ラヴクラフト全集〈7〉 H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳 [#改ページ] 北極星 Polaris [#改ページ]          部屋の北の窓から見れば、北極星が不気味な光を放って輝いている。慄然たる長い暗黒の刻限を通じて、北極星はそこで輝きつづける。そして北風が呪いの声をあげてむせび泣き、早朝未明に欠けゆく三日月のもとで、沼沢地の紅葉した木々が囁きあう秋には、わたしは窓辺に腰をおろしてその星をじっと見守る。こうして時間がたつにつれ、きらめくカッシオペイア座がくだる一方、靄《もや》に包まれ夜風に揺れる沼沢地の木々の背後から、北斗七星が重おもしく昇ってくる。夜が明けそめようとするころ、アルクトゥールスが低い丘にある墓地の上空で赤くまたたき、髪座が神秘的な東の空遠くで不気味な微光を放つが、なおも北極星は黒い穹窿《そら》の同じ場所から睨めつけており、恐ろしげにまたたくありさまといえば、尋常ならざる知らせをもたらそうとしながらも、かつて伝えるべきことがあったことしかおぼえていない、気のふれた見守る目のようである。ときとして空が曇ると、わたしは眠ることができる。  沼沢地の上で凄まじいダイモーンの光が乱舞した、大いなるアウローラの夜のことはよくおぼえている。光のあとには雲が訪れ、そしてわたしは眠りについた。  あの都市をはじめて目にしたのは、欠けゆく三日月のもとでだった。ひっそり静まり返って半ば眠りについたような都市は、奇異な山峰にはさまれた谷間の不思議な高原にあった。壁や塔、柱、円蓋、舗石は、ことごとく薄気味悪い大理石製だった。大理石の通りには大理石の柱が立ちならび、柱の上部には顎鬚《あごひげ》をたくわえた威厳ある人物の像が彫りこまれていた。大気は暖かく、そよとの風もなかった。そして頭上を見あげれば、天頂から十度と離れていないところに、すべてを見守る北極星が輝いていた。長いあいだ都市をながめたが、夜が明けることはなかった。赤いアルデバランが空低くでまたたきながら没することなく、四分の一ほど地平線をゆるやかにめぐったとき、住居や通りに光と動きが見えた。不思議な装いをしているとはいえ、高貴で見おぼえのある人びとが、屋内から通りに歩みでて、欠けゆく三日月のもとで、わたしの知るどの言語とも似ていないというのに、なぜかわたしには理解できる言葉で賢明なことを語った。そして赤いアルデバランが地平線をめぐる進路を半分以上進んだころ、ふたたび闇と静寂が訪れた。  目を覚ますと、わたしは以前のわたしではなかった。都市の景観が記憶に刻みこまれ、そのときはいかなるものかも定かでなかった、ぼんやりとした別の記憶が心に生じていた。その後、眠りにつくことのできる曇った夜には、都市を目にすることがよくあり、あの欠けゆく三日月に照らされていることもあれば、地平線近くをめぐるばかりで没することのない、暑い太陽の黄色い光に包まれていることもあった。そして雲一つない夜には、北極星がいままでとはうってかわって睨めつけるのだった。  しだいにわたしは、奇異な山峰にはさまれた不思議な高原のあの都市で、自分はどのような立場にあるのかと思うようになった。最初のうちは、すべてを観察する、肉体のない存在として、都市をながめるだけで満足していたが、いまや自分と都市の関係をはっきりさせ、毎日公共広場で話しあう威厳ある人びとのなかに立ちまじり、思いのたけを口にしたくてたまらなかった。わたしはこうひとりごちたものだ。「これは夢ではない。北極星が夜ごと北の窓からのぞきこむなか、低い丘の墓地や不気味な沼沢地の南に位置する、石と煉瓦で造られたこの家でおくる人生が、どうすれば他にまさる現実であると証明できるのか」  ある夜、数多くの彫像の立ちならぶ大きな広場で議論に耳をかたむけていると、変化が感じられ、ついに肉体を得たことがわかった。もはやわたしは部外者ではなく、ノトンとカディフォネクの山峰にはさまれる、サルキスの高原に位置するオラトーエの通りにいた。弁舌をふるっているのは友人のアロスで、その演説は嘘偽りのない愛国者のものであるため、わたしは心底うれしかった。その夜、ダイコスが陥落し、イヌート族が進攻しているとの知らせがもたらされたのだ。イヌート族はずんぐりした醜悪きわまりない黄色の悪鬼で、五年前に未知の西方からあらわれ、われらの王国を荒しまわり、ついには都市を包囲するにいたった。山麓の要塞地帯が落ちたからには、全市民が一騎当千の力で抵抗しないかぎり、彼らの高原への進撃を食いとめるすべもない。ずんぐりしたイヌート族は戦闘にたけており、われら長身で灰色の目をしたロマールの民に無情な征服をひかえさせている信義など、毫《ごう》ももちあわせてはいないからである。  わが友人のアロスは高原の全部隊の指揮官でもあり、この国の最後の希望が双肩にかかっていた。このときアロスは対峙すべき危難について語り、ロマールの民のなかで最も勇敢なオラトーエの男たちに熱弁をふるい、かつて大氷河が押し寄せてゾブナから南進せざるをえなかったとき(われらの子孫たちでさえいつかはロマールの地から逃げ出さねばならないが)、行く手に立ちふさがった腕の長い毛むくじゃらの人食いグノフケー族を、祖先が雄々しくも華ばなしく蹴散らした史実をもちだし、その伝統を維持せよと勧告した。わたしは虚弱なうえに、緊張や辛苦にさらされると不思議と昏倒してしまうため、アロスもわたしを部隊に組み入れはしなかった。しかし連日長時間にわたって、ナコト写本やゾブナの父祖たちの知恵を研究しているにもかかわらず、わたしはオラトーエで一番目がよかったので、わが友人はわたしが無為にすごすのを望まず、またとない重要な任務にわたしをつかせた。わが軍の目の役目を果たさせるべく、わたしをタプネンの物見の塔に送った。イヌート族がノトンの峰背後の隘路《あいろ》から砦に達し、守備隊に奇襲しようとするなら、わたしが火を焚《た》いて待ちかまえる兵士たちに知らせ、攻めこまれるのを防ぐのである。  屈強な男たちはすべて山道の守備についたため、わたしはひとりで塔に登った。何日も眠っていないことで、興奮と疲労のあまり、頭が痛んで目もくらみそうだったが、祖国ロマールはもとより、ノトンとカディフォネクの山峰にはさまれる大理石都市オラトーエを愛してやまないために、断固たる決意を固めた。  しかし塔の最上階に立ったとき、遙か遠くのバノフの谷にたれこめる靄を通して、欠けゆく三日月が赤く不気味に揺らめいているのが見えた。そして屋根の開口部から見える青白い北極星は、その輝きがちらついて、あたかも生命を備え、悪鬼や悪魔のごとく睨めつけているかのようだった。北極星の魂魄《こんぱく》が悪しき言葉を囁きかけ、わたしの心をなだめて背信の眠りにつかせようと、忌《いま》わしいほど調子のよい約束を何度も繰り返すように思われた。   [#ここから2字下げ] 眠れよ、目をこらす者、 二万六千年の歳月を経て、 天球層がめぐり、 われがふたたびいまの場所にもどるまで。 名もなき他の星ぼしが、 天空の軸に昇るであろう。 甘美な忘却でもって、 心慰める星や祝福をあたえる星が昇るであろう。 わが周期が終わるときにのみ、 過去がそなたの扉を騒がせるであろう。 [#ここで字下げ終わり]    わたしはむなしく睡魔と闘い、この不思議な言葉をナコト写本から学びとった天空の伝承に結びつけようとした。目がくらみ、頭が重くなって、ついには胸にたれ、次に顔をあげたのは夢のなかでだった。窓の外をあおぎ見れば、夢の沼沢地の恐ろしげに揺れる木々の上空で、北極星がにっこり笑っていた。そしてわたしはなおも夢を見ている。  わたしは恥辱と絶望に責めさいなまれ、狂乱した悲鳴をあげて、ノトン峰背後の隘路を忍び歩くイヌート族が砦を奇襲するまえに起こしてくれと、まわりにいる夢の生物たちに訴えかけるが、これらの生物はダイモーンであり、わたしを嘲笑い、わたしが夢を見ているのではないと告げる。わたしが眠りこみ、ずんぐりした黄色い敵がひそかに迫っているかもしれないあいだ、わたしを嘲笑しつづける。わたしは任務を怠《おこた》り、大理石都市オラトーエを敵に売り渡し、わが友にして指揮官であるアロスを裏切った。しかしなおも夢の影たちはわたしを愚弄する。彼らがいうには、わたしの夜の夢想以外にロマールの地は存在せず、北極星が高く輝き、赤いアルデバランが地平線のすぐ上をめぐる領域には、数千年にわたって氷と雪があるだけで、「エスキモー」という、冷気になぶられるずんぐりした黄色民族をのぞいて、人間は存在しないものらしい。  そしてわたしは罪悪感の苦悶に身をよじりながら、刻一刻と脅威が高まる都市を救おうとやっきになり、低い丘の墓地と沼沢地の南に位置する石と煉瓦で造られた家という、この異様な夢をふりはらおうとむなしく奮闘しつづける。凶《まが》まがしくも邪悪な北極星が黒い穹窿《そら》から睨めつけており、恐ろしげにまたたくありさまといえば、尋常ならざる知らせをもたらそうとしながらも、かつて伝えるべき知らせがあったことしかおぼえていない、気のふれた見守る目のようである。