ラヴクラフト全集〈6〉 H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳 [#改ページ] 白い帆船 The White Ship [#改ページ]          わたしはバザル・エルトンといい、父や祖父の跡をついで、ノース・ポイントの灯台守をしている。灰色の灯台が海岸から遠く離れて建っているところは、ぬらぬらする岩礁であって、潮がひいたときにはあらわれ、潮が満ちたときには姿を消す。一世紀にわたって、七つの海の堂々たるバーク型帆船がこの灯台のそばを通りすぎていった。祖父の時代には航行する船は多く、父の時代になるとその数もへり、いまではあまりにも少なくなっているために、ときとしてこの星最後の人間になったかのごとく、不思議と孤独が感じられるほどである。  昔は白帆の大型帆船が、遠方遙かな海岸からやってきた。暖かい太陽が輝き、甘い香りが風変わりな庭園や華やかな神殿にたゆたう、東方遙かな海岸からである。年老いた船長たちがよく祖父を訪れては、こうしたことを話し、それを祖父が父に伝え、そして東からの風が不気味に吠えたける秋の夜長に、父がわたしに語ってくれた。まだ幼くて不思議の思いでいっぱいだった頃にもらった本で、わたしはこうしたことや、他にも数多くのことを読みふけったものだ。  しかし老人の智恵や書物の知識にもまさって素晴しいのは、大洋にまつわる秘密の伝承である。青、緑、灰色、白、黒と色も変化し、なめらかなこともあれば、小波《さざなみ》をたてたり高波をおこしたりする大洋は、決して沈黙をつづけているわけではない。わたしは日がな一日、海をながめ、海に耳をかたむけているので、海のことはよくわかっている。まずもって海は、穏やかな渚《なぎさ》や近くの港の平凡かつささやかな話をしてくれただけだったが、歳月を重ねるにつれてさらに好意を寄せて、他のこと、時間と空間のいずれにおいても遙かに遠い、不思議なもののことを話してくれるようになった。ときとして、黄昏《たそがれ》どきに、水平線の灰色の靄《もや》が分かれて、彼方の光景を見せてくれることもあれば、夜に深い海が澄みきって燐光《りんこう》を放ち、深海のありさまをのぞかせてくれることもある。こうして瞥見《べっけん》したものが、現在の姿でもあり、過去や未来の姿でもあったのは、大洋が山脈よりも古く、〈時〉の記憶や夢をはらんでいるからにほかならない。  満月が空高くにかかるとき、南方から白い帆船がやってきたものだ。南方からしごくなめらかに音もなく、海面をすべるようにやってきた。海が荒れていようと凪《な》いでいようと、追風であろうと逆風であろうと、帆をいっぱいにふくらませ、異様なまでに長い列をつくるオールをリズミカルに操って、常になめらかに音もなくすべるように進んでくるのだ。ある夜、わたしはその甲板に、髭《ひげ》をたくわえローブをまとう男を認めたが、麗《うるわ》しい未知の海岸に向けて船出しないかと、わたしをいざなっているようだった。その後も何度となく満月のもとでその男を目にしたが、いつもわたしを招いていた。  月がひときわ明るく照り輝いている夜に、わたしはついに誘いに応じ、海の上にかかる月光の橋を渡って白い帆船に乗りこんだ。これまでわたしをいざなってくれていた男が、不思議とよくわかる耳に快い言語でわたしを歓迎してくれ、漕ぎ手たちの低く静かな歌声がわきおこるなか、船は海原を滑走し、あの美しい満月の輝きで金色に染まる神秘的な南方へと入っていった。  そして夜が明けてあたりが薔薇色《ばらいろ》に輝いたとき、わたしが目にした遙かな土地の緑したたる海岸は、晴ばれとして美しく、わたしのいまだ知らざるものだった。海から堂々とそびえたつ台地には新緑の若葉を誇る木々が立ちならび、そこかしこでは風変わりな神殿の列柱や白い屋根がきらめいていた。緑したたる海岸に近づくにつれ、髭をたくわえた男が、その土地、ザルの国のことを話してくれたが、人間に訪れながらも忘れ去られた美の夢や思いがことごとく、ここにとどまっているのだという。そしてふたたび台地に目を転じたとき、まさしく男の言葉に嘘はなく、眼前に広がる景色のなかには、わたしがかつて霧をついて水平線の彼方に見たものや、燐光放つ深海に見たものが数多くあった。わたしの知るどんなものより壮麗な形態や幻想もあれば、世間に知られることなく貧困のうちに世を去った若い詩人たちのヴィジョンもある。しかしザルの草原を踏み歩く者は、二度と故郷の海岸にもどることはないといわれているがため、わたしたちはザルの斜面に足をおろすことはなかった。  白い帆船が神殿の建つザルの台地から音もなく離れたとき、前方遙かな水平線に、大都の尖塔《せんとう》が見え、髭をたくわえた男がわたしにこういった。「これがタラリオンと呼ばれる千の驚異の都で、ここには人間がむなしくきわめようとする神秘のすべてがあるのだ」  そしてわたしは間近に迫った都にふたたび目をむけ、わたしの知っている都や夢に見たことのある都のどれよりも、はるかに壮大であることを知った。神殿の尖塔は頂《いただき》が見えないほどに空にそそりたち、地平線の遙か彼方にはいかめしい灰色の城壁がのびて、ごくわずかな屋根がのぞいているだけだが、異様かつ不気味なものでありながらも、豪奢《ごうしゃ》な帯状装飾や魅力つきせぬ彫刻に飾られていた。魅惑的でありながらも不快感をかきたてるこの都に入りたくてたまらず、わたしは髭をたくわえた男に、巨大な彫刻門アカリエルのそばにある石造りの埠頭《ふとう》におろしてくれと頼みこんだが、男はわたしの願いをやんわりとしりぞけてこういった。「千の驚異の都タラリオンには、多くの者が入りこみながら、もどってきた者はひとりとしていない。あの都を歩くのはもはや人間ではなくなったものどもと魔物どもばかりで、通りが白いのは、都を支配する妖怪ラティを目にしたものどもの骨が、葬られもせずに散乱しているからなのだ」かくして白い帆船はタラリオンの城壁をあとにして航海をつづけ、南にむかって飛ぶ鳥のあとを追うこと長きの日々にわたったが、鳥のつややかな羽衣《うい》は鳥があらわれた空の色によく映《は》えていた。  やがてわたしたちのまえには、ありとあらゆる色の花が咲き乱れてにぎわう美しい海岸があらわれ、内陸部では見渡すかぎり、さわやかな木立やきらめく東屋が真昼の太陽の光を浴びていた。目路のかぎりを越える亭から美しく調和した歌がわきおこり、それにかすかな笑い声がくわわっていれば、興趣つきせぬものがあり、はやる気持にかられるわたしは漕ぎ手たちをせきたてた。髭をたくわえた男は何も語らず、船が百合のならぶ海岸に近づくあいだわたしを見つめているだけだった。突如として、花の咲き乱れる草原と緑したたる林から風が吹き、あるにおいを運んできたために、わたしは震えあがってしまった。風はいよいよ吹きまさり、あたりの大気は疫病に襲われた邑《まち》や暴かれた墓地の慄然《りつぜん》たる死臭にみなぎった。そして白い帆船が忌わしい海岸からあわただしく離れたとき、髭をたくわえた男がようやく口を開いてこういった。「ここは歓楽かなわぬ土地ズーラなのだ」  かくして白い帆船はまたしても天の鳥を追い、かぐわしい微風が慰撫《いぶ》するように吹く、暖かい恵みの海を渡っていった。日に日を重ね、夜に夜をついで航海がつづくなか、満月の夜には漕ぎ手たちの低く静かな歌声に耳をかたむけたが、その歌声の耳に快いこと、遙かな故郷から船出したあの遠い昔の夜と変わるところがなかった。燦然《さんぜん》たる弧を描いて上空で接する水晶の双子岬にまもられる、ソナ=ニルの港についに投錨《とうびょう》したのは、月光を導きにしてのことだった。これは夢幻の土地であり、わたしたちは月光の造りだす黄金の橋を渡って、緑の草木に覆われた岸に上陸した。  ソナ=ニルの地においては、時間も空間も、苦しみも死も存在せず、ここでわたしは永劫《えいごう》とも思えるときをすごした。木立や牧草地は緑につつまれ、花は色あざやかでかぐわしく、せせらぎは青くさわやかな音をたて、泉は冷たく冴《さ》えわたり、神殿や城や邑は堂々として豪奢、それがソナ=ニルなのだ。美のつきせぬ景観の彼方には、さらに美しい景色がうち広がっていれば、この地に涯《はて》というものはない。田園地帯や壮麗な邑の只中《ただなか》を、幸福な民びとが自在に歩きまわり、これら民びとはひとり残らず無傷の優雅さと至純の幸福に恵まれている。永劫とも思えるあいだわたしはその地に住み、古雅な宝塔がさわやかな灌木の木立からのぞいている庭園や、白い遊歩道の両側を繊細な花が飾る花園を、至福に満ちてそぞろ歩いた。なだらかな丘を登ってみれば、その頂からは、うっとりするような愛らしい景観をながめわたすことができ、緑したたる谷間に尖《とが》り屋根がひしめく邑や、遙か彼方の地平線にきらめく巨大な邑の金色の円蓋《えんがい》が望めた。そしてわたしは月光のもとで、きらめく海、水晶の岬、そして白い帆船が投錨する静まりかえった港を見た。  人間の記憶を絶したタルプの年のある夜、天の鳥のいざなう姿が満月を背に輪郭を描くのを見るや、わたしの心はにわかにそわつきだした。そして髭をたくわえた男に話しかけ、わたしの新たな熱望を告げ、人間がかつて目にしたことはないものの、誰もが西の玄武岩の柱の彼方に位置すると思っている、遙かなカトゥリアにむけて出帆したいのだといった。これは希望の地であり、そこではわたしたちの知っているものすべての完璧な理想が輝いているのだと、少なくとも人の話は告げている。しかし髭をたくわえた男はわたしにこう告げた。「カトゥリアが存在するといわれるのが、危険な海であることに着意するがよい。ソナ=ニルには苦しみも死もないが、西の玄武岩の彼方に何があるかを誰が告げられよう」それでもなお、つぎの満月の夜にわたしは白い帆船に乗りこみ、髭をたくわえた男はしぶしぶながらも幸福な港をあとにして、いまだ船の渡ったことのない海を目指した。  天の鳥がまえを飛び、西の玄武岩の柱に導いてくれたが、今度は満月の夜にも漕ぎ手たちは低く静かな歌を口にすることがなかった。わたしはしばしば、まだ見ぬカトゥリアの目もあやな森や宮殿を脳裡に思いうかべ、いかなる新たな歓喜が待ちうけているのだろうかと思ったものだ。こういったことを自分にいい聞かせもした。 「カトゥリアは神々の在所にして、無数の黄金都市が存在するところなのだ。沈香《じんこう》の森や白檀《びゃくだん》の森、さらにはカモリンのかぐわしい林さえあって、木々のあいだを陽気な鳥たちが甘い歌をさえずりながら飛びまわる。カトゥリアの花咲き乱れる青あおとした山には、朱鷺色《ときいろ》の大理石を用いた神殿が建ち、彫刻や彩色のほどこされた栄光の品じなに富み、中庭には冷たい水をたたえた銀水盤の噴水があって、岩窟《いわや》に発するナルグ河のかぐわしい水がさらさらと音をたてて流れている。そしてカトゥリアの邑は黄金の壁にとりまかれ、通りに敷かれているのも黄金なのだ。こうした邑の庭園には、不思議な蘭《らん》や、底を珊瑚《さんご》や號珀《こはく》で覆われた池がある。夜には通りや庭園が、三色の亀の甲羅から造られた華やかな角燈で照らされ、歌い手やリュート奏者のもの静かな調べが響き渡る。そしてカトゥリアの邑の家いえはことごとく宮殿であって、聖なる河ナルグの水が流れるかぐわしい運河の上に建てられている。家屋は大理石と斑岩《はんがん》から造られ、きらめく黄金で屋根がふかれていれば、幸福に満ちた神々が遙かな高みからながめやるとき、太陽の光を照り返して、邑の光輝を強めるのである。わけても美しいのは偉大な王ドリエブの宮殿であり、王のことを半神だという者もいれば、神そのものだという者もいる。ドリエブの宮殿は高く、城壁にそびえる小塔は数多い。大広間には大勢の者が集まれるし、ここにはさまざまな時代の記念品がかけられている。そして屋根は純金であって、紅玉と瑠璃《るり》の高い柱がこれを支え、神々や英雄たちの彫像が立っているので、遙かな高みにこれを仰ぎ見れば、オリュンポス山もかくあらんと思えるほどである。そして宮殿の床は硝子《ガラス》でできており、その下を巧みに照らされるナルグの水が流れ、美しいカトゥリアの地をおいては知られていない華麗な魚が泳いでいる」  カトゥリアについてわたしはこのようなことを自分にいい聞かせていたが、髭をたくわえた男は常に、ソナ=ニルが人に知られているのにひきかえ、カトゥリアを目にした者はいないのだといって、ソナ=ニルの幸福な岸にひきかえすべきだと警告しつづけた。  そして鳥のあとを追ってから三十一日がたち、わたしたちはついに西の玄武岩の柱を目にした。霧につつまれているため、その彼方はおろか、柱の頂すら見ることはかなわない――柱は天にまで届いているのだという者もある。そして髭をたくわえた男がまたしても、ひきかえすよう懇願したが、わたしはとりあわなかった。というのも、玄武岩の柱の彼方の霧のなかから、歌い手とリュート奏者の調べが聞こえ、その調べがソナ=ニルの最も甘美な歌よりも耳に快く、ほかならぬわたし自身を賛美して、満月のもとで遙かな航海をおこない、夢幻の地に住んだことのあるわたしを褒《ほ》めたたえているように思えたからだ。かくしてその調べがおこるところへと、白い帆船は西の玄武岩の柱のあいだに入っていった。そして調べがとだえて霧が晴れたとき、わたしたちが目にしたのは、カトゥリアの地ではなく、流れ急な抗《あらが》いがたい海にほかならず、わたしたちを乗せたバーク型帆船はなすすべもなく未知の目的地へと押し流されていった。まもなくわたしたちの耳は水の落下する轟《とどろ》きを聞きとり、わたしたちの目は前方遙かな水平線に、世界じゅうの海が無の深淵になだれこむ、すさまじい大瀑布の巨大な水煙を見た。と、そのとき、髭をたくわえた男が頬《ほお》に涙を伝わせながらいった。「わしらは美しいソナ=ニルの地をはねつけたのだ。ソナ=ニルを二度と目にすることはないだろう。神々は人間よりも偉大で、勝利をおさめたのだ」そしてわたしは来たるべき激突をまえに目を閉ざし、激流の縁の上で嘲《あざけ》るように青い翼をはためかしている、天の鳥を見ないようにした。  激突のあとには闇が訪れ、人間の悲鳴や人間ではないものの悲鳴が聞こえた。東方から大暴風がおこり、足もとに浮上した濡《ぬ》れた岩にうずくまっているわたしを凍りつかせた。するうちまた激突の音が聞こえ、目を開けたわたしは、永劫《えいごう》の太古にあとにしたあの灯台の見張り台にいることを知った。眼下の闇のなかには、残忍な岩礁に激突した巨大な船のおぼろな輪郭がぼうっとうかんでおり、残骸から目をあげたとき、祖父がこの仕事について以来はじめて灯台の光が消えていることを知った。  そして夜もふけた刻限に塔のなかに入ってみれば、壁にかかる暦はわたしが白い帆船に乗りこんだときのままだった。夜が明けると、塔をおりて岩礁に漂着物を探したが、見つかったのはつぎのものだけだった。すなわち、青空のような色をした見なれない鳥の死体と、波頭や山の雪よりも白い割れた円材である。  そしてその後は大洋ももはやその秘密を語ってはくれず、そのとき以来、満月が空高く輝くことは数えきれないほどだが、白い帆船が南方からあらわれることもついになかった。