ラヴクラフト全集〈7〉 H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳 [#改ページ] サルナスの滅亡 The Doom That Came to Sarnath [#改ページ]          ムナールの地に、流れ入る川もなければ流れ出る川もない、静穏に包まれた広大な湖がある。一万年前、サルナスという強大な都市が湖畔に存在したが、もはやその跡形もない。  世界が若かった遠い昔、サルナスの民がムナールの地に到来するまえ、別の都市が湖畔にあって、このイブという灰色の石造都市は、湖そのものと同じほど古くから存在し、見るも不快な生物が棲《す》んでいたという。はなはだ面妖にして醜悪な生物ではあれ、まだ混沌としておおざっぱにつくられた世界では、いかにも生物の大半はそのようなものであった。カダテロンの円筒形粘土には、イブの生物が湖や湖上に昇る霧と同じ緑の体色で、目は膨れあがり、唇は突き出して締まりがなく、耳が奇妙な形をして、声を発することがなかったと録されている。ある夜、霧にまぎれて、彼らや、静穏に包まれた広大な湖や、灰色の石造都市イブが月からくだったともいう。この真相は定かでないにせよ、彼らが水棲の大|蜥蜴《とかげ》、ボクラグに似せて彫りあげられた、海緑色の石の偶像を崇拝し、月が凸状に膨らむとき、偶像のまえで恐ろしくも跳ねまわったのは確かである。そしてイラーネクのパピルス古文書には、ある日彼らが火を発見して、それ以来数多くの儀式の際には火を熾《おこ》したと誌《しる》されている。しかしきわめて古い時代に生きた種族であったし、人類はまだ若く、太古のことはよくわかっていないので、この生物に関する記録はさほどない。  悠久の歳月が流れた後、人間がムナールの地に到来したが、髪の黒い牧羊の民で、毛のふさふさとした羊の群をともない、蛇行するアイ河に沿って、トゥラー、イラーネク、カダテロンの町を造った。そしてとりわけ屈強な部族が困難を排して湖畔に進み、地中に貴金属が見いだせるところにサルナスを建設した。  定住地をもたなかった遊牧民は、灰色の都市イブからほど遠からぬところにサルナスの礎石を据え、イブの生物を目にして大いに驚嘆した。さりながら、かような面貌の生物が黄昏《たそがれ》時に人間の世界を歩きまわるのは、望むところではないと思いなされたために、驚嘆の念には憎悪がこもっていた。イブの灰色の方尖塔《ほうせんとう》にある奇異な彫像も気に入らなかったのは、それら彫像が古色蒼然として恐ろしかったからである。かくのごとき生物や彫像が、なにゆえ人間の到来するまでこの世界にとどまりつづけたのかは、夢の世界や現実の世界の多くから遠く隔《へだ》たっていることによるものでないかぎり、はっきりしたことは何もわからない。  サルナスの民はイブの生物を見るにつけ、憎悪をつのらせた。生物が弱く、石や槍や矢に対してあまりにも柔な体つきだと知ったからである。こうしてある日、投石兵、槍兵、弓兵からなる若い戦士たちがイブに進撃して、イブの住民をことごとく屠《ほふ》り、ふれる気にもなれなかったので、異様な死体は長い槍で押しやって湖に沈めた。そしてイブの灰色の彫像のある方尖塔も気に入らなかったため、これらも湖中に投じたが、かような石はムナールはもとより隣接する地にもなく、その甚大な労力を思い、いかにして遠方から運びこんだのかといぶかしんだ。  かくして水棲の蜥蜴ボクラグに似せて彫りあげられた海緑色の石像をのぞき、太古からあった都市イブは跡形もなく消滅した。若い戦士たちはこの石像を、古《いにしえ》の神々とイブの生物を征服した象徴、そしてムナールを統率する徴《しるし》として、サルナスへともちかえった。しかし石像が神殿に据えられた夜に恐ろしいことが起こったにちがいなく、不気味な光がいくつも湖上に見え、朝になってみれば、石像が消えうせているばかりか、大神官タラン=イシュが遺体となって横たわっており、何やらん名状しがたい恐怖によるもののようだった。さらにタラン=イシュは息をひきとるまえ、震える手で橄欖石《かんらんせき》の祭壇に破滅の徴を書きのこしていた。  タラン=イシュのあとをサルナスの多くの大神官が襲ったが、海緑色の石像はついに見いだされることがなかった。そして幾多の歳月が流れゆくなか、サルナスは並外れて栄え、タラン=イシュが橄欖石の祭壇に書きのこしたものをおぼえているのは、もはや神官と老婆だけになりはてた。サルナスとイラーネクのあいだに隊商路が生まれ、地中から掘り出された貴金属が、他の金属、稀少な布、宝石、書物、職人の道具、さらには蛇行するアイ河沿いやその彼方に住む人びとの知る贅沢品のすべてと取引きされた。こうしてサルナスは力と学識と美を高め、軍隊を派遣しては近隣の都市を征服し、やがてはムナールの地と隣接する多数の土地を統《す》べる王が、サルナスの玉座につくにいたった。  壮麗なサルナスこそ、世界の驚異、人類すべての誇りとするものであった。砂漠から切り出されて磨きあげられた大理石が城壁をつくり、高さ三百キューピット、厚さ七十五キューピットにおよぶため、その上を馬車がすれちがえるほどだった。全長は五百スタディオンに達し、湖に面する箇所だけが開いて、そこには緑色の石を使った防波堤が設けられ、一年に一度、イブの滅亡を祝う饗宴の日にだけ妙に高まる波を防いでいる。サルナスでは、湖から隊商の出入りする城門にかけて五十の通りがあり、さらに五十の通りが交差していた。通りは縞瑪瑙《しまめのう》で舗装されたが、馬や駱駝や象が歩む通りは敷石が花崗岩だった。そしてサルナスの城門は、通りが内陸に面する数だけ設けられ、すべて青銅製で、いまや知る者もない何らかの石を用いた、獅子と象の彫刻が両側をかためていた。サルナスの家屋は光沢のある煉瓦や玉髄で造られ、それぞれ塀に囲まれた庭園や水晶のように澄みきった池を擁していた。不思議な技で建てられており、他の都市にこのようなものはなく、トゥラーやイラーネクやカダテロンから旅をしてきた者たちは、住居が戴《いただ》く燦然《さんぜん》たる円蓋に驚嘆した。  しかしさらに驚嘆させられるのは宮殿と神殿、そして古代の王ゾッカールが造った庭園である。宮殿の数は多く、最小のものでさえ、トゥラーやイラーネクやカダテロンのどの宮殿よりも大きかった。高くそびえるあまり、内部にいると頭上には空しかないように思えることもあるほどだが、ドトゥルの油にひたした松明《たいまつ》で照らされると、王たちや軍隊を描いた広大な壁画があらわれ、見る者を感激させるとともに呆然とさせる華麗なものであった。宮殿の柱は数多く、すべてが淡い陰影のある大理石で、ことのほか美しい意匠の彫刻がほどこされていた。そして大半の宮殿では、緑柱石、瑠璃《るり》、紅縞瑪瑙、石榴石《ざくろいし》といった選り抜きのものが、床をモザイク画で埋め、珍無類の花壇を歩いているのではないかと思えるようにされていた。また噴水もあって、巧妙に配置された、目をなごませる送水管から香水をほとばしらせた。これらすべてに勝るのが、ムナールおよび隣接する地を統べる王の宮殿であった。輝く床から数多くの階《きざはし》がつづく先に玉座があって、一対のうずくまる黄金の獅子が両脇をかためていた。それほど巨大なものがどこからもたらされたのか、もはやその事情を知る者とてないが、玉座は一本の象牙から精緻に造りだされたものだった。宮殿にはおびただしい回廊があり、多数の円形闘技場では獅子や人間や象が闘って王を楽しませた。ときには円形闘技場に強力な送水管で湖水が流しこまれ、血沸き肉躍る海戦や、人間と恐るべき水棲動物との闘いが繰り広げられることもあった。  堂々として目を瞠《みは》らせるのが、塔を思わせるサルナスの十七の神殿であり、ほかでは見られぬ輝かしい多彩な石で造られていた。最大のものは高さ千キューピットにおよび、王にも劣らぬ威光を放つ大神官が住まいした。一階には宮殿のような広大かつ壮麗な広間がいくつもあり、そこに民が群つどい、サルナスの主神であるゾ=カラル、タマシュ、ロボンを崇拝するが、これら香をたきこめた三神の聖堂は君主の玉座に匹敵するものだった。ゾ=カラル、タマシュ、ロボンの聖像は、他の神々のものとは異なり、生けるがごときに造られているので、顎鬚《あごひげ》をたくわえた優雅な神御自身が象牙の玉座につかれているかに見えた。そしてきらめく風信子鉱《ふうしんしこう》の果てしない階を登りつめたところに、物見の房室が設けられ、大祭司がそこから、昼には都や平原や湖を見渡し、夜には謎めいた月や重大な意味をもつ星や惑星、そして湖に映じるそれらの影をながめやるのだった。水棲の蜥蜴ボクラグを憎悪する古代からの密儀が執りおこなわれるのはこの房室であり、タラン=イシュが破滅の徴を書きのこした橄欖石の祭壇もここにあった。  同様に素晴しいのが、古代の王ゾッカールが造った庭園である。サルナスの中央に位置して、広大な敷地は高い塀に取り巻かれていた。そして巨大な瑠璃《るり》の円蓋を戴き、晴れた日には太陽や月や星の光が射し入り、そうでない日には太陽や月や星のように輝くものが吊るされた。夏には扇で巧みに軽やかに送られる、爽《さわ》やかでかぐわしい微風で涼しくされ、冬には隠された炉火で暖められるので、庭園のなかはいつも春だった。きらめく玉石の上を流れる小川がいくつもあって、あおあおとした草地やさまざまな色の花園を画し、多くの橋が架け渡されていた。小川が流れゆく先には数多くの滝があり、小川が広がって百合の咲き乱れる池になっていることも多い。小川や池には白鳥がいる一方、珍しい鳥たちのさえずりがせせらぎに和していた。緑したたる土手が整然とした段庭にされ、蔓《つる》や芳香を放つ花、大理石や斑岩の腰掛けや長椅子のある木陰の休憩所が、そこかしこで美しさをひきたてていた。そして小さな聖堂や神殿も随所にあって、そこで休んだり小神に祈りを捧げたりできるようにされていた。  毎年サルナスではイブの滅亡を祝う饗宴が催され、葡萄酒、歌、踊り、ありとあらゆる歓楽がふんだんに用意された。面妖な古代の生物を殲滅《せんめつ》した勇者の霊魂に大なる敬意が表され、ゾッカールの庭園から採られた薔薇の花冠を戴く踊り手やリュート奏者によって、記憶にのこる面妖な生物や彼らの神々が愚弄されるのだった。そして王が湖を見渡して、その下に横たわる骨を呪う。最初のうち大神官たちがこの饗宴をうとましく思ったのは、海緑色の偶像が消えうせたことや、タラン=イシュが警告を書きのこして恐怖のあまり息たえたことについて、いかさま奇妙な話が伝わっていたからである。そして大神官たちは高い塔から湖水の下に光が見えることもあると語った。しかし災い一つなく幾星霜がすぎゆくなか、神官たちも笑ったり毒づいたりしながら、饗宴の乱痴気騒ぎに加わるようになった。事実、彼らこそ、神殿の物見の房室で、水棲の蜥蜴ボクラグを憎悪する、古ぶるしい密儀を頻繁に執りおこなっていたというのに。そして世界の驚異、人類すべての誇りとするサルナスに、富と歓喜に満ちた千年の歳月が流れた。  イブ滅亡千年を祝う饗宴は想像を絶する豪華なものだった。ムナールの地では十年前から噂され、いよいよその日が近づくと、トゥラー、イラーネク、カダテロンはもとより、ムナールの全都市やその彼方の地から、馬や駱駝や象に乗って人びとが到来した。当日の夜には、大理石の城壁のまえに、貴顕の仮設建物や旅人の天幕がならび、湖畔一帯に浮かれ騒ぐ者たちの歌が響きわたった。宴会の広間では、王ナルギス=ヘイが征服地ナスの窖《あなぐら》からもたらされた古酒をきこしめして横たわり、祝宴にあずかる貴族やせわしく働く奴隷に取り巻かれていた。その饗宴では数多くの異国の珍味が食され、中海のナリエル諸島の孔雀、イムプランの遙かな丘陵の仔山羊、ブナジク砂漠の駱駝の踵《かかと》、キュダトリアの林の堅果や香辛料、ムタルの波に洗われた真珠をトゥラーの酢に溶かしたものがあった。饗宴にあずかる者すべての味覚にあわせ、ムナールきっての料理人たちが用意した調味料は数えきれないほどだった。しかしこれら美食のなかで最も珍重されたのは、湖で獲れた大魚であり、いずれ劣らぬおおぶりの魚が、紅玉と金剛石を鏤《ちりば》めた黄金の大皿に載せて出された。  王や貴族が宮殿内で饗宴を楽しみ、黄金の大皿を飾る魚料理をながめていたころ、他の者たちもそれぞれの場所で饗宴にあずかっていた。大神殿の塔では、神官たちが祝宴をし、城壁外の仮設建物では近隣都市の貴顕たちが楽しんでいた。そして凸状に膨らむ月からいくつもの影が湖にくだり、忌《いま》わしい緑の霧が湖から湧きあがって月にまで達し、命運つきたサルナスの塔や円蓋が、不気味な霧に包みこまれるのを最初に目にしたのは、大神官ナイ=カーであった。その後、塔にいた者や城壁の外にいた者は、湖水の上に奇怪な光を目にし、岸辺近くに高くそそりたつ灰色の岩アクリオンがほぼ水没しているのを見た。漠々とした恐怖が速やかにつのりゆくまま、イラーネクや遙かなロコルの貴顕たちは、仮設建物や天幕をたたませ、アイ河目指して出立したが、サルナスをひきあげる理由とて定かではなかった。  やがて真夜中の刻限が近づいたころ、サルナスの青銅の城門のすべてがにわかに開き、狂乱した群衆がどっと繰り出して平原を黒ずませたので、サルナスを訪れていた貴顕や旅人も仰天してひとりのこらず逃げ出した。この群衆はことごとくその顔に、堪えがたい恐怖から生まれた狂気をまざまざとあらわし、聞き手が証を問えないほどの恐ろしい言葉を口走ったからである。恐怖のあまり半狂乱の目をした者たちが、王の宴会の広間で目にした光景を金切り声で叫びたてた。窓からのぞいてみれば、もはやナルギス=ヘイ王や貴族や奴隷の姿はなく、膨れあがった目、突き出した締まりのない唇、奇妙な形の耳をした、いいようもない緑色のものが、恐ろしげに跳ねまわり、妙な炎をはらむ紅玉と金剛石の鏤められた黄金の大皿を前脚でつかんでいたという。そして馬や駱駝や象に乗って、命運のつきた都サルナスから遁走した貴顕や旅人が、霧の立ち昇る湖をふりかえってみれば、灰色の岩アクリオンは完全に水中に没していた。  ムナール全土とその隣接地すべてにわたって、サルナスから逃げ出した者たちの話が広まり、隊商がいくつも呪われた都とその貴金属を探したが、ついに見つからなかった。旅人がそこへ足を伸ばしたのは長い月日がたってからのことだが、そのときでさえ、あえて旅をおこなったのは、勇気と冒険心を備えた遙かなファロナの若者だけだった。ムナールの民とは縁もゆかりもない、黄色い髪と青い目をもつ雄々しい若者たちであった。事実、彼らはサルナスを目にするために湖まで行ったが、静穏に包まれた広大な湖そのものと、岸辺近くに高くそそりたつ灰色の岩アクリオンを見いだしたものの、世界の驚異であり、人類すべての誇りとするものであった都市を目にすることはなかった。かつて三百キューピットの城壁やさらに高い塔がそびえていたところには、いまや湿地が広がっているばかりで、かつて五千万の民が住んでいたところには、忌わしい緑色の水棲の蜥蜴が這いまわっているだけだった。貴金属の鉱床すらのこっておらず、まさにサルナスは破滅したのであった。  しかし藺草《いぐさ》に半ば埋もれた恰好で、奇妙な緑色の石像が見つかった。はなはだ古ぶるしいその石像は、びっしりと海草がこびりつき、水棲の大蜥蜴ボクラグに似せて彫りあげられたものだった。その石像はイラーネクの大神殿に安置され、その後はムナール全土で月が凸状に膨らむときに崇拝された。