ラヴクラフト全集〈5〉 H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳 [#改ページ]         作品解題     [#地付き]大瀧啓裕    ラヴクラフト全集第五巻にあたる本書には、後にダーレスによってクトゥルー神話の母胎とされるにいたった作品を中心に収録した。ラヴクラフトの作品がどう読みかえられ、どのようにクトゥルー神話として成立するにいたったかは、青心社の『クトゥルー神話事典』にゆずるとして、既に本全集に収録されている『狂気の山脈にて』および『時間からの影』から明らかなように、ラヴクラフトが最終的に目指したものが、自らの諸作品を関連づける、壮大な幻想宇宙年代記とでもいうべきものであったことは指摘しておかなければなるまい。たとえば早くも一九二七年に、〈ウィアード・テイルズ〉の編集長ファーンズワス・ライトに宛てた七月五日付の書簡で、ラヴクラフトは自作の『クルウルウの呼び声』にふれ、「名前だけの怪奇さを求め、既知のものや馴染《なじみ》深いものにしがみついて離れない」読者をあげつらい、自分の書くものはそうした読者の要望にしたがうものではないとして、こう記している。   [#ここから3字下げ] さて、わたしの小説のすべては、人間一般のならわし、主張、感情が、広大な宇宙全体においては、何の意味も有効性ももたないという根本的な前提に基づいています。わたしにとって、人間の姿――そして局所的な人間の感情や様態や規範――が、他の世界や他の宇宙に本来備わっているものとして描かれる小説は、幼稚以外の何物でもありません。時間であれ、空間であれ、次元であれ、真の外在性の本質に達するためには、有機生命、善と悪、愛と憎、そして人類と呼ばれるとるにたらぬはかない種族の限定的な属性が、すべて存在するなどということを忘れ去らなければならないのです。人間の性質をおびるものは、人間が見るものや、人間である登場人物だけに限定されなければなりません。これらは(安っぽいロマンティシズムではなくして)徹底したリアリズムでもってあつかう必要がありますが、果のない慄然《りつぜん》たる未知の領域――影のつどう外界――に乗りだすときには、忘れることなくその戸口において、人間性というもの――そして地球中心の考えかた――をふりすてなければならないのです。 [#ここで字下げ終わり]    ラヴクラフトの意気ごみのほどを如実に物語るこの信条告白によっても、ラヴクラフトの諸作品が、あまりにも人間中心的な善悪二元論に立脚するダーレスのクトゥルー神話と、厳然たる一線を画するものであることは明らかだろう。すなわちラヴクラフトは、人間の把握する自然を脱却した超自然の叙述家という立場を自らに課し、自然から超自然への移行にともなう衝撃的な恐怖を、人間の視点ではなくして超越的な視点に基づき、ゆるぎのないリアリズムでもって描ききる方法論を確立していたわけである。  そしてラヴクラフトを特色づけるこの卓越した方法論は、自ら選んだ信条を貫徹するためにも、一つの重大な問題を克服しなければならないものだった。あくなき未知の探求により、さまざまな作品を創造しつつも、それら作品は人間が読むものとして提出される以上、語り手を人間にせざるをえないため、あくまでも人間の視点から解釈したものとして記されなければならず、小説の成立にかかわるこのリアリズムを、小説の執筆過程において、人間性を断固拒否する超越的な視点に基づくリアリズムと、どう折合をつけるかという問題である。  これを解決するにあたってラヴクラフトは、丹念に事実や暗示の積み重ねをおこなうことで超越的な視点を維持するかたわら、語り手ないしは登場人物に疑惑をいだかせることで人間の視点を示し、両者のせめぎあいから読者に事実の確認をせまるという手法を自家|薬籠《やくろう》中のものとした。この手法はときとして、ラヴクラフトの完全主義がうらみとなって、小説の構造が複雑になり、流れがまわりくどいものになるきらいはあるものの、語り手ないしは登場人物の遅疑|逡巡《しゅんじゅん》こそが、いつしか超越的な視点からの全体像をうかびあがらせるという、絶妙な力業がなされている点を見逃してはならない。 〈挿絵:ラヴクラフト二十代の写真〉  ここにおいて、語り手ないしは登場人物のすがりつく否定は断固たる肯定に逆転し、局所的な事象がかぎりない宇宙的スケールにとりこまれ、物語としての小説は記録《ドキュメント》へと変貌する。したがって諸作品の総合化を目指した『狂気の山脈にて』および『時間からの影』が、ドキュメントを集大成する幻想宇宙年代記となったのは、ラヴクラフトにあっては必然の運動だったのである。この超越的な視点からのドキュメントを、さらに人間の視点からとらえなおしたものが、ダーレスのクトゥルー神話にほかならない。   『神殿』 The Temple  一九二〇年に執筆され、〈ウィアード・テイルズ〉一九二五年九月号に発表された後、さらに同誌の一九三六年二月号にも再録された。 〈挿絵:The Temple〉  操縦不能におちいり、不思議なイルカの群とともに、かぎりなく深海へと潜行しつづけるドイツの潜水艦が、アトランティスと推定される海底の廃墟に遭遇する次第をあつかった本篇は、つとに指摘されているとおり、海底都市のたたずまいや闇にさす光によって、ポオの詩『海の都』の影響をうけていることはまちがいないだろう。謎めいた若者の水死体の発見を発端に、その若者にまつわる変事が冷静沈着な語り手によって記録されるが、語り手が合理精神でもって狂気や幻覚を拒否すればするほど、拒否されたものが迫真性をもって襲いかかるという皮肉な事態となって、ここに日常のリアリズムを超現実のリアリズムに変換させるラヴクラフトの真骨頂がうかがえる。テーマとしては月並なものだが、徹底した否定がついには断固たる肯定に逆転するというラヴクラフトの手法をうかがう意味で、重視しなければならない作品である。   『ナイアルラトホテップ』 Nyarlathotep  一九二〇年の十二月頃に執筆され、同人誌〈ユナイテッド・アマチュア〉の一九二〇年十一月号に発表され、〈ナショナル・アマチュア〉の一九二六年七月号に再録された後、一九四三年に刊行されたアーカム・ハウスの『眠りの壁の彼方に』に収録され、はじめて一般の目にふれることになった。  散文詩ともいえる本篇は、ラインハルト・クライナーに宛てた一九二一年十二月十四日付書簡によれば、コールリッジの『忽必烈汗《クビライカン》』と同様に、夢を基に「はっきり目が覚めるまえに第一節を書きあげ」たものだという。母親の死にショックをうけ、何週間にもわたって頭痛と目まいに悩まされたラヴクラフトは、「三時間以上は一つ仕事に集中できない」ほど精神的にまいっていたが、ある夜見た夢がそのまま『ナイアルラトホテップ』として結実することになったのである。本篇では名前は明らかにされていないが、夢のなかでラヴクラフトにナイアルラトホテップのことを知らせたのは、友人のサムエル・ラヴマンで、ラヴクラフトの住むプロヴィデンスにナイアルラトホテップがあらわれるようなことがあれば、かならず会うようにと告げる手紙を送ってきたのだった。そして夢はラヴクラフトが「雪の吹きだまりのあいだでなかば漂うようにして……何も目に見えない想像を絶する渦のなかへ」入りこみ、恐ろしさのあまり悲鳴をあげたことでとぎれたらしい。夢から目覚めたラヴクラフトは、ひどい頭痛と耳鳴りがしたが、どうあってもこの夢を書きとって、比類のない恐怖の雰囲気を、文章としてとどめておかなければならないという衝動にかられ、無意識のうちにペンを手にとって記しはじめた。顔を洗って改めて読みかえしたとき、夢があまりにも首尾一貫していることに驚き、わずか三語だけ変更して、ナイアルラトホテップを混沌の象徴とする最終節を書き加えることで、本篇が完成されたのだという。ラヴクラフトのドキュメントで重要な地位を占めることになるこの存在は、潜在意識の生みだした純然たる夢の産物だったのである。 〈挿絵:〈ナショナル・アマチュア〉〉   『魔犬』 The Hound  一九二二年に執筆され、〈ウィアード・テイルズ〉の一九二四年二月号に発表された後、さらに同誌の一九二九年九月号にも再録された。  本篇は前年に執筆発表された『無名都市』において、「そは永久に横たわる死者にあらねど測り知れざる永劫《えいごう》のもとに死を超ゆるもの」という不可解な二行|聯句《れんく》を謳《うた》ったとされるだけにとどまった、狂える詩人アブドゥル・アルハザードが、はじめて禁断の『ネクロノミコン』の著者と同定される記念すべき作品である。『神殿』において象牙細工が災厄を招いたように、墓場荒しによって得た魔よけが凄絶《せいぜつ》な呪いをもたらす経過を描いた本篇は、いささか形容詞が多用されすぎている傾向はあるものの、デカダンの雰囲気のうちにつのりゆく恐怖をたたえて好感のもてる佳品となっているが、ラヴクラフト本人はクラーク・アシュトン・スミスに宛てた一九三〇年十月十七日付書簡で、「おおげさないいまわしをまだ控えることのできなかった頃に書いたもの」であって、「実質のない、くずのようなもの」だと酷評している。 〈挿絵:〈ウィアード・テイルズ〉1929年9月号〉   『魔宴』 The Festival  一九二三年に執筆され、〈ウィアード・テイルズ〉の一九二五年一月号に発表された後、さらに同誌の一九三三年十月号にも再録された。  ラヴクラフトは終生こよなく、セイレム、マーブルヘッド、ニューポート、ポーツマス、ブリストルといった、ニューイングランドに古くからある街に心|惹《ひ》かれ、そうした街をモデルに用意周到なプランをたてて架空の街を生みだしつづけた。本篇の舞台とされるキングスポートもその例にもれず、実在のマーブルヘッドをモデルにしており、すこし長くなるが、ラヴクラフトがはじめてマーブルヘッドを訪れたときの様子を、ジェイムズ・ファーディナンド・モートン宛一九三〇年三月十二日付の書簡から引用しておこう。   [#ここから2字下げ] ああ、一九二二年十二月十七日の午後四時に、目眩《めくるめ》く夕日の栄光のもとで、雪に覆われるマーブルヘッドのうずくまるような古風な家並を、驚嘆の思いではじめて目にしたときのことは、終生忘れることがないでしょう。わたしはそのときまで、自分がマーブルヘッドのような場所を目にすることになるとは思ってもみず、まさにその瞬間まで、自分が目にすることになる驚異がどれほどのものであるか、まったく知りもしなかったのです。どうやら、わたしはそのひととき――一九二二年十二月十七日の午後四時五分から十分にかけてのひととき――最も強烈な感情の高まりをおぼえたようです。一瞬のうちに、ニューイングランドの過去のすべて……がわたしに押し寄せ、かつてなく、これからもないようなやりかたでもって、あらゆるものからなる途轍《とてつ》もない全体との一体感を与えてくれたのです。 [#ここで字下げ終わり]    このような体験が創作にとりこまれないわけがなく、はたしてラヴクラフトは、一九三三年十月十七日付のリチャード・エリ・モース宛の書簡が告げるごとく、「一九二二年十二月十七日の日没時に、雪に覆われたマーブルヘッドをはじめて目にしたときの印象を、何とかとらえようとして」本篇を執筆したのである。  これまでに書かれたクリスマス・ストーリイのなかで最も奇怪な作品である本篇は、祖先の影響力によって過去が現在に恐怖の侵攻をする経緯が描かれており、後にダーレスがクトゥルー神話の諸作品で踏襲することになったが、無定形のフルート奏者の描写と、『ネクロノミコン』からの引用がはじめておこなわれた作品であることも指摘しておかなければなるまい。ミスカトニック大学はついに『ネクロノミコン』を所蔵することになったのである。  なお労作、“The H.P.Lovecraft Companion” を著わしたフィリップ・A・シュレフラーの綿密な考証によれば、本篇におけるキングスポートの描写はマーブルヘッドのたたずまいをそのまま利用したものであり、語り手がアーカムからの道をたどって目的の住居に行く道筋は、アーカムが実在のセイレムをモデルにしていることから、セイレムからの道を基準とすれば、かつてバック・ストリートとして知られたエルム・ストリートからマグフォード・ストリートにむかう道筋と推定され、まさしくマグフォード・ストリートには、語り手が目指した「グリーン・レーンの左手七番目の家、一六五〇年以前に完成された、とがり屋根と張りだす二階を備えた、一族の家」が、一六九五年に建てられたボウアン家の住居として現存し、ラヴクラフトの描写どおりのものであるという。また語り手が訪れる教会も、同様の考証によって、一七一四年に建立されたサマー・ストリートの聖ミカエル監督教会と推定されるが、驚くべきことに、一九七六年にいたってようやく、この教会に隠された祭壇があって、その下にラヴクラフトが記しているような地下納骨所が発見されたのである。これが偶然の一致なのか、あるいはラヴクラフトが何らかの古文書からこのことを知っていたのか、事実は謎につつまれている。 〈挿絵:マーブルヘッドの地図〉 〈挿絵:ボウアン家の住居〉 〈挿絵:聖ミカエル協会〉  さらにつけ加えるなら、本篇で言及される四冊の古書のうち、ジョーゼフ・グランヴィルの『サドカイ教徒の勝利』とレメギウスことニコラ・レミーの『悪魔崇拝』は紛れもなく実在する書物であるが、アンブローズ・ビアースの短編集『いのちの半ばに』に収録された、『人間と蛇』から借用されたとおぼしき、モリスターの『科学の驚異』がはたして実在するものかどうかについては、ついに確認をとることができなかった。 〈挿絵:『サドカイ教徒の勝利』〉 〈挿絵:『悪魔崇拝』挿絵〉   『死体蘇生者ハーバート・ウエスト』 Herbert West-Reanimator  一九二一年の九月から翌年の半ばまでかけて執筆され、〈ホーム・ブルー〉の創刊号にあたる一九二二年二月号から七月号にわたり六回連載された後、隔月に刊行される〈ウィアード・テイルズ〉の一九四二年三月号から連載されはじめ、なぜか翌年の一月号から七月号にかけて掲載されず、九月号になって連載が再開され、十一月号においておなじく六回の連載を完了した。各章のはじめでそれまでの荒筋が記されるのは、ラヴクラフトが〈ホーム・ブルー〉の編集長ジョージ・ジュリアン・ハウテインから連載の要請をうけて執筆した事情を物語る。  アン・ティラリイ・レンシュウ宛の一九二一年十月三日付の書簡によれば、ラヴクラフトは〈ホーム・ブルー〉を創刊するハウテインから連載の依頼をされながらも、「注文に応じて執筆された小説は芸術ではないし、連載というものは最も古典的でない繰返しを余儀なくされるもの」なので、最初のうちこそ応じるつもりはなかったようだが、度重なる熱心な要請に根負けした形になって、重い腰をあげたものらしい。  明らかにメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を意識して執筆されたものだが、はじめての連載という形式によほど苦しんだのか、墓場荒らしや死体蘇生をあつかって毎回恐怖をもりあげようとしているものの、さほど効果をあげられずにおわり、凡庸な作品にとどまっている。本篇はむしろ『家のなかの絵』で言及されたアーカムをはじめて舞台にして、ミスカトニック大学の医学部を登場させたことで記憶すべき作品だといえるだろう。 〈挿絵:ラヴクラフトの作製したアーカムの地図〉 〈挿絵:セイレムの地図〉  一六九二年に有名な魔女裁判のおこなわれたセイレムをモデルにするアーカムは、実在のセイレムの地図とラヴクラフトの作成したアーカムの地図を対比させればわかるとおり、いずれも河の南側に位置して、通りの名称も共通するものや容易に同定されるものが数多い。前者としてはワシントンとソールトンストールの通りがあげられるし、セイレムにおけるブリッジ・ストリートはアーカムのリヴァー・ストリートに、セイレムのハイランド・アヴェニューとチェスナット・ストリートはアーカムのハイ・ストリートとウォールナット・ストリートに対応するほか、セイレムで絞首刑のおこなわれたギャロウズ・ヒルがアーカムではハングマン・ヒルにされているといった類である。もっともこれらは最初からすべて設定されていたわけではなく、徐々に造りだされていったものであり、ラヴクラフトのさまざまな作品に登場する人物の名前が通りの名称に採用されていることからも、この事情は明らかだろう。ウェイトリイ・ストリート、ピーバディ・アヴェニュー、アーミティッジ・ストリート、ゲドニー・ストリート等がこれに相当する。ミスカトニック大学のモデルとなったのが、ラヴクラフトの故郷プロヴィデンスにある、ジョン・ヘイ図書館を擁するブラウン大学であることは、いまさら指摘するにもおよばないだろう。本篇においては腸チフスが猖獗《しょうけつ》して、ハーバート・ウエストの蘇生させた学部長が人肉|嗜食《ししょく》の振舞におよんだものの、まだ悪夢の影濃い街となるにはいたっていない。   『レッド・フックの恐怖』 The Horror at Red Hook  一九二五年の七月に執筆され、〈ウィアード・テイルズ〉の一九二七年一月号に発表された。  一九二一年にはじまった三年におよぶ交際期間を経て、一九二四年三月三日にソーニャ・ハフト・グリーンとニューヨークの聖パウロ教会で結婚式をあげたラヴクラフトは、ついに故郷のプロヴィデンスを離れ、そのままニューヨークで暮すことになった。ラヴクラフトより七歳年上のロシヤ系のユダヤ人であるソーニャは、進取の気性にとむ活発な女性で、一度離婚した経験があるが、前夫のスタンリー・グリーンから本を読むことを教えられ、さらに友人のジェイムズ・F・モートンから文芸同好会に勧誘され、アマチュア文芸活動を通じてラヴクラフトと知りあったのだった。実際の年齢よりも若く見え、ラヴクラフトの友人サムエル・ラヴマンにいわせれば、「これまで会ったなかで最も美しく、またやさしい女性」だったが、意志が強く、野心的で、「二秒と口をつぐんでいられなかった」ようでもある。ボストンで開かれたアマチュア文芸の大会ではじめてラヴクラフトと会った頃、マンハッタンの洋装店ファール・ヘラーの店長として働いていたソーニャの年収は一万ドルに近く、ラヴクラフトの伝記を執筆したスプレイグ・ディ・キャンプは、「一九二一年の女性の収入としては驚嘆すべきもの」と記している。  さて、ソーニャと出会った頃のラヴクラフトについて簡単に記しておくなら、母親が発狂して父親が収容されたのとおなじバトラー病院で、二年間にわたる療養生活を送った後、一九二一年の五月二十四日に亡くなったことにショックをうけ、放心状態におちいり、しばらくはほとんど何も手につかないありさまだった。そんなラヴクラフトの気晴しになったものが、ニューイングランドの各地を訪れる小旅行で、こうしてマーブルヘッドにも足をのばし、それが一つの成果をあげたことは既に記したとおりである。日常のことは二人の叔母が面倒をみてくれていたが、母親を亡くしたラヴクラフトには心の支えがなくなり、そのラヴクラフトのまえに魅力的で面倒みのいい活発なソーニャがあらわれた。二人の出会いにはいかさま運命じみたものがあるといわざるをえない。さらにつけ加えるなら、一九二三年の三月に〈ウィアード・テイルズ〉が創刊され、ラヴクラフトは自作を五篇送付したことをきっかけに、同誌に作品を発表しつづけ、新たな世界が開かれたような気分を味わっていたはずである。 〈挿絵:左からクライナー、ソーニャ、ラヴクラフト。1921年ボストンにて〉  ニューヨークに腰をおちつけたラヴクラフトは、〈リーディング・ランプ〉の編集長の、ミス・タッカーから、書評を依頼されるとともに、アメリカの妖術や幽霊屋敷をあつかった本を書いてみないかと勧められ、資料を集めだした。しかしタッカーは後に考えをかえ、ラヴクラフトを書評家として雇うこともしなければ、執筆を勧めた本をひきうけることもせず、この企ては中絶するにいたっている。最初は祝福された結婚生活だったにせよ、あまりにもかけはなれた二人の性格の不一致が徐々に影を落とすようになった。さらに五十七丁目にあるソーニャの店の営業成績が落ちて、ソーニャはこの店を閉じて新たにブルックリンに帽子店を開いたが、これは最初から失敗が約束されたようなものだった。一九二四年には〈ウィアード・テイルズ〉が経営不振におちいり、ラヴクラフトは編集長の地位を提示されるが、寒いシカゴで暮す気にはなれずにこれをことわったが、このために求職活動に奔走しなければならなくなり、これまで一度として定職についたことのないラヴクラフトにとっては、面接が拷問のようなものになって、失意の日々がつづいた。  そしておなじ年、ソーニャが事業の失敗によってノイローゼになり、転地療養もかねてシンシナティに移ったため、ラヴクラフトは高くつくパークサイド街二五九番地のアパートをひきあげ、ブルックリンの区役所に近いクリントン・ストリート一六〇番地のアパートで一人暮すことになった。すなわちレッド・フック地区である。もうこの頃には結婚生活が完全に破綻《はたん》していたといってもいいだろう。さまざまな人種の坩堝《るつぼ》であるニューヨークをどうにも好きになれないラヴクラフトだったが、一九二五年五月二十四日にアパートに泥棒がはいったことでも、この嫌悪の情がますますつのることになった。 〈挿絵:クリントン・ストリートのアパート〉  ラヴクラフトにあっては珍しく、正面きって黒魔術をあつかった本篇『レッド・フックの恐怖』は、以上のことに留意すればさらに興味深い作品となるだろう。ラヴクラフトはまさしく、レッド・フック地区のはずれにあたるアパートの「北西の角の部屋で、『レッド・フックの恐怖』を執筆した」(バーナード・オースティン・ドゥワイアー宛一九二七年三月二十六日付書簡)のである。慄然《りつぜん》たる黒魔術の儀式と死体復活を主題に、マッケン風の人間の獣性をとりあげ、自分が見たままのレッド・フック地区のありさまと無軌道な若者の群を描く本篇を記すにあたって、ラヴクラフトは「ブリタニカ第九版の魔術の項目から召喚の呪文を借用した」(クラーク・アシュトン・スミス宛一九二五年十月九日付書簡)という。妻がユダヤ人であることから、ラヴクラフトはユダヤの秘儀に目をむけたのだろう。なお、ディ・キャンプによれば、クルド人は古代メディア人の血をひく白色人種であり、イェジディ派は極端な信仰をもっているものの、温厚で振舞もおとなしいらしい。   『魔女の家の夢』 The Dream in the Witch House  一九三二年の一月から二月末にかけて執筆され、〈ウィアード・テイルズ〉の一九三三年七月号に発表された。 〈挿絵:魔女の家〉  古代の魔術を現代科学に結びつける本篇は、四次元を利用する旅、そして四次元の描写とともに、ラヴクラフトの科学志向を鮮やかに反映する作品といえるだろう。舞台となる魔女の家は、ラヴクラフトがソーニャとともに一九二三年に訪れた、セイレムに実在する住居をモデルにしているらしい。これは本篇でも言及される、ナサニエル・ホーソーンの祖先にあたるホーソーン裁判官とともに、一六九二年にセイレムの高等刑事裁判所で、二百名をこえる男女を魔術をふるった嫌疑でとりしらべた、ジョナサン・コーウィン裁判官の住居だったもので、現在では史跡の一つになって観光客のメッカとなっている。フィリップ・A・シュレフラーによれば、実際には南に面しているものの、屋根裏の壁は確かに傾斜しており、外壁と内壁のあいだには三角形の空間があるという。事実を巧みに小説にとりこむラヴクラフトの手法の一例だろう。アーカムがセイレムをモデルにしていながら、ラヴクラフトの作品においてはセイレムそのものもよくとりあげられ、本篇においてはホーソーン裁判官だけではなく、セイレムの魔女裁判にかかわったコットン・マザーまでが言及され、虚構の世界を事実で裏づけようとするラヴクラフトの手法がうかがえて興味深い。もっともラヴクラフト自身は、「いささか散漫なもの」(一九三三年十月二十四日付ナタリー・H・ウーリイ宛書簡)として、本篇をあまり気にいっておらず、発表する気もなかったが、オーガスト・ダーレスの尽力によって〈ウィアード・テイルズ〉に掲載され、ラヴクラフトに百四十ドルの原稿料をもたらした。なお本篇に登場する暗黒の男がナイアルラトホテップの顕現であることを指摘しておこう。それにしても十字架にひるむ魔女というのは、ラヴクラフトにしては陳腐なあつかいではないだろうか。 〈挿絵:コットン・マザー『不可視世界の驚異』〉   『ダニッチの怪』 The Dunwich Horror  一九二八年の夏に執筆され、〈ウィアード・テイルズ〉の一九二九年四月号に発表された。  ダニッチそしてアーカムを舞台に、ヨグ=ソトホースが人間の女と交接したことにより生まれた双子の恐怖を描ききる本篇は、魔道書を所蔵するミスカトニック大学付属図書館の描写、『ネクロノミコン』からの引用、とりわけヨグ=ソトホースの双子のありさまによって、『クルウルウの呼び声』や『インスマスの影』とともに、後に展開されるダーレスのクトゥルー神話の決定的な中核作品となっている。もっとも『ネクロノミコン』からの引用で明らかなように、クルウルウが旧支配者の存在をうかがうことしかできない縁者であるとされ、クトゥルー神話でのあつかいとまったく異なっている点を見逃してはならない。ラヴクラフトはクルウルウを、旧支配者に比べて力の劣る、とるにたらない存在としてあつかっているのである。既に本全集に収められた『狂気の山脈にて』の記述もこれを裏づけているといえるだろう。ダーレスはこの点に注意をはらわず、本篇があつかう正邪の抗争に目をつけ、これをクトゥルー神話に導入したのだった。 〈挿絵:The Dunwich Horror〉  ラヴクラフトが「アーカム・サイクルに属する作品」(一九二八年八月三十一日付クラーク・アシュトン・スミス宛書簡)と呼んだ本篇の舞台となるダニッチは、J・ヴァーノン・シーに宛てられた一九三一年六月十九日付の書簡から、「一九二八年に二週間滞在したマサチューセッツ州のさびれた北東部にある、ウィルブラハムという町」をモデルにしたものであることがうかがえる。確かにウィルブラハムのたたずまいは本篇の冒頭で描写されるものだが、フィリップ・A・シュレフラーはこれに対して、ダニッチの村落のたたずまいそのものは、こんもりした山にとりまかれ、クォボーグ河の流れるモンスンに似ているようだと指摘している。またディ・キャンプの指摘によれば、本篇で山頂にあるとされる列石といったものは、ニューイングランドにはよく見かけられるもので、ことにセイレム北部に位置するミステリイ丘の頂上には「生贄《いけにえ》のテーブル」と呼ばれる巨大な平石があるという。明らかにこれが、本篇のセンティネル丘とテーブル状の石のモデルだろう。さらにつけ加えるなら、コネティカットのムーダスという村では、爆発音にも似た原因不明の音がよく聞かれたものだと報告されているし、悪魔の舞踏園については、コネティカットに悪魔の舞踏園公園が実在して、チャップマンと呼ばれる滝があるという。ラヴクラフトは広く集めた情報を巧みに自作のなかにとりこんでいるのである。  なお本篇でとりあげられるウィルバーの日記について、ここに記されるアクロ文字やヴーアは、マッケンの『白魔』から借用されたものであり、サバオトが従来の訳では英語として万軍の主や安息日とうけとられていたが、これがグノーシス主義における悪魔的存在のアルコーンの名称であることを、この機会に指摘しておこう。 〈挿絵:モンスンの景色〉 〈挿絵:生贄のテーブル〉   『ネクロノミコンの歴史』 History of Necronomicon  一九二七年に執筆され、一九三八年にアマチュア出版のレベル・プレスより、表紙のないわずか四ページの冊子として追悼記念出版された。  ラヴクラフトがたわむれに記したこの原稿は、ラヴクラフトと文通していたウィリス・コノーヴァーの〈アマチュア・コレスポンデント〉に掲載されるべく、直筆の原稿が送られたが、結局ラヴクラフトの死後に発表されることになった。一九三七年二月下旬にH・O・フィッシャーに宛てられた書簡によれば、アブドゥル・アルハザードの『ネクロノミコン』はこのように生みだされたものだったらしい。   [#ここから2字下げ] アブドゥル・アルハザードという名前は、わたしが『アラビアン・ナイト』を読んでアラブ人になりたくてたまらなかった五歳のときに、誰かおとなの人が(誰だったか思いだせません)わたしのためにつくりだしてくれたものです。何年か後に、禁断の書物の著者の名前として使えばおもしろいだろうなと思いました。ネクロノミコン(vekpos 死体 vouos 掟 elkwv 表像――したがって使者の掟の表象あるいは絵)[#括弧内アルファベットは発音記号とギリシャ文字]という名称は、夢のなかで思いつきましたが、語源は完全に正しいものです。アラブ人の著者をギリシア語の標題をもつ書物にあてがうにあたって、わたしは気まぐれに状況を逆転させ、ギリシアのプトレマイオスの不朽の天文学の著作が一般にアラビア語の標題『アルマゲスト』(正確には『タブリル・アル・マゲスティ』)として知られている事実を利用しています。これはアラブ人たちが翻訳をしたときに、もとの書名が失われていたためです。もっとあとになってようやく、わたしは苦労して、ビザンティウムで翻訳された『ネクロノミコン』について、老アブドゥルのオリジナル版の正真正銘の書名を見つけだしました。『アル・アジフ』がそれです。この言葉は『ヴァテック』に付されたヘンリーの博識な註のなかに見つけました。孫引きですが、わたしは正確にこの言葉を使っています。 [#ここで字下げ終わり]    ちなみに『ネクロノミコン』をギリシア語表記すると、 To nekpovoulkov となる。