ラヴクラフト全集〈5〉 H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳 [#改ページ] ダニッチの怪 The Dunwich Horror [#改ページ] [#ここから4字下げ] ゴルゴーン、そしてヒュドラ、そしてキマイラ――ケライノーならびにハルピュイアの凄絶《せいぜつ》な物語――は、俗信を奉ずる者の脳裡《のうり》にその姿をあらわすやもしれぬが、そもそもはじめから頭脳のなかに存在するものなのである。それらは表象、類型であり――われらのうちにある元型にして、永遠のものにほかならぬ。さもなくば、醒《さ》めた意識では莫迦《ばか》げたものだと知られる、かかるものの話が、われらの心をおびやかすわけがあろうや。われらの肉体を害する力があると考えられるがゆえに、かかるものに当然のごとく恐怖がいだかれるのか。さようなことは断じてない。これらの恐怖は遙《はる》かに古い起原をもつものである。肉体に先立つ――あるいは肉体がなくとも、その本質はかわるものではない……ここにあげられた類の恐怖が純粋に霊的なものであって――不可解なものであればあるほど恐怖がいやまし、その恐怖はわれらの無垢《むく》な幼児期において最も顕著なものであるという――この問題は解決するに困難なものといえど、これを解き明かしさえすれば、この世の誕生以前の状態をおおよそ洞察《どうさつ》して、天地創造以前の影の国をば覗《のぞ》きこむ程度のことはできるやもしれぬ。 ――チャールズ・ラム『魔女などの夜の恐怖』 [#ここで字下げ終わり]         1    マサチューセッツの北部中央を旅する者が、ディーンズ・コーナーズをすこしすぎたアイルズベリイ街道の分かれ道で、つい誤った道を進むと、うらわびしい一風変わった土地に入りこんでしまう。土地が登りになって高くなっていき、茨《いばら》に縁どられる石垣がほこりっぽい曲がりくねった道に迫ってくる。頻繁に目にはいる森林地帯の木々はあまりにも大きすぎるし、雑草、野薔薇《のばら》、緑草も、人が住みついているところではめったに見られないほどはびこっているように思える。それと同時に、植えつけのされた田畑はことのほか少なく、しかも貧弱なもので、まばらに点在する家屋は、歳月、薄汚さ、荒廃の度合が驚くほど均一な様相を呈しているようだ。朽ちかけた戸口の踏段や岩の散らばる草原の斜面に、ときおりやつれた者の姿がぽっつりと見かけられるが、道をたずねるのがなんとはなしにはばかられてしまう。無口で人目をしのんでいるようなところがあり、何かかかわりをもたないほうがいいような、禁断のものにでもでくわしたような気分にさせられるのだ。登りになった道を進むと、深い木立の上に山並が望まれるようになり、妙な不安感がつのりゆく。山頂があまりにも丸くて形がととのいすぎているため、心慰められる自然な感じはまるでなく、ときとして空を背景に、ほとんどの山の頂に立つ高い石柱の奇妙な輪が、目にも鮮やかにくっきりとうかぶこともある。  深さも定かでない渓谷や峡谷が道と交叉していて、そこに渡されている粗雑な木の橋は、安全なものかどうかが疑わしく思えるものばかり。道がまたくだりになると、湿地帯の広がりがあらわれるとはいえ、これは本能的な嫌悪を感じさせられるようなもので、夕暮どきになって、夜鷹《よたか》のウィップアーウィルが姿をあらわさないままけたたましく啼《な》き、異常なまでにおびただしい螢《ほたる》があらわれ、この螢が騒々しく鳴く牛蛙《うしがえる》の、耳障りで不気味に執拗《しつよう》なリズムにあわせて乱舞する頃になると、いかさま恐怖さえ感じられるほどだ。ミスカトニック河上流のきらめく細い水面が、源を発するドーム状の丘陵の麓《ふもと》に迫り、くねくね曲がって流れるさまは、妙に蛇の姿を思わせる。  山並に近づくにつれ、環状列石を戴く頂よりも木々に覆われた斜面に注意が惹《ひ》かれてしまう。山肌が黒ぐろと峻厳《しゅんげん》にそびえているため、距離をおきたくなってしまうのだが、逃れられるような道はない。屋根のついた橋のむこう、河の流れとラウンド山の垂直面のあいだに、家屋のひしめく小さな村が目にはいり、軒を連ねる朽ちかけた腰折屋根が近在のものより古い建築時期を示しているのを見れば、不思議な気持にさせられてしまう。仔細《しさい》にながめるなら、心騒がせられることに、大半の家屋が無人で倒壊しかかっており、尖塔《せんとう》の壊れた教会が、いまでは村で唯一の商店をだらしなくおさめるものになりはてているのがわかる。陰気で薄暗いトンネルのような橋を安閑と渡る気にはなれないが、これを避けて進める道はない。渡りおえてしまうと、さながら何世紀にもわたって腐葉土が堆積《たいせき》したような、かすかな悪臭が村の通りにこびりついているという、そんなはらいがたい印象をうけてしまう。この場所を離れ、山麓《さんろく》をめぐる細い道をたどり、そのむこうの平坦《へいたん》な土地に出て、またアイルズベリイ街道にもどると、かならず安堵《あんど》の気持に心が安らぐ。そうしたときに、ダニッチに入りこんだのだと教えられることもある。  よそ者がダニッチに足を運ぶことはめったにないし、ある恐怖の事件が勃発してからは、ダニッチを差し示す標識のすべてがことごとくとりはらわれてしまっている。通常の美的基準に照らせば、景色は並の美しさをこえるものだが、芸術家や夏の避暑客がここにおしかけることはない。二世紀まえ、魔女の血筋、悪魔崇拝、不思議な森の存在といったものが本気で信じられていた頃には、一般にこの地を避けるもっともな理由があった。しかるにこの分別ある時代においても――一九二八年のダニッチの恐怖の事件がこの村や世界の平安を心にかける者たちによってもみけされて以来――人びとははっきりした理由もわからないまま、ダニッチを忌避するようになっているのだ。おそらくその理由の一つは――事情を知らない外部の者にはあてはまらないとはいえ――昔からの住民がいまでは胸が悪くなるほど堕落してしまい、ニューイングランドの多くの孤立した場所ではよく見うけられる、退化の道をたどりつづけていることだろう。彼らは自分たちだけで一族を形成し、精神および肉体の両面において、頽廃《たいはい》と近親結婚の明瞭な特徴をおびているのだ。平均的な知性が痛ましいほど低い一方、彼らの行状の記録を見れば、歴然たる悪行、なかば秘められた殺人、近親相姦、いいようもない暴力と背徳の行為は枚挙にいとまがない。一六九二年にセイレムからやってきた、紋章をつける資格をもつ二、三の家を代表する古い家系の者たちは、どうにかあまねく広まる衰退をまぬかれてはいるものの、多くの分家はあさましい住民のなかに埋没して、その名前だけが自ら辱《はずかし》めている家柄を示すただ一つの鍵にすぎなくなってしまっている。ウェイトリイ家やビショップ家のいくつかは、まだ総領の息子をハーヴァードやミスカトニック大学に進学させているが、そうした息子たちで、自分や祖先が生まれた、朽ちかける腰折屋根の住居にもどってくる者はほとんどいない。  最近の恐怖にかかわる事実を知っている者であろうと、ダニッチにどのような問題があるのか、はっきりいいきれる者は誰もいないが、古い伝説が告げるところによると、かつてはインディアンの邪悪な儀式や秘密の集会がとりおこなわれ、大きな丸い山から禁断の影の存在が召喚され、荒あらしい狂乱の祈りが唱えられると、それに応えて地底深くから大音響がしたという。一七四七年には、ダニッチ村の会衆派教会に新しく赴任したアバイジャ・ホードリイ師が、悪魔やその眷族《けんぞく》の存在を間近に感じとりながら、注目すべき説教をして、そのなかでこういっている。   [#ここから1字下げ]  認めねばならぬことなれど、魔物どもの忌《いまわ》しき一団のかかる冒涜《ぼうとく》的なる行状、周知の事実なれば、否定することあたわず。砂漠の悪霊アザゼル、ブズラエル、はたまた悪魔ベルゼブル、ベリアルの呪われたる声の地底より聴かるること、いまや十を越ゆる信頼すべき者の証言あり。我もまた二週に足らざるまえ、吾が家の背後なる丘にて、邪霊どものまったく紛れもなき会話を耳にいたし、唸《うな》り、揺れ、まさぐり、ひっかき、はぎしりするがごとき、この世のものの断じてあげざる音あり、ただ黒魔術によってのみ見いだされ、悪魔そのものをおいて開くる者なき洞窟より発するに相違なし。 [#ここで字下げ終わり]    ホードリイ師はこの説教をなした後まもなく行方不明となったが、説教の内容はスプリングフィールドで印行され、それが現在もなお残っている。山のなかの音は毎年報告され、いまもなお地質学者や地形学者を困惑させているのだ。  別の言い伝えによれば、山頂にある環状列石の近くに悪臭がたちこめ、大峡谷の底の特定の場所で、一定の時間に、目には見えないものの突進する音が聞こえるという。さらに〈悪魔の舞踏園>――木も灌木も草もはえない荒涼とした不毛の山腹について説き明かそうとする別の伝承もある。そしてまた、昔から住みついている者たちは、暖かい夜に啼《な》きたてるウィップアーウィルという夜鷹の一種に、はなはだしい恐怖を抱く。この鳥は魂を下界に導く案内者とされ、死にゆく者の魂を待ち、いまはの際の苦しい息づかいにあわせて不気味な啼き声をあげるのだという。肉体を離れるときに、逃げゆく魂をとらえることができると、さえずりを悪魔めいた笑いにしてたちまち飛び去ってしまうが、とらえそこなうと、落胆してしだいに黙りこんでしまう。  これらの話はもちろん陳腐で莫迦《ばか》ばかしいかぎりだが、それというのもきわめて古い時代からもたらされているものだからである。ダニッチはまさしく途方もなく古い村なのだ――三十マイル以内の他の村落のどこよりもはるかに古い。村の南側では、一七〇〇年以前に建てられたビショップ家の古びた家屋の地下室の壁と煙突が、いまもなおのぞめる一方、一八〇六年に建てられた滝の水車場の廃墟が、目にできるなかで最も新しい建築物といったありさまなのだから。この地で産業は栄えることがなく、十九世紀の産業革命による工場建設の機運も長つづきはしなかった。この地で最も古いものは山頂にある荒く削られた大きな環状列石だが、これらは一般に定住者というよりはインディアンの手によるものだとされている。地中に埋もれた頭蓋骨《ずがいこつ》や骨が、こうした環状列石の内側や、センティネル丘の大きなテーブル状の岩のまわりで見いだされることは、これらの場所がかつてはポクムタック族の埋葬所だったという通説の裏づけになっているが、多くの民族学者は、莫迦ばかしい非合理なものだとしてこうした通説を退け、遺骨が白人のものにほかならないと断固主張している。         2    このダニッチの村の区域内において、村落から四マイル、一番近い隣家からも一マイル半離れた、山腹を背に建つ、一部使われぬ部屋もある大きな農家で、ウィルバー・ウェイトリイは一九一三年二月二日の日曜日の午前五時に生まれたのだった。この日がおぼえられているのは、ちょうど聖燭節にあたっており、ダニッチの住民はこれを別の名前で妙に祝うからでもあり、そしてまた、その前夜は夜通し山鳴りがして、犬という犬が執拗《しつよう》に吠えたてたからでもあった。さほど注意がはらわれなかった事実をあげるなら、母親は堕落したウェイトリイ家の血筋をひく、やや身体に障害のある不器量な三十五歳の白化症の女で、なかば狂った老齢の父親とともに暮していて、この父親については若い頃にはなはだ恐ろしい妖術の話が囁《ささや》かれたこともあった。ラヴィニア・ウェイトリイにはこれという夫はいなかったが、このあたりの習慣にしたがって、子供を堕ろすようなことはしなかった。父親が誰であるかについては、村人たちは勝手気ままに憶測をたのしむことができたし、事実そうしたのである。一方、ラヴィニアのほうはといえば、自らの病んだピンク色の目や白化症とはことさら対照的な、髪の黒い山羊《やぎ》のような幼児を、妙に自慢しているらしく、その子の異常な能力や途轍《とてつ》もない未来について、風変わりな予言を数多くつぶやいたという。  ラヴィニアはそういうことを口にしかねない女だったが、それというのも、雷雨の最中に山のなかをさまよったり、父親が二世紀まえのウェイトリイ家からうけついでいて、歳月と虫喰いによってぼろぼろになった、悪臭はなつ書物を読みふけったりするような、孤独な女だったからだ。学校に行ったことはなかったものの、父親の老ウェイトリイに教えこまれた太古の伝承を、雑然と頭に詰めこんでいた。隣家からも離れた農家が常に恐れられていたのは、老ウェイトリイが黒魔術をおこなうという噂のためであり、そしてラヴィニアが十二のとき、母親が不可解な変死をとげたことによって、この農家の評判は一層悪化してしまった。こうした尋常でない孤立した環境の影響をうけるまま、ラヴィニアはあられもない奔放な白日夢と風変わりな仕事にふけることを好むようになった。そしてひまな時間を家事に費すというようなこともなかったため、ごくあたりまえの秩序や清潔さといったものは、とうの昔に家から姿を消してしまっていた。  ウィルバーが生まれた夜、山鳴りや犬の吠え声をしのいで絶叫があがったが、出産に際して医者や産婆が立ちあったという事実はなかった。隣人たちがウィルバーの誕生を知ったのは、一週間後、老ウェイトリイが雪のなかを橇《そり》でダニッチ村へ行き、オズボーンの雑貨店にたむろしていた連中にとりとめもない話をしたときのことだった。ありふれた家庭内の出来事にとりみだすような男ではなかったというのに、老ウェイトリイには以前とはうってかわったところがあったらしい――ふさぎこんでいるばかりか、妙に人目をうかがうところがあって、いままで人びとに恐れられていた老ウェイトリイ自身が何かを恐れるという、微妙な変化がおこっているようだった。そうではあっても、後に娘に気づかれるのとおなじ自尊心のいくばくかを示して、そのとき子供の父親についてしゃべった言葉は、それを聞いた者の多くが何年も忘れずにおぼえこむことになった。 「みんながどう思おうが、わしは気にもしねえさ――ラヴィニアの子供が父親に似とって、おまえたちの想像もつかねえ姿をするようになることはな。このあたりにいるのが自分たちだけだとは、おまえたちも思わねえほうがいい。ラヴィニアはちょっと本を読みかじって、おまえたちのほとんどが口先だけでしかいえねえようなすげえものをば、ちゃんと目のあたりにしとるのよ。わしが思うに、ラヴィニアの亭主は、アイルズベリイのこっちがわで見つけだせる最高の男だな。わしくらい山のことをよう知らねえかぎりは、教会で結婚式をあげたほうがええとか、あれこれラヴィニアにいわねえこった。ついでにいっとくが――ラヴィニアの子供がセンティネル丘のてっぺんで親父さまの名前を呼ぶのを、いずれそのうち耳にすることになるだろうよ」  子供が生まれて最初の一ヵ月のうち、その子ウィルバーを目にしたのは、まだ堕落してはいないウェイトリイ家の年老いたゼカライア・ウェイトリイと、アール・ソーヤーの内縁の妻、マミー・ビショップだけだった。マミーが訪れたのは率直にいって好奇心にかられてのことで、それが証拠に見聞きしたことをあとで存分に吹聴したものだが、ゼカライアのほうは、息子のカーティスが老ウェイトリイに売ったオールダニー種の乳牛を二頭届けにいったのだった。幼いウィルバーのいる家族はこれをきっかけに牛を買いつづけるようになり、これがついに沙汰やみになったのは一九二八年のことで、まさにこの年、ダニッチの恐怖が猛威をふるって退去したのだが、ウェイトリイ家の崩れそうな納屋に牛がひしめいていたことは、ただの一度たりとてなかったらしい。いつしか人びとが好奇心をつのらせ、こっそりしのびよっては、古い農家をのぞむけわしい斜面で、あぶなっかしく草をはんでいる牛の数をかぞえた時期もあったが、牛は常に十頭ないし十二頭をこえることがなく、いずれも青白くて血の気がないように見えたという。どうやら有害な牧草か病んだ菌類、はたまた悪臭はなつ納屋の材木から発生したとおぼしき、何か害虫による腺疫にでも冒されたらしく、ウェイトリイ家の動物はことのほか死亡率が高かったようだ。まるで切り裂かれたような奇妙な傷やただれが、目にはいる牛に見かけられたらしく、子供が生まれて最初の何ヵ月かのあいだに訪れた一部の者は、灰色の髭《ひげ》をそることもなくはやした老人、そして縮れた髪をだらしなくのばした白化症の娘にも、喉《のど》のあたりにおなじようなただれを、一、二度見たように思ったという。  ウィルバーが生まれて最初の春に、ラヴィニアは左右の長さのちがう腕に浅黒い赤児を抱きながら、また例によって山のなかをさまよい歩くようになった。その幼児を目にしてからは、ウェイトリイ家に対する村人たちの詮索もおさまって、その子が日々に示しているような速やかな成長についても、誰ひとり話題にする者はなかった。ウィルバーの発育は異常きわまりないもので、生後三ヵ月とたたないうちに、満一歳の幼児にさえまれな体格と筋力を備えるまでになったほどだった。動作、そして発声さえも、幼児期としてはことさら異様なまでに、抑制された慎重なところがあって、誰もが予想すらしなかった七ヵ月目に、助けをかりずに歩きはじめ、最初はさすがによろけたものの、一ヵ月もすると立派に歩けるようになったのだった。  このすこしあと――万聖節の前夜に――センティネル丘の頂上、太古の人骨の埋まる塚の只中に立つ古びたテーブル状の岩に、深夜大きな火炎の燃えあがるのが目撃された。サイラス・ビショップ――まだ堕落してはいないビショップ家の者――が、その火炎が見かけられる一時間ほどまえに、ウィルバーが母親の先に立ってその山を元気にかけ登っていくのを目にしたといって、かなり詳しい話をしたものだ。それによると、サイラスは囲いから迷いでた若い牝牛《めうし》を追いたてていたのだが、角灯の投げかけるぼんやりした光のなかに、つかのま二人の姿を見かけたときには、あやうく仕事のことも忘れそうになったという。ウィルバーとラヴィニアの二人は、ほとんど音もたてずに下生えのなかを駆けぬけていき、驚いたサイラスには二人が丸裸だったように思えたらしい。あとになってサイラスは、子供の恰好《かっこう》については確信がもてなくなり、黒っぽいトランクスかズボンを身につけ、房飾りのあるベルトをしめていたのかもしれないといっている。その後ウィルバーは、人まえに出るときはかならずボタンをすべてとめた、すきのない恰好をして、服を乱されたり、乱されそうになったりすると、決まって怒りと不安を満面にあらわしたらしい。この点において、あさましい恰好の母親や祖父との対照は著しいものと思われたが、それも一九二八年に恐怖の事件が勃発するにおよんで、もっともな理由がほのめかされたのだった。  次の年の一月、「ラヴィニアのまっ黒な小僧」がわずか十一ヵ月目にしてしゃべりはじめた事実に、村人たちが興味を示して噂話がそこそこ花を咲かせた。ウィルバーのしゃべりかたはいささか驚かされるもので、このあたりの通常のなまりとはちがっていて、しかも三つや四つの幼児の多くなら自慢してもいいような、舌ったらずな言葉づかいとはおよそ無縁だったのだ。あまりしゃべらない性質《たち》だったが、しゃべるときには、ダニッチやその住民がまったくもってあずかり知らない、何か不可解なものを感じさせたという。その風変わりな点は、ウィルバーがしゃべる内容や、ウィルバーの使う単純な言葉などにあるのではなく、その口調や、声を生みだす発声器官にどことなく結びついているように思われた。顔つきさえも、おとなびていることで驚かされるものだった。母親や祖父とおなじ貧弱な顎をしていたものの、早ばやと形もととのってがっしりした鼻は、ほとんどラテン系といってもいい、大きくて黒い目の表情とあいまって、まるでおとなのような見かけと、まったく尋常ならざる知性の雰囲気をかもしだしていた。けれど聡明そうな見かけにもかかわらず、ウィルバーははなはだ醜かった。ほとんど山羊《やぎ》を思わせる動物じみたところが、分厚い唇にも、大きな毛穴のある黄色がかった肌にも、縮れたこわい髪にも、妙に長い耳にも認められた。まもなくウィルバーは母親や祖父さえよりも断固として嫌われるようになり、老ウェイトリイにまつわるかつての魔術譚がむしかえされるばかりか、環状列石の只中で大きな書物を腕にかかげて広げ、ヨグ=ソトホースという慄然《りつぜん》たる名を叫ぶや、山が鳴動したとかいう話が、ウィルバーについての憶測すべてに彩《いろど》りをそえるようになったのだった。犬という犬が少年を毛嫌いするので、ウィルバーは吠えたてる犬に襲われないよう、常にさまざま身を護る手段を講じなければならないほどだった。         3    一方、老ウェイトリイは牛を買いつづけたものの、その数を多少なりともふやすことはできずにいた。材木を切って、いままで使われなかった部屋の修理もはじめていた――家は尖《とが》り屋根のある広びろとしたもので、裏の端が岩の多い山腹に完全にもぐりこんでいて、いままでは一番荒廃の度合の少ない一階の三部屋だけで、老ウェイトリイと娘には十分だったのだ。かなりきつい作業をやりとげたことからして、老人には途轍《とてつ》もない体力がたくわえられていたにちがいなく、あいかわらずときとして気違いじみたことを口にしていたものの、その大工仕事の出来栄えは、確かな計算のうえになりたっていることを示しているようだった。ウィルバーが誕生してまもなく作業は開始され、数多くある道具小屋の一つが急に整頓され、下見板をはられ、頑丈な新品の錠が備えられるにいたった。そしていままで使われなかった二階の修理をする段になると、老ウェイトリイは徹底した職人の腕を発揮した。気違いじみたところがあらわれているのは、修復した箇所の窓という窓をすっかり板でふさいでしまったことだけだった――もっともわざわざ修理をすること自体が気違いじみているのだと、そう断言する者も多くいた。さほど不可解なことではないが、新しい孫のために下の部屋が改装されている――その部屋は何人かの訪問者が目にしているものの、厳重に密閉された二階に通された者は誰もいない。老ウェイトリイは孫の部屋に何段もある頑丈な高い棚を設け、かつてはさまざまな部屋の隅に雑然と積みあげられていた、完全なものもあれば一部が失われているものもある崩れかかった古書を、どうやら注意深い配列でならべるようになった。 「わしもすこしは利用したがな」錆《さび》ついた台所のストーヴで糊を準備し、破れたゴチック書体のページをつくろいながら、老ウェイトリイはそんなことをよくいったものだった。「あの子はわしよりも利用できるはずだろうて。できるだけ身につけるべきなんだ。こういったものからしか学びとれんのだからな」  ウィルバーが一歳七ヵ月になると――一九一四年の九月のことだが――体格といい、することといい、ほとんど人をたまげさせるほどに生育していた。四歳児くらいの背丈があり、しゃべりかたも流暢《りゅうちょう》で、信じられないような知性を感じさせるものだった。野原や山を自由に駆けまわり、母親が出歩くときはいつも一緒についていった。家にいるときは、祖父の書物に記されている奇妙な挿絵や図を熱心にながめこみ、祖父の老ウェイトリイも、静まりかえった長い午後じゅうを費して、孫にあれこれ教えこんだり、さまざまな問いかけをしては孫の知識を確かめたりしたものだ。この頃には家の修復がおわっていて、出来栄えをながめた者たちは、二階の窓が一つだけ、どうして堅材をつかった扉にかえられたのかと、不思議に思った。それは東の切妻の裏に設けられていた窓で、山の斜面にせまっているため、いかなる理由で地面からそこまで、滑りどめつきの木製の傾斜路が備えられたのかは、まったく想像もつかなかった。修復作業が完了する頃になると、ウィルバーの誕生以来、厳重に鍵をかけられ窓もすべて板ばりにされていた古い道具小屋が、またないがしろにされていることが気づかれた。扉が鈍重に開いて揺れており、アール・ソーヤーが一度、老ウェイトリイに牛を売りにきたあとでなかに入りこんだとき、独特の悪臭をかいで、ひどくとりみだしてしまったという――アール・ソーヤーはこのことを話して、ああいう悪臭は山頂にあるインディアンの環状列石の近く以外でかいだことがなく、健全なものやこの世のものから発するわけがないと断言したものだ。しかし当時は、ダニッチの住民の家屋や小屋が、およそ臭気の点で申し分のないものだったわけではない。  つづく数ヵ月のあいだは、目にたつ出来事は何もなかったものの、ただ謎めいた山鳴りが、ゆるやかとはいえ着実に高まっていることを、誰もが口をそろえて認めていた。一九一五年の五月祭の前夜には、アイルズベリイの住民さえ感じるほどの地鳴りが何度もおこり、さらに万聖節の前夜には、センティネル丘の頂上から――「ウェイトリイの連中の仕業だ」とされる――火炎があがるとともに、妙に火炎の動きに同調して地鳴りがおこったのだった。ウィルバーは気味悪いまでに生育していて、四歳になったときには十歳の少年のように見えたほどだった。その頃には自分一人で貪欲《どんよく》に書物を読みふけっていたが、以前にもまして口数が少なくなっていた。むっつりと黙りこくるばかりで、山羊《やぎ》を思わせるその顔に邪悪な表情が宿っていると、そんなことを人びとがいいだしたのも、この頃のことである。ときとして耳慣れない不可解な言葉をつぶやいたり、聞く者をいいようもない恐怖におとしこむ異様な調子で、何事かを唱えたりすることがよくあった。犬に毛嫌いされていることは既に広く知れ渡り、ウィルバーは近郊を無事に歩くために拳銃を携行しなければならないほどだった。こんな武器をときおり使うものだから、番犬を飼っている者たちのあいだでは、ことにウィルバーのうけがよくなかった。  家にときたま訪れるわずかな者は、ラヴィニアが一階に一人きりでいる一方、窓が板でふさがれた二階で叫び声や足音がひびくことによく気がついた。ラヴィニアは父親と息子が二階でしていることについて話したことはないが、一度など、おどけ者の魚売りが階段に通じる閉ざされた扉を開けようとしたときには、顔色も青ざめ、異常なまでにおびえたことがある。その魚売りがダニッチ村の雑貨店にたむろする連中に告げたところによると、二階の床を馬が踏み鳴らしでもしているような音がしたという。その話を聞かされた連中は、扉と傾斜路のことや、牛がたちまち消えてしまうことに思いをはせ、深く考えこんだあげく、老ウェイトリイの若い頃の噂や、しかるべきときに若い牡牛《おうし》を異教の神々に生贄《いけにえ》として捧げると、大地から奇怪なものが呼びだされるという話を思いだし、わなわなと身を震わせてしまった。しばらくのあいだ気づかれたことだが、犬という犬が幼いウィルバーに示すのと同様の敵意と恐怖を、ウェイトリイ家の土地にまで示すようになりはじめた。  一九一七年にアメリカが大戦に参戦すると、地主のソーヤー・ウェイトリイが地元の徴兵選抜委員会の委員長として、割当員数をこなそうとしたが、初年兵訓練所に送りこむにふさわしい、ダニッチの若者を見つけることにさえ苦労した。政府はこの地方全体に頽廃《たいはい》の徴候が見うけられることに驚き、数名の役人と医務官を派遣して徹底的な調査をおこなわせたが、かかる経緯はニューイングランドの新聞によって報道されたから、まだ記憶にとどめている読者もいるかもしれない。この調査にともない、判明した事実が公表されたがために、記者たちがウェイトリイ一家のことを調べあげ、『ボストン・グローブ』紙と『アーカム・アドヴァタイザー』紙がどぎつい日曜版の記事で、幼いウィルバーの早熟ぶり、老ウェイトリイの黒魔術のおこない、書棚にならぶ奇怪な書物、古い農家の鎖された二階、山鳴りやあたり一帯の不気味さといったものについて、さかんに書きたてたのだった。ウィルバーは当時四つ半だったが、十五歳の少年のように見えた。唇と頬《ほお》は粗く黒っぽい毛におおわれ、声がわりがはじまっていた。  アール・ソーヤーが一団の記者とカメラマンをしたがえてウェイトリイ家にでむき、いまや密閉された二階からもれているように思える奇妙な悪臭に、一行の注意をむけさせた。アール・ソーヤーの告げるところでは、その悪臭は家の修理がおわったとき、ないがしろにされてしまった道具小屋でかいだものとまさしく同一で、ときおり山頂にある環状列石の近くでかぎとれる、かすかな悪臭にも似ているとのことだった。ダニッチの住民は新聞に掲載された記事を読み、歴然たるまちがいを見つけだしてはほくそえんだ。そしてまた、老ウェイトリイが牛の代金をいつもきわめて古い年代の金貨で払う事実を、どうして記者たちが重視するのかと、不思議に思いもした。記者たちと応対するにあたって、ウェイトリイ家の者たちは不愉快な気持を隠しきれずにいたものの、手ひどく門前ばらいをくらわせたり取材を拒否したりして、さらに悪名を高めるようなことまではしなかった。         4    それから十年間というもの、ウェイトリイ家の行状は、病的な社会のありふれた生活のなかに見わけがつかないほど埋没してしまい、村人たちもウェイトリイ家の奇妙なやりかたには慣れっこになって、ウェイトリイ家の者が五月祭前夜や万聖節に騒ぎたてることにも関心をなくしてしまった。一年に二度、ウェイトリイ家の者はセンティネル丘の頂で炎をたきつけるのだが、そのときおこる山鳴りは回を重ねるたびに激しさを増していく一方、うらわびしい農家では、四季を通じて奇怪かつ不吉なことがおこなわれていた。この頃に訪れた者たちは、家族全員が一階にいるときですら、閉ざされた二階から物音が聞こえたと証言しているし、牝牛《めうし》や牡牛《おうし》の生贄《いけにえ》にされる周期が不規則なことをいぶかしんでもいる。動物虐待防止協会に苦情をもちこむという話ももちあがったが、ダニッチの住民は外部の注意をひくことを好まないため、これは沙汰《さた》やみになってしまった。  一九二三年頃、ウィルバーが十歳になって、知性といい、声といい、体つきも髭《ひげ》のはえた顔つきも、すっかりおとなびてしまったとき、古い農家に二度目の大規模な改築がおこなわれた。密閉された二階の内部全体が対象で、村人たちは廃棄された材木の断片から、ウィルバーが祖父とともに、内部の仕切りはおろか屋根裏部屋まですべてとりのぞいて、一階と尖り屋根のあいだに広大な空間を造りだしたのだと結論づけた。家の中央にあった大きな煙突もとりこわされ、外部に貧弱なブリキの煙突を突出す錆《さび》ついた竈《かまど》が備えられた。  この出来事の後に訪れた春のことだが、コールド・スプリング渓谷からやってきて、夜に窓辺でさえずる夜鷹《よたか》のウィップアーウィルが、しだいに数を増していくことに、老ウェイトリイは気づいた。そしてこれを何か大きな意味のあることと思ったらしく、オズボーンの雑貨店にたむろする連中に、もうすぐわしの寿命もつきそうだといったものだ。 「いまじゃ、わしの息づかいにぴったりあわせて、あいつらが啼《な》きたてよるのさ」老ウェイトリイはそういった。「わしの魂をつかまえようと、手ぐすねひいとるんじゃろうて。わしの魂がそろそろ脱け出す頃じゃとわきまえて、のがさないよう抜かりなくやっとるのさ。わしが死んだあと、あいつらがわしの魂をつかまえるかどうかは、おまえたちにもいずれわかるじゃろうよ。つかまえたときには、あいつらは夜が明けるまで、さんざん啼きたてよるからな。つかまえられなかったときには、黙りこくってしまいよる。わしも覚悟はつけとるし、あいつらの狙う魂というものは、どえらい抵抗をすることもあるのさ」  一九二四年の収穫祭の夜、ウィルバー・ウェイトリイが闇をついてただ一頭残っている馬を走らせ、村のオズボーンの雑貨店から電話をかけたことで、アイルズベリイのホートン医師が急遽《きゅうきょ》呼《よ》びだされた。ホートン医師は老ウェイトリイがきわめて由々しい状態にあり、心臓の動きと喉《のど》を鳴らす息づかいから、死期がほど遠くないことを見てとった。不恰好《ぶかっこう》な白化症の娘と妙に髭の多い孫とがベッド脇に立っている一方、頭上のうつろな空間から、波が浜辺に寄せているような、一定の間隔をおいてうねる何とも心騒がされる音が聞こえていた。しかし医師がもっぱら不安にさせられたのは、外でさえずる夜鳥によってだった。おびただしいウィップアーウィルの群が、さながら悪魔のように、瀕死《ひんし》の男の苦しいあえぎにあわせ、果しない死の予兆を繰返し告げていたのだ。不気味かつ異常なことだった――緊急の呼びだしをうけてしぶしぶやってきたというのに、これではあんまりだと、ホートン医師は思ったものだ。  一時近くになると、老ウェイトリイは意識をとりもどし、喉をつまらせながらも孫に言葉をかけた。 「もっと広くするんだ、ウィリー。すぐにもっと広くな。おまえは大きくなるし――あいつはおまえよりも早く大きくなるはずだ。もうすぐおまえの役にたつようになる。完全な版の七五一ページにある長い祈りを唱えて、ヨグ・ソトホースの門を開けたあと、牢屋に火をつけるんだ。地上の炎で焼かれることはないからな」  老ウェイトリイはどうやら完全に狂っているらしかった。しばらく沈黙がつづき、その間、戸外のウィップアーウィルの群が啼きたてる調子を変える一方、異様な山鳴りらしき音が遠くから聞こえてきた後、老ウェイトリイがまた孫にいった。 「きちんと食べものをやるんだぞ、ウィリー。量に気をつけてな。早く大きくさせすぎて、あそこにおさまりきらんようにさせてはいかん。おまえがヨグ=ソトホースの門を開けるまえに、あれが壁を破ったり、外にとびだしたりしたら、何もかもおしまいになって、無駄になってしまうからな。彼方《かなた》から来るやつらだけが、あれをふやして働かせることができるんじゃ……もどりたがっとる、古《いにしえ》のものだけが……」  しかし喉《のど》がつまって言葉がとぎれ、ウィップアーウィルがこれにあわせて啼きたてる調子を変えたことで、ラヴィニアが悲鳴をあげた。一時間以上おなじ状態がつづいたが、やがて老ウェイトリイは最後に喉を鳴らして息をひきとった。ホートン医師がどんよりした灰色の目に収縮した目蓋《まぶた》を閉ざしてやったとき、夜鳥の啼きたてる声はいつのまにかおさまっていた。ラヴィニアは泣きくずれたが、ウィルバーはふくみ笑いをしただけで、山鳴りがかすかにひびいた。「魂がつかまえられることはなかったのさ」ウィルバーが低い声で重おもしくいった。  ウィルバーはこの頃には、偏頗《へんぱ》なやりかたとはいえ実に途轍《とてつ》もない博識を備えた学者になっていて、昔の稀覯《きこう》書や禁断の書を所蔵する遠方の図書館と手紙をやりとりすることで、多くの図書館員にそこそこ名を知られていた。ダニッチのあたりでますます嫌われ、恐れられるようになっていったのは、若者たちの失踪《しっそう》にからんで、その嫌疑がかけられたためだったが、あるいは恐怖を利用し、あるいは古い金貨にものをいわせて、常に取調べをかわすことができ、金貨といえばあいかわらず、祖父が生きていた頃と同様に、牛を購入するにあたってしだいに量を増して定期的にもちだされていた。ウィルバーはこの頃には驚くほどおとなびた容貌になっていて、既に普通の成人のものほどになっていた身長は、この先もまだ伸びつづけそうな気配だった。一九二五年、文通をしていたミスカトニック大学の学者がある日訪れ、顔色も青ざめ、とまどいながら立ち去ったが、このときの身長は優に六フィート九インチ[#約2メートル]に達していた。  月日が流れるうち、ウィルバーはなかば奇形で白化症の母親をますます蔑《さげす》んであしらうようになり、やがては五月祭前夜や万聖節に母親が山へ同行するのを禁じてしまい、そして一九二六年には、哀れな母親が息子をこわがっていることを、マミー・ビショップにこぼしている。「わかってても、口にはできんことが、あの子にはたんとあるんです」ラヴィニアはそういった。「それに最近じゃ、あたしにもわからねえことがたんとありますし。まったくもう、あの子が何を考えてるのか、何をしたがってるのか、さっぱりわかりませんよ」  その年の万聖節前夜には、山鳴りがいつにも増して大きくひびき、センティネル丘ではいつものように炎が燃えあがったが、それよりも村人たちの注意をとらえたのは、不自然にも季節はずれのウィップアーウィルの大群が、調子をあわせて啼《な》きたてて、ウェイトリイ家の灯一つささない農家の近くに集まっているらしいことだった。真夜中をすぎると、けたたましい啼き声は耳をつんざく万魔殿の哄笑《こうしょう》のようなものにまで高まり、あたり一帯にひびきわたって、ようやく静まったのは夜が明けてからのことだった。夜明けにはウィップアーウィルも、急ぎ南に飛びたって姿を消したが、この移動は例年より遅れること一ヵ月におよんでいた。これが意味することは、あとになるまではっきりしたことは誰にもわからなかった。村人の一人として、その夜に死んだ者はいそうになかったからだ――もっとも哀れなラヴィニア・ウェイトリイ、不具で白化症の女は、その後ふたたび見かけられることがなかった。  一九二七年の夏、ウィルバーは敷地内の小屋を二軒修理して、書物など雑多なものをそこに移しはじめた。その後まもなく、アール・ソーヤーがオズボーンの雑貨店にたむろする連中に語ったところによると、ウェイトリイの農家ではさらに大工仕事がおこなわれているとのことだった。ウィルバーは一階の扉も窓もすべて閉めきり、四年まえに祖父とともに二階に対しておこなったように、一階の仕切りをとりさっているようだった。そして小屋の一つで暮していたが、ソーヤーにはウィルバーが異常なまでに心痛をつのらせ、恐れおののいているように思えたらしい。村人たちは概して、ウィルバーが母親のいなくなったことについて何か知っているはずだと思っていて、いまではウィルバーの住居近くに足をむけようとする者もほとんどいなくなっていた。ウィルバーの身長は七フィート[#2・1メートル]をこえ、成長がとまりそうな気配はまるでなかった。         5    その年の冬は、ウィルバーがはじめてダニッチの外に出たことほど、異様きわまりない出来事はほかになかった。ハーヴァード大学のワイドナー図書館、パリの国立図書館、大英博物館、ブエノス・アイレス大学、そしてアーカムのミスカトニック大学付属図書館と手紙のやりとりをしていたウィルバーだったが、ぜひとも手にいれたい書物の借覧が許されず、しかたなく地理的に一番近いミスカトニック大学で閲覧させてもらうため、みすぼらしくも薄汚い恰好で、髭《ひげ》を伸ばし放題にしたまま、野暮な方言もまるだしで、直接でむくことにしたのだった。身長八フィート[#2・4メートル]におよび、オズボーンの雑貨店で買った新品の安っぽい旅行用手さげ鞄《かばん》をもったウィルバーは、大学の付属図書館で鍵つきの保管庫に収められた恐ろしい書物を求め、色浅黒い山羊《やぎ》のばけもののような姿をある日アーカムにあらわした――その書物とは、狂えるアラブ人アブドゥル・アルハザードの著わした、慄然《りつぜん》たる『ネクロノミコン』のオラウス・ウォルミウスによるラテン語版で、十七世紀にスペインで刊行されたものだった。ウィルバーはアーカムの街を目にしたことはなかったが、大学構内に行く道を見つけることしか頭にはなかった。事実、大学構内に入ったときも、ついうっかりとそばを通りがかったため、白い牙をもつ大きな番犬が、頑丈な鎖をひきちぎらんばかりの勢いで、異常な激怒と敵意を見せて吠えたてたほどだった。  ウィルバーは祖父から遺言で譲られた、貴重とはいえ不完全なジョン・ディー博士による英訳版を携えてきており、ラテン語版を借りだして手にするや、自分のものでは欠陥のある七五一ページの文章を見つけるため、ただちに二冊の書物を対照しはじめた。この目的だけは、ウィルバーもさすがに図書館長に隠しとおすわけにはいかなかった――図書館長は一度ウィルバーの農場を訪れたことのある、学識豊かなヘンリー・アーミティッジ(ミスカトニック大学文学修士、プリンストン大学哲学博士、ジョンズ・ホプキンス大学文学博士の学位をもつ人物)で、如才なくウィルバーにさまざまな質問をして探りをいれたのだった。したがってウィルバーも、ヨグ=ソトホースという恐ろしい名前をふくむ、呪文ないしは祈りのようなものを探していること、自分のもっている版では矛盾や重複や食いちがいがあって途方にくれ、はっきり断定するのがむつかしいことを認めないわけにはいかなかった。ウィルバーがようやく呪文を選びだして書き写しているとき、アーミティッジ博士は何気なくウィルバーの肩ごしに開かれたページをのぞきこんだが、ラテン語版の左側のページには、世界の平穏と静謐《せいひつ》に対して恐るべき脅威となるようなことが記されていた。アーミティッジ博士が頭のなかで翻訳した文章は次のようなものだ。   [#ここから1字下げ]  人間こそ最古あるいは最後の地球の支配者なりと思うべからず、また生命と物質からなる尋常の生物のみ、此の世に生くるとも思うべからず。〈旧支配者〉かつて存在し、いま存在し、将来も存在すればなり。我等の知る空間にあらぬ、時空のあわいにて、〈旧支配者〉のどやかに、原初のものとして次元に捕わるることなく振舞い、我等見ること能《あた》わず。ヨグ=ソトホースは門を知れり。ヨグ=ソトホース門なれば。ヨグ=ソトホース門の鑰《かぎ》にして守護者なり。過去、現在、未来はなべてヨグ=ソトホースの内に一なり。〈旧支配者〉のかつて突破せしところ、ふたたび突破せんとするところ、ヨグ=ソトホースこれを知る。〈旧支配者〉かつて大地を踏みにじりし所、いまなお踏みにじりたる所は云うにおよばず、かかる〈旧支配者〉の見えざる理《ことわり》をもヨグ=ソトホースこれを知れり。人は臭によりて〈旧支配者〉気近《けぢか》しとて悟ることままあれど、〈旧支配者〉の姿につきては知ること能わず、唯〈旧支配者〉と人類との交種に現わるる特徴をよすがに窺《うかが》いうるも、此は千差万別にして、人間の最も真なる姿をとることもあらば、〈旧支配者〉のものなる、実体を有せざる不可視の姿をとることもあらん。〈旧支配者〉見えざるまま、悪臭放ちながら跋扈《ばっこ》せし荒蓼《こうりょう》たる在処とは、〈旧支配者〉の盛んなる季《とき》、〈言葉〉、これが唱えられ、〈儀式〉、これの叫呀《きょうが》せられん所なり。〈旧支配者〉の声と共に風はおらび、〈旧支配者〉の意識と共に大地はことさやがん。〈旧支配者〉は森を撓《たわ》め、邑《まち》を砕くも、森にまれ邑にまれ、襲いかかる手を見ることなし。凍てつく荒野のカダス〈旧支配者〉を知るも、人はカダスにつきて何をか知らん。南の氷の荒野、はたまた大洋に沈みし島々、〈旧支配者〉の印の刻まれたる石を有すれど、海底深く凍てつきたる都市、はたまた海藻《かいそう》と富士壺の絡みこびりつく鎖されし塔、何人の目にとまりしや。大いなるクルウルウ〈旧支配者〉の縁者なるも、莫々《ばくばく》として〈旧支配者〉を窺うにとどまりたり。イア! シュブ=ニグラス! 汝《なんじ》は悪臭放つものとして〈旧支配者〉を知るばかりなり。〈旧支配者〉の手、汝の首にかかりたれど、汝〈旧支配者〉を見ることなく、〈旧支配者〉の棲《すまい》いたすところ、汝が護り固めたる戸口ならん。ヨグ=ソトホースは星辰《せいしん》の出会いし門の鑰なり。人がいま支配せし所はかつて〈旧支配者〉の支配いたせし所なれば、〈旧支配者〉ほどなく、人のいま支配せるところを再び支配致さん。夏の後には冬来たり、冬過ぐれば夏来たるが道理なり。再度この地を統《す》ぶる定めなるが故、〈旧支配者〉その力を秘めて弛《たゆ》まず待ちうけたり。 [#ここで字下げ終わり]    アーミティッジ博士はこうして読んだ文章を、これまで耳にしたダニッチとその地にわだかまる存在、そしてウィルバー・ウェイトリイ本人と、謎めいた出生から母親殺しの嫌疑にいたるまでのウィルバーにまつわる漠然とした妖気とを考えあわせ、墳墓に吹くじとじとした冷風のように、それと感じられるほどの恐怖を身内におぼえた。目のまえで背をかがめている山羊のばけもののような巨人が、別の惑星あるいは別の次元の落とし子のように思われた。人間の要素はごく一部だけにすぎず、巨大な幻影のように本質と実体とが、力と物質、空間と時間のあらゆる領域をこえて広がる、黯黒《あんこく》の深淵に結びついているように。まもなくウィルバーが顔をあげ、発声器官が人間のものとは異なっていることをほのめかす、あの異様な、ひびきわたる声でしゃべりはじめた。 「アーミティッジさん」ウィルバーはいった。「どうやらこの本を家にもって帰らねばなんねえようなんですがね。ここではできねえ、しかるべき状況をととのえて試さねばなんねえこともありますから、形式ばった規則を楯に、館外もちだしを許されねえとなると、大罪をおかすことになるでしょうよ。どうかもち帰らせてくだせえな。誓って誰にも知られねえようにしますし、もちろん大事にとりあつかいますとも。このディーの英訳版をこんなふうにしたのは、おらじゃねえんですから……」  ウィルバーはここまでいって、図書館長の顔に断固たる拒否を読みとると、口をつぐんでしまい、山羊めいた顔に狡猾《こうかつ》そうな表情をうかべた。アーミティッジはそのとき、必要な筒所があれば写しをとってもかまわないと、もうすこしでいいだすところだったが、そうした場合の結果に思いあたり、あやういところで自分をおさえた。こうした冒涜《ぼうとく》的な外宇宙の鍵になるものを、こういう輩《やから》に与えることは、さすがに負担にすぎたのだった。ウェイトリイは事態を察知すると、ことさら軽い調子でいおうとした。 「ええ、わかりましたよ。そんなふうに思ってらっしゃるんならね。ハーヴァードなら、あんたのように細かいことをいったりせんでしょう」そしてそれ以上はいわず、立ちあがると、戸口という戸口で体をかがめ、図書館から出ていった。  アーミティッジは大きな番犬が烈しく吠えたてるのを耳にして、窓から見えるキャンパスの一画に目をむけ、ウェイトリイがゴリラさながらに大股で走っていくのをながめた。これまで耳にしたあられもない話について考え、『アドヴァタイザー』の古い日曜版に掲載された記事を思いだした。そうしたものだけではなく、一度ダニッチを訪れた際に、その地の百姓や村人から聞かされた伝承をも。この地球上のものではない――あるいは少なくとも三次元の地球のものではない――不可視の存在が、悪臭を放ちながら、恐ろしくもニューイングランドの谷間を駆け抜け、忌《いまわ》しくも山頂にわだかまっているというのだ。これについては、アーミティッジはかなりまえから確信をおぼえていた。それがいまでは、侵入する恐怖の何か慄然《りつぜん》たる片鱗の存在を間近に感じとるとともに、かつては活動的でなかった太古の悪夢の黝《かぐろ》い領域が、地獄めいた進展をとげるのを、つかのま垣間見たような気がした。そして嫌悪に身を震わせながら『ネクロノミコン』を保管庫に収めて鍵をかけたが、部屋にはあいかわらず、いわくいいがたい不浄な悪臭が漂っていた。「汝《なんじ》は悪臭放つものとして〈旧支配者〉を知るばかりなり」アーミティッジは『ネクロノミコン』の一節を思いだした。そうだ――この悪臭は、三年ほどまえにウェイトリイ家の農家を訪れたとき、胸をむかつかせたのとおなじものではないか。アーミティッジはまた、山羊《やぎ》めいた不気味なウィルバーのことを思い、ウィルバーの親についての村人たちの噂《うわさ》をせせら笑った。 「近親結婚だと」アーミティッジはなかば声にだしてひとりごちた。「まったく何という莫迦《ばか》どもだ。アーサー・マッケンの『パンの大神』を見せたところで、ダニッチではありふれたスキャンダルだと思うような連中なのだからな。しかしウィルバー・ウェイトリイの父親はいったい何なのだ――この三次元の地球上のものにせよ、そうでないにせよ、いったいどんな呪わしい無定形の霊力なのだろうか。あいつは聖燭節に生まれている――地鳴りの話がアーカムにまで伝わった、一九一二年の五月祭前夜から九ヵ月目のことだ……。その五月祭前夜に、いったい何が山を歩いたのだろう。聖十字架|頒栄《しょうえい》日前夜に、いったいどんな恐怖の存在が、なかば人間の血肉を備えたものとして、この世に顕現したのだ」  つづく数週間というもの、アーミティッジ博士はウィルバー・ウェイトリイとダニッチ一帯にわだかまる実体のない存在について、可能なかぎりの資料を集めつづけた。老ウェイトリイの臨終に立ちあった、アイルズベリイのホートン医師に連絡をとってみると、医師の話すウィルバーの祖父の最後の言葉というのが、なかなか意味深長なものであることがわかった。ダニッチ村に出むいてみても、何ら目新しい情報は得られなかったが、『ネクロノミコン』をとりだして、ウィルバーが熱心に目を通していた箇所を綿密に調べてみると、この地球をどうやら脅かしているらしい奇怪な邪悪の存在の、性質、手段、欲望について、新たな恐るべき手がかりが得られたように思われた。ボストンで数名の古譚《こたん》の研究家と話し、それ以外の土地の研究家多数に手紙を送った結果、アーミティッジは驚異の念がつのりゆき、この気持はさまざまな驚愕《きょうがく》の段階を経て、ついには真に烈しい精神的恐怖の状態にまで達した。夏が深まるにつれ、ミスカトニック河上流の谷に潜む恐怖について、そして人間の世界でウィルバー・ウェイトリイとして知られるばけものめいた存在について、アーミティッジはぼんやりと、何か手をうたなければならないと思うようになっていった。         6    ダニッチの怪事件そのものは、一九二八年の収穫祭から秋分にかけての期間に発生し、アーミティッジ博士はその悍《おぞ》ましい幕開けを目撃した者の一人だった。博士はそれまでに、ウェイトリイがグロテスクな姿をケンブリッジにまであらわし、ハーヴァード大学のワイドナー図書館で、『ネクロノミコン』の借覧あるいは筆写の許可を求めてやっきになったことを耳にしていた。ウィルバーのこうした努力が無駄におわったのは、アーミティッジが恐るべき書物を所蔵しているすべての図書館の館長に、あらかじめ断固たる警告をしていたからだった。ウィルバーはケンブリッジでひどく神経を高ぶらせ、『ネクロノミコン』を目にしたくてたまらないようだったが、それに劣らないほど、家に帰りたがっているようでもあった。さながら長く家をあけていると、何か恐ろしいことでもおこるかのように。  八月上旬になかば予想されていた事態が発生して、三日の夜明けまえ、アーミティッジ博士は突如として、大学キャンパスで獰猛《どうもう》な番犬が烈しく吠えたてる声に目を覚まされた。低くて恐ろしい唸《うな》り、なかば狂ったような咆哮《ほうこう》と吠え声がつづき、着実に高まっていったが、恐ろしくも意味深い中断をまじえてのことだった。やがて犬の声とはまったく異なる絶叫があがり――これにはアーカムの住民の半数が目を覚ましてその後も悪夢にうなされることになったのだが――地球に生まれたものがあげるはずのない、まったくこの世のものとは思えない絶叫だった。  アーミティッジはあわてて服を身につけると、とり急ぎ大学の建物にむかって通りと芝生を横切っていき、既に何人かの者が駆けつけているのを目にするとともに、あいかわらず図書館からけたたましく鳴りひびく盗難警報器の音を耳にした。窓が一つ開いて、月光のなかで黒ぐろとした口を見せていた。やってきたものは、この窓から入りこんだにちがいなかった。吠え声と絶叫は、急速におとろえて、低い唸りと呻《うめ》きの渾然《こんぜん》と入り乱れるものになっていたが、紛れもなく内部から聞こえていたからだ。アーミティッジは何か本能のようなものに警告され、いまおこっていることは心構えのない者に見せるべきではないと判断すると、職権をもって野次馬をうしろにさがらせ、図書館の玄関ホールに通じるドアの鍵をはずした。既に駆けつけていた者たちのなかに、ウォーラン・ライス教授とフランシス・モーガン博士がいて、アーミティッジはかねてからこの二人には、推測や不安をいささかうちあけていたので、ついてくるよう促した。内部の音は、番犬の油断のない唸りは別として、この頃には静まりかえっていたが、灌木のなかにいるウィップアーウィルのけたたましい啼《な》き声が、瀕死《ひんし》の者の最後の息づかいにあわせているかのように、忌《いまわ》しいほどリズミカルなものになりはじめたのを知り、アーミティッジは思わずぞくっと身を震わせた。  アーミティッジ博士があまりにもよく知っている悪臭に満ちるなか、三人は玄関ホールを急いで横切り、低い唸りの聞こえる小さな系譜学の読書室にむかった。つかのま誰も灯をつけようとはしなかったが、やがてアーミティッジが勇気を奮い起こしてスイッチをいれた。三人のうちの一人――誰なのかは定かでない――が、散乱するテーブルと倒れた椅子のあいだに横たわっているものを見て、大きな悲鳴をあげた。ライス教授はあとでこのことについてふれ、よろめいたり倒れこんだりすることはなかったものの、一瞬意識を完全に失ってしまったと明言している。  なかば体を二つに折って、悪臭放つ黄緑色の膿《うみ》とタール状の粘液のたまりに横むきに倒れこんでいるのは、身の丈およそ九フィート[#2・7メートル]におよぶもので、衣服のすべてと皮膚の一部が番犬によって引き裂かれていた。まだ死んでしまってはおらず、音もなく痙攣《けいれん》のように体をひきつらせる一方、呼吸によって上下する胸の動きは、外で待ちうけるウィップアーウィルの狂おしい啼《な》き声に悍《おぞ》ましいほど一致していた。靴の革のちぎれたものや衣服の断片があたりに散らばり、窓のすぐ内側には、外から投げこまれたとおぼしきキャンヴァス地の袋があった。部屋の中央にある机の近くには、リヴォルヴァーが落ちていて、へこんでいながらも発射されていない実包から、あとになって発砲されなかった理由が判明した。しかし倒れこんでいるものそれ自体が、そのとき目にはいるもののすべてを閉めだすようなものだった。筆舌につくしがたいといってしまえば、陳腐なうえに的確さを欠いてしまうが、さしあたり、生物の外見や外形についての考えが、この惑星や既知の三次元のありふれた生命体に固定されてしまっている者には、生なましく思いうかべることはできないと、そういっておけばいいかもしれない。部分的には疑いの余地なく人間で、まったく人間らしい手と頭部が備わり、山羊《やぎ》を思わせる顎《あご》のない顔は、ウェイトリイ家の特徴を示すものだった。しかし胴体と下半身は奇形もはなはだしく、体を衣服に包みこんでこそ、はじめて忌避もされず撲滅もされずに地上を歩けるような類のものだった。  腰から上はなかば人間に似ているものの、番犬がまだ用心深く前脚を置いている胸は、その皮膚が、クロコダイルやアリゲーターさながらの堅い網状組織の皮になっていた。背中は黄と黒のまだらになっており、ある種の蛇の鱗《うろこ》に覆われた皮膚を漠然と思わせた。しかし腰から下が最悪だった。ここでは人間との類似がまったく失われ、紛れもない怪異なものになりはてていたからだ。皮膚はごわごわした黒い毛にびっしりと覆われ、腹部からは緑がかった灰色の長い触角が二十本のびて、赤い吸盤を力なく突出していた。その配置は妙で、地球や太陽系にはいまだ知られざる、何か宇宙的な幾何学の釣合にのっとっているようだった。尻のそれぞれに深く埋もれた恰好《かっこう》の、一種ピンクがかった繊毛のある球体は、退化した目のように思えるものである一方、尾のかわりに、象の鼻か触腕のようなものがたれていて、紫色の輪が連なり、未発達の口もしくは喉《のど》とおぼしき証拠が数多くあった。脚は黒い毛に覆われている点は別として、おおむね先史時代の地球の巨大な爬虫《はちゅう》類の後脚に似ていて、その先端は蹄《ひづめ》でも鉤爪《かぎづめ》でもない、筋の隆起した肉趾《にくし》になっている。呼吸すると、尾と触角がリズミカルに色をかえ、それはまるで、二親のうちの人間ではない系統にとっては正常な、何らかの循環作用によるかのようだった。触角においては、これは緑がかった色が濃くなることで観察される一方、尾においては、紫色の輪にはさまれた箇所が、黄色がかったものになったり、あわい灰白色になったりすることで明瞭だった。純粋な血液はまったくなく、ペンキの塗られた床をけがす粘液のたまりの外に、悪臭放つ黄緑色の膿をしたたらすばかりで、床の色を奇妙に変えていた。  三人がいることで、死にゆくものは意識をとりもどしたらしく、頭をまわすこともあげることもしないまま、何事かをつぶやきはじめた。アーミティッジ博士はそのつぶやきを書きとめたわけではなかったが、英語はひとことも口にしなかったと、きっぱりいいきっている。最初に口にされたものは、地球上のどんな言語との相関関係も無視したものだったが、最後のほうになるにつれて、このばけものが探し求めたあげくに生命をおとすにいたった、悍《おぞ》ましい冒涜《ぼうとく》の書、『ネクロノミコン』の一節に相違ない断片がきれぎれに口にされた。こうした断片は、アーミティッジの記憶によれば、「ンガイ・ングアグアア・ブグ=ショゴグ・イハア、ヨグ=ソトホース、ヨグ=ソトホース……」というようなものだった。声がか細くなってとぎれると、ウイップアーウィルたちが不浄な期待をこめて、甲高い啼き声をリズミカルに高めていった。やがてあえぎもとまると、番犬が頭をあげ、長くつづく陰鬱《いんうつ》な遠吠えをした。倒れこんだものの山羊めいた黄色い顔に変化があらわれ、大きな黒い目が恐ろしくもぽっかりと眼窩《がんか》に落ちくぼんだ。窓の外ではウィップアーウィルたちのけたたましい啼《な》き声が急にやんでしまい、野次馬連のざわめきを圧して、あわてふためいたようなすさまじい翼のはためきがした。月を背景に、臨終を見守る夜鳥の大群が巨大な雲のように舞いあがり、狙っていた餌食《えじき》が遁《のが》れたことに逆上して、たちまち姿を消してしまった。  それと同時に番犬が不意に立ちあがり、おびえたような吠え声をあげると、入りこんだ窓から不安そうにとびだした。野次馬のなかから悲鳴があがり、アーミティッジ博士は外にいる者たちに、警官か監察医が来るまで誰も入ってはならないと叫んだ。窓が高くてなかをのぞきこめないことを博士はうれしく思い、窓のすべてに用心深くカーテンをひいた。この頃には警官が二人やってきていたが、モーガン博士が玄関ホールで出迎えて、監察医が来て倒れこんだものを覆い隠すまでは、悪臭に満ちる部屋に入らないほうが身のためだと、さかんにいい聞かせていた。  そんなあいだも、床の上では慄然《りつぜん》たる変化がおこっていた。アーミティッジ博士とライス教授の目のまえで発生した収縮と崩壊については、その種類や度合をことさら記すまでもないが、顔と手の外見以外に、ウィルバー・ウェイトリイの真に人間的な要素がきわめて少なかったにちがいないことは、ここに指摘しておいてもいいだろう。監察医がやってきたときには、ペンキの塗られた床の上にねばねばした白っぽい塊《かたまり》があるばかりで、すさまじい悪臭もほとんど消えていた。明らかにウェイトリイには、少なくとも言葉の真にして不変の意味において、頭蓋骨《ずがいこつ》や骨格というものがなかった。未知の父親からかなりのものをうけついでいたのだった。         7    しかしこうしたことのすべても、真のダニッチの怪事件の幕開けにしかすぎなかった。当惑した役人たちによって形ばかりの調査がおこなわれ、異常な事実の細目は当然のように報道関係にも大衆にも知らされず、故ウィルバー・ウェイトリイの遺産を調べあげ、相続人がいればその結果を伝えるために、係官がダニッチとアイルズベリイに派遣された。現地に到着してみると、住民がひどく動揺していることがわかったが、これには理由が二つあり、こんもりした山の下の地鳴りがしだいに強まっているためであるとともに、ウェイトリイが開口部をすべて板でふさいだ仕切り一つない大きな農家から、尋常ならざる悪臭、そしてうねるような音が、いやましにもれてくるためでもあった。ウィルバーのいないあいだ馬と牛の世話をしていたアール・ソーヤーは、痛ましいほど神経を病んでしまっていた。係官たちはさまざまな口実をもうけて、板ばりのされた妙な音のする農家には入らずにおき、個人の住居の調査については、新しく修理された小屋を一度訪れるだけにとどめて満足した。そして苦しまぎれの報告書をアイルズベリイの裁判所に提出したのだが、堕落していると否《いな》とにかかわらず、ミスカトニック河上流の谷間に住むおびただしいウェイトリイ家の者たちのあいだで、相続権をめぐる訴訟がなおもつづけられているという。  大きな台帳に記され、余白のとりかたやインクの質と筆跡が異なっているところから、どうやら日記のようなものらしい、妙な文字で書かれたおよそ判読不可能な手記が、もとの所有者の机がわりに使われていた古い寝室用の箪笥《たんす》の上に見つけられたが、これを発見した者たちにとっては、困惑させられる謎以外の何物でもなかった。一週間あれこれ相談されたあげく、調査ならびに、可能ならば翻訳してもらうため、個人の奇怪な書物のコレクションとともに、ミスカトニック大学に送られたが、最高の言語学者たちでさえ、この解読がひと筋縄ではいきそうにもないことをすぐに知った。ウィルバーと老ウェイトリイが常に支払につかっていた古い金貨は、まだ一枚とて発見されるにいたっていない。  恐怖の事件が勃発したのは、九月九日の夜のことだった。山鳴りが夕方から大きくひびき、夜通し犬が激しく吠えたてた。十日の早朝に目を覚ました者たちは、大気中に独特の悪臭をかぎとった。七時頃、コールド・スプリング渓谷と村のあいだに位置する、ジョージ・コーリイの家で雇われている少年、ルーサー・ブラウンが、毎朝の日課でテン・エーカー草原へ牛を連れて行きながら、あわてふためいて駆けもどってきた。よろめくようにして台所に入ってきたときには、おびえるあまりほとんど顔がひきつっていて、外の庭では、少年とおなじ恐慌状態におちいったらしく、牛の群が少年のあとを追ってもどってきており、おびえた様子であわれな鳴き声をあげたり、前脚で地面をひっかいたりしていた。ルーサーはコーリイのおかみさんに、あえぎながらも何があったかを伝えようとした。 「谷のむこうの道におるんですよ、おかみさん――あそこには何かがおるんです。雷みてえな臭がして、灌木やちっぽけな木が、家でもひっぱってかれたみてえに、みんな押し倒されとるんです。でも、もっとひでえことがあって。道に跡が残っとるんですよ、おかみさん――樽《たる》の底板くれえのまん丸い大きな足跡が、象でも歩いたみてえに道に深くめりこんでて、ただ四つ脚がつけた跡とはとても思えねえんです。逃げだすまえに一つか二つ見ましたし、足跡にはみんな、まるで大きな扇形の椰子《やし》の葉みてえに、一ヵ所から広がる線が何本も重なってて――椰子の葉の二、三倍の大きさがあったけども――地面にめりこんでるんですから。それにひでえ臭がして、魔法使いのウェイトリイの家のまわりの臭に似てて……」  ルーサーはここまでいうと口ごもり、逃げ帰るにいたった恐怖をまざまざと思いだしたのか、わなわなと身を震わせた。コーリイのおかみさんはそれ以上ルーサーから何も聞きだせず、隣人たちに電話をかけはじめ、こうしてすさまじい恐怖の先触れとなるパニックの序曲が、不気味に低くこもっていく鐘を打ち鳴らしはじめたのだった。ウェイトリイの家に一番近い、セス・ビショップの家の家政婦、サリー・ソーヤーに電話をかけたとき、コーリイのおかみさんは逆に話を聞かされることになった。サリーの息子のチョーンシイが、昨夜眠れないまま山に登ってウェイトリイの農家のほうにむかい、ウェイトリイ家の土地と、ビショップ家の牛がひと晩じゅう出されていた草原をひと目見たとたん、おびえきって駆けもどっきたというのだ。 「そうなんですよ、コーリイの奥さん」サリーが共同加入線を通して震える声でいった。「チョーンシイがあわててもどってきたばかりなんですけど、ろくに口もきけねえありさまでしてね。何でも老ウェイトリイの家がすっかり吹き飛んじまって、なかからダイナマイトでもしかけられたみてえに、材木があたりに散らばってて、ただ一番下の床だけは残ってるけど、何もかもがタールみてえなものに覆われて、ひでえ臭がするし、壁の材木が吹き飛んだとこから、地面にしたたり落ちてるっていうんですよ。それに庭には気味の悪い跡もあって――豚の頭よりも大きなまん丸い跡で、吹き飛んだ家とおんなじ、ねばねばしたものにまみれてるそうでね。チョーンシイがいうには、その跡は草原までつづいてて、牧草が厩ほどの広さで押しつぶされてるし、その跡がつづいてるとこは、石垣が全部崩れてるってんですよ。 「それにチョーンシイがいうんですけどね、コーリイの奥さん。チョーンシイの話だと、びくつきながらセスの旦那の牛を探してみたら、悪魔の舞踏園近くの高台の草原で、何ともひでえありさまになってたそうなんですよ。半分がすっかり姿を消しちまって、残ってる半分も、ほとんど血を吸いとられて、ラヴィニアの黒んぼ小僧が生まれてからウェイトリイの牛にあったみてえな、傷がついてるってんですからね。セスの旦那がいま見にいってますけど、誓って魔法使いのウェイトリイの土地には近づかねえに決まってますよ。チョーンシイも目ん玉ひんむいてよく見なかったから、牧草の押しつぶされてる大きな跡が、草原から先、どっちのほうにむかってるのか知りませんけど、村に通じる谷間の道にむかってるみてえだっていいましてね。 「まあ、聞いてくださいよ、コーリイの奥さん。外に出しちゃならねえもんが、いまこうしてのさばってますけどね、あたしが思うに、罰があたってひどい死にざまをした、あの真っ黒なウィルバー・ウェイトリイが、きっと影でそいつを育ててたんでしょうよ。あたしがみんなによくいってるように、あいつは人間なんかじゃなかったし、あいつとウェイトリイの爺《じい》さんが、あいつよりももっと人間ばなれしたものを、あの板ばりされた家で育てたにちがいありませんよね。ダニッチのあたりには、目に見えねえ生きとるもんがいて、そいつは人間でもなければ、人間にとってええもんでもないんです。 「昨夜は山鳴りがひどかったし、朝方にはコールド・スプリング渓谷でウィップアーウィルがやかましく啼《な》きたてるもんだから、チョーンシイは眠れなかったそうでしてね。それに魔法使いのウェイトリイの家のほうから、ぼんやり別の音も聞こえてくるような気がしたそうなんです――何か大きな木箱か木枠がこじあけられるみてえな、木の引き裂かれる音がですよ。そんなこんなで、おてんとさんが昇るまで眠れなくって、朝になるとすぐに、まっすぐウェイトリイのとこへ行って、何があったかを見たってわけです。チョーンシイは十分すぎるほどのものを見ちまったんですよ、コーリイの奥さん、本当に。これはいいことじゃありませんし、男連中が力をあわせて何かすべきだと思いますね。何か恐ろしいことがおころうとしてるのがわかってますし、あたしもこれまでだって気がしますけど、それが何なのかは神さまにしかわかりませんよね。 「奥さんとこのルーサーは、大きな足跡がどっちにむかってるかを確かめたんですかね。まだですか。それだと、コーリイの奥さん、跡が谷のこっちがわの道にあって、まだお宅のほうに行ってねえとなると、谷にむかってったんでしょうよ。そうにちがいありませんやね。あたしがよくいってるように、コールド・スプリング渓谷はまっとうな場所じゃありませんよ。あそこにいるウィップアーウィルや螢《ほたる》は、神さまのつくられたもののようには振舞わねえし、落石の山と熊の巣穴のあいだで、ちょうどいいところに立つと、妙なものが押し寄せてくる音や、何か話してるような声が聞こえるっていいますからね」  その日の正午頃になると、ダニッチに住む男や少年のほとんどが、廃墟と化したウェイトリイの土地からコールド・スプリング渓谷にかけての道や草原に繰りだして、巨大なばけものじみた足跡や、無残な目にあわされたビショップ家の牛、悪臭放つ農家の残骸、野原や道ばたのひきちぎられ押し倒された植物を、おびえながらも調べてまわった。何がこの世に解き放たれたにせよ、薄気味悪い大渓谷におりて行ったにちがいなかった。土手の木という木が折れたり曲がったりしているうえ、崖《がけ》を這《は》う下生えのなかに大きな窪みが造られていたからだ。さながら雪崩《なだれ》にあった家が一軒、ほぼ垂直の斜面にからみあう下生えの上をすべり落ちていったかのようだった。下からは物音一つ聞こえなかったとはいえ、何ともいいようのない強い悪臭が遠くからかぎとれたため、男たちが崖っぷちにとどまるほうを選び、下におりていって、未知の途轍《とてつ》もない恐怖に挑もうとはしなかったのも無理はない。同行していた三匹の犬は最初のうちこそ激しく吠えたてたが、渓谷に近づくにつれ、おびえてしりごみするようになったようだった。誰かがこのことを電話で『アイルズベリイ・トランスクリプト』紙に知らせたが、編集長はダニッチからもたらされる法外な話に慣れっこになっていて、これについては面白おかしい記事をでっちあげたにとどめ、この記事はその後まもなくAP通信社によって各紙に転載された。  その夜はみんな家に帰り、どこの家も納屋もできるだけ堅固なバリケードが築かれた。いうまでもなく、外の牧草地に出しっぽなしにされた牛は一頭もいなかった。午前二時頃、何ともひどい悪臭がして、犬が激しく吠えたてたことで、コールド・スプリング渓谷の東端に位置するエルマー・フライの家の者が目を覚まし、みんなが一様に、何か風をきるような、波が寄せるようなくぐもった音が、外のどこかから聞こえるといった。フライのおかみさんが近所の家に電話をかけようといい、エルマーがそれに同意しかけたとき、突如として木の裂ける音が二人の会話をさえぎった。どうやら音がしたのは納屋らしく、そのあとすぐに牛の悲鳴と足踏が聞こえた。犬がおびえて、恐ろしさのあまり呆然としている家族の足もとにうずくまった。フライはつい習慣から角灯に灯をつけたが、暗い外に出たら生命《いのち》とりになることはわかっていた。子供や女たちはすすり泣いていたものの、生命を守ることが沈黙にかかっていることを告げる、何かぼんやりした痕跡のような自衛本能によって、悲鳴をあげるのをこらえていた。やがて牛たちのたてる音が低くなって痛ましい呻《うめ》きになり、かみきったり、砕いたり、割ったりするような音がつづいた。フライの一家は居間で身を寄せあい、音がコールド・スプリング渓谷の奥に消え去ってしまうまで、誰ひとり身動き一つしようとしなかった。そして納屋では空恐ろしい呻き、渓谷では時期はずれのウィップアーウィルの悪魔めいた啼《な》き声がつづいているなか、セリナ・フライがよろめく足で電話にむかい、恐怖の第二の局面について、知るかぎりのことを隣人たちに知らせたのだった。  翌日、あたり一帯は恐慌状態におちいり、おびえきって口もきけなくなった者たちが、悍《おぞ》ましい出来事のおこった場所に訪れては、立ち去っていった。巨大なものがなぎ倒しでもしたような破壊の跡がふた筋、フライ家の農場の庭から渓谷までのびていて、ばけものじみた足跡がむきだしの地面に残り、赤く塗られた納屋は片側が完全にえぐられていた。牛たちのうち、見つけられて確認できたものは四分の一にすぎなかった。そのなかには妙に引き裂かれたものもいたし、生き残っているものもすべて撃ち殺さなければならない始末だった。アール・ソーヤーがアイルズベリイかアーカムに助けを求めようと提案したが、ほかの者たちはそんなことをしても無駄だといいはった。まだ堕落しきってもおらず、そうかといってまっとうでもない分家に属する、高齢のゼブロン・ウェイトリイは、山の頂で儀式をとりおこなわなければならないと、陰鬱《いんうつ》なまでに突拍子もないことをいいだした。この老人は伝統を根強く残している一族の者で、大きな環状列石のなかで祈りを唱えたという記憶も、必ずしもウィルバーやその祖父と結びついているものではなかった。  おびえきって、真の自衛手段も講じられないほど活気を失った人びとの住む土地に、闇がたれこめた。数少ない例として、血のつながりの濃い家族同士が団結して、一つ屋根の下の薄闇のなかで目をひからせたが、全般的には昨夜とおなじ堅固なバリケードが築かれ、マスケット銃に弾をこめたり、干草用のフォークを手近に置いたりする、さして効果も期待できないことがいたずらにおこなわれただけだった。しかし山鳴りがした以外は何もおこらなかったため、夜が明けると、この新たな恐怖が、あらわれたときと同様に速やかに立ち去ったのだと、そう期待する者が多くいた。攻勢をかけて渓谷へ繰りだしてみてはどうかとうながす、大胆な者さえいたが、まだ大多数の者がおじけづいていたので、あえて手本を示すようなことまではしなかった。  また夜が訪れると、ふたたびバリケードが築かれたものの、家族同士の団結は昨夜よりも弱まっていた。朝になると、フライ家とセス・ビショップの家の者たちが、犬が興奮したことや、遠くからかすかな音が聞こえ、悪臭がかぎとれたことを報告する一方、早くから起きて見まわっていた者たちが、センティネル丘のまわりの道に、一連のばけものじみた跡を新たに見つけだして震えあがった。以前と同様、道の両側には、冒涜《ぼうとく》的なまでに途方もない巨体をもつものが通ったとおぼしき痕跡があり、足跡の輪郭と配置から見て、どうやら二方向に進んだようで、さながら動く山がコールド・スプリング渓谷からやってきて、おなじ道を引き返したかのようだった。丘の麓《ふもと》では、幅三十フィートにわたって低い若木のなぎ倒された跡が、険しい斜面を上方にむかっており、跡をたどっていた者たちは、最もきりたった箇所さえも厳然たる進路をそらすにいたらなかったことを知って、息がとまるほど驚いてしまった。恐怖の正体が何であるにせよ、ほぼ完全に垂直になった岩壁を登ることができるのだった。調査の一行がこれより安全なルートをたどって丘の頂に登ってみると、跡はそこでとぎれていた――というよりも、進路が逆転していたのだった。  その頂こそ、ウェイトリイ家の者たちが、五月祭前夜と万聖節の夜にテーブル状の石のそばで、地獄めいた炎をたきつけ、地獄めいた儀式の祈りを唱えたところだった。いまその石が巨大なばけものによって蹂躙《じゅうりん》された広大な空間の中心になっている一方、その石のやや窪んだ表面に、ばけものがとびだしたあと廃墟と化したウェイトリイの農家の床に認められたのとおなじ、悪臭放つタール状のねばねばしたものがあった。一行はたがいに顔を見あわせ、あれこれつぶやいた。そして丘の下を見おろした。明らかに恐ろしいばけものは、登ってきたのとおなじルートをたどっておりていったのだ。さまざまな憶測をたくましくしても無駄なことだった。理性、論理、普通の考えをもってしたところで、動機については困惑させられるばかりだった。一行に加わっていない老ゼブロンなら、状況を正しく読みとったり、もっともらしい説明をつけたりすることができただろうが。  木曜の夜はそれまでの夜とおなじようにはじまったが、悲惨なおわりかたをしてしまった。渓谷のウィップアーウィルがいつにない執拗《しつよう》さで啼きたてたため、多くの者が眠れぬ夜をすごし、午前三時頃には、共同加入の電話がすべていっせいにベルを鳴らした。受話器をとった者たちは、「助けてくれ、こんなことが……」と叫ぶ、おびえて血迷った声を聞き、悲鳴がとぎれたあとに、何かが砕けるような音を耳にしたように思った者もいた。それ以上は何も聞こえなかった。あえて何かしようとする者もなく、どこから電話がかかってきたのかは、朝になるまで誰にもわからなかった。夜が明けると、悲鳴を聞いた者たちが電話を次つぎにかけて、フライ家にだけ通じないことを知った。真相が明らかになったのは一時間後で、武装した者がとり急ぎ集まって、渓谷を見おろすフライ家の土地に歩いていったときのことだった。真相は慄然《りつぜん》たるものだったが、かならずしも予想されないことではなかった。木や草のなぎ倒された跡、そしてばけものじみた足跡はあったが、家はなくなっていた。卵の殻のようにつぶされてしまっていて、その廃墟のなかからは、生きている者も死んでいる者も、誰ひとり発見できなかった。悪臭放つタール状のねばねばしたものがあるばかりだった。エルマー・フライの家族はダニッチから抹消されてしまったのだ。         8    こんなあいだにも、アーカムでは、書棚がならびドアの閉めきられた部屋のなかで、はるかに穏やかとはいえ、精神的にはさらに有害な恐怖の局面が、徐々に暗澹《あんたん》たる姿をあらわしていたのだった。翻訳のためにミスカトニック大学に届けられた、例の奇妙な手書きの記録というか、ウィルバー・ウェイトリイの日記らしきものが、古代語ならびに現代語双方の専門家をひどく悩ませ、困惑させていた。使用されている文字そのものが、メソポタミアで使われた太字のアラビア文字におおよそ似ていながらも、これに目を通した権威にはまったく未知のものだったのだ。言語学者たちが最後にくだした結論は、本文は人工の文字であらわされ、暗号になっているというものだったが、通常の暗号解読の手法では、書き手が使ったと考えられるあらゆる言語を土台にあてはめてみても、手がかり一つ得られそうになかった。ウェイトリイ家の住居からもってこられた古い書物も、さまざまな点で、いままでになかった恐ろしい研究分野の展開を哲学者や科学者に約束する、ことのほか興味深いものでありながら、手記を解読するにあたっては、何の助けにもならなかった。古い書物の一冊で、鉄の留金つきのどっしりとした大冊は、また別の未知の文字で記されており、これはほかとはまったく異なった傾向のもので、とりわけサンスクリット語の文字に似ていた。結局、古びた台帳はアーミティッジ博士の手に一任されることになったが、これは博士がウェイトリイ家の件にことのほか興味をもっているばかりか、幅広い言語学の素養を身につけ、古代や中世の密儀の式文に通じているためだった。  太古から連綿とうちつづき、サラセン世界の魔道士たちから多くの呪文や伝統をうけついでいる、特定の禁断の宗派が秘儀に用いたものが、この謎の文字かもしれないと、アーミティッジは考えた。けれどその問題を重要視はしなかった。アーミティッジが予想するように、現代語の暗号としてその文字が使われているなら、文字の起原まで知るにはおよばないからだ。本文の膨大な量を考えるなら、おそらくは特別な式文や呪文は別として、書き手が普段使っているものと異なる言語をわざわざ用いるとは思えなかった。こうしてアーミティッジは、本文の大半が英語で記されているという前提に立って、その解読にとりかかった。  アーミティッジ博士は同僚たちが失敗を繰返したことから、謎が深遠にして複雑なものであり、単純な解読の手法は試してみるまでもないことを察知していた。そして八月下旬の日々を費して、暗号学のまとまった知識をしっかり身につけ、自らの蔵書の膨大な資料を利用するとともに、トリテミウスの『多元複写法』、ジャンバッティスタ・ボルタの『秘密書記法』、ド・ヴィジュネールの『記号概論』、ファルコナーの『暗号解読』、デイヴィーとシックネスの十八世紀の論文、さらにブレアー、フォン・マーテン、クリューベルの『暗号学』をはじめとする、近代の権威たちの秘書を夜ごと読みふけった。こうした書物を研究するあいまに、手記そのものの解読にとりくみ、やがて多数の対応する文字のそれぞれが九九の表のように配置され、文章そのものが奥義を伝受されたものだけが知る任意のキー・ワードでもって組み立てられている、最も緻密《ちみつ》にして精巧な暗号を相手にしなければならないことを確信するようになった。昔の権威のほうが近代の権威よりも助けになるように思え、アーミティッジは手記の暗号大系がきわめて古いものの一つで、連綿とつづく秘教の実践者たちによって伝えられたにちがいないと結論づけた。何度か曙光を見いだしたように思えたときもあったが、予期しなかった障害にはばまれるばかりだった。するうち九月に近づくにつれ、わだかまる暗雲が晴れはじめた。手記の特定の部分に使われている特定の文字が、断固紛れもなく明らかになって、本文がまさしく英語によって記されていることが判明したのだ。  九月二日の夕方、最後にして最大の障害がとりのぞかれ、アーミティッジ博士はウィルバー・ウェイトリイの記録の一節を、はじめてつづけざまに読むことができた。誰もが思っていたように、これはまさしく日記であり、その文体からまざまざとうかがえるのは、これを書いた奇怪な存在が、雑多な隠秘学の知識を備えていながら、文章の書きかたそのものがわかっていないということだった。アーミティッジが解読したほぼ最初にあたる長い一節は、一九一六年十一月二十六日付になっていて、はなはだ恐ろしくも心騒がされるものだった。アーミティッジの記憶によれば、これを書いたのは、十二、三歳の少年のように見える、三歳半の幼児にほかならなかったのだから。   [#ここから1字下げ]  今日は支配者サバオトのためのアクロ文字を勉強した。あれは空ではなく丘から呼びだされるから、気にいらなかった。二階にいるやつは、ぼくが思ってた以上にぼくより先を行ってるし、人間らしい脳はあまりもってないらしい。噛みつこうとしたから、エラム・ハッチンスのコリーのジャックを撃ってやったら、できればおまえを殺してやりたいとエラムがいいやがる。エラムにそんなことができるものか。昨夜はじいさんにずっとドゥホウの呪文を唱えさせられ、二つの磁極に内なる都市が見えたように思う。やるべきときにドゥホウ=フナの呪文で突破できないなら、地球上のものが一掃されるときに、ぼくはその磁極へ行くことになるだろう。空からあらわれるものが安息日に、ぼくが地球上のものを一掃できるようになるまで、まだ何年もかかるだろうといったので、その頃にはじいさんも死んじまってるだろうから、空間のすべての角度や、イルからヌフングルまでの呪文のすべてを学んでおかなければならない。外からやってくるものたちが手伝ってくれるとしても、連中は人間の血がなければ肉体を備えられないのだ。二階にいるやつは本来の姿になるだろう。ヴーアの合図をしたり、イブン・ガジの粉をかけたりすると、ぼくにもほんのすこし見えるし、あいつの姿は五月祭前夜に丘にあらわれる連中に似てる。別の顔のほうはそのうちなくなってしまうのかもしれない。地球上のものが一掃されて、地球の生物がいなくなったら、ぼくはどんなふうに見えるんだろう。アクロのサバオトとともにやってきたあれは、外世界のものが多く作用してるので、ぼくが変身するかもしれないといってた。 [#ここで字下げ終わり]    夜が明けたとき、アーミティッジ博士は恐怖のあまり冷汗をかき、一睡もせずに精神を集中させていたことでひどく興奮していた。ひと晩じゅう手記を手からはなさず、電気スタンドが光を落とすテーブルについて、震える手でページをめくっては、できるかぎりの早さで謎めいた本文を解読しつづけたのだった。神経を高ぶらせながら妻に電話をかけ、家には帰らないと伝えていたし、妻が家から朝食をもってきたときも、かろうじてひと口食べたにすぎなかった。その日は一日じゅう、手記を読みつづけ、ときとして複雑なキー・ワードをまたあてはめなければならなくなると、いらだたしそうに中断した。昼食そして夕食がもってこられたが、どちらもほんのすこし食べただけだった。その日の真夜中近くになると、椅子に坐ったまま、ついまどろんでしまったが、これまでにつきとめた真相と人間存在に対する脅威に匹敵するほどの、混乱した悪夢にうなされ、すぐに目を覚ました。  九月四日の朝、ライス教授とモーガン博士が、どうしても会いたいといって短時間の面会を求めたが、二人とも立ち去るときには、顔色も青ざめ、身を震わせていた。その夜、アーミティッジはベッドに横たわったが、眠ってはすぐに目を覚ますといったことの繰返しだった。翌日の水曜日、アーミティッジはまた手記をひもといて、既に解読した箇所と新たに目をとおす箇所の双方から、こまごまとメモをとりはじめた。その夜の真夜中をすぎてから、執務室の安楽椅子ですこし眠ったが、夜が明けるまえにまた手記を手にした。正午すこしまえに、かかりつけのハートウェル医師が会いにやってきて、体を休めるべきだとしきりに勧めた。アーミティッジはこの勧告をしりぞけ、自分にとっては日記をぜひとも最後まで読みとおすことがきわめて重要なのだとほのめかし、いずれ事情を説明することを約束した。  その日の夕方、ちょうど黄昏《たそがれ》が訪れた頃、アーミティッジは恐るべき日記を読みおえ、疲れきって椅子にぐったり身をあずけた。妻が夕食をもってきたときには、なかば昏睡《こんすい》状態におちいっていたが、それでも妻がメモのほうに目をむけるのを見るや、鋭い声でいさめるほどの意識は保っていた。アーミティッジは弱よわしく立ちあがり、メモを記した紙を集め、大きな封筒にいれて封をすると、すぐに上着の内ポケットに収めた。家に帰るだけの体力はあったが、どう見ても医者の手当が必要だったため、早速ハートウェル医師が呼ばれた。医者がベッドに寝かしつけたとき、アーミティッジは何度も繰返して、「しかしいったいわれわれには何ができるというのだ」とつぶやくばかりだった。  アーミティッジ博士は睡眠をとったものの、翌日はいささか錯乱してしまっていた。ハートウェルには何も説明しなかったが、すこし気分がおちつくと、どうしてもライスやモーガンとじっくり話しあわなければならないといった。興奮したうわごととなると、まさに驚くべきもので、板でふさがれた農家にいるものを破壊してくれと狂乱して訴えたり、別の次元からあらわれる何か恐ろしい古《いにしえ》の種族によって、人類はもちろん動物や植物までがことごとく、地球から根絶される企みについて、突拍子もないことを口走ったりした。また何度となく、世界が危機に瀕していると叫んだが、それというのも、〈古の存在〉は地上からあらゆるものを奪いとり、地球を物質からなる太陽系や宇宙からひきはなして、かつて遙か永劫《えいごう》の太古に属していた、何か別の実体の面というか相にひきずりこみたがっているからだというのだった。また何度となく、恐るべき『ネクロノミコン』とレミギウスの『悪魔崇拝』をもってきてほしいということもあり、眼前に思いうかぶ危機を食いとめる呪文のようなものが、その二冊の本文に見つけられることを願っているようだった。 「あいつらをとめろ、やめさせるんだ」アーミティッジはこんなことを叫んだものだった。「ウェイトリイのやつらは本気で連中を呼び寄せるつもりだったし、最悪のものはまだ残っておるんだぞ。ライスとモーガンに、何とかしなければならないといってくれ――行きあたりばったりでやるしかないが、粉末のつくりかたはわかっとるんだ……。ウィルバーがここへやってきて死んだ八月の中旬から、食べるものを与えられておらんから、その割合からすると……」  しかしアーミティッジは、七十三歳という高齢にもかかわらず体が頑健だったため、その夜眠ると、本当の熱をだすこともなく、激しい興奮をはらいのけてしまった。金曜の朝遅く目を覚ましたときには、頭もすっきりしていたが、胸を虫食む恐怖と途方もない責任感を思って陰鬱《いんうつ》な気分になっていた。土曜の午後になると、図書館に行ってライスとモーガンを呼んで話しあえそうな気がしたので、その日は夜まで三人の頭をふりしぼって、奔放きわまりない推測をめぐらしたり、絶望にかられた議論をつづけたりした。奇怪な書物、恐ろしい書物がおびただしく、書庫や保管庫からとりだされ、熱にうかされたようなあわただしさで、驚かされるほどたくさんの図表や呪文が書き写された。疑念をいだく余地はなかった。三人ともこの建物の一室に倒れこんだウィルバー・ウェイトリイの体を目にしており、それを見てからというものは、例の日記を狂人のなぐり書きとみなすことは、まったくできなくなっていたからだった。  マサチューセッツの州警察に知らせるべきかどうかで議論がわかれ、結局は知らせないことに決まった。実例を見ていない者には容易に信じられないものがかかわっているからであり、事実、それ以後の調査の過程で、この判断にあやまりのないことがわかった。その夜遅く、議論は具体的な計画にまで発展することなくおわったが、次の日曜、アーミティッジは呪文を比較したり、大学の実験室から手にいれた化学薬品を調合したりして、一日じゅう忙しくしていた。恐るべき日記を思いかえすにつけ、ウィルバー・ウェイトリイがあとに残した実体を物質的なもので根絶することの有効性について、疑念が強まるばかりだった――アーミティッジにもまだ未知な、地球に脅威をおよぼす実体は、つづく数時間のうちに猛り狂い、あの忘れがたいダニッチの恐怖の事件を引き起こすことになるのだが。  月曜日もアーミティッジ博士は日曜とおなじことを繰返したが、これはいま手がけている仕事が膨大な調査と実験を必要とするためだった。恐ろしい日記にさらに目をとおしたことで、計画にさまざまな変更がもたらされ、このままでは最後になっても不確定なものがかなり残りそうだった。火曜には明確な行動方針をたてていて、一週間以内にダニッチまで行ってみなければならないと思った。そして水曜に、はなはだしいショックをうけたのだった。『アーカム・アドヴァタイザー』の片隅にひっそり押しこまれた恰好で、AP通信社が提供する滑稽な記事が掲載されており、ダニッチの密造酒がまったく記録破りの怪物を生みだしたことが記されていた。アーミティッジは気も失わんばかりになり、ライスとモーガンに電話をかけるのがやっとだった。その夜遅くまで三人は話しあい、翌日は三人ともそれぞれ準備におおわらわだった。アーミティッジは恐るべき魔物に立ちむかうことになるのを知っていたが、自分よりもまえに他人がおかした、深刻で有害な干渉をとりつくろうには、ほかに何の方法もないことを承知していた。         9    金曜の朝、アーミティッジ、ライス、モーガンは自動車でダニッチにむかい、午後一時頃に村に到着した。さわやかな一日だったが、明るい日差がふりそそいでいてもなお、一種ひそやかな不安と不吉さを感じさせるものが、不幸にみまわれた土地の、影につつまれた深い渓谷や、妙に頂がまるくなった丘に漂っているようだった。ときおり山頂にある薄気味悪い環状列石が、空を背景につかのま目にはいった。オズボーンの店のおびえたような静まりかえった雰囲気から、一行は何か悍《おぞ》ましいことがおこったことを知り、エルマー・フライの一家が家もろとも消滅してしまったことをほどなく聞かされた。その日の午後はダニッチの近辺を自動車でまわり、これまでにおこったことのすべてを住民にたずねたうえ、恐怖をつのらせながらも、荒涼としたフライ家の廃墟を訪れて、まだ残っているタール状のねばねばしたものの跡や、中庭にある冒涜《ぼうとく》的な足跡、傷ついたセス・ビショップの牛、さまざまな場所で植物がなぎ倒されている巨大な跡を、自分たちの目で確かめた。センティネル丘を登りくだりしている跡が、アーミティッジにはほとんど驚天動地の意味をもっているように思え、頂上にある不気味な祭壇のような石を長いあいだ見つめていた。  結局この三人は、州警察の警官たちがフライ家の惨劇を伝える最初の電話通報に応え、その日の朝にアイルズベリイからやってきていることを知ると、警官たちを見つけだしてできるかぎり具体的な情報を交換しあうことに決めた。しかしこれは思っていたほど簡単にはいかないことがわかった。どこにも警官の姿が見あたらなかったからだ。車で五人の警官がやってきたとのことだったが、その車はフライ家の廃墟近くに乗りすてられ、誰も乗ってはいなかった。警官と話をかわした村人たちも、最初はアーミティッジの一行と同様に、一人残らず困惑した表情を顔にうかべた。するうち年老いたサム・ハッチンスが、何か思いあたったらしく、真っ青な顔をして、ブレッド・ファーを肘《ひじ》でそっと突き、すぐ近くに大きな口を開けているじめじめした深い谷間を指差した。 「何てことだ」サム・ハッチンスがいった。「渓谷におりてっちゃなんねえといっといたし、あんな跡がついてて、ひでえ臭がするし、ウィップアーウィルが昼間でも暗がりで啼《な》きたてるようなとこに、まさかおりてくとは思わなかったんだが……」  住民もアーミティッジの一行もぞくぞくした寒気を感じ、誰もが緊張をみなぎらせ、本能的というか無意識に、一心に耳をすませたようだった。いまや恐怖の存在とその悍《おぞ》ましい所業に接したアーミティッジは、責任感を痛切に感じて身を震わせた。まもなく夜になろうとしていたが、まさに夜にこそ、冒涜的な存在がその巨大な体で慄然《りつぜん》たる進路を満たしていくのだ。闇のなかの果しなき抗争……。高齢の図書館長は記憶にある呪文を口にし、まだおぼえていない別の呪文を記した紙を握りしめた。そして懐中電灯がちゃんとつくかどうかを確かめた。かたわらでは、ライスが害虫駆除に使われるような金属製の噴霧器を旅行用の手さげ鞄《かばん》からとりだす一方、モーガンは狩猟用の大型ライフルをケースからとりだした。同行の二人から物質的な武器では役にたたないといわれていたが、このライフルをあてにしていたのだった。  アーミティッジは恐ろしい日記を読んだことで、どのようなものがあらわれるかについて、胸が痛むほどよく知っていたが、ほのめかしたり手がかりを与えたりして、ダニッチの住民をいま以上におびえさせることはしなかった。ばけものじみたものの出現が世間に知られないまま、これを撲滅することを、博士は願っていたのだ。闇がつどうにつれ、村人たちはそれぞれ家路にむかいはじめ、目下の証拠から、その気になれば木々を曲げたり家を押しつぶしたりできる力のまえには、およそ人間のもつ錠や貫木《かんぬき》が無駄であることはわかっていても、厳重な戸締まりをした家のなかに閉じこもろうと思っていた。アーミティッジの一行が渓谷に近いフライ家の廃墟で監視するつもりだというと、村人たちは首をふり、ふたたびこの三人に会えることをほとんど期待せずに立ち去っていった。  その夜、丘の下では地鳴りがして、ウィップアーウィルが威嚇するようにけたたましい啼き声をあげた。ときおりコールド・スプリング渓谷から吹きあげてくる風は、重苦しい夜気にいいようのない悪臭をつけ加えた。十五年半のあいだ人間として暮してきたものが死にゆくのを見おろしたとき、この三人が一度かいだことのあるものとおなじ悪臭だった。しかし探し求める恐怖の実体はあらわれなかった。渓谷の下に何がいるにせよ、機会をうかがっているらしく、アーミティッジは連れの二人に、闇のなかで攻撃をしかけるのは自殺行為になるだろうといった。  陰鬱《いんうつ》な朝が訪れ、夜のあいだ聞こえていた音がおさまった。空が灰色の雲に覆われる陰気な一日で、ときおり雨がそぼふり、ますます厚くなっていく雲は北西の丘のむこうで積み重なっていくようだった。アーカムからやってきた一行は、どうすべきか決めかねていた。しだいに雨足が早くなっていくなか、まだこわれずに残っているフライ家の小屋の一つで雨やどりをして、待ちつづけるのが賢明か、それとも名前とてないばけものじみた獲物を探し求め、積極的に渓谷におりていくのが賢明かと、さかんに話しあった。雨は激しいどしゃぶりになり、はるかな地平線からかすかに雷鳴がとどろいた。あたり一帯に閃光《せんこう》がひらめいたあと、叉状《さじょう》の稲妻がすぐ近くを走り、呪われた渓谷そのものに落下していったかのようだった。空がひどく暗くなり、三人は嵐が突発的なもので、すぐに空が晴れ渡ってくれることを願った。  それから一時間あまりたち、まだ空が不気味なまでに暗い頃、道のむこうから、何をいっているのかわからない騒々しい声が聞こえてきた。次の瞬間、十人をこえる者が、走ったり、叫んだり、ヒステリックに泣き声さえあげたりしているのが目にはいった。先頭にいる誰かがすすり泣きながらしゃべりはじめ、アーカムからやってきた三人は、その男の言葉が意味のとおるものになったとたん、愕然《がくぜん》としてしまった。 「大変だ。こんなことが」喉《のど》をつまらせながらそういったのだった。「また出たんだ。今度は真っ昼間だってのに。あれが出てきて、いまも動いてんだから、このままだと、みんながあれに殺《や》られちまうぞ」  そういった者は息をあえがせて黙りこくったが、ほかの者があとをひきついでいった。 「一時間くれえまえに、ここにいるゼブ・ウェイトリイが電話のベルが鳴ってるのを聞いて、電話に出てみたら、分かれ道のそばに住んでる、ジョージの女房の、コーリイのおかみさんからだったんです。おかみさんの話だと、手伝いの小僧のルーサーが、ひでえ雷の落ちたあとで牛を連れ帰りに嵐のなかに出てったとき、渓谷の――むこうがわのとこの――木が全部曲げられてるのを見て、このまえの月曜の朝に大きな足跡を見つけたときとおんなじ、ひでえ臭がしたってんです。それに木や灌木のたてるはずのねえ、風を切るみてえな、波が寄せるみてえな音がして、急に道に立ちならぶ木が片側に押し曲げられたかと思うと、ものすげえ音がして泥濘《ぬかるみ》の泥がはねたってんですよ。けどここが肝心なとこなんですが、ルーサーには木や灌木が押し曲げられるほかには、何も見えなかったんでさあ。 「そいから、ビショップ川が道の下にもぐりこんじまうとこからだいぶ先の橋で、ルーサーは割られたりひっぱられたりするひでえ音を聞いて、木が砕けたり裂けたりしはじめる音だったっていってますよ。このときも、木や灌木が曲げられてくのが見えるだけで、ほかには何も見えなかったってんですからね。それでひゅうひゅう鳴る音がずいぶん先のほう――魔法使いのウェイトリイの土地とセンティネル丘のほう――へ遠のいてしまうと、ルーサーは勇気を奮い起こして、音が聞こえはじめたとこへ行って、地面を調べてみたんです。一面水がたまって泥濘になってるし、空は暗いし、雨がひどくて足跡もすぐにかき消されるってありさまでしたけど、渓谷の入口で木が動いてたとこには、ルーサーが月曜に見たのとおんなじ、樽《たる》くれえの大きさの恐ろしい足跡がまだあったってんです」  ここまで話したとき、最初にしゃべった者が口をはさんだ。 「けどそんなものはたいしたこっちゃねえよ――ただの幕開けにすぎねえんだからな。ここにいるゼブがみんなに電話をかけて、さっきのことを話してると、セス・ビショップの家から電話がかかってきたんだ。セスとこの家政婦のサリーが、いまにもくたばっちまいそうなうろたえた声で、いまさっき道ばたの木が押し曲げられるのを見たけど、まるで象がのし歩いてるみてえな、わけのわからねえ音が家にむかってくるのが聞こえたっていったんだ。そいから急にひでえ臭がするようになって、せがれのチョーンシイが月曜の朝にウェイトリイの家の廃墟でかいだ臭とおんなじだっていって、悲鳴をあげたんだよ。それに犬がみんなひどく吠えたり、唸《うな》ったりしてるってんだから。 「そのあとサリーはものすげえ悲鳴をあげて、道のむこうにある小屋が嵐になぎ倒されちまったみてえにぺしゃんこになったけど、風はそんなに強くなかったっていったんだ。みんなが耳をすましたよ。みんながかたずをのんで、受話器に耳をかたむけたんだ。するとすぐにサリーがまた悲鳴をあげて、前庭の杭垣が壊れたけど、何が壊したのか、影も形も見えなかったっていったんだ。そいから電話に耳をかたむけてる者がみんな、チョーンシイとセス・ビショップの爺さんも悲鳴をあげるのを聞いたあと、サリーが金切り声で、何かひどく重てえもんが家にぶつかったっていったんだ――雷とかいうもんじゃなくて、何かひどく重てえもんが玄関にぶちあたって、何度も何度も体あたりを繰返すんだけども、玄関側の窓からは何にも見えねえっていうんだ。そいから……そいからだよ……」  誰もが一様に恐怖のあまりの皺《しわ》を顔にきざんでいた。アーミティッジも震えてはいたが、それでもかろうじて話をうながすだけのおちつきは保っていた。 「そいから……サリーが金切り声で、『助けて、家が押しつぶされる』って叫んで……おれたちは電話を通して、何かが砕けるものすげえ音と、何人もの悲鳴を聞いたんだ……エルマー・フライのとこがやられたときとおんなじだった……それでおしめえさ……」  男が口をつぐみ、別の者がいった。 「それっきりでしてね――そのあとは、電話から何の音も悲鳴も聞こえなかったんです。静まりけえっちまって。電話でこれを聞いたおれたちは、できるだけ人手を集めて、フォードやら馬車やらでコーリイのとこへ行って、ここへやってきたのも、どうしたら一番いいかを教えてもらおうと思ったからなんですよ。おれたちが悪いことをして、神さまがそれを罰されようとなさってるわけでもなければ、人間にはどうしようもねえことでもねえと思いますから」  アーミティッジは積極的な行動にうつるときが来たことを知り、おびえたじろいでいる村人の群に決然とした口調でいった。 「あいつの跡を追わなければなりませんな」アーミティッジはできるだけ安心させるような声でいった。「あいつの行動を阻止する可能性があると思います。みなさんもあのウェイトリイの一家が魔法使いだったことはご存知でしょう――そしてあれも妖術で生みだされたものなのですから、おなじ手段で倒さなければなりますまい。わたしはウィルバー・ウェイトリイの日記を見ましたし、ウィルバーがよく読んだ奇怪な古書の幾冊かにも目を通して、あいつを消すために唱える正しい呪文をつきとめたと思います。もちろん確信のもてることではありませんが、機会はすべて利用すべきものでしょう。あれは目に見えません――わたしもそうだろうと思っていました――が、しかしこの遠くまで届く噴霧器のなかには、あいつの姿をつかのまあらわさせる粉末がはいっているのです。あとでこれを試してみましょう。あいつを生かしておくのは恐ろしいことですが、ウィルバーがもっと長く生きていたなら呼び寄せたはずのものよりは、まだましなのです。おそらくあなたがたは、世界がどのような危機からまぬかれたかを知ることもないでしょう。いまわたしたちが闘わなければならない相手は一つだけで、こいつはふえることがないのです。しかし相当な害をおよぼすものですから、ためらわずに撲滅するしかありません。 「跡を追うのです――まずなすべきことは、破壊されたばかりの場所に行くことです。誰か先に立って、案内してください――わたしたちはこのあたりは不案内ですが、いろいろと近道があるのではありませんか。いかがです」  男たちはしばらく逃げ腰になっていたが、やがてアール・ソーヤーがしだいに雨足が弱まっていくなかで汚い指を差し、低い声でいった。 「セス・ビショップのとこへ行くには、そこの下にある草原を横切って、小川の浅いとこを歩いて渡り、キャリアーの草刈り場と、そのむこうの林を登ってくのが、一番の近道でしょうよ。そうすれば、セスのとこにかなり近い上の道にでますからね――その道のむこうがわがセスのとこです」  アーミティッジはライスとモーガンとともに指示された方向に歩きはじめ、村人の大半もゆっくりとあとにつづいた。空はしだいに明るくなっていき、嵐もおさまりそうだった。アーミティッジがうっかり道をあやまると、ジョー・オズボーンが注意したうえ、先に立って正しい道を示した。勇気と自信が甦ってきていたが、この近道の最後のほうには、木々が鬱蒼《うっそう》と生い茂って陰の濃い、ほとんど垂直になった丘が横たわり、奇怪な形の古木のあいだを、さながら梯子《はしご》相手のように登らなければならなかったため、甦った勇気と自信がどの程度のものか試されることにもなった。  やがて一行がぬかるんだ道に出ると、太陽があらわれた。いまいるのはセス・ビショップの土地をすこしこえたところだったが、押し曲げられた木々や悍《おぞ》ましくも見まちがえようのない跡によって、何が通ったかは歴然としていた。道を曲がってすぐのところにある廃墟を調べるには数分でことたりた。フライ家の惨劇が繰返されており、ビショップ家の家屋と納屋が崩れはてた跡のいずれにも、生死を問わず、何者も発見されなかった。悪臭とタール状のねばねばしたものの残る現場にとどまりたいと思う者はいなかったが、誰もが本能的に、ウェイトリイ家の農家の廃墟、そして祭壇めいた石が頂上にあるセンティネル丘の斜面にむかう、悍ましい足跡の列に目をむけた。  ウィルバー・ウェイトリイの住居跡を通るとき、誰もが見た目にも体を震わせてしまい、熱意にまたしてもためらいが加わったようだった。目には見えないとはいえ、魔物さながらの有害な悪意をもった、家ほどの大きさのあるものを追うというのは、冗談半分にできることではなかった。センティネル丘の麓《ふもと》にむかいあうところで、足跡は道からそれ、怪物がこの丘をまえに登りおりしたことを示す幅広い跡にそって、新たに木々が押し曲げられ、草がなぎ倒されていた。  アーミティッジはかなりの倍率がある小型望遠鏡をとりだし、丘のきりたった緑の斜面をながめた。そして自分よりも視力のいいモーガンに望遠鏡を手渡した。モーガンはしばらくながめていたあと、鋭い声をあげ、望遠鏡をアール・ソーヤーに渡し、斜面の特定の場所を指差した。光学機器を使ったことのない者の例にもれず、ソーヤーはしばらくもたついていたが、結局アーミティッジの助けをかりてレンズの焦点をあわせた。その瞬間、ソーヤーのあげた声はモーガンのそれよりも大きかった。 「何てこった。草と灌木が動いてるじゃねえか。登ってるんだ――ゆっくりと――這い登ってく。頂上まで行くつもりだぞ。いってえ何のためなんだ」  そして紛れもないパニックが一行のあいだに広がりはじめたようだった。名前とてない実体を追うのと、それを実際に見つけることとは、まったく別ものなのだ。呪文は効き目があるかもしれない――しかし効き目がなかったとしたら。アーミティッジは怪物について何を知っているのかと、さまざまに問いかけられはじめ、博士の返事はどれ一つとして村人を満足させるにはいたらなかったらしい。誰もが一様に、一つは自然、いま一つは人類のまっとうな経験の埒外《らちがい》にある禁断の存在という、二つの様相が間近に迫っているのを感じとっているようだった。         10    結局、アーカムからやってきた三人――高齢で白い髭《ひげ》をたくわえたアーミティッジ博士と、鉄灰色の髪をしてがっしりした体格のライス教授と、二人よりは若いやせたモーガン博士――だけで丘を登ることになった。焦点調節と使用法について根気よく教えこんだあと、おびえて道に残っている村人たちに望遠鏡を手渡してあったので、登っていく三人の姿は、手から手へ渡される望遠鏡で仔細《しさい》にながめられた。きつい登りだったので、アーミティッジは一度ならずほかの二人に手をかしてもらわなければならなかった。苦労して登っていく三人のはるか上では、地獄めいた怪物がまたしても蝸牛《かたつむり》のようにゆっくりと斜面を登ることで、木々や草が大きくなぎ倒されて揺れていた。やがて三人が怪物との距離をつめていることが明らかになった。  カーティス・ウェイトリイ――まだ堕落するにいたっていない分家の者――が望遠鏡を手にしていると、アーカムから来た三人が、怪物の進んでいくのとはまったく別の方向にむかった。これを見たカーティス・ウェイトリイは、いま灌木がなぎ倒されているかなり前方にある、怪物の進んでくるのが見おろせる小高いところに、どうやら三人が登ろうとしているようだと村人たちに告げた。やがてすぐにそのとおりであることがわかった。目に見えない冒涜《ぼうとく》的な怪物が通りすぎてすぐに、三人がその高みに登りついたのが見えたからだ。  するうち望遠鏡を手にしていたウェスリー・コーリイが、ライスの手にしている噴霧器をアーミティッジが調節しているから、何かがおこるにちがいないと叫んだ。この噴霧器が目に見えない恐怖の怪物の姿をつかのまあらわすものだということを思いだし、村人たちは不安そうにざわついた。二、三人は目をつぶったが、カーティス・ウェイトリイは望遠鏡をとりもどして、一心に目をこらしてながめた。そして目にしたのは、恐怖の実体の背後を上から見おろす有利な場所から、ライスが素晴しい効果をもつ有力な粉末をまく機会をつかんだことだった。  望遠鏡をもっていない者たちは、丘の頂上近くにつかのま灰色の雲――そこそこの大きさのビルくらいの大きさの雲――を見ただけだった。望遠鏡を手にしていたカーティスが、甲高い悲鳴をあげて、足首まである道の泥濘《ぬかるみ》のなかに望遠鏡を落とした。カーティスはよろめき、二、三人の者がつかんで支えてやらなかったら、そのまま地面に崩れこんでいただろう。カーティスはほとんど聞こえないような声でうめくことしかできなかった。 「ああ、ああ、何てことだ……あれは……あれは……」  さまざまな質問が矢継ぎ早に口にされ、ヘンリー・ウィーラーだけが落ちた望遠鏡をひろって泥をぬぐいさることを考えた。カーティスはもう意味のあることを口にできなくなっていて、きれぎれの返答をするのさえほとんど負担にすぎるようだった。 「厩《うまや》よりもでけえんだ……なんもかもがのたうつロープからできてる……鶏の卵みてえな形をした、ぶったまげるほどでけえやつで、豚の頭みてえな脚が何十本もあって、歩くたんびにそいつが半分くれえ体にめりこんじまいやがる……体に堅えとこはどこもねえ――全身がゼリーみてえで、のたうつロープを何本もまとめたみてえなんだ……ふくれあがった、でけえ眼が体じゅうについてる……口みてえな象の鼻みてえなもんが、十、いや二十くれえ、横っ腹一面に突出してて、ストーヴの煙突くれえでかくって、そいつがみんな揺れたり、開いたり、閉じたりしてるんだぞ……体じゅうが灰色で、青みてえな紫色みてえな輪がいくつもついてて……それだけじゃねえ――一番上に顔がついてんだよ……」  この最後の記憶は、どのようなものであるかわからないにせよ、気の毒なカーティスには負担にすぎたらしく、カーティスはそのまま完全に気を失ってしまい、それ以上のことは何もいえなかった。ブレッド・ファーとウィル・ハッチンスが失神したカーティスを道端に運び、湿った草の上に横たえてやった。ヘンリー・ウィーラーが震えながらもひろいあげた望遠鏡を山にむけ、何か見えるかもしれないと思ってながめた。レンズを通して見えたのは、きりたった斜面をできるだけ早く頂上へかけつけようとしているらしい、三人の小さな姿だった。それっきりで、ほかには何も見えなかった。やがて誰もが気づいたのは、背後の深い谷、そしてセンティネル丘の灌木のなかにさえ、妙に季節はずれの音がしたことだった。それはおびただしいウィップアーウィルの啼《な》きたてる声で、その甲高い啼き声のなかには、緊張と邪悪な期待の調べがこもっているようだった。  今度はアール・ソーヤーが望遠鏡を手にして、三人が一番高い尾根、祭壇に似た石とおなじ高さだが、そこからかなり距離をおいたところに立っていることを報告した。そして一人が規則正しい間隔をおき、何度も両手を頭の上にあげているようだといって、ソーヤーが状況を伝えていると、まるで両手を頭上にあげる仕草に朗唱がともなっているかのように、村人たちはなかば音楽に似た音が遠くからかすかに聞こえるような気がした。はるかな山頂に見える異様なシルエットは、このうえもなくグロテスクで印象的なながめだったが、ながめている者の誰一人として、これを美的にたのしみ味わうような気分ではなかった。「呪文をとなえてらっしゃるんだろう」望遠鏡をつかみとりながら、ウィーラーが囁《ささや》いた。ウィップアーウィルの啼き声は荒あらしくなって、目に見える儀式とはまったくちがう、はなはだ奇妙で不規則なリズムのものだった。  突然、さえぎる雲があらわれたわけでもないのに、太陽の光が弱まったようだった。きわめて特異な現象で、誰もがはっきりとこれに気づいた。丘の下からうなるような音がおこりはじめ、明らかに空からのものらしい、これに調和するうなりが妙にまざりあった。稲妻が空に走り、不審に思った村人たちは嵐の前兆をむなしく探し求めた。アーカムから来た三人のとなえる呪文がいまでは聞きまちがえようのないものになっていて、ウィーラーは望遠鏡を通して、三人がリズミカルに呪文をとなえながら両腕をふりあげているのを見た。どこか遠くの農家から、犬のけたたましい吠え声が聞こえた。  日差の質の変化が強まり、村人たちは驚いて地平線のほうに目をむけた。空の青がおぼろに暗くなっていくことから生まれた、紫がかる闇が、うなりをあげる丘に迫ってきていた。やがて稲妻がまた走り、今度はさっきよりもやや明るく、村人たちはその稲妻によって、はるかな高みの祭壇めいた石のまわりに漂う霧のようなものが照らされたように思った。しかし誰一人として、このとき望遠鏡を使っている者はいなかった。ウィップアーウィルは不規則な啼き声をあげつづけ、ダニッチの住民は、あたりの雰囲気をはりつめたものにしているような、測り知れない脅威に対して、かたく気をひきしめた。  まったくだしぬけに、太くて低い、しゃがれて耳ざわりな声がひびいたが、これを耳にしておびえた者の記憶から、決して消えることのないようなものだった。およそ人間の喉《のど》から発せられたものではなかった。人間の発声器官ではそのような音声的に狂った声がだせるはずもないからだ。その声がまちがいなく山頂の祭壇めいた石から発したものでなかったなら、地獄そのものから聞こえたと思っても無理はなかっただろう。悍《おぞ》ましいまでの超低音のひびきは、耳よりも鋭敏な意識や、恐怖を感じとる不明確な神経中枢に伝わるものだったため、そもそも声と呼ぶことがほとんどまちがったことだが、しかしその形態は漠然としたものとはいえ、紛れもなくなかば分節をもった言葉にほかならなかったので、声と呼ばなければなるまい。大きな声だった――あたりにひびく地鳴りや雷鳴とおなじくらい大きかった――が、まったく何も見えないところから発したのだった。そして想像力によって、不可視の世界の存在がこれを発していることがほのめかされたため、丘の麓《ふもと》で身を寄せあっている者たちはさらに体を寄せあい、猛襲を予想しているかのように身を縮めたのだった。 「イグナイイ……イグナイイ……トゥフルトゥクングア……ヨグ=ソトホース……」悍ましいひびわれた声が虚空からひびいた。「イブトゥンク……ヘフイエ――ングルクドルウ……」  何か恐ろしい心魂的な闘いがおこっているかのように、ひびきわたる音声はここでたじろいだようだった。ヘンリー・ウィーラーは望遠鏡に目をこらしたが、山頂にはグロテスクなシルエットを描く三人の人間の姿が見えるだけで、三人とも呪文が最後に近づくにつれ、異様な仕草で両腕を激しく動かしていた。いったいどのような地獄の恐怖あるいは感情の暗い井戸、外宇宙の意識あるいは長く眠りこけたおぼめく遺伝特質の測り知れない深淵から、なかば音声を備えたあの雷のようなひびわれた響きがひきだされたのだろうか。まもなく声は新たな力を奮い起こし、意味もまとまったものになりはじめ、恐るべき紛れもない窮極の狂乱になりはてた。 「エエ・ヤ・ヤ・ヤ・ヤハアアア――エヤヤヤヤアアア……ングアアアアア……ングアアアアア……フユウ……フユウ……助けて!……助けてくれ!……チ――チ――ちち――父上! 父上! ヨグ=ソトホース!……」  しかしそれだけだった。道にいる青ざめた者たちは、あの恐ろしい祭壇めいた石のそばの狂乱した虚空から、雷鳴のように鈍くひびきわたった、紛れもない英語の言葉にまだ浮足立っていたが、その言葉を二度と聞くことはなかった。そのかわり、丘を引き裂くようなすさまじい轟きに、激しく動揺した。耳をつんざくばかりの驚天動地の大音がとどろいたのだが、それが地底から発するものか空から発するものかは、誰にもつきとめることができなかった。閃光《せんこう》がひと筋、紫色の天頂から祭壇めいた石にひらめき、目には見えない力の脈動する猛烈な波と名状しがたい悪臭とが、丘からあたり一帯に押し寄せた。木々も草も灌木も、すべて猛威にさらされてなぎ倒され、丘の麓にいるおびえきった村人たちは、窒息しそうになるような強烈な悪臭に襲われて、いまにも倒れこみそうになった。遠くから犬が吠え、緑の草や葉がしおれて妙に病んだ黄緑色になり、野原にも森にもウィップアーウィルの死体がふりそそいだ。  悪臭はすぐに消えたが、植物はもう二度ともとの姿にはもどらなかった。今日にいたるまで、あの空恐ろしい丘の上やまわりでは、植物の生育に何か奇妙で不浄なものがかかわっている。カーティス・ウェイトリイ一人がようやく意識をとりもどしたとき、アーカムからやってきた三人が、また曇りなく晴れ渡る日差のなか、ゆっくりと丘からおりてきた。三人は厳粛な顔をして黙りこくり、村人たちを震えあがらせたものよりさらに恐ろしい記憶を脳裡にとどめて、震えあがっているようだった。さまざまな質問があびせられたが、三人はそれに応えて首をふり、決定的な事実をあらためてはっきりさせただけだった。 「あれはもう永久に姿を消しました」アーミティッジがいった。「もともとあれの体を構成していたものにわかれてしまって、二度と存在することはできないでしょう。正常な世界ではありえざる存在だったのです。どのような意味でも、われわれの知っている真の物質は、ほんのわずかしかなかったのですから。あれは父親に似ていたのです――あれを構成していたものの大半は、どこかはっきりとしない領域か、われわれの物質宇宙の外にある次元にいる、父親のもとにもどったのでしょう。人間の冒涜的な行為のなかで最も呪わしい儀式だけが、あれをつかのまおぼめく深淵から丘に呼びだしたのですが、呼びだされるまえにいたところにもどったのでしょう」  しばらく沈黙がつづくなか、あわれにも気が変になっていたカーティス・ウェイトリイが正気づき、両手を頭にあててうめいた。記憶の糸の切れたところがつながったようで、目にしたものの恐ろしさがまたカーティスに襲いかかった。 「ああ、ああ、何てことなんだ。あれには顔があるんだ――一番上に顔があるんだ……その顔には、赤い目と縮れた白子の毛があって、ウェイトリイ家のやつらみてえに顎《あご》がねえ……蛸《たこ》みてえな、百足《むかで》みてえな、蜘蛛《くも》みてえなもんだったけど、一番上にはおおよそ人間みてえな顔があって、魔法使いのウェイトリイに似てるんだが、ただ顔の大きさが何ヤードもあったんだ……」  カーティスは疲れきって口をつぐみ、村人の全員が、新たな恐怖までは感じないまま、困惑してカーティスを見つめた。昔のことをきれぎれにおぼえていながら、いままで黙りこくっていた、年老いたゼブロン・ウェイトリイだけが、思いあたったことを口にした。 「十五年まえのことじゃったが」ゼブロン・ウェイトリイが漫然としゃべった。「いつかラヴィニアの餓鬼《がき》がセンティネル丘の頂上から、親父の名前を呼ぶのを聞くことになるじゃろうと、そう老ウェイトリイがいうとったのを聞いたことがあるな……」  しかしジョー・オズボーンが口をはさんで、アーカムから来た三人に新たな質問をした。 「ともかくあれは何だったんです。ウェイトリイの若い魔法使いはどうやってあれを空から呼び寄せたんです」  アーミティッジはきわめて注意深く言葉を選んでいった。 「あれは――そうですな、おおざっぱにいうなら、われわれの宇宙には属さない力のようなものだったのですよ。われわれの自然が備えるものとは別な法則によって、行動し、成長し、自らの姿を形づくる一種の力だったのです。そういうものを外宇宙から呼びだす権利はわれわれにありませんが、ただきわめて邪悪な心をもった者と邪悪きわまりない宗派だけが、あえて呼びだそうとするのです。さっきいった力はウィルバー・ウェイトリイ自身もいささか備えておりました――自らを悪魔のような早熟のばけものにして、死んだときにすさまじい姿になりはてるほどに。わたしはウィルバーの呪われた日記を焼却するつもりですし、あなたがたも賢明ならば、あそこにある祭壇状の石をダイナマイトで爆破して、ほかの丘に立つ環状列石をすべて倒されたほうがよろしいでしょう。ああいうものがあるからこそ、あのウェイトリイ家の二人が喜んでいた存在がもたらされたのですから――ウェイトリイ家の二人はそうした存在をはっきりした形で呼びこみ、人類を絶滅させ、何かいいようもない目的のために、地球そのものをいいようもない場所にもっていこうとしていたのです。 「しかしわれわれが撃退したばかりのものについていえば――ウェイトリイ家の二人は来たるべきときに恐ろしい役割を演じさせるため、あれを育てあげたのです。ウィルバーが早ばやと成長したのとおなじ理由で、あれは急速な成長をとげていったのです――しかし外世界の要素を多分に備えていることが生命《いのち》とりになりました。どうやってウィルバーが空から呼びだしたのだなど、たずねるまでもありません。呼びだしたわけではないからです。あれはウィルバーの双子の兄弟だったのですが、ただウィルバーよりもさらに父親によく似ていたのですよ」