ラヴクラフト全集〈5〉 H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳 [#改ページ] 死体蘇生者ハーバート・ウェスト Herbert West-Reanimator [#改ページ]           1 闇から    大学のみならず、社会に出てからも友人であったハーバート・ウェストについては、はなはだしい恐怖をいだかずして語ることはできない。この恐怖は、先ごろ彼が失踪《しっそう》をした、その凶《まが》まがしいありさまなどではなく、ひとえに彼のライフワークの性質そのものによってかきたてられるもので、十七年以上もまえ、わたしたちがアーカムのミスカトニック大学医学部で三年目の講義をうけていた頃、はじめて鮮明な姿をあらわしたのである。親交を結んでいるうちに、わたしは驚異と魔性に満ちる彼のさまざまな実験にすっかり心奪われ、最も親密な友となるにいたった。そのハーバート・ウェストが姿を消し、わたしたち二人を結びつけていた呪縛が断ち切られたいま、真の恐怖はいやさらに高まりゆく。記憶を甦らせ、可能性に思いをはせることは、現実の事態よりもさらに悍《おぞ》ましい。  わたしたちが知りあうことになった最初の恐ろしい出来事は、わたしがかつて経験したこともない衝撃的なもので、口にするのもはばかられてしまう。先に述べたように、これがおこったのはわたしたちが医学部に籍を置いていた頃のことで、ウェストは死の本質、そして人為的に死を克服する可能性についての奔放な持論を提唱して、既に学内でその名を知らぬ者がなかったほどだった。ウェストの研究目的たるや、教員や学生仲間にもっぱら虚仮《こけ》にされていたが、生命が本質的に機械的な性質をもつという前提に立ち、自然の生命作用がとぎれた後、相応の化学作用でもって、人間の臓器の機能を活動せしめる手段にかかわっていたのである。そして種々の蘇生液を用いる実験で、おびただしい数の兎《うさぎ》、天竺鼠《てんじくねずみ》、猫、犬、猿を、殺したり処置をほどこしたりしつづけ、学内一のもてあまし者になっていた。幾度かは死んだと思われる動物に生命の徴候を実際に得て、たいてい著しい生命反応があったものの、ウェストはまもなく、処置を完璧なものにすることがまさしく可能ならば、どうあっても生涯をかけての研究をつづけなければならないことを知るにいたった。同様に明らかになったのは、同一の蘇生液が異なった生命体には作用することがないために、さらに一層専門の研究を押し進めるには、人間の死体が必要になるということだった。この点において、ウェストははじめて大学当局と意見を対立させ、ほかならぬ医学部学部長――アーカムに古くから住んでいる者なら誰しも病禍に対する貢献をよくおぼえている、学識と博愛精神をかねそなえたアラン・ホールシイ博士――本人から、今後の実験を禁じられてしまったのである。  わたしはといえば、常にウェストの研究にはとりわけ寛大な態度をとり、彼の理論をよく議論しあったものだが、その理論からさまざまに導きだされる結論はほとんど果しのないものだった。ヘッケルと同様に、生命そのものが化学的かつ物理的な過程であるとして、いわゆる「霊魂」を迷妄《めいもう》と考えるわが友人は、死者の人為的な蘇生がひとえに組織の状態にかかっていて、腐敗が実際に進行していないかぎり、臓器を完全に備えた死体に相応の処置をとれば、生命として知られる固有の活動をふたたび開始させられると思っていた。つかのまの死でさえも引き起こしかねない、敏感な脳のわずかな変質によって、精神的もしくは知的生活がそこなわれるかもしれないことは、ウェストも十分に承知していた。したがってウェストがまず願ったのは、死が実際に進行するまえに活力を甦らせる試薬を見つけることだったが、動物実験をつづけても失敗が繰返されるばかりだったことから、自然の生命活動と人為的な生命活動が両立しえないことを知るにいたった。こうしてウェストはきわめて新鮮な実験動物を求め、生命の火が消えるやただちに蘇生液を血管に注入するようになった。かかる状況が基で、軽率にも教授たちに疑いをもたれてしまったのだが、それというのも、教授たちはいずれの場合も実験動物が実際に死んだわけではないと判断したからである。教授たちがこの問題を綿密に理性的に吟味することはなかった。  実験を禁じられてまもなく、わたしはウェストから、何らかの手段で新鮮な死体を手にいれて、もはや公然とはおこなえない実験をひそかにつづける決意をうちあけられた。ウェストがその手段や方法を語るのを耳にして、わたしがいささか怖気《おぞけ》立ったのは、大学では解剖用死体を自分たちで調達することなどなかったからだ。死体公示所の死体が不適切だと判明したときはいつも、地元の黒人二人がこの仕事を請けおい、死体の出所について問いただされることもなかった。ウェストは当時、こがらでやせており、上品な顔に眼鏡をかけ、髪はブロンド、目はあわいブルー、やさしい声の青年で、そんなウェストがクライスト・チャーチの墓地と無縁墓地の相対的な利点について詳しく論じるのを聞くのは、いかさま不気味な心地にさせられるものだった。クライスト・チャーチの墓地に葬られる死体は、ほとんどすべて防腐処置がほどこされており、これはもちろんウェストの研究には破滅的なことなので、わたしたちは最終的に無縁墓地に決めた。  この頃には、わたしはウェストに魅せられ熱心な助手となり、死体の入手先ばかりか、忌《いま》わしい作業をおこなうに適切な場所を選ぶこともふくめ、ウェストの決断を助けていた。メドウ・ヒルの奥のチャップマン農場の廃屋を思いついたのはわたしであり、この廃屋の一階には処置室と実験室を設け、深夜の作業を隠すためにそれぞれ窓を黒いカーテンで覆った。ここはどの街道からも離れていて、近くにほかの家は一軒も見あたらなかったとはいえ、用心に用心を重ねなければならなかった。たまたま夜にうろつく者の目にはいり、廃屋に妙な光が見えるという噂《うわさ》でもたてられると、わたしたちの企てはたちまち頓挫《とんざ》してしまうからだ。もしも誰かに見つけられるようなことがあれば、すべてを化学実験としていいつくろうと申しあわせてあった。こうしてわたしたちはこの凶《まが》まがしい科学の隠れ家に、ボストンで購入したり大学から無断で借用したりした器具や備品――専門家でなければわからないよう体裁をつくろった品々――を着々と運びこむとともに、いずれ地下室で多くの埋葬をおこなわなければならないため、踏鋤《ふみすき》や鶴嘴《つるはし》も用意した。大学では火葬炉を使っていたが、これはわたしたちの秘密の実験室には高くつきすぎて買えなかったのだ。死体の処理が常に悩みの種だった――ウェストの下宿でのささやかな内密の実験から生じる、小さな天竺鼠《てんじくねずみ》の死体さえも。  わたしたちは食屍鬼さながらに地元の死亡通知に目をこらしていたが、それというのも標本としては特別なものが要求されていたからである。わたしたちが求めたのは、死後ただちに人為的な防腐処置なしに埋葬された死体で、肉体組織を変形させる悪疾とは無縁であることが望ましく、どうあっても臓器は完全に残っていなければならなかった。不慮の死をとげた者が最も望ましかった。何週間にもわたって実験に適した死体の知らせはなかったものの、こんなあいだも死体公示所や病院に足繁く通っては、大学の名前を笠に着て、疑惑を招くことなく担当者とよく話しあったものだ。こうして判明したのは、大学がすべてに優先権をもっていることだったため、かぎられた夏期講習がおこなわれるだけの夏のあいだも、アーカムに留まっていなければならないようだった。しかし結局のところ、わたしたちは幸運に恵まれた。ある日、無縁墓地で、ほとんど理想的ともいえる死体の話を聞きつけたのである。筋骨たくましい若い作業員が、つい昨日の朝、サムナーの池で溺死《できし》して、防腐処置もほどこされずに町費ですぐさま葬られたとのことだった。その日の午後、わたしたちは新しい墓を見つけだし、真夜中をすぎてすぐに作業をはじめる決意をかためた。  わたしたちが闇につつまれる深更におこなったのは、胸のむかつくような作業だったが、そのときは後の経験でもたらされることになる、墓場に対する特別な恐怖は感じなかった。わたしたちは踏鋤と、必要に応じて遮光《しゃこう》できるオイル使用の角灯をもっていった。懐中電灯が既に製造されていたが、今日のタングステン使用のもののように満足のいくものではなかったのだ。掘り起こす作業は遅々として進まず、あさましいかぎりで――わたしたちが科学者ではなく芸術家であったなら慄然《りつぜん》たる詩趣にとむものになったかもしれないが――やがて踏鋤が板にあたったときには安堵《あんど》の息をついた。松材を使った棺がすっかりその姿をあらわすと、ウェストが墓穴に入って蓋《ふた》をはずし、死体をひきずりだして抱き起こした。わたしが手をのばして死体を墓からひきだしたあとは、ふたりしてその場所を元通りにするのに骨をおった。はじめて墓場荒しをしたこと、とりわけ初の戦利品の硬直した体とうつろな顔のために、わたしたちはいささか神経を高ぶらせていたが、どうにか墓をあばいた痕跡をすべてとりのぞくことができた。そして最後の土をかけて踏みかためると、標本をキャンヴァス地の袋にいれ、メドウ・ヒルの奥のチャップマン農場の廃屋にむかった。  古びた農家のまにあわせの解剖台の上で、強力なアセチレン・ランプの光に照らされている標本は、さほど不気味な姿には見えなかった。健康な庶民の典型といった、がっしりして見るからに実直そうな青年で――骨格はたくましく、目は灰色で、髪は茶色――神経の細やかさはなく、おそらくは最も単純にして健全な生命作用を備えていた人間だった。目を閉じているその姿は、死んでいるというよりは眠っているように見えたが、わが友人の熟練した検査によってその点についての疑いはなくなった。わたしたちはついにウェストが求めてやまなかったものを手にいれたのだ――人間に用いるため、綿密きわまりない計算と理論に基づき用意された試液を注入できる、理想的な紛れもない人間の死体を。わたしたちの緊張ははなはだしいものになった。完全な成功のごときものの可能性がとぼしいことはわかっていたので、部分的な蘇生からグロテスクな結果が生じるかもしれず、それを思うと慄然たる恐怖がこみあげ、どうにもはらいきれるものではなかった。わたしたちがとりわけ懸念したのは、生物の精神と衝動にかかわるものであり、死後の空白のうちに繊細な脳細胞の一部が劣化しているおそれがあるためだった。わたし自身は、人間が「霊魂」をもつと昔からいわれることについて、自分なりの概念をなおもいだいていて、死から蘇った者が秘密につつまれた死の実体を明らかにするかもしれないと想い、畏怖《いふ》の念にうたれていた。この穏やかに横たわる青年が到達しがたい領域で何を目にしたのか、十分に蘇生したとき何を語ってくれるのかと思ったものだ。しかしわたしもおおむねわが友人の唯物論をわかちもっていたため、こうした疑問も心むしばまれる圧倒的なものではなかった。ウェストはわたしよりもおちついていて、かなりの量の試薬を死体の腕の血管に注入すると、ただちに傷口をきつく縛りあげた。  結果を待つのは空恐ろしいことだったが、ウェストは決してたじろがなかった。ときおり死体に聴診器をあてては、思わしくない結果を達観していた。ごくわずかな生命の徴候も得られないまま、およそ四十五分がすぎると、失望もあらわに試薬が適切なものではなかったのだといったが、この機会を最大限に利用して、慄然たる戦利品を処分するまえに、処方をかえていま一度試してみる決心をつけていた。わたしたちはその日の午後に地下室に墓穴を掘っていて、夜明けまでには埋めてしまわなければならなかった――廃屋には施錠していたが、食屍鬼めいた行為が発見される危険は、ごくわずかなものでも避けたかったからである。それに翌日の夜ともなれば、死体はいくら何でも新鮮なものではなくなってしまう。したがってわたしたちは一つきりのアセチレン・ランプを隣の実験室にもっていき、物いわぬ客を闇のなかの台の上に残して、新しい試薬の調合に全精力をかたむけ、ウェストの指示のもと、ほとんど熱狂的な綿密さで計量をつづけた。  あの悍《おぞ》ましい出来事は、まったくだしぬけの思いがけないものだった。わたしが一本の試験管から別の試験管に何かを注ぐかたわら、ウェストが、ガスのひかれていないこの建物で、ブンゼン・バーナーにかわるアルコール使用の小型発炎装置をまえにせわしく作業していたときのことだが、わたしたちが立ち去った闇につつまれる部屋から、いまだかつて聞いたこともない悪魔めいた身の毛もよだつ悲鳴が連続してほとばしったのだ。地獄そのものが開いて亡者たちの苦悶《くもん》が解き放たれたとしても、この混沌《こんとん》とした呪わしい音声ほど名状しがたいものではありえないだろう。間断なくつづく信じられない不快な音声のうちに、生命あるものの至高の恐怖と尋常ならざる絶望とがことごとく凝集していたからだ。人間であるはずはなく――人間にこんな音声が発せられるわけがない――ウェストとわたしは、つい先ほどおこなった実験のことや、それによって発見をなしたかもしれないことも失念して、おびえた動物のように一番近い窓にとびつき、試験管もランプもレトルトも押し倒し、田園の夜の星のちらばる深淵に、狂おしくとびだしたのだった。よろめく足でやみくもに街にむかっているあいだ、二人とも悲鳴をあげていたように思うが、街はずれに達したときには見かけだけの平静さは保っていた――酒びたりになってようやくふらふらと家路につく、酔いどれに見える程度には。  わたしたちは別れることなくどうにかウェストの下宿にたどりつき、ガス灯をつけたまま夜明けまで声を潜めて話しあった。夜が明ける頃には調査のための理性的な考えや計画をたてることができ、すこしは気持もおちついたので、その日は終日眠ることができた――大学の講義はかえりみなかった。しかしその日の夕方、夕刊に掲載されたまったく関係のない二つの記事のおかげで、またしても眠ることなどできなくなってしまった。チャップマン農場の古い廃屋が不可解にも燃えあがり、見わけもつかぬ灰儘《かいじん》に帰してしまったというのは、倒れたランプのせいであると理解できた。もう一つの記事は、無縁墓地の新しい墓が踏鋤《ふみすき》も使わず無闇《むやみ》に手でかいたかのように、荒らされた形跡があるというものだった。わたしたちは念入りに土を踏みかためていたから、わけがわからず途方にくれてしまった。  そしてその後十七年間というもの、ウェストが肩ごしにふりかえっては、気のせいか足音がするようだとこぼすことがよくあった。そのウェストもいまはもういない。           2 疫病という悪魔    十六年まえ、魔王イブリスの広間からとびだした有害な悪鬼たちのように、腸チフスがアーカムじゅうに蔓延《まんえん》した忌《いま》わしい夏のことは、生涯忘れることはないだろう。たいていの者はこの年を悪魔のような疫病によっておぼえているほどで、まさしく恐怖がクライスト・チャーチ墓地の墓穴に積みあげられた棺の上に、蝙蝠《こうもり》の翼のごとくたれこめていたのだが、わたしにとってはさらに大なる恐怖がある――ハーバート・ウェストが姿を消したいま、わたしだけが知っている恐怖だ。  ウェストとわたしはミスカトニック大学医学部の夏期講習に研究科生として参加しており、わが友人は死者の蘇生に通じる実験をつづけたために広く悪名をはせていた。科学の名のもとにおびただしい小動物を殺した後、異常な研究は懐疑的な学部長アラン・ホールシイ博士の命令によってうわべは中止させられてしまったが、ウェストは陰気な下宿である種の分析をひそかにつづけ、あの忘れられようもない恐ろしい一夜、無縁墓地の墓から人間の死体を掘りだして、メドウ・ヒルの奥の無人の農家に運んだのだった。  その思いだすだに忌わしい夜、わたしはウェストとともにいて、生命の化学的かつ物理的な作用をある程度まで回復させるはずの霊液を、ウェストが死体の硬化した血管に注入するのを目撃した。この試みは恐ろしい結果になり――恐怖による錯乱のうちにわたしたちはいつしか緊張しすぎた神経のせいだと思うようになっていたのだが――その後ウェストは、何ものかにとり憑《つ》かれているという、狂おしい思いをふりすてることができなかった。その死体はそれほど新鮮なものではなかったのだ。正常な精神の特性を回復させるには、死体がまさしくきわめて新鮮なものでなければならないのは明白であり、古い農家が炎上したことでわたしたちが標本を葬ることもさまたげられてしまった。あの標本を地下に埋めてさえいれば、まだしも心安らいだものを。  そのことがあってから、ウェストはしばらく研究を断念していたが、やがて生まれついての科学者の熱意がゆっくりと甦るにつれ、またしても大学の教授たちをうるさがらせるようになり、どうあっても重要だと思う研究のために、解剖室と新鮮な解剖用死体の使用を認めてほしいと訴えた。しかしその訴えもまったく無駄におわってしまった。ホールシイ博士の決定は動かしがたいもので、他の教授たちも一人残らず学部長の判断を支持したからである。蘇生という過激な理論に、教授たちは若い情熱家の未熟な奇想以外の何物も認めず、それに加えてウェストのこがらな体、ブロンドの髪、眼鏡をかけたブルーの目、やさしい声は、冷徹な頭脳に尋常ならざる――ほとんど悪魔的ともいえる――力が秘められていることをほのめかすものではなかった。わたしは当時と同様、いまもウェストをありのままに見ることができる――そして震えあがってしまうわたしなのだ。ウェストは顔つきがけわしくなっていったが、老けこんだわけではなかった。そしていまセフトンで不幸な出来事がおこり、ウェストは姿を消してしまった。  ウェストは学部の最終学期の終了間際になって、ホールシイ博士と意見を対立させたが、礼儀の点では温厚な学部長に対して面目を保つものではなかった。ウェストは重大きわまりない研究が不当にもいわれなくさまたげられていると感じたのだ。もちろんこの研究は後に気のすむようにおこなえたわけだが、大学の特別な設備が利用できるあいだにはじめたいと願っていたのである。伝統に縛られる年長の教授たちがウェストの異常な動物実験の結果を無視して、蘇生の可能性を断固否定しつづけたことは、ウェストのような論理的な気質の若者にとって、言葉にあらわせないほどいまいましく、およそ理解できないことだった。ウェストももっと成熟していれば、「学者先生」タイプの根深い知的限界が理解できただろうに――彼らは何世代にもわたってつづく感傷的な清教徒気質の産物で、慈愛深く、良心的で、ときには寛大で愛想もいいが、常に狭量、頑迷、因習にとらわれ、長期の展望に欠けているのだから。時代はこれら不完全ながら志の高い者たちに寛容だが、彼らの最大の悪徳は小心さであり、とどのつまりは知的罪悪――たとえばプトレマイオス説、カルヴァン説、反ダーウィン説、反ニーチェ説をはじめ、ありとあらゆるたぐいの安息日厳守主義や奢侈《しゃし》禁止法といった罪悪――によって、世間一般から莫迦《ばか》にされて罰せられるのだ。若いながらも驚嘆すべき科学知識をもつウェストは、善良なホールシイ博士やその博学な同僚の教授たちを腹にすえかね、いやましに憤りをつのらせるとともに、何か目覚ましい劇的なやりかたで、これら愚鈍な名士たちに自分の理論を証明したい欲望をかきたてたのだった。たいていの若者の例にもれず、恨みをはらして勝利を収めた後は、寛大にも許してやるという、綿密な夢想にふけったのである。  するうち嘲笑《あざわら》う致命的な疫病が、地獄の底のタルタロスの悪夢の洞窟から押し寄せたのだった。ウェストとわたしはこの災難がはじまる頃には卒業していたが、夏期講習でさらに研究をつづけるため大学に残っていたので、疫病が街に猛威をふるったときにはアーカムにいた。まだ免許のある医者ではなかったとはいえ、学位は取得していたので、病魔に冒された者がふえるにつれ、どうあっても公務につかざるをえなかった。事態はほとんど収拾のつかないもので、死者が続発するあまり地元の葬儀屋では十分にあつかいきれぬほどだった。防腐処置もほどこされない埋葬がひっきりなしにあわただしくおこなわれ、クライスト・チャーチ墓地の墓穴にさえ、防腐処置なしの死体を収めた棺が詰めこまれたのだった。こうした環境がウェストに影響をおよぼさぬはずがなく、ウェストはこの皮肉なめぐりあわせによく思いをめぐらしたものだ――新鮮な標本がおびただしくあるというのに、熱望する研究に適うものは一つとしてないのだから。わたしたちはひどい過労におちいり、はなはだしい精神や神経の緊張が、わが友人を陰鬱《いんうつ》に考えこませることになった。  しかしウェストの心やさしい敵たちも、精根つきはてる仕事にまいっていることにかわりはなかった。大学は閉鎖に近いありさまで、医学部の医者はすべて腸チフスとの闘いに尽力していた。とりわけホールシイ博士は、感染の危険や回復の見込みがないために、他の多くの医者に見すてられた患者に全精力を傾けて卓越した技術をそそぎ、献身的な医療奉仕で名をあげていた。一ト月とたたないうちに、恐れを知らぬ学部長は大衆の英雄になっていたが、体の疲労や神経の消耗から倒れこむのをふせぐのに懸命で、名声をかちえていることにも気づいていないふうだった。ウェストにしても敵の不屈の精神を賞讃しないわけにはいかなかったが、かえってこのために、ホールシイ博士を相手に驚くべき理論の正しさを証明する決心をさらにかためたのだ。ウェストは大学の機能と市の衛生条例の双方が混乱しているのに乗じて、亡くなったばかりの死体をある夜ひそかに大学の解剖室に何とか運びこむと、新しく調合した試薬をわたしの目のまえで注入した。死体は実際に目を開けたものの、総毛立つような恐怖もあらわに天井を見つめただけで、たちまち生気を失ってしまい、もう何をもってしても蘇らせることはできなかった。ウェストは死体がさほど新鮮ではなかったのだといった――夏の大気は死体に好ましくないのだと。そのときは死体を焼却するまえにあやうく見つかりそうになり、ウェストは大学の施設の不正な使用を繰返すことが得策ではないと判断した。  伝染病の猛威は八月に絶頂をきわめた。ウェストとわたしは疲れきっていまにも死にそうな状態だったが、ホールシイ博士は実際に十四日に亡くなった。十五日のあわただしい葬儀には学生の全員が列席して、金をだしあって立派な花輪を買ったものだが、アーカムの富裕な市民や市当局から送られた供花とならべられると、まったく色あせてしまった。葬儀は市葬に等しく、確かに学部長は市民の恩人だったのだ。埋葬のあとわたしたちは一人残らずいささかふさぎこみ、コマーシャル・ハウスのバーで午後をすごしたが、ウェストは最大の敵の死に動揺していたものの、悪名高い持論を吹聴してみんなの肝を冷したものだ。暮色が濃くなるにつれ、学生の大半は家に帰ったりさまざまな用事でひきあげたりしたが、わたしはウェストに説きつけられ、「今夜は飲み明かす」つもりだというウェストにつきあうことになった。ウェストの下宿のおかみはわたしたちが午前二時頃に、もう一人の男をあいだにはさんで下宿にもどるのを見かけ、わたしたちが食事とワインでずいぶんご機嫌になっているようだと亭主にいった。  いかにもこの気むずかしいおかみの見てのとおりだった。午前三時頃にウェストの部屋からおこった悲鳴で家じゅうの者が目を覚まし、ドアを押し破ったところ、わたしたち二人が殴られ、ひっかかれ、衣服も引き裂かれた姿で、血にまみれたカーペットの上で意識を失い、ウェストの実験器具や壜《びん》の残骸があたりに散乱していたからだ。わたしたちを襲った者がどうなったかを告げるのは開いた窓一つだけで、恐ろしくも二階の窓から芝生にとびおりたにちがいないとしても、どうやってそんなまねをして無事にすんだのかと、多くの者が首をひねった。部屋のなかには見なれない衣服らしきものが残っていたが、ウェストは意識をとりもどすと、部屋に連れてきた男のものではなく、病原菌の感染経路を調べる細菌分析のために集めた標本だといった。そして大きな暖炉でできるだけ早く焼きすてるよう命令した。警察に対しては、ウエストもわたしも、部屋に連れてきた男の身元は知らないと言明した。場所もよくおぼえていない下町の酒場で出会い、意気投合した男だと、ウェストは神経を高ぶらせていった。いささか羽目をはずしてしまったのだと告げて、ウェストもわたしも乱暴な連れが捜索されることを望まなかった。  おなじ夜、アーカムの第二の恐怖がはじまった――わたしにとっては疫病をもしのぐ恐怖である。クライスト・チャーチの墓地が恐ろしい殺人のおこなわれた現場で、筆舌につくしがたいばかりか、はたして人間のしわざかと疑問が生じるほどの無残なありさまで、夜警が引き裂かれて絶命したのだった。犠牲者は真夜中をかなりすぎた頃に生きていたのが目撃されている――夜明けとともに名状しがたい兇行が明らかになったのだ。近くの町のボルトンでサーカスを開いていた経営者が事情聴取されたが、野獣が檻《おり》から逃げだしたことはないと断言した。死体を発見した者たちは、血の跡が墓穴にまでつづき、柵《さく》のすぐ外のコンクリートの上に赤い血だまりがあることに気づいた。そのかすかな血の跡は林のほうにつづき、そこでふっつりととぎれていた。  翌日の夜は悪魔たちがアーカムの屋根の上で跳梁して、尋常ならざる狂気が風のなかで吠え猛った。疫病に冒される街に呪いがしのびより、疫病よりも恐ろしいという者もいれば、悪疫の魔霊が体現したものだと囁《ささや》く者もいた。八軒の家が名状しがたいものに押しいられ、そのあとには赤い死が散乱した――ひそかにしのびこんだものいわぬ残虐な怪物によって、都合十七体の見分けもつかぬ惨殺死体が残されたのである。ごくわずかな者が闇のなかで怪物の姿をなかばとらえ、白い奇形の類人猿か人間に似た鬼のようだったといった。襲われた者の死体がすべて完全な形で残っていたわけではないのは、ときとして怪物が腹をすかせていたからである。実際に殺されたのは十四名で、三つの死体は病魔に冒された家にあったものだから、既に生きてはいなかった。  三日目の夜、激怒する捜索隊が警官にひきいられ、ミスカトニック大学のキャンパスに近いクレイン・ストリートの家で怪物をつかまえた。捜索隊は慎重に組織され、有志が電話番をすることで相互の連絡にぬかりはなく、大学地区にいる者が鎧戸《よろいど》をおろした窓をひっかく音がすると報告するや、速やかに捕縛の網が広げられたのである。誰もが警戒と用心をおこたらなかったため、犠牲者はわずか二名にとどまり、さしたる不祥事もなく捕縛がおこなえた。怪物は最後に弾丸によって倒されたのだが、これとても致命傷とはならず、興奮と嫌悪の声がわきおこるなか、ただちに地元の病院に収容された。  怪物は人間だったのである。いやらしい目、沈黙する類人猿の見かけ、悪魔さながらの残忍性を備えているにもかかわらず、この点は確かだった。傷の手当をうけたあと、セフトンの精神病院に運びこまれ、そして詰物のされた独房の壁に頭をうちつづけること十六年間におよんだ――それが最近になって災難がおこり、口外をはばかる状況下で脱走したのである。アーカムの捜索隊に最も嫌悪の情を催させたのは、怪物の顔から汚れがおとされたときに目にとまったものだった。三日まえに埋葬されたばかりの学識ある献身的な殉教者に、あざけるかのごとく、信じられないほどよく似ていたのだ――市民の恩人であり、ミスカトニック大学医学部の学部長であった、故アラン・ホールシイ博士に。  姿を消してしまったハーバート・ウェストとわたしにとっては、嫌悪と恐怖はこのうえもないものだった。そのことを思えば、あれから長い歳月を経た今晩でさえ総身が震えてしまう。あの朝ウェストが顔に巻かれた包帯のあいだから、あることを口にしたときよりも、わなわなと全身が震えてしまう。 「くそっ、新鮮さがまだたりなかったんだ」ウェストはそういったのだ。           3 月下にひびく六発の銃声    おそらく一発で十分だと思われるときに、いきなり拳銃で六発の弾丸すべてを発射するというのは、およそ普通ではないことだが、ハーバート・ウェストの人生では多くのことが普通ではなかった。たとえば、大学を離れた若い医者が、住居と職場の選択を左右する自己の心情を隠さざるをえないことは滅多にないが、ハーバート・ウェストの場合はそうだった。ウェストとわたしはミスカトニック大学医学部で学位を取得し、一般開業医として身をたてることで貧困から逃れようとしたとき、うまく孤立してできるだけ無縁墓地に近いがために住居を選んだことは、細心の注意をはらって口にしないようにしていた。  このように沈黙をまもったことに理由がないわけはなく、わたしたちの場合も同様で、わたしたちの求めるものが紛れもなく不興を買うライフワークから生じたものだったからだ。表向きわたしたちは医者にすぎなかったが、その裏にははるかに遠大で恐ろしい重要な目的があった――ハーバート・ウェストの生活の核心は未知という暗黒の禁じられた領域の探究にあり、ウェストは生命の神秘をあばき、墓場の冷たい躯《むくろ》を蘇らせて、永遠の生命を与えることを願っていたのだ。そのような探究には異常な素材が必要で、そのなかには新鮮な人間の死体もふくまれており、こうした不可欠のものをたえず得るためには、略式の土葬がおこなわれる場所からほど遠くないところで、ひっそりと暮さなければならないのである。  ウェストとわたしは大学で出会い、わたしだけがウェストの恐るべき実験に共鳴していた。わたしはしだいにウェストとは離れられない特別な助手となり、大学を卒業したときも二人の関係を保たなければならなかった。二人の医者がともにうまく世に出るのはたやすいことではないが、結局は大学の名声のおかげで、ボルトン――大学のあるアーカムに近い工場町――で開業することができた。ボルトン・ウーステッド工場はミスカトニック谷最大の工場で、さまざまな国の言葉を話すその従業員は、患者として地元の医者たちにうけがよくなかったのだ。わたしたちは住居を選ぶにあたって細心の注意をはらい、ついにポンド・ストリートのはずれ近くにある、かなりくたびれた家を手にいれた。一番近い隣家からは五番地離れている一方、わたしたちの住居と無縁墓地をさえぎるものは草原だけで、これは北に広がるかなり密集した森の細くなった箇所で二分されていた。距離はわたしたちが願っていたよりはるかにあったものの、草原の反対側に行かないかぎりはどの隣家にも近づくことはなく、工場地区からは完全に離れていた。しかしわたしたちは、住居と凶《まが》まがしい供給源のあいだに人が立ち入ることがないために、さほどいらだちはしなかった。歩くにしてはいささか長い距離だが、ものいわぬ標本を邪魔のはいらぬまま運ぶことができたのだから。  わたしたちの患者は開業当初から驚くほど多かった――たいていの若い医者をよろこばせるほど、そして真の関心が医療活動以外にある研究家なら、うんざりして負担と思うほどに多かった。工場の職工たちはいささか乱暴なきらいがあり、飲食の量も多いうえに、こぜりあいや腕ずくの争いがよくあることから、わたしたちは猫の手もかりたいほどだった。しかし実際にわたしたちの心を奪っていたのは、地下室に設けた秘密の実験室だった――この実験室は電灯の下に長いテーブルがあり、わたしたちはよくそこで真夜中をすぎた未明の深夜に、ウェストの処方した試薬を、無縁墓地からひきずってきた標本の血管に注入したものだ。ウェストは狂ったように実験をつづけ、いわゆる死によって人間の生命活動が停止した後、新たにそれを開始させるものを見つけようとしていたが、凄絶《せいぜつ》きわまりない障害にでくわしていた。試薬はタイプが異なるごとに別個に調合しなければならないのだ――天竺鼠《てんじくねずみ》に使えるものは人間には使えず、使用する標本が異なるごとに大幅な変更をおこなわなければならなかった。  死体はとりわけ新鮮なものでなければならず、脳の組織にすこしでも腐敗が進行していると、完全な蘇生が不可能になってしまう。事実、最大の問題は新鮮な死体を入手することだった――鮮度の疑わしい死体を用いての大学での秘密の実験で、ウェストは恐ろしい経験をしていた。部分的もしくは不完全な蘇生の結果はまったくの失敗よりも悍《おぞ》ましいもので、わたしたちは二人ともそのような慄然たる記憶を胸に秘めていた。アーカムのメドウ・ヒルにある無人の農家で最初の悪魔的な実験をおこなってからというもの、わたしたちはわだかまる脅威をひしひしと感じ、性格も穏やか、髪はブロンド、目はブルー、多くの点で正確な自動人形のようなウェストにしたところで、ひそかにつきまとわれているという心騒がされる感じのすることを、よくわたしにうちあけたものだ。ウェストは動向を注目されているようだともなかば思っていた。これは動揺する神経がもたらす心理的な幻覚で、わたしたちが蘇生させた標本の少なくとも一体がまだ生きているという、否定できない不安な事実によって強められているのだった――問題の標本とは、セフトンで詰物のされた独房に閉じこめられている、悍ましい人肉|嗜食《ししょく》の怪物である。さらにもう一体あり――最初に蘇生させた標本だが――そいつがどうなったかについては、わたしたちもついに知ることがなかった。  ボルトンでは標本の入手にあたって――アーカムよりもはるかに――幸運に恵まれていた。腰をおちつけて一週間とたたないうちに、わたしたちは事故死した者の死体をまさに埋葬の夜に入手して、驚くほど理性的な光のうかぶ目を開かせたが、そのあと試薬の効き目がきれてしまった。この死体には片腕がなかった――肉体が完璧だったなら、目覚ましい成功をおさめていたかもしれない。そのときから翌年の一月までのあいだに、さらに三体を確保して、一体は完全な失敗だったものの、いま一体は著しい筋肉の動きを見せ、残る一体はいささか慄然たる結果になった――自ら起きあがり、声を発したのだ。その後は運に恵まれない時期がつづき、埋葬が減少して、ときおり埋葬される死体といえば、どうにも使いものにならないほど、病に冒されていたり損傷があったりするものばかりだった。わたしたちは組織的な綿密さで、すべての死と死因を記録していたのだ。  しかし三月のある夜、思いがけなく無縁墓地以外で標本を一体入手することになった。ボルトンでは清教徒の厳格な気風が支配的で、スポーツとしてのボクシングも禁止されていた――これによって当然の結果がもたらされていた。人目をしのぶけしからぬ勝負は工場の職工たちのあいだではありふれたもので、ときにはランクの低いプロのボクサーが呼ばれることもあった。この晩冬の夜もそういう試合がおこなわれ、どうやら不幸な結果になったらしく、おどおどしたポーランド人二人がわたしたちを訪れて、どうにも聞きとりにくい低い声で、まったく外聞をはばかる重病の患者を診てくれと懇願したのだった。わたしたちは二人のあとにつづき、廃屋になった納屋に行ったが、そこでは観客のうちでまだ残っているおびえた外国人たちが、床に倒れこんだままものもいわない黒い体をじっと見つめていた。  試合はキッド・オブライエン――いまはわなわなと身を震わせているアイルランド人らしからぬ鉤鼻《かぎばな》が目立つ無骨な若者――と、「ハーレムの黒んぼ」と呼ばれるバック・ロビンスンのあいだでおこなわれたのだった。黒人がノック・アウトされたのだが、すこし診ただけで永久に起きあがれないことがわかった。バック・ロビンスンは胸のむかつくようなゴリラさながらの男で、前脚と呼びたくなるような異常に長い腕を備え、その顔といえば、名状しがたいコンゴの秘密と不気味な月の下でひびくタムタムといったものを髣髴《ほうふつ》させるようなものだった。その体は生きているときはさらにひどく見えたにちがいない――しかし世間には醜いものが数多くあるものだ。哀れむべき観客は、この事件が明るみに出たら法律によってどのような罪に問われるかわからず、一様におののいていたので、わたしが思わず震えあがったのを尻目に、ウェストが死体を内密に処分することを申し出ると、感謝の色を満面にうかべた――ウェストがこんな申し出をした目的は、わたしには十分すぎるほどよくわかっていた。  雪のない地表に月光が照り映えていたが、わたしたちは死体に服を着せ、アーカムであの恐ろしい夜に同様のものを運んだように、両側からかかえこむようにして、無人の通りと草原を抜けて家路についた。裏の草原から家に近づき、標本を勝手口から入れて地下室に運びこみ、いつもの実験の準備をした。わたしたちは頃合を見はからって通りを歩き、あたりを一人で巡回する警官を避けていたが、警官に対する恐怖は愚かしいほどはなはだしかった。  実験の結果はげんなりするほど腰くだけのものだった。わたしたちの戦利品は見かけこそ凄絶《せいぜつ》なものだったが、白人の標本だけを実験した経験に基づき準備した、あらゆる試薬を黒い腕に注入しても、まったく反応をおこさなかったのだ。こうして時間だけがいたずらにすぎてあやうく夜明けが近づくと、ほかの標本に対してしたのとおなじことをした――そいつをひきずって草原を横切り、無縁墓地に近い森のはずれまで行き、凍りついた地面が提供してくれる最上の墓に埋めたのである。その墓はそう深くはないが、以前の標本――自ら起きあがって声を発した標本――の墓と同様に申し分のないものだった。必要に応じて遮光《しゃこう》できる角灯の光が照らすなか、わたしたちは枯れた蔓《つる》や葉で墓を注意深く覆い、暗くて深い森のなかなので警察に発見されることもあるまいと確信した。  翌日、患者の一人がボクシングの試合で死者が出たようだとの噂《うわさ》を口にしたため、わたしは警察に対する懸念をいやましにつのらせた。ウェストにはまた別の悩みの種があった。午後に往診に呼ばれた先できわめて剣呑《けんのん》なことになってしまったからである。イタリァ女が行方の知れなくなった子供のことでヒステリーの発作をおこし――当年五歳のその息子は朝早くさまよいでたきり夕食の時間になってももどってこなかったのだが――もともと心臓が弱かったため、驚くほど症状を悪化させていたのだった。子供はまえからよく家をとびだすことがあったので、まったく莫迦《ばか》げたヒステリーだったが、イタリアの田舎者はきわめて迷信深く、この女は息子が失踪《しっそう》した事実に気をもむばかりか、それを不吉なものと思いこんでとり乱しているようだった。夕方の七時頃にこの女は死んでしまい、逆上した亭主が女房の生命を救えなかった責任はすべておまえにあるとわめきちらして、ウェストを殺そうとする恐ろしい一幕があった。短剣を抜いた亭主を友人たちがおさえこんだが、ウェストはおよそ人間のものとも思えない亭主の金切り声、呪い、復讐を誓う言葉を耳にしながら退散した。亭主は目下の悲しみにうちひしがれるあまり、子供のことも忘れはてたらしく、その子供は夜がふけてもあいかわらず行方が知れなかった。森のなかを探そうという話がもちあがったものの、家族の友人のほとんどは、死んだ女房とわめきちらす亭主の世話に手一杯のありさまだった。総じてウェストの精神的な緊張ははなはだしいものだったにちがいない。警察のこと、そして逆上したイタリァ人のことが、二つながらに重く心にのしかかっていたのだから。  わたしたちは十一時頃に床についたが、わたしはよく眠れなかった。ボルトンは小さな町にしては驚くほど警察力がととのっているので、前夜の事件がつきとめられた場合、その結果として窮境におちいるはずだと恐れないわけにはいかなかった。わたしたちのこの町での仕事がおわることを意味するかもしれない――そしておそらくウェストとわたしはともに拘留されることになるだろう。わたしはボクシングの試合について噂が広まっているのが気にいらなかった。時計が三時を打ったあと、月の光に目が照らされたが、わたしは起きあがってブラインドをおろすこともしなかった。やがて勝手口をまさぐる音が聞こえた。  わたしは横になったまま、ややぼんやりしていたが、まもなくウェストがわたしの部屋のドアをノックする音が耳にはいった。ウェストは部屋着にスリッパという姿で、手には拳銃と懐中電灯をもっていた。拳銃を手にしていることから、ウェストが警察よりも逆上したイタリア人を予想しているのがわかった。 「二人で行ったほうがいい」ウェストが声を潜めていった。「とにかく出ないわけにはいかないし、患者かもしれないからな――裏口から入りこもうとする莫迦《ばか》な奴かもしれないし」  そうしてわたしたちは足音をしのばせて階段をおりたが、そのときおぼえた恐怖は、しごく当然のものであるとともに、不気味な真夜中の雰囲気からのみ生じるものでもあった。ドアをまさぐる音はつづき、しだいにすこしずつ大きくなっていった。勝手口のまえに来て、わたしが慎重に掛け金をはずしてドアを押し開け、ふりそそぐ月の光でそこに輸郭を描くものの姿があらわになると、ウェストは異常きわまりないことをした。人の注意をひき、恐れている警察の捜査を招きかねない歴然たる危険もかえりみず――もっともわたしたちの住居が比較的孤立していることでこの危険はありがたくも回避されたのだが――わが友人はにわかに興奮して、必要もないのに深夜の訪問者に対して、拳銃の六つある弾倉をすべてからにしてしまったのだ。  その訪問者がイタリァ人でも警官でもなかったからである。おぼめく月の光を背に恐ろしくもうかびあがったのは、悪夢をおいて想像することもできないような、巨大な奇形の姿だった――眼はどんよりして、ほとんど四つんばいになった漆黒《しっこく》のばけもので、その体は土や葉や蔓《つる》に覆われ、忌わしくも血がこびりつき、ぎらつく歯のあいだには雪のように白い、恐ろしい円筒形のものをくわえていたが、その先端は小さな手になっていたのだ。           4 死者の悲鳴    死者の悲鳴を耳にして、わたしはハーバート・ウェスト医師に対してさらに激しい恐怖をいだくようになり、それが後の交友の悩みの種となった。死者の悲鳴といったものが恐怖を引き起こすのは当然のことで、ありふれた快いものではないからだが、しかしわたしはおなじような経験を幾度もして慣れていたから、そのとき悩まされたのはひとえに状況が特異だったからである。既にほのめかしているように、わたしが恐れるようになっていたのは死者そのものではなかった。  わたしが協力者ともなり助手ともなっていたハーバート・ウェストは、小さな町の医者が日常おこなう決まりきった仕事をはるかに超える、科学的な関心をもっていた。そのためにこそ、ボルトンで診療をはじめる際には、無縁墓地に近い孤立した住居を選んだのだ。手短に乱暴ないいかたをすれば、ウェストの心を唯一占めていた関心は、生と死の現象をひそかに研究することであり、刺激性の試薬を注入することによる死者の蘇生を目指していた。この慄然たる実験のためには、きわめて新鮮な人間の死体を不断に確保することが必要だった。きわめて新鮮なものでなければならないのは、わずかな腐敗でもはじまっていると、脳の組織が絶望的なまでに損われるためであり、人間のものでなければならないのは、生物のタイプが異なれば、それに応じて異なった試薬を調合しなければならないことがわかっていたためである。おびただしい兎《うさぎ》や天竺鼠《てんじくねずみ》が殺されて処置をうけていたが、そうした試みは袋小路以外の何物でもなかった。ウェストが十分な成果をあげられなかったのは、満足のいく新鮮な死体を確保できなかったためにほかならない。ウェストが求めたのは生命力が失われたばかりの死体、すべての細胞が損われておらず、生命と呼ばれる活動様式に対する衝動を、ふたたび受容できる死体だった。この第二の人為的な生命が、注入を繰返すことによって永続的なものにされる期待はあったものの、ありふれた自然の生命ではそうした試みに反応しないことがわかっていた。人為的な活動を生ぜしめるには、自然の生命がつきはてていなければならない――標本はきわめて新鮮なものでありながら、紛れもなく死んでいなければならないのである。  恐ろしい探究がはじまったのは、ウェストとわたしがアーカムのミスカトニック大学医学部の学生だったときのことで、最初のうちは生命の徹底して機械的な性質を画然と意識していた。それは十七年まえのことだが、ウェストはいまでも当時とほとんど変わっていないように見える――こがらで、髪はブロンド、髭《ひげ》はきれいにあたっていて、声はやさしく、眼鏡をかけており、ときとして冷たいブルーの目がきらめくことで、空恐ろしい調査のために、性格の狂信的なところがますます凝りかたまってつのっていくことが察しられるばかりだった。わたしたちの経験はしばしば極度に恐ろしいものになり、不完全な蘇生の結果として、墓場の土と化すべきものがいくつも、活力をあたえる試薬のさまざまな調合によって刺激され、尋常ならざる、陰惨な、知性のかけらもない行動をおこすことがあったのだ。  一体は神経が引き裂かれるような悲鳴をあげたし、もう一体は激しく起きあがり、わたしたちを殴って昏倒《こんとう》させ、血に飢えて衝撃的なやりかたで暴れ狂ったあと、精神病院の独房に閉じこめられたし、忌《いま》わしいアフリカのばけものであるさらにもう一体は、浅い墓から這《は》いだして、ある行為をなした――そいつに対してウェストは発砲しなければならなかった。わたしたちは、蘇生させたときに理性がいささかなりとも残っていることを示すほど新鮮な死体を得ることができず、したがってやむをえず名状しがたい恐怖を生みだしてしまったのである。わたしたちのつくりだした怪物の一体、もしくは二体が、なおも生きていることを考えるのは、心騒がせられることだった――そんな不安な思いがわたしたちの心に冥《くら》くとりついてはなれず、ついにはウェストが恐ろしい状況のもとで姿を消してしまった。しかしボルトンの孤立した住居の地下の実験室で悲鳴があがったときは、きわめて新鮮な標本をぜがひでも入手したい熱望が恐怖をしのいでいた。ウェストはわたしよりも熱心で、わたしにはまるで、ウェストがきわめて健康な肉体をもつ者には、誰かれなしに貪欲《どんよく》な目をむけているように思えたほどだった。  標本入手にかかわる悪運がつきかけたのは一九一〇年七月のことだった。わたしはしばらくイリノイにいる両親を訪れていて、帰ってみるとウェストがいつになく気分を昂揚させていた。興奮していうには、まったく新しい角度からの方法――人工保存の手段――でもって、鮮度の問題が解決できそうだとのことだった。わたしはウェストが新しいきわめて異常な防腐剤の研究にとりくんでいたことを知っていたから、その研究がうまくいったことには驚かなかったが、標本の好ましくない腐敗はもっぱら標本を確保するのが遅れるためなので、ウェストに詳しく説明してもらうまで、どうしてそのような合成物がわたしたちの研究に役立つのかやや困惑していた。やがてわかったことだが、ウェストもこの問題をはっきり認識していて、すぐに使用するというより将来に備えて防腐剤を作りだし、何年もまえに賞金のかかったボルトンのボクシングの試合で殺された黒人を手にいれたように、ごく新しい埋葬まえの死体がもたらされる運命をあてにしていたのだった。するとついに運命がわたしたちに味方して、この場合には秘密の地下の実験室に、まったく腐敗のおこることのない死体が横たわることになったという。蘇生によって何がおこるか、精神や理性の復活が願えるかどうかについては、ウェストもあえて推測することをしなかった。その実験はわたしたちの研究の画期的な出来事になるはずのもので、ウェストはわたしがもどるまで新しい死体をとっておいてくれていたため、二人して手慣れたやりかたで壮観をわかちあえるのだった。  ウェストがどうやって標本を入手したかを話してくれた。死体は強健な男のものだった。身なりもいいよそ者で、ボルトン・ウーステッド工場と何らかの取引をするために列車からおりてきたところだったらしい。町を歩く距離が長く、この旅行者がわたしたちの住居に立ち寄って工場へむかう道をたずねたときには、心臓がかなり酷使されていた。男は気つけ薬をことわり、たちまち倒れこんで死んでしまったのだ。予想されるとおり、ウェストにはこの死体が天からの贈物のように思えた。つかのま言葉をかわしたことで、男はボルトンでは誰にも知られていないことを明らかにしていたし、あとでポケットを調べてみると、セントルイスのロバート・レヴィットという人物であることがわかり、どうやら行方不明になったところで調査をする家族もいないようだった。たとえこの男を蘇生させることができなかったとしても、わたしたちの実験は誰にも気づかれないわけだ。実験に使った素材は住居と無縁墓地のあいだに位置する森の深い茂みに埋めればいい。一方、この男を蘇生させることができると、わたしたちははなばなしい不朽の名声が得られるだろう。そんなわけでウェストは、わたしがもどってから使用するために、ただちに死体を新鮮に保つ合成物を手首に注入していたのだった。心臓が弱いらしいという問題は、わたしには実験の成功をあやうくするもののように思えたが、ウェストはさほど気にしているようではなかった。ウェストはついにいままで手に入ることのなかったものが得られることを期待した――理性の光がふたたびきらめき、おそらく正常な生を送る生きものが得られることを。  かくして一九一〇年七月十八日の夜、ハーバート・ウェストとわたしは地下の実験室に立ち、まばゆいアーク灯のもとでものいわぬ白い体を見つめた。防腐剤は気味悪いほどよく効いていて、わたしは二週間硬直することなく横たわっている頑健な体を魅せられたように見つめているうちに、ウェストに近づいて、本当に死んでいるのかと確かめたほどだった。ウェストは躊躇《ちゅうちょ》なく請けあって、生命にかかわる入念な検査なしに蘇生液を使ったことがないことをわたしに思いださせた。もとの活力がすこしでも残っていると、蘇生液は効果を発揮しないのだ。ウェストが予備的な処置を進めたので、わたしは新しい実験がきわめて複雑なものだという印象をうけた。複雑であるからこそ、ウェストは自分自身の繊細な手しか信頼できなかったのだ。ウェストは死体にふれることをわたしに禁じると、防腐剤を注入したときに注射器の針で開いた穴に近い手首の箇所に、まず薬品を注入した。ウェストがいうには、これは蘇生剤が十分に効くように、防腐剤を中和して組織を正常な弛緩《しかん》状態にさせるものだった。しばらくして、変化がおこり死体の手足にかすかな震えがあらわれたように見えると、ウェストは枕のようなものをひきつる顔に手荒く押しつけ、死体が静かになって蘇生を試みる準備ができるようになるまでとりのけなかった。青ざめた情熱家は次に、完全に生命のないことを確かめる最後の形ばかりの検査をおこない、満足そうにひきさがると、正確に計量された生命力を与える霊液をようやく左腕に注射したが、これはわたしたちの行為がまだ端緒についたばかりで暗中模索だった大学時代よりも、はるかに注意深く、午後のあいだに準備されていたものだった。このはじめての真に新鮮な標本の結果を待っているあいだの、狂おしいばかりの息もつまる緊張感を、どういいあらわせばいいだろうか――唇を開けて理性的なこと、おそらくは測り知れない深淵の彼方で目にしたものを語ってくれることが、正当に期待できるはじめての標本だったのだから。  ウェストは唯物論者で、魂というようなものを信じず、意識の作用すべては肉体現象にほかならないとしていたので、死の障壁の彼方の深淵や洞窟から、恐るべき秘密が明らかにされるなど、当然のように期待してもいなかった。わたしはといえば、理論的にはウェストとまったく意見をたがえているわけではなかったものの、それでもなお祖先たちの原始的な信仰の漠然とした本能的な名残のようなものをもっていたため、いくばくかの畏敬の念と恐ろしい期待をもって、死体を見つめないわけにはいかなかった。それだけではない――アーカムの無人の農家ではじめて実験を試みた夜に聞いた、人間のものとも思えないすさまじい悲鳴を、記憶から消し去ることなどできるはずもなかった。  ほとんど時間を経ないうちに、わたしはこの試みが完全な失敗にはならないことを知った。それまで真っ白だった顔にかすかな色がさし、妙にふさふさした砂色の顎鬚《あごひげ》の下にまで広がったのだ。左手首の脈をとっていたウェストが急に意味ありげにうなずき、それとほとんど同時に、死体の口の上に傾けられていた鏡に曇りが生じた。それにつづいて筋肉が痙攣《けいれん》するように何度か動いたあと、息づかいが聞きとれ、胸の動くのが見えた。わたしは閉じた目蓋《まぶた》を見つめ、震えているのが見えたように思った。やがて目蓋が開き、灰色で穏やかな生きている目があらわれたが、まだ知性の色はなく、好奇心さえもなかった。  つかのまきざした気まぐれから、わたしは赤みのさしていく耳に質問を囁《ささや》いた。記憶がまだ残っているかもしれない他の世界についての質問だ。恐怖がつのるまま、さまざまな質問を次つぎに口にしたのだが、わたしが繰返した最後の質問は、「いままでどこにいたのだ」であったように思う。形のととのった口から何の声も発せられなかったので、質問に対して答があったのかどうかはいまだによくわからないが、薄い唇が声をだすことなく動き、その言葉が何らかの意味か妥当性をもっているとして、「いまだけだ」とうけとれるような動きかたをしたと、はっきり思ったことはおぼえている。いまも記憶になまなましいが、偉大な一つの目標が達せられたという確信、蘇生した死体がはじめて真の理性に駆りたてられて明瞭な言葉を口にしたという確信を得て、わたしは有頂天になってしまった。次の瞬間、勝利は疑いのないものになった。試薬が少なくとも一時的には、死者に理性ある紛れもない生命を回復させる使命を確かにはたしたことに、疑問の余地はなかった。しかしその勝利を味わっているうちに、これまでで最大の恐怖がわたしを襲った――死体がしゃべったという恐怖ではなく、わたしが目撃した行為そのものの恐怖、職業的な幸運を共にした男に対する恐怖である。  それというのも、そのきわめて新鮮な死体は、地上で見た最後の情景の記憶をたたえて目を大きく見開き、ついに慄然たる意識を完全にとりもどして激しく身をよじり、生と死の闘いのうちにやみくもに両手を宙にさしのべたかと思うと、たちまち二度ともどることのない第二の最終的な死へとおちこんでいき、わたしの痛む頭脳にいつまでも鳴りひびく叫び声を、最後にあげたからである。 「助けてくれ。近づかないでくれ、おまえ、呪われた亜麻色の髪の小鬼よ――そのいまいましい針を抜いてくれ」           5 影のなかの恐怖    第一次大戦の戦場でおこった恐ろしい出来事については、文章にされることはないものの、多くの者が語っている。そのうちのいくつかはわたしの心をくだき、別のものは激しい嘔吐《おうと》でもってわたしを身もだえさせる一方、さらに別のものはわたしを震えあがらせ、闇のなかで目を背後にむけさせるが、こうしたなかで最悪のものにもまして、最も悍《おぞ》ましいもの――衝撃的で尋常ならざる信じられようもない影のなかの恐怖――を、わたしは自分の口から話せると思う。  一九一五年、政府に先んじて大戦に加わった多くのアメリカ人の一人として、わたしはフランドルのカナダ連隊で中尉の資格をもつ軍医となった。自ら進んで軍隊に加わったわけではなく、これはむしろ、わたしがなくてはならぬ助手をつとめていた男――ボストンの著名な外科の専門医であるハーバート・ウェスト医師――が入隊したことの当然の結果だった。ウェスト医師は大戦で外科医として働く機会を熱望していて、その機会が訪れると、ほぼ強制的にわたしを同行させたのだった。わたしには戦争によってわたしたちが別れたままになればうれしくなる理由、医学の実践およびウェストとともにいることをますますいらだたしく思う理由がいくつもあったが、ウェストがオタワに赴任して同僚の威光で少佐待遇の軍医に任命されたとき、平素の能力からして同行すべきだという決意もあらわな者の強引な説得に、わたしとしてもついに抗しきれなかったのである。  ウェスト医師がしきりに従軍したがったとわたしがいうのは、何も彼が生まれつき戦争好きであったとか、文明の安寧を気づかっていたとかを意味してのことではない。わたしの見るところ、常に冷静な知性をもつ機械のようで、ほっそりして髪はブロンド、目はブルー、眼鏡をかけているウェストは、わたしがときおり戦争に熱狂することや怠惰な中立を非難することを、ひそかに嘲笑《あざわら》っていたのだった。しかしながら戦列を敷いたフランドルにはウェストの求めるものがあり、それを確保するために、ウェストは軍人という見かけをとらなければならなかった。ウェストが求めたものは多くの者が求めるものではなく、ウェストが極秘に追求することを選び、驚くべき結果やときには恐ろしい結果を得ていた、医学の特異な分野にかかわるものだった。事実、それはさまざまに手足を失って戦死していく者の、おびただしい新鮮な死体以外の何物でもなかったのである。  ハーバート・ウェストが新鮮な死体を求めたのは、ライフワークが死体の蘇生だったからにほかならない。この研究は、ウェストがボストンにあらわれて以来、その名声を速やかに高めた上流社会の患者たちには知られておらず、これをよく知っているのは、アーカムのミスカトニック大学医学部在学中以来、ウェストの最も親密な友であり唯一の助手であった、わたしだけだった。医学部在学中に、ウェストはまず動物で、次にぞっとする方法で手にいれた人間の死体で、恐ろしい実験をはじめたのである。ウェストが死んだものの血管に注入する試薬があり、これは死体が十分に新鮮なら不思議なやりかたで反応を見せた。生物のタイプが異なれば、それぞれふさわしい特別な刺激が必要なことがわかったため、ウェストは適切な処方を発見するのにかなりの苦労をしていた。ウェストは部分的な失敗について思案するとき、しのびよる恐怖を感じないわけにはいかなかった。不完全な試薬や鮮度が不十分な死体から、名状しがたいものが生じていたのである。かなりの数のこうした失敗作はそのまま生きつづけ――一体は精神病院に収容される一方それ以外は姿を消してしまい――こうしてウェストは、想像こそできるものの文字通り信じがたい不測の事態を考えるにつけ、表面上はいつもの無関心さを装いながら、ひそかに震えあがることがしばしばだった。  ウェストはまもなく、絶対的な鮮度こそが役にたつ標本の根本的な要件であることを知り、それゆえに死体を盗むという恐るべき尋常ならざる手段に訴えた。医学部在学中、ならびに工場町ボルトンでわたしとともに開業をはじめた頃には、わたしのウェストに対する態度はおおむね心奪われた者の賞讃の念だったが、しだいにウェストの手法が大胆なものになっていくにつれ、わたしは身をさいなまれるような恐怖をつのらせるようになった。わたしはウェストが健康な者を見る目つきが気にいらず、やがて地下の実験室で悪夢めいた企てがおこなわれたとき、ある標本が生きたまま確保されたことを知ったのだった。そのときはじめてウェストは、死体に理性的な思考という特質を甦らせることができ、忌《いま》わしい犠牲によって得られたその成功が、ウェストを無情きわまりない男にさせたのだった。  それから五年間にわたるウェストの手法については、わたしには語る勇気とてない。わたしは紛れもない恐怖の力によってウェストに支配され、人間の口ではどうあっても告げることのできない光景を目撃してきた。そうしてやがて、ハーバート・ウェスト本人こそが、彼のなすいかなることよりも恐ろしいと思うようになった――それは寿命をのばしたいというウェストのかつての正常な科学的情熱が、単なる陰鬱《いんうつ》な食屍鬼めいた好奇心、そして納骨所を髣髴《ほうふつ》させるものをひそかに偏愛する気持へと、微妙に堕落したことがわかりはじめたときのことだった。ウェストの関心は、忌わしくも極悪非道なまでに、異常なものへの地獄めく倒錯した耽溺《たんでき》となり、しごく健全な者なら恐怖と嫌悪のあまり昏倒《こんとう》してしまうような、人為的につくられたばけものを、満悦して穏やかにながめるのだった。ウェストは青白いインテリの見かけを保ちながら、肉体の実験をおこなう、妥協を許さぬボードレール――無神経な納骨所のヘリオガバルス――になってしまったのである。  ウェストはひるむことなく危険にむかい、動じることなく犯罪を犯した。わたしは思うのだが、クライマックスが訪れたのは、ウェストが死体の切断された部分の蘇生を実験することで、理性をもつ生命を蘇らせることができる点を証明して、新しい世界を征服しようとしたときのことだった。通常の生理機能から分離した臓器の細胞や神経組織の独立した生命力の特性について、ウェストは奔放かつ独創的な考えをもっており、名状しがたい熱帯の爬虫類《はちゅうるい》の孵化《ふか》しかけた卵から得た、人為的に育てられ、死ぬことのない組織という形で、恐るべき予備的な結果を得ていた。ウェストがとりわけ解決したがっていた生物学上の問題が二つあった――第一はいくぶんかの意識や理性的な行動が脳なしに可能で、脊髄《せきずい》やさまざまな神経中枢から生じるかどうか、第二は物質である細胞とは異なる何らかの類の霊妙でつかみがたい関係が、以前は単一の生きている生命体であったものから外科的に分離された部分に、もしかして存在しているかどうかということだった。こうした研究活動には殺されたばかりのおびただしい新鮮な死体が必要だった――だからこそハーバート・ウェストは大戦に従軍したのである。  一九一五年三月末のある深夜に、サンテロアの前線背後の野戦病院で、陰惨な幻影のような名状しがたいことが発生した。わたしはいまですら、それが本当に、一時的な精神錯乱による魔的な夢以外のものだったのだろうといぶかしむほどだ。ウェストは納屋のような一時しのぎの建物の東の部屋に、私的な実験室をもっていたが、これは従来絶望的だった不具者の治療のために、新しい革命的な治療法を考案しているという申し出に基づいて割り当てられたものだった。ウェストはその実験室で屠殺者《とさつしゃ》さながらに、血みどろのものにかこまれて働いた――ウェストがある種のものをあつかったり分類したりする際のうかれ気分には、わたしはついに慣れることがなかった。ときにウェストは、兵士たちのために驚異的な外科手術を実際になしとげることがあったものの、主たる喜びは公共に属するものでも博愛的なものでもなく、破滅した者たちの騒々しい声の只中でさえ異常に思える物音について、多くの釈明を要するものだった。こうした物音のなかには頻繁に発砲される拳銃の発射音があった――戦場では珍しいものではないが、病院では明らかに尋常ではないものだ。ウェスト医師の蘇生させた標本は、長く生きつづけさせたり、大勢の者に見せたりするためのものではなかったのである。ウェストは人間の組織のほかに、培養してすぐれた結果を得ていた爬虫類《はちゅうるい》の胚《はい》を大量に使っていた。臓器のない断片に生命を維持させるには人間のものよりもよく、それこそがわが友人のもっぱらの研究活動になっていた。実験室の暗い隅には、孵化《ふか》を促進させる風変わりなバーナーの上に、この爬虫類の細胞物質に満ちる蓋《ふた》のされた大桶《おおおけ》が置かれており、増殖して恐ろしくもふくれあがっていた。  いま話にのぼっている夜には、見事な新しい標本が手に入ったのだった――かつてはたくましい肉体を誇り、鋭敏な神経系が保証される高い知性をもっていた男だった。その男はウェストの任官にあたって力をかした将校だったから、こうしてわたしたちの実験台になっているのは、いささか皮肉なことだった。さらにこの男は、かつてウェストのもとで、蘇生理論をある程度ひそかに学んだことがあった。サーの称号をもち、殊勲章の栄誉に輝くこのエリック・モーランド・クラパム=リー少佐は、わが師団で最大の外科医であり、激戦の知らせが本営に届いたことで、急遽《きゅうきょ》サンテロアに配属されたのだった。恐れを知らぬロナルド・ヒル中尉の操縦する飛行機でやってきたのだが、目的地の真上で撃墜されてしまった。墜落は劇的かつ恐ろしいもので、墜落後ヒルは死体の確認もできないありさまだったが、機の残骸からは偉大な外科医の遺体が、ほとんど首がちぎれかかっていたものの、それ以外は無傷な状態で発見された。ウェストはかつては友人であり同僚の学者でもあった者の遺体を貪欲《どんよく》に奪った。そしてわたしが震えあがっているのを尻目に、頭部を切断して、将来の実験に備えて保存するため、爬虫類のどろどろの組織が入っている地獄めいた大桶にいれ、頭部のない胴を手術台で処置しはじめた。ウェストは新しい血液を輸血し、頭部のない首の一部の静脈、動脈、神経を縫合して、ぞっとする開口部は、将校の制服を身につけていた身元不明の標本から採取した組織を植皮してふさいだ。わたしにはウェストが何をしたがっているかがわかっていた――この高度に組織化された体が、頭部なしに、エリック・モーランド・クラパム=リー卿を特徴づけていた、すぐれた精神活動の徴候を示すかどうかを確かめたかったのだ。かつては死体蘇生の研究者だったこの沈黙の胴体が、いまや恐ろしくも蘇生の実例となるべく求められているのだった。  不気味な電灯の下で、頭部のない死体の腕に蘇生液を注入したときのハーバート・ウェストを、わたしはいまでもありありと思いうかべることができる。その情景を描写することはできない――そんなことをしたりすれば、気を失ってしまうだろう。分類された恐ろしいものに満ち、血や人間の断片がねばねばした床にほとんど踝《くるぶし》まで隠れるほどにたまり、そして黒ぐろとした影につつまれる遠くの隅では、悍《おぞ》ましい爬虫類の異常きわまりないものが、明滅する青みがかった緑色のおぼめく炎の上で、あぶられ、泡立ち、早ばやと成長している、そんな部屋には紛れもない狂気があるからだ。  ウェストが何度も繰返して観察した標本は、素晴しい神経系を備えていた。この標本には多くのことが期待でき、ひきつるような動きがあらわれだすと、わたしはウェストの顔が好奇心もあらわに熱っぽく輝くのを見てとることができた。ウェストは意識、理性、人格が脳とは独立して存在しうるという、いやましに確信がつのりゆく持論――人間がすべてを結びつける中心的な魂をもたず、それぞれの部分がおおよそ自己完結している神経物質の機械にすぎないという持論――を証明すべく、覚悟をつけていたようだ。これをはなばなしく証明してみせることで、ウェストは生命の神秘を神話の範疇《はんちゅう》に葬ろうとしていた。いまや死体はさらに激しく痙攣《けいれん》をおこし、わたしたちの熱い眼差のまえで恐ろしくも波打ちはじめた。腕が心騒がせられるほどかすかにうごめき、脚がひきあげられ、さまざまな筋肉が緊縮して不快な身もだえをした。するうち頭部のないものは両腕をのばし、まちがいなく絶望を示す仕草をした――ハーバート・ウェストの理論すべてを明らかに証明するにたる、知性を感じさせる絶望の表現だった。確かに神経は人生最後の行為を思いだしているのだった。墜落する飛行機から脱出しようとする懸命の動作を。  その後のことは、まったくわたしには知る由もない。ドイツ軍のすさまじい砲撃のうちに、建物が突如として完全に倒壊してしまい、すべてはその瞬間に引き起こされたショックによる純然たる幻覚だったかもしれないからだ――ウェストとわたしが唯一の生存者だったのだから、誰にそのことが否定できるだろう。ウェストは最近の失踪《しっそう》をおこすまえにそううけとりたがっていたが、二人ともおなじ幻覚をおぼえたことは奇妙なので、そう考えられなくなるときもあった。悍《おぞ》ましい出来事そのものはきわめて単純で、それが意味するものによってこそ注目に値するものだった。  手術台の上に横たえられた死体が、やみくもな恐ろしいもがきを見せて起きあがっていたとき、わたしたちはある音を聞いたのだ。あまりにも凶《まが》まがしいものであるため、その音を声と呼ぶことはできない。とはいえその音質にはさほど恐ろしいものはなかった。それが伝えるものにも恐ろしいものはなかった――単に「とびだせ、ロナルド、頼むからとびだしてくれ」と叫んだだけのことなのだから。恐ろしいのはその叫びを発した源である。  というのはほかでもない、黒ぐろとした影が集う、あの凶まがしい隅にある覆いのされた大桶《おおおけ》から、その叫びが発せられたからだ。           6 墓場の魍魎《もうりょう》    ハーバート・ウェスト医師が一年まえに失踪したとき、わたしはボストン警察から徹底した事情聴取をうけた。ボストン警察はわたしが何かを隠していると疑い、おそらくはさらに重大な容疑さえかけていたのだろうが、信じてもらえるはずもないので真相をうちあけることもできなかった。死体の蘇生をおこなう悍ましい実験が長期間にわたり広範囲におこなわれたことで、秘密を完全にたもつことはできなくなっていたため、事実、ボストン警察は、ウェストが一般人の想像をこえた行為に関係していたことを知っていたが、魂も砕かれる最終的な破局には、わたしまでもが自分の目にしたものの現実性を疑ってしまうような、魔的な幻覚の要素があったのである。  わたしはウェストの最も親密な友人であり、秘密をわかちあう唯一の助手でもあった。わたしたちは何年もまえに医学部で出会い、わたしは最初からウェストの恐ろしい研究につきあった。亡くなったばかりの死体に注入すれば生命を蘇らせる試薬を、ウェストは徐々に完成させようとしたが、この作業には新鮮な死体がおびただしく必要で、そのためきわめて尋常ならざる行為をともなうことになった。さらに衝撃的なのは、一部の実験の産物だった――死んでいた不気味な肉の塊《かたまり》を、ウェストは愚かで見さかいのない吐気催す怪物として蘇生させてしまったのである。これらはありふれた結果で、精神を蘇らせるためには、腐敗ができるだけ繊細な脳細胞を冒さないよう、新鮮きわまりない標本を手にいれることが必要だったためだ。  きわめて新鮮な死体を入手しなければならないことが、ウェストの道徳を堕落させることになった。こうしたものを手にいれるのは困難であり、ある悍ましい夜に、まだ生きていて壮健なうちに、ウェストが標本を確保したこともあった。暴力行為、注射器、強力なアルカロイドが、その人物をきわめて新鮮な死体にかえ、実験が忘れがたいつかのまの成功をおさめたが、その後ウェストは感情というものを麻痺させて冷淡になり、目つきもけわしくなって、とりわけ鋭敏な頭脳と壮健な肉体の持主に、恐ろしくも計算高い賞讃の眼差をむけることがあった。最後にいたってわたしがウェストをひどく恐れるようになったのは、わたしまでもをそんなふうに見るようになったからである。ほかの人びとはウェストのそんな目つきに気づいてもいないようだったが、わたしのおびえには気づいていて、ウェストの失踪後、それを根拠に莫迦《ばか》げた疑惑をつのらせているのだ。  実際にはウェストのほうがわたしよりもおびえていた。忌《いま》わしい研究によって人目をしのぶ生活をおくり、闇という闇に恐怖をいだかざるをえなかったからである。いくぶんかは警察を恐れてもいたが、神経過敏が昂じて漠然とした恐怖にかられ、病的な生命を注入しながらその生命がとだえるのを見ることがなかった、ある種の名状しがたいばけものについて、恐ろしげに話すことがあった。ウェストはいつも拳銃で実験のけりをつけていたが、何度かはそうする余裕もないことがあったのだ。最初の標本は墓をあばいて爪跡を残したことが後に認められた。アーカムの教授の死体が食人行為を働いた後、捕えられて身元不明のままセフトンの精神病院の独房に閉じこめられ、その後十六年間にわたって壁をたたきつづけた事例もあった。ほかにもまだ生存していると思われる蘇生した死体の大半は、たやすく口にできるものではない――後年になって科学的な情熱が不健全かつ異様な熱狂へと堕落してしまい、ウェストは完全な人間の死体ではなく、死体から分断された部分や、それを人間以外の生命物質に接合したものを活性化することに、もっぱら腕をふるったからである。ウェストが失踪《しっそう》した頃には、これは極悪非道な唾棄すべきものになっていて、実験の多くは文章でほのめかすことさえできはしない。わたしたちが外科医として従軍した大戦が、ウェストのこの面を強めたのである。  標本に対するウェストの恐怖が漠然としたものであったというのは、わけてもその複雑な性質を心にとめてのことである。恐怖のいくぶんかはそうした名状しがたいばけものの存在を単に知っていることから生じる一方、そうしたばけものたちが特定の状況下で、ウェストに肉体的な危害をおよぼすかもしれない懸念から生じる恐怖もあった。そうしたばけものたちの失踪が事態に恐怖の色をそえていたのだ――ウェストが所在を知っているのは、精神病院に収容された哀れむべき一体だけだった。そしていうにいわれぬ恐怖もあった――一九一五年にカナダ連隊でおこなった奇怪な実験から、きわめて異様な感じをうけていたのである。ウェストは激しい戦闘のさなか、自分の実験について知り、単独でも実験をおこなえる同僚の医師、サーの称号をもち、殊勲章の栄誉に輝く、エリック・モーランド・クラパム=リー少佐を蘇生させたのだった。胴体に擬似知性をもつ生命が生まれる可能性を調べられるよう、頭部はとりのぞかれていた。建物がドイツ軍の砲弾によって倒壊する直前、実験は成功した。胴体が知性をもって動き、まったく信じられないことだが、実験室の暗い隅に置かれている切断された頭部から、はっきりした音が聞こえたのを、わたしたち二人は吐気を催しながら確信したのだった。砲弾はある意味で慈悲深いものだった――しかしウェストは生存者がわたしたち二人だけだということを願いながらも、ついに確信をいだくことができなかった。死体を蘇生させる能力をもつ、頭部のない医者の考えられる行動について、慄然《りつぜん》たる推測をよく口にしたものだ。  ウェストの最後の住居は、ボストンで最も古い墓地の一つを見おろせる、気品のある古びた家だった。ウェストが純粋に象徴的な理由、そして奇異にも審美的な理由からこの家を選んだのは、墓地に埋葬されている死体の大半が植民地時代のもので、きわめて新鮮な死体を求めている科学者にはほとんど使い道のないものだったからである。実験室は雇いいれた作業員によってひそかに設けられた半地下にあり、所有者の病的な実験や罪深い快楽から生じる産物としての死体や、死体の断片、合成された死体まがいのものを、ひそかに完全に処分するための大きな焼却炉があった。この地下室を掘り抜く際に、作業員が驚くほど古い石造りのものを掘りあて、どうやら古い墓地につながっているようだったが、そこにある既知の墓とは合致しないほどはるかに深かった。ウェストは熟慮を重ねた後、最後の埋葬が一七六八年におこなわれている、エイヴラル家の墓の下に設けられた秘密の部屋だと判断した。作業員の踏鋤《ふみすき》と根掘り鍬《ぐわ》によってむきだしにされた、硝石がこびりつきしずくのたれる壁をウェストが調べるとき、わたしはともにいて、長の歳月を経た墓場の秘密が明らかにされることで生じるはずの、身も毛もよだつような戦慄に対して身がまえていたが、このときはじめてウェストは、天性の好奇心が新たな臆病さにうち負かされたのか、石造りの部屋をそのまま漆喰《しっくい》で塗りかためろと命令して、日頃の剛毅が衰えていることを示した。こうしてその石室はあの最後の地獄めいた夜まで、秘密の実験室の壁の一部となったのだった。わたしはウェストが衰えたことをいっているが、これが純粋に精神的なものであり、そうはっきりしたものではなかったことをつけ加えなければならない。外面的にはウェストは最後まで変わることがなかった――穏やかにして冷静、ほっそりして髪はブロンド、ブルーの目に眼鏡をかけ、長い月日や恐怖にも全般的な若わかしい見かけは変わることがないようだった。爪跡の残るあの墓のことを考えて肩ごしにふりかえるときや、さらにセフトンの独房の鉄棒をかじり、うちたたく、人肉|嗜食《ししょく》のばけものについて思いをめぐらせるときでさえ、平静そのものだった。  ハーバート・ウェストの最後は、ある夜わたしたちがともに研究をしていて、ウェストが新聞とわたしを奇妙な眼差で交互に見つめたときにはじまった。不思議な見出しのついた記事が皺《しわ》だらけになった紙面からウェストに襲いかかり、名状しがたい巨大な鉤爪《かぎづめ》が十六年の歳月をこえてのびてきたようだった。恐ろしくも信じられないことが五十マイル離れたセフトンの精神病院でおこり、近隣に衝撃を与え、警察を困惑させたのである。未明に沈黙の一団が精神病院に入りこみ、首領が看護人をたたき起こしたのだ。首領は脅かされるような軍人で、唇を動かすことなくしゃべり、その声といえばまるで腹話術さながらに、手にしている大きな黒い箱から発しているようだった。無表情な顔はほとんど輝かしい美しさといっていいほどととのったものだったが、廊下の灯に照らされたとき、院長を愕然《がくぜん》とさせた――色ガラスの眼をはめこんだ蝋面《ろうめん》だったからだ。何かいいようもない事故にあったのだろう。大がらな男が先に立って歩いたが、この不快な大男の青みがかった顔は、何か未知の疾病によってなかば虫食《むしば》まれているようだった。首領は十六年まえアーカムから収容された食人のばけものの引き渡しを要求し、拒絶されると、合図をしてにわかに恐ろしい暴力行為をはじめさせた。悪鬼のような者たちは逃げ遅れた看護人のすべてを殴り、踏みつけ、噛み、四名の者を殺してばけものの解放に成功した。平静にその出来事を思いだせる犠牲者は、悪鬼のような者たちが蝋面の首領に操られる想像もつかない自動人形よりも、さらに人間以下の行動をとったと断言した。助けが呼ばれたときには、悪鬼のような者たちと狂った患者は跡形もなく消えうせていた。  この記事を読んだときから真夜中まで、ウェストはまるで麻痺したように坐っていた。真夜中にドアベルが鳴り、ウェストを震えあがらせた。召使はすべて屋根裏部屋で眠っているので、わたしが玄関に出た。警察にも話したように、通りには荷馬車一台なく、一団の妙な見かけの者たちが大きな四角い箱をかかえて立っているだけで、そのなかの一人が甲高い不自然な声で、「前払い急行便」と不満そうにいったあと、その箱は玄関ホールに置かれた。男たちが列を作ってぎごちない足取りで家から出ていくと、わたしは彼らが立ち去るのをながめながら、家の裏に接する古びた墓地にむかっているのではないかと妙なことを思った。わたしがドアを閉めたとき、ウェストがおりてきて箱を見た。およそ二フィート平方の大きさで、ウェストの名前と現在の住所が正しく記されていた。「フランドル、サンテロア、エリック・モーランド・クラパム=リーより」という記入もあった。六年まえフランドルで、砲弾をうけた病院がクラパム=リー医師の蘇生された胴体の上、そして――おそらく――はっきりした音を発した、切断された頭部の上に倒壊したことがあった。  ウェストはもう興奮さえしていなかった。そのありさまはぞっとさせられるものだった。口早に「もうおしまいだ――しかし焼却してしまおう――こいつを」といった。わたしたちは箱を実験室に運びおろした――そして耳をすました。細かなことの多くはおぼえていないが――そのときのわたしの精神状態はおわかりいただけるだろう――わたしが焼却炉に投じたのがハーバート・ウェストの死体だったというのは、悪意のある嘘である。わたしたち二人で開けないままの木製の箱を焼却炉のなかにいれ、炉の扉を閉め、電気をいれたのだ。箱からはまったく何の音も聞こえなかった。  古い墓の石室をふさぐ壁の一部の漆喰《しっくい》がくずれはじめたことに、最初に気づいたのは、ウェストだった。わたしは逃げようとしたが、ウェストにとめられた。やがてわたしは小さな黒い穴を目にし、ぞっとするような冷たい風を感じ、死を思わせる腐れはてた大地の腸《はらわた》の臭をかぎとった。音は何一つ聞こえなかったが、電灯が消える直前、何か地下世界の燐光めいたものを背景にして輸郭を描くものを、わたしは見た。狂気だけが――いや狂気よりもひどいものだけが――生みだせる、うち黙《もだ》したまま穴を広げる作業をつづける一団の者の輪郭を。その輪郭はそれぞれに、人間、半人間、一部だけが人間、まったく人間ではないものだった――その一団はグロテスクなまでに雑多なものからなっていた。何世紀も閲《けみ》した壁の石をひっそりと一つ一つとりのぞいていた。するうち穴が十分な大きさになると、蝋《ろう》でできた美しい頭部を備えたゆったり歩くものに率いられ、列を作って次つぎに実験室に入りこんだ。首領の背後にいた一種狂気の眼をしたばけものが、ハーバート・ウェストを捕えた。ウェストは抵抗もせず声もださなかった。やがて連中は一団となってウェストにとびかかり、わたしの目のまえでウェストを八つ裂きにして、その断片を法外な醜行に満ちる地下納骨所へと運び去った。ウェストの頭部は蝋面をかぶる首領がもっていったが、この首領はカナダ軍の将校の制服を身につけていた。ウェストの頭部が消えるとき、眼鏡の奥のブルーの目が、はじめてはっきりそれとわかる逆上した感情をたたえて、悍《おぞ》ましくも燃えあがっているのが見えた。  召使たちが朝になって意識をなくしているわたしを見つけた。ウェストはいなかった。焼却炉には何のものともわからない灰が残っているだけだった。刑事がわたしを尋問したが、何が話せるだろう。セフトンの惨劇を警察がウェストと結びつけることはないだろうし、あの箱や、箱をもってきた連中についても、そんなものの存在を否定して、ウェストに結びつけることもないだろう。わたしは地下の石室のことを話したが、刑事たちは漆喰の壁がこわれていないことを指摘して笑った。だからわたしはもう何もいわなかった。刑事たちの口ぶりからは、わたしが狂人か殺人者だと思われているようだ――おそらくわたしは狂っているのだろう。しかしあの墓場の魍魎《もうりょう》どもが静けさを破るようなことがあれば、わたしも狂ってはいないのかもしれない。