ラヴクラフト全集〈5〉 H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳 [#改ページ] ナイアルラトホテップ Nyarlathotep [#改ページ]          ナイアルラトホテップ……這《は》い寄る混沌……わたしは最後の者であり……耳かたむける虚空に語りかけよう……  いつはじまったのか、はっきりした記憶はないが、数ヵ月まえのことだったはずだ。世間一般の緊張は恐ろしいほどだった。政治的にも社会的にも大変動がおこった時期に、肉体が由々しい脅威にさらされているという、いまだかつてなかった不安がたれこめたのだ。あまねく浸透して、ありとあらゆるものをつつみこむこの脅威は、およそ凄絶《せいぜつ》きわまりない夜の幻夢においてしか想像しえないようなものだった。わたしはおぼえているが、人びとは苦悩にみちる青ざめた顔で歩きまわっては、声をひそめて警告や予言の言葉をつぶやき、そうした言葉をあえて意識的に繰返したり、また自分が耳にしたことを認めたりする者など一人とていなかった。はなはだしい罪の意識が国じゅうにたちこめ、星たちのあいだの深淵から冷たい流れが吹き寄せて、暗くわびしい場所で人びとを震えあがらせた。季節のうつりかわりに凶《まが》まがしい変化が生じていた――秋の熱気が恐ろしくもいつまでも尾をひいて、この世界、そしておそらくは宇宙までもが、馴染《なじみ》深い神々、ないしは未知の力の支配をうけなくなったのではないかと、そう誰しもが思ったものだ。  そしてそんなときに、ナイアルラトホテップがエジプトからやってきたのだ。ナイアルラトホテップが何者であるのか、はっきり告げられる者はいなかったが、古い高貴な血をひくファラオのごとき人物だった。エジプトの農夫や労働者はナイアルラトホテップを目にするとひざまずくが、その理由を知る者は誰一人としていない。ナイアルラトホテップ自身が語るには、二十七世紀におよぶ黯黒《あんこく》のなかから立ちあがり、この星にあらざる場所からの託宣を耳にしたのだという。色浅黒く、痩身《そうしん》で、不気味なナイアルラトホテップは、さまざまな文明の地を訪れ、常にガラスや金属の不思議な器具を購《あがな》っては、それらをさらに不思議な器械に組立てあげた。科学について多くを語った――電気学のこと、心理学のことをよく話し、見る者を呆然《ぼうぜん》たらしめながらも、自らの世評を極端に高める力をもつ、種々の公演をおこなった。人びとはナイアルラトホテップに会うべきだとたがいに勧めあい、身を震わせたものだ。そしてナイアルラトホテップの行くところ、平安は消えうせ、深更の刻限が悪夢の絶叫に引き裂かれた。悪夢の絶叫がかような社会問題にまでなったことは絶えてなく、いまや賢人たちは、夜も更《ふ》けての眠りを厳禁できればよいのにと願いたくなるほどで、さすれば橋の下を流れるあおあおとした水や、病んだ空に崩れた姿をさらす古い尖塔を照らしだす、青白い哀れむ月が、街から湧きあがる悲鳴によって、かくも凄絶に悩まされることはあるまいと思うばかりだった。  ナイアルラトホテップがわが街――かぞえきれぬ犯罪にみちた巨大で古さびた恐怖の街――にやってきたときのことをおぼえている。友人の一人からナイアルラトホテップのこと、そしてその啓示にいいようもない魅力や魅惑のあることを知らされるや、わたしはぜひとも内奥の神秘に探りをいれたいという熱望に胸を熱くさせた。友人の話によれば、そうした啓示は恐ろしくも印象的なもので、熱にうかされたあげくわたしが想像する最も奔放なものさえしのぎ、暗くされた部屋のスクリーンには、ナイアルラトホテップ以外の何人もあえて予言したことのないものが映しだされ、ナイアルラトホテップの発する火花のひらめきのうちに、目にうかぶだけで奪われたためしのないものが奪われるのだという。さらにわたしは、ナイアルラトホテップを知った者がほかの者には見えない光景を目にするようだという、外国の風説も耳にしていた。  あれは暑い秋のことだったが、わたしは眠れない群衆とともに、夜の街を歩いてナイアルラトホテップに会いにいき、息づまる夜を衝いて果しない階段を登り、むせかえる部屋に入った。そしてスクリーンに映じられる、廃墟の只中にいる頭巾《ずきん》をかぶった人影と、崩れた記念碑の背後からのぞきこむ邪悪な黄色い顔を見た。さらに世界が黯黒を相手に闘っているのを見た。窮極の宇宙から押し寄せる破壊の波を相手に、光を失い冷えていく太陽のまわりで、旋回し、回転し、もがきつづける世界の姿を。するうち驚くべきことに、観客の頭のまわりで火花が踊り、観客の髪の毛が逆立つ一方、いいようもなくグロテスクな影があらわれて、観客の頭にのしかかった。誰よりも冷静にして科学知識に通じたわたしが、震える声で、「ペテンだ」とか「静電気だ」とか抗議の言葉をつぶやくと、ナイアルラトホテップは観客のすべてを追いだしたので、わたしたちは目眩《めくるめ》く階段をおりて、蒸し暑い深夜の荒涼とした通りに出た。わたしが甲高い声で、こわくはないぞ、何を恐れるものかと叫ぶと、ほかの者たちも元気を奮い起こすために甲高い声で叫んだ。わたしたちは街がいつもとかわらないこと、まだしっかり息づいていることを断言しあったものだが、電灯が消えはじめると、電力会社を何度もののしり、妙にひきつったたがいの顔を見ては笑いあった。  どうやらわたしたちは緑がかった月から何かが伝わっていることを感じとったらしく、月の光をあてにして歩きだしたとき、思わず知らず奇妙な行進の列をつくりだしていて、あえて思いをめぐらすことはなかったとはいえ、目的地がどこであるかを知っているようだった。舗道に目をむけると、敷石がゆるんで雑草が茂り、路面電車が走っていた場所を示す錆《さび》ついた線路がかろうじて認められた。そして路面電車を一台目にすることになったが、うつろで窓ガラスもなく、荒廃の一途をたどり、ほとんど横倒しになっていた。地平線に目をむければ、川辺の第三の塔が見あたらず、夜空に輪郭を描く第二の塔はその先端が崩れていた。やがてわたしたちは細い縦列にわかれたが、それぞれの列が異なった方向に導かれているらしかった。一つの列は左手の狭い小路に姿を消し、慄然《りつぜん》たるうめき声だけをあとに残した。もう一つの列は雑草の生い茂る地下鉄の入口に繰りこんでいき、狂おしい笑い声をひびかせた。わたしのいる列は、何もない広びろとした原野のほうに引き寄せられ、まもなくわたしは暑い秋のものにはあらざる冷気を感じとった。暗い荒れ地を進むにつれ、地獄めいた月に照らされる邪悪な雪の輝きが目にはいったのだった。足跡一つ残さない不可思議な雪は、一方向にだけ吹きはらわれていて、きらめく壁があるだけにことさら黒ぐろとした深淵が、そこに口を開けていた。夢でも見ているような足取りでその深淵に入りこんでいく列は、はなはだか細いもののように見えた。緑色の光に照らされる雪原の黒ぐろとした窖《あなぐら》は空恐ろしいものだったし、仲間が姿を消したとき、心おびやかされる悲鳴のひびきが聞こえたような気がしたので、わたしは行きかねてためらっていたが、その場にとどまっている力もわずかなものでしかなかった。さながら既に姿を消した者たちにうながされたかのように、わたしは巨大な雪の吹きだまりのあいだでなかば漂うようにして、不安のあまりわなわなと身を震わせながら、何も目に見えない想像を絶する渦のなかへと入りこんでいった。  悲鳴をあげられるほどの感覚を保っていたか、あるいはものもいえないほど目眩いていたかは、神々のみぞ知ることだ。病みながらも感覚のある一つの影が、手にあらざる手にとらえられて身をよじり、腐れはてる被造物にみちる凄絶な黯黒を、都市という糜爛《びらん》によって死にたえた世界の亡骸を、青ざめた星たちをかすめて弱よわしくまたたかせる死の風が、やみくもに吹きぬけていった。世界の彼方にはばけものじみたもののおぼろな亡霊があり、なかばうかがえる不浄な神殿の柱という柱は、宇宙の下の名状しがたい岩場に土台を据え、光と闇の領域を超えて目眩く虚空にむかってそそりたっていた。そして宇宙のこの忌《いま》わしい墓場には、くぐもった狂おしい太鼓の連打、冒涜《ぼうとく》的なフルートの単調な音色が、〈時〉の彼方の想いもおよばぬ黒暗々《こくあんあん》の房室《へや》べやからひびきわたっており、その唾棄すべき連打と音色にあわせ、ゆるやかに、ぎこちなく、愚かしく踊っているのは、巨大にして陰惨な窮極の神々だった――盲目にして声も心ももたない鬼面像であり、その化身こそナイアルラトホテップにほかならないのである。