ラヴクラフト全集〈6〉 H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳 [#改ページ] セレファイス Celephais [#改ページ]          夢のなかでクラネスは、谷間の都、彼方の海岸、海原を見はるかす雪に覆われた山頂、そして港から出て海と空が出会う遙かな領域を目指す、華麗に彩色されたガレー船を見た。夢のなかでクラネスという名前で知られているのも、目覚めているときには別の名で呼ばれているためだった。新しい名前を夢でつくりだしたのは、おそらくは当然のことであって、家族がすべて世を去り、何百万もの無情な群衆がひしめくロンドンの只中《ただなか》、ひとり孤独に暮す身にあれば、記憶を呼びさますような話をしてくれる者とて、そういるわけもない。金も土地も失ってしまったいま、世人のやり方を気にかけることもなく、夢を見て、その夢を書きとめることを好んだ。こうして書きあげたものを見せて笑われたため、しばらくは誰にも見せずに書きつづけたとはいえ、結局は書くのをやめてしまった。世間から身をひくにつれ、見る夢はいよいよ素晴しいものになっていくばかりなのだから、そうした夢を紙に書きとめようとすることなど、およそむなしい営みだろう。クラネスは当世風の男ではなく、他の作家たちのように考えることをしなかった。他の作家たちが人生から神話という刺繍《ししゅう》いりのローブをはぎとり、むきだしの醜さのうちに現実という穢《きたな》らしいものを示そうとしているのにひきかえ、クラネスは美のみを探し求めたのである。真実や経験では美を顕《あら》わすにいたらないと知るや、空想や幻想のなかにこれを探し、ほかならぬつい間近、幼年時代に見た夢や聞いた話の、おぼろな記憶のうちに見いだしたのだった。  幼い頃に見聞きする幻や話のなかに、いかなる驚異があらわれているかを知る者が少ないのは、子供が耳をすましたり夢を見たりするときには、考えることが半ば形をなしていない一方、おとなが記憶をよみがえらせようとするときには、既に人生の毒におかされ心が凡庸鈍感なものになっているからにほかならない。しかしそれでも、魅惑の丘陵や庭園、陽光をあびて歌う噴水、どよもす海を遙かに見はるかす金色の断崖、青銅や石で造られたまどろむ都へとうち広がる平原、そして深い森のはずれを飾りたてた白馬に乗って進む幻めいた英雄たちといった、不思議な幻影を見て夜に目覚める者もいるのだし、われわれはこのようなときに、象牙造りの門をふりかえり、まだ賢《さか》しらでも不幸でもなかった頃におのれのものであった、驚異の都をのぞきこんでいたことを知るのである。  クラネスはまったくだしぬけに、幼年時代のおのれの世界を偶然に見つけだした。そのとき見ていた夢というのは、自分の生まれた屋敷にほかならず、十三世代にわたる祖先たちが暮し、クラネスもそこで死にたいと願っていた、蔦《つた》にびっしりと覆われる石造りの大きな屋敷だった。月光がふりそそいでおり、クラネスはかぐわしい夏の夜気のなかに忍び足で出ると、庭園を抜け、テラスをくだり、猟園に立ちならぶ樫《かし》の大木をあとにして、村に通じる長く白い道を歩いていった。村はたいそう古めかしく見え、欠けはじめた月のごとく、はずれのあたりが虫食《むしば》まれているため、小さな家屋の尖り屋根のかくまっているのが、眠りと死のいずれなのかとクラネスはいぶかった。通りには長い草が槍《やり》のように生い茂り、両側に建つ家いえの窓ガラスは、いずれも割れているか、おぼろに曇っていた。クラネスはたたずむこともせず、何らかの目的地に呼びだされているかのように歩みつづけた。目覚めているときの衝動や切望のように、いかなる目的地にも通じることのない、むなしい幻影になりはてはしないかとあやぶむあまり、呼びかけにそむく勇気とてなかった。するうち村の通りからはずれ、海峡を見おろす断崖にむかう小道にひきよせられて、大地の果にまで達した――そこには村と大地がことごとく忽然《こつぜん》と、何の音もひびかせぬ涯しない虚無に落ちこむ絶壁と深淵があり、前方の空さえも虚《うつ》ろで、はかなく消えやらんとする月や、かすかにきらめく星たちに照らされることもなかった。信念の力に駆りたてられるまま、クラネスは絶壁を越えて深淵《しんえん》に身を投じ、下へ下へとくだり、黒ぐろとして形とてないまだ見ぬ夢、かつて一部を見た夢なのかもしれないあえかに輝く領域、世界じゅうの夢見る者を嘲《あざけ》っているような有翼の嗤笑《ししょう》するものどもを、いくつもあとにしていった。やがて前方の闇に裂け目ができたかと思うや、谷間の都が遙か眼下に燦然《さんぜん》ときらめき、海と空を背景に、雪を戴く山が岸近くにそびえているのを見た。  クラネスは都を目にしたとたん、目を覚ましてしまったが、つかのま瞥見《べっけん》したことから、その都がタナール丘陵の彼方のオオス=ナルガイの谷にある、セレファイスにほかならないことを知った。遠い過去のある夏の午後、乳母《うば》から逃げだし、村の近くの崖《がけ》から雲をながめているうちに、暖かい海の微風をうけて眠りこんでしまった、あの永遠とも思える一時間、クラネスの魂はその都で暮したことがある。見つかって起こされ、屋敷に連れ帰られたときに、クラネスが抗議の声をあげたのは、海と空が出会う魅惑の土地へとむかう金色のガレー船に乗り、いましも出帆しようとしていたときに、目覚めさせられたためだった。そしていま、四十年におよぶ倦《う》み疲れる歳月を経て、ついに瑰麗《かいれい》な都を見いだしたために、目覚めてしまったことを当時と同じように悔んだ。  しかし三日後の夜、クラネスはふたたびセレファイスに行った。先のときと同様、眠っているものやら死にたえているものやら知れない村を、まず夢に見たあと、音もなく深淵をくだりおりたにちがいなく、ふたたび裂け目があらわれると、都のきらめく光塔を望み、港に投錨《とうびょう》して紺碧《こんぺき》の波に身をまかせる優美なガレー船を目にし、さわやかな海風をうけて揺れるアラン山の銀杏《いちょう》をながめた。しかし今度は夢をたちきられることもなく、翼をもつもののように草むす丘の斜面にゆっくりとおりていき、ついに芝生の上に軽やかに足がついた。オオス=ナルガイの谷、瑰麗なセレファイスの都に、まさしくもどったのである。  クラネスはかぐわしい草と色あざやかな花に覆われた斜面をくだり、遙かな昔に自分の名前を刻みこんだことのある、さらさらと流れるナラクサ川にかかる小さな木製の橋を渡ると、そよめく木立を抜け、都の大門近くにある大きな石橋にさしかかった。すべてはかつてのときと同じで、大理石の壁も色あせてはおらず、壁の上に立ちならぶ磨きぬかれた青銅の彫像もくすんではいなかった。そしてクラネスは、城壁に立つ歩哨《ほしょう》さえも同じで、記憶にあるとおりに若わかしいため、自分の知っているものが消えうせはせぬかと、不安に身を震わせる必要がないことを知った。都に入り、青銅の門を次つぎにくぐりぬけ、縞瑪瑙《しまめのう》の敷かれた通りをいくつも進んでいくと、商人や駱駝《らくだ》ひきはクラネスが都を離れたことがなかったかのように挨拶《あいさつ》をしてくれ、ナス=ホルタースのトルコ石の神殿でも事情は変わらず、神殿では蘭の花冠を戴く神官たちが、オオス=ナルガイには時が存在せず、永遠の若さがあるだけだと教えてくれた。そのあとクラネスは円柱通りを抜けて、交易商人や船員、海と空が出会う領域からやってきた風変わりな者たちの集う、海に面する城壁にむかった。そこでは長くたたずみ、燦然たる港のむこうに目をむけ、未知の太陽のもとで波がきらめいているさまや、海原をへだてた遙かな土地のガレー船が軽やかに進んでいるさまをながめやった。そして岸辺から堂々とそびえたつアラン山にも目をむけて、揺れる木々によって緑したたる麓《ふもと》の斜面や、天にも届く白い山頂をあおぎ見た。  不思議な話を数多く聞いたことのある遙かな土地へと、ガレー船に乗りこんで出かけたいと願う気持は以前にもまして強く、遠い昔に乗船を承諾してくれた船長をふたたび探した。その船長アシブは、以前と同じく、香料のはいった箱に腰をおろしており、あれからどれほどの月日が流れたかも知らないふうだった。やがてふたりは小船をこいで、港に停泊するガレー船に乗りこむと、漕ぎ手に命令をくだし、空に通じる波打つセレネル海へと出帆した。うねる海原を数日のあいだすべるように進みつづけるうち、海と空が出会う水平線にまで達した。ガレー船はとどまることをせず、薔薇色《ばらいろ》に染まるふわふわした雲のうかぶ青空へ、いともやすやすと浮かびあがった。そして龍骨の遙か下には、見知らぬ土地や川、美しさこのうえもない都がいくつも、決して薄れることも消えいることもないように思える陽光を浴びて、ものうげに広がっているさまを見ることができた。旅が終わりに近づいていること、まもなく西風が空に流れこむ、あの天上の海岸に築かれた、朱鷺色の大理石を用いた雲の都セラニアンの港に入ることを、ついにアシブがクラネスに告げたが、彫刻のほどこされた最も高い塔が目にはいったとき、空のどこかで音がして、クラネスはロンドンの屋根裏部屋で目を覚ましたのだった。  クラネスはその後数ヵ月にわたって、瑰麗な都セレファイスと空にむかうガレー船をむなしく探し求め、夢が数多くの目もあやな前代未聞の土地に誘ってくれたとはいえ、タナール丘陵彼方のオオス=ナルガイを見つける手立を教えてくれるような者は、誰ひとりとしていなかった。ある夜、黒ぐろとした山脈の上を飛び、かなりの距離をおいてわびしく点在するほのかな篝火《かがりび》や、先頭のものが鈴を鳴らす毛深い異様な群を目にしたあと、ほとんど人が訪れることもないほど遠方にある、この丘陵地帯の最も荒涼とした領域に入りこんだとき、尾根や谷に沿って稲妻のようにのびる途轍もなく古ぶるしい、壁もしくは街道めいたものを見いだしたが、人間が造ったとは思えないほどに巨大なものであり、いずれの端も見えないほどの長さがあった。灰色の夜明けどきに、クラネスはその壁を越え、古風な趣の庭園や桜の木々のある土地にたどりついたが、太陽が昇るや、紅白の花、緑したたる群葉と芝生、白い小道、きらめく小川、青い水をたたえた小さな湖、彫刻のほどこされた橋、赤い屋根の宝塔が目にはいり、そのあまりの美しさに至純の歓喜がわきあがるまま、つかのまのことを忘れてしまったほどだった。しかしふたたび思いだすと、この土地の住民にセレファイスのことをたずねようと、白い小道を歩いて赤い屋根の宝塔にむかったが、めぐりあったのは鳥と蜂と蝶だけだった。別の夜には、石造りのじめじめした螺旋《らせん》階段をはてしなく登り、満月に照らされる広大な平原と河を見はるかす塔の窓に達し、河の土手から広がる沈黙の都をながめて、以前知っていた特徴というか配置があるような気がした。そして螺旋階段をくだってオオス=ナルガイへの道をたずねようと思ったとき、地平線の彼方のどこか遠隔の地より、恐ろしいオーロラがあらわれ音をたてて乱舞し、都の廃墟と化した古ぶるしさ、葦《あし》の生い茂った河の澱《よど》み、その土地をつつみこむ死を露《あらわ》にして、カイナラトホリス王が征服地より帰国して神々の復讐を目のあたりにしたとき以来、死がたれこめていることを示したのだった。  かくしてクラネスは、瑰麗なセレファイスと、天空のセラニアンにむかうガレー船をむなしく探し求める一方、数多くの驚異を目にしつづけ、一度などは、凍てつく荒野のレン高原にある有史前の石造りの修道院にひとりきりで住み、黄色い絹の覆面で顔を覆う、口にするのもはばかれる大神官から、かろうじて逃げだしたこともあった。さるほどに、夜を中断する荒蓼《こうりょう》とした昼間が耐えがたくなり、眠りの時間を増すために麻薬を買いはじめるようになった。大麻が大いに役立ち、形態というものが存在せず、輝く気体が存在の秘密を研究する宇宙の領域へと送りこんでくれたこともあった。そして菫色《すみれいろ》の気体から、宇宙のこの領域が無限と呼ばれているものの外にあることを教えられた。その気体はそれまで惑星や有機体というようなもののことを耳にしたこともなく、クラネスを単に、物質やエネルギーや重力が存在する無限の世界から来た者として見きわめただけだった。いまやクラネスは光塔の林立するセレファイスにもどりたくてたまらず、麻薬の量を増していったが、ついには金もつきはて、麻薬を買うこともできなくなった。やがてある夏の日、屋根裏部屋から出ると、あてもなく通りをさまよい歩き、いつのまにか橋を渡って、家並もまばらになりゆく箇所に足を踏みいれた。そしてそこで願望はみたされ、クラネスを永遠にセレファイスに連れもどすべく、彼の地より訪れた騎士の行列に出会ったのであった。  騎士たちは葦毛《あしげ》の馬に乗り、輝く鎧《よろい》と奇妙に飾りたてられた金襴の陣中着に身をつつみ、凛々《りり》しく堂々としていた。その数おびただしいものであったため、クラネスはあやうく軍隊と見あやまりかけたほどだが、そのクラネスに敬意を表して騎士たちが派遣されたことを、騎士団の統率者から伝えられた。まことクラネスこそ、夢のなかでオオス=ナルガイを創造した者であり、それゆえに、いまや永久《とこしえ》にオオス=ナルガイの主神となるべく定められたからである。やがてクラネスが一頭の馬を与えられ、行列の先頭に立たせられるや、一行はロンドン南部のサリー州のくだり斜面を威風|凛然《りんぜん》と押し進み、クラネスとその祖先たちの生まれた地域を目指しつづけた。いかさま不思議なことだが、騎士たちが進むに連れて、〈時〉を襲歩でさかのぼっていくように思えたのは、黄昏《たそがれ》の村を通り抜けるときはいつも、チョーサー以前の人びとが目にしたような家屋や集落が目にはいるばかりで、ときにはささやかな従者をしたがえて馬に乗る騎士の姿が目にとまることもあったからだ。暗くなると、進む速度はさらに増し、まもなく摩訶《まか》不思議にも宙を飛んでいるかのようにまでなった。ほの暗い夜明けに到着したのは、クラネスが幼年時代には息づいているのを、夢のなかでは眠っているか死んでいるものとして見たことのある村だった。いまは息づいており、馬に乗った騎士たちが蹄《ひづめ》の音も高らかに通りを駆け抜け、夢の深淵に達する小道に入っていくのを、早ばやとおきた村人たちが礼儀正しく見送っていた。以前にその深淵に入ったのは夜だけのことであったため、クラネスは昼間はどんなふうに見えるのだろうと思い、行列が断崖の縁に近づくにつれ一心に目をこらした。一行が登り坂を断崖にむかって駆け登ったとき、東のどこかから、くらめくばかりの金色の光がさして、すべての景観を燦然と輝く光の襞《ひだ》のなかにつつみこんだ。いまや深淵は薔薇色と紺碧の輝きに満ちた沸きかえる混沌《こんとん》となり、目に見えない者たちの声が歓喜もあらわに歌うなか、クラネスに付きそう騎士の一行は断崖の縁を越え、きらめく雲と銀色の光彩をついて優美に舞いおりていった。はてしなく降下はつづき、騎士を乗せた馬たちは金色の砂の上を疾走しているかのごとくエーテルを掻《か》き、やがて輝く靄《もや》が散開して露《あらわ》になったものこそ、さらに壮麗な空間、瑰麗な都セレファイス、彼方の海岸、海原を見はるかす雪に覆われた山頂、そして港から出て海と空が出会う遙かな領域を目指す、華麗に彩色されたガレー船だった。  そしてクラネスはそれ以来、オオス=ナルガイとその近隣の夢の領域すべてを支配し、セレファイスおよび雲で造られたセラニアンで交互に政務をとりおこなった。いまも支配をつづけ、その治世はいつまでも幸福につづくだろうが、インスマスの断崖の下では、夜明けに半ば無人の村からよろめき出て落下した浮浪者の死体を、海峡の波が嘲るごとくにもてあそび、さんざ愚弄したあげく、醜いまでに肥えふとった、とりわけ鼻もちならない成金の醸造業者が、断絶した貴族の地所を札びらにものをいわせて買いとってたのしんでいる、蔦にびっしりと覆われたトレヴァー・タワーズ近くの岩場に打ちあげたのだった。