ラヴクラフト全集〈7〉 H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳 [#改ページ] イラノンの探求 The Quest of Iranon [#改ページ]          花崗岩都市テロスにさまよいこんだ若者は、蔓《つる》の頭飾りをつけ、黄色の髪を没薬《もつやく》で輝かせ、身にまとう紫のローブを、古い石橋の手前にそびえるシドラク山の茨に裂かれていた。テロスの民は陰気で重苦しく、角ばった家に住んでおり、眉をひそめて見知らぬ若者に、どこから来たのか、名前は何か、どのような富をもっているのかとたずねた。すると若者はこう答えた。 「わたしはイラノンといい、ほのかな記憶があるだけとはいえ、ふたたび見いだそうとしている遙かな都市、アイラからやってきました。遙かな都市で学びとった歌をうたう者であり、天職は子供のころの記憶にのこったもので美をつくることです。富といえるのは、ささやかな記憶と夢、それに月影さやかで西風が睡蓮の蕾《つぼみ》を揺らすときに、庭園で歌いたいという願いしかありません」  テロスの民はこれを聞くと、小声で話しあった。花崗岩都市にはもはや笑いも歌もなかったが、いかめしい民は春にカルティアの丘陵を見やっては、旅人が告げる遙かなオオナイのリュートに思いをはせることがあったからである。そしてそのように思いをいたすと、異国の若者にムリンの塔のまえの広場にとどまって歌うように告げたが、ずたずたに裂けたローブの色も、髪を輝かす没薬も、蔓の頭飾りも、素晴しい声の若わかしさも気に入るものではなかった。日が暮れると、イラノンが歌ったが、歌っているあいだ、ひとりの老人が祈りをささげ、盲目の男が歌い手の頭の上に光輝く雲が見えるといった。しかしテロスの民の多くはあくびをして、笑う者もいれば、眠るためにひきあげる者もいた。イラノンが有益なことは何も口にせず、思い出と夢と希望を歌うだけだったからである。 「わたしは黄昏《たそがれ》と月と美しい歌、あやされて眠りについた窓辺をおぼえている。窓の向こうの通りでは、金色の光が射して、影が大理石の家で揺らいでいた。床を四角く照らす月光が他の光とは異なり、母がわたしに歌いかけたとき、さまざまな幻影が月の光のなかで躍りはねたのをおぼえている。そして夏には、さまざまな色合の丘陵の上で朝日が明るく輝き、木々を歌わせる南風に甘い花の香が運ばれたのもおぼえている。 「ああ、大理石と緑柱石の都市アイラよ、おまえの美はどれほど数多いことか。穏やかに澄んだニトラ河の向こうの暖かく芳《かぐわ》しい林や、あおあおとした谷を流れるクラ川の滝を、わたしはどれほど愛したことか。それら林や谷では、子供たちがたがいに花輪をつくりあい、わたしは黄昏時になると、眼下の都市の灯りや、蛇行するニトラ河が星たちを帯状に映《うつ》すのをながめながら、山のヤス木の下で不思議な夢を見た。 「そして都市には、縞模様のある大理石や薄い色のついた大理石の宮殿がいくつもあり、黄金の円蓋と彩色された塀、青い水をたたえた池と澄みきった泉のある緑したたる庭園を擁していた。わたしはそうした庭園で遊び、池を歩いて渡り、木陰で白い花たちに囲まれ、寝そべって夢を見たものだ。そして日没時には、長い山道を歩いて砦や開けたところまで登り、金色の輝きに包まれて壮麗な、大理石と緑柱石の魔法都市、アイラをながめやることもあった。 「流刑にされたとき、わたしは幼かったから、アイラよ、おまえを寂しく思って久しいが、父がおまえの王であり、運命がそう定まっているのだから、わたしはふたたびおまえのもとに行くだろう。七つの土地のすべてをめぐっておまえを探したので、いつの日か、おまえの林や庭園、通りや宮殿をわがものとして、わたしがいずこの地を歌っているかを知り、笑うことも背を向けることもしない者たちに歌うことになるだろう。わたしこそイラノン、アイラの王子だった者なれば」  その夜、テロスの民は異国の若者を厩《うまや》で眠らせ、朝になると執政官があらわれて、靴直しアトクの店に行って徒弟奉公するようにと告げた。 「しかしわたしは歌をうたう者、イラノンです」イラノンはいった。「靴直しのなりわいをするつもりはありません」 「テロスで暮す者はみな精を出して働かなくてはならない」執政官がいった。「それが法なればな」するとイラノンが告げた。 「何のために精を出して働くのでしょう。働いても幸せではないのではありませんか。もっと働くためにのみ働くのであれば、幸せはいつ訪れるのでしょう。生きるために働くとしても、人生とは美と歌からつくられるのではありませんか。それにあなたがたのなかに歌う者がいないのなら、労働の果実はどこにあるのでしょう。歌もなく働くことは、目的のない倦《う》み疲れる旅のようなもの。それなら死のほうが甘美ではありますまいか」しかし執政官は陰鬱な顔をして、意を酌《く》むこともなく、異国の若者を叱責した。 「おまえは不思議な若者で、わたしはおまえの顔も声も気に入らない。テロスの神々は額に汗して働くことが善なりと述べておられるので、おまえの口にする言葉は不敬なものである。われらの神々は死の彼方に光の安息所があると約束されており、そこには果てしない安らぎがあって、その水晶のような冷たさのなかでは、心を思考で、目を美しさで悩ませることもない。靴直しアトクのもとへ行くか、日没までに都市を出よ。この都市で暮す者はみな奉仕しなければならず、歌は愚行である」  かくしてイラノンは厩を出て、陰気な花崗岩の四角い家屋が建ちならぶ狭い通りを歩き、春の大気のなかに緑のものを探した。しかしすべてが石で造られているため、テロスに緑色のものはなかった。民人は顔をしかめたが、ゆったり流れるズロ河の石造りの堤防に腰をおろした少年は、悲しげな目を河面に向け、雪解けの増水によって丘陵から流れくだる芽吹いた緑の枝を見つめていた。少年がイラノンにいった。 「あなたは執政官がいってた、美しい土地の遙かな都市を探してる人なんでしょう。ぼくはロムノド、テロスの民として生まれたけど、花崗岩都市のならわしではまだ一人前じゃなくて、美と歌のある暖かな林や遠くの土地へ行きたくてたまらないんだ。カルティアの丘陵の向こうには、みんなが声をひそめて話す、美しくもあれば恐ろしくもあるという、リュートと舞踏の都市オオナイがある。ぼくは道がわかるほど大きかったらそこへ行くつもりだし、あなたも歌を聞いてもらいたいなら、行くべきだよ。二人でテロスを離れて、一緒に春の丘陵を旅しよう。あなたが旅する道を教えてくれたら、ぼくは夜に星が一つまた一つとあらわれて、夢見る者の心に夢をもたらすときには、あなたの歌に耳をかたむける。もしかしたら、リュートと舞踏の都市オオナイが、あなたの探してる美しいアイラかもしれない。あなたはずいぶんまえからアイラのことは知らないそうだし、名前はよくかわるものだからね。オオナイへ行こうよ、金色に輝く頭のイラノン。オオナイの民はぼくたちの熱望を知って、兄弟のように迎え入れ、ぼくたちが何を口にしても笑ったり顔をしかめたりしないよ」するとイラノンはいった。 「そうだろうな、小さな子供。美を求める者がこの石造都市にいるなら、山脈やその向こうを探すにちがいないし、わたしはゆったり流れるズロ河の松のそばに、君をのこしていきはしない。しかし君のいう歓喜と理解が、カルティア丘陵のすぐ向こうや、一日あるいは一年ないしは五年の旅で行けるところにあると考えてはいけないね。君のように小さかったとき、わたしは冷えびえとしたクサリ河の流れるナルトスで暮したが、そこでは誰もわたしの歌に耳をかたむけようとはせず、わたしは大きくなったら南の丘陵のシナラへ行って、市場で笑みをうかべるヒトコブラクダ人に歌いかけようと思った。しかしシナラに行ってみると、ヒトコブラクダ人は酔いどれの下品な者ばかりで、彼らの歌はわたしの歌とはちがうものだったから、平底の荷船に乗ってクサリ河をくだり、縞瑪瑙《しまめのう》の城壁をはりめぐらしたジャレンに行った。ジャレンの兵士たちがわたしを笑いものにして追いはらったので、数多くの都市をさまよった。大瀑布の下にあるステテロスを目にしたし、かつてサルナスがあった湿地帯をながめたこともある。蛇行するアイ河に沿ったトゥラー、イラーネク、カダテロンに行き、ロマールの地にあるオラトーエで久しく暮しもした。しかしときには耳をかたむけてくれる者がいたにしても、ごくわずかにすぎず、わたしが歓迎されるのは、わが父がかつて王として統治した大理石と緑柱石の都市、アイラだけだとわかっている。だからわたしたちはアイラを探し求め、カルティア丘陵の彼方にある、リュートに祝福された遙かなオオナイを訪れればよいだろう。そこがまさしくアイラかもしれないが、わたしはそうは思わない。アイラの美は想像を絶するもので、歓喜なくして語ることもできないのに、駱駝を駆る者たちは声をひそめ、嫌らしい目つきをして、オオナイのことを語っているのだから」  日が暮れると、イラノンと小さなロムノドはテロスから出立して、長いあいだ緑したたる丘陵や冷えびえとした森をさまよった。道は荒れはててほとんど見分けもつかず、リュートと舞踏の都市オオナイに近づいているふうもなかったが、闇がくだって星たちがあらわれると、イラノンはアイラとその美について歌い、ロムノドが耳をかたむけたので、二人ともそれなりに幸福だった。二人は果物や赤い果実をたっぷりと食べ、時がすぎゆくことも気にしなかったが、長い月日が流れさったにちがいない。小さかったロムノドはもはや小さいとはいえず、甲高かった声が太くて低いものになっていたが、イラノンはいつも同じで、金色の髪を森で見いだせる蔓や芳しい樹脂で飾っていた。こうしてある日、かつてイラノンがゆったり流れるズロ河の石造りの堤防で見かけたとき、テロスに流れてきた芽吹いた緑の枝をながめていた小さなロムノドが、イラノンよりも老けて見えるまでになった。  そしてある満月の夜、二人の旅人は山を登りつめて、オオナイの千々の灯りを目にした。農民たちからもうすぐだといわれていたが、イラノンは祖国のアイラではないことを知った。オオナイの灯りはアイラの灯りとは異なり、ぎらついてけばけばしいのに対して、アイラの灯りといえば、イラノンの母がかつて歌いながら寝かしつけた窓辺の床に射す月光のように、やさしく魔法のように輝くのだった。しかしオオナイはリュートと舞踏の都市なので、イラノンとロムノドは険しい斜面をくだっていき、歌や夢を喜んでくれる者たちを見つけようとした。そして都市に入ってみると、薔薇の花冠をつけて浮かれ騒ぐ者たちが、家を出入りしたり、窓や露台から身を乗り出したりして、イラノンの歌に耳をかたむけ、歌いおわると、花を投げて拍手喝采した。そのときイラノンはつかのま、自分と同じように考えたり感じたりする人びとを見いだしたと思ったが、都市はアイラの百分の一も美しくなかった。  夜明けが訪れると、イラノンは度を失ってあたりを見まわした。オオナイの円蓋は日差しを浴びても金色には輝かず、灰色のわびしいものだった。そしてオオナイの民は歓楽に耽って顔色も青白く、葡萄酒を痛飲して大儀そうで、アイラの輝かしい民とは似ても似つかなかった。しかし花を投げられ歌を賞讃されたことで、イラノンはロムノドとともにとどまりつづけ、ロムノドは都市の歓楽を気に入って、黒い髪に薔薇や銀梅花をつけるようになった。夜になると、イラノンは浮かれ騒ぐ者たちに向かってよく歌ったが、常に以前のように山の蔓だけを頭につけ、アイラの大理石敷きの通りや穏やかに澄んだニトラ河を思いだしていた。フレスコ画に飾られた君主の広間で、鏡の床に設けられた水晶の壇で歌い、聞き手の心にさまざまな情景をもたらしつづけ、やがて床に映じているのが、葡萄酒で顔を赤らめて薔薇を投げる祝宴の列席者ではなく、半ば記憶にのこる過去の美しいもののように思えるまでになった。そして王がイラノンの襤褸《ぼろ》になった紫のローブを取りさり、繻子《しゅす》と金糸の衣服をまとわせ、翡翠《ひすい》の指輪と淡い象牙の腕輪をつけさせると、綴織りのかかった金色まばゆい部屋で、天蓋と花を刺繍《ししゅう》された絹の上掛けのある、香木を彫刻した寝台にイラノンを休ませた。このようにしてイラノンはリュートと舞踏の都市オオナイで暮したのである。  イラノンがどれほど長くオオナイにとどまったのかは知られていないが、ある日オオナイの王が激しく旋回する踊り子をイラニアの砂漠から、浅黒いフルート吹きを東方のドリネンから宮殿に招くと、その後は浮かれ騒ぐ者たちがイラノンに薔薇を投げることも、踊り子やフルート吹きのように多くはなくなった。そして日を重ねるにつれ、花崗岩都市テロスで小さな少年だったあのロムノドは、葡萄酒を飲みつづけて品性が卑しく、顔が赤らむようになって、夢を見ることも、イラノンの歌を耳にして歓喜をおぼえることも少なくなった。イラノンは悲しかったが、歌うことはやめず、夜になると、大理石と緑柱石の都市、アイラの夢をふたたび語った。やがてある夜、顔を赤く染め、でっぷり太ったロムノドが、宴会の寝椅子の罌粟《けし》で飾られた絹に包まれ、大きないびきをかき、身をよじって死んだとき、痩身で青白い顔をしたイラノンは、離れた隅でひとりきりで歌っていた。そしてイラノンはロムノドの墓で涙を流し、ロムノドがかつて愛していたのと同じような芽吹いた緑の枝を撒《ま》き散らすと、絹の衣服と派手な装身具を取りさり、来たときと同じ襤褸の紫のローブだけを身につけ、山の新鮮な蔓で頭を飾り、リュートと舞踏の都市オオナイを離れて忘れさられた。  イラノンは夕日のなかへとさまよいでて、なおも祖国と、自分の歌や夢を理解して懐かしんでくれる者たちを探した。キュダトリアの都市やブナジク砂漠の彼方の地の都市をすべて訪れ、にこやかな顔をした子供たちに、古めかしい歌や襤褸になった紫のローブを笑われたが、イラノンはあいかわらず若わかしく、金色の髪に蔓をつけ、アイラや過去の喜びや未来の希望を歌った。  そしてある夜、年老いた羊飼いのむさくるしい小屋を訪れた。汚れ放題で腰の曲がった羊飼いは、泥沼の上の岩の斜面でわずかばかりの羊を飼っていた。イラノンは数多くの他の者に対してしたように、この男に話しかけた。 「穏やかに澄んだニトラ河が流れ、小さなクラ川の滝が緑したたる谷やヤス木の茂る丘に歌いかける、大理石と緑柱石の都市アイラが、いったいどこにあるのかご存じありませんか」羊飼いはこれを聞くと、しばらく不思議そうにイラノンを見つめ、あたかも遙か昔のことを思いだし、見知らぬ男の顔立ち、金色の髪、頭を飾る蔓をつくづくと見ているかのようだった。しかし羊飼いは高齢で、首をふってこう答えた。 「ああ、見知らぬ人よ、確かにアイラという名も、あなたがおっしゃった他の名前も聞いたことはありますが、それはもうずいぶんまえのことですよ。若いころに遊び相手だった、不思議な夢にうつつをぬかしていた乞食の少年から聞きましたが、その少年は月や花や西風にまつわる長い話をつくっていたものでした。わしらはその少年をよく笑いましたが、それというのも、わしらは少年が生まれてからのことを知っているのに、本人は王の息子だと思っていたからです。あなたのように端整な少年でしたが、莫迦なことを考えたり、妙な振舞いをしていました。まだ小さいころに、自分の歌や夢に喜んで耳をかたむけてくれる者を見つけに、どこかへ行きよりました。存在しもしない土地のことや、ありえざるものについて、どれほどわしに歌ったことか。アイラのことはよく語っていました。アイラやニトラ河、それにクラ川の滝のことを。昔は王子として暮していたといっておりましたが、ここでは生まれてからのことが知られていましたよ。アイラという大理石都市は存在しませんし、不思議な歌に喜びを感じる者もおりません。いなくなってしまった、わしの昔の遊び相手のイラノンの夢のなかを措いては」  そして暮色が濃くなりまさり、星が一つまた一つとあらわれて、月が沼地に光を投げかけたありさまといえば、子供が夜にあやされて眠りにつくとき、床に揺れているのを見たものに似ており、死を招く泥沼へと歩んでいく年老いた者は、襤褸になった紫のローブをまとい、枯れた蔓の葉で頭を飾り、夢が理解される美しい都市の黄金の円蓋をあおいでいるかのように前方を見つめていた。その夜、青春と美のいくばくかが旧世界で失われた。