  収納庫の上に火をつけた紙をかざしてみた。そこには何冊かの本と──彼が破いたのは分厚い地図帳だった──乾いた黴《かび》でいっぱいの紙袋と、変わった形の短剣がはいっているだけだった。テガーは短剣を手にとった。  小さいほうのドアを殴りつけてみた。手は痛んだが、それはひらいた。  その中はただの浅いくぼみだった。深さは指の節ひとつ分くらいしかない。そこに小さな突起がいくつも、謎めいた迷路のように並んでいる。これが〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉の機械の心臓部だろうと思いながら、テガーは突起と突起をつなぐ銀の糸をさがした。それがエネルギーを伝えるものだと聞いていたからだ。だが残念なことにそれらしいものは見つからなかった。  指先で、ふたつの先端に触れてみた。  腕の筋肉がはげしい痙攣を起こし、彼は背中からシートにたたきつけられた。しばらくは呼吸もできなかった。  稲妻に触れるのは、こんな感じだろうか? エネルギーだ! だがあやうく死ぬところだった。  紙をもう一枚燃やし、くぼみの上にかざした。塵の細い線がいくつかの突起のあいだをつないでいる。彼が触れたときに散ってしまったものもあったようだ。  何かが心の中でひらめき、テガーはヴァラヴァージリンの布をとり出した。奇妙な短剣には刃がなく、切っ先も鈍い。しかたなくなまくらになった自分の剣で布を細く切り裂いた。  これを塵の線に沿っておけばいいのだ。  細く切ったヴァラの布をすばやく突起のあいだに渡そうとしたが、とたんに稲妻が腕を駆け抜け、はげしい衝撃に見舞われた。  あの匂い……永遠にこれと戦いつづけることはできない……だがいまのところ、まだ負けてはいない。心に歌いかけてくる吸血鬼《ヴァンパイア》をにらみつけながら、彼は必死で考えた。  手を蔽うか[#「手を蔽うか」に傍点]?  タオルをひっぱり出し、それを手袋代わりにして布片をつまもうとした。うまくいかない。だが短剣なら握れる。ヴァラの布片をくぼみに落とし、あの短剣の鈍い先端でふたつの突起をつなぐ位置まで移動させた。  何が突然光りだしたのかわからなかったが……光源は外部にあるらしい。太陽のような光を浴びた三匹の吸血鬼《ヴァンパイア》が悲鳴をあげ、あわてて光から逃げ出そうとした。二匹の女はプレートをすべり落ち、男は縁から転げ落ちた。  反射光で室内も明るくなり、もう火を燃やす必要もなくなった。  最初の布片をそのままに、ヴァラヴァージリンの布からまた細片を切り裂いて実験をつづけた。食いしばった歯が痛い。すすり泣く声はテガー自身のものだ。ドアから飛び出して、泥地まで二匹の吸血鬼《ヴァンパイア》の女を追っていきたくてたまらない。  だが、──ワーヴィア、ワーヴィア、おれはやったぞ! おれは稲妻を流すことに成功したんだ──!  だがそれにしても、なぜ光がともっただけで、ほかに何も起きないのだ?  照明が〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉の技術の中では、いちばん単純で長保ちするものだったというだけのことかもしれない。あるいは、照明には最小限のエネルギーで足りるが、ほかの名前も知らぬ驚異を起こすだけのエネルギーはもう残っていないのかもしれない……。  だが、そんなはずはない。  さっきはあれほどのショックを受けたのだ。どこからくるにせよ、エネルギーはある[#「ある」に傍点]。それがいま吸血鬼《ヴァンパイア》を追いはらってくれたのだ。  古い頭蓋骨はとてもきれいだ。何かが肉を食ったのだろう。〈|屍肉食い《グール》〉でないとすれば鳥だろうか? 大きな空っぽの眼窩が彼を見つめているような気がする。  頭蓋骨を大きなほうの収納庫に入れ、戸を閉めようとしたが思いとどまった。彼は大昔の操縦者に話しかけた。 「おまえもひどいめに遭ったんだろうな? おれも今日一日さんざんだったよ。でもおまえはたぶん、百呼吸もしないうちに……」  だが操縦者にとって、それは永遠にも感じられたにちがいない。小さな乗物が集団で、いっせいに墜落する……機能を失った送信機に向かって助けを呼びながら……。このすばらしい飛行機械のあらゆる部分が、光と生命を失って……。  ──なんてことだ──!  テガーは動かすことのできるスイッチをすべて動かしはじめた。ひとつのスイッチを動かすと光が消えたので、それはもとへもどした。  ──そうか──!  この乗物は墜落したときすべてのスイッチがはいっていたのだ。それを彼がさっきの実験でぜんぶ切ってしまった。照明だけ逆だったのは、落下したのが昼間だったからだ!  つぎに引き出せた反応は、ブツブツいうような音と、ものが焼けるような匂いだった。何かを壊してしまったのではないかと彼は不安にかられた。  そのつぎには|操 縦 室《コントロール・バブル》の中に風が起こって、吸血鬼《ヴァンパイア》の匂いを吹きはらってくれた。頭がすっきりさえわたり、テガーは勝利の歓声をあげた。  身体をよじって、窓のひとつから貨物プレートの裾を見おろした。吸血鬼《ヴァンパイア》の姿は見つけにくかった。照明は|操 縦 室《コントロール・バブル》の左右についているだけらしく、地上に影を落としており、吸血鬼《ヴァンパイア》は影のようなものだ。五匹見えたような気がしたが、実際にはその二倍はいるだろう。だが近づいてこようとはしない。  余裕ができると腹がすいていることに気づき、またここに何かがいるかもしれないことが気になりはじめた。でも、外はあまりに無防備だ。完全に夜が明けるまで待って、魚でも獲ろう。今夜はどうにかやり過ごせそうだ。  エネルギーは、稲妻は、どこからきているのだろう? 見当もつかない。  彼はまた布を指の長さほどに切って、実験をはじめた。 [#改ページ]      9 なつかしい顔 【〈|機織りの町《ウイーヴァー・タウン》〉──AD二八九二年】  崖にひらいた窓の中に浮かぶ、洗いざらしの服をまとったたくましい女の顔を、ルイスはじっくりと観察した。蒸気駆動の乗物で坂をくだっていく彼女の隣には同族の男が陣どり、屋根には小柄な赤い男がすわっている。 「三日前だって?」ルイスはたずねた。 「正確には九十時間です」 「ヴァラヴァージリンだとしても、あまり元気そうじゃないな」 「あなたもですよ、ルイス。きっと彼女も細胞賦活剤《ブースタースパイス》をとっていないのでしょう」  ルイスはそのあてこすりを無視した。 「年をとったな。もう十一年か……」  ルイス自身も生体工学がつくり出した加齢を防ぐ種子なしで十一年を生きてきた。ヴァラはそんなものには手を触れたこともないだろう。それにしてもあれは本当にヴァラヴァージリンなのだろうか?  まちがいない[#「まちがいない」に傍点]。ルイスはかつてあの女とリシャスラしたのだ! 「これで少しは確率が変わるのではありませんか、ルイス?」 「だとすると、ぼくと別れた場所から数万マイルも|右 舷《スターボード》にいることになる。彼女、そんなところで何をしているんだ?」 「吸血鬼《ヴァンパイア》の集落を襲撃しようとしているのだと思います。あれは彼女ですね? これでわたしのいいたいことがわかってもらえたでしょうか? たとえ十人の健康なヒト型種族を見せたとしても、あなたはそれは千人の死者に対して十人が生き延びただけだと考えるでしょう。でもこれは、放射能嵐以前にあなたと知り合いだった女の、明らかに現在の映像です。これで確率はどうなります?」  ルイスは椅子代わりに使っている、水でなめらかに削られた丸石の上で身じろぎした。 「これは現在の映像なのか、〈至後者《ハインドモースト》〉?」 「九十時間前です」  ルイスは十一年間拒んできた質問を口にした。 「つまり、ティーラが嘘をついたといいたいのか? なぜだ[#「なぜだ」に傍点]?」 「行動の指標となる情報が不足していたのです。知性が高まると驕慢さも増します。それに彼女は自制心らしいものを見せたことが一度もありませんでしたね、ルイス。わたしのコンピューターを使えば、彼女にもわたしと同じことができたはずです。でも太陽から引き出したプラズマ柱をどれだけ正確に扱えるのか、彼女は理解していませんでした。わたしはプラズマ柱を外壁の姿勢制御ジェットに向けて送りこみました。ですからプラズマは一度もリングワールドの表面を横切ってはいないのです。彼女が恐れていた放射能は……もちろん自然環境《バックグラウンド》・レベルよりはかなり高くなりましたが」 「それで縁《リム》は──」  ルイスは〈至後者《ハインドモースト》〉の言葉を信じはじめていた。 「そう、もちろん縁《リム》にです」 「〈|こ ぼ れ 山 人 種《スピル・マウンテン・ピープル》〉は無事だったのか?」 「外壁の五パーセントで、おそらくかなりの死者が出たでしょう」  ルイス・ウーが会ったこともない一千万か一億の人々。種族もさまざまだろう。  そう考えながらもルイスはいった。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、ぼくはあんたに謝らなくてはならないようだ」  鐘のような音がした。〈至後者《ハインドモースト》〉がいまの言葉を記録にとどめたのだろう。  それから、パペッティア人はいった。 「話は変わりますが。見張り台に乗っている男を見なさい。これは〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉ですか?」 「ああ。外壁からそれほど遠くない土地に住んでいる小さな赤い肉食人種だ。ものすごく足が速い」  坂をくだる大型ワゴンの映像は突然早送りになり、マッハ五の速度で丸石を避けながら流れる雲の中にはいりこんで岩の迷路のあいだに姿を消した。 「しばらく見失っていたのですが」と、〈至後者《ハインドモースト》〉が説明した。「十五時間後にこれを捕らえました」  小柄な赤い男が川岸を走っている。マッハ十二はあるだろう。  ルイスは笑った。 「あの連中だって、こんなに[#「こんなに」に傍点]速くはないさ」 「さっきいたのと同じ男ですか?」 「わからない。速度を落としてくれ」  赤い男はオリンピック選手が目標とする程度にまで速度を落とした。 「彼みたいだね」 「赤外線映像にします」  暗い崖にひらいた輪郭の曖昧な窓の中で、黒い川に沿って光を放つ岩のあいだをピンク色の明るい影が走っていく。まばゆい緑のカーソルがそれ[#「それ」に傍点]を指した。 「これはなんでしょう?」  走るピンクの影。そしてもうひとつ。あの〈赤色人《レッド》〉は淡々と走りつづけているが、それより温度の高い何かが岩から岩へと身を隠しながらすばやく移動しているのだ──。 「スピードを落とせ!」  ──こんどは繁みの中、そしていまは[#「いまは」に傍点]どこだ? 〈赤色人《レッド》〉の足も速いが、それ[#「それ」に傍点]はほとんど姿を見せないようにしながらピッタリ追尾していく。  その形は、ルイスにも見当がつかなかった。 「ルイス、〈族長世界〉の船が三隻、燃えましたね。わたしはプロテクターの仕業ではないかと思っています。ここにいるのが、そのプロテクターなのではないでしょうか」 「〈|屍肉食い《グール》〉かもしれないぜ?」  赤い影がおそろしい速さで流れ、それから通常の映像にもどった。〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉がひとりで走っている。すぐそばでときどき動くものがあり、男は絶えず視線を動かしている。  何かがその目の前に現れた。男は剣を抜いて──。  静止《ポーズ》。そして、緑色のカーソルが動いた。 「〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉。吸血鬼《ヴァンパイア》。ほかに何か見えますか?」 「赤外線で見せてくれ」  赤外線映像に現れた人影は、五つ[#「五つ」に傍点]あった。通常映像では……。  カーソルが指し示す。 「〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉。吸血鬼《ヴァンパイア》。これとこれは〈|屍肉食い《グール》〉です。よく見て」  ルイスは〈|屍肉食い《グール》〉を思い出した。薄暗い繁みに隠れているが、あのヒョロリとした姿はまちがいない。  だが五番めの光は〈|屍肉食い《グール》〉からも身を隠している。やっと見分けられるその手は、〈|屍肉食い《グール》〉のものより小さく、毛もほとんど生えていない。関節が節くれだったゴツゴツした老人のような手だ。  プロテクターだろうか? 「なぜここにプロテクターが関わってくるんだ?」 「わかりません。でもこれを見て」  早送り。  吸血鬼《ヴァンパイア》の女が半死半生で倒れている。走っていた〈赤色人《レッド》〉は立ちどまり、川の中に飛び込み、ふいに六匹の吸血鬼《ヴァンパイア》と闘いはじめた。その動きがグッと緩慢になった。〈赤色人《レッド》〉の剣がグルリと円を描く……その背後で女が身をよじった……一本の手が女の足首をつかんでいる。  そいつは全身に泥を塗った土色の姿をしていた。節くれだったその手は女に触れ、つかむとすぐ離した。女はやみくもに爪をふるったが、何も見えなかったのでまた襲撃にもどり、赤い男の剣で死んだ。 「効率的だな」ルイスはいった。  背後のカサカサという音に、彼は気をそらされていた。 「秘密主義です」〈至後者《ハインドモースト》〉が答えた。 〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉が泥の上を走っている。吸血鬼《ヴァンパイア》が集まってくる……だがもう何もかもずっと彼方だ。 「撮影可能な範囲を出てしまったので、わたしはしばらく彼を追うことができませんでした。隠れていたものの姿も見失いかけたのですが、気になるものを見つけました。これを見なさい」  川沿いにもどったカメラの視野で水煙があがり、その影はすばやく坂をあがって暗がりの中へ消えた。  ルイスはいった。 「いったい──」 「もう一度、こんどは赤外線で映します。これだとほとんど見えませんが」 「ああ。もちろん水の中で冷えたからだろう。どこに向かっているんだ? 吸血鬼《ヴァンパイア》の巣か?」  さっきのシーンがコントラストを強めてまた繰り返された。  水しぶき──何かが水から出て、ギクシャクした動きで坂を駆けあがっていく。静止《ポーズ》──映りは悪いが明らかにヒト型種族だ。走る──暗がりにはいって見えなくなった。 「それきり姿を見せませんが、どう見ても吸血鬼《ヴァンパイア》ではありません。あれは〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉と、おそらくはその仲間たちを守っているのです。細心の注意をはらって身を隠しながらね」  水浴場のまわりのカサカサと音をたてる藪の中に、〈|漁 師《フィッシャー》〉と〈舟人《セイラー》〉がずらりと並んで、宙に浮かんだルイス・ウーを見つめている──その視線は、岩壁にひらいた窓の中の遠い昼間の山並みにもそそがれている。  ルイスはたずねた。 「あんたはほかに何を知っているんだ?」 「この三時間、興味を惹くようなことは何も起きていません」 「〈至後者《ハインドモースト》〉、ぼくの頭はもう睡眠不足で死にかけてるんだ」 〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。 「待って。これ[#「これ」に傍点]は──」 「〈アーチ〉の弧を三十五度あがったところ、光速でも五分半の距離だ。あんたを傷つけるおそれはない。でもあんたのいうとおり、あれはプロテクターだな」 「ルイス! あなたは医療処置を受けなくてはなりません」 「無理だね。あんたの医療機《ドック》は着陸船《ランダー》に積んであったんだよ。忘れたのか?」 「居住区画の供給装置《キッチン》には医療用メニューがあります。ルイス、細胞賦活剤《ブースターズパイス》をつくることもできるのですよ!」 「細胞賦活剤《ブースタースパイス》は若返らせるだけで、治療はできない」 「あなたは──」 「いや、ぼくは病気じゃないよ。でも人間は病気にかかる[#「かかる」に傍点]ものなんだ。そしてぼくは、なぜ[#「なぜ」に傍点]まともに作動する医療機《ドック》がおいてないかを忘れてはいない。ハミイーとぼくは進んでこの仕事に参加したわけじゃなかった。だからあんたはぼくらが着陸船《ランダー》の操縦を断わるかもしれないと考えて、自動医療装置《オートドック》を着陸船《ランダー》に乗せ、それをティーラが焼いてしまった」 「しかし──」 「窓はそのままにしておいてくれ。ぼくが何かを隠していると思われたくないからね」  ルイスは立ちあがり、背を向けた。 「ルイス、わたしに反抗するのもいいかげんにしなさい!」  ルイスはさらに二歩進んだ。十一年間〈至後者《ハインドモースト》〉の話に耳を貸さずにきたあげくのぎごちない謝罪……カホな話だ。  彼は向きなおり、また丸石の上にすわりこんだ。 「じゃあ話してみろよ」 「ここにはわたし用の医療設備があります」 「ああ[#「ああ」に傍点]、そうだな」  〈至後者《ハインドモースト》〉は当然、考えうるかぎりの事故や不調に備えている。最初の訪問で片方の首を失ったネサスも、ちゃんと新しい首をつけたではないか。 「ピアソンのパぺッティア人のための医療装置か。そいつは人間にも使えるのかい?」 「ルイス、この技術はそもそも人間のものだったのですよ。ファフニールでクジン人の法執行人から買いいれたのですが、それが二百年以上前に太陽系から盗まれたARMの実験装置だったらしい。この装置はナノテクロノジーを使って内側から細胞そのものを修復します。二台めは結局つくられませんでした。わたしはそれを、人間でもクジン族でもわたしの種族でも治療できるように調整しなおしたのです」  ルイスは笑いだした。 「カホナ、あんたはまったく用意周到だよ!」  ニードル号にあるものの大半は人間の製品で、そうでないものは慎重に秘匿されている。たとえ〈至後者《ハインドモースト》〉が乗員を誘拐している最中に逮捕されたとしても、パペッティア人の〈惑星船団〉まで累が及ぶことはないのだ。 「そいつが見られないのは残念だな」 「居住区画に移すこともできます」  川の水のような冷気が背筋を駆けあがった。 「まさか本気じゃないだろう。もうくたびれ切って頭が働かないよ。おやすみ、〈至後者《ハインドモースト》〉」  ルイスは積層プレートを客用の小屋の横に停めた。地上におりると乾いた枝がカサカサと鳴る。彼は夜の中にそっと語りかけた。 「何か話したいなら、いつでもどうぞ。そこにいることはわかってるんだ。あんたが刺繍した短衣《キルト》を着ている仲間だってこともね?」  夜は答えなかった。  小屋の中にはいってもサウールはかすかに身動きしただけだった。彼はすぐさま眠りに落ちた。 [#改ページ]      10 〈|階段通り《ステア・ストリート》〉  腐敗の匂いでなかば目がさめた。  肘をギュッとつかむとがった爪の感触がその仕上げをし、ヴァラは悲鳴をあげて身を起こした。かろうじて発砲を思いとどまった銃をつきつけられて、〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が首をすくめた。 「ヴァラヴァージリン、きて見てほしい」  |ちくしょう《フラップ》。 「襲撃なの?」 「吸血鬼《ヴァンパイア》の匂いがするだろう。まだやってきていないことのほうが驚きだ。ほかのものに気をとられているらしい」  ヴァラは踏み板の上に出た。  大粒の雨が降っている。陽よけがあるためびしょ濡れにはならないが、視界は悪い。右舷反回転方向《スターボード・アンチスピンワード》、吸血鬼《ヴァンパイア》の要塞の方角で稲妻が踊っている。稲妻だけではない。斜面の下、川の方角に、安定した白い光が見える。  あれだけ話し合ったというのに、テガーが焚火をしたのだろうか? だが色がちがうし、焚火ならチラチラするはずだ。 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉が歩哨の持ち場である頭上の岩の上に陣どっていた。 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。 「ワーヴィアを起こしてくれないか?」 「いいわ」  ヴァラは荷台外殻《ペイロード・シェル》にすべりこんだ。ほかの人間を起こしてもしかたがないが、ワーヴィアならこまかいところを見てとることができるし、あれがテガーかどうかわかるかもしれない。 「ワーヴィア?」 「起きています」 「見にきてちょうだい」  降ったりやんだりする雨に見え隠れしながらも、やがてその光は点でないことがわかった。斜めに走る線なのだ。  フッと消え、またともる。  ワーヴィアがいった。 「テガーはものをいじるのが好きです」 「彼なの?」 「わかりません」〈赤色人《レッド》〉の女はピシリと答えた。  じっと見まもっていると、やがて〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。 「強い光は吸血鬼《ヴァンパイア》を遠ざけておくこともできるが」  ワーヴィアはもう岩にもたれて眠りこんでいる。  ヴァラはいった。 「何か変化があったら起こしてちょうだい。ここにいるつもりだけど、毛布が要るわね」  荷台外殻《ペイロード・シェル》にはいりながら彼女は考えた。二枚とってこよう。一枚はワーヴィアのために。  光が震えはじめた。ヴァラは足をとめてそれを見つめた。ついで、明るい光点が斜めになった線から分離し、まっすぐ上昇していった。  貨物運搬プレートは分解しそうな勢いで震動し、揺れ動いた。テガーはシートにしがみついた──ワーヴィアがいたら、彼女にしがみつくのだが。片手を離してヴァラの布片をはずすことができるだろうか?  できるとしても、本気ではずしたいのか? 歯がガチガチ鳴るが、こんな震動で死ぬことはあるまい。  なんのせいでこうなったのだろう? 壊れかけのモーターだろうか? それともモーターは指示に従って、埋もれた川底もろともこの運搬プレートを持ちあげようとしているだけなのだろうか?  そうした考えをもてあそびながら、テガーの指はスイッチを動かしていた。  |くそっ《フラップ》、これも明かりだ。これは反応なし。これも。これは風をとめた──もどしておこう。これを動かすとどこか下のほうで不吉なきしるような音がしたが、もう聞こえなくなった。  骸骨の膝に当たる場所の陰になったくぼみから、何かが突き出ていた。先がふたつに分かれた大きなハンドルだ……手をかけても動かない。  テガーは震える歯を噛みしめ膝で椅子を締めつけたまま、両手でハンドルを握ってひっぱった[#「ひっぱった」に傍点]。  何も起きない。よし。押した[#「押した」に傍点]。  押して、ひねった[#「ひねった」に傍点]。  手の下でそれがグラリと傾き、彼は頭を思い切り制御盤にぶつけてしまった。そして彼は空を飛んでいた。  ──布の切れ端! あれをはずさなくては──。  でも椅子から離れる勇気はなく、そしてたぶんそれがよかったのだろう。暗い夜の中にどんどん小さくなっていく川床が見えた。こんな高い場所から落下すればまちがいなく死んでしまう。  必死でかじりついている手か足を椅子から離すことができたら……この……バブルを操ることもできるのだろうが。眼下を走り抜けていく川に、なかば埋もれた四角いプレートがチラリと見えた。そのてっぺんがなくなって穴があいている。彼は運搬プレートから|操 縦 室《コントロール・バブル》を切り離してしまったのだ。  そして落下しはじめた。胃の腑でそれが感じられた。落ちて、落ちて、横すべり[#「横すべり」に傍点]して……川の上空二、三十|身長高《マンハイト》の空を内陸に向かっている。〈都市《シティ》〉のある方向だ。  操縦できないか?  何か方法があるはずだ[#「はずだ」に傍点]──〈|ささやき《ホイスパー》〉は信頼できるのだろうか?  彼をこの貨物運搬プレートへ導いたのは〈|ささやき《ホイスパー》〉だ。彼の手にヴァラの布をとらせたのも〈|ささやき《ホイスパー》〉だ。もし彼が実験をはじめなかったら、〈|ささやき《ホイスパー》〉はどうしていただろう? だが〈|ささやき《ホイスパー》〉はプレートを──もしくは分離した|操 縦 室《コントロール・バブル》を──いま彼が向かっている場所へ向けて飛ばせとは一度も示唆しなかった。損傷した機械はいま、飛行機械用の船渠《ドック》へ帰ろうとしている。  つまり〈|ささやき《ホイスパー》〉の最小限の手引きによって、彼は自分が行きたかった場所に向かっているのだ。〈|ささやき《ホイスパー》〉を信用したことでこうなったのだ。だが彼は〈|ささやき《ホイスパー》〉の正体も、またその動機も、何ひとつ知らない……。  窓をつたい落ちる雨のために外はあまり見えない。ひらめく稲妻とかいま見えるアーチ光に照らされて、頂上のたいらな塊りが近くにあるのが見えた。動きはわからない。  待て、この雨は渦を巻いている……ふいに彼は鳴きわめく鳥の群れに突っこんでいた。  吸血鬼《ヴァンパイア》が空を飛んでいるのかと一瞬思ったが、薄暗い雨の中でも彼には見分けがついた。これは青腹マカウェイ──〈赤色人《レッド》〉の領土にいるマカウェイと同じ鳥だ。ひろげた翼は彼が両手をひろげたときよりも大きく、滑空が巧みで、猛禽のくちばしを持っている。肉食で、その巨体は牧人の子供を運び去ることもできる。だがこれほど大きな群れをなしているのを見るのははじめてだ。  こんな中では操縦などできない。彼は両手で椅子の背にしがみついた。だが鳥の群れは大きく輪を描きながら去っていった。  バブルは停止していた。まだ空中だ。  平地人ではあったが、テガーはほかの部族と家畜の取り引きをするため一度だけ荷船に乗ったことがあった。だから川岸の桟橋《ドック》ならよく知っている。バブルはいま、その種の船渠《ドック》と思われるものの縁から一|身長高《マンハイト》くらいの位置に浮かんでいた。  空飛ぶ船はあの緩衝材のはいった縁に乗りつけるのだろう。縁から垂れているケーブルは船を繋留するためのもの。そしてあの大きな扉の背後の建物に積荷を入れるわけだ……。  鳥どもは関心を失ったらしく遠ざかりはじめている。マカウェイは夜烏ではない。  バブルは船渠《ドック》の反対側に入口を向けている。向きを変える方法くらいあるのでは? たぶん何かをひねれば……だがテガーはこんな高い空中で実験する気にはなれなかった。  ここで何が起きることになっている[#「なっている」に傍点]のだろう? 〈都市《シティ》〉の着陸信号を待っているのかもしれない。あるいはこっちから信号を送っているのか。もしかするとケーブルの一本がのびてきて船をとらえ、引き寄せてくれることになっているかもしれない。  だが何も起きない。 〈都市の墜落〉で停止したほかのものと同じく、この船渠《ドック》も死んでいるのだろうか?  こっちのドアは、最初見つけたときと同じようにひらいて蝶番からぶらさがっている。  背嚢と、剣だ。  テガーは小雨の中にゆっくり身を乗り出し、ぶらさがったドアの不安定な端に両足をかけて、バブルのすべりやすいてっぺんに向かって飛びあがり、ひらたくなってしがみついた。鳥がすぐそばまでやってきて彼を見おろしている。  バブルの表面を這い進み、斜面をくだりはじめた。もう少し。両手と膝をついて、もうちょっと。向きを変え、足をつっぱる。すべった。  飛びおりろ[#「飛びおりろ」に傍点]。  両足で何もない空中を蹴りながら両手足を大きくひろげて着地し、あごをぶつけた。船渠《ドック》の床はやわらかな木のような感触だった。  そのままじっとしていたかったが、鳥どもが甲高い声をあげながら降下してきた。彼は身体の向きを変え、剣を抜いて待ちかまえた。  近づいてきた一羽をたたき切った。 「彼は〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉の何か──古い車のようなものを見つけたのでしょう。それを動かして、あそこにあがったのです」  ワーヴィアは〈|浮 揚 工 場《フローティング・ファクトリー》〉の一端できらめく光に目をこらしている。  ヴァラはワーヴィアほどの確信が持てず、たずねた。 「何が見えるの?」 「光の向こう側は見えません。大きな鳥がグルグル飛んでいます。彼が飛びおりるのが見えたような気がします──」  急速に、光が弱まった。ひとしきりまばゆい閃光を放って消えた。 「彼は飛びおりました」ワーヴィアが断言した。「ヴァラ、わたしはもう倒れそうです。昼になったらもっと詳しく話します」 「わたしたちに何かできることはない?」 「ヴァラ、わたし、彼のところにいけるならなんでもします」 「〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉、何か考えは?」 〈|屍肉食い《グール》〉は首をふった。 「待たなくてはならないだろうな。ここは見晴らしもいいし、クルーザーをおいておくのにも都合がいい。ここに腰をすえてなりゆきを見よう」  マカウェイは生き餌を好むが、腐肉も食う。マカウェイの肉はひどくまずかった。  鳥を食ってしまうと、ずいぶん気分がよくなった。飢えは満たされ、発情をひき起こす大勢の吸血鬼《ヴァンパイア》の匂いは消え、休息できるたいらな場所もある……。場所が高いので風はつめたい。テガーは背嚢からポンチョをとり出し、くるまった。  寒さと、痛みと、悪夢のような苦労の一日が遠のきはじめる……だが眠ったら吸血鬼《ヴァンパイア》の牙がのどに迫ってきそうだ。こんなに大きく外へひらいた場所で眠る気にはなれない。彼は疲れた頭でウロウロと周囲を見まわした。  四角い倉庫についている巨大な扉はもちろん重すぎて動かないだろう。誰にも動かせそうにないし、労力の無駄だろうが……?  だがその巨大な扉の隅をまわったところに、テガーの身長とさして変わらない大きさのドアがあった。蹴飛ばすと簡単にひらいた。彼は闇の中に踏みこみ、何か弾力のあるものを見つけてよじのぼると、眠りに落ちた。  記憶が語りかけてくるのを聞くのが恐ろしくて、彼は眠りにしがみついた。いずれにせよ記憶はやってきたが、彼をたたき起こしたのは、まぶたの上でゆらめく光だった。  ちょうど人間の大きさほどのドアから陽光が射しこんでいた。それがまた見る見る薄れていくのを追うように、彼は植物のかすかな腐臭を漂わせる何かの山からおり立った。  これは布をつくる材料だろうか? 食物だったらもっと腐敗がひどくなっていたはずだ。  ドアから外へ出た。  頭上にはちぎれ雲がゆったりと流れている。その雲の層のあいだから陽光が船渠《ドック》に垂直に落ちている。鳥の姿は見えなかったが、それはテガーが四つん這いで端へ出て下界を見おろすまでのことだった。  眼下の地表には、彼をここまで運んできた透明なバブルが墜落し、壊れていた。もうあれを使って帰ることはできない……もともとそんなつもりもなかったが。  無数の鳥が陽光の中で翼をひろげて旋回し、何かを狙うように急降下している──なんだろう? これほど大群のマカウェイがいるとは、よほど餌に恵まれているのだろうか。ここでは全生態系が、吸血鬼《ヴァンパイア》の食べ残し──血を吸いつくされた死体の山──で維持されているのかもしれない。  ここにいるのは鳥だけのようだ。  いや、待て──このすぐ下、船渠《ドック》の|右 舷《スターボード》寄りの垂直な外壁に、蜘蛛の巣のようなものが貼りついている。かなり大きく身をのりださないと見えない位置だ。  光が当たると糸はブロンズ色に光るが、そうでないときはまったく見えない。端のほうがこまかく枝分かれして消えているので、大きさは判断しづらいが、〈|草食巨人《グラス・シャイアント》〉の身長くらいはありそうだ。真ん中にじっとしている黒い点が巣の主だろうが……餓死したのだろうか。そういえば地面を離れてから、彼は虫らしいものをまったく見ていない。  鳥や蜘蛛がいる以上、虫もいるはずだが、鳥が虫を食べつくしてしまったということもあるだろう。  自分も飢えるのだろうかとテガーは考えた。でもそのときまで生きのびられれば上々というものだろう。  わかりきったことではないか!  一応〈都市《シティ》〉と呼んでいたものの、この場所のほとんどあらゆる部分が、テガーには目新しかった。目に映るものの大部分は名前もわからない。この〈都市《シティ》〉は不規則な幾何学模様を描きながら中心に向かって高まり、頂上には垂直な筒形のものが立っている。  テガーは走りだした。  もはや恐怖は感じなかった。探検にはそうでなくてはならない。幅八|身長高《マンハイト》ほどの船渠《ドック》を一気に駆け抜けると、幅二|身長高《マンハイト》ほどに狭まりながら先へつづいていく道があった。そこはもはや船渠《ドック》ではなく、単に〈都市《シティ》〉の周囲をとりまく縁《リム》だった。  いわば〈|外縁通り《リム・ストリート》〉だ。それに沿って建物が並んでいる。扉のついたものもある。ここかしこで、窓のない建物にはさまれて、どこかへ向かう小道が通じている。扉のない丸い建物の側面に梯子がついたものもいくつかあった。  また雨が降りだした。足もとに気をつけなくてはならないが、路面はザラザラしているし、水は〈|外縁通り《リム・ストリート》〉の内側に沿った排水溝に流れこんでいた。  ようやく身体が温まってきたころ、情景に変化が訪れた。幅の広い通りが階段になり、その両側に──。  テガーは足をとめた。住居だろうか? サールのテントやジンジェロファーのもっと小さいテントなら知っている。定住種族が建てる恒久的な住居もいくつか見ている。しかしこんなに鮮やかな色をした四角い家は見たことがない。  それでもこれは家だ。一|身長高《マンハイト》ほどのドアがあり、周囲に木が植えられ、それに窓もある。  あとで調べよう[#「あとで調べよう」に傍点]。  テガーはさらに走りつづけた。 〈|外縁通り《リム・ストリート》〉沿いに並ぶ均一な家並みが途切れた。それに代わって現れたのは、巨大な構造物、方形の固体、歪んだ卵形、林立する管、巨大で湾曲したひらたい金属の綱。彼には理解できないものばかりだ。  ここは全体的な感じを頭に入れておけばいいだろう。こまかいことはあとで考えよう。  いままで彼は〈都市《シティ》〉の景観に気をとられて、遠くの景色は見えなかった。だがここでふたたび川が視界にはいり、そして切り立った岸壁の上に──。  クルーザーだ! 〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉ほどすぐれた視力を持つ種族はいないし、自然物で〈機械人種《マシン・ピープル》〉のクルーザーのように見えるものもない。まちがいない。あの岩の上にいるのはヴァラヴァージリンの一隊だ。  遠征隊の人々はどこかにいっているらしく、動く物の気配はなかった。だが、やがてふたつあった点のひとつが立ちあがってのびをした。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の歩哨だろうか? テガーは端まで進み出ると、まるで空を飛ぼうとするかのように両腕をふりまわした。  向こうから、彼が見えるだろうか?  ここでは、いろんなものがあるから無理だろう。だが空を背景にできたら……。  ちょうどよかった。クルーザーはしばらくあそこにいてくれるだろう。  何も理解できなければ[#「理解できなければ」に傍点]、驚きもさほどの実感はない。 〈|外縁通り《リム・ストリート》〉の前方がふいにひらけた。ずっと向こうに見えてきたのは、彼が昨夜蹴りあけたドアだ。そしてここ、船渠《ドック》の左舷回転方向《ボート・スピンワード》の端で、街路は直角に曲がっていた。ここまではどの道も〈都市《シティ》〉の中心に向かってのぼり坂になっていたのに、黒く口をあけた幅八|身長高《マンハイト》のこの街路だけが、急勾配の下りになっている。  そこを右に曲がった。  周囲はたちまち闇に包まれた。  速度をゆるめた。この悪臭では誰もが足をとめるだろう。死と腐敗、そしてさらにその奥にあるなじみ深い匂い。ようやくいくらか目が慣れてきた。街路は右にカーヴしながらさらにくだって……。  前より足が速くなった。  昨夜地上から見えた螺旋階段らしいものは、考えていたよりもはるかに巨大だった。四台のクルーザーが並んで走れそうなほどだ。だが吸血鬼《ヴァンパイア》もここをあがってこられるだろう。  下方の闇に目をこらした──いずれあそこへ行かなければ。やがて暗さに目が慣れるのを待ってもう一度〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉をのぞきこむと、そこから見返してくるものがあった。  でもいまはまだだ。テガーはまた走りだした。  船渠《ドック》と倉庫……巨大な銀色のタンク……ここでは陽光が窓に反射している。短い街路と広い階段がクネクネと上に向かい、窓のある家が何層にも連なり、いちばん上の巨大な眼球のようなもので終わっている。  その〈|階段通り《ステア・ストリート》〉を、テガーはのぼりはじめた。  家の周囲や隣の家とのあいだには、帯状に、もしくはまだら模様に、土の区画がある。〈|階段通り《ステア・ストリート》〉のたいていの場所では、家の正面の広い土の庭がそのまま一段下の家の平坦な屋根になっている。  水があふれている庭もあった。数百ファランにわたる降雨のため、洗い流されてしまったものや、砂になっているものもある。丈高い草が生えているもの。何も生えていないもの。枯れ木。倒木。葉を繁らせた木。果実をつけた木。頂上の家から〈|外縁通り《リム・ストリート》〉のすぐそばまで梨科の樹がひとつづきに並んでいるところもあった。  最初はそんなふうに植えられたように見えたが、いちばん上の二本は枯れているのに、いちばん下のはようやく頭ほどの大きさの果実をつけはじめたばかりだ。どうやら数百ファランにわたって何万もの丸い果実がころがって種を蒔くことで、たった一本の果樹からこの斜面全体が生み出されたものらしい。  この家の窓──乗物の窓とちがってたいらで、サールの寝床ほども大きい。気味が悪い。表面はくすみ汚れている。のぞきこんでみたが、室内は暗かった。  つぎの家では巨大な木が根こそぎ倒れ、壁を打ち破っていた。この家も土の庭に面して大きな窓がひとつある。テガーは落ちていた石をひろって窓を割ろうとしたが、砕けたのは石のほうだった。  だが壊れた壁がある。あの隙間から中にはいることはできないか?  やってみよう[#「やってみよう」に傍点]。  テガーの基準からすると、その部屋は広かった──つまり、テントよりも大きかったのだ。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉用とまではいかないが、すべてが大きくつくられている。椅子にすわると足が床につかない。  庭に面した大きな窓の反対側に卵形のベッドがあった。そこに五体の骸骨が横たわっていた。大人が三人と子供がふたり。仲よく安らいでいるようだ。もう一体、子供の大きさの骸骨が、ベッドを出て入口に向かう途中に倒れていた。  そのドアの向こうはひどく暗かった。  彼は朽ちはてた寝具でたいまつをつくって中にはいった。  その部屋には窓がなかった。家具らしいものがある……何かの操作盤らしい。どの方向にも動かせるレバーがあり、その下の壁からパイプが出ている。底に排水口をあけた桶の両端に位置する二本のパイプ。放水口だ。だがいまは水は出ない。  テガーは捜索をつづけた。  窓のない部屋がもうひとつ。また一体、大人の骸骨があり、そのそばに数十もの小さな突起のある浅いくぼみ。これも操作盤だろう──テガーはそう考えて背嚢に手をのばした──あの乗物の操縦パネルのくぼみとよく似ている。  タオル。あの楔形の短剣。細く切ったヴァラの布片。彼はそれを配置する作業にとりかかった。  反応なし、反応なし、反応なし……そして奇跡が起こった。  光だ[#「光だ」に傍点]。  天井の一点が直視できないほどまぶしく光っている。  テガーはその部屋を出た。  家じゅうが明るくなっていた。このままにしておこう。まだエネルギーが残っていたのは意外だった。どこからきているのだろう? 雷雨からか? エネルギーとは管理された稲妻だ……。  家々の窓をのぞきこみながら、彼はさっきよりも速い足どりで坂をのぼっていった。いくつも骸骨を見かけたが、どれも家の中だった。屋外に死体がひとつもないのは、鳥に食われたのだろう。  いじけた草むらのいくつかは、ヒト型種族の食用野菜だった。装飾用としか思えない奇妙な植物もあった。でも大きな紫色の葉をつけたあれは……?  少し土を掘ってひっぱると、太い根が現れた。〈|曇り河三角州の農夫《クラウデイ・リヴァー・デルタ・ファーマー》〉ならこんなものも茹でて食べるだろう。  ここは小型の農園なのだ!  テガーは屋上庭園の端であぐらを組んですわりこんだ。土色のポンチョの中で全身の力を抜いて雨に打たれていると、自分がここの風景の一部になったような気がした。  これら小さな庭は、もはや農園ではない。生えている植物も計画的に植えられたものではない。〈都市の墜落〉以後、ずっと放置されていたのだ。だが空間のかぎられたここの住人たちが、スミープ一匹を飼うにも足りないこんな土地を耕作しようとしていたというのは、驚くべきことではなかろうか?  テガーは大いに心を惹かれた。そういえば昨夜は虫に悩まされなかった。虫もこの高さにはやってこないのだろうか。もしかすると下界を漁るマカウェイ以外、ここには生き物などいないのかもしれない。  だがもしここにも食物連鎖のようなものがあるとしたら、それは生育する植物からはじまっているはずだ。  そうだとすれば、狩りができるだろう。  ほかに心にとめておかなくてはならないものはないか?  二筋の細長い庭から蔦がのび、背後の荒れ果てた家を蔽いつくしている。窓と窓枠はゆがみ、屋内の家具も雨で傷んでいるようだ。  どの家も直角に組み合わせた平面でできている。だが〈|階段通り《ステア・ストリート》〉の頂上には、大きさがほかの家の二、三倍ありそうな、窓と同じ材質でできたドームがあった。さっき眼球のように見えたのは、そこに白い雲が映っていたせいらしい。ドームそのものは無色だった。都市の頂上の筒はそこからさらに高くそびえている。  最上階にきた。このあたりに立ち並ぶ家はいままで見た中でいちばん大きく、庭の農園もいちばん広い。〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉たちは景色を眺めるのが好きだったのだろう。  目の前で足もとにひろがる荒れはてた庭は、ほぼ完全な正方形だ。真ん中に帆立貝の形をした空っぽのプールがある。四隅にそれぞれ木が植えられているが、その一本は雨が刻んだ溝に根元をえぐられて横倒しになり、庭園の端から空中に根を突き出していた。  テガーはこのプールが気に入った。〈|群   島《クラスター・アイランズ》〉の岩屋としてもおかしくはない。丸い底には〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉のなめらかな青い物質が敷きつめられ、中におりるための階段がついている。一方の側には、積みあげられた丸石のあいだにパイプが突き出し、小さな滝をつくっていた。その水流や雨水は、すべて底の排水口に流れこんで消えていた。  プールの底には土もあったが、もとからここにあったわけではあるまい。それほど大量ではない。たぶん外から流れこんだものだ。だがそこにも草が根づき、青い底にひび割れをつくっていた。  水泳プールだ。でもなぜ? 水からあがるための階段──これがないと溺れかねない。たぶん〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉たちは泳げたのか、あるいは〈|故郷の流れの民《ホームフロー・リヴァー・フォーク》〉の訪問があったのかもしれない。  だがせっかくつくったのに、なぜ空っぽにしておくのか?  植物の生えた地面に動くものはない。狩りをするなら|薄 暮《ハーフナイト》のほうがいいだろう。光と闇のはざまは肉食獣を避けるものたちが活動する時間だ。うまくすれば何かをプールまで追いつめて、つかまえることができるかもしれない。  それまでに──彼は草地におりてプールの中にはいった。  排水口は泥でなかばつまっていたが、蓋まで隠してはいなかった。  円形の排水口とその下のパイプ。蝶番のついた丸い蓋は指をひろげた手のひらほどの大きさで、それに錆びた鎖がついている。プールの縁までとどく長さだ。鎖をひっぱれば、濡れずに蓋をあけることができるわけだ。  蓋を閉めようとしたが、かたくて動かない。全身の体重をかけると、蝶番がポキンと折れた。はずれた蓋を排水口にはめこんだ。これで大丈夫。  彼の見ている前で、プールに水がたまりはじめた。 [#改ページ]      11 見 張 り 【〈|機織りの町《ウイーヴァー・タウン》〉──AD二八九二年】  真昼の光がまぶたに照りつけている。ルイスは寝返りを打とうとしてやめた。彼女を起こしてしまう。  記憶がにじむように形をなした。  ──サウール。〈|機織り《ウイーヴァー》〉たち。シェンシイ川峡谷。〈至後者《ハインドモースト》〉。吸血鬼《ヴァンパイア》と、それを狩ろうとする人々。姿を隠したプロテクター……。  彼女が腕の中で向きを変えた。金と銀の毛皮。薄いくちびる。胸はほとんどたいらで、毛皮から乳首がクッキリと突き出ている。彼女はまばたきひとつで目覚めた。睫毛のない黒いまぶたが茶色の目をひときわ大きく見せている。  その目が、彼が目覚めていることをたしかめようとするかのように見つめている。それから──たずねなくとも推測できた。サウールにとって朝はリシャスラの時間なのだ。そしてルイスも切実にそれを欲していた。  だが……彼女は当然異常を感じとった。二インチほど身を引いて彼の顔を見つめた。 「あなたは、朝に空腹になるのですか?」 「ときにはね」 「何かに[#「何かに」に傍点]、気をとられているのですね」 「気になることがあった。今もある。すまない」  しばらく待って彼がそれ以上説明しないことを知ると、彼女はいった。 「今日もいろいろ教えてくれますか?」 「食べられる植物をさがしにいかなくてはならない。ぼくらは雑食性で、内臓のために繊維質のものが必要なんだ。年長の子供たちが狩りにいくとき──」 「ええ、それについていきましょう」と、サウール。「子供たちも、小屋でわたしに教わるより、森であなたに教わるほうが勉強になるでしょう。これは別れの贈り物にしようと思っていたものですが、あなたにはいま必要ですね」  彼女が隅から紐のついたものをとり出してきた。ルイスは陽光の下でそれを鑑賞した。複雑な刺繍をほどこした、織布でつくったすばらしい贈り物──小ぶりの背嚢だった。  竃《かまど》の灰の中に昨夜の残りの魚が葉に包まれて残っていた。朝食にはそれで充分だった。  サウールに追いつくと、彼女は二十人ほどの子供を連れて、植物や茸類や動物や、動物の足跡のことを教えながら歩いていた。  彼はすでに昨日、木の根元に生えている紫の茎についた肉厚な矢尻形の葉を見つけていた。下流のほうにあった類似の植物と同様、その葉は食用になった。  通常の場合、雑食性の種族には、ほかのヒト型種族の食事を観察し、彼らが食べても安全なものを自分でもためしてみるという手がある。だが完全な肉食人種のあいだだと、そうはいかない。  さらに、自分で見つけたものを分け合って食べる必要もない。もし有毒だったとしても、彼には医療キットがある。一度にひとつずつためして反応を見ればいいのだ。少しくらい毒でも、繊維やカリウムや、このところ不足がちの稀少物質をとるため、食べたほうがいい場合もある。  子供たちの視線を浴びながら、彼はいろいろなものを噛んでためし、いくつかを捨て、いくつかを背嚢に入れた。サウールも手助けしてくれた。毒性の蔓植物はためす前に教えてくれたし、鳥が好むという青い木の実はさわやかなレモンの味がした。皿ほどもある茸はアレルギーを引き起こすことがわかった……。  ふたりは子供たちよりひと足先に池についた。サウールが腕をつかんで彼をひきとめた。水面は鏡のように静かだ。岸に膝をつくと膝と背中がギシギシ痛んだ。  髪に白い筋がまじっている……こんなのを見るのははじめてだ。目のまわりにもしわがよっている。  これが年齢というものなのか。  苦い後悔をおぼえながら彼は考えた。これだ! 二百歳の誕生日にこの恰好をすればよかった! パーティにきていたみんなは大喜びしただろう!  サウールがいたずらっぽく笑いかけた。 「あなたはストリルがいっしょならよかったと思っているのでしょう?」  ルイスは彼女を見つめ、ついで驚くと同時に笑いだした。サウールは彼の年齢ではなく、彼女自身の年齢を気にしていたのだ!  どう答えようかと迷ったが、返事はせずにすんだ──子供たちがまた押しよせてきたからだ。  ルイスには知りたいことがあった。教えることによって手にいれられるたぐいの情報だ。彼はストリルの気を惹こうと懸命になっている金色の毛皮の網投げの少年をつかまえた。 「パラルド、きみは昔すべての人類が同じような姿だったことを知っているかい?」  彼らはその話を知っていた。だが信じることも否定することもできずにいた。  ルイスは泥の上に絵を描いた。ホモ[#「ホモ」に傍点]・ハビリス[#「ハビリス」に傍点]。実物大で、できるだけ正確に。 「パク人[#「パク人」に傍点]の繁殖者《ブリーダー》だ。われわれの祖先は、ぼくが生まれた世界と同じような球形の、ただしもっとずっと星の渦巻きの中心に近い惑星に住んでいた」  それから棒渦状星雲の図を描いた。 「ぼくらがいるのはここ。パク人が住んでいたのはここだ」  パク人の世界は描きようがない。誰も見たことがないのだから。 「そこには生命の樹≠ニ呼ばれる植物が生えていた」  それからホモ・ハビリスの絵に変更を加えた──ふくらんでゆがんだ頭、ふくれあがった関節、しわがよってたるんだ皮膚、歯のないあごの骨が歯茎からくちばしのようになって突き出た顔。 「きみたちはいま、子供から大人になろうとしているね。リングワールドが出来る前、すべての人類が同じだったころは、子供と、子供をつくる大人のほかに、その両方を守る第三の形態があった。そのころの大人には知性がなかった。ある年齢に達すると、彼は生命の樹を食べて──」 「彼女[#「彼女」に傍点]≠セよ」  パラルドがいってクスクス笑った。  |そうか《ステット》、ここの包括代名詞は女性形なのだ。  ルイスはつづけた。 「それから彼女[#「彼女」に傍点]は眠り、眠っているあいだに蝶のように変化する。性別は消える。プロテクターは男も女も同じような姿をしている。歯がなくなってあごが大きくなり、脳の容積が拡大し、関節もふくらんで筋肉の作用が強くなり、皮膚は分厚い革鎧のようになる。変化が終わると、彼女は以前よりも強く賢くなり、自分の子孫たちを守る以外のことは何も考えられなくなる。プロテクターは子孫を生き延びさせるために恐ろしい戦いをくりひろげてきた」  ストリルがたずねた。 「どうしてわたしたちはそうならないの?」 「〈アーチ〉の土には、ある元素が欠けている。プロテクターをつくるヴィールスはその元素なしには生きていけないんだ。でも〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉に浮かぶ島のひとつでは、地下に洞窟があって、根っこにヴィールスをたくわえた生命の樹がいまでも生えている。  プロテクターの恐ろしいところは、自分の親族を助けるためにはどんなことでもするという点だ。リングワールドを建設した連中は、誰の手もとどかないよう生命の樹を封じこめた。それは火星の〈地図〉の下の広大な栽培場で、人工の光のもとで育っている。でも誰かがそれを手にいれた──」 「〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉が心配しているのはそれなんだ!」パラルドが大声をあげた。 「そのとおり。彼はもうひとつの〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉と、半回転方向《アンチスピンワード》に半分ほど〈アーチ〉をあがったところに、ひとりずつプロテクターがいると考えている。それから外壁でも何人かが作業しているらしい。〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉はどんな種族のプロテクターとも血のつながりがない。だからプロテクターたちは、本能的に彼を敵と見なすことになる。彼は〈補修センター〉の隕石防禦装置を動かしている。それを使えば〈アーチ〉のどこでも好きな場所を焼きつくすことができる。  そこで、ぼくらにとって恐ろしいのはどっちだろう? 〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉か、それともプロテクターたちか?」  子供たちは身震いしてクスクス笑い、それから話し合いはじめた。  それに耳をかたむけることで、ルイスは知識を集めた。彼らはプロテクターのことも知っている。戦いは彼らにとって伝説にすぎないが、それはいつもプロテクターの形をした鎧をまとって現れる。すべてのヒト型種族は、記憶の中にその姿を英雄もしくは怪物として──聖ジョージやグレンデルとして──とどめているようだ。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の鎧として、そして宇宙港の棚にかかった与圧服として。  さまざまな議論を戦わせた結果、子供たちは〈至後者《ハインドモースト》〉に味方することに決めたようだった。異種族の訪客たちは争わず、盗まず、奪わない。〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉以上に異質な相手があるだろうか?  やがて彼らは、湖で泳ぐために駆けだしていった。  ここの植物は、太い根を持った砂糖大根などとよく似ている。試みに掘りはじめたルイスを見つめていたサウールがたずねた。 「食べられそうですか、ルーウイーウ?」 「たぶんね。こういう生活をしてると太ることだけはないな」 「あなたはわたしたちのところにきて、満足していますか?」 「ああもちろんさ」  だが彼はほとんど聞いていなかった。十一年前にくだした決断が、いまや崩れ去ろうとしているのだ。 「でもあなたは、ストリルのほうがよかったのでしょう?」  ルイスはため息をついた。  ストリルといれば楽しいだろうが、地球年齢で四十過ぎの成熟したサウールでさえ、彼にすれば児童虐待すれすれのような気がする。 「ストリルは美しいよ、サウール。でももしストリルがきたら、ぼくは失望したと思う。テントをともにする女性から、そこの文化の豊かさが見てとれるからだ。ぼくの実際の価値にかかわらず、ここではぼくは報奨と見なされた──」 「大きな報奨です」 「──そしてきみがぼくを手に入れた。だが、飢餓や肉食獣や戦争の不安がある土地では、人々はぼくが[#「ぼくが」に傍点]どんな報奨を欲しがるかを考える。ベッドに豪奢な若い美女が横たわっていたら、それはやっかいごとのしるしなんだ」 「そんな心配は要らないのに」 「いや、その連中が欲しがるのは知識だけじゃないんだよ」  彼はここにくるまでに、重い荷物を持ちあげる力を必要としている川沿いの人々に貨物プレートを二台ゆずっていた。でもサウールにはそのことを話したくなかった。 「知識はリシャスラに似ているね。持っているものをゆずっても、それでなくなりはしない。でも道具はゆずればなくなる」 「なぜ今朝は、そんなにイライラしているのですか? プロテクターのせいですか?」  ルイスは掘り取った根を背嚢に放りこんだ。これで四つだ。 「プロテクターのことを知っているのか?」 「子供のころから知っています。彼らは物語の中では英雄ですが、時の終わりには彼らの戦いが〈アーチ〉と世界を滅ぼします。キダダもわたしも、もうそうした物語は話さないようにしています」 「たしかに彼らは英雄だよ」ルイスは同意した。「外壁にいる連中は〈アーチ〉を正確な位置にとどめておくためのモーターを修理している。侵入者を撃退しているものもいる。だがプロテクターは、悪にもなりうる。〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉の記録によると、プロテクターは、〈ホーム〉──ぼくらが住んでいるような球状世界のひとつだ──の全生命を死滅させたらしい。自分の繁殖者《ブリーダー》のために縄張りをひろげようとして、プロテクター同士が戦った途中での出来事だ」  サウールがたずねた。 「あなたは〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉の記録を信用するのですか?」 「すぐれた記録だからね」 「泳ぎにいきませんか?」  午後のなかばに少年たちが小型の羚羊のようなものを仕留めた。子供たちはそれを村へ運ぶために切り取った棒に吊るし、ルイスは先頭に立ってそれをかついだ。最強の男であることは楽しい──しかもそれほどかけ離れた存在ではない。リングワールドのヒト型種族は平均してルイス・ウーよりも小柄だった。 〈|漁 師《フィッシャー》〉たちはすでに去っていたが、〈舟人《セイラー》〉たちはまだ船を停めたまま、獲った魚を焼いているところだった。|薄 暮《ハーフナイト》になるころには、持って帰った羚羊もほぼ焼きあがっていた。  小屋のあいだから見える崖の窓が、今夜はリングワールドの全体像を映し出していた。青と白のまだら模様になった帯の両側に黒い宇宙がひろがっている。  カホナ、あの勇敢な吸血鬼《ヴァンパイア》狩りの連中は、いまどこにいるのだろうか?  掘ってきた根をまとめて焚火の燠《おき》に埋めて焼いているルイスのまわりに、子供も大人もむらがり集まって質問攻めにしはじめた。 「あれは〈アーチ〉だ」と、彼は説明した。「今夜、〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉は、ここからずっと反対側の端までの全体を見わたしているんだ。ほら、あれが太陽の端。あれは夜に太陽を隠す|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の一部。白い斑点はみんな雲だ。いいや、見ていても動きはしないよ。動きが見えたとしたら、その風はスクライスの土台から地面を吹き飛ばしてしまうだろう! キラキラ光る点や線が見えるかな? あれは海と川だ」 「星も大きく見える」老キダダがいった。「あの動いているものは何かな? そしてルイス、〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉は、あれであなたに何を伝えようとしているのかね?」 〈アーチ〉の外側ではまばゆい星々が漂っている。その中のいちばん明るい光点がほかの星々を横切って移動している。ルイスはさっきからそれに注目していた。それは外壁に近づくにつれて速度を落とし、外壁に接し、縁《リム》の一部を鮮やかな青白い線に輝かせ……消えた。  ルイスはいった。 「また別の侵入者が〈アーチ〉にやってきたことをぼくに知らせたいんだろう」  パラルドが切り分けた肉をキダダとサウールに渡し、それから周囲の連中にも配った。ホイークがルイスに串に刺した魚をくれた。〈|機織り《ウイーヴァー》〉と〈舟人《セイラー》〉たちは食事をすませると、小屋のあいだを抜けて崖の前に集まった。  ──リングワールドへの侵入者です。質問に答えます。ヴァラヴァージリンの生死が知りたければ、あなたのほうからたずねなさい──。  ルイスは羚羊の肉を受けとると、両手でつかんで食べながらパラルドのあとを追った。 〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちは台や砂の上にすわって崖の映像を見守っている。サウールが台の上に場所をあけてくれた。  蜘蛛巣眼《ウエブアイ》の窓の中で|遮 光 板《シャドウ・スクエア》が太陽の縁からはずれ、細部がクッキリと見えるようになった。  まばゆい光が外壁でひらめいた。つづく数分間かけて、その点は内側に──リングワールド表面の上空に移動し、暗くなり、ぼやけて消えた。  おもしろくもない映像だが、彼らはじっと見つめている。もしかすると〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちはもうこの種の娯楽に中毒しかけているのかもしれない。  こんどは雲が動きだし、早送りで広範囲な風のパターンが描き出された。ちっぽけな白っぽい砂時計が両端で流線を吸収している。隕石の穴で生じたハリケーンの側面図だ。  早送りがつづき、太陽プロミネンスが|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の縁を越えた。その噴流を緑色にきらめく衝撃波が走った。ついで、まぶしく燃える緑色の星が、外壁のさっき星がとまっていた箇所に触れた。その緑の星は縁《リム》を離れ、雲海を突き抜けて向こう側に姿を消した。  頭上の太陽の最後の一片が姿を隠すと、〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちは興奮気味のおしゃべりの合間にもあくびをしながら、全員さっさと小屋にひきあげていった。ルイスはびっくりしながらそれを見送った。この〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちは本当に[#「本当に」に傍点]昼行性なのだ。 〈至後者《ハインドモースト》〉が彼らの前で口をひらく意をかためる前に、ルイスはブラブラと焚火のそばまでもどり、燠《おき》の中から二本の根を掘り起こした。  ひとつは苦かったが、もうひとつはまあまあだった。いつもありついているものよりはましなくらいだった。  立ち去らずに残っていた〈舟人《セイラー》〉のひとりが近づいてきてたずねた。 「あの見せ物は、あんたのためのものなんだろう?」  ルイスはふり返った。〈至後者《ハインドモースト》〉の窓の中では、もう緑の星は消えていた。 「ぼくは、彼になんといえばいいかわからないんだ」ルイスは答えた。「ホイーク、彼はあんたに話しかけたか?」 「いや。おっかないじゃないか」 〈至後者《ハインドモースト》〉のいいたいことははっきりしている。核融合|駆動《ドライヴ》、すなわち侵入してくる宇宙船。ARMも〈族長世界〉も〈惑星船団〉も、三者すべてがリングワールドの存在を知っている。そのどれにも遠征隊を編成する時間はあった。それともあの侵入者はもどってきた〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉か、あるいはまったく別の何かかもしれない。  ゆっくり動いている侵入者に対しては、自動隕石防禦装置は作動しない。つまり、ここには積極的に[#「積極的に」に傍点]船を撃ち落としている、何者かがいるのだ。  だがその攻撃にも限界がある。光速だ。侵入者は第二の〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉から数光分離れた場所に着陸したが、攻撃は数時間遅れてやってきた。太陽フレアを起こすにも、そのプラズマ沿いに超高温レーザーを発射するにも時間がかかるし、さらに光速による時間の遅れがある。そのあいだに、獲物は逃げてしまうかもしれない。 〈至後者《ハインドモースト》〉はハイパードライヴ船を無傷のまま手に入れることに、ことさら[#「ことさら」に傍点]ご執心のはずだ。  遠くの枝ごしに静かな音楽が流れてきた。ホイークは自分の船へとひきあげた。ルイスは三本めの根を焚火から掘り起こした。切れ目をいれ、両端をつまんで押すと、湯気があがって、甘藷のような香りが漂った。  ひょっとしてこれは野生の生命の樹ではないだろうか? でもかまうものか。ここの土には充分なタリウムがないから、変化を促すヴィールスは生きられない。またいずれにしても火を通せばヴィールスは死ぬ。  ルイスはゆっくり時間をかけて食べ、それからサウールの枝編み細工の小屋に向かった。  音楽が大きくなったように思われた。笛のような音とくぐもった弦楽器のまざったふしぎな音色だ。彼はサウールの小屋の外で足をとめ、耳をすませた。  音楽が消え、声が語りかけた。 「〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉と話をしないのか?」 「今夜はしない」  ルイスは答えて、あたりを見まわした。ちょっと舌足らずな子供の声だ。今夜は霧が深いが、リングワールドの夜は明るいから、何かが[#「何かが」に傍点]見えてもいいはずなのに。 「姿を見せてくれないか?」  意外なほど近くの低い繁みから、悪夢が立ちあがった。夜の色をした長い体毛が全身を蔽っている。ニヤリと笑うと鋤のような巨大な歯が見える。長い腕、大きな手。片手に小型の竪琴を持っている。  その〈|屍肉食い《グール》〉は男のように見えたが、短衣《キルト》を着ているのではっきりしない。顔の毛はまばらで、胸はたいらだ。  子供──少年か、少女か。 「いい短衣《キルト》だね」ルイスは褒めた。 「いい背嚢だね。シェンシイ川渓谷に住むものはみんな〈|機織り《ウイーヴァー》〉の作品が気にいっている」  そんなことは知っている──数万マイルも下流の土地で〈|機織り《ウイーヴァー》〉の製品が使われているのを見てきたのだから。  彼はたずねた。 「きみは〈|機織り《ウイーヴァー》〉の警備の仕事をしているのかい?」 「けい……?」 「夜のあいだ財産を守ってやることだよ」 「そう、泥棒を見張っている」 「報酬なしでか? きみらは、その、通常の仕事でも……」  ごみ処理と葬式代行を意味する言葉が何か[#「何か」に傍点]なかったか? ──その答の代わりに、子供は竪琴の柄に息を吹きこみ、指でその穴を押さえながら弦を弾《はじ》きはじめた。一曲奏でたあと、弦と笛を兼ねたその楽器をさし出してたずねた。 「これの名前、あなたの言葉では?」 「竪琴《ハープ》と笛《カズー》のあいのこか。カザープってとこかな?」 「ではわたしの名は〈|竪琴笛《カザープ》〉」と、子供はいった。「あなたは、ルイス・ウー?」 「いったい[#「いったい」に傍点]──」 「あなたは〈アーチ〉のずっと向こうで海を沸騰させた──」〈|竪琴笛《カザープ》〉は指さしながらいった。「──あそこ[#「あそこ」に傍点]で。それから四十一ファランのあいだ姿が見えなかったあと、ここで見つかった」 「〈竪琴笛《カザープ》〉、きみたちの情報網はすごいな。どうやってるんだい?」  答が返ってくるとは思っていなかった。〈|屍肉食い《グール》〉の秘密だろうから。 「太陽と鏡」と、〈竪琴笛《カザープ》〉は答えた。「〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉は以前あなたの友達だったのか?」 「仲間だったが友達じゃない。混みいった事情があってね」  とがった顔のヒト型種族は、じっとルイスを見つめた。ルイスは〈|屍肉食い《グール》〉の息の匂いを無視しようとつとめた。  子供はたずねた。 「父になら話すか?」 「そうだな。きみは何歳だ?」 「もうすぐ四十ファラン」  十歳か。 「きみのお父さんは?」 「百五十」 「ファランで数えるなら、ぼくは千くらいだ」と、ルイス・ウー。  それにしても、この子供の隠れかたはあまりにお座なりだった。陽動では? 父親が立ち聞きしていたのか?  だとしたら、どう話す? そもそも話すべきだろうか?  ルイスはいった。 「〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉と、大きな猫と、ふたりの〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉と、ぼく。その五人が〈アーチ〉の下のあらゆるものを救ったんだ」 〈竪琴笛《カザープ》〉は何もいわない。放浪者の中にはひどい大嘘つきもいるはずだとルイスは考えた。 「ぼくらは計画を立てた。だがそれを実行すると、ぼくらが救おうとしている人間も、いくらか……いや、かなり大勢[#「かなり大勢」に傍点]が死ぬことになる。ぼくは罪の意識にさいなまれた。自分が〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉と同罪のように思え、それで彼を憎んだ。でもつい最近わかったんだが、〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉はぼくが考えていたよりも多くの生命を救っていた」 「だったら彼に感謝して、謝らなければ」 「もうやったよ。〈竪琴笛《カザープ》〉、いずれゆっくりその話もしよう。でもぼくの種族には睡眠が必要なんだ。もしきみのお父さんが話をしたければ、〈|屍肉食い《グール》〉のことだ、いつでもぼくを見つけられるだろう」  ルイスは身をかがめて枝編み細工の小屋にはいろうとした。 「後味のよくない話だからか?」  ルイスは笑った。〈|屍肉食い《グール》〉ほど後味の悪さを熟知しているものはいないだろう!  だが、いまの声は〈竪琴笛《カザープ》〉ではなかった。  彼はまた外にもどって答えた。 「ああ」 「だがおまえは、その苦い思いを克服した。こんどは〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉が決断する番だ。貴重な同盟、習慣の破棄──おまえは千ファランも生きているそうだな? 〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉はどれくらいなのだ?」 「考えただけで頭が痛くなるね」  子供はあぐらを組んですわりこみ、楽器を手に、どこからともなく聞こえてくる声に伴奏をつけている。  大人の声はつづけた。 「われわれの寿命はおよそ二百ファランだ。だがおまえたちにとっては、たかだか四、五十ファランのことだろうし、誤解なら修復もできるはずだ」 「ああ、〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉たちはもともと難民だったし、ハミイーは殺戮なんか気にしちゃいないからね! でもぼくは[#「ぼくは」に傍点]まだ罪の意識を消せない。ぼくは[#「ぼくは」に傍点]同意を与えたんだ。残りの人間を救うためにそれだけの人間を殺したと思いこんでいたんだよ」 「では、そうではなかったことを喜べばいい」 「ああ、そうだな」  その犠牲がどれほどのものか考えてみろとは〈|屍肉食い《グール》〉にもいえなかった。まともな神経に耐えられる数字ではない。──リングワールドにはさまざまな知性段階にあるヒト型種族が住み、考えうるかぎりの生態学的地位を占めている。牛、川獺《かわうそ》、吸血|蝙蝠《こうもり》、ハイエナ、鷹……その数およそ三十兆。ノウンスペース全体にわたる異変だって、その誤差の範囲におさまってしまうだろう。  その大部分を救う方法はあった。太陽フレアをリングワールドの表面に向けて発生させ、加熱した水素燃料を外壁に再設置された姿勢制御ジェットに導くのだ。放射能と熱で、一兆五千億の生命が失われることになる。でもいずれにせよ彼らは死ぬのだ。  では、その二十倍の生命を救おう──。  しかし高性能で融通のきく〈至後者《ハインドモースト》〉のプログラムは、惑星をいくつものみこむほどのプラズマ・ジェットを正確にコントロールした。〈至後者《ハインドモースト》〉は一兆五千億の生命を殺さなかった[#「殺さなかった」に傍点]のだ。ひとりも。  しかしルイス・ウーは、彼らの死に同意を与えたのだ。  彼はつづけた。 「〈補修センター〉のあの領域は、生命の樹に汚染されていた……ヒト型種族をまったく別のものに変えてしまう植物だ。〈竪琴笛《カザープ》〉の話だと、あんたはプロテクターになるのにちょうどいいくらいの年齢だ。ぼくはその七倍も歳をとっている。生命の樹のヴィールスは老ルイス・ウーにとっては致死的なんだ。  だからぼくは、〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉ひとりに殺しの仕事をまかせた。自分でやっていれば、どれだけ大勢が死なずにすんだかわかったはずだ。その人々を殺した唯一の償いには、ぼく自身も死を迎えるほかなかった」 「だが、おまえは死んではいない」姿のない声がいった。 「死につつあるのさ。貨物プレートに積んだ医療キットがあれば、あと一ファランくらいは生きられるだろうけどね」  子供の音楽が不協和音を奏でてとだえ、夜に静寂がもどった。  カホナ! 彼は手にしていた長命を放棄したが、ここの住民は一度もそんな選択さえ与えられたことがないのだ。これはなんという不作法を働いてしまったことか!  大人の声がいった。 「そして、彼の好意も拒絶したのか?」 「〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉には、本当の意味での好意なんかないよ。あるのは厳密な取り引きだけで、それもつねに自分を安全な立場におくのが目的なんだ。彼は永遠に生きるつもりでいる──どんな犠牲をはらおうとだ。当時はそれがひどく気になった。いまもだ。いったいどんな犠牲が必要になるんだろう?」 「それで、おまえたちの同盟関係とは? 彼はおまえから何を得るのだ?」 「いつでも使える手。危険にさらしていい自分以外の命。ちょっとした意見。そして彼がぼくに[#「ぼくに」に傍点]提供できるのは、あと百二十ファランの生命だ」  それがこわい。 「彼は、たとえばわたしにも、それを提供できるだろうか?」 〈|屍肉食い《グール》〉に長命を提供する?  「いや。その装置は彼やぼくや大猫を治療するようつくられているが、そのプログラムは故郷を離れる前に彼が設定したものだ。いま彼は故郷に帰る[#「帰る」に傍点]ことができない。ぼくが[#「ぼくが」に傍点]阻止した。もし帰ることができたら、ここにとどまっている理由があるかね?」  彼の思考はさらにつづいた──彼は人間とクジン人を治療するプログラムを持っているが、〈|屍肉食い《グール》〉のためには新しいプログラムを書かなければならない。ぼくの生命の代価だけでも大きすぎるくらいなのに、また別の種族のためのプログラムをつくるとしたら、その代価はどうなるだろう? それに、〈|屍肉食い《グール》〉を救うとしたら、〈|機織り《ウイーヴァー》〉は? 〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉は? そのほかにも……。  無理だ──。  姿のない〈|屍肉食い《グール》〉はその返事で納得した……それとも、放浪者の中には狂人もいると考えたのかもしれない。〈竪琴笛《カザープ》〉がまた演奏をはじめた。  ルイスはいった。 「ものすごく大勢の人間を殺してしまったと考えて……ぼくはふつうのやりかたで歳をとって死のうと決心した。でもそれがなんになる? 最初の人間以来、人はずっとそうやってきたんだ」 「ルーウイーウ、わたしは百ファラン若返れるなら、持っているものすべてを投げ出してもいい」 「〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉はぼくを……ぼくの種族を若返らせることができる。また歳をとったら、また何度でもね。そしてそのたびに、ぼくに好きなことを要求できるわけだ」 「断わればいい」 「いいや。実はそれが問題なんだな」  ルイスは闇をすかし見た。 「あんたのことはなんと呼べばいい?」  竪琴と笛の音楽に、ふいに低音の伴奏が加わった。ルイスはしばらく耳をかたむけた。管楽器だろうか? 形は想像もつかないが。 「あんたを〈作曲家《テューンスミス》〉と呼ぶことにしよう」  彼はそう決めた。 「〈作曲家《テューンスミス》〉、あんたと話せてよかったよ」 「ほかにも話すことがある」 「船だの靴だの封蝋だの──」 「プロテクターのことだ」 〈|屍肉食い《グール》〉の光通信ネットは、プロテクターについて何を知っているのだろう? 「でもぼくはもうくたくたなんだ。明日の夜、またな」  そしてルイスは、眠りにつこうと小屋にもぐりこんだ。 [#改ページ]      12 吸血鬼《ヴァンパイア》の乳離れ  頂上の透明なドームも何か住居のようなものだろうとテガーは思っていたが、その予想ははずれた。  まず、ドアを施錠する方法が見つからない。内部はひとつの大きな部屋で、床は同心半円形の階段──〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉にすら大きすぎる──になっていた。それに、可動式の軽いテーブルが十脚あまりあった。  ここはいったい何だったんだろう[#「何だったんだろう」に傍点]?  この段にすわれば、百人かそこらのヒト型種族が工場都市とその向こうの景色を一望に見わたせる。会議室だろうか? しばらく思案してから、彼は先に進んだ。  最後の段をあがるとそこにドアがいくつかあった。その中は真っ暗だ。テガーはたいまつをともした。  そこは居住用の部屋ではないらしい。平坦な壁の表面に、のぞき窓のついた分厚い小さな開き戸がいくつも並び、その内側は小さな箱になっている。  わからないときは、とにかく見てみることだ。排水口のついた大きな水槽が三つ。いまは反っているがもとはたいらだったろう木製のテーブルがひとつ。百もの鉤にぶらさげられた長い把手のついた金属の鉢や皿。目の高さのパネルをひらくと、そこに見慣れたものが見つかった。細かな塵の糸でつながれた小さな突起だ。  彼は塵の糸の代わりにヴァラの布片をつけはじめた。  照明がともった。  六つの溝に布をおいた。ひとつは照明だった。ほかは何のためだろう?  うしろのほうにさらにドアがある。テガーはたいまつを持ってそこをくぐった。  ここは倉庫だ──いくつものドアに、引き出しに、大きな容器。古い残り香が心地よい。植物だ。食欲をそそりはしないが、たぶん食べ物の匂いだろう。乾燥した植物のかすが見つかったが、これでは〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉も食べられないだろう。  ここの住人は、あそこの半円の段にすわって食事でもしたのだろうか?  そうかもしれない。テガーは照明のともった部屋にもどった。さっきより暖かくなったような気がする……だが、あまり気にもかけないまま、彼はたいらな台のひとつにもたれかかった。 〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉は苦痛に悲鳴をあげたりしない。テガーは火傷した腕をかかえ、痛みに歯をむいた。それから慎重に考えたすえ、たいらな台に次々と唾を吐きかけてみた。  そのうちふたつで、唾はシュウシュウと音をたてて蒸発した。  内側が箱になった小さな開き戸のうちふたつも、さわれないほど熱くなっていた。  ここはどうやら化学工場か何からしい。たぶんほかのヒト型種族なら、彼よりもよく理解できるのだろうが。 〈都市《シティ》〉の頂上には、中央がくびれてずんぐりした巨大な筒が立っていた。その側面に上の縁まで螺旋階段が通じている。それをのぼったテガーは、王様のようにあたりを睥睨《へいげい》した。 〈都市《シティ》〉のいちばん高い場所にいると、いままで気づかなかったようなことも目にはいってくる。  屋根がみな同じ色をしているのだ!  四角い箱のたいらな屋根も、タンクの湾曲した屋根も、ぜんぶ灰色に光っている。灰色の上に細い線で模様を描いたものもある。〈|階段通り《ステア・ストリート》〉沿いの家だけが例外で、たいらな屋根が庭とプールになっている。そして──そう──階段そのものも輝く灰色だ。  だが側面にはさまざまな色があった。工場の壁は装飾というより看板のようだ。テガーにはわからない、四角や丸やうねったような文字が書いてある。単純な絵もある。  昔の〈都市建造者《シテイ・ビルダー》〉は空を飛ぶことができた。なぜ屋根にも貼り紙をしなかったのだろう? あの灰色の表面は──たしかあれは……。  |くそっ《フラップ》、もう少しでわかりそうなのだが。考えてみろ。とにかく……。  彼がいま立っているのは高さ十|身長高《マンハイト》、直径もそれくらいの、巨大な筒の縁だ。内側をのぞきこむと、十|身長高《マンハイト》よりはるかに深い。灰と化学薬品の匂いがかすかに感じられるのは、想像力の産物ではない。これはひとつの村を燃やせるほど巨大な煙突なのだ。  これだけでも、工場を浮揚させておく充分な理由になる。そんなに大きな火を燃やせば、そこから出た煙が吹き散らされるまでに何年もかかるだろうが、少なくとも、煙はまず上にあがるのだ! 近所の人々の怒りもそれだけ和らぐだろう。それに、その隣人だって浮揚している工場まで苦情をいいにのぼっていくわけにはいくまい。  階段をのぼり家々の探検をするのに四分の一日がかかったが、そのあいだずっとクルーザーは動かなかった。ヴァラヴァージリンはあの山頂を防衛の根拠地と決めたのだろう。岩の上には歩哨が配置され、川と〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉とその上に浮揚する塊りを見張っている。  テガーはポンチョを脱いで、まちがえようのない肌の色をさらした。〈都市《シティ》〉のもっとも高い場所の縁に立ち、両腕をあげてふりまわす。  ──ワーヴィア! おれたちの愛の力に賭けて。そしてヴァラヴァージリン! おれが盗んだ布の力に賭けて。おれはここまできたぞ。ここで、おれは何かをなしとげてやる。なんとかして──!  見えただろうか? こちらを指さしているようだが……。  まあいい。 〈都市《シティ》〉が眼下にひろがっている。船渠《ドック》が見え、そこからここまでの道をたどることもできた。すぐ目の前から〈|外縁通り《リム・ストリート》〉まで一本の線がジグザグに走り、その両側にも家と階段が並んでいる。ちょうど船渠《ドック》の正反対に当たる方向だ。  彼にはまだ目にするほとんどのものが理解できなかった。それでも……。  貯水槽だ。空に向けてひらいた巨大な円筒形のタンクが十六本、〈都市《シティ》〉全体に均等に配置されている。水を溜めるためとしか思えない。少なくとも住居と透明ドームには水が必要だ。しかし貯水槽はどれも空っぽだった。〈|階段通り《ステア・ストリート》〉のプールと同じように。すべて空っぽなのだ。 〈都市の墜落〉によって、市民たちは下界に降りる手段を失った。斜路を降りていったものもいたにちがいない。だが、吸血鬼《ヴァンパイア》がやってきたので、その道も閉ざされた。彼らは孤立したのだ。  水は必要だ。川があり、ポンプがあった。川の上空に工場を配置したというのはそういうことだろう。しかしポンプは動かなくなり、雨はまだ降っていなかった。  なのに彼らは〈都市《シティ》〉の水を流してしまった。なぜそんなことをしたのだろう? すでに狂っていたのだろうか? 〈|ささやき《ホイスパー》〉はいってしまった。彼ひとりで考えてもどうにもならない。なんとかしてクルーザーと合流しなくては。  その夜、テガーは透明ドームの段の上で眠った。危険はなさそうに思えたし、眺めはすばらしかった。  |薄 暮《ハーフナイト》になると、数百の吸血鬼《ヴァンパイア》が〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉の下からあふれ出し、〈|故郷の流れ《ホームフロー》〉をさかのぼって山の中にはいっていった。太陽の最後の端が消えたとき、その数は数千にも達していた。  ヴァラの仲間はすぐ近くを通りかかる大量の吸血鬼《ヴァンパイア》に対し、さまざまな反応を示した。〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉は夜間は必ず[#「必ず」に傍点]眠っているので、とにかく気づかすに終わった。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉は夜間の歩哨に使えないことがわかった。たしかに彼らは勇敢だが、こうもあからさまに恐怖の匂いをまき散らされては……。  ビージだけが例外だった。次代のサールはどのような訓練を受けているのだろう? ヴァラにも利用できるようなものだろうか? 彼女はあとの連中を寝床に追いやり、それ以後は自分の仲間と〈|屍肉食い《グール》〉だけを頼ることにした。  いらだちをつのらせながらも、一行は吸血鬼《ヴァンパイア》に関して多くのことを知りはじめていた。  ふた晩めも終わりに近づいたころ、折しも黒くたれこめた雲の下、吹き降りの中を吸血鬼《ヴァンパイア》の一団が巣にもどってきた。〈|竪琴弾き《ハープスター》〉の報告によると、頭数がわずかに減り、数十の捕虜を連れているという。出ていったときほど喧嘩騒ぎをしてはいない。 〈|屍肉食い《グール》〉が〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉の中の建造物のことを報告した。小屋か倉庫のようなものがいくつかあるが、ほとんどは倒れている。川の中ほどには何か大きなものがそびえている。そのてっぺんがどうなっているかはわからない。この場所は視点が高すぎるからだ。  螺旋斜路以外に上にあがる方法はなさそうだった。 〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉の左舷反回転方向《ボート・アンチスピンワード》のはずれに、ごみ捨て場のような大きな堆積がある。数世代にわたって積みあげられた吸血鬼《ヴァンパイア》と捕虜の死体の山にちがいない……場所を指さして教えられると、ヴァラにも見分けられた。あれだけ〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉に近いと、〈|屍肉食い《グール》〉にも手が出せないのだろう。 〈|浮 揚 工 場《フローティング・ファクトリー》〉の下には、吸血鬼《ヴァンパイア》の行けない場所などひとつもなさそうだ。  すっかり明るくなると、吸血鬼《ヴァンパイア》の行列もまばらになった。 「あれがとまったら、川に降りてみましょう」ヴァラはいった。 「われわれは睡眠をとらないと」〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。 「わかってます。あなたがたはここに残って」 「われわれもそろそろ水浴びをする時期だし、知らなくてはならないこともある。陽よけの下で眠ることにしよう。川に着いたら起こしてくれ」  ヴァラヴァージリンは川岸に沿ってクルーザーを走らせた。この大きさのものを隠す方法はなかったし、隠すつもりもない。  昼光が射しては消え、突風が雨を運んでくる。〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉はすぐ前方間近にそびえている。一行の中には古代建造物の下の闇を見通せるものはひとりもいないが、流れる黒雲が上空をピッタリと閉ざしたとき、ヴァラは〈影〉の端のほうで動いている何かを認めた。少なくとも一部の吸血鬼《ヴァンパイア》は活動しているのだ。  正午だ。  ヴァラヴァージリンは荒れ模様の空から不安げな視線を離さなかった。あまり暗くなるようだと、吸血鬼《ヴァンパイア》どもが襲撃に出てくるかもしれない。  流れのゆるやかな茶色い水の向こうに、プレートが斜めにそびえている。あそこまでいくのはむずかしいだろう。吸血鬼《ヴァンパイア》とはまだ距離があるから安全だ。ヴァラは川岸の泥の上に車を進めた。  かなり離れた水の上にふたつの黒い頭が浮かびあがり、近づいてきた。  個体の差が見分けにくい異種族に対しては、繰り返し自己紹介するのがいちばんいい。 「わたしはヴァラヴァージリン──」 「ルーバラブルとファドガブラドル。ここの川は浅い。そのクルーザーで島まで安全に渡れる。あそこのほうが攻撃されにくいだろう」 「──ワーヴィア、マナック、ビージ」  バロクとワアストはキャノンについている。 「ここに長くとどまるつもりはないのよ、ルーブラ、昨夜このあたりで何かあったようだけど──」 「さがしてくれと頼まれていた〈赤色人《レッド》〉を見た。近づくことはできなかったが、彼は戦い、それから空を飛んでいった。ファドガブラドルは彼には連れがあったという。わたしには見えなかった──」  ワーヴィアが口をはさんだ。 「連れですって? テガーがどこで連れを見つけるというのです? それ、吸血鬼《ヴァンパイア》じゃなかった?」 「どんな種族にしろ、わたしには見えなかった。ファドガブラドルの見まちがいだろう。テガーはときどき独り言をつぶやいていた。この斜めになった空飛ぶ乗物を見にくると、六匹の吸血鬼《ヴァンパイア》が飛びかかった。誘惑もせず、いきなり攻撃した」  ルーバラブルの口調は、まるで吸血鬼《ヴァンパイア》が規則を破ったとでもいわんばかりだ。  ヴァラはうなずいた。  ──これは心に留めておかないと──。  その点を除くと〈|川の人種《リヴァー・ピーブル》〉も、ワーヴィアがクルーザーから見てとった以上のことはあまり見ていないようだった。  話が終わるとヴァラはたずねた。 「あなたがたはここなら安全なの?」 「そう思う。情報も集められる。あなたがた、〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉で捕虜たちが生きていることを知っているか?」 「捕虜が峠を越えて連れてこられるのは見ました」ワーヴィアが答えた。 「ときどき自由に歩きまわるものがいる」ルーバラブルがいった。「近づくことはできなかったが、見ていた。出られるのは一度に二、三人ずつだ」 「種族は?」 「大きいのがふたり、川辺の草を食べに出て、また〈影〉の下にもどった。たぶん〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉だと思う。大勢の吸血鬼《ヴァンパイア》が出迎え、喧嘩をはじめた。何人かが逃げ出し、残ったものたちが〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉で食事をした。あの〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉はそのあと死んだ。〈回転三角州《スピン・デルタ》〉地方の〈農夫《ファーマー》〉が引き抜いた根菜を茹でて食べて、もどって、まだ生きている」  ファドガブラドルが話しだした。ちょっと話し合ってから、ルーバラブルがあとを追って通訳しはじめた。 「ファドガブラドルは〈赤色人《レッド》〉の女を見た。半日かけて狩りをしていたが、獲物はなかった。彼女は途中で根負けしたように何度も何度も〈影〉の下へ、自分の吸血鬼《ヴァンパイア》のもとへもどっていったが、そのたびに追い出された。その日遅くなってから、彼女は水を飲みにきた|跳び鹿《リーパーバック》をつかまえ、飛びかかって首を折った。〈影〉の下までひきずってもどると、三匹の吸血鬼《ヴァンパイア》がほかのものを追いはらい、けものの血を飲み、〈赤色人《レツド》〉の女とリシャスラし、それから〈赤色人《レッド》〉は|跳び鹿《リーパーバック》の肉を食べた。彼女はひどく腹をすかせていた」  ヴァラはワーヴィアの顔に浮かぶ熱い怒りと恥辱から目を逸らし、ルーバラブルにたずねた。 「わたしの種族のものは見なかった?」 〈|川 の 民《リヴァー・フォーク》〉たちはさらに言葉をかわしてからいった。 「若い女がひとり、一匹の雄に守られている。ヴァラヴァージリン、あなたのほうの収穫は?」 「テガーが手をふっているのが見えたわ。あの上で、生きて、元気でね。でもわたしたちはどうやればあがれるのかわからない。ほかに方法があるかどうかもわからないし」 「あなたがたは、どうするつもりだったのか?」  ワーヴィアがフンと鼻を鳴らした。 「〈|屍肉食い《グール》〉が計画を立てたのよ。でも、のぼれるはずの斜路が地上についていなかったのです」  ヴァラは陽よけの下から怒りの抗議がくることをなかば覚悟したが、〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉たちは口をはさまなかった。 「かつては地上におりていたはずだ」ルーバラブルがいった。「そうでなければ、いったいなんの役に立つのだ?」 〈都市《シティ》〉の機能が無事だったころには、空飛ぶ貨物船もあっただろうが、地面を走る乗物のほうが費用はかからないし、重すぎて浮揚できない荷物だってあったはずだ。 「吸血鬼《ヴァンパイア》がやってきたのは〈都市の墜落〉のせいじゃないかしら」と、ヴァラはいった。  ビージがたずねた。 「なぜだ?」  霧にかすむ〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉の輪郭に目と心をさまよわせながら、ヴァラヴァージリンは言葉をつづった。 「工業の中心地がその下に吸血鬼《ヴァンパイア》を巣食わせるはずがないもの。だから何かの方法で、彼らは吸血鬼《ヴァンパイア》を追いはらっていたのよ。でも〈都市《シティ》〉は崩壊してその機能がとまってしまった。そして吸血鬼《ヴァンパイア》が目陰を求めて移動してきた。ある夜、吸血鬼《ヴァンパイア》は斜路をのぼった。でも全員がやられたわけではなかったから、翌日には生き残りのものたちが斜路をあげてしまった──」  ビージがまたたずねた。 「どうやって?」  ヴァラは肩をすくめた。  泥の中で泡がはじけるようなルーバラブルの声がひびいた。 「なぜ、とたずねたほうがいい。彼らはこの巨大な浮揚プレートでも運べないほど大きな荷物のために、とほうもない吊り道路をつくった。なぜそんなものを、わざわざ動くように、持ちあげられるようにつくるのか? このようなもの──垂直な橋──はつくるのも困難だし、持ちあげられるようにつくったらますます壊れやすくなる。われわれも、質量と重さのことはいくらか理解している──と思う」  ルーバラブルのいうとおりだ。ヴァラはいらだった。 「わたしにも答なんてわからないわ。飛べる人種と飛べない人種のあいだで戦争があったとしたら? それならどうしたって橋を引きあげたくなるでしょう」  仲間たちは顔を見合わせている。ビージがたずねた。 「そんな戦争についての古い記録でもあるのか?」  誰も何もいわない。 「では、そんな噂があるのか?」 「もういいの」ヴァラはつぶやいた。  マナックがたずねた。 「なぜわざわざ斜路を持ちあげる? 〈都市《シティ》〉そのものを少し上昇させればいいではないか?」  種族は異なっても、ヴァラの表情に何かを読みとったらしく、彼はつけ加えた。 「気にしないでくれ」  テガーが〈影〉の中に歩み入ったとき、空は黒く、激しい雨が降っていた。  雨のこないところにはいるとすぐたいまつをともしたが、光はさほど遠くまではとどかない。淡い光に照らされた特徴のない道が、円を描きながらくだっている。  彼は暴風雨のような轟音の中を進んでいった。右端によると胸の高さの手すりがあった。そこから下をのぞいたが、何も見えなかった。  向こうからは見えるはずだ。たいまつはやつらを遠ざけておけるが、彼の姿を目立たせもする。たいまつはあと九本準備した。ひとつ下へ落としてやったら、何が起きるだろう?  試みに、手すりから大きく身をのりだして、たいまつを一段下の斜路に投げこんだ。のりだしたまま火が消えていないことをたしかめ、さらに先へ進む。もう一周以上はくだったはずだ。  目がだいぶ闇に慣れてきた。  漂ってくる匂いで、彼は〈|屍肉食い《グール》〉との話し合いを待って仲間たちと過ごした夜を思い出した。音もまた、サールのテントの夜と同じだ──生活音、つぶやき、突然の口論など。どれも異種族の言葉で、背景に滝のような音が絶えず聞こえている。現実は彼の想像ほどひどくはないのだろうが……。  テガーは目をこらした。  螺旋斜路の最下部は、地面からかなり離れた場所に浮かんでいた。  何か滑稽なものを見た気分だった。青白い三角形の顔が見あげているのも滑稽だ。テガーはクスクス笑いだした。 〈影〉の奥深くで、水が垂直に流れ落ちている。恐ろしいほど大きな滝だ。〈都市《シティ》〉に降った雨のすべてが、まずその下の何か黒い巨大なものの上に落ち、それから〈|故郷の流れ《ホームフロー》〉に流れこんでいるのだ。  ここは〈都市《シティ》〉の端近くに当たる。滝はおそらく中心部かその近辺にあるはずだが、かなり大きな轟音がここまでとどいてくる。水はまず複雑な形をした巨大な構造物の上に──中に[#「中に」に傍点]──落ち、それから小さな滝や流れとなって〈|故郷の流れ《ホームフロー》〉に流れこんでいる。闇に闇が重なってあまりよく見えないが……その手前には古代の〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉以外誰も考えつきさえしないだろう規模の噴水がひとつ噴きあがっていた。 〈|故郷の流れ《ホームフロー》〉は噴水の両側を流れている。川のその部分はコンクリートで固められているようだ。テガーのいるすぐ近くでそれは終わり、早瀬がはじまる。〈都市《シティ》〉から流れ落ち、勢いを増して〈|故郷の流れ《ホームフロー》〉にそそぎこむ水は、そこに深い峡谷を刻みこんでいるようだが、その断崖が見えるのは〈都市《シティ》〉の端近く、昼光に照らされているあたりだけだ。  そしてもちろん、いたるところに吸血鬼《ヴァンパイア》がいた。  大半は家族ごとに寄りそって眠っている。だが待て、あれは……〈機械人種《マシン・ピープル》〉ではないか? 暗くてはっきりわからない。髭を生やしているけれど、あれは女だ。胸がある。衣服は着ていない。まわりを吸血鬼《ヴァンパイア》に取り巻かれている。  テガーには、そいつらがほかの吸血鬼《ヴァンパイア》から──泥棒から、彼女を守っているように見えた。大人と思われるものが四匹、子供くらいの小さいのが二匹、そしてひとりの女は赤ん坊を抱いている──それだけいれば守りは充分だ。  サールの砦が襲撃されたとき、連れ去られた〈機械人種《マシン・ピープル》〉がいたはずだ。テガーは観察をつづけた。  赤ん坊が目を覚まして口を動かした。  抱いていた女が夢うつつのまま、赤ん坊を〈機械人種《マシン・ピープル》〉の女に渡した。すると|なんたることか《フラップ》、〈機械人種《マシン・ピープル》〉は赤ん坊を自分の首に押しつけたのだ!  テガーは暗闇の中で手すりによりかかった。しばらく食事をしていなかったにもかかわらず、ずっと以前に食べた鳥の肉が胸にこみあげてきた。  なぜ、吸血鬼《ヴァンパイア》は捕虜を集めるのか?  吸血鬼《ヴァンパイア》はどうやって赤ん坊を乳離れさせるのか?  それ以上知りたくはなかった。  策略を練っているあいだは問題を忘れていられる。斜路を上にもどってまもなく明るい場所へ出ようというとき、心にそれが浮かんだ。  水。斜路。光。下には吸血鬼《ヴァンパイア》がいて、上には〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉がとり残された。  クルーザーだ!  まだまだ情報は足りないが、テガーは自分がいま[#「いま」に傍点]何をなすべきかを知った。そしてそのあとは……最終的には助けがくる。 〈|浮 揚 工 場《フローティング・ファクトリー》〉全体に明かりがともっていく。  ヴァラヴァージリンは寝不足でグッタリしていた。もう眠らなければ……でも、なんて美しい眺めだ。  彼女は心を漂わせた。  高い場所なので食糧は不足がちだ。草はまばらだし、わずかしかいない獲物も敏捷だ。でも〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉は必要なだけの食糧を手に入れているらしい。〈|川 の 民《リヴァー・フォーク》〉が余分に魚を獲ってくれ、一号車は籠いっぱいの魚を持ち帰った。魚なら〈|屍肉食い《グール》〉と〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉以外の全員が食べられる。〈機械人種《マシン・ピープル》〉は魚だけではやっていけないが、当面のところはそれで間に合う。 〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉のごみ捨て場の周辺で、数匹の吸血鬼《ヴァンパイア》が狩りをしていた。腹をすかせているのだろうが、いくらかの成果はあったようだ。ワーヴィアが、〈赤色人《レッド》〉の知らない|腐肉漁り《スカヴェンジヤー》を見たと報告した。おそらく〈|屍肉食い《グール》〉の手がとどく範囲では、競争相手の|腐肉漁り《スカヴェンジヤー》は殺されてしまうのだろう。  吸血鬼《ヴァンパイア》は死体を〈|故郷の流れ《ホームフロー》〉に投げ入れるとファドガブラドルはいっていたが、それはまだ群れがそんなに大きくなかったころの話なのだろう。いまでは死体は川から離れた場所に積みあげられている。|腐肉漁り《スカヴェンジヤー》が死体を食いにきて、飢えた吸血鬼《ヴァンパイア》が血を求めてそれを狩るのだ。  一行はまたクルーザーを背中合わせに停めて、歩哨を立てた。最初の夜、吸血鬼《ヴァンパイア》どもはやってこなかった。こっちを観察するのに、まる一日かけたのだろう。こっちがやったと同じように。  蓄えの草は明日にもなくなりそうだ。巨人は草を食いに低地へおりていかなくてはならない。それも昼間だけ、仲間を護衛に立ててだ。〈|屍肉食い《グール》〉の食糧も見つかるだろう。巣にもどる強行軍で生命を落とした捕虜がいたはずだから。  ふいに〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉の声がいった。 「あのエネルギーは、珍しいある物質がないと流れない」  ヴァラヴァージリンは飛びあがりそうになるのをこらえ、ふり返りたい気持ちを抑えて答えた。 「知ってるわ」 「珍しい物質だ。〈都市の墜落〉のあとも残っているワイアがあったのか、それともあとになって〈アーチ〉のもとに持ちこまれたのか。〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉はどこでそれを見つけたのだろう?」 「たぶんわたしの背嚢の中よ」ヴァラヴァージリンはいった。 〈|屍肉食い《グール》〉はすべての秘密を知っている。 「テガーの役には立ったみたいね。さもなければ川で死んでいたでしょう」 「そのとおりだ」  しばしの静寂のあと、ヴァラヴァージリンは言葉をついだ。 「ルイス・ウーがわたしに残してくれたの──とても長い名前──|超 伝 導 布《スーパーコンダクター・クロス》というのをね。一度、ある|浮 揚 都 市《フローティング・シティ》で〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉の一家と取り引きをしたことがある。彼らはそれを使って照明と水分凝集機を修理したわ。  それでわたしは金持ちになり、タラブリリアストを伴侶にした。子供も三人生んだわ。そしてルイス・ウーが教えてくれたプラスティックというものを製造するための計画に投資した。タラブリリアストがそれを浪費だと非難したことは一度もなかった」  いや、一度だけあったっけ、と彼女は思い出した。 「つまるところ、わたしの財産なんだから。彼は伴侶になる前はほとんど無一文だったから」 「そのプラスティック[#「プラスティック」に傍点]だが」〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉がヴァラヴァージリンそっくりの発音でいった。「われわれの言葉でも名前があるのだろうか?」 「ないと思うわ。ルイスは、燃料をつくったあとの汚い滓からできると説明してくれたけど。匂いがなくて、どんな形にもなるものだって。プラスティックでできたものをひとつかふたつ見せてもらった。見なかったらわたしには想像もできなかったでしょうね。  でもターバヴァラの研究所が出した結果は……答は……まったくゼロだった。売れそうなものは何もできなかった。子供たちの世話をターブと両親にまかせて、わたしは研究をつづけるための資金集めに出たの。それには交易の旅がいちばんいい。どこかのヒト型種族にアルコールをつくらせることに成功すれば褒賞金がもらえるの。それに何より、交易そのものが富を築いてくれる」 「どれくらいのあいだ家を離れている?」 「そろそろ十ファランになるわ」 「長すぎたと思うか?」 「わからない。でもわたしは交わってしまった[#「交わってしまった」に傍点]。たぶんターブは許してくれないでしょう」  ヴァラは首をふった。 「もう寝るわ」 「わたしが見張りをしよう」 [#改ページ]      13 サウールの法則 【〈|機織りの町《ウイーヴァー・タウン》〉──AD二八九二年】  ルイスが目を覚ましたとき、あたりには誰もいなかった。空腹を感じたので、彼はジャンプスーツを着ると、カサカサ音をたてる藪を踏んで外に出た。  村には誰もいないようだ。  昨夜の焚火の灰に温もりが残っている。最後の根菜を見つけて切りひらいた。茄子によく似ている。まずまずの朝食になった。  太陽は正午の位置にある──もちろんだ──だが体内時計も正午の感じで、どうやら半日を無駄にしてしまったらしい。彼は貨物プレートにのぼってあたりを見まわした。みんなの居場所はすぐにわかった──サウールが彗星の尻尾のように子供たちを引き連れて、上流水門のアーチを渡っている。  ルイスは一行がアーチを渡りきったあたりで追いつき、貨物プレートをそこに残して尻尾の列に加わった。  一行は川沿いに歩いていった。ルイスはリングワールドの地図を描いて、その建設者や年代や今後の運命について語り、そのうちのどれが推測かを理解させようとした。〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉の宇宙船に搭載されていた超伝導性の二重|円環《トロイド》──外壁からはずされたパサード式ラムジェットだ──の絵も描いた。残されたラムジェットに燃料を補給するため自分がどんな犠牲をはらったかは語らなかった。  姿を消していた数人の少年がもどってきた。枝の多い木の繁みに、数百もの鳥の巣を見つけたのだ。全員が走りだし、ルイスとサウールもゆっくりあとを追った。  サウールがいった。 「あなたの睡眠パターンがよくわかりません」 「昨夜は遅くまで話しこんでいたんだ。たぶんきみが会ったこともないふたりとね」 「〈|夜 の 人 々《ピープル・オヴ・ザ・ナイト》〉ですか? 彼らはすべてを知っていて、〈アーチ〉の下のあらゆるものを支配しているといわれています。死者は彼らのものです。ルイス、そうした民と話をする客を迎えたこともありますが、なぜあなたは彼らと話をするのですか?」 「ぼくは誰とでも話すんだ」と、ルイスは認めた。「でもサウール、あれはおもしろい体験だったよ。少しは勉強になったようだ。たぶんあの子供がぼくと話したがり、父親のほうはそれをとめようとしたけど間に合わなかったんだな。それで彼らはそれと気づかすにいろんなことを洩らしてしまった。これで、彼らの帝国が広大な〈アーチ〉全域でどうやって交信しているのか、だいたい[#「だいたい」に傍点]見当がついた」  サウールがポカンと口をあけた。ルイスはあわててつけ加えた。 「このことは、ぼくの秘密にしておくべきだったかもしれないね、サウール。それでも、彼らだってすべてを知っているわけじゃない。彼らにも問題があるし、ぼくにも問題はある──」 「そうでしょうね、本当に」と、彼女はきっぱりした口調でいった。「今朝あなたはどうやっても目を覚まさなかったけれど、夢で話をしていました。あなたを苦しめているのはなんですか、ルイス?」  だがふたりはそのとき、小さな網の飛び交うただ中にはいりこんでしまった。  そこにあった木立を子供たちがとり囲んでおり、ちょうど網投げがはじまったのだ。この一時間で、彼らはすでに驚くほど多くの鳩ほどの大きさの鳥をつかまえていた。 〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちは卵にまったく関心を示さなかったが、ルイスはそれを一ダースほど集めた。見かけも感触もなめらかなプラスティックのようで、吸い口のない無重力用の飲料バブルみたいに見える。ためしてみよう。  午後のなかばに村にもどった。子供たちが鳥の羽をむしりはじめたので、ルイスとサウールはその場を離れ、たいらな岩に腰をおろして年配の〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちが火を起こすのを見物した。  サウールがまたたずねた。 「教師さんが悩んでいる問題というのはなんですか?」  ルイスは笑った。教師は悩まないものなのか? しかし〈|機織り《ウイーヴァー》〉にこれをどう説明したものだろう……? 「ずいぶん前のことだが、ぼくはばかな真似をしてね。〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉にまったく連絡しないなんて、どうしてそんなに愚かになれるのか、彼が理解するには四、五ファランかかっただろう。でもぼくらはもう話し合ってるし、問題はそんなことじゃない。  サウール、〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉はぼくとハミイーをつかまえて奴隷にしたんだ。もちろん非常に恥ずべき行為だが、彼はそんな所業に見合うだけの贈り物を用意してもいた。彼は噛むだけで年老いたヒト型種族やクジン人を若くする種を持っているんだよ」  サウールがくちびるを噛んだ。 「そんなことができて、それであなたを若くしてくれるのですか?」 「それだけの代価を支払えばね。それに彼は自動医療装置《オートドック》という機械も持っている。これは手足がなくなるようなひどい怪我でも治すことができる。細胞賦活剤《ブースタースパイス》でも治せない損傷を修復できるらしい。  サウール、人間を再生するってことはものすごい[#「ものすごい」に傍点]医療技術なんだよ。ぼくを若返らせることができるなら、従順につくりかえることだってできるはずだ。ハミイーもぼくも奴隷向きじゃない。〈至後者《ハインドモースト》〉はぼくをもっと使いやすい奴隷に仕立てあげることができる。完壁な召使にね。昨夜まで、ぼくには彼の機械にかからない[#「かからない」に傍点]理由があった。だがいまは、それがなくなってしまった」  サウールがたずねた。 「前にもその機械にかかったことがあるのですか?」  いい[#「いい」に傍点]質問だ。 「二年間冷凍睡眠させられたから、そのあいだに何か医療処置をされたかもしれない。彼にはなんでも好きなことができたはずだ」 「でもそうしなかった」 「たぶんね。何も変化は感じられないから」  サウールは黙りこんだ。  ルイスはふいに笑いだし、ふり返って彼女を抱きしめた。 「気にするなよ。ぼくは彼の超空間駆動《ハイパードライヴ》装置をバラバラにしたんだ! 彼は故郷にもどれなくなって、それで〈アーチ〉を救わなければならなかった。もしぼくを召使につくりかえていたとしても、ひどい失敗作だったわけだ」  サウールは目を見はり、声をあげて笑った。 「でもルイス、あなたも帰れなくなったんですね!」 「約束したんだ」 〈機械人種《マシン・ピープル》〉のヴァラヴァージリンとだ。 「リングワールドを救う、救えなかったら死ぬ、ってね」  サウールは黙っている。 「彼はぼくが電流中毒《ワイアヘッド》だと信じていた」  翻訳器の言葉が中断した。サウールの言語にワイアヘッド[#「ワイアヘッド」に傍点]に当たる言葉がなかったのだ。 「つまり、脳の快楽中枢に電流を流しこんでもらうためなら、ぼくはどんな命令でもきくと考えていたんだ……〈|機織り《ウイーヴァー》〉だって、たとえばアルコールのために、自由を売り渡すことがあるだろう? ぼくがそれを捨てられることを彼は知らなかった。でもいまは知っている」  サウールがいった。 「それで、若く従順にされたあなたはどうなるんですか? はじめに、彼の命令には従わないと決心しておいたら?」 「サウール。彼はぼくの心を変えられる[#「心を変えられる」に傍点]んだよ」 「ああ、そういうことね」  ルイスはしばし考えこみ、やがて口をひらいた。 「ぼくが利口で抜け目ないことは〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉も知っている。もし使いやすい召使に変えられたら、ぼくは愚かで鈍重になるかもしれない。だからあまり大きく変えるのはまずい。そうしたいだろうがね。ただ、そう決めこんでいていいかどうか」 「彼はあなたとの約束を守るでしょうか?」  これまたいい質問だ。  一族のはみ出し者ネサス……気のふれたパペッティア人ネサスは、リングワールドからもどったら〈至後者《ハインドモースト》〉と伴侶になることを要求した。〈至後者《ハインドモースト》〉は同意し、そしてその契約を守った。  しかしそれは対等なもの同士の取り引きで……いや、そうではない。ネサスは数世紀前から狂人と見なされていた。ノウンスペースのいたるところで、パペッティア人はさまざまな種族と結んだ契約をきちんと守っている。  自分の考えにひたっていたルイスは、ふいに話しかけられて飛びあがった。 「あなたはわたしに若さを与えて、またすぐとりあげてしまった……そんな夢物語を信じていたら、そういうことになるでしょう。でもこれだけはいっておきます」  棘のある声だった。 「人は年をとるほど、若返ることに対して大きな代償を払ってもいいと考えるようになります。あなたが〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉と取り引きしないつもりなら、それもいいでしょう。でももし取り引きするなら、年をとって病気になるまで待ってはいけません」  まさに正鵠を射た助言だった。  その夜、〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちは肉を、〈舟人《セイラー》〉たちは魚を、そしてルイスは卵と食べられることのわかった水草を料理し、崖の下にすわった。  気がつくとルイスは繁みの中に〈作曲家《テューンスミス》〉の姿をさがしていた。〈|屍肉食い《グール》〉のいる気配はなかったが、どこかで聞いているにちがいない。  前に見たとき、|浮 揚 都 市《フローティング・シティ》は生きている気配もなかった。だがいま、〈至後者《ハインドモースト》〉の蜘蛛巣眼《ウエブアイ》の窓に映ったそれは、まばゆい照明をきらめかせている。 「わかったよ」ルイスは空中に向かっていった。「どういうことになっているのか、ぼくは知らなきゃならない」  映像が飛躍し──。 [#改ページ]      14 侵  入  とがった爪が手首をつかんだ。ヴァラヴァージリンはささやいた。 「〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉なの?」 「〈|竪琴弾き《ハープスター》〉だ。彼女はほかのものたちを起こしている。ヴァラヴァージリン、あれを見てほしい」  ついさっき目を閉じたばかりのような気がする。ヴァラは毛布からころがり出た。「本当に重要なことなんでしょうね」などとはいわなかった。ものごとの重要度は種族によって異なる。商人《トレーダー》はそうしたことも学んでいる。  夜は暗く、雨が降っていた。〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉はさながらかすんだ星座だ。〈|竪琴弾き《ハープスター》〉はクルーザーまでもどった。ワアストとビージが現れ、つづいてバロクも出てきた。  バロクがたずねた。 「どうしたんだ、ボス?」 「わたしにもわからないの」  ワーヴィアがそばによってきた。 「あの下は暗くてはっきりしませんが」 「そうね」 「斜路です。ヴァラ、見えませんか? 斜路だけではない。都市全体が少し沈下しています。|まったく《フラップ》マナックのいったとおりでした!」  二号車の乗員がいっせいに飛び出してきて、息をのみ、しゃべりはじめた。彼らにもヴァラ以上のものが見えるわけではない。しかし〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がワーヴィアの横で言葉をそえた。 「錯覚ではない。吸血鬼《ヴァンパイア》どもが斜路に飛びつこうとしている。まだ高すぎて手がとどかないが──」 「もうすぐとどくわけね」 「テガーです!」ワーヴィアが叫んだ。「彼がやったんです!」 「でもそれじゃ、やつらが斜路をあがっていくじゃないの!」  ヴァラは迷った。本当にそうなのだろうか? 変化を見てとれたのはワーヴィアと〈|屍肉食い《グール》〉たちだけだ。その彼らにしても、斜路がおりた[#「おりた」に傍点]とはいっていない。 「全員乗車!」ヴァラヴァージリンは叫んだ。「乗らないものはおいていく! 自分の車に乗って、武器を持って! わたしたちもあがるのよ!」  テガーは船渠《ドック》の端に腹這いになって下を見おろしていた。吸血鬼《ヴァンパイア》の姿はまばらだ。このあたりはいい狩場ではないのだ。獲物といえば影の下にいる痴呆状態の捕虜だけ。狩りに出てくるのは、動物をつかまえて血にありつこうという、飢えのあまり自棄になったはぐれものだけだ。  下界は暗く、雨が視界をかすませているが、クルーザーは見まちがえようもない。ゆっくりと動いている。泥と砂が巨大な車輪に吸いついている。  四匹の吸血鬼《ヴァンパイア》が〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉のようにすばやく最初のクルーザーにとりつき、運転席によじのぼろうとした。  タオルを顔に巻いて剣を手にした〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉が、砲塔から飛びおりた。後部からパルームが出てきて棍棒のようなものをふりまわすと、一瞬のうちに襲撃者どもは誘惑者に変身した。つぎの瞬間には二匹が死に、あとのものは逃げ出したが、パルームの長い棍棒が空中でその一匹をとらえた……。  軽い衝撃が背筋を走り抜けた。テガーはずっとこれを待っていたのだ。  彼は一日の大半を費やして回路パネルをさがし、ひらいて、それらの回路がどんな働きを持っているか実験した。照明をコントロールするパネルの形はだいたい理解した。ここのパネルは船渠《ドック》の照明を制御している。ヴァラの布片はすでに配置してある。ふたつのスイッチをひねると船渠《ドック》は真昼のように明るくなった。  目をかたく閉じたまま、テガーは手さぐりで〈|斜路通り《ランプ・ストリート》〉への道をたどり、闇の中にはいった。しばし立ちどまって視力がもどるのを待ってから、あたりを見まわした。  斜路が地面に触れた衝撃が足に伝わってきた。  吸血鬼《ヴァンパイア》が斜路のカーヴをあがってくる。さほど大勢ではない。おそらく嗅覚によって獲物が少ないことを知ったのだろう。小さな〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉がたったひとり。獲物はそれっきりだ。  テガーは苦労してたいまつの束に火をつけた。ようやく燃えあがったそれをわきにおいて、もう一度見おろした。  若いのと、まだ子供に近いのが三十匹ほど、ゆっくりとあがってくる。やつらは何を考えているのだろう?  ──道のなかったところに道ができた。でも獲物の匂いはしない。たどってみよう。だが先頭には立たないほうがいい。光だ、目がやられる──。  腕で顔を隠しながら、すでに一周下まで押しよせてきた。背後の船渠《ドック》の光でやつらはひるむだろうか。  匂いがうねるように顔に襲いかかった。  なんとかしなくては[#「なんとかしなくては」に傍点]!  反射神経は彼を下へ呼びおろそうとしたが、そうするわけにはいかない。絶対にだめだ。テガーはたいまつの束を大きくひと振りして、その火球を一段下の層に投げ落とした。炎の塊りが散乱して、青白い顔がいっせいにあとじさりし、大半はそのまま斜路を駆けおりていった。数匹が、たいまつと船渠《ドック》の照明のあいだにはさまれてとり残された。  テガーは逃げもどった。  船渠《ドック》の端で、何もない空間に前かがみになって、清浄な空気を肺いっぱいに吸いこんだ。  クルーザーがずいぶん近づいている。あと二、三百呼吸でここに着くだろう。  吸血鬼《ヴァンパイア》がそれに襲いかかり、その攻撃はひと呼吸ごとに執拗になっていった。戦士たちは踏み板に並んでいる。 〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉は〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の柱のような脚のあいだから槍を突き出し、〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉はもっと遠くの標的を石弓で倒している。砲塔で演奏する〈|屍肉食い《グール》〉 の二重奏が、川のせせらぎに混じってかすかに聞こえてくる。  銃を撃たないのか? 巣全体を刺激しないよう、ヴァラヴァージリンが抑えているのだろうか? しかし吸血鬼《ヴァンパイア》はしだいに数を増している。巣にいるやつらも侵入に気づき、目を覚ましたのだ。  川は闇の中に流れこんでいる。クルーザーも流れに沿って闇の中にはいった。  ──そこは闇だ。地獄のような暗黒だ。  吸血鬼《ヴァンパイア》どもは夜目がきくらしい。〈|屍肉食い《グール》〉が運転席で方角を叫んでいるが、あとの連中には何も見えていないだろう。  彼にもできることがある[#「ある」に傍点]。度胸が要るが。そして剣も。  ヴァラヴァージリンは片手でハンドルを握り、片手で銃をかまえたまま運転をつづけた。隣の席にはバロクがうしろ向きに陣どっている。息を吸うとタオルごしにペパーリークの匂いがはいってくる。サールははじめから正しかった──香草《ハーブ》は燃料よりも効果的だ。  ヒョイとのぞいた白い顔に向けて両手で銃をぶっぱなし、クルーザーの向きが狂う前にまたハンドルをつかんだ。ほかの銃も撃ちはじめた。バロクが彼女の銃をとりあげて別の銃を手渡し、弾をこめなおした。  騒音に吸血鬼《ヴァンパイア》どもが後退し、クルーザーは闇の中へ進入した。  頭上の〈|浮 揚 工 場《フローティング・ファクトリー》〉がまるで星座のようだ。その下ではほとんど何も見えないが、斜路の位置はわかっている。そこをめざすのだ。  一度は撃退したものの、この暗黒の中で目の見える吸血鬼《ヴァンンパイア》どもは、どんな戦いかたをするのだろうか? 〈アーチ〉の下にあるすべての墓を集めたような、すさまじい悪臭の中を進んでいく。嫌悪感が防禦の手助けになるかと思ったがそうはいかなかった。  だめだ。  ここでもやはり真の敵は、戦いの最中だというのに高まる性の欲求だった。 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が不気味な音楽を中断して叫んだ。 「ボス! もっと左だ! 左、それから右に曲がると斜路だ。ボス、斜路にも吸血鬼《ヴァンパイア》がいるぞ!」  ヴァラは左にハンドルをきり、闇の中に車を乗り入れた。  クルーザーはそれぞれなんとかもちこたえた。いま彼らが戦っている相手は、子供や不具で動けないものや年寄りや妊婦など──どれも狩りの遠征についていけなかった連中だ。だがいまは真夜中なので、活力は最高だろう。夜明けを待とうかとも考えたが、夜が明けると遠征隊がもどってくる。どれほど疲れていようと、やつらは力強く数も多い。それに、いま戦っている相手も、夜のあと半分のうちにはテガーのところへたどり着くだろう。  前方に流れ星が落ちた。  行く手をふさいでいた吸血鬼《ヴァンパイア》どもが、わめきながらわきにころがった。落ちてきた火球──たいまつは、何本か消えたものの、まだ六本が燃えつづけている。テガーの贈り物だ。  すでにヴァラのクルーザーは斜路にあがり、二号車もあとにつづいた。吸血鬼《ヴァンパイア》は四方から押しよせてくる。一匹が運転席に飛び乗った。ヴァラはそれを一発で吹き飛ばし、その銃をわきにおいた。キャノンが轟音をあげた──爆風と円礫が前方の斜路を一掃した。  背後で、まるで〈アーチ〉から太陽がふってきたかのようなまばゆい光が炸裂した。すさまじい輝きの中で、吸血鬼《ヴァンパイア》どもが目を蔽って凍りつき、巣籠もりする鳥のようにうずくまった。まわりじゅうで銃と石弓の発射音がひびきわたる。  運転席が揺れた。ヴァラは吸血鬼《ヴァンパイア》の匂いで狂いそうになりながら、唯一の武器となった空の銃を手にしてふり返った。ゆがんだ〈機械人種《マシン・ピープル》〉の女の顔が見返していた。両手両足と歯を使って狂ったように運転席にしがみついているのは、フォラナイードリだった。  ヴァラは運転をつづけた。  斜路のカーヴにそってひとまわり、もうひとまわり。光の中に立つ影が、両手をふりまわして合図を送ってくる。その片手には剣を握っている。車が光の中にはいった。 〈赤色人《レッド》〉のテガーが──裸だ、なぜ? ──飛びのいてクルーザーに道をあけた。  ワーヴィアがクルーザーから飛びおりた。そのまま抱きついた勢いでテガーの剣がはじけ飛んだ。ワーヴィアの短衣《キルト》もそのあとを追って宙に舞った。仲間たちの歓声を聞くまでもない──いまは祝いのとき、リシャスラのときだ。  守りを怠らないよう、誰かが[#「誰かが」に傍点]気を配っていなくてはならない。  船渠《ドック》の白い光の中に車を停めた。争いの音。吸血鬼《ヴァンパイア》か? いや、ちがう、言葉をしゃべっている……。  フォラナイードリが父親と出会ったのだ。そしてたがいにすさまじい罵りの言葉を投げつけ合っていた。  殺し合いになる前にとめなくては。息つぎのために声がとぎれた瞬間、ヴァラはふたりの肩に手をかけた──注意をひいて、さっと割りこんで、早口でいう。 「フォーン、だめよ[#「だめよ」に傍点]。バロク、まったくもう。これはわたしの[#「わたしの」に傍点]落ち度。わたしたち全員の[#「全員の」に傍点]落ち度なの。何が起きるかはみんなわかっていたんだから。非難は全員が受けるべきなのよ」  父娘は放心したように彼女を見つめている。 「吸血鬼《ヴァンパイア》の襲撃のとき、あなたたちはいっしょにいてはいけなかったの。別々にしておくべきだった。わたしの判断ミスよ。わかるでしょう? あのときはわたしたち全員が[#「全員が」に傍点]交わり合ったのよ。どうしようもなかった。ホワンドはスパッシュを妊娠させた。でもバロク、みんなもまだ[#「まだ」に傍点]あなたとフォーンのことは知らない、そうでしょ?」  バロクが口ごもった。 「知っていると思うが」 「だけどもう、あたしたちは故郷に帰れない!」フォーンが泣き叫んだ。 「誰かほかの人とリシャスラしなさい」ヴァラはいった。 「ボス、あなたいったい──」 「いますぐに! ばかな娘ね。パルームがイライラしてるでしょ。身体を使えば頭もすっきりするわ。さあ[#「さあ」に傍点]!」  突然フォーンは笑いだした。 「あなたはどうなのよ、ボス」 「わたしはここ[#「ここ」に傍点]をまとめなきゃならないの。バロク、あなたはワアストをさがして──」  だがあれはワアストの声だ。ワアストは数人の男を相手にしている。 「──ほかの誰かでもいい。さあ」  別々の方向に押しやると、ふたりはその場を離れていった。  さてつぎは? 〈赤色人《レッド》〉は無事によりをもどしたようだ。これでもう大丈夫。テガーもいまでは吸血鬼《ヴァンパイア》の匂いの威力を知っているのだから。その匂いがまだ脳と血の中で泡立っている。だがヴァラはかつてもっと強い匂いを体験し、抵抗しおおせた。いや、抵抗したのではなく、正確には……。  青白い子供が彼女の前に立った──背丈は彼女の半分ほどだ。流し目で、無言の誘惑を……。  彼女はそっちへ向かって歩きだした。  子供の胸に石弓の矢が生えた。そいつは悲鳴をあげ、よろめきながら影の中に駆けこんでいった。  ヴァラはふり返った。パルームだった。 「銃床でぶん殴ればすむと思ったのに。匂いも出せない子供だったわ」 〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉はそれを認めた。 「でもほかにも車についてきたやつがいるかもしれない。おれはあの子供しか見なかったが」 「トンネルは調べた?」 「四匹の吸血鬼《ヴァンパイア》が斬り殺されていた。テガーがやったんだと思う」 「よかった」 「一匹は歯をみんなたたき折られていた。そして……あんたはなんといったっけ? そうだ、吸血鬼《ヴァンパイア》どもは仲間の死体の匂いを嫌う。そこを越えてこようとはしない」 「それじゃ……やったのね。わたしたちは安全なんだわ」 「おめでとう」  パルームは両腕で彼女を抱きしめた。  パーティは終わろうとしていた。  気づきたくなどなかった。ヴァラはケイワーブリミスとの行為に没頭していた。危険はないはずだ。どのみちそうなっただろうが、こんな夜を過ごしたあとでは、どんな男にも子供をつくる力など残っているはずがない。  太陽が灰白色の雲の中で銀色ににじんでいる。〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉は四人が折り重なるようにして眠っている。〈|屍肉食い《グール》〉は早くから脱落して陽よけの下にもぐりこんだ。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉たちは──彼女とケイも同じだったが──リシャスラではなくたがいの身体をまさぐり合っているし、テガーとワーヴィアは何か話し合っていた──ただ話をしているだけだ。  ケイワーブリミスは彼女の腕の中でくつろぎ、深い眠りに落ちている。  ヴァラは身を離し、ケイの上衣《チュニック》を丸めて彼の頭の下に押しこんだ。それからゆっくりと──ふらつきながら──船渠《ドック》の床の上を〈赤色人《レッド》〉たちのほうへ歩いていきながら、その様子をうかがったが、別に迷惑がられてはいないようだった。 「ねえ、テガー。どうやって〈|浮 揚 工 場《フローティング・ファクトリー》〉の高度を下げたの?」  テガーは誇らしげな笑みを浮かべ、ワーヴィアも同じ表情を見せた──ようにヴァラには感じられた。 「パズルを解くようなものさ。そこいらじゅうにヒントがある。プールと水槽。おれがここにきたときはどれも空っぽだった」  ヴァラはつづきを待った。 「〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉は〈都市の墜落〉のあと、ここで孤立した。いたるところに骨があった。そして吸血鬼《ヴァンパイア》が影の下にやってきた。やつらが斜路をのぼってきたにちがいない。さあ、おまえならどうする?」 「何かの方法で斜路をあげたんじゃないかって話してたんだけど」  テガーは楽しそうにうなずいた。 「どの水槽も空だった。だが〈都市の墜落〉が起こったのはルイス・ウーが海を沸騰させるずっと前のことだ。水の供給は必要だが、吸血鬼《ヴァンパイア》の脅威はそれ以上だった。そこで彼らは水を放出して、都市を浮かびあがらせた[#「浮かびあがらせた」に傍点]んだ」 「じゃあ、あなたは水槽という水槽に栓をしたのね──」 「船渠《ドック》に大きな金属板が何枚もあった。それを使って栓をしたんだ」 「──それで雨が水槽いっぱいに溜まって、都市が下降[#「下降」に傍点]した」 「そうだ」 「あの光、ありがとう」  テガーは笑った。 「ああ、おまえが喜ぶと思ってね。ぜんぶのたいまつに火をつけて落とした。それから容器いっぱい分の燃料を火の上にかけたんだ」 「それで、これからどうするの?」  テガーは答えた。 「ここにいれば何かができるし、頭のいい仲間が十五人も加わったことだから、何か考えつくだろう」  ヴァラはうなずいた。  テガーはまだ答を得てはいないが、ともかく彼はすでに奇跡をなしとげたのだ。 [#改ページ]      15 エネルギー  明るい真昼の光の中、さまざまな発見を見せるために、テガーが一同を〈|階段通り《ステア・ストリート》〉に案内した。  それは気骨の折れる仕事になった。ワーヴィアはあちこちの家に、観葉植物のジャングルに、半分だけ水のはいったプールに飛びこんでいき、駆けもどっては質問を浴びせかけるのだ。あとを追うわけにもいかない。ほかの仲間から離れられないからだ。〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉たちは彼女よりもさらにすばやく、〈赤色人《レッド》〉のはいれないところにもぐりこんでは飛ぶようにもどってきて、〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉にペチャクチャと話しかけている。 「ここだ、あの草はおまえたちにも食べられるだろう」テガーがそばにいる〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉のワアストにいった。  彼女はひと握りをつかみとってニッコリ笑い、咀嚼《そしゃく》しながらペリラックとシラックについて半壊した家の中にはいっていった。 「植物を食う獣はいないようだ」彼はつづけてコリアックに話しかけた。「気をつけて見たんだが、糞も落ちていなかった。ああ、食べ物は何か見つかるだろう。少なくとも巣をかけて虫をとるやつがいる。誰か虫を食うものはいるか?」  それからヴァラヴァージリンに向かっていう。 「草食動物がいてもいいはずだが、おれは鳥しかつかまえられなかった。それに虫も一匹もいないみたいだ」  ヴァラはたずねた。 「腐肉は?」  その質問の意味は明白だ。 「古い乾いた骨ばかりだった。おれたち[#「おれたち」に傍点]が飢え死にするまで〈|屍肉食い《グール》〉の食い物はない。だがあれ──果実ならある。たくさんの果樹がね。ここだ」  ヴァラは梨科のその実をひとつもぎとって口に運んだ。そう、これでしばらくは〈機械人種《マシン・ピープル》〉もやっていける。 「テガー、この工場は何を作っていたのかしら?」 「布をいっぱい積んだ倉庫があった。たぶんそれを作っていたんだろう。でもおれだって、まだぜんぶ見たわけじゃないんだ」  ヴァラは工場に興味を惹かれた。ルイス・ウーの魔法の布をつめた背嚢があれば、いくつかのモーターを動かすことができるかもしれない。もしすべてが朽ち果てていてモーターが動かなかったとしても、工場や倉庫には〈都市の墜落〉以前につくられたまま出荷を待っている驚異が残っているはずだ。  だが、テガー自身も空腹にちがいない。仲間たちにいますぐ[#「いますぐ」に傍点]食事をさせなくてはならない。利益を求めるのはそのあとだ。下に降りる方法を見つけてからだ!  一行は三々五々と〈|階段通り《ステア・ストリート》〉をのぼり、頂上のドームにたどり着いて中にはいった。  テガーには解けなかった謎も、〈機械人種《マシン・ピーブル》〉には一目瞭然だった。バロクが微笑しながら先頭に立って巨大な階段をのぼり、その奥へと歩を進めた。 「宴会場だよ。〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉は料理をする雑食性だ。いろいろ変化をつけるのが好きなんだ。この設備はそのためのものなんだよ!」  テガーがいった。 「箱と台がみんな熱くなるんだ」 「そうさ、それに材料を切るための台もある」 〈|階段通り《ステア・ストリート》〉の上にそびえているのは例の煙突と螺旋階段だ。ワーヴィアはもう煙突の縁にすわって脚をぶらつかせながら、浮揚工場都市とその彼方にひろがる景色を眺めていた。どうしようもないほど幸福そうだ。 「〈|川 の 民《リヴァー・フォーク》〉が手をふっています。あれ、ルーバラブルみたい! ねえ、誰かもうひとりここへあがって、わたしたちがここまで来たことを教えてやりましょうよ! 向こうはまだわたしのことをテガーだと思ってるでしょうから」  ヴァラは石にこびりついたブロンズ色の蜘蛛の巣のそばを抜けて、螺旋階段をあがった。縁に腰をおろすと、ふたりは横へ位置をずらして、あとからくる人々──コリアックとマナックとパルームとバロク──のために場所をあけた。テガーは立ちどまって蜘蛛の巣を調べてから、みんなのところまであがってきた。  なんにせよ、頂上に立つというのは気持ちのいいものだ……そう、なんとなくえらくなったような気分になれる。  実のところ、ここからだと、現在ヴァラがいちばん関心を持っているもの──下の〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉に群がる吸血鬼《ヴァンパイア》や周辺の地域──は見えない。だが遠くの山間の道には、青白い筋がゆるやかに流れているのが見えた。〈|故郷の流れ《ホームフロー》〉沿いに近づくにつれて、その流れはひとつひとつの点になった──数千匹の吸血鬼《ヴァンパイア》がもどってくるところなのだ。  とぎれとぎれの陽光を受けて、川と、雪をいただいた山並みがキラキラ光る。すぐそこでは、ずんぐりした黒い人影がふたつ、その輝きを背にして立っている。ヴァラたちはみんなで手をふった。ルーバラブルとファドガブラドルはそれに手をふり返してから水中にもどっていった。  でもここからは工場群のすべてが見わたせる。テガーはいたるところで明かりをつけっぱなしにしていた。 〈|階段通り《ステア・ストリート》〉では下まで断続的に緑の線がつづいている。ほかの場所には緑は見当たらず、煙突のそばにはひとつもない。あの蜘蛛の巣の主は何を食べているのだろう?  倉庫や工場のたいらな屋根と、タンクの湾曲した屋根は、すべて輝く灰色だ。例外は〈|階段通り《ステア・ストリート》〉沿いの家で、そこではたいらな屋上に庭とプールがつくられており、階段[#「階段」に傍点]のほうが灰色に輝いている。  パルームがたずねた。 「ヴァラヴァージリン? あの灰色の屋根を見たか?」 「それで?」 「なぜ光がまだともるのか、考えてみたのだ。太陽に向かった面はみな同じ輝く灰色をしている。きっとあの材質が太陽の光を蓄えているのだろう」 「なるほど!」と、テガー。  パルームが笑った。 「おまえも気にしていたのか?」 「ああ。だがいわれてみれば──待てよ、この雲がかかってからは蓄えられる光も少なかったんじゃないかな。だがおれがくるまではエネルギーが使われることもなかった。数百ファランものあいだだ。つまり──」 「なくなる可能性がある。昼間は消しておいたほうがいい」 「おれが操縦席を切り離したあの運搬プレートも同じ色をしていた。だから[#「だから」に傍点]あれはまだ飛べたんだ。では稲妻は太陽の光で……明かりを消すんだって? パルーム、なんのために[#「なんのために」に傍点]エネルギーを節約するんだ?」 「わからん」〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉は答えた。「だが浪費は感心しない。それでも船渠《ドック》のまわりの明かりはつけておこう。吸血鬼《ヴァンパイア》があがってくるかもしれんからな。おれの考えだが」  テガーは扇をすくめた。その顔にふいに色濃い疲労が浮かんだ。ワーヴィアがその耳もとに何かささやきながら、彼をひっぱっていった。  残された人々にはもうたいしたものは見つからなかった。一行はやがて休日の旅行者のように、ひとりまたひとりとクルーザーにもどった。大半がもう倒れる寸前だった。 〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉の睡眠は夜と決まっている[#「決まっている」に傍点]。まだ昼間なので、一行の中でも彼ら四人だけはまだ活力にあふれていた。ヴァラはマナックとコリアックを歩哨に立てて、陽よけの下に這いこんだ。  そこではフォーンがグッスリ眠りこんでいた。疲労だけでなく、貧血のせいもあるだろう。かわいそうな子。だがもうすっかり落ちついたようだ。ヴァラはタオルを燃料で濡らし、首のおぞましい傷痕をぬぐってやった。それから毛布をひろげて横になった。  ビージがはいってきたとき、光がまぶしくて彼女は思わず目を閉じた。  ビージはふた抱えもある刈りたての草をあいている場所にひろげ、その中で身体を丸めてつぶやいた。 「〈赤色人《レッド》〉のテガーは実に賢明だったな」 「そうね」ヴァラは答えた。 「あれをもっと押し進めてみるといいかもしれない」 「え?」 「もっと水を溜めるんだよ、ボス。工場や貯蔵タンクや、あらゆるものの屋根に穴をぶちあける。屋根以外の部分は水が出ていかないよう密閉する。煙突には布を敷く。雨が降れば水の海だ! この工場の塊りはもっと降下する。そうだろう? そして吸血鬼《ヴァンパイア》を押しつぶす」  そんなにうまくいくだろうか?  疲労のため、うまく頭が働かないが……。 「だめよ」と、声が割ってはいった。 「誰だ?」 「フォラナイードリよ。ここの下はたいらじゃないの、ビージ。〈中央都市《センター・シティ》〉の行政府くらい大きな建造物があるのよ」 「|ちくしょう《フラップ》、そういえば、おまえはこの下で暮らして[#「暮らして」に傍点]いたのだな。フォーン、それはどんなものだ? 彫像のようなものか、建物のようなものか? 簡単に壊せそうか?」  フォーンが答えはじめた。ヴァラは毛布をひきずったまま光の中に這い出て、薄暗い荷台外殻《ぺイロード・シェル》にもぐりこんだ。  毛布をひろげ、そして──。  声がいった。 「ヴァラヴァージリン、そろそろ〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉をのぞいてみようと思うのだが」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉だ。 「匂いがしないので気がつかなかったわ」 「眠る前に少し見てまわった。あの家が並んだあたりに──おまえも見ただろう? ──プールがあった。いい気持ちだったぞ。草の上でころがれば身体も乾く」 「それはよかったわね。〈|竪琴弾き《ハープスター》〉、でもいまは眠りたいの」 「〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉も眠る。でも、昼間にな。わたしも眠りたい」  その点を強調するように、鋭い爪が脇腹をつついた。 「吸血鬼《ヴァンパイア》もそうだ。いまなら動きが鈍いだろう。斜路から彼らを追いはらえる。実際に調べてみたいのは照明の状態だ。〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉を何人か連れていってもかまわないか?」  ヴァラはどうにか考えをまとめた。 「ふたりは歩哨に立てたわ。連れていくのはシラックとペリラックにして。それからケイワーブリミスも」  ケイはもういくらか[#「いくらか」に傍点]睡眠をとっていたし、調査にはさまざまな視点が必要だ。 「ビージにもきいてみないとね」  サールの後継者は何にでも志願したがる。  |しかたがない《フラップ》! ヴァラは起きあがり、銃とアルコール火炎器《フレーマー》に手をのばした。 「わたしもいく」  ぜんぶで八人になった──〈機械人種《マシン・ピープル》〉がふたり、ビージ、〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉がふたり、ワーヴィア、そして〈|屍肉食い《グール》〉たちだ。〈|屍肉食い《グール》〉は先頭に立ち、出力を絞ったヴァラの火炎器《フレーマー》が投げかける光の輪の外を歩いている。あとのものたちも、布で顔を蔽い、闇になかば視力を奪われたままあとにつづいた。  ヴァラは吸血鬼《ヴァンパイア》四匹の死体に気をとられて……足もとをよく見ていればよかったのだが……〈赤色人《レッド》〉のようにとがった吸血鬼《ヴァンパイア》の歯を踏んでしまった。パルームがいっていたとおり、一匹の女は歯がなくなっており、そして……それだけではなかったのだ。  ヴァラは身ぶるいした。 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チュープ》〉がフワリと視界から姿を消した。ヴァラが呼びかけようと息を吸ったときには、〈|竪琴弾き《ハープスター》〉も消えていた。呼ぶのをやめ、火炎器《フレーマー》をかかげて追いかけると、〈|屍肉食い《グール》〉たちはまだヒクヒク動いている雄の吸血鬼《ヴァンパイア》のそばに立っていた。  一行はさらに進んだ。呼吸のたびに濃い腐敗臭がペパーリークごしにはいりこんでくる。だがもうだいぶ目が闇に慣れてきた。  螺旋を三周降りたところで立ちどまった。吸血鬼《ヴァンパイア》が占頷している地表まではあと二周半だ。  不規則な円形をなして射している〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉の周囲の陽光が、痛いほどにまぶしく感じられる。 〈|故郷の流れ《ホームフロー》〉の両側に、それぞれ貴族の農園ほどの広さに黒い土がひろがっているのが見えた。川が影の下にはいりこむあたり、左舷反回転方向《ボート・アンチスピンワード》のはずれだ。そこには巨大な茸が生えていて、その下にも吸血鬼《ヴァンパイア》が住んでいるらしい。|くらやみ農場《シャドウ・ファーム》だ。吸血鬼《ヴァンパイア》がやってくる前、ここには百種類もの茸が育っていたにちがいない。あのお化け茸は大きすぎて踏まれずに残ったのだろう。  真下は〈機械人種《マシン・ピープル》〉の道路と同じ素材で舗装されている。 「思ったよりずっと明るい」〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉が朗らかな声でいった。 「風を待ちたかったな」〈|竪琴弾き《ハープスター》〉は恨めしげに答えた。  風か、なるほど。  血の中で狂気がフツフツとたぎっているのをヴァラは感じた。ペパーリークの濃厚な香りも、いまや発情を促す匂いをきわだたせる役にしか立ってはいない。風があれば吹きはらってくれるのだろうが。下ではきっと何万もの目がこちらを見あげていることだろう。  ワーヴィアが口をあけてせわしなく呼吸している。意志の力だけでは勝てないことをワーヴィアはもう知っている[#「知っている」に傍点]のだ。ケイがそっとヴァラから離れた──いまは[#「いまは」に傍点]気を散らす必要もない。ほかのものたちは大丈夫そうだ。  精神を集中しろ! あの中央の建造物は……。  その噴水は、さまざまなものの寄せ集めだった。斜路に面した側には窓があり、手すりのない小さなバルコニーと、その外には階段がついている。たぶん住居ではなく、オフィスのようなものなのだろう。  少し横にまわったあたりにたいらな空間があり、それを囲んで食堂ドームと同じような同心円の階段がせりあがっていた。座席だ。ここはきっとステージなのだ! 隅に積もった腐敗物は幕だったものにちがいない。ひらたく崩れた残骸は大道具だ。半透明な壁が倒れて蜂の巣のような舞台裏の仕組みが見えている。みんなはここが何なのか理解できるだろうか、とヴァラヴァージリンは思った。  水はその真上から落ちている。影のような巨人の像に囲まれた滝だ。それが建造物のあらゆる部分を貫き周回して流れ落ちている。〈都市建造者一族《シティ・ビルダー・フォーク》〉の立像たちが、巨大な水盤から水をそそいでいるのだ。水は舞台のうしろを流れ落ち、恒久的な背景幕をなしている。水が豊富なせいか、オフィス建造物の背後にも鮮やかな色彩の茸が生えている。その水はすべて、迷路のようなパイプや水路を抜けて〈|故郷の流れ《ホームフロー》〉に流れこんでいる。  フォーンのいうとおりだった。この建造物群はちょっとした市庁舎なみだ。おそらく〈|浮 揚 工 場《フローティング・ファクトリー》〉全体を支えることはできないだろうが、そこに[#「そこに」に傍点]溜まっている水の重さくらいには耐えられるのだろう。 「なるほど、なるほど。工場をやつらの上におろすことはできそうにないですね」ペリラックがいった。「では横向きに移動させるのはどうでしょう? これは何かの力でここにとどまっている。それを解き放ったら? これが移動したら、吸血鬼《ヴァンパイア》どもは追いかけてくるでしょう。そこを狙い撃てばいいのでは?」 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉がいった。 「その考えは半分正しい。これはある力によってここにとどまっているのだが──」  そのあとは〈|屍肉食い《グール》〉の言葉になり、〈|竪琴弾き《ハープスター》〉も同じ言葉で答えた。ヴァラはふり返った。おそらく〈|屍肉食い《グール》〉にもこの〈|浮 揚 都 市《フローティング・シティ》〉を動かすことはできないのだ。 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が共通語にもどってつづけた。 「──磁力における最低点、いわば鉢の底のようなものだ。充分な力があればそこから牽き出す[#「牽き出す」に傍点]こともできるが、蒸気クルーザー二台ではどうだろうか? |くそっ《フラップ》、おまえたちがルイス・ウーの名前など聞いたことがなければよかったのに」  彫像、並んだ窓、舞台、刻まれた水の流れ。 「何を見逃しているのかしら?」ヴァラは自問した。 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉がそれを聞きつけた。 「何かな?」 「あれは何なのか、あなたの思うことを話して」と、ヴァラはたずねた。 〈|屍肉食い《グール》〉の女はそれに答えていった。 「オフィス。たぶん公務用の。政治的な諸問題を上層部に持ち込まなくてもいいよう、すべてをこの下層にまとめたもの。舞台は演説と会議のためだが、劇場にもなる。つまり社会活動の中心だ」 「向こう側も見てみたいな」と、〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。 「何があると思うの?」ヴァラはたずねた。 「たぶん……演壇だ。ここは演劇のための舞台で、演説や、さらにいえば音楽にも不向きだ。この噴水仕掛けを考案したものはきっと賞をとったにちがいない。吸血鬼《ヴァンパイア》がいなければ、どれほど美しい場所だったことか」 「わかった[#「わかった」に傍点]」ヴァラは叫んだ。「照明よ!」 〈|屍肉食い《グール》〉が目を光らせて彼女を見つめた。 「照明よ! 演劇、音楽、演説、それやこれやの事務をとるところ、それに賞をとった彫刻ですって?」  ヴァラヴァージリンの大声に刺激されたかのように吸血鬼《ヴァンパイア》の歌が高まった。だが仲間は聞いてくれている。 「そういったことが闇の中でおこなわれるなんて考えるのは〈|屍肉食い《グール》〉くらいのものよ! ワーヴィア、テガーなら照明がどこにあるか知ってるはずだわ」  ワーヴィアの思考もすっかり冴えていた。 「知ってたらもうつけていたはずです」 「|なるほど《フラップ》」 「ボス、スイッチは上ではなく、あそこにあるのでしょう」 「|ちくしょう《フラップ》、まずいわね」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が上のほうを指さしていいだした。 「わかったぞ。ワーヴィア、あのてっぺんに立っている一群の彫像が見えるか? 三|身長高《マンハイト》もある〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉の戦士たちだ。全員が槍を持っている……」  ヴァラにはぼんやりした人間に似た形としか見えない。周辺からの昼光はそんな高所にはとどかないのだ。 「わたしには、大きな黒い塊りにしか見えないけど」ワーヴィアがいった。 「ああ、あれか」〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チュープ》〉が相槌を打った。 「あのてっぺんの──」 「ほかのよりも大きい。槍はわたしの足より太く、先端がなくて、まっすぐ屋根に突き刺さっている。あれがエネルギーの通り道だ。すまん、ボス」 「|ちくしょう《フラップ》! 水道管じゃなかったの? もちろんちがうわね。水は無尽蔵にあるんだもの。いいわ。とりあえず上からさがしましょう。そのほうが簡単だわ。テガーが見つけた分をちゃんと教えてもらって、それから彼が見なかった場所を調べてみましょう」  ワーヴィアはテガーを起こすことに反対した。 「ボス、彼は知っていることをぜんぶ話したはずです!」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉と〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉はもうグループを離れていた。ほかのヒト型種族がどこに照明のスイッチを設置するか、その推測に〈|屍肉食い《グール》〉の洞察力を当てにするわけにもいかないだろう!  それ以外の戦士たちは都市じゅうに散らばった。ヴァラヴアージリンは、かつてはとてつもなく貴重な秘密だったルイスの布を幾本にも切り分け、祭りの紙吹雪のように一同に配った。テガーが教えてくれたとおりに箱とスイッチをいじっていくと、やがて都市は曇った日の昼光に負けないほどまばゆく輝きだした。  光る灰色の屋根から建物の側面を伝ってキラキラ光る灰色の細い筋が走っていた。それをたどっていったいくつかのグループが、やがてそれらの集まる場所にたどり着いた。そこは都市の中央近くで、トゥウクにそこへ案内されていったヴァラヴァージリンは、すぐ傍らに〈|屍肉食い《グール》〉の脚ほどの大きさの穴を見つけた。  指をつっこんでかきまわし、埃の匂いを嗅いでみた。それが腐敗した超伝導体なのかどうかはわからない。だが、場所的にはここにまちがいない。  つぎにやるべきことを考えると憂鬱になったが、くよくよしてみてもはじまらない。その導管は二×十|身長高《マンハイト》もあるかもしれないのだ。ヴァラは残ったルイス・ウーの布をすべて細く裂き、結び合わせて長い紐にすると、一端に壁材の塊りを結びつけ、たるみが出るまで穴の中におろしていった。  下の彫像の槍の柄の下端で、この紐はいったい何に触れているのだろう? 腐敗していないエネルギー導線かもしれない。できるかぎりの手はつくした。つづいてヴァラは折り取った枝を使って、紐の上端を、灰色に輝く線がすべて集中している場所に持っていった。そこはたいらで、紐を結びつけるものは何もなく、結局彼女は〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉三人がかりでやっと持ちあがるくらいの石の塊りを重しにした。  雲が暗くなり、やがて小止みなく雨が降りはじめた。探検家たちもさすがに疲れて、ひとり、またひとりと、〈|斜路通り《ランプ・ストリート》〉をのぞきがてら船渠《ドック》のほうへもどっていった。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉はいちばんあきらめが悪かった。みんなの話を聞いても、自分の目でたしかめないと気がすまないらしい。 〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉は依然として暗いままだった。 [#改ページ]      16 蜘蛛の巣のスパイ  影が光を横切って、閉ざしたまぶたの上に落ちた。  ぬくもりとくつろぎと、胸や腹に押しつけられたワーヴィアの背中の感触と、彼女の髪の匂いを楽しめるくらいには、テガーの意識もうつつにもどっていた。もう少し目が覚めたらこんどは空腹が気になるだろう。  空腹。  ワーヴィアに何を食べさせたらいいのだろう?  腐肉漁りの鳥は、騒音とアルコールの煙と英雄たちに驚いて飛び立ってしまった。吸血鬼《ヴァンパイア》はいるが──胸の悪くなりそうな記憶は忘れよう──肉食の〈赤色人《レッド》〉向けの食べ物がここにあるだろうか?  ──吸血鬼《ヴァンパイア》を追いはらい。下に降りて。狩りをすればいい──。  昼光の中ではすべての影が垂直になる。つまりいまは夜で、これは船渠《ドック》の照明なのだ。  夜中に動いているのは誰だろう? テガーは目をあけた。  毛皮の背中がふたつ、光の前を通り過ぎて、〈|外縁通り《リム・ストリート》〉のほうに向かっていった。  テガーはワーヴィアから離れ、毛布を見つけてかけてやった。〈|竪琴弾き《ハープスター》〉と〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉は〈|階段通り《ステア・ストリート》〉にはいっていく。テガーはこっそりあとを追った。 〈|屍肉食い《グール》〉は秘密主義だ。たしかに秘密を守る権利はある。だが〈赤色人《レッド》〉は忍び足の名人なのだ。 〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉はまばゆい人工光の中を進んでいく。ヴァラの仲間たちはテガーが見逃していたスイッチも見つけ出した。夜は〈|屍肉食い《グール》〉の領分だが、今夜なかば視力を奪われているのは彼らのほうだ。それでも苦にならないのだろうか? もしかすると彼らは嗅覚を頼りに歩いているのかもしれない。 〈|階段通り《ステア・ストリート》〉沿いの家並びには凸凹が多い。隠れる場所はいくらでもあった。テガーは塊りの背後に、木や壁のうしろにと身を隠しながら、かなりの距離をおいてあとをつけた。 〈|屍肉食い《グール》〉たちはどこだ?  割れた窓からブツブツいう声が聞こえてくる。家族全員の骸骨があった家だ。〈|屍肉食い《グール》〉は腐肉の匂いを嗅ぎつけたのだろうか? だが、ここで見つかるのは骨だけだ。 〈|階段通り《ステア・ストリート》〉の頂上で、彼らはドーム形の宴会ホールにはいっていった。ここにも彼らの食べる物など何もないはずだ。テガーは空っぽのプールの中で、縁から目だけを出して待ちつづけた。  ドームを出たふたりは、影の中をさらにのぼっていく。 〈都市《シティ》〉の頂点に当たる煙突はまだ闇の中だ。あれにのぼって自分たちの領地を眺めようというのか? しかし曲がりくねった〈|階段通り《ステア・ストリート》〉をあがっていっても、空を背景に煙突をのぼる影はない。テガーはさらに警戒を強めた。  そのとき、かなり大きな音が聞こえてきた。何か金属がきしむような音だ。  傍らの梯子をのぼり、化学薬品貯蔵タンクの屋根ごしに前方をうかがった。迷路のようなパイプに紛れて彼の影は見えないはずだ。 〈|屍肉食い《グール》〉たちは煙突の根元にいた。何をしているのか、暗くてわからない。のこぎりで煉瓦を切るようなリズミカルな音が聞こえてくる。テガーは梯子からおりて、さらに近づいた。  彼らがさがしているのは食べ物ではない。  では何を?  放熱壁の背後からにじり出たところで、彼は〈|嘆 き の 管《グリーヴィン・チューブ》〉に手首をつかまれた。剣に手がかかるのをなんとか押さえ、小声で名乗った。 「テガーだ」 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》は「テガーだった!」と連れに知らせてから、彼の顔にニヤリと笑いかけた。 「おまえはずっと眠っていたから知らないだろうが、ヴァラヴァージリンは下層の構造物を照らす明かりがあるはずだといっている。スイッチをいれるだけでいい。われわれもそう思う。だがスイッチはあの下にある」 「なんだって、噴水の中にか?」 「噴水、舞台、中間司令オフィス、演壇。自分たちの手で照明をコントロールしたかったのだろう。ヴァラヴァージリンは太陽エネルギーを伝えるケーブルを修理した」 「あそこへおりる道があるはずなのだ」  いつのまにか〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がそばまできていた。〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉に忍びの術を教えられるのは〈|屍肉食い《グール》〉くらいのものだろう。 「住人や来訪者のための階段のようなものがあるはずだと思う。あの斜路ではなく──」 「あの斜路は、乗物のためのものだ。人間にはあまりに大きすぎる」〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉が口をはさんだ。 「そこでわれわれは、煙突沿いに階段をさがしていたのだ。煙突がかなり下まで通じていることはすでにわかっていたからな。だが〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉がもっといいことを思いついた」  テガーはいった。 「煙突の底にあるのは、炉だ」 「都市じゅうの炉に通じている。中をおりるとあらゆる方角に水平な枝道が走っている。われわれは見たのだ」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が笑うと大きな四角い歯がむきだしになる。 「くるか? それともここで待つほうがいいか?」  テガーは答えた。 「待っていてもおもしろいことなどたいしてないだろう。飢えた〈赤色人《レッド》〉の気をまぎらしてくれるようなものもない」 〈竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。 「その問題はもう解決ずみのはずだ、おまえはすでに──」 「ではくるがいい」〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チュープ》〉がいそいで割りこんだ。「気をまぎらせてあげよう」  そしてふりほどけないほどしっかりとテガーの手首を握ったまま、煙突のそばを離れ、宴会場のほうへと階段をおりていった。 「自分が食べたもののことくらいわかっているよ」テガーはいった。 「そうだ、だが誰にそれを話す? おまえの伴侶にか?」 「そうだ」 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉は戸口で立ちどまった。 「本気か?」 「もちろんワーヴィアに話さないわけにはいかない」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。 「斜路で四匹の吸血鬼《ヴァンパイア》が死んでいた。おまえはまず三匹を殺した。残った女の歯を打ち砕いてリシャスラし、肉を切り取った。おまえがそれを食べたことは明らかだ」  テガーはいい返した。 「クルーザーが下で影の中にはいってくるのが見えた。どうしても斜路におりて、操縦者のために明かりをつけてやらなくてはならなかった。おれは匂いと空腹で狂っていたから、狂ったような真似をしてしまった。それでも、たいまつと燃料を落とすことは忘れなかったぞ」  結局、背を向けたのは〈|竪琴弾き《ハープスター》〉のほうだった。  巨大な階段をのぼっている途中で、テーブルが一、二脚ひっくり返った。〈|屍肉食い《グール》〉にしては不器用なことだ。 「ボスが光のことを思いついてから」と、〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チュープ》〉がいった。「下にいるものがほかに何を必要とするか考えてみた。まず、食糧だ」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がドアをあけ、あとのものがついてくるのを待った。  大きな部屋は息がつまりそうな暑さだった。 「手を触れないように」テガーはいった。「そのスイッチは切っておけばよかった」 「どれが照明でどれがそうでないか、おぼえているのか?」〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉がいった。  テガーはうなずいて、太陽エネルギーの激しい火花が飛ぶのもかまわず、対になった突起からヴァラの布片をつぎつぎとはずしていった。 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。 「この下のオフィスで働いていた人々、ステージを取り巻く座席にすわっていた人々、滝をながめていた人々。彼らは腹をへらさなかっただろうか? 雑食性の種族はすぐ腹をへらす」 「雑食性のものばかりではない。ここには彼ら以外のヒト型種族もいただろう」〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チュープ》〉がいった。 「外からもいろいろな種族が訪れたはずだ。外交使節などがね」 「ずいぶん手間のかかるやりかただな」テガーはいった。 「地表で獲物をつかまえて大きくなるまで育て、農場からここに運びこむ。それからどうするんだ? 焼いて、切って、調味料とまぜ合わせるのか? いいだろう。でもまた下におろすなら、なぜわざわざここまで持ってあがる?」 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》がため息をついた。 「たしかにそうだ」 「そうだな。そしてわれわれ[#「われわれ」に傍点]はまだ何も発見していない。それにしてもここの照明は|ひどく《フラップ》まぶしいな」と、〈|竪琴弾き《ハープスター》〉。「テガー、ここを見てくれ。何が見える」  そしてまた別のドアをひらいた。  そこはテガーが以前にも探検した倉庫だった。照明が天井で輝いている。あらゆる面に引き出しと、腕の長さかそれよりも小さな開き戸があるのだが、彼はこんなふうにあけ放しにはしなかったはずだ。ヴァラの仲間たちが荒らしていったあとなのだろう。  開き戸のうしろは物入れになっているが、ほとんど何もはいっていない。さまざまな種類の乾燥した植物。黴に蔽われたものもある……。 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。 「〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉と〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉はここで乾燥した根を見つけたが、それだけだった。それにしても、ここの照明は目がくらむ。だが消したら地中に埋められたような気分になるだろう」 「なんだって? おまえたちは暗闇でも目が見えるんじやないのか?」 「〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉は夜[#「夜」に傍点]でも目が見える。アーチ光があるからな。嵐の中でも真っ暗[#「真っ暗」に傍点]ではない」  これらの戸棚のドアはどれも小さく、〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉ですらはいれそうにない。 「ほかにドアはなかったか?」 「人間の大きさのものは何も」  陽気な声が答えた。 「〈|ぶらさがり人種《ハンギング・ピープル》〉ならどうかしらね?」  テガーは飛びあがった。ワーヴィアじゃないか!  彼女は山と積んだ箱の上から三人を見おろしていた。 「ワーヴィア! いったいどこにいってたんだ?」彼は叫んだ。  彼女は得意そうに笑った。 「船渠《ドック》を離れるあなたのあとをつけてきたの。あなたがたが立ちどまったとき、プールにつかってもっと近づいたのよ」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。 「利口だったな。われわれの嗅覚はおまえたちが考えているよりもすぐれている。ではおまえもこの謎に招待しようか?」  ワーヴィアが飛びおりてきた。背中にはヴァラヴァージリンのアルコール火炎器《フレーマー》がある。 「話はほとんど聞いたし、いくつか答がわかったものもあります。見にきますか?」 「行こう」  ワーヴィアは彼らを熱気のこもった部屋へ連れもどした。 「たぶん食事の原料は船渠《ドック》からどれかの道を通って運ばれてきたのでしょう。ここではたぶん、わたしたち[#「わたしたち」に傍点]の誰もしないようなやりかたで化学的に加工されたのでしょう。でも下に[#「下に」に傍点]おろすときは、小さく切り分けられていたはずです」 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉がたずねた。 「本当か? なぜだ?」  ワーヴィアはテーブルと熱くなった台とドアのあいだを移動しながら答えた。 「あそこで人々はお芝居を見たり、水や牧草の権利のような大きな利益を賭けた交渉をやったり、一族の将来について語るサールの演説を聞いたりしていたわけでしょう。そこへ食事がおりてきたとします。ウィーブラー半頭分ね。ちょうど好みの焼き加減──外側が黒く焦げて、中はパサパサになっている──それが二十人分。でもここには二十六人いる! さあどうします?」  答を出してからこの間題をつくったのだろう、とテガーは思った。彼女は楽しげに話しつづけた。 「自分の分け前のために戦うか、公平に切り分けようとするか、少なくとも六人はそうしようとするでしょう。お芝居も、白熱した口論も、演説も、どこかへいってしまう。俳優たちやサールは怒るでしょうね。でもおりてきたときに一人前ずつ分けてあったら喧嘩にはなりません」  壁についている小さなドアのひとつ──窓がある分厚い扉で、中が二段の棚になっているのが見える──をワーヴィアはあけて手を突っこみ──。  テガーは叫んだ。 「熱いぞ!」 「まずさわってたしかめたわよ」  奥の壁を押すと箱が揺れた。 「これを見て」  そういうと、彼女はドアを閉めてスイッチを下向きにおろした。  箱が下に落ちて、空っぽの空間が残った。 「これでこのドアはあきません」  彼女はその言葉を証明してみせた。 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がたずねた。 「これはどこに通じているのだ?」 「食事が必要とされているところに。あなたがたがさっき話していたことですが、わざわざ人間が食事を運んでおりなくてはならないという理由がわたしにはわかりませんでした。それで、ドアというドアにさわって、熱くないドアをあけていくと、これがブラブラしていました。それでわたしはヴァラの布片をおく場所をさがしました」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉はスイッチを真ん中にもどし、それからいちばん上まであげた。 「この箱には人間は乗れない」 「わたしなら棚をはずせば乗れます」  テガーでも乗れそうだ。だがテガーは黙っていた。ワーヴィアが解いた謎は、ワーヴィアのものだ。〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉は他人の縄張りを侵したりしない。  棚は持ちあげると簡単にはずれた。きっと昔の〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉はウィーブラーの丸焼きやなんかも下に送ったのだろう。しかし棚をはずした空間に、ワーヴィアはもぐりこむことができなかった。 〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉たちが彼女を持ちあげてやった。脇腹と脚と腕が入口をくぐった。背中、顔……だが脚がそこまでは折り畳めない。テガーは箱のてっぺんをむしりとって、その上に空間があるかどうか見ることも考えた。だが結局、彼はいった。 「その脚を切っても、武器を持ってそこにはいることはできないな」 「裸で行くわ!」 「おまえでは無理だ」〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉が結諭した。「この箱は〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉向きだ。好きなだけ試してみるがいい。別にいそいではいないからな。〈|竪琴弾き《ハープスター》〉、ここでの仕事は終わった。〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉は夜が明けきるまで起きないだろう」  船渠《ドック》にもどりながら〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉はいろいろと話をした。 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。 「人間がいく前に、何か送っておくほうがいい。燃料の壜はどうだ? うまくこぼれるようにかたむけておくのだ。スイッチ・ボックスとのあいだに吸血鬼《ヴァンパイア》がいるかもしれない。ボワッ[#「ボワッ」に傍点]、すぐに火がつけられる」  テガーは話をする気分ではなく、ワーヴィアはまったく口をきかなかった。ふたりは陽よけの下に這いこんで、〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉と〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がそっと立ち去るのを見送った。  それからワーヴィアがテガーの手をとって、陽よけの反対側からすべり出た。ふたりは船渠《ドック》がせまくなって〈|外縁通り《リム・ストリート》〉に変わる場所まで、音をたてないよう走った。 「あなたが眠っているあいだに、わたしたちみんなで探検したのよ」ワーヴィアがささやいた。「ついてきて」 「おまえに話しておかなくてはならないことがある」と、テガー。 「斜路でのこと? 聞いたわ。あなたはおかしくなっていたのよ。わたしも同じ。でもわたしたちはいまでも伴侶よ。でももう故郷には帰れないわね」  これほどの悪夢がかくも簡単に解決したことに安堵して、テガーはため息をついた。 「それで、どこにいくんだ?」 「気になることがあるの。きて」  ふたりはジグザグの路地を走り、パイプのあいだを抜けあるいはパイプに沿って、上の階層へ向かった。宴会ホールを通り過ぎ、またあがって、煙突の背後で金属のきしみ音のするほうに向かって腹這いで進んだ。  音がやんだ。  ワーヴィアは彼にうしろへさがっているよう合図し、立ちあがって進み出た。 「なるほど。でも、どうやってそれを運ぶつもりなの?」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉と〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉が巨大なセラミックの板を地面に横たえようとしていた。親指の長さくらいの厚みに切り取ったらしく、ひどくこわれやすそうだ。表面にブロンズ色の蜘蛛の巣が複雑な幾何学模様を描いている。 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。 「秘密にしておきたかったのだがな。しかしクルーザーを使わないとこの板は運べない。いずれにせよボスには話すことになる。それで? おまえはどこまで知っているのだ?」 「あなたがたがこれを切っているのを見たの。おふたりがテガーをホールのほうへ連れていったあと、よく見てみたわ。これは何? なぜこれを欲しがるの?」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が答えた。 「おそらくこれは、目であり耳でありその他の感覚器官でもあるものだ。われわれはこれを、ルイス・ウーと〈アーチ〉の外からきた仲間たちのものだと考えている」 「太陽を中心にもどしたのは、彼らだろうと思う」〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉があとをつづけた。「おそらく強大な力を持っているにちがいない。もし彼らと話し合うことができれば、彼らにその力の使いかたを教えてやることができる──」 「しかしルイス・ウーは、空を飛ぶ管のようなものに飛び乗っていってしまった。のちにわれわれの仲間は、その管が──似たような別のものかもしれないが、〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉のそばに浮かんでいるのを見た。ほかの土地にいる〈夜行人種《ナイト・ピーブル》〉からも、同じような蜘蛛の巣の報告がとどいている。これはスパイをしているにちがいない」  ワーヴィアがたずねた。 「それに話しかけるつもりなの?」 「そうするつもりだ。答がなければ、われわれはこれを、こっちの見せたいものが見える場所まで持っていく」 「テガーとわたしは、もう故郷に帰れません」ワーヴィアは慎重に口をきった。「もし〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉がわたしたちを英雄として紹介してくれれば、〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉のほかの部族にならはいれるかもしれない。それはそれとして、あなたがたはどこにいくつもりなのですか?」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が笑いを爆発させた。〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉がそれを叱りつけた。 「愚か者が! どこまでもついてこなくとも用は足りるのに。ワーヴィア、われわれは──。いや、ひとつたずねたい。おまえたちは何を聞いても驚かずにいられるか?」  ワーヴィアが手招きしたので、テガーは進み出た。もう隠れていてもしかたがない。笑いすぎで苦しいくらいだ。 「おれたち[#「おれたち」に傍点]にまだこれ以上のショックを与えられると考えているなら、やってみるがいいさ」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が話しはじめた。 [#改ページ]      17 闇との戦い  恐ろしくゆがんだ顔が岩からのぞいている。〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉がふたりと、それより大きな〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉がふたり、誰にも聞かれないよう声をひそめて話している。  聞いているのは──。  笑っているのはルイス・ウーひとりだ。  ルイスは〈至後者《ハインドモースト》〉のショウから目をひきはがした。この土地の人々にとっては、自分たちの運命を定める神々を見ているようなものだ。 〈|舟 の 民《セイリング・ピープル》〉は逃げてしまった。〈作曲家《テューンスミス》と〈竪琴笛《カザープ》〉の姿は見えない。  周囲に〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちが集まっているが、そのほとんどは眠りこんでいた。子供たちも半分眠りながら、懸命に目をあけていようとしている。  明日になれば夢を見ていたのだと思うだろう。恐ろしげな顔とまともに向き合っているのはルイス・ウーひとりだけだ。 〈至後者《ハインドモースト》〉のために、ルイスは|共 通 語《インターワールド》で話した。 「たかが蜘蛛巣眼《ウエプアイ》を盗むためにわざわざご苦労なことだ。この〈|屍肉食い《グール》〉たちはよほどあんたと話したがってるんだろう」  映像が変わり、この村の水浴場の赤外線画像が一瞬だけ映し出された──黒い水。低いテーブルの上でかすかに明るいのは眠っている〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちだ。ルイス・ウーの裸の皮膚はそれより明るい。……その背後にレース……光がひとつ、そして〈評議会の館〉のそばにもうひとつ。  背の高い草の中に隠れた〈竪琴笛《カザープ》〉と〈作曲家《テューンスミス》〉だ。 〈|屍肉食い《グール》〉たちも見ている。彼らは自分たちの姿を見分けることができるだろうか?  巨大な顔が暗くなった。蜘蛛巣眼《ウエブアイ》のついた石板が闇の中におろされたのだ。いまや崖はただの黒い岩になっていた。  なんの騒ぎだろうとヴァラヴァージリンが見に出たとき、太陽は雲を通してうっすらと輝く銀色の光にすぎなかった。 〈赤色人《レッド》〉と〈|屍肉食い《グール》〉が四人の〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉に切り取った石板を運ばせて、〈|階段通り《ステア・ストリート》〉をおりてくるところだった。石板の表面にはブロンズ色の蜘蛛の巣が張りついている。彼らの動きから見て、かなり重いもののようだ。彼らはそれを二号車にひきずりあげ、一方の端を踏み板にのせてもたせかけた。 〈|屍肉食い《グール》〉が説明をはじめた。〈赤色人《レツド》〉たちも口をはさもうとしたが、ほとんどチャンスはなかった。  すべての話が終わったとき、蜘蛛の巣とその土台は二号車の荷台外殻《ペイロード・シェル》の床にすえつけられていた。眠そうな〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉たちが出てきて騒ぎに加わった。眠そうな〈|屍肉食い《グール》〉たちは陽よけの下にもぐりこんだ。  いよいよ降下の実験にかかるときだ。  黒い雲の背後のどこかでは影が移動していて、もうすぐ太陽が現れるだろう──とヴァラヴァージリンは考えた。いま嵐をついてとどく光は凶暴に踊る稲妻だけだ。  四人の〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉とヴァラヴァージリンは、雨の中を〈|階段通り《ステア・ストリート》〉の頂上に向かっていた。〈|屍肉食い《グール》〉以外の全員が彼女についてドームにはいり、巨大な階段をのぼり、驚くべき厨房にはいった。  シラックが動く箱にもぐりこんだ。なぜ彼が選ばれたかは、〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉たちにしかわからない謎だ。火炎《フレー》器《マー》も簡単にその腕の中におさまった。 「壁に向かって発射するんだ。吸血鬼《ヴァンパイア》に向けてでも、何に[#「何に」に傍点]向けてでもいい」マナックがいった。  いらだった顔つきだ。〈機械人種《マシン・ピープル》〉のハンドガンを両の腕に抱えている。 「おれもすぐあとからいくが、これしか持っていけない。下についたら明かりが要る。何がどうなっているのか見たい[#「見たい」に傍点]。ドアがあいたらまず最初に照明を[#「照明を」に傍点]つけてくれ」  一行はシラックを中にいれてドアを閉じ、下に向けてスイッチをいれた。薄暗い中でもロープが震動するのが見えた。音も聞こえる。  そのモーターの音がとまった。  彼らは待った。  マナックがスイッチを動かそうとした。ちょっと押したが反応しない。もっと力をこめようとする彼を、ヴァラは押しとどめた。  すぐにスイッチはひとりでにあがり、またロープが震動しはじめた。待ちうける彼らの目の前に箱があがってきた。  ころがり出てきたシラックは、息を吸って大声をあげた。 「明かりだ!」  ペリラックが彼に飛びつき、しっかりと抱きしめた。彼はペリラックの肩ごしに言葉をつづけた。 「マナック、すまない。でもパネルがすぐ目の前に[#「目の前に」に傍点]あったんだ。だからせめてスイッチだけでも入れておこうと思ったんだが、|くそっ《フラップ》、おれが考えたとおりだった[#「考えたとおりだった」に傍点]! たちまち明かりが一度について、そしたら──」  ペリラックが叫んだ。 「ついたの?」 「そうだ[#「そうだ」に傍点]」  シラックが答えると同時に一同は駆けだした。 〈|斜路通り《ランプ・ストリート》〉に着いたとき、ヴァラヴァージリンは息を切らせ、足がふらついていた。〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉と〈赤色人《レッド》〉は、彼女をはじめとする〈機械人種《マシン・ピープル》〉たちよりはるか前方を走っている。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉はすぐうしろから走ってくる。  雨の中で〈|斜路通り《ランプ・ストリート》〉の照明が輝いていた。彼らはそのまま斜路を駆けおりていった。  下層にも照明はともり、悪夢のような押し合いへし合いがはじまっていた。巨大な中央構造物に、ステージに、窓に、流れる水に、その周囲のありとあらゆる空間に、容赦なくまばゆい光が照りつけている。〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉は外の薄暗い昼光よりもはるかに明るい光に満たされていた。そこから逃げ出そうとする吸血鬼《ヴァンパイア》と、ちょうど狩りからもどってきた吸血鬼《ヴァンパイア》とが、縁の近くでぶつかり合った。  シラックが叫んでいる。 「照明がついたとたんに吸血鬼《ヴァンパイア》どもが四方八方に駆けだしたんだ。十の二倍か三倍ほどのやつらがあそこのオフィスを洞窟だと考えて住みついていたんだ! あの場所はとても広くて、一方からはステージが、反対側からは演壇が見おろせる──〈|竪琴弾き《ハープスター》〉のいったとおりだった──そしていくつものオフィスをつないでいた。吸血鬼《ヴァンパイア》が三方からおれに向かってきた。マナック、おれは外に出るとき動く箱のドアにつっかえ棒をしてドアをあけておいた。いざおりてみたら、おれ抜きで上へ返すのが怖かったんだ!」 「この欲張りの|泥 滓 彫 り《フラップ・スカルプター》め!」 「わかっている、マナック──」 「結局、おまえのひとり手柄じゃないか!」 「──でも、箱を返さないで本当によかった。やつらがきたので、炎を吹きつけて、上にもどった」  外に出ようとする吸血鬼《ヴァンパイア》とはいってこようとする吸血鬼《ヴァンパイア》のあいだで、血なまぐさい争いがはじまった。三周上では〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉たちがはやしたて、同時に賭け金《きん》のやり取りがはじまったようだ。  ヴァラヴァージリンは宣言した。 「聞いて! 外に出るチャンスよ。大部分の吸血鬼《ヴァンパイア》はまだ狩りに出ているし、ここにいるやつらは目が見えなくて混乱している。十分の一日もたてば外の連中が帰ってきて、またつぎの夜を待たなくてはならなくなる。それに、わたしはお腹がすいたの。だからいまいきましょう!」  ──もしわたしが狂ってると思ったら、誰でもそういって──!  一万の吸血鬼《ヴァンパイア》の金切り声だけがひびく中、仲間たちは黙って彼女を見つめた。 「いくわよ!」  彼女が大声をあげ、人々は走り出した。  三人の〈|舟 の 民《セイリング・ピープル》〉が〈評議会の館〉の屋根ごしにのぞいている。勇気ある行動だが、彼らにもルイス以上のものは見えていないはずだ。崖の窓は黒い岩になってしまっている。〈至後者《ハインドモースト》〉のスパイ装置は六つの車輪をつけたワゴンの暗い荷台外殻《ぺイロード・シエル》の中におかれたのだ。 〈至後者《ハインドモースト》〉が|共 通 語《インターワールド》でいった。 「声はまだ聞こえます、ルイス、匂いも嗅げます」  暗い崖が暗い窓になった。踊るピアソンのパぺッティア人の背後で、無数の同じ姿が同じ軌跡を描いている──ひとつ目の蛇の暗い密林だ。  こいつはおもしろい。 「暗闇の中で踊るのか?」 〈至後者《ハインドモースト》〉がクルリと一回転した。 「敏捷性のテストです。闇は太古から変わらず存在します。われわれの誰の身にも訪れる可能性のあるものです」  そうか──地球における出生権と同じように、彼らは伴侶を得る権利のためにたがいに競い合い、〈至後者《ハインドモースト》〉もそのために自分の能力をみがいている。だが──。 「声が聞こえるって、誰の?」 「ヴァラヴァージリンの仲間たちです。荷台外殻《ペイロード・シェル》のドアは閉まっていますが、声を聞き分けることはできます。彼らはワゴンの防禦をかためています。吸血鬼《ヴァンパイア》に囲まれたまま、ワゴンは動いています。聞きますか?」 「あとでね。それにしても〈|屍肉食い《グール》〉の観察者たちは、いったいあんたのダンスをどう思ってるかな」 「小さなほうは、しじゅう居場所を変えています。大きなほうはじっとしています。見てみますか?」 「……いや」 「蜘蛛巣眼《ウエブアイ》の中心に、あなたの翻訳機を触れなさい。送信します」  ルイスは浅い水を渡って崖に歩みよった。緑のぼやけた窓の中、ピアソンのパペッティア人が薄闇の中で踊っている。ちょうど顔の高さにゴツゴツした心臓のような黒い点が支えもなく漂っている。ルイスはそれに翻訳機を押し当てた。  声が聞こえた。  人間から獣にいたるさまざまな声。低音から高音まで、そしてさらに高い声。苦悶と怒りと緊迫の音。驚愕と苦痛の悲鳴。さらに多くのわめき声。身体が蜘蛛巣眼《ウエブアイ》にぶつかるドサリというかたい音。一度はヴァラヴァージリンが指示をどなる声も聞こえた。彼の[#「彼の」に傍点]前では一度も出さなかった声だ。あとはただ混沌たる悲鳴の渦ばかり。  吸血鬼《ヴァンパイア》の金切り声が数分にわたって尾を曳き、消えていった。ついでまったく突然、演説調ではないが説得力にあふれた涼しげで音楽的な声が聞こえた。それはふいにとぎれ、不気味な沈黙があとにつづいた。  狩りから帰ってきた吸血鬼《ヴァンパイア》どもで上流がわきかえっていたため、ヴァラは車を下流に向けた。追跡を振りきってからも十分の一日は車を停めなかった。なめらかな黒い頭が川の中からのぞいている──〈|川の人種《リヴァー・ピープル》〉がついてきているのだ。  走りつづける二号車の荷台外殻《ペイロード・シェル》の扉をバタンとあけて、ビージが中にはいっていった。  ヴァラは待った。  何か重いものがドサリと外に投げ出された。  パルームだ。群がる吸血鬼《ヴァンパイア》どもに、こま切れに引き裂かれたのだ。上から下から、友人たちは必死で彼を助けようとしたのだが。吸血鬼《ヴァンパイア》どもはペリラックも切り刻んだ。  ヴァラは待った。  ビージがそばにあがってきた。 「死んだ。ペリラックの傷はそれほどひどくない。燃料で傷口を洗っておいた。それが何か役に立つのか?」  ヴァラはうなずきながら思案した。〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉と〈|竪琴弾き《ハープスター》〉は怒るだろうか……なぜパルームの死体を仲間の〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉ではなくよそ者に与えたか、理解してくれるだろうか。だが、サールの後継者に説明を求めることはしなかった。すべては彼が決めたことだ。  川から牧草地がひろがっている。いい狩り場だ。だがヴァラヴァージリンは種族を問わず全員を一ヵ所に集め、タオルのマスクもつけたままにした。このあたりにも吸血鬼《ヴァンパイア》はいる。  ヴァラは船渠《ドっク》の倉庫からかなりの量の布を持ち出していた。その薄手の長い布をルーバラブルとファドガブラドルに渡し、それを網にして魚を獲らせた。結果は魚を食べられるもの全員に充分いきわたるほどの大漁だった。 〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉たちは川のそばで食べられる草を見つけた。獲物になる動物もいた。〈赤色人《レッド》〉と〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉は火を必要としない。〈機械人種《マシン・ピープル》〉は調理ストーヴで湯を沸かし、根菜と肉を茄でている。  全員が食事にありつけそうだ。  ヴァラヴァージリンは人々を見わたした。テガーはもう食事を終えてすっかり落ちついたようだ。フォーンとバロクはいっしょに料理をしている。身体が触れ合うのを避けているかどうか、見ただけではわからない。 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉と〈|竪琴弾き《ハープスター》〉は二十|身長《マンレンス》ほど離れた場所で膝をついていた。助かった──彼らは食事をしていたからだ。〈|屍肉食い《グール》〉が見つけたのは〈|農 業 の 民《ファーミング・フォーク》〉の死体だった。おそらく吸血鬼《ヴァンパイア》の捕虜となって〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉へ向かう旅のあいだに倒れたのだろう。彼らは腐りはじめている死体を野営地にはひっぱりこまなかったのだ。  峠にはまだ吸血鬼《ヴァンパイア》の姿が点々と見えている。〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉の周囲の騒動に引きよせられているのだ。いずれはあそこを通らなければならない。  空腹のせいか、ヴァラの気分は徐々に沈んでいった。奇妙な気まぐれから、彼女は〈|屍肉食い《グール》〉のいる場所へ足をはこんだ。 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉が彼女に気づき、自分のほうから近づいてきて、少し離れた場所で立ちどまった。 「まだ食事をしていないのか」 「もうすぐ食べるわ」 「そうすれば気分も晴れる。ヴァラヴァージリン、われわれは脱出に成功した。自由の身となり、いかなるヒト型種族にも真似のできない物語をつくりあげたのだ」 「でも、結局わたしたちは、ここで何をなしとげたのかしら?」 「何がいいたいのかわからないが」 「わたしたちはここにきて、上にあがる方法を見つけ、ルイス・ウーの魔法の布のほとんどを使い、おりてくる道を見つけ、吸血鬼《ヴァンパイア》を何匹か殺し、残りを雨の中に追い出した。クルーザーを一台とパルームを失った。ほかに何か自慢できることがあるの?」 「フォラナイードリを救い出した。保存状態がすばらしい古代の布を十|人 重《マンウエイト》もクルーザーに積みこんだ」  ヴァラは肩をすくめた。たしかに彼女は布だけでなく、船渠《ドック》で手にいれたものから利益を得るつもりでいる。それにフォーンを……たしかに。 〈|屍肉食い《グール》〉の女は肉のはぎとられたあばら骨を落として歩みよってきた。 「ボス、われわれは吸血鬼《ヴァンパイア》の蔓延をくいとめたのだ」 「でもね、〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉。たしかにわたしたちはやつらを追い出したけれど、それをあたり一帯に散らせてしまった。吸血鬼《ヴァンパイア》の被害はこれからもっとひどく[#「ひどく」に傍点]なるでしょう」 「彼らの数は、つぎの世代で大きく減少する」〈|屍肉食い《グール》〉の女が穏やかな声で告げた。「あと四十から五十ファランの辛抱だ。いまは誇るがいい。立証はいずれやってくる」 「よくわからないけど」 「ヴァラヴァージリン、おまえは吸血鬼《ヴァンパイア》の芳香の吸引力を感じただろう。あれに耐えられるヒト型種族はいない……〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉でさえもだ。気がつかなかったか、吸血鬼《ヴァンンパイア》は伴侶を惹きつけるときにも、あの匂いを分泌する」 「なんですって?」 「吸血鬼《ヴァンパイア》は獲物が周囲にいるときにあの匂いを分泌する。食糧が手にはいれば、それは繁殖のときだ。隠れ家になる洞窟が見つかると、それもまた繁殖のときで、それに洞窟は匂いを溜める。彼らの祖先とわれわれの祖先が近い存在であったころも、そしていまも、あの匂いは等しく彼らの発情の信号なのだ。だがわれわれは彼らの避難所を奪い、雨の中に──ルイス・ウーが海を沸騰させて以来ずっと降りつづいているあの雨の中に追い出した。雨は彼らのそうした匂いを洗い流してしまう」  ヴァラヴァージリンはそれが心に浸透するまでじっくりと考えた。やがて立ちあがりながら、大声をあげた。 「やつら、繁殖しなくなるのね!」  一日が終わりに近づいていた。夜になる前に吸血鬼《ヴァンパイア》が追いついてこないところまでいき着かなくてはならない。朝になったら、二号車の燃料を一号車に移して帰還の途につこう。 「そしてあなたたちは、ブロンズ色の蜘蛛の巣を手にいれたわけね」 「〈アーチ〉の下のどこかで、ルイス・ウーがあの模様を通して見聞きしている。あの魔法使いに見せなくてはならないものがあるのだ……もし魔法使いがまだ生きていて、見る気があり、まだあの蜘蛛の巣が窓の役割を果たしているならだが」 「燃料はどこかよそで見つけなくてはならないわよ」ヴァラは〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉にいった。  女は穏やかにうなずいた。 「必要になるものを仲間に知らせておく。やがて〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉の手で、外壁までのいたるところに燃料補給所が設置されるだろう。テガーとワーヴィアが話したと思うが、あのふたりはわれわれの旅に同行する」 「悪くない考えね。〈赤色人《レッド》〉はいたるところにいるから。あのふたり、きっと居場所を見つけられるわ」 「そうだ」 「で、商業用のクルーザー一台の代償には、何を?」  彼女はまばたきした。 「なるほど、〈機械人種《マシン・ピープル》〉の伝説的な貪欲さか。ヴァラヴァージリン、われわれは〈アーチ〉のもとに生きるあらゆるものに危険をもたらす脅威を終わらせるために、二号車を必要としているのだ。おまえならわたしの言葉を真剣に受けとめてくれるだろう」 「真剣に受けとめているわよ。でもあの大きなスパイ装置を運ぶことは、契約にはいっていなかったわ」  ヴァラヴァージリンはサールの壁の外でおこなわれた交渉を思い出して微笑した。〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉襲撃に参加するよう〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉を説得するのにいかに苦労したことか! それに、キャノンを積んだまま渡すわけにはいかない。 「ルイス・ウーのスパイ装置を手にいれることが、あなたがたの狙いだったのね。わたしには秘密にしておくつもりだったみたいだけど、でも、どうやるつもりだったの[#「どうやるつもりだったの」に傍点]?」 〈|屍肉食い《グール》〉が両肩をすくめると、まるで関節がはずれたみたいに見えた。 「蜘蛛の巣をはがして丸め、そのまま立ち去るつもりでいた……それが不可能だとは思ってもいなかった。石壁にしっかり付着してはがれなかったため、結局はわれわれの目的を明かさざるをえなくなった。いいだろう、ヴァラヴァージリン、おまえのクルーザーを買おう」  金額が提示された。 「〈中央都市《センター・シテイ》〉にもどったら、誰でもいい、〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉に請求すれば支払ってくれる」 「売ったわ」  その金額は最低限ギリギリだったが、だからどうだというのか? 彼女が故郷にもどって代金を受けとるよりずっと前に、〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉が二号車を走らせるだけのために燃料を手にいれるだろう。 「上司に説明しなくてはならないと思うけど、あなたのお仲間は口添えをしてくれる?」 「今夜おまえに明かすのと同じことを、おまえの同僚にも知らせておこう。いくらか話せないこともあるが。だがまず食べさせてくれ、ボス。おまえの食事はまだ[#「まだ」に傍点]用意できないのか?」  フォラナイードリが〈中央都市《センター・シテイ》〉の言葉で二つの単語を怒鳴った。 「ボス! 食事!」  飢えが胃に鋭い牙を立てている。 「あれ、わたしの秘密の名前なのよ」 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉にそういって、彼女はそっちへ向かった。 [#改ページ]      18 代価と日程 【〈|機織りの町《ウイーヴァー・タウン》〉──AD二八九二年】  すでに〈|舟 の 民《セイリング・ピーブル》〉もひっこんでしまった。いまや〈至後者《ハインドモースト》〉のダンスを見ているのは、草の中で熱を発しているふたつの影と、ルイス・ウーだけだ。  振りがはげしくなったが、〈至後者《ハインドモースト》〉はまったく息を切らしている様子がない。 「これで終わりではありません、ルイス。〈|屍肉食い《グール》〉は〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉に、|こぼれ山《スピル・マウンテン》とスクライスの表面の問題について話していました」 「蜘蛛巣眼《ウエブアイ》を使って、どこに向かっているのかたずねればいいのに」 「いいえ、その件はまだ秘密にしておきます。話をする前に、しばらくは自分たちだけでやらせておきましょう。どれほど熱心にあなたの関心を惹きたがっているか、見せてもらいます」 「ぼくの?」 「海を沸騰させたルイス・ウー、隠れた不可思議な存在≠ナす。彼らは〈至後者《ハインドモースト》〉のことは何も知りません。ルイス、老化の徴侯がはっきり出ていますよ。医療処置を受けますか?」 「ああ」ルイス・ウーは答えた。 〈至後者《ハインドモースト》〉はいった。 「いいでしょう。燃料補給用|探査機《プローブ》を送りますが、それに伴う危険と手間にはきちんと補償を要求します。あなたの行動の自由は──」  ルイスは手をふってそれをしりぞけた。 「探査機《プローブ》を危険にさらすことはない。必要になるかもしれないからね。ぼくはシェンシイ川峡谷をくだって、来た道をもどるよ。同じまちがいを避ければ、行きより少しは早くもどれる。往路が十一年だったから、帰りは九年か、それ以下だろう。それだけあれば、あんたも居住区画に医療機《ドック》を移しておける」 「ルイス、燃料補給用|探査機《プローブ》には|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》がとりつけてあります。リングワールドが一回転するあいだにあなたのもとに着きますし、そうすれば一瞬であなたは船にもどることができます」 「あれはあんたの燃料補給用だろう、〈至後者《ハインドモースト》〉、それに──」 「|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクリワイアリー》号への燃料補給はすませましたし、いずれにしてもこの船は冷えた熔岩の中に埋もれています」 「──それにぼくは、それを使うことであんたがどんな要求を出すか、そっちのほうが心配なんだ。どうせあんただって医療機《ドック》を居住区画か着陸船《ランダー》格納庫に移動したいだろうし──」 「もう移動してあります」  窓の映像が変換して、十一年前に立ち去った船室が映し出された。彼とハミイーの体操用スペースだった場所に、巨大な棺桶が鎮座していた。  そうか、クソッ。〈至後者《ハインドモースト》〉も必死なんだな。 「|秘 密 の 族 長《ヒドウン・ペイトリアーク》号を数千マイル下流に残してきた。あの船には|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》はないのか? あそこなら七、八ファランでいける」 「二年[#「二年」に傍点]ですか? ルイス、事態は急を要するのです。リングワールドはプロテクターに汚染されているらしいのです」 「なんだって?」  心の奥底でニヤリと笑いながらルイス・ウーはとぼけてみせた。そう、結局すべてはプロテクターに帰結するのだ。 「ティーラは死ぬ前に、生き残っている〈|屍肉食い《グール》〉のプロテクターに外壁を任せてきたといっていました。修理部隊がまだ活動していることを思えば、それは事実なのでしょう」 「見せてくれ」  崖の窓が高さ一千マイルの壁沿いにパンした。  外壁はまさに一個の装飾帯だった。えんえんとつづく地球の月の色をした壁に、山々の形が刻みこまれている。夜の帯が移動していく動きが、ようやく見てとれる。外壁の根元に立っている五マイルから七マイルのちっぽけな円錐が|こぼれ山《スピル・マウンテン》だ。いま映っている外壁の尾根に沿って、星々に向かい二十のかすかな紫の炎が噴き出している。 〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。 「これはわたしたちがはじめて見たときの外壁ラムジェットです。いま〈|屍肉食い《グール》〉が持っているものと同じ蜘蛛巣眼《ウエブアイ》カメラを最初にためしたときのものです。つぎのこれはその五年後、六年前の映像です──」  同じ景色、やはり夜だが、幽鬼じみた炎は消えている。 「このときにはもう、リングワールドはもとの位置にもどっていたわけだ」ルイスはいった。 「ええ、そうです。しかしわたしは観察をつづけました。ルイス、姿勢制御ジェットが見えますね?」  景色がズームアップした。|こぼれ山《スピル・マウンテン》の上空高くにそびえる排出管《スピルパイプ》の暗い口が見分けられるようになった。そして、考えていたよりはるかに大きなぼんやりした形。二十一基の細い針金のような二重円錐の細くくびれた中央部分に一対の銅色の円環体《トロイド》がはまっている──巨大なパサード式ラムジェットの骨格だ。 「六年[#「六年」に傍点]前だって?」 「わたしが気づく六年前です。ダンスに没頭していたら──」  ためらい。 「──さらに一ファランも気づかなかったかもしれません」  狂気すれすれの淋しさから、幽霊とのダンスに没頭していたのか。かつては比類なく強力だったのが、いまは同族に拒否され、まったき孤独に放り出された哀れな家畜の姿。  その思いをルイスはふりはらった。 「つまり、誰かが二十一基めのモーターを設置したというんだな。ぼくたちが宇宙港の張り出しで見つけたやつを」 「はい。しかしまずそれを複製しているのです! これは、二年弱前のものです……」  二十三基のモーターと、まだ固定されず方角が歪んだままの二十四基め。それを動かしている者の姿は見えないが、微妙な調整がおこなわれつつあるようだ。 「蜘蛛巣眼《ウエブアイ》の解像度ではこれが限界です。しかし新しいモーターが製造され、外壁の台座に設置されているのです。プロテクターが存在する証拠ではありませんか?」 「ひとりじゃないな」ルイスはいった。「製造、輸送、設置、管理」  またしばしの躊躇。 「ルイス、ヒト型種族の中には群れをなしたり部族ごとにかたまるものもありますが、わたしの記録によるとプロテクターはそれに当てはまりません。わたし[#「わたし」に傍点]でも、ひとりでそのすべてを監督することはできます。ですからプロテクターにも不可能ではないでしょう」 「ふむ。それで防禦もか?」 「第二のプロテクターが隕石防禦装置で侵入してくる船を破壊しているのです!」 「|なるほど《ステット》」 「それに、〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉を尾行していた謎の生き物はどうでしょう?」 「いや、あれはちがうだろう。〈|屍肉食い《グール》〉がほかの〈|屍肉食い《グール》〉を見張っていたんだろう。縄張り争いかなんかで」 「ルイス、考えてみなさい。彼は吸血鬼《ヴァンパイア》の居住域にはいっていたのですよ! 吸血鬼《ヴァンパイア》の匂いに影響されないなら、それはプロテクターにちがいありません」 「……|なるほど《ステット》。それで、そいつはそこで何をしていたんだ?」 「〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉を守っているように見えましたね。〈赤色人《レッド》〉から変化したプロテクターなのかもしれません。つぎに姿を見せたのは、川でだったと思います」 「ああ、実に謙虚なやつだ。吸血鬼《ヴァンパイア》の匂いがあふれる場所でそうそうできることじゃない。だがもう姿を見ることはできないだろうね。あんたのカメラは車の貨物室に──」 「プロテクターが三人です、ルイス。あなたの推測が正しければ、六人から八人かもしれません。パク人のプロテクター同士の戦争は、彼ら自身の世界を放射性廃棄物にしてしまいましたね」 「あんたのいいたいことはわかるよ」ルイスは落ちついて答えた。 「種族の異なるプロテクターの争いは、リングワールドを恒星間空間に漂う破片にしてしまうでしょう。ルイス、もう二年も残されてはいないのですよ! わたしは宇宙の寿命が尽きるまで停滞《ステイシス》にはいって過ごすこともできます。でもあなたは|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号にたどり着くことすらできないでしょう!」 「もしかすると、協力し合っているのかもしれないぜ」ルイスはいった。「リングワールドのヒト型種族はみなうまくやっている。それぞれが別々の資源を使い、みんな[#「みんな」に傍点]〈|屍肉食い《グール》〉に協力している。いったんそういう形式に慣れれば、誰とでもうまくやっていけるさ」 「〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉と〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉のあいだには戦いがありました」 「クソッ。あれはたまたま両方とも草を必要としたからだ!」 「事態は急を要すると思いますが」  ルイスはのびをした。午後に適度の体操をしたにもかかわらず、筋肉がきしみ、腱が抵抗を示した。 「それじゃこうしよう。燃料補給用|探査機《プローブ》を|秘 密 の 族 長《ヒドウン・ペイトリアーク》号が停まっている場所に送ってくれ。目標が大きくてわかりやすいだろう。ぼくは下流にもどって、〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉の友人たちがまた同行したいかどうかきいてみる。八ファラン、二地球年、あんたの世界では一年だ。それから相談して、合意に達すれば、ぼくはあんたの医療処置を受ける」 〈至後者《ハインドモースト》〉がたずねた。 「合意に達するとは?」 「契約条項を考えておく」 「取り引きをするには、あなたの立場は不利ですよ」 「その意見、変えさせてみせるさ」  ルイスは立ちあがり、川を渡りながら……背後で音楽的な悲鳴があがるのを待った。  だがそれは聞こえてこなかった。  ルイスは睡眠不足でグッタリしたまま、ゆっくりと目覚めた。サウールが気持ちよさそうによりそってくる。  彼はたずねた。 「〈|機織り《ウイーヴァー》〉は太陽がまぶしいときでもリシャスラするのかい?」 「したければ、いつでも」 「|なるほど《ステット》」  ルイスは腕を動かして、両手で彼女の毛皮をなではじめた。 「すてきだ」 「ありがとう」  彼女はよりそったまま身体をのばした。彼女の指が頭皮をまさぐり、少ない髪を毛づくろいする。行為はそのままリシャスラに移行した。  それなりにすばらしい生活だ。  やがてサウールは身体を離して彼を見つめた。 「疲れているかどうかは別として、あなたはとても穏やかな気分のようですね」 「たぶん、やつを手にいれたからだろう」  夜になった。 「契約条項を整理してみました」〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。 「ぼくもだ」  ルイス・ウtは答えて、翻訳機を持ちあげてみせた。 「このメモリーにはいっている。だいたい個条書きにしてね」 「それではわたしには読めません。こちらのをもとに考えましょう」  白地に黒い文字列がふいに輝き、それとともにルイス自身よりも背の高い|仮 想《ヴアーチャル》キイボードが崖に出現した。  聴衆たちが感動のつぶやきをあげた。村人のほとんどがルイスのまわりにすわりこんでいる。彼らはこのショウをどう解釈しているのだろう。  ルイスは午後いっぱいかけて契約条項の草稿を練っていた。彼のではなく〈至後者《ハインドモースト》〉の草稿をもとにしては、交渉の基本原則に背くことになる。ルイスにはそんな[#「そんな」に傍点]つもりはなかった。  しかし交渉に当たっては、こっちに余裕がないことを決して認めてはならないという原則もある。  ルイスは|共 通 語《インターワールド》でたずねた。 「これはどうやって使うんだ?」 「指さすのです」〈至後者《ハインドモースト》〉が答えた。「左手がカーソル、右手で印字できます」  ルイスはオーケストラ指揮者のように両腕をふってためしてみた。 『心理パターンは変更を要する場合もある』  ──ルイスはそれを削除して書き加えた──。 『心理パターンはいかなる状況においても変更されてはならない』 『支払い』の項目は妥当だろう──彼には太陽系の病院における処置に見合うだけの勤務が義務づけられるが、それが十二年以上におよぶことはない。  待てよ[#「待てよ」に傍点]──。 「細胞賦活剤《ブースタースパイス》と標準技術ははいってないのか?」 「もちろんはいりません」 「それじゃ、パペッティアのプログラムは?」 「いま使用できるARMの]プログラムの改定版のことを指したつもりですが」 「あれを太陽系の病院での処置なんかと比較できるものか! あんたのシステムはぼくに、ざっと考えてもあと三十年の生命を与えることができるじゃないか。医療機《ドック》による治療のあと、七年の勤務だ」 「十二年です! ルイス、この装置であなたは二十歳の若さにもどれるのですよ! あなたはそのあとまったく医療処置を受けなくても五十年を生きることができるのです!」 「あんたが押しつけようとしている危険のことを思えば、五十日[#「日」に傍点]だって楽しく過ごせるかどうか──あんただってそれは知ってるはずだ。そもそもぼくが|休 養《サバティカル》にはいった理由はそれなんだからな。七年だ」 「了解《ステット》」  ルイスはカーソル用の左の人指し指を突き出した。 『対象となるのは、〈至後者《ハインドモースト》〉の指示にもとづいてなされた行為に要した時間のみである』 「この|たわごと《フラップ》はなんだ? 相談の時間はどうなる? 移動の時間は? 時間がなくて、あんたに相談するひまもなく起こした行動は? 眠っているあいだに潜在意識で問題を解決することだってあるんだぞ」 「では、それを書きこみなさい」 「あんたの動機は謎だな。正直な存在なら思いつきもしないことだ」 「交渉とはこうやってなされるものです、ルイス」 「あんたが交渉のやりかたを教えてくれるって? |わかったよ《ステット》」  ルイスは言語道断な文章を消して、一本指で空中にタイプした。 『勤務期間はこの契約成立後、七年をもって終了とする』  不満の声は無視した。 「それじゃ、より使いやすい召使にぼくを変えたりしないことを保証する件だが……ここにはそれに当たる項目がないようだな」  追加の文章が現れた。ルイスはざっと目を通し、却下した。 「だめだ」 「ではあなたが書きなさい」 「ぼくの[#「ぼくの」に傍点]草稿をそっちでコピーする方法はないのか?」 「ありません」 「それじゃぼくが|秘 密 の 族 長《ヒドウン・ぺイトリアーク》号に着くまで待つしかないな。明日出発するよ」 「待ってください! ルイス、あなたがここにいれば簡単に連絡がとれるのです」 「〈至後者《ハインドモースト》〉、どうやらぼくは、あんたのつくった契約じゃなくて、ぼくがつくったやつに固執するほかなさそうだ。でも読むことができないなら、変更の申し立てだってできないだろう?」 「声に出して読みあげなさい」 「明日ね。いまはちょっと気になることがある。太陽から上昇流をつくり出して超高温レーザーとして撃ち出すのに、あんたならどれくらい時間がかかる?」 「二時間です。三時間のこともあります。状況によって異なります」 「この近くの〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉から三隻の船が現れて、誰かがそれを撃ち落とした。リングワールドの向こうの端にも一隻が着陸し、何かがそれも撃ち落とした。それには最初のより時間がかかったのか? あの早送り映像はどういう意味だったのか、納得がいかないんだ」 「調べてみましょう」  ルイスは寝坊した。  目覚めたときにはサウールと子供たちはすでに出かけてしまっていた。昨夜の残りで食べられそうなものは何もない。ルイスは消えた焚火のそばで作業をした。 『ルイス・ウーが正常な精神状態で完全な意識を保持しているときにおこなわれる説得行為以外、ルイス・ウーの思考形態を変更するための医学的、化学的、その他のいかなる方法もプロセスも用いてはならない。彼が完全な意識を保持しかつ正常な精神状態にないときとり交わされた契約は無効とされる。奉仕期間は』  ──ルイスは奉仕≠ニいう言葉を消去した──。 『相互協力期間は、この契約成立の七年後に終了する。ウーは必要とされるだけの睡眠と食事と治療時間を保証される。緊急事態によってこれらの自由時間が侵害された場合は、相互協力期間から失われた時間の三倍をさし引くものとする。違反時の罰則は……双方の同意に基づく休暇が得られた場合は、相互協力期間を延長……ルイス・ウーは個人の判断により、与えられた任務が不当な危険、在住のヒト型種族またはその文化・環境に対する不当な損傷、リングワールドに対する大規模な損傷、もしくは倫理への明確な違反を含む場合は、いかなる命令をも拒否することができる』  いくつかの点については話し合いの余地があるだろう。  猛烈に腹がへった。根菜のある場所なら知っている。ルイスは貨物プレートに乗って道をさがしにいった。子供たちがシェンシイ川を越えて、高台の森にはいりこんでいるのが見えた。  サウールは種類の異なる大型の茸をふたつ見つけ、子供たちはウサギほどの大きさの陸生甲殻類を一匹殺していた。興味津々の視線を浴びながら、ルイスはそれらを一枚の木の葉に包み、濡れた粘土をかぶせて塚をつくった。それから貨物プレートの金庫から携帯レーザーをひっぱり出し、設定をマイクロ波、口径大、強度中に合わせて、湯気があがるまで粘土の塚を熱した。それからレーザーを慎重にロックして片づけた。放っておくには危険なしろものだ。 「ストリル、パラルド、みんなを粘土に近づけないでくれ。火傷するからな。サウール、きみに別れの贈り物をしたい」 「ルイス、では出発するのですか?」 「〈|蜘蛛の巣の主《ウエプ・ドゥエラー》〉はあの崖にあれをスプレイするために燃料補給用の探査機《プローブ》を送り出したんだ。たぶんまだ近くにいるだろう。数時間のうちに着くだろう」  彼はプレートから飛びおりた。 「これを見てくれ。きみや村のみんなの役に立つかどうかはわからないが」  貨物プレートの制御装置は縁のくぼみにあるが、動かすにはかなりの力──プロテクターの力だ──が必要だ。ルイスは両手に握った棒でそれをグイと突いた。いちばん底のプレートが束からはずれ、草むらの一インチ上で浮揚した。  サウールがいった。 「その贈り物は今夜してくれませんか? わたしとキダダが仕切っているこの村に贈ってください。わたしもみんなと同じくらい驚いてみせます。使いかたはわたしと彼だけに教えて、ほかのものや、客たちには教えないでください」 「了解《ステット》」 「これはすばらしい贈り物です、ルイス」 「サウール、きみはぼくを生き返らせてくれた。そう思うよ。たぶんね」 「まだ心配なのですか?」 「ちょっと待ってくれ」  ルイスは粘土の塚の片側をたたき割った。茸は見かけも匂いも美味そうにできていた。  すばらしい味だった。塚全体をひらいてみると、甲殻類もできあがっていた。肉は主として紡糸突起にはいっており、子供たちが分け合った。尾は彼とサウールのひと口ずつにしかならなかった。 「これでいい。あんまり腹がへると頭が働かなくなってしまうからな。見てごらん」  ルイスは泥の中に円を描いた。 「光がリングワールドの直径を往復するには三十二分かかる」  翻訳機が時間と距離を換算するのが聞こえた。 「本当に?」 「信用してほしい。太陽の光が〈アーチ〉にとどくのに八分だ。横断するには十六分、いってもどるには三十二分かかる。いま、ここ[#「ここ」に傍点]、〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉のそばの穴から現れた三隻の恒星船が二時間半後に破壊され、そしてここ[#「ここ」に傍点]に着陸したもう一隻の船は二時間後[#「二時間後」に傍点]に破壊された。さて、襲撃者はどこにいるだろう?」  サウールはスケッチを調べ、指さした。 「ここ[#「ここ」に傍点]、〈アーチ〉の向こう側です。最初の三隻のときは、見つけるのに半時間かかったのでしょう」 「しかし、もし後の一隻への攻撃が三時間後[#「三時間後」に傍点]だったとしたら?」  サウールは答えた。 「その場合は、攻撃者はここ[#「ここ」に傍点]。あなたが〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉を描いたところです」 「ああ、そうだな」  太陽に影が触れたとき、ルイスは──パペッティア人が遵守するならば──彼の身を守ることになるだろう契約を書きおえた。  夕食ができるまでのあいだに、〈|機織りの町《ウイーヴァー・タウン》〉に貨物プレートを贈った。一同は彼をヴァンュネシュト──偉大な魔法使い──と讃えた。すぐに子供たちがプレートに乗りたがったが、大人たちが制止した。ルイスは二フィートほどの安全な高さにディスクを維持する方法をキダダに教えた。  歓声をあげるストリルを抱いて家々のあいだを飛びまわるキダダを見ながら、ルイスは遊びで壊してしまわなければいいがと思った。いつの日か、重いものを持ちあげるためにこれが必要になるときがくるかもしれないのだから。  光が消えはじめた。狩りに出た人々が肉食獣を一匹持ち帰った。その肉は猫に似た味がした。崖に光がともるころ、〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちは切り分けた肉を手にしてそれぞれ見物の座についた。  ルイスは、いかにも魔法使いらしく積みあげた貨物プレートにすわり、粘土にくるんでマイクロ波で焼いた根菜と葦をかじっていた。  渦をまく虹の中で、パペッティア人の大集団が踊っている。ルイスはみんなといっしょにそれを眺め、やおら|共 通 語《インターワールド》でたずねた。 「実にはなやかな眺めだが、あんたはもうそこから放り出されたのかい?」 「これはただの装飾です。ルイス、あなたはここへもどらなくてはなりません」 「勇敢な|吸 血 鬼 殺 し《ヴァンパイア・スレイヤー》たちはどうなった?」 「声が聞こえるだけです。二台のクルーザーはもう別れました。二号車は貨物区にわたしの蜘蛛巣眼《ウエブアイ》を積んだまま、|右 舷《スターボード》に向かっています。〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉がふしぎな存在について話していました。男のほうはそれを〈|ささやき《ホイスパー》〉と名づけました。テガーはそれがもう自分から離れたと考えています。女のほう、ワーヴィアは、テガーが夢を見たのだろうと思っています。〈|ささやき《ホイスパー》〉というのはおそらく、あの幻のプロテクターでしょう。ルイス、もどってきてくれませんか?」 「それにはまず合意に──1」 「あなたの契約を受けいれます──」 「まだ見てもいないじゃないか!」 「いまこの瞬間以後あなたが変更を加えないことを条件に、それを受けいれます。あなたにとって法外に有利なことなどありえませんし、あなたがつくったものなら公平なはずです。探査機《プローブ》はあと十二分でそこに到着します」  ルイスは空を見上げた。まだ何も見えない。 「ここからどこへ通じてるんだ?」 「ニードル号のあなたの|続き部屋《スイート》にです」  |続き部屋《スイート》だと? 鍵をかけた一室にクジン人といっしょに閉じこめられていたのに! 「契約によると、緊急時には契約期間が三分の一に短縮されることになる。武装していたほうがいいか?」 「はい」 「サウール、子供たちを水に近づけないでくれよ。〈至後者《ハインドモースト》〉、川の中に降ろしてくれ。そういえば前にも、燃料補給のために設置したディスクを通ったことがあったっけ。あれはひどく窮屈だったな」 「わかっていますとも! 探査機《プローブ》のわきに標準サイズの|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を設置しました。貨物プレートもいっしょに転移できる大きさです」  こうした緊急事態に対する備えをいつもととのえていたのは幸いだった。パペッティア人ならむしろそれが当然なのだろうが。  ルイスは保管庫からふたつの強力な武器、携帯レーザーと|自 在《ヴァリアブル》ナイフをとり出した。携帯レーザーを口径小、短距離、強度最高にセットする。ナイフの刃を二フィートまでのばし、それからまた一フィート半に縮めた。  |自 在《ヴァリアブル》ナイフの|糸状の刃《ワイア・ブレード》は、制御に失敗すれば近くにあるすべてを切り裂いてしまう。  白っぽい紫の光が崖の上からのぞいた。  核融合の炎の上に燃料補給用|探査機《プローブ》が浮かんでいる。鼻先の凹み──あれが燃料補給システムだ。水素イオンを通すフィルターと、ルイスの腰幅ほどしかない一方通行の|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》。その脇腹についているそれよりかなり大きなディスクは、思いつきで片方だけつけた円形の翼のように見えた。 〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちが驚きの声をあげ、蒸気の波からあとずさった。炎が消えた。ルイスの乗ったプレートがその上空にすべりこむと同時に、探査機《プローブ》は炎をあげるモーターから着水し、横倒しになって水中に突っこんだ。  |跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の上で水がさざ波を立てている。  では──もう稼働しているのだ。  ルイスは上昇スイッチを切ってまっすぐ降下した。そのとき、視野の隅に、彼のあとを追って飛びこんでくるひとつの影が映った。 [#改ページ] [#改ページ]    第 二 部 「できるかぎりの速さで踊って」      19 こ ぶ 男 【|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号──AD二八九二年】  |尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号はゼネラル・プロダクツ製三号船殻を利用してつくられた船で、内部隔壁がパペッティア人の船長と異星人のクルーを隔てている。いまのところは宇宙船というより単なる住居になっている。  ルイス・ウーが十一年前に、その当時は正しいと思われた理由によって超空間駆動《ハイパードライヴ》をその土台から切り離してしまったため、ニードル号は光速を越えることができなくなった。船そのものも、かつてティーラ・ブラウンであったプロテクターとの交渉にさいして、熔岩に埋もれてしまった。  そのあいだもそれ以後も、〈至後者《ハインドモースト》〉は船や〈補修センター〉や、その他のあらゆる場所に、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を配置してきた。  行き先が隔離された居住区画であることは、この時点でルイスも予測していた。一刻も早く[#「一刻も早く」に傍点]ルイスにきてほしい〈至後者《ハインドモースト》〉としては、誰かに盗み聞きされる危険を冒してまでわざわざそう告げる必要もなかっただろうからだ。  浮揚プレートが激しい勢いで着地した。ルイスは膝を曲げて反動を受けとめたが、それでもバランスを崩し、よろめきながら叫んだ。 「何かが──」  ──何かがぼくを追ってくるぞ! 〈至後者《ハインドモースト》〉──。  だがそこではもういろんなことが同時進行していた。  左のほうで数千のピアソンのパペッティア人が、位置を変え、回転し、足を蹴りあげている。目を奪われて当然の光景だが、それは問題ない。すでにルイスもハミイーも、船の一部のそうした[#「そうした」に傍点]状況を無視することを身につけている。そこ[#「そこ」に傍点]は〈至後者《ハインドモースト》〉の領域で、しかも仕切りの壁はガラスではなく、ゼネラル・プロダクツ製の船殻をつくりあげている絶対不可侵の材質なのだから。  だが、カールさせて宝石をちりばめた正式のスタイルにたてがみを結った、ふたつ頭に三本脚の異星人が、ひとりだけ、供給装置《キッチン・ウォール》とその前におかれた転移ボックスほどの大きさの棺桶とのあいだに立っていた。  その〈至後者《ハインドモースト》〉めがけて、こぶだらけの老人のような人影が胴衣《ヴェスト》をひるがえし、膝と肘をピストンのように動かして駆け寄っていく。 〈至後者《ハインドモースト》〉の区画には隠された|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》が通じている。〈至後者《ハインドモースト》〉はその近くか、その上に立っているはずだ、とルイスは思った。そこにいれば危険はないのだから。  だが本能のほうが強かったらしい。〈至後者《ハイナドモースト》〉はクルリと背を向けた。  すべてが一瞬の出来事だった。ルイスがまだバランスを回復できないうちに、〈至後者《ハインドモースト》〉は身体をまわすと同時にふたつの頭を両側に大きく開いて後方に向け、基線三フィートの立体視で目標を見さだめた。後脚が前に折り畳まれ、襲いかかるこぶ男に向かってまっすぐ蹴り出された。  みごとな蹴りはあやまたず的をとらえた。ガツンという音──こぶ男は胸当てでもつけていたのだろうか? だが、たとえ鎧を着ていようと、通常のヒト型種族ならいまの蹴りで昏倒しているところだ。しかしこぶ男はその衝撃で足を宙に浮かせながらも、片手で〈至後者《ハインドモースト》〉の足首をつかんだ。つぎの蹴りのため引きよせる脚の勢いを利用してそのひずめより前へ飛びこむと、ふたつの首のつけ根に当たる部分、宝石を編みこんだたてがみの上に、固めた拳の一撃を加えた。  ちょうど〈至後者《ハインドモースト》〉の頭蓋の上にだ。  ルイスは携帯レーザーの狙いをつけようとしたが、動作がのろく不器用な上、パペッティア人の身体が邪魔になる。そのとき何かが右の手首に当たって、レーザーは宙にはじけ飛んだ。金属の球だろうか? つぎの一撃で|自 在《ヴァリアプル》ナイフも回転しながらふっ飛んだ。  クルクルまわるその刃を避けようと、ルイスは飛びすさった。 〈至後者《ハインドモースト》〉は床に倒れ、ふたつの頭と長い首を前脚のあいだにたくしこんで、ボールのように丸くなってしまった。床には足首の深さまで水が溜まっている。携帯レーザーが水の中でも光の糸を放ち、ニードル号の透明船殻を通して外部の熔岩に細い穴をうがっている。  |自 在《ヴァリアブル》ナイフに両断されずにすんだのは、掛け値なしの幸運だった。だが、手首が両方とも砕けたような気がする。体勢を崩して倒れかかる彼に、こぶ男が向かってくる。  プロテクター[#「プロテクター」に傍点]だ!  ルイスは|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》から部屋の隅へ転がり出ると、立ちあがろうとした。右の手首を激痛が走る。左手はまったく感覚がない。  そのとき、数秒前まで彼がいた場所に、巨大な四つ脚の何かが出現した。オレンジ色の熊のようにヌッと立ちあがったそれは、大きな手に小型のキャノンをにぎっていた。  こぶ男はクルリと向きを変えて身をかがめると、ルイスの|自 在《ヴァリアプル》ナイフをつかみあげながら、巨大な侵入者──クジン人のそばを走り抜けた。クジン人の武器が大きな爪のある指をつけたまま宙に飛んだ。クジン人はうずくまって凍りつき、咆哮をあげた。こぶ男はもう携帯レーザーも手にし、威嚇するようにそれをかまえている。 「動くな」こぶ男が命じた。「〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉、おまえも動くな。ルイス・ウー、おまえもだ。契約もおまえの死までは要求していまい?」  こぶ男のくちびるは歯茎と融合している。その歯茎が骨のように固くなり、顎の骨が大きく突き出ているため、顔全体がまるでくちばしのようだ。息がまじっていくぶん聴きとりにくくはあるが、彼は|共 通 語《インターワールド》を話した。いったいどうやって|共 通 語《インターワールド》を学んだのだろう? 〈至後者《ハインドモースト》〉の話を盗みぎきしたのだろうか?  だが……契約[#「契約」に傍点]だと?  現実が波のように押しよせてきて痛みを忘れさせた。こうしたトラブルも十一年ぶりだ。  ルイスはためしにいってみた。 「ああ、状況によってはぼくの判断が優先する。あんたもぼくと契約するつもりなのか?」 「そうだ」こぶ男が答えた。  ここまでの経過を考えると、これは驚くべきことだ。  親指一本しか残っていないクジン人の手から血が噴き出し、彼はその腕をつかんで動脈を押さえようとしていた。ルイスに目を向けると、彼も|共 通 語《インターワールド》でたずねた。 「おれはどうすればいい?」 「腕を頭より高くあげろ。手首は押さえたまま。血管を押さえるんだ。戦うのはあきらめろ。こいつはプロテクターだ。〈至後者《ハインドモースト》〉、早くその──おい、〈至後者《ハインドモースト》〉! 昼寝の時間は終わりだ。頼むよ」  パペッティア人が丸まりをといた。 「なんでしょう、ルイス」  あの黒い棺桶だ──。 「あんたの自動医療装置《オートドック》だが、クジン人用にも設定できるといっていたな?」 「はい、それで?」 「そうしてくれ。それからこのなりゆきを説明してほしい。ところでいまは三倍時間が適用されるぞ。正真正銘の緊急事態だからな」 〈至後者《ハインドモースト》〉はまだ本調子ではないようだ。 「その見知らぬクジン人の怪我を治してやるというのですか?」 「すぐ[#「すぐ」に傍点]やるんだ」 「しかしルイス──」 「ぼくは契約を守っているだけだ! これはぼくらの[#「ぼくらの」に傍点]ためなんだ。あんた、これが誰かわからないのか?」  パペッティア人は医療機《ドック》の前に膝をつき、口で操作をはじめた。  携帯レーザーと|自 在《ヴァリアブル》ナイフはプロテクターの手にある。こんなときどうすればいいのか、ルイスには考えることもできなかった。突然現れた見知らぬクジン人のことも、視野の片隅で踊りつづけているパペッティア人の映像のことも。  一度にひとつずつかたづけろ!  まずクジン人だ──。 「あんた、何者なんだ?」 「〈侍者《アコライト》〉だ」 「ハミイーの息子か」  推測だ。雄のクジン人が、そばに並んでみるとどれほど威圧的か、すっかり忘れていた。こいつはまだ十一歳かそこらで、成年にも達していないはずなのに。 「ちゃんとした名前はないのか?」 「まだもらっていない。おれはハミイーの長男だ。挑戦して父と戦い、父が勝った。知恵を学べと父にいわれた。ルイス・ウーのあとをつけろ。その〈侍者《アコライト》〉になれ、と」 「うーむ……〈至後者《ハインドモースト》〉、それをクジン人の代謝に設定するにはどれくらいかかるんだ?」 「数分です。まずそのクジン人に止血帯をやりなさい」  ルイスはプロテクターの視野に両手をおいたまま、ゆっくり|衣 類 供 給 装 置《ワードローブ・ディスペンサー》に歩みよった。右の手首から先がおそろしいほど腫れあがっているので、右腕を頭の上にあげておくことにした。左手はまったく感覚がないが、使えないことはなさそうだ。  供給装置《キッチン・ウォール》にはクジン族と人類のための料理、栄養補助食品、アレルギー抑止薬、衣類などのメニューが並んでいる。薬のメニューは見たことがないが、もちろんあるはずだ。〈至後者《ハインドモースト》〉に発見されたとき、ルイスは電流中毒《ワイアへッド》だった。お楽しみにも使える化学薬品の出しかたは教えてもらえなかったわけだ。  太陽系/北欧系/正装──の項目からスカーフをダイヤルした。誘惑を抑え、デザインはクジン人に似合いそうなオレンジと黄色を選んだ。はるか昔に供給口の下にテープでとめておいたスレイヴァー製の掘削道具には目をやらないようにした。 〈侍者《アコライト》〉からクジン人特有の体臭がほとんど匂ってこないのは、ルイスのあとをつけるため身体を洗って匂いを落としたのだろう。オレンジ色の毛皮の腹部に三本の筋が平行に走っているが、それ以外はまるでハロウィーンだ──両耳の先端は黒に近いチョコレート色、背中にも幅の広いチョコレート色の縞が一本走り、尾と脚にも小さなチョコレート色の斑点が飛んでいる。  ハミイーより背は低いが、それでも七フィートはあり、横幅は父親と同じくらいある。むろん混血児だ──母親はクジンの〈地図〉に住む古代クジン族にちがいない。 〈侍者《アコライト》〉が腰をおろして腕をさし出した。ルイスは左手と歯を使ってその太い手首にスカーフを巻きつけた。出血がいくらかおさまり、ポタポタ落ちる程度になった。  クジン人がうなった。 「おれを攻撃したそいつは何者だ?」 「カホナ、知るもんか。でもたぶん……おい、こぶ人間」 「なんだ?」 「〈至後者《ハインドモースト》〉とぼくは、〈補修センター〉にプロテクターがいるはずだと考えていた。侵入してくる船を撃ち落としていたのはあんただな。タイム・ラグからして、こっち側からやったはずだから。〈至後者《ハインドモースト》〉はそこいらじゅうに|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》をばら撒いていた。ここのディスクが作動したらすぐ接続するよう、そのひとつを再プログラムしておいたのか……?」 「そうだ」 「そしてぼくが転移するすぐ前にここへ飛んだ。心憎いタイミングだ。パペッティア人はぼくが現れると思っているはずだし、その反射行動も計算に入れられる。おもしろいじゃないか、〈至後者《ハインドモースト》〉? 隣へ逃げる時間はあったのに、あんたはそれを蹴るのに使っちまった」 「またその話ですか? いいでしょう。そのとおり、わたしは反射的にうしろを向いて戦いの姿勢をとりました──あなたの勝ちです」  ルイスはニヤリと笑った。痛みがやや退いてきたが、それはエンドルフィンが効いてきたからだろう。 「なあ、〈侍者《アコライト》〉、これはプロテクターなんだ。よく見てみろ。彼らはみんなこんなふうにこぶ状の身体をしていて、おそろしいほど頭がよくて、危険な存在だ」 「ただのヒト型種族に見えるがな」  クジン人は大きな毛皮の頭をふった。 「いつからぼくを見張っていたんだ?」ルイスはたずねた。 「二日前からだ。姿を見せる前に、おまえから学ぼうと思った」 「知恵を?」 「父がおまえのことを話してくれた。父は自分が分別をわきまえるようになったのはおまえのおかげで、だからおれもそうなれると考えたのだ。だが|腐肉漁り《スカヴェンジヤー》族のひとりに見つかってしまった」 「子供のほうか?」 「そうだ。おまえが〈竪琴笛《カザープ》〉と呼んでいたやつだ」 「ぼくは父親のほうとも話したよ」 「おれはその子供と話をした。父親も少し離れた場所にいて、聞いていた。隠れているつもりだったのだろう。おれはおまえについて知っていることをすっかり教えてやった。隠すほどの秘密はないと思ったからだ。〈至後者《ハインドモースト》〉のことは話さなかった」 「彼は、ぼくらがどうやってリングワールドにきたと考えていた?」 「〈アーチ〉のことか? おまえたちは船に乗ってきたんだと話しておいた。瞬間移動のことは〈竪琴笛《カザープ》〉には話していない。おれ自身父の話が信じられなかったのでな。おまえが転移ボックスにはいったとき──」 「|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》だ。転移ボックスはノウンスペースと〈族長世界〉で使われているが、これよりずっと原始的だよ」 「──その|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》に、おれも飛びこんだ。〈竪琴笛《カザープ》〉とその父親には不意打ちだったのだろう──口をポカンとあげて驚いていたぞ!」  クジン人の声が先細りになり、身体がグッタリと崩れ落ちた。目を閉じている。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、まだか?」 「準備できました。連れてきなさい」  ルイスは〈侍者《アコライト》〉の脇の下に肩をいれて支えようとした。〈侍者《アコライト》〉はどうにか立ちあがって外科治療用の箱までよろめいていき、ドサリとその中にころがった。  ルイスは止血帯をはずしてクジン人の姿勢をまっすぐになおしてやった。それから切断された手と、真っぷたつにされて役に立たなくなった重いハンドガンを見つけ、手のほうをひろいあげた。 〈至後者《ハインドモースト》〉はそれを口で受けとった。 「蓋を閉じなさい」  そして手を別のスロットにいれると、また脚を折り畳み、頭を前脚のあいだにたくしこんだ。ショック症状にはいったのだろう。  こぶ男がたずねた。 「自殺したのか?」 〈至後者《ハインドモースト》〉は片方の頭を持ちあげて答えた。 「無力感の表示です。降伏です」 「降伏か、よろしい」  クジン人は数日のあいだ出てこられないだろう。  ルイスはいまにも失神しそうだった。  苦痛だけが正気の支えだ。こぶを連ねたようなプロテクターの手がルイスの右手首の骨を動かしてみている。ルイスはもう一方の手でプロテクターの腕をしっかりつかんだ。うめきとすすり泣き。現実が苦痛の波となって押しよせる。  プロテクターが手を引いたあと、ようやくルイスは思いついてプロテクターの武器を見定めようとした。そうしてよかった。こぶ男の胴衣《ヴェスト》には驚くほどさまざまなポケットがついていて、そのひとつは携帯レーザーの形にふくらんでいた。  あと、失神する前に何をしておくべきだろう?  契約だ[#「契約だ」に傍点]。  彼はノートパッドをひっぱり出してパペッティア人にさし出した。 「あんたが同意した契約だ。声に出して読んでくれ。この友人もぼくと契約を結びたいといってるんだから」  片方の頭がパッドを受けとり、もう一方がこぶ男に向かってたずねた。 「あなたはなぜそんなことをするのです?」 「プロテクター以外の同盟者が必要だからだ。プロテクターは殺し合っている」こぶ男は答えた。「相互利益を目的とした正式の約束をおまえたちと交わしたい。読め」 〈至後者《ハインドモースト》〉は読んだ。  こぶ男──もしかすると女かもしれない──は、もとティーラ・ブラウンだったプロテクターよりもわずかに背が低く、かなり細身だった。無毛の革のような皮膚、ふくれあがった関節、三角形の顔に突き出た頭蓋、どれも性別の判定には役立たない。男性器の痕跡が見分けられるような気もするが、断言はできない。  不可侵の壁の背後で、百万のパペッティア人のホログラムが踊っている。〈至後者《ハインドモースト》〉はステップをまちがえる前にあそこへもどれるつもりでいたにちがいない。 「『……個人の判断により、与えられた任務が不当な危険──』あなた個人の判断によってですか?」  ルイスは微笑して肩をすくめた。 「『──不当な損傷──倫理への明確な違反を含む場合は──』あなた個人の判断によってですか?」  プロテクターがたずねた。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、おまえとも契約を交わそうか?」 〈至後者《ハインドモースト》〉は憤然と口笛を鳴らした。 「わたしを奴隷にするつもりですか! あなたがわたしに何を支払えるというのです? わたしがルイス・ウーに提供したのは生命[#「生命」に傍点]です! その点が納得できれば受けいれましょう」  ルイスはもう我慢できなくなってたずねた。 「あんたの名前は?」 「わたしはこれまで名前を必要としなかった。好きに呼ぶがいい」 「あんたの種族は?」 「吸血鬼《ヴァンパイア》だ」 「冗談だろう」 「いや」  ルイスは失神しそうになった。  いちばん上の貨物プレートにティーラ・ブラウンの医療キットがとりつけてある。見つけたのははるか昔のことだ。だが立ちあがらないと手はとどかない。苦痛に歯をくいしばりながら、ルイスは腫れあがった右手を診断孔につっこんだ。  苦痛が退いていった。表示窓に質問事項が並んだ。そう、起きたままでいたい。いや、薬品の補充はできない……うんざりするほど長いリストだ。  すぐに右腕全体がなくなってしまったみたいな気分になった。それ以外に本物の痛みといえるものはない。頭脳は明噺そのものだ──現実の断片を手玉にとり、もとの位置にもどしている。  彼はプロテクターのために働く契約を結んだ……そうだっけ?  プロテクターのほうもルイス・ウーを支配下においているかぎりルイスに対して義務を負っている。そしてパペッティア人もルイスとの契約によって縛られ、プロテクターとの契約にも縛られているわけだ。  誰かが何かいっているようだが、その言葉は耳を素通りしていく。 「大至急だ……侵入者……〈アーチ〉の外から……」 「ARMと〈族長世界〉の船だ」ルイスはいった。「賭けてもいい」  侵略は政治的存在の属性みたいなものだ。彼はリングワールドのことを報告し、国連はそれを記録した。ハミイーも〈族長〉に話したはずだ。  それ以外にその存在を知っている組織はあるか? 「〈惑星船団〉もか?」 「あれが? 設計はお粗末だし防禦もお話になりません」パペッティア人が笛のような声で抗議した。「わたしたちのものではありません!」 「いまおまえがあげた政治的存在とは、危険なものなのか?」こぶ男がたずねた。  果てしなく危険というのがパペッティア人の見解であり、答だった。ルイスの頭は化学薬品で泡立っていた。口をはさむことなどできそうにない。 「それらの存在が計画をあきらめることはないのか?」 「ありません。恒星間輸送船団が隠れている場所もわかっています」と、〈至後者《ハインドモースト》〉。「それらは侵入には参加しません。太陽エネルギーによる超高温レーザーもそこまではとどきません。着陸するのはハイパードライヴ・モーターを搭載していない軍艦です」 「それを見せろ」 「装置はわたしの部屋にあります」  ルイスは頭の中で笑った。  しるしのない|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》は〈至後者《ハインドモースト》〉の区画にのみ通じていて、異星人は通さない。〈至後者《ハインドモースト》〉は不可侵の壁の背後に隠れることができる。もしこぶ男がそれを[#「それを」に傍点]許したら、どんなチャンスが生まれるだろうか?  吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクターか。  ルイスは口を動かした。 「あんたは何を食べるんだ?」 「つぶした野菜だ。もう二十八ファランのあいだ生き血は飲んでいない」と、こぶ男は答えた。「わたしが飢えても、おまえたちに危険はない」 「それはよかった」  ルイスはいって、しばし目を閉じた。  こぶ男の声がいった。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、契約は一度破ったらそれまでだぞ。侵入者の船をぜんぶ見せろ」 〈至後者《ハインドモースト》〉の答は、低音とその倍音を含んだ、鳥のさえずりのような音楽だった。ルイスが目をひらくと同時に踊り手たちの姿はフッと消え、回転する三次元の星図が現れた。  リングワールドとその|遮 光 板《シャドウ・スクエア》以外、この星系はほとんど空っぽだ。リングワールドの弧からはるか離れたところに数個の色分けされた光点が輝き、それよりずっと近くに数十の小さな点がいくつかの群れをつくっている。このスケールだと動きは見えないが、ようやくたがいの存在に気づいて、星系の周囲に展開しつつあるらしい。 「わたしは〈アーチ〉を守るためにもどらなくてはならない」こぶ男がいった。「おまえもこい」  パペッティア人がしりごみした。 「でも、この地図を見ることができるのは、ここ、|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号でだけです!」 「それはいま見た。こい」  ルイスはひとりになった。  彼らが姿を消すと同時に画面が変化した。船長室に浮かんだ三次元回路図は……。  もうたくさんだ[#「もうたくさんだ」に傍点]。  ルイスは貨物プレートに頭をもたせて目を閉じた。  片腕を医療キットに入れて貨物プレートにもたれたまま、ルイスはまどろんだ。ときどきずり落ちそうになって目を覚ました。  船尾の壁の背後は着陸船《ランダー》の格納庫だが、ティーラが着陸船《ランダー》を焼いてからはほとんど空っぽに近い。あそこにはほかに何があったのか、ルイスはよくおぼえていなかった。与圧服と装甲服のロッカー、それに|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の山があったはずだ。でもおそらく〈至後者《ハインドモースト》〉が手を加えているにちがいない。いじくりまわす時間は十一年もあったのだから。  船の左舷《ボート》と|右 舷《スターボード》の壁はひたすら黒い。ニードル号は冷えた熔岩に──黒玄武岩の中に埋もれているのだ。  前方の壁の向こうに漂っているのは、探深《ディープ》レーダーで見た蟻の巣のような点と線のつらなりだ。見ているといらいらしてくる。  点があそこにも、あそこにも、あそこ[#「あそこ」に傍点]にも。あちらのふたつはつながっていて、ここの三つもつながっている。あそこでは十の点が網目模様をつくっている。十の点のうちひとつは少し離れた場所にあって、ふたつの点が重なっているように見える。背景の簡単な線図は地図らしい。 〈至後者《ハインドモースト》〉は、何かを彼に伝えようとしているのだ。  膀胱の圧力が痛みへの恐怖よりも強くなったので、ルイスは手を引き抜いてヨロヨロとトイレに向かった。まだまだ医療が必要なようだ。少したってから水を一クォートも飲んだ。それから十一年ぶりに文明的なシーザーサラダを左手で食べた。何が見つかろうとこれ以上は食べられそうにない! こういうことでなら降参したってかまわない。  手を調べてみた……まだ満足な状態とはいえない。でも腫れは退いているし、骨にも異常はなさそうだ。  そのあとまた二度、機械から離れた。食品再生装置のそばを離れたとき、またあの模様が目を惹いた。  |跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》だ!  無意識が働いていたにちがいない。この地図は〈至後者《ハインドモースト》〉がばらまいた|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の配置を示しているのだ。数百万立方マイルもある〈補修センター〉全域にばらまかれたものがいくつか。|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクワイアリー》号にも四つ。ひとつはすぐ外にある。あの二重になった点はおそらく〈|機織りの町《ウイーヴァー・タウン》〉の燃料補給用探査機《プローブ》で、ひとつが輸送用ディスク、もうひとつが水素用のディスクだろう。 〈至後者《ハインドモースト》〉がこれを残していったのだ。ルイスはじっくり調べて記憶に刻みつけた。  パペッティア人はどういうつもりでこんなものを……?  そして、こぶ男が出現した瞬間、地図は踊るパべッティア人の映像にもどった。  プロテクターの手が何かをつかんでいる。彼はルイスの顔を見つめながらそれに息を吹きこんだ。音楽が空中で踊った──木管楽器の音だ。  ルイスの反応が不満だったのだろう。プロテクターはそれを横におろした。そして原始時代の医者がやったように、ルイスの腕のあちこちをさぐってどこが痛むか触診し、やがていった。 「あと少しでなおる」  ルイスはさっき気づいたことを教えてやった。 「この供給装置《キッチン》は、生き血も出せるはずだ」 「まずおまえが飲むか?」 「いや、ぼくは飲まない。吸血鬼《ヴァンパイア》じゃないからね。それに、〈至後者《ハインドモースト》〉にプログラムを書きなおしてもらわなくちゃならない。いや、待て、ぼくがやってみよう」  装置の側面に、点やコンマを組み合わせた〈ますらおことば〉で記されたクジン料理のための|仮 想《ヴァーチャル》キイボードが出現した。ルイスにもいくらかはわかる。こぶ男に見つめられながら、彼は広範囲にわたるメニューに目を通した。  ウンダーランド料理──だめだ。ファフニール料理? この名前では無理だ。海棲生物をためしてみよう。これだ、シャシト、クジン語の惑星名だ。肉と飲み物、項目が多すぎる。肉/飲み物で検索──四種類あった。三つはシュリームを原料にしたスープで、もうひとつはシュリームそのものとある。  これで押し切れ──シャシット/ファフニールと地球とジンクスと小惑星帯《ベルト》とサーペント・スウォームに共通の……。  ドロドロの赤い液体がはいったバルブが取り出し口にあらわれた。  こぶ男はバルブをとりあげ、ルイスが身を引くより早くそのあごをつかんだ。鉄のような力だ。 「まずおまえが飲め」  ルイスはおとなしく口をあけた。こぶ男はトロリとした赤い液体を少量その口の中に垂らした。味にはなじみがないが、匂いはよく知っている。彼は結局それを飲みくだした。  こぶ男はルイスの様子を見ながらそれを飲んだ。 「ふしぎなやつだな。なぜわたしのために血をつくってくれるのだ?」  ルイスは十一年間、手にはいるものを、そして未知のヒト型種族が食べ物として提供してくれるものを、なんでも食べてきたのだ。 「えり好みをするほうじゃないんでね」と、ルイスは答えた。 「いや、そうは思えないがな」  実をいうと、血の匂いと味で吐きそうな気分だった。 「契約を守って、あんたの便宜をはかるよう行動したのさ。違反したのはあんた[#「あんた」に傍点]のほうだ。ぼくには人間の血なんか飲めないといったのに」  こぶ男がいった。 「医療キットはもういいだろう? 与圧服を着て、わたしといっしょにこい」 「与圧服だって? どこへいくんだ?」  プロテクターは答えなかった。  ルイスはニヤリと笑った。船尾の透明な壁を指さし、彼はいった。 「真空用の装備、着陸船、エアロック、ハミイーとぼくが船からおりるために必要なものは、みんなそこの格納庫にある。|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》がないとあそこにはいけない。〈至後者《ハインドモースト》〉はぼくらを閉じこめていたんだ」 「おまえたちは契約を交わしていたのではないのか?」 「そのときはまだだ」 「|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の使いかたなら勉強した。こい」  こぶ男は硬木でできた錠前破りの道具をとり出した。それを持ってディスクのそばに膝をつくと、端を持ちあげた。  彼が何をしているのかルイスには見えなかった。プロテクターの指の動きが早すぎたのだ。〈至後者《ハインドモースト》〉の部屋に|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》配置図が浮かびあがり、明滅した。ついでプロテクターはディスクをもとにもどし、ルイスを先に立てていっしょにその上に乗った。  着陸船《ランダー》が破壊されて以後、着陸船《ランダー》格納庫はほとんど空っぽだった。そこには人間とクジン族とパペッティア人用の宇宙服《スーツ》がある。エアロックの透明な二重隔壁の向こうには、数立方マイルの熔岩を貫通するトンネルが、ティーラ・ブラウンとの戦い以来まったく手つかずのままつづいていた。  ルイスは武器架に目をやったが、近づこうとはしなかった。とり出した密着型の与圧服は、胴部と袖と脚のジッパーがすでにひらいていた。腰帯は必要ないだろう。その中に身を入れようとして、彼は苦痛にあえぎ、動きをとめた。  助けを呼ぶ前にプロテクターがそばにきて、なおりかけの手と腕をそっと袖と手袋に通し、〈侍者《アコライト》〉の止血帯だったスカーフで三角巾をつくってくれた。それからジッパーを閉じ、首のリングにヘルメットをはめこみ、空気《エア》ラックを背負わせた。そのまましばらく、スーツがルイスの身体に合わせて収縮するのを待った。  やがてこぶ男は大型の|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》──貨物用の──のコントロールを操作しはじめた。ルイスは装備のチェックにとりかかった。  ──ヘルメットのカメラ、空気の流量、空気の再生、CO2と水蒸気の含有量──。  こぶ男が彼の腕を引き、ふたりはディスクに足を踏み入れた。 [#改ページ]      20 ブラムの物語 【〈補修センター)隕石防禦室──AD二八九二年】  火星の〈地図〉はその北極を中心においた実物大の投影図で、〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉から四十マイルの高さに突き出ている。リングワールドの裏側にその痕跡がないのは、高さ四十マイルの円筒形全体が中空になっているからだ。  ルイスは〈補修センター〉内部の広い空間のいくつかは見ていたが、この区画にはいるのははじめてだった。巨大で暗い。ラップ・キイボードを設置した長い可動アームつきの骸骨のような椅子がズラリと並んでいる。長円形の壁は高さ三十フィートの展望スクリーンになっている。唯一の光源はこのスクリーンで、そこにはここの空が広角映像で映し出されていた。  リングワールド星系には惑星も小惑星帯もない。リングワールドの〈建設者〉がそれらを一掃したか、資材に使ったのだろう。リングワールドの夜の部分に当たる縁《リム》が、黒を背景にほんのりと青白く見えている。光度を増幅した星々が輝き、そこに緑色の小さな円が四つ──これはカーソルだ。 「あと四つ、見つけました」〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。  不細工なライトやダイヤルやスイッチが並んだ壁の前に立っている。ここがどこなのか、ルイスはようやく思い出した。あそこにあるのは、太陽の磁力場を歪曲させるシステムだ。十一年前に〈至後者《ハインドモースト》〉が隕石防禦システムを作動させたとき、ホロ映像でこの配列盤を見たおぼえがある。  ここの空気は、生命の樹の胞子でトロリとしているはずだ。  整然と片づいているが、ただひとつ──あれはなんだ?  広々とした床の奥の薄暗い場所に、影のようなものが立っている。襲いかかろうとしている人間のようだが、細すぎ、あちこちがとがっている。骸骨だ。攻撃の姿勢に組み立てられた骨格だ。その骨の立像の奥の暗がりに、衣服や装備類が撒き散らされているのが見えた。  ──あとにしよう──。  ルイスはたずねた。 「ぼくはまだ装備チェックもすませていないんだがね。いますぐ何かしなければいけないのか?」  こぶ男が答えた。 「いや。〈至後者《ハインドモースト》〉、あれを出せ」  小惑星帯人《ベルターー》なら与圧服のチェックをすませる前に人を真空にひっぱり出すようなことは絶対にしない。それは生命にかかわる野蛮な行為だ。それともこのプロテクターは、ひと目で彼のスーツの状態を見てとったのだろうか? それとも彼の態度をためしているのだろうか? 装備を? 気分を? 可能性はいくらでも考えられる。 〈至後者《ハインドモースト》〉は貨物プレートの一枚に乗っていた。一ヤードほどの高さに浮かんで、制御盤《コントロール》のあいだに両方の頭をつっこんでいる。  空の眺めがズームし、黒い点とコンマのマークのついたオレンジ色の球体がアップになった。クジン族の船だ──おそらく数世紀前の船に超空間駆動《ハイパードライヴ》を搭載したものだろう。  映像が縮小し、移動し、拡大した。つぎに映った船は大きく、先端近くに|ふくらみ《バブル》のついた長いレバーのような形状で、ゆっくり回転している。こんな船は見たことがない。  映像がまた縮小し移動し拡大して、霧の中の腐った馬鈴薯のような黒と灰色の物体が現れた。 〈至後者《ハインドモースト》〉が説明した。 「リングワールドの〈建設者〉たちも、いちばん遠方の彗星群だけは残しました。多すぎて掃除しきれなかったのか──」 「予備の空気だ」こぶ男がいった。「外壁を越えて逃げていく空気を補給するためだ」 「……はい。でもいま見せたいのはこれです……」  明滅する緑色の円が、その原始彗星の表面のクレーターを示した。映像が拡大し、探深《ディープ》レーダーに変わって、窪みの底の水中にある建造物をぼんやりと映し出した。  こぶ男がたずねた。 「あれをつくったのは、なんという種族だ?」 「わかりません」〈至後者《ハインドモースト》〉が答えた。「採鉱施設はどれもこのような、植物の根に似た形をしています。しかしここには……」  また別の回転するレバー。さっきのものと同じ構造の船を横から見たところだ。ずんぐりした翼を持ったおなじみの小型航空宇宙船が、そのわきにズラリと並んでいる。 「これは、ルイスの種族がつくった国連の船です」  ルイスはようやく装備のチェックを終えた。このスーツを着ていれば数週間、おそらく数ヵ月は生きていられる。 「わかった。ではわたしがやる」  こぶ男が別の貨物プレートに乗って浮かびあがった。パペッティア人の不確かな口の動きにくらべると、彼の両手はずっと器用だ。第二のスクリーンが明るくなり、光度を落とした太陽が映し出された。  数分が過ぎた。やがて鮮やかな光柱が、磁力場の中でゆがみながら噴きあがった。  ルイスはいった。 「連中を殺すつもりなのか?」 「そのとおりです。彼らは侵略者なのですから」〈至後者《ハインドモースト》〉が答えた。 「それをいうなら、われわれだってそうだ」 「はい。身体は大丈夫ですか?」  ルイスは包帯を巻いた手を動かしてみせた。 「治りかけさ。どうせあんたの魔法の医療機《ドック》にはいる時間はない。でもあんたはいままでここで何をしてたんだ?」 「六隻の輸送船と、三十二隻の着陸船《ランダー》からなる艦隊を撃破しました。それがもっとも太陽の近くにいて、攻撃しやすかったからです。あとのものは遠すぎるため、攻撃をかけても挑発する効果しかないでしょう。彗星の中の施設は無視します。氷を煮え立たせるだけですから。もっとも遠い彗星のひとつに、アウトサイダー船を一隻見つけましたが──」 「カホナ! おい、こぶ男? あんた、アウトサイダー人を撃ち落としたんじゃないだろうな?」 「〈至後者《ハインドモースト》〉も反対した」 「よかった。彼らは脆弱だが、ぼくらには正確に説明[#「説明」に傍点]もできないテクノロジーを持っているんだ。それについていえば、連中はぼくらが持ってるものなんかほしがりもしないし、ほしければ金を出して買う。アウトサイダー人を傷つけてもなんの利益にもならない」 「彼らが好きなのか?」  それはある意味で驚くべき質問だった。 「ああ」と、ルイスは答えた 「そのアウトサイダー人がここで何をしている?」  ルイスはスーツの中で肩をすくめた。 「宇宙には惑星は無数にあるが、リングワールドはひとつしかない。アウトサイダー人は好奇心が旺盛なんだ」  太陽からの光柱はまだ成長をつづけている。 「見て、意見を述べろ」こぶ男が〈至後者《ハインドモースト》〉にいった。  胡桃《くるみ》の実をつないだような指が壁の上を踊る。  パペッティア人はじっと見まもりながらいった。 「それでいいでしょう」  すべての展開がのんびりした感じだった。柱の形成には数時間かかる。超高温レーザーが柱から放出されるのに数分。そして目標は光速でも数時間の距離にある。  あの船団を救出するのはもう無理なようだ。  ルイス・ウーは国連にもARMにもなんの借りもない。クジン族の船を守ってやる義務もない。そもそも丸腰で負傷している彼が、どの種族の出身にしろプロテクターにかなうわけがない。  この権力争いの場にもどってきたいま、生命があるだけでも幸運というものだろう。  契約にはこぶ男が狙った相手を救うことなど含まれてはいない。それに彼らは侵略の意図を持ってやってきているのだ。 「これでモニター・ステーションの所在も教えてしまいました」〈至後者《ハインドモースト》〉がいっている。「わたしの政府が設置したもののひとつです。保守党は別になんとも思わないでしょうが」 「そうだな。なあ、こぶ男、あんたのことをドラキュラ″と呼びたくなってきたよ。ドラキュラってのは吸血鬼《ヴァンパイア》物語の元祖なんだ」 「好きにしろ」 「いや、それじゃ陳腐すぎる。あんたはプロテクターで、吸血鬼《ヴァンパイア》の神に近い存在だから、ブラム≠ニ呼ばせてくれ。ところで、あんたはぼくに何をさせたいんだ?」 「わたしの種族にとって最善のことをだ。吸血鬼《ヴァンパイア》族はいま三つの脅威にさらされている。そのひとつひとつが、おまえたち自身も含め、〈アーチ〉のもとにいるあらゆるものへの脅威でもある」  こぶ男はじっとルイスの顔を見つめながらつづけた。 「第一に、吸血鬼《ヴァンパイア》が増えすぎることだ。獲物が不足するし、知的なヒト型種族がわれわれを根絶やしにする方法を見つけ出すかもしれない。わたしとしては[#「わたしとしては」に傍点]、吸血鬼《ヴァンパイア》のどの種族も、あまり目立ってほしくないのだ。われわれが増殖することは誰も[#「誰も」に傍点]望まないだろう」 「まさか、あの|吸 血 鬼 殺 し《ヴァンパイア・スレイヤー》たちはあんたの差しがねだったんじゃあるまいな? いや、冗談じゃない。相手はあんた自身の種族なんだから」 「いや、ルイス、あれはわたしの種族ではない。リングワールドにいる吸血鬼《ヴァンパイア》は百種族にものぼるだろう」 「ほう。それで、あんたの種族はどこに住んでるんだ?」  ブラムはその質問を無視した。 「ルイス、〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉同盟を考え出したのはわたしではない。あの解決方法はなかなか洗練されていたがな」 「ああ」 「第二の脅威は、リングワールドそのものを脅かしているこれら宇宙からの侵入者だ」  ルイスはうなずいた。 「恒星艦はいつでも隕石を武器として地表にぶつけることができる。落ちてくる彗星に気をつけないと」 「第三の脅威はプロテクター──彼ら同士の戦いだ」  ルイスはたずねた。 「プロテクターはいま何人いるんだ?」 「縁《リム》の施設の補修に取り組んでいるのが三人かそれ以上。それぞれ役割を分担しているようだが、みな監視の必要がある」 「そいつらの種族はわかるか?」 「それは重要な問題だな。支配するのは吸血鬼《ヴァンパイア》でなくてはならない。そして各種族から選ばれたものたちが従者として仕えるのだ。この点については──」 「いったいどうしてリングワールドに吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクターがはびこるようになったんだ?」 「こみいった事情があるのだが、おまえの知ったことではない」  ルイスは契約を結ぶさい、彼も〈至後者《ハインドモースト》〉も秘密を明かす義務を負わない[#「ない」に傍点]ように気をつけた。その彼が、ブラムにだけ秘密を明かすよう迫るわけにはいかない。 「では具体的な話にはいろう。まずそっちが何を要求したいのか決めてくれ。その仕事がぼくらに可能かどうか判断し、それから、それをきちんとやるにはどこまで事情を知らなければならないかを決めるんだ」  こぶ男の手が壁の上で踊った。 「おまえたちは秘密を持っている。なぜわたしだけが自分の秘密を明かさねばならない? いずれにせよおまえたちは、わたしの命令に従うほかないのだぞ」  ではこれなら[#「これなら」に傍点]どうだ──。 「これまであんたは船を撃墜してきた。|それはいい《ステット》が、もし一隻逃していたらどうかな? 連中がつぎにどうでるか、あんたには判断できないだろう。手近にいる異星人はぼくら三人──ぼくと〈侍者《アコライト》〉と〈至後者《ハインドモースト》〉だけだ。ぼくらを観察すれば、侵入者の行動も予測できるだろう。だがこっちは何も知らなければ反応のしようがない」  太陽から引き出された輝く炎の柱は、さっきまで大きく弧を描いていたが、いまはまっすぐにのび、細くなりはじめている。  ブラムが声をかけた。 「〈至後者《ハインドモースト》〉?」 「プロミネンスがほぼ形をとりました」 「あとはおまえがやってくれるな?」 「四つの目標すべてを破壊するのですか?」 「あの彗星は残しておけ。ルイス、観察されていることを知っているおまえの反応が、どうして正しい判断の基準になる?」 「観察されているときは観察し返す。それを計算に入れて考えればいい。ブラム、あんたはいったい何者なんだ? 吸血鬼《ヴァンパイア》がどうやって〈補修センター〉にはいりこんだんだ?」 「中にはいる道を見つけたのだ」  ルイスは黙ってその先を待った。 「ルイス、おまえは〈機械人種《マシン・ピープル》〉がつくった燃料を飲んだヒト型種族がどんな行動をとるか、見たことがあるか?」 「自分でやった経験があるよ」 「わたしにはない。さて、たとえば母親の乳とともに燃料を飲みはじめた場合を考えてみてほしい。数十ファランたってはじめてその酔いが覚める……エネルギーと野望が沸きかえった状態でだ。  わたしが生まれたのは……つくられたのは、七千二百ファラン前だ。まわりじゅう死体だらけだった。数日前に死んだらしい同じ種族のが数十体、こぶだらけの奇妙な形のが一体だ。わたしもまたこぶだらけの身体になっていて、性別はなく、凍え、飢え、戦いで傷を負っていたが、それでもわたしは周囲の世界を大きなパズルのように読み解いていた。ほかにも三人が、同じように変化した姿で目覚めようとしていた」  ルイスはたずねた。 「プロテクターを罠にかけて捕らえたっていうのか? 吸血鬼《ヴァンパイア》にそんな知力はないだろう」 「そのプロテクターは、生まれつき虜囚の身だった──従者としてつくられたのだ」  つくられたって、誰に……? 「つづけてくれ」 「その都市は一方を垂直な崖に、他方を一本の巨大な柱に支えられていた。わたしはその影で生まれた。われわれはいつも飢えていた。柱には斜路が巻きついていて、上から獲物の匂いが漂ってきたが、斜路も山腹も鉄条網でふさがれていてのぼれなかった。輸送機が空を行き来し、斜路は使われていなかった。プロテクターになってから、われわれは自分たちがなぜそんな生活を送っていたのか、その理由を推測した。おそらくわれわれは防壁として──」 「濠代わりの怪物か」ルイスはいった。「侵入者は実際の防衛線に達する前にまず吸血鬼《ヴァンパイア》を相手にしなくてはならないってわけだな」 「そういうことだろう」こぶ男がいった。「やがて都市への物資の供給が停まり、飢餓がやってきた。戦争に負けたのか、政争があったのか、道路が盗賊にふさがれたのか、それはわからない。われわれ吸血鬼《ヴァンパイア》にわかったのは、ごみや水や下水の流出が減ったということだけだ。ごみを食っていたやつらが縄張りを変えてほかへ移っていってしまったため、|腐肉漁り《スカヴェンジヤー》の血にも頼って生きていたわれわれは飢えはじめた。  何日もたってから鉄条網があけられ、巨大な箱がいくつも斜路をおりてきた。われわれはその箱を破って中の血にありつこうとした。車輪がわれわれを轢いていった。奇怪な戦士がひとり、その乗物のまわりで踊りながら、襲いかかるものすべてを殺し、乗物がいってしまったあとも残って、あとを追おうとするものを殺した。彼女はわれわれの訴えにも動じなかった──」 「訴えだって?」 「つまり、われわれの匂いに影響されず、求愛の動作も無視したのだ。われわれは怒り狂った。プロテクターを見たことがなかったのだ。空腹で愚かで怒りに燃えたわれわれは、群がり集まってついにこぶ女を倒し、その身体にまだ残っていた血を飲んだが、それでもまだ飢えはおさまらず、倒れた仲間の血も飲んだ。それからみんな死のような眠りに落ちた。わたしもそのひとりだった。  目覚めたときにはもう変化していた。だが、起きたことはおぼえていたし、それもまた新たな現象としてすでに自分のものとなっていた。  その日プロテクターの血を味わったものは大勢いた。眠ったまま死んでしまったものもあったが、四人がプロテクターとなって目覚めた。そのひとりがわたしの伴侶だったことが匂いでわかり、たがいに認め合った」 「変じゃないか。吸血鬼《ヴァンパイア》は一夫一婦制なのかい?」 「なんだと?」 「ひとりしか伴侶を持たないのか?」 「そうではない。われわれにとってあの匂いのしないヒト型種族は獲物で、リシャスラしながらその血を飲み尽くす。匂いで同類であることがわかれば、その相手は傷つけない。だがあのときわれわれは飢えきって[#「飢えきって」に傍点]いたので……ルイス。わたしの伴侶──なんと呼ぼうか……?」  意外なことに、強いられてはじめたはずのその物語を、ブラムは熱意をこめて話しつづけた。これまで誰も聞かせる相手がなかったのだろうか? 「アンというのはどうだい?」 「アンとわたしは、交わっているあいだ口を閉じているだけの意志力を持っていたのだ。もちろん、変化して目覚めてからは一度もしていないが、たがいに信頼し合っていた記憶は残っていた」  ふいにある記憶がよみがえり、ルイスは身震いした。  ──吸血鬼《ヴァンパイア》を信頼するだって──?  あの女──十二年前にルイス・ウーを襲った吸血鬼《ヴァンパイア》は、発情した天使のようで、この世のものとも思えないほど魅惑的だった。アッシュブロンドの巻き毛に手をさし入れると、頭蓋が恐ろしく小さく、ほとんどは豊かな髪であることがわかった。リングワールドの吸血鬼《ヴァンパイア》が本当はどういう存在なのか、ほかのヒト型種族には判定のしようがないだろう。  ふと見ると〈至後者《ハインドモースト》〉が聞き耳をたてている──片方の頭でボードの作業をつづけながら、もう一方をブラムと彼のほうに向けているのだ。  ルイスはいった。 「|なるほど《ステット》、それで?」 「われわれ四人は、若すぎるため変化しなかった十人の繁殖者《ブリーダー》とともに、探検に出かけた。進むにつれてわたしの心の中には図面が出来ていった。〈|楔 都 市《ウエッジ・シティ》〉は三角形で、底辺を山腹に支えられ、頂点を巨大な支柱に乗せていたが、その支柱はさらに高くまでそびえて塔となっていた。扉を打ち破り窓を壊して捜索したが、〈都市《シティ》〉に残っていたヒト型種族は塔に幽閉されていた虜囚だけだった。繁殖者《ブリーダー》たちが食事をして飢えがいくらか満たされると、われわれは匂いをたどってもっと奥の固く守られた場所──かつてふたりのプロテクターが黄色い根を蓄えて住んでいた秘密の場所にたどり着いた。おまえはあの根のことを知っているか?」 「生命の樹だ」 「われわれは──アンとわたしはその性質を理解し、いまやその根がわれわれの血となったことを知った。それがないとわれわれは飢える。そこであとの者たちを殺した」 「その最初のプロテクターは──」 「わたしはその女の死体を調べてみた」ブラムがいった。「わたしよりも小柄だったが、その土地に生える頑丈な枝を噛むため、あごだけは大きかった。使っていた道具は原始的で、彼女は自分の種族の繁殖者《ブリーダー》たちを救うために吸血鬼《ヴァンパイア》の中を突破して都市を脱出する道を確保しようとし、その戦いの途中でみずからを犠牲にしたのだ。  ルイス、ほとんどの生命、ほとんどの動物、ほとんどのヒト型種族[#「ヒト型種族」に傍点]は、ひとつの土地でしか生きることができない。ある川の流域の一部や特定の森林や、孤立した谷間や沼地や砂漠など限定された地域で暮らしている種族のことを考えてみろ。プロテクターになればそんな制限はなくなるが、大切にはぐくみたい一族の多くはひとつの地域に固まっている。守るべき種族が土地に縛られていないプロテクターなら、もし相手が自分のいうことを聞かなければ、その地域の一族を根絶やしにすることもできるわけだ」 「そんなことが起きたという証拠でも──」 「もちろんだ。手掛かりはいたるところにある──肩にとりついて首筋に噛みつきそうなくらいだ! あの塔の奥にはふたりのプロテクターが住んでいた。片方がもう一方に仕えていた。都市にあった死体はぜんぶ従者の種族の繁殖者《ブリーダー》のものだった。主人のほうは別の種族のプロテクターで、八万ファラン近くも生きているあいだに、彼の種族は変化するか絶滅してしまったらしい。数千ファランたったのち、わたしは彼の匂いと再会した。彼は飢餓のとき〈|楔 都 市《ウエッジ・シティ》〉を離れたのだ。だが従者のほうは自分の種族を救うためあとに残ったわけだ」 「あんたは彼女の血[#「血」に傍点]によってプロテクターになったのか」 「そうとしか思えない」ブラムが答えた。「ヴィールスだ。生命の樹の根には遺伝子を変換するヴィールスが含まれている。それがプロテクターの血の中にもはいってるんだな」  なかなかおもしろい話だ。  ──不死者の血を飲むことによって、吸血鬼《ヴァンパイア》が不死になるとは──。  だが、吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクターの意のままになるのは、おもしろくない。  太陽からあがった柱はいまや数千万マイルも宇宙にのびている。〈至後者《ハインドモースト》〉は貨物プレートを丸天井のそばまで浮上させ、片方の首を大きく曲げて話を聞いている。遠すぎて聞こえないだろうに。もしかすると……指向性マイクか?  ルイスはもう一度たずねた。 「どうやって〈補修センター〉にはいった?」  ブラムが答えた。 「都市には百ファラン分の根があった。それがなくなったら、その供給源を見つけないかぎり死が待っている。アンとわたしはたがいに教え合って読み書きを学んだ。〈|楔 都 市《ウエッジ・シティ》〉の書物から図書館のある町の所在がわかった。衣服で姿を隠せるよう、寒い土地を選んだ。そこでは遠方からの来訪者として迎えられた。われわれは税金を払い、土地を買い、最後には〈三角州人種《デルタ・ピープル》〉の市民として図書館にはいるための通行権を手に入れた。  そこで火星の〈地図〉の下に補修設備のようなものがあることを知ったのだ。  われわれは〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉にたどり着き、それを渡った。火星の〈地図〉の上を歩きまわるため、ふくらんだ筒をつなぎ合わせたものをつくった。おまえの与圧服のほうがずっといい。それでも、生きているうちに中にはいることができた」 「そこで殺し合いもせずにすんだ?」 「そうだ。吸血鬼《ヴァンパイア》には心がない。だから吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクターは、いかなる先入観にも古い忠誠心や約束事にも束縛されない、まったく新たな知性を持って生まれるのだ。自分の種族のプロテクターがいない場合は吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクターを選ぶのが、どんなヒト型種族にとっても次善の策だろう」  ──生命の樹の根が最後の一本になったら、あんたたちだってそのために殺し合っただろうよ──。  だが、それはいわないことにした。本当にそうだという自信もなかった。 「それで、主人のプロテクターを見つけたんだな? どうやって? なぜ戦ったんだ?」 「あれは〈アーチ〉とその下に存在するあらゆるものをもっともよく守護できる者の地位をかけての戦いだった」 「だけど彼はいい仕事をしてたんじゃないのか? 彼の治下で多くの種族が進化しては滅んでいっただろうが、いくつもの文明が興って繁栄し──」 「だが勝ったのはわれわれ、アンとわたしだ」  ブラムはふり返った。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、進行状況は?」  ルイスは暗がりに立っている骸骨に目を向けた。それが何者なのか察しはついた。 「どうやって彼をおびき寄せたんだ? 彼は八万ファラン生きていたといったな」  リングワールドのおよそ百万回転。二万地球年だ。 「それだけのあいだ君臨していたというのに、いまはあんたが」 「彼はここへこなければならなかったのだ。〈至後者《ハインドモースト》〉、どうだ?」  パペッティア人が頭上から答えた。 「隕石防禦装置を三つの標的に向けて作動させました。結果がわかるのは二時間後です。彗星施設がそれを観測して反応するのは三時間後でしょう。ほかのものも移動する余裕は充分ありますが、光のビームから身をかわすことができるでしょうか?」 「おまえの意見は?」 「わたしの種族は、他種族の望みをかなえてやることによって、目的を達成するほうを選びますから」〈至後者《ハインドモースト》〉が答えた。 「ルイス・ウー、おまえは?」  ルイスは答えた。 「あんたは自分ではとめられないことをはじめてしまった。あんたはふたつの艦隊を攻撃した。〈惑星船団〉も入れるなら三つだ。ブラム、政治組織は年老いて消滅することもある。だが情報が失われることは決してない。すばらしい記憶装置があるからね。この世に陽子《プロトン》が存在するかぎり、リングワールドの防禦はこれからもためされることだろう」 「それではプロトンがあるかぎり、〈アーチ〉にはプロテクターが存在しなくてはならないわけだ」 「少なくともひとりはね。侵入者はただ領土を奪いにくるわけじゃない。いじくりまわして実験するうちに、何かを破壊してしまうかもしれない。〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉が恒星船をつくるために外壁の姿勢制御ジェットをはずしてしまったようにね」  こぶ男は黙ってつづきを待っている。 「吸血鬼《ヴァンパイア》がまちがいをおかすことだってあるかもしれない」 「吸血鬼《ヴァンパイア》がいちばん適任だ。わたしと戦うことは過ちであり、はるかに高価な代償をともなうことになる」  ルイスが考えをまとめようとして黙りこむと、ブラムは胴衣《ヴェスト》から何かをとり出した。さっき演奏したのより大型の、木彫りの笛だ。その昔も深く豊かで、胴部をたたくブラムの指が太鼓のリズムをきざんだ。ルイスのいらだちをあやしてくれるような音色だ。  その悲しげな演奏が終わるのを待って、ルイスはいった。 「あと必要なのは、リングワールドと同じ平面上をやってくる隕石の観測装置だ。どうやればいいかはわからないけどね。太陽エネルギーによる防禦装置はリングワールドの裏側に隠れたものを撃つことはできないからな」 「こい」ブラムがいった。「〈至後者《ハインドモースト》〉もこい。攻撃の成否はあとで見にくればいい」  こぶ男の手は大きなビー玉を連ねたような感触で、ルイスの無事なほうの手首をつかむその力には抵抗のしようもなく、彼は早足でその場を離れた。一度だけ、攻撃の姿勢をとっている骸骨のほうをふり返った。それからブラムの手に引きずられて、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》に押しこまれた。  ふたりはニードル号の貨物区画に出現した。  こぶ男は負傷した腕を気づかいながら、また表面に付着した胞子をばらまかないよう注意しながら、スーツを裏返しに脱ぐルイスに手を貸してくれた。 〈至後者《ハインドモースト》〉はどこだろう?  ブラムはルイスを別のディスクに連れていき、いっしょに居住区画へ移動した。抵抗しようと考える余裕もなかった。とにかくすごい力だ。  壁にはいま何も映っていない。その前でプロテクターが膝をついた。 「パペッティア人はここから操作して自分の部屋に映像を呼び出した。わたしの観察が正しかったかどうか見てみよう」  そして木製の錠前破りの器具らしいものをとり出し、作業にかかった。  図表が現れた──|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の配置図だ。それから、〈|機織りの町《ウイーヴァー・タウン》〉の映像。 〈至後者《ハインドモースト》〉が着陸船《ランダー》格納庫に、つづいて居住区画に出現した。 「遅れて申しわけありません」 「わたしの防護措置をためしていたのか? 〈至後者《ハインドモースト》〉、いますぐクジン人を起こせ」と、ブラム。「そのあとで、プロテクターたちが作業している外壁をもっとよく見たい。燃料補給用|探査機《プローブ》を送り出せ」 〈至後者《ハインドモースト》〉は自動医療装置《オートドック》の蓋についたリードアウトに目をやり、何かに触れ、蓋があがりだすと同時に飛びすさった。  クジン人は流れるような一動作で起きあがり、一軍を迎え撃つような姿勢をとった。  動いたとも思えなかったが、こぶ男はすでに携帯レーザーと|自 在《ヴァリアブル》ナイフを手にしていた。〈侍者《アコライト》〉が緊張を解くのを待って、彼はたずねた。 「〈侍者《アコライト》〉、ルイス・ウーと同じ条件でわたしと契約を結ばないか?」  クジン人はふり返った。傷は消え、手ももとどおりになっている。 「ルイス・ウー、おれはそうするべきだろうか?」  ルイスはためらいをのみこんで答えた。 「ああ」 「おまえの契約を受け入れよう」 「医療機《ドック》から出てこい」 〈侍者《アコライト》〉が外に出ると、ブラムはルイスをその大型の医療機《ドック》に呼びよせ、手を貸して中に入れた。 〈至後者《ハインドモースト》〉は何かほかのことでいそがしくしている。壁際ではパペッティア人の口笛に反応して、色のついた点と虹色の弧が回転し、位置を変えている。ふいに口笛の音程がずれた。 「探査機《プローブ》が!」 「なんだ?」と、ブラム。 「見なさい! |跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》が燃料補給用|探査機《プローブ》からはずされています。待って──」  パペッティア人が壁をたたくと、なかば水に沈んだ探査機《プローブ》からの映像が、崖の蜘蛛巣眼《ウエブアイ》からの眺めに切り替わった。 「あそこです! 見なさい、あそこにあります!」  探査機《プローブ》の側面についていた瞬間移送装置が、いまは〈評議会の館〉のそばの川岸におかれていた。 「別に隠そうとしているわけではないな」ルイスはいった。「重水素フィルターのついた先端の小型ディスクはどうだ? あれは[#「あれは」に傍点]まだあるかい?」 〈至後者《ハインドモースト》〉は目を向けた。 「あります」 「うれしいじゃないか。ぼくにもどってほしいんだよ」 「泥棒です!」 「ああ、だが放っておけ。探査機《プローブ》を呼びもどして新しいディスクをとりつければいい。〈侍者《アコライト》〉、〈至後者《ハインドモースト》〉が契約を読みあげてくれるだろう。ここにいる誰も傷つけるんじゃないぞ。医療機《ドック》の治療がすんだら起こしてくれ。供給装置《キッチン・ウォール》はクジン人用に設定してある。ここにいるブラムもそいつを使う。いいな?」 「ああ」 「|いいだろう《ステット》」  少なからぬ恐怖を感じながら、ルイスは棺桶型の医療機《ドツク》に身を横たえた。  蓋が閉じた。 [#改ページ]      21 物理学の勉強 【空中橇《エア・スレッド》輸送ステーション──AD二八九三年】  数日後には到達するだろう前方にそれが見えた──さらにはるか彼方にある|右 舷《スターボード》の外壁を背景として地表に浮かぶ黒い線だ。  近づくにつれてその線は、砂漠の上にそびえ立つ巨大な人工物のシルエットとなった。中央近くにいくつか隆起した部分のある、宙に浮かぶ平坦な台なのだ。  さらに近づくと、〈赤色人《レッド》〉たちの目には、その下の地面にも部分的に日光が射しこんでいるのが見てとれた。そのころまでにはワーヴィアも理解した。そこが〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉たちの目的地、〈砂漠人種《サンド・ピープル》〉の共同墓地なのだった。  乾ききった土地の旅がつづいた。モーターは砂に弱い。空腹の数日が過ぎたあと、彼らはようやく〈砂漠人種《サンド・ピープル》〉に出会った。 〈砂漠人種《サンド・ピープル》〉は淡い色の長衣《ローブ》に身を包んで歩きまわっていた。小ぶりな獣を十二頭ずつまとめて車を牽かせ、その肉を食用にもしている。  肉食なのだ! 〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉と〈機械人種《マシン・ピープル》〉はともにひと安心した。 〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉から持ってきた布を贈り物として渡すと、〈砂漠人種《サンド・ピープル》〉は獣を二頭殺してもてなしてくれた。いくつもの種族が混じり合い、いい伝えや物語を教え合った。ちゃんと通じるレベルの通商言語を話せるのは年老いたカーカーという男ひとりで、何もかもその翻訳に頼らなくてはならなかった。  リシャスラは翻訳の必要がなく、身ぶりだけで通じた。長衣《ローブ》を脱いだ〈砂漠人種《サンド・ピーブル》〉は小柄な体躯をしていた──身長は〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉ほどで、ただし胴体はたくましく、腕と脚は細い。 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉と〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉は荷台外殻にひっこんでいた。  クルーザーは|未 明《ハーフドーン》に出発した。  運転席の下の〈|屍肉食い《グール》〉たちが飢えかけていると思うと、ワーヴィアは不安になった。しかし目的地はもうはっきり見えている。  到着したのは光のまばゆい午後なかばだった。  なかば砂に埋もれた古代の道が登り坂になって、浮揚しているプラットホーム群の軸に当たる構造物までのびている。そこからたがいに百二十度の角度で三本の腕が出ている。その腕がひろがって楔形のプラットホームを形成し、それが支えもなしに浮揚しているのだった。  中心の部分は繋留杭や金属の手すりや滑車やロープでごったがえしていた。その構造物の上にも屋根のある建物が建っていたが、それはあとからつけ加えられたものらしい。どれも空っぽで、長い年月のあいだに砂に浸食されていた──倉庫が数棟、あとは宴会場に宿屋だ。軸線をつらぬいて深い井戸があり、その底には澄んだ水がたまっていた。  建物のあいだの広い通りの一本に、〈|砂の人種《サンド・ピープル》〉は同族の死体を並べていた。何世代もにわたってそうしてきたらしい。白骨化したのが数百体。中心付近の十体ほどは骨というよりミイラに近い。まだ新しいものもいくつかあった。 「カーカーがいっていたとおりだ」サバロカレシュがいった。「ワーヴィア、カーカーがあんたに話していたのは……?」  ワーヴィアは答えた。 「カーカーはわたしに、|喚き動物《シュリーカー》の群落の見つけかたを教えてくれたんです。シュリーカーの肉は食べられないって〈砂漠人種《サンド・ピープル》〉はいったけど、わたしたちなら食べられるっていっておきました」 「それは推測だろう?」 「でも、ほかにどうするの? 埋葬所の反回転方向《アンチスピンワード》に……」  ワーヴィアはその方向を指さし、それからやおら顔を向けた。三十歩と離れていないところに、平坦な大地の表面が無数の塚で埋め尽くされた部分がある。まるで崩壊した都市の、ミニチュア模型のようだ。 「〈|屍肉食い《グール》〉を起こすのはよそう」と、サバロカレシュはいった。「目が覚めたら匂いでわかるだろうよ」  そこで彼らは遺体の並ぶ道からいくらか離れた高い場所に車を停め、シュリーカーの群落を調べにいった。  それはワーヴィアがこれまで見た中で最高の、とまではいかないが、相当に奇妙な眺めだった。  平坦な地面に数百もの四角くかためられた塚が建ち並んでいるのだ。身長一フィートほどの種族が建造した都市が崩れかかっているみたいだ。どの塚にもドアがついていて、どのドアも集落の外側に向いている。  一行が歩み寄っていくと、シュリーカーの一団が穴から湧き出てきて防備の陣を布いた。一匹がちょうど一日分の食糧になるくらいの大きさだ、というのがワーヴィアの感想だった。顔はいかにも鈍感そうだ。四つ足で這い出てきてから立ちあがり、戦闘用というより穴掘り用の巨大な爪を見せつけてキイキイ声をあげる。耳が痛くなるほどの高音だ。 「棒で殴ったら?」フォーンが提案した。  テガーがその案を却下した。 「近づいて殴りはじめると、群がってきて動きがとれなくなりそうだ。車を停めたあたりに山ほどロープがあったな。網はなかったか?」  警備兵の一隊がふたたび防衛隊形をとった。バロクとテガーが網を投げた。荷物を持ちあげるのに使う頑丈で目の粗い網だ。警備兵の大半は網から這い出て攻撃してきた。〈赤色人《レッド》〉と〈機械人種《マシン・ピープル》〉はうしろに網を引きずって逃げだし、立ちどまってまた網を投げ、数匹を捕らえた。残りのシュリーカーはそこで停まって侵入者に向かいキイキイ声をあげ、もとの隊形にもどった。  大きいのが四匹、網から出られずに残っていた。  影が太陽にかかるころ、〈赤色人《レッド》〉はすでに食事をすませ、〈機械人種《マシン・ピープル》〉はまだ調理中だった。〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉が出てきて周囲を見まわし、鼻を頼りに行動に移った。ワーヴィアとテガーは荷台外殻《ぺイロード・シェル》に這いこんで眠った。 「大部分がミイラ化していた」翌日の|未 明《ハーフドーン》、〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が報告した。「あれでは非常食にもならない。老衰で死んだものが多いな。〈砂漠人種《サンド・ピープル》〉は健康で幸福な生活をしているようだ。でも気にしなくていい……」 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉があとを引きとっていった。 「自分の家畜に殺されたらしい牧人《ハーダー》が手にはいったから。わたしたちが飢えることなどめったにない」 「それはよかったですね」ワーヴィアがいった。 〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉は細く姿を見せはじめた太陽でさえもまぶしすぎるのか、陽よけの下にすわっていたが、ほかのものたちはその光に身をさらして、暖かくなる朝を待ちわびていた。 「〈砂漠人種《サンド・ピープル》〉にこの場所のことをたずねてみたの」フォラナイードリがいいだした。「彼らはここの影の中で育つのだけれど、墓所だという以外は何も知らないんですって」 「ここはそれだけの場所ではない」と、〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。「あと必要なのはクルーザーを乗せてしっかり固定するだけだ。おまえたち四人の、五日分の食糧が必要だが──」  サバロカレシュがいった。 「では、おれたちはここで別れる」  ワーヴィアにもテガーにも、いずれその日がくることはわかっていた。  ワーヴィアがいった。 「ここまでつき合ってくれてありがとう。〈赤色人《レッド》〉が〈機械人種《マシン・ピープル》〉のクルーザーを走らせていたら、きっとおかしな目で見られたでしょう。でも、計画を変えたのですか?」 「自分たちのペースで左舷《ボート》のほうにもどるつもりだ。物語や伝説で旅費を稼ぎ、出会う種族に燃料のつくりかたを教える」そして娘の腕を握ってつづけた。「〈機械人種《マシン・ピープル》〉の土地まで帰り着くころには、フォーンの持参金に充分なくらいの報奨金が稼げるだろう」 「いろいろ教えてくれたことに感謝する」テガーも丁重に礼を述べた。  フォーンは色っぽい微笑でそれに答えた。 「あなたはいい生徒だったわよ!」  そして父親にチラリと目を向けた。 「そういえば、まだ教えてないこともあったわね──」 「求愛のことか」と、バロク。 「そう。求愛のやりかたをおぼえておいて」と、フォラナイードリ。「ほとんどのヒト型種族には求愛の儀式がある。でもそれは気にかけなくていい。自分のやりかたを守りなさい。そのほうがあなたの[#「あなたの」に傍点]気分にも合うし、相手も[#「相手も」に傍点]興味を持ってくれる。求愛のやりかた、おぼえてる?」 「少しだけ」と、ワーヴィア。  テガーはいった。 「おれたちの求愛は簡単だし、まず交渉からはじまる。ほかのヒト型種族の目にわれわれは、ひっこみ思案で熱意がないように映るらしい」 「ふうん、なるほどね──」 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チュープ》〉がきっぱりした口調でいった。 「時間が惜しい。車を乗せなくては。バロク、フォーン、出発の前に手伝ってくれるね?」 「いいとも。おれたちは生きた食糧も見つけた。それでどうするんだ?」 「車をこの乗物の|右 舷《スターボード》側の端にしっかり固定する」 「こいつは乗物[#「乗物」に傍点]なのか?」  示されたのは浮揚している三つのプラットホームのひとつだった。テガーの目には、蔽いのかかったダンス・フロアか、競技場か、射撃場みたいに見える。屋根は透明。床はたいらで、クルーザーの|軸  距《ホイール・ベース》の五倍くらいの幅がある。彼の胴体ほどの頑丈そうなアルミニウムの輪がいくつか、床に埋めこまれている。  彼らはクルーザーをプラットホームの中央に据えた。 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉と〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉が陽よけの下から指示を出し、あとの四人がアルミニウムの輪に通したロープを鉄の荷台外殻《ぺイロード・シェル》に巻きつけた。さらに滑車を使って、〈アーチ〉のもとのいかなる力も車を動かすことはできまいと思われるほどロープを引き締めた。  作業は昼ごろ終わった。バロクとフォーンは自分たちの旅の準備にかかった。 「おまえたちも食べ物が要る」テガーはいった。「シュリーカーの燻製をつくろうか?」 「ありがたい。ちょっと見つけたものがあるんだが」  バロクがそういい、一同をそこへ案内した。それは縦三|身長高《マンハイト》、横二|身長高《マンハイト》くらいの浅い盆《トレイ》のようなもので、四隅に穴があいて紐が通っている。ごく軽いものらしく、彼は無造作にそれを持ちあげてみせた。  ワーヴィアがニヤリと笑った。 「すばらしい! 橇みたいに牽くことができる!」 「そうだ。だがまず……」  シュリーカーの警備兵が出てきてズラリと並んだ。  まず網だ。警備兵のほとんどをすくいあげ、網をひねってわきへ放り出した。  それから四人でトレイの端をやわらかな砂地に沈め、ゆすりながら押して、地下にすべりこませた。ロープを引くと、トレイの四隅が持ちあがった。シュリーカーの集落の一部がトレイの上に乗ったわけだ。  警備兵たちはもう網を抜け出していたが、目の前の光景に仰天した。持っていかれてなるものかと一群は必死でトレイの上の集落にもぐりこんだ。残りはそれを半円形にとり巻いてわめきたてた。  トレイを持ちあげるには四人が力をふりしぼらなくてはならなかったが、運ぶ距離は三十|歩幅《ペース》ほどにすぎない。ロープと滑車でそれを墓所の高さまで持ちあげると、あとの仕事はレールに並べたころ[#「ころ」に傍点]がやってくれた。クルーザーのすぐうしろにおろし、砂の下からトレイを引き抜いた。  まだ網にからまっていたシュリーカーを四匹とり出して殺し、臓腑を抜いて、壊れた建物からバロクがはがしてきた薪の上でいぶした。ふたりの〈機械人種《マシン・ピープル》〉は働きながら、飲めるだけの水を腹におさめた。そして|薄 暮《ハーフナイト》になる前に出発していった。  ワーヴィアとテガーは作業の結果を点検しながら〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉と話し合った。 「実をいうと、おまえたちももっと早くわれわれと別れるだろうと思っていた」〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。  左舷回転方向《ボート・スピンワード》では、フォラナイードリとサバロカレシュがすでにちっぽけな影となっている。 〈砂漠人種《サンド・ピープル》〉がほかの部族への道筋を地図に描いてくれた。〈機械人種《マシン・ピープル》〉たちは夜のあいだに旅をし、天幕集落をつぎつぎと渡り歩いて、いずれは緑の土地に帰り着くはずだ。  そしてそのとき、ふたりの〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉はどこにいることになるのだろうか?  ワーヴィアは説明した。 「〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉は遠くまで旅をします。二十|日徒歩距離《デイウォーク》だって問題にならない。わたしたちがどこに落ちついても、噂と質問は追いついてくるでしょう。〈|竪琴弾き《ハープスター》〉、わたしたちは嘘がうまくつけません。わたしたちはもっとずっと遠くまでいかなくてはなりません。誰にも質問されずに暮らすのがいちばんです」  テガーがいった。 「二十|日徒歩距離《デイウォーク》のあいだにおれたちは、〈機械人種《マシン・ピープル》〉と〈|乾 地 農 夫《ドライランド・ファーマー》〉と〈砂漠人種《サンド・ピープル》〉とリシャスラした」  ワーヴィア自身の体験はそれ以上だが、誰も、〈|竪琴弾き《ハープスター》〉でさえも、そのことは口にしない。彼はただニヤリと笑っていった。 「だが 〈|草 集 め《グラス・ギャザラー》〉や〈|屍肉食い《グール》〉とはしていないぞ。えり好みをしているのだな!」  ワーヴィアは目を伏せた。彼女もリシャスラはしたが、〈|屍肉食い《グール》〉としようとは思わない。テガーも同様だろう。 「だがおれたちは吸血鬼《ヴァンパイア》の匂いにそそのかされなくてもやったんだ」と、テガー。「それがおれたち──おれだけかも? ──には不安なんだ……」 「わたしもよ」ワーヴィアはきっぱりといった。「わたしたちふたりと、おたがい以外ともできるようになってしまった。また昔の習慣にもどれるとは思うけど──」 「でもそれには、ゆきずりのいろんな種族とリシャスラする〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉の噂など誰も聞いたことがないほど遠くまでいかなくては! 〈機械人種《マシン・ピープル》〉の帝国はこのあたりまでだから、あと少しで──」 「さっき、五日といいましたね。これはどうやって動かすのですか?」と、ワーヴィアがたずねた。 〈|屍肉食い《グール》〉はすでに作業にかかり、大きな透明キャノピーの船尾側の端を閉ざしている。ワーヴィアは閉じこめられたような恐怖を感じはじめた。これからおもむく場所が、自分にもテガーにもほとんど未知の世界だということが、ひどく不安だった。  答が返ってくるとは思っていなかったが、そのとき〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が、「こうやるのだ」といって、両手と頑丈な背筋を使ってレバーを動かした。プラットホームが船渠《ドック》から分離した。  ほとんど目に見えないほどゆるやかな動きだったが、それが中心部の構築物から離れつつあることは明らかだった。 「どこまでいくのだ?」テガーがたずねた。 「ああ、おまえたちが逃げようとしている噂などよりはるか遠くまでだ」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉はニヤリと笑った。 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉がクルーザーの周囲をひとまわりしてもどってきた。 「バロクがやったのか? いい仕事をしている。テガー、ワーヴィア、わたしたちは外壁までいく。もしよければつぎの停泊地でおろしてやろう。それともずっといっしょにきて、帰り道で別れるか」  テガーが信じられないという笑い声をあげた。 「外壁へ着くまでには、年をとって死んでしまうだろうよ!」 「ではつぎの停泊地で別れよう」〈|竪琴弾き《ハーブスター》〉が承諾した。 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉が甲高い口笛のような怒りの声をあげて反対を表明した。〈|竪琴弾き《ハープスター》〉は笑い、歯のあいだから野卑な言葉と思われるさえずりを返した。 「おまえたちにもきてほしいそうだ」と、彼は〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉たちにそれを通訳した。「昼光の中でも目の見えるものを連れていくべきだとな」 「おれたちはただ、〈機械人種《マシン・ピープル》〉の領域の外に出たいだけだ」テガーがいった。 「好きなときに袂を分かってくれてよい。だが考えてみろ! われわれがいま手がけているのは大事業なのだ。これから|こぼれ山《スピル・マウンテン》をのぼり、さらにその先まで進む。そのような偉業を達成した〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉はまだひとりもいない。これでいずれ定住したあとは、リシャスラのことなど思い出しもしないほど多くの話題ができるだろう」  砂漠の眺めが静かに後方へ流れていく。  ワーヴィアはたずねた。 「わたしたちが乗っているこれはなんですか?」 「〈建造者《ビルダー》〉の製品だ。わたしも話に聞いたことがあるだけだった。〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉とて、よほどの事情がないかぎり空中橇《エア・スレッド》を使うことはないが、われわれは許可と命令を受けている」 「どれくらい速度が出るのですか?」  景色の流れ去る速さがグングン増していく。背後の停泊所《ドックヤード》がもう一点にしか見えなくなった。切り立った崖のあいだを吹き抜ける風のような音が高まっていく。 「速いぞ。五日後には|こぼれ山《スピル・マウンテン》のふもとにたどり着く」 「まさかそんな」 「わたしはそう聞かされた。だが最初の停泊地まではたったの三日だ」 「怖いわ」  ビュンビュン飛び過ぎていく世界を見ていて、ワーヴィアは目が痛くなった。 「地面の下に何本もの線が走っているのだ。絵に描くと蜂の巣のようになっている。それらが〈建造者《ビルダー》〉の乗物を持ちあげて動かす。この乗物が停まれるのは、その線がいくつか集まっている場所でだけだ」 「三日だ」〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉がくり返した。  砂漠のはるか彼方にヒト型種族と獣の一隊が現れたが、アッというまに見えなくなり、ワーヴィアにすらその種族が何か見分けることができなかった。  空中橇はさらに速度を増した。  荷台外殻《ペイロード・シェル》の中は〈|屍肉食い《グール》〉の匂いがした。機械のうなりが聞こえてくる。ワーヴィアは外で起きていることにはいっさい触れず、闇の中でテガーに寄りそい、身を丸めた。ふたりは恐怖に追い立てられるように性行為に熱中し、そのあいだだけはワーヴィアも自分がいまどこにいるかを忘れることができた。  やがて外部の音がまたよみがえり、闇の中のテガーの声がそれをかき消した。 「カーカーはどうだった?」 「強かったわ。でも抱き心地は変だった──奇妙な形で」 「ここでしたのか……?」 「ううん、ここ[#「ここ」に傍点]でじゃない。身体は肩も腹も腰もたくましかった。ここの男はみんなそうね。それから、彼はとても熱心に話をしたがった──通商言語を使ってみたかったんでしょう」 「話をしただけか?」  ワーヴィアはクスクス笑った。 「リシャスラしたわ。カーカーははじめてだった。テガー、考えてもみてよ! わたしが彼に教えたのよ!」 「でも、彼には事情を──」 「話したわ。リシャスラの経験のあるただひとりの〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉の女で、今夜はあなただけのものだっていったの。彼、とても喜んでいたわ。あなたは誰といっしょだったの?」 「へン──じゃない、ハンシールヴだ。名前の発音はこれでまちがいないと思う。背の高い女で──おれと同じくらいあったんじゃないかな?」  ワーヴィアが笑い、彼はつづけた。 「以前の族長の未亡人だが、歳はおれと同じくらいで、もちろん話はできなかった。闇の中でリシャスラしようとしたが、それだと身ぶり[#「身ぶり」に傍点]が通じないので、外に出て、アーチ光のもとでやったんだ」 「〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉が見ていなかったかしら」 「どうだろうな」  超自然的な速度のたてるかすかな音が、耳と魂にはいりこんでくる。ふたりはまどろんだが、たがいに眠れずにいることがわかって、もう一度交わり、それからまた眠ろうとつとめた。  ドアの輪郭が白々と光りはじめたころ、ワーヴィアはたずねた。 「お腹、すかない?」 「ああ。外に出るか?」 「いいえ」  ドアが開き、|未 明《ハーフドーン》の光が射しこんできた。〈|屍肉食い《グール》〉たちが足を引きずりながらはいってきてドアを閉めた。 「順調に飛ばしている」〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が安堵と疲労の混じった声で報告した。「ワーヴィア、テガー、おまえたちは大丈夫か?」 「怖いだけ」ワーヴィアが答えた。  テガーが質問した。 「誰かが舵をとらなくてもいいのか?」 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉が答えた。 「空中橇はスクライスに埋めこまれた線に乗って走る。道がわからなくなることはありえない」  テガーはさらにつづけていった。 「もしこの橇の調子が狂ったら、おれたちはそうと気づきもしないうちに死んでしまうだろう」 「すぐに慣れる」 「どうしてわかる?」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がうなり声をあげ、〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉がいった。 「わたしたちは眠りたい」  吸血鬼《ヴァンパイア》の巣を離れて以来、〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉も荷台外殻《ペイロード・シェル》の中で寝泊まりしており、その匂いがすっかり染みついていた。  ワーヴィアは伴侶に寄りそってうずくまり、〈|屍肉食い《グール》〉の匂いのことも、自分の飢えのことも、周囲の鉄板の振動のことも考えまいとした。  それから、やおら身をほどいて立ちあがった。 「食べ物をつかまえにいってくる。あなたにも持ってきましょうか?」 「うん」  永遠に垂れこめる雲は、はるか彼方に遠ざかった。日が照り輝いている。流れる景色を見ていると目が引きずられてしまいそうだ。ワーヴィアはクルーザーから飛びおり、足もとを見つめながら積もった砂の上を軽やかに駆けた。  シュリーカーの警備兵は一匹も出てこなかった。  入口の穴を見つけ、棒でつついてみた。太ったやつが一匹、ヒョイと顔を出して、キイキイ声をあげた。彼女はそれをつかまえて首の骨を折り、むさぼり食った。  外の眺めから目をそらしているのはむずかしかった。周囲は広大な森林地帯になっていた。はるか眼下に巨大な木々のこずえが並び、それが後方で一点に収束して消えていく。その動きがめまいをひき起こし、身体のバランスを狂わせる。  彼女は貨物トレイを迂回して、別の穴をつつき、現れた警備兵を捕らえてスカートの中にくるみこんだ。  踏み板に足をかけようとしたそのとき、彼女の名前を呼ぶ声が聞こえた。  シュリーカーが床に落ち、大あわてで逃げ去った。ワーヴィアは必殺の槍をかまえて、まっすぐうしろに跳びすさった。あの声はテガーではないし、〈|屍肉食い《グール》〉たちはグッスリ眠っているはずだ……。  デッキには誰もいない。すると声の主はクルーザーの中にいるはずだ。あるいはその下か? そこはまっ暗な空間だ。  ワーヴィアはクルーザーからわずかに離れて身構えた。それともあれは空耳だったのだろうか……? 「姿を見せなさい!」 「ワーヴィア、それはできない。わたしは〈|ささやき《ホイスパー》〉だ」 〈|ささやき《ホイスパー》〉だって? 「テガーは|道の精霊《ウェイスピリット》だといっていたのに。自分の想像の産物だろうって」  声がいった。 「わたしは二度とテガーには話しかけない。ワーヴィア、できればわたしのことは、テガーにも〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉にも黙っていてほしい。もし誰かがわたしに気づき、殺されでもしたら、〈アーチ〉そのものが崩壊することになるだろう」 「そう、あなたは秘密主義だって、テガーもいってたわ。でも、なぜわたしに話しかけたの?」 「少し話をしてもいいか?」 「わたしは中にはいりたいけど」 「わかっている。ワーヴィア、わたしたちはいま、音の速さよりもわずかに遅い速度で飛んでいる。特にどうというほどの速さではない。この世界に外からやってきた物体が衝突するときの速さはその三百倍で、エネルギーは九万倍だ」 「本当?」  考えただけで身震いがする。でもどういうこと? 音は瞬間的に伝わるものではないのかしら? 「光の速度は音よりずっと速い。おまえも知っているはずだ。まず稲妻が見え、それから雷鳴が聞こえる」  |道の精霊《ウェイスピリット》の言葉を疑うことなど彼女には思いもつかなかった。このような話しかたができるのは、その内容をよほどはっきり理解しているからにちがいない。  彼女はたずねた。 「なぜ音より速く走らないの? おたがいに話ができなくなるから?」 「いまいったのは、空気中を走る音の速度のことだ、ワーヴィア。空気をともに移動させれば、その空気中の音も同時に移動する」 「あ、そうか」 「空中橇は宇宙の法則に従っているだけだ。これはただひとつの場所にしか向かうことはできないが、到着は羽根が触れるように静かだろう」  ワーヴィアはまたたずねた。 「なぜわたしにそんな話を?」 「何が起きているかが理解できれば、恐怖は消えるからだ。むろん例外はあるが、空中橇の場合はそうではない。これは目に見えない溝のようなもの、磁気フィールドのパターンに沿って飛んでいる。道を見失うことはありえない」 「なんの……パターン?」 「磁気と重力と慣性について教えよう。慣性という力が回転する環《リング》の内側の面におまえを押しつけているため、おまえは重力によって太陽の中に引きずりこまれずにすんでいる──」 「それでは〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉のいっていたことは本当なの? 〈アーチ〉は環《リング》だというのは?」 「そのとおり。重力はここではあまり問題にならないが、太陽は重力によって形を保持し、燃えつづけることができる。また、太陽の表面に作用し、外から落ちてくるものに対して〈アーチ〉を守っているのは磁気の力だ。昼間ここに出てくれば、さらに多くのことを教えよう」 「なぜ?」 「おまえとテガーがあまりにおびえているからだ。現状が理解できれば、おまえの恐怖は消えるだろう。おまえが恐れなくなれば、テガーもそれにならうだろう。そうすれば、おまえたちは気が狂わないですむ」 「テガーが」  ワーヴィアはあたりを見まわした。 「テガーがお腹をすかせている」  さっき落としたシュリーカーはもうどこにもいない。彼女はデッキから目をそらさないよう気をつけながら、シュリーカーの集落にもどった。  音の速度に近いって──それは日徒歩距離《デイウォーク》にしたらどれくらいになるのだろう?  穴の入口をつついて、顔を出したシュリーカーを捕らえた。それからクルーザーにもどり、荷台外殻《ぺイロード・シェル》にはいったが、こんどは彼女を呼びとめる声はなかった。 [#改ページ]      22 ネ ッ ト 【|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクリワイアリー》号──AD二八九三年】  ……棺桶だ[#「棺桶だ」に傍点]!  ルイスは蓋を押しあげようとした。ひどくノロノロとしかあいてくれない。彼は両足をつけてそれを押しあげ、なかば開いた蓋のすきまから外に転がり出た。床にドサリと落ちるとさらに転がり、うずくまった姿勢で身を起こした。  やっとこれが棺桶でないことを思い出したが、アドレナリンが出ているせいでじっとしていられない。中にいるあいだに事態はどう動いたのだろう?  くるぶしに衝撃を感じた。何かを蹴とばしたようだ。  かまうものか[#「かまうものか」に傍点]。  今回の覚醒でいちばん奇妙なのは、ものごとの感じかただった。  二十代のはじめ、ルイスは十数人の友人と古代格闘技の教育プログラムをためしたことがある。コンピューターの指示によってたがいの顔を殴りつけなくてはならなくなったとき、数人が脱落した。ルイスはそのままつづけ、十ヵ月のあいだ格闘を楽しんだ。だがやがて何もかもがつまらなくなり、二百年が過ぎて、そして……。  この感覚は、睡眠や外科手術からの覚醒とはちがっていた。むしろ試合をなかば終えて勝利を確信しているヨガツーの選手のような気分だ。徹底的に充電され、エネルギーとアドレナリンがフツフツと煮えたぎっている。  すばらしい! なんでもこいだ!  動こう[#「動こう」に傍点]!  クルリと一回転してみた。素手なのがさびしい。  見ると前方の壁の向こうでは、細部がぼやけるほどのスピードで、岩だらけの大地が左右から流れるように飛び去っていた。ニードル号が地表を極超音速シャトルなみの速度で疾走しているみたいだ。だがそれが見えるのは船長室の正面だけ──。  ただの映像だ。あの巨大な岩にゼリーのように押しつぶされる心配はまったくない。左右には黒玄武岩の壁、背後には着陸船《ランダー》の格納庫。どれもじっと静まりかえっている。  さっき蹴飛ばしたのは、居住区画の|右 舷《スターボード》前方寄りの隅においてある石の塊りだった。前にはなかったしろものだ。まったく無害そうにころがっている──膝くらいの高さの、ほぼ四角い形をした花崗岩だ。  彼はひとりだった。  ブラムは自分の手があくまで〈侍者《アコライト》〉を誘導昏睡状態で治療器《ドク》に入れたままにしておいた。その理由はよくわかる。ひとりで覚醒したら、クジン人はただちに罠や防壁を設置し、衣料や食糧の供給装置を使って武器をつくろうとしただろう。  だがなぜルイスは[#「ルイスは」に傍点]ひとりで覚醒するままに放っておかれたのか?  プロテクターの学習速度はどれくらいなのだろう? ブラムが彼を観察していた期間は……? 〈|機織りの町《ウイーヴァー・タウン》〉の蜘蛛巣眼《ウエブアイ》カメラに接触していたのなら、三日というところか。ブラムはこっちを充分に知りつくして、信頼してもいいと判断したのだろうか?  そんなことはありそうにない!  これはブラムの仕業ではない。治療が終わったらすぐ蓋が開くよう、〈至後者《ハインドモースト》〉が設定しなおしたにちがいない。  では、〈至後者《ハインドモースト》〉は彼に何を見せようとしたのか?  ルイスは思案した。  プロテクターは〈至後者《ハインドモースト》〉がここに流している映像がどういうものか、知っていたのだろか?  ホログラム映像が流れていく。遠くの木々が飛び去る。松らしい樹木の広大な森だ。まっ正面、無限の彼方に、山々と雲の波が見える。  船長室にならなんでも隠しておける。乗員に見えるのは、この跳ねるように揺れるホログラム映像だけだ。たぶんそこが[#「そこが」に傍点]大切なんだろう。  揺れ動く映像の底辺は黒い木材──〈機械人種《マシン・ピープル》〉のアルコール駆動クルーザーの正面部分だ。その下に、きらめく金属かプラスティックの湾曲した縁がわずかに見えている。 〈|屍肉食い《グール》〉によって〈機械人種《マシン・ピープル》〉のクルーザーに積みこまれた蜘蛛巣眼《ウエブアイ》カメラが、いまは何か空を飛ぶものに乗っているらしい。  岩の塊りが森の外辺からいくつも突き出ている。乗物の高度はせいぜい二百フィートというところだろう。速度は? 音速にはまだいくらか余裕がありそうだ。  だがこの速度に耐えられるヒト型種族がいるだろうか? ディズニー・ポートにだって、これほど高速の乗物はない。リングワールドのヒト型種族の大半は、生態環境の外に出ただけで死んでしまう。こんな旅をすれば心臓がとまるはずだ。  いったいこれをどうすれば[#「どうすれば」に傍点]いいのか? そして、そのための時間の余裕は?  深さ数マイルの冷えた熔岩に埋もれた山小屋サイズの箱に閉じこめられていては、自由行動など夢のまた夢だ。|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を使えば外には出られるが、それでも彼の支配者たちが待ち受けている以外の場所へいけるわけではない。  ルイスは自分が主体的な行動《アクト》ではなく、主人の意にかなおうとする飼い犬のようにもっぱら対応《リアクト》の策を考えていることに気づいた。体内には新たな若さがみなぎっているが、何ひとつ行動に移せない。  すわれ、と自分にいい聞かせた。  リラックスして。気分を変えよう。何か食べようか?  供給装置《キッチン》のメニューが動いている。クジン族の文字と絵──海産物らしい。異星のサシミか! やめておこう。ルイスはそれを人類の生態用に設定しなおした。太陽系・地球・フランス。フレンチトーストとカフェオレで朝食ということにしよう。そして待っているあいだに……フウム?  |跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を使うと選択肢がなくなる。|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を調べて[#「調べて」に傍点]みようか……。  ブラムがやったように縁を持ちあげた。  勢いよく流れていた景色がフッと消え、抽象的な図に変わった──|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の配置図だ。  回路がさらに増え、いくつものネットワークがひとつにつながっていた。だが居住区画から船長室に通じる禁断の回路はやはり独立しているし、ほかにも何対か独立した回路が残っている。それでも前よりは安全性が犠牲にされ、便利なようになっている。ブラムが〈至後者《ハインドモースト》〉にそう命じたのだろう。  この図では距離が対数尺で示されている。おかげでニードル号とその付近は、居住区画と着陸船《ランダー》格納庫のあいだのようなこまかいところまで、はっきり識別できた。 〈補修センター〉全域にも跳躍ポイントがある。数十万マイルも遠方にあるのは〈|機織りの町《ウイーヴァー・タウン》〉だ。ニードル号のはるか|右 舷《スターボード》寄り、五十万マイルかそれ以上も遠い外壁のすぐそばにもひとつある。もっとも遠いのは、リングワールドの弧ぞいに三分の一周ほどいったところ──数億マイルも彼方だ。  それらを結ぶ線のうち、明るく光っているのは、たぶん現在稼働している回路だろう。この読みが正しければ……現在この居住区画から着陸船《ランダー》の格納庫へ、そして〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉の向こう岸へと回路がつながっていることになる。ブラムが探検しているのにちがいない。 〈至後者《ハインドモースト》〉も行ったのだろうか? それとも〈至後者《ハインドモースト》〉は自分の区画にもどったのか?  それ[#「それ」に傍点]がわかれば、〈至後者《ハインドモースト》〉とブラムのあいだにどれほどの信頼関係が築かれているか、正確なことがわかるのだが。〈至後者《ハインドモースト》〉はあの壁の向こうにいるかぎり、ゼネラル・プロダクツ製船殻によってあらゆる敵から遮断され、身の危険はほとんどない。身繕いの装置はこっちに出ているから、薄汚くだらしなくなっていくかもしれないが──。  チーン。  メープル・シロップをかけたフレンチトーストだ。つづいてカフェオレが現れた。ルイスはいそいで食事をとった。それから|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》制御装置をフォークでいじってみた。  歯が曲がって折れた。  ハミングしながら──地球・日本・サシミの盛り合わせ──をダイヤルする。  ついてきた箸《ハシ》は木の感触がした。木目まではいっている。片方を木目沿いに折って先端をとがらせ、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》制御装置の中で動くものをかたっぱしから動かしてみた。  回路が開閉されるにつれ、明るいラインの光が薄れたり、ほかのが光ったりする。  あるスイッチをスライドさせると映像全体が消えた。もとの位置にもどすと、半分の明るさで点滅をはじめた──システムが指示を待っているのだ。  彼は実験をつづけた。  ようやく手に入れたのは、明るい七つの線をつなげたゆがんだ円形の閉回路と、|仮 想《ヴァーチャル》時計と、背景に流れる奇妙な音楽だった。パペッティア人の音楽言語は理解できないし、〈惑星船団〉の計時装置を読むこともできないが、それを高速[#「高速」に傍点]にセットする方法はわかった。  もし彼の解釈が正しければ、この回路はまず着陸船《ランダー》の格納庫へ通じ、そこから〈|機織りの町《ウイーヴァー・タウン》〉へ──そこではその後の変化を調べることができる。だがエアロックの与圧服を着ていかないと、つぎの隕石防禦室に出たときに生命の樹の匂いを吸いこんでしまう! つぎの火星の〈地図〉の上に出たときにもスーツは必要だし、縁《リム》の壁の上にあるらしい配置図の最遠点でもそれは同じだ。  そのあと〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉の向こう岸の謎のポイントに出て、それからニードル号にもどってくることになる。  それでいいか?  何かに気を惹かれてモタモタしなければ、一巡するのに数分以上はかからないルートだ。  サシミの皿を|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》にのせた。  何も起きない。  そのはずだ──まだ|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》は縁が持ちあがったままで、制御装置がむきだしになっているのだから。ルイスはディスクを押しさげた。サシミの皿がフッと消えた。  同時にネットワークの映像も消えた。突然の変化にルイスはたじろいだ。また流れ去る景色が映し出されたのだ。彼方に見えるのは外壁を背景とする|こぼれ山《スピル・マウンテン》だ。リングワールドの尺度でいうならかなり近い──数万マイルというところだろう。  船のコンピューターを使えたら調べてみたいことがいろいろ頭に浮かぶ。あとで〈至後者《ハインドモースト》〉にたずねてみよう。  プロテクターについてわかっていることも復習しなくては。──それにしてもサシミの皿はどこにいったんだ?  一連のヨガのポーズをとることで彼のいらだちは静まった。高速[#「高速」に傍点]っていうのはいったいどれくらいの速さなんだ?  四十五分たっても皿はもどってこなかった。このポイントのどこかに仲間たちがいて──たぶんそうだ──そして〈侍者《アコライト》〉がサシミを食べてしまったのだろう。  それでも──もう一度よく考えろ──。  配置図の最遠点がわずかに移動している。わずかに移動した──そうか。  ルイスは息がとまりそうになった。のどがゼイゼイ鳴った。対数尺で測って〈アーチ〉を二億マイルもあがった場所にあるものが、移動した[#「移動した」に傍点]? そいつは、恒星間|移民船《スローボート》のように、秒速数百マイルで動いていることになるじゃないか。  もちろん、燃料補給用|探査機《プローブ》だ。新しい|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を横腹につけて、外壁沿いの周回軌道に乗っているのにちがいない。サシミの皿は隕石のように燃えてしまったことだろう。  ルイスはディスクを持ちあげて制御装置をひらき、オーケストラのような音楽は無視してひとりごとをつぶやきながら設定を変えはじめた。 「ええと、これで、あの[#「あの」に傍点]回路がリセットできるはずだが……カホナ。なぜだ? ああ、|なるほど《ステット》。暗い[#「暗い」に傍点]ってことは、オフ[#「オフ」に傍点]になってるわけだ。それならこいつを[#「こいつを」に傍点]……」  パンを一個ダイヤルして出し、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》にのせた。  ヒュッ[#「ヒュッ」に傍点]。  仲間たちをニードル号から締め出して一時間と十分が過ぎた。それをいうなら、〈補修センター〉からも締め出している。これはもし連中に見つかったら、まさに宣戦布告、そして契約破棄に等しい行為だ。  でも考えてみれば、連中にはどうすることもできないだろう?  含み笑いはのどにとどく前に消えた。パペッティア人のことを知りすぎていたせいだ。おそらく〈至後者《ハインドモースト》〉は予備の制御装置を外科手術的に身体に埋めこんでいるだろう。いつ[#「いつ」に傍点]|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の設定をもとにもどすかが思案のしどころだ。〈至後者《ハインドモースト》〉はルイスのいたずらを大目に見てくれるだろうが、ブラムの怒りと対決したくはない。  パンがもどってきた。  クルーザーはいま水の上を飛んでいる。あの山脈がいまは左手にあり、ゆっくりと回転方向《スピンワード》に動いている。台が向きを変えているのだ……六十度ほど動いて停まった。  ルイスはゆっくりと微笑を浮かべた。  この台は超伝導体の格子《グリッド》に沿って走っているのだ!  リングワールド床材の下には、さしわたし五万マイルの六角形の蜂の巣状に、超伝導体のケーブルが回路基板として埋めこまれている。太陽プロミネンスを操作する磁場も、これによって誘導される。クルーザーは磁気浮揚の乗物──〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉の製作かもしれないが、むしろリングワールドそのものと同じくらい古い何かかもしれない──に乗っているのだ。 〈至後者《ハインドモースト》〉は知っているのだろうか?  対応《リアクト》だ。  自分はまだ対応している。そしてパンはもどってきた。  危険を冒す価値はあるか?  ルイスはディスクに乗った。  着陸船《ランダー》の格納庫から与圧服がいくつかなくなっていた──〈至後者《ハインドモースト》〉のものと、ハミイーの予備と、ルイスのものとだ。これはブラムたちが真空中に出ているということではなく、プロテクターの用心深さを示すものだろう──スーツを鎧の代わりにしているわけだ。  ルイスはディスクをおりて、与圧服を腕に抱え、それから腰帯とヘルメットと空気パックをとりあげた。そしてディスクに乗り、〈|機織りの町《ウイーヴァー・タウン》〉へと跳躍した。  到着すると同時に身体のバランスが崩れた。ルイスはよろめいて、抱えていた荷物をぜんぶ落としてしまった。彼は当惑と不安にかられながらあたりを見まわした。  昼間だ。  |跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》は〈|機織り《ウイーヴァー》〉たちが水浴びをする川岸の泥の斜面におかれていたのだ。水浴びをしているものはいない。子供たちの声が聞こえないかと耳をすませたが、何も聞こえなかった。  ディスクを調べようとかがみこんだとき、背後のすぐ近くから気難しげな声がかかり、地面に落ちたヘルメットがそれを通訳した。 「ようこそ! どこの種族のかたかね?」  ルイスは立ちあがった。 「ぼくは〈球体人種《ボール・ピープル》〉だ」  そして、彼はたずねた。 「あんた、キダダか?」 「さよう。ではルイス・ウーと同じ種族かな?」 〈|機織り《ウイーヴァー》〉の老人はいぶかしげな顔つきでルイスを見つめた。 「そうだ。キダダ、ルイス・ウーが立ち去ってからどれくらいになる?」 「あなたは若くなったルイス・ウーか!」 「ああ」  キダダの荒い息づかいと凝視に、ルイスは居心地が悪くなった。 「キダダ、ぼくは長いあいだ眠っていたんだ。一族は無事かい?」 「栄えてるとも。取り引きも多い。訪問者たちが来ては去っていった。サウールは病をえてずいぶん前に死んだ。あれから──」 「サウールが?」 「〈|屍肉食い《グール》〉の子供ひとりを目撃者としてあなたが姿を消し、伝説の毛深い生き物がそのすぐあとを追っていったあの夜から、空は二十二回転した。そう、サウールは死んだよ。わたしも死にかけ、子供もふたり死んだ。訪問者の中には、自分はかからず他の種族に死をもたらす病を運んでくるものがあるのでな」 「彼女と話をしたかったのに」  さびしげな微笑。 「あれでお役に立てると?」 「彼女はいい忠告をくれたよ」  行動を起こすなら、追い詰められる前に[#「追い詰められる前に」に傍点]! 「あなたがいなくなったあと、サウールはあなたのかかえていた問題を話してくれたが」 「それは解決したんだ。解決したと思う。そうでなきゃ、いまごろは奴隷になっていたはずだから」 「奴隷になったとしても、そこから逃れるための時間は何十ファランもあるのだろうからな」  疲労と棘のこもった声だった。  自分がどれほどサウールと話をしたかったか、ルイスは改めて思い知らされた。時間があれば、ここにとどまって喪に服したいくらいだった。  時間か。  空が二十二回転……二ファランと少しか。一日三十時間のリングワールド暦で百六十五日。半地球年以上もあのタンクに閉じこめられていたのか!  そしていま、反撃にのりだしたわけだ。 「キダダ、この|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を動かしたのは誰だ?」 「なんのことかね? これ[#「これ」に傍点]か? これはあなたがいなくなった翌朝、ここにあったよ。それをそのままにしておいただけだ」  縁が泥で汚れ、大きな指の跡と引っかき傷がついている。ここへやってきたどこかのヒト型種族が──〈|機織り《ウイーヴァー》〉の手はもっと小さい──設定を変更しようとしたのだ。 〈|屍肉食い《グールル》〉か。当然だ。出現したのが昼間でよかった。〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉は彼がここにきたことにも気づかないだろう。  ルイスは与圧服を身につけた。 「子供たちによろしくいっといてくれ」  そして彼は姿を消した。  暗闇。  ヘルメットのライトをつけると、睨みつけてくる骸骨がぼんやりと見えた。  そこはあの隕石防禦室だった。スクリーンは暗い。明かりは彼のランプだけだ。  この骨は研究のためここにおかれている。関節でつながれてはいない──骨同士はほとんど触れ合ってもいない。細い金属棒でできた枠でそれぞれの位置に固定されているだけだ。  その骸骨はルイス・ウーより十インチほど背が低かった。どの骨にも角ばったところがない──風化しているのだ。肋骨は信じられないほど細くなり、指はもうないに等しい。時間が骨の組織を塵に変えてしまった。ここでは風雨による浸食などありえないのに! それでもやはり指の節は太く、すべての関節が大きくふくれあがっている。巨大なあごに見られるすりへった突起は歯ではない。あとから成長した骨だ。  プロテクターだ。  ルイスは指先でその顔をなぞってみた。埃でザラザラしているが、なめらかな感触だ。時がみがきあげ、表面を少しずつ塵に変えていったのだ。  ここは浸食性の環境ではない。この骨は少なくとも千年は経っているはずだ。  右の腰が砕け、その破片は別に積んである。左肩と左肘、それに首もだ──みな折れたり砕けたりしている。高いところから落下したのか、戦闘で殴り殺されたのだろう。  パク人は銀河の核に近いどこかの惑星に発生した。その地球への植民は失敗した──生命の樹が育たなかったからで、そのため地球はプロテクターなしのままで放棄された──しかしパク人の繁殖者《ブリーダー》は基地のあったアフリカとアジアを起点として地球全体にひろがった。彼らの骨はホモ・ハピリスといった名前で各地の博物館に飾られている。その子孫が進化して知性を得た──幼形成熟の古典的な一例である。  スミソニアン協会にはパク人プロテクターのミイラがある。何世紀も前に火星の砂漠から掘り出されたものだ。ルイスも大学の生物学概論の講義でそのホログラムを見たことがある。  この骨格はパク人の変形種だろうか。だが巨大なあごは同じだ。プロテクターは歯を失う。歯によって多くのことがわかるので、これは残念なことだ。だがこのあごには骨をも砕く力がある。  パク人の標準から見ると胴が長すぎるようだ。完全にパク化してはいないし、またこれは〈|屍肉食い《グール》〉でもない。  死んだ時期は推測できたが、生まれたのはいつごろだろう? スミソニアンのプロテクターは銀河の核から地球まで三万年以上かけて旅してきた。その旅のための準備にもずいぶん時間をかけたはずだ。なにせプロテクターは長命なのだから。  ギリシャ神話でいちばん古い神のひとりクロノスは、子供たちをつぎつぎに殺し、最後には逃れた子供によって逆に殺された。ではこれをクロノスと呼ぼう。  吸血鬼《ヴァンパイア》の群れに殺されたプロテクターというのは、クロノスが見捨てた従者にちがいない。  ブラムとアンはその後長いあいだ主人プロテクターのあとをつけて歩いたのだろう。何年も、何世紀も、何千年紀も? 人類の、そして吸血鬼《ヴァンパイア》の祖先でもあるパク人の繁殖者《ブリーダー》は、銀河の核を離れる以前からそうした狩猟をやってきた追跡性狩人《カーソリアル・ハンター》だったのだ。  年老いたクロノスは、吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクターのことなどまるで念頭になかったのだろう。吸血鬼《ヴァンパイア》は結局、性においても食においても唾棄すべき習慣を持った知性のない獣であり、対するクロノスは激しい性的欲求などとは無縁な超知性的存在だったのだから。  そしていまのブラムも同じだ。それがやつの弱点になるかもしれない。それが何かわかりさえすれば。  右腰と左腕と肩の破損、それに頭蓋のひびは、死んだときのものだ。ほかにも治癒した古い傷痕はいたるところにあった。クロノスは死ぬかなり以前に背骨を折っている。プロテクターの脊髄神経は再生するのだろうか? それに右膝の、この[#「この」に傍点]古傷は治りきっていない──膝はそのままでかたまっている。  この背骨にはほかにも奇妙な点がある……だがルイスがそれに気づいたのは、頭蓋骨に視線をもどしてからだった。  前頭部が張り出している。それだけではない──前頭部と頭頂の骨が、頭蓋骨のほかの部分よりも新しくなめらかなのだ。あごの骨が成長したギザギザの縁には、磨滅した歯のようなものがまだ残っている。いずれも新しく[#「新しく」に傍点]成長したものだ。背骨にもまた再生の期間を経た成長の痕跡がある。  もしクロノスが最後の戦いに勝利をおさめていたら、その傷もまた治ってしまったことだろう。  ──ではこれを殺人事件として考えてみよう。犯人はわかっているが、法廷で有罪判決を得るためには、あらゆる面における詳細を知る必要がある。なぜブラムはこの骨を組み立てなおしたのか? 敵は死に、復讐しにくるものもいないのに──。  ──それともブラムとアンは、クロノスのような存在がほかにもいることを恐れたのだろうか──?  立った姿勢の骸骨と、背後の影の中に積み重ねられた衣類。ブラムは彼がそれに近づこうとするのをはばんだ。一見乱雑に放り出してあるようだ。だが実際にはそうであるともないともいえる。これらははじめ、調べやすいようにきちんと並べてあったのだ。ついで何かがそのパターンを乱した。怒り狂った吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクターが蹴散らしたかのように。一部はバラバラに散らかり、残りはきちんと並べられたままになっているのだ。  かつてはすばらしい毛皮のコートだったはずのものと、それをとめるベルト。ひどい悪臭だ──古い獣の皮と、数千年も風呂にはいっていない〈|屍肉食い《グール》〉の匂いのなごりだ。内側にはさまざまな形の革ポケットがついているが、いまはすべて空になっている。  武器もあった──長さ一フィートほどの古い金属製の細いナイフは、黒い錆になっている。角でできた二本のナイフは、どちらも人差し指ほどの長さしかない。投げナイフが六本あり、石製だがほとんどそっくりで、つくられたときの鋭さをいまも保っている。錆びない合金でつくられた細い杖は、両端がのみのようにとがっている。  塵の形から、重いストラップのついた木靴のあったことがわかった。こっちにあるのはふしぎな形の石弓と、少しずつ形のちがう一ダースほどの矢だ。この小さな箱は……火付け道具だろうか? ルイスはためしてみたが、火を起こすことはできなかった。紙か羊皮紙の束──地図だろうか?  望遠鏡もあった……原始的だが形はとても美しく、磨きこまれていて、それだけ少し離れたところにおかれている。おっと、その隣にあるこれらは作業用の道具だ。軽石と小さなナイフ……ブラムかアンか、あるいはふたりいっしょに、ここを作業場としてクロノスの望遠鏡を複製しようとしたらしい。  こぶしほどの大きさの、かたくて黒い塊り。ルイスはかがみこんで匂いを嗅いでみた。乾燥肉か? 賞味期限を千年ほど過ぎているが……でも乾燥肉はいつだって、いくらか臭くて苦いものだ。〈|屍肉食い《グール》〉ならこいつが気にいるかもしれない。  クロノスが死んでからどれくらいたつのだろう?  ──たずねてみるか──?  いまが反撃のときであることは自覚していた。質問すればもっと情報は得られるだろう……だがそれはブラムが教えてもいいと考えたことだけだ。そして、こうしているうちにも時間はどんどん過ぎていく。  ルイスはクロノスの肩の骨をポンポンとたたき、「なんとかしてやるよ」と声をかけて、姿を消した。  光で目がくらみ、グラリと体勢が崩れた。  彼は目を細くして直射日光を避けながら、いそぎんちゃくみたいにあわてて身を縮め、両膝のあいだに手をのばして手掛かりをさぐった。手袋をはめた指が何かに触れたので、しっかり握りしめた。  ひどく傾斜した|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》が、彼をのせたまま一、二フィートすべり落ちた。握っているのがディスクの縁《へり》であることを祈りながら、いっそう手に力をこめた。  感光性のフェイスプレートが鈍いグレイに変わった。うずくまって|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の縁《へり》を握ったまま、彼は周囲を見まわした。  火星の〈地図〉の環境は現物を正確に[#「正確に」に傍点]模したものではない。周囲にひろがる何の動きも見せない百もの異なった色調の赤。だが、空は地球の高山の深い青だ。太陽も火星にしてはまぶしすぎる。重力に関してはどうしようもないだろうが。  たぶん火星人にとってはどうでもいいことなのだろう。ねっとりした液体のように流動するこまかい砂の下で、太陽を避けて暮らしているのだから。おそらくリングワールドの重力下でも、彼らはその砂の中で浮かんでいられるのだろう。  転移先はオリンポス山だろうという予想は当たっていた。ずいぶん高い場所だ。四十五度斜面をなす砂山のてっぺん近くにおかれていた|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》が、いままた滑降をはじめた。  こんなところに設置するなんて、〈至後者《ハインドモースト》〉はいったい何を考えていたんだ?  ──ああ、わかったぞ──。  火星人のしわざだ。連中が罠を仕掛けたのだ。  速度があがり、ひどく不安定になった。どこまでもすべっていく。何マイルもだ! ここには千年以上ものあいだ、卓越風によって砂が吹きよせられてきたのだ……いかなる世界よりも巨大な気象規模を持つ〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉の成層圏風。これも〈地図〉とほんものの火星との相違点のひとつだ。  ルイスはしゃがみこみ、橇と化した|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の上で姿勢を低くした。どんどんスピードがあがる。いまにもふり落とされそうだ。  両手で必死でしがみつきながら、爪先にも力をこめた。環境都市《アーコロジー》サイズの岩が行く手に立ちふさがっている。左に身体をかたむけ、舵をとろうとした。  だめだ。ぶつかる。  そして彼は別の場所に出た。  握りしめる両手にさらに力がこもった。彼はいま暗い虚無に向かって落下していた。  彼は悲鳴を押さえようとした。  ──だって、これをとりつけたのはぼくだ! ぼくだ! ぼくだ──!  彼がしがみついている|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》は、優雅な曲面を持つ葉巻型の物体に溶接されていた──パペッティア人の燃料補給用|探査機《プローブ》だ。周囲は黒い空と星々のきらめき。  |跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》も、探査機《プローブ》の表面も、すべてが輝いている。背後に光源があるのだろう。爪先と指に力をこめたまま、ルイスは身体をひねって肩ごしにふり返った。  眼下後方にリングワールドが漂っていた。こまかいところまではっきり見える。曲がりくねった蛇のような川。海底の地形。まっすぐな黒い筋は〈機械人種《マシン・ピープル》〉の高速道路だろう。  裸の太陽がジリジリと照りつける。それは平気だ──このスーツはいくら汗をかいても吸収してくれる。むしろ夜のほうが危険は大きいだろう。オーヴァスーツが要るとは考えてもみなかった。  彼はいま縁《リム》の上線と同じ高度で、半円錐形をした一連の|こぼれ山《スピル・マウンテン》と、そのふもとから流れ出る川を見おろしていた。高度約千マイル。はるか前方に、細長い二重円錐形をしたレースのような線が見える。  リングワールドの姿勢制御ジェットだ。パサード式ラムジェットと思われる一対のドーナツ形も見える。だがそれらはひどくちっぽけで、それよりずっと大きな本体のくびれた胴部にはめこまれている。その素材のワイアは非常に細いため、ときに肉眼ではとらえにくいほどだが、この籠が太陽風の流れを導いてくれるのだ。  これはまだ設置がすんでいないやつだ──向きが正しくない。  二百年というもの、これほどの恐怖を味わったことはなかった。  ──でも、あのパンはもどってきたんだ──!  探査機《プローブ》は惰性で飛んでいる……いや、こっちは空間に静止しており、足もとのリングワールドのほうが秒速七百七十マイルで回転しているのだ。  システムがリセットされたのだ。このディスクはリンクからはずしておいたはずなのに、またもとにもどっている。ぼくには〈至後者《ハインドモースト》〉のプログラム言語が理解できていなかったのか。こんなことになった原因はそれ以外に考えられない。  サシミはどうなったのか?  簡単なことじゃないか。皿が遠くまで浮揚してしまったのだ。パンは浮揚しなかった。ディスクが稼働したとき、まだその有効範囲内にいたのだ。  しがみついて、しがみついて……  ディスクがフェイスプレートにぶつかった。  目を閉じてしがみついた。この状況では誰にも、どんな生き物にも襲われる可能性はない。数秒後にはまた安全な|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクリワイアリー》号にもどっているだろう。  そのとき巨大な爪のはえた手が肩をつかんで、彼をディスクからひきはがした。 [#改ページ]      23 競走の教訓 【|秘密の族長《ヒドウン・ペイトリアーク》号──AD二八九三年】  クジン人がひきずるように彼を立ちあがらせた。ルイスはあえぎながら身を震わせた。ヘルメットが閉じているあいだは〈侍者《アコライト》〉の声も聞こえない。  ルイスはホッと安堵の息をついた。  だがそこは|秘密の族長《ヒドウン・ぺイトリアーク》号だった。その船尾に近い場所のようだ。  これまたとんでもない驚きだった。この一マイルもある帆船はシェンシイ川に残してきたはずだ。それがこんなところで何をしているんだ? 〈侍者《アコライト》〉が何かたずねようとしている。クジン人が手に持っているのは──カホナ、ちくしょう! ルイスはヘルメットをむしりとった。 〈侍者《アコライト》〉がいった。 「船尾をうろついていたら、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》からこれが現れた。おまえの手土産か、ルイス? 保存食の魚か?」  ルイスはサシミの皿を手にとった。さわってみると、薄切りの魚はバサバサにふくらんでいた。 「真空に出たんだよ。パンの塊りもこなかったか?」 「放っておいたらまた消えた。ルイス、おまえ、恐怖のにおいがするぞ」  ──ぼくはここで何をしているんだ──?  あと少しで彼も安全な|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクリワイアリー》寺にもどり、就寝プレートのあいだを漂って震えを押さえ気を静め、知り得たこと、知り得なかったことを消化できるはずだったのに。  でも〈侍者《アコライト》〉に見られてしまった。黙っているよう説得すれば──いや、だめだ。プロテクターは半地球年ものあいだ、〈侍者《アコライト》〉の身ぶりの意味するものを観察してきたのだ。彼から何かを隠すことなど、このクジン人にできるわけがない。  ルイスはその思いつきを捨てた。 「ぼくの恐怖を嗅ぎ分けられるのは死者[#「死者」に傍点]だけさ」  そういってヘルメットとエアパックをはずし、ジッパーを開きはじめた。 「|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》のセットのしかたがわかったと思ったんだがな。だめだったよ! ああ、それに火星人が死の罠を仕掛けていた。もう少しでひっかかるところだった」  頭頂の禿げた若者がハッチからヒョイと顔を出した。〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉だ。少年は驚きに目を見はって、またひっこんだ。  クジン人がたずねた。 「火星人だと?」  ルイスはスーツを脱ぎはじめた。 「まあいい。ちょっとばかりエネルギーを燃焼したいんだが、あんた、走れるかい?」  クジン人は毛を逆立てた。 「走ることにかけては、もう父にも負けないぞ」 「船首まで競走しよう」 〈侍者《アコライト》〉はひと声吼えると飛び跳ねるように駆けだした。与圧服が足首のまわりにまとわりついている。クジン人のひと吼えで全身の筋肉が硬直し、ルイスは転倒した。  すばらしい[#「すばらしい」に傍点]鬨の声だ!  ルイスは大昔の悪態をつきながらスーツを脱ぎ捨て、立ちあがって走りだした。〈侍者《アコライト》〉はまだ視野の中にいるが、ルイスよりはかなり速いようだ。ついで船が揺れ、彼は姿を消した。  ルイスはこの船に二年近く住んでいた。道迷う恐れはない。自分自身だけを競走相手として全力で走った。なにせ距離は一マイルもあるのだ。 「ルーウイース!」  かすれた奇妙な声がはるか頭上からふってきた……ピアスンのパペッティア人が船尾の見張り台にとまっている。  ルイスはどなり返した。 「やあ!」 「待ちなさい!」声が呼んだ。 「無理だ!」  気分がいい[#「いい」に傍点]。  角ばった影がおりてくる。ルイスは走りつづけた。影は近づき、彼と速度を合わせた。周囲に手すりをつけた〈補修センター〉の貨物プレートだ。  ルイスは叫んだ。 「どいてくれ。競走の最中なんだ」 「どういうことですか」 「つまり──知的能力とは別のものを──ためしているのさ」 「どんな気分です?」 「すばらしい。何がなんだかわからない。生きている実感がする! 〈至後者《ハインドモースト》〉──オリンポスの|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》は──使うなよ」 「なぜです?」 「火星人が罠を仕掛けていた──まだ生きているんだ」  ルイスは深く息を吸ってまた吐いた。塩っぽい空気が味蕾に触れる。  すばらしい!  呼吸も足もとも乱れていない。さらに深く呼吸した。 「つぎは別の罠を仕掛けるだろう」 「こちらからも仕掛けることはできます。ディスクを一枚、海の中に落として、オリンポス山に水を流しこんでやったら?」 「ぼくの意見が知りたいのか? 皆殺しはいけない──何が相手でも。あとで必要に──なるかもしれない。だからあんたたちは──クジン人を──絶滅させなかったんだ!」 「まあそういうことです」パペッティア人は認めた。  ひとつ目の頭がヒョイと動いて、上部中甲板の先端でチラチラしているオレンジ色の塊りのほうを向いた。 〈侍者《アコライト》〉だ。 「ルイス、ちょうどいいときにきてくれました。いそいで知らなくてはならないことがたくさんあります」 「ブラムはどこだ?」 「わたしたちの夕食をつくっています」  ふたつの頭が弧を描いてたがいの目を見つめ合った。いまのは〈至後者《ハインドモースト》〉の冗談なのか? このしぐさはパペッティア人の笑いのはずだが、そうではないかもしれない。 「ブラムはすぐれた嗅覚を持っています」と、〈至後者《ハインドモースト》〉はつけ加えた。  ルイスはたずねた。 「ダンスはどうなったんだい?」 「ああ、あれね! わたし抜きで進んでいます。ルイス、あなたの再循環装置《リサイクラー》を使うのには、カホなほどうんざりしました! 再設定する時間もなかったのですよ」 「それはご愁傷さま」  さりげなく[#「さりげなく」に傍点]。だが、ブラムが〈至後者《ハインドモースト》〉を信用せず、日課の運動も、パペッティア人用のバスルームの使用も禁じているとしたら……。 〈至後者《ハインドモースト》〉も生活を取りもどすためにことを起こす気になるかもしれない。  上部中甲板が終わった。  ルイスはいくつもの階段と通路を駆け抜けた。クジン族の階段は傾斜がきつく、横木の間隔もずいぶん広いが、ルイスは猿のようになめらかな身のこなしで駆けのぼり駆けおりた。〈侍者《アコライト》〉を追い越せる自信はあった。だが気をつけないと、やつは物陰に身をひそめて飛びかかってくるかもしれない。できるだけ高い場所にいよう。  庭を周回する道が心に浮かんだ。あれは遠まわりになる。彼は通路のはずれで堅材の階段をのぼり、壁の上端に出ると、その壁沿いに、すごい棘のある大きな黄色いほこりたけ[#「ほこりたけ」に傍点]の繁みを迂回して、十フィート下の土の上に飛びおりた。  そこはクジン族の狩猟公園だった場所だ。二年間のあいだルイスと〈都市建造者《シテイ・ビルダー》〉たちはその植物の手入れをした。彼がはじめてここへやってきたときにはすっかり野生化していたのだ。かつてはクジン族の船乗りのために、それらの植物を常食とする動物が群れをなして住みついていた。その群れももういないし、いまは動物といえば、どこかの柑橘類の繁みから〈侍者《アコライト》〉が飛び出してくるくらいのものだろう。  だがクジン人の姿はどこにも見えなかった。  この船には八本の巨大なメイン・マストと数えきれないほどの帆があり、帆を動かすためのウィンチはクジン人にしか操作できない。それとも、プロテクターならできるだろうか? ここにあるのは前橋で、てっぺんに見張り台がついている。  息が切れてきた。脚が茄ですぎたマカロニのようだ。  誰かが船首で待っている。  ルイスは心の中で毒づいた。もうすっかり息があがっていた。つぎの瞬間、それがプロテクターであることがわかった。  速度をゆるめた。ブラムは彫像のようにじっと待っている。呼吸しているかどうかすらわからないほどだ。 「あんたの勝ちみたいだな」ルイスはあえぎながらいった。 「競走でもしていたのか?」 〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉の少年が厨房から顔を出して彼を見つけるまで、もしくは頭上の甲板を走っていく足音が聞こえるまで、ブラムは侵入者がいることにも気づかなかったはずだ。  彼だって走ったにちがいない[#「ちがいない」に傍点]。 「まあいい。ぼくは身体を動かしたかったんだ」  目の前には山々が連なっていた……地球とは似ても似つかない地形だ。さまざまな大きさの円錐形の山が、かなりの間隔をおいてどこまでも並んでいる。水平線がないため本当の大きさはつかめないが、ほとんどの山頂は白いものに蔽われ、それより下はすべて緑のパッチワークに蔽われている。  それから、心と目が、頭上にのしかかっているものに気づいた。  なんたるサイズ。  だが待て、縁《リム》は高さ千マイルのはずだ。目にはいる範囲の二、三十の山の中で、五つか六つは外壁にもたれかかっているのが見てとれたが、そのうちふたつか三つはエヴェレストに匹敵するだろう。 〈至後者《ハインドモースト》〉が船首のほうに漂ってきた。その背後からオレンジ色の毛深い姿が見えた。クジン人はすっかり足をもつらせていた。疲れ果て、荒い息をついている。  ルイスはいった。 「ありがとう、〈侍者《アコライト》〉。ぼくは本当に運動が必要だったんだ。戦争を起こしそうなほどアドレナリンが出ていたんでね」  クジン人は息を切らしながらいった。 「父はおれに、勝ちをゆずったのか。おれを、殺したくなかったから」 「ああ」 「どうやったのだ。おれを抜いたのだろう?」 「そうだろうな。たぶん庭でだろう」 「どうやったのだ?」 「ブラム、あんたは[#「あんたは」に傍点]追跡性狩人《カーソリアル・ハンター》について知っているだろう?」 「その言葉は知らない」プロテクターが答えた。 「|そうか《ステット》。〈侍者《アコライト》〉、ほとんどの狩猟生物は九回のうち八回までは襲撃に失敗する。獲物に逃げられたら、もっと足の遅いものをさがす。選んだ獲物を最後まで追いかける肉食獣は、ほんのわずかしかいない。狼はそのひとつだ。人間もそうなのさ。  大型の猫族は追跡性狩人《カーソリアル・ハンター》じゃないし、クジン族も同じだ。あんたの祖先も、いったん敵となった相手は追いつめて殺しておかないとあとで逆襲されることを学んだ。だがそれも頭でわかっただけで、身体の進化はまだ追いついて──」 「おまえは、自分が勝つことを知っていたんだな」 「ああ」  クジン人はまばたきして、彼をじっと見つめた。 「もし競走が庭までだったら?」 「あんたが勝っていただろうね」 「ありがとう、いい教訓になった」 「こちらこそ」  いい言葉づかいだ。誰に教わったのだろう?  ブラムがいった。 「ルイス。まわりを見ろ。どう対応《リアクト》する?」  対応《リアクト》だって? 「印象的だな。これほどの緑は! ふもとから氷結線まですべてが緑だ。でも驚くには当たらない。この山はみんな肥料も同然の海底の泥で出来ているんだから」 「それから?」 「フラップの流出が停まっているパイプも何本かある。低い山があるのはそのためだ。放置されたものは、もう固い岩盤になっているだろう。高い山にはかなりの凍った水が含まれている──少なくとも山頂部分にはね。ふもとのほうに川が流れているのが見える。リングワールドの中で定期的に地震が起きるのはこの山々だけだ」 「住むには困難な環境か?」 「そうだと思うよ。ブラム、ぼくらは五十ファラン以上前にこの景色を見た。山に生き物の住んでいる形跡はあるのか?」 「ここの山と山のあいだは、おまえの惑星一周分ほども離れているが、たしかに生き物の形跡はあったな。さて、食事の支度ができた。〈至後者《ハインドモースト》〉、〈侍者《アコライト》〉、ルイスを食堂へ連れていって、見せてやれ」 〈至後者《ハインドモースト》〉は食堂ホールの四方の壁にひとつずつ蜘蛛巣眼《ウエブアイ》をスプレイしていた。ひとつは作動していない──単なるブロンズ色の蜘蛛の巣だ。  こぼれた水たまりのような形の窓は、氷冠をいただいた暗緑色の円錐の列に向かってひらいている。別の窓には、縁《リム》の壁の上縁がゆっくり流れていく。燃料補給用|探査機《プローブ》からの映像だ。  そしてもうひとつには、六部屋の住居でも建てられそうなほど大きな四角いプレートをロープで牽いている毛深くたくましい男たちの一団が映っていた。プレートは彼らの頭上に浮かんでいる。大型の貨物プレートか、浮揚建築の一部だったものだろう。男たちはそれをこっちに向かって……つまり〈機械人種《マシン・ピーブル》〉のクルーザーにある盗まれた蜘蛛巣眼《ウエブアイ》のほうへ牽いてくるところだった。 「あなたが起きたとき見られるように、六日前の記録も残してあります」〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。「でもこれは現時点の映像です」 「何をしてるんだ?」  クジン人が答えた。 「とにかく連中は外壁に近づこうとしている」 「なぜ?」 「おれにはまだわからん。ブラムは知っているかもしれんが」クジン人がいった。「おまえが治療を受けているあいだに、ブラムはおまえの友人の〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉たちを見つけ、|秘密の族長《ヒドウン・ぺイトリアーク》号に連れてきた。彼らは父の奴隷が領主に従うようにブラムの指示に従い、その日のうちに船を|右 舷《スターボード》に向かって動かしはじめた。ブラムは外壁を調べている」  ルイスはまたたずねた。 「なぜ?」 「おれたちには話してくれん」と〈侍者《アコライト》〉。 〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。 「ブラムが怖がるところを見たことはありませんが、彼はどうやらプロテクターを恐れているようです」  ルイスはその関連に気づいた。 「姿勢制御ジェットは補充が必要だ。いまのままだと、いずれリングワールドは中心がずれてしまう。それに[#「それに」に傍点]気づいたプロテクターなら、必ず縁《リム》の壁に姿勢制御ジェットをとりつけようとする。ちがうか?」 「理論どおりなら」 「それじゃ、なぜブラムはそこへいかないんだ?」  パペッティア人がクラリネットがくしゃみをしたみたいな短く鋭い音を出した。 「三種類の外星種族がリングワールドへの侵入を試み、四つめがその効果を見ようと遠くの軌道に乗っているのを知ったら、プロテクターもそれどころではなく、火星の〈地図〉に駆けつけるのではありませんか」 「連中にちゃんとした望遠鏡をやったら? だめだ、連中はまだ──ああそうか」 「なんです?」 「ブラムは自分も外壁へいきたい。だから彼はいまその準備をしているんだ。だがほかのプロテクターたちは、機会がありしだい彼を殺そうとするだろう」  パペッティア人が目と目を見合わせた。 「いずれにしても、外壁の光景は|秘密の族長《ヒドウン・ペイトリアーク》号で見ることができます。太陽軌道に乗せた燃料補給用|探査機《プローブ》は一ファラン以上ものあいだ、外壁をかすめながら記録をつづけてきました。ずいぶんいろいろなことがわかりましたよ、ルイス」 〈至後者《ハインドモースト》〉は口笛で短いトリルを吹いた。  三つの窓すべての映像がゆっくりとズームアップしはじめた。  ──|秘密の族長《ヒドウン・ペイトリアーク》号の見張り台からの眺めは──。  |こぼれ山《スピル・マウンテン》の連なりが拡大して、ひとつの山が視野全体を占めた。草の淡緑色と森の濃緑色が白い氷冠までつづいている。頂上では黒い糸の筋が小さな黒い霧の塊りの中へしたたっている。千マイルも上空にある排出管《スピルパイプ》から、海底の軟泥が絶えず流れ落ちているのだ。  ──探査機《プローブ》からの眺めは──。  ぼんやりかすんだ外壁がグングン飛び過ぎていく。ルイスはなんとかそこから視線を逸らした。  ──盗まれた蜘蛛巣眼《サエブアイ》からの眺めは──。  ルイスは笑いだした。 〈機械人種《マシン・ピープル》〉のクルーザーは、地表二十フィートくらいの高さに浮かんでゆっくりはずんでいるらしい。浮揚プレートの縁の向こうで、千頭の眠れる巨獣《ビヒモス》のように起伏する丘陵がユラリユラリと揺れているのだ。  貨物プレートは数本のロープに牽かれていた。牽いているのは、三十人余りの、ルイスがまだ知らない種族の男たちだ。それぞれ軽い荷を身につけて、ほかには何も着ていない。黒い直毛が頭から背中に流れ、尻の下まで蔽っている。おそらくその髪だけで充分暖がとれるのだろう。  彼らは尾根に向かって斜面を駆けのぼっているところで、尾根のすぐ下では約三十人の毛深い女たちが待ちうけ、手をふりながら励ましの声をあげていた。その中に混じって小柄な赤い女──〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉が、両腕を大きくふりまわして彼らを誘導しようとしている。  道がけわしくなった──男たちはもう走っていない。頂上に近づくと、男たちと同じくらい毛深い女たちがワラワラと駆け寄り、ロープを牽く仲間に加わった。息をきらしながらも笑い声があがり、短い会話が交わされている。  女たちの何人かは後方に走っていった。みんな男たちに劣らぬ健脚揃いのようだ。やがて頂上を越えてくだり坂にはいった。牽き手たちはいまや窓のうしろ側にまわり、橇の速度を押さえようとしている。 〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉が走り寄ってロープをつかみ、よじのぼった。  なだらかな土地の上で景色がどんどん走り過ぎていく。たぶんもう全員手を放してしまったのだろう。前方の丘陵が迫ってくる──かなり大きくそびえ立っている。そのあいだを縫うように幾本もの川が、分かれてはまたひとつに集まっている。  そこがもう|こぼれ山《スピル・マウンテン》のふもとであることにルイスは気がついた。プレートの揺れで乗物酔いを起こしそうだ。 「あれじゃ、難破してしまうぞ」 〈侍者《アコライト》〉がうなり声をあげた──クジン流の嘲笑だ。 「わたしには正気の沙汰とは思えません」と、〈至後者《ハインドモースト》〉。  |秘密の族長《ヒドウン・ぺイトリアーク》号の船首から送られてくる景色も拡大していた。|こぼれ山《スピル・マウンテン》の頂上が画面からはみ出した。その斜面を三分の一ほどあがったところに、色のついた点とまたたく光が見分けられる。  光の点滅とは? 「光通信だろうか」 「まさしくそのとおりです、ルイス」 「〈|屍肉食い《グール》〉の子供が話してくれたんだ。自分では秘密にしているつもりだったようだがね。彼らの帝国全域は|こぼれ山《スピル・マウンテン》の光通信でつながっている。でも、どうやるのかな? 〈|屍肉食い《グール》〉は陽光には耐えられないはずなのに」 「昼間の山で太陽の光を反射させ、夜の土地で受けるのでしょう。単純なことです。しかし送信はどうやるのでしょうね。その土地ごとに送信手を雇っているのでしょうか」 「だろうな。とにかく〈|こぼれ山人種《スピル・マウンテン・ピープル》〉あたりと取り引きしているんだろう。リシャスラを使っていないことだけはたしかだが」 「そんなに大勢は必要ありません。光の見える|こぼれ山《スピル・マウンテン》はほんのひと握りです。地表に数千の中継局があれば、帝国全体をまとめておくには充分でしょう」 「だがあの──あれはなんだ、気球か?」 〈至後者《ハインドモースト》〉がまた口笛を吹いた。拡大が停まり、山脈が横向きに移動しはじめた。二十もの鮮やかな点が、氷の一マイルから一マイル半ほど上空に漂っている。山と山のあいだの広大な空間にもさらに多くの点が見えた。 「熱ガス気球です、ルイス。|こぼれ山《スピル・マウンテン》のいたるところに浮かんでいます」 「どれくらいの種類が──」  ハーカビーパロリンとカワレスクセンジャジョクが皿を持ってはいってきて、その場で立ちすくんだ。 〈至後者《ハインドモースト》〉が口笛を吹いた。ビュンビュン流れていく外壁とはずむ丘陵の眺めが消えて、ブロンズ色の蜘蛛の巣になった。ふたりが皿をとり落として悲鳴をあげなかったのは奇跡だ、とルイスは思った。  ハーカビーパロリンはまだ目を見はっており、カワレスクセンジャジョクはニヤニヤ笑いながら彼女を見つめている。  ぼくのことか[#「ぼくのことか」に傍点]。 「ぼくだよ。ちょっとした医療処置を受けたんだ」と、ルイスはいった。  ハーカビーパロリンが伴侶のほうをふり返って口をひらいた。  ルイスの翻訳機がいった。 「あなた、知ってたのね!」 「ゼルツが教えてくれたんだよ」 「おぼえてらっしゃい、このちびジルス!」  だがハーキーは笑っているし、カワも笑顔を浮かべていた。  ふたりが皿を並べた──茶色と黄色の根菜の山に、ピンクの液体のはいった鉢だ。ハーカビーパロリンはルイスの膝の上にすわり、すぐ近くでしげしげと顔を見つめた。 「さびしかったわ」  ずっと昔からそうしていたかのようにごく自然な雰囲気。家にもどってきたかのような気分だ。 「ぼくたちが別れた土地にいたら、さびしくなんかなかっただろうに」 「こいといわれたのよ」  彼女は厨房のほうにあごをしゃくった。  ふたりはプロテクターに従ったのだ。それもまた、ごく自然のことに思えた。  ルイスはたずねた。 「あいつになんといわれたんだ?」 「『|右 舷《スターポード》に向かえ』って」  彼女は肩をすくめた。 「ときどきやってきて、あたりを見まわしてはコースを変えたり、風や水の流れのこととか、魚や温血動物をつかまえて料理する方法とか、庭の手入れのやりかたなんかを教えたりするの。わたしたち、もっと赤い肉を食べなきゃいけないんですって」 「たぶん祖先からのいい伝えってやつだろうな」 「ルイス、あなた、カワと同じくらい若く見えるわ。ねえ……?」  パペッティア人が答えた。 「〈球体人種《ボール・ピープル》〉と〈球体《ボール》クジン族〉にしか効きません。この世界のヒト型種族やクジン族やほかの種族を治療するには、わたしの種族の者が千人、一生をかけた研究と実験をおこなわなくてはならないでしょう」  ハーカビーパロリンは不快げに顔をしかめた。  カワレスクセンジャジョクとブラムがつぎの皿を持ってはいってきた。大きくておそろしく不細工な深海魚が六尾。二尾はまだピクピク動いている。あとの四尾は奇妙な形の植物といっしょに煮こんである……クジンの野菜だ。鉢にはいった生野菜もまた、クジン族の狩猟公園からとってきたものだった。  ルイスはもうひとつの鉢を見てたずねた。 「魚の血か?」  ブラムが答えた。 「鯨の血と野菜の裏ごしだ。だがこれでは、わたしの身体はそんなに長くもたない。おまえたちの供給装置《キッチン》はすばらしいな」  一同は席についた。カワレスクセンジャジョクが外に出ていき、二、三歳の少女を連れてもどってきた。オレンジがかった金髪がふっくらと頭を蔽っている。まるで〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉らしくない。年長の男の子のほうは、はいってくる気配がなかった。  ブラムの料理はうまかった[#「うまかった」に傍点]が、いくらか奇妙な味がした。狩猟公園の植物を使い、〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉の好みに合わせているからだろう。ルイスには重要な栄養素が欠けているか、不足しているはずだ。  ルイスはたずねた。 「この食事で、ぼくはどれくらいのあいだ生きていられる?」  ブラムが答えた。 「体調が狂いはじめるには一ファランほどかかるだろう」  そして、ブラムは上品なしぐさで自分の食事をすすった。〈侍者《アコライト》〉はもう生魚をほとんどたいらげてしまっている。  ルイスはたずねた。 「あんた、それだけでいいのかい?」 「これで充分だ。腹いっぱい食うと、太って動きが鈍くなる」  少女が這い這いしながらテーブルの端に近づいている。ルイスが指さし、ハーキーがふり向いた。端までたどり着いた子供はすべり落ちかけて、テーブルにぶらさがった。猿か〈|ぶらさがり人《ハンギング・パースン》〉のような握力だ。 「この子が落ちると思ったの? とんでもない!」 〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉の女は笑いだした。 「種族がちがうわ」  それから突然プロテクターに向かっていった。 「しばらくルイスを借りてもいいかしら?」  口をひらく前に、ブラムの視線が一瞬全員の顔を見まわし、そして答えた。 「明日の正午までいいだろう。ルイス、われわれはまもなくニードル号にもどらなくてはならない。探査機《プローブ》を縁《リム》の外へ移すまで、もう新しい情報ははいってこないだろう。〈至後者《ハインドモースト》〉、だからルイスを目覚めさせたのか?」 「もちろんです。でも事情を説明する時間はほとんどありませんでした」  ふたたびブラムの視線が全員をとらえた。 「|こぼれ山《スピル・マウンテン》と縁《リム》のことを知る必要がある。だがあそこにいるプロテクターにわたしの存在を知られてはならない。とくに知りたいのはプロテクターのことだ。どこに何人いて、どの種族なのか、そしてどういう意図と手段と目的を持っているのか。  行動を起こさずに調べられることは調べ尽くしたし、できるかぎり人目につかないよう注意をはらった。盗まれた蜘蛛巣眼《ウエブアイ》はさらに外壁に近づいていくだろう。〈|屍肉食い《グール》〉はわれわれに何か[#「何か」に傍点]を見せたいのだ。カワレスクセンジャジョク、ハーカビーパロリン、おまえたちは作業場からはるかに離れた|こぼれ山《スピル・マウンテン》における活動を見せてくれた。〈球体人種《ボール・ピープル》〉のおまえたちがとった記録から、宇宙港のひとつの様子もわかった。おかげでわたしは外壁について、予想以上の知識を得ることができた。あとはもうあそこへ出向く以外にない。思いつくことをいってほしい」 〈侍者《アコライト》〉が口をひらいた。 「やつらがあの探査機《プローブ》を見たら、恒星界からの侵略者だと思うかもしれない。〈補修センター〉を守る準備をしておくべきだろう──」 「それはそうだが、探査機《プローブ》はわたしではなくパペッティア人のものだ。それに準備はできている。〈至後者《ハインドモースト》〉はどう思う?」  ルイスは考えた。  ブラムは〈侍者《アコライト》〉を徹底的にたたきのめしたにちがいない。なぜこいつはまるで子猫みたいにおとなしくしているんだ? 〈至後者《ハインドモースト》〉は答えなかった。  ──ハミイーの息子はぼくの生徒としてここにやってきた。だが彼に感銘を与える時間はブラムにもたっぷりあった。たぶん、ぼくは生徒を失ったんだろう。もしわかっていたら、ぼくだってこやつの尊敬を得ようとしたのだが……。  ──そういえば、ぼくはこいつと競走して負かしたっけ。そうだ。ではつぎには何をしてやろうか──?  ブラムがたずねた。 「ハーカビーパロリン、おまえはプロテクターについて何を知っている?」  浮揚都市の図書館では、彼女は教師で、カワレスクセンジャジョクはその生徒だった。  彼女は答えた。 「数万|日徒歩距離《デイウォーク》の範囲から集められた鎧の写真がありました。いろいろ異なる種族があるため、形はさまざまでしたが、どれも兜の頭頂がとがり、関節が大きくふくらんでいました。鎧のような顔といかめしい肩をして膝と肘がこぶのようにふくらんだ、見るも恐ろしい救い主と破壊者のことを語った古いおとぎ話もあります。いかなる男も女も、彼らと戦ったり誘惑したりすることはできない。ブラム、あなたはそうした古い物語を聞きたいのですか?」 「たずねるべきことがわかれば、答は得たも同然だ」と、ブラム。「わたしが『何を見落としているか?』とたずねたとき、望めるのは、ただ有益な答だ。ルイスはどうだ?」  ルイスは肩をすくめた。 「ぼくは二ファランほど出遅れているんでね」  ブラムが一同に目を向けた。かたい皮膚にはほとんど表情が現れない。〈至後者《ハインドモースト》〉と〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉は不安そうに彼を見つめている。〈侍者《アコライト》〉は緊張の気配も見せない──まるで退屈しているみたいだ。  ブラムが椅子のひとつをとりあげ、使われていない片隅に向かった……そこに骨格のような物体がおかれていた。チューブや金属の半球やワイアがいくつも木製の胴に留められたもので、何か用途がありそうには見えないが、まったく無意味な飾りのようにも思えない。  いままでは気をとられることが多すぎて、じっくり見ていなかったが、古代の一時期はやった前衛彫刻といったものだろうか。その種の美しさがないわけではない。  しかしブラムはそれを膝のあいだにひきよせ、弦をかき鳴らし……。 〈至後者《ハインドモースト》〉がたずねた。 「モーツァルトのレクイエムは終わったのですか?」 「いまにわかる。記録しろ」  パペッティア人がプログラム言語である口笛で、第四の蜘蛛巣眼《ウエブアイ》に指示を与えた。ルイスは膝に乗っているハーカビーパロリンに眉をひそめてみせた。こんなことのせいでいっしょに過ごせるはずの時間が減ってしまう……だが〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉の女はささやいた。 「聞いて」  ふいにプロテクターの指が無数に分裂したかのように激しく動きはじめ、音楽が空気を爆発させた。〈侍者《アコライ卜》〉がフラリとドアから外へ姿を消した。  それは風変わりではあるものの、豊かで正確な音楽だった。パペッティア人がそれに合わせて歌いだしたが、主導しているのはあくまでブラムだ。このような音楽は聞いたことがない。  それは人間の感覚に同調する人間の[#「人間の」に傍点]音楽だった。異星人のつくり出す音が彼の中枢神経にこんな風に[#「こんな風に」に傍点]作用することなどありえない。快楽のとどろき……神々しいまでの静謐《せいひつ》……憧憬《どうけい》への切望……世界を動かせそうな、征服できそうな力──。  彼が知っている音楽はコンピューターによる合成音楽だけだ。爪先でそっと蹴ったり、ピンとはった膜やブロンズの板をたたいたり、指先で弦をはじいたり、くちびるのない口で孔のあいた管に息を吹きこんだりする音楽など、聞いたこともなかった。  ルイスはカホなほどの欲情を感じたし、ハーカビーパロリンは彼の膝の上でなかばとろけていた。きみのいうとおりだ、と思ったが、それを彼女の耳にささやいて音楽を中断させる気にはなれなかった。彼はゆったりとすわりなおして振動に身をゆだねた。  音が消えたとき、彼はただ茫然とすわっていた。 「これでいいだろう」  ブラムがきっぱりとそういって、オーケストラ装置をわきにやった。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、礼をいう。ルイス、効果を説明してくれ」 「すごかった。ぼくは、ああ……いや、すまない、ブラム、言葉ではいい表わせないよ」 「外交手段として用いることができそうか?」  ルイスは首をふった。 「カホナ、ぼくにはわからない。ブラム、蜘蛛巣眼《ウエブアイ》を〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉の隕石孔につけることを考えたことはあるかい?」 「なぜだ? ああ、下に[#「下に」に傍点]向けるのか」 「そうだ、下というか、外に[#「外に」に傍点]向けて、〈アーチ〉の平面を見るんだ。〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉はてっぺんに月くらいの──いや、つまり大きな[#「大きな」に傍点]穴があいた空っぽの円錐だ。あそこにならかなりの大きさの要塞だって設置できるが、ただそれをどうやってリングワールドの床面素材に──」 「スクライスだ」 「そう、スクライスにつなぎとめておく方法が問題だな。あそこなら〈補修センター〉の十倍の大きさのものを、同じくらいうまく隠しておくことができるだろう」 「〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉の内側から〈アーチ〉の平面を守るわけか?」  ルイスはためらった。 「のぞくことはできるが、防衛はどうかな? どんな敵だって、リングワールドの裏側に隠れることは考えるだろう。それを防ぐことができるかどうか。でもそれは外壁に基地をおいても同じだ。隕石防禦装置はスクライスを通して[#「通して」に傍点]その向こうを撃つことはできないんだろう?」 「防衛戦力をふたつに分けることはできない。わたしは外壁とそのプロテクターを支配しなくてはならない」と、ブラムは決断した。「明日、燃料補給用|探査機《ブローブ》をその場所に配置しよう。ルイス、いつそんなことを思いついたのだ?」 「フッと浮かんだのさ。きっと音楽に気をそらされているあいだに、脳が勝手に働いたんだろう」 「おまえの脳は、ほかにも何か思いついていないか?」 「プロテクターのことだが、情報があまりないんでね」と、ルイスは答えた。「隕石防禦装置の部屋に骸骨があったな。ぼくが近づこうとしたらとめられたけど、あれはプロテクターなんだろう?」 「見せてやる。明日、探査機《プローブ》を配置したあとで」 〈機械人種《マシン・ピープル》〉のクルーザーは、いまやコントロールの効かない雪橇のように、緑の丘を駆けあがりながら、あらぬ方向にすべっていた。ひどいことにならなければいいが。プレートの縁がはずむたびに、さらに高くさらに遠い|こぼれ山《スピル・マウンテン》がチラリと目にはいる。その雪線より上で光が点滅しているのが見えた。ここは〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉の帝国の一部でもあるのだ。 [#改ページ]      24 骨  一同は薄曇りの昼光の中から、ニードル号|着陸船《ランダー》格納庫のピンクがかった人工照明の中に出現した。そこからさらに、真空でぎらつく太陽をあびながら飛び去っていく外壁が映し出されている居住区画へ。  最後に到着したのはブラムだった。彼はルイスが与圧服を脱いだ場所に自分のオーケストラ装置をおろすと、まっすぐ供給装置《キッチン》へ向かった。 「探査機《プローブ》による最新データを見せろ、〈至後者《ハインドモースト》〉。あとどれくらいで持ってこられる?」 〈至後者《ハインドモースト》〉がオーケストラのような音を奏でると、空中に|共 通 語《インターワールド》文字の方程式が出現した。 「いま二Gで減速をはじめると、十五時間半で降ろせます」 「探査機《プローブ》は十Gまで出せるといっていたな」 「誤差の範囲を含めてですが」 「〈至後者《ハインドモースト》〉、探査機《プローブ》の駆動装置《ドライヴ》は強力で目立つ]線出力だ。敵に探知される時間をできるだけ少なくしたい。しばらく待ってから十Gで減速しろ」 「推力を高めると核融合ドライヴがより明るく[#「より明るく」に傍点]なってよけい目立ちますが」  ブラムは答えない。 「では待ちましょう。六時間後に十Gの減速をはじめます。九時間とちょっとで接触できます。わたしの部屋にもどって食事と風呂とダンスをすませ、眠りたいのですが?」  プロテクターは圧搾バルブの飲料をすすった。クジン人が鼻にしわをよせたが、ルイスには何も匂わなかった。  ブラムがいった。 「それはぜんぶここでもやれる」 「ブラム、探査機《プローブ》を減速させるときにはどうせあの部屋にもどることになるのですよ。いまいっても同じでしょう」 「部屋の中を見せろ」 〈至後者《ハインドモースト》〉が口笛のような音をたてた。外壁の映像が消え、〈至後者《ハインドモースト》〉の部屋の内部が見えるようになった。  照明はオレンジがかった黄色だが、内装は寒冷地方の森林に見られる深緑だった。とがった角や縁はひとつもない。床も壁もテーブルも収納スペースも、すべてが曲面でつくられている。  ブラムが命じた。 「このままにしておけ。入浴のときも睡眠のときもだ。踊るときもひとりで──」 〈至後者《ハインドモースト》〉は怒った管楽器奏者のような音をたてた。 「おまえがいるはずの場所にホログラムが見えたら行動を起こす。おまえはわたしを安心させておきたいのだろう?」  ブラムは居住区画の片隅にある花崗岩の塊りの前で膝を曲げ、かがみこんだ。それをヒョイと持ちあげ、向きなおって床におろした。  ──すごい──。 〈至後者《ハインドモースト》〉が花崗岩のあった場所に踏み込んだと思うと、隔壁の向こう側に出現した。  彼の動きにつれて部屋の輪郭が変化しはじめた。床からお碗のようなものがせりあがり、その部分が桃色になった。パペッティア人が優雅な身のこなしでその中にはいると、それは大きな花のように成長して、てっぺんで口をすぼめた──月面都市で使われているような縁の高いバスタブだ。  夢中で眺めていると、ブラムに見とがめられた。 「何に見とれているのだ、ルイス?」  見とれていたわけではなく、ルイスは〈至後者《ハインドモースト》〉がルイス・ウーの助けになりそうなことを何もしないことにショックを受けていたのだ。ブラムにはパペッティア人をおびえさせる時間がたっぷりあったらしい。 「ちょっとひらめいたことがある。〈至後者《ハインドモースト》〉の部屋だが、何に似ていると思う?」 「子宮だな、たぶん」 「動物の体内ってのは?」 「単なる言葉のあやではないのか?」 「このふたつは別物なんだよ。大切なことかもしれない。雌のパペッティア人には子宮がない。本来は……餌食となる動物だったんだが、長いあいだ共生者として進化してきたため、自分たちをパペッティア人の雌だと思いこむようになったんだ。でも実際にはそうじゃない。ネサスは産卵管を持っていた。ブラム、〈至後者《ハインドモースト》〉の記録を調べて、ジガバチ[#「ジガバチ」に傍点]類のファイルがあるか見てくれ」 「ジガバチだな、|わかった《ステット》」ブラムは答えた。「九時間は余裕がある。おまえはさっきプロテクターについて何か話そうとしていたな」 「それより、骨を見にいかないか?」 「講義が先だ」と、ブラム。  ルイスは従った。 「ぼくたちの祖先はパク人の繁殖者《ブリーダー》だった。パク人が進化したのは、銀河の核の近く、ここから、そう、光の速さで十三万ファラン離れた惑星でだった」  三万光年とちょっとだ。 「その一部が、遠い昔にぼくの惑星、地球にコロニーを築こうとした。黄色い根の中には繁殖者《ブリーダー》をプロテクターに変化させるヴィールスがあるんだが、地球にはそれを育てるのに必要なタリウムが不足していた。  やがてプロテクターは死に絶えた。その前に、いくつかの肉食獣を根絶やしにして、繁殖者《プリーダー》が繁殖できるようにしてくれたんだろう。おかげでパク人の幼生に当たる繁殖者《プリーダー》たちは自分なりに進化した。ちょうどここと同じだ。彼らはアフリカとアジアを起点として世界中にひろがった」 「それは推測か?」 「オルドゥヴァイ峡谷やその他いくつかの場所でパク人繁殖者《プリーダー》の骨が見つかっているんだよ。スミソニアンにはパク人プロテクターのミイラもある」と、ルイス。「火星の砂漠から掘り出されたんだ。ぼくも本物を見たわけじゃない。この年齢になってもすべてを体験するわけにはいかない。でも生物学概論の講義で、ホログラムを見た」 「どうしてそのようなことが?」 「彼は古いコロニーを助けにきたんだ。黄色い根っこを食べた小惑星帯人《ベルター》の話から推測されたことだが、たぶん〈至後者《ハインドモースト》〉が記録を持っているだろう。乗ってきた船の部品、ブレナンの物語、解剖されたミイラ、化学的な──」 「〈至後者《ハインドモースト》〉をわずらわすまでもない。おまえはそのミイラを見たわけだな?」 「ああ」 「では骨を見にいこう」  こぶ男の手はビー玉を集めたような感触で、ルイスの手首をひっぱっていくその力にはあらがうべくもなかった。〈侍者《アコライト》〉もついてきた。スーツは着ていないが、クジン族は生命の樹の匂いを恐れる必要がない。  ルイスは曳かれるまま、増幅された星光の中に立ちはだかる骸骨のほうへ早足で歩いていった。ブラムは彼を骸骨に正対させ、一歩さがって、「対応しろ」と命じた。 〈侍者《アコライト》〉が骸骨のまわりをグルリとまわってつぶやいた。 「戦闘で死んだのだな」  彼は匂いをかぎ、ついでその鼻をクロノスの道具と衣服の山へ向けた。  ルイスは指先で骨折あとの腐食した先端をなぞった。彼が一度ここにきたことに、ブラムは気づいているだろうか? 「そうだな、これは数千ファラン前のものだろう」 「七千ファラン近く前だ」ブラムが答えた。 「殴り殺された。あんたがやったのか?」 「わたしとアンだ」 〈侍者《アコライト》〉が耳を立ててふり返った。 「その話をしてくれ。そいつはここでおまえたちに挑戦したのか?」 「いいや。われわれは自分たちの存在を知られないようにしていた」 「どうやってそやつを見つけたのだ? どうやっておびきよせたのだ?」 「彼はこなくてはならなかったのだ。われわれはただ待っていた」  クジン人はそのつづきを待っているようだったが、ブラムがそれ以上語ろうとしないので、ルイスは口をはさんだ。 「これはパク人のプロテクターに似ているが、形は微妙にちがう。それでも、あごには骨を噛み砕く力がある。頭部では眉骨の隆起が少ない。胴体は標準的なパク人に較べると長すぎるようだ。ブラム、たぶんこれは|腐 肉 食 い《キャリオン・イーター》だろう」  話題のもとを見ようと〈侍者《アコライト》〉がまた骸骨のそばへもどってきた。  ブラムがたずねた。 「根拠は?」 「骨を砕くためのあごだ。狩猟種族なら大動脈や腹を引き裂くための歯があればすむ。胴が長いのは、こなれにくい食物を消化するための腸が長かったからだ。眉隆が小さいのは──そうだな、夜行性だったのか、目を蔽うほど眉毛が長かったのか、でも──」 〈侍者《アコライト》〉がたずねた。 「〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉のプロテクターではないのか? 頭蓋骨をゆがませ、関節をふくらませれば──」  ルイスは首をふった。 「ぼくは〈|機織り《ウイーヴァー》〉の村で〈|屍肉食い《グール》〉の子供に会った。〈|吸 血 鬼 殺 し《ヴァンパイア・スレイヤー》〉たちの中には成人がいたし、その昔、|浮 揚 都 市《フローティング・シティ》の下の茸農場で会ったこともある。彼らがみな同じ種族であることはたしかだが、これはちがう。  見ろよ。茸農場の〈|屍肉食い《グール》〉はぼくより少し背が高かったが、これは四インチも低いんだ。歯がないのは当然だが、この手を見てくれ。〈|屍肉食い《グール》〉の手は大きく分厚くて、なんでも引き裂くことができる。さらにいうなら、現在の〈|屍肉食い《グール》〉は、二億マイルの距離を隔てていてもすべて同一種族なんだ」 〈侍者《アコライト》〉は無言で目を大きく見ひらいた。クジン人がこれほど静かなのはめずらしい。 「だが」ブラムが忍耐強い口調でつづけた。「これが属していた古い種族が〈|夜 の 人 々《ピープル・オヴ・ザ・ナイト》〉になったことはまちがいない」 「クロノスがか?」と、ルイス。 「ギリシャ神話のオリンポス以前の神のことか?」  ルイスは驚きを隠すことができなかった。 「あんた、ずいぶん勉強したんだな」  カホナ、こいつは音楽のこともここでおぼえたんだっけ! 「あのパペッティア人というのは、実におせっかいなやつらだな。〈至後者《ハインドモースト》〉は、百世代にわたる人類の文学と、クジン族の口述史料と、クダトリノ人の一連の触覚彫刻と、それにトリノック人の復讐譚まで収集していた。地球の十九世紀から二十世紀のあたりでは、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』と、それを下敷きにしたフレッド・セイバーへーゲンやアン・ライスなどの娯楽作品に目を通した。だが、なぜクロノス≠ネのだ? この個体がここで最初の存在だったわけではないぞ、ルイス。簡単に説明してやろうか?  八万ファランの昔、ひとりのパク人プロテクターが死んだ。そのときすでに数百ファランの年齢だったかもしれない。われわれの知るかぎり、彼は〈アーチ〉の建設者の一員だったらしい。その彼[#「その彼」に傍点]をクロノスと呼ぼう。古代の〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉がやってきてその肉を食った。プロテクターの肉で変化したのかもしれないし、プロテクターが持っていた黄色い根を見つけたのかもしれないが、ともかく彼らはプロテクターになった。大勢いたとしても、やがてそれはひとりになった」  ルイスは死んだプロテクターの鎖骨を軽くたたいた。埃が舞った。 「ブラム、ぼくらが知ることのできるもっとも古いプロテクターはこれ[#「これ」に傍点]なんだ。もしかするとクロノス以前にも、ギリシャ人の知らない神々がいたかもしれないじゃないか」  ブラムはうなずいた。 「いいだろう。ではこれをクロノスと呼ぼう」 「了解《ステット》。クロノスの種族は〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉のような衝撃があったあと、数千年ものあいだ腐肉を食ってきて──」 「そんなこまかいことまで口に出してしゃべらなくても……ああ、おまえには生徒がいたのだったな。〈侍者《アコライト》〉、ルイスのいいたいことがわかるか?」 「いくらかはわかる」〈侍者《アコライト》〉は答えた。「おそろしく広い範囲で、ひとつの方向に〈|屍肉食い《グール》〉を導いている何かがないかぎり、その数字は常識はずれだ。ただひとつの[#「ただひとつの」に傍点]帝国とはな。二億マイルにわたって〈|屍肉食い《グール》〉はひとつの種族として存在している。おそらく、リングのあらゆる場所でな」 「そのとおり! クロノスが自分の種族を羊飼いのように導いたんだ。ブラム、プロテクターは自分の遺伝子パターンを保存しようとするんじゃなかったっけな?」  クジン人はふいに異議を唱えた。 「そうか! だがクロノスはどうやって自分の子孫を導くなどということができたのだ? 変化はすべて、よいものでさえまちがいに思えるだろう。待てよ、もし別のよく似た部族を選んだら? いや、それではそいつらが彼の血筋を支配することになってしまうぞ!」 〈侍者《アコライト》〉はパズルの解きかたを学びつつあるようだ。  ブラムがいった。 「彼は〈|屍肉食い《グール》〉だった。腐肉を食う種族の嗅覚は進化によって変化する。何に近づき、何に触れ、何を口に入れるか、どれもが意識的に選択される。〈|屍肉食い《グール》〉のプロテクターはほかの種族より自由なのだ。自分の種族を完全と思われる方向に導くことができるのかもしれない」  彼らは古い骸骨に目を向けた。彼はこなくてはならなかった[#「こなくてはならなかった」に傍点]、とブラムはいった。七千ファラン[#「七千ファラン」に傍点]ほど、ともいった。千七百年か。芽生えつつある疑惑になんらかの根拠があるならば、直接的な質問は避けたほうがいいだろう。  間接的にたずねてみるとしよう。 「あんたの伴侶だが、まだここにいるのか?」 「アンはたぶんもう死んでいるだろう。〈アーチ〉が不安定になったとき、アンは縁《リム》にモーターがあるはずだと気づき、それを設置しにいった。しばらくはあとをたどることができた。きっと外壁で作業をしているあのものたちに殺されたのだろう」 「ブラム、そのプロテクターたちは彼女がつくった[#「つくった」に傍点]のかもしれないぜ」 「アンはここを立ち去るとき、そんな必要を感じてはいなかった。ひとりで作業をしたはずだ。あとのプロテクターをつくったのは、いちばん新しいもの、〈球体人種《ボール・ピープル》〉のプロテクターだろう──」 「ティーラか」 「ティーラ・ブラウン。おまえの[#「おまえの」に傍点]伴侶だ」ブラムがいった。「〈至後者《ハインドモースト》〉は彼女の記録も持っていた」 「ティーラがきたとき、あんたはここにいたのか?」 「いた。彼女から隠れるのは〈至後者《ハインドモースト》〉から隠れるよりむずかしかった。わたしは彼女が隕石防禦装置の使いかたを学ぶのを見ていた。彼女がプロテクターとしてなすべきことをしているのだとわたしは思っていた──太陽との衝突から〈アーチ〉を救おうとしているのだと。だが、ルイス、彼女の真の意図はなんだったのだ?」 「ティーラはプロテクターだった。ぼくにはプロテクターの心理はわからないね」 「では誰の心ならわかるのだ?」と、ブラム。 「あんたは記録を見たんだろう。ティーラはちょっと変わってたんだ」 「この〈補修センター〉にきたときは、ふたりいっしょだった」ブラムはいった。「彼らは根を食べた。ひとりは死んだ。もうひとりはプロテクターに変化するべく昏睡に陥った。わたしはその時間を利用して、姿を隠しながら彼女を観察する方法を講じた。  ティーラは〈補修センター〉をうろついた。彼女を見ているのは楽しかったな。彼女はわたしが見落としていたものを発見し、最後にここにやってきた。そして隕石防禦装置と望遠ディスプレイをいじりまわした。  やがて彼女は立ち去った。外壁に向かう彼女のあとをしばらくはたどることができた。外壁では磁気輸送システムを使っていた──あれはわれわれが使ったシステムよりずっと速い──彼女にはすぐれた与圧服もあった」 「いつごろのことだ?」 「太陽系外の物体が太陽に衝突してからすでに二十二ファランが過ぎていた。素粒子の嵐が〈アーチ〉のバランスを狂わせた。ティーラはひどくいそいでいた」  二十二ファラン前か──。  してみると、リングワールドがバランスを崩しはじめたのは、|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクリワイアリー》号がもどってくる五年前のことだ。 「彼女は地球で教育を受けたからね」ルイスはいった。「プロテクターの頭脳と基礎物理学の知識で、ただちに状況を把握したんだろう。彼女は姿勢制御ジェットを据えつけにいった。そこで彼女は何と出会ったんだ? アンか?」 「アンならまず身を隠してティーラを観察しただろう」と、ブラム。「そして無能のきざしがわずかでも見えたら、そくざに殺しただろう」 「ウウム」 「おまえはティーラを知っている──」 「女としてはね。だが、ティーラを理解する[#「理解する」に傍点]ことは誰にもできなかっただろうな。彼女は統計的偶然の集大成ともいうべき存在で、幸運が必要になるたびにそれを手に入れてきた──ネサスがリングワールド探検のために彼女を選ぶまではね。ありきたりな人生とはまったく無縁な存在だったんだ」 〈侍者《アコライト》〉がいった。 「父はときどきティーラの話をした。彼女がどういう人間なのか、最後まで理解できなかったそうだ。パペッティア人にとっては、彼女は幸運を生み出す繁殖プログラムの一環だった。ハミイーはそれが成功したと信じていた」 「ちがう」と、ブラムはいった。 「彼女は死んだんだよ、ブラム。もうあんたの脅威にはなりえない」と、ルイス。 「だが、プロテクターは自分の望む未来をつくりあげるために、何を残すことができるだろう? われわれははるか未来まで見通して計画を立てる。ルイス、見たがっていたものはもう見たか?」 「ああ」  ブラムは転移を終えると同時に呼ばわった。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、目を覚ませ!」  だが〈至後者《ハインドモースト》〉はすでに目を覚まして、自分の部屋で踊っていた……背後にまわっても透けて姿の隠れない幽霊のようなパペッティア人三人といっしょにだ。 「ブラム、ちょっとしたことを思いついたので、わたしは一時間前に探査機《プローブ》を軽く噴射させて、侵入してくる船からは見えないよう縁《リム》の手前に移動させました」 「数値を出せ」 〈至後者《ハインドモースト》〉が口笛を吹くと、方程式の列が虹のように並んだ。  ブラムはそれを調べた。彼がこれほどじっと動かないでいるのを見るのははじめてだったが、方程式はルイスの理解をはるかに越えた複雑さだ。  やがてブラムがいった。 「よし。では減速をはじめろ」 〈至後者《ハインドモースト》〉がさえずりをあげた。彼の背後に走り過ぎていく外壁が映し出された──。 「|いいのですか《ステット》?」 「ああ、|いいとも《ステット》。それがおまえを隠さないかぎりはな」  飛び過ぎていく外壁は動きでぼやけている。上の縁ははるか頭上にあり、|こぼれ山《スピル・マウンテン》の頂上ははるか下方に見える。高度はおよそ三百マイルくらいだろうか。 〈至後者《ハインドモースト》〉がさえずった。ルイスは目をこらしたが、何が起きたのかわからない──いや待て、あれだ。夜の陰にはいったとき、通り過ぎていく外壁に青い明るい光が反射した──小さな核融合ドライヴだ。浮かんでいる方程式がその意味を教えてくれた──いくつかの数字が減りつつあるのだ。  三人の幽霊はまだ〈至後者《ハインドモースト》〉といっしょに踊っている。ルイスは彼らを知っていた。髪形はそれぞれちがうが、全員がネサスだ。 〈侍者《アコライト》〉が赤い液体のしたたるものをしゃぶっている。食欲をそそる眺めではないが、ルイスはふいに空腹を感じた。片目をホログラムに向けたまま、供給装置《キッチン・ウォール》に手をのばした。  ブラムがたずねた。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、おまえはティーラ・ブラウンについて何を知っている?」 〈至後者《ハインドモースト》〉がブロンズの鐘のような声で歌った。その背後で第三のホログラムがひらいた。ルイスにわかるかぎりでは、目次のようだ。部屋いっぱいに映像があふれた。  ブラムが怒りをあらわにした。 「こっちにこい。いますぐここにこい!」 〈至後者《ハインドモースト》〉はそくざに|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》に踏みこみ、居住区画に出現した。 「何も企んではいません」 「ここにいてもらおう。ルイス、〈至後者《ハインドモースト》〉、〈侍者《アコライト》〉、わたしはプロテクターの像を心に思い描こうとしているところだ。クロノスのことはなんとなくわかるし、アンは親しい存在だった。だがティーラ・ブラウンは異質のようだ。まもなくわれわれは異種族のプロテクターに直面する。〈至後者《ハインドモースト》〉、いま見せようとしたものはなんだ?」 「〈幸運な人間計画〉の記録です。わたしの政府は人類とは同盟を結ぶのが有益だと判断しました。人類は幸運な種族だからです。もっと幸運にしてやればその効果はさらにあがります。実験はひとつの惑星、地球でおこなわれました。わたしたちは出産権を取得するための正規の資格に抽籤を加えました。そして幸運によって生まれた子供たちの追跡調査をおこないました。その子供たちが出会い繁殖するよう、ネットワークづくりにも出資しました」 「それで、彼女は幸運だったのか?」  ルイスは聞いていなかった。聞く気にもなれなかった。リングワールドから決死の脱出を果たしたあのとき、ティーラは自分の意志であとに残った。そのあと四十年のあいだ、ルイスはティーラのことを考えないようにしてきた。 「彼女は抽籤で生まれた六代目の子供でしたが、パペッティア人にも同行した仲間にも幸運を分けてはくれませんでした。彼女自身も幸運だったとは思えません。生物はすべて恒常性を求めますが、ティーラは伴侶を失い、性別とその形態を失い、生命までも失いました。しかし幸運とは解釈によってどうにでもなるものです」 〈侍者《アコライト》〉が口をはさんだ。 「もし彼女が有益な死にかたをさがしていたとしたらどうだ?」  ルイスはあんぐりと口をあけた。〈侍者《アコライト》〉がつづけた。 「あるいは、さらなる知性を手にいれたがっていたとしたら? 父やおれのようにな。ならば彼女の幸運が求めるものを与えたことになるぞ」 「ルイス、どうだ?」と、ブラム。 「そうだな。おもしろい解釈ではある」  四十年かかって、自分にはこの十一歳の猫にすら明らかなことがわからなかったとは! 「ほかには?」  ルイスは目を閉じた。彼女が見える、感触を思い出す。 「ちょっとした事故でぼくたちは彼女とはぐれた。それも幸運だったんだ。ふたたび出会ったとき、彼女には〈|探す人《シーカー》〉という連れがいた──大柄なたくましい探検家で、すばらしい案内人でもあった。彼女は彼に恋してもいたようだった──」 「彼女はおまえの伴侶だったのか、そいつの伴侶だったのか?」 「つぎつぎと相手を代えただけさ。どうでもいいことだ──」 「そいつのために、おまえを捨てたのか?」 「そいつのためだけじゃない。ブラム、彼女はこの──この巨大なおもちゃ[#「巨大なおもちゃ」に傍点]を見つけたんだよ。ティーラは、これが自分の手にあまる、おもちゃにするには大きすぎるものだってことなど、思いつきもしなかった。そんなものが[#「そんなものが」に傍点]世の中にあるなんて考えたこともなかっただろう」 「〈アーチ〉をおもちゃにしようとしたのか? もちろん、壊さないようにな。そして、それのできるのはプロテクターだけだと?」  ルイスは目をこすった。 「そこでおまえは、彼女をリングワールドに残した。それから?」 「〈|探す人《シーカー》〉が火星の〈地図〉まで連れていったのか、それとも彼の話から、彼女が自分で推測したのかもしれない。そして、自分が未知の領域に、秘密の場所に侵入したことを知ったわけだ。  彼女は……そう……彼女はプロテクターとして目覚め、〈|探す人《シーカー》〉は死んだ。ティーラは〈補修センター〉でプロテクターになった。いろいろ遊んでみただろう。太陽から超高温レーザーを起こす方法を見つけ、それで彗星を吹き飛ばしたり……」 「実際そのとおりだったな」 「隕石防禦装置を使って望遠映像を映し出す方法を学ぶ。リングワールドが不安定であることに気づく。外壁に姿勢制御ジェットがあること、そのほとんどがなくなっていることを知る。プロテクターなら誰でもその結果を予測できるだろう。  そこで外壁に向かう。ブラム、彼女は根を持っていったか?」 「根と、花ごとのひと株と、酸化タリウムもだ」 「そして縁《リム》の姿勢制御ジェットの周囲に〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉の船を見つけた。いくつかはアンがもうなおしていたかもしれない……そう、アンがやっていたのはそれだよ。〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉の船が星々からもどってくるたびにそれを拿捕して、パサード式ラムジェットをはずし、縁《リム》に設置するんだ。それはハールロプリララーが話してくれなかったことのひとつだ。彼女とそのお仲間は怒ったプロテクターに船から追い出され、外壁のこっちに送り返されたんだ」  ブラムは黙ったまま先を待っている。 「カホナ、かわいそうなプリル。そんな目に遭えば根性が曲がって当然だ」  まだ何もいわない。 「だから姿勢制御ジェットのいくつかはもうもどされていたわけだが、船をつくった連中だってぜんぶ盗んだわけじゃないだろう。彼女はアンの仕事をひき継いだが、ことは急を要する。そこで繁殖者《ブリーダー》を何人かプロテクターにした。彼女が話していたよ──〈|こぼれ山人種《スピル・マウンテン・ピープル》〉と吸血鬼《ヴァンパイア》と〈|屍肉食い《グール》〉だったっけ。そして全員で、もどってくる船からモーターをはずし、再設置にとりかかった。  二十基を設置したところで船は現れなくなったが、まだパワーは充分じゃない。ティーラはモーターの管理をあとのプロテクターたちにまかせ、〈補修センター〉にもどった。つぎに何をするかはもう決まっていたはずだ。だが、再度〈補修センター〉の望遠鏡を使ったとき、はじめて|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクリワイアリー》号がきていることを知った」 〈侍者《アコライト》〉がいった。 「縁《リム》にも望遠鏡はあったはずだぞ、ルイス」 「もちろんさ。〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉のでかい船がはいってくるのを見つけられる程度のやつがね。でもニードル号はずっと小さい」 「彼女、それがニードル号だとわかったのか?」 「ゼネラル・プロダクツ製三号船殻だぜ? 当然だろう」  ブラムがたずねた。 「ニードル号で彼女の計画は変わったのか?」 「プロテクターの心理について、ぼくはさっきなんていったっけ?」 「とにかく考えろ」  ルイスは考えたくなかった。 「ティーラがいったことからすると、彼女はたとえ三十兆の人間を救うためでも、一兆を殺すことはできなかったんだ。プロテクターの知性とティーラ・ブラウンの共感能力だ──その死が感じられる[#「感じられる」に傍点]んだな。だがやらなくてはならないことはわかっていたし、ぼくらが──ぼくとハミイーと〈至後者《ハインドモースト》〉が、その方法を見つけるだろうこともわかっていたが、ぼくらがそれを実行するのを看過することはできなかった。それで結局、ぼくらに自分を殺させるように仕向けたんだ」 「彼女の戦いは見た。わたしなら死ぬまでにもっといい戦いを見せただろう」 「ああ。ぼくらのほうは死にもの狂いだったよ。そもそもプロテクターを負かすことなんてできっこないのにね」 「外壁に向けてプラズマ・ジェットを発射できないことがわかっていながら、彼女はなぜ〈補修センター〉にもどったのだ?」愚問だ。ブラムは答を待たずにつづけた。「彼女の真の目的はなんだったのだ?」  ルイスは首をふった。 「プロテクターが何を求めるって? ぼくらにもあんたたちのことでわかっていることがひとつある。あんたたちの動機は脳のハードウェアに組みこまれていて、動かしようがないんだ。あんたたちが保護《プロテクト》するのは自分の遺伝子系統なんだ。その系統が途絶えると、絶食して死ぬ。リングワールドにはティーラの子孫は存在しないが、ヒト型種族がいる。片目をつぶってちょっとすがめれば、みんな親戚筋だ。彼女はそれを救わずにはいられなかった[#「いられなかった」に傍点]。何を待つことがある? リングワールドがバランスを崩したというのに──」  ブラムが一蹴した。 「彼女は|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクリワイアリー》号を、パペッティア製のコンピューター・プログラムを待ったのだ。それを使うおまえたちを見て、わたしは干渉しないでよかったと思った」  そうか。 「でも、それならそういえばいいのに。カホナ、なぜ戦わなきゃならなかったんだ?」  待てよ、すると──。 「ブラム、アンはクロノスを殺してすぐここを立ち去ったのか?」 「準備に数日かかったが」 「そしてそれはちょうど七千ファラン前だったんだな?」 「そうだ」 「ぼくの暦でいえば紀元二一〇〇年ごろというわけか。彼女は根を持っていったのか? そのあと、もっととりにもどったか?」 「アンは根と、花ごとのひと株と、酸化タリウムを持っていった。そして生命の樹を植えたが、しばらくすると枯れてしまったので、五千ファランほど前にまたもどってきた。だがそれほど長くはとどまっていなかった。それ以来、彼女とは会っていない。もっといい畑をつくったか、死んでしまったのだろう」 「なるほど。ティーラも同じことを考えたのかな? 根に、苗に、酸化タリウムか。そうしたものを植えるいい場所があるなら、アンの畑はそこにあるはずだ。ティーラはそれがどういう場所なのか知っていたのだろう」 「アンならうまく隠しただろう」 「植物には太陽が必要だ。通りがかりのヒト型種族から匂いを隠すことはできない。それほど遠くない|こぼれ山《スピル・マウンテン》の上の、熱気球もやってこられない場所だな。けわしい谷か、深い裂け目の中か。そこで問題[#「問題」に傍点]は、ティーラがそれを見たかどうかだ」 「もし見たとしたら?」  ルイスはため息をついた。 「ブラム、あんたは生きている[#「生きている」に傍点]プロテクターについて、何を知っている?」 「〈至後者《ハインドモースト》〉、見せてやれ。わたしは風呂にはいりたい」 [#改ページ]      25 省略時選択《デフォルト・オプション》  |こぼれ山《スピル・マウンテン》の頂上百マイル上空で、探査機《プローブ》が加速にはいった。惑星より大きな氷河のように、リングワールドが探査機《プローブ》に向かって突進しては通り過ぎていくが、もはや秒速七百七十マイルではない。探査機《プローブ》が追いつきはじめたのだ。  ルイスはパペッティア人にたずねた。 「あんたが爆破しなかった彗星の施設からは、こっちが見えるのかい?」 「はい、あれはリングワールド平面から大きくはずれた方向にありますから。でも、あの光が彗星にとどくころまでには着陸できるでしょう」 〈侍者《アコライト》〉は黙って巨体を横たえている。ハミイーが息子をここへよこしたのは学習のためだった。そして彼はこの二・二ファランのあいだ、ブラムから学んでいる。だが、知恵[#「知恵」に傍点]を教えるのは難しい仕事だろう。プロテクターは耳からはいる情報こそ豊富に持っているが、知恵となるとどうか?  クジン人にそのちがいがわかるだろうか? 「そのほかの、こっちを観察できる可能性のあるものはすべて破壊したんだな?」 「はい」 「|わかった《ステット》。縁《リム》を見せてくれないか」 「でもプロテクターの姿までは見えませんよ、ルイス。ブラムが見せたいのはそれでしょうが、そこまで拡大することはできません」 「それじゃ何が見えるんだ?」 〈至後者《ハインドモースト》〉はもう何ヵ月も何ファランもにわたって外壁と|こぼれ山《スピル・マウンテン》の観察してきた。その結果、回光通信の瞬きは外壁だけでなく、いたるところで見られることがわかった。探査機《プローブ》が何度か、平地の雇われ種族──と思われるもの──からの陽光反射をとらえたのだ。  閃光のように通り過ぎる村のひとつを〈至後者《ハインドモースト》〉が静止画像でとらえた──八千フィートか一万フィートもありそうな壮大な滝の片側に、千戸ほどの家がひろがっている。滝の反対側は、鮮やかなオレンジ色のペンキで目印をつけた熱気球の繋留場だ。そこから下には、氷と岩の狭間に工場と倉庫が連なり、その下にもうひとつ、やはりオレンジに塗られた巨大な石を目印とする着陸台がある。上からこようと下からこようと、旅人たちの目を惹くように出来ているわけだ。 〈至後者《ハインドモースト》〉が映像を切り替え、五千万マイル先にあるつぎの村を映し出した。傾斜した屋根に芝を植えた家が、なだらかな緑の丘陵地にひろがっている。そして縦一列に並んだ工場の上と下は、やはりオレンジ色の着陸台になっている。  ルイスはいった。 「〈侍者《アコライト》〉、あんたのほうがぼくよりもこうした景色をたくさん見ているだろう。ぼくは何を見逃しているかな?」 「おまえが見逃しているかもしれないものなど、おれにわかるわけがなかろう、ルイス。やつらが海の魚ほどにもごみ問題に困っていないことはたしかだが、やつらは──」  ルイスは白い歯を見せて破顔大笑した。〈侍者《アコライト》〉はそれが終わるのを待ってからつづけた。 「家の形はいろいろだが、配置のパターンは決まっている。気球と工場はどこも同じだ。ブラムとおれの考えでは、〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉の鏡は図面や地図や気象情報や、おそらくは書かれた音楽なども伝えられるのだろう──つまり、知識の交易だな」 「恒星間貿易に似ているな」  外壁は、原子核をまとめている力に匹敵するほど強靭なリングワールドの床構造材、スクライスで出来ている。だがその強度も、リングワールドの速度でぶつかってくる隕石にはかなわないらしく、もうひとつの[#「もうひとつの」に傍点]〈|大 海 洋《グレート・オーシャン》〉から反回転方向《アンチスピンワード》に数百万マイルほどいった場所で、外壁の上部に穴がひとつあいているのが見えた。  あとは、なんの特徴もない外壁に沿って、三百万マイルの間隔をおいて空っぽの巨大な支柱が並び、全長の三分の一にわたって頂上を細い筋が走っている。十一年前にもこれはあった──未完成のままの磁気浮揚走路だ。  二十三の支柱に、いまではモーターが設置されていた。倍率を最高まであげると、一対の小さなドーナツ形のものがようやく見てとれた。 「火を噴いているのがあります」  パペッティア人がいって画面を早送りにした。だが、たいしたちがいはなかった。  水素核融合はもっぱら]線を放射する。核融合モーターが可視光線を放射するのは、よほど高温のときか、もしくは推力を増すため質量が添加されているときだ。外壁のモーターが噴射すると、輪郭のワイアが白熱し、プラズマの磁気場に沿って湾曲する。ドーナツ形の輪が白熱している砂時計型の中央のくびれにはまっており、その軸沿いにかすかな藍色の炎が走る。それが二十二個、並んでいる。 〈至後者《ハインドモースト》〉は二十三個めのモーターの周囲でおこなわれている作業を映し出した。クレーンやケーブルや、磁気浮揚に用いられるのだろう平台など、大きなものは見分けられるが、人間くらいの大きさのものはまず見えそうにない。  そしていまルイスの頭を占めているのは、ブラムの耳のとどかないところで話をしたいということだった。  プロテクターはいま居住区画の入浴装置を使っている。その設備のおかげでハミイーとルイスは正気を保ち、ハーカビーパロリンとカワレスクセンジャジョクもその恩恵にあずかってきた。それでも窮屈でややこしくて旧式な装置にはちがいない。壁ごしに水音が聞こえてくる。  ルイスはためしにいってみた。 「風呂を使うにしても、あいつのことだからあんたの部屋のを使うかと思ってたんだがね」 「ルイス、いまとなれば、あなたにもわたしの部屋を見せることができればと思いますよ。専用|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》は変更不可能で、異星人を転移させることができない[#「できない」に傍点]のです」  クジン人がうなった。 「ひどくプライバシーを重視しているのだな」 「わかっているでしょう。わたしは孤独に耐えられないのです」と、〈至後者《ハインドモースト》〉。「パペッティア人がいなければ、ルイスでも、あなたでもいい。わたしたちは恐怖に従います。この船の建造にさいしても、わたしは恐怖に従いました」 「あんたはブラムにそれを納得させたのか?」 「納得してくれるといいのですが。事実なのですから」  探査機《プローブ》がリングワールドの回転と速度を合わせるのは一時間後だ。  ルイスはいった。 「与圧服を使うことになるだろう。その用意をしなきゃ」 「わたしのスーツはちゃんと手入れしてあります」パペッティア人が答えた。 「|わかった《ステット》。ではぼくと〈侍者《アコライト》〉を着陸船《ランダー》格納庫に送ってくれ」 「わたしもいきます」と、〈至後者《ハインドモースト》〉。「ほかにもチェックしておかなくてはならない装備がありますから」  三人は姿を消した。 「ここなら盗聴はされません」〈至後者《ハインドモースト》〉が保証した。 〈侍者《アコライト》〉が鼻を鳴らした。ルイスはいった。 「プロテクターほどの知力の持ち主が本気で盗聴しようとしても?」 「はい、ルイス。わたしはあなたとハミイーを盗聴しようとして──」  つまりハーカビーパロリンを手なずけることができなかったわけだ。 「ここを情報収集室につくりあげました。いかなる存在もわたしに知られずにこの着陸船《ランダー》格納庫にスパイ装置を仕掛けることはできません」  たぶんそのとおりなのだろう。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、あんたは自分の部屋にいれば安全じゃないのか?」 「あそこにいても、ブラムはわたしを攻撃できるでしょう」 「防ぐことはできないのか?」 「彼がどういう方法を使うか、わかりませんから」 「はったりじゃないのか? ブラムはたっぷり時間をかけてあんたをおびえあがらせたんだな」 〈至後者《ハインドモースト》〉の視線がルイスに収束した──三フィートの基線を持つ両眼視だ。 「あなたには決してわたしたちを理解することはできないでしょう。わたしははじめから、隠れたプロテクターの存在を恐れていました。ずっとそうでした。ブラムを出し抜こうというあなたの計画を受けいれるか拒否するかは、その成否の見こみのみによって決まります。わたしは危険から目をそむけていることができないのですから」 「ぼくは契約を破るつもりはないよ」 「結構なことですね」  人間用の与圧服とエアラックがあった。彼とブラムで二セット必要だ。ルイスはラックとスーツの与圧ジッパーをチェックした。廃棄物再循環タンクを空にし、栄養補給タンクを満杯にし、水と空気のタンクとスーツの内部を洗い、空気をいっぱいに補充し、バッテリーを充電した。 〈侍者《アコライト》〉は自分のスーツを手入れしている。〈至後者《ハインドモースト》〉は|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の山を調べている。  ルイスはいった。 「ティーラ・ブラウンがなぜ死んだのか、ぼくにはわかる」 〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。 「プロテクターは自分が必要とされていないと感じると、きわめて簡単に死を選びますが──」  ルイスは首をふった。 「彼女は何かを見つけたんだ。アンの栽培場かもしれないし、外壁モーターに残された指紋かもしれない。いずれにしても彼女は〈補修センター〉にプロテクターがいることを知った。そこでとにかくニードル号を火星の〈地図〉までおびきよせたが、そうするとぼくたちに対する責任が生じた。ぼくたちの安全を守るには、自分が死ぬしかなかったんだ。でも──」 「ルイス、時間がありません。わたしたちにどうしろというのです?」 「ブラムに知られないように、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の設定を変えたい。たぶんそのあともとにもどすことになるだろうが。自分が正しいかどうか、まだ自信がないんだ。省略時選択《デフォルト・オプション》が必要だ」  クジン人がたずねた。 「省略時選択《デフォルト・オプション》とはなんだ?」 〈至後者《ハインドモースト》〉が答えた。 「決定する時間がとれない場合、どうするかをあらかじめ決めておくことです」 「あんたたちが短剣を持って戦うときの動きを身につけるのと同じさ。ウトサイといったかな」と、ルイス。「頭で考えている時間がないとき、その訓練がものをいうわけだ」 「腹裂きだな」 「なんでもいい。そういうものがあるだろう。あらゆる分野──サーベルでもハンドガンでも素手でもヨガツーでも──でいえることだ。攻撃されたとき頭で決定しなくてもいいように、反射弓に動きをたたきこんでおく。同じように、指示を与えなくても必要な行動をとるよう、コンピューターを設定しておくことができるんだ」 「賢明なやりかただな」クジン人がいった。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、ぼくには|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》のネットワークがあまりよく理解できないんだが……」  ふたりは話し合った。このシステムでは、口笛やタイプで入力した指示を本当に実行していいかどうか確認してやらなければならないのだ。ディスクの縁を押しさげて[#「押しさげて」に傍点]。 「了解《ステット》。これでぼくもあんたたちに気づかれずに変更を加えることができるわけだ。おたがい無関係にね。〈侍者《アコライト》〉、あと必要なのは、ちょっとあいつの目をそらしておくことだ」 「どうやればいいか教えてくれ」と、〈侍者《アコライト》〉。 「まだ見当もつかない。ほんのふた呼吸のあいだだけでいいんだがね」  居住区画にもどると、〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。 「ルイス、あなたは自分がもうすぐ死ぬところだったことを自覚していますか?」  ルイスはあいまいに微笑してみせた。 「昔から生あるものはいずれ死ぬということになっている。たぶんパペッティア人とプロテクターは例外なんだろうけれどね。やあ、ブラム。何か変わったことは?」  ブラムは激怒していた。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、光量をあげて拡大しろ。あの村だ!」  探査機《プローブ》は夜の影の中を飛んでいる。だが、遠くから近づいてくる昼光の帯よりもずっと近く、通り過ぎていく|こぼれ山《スピル・マウンテン》の暗い雪の上に、何かの模様がかぶさっているのが見えた。 〈至後者《ハインドモースト》〉が笛と弦楽器の音で歌うと、その模様が明るくなり、拡大しはじめた。  真上から見おろす|こぼれ山《スピル・マウンテン》のその村は、しみだらけの巨大な十字架のようだった。家々は雪原と色合いの異なる白で、雪に蔽われたその屋根が、黒い道が縦横に走る雪原と裸の岩を背景に、岩棚に沿って二十マイル以上もまばらに並んでいる。それと垂直に、高度六千フィートから一万フィートのあいだに、工場や倉庫が密集している。その上端と下端に、鮮やかなオレンジにいくつかの色彩の混じった角張った斑点がある。  ブラムはもう怒りをみごとに抑制していた。 「必要なときにいなければ困る。おまえたちがもどる前に探査機《プローブ》が通り過ぎてしまうのではないかと心配したぞ。その理由はわかるな?」 「それは……なるほど」  ルイスもそれを見た。鮮やかな銀色の四角が三つ──三台の巨大な貨物プレートだ。ひとつは何も積んでいない。ひとつは何かわからないものを載せている。第三のプレートには茶色い四角に派手な縁のついたもの──まだ〈機械人種《マシン・ピープル》〉のクルーザーが乗っているのだ。  それらが鮮やかなオレンジに塗られた裸の絶壁に接した高いほうの繋所留《ドック》につながれていた。黄色とオレンジとコバルト・ブルーのものが近くにあるのは、空気を抜いた気球だろう。 「ずいぶん速くあそこまでたどり着いたもんだな」ルイスはいった。  昼光が秒速七百七十マイルで流れこんできた。画面が一瞬まばゆく輝き、それから本来の色を取りもどした。 〈侍者《アコライト》〉が指摘した。 「あそこにも蜘蛛巣眼《ウエブアイ》があるはずだな」 〈至後者《ハインドモースト》〉が探査機《プローブ》の隣に窓をひらいた──これで四つだ。クルーザーからの眺めだ。  白と灰色の縞模様のかわいらしい毛皮にくるまったふたりの〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉が見えた。いまはゆったりした袖からのぞく赤い手と、フードの奥に埋もれたたいらな鼻と黒い目しか見えないが、見まちがえるはずはない。  勇敢な|吸 血 鬼 殺 し《ヴァンパイア・スレイヤー》たちだ。  大柄で毛深い数人の人影は〈|こぼれ山人種《スピル・マウンテン・ピープル》〉だろう。大きな手に太くて短い指。フードの中にチラリと見える顔は、手と同じ銀灰色だ。  彼らは白い息を吐きながら作業をしている。赤い手と茶色の手が輪郭の曖昧な窓の端をつかみ、景色が揺れた。 〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。 「減速するあいだに探査機《プローブ》ははるか先までいってしまうでしょう。呼びもどしますか?」  ブラムが答えた。 「なぜだ? ここはこの窓で見られる。〈至後者《ハインドモースト》〉、外壁の輸送走路の終点が近づくと、見つかる可能性も高くなるだろう。探査機《プローブ》を外壁の外に出せ」 「はい。では十二分待ってください」  探査機《プローブ》はすでにその村をあとにし、昼光を浴びながら飛んでいた。プレートからおろされた蜘蛛巣眼《ウエブアイ》は不規則に揺れながら、石に刻まれた段を足掛かり手掛かりに運ばれていく。窓に窓が重なった。  ブラムがたずねた。 「おまえたちはどこにいっていたのだ?」 「与圧服をチェックしようと思ってね──」と、ルイスは答えた。 「なるほど。それで?」 「──真空を吸いこまないうちにしておかないと──」 「おまえはチェックリストを使った。わたしは頭を使う」 「だが最初のミスが最後のものになるんだ」 「それでどうだった?」 「パペッティア人のスーツはわからない。ぼくらのは二ファランのあいだ生きられる。補充も充填も、できるものはぜんぶやった。未使用の|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》はあと六つだが、いま使っているものもいくつか転用できる。蜘蛛巣眼《ウエブアイ》はどこにでもスプレイできる。着陸船《ランダー》格納庫に武器はない。あんたがどこかに隠したんだろう。何を持っていくかを決めてくれ。ほかには何をチェックすればいいのか思いつかなかった」  ブラムは何もいわなかった。  |秘密の族長《ヒドウン・ペイトリアーク》号の見張り台にはなんの変化も起きていない。〈至後者《ハインドモースト》〉が低い口笛を鳴らしてその窓を消した。燃料補給用|探査機《ブローブ》は紫色の光を外壁に反射させながら飛行をつづけている。そのつぎの窓は、道というよりはロッククライミング向きの岩場を、四角い雪原に向かってフラフラとくだっている。 〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。 「あなたはもうすぐ死ぬところだったのですよ」 「そんなことが……いや、まあいい」と、ルイス。「その医療記録を見せてくれ」  パペッティア人が鐘のような音をたてた。ルイス・ウーの医療記録がふたつの窓の一部に重なった。 「これです、|共 通 語《インターワールド》で書かれています」  化学物質……主要な再構成……憩室症……カホナ。 「人は老化現象にも慣れてしまうんだよ、〈至後者《ハインドモースト》〉。老人がよくいうことだが、『朝目覚めて痛むところがひとつもなかったら、それは夜のうちに死んだってことなんだ』ってわけさ」 「おかしくはありませんね」 「でも小便といっしょにガスが出るようになったら、どんな間抜けだってどこか変だと気づくだろう」 「そのような場面を観察するのは、不作法なことです」 「安心したよ。だが見たとしてもあんたにわかったかどうかな?」  ルイスはさらに読み進んだ。 「憩室症ってのは、結腸にちっぽけな穴のあく病気だ──ぼくの[#「ぼくの」に傍点]結腸にだ。憩室炎の弊害はさまざまな形であらわれる。ぼくのはどうやらそれがのびて膀胱に達したらしい。そこに感染が起きて穴がつながった。結腸と膀胱がつながってしまったわけだ。瘻というやつだ」 「どう思いました?」 「ぼくには医療キットがあった。それで抗生物質は手にはいる。二、三日のあいだはたかをくくっていた……いや、バクテリアが膀胱にはいってガスを出したんだろうが、抗生物質で退治できるだろうと。そのあと、つながりをふさぐ必要があることがわかった」  通常は相手の目を直視しない〈侍者《アコライト》〉が、いまはじっと彼を見つめていた。耳がピッタリとたたまれている。 「おまえは死にかかっていたのか? 〈至後者《ハインドモースト》〉の申し出を断わったら、死んでいたのか?」 「まあね。〈至後者《ハインドモースト》〉、もし知っていたら、あんた、ぼくの契約を受けいれたかい?」 「くだらない質問です。ルイス、わたしは称賛しているのですよ。あなたの交渉能力はたいした[#「たいした」に傍点]ものです」 「それはどうも[#「どうも」に傍点]」  ブラムがいった。 「探査機《プローブ》からの映像を復活させてくれ……どうも[#「どうも」に傍点]。あと六分で外壁をあがり、外に出る。信号を見失うことはないだろうな、〈至後者《ハインドモースト》〉」 「スクライスはニュートリノの何割かを遮断します。これはリングワールドの床面でなんらかの核反応が起こっていることを示しています。信号が小さくなることが予測されますが、対応する手段はあります」 「よし。わたしの[#「わたしの」に傍点]スーツは準備できているか?」と、ブラム。 「ぼくの予備だけどね」と、ルイスは答えた。「どっちでも気にいったほうを選んでくれ。ぼくが残ったほうを着る」  探査機《プローブ》の速度はどんどん落ちていた。 「いまか?」 「いまです」 [#改ページ]      26 |繋 留 地《ドックヤード》 【〈|高 所《ハイ・ポイント》〉──AD二八九三年】  クルーザーを乗せた貨物プレートは夜を衝いて上昇した。  ワーヴィアとテガーは荷台外殻《ぺイロード・シェル》の中で抱き合っていた。高い場所への恐怖は克服のしようがない。プレートが何かにぶつかる衝撃を感じて思わず悲鳴をあげ、ついでふたりともまだ生きているのを認めて笑いだした。  安全な荷台外殻《ペイロード・シェル》から外へ出るのはひとつの試練だった。薄くつめたい空気に身体が震え、呼吸がせわしなくなる。太陽はちょうど|遮 光 板《シャドウ・スクエア》から顔を出したところだ。 〈|屍肉食い《グール》〉たちが明るくなってきた陽光にまばたきしながら、睡眠をとりに荷台外殻《ぺイロード・シェル》へもぐりこんでいった。 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がプレートをおろしたのは、オレンジ色のペンキを塗った一対の崖の高いほうで、そばには貨物プレートがもうひとつと、空気を抜いた気球にとりつけた籠が三つあった。  村は沸きかえっていた。下方と両脇に並んだ雪をかぶった家から、毛皮に包まれた人影が飛び出し、斜面の上で何かはじめようとしている。  テガーのような遊牧の民から見ても大きな村ではない。おまけにほとんど目立たない。雪原の上で雪をかぶった矩形の屋根は、影でその存在を知ることができるだけだ。  村人が五人、下界からの訪問者を出迎えに坂をのぼってきた。鋭いくちばしを持った鳥が一羽、彼らの頭上で輪を描いている。近づいてくる人影の毛皮の中は、〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉の目をもってしてもまったく見えない。水袋と余分の毛皮を運んでくるようだ。  水袋にはいっていたのはお湯だった。最高の飲み物だ。ワーヴィアとテガーは大急ぎで毛皮の中にもぐりこみ、鼻先だけをのぞかせてピッタリくるまった。その様子とあえぐ息づかいを〈|こぼれ山人種《スピル・マウンテン・ピープル》〉はおもしろがっているようだった。 「いやはや、すばらしい天気だねえ!」サロンと名乗る人物が、なんとも異様な、歌うようなアクセントでいった。「吹雪の中を歩けば、山への敬意が身につくよ!」  彼らは木と鉄でできたクルーザーをとりまき、めずらしそうに周囲を歩きまわったが、それが乗っている浮揚プレートにはまったく目もくれなかった。五人の〈|こぼれ山人種《スピル・マウンテン・ピープル》〉は、白と灰色の縞模様の毛皮を幾重にも巻きつけ、まるで樽のようにふくらんで見えた。  サロンの毛皮だけが白と緑がかった茶色の縞で、獰猛な獣の頭らしいものをそのままフードに使っている。明らかに主導的な立場のようで、テガーの勘ではどうも女性のようだ。五人の中でいちばん背が低い。でも声では判断がつかないし、しかも全身が毛皮に隠れている。  サロンがブロンズ色の|蜘蛛の巣《スピナーウエブ》とその裏打ちの石を調べながらたずねた。 「これがその目なのかね?」  ワーヴィアが答えた。 「そうです。サロン、わたしたち、このあとどうすればいいのかわからないんですけど」 「話では〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉がくるということだったが。どこにいるのかね?」 「眠っています。まだ夜にならないので」  サロンは笑った。 「わたしの母は、それはただの言葉のあやだといっていたが。では彼らは夜になれば出てくるのだね?」  ふたりの〈赤色人《レッド》〉はいっしょにうなずいた。  頭上で風に乗って浮かんでいた鳥が、ふいにはるか下方の斜面へと急降下した。そして爪を地面にたたきつけたと思うと、もがく何かをくちばしにくわえて舞いあがった。  デーブというのがたずねた。 「この目に何を見せればいいのかね?」  テガーとワーヴィアには答えられなかった。それを察したらしく、デーブは自分で答えた。 「鏡と抜け道だろうね。目を持ってくるがいい。それは話をするかね?」 「いや」 「ではなぜこれが見ているとわかるのかね?」 「〈|竪琴弾き《ハープスター》〉と〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉に聞いてくれ」  ワーヴィアがいった。 「ふたりに何か着せてやらないと。このままでは凍死してしまいます」 「いいとも」  ジェンナウィルというのがそう答え、荷台外殻《ペイロード・シェル》の中へ毛皮を運びこんだ。  あとのふたり、ハリードとバレイエが、ブロンズ色の|蜘蛛の巣《ウエブ》と裏打ちの石をおろす作業にとりかかった。このふたりは男のようだ。フードの奥からあからさまな驚きをこめて〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉を眺めているが、口はきかない。話をするのは女の仕事らしい。  テガーは手伝おうとしたが、|蜘蛛の巣《ウエブ》のついた石の一方の端を持ちあげて横歩きをしていると、急に呼吸が乱れ、窒息しそうになった。デーブとジェンナウィルが手伝いに寄ってきたので、テガーは彼らに道をあけ、けんめいに息を吸った。 「弱虫なんだね」サロンが決めつけた。  テガーは必死であえぎを抑えようとした。 「大丈夫、歩ける」 「肺に充分な空気がはいらないのだね。でも明日はもっと楽になる。今日は休んだほうがいいね」  四人が|蜘蛛の巣《ウエブ》をかつぎあげ、ちょっとのぼってから鍵の手に曲がって、雪をかぶった家々のほうへゆっくり斜面をくだりはじめた。ワーヴィアとテガーが足をすべらせたら手を貸そうというのか、サロンが足場を示しながら先頭に立った。  鳥がデーブの肩の革パッドにおりてとまった。デーブがよろめき、何か知らない言葉で悪態をつくと、鳥はまた舞いあがっていった。 〈|こぼれ山人種《スピル・マウンテン・ピープル》〉は信じられないほど健脚だった。  テガーとワーヴィアはたがいの身体に腕をまわし、よろけないように気をつけながら歩きつづけた。長いあいだ乗物に揺られていたせいか、足の下で山が揺れているみたいに感じられた。風は毛皮のいちばん小さな隙間をも見つけてはいりこんでくる。  テガーはまばたきをして涙をはらい、フードの中から細くした目で外をのぞいた。ようやくいくらか呼吸ができるようになって、テガーはデーブにたずねた。 「いまのがおまえたちの言葉なのか? どうやって通商言語を学んだのだ?」  デーブの言葉は母音も子音もゆがんでいて、甲高い風の音の中ではなんとか意味をつかむのがやっとだった。 「〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉はあなたたちになんでも話していいといった。でもあなたたちは|平  地《フラット・ランド》のヴィシュニシュティ[#「ヴィシュニシュティ」に傍点]に何も話さないこと。わたしたちの秘密だよ。いいかね?」  テガーはその言葉を知らなかったが、ワーヴィアが正しい発音でいいなおした。 「ヴァシュネシュト[#「ヴァシュネシュト」に傍点]ね」  それから周囲の人々にいった。 「わかりました」  ヴァシュネシュト[#「ヴァシュネシュト」に傍点]──プロテクターのことだ。|こぼれ山《スピル・マウンテン》より下界に住むプロテクターから秘密を守れというのか。 「わかった」と、テガー。  デーブがいった。 「ティーラは下界から──|平  地《フラットランド》からきた。こぶだらけで、レシュトラできない奇妙な人。レシュトラはわかるかね? それができない。見せてくれたが、あそこに何もついていなかったよ。  言葉は彼女に教わった。わたしたちは鏡の言葉を知っていたが、それを正しく話していなかった。ティーラはわたしたちに教えてから、気球に乗る人々にも教えるようにといった。  そして抜け道を通って外へ出ていった。七十ファラン後にもどってきたが、前とまったく同じ姿だった。わたしたちは彼女がヴィシュニシュティ[#「ヴィシュニシュティ」に傍点]だろうと思った。いまではそのとおりだったことを知って[#「知って」に傍点]いる」  すでに家々の前にさしかかっていた──下界の森から買ってきたらしい木材でできた、直線的な家だ。すでに好奇心でいっぱいの子供たちが集まり、いっしょに歩いていた──毛皮のフードから目だけを出して、白い息を吐きながら話しかけてくる。  ワーヴィアがその相手をした。 「そのティーラと話ができないか?」と、テガーはたずねた。 「ティーラは四十ファランかもっと前に、また下界にいったよ」デーブが答えた。 「もっと前だよ」サロンが短くつけ加えた。  ジェンナウィルがたずねた。 「あなたたち、レシュトラのことを知っているかね?」  テガーはワーヴィアをふり返った。ワーヴィアは話をそらせようとした。 「そっちこそ、どうしてリシャスラのことを知ったの? ほかにも下界から客がくるのですか?」  土地の者たちは笑った──男たちまで笑い声をあげた。  デーブが答えた。 「下からではなくて横からだよ! 近くの山の住人が──」 「でも、みんな同じ〈|こぼれ山人種《スピル・マウンテン・ピープル》〉でしょう?」 「ワービーア、山に住む人々はひとつの種族ではないよ。わたしたちは〈|高 所《ハイ・ボイント》〉。サロンは──」  ドアにたどり着いたので、テガーは先にワーヴィアを通した。デーブが中にはいると、あの鳥がその肩にとまった。  そこは厳密にいうとまだ家の中ではなく、木製の梁と針金で構成され、毛皮をかけるための鉤が並んでいる細長い前室だった。奥の左右の壁にふたつのドアが向かい合ってついている。  全員が毛皮を脱ぎはじめた。ふたつの種族は好奇の目でたがいを見つめ合った。 〈|高 所 人 種《ハイ・ボイント・ピープル》〉はたくましい身体、横幅のひろい顔に、大きな口と深くくぼんだ目を持っていた。髪と、髭──男の──は、黒い巻毛だ。毛皮の下は身体に布を巻きつけていたが、それも首と肘と膝までで、そこより先もまた大量の巻毛に蔽われている。  デーブは中年の強靭な女だった。スクリープという名の鳥はデーブのものだ。そっくりなふたりの若者、ハリードとバレイエはデーブの息子だ。ジェンナウィルは若い女で、バレイエの伴侶だった。  豊かな低音の声を持ったサロンは年配の女で、その顔には深いしわが刻まれている。あごと両手がどこかほかの人々とちがうようだ──。  ワーヴィアがたずねた。 「あなたも〈|高 所《ハイ・ポイント》〉の一族なのですか?」 「いいえ、わたしは〈|ふたつ峰《ツー・ピークス》〉の住人だった。ところが〈|低い山《ショート・ワン》〉を訪れる予定の気球が、そこを通り過ぎて〈|高 所《ハイ・ポイント》〉まで流されてしまったんだよ。ここでは風の向きが悪くて帰ることができない。ほかの仲間はもっと先へ探検をつづけたが、わたしはマクレイという男に口説かれてここに残った。彼はもう子供をつくれないし、わたしには自分の子供がいたから、問題はなかったわけでね」  デーブが毛皮を脱いで鉤にかけているあいだ、スクリープは革の当て布につかまっていた。サロンが一行を主屋に導くと、巨鳥も舞いあがってあとからついてきた。  そこは天井が高く、家具は少なかった。鳥のための高いとまり木と、ふたつの低いテーブルがあるだけで、椅子はない。これが来客用の家の半分で、さっきの細長い前室で残りの半分と隔てられている。向こうの部屋にいる来客と会うことはあるだろうかとテガーはふと考えた。  男たちがブロンズ色の|蜘蛛の巣《ウエブ》を壁にもたせかけると、〈|高 所 人 種《ハイ・ポイント・ピープル》〉たちは来客を中心に車座にあぐらをかいてすわった。 「ここがあなたたちの場所、来客用の家だよ」サロンがいった。「訪問者のために充分暖かくしてあるが、毛皮にくるまって眠るほうがいいかもしれないね」  ジェンナウィルがグルリと一同をさし示した。 「わたしたちは〈|高 所《ハイ・ポイント》〉。回転方向側《スピンワード》の隣の山は〈|鷲 の 民《イーグル・フォーク》〉と名乗っている。くちばしのような鼻をしていてね。わたしたちより小柄で力も弱いが、気球つくりの腕は最高で、ほかの民たちに売っている。彼らとのあいだに子供ができることもあるが、めったにないので、レシュトラしても大丈夫ね。  反回転方向《アンチスピンワード》にいるのは〈|氷の人種《アイス・ピープル》〉。ここより高い場所に住んでいて、寒さに強い。マザレスチは〈|氷の人種《アイス・ピープル》〉の子供を生んだよ。彼女はふたりの熱意が山をも動かしたのだといっていた。ジャースというその少年は、仲間の誰よりも高い場所で動きまわることができる。  ずっと遠い回転方向《スピンワード》や反回転方向《アンチスピンワード》からも来客はあるよ。わたしたちは誰でも歓迎し、レシュトラするが、子供は生まれない。彼らのほうも同じらしいね。異なる種族のあいだでおこなうのはレシュトラで、同じ種族同士のが媾合。近くの山の民同士は媾合できるが、遠くの山のものとはできない。わたしたちの祖先は山から山へと旅をしているあいだに、しだいに変化していったのだと、ティーラが教えてくれたよ。  さて、あなたたちは?」  ワーヴィアは口もきけないほど笑いころげている──おかしいというより当惑しているのだろうとテガーは思った。  彼は一気にすべてを語ろうとした。 「|平  地《フラットランド》の旅は簡単だ。あらゆる種族が混じっている。リシャスラのやりかたは実にさまざまだ。われわれ〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉は一生のあいだ、家畜の世話をしながら旅をつづける。〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉はリシャスラできない。ひとりの伴侶と交わるだけだ」  聞き手の反応がどうなのか、テガーにはわからなかった──顔つきが異質すぎて表情が読めないのだ。 「だが、リシャスラは種族によっては娯楽だったり、交易の契約のためだったり、戦いを終わらせるためだったり、子供をつくる時期を遅らせるためだったりする。噂によると〈|草集め人種《ウィード・ギャザラー》〉は知能はごく低いが非常にリシャスラが巧みで、その──求愛の儀礼に手間をかけたくないものにはとても都合がいいそうだ。〈|水棲人種《ウォーター・ピープル》〉は長時間息をとめていられるものなら誰とでもリシャスラするが、そんな種族はめったに──」 「〈水棲人種《ウォーター・ピープル》〉だって?」 「液状の水の中に住んでいるんだ、バレイエ。数はあまり多くはないと思うが」  笑い声。  ジェンナウィルがワーヴィアにたずねた。 「あなたたちはレシュトラせず、ただ話を聞くだけなのかね?」 「客がきたとき、それ以外にどうしようがあります? でも〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉が目を覚ましたら、もっといろいろ聞けるでしょうね」  ジェンナウィルがなんとか笑いをこらえているのがテガーにはわかった。 「理解してもらえないかね」サロンがいった。「わたしたちは近くの山の住人としかレシュトラしたことがない。みんな〈|こぼれ山人種《スピル・マウンテン・ピープル》〉で、子供はできないにしても、おたがいとてもよく似ているのだよ。でもあなたたちは……」  彼女は適当な言葉をさがしたが無理だったようだ。  ──かなりちがう? とても奇妙? 下界からきた魔物──?  沈黙がつづいて気まずくなる前に、ワーヴィアが口をひらいた。 「プロテクターはどんな秘密も見抜くと聞きました。どうして何かを隠しておけると思うのです?」 「|平  地《フラットランド》のヴィシュニシュティからならね」デーブがいった。  サロンが説明した。 「ヴィシュニシュティは危険だよ。ティーラがそういったし、〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉も、伝説も、すべてがそうだと告げている。でも|抜け道《パッセージ》は〈|高 所《ハイ・ポイント》〉のものだよ。それがヴィシュニシュティの関心を誘う。|抜け道《パッセージ》は外壁を貫いている。気球服を着て窓のある兜《ヘルム》をかぶれば、彼らはそこを通って世界の外に出ることができる。〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉はヴィシュニシュティの注意を惹きたくないのだよ」 「そのプロテクターは、ここにいるのですか?」  サロンはテガーとワーヴィアだけでなく、ブロンズ色の|蜘蛛の巣《ウエブ》に向かって話しているのだった。 「いまは|平  地《フラットランド》のヴィシュニシュティ三人が|抜け道《パッセージ》を支配している。それだけではないね。彼らはわたしたちの中から成人を何人か連れていき、そのうちの何人かはヴィシュニシュティになってもどってきたのだよ。 〈死の光〉が輝いたとき、|平  地《フラットランド》のヴィシュニシュティはわたしたちに身の隠しかたを教えてくれた。毛皮や肉はあの光を通すが、芝土や岩なら防ぐことができる、とね。でもいちばんいいのは、|抜け道《パッセージ》そのものに隠れることだった。でも〈死の光〉が輝いたとき、マクレイは狩りに出ていてね」サロンは語りつづけた。「避難所から半日の場所だったが、身の隠しかたを教えてくれるヴィシュニシュティは近くにいなかった」  デーブがつづけていった。 「狩りなどで外にいて、光に照らされたものはたくさんいたよ。三人にひとりが死んでしまった。それ以後も、異常児や虚弱児が生まれているしね。すべての山が同じ話を伝えているが、警告を与えてくれるヴィシュニシュティがいたのは、われわれと近くの山々だけだった。だから|平  地《フラットランド》のヴィシュニシュティもまったくの悪だとはいえないね」  テガーはたずねた。 「〈死の光〉とは?」  だが周囲の誰も聞いている様子はなく、テガーも繰り返してはたずねなかった。  サロンは話をつづけた。 「〈|高 所《ハイ・ポイント》〉のヴィシュニシュティは|平  地《フラットランド》のヴィシュニシュティのために働きながら、わたしたちの安全を守ってくれる。しかし|平  地《フラットランド》のヴィシュニシュティに鏡のある場所を教えたりはしないし、彼らが自分たちでさぐり出すこともありえない。彼らは秘密をさぐるのが上手だが、山は彼らのものではないからね」  ワーヴィアがため息をついた。 「その答を聞いたら〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉はさぞ喜ぶでしょうね。そのためにわたしたちははるばる旅をしてきたのですから。彼らがもっといい質問を持ってきていることはまちがいありません」 「それに、ルイス・ウーもね」デーブがいった。「それとも、彼はただの伝説なのかね?」 「どこでその物語を聞きました?」 「伝言の鏡とティーラからだよ」  テガーはいった。 「ルイス・ウーは海を沸騰させた。〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉のハールロプリララーは彼と取り引きしてリシャスラした。ルイス・ウーは実在するが、この|蜘蛛の巣《ウエブ》の向こうにいるのは彼だろうか? デーブ、おれはもう眠い」 「わたしも!」と、ワーヴィア。  ジェンナウィルがほかのものたちの驚きを代弁した。 「まだ昼間なのにね」 「わたしたちはひと晩じゅう働いていたのです。それにここでは呼吸[#「呼吸」に傍点]も重労働なんです」ワーヴィアが答えた。 「寝かしてやるがいい」サロンが命じた。「わたしたちは引き揚げよう。テーガー、ワービーア、〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉が目覚めたらあなたたちも起きるかね?」  思考をまとめることも、目をあけておくことも困難だった。 「できれば」 「食べ物はあのドアのうしろにあるよ。|しまった《フラップ》、忘れていた! あなたたちは何を食べるのかね?」 「殺したての肉です」ワーヴィアが答えた。 「あの小さなドアをあけると──いや、気にしないでいいよ。スクリープに何か見つけさせるから。ではおやすみ」 〈|高 所 人 種《ハイ・ポイント・ピープル》〉たちはそろって出ていった。  ふたりは小さなドアをあげて見ずにはいられず、おかげで屋内の暖かさの半分が逃げてしまった。小さなドアのうしろにあったのは食べ物で──来客用に用意された植物と古い肉で〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉向きではなかったが──木の格子の隙間から雪景色が見えた。格子で肉食獣を防ぎながら豊富な外気で冷やしているわけだ。  ワーヴィアとテガーは毛皮にくるまっていっしょに丸くなった。服は脱いでわきにひろげておいた。暖かくはあるが鼻がつめたい。〈|高 所 人 種《ハイ・ポイント・ピープル》〉たちはまだ毛皮を着終えていないらしく、壁の向こうでゴトゴトと音がしている。  テガーが眠りに落ちかけたとき、ワーヴィアがいった。 「〈|ささやき《ホイスパー》〉ならもっとうまく質問できたでしょうね」  テガーは答えた。 「〈|ささやき《ホイスパー》〉はおれの空耳さ」 「わたしも聞いたのよ。〈|ささやき《ホイスパー》〉にいろんなことを教わった──」 「どんなことを?」  ワーヴィアが耳もとでささやいた。 「空中橇に乗っているとき、彼女はクルーザーの下にいたの。あの速度でわたしの気がおかしくならないよう、速度について教えてくれた。彼女は自分のことを誰にも知られたくないのよ、テガー。だからこの話、|蜘蛛の巣《ウエブ》には聞かれたくない」  |蜘蛛の巣《ウエブ》は壁のところに立っている。テガーは部屋全体を見わたせるよう壁に立てかけられた|蜘蛛の巣《ウエブ》に目を向け、笑いだした。 「もしこの|蜘蛛の巣《ウエブ》がただの石のかたまりにすぎなかったら──」 「わたしたちみんな、かつがれてることになるわね」 「〈|ささやき《ホイスパー》〉はどんなやつだった?」 「姿は見ていない。もしかすると、まったく身体なんかない|道の精霊《ウェイスピリット》なのかもしれない」 「何を教わった? いや、いまはいうな。眠ろう」 「なぜリシャスラできないなんていったの? あの人たちがあんなふうだから?」 「いや。異質さは〈|砂の人種《サンド・ピープル》〉と似たりよったりだ。ただ、ジェンナウィルの腕の中で陸にあがった魚みたいに息をきらしている自分の姿が心に浮かんだもんだから──」  ワーヴィアの楽しそうな笑いが耳もとをくすぐる。 「それから思い出したんだ。彼らは〈|屍肉食い《グール》〉の帝国と──〈|屍肉食い《ダール》〉の帝国のために[#「ために」に傍点]──話をしてるんだってことをね。おれたちは有名になるだろう。おまえ、いつかどこか、〈アーチ〉のもとのあらゆる種族とリシャスラした〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉の噂など聞いたもののいない〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉の住む土地に落ちつきたいんだろう?」 「わたしたち、そんなことしてないわ!」 「噂には尾ひれがつくものだよ。〈|屍肉食い《グール》〉の帝国は最大の語り手だし、ここの〈|こぼれ山人種《スピル・マウンテン・ピープル》〉がその話をひろめる手助けをして、おまえとおれは、〈アーチ〉のもとでもっとも大きな吸血鬼《ヴァンパイア》の巣を滅ぼしたってことになるんだ」 「そうね」 「おまえも考えていたんだろうが──」 「あの人たちにとってもはじめての経験でしょう。自分と同じような相手としかリシャスラしたことがないんだから。ねえ、あなたも一度くらい、リシャスラを教えて[#「教えて」に傍点]みたくない?」  ふたりは眠った。 [#改ページ]      27 ラヴクラフト  向きを変えた探査機《プローブ》は十Gでまっすぐ垂直に上昇し、外壁に接近した。ひときわ明るい青い光がその面に映えてから縮んで消え、探査機《プローブ》は慣性で上昇していった。  リングワールドの縁《リム》は薄い。探査機《プローブ》はさらに数百フィート上昇して上空で弧を描いた。核融合のひと噴きが落下をとめ、探査機《プローブ》は地獄の底までつづきそうな黒い壁の背後へ漂っていく。  速度がさがった。滞空。ふたたび点火。  いままでの窓に重なって新たな窓がひとつひらいた。画面には藍色の炎に乗って空中に停止している探査機《プローブ》が映った。ついでその探査機《プローブ》はフッと下方に姿を消し、星々の光だけが残った。 〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。 「外壁の裏側にある蜘蛛巣眼《ウエブアイ》の窓です」 「裏面からの景色が必要だ。映してくれ」ブラムが命じた。 「はい」  しかし〈至後者《ハインドモースト》〉は何もしない。 「早くやれ!」 「探査機《プローブ》にはすでに指示を与えてあります。モーター停止。自転。映像を表示」  探査機《プローブ》が落下しながら回転し、映像が動いていく。黒い外壁、まばゆい陽光、星ばかりの空……突然その暗黒の中、落下する探査機《プローブ》のまっすぐ下方に、銀色の糸がキラリと光った。 「おい!」ルイスは声をあげた。「見たか? ひと噴かししないとぶつかるぞ」 「ひと噴かしですね、はい」  木管楽器の音。 「あれはなんです?」 「宇宙港の張り出しじゃないな。それにしてはせますぎる」  光速によるタイムラグを待っているうちに、銀色の糸はしだいに大きく、鮮明になっていく。やがて銀色のミミズのような縞模様が見えた。十一分…… 探査機《プローブ》の回転が停まり、窓の映像が揺れた──探査機《プローブ》が]線光の炎を噴いて進路を変えたのだ。  そのとき新星の光がホログラムの窓をつらぬいて爆発した。  両腕で目をかばうルイスの耳に、地獄の音楽が、つづいて人間的な抑揚を完全に欠いた声がとどいた。 「燃料補給源が破壊されました!」  ブラムの声は冷静だった。 「問題はどんな敵が攻撃してきたのかということだ」 「挑戦されたのだぞ! おれに武器をよこせ、出撃させろ!」  狂った獣の叫び。  ──これは〈侍者《アコライト》〉なりにブラムの目をそらそうとしているのだろうか? だがもし本気で腹を立てたのだとすると、こっちは危険きわまりない──。 「わたしを部屋にいかせてください」〈至後者《ハインドモースト》〉が訴える。「どの部分がまだ動いているのか見てみないと」 「動いている部分があると思うのか? 探査機《プローブ》は破壊されたのだ。攻撃を受けた以上、われわれの存在も知られたはずだ。だが外からの侵入者がこれほどすばやく反応するだろうか? それともプロテクターのしわざか?」 「少なくとも|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》は無傷です」  ルイスは目をひらいた。 「なぜ?」 「ばかにしないでください!」〈至後者《ハインドモースト》〉が憤然と声をあげた。「緑《リム》を越えるとき、わたしは|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の接続をひらいておきました。これでプラズマ噴射だろうと、運動エネルギー兵器だろうと、あらゆる攻撃はあっさり転送されてしまいます」 「どこへ[#「どこへ」に傍点]転送されるんだ?」  ルイスはまばたきした。まだ目の前がチカチカしている。 「接続先はオリンポス山の|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》です」  ルイスは笑った。千人の火星人が新しい罠を仕掛けているところへ|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》から恒星の熱さのプラズマが噴き出すことを期待するのは虫がよすざるかもしれないが、いや、それでも……。  大きな爪が肩をつかみ、生肉の匂いのする熱い息が顔にかかった。 「われわれは交戦状態にはいったのだ、ルイス・ウー! 目をそらしていていい場合ではないぞ!」  目をそらす[#「目をそらす」に傍点]──了解[#「了解」に傍点]。 「〈侍者《アコライト》、いってスーツを着ろ。ぼくのスーツも持ってきてくれ。それから蜘蛛巣眼《ウエブアイ》スプレイと、貨物ディスクの山とだ。ブラムがどこにいても──ブラム、どこだ?」 「|秘密の族長《ヒドウン・ぺイトリアーク》号の食堂だ」ブラムが答えた。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、それじゃ〈侍者《アコライト》〉をまずそこへ送ってくれ。ブラム、彼に何か武器をやってくれ。もし探査機《プローブ》の|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》がまだ作動しているなら、それを使おう」 「やれ」と、ブラムがいった。 〈至後者《ハインドモースト》〉が錯綜したひとつづきの音をたてた。〈侍者《アコライト》〉が足を踏み出して消えた。〈至後者《ハインドモースト》〉も花崗岩の塊りがあった場所に立って姿を消したが、つぎの瞬間には自分の部屋で、異星のチェス盤みたいなもの──|仮 想《ヴァーチャル》キイボードだろう──に向かって舌をひらめかせていた。片方の頭をあげると彼はいった。 「接続しました。|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》はまだ作動しています」 「蜘蛛巣眼《ウエブアイ》をスプレイしてみろ」ブラムが命じた。 「どこにスプレイするのです?」 「真空にだ」  十一分後、消えていた窓にまた明かりがともった──かすかに波うちながら回転する星空の眺めだ。蜘蛛巣眼《ウエブアイ》がわずかに回転しながら──探査機《プローブ》も回転しているのだろうか? ──真空中を自由落下し、徐々に探査機《プローブ》から離れていく様子を、ルイスは頭に浮かべた。  プロテクターがクジン人のことを気にしながらパペッティア人と四つのホログラム映像すべてを監視しようとしている隙を見て、ルイスは|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》のそばに膝をついて端を持ちあげた。  何本ものホログラムの線がディスクのすぐ上で光りはじめた。あのディスクの配置図だ。大きな画面に出せばばれてしまうところだが、〈至後者《ハインドモースト》〉にぬかりはない。ルイスはいそいで変更を入力し、ディスクをもとにもどした。 「見えますか?」 「〈至後者《ハインドモースト》〉、いままであれ[#「あれ」に傍点]を見逃していた理由を説明しろ!」  ブラムも〈至後者《ハインドモースト》〉もこっちを見ていなかったことはカホなほどたしかだ。ルイスはふり返った。  自由落下している蜘蛛巣眼《ウエブアイ》が送ってくる映像の中で、あの銀の糸は両端に縁《エッジ》のついた銀のリボンになっていた。浅い樋のような形はリングワールドそのもののミニチュア版ともいえそうだ。無数の細いドーナツ形がそれを取り巻いている。  まちがいなく輸送システムだ。外壁の上をその三分の一の距離にわたって走っている磁気浮揚走路。ティーラの補修部隊がそれを外壁の外側におろしたのだろう。  ルイスはいった。 「いやまあ、ぼくが半年ほど目を離しているあいだに」 「もっと近くで見られるとよかったのですが」と、〈至後者《ハインドモースト》〉。  銀色の走路が通り過ぎた。もう見えるのは星々の眺めだけだ。蜘蛛巣眼《ウエブアイ》はフラフラ揺れながらリングワールドの床面の下にはいり、宇宙へと落ちていった。  ルイスはいった。 「考えてみればわかりそうなものだったな。あんたもさ、ブラム。ティーラの部隊が回収したラムジェットを運ぶのに、ほかの何を使ったというんだ?」 「これはずっと回転方向《スピンワード》の、おそらく宇宙港の張り出しまでつづいているのでしょう。工場をさがすなら場所をまちがえましたね」  積み重なった貨物プレートが出現した。与圧服と蜘蛛巣眼《ウエブアイ》スプレイとルイスのがらくたが乗っている。うかんだままのそれをルイスは肩で押しやり、〈侍者《アコライト》〉のための場所をあけた。  クジン人は与圧服一式を身につけて出現した──同心円になった透明な風船と金魚鉢のようなヘルメットだ。彼はそのヘルメットをうしろにはねのけてたずねた。 「準備はできたのか?」  ルイスは揺れる星々の眺めを指さした。 「でもあそこ[#「あそこ」に傍点]へ出ていきたくはないだろう?」  思いがけず〈至後者《ハインドモースト》〉が口をはさんだ。 「回路はまだひらいていますが、もう移動してはいません」 「なんだって……?」と、ルイス。  ブラムがきめつけた。 「プラズマ炎を噴きつけられ、一千マイル落下して、それでもまだ作動している[#「作働している」に傍点]だと? ありえない!」  ルイスは積み重ねた貨物プレートから蜘蛛巣眼《ウエブアイ》スプレイをとりあげた。 「やってみるか」  みんなの顔がふり返った。誰も意味がわからないらしい。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》回路を通して蜘蛛巣眼《ウエブアイ》をスプレイしてみたい。設定してくれ。どうなるか見てみようじゃないか」 〈至後者《ハインドモースト》〉が口笛を鳴らした。 「どうぞ」  |跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》にスプレイされたブロンズ色の網は、そのまま消えた。  一同は待った。〈侍者《アコライト》〉はそのあいだにシャワーを浴びた。リングワールドの弧の三十五度、五分半の移動。そしてその到着が確認される[#「確認される」に傍点]までにはまた同じだけ時間がかかる。転移ボックスによる移動は超光速ではないし、それは|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》も同じだろう。 「信号です」 〈至後者《ハインドモースト》〉がいって、もう一枚の舌をひらめかせた。五つめの窓がひらいた。  彼らは外壁ごしに星を見あげていた。画面の片隅にぼやけて見えるのは探査機《プローブ》だろう。お粗末な映像だ──でももう落下はしていない。探査機《プローブ》はせまい磁気浮揚走路の上に落ちたのだ。  ブラムがいった。 「〈侍者《アコライト》〉、スプレイを持っていけ。何かおもしろいものが見られそうなところにカメラをスプレイしてくるのだ。そうしたらすぐもどって報告しろ。グズグスしていると危険だぞ。危険があることはわかっているのだからな」  早すぎる。ルイスはまだスーツを着はじめたところだ。〈侍者《アコライト》〉は彼の準備ができる前にいってしまうだろう。 「待ってくれ。ブラム、武器を持たせてやれよ!」 「現場にいるプロテクターに対してか? むしろはっきりと丸腰であることがわかるほうがいい。〈侍者《アコライト》〉、いけ」  クジン人は姿を消した。  ルイスもスーツを着終えた。いまから十一分待たなければならない。  ハミイーは彼のような年寄りが十一歳の雄のクジン人を抑え守ってやれると本気で考えたのだろうか?  四分が過ぎたとき、何かが視野にはいった。ぼやけた黒い影のようなものが、ぼやけた窓の端を動きまわって、のんびりと探査機《プローブ》を調べている。やがてふいにそれ[#「それ」に傍点]が近づき、映像が鮮明になった──バブル型ヘルメットのついたスマートな異星の与圧服、骨のような口をした三角形に近い顔。一本の指先がさらに近づき、ルイスには見えない曲線をたどった。蜘蛛巣眼《ウエプアイ》を見つけたのだ。  一瞬それ[#「それ」に傍点]が水銀のようにすばやい身のこなしを見せたが、間に合わなかったらしい。何か黒いものがヒラリとそれ[#「それ」に傍点]をかすめて飛び去り、視野の外に消えていった。  スマートな侵入者のスーツの左脇腹が大きく切り裂かれていた。それ[#「それ」に傍点]は古めかしい化学ロケット・モーターのような武器をあげた。白紫の炎が襲撃者の背後を襲ったが、はずれたらしい。スマートなそれ[#「それ」に傍点]は片手でスーツの裂け目を押さえ、もう一方の手で炎を浴びせながら、敵のあとを追って飛んだ。氷の霧が幽霊のように尾をひいた。 「あれはアンだ」と、ブラムがいった。 「どっちが?」 「襲ったほうだ、ルイス。あれはふたりとも吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクターだったが、アンの身のこなしには見おぼえがある」 「〈侍者《アコライト》〉に警告を送るにはどうすればいい?」 「もう間に合わないだろう」  ルイスは気がつくと歯ぎしりしていた。〈侍者《アコライト》〉はまだ現れない──どこにもいない。エネルギー量子の信号が光速で向かっているあの場所では、ひとりのプロテクターが別のプロテクターを殺し、つぎの敵を待ちかまえているというのに。 「おまえのティーラは疑うことを知らなかった」ブラムがいった。「彼女はひとりの吸血鬼《ヴァンパイア》をプロテクターにしたが、そいつはティーラに殺される前に同じ種族のプロテクターを何人かつくった。だがアンとわたしはそれとはまた別の種族なのだ」 「信号です」〈至後者《ハインドモースト》〉がもう一枚の舌をひらめかせながら報告した。  輸送用磁気浮揚走路の上に、いまやふたつの窓がひらいていた。 〈侍者《アコライト》〉が到着したのだ──そして蜘蛛巣眼《ウエブアイ》をスプレイした……何の上にしたのかはわからない。頭上の何かにだ。ほかに侵入者の気配はない。  クジン人が探査機《プローブ》を背後にして立ちどまった。探査機《プローブ》はなかば溶けてあちこちがへこみ、走路をふさいでいる。プロテクターはこの障害物をとり除かなければならないわけだ。 〈侍者《アコライト》〉、そこを離れろ[#「離れろ」に傍点]!  走路は無限の彼方につづいている。幅はおよそ二百フィート。幾何学的な直線を描いてどこまでものびている。 〈侍者《アコライト》〉はゆっくり身体をまわし、すべてを視野にとどめた。それからもうひとつ蜘蛛巣眼《ウエブアイ》をスプレイし、探査機《プローブ》にもどり、そして姿を消した。 〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。 「彼が消えました」 「ああ、どこにいったんだ?」 「わたしがここに核融合プラズマをまき散らしてもらいたがっているとでも思っているのですか?」 「どこに接続したんだ? あいつはどこに現れたんだ?」 〈至後者《ハインドモースト》〉は答えなかったが、ルイスはその答を知っていた。 「オリンポス山だな、|くそったれ《フリーマザー》め」  ルイスは|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》に駆け寄ろうとして思いとどまり、向きを変えて貨物プレートの山に飛び乗った。手すりにロープを通して道具ベルトにつなぐ──お粗末だが人間用の緩衝ネットだ。 「ハミイーに耳をちぎられ内臓《はらわた》をえぐり出されちまう!」  それから貨物プレートを浮上させ、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の上に導いた。  たちまち空の半分が星に、残り半分が闇になった。足もとにフラクタル図形の銀細工。その向こうに星が透けて見える。  すばらしい眺めだ。  磁気浮揚走路を端から端まで見わたす。地獄のような平穏さだ。何ひとつ動くものはない。  銀のレース細工。これと似たフラクタル・パターンを以前どこかで見たような気がする。この磁気浮揚走路は堅い樋のようなものだと思っていたが、いま見ると、網の隙間から星が透けて見えた。  なんだ! |風 車《ピンホイール》だ──地球から月や小惑星帯《ベルト》に大型貨物を送出するときいまでも使われている旧式な軌道索条である。フラクタル図形にすると張力をうまく分散できるのだ。しかしそんなことはどうでもいい──。 「ブラム、〈至後者《ハインドモースト》〉、磁気浮揚走路はレース細工[#「レース細工」に傍点]なんだ。見えるか? スプレイがあれば、すぐここに蜘蛛巣眼《ウエブアイ》をつけるんだが。そうすれば、リングワールドの影に隠れようとするものがあっても、レースごしに監視できる」  この声が彼らにとどくのは五分半後だ。|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクリワイアリー》号は光速でもそれほど遠くにいるのだ。  インクのしみのようなものが縁《へり》を乗り越えてあらわれ、ルイスのほうに近づいてきた……黒く塗った馬鈴薯の袋みたいな体躯で、すそのひろがった鐘のようなものを無造作に小脇に抱えている。  ルイスは貨物プレートの上昇スロットルに手をかけた。プレートは動かない。足もとには磁気浮揚走路があるが、それでは充分な浮力が得られないのだ。 「やつが持っているのはARMの武器だ」ルイスはいった。  それだけいっておけばあとは推測してくれるだろう。ARMの船が宇宙港の張り出しに着陸し、そこでプロテクターに出会ったのにちがいない。  ──だが、一度|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》からおりることができないとしたら、どうやって作動させればいいのか? この声が向こうへとどくころには、ぼくはもう死んでいる。オーケストラを連れてくるんだった──それともその指示を録音しておけばよかった──。  殺し屋プロテクターはいかにも優越的な態度でルイス・ウーを眺めている。彼女──もちろんアンだろう──のほっそりした身体を包んでいるふくらんだスーツは、もともと彼女より背の高いやつのものだったと見え、くぼんだ目があごの通信機の上にやっとのぞいている──それに横幅もゆとりがありすぎる──。  つぎの瞬間、ルイスは逆立ちしたまま赤い光の中を落下していた。  四方八方、頭の下までもが赤い岩だ。数百フィートのなめらかな熔岩がはるか下方へつづいている。貨物プレートがガクンと揺れ、赤い岩の上空で逆さ吊りになっているルイスはロープからすべり落ちそうになったが、そのときプレートの安定維持機能が働いて、彼は逆立ちから解放された。  脳髄と腹と内耳がグルグル渦を巻いている。目の焦点が合うまでにかなりの時間がかかった。  火星人の見張りはいないようだ。  彼はガラスのようになめらかな熔岩のそばに浮かんでいた。熔岩の断崖はほとんど垂直に……すごい……一千フィートも下へつづき、そこでスキーのジャンプ台のように水平になっている。底のほうにオレンジ色の点が見える。  半透明なスーツを着た〈侍者《アコライト》〉だ。あそこまで落ちても生き延びているかもしれないが……もしかすると。  火星人を気にする必要はなさそうだ。  火星人は今回、できるだけ高い崖のてっぺんに、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》をさかさまに設置したのだ。そのあと〈至後者《ハインドモースト》〉の燃料補給用|探査機《プローブ》を破壊した炎が|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》から噴き出した。罠を見張っていた火星人どもは黒こげになったにちがいない。そのとき崖の側面が熔けて流れ、こんな斜面になったのだ。  ルイスは貨物プレートを着地させ、ロープを解いて飛びおりた。〈侍者《アコライト》〉は熱く赤い岩の上に不自然な角度で横たわっていた。  ルイスはクジン人の下に肩を入れようとしたが、うまくいかず、結局その身体を半回転させて背中に乗せた。〈侍者《アコライト》〉は身動きもしない。折れた肋骨が動くのが感じられる。  ここが本物の火星ならもっと軽いのに。  腹筋と膝と背中に力をこめて、うなりながら持ちあげようとした。あがれ! 成人|間近《まぢか》のクジン人と装備一式がようやく貨物プレートにころがしこめる高さまであがった。  ルイスも這いあがり、クジン人をロープに固定して、貨物プレートを浮上させた。軽くスラスターをかけて|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の真下にはいり、肩が触れるまで上昇した。  転移。貨物プレートを上に逆立ちしたまま、ニードル号の中に出現する。  あとはブラムがやってくれた──貨物プレートをもとにもどし、クジン人のスーツをとめているシールをぜんぶひらいてその身体をひっぱり出した。クジン人の目がまたたいて焦点を結び、ルイスを認めた。それ以外の部分を動かすことはできないようだ。  ブラムはルイスのスーツもそっと脱がし、〈侍者《アコライト》〉のそばに横たえて全身をチェックしてくれた。  おそろしく痛かった。 「筋肉と腱をいくつか傷めている。治療が必要だが、クジン人のほうが重傷だ」 「彼を先にしてくれ」と、ルイス。  もし〈侍者《アコライト》〉が死んだら、ハミイーに何といえばいい?  ブラムはクジン人を軽々と抱えあげ、医療機《ドック》に放りこんで蓋を閉じた。ふと奇妙な考えが浮かんだ──ブラムは彼の許可を待っていたのだろうか?  いや、それほど奇妙なことともいえまい。襲ってくる猛烈な痛みを、彼はブラムに気づかせまいとした。ルイスはヒト型種族であり、〈侍者《アコライト》〉はそうではない。異星人を先に治療しようとする場合、プロテクターは繁殖者《ブリーダー》の許可を得なくてはならない[#「ならない」に傍点]のだろう。  ブラムが彼を抱きあげ、流れるようなひと動作で貨物プレートに乗せた。苦痛が全身を駆け抜け、息がつまって悲鳴もあげられず、のどの奥でかすれてしまった。ブラムはティーラの医療キットからの導線とチューブをルイスにつないだ。 「ここのストックの多くは補充が必要だな、〈至後者《ハインドモースト》〉。おまえの大きな医療機《ドック》は薬をつくることができるか?」 「供給装置《キッチン》に薬品メニューがあります」  左舷《ボート》と|右 舷《スターボード》の壁が熱でオレンジ色に輝いている。  窓のひとつでは、あの黒い袋のような人影が磁気浮揚走路の縁《へり》を越えて姿を消すところだった。あとには無限につづく銀色の道だけが残された。  苦痛が退いてきた。ルイスは意識が薄れかけているのを感じた。  細いこぶだらけの腕が身体にまわされた。かたい指先があちこちをさぐる。肋骨に鈍い痛みがあったがすぐに消え、ついで背中のどこかがミシリと鳴った。さらに下へいって腰の関節も、右の膝も。  耳もとでブラムの声が聞こえたが、ルイスに話しかけているのではなかった。 「〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉はわれわれに、数万の|こぼれ山《スピル・マウンテン》の中からわざわざあのひとつの村を選んで見せようとしている。なぜだ?」 〈至後者《ハインドモースト》〉が答えた。 「あなたにもわからないのなら……」  そしてルイスは眠りに落ちた。 [#改ページ]      28 |抜 け 道《パッセージ》 「感じるかい?」 「ええ」ワーヴィアが答えた。  部屋が揺れている。四方の壁も、足もとの岩も、ごく小さく震動している。  奇妙な乗物から降りたときは方向感覚が狂ってめまいがしたが、数時間眠ったおかげでそれも消えた。これは何か別のものだ。テガーもはじめは気づかなかった。だがいまこの暗い部屋で感じられるのは、ワーヴィアの息づかいと果てしない震動だけだ。 「いったい──」 「海の底の泥よ。山頂に落ちて、ここまで流れてくるのが感じられるの」  テガーは闇の中で彼女を見つめた。 「外壁の裏側からパイプを通って運ばれてくるの。そして縁《リム》の端から五十|日徒歩距離《デイウォーク》のところに落とされる」ワーヴィアはつづけた。「|こぼれ山《スピル・マウンテン》の上にね。|こぼれ山《スピル・マウンテン》はみんなそうやって出来ている[#「出来ている」に傍点]。ポンプがなかったら、〈アーチ〉のもとにある泥はぜんぶ海にたまったまま残ってしまう。〈|ささやき《ホイスパー》〉が教えてくれたわ」 「おまえは〈|ささやき《ホイスパー》〉からおれよりいろんなことを聞いたんだな」 「彼女、いまどこにいるのかしらね」 「女なのか?」  指があごをくすぐった。 「そう思っただけ。たずねたけど、答えてくれなかった。海底の泥がなんて呼ばれているか、知ってる?」 「なんていうんだ?」 「フラップ」  テガーは腹の底から笑った。 「なんだって? おまえ、ずっとそれを──|ちくしょう《フラップ》、フラップのもとの意味を考えたやつなんて、これまでひとりもいなかったにきまってる。海底のだって?」 「山はそれで出来ているの。圧力でそれが岩になって──」  白い光が周囲にあふれ、声が呼びかけた。 「おはよう」  ふたりはあわてて毛皮を巻きつけながら起き出した。 〈|高 所 人 種《ハイ・ポイント・ピープル》〉はふたりに、サロンのと同じ、傷のある頭部のついた緑の斑点のある大きな毛皮をおいていった。それを着たワーヴィアはとてもかわいらしく見えた。  ワーヴィアがふいに気づいてささやいた。 「いまのは〈|高 所《ハイ・ポイント》〉の訛りじゃなかった──」 「おはよう。きみたちが聞いているのはルイス・ウーの声だ。話してもいいかな?」  まぶしい光に向かってテガーはまばたきした。こまかいことはわからないが、男の形と、さらに奇妙な何かが見える。 「おまえはおれたちのプライバシーを侵害している」テガーはいった。 「もう目を覚ましていたじゃないか。きみらがずっと運んできたスパイ装置はぼくたちのものだ。話をするか、それともまた別のときにしようか?」  革張りのドアのわきの木材がノックされ、女の声が呼んだ。 「テーガー? ワービーア?」 「|ちくしょう《フラップ》! どうぞ」テガーが答えた。  革張りのドアからジェンナウィルとバレイエと、そして血の匂いがはいってきた。 「前の部屋においていこうかと思ったんだけど、声が聞こえたのでね」若い女がいった。「これはグウィル。スクリープがあなたたちのために殺したんだよ」  グウィルというのは大きな蜥蜴《とかげ》だった。尾がまだピクピク動いている。 「ちょうどよかった」  テガーはそういってグウィルを手にとった。鎧のような皮膚だ。剥がなくてはならない。まばゆい|蜘蛛の巣《ウエブ》とその中の怪物に向かって彼は話しかけた。 「〈|高 所 人 種《ハイ・ポイント・ピープル》〉のジェンナウィルとバレイエだ。彼らはおれたちにとって推測でしかないことも知っているから、聞いてみるがいい。ジェンナウィル、バレイエ、とうとうルイス・ウーに会えたぞ」  医療キットにあごをのせてまどろんでいるルイスの耳に、彼自身の声が聞こえてきた。 「きみたちが聞いているのはルイス・ウーの声だ。ぼくの仲間、ブラムと〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉も見えるだろう。ぼくたちがいままで沈黙を守っていたのは、敵がいたからだ」 「おれたちはワーヴィアとテガーだ」甲高い異質な声が答えた。  ルイスはようやく目をあけ、赤い皮膚の|吸 血 鬼 殺 し《ヴァンパイア・スレイヤー》たちを認めた。 「なぜいまになって話しかけてきたんだ?」 「質問したいことがあったからだ」  たしかにそれはルイス・ウーの声だが、しゃべっているのは〈至後者《ハインドモースト》〉だった。 〈|高 所《ハイ・ポイント》〉の男がいった。 「あなたには秘密の鏡と緑《リム》を越える|抜け道《パッセージ》と、その他なんでも望むものを見せよう」 「ありがとう。それで、|抜け道《パッセージ》を通る用意はできているかね?」  ジェンナウィルがショックで飛びあがった。 「だめ! あそこにはいつもヴィシュニシュティが──」  ルイスの翻訳機が一瞬ためらった。 「──プロテクターがうろついている」  ルイスは口をはさまないことにした。酔っぱらったような、頭が変になったような気分で、痛みは感じようとしても影をひそめている。話の筋もつかめそうにないし、だいたいルイス・ウーの声≠ェふたつあったら、彼らは変に思うだろう。 〈至後者《ハインドモースト》〉がいう。 「プロテクターについて、知っていることを聞かせてくれないか」 「プロテクターには二種類ある。〈|高 所《ハイ・ポイント》〉のプロテクターはわたしたちの安全を守ってくれるが、|平  地《フラットランド》のプロテクターの命令に従っていて──」 「〈|高 所《ハイ・ポイント》〉のプロテクターと話し合えないかな?」 「無理だと思う。|平  地《フラットランド》のプロテクターからそれを隠しておくことは不可能に近いし、プロテクターは目立つから。たずねてはみるが」  パペッティア人がたずねた。 「〈|ささやき《ホイスパー》〉とは話せないかな?」  なんだって[#「なんだって」に傍点]? 〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉が顔を見合わせた。女のほうがきっぱり答えた。 「〈|ささやき《ホイスパー》〉は話さないでしょう」 「〈|ささやき《ホイスパー》〉については何を知っている?」 「まったく何も」 「|抜け道《パッセージ》の向こうには何があるのかね?」  バレイエがいった。 「毒、だと思う」  ジェンナウィルが説明した。 「プロテクターは|抜け道《パッセージ》を通るとき、身体のあらゆる部分を蔽う服を着る。はいるときも出るときもものすごい量の道具を運んでいる。向こうに何か巨大なものをつくっているという噂がある」  赤い女がいった。 「ルイス・ウー、この目をここまで運ぶのは〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉が力を合わせてやったことです。夜になれば、彼らと話せます」 「あとどれくらいで夜になる?」  ジェンナウィルが答えた。 「十分の二日」 「では待とう」  ルイス・ウーの声はそういってから、コントラバス四重奏のような声で歌った。  ブラムがたずねた。 「聞いたか、ルイス?」 「途中からね。うまいもんだな、〈至後者《ハインドモースト》〉。だが変装もしたほうがいいんじゃないか?」 「ルイス・ウーは|偉大な魔法使い《ヴァシュネシュト》なのですよ」と、〈至後者《ハインドモースト》〉。「奇妙な従者が代理をつとめ、本人は姿を見せません」 「|なるほど《ステット》。それで、〈|ささやき《ホイスパー》〉っていうのはなんだろう?」 「アンだ」ブラムがいった。「赤い男を導く〈|ささやき《ホイスパー》〉のテープを見た。彼女はクルーザーの遠征を隠れ蓑に使ったのだ」 「〈|ささやき《ホイスパー》〉≠ゥ、ピッタリだな」ルイスはいった。 〈至後者《ハインドモースト》〉が窓から目を離してふり返ってたずねた。 「ルイス、あなたはどう思います? 〈|ささやき《ホイスパー》〉はどこにいるのでしょう? 干渉してくるでしょうか?」  ルイスは窓の中にいる人々を見つめた。麻酔が効いているが、意識を失うほどではない。 「ブラム、彼女の目的を推測できるのはあんただけだな」 「そうだ」 「クタクタで頭がまわらない。できたらあんたが答えてやってくれないか」 「お望みのままに」〈至後者《ハインドモースト》〉が答えた。  ワーヴィアがナイフでグウィルの皮を剥いだ。  テガーはいった。 「〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉は殺したての肉を食うんだ。見ていて楽しいものじゃないぞ」  ワーヴィアがグウィルを裂いて片方をテガーに手渡した。ふたりがそれにかぶりつくのを、〈|高 所 人 種《ハイ・ポイント・ピープル》〉たちは驚きながらも魅せられたように見つめている。窓がブロンズ色の|蜘蛛の巣《ウエブ》にもどってしまったのに、なぜふたりはまだここにいるのだろうと、テガーはふしぎに思った。  骨だけになった。目顔でたずねると、バレイエが捨て場所を教えてくれた。  ジェンナウィルがいった。 「テーガー、ワービーア、あなたがたはわたしたちの毛皮の内側を見るまでレシュトラのことを話さなかったね」  ──そういうことだったのか──。 「わたしたちは生涯にひとりの相手としか性関係を持ちません」  ワーヴィアがそういって、テガーに視線を向けた。ふたりの意志が通じ合い、彼女はつづけた。 「ある出来事がきっかけでわたしたちは変わりました。でもリシャスラを必要とするようになったわけではありません。選択ができるようになっただけです」  テガーもその間題は考え尽くしていた。 「バレイエ、ジェンナウィル、リシャスラする〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉の話など聞いたものはいない。もしおまえたちの鏡でその話が|平  地《フラットランド》じゅうにひろまったらどうなる? おれたちはどこに住めばいい? 誰がおれたちの子供の伴侶になってくれる?」  ふたりの〈|高 所 人 種《ハイ・ポイント・ピープル》〉は顔を見合わせた。 「〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉は見ましたよね、ジェンナウィル?」と、ワーヴィア。「あなたがたが下界から訪れた赤い皮膚の客とリシャスラしたことが知られたらどうなります? 〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉は何を期待するでしょう?」  バレイエがうなずいた。 「彼らもわれわれとレシュトラしたいと考えるだろうね。わたしとわたしの伴侶は変わりすぎているのだろうか?」  ワーヴィアは彼のたくましい肩を軽くたたき、笑い声をあげた。これで拒絶の意志が通じたかどうか。 「彼らは姿だけじゃなくて、匂い[#「匂い」に傍点]もひどいから」  バレイエが安心させるように彼女の腰をたたいた。 「では、またひとつ秘密が増えたことになるね」  おもしろいやりとりだ。ルイスは好色な好奇心を押さえながら眺めていた。  ノウンスペースのどんな世界でも、こうしたショウは有料チャンネルの人気番組だ。もちろんこれは記録されている……そういえばこの蜘蛛巣眼《ウエブアイ》はいくつの感覚を記録できるのだろう? 視覚と聴覚はもちろんだが、嗅覚は? 運動感覚は?  いつのまにか彼は眠りに落ちていた。  たぶん数時間が過ぎたころだろう。目を覚ましたルイスは、身体の上に自分自身がのしかかっているのを見てびっくりした。  ちがう──それは彼の与圧服だった。ただし人間ならなめらかなはずの場所がいくつか、骨が折れたみたいに飛び出ている。  ヘルメットをうしろにはねのけて、ブラムがたずねた。 「大丈夫か?」 「まだだいぶ痛い」  医療キットが点滴をしてくれたが、痛みが潜んでいる場所はいまでもはっきりわかる。 「肋骨が二本ずれていたので、なおしておいた。骨は折れていない。筋肉を酷使したため靭帯と腸間膜が裂けていた。椎間板もずれていたが、もとどおりにしておいた。おまえ自身の治癒力とその医療キットだけでは、まあそのあたりが限度だろう」 「なぜぼくのスーツを着ているんだ?」 「計略のためだ」 「ぼくのちっぽけな頭には複雑すぎるっていうのか? いいさ、ブラム。来訪者がもっと増えることにあんたもそのうち気づくだろう。この装置がはずれたら、ルイス・ウーの声に顔をつけてやるよ」 〈至後者《ハインドモースト》〉とブラムがルイスの両脇やや後方に控えている。蜘蛛巣眼《ウエブアイ》の窓の向こうでは、毛皮にくるまった〈赤色人《レッド》〉たちが〈|屍肉食い《グール》〉に中央の場所をゆずっていた。 〈|屍肉食い《グール》〉は身体を震わせていた。  やせた女がいった。 「外は寒い! そう、わたしは〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チュープ》〉で、こちらが〈|竪琴弾き《ハープスター》〉だ。そちらの箱はわたしの言葉をちゃんと伝えているか?」 「ああ、良好だよ。でもどうしてぼくの翻訳機のことを知ってるんだ?」 「おまえの友人の〈作曲家《テューンスミス》〉は旅立ったらしいが、おまえが〈|機織りの町《ウイーヴァー・タウン》〉を訪れたことは息子の〈竪琴笛《カザープ》〉が伝えてくれた」 「〈竪琴笛《カザープ》〉によろしくいってくれ。でも、〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チユープ》〉、あんたが〈作曲家《テューンスミス》〉を通じてぼくと話せるのだったら、なんだって二|人 重《マンウエイト》もあるこの石の板をわざわざこんな遠くまで運んできたんだ?」 〈|屍肉食い《グール》〉の笑いは歯が少しばかり[#「少しばかり」に傍点]あらわになりすぎる。 「話せることはたしかだが、それで彼になんといえばいいのだ? 外壁が誤ったものの手に落ちていると? われわれにも確信はない。そこのおまえ、おまえはヴァシュネシュトなのか?」  プロテクターなのか、と翻訳機は伝えた。 「そうだ」ブラムが答えた。  テガーは立ちあがろうとしたが、ワーヴィアが引きとめた。〈|屍肉食い《グール》〉たちも一瞬ひるんだが、〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が気持ちを立てなおしてプロテクターに話しかけた。 「われわれは自分たちの無力さを思い知らされている。ここに吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクターがいて、家畜の肉を食うように〈|高 所 の 民《ハイ・ポイント・フォーク》〉を捕らえているのだ。プロテクターになってもどってくるものもあるが、多くはそのまま消えてしまう」  ブラムがいった。 「彼らは〈アーチ〉を補修しているのだ」 「悪よりも多くの善をおこなっているというのか?」 「そうだ。だが数が多すぎるし、補修が終わったら戦いが起こる。そのバランスを正すことができればいいのだが」 「われわれにできることがあるだろうか?」 「もっと情報を集めたい。知っていることをできるだけ話してくれ」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が大きく肩をすくめた。 「われわれが知っていることはすべて伝えた。夜が明ければ、〈|高 所 人 種《ハイ・ポイント・ピープル》〉がさらに多くのものを見せてくれるだろう」 〈至後者《ハインドモースト》〉が笛のような音をたてると、窓が縮んでただの背景にもどった。 「待ちましょう」と、彼はいった。「ルイス、さきほどの会話は記録してあります。彼らはプロテクターについてかなりの情報を持っていますし、ティーラ・ブラウンのことも知っているようです。さて、あなたのために歌いましょうか?」  ブラムはもう|秘密の族長《ヒドウン・ペイトリアーク》号から持ってきた楽器の箱に手をのばしていた。 「ちょっとした音楽つきのディナーってのもいいね」ルイスは礼儀正しく答えた。「腹もへったことだし」  ルイスは身体をのばそうとした。〈侍者《アコライト》〉を持ちあげようとしたことで、大切な筋肉と腱を傷めてしまった。ブラムの手当てでいくらか回復したが、それでも動くときは慎重にしなくてはならない。  何時間もが過ぎた。いま〈|高 所《ハイ・ポイント》〉の窓では、暗い夜の山景がゴトゴト揺れながら回転していた。ヒト型種族の混成チームが、盗んだ蜘蛛巣眼《ウエブアイ》を車輪のようにころがしながら、村の踏み固め道を進んでいるのだ。村を離れて岩だらけの斜面をのぼりはじめるころになると、ルイスは胃の中がむかつきはじめた。  彼は映像に背を向けた──何かおもしろいものが見えたら、仲間たちが知らせてくれるだろう。  それにしても、クジン人はどうしてこんなに時間がかかっているんだ?  ノウンスペースだったらどこだろうと、少なくとも医療機《ドック》を使うことくらいはできたのに! 医療キットではせいぜい化学薬品を注入することしかできないし、いまから数分後にはまたそれをくり返さなくてはならない。  いまや蜘蛛巣眼《ウエブアイ》とその裏打ちの石を運んでいるのは四人の〈|高 所 人 種《ハイ・ポイント・ピープル》〉だけになった。墨を流したような闇の中で斜面をのぼっていく。サロンが〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉と〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉に足場を教えるため先導してくれている。 〈|屍肉食い《グール》〉たちも最初は運搬に手を貸していたが、いまはもう彼らも呼吸するだけでやっとのようだ。 「まもなく明るくなります」ワーヴィアが〈|屍肉食い《グール》〉の女にいった。「そうしたらどうするのですか?」 「それまでに|抜け道《パッセージ》に着くだろうといわれた。そこに隠れられる」  もう道はなくなっていた。かたい泥と岩の上にかろうじて踏み固めたあとが残っているだけだ。一行は、無限にひろがる|平  地《フラットランド》の何マイルも上へ、どこまでもどこまでも斜面をのぼりつづけた。  回転方向《スピンワード》のほうから明暗境界線《ターミネーター・ライン》と昼光が近づいてくるのが見えた。  |こぼれ山《スピル・マウンテン》の中腹から眺める下界はまるで浮き彫りにした地図のようで、〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の塀の外に〈|屍肉食い《グール》〉たちがつくった地図とそっくりだった。彼らにあんなものがつくれたのは、こうした景色を見ていたからだろう。  さらにのぼっていくと、徐々に細部はかすんで見えなくなった。ところどころで水たまりをつくっている銀色の糸は、〈|故郷の流れ《ホームフロー》〉か、ほかの川か、それともまったく別の何かかもしれない。  ワーヴィアも同じようなことを考えていたのだろう。 「〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉が移動する土地は、ここからでもちゃんと見えるくらい大きいのかしら? わたしたち、もう一度〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉と会うことができるのかしら?」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。 「そんな心配するほどの問題では──」 〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉がそのあとをつづけた。 「わたしの種族は〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉の移動する経路も知っている。彼らが──失礼」  言葉を切ってひと息ついてからつづける。 「鏡の言葉で──道を教えてくれるだろう。おまえたちは新しい故郷を見つける──ここにやってきたときと同じくらい簡単に」 「まあ、よかった」  そしてワーヴィアは笑いだした。 「あなたがたの解決方法はすばらしいわ! わたしたち、こんなに遠くまで旅をしてくる必要はなかったのね」  ワーヴィアの見ている前で弱みを見せたくないテガーは、力の抜けていく足を踏みしめてサロンについていった。彼女もいまは前よりゆっくり足をはこんでいるようだ。重い蜘蛛巣眼《ウエブアイ》を運んで斜面をのぼっていく〈|高 所 人 種《ハイ・ポイント・ピープル》〉たちのあえぐような息づかいが聞こえてくる。  回転方向《スピンワード》から昼が押しよせてきた。太陽の最初の端が夜の影から顔をのぞかせると、〈|竪琴弾き《ハープスター》〉は荷物の中に丸めてつっこんであった巨大な縁のついた帽子をふたつとり出した。これで〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉だけは日陰を歩くことができる。 「わたしたち、〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉の領域のはずれにいこうと思っています」ワーヴィアがいった。「すでにひろまりはじめているはずの物語から、できるだけ遠い場所に」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。 「それはだめだ。ワーヴィア、〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉はすべてが同じ種族ではないのだから」 「とんでもない、みんな同じです!」と、ワーヴィア。  テガーがいった。 「ふたつの部族が出会ったとき宴席を設けて、そこで相手の部族のものに求婚する。それは誰もおぼえていないほど昔からの習慣だ」 「それはよい風習だ──」と、〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が答えた。。 「しかしいつもそうしているわけではあるまい」と、〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉。「おまえとワーヴィアは同じアクセントで言葉を話すが──」 「ああ、おれたちはふたりともジンジェロファーの部族で生まれたからな。だが、別の部族から伴侶を迎えるもののほうが多いんだ」 「そうした風習を捨てた部族もあるし、ジンジェロファーの部族のように強制しない部族もある。テガー、ジンジェロファーの部族から離れれば離れるほど、おまえたちの子供は、子供をつくれる伴侶と出会える可能性が低くなるのだよ。伴侶なしで一生暮らすなら問題にはならないが」 「|ちくしょう《フラップ》」と、テガーはつぶやいた。  岩屑を積んでつくった障壁を迂回したとき、一瞬何かが光るのが見えた。  鏡というのはどんな風に見えるのだろうと、テガーはいろいろ想像していた。だがいま、彼の目に鏡そのものは見えなかった。見えているのは自分自身とワーヴィアと〈|屍肉食い《グール》〉と〈|高 所 人 種《ハイ・ポイント・ピープル》〉と、空と外壁だ。それは単に背後の眺めを映し出すたいらな窓だった。高さは〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉の身長くらい、幅はその三倍くらいだろう。  彼らは|蜘蛛の巣《ウエブ》と石板を慎重に、ピッタリと鏡にもたせかけた。サロンと男たちが鏡の端に近づき、〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉もそれにつづいた。 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が群衆を前に演説しているかのように、子音を際立たせる歯切れのいい口調で語りだした。  男たちが鏡を前後に揺らしはじめた。蝶番がついているのだ。ジェンナウィルがテガーの背後に立って、縁《リム》沿いの方向を指さした。  隣の|こぼれ山《スピル・マウンテン》のほうだ。男たちが鏡をかたむけるたびに、その山腹で光点が上下している。  テガーはたずねた。 「どういう仕掛けになっているんだ?」  ジェンナウィルは笑った。 「では〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉もぜんぶ話してはいなかったんだね! 太陽鏡の光が送るのは、〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉とわたしたちだけが知っている信号なんだよ。山から山へ情報を伝えるのだけれど、|平  地《フラットランド》から山へ、あるいは山から|平  地《フラットランド》へ伝えることもあるよ」  それで多くのことが説明できる。天候のことも、〈|影 の 巣《シャドウ・ネスト》〉のことも、ブロンズ色の蜘蛛の巣のことも、〈|屍肉食い《グール》〉たちはいつでも驚くほどいろいろなことを知っていた。  四人がまたルイス・ウーの目を持ちあげ、サロンが命令した。 「この岩の出っぱりをまわって上に向かうんだ」 「〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉とわたしはおまえたちの問題について話し合ってきた。その答えが出たと思う」〈|竪琴弾き《ハープスター》〉がいった。  テガーもまた、ずっとそのことを考えてきた。 「二頭の雄牛のあいだで押しつぶされているようなものだな。あまり遠くまでいくと子供が不幸な目に遭う。ジンジェロファーの移動経路に近すぎると噂から逃れられない」 「わたしたちは目立ちすぎます」と、ワーヴィア。「簡単に正体を知られてしまう。もしリシャスラを学んだ|吸 血 鬼 殺 し《ヴァンパイア・スレイヤー》の噂が伝えられたら、それはわたしたちのことなのだから」 〈|竪琴弾き《ハープスター》〉が鋤のような歯をむきだしてニヤリと笑った。 「こんな伝説はどうかな。むかしむかし、すべてのヒト型種族は一夫一婦制だった。どんな男も自分の伴侶以外には目をくれなかったし、女も自分の男からわき見をしなかった。ふたつの種族が出会ったときには戦いが起こった。  そこへふたりの英雄が現れ、ほかの生きかたもあることを見つけ出した。リシャスラを発明して戦いを終わらせたのだ。彼らは聖職者のようにリシャスラをひろめ──」  ワーヴィアが声をあげた。 「〈|竪琴弾き《ハープスター》〉、本当にそんな伝説があるの?」 「まだない」 「なあんだ」 「〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉は話を伝える相手を選ぶが、口をつぐんでいると考えてはいけない。あの太陽鏡を見ただろう。あれがわれわれの声だ。僧侶は死者の処理のしかたを心得ていなくてはならない。だから僧侶はわれわれと話をする」  道はけわしく、全員の呼吸が荒くなった。 「われわれはさまざまな場所で話をひろめることができる」と、〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉があとをつづけた。「年老いた女が、あるいは男が、伝説を伝えるだろう。自分たちの種族にリシャスラを発明して戦いを終わらせた英雄がいて、それ以後彼らはリシャスラをするようになったという物語だ。種族によってこまかい部分は異なる。やがてそのひとつに、件《くだん》の英雄とは、吸血鬼《ヴァンパイア》を滅ぼす同盟を結ぶために戦いを終わらせた〈|赤い牧人《レッド・ハーダー》〉であるという話が──」 「ただの話じゃないか」  テガーは笑ったが、うまくいきそうな気がしてきた。 「ただの話にすぎないよ。そうだろう、ワーヴィア?」 「そうかもね」と、彼女は答えた。「たぶんね。でもやってみる価値はあるわ。わたしたちのあいだにさえ嘘がなければ、少しくらいの嘘は平気よ」  都市でもっとも高い建物ほどもある巨岩が垂直に割れており、〈|高 所 人 種《ハイ・ポイント・ピープル》〉は一行をその裂け目の中へ連れていった。岩の表面全体にさまざまな色彩の縞模様が走っている。 「氷のしわざだよ」デーブがいった。「水が岩にしみこんで、凍る。溶けて、また凍る」  氷のような風が音をたてて吹きこみ、露出しているわずかな肌を見つけては突き刺さった。目にも突き刺さる。テガーは目を閉じたままワーヴィアのあとから手さぐりで進んだが、ワーヴィアもまた目を閉じていることは同じだ。  大きな手に胸を押されて彼は足をとめた。かすかに目をあける。  ついに、風から身を隠せる場所──山にあいた岩のトンネルにたどり着いたのだ。だがその入口がやっと見える岩の裂け目の中で、一行は歩みをとめてしまった。そこからゴツゴツした岩の入口までは、砕石を敷いたのぼり坂がつづいている。  バレイエがはじめて口をひらいた。 「テガー、あそこは避難所にはならないよ」 「なぜだ? 中に怪物でもいるのか?」と、彼。 「そう。ヴィシュニシュティがいるのでね」  彼らは|蜘蛛の巣《ウエブ》をその入口のほうに向けて立てかけた。バレイエはまた口を閉ざしてしまった。  サロンがいった。 「ルイス・ウー、見えるかね?」  ブロンズ色の|蜘蛛の巣《ウエブ》が答えた。 「ああ、ぼんやりとだがね。あれはどこまでつづいているんだ?」 「わたしたちはあれを、この高い山を貫く|抜け道《パッセージ》だと考えているんだがね。誰も奥までいったものはいない」 「中にはいったことはあるのか?」  デーブが答えた。 「〈死の光〉が輝いたときは、〈|高 所《ハイ・ポイント》〉の大半と、空から訪れた百人ほどの客があそこにはいったよ。夜だけは外に出て狩りをしたがね。〈死の光〉が消えると追い出され、もどってはならないといわれたんだよ」  息まじりの声がいった。 「そのヴィシュニシュティのことを詳しく話してくれ」  テガーはワーヴィアと目を見合わせた。|蜘蛛の巣《ウエブ》から聞こえたその声の主はヴァンュネシュトのブラムだ。だがそれは〈|ささやき《ホイスパー》〉の声にもよく似ているような気がした。 「ヴィシュニシュティはわたしたちの面倒をみてくれたよ」デーブが答えた。「しかしそれ以後、一度も姿を見たものはいないね」 「なんだと、一度もか?」 「でも、ときどき姿を消すものがあってね。|抜け道《パッセージ》には、はいっていい限度がある。だからあの中にも死があり、外にも死があることになるね」 「自分たちで隠れ場をつくることはできなかったのか? 放射能……いや、〈死の光〉は岩でも防げるのだが」 「それは知っている。洞窟に隠れろとヴィシュニシュティがいったからね。でも岩の家をつくるのか? 山が揺れれば、頭の上に岩が落ちてくるよ!」  ルイス・ウーの声がいった。 「ぼくはいまそこから数十|日徒歩距離《デイウォーク》も高いところから撮った写真を見ているんだが、これだけ遠くても、そこの様子ははっきり見える。あんたたちが住んでいる山はひらたい円錐みたいな形をしているが、そのトンネルのあたりだけは、壁から突き出たパイプのまわりに砂の城を積みあげたみたいになっているんだ」  彼らにはそれだけでは意味が通じなかったらしい。 「ああ。つまり、その|抜け道《パッセージ》は山より古くて、おまけにずっと頑丈なんだよ。スクライスでできているにちがいない。山は自分の重みで徐々にかたまったが、パイプはずっとその場所にあって、ヴィシュニシュティはいつも入口のあたりを掘り返さなくてはならなかった。ぼくをその中へ連れていってくれないか?」 「だめ!」バレイエとサロンとジェンナウィルが叫んだ。  デーブがいった。 「わたしたちは追い出されたのだよ! もし見つかったらみんな殺されてしまうよ!」  サロンがいった。 「わたしたちはずっと割れた岩の上をたどってきた。足跡も匂いも残していない。でもこれ[#「これ」に傍点]を持ってきたことをヴィシュニシュティに知られたら、わたしたちは殺される」  抗議したのは〈|竪琴弾き《ハープスター》〉だった。 「それではわざわざここまできながら、ルイス・ウーの目はほとんど何も見ることができないではないか」 「でもしかたがない。ハリード、あとに残って、わたしたちの痕跡があったら隠すんだ。〈|竪琴弾き《ハープスター》〉、ハリードの代わりに力を貸してくれるかね?」  声がいった。 「|蜘蛛の巣《ウエブ》をそこにおいていくのだ」  九人のヒト型種族は凍りついた。ほかに人影は見えない。そして──それは〈|ささやき《ホイスパー》〉の声でもプロテクター・ブラムの声でもなかったが、同じように息の混じった発音だった。 〈|高 所 人 種《ハイ・ポイント・ピープル》〉は岩の割れ目を抜け、静かにもときた道をたどり、斜面をくだっていった。帽子の影でもほとんど目が見えない〈|屍肉食い《グール》〉の先に立って、テガーとワーヴィアもそのあとにつづいた。  裂け目に立てかけたブロンズ色の|蜘蛛の巣《ウエブ》をそこに残し、一度もあとをふり返らずに。 [#改ページ]      29 コ リ ア ー  |尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクリワイアリー》号の居住区画で、いまは四人が寝起きしていた──ブラムと〈至後者《ハインドモースト》〉とルイス・ウーと、かつて体操スペースだった場所におかれた巨大な黒い棺の中の〈侍者《アコライト》〉だ。全員が同じシャワー装置と同じ供給装置《キッチン・ウォール》を使っていた。  寝る場所については問題なかった。〈至後者《ハインドモースト》〉は就寝プレートをほしがり、それには誰も異議を唱えなかった。結局貨物プレートをウォーター・ベッドのそばに移して、ルイスはそこで寝ることになった。  いまルイスは弾力のあるその表面であぐらをかき、栄養ゼロで歯ごたえのあるものを噛んでいた。このところ退屈のせいで食べすぎている。鎮痛剤もとりすぎているようだ。  着陸船《ランダー》の格納庫でひとりで体操したかったが、それはブラムが許さなかった。それだけ順調に回復しているわけだ。  そこでルイスは、ブラムもいっしょにいってヨガか格闘技を教えようと申し出たが、ブラムはそれも断わった。何かが起きたときその場[#「その場」に傍点]にいたいのだろう……。  それにしても、いったいブラムは何を待っているのだろうか? この二日というもの、ずっと壊れた燃料補給用|探査機《プローブ》を見つめている。六つの窓──いまは五つだ──に重なってひらいた窓の前に立って、磁気浮揚走路の上に横たわる壊れたそれを、じっと見つめているのだ。  このままでは|退 屈 病《キャビン・フィーヴァー》にかかりそうだ。  船の左舷《ボート》と|右 舷《スターボード》では、消えかけた燠《おき》が玄武岩の黒に変わりつつある。宇宙だったらそこは両側とも無限の宇宙で、星が見えているはずなのだが。  クソッ、星だってある[#「ある」に傍点]ぞ。磁気浮揚走路につけた蜘蛛巣眼《ウエブアイ》では、銀細工のレースごしに宇宙が見えている。ただしルイスが真空にスプレイした蜘蛛巣眼《ウエブアイ》から見えるもうひとつの星空の眺めは、数時間前に消えていた。  もうひとつの窓では、盗まれた蜘蛛巣眼《ウエブアイ》が、なめらかな洞窟にはいっていった。エアロックと思われるものの中で数時間のあいだ停まっていたあと、いくつもの扉をくぐって、よくわからない奇妙な装置の山の前を抜け、また停止した。運搬している者の姿は見えないし、声もまったく聞こえない。  操縦区画《フライト・デッキ》には遠近さまざまな窓が重なり合っているため、見つめていると眼球がねじれそうな気がしてくる。ひとつは絶えず揺れ動く山脈のようなグラフで、その内容はわからない。残りのうち三枚は再生画像だ──燃料補給用|探査機《プローブ》の前を飛び過ぎていく〈|高 所  山《ハイ・ポイント・マウンテン》〉。紫の光に破壊されるまでの探査機《プローブ》の動き。真空の中でスーツを切り裂かれて死ぬプロテクター。  磁気浮揚走路に壊れて横たわる探査機《プローブ》を映している画面にはまったく動きがない。窓を前にしたブラムは、ダリの──そう、『せまりくる夜影』の暗いシルエットのようだ。  ルイスは目を閉じてウォーター・ベッドに沈みこんだ。  その目がパッとまたひらいた。窓のひとつで青白い光がひらめくのが見えたのだ。目を向けたときその光はもう消えていたが、壊れた探査機《ブローブ》が灼熱の光を放っており、はるか彼方から磁気浮揚走路の上を、何か小さなものがまっすぐこっちへ向かってくるのが見えた。  天文学的スピードで走路の一フィート上を近づいてくる──浮揚橇のようなものだ。それが乱暴に減速し、後部から人間のようなものが飛びおりて視野の外に姿を消し、同時に乗物は窓の数インチ手前で停止した。 〈至後者《ハインドモースト》〉がブラムの横に立った。  探査機《ブローブ》が冷えてくすんだ赤になり、それが黒ずみ、黒にもどった。  それは橇というより浅い箱だった。底は錬鉄の黒だ。側面は透明でほとんど見えず、紐を結ぶノブがついているので存在がわかる。そのノブに道具が結びつけられている──把手のついた杖はたぶんレーザー・カッターだろう。それに銃かロケット・ランチャーかエネルギー兵器らしい大口径のもの。挺子。積みあげた箱。骨格だけの金属製品。  その背後の窓が星空を映したと思うと、視野の中にほとんど空白の平坦な表面がせりあがった。ルイスはまぶしくて目をそむけた。盗まれた蜘蛛巣眼《ウエブアイ》がトンネルから出て、開放型エレベーターのようなものに乗せられたらしい。なんというタイミングの悪さだ。  声がいった。 「わたしにはこういう戦いの意味が理解できませんが、ルイスならできるでしょう」 「薬物がはいっていてもか?」 「たずねてみなさい」 「ルイス、起きているか?」 「ああ、ブラム、もちろん起きてるさ!」 「これはプロテクター同士の決闘だ──」 「中世の日本だな」ルイスはつぶやいた。  ああは答えたものの、薬のせいで眠くてたまらない。 「隠れてグサリだ。勝つためには手段を選ばない。ヨーロッパ流の決闘とはちがうんだよ」 「よし、おまえには理解できるのだな。では、なぜこの第二の侵入者がまだ生きているのかわかるか?」 「いや……待てよ」  新来者が身を低くしてすばやく近づき、探査機《プローブ》を調べた。身につけているのはこぶの多いリングワールドの与圧服で、胴の部分が太いのは 〈|ささやき《ホイスパー》〉のと同じだが、こっちは身体に合っている。  新来者は探査機《プローブ》に|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》がとりつけてあった痕跡を見ている。それからふと顔をあげたと思うと、一瞬のうちに姿が消えた。  だがルイスはその顔を見てとった。 「あれは|こぼれ山《スピル・マウンテン》のプロテクターだ。〈|ささやき《ホイスパー》〉も見たはずだ。あいつらは奴隷なんだ、そうだろう、ブラム? やつの主人が──磁気浮揚走路を支配しているプロテクターがいるはずだ。そいつがやつを送りこんだんだ」  窓が揺れ、それから何度も回転して、リングワールドの黒い裏側を映し、つづいて星が流れ、リングワールドが、また星が……。従者のプロテクターが磁気浮揚走路をふさいでいる壊れた探査機《プローブ》を片づけようと宇宙に放り出したのだ。  中央の窓があとをひきついだ。|こぼれ山《スピル・マウンテン》プロテクターがヒョイと跳ぶのが見えた。  ルイスはいった。 「最初のやつ──死んだやつが、走路の上に磁気浮揚橇を残していった。〈侍者《アコライト》〉はその橇に蜘蛛巣眼《ウエブアイ》をスプレイした。ぼくたちがいま見ているのはその窓だ。走路の上の探査機《プローブ》と橇は邪魔になる。そこで|こぼれ山《スピル・マウンテン》のプロテクターは探査機《プローブ》を投げ捨て、最初の橇をもとの場所、宇宙港の張り出しに送り返した。これで問題解決だ。いま彼は自分の橇に乗って……反対方向の、自分がやってきた場所にもどろうとしている」 「よくわかるな」と、ブラムがいった。 「〈|ささやき《ホイスパー》〉は自分でも手に負えないことをはじめたようだな」 「彼女はわたしが探査機《プローブ》を送りこんだと思ったのだろう」と、ブラム。「敵に調べさせたくなかったのだ」 「敵の数は、彼女にもわからないんだろう?」 「推測はできる。ティーラ・ブラウンからはじめて──」 「ああ。すべてはティーラからはじまったんだ」  苦痛ははるか彼方に消え、ルイスは宙に浮いているような気分だった。医療キットから離れて頭をすっきりさせたほうがいい。  蜘蛛巣眼《ウエブアイ》の窓が動きをとめた。そしてこれもまた前の橇と同じ方向に疾走しはじめた。 〈|ささやき《ホイスパー》〉が乗りこんで、さっきの橇を追っているのだ。 「ティーラはモーターの設置を手伝わせるためにプロテクターをつくった」ブラムがいった。「|こぼれ山《スピル・マウンテン》のプロテクターは信用できる──自分の種族を人質にとられているのだからな。〈|屍肉食い《グール》〉のプロテクターは〈アーチ〉の下のすべてを自分のものと考え、それを守るために行動する。そして吸血鬼《ヴァンパイア》は──」 「新たにスタートするわけだ。白紙の心を持ったプロテクターをティーラは教育した。あんたが[#「あんたが」に傍点]そういったんだぜ」 「そうだ。彼をドラキュラと呼ぼう」 「メアリ・シェリーにしようぜ」 「薬でいかれた繁殖者《ブリーダー》の分際で、わたしに異議を唱えるのか?」 「ティーラならプロテクターに女を選ぶだろうからさ。女三人ってわけだ」  ブラムが大きく肩をすくめた。 「|なるほど《ステット》。その名前は知らないが、|まあいい《ステット》。メアリ・シェリーは血族の子供を──自分の吸血鬼《ヴァンパイア》種族のプロテクターを──ティーラに隠れてつくった。火星の〈地図〉にもどったとき、ティーラにはふたりのプロテクターが従っていた。縁《リム》に残っているのは〈|屍肉食い《グール》〉だけのはずだった。  メアリ・シェリーは自分の血族が〈|屍肉食い《グール》〉を殺してとって代わることを見越していたにちがいない。彼らを通じて縁《リム》を支配できるわけだ。一方、|こぼれ山《スピル・マウンテン》のプロテクターは、ティーラが緑《リム》に太陽炎を浴びせようと計画していることに気づき、必死で自分の種族を守ろうとした。だが、このふたりともティーラに殺された。  そこで質問だ。メアリ・シェリーがつくったその血族は何人いる?」 〈至後者《ハインドモースト》〉が答えた。 「製造、捕獲、運搬、設置、補給」 「たぶん三人だ」と、ブラム。「製造にはすでに宇宙港にある補修設備が使える。船がくれば、製造担当者が捕獲する。補給に関しては、プロテクターは自分の必要とするものを他者にまかせたりはしない。|いいか《ステット》? 三人だな。製造係をラヴクラフト、運搬係をコリアー、その指揮をとるモーター設置係をキングと呼ぼう」  ルイスは思わず苦笑した。  ──ブラムはメアリ・シェリーというのが何者かも知っていたにちがいない──! 〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。 「わたしの種族なら、それだけの数で百人分の仕事をこなせます」 「そしてわたしの種族は」と、ブラムが応じた。「それぞれが自分の分野を、自分がいなくとも滞りなく運営されるよう手配する。それには〈|こぼれ山人種《スピル・マウンテン・ピープル》〉からつくったプロテクターが使える。彼らに製造と運搬と設置をまかせ、ラヴクラフトとコリアーとキングは襲撃のために身をひそめる」  ルイスはたずねた。 「その連中、〈|ささやき《ホイスパー》〉の出現を予測していたんだろうか?」 「〈|ささやき《ホイスパー》〉も、たがいの存在も、わたしのことも、星々からの侵略者のことも──この目で宇宙を見れば惑星の存在くらいは推測できるから──警戒はしていたはずだ。アンは縁《リム》にプロテクターがいることに気づき、機会さえあれば彼らが自分を殺そうとするだろうことを知った。その後どこで何をしていたにせよ、彼女はわたしにも彼らにも知られることなく縁《リム》にたどり着いた。そしてすでにラヴクラフトは殺した」 「でもコリアーにとっては絶好の標的になる。〈至後者《ハインドモースト》〉、蜘蛛巣眼《ウエブアイ》カメラは裏側を見ることはできないのか?」 「なんですと? そんなことが──いや、ガラスですね。〈侍者《アコライト》〉はガラスの上にスプレイしたようです」  パイプオルガンが悲鳴をあげたような声。 「できました。でも十一分待ちなさい」  十一分後、磁気浮揚走路を映していた窓がふいに反転[#「反転」に傍点]して、橇の内側を映し出した。  道具らしいものの形がぼんやり見分けられる。だがプロテクターが身を隠せるほど大きなものはない。〈|ささやき《ホイスパー》〉はどこへいったのか?  映像がまた反転した──前方の橇が速度をゆるめている。第二の橇もまたそれにならった。  管楽器の悲鳴が鳴りひびき、〈至後者《ハインドモースト》〉の首がふたつともはじかれたようにピンと立った。いまのは〈至後者《ハインドモースト》〉の歌ではなかった。ブラムがあの楽器で奏でた音だった。だがすでにそれは横におかれており、彼はそのまま|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》に歩み入ると姿を消した。  ルイスはいった。 「あれを見たか?」 「いってしまいましたね」〈至後者《ハインドモースト》〉が答えた。 「どこへ? なぜ?」 「わたしのほうが教えてほしいくらいです。ルイス・ウーは決闘がどういうものか理解しているのでしょう? 何か食べますか?」 〈至後者《ハインドモースト》〉が傍らに立って壜のようなものをさし出した。ルイスはそれを手にとってすすった。スープだった。 「いい味だ」  状況チェック──花崗岩はもとの場所にもどっている。 〈至後者《ハインドモースト》〉もルイス自身と同じく居住区画から動けないわけだ。 「与圧服の必要な場所へいったんだろうが、まだどこにも出現してはいない。〈至後者《ハインドモースト》〉、もしいま|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》のシステムを切ったらブラムはどうなる?」 「安全装置が働くので切れません」 「発光レーザーでシステムを吹き飛ばしたら? カホナ、レーザーはあいつが持っていっちまったんだな。それに|自 在《ヴァリアブル》ナイフも──」 「システムは船殻に埋めこまれているのですよ、ルイス」 「じゃ、オリンポス山に転移させてやれよ! それにしても、あいつはどこにいくつもりだったんだ? もう着いてるかもしれないな。地図を呼び出してくれ」 〈至後者《ハインドモースト》〉が音楽を奏でた。  何も起こらない。 「ロックされてしまいました」〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。「ブラムはわたしのプログラム言語を習得し、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》のコントロールを奪ったのです」  脚が身体の下でたたまれ、ふたつの頭が前脚の下にもぐりこんだ。  ルイスは|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の縁《へり》を持ちあげようとしたが、まったく動かない。ブラムがすべてのコントロールを掌握してしまったらしい。あのカホなコンサートは単なる娯楽のためではなかったのだ。あれは手製の楽器で〈至後者《ハインドモースト》〉の音楽言語を真似るための練習だったのだ。  何かが起きかけているようだ──蜘蛛巣眼《ウエブアイ》の窓がガタガタ大きく揺れはじめた。  ルイスは叫んだ。 「〈至後者《ハインドモースト》〉! 映像をまわしてくれ! 向きが悪いんだ!」  パペッティア人は動かない。  窓が斜めにゆがんで走路の側壁にぶつかり、クルクルまわりながらはじけ飛んだ。橇がなんらかの襲撃を受けたのだろう。  パペッティア人が丸まった身体をほどいた。  磁気浮揚橇は反対側の壁に激突し、映像がはげしく揺れ動いた。やがて停止した窓に見えるのは銀のレース細工だけとなった。  パぺッティア人が口笛を鳴らすと映像が反転した。星明かりで橇の側面の水晶が砕けているのが見えた。何発もの弾丸を受けて橇はズタズタになり、底面ではあらゆる道具が銀色のガラス片をかぶって散乱していた。  もともと用途のわからないものばかりだが、もはやすべて使用不能だ。ただひとつ、無事らしい装置があった。 〈侍者《アコライト》〉やルイスが出入りするのを見て、〈|ささやき《ホイスパー》〉は|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の用途を知ったのだろう。そして探査機《プローブ》からそれをはぎとり、橇の中に投げこんだのだ。いま、無傷のディスクがそこにあるのがその証拠だ。  三つの与圧服が同時に橇の中に飛びこんできた。二体が大きめのあらゆるものに向かって弾丸をばらまき、それから残骸の中に隠れているかもしれないプロテクターをさがそうと、持ちあげられるものをかたっぱしから投げ出した。だが〈|ささやき《ホイスパー》〉はどこにもいなかった。  ふたりのプロテクターが左右から|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の縁《ヘり》をつかんで持ちあげ、三人めがその裏側を調べた。ついでディスクをまわして表を上に向けたが、役に立つよりむしろ危険なものだと判断したらしく、プロテクターのひとり──吸血鬼《ヴァンパイア》の──が武器を調節し、ディスクに向かって明るく細いビームを発射した。  居住区画のメイン|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》から垂直にビームが噴き出し、天井を焦がした。  自分でも気がつかないうちに、ルイスは〈至後者《ハインドモースト》〉といっしょに再生装置の背後で仲よく身を縮めていた。〈至後者《ハインドモースト》〉は丸まった身体をほどきそうにない。  ルイスは首を出してあたりを見まわした。  吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクターが|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》をひろいあげ、走路の縁《へり》から外に投げ捨てようとしている。  それがいきなり下へたたき落とされた。侵入者の体重がかかって重さを増したのだ。  侵入者──ブラムだ! ──が躍りかかり、相手の吸血鬼《ヴァンパイア》──コリアーだろうか? ──は飛びすさったが、すでに六フィートの停滞《ステイシス》フィールドのワイアに胴体を真っぷたつにされていた。両端からドッと霧が噴き出した。だが上半身にはまだ両腕がついており、その一本が大きな発光兵器をこっちへ向けようとした。  ふたたびブラムの|自 在《ヴァリアブル》ナイフがひらめき、発光兵器は下に落ちた。  いったいどこからきたのか、〈|ささやき《ホイスパー》〉がそこに出現した。残ったふたり──|こぼれ山《スピル・マウンテン》のプロテクターだ──が、吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクターふたりと対峙した。  パペッティア人はまだ緊張病《カタトニック》状態に陥ったままだ。ルイスは蜘蛛巣眼《ウエブアイ》の窓の中で起こりつつある状況をなんとか理解しようとつとめた。容易な仕事ではない。  |こぼれ山《スピル・マウンテン》のプロテクターはまだ攻撃をかけていない。〈|ささやき《ホイスパー》〉は彼らと同じスーツを着ている。だから会話ができるのだろう。いまの動きで荒くなったブラムの息づかいが聞こえるが、彼のほうは何も話していない。スーツの通話器が合わないからだ。  そのとき、ブラムが〈|ささやき《ホイスパー》〉に向かってヘルメットのライトを点滅させた。  カホナ、あれは〈|屍肉食い《グール》〉の回光通信言語じゃないか! そう気づいたときにはほかのものたちもヘルメット・ライトを使いはじめていた。  話し合いはかなりのあいだつづいたが、やがて合意に達したらしい。  |こぼれ山《スピル・マウンテン》のプロテクターたちが壊れた橇を苦労しながら持ちあげた。ブラムが〈|ささやき《ホイスパー》〉に武器を渡して手を貸し、三人で走路の縁《へり》から宇宙へ投げ捨てた。  それから損傷を受けていない磁気浮揚橇の中に|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を放りこみ、吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクターふたりが、つづいて|こぼれ山《スピル・マウンテン》のプロテクターたちが乗りこんだ。橇はもときた方向へ引き返しはじめた。  橇が動きだしたとき、ブラムはまず走路に、つづいて橇に、蜘蛛巣眼《ウエブアイ》を吹きつけた。それからブラムは、まるでオーケストラがテロリストに銃撃されているような音楽を奏でた。  そしてディスクに足を踏み入れ、こっちに[#「こっちに」に傍点]向かった。蜘蛛巣眼《ウエブアイ》の窓の中でその姿が消えると同時に、彼は|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》から歩み出てきてヘルメットをはずした。こぶだらけの太い笛のようなものを口にくわえている。  パペッティア人は動転すると、言語には障害が出ないが、感情表現のコントロールがきかなくなる。〈至後者《ハインドモースト》〉の声はウィンドベルのように透明だった。 「あなたはわたしのプログラミング言語をおぼえましたね」  ブラムは笛を片づけた。 「契約はそれを禁じていない」 「わたしは困惑しています」 「いまのなりゆきを、おまえたちは理解できたか? できない? メアリ・シェリーがつくった血族のうち、これでラヴクラフトとコリアーが片づいた。コリアーの従者の話によると、ラヴクラフトの従者は貨物を積みこむ準備をすませたという。たぶん彼らは味方につくだろう。残るはキングだけだ。キングが死ねば、〈|ささやき《ホイスパー》〉が縁《リム》を支配し、わたしが〈補修センター〉を支配し、それで一応の仕事が達成される」  ブラムは供給装置《キッチン》から壜を出し、ゴクリとのどを鳴らした。彼が大きな発光兵器を持っていることにルイスは気づいた。いまあれを発射したら、室内にいる全員が死ぬだろう。  ブラムが目を向けた。 「ルイス・ウー、おまえならこれからどうする?」 「そうだな、彼女はキングを殺さなくてはならない[#「ならない」に傍点]。いまさらほかの道はとれないからな。ぼくなら? スーツを着ていれば二ファランは生きていられるから、何もキングに撃たれる危険を冒して橇を秒速七百七十マイルでぶっ飛ばす必要はない。ぼくなら[#「ぼくなら」に傍点]、縁《リム》の内側にもどって、こっちから壁をのぼるよ」 「それでは奇襲はできないぞ」 「それでも──」  ブラムが手のひと振りでその提案をしりぞけた。 「アンのスーツはそんなに長くはもたない」 「ウム」  貨物[#「貨物」に傍点]、とさきほどブラムはいっていた。 「そうだな、もし何かキングにとって必要なものがこっちにあれば、それをいっしょに橇に積んでいく手もある。もちろん、それが乗っていることを彼も知っていなきゃ[#「知っていなきゃ」に傍点]ならないがね。キングが必要としているものが何かないか?」 「気にするな、ルイス。視点の異なる意見を聞いてみたいと思っただけだ」  ブラムは|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》・システムに向かって口笛を鳴らし、姿を消した。 「あいつ、こんどは[#「こんどは」に傍点]どこへいったんだ? 〈至後者《ハインドモースト》〉、あんた、まだ接続できないのか?」 「|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を使うことはできませんが、彼の行き先を見ることはできます」 「やってくれ」  ふたつの窓にモアレ模様が浮かんでいる。戦闘で破壊された蜘蛛巣眼《ウエブアイ》だ。〈至後者《ハインドモースト》〉はひと声でそれを消し、そこに新しい窓を出現させた。つぎつぎと景色が映し出される。〈|機織りの町《ウイーヴァー・タウン》〉。|秘密の族長《ヒドウン・ペイトリアーク》号の前橋見張り台。 〈至後者《ハインドモースト》〉が笛と打楽器の音を奏でた。 「探索プログラムをスタートしました。もし侵入者がふつうの乗物を使っていれば、数分で探知できます」 「よし」  ルイスは新しい窓になかば隠された窓を指さした。 「あいつの記録はないか」 「あります」  盗まれた蜘蛛巣眼《ウエブアイ》は宇宙港の張り出しに到着していた。星明かりの真空中をちっぽけな与圧服がいくつか、形もわからないほど巨大な建造物に向かって歩いている。その向こうにまわりこむことなど永遠にできないのではないかと思えるほどだ。  さらに巨大なもの──背の高いガントリーに、一対の金色のドーナツ形がはめこまれている。あとの部分を見てとるのにしばしの時間がかかった。  そのドーナツ形のものから何本もケーブルがのびて植物のようにひろがり、先端は目に見えないほど細いワイアになっている。 「|なるほど《ステット》。あいつら、本当に新しいモーターをつくってるんだ」 〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。 「あのワイア・フレームは新発明なのではありませんか。わたしの記録にあるのはドーナツ形だけですが」 「おもしろい考えだが、たぶん〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉がドーナツの部分だけ持っていったんだろう。あのワイア・フレームは船に乗せるには邪魔だからな」  つぎつぎと変化していく窓が、|秘密の族長《ヒドウン・ペイトリアーク》号の船尾の見張り台を、それから厨房にいる〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉ふたりとその子供三人を映し出した。以前会ったとき、あの年長の子供ふたりはどこに隠れていたのだろう? すぐにその全員がドアから出ていった。そしてこんどは、ブラムをあいだにはさんで、何かしきりに話しながらもどってきた。  ブラムはスーツを脱いでいた。そのままベンチに身体を横たえると、ハーカビーパロリンとカワレスクセンジャジョクがマッサージをはじめた。  骨とふくれあがった関節のほか、どこにも脂肪のかけらもない身体だ。 「あいつ、カホなほどやせているな、骸骨みたいだ」  ブラムは眠りこんだらしい。 「まだあんなことをしている時間があるんなら、たぶんブラムの考えているとおりなんだろう。〈至後者《ハインドモースト》〉、あの箱から〈侍者《アコライト》〉を出して、ぼくを入れてくれないか」  パべッティア人が口笛を鳴らして窓をひらいた。 「ナノテク装置がまだ彼の二重螺旋コードの中で損傷を修復している最中です。あと数時間出すことはできません」 「カホナ!」 「そのままにしておきますか?」 「もちろんだ!」  ルイスはウォーター・ベッドに丸くなった。 「ぼくは寝るよ」 [#改ページ]      30 キ ン グ  ルイスはゆっくりと身体をのばした。苦痛は偉大な教師だ。それでもこの四日間よりは身体を動かすのが楽になったような気がする。  栄養補給は医療キットにまかせているが、鎮痛剤の注入はもう切っていた。ルイスは起きあがって船首の壁に向かった。  そこでは──|秘密の族長《ヒドウン・ペイトリアーク》号の食堂で、ブラムが〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉たちと話しているところだった。蜘蛛巣眼《ウエブアイ》が四方の壁で窓をひらき、そのひとつがここの第二の窓と同じ光景を──。  そこは宇宙港の広大な張り出しだった。完成間近だった外壁のモーターが姿を消しているのは、製造が終わってどこかに運ばれていったのだろう。見慣れない形のウォルドーを四隅に立て骨格だけの塔を載せた巨大な浮揚橇が通り過ぎていく。その塔には螺旋形の飾りが……いや、飾りではない──先端が曲がってそこから無数に枝分かれした銀の触手がたれさがっている。〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉の恒星船の船殻に巻きついて持ちあげるためのものだ。  張り出しの外には垂直な環《リング》がズラリと並んでいる。入港する船のための減速装置だ。  別の窓には──かすかに星が透けて見えるぼやけた磁気浮揚走路。〈|ささやき《ホイスパー》〉が自分の橇を動かしているのだろう。彼が眠っているあいだにずいぶん速度があがっている。これは〈|ささやき《ホイスパー》〉にちがいない。ほかの誰が蜘蛛巣眼《ウエブアイ》をスプレイする?  待てよ──レースのような磁気浮揚走路ごしにゆっくり流れていく星空の中に、点滅している小さな緑のカーソル。 「宇宙船を発見しました」〈至後者《ハインドモースト》〉が報告した。 「見せてくれ」  パペッティア人の歌によって映像がグッと拡大し、船というよりバールに近い形のものがぼんやり浮かびあがった。翼のついた小さな宇宙船が、小枝にたかるアリマキのようにその周囲に群がっている。その末端近くに、大きな駆動円錐ないしはプラズマ・キャノンらしいものが浮かんでいる。 「これもARMの船だ」ルイスはいった。「よく見つけたな」  ブラムはもう食堂を飛び出していた。 〈至後者《ハインドモースト》〉が磁気浮揚走路上に動きを認め、鐘のような音をたてた。窓が反転して、〈|ささやき《ホイスパー》〉の蜘蛛巣眼《ウエブアイ》の裏側を映し出した。  それ[#「それ」に傍点]はさっきまで〈|ささやき《ホイスパー》〉が使っていた小さな橇ではなかった。広大な黒い底面がひろがり、そこからさまざまな太さのケーブルがさまざまな曲率の輪《ループ》を描きながら動脈のように枝分かれし、四方八方にひろがって視界からはみ出している。その中心にほっそりした柱が上にのびている。 〈|ささやき《ホイスパー》〉は、そうした輪《ループ》のいちばん小さなひとつにつかまっていた。すぐ近くで、自分の手首ほどの太さのケーブルに片手をかけて宙に浮かんでいた。  古代の本の表紙のように幻想的な眺めだ。ルイスが唯一判別できたのは、〈|ささやき《ホイスパー》〉のすぐ背後の床に溶接されている、燃料補給用|探査機《プローブ》からはずされた|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》だった。  だがいまのルイスの気分ではそれ以上追究できなかった。まず朝食をとらないと。  供給装置《キッチンウォール》に向かって歩きだすと、背中と鼠蹊部と右の膝の腱と肋骨の下の筋肉の一部が苦情を申し立てた。クジン人を──成熟前とはいえクジン人をかつぎあげたのだ……。 「忘れるな、ぼくは訓練を受けたプロなんだ」彼はつぶやいた。「こんな芸当を地球の重力下でやろうとしちゃいけない」  そしてミックス・オムレッとパパイヤとグレープフルーツとパンをダイヤルした。 「どうしました、ルイス?」 「なんでもない。〈侍者《アコライト》〉はもう出せるかい?」 〈至後者《ハインドモースト》〉はチェックした。 「はい──」 「ちょっと待ってくれ」  ルイスはオーダーを入力した。 「哺乳動物の脚の肉でもやってなだめようじゃないか」  さっと身を起こした〈侍者《アコライト》〉の目の前に、大きなあばら肉があった。その肉を手にとると同時に、彼はその背後にいる〈至後者《ハインドモースト》〉の姿に気づいた。 「このもてなしぶりは伝説に残るだろう」  そして肉を裂きはじめた。 〈至後者《ハインドモースト》〉がいった。 「あなたの父親は大使としてわたしたちのところにきました。彼にいい薫陶を受けたようですね」 〈侍者《アコライト》〉は耳を振りたてて肉にかぶりついている。  パペッティア人は大きな鉢いっぱいの草のようなものをダイヤルしたが、片方の口でそれを食べながら、もう片方では〈侍者《アコライト》〉のために磁気浮揚走路上での決闘のことを語りつづけ、ひと区切りのメロディで視覚ディスプレイを呼び出した。  ルイスがところどころ説明を補足した。パペッティア人には戦略なるものが理解できないのだ。ただ自分たちがブラムに閉じこめられてしまったことは口に出さなかった。 〈侍者《アコライト》〉が大きな白い合成骨を再生機の中に放りこんだ。 「ルイス、おまえは大丈夫なのか?」 「いまはまだあんたと競走する気にはなれないね」 「感謝するぞ。おまえがはらった犠牲は……とにかく礼をいう。おれは主神経幹をやられていた。医療機《ドック》にはいるか?」 「いやいや、いま大事なときなんだ! 見ろよ──」  ルイスがさし示す蜘蛛巣眼《ウエブアイ》の窓の中では、〈|ささやき《ホイスパー》〉が、無限につづく超伝導体フィールドの上で静かに浮かんでいた。このふしぎな光景を理解するにはルイス自身もしばらく時間が必要だったが、ともあれ若いクジン人とパペッティア人のために解説してやった。 「〈|ささやき《ホイスパー》〉は自由落下状態にあるんだ。つまりそれは、ぼくらがいま見ている乗物が、反回転方向《アンチスピンワード》に秒速七百七十マイルで移動しているってことだ。磁気浮揚走路の幅いっぱいにひろがっているが、それでも動いてるんだ。幅が二百フィートで、長さはもっとあるだろう。  あの輪《ループ》は──〈侍者《アコライト》〉、あんたが医療機《ドック》の中にいるあいだ、ブラムと話していて思いついたんだが、あそこに映っているのは外壁ラムジェットの先端だよ。ラヴクラフトの従者が完成させたやつだ。〈|ささやき《ホイスパー》〉はそれを質にとったんだ」 〈|ささやき《ホイスパー》〉はふり返って蜘蛛巣眼《ウエブアイ》を見つめている。ブラムがその正体を教えたにちがいない。  そのときブラムが転移して現れた。ルイスの与圧スーッを着て、ヘルメットを背後に落としている。仲間たちに目を向け、窓を眺め、それから供給装置《キッチン》に向かった。 「ルイス、〈侍者《アコライト》〉、〈至後者《ハインドモースト》〉。何か変わったことはないか?」 「見ての通りです」〈至後者《ハインドモースト》〉が答えた。「ARMの母艦がリングワールドの下側一億マイルの軌道を周回しています。これをどうしますか?」 「まだ何もしない」  ブラムは窓のほうをふり返った。 〈|ささやき《ホイスパー》〉がおびえた猿のように超伝導体の輪《ループ》にしがみついている。 「減速をはじめたのだ。〈侍者《アコライト》〉、わかるか? おそらくキングには、貴重な縁《リム》のラムジェットもあの大型の橇も破壊する決断はくだせまい」 「ルイスが説明してくれた」  ブラムはつづけた。 「〈|ささやき《ホイスパー》〉はわたしを待っている。わたしがここを離れる前に、何か必要なものはあるか?」  パペッティア人が羊のような声をあげた。 「|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を動かせるようにしてください!」 「まだだめだ、〈至後者《ハインドモースト》〉」  ルイスはたずねた。 「どんな攻撃があるだろうかね……?」 「キングの補給線は長い。彼は|こぼれ山《スピル・マウンテン》のプロテクターを何人か使っているはずだ。彼らが死ぬのを見たくなければ、頻繁に交代させるだろう。プロテクターは自分の種族の匂いを嗅ぐことで、庇護すべきものの存在を知るからだ。そうでないのは〈アーチ〉の下にあるすべてのものを守ろうとするキングのような存在だけだ」 「それじゃ、あまり大勢はいないな」 「ひとりもいないかもしれない。キングひとりでもやれるかもしれない。外壁のラムジェット・モーターは生身の力では動かせないからな。いずれにせよ〈|高 所《ハイ・ポイント》〉のプロテクターを恐れる理由はない。彼らは勝敗がはっきりした時点で敗者に見切りをつける。彼らの種族が勝者の人質になるからだ」  ルイスはいった。 「ちょっと教えてくれ。もしあんたと〈|ささやき《ホイスパー》〉が殺されたら、ぼくたちはどうしたらいい?」 「契約に従え。〈アーチ〉の下にあるすべてのものを守れ」  ブラムはフェイスプレートをおろして固定した。彼が姿を消すと仮想粒子が動き、運動量の交換にともなう熱で、左舷《ボート》と|右 舷《スターボード》の壁が明るいオレンジ色に輝いた。  小さな壜がいくつか、供給装置《キッチン》のとり出し口に現れた。 〈至後者《ハインドモースト》〉がそれをひとつずつ、積み重なった貨物プレートの上の小さな医療キットに挿入した。 「抗生物質です」 「ありがとう、でも、雑菌はもうきれいになくなってると思うんだがね」  壜はまだある。 「こちらは鎮痛剤です」  巨大な乗物の上に、いま〈|ささやき《ホイスパー》〉の姿は見えない。さっきまであんなに目立っていたのに。キングの望遠鏡に姿をさらし、宝物を持っていることをたっぷり見せつけていたのだ。いったいいま何をしているのだろう?  超伝導体ケーブルの円錐の頂上にいるのだろうか? 吸血鬼《ヴァンパイア》は木登りが得意なのか?  それともこの橇の床下[#「床下」に傍点]か?  前方の景色はあれきり変わっていない。走路がどこまでもつづいているだけだ。不細工な積荷を乗せた乗物は減速しているようだが、高Gをかけてもそれにはかなりの時間がかかるだろう。〈|ささやき《ホイスパー》〉は終着点に激突するつもりなのだろうか。キングも同じ疑問を抱いているにちがいない。  ──いや、それはないだろう──。  秒速七百七十マイルで十時間進めば二千四百万マイルになる。だが走路は二億マイルもあるのだ。彼女の目標は、その中のどこだろう? キングに攻撃の余裕を与えるわけにはいかないのだが。  そういえば、キングはどこにいるのか? 〈|高 所《ハイ・ポイント》〉のプロテクターをラムジェットの設置ができるように訓練しておけば、吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクターはどこにでもいける。  あれはなんだ[#「あれはなんだ」に傍点]?  磁気浮揚橇──広大な走路の中で見失いそうなほど小型のやつだ。まっすぐ窓のほうに向かってくる。やがてそれがジグザグのコースをとりながら速度を落としはじめた……こっちの乗物と速度を合わせて……接触[#「接触」に傍点]。そしてまばたきする間もなく、同じような五つの与圧スーツが蜘蛛巣眼《ウエブアイ》の前を駆け抜けた。 〈至後者《ハインドモースト》〉の口笛と鐘の音で映像が反転したが……もうどこにもいない。すでにコイルの迷路の中にはいりこんでしまったのだ。  五つのそろいの与圧服は五人の|こぼれ山《スピル・マウンテン》のプロテクターだ。|そうだろう《ステット》? 彼らは戦いのどちらにもつかず、その不慮の影響からラムジェットを守ろうとするだろう。キングとしてはそれが陽動作戦にもなる。  手品を見たことのある者なら誰でも、五人の中にキングが混じっている可能性に気づくだろう。そのスーツは余分の武器か鎧のせいでふくらんで見えるはずだ。  だが、いったいどこに隠れてしまったのか?  ずっと後尾に動きが感じられる。ここからは見えない。いらだたしい事態になりそうだ。クジン人のほうに視線を走らせる──怒りを爆発させはしないか? だが〈侍者《アコライト》〉は鼠穴の前で待ちかまえる猫のように忍耐強く映像を見つめている。  動きの気配。遠くで閃光……そして二台の磁気浮揚橇がコイルのあいだを縫って飛んでくる! ときたま閃光がそれを追ってひらめく。二台の橇は画面の下に姿を消し、そしてまた現れた。片方がコイルにぶつかってまぶしい炎をあげながら跳ね返り、別のコイルに激突し、走路の縁《へり》を越えて外に飛び出していった。もう一台は……。 「賢明だな」  ルイスはささやいて乗物の床面に視線を落とした。だがむろんそこには何も見えない。 〈至後者《ハインドモースト》〉が声をかけた。 「どういうことです、ルイス?」 「〈|ささやき《ホイスパー》〉は小型の橇でこの乗物のすぐうしろについていたんだ。ちょうどキングからは見えない位置にね。何台かが彼女の橇に追従《スレイヴ》していて、いま見えたのは二台だけだったが、たぶんもっといるんだろう。それにしても彼女が乗っているのはどれだ? そら、ちょっと降下して、脇によけて、また上昇した──キングに撃たせるためだ。もうキングも気づいているだろうが、それでもこれじゃ〈|ささやき《ホイスパー》〉が二ヵ所にいるようなもんだ。そして彼女のほうには相手の居場所がつきとめられる。もっともぜんぶぼくの思いちがいかもしれないが」 「船はまもなく停まります。そうしたら戦闘区域がひろがります、|そうですね《ステット》、ルイス?」 「たしかにそのとおりだ。もし──」  ブラムが出現した。  その場所を閃光がつらぬいたが、ブラムはすでに超伝導体の輪《ループ》の背後に隠れて、ルイスの発光レーザーで応戦していた。錯綜する輪《ループ》のあいだを光が飛び交う──エネルギー・ビームの嵐だ。ブラムが片手でスーツを押さえながら立ちあがった。  最初のビームが当たっていたのだ。おそろしく強烈だったため、ルイスのスーツのレーザー遮蔽でも防ぎきれなかったのだろう。  その向こうでふたつの小さな人間の形をしたものが、輪《ループ》のあいだで撃ち合い、跳躍し、また撃ち合い、そのあおりでラムジェットも崩壊しかかっていた。 「でもそんな──」  ルイスはいいかけて口をつぐんだ。 「はっきりいえ」〈侍者《アコライト》〉がわめいた。 「超伝導体は光では傷つかない。彼らは三人とも[#「三人とも」に傍点]発光兵器を使っている。もしキングがそれを知っていたら……」  いますぐ安全な場所に逃げないかぎりブラムは死ぬだろう。彼はラムジェットの太い輪《ループ》の背後に身を隠し、ただひたすらに前方を見つめている。ルイスと同じくブラムにも、ふたつの人間形のどっちが〈|ささやき《ホイスパー》〉でどっちがキングなのか、判断できないらしい。もうやれることは何もない。  そのときひとりの戦士が太陽のような炎をあげて、融けるように消滅した。  もうひとりがさらに明るい炎をあげ、またたくまに消えた。とたんに四つの人影が蚤のように跳躍してブラムをとり囲んだ。  ルイスは笑いだした。  ブラムが|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》に向かって走っている。太陽のような炎をあげたつぎの瞬間その姿は消え、こっちの[#「こっちの」に傍点]|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》に出現すると、ヘルメットをうしろにはねのけ、大きく息を吸ってあえいだ。  与圧スーツがところどころ鈍い赤色に光っている。彼は手袋をはめたままスーツを脱ぎ捨てると、丸めてシャワーの下に投げこみ、水をかけた。  ルイスはまだ笑いつづけていた。 〈侍者《アコライト》〉の顔も笑っているように見えたが、クジン族のその表情は笑いではない。 「誰か、何が起こったのか説明してくれ」 「〈|ささやき《ホイスパー》〉は死に、わたしひとりが残った」ブラムが答えた。「ほかに知りたいことは? われわれが戦っているあいだ、キングの従者どもはラムジェットと乗物を守ろうとした。だがわれわれ三人は超伝導フィールドの上、超伝導コイルの下で戦うことになった。三人ともエネルギー兵器を使った。|わかるか《ステット》、〈侍者《アコライト》〉? 〈アーチ〉は縁《リム》のラムジェットによって生き延びている! そしてわれわれはプロテクターなのだ!」 「|なるほど《ステット》」〈侍者《アコライト》〉が答えた。 「四人の従者も、われわれに輸送機やラムジェットを傷つけることができないことは知っていた。わたしと〈|ささやき《ホイスパー》〉は、彼らが負けたほうを殺すつもりでいるのだろうと予測した。だがふたりが死に、ひとりが隙だらけなのを見て、やつらはわれわれから完全に自由になろうと決意したのだ! 見くびられたものだな」と、ブラム。「能なしどもめが。わたしが現れるのを見ていながら、消えることができるとは考えなかったのか?」  ブラムは〈至後者《ハインドモースト》〉の部屋で光を放っている蜘蛛巣眼《ウエブアイ》の窓に目をやった。〈|高 所《ハイ・ポイント》〉の与圧服を着た四人のプロテクターが、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》のまわりに集まっている。そのヘルメット・ライトが回光通信のパターンで点滅し、ひとりが顔をあげて窓をのぞきこんだ。ついで四人全員が視野の外へ出ていった。  窓がモアレ模様になった。 「そんなことをしても無駄だ」  ブラムがつぶやき、ふり返るといった。 「〈至後者《ハインドモースト》〉、どうして〈|機織りの町《ウイーヴァー・タウン》〉と隕石防禦室が接続されているのだ?」  パペッティア人が答えた。 「それはルイス・ウーにたずねてください」 「どういうわけだ、ルイス?」  ピアソンのパペッティア人の卑劣さを非難してもはじまらない。  ルイスはチラリと〈至後者《ハインドモースト》〉に目をやってから答えた。 「倫理的な理由からだよ、ブラム。ぼくはあんたたちがリングワールドの管理に不適任だと判断したんだ」  ブラムの手が万力のようにルイスの左肩をとらえ、吊りあげた。クジン人が全身の毛を逆立て、介入すべきかどうか迷っている。  プロテクターがいった。 「繁殖者《ブリーダー》の分際でなんという不遜な──ティーラのせいか、そうだな?」 「なんだって?」 「彼女はおまえに自分を殺させた。〈アーチ〉をもとの位置に押しもどすため、おまえに数億の〈|こ ぼ れ 山 の 民《スピル・マウンテン・フォークオーク》〉を殺させた。むろん、わたしに預けた人質を救うためには、彼女は死ななくてはならなかった。むろん、〈アーチ〉が太陽とぶつかるのを防ぐためには、ラムジェットのパヮーを増幅するプラズマが必要だった。だがなぜ彼女はそれらの仕事をおまえなどにまかせたのだ?」 「さあ、なぜだろうね?」  ブラムはルイスを床におろしたが、肩をつかむ手は力をゆるめなかった。 「この船のコンピューターでおまえの記録を読んだぞ。おまえはいつも、問題を大きくひろげてはそれを放棄して──」  死ぬ覚悟ならできているつもりだったが、それにしても話が妙な方向に向かっているようだ。 「どんな問題を?」 「おまえは恒星間宇宙で危険な異星人を発見し、それと交渉して自分の世界への道を教えたあと、専門の大使に処理をまかせてしまった。リングワールドに連れてきたティーラ・ブラウンを、他人の手に残して──」 「カホナ、ブラム、彼女は自分の意志で残ったんだよ!」 「ハールロプリララーを地球に連れていって、ARMの手にひき渡した。彼女は死んだ」  ルイスは黙りこんだ。 「ティーラが死んだというのに、おまえはそのあと四十三ファランのあいだ自分に課された責務から目をそむけていた。おまえがここへもどったのは死の恐怖からにすぎない。だがおまえは彼女の死の意味を知っていたはずだな、ルイス?」 「そいつはまったく──」 「リングワールドの安全はおまえの判断にかかっている。彼女は自分のではなく、おまえの知恵を信頼した。彼女は正しさにおいても聡明さにおいても中途半端だった」 〈至後者《ハインドモースト》〉が安全な供給装置《キッチン・ウォール》の背後から声をかけた。 「ティーラは賢くありませんでした。プロテクターは賢いのではありません。動機づけが前脳からこないからです、ルイス。彼女も必要なだけの知性は持っていたかもしれませんが」 「〈至後者《ハインドモースト》〉、それはおかしいよ」と、ルイスはいった。「ブラム、ぼくは生まれつき不遜なだけさ。あんたは理屈に走りすぎる。聡明な連中はそうなりがちだけどね」 「わたしの伴侶を殺したプロテクターどもをどうすればいい?」 「プロテクターのひとりと話ができないかどうか、〈|高 所 人 種《ハイ・ポイント・ピープル》〉にたずねてみよう。縁《リム》が彼らのものになったといってね。ブラム、|こぼれ山《スピル・マウンテン》のプロテクターたちの関心は、あらゆる[#「あらゆる」に傍点]危険からリングワールドを守ることにある。何かが起きればそれはまず外壁を傷つけるが、そのことを彼らは誰よりよく知っているからだ」  ブラムはまばたきをした。 「よし。ではつぎだ。わたしは七千ファラン以上ものあいだ〈補修センター〉を管理してきた。どうしておまえはその実績を──」 「それはよくわかってるさ。でも問題はその日付なんだ、ブラム、その日付[#「日付」に傍点]が問題なんだよ。あんたはそれを隠そうともしなかったしな!」 「おまえは非常に多くの者と話をし、非常に遠くまで旅してきた。そのおまえにわたしが隠しごとなどできるわけがない。何もかも筒抜けだろう」 「どういうことかわからんぞ?」〈侍者《アコライト》〉が口をはさんだ。  ルイスはクジン人がいたことをほとんど忘れていた。そっちへ向きなおると、彼はいった。 「彼と〈|ささやき《ホイスパー》〉は主人である謎のプロテクターをさがしていたんだ──どれくらいのあいだだ、ブラム? 数百ファラン? でもそれくらいじゃ〈補修センター〉の望遠ディスプレイを使っても足りないだろう。リングワールドはあまりにも大きい。だが、もしプロテクターが必ずやってくる場所がわかっていたら、そこへ先まわりしていればいい。災害がプロテクターをそこに引き寄せるんだ。いまのブラムがそうだ。あんたはあのARMの母艦に対して何か手を打たなきゃならないんじゃないのか、ブラム?」 「そうだ」 「〈|ささやき《ホイスパー》〉とブラムはあるとき、大きな物体がリングワールドに向かって落下してくるのを見つけた。ふたりが待っていたのはそれだった。クロノスはそれをなんとかしようとするはずだ。〈補修センター〉にやってくるはずなんだ。〈|ささやき《ホイスパー》〉とブラムはそれを待ちうけていたわけだ。|そうだな《ステット》、ブラム?」  沈黙。 「おそらくクロノスは衝突を阻止する方法を知っていたんだろう。ブラムと〈|ささやき《ホイスパー》〉は待つつもりでいた、ちがうか? 彼がちゃんとやれるかどうか見ようとしてね。だがブラムは何かがまずいことに気づいた──」 「ルイス、たぶんあれは彼の癖だったのだろう。彼はまず防禦システムを作動させた。われわれは──われわれにはできないことだった。できないのだ」  ブラムの指がルイスの肩にくいこみ、血がにじみ出た。  ルイスはいった。 「あんたたちは彼が仕事を終える前に殺したんだ」 「あれでも遅すぎたくらいだ! われわれはたがいにあとをつけ合った。あの巨大な場所を調べて罠を仕掛け合った」  いつのまにかブラムは、決闘譚が何より好きな〈侍者《アコライト》〉に向かって話していた。 「アンは生涯治らぬ傷を負った身となった。彼が暗闇の中でどうやってわたしの脚と腰を打ち砕いたのか、わたしにはいまでもわからない。とにかくわれわれは彼を殺した」 「それから?」と、ルイス。 「彼も知らなかったのだ、ルイス。彼の持っていた道具を調べたが、そのためのものはなかった」 「何かあったにせよ、彼はまだそれを使っていなかった。あんたと〈|ささやき《ホイスパー》〉には思いもよらないようなものだったかもしれないぜ」 「〈侍者《アコライト》〉──」と、ブラム 「そしてあんたたちは、〈|神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》〉がリングワールドにぶつかるのを放置したんだ!」 「〈侍者《アコライト》〉! 隕石防禦室に敵がいる。そら、ウトサイを返してやる。わたしの敵を殺しにいけ」 「いいとも」〈侍者《アコライト》〉は答えた。  ブラムが風変わりな笛でトリル音を鳴らした。クジン人がディスクに足を踏み入れて姿を消した。ルイスはあとを追おうとしたが、ブラムの指が肩に深くくいこんでいて動くことができなかった。 「この|血に飢えたくそったれめ《ブラッドサッキング・フリーマザー》」と、ルイス。 「おまえはわたしがいくべき場所を知っているようだが、それ以外のことはわたしが決める。こい」  ふたりは|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》に向かって進んだ。 [#改ページ]      31 リングワールドの玉座  薄暗い隕石防禦室に出現したつぎの瞬間、ルイスは投げ出されて宙を飛んでいた。  着地と同時に一回転して立ちあがるべく受け身の構えをとろうとするルイスの目に、ブラムが狂ったようなフルートとオーボエの音をひびかせながら姿を消すのが見えた。そのルイスに何か巨大な影のようなものが飛びつこうとし、そのうしろから、それよりはるかにすばやい動きで何かが駆け寄ってきた。  右肩が床にぶつかった──吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクターの爪がくいこんでいた場所だ。悲鳴をあげて身体をころがすと、最初の襲撃者がほとんど同じところに着地した。二番めのが、毛深いオレンジ色の脚の反射的な蹴りをかわして|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》に踏みこみ、さっきと同じフルート・オーボエの音を鳴らして消えた。  最初の襲撃者がルイスの身体をすくいあげ、十フィートほど先の物陰にころがりこんだ。 「ルイスだな?」  肩が悲鳴をあげている。肺いっぱいに息を吸いこむと、鼻孔にクジン人の匂いが充満した。 「〈侍者《アコライ卜》〉か」 「ブラムを殺そうとしたのだが」クジン人がいった。 「もう死んでいるかもしれない」   ──クジン人の匂い、それと。なんだ──? 「もうひとりのやつはあんたを殺そうとしていたのか? あんたは囮になって死ぬはずだったんだ。たぶんぼくもね」 「飛びかかってくるまで、匂いがしなかったぞ。おれを無害だと思ったのだな」 「怒ってるのか?」 「ルイス、ブラムはどこだ?」 「どこだろうね。ブラムは|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》をコントロールしている。〈補修センター〉全体では二十かそれ以上がばらまかれているはずだ」 「そうだ、口笛で作動させている。だがあのもうひとりのやつも、ブラムが設定を変える前に転移したのではないかな?」 「ブラムは転移してすぐ設定を変えたとぼくは思うね」ルイスは答えた。「行き先はオリンポス山か、縁《リム》か、それとも地獄か。でももうひとりのやつは、ブラムの指令を真似て、それをもとにもどしたんだ」 「するとおれたちは、すばらしい戦いを見逃しているわけか」  この匂いはなんだ?  花だ。花のような匂いが気を散らし、思考を鈍らせる。だがクジン人の匂いのほうがはるかに強い……その毛皮に二ヵ所、かたいふくらみが手に触れた。待てよ、これは投げナイフだ。そしてこっちは、両端をとがらせた細長い金属の杖だ。  ルイスはいった。 「たぶんあんたにはブラムは殺せない。そういえば、あんたは彼にいろんなことを教わってたんじゃなかったっけ?」 「ルイス、教師を殺してはいけないのか?」  なんだって? 「そのことはおぼえておくよ」  ルイスは身を起こした。 「いや、ルイス、おまえのことではないぞ! おれは知恵を学ぶためおまえのところにきた。だがブラムはおれを召使にした。ブラムの話からいろいろ学びはしたが、いまは自由になることによって学びたい。見ろ、これらを手に入れたのだ」  クロノスの武器だ。  ルイスはいった。 「たしかにふさわしい武器だが、ブラムは──」  そのときブラムが天井から降ってきた。床まで三十フィートの高さを落ちてドサリと着地し、一回転すると、二フィートの刀を持って立ちあがった。それを垂直にかまえたところへ、もうひとり人間の形をしたものが上から落ちてきた。  そいつが腕をサッと前にふり、ブラムが身をかわすと、鋭い物体が床に落ちてカーンと音をたてた。シュリケンか? 刀が落ちた。ブラムの敵は音をたてて床に落ちると、身をひるがえして立ちあがった。全身こぶだらけで、ブラムよりも大きく、片腕を胸に当て、もう一方の手には鋭い金属があった。  ルイスは必死で状況を把握しようとした。  ブラムは|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》の一枚を天井に裏返しに張りつけておいたらしい。火星人を真似たのだろうか? 吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクターは最初の|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》にたどり着こうとしている。  大柄な襲撃者がその背後から大きくジャンプして飛びかかるのと、〈侍者《アコライト》〉が隠れ場所から飛び出すのが同時だった。〈侍者《アコライト》〉はブラムの胴をクロノスの鉄の杖で突き刺した。  ブラムはふり向きもせず、一瞬だけ足をとめると、へそまで突き抜けた杖の端をつかんだ。引きながらひねると杖はたわんで、反対の先が〈侍者《アコライト》〉のひたいを打った。  ブラムのスピードが鈍った。敵が追いつき、切りつけた──ブラムの手首に、顔を蹴りあげようとした足に、肘に、もう一方の足に、もう一方の腕に。  四肢ぜんぶの脛か骨を断ち切られて、ブラムはバッタリと倒れた。  襲撃者の姿はもう見えなかった。 〈|機織りの町《ウイーヴァー・タウン》〉の周辺で使われていた通商言語が、プロテクター特有の息まじりの歪んだ声で話しかけ、ルイスの翻訳機が一瞬遅れて反応した。 「〈|毛皮人種《ファリ・ピープル》〉よ、いまはさがっていろ。いずれ満足させてやるが、いまは話し合うときだ」 〈侍者《アコライト》〉がぼんやりした顔で半身を起こした。 「どうする、ルイス?」  相手のプロテクターにとってブラムがまだ脅威だとしたら、ルイスにもそうだろう。隠れ場所まで〈侍者《アコライト》〉をひきずってくることなどできそうにないし、ここもあまりいい隠れ場所とはいえないが、ルイスはそこに身を伏せたまま声をかけた。 「さがるんだ、〈侍者《アコライト》〉。そいつをここへ案内したのはぼくなんだよ」 「そうだ」と、襲撃者の声。  壁に反響して、どこから出ているのかわからない。 「ルイス・ウー、なぜこのようなことをした?」  ブラムがひろがりつつある血の海の中で身を起こした。止血帯を巻くべきだろうに、何もしようとしていない。武器も落としたままだ。  ルイスは気づいた──たとえどんな手当てをしてやろうと、ブラムは今後は食事もせず、まもなく死を迎えるだろう。生きる理由を失ったプロテクターはみなそうする。  ルイスは闇に呼びかけた。 「あんたは〈作曲家《テューンスミス》〉だな?」 「そしておまえは、海を沸騰させたルイス・ウーだ。だがなぜおまえはこの問題に[#「この問題に」に傍点]〈作曲家《テューンスミス》〉を巻きこんだのだ?」  ブラムが口をはさんだ。 「わたしの時間は残り少ない。おまえの時間を貸してくれないか? こっちへこい、安全は保証する。ルイス、〈作曲家《テューンスミス》〉と同じことをわたしも[#「わたしも」に傍点]問いたい。なぜおまえは一度も会ったことのない〈|屍肉食い《グール》〉のために|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》をひらいたのだ?」 「ちょっと待ってくれないか」と、ルイス。  どうも精神集中ができない。この花のような匂い! 傷めた肩をかばいながら、彼はしばらくじっと横たわっていた。  やっと声が出た。 「ブラム、ぼくがなぜあんたとアンを〈補修センター〉の管理に不適任だと判断したか、それはあんたにもわかっているはずだ。あんた自身ぼくの言葉を否定はしなかった。〈作曲家《テューンスミス》〉の前で話し合って、彼に判断してもらおうじゃないか。どうだ、ブラム?」  沈黙。 「〈作曲家《テューンスミス》〉、あんたはあの骸骨を調べたかい?」 「ああ」 「ぼくは彼をクロノスと呼んでいる。クロノスはあんたの祖先だ。ブラムにもその意味するところはわかるだろう。クロノスは八万ファランかけて、希望する方向へ自分の遺伝系統を育て、一大帝国を築きあげた。その通信網は〈アーチ〉全域をくまなく──」 「環《リング》だ。ここは環《リング》だ」と、〈作曲家《テューンスミス》〉。 「クロノスは言葉に表わせないほど広大な地域に自分の繁殖プログラムをひろめた。〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉の人口は数百億を数えるにちがいない。そしてそれがみな同じ種族なんだ。吸血鬼《ヴァンパイア》はそうじゃない。彼のおかげであんたは理想的なプロテクターになったんだよ」 〈作曲家《テューンスミス》〉がいった。 「まだ改良の余地はある」 「そうかな? このブラムは吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクターだ。健康なときの彼の記録があるから、あとで見るがいい。あんたが彼よりすぐれていることは明らかだ。大きな脳。柔軟な思考。反射的な行動が少なく、選択範囲は広い。どうかね、ブラム?」  ブラムはいった。 「わたしは彼に負けた。大きな脳だと? 繁殖者《プリーダー》のときから知的生物だったのだから、もちろんいまも大きいだろう。だがルイス、彼は何も知らない。侵入者の脅威のこともだ。彼を教育するのはおまえの責任だぞ!」 「わかってるよ、ブラム──」 「契約違反になろうとどうだろうと、おまえが教えなければならない。〈作曲家《テューンスミス》〉、彼の意図は信頼できるが、彼の判断には疑問を持て。〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉にも学ぶべきところはあるが、契約を結ぶまで信用はするな」  ルイスはたずねた。 「そろそろぼくの出番かな?」 「話せ」 「〈作曲家《テューンスミス》〉、プロテクター同士の戦いは莫大な被害を生じる。ブラムとその伴侶がある問題を片づけたので、いま外壁を管理しているのは、地元の|こぼれ山《スピル・マウンテン》種族のプロテクターたちだ。彼らはあそこに必要だ。その理由は──」  あの匂い。 「──船にもどってから説明するよ」  生命の樹だ。 「ぼくをここから連れ出してくれ、〈作曲家《テューンスミス》〉。ここにはいられない!」 「ルイス・ウー、この根の匂いに反応するにはおまえはまだ若すぎる[#「若すぎる」に傍点]。ここではかすかにしか匂わないしな」 「ぼくは年をとりすぎているんだよ! 食べたら死んでしまうんだ!」  ルイスは身体を横向きにして膝立ちになった。右腕がまったく効かない。 「前回この匂いを嗅いだときも、やっとの思いで逃げ出したんだ」  彼は〈侍者《アコライト》〉に支えられて立ちあがり、ヨロヨロと|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》に向かった。  かつて彼は電流中毒を克服した。生命の樹の匂いは一瞬のうちに精神を麻痺させたが、彼はそれにも打ち勝った。十一年前の匂いはもっと強烈だった。ここから歩み去ることができるのは、電流中毒から立ちなおったことのある者だけだろう。  胡桃の実をつらねたような手が手首をとらえた。 「ルイス・ウー、彼は三つの和音を使い、わたしは毎回それを真似てあとを追った。ひとつは罠と兵器庫に通じ、ひとつはあの天井からの落下に、そしてもうひとつはわれわれが戦った場所に通じていた。そこは一面に生命の樹が生い繁る畑で、人工太陽が輝き──」  ルイスは笑いだした。脳を浸す生命の樹の匂いから逃れようとしても、その脱出路は彼がティーラ・ブラウンと戦った場所に通じているのだ! 〈作曲家《テューンスミス》〉がじっと彼を見つめながらいった。 「年をとりすぎているというが、何か処置を受けたのだな」  ブラムが笑い声をあげたつもりか、おそろしい音をたてた。 「記録を見たぞ。ナノテクノロジーだ。地球から盗まれた実験装置がふたたび盗まれ、最後にゼネラル・プロダクツ社がファフニールの盗賊から買いあげた。それがパペッティア人の自動医療装置《オートドック》だ、ルイス!」  彼の声は笑うようにはできていないし、肺はもうつぶれかけているのに、ブラムはなおも笑いつづけた。 「八十ファランだ、ルイス。九十か。だがそれ以上ではない。わたしのことを忘れるなよ!」 〈作曲家《テューンスミス》〉も〈侍者《アコライト》〉も、いまはルイス・ウーを見つめていた。  匂いが鼻についたが、ひきずられはしなかった。彼の心は彼自身のものだ。だがそれはつまり……。  彼はふたりに向かっていった。 「ぼくは重病だったんだ。でも自動医療装置《オートドック》はそれを徹底的に治療したらしい。すべてを変えたんだ。細胞のひとつひとつまでもね」  ブラムのいうとおりだ。二十歳か、せいぜい二十五歳だろう。 「ならばプロテクターになることもできる」と、〈作曲家《テューンスミス》〉。 「そういう選択肢《オプション》もあるわけか」  ブラムはもう死んでいた。  たぶんプロテクターは意志の力で心臓を停止させることもできるのだろう。彼の最後の言葉には惹かれるものがあった。 「選択肢《オプション》か」と、ルイスは繰り返した。  身体から力が技けていく。 「体調が悪いのだな」〈作曲家《テューンスミス》〉がいった。  彼はクジン人の手を借りて横になった。その身体を〈作曲家《テューンスミス》〉のこぶだらけの手がさぐった。携帯用医療キットには魔法のような治療は期待できない。腱も、腸間膜も、膝の筋も。肩をえぐった五つの傷のまわりはもうひどく腫れあがっている。 〈作曲家《テューンスミス》〉の腕の傷はさらに深く、三角巾の中でふくれあがって動かすこともできないようだ。しかしプロテクターはそれを無視した。 「おまえの種族のことはわからない。だが歩けるとは思えないし、まもなく熱が出そうだ。ルイス、おまえはいつもどういう治療をするのだ?」 「船にもどって医療機《ドック》にはいる。それでぜんぶ治る」 〈作曲家《テューンスミス》〉はクジン人を連れて出ていった。ほどなくもどってきたふたりは、ルイスを抱きあげてまた下におろした。彼は横たわったまま宙に浮かんだ。 「これでおまえを運ぶ。魔法のドアに合図をしろ」 〈|屍肉食い《グール》〉のプロテクターがこんな担架をつくったのか? ちがう、彼らは貨物プレートとそれをひっぱるロープをとってきたのだ。  ルイスはいった。 「ぼくには〈至後者《ハインドモースト》〉のプログラミング言語は歌えない」 「では、われわれはここから出られないのか?」 「そうでもないさ」  ふたりはルイスをおろした。〈作曲家《テューンスミス》がいった。 「ルイス、息子を見つけるにはどうすればいい?」 「ああ……カホナ。〈竪琴笛《カザープ》〉のことをすっかり忘れていた。〈|機織り《ウイーヴァー》〉の村のあたりをうろついているのかな? あのあたりに仲間はいないのか?」 「わたしが出発したときは〈夜行人種《ナイト・ピーブル》〉たちがいっしょだった。彼らが母親のもとにとどけてくれるだろう。わたしが心配なのは、あいつがあとを追ってきたのではないかということだ」 「ああ、クソッ! いや、待てよ、あんたには彼の匂いがわかるはずだ。自分の遺伝子系列に対する認識が脳に刻みこまれているからな。〈作曲家《テューンスミス》〉、あの子はぼくを[#「ぼくを」に傍点]知ってるだろう。ぼくがいく。あんたはいかないほうがいい」 「わたしを見たらおびえるだろうからな。ルイス、適当に和音を鳴らしてみようか?」 「そしてためしてみるのか? ブラムが罠を仕掛けているだろう。〈作曲家《テューンスミス》〉、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》がなくても大丈夫だ。ぼくは以前にも一度、〈至後者《ハインドモースト》〉の助けなしに、ニードル号までみんなを連れて歩いてもどったことがある。トンネルを掘ってね。あれ[#「あれ」に傍点]がまだあるはずだ」 「どれくらいかかる?」 「数日だ。ぼくをひっぱっていかなきゃならないからな。水と食糧も要る」 「生命の樹の農場に水がある」と、〈作曲家《テューンスミス》〉。「食糧は──」  彼と〈侍者《アコライト》〉はブラムの死体に近づいて、立ちどまった。 〈作曲家《テューンスミス》〉がいった。 「ものを食うところを他人に見られてはならないと教えられたのだが」 「まだ腐ってはいないぞ」と、〈侍者《アコライト》〉。 「教師の友よ、〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉と料理について話し合える者は少ないが、おまえは興味を持っているようだな。われわれは死んだばかりのものも食べられるし、そのほうが好ましい場合もあるが、往々にして硬すぎるし、それにこれはプロテクターだ。別の貨物プレートに乗せてもっと長いロープで曳いていけば──」 「おれはいま腹がへっているのだ、〈作曲家《テューンスミス》〉。ここでこれを食ってもおまえは怒らないか」 「好きなだけ食うがいい」  ルイスはつぎに起こる事態を予想して背を向けたが、ニンマリせずにはいられなかった。音でわかる。この食事はとんでもない大仕事になるだろう。いまは素手でブラムの身体から分け前をむしり取ろうとしている。だがとうとうウトサイを使いはじめた。  グサリ!  そして戦利品を手にしてその場を離れていった。 〈作曲家《テューンスミス》〉が近づいてきてあぐらをかいた。 「子供のころの習慣とは簡単になおせないものだな。〈侍者《アコライト》〉は今後わたしのいうことをきくだろうか?」 「すべりだしは上々だよ」 「おまえの食べるものもあるぞ、ルイス・ウー。生命の樹の根は茹でれば食っても危険はない」  ルイスはひるみながらもいった。 「山芋や甘藷と似たようなものだな。あれは焼くんだが」 「どうするのだ?」 「火を起こして、炭の中のあまり熱くない場所におくんだ」 「生命の樹の農園で燃やすものをさがすとしよう」  歯ぎしりとうなり声に向かって〈作曲家《テューンスミス》〉は声をかけた。クジン人はまだプロテクターの死体をなんとかしようと頑張っていたのだ。 「〈侍者《アコライト》〉、生命の樹の農場にいけば獲物がいる。小さくてすばやい動物だ。そのブラムを食えるのは〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉のプロテクターだけだろうし、それも今日はまだ無理だろうな」 「よし、そこで狩りをさせてくれ!」 「わたしがいなければ、ここへはもどれないぞ」 〈作曲家《テューンスミス》〉が笛を吹き、ふたりは姿を消した。  もどってきた〈作曲家《テューンスミス》〉は黄色い根をひと山ほども抱えていた。 「〈侍者《アコライト》〉はひとりで狩りをしている。彼がもどりたいときにもどれるよう、設定しておいた」  そして根を火の中に入れながら、彼はたずねた。 「水はどういうのが好みだ?」 「清潔ならいい。温度はかまわない」 「つめたくてもいいのか?」 「もちろん」 〈作曲家《テューンスミス》〉はまた姿を消し、こんどは氷の塊りを持ってもどってきた。 「容れ物をさがすよりこのほうが簡単だ」 「どこでそんなものを?」 「数マイル上の、空気が薄くて寒い場所だ」  彼はしたたる冷水に布切れをひたし、それをルイスの首に巻きつけた。 「生命の樹は、どれくらい焼けばいい?」 「一時間くらいだろう」  ルイスはそう答えて、手の皮膚に埋めこまれた時計を〈作曲家《テューンスミス》〉に示した。 「これは潮の干満も教えてくれる。ここじゃあまり役に立たないがね。計算機にもなる。これはゲームで、数字をグルグル動かすと──カホナ、あんた、早すぎるよ」 〈侍者《アコライト》〉が口のまわりを血だらけにして、片手に何かをぶらさげてもどってきた。ウトサイで作業にとりかかりながらいう。 「地球の〈地図〉の動物をさがしたのだが、ピッタリのものはいなかった。だがこれは兎に似ていると思わないか?」  彼は内臓を抜き、皮をはいで蝶のようにひろげ、火の上にかざしてあぶった。  ルイスはたずねた。 「楽しかったかい?」 〈侍者《アコライト》〉は少し考えて答えた。 「ああ。だが怪我はしなかったぞ」  だが〈侍者《アコライト》〉のひたいは腫れ、黄色い毛皮が血で濡れている。  ルイスはいった。 「みんな怪我をしてるんだな。でも勝ちさえすれば、そんなことは気にならない。〈侍者《アコライト》〉、どんなふうだったか話してくれないか」 「おまえから先に話せ。おまえはティーラ・ブラウンという幸運なプロテクターと戦ったのだろう」 「あまり自慢したいことじゃないんでね。海を沸騰させた話にしよう」  ルイスは話した。それから〈侍者《アコライト》〉が父親のことを語った──地球の〈地図〉にたどり着き、パペッティア人の道具を携えて、クジン族の攻撃舟艇でそこに上陸したこと。戦争。敵と味方。幾多の死。同盟を結ぶための結婚。女への話しかたを学んだこと。  ハミイーはクジンの〈地図〉に滞在した数週間のあいだに、三人の子供をもうけた。養育はその土地の領主が引き受けた。時期がくるとハミイーは領主のカタクトから──友好的に──長子をとりもどし、地球の〈地図〉へ連れていった。〈侍者《アコライト》〉は年齢十二ファランではじめて人間を見た。  領主の長子はきびしい教育を受ける。敵味方の判別、警戒すべき相手、信用してよさそうな相手、伴侶となるかもしれない相手との話しかた。如才ない女には話しかけてはならない[#「ならない」に傍点]、皮をはがれてしまう──。 「それでは退屈するだろう」と、〈作曲家《テューンスミス》〉がいった。 〈侍者《アコライト》〉は答えた。 「ああ、わめきたくなるほど退屈だった。ある日、おれは挑戦の雄叫びをあげて父と戦った。父はおれを解放してくれた。おれは怪我をし、腹をすかせ、吸血鬼《ヴァンパイア》のプロテクターの奴隷にされたが、そういうばかげた状況からも、とにかく抜け出すことができた。つぎはおまえが話す番だぞ、〈作曲家《テューンスミス》〉」 「わたしは歌にして語ろう。それからひと眠りし、目が覚めたらルイスの案内で安全な場所へ向かおう」 〈作曲家《テューンスミス》〉が歌ったのは、海を沸騰させたルイス・ウーが残していった恐ろしい魔法の話だった。五人の非常に勇敢な〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉がその魔法の扉をはずした。彼らにはそれがどこに通じているかわからなかったし、作動させることもできなかった。  ある夜、〈管鐘《チャイム》〉がいなくなった。  ついてこようとする息子をあとに残るものたちにまかせ、〈作曲家《テューンスミス》〉はひとりでその扉をくぐった。彼は匂いに導かれて、天国を約束しているとしか思えない場所にたどり着いた。  目覚めた場所は生命の樹の庭だった。傍らで、彼より先に姿を消した女が死んでいた。〈管鐘《チャイム》〉は年をとりすぎていたのだ。  彼は探検した。隕石防禦装置と望遠鏡を見つけた。目にしたものを説明するため物理学の理論をつくり出した。  黙って耳をかたむける〈侍者《アコライト》〉の前で、彼とルイスはその正否を論じ合った。〈作曲家《テューンスミス》〉は惑星だけでなく、ブラックホールの存在まで推測していた。また、ほかの種族のプロテクターの存在とその特質についても見当をつけていた。 「何を食べていたんだ? 死んだ兎か?」 「いや、もちろん〈管鐘《チャイム》〉だ。だが目覚めてからあまり時間がたっていないので、それほど腹はへっていない」  ルイスはプロテクターがすぐさま知らなくてはならない情報を伝えようとした。侵入してきた宇宙船のこと──そろそろ捕虜をとって、相手の意図を調べなくてはならない。|秘密の族長《ヒドウン・ペイトリアーク》号とその乗員のこと──〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉はいたるところにいるから、すぐに同族が見つかるだろう。遠からずあの子供たちにも伴侶が必要になる。そして〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉のこと──。 「契約とはすべてを明白にした約束だ、|そうだな《ステット》、ルイス? だが、なぜ〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉がわたしにそんなものを求めるのだ?」 〈侍者《アコライト》〉が答えた。 「恐怖のせいだが、彼は恐怖に対して対応のしかたをまちがえることが多いようだ」 「彼がほしがるものを持っていると好都合なんだが」ルイスはいった。「〈作曲家《テューンスミス》〉、四百一番めの外壁ラムジェットを彼に提供するってのはどうだい?」  夕食の準備ができたので、彼は食べながら説明をつづけた。パサード式ラムジェット、姿勢制御ジェット、核融合。〈作曲家《テューンスミス》〉はすでに核反応の法則とリングワールドの不安定性をも理解していた。 「外壁にある台は四百だ。四百一番めのモーターができたら、それを|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクリワイアリー》号の軸にとりつける。あれはゼネラル・プロダクツ製船殻だから、放射能は通さない。亜光速で千年もあれば、〈惑星船団〉に追いつける……」  話題に政治の匂いを嗅ぎつけて、〈侍者《アコライト》〉はそっと逃げ出した。  ルイスはつづけた。 「それくらい彼は気にしないと思うよ。〈惑星船団〉では保守党が政権を握っている。何も変わっちゃいないだろう。彼の帰還が望まれている可能性だってある。いずれにしても、いってみて損はない」 「彼は権力ゲームが好きなのだな?」 「|そのとおり《ステット》」 「ではそれをさせてやろう。もし彼が力をつけすぎるようなら、二百番めのラムジェットを提供してもいい。われわれもぜんぶ必要になることはないはずだ。〈侍者《アコライト》〉! おまえは自分のこれまでの生きかたに疑問を持っていないのか?」 〈侍者《アコライト》〉がそっともどってきた。〈作曲家《テューンスミス》〉はあの骸骨とクロノスの武器を発見した物語を歌った。そこで得た手掛かりから、自分が挑戦を受けていることを知り、彼は潜伏場所を選ぶとそこで待った。  巨大なオレンジ色の毛皮の塊りが現れるとすぐ飛び出していった。〈作曲家《テューンスミス》〉はそっとあとを追ったが、危険な相手とは思えなかった。 「わたしの種族はおまえの種族の匂いを恐れるようにはできていないのかもしれない」 〈侍者《アコライト》〉は考えこんだ。〈作曲家《テューンスミス》〉はつづけた。 「わたしは、敵がほかのものを囮に使おうとしているのだと気づいた。ふたりのヒト型種族が出現して、片方がもうひとりを投げ出したとき──」 〈至後者《ハインドモースト》〉が出現した。  壊れたピアノのような声をあげてすぐさま姿を消したが、〈作曲家《テューンスミス》〉はそれよりもすばやかった。彼はクジン人を従えてそのあとを追った。ルイスはあわてて叫んだ。 「待て! オリンポス山だったらどうする!」  どうにか立ちあがったが、すでに誰もいなくなっていた。ルイスは、「ばかめ」とつぶやいて|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》まで歩いていくと、しかたなく足を踏み入れた。 〈作曲家《テューンスミス》〉が微妙に身体を揺らしながら防禦の構えをとっている。〈侍者《アコライト》〉があまり安全とはいえない距離から彼を抑えようとまくしたてているが、〈作曲家《テューンスミス》〉はそれを無視し、固い口調でいった。 「おまえたちのリーダーを出せ」  前方の壁の向こうからは、三本足でふたつ頭の生き物が数千人、じっとこっちを見つめていた。 「〈至後者《ハインドモースト》〉のことですね」ひとりがいった。「わたしが〈至後者《ハインドモースト》〉です。あなたの望みをいいなさい」 「いろいろ教えてほしい」  花崗岩の塊りがうしろにずれている。  ルイスは足をひきずりながらクジン人とプロテクターのわきをすり抜けた。肩の痛みも彼の怒りをかきたてた。  彼は〈至後者《ハインドモースト》〉にたずねた。 「おい、いったいどうやったんだ?」 「身体の前面を壁にもたせてうしろの脚で押しました。ブラムも、わたしの脚の力を体験したからには、すでに予測していたでしょう」 「われわれにとっては幸いだったな──」 「ブラムはどうしました?」 「ぼくらの手にかかって死んだよ。〈作曲家《テューンスミス》〉、学ぶのに必要な材料はすべてここ、|尋 問 用 の 焼 け 火 箸《ホット・ニードル・オヴ・インクリワイアリー》号にある。とくにこの映像だ。これは〈|機織りの町《ウイーヴァー・タウン》〉の崖にあったのと同じブロンズ色の|蜘蛛の巣《ウエブ》から送られてきているんだ」 〈作曲家《テューンスミス》〉はいった。 「わたしはブラムの忠告に従おう。〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉、わたしに教えてくれ。だが契約をかわすまで、わたしはおまえを信用しない」 「わたしの種族のあいだで一般的な雇用契約をプリントアウトしましょう」 「一応見てみようか。ルイス、わたしの息子には……」 〈作曲家《テューンスミス》〉はあらためてルイスに目を向けるとつづけた。 「すぐ医療機《ドック》にはいれ。あれか?」 〈侍者《アコライト》〉が彼を抱えあげた。  彼の身体が大きな箱の中にはいると、〈作曲家《テューンスミス》〉は疑わしそうにリードアウトを調べ、そしてたずねた。 「どれくらいかかるのだ?」  パペッティア人が答えた。 「三日か、たぶんもっと短いでしょう」  ルイスはいそいで告げた。 「誰も何にもサインするんじゃないぞ。〈至後者《ハインドモースト》〉、〈夜行人《ナイト・ピープル》〉の食事はよくわからないが、古くなった牛肉をためしてみてくれ。それからチーズもだ。〈作曲家《テューンスミス》、向こうから手を出さないかぎり、あのARMの最後の宇宙船を破壊しないでほしいんだが──」 「この宇宙において、伴侶となりうるもっとも近い存在だからか?」 「いや……まあそれもあるかな。ところで、いま外壁は〈|高 所《ハイ・ポイント》〉のプロテクターたちが管理しているわけだが、現在のところ連中まだおびえきっていると思うんだ。あの、黒い空と大きな奇妙なものが映っている窓を通じて話しかけてやってくれないか? あれは〈|屍肉食い《グール》〉が吸血鬼《ヴァンパイア》の巣から盗み出して、二十万マイル彼方の二マイルの高さまで運んで──」 「その話は太陽光通信で伝わっている」 「|こぼれ山《スピル・マウンテン》のプロテクターたちに、縁《リム》は彼らの支配下にあることを話してやってくれ。はっきり[#「はっきり」に傍点]そう伝えるんだぞ」 〈侍者《アコライト》〉が大きな箱の蓋を閉じようとしている。  ルイスはニヤリと笑った。赤い無毛の顔に向かって語りかけるルイス・ウーの声が聞こえてきたからだ。 「プロテクターと話したいんだが。契約を結びたいんだ」  そして蓋が閉まり、ようやく休息が訪れた。 [#改ページ] [#改ページ]      用語・事項解説 〈アーチ〉 [#ここから2字下げ]  リングワールドの表面からみたリングワールド。原住民の中には、この世界は平坦で、そこに細い放射線形のアーチがついていると信じている種族もある。 [#ここで字下げ終わり] |ARM《アーム》 [#ここから2字下げ]  かつての広域合同国民軍。現在の国連軍・国連警察。その所轄権は地球・月のみに限られる。 [#ここで字下げ終わり] アウトサイダー人 [#ここから2字下げ]  液体ヘリウムと熱伝導効果を代謝の基礎とする知的生命形態。アウトサイダー人は亜光速船で恒星間空間を放浪し、情報の交易を行っている。 [#ここで字下げ終わり] アウトサイダー人のハイパードライヴもしくはハイパードライヴ [#ここから2字下げ]  ノウンスペースでひろく用いられている超高速推進法 [#ここで字下げ終わり] 嵐の〈目〉 [#ここから2字下げ]  リングワールドの床物質にあいた隕石孔の上に発生する風のパターン。 [#ここで字下げ終わり] 反回転方向《アンチスピンワード》 [#ここから2字下げ]  リングワールドの回転する方向と反対の方角。 [#ここで字下げ終わり] ヴィシュニシュティ/ヴァシュネシュト [#ここから2字下げ]  魔法使いもしくはプロテクター。 [#ここで字下げ終わり] ウイ・メイド・イット星 [#ここから2字下げ]  低重力で、地上は強風のため居住に適せず、地下生活をしている住民は一様に白子《アルビノ》でひょろ長い体格をもち、不時着人《クラッシュランダー》≠ニよばれる。 [#ここで字下げ終わり] 蜘蛛巣眼《ウエブアイ》 [#ここから2字下げ]  パペッティア人の科学技術で、多感覚機能を持つ探査装置。 [#ここで字下げ終わり] |ひじ根植物《エルボー・ルート》 [#ここから2字下げ]  リングワールドの原産植物で、自然の垣根となる。 [#ここで字下げ終わり] カホナ(カホな) [#ここから2字下げ] 「神《カみ》も仏《ホとけ》もナいものか( There ain't no justice )」の頭文字をとってつくられたスラング( TANJ )で、強意をあらわす間投詞。 [#ここで字下げ終わり] ガミジイ産の蘭状生物 [#ここから2字下げ]  ガミジイ星は中篇 "Grendel" の舞台。 [#ここで字下げ終わり] 〈管理センター〉→〈補修センター〉 銀河の中心核の爆発 [#ここから2字下げ]  短篇「銀河の〈核〉へ」に詳しい。 [#ここで字下げ終わり] クジン人 [#ここから2字下げ]  人間とクジン族との関係については、第一巻『リングワールド』の説明を参照されたい。なお、黄金時代末期の闘争を忘れた地球人と、クジン人の最初の接触は、短篇 "The Warriors" に描かれている。 [#ここで字下げ終わり] クダトリノ人 [#ここから2字下げ]  盲目で巨体の、触感彫刻にすぐれた才能をもつ異星種族。中篇 "Grendel" 「太陽系辺境空域」などに登場する。 [#ここで字下げ終わり] クリスマス・リボン [#ここから2字下げ]  一般にはクリスマス・プレゼントにかけるリボンのことだが、ここでのイメージは、パーティの席などで、持ちよられた贈りものをクリスマス・ツリーの根本にあつめ、長いリボンでかこんでおく慣習から出ているようだ。 [#ここで字下げ終わり] クルーザー [#ここから2字下げ]  〈機械人種《マシン・ピープル》〉の乗り物。 [#ここで字下げ終わり] グロッグ [#ここから2字下げ]  短篇 "The Handicapped" に登場する。獲物の動物をひきよせるぶきみな超能力を持つ。 [#ここで字下げ終わり] |量子第二段階《クワンタムU・》|超空間駆動《ハイパードライヴ》 [#ここから2字下げ]  〈ピアスンの|人形つかい《パペッティア》〉により開発されたふつうの超空間駆動《ハイパードライヴ》より格段に速い航行技術。その試作第一号機〈|のるかそるか《ロングショット》〉号は、はじめて銀河の〈核〉への訪問を果たした。 [#ここで字下げ終わり] ケンプラーの|ばら飾り《ローゼット》 [#ここから2字下げ]  天体力学における多体問題の特殊解のひとつ(中心解という)だが、ケンプラー=i Kempler )の出所は 不明。 [#ここで字下げ終わり] |ひまわり花《サンフラワー》 [#ここから2字下げ]  十五億年前、スレイヴァー族に対して奴隷種族のトゥヌクティパンが反乱を起こしたとき、奇襲に用いた武器 のひとつ。その詳しいいきさつは、長篇 "World of Ptavvs" の中で語られている。 [#ここで字下げ終わり] ジンクス人 [#ここから2字下げ]  これは異星種族ではなく、ジンクス星へ植民した地球人の末裔で、おそろしく力が強い。この惑星(じつは巨大惑星の衛星)の詳細は、「太陽系辺境空域」で語られる。 [#ここで字下げ終わり] 人類宇宙 [#ここから2字下げ]  地球人類が植民した一群の星系。 [#ここで字下げ終わり] 〈スクライス〉 [#ここから2字下げ]  リングワールドの構成材。リングワールド内面の地球的な地形はすべてこの〈スクライス〉にきざみこまれたものである。縁《リム》の壁も〈スクライス〉でできている。きわめて密度が高く、原子核内の粒子をつなぎとめている核力に匹敵する引張り強度を持つ。 [#ここで字下げ終わり] 星間種子《スターシード》 [#ここから2字下げ]  卵からかえった星間種子《スターシード》が恒星の光圧に帆≠張って回遊の旅にのぼる壮観については、 "Grendel" に詳細な描写がある。 [#ここで字下げ終わり] |右 舷《スターボード》 [#ここから2字下げ]  リングワールドの回転方向に向かって右の方角。 [#ここで字下げ終わり] 停滞状態《ステイシス》 [#ここから2字下げ]  時間経過が極度におそい状態。その比率は、常態の数億年が停滞状態では数秒にしか当たらないくらいまで高めることができる。停滞フィールド内のものはほとんどいかなるものにも侵されない。 [#ここで字下げ終わり] |停 滞《ステイシス》フィールド [#ここから2字下げ]  本シリーズでさまざまな役割を果たす古代種族スレイヴァーの遺産のひとつ。このほかにも、|自 在 剣《ヴァリアブル・ソード》≠竍掘削機械″などいろいろな「遺産」がある。 [#ここで字下げ終わり] ステット [#ここから2字下げ]  放っておけ、変化なし、そのとおり等の意。 [#ここで字下げ終わり] |跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》 [#ここから2字下げ]  パペッティア人の〈惑星船団〉で使われているテレポーテイション交通システム(既知空域《ノウンスペース》に住むこれ以外の種族は、密蔽式の転移ボックスというもっと原始的な機構を使用している)。 [#ここで字下げ終わり] スパゲッティ植物 [#ここから2字下げ]  リングワールドの原産で食料になる。 [#ここで字下げ終わり] |こぼれ山《スピル・マウンテン》 [#ここから2字下げ]  外壁に沿ってずらりと立ちならぶ山。縁《リム》の排出管《スピル・パイプ》による留出物の堆積。フラップ循環の一段階。ここには独自の生態圏がある。 [#ここで字下げ終わり] 回転方向《スピンワード》 [#ここから2字下げ]  リングワールドの回転方向に一致する方角。 [#ここで字下げ終わり] スラスター駆動 [#ここから2字下げ]  無反動推進。ノウンスペースでは戦闘用以外のあらゆる宇宙船は、おおむね核融合に替えてこの方式を採用している。 [#ここで字下げ終わり] ソーセージ植物 [#ここから2字下げ]  メロンや胡瓜に似ているがリング状につながって生えるリングワールド原産の植物。そのつなぎ目から地面に根をおろす。湿地帯に多生し、食料になる。 [#ここで字下げ終わり] 〈族長世界〉 [#ここから2字下げ]  クジン人の帝国。 [#ここで字下げ終わり] タスプ [#ここから2字下げ]  離れたところから人間の脳内の快感中枢を刺激する小型の装置。 [#ここで字下げ終わり] チュフト船長 [#ここから2字下げ]  その名のクジン人をネサスが蹴倒した挿話は、じっさいに中筋 "The Soft Weapon" に出てくる。 [#ここで字下げ終わり] ツィルタン・ブローン [#ここから2字下げ] 〈都市建造者《シティ・ビルダー》〉が使っていた装置。貨物や旅客などあらゆる固形物を〈スクライス〉を透過できるようにするビーム発生機。実在の疑わしい装置。 [#ここで字下げ終わり] 日徒歩距離《デイウォーク》 [#ここから2字下げ]  種族によって異なるが、一般に食物収集と体力保持を考慮に入れた上で、ひたすら前進した場合で規定する。 〈機械人種《マシン・ピープル》〉の一|日徒歩距離《デイウォーク》はおよそ十マイル。〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉ではそれより少ないが、ずっとその速度を維持できる。〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉は二時間で〈機械人種《マシン・ピープル》〉の一・五|日徒歩距離《デイウォーク》を走破する。 [#ここで字下げ終わり] 地球化《テラフォーム》 [#ここから2字下げ]  環境に手を加えて地球のように変えること。 [#ここで字下げ終わり] ドラウド [#ここから2字下げ]  電流中毒者が頭蓋のソケットにさしこむ小さな装置。中毒者の脳の快楽中枢に流す電流を調整するもの。 [#ここで字下げ終わり] トリノック人 [#ここから2字下げ]  この種族とのファースト・コンタクトの経緯は、短篇 There is a Tide" で語られる。 [#ここで字下げ終わり] 既知空域《ノウン・スペース》 [#ここから2字下げ]  人類その他の知的種族によって解明されている恒星間宇宙の一区域。 [#ここで字下げ終わり] 超空間駆動《ハイパードライヴ》 [#ここから2字下げ]  アウトサイダー人の大きな交易品目のひとつである超光速推進法。アウトサイダー人自身はまったくこれを使わないが、既知空域《ノウンスペース》内の宇宙旅行種族にひろく用いられている。 [#ここで字下げ終わり] パペッティア人 [#ここから2字下げ]  短篇「中性子星」以来おなじみのところ。ついでながら、第一巻『リングワールド』に登場するふたりのパペッティア人ネサス≠ニキロン≠ヘ、ともにダンテの『神曲・地獄篇』に出てくるケンタウロスの名前をそのままいただいている。 [#ここで字下げ終わり] 春を送る [#ここから2字下げ]  こっそり誰かに向かってタスプを使うこと。 [#ここで字下げ終わり] バンダースナッチ [#ここから2字下げ]  これも十五億年前、トゥヌクティパンがスレイヴァーへのみつぎもの[#「みつぎもの」に傍点]として(かつ反乱の準備のために)創造した食肉用の知性生物。プロントザウルスの二倍もある白いなめくじのような怪物で口のまわりの触毛以外に感覚器官をもたないという、ある意味では哀れな存在でもある。ジンクス星の低地に住むバンダースナッチの一族は、人間に義手をつけてもらうかわりに人間の狩猟獣になるという契約をかわしている(前記 "Handicapped" )。なおそれが突然変異を起こさないのは、人工生命なので染色体の大きさが人間の指ほどもあり、ミクロ段階の変動に強いためだという。作品中には、この名称の出どころであるルイス・キャロル『鏡の国のアリス』に現われるおどろしき[#「おどろしき」に傍点]バンダースナッチ=i Frumious Bandersnatch )という形容が、そのまま使われている。 [#ここで字下げ終わり] 反物質の小惑星 [#ここから2字下げ]  ゼネラル・プロダクツ製船殻の唯一の泣きどころがこれ。 [#ここで字下げ終わり] 細胞蹴活剤《ブースタースパイス》 [#ここから2字下げ]  ジンクス星の|知 識 学 会 研 究 所《インスティテュート・オブ・ナレッジ》で開発された文字どおりの不老長寿薬で、その出現により臓器銀行《オーガン・バンク》のもたらした悪弊にようやく終止符が打たれた。(もっとも、臓器銀行については、のちにニーヴン自身、現実にはクローン培養技術が先行するので、臓器故売といった問題は起こらないだろうとのべている) [#ここで字下げ終わり] フーチ(フーチスト) [#ここから2字下げ]  クジンの狩猟公園全域にわたって散在する石の寝椅子。 [#ここで字下げ終わり] フライサイクル [#ここから2字下げ]  一回目のリングワールド調査に用いられた単座の乗りもの。 [#ここで字下げ終わり] |平 地 人《フラットランダー》 [#ここから2字下げ]  小惑星帯人や他星系の植民者に対して、地球に住んでいる人間をこう呼ぶ。この時代の|平 地 人《フラットランダー》は、男も女もおそろしく濃いメークアップをしていて、めったに他人に素顔をみせない。その他さまざまな奇習が、中篇 "Flatlander" などに出てくる。 [#ここで字下げ終わり] フラップ    海底の軟泥。 |高所催眠への耐性《プラトー・アイズ》 [#ここから2字下げ] 高所催眠《プラトー・トランス》≠ヨの耐性。長篇 "A Gift from Earth" の主人公マット・ケラー(山頂平原《プラトー》$ッの住民)がこの素質の持ちぬしである。 [#ここで字下げ終わり] 荷台外殻《ペイロード・シェル》 [#ここから2字下げ] 〈機械人種《マシン・ピープル》〉のクルーザーの、鍵のかかる鉄製の外被。 [#ここで字下げ終わり] 小惑星帯人《ベルター》 [#ここから2字下げ]  太陽系の小惑星帯に籍をおく人々。 [#ここで字下げ終わり] 〈補修センター〉 [#ここから2字下げ]  火星の〈地図〉の下におさめられた、リングワールドの保守と制御を行なう古代の中枢。 [#ここで字下げ終わり] 左舷《ボート》 [#ここから2字下げ]  リングワールドの回転方向に向かって左の方向。 [#ここで字下げ終わり] 毎秒九・九八メーター [#ここから2字下げ]  地球の重力加速度は約九・八〇メーター/秒である。たぶん作者の思いちがいか、ヤード・ポンド法で頭にはいっている数値からの換算誤差といったところだろう。 [#ここで字下げ終わり] マウント・ルッキットザット [#ここから2字下げ]  別名山頂平原《プラトー》≠ニもよばれる植民星(長篇 "A Gift from Earth" の舞台)で、その名のとおり、人間の居住可能地域は、この惑星唯一の超高峰の山頂のみにかぎられている。 [#ここで字下げ終わり] ラムシップ [#ここから2字下げ]  宇宙ラムジェット・エンジンを装備し、恒星間物質をあつめて核融合燃料とする宇宙船で、質量比の問題を気にすることなく光速の近くまで加速できる。地球では二十一世紀に、この種の無人探査艇《ラムロボット》≠ェ、植民可能惑星発見のために使用され、二十五世紀には有人ラムシップも可能になった(短篇 "The Ethics of Madness" )が、超空間駆動《ハイパードライヴ》の実現で無用の長物と化した。 [#ここで字下げ終わり] 着陸船《ランダー》 [#ここから2字下げ]  地上と軌道を結ぶ宇宙船の総称。 [#ここで字下げ終わり] リシャスラ [#ここから2字下げ]  たがいに異なる、ただし知的なヒト型種族間における性交。リングワールド外では使われない用語である。 [#ここで字下げ終わり] リングワールド全体のイメージ [#ここから2字下げ]  要するに、一見ごく細くみえるリングワールドの幅が、地球の周囲の四十倍もあるということである。なおこれは、地球から月までの距離のおよそ四倍にあたる! [#ここで字下げ終わり] 〈|のるかそるか《ロングショット》〉号→量子第二段階《クワンタムU・》|超空間駆動《ハイパードライヴ》 〈惑星船団〉 [#ここから2字下げ]  ピアソンのパペッティア人の故郷惑星と農業用に接収された四つの惑星。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]      リングワールドの諸元 30時間=1リングワールド日 1回転=7・5日=<潟塔Oワールドの1自転 1ファラン=10回転=75日 質量=2×10の30乗グラム 半径=0・95×10の8乗マイル 周囲=5・97×10の8乗マイル 幅=997000マイル 表面積=6×10の14乗平方マイル    =地球表面積の約3×10の6乗倍(概算) 表面重力=31・7フィート/秒の2乗=0・999G 側壁の高さ=(中心向きに)1000マイル 補修センター=面積0・56×10の8乗マイル、高さ=40マイル       =2・24×10の9乗立方マイル 近い方の|大 海 洋《グレート・オーシャン》=600×地球表面積 主星:G1もしくはG2、太陽よりわずかに小さく低温。 [#改ページ]      登場人物紹介 【〈機械人種《マシン・ピープル》〉】  ヴァラヴァージリン(ヴァラ、ボス=j [#ここから4字下げ] ……隊商の雇い主。〈先見通商隊《ファーサイト・トレーディング》〉の代表 [#ここで字下げ終わり]  フォラナイードリ(フォーン) [#ここから4字下げ] ……バロクの娘。ケイワーブリミス車の乗員 [#ここで字下げ終わり]  サバロカレシュ(バロク) [#ここから4字下げ] ……大男。ケイワーブリミス車の乗員 [#ここで字下げ終わり]  ケイワーブリミス(ケイ) [#ここから4字下げ] ……ヴァラヴァージリンのクルーザー指揮官 [#ここで字下げ終わり]  アンスランティリン(アンス)     ……クルーザー指揮官  タラタラファシト(タルファ)     ……女。アンス車の乗員  ホワンダーノスティ(ホワンド)     ……クルーザー指揮官  チタクミシャド(チット)     ……ホワンダーノスティ車の乗員  ソパシンティ(スパッシュ)     ……ホワンド車の乗員  ヒマパーサリイ(ヒンプ)     ……アンスランティリン車の乗員 〈|特 別 警 備 通 商 隊《ハイ・レンジャーズ・トレーディング・グループ》〉 [#ここから4字下げ] ……四十三ファラン前に、ヴァラを残して全員死亡 [#ここで字下げ終わり]  タラブリリアスト(ターブ) [#ここから4字下げ] ……ヴァラヴアージリンの伴侶。はるか|右 舷《スターボード》で子供たちの面倒をみている [#ここで字下げ終わり] 【〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉】  パルーム     ……男。歩哨  サール     ……第一雄性《アルファ・メイル》。親玉  ムーンワ     ……女。サールの一の妻  ビージ     ……男。サールの後継者と目されている  タルン     ……男  ウェンブ     ……女  マキー     ……男  ヒアスト     ……男。ウェンブの息子  トゥウク     ……小柄な〈草食巨人《グラス・ジャイアント》〉の女 【〈|落ち穂拾い《グリーナー》〉】  ペリラック     ……女  シラック     ……第二雄性《ベータ・メイル》  マナック     ……第一雄性《アルファ・メイル》。毛深い  コリアック     ……女 【〈赤色人《レッド》〉】  テガー・フーキ=サンダーサル     ……特使  ワーヴィア・フーキ=マーフ・サンダーサル     ……特使  アナクリン・フーキ=ホワンハーハー     ……使者  チェイチンド・フーキ=カラシク     ……使者 【〈|川の人種《リヴァー・ピープル》〉】  ワーブリチューグ     ……女  ボラブル     ……男  ルーバラブル     ……通商言語を話す  ファドガブラドル     ……年老いた語り部 【〈球体人種《ボール・ピープル》〉】  ルイス・ウー  〈至後者《ハインドモースト》〉(〈|蜘蛛の巣の主《ウエブ・ドゥエラー》〉)  ハミイー 【〈|機織り人種《ウイーヴァー・ピープル》〉】  パラルド  ストリル  サウール  キダダ 【〈|漁 師《フィッシャー》〉】  蛇殺しのシャンス  岩もぐりのヒシュサール 【〈舟人《セイラー》〉】  ホイーク 【〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉】  〈竪琴笛《カザープ》〉  〈作曲家《テューンスミス》〉  〈|竪琴弾き《ハープスター》〉  〈|嘆 き の 管《グリーヴィング・チューブ》〉 【クジン族】  〈侍者《アコライト》〉     ……ハミイーの長子  カサクト     ……クジンの〈地図〉の一領主 【〈|こ ぼ れ 山 人 種《スピル・マウンテン・ピープル》〉】  サロン     ……年配の女  デーブ     ……中年の女  スクリープ     ……デーブが飼っている鳥  ハリード     ……デーブの次子  バレイエ     ……デーブの長子  ジェンナウィル     ……バレイエの伴侶の若い女 【プロテクター】  クロノス  ブラム  アン  ラヴクラフト  コリアー  キング   ……そしてその他の名もないものたち [#改ページ] [#改ページ]      訳者あとがき  久しぶりに──本当に久しぶりに──〈リングワールド〉シリーズ第三巻をおとどけできる運びとなった。原書の出版は一九九六年六月だから、邦訳が出るまでに二年近くかかったことになる。おもな理由はわたしの遅筆で、お待ちかねのニーヴン・ファン諸兄姉にはまことに申しわけなく、まずはここにお詫びを申しあげたい。  ご存じのとおり、正篇の『リングワールド』(一九七〇年、邦訳七八年)は、ニーヴンSFを代表する〈ノウンスペース〉シリーズの一応の集大成として書かれた、文字どおり彼の畢生の傑作といえるものだった。だがそれにしても、えりすぐりのSFファンたちからあれほど熱烈な支持を受けた作品は、ほかに例を見ないのではないだろうか。統篇『リングワールドふたたび』(一九八一年、邦訳八二年)の巻頭に掲げられた原作者の謝辞によると、正篇が出てから十年にわたって読者からのお便りはひきもきらず、「あたかもそれが現実に計画された工事で、給料をもらってそこに参加でもしたかのように、作品内で語られあるいはそこに隠された多くの仮説や数学や生態学や哲学的な含蓄について、精密きわまる考察がよせられ」たとのことである。  そうした中で、「リングワールドがもし剛体ならその系は力学的に不安定だ」という、おなじみの高度に物理学的な問題点も浮かびあがってきたわけで、その告発(?)に応えるのが、続篇『リングワールドふたたび』が書かれる動機となったことは、これもニーヴンSFのファンなら先刻ご承知のところだろう。  反響の大きさは洋の東西を問わず、日本でも熱心なSFファンたちの手による『リングワールド建設公団企画書』という精細な研究書が出たのをはじめ、多くの人々がその分析にのめりこんだ。もちろんごく初期のうちに「力学的に不安定」という指摘もわたし宛に寄せられたので、ニーヴン氏にただしたところ、本国ではすでにその解決策が論議を呼んでいるとのことで、さてこそとうなずかされた。ちょうどその前後──一九七九年──からわたしはほぼ毎年世界SF大会へ出席するようになり、日本からの参加者も年々ふえて、一九八四年にロサンジェルス郊外のアナハイムで開かれた大会には百名に近い日本人ファンが押しかけた。右の『企画書』や、お手製のパペッティア人の縫いぐるみや、さらにはティーラ・ブラウンにあやかった「幸運のお守り」など、かすかずの贈り物を持参したファンたちに囲まれて、ニーヴン氏すっかりご満悦だったことはいうまでもない。わたし自身も夜のホテルのルームパーティでは、かの地のリングワールド愛好者たち──ほかでもない、作者への手紙でその建設に「参加した」人々──と、下手な英語でリングワールドに関するさまざまな考察を披露し合う機会を持つことができた。(お察しのとおり、わたしもニーヴン流ハードSFの熱烈なファンとしては人後に落ちないつもりである。この構築物の超絶的なすごさ──破天荒な、あるいはいっそ非常識なといいたいくらいだ──については、正篇の訳書(文庫版)の解説で詳しく述べたので、いまさらくり返す必要はあるまい)  その『リングワールドふたたび』の末尾で、ルイス・ウーとその三人の連れは巨大な帆船でリングワールドの大海洋に乗り出す。これがこの物語にふさわしい終幕とも思えないので、つづきがいつ出るかと首を長くして待っていたのだが……。  その三巻目にニーヴン氏がとりかかるきっかけは、ちょっと意外なところから訪れた。もうお読みのかたもおありかと思うが、マーティン・H・グリーンバークとバーバラ・ハムリー両氏の編集に成る吸血鬼テーマの書き下ろし短篇集 "Sisters of the Night" (邦訳『死の姉妹』梶元靖子・小隅黎共訳、扶桑社刊)である。そのとき編集者がニーヴン氏に依頼したのは当然リングワールドの吸血鬼を扱った短篇だったわけだが、数日後、ニーヴン氏電話してきて曰く──「いや、あの話だが、実は長篇になりそうなんだよ」(同書収録「〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉の歌」につけられた編者の解説文より)  結局その短篇集には、本書の一〜四章が、いわば未完の中篇のかたちで収められた。このところ氏とわたしの文通は翻訳に関する質疑をファクシミリで交わす程度で、こまかい近況の伝え合いなどはほとんどないため断言はできないが、おそらくニーヴン氏は本書の第一部の大部分を書きあげて捉出したのではないかと思う。前記の解説で、編者は「どこで切るかに苦労した」と述べているからである。──閑話休題──  ところでこの第三巻も、あまりきっちりした結末を迎えたとはいいがたい。唯一明確になったのは、構造物としてのリングワールドはともかく、その生態系を支配しているのがほかならぬその〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉たちだということで、それも第二巻の途中ですでに示唆されていたことである。  だがそれにしてもリングワールドというのは、生態学的に見ても、またなんという途方もない世界だろうか。そこでは、さまざまな亜種に適応放散した人類が、地球でなら地中の蛆虫やバクテリアのたぐいに託される役割までを分担しているのだ。(いや、吸血鬼《ヴァンバイア》などという寄生虫まがいのものまでそろっている!)これはある意味ではまさしく地獄絵図にほかならない。ニーヴン氏には、ダンテの『神曲』をパロった、ジェリー・パーネル氏と共作の『インフェルノ』という長篇があるが、そこで描かれる「地獄ランド」などにくらべると、リングワールドはなまじリアルであるだけ、なんとも底の知れない恐ろしさを内に秘めている。  もっとも、このような状況を「地獄」と見るのはわたしの素朴な偏見であって、実はそうでもないのかもしれない。これはこれでうまく運営されているとすれば、まあかまわないのだろう。でも、ニーヴン氏は以前からずっと「科学技術大好き人間」だったはずで、ことあるごとに「わたしはオプティミストだ」と公言していた。あれが単なるポーズだったとも思えない。だとすると、作者のその信念は、ほかならぬこの代表作によって手ひどく裏切られたことになるのではないだろうか? 完壁に構築されたはずのリングワールド自体が、実は常時パサード式ラムジェットによる姿勢制御やら海底の浚渫やら、なんとも乱暴な隕石防禦やらを必要とする厄介なしろものだったわけだから。  ここで思い出されるのが、評論家の牧眞司氏による、「ニーヴン氏はおそらく自分でも意識していない根っからのヒューマニストなのではないか?」という指摘である。これについては『リングワールドふたたび』(文庫版)の「あとがき」でも紹介したので、立ち入っては述べないが、そうだとするとなんとなく一本筋が通ってくる。ニーヴンSFはしばしば「洗練されたスペースオペラ」と呼ばれる。そこに描かれる宇宙のヒーローは、基本的には地球人類そのものなのである。  またもや乱暴な推測で恐縮だが、もしやニーヴン氏は正篇『リングワールド』を書きはじめるに当たって、それがプロテクター族の建造に成るものとまでは設定をつめていなかったのではあるまいか? その解釈があることに気づいたのは、話の進行上、「地下資源がないためいったん文明が没落すると再興できない」ことを認めざるをえなくなった、あのあたりだったのではないかという気がするのだ。そしていうまでもなく、プロテクターは、人類にとって「神」にほかならない。それも、後世のいかめしくも気詰まりな全能の唯一神などではなく、人間味たっぷりのギリシャ神話の神々だ。(わたしとしてはむしろ人間が死んで神になる日本神道になぞらえたい誘惑を感じるが、まあそこまでの我田引水は控えておこう)  ともあれ、そのようにとらえればすべてがすんなりと解決する。リングワールドは、ニーヴン氏がこよなく愛する(と明言する)人間の科学技術の産物ではないのだ。氏にとって不本意さは残るだろうが、ひとつ悟りすませば、人間の幸福が文明の恩恵だけにあるわけではない。気まぐれな神々のおせっかいの産物としか思えないこの突拍子もない環状世界の表面でも、人類はりっぱに生き延び、それなりに繁栄しているのである。  そういえばずっと以前、映画『ユリシーズ』の中で、主人公のユリシーズ(オデッセウス)が「神々には力があるが人間には知恵がある」といい放つのを聞いて仰天した覚えがあるが、古代のプリモティヴな「神」の概念とはだいたいそんなところだったのではないだろうか。こうしてみると、リングワールドの物語は──ひいては〈ノウンスペース〉シリーズそのものも──「洗練されたスペースオペラ」であると同時に、「空想科学」に基礎をおいたギリシャ神話の再生産であり、その意味でハードSFの神髄に近いものとして位置づけられるのではないかと、わたしはいまのところ考えている。  末筆で恐縮だが、本書の訳出に当たっては、梶元靖子さんにひとかたならぬお世話になった。実をいうとこれは、前記の中篇「〈夜行人種《ナイト・ピープル》〉の歌」と同様、梶元さんとわたしの共訳とするほうがふさわしい。わたしひとりの訳ということになったのは、「〈ノウンスペース〉は小隅さんの訳でないと」という梶元さんのやさしいお心遣いに甘えさせてもらっただけのことである。ただし最終的にはわたしが我を通して、いろいろ手を入れたりしているので、もし誤訳や原作のムードにそぐわないところがあったら、それはすべてわたしの責任である。  また、途中でいろいろ教えていただいたテッド・クオック氏やダン・オブライエン氏など「RAY会」の先生がた、それに、編集に当たって最終的に訳文のこまかい点にまで目をくばって貴重な助言をくださった細井恵津子氏にも、心からお礼を申しあげたい。 [#改ページ] [#改ページ] [#(img/03/391.jpg)入る]