リングワールド ラリイ・ニーヴン 小隅 黎訳 [#(img/01/000a.jpg)入る] [#(img/01/000d.jpg)入る] [#(img/01/000b.jpg)入る] [#改ページ] [#(img/01/000c.jpg)入る] [#改ページ] [#(img/01/001.jpg)入る] [#(img/01/002.jpg)入る] [#(img/01/003.jpg)入る] [#(img/01/004.jpg)入る] [#(img/01/005.jpg)入る] [#(img/01/Louis Wu.jpg)入る] [#(img/01/Teela Brown.jpg)入る] [#(img/01/Kzin.jpg)入る] [#(img/01/Puppeteer.jpg)入る] [#(img/01/RingWorld1.jpg)入る] [#(img/01/RingWorld2.jpg)入る] [#改ページ]      1 ルイス・ウー  ベイルート中心街の夜、ずらりと並んだ公衆転移ボックスのひとつで、ルイス・ウーは、一瞬の光のきらめきとともに実体化した。  長さ一フィートの弁髪が、人工雪のように白く光っている。除毛した頭と顔の皮膚の色はクローム・イエロー。眼球の虹彩は金。ゆったりした上衣《ローブ》は紫紺色で、立体染色の金龍の図柄が浮きだしている。  出現した瞬間、彼は真珠のように完璧な歯並びをみせて相好をくずしていた。笑って手をふっているのだった。だが、その笑顔はもう消えかけており、真顔になる寸前、くずれかけたゴムの仮面のような表情に、ルイス・ウーの本当の年齢が垣間みえた。  しばし彼は、ベイルート市街の雑踏ぶりを眺めていた。どことも知れぬ各地から、転移ボックスの中に現れてくる人びと。夜がふけて、走路がとまっているので、徒歩で流れていく群集。  そのとき、あちこちの時計が、二十三時を打ちはじめた。ルイス・ウーは、ちょっと肩をいからしてボックスを出ると、人ごみにまぎれこんだ。  レシトでは、彼の誕生パーティがたけなわだろうが、そこでは暦はもう誕生日の翌日の朝になっている。しかし、このベイルートでは、一時間だけ早い。感じのよさそうな屋外レストランにはいると、ルイスはラキ酒を周囲にふるまい、人びとをうながしてアラビア語と|共 通 語《インターワールド》で歌を歌った。  真夜中になる直前、彼はブダペストへ向けて、そこを去った。  みんなはもう、彼が自分のパーティをぬけだしたことに気づいているだろうか? 女といっしょに席をはずして、二、三時間のうちにもどってくると思っているかもしれない。  しかし、ルイス・ウーは、ただひとり、翌日[#「翌日」に傍点]の到来に追いたてられながら、深夜の鼻先をかすめ飛んでいるのだった。二百歳の誕生日を祝うのに、二十四時間では、まだちょっと不足というわけである。  彼がいなくても、友人たちのほうに問題はあるまい。みんな自分の面倒くらいみられる連中だ。交友関係の選択に関するルイスの規準はがっちりしたものであった。  ブダペストではまた、踊りと酒だった。地元の人びとには、裕福な旅行者のように、旅行者には、地元の金持ちのようにみえたことだろう。ダンスをし、ワインを飲み、そして深夜直前に姿を消す。  ミュンヘンの街を、彼は歩いていた。  空気は暖かく、澄んでいる。頭のほてり[#「ほてり」に傍点]も、いくらかさめたようだ。明るく照明された走路が、時速十マイルで動く上を、彼はさらに自分の足で歩む。ふとそのとき、世界のどの都市にもこんな走路があって、どれも時速十マイルで動いているということが、心に浮かんだ。  堪えられぬ思いであった。はじめて気づいたわけでもない。ただ急にそれががまんできなくなっただけだ。このミュンヘンが、カイロやレシトと……ついでにいえば、サンフランシスコやトペカやロンドンやアムステルダムなどとも、いかによく似ているかを、いつも彼は見てきた。走路ぞいの店で売っているものまで、世界中どこへいっても同じだ。行きかう人びとまでが、今夜は、似たような服で、似たような姿にみえる。アメリカ人でもドイツ人でもエジプト人でもなく、ただの|平 地 人《フラットランダー》なのである。  転移ボックスの三世紀半が、地球の無限のヴァラエティをこんな[#「こんな」に傍点]にしてしまったのだ。それは、瞬送旅行の網目《ネット》で、世界を蔽いつくしている。モスクワとシドニーの距離も、いまや一瞬の時間と十分の一スター貨幣一枚にしか値しない。必然的に、ここ数世紀にわたって、各都市はみごとにブレンドされ、地名はもはや過去の遺物となってしまった。  サンフランシスコとサンディエゴは、長々とのびた海岸都市の北端と南端である。しかし、そのどっちがどっちの端かを知っているものが、どれだけいるだろうか? 今ではもう、カホ[#「カホ」に傍点]なほどわずかだろう。  二百歳の男の誕生日としては、ひどく気の滅入るようなことを考えたもんだ。  しかし、都市の混合は事実である。ルイスは、その経過をずっと見まもってきた。時と所と慣習と、そういったあらゆる不整合が、世界的規模で、くすんだ灰色のペーストのような〈都市〉の大きな合理性に統一されてきたのだ。  こんにち、ドイツ語、英語、フランス語、スペイン語を話しているものがあるだろうか? みんな話すのは|共 通 語《インターワールド》だけ。ボディ・ペインティングのスタイルも、まるで巨大な波のように、世界中いっせいにデザインをかえていく。  もう一度|休 養《サバティカル》に出ようか? 未知の宇宙、ただひとり、小さな船で、皮膚や目や髪の色も自然のまま、無精髭にも手をつけずに……。 「|馬鹿め《ナッツ》」と、ひとりつぶやく。「まだ、もどったばかりじゃないか」  それも、二十年前のことである。  しかし、ここにももう真夜中が迫っていた。ルイス・ウーは、転移ボックスを見つけると、クレジット・カードをスロットにさしこみ、セヴィリアをダイアルした。  出たのは、陽のさしこむ一室の中。 「カホナ!」  びっくりして目をしばたたいた。転移ボックスが、いかれちまったにちがいない。セヴィリアで陽が照っているはずはない。もう一度ダイアルしなおそうとして、ふとふりかえると、思わず目をむいた。  どことも知れぬホテルの一室である。つくりが平凡なだけに、そこにいたもの[#「もの」に傍点]の異様さが、よけいショッキングだった。  部屋の中央で、こっち向きに立っているのは、人間でもヒューマノイドでもない何かであった。三本脚で立ち、屈曲自在な細い二本の頸の先についたふたつのひらたい頭が、それぞれの位置からルイス・ウーを見つめている。  その異様な体躯のほとんどを蔽っているのは、白っぽい手袋の革のような皮膚だが、粗い褐色のたてがみが、ふたつの頸のあいだから背骨にそって下へのび、うしろ脚の複雑なつけ根のあたりまでを蔽っている。二本の前脚を大きく開き、小ぶりな鉤爪状の蹄が、だいたい正三角形をなして床をふまえている。  異星の獣だろうとルイスは思った。あのひらたい頭部には、脳髄を入れる余地などありそうにない。しかし、よく見ると、ふたつの頸のつけ根のあいだが、こぶのようにもりあがり、たてがみも、その部分を保護するように厚く濃くなっている……百八十年も昔の記憶の底から、やおら浮かびあがってくるものがあった。  パペッティア人だ。  ピアスンが〈人形師《パペッティア》〉と名づけたやつだ。  その脳と頭蓋は、あのこぶの下にある。獣などではない。少なくとも人間に匹敵する知恵の持主なのだ。両方の頭にそれぞれひとつずつ、骨の中に深く埋まった目が、ふたつの方向から、ルイス・ウーをじっと見すえていた。  ドアを押した。ロックされている。  ルイスは閉じこめられた[#「こめられた」に傍点]のではなく、閉めだされている[#「だされている」に傍点]のだった。もう一度ダイアルして、消えてしまうこともできるだろう。だが、そんな気は、いささかもなかった。ピアスンのパペッティア人は、しょっちゅうお目にかかれるという相手ではない。ルイス・ウーが生まれるよりも前に、その一族は、既知空域《ノウン・スペイス》から姿を消していたはずだ。 「何か、ぼくに用かね?」と、ルイス。 「はいそうです」異星人が答えた……。  ……青春の夢をスパークさせる声。その声にふさわしい美女のおもかげが、ルイスの脳裡をかすめる。クレオパトラ、トロイのヘレン、マリリン・モンロー、それにローレライ・ハンツを、いっしょにしたような……。 「カホナ!」  まったく、悪態をついて当然の場合だった。  世の中に、神《カみ》も仏《ホとけ》もナいものか! 性別もはっきりせぬふたつ頭の異星人が、こんな声の持主だとは! 「こわがらないでいいのです」と、それ[#「それ」に傍点]がいった。「逃げたければ、いつでも逃げられるのですよ」 「学校に、あんたみたいなのの写真があったよ。ずっと昔に姿を消しちまったと……とにかく、ぼくはそう聞いてたが」 「わたしの種族が既知空域《ノウン・スペイス》から逃げだしたとき、わたしは、いっしょにいかなかったのです。既知空域《ノウン・スペイス》に残って、種族のお役に立つためです」 「どこに隠れてたんだい? それに、いったいここはどこなんだ?」 「あなたに関係ないことです。あなたは、ルイス・ウー・MMGREWPLHですね?」 「それを知ってる? わざわざぼくをつけてたのかい?」 「はい。この惑星の転移ボックスのネットワークに、手を加えました」  ありうることだろうと、ルイスは思った。よほど買収をうまくやればだが、可能なことはたしかだ。しかし──。 「なぜ?」 「これには、いろいろ説明することが──」 「ここから出してくれないかね?」  パペッティア人は考えこんだ。 「そうしなければなりませんでしょう。まず、わたしのほうにも防備があることを知っておいてください。襲いかかろうとしても無駄です」  ルイス・ウーは、うんざりした口調でいった。 「どうしてぼくが襲いかかるなんて?」  パペッティア人は答えない。 「そうか、思いだしたよ。あんたたちは、臆病なんだったな。あんたの種族の全道徳律は、その臆病さの上に成り立ってるんだっけ」 「不正確な表現ですが、そう思っていて結構です」 「まあ、このくらいですんでよかったんだろうな」  ルイスは思いなおした。どんな知的種族にも、それぞれ変わったところはある。パペッティア人など、むしろ扱いやすいほうだろう。あの、種族全体総パラノイアのトリノック人や、天性の触発的殺人狂クジン人や、定着生物グロッグ……その、手のかわりをするしろものにくらべればだ。  パペッティア人の姿をじっと見つめているうち、過去の埃の中に埋もれていた記憶が、いっせいにもどってきはじめた。  パペッティア人とその商業帝国のこと、地球人との関係、そして突然のショッキングな消失など──それにかさなって、生まれてはじめての喫煙の味や、ぎごちなくタイプのキイを押した感触、記憶しなければならない|共 通 語《インターワールド》の単語のリストと英語のひびきや感じ、ごく幼かった頃のわけのわからぬ不安感など。  パペッティア人のことを教わったのは、カレッジの歴史の時間だが、そのあと百八十年のあいだ、まったく思いだしたこともなかった。人間の心の記憶容量には、まさに端倪すべからざるものがある。 「このままでもいいんだぜ」と、彼はパペッティア人にいった。「そのほうが、そっちに好都合ならね」 「いいえ。こちらへきてもらわなければなりません」  パペッティア人の内心の緊張に応じて、そのクリーム色の皮膚の下で、筋肉がもりあがり、ひきつるのがわかった。と同時に、転移ボックスのドアがカチリとひらいた。  ルイス・ウーは、室内へ足をふみいれた。パペッティア人が、数歩うしろへさがる。  ルイスは、椅子に身をしずめた。自分よりもむしろパぺッティア人のためを思ってのことである。腰かけているほうが、無害にみえるだろう。椅子は規格型の、人間用自動調節式マッサージ椅子だった。香辛料と化学薬品をいっしょにしたような、徴かな香りが漂ってきた。けっしていやな匂いではない。  異星人は、うしろ脚をたたんですわりこんだ。 「どうしてここへ呼ばれたのか、ふしぎに思っているのでしょう。説明しなければなりません。わたしの種族のことを、どのくらい知っていますか?」 「学校へいったのは、ずいぶん昔のことだからね。たしかあんたたちは、一大商業帝国をきずいていたんだっけ? われわれの称する〈既知空域《ノウン・スペイス》〉なんて、その一部にすぎなかった。トリノック人のことも、人間は、あんたたちから聞いていただけで、実際に、トリノック人と出遭ったのは、いまから二十年前のことだ」 「はい。わたしたちは、トリノック人とも貿易していました。たしかほとんどの場合は、ロボットを仲介にしたと思います」 「少なくとも、数千年の歴史と直径数十光年の版図をもった貿易帝国だった。それが、ふいに誰もいなくなっちまった。何もかも放棄してだ。なぜ?」 「もう、忘れられているのですか? わたしたちは、銀河の中心核の爆発から逃げているのですよ!」 「そのことは知ってる」  ルイスも、銀河系の中心部における新星の連鎖反応が、異星種族によって発見されたという話は、耳にしたおぼえがあった。 「しかし、なぜ今から逃げだすんだ? 核の恒星が新星になりはじめたのは、一万年前のことだぜ。あと二万年たたないと、その光もここまではやってこない」 「地球人は、逃げようとしない。そして、自滅する。危険がわからないのですか? 衝撃波にともなう放射能で、銀河系のこのあたりには、まったく生物が住めなくなるのですよ!」 「二万年ってのは、相当の時間だぜ」 「二万年後でも、全滅は全域です。わたしの種族は、マゼラン雲の方向に逃げています。ただし、わたしたち何人かは、移民団が危険に遭遇した場合を考慮して、ここに残りました。そして今が、その場合なのです」 「へえ? どんな危険?」 「まだ、それには答えられません。しかし、これだけは見せてあげます」  パペッティア人は、テーブルの上から何かをとりあげた。  いままでパペッティア人の手はどこにあるのだろうといぶかっていたルイスは、その口が手にあたるのだということを、はじめて知ったのである。  みごとな〈手〉だ、と彼は感じいった。その手がそろそろとのびて、ルイスに、一枚の立体写真《ホロプリント》を渡した。伸縮自在のくちびるが、歯よりも数インチさきまでつきだしている。人間の指と同じように乾いており、ふちが、いくつかの小さな指のようになっている。菜食向きの四角い歯ならびの奥に、とがった舌の動くのが、チラリとみえた。  立体写真をうけとり、見つめる。  はじめは何だか全然わからなかったが、彼はじっと目をこらして、その正体を見さだめようとした。  まっ白に光っている小さな円形のものは、G0ないしK9かK8くらいの恒星のようにみえ、その一隅が、まっすぐな黒い縁にそって裁ちおとされたようになっている。しかし、これが恒星であるはずはない。背景をなす宇宙の暗黒の中に、あざやかな空色の帯が走っているのだ。その青い帯は、完璧な直線で、縁は鋭く、固く、人工物のようにみえ、幅は光る円形よりも大きめだった。 「星のまわりをフープがとりまいてるみたいだな。これは何だい?」 「おのぞみなら、そのまま持っていてよく見たらよろしい。さて、あなたをここへ連れてきた理由ですが、四人の探険隊を組織したいのです。わたしもあなたも、その一員です」 「何を探険するんだ?」 「それは、まだ話せません」 「おやおや。盲めっぽう身を投げろってわけか」 「二百歳のお誕生日おめでとう」と、パペッティア人がいった。 「どうも」当惑気味で答える。 「なぜ、自分のお誕生日パーティからぬけだしたのですか?」 「あんたには関係ないよ」 「それがあるのです。ルイス・ウー、まじめに答えてください。なぜあなたは、自分の誕生日のパーティからぬけだしたのですか?」 「二百歳の誕生日を祝うのに、二十四時間じゃ不足だと思っただけさ。そこで、深夜線の前へ逃げて、そいつを引きのばしにかかったんだ。異星人のあんたにゃ、わからんだろうが──」 「たいした気勢ですね。で、結果はどうでした?」 「だめさ。正直なところ、ね……」  気勢をあげるどころじゃなかった。まったくあべこべの思いが残っていた。パーティのほうは、成功していたというのに。  パーティをはじめたのは、その日の朝、午前零時一分過ぎだった。そうしていけないわけがどこにあろう。彼の交友関係は、あらゆる時間帯にわたっている。その一日の一分間たりとも無駄にする手はない。邸内には、いたるところ、短時間用の睡眠セットが備えてある。かたときの時間も惜しい手合いのためには覚醒剤が、面白い副作用のあるのから全然ないのまで取りそろえてあった。  ここ百年間会っていない客もあれば、毎日顔を合わせている相手もいた。ずっと昔は不倶戴天の敵だった連中もまじっていた。すっかり忘れていた女の顔もみえ、それが彼に、自分の好みがいかに変わってきたかを、何度となく思い知らせてくれた。  当然ながら、おたがいの紹介におそろしく時間をとられることになる。その名前のリストも、前もって頭にいれておかなければならない。ほとんど初対面に近いほど疎遠になっている友人が、わんさといたのだ。  そして、深夜の訪れの数分前、ルイス・ウーは転移ボックスにはいって、ダイアルをまわし、消えたのである。 「もううんざりだったのさ。『ルイス、この前の|休 養《サバティカル》のことを話してよ』『でも、どうしてそんなに長いことひとりでいられるの?』『トリノック人の使節を招くなんて、すてき!』『やあ、ずいぶん長く会わなかったね、ルイス』『おい、ルイス。大きなビルを塗装するのに、ジンクス人が三人要るのは、なぜだ?』」 「なぜです?」 「なぜって、何が?」 「ジンクス人のことです」 「ああ。ひとりがペンキのスプレイを持って、あとふたりが、ビルを上下に動かすっていうんだ。幼稚園できかされた話さ。あらゆる過去の残りかす、あらゆる古い冗談、大きな邸もそれでいっぱい。とてもやってけなかったのさ」 「あなたはまめ[#「まめ」に傍点]な人ですね、ルイス・ウー。あなたの|休 養《サバティカル》──あんなことを、はじめてやりだしたのは、あなたでしたね?」 「どこではじめてやりだしたかは忘れたけど、大いにうけたようだね。今じゃ、ぼくの友達は、みんなやってるよ」 「でも、あなたほど頻繁ではありません。四十年かそこらごとに、あなたは、人間とのつきあいに飽きてしまい、人びとの住む世界を離れて、既知空域《ノウン・スペイス》の外縁へとびだす。ひとり乗りの船で、人恋しさがもどるまで、外字宙にとどまっている。この前の、四回めの|休 養《サバティカル》からもどってきたのは、二十年前でした。  まめ[#「まめ」に傍点]な人ですね、あなたは。人間の住むあらゆる惑星で、それぞれその土地の生えぬきになるほどの年月を暮らしてきた。今夜あなたは、自分の誕生日パーティをぬけだした。またいそがしい生活にもどる気ですか?」 「こっちの勝手だ。そうじゃないかい?」 「はい。わたしはただ、隊員を募集しているだけです。わたしの探険隊にとって、あなたは最高の人材なのです。危険は冒すが、その前によく考える。孤独でいることをおそれない。二百年も生きられるほど用心ぶかくて利口で、それに、医学的処置を怠らずにうけているから、肉体的にはまだ二十歳代の若さをたもっている。最後に、もっとも大事なことですが、あなたは異星人とつきあうのが好きですね」 「もちろんさ」  何人か知っている異星人恐怖症患者を、ルイスは頭から馬鹿にしていた。話相手に人間しかいないとしたら、人生はおそろしく退屈なものになってしまうだろう。 「でも、盲めっぽう身を投げたくはないでしょう。ルイス・ウー、パペッティア人のわたしが、いっしょだというだけで、充分ではありませんか? わたしがおそれないものを、あなたがどうしておそれるのですか? わたしの種族の用心ぶかさは、ことわざになっているほどなのですよ」 「それはそうだな」ルイスは答えた。  端的にいって、もうすっかりその気[#「その気」に傍点]になっている。異星人好きと、まめ[#「まめ」に傍点]さと、野次馬根性が、いっしょになった結果だ。  パペッティア人がいくというなら、ルイス・ウーもいこうじゃないか。  しかし、彼はもう少し話の内容をきいてみたかった。それに、取引きの立場は最高のようだ。異星人が好きこのんでこんな部屋に泊まるわけはない。このいかにも平凡なホテルの一室、地球人の観点から文句なしに正常なこの部屋は、まさしく隊員募集のために用意されたものにちがいなかった。 「探険の目標は、いえないってことだったな。それでも、その所在くらいは話してくれるかい?」 「ここから小マゼラン雲の方向へ、二百光年のところです」 「しかしそれじゃ、超空間駆動《ハイバードライヴ》でも、そこまでいくのに二年近くかかっちまうぜ」 「いいえ。わたしたちには、ふつうの超空間駆動船《ハイパードライヴ・クラフト》よりも、はるかに速い船があるのです。それだと、一光年いくのに一分間の四分の五しかかかりません」  ことばもなく、ルイス・ウーは、口をあんぐりあけた。  一分と十五秒だと? 「驚くことはないはずですよ、ルイス・ウー。銀河の核へ人をやって、新星爆発の連鎖反応が起こっていることを知るのに、ほかのどんな方法があったと思いますか? そういう船があることを、あなたは推理できて当然だったはずです。探険が成功したら、わたしはこの船を、もっと建造できるように設計書もそえて、隊員に譲渡する考えです。  したがって、この船が、あなたへの……支払い……給与……つまり、あなたのものになります。その航行性能は、わたしたちがパペッティア人の移民船団と落ちあうまでにわかります。そのとき、探険の目的が何かということも教えます」  パペッティア人の移民船団と落ちあう[#「パペッティア人の移民船団と落ちあう」に傍点]んだって……? 「仲間にはいるぜ」ルイス・ウーは答えた。  ひとつの知性種族全体が、そっくり移動しているところを見るチャンスだ! 何隻もの巨大な船が、それぞれ数千数万のパペッティア人をのせ、完全な環境施設《エコロジー》をととのえて……。 「よろしい」  パペッティア人が立ちあがった。 「探険隊の人数は四人です。これから、三人めを、選抜にいきます」  トコトコと、転移ボックスにはいっていく。  ルイスは、謎の立体写真《ホロ》をポケットにしまって、あとにつづいた。ボックスの中で、彼はダイアルのナンバーを読みとろうとした。ここがいったいどこなのか、知りたいと思ったからだ。しかし、パペッティア人の操作が早すぎて、何もわからぬまま、ふたりはそこから消えた。  パペッティア人のあとについて、ルイス・ウーが、ボックスから出たところは、照明の仄暗い、豪奪なレストランの中だった。黒と金色とを使った装飾と、ゆったり場所をとって配置された馬蹄形のボックス席から、その場所がどこかわかった。  ニューヨークの〈クルシェンコの店〉だ。  信じられない、といったささやきが、パペッティア人の通っていくあとから、まき起こった。ロボットのように表情をかえない人間の|給 仕 頭《ヘッドウエイター》が、ふたりをテーブルへ案内した。そのテーブルのまわりの椅子のひとつが持ち去られ、かわりに置かれた大きな四角い枕のようなものの上に、異星人は、尻とうしろ脚でそれをはさむように腰をおろした。 「予約してあったのか」ルイスが、やっと気づいたていでいった。 「はい。前もってたのんでおきました。この店は、異星人の客も扱いなれていますから」  このときはじめて、ルイスは、ほかにも食事にきている異星人がいることに気づいた。隣のテーブルに、四人のクジン人、部屋の半分ほど向こうには、クダトリノ人がひとり。そういえば、そのすぐ近くには、国連ビルがある。  ルイスはテキラ・サワーをダイアルし、とどいた杯をあげた。 「ご配慮ありがとう。すっかり腹ぺこになってたよ」 「わたしたちは、食事にきたのではありません。三人めの隊員を選ぶためにきたのです」 「へえ? レストランで?」  それに答えるように、パペッティア人は声を高めた。が、それはルイスの質問への答えではなかった。 「あなたにはまだ、クジン人のクチュラ・ルリットを見せていませんでしたね。わたしが飼ってるやつですが」  ルイスは危うくテキラの杯をとりおとすところだった。パペッティア人の背後のテーブルについている、オレンジ色の毛皮の壁と見まがう四つの姿、いずれもクジン人だ。それが、パペッティア人のことばをきくと同時に、いっせいにこっちをふり向き、巨大な針のような牙をむきだした。笑っているような表情だ。が、クジン人のその口のあけかたは、笑顔ではない。  ルリットという名は、クジン族の族長一家に属するものだ。ルイスは、いまさらどうにもならないと観念して、残りの酒を飲みほした。ちょっとした不注意から出た侮辱でも、パクリとやられれば、それで一巻の終わりである。  いちばんこちら側のクジン人が立ちあがった。  ふさふさとしたオレンジ色の毛皮の、目の上あたりに黒い斑点があり、その図体は、いわば背丈八フィートの太った猫といった感じだ。太ってはいるが、なめらかで強靭な筋肉。そのつきかた[#「つきかた」に傍点]は、かなり異様だし、中の骨格も、同じくらい異質である。黒い皮手袋のような両手の指先には、鋭く光る鉤爪がニュッとつき出ていた。  四分の一トンもありそうな、その知的食肉獣が、パペッティア人のうしろからのしかかるようにしていった。 「クジン族の長老を侮辱して、生きのびられると思うのか?」  パペッティア人は、声にふるえもみせず、そくざに答えた。 「琴座ベータ星をめぐる惑星で、チュフト船長《キャプテン》というクジン人を、うしろ脚の蹄で蹴とばして、胴体の骨を三本へし折ったのは、このわたしです。わたしは、勇気のあるクジン人をさがしているのです」 「つづげろ」と、黒目のクジン人がいう。  その口の構造からうける印象とうらはらに、クジン人は高度の知性をもった種族なのだ。彼の声には、感じているはずの憤怒のかけらもなかった。このクジン人とパペッティア人の態度には、何の感情もみえず、ルイスは、まるでスローモーションの儀式でも見ているような気分であった。  しかし、クジン人のテーブルに出ているのは、湯気のたった血のしたたる生肉だ。体温にまでさっとあたためて供されたものである。そのクジン人が全員、こっちを見て、わらって[#「わらって」に傍点]いる。 「この地球人とわたしは、クジン人など思いもよらぬところへ、これから探険にいくのです」パペッティア人がいう。「それで、メンバーのひとりに、クジン人がほしいのです。パペッティア人についてくる勇敢なクジン人は、いませんか?」 「パペッティア人は、菜食動物で、戦いにはつねにうしろをみせるとか聞いていたがな」 「さあ、どうします? 生きのびてもどれたら、報酬は、新型のすばらしい宇宙船の設計仕様と、それに見本の船一隻です。たいへんな危険に対する報酬と考えてください」  このパペッティア人は、思いきりクジン人の誇りを傷つけるつもりらしい、と、ルイスは思った。だいたい危険報酬などというもちかけかたが、クジン人に対してはタブーなのだ。彼らにはそもそも危険という概念がないのだとさえいわれているのである!  しかし、そのクジン人の答えは一言、「承知した」それだけだった。  あと三人のクジン人が、彼に向かってうなり声をあげた。  こっちのひとりも、うなり返す。  クジン人の声たるや、ひとりでも、猫のいがみあいさながらだ。四人のクジン人がいい争いをはじめたとなると、声をひそめているつもりでも、さながら猫族大戦争といったところ。自動的に、店内の消音装置が作動しはじめ、いがみあいはグッと低くなったが、議論はまだつづいている。  ルイスはもう一杯オーダーを出した。  クジン族の歴史に関する彼の知識からみるかぎり、ここの四人は、すばらしい抑制力の持主であるにちがいない。なにしろ、このパぺヅティア人が、まだ生きているのだから。  議論がやみ、四人のクジン人がこっちをふりかえった。目の上に黒い斑のあるのが口をひらく。  「おまえの名は?」 「地球での名前は、ネサス」と、パペッティア人。「本当の名前は──」  オーケストラのような音楽が、一瞬、パペッティア人の驚くべきのど[#「のど」に傍点]から流れた。 「よしわかった、ネサス。われわれ四人が、クジン族の地球駐在代表団だということをいっておく。これがハーチ、あちらがフタンス、黄色い傷のあるのがフロス。おれは単なる随員で、下層の出身なので、名前はない。役職名で呼ばれるのだ。〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉とな」  ルイスは、グッと怒りをこらえた。 「問題は、われわれ四人とも、ここに仕事をかかえているということだ。これは微妙な問題だ……だが、おまえには関係ない。この中で、おれだけは、かわりが得られるということで、話がきまった。おまえのいう新型の船が、手にする値のあるものであれば、おれがいく。もし、そうでなければ、べつのやりかたで、おれの勇気を見せてやる」 「それで結構」  パペッティア人がそう答えて、席を立った。ルイスは、坐ったままたずねた。 「クジン語では、あんたの役名は何というのかね?」 「わが〈ますらおことば〉では──」  グウッと高まるようなうなり声。 「じゃ、なぜそのほうを使わなかった? わざと侮辱しようってのか?」 「そうだ。おれは怒ったのだ」と、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉が答えた。  自分の常識から推して、ルイスはクジン人が、その場を適当にごまかそうとするものと思いこんでいた。そこでそれを信用するふりをしておけば、このクジン人も、いずれもっと丁重さを身につけるかもしれない……そう考えたのだが、もうあとの祭りだ。  一秒の何分の一か躊躇したのち、彼はたずねた。 「で、こういう場合のしきたりは?」 「素手同士で闘う──おまえが挑戦するなら、いますぐにだ。それとも、どちらかいっぽうが謝罪するかだ」  ルイスは立ちあがった。委託自殺にひとしいが、慣習がどんなものかは、カホなほどわかっている。 「挑戦しよう。歯には歯、鉤爪にはこの爪。供に天をいただくわけにはいかん」  すると、フロスとよばれたクジン人が、顔もあげずに声をかけた。 「わが友〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉になりかわって、おれが謝罪するぞ」 「はあん?」と、ルイス。 「これがわしの役職だ」と、黄色縞のクジン人はつづけた。「つねに、闘うか謝罪するかの瀬戸際に立つのが、クジン人の本性だ。闘えばどうなるかは、もうわかっておる。現在わが種族の数は、はじめて地球人に遭ったときの八分の一にすぎん。わが植民地は地球の植民地となり、わが奴隷種族は解放されて、地球の技術と道徳を教えこまれておる。謝罪するか戦うかの二者択一をせまられたとき、謝罪するのがわしの役目だ」  ルイスは腰をおろした。どうやら命びろいをしたらしい。 「いや、そんな仕事にだけは、つきたくないもんだな」 「もちろんのことだ。クジン人と素手で闘う気がありさえすればな。しかし、わが族長が、わしはほかの役には立たぬと判断した。知能は低く、病弱で、運動機能もひどい。わが家名をたもつのに、他にどんな方法があろうか?」  ルイスは、飲みものをすすりながら、誰かが話題をかえてくれることを願った。哀れなクジン人の様子が、うとましかった。 〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉と名乗るクジン人がいった。 「食事をすませるぞ、ネサス。いますぐ出発しなくてもよければな」 「急ぎはしません。まだ隊員がそろわないのです。仲間が、四人めをさがしあてたら、知らせてきます。とにかく、食事にしましょう」 〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉は、テーブルに向きなおるまえに、ひとことつけ加えた。 「ルイス・ウー。おまえの挑戦は、口かすが多すぎたぞ。クジン人に本気で挑戦する気なら、怒りの雄たけびひとつでたくさんだ。ひと声わめいて、とびかかれ」 「ひと声わめいて、とびかかれ、か」と、ルイス。「そいつはいい」 [#改ページ]      2 ……と、その雑多な一党  ルイス・ウーは、転移ボックスを使うとき目をつぶる人のいることは知っていた。一瞬にしてまわりの景色がかわるため、目まいがするのだという。ルイスには、およそナンセンスな話に思われた。もっともそれをいうなら、友人たちの中にだって、もっとずっと[#「ずっと」に傍点]おかしな人間もいる。  目をあけたまま、ダイアルをまわす。異星人の姿が消える。そして誰かの声。 「や! もどってきたぞ!」  ドアの前に、大ぜいがおしかけてくる。それにさからって、ルイスはドアをあけた。 「やあ、みんな! まだ誰も、帰っちまったやつはいないだろうね?」  抱きこむように、大きく両手をひろげたが、その腕で彼は、ラッセル車のように、みんなを押しもどした。 「さあ、道をあけてくれ。気のつかんやつだな! あとからお客がくるんだよ」 「いいぞ!」誰かが叫ぶ。  誰かの手が彼の手をつかみ、飲みものの壜《バルブ》を握らせる。ルイスは七、八人の招待客を、いっしょに腕の中に抱きこみ、満面の笑みをふりまく。  ルイス・ウー。  遠目には、淡黄色の皮膚と、長く垂れた白髪のせいで、東洋人のようにみえる。無雑作にひっかけた青い上衣《ローブ》は、動きの邪魔になりそうだが、そうではない。  近づいてみると、何もかも見かけ上にすぎないことがわかる。皮膚の色は、けっしてうすい黄褐色ではなく、なめらかなクローム・イエロー。漫画のフー・マンチューのあの色なのだ。ちょっと豊かすぎるほどの弁髪。その白さも年のせいではなく、すきとおるような白色に、あるかなきかの青を加えた、矮星型太陽の輝きだ。|平 地 人《フラットランダー》がみんなそうであるように、ルイス・ウーの色彩のすべては化粧品による染色なのだった。  まさに|平 地 人《フラットランダー》である。誰にもひと目でそれがわかる。白人でも黄色人でも黒人でもないが、その三つとも残っている。つまり、何世紀にもわたって、均一に混合されたものなのだ。毎秒九・九八メーターの重力下では、無意識に自然に立っていられる。飲みものを手にし、周囲の客たちを、笑顔で見まわす。  すると、偶然その笑顔が、ほんの一インチ前で、銀色に光る一対の目と向かいあった。  どういうわけか、ティーラ・ブラウンが、鼻と鼻、胸と胸のふれあうほどの近さに立っていたのだった。青い皮膚に銀色のネットをまとい、髪はまっかなかがり火の形、両眼はさながら球面の鏡だ。  彼女の年齢は二十歳。以前、会話をかわしたこともある。話しぶりは、安っぽく、きまり文句を連発してはしゃぎまわるだけだが、それでも彼女はとてもきれいだった。 「ききたかったの」せきこむように、彼女はいった。「どうやってトリノック人を連れてこられたの?」 「ちょっと。やつがまだここにいるなんて、いわないでくれよ」 「いないわ。空気が切れるから、うちへ帰るって」 「かわいい嘘だね」と、ルイスは応じた。「トリノック人の空気製造機は、数週間も保つんだぜ。まあどうしても知りたいなら話すが、あのトリノック人は、昔二週間ほどのあいだ、ぼくのお客兼囚人だったことがあるんだ。既知空域《ノウン・スペイス》のはずれで、あいつの船と乗員が、彼ひとりを残して遭難しちまってね。そこで、マーグレイヴまで連れていって、彼に合うような環境ボックスをつくってもらったわけさ」  娘の目は、喜びと驚嘆の色をたたえていた。その両眼が、自分のそれと同じ高さにあることに気づいて、ルイスは奇妙な喜びを感じた。ティーラ・ブラウンの、かぼそいばかりの美しさが、実際の背たけよりも彼女を小さくみせていたのだ。  彼女の目が、ルイスの肩ごしに向こうをみて、ふいにいっそう大きく見ひらかれた。ふり向いて、ルイスは、ニヤリと笑った。  パペッティア人のネサスが、転移ボックスから、トコトコと出てくるところだった。  クルシェンコの店を出るときから、このことは考えずみだった。その前に、彼はなんとかネサスをくどいて、目的地について話させようとしたのだが、パペッティア人は、スパイビームを気にして、何もいおうとしなかったのである。 「じゃ、ぼくの家にいこう」と、彼は提案した。 「しかしお客がいます!」 「書斎にいけば、誰もいないよ。それに、ぼくの書斎は、完全盗聴防止付きだ。おまけに、あんたが来てくれたら、パーティは大成功だ! まだ、誰も帰っちまったものはないと思うけどね」  じっさい、そのまきおこした効果たるや、まさにルイスの予想以上であった。突然シインとしずまりかえった室内に、パペッティア人の、ポク、ポク、ポクという蹄の音だけがひびいた。そのうしろに、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉の姿が、光のひらめきとともに実体化した。転移ボックスをとりかこんで見つめている人の波を見わたし、それから、ゆっくりと歯をむきだした。  誰かが、飲みものを半分ほども、棕櫚《シュロ》の鉢植えにぶちまけた。オーバーなしぐさだ。その枝のひとつでガミジイ産の蘭状生物が、怒って文句をつけはじめた。人びとは、ソロソロと転移ボックスからあとじさりしている。  その中のささやき。 「狂っちゃいないさ。おれの目にもみえる」「悪酔いの薬? この手さげ袋にあるはずよ」「あいつ、パーティをめちゃめちゃにするぞ」「ルイスのやつ、いったいどういう気だ?」「あいつら、何ていったっけ?」  ネサスの出現を、どううけとめたらいいのかわからないらしい。パペッティア人の姿に気づかぬふりをしているものも多かった。何かしゃべって、無知をさらけだすのをおそれているのだ。 〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉に対しては、みんなもっと率直に好奇心をみせた。かつて地球人に対する最大の強敵だったクジン人は、ある種の英雄と同じく、畏怖と敬意の目で見られるのだった。 「こっちだ」と、ルイスはパペッティア人にいった。  たぶんクジン人も、ついてきてくれるだろう。 「失礼」  大声をあげながら、彼は人ごみを押しわけて進んだ。興奮とも当惑ともつかぬ人びとの疑念にこたえて、彼はただ、秘密めかした微笑をうかべていた。  無事に書斎へ着くと、ルイスはドアに錠をかけ、盗聴防止装置のスイッチをいれた。 「これでよし。何か飲みたい人は?」 「バーボンの燗をつけてくれれば、飲めるぞ」と、クジン人。「つめたいままでも、まあ飲めるがな」 「ネサス、あんたは?」 「野菜ジュースなら何でも。あたためたにんじんジュースができますか?」 「げェ」と、ルイス。  しかし、バーのボタンをきちんと押すと、暖かいにんじんジュースのはいった壜《バルブ》が出てきた。  ネサスは、うしろ脚をたたんですわりこみ、クジン人は、ふくらませた小さなマットの上に、ドシンと腰をおろした。その重みで、マットはいまにも破裂しそうになった。人類にとって、宇宙史上二番めの仇敵であったクジン人が、小さすぎるマットの上であぶなっかしくバランスをとっているのは、もの珍しくもあり、滑稽な眺めでもあった。  人類とクジン族の戦いは、幾度となく回をかさねた悲惨なものだった。その第一回の衝突に、もしクジン側が勝っていたら、人類はその後永遠に、彼らの奴隷かつ食用家畜となっていたことだろう。だが、クジン族が壊滅的な打撃をうけたのは、むしろそれにつづく戦いでだった。彼らには、自分の側の戦備がととのう前に、攻撃をかけてくる傾向があった。忍耐力に欠け、慈悲のかけらも持たぬ彼らは、戦いの限度というものを知らず、衝突のたびに人口のかなりの部分を失い、領有惑星をつぎつぎと手放す結果をまねいた。  この二百五十年間、クジン族は人間の版図に一度も攻撃をかけていない。もはや攻撃のいかなる手段も持たぬからだ。そして、その二百五十年間、人間側もクジン側の惑星を攻撃していないのだが、その理由がまた、クジン人には理解できない。人類のやりかたは、彼らに手ひどい混乱を起こす結果となった。  乱暴で、頑固な、そのクジン人のおとな四人に、自他ともに許す臆病もののネサスが、公衆の面前で侮辱を与えたわけだ。 「パペッティア人の、ことわざ級の用心ぶかさってやつについて、もう一度話してくれないか。どうも度忘れするたちなんでね」と、ルイス。 「もしかすると、わたしのは、あまり当てにならないかもしれません。わたしたちのあいだでは、わたしは、気ちがい扱いされているのです」 「いや、よくわかるよ」  ルイスは、さっき誰とも知れぬ相手に押しつけられた飲みものを、ひと口すすりこんだ。それは、ウォッカとドルーブルベリー・ジュースとかき氷のカクテルだった。  クジン人は、しっぽをソワソワと動かしている。 「どうしてわれわれは、この自称気ちがいと、行をともにしようというのだ? いや、そもそもクジン人と行をともにしようと考えるなど、狂人以上だろうな」 「そう心配することはありません」と、ネサス。  やわらかく、押しつけがましく、そのくせいやになるほど官能的な声だ。 「わたしたち種族の基準で、狂っていないパペッティア人と、会った人間はひとりもいません。パペッティア惑星を見たことのある異星人もいません。いやしくも正気のパペッティア人なら、宇宙船のあやふやな生命維持システムに身をあずけたり、どんな未知の危険が待ちうけているかわからぬ異星世界を訪れたりは、けっしてしないでしょう」 「気のふれたパペッティア人と、おとな[#「おとな」に傍点]のクジン人と、そしてこのぼくか。四人めの隊員は、精神病医にでもしたほうがよさそうだな」 「いいえ。候補者の中には、精神病医はいません」 「ふむ、どうしてわかる?」 「無作為に選んでいるわけではありません」パペッティア人は、いっぽうの口で飲みものをすすりながら、もうひとつの口で話しつづける。「まず、わたしです。計画中のこの探険は、わたしたち種族のためのものです。したがって、代表として加わるものが必要です。それも、未知の世界に立ちむかえるくらい気がふれていて、しかも生きのびるために頭を使えるくらいまともでなければなりません。わたしがたまたまその境界線上にあったわけです。  クジン人を加えるのにも理由があります。〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉、これからいうことは秘密ですよ。わたしたちは、あなたの種族を、もう長いあいだ観察しつづけてきました。あなたたちが、人間種族と衝突するよりも前からです」 「こっそりかくれて、のぞいておったのだな」  クジン人がうなった。 「たしかにそうです。はじめのうち、わたしたちは、クジン人を、無益で危険な種族だと判断していました。調査の目的は、あなたの種族を安全に絶滅させてしまえるかどうかを見さだめる点にありました」 「その頸を蝶むすびにしてやるぞ」 「暴力に訴えることはできませんよ」  クジン人が立ちあがった。 「彼のいうとおりだよ」と、ルイス。「すわりたまえ、〈|話し手《スピーカー》〉。パペッティア人を殺したって、何の得るところもないぜ」  クジン人が腰をおろす。マットは、今度も破れずにすんだ。 「その計画は取りやめになりました」ネサスがつづける。「地球人とクジン人の戦争のおかげで、クジン族の発展に充分のブレーキがかかり、危険が減ったからです。それでも、わたしたちは監視をつづけました。  数世紀のあいだに、あなたたちは六回、人間の世界に攻撃をかけました。そして六回、打ちまかされるたびに、男性人口のほぼ三分の二を失いました。その点で示された知性のレベルについても話しましょうか? 話さなくていい? とにかく、実際に絶滅する危険など全然なかったのです。クジン族の女は非知性生物で、戦争の影響もあまりうけずに、失われた人口を埋めあわせるだけのつぎの世代を生みだしたからです。それでも、あなたたちは着実に、数千年かけてきずきあげた帝国の版図を失っていきました。  それでわたしたちには、クジン人が、めざましい進化をとげつつあることが、よくわかりました」 「進化?」  ネサスは、〈ますらおことば〉でひと声うなった。ルイスはとびあがった。パペッティア人にそんな発音ができるなど、思いもよらなかったからだ。 〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ〉》は、「うむ」とうなずいた。 「そのとおりの意味だ。しかし、この状態を進化というのがわからんぞ」 「進化は、最適者の生存によって起こります。クジン年でこの数百年間、あなたたち種族にとって最適者とは、人間と戦わずにすませられるだけの気転と自制心をもったもののことだったわけです。結果は明白でした。もう二百クジン年近くのあいだ、人類とクジン族のあいだには平和がたもたれています」 「しかし、それでは何の足しにもならん! われわれは、勝てなかったのだぞ!」 「それでも、あなたたちの先祖は、戦いをやめようとしなかったのですよ」 〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉は、熱いバーボンをガブリとのどに流しこんだ。毛のないピンク色の、ねずみそっくりの尾が、いらだたしげに激しくゆれている。 「あなたの種族は、大幅に減りました」パペッティア人はつづける。「こんにち生きているクジン人は、全員が、人間−クジン戦争で死なずにすんだものの子孫です。わたしたちの中には、クジン人は異質の種族と共存する必要から、知性というか感性というか自己規制といったものを、持つようになったと考えるものもいます」 「そこで、クジン人と同行する危険をおかしていいと思ったわけか」 「はい」  答えるネサスの全身に、大きく身ぶるいが走った。 「わたしには、強力な動機があります。もし、わたしの勇気が、使いようで種族の役に立つということを示すことができれば、わたしは子供をつくることを許されるかもしれません」 「いやにたよりない話だな」と、ルイス。 「クジン人を連れていく理由は、ほかにもあります。未知の危険を秘めた未知の環境に直面して、誰を護衛にえらんだらいいでしょう? クジン人以上の適任者があるでしょうか?」 「パペッティア人の護衛だと?」 「ふざけた話だと思いますか?」 「思うぞ」と、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉。「それどころか、こっけいのきわみだ。で、この男、ルイス・ウーはどうなのだ?」 「わたしたちにとって、人間と手を結ぶことは、これまで大きなプラスでした。当然、少なくともひとりは人間を加えます。このルイス・グリッドレイ・ウーは、無頓着で無謀な行動をとりますが、その行動でもっとも生存率を高めるタイプであることが証明された人間なのです」 「無頓着、そして無謀。こいつはおれに、一対一の決闘を挑んだな」 「あのとき、フロスが居あわせなかったら、あなたはその挑戦をうけたでしょうか? そして、彼を殺したでしょうか?」 「そして重大な種族間の紛争をひきおこし、名誉を剥奪され、母星に送還されるようなことをしたか、そういいたいのだろう? しかし、それは問題がちがう。そうではないか?」 「ちがいません。げんにルイスは生きています。もう、彼を威嚇によって動かすわけにはいかないことが、あなたにもわかったはずです。結果的には、よかったのではありませんか?」  ルイスは慎重に口をつぐんでいた。パペッティア人が、冷静な思考の持主という太鼓判をおしてくれるなら、それも結構だろう。 「おまえの動機はわかった」と〈|語り手《スピーカー》〉がいった。「つぎは、おれの動機だ。この探険に同行して、おれに何の得があるのだ?」  こうして、三人は、ようやく本格的な取引きにかかった。  パペッティア人にとって、みずから開発した量子第二段階《クワンタムU・》|超空間駆動装置《ハイパードライヴ・シャント》は、まさしく宝の持ちぐされだった。これを積んだ船は、ふつうの船で三日かかる一光年の距離を一分十五秒でとぶことができる。だが、ふつうの船には、貨物をのせるゆとりがある。 「このモーターを、ゼネラル・プロダクツ製の四号船殻に組みこみました。わが社で製造できる最大のものです。科学者と技術者が協力して、それを仕上げてみると、船体内部は超空間駆動装置《ハイパードライヴ・シャント》でほとんどいっぱいになってしまいました。これが、わたしたちの探険のネックになっています」 「実験用の船だろう」と、クジン人。「テストは充分やったのか?」 「銀河系の核へ、一往復しています」  だが、ただそれ一回だけなのだ!  パペッティア人みずからテストすることもできず、また種族をあげて大移動のまっ最中とあっては、ほかの種族を見つけて依頼するわけにもいかない。直径一マイルをこえていながら、この船は、事実上何も運搬できないのである。さらには、通常空間へとびおりる以外に、減速の方法もないのだった。 「わたしたちには、不要のものです」と、ネサス。「しかし、あなたたちには有用でしょう。この船に、もっと多数製造できるような建造仕様書をつけて、探険隊のメンバーに贈る予定です。あなたたちなら、まちがいなくもっと優れたものが設計できるでしょう」 「それで、おれは名前が買える」クジン人がいう。「名前だ。その船が見たいものだな」 「出かける途中、ずっと見られますよ」 「長老に、そういう船をさしだせば、名前がもらえるだろう。まちがいない。どんな名がいいかな。たぶん──」  グウッと尻あがりのうなり声。  パペッティア人も、同じことばで答え、話しあいがはじまった。  ルイスは、いらいらして背を向けた。 〈ますらおことば〉とやらは、皆目わからない。このままほったらかして、席を立とうかとも思ったが、そのときもっといい考えが浮かんだ。パペッティア人のよこした立体写真《ホロ》をボケットからとりだすと、向こうの隅にすわっているクジン人のひざの毛皮の上へ、ねらいさだめてポンと投げだした。  クジン人は、黒いぼってりした指で、そうっとそれをひろいあげると、じっと見つめながらいった。 「輪のついた恒星のようだな。なんだ、これは?」 「探険の目標に関係のあるものです。今はまだ、それ以上はいえません」と、パペッティア人。 「秘密か。まあいい。いつ出発する?」 「あと数日でしょう。わたしのエージェントが、探険隊の四人めのメンバーを、さがしているところなのです」 「では、そのあいだお待ち申すとするか。ルイス、おまえの客の仲間入りをしてもよいかな?」  ルイスは立ちあがり、背をのばした。 「いいとも。連中の肝を冷やしてやろう。〈|話し手《スピーカー》〉、出ていく前に、ひとついっときたいことがある。いや、きみの威厳を傷つけるようにとらないでほしいんだが、ただ、ちょっと思いついたもんだから……」  パーティは、幾つものグループに分かれていた。三次元テレビを見ているもの、ブリッジやポーカーのテーブルを囲んでいるもの、愛しあっているふたり組やもっと大ぜいのグループ、話しているもの、倦怠をもてあましているもの。  まぶしい早朝の陽をあびた芝生の上には、倦怠組と異星人好きの連中があつまっている。そのグループの中に、ネサスや〈|話し手《スピーカー》〉がいる。ルイス・ウーとティーラ・ブラウン、それに過労気味のバーテンダーも一台、仲間にはいっていた。  芝生は、かの古式ゆかしい大英帝国ふうに仕上げられたものだ。種子をまき、ローラーでならして五百年。その五百年めに株式市場が崩壊し、ついでルイス・ウーが大金を握ると同時に、ある由緒ある貴族の一家が凋落したというわけだ。芝は緑濃くつややかで、まさに本物だった。この品種に手をかけて、いかがわしい改良を試みたものは、ひとりもいない。なだらかに起伏するその緑のスロープのいちばん下には、テニスコートがあり、豆つぶのような人影がかけまわったりとびあがったり、必死で大きな蝿たたきをふりまわしているのがみえる。 「運動っていいもんだなあ。一日中見ていても飽きない」と、ルイス。  ティーラがけたたましい声で笑った。ものうい気分で、彼は、彼女がまだ聞いていないはずの数知れぬジョークや、古くなりすぎてもう誰も口にしなくなったそれらのことを思いうかべた。ルイスの知っている何万ものジョークの九十九パーセントは、もう時代遅れである。過去と現在の、どうにもならぬ混ざりあい。  バーテンダーが、からだを傾けて、スルスルとルイスに近づいてきた。傾いているのは、彼がティーラの膝に頭をあずけたままの姿勢で、キイボードへ手をのばそうとしたからである。モカふたつと注文をたたくと、スロットから落ちてくる壜《バルブ》をうけとめ、ひとつをティーラに渡した。 「きみは、前に知りあいだった女の子とそっくりだよ」と、彼。「ポーラ・チェレンコフって名前を聞いたことないかい?」 「漫画家の? あの、ボストン生まれの?」 「ああ。いまは、ウイ・メイド・イット星に住んでる」 「あたしのひい=ひいおばあさんよ。一度会ったこともあるわ」 「彼女には、ひどい鞭の嵐で、ハートを打ちくだかれたっけな。ずいぶん昔のことさ。きみは、まるで双生児《ふたご》みたいに似てるよ」  ティーラのクスクス笑いが、ルイスの背骨に当って心地よくはずんだ。 「その、ひどい鞭の嵐がどんなんだか説明してくれたら、あたし、あなたを振るとき、そうしないようにしたげる」  ルイスはそのことを考えた。自分で思いついた形容だが、あのときの彼の気持をよく表現しているように思えた。めったに口にしないいいかただし、説明したこともなかった。いつでも、誰にでも、その意味は通じてきたようだ。  おだやかで、平和な朝。いま眠りこんだら、十二時間は目がさめないだろう。疲労の毒素がたまって、彼は消耗しきっていた。  ティーラの膝まくらは実にいい気分だ。招待客の半分は女性で、それも多くは、かつて彼の妻だったり愛人だったりした女たちだ。パーティの最中のひと区切り、彼は三人の女と内密に誕生祝いをやったが、三人ともかつては彼にとって大事な女だったし、その逆もまた真であった。  三人? 四人?  いや、やはり三人だ。  そして、今の彼はもう、鞭の嵐にも免疫になっている。二百年のあいだに、彼の人柄は、無数に折り重なる傷あとで、蔽いつくされてしまった。そしていま、彼はのんびりと夢見心地で、ポーラ・チェレンコフそっくりの知らない女の子の膝に頭をのせている。 「恋に落ちたんだよ。何年もつきあってた、そのあとでね。デートしたことさえあった。そしてその夜、話をしているうちに、ホワンさ。恋しちまった。彼女も同じだとぼくは思いこんでいた。  その夜は、ベッドにははいらなかった──ともにしなかったってことだよ。ぼくは結婚してくれといい、そして、ことわられた。彼女はちょうど、売りだしかけたところだった。結婚してるひまなんてないっていわれたよ。それでも、いっしょにアマゾン国立公園へ出かける計画をたてた。一週間の、まあハネムーンもどきといったところかな。  その一週間が、まさに大ゆれさ。はじめは、はりきって、切符やホテルの予約までとった。きみは、ひとりの相手に惚れこみすぎて、自分が相手とつり合わないような気分になったこと、あるかい?」 「ないみたい」 「ぼくも若かった。二日間、ぼくはポーラ・チェレンコフとピッタリ合うんだと、自分に思いこませようとつとめた。そして、そう思いこんだ。そこへ彼女が電話で、旅行をことわってきた。理由はおぼえていない。何か、ちゃんとした理由があったんだと思う。  その週のうちに二回ほど、夕食にさそった。べつにどうってこともなかった。気まずくならないように、ぼくは必死だった。彼女はそんなことには気づきもしなかったろう。ぼくの気分はヨーヨーみたいに上がったり下がったり。そのあげくに、肘鉄さ。彼女も好意は持ってくれていた。いっしょにいると、ふたりとも楽しかった。いい友達のままでいればよかったんだ。  結局、ぼくが彼女向きのタイプではなかったんだな。ぼくは愛してるつもりだったし、彼女も一週間かそこらは、そのつもりだったろう。薄情な女じゃなかった。ただ、ことの次第が、自分でわかっていなかったんだな」 「でも、鞭の嵐の話はどうなったの?」  ルイスは思わずティーラ・ブラウンの顔を見あげた。銀色の目には何の反応もなく、ルイスは、自分のことばを彼女がひとことも理解していないことに気づいた。  ルイスは、異星人とも、いろいろつきあってきた。本能的にか、訓練の結果か、何かある概念が異質すぎて話が通じないときには、敏感に感じとれるようになっている。まさにそれに似た基本的なギャップが、ふたりのあいだにもあった。  ルイス・ウーと、二十歳の娘とを隔てる、とほうもないギャップ!  本当に自分は、そんなに年老いてしまったのだろうか? いったい、このルイス・ウーは、まだ人間だといえるのか?  ティーラの無邪気な瞳が、ルイスのはっきりした答えを待っている。 「カホナ!」  悪態をついて、彼はゴロリと横ざまに身をおこした。上衣《ローブ》についた泥のしずくがゆっくりと表面をつたって、縁《へり》からしたたり落ちた。  パペッティア人のネサスは、倫理観の問題について話しこんでいた。その話を中断して(とはいえまい。彼は、まわりの人たちと、両方の口を使ってそれぞれ話していたのだから)ルイスの問いに答えた。いいえ、エージェントからはまだ何の連絡もありません。 〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉も、同じように人びとにとり囲まれ、芝生の上にオレンジ色の小山のように寝そべっていた。ふたりの女性が、その耳のうしろの毛皮をかいてやっている。  奇妙な耳だ。ひろげればピンク色の中国の日傘みたいになるし、たたむと頭にピッタリはりついてしまう。だが、それが今はひろがって、両方とも表面に刺青された紋様がみえた。 「どうだ、さっきいったとおりだろう?」と、ルイスは声をかけた。 「そうだな」クジン人は、身じろぎもせず答えた。  ルイスは、おかしさをこらえていた。  クジン人は恐るべき猛獣なのではなかったか? しかし、こうして耳のうしろをかいてもらっているクジン人を、こわがるものがあるだろうか?  ここでは、ルイスの客たちも、クジン人も、同じようにのんびりとくつろいでいる。野ねずみ以上のレベルにある生物なら何でも、耳をかかれるのが好きなものなのだ。 「交替しとるようだな」眠たげに、クジン人がいう。「耳をかいてくれている女性に、男性が近づいて、同じことを自分にもしてくれといい、ふたりいっしょにいってしまう。すると、べつの女性がかわりにやってくる。まことに面白いな。男女ともに知性をそなえた種族というのは」 「そのせいで、ものごとがひどくこんぐらかってくることもあるがね」 「本当か?」  クジン人の左肩のところにいた娘──大宇宙のように漆黒の皮膚を星や星雲の模様で飾り、彗星の尾のように冷たい白色の髪を長く垂らしている──が、手をやすめて顔をあげた。 「ティーラ、かわってよ」華やいだ声で、彼女はいった。「おなかがすいたわ」  ティーラは、しかたなさそうに、巨大なオレンジ色の頭のそばに膝をついた。  ルイスがいう。 「こちら、ティーラ・ブラウン、こっちが〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉。きっと、気が──」  とたんにすぐそばで、調子はずれの音楽がバーンと鳴った。 「──合うと思う。な、なんだ? おい、ネサス。いったい──?」  音楽と思ったのは、パペッティア人のすばらしいのど[#「のど」に傍点]から出たものだった。そのネサスは、もう、ふたりのあいだに乱暴に割りこんでいた。 「あなたが、ティーラ・ヤンドローヴァ・ブラウン、認識番号IKLUGGTYNですか?」  娘はびっくりしていたが、おびえてはいなかった。 「そう、あたしの名前よ。認識番号なんて覚えてないけど。それが、どうかしたの?」 「わたしたちは、もう一週間近くのあいだ、地球中しらみつぶしに、あなたをさがしていたのです。それが、たまたま来あわせた人たちの中で見つかるとは! エージェントには、きびしくいってやります」 「おい、ちょっと」ルイスが、おだやかに声をかけた。  ティーラは、ぎごちない動作で立ちあがった。 「かくれてたわけじゃないわ。あなたからも、ほかのどんな──異星人からもね。でも、いったい何がどうしたっていうの?」 「まあ、待て!」  ルイスは、ネサスと娘のあいだに割ってはいった。 「ネサス。ティーラ・ブラウンは、どう見たって探険家ってがら[#「がら」に傍点]じゃない。誰かべつのにしろよ」 「しかし、ルイス──」 「ちょっと待った」  クジン人も身をおこした。 「ルイス。隊員のメンバーをきめるのは、あの菜食動物だぞ」 「でも、この娘《こ》を見てみろよ!」 「自分のことも見てみろ、ルイス。背も二メーターそこそこ、人間としても瘠せたほうだ。おまえが探険家というがら[#「がら」に傍点]か? それに、ネサスはどうだ?」 「なにをカホなこといってるのよ!」ティーラが叫んだ。  時をうつさす、ネサスがいった。 「ルイス、あなたの書斎へひっこみましょう。ティーラ・ブラウン、あなたに話すことがあります。むりに引きうけなくてもいいし、聞きたくなければ、きかなくてもいいのですが、たぶん興味のある話だと思うでしょう」  ルイスの書斎でも議論はつづいた。 「彼女は条件にピッタリなのです」ネサスがいいはる。「捨てておくわけにはいきません」 「地球上でただひとりの侯補ってわけじゃあるまいに!」 「はい、ルイス。それはそのとおりです。しかし、ほかの候補者には、まだ連絡がつかないのです」 「あたしのどこがどうだっていうの?」  パペッティア人は、彼女に話しはじめた。話すにつれ、ティーラ・ブラウンは、宇宙になどまったく興味がないし、月までいったこともないし、まして既知空域《ノウン・スぺイス》の境をこえていく気など全然ないことがはっきりした。量子第二段階《クワンタムU・》|超空間駆動《ハイパードライヴ》にも、好奇心をいだく様子はない。  すっかり混乱し、当惑しはじめている彼女をみて、ルイス・ウーがふたたび割りこんだ。 「ネサス。彼女がそんなにピッタリだという条件は、いったい何なんだ?」 「わたしのエージェントは、出産権抽籤で当選したものの子孫をさがしているのです」 「辞めたぜ。あんたは、正真正銘の気ちがいだ」 「いいえ、ルイス。この命令は、わたしの種族全体を指導する〈|至 後 者《ハインドモースト》〉からのものです。彼の正気は疑う余地もありません。説明しましょうか?」  人類にとって、産児制限が大した問題でなくなってから、すでに久しい。今日《こんにち》その処置は、前膊部の皮膚の下に小さな結晶体を埋めこむだけだ。結晶がすっかり溶けるのに、一年かかる。そのあいだ、被術者には子供ができない。何世紀か前には、もっと不器用な方法がとられていたものであった。  地球の人口は安定し、二十一世紀中葉には約百八十倍だった。国連の下部組織である出生管理局が、産児制限法を制定し施行していた。五百年以上にわたって、その法律は不変であった。一夫婦につき子供ふたり、それも出生管理局の承認を要するきまりだ。同局が、各人の持ってよい子供の数を裁定する。何かの功で余分の子供を持てる夫婦も、ひとりも持てない夫婦も出るわけだが、その裁定はすべて遺伝子の優劣にもとづいておこなわれてきたのである。 「信じられん」と、クジン人。 「なぜ? なにもかもカホなくらい混みあってたんだ。原始的な生産技術に、百八十億人がおんぶしていたんだからね」 「もしクジン族で、そんな法律を強制しようとする族長がおったら、増上慢のかどで、一家みな殺しにされるだろう」  しかし、人類はクジン族とはちがう。五百年のあいだ、その法令は守られてきた。だが二百年前、出生管理局内に不正があるという噂がひろまった。このスキャンダルが、結局のところ、従来の産児制限法を根底からひっくりかえすこととなった。  現在では、人間なら誰でも、遺伝子の如何によらず、一児の親となる権利が与えられている。それに加えて、ふたりめ、ないしは三人めの権利が、IQテストの成績とか、あるいは|高所催眠への耐性《プラトー・アイズ》や絶対的方向感覚のようなすでに立証ずみの有用な精神能力とか、さらには、テレパシー、長寿、完璧な歯といった遺伝因子に対して、自動的に付与されるのである。  百万スター積んでひとりぶんの権利を買うこともできた。なぜいけないわけがあろう? 蓄材の才もまた、まごうかたなき有用な能力だ。またそれによって、贈収賄の企てをおさえる効果もあった。  ひとりめの権利をまだ行使していないものは、闘技場で余分の権利を戦いとることもできた。勝てば、ふたりめ、三人めの出産権を手にいれ、敗ければひとりめの権利といっしょに自分の命をも失う。それで帳尻も合うわけだ。 「その決闘なら、前に娯楽番組で見たことがある」と、〈|話し手《スピーカー》〉。「しかし、連中は楽しみで闘っているものとばかり思っていたぞ」 「いんや、真剣そのものさ」と、ルイス。  ティーラがクスクス笑った。 「で、その抽籤とやらは?」 「そのすぐあとのことです」と、ネサス。「人類が、加齢防止用の細胞賦活剤《ブースタースパイス》を使っても、毎年、死ぬ人の数が生まれる数をうわまわるようになりました……」  そこで出生管理局は、その年度内の死亡と出国の和から、出生と入国の数を差引き計算して、その数だけの出産権を、元旦の抽籤会で配分することにしたのだった。  誰でも参加できる。運に恵まれれば、十人二十人の子供を持つことができる──もしそれが幸運といえるならばだが。有罪の宣告をうけた犯罪者でも、この出産権抽籤から閉めだされることはない。 「ぼくは四人の子供をつくった」と、ルイス・ウー。「ひとりは抽籤でね。十二時間前には、そのうち三人がここへ来ていたよ」 「まことに複雑怪奇な話だな。わがクジン族では、人口が多くなりすぎたら──」 「手近な人間の世界を攻撃するんだろう」 「いや、ちがうぞ、ルイス。われわれは、互いに戦うのだ。人が増えるほど、クジン人ひとりあたりの攻撃のチャンスもふえる。わが人口問題は、自然に解決されるのだ。ただひとつの惑星上に、二掛ける十の八乗もの人口など、われわれには思いもよらん!」 「ちょっとわかってきたみたい」と、ティーラ・ブラウン。「あたしの両親は、ふたりとも抽籤が当たって生まれたの」  そして、ちょっと神経質に笑った。 「さもないと、あたしも生まれなかったわけね。ちょっと、そういえば、あたしのおばあさんも──」 「あなたの祖先は、五代前まで、全員が抽籤に当たって生まれた人たちなのです」 「ほんと! 全然知らなかった!」 「記録は、はっきりしています」ネサスが請けあった。 「まだわからんね」と、ルイス。「だから、どうだというんだい?」 「パペッティアの船団を統率する人びとは、地球人が運に強い血統を生みだしつつあると判断したのです」 「なんだって!」  ティーラ・ブラウンが、強く興味をひかれた様子で、椅子から前に身をのりだした。当然ながら、気のふれたパペッティア人など、これまで見たこともなかったのだ。 「抽籤とは何でしょう、ルイス。そして、進化とは? 七百年も前から、あなたの種族は、数字にたよって子孫をつくってきました。ひとりにつきふたりの出産権、夫婦ひと組に子供ふたり。三人めの出産権を手にいれるものもあれば、糖尿病の遺伝子とかそういった妥当な理由で、ひとりも持てないものもありました。ですが、人類のほとんどは、子供をふたりつくってきたのです。  ついで、法律が変わりました。過去二世紀のあいだ、世代ごとに十ないし十三パーセントの人間は、抽籤に当たったことで生まれています。生き残り子孫をつくる条件とはいったい何でしょう? 地球上では、それは〈運の良さ〉なのです。  そして、ティーラ・ブラウンは、その賭けに勝ちつづけてきた血統の六代目にあたるのです……」 [#改ページ]      3 ティーラ・ブラウン  ティーラは、もうとめどがないほど笑いこけていた。 「冗談じゃない」と、ルイス・ウー。「幸運の血統なんて。眉毛の濃い血統みたいなわけにいくもんか!」 「しかし、テレパシーの血統は、認められているではありませんか」 「それは別さ。テレパシーは、精神能力なんかじゃない。右頭頂葉にあるその機構の位置関係もわかっている。ただ、ほとんどの人間は、そこが働かないだけなんだ」 「テレパシーも、以前は超心理《プサイ》の一形態と思われていました。今あなたは、運のよさが能力でないという」 「運は運さ」  滑稽な場面だったことはたしかだし、ティーラがそう思っているのも無理ではない。だが、ルイスは、ティーラのまだ気づかぬことに思い至っていた。  パペッティア人は、本気なのだ。 「平均の法則は、ゆらぎの大きなもんだ。つき[#「つき」に傍点]が去れば、恐龍の一族みたいにゲームを失う。もし、ダイスの目が思うように出れば──」 「ダイスの目を思いどおりに出せる人間もいるそうですが──」 「だったら、ぼくのもちだした例が悪かっただけさ。要するに──」 「そうだ」と、クジン人がうなった。  その気になれば、彼の声は、壁をビリビリと振動させた。 「要するにわれわれが、ネサスの選んだものを、うけいれればよいのだ。ネサス、おまえは船をもっている。それで、その四人めの隊員は、どこにいるか、いうがよい」 「ここに、この部屋の中です!」 「ちょっと待ってよ。そんなカホなことって!」  ティーラは立ちあがった。青い皮膚の上で銀色のネットが、ほんものの金属のように光り、髪は、エア・コンから流れだす微風で、炎のようにゆらいでいる。 「何もかも、馬鹿げてるわ。あたし、どこへもいきませんからね。どうして、いかなきゃならないことがあるの?」 「ほかの誰かにしろよ、ネサス。ちゃんとした候補者が、何百万人もいるはずだ。何にひっかかってるんだい?」 「何百万人もいません。せいぜい数千人。それも大部分は、映話か個人用転移ボックスのナンバーくらいしかわかっていません。ぜんぶ、五代前の先祖まで、抽籤に当って生まれてきた人たちです」 「それで?」  ネサスは、床の上を歩きまわりはじめた。 「その多くは、明白な不運を示す資料《データ》があって、はずされました。残りは、まだひとりもつかまりません。映話すると外出中。もう一度かけると、コンピューターがつなぎまちがえる。ブラント姓の誰かを呼びだそうとすると、南アメリカ中の映話が鳴りだす。苦情をいわれる。失敗ばかりです」  ポク、ポク、ポクという蹄の音。  ティーラがいった。 「まだあたしには、いき先もいってないじゃないの」 「目的地は、いえないのです、ティーラ。しかし、ルイスの──」 「なんてことを! それもいわないつもりなのね?」 「ルイスの持っている立体写真《ホロ》を見てください。今のところ、わたしが知らせてよいことはそれだけです」  ルイスは、彼女に写真を渡した。暗黒をバックに、白く光る円形のうしろを、空色の帯が走っている、それである。彼女は、それをためつすがめつしていたが、ルイスには、彼女が怒りをおさえきれずにいるのが、よくわかった。  口をひらくと、彼女はまるで、みかんの種を吐きだすように、一語ずつ区切ってしゃべった。 「こんな馬鹿げたことって、はじめてだわ。ルイスとあたしを、パペッティア人やクジン人といっしょに、既知空域《ノウン・スペイス》の外までとばすといいながら、いき先といったら、青いリボンに光った丸をひとつ見せてくれるだけ! そんなの──馬鹿げてるわ!」 「すると、つまり、仲間にははいらないというのですね」  娘は眉をつりあげた。 「はっきり答えてください。もうすぐエージェントが、べつの候補者を見つけるかもしれません」 「ええ」と、ティーラ・ブラウン。「おことわりしますとも」 「では、人間の法律により、ここで話したことの秘密を守ることを忘れないように。もう相談料を支払ってありますから」 「誰に話すっていうの?」  ティーラは、けたたましく笑った。 「誰が本気にすると思うの? ルイス、あなた本当に、こんな馬鹿げた話に──」 「ああ、のるつもりだよ」  ルイスはもう、べつのことに思いをめぐらせていた。例えば、彼女をそれとなく、この書斎から出してしまうことだ。 「もっとも、いますぐ出発ってわけじゃない。まだパーティも終わってないしね。そうだ、ちょっと頼まれてくれないか? ミュージック・マスターのテープを、四番から五番に切りかえて。それから、誰かがきいたら、ぼくは一分かそこらのうちに出てくるっていっとくようにね」  彼女が去り、ドアがしまると、ルイスはしゃべりだした。 「こっちのいうこともきいてくれよ。みんなのためにもなることだ。未知の宇宙へちょいと散歩としゃれるのに、どんな人間が適当か、その判断は、ぼくにまかせてほしいんだ」 「候補者に絶対必要な資格については、もう話しましたね」と、ネサス。「それに該当するものは、まだひとりしか見つかっていないのです」 「何万人だっているさ」 「そんなことはありません。多くが不適格とわかりましたし、ほかのものは見つからないのです。それはそうと、あの人間が、どういう点であなたの規準に合わないのか、話してください」 「若すぎるよ」 「候補者はみんなティーラ・ブラウンと同じ世代です」 「幸運の血統か! いや、べつにその議論をまたむしかえそうってわけじゃないよ。それ以上におかしなことを考える人間もいるしね。げんに、このパーティにも、ふたりほど来ている……そう、あんたも自分で会って、わかってるはずだが、あの娘は異星人好きじゃないぜ」 「しかし、異星人嫌いでもありません。わたしたちを、ちっともこわがりません」 「感受性のひらめき[#「ひらめき」に傍点]がないのさ。それに──あの娘は──それに──」 「不安感というものがないのです」と、ネサス。「どこへいっても、その場に安住できる。まさにそういう状況なのです。本気で何かがほしいと思うこともなくてすんでいます。もっともその点は、たずねてみないとわからないでしょう」 「わかった。勝手に候補者をきめろよ」  ルイスは、ゆっくりと書斎を出ようとした。そのうしろで、パペッティア人が、かん高い声をあげた。 「ルイス! 〈|話し手《スピーカー》〉! 合図がありました! エージェントが、もうひとり、候補者を見つけたのです!」 「そうだろうとも」うんざりして答えた。  居間の端では、もうひとりの〈ピアスンの人形師《パペッティア》〉と、ティーラ・ブラウンが、ばったり顔を合わせたところだった。  ルイスは、ゆっくりと目をさました。簡易睡眠セットをかぶり、一時間に合わせたことを思い出した。だから当然、一時間しかたっていないはずだ。自動スイッチが切れると、セットの不愉快な感触で目がさめるはずだったが……。  セットがはずれている。  ルイスはあわてて起きあがった。 「あたしがはずしたの」ティーラ・ブラウンがいった。「とっても疲れてるみたいだったから」 「まいったな。いま何時だ?」 「十七時ちょっと過ぎ」 「主人役《ホスト》失格だ。パーティはどうなってる?」 「いま残ってるのは二十人くらいかしら。大丈夫よ。みんなに、あたしがセットをはずしたってこと話したから。みんな、そりゃよかったっていってたわ」 「わかった」  ルイスは、ベッドからゴロリところげ出た。 「どうも。それじゃ、残った人たちに会いにいこう」 「その前に、話したいことがあるの」  彼はふたたび腰をおろした。起きぬけでぼやけた頭が、やっとすっきりしてくる。 「何のこと?」 「本当に、あのメチャクチャな旅に出かけるつもりなの?」 「そうだよ」 「どうしてだか、わかんない」 「ぼくは、きみの十倍も年をくってる」と、ルイス・ウーは答えた。「食うために働く必要もない。科学者になるほどの忍耐力もない。ものを書いてみたこともあるが、思いがけないことに、すぐ重荷になっちまった。あと、何がある? 遊びまわるだけさ」  彼女が首をふると、明かりが四方の壁でふるえた。 「遊びだなんて、思えない」  ルイスは肩をすくめた。 「倦怠が、ぼくの最大の敵なのさ。それで自殺した友人も大ぜいいる。だが、ぼくは大丈夫だった。退屈すると、どこか生命を賭けるようなところへ出かけるのさ」 「でも、その危険がどんなものかくらいは、知りたいと思わないの?」 「報酬がいいからね」 「お金なんて必要ないはずよ」 「人類にとって、パペッティア人の知識が必要なんだよ。ねえ、ティーラ。さっき、第二量子域《セカンド・クワンタム》の超空間駆動《ハイパードライブ》の話が出たね。あれは、既知空域《ノウン・スペイス》で、一光年を三日というふつうのスピードよりも遠くとべる唯一の船なんだ。実際には、その四百倍の速度が出せる!」 「そんなに速くとぶ必要があるの?」  銀河の中心核の爆発について、解説してきかせるようなムードではなかった。 「パーティへもどろう」 「だめ。待って!」 「わかったよ」  女にしては大きな手、細く長い指だ。いらだたしそうに、燃えるような髪にからませたその指が、キラリと光に映える。 「カホナ! すっかりこんぐらかっちゃった。ルイス、いま、誰かを本気で愛してる?」  思いがけない質問だった。 「いないらしいね」 「あたし、本当に、ポーラ・チェレンコフみたいにみえる?」  ほの暗い寝室の中で、彼女の姿は、まるでダリ描くところの〈燃えるキリン〉のようにみえた。髪そのものが光を放ち、オレンジと黄色の炎が流れるさきは煙となって消える。この暗さでは、髪のきらめきのせいで、ティーラのほかの部分は闇にとけこんでしまっている。しかし、ルイスの記憶が、あらゆる細部をおぎなってくれた。長い完璧な脚、円錐形の乳房、小さめの顔の絨細な美しさ。  はじめて会ったのは四日前のことで、パーティに出席するため地球へやってきたひょろ長い不時着人種《クラッシュランダー》テドロン・ドーニイの腕に抱かれて、姿をみせたのだった。 「あのときは、ポーラがやってきたのかと思ったよ。彼女はウイ・メイド・イット星に住んでるし、ぼくがテッド・ドーニイに会ったのもそこだった。いっしょに現れたんで、テッドとポーラが同じ船で来たのかと思った。  よく見ると、やっぱりちがってる。きみのほうが、脚はきれいだ。でもポーラの歩きかたのほうが優雅だった。ポーラの顔は──ちょっと冷たい感じだったね。ただそんな記憶が残ってるだけかもしれないが」  ドアの外で、コンピューター音楽が鳴りだした。粗野で純粋で、あいともなう光のパターンの明滅がないと、救えないしろものだ。  ティーラが不安げにからだを動かすと、壁の影がゆらめいた。 「何を考えてるんだい? ねえ、パペッティア人は、何千という候補者をかかえてるんだ。四人めの隊員が、いつ見つかるかはわからない。そしたら、出発する」 「それはいいの」と、ティーラ。 「そのときまで、ここにいてくれるね?」  彼女のもえたつ髪が、コクリと前へうなずいた。  パペッティア人は、二日後にまたやってきた。  ルイスとティーラは、芝生の上で日光浴をしながら、おとぎチェスの勝負に夢中になっているところだった。ルイスは、片方のナイトを落してやっていたが、いまはそれを後悔していた。ティーラは、ちゃんと読んで指すかと思うと、つぎには直観に頼る。どんな手を指してくるか、予想がつかないのだ。しかも、彼女はすっかりむき[#「むき」に傍点]になっている。  つぎの手を考えて、彼女がゆっくり下くちびるをかんでいるところへ、給仕《サーボ》がすべってきて、ポンと合図の音を鳴らした。ルイスが見あげると、給仕《サーボ》の胸のモニター・スクリーンから、ひとつ目の蛇が二匹、こっちを向いている。 「ここへ案内しろ」彼は気軽にそういった。  いきなりティーラが、ギクシャクと立ちあがった。 「秘密のお話でしょ?」 「かもね。何を考えたんだい?」 「いま読んどきたいものがあるの」  そしてグイとひとさし指をつきつけた。 「チェス、このままにしとくのよ!」  ドアのところで、彼女は、出てくるパペッティア人とぶつかった。すれちがうとき、彼女が何げなく手をあげると、ネサスは六フィートも横にとびのいた。 「すみません」  笛のような声。 「びっくりしたものですから」  ティーラは、片方の眉をみごとにあげてみせ、それから中へはいっていった。  パペッティア人は、ルイスのそばへくると、脚を折りたたんで腰をおろした。頭のひとつはルイスを見つめ、もうひとつは神経質そうに、グルグルと四囲を見わたしている。 「あの女性は、見ていないでしょうね?」  ルイスは驚きをかくそうともしなかった。 「あたりまえさ。それに、こんなあけっぱなしのところじゃ、スパイビームの防ぎようがないことぐらいわかってるだろう。それで、どうなった?」 「何ものが見ているかわかりません。ルイス、あなたの書斎へいきましょう」 「そんなカホな!」  ルイスはこの場所で、すっかりいい気分になっているところだった。 「後生だから、その頭をグルグルまわすのは、やめてくれないか? 死ぬほどおびえてるみたいだ」 「わたしが死んでも、どうということのないのはわかっていますが、こわいのは本当です。地球には、一年にいくつくらい、隕石が落ちますか?」 「知るもんか、そんなこと」 「ここは、危険なほど小惑星帯に近いのです。まあ、それもどうということはありません。四人めの隊員が、いまだにつかまらないのですから」 「それはいけないな」と、ルイス。  それにしても、パペッティア人の様子はへんだ。もしネサスが人間だったら──しかし、そうではない。 「まだあきらめてはいない。そうだと思うがね」 「はい。しかし、まったくいまいましい話です。この四日間、わたしたちは、ノーマン・へイウッドKJMMCWTADをさがしていました。隊員として完璧な人材です」 「それで?」 「健康で、活撥で、年齢は地球年で二十四歳と四ヵ月。六代の先祖がすべて抽籤で生まれています。いちばんいいのは、彼が旅行好きなことです。気ぜわしそうな態度も、わたしたちの要求にぴったりでした。  当然、わたしたちは彼に会おうとしました。三日にわたって、わたしのエージェントは、つぎからつぎへと転移ボックスを渡りあるく彼を追いかけて追いつけず、そのあいだにノーマン・へイウッドは、スイスへスキーにいき、セイロンでサーフィンをし、ニューヨークで買物をし、ロッキーとヒマラヤではパーティに出席しました。昨夜、エージェントは、ジンクス星行きの客船に乗りこんだ彼をつかまえました。だが、あなたの操縦する仮装備の船がこわいという彼を説得できないうちに、船は出てしまいました」 「ぼくにも、そんな時代があったな。超空間通信で、メッセージを送ってやれないのかい?」 「ルイス。この探険は秘密なのですよ」 「そうか」と、ルイス。  その目の前で、蛇のような頸のひとつが、見えない敵の姿を求めて、グルリグルリとまわりつづけている。 「いずれは、何とかなるでしょう」と、ネサス。「数千人もいる有資格者が、いつまでも姿をかくしつづけていられるはずはありません。それとも、あるのでしょうか? 彼らは、わたしたちがさがしていることすら知らないというのに!」 「そのうち見つかるさ。まちがいないよ」 「見つからないほうがましです! ルイス、どうしてわたしにできるでしょうか? 三人の異星人と、ひとり乗りの実験船に乗っていくなんて、わたしにできることでしょうか? まったく気ちがい沙汰です!」 「ネサス、何をいったい悩んでるんだ? この探険は、もともと全部あんたの立てた計画なんだぜ!」 「そうではないのです。二百光年もかなたにいる〈指導する人びと〉の命令なのです」 「何かにおびえてるみたいだぜ。何だか知りたいな。何がわかったんだ? この探険は、本当は何のためなんだ? レストランで、四人のクジン人を侮辱しようとしたあんたが、いったいどうしたんだ? おい、しっかりしろよ!」  パペッティア人は、ふたつの頭と頸を、前脚のあいだにはさみこんで、ボールのように丸まってしまっていた。 「さあ、さあ、出ておいで」  ルイスは、パペッティア人の頸のうしろ──その肌の現れている部分を、両手でなでてやった。パペッティア人が身ぶるいする。その皮膚はやわらかく、シャミー皮のように手ざわりがよかった。 「さあ、出てくるんだよ。誰もいじめるものなんていないんだから。お客の安全は、ちゃんと守るよ」  パペッティア人の泣き声が、そのからだの下から、くぐもってひびいてきた。 「わたしは気がふれてるんです! 気ちがいなんです! 四人のクジン人を侮辱したなんて!」 「出てこいったら。ここは安全なんだよ。ほら、大丈夫だろ?」  ひらたい頭のひとつが、そうっと外をのぞいた。 「わかるね? 何もこわがることはないんだよ」 「クジン人が四人? 三人じゃありませんでしたか?」 「そうか。ぼくのかぞえちがいだ。三人だったよ」 「ごめんなさい、ルイス」  もうひとつの頭が、目だけをのぞかせた。 「躁期《マニッグ》が終わったのです。いま、精神サイクルが、|鬱 期《デブレッシヴ》にはいったのです」 「自分でどうにもできないのかい?」  ネサスが肝腎なときにこんなふうになった場合のことを、ルイスは頭にえがいていた。 「終わるのを待てばいいのです。できるだけは、自分で始末をつけます。判断にも影響がないようにします」 「かわいそうに。で、何か新しい情報があったのかい?」 「正気だったら、いまわかっていることだけで、おびえるには充分でしょう?」  パペッティア人は、いくらかヨロヨロしながら立ちあがった。 「ティーラ・ブラウンは、なぜまだここにいたのです? もういないものと思っていました」 「四人めが見つかるまで、いてくれるようにたのんだのさ」 「なぜです?」  なぜだか、ルイスにも理由はわかっていなかった。  ポーラ・チェレンコフの思い出とは関係あるまい。つきあっていたころとは、ルイスもすっかり変わったし、また彼は、ひとりの女をべつの女の型にはめようとするたぐいの男でもなかった。  就寝プレートは、ひとりでなくふたり用にデザインされている。しかし、パーティには、ほかにも大ぜい女の子が来ていた……ティーラほど美しくはなかったが。賢明なる老ルイス・ウーも、やはり美貌に惹かれる単純な男だったのだろうか?  だが、あのよどみない銀色の両眼には、たしかに単なる美以上の何かが訴えかけていた。何か、はるかにこみいったものが。 「姦通の喜びかな」と、ルイス。  しかし前にいるのは、そんなこみいった問題など理解できるはずもない異星人である。パペッティア人がまだふるえているのに気づいて、彼はことばをついだ。 「書斎へいこう。あそこは丘の下だ。隕石もこないよ」  パペッティア人が去ったあと、ルイスはティーラをさがした。見つけたのは図書室の中で、彼女は読書スクリーンを前に、|速読み専門家《スピードリーダー》はだしの速さで、どんどん画面《フレーム》を切りかえていた。 「あーら」  彼女は画面をとめて、ふりかえった。 「あのふたつ頭ちゃんはどうしたの?」 「やたらにおびえてるよ。くたびれちまった。パペッティア人の精神病医のまねごとをしてたんでね」  ティーラが、顔をかがやかせた。 「パペッティア人のセックス・ライフについて教えてよ」 「ぼくの知ってるのは、あいつが子供をつくれないってことだけさ。それであいつ、くよくよしてる。もしかすると、法律で許されれば、子供をつくれるのかもしれない。わかったのはそれだけ。申しわけないが、それ以外のことはまったく話に出なかったよ」 「じゃ、何のお話してたの?」  ルイスは手をふった。 「三百年ぶんの精神的外傷《トラウマ》さ。それだけのあいだ、あいつは、人類の世界に居残っていたんだ。もうパペッティアの惑星のことも、ろくにおぼえていない。三百年間おびえっづけていたような感じだったな」  ルイスは、マッサージ椅子にからだを沈めた。異星人に感情移入しようとした緊張のせいで、精神力を使いはたし、想像力も種切れといったところだ。 「きみはどうなんだ? 何を読んでる?」 「銀河の核の爆発」  ティーラが、スクリーンを指さす。  写っているのは、ギッシリとひとつにあつまった恒星の一大集団だった。暗黒の部分がみえないほど、無数の恒星が密集している。大型の球状星団のようにもみえるが、そうではない。そうではありえない。望遠鏡でも、そんな遠くへはとどかないし、現存するどんな宇宙船でもだめだ。  これは、銀河の核、その渦状肢の回転軸にあたる部分、さしわたし五千光年の球形にギッシリつまった恒星の密集団塊だった。ひとりの男が、二百年ほど前に、パペッティア人の実験船でそこに達している。画面では、赤や青や緑の星ぼしが互いにかさなりあい、その中では赤い星がとりわけ大きく明るかった。そのちょうど中心に、コンマ形をふくらませたような形の、白く輝く斑点がみえる。その中にも線やしみ[#「しみ」に傍点]や影がみえた。だが、白斑の中では、その影の部分ですら、外部にあるどの星よりも明るいのだった。 「このために、パペッティア人の船が要るのね。そうでしょ?」と、ティーラ。 「そうだ」 「どうしてこうなったの?」 「星のあいだが近すぎたのさ」と、ルイス。「どんな銀河系でも、核全体を平均すれば、距離は半光年くらいだ。中心のほうでは、もっとくっつきあってる。ある銀河系の核では、星が近すぎて、互いにあたためあうようになる。熱くなれば、それだけ速く燃え、急速に齢をとっていくことになる。  この核の星は、もう一万年も前に、どれも新星《ノヴァ》すれすれのところまできていたんだ。  そして、星のひとつが新星になった。そいつが多量の熱とガンマ線を放出した。そのまわりの星は、それだけ熱くなる。たしか、ガンマ線も、星の活動を促進するはずだ。そこで、近くの星のうちのふたつが、ひきつづいて爆発した。  合計三個だ。その熱がいっしょになって、さらにいくつかを新星段階にひきずりこんだ。つまり連鎖反応で、そうなるともう歯どめがきかない。この白い斑点のところは、ぜんぶ|超 新 星《スーパー・ノヴァ》なんだ。おのぞみなら、もう少しくわしい数学的説明のテープもあるよ」 「いいえ結構」と、彼女。  予期していたかのような口調だ。 「それに、もう爆発はすっかり終わったようだし」 「ああ。きみが見ているのは、ずっと昔に出た光さ。まだ銀河のこの空域まではとどいていないけどね。連鎖反応は、もう一万年も前に終わってしまったはずだ」 「じゃ、何をさわぎたてることがあるの?」 「放射線。それに、あらゆる種類の高速粒子さ」  マッサージ椅子の中で、彼はようやくくつろいだ気分になりはじめていた。グッと身を深く沈めて、振動が筋肉にあたるようにしてやる。 「こう考えてごらん。既知空域《ノウン・スペイス》っていうのは、銀河系の中心から三万三千光年離れた、ちっぽけな泡みたいなものだ。新星爆発は、一万年以上前にはじまった。ということは、その大爆発から出た衝撃波が、あと二万年もすると、ここ[#「ここ」に傍点]へやってくるってことだ。わかるかい?」 「ええ」 「その波のすぐあとから、百万もの新星から出た放射線粒子が押しよせてくる」 「……まあ」 「二万年のうちに、われわれは、きみの知ってるあらゆる世界をひきはらって、移住しなければならなくなる。それも、ずうっと遠くへね」 「ずいぶん先のことね。すぐ出発すれば、いまある船でだって間に合うわ。簡単よ」 「わからないかなあ。一光年三日のスピードしか出ない船じゃ、マゼラン雲まで達するのに、約六百年かかるんだぜ」 「どっかに寄って、食糧と空気を積みこめばいいわ……一年ごとくらいに」  ルイスは笑いだした。 「誰でもいいから、そういって説得してごらんよ。ぼくのいう意味は、わかるね? 核の爆発の光が、ここと銀河の中心とをへだてている宇宙塵雲をとおして光りだしたとき、はじめて人類世界は、急激な恐慌におちいるだろう。そのときにはもう、退避するのに百年くらいしか時間はないんだ。  パペッティア人は、事態を見ぬいていた。彼らが人間のひとりを雇って、中心核へ冒険飛行をやらせたのは、研究の費用を捻出する宣伝のためだった。その男が、こういう写真を送ってきたのさ。そいつが帰りついたとき、パペッティア人は、もう出発してしまっていた。人類世界のどこをさがしても、パペッティア人は、ひとりも見つからなかった。われわれは、そんなふうにはいかない。待って待って待ちぬいて、ついに移住ときまったときには、何兆もの知性生命体を、すっかり銀河系から運びださなくちゃならん。できるだけ大きくて速い船が要る。それも、できるだけたくさん建造する必要がある。いま、パペッティア人の船が手にはいれば、いますぐその改良にとりかかれるわけだ。だから──」 「わかった。いっしょにいくわ」  ルイスは、講義の腰をおられて、「え?」とききかえした。 「いっしょにいくっていうのよ」と、ティーラ。 「気でもくるったのか」 「でも、あなたは、いくんでしょ?」  ルイスは、わめきだしそうになって、歯をくいしばった。そして口をひらいたとき、その口調は、この場にそぐわないほどおだやかだった。 「ああ、ぼくはいくよ。しかし、きみには、いく理由がない! ぼくは齢をくってるだけ、きみよりは自分を守るすべを知っている」 「でも、あたしのほうが運がいいのよ」  ルイスは、フンと鼻をならした。 「そりゃ、あなたみたいに、ちゃんとしたものじゃないけど、いく理由ならいっぱいあるわ!」  怒りで声が高くかすれる。 「そりゃ、カホなくらいあるだろうさ」  彼女は、指でスクリーンの表面を、トントンとたたいた。ふくらんだコンマ形の新星の光が、その爪の下でもえている。 「これ[#「これ」に傍点]よ。りっぱな理由じゃなくて?」 「きみが来ようと来まいと、パペッティア人の船は手にはいるさ。ネサスがいってたじゃないか。きみみたいのは、何千人もいるんだって」 「あたしだって、そのひとりよ!」 「結構。きみも、まさにそのひとりさ」  ルイスも、むきになっていた。 「なぜ、そんなカホなかまいだてするの? かまってくれってたのんだことがあって?」 「悪かったね。どうして後見人づらしたのか、自分でもわからないよ。きみは、りっぱなおとななんだからね」 「認めていただいてありがとう。わたくしも、お仲間にいれてくださいな」  ティーラも、すっかり冷たく気どった口調になった。  なんてこった。彼女はたしかに、ちゃんとした自由人だ。何も干渉できないというばかりではない。強制することは不作法にあたるわけだし、また(これが大事な点だが)強制しても効果はなさそうだ。  しかし、説得することなら、できるかもしれない……。 「ひとつ考えてみようじゃないか」と、ルイス・ウーはいった。「ネサスは、この旅の秘密をまもることに、最大の努力をはらっている。なぜだ? 何をかくさなければならないんだろう?」 「そんなこと、わたしたちにはどうでもいいじゃないの? 行先はどこか知らないけど、そこに何か、盗まれると困る大事なものがあるのかもしれないし」 「それがどうした? 目的地は、二百光年も向こうだぜ。ぼくら以外に、そこへいけるやつは、いやしない」 「じゃ、船そのものが秘密なのね」  ティーラのどこが異常であるにしろ、少なくとも馬鹿じゃない。ルイスも、そのことには気づいていなかったのだ。 「じゃ、隊員のメンバーを考えてみよう。人間ふたり、パペッティア人とクジン人がひとりずつ。プロの探険家はひとりもいない」 「いいたいことはわかるけど、ルイス、あたし、本当にいくの。とめようったって、だめよ」 「それでも、これからどんな目にあうかくらいは知っとくほうがいい。なぜこんなおかしなメンバーをあつめたんだろうね?」 「それはネサスの考えたことよ」 「ぼくらも考えなきゃならないことさ。ネサスはその命令を、〈指導する人びと〉──パペッティア人の首脳部──からうけた。どうやら彼は、ほんの数時間前に、その命令の本当の意味に気がついたらしい。そして、ひどくおびえている。その……何というか、パペッティアの船団をひきいる生存の亡者どもは、四つのサンプルをひとまとめに研究しようとしているだけで、探険の目的地なんかどうでもいいんじゃないかな」  そのことばが、ティーラの興味をひいたらしいと知って、彼はたたみかけた。 「まず、ネサスだ。知らない土地に出かけられるほど狂ったパペッティア人に、生きてもどれるだけの分別が残っているかどうか? 〈指導する人びと〉は、それが知りたいんだ。彼らがマゼラン雲に到着したら、そこにまた、商業帝国を建設しなくちゃならん。その貿易の担い手は、気のふれたパペッティア人なんだからね。  それから、あの毛皮を着た友人。異星人向けの使節になるくらいだから、クジン族の中では最高に世間ずれしてるはずだ。だが、その彼も、われわれにまじってうまくやっていけるだろうか? それとも、ちょっと場所がせまいとか肉が食いたいとかで、相手を殺してしまう程度のところだろうか?  第三に、きみとその幸運の信憑性。まあ、いうなれば、非実体性の実証的研究ってところだ。第四にぼく。どうやら典型的な探険家タイプってことになってるらしいから、さしづめお目付け役というわけか。  ぼくの考えてることは、わかるだろう?」  ルイスは、いつのまにか、娘の前に立ちはだかり、かつて七十歳代のとき国連の議員に立候補して落選した折に身につけた演説口調で、息もつかせずしゃべりつづけていた。正直なところ、もうティーラ・ブラウンをおびえさせることはあきらめていたが、なんとか納得させようと必死だったのだ。 「探険目標の惑星のことなど、パペッティア人は、考えてもいないだろう。銀河系を引きはらいつつある彼らにとって、何を気にすることがある? 彼らの目的とするところは、このちっぽけな探険隊の自壊テストなのさ。われわれが互いに殺しあってしまうまでの相互関係など、いろいろ豊富なデータがとれるだろう」 「あれ、惑星じゃないみたいよ」と、ティーラ。  ルイスは、カッとなった。 「カホナ! そんなこと、これとどんな関係がある?」 「そういっちまえばそうだけど。ルイス、もし探険の途中で殺されちゃうとしても、いまたしかめてみてわるいわけはないわ。あたし、あれきっと宇宙船だと思う」 「そうかい」 「大きな、星間水素をあつめるラムスクープ 場《フィールド》 を備えた船。それが、じょうごみたいに、水素を中心に圧縮して、融合反応を起こさせるのよ。それで、推力と、太陽が手にはいる。あのリングをまわして遠心力をつくり、内側にガラスの屋根を張るの」 「そうか」  ルイスは、パペッティア人のくれた立体写真《ホロ》のことを思い出していた。目的地のことは、思えばまだほとんど考えてもいなかった。 「かもしれん。大きいし、原始的だし、向きを変えるのもたいへんだろうがね。でも、どうして〈指導する人びと〉は、そんなものを気にしたんだろう?」 「避難船かもしれないわ。中心核の近くにいる種族なら、ギッシリつまった恒星から、星の反応を早めに知ることができる。それで、新星爆発の起こることを、何千年か前もって予測したのかもしれない……ふたつか三つ、|超 新 星《スーパー・ノヴァ》が現れたときにね」 「超新星か。そうかもしれん……どうやら、みごとに話題をそらされちまったな。いま、パペッティア人の意図がどんなものかについて、話していたというのに。まあ、どっちにしろ、ぼくはいく。面白そうだからね。きみは、なぜいく気になった?」 「中心核の爆発」 「利他主義は立派だ。だが、きみみたいな娘が、二万年もさきに起こるはずのことを、気にやむとは思えない。ほかに理由は?」 「やめて! あなたが英雄になれるなら、あたしだってなれるわ。それに、あなたはネサスのこともわかっていない。彼が自殺の旅についてくるはずがないじゃないの。それに──それになぜ、パペッティア人が、人間やクジン人のことを知りたがるの? 何のためのテストなの? 彼らは、銀河系を逃げだそうとしてるのよ。もうわたしたちと会うことなど、二度とないはずよ」  ティーラは、馬鹿どころではない。だが──。 「そうじゃないんだ。パペッティ7人には、われわれを研究する立派な理由がある」  ティーラの見つめる視線にひきずられて、彼はことばをつづけた。 「パペッティア人の大移動については、多くのことが、まだ謎につつまれている。病人でない、狂気でもないパペッティア人の全員が、去ってしまったことはわかっている。また、わずか光速を下まわるスピードでとんでいるということもわかっている。|超 空 間《ハイパースペイス》がこわいんだそうだ。  さて、光速にちょっと足りないスピードだと、パペッティア人の大船隊が小マゼラン雲に到着するのは、約八万五千年後のことだ。そこで彼らは、何に出会うと考えているだろうか?」  彼は、彼女にニヤリと笑ってみせ、それから、ピシリといった。 「われわれさ、もちろん。少なくとも、人間とクジン人だ。たぶん、クダトリノ人や、パイアリン人や、海豚《いるか》のことも考慮しているだろう。われわれが、最後の瞬間までねばってから逃げだすこと、そして光より速い船を使うことも、彼らは予測している。パペッティア人がマゼラン雲にいきつくと、またわれわれを相手にしなきゃならん……あるいは、われわれを絶滅させたやつを相手にすることになるかもしれんが、われわれを研究しておけば、その殺戮者についても、予想が立てられるだろう。実際、われわれを研究する理由は、充分あるのさ」 「わかったわ」 「それでもいく気かい?」  ティーラは、うなずいた。 「なぜだ?」 「お答えは保留します」  ティーラは、憎らしいほど落ちつきはらっている。となると、ルイスに何ができよう? 彼女が十九歳以下だったら、親を呼ぶのもひとつの手だ。しかし、二十歳になれば、一人前のおとなと見なされる。何ごとも、どこかで一線を画さなければならないものだ。  おとなである彼女には、選択の権利がある。ルイス・ウーに対しても、対等の扱いを期待して当然だし、プライバシーのある一部は神聖犯すべからざるもの。ルイスは説得する以外にないわけで、それもみごとな失敗に終わったのだった。  したがって、彼女がつづいてとった態度は、べつにその必要があってしたわけではなかった。彼女は、ふいに彼の手をとると、ほほえみながら、弁解するようにいったのである。 「ルイス、あたしを連れてって。あたしは運がいいの。本当にそうなのよ。もしネサスがあたしを選んでなかったら、あなたは、ひとり寝をかこつことになるわ。そんなの、好きじゃないでしょう? わかってるのよ」  彼は、途方にくれた。  ネサスの船から遠ざけておこうにも、直接パペッティア人のところへいかれたら、それで終わりである。 「よろしい。彼に映話しよう」と、ルイスはいった。  それに、ひとり寝がごめんだという気も、たしかにあった。 [#改ページ]      4 〈|獣への語り手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉 「探険いっしょにいくわ」ティーラが、映話スクリーンに向かっていった。  パペッティア人は、Eフラットの音を、長くひびかせた。 「何ていったの?」 「すみません」と、パペッティア人。「明日の〇八〇〇、オーストラリアのアウトバック・フィールドにきてください。個人の所持品は、地球の基準で五十ポンド以内です。ルイス、あなたも同じようにしてください。アアア!」  パペッティア人が頭を上に向けて、またもや声をあげる。ルイスが、気にしてたずねた。 「病気なのか?」 「いいえ。わたし自身の死を予感したのです。ルイス、あなたがもっと口説き下手ならよかったのに。さようなら。アウトバック・フィールドで会いましょう」  スクリーンが暗くなった。 「ちょっと!」ティーラが奇声をあげた。「どうして、あなたが口説き上手だってことになるの?」 「わが黄金の舌の威力よ! いや、弁舌のかぎりはつくしたんだ。もしきみが、おそろしい死にざまをさらしても、恨まないでくれよ」  その夜、闇の中にただよいながら、ルイスは彼女のつぶやきをきいた。 「愛してるわ。愛してるから、あたし、ついてくの」 「ぼくも愛してる」いい気分でうとうとしながら彼は答えた。  それから、徐々にその意味が、心にしみこんできた。 「ずっと、そう思ってたのかい?」 「ん──ン」 「きみが、二百光年もぼくについてくるのは、ぼくひとりをいかせることに耐えられないからなのか?」 「あーゥ、うん」 「寝室、半照明《ハーフライト》」  ルイスがいうと、ぼんやりと青い光が室内をみたした。  ふたりは、二枚の就寝プレートのあいだに、一フィートほど離れて浮かんでいた。宇宙へ出るため、ふたりとも|平 地 人《フラットランダー》スタイルの皮膚と髪の染色処理を洗いおとしていた。弁髪にしていたルイスの髪が、いまは黒くさらりとのび、頭のてっぺんの剃りあとは、伸びかかった毛で灰色にみえる。黄褐色がかった皮膚と、目尻のほとんど上がっていない茶色の目のせいで、彼のイメージはすっかり変わってしまっていた。  ティーラの変貌ぶりも、同じくらいめざましかった。黒っぽく波うつ髪を、そっくりうしろにひっつめている。皮膚は北欧系の純白。たまご形の顔は、大きな茶色の目と、小さくキリッとした口に支配され、鼻の存在は、ほとんど気づかれないくらいだ。  就寝フィールドの中で、彼女はすっかりくつろぎ、まるで水の表面の油滴のようにただよっていた。 「しかも、きみは月までもいったことがないというのに」  彼女はうなずいた。 「それにぼくは、世界一の色男ってがらでもない。きみが自分でそういったな」  彼女は、もう一度うなずいた。ティーラ・ブラウンは、口の慎みなどとは、およそ縁のない娘だ。この二日二晩のあいだ、彼女は一度も嘘をつかず、事実を脚色もせず、質問をいなそうとさえしていない。  とっくにわかっているべきことだったのだ。  彼女は、これまでのふたつの恋のことを話していた。一度は相手が半年で彼女に興味を失ったし、もうひとりの相手は彼女のいとこだったが、マウント・ルッキットザットへ移住のチャンスをものにしていってしまった。ルイスのほうは、過去の話などほとんどしていないし、彼女も彼の沈黙をそのままうけいれていた。だが、彼女は沈黙どころではなく、時たまおよそ突拍子もない質問を発するのだった。 「だのに、なぜぼくを?」と、彼。 「わかんない」と、彼女。「何か、偶像《カリスマ》みたいなものかしら? あなたは英雄。よく知ってるくせに」  たしかに彼は、現在生存しているものの中では、異星種族との|最初の接触《ファースト・コンタクト》をなしとげた唯一の人物である。トリノック人とのいきさつを、どうして忘れることなどできよう。  彼はもう一度、説明してみようとした。 「ねえ、ぼくの友人に、恋愛では世界一の男がいるんだ。ごく親しい。それが趣味ってわけでね。それについて何冊も本を出してる。生理学と心理学の博士号までもっている。過去百三十年のあいだに、彼は──」 「やめて」  彼女は両手で耳をおさえた。 「やめて」 「ぼくはただ、きみをどこかでのたれ死にさせたくないんだ。いくら何でも若すぎる」  彼女の、当惑したような表情。彼が前に口にした|共 通 語《インターワールド》の単語を、まったくナンセンスなものにしてしまった、あの[#「あの」に傍点]表情だ。  ハートを打ちくだく鞭の嵐[#「ハートを打ちくだく鞭の嵐」に傍点]だって? どこかでのたれ死に[#「どこかでのたれ死に」に傍点]だって?  ルイスは心の中でためいきをついた。 「寝室、結節点合体《ノード・マージ》」  彼がいうと、就寝フィールドに変化が生じた。安定した平衡状態をたもっている領域、つまり、ルイスとティーラがフィールドからはずれおちないようささえているふたつの特異点が、スウッと近づいてひとつになったのである。ルイスとティーラは、斜面をすべる≠謔、にそれに引かれて、ぶつかり、いっしょになった。 「ほんとに眠いのよ、ルイス。でも、いいわ……」 「また眠っちまわないうちに、プライバシーのことを考えておこう。宇宙船ってのは、えてして不自由なものでね」 「愛しあえないってこと? カホナ、あたしは平気よ、ルイス。あんな[#「あんな」に傍点]異星人が見てたって」 「ぼくは気になるね」  彼女はまた、あの当惑の表情をみせた。 「異星人じゃないとしたら? それでもいや?」 「ああ。よほど親しいあいだでなけりゃね。こんなのは、時代遅れかい?」 「ちょっと、そうみたい」 「いまいった友人のことだけどね。おぼえてる? 恋愛世界一の男。彼に協力している女性が、教えられたことをぼくに教えてくれた。こいつには、重力が必要だな」そして、つづけていう。「寝室、フィールド消去《オフ》」  からだの重みがもどってくる。 「また話題をかえるの?」と、ティーラ。 「ああ、もう降参だよ」 「いいわ。でもひとつだけ、心にとめておいてほしいことがあるの。ひとつだけよ。パペッティア人が、三つでなく四つの種族をメンバーにいれようとしていたら、あたしじゃなくトリノック人を、あなたは平気でうけいれていたかもしれないっていうこと」 「おそろしいことを考えるね。さてと、こいつには三段階あるんだ。まず、騎乗位からスタートして……」 「キジョウイって、なあに?」 「こうするんだ……」  朝が訪れたとき、ルイスはこの娘と行をともにすることが楽しみでたまらない気分になっていた。疑念がもどってきたときは、もうおそかった。もともと、何もかもが、手遅れだったのである。  アウトサイダー人は、情報の交易屋だ。買い値も売り値もとびきり高いが、一度仕入れれば何度でも売れる。交易の範囲が、銀河系渦状肢部分の全域にわたっているからだ。人間世界の銀行における彼らの信用は、事実上天井知らずだった。  彼らはどこか、低密度の巨大惑星の周囲をめぐる低温かつ低重力の衛星で進化したものと推測されている。例えば、海王星の第二衛星ネレイドのような世界だ。  現在の彼らは、恒星のあいだの何もない空間で、一隻がひとつの都市ほどもある宇宙船に住んでいるが、その船のタイプたるや、単純な光圧帆船から、人類科学の理解を絶したエンジンにいたるまで、種々雑多のレベルがいりまじっていた。顧客になりそうな惑星系が見つかり、そこに適当な取引き相手のいることがわかると、アウトサイダー人は貿易センター兼レクリエーション地域用の場所をリースし、そこに荷おろしをする。約五百年前に、彼らはネレイドを借りて拠点としていた。 「そこが、彼らのおもな交易区域なんだよ」と、ルイス・ウーがいった。「あそこだ」  片手を船の制御盤《コントロール》にかけたまま、もういっぽうの手で指さす。  明るい星空の中に、ネレイドの冷たくゴツゴツした表面がひろがっていた。ここで見る太陽は、大きめの白い点といったところで、明るさも満月くらいしかないが、その光に照らされて、まるで迷路のように、低い壁がうねうねとのびている。半球形の建物が見え、その近くに、オープン式の客席をそなえたスラスター駆動の、地上と軌道を結ぶ小型連絡艇の一群があった。だが、眼下の平野のなかば以上を占めているのは、その低い壁の迷路である。 〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉が、ルイスのすぐうしろに巨大な体躯をうかべながらいった。 「あの迷路は何のためだ。防備用かな?」 「日なたぼっこ用さ」と、ルイス。「アウトサイダー人のエネルギー源は熱電作用なんだ。頭を陽にあて、しっぽを日蔭にいれておくと、そのあいだの温度差で電流が発生する。壁はその影の境界をつくるためなんだ」  ネサスは、この十時間の飛行のあいだずっと、だまりこくっていた。船内の生活システムのまわりをウロウロ動きまわり、あれこれと装置をしらべ、頭と目を隅につっこんでは、肩ごしにもうひとつの頭と話しあっている。彼の宇宙服は、脳髄のはいったこぶ[#「こぶ」に傍点]の上にパットをいれた、ゆったりした袋スタイルで、いかにも軽々と気持よさそうだった。空気と食糧の供給パッケージは、信じられないほど小さい。  出発のときは、彼のおかげで、まったく異様な気分にさせられた。とつぜんキャビンの中で、複雑な美しい音楽が鳴りわたったのである。哀調をおびた、恋にくるったコンピューターの叫びにも似たその音は、ネサスの口笛だった。豊富な神経と筋肉をそなえて、手の役割をも果たす、そのふたつの口をもったネサスは、いわば生きたオーケストラだった。  彼は、ルイスが操縦にあたることを強調し、そのルイスの手腕に対する信頼から、座席ネットもつけようとはしなかった。ルイスはルイスで、パペッティア製の乗物には、乗客を保護する特別な秘密のしかけがあるだろうと、あてにしているのだった。 〈|話し手《スピーカー》〉は、二十ポンドの手荷物をさげて現れたが、あけてみると中味は、肉をあたためるための折りたたみ式電子レンジ以外に、ほとんど何もなかった。あとは、なまのままの腰肉《ハンチ》か何かそんなもので、それも地球産というよりクジン人の肉のようにみえた。  どういうわけかルイスは、クジン人の宇宙服として、何となく中世の甲冑みたいなものを頭に描いていたが、その予想は完全にくつがえされた。おそろしく重い|背 嚢《バックパック》のついた、透明な袋をつなぎあわせたようなしろもので、金魚鉢のようなヘルメットの中には、いかにも複雑な恰好の通話機がとりつけられている。見たところ武器らしいものはないが、|背 嚢《バックパック》が戦闘用の装置かもしれない。彼が武器をかくしていることを、ネサスは確信しているようだった。  クジン人は、飛行のあいだほとんど、ウトウトとまどろんでいた。  だが、今はその全員がルイスの肩ごしに前方を眺めている。 「アウトサイダーの船の向こうにおろすぜ」と、ルイス。 「いいえ。もっと東のほうへいってください。|のるかそるか《ロングショット》号は、ずっと離れたところにとめてあるのです」 「何のために? アウトサイダー人のスパイがこわいのか?」 「いいえ。|のるかそるか《ロングショット》号が、スラスター駆動ではなく、核融合エンジンを積んでいるからです。離着陸の熱が、アウトサイダー人には、影響が大きすぎるのです」 「なぜ、〈|のるかそるか《ロングショット》〉なんて名を?」 「あの船で飛んだただひとりの男、べーオウルフ・シェイファーが、そう名づけました。現存する中心核爆発の立体写真《ホログラフ》は、ぜんぶ彼がとってきたものです。〈|のるかそるか《ロングショット》〉というのは、賭博師のよく使うことばではないのですか?」 「たぶんその男が、帰ってこられる望みは薄いと思ったんだろう。今いっとくほうがいいと思うが、ぼくはこれまで、核融合の船なんて、一度も飛ばしたことはないぜ。ぼくの持ってる船は、こいつと同じ、無反動のスラスター駆動なんだ」 「では、練習してください」パペッティア人はいった。 「待て」と、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉。 「おれには、核融合エンジンの経験がある。おれが、|のるかそるか《ロングショット》号を操縦しよう」 「それはできません。操縦室の緩衝席が、人間のからだに合うようにできていますから。制御パネルの配置も、人間のやりかたに合わせてあります」  クジン人は、怒ったように、のどの奥でうなった。 「あそこです、ルイス。まっすぐ前です」  |のるかそるか《ロングショット》号は、直径一千フィートをこえる透明な球体だった。その巨体のまわりを、グルリと旋回してみると、内部が一立方インチの隙もなく緑とブロンズ色の超空間駆動モーター機構で埋めつくされているのがわかった。ゼネラル・プロダクツ製の四号船殻で、これは宇宙船を見なれたものの目には見誤りようがない。あまりに大きすぎるので、通常は、プレハブの植民集落をひとつそっくり輸送するのに使われるくらいのものだった。  だが、目の前にあるこれは、ちょっと宇宙船にはみえない。どこかそこらの原始的な種族が、限られた費用と幼稚な技術のため、どんな隙間も残さないように組みあげた軌道衛星を、極端に拡大コピーしたような感じだ。 「どこにおろす?」ルイスがたずねる。「てっぺんに着けようか?」 「キャビンは下側についています。船殻の曲面の下に着けてください」  ルイスは、黒っぽい氷の地表に船を近づけ、注意ぶかく前へすべらせて、|のるかそるか《ロングショット》号の巨大な船腹の下へもっていった。  生活システムには、灯がともっていた。|のるかそるか《ロングショット》号の船殻をとおして、その輝きがみえる。小さな室が、上下にふたつ。下側の部屋は、緩衝席と質量探知機と、馬蹄形に配置された計器類でギッシリだし、上のほうのも、大きさは変わらない。  うしろで、クジン人ののびあがる気配がした。 「これは面白い。ルイスが下の部屋で操縦をうけもち、あとの三人は、上の部屋ということだな」 「はい。あの小さな空間に、緩衝席を三ついれるのは、たいへん困難でした。できるだけの安全をはかるため、それぞれに停滞《ステイシス》フィールドが備えてあります。停滞状態でいれば、動く余地のないことも、ほとんど問題になりません」  クジン人がフンと鼻をならし、ルイスの背から離れていった。ルイスは船を、数インチの高さから、ピタリと地上につけ、一連のスイッチを切った。 「ひとつ、要求があるんだがね」ルイスがやおら口をひらく。「ティーラとぼくは、ふたりで報酬を分けることになる。〈|獣への語り手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉は、ひとり占めだね」 「余分の要求ですか? いってください、考慮します」 「あんたたちには、もうまったく用のないもの。あんたの種族が置いていったものさ」  かけひきには絶好のタイミングだった。うまくいくとは思えないが、やってみるにこしたことはない。 「パペッティア惑星の位置を教えてくれないか」  ネサスのふたつの頭が、ピョンととびあがり、向きをかえて、たがいに見つめあった。しばらくそうしていたすえ、ネサスはたずねた。 「なぜです?」 「昔、パペッティア惑星の所在は、既知空域《ノウン・スペイス》最大の謎だったね。その秘密をもらすという恐喝をうけてひと財産支払い、その話でまた秘密の値うちがあがった。一攫千金を夢みる連中が、パペッティア惑星を求めて、G型とK型の恒星系をしらみつぶしに捜索した。今でもまだ、その情報は、どこへ売っても、大きな儲けになるはずだ」 「しかし、もしそれが、既知空域《ノウン・スペイス》の外にあったらどうでしょうか?」 「ほほう」と、ルイス。「ぼくの歴史の教師も、よくそいつを気にしてたよ。外にあるという情報だけでも、価値はあるね」 「わたしたちが最終的な目的地へ向けて出発する前には、パペッティア惑星の座標もわかりますよ」パペッティア人が、考えこみながら答えた。「その情報は、役に立つというより、あなたたちをびっくりさせるほうが大きいと思いますよ」  そしてまた、ひと呼吸ほどのあいだ、パペッティア人のふたつの目は、お互いを見つめあった。  その姿勢を解くと、ネサスはいった。 「あの四つの、円錐形につきだしたものを見てください──」 「ああ」  ルイスはすでに、その先端に孔のあいた円錐が、二層キャビンをかこむように下へつきだしているのに気づいていた。 「核融合モーターだな?」 「はい。この船は、内部重力のない点をべつにすれば、無反動のスラスター駆動の船とそっくりなのです。余分の空間のまったくないのが残念です。量子第二段階《クワンタムU・》|超空間駆動《ハイパードライヴ》について、ひとつ警告しておきたいのは──」 「これは|自 在 剣《ヴァリアブル・ソード》だ。みんな、静かにしろ」ふいに〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉の声。  その意味を理解するのに、ちょっとかかった。ルイスは、急激な動作をしないように気をつけながら、ゆっくりとうしろをふりかえった。  クジン人が、後部の壁の曲面を背にして立ち、三日月形の爪をむきだしたその片手に、縄とびの握りを大きくしたようなものをつかんでいる。その握りから十フィートほど離れて、クジン人の目の高さピッタリに、赤く光る小さな玉が浮かんでいた。玉と握りをつなぐワイヤは細すぎてみえないが、それがあることはまちがいない。スレイヴァー式停滞フィールドで剛性を与えられたそのワイヤは、たいていの金属を切断する力をもっている──ルイスの緩衝席も含めて──だから、そのうしろにかくれても、何の役にもたたない。  クジン人は、ちょうどキャビン内のどこでもひと打ちでとどく場所に位置を占めていた。クジン人の足もとに、何のものともわからぬ肉塊が落ちている。その片側に裂け目があった。むろん、内部は空洞だろう。 「こういう残酷な武器よりも、衝撃銃のほうがよかったのだが」と、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉。「調達が間に合わなかったのだ。ルイス、手を制御盤《コントロール》からはなして、椅子のうしろへ、みえるようにおけ」  ルイスは、そのとおりにした。キャビン内の重力を操ってひっくりかえすことを考えていたのだが、やろうとしたとたんに、クジン人は彼をまっぷたつにするだろう。 「さて、おとなしくしていれば、つぎの指示を与える」 「なぜそんなことをするのか、理由をいえ」  ルイスは、そういいながら、チャンスをねらっていた。あの赤い玉は、〈|話し手《スピーカー》〉に、その見えない剣の切っ先のありかを知らせるためのものである。もしあの剣先の玉を、指を切りおとされないでひっつかむことができたら──。  だめだ。玉が小さすぎる。 「理由は明らかだろうが」と、〈|話し手《スピーカー》〉。  その両眼をくまどる黒いしるしは、まさに漫画の山賊さながらだ。クジン人は、かたくなってもいないし、のんきにかまえてもいない。しかも、とびかかることのほとんど不可能な位置に立っている。 「おれの世界に、この|のるかそるか《ロングショット》号を持ち帰るためだ。この船をもとにして、何隻も同じ船をつくる。それがあれば、次回の人間との戦争では、圧倒的優位に立つことができよう。ただし、そこの男に、|のるかそるか《ロングショット》号の設計図が渡らなければな。わかったか?」  ルイスは、わざと皮肉な口調でいった。 「まさか、この探険がこわいわけじゃあるまい」 「あたりまえだ」  侮辱は空振りに終わった。クジン人が皮肉を理解するはずがあろうか? 「みんな、服を脱げ。武器のないことをたしかめるのだ。それが終わったら、パペッティア人に宇宙服を着せ、おれとふたりで、|のるかそるか《ロングショット》号へうつる。ルイスとティーラは、あとに残ることになるが、衣類と荷物と宇宙服はもっていく。この船も動かぬようにしていく。当然アウトサイダー人は、この船がなぜ地球へ帰っていかないのかと怪しんで、助けにくるだろう。船の生活システムは充分もつはずだ。すっかりのみこめたか?」  ルイス・ウーは、筋肉をゆるめながら、クジン人に何か隙でもあればとうかがっていたが……チラリとティーラ・ブラウンに走らせた視線の一隅が、おそろしい光景をとらえた。ティーラが、クジン人にとびかかろうとして身がまえていたのだ。  彼女は〈|話し手《スピーカー》〉に、まっぷたつにされてしまうだろう。何としても、ルイスのほうが、先んじなければならぬ。 「馬鹿はよせ、ルイス。ゆっくり立ちあがりて、壁のほうへ寄れ。まず、おまえからアアァ……」 〈|話し手《スピーカー》〉のことばが、途中からまるで何かの歌声のように、長く尾をひいた。  わけのわからない事態の展開に、ルイスは跳躍をひかえた。 〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉が、大きなオレンジ色の頭を、ガクンと上へ向けた。小猫のようなピイッという鳴き声。終わりは、ほとんど超音波域に達したうなり声であった。両腕を、まるで宇宙に抱きつこうとするかのように大きくひろげる。  手にした|自 在 剣《ヴァリアブル・ソード》のワイヤの刃が、一隅の水タンクを、何の抵抗もなく切りさいた。タンクの周囲全体に水があふれだす。〈|話し手《スピーカー》〉は、それに気もついていない。目も耳も、まったく働きを失っているようだ。 「武器をとりあげてください」と、ネサス。  ルイスが動いた。もし剣先がこっちへ動いたら、身を沈めるかまえで、用心ぶかく近づく。クジン人はその剣を、まるで無雑作に、ユラユラと動かしていた。握りをつかんで引くと、クジン人のこぶしは、たわいなくひらいた。根もとのボタンにふれると、ワイヤはするすると引きこまれ、赤い玉が握りの一端におさまった。 「持っていてください」と、ネサス。  彼は、〈|話し手《スピーカー》〉の腕を、あご[#「あご」に傍点]でパックリくわえると、緩衝席まで引っぱっていった。  クジン人は、何の抵抗もしない。もう、鳴き声も止んでいた。視線は無限のかなたを見つめ、毛皮に被われた大きな顔は、空虚な静けさをたたえているばかり。 「どうなったんだ? あんた、何をやった?」 〈|獣への話し手《スビーカー・トゥ・アニマルズ》〉は、グッタリと席に落ちつくと、無限遠に目をすえたまま、かすかにのどをならした。 「見ていてください」  ネサスは、そういうと、クジン人の席から用心ぶかく身を引いた。ふたつのひらたい頭を高くあげて、じっとしているが、とくに緊張した様子はなく、しかしクジン人から目を離してはいない。  突然、クジン人の目の焦点が合った。ルイスからティーラへ、そしてネサスへと視線がとぶ。〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉は、もの悲しげなうなり声をもらすと、まっすぐに身を起こし、|共 通 語《インターワールド》でしゃべりだした。 「すばらしい気分だった。おれは──」  そこで口をつぐみ、グッと身をのりだして、パペッティア人に向かっていった。 「どんな手を使ったか知らんが、もう二度とするなよ」 「思っていたとおりでした」と、ネサス。「あなたは教養人ですね。タスプ[#「タスプ」に傍点]をこわがるのは、教養のある人だけです」 「ああ」と、ティーラ。  ルイスがたずねる。 「タスプだって?」  パペッティア人は、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉に訓戒を垂れているところだった。 「止むをえなければ、何度でもタスプを使いますから、そのつもりでいてください。わたしをこわがらせたら、使います。あまり何度も、わたしに暴力をふるおうとしたり、たびたび驚かせたりすると、あなたはすぐ、タスプなしではやっていけなくなります。タスプは、外科手術でわたしの体内に埋めこまれていますから、わたしを殺さなければ手にはいりません。そうしてあなたは、下劣なタスプ中毒になるのです」 「抜けめないというか、おそろしく正道をはずれたやりかただな」と、〈|話し手《スピーカー》〉。「もう決して、おまえの手をわずらわせはせんぞ」 「カホナ! タスプって何なのか、誰も説明してくれないのかい?」  ルイスがそれを知らなかったことは、みんなを驚かせたらしい。口をひらいて答えたのは、ティーラだった。 「脳の快楽中枢を刺戟するのよ」 「離れたところからか?」  そんなことが理論的にも可能だとは、ルイスのついぞ知らぬところだった。 「そう。電流のきている電線にさわったみたいに、ピリッとくるの。でも、べつに、脳の中へ電線をさしこんだりしなくていいのよ。ふつう、タスプは、片手で使えるくらい小さいわ」 「そのタスプで、刺戟されたことがあるのか? まあ、べつにどうでもいいことだが」  そんなことを気にやむルイスの神経をあざけるように、ティーラはかすかに笑った。 「ええ、どんな感じかは知ってる。一瞬の──そうね、いいようがないわ。でも自分に使っちゃだめ。誰か、全然予想もしてない人に使うの。それが面白いのよ。警察は、よく公園なんかで、タスプ遊びをつかまえてるわ」 「あなたたちのタスプは、一秒間以下しか効きません」と、ネサス。「わたしのは、およそ十秒間刺戟がつづきます」  さてこそ、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉への影響は、甚大だったにちがいない。しかしルイスは、すでにその側面の意味に気づいていた。 「へーえ、なんてこった。すばらしいじゃないか! 敵に喜びを与える武器を持ち歩くものが、パペッティア人をおいて、ほかにあるだろうかね?」 「誇り高き教養人をおいてほかに、過度の快楽をおそれるものがあろうか? パペッティア人のやりくちは、的を射たものだ」〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉がいった。「二度とタスプに打たれるようなことはせんぞ。パペッティア人のタスプにあまり刺戟されると、おれは、やつの奴隷同様になってしまう。クジン人のおれが、菜食動物につかえるとはな!」 「|のるかそるか《ロングショット》号へ移乗しましょう」と、ネサスが、もったいぶった口調でいった。「つまらぬことで、ずいぶん時間を無駄にしてしまいましたね」  ルイスが最初に船へ向かった。  ネレイドの岩盤の表面へおり立つと、足がおよいだが、これは予期していたことであった。低重力の世界での動きは、ルイスも充分こころえている。  だが、|のるかそるか《ロングショット》号のエアロックにはいるさいに、彼の脳の深層部は、もとの重力がもどってくると思いこんでいたようだ。重力変化がなかったため、ふんばった足がたたらをふんで、彼は危うく転倒するところだった。 「重力調節は当時もあったはずなのに」  そうこぼしながら船室にはいる。 「……ほう」  原始的なつくりだった。いたるところに四角い出っ張りがあり、しょっちゅう肘や脛をぶつけそうだ。何もかも、必要以上にかさばっている。ダイアルの配置も、どうも感心しない……。  しかし、原始的というより以前に、船室はあまりにも小さかった。この船が建造された時代には、居住用の重力調節もできていたはずだが、たとえ直径が一マイルあろうとも、その装置をいれるよゆうはなかったことだろう。操縦者ひとりの部屋をとるのが、やっとだったのだ。  計器盤、質量探知機、調理機のスロット、緩衝席、その座席の背と壁との間隔は、低い天井にぶつからないよう首をまげて、人間のからだがようやくはいるくらいだ。  ルイスは、そのすきまに身をおしこむと、クジン人の|自 在 剣《ヴァリアブル・ソード》を三フィートほどぬきだした。 〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉が、スローモーションのような注意ぶかい足どりで乗りこんできた。そのままルイスの横をすりぬけ、上の部屋へあがっていく。  上の部屋は、唯一の乗員の休息室に使われたものだった。運動用の装置や読書スクリーンはとりはずされ、三つの新しい緩衝席が備えつけられている。そのひとつに〈|話し手《スピーカー》〉は腰をすえた。  そのすぐあとから、ルイスは、片手で桟をつかみながらのぼっていった。何げないふうに|自 在 剣《ヴァリアブル・ソード》を見せびらかしながら、彼はクジン人の緩衝席のカヴァーを閉じ、スイッチをいれた。  緩衝席は、鏡面でできた大きな卵と化した。ルイスが停滞フィールドのスイッチを切るまで、その中では時間が経過しない。もしこの船が、たまたま反物質の小惑星にぶつかったら、さしものゼネラル・プロダクツ製の船体も、イオンの蒸気となって四散してしまうだろうが、この緩衝席だけは、鏡面の輝きを失わないことだろう。  ルイスはようやく緊張を解いた。今までの経過がすべて儀式的な舞踊の一種だったような気がした。だが、実際は真剣そのものだったのだ。クジン人には、船を奪いとろうとするりっぱな動機がある。タスプの力も、それを失わせたとは思えない。〈|話し手《スピーカー》〉につけいる隙を与えてはならないのだ。  ルイスは、下の操縦室にもどると、宇宙服の回路を船につないだ。 「さあ、ふたりとも乗りたまえ」  それからおよそ百時間あまりの後、ルイス・ウーは太陽系を出はずれていた。 [#改ページ]      5 |薔薇飾り《ローゼット》  |超 空 間《ハイパースぺイス》を扱う数学理論には、何種類かの特異点がある。アインシュタインの宇宙では、そういった特異点が、あるていど以上の大きさをもった質量のまわりをとりかこむように現れる。その圏内から外へ出ると、船は光速以上で飛ぶことができる。内部でそれを試みたら、消滅してしまうだけだ。  いま、|のるかそるか《ロングショット》号は、太陽からの距離約八光時。太陽をとりかこむ特異圏からは、とっくに出はずれているはずだった。  ルイス・ウーは、反動モーターを切り、慣性飛行《フリー・フォール》にはいった。  睾丸がちぢみ、横隔膜がむかつき、胃から何かがこみあげてくる。だが、その気分はすぐにおさまった。奇妙なことだが、むやみと空間をとびたい衝動にかられる……。  これまでにもう何度も、地球の月の周囲をめぐるアウトバウンド・ホテルの巨大な透明球体の中で、無重力を楽しんだことはあった。しかしここでは、両腕でちょっと羽ばたいただけで、どこかに頭をぶつけてしまうだろう。  いままで、二Gの加速で、太陽から外へ向かってとびつづけてきたのだ。およそ五日のあいだ、彼はこの操縦席についたままで作業し、食事をし、かつ眠った。緩衝席のすばらしい装備にもかかわらず、彼は垢にまみれ、髭だらけになっていた。そのあいだに五十時間も睡眠をとりながら、なおかつ疲労の極に達していた。  それが自分の未来を暗示しているように思えた。今の彼にとって、探険とは不快さそのものにほかならなかった。  宇宙の深淵の眺めは、月で見る夜空と、さして変わったところはない。太陽系内でも、惑星が、肉眼での眺望にさほどプラスするわけでもない。銀河の南側にあたって、ひときわ明るく輝く星がみえる。あれが太陽だ。  ルイスは姿勢制御用のフライホイールを動かした。|のるかそるか《ロングショット》号は、ゆっくりと回転し、星ぼしが足もとの空間を横切っていく。  二十七、三百十二、一千ちょうど──ネサスが緩衝席について、ルイスがそのカヴァーを閉じる直前に渡された数字だ。パペッティア船団の位置を示すものである。  今になってルイスは、ようやくそれが、どっちのマゼラン雲の方向でもないことに気づいた。ネサスは嘘をついていたのだろうか。  しかし、とルイスは考える。それはまだ、わずか[#「わずか」に傍点]二百光年さきのことだ。しかも、銀河の軸方向にあたる。おそらくパペッティア人は、銀河系を出はずれる最短距離の方向をとり、銀河平面を見おろしながら小マゼラン雲へ向かうのだろう。そうすれば、星間宇宙に散らばる恒星、塵雲、水素濃密帯域などの障害にぶつからないですむ……。  まあ、べつにどうでもいいことだ。ルイスは両手を、これから演奏をはじめようとするピアニストのように、計器盤《パネル》の上にかざした。  そして、おろす。  |のるかそるか《ロングショット》号が、消失した。  ルイスはつとめて、透明な床から目をそらせていた。どうして壁をぜんぶ窓のように蔽いもせず残してあるのかなどといぶかることは、もうとっくにやめていた。  視野全体に盲点がひろがった眺めは、多くの人間を狂気に追いやる。だが、むろんそれに堪えられるものもある。|のるかそるか《ロングショット》号を操縦するものは、そうした人間でなければならないのだ。  彼は、質量表示機を見まもっていた。計器盤《パネル》のすぐ上にある透明球で、その中心から、いくつもの青い線がつき出ている。部屋の狭さにひきかえ、大きすぎるサイズだ。ルイスは席に身をおちつけ、その青い線を見つめつづけた。  見ているうちにそれが変化する。一本の線に目をすえると、それが球面上をゆっくりとよぎっていくのがわかった。異常であり、かつ愕然とさせる光景だ。ふつうの超空間駆動《ハイパードライヴ》のスピードなら、それらの線は、何時間たってもほとんど位置を変えはしない。  ルイスは左手を、緊急スイッチにかけた。  右側にある調理機のスロットから、奇妙な味のコーヒーが出てきた。少し経って|軽 食《ハンドミール》が出たが、それを手にとると、肉とチーズとパンと何かの野菜の層にバラバラと分かれた。自動調理機も数百年前のものだから、プログラム調整の期限が切れていて当然だろう。  質量探知機の放射状の線が、みるみる大きくなり、時計の秒針のように真上へ向くと、スウッと消えてなくなった。と見るまに、底面からぼやけた線が現れ、グングンのびてくる……ルイスは緊急スイッチを引いた。  見なれない赤色巨星が、足もとの空間まぢかにもえているのがみえた。 「速すぎる」  ルイスは、うなった。 「カホナなスピードだ!」  ふつうの船なら、質量探知機は、六時間かそこらごとにチェックすれば充分なのだ。それが、|のるかそるか《ロングショット》号の場合には、ほとんどまばたきする余裕もない!  ルイスは、その明るいが輪郭のぼやけた赤い円盤から、その周囲の星ぼしへと目を転じた。 「カホナ! もう既知空域《ノウン・スペイス》から外へとびだしちまってるじゃないか!」  ルイスは、周囲の星を眺めようと、船をグルリとまわした。異郷の星空が足もとを動いてゆく。 「やった、あれがみんなおれのものだ!」  ルイスは両手をこすり合わせて哄笑した。|休 養《サバティカル》にさいして、ルイス・ウーは、みずから楽しむすべを身につけていた。  ふたたび赤い星が正面にもどってくると、ルイスはそれを九十度横にずらせた。この星に近づきすぎているため、迂回しなければならなかったのだ。  このときまでに、もう彼は一時間半進んでいた。  三時間いったところで、彼はふたたび通常空間にドロップアウトした。  異郷の星ぼしの眺めも、べつに苦にはならなかった。地球では、都市の照明のため、星の光はほとんど消されてしまっている。そしてルイス・ウーは|平 地 人《フラットランダー》育ちだ。二十六歳になるまで、彼は星などひとつも見たことがなかったのである。  近くに天体のない安全な空間にいることをたしかめると、彼は計器盤《パネル》のカヴァーを閉じ、そしてようやくからだをのばした。 「わあ、目がゆでた玉ねぎになっちまったみたいだ」  緩衝席のネットをほどくと、彼は左の手をもみほぐしながら、宙にただよい出た。三時間のあいだ、彼はその手で超空間駆動《ハイパードライヴ》のスイッチを握りしめつづけていたのである。肘から指先までが、一様にひきつっている。  天井に、整体運動のための環がついていた。それを使って体操すると、ようやく筋肉の痙攣はとれたが、疲れはまだ残っていた。  そうだ、ティーラを起こそうか? いま彼女と話でもしたら、いい気分だろうな。いや、これはいい思いつきだ。  このつぎ|休 養《サバティカル》に出るときは、女をひとり停滞フィールドにいれて持って[#「持って」に傍点]いこう。地球と宇宙のいちばんいいところをひとつに合わせるわけだ。しかし、いまの彼は、まさに墓地から洪水で流れだしてきたような姿である。まともにあいさつできるような気分でもなかった。まあ、しかたがない。  そもそも彼女を、|のるかそるか《ロングショット》号に、のせるべきではなかったのだ。  彼自身の都合でそうしたわけでもない! 彼女が泊まってくれたあの二日間、彼はじつに楽しかった。さながら、ルイス・ウーとポーラ・チェレンコフの恋物語が、ハッピーエンドに書きなおされたようなものだった。いや、おそらくそれ以上だったろう。  もっともティーラには、何かもうひとつ深みが感じられない。年齢のせいだけだとは思えない。ルイスの交遊は、あらゆる年齢層にわたっているが、その中のいちばん若い連中の中にも、ずっと奥行きをもったものがいる。いうまでもないが、大きな苦悩を味わったことのある人びとだ。傷つくことが、学ぶことの重大な要素であるかのようにみえる。いや、たぶん実際にそうなのだろう。  たしかに、ティーラには、感情移入能力に欠けるところがある。他人の苦痛を感じとる能力の欠如といえるかもしれない……。  だが、その彼女も、他人の喜びを感じ、それに応えることはできるし、また喜びをつくりだすすべをも心得ている。愛のパートナーとしては最高だ。いたいたしいほど美しく、わざとらしい技巧もなく、猫のように敏感で、しかもびっくりするほど無防備だ……。  まったく、どれひとつとして、探険家に向いたところはない。  ティーラのこれまでの人生は、幸福と倦怠そのものだったことだろう。二度恋に落ち、二度とも自分からそれに飽きている。猛烈な緊張を強いられる状況におかれたこともなければ、事実上怪我をしたこともない。もし、正真正銘の緊急事態に、はじめて身をさらすときがきたら、彼女はたぶんパニックにおちいるだろう。 「しかし、ぼくは愛人として、彼女をつれて来ちまった」と、彼はひとりごちた。「あの、ネサスのやつめ!」  もしティーラがこれまで、緊張を強いられるような状態におちいったことがあったら、ネサスはそれを不運の徴侯として、彼女を候補からはずしていたはずなのだ!  彼女をつれてきたのは、まちがいだった。足手まといになるだけだ。彼女の身を守ることに時間をとられて、自分が危険におちいる羽目になるかもしれない。  どんな危険が、一行を待ちうけているのだろうか?  パペッティア人は、優秀な実業家だ。よけいな出費などするわけがない。|のるかそるか《ロングショット》号は、報酬として、これまでおよそきいたこともないほどの価値をもっている。それが手にはいると思うだけで、背筋が寒くなるくらいである。 「きょうはもうたくさんだ」  ルイスは、自分にいいきかせると、緩衝席にもどり、簡易睡眠セットを頭につけて眠った。目がさめると、また船を目標に合わせ、れいの盲点空間へとつっこんだ。  太陽から五時間半行程のところで、彼はまた通常空間にもどった。  パペッティア人のくれた座標は、太陽の位置からみた天球上の小さな長方形の区域と、その方向への半径距離を与えている。この距離だと、その座標の精度は、一辺約半光年の立方体を決定することになる。その空間内のどこかに、たぶん船団がいるのだろう。そして、もし計器類に狂いがなければ、|のるかそるか《ロングショット》号も、その内部に到着しているはずだ。  そしてどこか後方には、直径七十光年くらいの、恒星の集落があるはずなのだ。既知空域《ノウン・スペイス》、それは、今やはるか彼方の存在だった。  ここで船団をさがす手はない。何を目標としたらいいのかもわからないのだ。ルイスは、ネサスを起こしにいった。  体操用の環を歯にくわえて、からだを固定しながら、ネサスはルイスの肩ごしにのぞきこんだ。 「参照用に、いくつかの星が要るのです。あの青色巨星を中心として、望遠スクリーンで投影してください……」  操縦室は、ふたりでもうギュウ詰めだ。ルイスは、計器盤《パネル》にかがみこむようにして、パペッティア人の蹄がボタンのどれかに触れないよう気をくばっていた。 「分光計を……はい、そうです。二時の方向に、青と黄の連星がありますね……。それで方角がわかります。三四八・七二へ向けてください」 「実際のところ、何をさがせばいいんだ、ネサス? 核融合の炎の群れか? いや、あんたたちは、スラスター駆動を使ってるはずだな」 「望遠スクリーンを使ってください。ひと目みれば、それとわかります」  スクリーン上には、名も知れぬ星ぼしがきらめいている。ルイスは、倍率をあげていった。すると……。 「正五角形をなした点がみえる。あれか?」 「それが目的地です」 「よし、距離をはかってみよう。──カホナ! まちがいだ、ネサス。遠すぎるぜ」  答えはない。 「だいたい、あれは船じゃないよ。距離計が狂ってたにしでもだ。パペッティア船団は、光速すれすれの速さでとんでいるんだ。ここからでも、動きがみえるはずだよ」  正五角形をなす五つのかすかな星。距離は約五分の一光年で、肉眼ではまったく見えない。スクリーンの倍率から推して、大きな惑星といったところだろう。ひとつだけ、ほかのよりも青味がうすく微かなのがある。  ケンプラーの|ばら飾り《ローゼット》だ。  何という奇妙な眺めだ。  三つかそれ以上の等しい質量の物体をとる。それらを、等辺多角形の頂点にくるよう配置し、質量の中心に対して等しい角速度を与えたとする。  そうすると、この多角形は、安定した平衡をたもつのだ。各質点の軌道は、円でも楕円でもいい。その中心に、もうひとつ質量があってもいいし、そこが何もない空間であってもいい。それは問題ではない。多角形のかたちは、トロヤ三角点の場合と同じく安定なのである。  この対比の難点は、トロヤ点の場合、物体がたやすくそこにとらえられる過程が、いくつも考えられることだ(木星軌道上にあるトロヤ群小惑星のことを考えてほしい)。しかし、五つの物体が、たまたまケンプラーの|ばら飾り《ローゼット》のかたちになって、安定するということは、万にひとつもありえないだろう。 「すごい」  ルイスは、うなった。 「それにユニークだ。まだ、ケンプラーの|ばら飾り《ローゼット》を、実際に見たものは、ひとりもいない……」  そのことばは、途中でフッととぎれた。  この星間宇宙で、あの小天体を、何が照らしているというのか? 「おい、まさか」と、ルイス・ウー。「とてもじゃないが、信じられん。いくら何でも、そんな馬鹿な!」 「何が信じられないというのです?」 「そんなカホなことが、信じられると思うのか?」 「どうぞご勝手に。あれがわたしたちの目ざしていたものです。この場所までくれば、船が迎えにきて、速度を合わせてくれます」  出迎えの船は、三号船殻だった。両端のまるくなった扁平な円筒形で、どぎついまでのピンク色に塗られ、窓はない。エンジンの開口部もなかった。無反動エンジンにちがいない。人間の使っているスラスター駆動か、あるいはもっと進歩した何かだろう。  ネサスの指示で、ルイスはいっさいを先方の船にまかせていた。核融合推進の|のるかそるか《ロングショット》号では、あのパペッティアの〈船団〉の速度に合わせるのに、何ヵ月もかかっていたことだろう。パペッティア船は、その調整を一時間もたたないうちにやってのけて、|のるかそるか《ロングショット》号のすぐそばに実体化し、いまやそこから連絡チューブが、ガラスの蛇のように、|のるかそるか《ロングショット》号のエアロックを、とらえようとしているところだった。  移乗がまた難問だった。一度に全員を停滞フィールドから出すだけの広さの余裕がない。何より重要なのは、〈|話し手《スピーカー》〉にとって、これが船を乗っとる最後のチャンスになるということだ。 「ルイス、彼は、わたしのタスプでいうことをきくと思いますか?」 「いや。船を盗むためなら、もう一度くらい危険をおかすと思うね。しかし、こうやっておけば……」  ふたりは、|のるかそるか《ロングショット》号の核融合モーターから、計器盤《パネル》をとりはずした。クジン人の手でも、時間と、ちょっとした機械工なみの腕があれば、なおせないというほどのものではない。だが、時間さえ与えないようにすればいいのだ……。  パペッティア人が、チューブをくぐっていくのを、ルイスは見送った。ネサスは、〈|話し手《スピーカー》〉の宇宙服をもち去っていった。透明なチューブの中を渡っていきながら、彼は目をつぶっていた。  惜しい話だ。  というのは、周囲の宇宙が、いまやすばらしい景観を呈しはじめていたからである。 「慣性飛行中なのね。あんまり気分がよくないみたい」緩衝席のカヴァーがはずされると、ティーラはつぶやいた。「つれてって、ルイス。どうなってるの? もう着いたの?」  彼女をエアロックまでつれていきながら、ルイスはだいたいの経過を話してきかせた。彼女は一応耳をかたむけていたが、むしろ胃の腑のほうに気をとられているふうだった。不快感がひどいらしい。 「あっちの船へいけば、重力があるはずだよ」と、ルイスは彼女にいった。  その指さすところへ顔を向けた彼女は、小さな|ばら飾り《ローゼット》のかたちを目にとめた。すでに肉眼でもみえはじめている。五角形に並ぶ、白い五つの星だ。驚いてふりかえった反動で、彼女のからだは半回転した。その表情の変化を、ルイスは、彼女がエアロックにしめこまれる直前にみとめた。  ケンプラーの|ばら飾り《ローゼット》はすばらしい。だが、無重力酔いはまた別の問題だ。その奇妙な星に向かって、チューブの中を進んでいく彼女を、ルイスはじっと見まもっていた。  最後の緩衝席のカヴァーをひらきながら、ルイスはいった。 「ぼくを驚かすようなまねをするなよ。こっちには武器があるからな」  クジン人のオレンジ色の顔は、表情も変えなかった。 「到着したのか?」 「ああ。核融合の機構は、はずしてある。つなごうとしても間にあわないぜ。でっかいルビー・レーザーが二挺、こっちをねらってるからな」 「じゃ、超空間駆動《ハイパードライヴ》で逃げたらどうする? いや、いかんな。ここは特異圏の内部だろうから」 「聞いておどろくなよ。ここには、五つの特異圏がかさなってるんだ」 「五つだと? 本当か? しかし、レーザーの件は嘘だな、ルイス。恥を知れ」  だが、ともかくクジン人は、穏やかに座席を離れた。ルイスが|自 在 剣《ヴァリアブル・ソード》をかまえて、あとにつづく。エアロックのところで、クジン人は突然、グングンひろがりつつある星の五角形に気づいて、動きをとめた。  これ以上は望めないほどの景観だった。  |のるかそるか《ロングショット》号は、超空間駆動《ハイバードライヴ》から出たとき、パペッティアの〈船団〉から半光時ほど前方に着いていたのである。これは地球と木星の距離よりも近いくらいだ。しかし、〈船団〉が、光のすぐあとから追ってくるてい[#「てい」に傍点]の猛烈な速度で飛んでいるせいで、|のるかそるか《ロングショット》号にとどく光は、もっとはるか遠くで出たものだったのである。  船が停止したとき、|ばら飾り《ローゼット》は、まだ目にみえないほど小さかった。ティーラがエアロックをくぐったとき、それはもう肉眼でもはっきりとみえた。それがいまや、圧倒的な大きさになり、さらにおそるべき速さで拡大しつつある。  空に五角形をなしてちらばる青白い五つの光点が、さらにひろがって……。  一瞬、五個の惑星が、|のるかそるか《ロングショット》号をとりかこんだ。そして、消えた。遠ざかるのではなく、消えたのだ。後退するスピードのために、光の波長が、赤外領域へずれてしまったのである。  気がついたとき、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉の手に、|自 在 剣《ヴァリアブル・ソード》があった。 「こん畜生!」  ルイスが怒鳴った。 「きさまには、好奇心ってものがないのか?」  クジン人は、ちょっと考えてから、ワイヤの刃を握りにおさめ、それをルイスに手渡した。 「おれにも好奇心はある。だが、プライドのほうが強いのだ。脅しは挑戦と同じだからな。それでは、いくとするかね?」  パペッティア船は、自動操縦だった。エアロックの向こうの生活システムは、大きな一室になっていた。メンバー四人の体形に合わせてそれぞれちがった四つの緩衝席が、サービス用のキャビネットをかこんで向かい合わせに並んでいた。  窓はひとつもない。  重力があるので、ルイスはホッとした。しかしそれは地球の重力と同じではなく、空気も、かなりちがった感じだった。気圧はいくらか高めだ。奇妙な匂いがしたが、不愉快というほどではない。オゾンと、炭化水素と、パペッティア人の──それも大ぜいの──匂いのほか、何か見当もつかない臭気もまじっているようだ。  この部屋には、角《かど》といえるものがいっさいなかった。壁は曲面をなして、天井や床につながり、緩衝席や中央のキャビネットも、半分床にとけこんだような形である。パペッティア人の世界には、堅いもの、鋭いもの、流血や打撲の原因になるようなものは、まったく何もないのだ。  ネサスが、クニャリと自分の席にすわった。彼は、ふしぎなほど、そしておかしいくらいくつろいでいるようにみえた。 「何も教えてくれないのよ」  ティーラが笑っている。 「もちろんです」と、パペッティア人。「あなたたちがそろってから、話せばいいのですから。もちろん、あなたたちが気にしているのは──」 「あの飛んでいった惑星だ」クジン人が口をはさんだ。 「それから、ケンプラーの|ばら飾り《ローゼット》の由来だ」と、ルイス。  かすかなハム音で、船がもう動いていることがわかる。彼と〈|話し手《スピーカー》〉は、荷物をしまいこむと、席におちついた。ティーラが、押しだしチューブにはいった赤い果実らしい飲みものを、ルイスに手渡した。 「到着までにどのくらいかかる?」ルイスがパペッティア人にたずねる。 「上陸できるまでに一時間です。それから、最終目的地のことを聞かされるでしょう」 「じゃ、時間は充分だな。よし、話してくれ。なぜあんな惑星をとばせてるんだ? 住民のいる惑星を、ああ派手にすっとばせるなんて、安全とは思えないがね」 「安全なのですよ、ルイス」パペッティア人は、おそろしく熱意をこめていった。「例えば、この船よりもずっと安全です。この船にしても、人間の設計したたいていの船よりは安全ですが。惑星を動かすことにかけては、充分練習を積んでいましたし」 「練習だって? そんな馬鹿な!」 「この点を説明するには、まず熱について話さなければなりません……それと、人口の抑制についてもです。それを話題にして、困る人や怒る人はいませんね?」  三人とも異議はなかった。ルイスは笑いをかみころしていたが、ティーラは笑いだしていた。 「まず知っておいてほしいのは、わたしたちの場合、産児制限がたいへんむずかしいということです。子供をつくらないようにするには、ふたつの方法しかありません。ひとつは大手術です。もうひとつは、性交渉をいっさい断つことです」  ティーラは愕然としたらしい。 「だって、そんなひどい[#「ひどい」に傍点]こと!」 「まことに困ったことです。しかし誤解しないでください。外科手術をすれば、性交渉をしてもいいというのではありません。性交渉を不可能にする手術なのです。いまでは、その手術は、もとへもどせますが、以前はそれも不可能でした。すすんでそういう手術をうけようとするものは、めったにいません」  ルイスは、ヒュウと口笛をならした。 「そうだろうとも。そうすると、あんたの種族の人口抑制は、意志力によるほかないことになるな?」 「はい。わたしたちにとっても、ほかの種族と同様、禁欲は不愉快な副作用を生じます。その結果が、ずっと昔から、人口過剰を起こしてきました。いまから五十万年前、わたしたちの人口は、人間のかぞえかたで約五千倍でした。クジン人のかぞえかたでは──」 「計算は、おれの得意だ」と、クジン人。「しかし、その間題と、あのおかしな〈船団〉とに、関係があるとは思えんぞ」  そのことを気にやんでいるふうでもなく、淡々といいながら、〈|話し手《スピーカー》〉は前のキャビネットから、クジンふうの持ち手のついた半ガロンもはいりそうな容器をとりだしていた。 「それが関係あるのです、〈|話し手《スビーカー》〉。五千億の人口をかかえた高度の文明は、その文明の副産物として、多量の熱を出します」 「そんなに昔から、文明化していたのか?」 「当然です。未開な文化が、それだけの人口を支えていけると思いますか? ずっと昔に、農地が足りなくなって、星系内のふたつの惑星を農業向けに改造しなくてはなりまませんでした。このためには、そのふたつの惑星を、もっと太陽の近くへ移すことが必要でした。わかりましたか?」 「はじめてそいつをやってのけたときにも、やはりもちろん自動操縦の船を使ったんだろうな」 「もちろんです。……それ以後、食糧の問題はなくなりました。居住スペイスも問題ではありません。そのころすでに、高層建築があり、しかもみんないっしょに住むことが好きでしたから」 「群居本能だな、まちがいあるまい。それでこの船も、パペッティア人の群れみたいな匂いがするわけかい?」 「はい。自分の種族の匂いがあると、気が休まるのですよ、ルイス。そこで、当時のわたしたちにとって、唯一無二の問題は、熱でした」 「熱?」 「熱は、文化の廃棄物として出てきます」 「どうもわからんぞ」と、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉。  |平 地 人《フラットランダー》としてその間題を知悉しているルイスが、説明を買って出た(地球は、クジン人の惑星よりずっとこみあっていたのだ)。 「例えばだが、きみらも、夜には照明がほしいと思うだろう、〈|話し手《スビーカー》〉? 光源がなければ眠るほかない。もっといろいろ仕事があってもだ」 「あたりまえの話だな」 「そこで、その光源が、完全な、いいかえると、クジン人の可視範囲のスペクトルだけを出すものとしよう。その場合でも、窓から外へ逃げださなかった光は、壁や家具に吸収される。そこで粒子の運動はランダムになり、熱に変わる。  べつの例をあげよう。地球が、自然の状態で産出する真水は、百八十億の人口にはとても足りない。塩水を核融合で蒸溜しなければならん。ここでも熱が出る。しかし地球が現在よりももっとこみあってきたら、蒸溜工場がなければ一日で死滅してしまうことになるだろう。  もうひとつの例として輸送機械は、速度の変化のたびに熱を発生する。農業地域から穀物を満載してくる宇宙船は、再突入のさいに出た熱を大気中にばらまく。出航のときには、それ以上の熱を放出する」 「しかし、冷却装置が──」 「冷却装置の大部分は、周囲へ熱を汲みだすだけだし、その出力で余分の熱を発生する」 「う、ウーン。わかりかけてきたぞ。パペッティア人の人口がふえるにつれて、熱の出かたもふえるわけだな」 「それで、文明の発生する熱のために、わたしたちの惑星が住めなくなってきたことも、わかりますね?」  スモッグだ、とルイス・ウーは思う。──内燃機関。大気圏内の核爆発や、核融合ロケット。湖や海に投棄される産業廃棄物。われわれは、自分たちの出した廃棄物で、何度となく半殺しのめにあってきた。  産児制限法がなかったら、地球は今ごろ自らの廃棄熱に埋もれて死滅しかけていたことだろう──。 「信じられん」と、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉。「どうして、宇宙へ出ないのだ?」 「死の危険がいっぱいの宇宙に、誰が生命を賭けようとするでしょうか? わたしのようなのがいるだけです。そして、わたしのように気のふれたものが、いろいろな惑星に植民してやっていけるでしょうか?」 「凍結した受精卵を船にのせ、気のふれた連中が操縦すればいいのだ」 「セックスについて議論をすると、どうも気分がわるくなります。わたしたち種族の生理は、そういう方法には適しませんが、似たようなやりかたで発展することはできたでしょう……しかし、何のために? それで人口が減るわけではありませんし、やはりわたしたちの世界は、自分の廃棄熱のために死にかけていたことでしょう!」  唐突に、ティーラがいいだした。 「外が見たいわ」  パペッティア人は、びっくりしたようだった。 「本気ですか? 墜落の恐怖がないのですか?」 「パペッティア人の船で?」 「そ──そうですね。たしかに、外を見たところで、危険が増すわけではありません。よろしい」  ネサスが、その種族の音楽のようなことばで何かいった。とたんに、船が消失した。  おたがいの姿は見えた。四つの緩衝席と、中央のサービス用キャビネットも見える。が、それ以外のすべては、暗黒の空間と化した。そして、ティーラの暗色の髪の彼方に、あの五つの惑星が白い光輝を放っていた。  五つとも等しい大きさだ。角直径で、地球から見る月の二倍くらいだろう。みごとな五稜星をかたちづくっている。そのうちの四つは、小さなギラギラ光る点を、グルリとまわりにめぐらせていた。人工的な黄白色の陽光を発する人工太陽である。その四つは、明るさも外観も、よく似ていた。いずれもぼんやりした青っぽい球体で、その距離では、大陸の輪郭まではわからない。しかし、第五のは……。  第五の天体には、周囲をめぐる光点がなかった。大陸のかたちを示す部分が、みずから太陽のような白光を放っている。その部分のあいだには、周囲の空間の暗黒と競うほどの黒色がある。そこにも星のようなきらめきがいっぱいだった。あたかも空間の闇が、輝く陸地を蚕食しているかのようだ。 「こんなきれいなの、見たことない」涙ぐんだ声でティーラがいった。  数多くのものを見てきているルイスも、それに同意したい気持であった。 「信じられん」と、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉。「本当のこととは思えんぞ。自分の惑星をいくつも、そっくりもってくるとはな」 「パペッティア人は、宇宙船のたぐいを信頼しないんだ」ルイスが、呆けたようにつぶやいた。  もしこれを見そこなっていたらと思うと、心の奥をつめたいものが走った。パペッティア人が、彼ではなくほかの誰かを選んでいたら、一生このパペッティアの|ばら飾り《ローゼット》を見るチャンスはなかったのだ……。 「しかし、どうやって?」 「いま説明したように、わたしたちの文明は、みずからの廃棄熱の中で死にかけていました。エネルギーの完全転換法の開発によって、あらゆる廃棄物質の処理はできましたが、熱だけはどうにもなりません。わたしたちは、自分の惑星を、主星から遠ざけるほかありませんでした」 「危険なことはなかったのかい?」 「たいへん危険でした。まったく狂気の沙汰で、そのため、この事業の行なわれた年は、歴史上でも有名です。しかしわたしたちは、アウトサイダー人から、無反動・無慣性駆動法を購入してありました。その値段は想像できるでしょう。わたしたちは、いまだにその割賦を払いつづけているのです。アウトサイダー人の駆動法で、すでにわたしたちは、ふたつの農業用惑星を動かしており、その前には、同じ星系内の役に立たない惑星を使って実験もしました。  ともかく、わたしたちは、やりとげました。自分の住む惑星を動かしたのです。  その後、わたしたちの総数は、まる一兆に達しました。自然日照が不足なため、日中でも街路を照明しなければならず、それも余分の熱を出しました。わたしたちの太陽は、もう無用の長物でした。  かいつまんでいえば、わたしたちはもはや太陽を、資産というより重荷に感じはじめていたのです。わたしたちは自分の惑星を、十分の一光年の距離にまで離し、主星は単なるおもし[#「おもし」に傍点]ということになりました。農業用の惑星が必要なので、居住惑星を宇宙へさまよいださせてしまうのは危険でした。そのことがなければ、わたしたちにはもう太陽などまったく必要がなかったのです」 「だから誰も、パペッティア人の惑星を発見できなかったのか」と、ルイス・ウー。 「それは、理由の一部にすぎません」 「ぼくは、既知空域《ノウン・スペイス》内の、あらゆる黄色矮星を捜索したし、その外へも探しに出た。まってくれ、ネサス。誰かひとりくらい、農業用惑星を見つけたものがいていいはずだ。あの、ケンプラーの|ばら飾り《ローゼット》のようなね」 「ルイス。彼らは、目標を誤っていたのですよ」 「何だと? あんたたちは、どう見たって、黄色矮星系の出だぜ」 「わたしたちが進化したのは、プロキオンのような黄色矮星のもとでした。あの星が、あと約五十万年で、赤色巨星段階にかかることは知っていますね?」 「な、何てこった! あんたの太陽は、赤色巨星になっちまってたのか?」 「はい。わたしたちの惑星移動が終わったあと間もなく、その太陽は膨張の過程にはいりました。あなたたちの先祖が、|羚 羊《アンテロープ》の大腿骨を、ふりまわしはじめたころのことです。あなたたちが、わたしたちの惑星の所在を気にしはじめたとき、その捜索は、見当ちがいの星系に向けられていたのです。  わたしたちは、近くの星系から、適当な惑星を動かしてきて、農業用の惑星を四つにふやし、それをケンプラーの|ばら飾り《ローゼット》のかたちに配置しました。太陽が膨張をはじめたときには、全部を一度により遠くへ移動させ、同時に、赤みがかかったその放射を補うための紫外線源をつけてやることが必要でした。  二百年前、銀河系から撤退しなければならなくなったとき、わたしたちは、もうりっぱに準備ができていたわけです。惑星を動かす練習も積んでいました」  五つの惑星のつくる|ばら飾り《ローゼット》は、さらにひろがりつづけた。いまやパペッティア人の世界が、足もとで光り輝いている。その表面が、船をつつみこむように、グングンひろがってきた。黒い海にちらばる星も形をなしはじめ、それが何十もの島であることがわかった。大陸は、まるで太陽の炎のようにもえていた。  ずっと昔、ルイス・ウーは、マウント・ルッキットザットの無の深淵の縁にたたずんだことがある。この世界のロングフォール河が、そこで、既知空域《ノウン・スペイス》内における最長の滝となって終わっていた。ルイスの目は、はるか下方の虚無を蔽う霧をとおして、それが落ちていくのを追った。虚無の、形のない白さそのものが、彼の心をギュッとつかみ、そしてルイス・ウーは、なかば催眠状態の中で、これから永遠に生きようと心に誓ったのだった。こういう見ものをすべて見つくそうとしたら、そうする以外に、どのような方法がありえようか?  そして今、彼はそのときの決心を、ふたたび新たにしたのだった。加うるに、パペッティア人の世界が、目の前にひらけようとしているのだ。 「ゾッとするような話だな」と、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉。  毛皮に被われた顔と、のどにこもるような声には、何の感情も現れていないが、毛のないピンク色の尾は、内心の興奮を示してはげしくゆれ動いている。 「ネサス、われわれは、おまえたち種族の度胸のなさを軽蔑していたが、その軽蔑のせいで、大事なことに目がくらんでいたようだ。まったくおまえたちは、危険な存在だな。おまえたちが、われわれに本当の脅威を感じていたら、われわれは根絶やしにされていたことだろう。おそるべき実力だ。おまえたちに攻撃されたら、ひとたまりもなかったはずだ」 「まさか、クジン人が、菜食生物をおそれるはずはないでしょうに」  ネサスに、冷やかしのつもりはなかったろう。だが、〈|話し手《スピーカー》〉はそれに対して、腹を立てた。 「およそ知性ある存在が、あれほどの実力に恐怖を感じないと思うのか?」 「困りましたね。恐怖は憎悪と紙一重です。クジン人は、恐怖を感じる相手を攻撃するのだというものもいますよ」  会話にこだわりが出はじめていた。|のるかそるか《ロングショット》号を数百万マイルの後方に、そして既知空域《ノウン・スペイス》を数百光年の彼方に残して、一行はもう、パペッティア人の手のうちに、すっかりはまりこんでいる。もしパペッティア人が、ここの三人に脅威を感じる根拠をつかんだとしたら──。  早く話題を変えなくては[#「早く話題を変えなくては」に傍点]!  ルイスは、口をひらこうとした──。 「ねえ」  いいだしたのは、ティーラだった。 「さっきから、みんな、ケンプラーの|ばら飾り《ローゼット》の話ばっかり。ケンプラーの|ばら飾り《ローゼット》って、いったいなあに?」  ふたりの異星人が、先をあらそうように答えはじめるのを見て、ルイスは、いったい自分はどうしてティーラのことを底の浅い女だなどと思っていたのかと、いぶかしく感じた。 [#改ページ]      6 クリスマス・リボン 「お笑いだったな」ルイス・ウーがいった。「これで、パペッティア人の惑星の所在もわかったしね。結構だよ、ネサス。あんたは約束を守ったわけだ」 「だから、その情報は、役に立つというよりびっくりする効果のほうが大きいといったのです」 「みごとな冗談だ」と、クジン人。「おまえのユーモア感覚には驚くぞ、ネサス」  眼下には、うなぎのような形の小さな島が、黒い海にとりまかれていた。さらに近づくと、その島はさながら|火 龍《サラマンダー》のようにみえ、ひょろ長い摩天楼が、いくつか目にとまった。信用のおけない外来者を、主大陸のほうへ迎えいれる気にはなれないらしい。 「冗談などではありません」と、ネサス。「わたしたちの種族には、ユーモア感覚というものがないのです」 「ふしぎだな。ユーモアは、知性のしるしだと思っていたが」 「いいえ。ユーモアは、防衛機能の作用の障害にともなって生じるものです」 「結局同じことでは──」 「いいえ。知性ある存在は、防衛機能に障害をおこしたりはしません」  船が下降するにつれ、まぶしい光の正体が見わけられるようになった。道路沿いに並ぶ昼光パネル、建物の窓、公園のような空地にある光源などである。最後に、まるで細身の剣のように、数マイルも上空へのびたビル群が、チラリと見えたと思うと、船はもうそのただ中にのみこまれ、やがて着地した。  そこは、色とりどりの異星の植物が咲きみだれる公園の中だった。  誰も、動こうとしなかった。  パペッティア人は、既知空間《ノウン・スペイス》の中では、二番めに無害な知性種族と思われていた。ひどく臆病で、小さく奇妙な体形のため、危険だなどとはとても思えなかったのだ。その存在は、むしろ滑稽さをさそうだけのものだった。  しかし今、ネサスの属するその一族は、人間が夢想だにしなかったほど強力であることがわかったのだ。気のふれたパペッティア人は、静かにすわったまま、頭を昂然とのばして、みずから選んで連れてきた三人の隊員を見おろした。今のネサスには、滑稽なところなど、みじんもない。彼の種族は、惑星を、それも一度に五つも動かしたのだ。  だから、ティーラのクスクス笑いは、一同にとってショックだった。 「考えてみたのよ」と、彼女は説明した。「パペッティア人の子供をあまりふやさないためには、セックスしないでいるより方法がないのね。そうなの、ネサス?」 「はい」  彼女はまた笑いだした。 「パペッティア人にユーモア感覚がないのも無理ないわね」  おそろしくととのった、きちんと対称形につくられた公園を横切って、一同は、宙に浮かぶ青い光体のあとについていった。  空気中には、香辛料と化学薬品をまぜたようなパペッティア人の匂いが立ちこめていた。どこへいっても同じ匂いだ。あの輸送船の生命維持システムの中の匂いは、人工的に強めてあったのだろう。エアロックがひらいたあとも、その匂いはうすれることがなかった。一兆のパペッティア人が、大気中に匂いを放散しており、今後も、永遠に、この匂いが消え去ることはないだろう。  ネサスの足どりは、まるで踊っているようだ。小さな曲がった蹄は、弾力のある地面に軽く触れているにすぎない。クジン人は、猫に似たすべるような歩きぶりで、毛のないピンクの尾が、リズミカルに前後にはねる。パペッティア人の足音は、まるで四分の三拍子のタップ・ダンスだ。クジン人は、そよとの音も立てずに歩いている。  ティーラの歩みも、ほとんど音をたてない。いつも何となく不器用な歩きぶりにみえるが、そうではなかった。彼女はけっしてよろけたり、つまずいたりすることがないのである。結局、ルイスが、四人のうちでは、いちばん優雅さからほど遠かった。  しかし、ルイス・ウーに、優雅さを期待する根拠があるだろうか?  猿からの長い進化も、しょせん平地上の歩行に完全に適応するまでには至っていないのだ。数百万年にわたって、彼の祖先は、必要があれば四つ足で歩き、樹木のあるところではそれを利用してきたのである。  鮮新世にそれは終わりを告げ、数百万年にわたる旱魃の時代がつづいた。森林は、ルイス・ウーの祖先を置き去りにして、高く伸び、乾燥して食用にならなくなった。絶望的な環境の中で、彼らは肉食に転じた。|羚 羊《アンテロープ》の大腿骨の使いかたを学んで以後、状況は好転し、その二重こぶのある肩関節で打ちくだかれた痕が、無数の頭蓋骨の化石に発見されることとなった。  現在いまだに退化した指をそなえている二本の足で、ルイス・ウーとティーラ・ブラウンは、異星人とともに歩んでいく。  異星人《エイリアン》だって?  彼らは、すべてここでは外来者《エイリアン》なのではなかったか。気のふれたものとして外地にとどまっていた、茶色いモジャモジャのたてがみと休みなく周囲を見まわす頭をもったネサスも、条件は同じである。〈|話し手《スピーカー》〉もまた、不安げな様子だった。黒いみごとなくまどり[#「くまどり」に傍点]のあるその両眼は、周囲の茂みに毒針や鋭い歯をもった何かがひそんでいないかと、たえず見まわしている。むろん本能的な動作にすぎない。パペッティア人の公園に、危険な生物などいるはずがないからだ。  一行は、巨大な真珠を半分地面に埋めたような、光り輝くドームの前へ出た。そこで、宙に浮かぶ光は、ふたつに分かれた。 「ここで、別れなければなりません」と、ネサス。  その彼が、何かにおびえあがっていることに、ルイスは気づいた。 「〈指導する人びと〉の前に出るのです」  低く、緊迫した口調だ。 「〈|話し手《スピーカー》〉、いますぐ答えてください。もしわたしがもどってこなかったら、あのクルシェンコの店でわたしの与えた侮辱に報復するため、わたしをさがしだして殺そうとしますか?」 「もどってこられない可能性があるというのか?」 「いくらかあります。〈指導する人びと〉は、わたしのいうことが気にいらないかもしれません。くりかえしますが、わたしをさがして殺そうとしますか?」 「この異境で、しかもおそるべき力と、クジン人の平和性への不信とを、併せもった連中のただ中でか?」  クジン人の尾が、強調するように大きくゆれた。 「そういうことはせんぞ。しかし、この探険を続けようとも思わんが」 「それで結構です」  ネサスは、まだ目にみえてからだをふるわせながら、青い誘導光のあとを追って駆け去った。 「何をこわがってるのかしら?」ティーラがつぶやいた。「彼は、命令どおりに、ちゃんとやったじゃないの。なぜ、おこられるわけがあるの?」 「何か企ててるみたいだな」と、ルイス。「何か不相応なことを。しかし、何だろう?」  青い光点が、つと前へ進んだ。そのあとに従って、三人は、真珠色の光を放つ半球体の中へと……。  その半球形のドームは、もう、どこにも見えない。  三角形にならんだソファーで、地球人ふたりとクジン人は、周囲にひろがるすばらしい異星植物の森の中から、ひとりのパペッティア人がこっちへやってくるのを眺めていた。ドームが、内側からは透明なのか、それとも、この公園の眺めそのものが、投影なのかもしれない。  空気には、相変わらず大ぜいのパペッティア人の匂い。  ネサスではなく、べつのパペッティア人だ。それ[#「それ」に傍点]が、ヒョイと首をさげて、手前に垂れさがった赤い蔓の下をくぐりぬけた(ネサスに対しても、以前のルイスは「それ」という代名詞でとらえていた。ネサスが「かれ」に昇格したのは、いつだったろう? 〈|話し手《スピーカー》〉のほうは、異星人でも人間に近いせいか、はじめから「かれ」と考えていたのだが)。  近づいてきたパペッティア人は、あの真珠色ドームの境界とおぼしいあたりで、歩みをとめた。ネサスのたてがみは褐色だったが、それのは銀色で、リングをつらねたような複雑なかたちに、みごとに結いあげられている。しかしその声は、ネサスと同じく、ふるいつきたくなるようなコントラルトだった。 「お迎えに出られなくてすみません。わたしの名は、キロンと呼んでください」  とすると、やっぱり投影だったわけだ。ルイスとティーラは、口のなかでつつましく悪態をついた。〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉が、歯をむきだした。 「これからお話しすることは、あなたたちがネサスと呼ぶあのものも知っていることですが、彼はほかの場所に用があってこられません。しかし彼は、わたしたちの工学技術を知ったときのあなたたちの反応ぶりを、話してくれました」  ルイスは、たじろいだ。パペッティア人はつづける。 「これは幸いなことでした。わたしたちが、さらに進んだ工学技術の成果にぶつかったときの反応ぶりが、これであなたたちにも、よく理解できるでしょう」  ドームの半分が、暗黒になった。  面倒なことに、暗くなったのは、パペッティア人が写っているのと反対側の半分だった。ルイスはすぐに椅子の向きを変えるスイッチを見つけた。だが、反射的に、こんなとき回転自在のふたつの頭と目があって、それぞれ別個にドームの両半球を同時に見ていることができたらなと思った。  暗くなった側には、宇宙の星空をバックに、小さな輝く円形のものが写っていた。環《リング》のついた円形だ。ルイスのポケットにはいっている立体写真《ホ口》の引き伸ばしだ。  中央の光源は、小さくまっ白で、木星軌道の近辺からみた太陽のようにみえる。環《リング》の直径は大きく、ドームの暗い半面のなかばを占めている。だが、その幅はせまく、中央の光源よりもいくらか大きい程度だ。こちら側の面は黒く、縁がくっきりと鋭いことが、光源をさえぎっている部分からわかった。向こう側は、さながら宇宙に横たわる空色のリボンといったところだ。  もしルイスが、奇蹟的なもの[#「もの」に傍点]に親しんでいる男だったら、かえってそれに慣れて、あまりに白痴的な推量をひかえていたかもしれない。だが、実際にはそうではなかった。 「まるで、環をめぐらせた恒星みたいだな。いったいこれは何だい?」  キロンの答えも、同じように平然たるものだった。 「環をめぐらせた恒星です。その環は固体でできています。人工物なのです」  ティーラ・ブラウンが、手のひらを打ちあわせて、たまりかねたようにふきだした。もちろんすぐに笑いをかみころして、びっくりするほどまじめな表情をつくってみせたが、その瞳のきらめきはかくせない。  ルイスには、その意味がはっきりわかった。彼女と同じ気分を、彼も一瞬味わっていたからだ。環をめぐらせた太陽のイメージは、ふたりにとっては秘密のおもちゃのようなものだったが、現実の宇宙としては、たしかに目新しかった。 (幅一インチの青いクリスマス・リボンを用意する。プレゼントを包むのに使うような種類のものをだ。何もない床の上に、火のついたろうそくを一本立てる。リボンを五十フィートほどとり、それで、ろうそくを中心とする円形の輪をつくり、内側の面が照らされるように、床の上に縁で立てて置いたと思えばよい)  しかし、クジン人の尾は、しきりに前へ後ろへとはげしくゆれ動いていた。 (結局、中心にあるのは、ろうそくではなく、太陽なのだ!) 「わたしたちが銀河の軸方向に北へ向かっていたことは、もう知っていますね」キロンは、ことばをついだ。「地球年で二百四年。クジン年では──」 「二百十七年だ」 「はい。当然そのあいだ、わたしたちは、行く手の空間に危険の徴侯や思いもかけぬものがないかどうか、観測をつづけてきました。そのEC−一七五二という星が、不明の濃度をもった暗黒物質の細い帯にとりまかれていることは、わかっていました。たぶん塵か岩くずでできた環《リング》だろうと考えられました。ですが、それにしては、驚くほど規則正しいかたちをしていました。  およそ九十年ほど前、わたしたちの惑星団は、その環が中心の星の光をさえぎってみえる位置に達しました。そこで、環がくっきりした縁《へり》をもっていることがわかりました。さらに研究してみると、その環《リング》がガスでも塵でも、また岩くずでもなく、おそるべき強度をもった固体の帯であることがわかりました。当然わたしたちは、ふるえあがりました」 〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉がたずねる。 「どうしてそんな強度があると推測できたのだ?」 「スペクトル分析と、その波長偏倚で、相対的な速度の差がわかったのです。環《リング》は、その主星を中心に、秒速七百七十マイルで回転していることが、たしかめられました。この速度だと、主星による引力に打ち克って、毎秒九・九四メーターの求心加速を生じていることになります。この張力でもちぎれない物質の強度がどれほどのものか、考えてみてください!」 「重力をつくってるんだね」と、ルイス。 「明らかにそうだと思います」 「重力か。地球よりも、わずかに小さい。その環の内側に住んでるやつがいるってことだな。フウ──」  その意味するもののショッキングな内容に打たれて、ルイス・ウーは、背筋が総毛立つのを感じた。クジン人の尾が、シュッ、シュッと空を切る音が聞こえる。  人類が、より優れた種族に出会うのは、これがはじめてではない。それだけ、人類は幸福だったともいえるが……。  唐突に、ルイスは立ちあがると、ドームの壁に向かって歩いていった。何の効果もなかった。環《リング》と星の像は、後方へしりぞいていき、彼の手はなめらかな表面に触れただけだった。だが、そこで彼は、それまで気づかなかったものを見つけた。  環《リング》が縞になっているのだ。後方の青い表面が、規則正しく四角い影で区切られている。 「もっとはっきりうつってるのはないのかい?」 「拡大ならできます」コントラルトの声が答えた。  G2型の恒星が、グウッと大きくなり、ツイと尾を引いて右へ移ると、ルイスは環《リング》の内側を、正面から見おろしているのだった。ぼやけているため、ほかの部分より白く光っているのが雲で、濃い青のところが陸地、淡い青が海だろうと推測される程度だ。  ただし、影になった地域は、はっきりとわかった。環《リング》は、まさしく直角に仕切られていた。明るい空色の帯につづいて、それよりも短い濃紺の部分があり、それにつづいてまた長い空色の帯。トンとツーの連鎖だ。 「何かが影をおとしてるのかな。上空の軌道にある何かが?」 「はい、そのとおりです。環のずっと内側に、二十個の長方形のものが、ケンプラーの|ばら飾り《ローゼット》をかたちづくっているのです。どうしてそういうことをしたのかはわかりません」 「わからないはずだよ。あんたたちは、ずっと昔、太陽を捨ててしまったからな。その四角いものは、夜と昼をつくりだすために、おかれたにちがいない。そうしなければ、環《リング》の世界では、一日中正午ってことになる」 「あなたたちの助けを求めた理由が、もうわかったでしょう。異星的なものの見かたに、価値があるのです」 「フム。ところで、環《リング》の大きさは? 研究は、相当に進んでるのかい? 調査船を送ってみたかね?」 「わたしたちの移動速度を遅らせない範囲で、また、わたしたちの存在が注目をひくおそれのない範囲で、できるだけのことは研究しました。もちろん調査の船など出していません。調査船は、超空間通信波《ハイパーウエイヴ》で制御しなければならないので、わたしたちの所在をつきとめられるおそれがあります」 「超空間通信波《ハイパーウエイヴ》の信号の出どころをつきとめたりできるもんか。そいつは、理論的に不可能なんだ」 「環《リング》をつくった人びとは、べつの理論を開発しているかもしれません」 「ウーン」 「しかし、わたしたちは、もっとべつの方法で、研究しています」  キロンの声とともに、ドーム壁の映像は、黒や白や灰色に変化した。輪郭が波をうつように動く。 「電磁波のあらゆる帯域で、通常写真と立体写真を撮りまくりました。もし見たいのなら──」 「どうせ、うんとこまかいところは、写ってやしないんだろう」 「はい。光波は、重力場や、太陽風や、あいだにある塵やガスなどから大きな影響をうけます。わたしたちの望遠鏡でも、これ以上こまかい点はわかりません」 「じゃ、本当に研究したとはいえないな」 「それでも、多くのことがわかりました。ひとつ、奇妙なことがあります。あの環《リング》は、どうやら、中性微子《ニュートリノ》を、四十パーセント前後、さえぎっているのです」  ティーラはきょとんとしているだけだったが、〈|話し手《スピーカー》〉は驚きのうなり声をあげ、ルイスは低く口笛をならした。  その一事だけで、もうあとのことはどうでもいいほどだった。  通常の物質は、恒星の中心部でおそろしいほど圧縮された物質ですら、中性微子《ニュートリノ》を遮蔽する力は、ゼロにひとしい。中性微子《ニュートリノ》の流れの半分を吸収するには、数光年の厚さの鉛が必要なのである。  スレイヴァー式停滞フィールドに囲まれた物体は、中性微子《ニュートリノ》線を全反射する。ゼネラル・プロダクツ製の船殻も同様だ。  だが、中性微子《ニュートリノ》の四十パーセントをさえぎり、残りを透過するなどというものは、まったく知られていない。 「たしかに新物質だな」と、ルイス。「キロン、環《リング》の大きさはどれくらいだ? それに、質量は?」 「環《リング》の質量は、二掛ける十の三十乗グラム。寸法は、半径が〇・九五掛ける十の八乗マイル、幅が十の六乗マイル弱です」  抽象的な十の何乗ということを考えるのは、ルイスには苦手だった。彼はその数字を、イメージの浮かぶ量に換算しようとした。  前に考えた、クリスマス・リボンを輪にして床におく感じは、正しかった。環《リング》の半径は九千万マイル以上だ──全長は約六億マイルになる──だが、縁から縁までの幅は百万マイルに足りない。質量は、木星より少し多いくらいか……。 「質量が足りないみたいだね。あれだけ大きなものは、一人前の恒星くらいの重さがあって当然だろうに」  クジン人も賛意を表した。 「何十億もの人口を、書籍フィルムほどの厚さもない構造物の上に住まわせようとしている戯《ざ》れ絵を見たことがあるな」 「その感じはまちがっています」と、銀色巻き毛のパペッティア人は答えた。「どんな物質かを考慮しなければなりません。例えば、もしこのリボンが船殻用金属でできているとすれば、厚みはおよそ五十フィートになります」  五十フィート?  到底信じられない数字だ。  しかし、ティーラは目を天井に向けると、くちびるを無言のまま、しかしすばやく動かしていた。 「そのようね。計算してみると、そうなる。でも、何のために? なぜ、誰かさんは、そんなものをつくったのかしら?」 「場所です」 「場所?」 「生活のための場所さ」ルイスが敷衍した。「それが目的のすべてだろう。六百兆平方マイルの面積は、地球の表面積の三百万倍にあたる。三百万個の惑星の表面を、たいらにならして、端と端をつないだようなもんだ。三百万の惑星のあいだが、エア・カーでいききできるわけだ。どんな人口問題も、これで解決できる。  それにしても、よっぽど深刻な事態だったんだろうな! ちょっとやそっとのことで、そんな計画を実行にうつそうとするやつはいないだろう」 「たしかにな」と、クジン人。「キロン、その近くの恒星に、もっと同じような環《リング》がないか、さがしてみたか?」 「はい。ですが──」 「ひとつもなかったか。思ったとおりだ。もしその環《リング》をつくった種族が、超光速駆動法を発見していたら、他の星系へも植民できたはずだ。環《リング》など必要ないことになる。したがって、環《リング》は、ただひとつなのだな」 「はい」 「これで元気が出たぞ。少なくとも、ひとつの点でだけは、環《リング》をつくったやつらよりも、われわれのほうが、優位にあることになる」  クジン人は、いきなり立ちあがった。 「そこでわれわれは、その環《リング》の居住表面を探険するわけか?」 「実際に着陸するのは、いくら何でも無鉄砲というものです」 「何をいうか。探険用に準備した船を見せてみろ。着陸装置は、どんな表面でも役に立つか? 出発は、いつだ?」  キロンは、驚きのあまり、調子はずれの笛のような声をだした。 「狂気の沙汰だ。環《リング》をつくった種族の力を考えてみなさい! あれにくらべたら、わたしたちでさえ、未開人の文明といってよいでしょう」 「あるいは、臆病ものの文明といってもよかろうがな」 「結構です。あなたたちがネサスとよぶあのものがもどってきたら、船を見てください。それまでのあいだ、環《りング》に関して、もう少しデータをお見せします」 「おれの忍耐力をためすつもりか」  そういいながらも、〈|話し手《スピーカー》〉は腰をおろした。  心にもないことを[#「心にもないことを」に傍点]、とルイスは思う。みごとなゼスチュアだ[#「みごとなゼスチュアだ」に傍点]、だが[#「だが」に傍点]、頼りになるやつだ[#「頼りになるやつだ」に傍点]。彼自身はといえば、椅子にもどったときもなお、胃の腑がむずがゆくなる思いだった。  星空に横たわる空色のリボン。──人類は、またもや、より進んだ種族に遭遇したのだ。  クジン人との出会いが最初だった。  人間が、星間宇宙を航行するのに、はじめて核融合推進を利用したころ、クジン人はもう、彼らの宇宙戦艦の動力として、重力偏向装置を用いていた。そのために彼らの船は、地球人のよりも速く、しかも操縦性に優れていた。クジン人との最初の接触で学んだ一事がなかったら、クジン艦隊に対する人類の抵抗など、無きにひとしいものであったろう。すなわち、反動推進エンジンは[#「反動推進エンジンは」に傍点]、駆動に役立つと同様に[#「駆動に役立つと同様に」に傍点]、おそるべき破壊の武器ともなりうる[#「おそるべき破壊の武器ともなりうる」に傍点]ということである。  人類版図へのクジン人の最初の侵入の結果は、クジン側にとっておそるべきショックだった。もう何世紀も平和がつづいた人間の社会では、事実上戦争などという概念が消えかけていた。しかし、人間の星間宇宙船は、核融合による光波推進エンジンを備え、星系への出航には、光圧帆走と、小惑星に設置した巨大なレーザー砲が併用されていた。  したがって、クジン側のテレパシー能力者は、人間の世界に武器は皆無だという報告を送りつづけ……そのいっぽうでは、侵入したクジン船が、巨大レーザー砲でまっぷたつにされたり、また自分の出すビームの光圧にのって小型の自走砲と化したしろものが暴れまわるというような事態があいついだ……。  思いもかけなかった人間の抵抗と、光速度の壁にはばまれて、戦争は数年ではなく数十年にわたった。しかし、結局はクジン側が勝利を収める趨勢にあった。  ところが、たまたま、アウトサイダー人の船が一隻、ウイ・メイド・イット星にあった人間の小さな植民地に漂着したのである。彼らはそこの首長に、超空間駆動装置《ハイパードライヴ・シャント》の秘密を、交易品として提供した。このときまだ、ウイ・メイド・イット星では、クジン族との戦争のことを知らなかった。だが、数隻の超光速船が建造されると、当然ただちにそれは、人びとの知るところとなった。  超空間駆動《ハイパードライヴ》に対して、クジン人は、もはや手も足も出なかった。  その後、パペッティア人がやってきて、人類版図内に、交易所を設けた……。  人類は、じつに幸運だったといえよう。技術的に卓越した種族に出会うこと三たび。アウトサイダー人の超空間駆動《ハイパードライヴ》がなかったら、クジン人に蹂躙されていたところだ。  アウトサイダー人も、明らかに人間より進んでいた。だが、彼らはべつに無理難題をふっかけることもなく、ただ貿易|基地《ベース》と、貿易の対象となりうる情報のたぐいを要求しただけだった。そもそもアウトサイダー人は、ヘリウムUで新陳代謝をする弱々しい生物で、戦士としては熱と重力に対しあまりにも脆かったのだ。そしてパペッティア人は、夢にも思い及ばぬほど強力だが、あまりにも臆病だった。  環状世界《リングワールド》をつくったのは何ものだろう? そして……彼らは好戦的だろうか?  ずっとのちになって、ルイスは、〈|話し手《スピーカー》〉のあのゼスチュアが、彼にとってひとつの転機をなしていたことに気づいた。彼ひとりだったら、さっさと手をひいていたかもしれない──ティーラがいっしょであってみれば、なおさらのことである。環《リング》の世界のおそろしさは、抽象的な数字でみる以上のものがあった。そこへ向かって宇宙船で接近し、しかも着陸までするとしたら……。  しかしルイスは、さきほどパペッティア人の飛ぶ世界に、さしものクジン人がふるえあがったのを見ていた。〈|話し手《スピーカー》〉のゼスチュアは、すばらしい勇気から出たものなのだ。  いまさらルイスが、うしろを見せられるだろうか?  腰をおちつけ、輝く映像に顔を向けた。チラリとティーラをみると、その無知さかげんを口の中でのろった。彼女の顔は、驚異と喜悦に、生き生きと輝いていた。クジン人に劣らぬ熱意である。  これに恐怖を感じないほど、彼女は愚かなのだろうか?  環《リング》の内面には大気層があった。スペクトル分析で、気圧も組成も、地球とほとんど同じであることがわかっている。人間もクジン人もパペッティア人も呼吸可能なことはまちがいない。それがとんでいってしまうのを防いでいるのが何かは、今のところ推量するしかない。いってみなければわからないのだ。  G2型のその太陽の系には、環《リング》そのもの以外に、まったく何もなかった。惑星も、小惑星も、彗星もない。 「すっかり一掃しちまったんだな」と、ルイス。「環《リング》にぶつかるようなものを残したくなかったんだろう」 「当然です」銀色たてがみのパペッティア人がいった。「もし何かがぶつかるとすれば、それは環《リング》自体の回転速度である秒速七百七十マイル以上で衝突するでしょう。環《リング》の物質はいかに丈夫でも、その物体が外側に当らず、太陽の近くを通って、保護するもののない内側の、住民のいる場所へ落ちる可能性もあるわけですから」  中心の主星は黄色矮星で、太陽《ソル》よりもいくらか温度が低く、心もち小さいようだ。 「環《リング》におりたら、防寒服が要るかな」と、クジン人。  当然のことを、とルイスは思った。 「いいえ」と、キロンが答えた。「内側の表面の温度は、わたしたちどの種族にも、充分堪えられるものです」 「どうしてそれがわかる?」 「外面から放射される赤外線の周波数から推定して──」 「おれを甘くみるなよ」 「そんなことはしません。わたしたちは環《リング》を発見して以来、ずっと研究をつづけていますが、あなたたちはまだ十数分間かそこらしか見ていません。その赤外波長は、平均して絶対温度で二百九十度を示しており、それはもちろん、環《リング》の外側だけでなく内側にもあては事ります。〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉、あなたにとって、これは最適温度より約十度上です。ルイスとティーラには、ピタリ最適です。  しかし、こまかいことに気をとられて、話をそらしたり、心配したりしないように」と、キロンはつづけた。「わたしたちは、環《リング》の側の技術者が強要しないかぎり、あなたたちに着陸を許可しません。単に、不測の事故にそなえていてほしいと思うだけです」 「表面の状況については、何もわかってないのかい?」 「不幸にして、そのとおりです。わたしたちの装置の分解能が不充分なのです」 「わかることもあるはずよ」ティーラがいった。「例えば、昼と夜が三十時間でくりかえすというようなこと。彼らのもと住んでいた世界も、同じ速さでまわっていたにちがいないでしょ。でも、もともとこの星系にいた種族だと思う?」 「そのように考えています。超空間駆動《ハイパードライヴ》をもっていなかったはずですから」と、キロン。「しかしたぶん、自分の惑星を、わたしたちのと同じ方法で、他の星系にもっていくことはできたでしょう」 「それなら、そうしたはずだな」  クジン人がうなった。 「環《リング》をひとつつくるために、自分の系をつぶすよりましだろう。おれは、どこかこの近くに、こいつと同じく惑星のひとつもない、もとの星系が、見つかると思うぞ。たぶん、環境造成技術を用いて、自分の系の全惑星に植民しつくしたあげく、ついにこんな死にものぐるいの手段に訴えたのだろう」  ティーラが口をはさんだ。 「死にものぐるいって?」 「とすると、環《リング》ができあがったとき、住みついた全惑星を、住民もろとも、この系へ動かしてこなければならんことになるからな」 「そうとはかぎるまい」と、ルイス。「距離がわりと近ければ、大きな亜光速船で住民だけを環《リング》にはこんだかもしれん」 「どうして、死にものぐるいなのよ?」  ふたりはいっしょに、まじまじと彼女の顔を見つめた。 「だってあたし、あの環をつくった人たちは、ただ──その──」  ティーラは、ことばにつまった。 「つくりたいからつくったんだと──」 「刺戟《キック》を求めて? それとも、眺めるためにかい? 何てこった! ティーラ、この事業につぎこまれた資源のことを考えてみろよ。いいか、彼らは、どうにもならないほどの人口問題をかかえこんでいたにちがいないんだ。居住のためにこんな環《リング》が要る段階になっても、まだこれをつくるだけの余裕はなかったかもしれん。だが、とにかくやってのけたのは、それが必要だったからだ」 「フウン」  ティーラはやはり、釈然としない様子だ。 「ネサスがもどってきます」と、キロン。  それだけいうと、そのパペッティア人は、クルリと向きをかえて、トコトコと公園の茂みの中へ去っていった。 [#改ページ]      7 |跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》 「失礼ね、あれ[#「あれ」に傍点]」ティーラがいった。 「キロンは、ネサスと顔を合わせたくないのさ。前にいったろう? ネサスは、みんなに、気ちがい扱いされてるって」 「そいつらが、みんな気ちがいなんだわ」 「いや、彼らはそう考えてないわけだが、といって、きみがまちがってるとはいえない。さあ、まだいくつもりかい?」  それに対するティーラの反応は、前に、『ハートに加えられた鞭の嵐』の話をしたときに彼女がみせたのと同じ、きょとんとした表情だった。 「やっぱり、いっしょにいくつもりなんだね?」悲しい気分で、ルイスは念をおした。 「もちろん。いけないわけがあるの? パペッティア人は、何をこわがってるの?」 「おれにはわかるな」と、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉がいいだした。「パペッティア人は臆病だ。しかし、彼らがなぜ今わかっている以上のことを知りたがるのかが、もうひとつ解《げ》せない。ルイス、彼らは光に近い速度で、もうあの環《リング》のある星を通りすぎている。環《リング》をこしらえたものたちは、超光速飛行の手段をもっていないだろうという。とすれば、彼らは今後永久に、パペッティア人に害を加えるおそれはない。そうすると、われわれの役割は、いったい何なのか、おれにはわからんのだ」 「それにも一理あるな」 「これを侮辱ととるべきだろうかな?」 「いや、とんでもない。われわれだって、人口問題をなんとかしようとしてる、それだけのことじゃないか。なぜ、役割なんてことを気にするんだ?」 「気になるのだ。どうか教えてくれ」  ルイスは、ネサスの姿を求めて、まわりの森林を見まわした。 「たぶんネサスのほうが、はっきり答えてくれるだろうがね。どうも、よわったな。この惑星の上に、一兆のパペッティア人がいるところを想像してみろ。できるかい?」 「ひとりひとり嗅ぎわけられるくらいにな。考えるだけで、からだがムズムズするぞ」 「それで、それが、あの環《リング》の世界に移り住んだとしたら、どうだね?」 「ウウム。なるほど。八の七乗倍ものスペースがあるわけか……。しかし、やはりわからんな。パペッティア人が、あそこの征服をくわだてていると思うのか? それにしても、どうやって環《リング》に移り住むのだ? 彼らは、宇宙船を信用しておらんのだぞ」 「わからんね。戦争する気もないだろうよ。そんなことじゃないんだ。問題は、リングワールドが、住むのに安全かどうかさ」 「ウウム」 「わかったかい? たぶん彼らは、自分たち独自のリングワールドを、建設することを考えてるんだ。もしかするとマゼラン雲に、空っぽのやつが見つかると思ってるのかもしれない。まあ、ありえないとはいえまいな。しかし、それはどうでもいい。とにかく彼らは、何かをする[#「何かをする」に傍点]ときには、前もって安全かどうかをたしかめなければ気がすまないのさ」 「ネサスが、こっちへくる」  ティーラが立ちあがって、見えないドームの壁のほうへ進み出た。 「酔っぱらってるみたい。パペッティア人もお酒を飲むことがあるの?」  たしかにネサスの歩きかたは、奇妙だった。つま先立ちの千鳥足といったていで、四フィートほどの黄色い羽毛状の茂みを、大げさな用心ぶかさで迂回し、一度に一本ずつ脚を動かすと同時に、ひらたい頭をキョトキョトと八方に向けている。  ドームのそばまでやってきたとき、大きな黒い蝶のようなものが、その尻にとまった。ネサスは絹をさくような悲鳴をあげ、高い塀をとびこそうとするように前へはねあがった。下へ落ちると同時にゴロゴロところがり、それがとまったとき、彼のからだは大きなボールのように、背を曲げ、脚をたたみ、ふたつの頭と頸を前脚のあいだにはさみこんで、まるくなっていた。  ルイスはかけだしながら、「|鬱 期《デブレッシヴ》だ」とうしろへ声をかけた。幸い、記憶にたよって、見えないドームの入口をさぐりだすことができた。公園の茂みへ、彼はとびこんでいった。  あたりの花は、どれもパペッティア人の匂いがした。 (もしパペッティア惑星の全生命体が同じ化学組成を基礎にしているのだったら、どうして暖かいにんじんジュースが、ネサスの栄養になったのだろう?)  ルイスは、くすんだオレンジ色の生垣の、みごとに整えられた直角ジグザグの道にそって走り、パペッティア人のころがっているところへたどりついた。  そのそばに膝をつく。 「ルイスだよ。もう大丈夫」  彼はそろそろとパペッティア人の頭蓋を被っているモジャモジャのたてがみに手をのばし、そっとなでてやった。手のふれた瞬間、パペッティア人はビクッと動いたが、そのまま静かになった。  かなり重症のようだ。まだ、むりに外を見せても、何の益もあるまい。 「あいつは、危険なのかい? あの、あんたにとまったやつは」 「あれですか? いいえ」  コントラルトの声は、くぐもっていたが、美しく澄んで、しかも抑揚を欠いていた。 「あれは……ただ、花から花へとぶだけです」 「〈指導する人びと〉とはどうだった?」  ネサスは、またちぢみあがった。 「うまくいきました」 「よかったな。何を手にいれたの?」 「子供をつくる資格と、ひと組の配偶者です」 「それでこわがってるのかい?」  本当にそうなのかもしれない、とルイスは思った。ネサスは、恋で身をほろぼすクロヒメグモの雄の役割なのか。それとも、神経過敏な処女の立場かもしれない。……どっちの性、いや、何の性[#「何の性」に傍点]にあたるのか……。  パペッティア人がいう。 「あぶないところでした、ルイス。わたしは彼らを脅迫したのです。はったりをかけたのです」 「それで?」  ルイスは、ティーラと〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉が、そばへきているのに気づいた。静かに、ネサスのたてがみをなでつづける。ネサスは、じっと動かない。  くぐもった抑揚のないコントラルトの声が答える。 「〈指導する人びと〉は、もしわたしがこの探険を生きのびてもどったら、子孫をつくる正式な権利を与えるといいました。しかし、それだけでは不充分なのです。親になるには、配偶者が必要です。こんな、モジャモジャ髪の気ちがいに、誰が進んで連れそってくれるでしょうか?  はったりが必要だったのです。配偶者をひとり見つけてください。さもないと、探険にはいきません、と、わたしはいいました。もしわたしがいかないと、クジン人もいきませんよ、といいました。彼らは怒りました」 「そうだろうね。あんた、ちょっとやりすぎたんじゃないのか?」 「わざとそうしたのです。計画が駄目になるという脅迫に、彼らは手をあげました。わたしはいってやりました。わたしが環《リング》の探険から帰ってきたら、誰かがみずからを犠牲にして、わたしの配偶者にならなければならない、と」 「すばらしい。りっぱじゃないか。それで、志願者は、いたのかい?」 「わたしたちのセックス関係では、伴侶のひとりは、その……家畜みたいなもの、知性のない存在なのです。だから、志願者は、ひとりでいいわけです。〈指導する人びと〉は──」  ティーラがさえぎった。 「どうして、もっと簡単に〈指導者〉っていえないの?」 「わたしはただ、あなたたちのことばに翻訳していっているだけです」と、パペッティア人。「もっと正確に訳すると、むしろ〈うしろから指図する人びと〉となるでしょう。その中からひとりえらばれたものが、議長というか、スポークスマンというか……その称号の正確な訳は〈至後者《ハインドモースト》〉となります。  その〈至後者〉が、わたしの配偶者になるといったのです。彼は、自分の自尊心にかけて、他のものにそのような犠牲を強いることはできない、といいました」  ルイスは、ヒュウと口笛を鳴らした。 「こいつは、ちょっとしたもんだな。それだけ認められたと考えて、有難く受けるほかあるまい。いくらおびえたっていいぜ。もう何もかも終わったんだからね」  ネサスは身をふるわせ、いくらかくつろいだふうだった。 「その、代名詞のことだが」と、ルイス。「どうもわからない。あんたのことを〈彼女〉とよぶべきなのか、その〈至後者〉のほうが〈彼女〉なのか」 「あなたもぶしつけな人ですね、ルイス。異種族と、性の問題を議論する人がありますか」  脚のあいだから、頭のひとつがのぞき、不満げな表情をみせた。 「あなたとティーラだって、わたしの目の前で、配偶者としての行為はしないでしょう?」 「妙な話だが、その件が一度話題になってね。ティーラのいうには──」 「怒りますよ」パペッティア人がいった。 「なぜよ!」  ティーラがききかえしたとたん、パペッティア人の頭は、またひっこんでしまった。 「まあ、出てきてよ! いじめやしないから」 「本当ですか?」 「本当。正直にいってるのよ。あなたって、とてもかわいいわね」  パペッティア人の全身がほぐれた。 「わたしを、かわいいといいましたか?」 「ええ」  彼女は、オレンジ色の壁のような〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉を見上げ、気前よく、「あなたもよ」といった。 「否定するつもりはないが」と、クジン人。「しかし、二度とそういうことをいうなよ。絶対にだ」  ティーラの、混乱した顔。  高さ十フィートほどの、くすんだオレンジ色の生垣が、完璧な直線をなしてつらなり、そのところどころに、コバルト色の細い蔓が垂れさがっている。見たところ、かつては肉食性の植物だった感じだ。そこが公園の境界線だった。ネサスについて、一同はそれに向かっていった。  その生垣のどこかに出口があいているものと、ルイスは思いこんでいたが、思いがけないことに、ネサスはその生垣の中へふみこんでいった。すると、生垣はふたつに分かれ、彼を通すと、また、もとどおりに閉じてしまった。  みんなもそれにつづいた。  公園の中では、空はいわゆる空色だった。だが、生垣を通りぬけたとたんに、空の色は一変して、黒と白になった。永遠の夜をたたえた暗黒の空に、都市からの光に下面を照らされてまっ白に輝く雲が浮かんでいるのだ。まさしく、どこまでも続く都市が、一同の目の前にそそり立っていた。  ひと目みた感じでは、地球上の都市と大差ないように思われた。ただ、どのビルも、大きくずん胴で、しかもよく似たかたちをしていた。どれもがおそろしく高く、そのため空は、天頂の暗い一条の割れ目を残すのみで、あとはすべて、窓やバルコニーの灯りに埋めつくされている。室内にはみられなかった直角が、ここにはふんだんにあった。なにぶん、脛をぶつけるには大きすぎる。  しかしなぜ、公園の中では、このそびえ立つ都市が見えなかったのだろう?  地球には、高さ一マイル以上の建物などめったにない。ここにはそれ以下のがひとつもないようだ。公園の周囲に、光線屈曲フィールドがあるのだろうと、ルイスは推測した。あえて訊こうとも思わなかった。パペッティア世界の奇蹟の中では、とるに足らないものであろう。 「船は、この島の反対側の突端にあります」と、ネサス。「|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》でいけば、一分かそこらで着けます。わたしが見本を示します」 「もうすっかり恢復したの?」 「はい、ティーラ。ルイスのいったとおり、最悪の時期は過ぎたようです」  パペッティア人は、さっそうと先頭に立っていた。 「〈至後者《ハインドモースト》〉がわたしの愛人なのですよ。あとは、無事に、リングワールドから、もどって来さえすればいいのです」  足もとの地面はやわらかかった。見たところは真珠色の粒子をもったコンクリートのようだが、踏んでみると、スポンジのように弾力のある地面なのだ。長い一ブロックを過ぎて、一同は交叉点にさしかかった。 「こっちの道です」ネサスは、グッと前に頸をのばしながらいった。「こっちがわの円盤《ディスク》に、足をのせないように。わたしについてきてください」  交叉点の中央に、大きな青い四辺形の区域があった。それをかこむように四つの円盤が、それぞれここへ集まる四本の道路の出口に対応している。 「中央の四角には、のっても大丈夫です。でも、ほかの円盤《ディスク》にのらないように。ついてきてください」  ネサスは、点を横切り、向こう側の円盤《ディスク》へ手前の円盤《ディスク》をよけて、交叉点を横切り、向こう側の円盤《ディスク》へ、トコトコと歩いていくと、そのまま、フッと消えた。  一瞬、あっけにとられて、誰も動こうとしなかった。ついでティーラが、けたたましい声をあげて、円盤《ディスク》へかけより、そして消失した。 〈|獣への話し手《スビーカー・トゥ・アニマルズ》〉が、ひと声うなって、飛んだ。どんな虎も及ばぬ正確さだ。そうして、ルイスはひとりあとに残された。 「いやはや。こいつは、オーブン式の転移ボックスなんだな」  驚きあきれてつぶやきながら、彼は前方へ歩をすすめた。  つぎの交叉点の中央、ネサスと〈|話し手《スピーカー》〉のあいだに、彼は立っていた。  ネサスがいう。 「お仲間は、先にかけていってしまいました。待っていてくれるといいのですが」  パペッティア人は、三人の向いているそのままの方向へ歩きだした。三歩で円盤《ディスク》に達し、そして消える。 「なあんて仕掛けだ!」ルイスは、感にたえてつぶやいた。  クジン人がネサスにつづいていってしまったので、彼はまたひとり残されていた。 「歩きさえすりゃいいんだ。三歩で一ブロック。まるで魔法だ。これで、一ブロックの長さも、好きなだけ長くできる!」  彼は前方へ足をふみだした。  千里の靴をはいているようなものだ。軽い足どりで三歩あるくごとに周囲の眺めが変わる。ビルの角に円形の掲示があるのが、地番にちがいない。目的の場所へ着けばわかるようになっているわけだ。そこへ着いたら、円盤《ディスク》をよけてブロックの中へ歩をすすめればいいのである。  道路に面して、ショーウィンドウがあり、ルイスはのぞいてみたいものだと思った。それとも、あれは、まったく別のものなのだろうか? しかし、ほかの三人は、もう何ブロックも前を歩いている。その姿が、ビルの谷間にひらめくのがみえた。彼は歩度を早めた。  何歩かいったところで、ふたりの異星人が前に立ちはだかった。 「ここで曲がります。まちがえないように」  ネサスがそういって、左へ向かった。 「待て──」  しかし、もうクジン人も消えていた。ティーラは、いったいどこへいっちまったんだ?  いや、たぶん先へいってるんだろう。ルイスも左へ向きを変えて歩きだした──。  まさしく千里の靴だ。都市の眺めが、まぼろしのように流れ過ぎていく。ルイスは夢見心地で走った。  十ブロックほどいったところに、都市間交通用とおぼしい、べつの色のついた円盤《ディスク》が並んでいるのが目にとまった。何百マイルも離れた都市の中心をマークする長距離用の円盤《ディスク》で、そこにはまた、到着点の四角が、ほとんど一ブロックにわたって並んでいた。海をわたるものもあるだろう。ひと足でつぎの島へ! まるで、島が飛び石がわりだ!  まさにオープン式の転移ボックスだった。パペッティア人の文明は、おそろしいほど進歩している。円盤《ディスク》は、直径一ヤードほどで、その上にすっかり乗りうつらないうちに作動する。一歩ふみこむと同時に、つぎの到着点の四角の中へふみだしているのだ。走路なんて、これにくらべたら、カホなほどなさけない!  走りながら、ルイスは、身のたけ数百マイルもあるパペッティア人の幻影が、とび石のように並ぶ島づたいに、足をぬらさないよう用心ぶかく歩をすすめている情景を、頭に描いていた。ついでそのパペッティア人の幻影は、グッと大きくなり、惑星を飛び石にして宇宙を……おそろしいほど進んだその文明……。  円盤《ディスク》の連鎖がとぎれて、着いたのは、静かな黒い海に面した海岸だった。その果てに、四つの巨大な月が、星空を背景に垂直にかかっていた。水平線までのちょうど中間あたりに、こっちよりも小さあの島が、ギラギラと輝いている。異星人のふたりは、彼を待ちうけていた。 「ティーラはどこだい?」 「知りません」と、ネサス。 「何だって! ネサス、どうやって見つけだすんだ?」 「彼女のほうで見つけますよ。ルイス、心配することはありません。そのうち──」 「全然知らないところで道に迷ってるんだぜ! 何が起こるかわからないじゃないか!」 「ここでは何も起こりませんよ、ルイス。ここほど安全な世界はないのです。ティーラが、この島の海岸に着いたら、そこから他の島には渡れないことがわかるでしょう。そこで、海岸線に沿ってディスクをたどってくれば、ここに着くしかありません」 「コンピューターが道に迷ってるわけじゃないんだぜ。ティーラは二十歳の女の子なんだぞ!」  ティーラが、彼のすぐ横に出現した。 「アーラ、ちょっと迷っちゃったみたい。みんな、何をさわいでるの?」 〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉が、ルイスに向かい、短剣のような歯をのぞかせて、ニヤリと笑った。ルイスは、ティーラの当惑した、もの問いたげな視線を避けながら、頬から火の出る思いだった。  しかし、ネサスはただひとこといっただけだった。 「わたしについてきてください」  パペッティア人のあとからついていくと、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》が海岸に沿って一列に並んでいる。その中に、くすんだ褐色の星形があった。一同がその上へ足をふみだすと……。  そこは、太陽灯《サン・チューブ》にさんさんと照らされた、むきだしの岩の上だった。私設宇宙港くらいの大きさの島である。その中央に、高い建物と並んで、一隻の宇宙船が横たわっていた。 「あれが探険船です」と、ネサス。  ティーラと〈|話し手《スピーカー》〉は、失望の色をみせた。クジン人の耳は、たたみこまれて見えなくなったし、ティーラは、もの足りなさそうに、後方をふりかえった。そこには、いまあとにしてきた島の上に、高さ数マイルものビル群がひしめき立ち、星間宇宙の夜に対抗して、光り輝く城壁をかたちづくっているのが望まれる。  しかしルイスは、これまで張りつめていた筋肉が、ようやくほぐれてくる思いだった。奇蹟は、もうたくさん。|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》、途方もない大都市、地平線上に高くかかっている四つの黄褐色の農業惑星……何もかもが威圧的だった。  船はそうではない。それは、一枚の三角翼の中にピタリと収まった、ゼネラル・プロダクツ製二号船殻で、翼には、いくつものスラスター駆動ユニットと核融合モーターが光っていた。そのすべてが、ごく見なれたものばかりだ。もうこれ以上何も質問することはないだろう。  だが、クジン人のことばで、彼は自分の思いちがいを悟らされた。 「パペッティア人の技師がつくったにしては、いかにも奇妙な設計だな。ネサス、おまえは、船全体が船殻の内部にはいっているほうが安全だとは思わんのか?」 「思いません。この船の設計は、革命的な新機軸を結集したものです。こっちへ来て、見てごらんなさい」  ネサスは、トコトコと船に向かっていく。  クジン人の指摘は、的を射たものだった。パペッティア人所有の貿易会社、ゼネラル・プロダクツは、既知空域《ノウン・スペイス》で、多種多様の品物を売りさばいていた。だが、その成功は、このゼネラル・プロダクツ製船殻によって確立されたのだった。これには、バスケットボールくらいの球体から、同じ球体でも直径一千フィートをこえるものまで、四つの種類がある。  四号船殻は、あの、|のるかそるか《ロングショット》号のそれだ。三号船殻は、両端をまるめた円筒形の一面を平らにした形状で、複数の乗員をのせた客船として最適である。数時間前、四人をパペッティア惑星におろしたのも、この型の船だった。二号船殻は、蜂の腰のように中央のくびれた円筒形で、前後端ともグッと細くなり、針のようにとがっている。ふつうなら、ひとり乗りでちょうどいいくらいの広さである。  ゼネラル・プロダクツ製船殻は、可視光に対しては透明だ。それ以外のいかなる電磁エネルギーや、いかなる種類の物体をも、まったく透さず、うけつけない。その保証を、会社の人気が裏づけ、数百年にわたり数百万隻の船に用いられて、破綻をみせなかった。ゼネラル・プロダクツ製船殻は、安全性において、まさしく究極的なものであった。  四人の前にある船は、ゼネラル・プロダクツ製二号船殻をベースにしていた。  しかし……ルイスにわかるかぎり、船殻の内側に収められているのは、生命維持システムと超空間駆動装置《ハイパードライヴ・シャント》だけだった。それ以外のものはすべて──下を向いている一対の円盤形のスラスター駆動ユニット、前向きの小さな核融合モーター二基、翼の後端に並ぶもっと大きな二基の核融合モーター、翼の左右の先端にとりつけられた一対の大きなポッド──これはたぶん、探測と通信用の装置をおさめているのだろう。ほかにはその関係の装置が見当らなかったから──それらが全部、大きなデルタ翼にとりつけられているのだ!  装備の半分は、結局、翼の上にあって、あらゆる危険にさらされている。心配性のパペッティア人が、なぜ三号船殻を使って何もかもその内部に収めてしまう方法をとらなかったのか?  ネサスは、デルタ翼の下をくぐって、船殻後端のとがった先へと一同をみちびいた。 「わたしたちの目的は、できるかぎり船殻に穴をあけずにおくことでした。わかりますか?」  ルイスは、彼の大腿ほどもある|電 纜《コンディット》が、ガラスのような船殻をつらぬいて、翼部へつづいているのをみとめた。その開孔部が、何やらひどくこみいった仕掛けになっている。だが、ほどなくルイスは、あらゆる回路をひとつにまとめたその|電 纜《コンディット》が、ある箇所で切れて、船殻内へ引っこむよう設計されているのに気づいて仰天した。ついで、その操作をやってのけるモーターと、あとに残る孔をふさぐ金属のとびらをも、彼はみつけだした。 「ふつうの船では、船殻に多数の孔をあげなければなりません」と、パペッティア人。「可視光以外に対する検出装置のために、反動モーターを備えている場合はそのために、また燃料タンクからの補給孔のためにも。しかし、この船殻には、ただふたつの孔しかありません。|電 纜《コンディット》と、エアロック用です。ひとつは乗員の、もうひとつは情報の出入り口です。その両方とも、密閉ができます。  船殻の内面には透明な導体がコーティングされています。エアロックと|電 纜《コンディット》の孔が閉じれば、内部はまったく隙間のない導体面を形成することになります」 「停滞フィールドか」  ルイスは、やっと思いあたった。 「そのとおりです。もし危険にさらされると、数秒のうちに、生命維持システム全体がスレイヴァー式の停滞フィールドに包まれます。停滞フィールド内には時間の経過がなく、したがって何ものも、内部にいるものに危害を加えることはできません。わたしたちは、船殻だけに頼るような愚かなことはしません。可視光を用いたレーザーなら、ゼネラル・プロダクツ製の船殻をとおして内部のものを殺傷し、船体に傷をつけずにおくこともできます。また、反物質にあうと、この船殻はたちまち崩壊してしまいます」 「そいつは知らなかったぜ」 「とくにPRしていませんから」  ルイスが、デルタ翼の下から出てみると、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉がモーターをしらべていた。 「どうしてこんなにいろんなモーターをつけたんだろうね?」  クジン人は、フンと鼻をならした。 「人間は、クジン人との戦いで学んだ教訓を、忘れたわけではあるまい」 「ああそうか」  クジン人と地球人の歴史を学んだパペッティア人なら、そのクジン戦訓のことは、充分に知っているはずだ。反動推進機関は、まさしくその効率に比例した力をもつ兵器なのである。ここには、安全なスラスター駆動だけでなく、武器にもなりうる核融合推進が併用されているのだった。 「たしか、あんたは、核融合推進の船を操縦できるといったな」 「おれは戦士の訓練をうけているのだぞ、ルイス」 「つぎの人間−クジン戦争のためかね」 「戦士の腕をみせてやろうか?」 「そうしてください」と、パペッティア人が割りこんだ。「この船は、クジン人の操縦に適するようつくられています。〈|話し手《スピーカー》〉、制御盤《コントロール》をしらべてみますか?」 「すぐにな。それから、性能データや、試験飛行の記録なども見たい。超空間駆動装置《ハイパードライヴ・シャント》は、標準型のものか?」 「はい。それから、試験飛行はまだすんでいません」  さもありなん、とルイスは、エアロックのほうへ歩をうつしながら考えていた。パペッティア人の技師たちは、こいつをつくりあげたきり何もせずに、われわれの到着を待っていたというわけだ。そうするほかなかったのだ。試験飛行をひきうけようというパペッティア人が、いるはずもない。  ティーラは、どこだろう?  彼女が、突然、星形の到着プレートの上に出現したとき、彼は思わず声をあげそうになった。彼女は、船など見向きもせず、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》で遊んでいたのだ。一同が船に乗りこもうとしているのを見ると、黒い海の向こうにそびえるパペッティア人の都市のほうを、まだなごり惜しげにふりかえりながら、みんなのあとにつづいてきた。  ルイスは、エアロックの内側のドアのところで、彼女を待ちうけた。彼女のあまりの軽率ぶりに、一喝くらわせてやるつもりだった。誰でも、一度道に迷ったら、もっと用心ぶかくなっていいはずだ!  ドアが開く。ティーラは有頂天だった。 「ルイス、来てほんとによかったわ! あの都市──おもしろかった[#「おもしろかった」に傍点]!」  彼の手をギュッと握りしめ、興奮でものもいえない。その笑顔は、燦然と輝く太陽さながらだ。  彼には、どうすることもできなかった。 「よかったね」  そういって、ルイスは固いキスをかわした。いっしょに操縦室へ向かうとき、彼は腕を彼女の細い腰にまわし、拇指を腰骨の上にさまよわせていた。  彼は今ようやく確信ができた。ティーラ・ブラウンは、まだ一度も怪我をしたことがないのだ。用心を教えられることもなかった。怖れということを知らないのだ。はじめて傷みを知ったとき、彼女は驚きおののくだろう。それ一度で、打ちのめされてしまうかもしれない。  そして、彼女が傷つくとき、ルイス・ウーは死んでいるだろう。  神は、愚かものを守ってはくれない。愚かものを守るのは、より愚かになりうる人間だけなのだ。  ゼネラル・プロダクツ製二号般殻は、幅二十フィート、長さ三百フィート、前後とも細くとがっている。  事実上、船の装備の大半は、船殻外のうすい翼の上にのっているといってよい。生活システムは、三つの居室兼寝室、細長い休憩室《ラウンジ》、操縦室、それにロッカーの並ぶ船艙を、ゆったりと包み、炊事台、自動医療装置、物質再生装置、電源などの設備もある。制御パネルはクジン式の配置で、クジン語のラベルがついていた。ルイスは、いざとなれば自分でも操縦できるだろうが、それはよくよくの場合だけのことにしようと思った。  ロッカーには、無気味なほど多量の探険用機器がつまっていた。はっきり「これは武器だ」と指摘できるようなものは全然ない。だが、武器として使えるものは、いろいろと見つかった。フライサイクルが四台、飛行《フライング》パック(背負いベルト式の触媒ラムジェット)が四基、食品検査機、幾壜もの食品添加物、医療セット、空気検査機に濾過機などもあった。  あたかもこの船が、どこかへ着陸することを、確信しているような装備ぶりだった。  いや、着陸していけないわけがどこにあろうか?  リングワールドを建設するほどの実力をもちながら、超空間駆動《ハイパードライヴ》を備えた船がないおかげでそこに釘づけされている種族なら、双手をあげてその到着を歓迎してくれるだろう。たぶんパペッティア人も、それを期待しているのにちがいない。  それでいて、ネサスが、「これは武器ではない。これこれの目的で積んだのだ」と強弁できないような品物は、何もないのである。  三つの種族が乗り合わせている。もし人間の女を別種族とするなら四つだが、実際、クジン人やパペッティア人はそう思っているかもしれなかった。(ネサスと〈至後者《ハインドモースト》〉は同性なのだろうか? 子供をつくるのに、雄の二個体と、知性のない雌の一個体が要る、そんなことが、ありえないといえようか?)とすれば、リングワールド人が実在した場合、彼らはひと目みただけで、各種の知性種族が仲よくやっていけるということを、そこから学びとることができるだろう。  だがそれにしても、武器として使える品物──携帯レーザー、決闘用の衝撃銃など──が、いろいろありすぎる。  島に被害がないよう、無反動のスラスター駆動で離陸した。約半時間後には、パペッティア人の|ばら飾り《ローゼット》のつくる弱い重力井戸から出はずれていた。このときになって、ルイスははじめて、あのパペッティア人の世界で、行をともにしているネサスと、映像として現れたキロン以外には、ひとりの.パペッティア人にも会わずに終わったことに気づいたのだった。  船が超空間駆動《ハイパードライヴ》にはいったのち、ルイスはおよそ一時間半かけて、ロッカーにおさめられているあらゆる品目を点検した。備えあれば憂いなしだ、と自分にいいきかせる。だが、武器に類する装備は、彼に、何かを暗示するような、にがい気分を残すのだった。  武器がいっぱい。そのくせ、武器として以外に使いみちのないものはひとつもない。携帯レーザー。核融合モーター。  超空間駆動《ハイパードライヴ》にはいった最初の日に、一同は船の命名式をおこない、ルイスはこれを〈|うそつき野郎《ライイング・バスタード》〉とよぶことを提案した。それぞれ自分なりの理由から、ティーラも〈|話し手《スピーカー》〉もそれに賛成した。自分なりの理由から、ネサスもあえて異議をとなえなかった。  一週間の超空間駆動《ハイパードライヴ》で、船は二光年あまりを飛んだ。アインシュタインの空間にもどったところは、すでに環のあるG2型恒星の系内だった。だが、いやな予感は、まだルイス・ウーにつきまとっていた。  一行がリングワールドに降り立つ結果になることを、カホなほど確信している何ものかが、たしかにいるはずなのだった。 [#改ページ]      8 環状世界《リングワールド》  パペッティア人の世界は、光に近い速度で、銀河の北へ向かって動いていた。〈|話し手《スピーカー》〉は超空間駆動《ハイパードライヴ》で船をG2型太陽の南へもっていったが、その結果、|うそつき《ライヤー》号は、|盲 点 空 間《ブラインド・スポット》から脱けだしたとき、すでにまっすぐリングワールド系へ向けて、高速度で突進しているかたちとなった。  G2型星は、まぶしく光る白点だった。ルイスが他の星系からもどったときの太陽《ソル》も、太陽系のはずれからみると、ちょうどこんなふうにみえたものだ。だが、この星は、かすかに目につくほどの 暈《ハーロー》 をまとっている。この最初の一瞥は、ルイスの記憶にやきついた。系の外縁からでも、リングワールドは、肉眼でそれと見分けられる存在であった。 〈|話し手《スピーカー》〉は、大型核融合モーターを全力噴射させた。さらに、スラスター駆動用の円盤を、翼平面から張り出させ、作動軸を後方に向けて、その出力をもロケット噴射に加えていた。|うそつき《ライヤー》号は、双児の太陽のような光輝を放ちながら、うしろ向きに系内へ侵入し、その減速はほとんど二百Gに達した。  ティーラは、そのことを知らなかった。ルイスが彼女にいわなかったのは、心配させたくなかったからだ。もし船室の重力調整が、ほんの一瞬でも作動をやめたら──四人とも、靴の底で踏まれた虫のようにぺしゃんこになってしまうだろう。  しかし重力調整は、完璧にその裏方のつとめを果たしていた。生活システム全体が、つねにパペッティア惑星と同じ重力にたもたれ、他には核融合モーターの咆哮が、微弱な震動となって、たえまなくひびいているばかりだ。その轟音のはいってくる場所は、人間の腿より太くはない電纜用の開孔しかなく、しかしおよそ船殻内にいるかぎりどこへいっても、微弱ながら、その震動がつきまとってくるのだった。  超空間駆動《ハイパードライヴ》中においてさえ、〈|話し手《スピーカー》〉は船の透明な部分にいることが多かった。とにかく見晴らしのいいことが好きで、視野全体に盲点がひろがったような環境も、苦にならないらしい。船体は、個室を除いて全部透明なままになっており、その眺めに慣れるのは容易なことではなかった。  休憩室《ラウンジ》から操縦室へかけて、曲線で一体につながっている壁と床と天井は、目にみえないほど透明なわけではない。ちょっと目にはからっぽでも、じつはガッチリした障壁のあるのがわかる。馬蹄形のパネルに配置された緑やオレンジ色のダイアルにとりまかれて、〈|話し手《スピーカー》〉はゆったりと操縦席にくつろいでいた。そのうしろには、ネオン色の光を放つ入口の境をへだてて、休憩室《ラウンジ》のテーブルとそれをとりまく椅子、つづいて、不透明な個室が後方に並んでいる。  左右には大きく張りだした翼の三角形がみえた。その向こうは、満天の星空だ。全宇宙がおそろしく身近に……そして何か動きを欠いたものにみえた。むろん、環《リング》をもった星がまっすぐ後方にあるため、船室にさえぎられて、その輝きが見えてこないせいもある。  空気は、オゾンとパペッティア人の匂いがした。  ふつうなら当然、うなりをあげる二百Gの恐怖にすくみあがっているはずのネサスが、なぜかすっかり心地よげに、あとのふたりと、休憩室《ラウンジ》のテーブルをかこんでいる。 「リングワールド人は、超空間波《ハイパーウエイヴ》をもっていません」彼は熱心にしゃべっているところだった。「あの系の数学的構造が、このことを保証しています。超空間波《ハイパーウエイヴ》は、超空間駆動《ハイパードライヴ》数学の一般化で、だから彼らは、超空間駆動《ハイパードライヴ》をもつことができないのです」 「でも、偶然のことで超空間波《ハイパーウエイヴ》を発見してるかもしれないわ」 「いいえ、ティーラ。何でしたら、超空間波帯域《ハイパーウエイヴ・バンド》をさぐってみましょうか? どうせ、こうやって減速しているあいだは、何もすることがありませんから。しかし──」 「カホナ! まだ待たなきゃいけないの?」  ティーラは、いきなり立ちあがると、小走りにかけだしていってしまった。  パペッティア人のふしぎそうな顔へ、ルイスは腹立たしげに肩をすくめてみせた。  ティーラは荒れていた。一週間の超空間駆動《ハイパードライヴ》で退屈し、ご機嫌ななめなところへ、さらに一日半の減速のあいだ、何もすることがないとあって、いささか八つ当り気味のようだ。  だが、ルイスに何ができよう? 物理法則を変えるわけにもいくまい。 「待たなければならんようだな」〈|話し手《スピーカー》〉が相槌をうってきた。  操縦室にいて、彼女のことばのヒステリックな調子には、気づいていないらしい。 「超空間波帯域《ハイパーウエイヴ・バンド》には、まったく何の信号もはいってきておらん。リングワールドの連中が、超空間波《ハイパーウエイヴ》を用いたどんな方法でも、呼びかけてきていないことはたしかだ」  コミュニケーションの問題が、いまや最大の関心事だった。リングワールドの技術者との連絡がつくまでは、相手が居住者のいる系である以上、こっちはどうみても不法侵入ということになる。もっとも、現在のところ、船が探知された気配はない。 「受信機は、いれてある」と、〈|話し手《スピーカー》〉。「もし連中が、電磁波で通信してきたら、わかるようにな」 「先方が、いちばんありふれた方法できたら、だめだぜ」ルイスが反駁する。 「それはそうだ。ほかの星系に知性の存在をさぐるのに、いろんな種族が、低温水素線を用いていたな」 「クダトリノ人も、それですんなりとあんたたちを見つけたんだっけ」 「そしてわれわれは、すんなりと彼らを奴隷化したのだ」  星間通信の電波帯域は、恒星の出すノイズでいっぱいだ。しかし、幸いなことに、二十一センチメーターの波長域だけは、果てしなくひろがる冷たい星間水素のせいで、雑音が吸収され、きれいになっている。どんな種族にしろ、異星人に通信しようとしたら、まず試みるのがこの線である。  不幸にも、|うそつき《ライヤー》号の噴出する新星《ノヴァ》なみの高温水素のせいで、その帯域が使えなくなっているのだ。 「慣性飛行にはいったとき、軌道があの環《リング》の中を通らないようにすることを忘れないでください」と、ネサスがいう。 「何度同じことをいうつもりだ、ネサス。おれの記憶力は、抜群なのだぞ」 「環《リング》の住民に、危険を感じさせてはならないのです。忘れていないことを信じますよ」 「パペッティア人は、何も信じないはずだったな」と、〈|話し手《スピーカー》〉。 「もうよせよ」  ルイスは、うんざりしていた。口論は、もうたくさんだ。彼は部屋にひっこんで、ひと眠りすることにした。  数時間が過ぎ去った。|うそつき《ライヤー》号は、新星《ノヴァ》の光輝と熱をもった二本の光芒を先に立てて減速しながら、環《リング》をもった星への下降をつづけていた。  コヒーレント光が船にぶつかってくる気配も、まったくなかった。リングワールドの住人が、|うそつき《ライヤー》号を、まだ見つけていないのか、それとも彼らはレーザー通信を持っていないのだろうか。  超空間駆動《ハイパードライヴ》の一週間、〈|話し手《スピーカー》〉と人間たちは、たがいに相手の個室を訪問しあった。クジン人の部屋は、ルイスやティーラにも、好もしいものに感じられた。地球よりやや大きな重力に合わせた周囲の壁の立体投影《ホロスケープ》は、黄色っぽいオレンジ色のジャングルに、古代クジン風の要塞をあしらった眺めで、それにふさわしいいろんな香りが、つぎつぎと変わっていくのだった。ふたりの個室はというと、一都市の景観やら、改良された海藻になかば蔽われた海中農場の眺めやらで、ちょっと想像もつかないほど強烈に飾り立てられており、クジン人は、居住者のふたり以上に、それが気にいった様子だった。  クジン人の個室で、いっしょに食事をすることまでやってみた。しかし、クジン人の食事作法たるや、まるで飢えきった狼さながらで、しかもその間ずっと、人間の食いものはごみ焼場みたいな匂いがするとかなんとか、文句をつけている始末だった。  そして今、ティーラと〈|話し手《スピーカー》〉が、休憩室《ラウンジ》の一隅でボソボソと話しあっている。ルイスの耳には、遠雷のような核融合モーターのうなりに妨げられて、話の内容まではとどいてこない。  船内重力下での生活は、昔からおなじみのものだった。彼のもっているヨットも、三十Gまでの出力がある。だが、その船はスラスター駆動で、まったく音がしないのだ。 「ネサス」と、彼は低い轟音に身をまかせながらよびかけた。 「はい、何ですか?」 「あの|盲 点 空 間《ブラインド・スポット》のことだが、あんたたちは、何かぼくらの知らない知識をもってるんじゃないかい?」 「質問の意味がわかりません」 「あんたは超空間《ハイパースペイス》をひどくこわがってるね。それなのにこの──炎の柱にのって後退していく──こいつを少しもこわがらない。あの|のるかそるか《ロングショット》号をつくったのもあんたたちだ。ぼくらにない知識が、あんたの種族にはあるはずだよ」 「そうでしょうね。何かあるのでしょう」 「それは何だい? もし極秘事項でなかったら、教えてほしいな」 〈|話し手《スピーカー》〉とティーラが、今は聞き耳を立てていた。たたむと毛皮の中にかくれてしまう〈|話し手《スピーカー》〉の両耳が、まるで半透明なピンク色のパラソルのようにひろがっている。 「不滅のものなどありえないことを、わたしたちは知っています」と、ネサスがいう。「あなたの種族では、どうか知りません。わたしにはわからないことです。しかし、わたしたちの種族には、不死の要素など何もないのです。科学者がそれを証明しました。わたしたちは、死ぬことがおそろしい。死は永遠のものですから」 「それで?」 「盲点空間の中で、船が何隻も行方不明になりました。超空間駆動《ハイパードライブ》で特異圏に近づくパペッティア人など、いるわけがありません。でも、消失したのです。まだ操縦士が乗っていた時代の話です。|うそつき《ライヤー》号をつくった技師の腕は信頼できます。ですから、船内重力については、万にひとつの怖れもありません。しかし、その技師も、盲点空間をおそれていました」  船内では昼と夜の時間をきめていたが、夜になってもルイスはあまりよく眠れず、夢ばかり見ていたし、昼になるとティーラもルイスも顔を見合わせておたがいにうんざりする、そんな毎日であった。彼女は、少しもおびえてはいなかった。おびえた姿を見ることなどできないだろうと、彼は思った。彼女はただ退屈しきっているだけだった。  居室兼寝室にかくれてみえなかった環《リング》のある星が姿を現したのは、その日の夜まであと三十分というときだった。恒星はまだ小さく白く、太陽《ソル》よりも強烈に輝き、そしてそのうしろに、青鉛筆でひいたような細い空色の線が見てとれた。  一同は、望遠スクリーンのスイッチをいれる〈|話し手《スピーカー》〉のうしろに立って、肩ごしにのぞきこんでいた。ようやくリングワールド内面の青い線を視野にいれると、彼は拡大ボタンを押した!。  ひとつの疑問が生じ、そくざに解けた。 「縁《リム》に何かあるぞ」と、ルイス。 「縁に視点を合わせてください」ネサスが命じた。  環《リング》の縁が、スクリーンの上で拡大されてくる。  その正体は、そこから主星の方向へとそそり立っている側壁だった。陽に照らされた青い世界をバックに、宇宙にさらさられているその黒い外面が、くっきりと見てとれる。低い外壁だ。むろん、低いというのは、環《リング》そのものと比較してのことにすぎない。 「環《リング》の幅が百万マイルなら、この壁は少なくとも一千マイルの高さがある」  ルイスが目測した。 「いや、これでわかったよ。こいつが、大気を保持していたんだ」 「これだけで大丈夫でしょうか?」 「大丈夫なはずだ。環《リング》の回転で、およそ一Gの重力ができている。何千年ものあいだには、いくらかの空気はこの外壁の上をこえて逃げていくだろうが、そいつは補充すればすむ。だいたいこの環《りング》をつくった以上、彼らは、安あがりの物質変換技術をもっていたはずだ──一キロトン一スターにもつかないやつをね──ほかにも何十とある謎は、さておくとしてもだ」 「内側がどうみえるか、知りたいですね」  その声に、〈|話し手《スピーカー》〉が制御盤に手をのばすと、景色が横へずれはじめた。拡大が不充分なので、地表のこまかいところまではわからない。明るい青と、それよりもっと明るい白とが、スクリーン上をすべったと思うと、ぼやけた直線を境として藍色に変わる……。  反対側の縁が視野にはいってきた。ここでは、壁は外側に傾いているようにみえた。  ネサスは、入口の近くに立ち、〈|話し手《スピーカー》〉の両肩の上にひとつずつ頭をのばしていた。 「できるだけ倍率をあげてください」  景色が、グーッと拡大される。 「山だわ」と、ティーラ。「まあきれい」  つまり外壁の内側は、浸蝕された岩のような形につくられ、月の表面のような色をもった不規則な表面でできていたのだ。 「千マイルの高さの山なのね」 「これ以上拡大はきかんぞ。もっとこまかいことを知るには、もっと近づかなければならん」 「まず、住人に連絡することです」と、パペッティア人。 「船はもう停止しましたか?」 〈|話し手《スピーカー》〉は船の頭脳に問い合わせて答えた。 「主星に対し、秒速約三十マイルで接近している。このくらいで充分だろうが?」 「はい。では交信機にむかってください」  レーザー光がやってきていないことは、もうわかっている。  電磁波帯を調べるのは、もっと困難だった。電波、赤外線、紫外線、]線──その全帯域を、リングワールドの暗い底面の出す室温放射から、物質−反物質のペアでもつくれそうな高エネルギーの光量子まで、しらべなければならない。二十一センチ波帯は、からっぽだったし、また、あまりにありきたりなこの水素吸収帯域をさけて、ごくたまに用いられる、その倍数波や分数波も同じだった。  一応のチェックが終わると、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉は、こちらからの一方的な送信にかかった。  |うそつき《ライヤー》き号の翼端にある、通信用の装置をおさめた大きなポッドは、すでにひらかれていた。水素吸収帯域はじめその他さまざまな波長で電波メヅセージが送られ、十種類の周波数のレーザー光線がこっちへ向いている環《リング》の内面全域をなめまわし、さらに核融合モーターを間歇的に噴射して共通語《インターワールド》モールスまでが試みられた。 「何か信号が来ていれば、いずれは船の自動機構《オートパイロット》が、翻訳してくれるでしょう。先方の地上にあるコンピューターも、少なくとも同じくらいの性能をもっていると思わなければなりません」と、ネサス。 〈|話し手《スピーカー》〉が毒づいた。 「おまえのきちがいコンピューターは、この完全な沈黙も翻訳できるのか?」 「送信を、縁の近くに集中しなさい。もしあの世界に宇宙港があるなら、それは縁の近くにあるはずです。宇宙船を離着させるのに、他の場所は危険すぎますから」 〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉は、その〈ますらおことば〉で、何かおそろしい侮蔑のうなり声をあげた。それが効果的に会話を終わらせた。だが、ネサスは、もう何時間も前からクジン人の両肩の上にうかべているふたつの頭を、ピクリとも動かさなかった。  船殻をへだてた向こうには、リングワールドの、縞もようの青いリボンが、待ちうけているのだ。 「あなた、前に、ダイソン 球《スフィア》 のこと話してたわね」ティーラがいった。 「ああ。話そうとしたら、向こうで頭のしらみ[#「しらみ」に傍点]でもとってろってきめつけられたっけ」  ルイスは、ダイソン 球《スフィア》 に関する説明を、船の図書室で見つけ、そのアイデアに狂喜したあまり、カードのひとり遊びを楽しんでいたティーラに説明を試みる愚を犯したのだった。 「いま、それ、話して」  おだてるような口調だ。 「頭のしらみ[#「しらみ」に傍点]でもとっておいで」  彼女は、だまって動かない。 「負けたよ」と、ルイス。  ここ一時間、環《リング》を熱っぽく見つめていたあげく、彼も彼女に劣らず退屈しきっていたのだ。 「ぼくはリングワールドが、一種の妥協の産物だってことをいいたかったのさ。技術的には、ダイソン 球《スフィア》 と、ふつうの惑星を折衷したようなものなんだ。  ダイソンっていうのは、古代の自然哲学者の名だ。小惑星時代《ベルト》以前、いや、原子力以前かもしれない。彼は、文明の発展が、その利用可能なエネルギーによって頭打ちになるということを指摘した。人類が、手のとどく範囲の全エネルギーを利用する道は、太陽のまわりに球形の殻《シェル》をこしらえて、太陽のあらゆる幅射をとらえることにある、と彼は唱えたんだ。  笑うのをやめて、ちょっと考えてみれば、きみにもその意味するものはわかるだろう。地球にあたる太陽の幅射は、その全出力の約二十億分の一にすぎない。もしそのエネルギーのすべてを利用できたら……。  いや、当時としてこれは、けっして突拍子もない思いつきじゃなかった。超光速飛行の理論的な根拠さえ信じられていない時代だ。超空間駆動《ハイパードライヴ》も、われわれが発明したものじゃないことは、知ってるだろう。偶然そいつを発見する可能性もなかった。空間の特異圏外で実験することなど、思いつきもしなかっただろうからね。  もし、アウトサイダー人の船が、国連の無人探査艇《ラムロボット》に出会わなかったらどうなっていたか? 産児制限法がうまくいっていなかったら? 一兆もの人間がすしづめになった上に、ラムシップより速い乗物がないような状態で、しかも核融合動力だけにたよって、どれだけやっていけたろう? 地球の海にある水素なんて、百年で使い果たしてしまったはずだ。  しかし、ダイソン 球《スフィア》 の利点は、太陽エネルギーをあつめることだけじゃない。  例えば、半径一天文単位の球殻をつくるとしよう。いずれ太陽系内は掃除しなきゃならないんだから、そこの全惑星の物質をつぎこんで建設するとする。この場合、殻の厚さは、例えばクローム鋼で数ヤードといったところだ。そこで、その全表面に、重力発生機を装備すれば、これで地球表面の十億倍の面積が手にはいることになる。一兆の人口が、一生のあいだ、ひとりも他人に出会わずに暮らせるくらいの広さだよ」  ティーラが、ようやくロをはさんだ。 「その重力発生機で、あらゆるものを下にとめておくのね?」 「ああ、内側の表面が地面になるわけだ。そこは、全面を土で蔽って──」 「もし、重力発生機のひとつがこわれたらどうなるの?」 「うるさいことをいうね。そう……数十億の人間が、太陽に向かって吹きあげられるだろうよ。大気がまわりから押しよせてくるからね。地球をのみこむほどの大竜巻だ。この種の嵐に遭ったら、修理隊を送りこむのぞみもないだろう……」 「つまんないのね」  断定的な口調。 「結論をいそぐんじゃない。重力発生機を|まぬけ防止式《フールプルフ》にする方法だってあるだろう」 「そんなんじゃないの。内側じゃ、星がみえないでしょう」  その点は、ルイスも、考えたことがなかった。 「気にするなって。ダイソン 球《スフィア》 は、要するに、知性と産業をもったどんな種族も、いずれはそんなものを必要とするようになるという警告なんだよ。工業文明ってやつは、時間とともに大きなエネルギーを使う傾向があるからね。環《リング》は、つまりふつうの惑星と、このダイソン 球《スフィア》 との折衷案なんだ。環《リング》では、球にくらべると、広さも、受ける太陽エネルギーも、ずっと少なくなる。だが、そのかわり星はみえるし、重力発生機の故障を気にやむ必要もない」  操縦室のほうから、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉の、何やらこみいった咆哮がひびいてきた。船内の空気を毒に変えるほどのすさまじさである。ティーラがまた、たまりかねたように笑いだした。 「もしパペッティア人が、ダイソンと同じように考えてるとしたら」と、ルイスはつづける。「マゼラン雲に着いたとき、そこが端から端までリングワールドだらけになっている事態を予想しても、少しもおかしくはないだろうね」 「だから、あたしたちにお声がかかったってわけね」 「パペッティア人の考えの肩をもつのは気がすすまないが、ほかに考えようがなければ、そうするしかあるまい」 「ずいぶんお勉強してたことはわかるわ」 「けしからん!」クジン人がどなった。「これは侮辱だ! やつらは、故意にわれわれを無視しているのだ! わざと背を向けて、攻撃をさそっているのだ!」 「そんなことがあるものですか」と、ネサス。「電波がとらえられないのは、先方が電波を出していないからです。電波レーザーを日常使っているだけでも、わたしたちは、そこからの洩れを探知できるのですから」 「やつらは、レーザーも使わなければ、電波も使わなければ、超空間波《ハイパーウエイヴ》も使わないのか。では、何で通信するのだ? テレパシーか? 字を書いてとどけるのか? 大きな鐘でも使うのか?」 「オウム[#「オウム」に傍点]を使うのさ」ルイスが、操縦室の入口まで立っていって、口をだした。「でっかいオウム[#「オウム」に傍点]で、特別のえさで肺を大きくしたやつをね。でかすぎて飛べないから、山のてっぺんにとまって、大声で鳴きあうんだ」 〈|話し手《スピーカー》〉がふりかえって、ルイスを見つめた。 「四時間にわたって、おれはリングワールド人と連絡をつけようとした。その四時間のあいだ、やつらはおれを無視しつづけた。軽蔑しておることは確実だ。ただひとことの返事もよこしておらん。わが筋肉は運動不足のためうちふるえ、わが毛皮はもつれ、わが目は焦点を定めず、わが呪われたる居室はせまくるしく、電子ヒーターの目盛りは狂ったまま固定して、直すこともできぬ。ルイス、おぬしのいまのことばが、ただひとつの救いであったぞ」 「リングワールド人は、文明を喪失したのでしょうか?」  ネサスは考えこんだ。 「いくらなんでも、そんなことはありえないと思いますが」 「死滅しているかもしれんぞ」〈|話し手《スピーカー》〉が底意地の悪い口調でいった。「これもありえないことかな? そもそも、連絡してこないというのが、ありえないことなのだ。この上は、着陸してたしかめなければならん」  ネサスは、おびえあがった高い笛のような声をあげた。 「着陸ですと? 土着の生命体を死滅させたかもしれない世界に? 気でも狂ったのですか?」 「ほかに方法があるか?」 「あるもんですか!」  ティーラが味方した。 「わざわざここまでやってきて、ただまわりを飛ぶだけなんて、まっぴらだわ!」 「いけません。〈|話し手《スピーカー》〉、リングワールドへの通信をつづけなさい」 「もうこれだけやれば、たくさんだ」 「もう一度やるのです」 「絶対にやらんぞ」  ルイスが調停役を買って進みでた。 「まあ気をしずめろよ、毛皮の親分。ネサス、彼のいうとおりだぜ。リングワールド人には、通信の方法がないんだ。そうでなきゃ、もう何かわかってるはずだよ」 「しかし、通信の試みをつづけるほかに、何ができますか?」 「本来の探険の仕事を進めるのさ。リングワールド人に、こっちの通信をどう扱うか、もう少し考える時間をくれてやろうぜ」  しぶしぶとパペッティア人は同意した。  船は、リングワールドへ向かって、徐々に接近していった。 〈|話し手《スピーカー》〉は、|うそつき《ライヤー》号を、リングワールドの外縁をかすめる方向に向けていた。その点はネサスにゆずったかたちだ。  パペッティア人は、船がもし環《リング》の中をつっ切ったら、いるかもしれないリングワールド人に脅迫ととられるだろうことを、怖れているのだった。彼はまた、|うそつき《ライヤー》号の核融合モーターが、武器のようにみえることを心配し、そのため船は、スラスター駆動のみを使っていた。  目でみただけでは本当のスケールはわからない。数時間にわたって、環《リング》は次第に向きを変えていった。じれったくなるほどの遅さだ。推力ゼロから三十Gの範囲だと、船内重力の補償作用は完璧で、内耳では動きの気配すらも感知できない。  空虚な時間が過ぎ、そしてルイスは、地球を離れてからこのときはじめて、爪でもかみたい衝動にかられていた。  ついに環《リング》が、|うそつき《ライヤー》号へ、その側面をあらわにした。 〈|話し手《スピーカー》〉はスラスター駆動で船にブレーキをかけ、主星をめぐる円軌道にのせた。ついで縁《リム》に向かって近づいていく。  いまや、その動きが、はっきりとみえてきた。  リングワールドの縁が、いくつかの星をかくすぼんやりした線から黒い壁へと成長した。高さ一千マイルのその外壁は、のっぺらぼうにみえたが、おそろしい速さで動いているために、ぼやけているだけかもしれない。いまや距離およそ五百マイル。空を九十度の幅で蔽いかくす壁面が、秒速七百七十マイルという猛スピードで走り過ぎていく。  壁の上下の線は、左右の|消 失 点《ヴァニシング・ポイント》へ収束しているが、その点がともに宇宙の無限の果てにあるようにみえる。しかも、その無限遠にあるふたつの点から、空色の二本の線が、まっすぐ上方へのびているのだ。  消失点を見つめていると、別の宇宙にひきずりこまれるような気分になる。直角とその他いくつかの性質だけをもった、一次元の直線宇宙だ。  ルイスは催眠術にかけられたように、消失点に目をすえていた。  あの点は、いったいどっちの点なのだ? 黒い壁は、あそこから湧きだしているのか、それともあそこへ吸いこまれているのだろうか?  ……すると、その無限に遠い点から、何かがこっちへ向かってきた。  台のような張り出しだ。外壁の基底と平行に、何か抽象模様めいた感じでつき出ている。まず、その張り出しが目にとまり、ついでその上面に垂直な輪《ループ》が立ち並んでいるのがわかった。その輪がまっすぐ|うそつき《ライヤー》号へ、そしてルイスの鼻先へと突進してくる。ルイスは思わず目を閉じ、両手で頭をかかえた。誰かがヒュウと恐怖の息をつくのが聞こえた。  その瞬間に、死が訪れていたはずだった。それがやってこないとわかって、彼は目をひらいた。船のすぐ下を、輪《ループ》の列が、定常流となって飛び過ぎていく。輪の大きさは、直径五十マイルもないくらいだろう。  ネサスは、ボールのようにまるまっていた。ティーラは透明な船殻に手のひらを押しあてて、むさぼるように外を眺めている。〈|話し手《スピーカー》〉は怖れも感じないふうで、制御盤を操作していた。たぶん彼のほうが、ルイスよりも、距離の目測が得手なのだろう。  それとも、ただ虚勢を張っているだけなのだろうか。さっき恐怖の声をもらしたのは、〈|話し手《スピーカー》〉だったかもしれない。  ネサスが、からだをほどいて起きあがった。彼が外を見たとき、並んでいる輪は前よりも小さく、間がつまってきていた。 「〈|話し手《スピーカー》〉、リングワールドに、速度を合わせてください。一Gで加速して、位置関係をたもつのです。この輪の列は、宇宙港《スペイスポート》にちがいありません」  いわゆる遠心力というのは、仮想的なもので、慣性の法則のひとつの現れにすぎない。実在するのは、その物体の速度ヴェクトルと直角方向に働く求心力のほうで、それに対し、直線的に運動をつづけようとする物体が抵抗するわけである。  リングワールドは、その速度と慣性のため、つねに飛び散ろうとしている。だが、強靭な構造がそれを許さない。リングワールドは、この遠心力に堪えて回転しているのだ。これに対し、|うそつき《ライヤー》号は、秒速七百七十マイルに合わせたとき、求心力でそれに同調していかなければならないことになる。 〈|話し手《スピーカー》〉がその操作をした。|うそつき《ライヤー》号は、外壁と並んで浮かび、〇・九九二Gの推力でバランスをたもつ。そうしながら、一同はこの宇宙港《スペイスポート》をしらべにかかった。  宇宙港の張り出しは、見たところひどく細く、直線のようにみえたが、〈|話し手《スピーカー》〉が船を近づけるにつれて大きくひろがり、やがてその広い台の上に、豆つぶのような二隻の宇宙船が横たわっているのがみえた。それは両方とも同じような、端のたいらな円筒形で、見なれない設計ではあるが、明らかに核融合ラムシップの形状だった。つまり、恒星間水素を電磁場の力で集束《スクーブ》することで燃料を補給しながら航行する船なのである。一隻のほうは、部品を利用するために解体されており、内部が真空にさらされたかたちで、構造がむきだしになっているようにみえた。  手をつけられていないほうの船の一端を、窓がグルリととりまいているので、それによってだいたいの大きさが想像できる。時おり星の光をうけてキラリと光るのが、ちょうどケーキの上に砂糖の結晶をばらまいたような感じだ。  数千もの窓。この船は巨大だった。  そして、暗い。宇宙港全体が暗いのだ。  たぶんここを使用している生物が、「可視」範囲の周波数の光を必要としないのだろう。しかし、ルイス・ウーには、どうもこの宇宙港が、もはや使われていないもののように感じられた。 「あの輪はいったい何なの?」と、ティーラ。 「電磁|砲《カノン》みたいなものさ」ルイスは、うわの空で答えた。「出航用のね」 「ちがいます」ネサスがいった。 「ハァン?」 「電磁砲は、到着用にちがいありません。使いかたを推測することも可能です。船はこの外壁に沿って進入します。速度を合わせる必要はなく、ただ外壁の下端から二十五マイルの距離に位置をとればいいのです。環《リング》が回転して、あの電磁砲のコイルが船をつかまえ、加速して、環《リング》の速度に合わせます。まことに、これを設計したリングワールドの建設者には感心しますね。船は危険なほど外壁に近づく必要もないのですから」 「輪《ループ》を出航用に使うことだって、できるだろう」 「いいえ。左のほうにある仕掛けを見てください……」 「カホナ! 一本まいったよ」と、ルイス。  その『仕掛け』とは、ちょうどあのラムシップ一隻がはいるくらいの大きさの、落とし戸のようなものであった。  たしかに、理屈に合っている。秒速七百七十マイルというのは、ラム集束《スクープ》モーターの使えるスピードだ。出航設備は、単に船を空間へすべり出させる仕掛けにすぎなかった。船はすぐさまラムスクープによる核融合モーター加速をはじめることができる。 「宇宙港の設備は、使われていないようだな」〈|話し手《スピーカー》〉がいった。 「動力は探知できないのか?」 「このメーターには何も出ていない。とくに熱をもっている場所もないし、大規模な電磁気の動きもない。あの直線《リニア・》|加速機《アクセレーター》を発動させる検出装置があるにしても、それもこちらで感知できないほどの出力しか使っていないということだ」 「何かいい考えは?」 「装置自体は、まだ生きているかもしれん。それは、あの直線《リニア・》|加速機《アクセレーター》の輪の中へ進入してみればわかるだろう」  ネサスが、また、ボールのように丸くなった。 「うまくいかないだろうな」と、ルイス。「あれを作動させる特別な信号があるかもしれないが、こっちにはわからない。金属の船体にしか反応しないかもしれない。リングワールドの速度でとびこんだら、輪にぶつかって、何もかもふっとばしてしまうだけだろう」 「これと似たような条件の実戦訓練で、船を飛ばしたこともあるのだぞ」 「昔のことだろ?」 「かなり昔だな。まあいい。おまえはどう思う?」 「環《リング》の底へまわってみよう」と、ルイス。  パペッティア人が、すぐにからだをほどいて立ちあがった。  船は、リングワールドの底面の下に、速度を合わせ、外向きに毎秒九・九四メーターの推力を加えながら浮かんでいた。 「照明をあててみなさい」と、ネサスがいった。  五百マイルかなたの面へ、投光器が向けられた。だが、その光がとどいているにしても、もどってはこなかった。何といっても、着陸用の照明にすぎないのだ。 「おまえのところの技術者は、信用できんな。え、ネサス?」 「こういう特殊な事態にも即応することまでは、考えていなかったのでしょう」 「おれは考えているぞ。おれなら、リングワールドを照らしてみせる。核融合モーターを使うのだ」 「そうしてください」 〈|話し手《スピーカー》〉は、四つ同時に点火した。前向きの二基と、後向きの大きな二基である。ただし前の二基は、もともと緊急制動用ないしは武器として使われるもので、〈|話し手《スピーカー》〉はそのノズルを、できるかぎり広角にひらいた。  反応管内の水素の流れが早くなりすぎ、不完全燃焼のまま放出される。核融合チューブの温度はグッと低下し、ふつうなら新星の核よりも高温の排気が、今は黄色矮星の表面ほどの低さだ。光だが、二条の槍のように、リングワールドの漆黒の下面をさしつらぬいた。  まずわかったのは、下面が平坦でないことだった。起伏している。いたるところ、ふくらみとくぼみがみえるのだ。 「たいらだとばかり思ってたのに」ティーラが叫んだ。 「型になってるんだ」と、ルイス。「賭けてもいい。あのふくらんだところが、表側では海なんだ。へこんだところは山なんだ」  だが、その起伏はいかにも小さく、もっと近づいてみなけければ、はっきりとしたことはいえそうにない。|うそつき野郎《ライイング・バスタード》号は、リングワールドの底面へ五百マイルの距離をたもちながら、その縁から中央へと進入していった。ふくらみと凹みが後方へ流れ去っていく。まったく不規則で、見ていると楽しくなるほどだ……。  もう何世紀も前から、地球の月の表面では、観光用の宇宙船が、それと同じようにして遊弋したものだった。状況は、こことかなりよく似ている。月の夜の側では、そうした船が必ず備えている強力な投光器によって、空気のない地表の凸凹が、黒と白の截然たる境界をなして浮かびあがるのである。  だが、むろんちがうところもあった。月面では、どんな高度をとっているにしろ、黒い宇宙へ向かって鋭い鋸歯のような輪郭をみせながらゆるく湾曲している月の地平線が見えるからだ。  このリングワールドの地平線には、鋸歯も湾曲もない。そこにあるのは、想像を絶するほどかなたの直線、それもまさに幾何学的直線が、黒と黒の境界として、かすかにみとめられるばかりだ。  こんな光景に〈|話し手《スピーカー》〉はどうして耐えられるのだろう? ルイスは畏怖を感じずにはいられない。  一時間、また一時間……|うそつき《ライヤー》号は、この、まぎれもない〈構築物〉の底面の下をくぐって進みつづける。  ルイスは胴震いをおさえることができなかった。徐々に、この眺めのスケール、リングワールドの本当の大きさが、彼にものみこめてきたのだ。愉快な気持ではなかった。何によらず、ものがわかってくる[#「わかってくる」に傍点]というのは、こういう気分のものだ。  彼はつとめて、おそるべき地平線の眺めから視線をそらし、眼下の、いや頭上の、照明のあたった地域に心を集中した。  ネサスがいいだした。 「海の大きさが、どれも同じくらいの規模ですね」 「池みたいのもあったわよ」ティーラが反駁する。「それに──ほら、河がある。河にちがいないわ。でも、とくベつ大きな海はないみたいね」  無数の〈海〉を、ルイスも見ていた──もし彼のいうとおり、ふくらみの部分が海だとしたらだが。それらは、全部が全部同じ大きさというわけではないが、ちょうど均等に分布しているようで、とくに水不足の地域はなさそうだ。しかも──。 「たいらだ。どの海も、底が平坦になってる」 「はい」と、ネサス 「これでひとつわかったぞ。海が浅いということは、リングワールド人が、水棲じゃないってことだ。彼らは海の上っつらを利用するだけなんだ。ぼくらと同じにね」 「でも、どの海も、ずいぶんゆがんだかたちをしてるわね」ティーラがいった。「それに、縁のかたちもギザギザ。これ、どういうわけなの?」 「湾だな。湾ってのは利用できるもんだ」 「つまり、リングワールド人は、陸の住人であるけれども、船には乗るということですか」と、ネサス。「そうでなければ、湾の必要はありません。ルイス、ここの住人は、きっと地球人とよく似た外見をもっていますよ。クジン人は水がきらいですし、わたしの種族は溺れるのをこわがりますから」  この下面を見るだけで、ずいぶんいろいろなことがわかってくるものだ、とルイスは思った。いつかこのテーマで論文でも書くとしようか……。  ティーラがいった。 「自分の思うとおりに世界をつくれるなんて、すばらしいわ」 「もとの世界がきらいになったのかい?」 「わたしのいう意味は、わかるでしょう」 「権力志向かい?」  ルイスのほうは驚異を求めているばかりで、その種の力に対しては無関心だった。創造的な人間ではない。自分では何もつくらず、観察をたのしむほうなのである。  前方に何かがみえてきた。グッと大きなふくらみ……そしてそれにひれ[#「ひれ」に傍点]のついているのが、出力を絞った核融合の照明の中で黒く影をおとしてみえる。それも、数千平方マイルに及びそうな広さだ。  これまで見てきたのが海なら、これは大洋だった。それもあらゆる大洋の王者だ。どこまでも果てしなく続き、しかもその底は平坦ではない。ちょうど等高線をいれた太平洋の地図のようだ。谷あり尾根あり、深浅さまざまで、たぶん島になっていると思われるほどの海嶺もある。 「海に生物を住まわせてるんだわ」  ティーラが推測した。 「ひとつだけは、深い大洋をつくったわけね。ひれ[#「ひれ」に傍点]は、深い海の底を冷やすためよ。放熱用なんだわ」  深さはともかく、広さでは、地球をそっくりのみこんでしまうほどの大きさだ。 「これでもう充分だろう」ふいにクジン人がいいだした。「では、これより内側の面を見にいこうではないか」 「その前に、計測をおこなわなければなりません。環《リング》が真円かどうか? わずかな狂いがあっても、大気は宇宙へ洩れていってしまいますから」 「大気があることはわかっているのだぞ、ネサス。また、表面の海の分布を見ても、環《リング》が真円かどうかはすぐわかる」  ネサスは一本まいったようだ。 「よろしい。向こうの縁へ着いたら、すぐ内側へまわりましょう」  隕石孔があった。数多くではないが、たしかにそれである。リングワールド人は、この太陽系をすっかりきれいにすることができなかったのだろうか、とルイスは考えてみた。だが、そんなはずはないだろう。たぶん、系外の星間宇宙から飛来したものであろう。円錐形のクレーターがひとつ、光芒の中に浮かびあがり、その底面が、キラリと光るのをルイスはみとめた。何か光を反射するものがあるのだ。  環《リング》を構成している物質が、むきだしになっていたにちがいない。中性微子《ニュートリノ》を四十パーセントもさえぎる密度と、そしておそるべき強度をもつと思われる物質だ。その|環の床面《リングフロア》の上、つまり内側には、土や海や都市があり、その上に大気層がある。床面《フロア》の下つまり外側では、たぶん発泡プラスティックのような、やわらかい物質が、隕石の直撃をうけとめているのだ。隕石の大部分は、その厚いプラスティック層の中で蒸発してしまうのだろう。しかし中には、それをつきぬけて、光る平坦な底をもった円錐形の穴を残すものもあるのだ。  リングワールドの回転していく方向はるかかなたの、そのわずかな曲率による地平線に近いあたりに、ルイスはひとつのくぼみを見つけた。巨大な隕石孔にちがいない。あれほど遠いのに、星の光で見わけられるほどの大きさだ。  しかし彼は、そのくぼみのことを、誰にもいわなかった。彼の目と心は、まだリングワールドの巨大なスケールに慣れていなかったのである。 [#改ページ]      9 |遮 光 板《シャドウ・スクエア》  もえたつG2型恒星が、黒い直線をなす環《リング》の縁の向こうから、姿をみせた。それがあまりに明るすぎたので、〈|話し手《スピーカー》〉は偏光装置に手をのばした。これでルイスも、その円盤像を直視できるようになり、見ていると、円弧の一部が直線で切りとられているのがわかった。|遮 光 板《シャドウ・スクエア》のひとつだ。 「注意してください」ネサスがいう。「環《リング》と速度を合わせたまま、内側のほうへ出ていったら、必ず攻撃をうけます」 〈|話し手《スピーカー》〉の返事は、モゴモゴと、うなるような口調だった。何時間も、馬蹄形の操縦席にすわりきりで、疲れていたのかもしれない。 「どんな武器で攻撃されるというのだ? リングワールドには、電波を出す設備もないことが、わかっているのだぞ」 「通信の形式については、何も推測はできません。たぶんテレパシーか、あるいは環《リング》の床を媒体とする共振か、あるいは有線の電気通信ということもあります。同じように、彼らの武装についても、何もわからないのです。内側の表面に出ていったら、わたしたちは、おそるべき脅威と見なされるでしょう。あるかぎりの武器で攻撃してくるにきまっています」  ルイスがうなずいて同意を示した。生まれつき用心ぶかいわけでもなく、リングワールドへの興味で胸ははちきれそうだったが、それでも、パペッティア人のいいぶんが正しいと感じたからである。  表面の上空にある船は、いわば隕石と同じだ。しかも大きい。こんなものが、しかもふつうの軌道速度で飛びこんできたら、これは怖るべき脅威だろう。大気の上層に一度触れたがさいご、それは秒速数百マイルの速さで突入し、地表に激突するはずだ。  軌道速度より速く動きながら、駆動によってその回転に合わせて飛んでいるなら、脅威は少ないだろうが、反面それだけ確実な危険を孕んでいるともいえる。もしその動力が故障したら、「遠心力」のため、船は外方すなわち下方の居住地帯を直撃することになるからだ。リングワールド人が、隕石の脅威を軽視しているはずがない。環《リング》の床面にひとつ孔があいただけでも、この世界の大気は、ぜんぶそこから洩れて、星間宇宙へ噴きだしていってしまうのである。  制御盤から〈|話し手《スピーカー》〉がふり向いた。とたんに、パペッティア人のふたつの頭と、まっ正面から向かいあうかたちとなった。 「では、どうしろというのだ?」 「まず、船の速度をゆるめて、軌道速度に合わせてください」 「それから?」 「太陽の方向へ加速するのです。環《リング》の居住表面も、下方へ遠ざかっていくところが観察できるでしょう。目標は、あの|遮 光 板《シャドウ・スクエア》です」 「そういう用心は、不必要でしかも恥さらしだ。|遮 光 板《シャドウ・スクエア》などを見ても何にもならんぞ」  カホナ! ルイスは心の中で舌うちした。  くたびれて、腹も減っているのに、またもや異星人の仲裁を買って出なければならないのだろうか? そういえば、もうずいぶん長いあいだ、誰ひとり食事も睡眠もとっていない。ルイスが疲れているのだから、クジン人は消耗しきって、いつもよりもっと喧嘩っぱやくなっているだろう。  パペッティア人がしゃべっている。 「|遮 光 板《シャドウ・スクエア》をしらべることは大切です。その表面は、リングワールドそのものよりも多量の太陽光線をうけます。これがリングワールドに動力を供給する、理想的な熱電発生機になっているかもしれません」  クジン人が〈ますらおことば〉で、悪意にみちたうなり声をあげた。だが、共通語《インターワールド》に切りかえたその語調は、ふしぎなほどおだやかだった。 「それは理由にならんぞ。リングワールドの動力源など、どうでもよいことだ。必要なら着陸して、原住民を見つけだし、動力のもとについて聞きただせばすむ」 「着陸は許可しません」 「おれの操縦の腕を疑うのか?」 「わたしの指揮権に文句があるのですか?」 「おまえがそれをいうなら──」 「わたしはまだ、タスプをもっていますよ、〈|話し手《スピーカー》〉。わたしのことばひとつで、|のるかそるか《ロングショット》号と、その第二量子域《セカンド・クワンタム》の超空間駆動《ハイパードライヴ》の行方がきまるのです。この船では、わたしが絶対権をもっています。そのことを、よくわきまえて──」 「ちょっと待った」と、ルイス。  ふたりがいっせいにふりかえる。 「まだその議論は早すぎるよ。ひとつ、|遮 光 板《シャドウ・スクエア》に望遠鏡を向けてみたらどうだい? それで実際に見きわめるほうが、ただいがみあってるよりは収穫も大きいし、第一、そのほうがずっと楽しいぜ」  ネサスはふたつの頭を向かいあわせて、たがいに見つめあった。クジン人は、爪をひっこめた。  ルイスはつづける。 「それより、正直なところ、みんな、もうヘトヘトなんじゃないのか? くたびれて、腹をすかして、これで戦《いく》さができるもんか。ぼくは一時間ほど、睡眠セットにはいるぜ。みんなもそうしたほうがいいと思うね」  ティーラが、愕然とした表情でいった。 「見ていたくないの? これから、内側の世界がみえるっていうのに!」 「なら、見ていて、何があったかあとで教えてくれよ」  そういいすてて、ルイスは踵をかえした。  目がさめたときは、空腹で目がまわりそうだった。だが、そそくさと就寝プレートからとびだしたあとは、|軽 食《ハンドミール》をダイアルする時間も惜しく、出てきたのをつかんでひと口かぶりつくと同時に、彼は休憩室《ラウンジ》へとびだしていった。 「どうなってる?」  ティーラが、読書スクリーンの向こうから、つめたくいいはなった。 「もうすっかり終わったわ。スレイヴァー人の船や、|霧の悪魔《ミスト・デーモン》や、|宇宙の悪龍《スペイス・ドラゴン》や、|人食い星間種子《カンニバル・スターシード》なんかが、いちどきに襲いかかってきたのよ。〈|話し手《スピーカー》〉が、素手でそいつらを片づけてくれたわ。見てれば面白かったのに」 「ネサスは?」  パペッティア人の返事は、操縦室からもどってきた。 「〈|話し手《スピーカー》〉とわたしは、まず|遮 光 板《シャドウ・スクエア》へ向かうことに意見が一致しました。〈|話し手《スピーカー》〉は、いま寝ています。もうすぐ邪魔ものの何もない宇宙へ出ますよ」 「何か目新しいことは?」 「いろいろあります。見てごらんなさい」  パペッティア人は、望遠スクリーンに手をのばした。クジン語の文字を学んだことがあるらしい。  望遠スクリーンにうつしだされた眺めは、はるか高いところから見おろした地球の表面とよく似ていた。山、湖、谷、河、それに砂漠のような大きいむきだしの地域など。 「砂漠かな?」 「そのようです、ルイス。〈|話し手《スピーカー》〉が、温度と湿度のスペクトルをとりました。どうみても、リングワールドは、未開へ逆もどりしたとしか思えません。少なくとも部分的には、そのはずです。そうでなければ、どうして砂漠などできるでしょう?  環《リング》の反対側にも、もうひとつ大きな塩水の海がありました。こっち側にあるのと同じくらいの大きさです。スペクトルが、塩分を示しています。たぶん、多量の水のバランスをとるために必要だったのでしょう」  ルイスは、手の中の|軽 食《ハンドミール》に、またひと口かぶりついた。 「あなたの提案はとても有益でした」ネサスが念をおすようにいう。「〈|話し手《スビーカー》〉もわたしも、異星人と交際の訓練をうけていますが、あなたには及びもつきません。望遠鏡を|遮 光 板《シャドウ・スクエア》に向けてみた結果、〈|話し手《スピーカー》〉も、そばへいってみることに同意しました」 「ほう? どうして?」 「奇妙なところがあるのです。|遮 光 板《シャドウ・スクエア》は、あの位置の軌道速度よりも、かなり早く動いているのです」  ルイスは思わず食事をかむ口をとめた。 「ありえないことではありません」パペッティア人がつづける。「|遮 光 板《シャドウ・スクエア》が、楕円軌道をとっているのだとも考えられます。べつに主星からの距離が一定である必要はないわけですから」  ルイスは、口の中のものをむりやり呑みこんだ。 「そんなことがあるもんか。一日の長さが変わっちまうぜ!」  ティーラがいった。 「それで夏と冬をつくることも考えてみたの。夜を長くしたり短くしたりしてね。でも、それでもやっぱりおかしいのよ」 「あたりまえさ。|遮 光 板《シャドウ・スクエア》は軌道を一巡するのに、一ヵ月以下しかかからない。三週間の一年なんて、とんでもない話だ」 「わかったでしょう」と、ネサス。「わたしの星系からの観測では、このような異常は小さすぎて見つかりませんでした。主星の近くでは、重力が変則的に強くなって、軌道速度を増しているのでしょうか? いずれにしても、あの遮光物質を、そばへよってしらべることが得策でしょう」  |遮 光 板《シャドウ・スクエア》の黒いシャープな影が、陽をかげらせてひとつずつ通りすぎていくにつれて、時間も刻々と経っていった。  ようやくクジン人が個室から姿をみせて、休憩室《ラウンジ》にいる人間ふたりと丁重なあいさつをかわし、それからネサスといれかわって、操縦室にはいっていった。  はいったと思うと、とびだしてきた。べつにどなり立ててはいない。だが、そのおそろしい目ににらみすえられて、パペッティア人があとじさりするのを、ルイスは目にとめた。 〈|話し手《スピーカー》〉は、まさしく相手を殺しかねないけんまくだった。 「まあ、まあ」  ルイスは、やむをえずあいだにはいった。 「どうしたというんだ?」 「この、草食いめが!」  クジン人は、怒りに口もきけないほどだ。 「この精神分裂の督戦隊めが、おれの眠っているあいだずっと、最少燃料軌道で船を進めおったのだ。この割合だと、|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の並んでいる軌道までいきつくのに、四ヵ月もかかってしまうぞ」 〈ますらおことば〉による悪罵が、ひとしきりそれにつづいた。 「船をその軌道にのせたのは、あなたですよ」パペッティア人が、おだやかにいいかえした。  クジン人の声は、一段と大きくなった。 「内側のもようをなるべく長く眺めるため、リングワールドからゆっくり離れていくようにしたのだ。それからまっすぐ、|遮 光 板《シャドウ・スクエア》へ向けて加速すれば、数ヵ月ではなく数時間で到着できたのだ!」 「そんなに怒鳴ることはありませんよ、〈|話し手《スピーカー》〉。いま加速をはじめたら、船の軌道がリングワールドを横切るかもしれません。それは避けたいことです」 「太陽に進路をとればいいのよ」と、ティーラ。  みんな、いっせいに彼女のほうをふりかえった。 「もしリングワールド人が、この船のぶつかることを心配しているとしたら、たぶんコースを測定しているはずよ」ティーラは、かんでふくめるように説明する。「だから、まっすぐ太陽の方向へ進んでいれば、危険はないってことになるでしょう。わかって?」 「それなら大丈夫だな」と、〈|話し手《スピーカー》〉。  パペッティア人は、ブルッと身をふるわせた。 「あなたが操縦士です。好きなようにやりなさい。しかし、いっておきますが──」 「本当に太陽にとびこんだりはしない。|遮 光 板《シャドウ・スクエア》のところへ着いたら、それに速度を合わせるのだ」  クジン人は足音も荒く操縦席へもどっていった。クジン人の足が大きな音を立てるというのは、よほどのことである。  ただちに船は、環《リング》と水平に向きを変えた。何も起こっている気配はない。クジン人が、前にいわれたとおり、スラスター駆動を使っているからだ。まず船の軌道速度をゼロにまで落として、太陽へ自由落下の状態にし、ついで船首を内側へ振り向けると、速度を加えはじめた。  幅ひろい青い帯のようにみえるリングワールドのあちこちに、白く光る雲が、ひだになったり、こんもり固まったりしている。それは今や、目にみえて後退しはじめた。 〈|話し手《スピーカー》〉はかなり急いでいるようだ。  ルイスは、モカの壜《バルブ》をふたつ、ダイアルすると、ひとつをティーラに渡した。  クジン人が腹を立てた理由が、彼にはよくわかっていた。リングワールドがおそろしいのだ。いずれ着陸しなければならないことはわかっている……彼は、神経がまいってしまう前に、それをすませてしまいたいという、死にものぐるいの欲求にかられているのにちがいなかった。  その〈|話し手《スピーカー》〉が、今は休憩室《ラウンジ》にもどっていた。 「あと十四時間で|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の軌道に着くぞ。ネサス、われら誇り高き戦士の一族は、幼時より忍耐を教えられてきた。それも、おまえたち草食いのような、ただじっとしているということではないのだ」 「船が動いてるぞ」  ルイスがつぶやいて、腰をあげた。船首がいつのまにか、太陽の方向からそれかけているのだ。  ネサスが金切り声をあげてとびあがった。そのからだが、休憩室《ラウンジ》をひとっとびに横切って、まだ床に着かないうちに、|うそつき《ライヤー》号は、まるで船自体が一個の閃光電球《フラッシュ》と化したような光輝につつまれ、グラッとよろめいた──。  ──断絶──  ──よろめいたのが、船内重力があるにもかかわらず、はっきり感じられた。ルイスは、椅子の背をつかんで、それにすがりついた。ティーラはおそろしく正確に自分の緩衝席のどまんなかへ倒れこみ、パペッティア人はボールのようにまるくなって、壁にぶつかった。  あたり一面、すみれ色の強烈な輝き。  断絶の暗黒の一瞬が過ぎると、まるで紫外線灯のような光輝が船を包んでいたのだ。  外からの光、船殻の外からくる光だ。 〈|話し手《スピーカー》〉は、|うそつき《ライヤー》号の目標を定め、あとを自動操縦機構《オートパイロット》にゆだねたのにちがいない。そこで、自動機構《オート・パイロット》のほうは、与えられたコースを点検し、その正面にある太陽を、大きすぎて危険な宇宙塵と判定して、回避のコースをとりはじめたのだろう、とルイスは思った。  船内重力は、もう正常にもどっている。ルイスは、床から身をおこした。怪我はない。ティーラも見たところ何ともないようだ。彼女は壁のところに立ち、船尾へ向かって、すみれ色の輝きの中をすかし見ていた。 「装置の半分が、駄目になっているようだ」と、〈|話し手《スピーカー》〉がいった。 「じゃ、半分なくなったのね」と、ティーラ。「翼がなくなってるんだもの」 「なんだと?」 「翼がなくなったの」  そのとおりだった。同時に、その両翼についていたスラスター駆動盤、核融合装置、通信機器ポッド、着陸装置なども消えていた。船殻は、まるできれいに磨かれたようだ。ゼネラル・プロダクツ製の船殻に保護されているもの以外は、いっさい拭い去られたように姿を消していた。 「射たれたのだ」と、〈|話し手《スピーカー》〉。「そして今も射たれている。たぶん]線レーザーだ。本船はいま戦闘状態にある。よって、今からおれが指揮をとる」  ネサスの抗議はなかった。彼はまだ、まるくなったままだ。ルイスが、そばに膝をついて、両手でそのからだをさぐった。 「異星人を診《み》たことなんて一度もないんだぜ。怪我をしていても、わかりやしない」 「やつはおびえただけだ。自分のからだのかげにかくれようとしているのだ。おまえとティーラで、ベルトをかけてやれ」  その命令に唯々として従いながら、ルイスはべつにそれを意外にも思っていなかった。自分のからだがいうことをきかないほどふるえている。一瞬前に堂々たる宇宙船だったものが、いまや太陽に向かって落下する一本のガラス針と化してしまったのだ。  ふたりがかりでパペッティア人をもちあげ、その席におとしこむと、緩衝ネットをしっかりとかけた。 「彼らは平和な種族ではない」と、クジン人。「]線レーザーは、まぎれもなく戦争のための兵器だ。この絶対に破壊されぬ船殻がなければ、われわれは死んでいたところだぞ」  ルイスがいった。 「スレイヴァー式停滞フィールドが作動したんだろうな。どれだけの時間、ぼくらがその中にいたかはわからないが」 「二、三秒よ」ティーラが口をだした。「あのすみれ色の光は、船の翼が蒸発した霧が、螢光を発してるんだと思う」 「レーザーに励起されてか? なるほど。だんだんうすれていくようだな」  たしかにその光は、前よりかなり弱くなっていた。 「自動装置が、かくも守勢一本であったのは残念だ。パペッティア人は、攻撃用の武器の配置のことなど、何も考えておらんのだ!」と、〈|話し手《スピーカー》〉。「せっかくの核融合モーターすらも、翼につけてあったとは。しかも敵はまだ射ってくる! だが、クジン人を攻撃をするとどんなめにあうか、思い知らせてやるぞ」 「おい、おりていって、やっつけるつもりかい?」 「そうだ」 〈|話し手《スピーカー》〉には、皮肉など通用しない。 「どうやっておりるんだ?」ルイスは一喝した。「何も残ってないことが、わからないのか? 超空間駆動《ハイパードライヴ》と、生活シスアム。ここにあるのはそれだけだ! 姿勢制御ジェットも残っていない。これで戦争をやらかそうなんて、誇大妄想もいいところだよ!」 「と、敵は考えておる。彼らには、何もわからず──」 「敵って、何だ?」 「──わがクジン族に戦いを挑む──」 「自動装置だよ、この間抜け! 敵だったら、こっちが射程距離にはいったときに、射ってきたはずだろうが!」 「まったく予想外の戦略で、おれもふしぎに思ったぞ」 「自動装置だったら! 隕石破壊用の]線レーザーなんだ。環《リング》にぶつかる可能性のあるものは、何でも射ちおとすようにプログラムされてるんだ。船の自由落下軌道が、環《リング》に向かったとたんに、ピカッ! レーザーさ」 「それこそ……いや、なるほど」  クジン人は、制御盤の役立たずになった部分の、スイッチを切りはじめた。 「しかし、敵がおらんというのは気にくわんな」 「そうだろうとも。相手がはっきりしているほうが、ずっとましだよな」 「船のコースが、環《リング》をはずれていると、もっとましなのだがな」  クジン人は、もう制御盤の半分をかたづけていた。ひきつづきスイッチを切っていきながら〈|話し手《スピーカー》〉はつづけた。 「船は高速度で動いている。このまま、この星系からぬけだし、その不連続点を出はずれれば、超空間駆動《ハイパードライヴ》で、パペッティア人の〈船団〉まで帰投できよう。だが、まず環《リング》に当らぬことが先決だ」  ルイスも、そこまでは考え及んでいなかった。 「落ちついたもんだな。もっとあわてふためいて当然なのに」ルイスは苦い気分でつぶやく。「少なくとも、太陽には突っこまずにすむだろうな。太陽をよけるコースにはいらないかぎり、自動装置は射ってこなかったはずだ」 「レーザーは、まだ射ってきてるみたい」ティーラが報告した。「ギラギラする光の向こうに星がみえるんだけど、ギラギラは一向になくならないの。ということは、船がまだ、環《リング》の表面に向かってるってことね?」 「レーザーが自動式なら、そういうことだね」 「環《サング》にぶつかったら、あたしたち死ぬの?」 「ネサスにきいてみたまえ。|うそつき《ライヤー》号をつくったのは、彼の種族なんだ。なんとか、からだをほどいて出てくるように、やってごらん」  クジン人が、うんざりしたように鼻をならした。すでに制御盤の大部分は光を失い、いくつかのランプが、心細げに、船のまだ生きている部分を示しているばかりである。  細い緩衝ネットにくるみこまれて丸くなっているパペッティア人の上に、ティーラ・ブラウンはかがみこんだ。ルイスの予想とはうらはらに、彼女はこのレーザー攻撃がはじまってから現在まで、パニックの徴侯すらみせていない。いま彼女は、パペッティア人の首のつけ根に両手をすべりこませ、前にルイスがやるのを見たとおり、静かになでさすっていた。 「ほんとに臆病なおばかさんね」  おびえあがっているパペッティア人をとがめるような口調だ。 「さあ、おつむを出しなさいったら。出てきて、みてごらん。そりゃあ、すっごい眺めよ!」  十二時間後、ネサスは、世にもみごとな緊張性硬直症に陥ったきり、いまだに快復していなかった。 「出てこさせようとすればするほど、きつくちぢこまっちゃうんだもの!」  ティーラは半泣きになっている。ふたりとも、夕食のため個室にひっこんだのだが、ティーラは何ものどをとおらない様子だ。 「やりかたがまずかったのね、ルイス。自分でもわかったわ」 「やたらに興奮をあおりたてようとしたからさ。ネサスは、好奇心でとびだしてくるタイプじゃないんだ」と、ルイス。「まあいい。べつに彼にもぼくらにも、害にはならないし、必要なときがくれば、出てくるよ。自分を守るためだけにもね。当分はあのまま、自分の腹の下へ逃げこませておこうや」  ティーラは、おぼつかない足どりで、ぎごちなく歩きまわりはじめた。いまだに地球の重力と船内重力とのちがいに、充分なじみきってはいないようだ。彼女は、何かいいだそうとして思いとどまり、また思いなおした様子で、唐突にいいだした。 「あなたも、こわいの?」 「ああ」 「そうだと思った」  彼女はうなずき、また歩きだす。思いついたようにたずねた。 「なぜ〈|話し手《スピーカー》〉はこわがらないの?」  なぜなら、あの攻撃からあと、クジン人は行動をつづけているからだ。武器になるものをリストアップしたり、船のコースを概算してみたり、そして時おり必要があると、簡単な指示を出してふたりに何かやらせたりしている。 「〈|話し手《スピーカー》〉も、こわいんじゃないかと思うよ。パペッティア人の世界をはじめて見たとき、どんなだったかおぼえてるかい? 彼は、おびえあがっていながら、ネサスにはそれをさとられまいと必死だった」  彼女は、はげしく首をふった。 「どうしてだかわからない。わからないの! どうしてみんな、こわがってるのに、あたしだけこわくないの?」  ルイスの内部で、愛情と憐れみがふたつに裂け、古い心の痛みがもどってきた。あまりに長く忘れていたせいで、かえって初めてのように感じられる痛みだ。  ぼくはよそものなんだ[#「ぼくはよそものなんだ」に傍点]、みんな知ってるのに[#「みんな知ってるのに」に傍点]、ぼくだけが知らない[#「ぼくだけが知らない」に傍点]! 「ネサスも、半分だけは正しかったようだな」  彼は説明しようとつとめた。 「きみは怪我をしたことがない。そうだろ? そのくらい運がよかったんだ。ぼくらは、怪我をすることを恐れるが、きみにはその気持がわからない。一度も怪我をしたことがないからだ」 「そんなの変よ。たしかに、足の骨を折ったり、そんなことはなかったけど──それは超能力なんかとはちがうわ!」 「そう。幸運は超能力じゃない。幸運は統計的なもので、その数学的なまぐれのひとつがきみなんだな。既知空域《ノウン・スペイス》には四百三十億以上の人間がいるんだから、その中に、きみみたいのがいなかったら、おかしいくらいのものさ。きみを見つけだすために、ネサスが何をやったか、わかっていないのかい?  まず彼は、出産権抽籤で当って生まれてきている家系の子孫をえらびだした。彼のことばでは数千人ということだったが、その中に目ざす相手が見つからなかったら、おそらく先祖にひとり以上抽籤で生まれたものがいるもっと大ぜいのグループからスタートしたことは、まちがいないだろう。おそらく数千万人をチェックしていくことになるだろうが……」 「めざす相手って?」 「きみさ。彼はその数千人の中から、不運の徴侯のあるものを消去していったんだ。この男は十三歳のとき指の骨を折ったことがある。この女は性格上の悩みをかかえている。あいつはにきび[#「にきび」に傍点]もちだ。この男は喧嘩をしては負けてばかりいる。こっちのは、喧嘩には勝ったが訴訟で負けた。こいつは模型ロケットをとばしたとき親指の爪までふっとばしちまった。この女はいつもルーレットですって[#「すって」に傍点]ばかりいる……わかるかい? きみは、いつも勝つ側なんだ。トーストをおとしても、バターのついた面が下向きになったことはないって口さ」  ティーラは深刻な表情になった。 「つまりは、確率の問題ってわけね。でもルイス、あたしだって、ルーレットでいつも勝つわけじゃないわ」 「しかし、致命的な負けかたはしない」 「そう──そうね」 「それがネサスの目標だったのさ」 「あたしが、一種の畸形だっていうのね」 「カホなことを! ぼくは、そうじゃない[#「ない」に傍点]っていってるのさ。ネサスは、候補者の中から、不運の徴候をもったものを消していったすえ、きみに到達した。何か基本的な原理を発見したつもりだったんだろう。実のところ、その発見は、分布曲線のいっぽうの端にすぎなかったんだ。  確率の法則からいって、きみみたいのがいるのは当然だ。だが、同じ確率の法則からいって、きみがこのつぎコインを投げて負ける可能性は、ぼくと同じはずだ。半々さ。幸運の女神は、まったく記憶というものをもっていないんだから」  ティーラは椅子の上にくずれるように腰をおろした。 「あたしの役は、すばらしい幸運のおまもり[#「おまもり」に傍点]だったのね。かわいそうなネサス。あたし、彼を裏切ったわけね」 「あいつにゃ当然の報いってとこさ」  彼女のくちびるの端が、キュッとひきつった。 「どうだか、ためしてみる」 「なんだって?」 「トーストをダイアルして。それを投げてみたいの」  |遮 光 板《シャドウ・スクエア》の色は、黒よりさらに黒く、高校理科の黒体実験に使われる高価な黒色そのものだった。青いひものようなリングワールドを、そのひとつの角がカッキリと切り欠いている。それをたよりに目と頭を使うと、あとの部分の、宇宙の闇の中で星のまったく見えない細長い四角のかたちが、識別できるのだった。それはすでに、空の中でかなりの面積を占め、さらに大きさを増しつつあった。  ルイスは、垂直にさしこむ光が強くなりすぎると遮蔽する物質でできた、半球形のゴーグルをかけていた。船殻の偏光性ではもう不充分なのだ。〈|話し手《スピーカー》〉は操縦席でまだ制御できる範囲のものを制御しつづけていたが、その彼も同じようなゴーグルをつけていた。ふたつべつべつに短いバンドのついたのをみつけて、ネサスにもむりやりかけさせた。  ルイスのゴーグルをとおしてみると、千二百万マイルかなたの太陽は、黒い大きな円盤のまわりを、ぼんやりした炎の輪がとりまいているようにみえた。船内のものはどれも、熱くてさわれないほどだ。空調装置《エア・プラント》がうなりをあげ、その烈風のような轟音とともに空気を吹きつけてくる。  ティーラが個室のドアをあけて、あわててまたひっこんだ。つぎに出てきたときは、彼女もゴーグルをつけていた。休憩室《ラウンジ》のテーブルに向かい、ルイスと並んで腰をおろす。  |遮 光 板《シャドウ・スクエア》は、まさにふくれあがる虚無だった。チョークで星の点をいっぱい打った黒板を、濡れ雑巾でそこだけ拭きとったみたいだ。  空調装置《エア・プラント》の怒号のせいで、話し声も聞こえない。  こんなに太陽が燃えさかる間近で、どうやってあの装置は熱を汲み捨てているのだろうか?  不可能だ、とルイスは思う。あれはただ、ひたすら熱を吸収して蓄えているだけなのだ。装置の中のどこかは、もう恒星のような温度に達し、しかも一秒ごとにその温度は高まっているはずだ。  もうひとつ、気になることがある。  あの、どんどん大きくみえてくる、黒い長方形のことだ。  あまりにも大きいため、ひどくゆっくりと近づいてくるようにしかみえない。|遮 光 板《シャドウ・スクエア》一枚の大きさは、幅が太陽ほど、百万マイル近くあり、長さははるかに長い。二百五十万マイルくらいだろう。ふいにそれが、おそろしく巨大なものとなった。一端がサッと太陽をかくすと、あたりに闇が落ちた。  |遮 光 板《シャドウ・スクエア》は、宇宙の半分を蔽っていた。その端はすでに無限のかなたにあり、闇の中の闇で、到底見さだめることもできない。  船尾の個室が並んでいるうしろのほうで、何かが白光を放っている。この機をのがさず、空調装置《エア・プラント》が、熱を捨てているのだ。ルイスは肩をすくめ、あらためて|遮 光 板《シャドウ・スクエア》に目を向けた。  空気のうなりがピタリと止んだ。ジインと耳鳴りがあとに残る。 「あはァ」  ティーラが、ぎごちない声をだした。〈|話し手《スピーカー》〉が操縦室から姿を現わした。 「望遠スクリーンの使えぬのが残念だ。あれがあれば、さまざまな疑問も解けたはずだ」 「どんな?」ルイスは、半分どなるようにききかえした。 「なぜ|遮 光 板《シャドウ・スクエア》は、どれも軌道速度より速く動いているのか? 本当に環《リング》へ動力を供給しているのだろうか? どういうしかけで、ちゃんと太陽に片面を向けているのか? あの草食いめの出した疑問は、望遠スクリーンさえあれば、全部解けたはずなのだ」 「太陽にぶつかる心配は?」 「むろん、ない。ルイス、そのことはもういったはずだぞ。この半時間ほどは|遮 光 板《シャドウ・スクエア》のうしろだ。そのあと約一時間で、つぎの|遮 光 板《シャドウ・スクエア》と太陽のあいだにはいる。もし船内が暑くなりすぎても、いつなりと停滞フィールドが発動できる」  ジインという沈黙があたりを包んだ。|遮 光 板《シャドウ・スクエア》を見つめても、そこは何もない闇が、果てしなく続くばかりだ。人間の目は、純粋な黒から情報をひきだすようにはできていない。  やがて太陽が、ひょっこりと現れた。ふたたび船内は、空調装置《エア・プラント》の轟音でみたされた。  ルイスは船外に目をこらし、ついに行く手の|遮 光 板《シャドウ・スクエア》を見つけだした。それが近づいてくるのを眺めていたとき、またもや稲妻がきらめいた。  まさに稲妻だった。予告もなく、いきなりやってきたのだ。紫がかった強烈な白光とともに、船がビリビリと震動──。  ──断絶──  ──震動して、光は消えた。ルイスは、ゴーグルの下に人さし指をさしこんで、くらんだ目をこすった。 「あれ何だったの?」ティーラが叫んだ。  ルイスの視力が、ゆっくりともどってきた。みるとネサスが、ゴーグルをかけた頭をひとつだけのぞかせている。 〈|話し手《スピーカー》〉はロッカーのひとつをかきまわしている。ティーラが、こっちを見つめている。いや、彼のうしろにある何かを見つめているのだ。彼はふりかえった。  太陽はやはり黒い円盤だったが、それは前よりもずっと小さく、まわりを黄色っぽい光の輪がとりまいていた。停滞フィールドにはいっていた一瞬のあいだに、それはグッと小さくちぢんでいた。その一瞬[#「一瞬」に傍点]は、おそらく数時間にわたったのだろう。空調装置《エア・プラント》の音も、もう小うるさい虫の羽音くらいになっている。  船のすぐ外で、何かがもえていた。  それは、ゆるやかにうねっている糸だった。すみれ色の光につつまれた、きわめて細い黒い糸だ。見たところ、どこにも切れ目はない。いっぽうの端は、太陽をかくしているあの黒い板に向かって消え、反対の端は、|うそつき《ライヤー》号の船首の方向へどこまでものびて、そのままかすんでしまっている。  その糸が、まるで傷を負ったみみず[#「みみず」に傍点]のように、大きくのたうっているのだ。 「何かにぶつかったようですね」  ネサスの静かな声。まるで今まで丸まっていたのが、うそのような口調だ。 「〈|話し手《スピーカー》〉、船外へ見にいくのです。宇宙服をつけてください」 「まだ戦闘状態なのだぞ」クジン人が答えた。「命令は、おれが出す」 「結構。で、どうするつもりです?」  クジン人は何もいわない。そのはずで、彼はもうほとんど、球形をつらねたような宇宙服を着終わり、重い|背 嚢《バックパック》を背にするところだった。明らかに彼は、船外へ検分に出ようとしていたのである。  彼はフライサイクルの一台にのって外へ出ていった。これは亜鈴形をした、スラスター動力の乗りもので、中央のくびれたところに肘つき椅子形の座席がある。  それがのたうつ黒糸ぞいに進んでいくのを、みんなじっと見まもっていた。糸は今、目にみえて冷えつつあるようだ。ゴーグルをとおしているせいで黒くみえる糸のまわりの光輝が、徐々にすみれ色に近い白さからただの白光へ、ついで黄色がかった白へと変わってくる。みんなの目の前で、〈|話し手《スピーカー》〉の黒っぽい姿がフライサイクルをはなれ、のたうつ灼熱の糸に近づいた。  その息の音が、はっきりと聞きとれる。一度、驚きのうなり声が聞こえた。だが、宇宙服のマイクでは、彼はついにひとこともしゃべらなかった。半時間もそこへ出ているあいだに、糸の光は褪せていき、ほとんど見えないくらいになった。  やがて彼は、|うそつき《ライヤー》号へひきかえしてきた。休憩室《ラウンジ》へはいってくる彼を、全員の期待にみちた視線が迎えた。 「糸くらいの細さだ」クジン人がいう。「だが見ろ。このペンチが、半分になってしまったぞ」  駄目になったペンチをとりだしてみせる。それはスッパリと平面で切りおとされ、切り口は磨きあげた鏡面のように光っていた。 「近づいて、どのくらい細いかたしかめようと、なにげなしにこのペンチをひっかけた。とたんに糸が、この鋼鉄をスパリと切ってしまった。まったく手ごたえもなしにだ」 「|自 在 剣《ヴァリアブル・ソード》でも、そのくらいのことはできるぜ」と、ルイスはいった。 「しかし、|自 在 剣《ヴァリアブル・ソード》は、スレイヴァー式停滞フィールドで金属線をつつんだものだ。曲げることはできん。あの──糸は、見てのとおり、のたうっている」 「じゃ、何かべつのものなんだ」  |自 在 剣《ヴァリアブル・ソード》と同じように切れる[#「切れる」に傍点]何かなのだ。軽く、細く、強く、人間の技術水準をはるかにこえている。ふつうの物質ならプラズマ化してしまう温度下でも固体状をたもつ何か。 「決定的に新しい何かだ。しかし、そんなものが、どうしてここに?」 「考えてみろ。われわれの船は、ふたつの|遮 光 板《シャドウ・スクエア》のあいだを通りぬけるとき、何かえたいの知れぬものに進路を阻まれたのだ。それにひきつづき、この、恒星の内部ほどの熱をもった、見たところ無限に長い糸が現れた。明らかに船は、この糸にぶつかったのだ。この糸は、衝突の熱を、いままで蓄えていた。そこでおれは、これが|遮 光 板《シャドウ・スクエア》のあいだに張りわたされていたものと推測する」 「たぶんな。でも、なぜ?」 「単なる推論だ。だが、考えてみろ。リングワールドを建設した連中は、昼夜の別を設けるために、|遮 光 板《シャドウ・スクエア》を用意したのだ。その目的を満たすためには、それが太陽の光を吸収しなければならん。もし縁が太陽に向いたりしたら、まずいことになる。  そこでやつらは、あのふしぎな糸で、糸のあいだをつなぎあわせたのだ。それがつながったまま、軌道速度よりも速くまわって、糸に張力を与える。そこで糸はピンと張り、板は環《リング》と平行にたもたれることになる」  思うだに奇怪なイメージであった。二十枚の|遮 光 板《シャドウ・スクエア》が、メイポール・ダンスよろしく、長さ五百万マイルもの糸で端と端をつながれてまわっているとは……。 「あの糸がほしいもんだな」ルイスがいった。「あいつがあれば、用途にはこと欠かないだろう」 「あれを船内にいれる方法がない。適当な長さに切ることもできないのだ」  パペッティア人が割りこんだ。 「あの衝突で、船のコースが変わったかもしれません。リングワールドにぶつからずにすむかどうか、たしかめられませんか?」  誰もまだ、そのことには気づいていなかった。 「ぶつからずにすむにしても、衝突で、かなり運動量は変わったかもしれません。悪くすると、永遠に楕円軌道をえがいてまわりつづけるのではないでしょうか」  パペッティア人は悲しげだった。 「ティーラ、あなたの幸運にも見放されたようです」  彼女は肩をすくめた。 「あたし、自分が幸運のおまもり[#「おまもり」に傍点]だなんていったおぼえないわ」 「わたしにそういったのは、〈至後者《ハインドモースト》〉でした。彼がいまここにいたら、あの威張りくさったフィアンセを、どなりつけてやりたいものです」  その日の夕食は、いわば最後の晩餐といったところだった。全員が休憩室《ラウンジ》に顔をそろえて、かたちばかりの食事をとった。テーブルについたティーラ・ブラウンは、いたいたしいばかりに美しかった。身につけている、フワリと流れるような黒と朱色の衣装は、重さ一オンスもなさそうだった。  彼女の肩ごしに、ゆっくりと大きくなってくるリングワールドがみえた。ときどきティーラもふりかえって、それを眺めた。みんなが同じようにした。だが、ルイスからみて、異星人たちの胸中は想像するしかないにしても、ティーラは単にその眺めに夢中になっているとしか思えなかった。もう船がリングワールドからはずれっこないことは、彼と同様、彼女にもわかっているはずだった。  その夜、愛の営みで、彼の粗暴さは彼女を驚かせ、ついで喜ばせた。 「あなたって、こわいと、こんなになるのね! おぼえとかなくっちゃ」  彼は、ほほえみかえす気にもなれなかった。 「ぼくは、これが最後かもしれないってことしか頭にないんだ」  誰とも[#「誰とも」に傍点]これっきりなんだ、と、彼は心の中でつけくわえた。 「あら、ルイス。これ、ゼネラル・プロダクツの船殻なのよ!」 「もし、停滞フィールドがうまく作動しなかったら? 船体は無事でも、中のものはメチャメチャにつぶれちまう」 「ああ、もう、くよくよするのはやめて!」  彼女は彼の背に爪をたてながら、両側から腕をまわした。彼はギュッと彼女のからだをひきよせ、自分の顔を見られまいとした……。  彼女がグッスリ寝入って、就寝プレートのあいだに甘い夢のようにただよいはじめたとき、ルイスは彼女から離れた。消耗しきり、充足しきって、彼は熱いバスにつかった。冷えたバーボンの壜《バルブ》をダイアルして出すと、浴槽の縁にそうっとのせた。  最後にもう一度ためしてみる楽しみの種は、いろいろとありそうだった。  空色に白い筋もよう、それに並んで、細部のわからない濃紺色。リングワールドは、いまや視野いっぱいにひろがっていた。はじめにこまかい構造のみえだしたのは、雲のかたちだった。嵐のかたち、平行に流れるもの、羊毛状のもの、いずれもおそろしく小さい。それがだんだん大きくなる。ついで、海岸線が見分けられるようになった……リングワールドは、およそ半分が海だ……。  ネサスは自分の緩衝席にはいって、ネットをかけ、れいの丸まった防御の姿勢をとっている。〈|話し手《スピーカー》〉とティーラとルイス・ウーも、ネットをかけて、外を眺めている。 「見とくほうがいいぜ」ルイスが、パペッティア人に声をかけた。「地形をおぼえておくと、あとで役に立つかもしれない」  ネサスはそれに従った。ひらべったい蛇のような頭がひとつだけ出てきて、近づいてくる地上の景観に見いる。  大きな海、稲妻形に曲った河、ひものように連なっている山々。  生命の徴侯は、何もない。文明のしるしを見てとるには、一千マイル以下まで近づかなければだめだ。すでにリングワールドは、グングンと横に動きはじめ、こまかい点をはっきり見さだめるひまもないくらいだ。こうなってみると、詳細はもうどうでもいい。何もかもが、足もとからひっさらわれていってしまう。船は、どこか見知らぬ地域へ、落下することだろう。  船の固有速度概算、秒速およそ二百マイル。リングワールドが邪魔さえしなければ、安全に系外へ脱出するには充分すぎるほどの速さである。  地表が近づくと同時に横に流れる。毎秒七百七十マイルで流れ過ぎていくのだ。斜めから、|火 龍《サラマンダー》のようにウネウネしたかたちの海が接近してくる。真下に。そしてみえなくなる。ふいにその景観全体が、グワッとすみれ色の光につつまれた!  ──断絶── [#改ページ]      10 |環の床面《リングフロア》で  一瞬の、すみれ色に近い閃光の輝き。百マイルの大気層が、|うそつき《ライヤー》号の船首に切りさかれ、瞬時に恒星のような熱をもったプラズマの円錐を形成したのだ。ルイスは、目がくらんだ。  目がくらみ、そして、船は地表に到着していた。  ティーラの未練がましい声が聞こえた。 「カホナ! すっかり見のがしちゃった!」  パペッティア人が答える。 「大事件の一部始終を見とどけるのは、いつでも危険ですし、多くは苦痛ですし、ときには命にかかわります。あなたのたよりない幸運はさておき、停滞フィールドには感謝しなければなりません」  そのやりとりも、ルイスの耳にははいらなかった。ひどいめまい[#「めまい」に傍点]だ。水平方向を見さだめようと、目をさまよわせる……。  おそろしい墜落が、とつぜん地上での静止へ変わっただけでも、目をまわすには充分だというのに、|うそつき《ライヤー》号の姿勢が、それに輪をかけていた。|うそつき《ライヤー》号は、あと三十五度でちょうど上下転倒という恰好になっていたのである。船内重力がまだ正常に働いているせいで、地表の景観が、帽子をかたむけたように、頭上にかかってみえるのだった。  空の色は地球の温帯における正午の空そのままだ。だが、地上の景色は奇妙だった。まったいらな半透明の床がひろがったさきに、赤褐色の土手が立ちはだかっている。ちゃんと見さだめるには、誰かが外へ出てみなければならない。  ルイスは、緩衝ネットをはずすと、立ちあがった。  どうしてもからだのバランスがとれない。視覚と、内耳からくる下方[#「下方」に傍点]の感覚が、一致しないためだ。だんだんそれにも慣れてくると、つとめて気分を楽にし、急がないよう気をつけた。危急は一応去ったのである。  ふりかえると、ティーラが、エアロックの中にはいっていた。宇宙服もつけていない。内側のドアが閉まりかけている。  ルイスは怒鳴った。 「ティーラ! やめろ、ばか、そこから出てくるんだ!」  おそすぎた。ピッタリ閉じたドアをとおして、彼の声が聞こえるはずはない。ルイスは、ロッカーにとびついた。  |うそつき《ライヤー》号の翼についていた空気検査機は、その他の船外の検出装置もろとも、先刻蒸発してしまっている。自分で宇宙服を着て外に出、その胸についた検査機を使って、リングワールドの大気が安全に呼吸できるかどうか、しらべてみなければならない。  それも、彼が外へ出る前に、ティーラが破裂して死んでしまわないとしてだ。  外側のドアが開きはじめている。  自動的に、エアロック内の船内重力は消えた。ティーラのからだは、頭からさきに、開いたドアから墜落し、あわてて入口の柱をひっつかんだおかげで、その手が離れたときには、ちょうどからだの向きが変わり、頭からではなく足から先に着地することができた。  ルイスは自分の宇宙服にもぐりこみ、胸のジッパーを引きあげ、ヘルメットをかぶると止め金具を閉じた。外では、頭上の地面に、ティーラが立ちあがり、落ちて打ったところをさすっている。なんともありがたいことに、べつだん呼吸のとまる様子もない。  ルイスはエアロックにはいった。服の洩れをチェックしても意味はない。外の空気が呼吸可能かどうか、装置が知らせてくれるあいだ、保《も》てばいいのだ。  船の傾きのことを思いだして柱をつかむと同時に、外のドアが開きはじめていた。船内重力が消失すると、ルイスのからだは、ブランと向きをかえ、一瞬両手でぶらさがったのち、落下した。  足が地面にふれた瞬間、みごとにツルリとすべって、彼ははげしくしりもちをついた。船の下の、たいらで半透明な灰色の物質は、おそろしくすべりやすかった。一度立ちあがろうとしてあきらめ、すわりこんだまま、彼は胸のダイアルをあらためた。  ヘルメットの中で、〈|話し手《スピーカー》〉の、耳をさすような声がひびいた。 「ルイス」 「ああ」 「空気は、呼吸できるか?」 「ああ。だが少し薄いようだ。海面上一マイルといったところかな。地球の標準でだ」 「われわれも、出ていこうか?」 「ああ。ただし、エアロックにロープをもちこんで、何かに結びつけてくれ。そうしないと、船へもどれなくなる。降り立つときには注意しろ。この表面は、まるで摩擦がないみたいだ」  ティーラには、すべりやすい表面も、なんともないようだ。おっかなびっくりの姿勢で、両手をひろげてバランスをとりながら、ルイスがもたつくのをやめてヘルメットをはずすのを眺めている。  脱ぐと同時に、たたきつけるような口調で、彼はしゃべりだした。 「きみには、いっておくことがある」  二光年離れた位置からの分光分析が、いかにたよりないかということ。微量の毒物、金属化合物、それに、本来なら呼吸可能はなずの大気を汚染し、しかも実際のサンプルにあたらないかぎり検出不能な特殊な塵や、有機的廃棄物や、触媒などがあること。まさしく犯罪的な不用心さと不埒きわまる無思慮のこと。みずからモルモットの役を買って出るのがいかに愚劣かということ。  それを全部、異星人たちがエアロックから出てくる前に、彼はいってのけた。 〈|話し手《スピーカー》〉が両手をたぐりながらおりてくると、地面を踏みしめ、猫のように用心ぶかく、ダンサーのようにバランスをとりながら、二、三歩足をふみだした。ネサスは、ふたつの口で、ガッチリ交互にロープをくわえながらおりてきた。三脚をひろげたような恰好で着地する。  ティーラがふくれていることは、彼らにもわかったかもしれないが、どちらもそういうそぶりはみせなかった。一同は、|うそつき《ライヤー》号の傾いた船殻の下に立つと、あらためて周囲を見まわした。  そこは、浅いが雄大な峡谷の中だった。谷の底面は、半透明の灰色で、完璧に平坦かつなめらかなこと、まるで巨大なガラスのテーブルの面のようだ。船から各方向へ約百ヤードいったところで、黒い熔岩のゆるやかなスロープが、この底面を仕切っていた。  熔岩は、ルイスの目の前で、波うち流れているようにみえた。|うそつき《ライヤー》号の着地の衝撃を考えると、それはまだおそろしい熱を帯びているにちがいない。  浅い熔岩の壁は、左右から船の後方へのび、はるかずっとかなたまで、完全な直線をなして、その果ては一点に消失している。  ルイスは、立ちあがろうとつとめた。四人のうち彼だけ、どうしてもバランスがとれないでいる。足の上にからだをあずけると、あぶなっかしい恰好でやっと立ちあがりはしたものの、それっきり一歩も動けなかった。 〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉が、携帯レーザーを抜くと、下へ向けて引き金をしぼった。足もとの一点が緑色に光りだす……みんなだまってそれを見つめた。物質が破壊され、蒸発して当然なのに、何の音も聞こえず、また蒸気や煙らしいものもみえない。〈|話し手《スピーカー》〉がボタンをオフにすると、光点は瞬時に消えた。その場所には、光のあともない。とにかく、地表には何の痕跡も残されていないのだ。 〈|話し手《スピーカー》〉は、判決をくだすようにいいだした。 「われわれが今いるのは、船の不時着でえぐられた谷の中なのだ。究極的には、環《リング》を構成している物質が、船の墜落をうけとめてくれた。ネサス、この物質について、何かわかることがあるか?」 「まったく新しい何かです」パペッティア人が答える。「少しも熱をもたないようですが、ゼネラル・プロダクツ製の船殻の変種でもなく、スレイヴァー式の停滞フィールドでもありません」 「あの壁をのぼるには、防護服か何かが必要だな」と、ルイス。  環《リング》を構成する物質には、特に興味もない。とにかく今はそうだった。 「あんたたちは、ここにいたまえ。ぼくがのぼってみる」  要するに、断熱式の宇宙服を身につけているのは、彼ひとりだったのである。 「あたしがいっしょにいってあげる」と、ティーラ。  スイと何の苦もなく歩みより、彼の腕を自分の肩にかけた。彼はよろめいて、彼女に体重をあずけてしまったが、それでも倒れることもなく、ふたりは黒い熔岩のスロープの下へたどりついた。  近くでみると、熔岩の傾斜はかなり急だが、足がかりにはこと欠かない。「どうも」といいおいて彼はのぼりだした。ふとみると、ティーラがついてのぼってくる。彼はわざとだまっていた。彼女が、跳ぶ前に見ることを早くおぼえてくれれば、それだけ長生きできるだろうと思ったからである。  斜面にそって十ヤードかそこらのぼったとき、ティーラは叫び声をあげて躍りだした。足を高くあげながら、向きをかえてスロープをかけおりる。底面に着くと同時に、スケートをはいたようにすべりだした。スーッとすべっていきながら、彼女は向きをかえて、両手を腰におくと、困惑と傷みと怒りのこもった目でこっちをにらんだ。  もっとひどいことになったかもしれないんだ、とルイスはひとりごちた。この場で転んで、両手のひらにやけどする可能性もあった──だが、それでも彼のやったことは正しかったはずだ。  にがい罪の意識を押し殺して、彼はのぼりつづけた。  熔岩の土手の高さは、およそ四十フィートで、頂上は白い砂が蔽っていた。  船は、砂漠に墜落したのだった。手近のどこにも、緑の植物や青い水のようなものは見あたらない。一応幸いだったといえよう。|うそつき《ライヤー》号は、都市をこんなふうにほじくりかえす可能性もあったのだから。  それも、いくつもの都市を串ざしにしたかもしれない! おそろしい溝を掘ってしまったもんだ……。  その溝は、白い砂の上に、何マイルもつづいていた。それが途切れた場所から、またはるか遠く離れたところで、別のがはじまっている。船はバウンドしたのだ。それも一度だけではなく、何回もだ。|うそつき《ライヤー》号着陸のあとは、さきへさきへとつづいて、しまいには細い点線となり、かすかな跡となり……それを目で追っていったルイスは、自分がまさしく無限のかなたを見とおしていることに気づいた。  リングワールドには、地平線といえるものがない。地表がカーヴして空とのあいだを区切る線のようなものが、まるでないのだ。むしろ、地面と空とがいっしょに、大陸ほどの大きさのものも点にしかみえないような彼方へとけこみ、そこでは地上のあらゆる色がまじりあって、徐々に空の青へとつながっているかにみえる。  その消失点に、彼は目を吸いよせられた。だが、ついに彼は、ようやくの思いで一度まばたきして、そこから視線をもぎはなすことができた。  何十年も前、ここから何千光年も彼方のマウント・ルッキットザットで見た虚無の霧のように……ひとり乗りの艇で小惑星帯の探鉱者が見る、歪みのない宇宙の深淵のように……リングワールドの地平は、見るものが危険を感じるより早く、まずその目と心を、ギュッととらえてしまう存在なのだった。  ルイスは、溝の底面に向かって叫んだ。 「この世界は、平坦だぞ!」  一同が彼を見あげる。 「着陸するとき、おそろしい傷をつけちまった。このあたりに、生きものらしいものの姿がみえないのは、幸いだったよ。はじめにぶつかった場所では、大地がまっぷたつになってるだろう。この溝に沿ってもどっていけば、二次的な隕石や、それでできた小さなクレーターがいっぱい見つかるだろうな」 「反対の方角には……」  クルリと向きを変えると、そこで彼は絶句した。 「どうした、ルイス?」 「これまで見たこともない、カホなでっかい山だ」と、つぶやく。 「ルイス!」  彼の声が、あまりに静かで聞きとれなかったのだろう。 「山だよ!」と、彼は叫んだ。「あとで見てみろ! リングワールドをつくった連中は、でっかい山がひとつ要ると思ったんだろうな。大きすぎて、使いみちがない。コーヒーを植えるにも、いや、どんな樹を育てるにも高すぎるし、スキーをやるにも大きすぎる。豪勢な山だ!」  たしかに豪勢としかいいようがない。だいたい円錐形で、どこにも山脈をつらねる気配はなく、孤高を誇っている。外見は火山のようだが、リングワールドの底には火山を形成するマグマなどないのだから、むろんにせ[#「にせ」に傍点]火山である。  裾野は霧の中に沈んでいた。山頂のほうは、空気のうすくなった高みへつき出ているとおぼしく、くっきりと輪郭をみせ、そこには雪が光っていた。それもかなり汚れているらしく、新雪のような輝きはない。どうやら永久凍土のようだ。  頂上の縁は、結晶の稜のようにみごとな直線だった。もしかすると、大気層の上までつき出しているのではなかろうか? 本物の山だったら、これだけ大きいと、自分の目方で崩壊してしまうかもしれない。しかし、この山は、環《リング》をかたちづくる物質でできた、中空の殻にすぎないのだ。 「リングワールドの建設者が、好きになれそうだぜ」と、ルイスはつぶやいた。  仕様のきまった人工の世界に、こういう山が存在しなければならない論理的な理由など何もない。それでも、どこの世界にも、登攀不能の山というものが、少なくともひとつ、なければならないというわけだ。  船殻の下に一同は待ちうけていた。彼にあびせられる質問は、煮つめたところ、「何か文明の徴侯はなかったか?」というものであった。 「なかったね」  彼は、見たものをあらいざらい説明させられた。方角のよびかたは、すでにきめてあった。|うそつき《ライヤー》号の着陸で掘られた溝ののびている方向が、環《りング》の〈回転方向《スピンワード》〉だ。それと反対の〈反回転方向《アンチスピンワード》〉に、あの山がある。回転方向に向かって左と右が、この世界の〈左舷《ボート》〉と〈|右 舷《スターボート》〉にあたる。 「左舷か右舷かどちらかに、縁《リム》の外壁がみえませんでしたか?」 「いや。でもなぜだろう? あることは、まちがいないのに」 「不運でした」と、ネサス。 「見えないはずはないんだ。何千マイルも上空からなら、見えるんだから」 「見えないことはありえます。不運なのです」  それからまた、ネサスは訊いた。 「砂漠の向こうには、何もみえなかったのですか?」 「ああ。左舷はるかに、何か青いものがみえた。海かもしれないが、ただ遠いせいで何でも青く見えるのかもしれない」 「建物は?」 「何も」 「空に飛行機雲は? 高速道路のような直線は?」 「何も」 「文明の徴侯は、何も見えなかったのですね?」 「見えたら話してるさ。どうやら、リングワールド十兆の住民は、先月あたり、ぜんぶ本もののダイソン 球《スフィア》 に引っ越していったらしいぜ」 「ルイス、わたしたちは、文明を見つけなければならないのです」 「ぼくにだってわかってる」  わかりすぎるほどだった。何としてでもリングワールドからぬけださなければならないのだが、|うそつき《ライヤー》号をこの四人でひっぱっていくのは不可能だ。まったくの未開人は、たとえどれだけ大ぜいいて、またどんなに友好的だったとしても、何の足しにもならないだろう。 「ひとつだけ、いいこともある」ルイス・ウーがいった。「船を修繕する必要はないんだ。こいつを、環《リング》の外へほうり出すことができさえすれば、環《リング》の自転のいきおいだけで、船は主星の重力圏からぬけだせる。そこまでいけば、あとは超空間駆動《ハイパードライヴ》が使えるわけだ」 「それにも、まず援助してくれる相手を見つけなければなりません」 「あるいは、見つけた相手に援助をさせるかだ」〈|話し手《スピーカー》〉がいった。 「でも、どうしてみんな、ただつっ立って話ばかりしてるの?」ティーラが爆発した。  ずっと三人のあいだで、結論が出るのを熱って待っていたのだ。 「まず、ここから出なきゃ。そうでしょう? どうしてフライサイクルを、船から出さないの? まず行動するのよ! 話はそれからでいいわ!」 「船を離れることは、気がすすみません」パペッティア人がいった。 「気がすすみませんですって! 助けがやってくると思ってるの? 誰かが、ちょっとでも、あたしたちに興味をもつと思うの? いろんな波長で呼びかけたとき、誰かが答えてくれた? ルイスが、ここは砂漠のまっただなかだって、いったじゃないの。いつまでここにじっとしてる気なの?」  ネサスが勇気を出すには、たいへんな努力を要することなど、彼女はまったく気づいていない。それに、ルイスの見るところ、忍耐力もゼロのようだ。 「もちろん、ここを離れなければなりません」パペッティア人は答えた。「ただ、気がすすまないということをいっただけです。しかし、まず、行きさきをきめなければなりません。そうでないと、持っていくものとおいていくものとがきめられません」 「いちばん近い縁《リム》の壁へいくのよ!」 「そのとおりだ」と、ルイス。「もし文明があるとしたら、それは縁の近くだろう。だが、そのどこかはわからない。空からそれが見えるとよかったんだがな」 「見えませんでしたね」と、パペッティア人。 「カホナ! あんたは見てやしなかったじゃないか。見ようとすれば、いくらでも見られたのに! さえぎるものもなく、何千マイルもね! いや、ちょっと待てよ」 「リングワールドの幅は、百万標準マイル近くあるのですよ」 「そのことに、いま、気づいたのさ」と、ルイス・ウー。「スケールの問題だ。おかげで、いつも混乱しちまう。これだけ大きいと、どうしてもイメージが湧かないんだ!」 「これからもそうでしょうね」  パペッティア人が、さきのことまで保証してくれた。 「わからんな。たぶん、ぼくの頭の容量が小さくて、概念がつかめないんだろう。いつも、宇宙からみたときの、環《リング》の細さを思いだしちまうんだよ。まるで青いリボンみたいだった。青いリボンだ」  ルイスは、くりかえし、そして思わず身ぶるいした。  両端の側壁の高さが一千マイルあるとすると、それが見えなくなるためには、そこからどれだけ離れなければならないだろうか?  こまかい塵や水蒸気を含んだ、ある程度地球的な大気をとおして、ルイス・ウーの目が、一千マイルかなたまで見とおせるものとしよう。ここでもし、大気層が、四十マイル上空で、事実上の真空に席をゆずっているとしたら……。  その場合、縁の外壁のいちばん近いところから、ここは少なくとも二万五千マイル以上離れているということになる。  地球上でまっすぐにそれだけ飛んだとしたら、もとの出発点へもどってしまう距離だ。しかし、外壁は、それよりずっと遠いのかもしれない。 「フライサイクルで、|うそつき《ライヤー》号の船体をひっぱっていくことはできんな」〈|話し手《スピーカー》〉がいっている。「もし途中で襲われたら、どうせ切り捨てなければならん。はっきりした目じるしが近くにあるこの場所に残していくほうが得策だ」 「誰が船をひっぱっていくなどといいました?」 「優れた戦士は、あらゆる場合を想定してみるものだ。もし縁の近くで助けがえられなかったら、船をもっていっても、どうせ何にもならん」 「援助は見つかります」と、ネサス。 「そうだと思う」と、ルイス。「宇宙港は、縁にあった。もしリングワールド全体が石器時代まで逆行した上で、ふたたび文明が復活してきたとしても、それは宇宙からラムシップがもどってきた場所からひろがりはじめるだろう。そうなるはずだ」 「荒っぽい推理だな」と、〈|話し手《スピーカー》〉。 「まあね」 「しかし、おまえのいうとおりだ。それに加えて、もしこの世界が大がかりな技術のすべてを失っていたとしても、その宇宙港で機械装置が見つかることも考えられる。まだ動く機械、修理できる機械がな」  しかし、どちらの縁《リム》のほうが、ここから近いのだろうか? 「ティーラのいうとおりだ」ルイスが、唐突にいった。「仕事にかかろう。夜になったら、もっと遠くが見えるかもしれない」  数時間の重労働がつづいた。機械類をもちだして分類し、重いものは船のエアロックから、ワイヤで釣りおろした。急に重力の変わるのが問題だったが、装備の中で、特にやわ[#「やわ」に傍点]なものはひとつもなかった。  その途中、ちょうどふたりの異星人が外へ出ているとき、ルイスは船内でティーラをつかまえた。 「まるでずっと、お気にいりの蘭状生物に刺されたみたいな顔をしてるじゃないか。何か文句があるのかい?」  彼女は、彼の視線をさけながら首をふった。ツンととがらした彼女のくちびるが、またすばらしい。彼女は、泣き顔がけっして醜くみえない、あの稀な幸運に恵まれた美女のひとりであった。 「じゃ、ぼくがいおう。きみが宇宙服を着ずにエアロックを出たとき、よく叱っておいたはずだ。それなのに、十五分もしないうちに、きみは船内用のスリッパひとつで、かたまったばかりの熔岩をのぼろうとした」 「あたしが足にやけどすればいいと思って、だまって見てたのね!」 「そのとおり。そんなにびっくりした顔をするなよ。ぼくらには、きみが必要なんだ。きみを死なせたくない。だから、用心することをおぼえてほしいんだ。これまで学ぶチャンスのなかったことを、いま学ばなければいけない。ぼくの話なんかよりも、足の痛みのほうが、長いあいだ、心にきざみこんでおけるはずだ」 「あたしが必要ですって? お笑いだわ。ネサスが、あたしを連れてきたわけは、あなたも知ってるでしょう。あたしは、ちっとも効かない幸運のおまもり[#「おまもり」に傍点]なのよ」 「うれしいことに、そんなんじゃない。幸運のおまもり[#「おまもり」に傍点]としてのきみは、もうお払い箱さ。さあ、笑ってみせないか。みんな、きみが必要なんだ。きみがいると、ぼくは幸福で、おかげでネサスを強姦せずにいられる。きみがいれば、ぼくらみんな日向ぼっこしているあいだに、重労働をぜんぶやってもらえる。きみがいれば、何かにつけ、有用な指示を与えてくれる」  彼女は、笑ってみせようとした。それが、ふいにくずれて、彼女はワッと泣きだしていた。彼の肩に顔を埋め、指の爪を彼の背にくいこませながら、彼女は絶えいりそうに泣きじゃくった。  厳密にいえば、女の子がルイス・ウーに抱きついて泣いたのは、これがはじめてではない。しかしティーラには、おそらくその誰よりも、泣くだけの大きな理由があるはずだった。ルイスは彼女をささえ、その背に指をあてて、なかば無意識的にマッサージしてやりながら、激情がおさまるのを待った。  彼の宇宙服に顔をおしつけながら、彼女がいいだした。 「岩が熱いなんてこと、どうしてあたしが知ってるはずがあるのよ!」 「|ペてん師《フィナグル》の第一法則をおぼえておくんだ。宇宙の悪意は、最大値をとろうとする。宇宙はつねに敵対的である」 「でも、痛かったのよ!」 「あの岩がきみを攻撃したのさ。襲いかかってきたんだよ。いいかい、きみは、何でも疑ってかかることをおぼえなくちゃならない。ネサスみたいな考えかたをしなくちゃならない」 「できやしないわ。彼の考えかたなんて、わからない。ぜんぜん理解できないのよ」  涙でグショグショの顔をあげた。 「あなたのことだって、理解できないわ」 「ウゥム」  彼は親指を、彼女の肩甲骨の上に押しつけ、背骨にそって下へはしらせた。やがて彼はいった。 「いいかい。もしぼくが、全宇宙はぼくの敵だといったら、きみは馬鹿馬鹿しいと思うかい?」  彼女は怒った顔で、強くうなずいた。 「宇宙は実際に、ぼくの敵なんだよ」ルイスはつづけた。「宇宙はぼくを憎んでいる。宇宙は、二百歳の老人のためになど、何もしてくれないんだ。  種族をかたちづくるものは、いったい何だろう? 進化だね? 進化によって〈|話し手《スピーカー》〉は、夜でもみえる目とすぐれた平衡感覚を手にいれた。進化によってネサスは、危険に対しとっさに背を向ける反射運動を身につけている。進化によって、人間の性は、五十歳から六十歳で失われる。そこで進化は、手をひいてしまう。  なぜなら進化は、年老いてそれ以上繁殖できない生命体には、もう用がないからだ。わかるね?」 「ええ。あなたはお爺ちゃんで、もう子供をつくれないからなのね」  嘲るような口調だ。 「そのとおり。数世紀前、生物工学者たちは、ブタクサの遺伝子を分析して、細胞賦活剤《ブースタースパイス》をつくりだした。その直接の結果、ぼくはいま二百歳でまだ健康そのものだ。しかしそれは、宇宙がぼくを愛してくれたからじゃない。  宇宙はぼくを憎んでいるんだ。何度となく、ぼくを殺そうとした。その傷あとを、見せてやれたらと思うよ。今でも、宇宙はぼくを殺そうと狙っている」 「あなたがお爺ちゃんで、もう子供がつくれないからなのね」 「ヒステリーはよせ! きみは、自分の面倒の見かたも知らないんだぞ! ぼくらは、今、宇宙の未知の領域にいる。ここを律する法則もわからなければ、どんなものに出くわすかもわかっていない。このつぎ熱い熔岩の上を歩こうとすれば、こんどは足のやけどくらいじゃすまないだろう。用心するんだ。そんなこともわからないのか?」 「わからない」と、ティーラ。「わからないったら!」  少したって、彼女が顔を洗ってから、ふたりは四台めのフライサイクルを、エアロックへもちこんだ。もう半時間も、異星人たちは船内へはいってきていない。ふたりの人間が、まさしく人間的な問題の解決に当っているとみて、避けていたのだろうか? その可能性は充分にあった。  黒い熔岩でできたふたつの高い壁にはさまれて、磨きあげたテーブルの面のように平坦な環《リング》の構造物質が、無限に長い紐のようにまっすぐのびている。それを背景に、巨大なガラスの真空管が、横倒しになっている。その透明な円筒形の曲面の下に、ひと山の機械類と、ちょっとばかり途方にくれたかたちの四つの奇妙な姿がある。 「水はどうするんだ?」ルイスがたずねた。「湖らしいものは見えなかったぜ。自分の飲む水を運んでかなきゃならないのか?」 「いいえ」  ネサスは、自分のフライサイクルの後端の一部をひらいて、水タンクと、空気中の水分を抽出する冷却−凝縮機を見せた。  フライサイクルは、まさに小型軽量化設計《コンパクト・デザイン》の奇蹟であった。それぞれの体形に合わせてつくられた座席《サドル》をべつにすると、いずれもそっくり同じにできている。直径四フィートほどの球形がふたつつながれ、中央のくびれたところに座席がのっている。後方の球体の半分はトランクで、さらに余分の機械類を積んで紐をかけられるような装具もついていた。今は、四本の脚が出て、ひらたい足が地面をふまえているが、飛びあがっているあいだはふたつの球の中にひっこむしかけである。  パペッティア人のフライサイクルの座席は、うつ伏せに乗るリクライニング・シートで、三本の脚をいれるように三つの穴があいている。その上におさまったまま、ふたつの口で操縦するわけだ。  ルイスとティーラ用のサイクルの座席は、パッドのはいった、からだの線にピッタリの椅子形で、それにヘッドレストや姿勢調節機構もついている。ネサスや〈|話し手《スピーカー》〉のと同様、その座席はサイクルの亜鉛形にくびれた部分にあり、下方はふたつに分かれて、ピッタリした足のせ[#「足のせ」に傍点]があった。〈|話し手《スピーカー》〉の座席は、人間のよりはるかに大きく広く、ヘッドレストはない。両サイドには、道具入れがついていた。それとも、武器を入れるためだろうか? 「武器として使えるようなものを、何かもっていかなければならん」〈|話し手《スピーカー》〉が、散らばっている機器類のあいだを、ソワソワと歩きまわりながらいう。 「武器はもってきていません」ネサスが答えた。「わたしたちが平和を求めていることを示すためです。武器は、まったく持ってきていません」 「それなら、これはなんだ?」 〈|話し手《スピーカー》〉は、早くもいくつかの軽量器具を、自分のまわりにあつめていた。 「ぜんぶ、ただの器具です」ネサスは、指し示しながらいった。「これらは可変ビームの携帯レーザー灯です。この輪をまわすと、ビームをいくらでも細くできるので、夜でもこれを使えば、はるか遠くを見ることができます。実際このビームは完全に平行にまでなり、また強度もかなりあげられるので、近くのものや人間に焼け穴をつくらないよう注意しなければなりません。  この決闘用ピストルは、わたしたちのあいだの争いの決着をつけるためのものです。十秒間、相手に気を失わせる力があります。しかしこの安全装置に手を触れないようにしないと──」 「触れると、一時間のあいだ相手を倒しておける。たしかジンクス星の製品だったと思うがね?」 「はい、ルイス。それからこれは、改良型の掘削機械です。スレイヴァーの停滞ボックスから発見された掘削機械のことは、みんな知っているはずですが──」  スレイヴァーの物質分解機のことだなと、ルイスは気づいた。その装置は、たしかに穴掘り用に使える。その収束ビームが触れると、そこの物質の中にある電子の電荷が、一時的にゼロになるのだ。どんな硬い物質も、突如として強度を失うと同時に、想像を絶するほどのプラス電荷を帯びることになり、原子一個ずつバラバラの塵雲と化して飛散してしまうのである。 「武器としては役に立たんぞ」と、クジン人がうなった。「おれも知っている。敵に対して使うには、効果がおそすぎるのだ」 「そのとおり。無害なおもちゃです。しかし、これは──」  パペッティア人の口がつまみあげている装置は、二連装のショットガンのようにみえる。ただその銃床が、パペッティア人向きに、水銀が、ある型から流れだした途中でそのまま固まったような恰好になっていた。 「これは、スレイヴァー式の物質分解機と同じものですが、ただし、片方のビームは、陽子の陽電荷を無効にします。両方のビームを同時に出さないよう注意しなければなりません。ふたつのビームは、平行に、分かれて出ますから」 「わかった」と、クジン人。「そのふたつのビームが、一度にあたると、そこに電流が流れることになるな」 「そのとおりです」 「こういう間に合わせの道具ですむと、本気で思っているのか? われわれは、どんなものに出くわすか、まったくわかっていないのだぞ」 「というわけでもあるまい」と、ルイス・ウー。「結局、ここは自然の惑星じゃないんだ。リングワールド人の好みに合わない動物は、故郷の惑星においてきているだろう。ここには、虎とか、蚊といったものは、いないと思うね」 「もし、リングワールド人が、虎を好きだったら?」ティーラが疑問をぶつけてきた。  一見冗談めいてきこえるが、これは的を射た疑問であった。リングワールド人の心理を、どうして知ることができよう? わかっているのは、彼らが、だいたいG2型に近い恒星のまわりをめぐる水の多い惑星からやってきたということだけなのだ。その点からして、彼らは人間、パペッティア人、クジン人、グロッグ、海豚《イルカ》、鯱《シャチ》、抹香鯨《マッコウクジラ》などのどれに似ていてもおかしくない。だが、実際にはそのどれにも似ていない可能性が大きいだろう。 「おそろしいのは、動物などよりむしろリングワールド人そのものだろうな」〈|話し手《スピーカー》〉が予想する。「できるかぎり、武器をもっていかなければならん。この探険は、いよいよ環《リング》を離れるときまで、おれが全体の指揮をとっておこなうことを提案するぞ」 「わたしにはタスプがありますよ」 「忘れてはおらんぞ、ネサス。だからそれを、絶対的な拒否権《ヴェトー》としておくがいい。だが、みだりに使おうとするなよ。さあ、みんな考えてみろ!」  クジン人は、ヌウッとのびあがって、あたりを睥睨した。牙と爪をむきだした、五百ポンドもありそうな、オレンジ色の毛皮の巨体だ。 「四人とも、知性はあるはずだ。現状をよく考えてみるがよい! われわれは攻撃をうけた。船はなかば破壊された。これから未知の世界を、どれだけ遠くまで旅しなければならぬともわかっておらん。リングワールド人の力はおそるべきものであった。その力を、彼らはまだ維持しているか、それとも今では、骨をけずった槍以上に複雑なものを作れぬまでに退化しているだろうか?  だが、物質変換技術や、転換ビームなどを、まだ保有している可能性も同じくらいある。この──」  ふと、まわりのすべりやすい地肌や、黒い熔岩の壁を見まわす。〈|話し手《スピーカー》〉は心なしか身ぶるいしたようだ。 「──このおそるべき構造物をこしらえたさいの装置類をな」 「わたしにはタスプがあります」と、ネサス。「探険の指揮は、わたしがとります」 「そんなことでいい気になっているのか? これは侮辱ではないし、あえて挑戦するつもりもないが、指揮官にはおれを据えるべきだ。四人のうちで、戦いの訓練をうけているのは、おれだけなのだ」 「待ってよ」ティーラが口をはさんだ。「敵なんて、いないかもしれないじゃない」 「賛成」と、ルイス。  クジン人の命令で動くのは、どうも気がすすまなかった。 「よろしい。だが、みんな、武器は持っていかなければならんぞ」  一同は、フライサイクルへ、荷物の積みこみにとりかかった。  武器のほかにも、いろいろな装具があった。野営用の装備、食料の試験と合成用のセット、栄養調整のための食品添加物、超軽量の空気濾過器《エア・フィルター》など……。  ディスク形の通話機もあった。人間やクジン人は手首に、パペッティア人は頸のひとつにつけるようになっている。かなり大きく、つけていると、気になるほどだ。 「なぜこんなものを?」と、ルイスはたずねた。  フライサイクルにも交信システムのついていることは、パペッティア人からもうきかされていた。 「これは元来、|うそつき《ライヤー》号の自動操縦機構《オートパイロット》に合図して、必要なとき呼びよせるためのものでした」 「じゃ、なぜ今これが要るんだい?」 「通訳に利用するのですよ、ルイス。知性のある種族に出会う可能性は大きいのです。船内の自動操縦機構《オートパイロット》を、翻訳機として用いるのです」 「ああ、そうか」  積みこみが終わった。船体の下に、まだ多くの機器は残っていたが、それらは今のところ無用の長物だ。空間での無重力に対処する器具、宇宙服、リングワールドの防備レーザーで雲散霧消してしまった機構の取替部品などである。  空気濾過器《エア・フィルター》までもっていくことにしたのは、必要を感じたからというより、むしろそれが、ハンカチに毛のはえたくらいの重さしかなかったからであった。  ルイスはもう、骨の髄まで疲れ切っていた。フライサイクルの座席にまたがり、周囲を見まわして、もう忘れたものはないだろうかと気をくばる。そのとき、上をふり仰いだティーラが、愕然としたように身をふるわせるのが、ルイスの消耗しきった目にもはっきりとうつった。 「カホナ! まだ真昼だなんて!」 「あわてるなよ。あれは──」 「ルイス! 荷物を積みはじめてから、もう六時間はたってるはずよ。まちがいないわ! どうしてまだ、お昼のまんまなの?」 「あわてるなって。ここじゃ、陽は沈まないんだ。忘れたのかい?」 「沈まない?」  彼女のヒステリーは、はじまったのと同じくらい唐突に消えうせた。 「ああ、そうだっけ。沈むはずないわね」 「こいつに、これから慣れなきゃいけない。もう一度見てごらん。あの、太陽の縁にみえてるのは、|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の一辺じゃないかな?」  何かが、たしかに、太陽の円盤像の一端を、直線で截りとったように浸蝕していた。見ているうちに、太陽が欠けていく。 「出発したほうがよさそうだな」と、〈|話し手《スピーカー》〉がいった。「暗くならないうちに、高みへのぼっておくべきだ」 [#改ページ]      11 天空の|懸け橋《アーチ》  四台のフライサイクルが、方陣を組んで、徐々に弱まる陽光の中を上昇しはじめた。環《リング》の構成物質のあらわになった灰色の地面が、スウッと下方に沈んでいく。  |追 従 機 構《スレイヴ・サーキット》の使いかたは、ネサスから前もって説明をうけていた。いま、四台のフライサイクルは、いずれもルイスの操縦を正確になぞって動くようプログラムされている。ルイスが、四台全部を動かしているわけだ。マッサージ椅子からマッサージ機構だけをとりはずしたような、からだにピッタリの座席におさまって、彼はふたつのペダルと一本の操縦桿でサイクルをあやつっている。  正面のダッシュボードの上に、まるでまぼろしか何かのように、四つの小さな頭が透明の映像となって浮かびあがっていた。ひとつは愛らしい黒髪の魔女《シレーヌ》、ひとつはおそろしげな虎もどき[#「もどき」に傍点]だがその両眼はれっきとした知性をたたえている。三つめのは、ひとつ目玉の大蛇《バイソン》の首が一対だ。交信機の視覚システムは完璧であり、その結果がこの、まるで精神錯乱による幻視のような映像となって現われているのだった。  フライサイクルが、黒い熔岩壁の上へ出たときの、三人の表情を、ルイスは見つめていた。  ティーラが、最初に反応した。視線を中景に走らせ、ツイと目をあげると、本来なら限界のあるべきところが、どこまでも無限にひろがっているのだ。目が大きくまん丸く見ひらかれ、ティーラの顔は、まるで雲間から太陽が顔を出したかのように、パッと輝いた。 「まあ、ルイス!」 「何という大きな山だ!」と、〈|話し手《スピーカー》〉。  ネサスは何もいわなかった。ふたつの頭を、神経質そうに、ヒョコヒョコと動かしながら、周囲を見まわしている。  意外に早く、あたりが暗くなってきた。黒い影の縁《へり》が、巨大な山をサッと横切る。一瞬のうちに、山はもう見えなかった。太陽はすでに、暗黒をとおして輝く、月のようなうす白い黄金色の円盤にすぎない。そして、闇の落ちていく天空に、何かがかたちをなしはじめていた。  巨大なアーチだ!  その全体像が、みるみるうちに、はっきりしてくる。大地と空が暗くなっていくにつれ、リングワールドの夜景をいろどるその眺めは、くっきりと大空に姿を現わした。  この[#「この」に傍点]リングワールドそれ自体が、ところどころ白い雲のたなびく空色の帯となって、黒っぽい夜の部分で規則的に区切られたその姿を、上空に浮かべているのだ。下端に近いところでは、その幅はグッと広い。それが上へいくにつれ、急速に細くなり、天頂の近くでは、ただの青白く輝く破線としかみえない。そしてむろん、真上では、昼間だとみえない|遮 光 板《シャドウ・スクエア》が、そのつながりを断ち切っていた。  フライサイクルは、グングン上昇をつづけるが、乗っているものには何の音も聞こえなかった。音波シールドが効果的に働いているためだ。風を切る音すら、ルイスの耳にはとどいてこない。そこへとつぜん、金切り声のオーケストラがひびきわたったので、彼は思わずとびあがった。  まるで、スチーム・オルガンが破裂したような音だ。  鼓膜がキインと痛み、ルイスは両手で耳をおさえた。動顛したせいで、はじめはいったい何が起こったのかわからなかった。だが、すぐに気がついて、交信機のスイッチのひとつを切ると、ネサスの映像が、明けがたの幽霊のように、フッと消えた。同時に、その絶叫(教会の合唱隊が火あぶりにされてるような?)は、急にかすかになった。それがまだ聞こえてくる(増幅《アンブ》のきかなくなったステレオ・セットみたいに?)のは、〈|話し手《スピーカー》〉とティーラの交信機を介して、ひびいてくるからだった。 「どうしてあんな声だすの?」ティーラがびっくりしたように、大声で問いかけてきた。 「こわがってるのさ。この眺めに慣れるのには、ちょっと時間がかかるだろうな」 「この眺めって?」 「おれが指揮をとるぞ」〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉の太い声がひびいた。「あの菜食動物は、当分その任に堪えん。この事態は一種の戦闘状態と考えられるので、おれが命令を出す」  つかのま、ルイスは、代案を出してみようかと迷った。彼自身が指揮をとってもいいはずだ。だが、クジン人と争って、何の益があろうか? とにかく、クジン人のほうが、こういうさいの判断は的確であろう。  すでにフライサイクルは、地表から半マイルの高度に達していた。天も地も、ほとんど暗黒。ただその暗い地上にも、地図のような色こそついていないが、より黒い部分が、何がしかのかたちをなしているし、いっぽう空には満天の星ぼし、そして、自我を崩壊させそうなアーチがかかっている。  どういうわけか、ルイスは、ダンテの神曲を心にえがいている自分に気づいた。ダンテのその世界は、こみいった構築物で、そこにおける人びとの魂や天使たちは、その広大な人工世界の精密な部品として動いているかのように描かれている。リングワールドは、まさしく人工の世界、つまり、つくりもの[#「つくりもの」に傍点]なのだ。その点だけは、かたときたりとも、忘れることなどできない。なにしろ頭上には、はるか無限のかなたから反対の果てまで、青い縞もようの巨大な把手《ハンドル》がそびえ立っているのだから。  ネサスがこの眺めにしりごみしたというのは、ちょっとふしぎだった。だが、たぶん臆病すぎて──しかも現実的すぎるのだろう。その美を感じとれたかどうかはわからない。ただたしかなのは、彼が、かつての自分たちが支配していた商業帝国全体を合わせたよりも、居住面積においては広大な人工世界に島流しとなった現状を、実感したということだ。 「縁《リム》の外壁が見えそうだぞ」〈|話し手《スピーカー》〉がいった。  ルイスは、頭上のアーチから目をもぎはなした。〈左舷〉と〈右舷〉を交互にすかし見て、彼は気落ちするのを感じた。  左のほう(彼らは、|うそつき《ライヤー》号の着陸で生じた溝にそって、つまり回転方向《スピンワード》に飛んでいたので、左側が左舷にあたる)に、外壁の上線らしいものが、ブルーブラックの地に引かれたブルーブラックの線として、かすかにみとめられた。  その高さは皆目わからないし、裾野がどのあたりかなど見当もつかない。上の辺が見えたように感じるだけで、視線をすえると消えてしまう。だいたい水平線のあるべき方向のようだ。したがって、それが何かの基部である可能性も、その上縁である可能性と同じくらいあることになる。  右側、すなわち右舷の方向にも、同じような外壁らしいものが、虚像のように浮かびだしていた。同じ高さ、同じような外見、やはりじっと見つめようとすると消えてしまいそうな、かすかな線だ。  どうやら、|うそつき《ライヤー》号は、輪《リング》の中央線上ごく近くに墜落したらしい。どっちの外壁も、同じくらいの距離にみえる……ということは、これからおよそ五十万マイル近くの旅をしなければならないということだ。  ルイスは、エヘンと咳ばらいした。 「〈|話し手《スピーカー》〉、あんたはどう判断するね?」 「左舷の壁のほうが、いくらか高いな」 「よろしい」  ルイスは左へ舵をとった。他のサイクルも、|追 従 機 構《スレイヴ・サーキット》の作用で、それにならう。  ルイスは、交信機のスイッチを入れて、ネサスの様子をみた。パペッティア人は、三本の脚で、座席をしっかりとかかえこんだまま、ふたつの首をからだの下にたくしこんでしまっている。まったくのめくら飛行なのだ。  ティーラがいった。 「〈|話し手《スピーカー》〉、それはたしかなの?」 「もちろんだ」と、クジン人。「左の壁のほうが、たしかに大きくみえる」  ルイスは心の中でニヤリとした。戦闘教育はうけていないものの、戦いの何たるかは彼も知らないではない。ヴンダーランドの革命のあいだ、その地に釘づけにされ、船にたどりつくまでおよそ三ヵ月にわたって、ゲリラ活動をやったことがあるのだ。  彼は思いだしたのだった。りっぱな指揮官の資質は、一にかかってすばやく判断をくだす能力にある。その判断が、たまたま正しければ、それにこしたことはない……。  暗い地表の上を、一行は飛びつづけた。環《リング》の夜景は、地球の満月の夜よりも、はるかに明るい。だが、月の光というのは、空中から地形を照らしだすほどのものではない。|うそつき《ライヤー》号がリングワールドの表面をひきさいてつくった溝は、はるか後方に、銀色の糸となって遠ざかっていき、ついにはすっかり闇の中にのまれて見えなくなってしまった。  フライサイクルは、音もなく加速をつづけている。音速に近づくにつれて、空気を切りさく音が、音波シールドの内部まで伝わってきた。音速に達したところで、その音は最大となり、ついで、フッと消えた。音波シールドが、超音速向きの形に切りかわって、ふたたび静寂が訪れた。  やがて四台のサイクルは、巡航速度に達した。ルイスは、ゆったりと座席にもたれてくつろいだ。これから一ヵ月以上のあいだ、この座席の中で過ごすことになるかもしれないが、いずれそういう生活にも慣れるだろうと、彼は思った。  さてそこで(なにしろ操縦をまかされている身としては、眠りこむわけにもいかないので)、彼は自分の乗っているサイクルの検分にとりかかった。  休息用の設備は簡単で居心地よく、使いかたもやさしい。だがいささか信頼性に欠けるような気がする。  彼は、片手を、音波シールドに向かってのばした。シールドは一種の力場で、フライサイクルの占める空間のまわりに沿って、外の空気を流してやる、一連のベクトル場で成り立っている。べつにガラスの壁があるような感じではない。ルイスの手にふれたそれは、強烈な風が、まわりじゅうから押しよせてくるような手ざわりだった。まさしく風の壁の中に包みこまれているわけだ。  どうやら、このシールドは、まぬけ防止式にできているらしい。  それをためすために、彼は化粧用のティッシュを、用具入れのスロットからひっぱりだして、下におとしてみた。ヒラヒラとサイクルの下まで舞いおちたティッシュは、そこで空中に浮かんだまま、はげしくビリビリとふるえている。彼がこの座席からころげ落ちることなどありそうにないが、万一そんなことになったとしても音波シールドがうけとめてくれ、そこからまた座席にはいのぼることができるという寸法なのだ。  パペッティア人の設計としては、たしかに理屈に合っている……。  飲料水チューブからは蒸溜水が出てきた。食料スロットから出てきたのは、赤茶けた薄い煉瓦のようなしろものだった。六回、彼はダイアルをまわして、同じような煉瓦をとりだし、ひと口かじってみては、材料取りいれ孔へほうりこんだ。どの煉瓦もちがった味で、それぞれにおいしかった。  少なくとも、食事に飽きがくることはなさそうだ。とにかく当分のあいだは。しかし、どこかで植物なり水なりを見つけて、材料孔へいれてやらなければ、いずれは食料スロットも、煉瓦の供給が底をついてしまうだろう。  またダイアルして、七つめの煉瓦をとりだし、こんどはすっかり食べた。  救助の手がどれほど遠いかを考えると、気が滅入ってくる。地球ははるか二百光年の彼方にあり、パペッティア人の〈船団〉までは二光年だが、それは光速に近いスピードで遠ざかりつつある。なかば蒸発した|うそつき《ライヤー》号の残骸にしても、飛びあがった直後にもう見えなくなっていた。その墜落の溝も、すでに視界から去った。  もう二度と、船を見つけだすことは、できないのではあるまいか?  そんなカホなことは、あるはずがない、と、ルイスは気づいた。後方から反回転方向《アンチスピンワード》よりには、あの見たこともないほど巨大な山がそびえている。いくらリングワールドでも、あれほどの山は、そう多くないだろう。|うそつき《ライヤー》号を見つけるには、あの山の近くから、回転方向へ、数千マイルにわたってつづいている直線状の溝をさがせばいいわけである。  ……それにしても、頭上に輝くリングワールドのアーチは、地球の約三百万倍の面積をもっている。完全に迷い子になるには、充分こと欠かない広さだ。  ネサスがようやく外をうかがいはじめた。はじめに片方の、ついでもうひとつの頭が、胴体の下から現れる。舌をのばしてスイッチに触れると、話しかけてきた。 「ルイス、ふたりだけで話したいのですが?」 〈|話し手《スピーカー》〉とティーラの透明な映像は、どうやら眠っているらしい。ルイスは、そのふたりに通じる交信機をオフにした。 「何だい?」 「今、どうなっているのですか?」 「開いてなかったのか?」 「わたしの耳は、頭についています。耳はふさがれていたのです」 「いま、気分はどうだい?」 「たぶんまた硬直をおこすでしょう。ガックリした気分です」 「ぼくもさ。とにかく、この三時間で、二千二百マイルほど飛んだ。転移ボックスはもとより、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》だって、これよりは早いだろうな」 「残念ながら、|跳 躍 円 盤《ステッピング・ディスク》を、ここに用意することはできませんでしたね」  パペッティア人のふたつの頭が、向かいあい、互いに目を見つめあった。そうしていたのは、ほんの一瞬だった。だが、ルイスはその恰好を、前にも幾度か見たことがあった。  そして、ふいに、それが、パペッティア人の笑いなのだと、彼は悟った。パペッティア人は気がふれると、ユーモアの感覚が備わるのだろうか?  彼は、ことばをつづけた。 「われわれは、左舷に向かっている。〈|話し手《スピーカー》〉が、左舷の壁のほうが近いと判断したからだ。これは、コインを投げてきめても同じことさ。しかし、〈|話し手《スビーカー》〉は、いま指揮官だ。あんたが硬直をおこしてるあいだに、とってかわったんだよ」 「残念なことですね。〈|話し手《スピーカー》〉のフライサイクルの距離までは、タスプがとどきません。これはひとつ──」 「ちょっと待った。どうして彼に指揮をまかせちゃいけないんだ?」 「ですが、しかし──」 「考えてみろよ」  ルイスは語気を強めた。 「あんたは、いつでも、タスプで拒否権《ヴェトー》を発動できるんだぜ。彼に指揮をまかせておかなくったって、あんたが首をひっこめるたびに、どうせあいつはしゃしゃり出てくるんだ。しょっちゅう指揮権が移るんじゃ、こっちがたまらない」 「べつに、実害はないでしょうね」  パペッティア人は一歩ゆずった。 「わたしが指揮をとったところで、事実上たいした意味はないでしょう」 「その意気だ。〈|話し手《スピーカー》〉をよびだして、彼を司令官に任命するっていってやれよ」  ルイスは〈|話し手《スピーカー》〉との交信機のスイッチをいれた。火の出るような交替劇を期待していたわけでもないが、もしそうだったら、彼は失望したことだろう。クジン人とパペッティア人のあいだには、ふたこと三こと、シュッと吐きだすような〈ますらおことば〉の応酬があっただけで、クジン人のほうは、すぐに交信機のスイッチを切ってしまった。 「申しわけのないことをしました」と、ネサスがいいだした。「わたしたちの遭難は、すべてわたしの責任です」 「くよくよするなよ。あんたは、|鬱 期《デブレッシヴ》のサイクルにはいってるだけさ」 「わたしも知性種族の一員ですから、事実を直視することくらいはできます。ティーラ・ブラウンを選んだのは、たいへんなまちがいでした」 「そりゃそうさ。しかし、あんたの罪ってわけじゃない」 「ところがわたしの罪なのです、ルイス・ウー。どういうわけで、ティーラ・ブラウン以外の候補がつかまらなかったのか、もっと早く気づくべきでした」 「何だって?」 「彼らは、幸運すぎたのです」  ルイスは、シュウと歯のあいだで口笛をならした。どうやらパペッティア人は、極めつきの新理論を発見したつもりらしい。 「特別に幸運なために、そもそもこういう危険な探険には、まきこまれずにすんだのです。出産権抽籤が幸運の能力の遺伝子を生みだしていたことはまちがいありませんが、わたしはそれをとらえることができなかったのです。多くの家系に連絡を試みましたが、結局、つかまったのはティーラ・ブラウンただひとりでした」 「おい、しかし──」 「他のものにコンタクトできなかったのは、彼らが幸運すぎたからです。ティーラ・ブラウンが、この呪われた探険に参加できたのは、彼女が幸運の遺伝子を受けついでいなかったためでした。ルイス、申しわけありません」 「まあ、ひと眠りしろよ」 「ティーラにあやまらなければ」 「いや。そいつはぼくの責任だ。ぼくが、何としてでもとめるべきだった」 「あなたが?」 「とめられたかどうかはわからん。正直なところ、何もわからないんだ。寝ろよ」 「眠れませんよ」 「じゃ、あんたが操縦してくれ。ぼくが、寝かしてもらおう」  そういうことになった。だが、寝入る前に、彼はフライサイクルのじつに安定した飛行ぶりに驚かされた。ネサスの操縦の腕は、すばらしいものであった。  曙光がさすと同時に、ルイスは目ざめた。  重力の作用下で眠ることには慣れていなかったし、まして、すわったままの姿勢で一夜を明かしたことなど、これまで一度もなかった。大きなあくびをして背すじをのばすと、凝っていた筋肉がゴキゴキと鳴った。うめき声をあげ、寝ぼけまなこをこすりながら、彼は周囲を見まわした。  陽ざしと影のぐあいが、どうもおかしい。彼は上を見あげ、ちょっとのあいだ、天頂にかかる太陽に目をさらしてしまった。馬鹿な、と自分を叱りつけながら、あふれだした涙のとまるのを待った。反射神経のほうが、脳の判断よりも早かったわけだ。  左のほうには、闇がひろがり、遠ざかるほど濃くなっている。見えない地平は、まだ夜の闇の中にあり、その上の藍色の空では、リングワールドの大アーチが、徐々にかすんでいくところだった。  右側、つまり回転方向《スピンワード》は、真昼だ。リングワールドの、いささか風変わりな、朝の眺めであった。  砂漠が終わりかけていた。ウネウネとつづくその境界線は、鋭くクッキリとした曲線を描いて、左右にずっとのびている。サイクルの後方は、見わたすかぎり黄白色に光る荒野だ。その果てには、あの大きな山が、依然として空の一部を大きく占めている。反対の前方には、緑や茶の植物地帯をはさんでいる河や湖がかすかに眺められた。  サイクルは、まだもとのまま、大きく開いた菱形の編隊を維持している。これだけ離れていると、肉眼ではどれも似たような銀色の羽虫のようにしかみえない。ルイスの機が先頭だ。記憶によると、〈|話し手《スピーカー》〉の機が回転方向《スピンワード》つまり右側で、ネサスが左、そしてティーラが真うしろのはずだった。  あの大きな山から回転方向《スピンワード》のほうへ向かって、何かホバークラフトが砂漠の上をとんだあとのような、砂けむりがつづいている。むろんはるかに大規模だ。この距離だと、一条の線としかみえないが、おそろしく大きなものだろう……。 「目がさめましたか、ルイス?」 「おはよう、ネサス。ずっとあんたが操縦してたのかい?」 「その仕事なら、数時間前、〈|話し手《スピーカー》〉に押しつけました。もう七千マイルちょっと飛んだはずです」 「ああ」  だがそれは、ただの数字にすぎない。これから旅しなければならない距離にくらべれば、まことに微々たるものだ。生まれてからずっと、転移ボックスのネットワークに頼っていたせいで、ルイスの距離感覚はすっかりそこなわれていた。 「うしろを見てくれ。あの埃の線がみえるね? いったい、あれは何だろう?」 「もちろん、わたしたちが隕石のように墜落したとき、蒸発して四散した岩が、空中で凝縮したものです。あれだけの量だと、まだ地上に落ちつけないでいるのでしょう」 「ふうむ。砂嵐か何かかと思ったよ……まったく、カホな距離をすべったもんだ!」  その砂塵のあとは、船からの距離からすると、少なくとも長さ二千マイルに及ぶだろう。  天と地は、まるで無限の広さをもった二枚の平面が合わさったようだ。人間など、その二枚の板のあいだをうごめきまわる徽生物にすぎない……。 「大気の圧力が増加したようです」  ルイスは、はるかの消失点から視線をはなした。 「どういう意味だ?」 「気圧ゲージを見てみなさい。着陸した場所は、少なくともここより標高二マイルは上だったはずです」  ルイスは、れいの食用煉瓦をダイアルして、朝食をとった。 「そんな、気圧なんかが大事なのかい?」 「こういう異質の環境では、あらゆるものに目をくばっていなければなりません。どんな些細なことが、致命的なものになるかわからないのです。例えば、あのうしろの、大きな目標にした山ですが、どうも最初に考えていたよりは、ずっと大きいらしい。ところで、ちょうど前方に光っている銀色の点は、いったい何でしょうね?」 「どこ?」 「だいたい、ふつうなら水平線があるあたりの位置です。まん前です」  あたかも一枚の地図を、真横からみて、一点を見つけようとするようなものだった。とにかくそれは見つかった。キラキラと鏡のようにきらめいているが、大きさは一点にすぎない。 「太陽の反射みたいだな。何だろう? ガラスの町かな?」 「ちょっと無理なようです」  ルイスは笑いだした。 「ずいぶん控えめだね。でも、大きさはガラスの町に匹敵するだろう。それとも、何エーカーもある鏡かもしれない。巨大な反射望遠鏡かもしれん」 「それだと、たぶん廃墟になっているでしょう」 「どうして?」 「ここの文明は、どうみても未開の状態にもどっています。そうでなければ、どうしてあんな大きな面積が、砂漠にもどるままになっていたでしょうか?」  さっきまでは、ルイスもそう思っていた。だが、今は……。 「ちょっと話を簡単化しすぎてるんじゃないかな。リングワールドの大きさは、われわれの想像を絶したものだ。ここには、未開も文明も、その中間のあらゆるものも、同時にいれる余地があるだろう」 「文明はひろがるものですよ、ルイス」 「ああ」  ともあれ、あの光る点の正体を見さだめなければならない。それはちょうど、一行の進路にあるのだった。  ダイアルをさがしてみたが、コーヒーの出てくる|取出し孔《スピゴット》はなかった。  ルイスが、朝食の煉瓦の最後のひとかけを飲みくだしたとき、ダッシュボードにふたつの緑の点が光った。何ごとかといぶかったが、すぐに昨夜、〈|話し手《スピーカー》〉とティーラの交信機を切っておいたことを思いだした。ふたたびスイッチをいれる。 「おはよう」と、〈|話し手《スピーカー》〉。「夜の明けるところを見たか、ルイス? じつに芸術的感興にみちた眺めだったな」 「見たよ。おはよう、ティーラ」  ティーラは答えない。  その顔に、ルイスは目をよせた。ティーラは、まるで、|涅 槃《ニルヴァーナ》の境地に達したかのような、忘我の境をさまよっていた。 「ネサス、まさか、彼女にタスプを使ったんじゃないだろうな?」 「いいえ、ルイス。どうしてそんなことをするわけがありますか?」 「いつから、彼女はあんなふうだった?」 「あんな、とはどういうことだ?」〈|話し手《スピーカー》〉がききかえす。「ここずっと、彼女は連絡してこなかったな。そのことをいうならだが」 「カホナ! あの顔をみろ!」  ダッシュボードに浮かぶティーラの映像は、ルイスの頭をとおして、無限のかなたを見つめていた。ひどくもの静かで、完璧な愉悦にひたっているような表情だ。 「くつろいでいるではないか」と、クジン人。「わるいところもなさそうだ。人間の表情としては、最高の──」 「もういい。着陸させてくれないか? 彼女は、高所催眠《プラトー・トランス》にやられたんだ」 「何のことかわからんが」 「とにかく、降ろしてくれ」  一マイルの高さから、機は降下にはいった。自由落下のむかつくような気分がちょっとつづいたが、〈|話し手《スピーカー》〉がすぐに推力をもどした。  ダッシュボードに浮かぶティーラの反応ぶりを、ルイスはじっと見まもっていたが、どうということもない。何も気づかない様子で平然としている。口の両端が、かすかに上へひきつれているようだ。  降下するにつれ、ルイスのいらだちは、ますますつのっていった。催眠状態の何たるかは、彼もいくらか知っている。二百年間、三次元テレビを見てきた男の、断片的な知識のよせあつめで、よく覚えているとしての話だが……。  地表の緑と褐色が、平原と森と、銀色の河とに分かれていく。眼下にある世界が、ちょうど|平 地 人《フラットランダー》が植民地に適当だと考えるような青々とした原野であるのが、この場合いかにも残念なことに思われた。 「できたら谷間へおろしてくれ」ルイスが〈|話し手《スピーカー》〉にいう。「彼女を、地平のみえないところへつれていきたいんだ」 「よろしい。おまえとネサスは、自動操縦《オートパイロット》を切って、自分であとからついてこい。おれは、ティーラを着地させる」  フライサイクルは四辺形の編隊を解き、べつの隊形になった。〈|話し手《スピーカー》〉は、ルイスがさきほど指さした流れに向かって、|左 舷 回 転 方 向《ボート・アンド・スピンワード》に舵をとった。他の三機もそれにつづく。  降下していくうちに、流れを横断した。〈|話し手《スピーカー》〉は、そこで川筋にそって右へ曲がった。樹々の梢すれすれにかすめて、上下の動きをくりかえす。そうしながら、木立ちのない堤を物色しているのだ。 「植物は、まるで地球そっくりだ」と、ルイス。  ふたりの異星人が、それぞれに同意のつぶやきをもらした。  流れの大きな屈曲に沿ってまわる。  その流れがひろくなった中ほどに、一団の原住民の姿があった。漁網を操作していたところらしい。一列縦隊のサイクルが現れると、いっせいにふり仰いだ。そのまま、ポカンと口をあけてこっちを見つめ、網を流れるにまかせている。  ルイす、〈|話し手《スピーカー》〉、そしてネサス、誰の反応も同じだった。一直線に上昇したのだ。原住民の姿は、たちまち豆つぶのように小さくなり、川の流れは曲がりくねった銀色の糸と化した。青々とした原野も森も、たちまち緑と褐色のぼやけた模様にもどった。 「自動操縦《オートパイロット》に切りかえろ」〈|話し手《スピーカー》〉が、紛うことなき命令口調でいった。「べつの場所をさがす」  この命令調は、訓練で身につけたものだ──もっと厳密にいうなら、人間を相手にするための訓練でだ。使節の一員となるための教育にもいろいろあるのだろうと、ルイスは思いに沈んだ。  ティーラは、相変わらず、まったく何も気がついていない様子だ。 「で?」と、ルイス。 「あれは、人間でした」と、ネサス。 「そうさ、そのとおりだ。幻覚を見たのかと思ったよ。どうして、人間がここに?」  誰も答えようとするものはなかった。 [#改ページ]      12 |神 の 拳《フィスト・オヴ・ゴッド》  一行は、原野の中の、低い丘を周囲にめぐらせたくぼ地に着陸した。擬似地平線は丘にかくされ、天空のアーチは真昼の光にとけこんで見えず、あたりは人間の住む世界そのままの光景だった。草は厳密にいうと地球の草とちがっていたが、色は緑だったし、当然草で蔽われているべきところに、絨毯を敷きつめたように生えていた。  土があり、岩があり、こんもりした緑の葉をつけてもっともらしくふしくれだった[#「ふしくれだった」に傍点]灌木もある。ルイスの見たところ、植物相は、気味が悪いほど地球的だった。茂みがありそうな場所には茂みがあり、地肌の現われていそうな場所には地肌が現われている。  フライサイクルに装備された測定機によると、植物は分子レベルまで地球と同じだった。ルイスと〈|話し手《スピーカー》〉が先祖のヴィールスの段階で血のつながった親戚同士といえるとすれば、ここの樹々は、兄弟といっていいくらいだろう。  生垣におあつらえむきの植物があった。一見ふつうの樹のようだが、地面から四十五度の角度でのび、王冠のように葉を茂らせ、そこから同じ角度で下へのびて、一群の根を生やし、また四十五度で上へ……ルイスは前に、ガミジイ星で、これと似たようなのを見たことがあった。だが、この三角形の連鎖の、つややかな緑となめし革のような褐色とは、まさに地球植物の色そのものだ。ルイスはこれを、|ひじ根植物《エルボウ・ルート》と名づけることにした。  ネサスは、この小さな森の空地を歩きまわり、植物や昆虫を採集しては、サイクルの簡易実験設備でテストをくりかえしている。彼は宇宙服を着こんでいた。あの、透明な球形に、三本の脚部《ブーツ》と、二本の手袋兼マウスピースのついたやつだ。この防壁をとおして彼に危害を加えられるものは、リングワールドにはひとつもないだろう。食肉植物も、昆虫も、花粉の粒子も、むろん菌類の胞子もヴィールス類もだ。  ティーラ・ブラウンは相変わらず自分のフライサイクルにまたがったまま、繊細というにはちょっと大きすぎる両手を、その操縦盤の上にかるくかけた姿勢で、じっとしている。両方の口の端が、かすかに上へ曲がっている。フライサイクルの加速につりあった、くつろぎながらもシャンとした姿勢で、そのからだの線は、あたかもスタイルの研究のためにポーズをとっているかのようだ。  緑色の両眼は、ルイス・ウーを、そしてその向こうの低い丘をもとおして、無限のかなた、リングワールドの架空の地平線を見つめている。 「わからんぞ」と、〈|話し手《スピーカー》。「どこがいかんのだ? 眠っているわけでもないのに、奇妙にたよりなくみえるな」 「一種の催眠状態なのさ」と、ルイス。「ほうっておけば、ひとりでになおる」 「では、危険はないのだな?」 「ここなら大丈夫。ぼくはただ、彼女が、サイクルから落ちたり、操縦盤で無謀なことをやったりするのが心配だったんだ。地上におりていれば、問題ないよ」 「だが、どうしてわれわれのほうに、まったく関心を示さんのだ?」  ルイスは説明にかかった。  太陽系の小惑星帯では、一生の半分ものあいだ、漂う岩くずのあいだでひとり乗りの船をあやつって過ごすものが多い。船の位置をたしかめる頼りになるのは恒星だ。小惑星帯の探鉱業者は、何時間ものあいだ、星だけを見つめていることがある。すばやく弧を描いて動く光点は、核融合駆動の船だし、ゆっくり漂っていく光は近くの小惑星、そして動かないのが恒星ないしは遠い銀河系宇宙なのである。  白い星ぼしだけに囲まれていると、人間は、一種の離魂状態におちいることがある。ずっとあとになってわれにかえり、それまで自分のからだがひとりでにちゃんと船を操っていたことを知るのだが、そのあいだ魂が遊んでいた世界については何もおぼえていないのだ。  そういった人びとは、これを〈|遠 目《ファー・ルック》〉とよぶ。これは危険な徴候だ。魂をとばしたきり、もとにもどらないものもいるのである。  マウント・ルッキットザットの平坦な高原の上に立つと、その虚無への縁から、無限の下方を見おろすことができる。むろん、山の実際の高さは四十マイルかそこらにすぎない。しかし、その山の、水流にえぐられた壁面をのぞきこむ人間の目には、裾野をかくす深い霧のよどんだ表面が、無限に遠くにあるように感じられるのだ。  この虚無の霧は、白く、かたちがなく、しかもまったく動かない。山ひだの裾からはるかな地平まで、完全に一様にひろがっている。その空虚さにいったん心を吸いよせられると、人間は、誰かが連れにきてくれるまで、その崖の縁に凍りついたように動けなくなってしまう。これを人は高所催眠《プラトー・トランス》とよぶ。  リングワールドの地平にも、それと同じ作用があるのだ……。 「しかしまあ、単なる自己催眠だからね」  ルイスは、ティーラの目をのぞきこんだ。彼女は、モゾモゾと身じろぎした。「たぶん、目をさまさせることもできるだろうが、わざわざそうする必要もあるまい? このまま寝かせておこう」 「催眠というのは、わからんな」と、〈|話し手《スピーカー》〉。「それがどういうものかは知っているが、理解ができないのだ」  ルイスはうなずいた。 「当然だろうな。クジン人は、催眠にかかりにくい。そういえば、パペッティア人もそうだな」  そのネサスは、やっと異星生物の採集をやめて、音もたてずにもどってきたところだった。 「理解できないものでも、研究することはできます。人間の心の中には、何か、自分で決断をくだしたがらない部分があるのです。心の一部が、誰かの指示を求めているのです。催眠にかかりやすい人間というのは、他人を信じきる能力の強い人です。催眠をかける相手にまず属服してしまうことが、催眠の第一歩になります」 「しかし、催眠とは何なのだ?」 「誘導されて偏執狂《モノマニア》になった状態です」 「しかしなぜ、そういう状態になろうとするのだろうな?」  ネサスには答えられないようだ。  ルイスがいった。 「なぜなら、催眠をかける相手を信じるからさ」 〈|話し手《スピーカー》〉は、大きな頭をゆすって、そっぽを向いた。 「そういうふうに他人を信じるのは、狂気のしるしです。わたしにも、催眠は理解できません」と、ネサス。「ルイス、あなたは理解できるのですか?」 「すっかりというわけじゃない」 「それで安心しました」  そういって、パペッティア人は一瞬、ふたつの首を向かい合わせて、たがいの目をのぞきこんだ。 「ありえないものを受けいれる人を信用するわけにはいきませんから」 「リングワールドの植物について、何かわかったかい?」 「どれも地球のにたいへんよく似ていることは、もう話しましたね。しかし、ものによっては、形態的に、思いがけないほど特殊化しています」 「進化が進んでるっていうのかい?」 「おそらくそうでしょう。また、これもおそらくですが、このリングワールドでは、特殊化するだけそれなりに、余裕をもって成育することができます。しかし重大なのは、これだけ似ていると、われわれに対して害になるおそれがあるということでしょう」 「だが、逆もまた正しいだろう?」 「もちろんです。わたしの種族が、食用にできるものもありますし、あなたたちの食用にピッタリの種類もあります。あとは、あなたが自分で、まず毒性がないか、つぎには味がどうか、たしかめてみなければいけません。しかし、だいたいどの植物も、あなたのサイクルの調理機で処理できるでしょう」 「じゃ、飢え死にの心配はないな」 「それだけでは、この危険に対して、わりが合いません。|うそつき《ライヤー》号に、星間種子誘引機《スターシード・ルーア》を積んでおいてくれればよかったのに! それがあれば、こんなふうに、えんえんと旅することなど、しないですんだのです」 「星間種子誘引機《スターシード・ルーア》だって?」 「簡単な装置です。千年も前に発明されたもので、銀河辺縁部の太陽に、星間種子《スターシード》をひきつける電磁的放射パターンを出させるしかけです。それさえあれば、星間種子《スターシード》をひとつ、この星系にひきよせて、それについてくるアウトサイダー人の船とわたりをつけられたでしょう」 「しかし、星間種子《スターシード》の速度は、光速よりずっとおそい。どれだけかかるかわかりゃしないぜ!」 「でも、ルイス、考えてみなさい! どんなに長く待つにしても、安全な船からは離れないですむのですよ!」 「一生待ちつづけることになるだろうよ」  ルイスは、フンと鼻で笑って、〈|話し手《スビーカー》〉のほうに目をはしらせた。とたんに、目をそらすことができなくなった。 〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉は、少し離れたところで、低く身をかがめた姿勢でこっちをふりかえり、『不思議の国のアリス』のチェシャー猫さながらに、奇妙な〈わらい顔[#「わらい顔」に傍点]〉をみせていたのである。ずいぶん長いあいだ、そうして見つめあっていたような気がした。だが、やがてクジン人は、わざとらしくゆっくり立ちあがると、ひととびして、異世界の森の中へ姿を消してしまった。  ルイスはふりかえった。どうやら何か、重大なことが起こったらしいと、彼は気づいた。  だが、それはいったい何なのか? どうしてそうなったのか?  肩をすくめて、彼はその考えを追いはらった。  ティーラは、いまだに自分のサイクルの座席にまたがって、加速に対応する姿勢をとったままだ……まるで、まだ飛びつづけているかのようだ。  ルイスは何度か医療師に催眠術をかけられた経験があった。それは何か劇でも演じているような感じだったことを覚えている。心地よいあなたまかせ[#「あなたまかせ」に傍点]の気分にくるまって、彼は催眠術師と、ゲームを楽しんでいるような気持だった。いつでもやめることができた。だが、どういうわけか、そうはしなかったのだ。  とつぜんティーラの目が、拭われたように生気をとりもどした。ブルッと頭をふると、彼女はこっちをふりむいた。 「ルイス! どうして着陸したの?」 「予定どおりさ」 「おろしてよ」  彼女は、塀にのぼった子供のように、両手をさしのべた。ルイスは両手を彼女の腰にあてて、サイクルからもちあげた。彼女に触れたことで、背筋をふるえが走り、鼠蹊部と太陽神経叢に熱いものを感じた。彼はしばらく手をそのまま放さずにいた。 「つい今まで、一マイルも空にあがってたのに」と、ティーラ。 「これからは、地平の方向を見ないようにしとくんだな」 「あそこで眠ってるあいだに、あたし、何かしたのね?」  彼女は笑い声をあげて、ツンと首をのばすと、黒い髪が大きな雲のようにゆれた。 「それで、みんなびっくりしたのね! ごめんなさい、ルイス。〈|話し手《スピーカー》〉は、どこへいったのかしら?」 「兎でも追っかけてるんだろう。おい、こっちも何かやろう。やっと見つけたチャンスじゃないか?」 「森の中のお散歩は、どう?」 「いいね」  視線が合った。心の中はおたがいによくわかっている。彼女は自分のサイクルのトランクからブランケットをひっぱりだした。 「さあ、いいぜ」 「たいしたものですね」ネサスがいった。「あなたたちほどよく交接する知性種族は、ほかに見あたりません。それではいきなさい。腰をおろすときには、あたりに気をつけるんですよ。そこらじゅう、えたいのしれない生命体がいっぱいなのですから」 「はだかということばが、昔は無防備と同じ意味に使われたってこと、知ってるかい?」と、ルイスがいった。  実際、服を脱ぐことで、安全がおびやかされるような気がしたからである。リングワールドの生態圏が、原形質の残滓を処理する虫けらやバクテリアや食肉植物なども含めて、みごとに機能していることは、疑いようがない。 「知らない」  ティーラは裸で、ブランケットの上に立ったまま、頭上の太陽に向けて片手をのばした。 「いいきもち。あたしがまだ、昼の光の中であなたのはだか[#「はだか」に傍点]を見たことがないのは、知ってる?」 「ご同様さ。ついでだけれど、そうしてるきみはカホなくらいすばらしいよ。こっちも、いいものを見せてやろう」  彼は片手で自分の毛のない胸を指さした。  だが──。 「カホナ! どうして──」 「何もないじゃない」 「なくなっちまった。細胞賦活剤《ブースタースパイス》のせいだな。あとかたもない。傷あとがなおったのは、ついこのあいだだったのに……」  胸の上を指でなぞってみる。だが、そこには、現に何のあとも残っていない。 「ガミジイ星で、リーチャーにやられたんだ。やつは、ぼくの肩からへそまで[#「へそまで」に傍点]、幅四インチ深さ半インチの肉をこそぎとっていった。つぎの一撃がきたら、ぼくはまっぷたつにされていたのかもしれないが、やつはまず最初に、もっていったぶんをのみこんだ。そいつが、やつには、致命的な毒だったらしい。たちまちボールみたいに丸くなって、死んじまった。  それが、今みると何もない。あとかたも残っていない」 「かわいそうなルイス。でも、傷あとがないことでは、あたしも同じよ」 「しかしきみは、統計上稀な存在で、おまけにまだたった二十歳なんだ」 「あら」 「フウム。なめらかな肌だ」 「ほかに、なくなった傷は?」 「一度、穴掘りビームを扱いそこねたこともある──」  彼女の手をとってみちびく。  仰向けに横たわったルイスの腰にまたがるようにして、ティーラは刺しつらぬかれた。そのままの姿勢でずっと、おたがいの目を見つめあい、耐えられなくなるまで待ってから、動きにはいった。  高まるオルガスムの輝きをとおしてみる女体は、天使の栄光の炎をまとっているかのようだ……。  ……何か、兎ほどの大きさのものが、木かげからとびだしてルイスの胸の上を横切り、下生えのかげにかくれた。一瞬ののち、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉が、視界に躍りこんできた。 「失礼」  クジン人はそういって、また獲ものの嗅跡を追って姿を消した。  フライサイクルのある場所で、また顔を合わせたとき、〈|話し手《スピーカー》〉の口のまわりの毛皮は、まっかに彩られていた。 「生まれてはじめて、自分の歯と爪だけを使って、食うための獲ものを仕とめたぞ」  満足げにいうその声には、興奮のかけらもなかった。だが、その彼も、ネサスの忠告に従って、汎用の抗アレルギー錠をのんだ。 「そろそろ、原住民のことを話しあいたいですね」ネサスがいった。  ティーラは、びっくりしたようだ。 「原住民って?」  ルイスが話してやった。 「でも、どうしてみんな、逃げたの? 原住民は危険なの? 本当に人間だったの?」  ルイスは、最後の質問にだけ答えた。それが、彼にも気になっていたからだ。 「どうしてだか見当もつかない。こんなに人間世界から遠いところで、人間が何をしているというんだ?」 「疑う余地はないぞ」〈|話し手《スピーカー》〉がさえぎった。「見たとおりを信じるのだ、ルイス。おまえやティーラの種族とのあいだに、こまかいちがいはあるかもしれん。だが、あれは人間だった」 「どうしてそんなに確信があるんだ?」 「においだよ、ルイス。音波シールドを切ると同時に、におってきた。ずっと遠く、薄まってはいるが、人間の大群集の匂いだ。おれの鼻を信じるがいい、ルイス」  ルイスは納得した。  クジン人の鼻は、狩猟食肉種族のそれである。 「とすると、平行進化だろうか?」 「ありえませんね」と、ネサス。 「だろうな」  人間の体形は、道具づくりには適しているが、他の形態よりとくにすぐれているわけでもない。知性は、どんな姿にも宿りうる。 「時間の無駄だぞ」〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉がいった。「問題なのは、人間がいかにしてここへたどりついたかなどということではない。今後、彼らにどう接していくかだ。われわれにとっては、彼らと出会うたびに、それが|最初の接触《ファースト・コンタクト》ということになるのだからな」  そのとおりだ、とルイスは思う。サイクルの飛ぶ速さは、おそらくここの原住民がもっているだろういかなる情報伝達手段をもしのいでいるはずだ。旗信号のようなものを使っていないかぎりは……。 〈|話し手《スピーカー》〉は、つづける。 「何よりも、未開状態にある人問の行動パターンを知らなければならん。どうだ、ルイス? ティーラ?」 「人類学なら、少しは知ってる」と、ルイス。 「では、接触したときには、おまえが代表として話せ。船の自動機構《オートパイロット》が、優秀な翻訳者であることを祈ろう。では、これから最初に出会った原住民と接触する」  そして、空中に出ると、ほとんどすぐに森林はなくなり、耕作地域の格子模様がそれにとってかわった。数秒後、ティーラが都市を見つけて指さした。  それはちょうど、数世紀前の地球の都市とよく似ていた。数階建ての建物が、ギッシリと庇をつらねている。その集まりの中から、いくつか細長い塔が宙にのび、それらは、地上車用のうねりくねった斜路《ランプ》でたがいに結びつけられていた。  その点は明確に地球の都市とちがっている。当時の地球の都市は、斜路《ランプ》よりヘリポートを多く備えていたはずだ。 「ここで何かと出会うだろう」〈|話し手《スピーカー》〉が期待にみちた口調でいった。 「いや、きっとからっぽだと思うね」と、ルイス。  ただの当てずっぽうだったが、事実はそのとおりだった。上空にさしかかったとき、それは明らかになった。  最盛期におけるこの都市の美観は、みごとなものであったにちがいない。ある面において、この都市は、既知空域《ノウン・スペイス》のどの都市にもないものをもっていた。数多くの建物が、地上に建てられるのでなく、空中に浮かび、地表や他の建物とのあいだを斜路《ランプ》や|昇 降《エレベーター》タワーがつないでいたらしい。重力の束縛を離れ、垂直と水平を別個に考える必要のなくなった、この空中楼閣は、あらゆる形状と好きなだけのサイズをとることができたはずである。  いま、四台のフライサイクルは、その廃墟の上空にさしかかった。浮かぶ小楼閣が墜落したときに、下の低い建物を押しつぶしたらしく、あたりは煉瓦やガラスやコンクリートの破片、ひき裂けた鋼材、ゆがんだ斜路、それにまだ上へつきだしたままの|昇 降《エレペーター》タワーの残骸などでいっぱいだった。  その光景がまた、ルイスに、原住民への疑念を呼びおこした。人間が浮かぶ城をつくったという記録はない。人間は、何より安全第一だったのだ。 「ぜんぶ一度に落ちたようです」とネサス。「修復しようとした跡がまったくありません。まちがいなく、動力の故障です。〈|話し手《スピーカー》〉、クジン族は、こういう馬鹿げたものを建てますか?」 「高いところさえ嫌いだ。だが、人間ならやるかもしれん。もし生命への執着が、今ほど大きくなかったらな」 「細胞賦活剤《ブースタースパイス》だ」ルイスが叫んだ。「それが答えだ。彼らは生命をのばすことができなかったんだ」 「はい、だから、安全性への関心が少なかったのですね。守るべき生命が短いのですから」  パペッティア人が推測を加えた。 「これはわるい前兆です。そうではありませんか? 自分の生命を重く見ない連中だとしたら、わたしたちの生命も重く見ないでしょう」 「取り越し苦労がすぎるぜ」 「もうすぐわかりますよ。〈|話し手《スピーカー》〉、あのおしまいの建物を見てください。高い、クリーム色の窓のこわれた──」  パペッティア人がしゃべっているあいだに、その上空を過ぎてしまったので、操縦にあたっていたルイスは、サイクルをグルリとまわして、もう一度そこへ引っかえした。 「思ったとおりでした。〈|話し手《スピーカー》〉、みえますね? 煙です」  その建物は、約二十階建てで、芸術的にひねりを加えたり彫刻をほどこした一本の柱を思わせた。その窓は、ズラリと並ぶ黒い楕円の列だ。一階の窓は大部分ふさがれていた。いくつか開いたのから、灰色のうすい煙が出て、風に吹き散らされているのだった。  一、二階建ての家々のあいだに、ちょうど足首まで埋まった恰好で立っている。低い家々の中には、まるで空から落ちてきたローラーに踏みならされたようにつぶれた一群がみえる。しかしそのローラーの役を果たした建物もまた、この塔のすぐそばで、分解してコンクリートの堆積と化していた。  塔のうしろが、ちょうど都市のはずれだった。その向こうには、四角い耕地がつづいているだけだ。その畑から、人間のかたちをした姿が、フライサイクルの着陸に応ずるように、いくつもかけよってくる。  高みからみるとちゃんとしていた建物も、その屋根のあたりまで降下すると、明らかに廃墟であることがわかった。無傷で残っているものはひとつもない。動力の故障と、それによる大破壊は、よほど昔に起こったもののようだ。それにつづき、住民による破壊や、雨による浸蝕、小生物によるさまざまな腐蝕、金属の酸化、その他のいろいろなこと──地球の先史時代において、のちに考古学者の興味をあつめる村落跡の小塚群を残したような出来ごとが、あいついで起こったにちがいない。  機械がこわれたあと、住民たちは、その住む街を再建しなかった。また、そこから立ち去りもしなかった。彼らはただ、廃墟の上に住みつづけたのだ。  そして、その生活から出る廃物が、その場に堆積していった。  廃物だ[#「廃物だ」に傍点]。それに空き箱。風の吹きよせる塵。食物の残りかす。骨、にんじんの葉やとうもろこしの芯に相当するもの。こわれた道具など。人びとが怠けていたり、疲れ切っていてごみ捨てを怠るたびに、それは堆積した。積みかさなって、一部は軟化し溶解し、堆積は自らの重みで固まり、さらに多くの人びとの足がそれを踏みかため、年月が、そして幾世代もが過ぎていった。  塔本来の入口は、すでに埋もれていた。土地の平面がそこまであがっていたのだ。四台のフライサイクルが、もとは大きな地上車の駐車場だった場所に十フィートも塵芥が固く積み重なった空地へ舞いおりたとき、塔の二階の窓のひとつから、ヒューマノイド型の原住民が五人、威厳をたたえた足どりで歩み出てきた。  窓は二重の張り出し窓で、とびらとするのに充分なほど大きかった。その框《かまち》と、鴨居にあたる場所には、三、四十個もの、人間のとおぼしい髑髏が飾られていた。その配列のしかたにどんなパターンがあるのか、ルイスには見当がつかなかった。  五人はサイクルに向かって歩いてくる。近づくにつれて躊躇がみえるのは、四人の誰が代表かわからず迷っているらしい。この連中も、人間のようにみえるが、そっくりというわけではない。人間の、いまだ知られざる人種のひとつででもあろうか。  五人とも、ルイス・ウーよりは、六インチ以上も背が低かった。肌の見えている部分は、ごく色がうすく、ティーラの北欧的なピンクや、ルイスの黄褐色とくらべると、まるで幽霊のような白さだ。どちらかというと、胴が短くて脚が長い。歩きながら、五人とも同じかたちに腕を前にくんでいた。その手の指は、おそろしく長く先細で、地球の、まだ手術がおこなわれている時代だったら、まさしく生まれながらの外科医といったところである。  その手より、毛髪はさらに異様だった。五人の高官の頭はいずれも同じ金白色で、その髪も髭も櫛をいれているが鋏はいれず、しかもその髭が、ふたつの目だけを残して、顔の全面を蔽っているのだ。  いうまでもなく、五人ともまったくそっくりにみえた。 「毛むくじゃらだわ!」ティーラが、ささやく。 「座席を離れるな」〈|話し手《スビーカー》〉が低い声で命じた。「ここへやってくるまで待つのだ。それから降りる。全員、通話ディスクは身につけているはずだな?」  ルイスはそれを、左手首の内側につけていた。ディスクはいずれも、|うそつき《ライヤー》号の自動機構《オートパイロット》に直結している。これだけ離れていても作動するはずだし、|うそつき《ライヤー》号の自動機構《オートパイロット》には、どんな新しい言語も翻訳してのける能力があるはずだった。  だが、そのカホなしろものをテストするには、直接使ってみるしかない。それに、あのずらりと並んだ髑髏……。  ほかの原住民たちが、この、かつての駐車場に、ドッとあふれだしてきた。大部分は、この対決のもようを目にすると立ちどまり、その結果、群集は、かなり大きく余裕をとった大ざっぱな円形をかたちづくった。ふつう群集というものは、予想や賭けや議論でさわがしいものだ。だが、この群集は、異常に静まりかえっていた。  聴衆のできたことが、たぶん高官たちに決定をいそがせたのだろう。彼らは、ルイス・ウーに向かって進んできた。  五人……よく見ると、まったくそっくりというわけでもない。まず背たけがちがう。みんなやせてはいるが、骨と皮ばかりのもあれば、筋肉らしいものがついているのもある。かたちのはっきりしない、色のほとんど失せた茶色いローブを着たのが四人で、五人めは、同じようなローブ──似たような毛布から切ったものか? ──だが、色あせたピンクの模様のついたのを身につけていた。  最初に口をきったのは、いちばんやせた男だった。その片手の甲に、青い色の鳥のいれずみがある。  ルイスは返事をした。  いれずみの男は、ひとしきりしゃべった。幸運だった。自動機構《オートパイロット》も、データがそろうまでは翻訳にかかれないのだ。  ルイスは答えた。  いれずみの男が、また何かいった。あとの四人は、厳然と沈黙をまもっている。信じられないことだが、聴衆も同じく沈黙していた。  ようやくディスクが必要な語彙をあつめたようだ……。  あとになって彼は、沈黙そのものも、重要な情報となりえたことに気がついた。相手のムードに、彼はすっかり心をうばわれていたのだ。ギッシリつめかけた群集の輪、ローブをまとって一列に並んだ四人の毛むくじゃらの男。そして、手にいれずみをした男が語りかけている。 「……わたしどもはあの山を、〈神の拳〉とよんでおります」  彼はまっすぐ右舷のほうを指さしているところだった。 「なぜそのようによぶのか? 建設者よ、お気に召すことならば、なぜいけないわけがありましょうか?」  どうやら、船をふもとに残してきた、あの大きな山のことをいっているらしい。すでにその姿は、はるかかなたで、すっかりもやに包まれてしまっている。  ルイスは一心に耳をかたむけた。自動機構《オートパイロット》は、すてきな翻訳家だった。徐々に現在の状況がのみこめてくる。かつては強大な都市であったものの廃墟に根をおろした、農村のイメージが……。 「いかにも、ジグナムクリッククリックに、もはやかつての勢威は見られません。しかしそれでも、わたしどもの住まいは、わたしどもみずからつくるものよりも、はるかにすぐれております。たとえ屋根は破れていようと、下のほうの階では、短い期間の暴風雨ならば、濡れるおそれもありません。どの建物も、熱を逃がさず、寒さから守ってくれます。戦いの折には、恰好の防壁となり、焼けおちることもありません。  建設者よ。わたしどもが、朝には畑に出で、夜にはこのジグナムクリッククリックのかたすみの住まいにもどってくるのは、そういうわけでございます。古きものがかくも有用であるのに、どうして新たに家を建てる必要がありましょうか?」  ふたりのおそろしげな異星人に、ふたりの、髭がなく背が高すぎるが、ほとんど人間といっていい相手。その四人ともが、翼のない金属製の鳥にまたがり、口でちんぷんかんぷんなことばをしゃべると、金属のディスクから、ちゃんとしたことばが出てくる……原住民が彼らをリングワールドの建設者と思いこんだのには、何のふしぎもあるまい。  ルイスも、べつにその思いこみを訂正するようなまねは、何もしなかった。自分たちの正体を説明するには何日もかかるだろう。そもそも、ここへやってきた目的は、学ぶためであって、教え導くためではないのだ。 「建設者よ。この塔は、わたしどもの統治の座でございます。人民はおよそ一千あまり。わたしどもに、この塔よりもましな宮殿がつくれましょうか? 上の階への通路を仕切りましたのは、住まいの部分を暖かくしておくためでございます。かつては、上の階から石塊を投げおとして、敵をふせいだこともありました。わたしどもの最大の弱点は、高所への恐怖であることも存じております……。  それでもわたしどもは、この都市が一千の一千倍もの人びとをかかえ、建物を空に浮かべていたという、かつての驚異の時代がよみがえることを、待ちのぞんでおります。あなたがたが、その日をもどしてくださることを、願っております。その驚異の時代には、ほかならぬこの世界までもが、今あるようなかたちに曲げられたときいております。おそれながら、それが本当かどうかを、お教えくださいませんでしょうか?」 「本当だ」と、ルイスは答えた。 「して、その時代は、ふたたびもどってまいるでしょうか?」  ルイスは、つとめてどっちつかずの返事をした。相手の失望が感じとれたような気がしたが、単なる推測だったかもしれない。  毛ぶかい男の表情を読みとるのはむずかしい。身ぶりは、いわば一種の約束ごとだ。話している男のゼスチュアは、地球版図のどこの文化圏のそれともちがっていた。こまかく巻いたプラチナ色の毛が、両眼だけを除いた顔全体をかくしているが、その目は茶色く、視線はやわらかい。しかし、目というのは、世間常識とはうらはらに、それだけではほとんど何も語らないものだ。  男の口調は、ほとんど詠唱に近く、まるで詩の朗読のようにきこえた。自動機構《オートパイロット》の翻訳するルイスのことばも、同じような詠唱調だが、ルイスに向かっては、会話調で語りかける。ほかの翻訳ディスクが、それぞれパペッティア語のやわらかい口笛と、〈ますらおことば〉の落ちついたうなり声を出しているのが、ルイスの耳にもきこえた。  ルイスは、質問にとりかかった……。 「いいえ、建設者よ。わたしどもは、けっして血に飢えたものではございません。戦うことなど、めったにありません。あの髑髏でございますか? ああいうものは、このジグナムクリッククリックには、いくらでもころがっております。都市の没落のときから、そのようであったということです。わたしどもは、飾りと、標識のために、それを用いております」  そこで男は、おごそかに手をあげ、その甲の鳥のいれずみをルイスに示した。  周囲の全員が、一度に叫んだ。 「──!」  そのことばは翻訳されなかった。  話しだした男以外のものが口をひらいたのは、それが最初だった。  何か、大事なことを聞きおとしたらしい。それはわかったのだが、不幸にして、そのことに気をまわしている時間はなかった。 「奇蹟をお示しください」と、相手は語りかけてきた。「疑うわけではございません。しかし、あなたがたがふたたびここへおいでになる機会はありますまい。子々孫々まで語りつぐための、ご事蹟を求めたいのでございます」  ルイスは考えこんだ。鳥のように飛ぶ姿は、すでに見せてあり、もう一度やってみせても効果はうすいだろう。調理スロットから、神糧《マナ》を出して与える手はどうか? しかし、同じ地球に生まれた人間のあいだですら、食物の選択には、大きなちがいがある。食物とその残りかすとの差は、むしろ文化によって定まるものだ。いなご[#「いなご」に傍点]に蜂蜜をつけて食う種族もあれば、かたつむり[#「かたつむり」に傍点]の照り焼きを食う連中もいる。あるものにとってのチーズも、他のものには腐った乳にすぎない。やめておくにこしたことはなかろう。  では、携帯レーザーはどうか?  ルイスが、サイクルのトランクに手をのばしたとき、ちょうど|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の一端が、太陽をかくしはじめた。暗い中なら、レーザーの実演は、さらに印象的だろう。  光束をひろげ、低出力で、彼はまず代表の男の顔に光をあて、ついでその四人の連れに、それから群集へとまわしていった。彼らの驚きがどうだったかわからないが、表面的には、何の反応もなかった。失望をかくして、ルイスはライトを上へ向けた。  狙ったのは、塔の屋根からつきだしている彫像だった。ゴシック建築の樋嘴《ガーゴイル》を、超現実派《シュールレアリズム》ふうに近代化したようなかたちだ。ルイスの親指が動き、たちまち彫像は黄色く輝きはじめた。ついで人さし指が位置をかえると、ビームは鉛筆くらいの太さの緑光となり、彫像の中心部が白熱してとび散った。  喝采の起こることを期待しながら、ルイスはライトを消した。 「あなたがたは、光を武器とされる」いれずみの男がいう。「しかし、それは禁じられていることでございますぞ」 「──!」  群集がひと声叫び、またすぐ沈黙にかえった。 「それは知らなかった。申しわけない」と、ルイス。 「知らなかった? そういうことが、ありえましょうか? あなたは、人間との契約のしるしに、|懸け橋《アーチ》をおつくりになったのではないのですか?」 「アーチだと? 何のことだ?」  一面の毛に蔽われた顔にも、その驚きぶりは、はっきりと現れていた。 「世界の空にかかる|懸け橋《アーチ》です。おお、建設者よ!」  やっとその意味をさとったルイスは、思わず笑いだした。  毛だらけの男の、不器用なパンチが、ルイスの鼻のあたまを一撃した。  なにしろ弱々しいやせた男の手だから、たいした一発ではないが、とにかく痛かった。  ルイスは、痛みには慣れていない。彼の時代には、爪先を何かにぶつけたとき以上の痛みを経験するものなど、ほとんどいないのだ。麻酔法がゆきわたりすぎ、医療の処置も、即座に手がとどくようになっている。例えば、スキーで脚を折っても、その痛みはものの数秒で止められ、数分もつづくことなどめったにない。だが、その抑圧がかえって始末にわるい精神的外傷《トラウマ》を残すこともあった。空手、柔道、柔術、ボクシングなどの闘争競技は、ルイス・ウーの生まれるずっと前から禁止されていた。  ルイスは、戦士としては最低だ。死に対してはしりごみしないが、痛みには堪えようがない。  ひどく痛い一撃だった。ルイスは悲鳴をあげ、携帯レーザーをとりおとした。  群集が、ワッと押しよせてきた。二百人の怒れる髭モジャの男たち。まさしく鬼千匹という感じで、つい今しがたまでこっけいにみえたのが、まるで嘘のようだった。  葦のようにやせた代表の男が、両腕をひろげてルイスにしがみつき、狂気じみた力でしめつけてきた。ルイスも負けずおとらず狂ったようになり、ひといきでそれをふりほどいた。サイクルにまたがると、手を上昇レバーにかけたが、このときようやく理性がもどってきた。  ほかのサイクルは、彼の機に追従《スレイヴ》するように、セットされたままなのだ。いまとびだせば、他の三機も、人が乗っていようといまいと、ついてきてしまう。  ルイスは周囲を見まわした。  ティーラ・ブラウンは、早くも|追 従 機 構《スレイヴ・サーキット》のスイッチを切って、空中に浮かんでいた。高みから、闘いのもようを、心配げに眉をひそめて見つめている。救助にくることなど考えてもいないらしい。 〈|話し手《スピーカー》〉は猛烈に暴れまわっていた。すでに五、六人の敵を倒したようだ。ルイスの見ている前で、携帯レーザーをふりあげると、ひとりの男の頭を叩き割った。毛むくじゃらの男たちが、彼を遠まきにしてもみあう。  長い指の手がいくつも、ルイスを座席から引きずりおろそうとする。両手両足で座席にしがみつくが、もぎはなされそうだ。そこで遅ればせながら、彼は音波シールドを使うことを思いついた。  スイッチをいれると、原住民たちは悲鳴をあげながらふっとんだ。  ひとりがまだ、ルイスの背にしがみついている。ルイスはそいつをひきずりおとすと、一度シールドを切り、もう一度いれて、はねとばした。ついで、ネサスのいるほうをふりかえる。  ネサスは、自分のサイクルへかけもどっていくところだった。原住民たちも、その異様な姿には、おそれをなしているらしい。行手をさえぎるものはただひとり。だがそいつは、何か古い機械からはずしたらしい金属の棒を握りしめている。  ルイスがそれを目にとめるとほとんど同時に、相手は、パペッティア人の頭へ、その棒をふりおろした。  ネサスはヒョイと首をひっこめ、前脚を軸にクルリと半回転して相手に背を向けた。だがこれでは、フライサイクルにも背を向けることになる。持ちまえの逃走本能が裏目に出た──〈|話し手《スピーカー》〉かルイスが助けてやらなければ。  ルイスは口をひらいて叫ぼうとした、だが、すでにパペッティア人の動作は完了していた。  ルイスは口をとじた。  パペッティア人は、サイクルに向きなおった。もう誰も、彼をさえぎろうとするものはない。うしろ脚の蹄が、ごみの固まった大地の上に、点々と血の足跡をのこした。 〈|話し手《スピーカー》〉を取り巻く輪は、まだそのままだ。クジン人は、ペッと足もとにつば[#「つば」に傍点]を吐いた──まるでクジン族ではなく、人間のようなしぐさだ──そして背を向けるとサイクルにのりこんだ。携帯レーザーを握った左手が、肘のあたりまで、まっかに血に染まっていた。  ネサスをとめようとした男は、倒れたまま、ピクリとも動かない。周囲はおびただしい血の海だった。 〈|話し手《スピーカー》〉とネサスの機が、空中に浮かぶのを見さだめて、ルイスは上昇をはじめた。ついで、〈|話し手《スピーカー》〉のやっていることを目にとめ、彼は叫んだ。 「やめろ! そんな必要はないじゃないか」 〈|話し手《スピーカー》〉は、あの改造された掘削機械をとりだそうとしていたのだ。 「必要でなければ、やっていかんというのか?」  そういいながらも、彼は手をとめた。 「やめてくれ」と、ルイスは懇願した。「そいつは、殺人だ。もう危害を加えられる心配など、ないじゃないか? 石でも投げつけてくると思うのか?」 「やつらは、おまえの携帯レーザーを、こっちに向けるかもしれんぞ」 「絶対にありえない。禁忌《タブー》なんだから」 「と、あの代表の男がいっただけだ。やつのことばを信じるのか?」 「そうだ」 〈|話し手《スピーカー》〉は、武器をしまいこんだ。 (ルイスは、ホッと安堵の息をついた。クジン人はきっと都市全体をあとかたもなくしてしまうだろうと思っていたからだ) 「しかし、なぜあのような禁忌《タブー》が生じたのかな? エネルギービームを使った戦争でもあったのだろうか?」 「それかまたは、リングワールド最後のレーザー砲で武装した一党がいるのかもしれない。それをたずねる相手がいないのは、残念だな」 「鼻から血が出ているぞ」  それに気がつくと、急におそろしく痛みだした。ルイスは、サイクルを〈|話し手《スピーカー》〉のに追従《スレイヴ》させ、傷の治療にかかった。下では、ジグナムクリッククリックの外縁で当惑に渦まく暴徒の一群が、みるみる小さくなっていった。 [#改ページ]      13 星間種子誘引機《スターシード・ルーア》 「やつら、はじめからひざまずいてでもいてくれりゃ、よかったのに」ルイスがぼやく。「おかげで、すっかりだまされちまった。おまけに、翻訳が、〈神〉というべきところを、しつこく〈建設者〉っていうもんだから」 「神だって?」 「やつらには、リングワールドの建設者が、神々にあたるのさ。あの沈黙の意味に気づくべきだった。カホな話だよ! 静まりかえった中で、司祭ひとりがしゃべっている。たしかに、古くさいお説教をきく場のムードだった。そいつに、ぼくはとんちんかんな反応をしつづけていたんだ」 「宗教なのね。おおいやだ。でも、笑ったのはいけないわ」  交信機のうつしだすティーラのきびしい表情。 「教会で笑ったりはしない。たとえ、通りすがりの人でも」  欠けつつある正午の太陽の下を、一行は飛んでいた。頭上にかかる〈リングワールド自身〉の青い線が、刻々とはっきりその姿を現わしてくる。 「聞いたとたんにおかしくなったんだよ」と、ルイス。「いまでもおかしい。彼らは、自分たちが環《リング》に住んでることを忘れているんだ。あれをアーチだと思ってる」  シュウという音が、音波シールドをつらぬいてきた。つかのま、暴風のようなうなりがつづき、そしてピタリと止んだ。音速をこえたのだ。  ジグナムクリッククリックは、もうはるか後方に小さくなっている。あの都市が悪魔に復讐の刃を加える機会はこないはずだ。悪魔はもう二度と姿を見せないだろうから。 「ほんとうに、アーチみたいにみえる」と、ティーラ。 「そうだな。笑うべきじゃなかった。でも、運のいい話さ。こんな失敗も、あとまでたたる心配はないんだからね」と、ルイス。「これからはもう、下へはおりないことにしよう。そうすれば、誰も手をだせない」 「失敗をすっかり忘れてしまえるわけではなかろう」と、〈|話し手《スピーカー》〉がいった。 「あんたにそれをいわれるとはね」  ルイスは無意識に、鼻のあたまをかいていた。そこはまるで木片のように感覚がない。たぶん麻酔剤が切れるころまでには治っているだろう。  彼は心をきめてよびかけた。 「ネサス」 「はい、ルイス?」 「あそこで、ひとつわかったことがある。あんたは、自分が勇気があるおかげで、気ちがい扱いされてるっていった。そうだな?」 「ルイス、あなたは何という如才ない人でしょう。あなたの口のうまさは──」 「まじめな話だ。きみも、ほかのパペッティア人も、とんでもないまちがいをおかしている。論理の前提がちがうんだ。パペッティア人は本能的に、危険に対しうしろを見せるんだったね?」 「そうです」 「そうじゃないんだよ。パペッティア人は本能的に、危険があるとうしろを向く[#「向く」に傍点]だけなんだ。つまり、うしろ脚を使うためにね。あの蹄の威力は、すごい武器だよ、ネサス」  あのときパペッティア人は、一挙動で前脚を軸に半回転しながら、うしろ脚をつきだしたのである。そのとき、彼のふたつの頭がうしろを向き、大きく左右にひらいて、標的との距離を見さだめたのを、ルイスははっきりと見ていた。そのひと蹴りは、相手の心臓を、背骨の向こうまではじきだすほどの、正確な一撃だった。 「逃げるわけにはいきませんでした」と、ネサス。「逃げれば、フライサイクルから離れてしまいます。そういう危険はおかせませんから」 「しかし、そんなことを考えてるひまはなかったはずだ。本能的な動作だったよ。無意識に背を向けるんだ。それと同時に蹴る。〈正気〉のパペッティア人にしても、うしろを向くのは、逃げるためじゃなく、本来はそれが闘いのかまえなのさ。あんたは、けっして気がふれてるわけじゃない」 「そうではありません、ルイス。たいていのパペッティア人は、危険から逃げだします」 「しかし──」 「多数はつねに正しいのです、ルイス」  群居生物の本性だ!  ルイスは、さじを投げた。目をあげると、銀色の太陽の最後の端が、かくれていくところだった。  失敗をすっかり忘れてしまえるわけではなかろう[#「失敗をすっかり忘れてしまえるわけではなかろう」に傍点]……。 〈|話し手《スピーカー》〉は、しかし、そういったとき、何かべつのことに心を奪われていたようだ。  いったい、何に?  天頂には、黒い四辺形が軌道をめぐっている。いま太陽をかくしているそれは、真珠色のコロナのような光を周囲にめぐらせている。それらすべての上に、抛物線状のアーチがかかり、星をちりばめた空を、クッキリと区切っている。  それはあたかも、おもちゃの|都市組立て《ビルダシティ》セットから、幼くてやりかたのわからない子供がつくりあげたもののようにみえた。  ジグナムクリッククリックを離れてからずっと、ネサスが操縦をうけもっていた。しばらくして、〈|話し手《スピーカー》〉があとをひきついだ。一行は、夜のあいだじゅう飛びつづけた。ついに頭上で、まん中の|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の端から、夜明けの間近いことを知らせる光輝が洩れはじめた。  この数時間のあいだに、ルイスは、なんとかリングワールド全体のイメージをつかむ方法をひねりだしていた。  地球のメルカトル図法による地図──教室の壁などにかけてある、ありきたりな四角いやつ──の赤道縮尺一対一、つまり原寸大のものを、まず頭におく。そういう巨大な地図に、地球表面と同じような起伏を与えてやれば、赤道付近では地球とそっくり同じものができる。だが、そういう原寸大の立体地図も、リングワールドの端から端までとどかせるには、四十枚をつぎつぎにつなぎあわせてやらなければならないのである。  この立体地図の面積は、地球そのものよりもかなり大きい。しかし、その一枚をリングワールド上のどこかにおいて、ちょっと目を離したら、もうそのありかをさがしだすことはむずかしいだろう。  リングワールドの地形を利用すれば、もっとわかりやすく説明できる。環《リング》の両サイドにあって釣合いをたもっている塩水の海にしても、それぞれが、人間の版図内にあるどんな惑星の表面よりも大きいのだ。大陸といっても、結局は大きな島にすぎない。地球上の海と陸をあわせてこの大洋の表面に移しても、周囲には充分のゆとりがあるだろう。 「笑っちゃいけなかったな」と、ルイスはひとりごちた。  ──ぼくでさえ、このスケールをつかむのには、長いあいだかかった……この構造物の、だ。原住民に、どうしてそれ以上の複雑な認識を求めることができよう──?  ネサスはもっと早くそれを実感していた。一昨夜、はじめて空のアーチを見た瞬間、彼は悲鳴をあげて身をかくそうとしたのだ。 「そうだったのか。なんてカホな……」  まあどうでもいいことだった。なにしろ時速千二百マイルであらゆる失敗を後方へ置き去りにしていけるのだから。  やがて〈|話し手《スピーカー》〉が合図して来、ルイスに操縦をゆだねた。〈|話し手《スピーカー》〉が眠っているあいだ、ルイスが編隊を率いることになる。  そうして、秒速七百マイルの朝がやってきた。  昼と夜をわかつ線を明暗境界線《ターミネイター》という。地球の明暗境界線は、月からみえるし、周回軌道にのってもみえるが、地球の表面では見ることができない。  しかし、このリングワールドのアーチに見られる、明暗の縞の境は、ぜんぶそれなのだ。  回転方向《スピンワード》から、その境界線が、フライサイクルの編隊に向かって迫ってくる。それは地表から空へ、そしてはるか左舷のかなたから右舷のかなたへのびる、ひとつの平面なのだ。目にみえる運命のように、大きすぎて迂回の不可能な壁のように、それは近づいてくる。  ついに到着。  頭上ではコロナが輝き、|遮 光 板《シャドウ・スクエア》がしりぞくにつれて、ギラギラ光る太陽の縁がのぞく。左を見れば夜、右を見れば昼。そして明暗の影は、果てしない平原を去っていく。ルイス・ウー歓迎のために演じられる奇異な朝の眺めである。  はるか後方、もやにかすむあたりに、鋭い斜面をもった山の姿が、新たな陽光の訪れとともに浮かびあがった。 「|神の拳《フィスト・オヴ・ゴッド》だ」ルイス・ウーは、そのことばのひびきを味わうようにつぶやいた。  何という名前をつけたものだ! それも選りにえって、この世界でいちばん大きな山に!  ルイスのからだは、すっかりこわばっていた。早く慣れなければ、座席にまたがったままの姿勢で関節が動かなくなってしまうだろう。それに──煉瓦状の食物も、だんだんとほんものの煉瓦に、味が似てきたみたいに感じられる。おまけに、鼻はまだ一部無感覚だし、まだ[#「まだ」に傍点]コーヒーの出てくる|取出し口《スピゴット》にもありつけない。  しかし、ルイスの目と心は、まさに王侯の喜びを味わっていた。  たとえば、パペッティア人の逃走のための反射運動を考えてみよう。それがじつは闘争のための反射だとは、誰もまだ思いもよらないのだ。ひとりルイス・ウー以外は。  それに、星間種子誘引機《スターシード・ルーア》のこと。聞きすごしておくには、詩的すぎる話だ。何千年も前に発明された簡単な装置だと、ネサスはいっていたが、そういうもののあることを口にしたパペッティア人は、きのうにいたるまで、ひとりもいなかった。  だが、パペッティア人というのは、およそ詩情などとは縁のない連中なのだ。  アウトサイダー人の船が、星間種子《スターシード》のあとをついていく理由を、パペッティア人は知っているのだろうか? その発見を、彼らはうれしがっただろうか? それとも、その秘密を知りながら、実用にならないものとして捨ててしまったのだろうか?  ネサスとのあいだの交信機は、オフになっていた。たぶん眠りこんでいるのだろう。ルイスは、相手が目をさましたとき、パネルのライトを見て呼びかけてくれるよう、交信機の呼びだしスイッチをいれておいた。  彼は、知っていたのだろうか?  星間種子《スターシード》。  銀河の核に群れている、非知性生物。その新陳代謝は恒星を火とするフェニックスのそれであり、その食物は、星間宇宙にうすくひろがる水素原子である。スカイダイヴァーがパラシュートを扱うように、おそろしく巨大な高反射性の膜をひろげ、光子帆走で移動する。卵を生むため、銀河の軸からそのはずれまで飛行し、産卵を終えると引っかえしていく。卵からかえった星間種子《スターシード》の幼生は、みずからふるさとの方向を知り、光子の風にのって、暖かく水素の多い銀河の核へともどっていくのである。  その星間種子《スターシード》のいくところ、アウトサイダー人の船もまた相伴って現れる。  なぜアウトサイダー人は星間種子《スターシード》についていくのだろうか?  いかにも詩的ではあるが、まじめに問題にしてもしようがない。  いや、そうはいっていられないことかもしれない。過ぐる第一次人間−クジン戦争の折、一個の星間種子《スターシード》が、常とちがうコースをとった。そのあとに続くアウトサイダー人の船が、プロキオンの近くにさしかかった。そこに滞留しているうち、ウイ・メイド・イット星に、超空間駆動装置《ハイパードライヴ・シャント》を売ったのである。  アウトサイダー人の船が、人間の版図でなく、クジン人の鎮域へ迷いこむ可能性も、同じようにあったわけだ。  しかも当時、パペッティア人はクジン人を、真剣に観察していたのではなかったか? 「カホナ! どうもさっきから気になっていたのは、これだったんだ。やはりぼくは、まだ修業が足りないらしいな」  しかし、本当にそんなことがありうるのか?  いや、まちがいない。ネサスが、そういったのだ。パペッティア人は、クジン人を観察し、安全に絶滅させられるかどうか研究していたのである。  そこへ人間−クジン戦争が起こって、問題は一挙に解決した。一隻のアウトサイダー船が、人間の空域に迷いこみ、ウイ・メイド・イット星に超空間駆動装置《ハイパードライヴ・シャント》を売ったころ、クジン族の無敵艦隊は、それと反対の方角から、怒濤の進撃をつづけていた。しかしひとたび人間の艦隊が超空間駆動《ハイパードライヴ》を装備するや、クジン人はもはやその敵ではなく、パペッティア人に対しても脅威ではなくなったのである。 「でも、まさかそんなことが」ルイスはつぶやいた。  慄然たる思いであった。 「もしも〈|話し手《スピーカー》〉がこれを──」  それは事態をさらに悪化させるだけだろう。 「選抜飼育の実験だ。カホな、品種改良なんだ。われわれを利用して。われわれを!」 「そのとおりだ」と、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉がいった。  一瞬、ルイスは、そら耳かと思った。ついで彼は、〈|話し手《スピーカー》〉の透明な小さな映像が、ダッシュボードの上に浮かぶのを見た。交信機が、つけっぱなしになっていたのだ。 「カホナ! しまった。聞いてたのか?」 「わざとしたのではないぞ、ルイス。うっかりスイッチを切るのを忘れていただけだ」 「ウーン」  おそまきながら、ルイスは、ネサスが星間種子誘引機《スターシード・ルーア》の話を終えたとき、〈|話し手《スピーカー》〉がこっちを向いてわらって[#「わらって」に傍点]いたことを思いだしていた。ちょっと見たところ、聞こえる距離ではなさそうだったが、クジン人が狩猟食肉獣の出であり、そのわらい[#「わらい」に傍点]顔が、戦いに臨んで反射的に牙をむきだす表情にほかならないことも、同時に思いだした。 「品種改良といったな」と、〈|話し手《スピーカー》〉。 「ぼくは、ただ──」  ルイスは、しどろもどろになった。 「パペッティア人は、クジン人の発展を抑止するために、われわれ両種族を戦わせたのだ。彼らには星間種子誘引機《スターシード・ルーア》があった。それを用いて、アウトサイダー船を、おまえの領空にひきよせ、人間に勝利を得させた。それをおまえは、品種改良というのだな」 「まあ聞いてくれ。こいつは、単なる臆測のあやふやなつながりにすぎない。とにかく気をしずめてみれば──」 「しかし、おまえもおれも、同じ結論に達しているのだぞ」 「ウム」 「この問題を、いまネサスにつきつけるか、それともこの探険が終わってリングワールドを離れる時期がくるまで待つかということで、迷っていたのだ。今、おまえにも事情がわかった以上、選択の余地はないな」 「しかし──」  いいかけてルイスは口をつぐんだ。どっちにしろ、サイレンのうなりが、彼の声をかき消してしまった。〈|話し手《スピーカー》〉が、緊急信号を鳴らしたのだ。  その信号は、低周波振動から超音波までを含む、耳が痛くなるほどの不協和音だった。ネサスの姿がダッシュボードに現れて、叫びたてた。 「はい? はい、何です?」 〈|話し手《スピーカー》〉のうなるような声が答える。 「おまえは、戦いに横あいから干渉し、敵側に利を与えた。これは、まさしく、わが族長に対する宣戦布告と同等の行為だ!」  ちょうどそのことばなかばで、ティーラが交信機をいれた。ルイスは彼女の映像に向かって、はげしく首をふってみせた。  割りこむんじゃない[#「割りこむんじゃない」に傍点]!  パペッティア人のふたつの首が、驚きにのけぞった。だが、その声は、いつものとおり抑揚に欠けていた。 「何のことをいっているのです?」 「第一次人間−クジン戦争だ。星間種子誘引機《スターシード・ルーア》だ。アウトサイダー人の超空間駆動装置《ハイパードライヴ・シャント》だ」  三角形の頭のひとつが、フッと沈んでみえなくなった。銀色のフライサイクルが一台、編隊を離れるのがみえ、ついでそれがネサスの機だとわかった。  とくに心配することはなさそうだった。あと二台のフライサイクルにしても、ずっと遠く離れていて、小さな銀色の羽虫のようにしかみえない。地上の戦いなら、誰かが重傷を負うおそれもある。だが、この高空で何ができよう?  パペッティア人のフライサイクルは、〈|話し手《スピーカー》〉のより速度が出るのにちがいない。ネサスはあらかじめこういう場合も、予測していたのだろう。必要とあれば、いつでもクジン人から逃げられるという確信をもっていたようだ。  しかしパペッティア人は、逃げだしたわけではなかった。彼は、〈|話し手《スピーカー》〉のサイクルの周囲を旋回しはじめていたのだ。 「おまえを殺すつもりはない」〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉がいう。「空中で襲うつもりなら、おまえのタスプの到達距離は、スレイヴァーの掘削ビームより短いことをおぼえておけ。ウォ──ゥ!」  クジン人の、血も凍るような殺戮の雄たけびに、ルイスは破傷風にでもかかったかのように、筋肉がしびれるのを感じた。銀色の点が、スイと輪を描いて〈|話し手《スピーカー》〉のサイクルから遠ざかるのを、彼はぼんやりと目にとめていた。  ティーラが感嘆の表情で、口を大きくあけている。 「おまえを殺す気はない」 〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉の声は、ひどくおだやかだった。 「しかし、答えてもらうぞ、ネサス。おまえの種族が、星間種子《スターシード》を誘導できることは、わかっているのだ」 「はい」と、ネサス。  彼のサイクルは、信じられないほどの速度で、前方へ遠ざかっていく。ふたりの異星人の様子が、素朴でおだやかなのは、そうみえるだけのことにすぎない。単に、ルイス・ウーが、彼らの表情を読みとることができず、また彼らが|共 通 語《インターワールド》で人間的な感情の表現ができないからなのだ。  ネサスは命からがら逃走中だったが、クジン人は編隊から離れようともせず、ただよびかける。 「答えてもらうぞ、ネサス」 「あなたの推測のとおりです」パペッティア人がいう。「兇暴なクジン族の絶域法を研究しているうちに、あなたたちには大きな潜在能力があり、わたしたちの役に立てられるだろうということがわかってきました。そこでわたしたちは、あなたたちがほかの種族と平和に協調していけるよう進化させる仕事にとりかかったのです。わたしたちのやりかたは、間接的ですが、ごく安全なものでした」 「ネサス。おれは非常に不愉快だ」 「ぼくもだ」と、ルイス・ウー。  彼は、ふたりの異星人が、ずっと|共 通 語《インターワールド》でやりあっていることを、見のがしてはいなかった。なりゆきをかくしたかったら、〈ますらおことば〉を使ったはずだ。両者とも、人間をまきこむ道をえらんでいる──たしかに、それが当然だ。  これは、ルイス・ウー自身の戦いでもあったのだから。 「きさまは、われわれを利用したんだ。クジン人に対してしたのとまったく同じにな」 「だがその結果は、わがほうの敗北となったのだぞ」と、クジン人。 「だが、人間−クジン戦争で、どれだけ多くの人間が死んだことか」 「ルイス、あなた、つくほうをまちがえてるわ!」ティーラ・ブラウンが、介入してきた。「カホナ! もしパペッティア人がいなかったら、わたしたちみんな、クジン人の奴隷になってたのよ。パペッティア人は、クジン人の文明破壊をとめてくれたのよ!」 〈|話し手《スピーカー》〉が、ニヤリとわらって[#「わらって」に傍点]いう。 「わが種族にも、文明はあったのだぞ」  パペッティア人は何もいわない。その映像は、いまだにひとつ目玉の大蛇の首が一本。たぶんもうひとつの口は、サイクルを操るのにいそがしいのだろう。機影はすでにはるかかなたにあった。 「パペッティア人は、われわれを利用したんだ。クジン人を進化させるための、単なる道具としてだよ」と、ルイス。 「でも、うまくいったじゃないの!」ティーラが抗弁する。  いびきのような音。低い、険悪なうなり声だ。一見笑っているような〈|話し手《スピーカー》〉の表情の意味をとりちがえるものは、今ではもう誰もいない。 「うまくいったんだわ!」ティーラは、はげしい口調でいった。「〈|話し手《スピーカー》〉、今のあなたは平和な種族なのよ。あなたはもう、文明をもった種族ならどんな──」 「だまれ、地球人!」 「──相手とでもつきあっていけるのよ」ティーラは上機嫌でしゃべりつづけた。「あなたがたが戦争をしなくなってからもう──」  クジン人の映像が、スレイヴァーの掘削機械をとりだし、見せびらかすと、ティーラはプツリと口をつぐんだ。 「ぼくらも、同じかもしれない」ルイスがいった。  一同の注目があっまる。 「ぼくらも、同じかもしれない」と、彼はくりかえした。「もしパペッティア人が、人間にも品種改良を加えようとして……」  そこで絶句した。 「そうなんだ、ティーラ。まちがいないよ」  パペッティア人は、何の反応も示さない。ルイスの凝視に、ティーラは動揺をみせた。 「何が同じなの、ルイス? ルイス!」 「すまん。思いついたことがあるんだ。……ネサス、話してくれ。あの、産児制限法のことだ」 「ルイス、気でもくるったの?」 「ウーゥ」と〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉。「おれも、時間さえあれば、それに気がついていたぞ。ネサス、どうだ?」 「はい」と、ネサスが答えた。  パペッティア人のサイクルは、銀色の一点と化し、さらに前方すなわち左舷の方角へと小さくなっていく。その姿の消えいくかなたに、それよりは大きな、ぼんやりした光点がみえたが、編隊からそこへの距離は、地球上でもっとも離れた二点間よりも大きいだろう。  パペッティア人の交信機の映像は、相変わらずこっけいなひらたい三角形の顔と、手のかわりをするくちびるがこっちを向いているだけで、表情をよみとることは不可能だ。見たところ、到底危険な相手とはみえない。 「きさま、地球の産児制限法にも、ちょっかいを出したな」 「はい」 「なぜだ?」 「わたしたちは、人間に好意をもっているからです。人間を信頼しています。だから、ずっとその利益をはかってきました。人間の発展は、わたしたちの利益につながります。たぶん人類は、わたしたちよりも先に、小マゼラン雲に到着するでしょうから」 「驚いたな。好意をもっているとは。それで?」 「あなたたちを遺伝的に進歩させようとしました。しかし、何を進歩させたらよいのでしょう? 知性ではない。知性はあなたたちの強さの源ではありません。自己保存の感覚でもないし、からだの丈夫さでもないし、闘争能力でもない」 「だから、運のよさをふやそうとしたってわけか」  そういって、ルイスは笑いだした。  ティーラにも、その意味はわかったらしい。恐怖に目を大きく見ひらき、何かいおうとしたようだが、かすれた声がのどからもれるばかりだ。 「そのとおりです。笑うのは、やめてください、ルイス。充分に意味のある決定でした。あなたの種族は、これまでも信じられないほど幸運だったと思いませんか。人間の歴史は、いわば危機一髪の連続でした。同種族内の原子力戦争が回避できたのをはじめ、産業廃棄物による汚染や、生態圏の撹乱や、危険な巨大小惑星や、おだやかな変光星である太陽の気ままなどを切りぬけてきたし、まったくの偶然から、銀河の核の爆発をみずから発見しさえしたのです。ルイス、どうしてまだ笑いつづけているのですか?」  ルイスの笑いがとまらないのは、ティーラのせいだった。ティーラの顔は、怒りでまっかになっていた。その目は、まるで身をかくす場所を求めるかのように、せわしなく動いている。遺伝子の実験のせいで生まれたのだという事実が、楽しかろうはずはない。 「そういうわけで、わたしたちは、地球の産児制限法に変更を加えました。驚くほど簡単な仕事でした。わたしたちの既知空域《ノウン・スペイス》からの撤退で、株式市場は崩壊していました。経済操作で、出生管理局メンバーの何人かを失脚させ、他のものは買収したり、借金で首がまわらないようにしておいて恐喝したりして、そうして出生管理局の汚職を、改正が必要だという宣伝に利用したのです。おそろしいほど費用のかかる仕事でしたが、きわめて安全で、不完全ながらも一応の成功をおさめました。出産権抽籤の制度を導入したのです。これによって、異常に幸運な品種を生みだそうとしたわけです」 「化けもの!」ティーラが叫んだ。「この怪物!」 〈|話し手《スピーカー》〉は、スレイヴァーの掘削機械をしまいこんだ。 「ティーラ、おまえは、パペッティア人が、わが種族の遺伝を操作したと知っても、何も文句をつけなかったな。彼らは、おとなしいクジン人をこしらえようとしたのだ。これは結局のところ、われわれを生物学者の実験動物として繁殖させ、欠陥のあるものを殺して他を残していくということになる。おまえはそれが自分の種族の得になるということで、喜んでいた。それなのに、いまおまえは歎いている。どういうわけだ?」  怒りのため泣きじゃくっていたティーラは、交信機のスイッチを切ってしまった。 「温順なるクジン人、か」〈|話し手《スピーカー》〉はくりかえした。「ネサス、おまえは、温順なクジン人をつくりだそうとした。本当にそれに成功して、クジン人が温順になったと思うなら、こっちへもどってきて、いっしょに旅をつづけるがいい」  パペッティア人からの答えはなかった。はるか前方のそのサイクルは、もうまったく見えなくなっていた。 「もどってくる気はないのだな? しかし、この未知の世界で、どうすれば、どこにいるとわからぬおまえを守ってやれるのだ? もっとも、気にかけてやる必要はないかもしれん。おまえは充分に用心ぶかいのだからな」  そういうクジン人の手には、針のようにとがって三日月形に曲がった鉤爪が、ニュッとむきだしになっていた。 「幸運な人間をつくりだすというおまえのたくらみも、同じように失敗に終わったようだな」 「いいえ」交信機をとおしてネサスが答えた。「幸運な人間は、たしかに生まれています。ただ、この呪われた探険に、彼らをつれてくることができなかっただけです。彼らが幸運すぎたためです」 「おまえは、われわれ両種族に対し、あたかも自分が神であるかのように臨んだ。二度ともどってこようなどと思うなよ」 「しかし、交信機の連絡はつづけます」 〈|話し手《スピーカー》〉の映像が消えた。 「ルイス。〈|話し手《スピーカー》〉は、通話を切ってしまいました」ネサスがいう。「話があるときには、あなたに中継してもらわなければなりません」 「ああいいとも」  ルイスはそう答えて、ピシリとスイッチを切った。ほとんど間髪をいれず、パペッティア人の映像が浮かんでいたあたりに、小さなライトがついた。  パペッティア人は、話したがっているのだ。  何ともカホなありさまだった。  その日おそく、彼らは、地中海ほどの大きさの海をわたった。ルイスが、よく観察しようとして高度を下げると、あとの二台もそれについてきた。してみると、誰も話しかけてはこないにせよ、編隊はまだ|追 従 機 構《スレイヴ・サーキット》で結ばれたままでいるのだった。  海岸線にひとつの都市があったが、その都市も廃墟と化していた。ドックがある以外は、ジグナムクリッククリックと同じだ。ルイスは着陸しなかった。ここには学ぶべき何ものもない。  そのあと、土地が徐々にのぼり斜面になり、それがどこまでもつづいて、やがて耳がポンと鳴り、圧力計はいちじるしく下がった。緑色の土地が、やがて褐色の灌木地帯に、ついで高地性のツンドラと変わり、そのあとえんえんと岩面の露出した地形がつづき、ついで──。  およそ五百マイルほどにわたる山の稜線にそって、風が、灌木も土壌も岩も、はぎとってしまった地域が現れた。山稜のかたちになった環《リング》の構成物資があらわになっている以外には何もない、半透明で灰色の、おぞましい眺めであった。  管理不行届きだ!  リングワールドを建設したものが、こんなありさまを放っておくはずはない。してみると、リングワールドの文明は、もうずっと前から死にかけていたのだろう。その過程は、この、誰も訪れない土地の表層がはがれて地肌が露出することからはじまる……。  前方はるか、ネサスのとんでいった方向に、まぶしく光る広い地域がひろがっている。ちょっと見たところ、三万から五万マイルくらい向こうだ。とすると、その光る地域の大きさは、オーストラリアぐらいだろう。  あれも環《リング》の床面の露出だろうか?  かつては肥沃だった土壌も、河川システムが動かなくなると、植物は育たず、乾ききって、やがて風に吹きとばされ、環《リング》の構成物質があらわになってくる。ジグナムクリッククリックの没落、すなわち動力系統の停止は、衰亡の最終的な段階だったにちがいない。  どれほど長いあいだその衰退はつづいたのだろうか? 一万年くらいか? それとも、もっと長いのだろうか? 「カホナ! 誰かとこのことを話しあえたらなあ。ここが大事なとこなのに」  彼は眼下の景観に向かって顔をしかめた。  太陽がつねに頭上にある世界では、時間感覚がすっかり変わってくる。午前も午後も、まったく同じなのだ。いかなる決定も永遠には及ばず、迫真の幻想も現実の敵ではない。これはまるで、転移ボックスのあいだの一瞬の旅みたいだ、とルイスは思いはじめた。  まさしくそれだ。|うそつき《ライヤー》号と、縁の外壁とに、ひとつずつ転移ボックスがあって、彼らはただ、この平坦な灰色の土地の上を、フライサイクルの三角の編隊で飛んでいる夢をみているだけなのではなかろうか。  時間の停止した中を、ひたすら左舷へ向かって飛ぶ。  会話がとだえてから、いったいどれだけの時間が過ぎたことだろう。先刻ルイスがティーラに、交信したいという信号を送ってからでも、数時間が過ぎたはずだ。そのすぐあと、〈|話し手《スピーカー》〉にも信号してみた。彼らのダッシュボードにともったライトは、無視されたままだった。ちょうどルイスが、自分のサイクルのダッシュボードにともっているのを無視しつづけているのと同じように。 「もうたくさんだ」  ふいにルイスはつぶやいて、交信機のスイッチをいれた。  オーケストラの爆発のような音がひびきわたり、つぎの瞬間、パペッティア人がこっちの姿に気づくと同時にやんだ。そして──。 「探険隊を、流血の惨事なしに組織しなおすことを、考えなければなりません。ルイス、いい案はありませんか?」 「ああ。まず、話を途中からはじめるというのは、失礼だね」 「すみません、ルイス。信号に応じてくれてありがとう。どうしていますか?」 「淋しくってイライラしてる。みんな、あんたのせいだぞ。誰も呼びかけに答えてくれないんだ」 「わたしにできることがありますか?」 「あると思う。あんた自身は、産児制限法の改正にたずさわっていたのかい?」 「わたしがその計画の責任者でした」  ルイスはフンと鼻をならした。 「そいつは困った。あんたがこの逆行性出生管理の、筆頭犯罪者とはね! ティーラはもう二度とぼくには口もきいてくれなくなるな」 「あなたが彼女を笑ったのがいけないのです」 「わかってる。でも、このこと全体のうちで、ぼくがいちばんおそれているのは何だかわかってるのか? あんたの、そのカホな尊大さなんかじゃないぜ。あんたが、それほど重大な決定権を握っているという事実、それから、何でも傍若無人にやってのける、その──」 「ティーラ・ブラウンにきこえていないでしょうね?」 「カホナ! そんなはずがないじゃないか。ネサス、あんたが彼女にどんな[#「どんな」に傍点]思いをさせたか、わかってるのか?」 「彼女の自我が、それほど傷つくと知っていたら、どうしてしゃべったのです?」  ルイスは、思わずウーンとうめいた。  問題が頭の中で解けると同時に、彼はその答えを口に出した。その答えを心にしまっておいたほうがいいなどということには、思いも及ばなかったし、気がつくはずもなかったのだ。そういうふうにものを考えるたち[#「たち」に傍点]ではなかった。  パペッティア人がたずねる。 「探険隊を再組織する方法があると思いますか?」 「あるとも」  そう答えて、ルイスはスイッチを切った。パペッティア人には、当分そのことで頭を悩まさせておけばいい。  地表は下りにかかり、そしてふたたび緑色になった。  もうひとつ海をこえ、大きな河口の三角形のデルタ地帯の上を飛んだ。しかしその河床に水はなく、三角洲も乾き切っていた。風の流れが変わって、水源を干あがらせてしまったのだろう。  低空へおりてみてわかったのだが、一見でたらめにうねりくねっているデルタ部の水路は、ぜんぶ永久的に地表にきざみこまれたものだった。リングワールドをデザインした芸術家は、河の流れが勝手に水路をつくることには満足できなかったのだ。  そして、その考えは正しかった。リングワールドの地層は、それほど厚くはない。どうしても人工的なものにする必要があったのだ。  しかし、水のない水路は、いかにも醜悪だった。ルイスは、口をすぼめて不満の意を表すると、そのまま飛びつづけた。 [#改ページ]      14 間奏曲、そして|ひまわり花《サンフラワー》  前方あまり遠くないところに、山なみが現れた。  ルイスはひと晩じゅう操縦をつづけ、朝になってもかなりのあいだその任にあたっていた。どれだけの時間がたったのか、彼には確信がなかった。位置を変えることのない正午の太陽は、一種の心理的な罠だ。それは時間を自在に伸ばしたり縮めたりし、しかもルイスには、それが伸びたのか縮んだのかもわからないのである。  感覚的に、ルイスは、|休 養《サバティカル》に出ているような気分になっていた。他のフライサイクルのことも忘れている。ひとり当てもなく飛んでいるという点では、果てしなく移りかわる地上の眺めも、ひとり乗りの船でなじみの星のかなたへさまよっていくのと、何のちがいもない。  ルイス・ウーは、宇宙にただひとり。そしてその宇宙は、ルイス・ウーにとって、ひとつのおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]のようなものだ。そこで、宇宙でいちばん重大な疑問が登場する。  ルイス・ウーは、まだこんな自分自身に満足しているのか?  いきなりダッシュボードの上に、オレンジ色の毛皮の顔が現れたので、ルイスは夢からさめたようにとびあがった。 「たいくつしているようだな。おれと操縦を交替しようか?」クジン人がいった。 「むしろ着陸したいよ。からだがこわばってきた」 「では降りろ。おまえが操縦しているのだから」 「誰も無理についてきてくれなくていいんだぜ」  そういいながらルイスは、そのことばの意味するものに気づいていた。|休 養《サバティカル》の気分というのは、いつでもとりもどせるものなのだ。 「おまえは、ティーラが、おまえを避けていると思うのか? たしかにそうだろうが、彼女は、同じ立場にいるおれにも、呼びかけてこないのだ」 「あんたはむずかしく考えすぎてるんだ。いや待て、ちょっと切らないでくれ」 「おれはひとりになりたいのだ、ルイス。あの草食いめが、おれの面目玉をふみにじったのだぞ」 「でも、ずいぶん前のことじゃないか! いや、切らないでくれったら。この哀れな老人に、さびしい思いをさせないでくれよ。あんたは、ずっと地上の様子を見てたかい?」 「見ていた」 「あの裸の地域を見たか?」 「見たとも。浸蝕作用が岩までえぐって、環《リング》の床面がむきだしになっているところもあったな。ずっと昔に、何かのせいで、風向きのパターンが変わったのだろう。いくらリングワールドでも、あのような浸蝕が、急に起こるものではない」 「そうだな」 「ルイス。これほどの規模と力をもった文明が、どうして没落したのだろうか?」 「わからんね。はっきりいって、ぼくらには、推測するすべがない。パペッティア人ですら、リングワールドの技術レベルには及びもつかない。何が彼らを手斧のレベルまでひきもどしたかなんて、知りようがないよ」 「もっと原住民のことを知らなければならんな」と、〈|話し手《スピーカー》。「これまで見たところ、彼らに、難破した|うそつき《ライヤー》号の船体を運ばせる見こみはなさそうだ。それのできる相手を見つけなければならん」  それははじめからルイスも心にしていたことだった。 「その線では、いろいろアイデアもある──原住民に接触する効果的な方法ってやつさ」 「何だと?」 「話す前に、とにかく着陸したいね」 「では着陸しよう」  山々はフライサイクルの行手に立ちはだかるように、ズラリと高峰をつらねていた。その峰々の頂上から稜線全体が、あの[#「あの」に傍点]真珠色の光沢を放っている。峰々をこえて吹きすさぶ風が、岩石を摩耗させ、環《リング》の床面の構造物質を露出させてしまったのだ。  ルイスは、編隊を、ゆるやかなまるみをみせる麓の丘陵地帯へ降下させていった。その目標は、山あいから流れだして、麓の丘陵一帯をどこまでも緑一色に蔽う森の中へ消えている、ひと筋の流れの水源付近である。  ティーラがよびかけてきた。 「どうなさるおつもり?」  切り口上である。 「着陸するのさ。飛ぶのにあきたんでね。でも、長いあいだとどまるつもりはない。いいわけがしたいだけさ」  彼女はスイッチを切った。 「まあ、上の部だろう」  ルイスはそうつぶやいたが、確信はなかった。とにかく、弁明が待っていると知った以上、彼女も前よりは耳をかす気持になっているはずだ。 「このアイデアは、ネサスの〈神様気どり〉から思いついたんだ」ルイスがいう。  残念なことに、きいているのは〈|話し手《スビーカー》〉ひとりだ。ティーラは、サイクルからおりると、もえ立つような怒りの目を彼に投げかけ、スタスタと森の中へはいっていってしまったのだった。 〈|話し手《スピーカー》〉はそのオレンジ色の毛皮の頭を、しきりにうなずかせていた。両耳が、神経質な手にささえられた小さな中国ふうの扇子のように、ヒクヒクとふるえる。 「われわれは、この世界では、空中に浮かんでいるかぎり安全なようだ」と、ルイスは話しつづけた。「目的地へいきつけることだけは、まちがいない。止むをえなければ、無着陸のまま縁《リム》の外壁までたどりつくこともできるだろうし、環《リング》の構造物質がむき出しているところをえらんで降りることにしてもいい。あの物質の上には、害になる生物など育ちっこないんだから。  だが、着陸しないかぎり、何も知ることはできない。このでっかいおもちゃなんか捨てて、早く原住民の手助けを求めるべきかもしれない。どうやら今のところまだ、誰かに|うそつき《ライヤー》号を、四十万マイルの地上を引っぱっていかせる以外に道はないみたいだ」 「要点をいえ、ルイス。おれは、運動をしなければならないのだ」 「とにかく外壁にいきつくまでのあいだに、リングワールドに関する知識を、もっとうんとあつめなければならないだろう」 「当然のことだな」 「そこでだ。神様のまねをしてみないか?」 〈|話し手《スピーカー》〉は躊躇をみせた。 「文字どおりの意味でか?」 「そうさ。リングワールドの建設者には、恩も恨みもないし、また彼らが駆使したほどの力は持ちあわせないが、これでも原住民にくらべれば、神として充分通用する。まず、あんたを神様として──」 「光栄だな」 「──ティーラとぼくが侍祭をつとめる。ネサスがいれば、捕われの悪魔の役にピッタリなんだがね」 〈|話し手《スピーカー》〉の鉤爪が、ニュッとむきだしになった。 「しかしネサスは、ここにはいない。これからも、もどってはこないだろう」 「それが問題なのさ。この──」 「その話はやめろ、ルイス」 「それはひどい。あいつがいないと、芝居にゃならないぜ」 「では、あきらめることだな」  ルイスは、相手の鉤爪のことが、しきりと気になった。あれは意識的にコントロールできるのか、できないのか? どっちにしろ、それはまだあらわに見えている。これがもし、交信機で話しているのだったら、〈|話し手《スピーカー》〉はとっくにスイッチを切ってしまっていたことだろう。  だからこそルイスは、着陸することに固執したのだった。 「まじりけなし、天来の妙案だぜ。あんたは神様にうってつけだ。人間の目からみると、あんたの姿は、じつに印象的なんだ──ぼくのことばを額面どおりにとってほしいね」 「どうしてネサスが必要なのだ?」 「褒賞と罰とに、タスプが要るんだ。神として、あんたは、疑うやつをズタズタに引き裂き、肉切れを食っちまう。それが罰だ。褒賞には、パペッティア人のタスプを使う」 「タスプなしではやれないのか?」 「でも、忠誠を示す相手に対して、あれほど効果的な褒美はないぜ! 純粋な喜悦が、直接に脳へ押しよせるんだ。副作用もなければ、後遺症もない。タスプはセックスよりもずっといいって話だったぜ!」 「その倫理は好かんな。原住民はただの人間だが、おれは彼らをタスプ中毒には仕立てたくない。むしろ殺してやるほうが、慈悲というものだろう」と、〈|話し手《スピーカー》〉はいった。「また、どっちにしろ、パペッティア人のもっているタスプは、クジン人向けのもので、人間には合わないはずだ」 「そうじゃないと思うよ」 「ルイス、あのタスプが、クジン族の頭脳構造に合わせたものだということは、知っているだろう。たしかに、受ける感じという点では、おまえのいうとおりだ。あれは宗教的な甘美さにも、悪魔的な体験にもつながるものだったな」 「だがそれが人間に効くかどうかわからないというわけか。ぼくは、効くと思うね。ぼくは、ネサスってやつを知ってる。あいつのタスプが、両方に効くか、あるいはタスプをふたつ持っているか、どっちかだよ。彼が人間を操るすべを持たなかったら、ぼくもこんなところへは来ていないはずだ」 「また乱暴な推測をする」 「彼をよんで、交渉してみないか?」 「だめだ」 「きいてみるだけなら害はなかろう?」 「それだけでは何の役にも立たん」 「忘れていた。あんたには好奇心がないんだったな」ルイスはつぶやいた。  知的種族で、猿なみの好奇心をもっているものは、そう多くはないのだ。 「おれの好奇心をかきたてようとしたのか? なるほど。おまえはおれにも、ひと役買わせるつもりだったのだな。ルイス、パペッティア人も、なんとか縁《リム》の外壁へはたどりつくだろう。だがそれまでは、ひとり旅をつづけさせておくのだ」  そして、ルイスが答えるより早く、クジン人はクルリと背を向けると、〈|ひ じ 根《エルボウ・ルート》〉の茂みの中へとびこんでいってしまった。まるで交信機のスイッチを切るのと同じような、効果的な議論の終えかただった。  全世界が頭上に落ちかかってきたような気持だった。ティーラ・ブラウンは、自己憐憫のどん底にあって、すっかり打ちひしがれ、涙にくれていた。  そこは、悲嘆に沈むには、すばらしいおあつらえむきの場所であった。  あたり一帯が濃緑色だ。頭上は幾重にもかさなった植物の茂みで、日光の直射もとどいてこない。しかし地表の近くでは茂みもうすく、容易に歩きまわることができる。自然を愛するものにとっては、またとない楽園である。  ひらたい垂直な岩壁が、滝のしぶきに濡れてそそり立ち、深い澄んだ淵を中にたたえている。ティーラがいるのは、その淵の中だった。滝の音が、彼女の泣き声もほとんどのみこんでしまうが、しかし、岩の壁が、シャワー室のように音響を増幅してくれる。あたかも大自然が、彼女とともに泣いてくれているかのようだ。  彼女は、ルイス・ウーの姿に気がつかなかった。  未知の世界に難破している身である以上、いかにティーラ・ブラウンといえども、応急医療セットなしで遠出することはありえない。それはベルトについた小さなひらたい箱で、内部には、探知回路がくみこまれている。ルイスは、その信号を追ってきて、池の岸にあるたいらな自然の花崗岩の上につみ重なっているティーラの衣類にたどりついたのだった。  濃緑の明かり、滝のとどろき、そして、すすり泣きの反響。ティーラは、ほとんど滝の真下にいる。何かの上にすわっているらしく、両腕と肩が水面の上に出ていた。首をうなだれ、黒い髪が前へ垂れて、その顔をかくしている。  もどってくるのを待っていても、らちがあきそうにない。ルイスは衣服を脱ぎ、それをティーラの服のそばにかさねた。空気のつめたさに身ぶるいし、肩をすくめると、そのままとびこんだ。  同時に、しまったと思った。  |休 養《サバティカル》に出てしまうと、地球に似た世界にめぐりあうことはめったにない。彼が着陸する惑星といえば、通常地球と同じように文明化されたところばかりだった。ルイスは馬鹿ではない。もし、水の温度のことが、ちょっと頭に浮かんでさえいたら……。  だが、そこまでは思い及ばなかったのだ。  雪をいただいた山から流れおちる水である。ルイスは、冷たさに悲鳴をあげようとしたが、頭はもう水面下にあった。ここで息を吸いこまないだけの分別くらいはある。  ようやく水面に出ると、冷たさと息苦しさに、水をはね散らしながらあえいだ。  ふいに、それが楽しくなった。  水の中でどう行動すればいいかは、よくわかっている。もっとも、こんな冷たい水ははじめてだった! リズミカルに水を蹴りながら浮かんでいると、滝壺の渦から寄せてくる流れが肌に感じられる。  ティーラも、もう彼に気がついていた。滝の下にすわったまま、待っている。彼は彼女のほうへ泳いでいった。  彼女に向かって何かいったら、それが悲鳴になってしまいそうだ。いいわけも愛のことばも、どこかへいってしまった。しかし、彼女に触れることならできるだろう。  彼女は、身をひこうとはしなかった。だが、また頭をたれて、髪で顔をかくした。拒否の気持が、ほとんどテレパシーなみの強さで伝わってくる。  ルイスは、その気持を尊重することにした。  あたりを泳ぎまわって、十八時間もフライサイクルの座席にまたがっていたためこわばった筋肉をほぐした。水はすばらしくいい気分だった。しかしそのうち、冷たさによる無感覚が痛みに変わり、このままでは肺炎にかかりそうに思われた。  彼は彼女の腕をとり、片手で岸を指さした。今度は彼女もうなずいて、彼のあとにつづいた。  ふたりは、温度調節式のオーヴァーオールに毛布のようにくるまって、横になり、ふるえながらしっかりと抱きあった。徐々に、こごえきったからだに、暖かみがしみとおってくる。 「笑ってわるかった」ルイスがいった。  彼女はただうなずいた。釈明は一応きくが、許しはしないぞという態度だ。 「おかしかったことは、わかってくれるね。宇宙きっての臆病もののパペッティア人が、まるで牛の新種でもつくりだすみたいに、図々しくも人間とクジン人の改良に精出していたとはね! どんなに危険な賭けかは、承知していたはずなのに」  しゃべりすぎていることは彼自身もわかっていたが、自分を正当化するためには、説明が必要だった。 「そして、その結果は、ごらんのとおりさ! まあ、理性的なクジン人をつくりだす計画は一応成功した。ぼくは、人間−クジン戦争についてはほとんど知らないが、かつてのクジン人がどんなに兇暴だったかは、よくわかってる。〈|話し手《スピーカー》〉は、ジグナムクリッククリックを吹っとばすことを思いとどまってくれたが、彼の先祖だったら、環《リング》の床面が出るまで粉砕しつくしたことだろう。  しかし、幸運な人間をつくりだすというほうは──」 「それが失敗して、あたしみたいのができちゃった」 「カホナ。ぼくがきみを侮辱するとでも思うのかい? その計画のこっけいさをいってるんだよ。おまけに、それをやったのがパペッティア人とはね。それで笑ったのさ」 「それにつられて、あたしも笑うと思ったのね?」 「それは飛躍のしすぎだよ」 「いいわ」  彼女はべつに、彼が笑ったのを憎んでいるわけではなかった。彼女は機嫌を直したいだけで、報復したいわけではない。そして、オーヴァーオールにくるまった中で、からだを押しつけあっているのは、たしかにいい気持だった。  ルイスは、静かにティーラの背をさすってやった。彼女はそれですっかり気分がほぐれたようだ。 「で、これからまたみんないっしょに探険をつづけたいんだが」  やがて、彼がいいだすと、彼女はからだをこわばらせた。 「気にいらないんだね」 「そうよ」 「ネサスのことかい?」 「あいつ、きらい。大きらいよ! あたしの先祖をまるで──動物みたいにいじくったんだから!」  そこで、ちょっと息をついた。 「でも、あいつがもどってきたら、〈|話し手《スピーカー》〉が、空の向こうまで吹きとばしてくれるでしょう」 「もしぼくが、ネサスをうけいれるように、〈|話し手《スピーカー》〉を説きふせたとしたら?」 「どうしてそんなことができるのよ?」 「できたとしたら?」 「でも、なぜ[#「なぜ」に傍点]そんなことを?」 「ネサスがまだ、|のるかそるか《ロングショット》号を握ってるからだよ。人類を百年以内にマゼラン雲まで移すには、|のるかそるか《ロングショット》号による以外に道はない。もしネサスをほっぽりだして、リングワールドから引きあげたら、|のるかそるか《ロングショット》号は手にはいらないんだ」 「ひどい。ひどいわ、ルイス!」 「考えてごらん。きみは、もしパペッティア人がクジン族に手を出さなかったら、ぼくたちはみんなクジン人の奴隷になっていたところだといったね。しかし、もしパペッティア人が産児制限法の改正に手をかさなかったら、きみは生まれてさえいなかったはずだぜ!」  そんな考えをうけいれる気が彼女にないことは、顔にはっきりと現れていた。その表情にふさわしく、彼女は目をかたく閉じていた。  彼は説得しようとつとめた。 「パペッティア人が何をしたにしろ、それはずっと昔のことだ。水に流してやるわけにはいかないのかい?」 「だめ!」  彼女はゴロリと彼から離れ、あたたかくなったオーヴァーオールからころがり出ると、またつめたい水の中へとびこんだ。ルイスはちょっと迷ったが、結局そのあとを追った。つめたい、凍りつきそうな感触……彼は顔をあげる……ティーラはもう、滝の下の、もとの場所へもどっていた。  さそいかけるような笑顔だ。どうして彼女は、こんなにすばやく気分をかえることができるのだろうか?  彼は、彼女のほうへ泳いでいった。 「相手をだまらせるには、じつにうまいやりかただな!」  彼は、そういって笑った。彼女にそれが聞こえたとは思えない。自分にも聞こえないくらいの激しい水音だった。しかしティーラは、同じように声は聞こえなかったが、笑みを返しながら、彼に手をさしのべた。 「とにかく、くだらん議論だったよ!」彼は滝の音に負けない声でどなった。  水の冷たさはおそろしいほどだ。ティーラのからだが、唯一のぬくもりだった。ふたりは、水中に浅くかくれた岩の粗い表面の上に膝をついて、しっかりと抱きあった。  愛は、暖かさと冷たさの微妙なブレンドだ。愛をかわすことには、安らぎがあった。それで当面の問題がかたづくわけではない。だが、問題を遠くに追いやることだけは、できそうだった。  ふたりは、あたたかいオーヴァーオールにいっしょにくるまったまま、まだ少しふるえながら、サイクルのほうへともどっていった。ルイスはだまっていた。ティーラ・ブラウンの人がらについて、ひとつのことだけは、もう彼にもはっきりわかっていたからである。  彼女は、拒否のしかたというものを知らないのだ。ノウといった以上それを押しとおすというそのやりかたを、彼女は知らない。冗談めかしたり、軽くつきはなしたり、ときにはひどく意地の悪い態度をみせたり、そういう、ほかの女たちがやるような、計画ずくの拒否をつづけることが、彼女にはできないのだ。そんな芸当が身につくほど、彼女はこれまで対人関係で傷ついたことがなかったからである。  たとえルイスが、審判の日がくるまで、ガミガミいいつづけたとしても、彼女は、それをやめさせるすべを知らないだろう。ただし、それに対して彼を憎むことはできる。彼がだまっていたのはそのためもあり、またべつの理由もあった。  彼は、彼女を傷つけたくなかったのだ。  ふたりはだまったまま手をとりあい、指先で愛をかわしながら、歩いていった。 「いいわ」ふいに彼女がいいだした。「もしあなたが〈|話し手《スピーカー》〉を説得できたら、ネサスを呼びもどしてもかまわない」 「そいつは有難い」  ルイスは、驚きをかくそうとはしなかった。 「何もかも、|のるかそるか《ロングショット》号のためよ。ほかに方法はないんでしょう?」  ゆっくり食事をとり、腕立て伏せや上体屈伸などありきたりな運動をし、ついでありきたりでない木登り運動などまでやって時間をつぶしているうちに、〈|話し手《スピーカー》〉がもどってきた。  こんどは、口のまわりに血のあとはなかった。彼は自分のサイクルで、抗アレルギー錠ではなく、煉瓦形のなまなましい肝臓《レバー》をダイアルした。  さあ、偉大なる猟人《ハンター》のお帰りだぞ、とルイスは、固く口をつぐんだまま考えた。  着陸したとき、空はすでに曇っていた。出発するときもまだ、鉛色の雲が、一様に厚く垂れこめていた。ルイスは、交信機を通じて、さきほどの議論をむしかえした。 「でも、ずっと昔のことじゃないか!」 「ルイス、おまえにはわかるまいが、名誉の問題とは、時間に左右されるものではないのだ。その上、やつらのおこなったことの結果は、まだわれわれの上にはっきりと残っている。なぜネサスは、クジン人を、ここへ連れてきたと思うか?」 「彼が説明してくれたじゃないか」 「なぜ、ティーラ・ブラウンを選んだと思うのか? パペッティア人の〈至後者《ハインドモースト》〉は、ネサスに、人間の幸運の能力が遺伝的であるかどうか、たしかめるよう命じたのにちがいない。同じように彼は、クジン族が温順になったかどうかをたしかめようとしているのだ。とくに、戦勝民族への使節のひとりであるおれを選んだのは、おれが、彼らの求めている温順さを発揮するものと見こんだからだ」 「そのことは、ぼくも考えていたよ」  じつのところルイスは、もうひとつ奥を読んでいたのである。もしやネサスは、〈|話し手《スピーカー》〉の反応ぶりをみるために、わざと星間種子誘引機《スターシード・ルーア》のことを洩らすよう指示されていたのではなかろうか? 「それはどうでもよい。おれは、自分でけっして温順[#「温順」に傍点]ではないということを、ここに断言するぞ」 「そのことばを使うのはよさないかね? そいつのせいで、あんたの思考は、ゆがんじまうんだぜ!」 「ルイス、どうしてそのように、パペッティア人を弁護するのだ? どうしてあいつを仲間にいれたがるのだ?」  いい質問だ、とルイスは思った。パペッティア人にひとり旅のこわさを味わわせてやるのも悪くはない。だが、もしルイスの予想が正しければ、ネサスは今、絶対に危険のない方法をとっているはずだ。  そのことに気づいたのは、ルイス・ウーが異星人好きだという、それだけのためだろうか? それとも、もっと一般的なことと考えるべきか?  パペッティア人は異質の存在であり、重要なのはその異質さである。ルイス・ウーほどの年齢になると、人生に飽きて、変化がなければやっていけなくなる。ルイスにとって異星人とつきあうことは、必須の条件のようなものなのだが……。  サイクルの編隊は、山の斜面にそって上昇しつつあった。 「視点の問題さ」と、ルイス。「われわれは今、異常な環境にいる。人間にとってもクジン人にとっても、それほど異質な場所はないくらいだ。いったい何がどうなっているのか、とにかく得られるかぎりの洞察力を動員しなけりゃならん」  ティーラがだまったまま大きくうなずいてみせた。  ありがたい!  ルイスはウインクをかえした。こっちのほうはまさしく人間独自のゼスチュアだ。〈|話し手《スピーカー》〉には、その意味はわからない。  クジン人は話しつづける。 「この世界について、パペッティア人の説明に頼る必要はないぞ。おれ自身の目と鼻と耳とでたくさんだ」 「まあ、それはそれとしておこう。しかし、|のるかそるか《ロングショット》号はどうする。われわれはどっちも、あの船の秘めた技術を必要としているんだぜ」 「利益がめあてか? 動機としては、とるに足らぬぞ」 「カホナ! そいつは公正じゃないよ。|のるかそるか《ロングショット》号は、全人類にとって必要なものだし、クジン族にとっても同じのはずだ」 「それはこじつけというものだ。たとえ私利私欲のためではないにせよ、名誉を売り渡すことに変わりはない」 「ぼくの名誉が危くなるわけじゃない」  ルイスは腹を立てた。 「そうだろうな」  そういって、〈|話し手《スピーカー》〉はスイッチを切った。 「便利なしかけね。このスイッチ」ティーラが悪意むきだしの声でいった。「切るだろうと思ったわ」 「ぼくもそう思ったよ。しかし、あん畜生め! ものわかりのわるいやつだな」  山の向こうには、羊毛のような雲が、無限の地平まで、目のとどくかぎりひろがり、そのさきは灰色にかすんでいた。フライサイクルは、白い雲海と青い空のあいだに、はさまれて漂っているかのように思われ、その空にかかっているアーチは、輪郭が見えるか見えないかすれすれのところだった。  山が後方に見えなくなると、ルイスは急に、あとにしてきた森の中の滝と淵が、ひどく惜しいような気分になった。もう二度とあの場所を見つけることはできないだろう。  サイクルのひきおこす衝撃波が雲にぶつかるあたりから、渦を巻く波頭のような航跡が、ずっと後方へつづいている。そして前方には何か小さなものが、無限の地平の一様さを破っていた。たぶん山の峰か暴風だろうとルイスは思ったが、ひどく遠く、したがってずいぶん大きいようだ。手をのばした距離のピンの頭くらいのものである。 〈|話し手《スピーカー》〉が沈黙をやぶった。 「雲に裂け目がみえるぞ、ルイス。前方やや回転方向《スピンワード》よりのところだ」 「ぼくにもみえる」 「どうしてあそこだけ光がさしているのかな? 地表からの反射にしては明るすぎる」  たしかに、その雲の切れ目の縁は、まぶしく輝いている。  フム……。 「もしかすると、この下はずっと、リングワールドの構成物質がむきだしになっているんじゃないか? これまでに見た最大の規模でね」 「もっと近くへ寄ってみるか」 「いいだろう」と、ルイス。  銀色のしみのような〈|話し手《スピーカー》〉のフライサイクルが、いきなりグイと右へ向きをかえて遠ざかりはじめた。マッハ二のスピードでは、地表もちらりと見えるだけだろうが……。  ひとつ、問題があった。どっちに目を向けているべきだろうか? 銀色の点のような〈|話し手《スピーカー》〉のフライサイクルか、それとも、ダッシュボードに浮かぶ小さなオレンジ色の猫みたいな顔を見ているほうがいいのか?  前者は実物だし、後者だとこまかいところがわかる。両方とも情報を送ってくるのだが、内容にちがいがあるのだ。  本質的に、満足のいく答えが出るはずもない。現実には、ルイスは漠然と両方を等分に眺めているのだった。 〈|話し手《スピーカー》〉の機が、雲の裂けめの上へさしかかる……。  交信機に、〈|話し手《スピーカー》〉の無気味な咆哮が尾をひいた。銀色の点が、突然ギラリと光り、〈|話し手《スピーカー》〉の顔に白光がひらめいた。目をしっかりと閉じている。そのまま口を大きくあけて叫んでいるのだ。  その映像がまた暗くなった。〈|話し手《スピーカー》〉が雲の裂けめを渡りきったのだ。片手で顔をおさえているが、その毛皮はまっ黒こげになり、ブスブスといぶっているようにみえた。  かすかな銀色の点のような〈|話し手《スピーカー》〉のフライサイクルの下にあたる雲の表面を、明るい光の輪が動いていく……まるで下からスポットライトが追っかけているかのようだ。 「〈|話し手《スピーカー》〉! どうなの?」ティーラがよびかけた。  その声をきいたらしく、〈|話し手《スピーカー》〉は顔から手を離した。その目に沿った帯状の部分だけが、やけていない。それ以外の全身の毛皮は、すっかり黒こげだ。〈|話し手《スピーカー》〉は目をひらいて、固く閉じ、そしてもう一度ひらいた。 「目がつぶれた」と、叫ぶ。 「ええ。でも、どうなの[#「どうなの」に傍点]?」 〈|話し手《スピーカー》〉の身を案ずるあまり、ルイスは、そのピントはずれの質問にもほとんど気がつかなかった。しかし彼女の口調はどこか奇妙だった。心配しているかのようだが、その奥には、相手の返事をとがめて、べつの答えを求めているようなところが感じられるのだ。  だが、時間がない。ルイスは叫んだ。 「〈|話し手《スピーカー》〉! そっちのサイクルを、ぼくのに追従《スレイヴ》させろ。退避するんだ」 〈|話し手《スピーカー》〉の手が操縦盤の上をまさぐった。 「よし、セットしたぞ、ルイス。だが、どこへ退避する?」  痛みのせいで、切れぎれにうめくような声だ。 「山のほうへ引っ返す」 「いかん。時間がかかりすぎる。ルイス、相手の正体はわかっているのだ。おれの判断が正しければ、雲の遮蔽があるかぎり、われわれは安全だ」 「え?」 「場所をさがしてくれ」 「あんたを手当てしなきゃ」 「そうだ。しかし、まず安全に着陸できる場所を見つけろ。雲のできるだけ厚いところに降りるのだ……」  雲の下へ下降しても、あたりはそれほど暗くはなかった。雲をとおしてくる光が、地上からギラギラと反射してくるのである。  そこは、ゆるやかに起伏する平原だった。環《リング》の構成物質ではなく、土壌と植物のある地面のようだ。  ギラギラする照りかえしから目をそむけながら、ルイスは下降していった。  ……あたり一面、はるか地平のかなたまで、ただ一種の植物が地表に散在している。その一本一本が、各一個の花をつけ、その花がいっせいに、下降するルイスの機のほうへ顔を向ける。おそろしく熱心な無言の大観衆といったところだ。  着陸して座席をおりると、すぐそばに植物の一本があった。  ふしくれだった緑色の茎が、一フィートほどの高さに立っている。その上についている花は、大きな男の顔くらいだ。その裏側には、まるでレース編みのように、何かの脈と腱が層をなしており、そして内側の表面は、みごとな凹面鏡をなしていた。その中心から短い茎がつきだし、先端は濃緑色のふくらみとなって終わっている。  そして、見わたすかぎりすべての花が、こっちに顔を向けているのだった。まぶしいほどの光が周囲からあつまってくる。それが彼を殺すためだと知って、ルイスは不安げに空を見上げたが、雲の切れる様子はなかった。 「あんたのいうとおりだ」と、交信機に声を吹きこむ。「これは、スレイヴァーのひまわり[#「ひまわり」に傍点]花だ。もし雲がかかっていなかったら、われわれは、あの山の頂上をこえたとたんに焼き殺されていたところだったよ」 「どこかそのひまわり[#「ひまわり」に傍点]花から身をかくす場所はないか? 例えば、洞窟か何か?」 「見あたらないな。地面が平坦すぎる。今のところ、ひまわり[#「ひまわり」に傍点]花は、うまく焦点を合わせられないでいるが、とにかくまわりじゅうがギラギラ光ってる感じだ」  ティーラが割りこんだ。 「ふたりとも、いったいどうしたっていうの? ルイス、着陸しなきゃいけないわ。〈|話し手《スピーカー》〉が苦しんでるのよ」 「いかにも、おれは苦しんでいるのだ、ルイス」 「じゃ、危険を承知でやってみるしかあるまい。ふたりともおりてくるんだ。雲が切れないことを祈ろう」 「いいわ!」  交信機のティーラの映像が、活溌に動きだした。  ルイスは、一分かそこらのあいだ、あたりをさがしまわってみたが、結果は予想どおりだった。そのひまわり[#「ひまわり」に傍点]花の領域内には、いかなる異種の生物の姿も見えないのだ。小さな下生えひとつない。飛びまわるものも、灰に似た土壌に埋もれたものもない。植物自身にとりつく虫も、菌類も、病斑のようなものも見あたらない。もし、その植物自身が病気におかされたら、他の花がそれを焼いてしまうのだろう。  鏡面をもった花というのは、おそるべき武器である。その本来の目的は、陽光を、中央の緑色をした光合成結節に集中することにある。しかしそれはまた、植物を食う動物や昆虫に焦点をあわせて殺すこともできる。ひまわり花の群落は、あらゆる敵を焼きつくしてしまうのだ。そして、光合成をおこなう植物にとっては、生きとし生けるものすべてが敵であり、その死体は肥料となるのである。 「それにしても、こんなものがどうしてこんなとこに[#「こんなとこに」に傍点]あるんだ?」  ルイスは首をかしげた。ひまわり[#「ひまわり」に傍点]花は、通常の植物性生命体と共存することができない。ひまわり[#「ひまわり」に傍点]花は、あまりに強力なのだ。従って、これがリングワールド系のもとの惑星上にあったものだとは考えにくい。  リングワールドを建設した人びとは、近くの星系をめぐって、有用な、あるいは装飾になる植物をあつめたにちがいない。彼らはたぶん、人間空域内のシルヴァレイズ星をも訪れたのだろう。そこで、このひまわり[#「ひまわり」に傍点]花が、装飾用に使えると考えたのにちがいない。 「それでもはじめは、厳重に囲っておいたんだろうな。どんな馬鹿でも、そのくらいの分別はあるはずだ。例えば、一段高くなった環《リング》の床むきだしの区域でまわりを囲んでおけば、中にとじこめておくことができる。  だが、それがうまくいかなかったんだ。何かの拍子に、種子が外へとびだした。それが今ではどこまでひろがってしまったのか、見当もつかない」  ルイスはつぶやいて、思わず身ぶるいした。彼とネサスが、前方はるかに認めた「光り輝く点」は、これだったのだ。眼のとどくかぎり、このひまわり[#「ひまわり」に傍点]花に対抗しようとする生物は見あたらない。  いずれそのうち、時間さえたっぷりあれば、ひまわり[#「ひまわり」に傍点]花は、リングワールド全土をも支配することだろう。  しかし、それにはたいへんな時間がかかる。リングワールドは広い。どんな存在にとっても、その広さは充分以上のものだ。 [#改ページ]      15 夢 の 城  ぽうぜんと立ちつくすルイスは、二台のフライサイクルがそばへ降りてくるのにも、ほとんど気づかなかった。 〈|話し手《スピーカー》〉の怒号が、彼をもの思いから手荒くひきもどした。 「ルイス! おれのサイクルにあるスレイヴァーの物質分解機を使って、隠れる穴を掘るのだ。ティーラ、こっちへきて、おれの手当てをしてくれ」 「隠れる穴だって?」 「そうだ。獣のように地中にかくれて、夜を待つのだ」 「よし」  ルイスはようやく気をとりなおした。傷を負った〈|話し手《スピーカー》〉に、いちいち指図をうけているのでは、あまりになさけない。上空の雲が切れないうちに、なんとかしなければならないのだ。  わずかな隙間から陽がさしただけで、ひまわり[#「ひまわり」に傍点]花は確実に三人を焼き殺すだろう。だが、夜になりさえすれば──。  物質分解機をさがしながら、ルイスは、なるべく〈|話し手《スピーカー》〉から目をそむけていた。ひと目見ただけで充分だった。クジン人は、全身ほとんどまっ黒にこげ、かつて毛皮だったべっとりした灰のあいだから、体液がしたたっていた。あちこちにパックリと、赤い肉をみせた傷口がひらいている。毛のこげたにおいのひどさは、すさまじいばかりだ。  ようやく分解機を見つけた。液体が流れたようなかたちの握りのある二連装ショットガンだ。〈|話し手《スピーカー》〉のサイクルのトランクの中に、それと並んで置かれている武器を見て、彼は苦笑した。もし〈|話し手《スピーカー》〉が、携帯レーザーでひまわり[#「ひまわり」に傍点]花を焼き払おうと提案していても、動顛したルイスは、たぶんいいなりになっていたことだろう。  分解機をとりだすと、吐きけがしそうになって、あわててあとじさりしながら、彼は自分の弱さを恥じた。〈|話し手《スピーカー》〉のひどい姿を見ているだけで、全身に苦痛を感じる。苦しみを知らないティーラのほうが、ルイスよりもずっと役に立ちそうだ。  ルイスは、武器を三十度下方に向けた。宇宙服のヘルメットだけは、頭にかぶっている。慎重に、ふたつある引き金のひとつをしぼった。  アッというまに大地に穴があいた。どれほどの早さで掘り進んでいるのか、一瞬のうちにあたりは塵でいっぱいになってしまったので、ルイスには見当もつかなかった。ビームのあたる場所からちょっとしたハリケーンが吹きだしてくるのだ。その風に対抗するために、ルイスはグッと前のめりに身をかがめた。  円錐形のビームに照射されたところでは、物質内の電子が中性の粒子となり、土壌も岩も、原子核相互の反撥で原子の段階まで引きさかれ、単一原子の塵となって吹きつけてくる。ヘルメットをつけていてよかったというところだ。  やがて彼は、引き金をはなした。穴はもう、三人とフライサイクルをいれるのに充分な大きさだった。  何という早さだろう。もし両方のビームを同時に使ったら、どうなっていたろうかと、彼は思った。だが、そうすれば電流が生じる[#「そうすれば電流が生じる」に傍点]と、〈|話し手《スピーカー》〉は、こともなげにいっていた。あのときには、これほどの威力があろうとは、思いもよらなかったのである。  すでにティーラと〈|話し手《スピーカー》〉も、座席をはなれていた。 〈|話し手《スピーカー》〉は、全身ほとんどあかはだかだ。座席についていた尻の部分と、両眼をかこむ幅ひろい部分だけに、オレンジ色の毛皮が残っている。それ以外の、むきだしの皮膚は、赤紫色の血管があらわになり、深紅のひびわれでいっぱいだ。その彼に、ティーラが、触れると白い 泡《フォーム》 になるものをスプレイしている。  毛と肉のこげた悪臭で、ルイスはとても近づけなかった。 「できたよ」と、ティーラが告げる。  クジン人は目をあげた。 「目が見えるようになったぞ、ルイス」 「よかった!」  実際それが何より気がかりだったのだ。 「パペッティア人は、わが軍隊用の医療セットを用意していた。民間のものより、はるかに優秀だ。あやつが、軍用品に近づけたはずはないのにな」  クジン人の声は、怒りを含んでいた。贈収賄のあったことを予想したのだろう。事実そのとおりだったかもしれない。 「ネサスに話してくる」  そういって、ルイスはふたりをよけてサイクルに向かった。クジン人は今や頭から足の先まで、白い 泡《フォーム》 にくるまれている。もうにおいは全然しなかった。 「あんたの居場所はわかってるんだぜ」と、彼はパペッティア人によびかけた。 「それはすばらしい。ルイス、どこだというのです?」 「ぼくらのうしろについてるのさ。視界を去ると同時に、あんたは大きく迂回して、うしろへまわったんだ。ティーラと〈|話し手《スピーカー》〉は、まだ気づいていない。彼らには、パペッティア人のようなものの考えかたはできないんでね」 「ふたりは、パペッティア人のわたしが先に立って進んでいると思っているのですか? まあ、そう思っていてくれるほうがいいでしょう。それにしても、またわたしを仲間にいれてもらうチャンスは、ありそうですか?」 「今はだめだね。それはもっとあとだ。ところで、用件にかかろう……」  彼はパペッティア人に、ひまわり[#「ひまわり」に傍点]花の大群落のことを話した。〈|話し手《スピーカー》〉の怪我について詳しく話しはじめると、ネサスの頭は、交信機のカメラの視界の下方へ沈んでしまった。  ルイスは、パペッティア人がもう一度顔を出すまで待ち、それからスイッチを切った。そう長くひっこんでいないことは、よくわかっていた。なにしろ、自分の命をまもることにかけては、用心深すぎるくらい正気の相手なのだ。  日没までにはあと十時間ほどある。一行は、分解機で掘った塹壕の中で、日暮れを待った。 〈|話し手《スピーカー》〉は、そのあいだずっと眠りつづけていた。ルイスとティーラは、彼を壕へ連れこんだあと、またクジン人の医療セットのスプレイを使って、眠れるようにしてやった。白い泡はフォームラバーの枕のように、彼をしっかりと包みこんでいた。 「世界でたったひとりの、フワフワしたクジン人ね」ティーラがいった。  ルイスは眠ろうとつとめた。ちょっとのあいだウトウトとし、途中で目をさましかけたとき、明るい陽ざしをさえぎって、壕の縁が、クッキリと影をおとしているのがみえた。彼は寝がえりをうって、また眠りこんだ……。  それから、本当に目がさめたとき、彼は思わずゾッとして、全身に冷汗をかいた。影がみえたのだ! もしあのときうっかり身をおこして見まわしたりしたら、たちまちこんがりと焼かれていたところだ!  しかしまた、雲がもどって来、ひまわり[#「ひまわり」に傍点]花の攻撃を防いでくれた。  ついに、一方の地平から闇がせまってきた。空が暗くなったのを見て、ルイスは他のふたりを起こしにかかった。  一行は雲の下を飛んだ。ひまわり[#「ひまわり」に傍点]花の見える場所にいることが大切だった。まだその群落がつづいているあいだに夜が明けだしたら、また昼のあいだ、身をかくしていなければならないのだ。  ときどきルイスは、ぐっと低空をとんで、様子をうかがった。およそ一時間も飛びつづけたろうか……やがて、ひまわり[#「ひまわり」に傍点]花の生えかたが、まばらになってきた。最近焼きはらわれたらしい森の、黒い根株が残っているあいだに、ポツポツとひまわり花が芽を出しはじめている地域もあった。そういう場所では、ふつうの雑草も、一見ひまわり[#「ひまわり」に傍点]花と競いあっているかのようにみえた。  そしてやがて、ひまわり[#「ひまわり」に傍点]花の姿は、まったく見えなくなった。  やっとルイスも、眠れそうだった。  ルイスは、催眠薬でも打たれたように、眠りに引きこまれた。目がさめたとき、あたりはまだ夜だった。周囲を見まわすと、前方やや回転方向《スピンワード》よりに、明かりのちらつくのが見えた。  ぼんやりした頭で、彼は、音波シールドの中に螢でもはいりこんだのか、何かそういうつまらないものだろうと思った。だが、目をこすってもう一度見なおしても、明かりは依然としてそこにあった。  彼は、〈|話し手《スビーカー》〉の交信機への|呼びだし《コール》ボタンをおした。  その光は、近づくにつれて、はっきりと見えてきた。リングワールドの暗い夜景を背景に、それはまるで、太陽の光を一点で反射しているかのような光りかただった。  ひまわり[#「ひまわり」に傍点]花ではない。今は夜なのだから。  家かもしれない、とルイスは思った。しかし、あのような照明を、原住民がどこから手にいれられるだろうか?  だがまた、前にもああいった家を見のがしてしまった可能性もある。フライサイクルの巡航速度では、北アメリカ大陸を横断するのにも、二時間半しかかからないのだ。  明かりはもう、一行の右側を通りすぎようとしている。だのにまだ〈|話し手《スピーカー》〉は応答してこない。  ルイスは、自分のサイクルを編隊から切りはなした。闇の中で、彼は苦笑いしていた。あとの二台は後方にあり、〈|話し手《スピーカー》〉が操縦にあたっている(自分がやるといってきかなかったのだ)。〈|話し手《スピーカー》〉のサイクルのいる方向へ、記憶にたよって、彼は近づいていった。  雲に散らされた空のアーチからの光でも、音波シールドは、そこから出る衝撃波の、いくつかの直線があつまる一点として見わけられる。あたかもフライサイクルと、〈|話し手《スピーカー》〉の灰色のシルエットが、ユークリッド幾何学的な蜘蛛の巣にかかっているかのような眺めだ。  ルイスは、ほとんど危険なほどにまで接近し、スポットライトを点けてすぐに消した。闇の中で、白っぽい幽霊のような相手の姿が、急にシャキッとするのがわかった。ルイスは自分のサイクルを、注意ぶかく、クジン人と謎の光点のあいだに割りこませた。  そして、もう一度スポットを当てる。 〈|話し手《スピーカー》〉が交信機に答えてきた。 「わかったぞ、ルイス。おれも見た。何か光が通りすぎていくな」 「しらべてみようじゃないか」 「よろしい」 〈|話し手《スピーカー》〉は、機首を光のほうへ向けた。  一行は闇の中で、まるで沈んでいくビール瓶にむらがる物見高いうぐい[#「うぐい」に傍点]のように、グルグルと旋回をつづけた。光の正体は、およそ一千フィートの高さに浮かぶ十階建ての城で、それが、古代のロケット船の計器盤のように、全館が煌々と明かりをともしているのだった。  ただひとつ、天井から壁へかけての曲面にそった巨大な展望窓があった。大劇場を一館そっくりのみこんでしまえそうな大きさだ。その中のホールでは、床が円形に一段高くなった周囲を、食卓が迷路のようにとりかこんでいる。天井の高さは優に五十フィートはあり、そのガランとした空間に、針金細工らしい抽象的な造形作品がひとつ、ポツリと浮かんでいた。  いつもながら、リングワールドにおけるゆとり[#「ゆとり」に傍点]の大きさには、驚くほかはない。地球では、自動操縦《オートパイロット》なしに乗りものを飛ばすことは重罪に値する。墜落したが最後、どこへ落ちようと、誰かを殺すことになるからだ。それがここでは、数千マイルもの荒野がつづき、各都市の上には大きな建物が浮かび、その建物の上階の部屋は、天井の高さが五十フィートもあるというぐあいなのだ。  この城の下にも都市があった。そこには明かりは見えない。〈|話し手《スピーカー》〉は、えもの[#「えもの」に傍点]を狙う鷹のようにその上空を低くかすめ、空のアーチからそそぐ青い光をたよりに、すばやく偵察を終えた。もどってきた彼の報告によると、この都市もジグナムクリッククリックそっくりだということだった。 「夜が明けてから調査しよう。おれには、この浮かぶ要塞のほうが、重要なように思える。もしかすると、文明の没落以後、誰も手を触れていないかもしれんぞ」 「独立の動力源をもってるんだろう」と、ルイスが推測を加える。「だが、どういうわけで? ジグナムクリッククリックには、そういう建物はなかったね」  ティーラのサイクルが、城の下面すれすれに、もぐりこんでいった。とたんに、交信機の彼女の映像が、驚きの目を大きく見ひらき、そして叫び声。 「ルイス! 〈|話し手《スピーカー》〉! ちょっと、来てみてよ!」  ふたりは何を考えるひまもなく、彼女のあとを追った。ルイスが彼女と並んだとき、彼は突然、頭上にかかっているもの[#「もの」に傍点]の巨大さに気づいて、ふるえあがった。  その下部はほとんど全面が、窓で占められている。しかもその底面には、平坦なところがない。この城を、地上におろすことはできないのだ。  いったい何ものが、どうやって、こんな基礎のない建物をこしらえたのか? コンクリートと金属材の、しかも対称性を欠いた構築物を、いったいどんなカホなしかけで宙に支えているのだろうか?  肝っ玉がひっくりかえりそうになるのをおさえながら、ルイスは、この、中くらいの客船の質量にも匹敵しそうな空中楼閣の真下で、ティーラのかたわらへサイクルをよせていった。  ティーラが発見したものは、ひとつの驚異であった。それは、底面からもう一段低くつき出たプールなのだ。明るく照らされたその透明な浴槽形の、底面と三つの側面は外界の闇にさらされているが、いっぽうの壁に接しているのはバーか、それとも居間なのか……透明でも厚い仕切りふたつを隔てているので、はっきりとはわからない。  そのプールは干あがっていた。底にひとつ、バンダースナッチのものとおぼしい骸骨がころがっている。 「でっかいペットを飼ってたようだな」ルイスがいった。 「あれ、ジンクスのバンダースナッチじゃない? あたしの叔父は、狩猟家だったけど、バンダースナッチの骨格の中にトロフィー・ルームをこしらえてたわ」 「バンダースナッチは、多くの惑星に棲んでる。スレイヴァーの食用動物だったんだ。全銀河系にひろがっていても、おかしくはない。問題は、何のためにリングワールド人が、そいつをここへ運んできたかだ」 「装飾用でしょ」ティーラはそくざにいった。 「冗談のつもりかい?」  バンダースナッチは、まるで|白  鯨《モービィ・ディック》とキャタピラ・トラクターの混血みたいなしろものである。  それでも、べつにおかしいところはないだろう、とルイスは思いなおした。この人工世界の建設者が、そこに住まわせるのに、何十何百の恒星系を襲って生物を連れ帰ったとして、どうしていけないわけがあるだろう? 彼らには、ラムスクープ式核融合動力があった。そして、リングワールド上のあらゆる生物は、当然どこかから運んでこられたものなのだ。  ひまわり[#「ひまわり」に傍点]花。バンダースナッチ。つぎには何が出てくることか?  まあ、それはどうでもいい。このまま縁《リム》の外壁へ直行すべきだ。なまじこの城を調査しようなどと思わないこと。すでに一行が翔破した距離は、地球五、六周ほどにもあたる。これだけいろんなものに出会えばもうたくさんだろう。  原住民の奇妙な生活(今までのところは無害だった)。  ひまわり[#「ひまわり」に傍点]花(交信機の〈|話し手《スピーカー》〉の映像が白い炎につつまれ、悲鳴をあげた)。  空中に浮かぶ都市(いずれも墜落し、廃墟と化していた)。  バンダースナッチ(知的生物だが危険。その点はここでも同じだろう。バンダースナッチは突然変異を起こすことがないのだ)。  そして、死は?  死はたしかに、どこへいこうとつねに同じである。  三人は、城のまわりをもうひとめぐりし、入口をさがした。あらゆるかたちの窓があった。四角いの、八角形の、泡形をしたの、それに、下面にひらいた厚い素通しの床など。だが、どれも閉まっている。飛行する乗物を収容するドックがあり、その大きなとびらは、跳ね橋のように開いて着陸台になるらしかったが、その跳ね橋ドアも、ピッタリと閉ざされていた。  城の下端から、二百フィートほど下まで、らせん形のエスカレーターが二本さがっていた。下端が空中で切れているのは、何かの力でねじ切られたらしく、支柱はひきちぎられ、踏み板もこわれている。上端の入口のドアは閉まっていた。 「なんてことでしょう! あたし、窓をやぶってはいるわ」と、ティーラ。 「やめろ!」  ルイスは制止した。ほうっておいたら、彼女はそのとおりやりかねない。 「〈|話し手《スピーカー》〉、分解機をだしてくれ。中へはいるんだ」  大きな展望窓からの光をたよりに、〈|話し手《スピーカー》〉は、スレイヴァーの掘削機械を座席の横からとりだした。  この分解機については、ルイスもよく知っている。拡散も収束も自在のビームがあたったところでは、あらゆる物体が、自己のもつ陽電荷のせいで、粉々にくだけてしまうのである。パペッティア人の設計では、さらに第二の、陽電荷を中和するビームが出るようになっている。ルイスがひまわり[#「ひまわり」に傍点]花の平原で穴を掘ったときには、このほうは使わなかったし、またそんなものが必要だとも彼には思えなかったのである。  だが、〈|話し手《スピーカー》〉がいずれそれを使うだろうことは、当然予想すべきところだった。  八角形をした大きな窓の上の、数インチ離れた二点が、正と負の電荷を帯び、そのあいだに電位差が生じた。  目もくらむ閃光。  両眼を蔽った手の下で、痛みと涙が走った。同時に生じた百雷のとどろきは、音波シールドをとおしてすら耳を聾するばかりだった。それにつづく突然の静寂の中で、ルイスは、首すじや肩や、目を蔽った手の甲に、砂粒のようなものがズッシリと積みかさなるのを感じた。目をとじたまま、彼は口をひらいた。 「テストしてからにすればよかったのに」 「すばらしい性能だ。これは役に立つぞ」 「すごい誕生日のプレゼントだね。おめでとう。でもそれをパパに向けるんじゃないよ。パパは、おっかないんだからね」 「悪ふざけは、やめろ。ルイス」  ようやく視力がもどったようだ。目をあけると、銀粉のようにこまかいガラスが、彼とサイクルをすっかり包みこんでいる。飛び散るガラスだ! 音波シールドがその粒子をうけとめ、ついでそれを四方へ吹きとばしているのだった。  ティーラはすでに、大宴会場ほどもある窓の奥の一室へと向かっている。ふたりもそれにつづいた……。  目をさますと、異様な気分だった。何かやわらかい表面に、片腕を下にして寝ていたため、その腕がしびれている。  ゴロリと仰向けになると、目をあけた。  ベッドの中から見あげると、高い白い天井がみえた。胸の下に何か当たると思ったら、それはティーラの足だった。  そう、昨夜はベッドを見つけて眠ったのだ。ふつうの城なら地階にあたる場所に、巨大な寝室があり、そこにあったこのベッドも、ミニチュアのゴルフコースくらいの大きさだった。  だが、それを見つけるまでに一同は、かずかずの驚異を味わいつくしていた。  城は、まさしく城であり、ただの豪華なホテルといったものではなかった。高さ五十フィートの、展望窓のついた会食ホールが、すでに驚くべきものであった。椅子がなく、数多くのテーブルだけが、中央の一段高くなったリング形のテーブルを囲んでいる。そのリング形の中央に、玉座のような高い背もたれのついた椅子らしきものがあった。  ティーラがその座について、あちこちさわってみると、その椅子を天井までのなかば近くまでせりあがらせ、そこからしゃべる声を、雷のようにとどろかせるしかけが見つかった。椅子をグルリと回転させることもでき、そして、椅子がまわるとともに、その頭上に浮かんでいる造形作品も回転するのだった。  その造形は、おそろしく細い針金細工で、ほとんど何もない空間にひとしい。最初それは、単なる抽象のようにみえた。だが、ティーラが回転すると──それは、ふいに、人間の顔であることが、はっきりわかった。  まったく無毛の、人間の頭のかたちなのだ。  あの原住民の中に、顔も頭もきれいに毛を剃りあげる部族があるのだろうか。それとも、この環《リング》にそってずっと遠いところに住む、別の種族なのだろうか?  ここにいる三人には、知るよしもない。しかしその頭部が人間のものであることはまちがいなかった。美しく、けわしく、命令することに慣れた顔だちのように思われた。  いま天井を見あげると同時に、ルイスはその顔を思いだしていた。あの顔の線には、目にも口にも、何か有無をいわせぬ支配的な印象がこもっている。制作者が、腕をふるって、ひとつひとつの線に、そういう意味をもたせたのだ。  この建物は支配者の居城だったにちがいない。あらゆるものが、そのことを物語っていた。玉座、会食ホール、独特ないくつもの窓、独立した動力源で浮かんでいることなど。しかし、ルイス・ウーには、あの顔だけで証拠は充分なように思われた。  一同はそのあと、城の中をあちこちとうろついた。いたるところ、ぜいたくな飾りのついたみごとなデザインの階段があった。だが、どれも動かなかった。エスカレーターも、エレベーターも、走路も、降下シャフトもない。おそらくこの階段自身が、かつては動いたのではなかろうか。  そういうわけで、一行の足は、だんだん下のほうへ向かった。何といっても、登りより下りのほうが楽である。そして、最下層にいたってこの寝室に出くわしたのだった。  くる日もくる日もフライサイクルの座席の上で眠り、たまたま着陸するたびに愛をかわしあってきた、そんなあとだけに、ティーラとルイスはこのベッドの魅力に抗しきれなかった。  ふたりをそこに残して、〈|話し手《スピーカー》〉はただひとり、さらに探索をつづけていたようだ。だが、今までのところ、彼からは何の発見の知らせもない。  ルイスは片肘で身をおこした。しびれていた腕に感覚がもどってくる。そうっとさわらないように気をつけながら、彼は考える──。  就寝プレートなら、絶対にこんなことはないんだが……何をカホな! とにもかくにも、ベッドにありつけたんだ……。  寝室のいっぽうの壁はガラス張りで、その向こうには、れいの干あがったプールがみえた。壁も床もガラス張りのなかに、おどろしき[#「おどろしき」に傍点]バンダースナッチの白骨が一体。スプーンのような頭蓋のうつろな眼窩が、じっとこっちを見つめている。  反対側の壁も透明で、そこから一千フィート下方の市街が見てとれた。  からだを三回転させると、ベッドの端から床に落ちた。床にはやわらかい毛皮が敷きつめられていたが、その手ざわりや色あいなどは、あの原住民の顔を蔽っていた髭と、まぎらわしいほどそっくりだった。  ルイスは窓のところまで歩みよって、外を眺めた。 (視界を何か、三次元テレビに現われる画像のノイズのようなものが、チラチラとさえぎっていた。べつにはっきりと目にとまるほどではない。そのくせ、ひどく気にさわる現象だ)  白い、かたちのない雲に蔽われた空の下で、都市は全体灰色一色だった。建物の多くはかなり高層だが、その中でもいくつかは大きく他からぬきん出ている。この城の最下層より高くのびているものも、二、三あった。空に浮かぶ建物は、他にもあったらしい。それが落下したあととおぼしい、数千トンの建物が崩壊したあとのギャップが、いくつか目にとまった。  だがこの夢の城だけは、独自の動力源をもっていたのだ。寝室ひとつとってみても、ちょっとした規模の狂宴《オージイ》には充分な大きさだ。この大きな窓から、自分の領地を見おろす支配者の目には、住民の姿が、うごめく蟻か何かのようにうつったことであろう。 「こんなところにいると、ひとりでに傲慢さが身につくだろうな」ルイスはつぶやいた。  何かが目にとまった。窓の外で、ユラユラとゆれている。  糸だ。長いやつがただ一本、城の中腹からさがっているようにみえるが、じつはもっと上空から落ちてくるらしい。粗い感じの糸だ。そのうちどこか上のほうでひっかかった部分が二条に分かれて、はるか下方の市街に向かって垂れているのも見わけられた。彼が空から外を見ているあいだ、ずっと落ちつづけていたらしい。さっきから、チラチラと視界をさえぎるように思われたのは、これであった。  どこから降ってきたのか見当もつかないが、ルイスはそれをあるがままにうけいれることができた。なかなか美しい。彼は裸のまま、床全体に敷きつめられた毛皮の上に、仰向けに寝ころんで、それが窓の外をただよい流れていくのを眺めた。心底からゆったりと落ちついた気分だった。こんな気持になれたのは、|うそつき《ライヤー》号が]線レーザーに撃たれてからこのかた、はじめてのことだったかもしれない。  糸はあとからあとから果てしもなく、灰白色の空を背景に、うねりくねった黒い輪となって落ちてくる。見えるか見えないかの太さだ。  長さはどれくらいあるのだろうか? いや、吹雪の中で、雪片の数を、どうやってかぞえられるというのだ?  とつぜん、ルイスは思いあたった。 「やあ、ひさしぶりだな」ショックに堪えながら、彼はつぶやいた。  |遮 光 板《シャドウ・スクエア》をつないでいた糸の一本だ。それが、一行のあとを追うように、その場所へ落下してきたのである。  朝食のために、彼は、階段を五階、上へあがった。  もちろん、調理機構がまだ動いているとは思っていなかった。あの会食ホールへいくつもりだったところ、途中たまたま炊事場にぶつかったのである。  ずっと昔、夢みたことのあるイメージと、そっくりだった。独裁者には、召使いがつきものであり、ここでも大ぜいが働いていたにちがいない。大きな調理場だ。コック長だけでも二十人以上いたことだろう。そのひとりひとりに何人もの下働きがついて、出来あがった料理を宴席へはこび、汚れた皿をもちかえり、それを洗い、片づけ……。  新鮮な果物や野菜の貯蔵庫だったらしいものもいくつかあったが、棚も床も埃にまみれ、ひからびた残骸と青かびがあるばかりだった。獣肉をぶらさげてあったとおぼしい冷蔵室もあったが、そこもからっぽで、なま暖かかった。まだ動いている冷凍機もあり、そこの棚には、食べられそうな食物がみつかったが、食べてみる気にはならなかった。  罐詰らしいものはまったくない。  蛇口をひねっても、水は出なかった。  冷凍機を別にすれば、ドアの開閉機構以上に複雑な機械は見つからなかった。レンジには、温度指示装置もタイマーもついていない。トースターにあたるものも見えない。レンジの上に張りわたされた紐に、何かのくず[#「くず」に傍点]らしいものが、点々とかたまってこびりついている。なまの香辛料だろうか? 調味料入りの瓶も見あたらないようだ。  そこを出る前に、ルイスはもう一度あたりを見まわした。そうしなかったら、真相を見おとしていたところだった。  この部屋は、もともと調理場として設計されたものではなかったのだ。  では、何だろう? 貯蔵室か? 娯楽室だったのか?  たぶん後者だろう。いっぽうの壁が、三次元テレビの映写スクリーンのように、まったく何もない平面で、そこを一面にぬりつぶした塗料の表面は、明らかに他の部分よりも新しかった。そして床の上には、椅子席をとりはずしたらしい傷あとが残っていたのである。  それでわかった。ここはテレビ映写室だったのだ。たぶんスクリーンの機構がこわれたとき、もう誰も修理できるものがいなかった。つづいて同じように、自動調理機構がだめになった。  そこで、娯楽室が、手動用の調理場に転用されたというわけだ。自動調理機を修理できるものがひとりもいなくなっていたとしたら、そのときにはもう、こういう調理場が、ありふれたものとなっていたのだろう。なま[#「なま」に傍点]の食料が、飛行輸送車《フライング・トラック》で、ここまではこびあげられていたことだろう。  そうして、その飛行輸送車も、一台、また一台と動かなくなっていったとしたら……?  ルイスは、その部屋をあとにした。  ようやく会食ホールを見つけ、城内唯一の信頼できる食事にありついた。サイクルの調理スロットから出てくる、煉瓦のかたちをした朝食だった。  食べ終わったところへ、〈|話し手《スピーカー》〉がはいってきた。  クジン人も、腹をすかしていたにちがいない。まっすぐ自分のサイクルのところへいって、ダイアルをまわし、赤黒いぬれた煉瓦形のものを三個出すと、ひとつにつき三口ずつで、たいらげてしまった。それからようやく、ルイスのほうへ向きなおった。  その姿はもう、幽霊みたいに白くはない。全身を被っていた 泡《フォーム》 は、すでに治療の役割を果たして、昨夜のうちに剥げ落ちたようだ。彼の皮膚は、つやつやとしたピンク色で、健康そうだった。ただし、いくつか灰色の傷あとを残し、紫色の血管が網状に浮いてみえる、そのピンク色の表面が、正常なクジン人の皮膚の色だとしたらだが。 「おれといっしょにこい」〈|話し手《スピーカー》〉が命令口調でいった。「地図のある部屋を見つけたぞ」 [#改ページ]      16 地図の部屋  地図室は、その重要さにふさわしく、城の最上階にあった。階段をのぼっていくのに、ルイスはすっかり息を切らし、クジン人からだいぶ遅れてしまった。クジン人も、べつに走ってはいなかったが、人間よりはずっと足が速い。  ルイスがやっと上の踊り場に着くと、〈|話し手《スピーカー》〉は、正面の二重ドアを押しあけた。  すぐ手前の、床から三フィートほどの高さに、幅八インチほどの漆黒の帯が水平に走っている。その向こうに、同じような帯で、空色の表面が夜の濃紺の縞に区切られているのが目にとまり、ルイスはただちにその正体をさとった。  大当りだ[#「大当りだ」に傍点]。  入口のところに立ちどまって、細部を見きわめる。このリングワールドの模型は、直径およそ百二十フィートほどもある円形のこの部屋と、ほぼ等しい大きさである。円形の地図にとりかこまれたその中央に、重そうな長方形のスクリーンが立っており、いまそれはドアに背を向けていたが、自由に回転できるようになっているらしい。  正面の壁の上方に、十個の球体《グローブ》が並んで回転しているのがみえた。それぞれ大きさも回転の速さもちがう。だが、そのいずれもが、青の中に白い縞のはいった、地球型惑星独特の色彩を持っていた。そのおのおのの下に、円錐投影法による地図がかかっている。 「昨夜はひと晩じゅうここで働いたのだぞ」と〈|話し手《スピーカー》〉。  そして中央のスクリーンの向こうへまわると、彼はつづけた。 「見せてやるものがたくさんあるのだ。こっちへこい」  ルイスは身をかがめて、こちら側のリングの下をくぐりぬけようとした。だが、ふと思いついて、足をとめた。  あの会食ホールを睥睨していた、鷹のような顔つきの人物が、たとえ至聖の一室へはいるにしても、そんなふうに身をかがめたとは思えない。そのままリングへ向かって歩みよると、ルイスのからだはスウッとそれをとおりぬけた。このリングワールドの模型は、立体投影像だったのだ。  彼は、クジン人のうしろに立った。  中央のスクリーンを制御パネルがとりまいている。ダイアルの握りはどれも大きくずっしりとした銀製で、それぞれが何か動物の頭らしいものをかたどっていた。パネルの表面には、渦巻きや曲線がいっぱいに描かれている。  安っぽい飾りだ、とルイスは思った。退廃期の産物だろうか?  スクリーンには景色がうつっている。だが、拡大はされていない。じっと見つめると、ちょうど|遮 光 板《ツャドウ・スクエア》のあたりから、リングワールドを見おろしているようにみえ、ルイスは一瞬、既視感《デジャ・ヴュ》を味わった。 「さっき焦点を合わせてみたのだ」とクジン人がいう。「やりかたが、これで正しければだが……」  彼の手がダイアルの握りにふれると、景色はみるみる拡大し、その早さに、ルイスの手は思わず知らず、スロットルへのびた。 「これから外壁をみせてやる。ウウゥ、もう少しさきのほうだ……」  彼がべつの、獰猛な動物の頭のかたちをした握りに触れると、景色が横にすべりだし、そしてふたりは、リングワールドの縁《リム》を、見おろしているのだった。  どこかに望遠鏡が仕掛けてあるのだろう。だが、どこに? |遮 光 板《シャドウ・スクエア》にでもついているのだろうか?  一千マイルの高さの山々を、真上から見おろす位置である。 〈|話し手《スビーカー》〉がべつのダイアルに触れると、映像はさらに拡大した。サイズをべつにすると、まったく自然そのものの山々が、宇宙への縁《へり》で、まっすぐ断ちきられている眺めに、ルイスはただ呆れるばかりだった。  ついで、その山々の峰づたいにつづいているものがあるのを、彼はみとめた。  見たところ、銀色の点線としかみえない。が、彼はそれが何かを知っていた。 「直線加速機《リニア・アクセレーター》だな」 「そうだ」と、〈|話し手《スピーカー》〉。「転移ボックスがない以上、リングワールドほどの世界では、ほかに方法がなかろう。あれが主要な運輸システムにちがいない」 「しかし、千マイルもの高さだぜ。エレベーターがあるのか?」 「外壁にそって、いたるところにあるのを見つけた。例えば、あそこだ」  すでに銀色の点線は、はるかに距離をおいた小さな輪《ループ》の列にまで拡大されて見えていた。どれもが、山の峰の裏側に巧妙にかくされて、地上からは見えないようになっている。その輪のひとつから、やっと見えるか見えないほどの細いチューブが、山の斜面に沿って伸び、リングワールドの大気の底に横たう雲の層の中へと消えているのだった。 〈|話し手《スピーカー》〉がいう。 「エレベーターの近くでは、電磁ループが密になっている。ほかの場所では、たがいに百万マイルも離れている。どうやら、出発と到着と誘導の役を果たすだけのようだ。乗物を、縁《リム》にそって、相対的に秒速七百七十マイルまで加速してやれば、自由落下と同じような状態になる。それを、つぎの輪《ループ》のグループで、エレベーターの近くにとめてやればいいのだ」 「それじゃ、いきたいところへいくのに、十日もかかっちまうぜ。それも、加速度を計算に入れないでだ」 「たいしたことはない。おまえたちも、地球版図内でいちばん遠いシルヴァレイズ星までいくには、六十日かかるぞ。既知空域《ノウン・スペイス》の端から端まで横断するには、その四倍かかる」  まさしくそのとおりだった。しかも、リングワールドのほうが、居住面積では、既知空域《ノウン・スペイス》全体を合わせたよりも大きいのだ。とにかく、ひたすら余裕を求めて[#「ひたすら余裕を求めて」に傍点]建設されたものなのだから。  ルイスはたずねた。 「動いてる様子はないのかい? その直線加速機《リニア・アクセレーター》が、使われてるような気配は?」 「無意味な質問だな。見せてやろう」  スクリーンの景観が、グイと収縮し、横にすべり、ついで徐々に拡大した。そこは夜だった。暗色の雲が暗色の地表をうっすらと蔽い、そして……。 「都市の明かりだ。そうか」  ルイスは息をのむ思いだった。あまりに突然現われたからだ。 「それじゃ、文明は死にたえたわけじゃなかったんだな。助けが得られるぞ」 「そうではないのだ。これを見つけるのはむずかしいのだが……そら」 「な、なあんてこった!」  城だった。まちがいなく、この城[#「この城」に傍点]が、都市の光の海の上に、悠々と浮かんでいるのである。輝く窓、ネオンの輝き、輸送機関らしい行きかう光の流れ……奇妙なかたちの、浮かぶ建物の群れ……まことに優雅で美しい。 「ただの記録なのか。カホナ! ここにうつってるのは、ずっと昔のテープなんだな。ぼくは、生《なま》中継だとばかり思っていた」  この記録が残されたのは、かつての華やかな時代のことだったのだ。煌々と輝く活気にあふれた都市が、地図の上にははっきりと残されている……だが、その映像はすべて、はるか昔の文明の姿なのだった。 「おれも昨夜はずっとそう思っていた。やっと真相に気づいたのは、どこをどうさがしても、|うそつき《ライヤー》号の着陸が残した数千マイルの傷あとが見つからなかったからだ」  ルイスは、ことばもなく、クジン人の毛のないうす紫色の肩をたたいた。彼の手がやっととどくほどの高さだ。  クジン人は、容赦なくことばをつづけた。 「この城を見つけて、ようやくはっきり納得できた。見ろ」  彼は画像を急速に左舷へと動かした。暗い地面がぼやけ、何もみえなくなる。つぎの瞬間、うつっているのは、黒々とした海面だった。  視点がズウッと引いていくらしい……。 「見たか? 大きな塩水の大洋のひとつから、縁《リム》へ向かうわれわれの正面に、入江がのびてきているのだ。大洋そのものは、クジン星や地球のそれより数倍も大きいし、この湾だけでも、わが世界で最大の海ほどの大きさがある」 「ますます遅れちまうな! そもそも、それを越えることができるだろうかね?」 「越えることはできるだろう。だが、それよりもっとひどい遅れの原因になるものがあるのだ」  クジン人は、ダイアルの握りに手をのばした。 「ちょっと待った。あそこにある島のあつまりを、もっと近づけてみせてくれ」 「なぜだ、ルイス? あそこで食料の補給でもするつもりか?」 「いや……問題は、どうしてあんな深い海の中へ、あんな恰好に、島々をならべたかだ。わかるかい? ほら、ここんとこにある島のグループ」  ルイスの指が、スクリーンの上に、グルリと輪をえがく。 「さて、あそこの上の地図を見てみろ」 「何のことかわからんぞ」 「この[#「この」に傍点]島々と、あの[#「あの」に傍点]地図だ。円錐図法だからちょっとゆがんでるが……わかったろう? 惑星が十個、そして、この入江[#「入江」に傍点]の中の群島の数も十グループある。もちろん原寸大じゃないな。しかし、この島のひとつだって、まちがいなくオーストラリアくらいの大きさはあるし、もとの世界の大陸も、ユーラシアより大きいとは思えない」 「何という悪ふざけだ。ルイス、そういうのが、典型的な人間のユーモア感覚なのか?」 「とんでもない! 感傷ってやつだよ。しかし──」 「何だ?」 「いや、気がつかなかったな。最初の世代──彼らは自分の世界を放棄したが、何か形見を残しておきたかったんだ。しかし三代もたてば、何の意味もなくなる。いつだってそんなもんなのさ」  ルイスのことばが終わったのを見さだめて、クジン人は、遠慮がちに口をひらいた。 「おまえたち人間は、自分がクジン人のものの考えかたを理解できると思っているか?」  ルイスは微笑して首をふった。 「よろしい」と、クジン人。  そこで〈|話し手《スピーカー》〉は、話題を転じた。 「昨夜、少々時間をかけて、ここからいちばん近い宇宙港をしらべてみた」  模型のリングワールドの中心に立って、ふたりは正面の四角いスクリーン上に再現される過去のもように目をこらしている。  絢爛たる見ものであった。〈|話し手《スピーカー》〉は、スクリーンを、宇宙港のある、側壁の外側の張り出しの上に合わせたのである。先端がまるくなった円筒形の、数千の窓をきらめかせた宇宙船が、電磁減速フィールドに身をまかせて到着するのを、ふたりはまのあたりにした。フィールドが淡い色あいの光を放つのは、たぶんオペレーターが目で見て操作するためであろう。 「このテープはエンドレスになっている」と、〈|話し手《スピーカー》〉。「昨夜は何度かくりかえして見た。船からおりた旅客は、まるで浸透プロセスでも用いられているように、外壁の中へ、直接歩いてはいっていったな」 「ああ」  ルイスはすっかり気落ちしていた。宇宙港の張り出しが、ここからずっと回転方向《スピンワード》よりにあることがわかったからだ──それも、一行がこれまで進んできた道のりなど、問題にもならないほどの遠さである。 「船の出航も見たぞ。そのときには、直線加速機《リニア・アクセレーター》は使わない。あれは到着のとき、船の速度を宇宙港に合わせるために使われるだけだ。出航のときには、船はただ空間へほうり出される。  あの草食いが予想していたとおりだな、ルイス。落とし戸のしかけをおぼえているだろう? リングワールドの回転速度は、ラムスクープ 場《フィールド》 が作動するのに充分なのだ。ルイス、聞いているのか?」  ルイスは、ブルッと身ぶるいした。 「すまん。ぼくは今、これからいかなきゃならない距離が、七十万マイルもふえたってことしか、頭になかったんだ」 「運輸システムが使えるかもしれんぞ。側壁の上にある、あの小さな直線加速装置《リニア・アクセレーター》だ」 「無理だろうな。おそらくもうこわれているよ。輸送の手段が残っているかぎり、文明は拡散しつづけるはずだからね。それに、もし動いていたとしても、ぼくらの進路が、エレベーター・シャフトのある場所に向かっているとはかぎらないだろう」 「おまえのいうとおりだ。おれも、そのある場所はさがしてみたのだから」と、クジン人は答えた。  長方形のスクリーンの上では、今しも一隻の船が到着したところだ。飛行輸送車が、連絡チューブを船の主《メイン》ロックまでひいていってつなぐと、そのチューブの中へ、乗客がドッと流れだしてくる。 「縁《リム》へ向かうことは、あきらめるか?」 「そりゃいけない。やはり宇宙港が唯一のチャンスだよ」 「そうかな?」 「そうとも、カホナ! いくらでかくたって、リングワールドも植民地だ。植民地である以上、文明は、宇宙港が中心のはずだ」 「それは、母星からまだ船がやってきて、新しい技術をもたらしている場合のことだ。われわれの推測によると、リングワールド人は、母星を捨ててやってきたのだぞ」 「でも、まだ船はきているかもしれない」  ルイスは完全に受け太刀だった。 「その、見捨てられた母星からね! 数百年も前に出発したのがね! ラムシップは、相対論による時間の遅れから逃れるわけにはいかないんだ」 「なるほど。古代の文明人が、古代の科学を、それを忘れてしまった野蛮人に教えているかもしれないというのだな。たしかに、その可能性はあるだろう」と、〈|話し手《スピーカー》〉。「しかしおれは、この構造物にはもうあきあきしているのだ。おまけに、宇宙港は遠い。あとは何を見せてやろうか?」  ふと思いついて、ルイスはたずねた。 「|うそつき《ライヤー》号からここまで、われわれがやってきた距離は?」 「だから、われわれの衝突のあとが見つからないといったではないか。おまえの見つもりも、おれのと大差ないはずだ。しかし、あとどれだけ進めばよいかはわかっている。この城から縁《リム》までは、およそ二十万マイルだ」 「ずいぶんあるな……しかし、あの山は見つかるはずだぜ」 「見つからんのだ」 「あのでっかい山、〈神の拳〉ってやつさ。あいつの麓に不時着したはずだ」 「見つからんのだ」 「気にくわんな。おい、〈|話し手《スピーカー》〉。われわれが、完全に方角を誤っていたという可能性はあるのか? そうでないかぎり、〈神の拳〉は、城からほとんどまっすぐ右舷の方角にあるはずだ」 「しかし、見つからなかったのだ」〈|話し手《スピーカー》〉は、きっぱりといった。「ほかに、何が見たい? 例えば、空白の地域もある。たぶんテープがだめになっているだけのことだと思うが、もしかすると、リングワールドにも秘密の地域があって、そこの記録は残してないのかもしれん」 「でもどうせ、そこに何があるか知るためには、自分でいってみなきゃならないわけだろうが」  ふいに〈|話し手《スピーカー》〉が、入口の二重ドアのほうをふり向き、両耳を扇のようにひろげた。そのまま身をしずめて四つ足立ちになると、サッとひと跳び。  ルイスは目をパチクリさせた。いったい何が起こったのだ? だが、そのとき彼の耳にも、音が聞こえてきた……。  時代の古さを考えると、この城の機械装置のたてる音は、おどろくほど静かだった。今、その低いハム音が、二重ドアの外からひびいてくる。 〈|話し手《スピーカー》〉の姿はどこにもみえない。ルイスは携帯レーザーをひっつかむと、用心ぶかくそのあとを追った。  とたんに、階段の降り口のところに立っているクジン人の姿が目にはいった。武器をおろして、ルイスは歩みより、いっしょに階段の下を見おろした。ティーラがあがってくる[#「あがってくる」に傍点]ところだった。 「みんな、昇りばかりなのね。下りはひとつもなし。六階と七階のあいだのは、ぜんぜん動かなかったわ」  ルイスは、わかりきったことを質問した。 「いったいどうやって動かしたんだ?」 「あら、手すりをもって、前へ押せばいいのよ。そのままつかんでいないと停まっちゃう。本当に安全にできてるのね。偶然見つけたんだけど」 「だろうな。ぼくは、けさ、十階ずっと歩いてのぼったんだぜ。きみは、何階まできて、そいつを見つけた?」 「一階も。お食事にあがろうと思って、一段目に足をかけて、手すりにつかまったの」 「なるほど。みごとなもんだ」  ティーラは気をわるくしたようだった。 「だって、あたしのせいじゃないわ。いくらあなたが──」 「いや、すまん。で、朝食はすませた?」 「まだよ。ずうっと、地上で歩きまわってる人たちを見てたの。このお城の下が、広場になってるの、知ってた?」 〈|話し手《スピーカー》〉の耳が大きくひらいた。 「本当か? すると、無人ではないのだな?」 「ええ。その広場へ、朝からずうっと、四方からひっきりなしに人がやってくるの。たぶんもう何百人もあっまってるわ」  彼女は、輝くばかりの笑顔をみせた。 「そして、みんな何か歌ってるのよ」  城の中のどの階段にも、途中に広い踊り場があった。その壁の凹んだ部分には、敷物が敷かれ、椅子とテーブルがおかれている。明らかに、歩きまわる途中で気の向くまま、どこででも食事をとれるようになっているのだ。そのひとつ、城の〈地階〉の近くにある食事コーナーには、なかば壁、なかば床にかかって直角に折れまがった長い窓があった。  十階の階段をくだったルイスは、息をきらせていた。いきついたコーナーに備えてあるテーブルに、彼は目をすいよせられた。その表面に彫刻があるように見えたのだ──だが、よく見るとそれは、スープ、サラダ、バター、肉などをいれる深浅いろいろの皿や、カップ受けのかたちに、凹みがつけられているのだった。その表面の白く硬い材質にも、何十年何百年と使われつづけたためか、黒っぽく腐蝕されたあとが見うけられた。 「お皿不要ってわけか」ルイスはつぶやいた。「食物は、あの凹んだところに盛って、終わったらテーブルごと洗い流せばいいんだ」  いかにも不潔なように思える。だが──。 「彼らが、蠅や蚊や狼をこの世界へ連れてこなかったとすれば、バクテリアだって──?」 「しかし、必要なバクテリアもあるはずだ」彼は自問自答をつづける。「例えば、消化のためのだ。そして、もしそのバクテリアが、突然変異をおこして、毒性をもったら──」  そうなったら、それに対する免疫は、どこにもない。リングワールドの文明が滅亡した原因は、それなのではないか? どんな文明も、存続のための最少個体数というものがあるはずだ。  だが、ティーラも〈|話し手《スピーカー》〉も、彼のつぶやきには何の関心もはらわず、窓べりに膝をついて、夢中で下を見おろしている。  ルイスもその仲間に加わった。 「まだいるわ」と、ティーラ。  なるほど大ぜいあっまっている。千人もの目がこっちを見上げているように、ルイスは感じた。その群集が、今は歌をやめ、静まりかえっている。 「ぼくらがここにいることは、わからないはずだ」と、ルイス。 〈|話し手《スピーカー》〉がいった。 「この城に対して、祈りをささげているのかもしれんぞ」 「そうだとしても、毎日こんなにあつまるとは思えない。この都市の端からは、ずいぶん遠いからね。この近くに住んでたら、畑に出られないだろうし」 「たぶん、特別な日に出あったのだろう。祝祭日のような」  ティーラがいった。 「昨夜何か特別なことがあったのかもしれない。例えば、誰かがあたしたちを見つけたとか。それとも、あれ[#「あれ」に傍点]かしら?」  彼女は指し示した。 「あれは、おれも気にしていた。いつから降っているのだ?」 「あたしが目をさましたときには、もう降ってたわ。雨か、新種の雪みたいに見える。|遮 光 板《シャドウ・スクエア》のあいだをつないでいた糸ね。何マイルも何マイルも。でも、どうして、こんなところへ落ちてきたのかしら?」  ルイスは、|遮 光 板《シャドウ・スクエア》をつなぐ六百万マイルの距離を頭にえがいた……|うそつき《ライヤー》号の衝突でちぎれた六百万マイルの糸……それが、|うそつき《ライヤー》号といっしょに、リングワールドへ向けて墜落したのだから、コースは似たりよったりだろう。その一部がここまでとどいていたとしても、べつにふしぎはない。  いつまでもじっとそれに見いっている気分ではなかった。 「偶然さ」と、彼はつぶやいた。 「とにかくこんなに降ってくるんだし、それもたぶんゆうベから落ちてたんだと思うわ。それにもともと原住民が、この城をおがんでいたかもしれない。浮かんでいるというだけで」 「ひとつ考えがある」クジン人が、ゆっくりした口調でいいだした。「ここでもし、リングワールドの建設者が、この浮かぶ城から地上へ降りたったとしたら、どうだ? それにふさわしい状況ではないか。ルイス、おまえのいった神様のまねごとをはじめてみたらどうだ?」  それに答えるつもりでルイスはふり向き──答えにつまった。まじめな顔をしているのがせいいっぱいだった。なんとかがまんできそうだった。  だが、〈|話し手《スピーカー》〉が、ティーラに説明をはじめたのだ。 「ルイスの提案だが、われわれがリングワールドの建設者のふりをしたら、うまくいくのではないかというのだ。おまえとルイスが侍祭をつとめる。ネサスはとらわれの悪魔の役割だが、あいつがいなくてもやっていけると思う。おれは、建設者ではなく、その軍《いくさ》の神ということで──」  とたんにティーラがけたたましく笑いだし、ルイスも吹きだしてしまった。  八フィートの身長と、肩から腰まで人間とは比較にならない幅をもったクジン人は、毛を焼かれてあかはだか[#「あかはだか」に傍点]の姿でも、巨大さと荒々しさだけで、恐れを感じずにはいられない相手だ。その中でいちばんおそろしさと無縁なのが、鼠のようなしっぽ[#「しっぽ」に傍点]である。  そして今、彼の全身が、それと同じ色になり、うす紫色の血管網が、縦横に走っているのがすけてみえる。頭部を厚く被ってより大きくみせていた毛皮がないと、その両耳も、不恰好なピンク色のパラソルにしかすぎない。オレンジ色の毛皮は、両目にまたがる舞踏会の仮面のようなかたちと、尻のあたりに自前の座蒲団のような恰好に残っているだけだ。  クジン人を笑うという危険さえ、おかしさに輪をかける効果しかなかった。両手で腹をかかえ、からだをふたつ折りにして、ルイスはどうしようもなく、声を殺して笑いつづけ、椅子があったと思われるあたりへ、よろめきながら腰をおろした。  巨大な手がのびてきて、ルイスの肩をとらえ、グイともちあげた。クジン人とまともに顔をつきあわせながら、ルイスはまだ笑いに身をよじっていた。  その耳に、〈|話し手《スピーカー》〉がささやく。 「ルイス、おまえのとった態度の理由を、説明してもらうぞ」  ルイスは必死の努力で答えた。 「い、い、軍《いくさ》の神だって」  それだけいうと、また声が出なくなった。ティーラは、たえいりそうな息づかいで笑いつづけている。  クジン人は、彼を下におろすと、ともかく笑いの発作が退《ひ》くのを待った。 「つまり、あんたは神様らしくみえないってことさ」数分たって、やっとルイスは説明にかかった。「毛が生えそろうまではね」 「しかし、おれが、この手で二、三人ひきさいてやったら、たぶん恐れを抱くだろう」 「ふるえあがってかくれるだけさ。何の役にも立ちゃしない。やっぱり、毛の生えるのを待たなきゃだめだ。そうなっても、やっぱり、ネサスのタスプが要る」 「パペッティア人は、ここにいないぞ」 「しかし──」 「いないというのだ。では、どうやって原住民と接触する?」 「あんたはここに残ってくれ。あの地図の部屋で、わかるかぎりのことを見つけだすんだ。ティーラとぼくは──」  そこまでいって、ルイスは思いだした。 「ティーラ、きみはまだ、地図の部屋を見てなかったっけ」 「どんな部屋?」 「きみも残って、〈|話し手《スピーカー》〉に説明してもらえ。ぼくがひとりで降りる。あんたたちふたりは、通話ディスクでぼくの話をきいて、何かあったら加勢してくれ。〈|話し手《スピーカー》〉、あんたの携帯レーザーを貸せ」  クジン人は、口の中でブツブツとつぶやいたが、それでも携帯レーザーを手渡した。それでも彼には、改良型のスレイヴァー式の分解機があるのだ。  一千フィート上空にあっても、沈黙を守っていた原住民のあいだに驚きのつぶやきがわきおこるのが聞きとれた。城の窓から光る点のようにとびだした彼のサイクルが見えたのだろうと、ルイスは思った。その群集へ向かって、彼は下降していった。  つぶやきはやまないが、グッと押しころしたように低くなった。そのちがいは、彼にもはっきりとわかった。  そして、歌声が起こった。  ティーラのいったところによると、「とても間延びのした歌よ」そして、「調子がそろわないみたい」また、「抑揚もないわ」ということだった。  そのことばで、ルイスはだいたい想像をつけていたのだが、その結果、彼は大きな驚きを味わった。その歌声は、予想していたものよりはるかにすばらしかったのである。  十二音階の歌のように思われた。人間の世界では、ほとんど一オクターヴを十二の音階に分けているが、これとはちがう。ティーラの耳に、抑揚を欠いたように聞こえたとしても、異とするにはあたらない。  たしかに、ゆったりした歌だ。教会音楽のように、ゆっくりと、生まじめで、くりかえしが多く、ハーモニィもないが、いかにも荘厳なしらべである。  広場はおそろしく広いものだった。ここ数週間さびしい思いをしたあとなので、およそ一千人にものぼる群集は、たいへんな人の波にみえたが、この広場自体は、その十倍の人数をも容れられるだろう。拡声器でもあれば、その歌声も拍子がそろったのだろうが、そういうものはないようだった。  ひとりの男が、広場の中央の壇上で、腕をふっている。しかし、それに目を向けているものはない。みな一様に、ルイス・ウーを見上げている。  にもかかわらず、歌声は美しかった。  ティーラには、この美しさがわからないのだ。彼女の知っている音楽は、すべてレコーディングされたものか、三次元テレビで、どっちにしろマイクロフォン・システムを通じたものである。その種の音楽は、いずれも増幅され、修正をうけ、音声をかさねて、余分なところはいっさい取り去られている。ティーラ・ブラウンは、なま[#「なま」に傍点]の音楽というものを聞いたことがないのだった。  ルイス・ウーはそうではない。彼はサイクルの下降速度をゆるめ、からだの神経の末端をその旋律になじませようとした。クラッシュランディング・シティの上にそびえる断崖の上で歌われた大合唱のことを、彼は思いだしていた。人数もこの二倍をこえていたし、そのためと、またルイス自身がその中に身をおいていたせいで、歌の聞こえかたはまったくちがっている。  だが今、眼下の歌声がからだにしみとおってくるにしたがって、いくらか不正確な音程や、声のにじみ、リフレイン、そしてゆったりとした讃美歌詞の威厳に、彼の耳は同調していくのだった。  思わずいっしょに歌いだしそうになって、彼はわれにかえった。これじゃいけないんだ[#「これじゃいけないんだ」に傍点]、と彼は自分にいいきかせながら、サイクルを広場に着陸させた。  広場の中央にある台の上には、かつては立像が建てられていたらしい。そのあととおぼしい、ひとつの長さが四フィートもありそうな、人間そっくりの足形が見えた。今はその台座の上に、三角形をした一種の祭壇が設けられ、それに背を向けて立ったひとりの男が、両腕をふって歌の指揮をとっている。  灰色の上衣《ローブ》の上に、ピンク色のまるいもの……ルイスは、男が、ピンク色の絹か何かの帽子でもかぶっているものと思っていた。  台座の上に直接、彼はサイクルを着陸させた。接地した瞬間、指揮者がクルリとこっちをふりむいた。その顔を見たショックで、ルイスは危うくサイクルをひっくりかえすところだった。  ピンク色の、ツルリとした頭と顔。頭部を蔽うブロンドのあいだから目だけをのぞかせた顔が、黄金の波のように並んでいる中にあって、この人物の顔だけは、ルイスと同じように毛が生えていなかった。  腕をまっすぐのばし、手のひらを下に向ける動作で、男は歌の最後の音をひきだし……数秒かそこらのあいだ……そして、フッツリと声は止んだ。一秒の何分の一かのあいだ、広場の周囲から余韻がひびいてきた。  この──僧侶だろうか? ──は、そのままだまりこんで、ルイス・ウーを見つめた。  ルイスと同じくらいの背たけがあり、原住民の中ではかなり大きいほうだ。その顔も頭も、ウイ・メイド・イット星の白子《アルビノ》に似た、すきとおるような白さだ。どうやら何日も前に、それも、あまり切れのよくないかみそりで毛を剃ったらしく、目のまわりだけをのぞいた顔と頭の全面に、うっすらと灰色のかげをさして、毛がのびはじめていた。  彼は、まるでとがめるような、ないしは、ルイスにそう感じられるような口調で、何かいった。  同時に翻訳ディスクがいった。 「では、ついにもどっておいでになったか」 「待っていたとは知らなかったな」ルイスは正直に答えた。  自分ひとりで神様のまねをやってのける自信はなかった。長い人生の経験から、完全な嘘の体系をつくりあげて押しとおすことがいかにややこしいかを、彼はよく知っていたのである。 「あなたは頭に毛を生やしておられる」僧侶がつづける。「すなわち、あなたは純血でないものとお見うけします。おお建設者よ」  そういうわけか!  建設者の種族は、完全な無毛の人種だったにちがいない。だからこの僧侶は、それに似せるため、やわらかい皮膚に、粗末なかみそりを当てていなければならないのだ。それとも……建設者の一族は、単なるファッションの意味から、脱毛クリームかそういったものを使用していただけなのだろうか?  僧侶の顔は、あの会食ホールにあった針金の彫像とそっくりにみえた。 「純血だろうとどうだろうと、そっちの知ったことではない」  ルイスはその問題を棚上げした。 「われわれは、世界の縁《リム》へ向かうところなのだ。途中の道について、何か知っていることがあるかね?」  僧侶は、はっきりととまどいをみせた。 「あなたが、わたしにものをおたずねになる? 建設者のあなたが?」 「わたしは建設者ではない」ルイスは片手を、音波シールド用のスイッチにかけながら答えた。  だがその答えは、単に僧侶の当惑を深めただけだった。 「では、なぜ、半分毛がないのです? どうして空が飛べるのですか? 天国の秘密を盗まれたか? この地で、何を求めようとなさるのか? あるいは、わが信者を奪いにこられたか?」  この最後の質問が、いちばん重大問題のように思われた。 「われわれは、世界の縁《リム》をめざしている。ただ、ものをききたいと思っただけだよ」 「もとより、その答えは天国にあるはず」 「まじめに答えろ」ルイスは平然とした口調でいう。 「しかしあなたは、天国からこられたではないか! すっかり見ていましたぞ!」 「ああ、あの城のことか! あそこはすっかり見てまわったが、たいしたことはわからなかったよ。例えばだが、建設者というのは、本当に毛がなかったのか?」 「わたしも時おり、建設者もわたし同様、毛を剃っておられるのではないかと疑ったことがある。しかし、あなたの顎は、剃ったのではなく、もともと無毛のようですな」 「脱毛したのさ」  ルイスは、まわりを埋めつくす黄金の花園のような、敬虔な人びとの顔を、グルリと見まわした。 「この連中は、何を信仰しているのだ? おまえのように、わたしの正体を疑う様子はみえないぞ」 「彼らは、わたしとあなたが対等に、建設者のことばで語りあっていると思っています。よろしければ、そのままつづけていただきたい」  早くも僧侶の態度は、敵対者から共謀者のそれへと変っていた。 「それをつづけると、彼らに対しておまえの地位があがるわけか? そうだろうと思った」と、ルイス。  僧侶が本心からおそれているのは、信者の団体を失うことだったのだ──僧侶なら誰でも、もし神が生きかえってとってかわろうとしたら、同じように感じるにちがいない。 「彼らは、このことばを知らないのか?」 「たぶん、十語に一語くらいでしょう」  その点では、翻訳ディスクのすばらしい効率を、ルイスは恨んでいいはずだった。僧侶の話していることばが、ジグナムクリッククリックと同じなのかどうか、彼には知ることができないのである。その差がわかれば、この世界の通信網が崩壊したのち、両者にどれほどのちがいが生じたかがわかり、文明の没落の年代が推定できたかもしれないのだ。 「なんでこの城を天国というんだ?」と、彼はたずねた。「あんたは知ってるのか?」 「ズリラーが、天国のもとにあるこの世界全土を統べたという伝説が残っています」僧侶が答える。「この台座の上には、ズリラーの像が立っていました。それが現寸大であったといわれています。地上からは天国へ、季節ごとの収穫をささげました。おのぞみなら、その品目を、わたしが教えられたままに並べあげてもよろしいが、いまではそれも実らなくなりました。その品々は──」 「いや、結構。そして、どうなった?」  僧侶の語調にはいつのまにか、歌を歌うような感じがしのびこんでいた。彼はその物語を、何度となく聞かされ、そして何度となく語ったのにちがいない……。 「建設者が、この世界とアーチをつくられたとき、天国もつくられました。天国をおさめるかたは、また地上をも、果てから果てまでおさめるのです。このようにズリラーは、幾世代もにわたり世をおさめ、お気に召さぬことがあると、天国から太陽の火を投げおとされるのでした。やがてそのうちズリラーが、太陽の火を投げおとすことも、絶えてない世となりました。  そこで地上の人びとは、天国に背を向け、収穫を貢がぬようになりました。そしてついにはズリラーの像を引き倒したのです。ズリラーの御使いたちが高みから岩を落としたときにさえ、人びとはただ身をよけて、あざけり笑うのみでした。  とうとうある日、人びとは自動階段をつたわって、天国にはいろうとしましたが、ズリラーは階段を切りおとされました。ほどなくズリラーの御使いたちも、飛ぶ車にのって、天国を去っていきました。  このときはじめて、人びとはズリラーの愛を失ったことに気がついたのでした。毎日毎日、空が曇って陽は照らず、穀物も育たぬようになりました。そこでみんなは、ズリラーのお帰りを願って──」 「その話が、どのくらい真実だと、あんたは思ってるのかね?」 「今朝までは、ほとんど本気にしていませんでした。あなたが天国からくだってこられるまでは。わたしはふるえあがりました、おお建設者よ。おそらくズリラーは、本当にもどってこられようとして、まずその先ぶれをつかわし、道を誤った僧侶を一掃しようとされるのでしょうか」 「頭を剃ってくりゃよかったかな。そのほうがお役に立ったかい?」 「いいえ、かまいません。ご質問があれば何なりと」 「リングワールドの文明の没落について、何か知ってるかね?」  僧侶は、いっそう不安げな表情になった。 「文明が、没落するのですと?」  ルイスはためいきをつき──そして、このときはじめて、祭壇のほうに目をやった。  祭壇は、ふたりが立っている台の中央を占めていた。黒っぽい色の木製だ。その四角い平坦な表面には、浮き彫りの地図がきざみこまれている。丘が連なり、川が流れ、湖がひとつ。この地図の両端は、上へ向かってめくれあがっていた。もうひと組の、短いほうの両端をふまえて、抛物線形の金色のアーチが空にかかっていた。  このアーチの金色は、にぶくくすんでいる。だが、その天頂にあたるところから、小さな金色の球が、糸でつるされており、このほうの金色は、鮮やかに磨きあげられていた。 「文明が危険にさらされているのですか? たしかに、いろいろなことが起こりました。太陽弦《サンワイヤ》と、それにあなたのこられたこと──あれは、太陽弦《サンワイヤ》でしょうか? 太陽が、わたしたちの頭上に落ちてくるのですか?」 「そんなことはないはずだよ。あの、朝からずっと落ちている糸のことを、いってるのかね?」 「はい。わたしどもの学んだ教えによると、太陽はアーチからきわめて丈夫な弦《ワイヤ》で吊るされているのです。その弦の強さときたら──」僧侶はつづけた。「さきほどひとりの女が、あれをひろいあげて、もつれをほどこうとしたら、指が落ちてしまいました」  ルイスはうなずいた。 「何も落ちてくることはないよ」  そういいながら、彼は心中ひそかに考えていた。──遮光板の落ちてくる心配もないだろう。たとえ、つないである糸が全部切れたとしても、リングワールドにぶつかってくることはあるまい──。建設者は、その軌道の遠日点を、環《リング》の内側においたはずだ。  あまり期待はかけず、彼はたずねてみた。 「世界の縁《リム》を走っている交通機関について、何か知らないか?」  そうたずねたとたんに、彼は何かまずいことが起こったことを直感した。明らかに、何もかも台なしにしてしまうような何かが生じている。  しかし、何が?  僧侶がいった。 「もう一度おっしゃってくださいませんか?」  ルイスは同じことをくりかえした。  僧侶が答える。 「その、話すもの[#「もの」に傍点]が、急に何かほかのことをいいましたぞ。何か──禁止されているというようなことを」 「馬鹿な」と、ルイス。  だが、つづいて彼も、それ[#「それ」に傍点]を聞いた。翻訳機が、かれのことばだけでなく、何かまったくべつの口調で、かなり長いことばをくりかえしたのである。 「『あなたの周波数は禁止された帯域である。その使用は──』あとはよくおぼえておりません」と、僧侶。「この会見は、最高の結末に終わりそうですな。あなたはどうやら、古代の、邪悪なるものを──」  そこでことばを切ると、また翻訳機が、僧侶のことばでしゃべりだしたのへ耳を傾けた。 「『──使用は、本世界の保守に関する法規第十二条違反である』これは、あなたのお力のことを──」  それにつづく僧侶のことばは、翻訳されなかった。  ルイスの手の中で、ディスクが、とつぜん赤熱の塊りと化したからだ。彼は、とっさにそれを、できるかぎり遠くへ投げ捨てた。地上へ落ちたとき、それはすでに白光を放って輝いていた──だが、どうやら誰も傷つけずにすんだようだ。ついで、火傷の痛みがジインと走り、あふれだす涙で目がかすんだ。  僧侶がひどく形式ばって、うやうやしく、こちらへ頭を下げるのがみえた。  彼は、同じように感情をおしかくした顔で、うなずきかえした。サイクルからおりてはいなかったので、そのまま操縦盤に手をやり、〈天国〉めざして上昇をはじめた。  そして、下から顔のみえない高さにまでのぼったとき、彼は、こらえていた痛みに顔をしかめ、ずっと昔、ヴンダーランドで、千年も古代から伝わった貴重なストイベン・グラスを、落として割った男が口にした、最上級ののろいのことばを、吐きだしたのであった。 [#改ページ]      17 嵐の〈目〉 〈天国〉をあとにした三台のサイクルは、相変わらず左舷へ向けて、この地域一帯を蔽う暗い鋼鉄色の雲のすぐ下を縫うように飛びつづけた。ひまわり[#「ひまわり」に傍点]花の平原では、この雲のおかげで救われたものだ。だが、今それはただ、重苦しさを加えるばかりだった。  ルイスは、操縦盤《ダッシュ》の上の三点に指を走らせて、機を現在の高度に固定した。いちいち目でたしかめながら、注意ぶかく操作しなければならなかった。なにしろ彼の右手は、薬品とスプレイ皮膚で蔽われ、指先は火ぶくれになっているというありさまで、触感はまったくあてにならなかったからだ。それでも、この程度ですんでよかったと思わなければなるまい。ひとつまちがったら、どんなことになっていたか……。 〈|話し手《スピーカー》〉の映像がダッシュボードの上に現われた。 「ルイス。雲の上へ出たら、どうだろうかな?」 「何か見おとすかもしれない。上へ出たら、地上がみえなくなる」 「地図があるぞ」 「そいつに、ひまわり[#「ひまわり」に傍点]花のある場所が出てるかい?」 「なるほど、そのとおりだ」 〈|話し手《スピーカー》〉は、そくざに答えて、通信を切った。 〈|話し手《スピーカー》〉とティーラは、ルイスがはるか地上で毛を剃った僧侶とやりあっているあいだ、〈天国〉の地図部屋で、待ち時間を有効に利用していた。ふたりで、縁《リム》への進路の地形図をうつしとり、また拡大スクリーン上で黄色く光ってみえる都市の位置をも、それに描きこんでいたのである。  ついで何ものかが、翻訳機の使っている周波数に対して文句をつけてきた。その独占権とは、いったい誰が、何のために、どれほど昔から保有していたものなのか? また、いままで何もいってこなかったのはどういうわけだろう?  |うそつき《ライヤー》号を撃ちおとした隕石防衛装置のような、無人のまま作動している機械のようなものを、ルイスは頭にえがいていた。おそらくそれが、ときどき発作的に動きだすのにぶつかったのだろう。 〈|話し手《スピーカー》〉の翻訳ディスクも、同時に灼熱して、このほうは彼の手のひらにくっついてしまった。クジン人の奇蹟的ともいうべき〈軍用〉医療品をもってしても、その手が使えるようになるまでには何日もかかるだろう。なにしろ筋肉そのものから再生してかからなければならないのだ。  地図は、かなり役に立った。文明の復活は、ほとんど大都市の周辺からはじまっている。そういう市街の上を飛ぶと、明かりや、煙のあがるのが見えた。  ネサスからの呼びだしライトが点いている。もう二十時間も前からついていたようだ。  ルイスは、応答のスイッチをいれた。見えたのは、パペッティア人の茶色いモジャモジャのたてがみと、呼吸に合わせて起伏している背中だけだった。瞬間、彼は、パペッティア人がまた硬直性の鬱期にはいってしまったのかと思った。だが、すぐに三角形の頭がのぞき、歌うような声がもどってきた。 「よく答えてくれました、ルイス! 何かありましたか?」 「浮かぶ城を見つけた」と、ルイス。「そこに地図があったんだよ」  その〈天国〉とよばれる城のこと、地図の部屋のこと、スクリーンや、惑星儀とその地図のこと、僧侶との出会い、その話してくれた物語と彼らの宇宙モデルのことなど、彼はあらいざらいパペッティア人に話してやり、また自分で思いついた疑問にもみずから答えを出した。 「おい。ところで、あんたの翻訳ディスクは、まだ無事かい?」 「いいえ、ルイス。ついさきほど、わたしの目の前で、白い光をだして焼けてしまいました。あまりびっくりしたので、もう少しで硬直におちいるところでした。どういうことなのかわけがわかりません」 「いいんだ。ほかのも焼けちまったのさ。ティーラのは、座席のケースをこがして、サイクルに傷あとをのこした。〈|話し手《スピーカー》〉とぼくは、手にやけどしちまった。わかるかい? これからぼくらは、リングワールド人のことばを覚えなきゃならないんだぜ」 「はい、そうですね」 「あの老人が、昔のリングワールド社会の没落について、少しでも知っていてくれたらよかったのに。思いついたこともあるし……」  彼はパペッティア人に、有用なバクテリアの突然変異という理論を話してきかせた。 「ありうることです」と、ネサス。「物質変換技術を失ったが最後、彼らは二度と恢復できないのです」 「え? どういうことなんだい?」 「まわりを見まわしてみなさい。何が見えますか?」  ルイスはグルリと首をめぐらせてみた。前方はるかに、雷雲がふくらみかけている。そのほかに見えるものといえば、いくつもの丘や谷間、遠くに都市がひとつ、半透明の環《リング》の構成物質をあらわにしたふたご[#「ふたご」に傍点]の山の峰など……。 「リングワールドのどこにでも、着陸して掘ったら、何があるでしょうね?」 「土さ」と、ルイス。「それで?」 「その下は?」 「ずっと土だな。それから岩床。ついで環《リング》の床面の物質だ」  ルイスが答えているうちにも、地上の景観は刻々と変わっていた。ひろがってくる雷雲と山の峰、右手に都市、後方にも小さくなっていく都市、はるか無限の地平に光ってみえるのは、海か、それともひまわり[#「ひまわり」に傍点]花に侵された地域だろうか……見ているうちに、そのすべてが、表面だけのものであることがのみこめてきた。  ちゃんとした惑星と、ここ[#「ここ」に傍点]とのちがいは、いわば人間の顔と、からっぽのゴムの仮面とのちがいなのだ。  パペッティア人は話しつづけている。 「どんな惑星でも、掘っていけば、どこかに何か金属の鉱床が見つかります。この世界では、四十フィートも土を掘ると、環《リング》の構成物質にゆきあたります。この物質は、どう使うこともできません。もし穴をあけることができたとしても、そのさきは真空の宇宙です……まったくの骨折り損というわけです。  リングワールドを建設した文明が、安あがりの物質変換技術をもっていたことは、まちがいありません。そこで、その技術が失われたとしたら──どんな失われかたをしたにせよ──あとに何か残るでしょうか? もちろん、原材料物質の備蓄はありません。鉱物もありません。この世界にある金属といえば、機械装置と道具と、そして錆だけです。惑星間航行技術があっても、何の助けにもなりません。この恒星系には、鉱物資源が皆無なのですから。一度崩壊した文明は、それきり二度と立ちなおれなくなるのです」  ゆっくりと、ルイスはたずねた。 「いつ、そのことに気がついた?」 「少し前のことです。しかし、わたしたちが生きて帰るのに、重大な関係があるとは思えません」 「だから話さなかったってわけか。なるほどね」と、ルイス。  この問題で、彼はいったいどれだけ頭を悩ませたことだろうか! しかしその謎は、今やあまりにもあっさりと解けてしまった。知性ある種族の前途に、これはまた何というおそるべき陥穽が、待ちかまえていたことか。  ルイスは行手に目をすえた(ネサスの映像が消えるのにも、ほとんど気がつかなかった)。前方の暴風はグッと近くなり、大きくひろがっている。音波シールドで乗りきれることはたしかだが、しかし……。  上を飛びこえるにこしたことはない。ハンドルを引くと、フライサイクルは、〈天国〉以来ずっと頭上を蔽いつづけている暗い雲の層に向かって上昇をはじめた。  ルイスは、いろいろと想像をめぐらせる……。  新しいことばをおぼえるのは、時間のかかる仕事だろう。それに、あちこちで着陸するたびにことばを習っていくということは、まず不可能である。どうしたらいいのか、これは重大な問題だ。環《リング》の原住民が野蛮化してから、もうどれだけになるのか? 全住民が同じことばを使わなくなってから、どれくらいたったのか? もとの言語から、現在のそれは、どれほどかけはなれてしまっていることだろうか?  視界がぼやけ、全体が灰色にかすんだ。雲の中につっこんだのだ。霧の流れが触手のように、ルイスの音波シールドのまわりで渦巻く。そして突然、サイクルの編隊は、陽光のもとへと躍り出た。  リングワールドのはっきりしない地平の果て、無際限につづく雲海のかなたから、巨大な青い目玉がひとつ、こっちをにらんでいた。  もし、神の頭のサイズが地球の月ほどもあったとしたら、その目は、ちょうどこのくらいの大きさになるだろう。  ルイスがそのかたちをみとめるのに、一瞬かかった。つぎの瞬間、彼の頭はその見たものを拒否しようとした。ついで、周囲のあらゆる光景が、光をあてそこねた立体映像《ホロ》のようにぼやけていくのが感じられた。  ガンガンする耳の中で、誰かの悲鳴がきこえる。  おれは死んだのだろうか[#「おれは死んだのだろうか」に傍点]?  ふと、彼は思った。  悲鳴をあげているのは[#「悲鳴をあげているのは」に傍点]、ネサスだろうか[#「ネサスだろうか」に傍点]?  いや、彼との通話は、さっき切ったはずだ。  声の主は、ティーラだった。これまで何も恐れたことのないティーラなのだ。両手で顔をおおって、巨大な青い目玉の凝視からかくれようとしている。目玉は、まっ正面、まっすぐ左舷の方向に浮かんでいた。一行をそっくり吸いこんでしまいそうな感じだ。  おれは死んだのか[#「おれは死んだのか」に傍点]? 創造主の裁きの庭にひきだされたところなのか? だが、どっち[#「どっち」に傍点]の創造主の?  造物主の存在を信じようとすれば、今こそルイス・ウーは、どっち[#「どっち」に傍点]のほうを信じるかを最終的にきめなければならないようだ。  青と白の目であった。白い眉毛があり、瞳は暗い。白いのは雲で、青いのはその向こうの空だろうか。あたかも全体が、大空の一部のようにみえる。 「ルイス!」  ティーラの悲鳴。 「なんとかして!」  こんなことがありうるものか[#「こんなことがありうるものか」に傍点]、とルイスは必死で自分にいいきかせた。  首すじが、固いつららに変わったみたいだ。頭の中を、同じ考えが、どうどうめぐりしている。  いくら宇宙が広いからといって[#「いくら宇宙が広いからといって」に傍点]、存在しえないものもあるはずだ[#「存在しえないものもあるはずだ」に傍点]。 「ルイス!」  ルイスは、やっと声が出た。 「〈|話し手《スピーカー》〉。おい、〈|話し手《スピーカー》〉何かみえるか?」  ちょっと時間をおいて、クジン人が答えてきた。奇妙に平板な口調だ。 「正面に、大きな人間の目がみえるぞ」 「人間の?」 「そうだ。おまえにもみえるのか?」  事態は、ガラリと一転した。  人間の目[#「人間の目」に傍点]。  ルイスがひとこともいわないのに、クジン人は人間の[#「人間の」に傍点]といったのだ。もしあの目が、超自然的な啓示か何かだったら、クジン人のほうはクジン人の目を見るか、あるいはまったく何も見ていないはずだ。 「じゃ、あれは自然現象だ。そうにちがいない」と、ルイス。  ティーラが救いを求めるように、こっちを見つめた。  だが、どうしてあの目は、一行をここまでひきよせたのだろう? 「ああ、そうか」  ルイス・ウーは、そうつぶやくと、ハンドルをグイと右に切った。サイクルが右へ向きをかえる。 「向きがちがうぞ」そくざに〈|話し手《スピーカー》〉がいった。「ルイス、舵をもどせ。でなければ、おれに操縦をかわれ」 「あいつの中をとおりぬけるつもりじゃないだろうね?」 「迂回するには大きすぎるぞ」 「おい〈|話し手《スピーカー》〉、あいつはプラトー環状山《クレーター》より大きくはないはずだ。一時間もあれば迂回できる。どうしてわざわざ危険をおかそうとするんだ?」 「こわいなら、編隊から離脱しろ、ルイス。目玉をまわって、向こう側で落ち合おう。ティーラ、おまえもそうしていいぞ。おれは、このまま直進する」 「なぜだ?」  ルイスの声は、われながら情けなかった。 「あんたは、あの──偶然できた雲のかたちに立ち向かうことで、自分の男らしさを示そうとでもいうのか?」 「おれの、何だと? ルイス、おれの男性機能をかれこれいっている場合ではないぞ。問題はおれの勇気だ」 「何だって?」  三台のサイクルは、毎時一千二百マイルの巡航速度で、青空を突進している。 「どうして勇気が問題なんだ? 答えてくれなきゃいけないぜ。三人の生命をかけようっていうならな」 「そんなつもりはない。おまえたちは、迂回すればいいのだ」 「そのあと、どうやって落ち合う気だ?」  クジン人は考えこんだ。 「ひとつだけ話してやる。おまえは、異端のクダプト伝導師について、何かきいたことがあるか?」 「いいや」 「対人間第四次休戦後の暗黒時代に、クダプト伝導師と名のる狂人が新しい宗教を起こした。彼はクダプト某という半名前《ハーフ・ネーム》をもつ身分だったので、族長ご自身と一対一の決闘によって処刑された。だが、その狂信は地下に潜んで、いまだにつづいている。クダプト教の説くところによると、造物主たる神は、みずからの姿に似せて人間をつくりたもうたというのだ」 「人間を? しかし──その、クダプト伝導師ってのは、クジン人なんだろう?」 「そうだ。あのとき、人間は、連戦連勝だったな、ルイス。三世紀間に四度の大戦、それを、おまえたちは勝ちぬいて[#「勝ちぬいて」に傍点]いた。クダプト某の弟子どもは、祈りをささげるとき、人間の顔の面をかぶった。何とかして造物主を戸惑わせ、そのあいだに勝利をおさめようと願ったのだ」 「だから、あんたは、あの目が地平線の向こうにみえたとき──」 「そうだ」 「驚きいったな」 「ルイス、これだけはいっておくが、おれの理論のほうが、おまえのよりは、ずっとましだぞ。偶然できた雲のかたちだと! よくもそんなことがいえたものだ!」  ルイスの頭も、ようやくまわりはじめていた。 「よし、〈偶然〉はひっこめよう。おそらく環《リング》の建設者が、自分らの好みか、それとも何かの目じるしに、あんなものをつくったんだよ」 「何の目じるしだ?」 「そこまでわかるもんか。何か、大がかりなものだろうよ。遊園地とか、聖地の教会堂とか。眼科医の組合の本部かもしれない。彼らのもっていた技術と、その広さをもってすれば、何でもできたはずだ!」 「のぞき屋をいれる牢屋のしるしかもね」ふいにティーラが、話の核心に割りこんだ。「私立探偵の大学かもしれない! 大きな三次元テレビのテストパターンかも! 〈|話し手《スピーカー》〉、あたし、あなたと同じくらいこわかった」  ティーラの口調は平常にもどっていた。 「てっきり、あれ──何だと思ったんだか、もうわからない。でも、あたし、あなたの味方よ。いっしょにあの中をつきぬけましょう」 「よろしい、ティーラ」 「もしあれ[#「あれ」に傍点]が目をつぶったら、いっしょに死ぬのよ」 「〈多数はつねに正気〉か」ルイスは引用句をもちだした。「ネサスをよびだそう」 「どうぞご勝手に! どうせもう通りぬけるか、まわるかして、先にいってるわ」  ルイスは、ことさらに高笑いした。彼もすっかりおびえあがっていたのだ。 「ネサスが、ぼくらのあとをつけてきているとは、誰も思いついていないようだな?」 「ハァ?」 「あいつはパペッティア人だ。ぼくらのうしろへ大まわりして、それから、たぶん〈|話し手《スピーカー》〉のサイクルに追従《スレイヴ》してるのさ。そうすれば、〈|話し手《スピーカー》〉につかまる心配もないし、危険があれば、まずわれわれがそれに出くわすというわけだ」 〈|話し手《スピーカー》〉がいった。 「ルイス。おまえの、卑怯者の考えかたに合わせる能力は、驚くべきものだな」 「いいっこなし。みんな異世界にやってきてるんだ。異星人の考えがわかるようでなきゃね」 「よかろう。おまえとやつが、それほど似たような思考をもっているからには、やつをよびだして意見を聞くがいい。おれはあの〈目〉と対面して、そのうしろか、それとも内部に何があるか、見さだめるつもりだ」  ルイスは、ただちにネサスをよびだした。  交信機の映像にうつったパペッティア人は、また背中だけをみせていた。呼吸につれ、たてがみがゆったりと波うっている。 「ネサス」ルイスは声をかけた。  ついで、もっと大きな声で呼びかける。 「ネサス!」  パペッティア人の背中が、ビクンと動いた。頭がひとつ、そうっと相手をうかがうようにもちあがった。 「サイレンでも鳴らさなきゃ出てこないかと思ったぜ」 「緊急の用件なのですか?」  両方の頭が、緊張にふるえながら現われた。  正面の、巨大な青い目を、まともに見かえすことは、ルイスには到底不可能だった。視線をそむけながら、彼はことばをつづけた。 「一種の緊急事態といえる。仲間が、気がくるって、遭難しそうなんだ。このままいかせるわけにはいかない」 「説明してください」 「前方を見てくれ。人間の目のかたちをした雲がみえるかい?」 「見えます」と、パペッティア人。 「あんなもののできる原因を、何も思いつかないか?」 「明らかに、一種の暴風ですね。リングワールドでは、渦巻き台風ができないことは、すでに理解しているでしょう」 「ん?」  ルイスはそんなことを考えてみたこともなかった。 「台風の渦巻きは、緯度に差のあるふたつの気団がもつ速度のちがいのため、コリオリの力によって生じます。惑星は自転する擬似球体です。いまもしふたつの気団が、南と北から、部分的真空を埋めるためにぶつかってくると、もとの速度差が残っているため、たがいにすれちがう方向に向かいます。こうして、空気の渦巻きが生ずるのです」 「台風の原理ならわかってるよ」 「では、リングワールドに舞台を移して考えてごらんなさい。隣りあったどの気団も、実際上、速度は等しいといっていいでしょう。従って、渦巻き効果は生じません」  ルイスは、前方の目のかたちをした嵐のほうを、チラリと見やった。 「しかし、それじゃ、どんな嵐ができる[#「できる」に傍点]というんだ? 何もできないじゃないか。ぜんぜん空気の回転がないんならね」 「ちがいます、ルイス。暖かい空気は上昇し、冷たい空気は下降します。しかしそれだけでは、前方にみえるような嵐は生じません」 「あたりまえだ」 「〈|話し手《スピーカー》〉は、何をするというのです?」 「あのでっかいしろものの中心を通りぬけるっていうのさ。うしろに誠実なティーラを従えてね」  パペッティア人は、まるでルビー・レーザーのように、美しく澄みわたった叫び声をあげた。 「それは危険です。ふつうの嵐なら、音波シールドが防いでくれますが、あれはどうみても、ふつうの嵐ではありません……」 「人工的なものなんじゃないかと思うんだがね」 「はい……リングワールドは、全周に、大気循環システムを備えていたと思われます。しかしその機構も、この世界の動力供給がとだえると同時に、作動しなくなったでしょう。でもその結果は……ああ、ルイス、わかりました」 「何だい?」 「まず、あの嵐の中心の近くに、大気を吸いこむ|空気溜め《エア・シンク》があると考えましょう。それであとはすっかり解釈できます。  考えてみなさい。|空気溜め《エア・シンク》が大気をとりこむと、部分的な真空ができます。すると、回転方向《スピンワード》と反回転方向《アンチスピンワード》から、大気が流れこみます──」 「それに、左舷側と右舷側からもね」 「それは問題になりません」パペッティア人は、はねつけるような語調でいう。「ところで、回転方向《スビンワード》からやってくる空気は、わずかに周囲より軽くなります。それで、上へあがります。反回転方向《アンチスピンワード》からやってくる空気は、わずかに周囲より重く──」  ルイスは、そこでもうついていけなくなってしまった。 「なぜ?」 「反回転方向《アンチスピンワード》からくる場合を考えましょう。その気団の回転速度は、環《リング》そのものよりも、わずかに速くなります。従って、遠心力によって、かすかに下降するのです。  それが、あの目の下まぶたをかたちづくります。回転方向《スピン・ワード》からくる空気は上昇し、上のまぶたになります。当然、渦巻き効果が生じますが、ただし、この場合の回転軸は、ふつうの惑星なら垂直になるところを、水平になるのです」 「だって、そんなわずかな作用で!」 「しかし、ルイス、ほかに同じような作用は何もないのですよ。この動きに干渉するものも、ストップをかける要素もありません。長いあいだには、今みえるようなものができあがるのです」 「だろうな、なるほど」  巨大な目も、これまでほど恐ろしくは感じられなくなったようだ。パペッティア人のいうとおり、あれは嵐の一種なのにちがいない。黒い雲から、上空の陽光に照らされた白い雲の峰、それに〈台風の目〉にあたる虹彩の部分にいたるまで、暴風のあらゆる色合いをそなえている。 「いうまでもなく、ここで問題なのは|空気溜め《エア・シンク》です。なぜ、あの中心の近くで、空気がうすくなるのでしょう?」 「たぶんあそこじゃ、吸いこみポンプがまだ動いてるんだろう」 「そうは思えませんね、ルイス。もしそうだとしたら、この地域での大気の擾乱も、計画にはいっていたことになります」 「何だって?」 「土壌や岩盤まではがれて、環《リング》の構成物質がむきだしになっている場所がありましたね? あのような浸蝕は、明らかに計画外のものです。そして、ここへ近づくにつれて、そういう地域がふえてきているのに、気がつきましたか? 目のかたちをしたあの暴風が、周囲数万マイル、あなたやわたしの惑星表面よりも大きな面積の、予定されていた気象を、すっかり変えてしまったのです」  ルイスは、今度こそ納得して、ヒュウと口笛をならした。 「カホなことになったもんだな! しかし──いや、わかったぞ。あの目の中心には、隕石のつきぬけた孔があるんじゃないかな?」 「はい。ことの重大さがわかりましたね。環《リング》の構成物質さえ貫通したものがあるのです」 「しかし、ぼくらのもってる武器のたぐいじゃない」 「そのとおり。それでも、あそこに孔があることはまちがいありません」  さきほどのルイスの迷信的な恐怖は、すでに一場の悪夢の記憶でしかなかった。パペッティア人の平静な分析ぶりに影響されて、すっかり気がおちついていたのだ。  ルイスはもう何の恐れもなく、まっすぐ前方の目を見つめた。 「あの中へはいってみよう。虹彩の部分なら、通っても危険はないはずだな?」 「はっきりそうはいえません。空気は、いくらかうすくなっているはずです」 「いいとも。みんなにこのことを教えてやろう。こっちの三人いっしょに、あの中を通りぬけることにするよ」  中心の虹彩の部分に近づくにつれて、空は徐々に暗くなってきた。頭上に夜が迫っているのだろうか? それはわからない。いやが上にも厚く重畳してくる黒雲の層だけで、このくらいの暗さになるのは当然だろう。 〈目〉の大きさは、端から端まで少なくとも百マイル、上下も四十マイルをくだらないだろう。周囲の色が、近づくにつれて青味がかってくる。虹彩をとりまく気流の層とその動きが見えはじめた。そして、〈目〉の真の形状が、やがて明らかになった。それは、比較的定常状態で回転しているつむじ[#「つむじ」に傍点]風のトンネルで、その断面のかたちが、人間の目そっくりにみえるのだった。  だが、すでにその虹彩に突入しかけている今も、それはなお、目玉のようにみえる。  まさしく、神の目の中へ落ちこんでいく感じだ。周囲の眺めは、身の毛もよだつようなものだったが、度がすぎて、いっそ漫画的に思われるくらいだ。きっかけひとつで、笑いとばすか、悲鳴をあげるか、どっちへもころびそうだった。あるいは、すぐ引っかえすかだ。  リングワールドの床面に穴があいているかどうか、それをたしかめるには、ひとりいれば充分である。ルイスが今、逃げだしたところで、どうということはない……。  突入した。  稲妻に照らしだされる闇のトンネルを、三台のフライサイクルが進んでいく。上下前後左右、ほとんどたえまなしの稲妻だ。周囲のある範囲だけは、大気は澄みわたっている。その向こう、虹彩を一歩出はずれたところでは、煤のような色の雲が周囲全体にわたって渦をまき、台風をはるかにしのぐ速さで動いている。 「草食いのいったとおりだな」〈|話し手《スピーカー》〉がうなった。「ただの嵐にすぎん」 「おかしな話だな。四人のうちで、あいつだけが、この〈目〉を見ても、あわてなかったぜ。全然、迷信っけがないのかな」ルイス・ウーがどなりかえした。  ティーラが叫んだ。 「前のほうに、何かあるわ!」  トンネルの下面に、じょうご形の凹みができているのだ。ルイスは緊張にくちびるをひきつらせて、両手を操縦盤にかけた。あの凹みの上は、猛烈な下降気流だろう。  だが、この〈目〉に突っこんだときとくらべると、いまの彼は、ずっと気楽になり、緊張を解いていた。パペッティア人すら安全と考えた場所で、何が起こるというのか?  凹みの上に近づくにつれ、雲と稲妻が、こもごも渦巻きながら、押しつつむように迫ってくるのが感じられた。  減速して、凹みの上に停止すると、フライサイクルのモーターが、下降気流と闘っているのがわかった。音波シールドをとおして、暴風のうなりが耳にとどいてくる。  まるでじょうご[#「じょうご」に傍点]を上からのぞきこむような眺めだ。たしかにあの下方では、空気が吸いこまれている。しかしそれは、高速ポンプの働きか、それとも、リングワールドの黒い底をぬけて、宇宙へ放出されているのだろうか? ここからでは、そこまでのことはわからない……。  ティーラのサイクルが下降をはじめていたことを、ルイスは知らなかった。お互いずっと離れていたし、下のほうで異様な光がきらめくのに、気をとられていたのである。何かチラチラしたものが渦巻きの奥へ遠ざかっていくのがみえたが、それが何かということまでは気がつかなかった。  ついで、嵐の音に吹き消されそうなティーラの叫び声がきこえた。  交信機の映像は、はっきりとみえている。彼女は、下方に目を向けて、おびえているようだ。 「どうしたんだ?」ルイスがどなった。  かすかな答えがもどってきた。 「……つかまっちゃった!」  彼は下を見おろした。  渦巻く円錐形をした空洞の内部の空気は、クッキリと澄んでいる。奇妙なことに、そこは明るかった。稲妻そのものの光に照らされてではなく、極度に真空に近い場所における電位差によって生じる、これは陰極線効果なのだ。そのはるか下のほうできらめく一点……何かだ。フライサイクルかもしれない。外字宙へひらいた孔を見たいだけのために、この人渦巻きの中へフライサイクルをのりいれる馬鹿が、いたとしたらだが。  ルイスは、胸がわるくなった。打つ手はない。まったく、どうすることもできないのだ。  彼は必死でその眺めから、目をもぎはなして──ダッシュボードの上に浮かぶティーラの目を見つめた。彼女は、何か下のほうの、おそるべきものを見おろしているらしい──。  彼女の顔からは血の気がひいている。  その恐怖の表情が、みるみるうちに、白い屍体のようなおだやかな顔つきに変わっていく。彼女は失神しかけていた。  酸素欠乏のせいか?  音波シールドは、真空中でも、空気を保持してくれるが、それには、あらかじめそのようにセットしておかなければならないのだ。  なかば失神した彼女が、ルイスを見あげていた。  なんとかしてくれ[#「なんとかしてくれ」に傍点]、という表情。なんとかして[#「なんとかして」に傍点]!  その頭が、ガクリとダッシュボードの上に突っ伏した。  ルイスの歯は、下くちびるにくいこんでいた。血の味がする。ネオンの色を発して輝く雲のじょうご[#「じょうご」に傍点]を見おろすと、それは、バスタブの水を流すときの渦巻きに、無気味なほどよく似ていた。その中に、ティーラのサイクルらしい、小さな一片が、チラリと見え──それが、不意に、まっすぐ、渦巻く雲のじょうご[#「じょうご」に傍点]の壁に向かって突進し、その中に消えた。  そして数秒後、はるか前方の、この縦型台風の目をずっと進んだ先のほうに、白く尾をひく飛行機雲が現われた。先端の鋭くとがった、一条の白線。どういうわけか、それがティーラのサイクルだということを、彼は何の疑念もなく確信していた。 「どうなったのだ?」〈|話し手《スピーカー》〉が声をかけてきた。  ルイスは、はげしく首をふった。答える気にもなれない。全身の力がぬけていた。理性のどこかが短絡《ショート》をおこしたようだ。思考が、同じ道をたどって、どうどうめぐりをつづけている。  交信機のうつしだすティーラの姿は、ガックリと頭をおとして、見えるのはほとんど髪ばかりだ。気を失った彼女をのせて、操縦するものもいないフライサイクルが、音速の二倍以上の速度で突進している。  誰かが、なんとか手をうたなければならない……。 「だが、彼女は死にかけていたのだぞ、ルイス。ネサスが、われわれの知らぬ制御装置を使ったのかな?」 「いや。むしろそう思いたいくらいだ……しかし、ちがう」 「それ以外に、あれは考えようがない」と〈|話し手《スピーカー》〉。 「その目でみたとおりさ! 彼女は失神し、頭を操縦盤にぶつけた。とたんに彼女のサイクルは、地獄も顔負けのいきおいで、渦からとびだしちまったんだ! ひたい[#「ひたい」に傍点]がちょうど、正しいボタンを押したんだよ!」 「馬鹿なことを」 「ああ」  ルイスは、もう考えるのをやめて、眠りこんでしまいたい気分だった……。 「確率ということを考えてみろ、ルイス!」  そういうと同時に、クジン人も気づいたらしく、口をポカンとあけたまま考えこんだ。だが、結局その口から出たのは──。 「いや、ありえないことだ」 「ああ」 「そういう人間が、この探険に加わったはずがない。もし彼女の幸運が、本当に頼りになるものならば、ネサスは彼女を見つけだすことができなかったはずだ。彼女は地球にいたはずなのだ」  稲妻がきらめき、黒雲にとりまかれた長い長いトンネルを、さきのほうまで照らしだした。そのまっ正面に残っている、まっすぐな細い線。ティーラのフライサイクルが残した、水蒸気の凝縮の痕跡だ。しかし、サイクルそのものは、もうどこにもみえなかった。 「ルイス。われわれがリングワールドに墜落することも、ありえなかったはずだぞ!」 「それがどういうわけなのか、いま考えてるところさ」 「彼女を救う方法でも考えたほうがいいようだな」  ルイスはうなずいた。とくにさしせまった気分もなく、彼はネサスへの呼びだしボタンを押した──これは、〈|話し手《スピーカー》〉にやらせるわけにはいかない。  パペッティア人は、まるで合図を待っていたかのように、そくざに答えてきた。〈|話し手《スピーカー》〉が、通話を切らずにいるのが、ルイスには意外だった。いそいで彼は、前後のあらましを説明した。 「ふたりとも、ティーラを見そこなっていたようです」ネサスがいった。 「ああ」 「たしかに彼女のフライサイクルは、緊急パワーで動いたのです。でも、ひたい[#「ひたい」に傍点]でボタンを押すだけでは足りません。その前に、まず、オーバートップ・スロットを操作しなければならないのです。偶然のせいで、それができたと考えるのは、むずかしいようです」 「そのスロットはどこにあるんだ?」パペッティア人にそれを教えてもらうと、ルイスはいった。「彼女は、たぶん面白半分に、それをいじったんだと思うよ」 「ほんとうですか?」 〈|話し手《スピーカー》〉が割りこんだ。 「だが、われわれはどうすればいい?」 「彼女が目をさましたら、わたしのほうへ通話をまわしなさい」ネサスは、ピシリといった。「そうすれば、もとの通常駆動にもどす方法を教え、それから、こちらを見つける方法を教えます」 「それまでは、何もできないのか?」 「そのとおりです。推進装置のユニットが焼け切れるおそれはあります。しかし、フライサイクルが、障害物にぶつかったり、墜落したりすることはないでしょう。彼女はおよそマッハ四で遠ざかっています。いま彼女にいちばん危険なのは、酸素の欠乏で、脳をやられることです。しかし、たぶんその心配もないでしょう」 「なぜだ? 酸素欠乏は危険だぞ」 「そんな危険にあうほど、彼女は不運ではないでしょう」と、ネサスは答えた。 [#改ページ]      18 ティーラ・ブラウンの危機  嵐の目からぬけだしたのは、もう夜だった。星はひとつもみえない。だが、ときたま頭上を蔽う雲がとぎれるたびに、アーチのかすかな色がさしこんでくる。 「おれは考えなおすことにした」〈|話し手《スピーカー》〉がいった。「ネサス、よかったら、隊へもどるがいい」 「そうしましょう」と、パペッティア人が答えた。 「異星人としてのおまえの洞察力が必要なのだ。おまえの知恵は、りっぱなものだった。だが、わが種族に対してなした策略の罪を、おれが忘れていないことは、こころえておくがいい」 「その記憶をどうこうしようとは思いませんよ、〈|話し手《スピーカー》〉」  現実の要請が面子をしりぞけ、異星人への嫌悪に知性が打ち克ったわけだが、ルイス・ウーは、そんなことに気づいてもいなかった。雲の海が無限の地平と出会うあたりに、彼は目をさまよわせ、ティーラの残した航跡をさがしもとめた。だが、すべては完全に消えうせたあとだった。  ティーラはまだ昏睡からさめない。交信機のその映像は、せわしなく身うごきするようにみえ、そのたびにルイスは「ティーラ!」と声をはりあげるのだが、彼女は答えてこようとしない。 「彼女のことは、見こみちがいでした」と、ネサス。「しかし、なぜだかわかりません。あれほどの幸運の持主をのせていながら、なぜわたしたちは墜落したのでしょう?」 「おれがルイスにいっていたことと同じだぞ!」 「しかし」パペッティア人はつづける。「もしその幸運が無力だとしたら、どうして彼女は緊急スラスターを起動できたのでしょう? わたしは、前の設定のほうが正しいと信じます。ティーラ・ブラウンは、幸運という精神能力の持主なのです」 「では、なぜ、すすんで参加してきたのだ? なぜ|うそつき《ライヤー》号は墜落したのだ? 答えてみるがいい!」 「もうやめろよ」ルイスがいった。  だが、ふたりは気にもとめない。ネサスがつづける。 「彼女の幸運は、明らかに、偶発的な性質をもったものなのです」 「もしその幸運に一度でも裏切られたら、彼女は死んでいたはずだぞ」 「もし死んだり、傷を負ったりしていたら、わたしは彼女をえらんでいません。ただ、偶然の一致は認めなければなりません。〈|話し手《スピーカー》〉、確率の法則には、偶然性の要素が含まれているのですよ」 「しかし、魔法は含まれていないぞ。幸運の血統など、あるわけがない」 「それが、あるんだな」と、ルイス。  こんどはふたりともふり向いた。彼は語をついだ。 「もっとずっと前に気づいていてしかるべきだったよ。災難をかわしつづけてきたから必ずしも幸運だとはいえない。それは問題じゃない。彼女の個性の形成に影響しただけのことさ。彼女はとにかく幸運なんだよ、〈|話し手《スピーカー》〉。信じなきゃだめだ」 「ルイス、そういうたわごとが、どうして信じられるのだ?」 「彼女は、いままでに一度も怪我をしたことがないのさ。一度も」 「どうしてわかるのだ?」 「わかるとも。彼女は、楽しいことは何でも知りつくしているが、苦痛についてはまったく無知なんだ。あんたがひまわり[#「ひまわり」に傍点]花に焼かれたときのことをおぼえてるかい? 彼女にどうかときかれて、あんたは『目がつぶれた』と答えた。だのに彼女は、『でも、どうなの』ってききかえした。あんたのいうことの意味が、納得できなかったからだ。  それに、ウン、墜落のすぐあとのことだ。彼女は、やっとかたまったばかりの熔岩の上に、素足でのぼろうとした」 「知性が不充分だっただけだ」 「カホナ! 知性は充分さ。ただ、怪我をしたことがないだけなんだよ! 足の裏が熱くなると、氷より十倍もツルツルしたあの表面へ、まっすぐかけおりた──それなのに、ころびもしなかったんだ!  でも、そんなこまかいことをとりあげる必要もない」ルイスはつづけた。「彼女の歩きかたを見てりゃ、それで充分さ。ちっともスムーズじゃない。しょっちゅうころびそうにしてる。それなのに、けっしてころばない。ひじをどこかにぶつけるようなこともない。ものをこぼしたり、落としたりすることもない。いっさいないんだ。そういうことをしないよう気をつける必要もなかった。わかるかい? だから、優雅じゃないのさ」 「人間以外のものには、わからぬことらしいな」〈|話し手《スピーカー》〉が、疑わしげにいった。「おまえのことばは、一応そのままうけとっておかなければならぬようだ。ルイス、それでも──幸運の能力などということが、どうして信じられるのだ?」 「ぼくは信じる。信じるよりほかはない」 「もしその幸運が、完璧に頼りになるものだったら、彼女はそもそも熔岩の上を歩こうなどと思わなかったことでしょう」と、ネサス。「それでも、ティーラ・ブラウンの幸運は、あるていどわたしたちを守ってくれています。心強いではありませんか。ひまわり[#「ひまわり」に傍点]花の平原を横切ったとき、もし雲がかかっていなかったら、三人とも死んでいたはずです」 「ああ」と、ルイス。  しかし彼は、その雲が、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉の皮膚を焼くていどには切れていたことを、忘れてはいない。〈天国〉の城の階段で、ティーラ・ブラウンは九階ぶんも上へはこんでもらったのに、ルイス・ウーはずっと歩いてのぼったことも、おぼえている。  自分の手の繃帯に気づくと、〈|話し手《スピーカー》〉の手が骨にとどくほどの火傷を負ったのに、ティーラの翻訳機は座席のケースを焼いただけですんだことも、あらためて思いだされた。 「彼女の幸運ってのは、何ていうか、ぼくらを守るよりも、自分のほうを守るようなものらしいな」と、彼はつぶやいた。 「いいではありませんか。でも、あなたは、何か腹を立てているようですね、ルイス」 「そうかもしれない……」  彼女の友だちが、彼女に悩みごとを打ちあけなくなってから、すでに久しい。ティーラには、悩みというものがわからないのだ。ティーラ・ブラウンに苦しみを説明するのは、盲人に色を説明するようなものだろう。  ハートへの鞭の嵐の一件は?  ティーラは、一度も、恋を裏切られたことがなかったのだ。好みの男が彼女のもとへやってきて、彼女が飽きるころまでいて、やがて、進んで身をひいていくのだから。  偶発的にしろそうでないにしろ、ティーラの奇妙な能力は、彼女自身を……そう、たぶん何か、人間とは少々異質なものに変えてしまったようだ。むろんひとりの女性ではあるが、一種独特の強さと、才能と、そして盲点をもった何かに……。  そしてこれが、ルイスの愛した女なのだ。思えば奇妙なことであった。 「彼女も、ぼくを愛した。それも、おかしな話だな」  彼は考えこんだ。 「おかしい。ぼくは、彼女の好みじゃないはずなのに。だが、もし彼女がぼくを愛さなかったら、そうだったら──」 「何ですか? ルイス、わたしに話しているのですか?」 「いや、自分に話しているのさ……」  その愛が、ルイス・ウーとその奇妙な探険隊についてきた、真の理由なのだろうか?  そうなると、謎はますますややこしくなる。ほかならぬ幸運が、彼女を、好みでない男との愛におちいらせ、その結果、彼女は不快かつ不吉なこの探険に加わって、何度か死の瀬戸ぎわに立たされる羽目になったのだ。どうにも理屈が合わない。  交信機の、ティーラの映像が、顔をあげた。うつろな目と無表情な顔……混乱している……そして、突然、恐怖がよみがえった。大きく白眼をむいて、下を見おろす。きれいな卵形の顔が、狂気にみにくくゆがんでいる。  ルイスが声をかけた。 「落ちついて。気を楽にもって。リラックスするんだ。もう、大丈夫なんだよ」 「でも──」  すっかりうわずっているが、たしかにティーラの声だ。 「もうぬけだしたんだ。嵐はずっとうしろのほうだよ。ふりかえってごらん。カホなやつだな。ふりかえってみろというのに!」  彼女はふりかえった。ずいぶん長いあいだ、映像には、やわらかい黒髪だけがうつっていた。やっと向きなおったとき、彼女は前よりずっと平静になっていた。 「ネサス、話してやってくれ」と、ルイス。  パペッティア人がしゃべりだした。 「あなたは、マッハ四で、もう三十分以上も飛んでいます。そのフライサイクルを正常な速度にもどすには、人さし指を、緑のふちのついたスロットにいれて──」  まだおびえていたが、ティーラはその指示に従うよゆうをとりもどしていた。 「それでは、もどってくる番です。わたしのところの探知機によると、あなたのコースは、一定の曲線をえがいています。位置は、ここから左舷回転方向《ボート・アンド・スピンワード》よりです。あなたには探知機がないので、わたしのいうとおりに操縦しなさい。まずはじめに、まっすぐ反回転方向《アンチスピンワード》へ向きをかえるのです」 「それ、どっちのほうなの?」 「左へ舵をとって、アーチの根もとが正面にみえるようにするのです」 「アーチが見えないのよ。雲の上に出ないとだめだわ」  彼女は、もうほとんどいつもの自分にもどったようだった。  だが、まったくカホなおびえようだった! あれほどおびえた人間を、ルイスは見たおぼえがない。当然、あんなにおびえたティーラを見るのははじめてだった。いや、そもそもティーラがおびえるのを見たことが、これまであっただろうか?  ルイスは、肩ごしにふりかえった。雲の下で、大地は暗い。しかし、目のかたちをした嵐だけは、はるかな後方にありながら、アーチからの光に青く光っていた。それは、完璧な凝視でこっちを見送っており、その凝視に、残り惜しげな色はまったくなかった。  深くもの思いに沈んでいるルイスの名を、誰かがよんだ。 「ああ」と、彼は答えた。 「ぜんぜん怒ってないの?」 「怒ってないって?」  彼は首をかしげた。ざっと思いかえしてみたが、あんなふうに渦の中へ降下していくという、通常の基準からすればおよそ信じられないほど馬鹿げたことを、彼女はしでかしたのである。たしかに腹を立ててしかるべきだろう。彼は、古い虫歯の穴をつつくように、そうっと自分の心の中をさぐってみた。だが、何も見あたらない。  通常の基準は、ティーラ・ブラウンには、あてはまらないのだ。  この虫歯の穴には、神経がなかった。 「怒ってないらしいね。それにしても、あの下のほうで、何がみえた?」 「あたしは死ぬとこだったのよ」  ティーラは、いきり立ちはじめた。 「そんなふうにこっちを見つめて首をふるのはよして、ルイス! あたし、死ぬ[#「死ぬ」に傍点]とこだったのよ。何とも思わないの?」 「何が?」  彼女は、まるで平手打ちでもくらったみたいにとびあがった。そして──彼女の手が動くのがみえ、映像が消えた。  すぐにまた、彼女はもどってきた。 「大きな穴があったわ」  彼女はいきり立っている。 「その奥に白い霧がかかってた。どう?」 「大きさはどのくらい?」 「知るわけないわ!」  そしてまた、消えてしまった。  それはそうだ。あの、チカチカするネオンのような光で、どうして大きさを見さだめることができよう?  ルイスは考える──彼女は、みずから命を危険にさらし、それに対して腹を立てていないといって、相手を責めている。ひとを警報機あつかいにしてる。いつから、あんなふうだったんだろう?  ああいう調子で、長生きできるものなど、いるわけがない──。 「しかし、彼女は例外なんだ」ルイス・ウーはつぶやく。「それとも……」  おれは[#「おれは」に傍点]、ティーラ・ブラウンをおそれているのだろうか[#「ティーラ・ブラウンをおそれているのだろうか」に傍点]? 「あるいは、とうとうおれも、ぼけ[#「ぼけ」に傍点]はじめたかな?」  彼と同年輩のものには往々みられることだ。ルイス・ウーほどの年齢になるまでには、人は幾度となく信じられないようなことが起こるのを見せつけられる。その結果として、架空と現実の境界があいまいになってくることがある。そうなった人間は、コチコチの保守派になって、ありえそうにないことは、それが事実とわかったあとでも信じようとしない……運動の第二法則に抵触するという理由でスラスター駆動をうけいれようとしなかったクラーゲン・ペレルのように。  またあるいは、何でも信じるようになってしまう……スレイヴァーの遣物と称するいかさまをやたらに買いこんでいるゼロ・へイルのように。  どっちにしても、いきつくさきは、破滅と狂気である。 「そんなはずはない!」  当然死ぬはずだったティーラ・ブラウンが、フライサイクルのダッシュボードに頭をぶつけることによって助かったなどというのは、どうみても偶然の域をこえたできごととしか思えない!  だが、それならなぜ、|うそつき《ライヤー》号は墜落したのか?  ルイスと、回転方向《スピンワード》はるかに浮かぶ銀色の点のあいだにもうひとつ、銀色の点がわりこんできた。 「やあ、久しぶりだな」ルイスがいった。 「どうも」と、ネサス。  こんなに早く追いついてきたのは、緊急駆動を使ったのにちがいない。〈|話し手《スピーカー》〉が合流を許したのは、わずか十分ほど前のことである。  小さい透明な三角形の頭がふたつ、ダッシュボードの上に浮かんで、ルイスを見つめた。 「これでひと安心です。三十分くらいのうちに、ティーラがもどってくれば、もっと安心なのですが」 「なぜ?」 「ティーラ・ブラウンの幸運が、わたしたちを守ってくれるからですよ、ルイス」 「そうは思えないね」と、ルイス・ウー。 〈|話し手《スピーカー》〉の映像は、だまったままこっちを見つめている。通話にはいっていないのは、ティーラだけだ。 「あんたの傲慢さには辟易してる」ルイスはつづけた。「幸運な人間の品種を育てるなんて、悪魔も顔負けさ。悪魔のことは、知ってるのか?」 「いろいろな本で読みましたよ」 「気取り屋め。でも、傲慢さより悪いのは、あんたの間抜けさかげんだ。ティーラ・ブラウンにとっていいことは、われわれにもいいことだと、のんきにきめこんでいる。どうしてそんなことがいえるんだ?」  ネサスは奇妙なつぶやきをもらした。それから、彼はいった。 「当然のことです。同じ宇宙船の中にとじこめられていれば、その難破は、みんなにとって不運ですから」 「たしかにな。だがもし、あんたが、ティーラのいきたいところを通りすぎながら、着陸を拒否したと考えてみろよ。機関の故障は、ティーラにとって幸運だが、あんたにはそうじゃないってことになる」 「馬鹿なことを、ルイス! どうしてティーラ・ブラウンが、リングワールドに来たがっていたなどといえるのです? わたしが話してやるまで、彼女は、その存在も知らなかったのですよ!」 「でも、彼女は幸運なんだ。たとえ何も知らなくても、ここへ来たほうがよければ、とにかく来たことだろう。そうすると、彼女の幸運には、偶発的な要素など、まったくないことになる。どうだい、ネサス? その幸運は、ずっと作用しつづけていたんだ。あんたが彼女を見つけたのも、ほかに有資格者が見つからなかったのも、ぜんぶ彼女の幸運で説明ができるのさ。映話がどうしても通じないっていってたっけ。おぼえてるかい?」 「しかし──」 「墜落したのも、彼女の幸運のせいだった。あんたと〈|話し手《スピーカー》〉が、どっちが探険の指揮をとるかでもめたのを、おぼえてるかい? さあもうあんたにもわかったろう」 「しかし、なぜ彼女がここへ?」 「それは、ぼくもわからない」  ルイスは、イライラして、指の爪で頭をかきむしった。弁髪の部分をべつにすると、黒い直毛が、|兵隊刈り《クルー・カット》ぐらいの長さに生えそろっている。 「その疑問で悩んでいるのですか? わたしも同じです。いったい、リングワールドのどこが、ティーラ・ブラウンをひきつけるのですか? この世界は、危険です。奇妙な暴風や、プログラムの狂った機械や、ひまわり[#「ひまわり」に傍点]花の大平原や、何をするかわからない原住民など、生命をおびやかすものばかりです」 「そいつだ!」ルイスは思わず叫んだ。「それだ。たしかにそいつが、解答の少なくとも一部になる。ティーラ・ブラウンに、危険は存在しないんだってことが、わからないのか? そのことを考えにいれずに、リングワールドを評価するわけにはいかないんだ」  パペッティア人は、つづけざまに両方の口を、パクパクと動かした。 「ややこしいことになったな、え?」  ルイスは哄笑した。ルイス・ウーにとって、問題を解くことは、それ自体がひとつの喜びであった。 「しかしそれは、解答の半分にすぎない。さて、もしあんたが今──」  パペッティア人が悲鳴をあげた。  ルイスには、ショックだった。パペッティア人が、ことをそれほど深刻にうけとめるとは、思ってもいなかったからだ。  ふたつの音程で、遠吠えのような声をあげたパペッティア人は、ついで、いやにのろのろしたしぐさで、二本の頸をからだの下にたくしこんでしまった。交信機の映像にうつるのは、いまや彼の頭蓋を蔽うモジャモジャのたてがみ[#「たてがみ」に傍点]ばかりだった。  ティーラが話しかけてきた。 「あたしのことをしゃべってたのね」  もう、怒りの気配もない口調だ。 (恨みを抱くということが、彼女にはないのだ。と、ルイスはさとった。とすると、恨みをもつ能力も、生存競争に勝ち残る要素のひとつなのだろうか?) 「話についていこうと思ったんだけど、無理だったみたい。ネサスは、いったいどうしちゃったの?」 「おどかしすぎてね。すっかりおびえさせちまった。さて、どうやって、きみをさがしあてようかね?」 「あたしのいる場所がわからないの?」 「探知機をもってるのはネサスだけだ。たぶん、ぼくらに緊急駆動の操作を教えてくれなかったのと、同じ理由からだろう」 「そんなことじゃないかと思った」と、ティーラ。 「彼にとっては、クジン人が怒ったときにそこから逃げだせることが、何より大事だったのさ。気にすることはない。で、話はどのくらいわかった?」 「あんまりわかんない。おたがいに、あたしがなぜここへ来たがったのかって、いいあってたわね。ルイス、あたし、ここへくるつもりなんかなかったのよ。あなたについてきただけ。愛してるから」  ルイスはうなずいた。  たしかに、ティーラがリングワールドへやってくるには、ルイス・ウーと行をともにするという動機づけが、必要だったわけだ。さしてうぬぼれるにはあたらない。  彼女は、その幸運ゆえに彼を愛した。かつて彼は、それを彼自身ゆえのものと思っていた。それだけのことだ。 「都市の上だわ」ティーラが唐突にいった。「明かりがいくつもみえる。たくさんじゃないけど。大きくって保《も》ちのいい動力源があったのね。〈|話し手《スピーカー》〉なら、たぶん地図でみつけられるんじゃないかしら」 「そいつが頼りになるかな?」 「明かりがみえるっていったでしょ。きっと──」  そこで、フッツリと声はとだえた。スイッチの音も、何の前ぶれもなしに、消えてしまったのだ。空白になったダッシュボードの上の空間を、ルイスはまじまじと見つめ、それから、呼びかけた。 「ネサス」  返事はない。  ルイスは、サイレンを鳴らした。  まるで、動物園が火事になったときの蛇の夫妻といった感じで、ネサスが現れた。これがべつのときだったら、まことにこっけいな図だったろう。二本の頸が、くるったようにのたくり、二個の疑問符のようなかたちで、ダッシュボードの上に静止したのだ。  ネサスの声がいった。 「ルイス! 何ごとです?」 〈|話し手《スピーカー》〉もただちに応じてきた。緊張した様子で、情報と指示を待ちうけている。 「ティーラに何か起こったんだ」 「そうですか」  ネサスはそう答え、ふたつの頭がひっこんだ。  にがい思いで、ルイスは一度サイレンを切り、数秒後にもう一度スイッチをいれた。ネサスの反応は、前と同じだった。こんどは、ルイスのほうが先に口をひらいた。 「ティーラがどうなったのかわからなかったら、きさまを殺す」 「わたしにはタスプがあります」と、ネサス。「クジン人にも人間にも、同じように効く設計です。〈|話し手《スピーカー》〉への効果は、みたはずです」 「それで、防げると思ってるのか?」 「はい。そのとおりです」 「一丁、賭けてみるかい?」ルイスは、気をおちつけながらたずねた。  パペッティア人は考えこんだ。 「その賭けよりは、ティーラを救うほうが、ずっと安全でしょう。彼女があなたの配偶者であることを忘れていました」  彼は下へ視線を向けた。 「彼女の位置が、探知機に出ていません。これでは、どこにいるかわかりませんよ」 「とすると、彼女のサイクルがこわれたということか?」 「はい。それも、大破でしょう。発信機は、彼女のフライサイクルの場合、スラスター駆動ユニヅトの近くについていました。おそらく彼女は、あの通話ディスクを焼いたのと同じような、べつの機械装置に出会ったのでしょう」 「フム。しかし、彼女の声がとぎれた位置は、わかるはずだ」 「左舷《ボート》から回転方向《スピンワード》へ十度です。とぎれた瞬間のことはわかりませんが、彼女のフライサイクルの最高スピードから推測できます」 〈|話し手《スピーカー》〉の手書きの地図上で、その方向にひいた斜めの線にそって、一行は飛びつづけた。二時間のあいだは、明かりらしいものもみえず、ルイスは、もしや道を誤ったのではないかと気にしはじめた。 〈目〉のかたちをした嵐から、三千五百マイルのところで、〈|話し手《スピーカー》〉の地図上の線は、海岸都市に達していた。それからさきは、大西洋ほどもある湾だ。ティーラが、その向こうまでいったとは思えない。この港湾都市が、彼女を見つける唯一のチャンスである。  とつぜん、ちょっと目にはわからないほどゆるやかな斜面になった丘の稜線のかなたに、点々と光が現われた。 「停まれ」ルイスは小声で、叩きつけるようにいった。  声をひそめても意味のないことはわかっている。だが、〈|話し手《スピーカー》〉はすでに、三台のサイクルをピタリと宙に停めていた。  そうして浮かんだまま、明かりと、地上のもようを見つめた。  都市であった。眼のとどくかぎりが都市なのだ。眼下にも、アーチの青い光の中で、まるい窓のついた家屋が、街路とよぶにはあまりにも狭く曲がりくねった路地に区切られ、蜂の巣のように蝟集しているのが、ようやく見てとれた。  前方も、だいたい同じようだ。だが、さきへいくにつれて建物の高さは増し、ついには摩天楼と浮かぶ城とで埋めつくされた区域へとつながっている。 「建てかたがちがうな」ルイスがささやいた。「建築様式が──ジグナムクリッククリックみたいじゃないんだ。全然、かたちがちがう……」 「高層建築とはな」と、〈|話し手《スピーカー》〉。「リングワールドには土地がいくらでもあるのに、なぜあのように高くしたのだろう?」 「建築の腕を見せびらかすためさ。いや、この考えは馬鹿げてるな」と、ルイス。「何の意味もない。なにしろ、このリングワールドをつくったほどの連中なんだから」 「おそらく、高層建築は、もっと後期の、文明が下り坂になった時期のものだろう」  おびただしい明かりだった。光り輝く何段もの窓の列。そそり立ついくつかの塔は、上から下まで光につつまれている。それらが一団にかたまっており、また、六つある浮き城がぜんぶそこにあっまっているところから、ルイスはすでに、そこがこの都市の中心部だろうと見当をつけていた。  そしてもう一ヵ所、その中心部から回転方向《スピンワード》よりの郊外部に、淡く白っぽいオレンジ色に輝いている地域があった。  蜂の巣のような家の一軒の二階で、三人は〈|話し手《スピーカー》〉の地図をかこんで、腰をおろしていた。〈|話し手《スピーカー》〉は、一同がフライサイクルを屋内へもちこむことを主張した。「油断は禁物だ」というのだった。 〈|話し手《スピーカー》〉のサイクルのヘッドライトが、曲面をもった壁に反射して、あたりをやわらかく照明している。奇妙な皿や盆のかたちに上面をくぼませたテーブルがひとつあったが、ルイスが埃をはらったとたんに、くずれおちてこなごなになってしまった。床には一インチも埃がたまっている。曲がった壁の塗料もボロボロに剥げおち、裾板にそって空色の挨の山脈のようにつもっていた。  この埃からだけでも、都市の古さは、はっきりと感じられた。 「地図部屋の記録がつくられたとき、ここは、リングワールド最大の都市だった」と、〈話し手《スビーカー》〉。  彼の三日月形の鉤爪が、地図の上へのびる。 「もともとは、海に面して半円形をなすよう計画された都市だ。〈天国〉という名の城は、もっとずっとあとになって、この都市が海岸ぞいに大きく両翼を張りだしたころにできたものだ」 「その地図を写してこなかったのは、残念だな」と、ルイス。  なにしろ〈|話し手《スビーカー》〉の地図では、この都市は黒い半円形として示されているだけだった。 〈|話し手《スピーカー》〉が、地図をつまみあげ、畳みながらいう。 「このような巨大な廃墟には、多くの秘密が残されているにちがいない。こういう場所では、細心の注意をはらって行動しなければならんぞ。もしそもそも文明と名のつくものが、この土地──ここの構築物の上──で成長しているとしたら、失われた技術への鍵はそこに求められるはずだ」 「金属のないことをどうします?」ネサスが反対した。「リングワールドでは、いちど崩壊した文明は、再建不能なのです。金属鉱物も、化石燃料もないのですから。道具をつくるにも、木と骨しかないのです」 「明かりがついているではないか」 「秩序だった点《つ》きかたではありません──多くの、自家用の動力源が、つぎつぎにこわれていった、その名残りですよ。しかし、あなたのいうとおりかもしれません」ネサスはつづける。「もし、この地で、大きな工作所が復活していたら、機械製作者に連絡をつけることもできます。われわれの条件をのませるとしてのことですが」 「交信機の放射で、すでにわれわれのほうが探知されているかもしれんぞ」 「いいえ、〈|話し手《スビーカー》〉。交信機のビームは閉鎖回路になっています」  そのやりとりに、半分耳をかたむけながら、ルイスは考えていた。──彼女は傷ついているかもしれない。どこかで、倒れたまま動くこともできず、待っているかもしれない──。  だが、その考えが、まったく実感をともなってこないのも事実だった。  おそらくティーラは、何かリングワールドの古い機械装置にゆきあったのだろう。そういうものがあったとしてだが、たとえば、臨機応変に作動する自動兵器のたぐいだ。そいつが彼女のサイクルの交信機と探知用の発信装置だけ[#「だけ」に傍点]を破壊し、動力系統には手をふれなかったとも考えられる。しかし、これは到底ありえそうにもない想像だ。  ではなぜ、一刻を争う気分になれないのだろうか?  今、ルイス・ウーは、自分の女が未知の危難に遭っているというのに、コンピューターのような冷静さをたもっている。  自分の女……そうだ。しかし、彼女はそれ以上のものだし、そういいきるにはためらいを感じる。  ネサスのおろかな誤算は、幸運の血統をもった改良人種が、自分の扱いなれたふつうの人間と同様なものの考えかたをすると思いこんでいたところにある! 幸運なパペッティア人は、果たして、そう、あのキロンのような正気のパペッティア人と同じようなものの考えかたをするだろうか?  パペッティア人の場合、恐怖の概念は、その遺伝子にくみこまれている。しかし、人間にとってそれは、後天的に学ばなければならないものなのだ。  ネサスがいっている。 「ティーラの偶発的な幸運が、一時消えたと仮定してみましょうか。しかし、この場合も、彼女が傷ついて救いを待っているということは、ありえないのです」 「何だって?」  ルイスは動揺した。どうやらパペッティア人も、ルイスと似たような思考過程を追っていたらしい。 「フライサイクルが破壊されたら、彼女はその場で死ぬでしょう。もし、即死しなかったら、彼女は、幸運の能力がもどりしだい、救助されるはずです」 「その理屈はおかしいぜ。精神能力が、そんな〈法則〉に従うと思ったら大まちがいだ」 「論理は誤りをおかしません、ルイス。わたしがいいたいのは、ティーラが緊急の助けを必要としていないということです。生きているなら時間はあるのです。朝まで待ってから、様子を見に出ましょう」 「そしてどうする? どうやって彼女を見つけるつもりだ?」 「幸運がつづいていれば、彼女は何か安全な保護のもとにあるでしょう。そういう保護の手となりうるものをさがすのです。そういうものがあるかどうかは、明日になればわかるでしょうし、あるいは、彼女のほうからの信号を待ってもいいでしょう。合図する方法は、いくらもあるはずですから」 〈|話し手《スピーカー》〉が割りこんだ。 「しかし、ここのやつらは、みんな光を使っているな」 「だからどうだというのです?」 「そうなのだ。そこから思いついたのだが、彼女のサイクルのヘッドライトは、まだ使えるかもしれん。もしそうだったら、彼女はそれを、ともしつづけておくだろう。ルイス、おまえは、彼女に知性があるといったな」 「あるとも」 「そして、警戒心のほうは、まったくない。われわれに発見されることだけを考えて、ほかの何ものか[#「何ものか」に傍点]に見とがめられることなど気にしていないのだ。もしヘッドライトがつかなければ、携帯レーザーで、動くものを見つけしだい合図するだろう──あるいは、火を焚くかもしれん」 「ということは、つまり、昼間になったら見つからないってことだ。たしかにそのとおりだ」  ルイスはうなずいた。ネサスがいう。 「昼間、市街を調査するほうがさきです。住民がみつかれば、万事それでよし。見つからなかったら、つぎの夜にティーラをさがすこともできます」 「三十時間も、ほったらかしておこうってのかい? この冷血漢の──。カホナ、さっき見た光は、彼女の信号だったかもしれないぞ。街路の光じゃなく、ビル全体が、もえるように光ってたやつのほうだ!」 〈|話し手《スピーカー》〉が立ちあがった。 「そうだな。われわれは捜索に出なければならぬ」 「わたしはこの探険隊の指揮官です。ティーラには、夜間この異星の都市の上を飛ぶ危険をおかすほどの価値はありません」  だが、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉は、すでに自分のフライサイクルにまたがっていた。 「われわれは今、敵地にいる。だから、おれが指揮をとる。われわれは、隊員のひとり、ティーラ・ブラウンを捜索に出るのだ」  クジン人は、フライサイクルをフワリと浮きあがらせると、大きな卵形の窓をくぐりぬけた。その外には、ポーチの残骸があり、名も知れぬ都市の郊外がそのさきにひろがっている。  あとのフライサイクルは、一階においてあった。ルイスは、吹きぬけになった階段を、足をふみはずさないよう気をつけながら、かけおりた。階段の一部はこわれていたし、エスカレーター装置は、錆びついてから久しいようだった。  吹きぬけの上から、ネサスが見おろした。 「わたしはここに残ります。でも、ルイス、これは反乱罪です」  ルイスは返事もしなかった。彼のフライサイクルは浮上し、やはり卵形をした入口をとおりぬけ、夜空へ向かって上昇した。  夜の空気はつめたかった。アーチからの反射光が、市街を青一色に染めている。ルイスは〈|話し手《スピーカー》〉のサイクルのきらめきを見つけ、そのあとについて、まぶしく光り輝いている都市中心部からずっと回転方向《スピンワード》よりにある、郊外地区の光っている区域に向かっていった。  見わたすかぎり市街地だ。数百平方マイルもありそうな都市だ。公園のようなものすら見あたらない。これほどの広さをもったリングワールドで、なぜこんなに密集しなければならなかったのだろう? 地球でさえ、人間はいくらかでも、ゆとりを尊ぶのに。  もっとも、地球には転移ボックスがあった。  それなのだ。  リングワールドでは、生活のゆとりよりも、往き来の時間のほうが貴重だったのだろう。 「低空を飛ぶのだ」交信機で、〈|話し手《スピーカー》〉がいった。「もしあの郊外の光が、ただの街灯のあつまりだったら、一度ネサスのところへもどる。ティーラが撃ちおとされたのと同じ危険をおかすわけにはいかん」 「わかった」と、ルイス。  答えながら、彼はふと思った。まったくの仮定にすぎない敵を前にして、これほどの用心ぶかさを示すとは。正真正銘、無鉄砲のかたまりであるはずのクジン人が、ティーラ・ブラウンよりはむしろパペッティア人のほうに近いような警戒ぶりである。  彼女はどこにいるのだろう? いや、負傷しているのか、それとも死んでしまったのか?  |うそつき《ライヤー》号が墜落するよりも前から、彼らはずっと、文明を保持したリングワールド人をさがし求めてきた。とうとう、それに出あったのだろうか?  その可能性があればこそ、ネサスは、ティーラを完全に見かぎるわけにはいかなかった。ルイスの脅迫など、じつは意味もなかったのだ。ネサスにとっては、自明のことだったろう。  だが、もしその文明をもったリングワールド人が敵対的だったら? そう、けっしてありえないこととはいえない……。  サイクルが、左のほうへ流されている。彼は進路を修正した。 「ルイス」 〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉の、何かと必死に闘っているような口調。 「妨害があるようだ──」そして突然、決然たる命令口調で、彼はいった。「ルイス、引っ返せ。すぐにだ」  その命令は、ルイスの運動中枢に、直接働きかけたように感じられた。ルイスはただちに向きをかえようとした。  だが、彼のサイクルは、まっすぐにとびつづける。ルイスは、渾身の力を、操縦桿にかけた。しかし、だめだ。サイクルは一直線に、都市中心部の光のあるほうへ向かっていく。 「何かにつかまった!」  ルイスは叫び、その声とともに、恐怖が襲ってきた。まるであやつり[#「あやつり」に傍点]人形だ! 巨大な、正体不明の知性をもった人形師が、彼の手足をとらえて、目にみえない筋書きのとおりに動かしている。  その人形師の名を、ルイス・ウーは知っていた。 「ティーラ・ブラウンの幸運」である。 [#改ページ]      19 罠 の 中 〈|話し手《スピーカー》〉は、もっと実際的だった。緊急サイレンのスイッチをいれたのである。  いくつもの振動数をかさねた絶叫が、えんえんと鳴りつづける。パペッティア人は応じてこないのだろうかとルイスは思った。『狼がきた』の少年……?  しかし、やっとネサスの声が答えた。 「はい? 何ですか?」  ひどく高いヴォリュームだ。いうまでもなく、彼はまず階段をおりてこなければならなかったわけである。 「襲われた」と、〈|話し手《スピーカー》〉。「何ものかが、われわれのフライサイクルを、リモートコントロールしている。何か方法はないか?」  ネサスの胸中を知ることは不可能だった。指の役目を果たすために枝分かれした、ふたつの口のくちびるが、やたらに動いているが、そこからは何も読みとれない。  この危急を救う方策があるのか? それとも、彼もまた、恐慌におちいってしまったのか? 「交信機をまわして、下の様子を見せなさい。誰か、怪我をしてはいませんか?」 「いや。しかし、ここから動けない」と、ルイス。「とびおりるわけにもいかない。高すぎるし、速すぎるんだ。まっすぐ都市の中央へ向かってる」 「何に向かって?」 「ああ、光ったビルの集団さ。おぼえてるだろう?」 「はい」  パペッティア人は、何か考えこんでいるようだった。 「どこからか、無法なシグナルが、サイクルの装置をのっとって動かしているのです。〈|話し手《スピーカー》〉、ダッシュボードのメーターの読みを知らせなさい」 〈|話し手《スピーカー》〉が読んでいる間にも、彼とルイスは、ますます都市中心部の灯に近づいていく。途中でルイスがさえぎった。 「街灯のついた住宅地がみえるぞ」 「ほんとうに街灯ですか?」 「どっちともいえる。家々の卵形のドアが、みんなオレンジ色に光ってるんだ。奇妙だ。たしかに街路用の照明だと思うが、そんな動力は、もうとっくに失われているはずなのに」 「そのとおりだ」と、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉。「うるさくわめきたくはないが、もう終点が間近だ。中央の大きなビルに向かってるらしい」 「見えます。円錐をふたつ重ねたようなかたちで、上のほうだけに灯がともっている建物ですね」 「そいつだ」 「ルイス、なんとかして、不法な干渉を排除しなければなりません。あなたのサイクルを、わたしのに追従《スレイヴ》させなさい」  ルイスは、|追 従 回 路《スレイヴ・サーキット》を作動させた。  とたんに、巨大な足で蹴上げられたように、彼の尻の下で、サイクルが猛烈に跳ねあがった。つぎの瞬間、あらゆる動力が一度に切れた。  緩衝バルーンが、前後で同時にはじけた。まん丸くふくらんで、ピシャリと両手を打ちあわせたように、彼をとじこめてしまったのだ。手を動かすことも、首をまわすことさえできない圧力である。  彼は墜落していた。 「墜落している」と、彼は報告した。  バルーンのために、両手はダッシュボードの上へ、まだ|追 従 回 路《スレイヴ・サーキット》にふれたまま、圧しつけられている。それが効きだすかもしれないと、彼はあとひと呼吸だけ待った。しかし、もう蜂の巣のような市街は、間近に迫っているだろう。ルイスは、スイッチを手動にもどした。  何も起こらない。墜落は、つづいている。  強いて平静をよそおいながら、ルイスは叫んだ。 「〈|話し手《スピーカー》〉、|追 従 回 路《スレイヴ・サーキット》にさわるな。役に立たない」  それから、ふたりに見られていることを意識して、彼は表情をくずさず、両目をあけたまま、リングワールドに叩きつけられるのを待ちうけた。  減速は、いきなりやってきて、しかも手荒くサイクルをひっくりかえした。頭を下にしたルイス・ウーに、五Gの重力がかかった。  彼は気が遠くなった。  失神からさめたとき、彼はまだ頭を下に、緩衝バルーンの圧力だけで支えられていた。頭がガンガンする。舞台の上でさかさに吊りさがってしまった人形のルイスに悪態をつきながら、もつれた糸をほどこうとしている奇怪な人形つかいの姿が、ぼんやりと見えるような気がした。  空中に浮かんでいるその建物は、たけが短く幅がひろく、そして華麗だった。その下半分は、さかさにした円錐形だ。二台のフライサイクルが接近すると、水平な割れ目が口をひらいて、それをのみこんだ。  暗い屋内へすべりこんでいくうちに、〈|話し手《スピーカー》〉のフライサイクルが、ルイスのすぐそばに並び、そして、静かにひっくりかえった。緩衝バルーンがその周囲ではじけ、落ちかかる〈|話し手《スピーカー》〉をささえた。にがい満足感をルイスはかみしめた。あまりにもみじめな思いがつづいたため、再会できたことを喜ぶ気にもなれなかった。  ネサスがしゃべっている。 「あなたたちがさかさまになったところからみて、あなたたちを宙にささえている力場は、電磁気的な性質をもったものです。その種の力は、金属には作用しますが、生物体には作用しないので……」  ルイスは、緩衝バルーンの圧力にさからって身をもがいた。だが、本気でもがき出るわけにはいかない。自由になったら、たちまち墜落だ。  どこかうしろのほうで、とびらが閉じたとき、ルイスの目はまだ闇になれていなかった。内部の様子は、まったくわからない。床からどのくらいの高さに宙づりになっているのかさえ、見当もつかないのだ。  ネサスがいう。 「手で触れてみられますか?」  そして〈|話し手《スビーカー》〉が応えた。 「ウム、ここへ手がはいれば……ヒョウ! おまえのいうとおりだ。サイクルの外被が熱くなっているぞ」 「それで、モーターも焼けてしまいました。フライサイクルは、動力を失ったのです」 「座席が熱から絶縁されていたのは、まだしもだったな」 「リングワールド人が、電磁力の利用に長《た》けていたところで、繁くにはあたりません。彼らには、それ以外に、何もなかったのですから。超空間駆動《ハイパードライヴ》も、スラスター駆動も、人工重力も……」  ルイスは、周囲に何かみえないものかと、目をこらしていた。ゆっくりなら、頭をまわすことができる。頬がバルーンの表面をこする。しかし、どこにも光はみえない。  バルーンの圧力に抗して、彼はダッシュボードの上でわずかに手を動かし、どうやら、ヘッドライトのスイッチと思われるものをさぐりあてた。なぜそれが点《つ》くと思ったのか、自分でもわからない。  白い、収束した一条の光だが、はるか向こうの曲面をなした壁にあたり、そこからの反射が、あたりをぼんやりと照らしだした。  十数個の乗り物が、周囲の、同じ高さの平面上に浮かんでいた。背負い式のレース用ジェット・パックくらいの大きさしかないものから、ふつうの|飛 行 車《フライング・カー》くらいのにいたるまで、種類はいろいろで、なかには、透明な船殻をもった飛行輸送車《フライング・トラック》の一種と思われるものもあった。  宙にうかぶがらくた[#「がらくた」に傍点]にかこまれて、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉のフライサイクルが、さかさまに浮かんでいた。その毛のぬけた頭とオレンジ色の顔の毛皮が、ふくらんだ緩衝バルーンの下につき出ている。きっき、サイクルの外被に触れるために無理やりおしだした、爪のはえた手が一本、外へつき出ている。 「そう、光です」と、ネサス。「いま、そのことをいおうと思ったところでした。この意味が、ふたりともわかりますか? サイクル内の電気ないしは電磁気的装置のうち、攻撃をうけたとき作動中だったものだけが焼け切れたのです。〈|話し手《スビーカー》〉のは、ルイス、あなたのもそうだと思いますが、その建物にはいったとき、ふたたび攻撃をうけたわけです。その建物は──」 「ああ、みごとな牢屋だよ」ルイスは、声をしぼりだした。  頭が大きな水ぶくろ[#「水ぶくろ」に傍点]になったような気分で、話すのは難儀だったが、仕事を他人まかせにする気にはなれなかった。たとえその仕事が、さかさにぶらさがったままで、異星の科学技術について臆測をめぐらすだけのことにしてもだ。 「で、牢屋だとしたらだが」と、彼はつづける。「どうして三度目の正直で銃殺もされずに、ここにこうしていられるんだ? もしこっちが有力な武器をもっていたらどうなる? げんに、持ってるわけだがね」 「当然、第三撃の備えはあったはずです」と、ネサス。「しかし、ヘッドライトがついているところをみると、作動はしなかったのでしょう。完全に自動的な仕掛けなのか、あるいは何ものかが、あなたたちを救ってくれたのかもしれません。〈|話し手《スピーカー》〉が、スレイヴァー式の掘削機械を使用しても、安全だろうと思います」 「そいつはありがたい」と、ルイス。「もっとも、このまわりの眺めは、あんまりゾッとしないがね」  彼と〈|話し手《スピーカー》〉は、いわば宙に浮いたサルガッソー海の中を、さかさになって漂っているのだった。古典的なジェット・パックのようなのが三つ。そのうちのひとつには、小さいが人間タイプの骸骨が、いまだに座を占めていた。まっ白な骨格には、皮膚のかけらも残っていない。立派な衣裳をつけていたとみえ、その切れはしが、まだ残っている。あざやかな色あいの布で、その一部のズタズタになった黄色いマントのようなものが、骸骨のあご[#「あご」に傍点]から、ダラリと垂れさがっていた。  あとふたつのいれもの[#「いれもの」に傍点]は、からっぽだった。しかし、どこかに骨があるはずだ。……ルイスは、頭を仰向けようと、力をこめた。もっと、グウッとうしろへ……。  この留置所の底は、大きなうす暗い円錐形の穴であることがわかった。その側面の壁に、同心円をなして、監房のような小部屋がつらなっている。そのドアは、いずれも落とし戸のように、上面についていた。穴の底から、いくつかの階段が、放射状に出ている。そのあたり一帯に、予期していたとおり、白い骨とおぼしいものが散らばり、はるか下方から、にぷい反射をかえしてきた。  あのこわれた座席にはいっていた骸骨の主は、とびだす勇気がなかったのにちがいない。ほかのものはみんな、それぞれの乗りものでここへとじこめられたとき、渇き死にするよりも、墜死のほうをえらんだのだろう。  ルイスがいった。 「〈|話し手《スピーカー》〉が物質分解機を使うとしても、どこへ向けたらいいか見当がつかないぜ」 「わたしもその点を、真剣に考えているところです」 「壁に穴をあけてみたってはじまらない。天井だって、どのみち手がとどかないんだ。うっかりして、われわれを支えている装置にでもあたったら、床まで九十フィート墜落する羽目になる。しかし、やらなければ、このままここで餓死するか、それとも手をあげて出ていくかだ。もっともその結果は、九十フィートの墜落になるだけだがね」 「はい」 「それだけ? はい[#「はい」に傍点]ですむつもりか?」 「もう少しデータが必要です。誰かひとり、周囲のもようを知らせてください。ここからは、曲面になった壁しかみえません」  そこで、ふたりは、かわるがわる、小部屋が円錐形をなしてとりまいていることを説明した。点光源から出る光の反射は、うす暗かったが、〈|話し手《スピーカー》〉もヘッドライトをつけたので、いくらかはましになった。  しかし、話が尽きてしまっても、ルイスが、いまだにとらわれの身で、さかさになったまま食物も水もなく、墜落死の危険に面と向かいあっているという状況に変わりはなかった。  ルイスは、どこかからだの奥のほうから、いままでじっとおさえていた悲鳴が、水面に向かう泡のように浮かびあがってくるのを感じていた。もうすぐ、のど[#「のど」に傍点]にとどきそうだ……。  そし、ふと、ネサスがもうふたりを見捨てていったのではないかと思った。  最悪の予想だ。  だが、その疑問に対する答えは、明白だった。パペッティア人が、逃げていってしまう理由はいくらでもあるし、そうしないという理由は全然ない。もし彼が、この地で文明をもった原住民を見つけることに、もはや執着していないとしたらだ。 「浮かんでる乗り物や、骸骨の古さからみて、ここの機械装置を手入れするものは、誰もいないようだ」〈|話し手《スピーカー》〉がしゃべっている。「われわれをとらえたこの 場《フィールド》 は、都市が無人となってから、何台かの乗り物をここへ引きずりこんだが、それきりで、リングワールドには、一台の乗り物もなくなってしまった。そこで、余分の動力が消費されないため、いままで働きつづけていたのだろう」 「そうかもしれません」と、ネサス。「しかし、誰か、この通話を、盗み聞きしているものがいるようです」  ルイスは思わずきき耳をたてた。〈|話し手《スピーカー》〉の頭の両側の扇がパッとひらいた。 「閉鎖回路ビームを盗み聞きするには、たいへんな技術を必要とします。ここでひとつ問題なのは、その盗聴者が、翻訳機をもっているかどうかということです」 「その盗聴者とは、どんなやつだ?」 「わかるのは、方向だけです。干渉源の位置は、あなたの位置によります。どうやら、あなたの真上の方向にあたるようです」  反射的にルイスは、上を見ようとした。だが、どうせかなわぬ願いだった。彼は頭を下に宙づりになっており、彼と天井のあいだは、二個の緩衝バルーンとフライサイクルにさえぎられているのである。 「リングワールドの文明が見つかったというんだな」  彼は思わず大声をだした。 「たぶん。でも、そうすると、その文明人が、あなたのいう〈銃殺〉用の機械を補修していたはずです。とにかく大事なのは……ちょっと考えさせてください」  そういうと同時に、パペッティア人は、ベートーベンかビートルズか、ともかくそういったクラシックの音楽家に変身した。ルイスにわかるのは、時間がたつにつれて、それがますますそれ[#「それ」に傍点]らしく聞こえてくるということだけだった。  つまり、彼が〈考える〉というのは、そうすることだったわけだ。妙《たえ》なる楽の音は、えんえんとつづいた。ルイスは、もうすっかりのどが渇き、また腹もすいていた。おまけに、頭はいまにも割れそうに、ガンガンしている。  もう駄目か、と、何度も観念の目を閉じかけた。だが、そのときパペッティア人の声が話しかけた。 「スレイヴァーの物質分解機を使うべきかもしれませんが、やはりまずいようです。ルイス、あなたがやらなければなりません。あなたは、霊長類の子孫ですから、〈|話し手《スピーカー》〉よりも木登りは上手です。まず、携帯レーザーを──」 「木登りだって?」 「質問は、わたしが話を終えるまで待ちなさい。ルイス、携帯レーザーを、適当な場所にかまえて、そのビームで、前方のバルーンを破るのです。そして、落ちないように、その残骸につかまって、そこからフライサイクルによじのぼり、その上でバランスをたもつのです。それから──」 「気でもくるったのか」 「終わりまでききなさい、ルイス。この行動の目的は、あなたのいう〈銃殺〉用の機械を破壊することです。たぶん、それはふたつあるでしょう。ひとつは、あなたたちがはいってきたドアの、上か下にあります。もうひとつは、どこかわかりません。唯一の手がかりは、もうひとつのと同じかたちのものがそれだということです」 「わかった。そうじゃないかもしれんが、このさいしかたがない。それより、どうしてぼくが、破裂するバルーンにしがみついて、落ちないでいられると思うんだ? ──だめだよ、とてもできない」 「ルイス。わたしが、機械をこわす装置の待ちかまえているところへ、助けにいけると思うのですか?」 「わからん」 「それとも、〈|話し手《スピーカー》〉が、のぼってくれると思うのですか?」 「猫は木登りできるだろ?」 〈|話し手《スピーカー》〉がいった。 「おれの種族の先祖は、平地性の猫属だったのだぞ、ルイス。それに、火傷を負った手も、まだなおっておらん。とても、よじのぼることはできん。どっちにしろ、あの草食いのいうことは、気ちがいじみている。あいつは、われわれを見捨てていくための口実をつくっているだけだ」  ルイスは事態の意味をつかんだ。どうやら、あぶないサーカスをやらなければならないらしい。 「まだ見捨てません」ネサスがいった。「このまま待ちます。あなたたちに、もっといい考えが出るかもしれません。あるいは、盗聴者が姿をみせるかもしれません。待ってみることにします」  頭を下に、ふたつのバルーンに身動きもならずはさまれているルイスには、当然ながら、時間の経過をはかることはむずかしかった。何の変化もなく、何の動きもみられない。どこか遠くで、ネサスのさえずって[#「さえずって」に傍点]いるのが聞こえる。だが、それ以外には、まったく何の気配も感じられない。  いつのまにかルイスは、自分の心臓の鼓動をかぞえはじめた。七十二回で一分間にあたるはずだ。  そしてちょうど十分後、彼は自分のつぶやきを耳にした。 「……七十二。ひとつ。……いったい、何をやってるんだ?」 「おれに話しかけたのか、ルイス?」 「カホナ! 〈|話し手《スピーカー》〉、もうとてもたまらない。気が狂うよりも死ぬほうがましだ」  彼は両腕をひきよせようと、力をこめはじめた。 「ルイス、戦闘状態下では、おれが指揮をとる。じっとして待つよう命令するぞ」 「そいつは、すまんこった」  ルイスは腕をひっぱる。一度ゆるめる。グイと下へ押しつけ、またゆるめる。目あては、彼のベルトだ。両手はずっと前のほうにのびている。肘をグイと引き、ゆるめ、また引く……。 「パペッティア人のいうことをきくのは、自殺行為だぞ、ルイス」 「だろうな」  ついに手がとどいた。携帯レーザーだ。あと二回力をこめて、それをベルトからぬきだし、前へ向けた。これで、もしかするとダッシュボードを撃ちぬくかもしれないが、自分にあたる心配だけはない。  撃った。  バルーンは、ゆっくりとしぼみはじめた。それにつれて、うしろの一個が、彼をダッシュボードに押しつけるかたちになった。前より楽に動くようになった手で、レーザーをベルトへもどすと、前方の、しぼんでしわ[#「しわ」に傍点]になったやつを両手でつかむ。  同時に彼のからだは、座席からはなれた。かたく、もっとかたく──彼は狂気のようにしがみつき、そして、ついに一回転して落ちかかったときも、彼の手はすべらなかった。  両手でフライサイクルの下にぶらさがった。その足もとには、九十フィートの奈落が──。 「〈|話し手《スピーカー》〉!」 「ここにいるぞ、ルイス。いま、おれの武器をぬいたところだ。もうひとつのバルーンを、撃ちぬいてやろうか?」 「たのむ!」  いまやその一個が、頭上にあって、よじのぼる道をふさいでいたのだ。  そのバルーンの破裂のしかたは、尋常ではなかった。二秒ほどで、いっぽうの側がふっとび、グワッと空気がふきだした。〈|話し手《スピーカー》〉は、物質分解機の片方のビームを使ったのである。 「いったいどうやって狙いをつけたんだい」  ルイスは吐息まじりにつぶやくと、登攀を開始した。  バルーンの物質をよじのぼっていくのは、わりと容易だった。いいかえると、長いあいだ脳に血があつまっていたあとでも、彼はとにかく、シャンとした気分でいられたということだ。ところが、このバルーンのつけ根は、スロットル・ペダルのすぐそばにあり、彼の体重のため、サイクルは依然裏がえしのままで、彼はやはり、ちょうどその真下にぶらさがっている恰好なのだった。  彼は、サイクルのすぐ下までよじのぼると、両脚でからだを安定させ、それから、はずみをつけて、サイクルをゆらしはじめた。 〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉が、奇妙な声をあげた。  サイクルは前後にゆれ、その振幅は一回ごとに大きくなっていった。当然ながら、サイクルの金属部分は、その底部にあつまっているものと、ルイスは考えていた。もしそうでなければ、サイクルは自由に回転でき、どこだろうとルイスのつかまる場所が下向きになるはずだから、ネサスがあのような提案をするとは思えなかったのである。  サイクルは今や大きくゆれていた。  ルイスは目まいがし、こみあげてくる吐き気を懸命におさえつけた。もしいま気管をつまらせたりしたら、何もかもおしまいだ。  前後にゆれるサイクルが、ちょうどさかさまになったとき、ルイスはその下面にとびつき、破裂したバルーンの反対の端をつかんで、そのまましっかりともちこたえた。  サイクルは、グルリと一回転した。ルイスは、その底面へ、胸を下にピッタリとからだを押しつけていた。そうしてしがみついたまま、彼はじっと待った。  サイクルの図体がちょっと静止し、それからまたゆれもどした。内耳の平衡器官がグルリとまわり、ルイスは吐いた──何を?  きのうの昼食だろうか? 爆発的ないきおいで吐きだされたものが、サイクルの底や衣服の袖にとび散った。おそろしく苦しかったが、彼は自分のからだの位置を、一インチとは動かさずに、もちこたえた。  フライサイクルは、なおも大波のようにゆれつづけたが、ルイスは根を生やしたようにつかまったまま、やがて顔を上に向けた。  ひとりの女が、こっちを見つめているのが目にはいった。  彼女の頭はすっかり禿げているようにみえた。その顔は、〈天国〉の会食ホールにあった針金細工を、ルイスに思いださせた。目鼻立ちも、表情もだ。女神か、さもなければ死人のような冷たい視線を前にして、彼は思わず顔をあからめ、穴があったらはいりたいような気分になった。  それをおさえて彼はよびかけた。 「〈|話し手《スビーカー》〉、われわれを見てたやつがいる。ネサスにそう伝えてくれ」 「ちょっと待て、ルイス。おれはまだ目まいがするのだ。おまえののぼるのを見なければよかったと思うぞ」 「まあいい。彼女は──禿頭かと思ったが、そうじゃなかったようだ。耳の上からうしろにかけて、頭のまわりに毛がある。それも、肩より下に垂れるくらいの長い髪だ」  その髪は黒くふさふさとしており、ルイスのほうへ彼女が身をのりだすと、ハラリといっぽうの肩から前に流れた。そこに現われた頭のかたちは優美で上品だったし、彼女の視線は彼を、まるでマーティニのオリーヴのようにさしつらぬくかと思われる鋭さだった。  だが、そんなことまでいちいち話しているひまはない。 「彼女は、環《リング》の建設者らしい。あるいは、それと同じ種族なのか、それとも、同じ生活様式をもってるだけなのか。ここまではわかったかい?」 「わかった。しかし、どうしてそんなふうにのぼれるのだ? まるで、重力を無視したようにみえたぞ。ルイス、おまえは何ものなのだ?」  ようやく静かになったフライサイクルにまたがったまま、ルイスは笑いだした。笑うのがせいいっぱいだった。 「あんた、クダプト教の信者だね。おい、白状しろよ」 「すすめられたが、その教えにはついていけなかったな」 「あたりまえさ。ところで、ネサスは出たかい?」 「いま出た。サイレンがよびだしたのだ」 「つぎのように伝えてくれ。彼女は、ここから二十フィートくらい向こうにいる。蛇のようにこっちをうかがってる。ひどくこっちに興味をひかれてるって意味じゃない。ほかのものには目もくれないでいるってことだ。いま、まばたきした。しかし、目をそらそうとはしない。  彼女がいるのは、何か桟敷みたいなものの上だ。まわり三つの面が、ガラスか何かで囲まれてたらしいが、いまは何もなくて、うしろの階段から床だけがつき出ている。その縁に脚を出して腰かけてるんだ。そうやって囚人を監視するようにできてるんだろう。  着てるものは……いや、スタイルは、おせじにもいただけないな。膝までと肘までの上っぱりで、妙にふくれて──」  しかし、異星人たちにそんなことは興味ないだろう。 「明らかに人工の繊維だ。新品なのか、それともひとりでに洗えておそろしく保《も》ちのいいしろものなのか。そして──」  そこで口をつぐんだ。女が、何かいったからである。  そのまま待っていると、彼女は同じことをくりかえした。何のことかわからないが、ごく短い文章である。そして、優雅な身のこなしで立ちあがると、階段をのぼっていった。 「いっちまった」と、ルイス。「たぶん、興味をなくしたんだろう」 「盗聴機のあるところへもどっていったのかもしれんぞ」 「かもね」  いささか仮説過剰の気味もあるが、この建物の中に盗聴者がいるとしたら、それは彼女自身以外に考えられない。 「ネサスが、おまえの携帯レーザーを低出力の拡散にして、このつぎ女が現れたら、それで照らしてみろといってきた。おれのスレイヴァー式の武器は、かくしておく。あの女は、スイッチを切るだけで、われわれを殺すことができる。武器をもっていることは、さとられぬほうがよい、とな」 「それじゃ、どうやって、銃殺用の装置をこわせるんだい?」  その返事は、そくざにもどってきた。 「その件は、やめにする。ネサスが、何か方法を講じるといっている。今、ここへやってくるところだ」  ルイスは、ガックリと、金属の表面の上に頭をおとした。大きな安堵の思いで、理由をたずねる気にもなれないうちに、〈|話し手《スピーカー》〉がまたいいだした。 「ここへやってきたら、やつも同じわな[#「わな」に傍点]にはまるばかりだ。ルイス、思いとどまらせるほうがいいかな?」 「そういってやればいい。いや、その必要もないだろう。安全と見きわめがつくまでは、やってくるようなやつじゃないよ」 「どうして安全だと考えたのかな?」 「わかるもんか。ひと休みさせてくれ」  パペッティア人には、わかっているのだろう。ネサスの臆病さだけは、絶対に信用できる。ルイスは、なめらかで冷たい金属の表面に、グッタリと頬をおしつけた。  ウトウトとしたらしい。  それでも、自分のいる場所がどこかということは、心のかたすみにこびりついていた。もし、サイクルが小ゆるぎでもしたら、彼はたちまち目を大きくあけて、バルーンの残骸をつかんだ両手と、金属の胴体にまわした両脚に、渾身の力をこめたことだろう。  彼の眠りは、まるで走馬燈のような悪夢の連続だった。  まぶたのあいだに、チラリと光を感じて、彼はただちに眠りからさめた。  ふたりのひきこまれてきた水平な隙間をとおして、昼の光がさしこんでいる。その逆光のなかに、ネサスのフライサイクルの黒いシルエットが浮かんでいる。彼のフライサイクルもさかさまで、同じくさかさまのパペッティア人は、緩衝バルーンではなく座席ネットでぶらさがっているのだった。  その向こうで、水平な入口が、静かに閉じた。 「よく来たな」〈|話し手《スピーカー》〉が、モゴモゴという。「まっすぐに起きなおらせてくれんかね?」 「まだだめです。女は、そのあと現れませんか?」 「いや」 「そのうちきっと現れるでしょう。人間は好奇心の動物です、〈|話し手《スピーカー》〉。彼女は、わたしの種族を、まだ見たことがないはずですから」 「それがどうした? おれは、早く起きなおりたいのだ」 〈|話し手《スピーカー》〉がうめいた。  パペッティア人が、ダッシュボードに向かって何かすると、奇蹟が起きた。そのフライサイクルが、グルリと起きあがったのである。  ルイスが、ただひとこと。 「どうやったんだ?」 「操縦がきかなくなると同時に、ぜんぶのスイッチを切ったのです。もし、浮揚|力場《フィールド》 が働きかけてこなければ、地上に激突する前にモーターをいれるつもりでした。さて、このあとは簡単です」パペッティア人は、ぶっきらぼうな口調でつづけた。「女が現れたら、親愛を示すのです。ルイス、もしうまくいくと思ったら、彼女を性交渉へさそうように。〈|話し手《スピーカー》〉、ここでは、ルイスが主人で、わたしたちは従者です。その女は、異星人ぎらいかもしれません。人間が異星人を従えていると思わせて、心をやわらげるのです」  こんどはルイスも、本当に笑いだした。  悪夢の連続のようなまどろみ[#「まどろみ」に傍点]でも、いくらか元気をとりもどせたようだ。 「彼女が友好的だとは思えないね。誘惑なんて、できるもんか。あんたは、彼女を見てもいない。ぼくに対するかぎり、彼女は冥王星の暗黒洞窟みたいに冷たいだろう。それも、彼女の責任じゃないがね」  彼が昼食を袖の中へ吐きちらすのを、彼女はじっと見ていたのだ──どう考えても、ロマンチックな光景だったとはいえそうにない。  パペッティア人がいった。 「彼女は、ここへくるやいなや、幸福になります。ここから離れようとすると、幸福感は去ります。わたしたちのひとりをひきよせれば、その幸福感は、さらに強まり──」 「カホナ! そうか!」ルイスが叫んだ。 「わかりましたか? よろしい。それに、わたしは、リングワールド語も勉強しています。発音も文法も正しいはずです。あとは、もう少し単語の意味がわかれば……」  かなり前から、〈|話し手《スピーカー》〉のぼやき[#「ぼやき」に傍点]がとだえている。それまで、全身に火傷を負い、片手を骨までこがして、落ちたら命のない空間にさかさにぶらさがっている自分を助けてくれようともしないといって、ルイスとネサスにさんざん毒づいていたのが、ここ数時間、何もいわないのだ。  ほの暗い静けさの中で、ルイスはまどろんだ。夢の中で、鈴の音が聞こえたように感じて、彼は目をさました。  階段をくだってくる彼女の足音だった。そのはいているモカシン靴に、鈴がついているのだ。着ているものも、前とはちがって、大きなポケットのいっぱいついた、みごとなハイネックのドレスだった。長い黒髪を、いっぽうの肩から前へ垂らしている。  だが、顔の無表情ないかめしさは、変わっていない。  張りだした床の上に、膝をおってすわると、じっとルイス・ウーを見つめる。そのまま身うごきもせず、またルイスも動かなかった。数分間のあいだ、ふたりはまともに目を見あわせていた。  やがて彼女は、大きくふくらんだポケットのひとつから、こぶしほどの大きさの、オレンジ色のものをとりだした。それを、ルイスのほうへ、ヒョイと投げる。  わざと狙ったのかどうか、手のとどくかとどかないくらいの距離を、それは通りすぎた。二日前に木に生《な》っているのを見た、こぶの多いやわらかい果実である。そのときは味をみようとも思わず、サイクルの調理機の取入れ口へ五、六個ほうりこんだものだった。  眼下の小部屋の屋根で、つぶれた果実が、まっかな果汁をまきちらした。とつぜん、ルイスの口の唾腺が刺戟をうけ、彼はおそろしい渇きを感じた。  彼女がもうひとつ投げてよこした。こんどはもっと近い。うけとめようとすればできたろうが、それは同時に、サイクルをひっくりかえすことにもなる。彼女にもわかっているはずだ。  三つめは、彼の肩にぶつかった。彼は、バルーンの端をつかんだ両手に力をこめ、暗澹たる気分にかられた。  すると、ネサスのフライサイクルが、視野の一隅に現れた。  同時に、彼女がほほえんだ。  パペッティア人のサイクルは、輸送車《トラック》ほどの大きさの残骸のうしろにただよっていた。いまはまた、さかさまの姿勢で、偶然吹きよせられたかのように、彼女のいる張り出しの方向へ、ななめに進んでいる。ルイスのそばを通りかかりながら、声をかけた。 「彼女を誘惑できませんか?」  ルイスは、うなり声をあげた。  だが、パペッティア人が彼を嘲笑したわけではないことに気づいて、答えた。 「彼女は、ぼくを、獣みたいに思ってる。見こみはないよ」 「それでは、べつの技巧が必要です」  ルイスは、つめたい金属の表面に、ひたい[#「ひたい」に傍点]をこすりつけた。こんなにみじめな思いになったのは、ほとんどはじめてだった。 「あんたの仕事だな。彼女がぼくを、対等に見てくれるとは思えないが、あんたなら別かもしれない。敵意も持たないだろう。あんまり異質すざるからね」  パペッティア人が、彼のかたわらを通りすぎた。そして、何かしゃべっている。〈天国〉の下で会った、あの毛を剃った僧侶が使っていたのと同じことばのようだ。 〈建設者〉の聖なる言語だ。  女は答えない。だが……彼女は実際に微笑しているわけではないようだが、くちびるの端がかすかに上へまがり、その目は、以前よりずっと活気をおびているようにみえる。  ネサスは、ぐっと放射をおさえて使っているらしい。きわめて低い出力でだ。  彼がもういちどよびかけると、今度は彼女も答えた。冷ややかで音楽的な声だ。ルイスには、いかにも傲岸な口調のように聞こえたが、その声の質だけは、予想していたとおりだった。  パペッティア人も、すぐにそれとそっくりの声で答えた。  そこではじまっているのは、言語の学習なのだった。  ひとつ誤れば墜落という瀬戸ぎわで、危うくバランスをとっているルイスに、そのなりゆきは、はっきりしなかったが、ときどきわかる単語がまじっていた。そして、ふいに、彼女はネサスへ、あのオレンジ色の果実を投げてよこし、それが〈スランブ〉という名であるらしいことがわかった。ネサスは器用にそれをうけとめた。  とつぜん彼女は立ちあがると、その場を去った。  ルイスがたずねる。 「どうした?」 「彼女は、たいくつしたのでしょう。何もいわずにいってしまいました」と、ネサス。 「のどがかわいて死にそうなんだ。そのスランブってやつを、もらえないか?」 「スランブというのは、この皮の色のことですよ、ルイス」  彼はルイスのそばへサイクルをよせ、果実を渡してよこした。  ルイスは、勇を鼓して、やっと片手だけをはなした。ということは、厚い皮を歯で剥かなければならないということになる。幾度か噛みちぎって、やっと中味にとどいた。ここ二百年で最高の味のような気がした。  すっかり食べ終わってから、彼はたずねた。 「彼女、すぐもどってくるだろうか?」 「そうなると思います。彼女に感知されないで働きかけるように、最低パワーでタスプを使いました。たぶん気づかれなかったはずです。わたしの姿を見るたびに、惹きつけるようにします。ルイス、彼女があなたと恋に落ちるように仕向けてはいけませんか?」 「無茶だよ。彼女にとって、ぼくは、野蛮な原住民にすぎないんだ。ここでひとつ、疑問なのは、彼女自身がいったい何ものかということだな」 「わたしにもわかりません。かくすつもりはないようですが、とにかく話題にのぼらなかったのです。ことばが充分ではありません。まだまだです」 [#改ページ]      20 肉  ネサスが、はるか下方の闇の中にサイクルをおろして、あたりをしらべていた。交信機が使えないので、ルイスはなんとか、パペッティア人のやっていることを見てとろうとしたが、ついにそれもあきらめてしまった。  さらにだいぶ時がたって、足音がきこえてきた。今度は、鈴の音はしていない。  彼は両手をメガホンにして、下へ向かって叫んだ。 「ネサス!」  その声は、四方の壁に反響して収束し、円錐の頂点にガーンとこだました。パペッティア人は、ピョンととびあがると、サイクルの上に這いのぼって離昇した。というより、墜落したというほうが正しいかもしれない。サイクルを下へおろしておくために、捕獲フィールドにさからってモーターを働かせていたことは、疑う余地がない。彼は、単に、そのモーターのスイッチを切っただけだ。  足音が上のほうでとまったとき、サイクルはすでに、浮かび漂う金属塊の中へまぎれこんでいた。 「あのカホな女、いまどんなぐあい[#「ぐあい」に傍点]だ?」ルイスはささやいた。 「辛抱しなさい。低出力のタスプ一回で、馴らしてしまうわけにはいきません」 「おい、これだけはよくその脳みそのない頭の中へ叩きこんどいてくれよ。おれは[#「おれは」に傍点]、永遠にこうしてバランスをとってるわけにはいかないんだ[#「永遠にこうしてバランスをとってるわけにはいかないんだ」に傍点]!」 「そうしてもらうよりほかありません。わたしに何ができます?」 「水だ」と、ルイス。  舌が、フランネルでも巻いたように干あがっている。 「のどが渇いたのですか? しかし、水をもってきても、飲めませんよ。首を仰向けたら、バランスを失うかもしれません」 「わかったよ。もういい」  ルイスは、ゾッと身ぶるいした。宇宙士《スペイサー》として鳴らしたルイス・ウーが、こんなに高所を怖れなければならないとは、奇妙な話だ。 「〈|話し手《スピーカー》〉はどうしてる?」 「それが心配です、ルイス。ずいぶん前から、彼は気絶しているのです」 「カホナ! そんなカホな──」  足音が近づく。  彼女は、着替えマニアなのだろうか、とルイスは思った。  こんど彼女が着てきたのは、全体にオレンジと緑のひだのついた衣裳で、前のと似てはいるが、からだの線はまったく表面に現われていない。見張り台の縁に身をかがめると、冷ややかな目でこっちを見ている。ルイスは、ひたすらサイクルの上にへばりついたまま、事態の進展を待った。  彼女の表情のゆるむのがわかった。夢みるような目つきになり、小さな口の両端が上へ、ひきつるように動く。  ネサスが話しかけた。  彼女は考えこんでいるふうだった。何か、答えらしいことを口にだした。そして、あとへさがった。 「どうしたんだ?」 「いまわかります」 「もう待つのはたくさんだ」  ふいに、パペッティア人のフライサイクルが、フワリと浮かびあがった。そして前へ。そのまま見張り台の側面へ、手漕ぎの船が岸壁につくように、ドシンとぶつかった。  同時にネサスは、いとも優雅に、サイクルからおり立っていた。  女がそれを迎えた。左手にたずさえているのは、何かの武器にちがいない。しかし、もういっぽうの手で、彼女はパペッティア人の頭に触れ、ちょっとためらってから、指先をその首すじのうしろへ這わせた。  ネサスが、うれしそうな声をだした。  彼女はクルリと向きをかえると、階段をのぼりだした。一度として、ふりかえろうとはしない。ネサスが犬のようについてくるものと、きめこんでいるようだ。そして、彼はそのとおりにした。  うまいぞ、とルイスは思った。した手に出て信用させるんだ[#「した手に出て信用させるんだ」に傍点]。  だが、妙に歩調の合ったふたりの足音が遠ざかっていってしまうと、あたりはまた、巨大な墓地のような静寂につつまれた。 〈|話し手《スピーカー》〉は、この金属のサルガッソー海の中、ルイスからおよそ三十フィート離れたところに浮かんでいた。緑色の緩衝バルーンから、黒いムックリした四本の指と、そこだけ花が咲いたような毛皮のオレンジ色の顔がのぞいている。そこへ近づく手だてはない。もしかすると、クジン人は、もう死んでいるのかもしれない。  下方に散らばる白骨の中には、少なく見ても十個以上の頭蓋骨がまじっていた。骨と、年代と、錆びた金属と、そして静寂と。ルイス・ウーは、自分のサイクルにつかまったまま、力の尽きるのをじっと待ちうけるばかりだった。  また、ウトウトとしはじめてから間もなく、まわりの様子に変化が起こった。  バランスがくずれそうだ──。  ルイスの一命は、ひとえにそのバランスにかかっている。ちょっとしたずれ[#「ずれ」に傍点]を感じて、彼はおびえあがり、全身を硬直させた。目だけを動かして、狂おしく周囲を見まわす。  まわりを囲む金属の乗物は、依然としてそのまま、何の動きもみえない。だが、何ものかが動きだしている気配だ……。遠くのほうの一台が、何かにぶつかったらしく、ガシャンという金属音をたてて、スウッと浮きあがりはじめた。  何だ?  いや、浮きあがったのではない。輪になって並ぶ小部屋のひとつの上に、乗っているのだ。このサルガッソー全体が、一定の速さで空間を下降しているのだった。  ひとつ、またひとつと、|飛 行 車《フライング・カー》や飛行パックが、まわりから順に接地し、上へとりのこされていく。  ルイスのサイクルが、コンクリートの面に手荒くぶつかり、電磁力の渦にまきこまれて半回転し、ひっくりかえった。ルイスは、ゴロリところがって、そこから身を離した。  すぐに立ちあがろうとした。だが、まったくバランスがとれない。まっすぐに立っていられないのだ。両手は、かぎ形にまがったまま、しびれきって、使いものにならなかった。  横たわってあえぎながら、おそろしい手遅れに気づいた。〈|話し手《スピーカー》〉のフライサイクルは、〈|話し手《スピーカー》〉を押しつぶしてしまったにちがいない。  そのフライサイクルは、小部屋の輪で二段ほど上のところにころがっているのが、すぐに見つかった。〈|話し手《スピーカー》〉の姿がみえる──少なくとも、サイクルの下敷きになってはいない。サイクルが横へころがるまでは、下になっていたはずだが、そのときには、バルーンが、あるていど保護の役に立ったのだろう。  ルイスは這うようにして、そこへたどりついた。  クジン人は、生きて呼吸していたが、意識がなかった。フライサイクルの重みで首根っ子を折らずにすんだのは、おそらく、もともと首根っこといえる部分がなかったからだろう。ルイスは、腰から携帯レーザーをぬくと、焦点をしぼった緑のビームで、〈|話し手《スピーカー》〉をおさえつけているふたつのバルーンを撃ち破った。  さて、それから?  死にそうにのど[#「のど」に傍点]がかわいている。  ようやく目まいはおさまったようだ。彼は立ちあがり、ふらつく足をふみしめて、考えられる唯一の水の出る場所をもとめた。  小部屋はぜんぶ円形にそって並んでおり、その上面がひとつづきの張りだしになっている。〈|話し手《スビーカー》〉が着地したのは、中心からかぞえて四段目の環の上だった。  見おろすと、破れしぼんだ緩衝バルーンをひきずった自分のサイクルが見つかった。その一段下にもう一台、中央の底へ一端をつきだしている。それには、人間向きの座席がついていた。三台めだ──。  ネサスのサイクルは、〈|話し手《スピーカー》〉のよりも一段下に着地していた。  それに向かってルイスはおりていった。階段をふみしめるたびに脚から全身へ衝撃がつきぬけた。筋肉が疲れすぎていて、ショックを吸収することができないのだ。  ダッシュボードを見て、ブルッと首をふった。ネサスのフライサイクルを盗もうとするやつは、おそらく誰もいないだろう! その操縦盤は、神秘的にみえるほど複雑怪奇だった。しかしそれでも、水の飲み口を見わけることはできた。  水はなまぬるく、蒸溜水のように味けなかったが、それでもひどくおいしかった。  渇きがおさまると、調理スロットから煉瓦をひとつだして、味をみてみた。まったくおかしな味だった。ルイスは、ひとまず食べるのはひかえておいた。人間の代謝系には命とりになるような添加物がはいっているかもしれない。ネサスにしか、そのことはわからない。  彼は自分の靴に水をいれて、〈|話し手《スピーカー》〉のところへもどった。ほかに手ごろないれものを思いつかなかったからだ。その水をクジン人の口の中へしたたらせると、相手は眠りこけたままのみこんで、笑顔をみせた。ルイスはもう一度汲みにもどったが、パペッティア人のフライサイクルへたどりつく前に、精根を使い果たしてしまった。  近くの平らな面の上へ、グッタリとくずおれて身をちぢめると、両眼をとじた。  安全だった。もう安全なのだ。  すぐに眠りこんでしまえそうに思えた。しかし、何かがしつこく彼をこづいていた。酷使された筋肉、手足のしびれ、いまだにつきまとって離れない落下への恐怖……だが、まだそのほかに、何かがある……。  身をおこした。 「カホナ」ぼんやりとつぶやく。 〈|話し手《スピーカー》〉のことが気になるのか?  クジン人は、からだをまるめて眠りこけている。両耳はピッタリと頭にはりつき、スレイヴァー式の武器をしっかりとかかえこんで、二連の銃口がわずかに外へのぞいている。息づかいは正常で、しかしひどく早かった。これはいい徴候だろうか?  ネサスならわかるだろう。このまま当分は眠らせておこう。 「カホナ」もう一度口のなかでつぶやいた。  すすんで|休 養《サバティカル》に出たわけでもないのに、孤独をかこっている立場。それでいて、仲間への責任もある。しかも彼自身の生命は、一にかかってネサスが、かれらをとらえたあの半分頭の禿げた気ちがい女をうまく馴らすかどうかに依っている。眠れないことに、何のふしぎもない。  だが、それでも……。  問題点が目にとまると同時に、視線が釘づけになった。彼のフライサイクルだ。  破れた緩衝バルーンをひきずっている彼のフライサイクル、傍らにあるネサスのサイクル、〈|話し手《スピーカー》〉のそばにころがっているそのサイクル、そしてもうひとつ、人間の座席のついた、緩衝バルーンの出ていないフライサイクル。  ぜんぶで四台。  水のことに夢中になっていて、最初見たときには、その意味が頭に浮かばなかった。今は……これはティーラのフライサイクルなのだ。空中では、どれか大きな乗り物のかげにかくれてみえなかったのだろう。しかも、緩衝バルーンがみえない。緩衝バルーンをふくらませていないのだ。  サイクルがひっくりかえったときに落ちたのだろうか。それとも、マッハ二でとんでいて、音波シールドが消失したため、吹きとばされてしまったのだろうか?  ネサスは何といった?  ──彼女の幸運は、明らかに、偶発的な種類のものです。  そして〈|話し手《スピーカー》〉の返事は?  ──もしその幸運に一度でも裏切られたら、彼女は死んでいたはずだ──。  彼女は死んだのだ。そうにちがいない。  ──あたしはあなたについてきただけ。愛してるから──。 「不運だ」ルイスはつぶやいた。「ぼくに会ったことが不運だったんだ」  コンクリートの上にまるくなって、彼は眠りこんだ。  だいぶ時間がたったらしい。目をひらくと、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉が上からのぞきこんでいるのと目を見あわせて、ギョッとした。鮮やかなオレンジ色の毛皮のせいで、その目は二倍も光ってみえ、その視線には、値ぶみするような色が……。 〈|話し手《スピーカー》〉が口をひらいた。 「あの草食いの食物は、食えるのか?」 「こわいから食べてみなかった」と、ルイス。  がらんどうになったように思われる空腹のせいで、彼は、あとひとつのこと以外には、何も気にならなくなっていた。 「三人のうち、おれだけ、食いものがない」と、クジン人。  その値ぶみするような視線……ルイスは首すじが総毛立つのを感じた。ふるえる声をおさえて、彼は答えた。 「食いものは、あるさ。問題は、あんたが食うかどうかだね?」 「安心しろ、ルイス。目の前に肉があっても、食うことが不名誉となるなら、おれは餓死するほうをえらぶぞ」 「わかった」  ルイスは寝がえりをうち、またすぐ寝こんでしまった。  数時間たって目がさめたとき、彼は本当にグッスリ眠ったという気がした。〈|話し手《スピーカー》〉のことばを、彼の潜在意識は、全面的に信用していたにちがいない。クジン人が食わないといったら食わないのだ。  膀胱がいっぱいになっており、悪臭が鼻をつき、からだの節ぶしが、いまさらのように痛んだ。深い縦穴を見つけて、ひとつの用は足りたし、パペッティア人のフライサイクルからだした水で、袖口についた汚物は洗い流した。それから、足をひきずりながら階段をおりて、自分のフライサイクルにたどりつき、応急医療セットに手をのばした。  だが、応急医療セットは単なる救急箱ではない。必要に応じていろんな使いかたがあり、かつ、みずから診断をくだす機能まで有する複雑な装置である。サイクルがやられたとき、それはいっしょに焼けきれていた。  明かりも、もう消えかかっている。  頭上に小部屋の列が、おおいかぶさるようにつらなっていた。その上面の落とし戸のまわりに、透明なのぞき窓があった。ルイスはその上へ腹這いになって、内部をのぞきこんだ。ベッドがあり、奇妙なかたちのトイレがあり、そして窓がひとつ──そこから陽の光がさしこんでいる。 「〈|話し手《スピーカー》〉!」ルイスは呼びたてた。  ふたりは、物質分解機を使って、小部屋の中へ押しいった。窓は四角く大きく、監房のものとしてはいささかぜいたくな感じだった。はまっていたガラスはこわれ、周縁の部分がギザギザに残っているだけだった。  囚人に自由な世界を見せて苦しめるための窓だろうか?  窓はまっすぐ左舷に面している。夕暮れどきだった。明暗境界面が、回転方向《スピンワード》から、黒いカーテンのように迫っている。前方は港だ。四角い倉庫らしいものや、朽ち果てた船渠《ドック》や、優美な単純さをそなえたクレーンなどがみえ、水のないドックのひとつには、巨大なホバー船がおさまっていた。そのどれもが、まっかに錆びた骨組みばかりだ。  左へも右へも、曲がりくねった海岸線が、眼のとどくかぎりつづいている。浜辺がひろがり、つづいてドックの列、そしてまた浜辺……。  これははじめから、自然の海岸を模してつくられたのだろう。ワイキキのような遠浅の砂浜がつづいたあと、港湾向き一辺倒の深い海があり、また浅い浜辺がとってかわる。前方は果てしない大洋だ。どこまでもたいらに、無限の地平へかすんでいる。大西洋がずっとさきまで見とおせたとしたら、こんなぐあいだろうか?  カーテンのような夕闇が、右から左へとよせてきた。都市中心部の残った灯がともりはじめ、それとともにドックも海も、暗闇の中へ沈んでいった。はるか反回転方向《アンチスピンワード》には、まだ真昼の陽光が降りそそいでいる。  たまご形のベッドの上を、〈|話し手《スピーカー》〉が占領していた。  ルイスは微笑した。クジン人の戦士、それが、いとも平和な寝顔をみせている。眠って、傷を癒そうというのだろうか? たび重なる火傷で、からだが弱っていることは事実だろう。それとも、つのってくる空腹を忘れるために眠っているのか?  彼をそこにのこして、ルイスは小部屋を出た。  ほとんど暗闇の中で、彼はネサスのサイクルにたどりついた。空腹に堪えられず、パペッティア人用にできた煉瓦形食料をひとつ、味も何もおかまいなしにつめこんだ。暗さが気になりだしたので、彼はそのフライサイクルのへッドライトをつけ、あと三台のフライサイクルをさがして、そのライトもつけた。それで、あたりはすっかり明るくなり、周囲の壁面には、ごたごたした奇妙な影が浮かびだした。  ネサスは、いったい何を手間どってるんだろう?  古めかしい浮かぶ牢獄の中では、時間のつぶしようがない。眠っているのが唯一の方法だが、それは今すませたばかりだ。パペッティア人は、上で[#「上で」に傍点]何をしているのだろうと、そればかり思いうかべているうち、どうしても、自分たちは裏切られたのではないかという疑惑が、頭をもたげてくるのだった。  結局、ネサスは、ただの異星人ではない。はるか昔から、いいように人間をあやつってきた、ピアスンの〈人形師《パペッティア》〉なのだ。リングワールドの建設者(とおぼしい相手)と話しあいがついたら、さっさと何のためらいもなく、ルイスと〈|話し手《スピーカー》〉を見捨てるかもしれない。そうしていけない理由など、ネサスの側には何もないのだ。  いや、そうすべき立派な理由なら、ふたつもある。 〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉が、量子第二段階《クワンタムU・》|超空間駆動《ハイパードライヴ》をクジン族でひとり占めするため、|のるかそるか《ロングショット》号をルイスの手からとりあげようと、最後のあがきを試みることは、おそらくまちがいない。その争いで、パペッティア人にも危害がおよぶおそれがある。このまま〈|話し手《スビーカー》〉を切り捨てるに如《し》くはない──そうなれば、当然、そのような裏切りに加担するはずのないルイスも、ということになるだろう。  おまけにふたりは、少々多くを知りすぎた。ティーラが死んだとすれば、あと、パペッティア人のやった品種改良の実験のことを知るものは〈|話し手《スピーカー》〉とルイスだけだ。星間種子誘引機《スターシード・ルーア》のこと、産児制限法のことなど──もしネサスが、そういう情報をもらして、隊員の反応ぶりをたしかめるよう命じられていたとすれば、旅の途中どこかで仲間を置きざりにするよう命令されていたとして、何のふしぎもない。  いまはじめて気づいたことでもなかった。アウトサイダー人の船を、星間種子《スターシード》を媒介にしてプロキオンに誘導したことを、ネサスがみとめてからずっと、ルイスは、そういうそぶりが現われないかと気をくばっていたのである。  ある意味では、いくら疑っても疑いきれないのだが、それに対して打てる有効な手は、何ひとつなかった。  なかば気持をほぐすため、彼はべつの監房へはいってみることにした。携帯レーザーを高出力にし、細くしぼったビームで、ドアの錠《ロック》とおぼしい場所をさぐっていくと、四回めで、ドアがポンともちあがった。  同時にあがってきたのは、ひどい腐臭だった。ルイスは息をとめ、レーザーで中を照らしながら首をのばした。ひと目でわかった。換気システムがとまったとき、中にいたものが死んだのだ。屍体は、展望窓によりかかるようにして、からだをまるめ、片手には、重い水差しをつかんでいた。その水差しはこわれていたが、窓はそのまま残っていた。  つぎの房はからっぽだった。ルイスは、その中にはいりこんだ。  そこは、さっきまでいたのとは反対側の、右舷に面した部屋だった。ちょうど真正面に、あの縦型台風がのぞまれた。そこから二千五百マイルも離れていることを思うと、その巨大さは想像を絶する。意味ありげにこっちを見つめている、大きな青い目だ。  そこから回転方向《スピンワード》に、客船のような細長いかたちの建物が浮かんでいた。ちょっとのあいだルイスは、この都市に、何かの手違いから宇宙船がかくされているのではないかと考え、それをのっとりさえすれば、リングワールドから離れられると思った……。  つかのまの気やすめだった。  ルイスは、つとめて、この都市のパターンを頭にいれようとした。これは大事なことだ。なにしろ、まだ文明の徴候が残っているのに出会った最初の場所なのである。  ひと休みしてそこを出ることにしたのは、たぶん一時間くらいたったころだろう。埃のたまった卵形の寝台に隈をかけたまま、〈目〉をふりかえり、そして……その〈目〉の彼方、すぐそばによりそうように、小さいが鮮やかな灰褐色の三角形があるのを目にとめた。 「フム」  ルイスは、かすかに息をついた。  三角形はひどく小さく、かろうじてその形にみえるくらいだった。無限の地平の、白っぽい灰色にかすむ中に、ちょこんとすわっている。つまりそこは、まだ昼間なのだ……方向は、ほとんどまっすぐ右舷だというのに。  ルイスは、双眼鏡をとってきた。  双眼鏡でみると、細部がちょうど月の環状山《クレーター》をみたときのように、はっきりと鮮明にみえた。  不規則な三角形だ。赤茶けたふもとに、山頂の近くの汚れた雪……〈神の拳〉だ。いままで思っていたよりもずっと大きなものだったらしい。これだけ遠くからみえるとなると、山の大部分は、大気圏から外へ出ていることになる。  一行はフライサイクルで、あの墜落の場所から、およそ十五万マイルを翔破していた。とすると、〈神の拳〉は、少なくとも高さ一千マイルはあるだろう。  ルイスは、ヒュウと口笛をならして、もう一度、双眼鏡をとりなおした。  ほとんどまっくらな中にすわっていたルイスは、頭上のもの音に、ようやく気づいた。  監房のドアから上へ、首をつきだす。 〈|獣への話し手《スピーカー・トゥウ・アニマルズ》〉がうなった。 「ルイス、こっちへこいよ!」  彼は食いかけの、山羊の胴体ほどの大きさの赤い生肉を振ってみせた。それから、シャトーブリアン・ステーキほどもあるひと口をかじりとり、つづいてもうひと口、さらにひとロ。彼の歯は、引きさくためのもので、咀嚼するようにはできていないのである。  手をのばすと、まだ蹄と皮のついたままの、血のしたたるうしろ脚をとりあげた。 「ルイス、おまえにもとっておいたぞ! 死んでから数時間たっているが、まあ、かまわん。急がなければならんのだ。草食いは、食っているところを見たくないという。やつは、あの部屋から外を眺めているところだ」 「こっちの部屋からも見たほうがいい」と、ルイス。「〈|話し手《スピーカー》〉、〈神の拳〉の大きさを、われわれは見そこなっていたらしい。あの高さは、少なくとも一千マイルはある。山頂を蔽ってるのは、雪じゃなくって──」 「ルイス! まあ食え!」  ルイスの口の中に、唾液がわいてきた。 「そいつ、なんとか料理する手があるはずだがね……」  たしかにあった。 〈|話し手《スピーカー》〉に皮をむいてもらい、蹄の部分を階段のひびわれにさしこむと、一歩さがり、高出力にした携帯レーザーのビームをひろげて焼いたのである。 「肉が新鮮でないといって、燃やしてしまうとはな」〈|話し手《スピーカー》〉がふしぎそうにつぶやいた。 「ネサスはどうなんだ? 囚われの身なのか、それとも、のっとりに成功したのか?」 「ある程度はな。上を見てみろ」  見張り台の縁に腰かけたあの女は、小さな人形のようにみえた。足を宙にブラブラさせながら、白い顔と頭をかしげて下をのぞきこんでいる。 「わかったか? 彼女は、あいつから目を離したがらないのだ」  肉が焼きあがった。それにかぶりつきながら、彼は〈|話し手《スピーカー》〉のイライラした視線を感じていた。ルイスの食べかたが、おそろしくまどろこしくみえるのだろう。ルイスにしてみれば、飢えた野獣のように食べているつもりだった。  なにしろ飢えきっていた。  パペッティア人に不快な思いをさせないため、ふたりは、残った骨を、こわれた窓のひとつから、市街の上空へほうりだした。それから一同は、パペッティア人のフライサイクルのところへあつまった。 「あるていど馴らしました」ネサスがいった。  何か息苦しそうだ……それとも、生肉と焼肉のにおいに辟易していたのかもしれない。 「彼女は、たくさんのことを話してくれました」 「なぜわれわれをつかまえたのか、ききだしたかい?」 「はい、それ以上ですよ。わたしたちは幸運でした。彼女は宇宙飛行士、つまり、あのラムシップの乗員だったのです」 「そいつはすごい!」と、ルイス・ウーは叫んだ。 [#改ページ]      21 壁の向こうからきた女  彼女の名は、ハールロプリララー・ホトルーファンといった。  彼女は、ラムシップの乗員だった……船名は〈パイオニア〉。その名を、ネサスは、ちょっと考えながら口にしたが……その船に彼女は、二百年のあいだ乗り組んでいたのだという。  パイオニア号は、二十四年に一回の割で、四個の太陽とその星系をつなぐコースに就航していた。酸素大気をもつ五つの惑星と、このリングワールドをつないでいたのである。ここで〈年〉というのは、まったく慣例的な呼称で、リングワールド自体とは何の関係もない。それは、すでに放棄された惑星のどれかの公転軌道によってきめられた単位のように思われた。  リングワールドができる以前、五つの惑星のうちふたつは、すでに人間でギッシリ埋まっていた。いまでは、五つとも完全に放棄され、気ままに繁茂した植物と、崩壊した都市の遺跡しか残っていない。  ハールロプリララーは、その航路を八回めぐった。それらの惑星には、夏冬の区別のないリングワールドに適応できない動植物が繁殖している。植物のあるものは香料になり、動物のあるものは食用になった。それ以上のことは──−ハールロプリララーにはわからないし、気にもならなかった。  彼女の職種は、積荷とは関係のないものだった。 「同じように、推進機関にも、生活システムにも関係していません。彼女がどういう役目なのかは、わかりませんでした」と、ネサスはつづけた。「パイオニア号の乗員は、三十六人でした。何人か余剰人員がいたことは、まちがいありません。彼女の仕事は、そう複雑でもなく、また船や乗員にとって必須のものでもなかったようです。彼女の知性は、とくに優れているとも思えません」 「乗員の男女比をきいてみたかい? 三十六人のうち、女は何人だった?」 「それはききました。三人です」 「じゃあ、彼女の仕事のことは、気にしないほうがいいね」  二百年の航行。平穏と冒険と。そして、彼女にとって八回目の航行が終わってもどってきたとき、リングワールドは、パイオニア号の信号に応えてこなかった。  着陸用の電磁砲《カノン》も作動しなかった。望遠鏡で見るかぎり、どの[#「どの」に傍点]宇宙港にも、活動の気配はなかった。  パイオニア号のめぐる五つの惑星には、電磁砲《カノン》の備えはなく、したがってパイオニア号は、航行途上で恒星間水素を凝縮した減速用の燃料を積んでいた。だから着陸することはできる。……しかし、どこへ?  リングワールドの表面へおりることはできない。隕石防禦装置が、船を吹っとばしてしまうだろう。宇宙港へ着陸の許可も得られない。それに、そこでは何かまずいことが起こっているらしいのだ。  見捨てられた故郷の惑星のどれかへもどるべきか? それはつまり、三十三人の男と三人の女で、新たないとなみのスタートを切るということになるのだが。 「彼らは、日常の業務から逸脱することのできない人びとで、そういう決心をするのは到底無理でした。パニックに陥り、反乱が起こりました。パイロットが、操縦室をロックしてとじこもり、ようやくパイオニア号を宇宙港の張りだしの内側へおろしました。ハールロプリララーの話によると、彼はそうして船と人びとの命を危険にさらしたため、みんなに殺されたということです。本当に、正式の許可なくロケットで着陸して規則を破ったから罰せられたのかどうか、その点は疑問のように思えますが」  誰かの視線を感じて、ルイスはふり仰いだ。  女は、まだ見おろしている。ネサスも、片方の頭をそっちに向けて答えていた。左側の頭だ。  とすると、タスプはその[#「その」に傍点]頭に埋めこまれているのだ。そしてそれが、さっきからネサスがずっと上を向いている理由でもあった。彼女は、ネサスを、目のとどくところから離したがらないし、ネサスもまた、タスプの甘美な働きかけから、彼女を放してやるわけにはいかないというわけだ。 「操縦士を殺したあと、彼らは船を捨てました」ネサスはつづける。「そのときになってはじめて、彼らは、操縦士が最悪の事態をひきおこしていたことを知りました。ツィルタン・ブローンが作動しない。こわれていたのです。彼らは一千マイルの高さをもつ壁の向こうで、立ち往生してしまったのです。  ツィルタン・ブローンに相当する|共 通 語《インターワールド》や〈ますらおことば〉を、わたしは知りません。しかし、その作用は説明できます。これは、わたしたちにとっても、重大な意味をもつことになるでしょう」 「つづけろよ」と、ルイス・ウー。  リングワールドの建設者は、万一の場合をも考慮していた。いろんな形跡からみて、どうやら彼らは文明の凋落をも考慮し、保障措置を講じていたようだ。文明と野蛮とのくりかえしを、人間の天性とみたのかもしれない。  おそろしくこみいった構造をもつリングワールドだが、保守がゆきとどかないために崩壊するようなことがあってはならない。建設者の子孫が、エアロックや電磁砲《カノン》の調整法や、惑星の動かしかた、|飛 行 車《フライング・カー》の製造法などを忘れることは、ありうるだろう。それで文明は終焉を迎えることになるが、リングワールドそのものは無事でなければならない。  例えば、あの隕石防禦装置の完璧さという点でも、ハールロプリララーは──。 「プリルとよぼうや」と、ルイスは提案した。  ──プリルやその仲間は、万が一にもそれが故障している可能性など、考えもしなかったのだ。  しかし、宇宙港をどう装備すればいいのだろうか? いかに万全の備えをしておいたとしても、どこかの間抜けが、内外のドアをあけはなしてしまったらどうなるのか?  そもそもエアロックなどはなかったのだ!  その代案が、ツィルタン・ブローンだった。それは、リングワールドの床面や側壁をなしている構成物質に作用し、ふつうの物質に対して透過性をもつようにする装置だった。通りぬけるのに、いくらかの抵抗はある。ツィルタン・ブローンが働いていると──。 「一種の浸透性発生機だな」と、ルイス。 「そうですね。ブローンというのは、一種の変換機という意味のようでしたが、いかがわしいしろものです」  ──その浸透性発生機が働いているあいだ、空気は洩れていくが、その量は微々たるものだ。宇宙服を着て、ゆっくり一様に吹きつける風にさからって進めば内側へはいることができる。機械類など大きなものは、トラクターで引っぱりこめばよい。 「呼吸用の圧搾空気はどうやってとるのだ?」と、〈|話し手《スピーカー》〉。  だが、彼らはそれを、壁の外側で、物質変換機によってつくっていたのである。  そう、リングワールドには、安あがりの物質変換技術があったのだ。多くの量を一度に扱うことで安く上がるのだが、他の点でもひどく性能の限られたものだった。装置自体おそろしく大きい。しかも、一種類の元素からべつの一種類をつくることしかできない。  宇宙港には二台の変換機があり、それぞれ、鉛を窒素と酸素に変えるのだった。鉛は、貯蔵しておくにも、側壁に沿って運搬するにも、便利な物質である。  浸透性発生機は、まさしく万が一の場合を考慮にいれた設備であった。エアロックがこわれれば、それこそ台風のような勢いで、空気が失われていくことになる。しかし、ツィルタン・ブローンがこわれた場合、起こりうる最悪の事態は、エアロックが外界を──それによって、帰投する宇宙船の乗員をも──締めだしてしまうだけである。 「われわれのほうは締めこまれているわけだな」と、〈|話し手《スピーカー》〉。  ルイスがいう。 「そう結論を急ぐなよ。とりようによっては、その浸透性発生機さえあれば、ぬけだせることになるぜ。|うそつき《ライヤー》号を動かす必要なんかぜんぜんない。ツィルタン・ブローンってやつを──」  まるで、スルスルブーンと音を立てて動きだしそうな名前だ。 「──|うそつき《ライヤー》号の下の環《リング》の面へ向けてやればいい。船は、流砂におちこんだみたいに、床面へ沈んでいくだろう。そして、向こう側へぬけてしまう」 「そこで、隕石緩衝用のプラスティック層につかまってしまうぞ」と、クジン人が反駁した。  だが、すぐに〈|話し手《スピーカー》〉はつづけた。 「いや、もとえだ。スレイヴァー式の武器で撃ちぬけばいい」 「そのとおりです」と、ネサス。「しかし、不幸にして、ツィルタン・ブローンは、手にはいらないのです」 「でも、彼女はここにいるじゃないか。どうやってはいってきたというんだ?」 「はい……」  電磁流体力学の専門家が、装置の原理を学びなおして、彼らはツィルタン・ブローンの復元にとりかかった。数年がかりの仕事だった。機械は動かないばかりでなく、部分的にねじまがったり融けたりしていたのだ。部品から製造してかからなければならなかった。調整しなおすと、いずれはいかれてしまうはずの部分もあったが、それでも必要な時間だけは保《も》ちそうに思われた……。  そのとき、事故が起こった。調整を誤って性質の変わった浸透ビームが、パイオニア号をつらぬいたのである。乗員がふたり、腰まで金属の床に沈んで死に、十七人が、体内の滲透膜組織が透過性をもちすぎたために、永久的な脳障害などを起こして廃人となった。  しかし、残る十六人は、外壁を通りぬけた。廃人となった人びとも、いっしょに連れてはいった。ツィルタン・ブローンそのものも、リングワールドが居住不能となっていた場合に備えて、中へもちこんだ。  そして彼らは、この退化した世界に直面したのだった。そこは未開の地以外の何ものでもなかった。  数年後、何人かが船にもどろうとした。  ツィルタン・ブローンは、作動中に停止し、四人が外壁の中へとじこめられた。それで何もかも終わりだった。このときにはもう、リングワールド上のどこにも、住むに堪える場所のないことがわかっていたのである。 「わからんな。どうしてそんな早く、野蛮への逆行が起こったのか」と、ルイス。「パイオニア号は、二十四年周期でまわっていたんだろう?」 「船内時間で二十四年です、ルイス」 「ああそうか。じゃ、差が出るわけだ」 「はい。リングワールドの重力と同じ推力で飛ぶとすると、どの星へいくにも三年から六年で足ります。実際の距離は、たいへん大きいのです。プリルは、平均銀河平面の方向へ二百光年ほどいったところに、放棄したもとの居住星系のひとつがあるといっていました。十光年ほどたがいに離れた、三つの太陽だそうです」 「二百光年ね……人間の空域に近いな。そうじゃないか?」 「たぶんそうでしょう。一般に、酸素大気の惑星が、あの付近ほど多くあつまっているところは、ほかにありません。ハールロプリララーの話によると、そのあたりの惑星に対して、長期にわたる改造計画が実施されたそうです。リングワールドが建設されるよりも、ずっと前のことです。その方法は、しかし、あまりに時間がかかりすぎました。とうとうがまんしきれなくなった人びとは、それを中途で投げだしてしまったのです」 「それで、ずいぶんいろんなことが説明できるな。ただわからんのは……いや、まあいいだろう」 「霊長類の由来ですか、ルイス? あなたの種族が、地球で進化したことは、疑う余地がありませんよ。ただし地球が、その近くの星系に対する改造計画の基地に使われた可能性はありますね。建設者がそこへ、ペットや奴隷をつれていったかもしれません」 「そいつが猿やチンパンジーや、ネアンデルタール人だっていうのか……?」  ルイスは、あわてて手をふった。 「そいつは、ただの推量だ。それに、いまこんなことを知ってもしようがない」 「そのとおりです」パペッティア人は、自分のサイクルから出した煉瓦を、ムシャムシャやりながらしゃべりつづけた。「パイオニア号の周回航路は、三百光年以上の距離にわたっていました。ひと航行のうちに、大きな変化が起こるよゆうは、あったでしょう。めったにありえないことですが。プリルの社会制度は、ごく安定性の高いものでしたから」 「リングワールド全体が未開に逆行しちまったということが、どうして彼女にわかる? 彼女の仲間は、どのくらいの範囲を調査したんだ?」 「ほんのわずかです。ですが、それで充分なのです。プリルのいうとおりです。ツィルタン・ブローンを修理する方法もありません。いまでは、全リングワールドが、未開にもどっているでしょう」 「だから、それがどうしてわかるんだ?」 「プリルは、ことの真相について、仲間のひとりがいったことを伝えてくれました。もちろん、ずっと簡略化した説明です。崩壊のプロセスはパイオニア号が最後の航行に出発する数年前にはじまっていたのです……」  住民のいる十個の惑星があった。リングワールドが完成したとき、それらはすべて放棄され、人間の手がいっさい加えられないままに、それぞれわが道を歩むこととなった。  そういう世界を想像してみるがいい。  地上は、さまざまな発展段階の都市に蔽いつくされていた。たぶんスラム街などという感覚は時代遅れだろうが、あるいは歴史の標本として残されていたかもしれない。そういった土地全体に、あらゆる種類にわたる人間生活の副産物が遺棄された。使用ずみのコンテナや、こわれた機械や、汚損した本やフィルムやテープなど。その他、再生利用のできないものは何でも。加えて、利用できるものもいろいろ。  海洋は十万年にわたって、ごみ捨て場に使われてきた。その中のある時期には、核分裂による最終段階の放射性物質も捨てられたはずである。ここでもし、そういう新しい環境の海に適応する生物が生じたとしても、ふしぎといえるだろうか? 「地球でもその例はあったよ」ルイスが口をはさんだ。「ポリエチレンを食う酵母菌の一種が現れたんだ。スーパーマーケットの棚にある、プラスティック包装を食うやつだ。もう死滅したが、おかげでポリエチレンは使えなくなっちまった」  そういう惑星が十個あったのだ。  亜鉛化合物や、プラスティックや、塗料や絶縁体など、新しいものから何千年も前のものにいたる廃棄物を食う細菌が、進化によって出現した。しかし、ラムシップさえ来なければ、それもどうということはなかったろう。  忘れられた生命形態や、リングワールドに適応できなかった生物の種を求めて、ラムシップは、規則ただしくこれらの古い世界を訪れた。そして、これ以外のものをも持ちかえった。おみやげ、つまり、運び忘れたりあとまわしにされていた芸術品などだ。博物館の内容などは、まだ、ごく貴重なものから順に、運搬されている最中であった。  ラムシップの一隻が、高度な機械類に多く使われていた、常温で超伝導を示す物質を食い荒らす性質をもったカビ[#「カビ」に傍点]を、その世界のいずれかから持ち帰った。  そのカビ[#「カビ」に傍点]が、徐々に作用した。まだ発生したばかりの単純なもので、はじめのうちは、容易に駆除することができた。だが、さまざまな変種が、何隻ものラムシップで、幾度にもわたって運びこまれたのかもしれない。遂にその変種のひとつが、事態を決定的なものにした。  作用がゆっくりしているため、ラムシップの被害がわかったのは、到着したずっとあとのことだった。宇宙港のツィルタン・ブローンがやられる以前に、多くの乗員や作業員たちが、それを中へもちこんだ。動力ビーム受容装置にはいりこんだのも、外壁の上に設置された電磁砲《カノン》による輸送シャトルが、それをリングワールド全域にばらまいたあとのことであった。 「動力ビーム受容装置って?」 「ここでの動力は、|遮 光 板《シャドウ・スクエア》で熱電装置によってつくられ、リングワールドの表面へ、無線ビームで送られます。おそらくそのビームも、安全保障システムになっていたのでしょう。わたしたちが、その放射を探知できなかったのは、受容装置がこわれると同時に、自動的にスイッチが切られていたからでした」 「たしか、ほかにも超伝導を得る方法はあるはずだ」〈|話し手《スピーカー》〉がいいだした。「ちがった温度帯で働く、基本的な分子構造が、二種類知られている」 「少なくとも四種類あります」ネサスが訂正した。「あなたがいったとおり、リングワールドは、都市の崩壊のあとも無事に残るようになっていました。もっと若く活気のある社会なら、この事態にも適応できたでしょう。しかし、それには多くの困難がありました。  動力が切れて建物が墜落したとき、指導階層の大部分が死んでしまったのです。  動力がなければ、超伝導を得る他の方法を見つけだすための実験もできません。貯えられていたエネルギーも、権力を持ったものに徴発されたり、もしやどこかにこの危機を切りぬけたものがいるのではないかと、他の都市区域をとびまわることで消費されてしまいました。ツィルタン・ブローンも超伝導を使っているので、ラムシップの核融合エンジンにも手がとどきません。誰かが大きな成果をあげても、ほかの地域へ伝えることができません。電磁砲《カノン》を動かしていたコンピューターも動かず、電磁砲《カノン》自体もエネルギーを失っていたからです」  ルイスがいった。 「釘の不足で王国が崩れるってやつだな」 「その話は知っています。ですが、厳密には、今の場合にあてはまりません」と、ネサス。「なんとかできたはずなのです。液体ヘリウムをつくる動力は、あったのです。動力ビームがとだえた以上、その受容装置を修理してみても何にもなりません。ですが、ツィルタン・ブローンは、液体ヘリウムで冷却した超伝導金属でも使えるのです。ツィルタン・ブローンを使って宇宙港へはいり、船を|遮 光 板《シャドウ・スクエア》へとばせて動力ビームのスイッチを入れ、べつの液体ヘリウム冷却超伝導体で受容装置を動かせばいいわけです。  しかしそれも、動力の貯蔵がないとできません。その動力は、街灯や、まだ残っている建物の浮揚や、また食糧の調理や冷凍に使われてしまいました! こうして、リングワールドは没落したのです」 「で、こっちも、手も足も出ないというわけか」と、ルイス・ウー。 「はい。わたしたちはハールロプリララーに出会えて幸運でした。これ以上、無益な旅をつづける手間が省けたわけですから。外壁にたどりついたとしても、何にもならないのです」  ガーンと頭をなぐられたような思いだった。ルイスは、頭痛をさえ感じた。 「幸運か」と、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉。「なるほど。だが、幸運だというのに、どうして心がはずまないのかな? われわれは、その目標とともに、脱出のわずかな望みさえ失ったのだぞ。われわれのサイクルも破壊された。隊員のひとりは、この都市の中で迷子になっているしな」 「死んだよ」と、ルイス。  けげんな様子でふり向くふたりに、彼は薄暗がりの中を指さしてみせた。四つのヘッドライトのひとつにとらえられて、ティーラのフライサイクルは、見誤りようもなかった。  彼は言葉をついだ。 「さあ、これからは、自分で幸運を切りひらかなきゃならないぜ」 「はい。でもルイス、これで、ティーラの幸運が、偶発的なものだったことは、認めるでしょうね。もしそうでなければ、彼女が|うそつき《ライヤー》号に乗ったはずがないし、船が墜落したはずもないのですから」パペッティア人は、そこでふいにことばを切って、つけ加えた。「お気の毒です、ルイス」 「かわいそうなことをした」〈|話し手《スピーカー》〉がうなった。  ルイスは、うなずいた。もう少し悲しみが湧いてきていいはずだった。だが、あの嵐の目の中での出来ごとが、彼のティーラに対する気持を、奇妙に変えてしまったらしい。  彼女は時によって、〈|話し手《スビーカー》〉やネサス以上に非人間的なように感じられる。彼女は神秘だ。異星人のほうが、むしろ実在的だった。 「新たに目標をさがさなければならんな」〈|話し手《スピーカー》〉がいいだした。「|うそつき《ライヤー》号を宇宙へもどさなければならぬ。だが、おれにはまったく方法が思いつかん」 「ぼくは思いついた」ルイスがいった。 〈|話し手《スピーカー》〉は仰天したようだ。 「もう代案を考えたというのか?」 「もう少し、練らせてほしい。できるかどうかはさておき、自分が正気なのかどうかも自信がないんだ。とにかく、乗っていくものが要る。それを先に考えよう」 「橇のようなものだな。残ったフライサイクルで、それを曳いていけばよい。大きな橇だ。建物の外壁が使えるだろう」 「それよりいいことがあります。ハールロプリララーを口説いて、この建物を浮かばせている機構でこれを動かしていくことができると思います。この建物自体が、乗り物になるというわけです」 「やってみてくれ」と、ルイス。 「で、あなたの案というのは?」 「もうちょっと時間をくれないか」  建物の中心部は、機械でギッシリと占められていた。その一部が浮揚装置で、他に、空調や、水分の凝縮と給水、そして厳重に隔離された一画に、あの電磁捕獲装置があった。  ネサスが作業をしているあいだ、ルイスとプリルは、ぎごちなく互いを無視したまま、それを見まもって立ちつくしていた。〈|話し手《スピーカー》〉はまだあの大きな牢獄の中だった。プリルが彼をうけいれないのだ。 「彼女はこわがっているのです」ネサスはその件について〈|話し手《スピーカー》〉にこういっていた。「押しきることはできます。あなたをフライサイクルのひとつに乗せ、あなたが台の上にあがらないうちはわたしがいっしょに行かないといえば、彼女はあなたをもちあげてくれるでしょう」 「途中までもちあげて、落とすかもしれんぞ。やめておこう」  だがルイスのほうは、いれてもらえた。  彼女を無視するふうを装いながら、彼は観察をつづけていた。彼女のくちびるは細く、事実上ないにひとしい。鼻は小さくて細くまっすぐだ。眉毛もない。表情がないようにみえたのも無理はなかった。要するに、かつら屋の使う頭型《ダミイ》と大差のない顔だちなのである。  二時間ほど何かやっていたあげく、ネサスは、パネルの修理孔から首をひきぬいた。 「移動性を与えることはできそうにありません。浮揚|力場《フィールド》には、浮揚の働きしかないのです。しかし、位置固定用の修正機構ははずしました。これで、この建物は、風のまにまにというわけです」  ルイスは、ニヤリとした。 「じゃ、曳航すればいい。あんたのフライサイクルに綱をつけて、この建物を引っぱるんだ」 「その必要はありません。フライサイクルの動力は、無反動のスラスター駆動です。建物の中に固定しておけば働かせられます」 「まずそっちのほうに頭が働くんだな、え? しかし、スラスターはおそろしく強力だ。もしサイクルが、この中で、固定した材料を引きちぎったが最後──」 「はい──」  パペッティア人は、プリルをふりかえると、ゆっくりと、リングワールドの神のことばで、かなり長いあいだ話しあった。それからルイスに向かっていった。 「電流硬化性のプラスティックがあるそうです。そのプラスティックで、操縦席だけを残して、フライサイクルを埋めこんでしまえばよいのです」 「ちょっとオーバーすぎないかい?」 「ルイス、もしフライサイクルが固定からはずれたら、怪我をするのはわたしですよ」 「うん……まあな。でも、この建物を、好きなとこへ降ろすことはできるのかい?」 「はい。高度制御装置があります」 「じゃ、偵察用のサイクルも要らないわけだ。よし、やろうぜ」  ルイスは休息していたが、眠ってはいなかった。大きな卵形のベッドの上に、仰向けに寝ころんで、両眼を見ひらいたまま、天井にふくらんだ窓ごしに、上空を見あげているのだった。  |遮 光 板《シャドウ・スクエア》の縁に、太陽のコロナの端がのぞいている。もう夜明けが近い。だが、黒い空の中のアーチは、まだ青く鮮やかに輝いていた。 「おれは気が狂ったにちがいない」ふと、彼はつぶやく。  そしてまた──。 「しかし、ほかにどんな案があるというんだ?」  この寝室は、支配者の居住区域の一部だったらしい。今はそれが、操縦室になっている。彼とネサスが、フライサイクルを、付属の衣裳部屋にはこびこみ、その上にもまわりにもプラスティックを流し──それから、プリルの助けもかりて──そのプラスティックに電流を流し、固めたのである。小部屋は、ちょうど手ごろな大きさだった。  ベッドには時代のにおいがしみついていた。彼が身うごきするたびに、カサカサという音をたてる。 「〈神の拳〉か」闇に向かって、ルイス・ウーはつぶやいた。「この目で見た。高さ一千マイル。いくらなんでも、はじめからあんな高い山をつくったとは……」  あとは口の中。  ついで、いきなりベッドの上に、まっすぐ上体を起こしながら、声をあげた。 「|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の糸がある!」  人影がひとつ、寝室にすべりこんできた。  ルイスは凍りついた。入口のあたりは暗い。それでも、流れるような動きと、かすかな陰影をなす曲線でそれとわかる、はだかの女がひとり、歩みよってくる。  幻覚だろうか? ティーラ・ブラウンの幽霊だろうか?  心をきめかねているうちに、彼女はもう、すぐそばにいた。自信にみちた態度で、彼と並んでベッドに腰をおろす。手をさしのべると、彼の顔に触れ、指先をスウッと頬にそって下へ這わせた。  彼女の頭は、ほとんど禿げていた。歩いてくるとき、丈なす黒髪を波うたせていたが、それはぜんぶ、うなじから頭の周囲一インチほどの幅に生えているだけなのだ。暗い中なので、表情はまったくわからない。しかしそのからだは美しかった。そのからだの線を見たのは、はじめてだった。やせ型で、本職のバレリーナのような細く強い筋肉に包まれ、胸は高くゆたかにつき出ている。  その姿に見合う顔さえあったら……。 「来ちゃいけない」ルイスは、おだやかにいった。  手首をつかんで、顔にふれている指先の動きをとめた。まるで理髪師の顔面マッサージのように、どこまでもやわらかい動きだった。彼は立ちあがると、彼女を引っぱって立たせ、その肩に手をかけた。  もしここで、彼女の向きをかえて、入口のほうへ押してやったとしたら──?  彼女はなおも、彼の首の両側に手をのばしてきた。こんどは両手だ。彼の胸にふれ、そこかしこと触れる。ふいにルイスは、目のくらむような欲情を感じた。両手が、彼女の両肩を、強くにぎりしめる。  彼女は両手をダラリとさげた。そのまま、彼がジャンパーを脱ぐのを、何もせずにじっと待っている。だが、やがて彼の皮膚があらわになると、またあちこちと触れはじめた。べつに神経の敏感な場所をえらんでいるわけでもないのに、触れられるたびに、脳の快感中枢を刺戟が走りぬける。  彼は炎のように燃えた。もし彼女が拒んだら、暴力に訴えただろう。彼女を自分のものにしなければ──。  だが、脳の中のどこか醒めた部分では、彼女が彼の肉体をもえたたせたのと同じくらいの早さで静めてしまえることを、彼は知っていた。若いサテュロスのようにいきり立ちながら、彼はまた、自分があやつり人形にしかすぎないことをも、ぼんやりと意識しているのだった。  しばしのあいだ、彼はこれ以上ないほど無我夢中だった。  そのときも、彼女の顔は、まったく何の表情も示さなかった。  彼女は彼を、オルガスムのきわ[#「きわ」に傍点]までいざなって、そこでさしひかえ、そこでさしひかえ……そして、その瞬間がきたときは、まるで稲妻につらぬかれたかのようだった。しかも、その稲妻は、いつまでも、炎のようなエクスタシィの放出となって輝きつづけるのだった。  それが終わったとき、彼はもう、彼女が身を離したことにも、ほとんど気がつかなかった。彼をボロ布のように絞りつくしたことが、彼女にはよくわかったにちがいない。彼女がドアへいきつかないうちに、彼はもう眠りに落ちていたのだ。  目がさめたとき、まずそのことが頭に浮かんだ。  彼女はなぜ、あんなことをしたんだ? わかりきった話さ、と、彼は自答した。──彼女は、さびしかったんだ。ここにずいぶん長いこといたにちがいない。あれだけの技倆を持ちながら、それを発揮するチャンスが一度もないままに……。  技倆[#「技倆」に傍点]というべきだろう。そんじょそこらの教授などより、解剖学には詳しいにちがいない。売春学博士とでもいったところだろうか? 文明史上最初の職業だという、それより以上に、そこには何かがあった。ルイス・ウーは、どんな分野だろうと、その道の権威は認める主義だ。彼女は、たしかにそれ[#「それ」に傍点]であった。  正しく順を追って神経を刺戟していけば、対象は理論どおりに反応する。正しい知識があれば、人間をあやつり人形にすることも可能なのだ……。  ……あやつり人形。  ティーラ・ブラウンの幸運にあやつられる……。  彼にはもう、すべてのからくりがわかっていたといえるだろう。解答を手にしていた彼には、いよいよそれが現実となったときにも、たいした驚きはなかった。  ネサスとハールロプリララーが、冷蔵室からあとじさりに出てきた。人間よりちょっと大きめの、羽のない鳥の屍体を、布でくるんで引きずっている。包んだのは、ネサスが直接その屍体に触れたくなかったかららしい。  ルイスもパペッティア人に力を合わせた。彼とプリルが同じ側に前後に並んでひっぱる。彼女と同じように彼も両手を使わなければならないほどの重さだ。彼女がうなずいて歓迎の意を示すのに答えてから、彼はたずねた。 「彼女は何歳くらいなんだ?」  ネサスは、意外そうな様子もみせずに答えた。 「知りません」 「ゆうべ、彼女がぼくの寝室へやってきたんだ」  反応なし。  異星人には何のことかわかるはずがない。 「ぼくらが子供をつくるためにやることを、レクリエーションのためにやることがあるのは知ってるね?」 「そのことは知っています」 「それをやったのさ」と、ルイス・ウー。「彼女は、その熟練者だった。あまり手なれてるんで、千年もかけて訓練をうけたんじゃないかと思ってね」 「ありえないことではありません。プリルの属する文明は、生命をのばすのに、細胞賦活剤《ブースタースパイス》よりはるかに進んだ合成薬品を用いていました。現在では、それは何ものにも代えがたい価値をもっています。一回の服用で、およそ五十年の若さが保証されるのです」 「それを彼女がもう何回服んだかは、聞いたことないのかい?」 「いいえ、ルイス。しかし、彼女はここまで、徒歩でたどりついたということです」  一同は階段を、独房の並んだ円錐形の牢獄へおりていった。引きずっている鳥の屍体が階段ではずむ。 「ここまで、どこから歩いて?」 「外壁からです」 「二十万マイルをかい?」 「そのくらいあるでしょう」 「ぜんぶ話してくれ。彼女の仲間が、壁のこっち側へはいってからあとのことを」 「きいてみましょう。そのことは、まだよく知らないのです」  そうしてパペッティア人は、プリルに質問をはじめた。少しずつ、ほんのわずかずつ、その物語は展開していった。  彼らは、最初に出会った未開人の一群により、神として迎えられた。その後も、ある特定の場合を除くと、同じことがつづいた。  神となったことで、ひとつの問題がなんとか解決した。修理なかばのツィルタン・ブローンの暴走で脳をやられた乗員を、村ごとに残していくことができたからである。生ける神として、彼らは手厚く扱われるだろう。頭がいかれている以上、神にしてはむしろ崇りの少ないほうであるはずだ。  パイオニア号の残りの人びとは、そこでふた手に分かれた。プリルを含む九人は、反回転方向《アンチスピンワード》へと向かった。プリルの生まれた都市は、そっちの方向だった。両グループとも、外壁ぞいに旅をつづけながら、文明をさがす計画だった。どっちかが見つけたら、すぐに相手かたへ救援を送るよう申しあわせた。  行くさきざきで神として迎えられたが、そこに他の神がいる場合だけは別だった。都市の没落のあとにも、わずかな生存者がいた。気の狂っているものもあった。その誰もが、手にはいるかぎりは、長命薬の服用をつづけていた。そして誰もが、文明の残っている地域がないかと、探し求めていた。自分でそれを再建しようと考えているものは、ひとりとしていなかった。  反回転方向《アンチスピンワード》へ進んでいくにつれ、そういった生存者が仲間に加わった。いわばオリンポスの神々の一行といったところである。  どの都市にも、墜落してみじんにくだけた塔があった。それらの塔は、リングワールドの完成後に、宙に浮かべられたものだが、加齢防止薬の発明はそれよりも数千年あとのことだった。その発明以後の世代は、ぐっと用心ぶかくなっていた。役職などで止むをえない場合以外は、できるだけ浮かぶ建物に近づかないものが多くなった。そしてやがて、安全着地装置や、自家動力発生装置が開発されたのだった。  それらの建物のうち、まだいくつかは浮かんでいるものもあった。だが、大部分は、都市の中心部に墜落し、粉々になっていた。動力ビーム受容装置の最後の一基が焼け切れたときに、全部が一斉に墜ちたのだった。  たまたまこの流浪の神の一行は、一部分復興して周辺部に住民のいる都市を見つけた。そこでは、神様のふりは通用しなかった。ここで一同は、長命薬と引きかえに、ちゃんと動く自己動力の大型自動車を手にいれるという幸運にめぐりあった。  そのようなことは、そのあと長いあいだ起こらなかった。もう彼らはあまりにも遠くまで来ていた。当初の気力も萎え、車もこわれてしまった。なかば壊滅した都市で、没落を生きのびた人びとと出会ったのを機に、一行の大部分はそれきり動く気をなくし、その場に落ちついた。  しかし、プリルには地図があった。生まれ故郷の町は、そこからまっすぐ右舷の方向にあたる。彼女は、ひとりの男を説きつけて、いっしょに歩きだした。  途中ずっと神様のふりをして通してきた。だが、ついにお互いに相手に飽きてしまい、プリルはそのあとひとりで進んだ。神様のふりが通用しにくいところでは、長命薬を少量ずつ交易に使った。あるいはまた──。 「彼女には、人びとを手なずける別の力がありました。それについても説明してくれましたが、わたしにはよくわかりません」 「ぼくならわかる」と、ルイス。「それでやっていくこともできるんだ。彼女は、タスプと同じような能力をもってるんだよ」  やっと故郷の町へ帰りついたときには、興奮でいささか気が変になっていたようだ。彼女は、地上におりていた警察署に居をさだめた。何百時間もかけて、その機構の動かしかたを調べた。そして、まずやったのは、その建物を宙に浮かべることだった。自家動力をもったその建物は、都市の没落のあと、用心のために地上へおろしてあったのだ。  それからも、間一髪のところで塔を地上に墜落させて自分も死んでしまうような局面には、何度か出くわしたらしい。 「交通違反者をとらえる装置があったので、彼女はそのスイッチをいれました」と、ネサスはしめくくった。「自分と同じような、都市の没落を生きのびた人間をつかまえようと思ったからです。つまり、車でとんでいるものは文明人だろうと考えたのです」 「じゃ、どうして、つかまえた相手を、あの屑鉄の海の中におきっぱなしにしたんだろう?」 「万一の用心でしょう、ルイス。彼女が正気にもどっていた証拠ですよ」  ルイスは眼下の独房の列を見て、顔をしかめた。こわれた金属の残骸の上に鳥の屍体をおろすと、〈|話し手《スピーカー》〉がその前に席を占める。  ルイスが口をひらいた。 「この建物は、もっと軽くできるな。半分くらいに重さを切りつめられる」 「どうするのです?」 「この地階を切り離すのさ。しかしそれには、〈|話し手《スピーカー》〉を上へあげなきゃならない。なんとかプリルを説得できないかい?」 「やってみましょう」 [#改ページ]      22 〈|探 す 人《シーカー》〉  ハールロプリララーは〈|話し手《スピーカー》〉をこわがっていたが、そのいっぽう、ネサスは巧妙に彼女をタスプの影響下から解放しつつあった。そのうち、〈|話し手《スピーカー》〉の姿を彼女が見るたびに、タスプを効かせることで、やがてはその姿を喜んでうけいれるようになるというのである。それまでは、ふたりともなるべくクジン人と会わないようつとめていた。  そういうわけで、プリルとネサスはどこかへひっこみ、そのいっぽう、ルイスと〈|話し手《スピーカー》〉は、あの見張り台の上に寝そべって、監房のならぶ下の暗闇を見おろした。 「やれよ」と、ルイスがいった。  クジン人の武器から、二本のビームがほとばしった。  百雷の一時に落ちるようなとどろきが、屋内に反響した。下方の壁の、天井のすぐ下あたりが、稲妻のような色に輝きだした。その光輝がゆっくり時計まわりに動き、あとに赤みを帯びた痕が、尾のように残る。 「少しずつ切りとるんだ」と、ルイスが指図した。「もしぜんぶ一度に切りはなしたら、身ぶるいする犬の背中の蚤みたいに、ふり落とされちまうぞ」  それに従って、〈|話し手《スピーカー》〉は、切断の向きを変えた。  それでも、梁材と構造プラスティックの最初の一塊が落ちたときには、建物は大きく傾いた。ルイスは床にしがみついた。穴のあいたところから、日光と、都市と、そして人影がみえた。  五、六個のかたまりを切り落とすと、ようやく真下の様子が目にはいった。  見えたのは、木の祭壇と、真四角な台の上に抛物線形のアーチをのせた銀色の金属模型だった。だが、見えたと思ったとたんに、切り離された一塊が、そのすぐ近くに激突し、こまかい破片となって四方へとび散った。あとには、おがくず[#「おがくず」に傍点]と、クシャクシャになった金属片が残っているだけ。しかし、そこにいた人間は、もうとっくにどこかへ逃げてしまっていた。 「人がいたんだ!」彼はネサスに訴えた。「からっぽの市街のどまんなか、まわりの畑からは何マイルも離れたところにだ! 一日がかりでやってきたにちがいない。あんなところで、何をしてたんだろう?」 「ハールロプリララーは、彼らの女神なのです。彼らがプリルの食糧源です」 「ああ、お供物をあげに来てたわけか」 「もちろんですとも。何か変わったことでもあったのですか、ルイス?」 「彼らにあたったかもしれない」 「たぶん、下敷きになったものもあるでしょう」 「あの中に、ティーラがいたような気がするんだ。チラリと見えただけだったが」 「馬鹿馬鹿しい。さあ、ルイス。動力をためしてみましょうか?」  パペッティア人のフライサイクルは、ゼラチンのように半透明なプラスティックの中に埋まっていた。わずかに表面に現われた操縦盤のそばに、ネサスが立つ。正面の張りだし窓から見る都市の眺めは、印象的だった。海岸に並ぶいくつものドック、中心街ののっぺりした塔の群れ、かつては公園だったにちがいないこんもりとした密林。すべてが、数千フィート下方にひろがっている。  ルイスはおもわず胸を張っていた。出陣のボーズだ。  ──部下の注目を一身にあつめて、颯爽とブリッジに立つ司令長官。ロケット機関に故障でもあれば、ひと吹きしたとたんに爆発するかもしれないが、やってみなければならない。クジン族の戦艦を、絶対に地球へ近づけてはならない! ── 「うまくいくはずがない」ルイス・ウーは、つぶやいた。 「なぜです、ルイス? 推力が強度をこえなければ──」 「飛ぶ城だって! お笑いぐさだよ。いまやっと、何もかも気ちがいじみてるってことがわかったんだ。みんな頭がどうかしてるんだ! 摩天楼の上半分におさまって──」  そのとき建物がグイとゆれ、ルイスはたたらをふんだ。ネサスがスラスター駆動をいれたのである。  張り出し窓からみえる都市の眺めが動きはじめ、しだいに速くなっていった。ごくゆるい加速度だ。毎秒毎秒一フィートをこえていない。これだと最高速度は、毎時百マイルくらいだろうが、城の安定は実によく、小ゆるぎもしなかった。 「フライサイクルの位置が、ちょうど中心になっています」と、ネサス。「見てのとおり、床は水平ですし、回転もしません」 「それでも、馬鹿げてる」 「馬鹿げていないから動くのです。さて、それではどこへいきましょう?」  ルイスは黙りこくった。 「どこへいけばいいのですか、ルイス? 〈|話し手《スピーカー》〉にもわたしにも、このさきの計画は立っていません。どっちへ向かいますか、ルイス?」 「右舷だ」 「よろしい。まっすぐ右舷へ?」 「そう。まずあの目の恰好をした嵐の横を通ってから、反回転方向《アンチスピンワード》へ四十五度、向きをかえる」 「〈天国〉という塔のあった郡市をさがすのですね?」 「うん。見つけられるかな?」 「それは問題ありません。あそこからここへは三時間行程でした。この建物で、三十時間もあれば到着します。それからは?」 「状況しだいさ」  映像は鮮明すぎた。単なる推理と想像の産物だというのに──あまりにも迫真的だ。ルイス・ウーは、色つきの白昼夢を見る傾向があるようだった。  あまりにも鮮明だ。しかし、こんなことが事実でありえようか?  空飛ぶ塔にのっているのだという自覚が、あっというまにどこかへ吹っとんでいってしまったのは、どういうわけだろう? それでも塔は飛んでいた。ルイス・ウーがどう感じていようと、おかまいなしに。 「草食いは、おまえのいいなりについていく気のようだな」〈|話し手《スピーカー》〉がいった。  数フィート向こうでは、フライサイクルがひとりで、かすかなハム音をたてている。窓の外を、景色が流れる。目のかたちの嵐は、ななめ前方にあった。灰色の凝視の、威圧的な大きさ。 「あいつも狂ったのさ」と、ルイス。「あんたはもっとしっかりしてたはずだが」 「いやいや。おまえに目当てがあるなら、おれも喜んでついていくぞ。だが、行くさきに戦いがひかえているようなら、それについて少しきかせておいてもらいたいな」 「さぁてね」 「どんなことでもよい。戦いが起こるかどうか、その判断の資料にするだけだ」 「うまいこというね」 〈|話し手《スピーカー》〉は、じっと待っている。 「|遮 光 板《シャトウ・スクエア》の糸をさがすのさ」ルイスは話しはじめた。「隕石防禦装置でやられたあと、船がぶつかった糸のことはおぼえてるだろう? そのあと、あの浮き城のあった都市の上へ、そいつがクルリクルリと果てしなく降ってきた。少なくとも数万マイル。ぼくの考えてる目的には、どう使ってもありあまる長さだ」 「何を考えているのだ、ルイス?」 「|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の糸を、どうやってつかむか。問題は原住民が、すんなりとよこすかどうかだが、プリルが丁重に頼んで、ネサスがタスプを使えば──」 「それをどうするのだ?」 「それで、ぼくの狂いっぷりを、お目にかけようってわけさ」  塔はあたかも空に浮かぶ汽船のように進んでいった。宇宙船には、これほど内部のゆとりはない。空をとぶ船としては、既知空域《ノウン・スペイス》のどこをさがそうと、これに比肩しうるものはなかった。なにしろ六階建てなのだ!  何という豪華さだ!  だが、贅沢にも、穴はあった。この飛行塔に積んでいる食糧は、冷凍肉と、くさりやすい果物と、ネサスのフライサイクルの調理機から出てくる煉瓦だけである。ネサスのことばによると、パペッティア人の食物は、人間向きの栄養分に不足があるという。それで、ルイスは、この日の朝も昼も、携帯レーザーで焼いた肉と、こぶの多いまっかな果物だけですませた。  水もなかった。そしてもちろんコーヒーも。  プリルを説きふせて、アルコール飲料の壜を、何本か持ちださせた。そこで遅まきながら、この船の命名式をやるために、一同ブリッジ用の部屋にあっまったが、〈|話し手《スピーカー》〉が慎ましく一隅にひかえていても、プリルはドアのそばでソワソワと逃げ腰だった。ルイスの〈ありえざる《インプロバブル》〉号という命名には、誰も承服しなかった。結局、それぞれの四つの言語で、四つの名前がつくことになった。  飲料は……そう、酸っぱかった。〈|話し手《スピーカー》〉の口には合わなかったし、ネサスは味をみようともしなかった。しかしプリルは、壜一本をあけてしまうと、あとのには栓をしたまま、どこかへそっとしまいこんだ。  命名式のあとは会話の講習会みたいになった。ルイスは、リングワールド建設者のことばの基本を、いくつかおぼえた。〈|話し手《スピーカー》〉の習得ぶりは、彼よりずっと早いようだった。さもあろう。〈|話し手《スピーカー》〉にしろ、ネサスにしろ、人間の言語や、思考様式や、発音と聞きとりの限界などについて、訓練をうけてきた連中である。これはいわばその延長のようなものにすぎない。  夕食のために散会した。ネサスはまた、自分のフライサイクルの調理機でひとり食事をとり、ルイスとプリルは焼き肉を、そして〈|話し手《スピーカー》〉は離れたところで生の肉を食べた。  またことばの学習がはじまり、ルイスはうんざりした。あとのふたりの進歩ぶりをみると、自分が白痴みたいに思えてくるのだ。 「でも、ルイス、ことばだけはしっかり[#「しっかり」に傍点]覚えるように。旅のスピードがおそいので、食糧を徴発しなければなりません。しょっちゅう原住民と交渉する必要があるのです」 「わかってる。ただ、元来が語学は苦手だったんでね」  夜のとばりがおりた。嵐の目からこれだけ離れていても、雲は空を蔽いつくし、まるで怪獣の口の中へでもはいったような闇夜だった。  ルイスは勉強を中途で切りあげた。疲れで気分がいら立ち、すっかり自己不信に陥っていた。ほかのものも、彼を休ませてやることにした。  十時間かそこらのうちに、嵐の目の近くへさしかかる予定であった。  不安なまどろみの縁をさまよっているところへ、プリルがもどってきた。挑発的な愛撫の手を感じて、彼はそちらへ手をのばした。  彼女はスッと、とどかないところへ身をひいた。口をひらくと、自分のことばで、しかしルイスにもわかるように単純化したかたこと[#「かたこと」に傍点]でたずねた。 「あなたがリーダーなの?」  寝ぼけまなこで、ルイスは考えた。 「うん」  そう答えたのは、実際の状況が、あまりにこみいりすぎていたからだ。 「頭のふたつあるひとの機械をください」 「何だって?」  よく聞きとれなかった。 「彼の何を?」 「機械。わたしを幸福な気持にする、それをください。あのひとからとりあげて」  ルイスは笑いだした。やっと彼女の意図がわかったからだ。 「わたしがほしいの? それなら、あげる」プリルは怒ったようにいった。  彼女のほしいものを、パペッティア人が持っている。だが、人間でない相手には、手管が通じない。人間同士といえるのは、ルイス・ウーだけだ。彼なら、彼女の力で意に従わせることができる。それは、いつでも効力を現わしてきた。  つまり、彼女も女神ではなかったということか?  おそらくルイスの髪が、彼女の誤解のもとだったのだ。毛ぶかい下層民のひとりだが、顔に毛がないだけ建設者の種族に近い、ただそれだけのことだと考えた。従って、都市の没落以後に生まれたものに相違ない。長命薬もない。とすると、この男は、はじめての若さの盛りということになる。 「なるほど、わかったよ」  ルイスは、自分のことばでしゃべった。プリルがこぶしをにぎりしめた。彼の嘲笑を感じて腹を立てたのだ。 「ぼくが本当に三十前の男だったら、きみの手の中でとろけちまったろうが、あいにくぼくは、もっと年寄りなんでね」  そしてまた笑った。 「機械。どこにあるの?」  闇の中で、彼女がよりそってきた。美しい挑発的なシルエットの、頭頂がかすかに光り、黒い髪が肩に流れる。ルイスののどに、熱い息づかいがからみついた。  やっとことばを思いだして、彼は答えた。 「皮の下の、骨にくっついている。片方の頭の」  プリルはうめくような声をもらした。理解したのにちがいない。手術によって埋めこまれているのだと。クルリと背を向けて、彼女は去っていった。  あとを追おうか、と、ふと思った。自分でわかっている以上に、彼女への欲求は強かった。だが、そんなことでは彼女の思う壺にはまってしまう。彼女の意図は、ルイス・ウーのそれと一致しないのだ。  風のうなりが、徐々に強まってきた。ルイスの眠りは浅く……ともすると、エロティックな夢にとけこもうとする。  目をあけた。  プリルが、彼に向かってひざまずき、さながら女怪のようにのしかかっていた。その指が、胸から腹へかけて、皮膚をかるくまさぐっている。腰がリズミカルに動き、ルイスのからだが、それに応えてふるえる。彼女は楽器のように彼を弾《ひ》いているのだった。 「これで、あなたは、わたしのものになる」  さえずるような声。その声には、歓びがあったが、それは女が男によって与えられる喜びとは異質だった。支配の快感であった。  彼女の指の感触は、蜜のようにねっとりしていた。太古以来のおそるべき秘密を彼女は熟知している。どんな女にも生得のタスプがあり、その力は、使いかたを学べば学ぶほど、底の知れないものなのだ。彼女はそれを使ってはひかえ、使ってはまたひかえて、ついにはルイスが彼女に奉仕することを必死で願うように……。  彼女の内部で、何か変化が起こった。表情には現われない。だが、さえずるような歓びの声と、からだの動きが変わるのが、彼にも感じられた。彼女が位置を変え、ふたり一体になったとき、どこからか、ズシン! というひびきが伝わってきたような気がしたが、それも単なる気のせいのように思われた。  彼女はその夜ずっと、彼によりそって眠った。ときおり目をさまして、愛をかわし、また夢の世界へもどった。そのときもしプリルが不満を感じていたにしても、彼女はそれをおもてには出さず、ルイスも気づかなかった。ただ彼女がもう、彼を楽器を弾くように扱っていないということだけは確実だった。今のそれは、ふたりの二重奏であった。  プリルには、何かが起こっていた。それが何かは、彼にもうすうすわかっていた。  夜は灰色の嵐とともに明けた。古めかしい建物のまわりに、風が渦をまく。ブリッジの張り出し窓を雨が叩きつけ、どこか上のほうでは、窓をやぶって吹きこんだらしい。|ありえざる《インプロバブル》号は、嵐の目の間近にいる。  ルイスは服を着ると、ブリッジを離れた。途中でネサスを見つけた。 「おい!」と、彼はどなった。  パペッティア人はとびあがった。 「はい、ルイス?」 「ゆうべ、プリルに何をした?」 「感謝していいはずです、ルイス。彼女はあなたを思いのままに、奴隷化しようとしていたのですよ。その声が聞こえたのです」 「彼女にタスプを使ったな!」 「あなたたちが、生殖行動にはいっているとき、半分の出力で三秒だけ使いました。いまでは、思いのままになるのは彼女のほうです」 「きさまは怪物だ! この、ひとりよがりの化けものめが!」 「つめよらないでください、ルイス」 「プリルは、自由意志をもった、人間の女性なんだぞ!」 「あなたの自由意志はどうなのです?」 「危険なんてなかったんだ! 彼女には、ぼくをどうかすることなんてできっこないんだ!」 「もっとほかのことが気になっているのですね? ルイス、わたしが人間の生殖行動を見るのは、あなたがはじめてではありません。わたしたちは、あなたの種族について、あらゆる情報がほしいのです。ルイス、それ以上近づかないように」 「そんな権利はないぞ!」  むろんルイスは、本気でパペッティア人に害を加える気などなかった。怒りでこぶしを握りしめていたが、それを使うつもりはない。ただ怒りにまかせて、一歩前に出る──。  すると、ルイスは忘我の境にいた。  これまで感じたことのない、純粋な喜悦のただなかで、しかしルイスは、ネサスが彼にタスプを使っていることを意識していた。結果がどうなるか考えるよゆうもないまま、彼は脚を高く蹴りあげた。  タスプの与える忘我の境からひきだせるかぎりの力をこめた一撃だった。強烈とはいえないが、とにかく彼はやってのけ、その足先は、パペッティア人の左あごの下の、のどもとにぶつかった。  結果はおそるべきものだった。ネサスは、「グエッ」とさけんでよろめき、タスプのスイッチを切った。  タスプのスイッチを切ったのだ!  ひとりの男が背負わねばならない悲哀のすべてが、ルイス・ウーの両肩に、千鈞の重みをもって、一度に落ちかかってきた。ルイスはクルリとパペッティア人に背を向けると、歩き去った。  大声をあげて泣きたかった。だが、それ以上に、その顔をパペッティア人に見られたくなかった。  心のうちの暗黒に目をすえたまま、彼はでたらめに歩きまわった。吹きぬけの階段へ出たのは、まったくの偶然だった。  自分がプリルに対してなした仕打ちが、いまさらのように思い出された。九十フィートの奈落の上で釣合いをとっているときには、ネサスがプリルにタスプを使うことを夢中で願っていたのだ。以前、彼も、頭に電極をさしこむ実験を見たことがある。その効果についても彼は知っていた。  条件づけだ! まるで実験動物だ! しかも彼女はそれを知っていたのだ!  昨夜のは、タスプの力から逃れるための、最後のいたましい試みではなかったろうか。いまにして、ルイスは、彼女が何と闘っていたかを、感じとることができた。 「あんな扱いをすべきじゃなかった。ぜんぶ取り消しだ」と、ルイスはつぶやいた。  暗い絶望の底でも、それはいかにもおかしく感じられた。むろん、ああいったことの取り消しがきくものではない。  吹きぬけの階段を、のぼらずにおりていったのも、単なる偶然だった。それとも、意識にはほとんどのぼることもなかった昨夜の、ズシン! というひびきが、どこか頭の奥にのこっていたせいかもしれない。  見張り台の上へ出ると、周囲で風が吼えたけり、あらゆる方向から雨を叩きつけてきた。さすがに外部へも注意を向けなければならなくなった。タスプが消えるのと同時に襲ってきた憂鬱も、いくらかまぎれたようだ。  かつて、ルイスは、永遠に生きようと誓った。それからずっとのちの今になって、彼は、そういう決心にともなう重荷を、ヒシヒシと感じたのだった。 「彼女をなおしてやらなければ」と、彼はつぶやいた。「しかし、どうやって? 肉体的な病変の徴候は何もない……といって、もし彼女が、こわれた窓から外へとびおりようとするようなら、それでおしまいだ。おまけに、おれ自身をどうやってなおせばいいんだ?」  彼のからだのどこか一隅は、いまだにタスプを求めつづけており、それをとめることはできそうにない。習慣性とは、識閾下の記憶以外の何ものでもない。長命薬を持たせてどこかへおろしてしまえば、その記憶も、いつかは消えるだろうが……。 「カホナ! ぼくらには、彼女が必要なんだ」  |ありえざる《インプロバブル》号のエンジンルームについて、彼女は知悉している。かわりが得られるはずもない。  とにかく、ネサスに、タスプを使うのをやめさせることだ。そしてしばらく観察をつづけよう。彼女も、はじめはガックリ気落ちするかもしれないが……。  とつぜんルイスは、自分の目がいままで見つめていたものの正体に気がついた。  この見張り台から二十フィートほど下方に、一台の車が浮かんでいるのだ。スマートな設計の、栗色をした細長い車体に、せまいスリットのような窓のならんだその乗り物は、切り忘れていた電磁捕獲装置にとらえられて、動力の切れたまま、激しい風の中に浮かんでいたのである。  もう一度、目をこらしてみて、ルイスは、その風防の奥に顔がのぞいているのをたしかめた。それから階段をかけあがると、ブリルを呼びたてた。ことばはわからない。しかし、彼女の腕をつかんで階段をくだり、指さしてみせた。彼女はうなずいて、捕獲装置の調整にもどっていった。  栗色の車は、見張り台の縁に、ピタリととまった。乗っていたひとりがもがき出てきて、悪魔のように咆哮する風にあおられながら、両手ですがりついた。  ティーラ・ブラウンだった。ルイスには、それが当然のことのように感じられた。  つづいて出てきたもうひとりが、あまりにもその役柄にぴったりだったので、彼は思わず笑いだしてしまった。ティーラはびっくりし、傷つけられたような顔をした。  船は嵐の目を通過しつつあった。見張り台へつづく吹きぬけから、風の音がここまでひびいてくる。烈風が下の階の廊下を荒れくるい、また上のほうのこわれた窓からふきこんで渦をまいている。あちこちの部屋の床に雨水が流れこんでくる。  ティーラとその同伴者《エスコート》と、|ありえざる《インプロハブル》号の四人の乗員は、ブリッジとなっているルイスの寝室にあつまっていた。筋骨隆々としたティーラの連れの男は、片隅でプリルと重々しい口ぶりで話していた。もっともプリルは、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉と張り出し窓のほうへ、しょっちゅう不安げに目を走らせていた。だが、あとのものはティーラをとりかこみ、その話に耳をかたむけた。  警察の検束装置が、ティーラのフライサイクルの機構のほとんどを破壊してしまった。探知機、交信機、音波シールド、それに調理機までが、ぜんぶ一度に焼け切れたのである。  ティーラが生きのびられたのは、音波シールドが、もともと定常波的な性質をもっていたおかげだった。風の吹きこむ気配を感じるとすぐ、制動フィールドのスイッチをいれたが、さもなければマッハ二の風圧で、頭を吹きとばされていたろう。  数秒のうちにサイクルのスピードは、市内制限速度以下まで落ちた。捕獲装置は、駆動機構もほとんど駄目にしていたが、そこで攻撃はやんだ。音波シールドの安定効果がくずれたときには、吹きこむ風の勢いも、ずっと弱くなっていた。  だがティーラはもうフラフラだった。あの嵐の目の中で、間一髪、死の手をすりぬけたばかりなのに、そこを早くもまた襲われたわけである。彼女はフライサイクルを下降させ、闇の中で、着陸できそうな場所をさがした。  店舗にかこまれ、タイルで鋪装された遊歩道があった。そこには明かりがあった。卵形のドアが、明るいオレンジ色に輝いていたのである。サイクルは手荒く着地したが、彼女はもう気にもならなかった。ともかく大地に着いたのである。  おり立とうとしたとたんに、サイクルはまた動きだした。はずみで、彼女はさかさまに地上へほうりだされた。手と膝をついて身をおこすと、ブルッと頭をふった。見上げると、フライサイクルの亜鈴形が、みるみる遠ざかっていくところだった。  彼女は泣きだした。 「たぶん駐車違反だったんだ」と、ルイス。 「なぜかなんてこと、考えもしなかったわ。ただ──」ことばにつまったが、ティーラはなんとか話しつづけた。「道にまよったってこと、話す相手がほしかったの。でも誰もいなかった。それで、石のベンチのひとつにすわって、泣いてたの。  何時問もそうしてたと思う。こわくてどこへもいけなかった。だって、あなたがたが探しにくると思ったから。そこへ──かれ[#「かれ」に傍点]が現われたの」  彼女は連れのほうを目で指した。 「あたしを見て、びっくりしたみたいだったわ。何か話しかけてきた──でも、何のことかわかんない。でも、なぐさめてくれてたのね。そこにいてくれるだけで、何もできなくても、あたし嬉しかった」  ルイスはうなずいた。  ティーラは誰でも信用してしまう。最初に出会った見知らぬ相手に、救いなり慰めなり、求めずにはいられないのだ。しかもそれで、絶対に危険なことはないのだった。  連れの姿は、異様だった。  一種の英雄《ヒーロー》だ、とひと目でわかる。べつに悪龍を退治してみせてくれなくてもいい。もりあがった筋肉と、背の高さと、手にした黒い金属の剣を見るだけで、充分すぎるほどだ。強い顔だちは、〈天国〉とよばれるあの城にあった針金細工の顔と、気味がわるいほどよく似ている。プリルに話しかけている丁重な口ぶりは、相手が異性であることをまったく意識していないかのようだ。彼女がべつの男のものだからだろうか?  きれいに髭をあたっている。いや、そんなことはありえない。たぶん、建設者種族との混血なのだろう。長い髪は灰色がかった金髪で、うす汚れており、生えぎわが秀でたひたい[#「ひたい」に傍点]をきわだたせていた。腰のまわりに、何か動物の皮とおぼしいものをまきつけている。 「食べるものをくれたの」と、ティーラ。「そして、守ってくれたわ。きのう、四人の男がとびかかってきたら、あの剣一本で追っぱらっちゃったのよ! それから二日のあいだに、|共 通 語《インターワールド》をずいぶん覚えたわ」 「彼が?」 「語学の天才なのよ」 「こいつは何とも、最大のショックだね」 「なあに?」 「まあいいよ。それで?」 「かれ[#「かれ」に傍点]、相当の齢なのよ、ルイス。ずっと昔、細胞賦活剤《ブースタースパイス》みたいなものを、大量に手にいれたんですって。悪い魔術師からとりあげたって、いってたわ。おじいさんが、都市の没落のことを覚えてたんだって。そのくらい年とってるのよ。  かれ[#「かれ」に傍点]が何をしようとしてるか、わかる?」  ふいに、ティーラはいたずらっぽい笑顔をみせた。 「一種の求道者《クエスト》なの。ずっと昔、アーチの根もとまで歩いていくという誓いを立てたんですって。それを実行してるわけ。もう何百年も、歩きつづけてるの」 「アーチの根もとだって?」  ティーラはうなずいた。世にも美しい笑顔をみせ、その冗談が大いに気にいっているふうだった。だが、その目の中には、何かそれ以上のものがあった。  ティーラの瞳の奥に、ルイスは愛の光をみた。だが、そこに、寛容の色は、まったくなかった。 「そのことで、彼を尊敬してるんだな! このおばかさん、アーチなんてないことを、きみは知らないのかい?」 「知ってるわ、ルイス」 「じゃ、どうして話してやらない?」 「もしあなたが話したら許さない。彼はそのために、一生の長いあいだを賭けてきたのよ。りっぱだと思うわ。簡単な技術をいくつか身につけて、回転方向《スピンワード》に旅をしながら、それをひろめているの」 「どれだけの情報が伝えられる? 充分な知性の持ちぬしとはみえないが」 「もちろんそうね」  そんなことは問題にならないという口調だった。 「でも、あたしがいっしょなら、大ぜいの人に、いろんなことを教えることができる」 「そういうことになると思ってたんだ」ルイスは答えた。  だが、やはり胸がいたんだ。彼女は、その痛みに気づいたのだろうか? 彼女はあえてルイスを見ようとはしなかった。 「まる一日、その遊歩道でいっしょに待ってみて、それからやっと、あなたがたが、あたしでなくフライサイクルのほうを追っかけてるだろうということに気がついたの。彼の話で、ハル──ハルなんとかいう女神が、浮かぶお城に住んでいて、車をつかまえてるってことがわかった。それで、いっしょにそっちへ向かったわけ。  下の祭壇の近くで一泊して、あなたがたのフライサイクルがくるのを見張ってたんだけど、そのうち、お城の下半分が、バラバラになって落っこちはじめた。それで、〈|探す人《シーカー》〉が──」 「|探す人《シーカー》?」 「彼、そう名のってるの。なぜかってきかれると、アーチの根もとへ向かっているんだと答えて、それから、途中で出あった冒険のかずかずを話してきかせる……これでわかった?」 「ああ」 「彼、そのあたりの古い車のモーターをかたっぱしからかけてみた。交通警察の検束 場《フィールド》 にひっかかると、みんなスイッチを切るんですって。そうすれば、モーターが焼けないですむから」  ルイスと〈|話し手《スピーカー》〉とネサスは、思わず顔を見合わせた。あの牢獄にただよっていた乗り物の中には、動くのが半分くらいあったかもしれない! 「動く車を見つけて、お城を追っかけようとしたんだけど、闇の中で見失っちゃったの。でも幸いなことに、警察のほうから、スピード違反でつかまえてくれたってわけ」 「運がよかったよ。ゆうべぼくは、何か衝撃波みたいな音をきいたような気がしたが、はっきりしなかったんだ」ルイスがいった。 〈|探す人《シーカー》〉はもう、しゃべるのをやめていた。彼はこの寝室の壁に、気持よさそうによりかかって、微笑をふくんだ目で〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉を見つめていた。〈|話し手《スピーカー》〉も目をあげた。ルイスには、まるでお互いが、この相手と闘ったらどうだろうかと値ぶみしあっているようにみえた。  プリルは窓の外を眺め、顔に恐怖の色を浮かべていた。風のうなりが、ひきさくような激しさに高まると、彼女はブルッと身をふるわせた。  たぶん彼女は、このような嵐の発生現場を見たことがあるのだろう。小さな星くずがぶつかって穴をあけ、それがすばやく修復される、そんなことが、リングワールド全体では、よく起こり、そしてそのたびに、この世界の報道テープにあたるもので、伝えられていたにちがいない。  嵐の目は、つねに脅威である。呼吸のための大気が、宇宙空間へふきだしていくのだ。そのこちら側で生ずる台風の真下は、バスタブの栓のようなもので、その吸引力につかまったら何もかも一巻の終わりとなるのである。  風の怒号がひときわ高くなった。ティーラが眉根にしわをよせた。 「この建物の重みが充分あればいいんだけど」と、彼女はつぶやく。  ルイスは愕然とした。  彼女の[#「彼女の」に傍点]、何という変わりかただろう[#「何という変わりかただろう」に傍点]?  もっとも、あの嵐の目が、最終的に彼女を直接の脅威にさらしたということもあるが……。 「お願いがあるの」ルイスに向かって、ティーラはいった。「あたしは〈|探す人《シーカー》〉を自分のものにしたい」 「ああ」 「彼もあたしを。でも彼には、おかしな誇りがあるのよ。このお城へ来なきゃならないことを説明するために、ルイス、あなたのことを話したら、すっかり不機嫌になって、いっしょに寝てくれないの。あたしは、あなたのものだってわけ」 「奴隷制度かい?」 「女は奴隷なんだと思うわ。だから、あたしがあなたのものじゃないってこと、彼に話してくれない?」  ルイスは、のど[#「のど」に傍点]が痛くなった。 「きみを彼に売ってやることにしたら、説明の手間がはぶけるんじゃないかな。きみさえよければだが?」 「そうね。そのとおりだわ。あたし、彼と、リングワールドの中を旅して歩きたいの。ルイス、あたし、彼を愛してるのよ」 「そうだろうとも。まったく、おたがいあつらえたようにお似合いだ」と、ルイス・ウー。「きみたちは、めぐり合うべく運命づけられていたんだ。一千億ものカップルが、たがいにまったく同じようなことを考えただろうが──」  彼女は疑わしげな表情になった。 「あなた、まさか……その、皮肉をいってるんじゃないでしょうね、ルイス?」 「ついひと月前のきみは、皮肉のヒの字も知らなかったね。いいや、まことに奇怪な話だが、これは皮肉じゃないんだよ。一千億ものカップルがどう感じようと、それは問題じゃない。彼らは、パペッティア人のカホな品種改良実験には含まれてなかったんだから」  ふいに、周囲の関心が、彼のほうに集中した。〈|探す人《シーカー》〉さえも、みんなの視線を追って、彼を見つめていた。  しかし、いまルイスの眼中にあるのは、ティーラ・ブラウンただひとりだった。 「ぼくらがリングワールドに墜落したのは、リングワールドが、きみにとって理想の環境だったからだ」  もの静かな口調。 「地球にいるかぎりは、いや、既知空域《ノウン・スぺイス》のどこへいっても学べないことを、きみは学ぶ必要があった。もっとほかにも理由はある──例えば、より優れた細胞賦活剤《ブースタースパイス》や、ゆとりのある空間など──しかし、いちばん大きな理由は、ここで学ぶことだった」 「学ぶって、何を?」 「痛みさ、もちろん。それに恐怖。敗北。ここへきて、きみは生まれかわった。以前のきみは、一種の……抽象存在みたいなものだった。きみは、どこかにつま先をぶつけたことがあったかい?」 「へんなこときくのね。ないと思うわ」 「足をやけどしたことは?」  彼女は彼をにらんだ。あのことは、まだ頭にあったようだ。 「|うそつき《ライヤー》号が墜落したのは、きみをここへおろすためだった。ぼくらが二十万マイルも旅をしてきたのは、きみを〈|探す人《シーカー》〉に会わせるためだった。きみのフライサイクルが、正確に、きみを彼のいるところへおろしてから、交通警察に捕獲されていったのは、〈|探す人《シーカー》〉こそが、きみが生まれながらにして愛すべく運命づけられていた相手だったからだ」  ここでティーラはほほえんだが、ルイスは、ほほえみを返さなかった。 「きみの幸運は、彼に会う時間をきみに与えてくれたが、おかげで〈|話し手《スピーカー》〉とぼくは、そのあいだ、九十フィートの奈落の上に、さかさにぶらさがって──」 「ルイス!」 「──二十時間かそこらも待たされる羽目になった。しかし、もっとひどいのは──」  クジン人がうなった。 「それは、見かたにもよるぞ」  ルイスはそれを無視して話しつづけた。 「ティーラ、きみがぼくと恋に落ちたのも、リングワールド探険に参加する動機をきみに与えるためだったんだ。きみがもうぼくを愛していないのは、その必要がなくなったからだ。きみはいまここにいる[#「ここにいる」に傍点]。ぼくがきみを愛したのも同じこと。ティーラ・ブラウンの幸運というやつが、ぼくを、あやつり人形に仕立てたのさ──。  しかし、本当にあやつられていたのは、きみ自身だ。これからも一生のあいだ、きみは自分の幸運の糸にあやつられて踊りつづけるだろう。きみに自由意志ってものがあるのかどうか、あやしいもんだ。そいつを使いこなすのは、おそろしくむずかしいだろう」  ティーラは蒼白になり、硬直したように肩をいからしていた。ワッと泣きださなかったのは、自制のたまものだ。前にこれほどの自制力をみせたことは一度もなかったろう。 〈|探す人《シーカー》〉はというと、ひざをついた姿勢で、ふたりを見まもりながら、黒い鋼の剣の背に親指をはわせていた。ティーラが苦しんでいることに気づかないはずはない。彼はただ、彼女がまだルイス・ウーのものだと考えているのにちがいなかった。  ここでルイスは、パペッティア人に向きなおった。だが、思ったとおり、ネサスはもう、からだをボールのようにまるめて首を中にたくしこみ、全宇宙を拒否していた。  ルイスは、パペッティア人のうしろ脚のかかとをつかんだ。グイともちあげると、わりとかんたんに、そのからだは仰向きにころがった。ルイスとくらべても、さほど体重が大きいわけではなかった。  その姿勢が気にいらないらしく、ルイスにつかまれた脚の先が、小きざみにふるえていた。 「何もかも、きさまがひきおこしたことなんだぞ」と、ルイスはいった。「きさまの、とてつもないうぬぼれのおかげだ。その犯した過失が、そっくりこっちへかぶさってきたんだ。どうしてそんなに権力があって、そんなに決断力があって、しかもそんなに愚劣でいられるのか、ぼくには想像もつかない。もうわかってるんだろうな? ここで起こったことは、何もかも、ティーラの幸運の副作用にすぎなかったってことが?」  ネサスの、ボールのようになったからだは、ますますギュッと固くなった。〈|探す人《シーカー》〉が、夢中でそれを見つめている。 「さあ、それじゃ、パペッティア惑星にもどったら、人間の生殖形態によけいな手を加えると、どんな奇怪なことになるか、忘れずに報告するんだぞ。ティーラ・ブラウンの遺伝子がふえたら、確率の法則がメチャメチャになってしまうってことをな。物理学の基礎にしたところで、原子レベルにおける確率の発現にすぎないんだ。宇宙は複雑すぎて、一応の用心ぶかさをもったものだったら、こわくておもちゃになどできっこないんだってことを、よくわからせてやるんだぞ。  しかしそれも、おまえが故郷へ帰りついたあとのことだ」と、ルイス・ウーはつづけた。「さあ、いますぐ[#「いますぐ」に傍点]そこから出てこい。|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の糸が必要なんだ。それを見つけなきゃならん。もう嵐の目はほとんど通りすぎた。さあ出てこい、ネサス!」  パペッティア人は、からだをほどいて立ちあがった。 「ルイス、あなたは、わたしに恥を──」 「ここでそれをいうつもりか?」  パペッティア人は、だまりこんだ。やがて、窓のほうへ向きなおると、嵐のもように見いった。 [#改ページ]      23 神様ごっこ 〈天国〉という名の城を礼拝している原住民の上に、それと並んでもうひとつの城が出現した。  前のときと同様、四角い祭壇のまわりには、金色のタンポポ[#「タンポポ」に傍点]のような顔が蝟集していた。 「また礼拝日にぶつかったらしいな」  ルイスは、そういいながら、あの顔を剃りあげた僧侶の姿を求めたが、見あたらなかった。  ネサスは、〈天国〉のほうへ向かって、ものほしげな視線を投げていた。|ありえざる《インプロバブル》号のブリッジが、ちょうど城の地図室と同じ高さになっている。 「この前のとき、わたしは、あの中を調査するチャンスがなかった。こんどは、中へはいれない」と、パペッティア人がうめいた。 〈|話し手《スピーカー》〉が提案した。 「物質分解機で穴をあけて、ロープか梯子でおろしてやってもいいぞ」 「またしても、チャンスを逃がしてしまわなければならないとは」 「おまえがここでずっとやってきた数多くのことにくらべれば、たいした危険ではないと思うが」 「しかし、わたしが危険をおかしたのは、すべて知識の収集のためでした。いまのわたしは、リングワールドについて、必要なだけの知識をもっています。いま自分の生命を危険にさらすとしたら、それはその知識を無事に故郷へ持ち帰るためのものでなければなりません。ルイス、さあ、あそこに|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の糸がありますよ」  ルイスは、きまじめな顔でうなずいた。  都市の、回転方向《スピンワード》区域一帯に、黒い雲のようなものが横たわっているのがみえた。街区の上にドッシリとのしかかっているところから考えると、かなり密度が高く重い物質らしい。窓のひとつある塔が、その中央部をつらぬいて突っ立っている。それ以外は、ぐっと平坦だ。  |遮 光 板《シャドウ・スクエア》の糸にちがいなかった。しかし、何という量だろう! 「しかし、あれをどうやって運びます?」  ルイスには、答えようがなかった。 「見当もつかんね。まあ、もっと近くへおりてみようや」  彼らは、こわれた警察署の建物を、祭壇のある広場の回転方向《スピンワード》よりの端におろした。  ネサスは、浮揚動力モーターを切らなかった。地上すれすれに接地させただけだ。かつてはその下の牢獄の見張り台だった部分が、この|ありえざる《インプロバブル》号の、昇降タラップの役割を果たしている。動力をとめたら、建物の重みで、へし折れてしまうだろう。 「あの物質の扱いかたを見つけるんだ」と、ルイス。「同じ物質でつくった手袋でもはめれば、持てるだろう。あるいは、リングワールドの構成物質でできた糸捲きに巻くという方法もあるが」 「どちらの物質も、持ちあわせはないぞ。原住民にきいてみなければな」と、〈|話し手《スピーカー》〉。「何か古いいい伝えとか、古代の器具、聖なる遣物とかいったものがあるかもしれん。さらに、この三日間にわたって、扱いかたを考える時間もあったはずだ」 「では、わたしもいっしょにいかなければなりませんね」  ふいに、ブルッと身ぶるいしたところからみても、パペッティア人が乗り気でないことは明らかだった。 「〈|話し手《スピーカー》〉、あなたの語学力は、まだ充分ではありません。ハールロプリララーは、いざというとき建物を上昇させるために、ここへ残していかなければなりません。それとも──ルイス、ティーラの恋人の原住民に、われわれの取引きの代表をつとめさせることができるでしょうか?」 〈|探す人《シーカー》〉のことをそういうことばで呼ぶのをきくと、ルイスは背中がむずがゆくなるのを感じた。 「さあね。ティーラでさえ、彼にその才能があるとはいわなかったからな。まかせるわけにはいくまい」 「わたしもそう思います。ルイス、本当に、|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の糸が必要なのですか?」 「はっきりそうとわかってる[#「わかってる」に傍点]わけじゃないさ。ただ、ぼくが麻薬中毒の夢でもみてるのでなければ、それは必要だ。それがないと──」 「よろしい、ルイス。わたしもいきます」 「べつに、ぼくの判断を信用してくれなくても──」 「いきますよ」  パペッティア人は、また身ぶるいした。ネサスの声で、いちばん奇妙なのは、こんなにはっきり正確な発音をしていながら、感情のかけらもそこには現われないことだ。 「糸が必要だということは、わたしにもわかります。ピッタリわたしたちの進路の上に、あの糸が降ってきたのは、果たして偶然の一致でしょうか? あらゆる原因は、ティーラ・ブラウンの幸運に帰するのです。糸が必要でなかったら、ここに降ってきたわけがありません」  ルイスは、何がなしホッとした。そのことばが納得できたからではなく、逆にそれが無意味だったからである。だが、それがルイス自身のあやふやな結論を、裏づけてくれたことはたしかだった。  そこでルイスは、安堵の気持を胸の中にのみこんで、パペッティア人にそのことばの無意味さを説明してやることはやめにした。  一同は、一列に並んでタラップをおり、|ありえざる《インプロバブル》号の下から外へ歩をすすめた。ルイスは携帯レーザーを手にしていた。〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉はスレイヴァー式の武器をかかえている。その歩みに伴って、筋肉が液体のようになめらかに動くのが、半インチほどの長さに生えそろったオレンジ色の毛をとおして、はっきりとみえた。ネサスは、見たところ、何の武器もたずさえていない。タスプをもって、しんがりをつとめる気のようだ。  それと並んで〈|探す人《シーカー》〉が、黒い鉄の剣をかまえながら歩く。その、見るからに固そうな、大きな素足。黄色い腰布のほかは、全身が鋼鉄のような裸体だ。筋肉が、まるでクジン人のそれのように、隆々と波うっているのがみえる。  ティーラは、武器をもっていない。  このふたりは、その朝行なわれた売買契約がなかったら、|ありえざる《イソプロバブル》号に残って待っていたはずだった。責任は、ネサスにある。ルイスは、剣士の〈|探す人《シーカー》〉にティーラ・ブラウンを売りわたすとき、パペッティア人に通訳をやらせたのだった。 〈|探す人《シーカー》〉は重々しくうなずき、代償として、リングワールドの長命薬の、五十年分にあたるカプセル一個を支払った。 「喜んで頂戴するよ」と、ルイスは答えた。  りっぱな贈りものだったが、べつに口にいれるつもりはなかった。当然ながら、ルイス・ウーのように百七十年間も細胞賦活剤《ブースタースパイス》を服用しているものに対しては、何の実験も行なわれていない薬品なのだから。  そのあと、ネサスが|共 通 語《インターワールド》で説明してくれたところによると──。 「ルイス、わたしは、彼を侮辱したくなかったし、ティーラを安売りしたと思われたくなかったのです。それで、値段をせりあげました。彼はティーラを手にいれ、あなたは、いずれもし地球へ帰れたら分析できるカプセルを手にしています。それで、あと、わたしたちが|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の糸を手にいれるまで、敵となりうるあらゆるものからあなたを守るという条件をつけ加えました」 「あの四フィートの肉切り包丁で、ぼくを守るんだと?」 「彼を喜ばせたかっただけです、ルイス」  そしてむろんティーラは、彼といっしょに来たがった。ほかならぬ彼女の男が、危地におもむくのだから。いまルイスは、パペッティア人はそのことも計算にいれていたのではないかと疑いはじめていた。なにしろティーラは、ネサス自身が手塩にかけた、幸運の血統の持主なのだ……。  嵐の目が近いので、このあたりの空はいつもずっしりと曇っている。灰色をした正午の陽ざしの中を、一同は十階建てほどの高さに立ちはだかる黒い雲の障壁に向かって、規則ただしい足どりで街路上を進んでいった。 「さわるなよ」と、ルイス。  この前きたとき、僧侶のいっていたことを思いだしたからだ。その|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の糸をひろいあげようとして、指を落とした娘がいるという。  すぐそばまで近づいてみても、それは依然として黒い雲のようにしか見えなかった。それをとおして、廃墟の中の、窓のついた蜂の巣のような家屋や、もしここが人間の住む土地だったら百貨店に相当するような、低めのガラス張りの建物などが見えた。それらが、まるで、どこかで火事が起こってでもいるかのように、煙のような雲にすっかりつつまれているのである。  黒い繊維を見分けるには、目を一インチくらいまで近づけなければならない。しかし、そうするとたちまち涙が出てきて、何もみえなくなってしまう。糸は、じっさい目に見えないほど細いのだった。見れば見るほど、シンクレア単原子繊維によく似ている。そして、シンクレア単原子繊維は、危険なのだ。 「スレイヴァー式の武器を使ってみろ」と、ルイス。「それで切れるかどうかためすんだ、〈|話し手《スピーカー》〉」  黒雲の中に、一条の光芒が走った。  おそらくは、それが冒涜を意味したものかもしれない。  あなたがたは光を武器とされるのか[#「あなたがたは光を武器とされるのか」に傍点]?  しかし原住民側は、もうずっと前から、この異端者どもを撲滅せんものと手ぐすねひいていたのにちがいない。高い糸の雲の中で光がひらめくと同時に、四方から狂ったような怒号がまき起こった。近くの建物からあふれだしてくる、色とりどりの毛布をまとった人びと……叫び声をあげ、手に手にふりかざしているのは、剣か、棍棒か?  飛んで火に入る夏の虫だ、とルイスは思った。携帯レーザーをつけ、高出力にしたビームを細くしぼる。  レーザーによる光の刃は、あらゆる世界に共通の武器だ。ルイスがその訓練をうけたのは百年も前のことで、それを生かすはずの戦いは、結局起こらずじまいだった。だが、その使いかたは、簡単すぎて、忘れようとしても忘れられるものではなかった。  スウィングをおそくするほど[#「スウィングをおそくするほど」に傍点]、切りこみは深くなる[#「切りこみは深くなる」に傍点]。  だが、ルイスはそのビームで、すばやく大きく横に薙ぎはらった。押しよせた群集が、いっせいに両手で腹をおさえてよろめいた。だが、その金色の毛に被われた顔の表情からは、何も読みとれない。  大ぜいの敵に対しては[#「大ぜいの敵に対しては」に傍点]、すばやくスウィングせよ[#「すばやくスウィングせよ」に傍点]。多くの敵に[#「多くの敵に」に傍点]、深さ半インチほどの傷を負わせ[#「深さ半インチほどの傷を負わせ」に傍点]、まず[#「まず」に傍点]、ひるませることだ[#「ひるませることだ」に傍点]!  ルイスはこの敵に哀れみを感じた。剣と棍棒をもった狂信者たち。彼らに、勝利の見込みはまったくない。  だが、このとき敵のひとりが、〈|話し手《スピーカー》〉の武器をもった腕に切りつけ、傷を負わせた。〈|話し手《スピーカー》〉は、スレイヴァー式の武器をとり落とした。べつの相手がそれをひったくって、うしろへ投げた。同時に〈|話し手《スピーカー》〉が、無傷なほうの手で一撃し、そいつは背骨を引きさかれて死んだ。三人めが、投げられた武器をうけとめると、身をひるがえして逃げだした。それを使おうとはせず、単に持って逃げたのだ。ルイスも、そいつをレーザーで倒すことができなかった。大ぜいが、彼を殺そうと押しよせてきていたからだ。  つねに胴体をねらってスウィングせよ[#「つねに胴体をねらってスウィングせよ」に傍点]。  ルイスはまだ、ひとりも殺していなかった。だが、いまや敵にひるみがみえだしたのを見てとって、いちばん近くにいたふたりの相手を殺した。  とにかく敵を近づけないことだ[#「とにかく敵を近づけないことだ」に傍点]。  ほかのものはどうしているだろう? 〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉は、素手で戦っていた。いいほうの手の、むきだした爪で相手を引きさき、繃帯したほうの手は、そのまま錘《おも》りをつめた棍棒と同じだ。うしろからの剣先を危うくかわすと、そいつに掴みかかる。周囲をかこまれていたが、原住民はそれ以上近づけなかった。八フィートの背丈と、とがった歯をもった彼は、さながら異星の死神だった。 〈|探す人《シーカー》〉は窮地に立ちながらも、よく黒色の剣をふるっていた。その前には三人の敵が倒れ、血のしたたる剣を見ては、他のものも容易に近づけない。〈|探す人《シーカー》〉はすばらしい剣の遣い手だった。原住民も、剣のことは知っている。うしろに立ったティーラは、一応闘いの輪の中で安全だったが、憂わしげな表情は、みごとなヒロインといったところだ。  ネサスは、|ありえざる《インプロパブル》号へ向けて、いっさんに走っていた。片方の頭を低く前へつきだし、もういっぽうの頭を高くあげている。低いほうの頭で足もとを見まわし、高いほうの頭は遠くを見わたしているのだ。  ルイスはまだ無傷で、目につく敵をひとりひとり撃ち倒し、できるだけ他のものを援護しようとつとめていた。手のうちの携帯レーザーは、思うがままに、死の杖のような緑色のビームをふりまわす。  鏡面に向けてはならない[#「鏡面に向けてはならない」に傍点]。  反射性の甲胃は、レーザーの使い手にとって、始末のわるい相手である。ここの連中は、どうやらその戦法を知らないらしい。  緑の毛布を身にまとったひとりの男が、ルイス・ウーにいどんできた。わめきたてながら、重いハンマーを、せいいっぱいおそろしげにふりまわしている。ふたつ目玉の金色のタンポポ[#「タンポポ」に傍点]だ……ルイスはレーザーで、かるく薙いだ。  だが、相手はなおも突進してくる。  ルイスは脅えあがり、棒立ちになったまま、ビームをまっすぐこの相手に当てつづけた。あわやルイスの頭も砕け散るかとみえたとき、相手の腹の一点が焦げて黒ずみ、緑の炎がひらめいた。心臓を射ちぬかれて、男は横ざまに倒れた。  レーザー光と同色の着衣には反射性の甲胃と似た効果があるので注意せよ[#「レーザー光と同色の着衣には反射性の甲胃と似た効果があるので注意せよ」に傍点]。  こんなことは、これ以上もうたくさんだ! ルイスは緑のビームを、男のうなじに当てて、とどめをさした……。  ひとりの原住民が、ネサスの退路をはばんでいる。こういうおそろしげな怪物に立ち向かうとは、よほど勇敢なやつにちがいない。ルイスの一発はきまらなかったが、どのみちそいつは死ぬ運命だった。ネサスがクルリと背を向けざまに蹴りあげ、一回転して、また走りつづける。そのとき──。  ルイスはその瞬間を、はっきりと見とどけた。パペッティア人が、二本の頸を上下二段にかまえて、十字路にさしかかる。その、上にのばしたほうの頸が、とつぜんスパリと切れてころがったのだ。ネサスは足をとめてふりかえり、それきり立ったまま動かない。  木の切株のように平らな、その頸の切断面から、ルイスのと同じまっかな血が、奔流のように吹きあがった。  ネサスが高い苦しげなうなり声を、あたりにひびかせた。  原住民が、|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の糸を使って、彼をわな[#「わな」に傍点]にかけたのである。  ルイスは二百歳。友人を失うのは、これがはじめてではない。彼は戦いをつづけ、その光の刃は、ほとんど反射的に、目にとまる相手をつぎつぎに切りさいていった。  かわいそうなネサス[#「かわいそうなネサス」に傍点]。だが次は[#「だが次は」に傍点]、彼自身の番かもしれないのだ[#「彼自身の番かもしれないのだ」に傍点]……。  原住民が潮のように退いていった。彼らの目からみて、損害が大きすぎると判断したのだろう。  ティーラは目を大きく見ひらき、こぶしを歯に押しあてて、死にかけたパペッティア人を見つめている。〈|話し手《スピーカー》〉と〈|探す人《シーカー》〉が、|ありえざる《インプロバブル》号のほうへ、ジリジリと後退をはじめた──。  ちょっと待て[#「ちょっと待て」に傍点]。まだあきらめるのは早い[#「まだあきらめるのは早い」に傍点]!  ルイスは、パペッティア人に向かって駆けよった。〈|話し手《スピーカー》〉が、横をかけぬける彼の手から、携帯レーザーをひったくった。ルイスは、糸の罠をさけるため身を低め、いきなり肩をぶつけるようにしてネサスを押し倒した。パペッティア人が、パニックにかられて、いまにもかけだそうとしているかのようにみえたからである。  押さえつけて、片手でベルトをさぐった。  ベルトがない。  腰にまいていたはずなのに!  そのときティーラが、自分のスカーフを手渡してくれた!  ルイスはそれをひったくると、輪にして、パペッティア人の切り株のようになった頸にはめた。もうひとつの頭が、恐怖にかられたように、切り口の頸動脈からふきだす血を見つめていた。それから目をあげて、ルイスの顔を見つめ、目を閉じると、グッタリとなった。  ルイスは結び目をグイと引いた。ティーラのスカーフは、ギュッと締めつけ、一本しかない頸動脈、二本の大静脈、気管、食道、その他全部いっしょに塞ぎとめてしまった。  止血帯で首をしめてしまっていいんですか[#「止血帯で首をしめてしまっていいんですか」に傍点]、先生[#「先生」に傍点]?  それでもとにかく、止血はできたわけだ。  ルイスは身をかがめて、パペッティア人を肩にひっかつぐと、こわれた警察署の建物が落とす影に向かってかけだした。その前を、〈|探す人《シーカー》〉が守って走る。かまえた黒い剣の先端が、敵の姿をもとめて、ピリピリと小さな円を描く。武器をもった原住民は、それを見ながら、あえて挑戦しようとはしない。  ティーラが、ルイスのあとにつづいた。〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉が、最後に、誰かかくれていそうなところへ携帯レーザーの緑の光芒をばらまきながら到着した。タラップのところで、クジン人は足をとめ、ティーラが安全に上へあがるまで待って、それから──サッとどこかへかけ去ったのを、ルイスはチラリと目にとめた。  何のために、そんなことを?  たしかめている暇はなかった。ルイスは、階段をかけあがった。ブリッジへたどりついたときには、パペッティア人の体重が、信じられないほどの重さに感じられた。床に埋めこまれたフライサイクルのそばに、ネサスをおろすと、彼は応急医療セットに手をのばし、診断プレートをひっぱりだして、パペッティア人の頸の、止血帯のすぐ下に押しあてた。医療セットは、サイクルと臍の緒のようなものでつながっており、それはルイスが推測したとおり、彼のよりもはるかに複雑なしかけになっていた。  早くも医療機のダイアルが、ひとりでにまわりだした。数秒後には、ダッシュボードから、一本の細い管が蛇のようにのびて、パペッティア人の頸に達すると、その皮膚の上をまさぐり、正確に位置をさだめて、中へもぐりこんでいった。  ルイスは思わず胴ぶるいした。しかし──これは静脈を通した栄養補給なのだ。ネサスはまだ生きているのにちがいなかった。  彼がそれと気づかないうちに、|ありえざる《インプロバブル》号は、空中に浮かんでいた。〈|話し手《スピーカー》〉は、タラップのすぐ上の階段に腰をおろし、〈天国〉という名の城を見おろしていた。両手で何か、大事そうにしっかりと掴んでいる。  彼がたずねた。 「パペッティア人は死んだのか?」 「いや。しかし出血多量だな」  ルイスは、クジン人のそばにすわりこんだ。骨の髄まで疲れ果て、ガックリ気落ちしていた。 「パペッティア人は、ショック死することがあるだろうか?」 「どうしてそのようなことが、おれにわかる? ショックというのが、だいたい奇妙な反応だ。おまえたち人間を拷問にかけると、すぐ死んでしまうのはどういうわけか、それを知るのに、何百年もかかったぞ」  クジン人はどうやらべつのことに心をうばわれているようだ。だが、またたずねた。 「これも、ティーラ・ブラウンの幸運のひとつかね?」 「だろうな」と、ルイス。 「なぜだ? なぜ、パペッティア人の負傷が、ティーラの役に立つ?」 「ぼくの目をとおしてみなけりゃ、わからないことだろうな」ルイスは答えた。「はじめて会ったとき、彼女はひどくかたよった性格の持主だった。そう、何といえばいいか……」  ことばとともに、記憶がもどってきて、彼はつづけた。 「女の子がひとりいた。ただの話だと思ってくれ。相手の男は中年で、とてもすねた[#「すねた」に傍点]やつで、彼女にまつわる神秘の陰影ゆえに彼女を求めた。  彼女を手にいれたあとになっても、その神秘さが本物なのかどうか、確信がなかった。だが、そのうち彼女が、うしろを見せて去るときが来た。このときはじめて男は、彼女のうしろ側がからっぽだったことを知った。彼女は、少女のかたちをしたマスクだった。顔だけじゃなく、からだ全体の前面をかたどった、ゴムのマスクだったんだな。〈|話し手《スピーカー》〉、この娘は、傷つくことがない。それがこの男を惹きつけたのだ。彼の人生において、女というのは、いつも傷つき、彼はそれを自分のことのように感じ、ついにはもうそれに堪えられなくなっていたからだ」 「何のことかわからんぞ、ルイス」 「ティーラは、ここへやってきたとき、ちょうどそのマスクみたいなものだった。これまで傷ついたことが一度もなかったんだ。その性格は、人間とはいえなかった」 「それが、なぜいけないのだ?」 「なぜって、彼女が人間のかたちをしてたからさ。ネサスが彼女を、何かべつのものにつくりかえてしまうまではね。カホなやつめ! あいつのやったことがわかるか? やつは、自分のかたち、自分を理想化したイメージに、神をつくりあげ、そして、あのティーラ・ブラウンを手にいれたのさ。  彼女こそ、パペッティア人がそうありたいと願う理想像だった。彼女は傷つくということがない。不愉快なめにあうことすらない。それが彼女にとって、プラスになるものでないかぎりは。  それが、彼女がここへやってきた理由なのさ。リングワールドこそは、彼女にとって、理想の地だった。それは彼女に、一人前の人格を付与するための、一連の経験をさせる場所だったんだ。出産権抽籤のせいで、彼女みたいのがかなり生まれてるんじゃないかという気がする。同じような幸運の持主だ。みんな、|うそつき《ライヤー》号に乗ってくる資格はあったが、ただ、ティーラは、その誰よりも幸運だったというわけだ。  で……いま地球には、何十人も、ティーラ・ブラウンみたいなのが残ってるんだ! 彼らが自分の能力に目ざめたとき、未来は何とも奇妙なものになってくるだろう。ぼくら、残りのものは、早くそれから逃げだす算段をしなくちゃなるまい」 〈|話し手《スピーカー》〉がたずねる。 「草食いの頭の件は、どうなったのだ?」 「彼女には、他人の苦しみがわからない」と、ルイス。「たぶん彼女は、親しい友が傷をうけるのを、まのあたりにする必要があったんだ。それがネサスにどうひびこうと、ティーラの幸運ってやつは、おかまいなしなのさ。  あの止血帯をどう思う? ティーラが、ぼくのほしいものを察して、その役に立つものを見つけてくれたんだ。おそらく彼女が、危急にさいして正しく対処したのは、あれが生まれてはじめてのことだったろう」 「どうして彼女に、そういうことを学ぶ必要があるのだ? 自分の幸運で、どんな危急の場合からも守られているというのに」 「彼女は、危急の場合に自分が役に立つなどとは、思ってもいなかった。そういう自信を身につけるきっかけがなかったんだ。ともかく、あのときまではそうだった」 「正直なところ、おれにはまったくわからんぞ」 「自己の限界を知るということは、進歩の一部だ。ティーラは、何か現実の危急に直面しないかぎり、成長して、おとなになることができなかったんだよ」 「じつに人間的なことのようだな」と、〈|話し手《スピーカー》〉はいった。  それはつまり、完全にわけがわからないという意味だろうと、ルイスは解釈した。無理に答える必要もなさそうだった。  クジン人は、つけ加えた。 「この|ありえざる《インプロバブル》号を、原住民が〈天国〉とよぶあの城より高く駐めたのがまずかったかな? 彼らはそれを、冒涜ととったかもしれん。しかし、ティーラ・ブラウンの幸運というやつが、すべてをあやつっていたとすると、そう思わせたことも役に立ったということになるな」  クジン人がしっかりかかえこんでいるものを、ルイスはまだ見ていなかった。 「ネサスの頭をとりにいったのかい? だとしたら、時間の無駄だったな。そいつを冷凍するのは、もう間に合わないぜ」 「ちがうな、ルイス」 〈|話し手《スピーカー》〉が出してみせたのは、こぶしくらいの大きさの、子供の独楽のようなかたちのものだった。 「手を出すな。指が切れるぞ」 「指が? ほう、これは」  その涙滴形をした先端は、徐々に細く、針のようにとがっている。その針の先が、|遮 光 板《シャドウ・スクエア》をつなぐ黒い糸につながっているのだ。 〈|話し手《スピーカー》〉は言葉をついだ。 「原住民が、この糸を使いこなしたことは、さっき見たとおりだ。そうして、ネサスを罠にかけたのだ。そこでおれは、いったいどうやったのかと、それを見にもどった。  彼らは要するに、糸の端をひとつ見つけだしたのだ。この糸の反対側の端は、たぶん糸のままだろう。つまり、|うそつき《ライヤー》号がぶつかったとき、糸はそこで切れたが、こっちの端は、|遮 光 板《シャドウ・スクエア》のソケットからはずれたのだ。こういう端がひとつ手にはいっただけでも、幸運というものだ」 「まったくそのとおりだ。そいつを持って、あとは引きずっていけばいい。ぼくらがいけないようなところでも、そいつはからまる心配がないからね」 「これからどこへいくのだ、ルイス?」 「右舷だ。|うそつき《ライヤー》号へもどるのさ」 「当然だな、ルイス。まずネサスを、|うそつき《ライヤー》号の医療施設にいれなければならん。で、それからどうするのだ?」 「いってみなきゃね」  涙滴形の握りを〈|話し手《スピーカー》〉にしっかり持たせておいて、彼は、れいの電流硬化性プラスティックの残りをとりにいった。ふた掴みほどの材料で、握りを壁にくっつけた──だが、電流を流す方法がない。スレイヴァー式の武器でも役に立ったはずだが、それはなくなってしまった。考えあぐねたすえ、ようやくルイスは、自分の持っているライターのバッテリーが、そのくらいのプラスティックを硬化させるには充分な電流を流せることに気づいた。  涙滴形の、糸のついた端を、外へ出し、左舷へ向けて固定した。 「ブリッジは、今、右舷に向いていたはずだ」と、〈|話し手《スピーカー》〉。「もしちがっていたら、つけなおさなければならん。糸は、うしろに引きずっていかなければならんのだから」 「これでいいはずだよ」と、ルイス。  自信はまったくない……だが、糸をそっくり引っぱりこんで運ぶわけにはいかないのだ。このまま引きずっていくほかはない。まさか、この糸で切れないものにひっかかるなどという心配はないだろう。  ふたりがティーラと〈|探す人《シーカー》〉に会ったのはエンジンルームで、そこではプリルが浮揚モーターを作動させているところだった。 「あたしたち、お別れするわ」ティーラが、ぶっきらぼうな口調でいった。「このひとが、あのお城にピッタリつけてくれるって。そうすれば、窓からまっすぐあっちの会食ホールへはいれるでしょ」 「それからどうする? 城の浮揚モーターが動かせなかったら、そのまま島流しだぜ」 「〈|探す人《シーカー》〉にはいささか魔法の心得があるのよ。きっと彼が動かしてくれるわ」  ルイスはもう、彼女を説得してやめさせようとは思わなかった。ティーラにさからうのは、まるで怒れるバンダースナッチを素手でくいとめようとするようなものだ。  あきらめて、彼はいった。 「操縦がうまくいかなかったら、でたらめに押したり引いたりしてみることだね」 「わかってる」  彼女は微笑をみせた。ついで、ひどくまじめな顔になるといった。 「ネサスの面倒をみてやってね」  二十分後、〈|探す人《シーカー》〉とティーラが、|ありえざる《インプロバブル》号を離れたときも、それ以上何も別れのことばはなかった。ルイスも、いろいろといいたいことはあったが、結局口にはださなかった。  彼女の能力について、これ以上何がいえるだろう? 彼女は、幸運が生命を保証してくれるあいだに、試行錯誤をかさねながらそれを学んでいかなければならないのだ。  つづく数時間のあいだに、パペッティア人のからだは、まるで死んだようにつめたくなった。応急医療セットの各ライトだけが、意味はわからないが、いそがしく明滅をつづけている。おそらくパペッティア人の生命活動は、ある種の一時休止状態にはいったものと思われた。  |ありえざる《インプロバブル》号が右舷方向へ向かって進みだすと、|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の糸も、ピンと張ったりゆるんだりをくりかえしながら、引きずられてきた。あとにした都市の中では、その糸のせいで、いくつもの建物が切りきざまれ、崩壊をつづけていることだろう。だが、プラスティックで埋めこまれた握りは、無事にその場におさまっていた。  どこまで遠ざかっても、浮き城のある都市の姿が、地平線の向こうにかくれるということはない。数日にわたって、それはどこまでも小さくなっていき、かたちがぼやけ、そしてついに見えなくなった。  プリルはネサスのそばにすわりこんでいた。どうすることもできないのだが、そこを離れたがらないのだ。心の中の苦しみが、はっきりとおもてに出ている。 「彼女をなんとかしてやらなきゃ」と、ルイス。「タスプ中毒になりかけていたところへ、それがなくなっちまったんで、禁断症状に陥ってるんだ。自殺するか、さもなければ、ネサスやぼくを殺そうとするかもしれない!」 「ルイス、そういうことを、おれに[#「おれに」に傍点]相談しても、意味はないぞ」 「そうだな。何にもならない」  人間の心の悩みを救うには、聞き上手を演じてやらなければならない。なんとかやってみようとしたものの、ルイスの会話力はまだ不充分だし、プリルも黙りこくって口をひらこうとはしなかった。ひとりでいるときは歯ぎしりしながらも、プリルの前に出ると、彼は必死で演技をつづけた。  彼女はいつも、彼の目の前にいた。ずっと彼女をさけていられたら、良心のうずきも癒えたかもしれないが、彼女はブリッジから立ち去ろうとはしないのだ。徐々に彼は、ことばを覚え、それにつれて徐々に、プリルの口もほぐれはじめた。彼は彼女に、ティーラのこと、ネサスのこと、そして、神様ごっこのことを話してやろうとつとめた──。 「わたし、自分が神様だと思っていた」と、彼女はいった。「本当なの。どうしてそう思っていたのでしょう? わたしがリングワールドをつくったわけでもないのに。それは、わたしよりもずっと古いのに」  プリルもまた学びつつあった。彼女の話すことばは、はるか古代に滅びた言語から単語だけをとって簡略化したものだった。時制がふたつしかなく、事実上の修飾語句もなく、発音による強勢もない。 「まわりのものがそう思わせたんだ」と、ルイス。 「でも、わかって[#「わかって」に傍点]いたのに」 「誰でも、神様にはなりたい[#「なりたい」に傍点]」  責任をとる必要のない権力の座につきたいということだ。だが、ルイスにはそれだけの語彙がなかった。 「そこへ、彼が現われた。ふたつの頭の。彼は機械をもっていたの?」 「タスプという機械だ」 「タスプ」彼女は、慎重な口調でいった。「わかっていたの。タスプがあれば、神様になれる。タスプをなくしたら、神様じゃない。この、ふたつ頭は、死んだの?」  いわくいい難しというところだ。 「死なんて小馬鹿にしてたのに」と、ルイス。 「首を切られるなんて、間抜けね」プリルがいった。  ジョークだ。彼女は冗談をいおうとしたのだ。  ようやく、ほかのことに興味を示しはじめていた。セックスや、会話の練習や、それに、窓の外のリングワールドの眺めなどにも。そこはもう、ポツポツとひまわり[#「ひまわり」に傍点]花の現われはじめる地域だった。プリルはまだそれを見たことがない。その植物が躍気になって光をあびせてくるのを避けるために、一フィートほどのを一本掘りおこして、建物の屋根に移し植えた。やがてもっとずっと濃い群落の現われる前に、針路を大きく曲げて同転方向《スピンワード》へ向かった。  食糧が尽きるころ、プリルはもうパペッティア人には目もくれなくなっていた。ルイスは彼女の全快を、〈|話し手《スピーカー》〉に告げた。 〈|話し手《スピーカー》〉とプリルが組んで、つぎの原住民集落で、神様ごっこを演じることになった。上に残ったルイスは、〈|話し手《スピーカー》〉がうまくやりおおせてくれることを念じながら待っていた。頭を剃りあげて仲間に加われたらと思うと、苛立たしい気分だった。しかし、いまの彼は、侍祭になる資格がまったくない。何日も練習したのだが、まだことばに関しては、お義理にも流暢とはいえなかった。  捧げものを受けて、ふたりはもどってきた。  食糧である。  数日が数週となるまでに、彼らはそれを何度かくりかえした。みごとな手なみだった。〈|話し手《スピーカー》〉の毛皮も前よりは伸び、ふたたびオレンジ色の豹、〈一種の軍神《いくさがみ》〉にふさわしい外見がもどってきつつあった。ルイスの忠告に従って、彼は両耳をいつもピッタリと頭に貼りつけているようにした。  神の役をつとめることが、〈|話し手《スピーカー》〉に奇妙な影響を及ぼしているようだった。  ある夜、彼はルイスにいった。 「神のふりをすることは何でもないが、その役割を上手にやってのけようとすると、いささか重荷だな」 「どういうことだい?」 「彼らはやたらに質問をするのだ、ルイス。女どもはプリルに質問し、彼女はそれに答えている。だいたいが、おれには、質問の内容もその答えもわからんようなしろものだ。男どももプリルに質問すればいい。プリルは人間で、おれはそうではないのだからな。ところが、やつらはおれに質問してくる。このおれにだ! なぜやつらは、自分たちの問題を、異星人のところへもちこむのだ?」 「あんたが男だからさ。神というのは、一種のシンボルなんだよ。たとえ実在する神でもね」と、ルイス。「あんたは、男性を象徴する存在なのさ」 「こっけいな話だ。おれには、おまえがもっているような、むきだしの生殖器もないのだぞ」 「あんたの図体がでかくて、印象的で、いかにもおそろしくみえるからさ。それだけで、自動的に、男性のシンボルってことになっちまうんだ。それが消えたら、あんたの神性も消え失せると思うね」 「集音機があって、おれに答えられないおかしな質問には、おまえが答えてくれるといいのだがな」  ここでプリルが、ふたりを驚かせた。|ありえざる《インプロバブル》号は、元来が警察署である。その倉庫の一室から、プリルは警察用の交信機をひっぱりだしてきたのだ。この建物の電源につないで使うようになっている。整備してみると、六個あったうちの二個が、また動くようになった。 「きみは思ったよりしっかりしてるんだな」ルイスはその夜、プリルにいった。  それから、ちょっと迷ったが、うまいいいまわしを考えるには、まだ会話力不足だ。 「宇宙船のセックスメイトにしておくのは惜しいよ」  プリルは笑った。 「おばかさん! あなたの船も、わたしたちのに負けないくらい早いって、自分でいってたくせに」 「そうだ。光よりも速い」  彼女はまた笑った。 「それはつくり話ね。理論上、ありえないことだわ」 「たぶん、きみたちのとはべつの理論があるんだろう」  彼女はちょっとたじろいだようだ。無表情な顔よりも、からだの筋肉の無意識な動きから、その気持を読みとることを、彼はすでに覚えていた。  だが、彼女は答えた。 「往き来に何年もかかる船では、たいくつが最大の敵。だからそれをまぎらす方法にも、いろいろあるの。船のセックスメイトには、心とからだと両方の薬の知識のほかにも、大ぜいの男に愛される人柄と、それに、高度の会話能力が必要なのよ。事故の原因をつくらないように、船の機能のことも、あるていど知っていなければいけない。健康でなければいけない。資格規定によって、楽器の演奏ができなければいけない」  ルイスは、ポカンとしてその顔を見つめた。プリルは音楽的な笑い声をたてて、彼のからだに、あちこちと触れはじめた……。  交信システムは、イア・ピースが人間用で、クジン人の耳に合わないのが難だったが、それでも充分役に立った。ルイスは、軍神《いくさがみ》の後見役をつとめているうち、アドリブの能力を身につけた。もっとも、何か失敗をやっても、|ありえざる《インプロバブル》号の速度は、リングワールド上でそのニュースの伝わる速さの最大値よりも速いのだからと、自分にいいきかせればすんだ。一回ごとが|最初の接触《ファースト・コンタクト》にあたるのだった。  何ヵ月かが過ぎた。  土地が徐々に登りになり、徐々に荒地が目立つようになった。陽光の中に〈神の拳〉が浮かびあがり、日ごとにそれが大きさを増してくる。ルイスの思考の中に、それはもう当然のことのように根をおろしていた。だが、これから起こることについて確信が得られるまでには、なお時日がかかりそうだった。  ある日なか、彼はプリルをつかまえた。 「きみに教えておきたいことがある。きみは、誘導電流について、知ってるかい?」  それについて、彼は説明した。そして、いった。 「脳の中にわずかな電流を流してやっただけで、喜びも苦しみも直接つくりだしてやれるんだ」  彼は、そのしくみを説明した。 「これが、タスプの作用の原理だ」  全部の説明に、二十分ほどかかった。プリルがたずねた。 「彼がその機械を持ってたことはわたしも知ってる。なぜ今そんなことを話すの?」 「ぼくらは文明を離れようとしている。このあとは、宇宙船へいきつくまで、もう村もあまりないだろうし、食糧源も少ないだろう。それで、きみの決心がきまる前に、タスプのことを知っておいてほしかったんだ」 「決心って?」 「つぎの村で、きみを降ろそうか? それとも、いっしょに|うそつき《ライヤー》号まできて、それから|ありえざる《インプロバブル》号で引っかえすかい? そこでなら、食糧も持たせてあげられるが」 「|うそつき《ライヤー》号に、わたしの乗るよゆうはあるはずね」たしかめるように、彼女はいった。 「もちろんだよ。しかし──」 「もう野蛮人はたくさん。文明のあるところへいきたいの」 「ぼくらの風習を覚えるのもたいへんだぜ。一例をあげると、彼らはみんなぼくのように、髪をのばしてるんだ」  ルイスの髪は、頭全体に長く濃くのびている。弁髪はもう切りおとしていた。 「きみは、かつら[#「かつら」に傍点]をつけなきゃならないだろう」  プリルは顔をしかめた。 「なんとか慣れるわ」  それから、はじかれたように笑いだした。 「わたしをおいて、ひとりで帰れるつもりなの? あの大きなオレンジ色のに、女のかわりはつとまらないわ」 「いつでもその論法でしてやられるんだ」 「あなたの世界でも、わたしは役に立つはずよ、ルイス。あなたの仲間は、セックスについて、まったく無知なようだから」  そのことばこそ、ルイスの慎重な誘導によって、ひきだされたものであった。 [#改ページ]      24 |神 の 拳《フィスト・オブ・ゴッド》  進むにつれて土地は乾燥し、空気はうすくなっていった。近づくにつれて、〈神の拳〉は、遠くへ逃げていくかのように思われた。  果実はもうなくなり、肉の供給も底をつきかけていた。ここはもう、〈神の拳〉自身の裾野をなす荒地の一部、かつてルイスが地球の表面より大きいだろうと見つもった砂漠のただなかだった。  |ありえざる《インプロバブル》号の周囲を、風が音をたてて吹きすぎていく。すでに船は、この巨大な山のほとんどまっすぐ回転方向《スピンワード》側に達していた。アーチは青く、クッキリと空に浮かび、星々はかたく空にはりついたように輝いている。  正面の大きな張出し窓から、〈|話し手《スピーカー》〉が上を見あげた。 「ルイス、ここから銀河の核をさがしあてられるか?」 「何のために? この星系の位置は、はっきりわかってるんだぜ」 「まあ、やってみろ」  ルイスは、この空のもとで過ごした数ヵ月のあいだに、いくつかの輝星を手がかりに、既知空域《ノウン・スペイス》内とはかなりゆがんだ星座のかたちを見さだめていた。 「あの方向だと思う。ちょうどアーチのうしろだ」 「そのとおりだ。銀河の核は、リングワールドの回転平面上に位置している」 「そういうことさ。だが──」 「リングワールドの構成物質が、中性微子《ニュートリノ》をさえぎることを忘れるなよ、ルイス。おそらくこの物質は、他の素粒子もさえぎるだろう」  クジン人は明らかに、何かを示唆しているのだった。 「……そうか。リングワールドは、銀河の核の爆発にも安全なようにできてるんだな! いつ、そのことに気づいた?」 「ついさっきだ。核の位置は、少し前からわかっていたが」 「散乱ってこともある。縁の外壁あたりは、かなりの放射能にさらされるだろう」 「しかし、放射波の前線が押しよせるときには、〈ティーラ・ブラウンの幸運〉が、彼女を外壁付近から遠ざけておくだろう」 「二万年さきのことだぜ……」  ルイスは凝然となった。 「おっそろしい話だ! どうしてそんなことを心配するんだ?」 「病気とか死は、すべて不運の一種だ。現在の仮定から推すかぎり、ティーラ・ブラウンは永遠に生きつづけるだろう」 「しかし……いや、なるほど。彼女は自分でそんな心配をする必要もないんだったな。とにかくわれわれみんなを、人形みたいにあやつってるのが、彼女の〈幸運〉というしろものなんだから……」  ネサスが室温をたもった屍体となって、もう二ヵ月が過ぎている。腐る気配はなかった。応急医療セットのランプは、じっと点いたままで、時おりその光の調子には変化すらみとめられた。それが、彼が生きていることの、唯一のしるし[#「しるし」に傍点]であった。  そのパペッティア人を、ルイスはじっと見つめていた。やがて、かねて気になっていたふたつの考えの接点が、見つかったような気がした。 「〈人形師《パペッティア》〉か」と、彼は静かにつぶやいた。 「何だ、ルイス?」 「パペッティア人って名前は、周囲の種族を人形みたいにあやつるところから、ついたものじゃないかという気がするんだ。彼らは、人間とクジン人を、まるであやつり人形みたいに扱った。そのことは否定しようのない事実だ」 「しかし、ティーラの幸運にとっては、ネサスのほうが人形だったな」 「結局、われわれみんな、いろいろなレベルで、神様ごっこをやっているということさ」  このやりとりは、プリルにも三分の一くらいはわかるはずだ。そのほうへルイスはうなずいてみせた。 「プリルもぼくもきみもだ。どんな気分だい、〈|話し手《スピーカー》〉? きみは神様として、いいほうだったか、悪いほうだったか?」 「おれには知りようがない。人間のことは、ずいぶん研究したつもりだが、なにぶん自分の種族のようなわけにはいかん。一度、原住民同士の戦争をやめさせたことは、おまえも覚えているだろう。両方の側に、戦えば負けると思わせたのだ。三週間ほど前のことだったな」 「ああ。それはぼくの発案だった」 「そのとおりだ」 「ところで、あんたはこれからまた、神様の役をつとめなけりゃならん。それも、クジン人に対してだぜ」と、ルイス。 「どういうことかわからんな」 「ネサスをはじめとするパペッティア人は、人間とクジン人の品種攻良計画をすすめてきた。自然淘汰の効果が、おとなしいクジン人に有利に働くような環境を、わざとこしらえたわけだ。そうだね?」 「そうだ」 「もし、あんたたちの長老がそのことを知ったら、どうなるだろう?」 「戦争だな」と、クジン人。「重装備の艦隊が、二年間の航程を踏破して、パペッティア人の惑星に襲いかかるだろう。たぶん人間も、合流するだろうな。パペッティア人は、当然おまえの種族をも、同じくらいひどく侮辱したのだから」 「そのとおりだ。それで?」 「草食いの手で、わが種族は、赤ん坊にいたるまで殲滅しつくされる結果になるだろう。ルイス、おれは、星間種子誘引機《スターシード・ルーア》や、パペッティア人の品種改良計画にまつわることは、誰にもいっさい洩らさぬつもりだ。おまえも沈黙を守るようにしてくれるか?」 「もちろんだとも」 「それがつまり、おまえのいう、わが種族に対して神になれということか?」 「そうだ。だが、もうひとつおまけがある」と、ルイス。「|のるかそるか《ロングショット》号のことだ。あんたは、まだあれをひとり占めにする気か?」 「たぶんな」クジン人は答えた。 「無理だと思うよ」と、ルイス。「しかし、もしそれが成功したとしよう。そしたら、どうなる?」 「そうしたら、わが長老は、量子第二段階《クワンタムU・》|超空間駆動《ハイパードライヴ》を手にすることになる」 「それで?」  何か重大な決定がおこなわれつつある局面を、プリルも感づいたらしい。まるで、喧嘩になったらすぐ仲裁にはいろうとするようなかまえで、ふたりの様子を見つめている。 「間もなくわが種族は、一光年を一分と四分の一で飛ぶ軍艦の建造にかかるだろう。それによって、われわれは既知空域《ノウン・スペイス》を撃ち従え、手のとどくかぎりの種族を奴隷化することができる」 「それで、そのあとは?」 「それで終わりだ。それこそわが種族の目標だったのだからな、ルイス」 「いいや。あんたたちは、さらに征服をつづけるだろう。あれほどの性能をもった駆動装置があれば、あんたたちは、あらゆる方向に進出し、見つかるかぎりの世界を支配しようとするはずだ。結局は版図をひろげすぎて、その維持ができなくなる……おまけに、そこまでひろがっていくうちには、きっと、ほんとうの意味で[#「ほんとうの意味で」に傍点]危険な相手に出くわすだろう。パペッティア人の船隊。最盛期にあるべつのリングワールド。成長途上にある第二のスレイヴァー種族。手をもったバンダースナッチに、足のあるグロッグ族に、銃をもったクダトリノ人」 「おそろしいことを考えるものだな」 「リングワールドのひとつは、現にここにある。パペッティア惑星も見てきたな。あの駆動装置で到達できる範囲には、まだ同じようなものがどれだけあるかわからないんだぜ」  クジン人はだまりこんだ。 「まあ、時間をかけて考えてみろ」と、ルイス。「ようく検討してみるんだ。どうせ|のるかそるか《ロングショット》号をひとり占めすることは、できないだろうがね。どうしてもやろうとすれば、ぼくらを皆殺しにしなければならんだろう」  つぎの日、|ありえざる《インプロバブル》号は、まっすぐにのびる墜落あとの溝に出あった。そこで、反回転方向《アンチスピンワード》に向きを変える。その正面に、〈神の拳〉がそそり立っていた。 〈神の拳〉の巨大な山容は、いっこうに近くなる様子もなく、ただどこまでも大きくなっていった。どんな小惑星よりも大きく、粗けずりな円錐形で、一見したところ頂上に雪をいただいたようなその姿は、徐々に、まるで悪夢のような大きさにまでふくれあがっていった。 「わけがわからないわ」  プリルは、混乱し、とり乱していた。 「こんな山があるなんて、知らなかった。どうして、こんなものをこしらえたのでしょう? 縁《リム》のほうには、このくらいの高さの山はあるけど、それは飾りつけ用だし、大気をとめておく役にも立っているのよ」 「思ったとおりだ」と、ルイス・ウー。  しかし、それ以上は何も語ろうとしなかった。  その日のうちに、たどっている溝はいきどまりとなり、そこに小さなガラス壜のようなものがみえた。  |うそつき《ライヤー》号は、残していったままの、摩擦のない面の上にひっくりかえった姿で、そこにあった。帰還のお祝いはあとのことだ、とルイスは心に思った。まだ故郷に帰りついたわけではない。  プリルが、|ありえざる《インプロパブル》号を近づけ、そのタラップからルイスが乗りうつれるようにした。エアロックの内外のドアを両方ともあけておく方法を見つけ、そのようにスイッチをいれると、かすかな音をたててたえまなく吹きだしてくる風にさからいながら、一同はネサスのからだをはこびこんだ。  ネサスがいないと、船内気圧を下げておく方法がわからず、そのネサスは、どう見ても屍体としか思えない状態だった。  何はともあれ、そのからだを、自動医療装置にいれた。それは、パペッティア人と似たようなかたちの棺で、ネサスの大きさにピッタリだが、全体としては、ずいぶん大きなものだった。パペッティアの医学と技術のレベルから考えて、それはおそらくいかなる場合にも対応できるはずだ。  だが、頸が切れた場合の備えまでは、あるだろうか?  あった。  その中には、予備の頭が二個と、さらに頸もついた頭がふたつ、その他、完全なパペッティア人が何人もつくれるくらいの内臓や身体各部の部品があったのである。おそらく、ネサス自身の細胞から培養されたものだろう。頭についた顔は、どれもよく似ているように思われた。  プリルが乗りこんできて、アッというまに頭から船内へ墜落した。人間がこれほどびっくり仰天した姿を、ルイスは今まで見たことがなかった。彼女に人工重力のことを話しておく必要があることに、彼はまったく気づいてもいなかったのだ。  ようやく起きあがったとき、彼女の表情には、例によって何の変化も見てとれなかったが、しかしその様子ときたら──。彼女は、畏怖のあまり、口もきけないありさまだった。  静かな帰還。  だが、ふいにルイス・ウーは、感きわまったようにわめいた。 「コーヒーだあ!」それから「熱いお湯だあー」  ティーラ・ブラウンと往路をともにした専用室へ、彼はとびこんでいった。一瞬後、彼は頭を出してよび立てた。 「プリル!」  プリルがあとにつづいた。  コーヒーは彼女の好みに合わなかった。こんな苦いものを飲むなんて、気がくるってるんじゃないの、と、彼女は感じたままを口にだした。  シャワーは彼女にとって、忘れてしまうほど長いあいだ得られなかった贅沢だった。ルイスは使いかたを教えてやるだけで充分だった。就寝プレートは、彼女を手におえないほど有頂天にさせた。 〈|話し手《スピーカー》〉は、彼一流のやりかたで、その帰還を祝っていた。クジン人の専用室内で何が起こっているのか、ルイスにすべてがわかるわけではない。だが、おそろしいいきおいで何かにかぶりついていることだけは、たしかだった。 「肉だ!」歓喜に堪えない声。「腐りかけた肉ばかりで、うんざりだったぞ」 「あんたがいま食ってるのは、人工の再製品なんだぜ」 「そうだ。しかし、殺したての味だ!」  その夜、プリルは、休憩室《ラウンジ》の長椅子で眠った。就寝フィールドは、彼女を大いに喜ばせたが、ただしそれは眠るためにではなかった。しかしルイスにとって、無重力で眠るのは、これが三ヵ月ぶりのことだった。  十時間も眠って目をさますと、彼は大車輪で働きだした。足もとの床ごしに、半欠けの太陽がもえているのがみえた。  ふたたび|ありえざる《インプロバブル》号にもどると、彼は携帯レーザーで、|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の糸の端の握りを、壁からはがした。はずれたとき、溶融したプラスティックが、まだくっついていた。  それをもって|うそつき《ライヤー》号にかけもどるわけにはいかなかった。黒い糸はあまりにも危険だし、環《リング》の床面はあまりにもすべりやすいのだ。彼はその摩擦のない表面を、四つんばいになって、握りをうしろに引きずって進んだ。 〈|話し手《スピーカー》〉が、エアロックから、黙ってそれを見つめている。  ルイスは、建物のタラップをたてかけて、船のエアロックにはいると、クジン人をずっとうしろにさがらせ、自分は船尾のほうへ向かった。〈|話し手《スピーカー》〉は、まだじっと見まもっている。  うそつき《ライヤー》号の残骸の最後尾に近いところに、人間の腿ほどの大きさの開孔部があった。まだ翼がついていたとき、それに取りつけられた装置類へ通じる電纜がとおっていたものである。今それは、金属の蓋で閉じられていた。ルイスはその蓋をひらくと、引っぱってきた糸の端の握りを、そこから外へほうりだした。  それから船首へもどりながら、彼は調理機から出したジンクス製のソーセージを使って、糸の所在をたしかめ、その位置に黄色い塗料でところどころしるしをつけた。これで、ふつうならみえない糸が、船内を走る黄色い点線として目にとまるようになった。  この糸がピンと張ると、船内の装備は、当然切りさかれてしまう。黄色い点線の位置から推して、その場合も、生命維持システムの一部に触れるおそれがないことを、ルイスは確認したのだった。だが、塗料を使った目的はほかにもあった。これで全員が、指を切りおとされたり、それ以上の被害に遭わないよう、身を遠ざけておくことができる。  ルイスは、エアロックから外に出ると、〈|話し手《スピーカー》〉が出てくるのを待って、外のドアを閉じた。 〈|話し手《スピーカー》〉が、このときたずねた。 「こんなことをしてどうするのだ」 「もうすぐわかるよ」と、ルイス。  彼は、ゼネラル・プロダクツ製の船体にそって後尾へいき、両手で糸の握りをつかむと、しずかに引っぱった。途中で、糸がピンと張ったらしく、それ以上は引けなくなった。  そこでやおら渾身の力をこめて引っぱってみた。糸は微動だにしない。エアロックのドアが、ガッチリおさえているのだ。 「これ以上は強度テストの方法がない。だいたい、エアロックのドアが、こいつをくわえこむほどピッタリしてるかどうかもわからなかったし、ゼネラル・プロダクツの船体に傷がつかないですむかどうかも、自信がなかった。いや、自信がないことは今も同じだ。しかし、そう、このためにここまできたのさ」 「次には何をする?」 「エアロックのドアをあける」  そのとおりにしてから、彼はつづけた。 「糸が|うそつき《ライヤー》号の中を自由にすべるようにしておいて、握りを|ありえざる《インプロバブル》号へ引っぱっていき、しかるべき場所にくっつけるんだ」  そして、それもやり終えた。  |遮 光 板《シャドウ・スクエア》をつないでいた糸の、反対の端は、目にはみえないが、はるか右舷のほうへのびているはずだ。もう何千マイルも、|ありえざる《インプロバブル》号のうしろにひきずっている。この浮かぶ建物に積みこむ方法がなかったからだ。おそらくは、〈天国〉の下にある都市の上につみ重なった糸の山まで、ずっとつづいているのだろう。煙のようにみえた糸の山は、何百万マイルぶんもひとつづきだったかもしれない。  今やそれが、エアロックから|うそつき《ライヤー》号にはいり、その焼け残った船体の中をとおって、電纜用の開孔から外へ出、そのさきは、浮かぶ建物の下面に接着された、電流硬化性プラスティックのもりあがりまでつづいているわけである。 「ここまでは上乗だ」と、ルイス。「さて、つぎはプリルに……カホナ! 忘れていた。プリルには宇宙服がないんだっけ」 「宇宙服だと?」 「これから、|ありえざる《インプロバブル》号で、あの〈神の拳〉山にのぼるのさ。この建物は、気密にはできていない。宇宙服が必要だが、プリルは持っていないんだ。彼女はこっちの船に残していくしかない」 「〈神の拳〉山をのぼるだと」〈|話し手《スピーカー》〉は、おうむ返しにいった。「しかしルイス、一台のフライサイクルに、|うそつき《ライヤー》き号を引きずってあの斜面をのぼるだけの力はないぞ。その上、この建物の重さまで、モーターに負担をかけることになるが」 「ちがうちがう。|うそつき《ライヤー》号を引きずるなんていってないよ。|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の糸を引っぱっていくだけのことさ。プリルにいって、エアロックのドアを閉めさせないかぎり、糸は|うそつき《ライヤー》号の中を自由にすべるんだ」 〈|話し手《スピーカー》〉は考えこんだ。 「それなら大丈夫だろうな。もし、パペッティア人のフライサイクルの出力が充分でなかったら、建物の要らない部分を切りすてて軽くすればすむ。しかし、なぜそんなことを? あの山の上に何があるというのだ?」 「それは、ひとことでいえる。だが、いったとたんに、あんたに笑いとばされるだろう。なあ〈|話し手《スピーカー》〉、もしぼくの思惑がはずれたら、あんたには絶対に話さないことを誓うぜ」と、ルイス・ウー。  そういいながら、彼は考えていた。  ──プリルには、やることをよく話しておかなきゃならん。それから、電纜用の開孔には、プラスティックでもつめておくことだ。それだと、糸はすべるが、船内をほとんど気密にしておくことはできる──。  |ありえざる《インプロバブル》号は宇宙船ではない。その浮揚力は電磁気的なもので、環《リング》の構成物質そのものに対する反撥力なのだ。そしてその物質は、〈神の拳〉の方向へ、のぼり斜面をなしている。〈神の拳〉の内部が、がらんどうになっているからだ。当然、|ありえざる《インプロバブル》号はそれに合わせて傾き、フライサイクルの推力にさからって麓へすべり落ちようとする。  しかしこの問題に対しては、〈|話し手《スピーカー》〉のことばが、すでに解決を与えていた。  この登山がいよいよはじまったときには、ふたりともあらかじめ宇宙服を着こんでいた。ルイスは、チューブから流動食をすすりながら、携帯レーザーで焼いたステーキの味を、なつかしく思いだしていた。〈|話し手《スピーカー》〉も、再生血液をすすりながら、それなりの思いにふけっているはずだった。  当然、調理場はもう不要だ。建物のその部分を切り捨てると、余禄として、建物の傾きがいくらかもとへもどった。  空調設備と、警察用の検束装置も切り捨てた。フライサイクルの機構を破壊した動力装置も、それが浮揚動力と関係ないことを確認した上で、すぐ切り落とした。つぎには外郭が捨てられた。だが、日かげ用に、一部は残しておく必要があった。直射日光による熱が問題になってきたからだ。  日一日と、〈神の拳〉の頂上、たいていの小惑星ならのみこんでしまいそうなその環状の峰が近づいてきた。火口壁のかたちは、ルイスがこれまで見てきた隕石の衝突によるそれとは、かなりちがっていた。黒曜石をといだ槍の穂先をならべたような、ギザギサの環が、グルリととりまいているらしい。その穂先のひとつひとつが、ふつうの山ほどもある。そのふたつの峰のあいだに、大きなすき間があった……あそこならはいれそうだ……。 「火口壁の内側にはいるつもりだな」と、〈話し手《スピーカー》〉がいった。 「そうだ」 「では、峠が見つかってよかったな。これから上は、傾斜が急で、とても推力が足りん。そら、もうすぐそこだぞ」 〈|話し手《スピーカー》〉は、フライサイクルの推力をいろいろと変化させて、|ありえざる《インプロバブル》号を自在にあやつった。重さを減らす最後の試みとして、建物の姿勢制御機構を切り落としてから、ずっとそれをつづけてきたのだ。  クジン人の奇怪な宇宙服姿に、ルイスもようやく慣れはじめていた。五個の透明な球形がつらなり、その上にのった金魚鉢のようなヘルメットの内部は、おそろしく複雑な通話機で顔が半分以上もかくれ、背中には巨大な背嚢がついている。 「プリル、そこにいるか?」ルイスは通話機に声をふきこんだ。「ハールロプリララー。いるかい、プリル?」 「いるわ」 「待機してくれ。あと二十分ほどで通過する」 「ええ。ずいぶん長くかかったのね」  頭上ではアーチが輝いていた。リングワールド面の上空一千マイルの高みにあがったここからだと、そのアーチの根もとが、外壁と、平坦な大地につながっている様子が、よくわかった。一千年の昔、はじめて宇宙に出た人間が、全能の 神《ヤハヴェ》 とその手の大槌《ハンマー》にかけて、本当にまるい地球を見たようなものだ。 「気がつかなかったな」と、ルイス・ウー。  ほんのつぶやきだったが、〈|話し手《スピーカー》〉は仕事の手をやすめてふり向いた。ルイスは、クジン人の奇異の目にも気づかないように、しゃべりつづけた。 「早く気がつけば、ずいぶん面倒が避けられたのに。|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の糸を見つけてすぐ引っ返せばよかった。カホナ! フライサイクル四台を使えば、|うそつき《ライヤー》号をまっすぐこの〈神の拳〉山に引っぱりあげることだってできたんだ。でも、それだとティーラは、〈|探す人《シーカー》〉に会えなかったことになる」 「また、ティーラ・ブラウンの幸運か?」 「もちろん」  そう答えてから、彼は頭をブルッとふった。 「ぼくは、ひとりごとをいってたのかい?」 「おれにも聞こえたぞ」 「気がついていて当然だったんだ」と、ルイス。  ふたつの峰のあいだの裂け目は、もう目の前だ。彼はしゃべりつづけずにはいられなかった。 「リングワールドの建設者が、こんな場所[#「こんな場所」に傍点]に、こんな高い山をつくったとは思えない。両側の外壁を合わせると、十億マイル以上[#「十億マイル以上」に傍点]もの、高さ一千マイルの山脈があるんだから」 「しかし、現実にこの〈神の拳〉は存在するのだぞ、ルイス」 「ちがうちがう。こいつはただの殻にすぎないのさ。下を見てみろ。何がみえる?」 「リングワールドの構成物質だ」 「はじめて見たときは、よごれた雪かと思ったっけ。真空中に、よごれた雪とはね! だが、まあ外観はどうでもいい。それより、あんたがリングワールドのでっかい地図をしらべた夜のことを覚えてるかい? 〈神の拳〉は見つからなかった。なぜだ?」  クジン人は答えない。 「これが存在しなかったから、というのが理由だよ。地図がつくられたとき、この山は、なかったんだ。プリル、そこにいるか?」 「いるわ。離れるわけないでしょ?」 「よろしい。エアロックのドアを閉めてくれ。くりかえす。エアロックのドアを閉めること。内外とも、いますぐ[#「いますぐ」に傍点]。糸に触れて怪我をするなよ」 「この糸を発明したのは、わたしの種族よ」  プリルの声は、空電のためいくらかゆがんで聞こえた。一分ほどその声がとだえ、それから、彼女がいった。 「中も外も閉めた」  いましも|ありえざる《インプロバブル》号は、槍のようにそそり立つ山あいにさしかかっている。ルイスは緊張していたが、本来ならもっと緊張の極に達していて当然のはずだった。だが、意識の奥では、彼もやはり両側の頂きのあいだに、一種の谷か峠のようなものがあることを予期していたのかもしれない。 「ルイス、本当に、〈神の拳〉の頂上火口に何があると思っているのだ?」 「星だよ」と、ルイス・ウーは答えた。  クジン人は、キッとなった。 「馬鹿にするな! わが名誉にかけて──」  そのとき、視界がひらけた。そこは、峠などではなかった。そこにあるのは、何かおそるべき力によって薄くひきのばされた上で、まるで卵の殻のように打ちやぶられた、リングワールド構成物質のへり[#「へり」に傍点]だった。厚さわずか数フィート。その向こうに、〈神の拳〉山頂の火口がひろがる。  船は墜落をはじめた。火口の中は、満天の星だった。  ルイス・ウーの想像は当たっていた。すぐれた空想力により、彼はこの火口の由来を、完璧に心の中で再構成していたのだ。  まず、リングワールド系があった。消毒滅菌ずみで、ラムシップも飛ばず、あるのは中央のG2型恒星と、花輪のようにつらなった|遮 光 板《ツャドウ・スクエア》と、そしてリングワールドだけ。  そこへ異世界からの物体が接近し、迫ってきた。恒星空間から、双曲軌道をえがいて飛来した、この物体の進路がさえぎられた──リングワールドの下面によってだ。  彼の見つもりだと、異星の物体の大きさは、地球の月くらいと考えられた。  衝突から数秒のうちに、それは完全にイオン化し、プラズマとなっていたにちがいない。隕石は、みずからの外面の蒸発により熱を奪われて冷えるものだ。しかしこの場合は、蒸発したガスの逃げ場がなかった。それが、リングワールドの床面を押しあげた。  地形が上へ向かってゆがみ、地球の表面よりも大きな区域にわたって、注意ぶかく計画されたその地域の生態系と降雨パターンは、メチャメチャになってしまった。この砂漠が、それによって生じ……そして〈神の拳〉自体は、一千マイルも上へつきあげられたすえ、信じられないほど強靭な環《リング》の構成物質も、ついに破れて、火球に道をゆすったのである。 〈神の拳〉だと?  まさしくそのカホな名にピッタリのしろものだ!  あの牢獄の監房から山の姿を見たとき、ルイス・ウーの心眼は、この光景をはっきりととらえていた。それは両側の外壁付近からでも、はっきり見えたにちがいない。地球の月くらいもある火の玉が、リングワールドの大地をつきぬけてとびあがるさまは、強い男のこぶしがボール箱をつきやぶるようにみえたことであろう。  環の床面が、とにかくこれだけ変形してから破れたことを、原住民は感謝してしかるべきだ。これだけの穴があけば、リングワールド全体の空気も、そこから洩れていってしまう。だがその穴は、大気の上限をはるかにこえた、一千マイルの高みにあいたのだった……。  火口の中は、満天の星だった。  重力が一瞬に消えた。浮揚モーターが支えとすべき物質がなくなったのだ。ルイスも、このことまでは予期していなかった。 「何かにつかまれ」と、彼はどなった。「しっかりつかまえるんだ! 窓からとびだしちまったら、どうにもならんぞ!」 「もちろんだ」と、〈|話し手《スピーカー》〉。  彼は、むきだしの金属の梁に、しがみついていた。ルイスも、べつのにつかまっていた。 「いったとおりだろ? 星だよ!」 「そうだ、ルイス。だが、どうしてわかった?」  重力がもどってきた。何かが一定の力で、|ありえざる《インプロバブル》号を引きもどしている。余分なものをすっかり切り放された建物の残骸が、正面の窓を上に、横倒しの状態となった。 「保《も》つぞ」ルイスは狂おしく叫んだ。  梁の上側へ、彼はもがきあがった。 「思った以上だ! プリルが座席でネットをかけていてくれりゃいいんだが。猛烈にはずんでるかもしれない。〈神の拳〉の斜面を、一万マイルの|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の糸の端に引きずられて、のぼってくるんだ。そして、火口のへり[#「へり」に傍点]をこえる──」  見上げると、リングワールドの下面がみえた。起伏をきざみこまれた果てしないその表面。その中央に、巨大な円錐形の隕石孔があり、その底がギラリと光った。|ありえざる《インプロバブル》号が、リングワールドの下で、巨大な振子のようにゆれるたびに、穴底から太陽がさしこむのだった。 「──外へ、そして下へ。やがて|うそつき《ライヤー》号もつながって出てくる。そのときはもう、秒速七百七十マイルで飛んでいるんだ。この糸を引っぱって、近づくのはたいへんだな。しかし、うまくいかないようなら、ネサスのフライサイクルのスラスターを使えばいい。  どうしてわかったって? ずっとそのことを、あんたに話して[#「話して」に傍点]たんだぜ。地形のことは、いわなかったか?」 「聞かんな」 「これがいわば、決定的な証拠になる。どの山をみても、頂上の岩が摩耗して構成物質が表面に出ていた。文明の崩壊がはじまったのは、わずか千五百年かそこら前のことなのに! これは、小惑星によるふたつの破れのせいで、風のパターンがすっかり変わってしまったためだ。ぼくらの長旅も、いわばそのふたつの破れ穴のあいだを往復しただけだってことが、実感できるかい?」 「ひどく遠まわしな理由づけにすぎんな、ルイス」 「それでも、説明はつくぜ」 「そうだな。そのおかげで生きのびて、明日の陽がおがめるというわけだ」クジン人が静かな口調でいった。  戦慄が電撃のように、ルイスの身うちを走った。 「あんたもそういういいかたを?」 「そうだ。折にふれて、日の入りを眺めることがある。ところで、|のるかそるか《ロングショット》号のことを相談しよう」 「……な、なんだって?」 「もしおれが、|のるかそるか《ロングショット》号を、おまえの手から奪いとったとしたら、わが種族は既知空域《ノウン・スペイス》を支配し、その版図は、より強力な種族にはばまれるまでひろがりつづけるだろう。われわれは、多大の犠牲をはらって学んだ、他種族との協力に関する教訓を、忘れ果ててしまうことになる」 「そのとおりだ」と、ルイス。  周囲はまっくらだ。|遮 光 板《シャドウ・スクエア》の糸の張力も、ようやく一定してきた。|うそつき《ライヤー》号は、〈神の拳〉への十度の傾斜を、いまや順調にすべっているものと思われた。 「いや、到底そのようにはなるまい。地球は、多くのティーラ・ブラウンどもの幸運によって守られているのだからな。それでも、わが種族は、名誉にかけて、その試みを放棄するわけにはいかんのだ」と、〈|獣への話し手《スピーカー・トゥ・アニマルズ》〉はつづけた。「この戦いへの道筋を、おれひとりでどうして変えることができようか? おれはクジンの神々の怒りを一身にうけることだろう」 「神様ぶるのは危険だといったはずだ。大怪我のもとだぞ」 「だが幸いなことに、そのおそれはない。以前おまえは、もしおれが|のるかそるか《ロングショット》号に手を出したら、それをぶちこわしてしまうのが落ちだろうといったな。そういう危険をおかしてよいものかどうか。銀河の核の爆発からやってくる放射前線から逃れるのに、あのパペッティア製の超空間駆動法《ハイパードライヴ》は、われわれみんなにとって、どうしても必要なのだ」 「そうだとも」と、ルイス。  恐れを知らないクジン人が、|のるかそるか《ロングショット》号で|超 空 間《ハイパースペイス》へ突入を試みたら、たちまちのうちに、もよりの重力井戸へ突っこんで消滅してしまうだろう。  それを承知の上で、ルイスはいった。 「でも、もしぼくが、うそをついてるとしたら?」 「おまえほどの知性を持つ存在を出しぬくことは、おれには無理だろうな」 〈神の拳〉の火口で、また陽光がギラリと光った。 「ぼくらの旅が、どんなに短いものだったかを考えてみろよ」と、ルイス。「五日間で十五万マイルを飛び、二ヵ月かけて同じ距離をもどっただけだ。リングワールドの幅の、わずか七分の一だよ。だが、ティーラと〈|探す人《シーカー》〉は、その全長にわたって旅しようとしているんだ」 「愚かものめが」 「ぼくらはとうとう、外壁を見ずじまいだった。だが、彼らは見るだろう。ほかにも、どんなものを、われわれは見そこねたことだろう? もしリングワールドのラムシップが、地球の近くまで来ていたとしたら、人間が絶滅させてしまう前の白長須鯨や抹香鯨なども、彼らはもちこんでいたかもしれない。なにしろぼくらは、大洋へのりだしさえしなかったんだから。  それに、あのふたりの出会う人びと。文明のたどる道には、果てというものがない。その上に、この広さだ……リングワールドは、あまりにも広い……」 「二度とここへもどってくることは、できそうにないな、ルイス」 「もちろん無理だろう」 「だが、それも、われわれが、この秘密をそれぞれの故郷へ持ち帰って、あの船がつくられるようになるまでのことかもしれんぞ」 [#改ページ] [#改ページ]      用語・事項解説 アウトサイダー人 [#ここから2字下げ]  この種族が人間−クジン戦争に重大な影響を及ぼしたことは、八五ページと一七九ページに詳しい。なおその体液のヘリウムU≠ヘ、絶対温度二度以下のある圧力範囲で液体ヘリウムの示す液相で、超流動や熱の超伝導など、ふつうでは想像もつかない奇妙な性質をもっている。〈既知空域《ノウン・スぺイス》〉シリーズでは、この種の低温生物が、炭素系生物とならんで、むしろありふれた生命形態とされているようだ。 [#ここで字下げ終わり] ウイ・メイド・イット星 [#ここから2字下げ]  低重力で、地上は強風のため居住に適せず、地下生活をしている住民は一様に白子《アルビノ》でひょろ長い体格をもち、不時着人《クラッシュランダー》≠ニよばれる。 [#ここで字下げ終わり] カホナ(カホな) [#ここから2字下げ]  原文は "tanj" で、 There ain't no justice. の頭文字をとった造語。神《カみ》も仏《ホとけ》もナいものか≠ニしてみたわけだが──もっといい処理法がないものか? 読者諸賢のお知恵を拝借したい。 [#ここで字下げ終わり] ガミジイ産の蘭状生物 [#ここから2字下げ]  ガミジイ星は中篇 "Grendel" の舞台。 [#ここで字下げ終わり] 銀河の中心核の爆発 [#ここから2字下げ]  短篇「銀河の〈核〉へ」に詳しい。 [#ここで字下げ終わり] クジン人 [#ここから2字下げ]  人間とクジン族との関係については、八四ページ下段の説明を参照されたい。なお、黄金時代末期の闘争を忘れた地球人と、クジン人の最初の接触は、短篇 "The Warriors" に描かれている。 [#ここで字下げ終わり] クダトリノ人 [#ここから2字下げ]  盲目で巨体の、触感彫刻にすぐれた才能をもつ異星種族。中篇 "Grendel" 「太陽系辺境空域」などに登場する。 [#ここで字下げ終わり] クリスマス・リボン [#ここから2字下げ]  一般にはクリスマス・プレゼントにかけるリボンのことだが、ここでのイメージは、パーティの席などで、持ちよられた贈りものをクリスマス・ツリーの根本にあつめ、長いリボンでかこんでおく慣習から出ているようだ。 [#ここで字下げ終わり] グロッグ [#ここから2字下げ]  短篇 "The Handicapped" に登場する。獲物の動物をひきよせるぶきみな超能力を持つ。 [#ここで字下げ終わり] ケンプラーの|ばら飾り《ローゼット》 [#ここから2字下げ]  天体力学における多体問題の特殊解のひとつ(中心解という)だが、ケンプラー=i Kempler )の出所は 不明。専門のかたの御教示を乞う。 [#ここで字下げ終わり] |ひまわり花《サンフラワー》 [#ここから2字下げ]  十五億年前、スレイヴァー族に対して奴隷種族のトゥヌクティパンが反乱を起こしたとき、奇襲に用いた武器 のひとつ。その詳しいいきさつは、長篇 "World of Ptavvs" の中で語られている。 [#ここで字下げ終わり] ジンクス人 [#ここから2字下げ]  これは異星種族ではなく、ジンクス星へ植民した地球人の末裔で、おそろしく力が強い。この惑星(じつは巨大惑星の衛星)の詳細は、「太陽系辺境空域」で語られる。 [#ここで字下げ終わり] 星間種子《スターシード》 [#ここから2字下げ]  卵からかえった星間種子《スターシード》が恒星の光圧に帆≠張って回遊の旅にのぼる壮観については、 "Grendel" に詳細な描写がある。 [#ここで字下げ終わり] |停 滞《ステイシス》フィールド [#ここから2字下げ]  本シリーズでさまざまな役割を果たす古代種族スレイヴァーの遺産のひとつ。このほかにも、|自 在 剣《ヴァリアブル・ソード》≠竍掘削機械″などいろいろな「遺産」がある。 [#ここで字下げ終わり] チュフト船長 [#ここから2字下げ]  その名のクジン人をネサスが蹴倒した挿話は、じっさいに中筋 "The Soft Weapon" に出てくる。 [#ここで字下げ終わり] トリノック人 [#ここから2字下げ]  この種族とのファースト・コンタクトの経緯は、短篇 There is a Tide" で語られる。 [#ここで字下げ終わり] パペッティア人 [#ここから2字下げ]  短篇「中性子星」以来おなじみのところ。ついでながら、本篇に登場するふたりのパペッティア人ネサス≠ニキロン≠ヘ、ともにダンテの『神曲・地獄篇』に出てくるケンタウロスの名前をそのままいただいている。 [#ここで字下げ終わり] バンダースナッチ [#ここから2字下げ]  これも十五億年前、トゥヌクティパンがスレイヴァーへのみつぎもの[#「みつぎもの」に傍点]として(かつ反乱の準備のために)創造した食肉用の知性生物。プロントザウルスの二倍もある白いなめくじのような怪物で口のまわりの触毛以外に感覚器官をもたないという、ある意味では哀れな存在でもある。ジンクス星の低地に住むバンダースナッチの一族は、人間に義手をつけてもらうかわりに人間の狩猟獣になるという契約をかわしている(前記 "Handicapped" )。なおそれが突然変異を起こさないのは、人工生命なので染色体の大きさが人間の指ほどもあり、ミクロ段階の変動に強いためだという。二一一ページ下段には、この名称の出どころであるルイス・キャロル『鏡の国のアリス』に現われるおどろしき[#「おどろしき」に傍点]バンダースナッチ=i Frumious Bandersnatch )という形容が、そのまま使われている。 [#ここで字下げ終わり] 反物質の小惑星 [#ここから2字下げ]  ゼネラル・プロダクツ製船殻の唯一の泣きどころがこれ。 [#ここで字下げ終わり] 細胞蹴活剤 [#ここから2字下げ]  ジンクス星の|知 識 学 会 研 究 所《インスティテュート・オブ・ナレッジ》で開発された文字どおりの不老長寿薬で、その出現により臓器銀行《オーガン・バンク》のもたらした悪弊にようやく終止符が打たれた。(もっとも、臓器銀行については、のちにニーヴン自身、現実にはクローン培養技術が先行するので、臓器故売といった問題は起こらないだろうとのべている) [#ここで字下げ終わり] |平 地 人《フラットランダー》 [#ここから2字下げ]  小惑星帯人や他星系の植民者に対して、地球に住んでいる人間をこう呼ぶ。本篇中の描写でもわかるとおり、この時代の|平 地 人《フラットランダー》は、男も女もおそろしく濃いメークアップをしていて、めったに他人に素顔をみせない。その他さまざまな奇習が、中篇 "Flatlander" などに出てくる。 [#ここで字下げ終わり] |高所催眠への耐性《プラトー・アイズ》 [#ここから2字下げ]  一六一ページ上段で解説される高所催眠《プラトー・トランス》≠ヨの耐性。長篇 "A Gift from Earth" の主人公マット・ケラー(山頂平原《プラトー》$ッの住民)がこの素質の持ちぬしである。 [#ここで字下げ終わり] 毎秒九・九八メーター [#ここから2字下げ]  地球の重力加速度は約九・八〇メーター/秒である。たぶん作者の思いちがいか、ヤード・ポンド法で頭にはいっている数値からの換算誤差といったところだろう。 [#ここで字下げ終わり] マウント・ルッキットザット [#ここから2字下げ]  別名山頂平原《プラトー》≠ニもよばれる植民星(長篇 "A Gift from Earth" の舞台)で、その名のとおり、人間の居住可能地域は、この惑星唯一の超高峰の山頂のみにかぎられている。(七四ページ下段の描写を参照) [#ここで字下げ終わり] ラムシップ [#ここから2字下げ]  宇宙ラムジェット・エンジンを装備し、恒星間物質をあつめて核融合燃料とする宇宙船で、質量比の問題を気にすることなく光速の近くまで加速できる。地球では二十一世紀に、この種の無人探査艇《ラムロボット》≠ェ、植民可能惑星発見のために使用され、二十五世紀には有人ラムシップも可能になった(短篇 "The Ethics of Madness" )が、超空間駆動《ハイパードライヴ》の実現で無用の長物と化した。 [#ここで字下げ終わり] リングワールド全体のイメージ [#ここから2字下げ]  一七七ページの説明は、要するに、一見ごく細くみえるリングワールドの幅が、地球の周囲の四十倍もあるということである。なおこれは、地球から月までの距離のおよそ四倍にあたる! [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]      〈既知空域〉シリーズ年表 [#地付き](作品名は長篇と既訳の中・短篇のみ記した)  BC一五億年 [#ここから5字下げ] スレイヴァー族、銀河系を支配。その奴隷種族トゥヌクティパン反乱、スレイヴァーと共倒れ、あおりで銀河系内知性種族の大部分が死滅。 [#ここで字下げ終わり] 一九七五年 [#ここから5字下げ] 臓器銀行《オーガン・バンク》技術実用化の段階にはいる。 鯨族・海豚族に市民権。 サイボーグ宇宙船による太陽系内の諸惑星探測。「地獄で立往生」(ハヤカワ文庫SF285『忘却の惑星』に収録)。 臓器銀行法成立。 [#ここで字下げ終わり] 二〇〇〇年 [#ここから5字下げ] 小惑星帯に植民はじまる。 第三次火星探険(二〇四〇)。 小惑星帯《ベルト》独立、国連と共同で恒星間無人探査艇《ラムロボット》発進、総数二十六、その報告にもとづき植民宇宙船《コロニー・スローボート》出航開始。 [#ここで字下げ終わり] 二一〇〇年 [#ここから5字下げ] スリント人(スレイヴァー族)のクザノール十五億年の停滞より目ざめる(二一〇六)。 "World of Ptavvs" ジンクス星でバンダースナッチと接触。 地球に臓器故売組織《オーガンレッガー》横行、人工凍眠老処刑法《フリーザー・ビル》通過。「ペてん」(SFマガジン六九年四月号)。 レイモンド・シンクレア博士、低慣性フィールドを開発。「アーム」(SFマガジン七七年十一月号)。 パク人のフスツポク太陽系に到着。「成年者」(SFマガジン六七年十二月、六八年一月号)。 鯨族・海豚族国連に加入。 地球人類黄金時代を迎え、植民惑星拡大(ジンクス、マウント・ルッキットザット、ウイ・メイド・イット等)。 [#ここで字下げ終わり] 二三〇〇年 [#ここから5字下げ] ブレナン、パク人と戦う(中性子星BVS−1へ初飛行) "Protector" クジン人と最初の接触(二三六〇)、第一次人間−クジン戦争はじまる。 ジンクス星の知識学会研究所《インスティチュート・オブ・ナレッジ》で細胞賦活剤《ブースタースパイス》開発。 [#ここで字下げ終わり] 二四〇〇年 [#ここから5字下げ] マウント・ルッキットザットで革命(二四一〇)。 "A Gift From Earth" 有人ラムシップ開発(二四二五)。 ウイ・メイド・イット星にアウトサイダー人の交易船到着、超空間駆動装置《ハイパードライヴ・シャント》の秘密を提供。 第一次人間−クジン戦争終結。 [#ここで字下げ終わり] 二五〇〇年 [#ここから5字下げ] 第二次以降の人間−クジン戦争。 パペッティア人と接触、またクジン帝国支配下にあった各種知性種族と交流はじまる。 [#ここで字下げ終わり] 二六〇〇年 [#ここから5字下げ] 中性子星BVS−1へ二回目の飛行(二六四〇)。「中性子星」(SFマガジン六九年八月号)。 パペッティア人量子第二段階《クワンタムU・》|超空間駆動《ハイパードライヴ》を開発、核恒星系の爆発発見、パペッティア人逃亡、地球経済崩壊。「銀河の〈核〉へ」(SFマガジン七六年二月号)。 定着生物グロッグと意志疎通成功。 ルイス・ウー誕生。「太陽系辺境空域」(SFマガジン七七年十月号)。 産児制限法撤廃、出産権抽籤実施される。 [#ここで字下げ終わり] 二七〇〇年 [#ここから5字下げ] スラスター駆動普及、核融合モーター時代遅れとなる。 [#ここで字下げ終わり] 二八〇〇年 [#ここから5字下げ] トリノック人と接触(二八三〇)。 リングワールド探険(二八五〇)。本書。 [#ここで字下げ終わり] 二九〇〇年〜 [#ここから5字下げ] ティーラ・ブラウンの遺伝子普及し、以後人類社会には事件らしい事件が起こらなくなる。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#改ページ]      訳者あとがき  SFの本質とは何か?  文明批評か? 幻想の追究か? 大局的なものの見かたか? 果てしないフロンティア・スピリットか?  あるいは、それより何より、白銀色のロケットが宇宙を駆け、でっかいロボットや兇悪な怪獣があばれまわるということなのか?  ことばをかえると……SFを他の文芸ジャンルから隔て、きわ立たせるのは、抽象的なテーマの差か、それとも、具体的な道具立てや舞台設定のちがいなのだろうか?  どっちともいえるだろうし、またおそらくこの両面は、密接な因果の糸で結びあわされているはずだ。よくいわれる誓えで、柳の下から幽霊が出てもSFにはならないのに、しだれ[#「しだれ」に傍点]アンテナをのばした残存思念具象化装置が死者の霊を実体化してみせれば立派にSFとして通用するという話があるが、ただし、こういった場合、必然的に、そこで語られるテーマ内容はちがってくるだろう。お岩の幽霊は、女の怨みのすさまじさだが、映画「禁断の惑星」であらわにされたのは、潜在意識そのものの機序のおそろしさであった。ディケンズの『クリスマス・キャロル』に出てくる過去の幽霊と未来の幽霊は、時間を異にしたスクルージ個人の姿を見せたが、ウェルズの『タイム・マシン』は、主人公に、人類社会の来たるべき相貌をつきつける作用をもっていた。  ただ、公平にみたところ、これまで書かれてきたSF論には、テーマの面のみに光をあてたものが多く、より即物的な道具立ての役割は、故意に等閑視されているように思われてならない。たぶん自明のこととして素通りされたのだろうが、新しい酒にふさわしい容器を無視するのは、やはり片手おちのような気がする。早い話が、昨今のSFブームにしても、外的な要因はともかく、内的には、いわゆるSF感覚が一般常識化してきたということにほかならないし、ことに、今回の場合、「SF的」な大道具・小道具や、アイデアの飛躍などの広大な基盤が、そのSF感覚を主として支えていることは、いまさらいうまでもあるまい。一九七五年の第十四回日本SF大会「SHINCON」のテーマとして謳いあげられた「SFの浸透と拡散」──一見荒唐無稽なSFの約束ごとをも大方の読者が当然の設定として受けいれてくるという状況──そういう時代が、まさしく今ここにやってきたのである。  アイザック・アシモフによる「冒険主流→科学主流→社会主流」というSFの時代区分は、すでにSFファン諸氏にはおなじみのところだろうが、作家の創作姿勢によるこうした分類とは別途に、前述の「道具立て」ないしは「アイデア」そのものに焦点を合わせた歴史の区分も、可能なのではなかろうか。すなわち、 [#ここから2字下げ] 1 シェリーやポーからヴェルヌ、ウェルズにいたるSF前史「模索と発見の時代」 2 ダイム・ノヴェルを経てガーンズバックとバロウズに及ぶ「収集と蓄積の時代」 3 E・E・スミスの諸作を中核とする古典スペース・オペラ「確立と活用の時代」 4 ハインライン、クラークなど五〇年代の巨匠が出そろった「完成と総合の時代」 5 ニューウェーヴ一過のあと六〇年代後半以降現在にいたる「受容と普及の時代」 [#ここで字下げ終わり]  こう並べてみると、何となく人類史の、(1)人間以前、(2)狩猟採取、(3)牧畜農耕、(4)工業文明、(5)情報社会の各段階と、ひとつずつ対応がつきそうにみえるのも面白い。もしこの対応が、偶然ではなく本当に意味のあるものだったら、SFの本質はまさに右の「道具立て」や「アイデア」にあるのだという主張も、その程度に応じて成り立ちそうである。  こまかい吟味は他の機会にゆずるとして、ここで右の対応から出てきた思いつきをひとつだけあげておこう。人類史の場合、先進地域が初から何の段階に達すると、それは、より早期の段階にあるフロンティアの存在を必要とし、それなくしては立ちゆかなくなる例が多いようだ。これをSFにあてはめてみたら、どうだろうか? まさに初心忘るべからず。SFの退廃を防ぐために大切なのは、このジャンルを独特な存在たらしめている設定の飛躍──道具立てとアイデアの綜合的構造──を意識し、ある意味では未発達段階のそうしたSF世界から、フィードバックを怠らぬようにすることなのではなかろうか。  ──と、いささか我田引水の言辞を弄したが、こうした認識の現われを、六〇年代後半以降における、スペース・オペラとハードSF系列の巻きかえし──ヴィジュアル・メディアでいうなら、「宇宙大作戦」から「二〇〇一年宇宙の旅」そして「スター・ウォーズ」にいたる──に見ることもできよう。また、この時期のヒューゴー質とネビュラ賞の結果を眺めてみると、 [#ここから2字下げ] 一九七〇年……アーシュラ・K・ル・グィン『闇の左手』 一九七一年……ラリイ・ニーヴン 『リングワールド』 一九七三年……アイザック・アシモフ "The Gods Themselves" 一九七四年……アーサー・C・クラーク『宇宙のランデヴー』 一九七五年……アーシュラ・K・ル・グィン "The Dispossessed" 一九七六年……ジョー・ホールドマン『終わりなき戦い』 [#ここで字下げ終わり]  このとおり、ほとんど毎年のように、本格的な正統派SFが、もっとも重要な長篇部門で両賞を独占[#「両賞を独占」に傍点]している。アシモフ、クラーク、それに七七年のフレデリック・ポール(ネビュラ賞)にケイト・ウィルヘルム(ヒューゴー賞)など、顔ぶれのリバイバル調が少々気になるが、一種の健全ムードといったところか。いずれにせよ、ストレートなSFを愛する人びとの心の中の共通項が、ここに集約されて現われたとみて、大過はあるまい。  そして、いまやこうした寄せ波の波頭に立って、サーフィンさながらの妙技をみせているのが、現在アメリカSF界で人気絶頂のラリイ・ニーヴンなのである。  これら各系列の物語の錯綜ぶりをみると、たしかに数多くの設定をあとから一本にまとめた過程がうかがわれるような気もするが、それにしては、ゼネラル・プロダクツのこわれない船体だとか、スレイヴァー遺産の停滞《ステイシス》フィールド、クジン人やパペッティア人の性格づけ、両種族と地球人を結ぶこれまでのいきさつなど、さまざまな要素がこの長篇に結集して、有機的な効果をあげているあたり、ある意味では、出来すぎた感じさえする。ついでながら、リングワールドなどという途方もないしろものが構築されるにいたった裏には、当然(本書では言及されていないが)先立つ作品に登場した某異星人の本能[#「某異星人の本能」に傍点]が、大きく働いているはずで、じつはそうした内情を考慮すると、リングワールドに地球人向きの大気があったり、住民が地球人のヴァリエーションにすぎないなど、一見ひどく御都合主義的な設定も、けっしてそうではないことがわかってくる。「洗練されたスペース・オペラ」といわれるゆえんであろう。  そして、当のニーヴンはというと、短篇集 "Tales of Known Space" (バランタイン版、一九七五年)の後記で、「すでに〈既知空域《ノウン・スぺイス》〉シリーズは完結[#「完結」に傍点]した。もっと作品をお望みなら、各自で書いてほしい。背景としてはここまでで充分だろう」という、擱筆宣言を発した。じっさい、当の未来史の中でも、『リングワールド』よりあとに位置するものとしては、 "Safe at Any Speed" という小味な短篇が一本あるきりで、つまり、本書のヒロインであるティーラ・ブラウンの遺伝形質が、当然ながら加速度的に人類のあいだにひろがり、その結果、宇宙でいちばん幸運な知的種族となった人類の上には、もはや小説になるような危機など訪れようがなくなったというのだから、まことに人をくったというか、念のいった話である。その気で見つめなおせば、そういう結果をまねいたパペッティア人のさかしら[#「さかしら」に傍点]ぶりや、念入りにつくられたはずのリングワールドの未来に大きな陥穽がぱっくり口をあげていたことなどから、本書は、いわゆる知性[#「いわゆる知性」に傍点]なるものの底の浅さを摘出してみせた、一種の自嘲(?)の書とみることもできそうだ。あるいはそのへんに、スペース・オペラという文芸形式の、現代SFとは少しく質を異にする頂点のひとつがあるのかもしれない。  ニーヴンは、この〈既知空域《ノウン・スペイス》〉以外にも、より小規模ながら、時間旅行を扱った〈スヴェッツ〉ものなど、いくつかのシリーズ作品を書いており、また単発作品も多く、毎年のようにヒューゴー、ネビュラの各部門に顔を出している。さらに、「テレポーティシヨンの理論と実践」「巨大な世界」など、虚実とりまぜた軽妙な空想科学解説でも一家をなしている。余談になるが、一昨年ごろ、ニーヴンが『リングワールド』の続篇にとりかかったというニュースがはいり、さてはいったん中絶したものの、ファンの熱望に屈したのだろうかと、その後ずっと気にしているのだが、いっこうに出る様子はないし、文通のついでに本人に問い合わせてみても、その件については梨のつぶてである。あるいは本当にもう書く気がないのかもしれない。  それにしても、つくづく感じるのは、ニーヴンという作家の日本への紹介が、本国での声価にひきくらべて、ひどく遅れていたということである。なにしろ長篇の翻訳が出るのは、少なくとも〈既知空域《ノウン・スペイス》〉シリーズに関するかぎりは本書が最初だし、そのシリーズに属する中・短篇も、訳出されているのは七篇かそこらにすぎない。もどかしく思うのだが、その反面、訳者の立場としては、いわば同シリーズの集大成版ともいうべきこの代表作が、他にさきがけて出てしまうことに、いささかとまどいを感じる。伏線となる種々のいきさつは、本書内にもあるていど出てくるものの、このくらいの説明では、果たしてどれだけの読者に、本当の面白さがわかっていただけるか、少々心もとないのだ。別掲の「用語・事項解説」は、「年表」とあわせて、そういう難点をいくらかでも解消できればという、訳者の老婆心から出たものであり、適宜参照しつつ楽しんでいただければ幸いである。(本篇の中の、既刊作品の内容をふまえた記述に対して付したが、それを「訳註」として本文中に番号などをふるのは煩雑になるので避けた。読んでいてひっかかったときにだけ参照していただけるよう配慮したつもりである)  翻訳のテキストには、原作者の希望で、バランタイン版一九七二年の第四版を用いた。七〇年の初版とくらべると、科学的なデータに改定があり、また数箇所にわたって加筆されている。(削除箇所は、私の見るかぎりでは見あたらなかった)  なお末筆ながら、年表の作成にあたっては酒井昭伸氏に、また本文では、ロイ・アシュケナージュ氏、ジーン・ヴァン・トロイヤー氏、龍岡醒氏、早川書房の細井恵津子氏など、多くのかたがたに御助力をいただいた。慎んで感謝の意を表したい。 [#改ページ] [#改ページ] [#(img/01/359.jpg)入る]