ラヴクラフト全集〈7〉 H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳 [#改ページ] 資料:断片 アザトホース Azathoth [#改ページ]          長い歳月が世界にふりくだり、人の心から驚きが消えた。灰色の都市がくすんだ空に不快かつ醜悪な高い塔をそびえさせ、その陰のなかでは誰も太陽や春の花咲く草原を夢に見ることもなくなった。学識が大地から美の装いを剥《は》ぎとり、詩人が内面に向けられた翳《かす》んだ目で捉える歪んだ幻影のみを歌うようになった。こうしたことが起こり、子供じみた希望が永遠に消えうせたとき、ひとりの男が人生を抜け出して、世界の夢が逃げ出した空間へと探求の旅に出た。  この男の名前や住まいについては、それらが覚醒の世界のものにすぎないため、ほとんど何もわからないが、いずれも目立たないものだったといわれている。男が不毛の黄昏《たそがれ》に支配される高い塀に囲まれた街に住み、一日じゅう闇と喧騒のなかでせっせと働いて、夜に帰ってくる部屋の窓といえば、野原や林に向かって開くのではなく、他の窓が絶望にひたって見つめる薄暗い中庭に面していたことを知っておけば十分である。その開き窓からは、壁や窓が見えるだけだが、大きく身を乗りだして見あげれば、空をめぐる小さな星たちが見えることもあった。そして単なる壁や窓というものは、多くを夢見たり読んだりする者を速やかに狂気に追いやるにちがいないので、その部屋に住む男は夜ごと窓から身を乗りだして、覚醒の世界とそびえたつ灰色の都市の彼方にあるものを断片でも捉えようと、空高くを見あげるのだった。月日を重ね、緩《ゆる》やかにめぐる星ぼしを名指して呼びかけ、星たちが悲しそうに姿を消すと、想像のなかであとを追うようになり、やがては普通の者が気づくこともない数多くの秘密の景観を目にするまでになった。そしてある夜、巨大な深淵に橋が架け渡され、夢にあふれた空が孤独な男の窓にふれるほど大きくなって、部屋の息苦しい空気と混じりあい、男を素晴しい驚異の一部になさしめた。  金の塵できらめく菫《すみれ》色の深夜の荒あらしい流れがその部屋に押し寄せて、塵と炎の渦が窮極の空間からあらわれ、世界の彼方の芳香が濃厚にたちこめた。眠気を誘う大洋が押し寄せ、目にされたことのない太陽に照らされて、渦のなかには不思議な海豚《いるか》や、忘れさられた大洋のニュムペーたちがいた。無音の無限が夢見る男のまわりで渦を巻き、わびしい窓から堅苦しく乗りだした体にふれもせず、男を軽やかに運んでいった。そして人間の暦では数えられない日々のあいだ、遙かな領域の潮が男をやさしく運び、男が憧れていた夢、人間が失ってしまった夢に結びつけた。そして数多くの周期がめぐるうち、潮は男を夜明けの青あおとした岸に眠らせて離れた。ロトスの花がかぐわしく、赤いカメロテが星を鏤《ちりば》めたようにはえている岸辺だった。