ラヴクラフト全集〈4〉 H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳 [#改ページ]         作品解題     [#地付き]大瀧啓裕    ラヴクラフト全集第四巻にあたる本書は、ラヴクラフトの科学志向に目を向けるべく、科学に比重の置かれた作品を中心に構成した。ただし紙幅の関係で、『魔女の家の夢』は次巻におくり、それにかえて『ピックマンのモデル』を収録したことをおことわりしておく。ごく幼いころからの科学志向がどのような作品となって結実したか、ラヴクラフトの現実主義がいかに徹底したものであるか、本書から読みとっていただきたい。今日《こんにち》の目で見れば、いささか事実にそぐわない箇所もままあるが、これらの作品が執筆された時代を考えるなら、ラヴクラフトが当時入手できる最新のデータを利用していたことがおわかりいただけるだろう。なお本全集の第三巻が刊行された後、アーカム・ハウスから校訂版の第一巻 “The Dunwich Horroe and Others” が出版されているが、ラヴクラフトのテキスト問題はやはり綴《つづ》りと句読《くとう》に収敷《しゅうれん》しており、翻訳のうえではほとんど問題にならないものだし、テキスト批判は本全集において可能なかぎりおこなっているので、翻訳のテキストとしては従来通りのものをつかうことにした。ありていにいえば、アーカム・ハウスの校訂版は旧版との差異について、それぞれの根拠をあげる労をはぶいているし、この校訂を担当した人物が独自に出している “H.P.Lovecraft : Uncollected Prose and Poetry” には信じられない脱落があったりするので、現時点では、この校訂版の改訂版でも出ないかぎり、全面的に信頼する気にはなれないというのが、正直な感想である。   『宇宙からの色』 The Colour out of Space  一九二七年三月に執筆され、〈アメージング・ストーリイズ〉一九二七年九月号に発表された。  クラーク・アシュトン・スミス宛の一九二七年三月二十四日付の書簡で、「新しい小説を書きあげたばかりだ」と記されたこの作品は、ラヴクラフトにいわせれば「擬似現実主義のはじまりを告げる」(一九三三年三月二十五・二十八・二十九日付R・E・ハワード宛書簡)ものであるが、このこともあってか、ラヴクラフトは〈ウィアード・テイルズ〉の編集長ライトに気にいられるかどうかをあやぶみ、前年の四月に創刊された〈アメージング・ストーリイズ〉の編集長ガーンズバックに原稿を送付した。当時の〈アメージング・ストーリイズ〉はウェルズやポオの再録が中心で、ラヴクラフトも原稿料をあまり期待してはいなかったが、五月にわずか二十五ドルという信じられない小切手をうけとったときには、憤懣《ふんまん》やるかたないものがあったらしい。『宇宙からの色』は一万二千語の作品であり、二十五ドルとなると一語五分の一セントということになるが、一語二分の一セントでも最悪といわれた時代なのである。ラヴクラフトは後にガーンズバックを「しみったれヒューゴー」とか「本物のシャイロック」と呼ぶことになるが、これが一因になってSF雑誌に背を向けることになったのは、ラヴクラフトにとってもSF界にとっても残念なこととしかいいようがない。 〈挿絵:ラヴクラフトが描いた焼け野〉  ラヴクラフトが激しい感情をあらわにしたのも当然のことだった。『宇宙からの色』は神秘的なアーカムの郊外を舞台に、突如として勃発《ぼっぱつ》した異常な現象をあつかい、科学データを駆使しながら、ラヴクラフトのいう「現実主義」を徹底させ、つのりゆく恐怖を目に見えるように鮮やかに描ききって、完璧な描写と結構を備えた、紛れもない傑作だからである。農夫アミ・ピアースの記憶に基づく話を、語り手の技術者の科学精神でバランスを保たせ、冷静にして客観的な叙述にまとめあげた手腕には、ラヴクラフトの真骨頂が発揮されているといえるだろう。ラヴクラフト自身、本篇にあらわれる「異常な色をした実体」を、これまでつくりだしたばけもののなかで、「わたしが誇りをもっているただ一つのもの」(一九二九年三月八日付エリザベス・トルドリッジ宛書簡)といっているほか、「事実、『宇宙からの色』以外に全体としてわたしを満足させる作品はありません」(一九三六年十一月十日付ウィルフレッド・ブランチ・トルマン宛書簡)といっているほどである。 〈挿絵:『宇宙からの色』挿絵4点〉  なお発表後まもなく、『年刊傑作集』の編者エドワード・J・オブライエンから、経歴を問いあわせる手紙が〈アメージング・ストーリイズ〉の編集部に送られたことで、ラヴクラフトは『宇宙からの色』が収録されることになると思ってよろこんだが、結局期待どおり収録されることにはならず、経歴が紹介されただけに終わった。   『眠りの壁の彼方』 Beyond the Wall of Sleep  一九一九年に執筆され、同人誌〈パイン・コーンズ〉一九一九年十月号に発表、おなじく同人誌の〈ファンタシー・ファン〉一九三四年十月号に掲載された後、〈ウィアード・テイルズ〉一九三八年三月号に再録された。  精神的に堕落した者に異界の実体が取り憑《つ》き、思考伝達をはたす科学機器でその実体と対話をおこない、宇宙的な啓示を得るという本篇は、かならずしも完成された作品とはいいがたいが、ラヴクラフトが本篇において、恐怖の源泉としてはじめて地球外のものをもちだしたことを指摘しておかなければならない。遠隔の地の頽廃《たいはい》した住民、宇宙からの恐怖というテーマは、本篇を契機として敷衍《ふえん》され、その後はるかに雄大な規模でさまざまに変奏されることになる。 〈挿絵:『眠りの壁の彼方』書影〉   『故アーサー・ジャーミンとその家系に関する事実』 Facts Concerning the Late Arthur Jermyn and His Family  一九二〇年に執筆され、同人誌〈ウルヴァーリーン〉第九号および第十号(一九二一年三月号および六月号)に発表された後、〈ウィアード・テイルズ〉一九二四年四月号に『白い類人猿』 The White Ape として掲載され、さらに〈ウィアード・テイルズ〉一九三五年五月号に『アーサー・ジャーミン』 Arthur Jermyn として再録された。 〈挿絵:〈ウィアード・テイルズ〉1935年5月号〉  本篇は『ダゴン』(本文庫『ラヴクラフト全集3』収録)、『ランドル・カーターの陳述』、『ウルタールの猫』、『猟犬』とともに、一九二三年五月にラヴクラフトが〈ウィアード・テイルズ〉の編集部にはじめて送付した五篇の原稿のうちの一篇である。当時人気のあった「失われた種族」のテーマに家系の謎をからませ、遺伝の恐怖をたたえたこの小品は、初期の作品のなかでもラヴクラフトの気にいりのものだったらしく、〈ウィアード・テイルズ〉の編集長ベアードが標題を『白い類人猿』にかえたときには、ひどく激昂《げっこう》したという。一九二四年二月三日付ベアード宛書簡はこの事情を伝え、ラヴクラフトはこのあからさまな標題が「冒頭の一節をそこない」、「叙述の精神と調和をはなはだ乱すもの」であって、「もしもわたしが『白い類人猿』というような標題を小説につけるなら、その小説には類人猿など登場しないだろう」とまでいいきっている。最初は類人猿だとうけとられながらも、実は類人猿ではないような、そういう微妙な書き方をするはずだということである。ラヴクラフトにあっては、標題そのものも内容と密接に結びついた、もはや妥協の余地のないものだったのだ。もっともラヴクラフトは本篇の原題にいささかぎこちなさを感じていて、『アーサー・ジャーミン』とするならかまわないとしており、後に〈ウィアード・テイルズ〉に再録されるとき、編集長ライトはこの意向をくんだ。   『冷気』 Cool Air  一九二六年三月に執筆され、〈テイルズ・オヴ・マジック・アンド・ミステリイズ〉一九二八年三月号に発表、〈ウィアード・テイルズ〉一九三九年九月号に再録された。 〈挿絵:『冷気』挿絵〉  ニューヨークを舞台に、スペイン人医師の奇行から、恐るべき事実が明らかになる本篇は、あわれなほど真摯《しんし》なマッド・サイエンティストをあつかった佳品になっている。ポオの『ヴァルドマアル氏の病症の真相』(本文庫『ポオ小説全集4』収録)から着想を得ていることは、あまりにも明瞭だが、本篇はラヴクラフトがポオの影響をうけて執筆した最後の作品であって、ポオの呪縛から脱するまえになさねばならなかった通過儀礼のようなものだったのだろう。本篇の真価をおとしめているわけではない。ドリアン・グレイとも通底するこの顛末《てんまつ》は、ポオを本歌どりすることによって、見事に現代の恐怖を描ききっているからだ。ムニョス博士の最期は、ラヴクラフトの『戸口にあらわれたもの』(本文庫『ラヴクラフト全集3』収録)の言葉をかりるなら、「ほとんど腐汁に近い恐ろしいもの」だったにちがいない。 〈挿絵:〈ウィアード・テイルズ〉1938年2月号〉   『彼方より』 From Beyond  一九二〇年十一月十八日に完成され、同人誌〈ファンタシー・ファン〉一九三四年六月号に発表された後、〈ウィアード・テイルズ〉一九三八年二月号に掲載された。 『冷気』とともにマッド・サイエンティストをテーマにしたこの小品は、科学機器による異界からの実体の招喚でもって、『冷気』よりもなお狂気の度合を高めているが、ラヴクラフトの作品にしてはいささかものたらなさを感じざるをえない。執筆してから発表が遅れたのも、さまざまな雑誌が掲載をしぶったためだった。本篇の功績はロングの『ティンダロスの猟犬』に大きな影響をあたえたことにあるといえるだろう。   『ピックマンのモデル』 Pickman's Model  一九二六年に執筆され、〈ウィアード・テイルズ〉一九二七年十月号に発表された後、同誌の一九三六年十一月号に再録された。 〈挿絵:コップス・ヒルの墓地〉 〈挿絵:ラヴクラフトの描いたピックマンのモデル〉 〈挿絵:ボクによる『ピックマンのモデル』挿絵〉  ラヴクラフトはボストンを訪れたおり、おそらく植民地時代の密輸業者が使用したらしい、さまざまな家の地下室を結ぶトンネルがあることを聞き、これに着想を得て本篇を書きあげたらしい。暗澹《あんたん》たる領域に通じる地下室と恐怖を描く画家にまつわるこの『ピックマンのモデル』は、ラヴクラフトが実際に目にしたボストンの街並をそのままに生かしているが、都市開発の波をうけて、地下のトンネルは埋められ、入り組んだ小路もとりはらわれて新しいビルが建ちならび、執筆後まもなく、その面影をなくしてしまったという。本篇はラヴクラフトには珍しく、会話体に近い文章で記されているが、語り手のヒステリックな情緒をあらわすにあたって、十分すぎるほどの効果をあげている。ラヴクラフト自身はかなりひかえめな評価をくだしているとはいえ、自家|薬籠中《やくろうちゅう》の構成のうちに、自らの幻想絵画論を開陳《かいちん》しながら、緊迫した雰囲気を徐々に高め、恐怖のクライマックスをたたきつける手並のさえは、たくまずして本篇を名作にしているといっていいだろう。   『狂気の山脈にて』 At the Mountains of Madness  一九三一年二月から三月二十二日にかけて執筆され、〈アスタウンディング・ストーリイズ〉一九三六年二月号から四月号にかけて分載された。  ラヴクラフトはこの作品に手をつけるまえに、次のような覚書を作成している。 〈挿絵:〈アスタウンディング・ストーリイズ〉掲載時の扉〉   [#ここから2字下げ]  通路、遺物(午後九時)、緑がかった石鹸石あるいは凍石(水によって形成されたさまざまな地層の石)(孔が群がっている跡がある)、ネクにある徴のような五つの先端をもつ跡(性質は明らかにしない)を発見。犬が不安そうにする。もの(動物か植物)を見つけ(午後十時)、犬が狂乱状態におちいる――調査のためとりのぞかれる。(クルウルウといった神話地球の生命を冗談として創造したネクに記される宇宙的存在の神話――との比較)(石筍よりも古い)。午後十一時に十三体を見つける(数多くの遺物も)。犬を遠くへやったあと、地表へひきあげる。人間が橇《そり》をひいてキャンプに移す(このために三台の橇すべてがつかわれる)(十四体)……奇妙な陽光の効果の描写――解凍の動き。餌をやるため犬をキャンプ近くに移す。不機嫌。一月二十四日午前十二時半。(この間に雪の囲いがつくられる)。(風が次第に強く吹く)完全な標本の解剖を試みる――組織は強靭《きょうじん》――標本を傷つけることなく切開することの問題……(午前一時三十分)損傷ある標本の切開から奇怪な革のようにかたい組織(乾燥している)(午前二時)が驚くべき保存状態にあることがわかる。組織は妙に劣化をこうむらないたぐいのもの――内部の袋は湿った物質を明らかにする――奇妙な悪臭――その近くでは犬が狂乱状態になる……液汁――血ではない。休むことになる。レイクは交信をやめる。アーカム号は中継を終える。一月二十四日午前二時半。語り手は(隊長として)メッセージを送る。ピーバディとの感謝に満ちた話――ピーバディの装置のおかげで見つけだせたのだ。全員午前三時に休む。風がきわめて強い……語り手は移動を要請――風が強すぎるといわれる。休んだり眠ったりすることを考える者は誰もいない。興奮のあまり、みんなおきている……  一月二十四日午前十一時――(南ベース・キャンプに激しい風が吹く)語り手とピーバディは無線機の音で目をさまされる。レイクにちがいないと思って興奮するが、アーカム号からの連絡。レイクと交信しようとするもはたせない(約束の十時がすぎてもレイクからの連絡はない)努力がつづけられる。(恐怖は午前八時に発生)マクマード入江では風はないが、南ベース・キャンプでは激しく吹き荒れている。レイクのキャンプ地での強風によって無線の交信ができないのではないかと、誰もが思う。飛行機の無線機も損傷をうけたのだろうかと。しかし四つともだめになるというようなことがあるだろうか。(新たな風が正午におこり、午後二時までつづく)心痛がつのる。頻繁《ひんぱん》にレイクと連絡をとろうとする。ベース・キャンプでの風はおさまる。午後六時ごろには、調査することに決定される。氷壁の貯蔵所にある五機目の飛行機が南ベース・キャンプに飛ぶよう命じられる。一月二十四日から二十五日にかけての夜に、パイロットとふたりの船員とともに、飛行機が到着。議論をして短い休養。 〈挿絵:〈アスタウンディング・ストーリイズ〉挿絵〉  一月二十五日午前五時。無線でレイクに呼びかけても返事はない。飛行機に燃料、食糧、橇、七頭の犬、無線機をつみこみ、十名の者が乗りこみ、レイクのキャンプに向けて出発する。(午前七時十五分)風――雪、四時間半(雪の魂《かたまり》がころがっていく)山脈――洞窟を見る。石塊のありさまに気づく――(悲劇的な恐怖)天頂に恐ろしくも奇怪な都市の蜃気楼。(一月二十五日午前十一時二十五分)ダークブルーの台地を見る。山麓の低い丘にキャンプ――飛行機――右手にデリック起重機――キャンプに降下。犬の囲いが崩れている……何もかもが風に吹き飛ばされている――山麓の高い丘から五、六マイル。犬が動揺する。着陸――混乱と恐怖、切り裂かれた死体、犬も人間もすべて無残なありさま――塩、砂糖、ベーコン、本、ストーヴ、マッチ、燃料をはじめ、さまざまなものがなくなっている。三台の橇もなく、テントもなく、毛皮が乱され、妙に切り裂かれている。地図、本、ノート、資料がなくなっている。単純なキャンプ用具もなく、航空写真もない。のこっているテント(二つ)の風下側の血にまみれた雪の上に奇妙な足跡らしきものがあるが、雪が風に吹き飛ばされてよくわからない。キャンプのありさま。手がかりは何もない。九フィートの長さにわたる六つの大きな墓。その一つが掘りおこされる。不完全な標本が一体。何ということか。雪に一群の穴が開いている――声らしきもの。犬が狂乱状態におちいる――攻撃する。機器、飛行機、デリック起重機が妙に乱されている――風のせいとは思えない。まったくの謎と恐怖。(誰かが狂ったのではないかとの推測)(風が橇を吹き飛ばしたのか)(正午から午後四時)四時に休む――真夜中。慎重に言葉を選んだ外部への連絡。語り手とシャーマンは飛行機を軽量化して山脈越えの飛行を試みる。風のため七時の出発が遅れる――正午。一月二十六日。困難な上昇。石塊、塁壁、洞窟に気づく。褶曲《しゅうきょく》地層。石塊等が妙にふつりあい。山脈を越える。高度二万フィートの台地に恐るべき死の都市(本当に都市なのか――それとも規則正しいとはいえ自然にできあがったものにすぎないのか)台地の上を旋回。クレヴァスに橇を見る山麓の丘のあいだ。(もどろうとしているのか――近づいて見る……権は落下したのだった――三万フィートを越える山の高いむきだしの斜面に雪さえないところに……午後五時……洞窟の入口近くの塁壁のただなか。午後六時にキャンプにもどり、山脈|登攀《とうはん》の計画をたてる。探査――懐中電燈と武器をもち犬とともに全員を繰りだして――午後十時に休む)。( )内を一部削除。 〈挿絵:〈アスタウンディング・ストーリイズ〉挿絵〉  高さ四フィート六インチ、翼の長さ四フィート、体重六〇ポンドのペンギン――標本の年代がつきとめられる――レイクはきまぐれに、星ぼしからやってきて、冗談かあやまちで地球の生命をつくったという〈旧支配者〉の原初の神話を思いだしたのだった。  最新版。一月二十六日の朝。語り手とダンフォースが軽量化した飛行機で山脈越えを試みる。七時の出発が遅れる――風のため正午まで。困難な上昇。景観に目を見はる。石塊、塁壁、蜂の巣状の洞窟に気づく。石塊の奇妙なありさま。登攀が可能だと判断。火山活動らしきものを目にする。火口らしきもの。山峰のあいだを通過――氷河に覆われた恐るべき死の都市を目にする――高度二万フィートの台地の上。蜃気楼に似ているが、完全なものではない。ごくわずかな塔が氷の上に突出し、上部が下に通じる大きな口を開けている。雪の反射でグロテスクにゆがんでいる。氷の下を見る。下にも構造物がある。水をふせぐためであるかのように、すべての窓が閉ざされている。山麓に着陸、徒歩で調査をはじめる。一つの開口部では、人間の手足にはうまくつかえない、梯子《はしご》らしき一連の突出部がある。いったいここは何ものの領域なのか。通常の氷河ではない。山脈の氷河が崩れて突然ほとばしった水が谷にそそぎこんだのか、あるいは都市が放棄された後に湖ができあがったのか。巨大な裂目がいくつかある。下におりる――なめらかな石の壁に水のあった跡。通路は凍結している。奇妙な比率。都市全体が迷路のよう。空気は――裂目は別として――かすかに暖かく――下から昇ってくるよう。部屋は都市が意図的に無人化したことを示している。方向をあやまらないよう、兎と猟犬のやりかたで手帳の紙を破いて道にのこす。できるだけ下におり、橋をわたり、階段に相当するものらしい急勾配の傾斜路を進む。五芒星形の部屋が数多くある。迫持《せりもち》の原理が用いられている。あちこちがかたむいている。何の目的があるのかわからない窪み河が山脈にあたるところに彫刻された塔門。小さな動かせるものは別として、すべてが途方もないスケール。巨大な大きさの石塊――凍結による割れ――しかし巨大な石塊はもちこたえている。さまざまな岩があるが、初期白亜紀以降のものはない。一番新しい岩にしたところで、鮮新世より古いものであることを、硬い岩に刻まれた彫刻がほのめかしている。奇妙な彫刻――伝統的な浅浮彫があのものをふくめさまざまな古代の動物をほのめかす。結論――動物や石鹸石の遺物の傷はこの都市の住民によるもの。人間ではない(哺乳類であるかもしれないが)。魚類と海洋放射相称動物が建築物とともに存在するのは謎。彫刻が高度な文明があったことを示す。幾何学的な意匠。山脈からの笛を吹くような音――地図に似た図――ヴェーゲナーの大陸移動説。都市は陸上にも海底にもある。煙のようなもの。もう下におりる脇道はない――部屋はさらに広びろとしたものになって装飾も多い。一階か。紙がとぼしくなる。笛のような音。地下にくだる道を見つける。暖かくなっていく。あとでくだることにする(遠くからかすかな音――生物か)地表の階をもっと調べる。上部が崩れているところから陽光がさしこむ――目眩《めくるめ》く高さ。床の中央に恐ろしい光景。こわれた橇。速やかに退いていく音等々――傾斜路――洞窟――ふさがった場所を見つける――臭《におい》――埋められた解剖標本の臭を思いだす。朝にキャンプを離れる準備。笛を吹くような音の夢。南ベース・キャンプにもどり、そして外の世界にもどる。 〈挿絵:〈アスタウンディング・ストーリイズ〉挿絵〉  一月二十七日――午前七時。テントが見えた山に向かう準備。午前八時出発。風――雪――寒さ――ゆっくり進む――丘を登る――十時三十分にきりたった斜面に着く。慎重な登攀。雪の斜面――クレヴァス――風はおさまっている。塁壁と石塊――人工的な見かけ。洞窟の入口――倒れたテント――脇柱や嵋[#「木+眉」、第3水準1-85-86]石《まぐさいし》にさまざまな彫刻――古《いにしえ》の徴――犬は入ろうとしない。犬は外にのこし、懐中電灯をもって入る……彫刻――浅浮彫――洞窟の図案――驚異――通路はつづく――彫刻――一群の穴(アーカムの遺物に言及――由《ゆゆ》々しい徴――嵋[#「木+眉」、第3水準1-85-86]石)上にも下にも――さまざまな大きさの規則正しい竪穴――入口の円形の部屋が直径五フィート深さ三フィートの浅い穴を中心に点在する――地下へくだる――この惑星は生命が冗談かあやまちでつくりだされている。結論の追加――日常生活――寒さ――洞窟への撤退――寒さが忍びいるにつれますます深く入っていく――後期の彫刻は粗雑なものになっている――ますます――また神殿のような部屋――最も聖なるもの――椅子にあのものがいる……図――数学図形――ヴェーゲナー説が証明される――ジンバブエ――途方もない知識……海底のものの奴隷が建築物を建てるのを手伝った(陸上のものは石塊を積むのに翼をつかった)。狩りをするものたちの図――白亜紀や第三紀の動物と海底都市のあのものたち(眼のないものたちが、可塑《かそ》性のある黒いものから構成される残忍な知性をもつ巨大な輝く原形質の塊を、かろうじてくいとめる――この塊は虹色に輝く泡で空気にも水にも地底にも適応できる一時的な器官を形成することができる。笛のような音をまねる。球体としては直径十五フィートだが、ツァトゥグアのような粘着性がある。最終的にあのものたちを征服して、その言語を学びとる……臭――未知の臭とガソリンの臭――死体を見つける(図や彫刻をスケッチする)地図を見つける――一群の孔――北のトンネルに進む。外に通じる螺旋《らせん》状の傾斜路を見つける。きわめて太古のもの(トンネルに通じるもの)橇――眼のない白色変種のペンギン。暖かい空気の流れ。登っていく(恐るべき奇怪な彫刻)。蒸気。(二分の一マイル進む)妙な具合に積まれた毛皮とテント。大きな洞窟(四分の三マイル進む)悍《おぞ》ましい光景――旧支配者が殺されている――頭部がない――黒い粘液――……地下鉄の列車のような笛を吹くような音(一群の孔)螺旋状の傾斜路を走って逃げ、飛行機まで行く――離陸――上昇――ダンフォースが空に何かを見て悲鳴をあげる――山脈の上――笛のような音をたてる蒸気……終。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから4字下げ、折り返して13字下げ] 十二名のパーティ レイク+、アトウッド*、#ゲドニー+、オレンドーフ、キャロル+、ワトキンス#、#モウルタン+&、ブレナー#&、#ファウラー+、アイエロ、#ミルズ+、バウドロー# [#ここで字下げ終わり] [#ここから14字下げ] *教授、+学生、#パイロット、&無線通信士 [#ここで字下げ終わり] [#ここから4字下げ、折り返して12字下げ] 七名のパーティ ダイアー教授*、ピーパディ*、アレン、ダンフォース、#&ウィリアムスン、マクタイ、&#ロペス+ [#ここで字下げ終わり] [#ここから4字下げ、折り返して8字下げ] 救援機 シャーマン#&、グンナルサン、ラールセン [#ここで字下げ終わり] [#ここから4字下げ、折り返して7字下げ] 学生 (レイクのパーティ)ゲドニー、キャロル、モウルタン、ファウラー、ミルズ(ダイアーのパーティ)ダンフォース、ロペス [#ここで字下げ終わり] [#ここから4字下げ、折り返して15字下げ] 資格のあるパイロット ゲドニー、キャロル、モウルタン、ファウラー、ミルズ、ブレナー、ワトキンス、バウドロー、シャーマン、ダンフォース、マクタイ、ロペス [#ここで字下げ終わり]    十歳のころから南極に心惹《ひ》かれ、「事実を基にした論文のほか、南極大陸を舞台にした物語を書いていた」ラヴクラフトにあっては、本篇の執筆はむしろ必然のなりゆきだったのだろう。前半においてはノンフィクションさながらの冷静な筆致で描かれ、後半にいたって目眩く宇宙年代記があらわにされ、恐怖が猛威をふるうこのラヴクラフト最大の長篇は、推敲《すいこう》に推敲を重ね、自作に厳しい評価をするラヴクラフトにしても満足のいく出来|映《ば》えになったが、〈ウィアード・テイルズ〉の編集長ライトに長すぎるとして掲載を拒絶されてしまった。自信作だっただけに、ラヴクラフトの落胆は大きく、一九三六年二月十二日付E・ホフマン・プライス宛書簡では「ライトをはじめとする者たちの敵意に満ちた拒否は、おそらくわたしの作家活動に終止符をうつもの」とまで記しているほどだが、幸いジュリアス・シュワーツの尽力により、〈アスタウンディング・ストーリイズ〉に掲載されることになり、ラヴクラフトも溜飲《りゅういん》がさがった。 〈挿絵:ラヴクラフトの草稿〉  十歳のときから心に取り憑いて離れない、荒涼とした白い南極にかかわる漠然とした感情をつきとめるべく目論まれた本篇は、ポオの『アーサー・ゴードン・ピム』(本文庫『ポオ小説全集2』収録)を利用しながら、ラヴクラフトがそれまでにさまざまな作品でもちだした神話に、一つの通観をあたえるという野心的な企てでもあった。本篇と『時間からの影』(本文庫『ラヴクラフト全集3』収録)をあわせれば、ラヴクラフトの原神話とダーレスのまとめあげたクトゥルー神話との決定的な差が明らかになるだろう。もちろんクトゥルー神話はラヴクラフトの原神話を土台にダーレスが構想をふくらませたもので、視点が異なればちがいが生じるのは当然のことだが。  本篇の旧支配者と『時間からの影』の大いなる種族との共通項は多く、『無名都市』(本文庫『ラヴクラフト全集3』収録)と同様に壁画・彫刻から過去の歴史を読みとるやりかたからも、幼いころから天体に目を向けつづけたラヴクラフトが、視覚型の作家だったことがはっきりわかる。資料におさめた『怪奇小説の執筆について』はこの事実をさらに確証するものといえるだろう。ラヴクラフトが無性生殖にこだわるのも、この生来的な資質にかかわっているのである。   『怪奇小説の執筆について』 Notes on Writing Weird Fiction  一九三四年六月ごろに執筆され、同人誌〈アマチュア・コレスポンデント〉一九三七年五・六月号に発表され、アーカム・ハウス刊行の “Marginalia, 1944” に収録された。ラヴクラフトの執筆作法を知る貴重な資料といえるだろう。『狂気の山脈にて』の覚書が見事な実例になっている。