ラヴクラフト全集〈7〉 H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳 [#改ページ] 詩と神々 Poety and the Gods [#改ページ]          大戦が終わってまもない、四月の湿っぽい陰鬱な夜、マーシャは不思議な思いや願いが胸にこみあげてくるのを知った。広びろとした二十世紀の客間から漂いだして、深い靄《もや》のような大気を昇り、夢でしか見たことのないアルカディアの遙かなオリーヴの森を目指し、東に向かっていきたいという、いまだかつてなかった切望である。ぼんやりした感じで部屋に入って、まばゆいシャンデリアを消し、柔らかなソファーに体をあずけていたが、かたわらには電気スタンドが一つあって、古代の聖堂を取り巻く木立に射し入る月光のように、心を落ちつかせる快い緑の光で、読書用のテーブルを照らしていた。襟ぐりの深い黒の夜会服をまとい、簡素に装っているので、見かけは現代文明の典型的な産物のように見えるが、今夜のマーシャは自分の魂と無味乾燥な環境が計り知れない深淵によって隔《へだ》てられているように思った。不思議な家で暮しているせいなのか。人との関係が常に緊張して、同居する者たちもほとんど他人でしかない、冷えびえとした住まいだった。そうなのか、それとも程度の多少はわからないにせよ、時間と空間のまちがったところにいて、生まれるのが遅すぎたか、早すぎたか、あるいは心にかなうところから遠すぎて、当世の現実という美しくもないものと調和しようとするためなのか。しだいに重苦しいものになっていく気分をふりはらおうとして、マーシャはテーブルから雑誌を取りあげ、少しは心を癒《いや》してくれる詩を探した。ほかの何よりもまして、詩が乱れた心をいつも和らげてくれるが、マーシャは詩にうたわれる多くのことが威光を損ねていると見ていた。崇高きわまりない詩であっても、そこかしこに不毛の醜さや抑制が冷えびえとした靄のようにかかり、汚れた窓ガラスごしに素晴しい夕日を見るようなものだった。  見つけにくい宝物を探しているかのように、ものうげに雑誌のページを繰っていると、急にけだるさを追いはらうものが見つかった。マーシャを観察する者がいたなら、マーシャの心を読みとって、かつて目にしたイメージや夢にもまして、マーシャをまだ達していない目標へと近づける、何らかのイメージか夢を見いだしたことがわかっただろう。ささやかな自由詩にすぎず、散文を超えようとしながら、韻律の聖なる階調を生みだせない詩人の、哀れな妥協の産物でしかないが、この世に生きてさまざまなものを感じとり、紛《まが》うかたなき美を恍惚として探し求める、吟遊詩人のたくまずして会得《えとく》した音楽のすべてを備えていた。規則性はないものの、気高くも自然な言葉の野趣に富む調和、マーシャが知っている形式ばった伝統に従う詩にはない調和があった。読み進むにつれ、まわりのものがしだいに薄れゆき、まもなくマーシャは夢の舘に包まれるばかりになった。神々と夢想家だけが歩む、時の彼方の星が散らばる紫色の靄である。   [#ここから2字下げ] 日本の空に浮かぶ月、 白い蝶のごとき月。 重たげに瞼《まぶた》をたれる仏陀が、 郭公《かっこう》のさえずりを聞きながら夢を見る…… 月の蝶の白い羽が、 街の通りをゆらゆら舞って、 少女たちの手にした提灯の無駄な灯心を、 恥じ入らせて沈黙させる。   熱帯の空に浮かぶ月、 白い湾曲した蕾《つぼみ》が、 空の温もりのなかで ゆっくりと花弁を開いてゆく…… 大気はさまざまな香と けだるい暖かな音に満ちる…… 天の湾曲した月の花弁の下で、 横笛が夜に昆虫の音楽をものうげに奏でる。   中国の空に浮かぶ月、 空の河にかかる疲れた月、 暗い浅瀬を介し、 柳のなかでちらつく光は、 千もの銀色の小魚がきらめくに似て、 墓所や朽ちゆく寺院の瓦は小波を打つように輝き、 空に点在する雲は龍の鱗《うろこ》のごとし。 [#ここで字下げ終わり]    夢の靄のなかで、詩を読む者は律動する星たちに呼びかけ、歌の新しい時代の到来、パーンの再誕に歓喜の声をあげた。半ば目を閉じて、夜明けまえの流れの底にある水晶のように隠れている階調、隠れていながらも夜明けとともに燦然《さんぜん》と輝く階調を備えた言葉を繰り返した。   [#ここから2字下げ] 日本の空に浮かぶ月、 白い蝶のごとき月。 熱帯の空に浮かぶ月、 白い湾曲した蕾が、 空の温もりのなかで ゆっくりと花弁を開いてゆく。 大気はさまざまな香と けだるい暖かな音に満ちる……けだるい暖かな音に満ちる   中国の空に浮かぶ月、 空の河にかかる疲れた月……疲れた月 [#ここで字下げ終わり]    翼のある兜《かぶと》とサンダルを身につけ、カードゥーケウスを携え、この世にかなうものとてない美しさをたたえた若者の姿が、靄のなかから神ごうしく輝いた。眠りこむマーシャの顔のまえで、アポローンから甲羅の九弦琴(正しくは七弦琴)と交換にあたえられた杖を三度ふり、マーシャの額に銀梅花と薔薇の花冠を置いた。そしてヘルメースは光彩をそえるように語った。 「ああ、キュアネーの金の髪もつ姉妹よりも、空に住まいするアトラースの子孫よりも麗《うるわ》しく、アプロディーテーに愛され、パラスに祝福されるニュムペーよ、そなたは美と歌に宿る神々の秘密をまさしく見いだしたのだぞ。ああ、アポローンがはじめて知ったときのクーマエのシビュラよりも愛らしい巫女《みこ》よ、そなたは確かに新しい時代のことを語っている。いまからはマエナルス山で、眠るパーンが溜息をついて身を伸ばし、おのれのまわりに小さな花冠を戴《いただ》くファウヌスや年老いたサテュロスを見ようと目覚めたがっているからな。そなたは切望することによって、浮世がはねつける少数の者のみをのぞいて誰もおぼえてはおらぬこと、神々が決して死んではおらず、黄金の夕映えの彼方にある西方のロトスにあふれた庭園で、眠りについて神々の夢を見ているにすぎぬことを、正しく知ったのである。そしていま、神々が目覚め、冷たさと醜さが消え、ゼウスがふたたびオリュムポスに座すときが近づいている。既にパポスの海は古代の空のみがかつて見たように泡立ち、夜にはヘリコーン山で羊飼いたちが不思議なつぶやきとかすかな記憶のある調べを耳にしている。林や野原が黄昏《たそがれ》時には踊りはねるもののきらめきとともに揺れ動き、太古からの大洋が三日月の下で奇妙なものを生みだす。神々は我慢強く、久しく眠っているが、人間にせよ巨人にせよ、永遠に無視するわけにはいかない。タルタロスではティーターンが身をよじり、火を吹くエトナ山の地底ではウラノスとガイーアの子供たちが呻いている。人間が何世紀にもわたる否認を償わねばならないときが迫っているが、神々は眠りながらも情け深くなっているので、神々を否認する者たちのために造られた深淵に投げこみはしない。そうするかわりに、神々の復讐は、人間の心を乱している闇、虚偽、邪悪を打ち砕き、顎鬚《あごひげ》をたくわえたサトゥルヌスの支配下で、死すべき人間はふたたびサトゥルヌスに生贅を捧げ、美と歓喜のうちに生きるだろう。今宵《こよい》、そなたは神々の恩寵を知り、死んではいないことを示すべく、神々が古今を通じて地上に送っている夢を、パルナッソス山にて見るだろう。詩人こそ、神々の夢であり、それぞれの時代に、誰かが知らぬまま、夕映えの彼方のロトスの庭園に発する託宣や約束を歌っているからである」  そしてヘルメースは夢見る乙女をかき抱いて空に昇った。アイオロスの塔から吹く微風が、暖かく芳《かぐわ》しい海の上高くへと軽やかに運び、突如として二人は二つの峰をもつパルナッソス山のゼウスの謁見の場に到着した。ゼウスの黄金の玉座の両側には、右手にアポローンとムーサたち、左手に蔦《つた》の冠を戴くディオニューソスと嬉しそうに顔を赤く染めたバッコスがいた。これほどの壮麗をマーシャは夢にも現《うつつ》にも見たことがなかったが、威厳あるオリュムポスの輝きと同様、その光輝がマーシャを傷つけることはなかった。このささやかな場では、神々の父がおのれの栄光を人間の目にも見えるように加減しているからである。月桂樹に飾られるコルキュアの洞窟のまえに、見かけは人間だが、神々の顔容《かんばせ》をした六人の気高い姿がならんでいた。夢見る者は以前に目にした肖像や彫像から誰であるかがわかり、聖なるマエオニデース(ホメーロス)、アヴェルヌス湖のダンテ、人間を超えたシェイクスピア、混沌を探究するミルトン、宇宙に通じるゲーテ、ムーサさながらのキーツにほかならないことを知った。パーンが死んではおらず、眠っているにすぎないことを、神々が人間に知らせるために遣《つか》わした使者たちである。神々は詩において人間に語りかける。やがて雷を放つものが語った。 「ああ、娘よ――わが果てしない血統に属するのだから、おまえはまさしくわしの娘なのだが――神々が遣わして、人間の言葉や書きものに神聖な美の痕跡がなおも存在するやもしれぬことを伝える使者、名誉ある象牙の座につく威厳ある使者たちを見よ。他の詩人たちに人間は正しく不朽の月桂樹を授けるが、ここにいる者たちにはアポローンが頭飾りを戴かせ、神々の言葉を口にした人間として、わしが際立たせている。わしらは西の彼方のロトスの庭園で夢見るようになって久しく、夢を介して語るだけだが、わしらの声が沈黙をやめるときが近づいている。目覚めと変化のときである。またしてもパエトーンが空低く馬を駆って、野原を焼き焦がし、流れを干上がらせている。ガリアではもはや存在せぬ泉のそばで、孤独なニュムペーたちが髪をふりみだして嘆き、河辺の松が人間の血で赤く染まっている。アレースの軍隊が神々の狂気を帯びて進軍してもどり、デイモスとポボスが尋常ならざる歓喜に酔いしれている。アストライアが空に逃げ、わしらの命ずる波がこの高峰のみをのぞいてすべての陸地を呑みこんだときのように、テッルースは悲痛に呻き、人間の顔はエリニュスたちの顔さながらである。この混沌のただなかにあって、先立つ他の使者たちが夢見たイメージすべてをおのれの夢とする、最も新しく生まれたわしらの使者が、いまでさえ精を出し、到来を告げながらも到着を隠す準備を調えている。世界がかつて知っていた美のすべてを一つの輝かしい全体に混ぜあわせ、過去の知恵と貴《あて》やかさをことごとく響かせる言葉を記すべく、わしらが選んだ者である。わしらの帰還を宣言し、ファウヌスとドリュアスがいつもの美の茂みにあらわれる、来たるべき日々を歌う者である。いまコルキュアの洞窟のまえで象牙の座につく者たちによって、わしらの選択は導かれたが、おまえは彼らの歌のなかに崇高なものの調べを聞いて、この先偉大な使者があらわれれば、それとわかるであろう。彼らがここで一人ずつおまえに歌う声に耳をかたむけよ。おまえはそれぞれの調べをふたたび、来たるべき詩のなかに聞くだろう。その詩がおまえの魂に安らぎと喜びをもたらすが、おまえはわびしい歳月を重ねて探し求めなければならぬ。謹聴せよ、震えて消えゆく調べのそれぞれが、おまえが地上にもどってからふたたびあらわれるだろう。アルペイオスがヘラス(ギリシア)の魂のなかへと水没し、水晶のごときアレトゥーサとして遙かシチリアにあらわれるように」  するとホメーロス、詩人たちのなかの長老が立ちあがり、竪琴を取ってアプロディーテー讃歌をうたった。マーシャはギリシア語をまったく知らなかったが、詩がむなしく耳に届くことはなかった。謎めいた抑揚のうちに、人間と神々のすべてに語りかけるものがあり、解釈する必要もなかったからである。  ダンテとゲーテの歌も同様であって、マーシャの知らない言葉が、読むのも崇《あが》めるのもたやすい階調でもって空を切り裂いた。しかしようやく聞きおぼえのある言葉がマーシャのまえで響きわたった。エイヴォン河の白鳥、かつて人間のなかで神であり、なおも神々のなかで神である者だった。   [#ここから2字下げ] どうか書状をしたためて、血に塗《まみ》れた戦場より、 わが愛してやまぬ殿、あなたさまの御子息を急ぎもどらせ、 安らかにくつろがせたまえ。わたくしは遠くから、 ひたむきな熱情でもってその名をお清めいたします。 [#ここで字下げ終わり]    さらに耳慣れた調子で、もはや盲目ではないミルトンが、不滅の調和を美辞麗句で語った。   [#ここから2字下げ] あるいはあなたのランプを深夜の刻限に、 高い孤塔で見させてほしい。 そこではわたしが大熊座を、 三重に偉大なヘルメースとともによく見守り、 プラトーンの霊を天球より移し、 いかなる世界、あるいはいかなる広大な領域が、 この世俗での館を捨てた不滅の心をはらむかを 明らかにする。   ときには王の柩《ひつぎ》にある、 華麗な悲劇を速やかに来たらしめ、 テーバイ、あるいはペロプスの一節、 あるいは聖なるトロイアの物語を示す。 [#ここで字下げ終わり]    最後にすべての使者のなかで美しいファウヌスに最も近い、キーツの若い声が告げた。   [#ここから2字下げ] 耳に聞こえる旋律は甘美なるも、聞かれざるものは なお甘美なれば、いざ、快い笛、吹けよかし…… この世代があたら老いさらばえるとき、 われらのものならぬ悲哀に沈みながらも、 おまえ、人間の友は長らえて、 「美こそ真なり、真こそ美なり」と告げる――それこそが、 この世で知るべきことのすべて、知らねばならぬことのすべてである。 [#ここで字下げ終わり]    歌い手が口をつぐむと、夜にアウローラがナイルの畔で弑《しい》された息子メムノーンを悼《いた》む、遙かなエジプトから吹く風のなかに音がした。雷を放つものの足もとに、薔薇色の指をした女神が身を投げだし、ひざまついて叫んだ。「東の門を開くときでございます」そしてポイボス(アポローン)がムーサたちのなかにいる妻カリオペーに竪琴を渡し、既に昼の黄金の馬車に繋がれた駿馬が足掻《あが》いている、宝石に飾られ柱の林立する太陽の宮殿に向かう準備をした。するとゼウスが彫刻された玉座からおりて、片手をマーシャの頭に置いて告げた。 「娘よ、夜明けが近い。人間が目覚めるまえに、おまえはもどったほうがよいだろう。おまえの生のわびしさを嘆くでないぞ。偽りの信仰の闇はすぐに消え、神々がふたたび人間のなかを歩むからな。わしらの使者を絶えず探すがよい。おまえはその使者のうちに安らぎと慰めを見いだすだろう。使者の言葉によって、おまえは幸福へと導かれ、使者の美の夢のなかに、おまえの心は求めてやまぬもののすべてを見いだすだろう」ゼウスが語りおわると、若いヘルメースがやさしく乙女をつかみ、薄れゆく星たちのほうに舞いあがり、見えない海の上を西に翔《かけ》った。    マーシャが神々とパルナッソス山の秘密会議の夢を見てから長い月日が流れさった。今晩マーシャは同じ広びろとした客間にいたが、ひとりきりではなかった。かつての不安な思いはなく、かたわらには令名を博する者、その足もとに世界じゅうが膝をつく、詩人のなかの詩人である若者がいた。詩人は草稿を読んでおり、その言葉は誰も聞いたことがないものだとはいえ、ひとたび耳にすれば、人間が遙かな昔、パーンがアルカディアで転《まろ》び寝て、大いなる神々がヘスペリデスの土地の彼方のロトスの庭園で眠りについたときに失った、夢や空想を人の心にもたらすことだろう。詩人の精妙な律動と隠された階調のなかに、乙女の心はついに安らぎを見いだした。トラーキアのオルペウスの最も聖なる調べ、ヘブロス河の岩や木々をも揺り動かす調べがあったからである。詩人が朗読をやめ、熱心に意見を求めたが、マーシャには調べが「神々にふさわしいものかしら」ということしかできはしない。  そしてマーシャがしゃべっていると、ふたたびパルナッソス山の光景があらわれ、遙か彼方から力強い声が告げた。「使者の言葉によって、おまえは幸福へと導かれ、使者の美の夢のなかに、おまえの心は求めてやまぬもののすべてを見いだすだろう」