ラヴクラフト全集〈5〉 H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳 [#改ページ] 資料『ネクロノミコン』の歴史 History of Necronomicon [#改ページ] 『ネクロノミコン』の歴史 〈挿絵:ファンレーが描いたラヴクラフトの肖像〉   [#ここから2字下げ] 『ネクロノミコン』の執筆時(紀元 七三〇年)から現在にいたる、同書、 著者、種々の翻訳、諸版の歴史の概 略を、簡潔ながら完全に記す。 [#ここで字下げ終わり]   [#ここから7字下げ] H・P・ラヴクラフト著 [#ここで字下げ終わり] 〈挿絵: History of Necronomicon 表示〉 [#改ページ]  概略  原題『アル・アジフ』――アジフは魔物の吠え声と考えられた夜の音(昆虫の鳴き声)を示すためにアラブ人が用いた言葉。  紀元七〇〇年頃ウマイヤ朝のカリフの治世中に活躍したという、イエーメンはサナアの狂える詩人、アブドゥル・アルハザードによって著わされる。アルハザードはバビロンの廃墟とメンフィスの地下洞窟を訪れ、古代アラブ人にロバ・エル・カリイエ(虚空)、現代アラブ人にダーナ(深紅の砂漠)と呼ばれる、死の邪霊と怪物が護り住んでいるという、アラビア南部の大砂漠で十年間一人きりですごした。この砂漠については、走破したふりをする者たちによって、奇怪かつ信じがたい驚異が数多く語られている。アルハザードは晩年ダマスカスに住み、その地で『ネクロノミコン』(『アル・アジフ』)を執筆したが、アルハザードの最期あるいは消失(紀元七三八年)については、多くの恐ろしくも矛盾することがいわれている。イブン・カリカン(十二世紀の伝記作家)によれば、白昼通りで目に見えない怪物に捕えられ、恐怖のあまり立ちすくむ大勢の者のまえで、恐ろしくもむさぼり喰われたという。アルハザードの狂気についても、多くのことが語られている。アルハザードは伝説の円柱都市アイレムを見たと主張し、また名前のない砂漠の都市の廃墟の地下で、人類より古い種族の衝撃的な年代記や秘密を発見したと主張した。回教徒ではあったが、回教には無関心で、自らヨグ=ソトホース、クルウルウと呼んだ未知の実体を崇拝した。  紀元九五〇年、内密に流布されていたにもかかわらず、既に思想家のあいだでかなり取り沙汰されていた『アル・アジフ』は、コンスタンティノープルのテオドラス・フィレタスによって、『ネクロノミコン』の表題のもとにひそかにギリシア語に翻訳された。一世紀のあいだ、このギリシア語版『ネクロノミコン』は特定の実験精神旺盛な者たちをかりたてて恐ろしい企てをおこなわせたため、総主教ミカエルによって出版が禁止され、焚書《ふんしょ》処分にされた。この後は真偽の定かでないことしか伝えられていないが、中世に(一二二八年)オラウス・ウォルミウスがラテン語版を作成し、このラテン語版は二度――一度は十五世紀にゴチック体(明らかにドイツにおいて)で、いま一度は十七世紀におそらくはスペインで――印刷されている。両者ともに版元を示す記載はなく、刊行時期と刊行地は活版印刷の体裁からうかがうことしかできない。ラテン語版、ギリシア語版ともに、ラテン語版が作成されてまもなく耳目をひいたため、一二三二年に教皇グレゴリウス九世によって出版が禁止された。アラビア語の写本は、ウォルミウスの序文に記されているように、早くもウォルミウスの時代に失われている(しかし今世紀にひそかに所有されていたものが一冊サンフランシスコにあらわれ、後に火災で失われたという漠然とした風説がある)。  一五〇〇年から一五五〇年のあいだにイタリアで印刷されたギリシア語版は、セイレムに住んでいたある男の蔵書が一六九二年に灰儘《かいじん》に帰して以来、いまにいたるまで何の報告もない。ジョン・ディー博士がおこなった翻訳はついに印刷されることはなく、原稿から写しとられた断片が存在するだけである。ラテン語版については、現在一冊(十五世紀版)が大英博物館で錠をおろされたまま厳重に保管されていることが知られているほか、いま一冊(十七世紀版)がパリの国立図書館に保管されている。十七世紀版はハーヴァード大学のワイドナー図書館、アーカムのミスカトニック大学付属図書館、ブエノス・アイレス大学図書館に所属されている。おそらく秘密裡に何冊も存在するのだろうが、十五世紀版については、一冊が有名なアメリカの大富豪の蔵書になっていると噂されている。漠然とした噂によれば、十六世紀のギリシア語版をセイレムのピックマン家が保存していたということだが、もしそれが事実だとしても、一九二六年に失踪《しっそう》したR・U・ピックマンとともに姿を消してしまったのだろう。『ネクロノミコン』はほとんどの国の政府当局、あらゆる教会によって、厳格に出版が禁止されている。読めば恐ろしい結果がもたらされるだろう。噂《うわさ》によれば(一般大衆はほとんど知らないが)、R・W・チェンバースは初期の小説『キング・イン・イエロー』の着想を『ネクロノミコン』から得たという。   [#ここから0字下げ、折り返して2字下げ] 一 紀元七三〇年頃、ダマスカスにてアブドゥル・アルハザード『アル・アジフ』執筆。 二 紀元九五〇年、テオドラス・フィレタス『ネクロノミコン』としてギリシア語に翻訳。 三 紀元一〇五〇年、総主教ミカエルによって焚書処分(ギリシア語版のこと――アラビア語版は既に失われている)。 四 紀元一二二八年、オラウスによるギリシア語版からのラテン語訳。 五 紀元一二三二年、教皇グレゴリウス九世によりギリシア語版ラテン語版ともに発売禁止。 六 一四**年、ゴチック体版ドイツにて印行。 七 一五**年、ギリシア語版イタリアにて印刷。 八 一六**年、ラテン語版からスペイン語に翻訳。 [#ここで字下げ終わり] 〈挿絵:ラヴクラフト直筆原稿〉