ラヴクラフト全集〈6〉 H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳 [#改ページ] 銀の鍵の門を越えて Through the Gates of the Silver Key [#改ページ]         1    怪異な意匠のほどこされたアラス織の掛布がかかり、閲《けみ》した歳月と見事な出来映えが息を呑《の》ませるほどのボクーラ絨毯《じゅうたん》が敷きつめられた、その広びろとした部屋のなか、四人の男が書類の散らばるテーブルをかこんで坐っていた。部屋の奥、鋳物彫《いものぼり》の風変わりな鼎《かなえ》がいくつも置かれたところからは、ひどく年老いた黒衣のネグロにときおりくべられて、眠気を誘う乳香の烟《けむり》が漂ってくる。そして片側の奥深い壁龕《へきがん》では、文字盤に不可解な象形文字が記され、四本の針がこの惑星にて知られるいかな時間律にも一致せぬ動きを見せる、棺の形状をした奇妙な時計が時を刻んでいる。一種独特の薄気味悪い部屋ではあるが、目下の用件にはよくかなっていた。北米大陸きっての神秘家にして数学と東洋学の泰斗が所有する、このニューオリンズの邸のその部屋では、偉大さにおいていささかもひけをとらない神秘家、碩学《せきがく》、著述家、夢想家でありながら、四年まえに地上からふっつりと姿を消してしまった人物の、財産処分の問題に、いましも結着がつけられようとしているのであった。  その生涯を通じ、覚醒時の現実の倦怠と気づまりから遁《のが》れ、伝説に名高い異次元の街並や誘い招く夢の景観に没入しようとしつづけたランドルフ・カーターが、五十四歳をむかえた一九二八年の十月七日、地上から姿を消してしまったのである。ランドルフ・カーターの生涯は一風変わった孤独なもので、その不思議な長編小説から、記録に残るものよりさらに奇怪な逸話を数多く、さもありなんと推測した者もいる。ヒマラヤの僧侶たちの用いる原初の言語、ナアカル語の研究をおしすすめ、法外きわまる結論を導きだした、サウスキャロライナの神秘家、ハーリイ・ウォーランとの交友も、既に久しいものとなっていた。実をいえば、二度ともどれぬことになるウォーランが――霧の深い竦然《しょうぜん》たる夜にとある古さびた墓地で――硝石《しょうせき》のこびりつくじとじとした地下納骨所におりていくのを見とどけたのは、ランドルフ・カーターにほかならなかった。カーターはボストンで暮していたが、祖先すべての出身地は、魔女の呪いをうけた古めかしい街アーカムの背後に位置する、幽霊話にことかかない荒涼たる丘陵地帯である。そしてカーターがついに姿を消してしまったのは、清涼感《せいりょうかん》の漂う怪しく鬱屈《うっくつ》とした蒼古《そうこ》たる、この丘陵地帯の只中《ただなか》においてであった。  カーターの老召使パークスは――一九三〇年の初頭に亡くなっているが――カーターが屋根裏部屋で発見した妙に馥郁《ふくいく》たる香をはなつ、悍《おぞ》ましい彫刻のほどこされた箱のことや、そのなかに収められていた、判読不能の羊皮紙文書と奇異な形をした銀の鍵のことを、かつて口にしたことがあった。これらについてはカーターも書簡に記している。老召使のパークスによれば、この鍵は祖先たちから伝わるもので、失われた幼年時代をはじめ、カーターが漠然としたつかのまの朧《おぼろ》な夢でしか訪れたことのない、霊妙な異次元や摩訶《まか》不思議な領域に通じる門を、開くうえで役立つのだと、カーターはいっていたらしい。そしてある日カーターは、箱とその内容物を携え、車に乗って二度と帰らぬ旅路についたのだった。  その後、歳月のうちに朽ちゆかんとするアーカムの背後に広がる丘陵――カーター家の祖先たちがかつて住み、カーター家の屋敷の廃墟と化した地下室がいまなお空にむかってあんぐり口を開けている丘陵――を抜ける、草の生い茂った旧道わきで、カーターの車が発見された。車があったのはそびえ立つ楡《にれ》の木立のなかで、そこはカーター家のいまひとりの人物が一七八一年に謎めいた失踪をなした場所に近く、またそれより古くは、魔女のファウラーが凶《まが》まがしい秘法の毒薬をつくっていたという半ば腐朽した小屋から、さほど遠くない場所であった。そのあたりはセイレムの魔女裁判を遁れた人びとが一六九二年に入植した土地で、いまですら、ほとんど思いもよらぬ糢糊《もこ》とした不気味な事象で名をはせている。エドマンド・カーターは〈絞首刑の丘〉の暗い影からあやうく逃げのびたのだが、この男のふるった妖術《ようじゅつ》にまつわる話は枚挙にいとまがない。いまやその唯一の末裔《まつえい》が、希代《きだい》の魔道士と合流するため、いずことも知れぬ場所に行ってしまったかのように思えるほどであった。  乗りすてられていた車のなかに、香木から造られたとおぼしき悍ましい彫刻のほどこされた箱と、何人《なんぴと》にも読めぬ文字の記された羊皮紙とが発見された。銀の鍵はなかった――おそらくカーターが携えていったのだろう。それ以外に確固とした手がかりは何一つとしてなかった。ボストンから来た刑事たちは、カーター家の古い屋敷の廃墟で、倒壊した材木が妙に乱されているようだと報告しており、廃墟の後方に位置する、〈蛇の巣〉と呼ばれて恐れられる洞窟の近く、岩が畝《うね》をなして不気味なまでに木々が鬱蒼《うっそう》と生い茂る斜面で、ハンカチを見つけた者もいた。 〈蛇の巣〉にまつわる地元の伝説が新たに生なましく蒸し返されたのは、それからのことである。そのかみの魔道士エドマンド・カーターが、恐ろしい洞窟を冒涜的《ぼうとくてき》な目的で使用したことにつき、農夫たちは声を潜めて話したし、後にはこれに加えて、ランドルフ・カーター本人が子供の頃、この洞窟をたいそう気にいっていたという、たわいもない話を口にするようにまでなった。カーターが子供の頃には、古さびた駒形切妻屋根をいただく屋敷は、まだ倒壊するにいたっておらず、カーターの大叔父にあたるクリストファーが住んでいた。少年カーターはたびたびそこを訪れては、ことのほか〈蛇の巣〉についてよく話している。カーターが深い裂け目と誰も知らぬ洞窟内の岩窟《いわや》について話していたことが、人びとの記憶に残っており、九歳のときに洞窟のなかで忘れがたい丸一日をすごして以来、そのカーターがさまがわりしてしまったことについて、さまざまな揣摩《しま》憶測《おくそく》がおこなわれたのであった。あれも十月のことだった――カーターはあれ以来、将来のことを予言する薄気味悪い術を備えているようだったではないか、というふうに。  カーターが姿を消した日は夜遅くに雨がふったので、車からつづく足跡をたどることは、まったく誰にもできない相談であった。さらに洞窟の内部は、おびただしく滲出《しんしゅつ》する水によって、一面定まった形とてない泥濘《ぬかるみ》と化していた。ただ無知な農夫たちだけが、楡の巨木が旧道にはりだすところ、そしてハンカチが発見された〈蛇の巣〉近くの薄気味悪い斜面上に、足跡を見つけだしたと思いこみ、そのことを囁《ささや》き声で口にした。ともあれ、ランドルフ・カーターが子供の頃、爪先の角ばった革靴で残したような、短く小さな足跡が残っているなどと取沙汰する風説に、誰が注意をはらうだろう。これはいま一つの噂《うわさ》――ベニアー・コーリイ老独特の踵《ヒール》のない革靴の跡が、旧道で短い小さな足跡と交わっているという噂――と同じく、たわけた考えであった。ベニアー老はランドルフ・カーターが子供の頃にカーター家で雇われていた男で、既に三十年まえに亡くなっている。  数多くの神秘学の研究家たちは、失踪《しっそう》した人物が実は時間をさかのぼり、四十五年の歳月をよぎって、子供の頃に〈蛇の巣〉ですごした一八八三年のいま一つの十月のあの日にもどったのだと、さかんに明言したものだが、彼らにそう主張させる原因となったのは、こうした風説――それに加えて奇妙なアラベスク模様のほどこされた銀の鍵が、失われた幼年時代の門を開けるのに役立つという、カーター自身のパークスをはじめとする人びとに対しての発言――であったにちがいない。そして彼らは、あの夜洞窟から出たとき、カーターがどのようにしてか一九二八年に行ってもどってきたのだと主張した。だからこそ、それ以後に起こることになるものをカーターは何も知らなかったのではないか、と。しかしそのカーターは、一九二八年以後に起こるものを口にしたことはなかった。  ある研究家――カーターと長いあいだ親密な文通をたのしんでいたロード・アイランド州プロヴィデンスの初老の変わり者――は、さらに念のいった自説をたて、カーターがただ幼年時代にもどっただけではなく、さらなる解脱に達し、幼年時代の夢という光彩陸離たる追想のなかを自在に歩きまわっているのだと考えた。この人物は奇妙な夢想に導かれるまま、カーターの失踪を物語にしたてて発表したのだが、この物語のなかでは、顎鬚《あごひげ》をはやし鰭《ひれ》をもつノオリ族が奇怪な迷宮を造りあげているという黄昏《たそがれ》の海を見はるかす、なかがうつろなガラスでできた崖の頂に広がる小塔建ちならぶ伝説の邑《まち》、イレク=ヴァドの蛋白石《たんぱくせき》の玉座で、姿を消した男がいま王として君臨しているとほのめかされている。  カーターの財産を相続人たち――近親者はひとりとしていない――に分与することに対し、カーターがなおも別の時空で生きており、いつもどってくるやもしれぬとして、ひときわ声を高くあげて異議を唱えたのが、この年老いた人物、ウォード・フィリップスであった。ウォード・フィリップスに法律家としての才能をひけらかして対抗したのが、カーターの遠戚にあたるシカゴのアーニスト・K・アスピンウォールで、カーターより十歳年長でありながら、法的なこととなると若者のように激烈な論争をおこなう人物である。四年間にわたって激しい論争がくりひろげられていたが、いままさに財産分与の問題に結着をつけるときが訪れ、ニューオリンズの広びろとした異様な部屋が、その調停の場になろうとしていた。  これはカーターの著作と財産の管理人――神秘学と東洋の古器物の著名な研究家であるクリオール人のエティエンヌ=ローラン・ド・マリニー――の住居だった。カーターがド・マリニーと出会ったのは、大戦中ふたりともにフランスの外人部隊にいたときのことで、好みや考えかたがよく似ていることから、たちまち肝胆相照らす仲になったのである。ふたりそろって許された忘れがたい休暇のあいだに、学識豊かな若きクリオール人がボストンの夢想家をフランス南部のバヨンヌに連れていき、悠久の歳月が鬱積《うつせき》する、その街の地下にある常闇《とこやみ》につつまれた蒼枯たる納骨所で、ある種の恐ろしい秘密を見せたとき、ふたりの友情は永遠のものとなった。カーターの遺言はその執行者としてド・マリニーの名をあげており、指名されたその篤実《とくじつ》な碩学は、いましもいたしかたなく財産処分をあつかう会議を主宰していた。ド・マリニーにとっては悲しい仕事であった。年老いたロード・アイランドの神秘家と同様、カーターが死んだとは思っていなかったからである。しかし俗世間の厳格な分別というものに対して、神秘家の願望にどれほどの重みがあろう。  古びたフランス人地区のその異様な部屋では、財産分与のやり方に少なからず関心のある人物が、テーブルをとりかこんでいた。カーターの遺産相続人が住んでいると思われる地域では、協議がおこなわれる旨のおなじみの公示が地元の新聞に掲載されていたが、この世のものならぬ時を刻む棺形の時計がたてる異常な音、そして半ばカーテンのひかれた扇窓の彼方、中庭で噴水があげる水音に耳をかたむける者は、わずか四名を数えるのみであった。いたずらに時がすぎゆくにつれ、その四人の顔は、鼎から渦を巻いてたちのぼる烟に半ば覆い隠されていたが、無頓着に石炭をくべられる鼎はといえば、音もなくすべるように動き、いやましに神経をはりつめている年老いたネグロの世話など、もはやさほど必要としなくなっているように思われた。  体つきはほっそりして、髪は黒っぽく、男らしい魅力的な顔つき、口髭をたくわえた、まだ若わかしいエティエンヌ・ド・マリニーその人がいた。遺産相続人を代表するアスピンウォールは、髪も白く、卒中をおこしそうな顔つきで、長い頬髯《ほおひげ》をはやし、恰幅《かっぷく》がいい。プロヴィデンスの神秘家フィリップスは、やせさらばえ、髪には白いものがまじり、鼻が長く、髭はきれいにあたっており、猫背であった。四番目の人物は年齢が定かでない――やせていて、黒っぽい顎鬚《あごひげ》をたくわえ、きわめて整った顔立ながら異常なほど無表情で、カーストの最高位である波羅門《バラモン》を示すターバンを頭に巻き、顔のはるかな奥から見つめるような、ほとんど虹彩のない、夜のように黒い炯々《けいけい》たる目をしている。この人物は伝えるべき重要な知らせをもっているベナレスの達人《アデプト》、チャンドラプトゥラ師であると名告《なの》っていた。ド・マリニーとフィリップスはいずれも――チャンドラプトゥラ師と文通しており――神秘家としての師のかまえがまさしく本物であることを、ただちに見てとった。師のしゃべり方は妙につくりものめいた、うつろで金属的な性質をおびたものであり、さながら英語で話すことが発声器官に負担をかけているかのようであったが、口にする言葉は生まれついてのアングロサクソン人のごとく、なめらか正確であり、英語らしい英語にほかならなかった。全般的な装いの面では、ごくあたりまえなヨーロッパの市民でありながらも、だぶだぶの衣服があまりにも体にしっくりしていない一方、ふさふさした黒い顎鬚、東洋のターバン、大きな白い二叉手袋が、異国の奇態という雰囲気をかもしだしていた。  カーターの車のなかで発見された羊皮紙をもてあそびながら、ド・マリニーがいった。 「いえ、この羊皮紙からは何もわかりませんでした。ここにいらっしゃるフィリップスさんも、解読をあきらめています。チャーチウォード大佐はナアカル語ではないと言明しておりますし、例のイースター島の戦闘用棍棒に刻まれている象形文字とも、まるで似ておりません。しかしあの箱に刻まれていたものは、ことのほかイースター島の像を思いおこさせます。この羊皮紙に記されている文字について、わたしに思いだせる一番近いものは――すべての文字が横線からたれさがっているように思える点に注意してください――いまは亡きハーリイ・ウォーランが以前所有していた書物に記されていた文字です。その書物は、カーターとわたしが一九一九年にハーリイ・ウォーランを訪れたときに、インドから届いたもので、ウォーランは何もいってくれませんでした――知らぬにこしたことはないのだといって、もともと地球以外の場所からもたらされたものかもしれないとほのめかすだけだったのです。ウォーランは去る十二月に、あの古さびた墓地の地下納骨所におりていくとき、その書物を携えていき――そしてウォーランもその書物も、ふたたび地上にあらわれることはありませんでした。先だって、わたしはここに同席する友人――チャンドラプトゥラ師――に、記憶を基にその書物の文字をざっと書き記したものを、カーターの羊皮紙の複写とあわせてお送りしております。特定の書物を参照したり専門家の意見を求めたりすれば、解決の光明が投げかけられるかもしれないと、師はお思いなのです。 「しかし鍵については――カーターがその写真を送ってくれておりますが――奇妙なアラベスク模様は文字ではなく、羊皮紙と同じ伝統文化に属するもののように思われます。カーターは常づね、もうすこしで謎が解けそうだといっておりましたが、詳しいことは何も話してくれませんでした。一度などは、こうしたことのすべてについて、ほとんど詩人はだしになったこともあります。カーターによれば、あの古めかしい銀の鍵は、〈境界〉そのものへと時空の緊密な回廊を自由に進むのをさまたげる、連綿とつづく扉を開けるものだということです。その〈境界〉というのは、シャダッドが恐るべき鬼神とともに千柱の邑《まち》アイレムの浩大な円蓋《えんがい》建築物と無数の光塔を築き、それをアラビアはペトラの砂漠のなかに隠して以来、何人も踏み越えたことはありません。飢え死にしかかった熱狂派修道僧、そして渇きに狂う遊牧民がたちもどり、アイレムの堂々たる正門のこと、迫持《せりもち》の要石の上に彫刻された手のことを告げてはいるが、正門を抜けてからひきかえし、石榴石《ざくろいし》の散らばる砂中に残る足跡が、その地を訪れた証であると主張した者はひとりとしていない――カーターはそう記しております。カーターの推測によれば、鍵は彫刻された巨大な手が、むなしくつかもうとしているものなのです。 「どうしてカーターが鍵とともに羊皮紙をもっていかなかったのか、こればかりはうかがいようもありません。おそらく忘れたのでしょう――あるいは、同じような文字の記された書物をもったまま、地下納骨所に入りこんでふたたびもどることのなかった人物を思いだし、もっていくことをひかえたのかもしれません。それとも、カーターがおこなおうと願っていたことに対して、実際には不用のものだったかもしれないでしょう」  ド・マリニーが口をつぐむと、年老いたフィリップス氏が耳ざわりな甲高い声でいった。 「わたしどもは夢を見ることでしか、ランドルフ・カーターがさまよっていることがわからないのです。かくいうわたしは夢のなかで数多くの神秘な場所に行っておりますし、スカイ河の彼方のウルタールでは、奇異なことやいわくありげなことを耳にしております。どうやら羊皮紙は必要なものではなかったのでしょうな。いかにもカーターは、子供の頃の夢の世界にふたたび入りこみ、いまはイレク=ヴァドの王になっているのですから」  アスピンウォール氏はますます卒中をおこしそうな顔つきをして、吐きすてるようにいった。「この老いぼれの抜け作を誰か黙らせることはできんのか。こんな呆《ほう》けたたわごとはもうたくさんだ。問題は財産分与のことなのだから、そろそろとりかかったらどうなのだ」  はじめてチャンドラプトゥラ師が妙に異質な声でしゃべった。 「みなさん、本件はみなさんが考えてらっしゃる程度のものではありません。アスピンウォールさんも夢という証拠を笑わぬほうがよろしいでしょう。フィリップスさんは不完全に見てらっしゃる――おそらく十分に夢を見ておらぬからでしょう。わたし自身大いに夢を見ております。インドにいる者は、カーター家の人びとがしたと思われているようなことをのこらず、常におこなっておるのです。アスピンウォールさん、あなたは母方のご親戚でいらっしゃるから、当然カーター家のお人ではないのですよ。わたし自身の夢、そして別の源からのある種の情報が、あなたがたにはまだぼんやりとしか見えていないものを、ふんだんに語りかけてくれております。たとえばランドルフ・カーターは解読できなかった羊皮紙を、単に失念してしまっただけなのです――さりとて忘れず携えていったなら、カーターにとってはよかったでしょうな。このように、四年まえのあの十月七日の日没時に、銀の鍵をもって車を離れてから、カーターの身に何がおこったかについて、わたしは実に多くのことをつきとめているのです」  アスピンウォールははっきり聞きとれるほどせせら笑ったが、ほかの者は好気心をつのらせていた。鼎《かなえ》からたちのぼる烟《けむり》の量が増し、あの棺形の時計のたてる狂おしい音が、何やらん外宇宙から届く異界的で不可解な電文の短点《ドット》や長符《ダッシュ》を思わせる、奇怪なパターンをとりはじめたようだった。ヒンドゥ人が椅子にゆったり背をあずけ、目を半ば閉じて、あの妙に不自然な発声でありながら、それでいて流暢《りゅうちょう》な語り口でしゃべりつづけると、耳をかたむける者たちの眼前に、ランドルフ・カーターの身におこったことを髣髴《ほうふつ》とさせる情景がうかびはじめたのであった。         2    アーカムの背後に広がる丘陵という丘陵は怪異な魔力に満ちみちている――あるいはそのかみの魔道士エドマンド・カーターが、一六九二年にセイレムからその地に逃げこんださい、星ぼしから呼びおろしたもの、地下の窖《あなぐら》から呼びあげたものに満ちているのだろう。ランドルフ・カーターはそうした丘陵地帯の只中《ただなか》にもどるや、大胆不敵で人に忌み嫌われる、異質な心をもつごくわずかな者によって、この世と外なる窮極の世界をへだてる巨大な壁が吹き飛ばされている、そうした通路の一つに自分が接近していることを知った。あの信じられぬほど古めかしい曇った銀の鍵のアラベスク模様を、数ヵ月まえに解読して知りえたことを、今日こそここで首尾よく実行に移せるのだ、とカーターは思った。いまではカーターも、鍵をどのようにまわさねばならないのか、夕日にむかってどのように掲げねばならないのか、そして九回目の最後の回転《ひねり》をおこなうとき、虚空にむかってどのような呪文を唱えねばならないのかを、十分に心得ていた。このような黯黒《あんこく》の極性である誘発された通路に接近する場所にいれば、鍵がその本来の機能をはたせないわけがない。その夜カーターはまちがいなく、失ったことをたえず嘆きつづけていた幼年期のなかで憩《いこ》えるはずだった。  カーターは鍵をポケットにいれて車からおりると、登り坂を歩き、その奥へ深く深くわけいり、まがりくねる道、蔓《つる》のからまる石垣、黒ぐろとした森林、捨ておかれて荒れ放題の果樹園、窓の破れた無人の農家、そして名前とてない廃墟からなる、あの凄涼感《せいりょうかん》漂う怪しく鬱屈《うっくつ》とした地域の、影濃い中心部に入りこんでいった。日没時に、遙かキングスポートの尖《とが》り屋根の群が薔薇《ばら》色の光に輝いたとき、カーターは鍵をとりだし、必要な回転《ひねり》をくわえて呪文を唱えた。その儀式がどれほど早く効果をあらわしたかをはっきり自覚したのは、すこししてからのことだった。  やがて深まりゆく夕闇のなか、カーターは過去からの声を耳にしていた。大叔父の使用人、ベニアー・コーリイ老の声だった。ベニアー老は三十年まえに死んだはずではなかったか。いや、いつを思っての三十年まえなのだ。時間とは何か。そもそもいままでどこにいたのだ。一八八三年の今日十月七日にベニアーに呼びかけられることが、なにゆえ奇異に感じられるのか。マーサ叔母に外へ出ないよういわれてから、そのあとで家の外に出たのではなかったか。小さな望遠鏡――二ヵ月まえの九つの誕生日に父からもらった望遠鏡――が入っているはずなのに、ブラウスのポケットにあるこの鍵は、いったい何だろう。家の屋根裏部屋で見つけでもしたのか。丘の〈蛇の巣〉のさらになか、あの岩窟《いわや》の奥で、鋭い目をもっていればこそ見いだした、鋭い角を見せる岩の只中の神秘的な塔門を、はたして開けるものなのだろうか。そこは不断にあの魔道士エドマンド・カーターと結びつけて考えられる場所だ。そこへ行く者などいないし、ましてや塔門のあるあの黒ぐろとした広い岩窟に気づき、根のからまる裂け目をそこまで体をくねらせて進んだ者が、自分以外にいるはずもない。天然の岩石からあの塔門らしきものを彫りあげたのは、いったい何者なのか。魔道士エドマンド・カーターか――あるいはエドマンド・カーターが招喚して命令をくだしたものどもなのか。その夕べ、幼いランドルフは古びた駒形切妻屋根の屋敷で、クリス叔父とマーサ叔母とともに夕食をとったのだった。  翌朝、ランドルフ・カーターは早く起きると、枝のねじれるリンゴ園を抜け、滋養分をたっぷりとって怒張するグロテスクな樫の木々の只中、〈蛇の巣〉が禁断の黒ぐろとした口を密やかに開けている、鬱蒼とした林に足をのばした。いいようもない期待感に胸をときめかせるまま、銀の鍵が無事にあることを確かめるためブラウスのポケットをまさぐりながら、ハンカチを落としたことに気づきもしなかった。カーターは気をはりつめ、大胆な確信をもち、居間からとってきたマッチで前方を照らしながら、暗い穴にもぐりこんだ。つぎの瞬間、その奥の根のからみあう裂け目を身をよじって抜け、つきあたりの岩壁が意識的に巨大な塔門に形造られているよう半ば思える、広大な未知の岩窟にいた。水をにじませるじめじめしたその岩壁をまえにして、カーターは畏怖《いふ》の念にうたれ無言で立ちつくし、マッチを次つぎにすってはじっと見つめた。迫持らしきものの要石の上に突き出す石のふくらみは、実際に彫刻された巨大な手なのか。やがてカーターは銀の鍵をとりだし、どこで得たのかはぼんやりと思いだすことしかできないものの、確かに知っている鍵の動かし方と呪文の唱え方を実行にうつしてみた。何か忘れてはいないか。カーターにわかっているのは、何物の拘束もうけない夢の土地、そしてあらゆる次元が絶対窮極のなかで溶けこんでいる深淵へむかい、障壁をのりこえたいという切実な願いだけだった。         3    そのときおこったことはとても言葉ではあらわせない。覚醒時の人生では存在する余地さえないものの、限定された因果律と三次元の論法に基づく、偏狭、厳格、客観的な世界に立ち返るまで、現実の人生より奔放な夢にみなぎり、当然のものとしてうけとめられているような、そういう矛盾、逆説、変則性に満ちみちていた。ヒンドゥ人は話をつづけながらも――歳月をさかのぼって幼年期にもどるという考えを凌駕《りょうが》するものでさえありながらも――軽佻浮薄《けいちょうふはく》なたわごとのきらいがあると思われるのを避けるため、苦心|惨憺《さんたん》していた。アスピンウォール氏はうんざりして卒中の発作のように鼻を鳴らし、事実耳をかたむけるのをやめてしまった。  というのも、洞窟内のあの黒ぐろとした不気味な岩窟で、ランドルフ・カーターがとりおこなった銀の鍵の儀式は、むなしいものとはならなかったからである。鍵に最初の回転《ひねり》を加え最初の呪文を一言口にしたときから、予想外の荘厳な変化がおころうとする感じが歴然としたものになった――それは時間と空間のうちに途方もない変動と混乱がおこっているという感じでありながら、われわれが運動や持続として認識しているものは、その気配さえはらんでいないものだった。いつのまにか時代とか位置とかいったものが、もはや何の意味ももたないものになってしまっていた。前日、ランドルフ・カーターは摩訶《まか》不思議にも時の深淵を跳び越えていた。そしていまは子供と大人のあいだに何の差異もなかった。これまでに得ている現世の情景や状況との関係をことごとく失ってしまった、ある種のイメージだけをたくわえる、ランドルフ・カーターの実体が存在するばかりだった。一瞬まえには、奥の岩壁に途方もない大きさの迫持と、彫刻された巨大な手をおぼろげにほのめかす、洞窟内の岩窟が存在した。それがいまや岩窟が存在するとも存在しないともいいきれない。岩壁が存在するとも存在しないともいいきれない。[#?]脳のなかの思考のように、視覚的ではない印象のたえまない変化があるばかりで、その只中では、ランドルフ・カーターにほかならない実体が、自らの精神に去来するもののすべてを知覚、というよりも銘記していたが、どのようにして印象をうけとっているかについて、明確な自覚はまるでなかった。  カーターも儀式が終わるころには、自分のいるのが地球の地理学者には明言できない場所、歴史上特定できない時代であることを知っていた。いましもおこっているものの性質が、必ずしも馴染《なじみ》のないものではなかったからだ。こうしたことをほのめかしているものが謎めいた『ナコト写本』の断片中にあったし、狂えるアラブ人、アブドゥル・アルハザードの禁断の書『ネクロノミコン』にいたっては、その一章がそっくり、銀の鍵に刻まれた模様を解読したとき、にわかに意味をもつようになっていた。一つの門が開かれたのだ――しかし開かれたのは実は〈窮極の門〉ではなく、地球と時間そのものから、時間を超越する地球の延長部に通じる門の一つにすぎず、さらにいえば、この地球の延長部から、〈窮極の門〉が恐ろしくも危険をはらみながら、あらゆる大地、あらゆる宇宙、あらゆる物質を超越する、〈最極《いやはて》の空虚〉に通じているのだ。 〈導くもの〉がいるはずだった――それもきわめて恐ろしい〈導くもの〉が。人間が夢に見たこともない何百万年もまえ、いまは忘れ去られた異様な姿の種族が蒸気を発する惑星上を闊歩《かっぽ》して、朽ちゆく最後の廃墟の只中で最初の哺乳類《ほにゅうるい》が戯れることになるのも知らぬまま、異様な都市を築いていた数百万年まえ、そんな頃から〈導くもの〉は地球上の実体だった。恐るべき『ネクロノミコン』がその〈導くもの〉について、困惑するほどに漠然とほのめかしていたことを、カーターは思いだした。狂えるアラブ人はこう記している。   [#ここから2字下げ] 敢《あ》えて〈帷《とばり》〉の彼方を窺《うかが》わんとて、〈彼のもの〉を導くものとなす輩《やから》ありけるも、〈彼のもの〉との交わり控えるが賢明なるべし。何となれば、〈帷〉の彼方を一瞥するだに実《げ》に恐ろしきこと、『トートの書』に誌《しる》されたればなり。境界《さかい》を越ゆる者絶えて戻らぬ所以《ゆえん》は、吾等が世界の彼方なる縹緲《ひょうびょう》たる虚空にて、吾等を掴《つか》み縛むる闇のものどもあればなり。夜を徘徊《はいかい》するもの、〈古《いにしえ》の印〉を侮《あなど》る邪悪のもの、なべての墓に備わるという深秘の穴をたたずみて眺むるものども、葬られし亡骸《なきがら》より生まれいずるを喰《くら》いしものども――かかる幽冥《ゆうめい》のものどもを悉《ことごと》く凌駕するは、〈道〉を固《かた》むる〈彼のもの〉なり。軽率なる者をなべての世界の彼方、名状しがたき貪《むさぼ》り喰うものどもの〈奈落〉に導きこむ〈彼のもの〉なりける。すなわち〈彼のもの〉こそウムル・アト=タウィル[#「ウムル・アト=タウィル」太字]にして、写字者により延命せられしもの[#「延命せられしもの」太字]とあらわさるる〈古ぶるしきもの〉なれば。 [#ここで字下げ終わり]    記憶と想像とが、騒然とした混沌の只中で、あやふやな輪郭をもつ茫乎《ぼうこ》とした心象らしきものをつくりだしたが、カーターはそれが記憶と想像に基づくものでしかないことを知っていた。しかし意識のなかにこうしたものをつくりあげているのが偶然ではなく、それよりはむしろ、自分をつつみこんで、自分に把握できるただの象徴におのずから変質しようとする、次元を超越した表現しようのない、何か渺茫《びょうぼう》たる現実であることを感じとっていた。地球上のどのような精神であれ、人間に知られる時間と空間を超越する歪《ゆが》んだ深淵《しんえん》で織りまざる存在形態の範囲など、把握できるはずもない。  眼前に壮観な情景や形状が雲のように漂い、カーターはどういうものか、それらを地球原初の忘れ去られた永劫の太古に結びつけた。化けものじみた生物が、およそ健全な夢にあらわれるはずもない、奇怪な細工物めいた景観のなかをゆったりと動き、景色という景色は信じがたい植物、崖、山、人間の様式とは異なる石造建築物を擁していた。海底に都市があり、そこに棲《す》むものがいた。広大な砂漠には塔があり、そこでは球形をしたもの、円筒形をしたもの、さらには名状しがたい有翼の生物が、猛烈な勢いで、あるいは空に飛びあがり、あるいは空からおりたっていた。こうしたものすべてをカーターは理解したが、そのイメージはたがいに確固とした関係をもっておらず、ましてやカーター自身とは何の関係もなかった。カーター自身定まった姿や位置をもっておらず、ひきもきらずに生じる心象がもたらすような、転変やむことのない姿と位置の気配があるばかりだった。  カーターは幼年期の夢で見た魅惑つきせぬ領域を見いだしたいと願っていたのだった。トゥーランの金色《こんじき》まばゆい尖塔《せんとう》をあとに、ガレー船がオウクラノス河をのぼり、月のもとで美しく安らかな眠りにつく縞《しま》模様の象牙の柱立ちならぶ忘れ去られた宮殿の彼方、クレドのかぐわしいジャングルを、象の隊商が大地をゆるがせながら突き進む領域である。そのカーターがいまは、さらに範囲の広がった幻視に酔いしれて、自分が探し求めているものもほとんどわからないありさまだった。果しない冒涜的な思いが敢然と心にわきおこるまま、おびえもなく恐るべき〈導くもの〉に直面したあげく、驚愕《きょうがく》の慄然《りつぜん》たる問いを発することになるだろうと思い知った。  たちまち壮観な印象のすべてが、一種|朦朧《もうろう》とした安定化の段階に達したように思えた。この世のものならぬ理解を絶する意匠に刻みぬかれ、何か未知のさかしまの幾何学法則にしたがって配置されているような、そびえたつ石の巨大な集合体がいくつもあった。何色ともつかぬ空から、面妖《めんよう》な相矛盾する角度で光がさしいり、巨大な台座が曲線を描いてならんでいると思えるところで揺らめいているさまは、光に知覚力があるのではないかと思えるほどだった。象形文字の刻まれた巨大な台座はことごとく、やや六角形に近く、衣服にすっぽり身をつつむ異形のものがのっている。  台座にのらず、おぼめく床のような下層をすべっているか漂っているように思える、別の姿もあった。それはまだ輪郭がはっきり定まっていないとはいえ、人間の姿にわずかに先行あるいは類似することをかすかにほのめかすものを備えていた。もっともその大きさは普通の人間の半分ほどだった。台座にのっている異形のものたちと同じく、何か判然としないおぼめく色の織物で、すっぽり身を覆っているらしく、カーターは覗《のぞ》き穴から見つめているかもしれないと思ったが、つきとめることはできなかった。おそらく見る必要もないのだろう。組織や機能の面で、単なる肉体を遙かに超越する種族に属するもののように思えるのだから。  一瞬の後、カーターは自分の思ったとおりであることを知った。〈異形のもの〉が、音声も言語もなしに、カーターの心に話しかけていたからだ。〈異形のもの〉が伝えた名前は竦然《しょうぜん》たる恐ろしいものだったが、ランドルフ・カーターが恐怖にすぐみあがることはなかった。そうするかわりに、同じく音声も言語も介さずに伝え返し、恐るべき『ネクロノミコン』が教示している敬意を表した。それというのもこの異形のものは、ロマール大陸が海底より隆起し、〈猛燎《もうりょう》たる霧の末裔《まつえい》〉が地球に到来して〈往古の知識〉を人間に教えて以来、全世界が恐れている存在にほかならなかったからである。まさしく恐るべき〈導くもの〉にして〈門を護《まも》るもの〉――写字者によって延命せられしもの[#「延命せられしもの」太字]とあらわされる古のものウムル・アト=タウィル[#「ウムル・アト=タウィル」太字]――にほかならなかった。 〈導くもの〉はなべてのことを知るごとく、カーターの探求と到来はもちろん、この夢と秘密を探し求める者が、恐れもせずにまえに立っていることも知っていた。一方カーターはといえば、〈導くもの〉が放射するものに恐怖も悪意もまったく感じられないので、狂えるアラブ人の恐ろしくも冒涜的なほのめかしの数かずが、いままさになされようとしていることをおのれもなしたかったという、挫折《ざせつ》した願望と妬《ねた》みから発しているのではないかと、つかのま怪しんだ。あるいは〈導くもの〉がその恐怖と悪意をあらわにするのは、恐れおののく者に対してだけなのかもしれない。放射がつづくなか、カーターはようやく放射を言葉の形で解釈した。 「いかにもわれは〈古ぶるしきもの〉なり」〈導くもの〉がいった。「そのことは知っていよう。われらはおまえを待っていた――古のものどもとわれは。長い遅れがあったとはいえ、おまえを歓迎しよう。おまえは鍵をもち、〈第一の門〉を開け放った。いまや〈窮極の門〉がおまえの試練を用意している。恐れるなら、進む必要はない。つつがなく来た道をまだひきかえすこともできる。しかし進むことを選ぶのなら……」  この中断は不気味だったが、放射そのものは友好的でありつづけた。カーターは熱烈な好奇心にあおりたてられ、一瞬もためらわなかった。 「進みます」カーターが放射で伝え返した。「そしてあなたを〈導くもの〉としてうけいれます」 〈導くもの〉はこの返答に対して、腕あるいは腕に相応する器官をもちあげることをしたかどうかは定かでないが、身をつつみこむ衣服を動かすことで合図をしたようだった。それにつづいて第二の合図がなされ、カーターは熟知している伝承から、ついに〈窮極の門〉の間近まで接近していることを知った。いまや光はまた別の不可解な色に変わっており、擬似六角形の台座にいる異形のものどもがさらに明瞭度を増した。異形のものどもが一段と上体をのばすにつれ、その輪郭が一層人間に似たものになったのだが、カーターは彼らが人間ではありえないことを知っていた。いましも彼らの衣服に覆われた頭の上には、韃靼《だったん》地方の崔嵬《さいかい》たる禁断の山の絶壁に忘れ去られた彫刻家が刻みこんだという、名もない彫刻の群がその頭にいただいているものを妙に連想させる、色の判然としない丈高い司教冠が、おちついているようだった。そして衣服が織りなす襞《ひだ》につかまれているのは長い笏《しゃく》で、彫刻のほどこされたその頭部はグロテスクで古ぶるしい神秘を象《かたど》っていた。  彼らが何者で、どこから来て、誰に仕えているのかと、カーターは思いをめぐらした。そしてまた、彼らが何を見返りに仕えているのかと。しかし敢然と運にまかせて進みさえすれば、すべてがわかることになるのだから、いまはわからずともそれで満足した。いまいましいというのは、全盲の身を恨むあまり、片目であれ目の見える者を誰かれなしに非難してしまう、そういう輩《やから》が吐き散らす言葉にほかならない。そしてカーターは、〈古のものども〉が人類に恨みをはらすため永遠《とこしえ》につづく夢から醒《さ》めることができるかのように、〈古のものども〉が悪意ある存在だと口走っている者たちの、そのはなはだしい慢心に、いまさらのように驚いた。まるでマンモスが足をとめ、ミミズに恐ろしい復讐をするようなものではないか。カーターがそんなことを思っていると、やや六角形に近い台座に坐っているもののすべてが、奇妙な彫刻のほどこされた笏をうちふり、カーターに理解できる思念を放って、カーターを迎えていた。 「われらは汝《なんじ》〈古ぶるしきもの〉と、その勇気ある行いにより既にわれらの一員となっている、汝ランドルフ・カーターに敬意を表すものなり」  いまカーターは台座の一つがあいているのを見て、〈古ぶるしきもの〉の仕草から、それが自分に用意されたものであることを知った。台座という台座が、半円でもなく楕円でもなく、放物線でも双曲線でもない、妙な曲線を描いているその列の中央に、他より高いもう一つの台座があることにも、カーターは目敏《めざと》く気づいて、これは〈導くもの〉の玉座なのだろうと思った。動くというか昇るというか、ほとんど描写しようもないやり方で、カーターは自分の席についたが、そうしたとき、〈導くもの〉が既に腰をおろしているのを知った。  しだいに霧が晴れるかのように、〈古ぶるしきもの〉が何かをもっていることが明らかになってきた――衣服に身をつつむ〈一同〉に見せるためであるか、あるいは見せてほしいと求められたかのように、広げられた襞《ひだ》のなかに何らかの物体がつかまれていた。見る角度によってぼんやりと色の変わる、何か金属でできた大きな球体、というよりも球体らしきもので、〈導くもの〉がそれをまえにさしだすと、低い音だという印象を半ば与えるものがあたりに広がりゆき、地球上のいかなるリズムにもしたがってはいないものの、それでいて何らかのリズムをもっているらしい間隔を置いて、調子に強弱がつきはじめた。詠唱を思わせるもの――というよりも人間の想像力が詠唱と解するかもしれないもの――があった。まもなく擬似球体が輝きを増しはじめ、ついには何色ともつかぬさえざえとした明滅する光を放つようになったが、カーターは光の明滅が異界的な詠唱のリズムに同調していることを知った。やがて台座上で司教冠をいただき笏《しゃく》を携えている〈異形のもの〉のすべてが、同じ不可解なリズムにあわせ、かすかだとはいえ奇妙に体を揺らしはじめる一方、擬似球体の光に似た何ともつかぬ霊妙な光を放つ光雲が、彼らの覆い隠された頭のまわりで揺れ動いた。  ヒンドゥ人は話を中断すると、四本の針と象形文字の記された文字盤をもち、地球上で知られるどんなリズムとも異なる狂おしい音をたてる、棺の形をした時計を、興味深そうに見つめた。 「ド・マリニーさん」不意にヒンドゥ人が学識豊かな主人にいった。「全身を覆い隠す〈異形のもの〉が、六角形の台座で詠唱しながら体を揺らした、そのとりわけ異界的なリズムについては、あなたに話す必要はないでしょう。あなたは〈外なる延長部〉を身をもって体験した、もうひとり――いまのアメリカではただひとり――のお方ですからな。あの時計ですが、亡くなったハーリイ・ウォーランがよく口にしていた瑜伽《ゆが》行者から、あなたに贈られたものでしょう。その瑜伽行者は預言者で、悠久の歳月を経たレン高原の秘められた遺産、すなわちイアン=ホーに行き、その恐るべき禁断の邑《まち》からある種のものをもちだした、現存するただひとりの人間だといっておりました。この時計に神秘的な特性がどれほどあるか、ご存じですかな。わたしが夢や書物から得たものが正しいなら、〈第一の門〉について多くを知っていた者たちによって造られたものなのです。それはさておき、話をつづけましょう」そういって、師は話をつづけた。  ついに体の揺れと詠唱を思わせるものがとまり、動きをやめてうなだれる頭部のまわりでは揺らめく光雲も薄れたが、衣服で身を覆い隠す異形のものどもは台座の上で奇妙にまえかがみになってしまった。しかし擬似球体は不可解な光を明滅させつづけた。カーターは、はじめて目にしたときのように、〈古のものども〉が眠りこんでいると思い、自分が来たことで目覚めるまで、彼らはどのような広大無辺の夢を見ていたのだろうかといぶかしんだ。ゆっくりとカーターの心に真実が浸透してきた。この奇態な詠唱の儀式は暗示の一つであり、〈一同〉は〈古ぶるしきもの〉によって詠唱させられ、新しい特殊な眠りに落ちこんだのだ。彼らの夢によって、銀の鍵を通行の徴《しるし》とする〈窮極の門〉が開かれるように。この深い眠りの最奥で、彼らが絶対窮極の外世界の茫洋《ぼうよう》たる宏大さを夢想していること、彼らが自分の存在が要求したものをなしとげてくれることを、カーターは知った。 〈導くもの〉はこの眠りに与《あずか》らなかったが、何か微妙な音声を欠くやり方で、なおも指示を与えているようだった。〈一同〉に夢見させることを望むそのイメージを、教えこもうとしているらしかった。そしてカーターは、〈古のものども〉のそれぞれが指示された想念を思い描くにつれ、自分の人間の目にも見える顕在化の核が生まれるということを知った。〈異形のもの〉すべての夢が一体化したとき、その顕在化がおこり、カーターの求めるもののすべてが、精神集中によって物質化するのだ。カーターはそうしたものを地球上で目にしたことがあった――インドで、車座になって坐る達人《アデプト》たちの投射され組合わされた意志が、一つの思いに触知できる実体をとらせるところを目撃していた。そしてあえて口にする者さえ稀な古さびたアトラアナアトにおいても。 〈窮極の門〉とはどういうものなのか、どのようにして通り抜けることになるのかについて、カーターには判断がつきかねたが、強い期待感がわきおこっていた。一種の肉体をもっていること、運命を決する銀の鍵を手に握っていることを、カーターは意識した。目のまえにそびえたつ石の山が、壁のようななめらかさをもちはじめたようで、目が否応もなくその中心にひき寄せられた。と突然、カーターは〈古ぶるしきもの〉の思念の流れがとまるのを感じとった。カーターはそのときはじめて、精神と肉体の両面に対する、真の沈黙がいかに恐ろしいものであるかを実感した。ついさきほどまでは、広がりある地球延長部のあえかで謎めいた脈動にすぎなかったにせよ、それと気づくほどの何らかのリズムが途切れることなくつづいていたのだが、いまや深淵の闃然《げきぜん》たる沈黙があらゆるものにふりかかったようだった。カーターは肉体をもっているという感じがしているにもかかわらず、呼吸する音さえもなくなってしまい、ウムル・アト=タウィルの擬似球体の輝きまで、石化したように静止して、明滅するのをやめてしまっていた。〈異形のもの〉の頭部のまわりで揺れ動いていたものより明るい、まばゆいほどの光雲が、恐ろしい〈導くもの〉の覆い隠された頭蓋《ずがい》の上で、冷ややかにきらめいていた。  カーターは眩暈《げんうん》に襲われ、見当識を失ったという感じが何千倍にも強まった。不思議な光は漆黒《しっこく》の闇に闇を重ねたような、窮極の黯黒の性質をもっているように思える一方、〈古のものども〉のまわり、その擬似六角形の台座近くに、目眩《めくるめ》くような遼遠《りょうえん》たる距離の広がる気配がたちこめた。やがてカーターは、測り知れない深みに投げいれられ、ぬくもりのある馨《かぐわ》しい波が顔にひたひたとあたるのを感じた。まるで薔薇《ばら》の香のする酷熱の海、泡だつ波が焼きつく真鍮《しんちゅう》の岸に寄せては砕ける酩酊《めいてい》の葡萄酒《ぶどうしゅ》の海に、わが身が浮かんでいるかのようだった。遙か遠くの岸を洗う泡だつ海の茫洋たる広がりを半ば目にしたとき、カーターはこのうえもない恐怖に震えあがった。しかしつかのまの沈黙が破れた――揺れるうねりが物理的な音でも人工的な言葉でもない言語で、カーターに話しかけていた。 「〈真実の人〉は善悪を超越せり」声ではない声が抑揚《よくよう》をつけていった。「〈真実の人〉は〈全にして一なるもの〉のもとに進みたり。〈真実の人〉は〈幻影〉こそ〈唯一無二の現実〉にして、〈物質〉こそ〈大いなる詐欺師〉なることを学びたり」  そしていま、カーターの目が否応もなくひき寄せられていた石組のあの迫高《せりだか》に、カーターが遠い昔、三次元の地球遙かな非現実の地表上、洞窟のなかの岩窟《いわや》で瞥見したと思ったものと寸分たがわぬ、巨大な追持《せりもち》の輪郭があらわれた。カーターは自分が銀の鍵を使っていたことを自覚した――〈内なる門〉を開けたものによく似ている、学んで得たわけではない本能的な儀式にしたがって、銀の鍵を動かしたことを。そしてカーターは、頬《ほお》を洗う薔薇の香に酔いしれる海が、自分の呪文、そして〈古のものども〉が自分の呪文に力を加えた想念の渦動をまえに屈している、堅牢無比の石壁にほかならないことを知った。本能とやみくもな決意になおも導かれながら、カーターはまえへまえへと漂いつづけ、そしてついに〈窮極の門〉を通り抜けた。         4    厖大《ぼうだい》な巨石の石組を抜けるランドルフ・カーターの前進は、星と星のあいだの測り知れない深淵《しんえん》をよぎる目眩《めくるめ》く落下のようだった。カーターは遙かな遠くに、壮麗な神のようなこのうえなく甘い波動を感じ、そのあとは巨大な翼のはためく音を感じとり、地球はおろか太陽系において知られざるものの囀《さえず》りや呟《つぶや》きに似た音の印象を得た。ふりかえってみると、一つの門だけではなく、数多くの門があって、いくつかの門では、記憶にとどめる気にもなれない、〈陋態《ろうたい》のものども〉が怒号しているのが見えた。  するうち突然、カーターは〈陋態のものども〉よりもさらに強烈な恐怖――自分自身に結びついているため遁《のが》れようもない恐怖――を感じた。〈第一の門〉にしても、安定性のいくばくかをカーターから奪い、カーターに自分の肉体の形、そして自分をとり巻くぼんやりしたものとの関係をおぼつかなくさせていたが、カーターの自己一体感を乱すことまではしなかった。カーターはまだランドルフ・カーターであり、次元が沸《わ》き返るなかでの定点だった。それがいまや、〈窮極の門〉を越えたカーターは、激烈な恐怖をおぼえながら一瞬のうちに、自分がひとりの人間ではなく、多数の人間であることを知ったのである。  カーターは同時に多くの場所に存在した。地球で、一八八三年の十月七日、ランドルフ・カーターという少年が、静まり返る夕映《ゆうばえ》のなか、〈蛇の巣〉をあとにして、岩の多い斜面をかけおり、枝のねじれるリンゴ園を抜け、アーカム背後の丘陵地帯にあるクリストファー叔父の家にむかっていた。しかしそれとおなじ瞬間に、どういうわけかこれも地球上で、一九二八年のことだが、ランドルフ・カーターに相違ないぼんやりした影が、次元を超越した地球の延長部において、〈古のものども〉の只中《ただなか》で、台座に腰をおろしていた。〈窮極の門〉の彼方、形とてない知られざる宇宙の深淵にも、三番目のランドルフ・カーターがいた。そして無限の多様性と法外な変化によってカーターを狂気の寸前まで押しやるさまざまな情景が混沌《こんとん》といり乱れるなか、〈窮極の門〉の彼方でいま顕在化している局所的なもののように、カーターが自分であることを知っている存在が、騒然といたるところ無限にあらわれていた。  地球の歴史上、知られていたり推測されていたりするあらゆる時代、そして知識や推測や真疑を超越する地球の実体が支配した劫初《ごうしょ》の時代、そうした時代に属する環境のすべてに、カーターがいた。カーターは、人間であり非人間であり、脊椎《せきつい》動物であり無脊椎動物であり、意識をもつこともありもたないこともあり、動物であり植物であった。さらに、地球上の生命と共通するものをもたず、他の惑星、他の太陽系、他の銀河、他の時空連続体の只中を法外にも動きまわるカーターたちがいた。世界から世界へ、宇宙から宇宙へと漂う、永遠の生命の胞子がいたが、そのすべてが等しくカーター自身だった。瞥見《べっけん》したもののいくつかは、はじめて夢を見るようになったとき以来、長い歳月を経ても記憶にとどめられている夢――おぼろな夢、なまなましい夢、一度かぎりの夢、連続して見た夢――を思いださせた。その一部には、地球上の論理では説明のつけられない、心にとり憑《つ》き、魅惑的でありながら、恐ろしいまでの馴染《なじみ》深さがあった。  これが紛れもない真実であると悟ったとき、ランドルフ・カーターは至高の恐怖にとらわれ、くらめく思いがした――色を失う月のもと、ふたりしてあえて忌み嫌われる古びた埋葬地に入りこみ、ただひとりだけが脱け出した、あの怖気《おぞけ》立つ夜の慄然《りつぜん》たる絶頂でさえほのめかされることもなかったような、このうえもない恐怖だった。いかなる死であれ、運命であれ、苦悩であれ、自己一体感の喪失からわきおこる不二無類の絶望をひきおこせはしない。無に没して消えうせることは安らかな忘却であるにせよ、存在感を意識しながら、その存在というものが他の存在と区別できる明確なものではないこと――もはや自己をもってはいない存在であること――を知るのは、いいようもない苦悶《くもん》と恐怖の極《きわみ》にほかならない。  カーターはボストンにランドルフ・カーターという人間がいたことを知っていたが、自分――〈窮極の門〉の彼方にいる実体の断片もしくは局面――が、かつてそのランドルフ・カーターだったのか、あるいは別の者だったのか、まったく確信がなかった。カーターの自己は滅却されてしまっていた。しかしカーターは――個としての存在が無に帰しながら自分というものが存在しうるとして――うかがい知れないやり方でもって、自分が自己の群と化していることを等しく意識していた。さながら自分の肉体が忽然《こつぜん》として、インドの寺院に彫りこまれた手足と頭を多数備える彫像に変身してしまったかのようで、カーターは困惑しながらも(まったくこのうえもない恐ろしい考えだが)、他の顕在から識別される原型というものが存在するのなら、どれが原型でどれが付加物であるかを見きわめようとして、自分の群を凝視した。  するうち、心も砕けるようなこうした思いにふけっているさなか、門の彼方にいるカーターの断片は、恐怖のどん底と思えたものから、さらに底知れぬ暗澹《あんたん》たる恐怖の窖《あな》へ投げこまれた。今度の恐怖は主に外的なものだった――たちまちカーターに対峙《たいじ》し、カーターをとりかこみ、カーターに浸透する個性の力、その局所的な存在に加えて、カーター自身の一部でありながらも、同様にあらゆる時間と共存しあらゆる空間と重なりあうようにも思える個性の力が、恐怖の源だった。目に見えるイメージこそなかったものの、実体が存在するという感じ、そして局所性、自己一体感、無限性とが組合わさった空恐ろしい想念とが、カーターのどの断片とてそれまで存在しうると思ったことのない、目眩く恐怖を生みだしたのである。  その畏怯《いきょう》の驚異に直面して、擬似カーターは自己が滅却された恐怖も忘れてしまった。それこそ果のない存在と自己の〈一にして全〉、〈全にして一〉の状態にほかならなかった。単に一つの時空連続体に属するものではなく、存在の全的な無限の領域――制限をもたず空想も数学もともに凌駕《りょうが》する最果《いやはて》の絶対領域――その窮極的な生気|汪溢《おういつ》する本質に結びつくものだった。おそらく地球のある種の秘密教団がヨグ=ソトースと囁《ささや》いていたものがそれだろう。これは他の名前を数多くもつ神性であり、ユゴス星の甲殻種族が〈彼方なるもの〉として崇拝し、渦状銀河の薄靄《うすもや》めいた頭脳が表現しようのない印でもって知っている神性である――しかしカーターは瞬時のうちに、こうした考えがいかに浅薄皮相《せんぱくひそう》なものであるかを悟った。  そしていま〈存在〉が、打ちたたき燃えあがり轟《とどろ》くという驚異的な波で、カーター局面に呼びかけていた――その波は、受け手をほとんど耐えられないほどの猛烈さでたたきのめしながらも、〈第一の門〉のむこうのあの面妖《めんよう》な領域で、〈古のものども〉が妙に体を揺らし、不気味な光が明滅した、この世のものならぬリズムに類似する、エネルギーの集中だった。あたかも太陽、世界、宇宙のことごとくが、抑えようのない激しい衝撃でもって消滅させようとした、その空間の一点に収斂《しゅうれん》したかのようだった。しかしその大いなる恐怖の只中で、それより劣る恐怖は消えてしまった。ものみなを焼きつくすその波が、どういうものか、門の彼方のカーターを無限のカーター分身から切り離しているようだったからだ――いわば自己一体感の幻想を、ある程度復活させようとしているらしかった。しばらくすると、聞き手はその波を自分の知る会話形態に翻訳しはじめ、それとともに恐怖感と圧迫感が弱まっていった。はなはだしい恐怖が純粋な畏怖の念に変わり、冒涜的なまでに異常と思えていたものが、いまではいいようもないほど荘厳なものとしか思えなかった。 「ランドルフ・カーターよ」そういっているようだった。「おまえの惑星の延長部でのわたしの顕現である〈古のものども〉は、かつて失ったささやかな夢の土地へ近ぢかもどるとはいえ、大いなる自由を得てさらに偉大崇高な欲望と好奇心に達している者として、おまえを送りこんだのだ。おまえがかつて望んだことは、黄金のオウクラノス河をさかのぼり、蘭《らん》の咲き乱れるクレドの忘れ去られた象牙の都市を探しだすこと、そしておまえの地球やあらゆる物質にとって異質な穹天《そら》に輝くただ一つの赤い星を目指し、巨大な塔や無数の円蓋《えんがい》築物が堂々とそびえたつ、イレク=ヴァドの蛋白石《たんぱくせき》の玉座に君臨することであったな。しかし二つの〈門〉を抜けたいま、おまえはさらに高邁《こうまい》なことを考えている。おまえは幼児のごとく、嫌う光景から愛する夢に逃げだしはせずに、一人前の男のごとく、あらゆる光景あらゆる夢の背後に横たわる、あの最後の深奥の秘密のなかへと、飛びこむことになろう。 「おまえの願うものが善きものであることを知ったからには、わたしはおまえの惑星の生物に十一度のみ許していること――人間あるいは人間に似ている生物には五度のみ許していること――を、もう一度許してやろうと思う。おまえに〈窮極の神秘〉を示し、心弱きものなら吹き飛ばされてしまうものを見せてやる用意がある。しかし秘密のすべてを十二分に見るまえに、おまえはまだ自由な選択権をふるえるのだから、おまえの目のまえでまだ破れていない〈帷《とばり》〉をもつ、二つの〈門〉を抜けてひきかえしてもよいぞ」         5    突然な波の中断によって、カーターは荒蓼《こうりょう》感に満ちる冷ややかな恐ろしい沈黙のなかにとりのこされた。いたるところに空虚の広大無辺の広がりが重くのしかかっている。しかし探求者は〈存在〉がまだそこにいることを知っていた。しばらくすると、カーターは言葉を思い、その精神的な実質を深淵のなかに投げこんだ。「応じます。ひきかえしたりはしません」  波がまた押し寄せ、カーターは〈存在〉に聞こえたことを知った。たちまち無限に広がるその〈精神〉から、知識と説明がおびただしく流出して、探求者に新しい展望を開くとともに、探求者が願ったこととてないような、宇宙を理解する力をもつ心構えをさせた。三次元の世界の観念がいかに幼稚で制限されたものであるか、上下、前後、左右という既知の方向以外に、いかに多様な方向があるかを、カーターは教えられた。そして地球の小神たちの矮小《わいしょう》さと見かけだおしの空虚さを、その人間じみた卑しい好奇心と情交とともに示された――地球の小神たちの憎しみ、怒り、愛、虚栄を、また賛美と生贄《いけにえ》を求める欲求を、そして理性と自然に反する信仰を求める要求とを示された。  そうした印象のほとんどがおのずからカーターに言葉として翻訳される一方、他の感覚で解釈されるものもあった。おそらく目でもって、そしておそらく想像力でもって、カーターは自分のいまいるのが、人間の目や頭脳では想像すらできない次元の領域であることを知覚した。最初は力の渦動、そしてつぎに限りのない空虚となった、わだかまる影のなか、自分の感覚を麻痺《まひ》させる創造の領域を、カーターはいまこそ目にしていた。カーターは何か想像もつかない優位な位置から、驚異的な形態のものを見おろしていた。その多様な延長部は、神秘の研究に一生をささげているカーターにして、これまで抱いたこともないような、存在、大きさ、範囲という概念のことごとくを超越するものだった。一八八三年にアーカムの農家に少年ランドルフ・カーターが、〈第一の門〉のむこうの擬似六角形の台座に霧のようなものが、無限の深淵でいま〈存在〉に対峙《たいじ》している断片が、そして自分の想像あるいは知覚が心に描く他のカーターのすべてが、同時に存在しうる理由を、カーターはぼんやりと理解しはじめた。  やがて波は強さを増し、カーターの理解を深めようとして、断片となっているいまのカーターを極微の一部とする多形の実体にカーターを復帰させていた。波がカーターに告げた。宇宙のあらゆる形態は――四角が立方体の断面であり円が球の断面であるごとく――一段高い次元の類似する形態の一面が交差した結果にすぎないのだと。三次元の立方体や球は、人間が推測や夢によってしか知ることのない、四次元の類似する形態の断面ということになる。そしてこの形態も五次元の形態の断面であり、こうして次つぎと繰返していけば、原型的な無限の目眩く到達不可能な高みに達することになる。人間や人間の神々の世界は微小なものの微小な局面にしかすぎない――ウムル・アト=タウィルが〈古のものども〉に夢を伝授する、あの〈第一の門〉によって到達できる小さな統一体の、その三次元の局面にすぎないのだ。人間はそれを現実と呼び、その多次元の原型という考えを非現実と決めつけているが、実際にはその逆こそ真なのである。われわれが実体や現実と呼ぶものは影や幻であり、われわれが影や幻と呼ぶものこそ実体であり現実にほかならない。  波は語りつづけた。時間は不動であり、始まりも終わりもない。時間が動きをもち変化の原因になっているのは幻にほかならない。事実をいうなら、時間そのものが実際には幻なのだ。限られた次元にいる生物の狭隘《きょうあい》な視野に対してはともかく、過去、現在、未来というものは存在しないからだ。人間は変化と呼ぶもののゆえにのみ時間を考えるが、変化もまた幻にすぎない。かつてあり、いまあり、将来あると人間が考えるものはすべて、同時に存在するのだ。  こうした啓示は神のような荘厳さでもって伝えられたので、カーターには疑うこともできなかった。啓示されたことがらがほとんどカーターの理解を超えるところにあったとしても、局所的な考え方や狭隘かつ部分的な見解のすべてと著しい対照をなす、あの最終的な宇宙の現実に照らして見れば、真実にちがいないとカーターは思った。もともとカーターは、局所的な概念や部分的な概念の束縛から脱け出せるほど、深遠な思弁には十分に通じていた。そもそも探求のすべてが、局所的なものや部分的なものは非現実だという信念に基づいていたのではなかったのか。  強い印象を与える中断の後、波がまた伝えつづけた。低次元の領域に住むものたちが変化と呼ぶものは、外世界をさまざまな宇宙的角度から見る、彼らの意識の働きにすぎない。円錐《えんすい》を切断して生じる〈形〉が、切断する角度によってさまざまに異なって見えるように、つまり円錐自体には何の変化もないまま、切断する角度に応じて円、楕円《だえん》、放物線、双曲線が生じるように、不変かつ無限である現実の局面は、それを見る宇宙角度によって変化するように見える。このさまざまな意識の角度に対して、内世界の劣弱な種族は、ごく稀《まれ》な例外をのぞいて、意識を支配する方法を学べないゆえに隷従している。禁断のものを学びとったごくわずかな者だけが、これを支配する方法を漠然と知り、時間と変化を征服しているのである。しかし〈門〉の外にいる実体は、すべての角度を支配し、自ら意志するまま、断片的な変化をふくむ展望や、展望を超越した変化のない全体性によって、宇宙の無数の部分をながめるのだ。  波がまた中断したとき、カーターは、最初は自分をあれほどおびえさせた、自己一体感の喪失というあの謎の窮極的な背景を、おののきながらも漠然と理解しはじめた。カーターの直観が啓示の断片を一つにまとめあげ、秘密を把握する段階へ、カーターをすこしずつ近づけた。〈窮極の門〉の開口部で銀の鍵を正確に使えるよう、ウムル・アト=タウィルが魔力でもって押しとどめてくれていなかったなら、〈第一の門〉の内部で既に、恐ろしい啓示の多くが押し寄せて、おびただしい地球の分身のなかにエゴを分裂させていただろう。カーターはそこまで理解した。そしてさらにはっきりした知識を得たく、思考の波を送りだして、自分のさまざまな局面についてもっと正確な関係を知りたいと求めた――いま〈窮極の門〉の彼方にいる断片、〈第一の門〉のむこう擬似六角形の台座にまだいる断片、一八八三年の少年、一九二八年の男、自分の親譲りのものと自我の砦《とりで》を形成しているさまざまな昔の存在、窮極の知覚の最初の悍《おぞ》ましいひらめきによって自分であることがわかった、他の時代、他の世界の名状しがたい住民たちとの正確な関係を。波が返答としてゆっくり押し寄せ、人間の精神にはほとんど理解できないものを明確にしようとした。  波が伝えつづけた。有限の次元に存在する生物の祖先から子孫につづく系統のすべて、そしてこうした生物それぞれの成長段階のすべては、次元を超越する空間における、ただ一つの原型的かつ永遠の存在のあらわれにすぎないのだ。局所的な存在のそれぞれ――息子、父親、祖父等々――と個体のそれぞれの段階――幼児、子供、少年、大人――とは、その同一の原型的かつ永遠の存在が、意識=面の角度によってさまざまに切断されることでひきおこされる、無限の局面の一つにしかすぎない。ランドルフ・カーターはあらゆる時代に存在する。ランドルフ・カーターとその祖先のすべては、人間であれ人間以前のものであれ、地球のものであれ地球以前のものであれ、あらゆる時代に存在するのだ。こうしたものはすべて、時間と空間を超越するただ一つの窮極的かつ永遠の〈カーター〉の局面にすぎない――意識の一面がたまたま永遠の原型を切断する、その角度によってのみ差異が生じる、幻の投影物にすぎないのだから。  角度のわずかな変化が、今日の学徒を昨日の子供に変えてしまえる。ランドルフ・カーターを、一六九二年にセイレムからアーカム背後の丘陵地帯に逃げこんだ、あの魔道士エドマンド・カーターにも、二一六九年に不思議な手段を用いてモンゴル人の群をオーストラリアから撃退する、あのピックマン・カーターにも変えてしまえる。さらに人間のカーターを、原初のヒューペルボリアに棲《す》み、かつてアークトゥルスをまわっていた二重星キタミールから飛来した、黒く可塑《かそ》的な体をもつツァトゥグアを崇拝する、太古の実体の一つにも変えてしまえる。地球のカーターを、遠い祖先にあたる無定形のキタミール星人そのものにも、さらに遠い祖先にあたる超銀河の星ストロンティの生物にも、旧時空連続体に存在する四次元のガス状意識にも、信じられない軌道をもつ暗黒の放射性|彗星《すいせい》における未来の植物頭脳にも変えてしまえる――このように、果しない宇宙のサイクルに存在するものに、いくらでも変えてしまえるのだ。波が伝えつづけた。原型というものは〈窮極の深淵〉に住む存在である――定まった形をもたず、口にするのもはばかれるほど神聖な存在で、低次元の世界では、夢想家がごく稀に推測するにしかすぎない。そうした原型のなかで主要な存在が、いまカーターに情報を伝えているこの〈存在〉なのだ……まさしくカーター自身の原型だった。カーターやカーターの祖先すべてが禁断の宇宙の秘密に飽くなき情熱を燃やしたのも、〈窮極の原型〉から派生している当然の結果にほかならない。あらゆる世界において、偉大な魔道士、偉大な思想家、偉大な芸術家と呼ばれる者はすべて、〈そのもの〉の局面なのだ。  畏怖の念にうたれて呆然《ぼうぜん》とするとともに、一種恐ろしいほどの歓喜をおぼえながら、ランドルフ・カーターの意識は、自らの窮極の本源にあたる、その超越的な〈実体〉に敬意を表した。波がまた中断すると、カーターはその荘厳な沈黙のなかで熟考し、玄妙な賞讃の印となる言葉、さらに玄妙な疑問、なおも玄妙な要求について思いをはせた。奇異な想念がたがいに矛盾しあいながら頭脳に押し寄せ、馴染のない景観、思いがけない開示によって、頭脳がくらめいた。こうした開示がまこと真実として、自分の意識=面の角度を変える魔力をふるえるなら、これまで夢のなかでのみ知っていた、宇宙に存在する果しなく遠い時代や場所のすべてを、肉体を備えたまま訪れられるかもしれない。カーターの頭脳にそんな思いがひらめいた。銀の鍵がその魔力をふるったのではなかったか。まずカーターを一九二八年の大人から一八八三年の少年に、つぎに時間を超越するものに変えたのではなかったか。奇妙なことに、いまは肉体というものがまったくないにもかかわらず、カーターは鍵をまだもっていることを知っていた。  沈黙がなおもつづくなか、ランドルフ・カーターは、自分の心を苦しめる思いと疑問を放射した。カーターは、この窮極の深淵において、自らの原型の局面すべてから――人間であれ人間にあらざるものであれ、地球のものであれ地球以外のものであれ、銀河のものであれ超銀河のものであれ、そのすべてから――自分が等しい距離を置いていることを知っていた。そして自分の存在の他の局面についての好奇心――わけても時空の両面において一九二八年の地球から最も遠い局面や、一生を通じてとりわけ執拗《しつよう》に自分の夢にあらわれていた局面についての好奇心――が燃えあがるように熱くなった。自分の意識=面を変化させることにより、時間と距離を遙かにへだてる自分のいかなる局面にも、自らの原型である〈実体〉が自在に自分を生身の姿で送りこめることを思ったカーターは、数かずの驚異を既に体験しているにもかかわらず、夜の幻視が断片的にもたらしていた、グロテスクで信じがたい光景のなかを生身の姿で歩きまわるという、さらなる驚異を味わいたいと切実に願った。  カーターはこれといった目的もないまま、多彩な五つの太陽、異界的な星座、黒ぐろとして目もくらむような峻嶮《しゅんけん》な岩山、衣服ですっぽり身を隠し貘《ばく》の鼻をもつ住民、不気味な金属製の塔、不可解な隧道《ずいどう》、浮遊する謎めいた円筒といったものが、まどろみのなかに何度も繰返し押しいって来たことのある、おぼめく幻想的な世界に近づきたいと、〈存在〉にうったえかけた。その世界が、およそ考えられる宇宙すべてのなかで、最も自由に他の世界と通じあえるものだと、カーターは漠然と思い、糸口だけを垣間見ていた景観を探検するだけではなく、衣服に身を隠す貘の鼻をもつ住民が旅行しているさらに遠方の世界へと、空間をよぎって乗りだすことを願った。恐怖におびえている時間などなかった。カーターの不思議な人生でいつもそうだったように、純粋な宇宙的好奇心があらゆるものをしのいでいた。  波が荘厳な脈動を再開したとき、カーターは自分の恐ろしい要求がかなえられたことを知った。カーターが通らなければならない黯黒《あんこく》の深淵について、あの異界的な世界がめぐっている思いもよらない銀河の未知の五重星について、そして衣服で身を隠す貘の鼻をもつその世界の種族がやむことなく闘っている潜伏する内的恐怖について、〈存在〉はカーターに告げた。そしてまた、かつてそこに住んでいたカーター局面をその世界に復帰させるため、カーター個人の意識=面の角度と、カーターが目指すその世界の時空要素に関係するカーターの意識=面の角度とを、同時にかたむけなければならないその方法についても、カーターに告げた。  そして〈存在〉がカーターに、自ら選んだ遙かな異質の世界から帰還することを望むのなら、必ずシンボルを確保しておかなければならないと警告すると、カーターはじれったい思いで確約の気持を放射しかえした。なおも自分とともにあり、自分を一八八三年に投げもどすさいに世界=面と個人=面をかたむけてくれたはずの銀の鍵が、〈存在〉の告げるシンボルを備えていることに、確信があったからである。すると〈存在〉はカーターの性急さを理解し、途方もない投下をおこなう準備のできていることを示した。不意に波が中断し、それにひきつづいて、いいようもない慄然《りつぜん》たる期待感に緊張する、つかのまの静寂が訪れた。  そしてまったくだしぬけに、うなりと連打が押し寄せ、恐ろしい轟きにまでなった。またしてもカーターは、いまでは馴染深いものになっている外宇宙のリズムのなかで、耐えがたいまでに激しく打ち、砕き、ひき裂くエネルギー、燃えあがる星の灼熱《しゃくねつ》の熱気とも窮極の深淵のすべてを凍りつかせる冷気ともつかぬ、すさまじいエネルギーが強烈に集中するその焦点に、自分がなっていることを感じとった。われわれの宇宙のどんなスペクトルともまったく異なる、不可解な光の帯や光線が、カーターのまえで乱舞し、ジグザグに進み、交錯するなか、カーターは恐ろしい運動速度を意識した。そして何よりも六角形に似ているおぼめく玉座にただひとり坐っているものを、ほんの一瞬垣間見た……         6    ヒンドゥ人はひと息つくと、食いいるように見つめているド・マリニーとフィリップスに目をむけた。アスピンウォールは見栄をはってテーブル上の書類から目を離さず、話を無視するふりをしていた。棺の形をした時計が時を刻む、その何とも異界的なリズムが、新たに不吉な意味をはらむ一方、かまわれずに消えかかっている鼎《かなえ》からたちのぼる烟《けむり》は、からみあって奇怪かつ神秘的な形をつくりあげていたが、その形と隙間《すきま》風にそよぐ掛布のグロテスクな人物像との組合わせは、いかさま心騒がされるものであった。鼎をかまっていた老いたネグロは姿を消していた――おそらくつのりゆく緊迫感におびえ、邸から逃げだしたのであろう。妙に苦労しながらも、それでいて流暢《りゅうちょう》な、例の語り口で話をまたはじめるとき、弁解するためでもあるかのようなためらいが、話し手を口ごもらせた。 「深淵でおこるこうしたことが信じがたいと思われるでしょうな」ヒンドゥ人がいった。「しかしこれからお話しする、さわることも可能な物質的なもののほうが、さらに信じがたいのです。それがわれわれの精神のうけとりかたというもの。驚異というものは、夢が見せるかもしれない朦朧《もうろう》とした領域から三次元にもちこまれる場合、さらに信じられないものになるものです。このことについて多くは語りますまい――また別のまったくちがう話になりましょうから。わたしはこれから、あなたがたがぜひとも知らねばならないことだけを話すつもりです」  異界的かつ多彩なリズムに満ちるその最後の渦を抜けた後、カーターは、かつてよく見た夢をまた見ているのではないかと一瞬思った。そう思うほどの世界だった。以前よく見た夢のように、カーターは異なった色をもつ太陽の輝きのもと、衣服に身をつつむ貘の鼻をもつ生物にたちまざり、不可解な様式で建てられた建築物がつくりだす、その迷路のような通りを歩いていた。そして視線を落としたとき、自分の体が他の生物と同じようなものになっているのがわかった――皺《しわ》が多く、一部|鱗《うろこ》があり、人間の姿を単純化したような点がなくもないが、もっぱら昆虫を連想させる、妙に関節の多い体だった。銀の鍵はまだ携えていたが、それを握っているのは見るも不快な鉤爪《かぎづめ》だった。  つぎの瞬間、夢を見ているような感じが消え、どちらかというと、夢から目覚めたばかりの者のような感じがした。窮極の深淵……〈存在〉……まだ生まれてもいない未来の世界におけるランドルフ・カーターと呼ばれる不条理かつ法外な種族の実体……こうしたもののいくつかは、惑星ヤディスの魔道士ズカウバが繰返し連続して見る夢の一部だった。あまりにも執拗に夢にあらわれるものだった――恐るべきドール族を窖《あな》に閉じこめておくため、その呪文をつくりだす務《つと》めにもさわりがあるほどで、光線外被で身をつつんで訪れたことのある、無数の現実世界の記憶にたちまざるようにまでなっていた。それがいまではこれまでになかったような擬似現実に化している。右の上部鉤爪にあるこの重い、紛れもない物質である銀の鍵が、夢で見たものと寸分たがわないというのは、いい気持のするものではない。ここはひとまず、休んで思いをめぐらし、どうすべきであるかニンの銘板にうかがいをたてねばならないところだろう。ズカウバはそう思い、本通りをはずれた小路の金属壁をのぼり、自分の居室に入ると、銘板のならぶ棚に近づいた。  一日を分割する単位で七単位がすぎた後、ズカウバは畏怖の念にうたれるとともに、半ば絶望に似た気持をおぼえながら、プリズムの上でうずくまった。真実がこれまで知らなかった矛盾しあう一連の記憶をあらわしたからだった。もはやズカウバには自分が一つの実体であるという安らぎはなかった。すべての時間と空間に対して、ズカウバは二つの存在だった。ヤディス星の魔道士ズカウバは、自分が将来も過去も地球のボストンのランドルフ・カーターであると思い、かつてそうであり、いままたそうなっている鉤爪と貘の鼻を備えたものにおびえて震えあがっている、忌《いま》わしい地球の哺乳《ほにゅう》動物カーターという考えに、胸を悪くした。  師がしわがれた声で話しつづけた――苦労して喉《のど》からだす声に疲労のきざしがあらわれはじめていた。さて、ヤディス星ですごした長い時間単位は、それ自体、短い時間では語りつくせぬ物語になる。ストロンティ星、ムトゥラ星、カス星への旅があり、ヤディス星の生物が光線外被で身をつつむことによって行ける二十八の銀河における他の世界への旅、ヤディス星の魔道士たちの知る銀の鍵をはじめさまざまなシンボルを使っての果しない時を抜ける旅があった。ヤディス星を掘り抜く原初の隧道での、粘液にまみれる青白いドール族との恐ろしい闘いがあった。現存あるいは死滅した一万世界の知識を集積する図書館での、おごそかな集会があった。〈超古代のもの〉ブオの精神もふくめ、ヤディス星の他の精神との緊迫した会議があった。ズカウバは自分の個性にふりかかったことを誰にも話さなかったが、ランドルフ・カーターの局面が優勢になったときには、地球と人間の姿に復帰するため、およそ可能な手段を精力的に研究したり、人間の言語を話すことには適さない異質な喉の器官で、やっきになって人間の言葉を話そうとしたりしたものだ。  カーター局面は、銀の鍵が人間の姿への復帰を実現できないことをすぐに知り、恐怖にわなないた。記憶にあるもの、夢に見たもの、ヤディス星の学問から推測したもの、そういったものから演繹《えんえき》的に推論したのが遅すぎたとはいえ、銀の鍵は地球のヒューペルボリアの産物だったのだ。ただ人間の個人的な意識=角度にだけ力をおよぼせるものだった。しかし惑星の角度を変えて、使用する者をその姿のまま自在に時の彼方に送りこむことができる。かつては銀の鍵に無限の力を与える付加的な呪文があった。しかしこれも人間が発見したものだった――とりわけ空間的に到達不可能な領域にむかって威力を発揮するが、ヤディスの魔道士にはおこなえない。そのことは、銀の鍵とともに奇怪な彫刻のほどこされている箱に入っていた、解読不能の羊皮紙に記されており、カーターはその羊皮紙をもってこなかったことを、苦にがしい思いで後悔した。いまでは近づくこともできない深淵の〈存在〉は、シンボルを確保しておくようにと警告していたのだが、カーターは自分に欠けているものは何もないと思いこんでいたのだった。  時がすぎゆくにつれ、カーターはあの深淵と全能の〈実体〉のもとにもどる方法を見つけようとして、ヤディス星の慄然たる伝承をますますやっきになって役立たせようとした。いまの新しい知識をもってすれば、あの謎めいた羊皮紙を読むにあたってかなりのことができそうだったが、その能力も現在の状況のもとでは皮肉でしかなかった。しかしズカウバ局面が表面にでて、ズカウバが自分を悩ます矛盾するカーター記憶を消し去ろうとするときもあった。このようにして長い歳月が過ぎ去っていった――ヤディス星の生物は途方もない寿命をもっているので、人間の頭脳では把握できないほどの長い歳月だった。ヤディス星が何百回も公転した後、カーター局面はズカウバ局面にとってかわるようになり、膨大な時間を費やして、やがて存在する人間の時代の地球とヤディス星との距離を、時間と空間の両面において算出した。得た数値は途方もないもの――計算も不可能な無量の光年になるもの――だったが、ヤディス星の悠久の学問のおかげで、カーターはそうした数値を把握することができた。つかのま自分自身を地球にむかわせる夢を見る能力をカーターはつちかい、それまで知ることのなかったわれわれの惑星にまつわる多くのことを学びとった。しかしいまはない羊皮紙に記されていた、必要な呪文を夢に見ることはできなかった。  こうしてカーターはついに、ヤディス星から脱け出す途方もない計画をたてた――その計画は、ズカウバの知識と記憶を消滅させることなく、自分のズカウバ局面を常に休眠状態に置いておく薬物を発見したときにはじまった。カーターは自分の計算した数値が、光波外被で身をつつみこむことにより、ヤディス星の生物もかつておこなったことのない旅――いいようもない永劫の歳月と信じられない銀河の空間を抜けて生身の体のまま太陽系そして地球そのものへもどる旅――をおこなわせてくれると思ったのだ。ひとたび地球にもどれば、鉤爪と貘の鼻を備える生物の体をまとっていたところで、アーカムで車のなかに置いたままになっている奇怪な象形文字の記された羊皮紙を、何とか見つけだし、解読作業を完了させることもできるかもしれない。その羊皮紙があれば――そして銀の鍵があれば――地球上の生物の正常な姿をとりもどせるのだ。  カーターはその試みの危険性に気がついていないわけではなかった。惑星=角度を正確な時間区分にむけたら最後(空間を飛び抜けているときにこうすることはできない)、ヤディス星が勝ち誇るドール族の支配する死滅した世界になってしまい、光波外被に身をつつんでの脱出が大いに疑わしい問題になることを、カーターは知っていた。同様に、測り知れない深淵を抜ける悠久の飛行に耐えるためには、瑜伽《ゆが》の達人のようなやり方でもって、仮死状態に達していなければならないことも知っていた。また、旅が成功するものとして、ヤディス星の生物にとって有害な、バクテリアをはじめとする地球の諸状況に対して、免疫になっておく必要があることもわかっていた。さらに、羊皮紙をとりもどして解読し、本来の姿にもどるまで、地球上で人間の姿に見せかける手立も講じなければならなかった。そうしないことには、発見されたあげく、恐怖におびえる人びとによって、ありえざるものとして抹殺《まっさつ》されてしまうだろう。そして羊皮紙を探し求める期間をしのぐため、かなりの黄金をもっていなければならないが、幸いなことに、これはヤディス星で入手することができた。  ゆっくりとカーターの計画は進展した。まず驚異的な時間移動と未曾有《みぞう》の空間飛行のいずれにも耐えうる、異常なまでに強靱《きょうじん》な光波外被を用意した。計算したものをすべてあらためて検算し、何度も繰返して地球にむけて夢を送り、可能なかぎり一九二八年に近づけていった。仮死状態に達する練習をおこない、素晴しい成果をおさめた。必要とするバクテリア因子も発見して、なれておかなければならないさまざまな重力負荷を計算した。人間のなかに一種の人間として立ちまざることを可能にさせる、蝋製《ろうせい》の仮面とゆったりした衣服を巧妙につくりあげ、想像することもできない未来の死滅した暗黒星ヤディスから脱出するとき、ドール族を抑えこむ二重に強力な呪文もあみだした。ヤディス星人の体を脱ぎすてられるまで、自分のズカウバ局面を休眠状態にさせておく膨大な量の薬物――地球では入手できない薬物――も集めたし、もちろん地球で使うための黄金をささやかにたくわえることも忘れなかった。  出発する日は迷いと懸念に満ちる一日になった。カーターは三重星ニュトンに出発するという口実で、外被=発射台にのぼり、輝く金属でできた鞘《さや》のなかにもぐりこんだ。そのなかには銀の鍵の儀式をとりおこなえるだけの余地があり、カーターは儀式をとりおこないながら、ゆっくりと外被を浮揚させはじめた。昼間だというのにぞっとするほど騒然として闇がたれこめ、すさまじいまでの苦痛にさいなまれた。宇宙が不安定にぐらついているようで、星座という星座が黒ぐろとした空で乱舞していた。  たちまちカーターは新しい釣合を感じとった。星間の深淵の冷気が外被の表面をかみ、カーターは空間を自由飛行していることを知った――カーターが飛びだした金属建築物は既に朽ちはてているのだ。カーターの眼下では、大地が巨大なドール族に毒されていた。カーターが見つめているときですら、一匹のドールは数百フィートにまでそびえたち、粘液にまみれる青白い先端をカーターにむけた。しかしカーターの呪文は功を奏し、つぎの瞬間、カーターは無事にヤディス星から離れていた。         7    年老いた黒人の召使が本能的に逃げだしてしまった、あのニューオリンズの異様な部屋では、チャンドラプトゥラ師の奇妙な声がさらにかすれたものになっていた。 「みなさん」チャンドラプトゥラ師がいった。「特別な証拠をお見せするまで、こうしたことを信じていただこうとは思いません。ですから、電子の活性化された薄い金属製外被のなかの名もない異界的な実体として、ランドルフ・カーターが宇宙を飛び抜けたのが、何千光年――時間にして何千年、距離にして測り知れない何千兆マイル――であったといっても、まあ神話のようなものだと思ってください。カーターは細心の注意をはらって仮死状態になっている期間を定め、一九二八年頃の地球に着陸するわずか数年まえに、仮死状態がおわるよう計画していたのです。 「あの目覚めを、カーターは決して忘れることはないでしょう。みなさん、忘れないでいていただきたいのですが、カーターはあの果しなく長い眠りにおちこむまえ、ヤディス星の異界的な驚異の只中《ただなか》で、地球の時間にして何千年間にもわたり、はっきりした意識をもって生きていたのです。身をかむようなすさまじい冷気、脅威をはらむ夢の中断、外被の目板を通しての瞥見《べっけん》がありました。いたるところに星、星群、星雲が見えました――そしてついに、星々の形造る輪郭が、カーターの知っている地球の星座に近いものになったのです。 「いつの日か太陽系へのカーターの降下をお話しできるかもしれません。カーターは太陽系の周縁にキュナルス星とユゴス星を目にし、海王星を通過してその表面をまだらにしている地獄めいた白い黴《かび》を瞥見し、木星の霧を間近に見たことからとても詳らかにはできない秘密を知り、木星の衛星の一つでは恐怖を目にし、そして火星の赤い輪郭面の上に不規則に広がる巨石建造物の廃墟を見つめました。地球が近づいてくると、驚くほど大きくふくれあがっている薄い三日月形として地球を見たのです。故郷にもどることで胸にあふれるさまざまな気持が、一瞬であれ減速するのをやめさせようとしましたが、カーターはどうにか速度をゆるめました。カーターの胸にあふれたさまざまな気持がどういうものであったか、わたしがカーターから知ったものを、ここでお話しするつもりはありません。 「さて、旅の最後に達したカーターは、地球の上空高くにとどまって、太陽の光が西半球にふりそそぐまで待ちました。カーターは出発したところ――アーカム背後の丘陵地帯にある〈蛇の巣〉の近く――に着陸したかったのです。みなさんのなかのどなたかが長く故郷を離れていらっしゃるのなら――おひとりそういう方がいらっしゃるのを存じあげていますが――ニューイングランドのうねる丘陵、楡《にれ》の大木、ふしくれだった枝をはる果樹園、古びた石垣といった光景が、どんな影響をカーターにおよぼしたかを告げるのは、その方におまかせすることにいたしましょう。 「カーターは夜明けにあのカーター家の地所の低牧草地に着陸し、あたりに誰もおらず静まり返っていることを感謝しました。出発したときと同じように、季節は秋で、丘陵のにおいは心の慰めになりました。カーターは木々の立ちならぶ斜面で何とか金属外被をひきずりあげ、〈蛇の巣〉のなかにいれましたが、根のからまる裂け目から内部の岩窟《いわや》にいれることはできませんでした。カーターが、必要になると思った人間の衣服と蝋製の仮面で異界的な体をつつみこんだのも、そこででした。ある状況のもとで新しい隠し場所が必要になるまで、カーターは一年以上も、金属外被をそこに置いていました。 「カーターはアーカムまで歩いていき――同時に地球の重力に対抗して人間のように体を動かす練習をしたわけですが――銀行で黄金を金にかえました。そして――英語をよく知らない外国人のふりをして――いくつかのことをたずねた結果、いまが目指した年のわずか二年後にすぎない一九三〇年であることを知ったのです。 「もちろん、カーターの立場は恐ろしいものでした。自分の素性をはっきり口にすることもできないまま、常に警戒しながら生きていかなければならず、食事をはじめとするさまざま厄介《やっかい》な問題があり、また自分のズカウバ局面を休眠状態においておく異質な薬物を保存する必要もありますので、できるだけ早く行動しなければならないと思いました。そしてボストンに行き、人目を避けて安く生活のできるウェスト・エンドで部屋を借りると、ただちにランドルフ・カーターの不動産・動産について調査しはじめたのです。ここにいらっしゃるアスピンウォール氏が財産分与をどれほど望んでいらっしゃるか、またド・マリニー氏とフィリップス氏がどれほど雄々しくそれを阻止しようとなさっているか、そのことをカーターが知ったのはそれからのことです」  ヒンドゥ人は頭をさげたが、色浅黒く、穏やかで、びっしりと顎鬚《あごひげ》のはえる顔には、何の表情もうかばなかった。 「間接的なやり方ではありますが」ヒンドゥ人がつづけた。「カーターは失くした羊皮紙の良好な写しを首尾よく手にいれ、解読作業にとりかかりはじめました。このことにわたし自身が手を貸せたことをお話しするのは、嬉しいかぎりです――カーターはかなり早くからわたしの助力を要請し、わたしを通して世界じゅうの神秘家と繋《つなが》りをもつようになったからです。わたしはボストンに行ってカーターと一緒に暮しました――チェンバース・ストリートのひどい部屋でした。羊皮紙については――当惑なさっているド・マリニー氏によろこんで力をお貸しいたしましょう。ド・マリニー氏に申しあげさせていただきますなら、あの象形文字であらわされた言語は、ナアカル語ではなく、測り知れない永劫の太古にクトゥルーの落とし子によって地球にもたらされた、ルルイエ語なのです。もちろんルルイエ語による翻訳にほかなりません――原初のツァト=ヨ語が使われていた何百万年もまえには、ヒューペルボリアに原典があったのです。 「カーターが期待していた以上に解読する分量は多かったのですが、カーターが希望をすてることはありませんでした。今年のはじめ、カーターはネパールからとりよせた書物によって解読に長足の進歩をとげ、まもなく解読に成功することが疑いのないものになっています。しかし不幸なことに、一つの困難が生じました――ズカウバ局面を休眠状態におく異質な薬物がなくなってしまったのです。しかしこれもカーターが恐れていたような大きな災難ではありませんでした。カーターの個性が体のなかで増大しており、ズカウバが表面に出るときも――しだいにその期間も短くなり、いまでは異常に興奮しないかぎりあらわれることもないのですが――ズカウバはたいてい眩惑《げんわく》状態におちいるあまり、カーターの行動をそこなうまでにはいたらないのです。ズカウバは自分をヤディス星にもどしてくれる金属外被を見つけることができません。一度はもうすこしで見つけるところまでいきましたが、ズカウバ局面がすっかりなりをひそめたときに、カーターが隠し場所を変えてしまったからです。ズカウバがおよぼした害というのは、せいぜいがごく少数の者をおびえさせ、ボストンのウェスト・エンドのポーランド人やリトアニア人のあいだに、ある種の悪夢めいた風説をひきおこす原因になった程度です。これまでのところ、ズカウバはカーター局面のつくった入念な変装をそこなったことはありませんが、ときおりは一部をはぎとってカーターが修理しなければならないこともあります。わたしはその変装の下にあるものを見たことがあります――見て気持のいいものではありませんでした。 「一ヵ月まえ、カーターはこの集まりの新聞広告を見て、自分の財産をまもるため、ただちに行動しなければならないことを知りました。時間をかけて羊皮紙を解読し、人間の姿をとりもどすまで待つというようなことは、もはや不可能でした。そしてカーターはわたしを代理人に命じたのです。 「みなさん、わたしはみなさんに、ランドルフ・カーターが死んではいないと申しあげます。カーターは一時的に特異な状態におちいっておりますが、せいぜいこの二、三ヵ月のうちに、自らにふさわしい姿であらわれ、財産の保全を要求することになるでしょう。必要なら、しかるべき証拠を提示する用意があります。したがって、この集まりを無期延期していただくようお願いするしだいです」         8    ド・マリニーとフィリップスが催眠術にでもかけられたかのように一心にヒンドゥ人を見つめる一方、アスピンウォールは鼻を鳴らしたりうなったりしていた。老弁護士の嫌悪はいまではあからさまな激怒になりかわっていて、血管のうきでた拳で卒中の発作のようにテーブルをたたいた。そのアスピンウォールが口を開いたとき、一種野獣のようなうなり声がほとばしった。 「この莫迦《ばか》話にいつまで我慢せにゃならんのだ。わしはこの狂人――この詐欺師――に一時間も耳をかたむけてやったというのに、こいつはあつかましくもランドルフ・カーターが生きておるとぬかしおるではないか――あげくには、しかるべき理由もなしに財産分与の延期を要求しよるとは。どうしてこの悪党を追いださんのだ、ド・マリニー君。わしら皆を、大法螺吹《おおぼらふ》きとも白痴ともつかぬ奴の餌食《えじき》にさせるつもりなのか」  ド・マリニーは無言で片手をあげ、穏やかにいった。 「ゆっくり時間をかけて明晰《めいせき》に考えてみようではありませんか。わたしたちが耳にしたのは確かにきわめて異常な話ですが、この話には、わたしがいささか知識を有する神秘家として、ありえざるものではないと判断しなければならない点が、いくつかあります。さらにいえば――わたしが一九三〇年以来チャンドラプトゥラ師よりうけとっている書簡は、師の話と一致しているのです」  ド・マリニーが息をつぐと、フィリップス氏が思いきって口を開いた。 「チャンドラプトゥラ師は証拠を提示するとおっしゃっているではありませんか。わたしも師のお話に意味深い言及があると思いますし、わたし自身この二年間に、師から妙に確証のこもるお手紙を数多くうけとっております。お手紙の一部には極端にすぎるものもありましたがね。いまここで見せることのできる、はっきりした物的証拠はないのでしょうか」  表情を面《おもて》にださない師がようやくゆっくりとかすれた声で答え、しゃべりながらゆったりした上衣のポケットから、あるものをとりだした。 「ここにいらっしゃるみなさんは銀の鍵を実際にご覧になったことはないでしょうが、ド・マリニー氏とフィリップス氏はその写真を目にされたことがあるはずです。これに見おぼえがございましょうか」  師は大きな白い二叉手袋につつまれた手をぎこちなく動かし、光沢のない銀色のどっしりした鍵をテーブルに置いた――長さは五インチ近くあり、知られざるまったく異国風のつくり方がなされ、実に不気味な象形文字がびっしりと刻みこまれていた。ド・マリニーとフィリップスは息を呑《の》んだ。 「これだ」ド・マリニーが大声でいった。「カメラは嘘をつかない。わたしが見誤るわけがない」  しかしアスピンウォールは既に非難の言葉をあびせていた。 「莫迦者どもめ。こんなものが何を証明するというのだ。たとえそれが本当に、わしの身内がもっていたものだとしても、この外国人――この忌いましい黒んぼ――に、これを手に入れたいきさつを話させる必要があるだろう。ランドルフ・カーターは四年まえにこの鍵をもったまま姿を消したのだぞ。そのカーターが鍵を奪われたり殺されたりしていないと、どうしてわしらにわかるのだ。ともかくあいつは半分狂っていたし、自分より狂った連中とつきあっておったんだからな。 「こっちを見ろ、黒んぼめ――おまえはその鍵をどこで手に入れたんだ。おまえがランドルフ・カーターを殺したんじゃないのか」  異常なほど穏やかな師の顔つきは、まったく変化しなかった。しかし深く落ちくぼんだ、虹彩のない黒い目が、危険なほど燃えあがった。師は大変な苦労をしてしゃべった。 「どうか冷静になってください、アスピンウォールさん。みなさんにお見せできる別の形態の証拠がありますが、それがみなさんにおよぼす効果はひどいものなのです。理性的になろうではありませんか。ランドルフ・カーターの見まちがえようのない筆跡で、一九三〇年以降に記されたものにちがいない文書が、ここにありますから」  師はぎこちない動作で、ゆったりした外衣から長細い封筒をとりだすと、ド・マリニーとフィリップスが混沌《こんとん》と入り乱れる思いを抱き、尋常ならざる驚異をぼんやりと感じながら見まもるかたわら、その封筒をぶつぶつつぶやく弁護士に手渡した。 「もちろん、筆跡はほとんど読めるしろものではありません――しかしランドルフ・カーターがいま、人間の文字を記すにふさわしい手をもっていないことを、どうか思いだしてください」  アスピンウォールはあわただしく文書に目を通し、たちまち当惑したような顔つきになったが、その態度は変わらなかった。部屋は興奮と名状しがたい恐怖がみなぎって緊迫した雰囲気になり、棺の形をした時計が異様なリズムで時を刻む音は、ド・マリニーとフィリップスにとってまったく悪魔めいた音色に聞こえたが、弁護士だけは何の影響もうけていないようだった。  アスピンウォールがまたしゃべった。「こいつは巧妙に偽造されたものに見えるな。もしそうでないのなら、ランドルフ・カーターが良からぬことをたくらむ者に強要されて、無理やり書かされたものかもしれん。なすべきことはただ一つだけだ――このぺてん師を逮捕させるのだ。ド・マリニー君、警察に電話をかけてくれんか」 「待ってください」この邸の主人が答えた。「この件が警察を呼ぶようなものだとは思えません。わたしに一つ考えがあります。アスピンウォールさん、この紳士は真の学識を備える神秘家なのです。そのお方がランドルフ・カーターに信任されているとおっしゃっておられます。そのように信任されている者だけが答えられる質問に答えられれば、アスピンウォールさん、あなたも得心がいくのではありませんか。わたしはカーターをよく知っていますから、そういう質問をすることができます。いい判断材料になると思える書物をとりだしてきましょう」  ド・マリニーは書斎に通じるドアにむかい、フィリップスが無意識にしているかのように、ぼんやりとあとにつづいた。アスピンウォールはテーブルについたままで、異常なほど平然とした顔で対面しているヒンドゥ人を、仔細《しさい》に見つめていた。チャンドラプトゥラがぎこちない動きで銀の鍵をポケットにもどしたとき、突然、弁護士が喉にかかる叫び声をあげた。 「ついに見破ったぞ。この悪党は変装しておるのだ。こいつが東洋のインド人であるものか。あの顔――あれは顔ではなく、仮面なのだ。わしはこいつの話からふとそんな気もしたが、まさか本当だとはな。顔はぴくりとも動かんし、あのターバンと顎鬚は仮面の縁を隠すためのものなのだ。こいつはありふれた詐欺師にすぎん。外国人でさえないのだ――わしはこいつのしゃべり方に注意していた。こいつは生粋のアメリカ人だ。それに、あの二叉になった手袋を見てみろ――こいつは指紋から身許がわかるのを知っておるんだ。忌《いま》いましい奴め、このわしがばけの皮をひんむいてやる……」 「やめろ」チャンドラプトゥラ師のかすれた、妙に異界的な声には、この世のものとも思えない恐怖の響きがこもっていた。「必要なら見せることのできる、別の形態の証拠があるといったし、そうすることがひどい結果をもたらすと警告したではないか。確かにこの赤ら顔のおせっかい屋のいうとおりだ――実はわたしは東洋のインド人ではない。この顔は仮面だし、仮面が隠しているものは人間の顔ではない。みんなも既に推測していたはずだろう――ついさっきそのことを感じとった。この仮面をとったら、ひどいことになるのだ――頼むから仮面には手をつけずにいてくれ、アーニスト。わたしがランドルフ・カーターだといえばいいのだろう」  誰も動かなかった。アスピンウォールは鼻を鳴らし、何ともつかない動きをした。部屋のむこうにいるド・マリニーとフィリップスは、赤ら顔の表情の動きを見つめ、赤ら顔に対面しているターバン姿の人物の背中をうかがった。時計の異様な音は恐ろしいほどで、鼎《かなえ》と烟《けむり》と揺れるアラス織の掛布は死の舞踏を演じていた。弁護士の半分喉につまった声が沈黙を破った。 「いいや、そんなはずがあるものか、このぺてん師め――おまえが何をぬかしても、このわしはたじろがんぞ。その仮面をはぎとられたくないのには、それなりの理由があるのだろう。おまえはわしらの知っておる誰かかもしれん。さあ、仮面をはずしてみろ……」  アスピンウォールが手をのばすと、チャンドラプトゥラ師は二叉手袋につつまれる片手でその手をつかんだ。アスピンウォールの口から驚きと苦痛のまじる奇妙な悲鳴がほとばしった。ド・マリニーはふたりに近づこうとしたが、にせのヒンドゥ人の抗議の声がまったく謎めいた、うなるようなうちたたくような音に変わりはてたとき、困惑のあまり立ちつくしてしまった。アスピンウォールの赤ら顔には怒りがみなぎり、あいた手を相手のふさふさした顎鬚めがけて突出した。今度はつかむことに成功し、力まかせにひっぱると、蝋製の仮面がターバンからそっくりはずれ、弁護士のかたく握りしめた拳に残った。  その瞬間、アスピンウォールは喉にかかる恐ろしい悲鳴をあげ、フィリップスとド・マリニーのふたりは、人間の顔にこれまで見たことがないような、純然たる恐慌状態の激しくすさまじい痙攣《けいれん》でもって、アスピンウォールの顔がひきつるのを目にした。一方、チャンドラプトゥラ師といつわった者は、アスピンウォールの片手を離すと、呆然自失のありさまであるかのように立ちつくし、きわめて異様な性質のぶんぶんうなるような音をたてた。するうちターバン姿のものはほとんど人間とは思えない妙な姿勢になりかわり、宇宙的な尋常ならざるリズムをたてる棺形の時計にむかって、小刻みに足を動かす、すり足のような奇妙きわまりない足取りで進みはじめた。いまではさらけだされているその顔は、ド・マリニーとフィリップスの前方にむけられているため、ふたりには弁護士の行為があらわにしたものを見ることはできなかった。やがてふたりはアスピンウォールに目をむけたが、アスピンウォールはぶざまに床に倒れこんでいた。それを見た瞬間、ふたりの足をとめていた呪縛が破れた――しかしふたりがそばに寄ったときには、老人は既に息をひきとっていた。  すり足で退いていく師の背中に素早く目をむけたド・マリニーは、だらりとたれさがる片腕から大きな白い手袋がゆっくりと脱げ落ちるのを見た。乳香の烟が濃密で、かろうじてわかったのは、むきだしになった手が長く黒いものだということだけだった。クリオール人が退いていくものに近寄ろうとしたとき、年老いたフィリップス氏がその肩に手をおいてとめた。 「やめなさい」フィリップスが囁《ささや》き声でいった。「何を相手にすることになるか、わからないのですから。あの別の局面だということもあるでしょう――ヤディス星の魔道士、ズカウバだということも」  ターバン姿のものは異様きわまりない時計のまえに達した。それをながめるド・マリニーとフィリップスのふたりは、濃密な烟を通して、ぼんやりした黒い鉤爪が象形文字の刻まれた丈高い扉をまさぐるのを見た。まさぐっているうちに奇妙なかみあう音がした。するとターバン姿のものは棺形の時計のなかに入り、扉を閉めた。  ド・マリニーはもう自分を抑えてはおれなかったが、時計に駆け寄り、扉を開けたときには、そのなかはうつろだった。時を刻む異様な音がつづき、神秘的な通路の開口部のすべてに内在する、冥《くら》く宇宙的なリズムをうちたてていた。床の上には大きな白い手袋と、顎鬚のついた仮面を握りしめる男の死体があったが、それ以上のものを何も告げてはくれなかった。       *    *    *    一年がすぎても、ランドルフ・カーターは消息不明のままだった。カーターの財産はなおも未処分のままである。チャンドラプトゥラ師≠ネる人物が、一九三〇年から三二年にかけてさまざまな神秘家に問いあわせをした手紙に記されていたボストンの住所には、確かに不思議なヒンドゥ人が居住していたが、ニューオリンズの会合が開かれる直前に部屋をひきはらっており、その後は杳《よう》として行方が知れない。その人物は色浅黒く、無表情で、顎鬚をたくわえていたそうだが、下宿の主人は――実際に提示された――浅黒い仮面が、問題の下宿人の顔にとてもよく似ていると思っている。しかし問題の下宿人は、地元のスラヴ人が囁く悪夢めいた幽霊と何らの繋りがあるとも思われなかった。「金属外被」を求めてアーカム背後の丘陵地帯が調査されたものの、それらしいものは発見されていない。しかしアーカムのファースト・ナショナル銀行の行員は、一九三〇年の十月に、少量の金塊を換金したターバン姿の奇妙な男をおぼえている。  ド・マリニーとフィリップスはどう処理すべきか思案にくれている。ともかく、何が証明されたというのか。話があった。カーターが一九二八年におしげもなく配布した写真の一枚をもとに模造されたものかもしれない鍵があった。書類があった――判断にこまる書類が。そして仮面をつけた謎の人物がいたが、仮面の背後にあるものを見た者がはたしてこの世にいるだろうか。緊張した雰囲気と乳香の烟の只中での、時計のなかに消えるという行為は、その二つが原因となる幻覚だったのかもしれない。ヒンドゥ人というのは催眠術について多くのことを知っているのである。理性はチャンドラプトゥラ師≠ランドルフ・カーターの財産を狙った犯罪者だと宣言する。しかし検視官はアスピンウォールの死因がショックによるものだといった。そのショックをひきおこしたのは、単に激怒だけだったのであろうか。それにあの話で語られたいくつかのことがらは……  怪異な意匠のほどこされたアラス織の掛布がかかり、乳香の烟が充満する広びろとした部屋のなか、エティエンヌ=ローラン・ド・マリニーは椅子に腰をおろして、そこはかとない感動をおぼえながら、あの象形文字の刻まれた棺形の時計がうみだす異常なリズムに、じっと耳をかたむけることがよくある。