ラヴクラフト全集〈3〉 H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳 [#改ページ] 闇をさまようもの The Haunter of the Dark [#改ページ]  闇をさまようもの (ロバート・ブロックにささげる) [#改ページ]     [#ここから2字下げ]  わたしは黯黒《あんこく》の宇宙が口を開けているのを見た  そこでは黒い惑星が方途《あて》もなく旋回している――  顧みられぬ慴懼《しょうく》に駆られて旋回している  知られることなく 光彩添えられることなく 名を与えられることもなきままに [#ここで字下げ終わり] [#地付き]――ネメシス        ロバート・ブレイクの死を、落雷のため、あるいは放電によって神経に強い衝撃をうけたためだとする世人の所信に対して、用心深い調査家は、疑義をさしはさむのをためらうだろう。確かにブレイクのまえにあった窓のガラスが割れていなかったのは事実だが、自然は数多くの珍奇な離れ技をやってみせるものだ。ブレイクの死顔にしても、ブレイクが目にしたものとは何の関係もない、原因不明の筋肉のひきつりによるものかもしれないだろうし、日記の内容にしたところで、ブレイクが自ら掘りおこした古伝や地方の迷信にでも刺激され、奔放な想像力を働かせた、その所産なのだともいえるだろう。フェデラル・ヒルの荒《さ》びれた教会における異様な状態については――如才ない分析家なら、ためらうことなく、知ってか知らずしてかは別として、ブレイクが少なくともいくぶんは内密の関係をもっていた、何らかの狂言であるという見方をとる。  というのも、つまりは被害者が、神話、夢、恐怖、迷信の分野に一身をささげつくし、奇怪かつ幽鬼めく場面や効果の追求にいれこんでいた、作家であり画家であったからなのだ。ブレイクはかつて――自分と同様に隠秘学や禁断の伝承に深く没頭する風変わりな老人を訪ねるため――町にあらわれたことがあるが、町での滞在は死と炎の只中のうちにおわった。ブレイクをミルウォーキーの自宅から離れさせたのは、およそぞっとしない勘のようなものが働いたためにちがいない。日記には逆のことが記されているとはいえ、ブレイクは古譚をいろいろ知っていたのかもしれないし、そしてブレイクの死は、文学的には非難されるべき運命にあった鬼面人を威《おど》す悪戯を、蕾《つぼみ》のうちに摘《つ》みとったのかもしれない。  しかし証拠のすべてを調べ、相関関係をわりだした人びとのなかには、合理的とも平凡ともいえない臆測に執着する者が何人か残っている。そういう者たちは、えてしてブレイクの日記のほとんどすべての記述を額面どおりにうけとり、たとえば、古い教会の記録の紛れもない信憑性、忌み嫌われる邪教の〈星の知慧《ちえ》派〉が一八七七年以前に遡《さかのぼ》って存在する、証明済みの事実、一八九三年にエドウィン・M・リリブリッジという好奇心の強い記者が失踪したことの記録、そして――とりわけ――若い作家の死顔にうかんでいた悍《おぞ》ましいまでにゆがんだ恐怖の表情といった事実を、意味深長に指摘する傾向がある。ブレイクの日記には、古い教会の塔のなかにあったと記されているが、そこではなく、窓のない黒ぐろとした尖《とが》り屋根で発見された、奇怪な装飾のある金属製の箱と妙に角ばった石とを、極端な盲信に駆りたてられるまま湾に投げすてたのは、そういう者たちのひとりだった。その男――奇妙な伝承に興味をもつ評判のいい医者――は、公私にわたってはなはだしく非難されたが、ほうっておけばあまりにも危険すぎるものを地上からとりのぞいたのだと、自信たっぷりに主張したものだ。  こうした二派にわかれる考え方のなかで、読者は自ら判断を下さなければならない。資料は懐疑的な角度から実質のある委細を与えてくれるし、加えて、ロバート・ブレイクが見た――あるいは見たと思いこんだ――か、見たふりを装った情景も、素描というかたちで残されている。さて、日記を仔細に、私心なく、ゆっくりと調べることによって、一連の謎めいた出来事を、その中心人物が述べている観点から要約してみよう。  若きブレイクは、一九三四年から三五年にかけての冬に、プロヴィデンスにもどり、カレッジ・ストリートはずれの草地に建つ古びた住居の上階をかりきった――そこはブラウン大学のキャンパスに近い、東にのびる大きな丘の頂で、背後には大理石造りの大学付属ジョン・ヘイ書館が位置している。人なつっこい大きな猫が何匹も、手近な納屋の屋根で日なたぼっこをしているような、牧歌的な古色をたたえた小さな憩の庭にある、こぢんまりとして住みやすい、魅力的な住居だった。ジョージア王朝様式の箱形の住居は、段屋根といい、小さなガラスが扇形にはめられた窓をもつ古典的な玄関といい、紛れもなく十九世紀初頭の細工を示すものばかりを備えていた。内部には六枚の鏡板がはられたドア、幅の広い床板、植民地時代風の曲線を描く階段、アラム期の白い炉棚があり、奥に位置する部屋は床の高さが三段分さげられている。  南西に位置するブレイクの広い書斎は、一方で玄関まえの庭を見はるかし、西に面した窓まど――一つの窓のまえに机が置かれている――は丘の端《はな》から顔をそらして、低地に広がる町の屋並と、そのうしろでかっと燃えあがる神秘的な夕映の、素晴しい景観をわがものにしていた。遙か彼方、広びろとした郊外の紫がかった斜面が、地平線を形成している。その斜面を背景にして、およそ二マイルほど手前には、フェデラル・ヒルの幽霊めいた円丘がもりあがり、屋根や尖塔《せんとう》がひしめきあっているのだが、遠くから眺めるその輪郭は、渦を巻いて昇る町の煙につつまれるまま、神秘的に揺らめき、奇異な形をとりつづけるように見えた。ブレイクは、実際に見つけだして入りこもうとするなら、夢と消えるか消えぬか定かでない、何か未知の霊妙な世界を覗きこんでいるような、妙な感じがしたものだった。  ブレイクは蔵書の大半を自宅からとり寄せたあと、宿所にふさわしい古風な家具をいくつか買いいれ、小説の執筆と絵画の制作にとりかかった――ひとりきりで暮し、簡単な家事は自分で処理することにした。アトリエは北側の屋根裏部屋にあって、段屋根に設けられたいくつもの窓が十分な光をもたらしてくれた。ブレイクはその最初の冬のあいだに、自作のなかで最も世に知られた短編小説のうち五篇――『地底に棲むもの』、『窖《あな》に通じる階段』、『シャガイ』、『ナスの谷』、『星から来て饗宴に列する者』――を書き、七枚のキャンヴァスを仕上げている。絵は、まったく非人間的な、名も無い怪物や、底知れぬほどに異界的な、この世ならぬ風景の習作だった。  夕暮どきになると、ブレイクはよく机について、西方に広がる景色をうっとりと眺めたものだった――すぐ眼下の記念会館の黒ぐろとした塔、ジョージア王朝様式の裁判所の鐘楼、下町にそびえ立つ小尖塔の群、他を圧して屹立《きつりつ》する尖り屋根が揺らめいて見えるあの遠くの円丘を。フェデラル・ヒルの円丘に存在する、まだ見ぬ通りや迷路めく切妻屋根の連なりは、ブレイクの空想をひどくかきたてた。わずかばかりの地元の知人にたずねた結果、遠くの丘陵が広範囲にわたるイタリア人地区であるものの、建っている家の大半は、イタリア人より古くイギリス人やアイルランド人が入植した時代の名残《なごり》であることを知った。ブレイクはときとして、渦を巻く煙のむこうにある、あの手のとどかないおぼめく世界に双眼鏡をむけ、屋根、煙突、尖塔のそれぞれをつぶさに見たり、そういうものがはらんでいるやもしれない玄妙かつ奇異な謎に思いをはせたりした。そういう光学的な助けをかりてさえ、フェデラル・ヒルはどこか異質で、なかば伝説上の土地のような雰囲気をもち、ブレイク自身の小説や絵があつかう、実体のない非現実的な驚異とつながりをもっているように思われるのだった。丘が街燈の光をちりばめた菫色《すみれいろ》の黄昏のうちにしだいに消え去り、裁判所の投光照明と、インダストリアル・トラスト社の赤い灯が輝いて夜をグロテスクなものにした後も、そうした感じは長く心に残るのだった。  遠くのフェデラル・ヒルにあるもののなかで、ブレイクの心を最も惹きつけたのは、黒ぐろとした巨大な教会だった。昼間の特定の時間にとりわけくっきりと見えるほか、日暮どきには、夕日に燃える空を背景にして、大きな塔や先細りの尖り屋根が黒ぐろとした姿をあらわすが、これはとりわけ高い土地に建っているためらしい。汚れはてて黒ずんだ正面、そして大きな尖頭窓《ランサット》の頂部に勾配急な屋根を斜《はす》に覗かせる北に面した部分とが、まわりにひしめく棟木《むなぎ》や煙突の通風管をしのいで、立ちまさっているからだ。ことさら気味悪く、いかめしい姿をしたその教会は、どうやら石造りらしかったが、一世紀以上の歳月にわたって風雨と煙にさらされ、風化するとともに汚れきっていた。双眼鏡で見るかぎり、建築様式は壮麗なアプジョン期に先立つ、ゴシック復興期の最も初期の実験的な形態で、ジョージア時代の外観や規模を多少なりとももちこしている。一八一〇年ないし一五年頃に建てられたものらしかった。  月日がたつにつれ、ブレイクは妙に好奇心がつのりゆくまま、遠くの剣呑《けんのん》な建物を眺めつづけた。どの大窓にも灯の点《とも》ったことがなかったので、人の住んでいないことがわかった。長く眺めれば眺めるほど、想像力が活溌に働き、ついには奇妙なことを空想しはじめるまでになった。荒廃を示す異様な雰囲気がぼんやりと漂っているので、鳩や燕でさえ、煙につつまれる軒に近寄りさえしないのだ、とブレイクは思った。双眼鏡で見ると、他の塔や鐘楼のまわりにはたくさんの鳥が見うけられるのだが、鳥たちが教会の軒で翼を休めることはまったくなかった。少なくともブレイクはそう思い、日記にそう記している。何人かの友人に教会のことを話してみたが、フェデラル・ヒルに行ったことがあったり、教会の現在あるいは過去の状態について少しでも知っていたりする者は、ひとりもなかった。  春になると、ブレイクはひどくおちつきがなくなってしまった。かなりまえから計画していた長編小説――メイン州に魔女信仰が残っているという仮説に基づく長編小説――にとりかかろうとしていたが、妙なことに、書き進めることができなかった。西に面した窓のまえに坐り、遠くの丘と、鳥たちに嫌われる威圧するような黒い尖塔とを眺める時間が、日ましに増えていった。庭の木々が繊細な葉を出し、世界が新しい美にみたされても、ブレイクのおちつきのなさはつのっていくばかりだった。ひとつ町を横断して、幻のような丘に登り、煙につつまれる夢の世界へ入りこんでやろう。こんな考えがはじめてブレイクの心にうかんだのは、その頃のことである。  四月下旬、永劫の闇がつどうヴァルプルギスの宵祭の前夜、ブレイクは未知の領域へむかう最初の旅をした。果しなくつづくように思われる下町の通りをとぼとぼ歩き、さらに陰気な荒《さ》びれはてた地区をこえ、ついにブレイクは、長い歳月のうちにすりへった石段、たわんだドーリス式の玄関、曇ったガラスのはまる頂塔のある坂道にたどりついた。この坂道は霧のむこうにある、昔から知っていた手のとどかない世界に通じているにちがいない。ブレイクにはそんな気がした。何を意味するものかわからない青と白の煤けた道標をいくつも目にしたあと、ブレイクはやがて、道をゆきかう人びとが妙に浅黒い顔をしているのに気づき、風雨にさらされた建物にある、風変わりな店の異国風の看板に注意が惹かれるようになった。しかし遠くから見て知っていたものは、どこにも見あたらない。そのためブレイクはまたしても想像をたくましくした。遠くから眺めるフェデラル・ヒルは、生身の人間には決して足を踏みいれることのできない、夢の世界ではないだろうかと。  ときとして、荒廃した教会の正面や崩れかけた尖《とが》り屋根が目に入ったものの、探し求める黒ずんだ建物ではなかった。とある店の主人に石造りの大きな教会についてたずねてみたが、主人は英語を流暢《りゅうちょう》に話せるくせに、黙って首を振るだけだった。坂道を登るにつれ、南にむかって果しなくのびているかと思われる、褐色の帷《とばり》がたれこめたような小路が迷路めく姿をあらわし、ますます勝手がわからなくなっていくようだった。ブレイクは幅広い通りを二つ三つ横切ったが、見馴れた塔を目にしたように思ったことが一度あった。また石造りの壮大な教会について商人にたずねたが、今度は知らないふりをしていることがはっきりとわかった。商人の浅黒い顔には隠しても隠しきれない恐怖の表情があったし、右手で何やら妙な仕草をするのも見えた。  やがて思いがけなく、いりくんだ南の小路に連なる褐色の屋並の上、左手の曇り空を背景にして、黒い尖り屋根がくっきりと立ちあらわれた。ブレイクはすぐにそれが何であるかを知り、大通りからのびている舗装されていない汚げな細い坂道を登った。二回道に迷ったが、戸口に腰をおろしている老人や主婦、さては小暗い坂道のぬかるみで声をあげながら遊んでいる子供たちにさえ、なぜか道をたずねる気にはなれなかった。  ついにブレイクは、西南の空を背景に塔をありありと目にした。石造りの巨大な塔が、細い坂道のはずれに黒ぐろとそびえ立っていたのだった。まもなくブレイクは、玉石が巧妙に敷きつめられ、奥が高台になっている、吹きさらしの広場に足を踏みいれた。探求の旅はいまおわった。雑草が生い茂り、幅広い鉄柵が備えられている高台――まわりより優に六フィートは高い隔絶された小世界――には、遠くから眺めていたときとは様子がちがうものの、その正体については疑問の余地がない、いかめしい巨大な建物がそびえていた。  無人の教会は老朽《ろうきゅう》のきわみにあった。高い石の扶壁《ふへき》は一部が崩れ落ちており、勝手放題にはびこる雑草のあいだから、落下した精妙な頂華《フィニアル》がいくつか顔をのぞかせている。煤けたゴシック様式の窓は、窓仕切りの役目をはたす石材のほとんどがなくなっているものの、窓ガラス自体はさほど割れていなかった。ブレイクは、およそ少年なら誰しも備える習性を考え、煤けたガラスがどうして割られもせずに残っているのだろうかと不思議に思った。どっしりした正面の扉は何の損傷もうけておらず、閉めきられていた。高台のまわりには、全体をとりかこむ錆びた鉄柵があり、広場と高台を結ぶ階段が鉄柵と接する所には門があって、南京錠がかけられていた。門から教会に通じる小道は草ぼうぼうのありさまだった。荒廃と腐朽が暗い帷のようにたれこめ、鳥のいない軒や蔦《つた》のからまない黒い壁には、いわくいいがたい薄気味悪さがぼんやりと感じとれた。  広場にはほとんど人影もなかったが、北寄りの隅に警官がひとりいたので、ブレイクは教会のことをたずねようと思って近づいた。警官はいかにも健康そうなアイルランド人だったから、十字を切り、声を低くして、あの建物のことを口にする者はいないとしかいわないのは、ことさら奇妙に思われた。それでブレイクがしつように質《ただ》すと、警官はものすごい早口で、イタリア人の司祭があの教会に近づかないよう警告したのだといった。恐ろしいほど邪悪な存在がかつて住みついていて、いまもその痕跡を残しているという。警官自身、子供の頃に耳にしたある種の音や噂をおぼえている父親から、大っぴらには口にできない謎めいた話を聞かされていた。  かつて教会は邪悪な宗派の巣窟になっていた――未知の暗黒の深淵から何やら悍ましいものを召喚した、無法かつ不逞の異端宗派だった。召喚されたものを退散させるため、有徳の神父の手をわずらわせることになったが、光さえむければ退散させられたという者もいたらしい。もしその神父オマリーが生きているなら、多くのことを語ってくれるだろうが、いまとなっては教会には手をつけずにおく以外、どうすることもできない。もう人が害をうけることはないし、住みついていた宗派の面々も、あるいは死んでしまい、あるいは遠くへ行ってしまっている。一八七七年に、教会の近くでときおり人の消えることが住民の注意を惹きはじめ、ぶっそうな話がもちあがった後、宗派の面々は鼠のように逃げだしたのだ。いずれは市が割りこんで、相続人がいないことを理由に没収するのだろうが、誰が手をつけようと、どんな利益ももたらされるはずがない。この教会は、暗黒の深淵で眠っているはずのものを目覚めさせないよう、倒壊するにまかせておくほうがいいのだ。  警官がそんなことをいって立ち去った後、ブレイクはその場に立ちつくして、黒ずんだ尖塔を備える教会をじっと見つめた。ブレイクは、その建物を不気味に思うのが自分ひとりでないことを知って胸が騒ぎ、警官がもらした昔話の背後にはどんな真実があるのだろうかと思った。あるいは建物の凶《まが》まがしい外観から生じた単なる伝説にすぎないのかもしれないが、そうであるとしても、ブレイクにとっては、自分の小説の一つが現実化したような、何とも不思議な感じがしたのだった。  雲の切れ目から午後の太陽が顔をのぞかせたが、高台にそびえる古い教会の、煤で汚れた壁を明るくすることはできないようだった。鉄柵でかこまれた庭に認められる褐色のしおれた茂みのなかに、春の新緑が見られないのは、妙としかいいようがない。ブレイクはいつのまにか高台に近づき、入口はないかと、土手の壁面や錆びついた鉄柵を調べていた。黒ずんだ教会には、耐えられようもない恐ろしいほどの魅力があった。階段近くの鉄柵にはなかに入れそうなところはなかったが、北側では棒が何本かなくなってしまっていた。階段を登り、鉄柵の外側の狭い笠石の部分をつたっていけば、その切れ目まで行きつけそうだった。人びとがこの場所をひどく恐れているなら、邪魔をされることもないだろう。  ブレイクが高台に登り、誰にも気づかれないうちに柵のなかへ入ろうとしたとき、ふと広場のほうを見おろしてみると、二、三人の者があとずさりして、商人が見せたものと同一の仕草を右手でおこなった。いくつもの窓が音をたてて閉められたかと思うと、ひとりの肥った女が通りに駆けだして、小さな子供たちの手をとり、ペンキのはげ落ちた、いまにもつぶれそうな家のなかへひっぱっていった。鉄柵の切れ目は簡単に通り抜けることができ、ブレイクはまもなく、荒《さ》びれはてた庭のしなびた茂みを踏み歩いていた。あちこちに見うけられる磨耗した墓標が、かつてこの場所で埋葬のおこなわれたことを物語っていた。とはいえそれは、よほど大昔のことにちがいなかった。すぐそばに近づいているだけに、教会の大きさそのものにおびやかされるほどだったが、ブレイクは威圧感をはらいのけ、正面にある三つの大扉に歩み寄り、開くかどうか試してみた。扉はどれもしっかり施錠されていたので、入りこめる小さな開口部はないかと、巨大な建物の周囲をまわりはじめた。ブレイクはそのときでさえ、この荒廃と闇がわだかまる巣窟に、本当に入りこみたいと願っているのかどうか確信はなかったが、未知のものがかもしだす魅力にさそわれるまま、無意識に足を進めていた。  教会の裏で口を開けている、むきだしの地下室の窓が、恰好の開口部を提供してくれた。覗いてみると、西にかたむいた太陽がさしこんで、ほのかに照らしだされる、蜘蛛の巣と埃にまみれた地下の深淵が見えた。砂礫、古い樽、こわれた箱、さまざまな家具が目にとまったが、すべてを埃が覆いつくし輪郭をまろやかなものにしていた。暖房用閉鎖炉の錆びついた残骸は、この建物がヴィクトリア時代中期に使われ、その当時のままの姿を保っていることを告げていた。  ブレイクは自分が何をしているのかほとんど意識もせずに、窓からもぐりこみ、埃が積もり、がらくたが散らばるコンクリート製の床におり立った。穹窿天井《ヴォールト》をもつ地下室は、間仕切りがなくてだだっ広く、右手奥の隅、暗い影のなかに、上階に通じているらしい黒い拱路《アーチウェイ》があった。ブレイクは幽鬼めく巨大な建物のなかに実際にいることで、一種独特の圧迫感をおぼえていたが、その感じを抑えながら用心深く歩きまわった――埃のなかにまだしっかりしている樽を見つけると、外へ出るときの足場にするため、窓までころがしていった。そのあと気持をひきしめ、蜘蛛の巣がからまるなかを拱路にむかった。厚く積もる埃に半分息をつまらせ、幽霊のような蜘蛛の巣にまみれながら拱路にたどりつくと、闇のなかへとつづいているすりへった石段を登りはじめた。灯になるものはもっていなかったので、注意深く両手で探りながら登った。急な彎曲部をまがった後、前方に閉じた扉が感じられ、手探りしてみると、古びた掛金が見つかった。扉は内側に開き、そのむこうには、壁板が虫に喰われた、ほのかに照らされる廊下があった。  ブレイクは一階にあがると、手早く調査を開始した。内部の扉はどれも施錠されていなかったので、意のままに部屋から部屋へとわたり歩くことができた。巨大な身廊《ネイヴ》は、背の高い仕切りで箱形にかこまれた座席、祭壇、砂時計を置いた説教壇、反響板等ことごとく埃に厚く覆いつくされているうえ、大きな蜘蛛の巣が、あるいは中二階の尖頭式|迫持《せりもち》にはりめぐらされ、あるいはゴシック風の簇柱《ぞくちゅう》にからみついており、実に薄気味悪い場所だった。この荒涼として静まりかえった場所には、西の空にかたむく午後の太陽の光線が、後陣《アプス》にある大窓の煤けた風変わりなガラスごしにさしいって、ぞっとするような鉛色の光が揺らいでいた。  窓ガラスに描かれた絵は、煤に覆われているので、何を表しているのやらほとんどわからなかったが、かろうじて認められたものは、どうにもいただけないしろものだった。絵柄はおおむね伝統的なもので、曖昧模糊とした象徴表現に通じているブレイクには、古代の絵柄のいくぶんかについてかなりのことがわかった。ごくわずか描かれている聖人たちは、確実に非難の的になるような表情をしている一方、一つの窓には、奇妙な輝きをもつ螺旋をいくつも鏤《ちりば》めた、暗黒の空間だけが描かれているように思われた。ブレイクは窓から顔をそらしたとき、祭壇の上にある蜘蛛の巣のからむ十字架が、ごく普通のものではなく、影濃いエジプトの原始的な生命の象徴であるアンク、すなわち輪頭T型十字章に似ていることに気づいた。  後陣のそばにある付属室には、朽ちはてんとする机と天井までつづく書棚があって、書棚には黴《かび》が生え、崩れかけた書物がならんでいた。ブレイクはこの部屋ではじめて、身にこたえるほどのなまなましい恐怖を感じとった。書棚にならぶ書物の標題があまりにも多くのことを物語っていた。ごく普通の人間なら聞いたこともないような、また聞いたとしても、おどおどと口にされる内密の耳言《みみごと》として聞かされたにちがいない、不吉な禁断の書物があった。人類が誕生してまもない頃、さらには人類が誕生する以前のおぼめく伝説的な時代から、時の流れにしたたり落ちる、いかがわしい秘密や太古の呪文を収めた、禁制の恐るべき書物だった。その多くはブレイク自身も既に目をとおしているものだった――憎悪される『ネクロノミコン』のラテン語版、邪悪きわまりない『エイボンの書』、ダレット伯爵の悪名高い『屍食《ししょく》教典儀』、フォン・ユンツトの『無名祭祀書』、ルドウィク・プリンの地獄めいた『妖蛆《ようしゅ》の秘密』。しかし噂で知っているだけの書物や、まったく知らなかった書物もあった――『ナコト写本』、『ドジアンの書』に加え、杳《よう》としてうかがい知れぬ文字で記されているものの、隠秘学を研究している者なら身を震わせながら判別できる記号や図形を配した、ぼろぼろに崩れている書物が一冊あった。どうやら、消えることなく囁かれつづけるこの土地の噂は、根も葉もないものではないらしかった。この教会はかつて、人類よりも古く、人間の知る宇宙を超脱する、いいようもなく邪悪な学問の殿堂だったのだ。  朽ちかけんとする机の引出しには、得体の知れない暗号書記法による記入に埋めつくされる、革装釘のこぶりな記録帳があった。かつては錬金術や占星術をはじめその他怪しげな学問で用いられ、現在は天文学で使用されている、ごくありふれた伝統的な記号――太陽、月、惑星、視座《アスペクト》、黄道十二宮を示すもの――が、しっかりしたページにびっしりと書きこまれ、区切りや段落分けがあるので、それぞれの記号はアルファベットに対応しているようだった。  ブレイクはあとで解読したいと思い、その小型本を上着のポケットにつっこんだ。書棚にならぶ大冊の多くには、いいようもなく心がそそられ、いつかもう一度来て、もちだしたい誘惑に駆られたほどだった。こうした書物が長いあいだ手もつけられずにきたのはなぜだろうかと、ブレイクは考え、およそ六十年間にわたって、この無人の教会に人が入りこむことを防いでいた、あたりに充溢《じゅういつ》する圧倒的な恐怖にうち勝ったのは、自分がはじめてなのだろうかと思ったりもした。  一階をくまなく調べたあと、ブレイクはもう一度気味悪い身廊の塵のなかを苦労して通り抜け、表玄関の控室にむかった。遠くから眺めてすっかり馴染深くなった、あの黒ずんだ塔とその尖り屋根に通じているらしい、扉と階段がそこにあるのを目にしていたからだった。塵が厚く積もっているうえ、蜘蛛がこの狭い場所では悪行の限りをつくしているので、階段を登るのは息づまるような体験だった。高くて細い踏板のある螺旋階段を登っているあいだ、目のくらむような町の姿を覗かせる煤けた窓のそばを、何度となく通りすぎた。下では一本のロープも見あたらなかったが、双眼鏡でよく観察した羽板つきの細い尖頭窓《ランサット》を備えるこの塔には、一つ、あるいは一組の鐘があるはずだと、ブレイクは思っていた。しかし失望を味わわされることになった。階段を登りつめてみれば、鐘は一つも見あたらず、どうやら塔上の部屋は、まったく別の目的のために用いられるもののようだった。  おおよそ十五フィート平方のその部屋は、ガラスの外側に羽板を備えた尖頭窓が各面に一つずつ設けられ、羽板が朽ちているのでほのかに照らしだされていた。かつてはさらに、目のつまった不透明な窓掛がはられていたようだが、それもいまとなっては大半が腐れはてていた。埃の積もる床の中央には、高さ四フィートくらい、平均直径二フィートほどの妙に角の多い石柱が立っていて、どの面も、粗雑に彫りこまれた、不可解な象形文字で覆われていた。石柱の上には一種独特の不均整な形をした金属製の箱が置かれている。蝶番で動く蓋は開けられたままになっていて、そのなかには、厚く積もる埃をとおして、さしわたし四インチほどの卵形、もしくは不規則な球形のように見える物が、一つ収められていた。石柱のまわりには、まだほとんど痛んでいない背もたれの高いゴシック風の椅子が七脚、おおよそ円を描くようにしてならべられており、それぞれの椅子の背後には、黒ずんだ壁の鏡板にそって、神秘的なイースター島の謎めいた大彫像に何よりも似ている、黒塗りにされた、崩れかける大きな石膏像が一つずつ立っていた。蜘蛛の巣のからまる部屋の片隅には、頭上の窓一つない尖り屋根の閉めきられた引き戸に通じる、壁に造りつけの梯子があった。  ブレイクは弱い光に目が馴れてくると、黄色がかった金属製の風変わりな箱にほどこされた、妙な薄浮彫りに気がついた。そばに近づき、手とハンカチで埃をぬぐってみると、浮彫りにされている模様が、途方もない、まったく異界的な類《たぐい》のものであることがわかった。どうやら生きているものらしいが、この惑星で進化したどんな生命体にも似ていない存在を描いているのだった。さしわたし四インチほどある球形の物体は、ふぞろいの平面部を数多く備える、赤い線の入ったほとんど黒に近い多面体であることが判明した。ある種の驚くべき結晶体か、鉱物を刻んで磨きあげられた人工的なものらしい。その多面体は箱の底面にふれることなく、中心をとり巻く金属製の帯と、箱の内壁の上部から水平にのびる奇妙な形をした七つの支柱とによって、つりさげられていた。ブレイクはこの多面体の石にいいようもなく魅せられてしまった。かたときも目を離すことができず、輝く表面をじっと見つめていると、透明になり、内部に驚異の世界がいくつも形作られていくような気がするほどになった。巨大な石の塔がそびえる異界の星々、大山脈を擁し生命の気配さえない星々、そして朦朧《もうろう》とした暗黒のなかでの揺らぎだけが、意識と意志の存在を告げるばかりの、さらに遠くの空間が、ブレイクの心のなかにうかびあがった。  ようやく目をそらしたとき、ブレイクは、尖り屋根に通じる梯子近くの片隅に、どことなく妙な埃の山があることに気がついた。どうして注意が惹きつけられたのかはわからないが、輪郭にこもる何かがブレイクの深層意識に囁きかけるものをはらんでいた。たれさがる蜘蛛の巣をはらいのけながら、近づいていくにつれ、不吉な感じがしはじめた。手とハンカチがすぐに真相を明らかにした。ブレイクはさまざまな感情が渾然としてこみあげ、息がとまる思いがした。人骨だった。相当長いあいだその場にあったものにちがいない。衣服はぼろぼろになっていたが、ボタンと断片から男ものの灰色のスーツであることがわかった。ほかにもすこしばかり証拠品があった――靴、留金、大きなまるいカフス・ボタン、古めかしい形のタイピン、プロヴィデンス・テレグラムと社名の入った記者章、そしてぼろぼろになった革表紙の手帳。ブレイクは注意深く手帳を調べ、現在発行されていない紙幣数枚、一八九三年用の広告入りセルロイド製カレンダー、エドウィン・M・リリブリッジと印刷された名刺、鉛筆書きでメモがびっしりと記された一枚の紙片を見つけた。  その紙片は首をひねりたくなるようなもので、ブレイクはぼんやりした光のさしこむ西の窓に行き、注意深く読んだ。次のようなきれぎれの文章が記されていた。   [#ここから2字下げ]  イノック・ボウアン教授一八四四年五月にエジプトより帰国――七月に自由意志派の教会を買収――教授の考古学に関する著作及び隠秘学の研究は有名なり。  一八四四年十二月二十九日、第四バプティスト教会のドラウン博士、説教の際に星の知慧派に近づかぬよう警告せり。  四五年末までに宗派の門徒九十七名を数えたり。  一八四六年――三名の者失踪――輝くトラペゾヘドロンはじめて人の口にのぼる。  一八四八年、七名の者失踪――血なまぐさい生贄《いけにえ》の話もちあがりたり。  一八五三年の調査、成果をあげられず――音についての噂あり。  オマリー神父、エジプトの廃墟にて発見されし箱を用いる悪魔崇拝について語る――光のなかでは存在できぬもの召喚されたる由。そのもの弱い光から逃げだすも、強い光を用いれば、一掃されんという。その場合、再度召喚せねばならぬ。あるいはオマリー神父このことを、四九年に星の知慧派に入信せしフランシス・X・フィーニイの臨終の告白より得たるにあらぬや。星の知慧派に入信した者等いわく、輝くトラペゾヘドロン、天国や他の世界を見せ、闇をさまようもの、何らかの方法にて秘密を告げたりと。  一八五七年、オリン・B・ユディの報告。星の知慧派の者等、結晶体を見つめることにより召喚をおこない、独自の言語をもちたりと。  一八六三年、出征中の者を除き、門徒数二百名以上に達す。  一八六九年、パトリック・リーガンの失踪後、アイルランド人たち教会になだれこみたり。  一八七二年三月十四日、J紙に漠然とした記事掲載されるも、この記事につき市民は何も語らず。  一八七六年、六名の者失踪――秘密委員会、ドイル市長を訪問。  一八七七年二月、四月に教会を閉鎖する旨の決議おこなわれたり。  五月、フェデラル・ヒルの住民、――博士と教区委員を脅迫。  一八七七年の末までに一八一名の者町を離れる――名前は発表されず。  一八八〇年頃、幽霊の話もちあがる――一八七七年以来、教会に入りし者なしとの報告の真疑を確かめるべし。  一八五一年に撮影された写真の提供をラニガンに要求すべきなり…… [#ここで字下げ終わり]    ブレイクはその紙片を手帳にもどし、手帳を上着のポケットにいれてから、埃のなかの人骨を見つめた。書きこみが意味しているものは明白で、誰も手をだす勇気のなかった特種を求め、この男が四十二年まえに無人の建物にやって来たことには、疑問の余地がなかった。おそらくこの男の計画を知っていた者はいなかったのだろう――はっきりいいきれることではないが。しかし男が新聞社にもどることはなかった。勇気をふるいおこして抑えていた恐怖が圧倒的なまでに高まり、突然の心臓発作でもおこしたのだろうか。ブレイクは鈍く光る人骨にかがみこんだとき、妙な状態に気がついた。骨のいくつかはひどく分断されており、奇妙としかいいようがないが、端のほうが溶けているように思える骨も二、三ある。それ以外の骨は不思議にも黄色くなっていて、焼けこげたような感じだった。焼けこげたような跡は衣服の断片のいくつかにも認められた。頭蓋骨の状態はきわめて異常だった――黄変していて、頭頂部には、何か強力な酸が硬い骨を腐食したかのような、黒こげになった穴が開いていた。四十年にわたる沈黙の埋葬のうちに、この骸骨にいったい何がおこったのか、ブレイクには想像することもできなかった。  ブレイクはそれと意識しないまま、いつのまにかまた多面体の石を見つめていて、その奇妙な影響力が自分の心にぼんやりした幻影を呼びおこすにまかせていた。ブレイクは見た。長衣をまとい頭巾をかぶる、人間ではありえない輪郭をもつものたちの行列を。空に達するかのような、刻み抜かれた石碑の立ちならぶ、果のない砂漠の広がりを。闇につつまれる海底にある塔と外壁を。冴《さ》えざえとした紫色の霞のあわい輝きのまえで、黒い霧がたゆたっている空間の渦を。そしてそれらすべての彼方に、黯黒《あんこく》の底知れぬ深淵を垣間見た。固体であれ流動体であれ、風のような揺らぎによってのみ存在が知られるだけの深淵では、雲のような動きをする〈力《フォース》〉が混沌に秩序を付与し、われわれの知る世界の秘密と矛盾を解く鍵を示しているようだった。  するうち突然、心がむしばまれるような漠然とした不安が高まって、呪縛がたちきられた。ブレイクは、恐ろしいほど一心に自分を見つめる、何か得体の知れない異界的な存在を間近に意識して、息がつまり、多面体から目をそらした。何かにからみつかれているような気がした――多面体の石のなかに潜んでいるのではなく、石を通してブレイクを見つめている何かだった。それは視覚ではない認識力でもって、どこまでもブレイクを追ってきそうだった。どうやら、その場の雰囲気がブレイクの神経を高ぶらせていたらしい――恐ろしいものを見いだしていたのだから無理もないだろう。光も弱まっていたし、灯になるものは何ももっていなかったので、すぐに立ち去らなければならないことがわかった。  そのときだった。ブレイクは、深まりゆく暮色のなか、狂ったような角度をもつ多面体の石に、かすかな光を見たように思った。目をそらそうとしたが、何やら有無をいわせない力がブレイクの目を石にひきもどした。石には放射性の微妙な燐光があるのだろうか。死んだ記者のメモで輝くトラペゾヘドロンにふれたくだり[#「くだり」に傍点]は何を意味しているのだろう。ともかく、記者が調査をはたせなかった宇宙的な邪悪の根城とは、いったい何なのか。かつてここではどんなことがおこなわれたのか。鳥さえ避ける闇のなかになおも潜んでいるかもしれないものとは何なのか。ブレイクがそんなことを考えていると、どこか近くからかすかな悪臭が漂ってきたかのような感じがしたが、その発生源はわからなかった。ブレイクは長いあいだ開かれたままになっている箱の蓋をつかみ、勢いよく閉めた。風変わりな蝶番によって蓋は簡単に動き、見まちがえようもなく輝いている石の上で、完全に閉まった。  蓋の閉まる鋭い音がしたとき、引き戸の彼方、常闇《とこやみ》につつまれる頭上の尖り屋根から、かすかなざわめきが聞こえたようだった。もちろん鼠にちがいない――ブレイクが足を踏みこんで以来、この呪われた建物で存在をあらわにした唯一の生物は、鼠にちがいなかった。しかし尖り屋根でのざわめきを耳にしたことで、ブレイクは怖気立ってしまい、半狂乱になって螺旋階段をくだり、薄気味悪い身廊を走り抜け、穹窿天井《ヴォールト》をもつ地下室にもぐりこみ、闇のつどう無人の広場にとびだすと、健全な大学地区の街路と故郷をしのばせる煉瓦敷きの舗道とを目指して、フェデラル・ヒルの恐怖がとりつく雑然とした小路や大通りを駆けおりていった。  その後数日間、ブレイクは遠出したことを誰にもいわなかった。そのかわり、特定の本をたんねんに読み、下町で長期間にわたる新聞のファイルを調べるとともに、蜘蛛の巣のからむ教会付属室からもち帰った革装釘の本をまえにして、熱にうかされたように暗号の解読にとりくんだ。暗号が単純なものでないことはすぐにわかった。長いあいだたゆまず努力した結果、もともとの言語が英語、ラテン語、ギリシア語、フランス語、スペイン語、ドイツ語のいずれでもないことが確信できた。どうやらブレイクは、尋常ならざる知識の奥深い源にまで目をむけなければならないようだった。  毎日夕方になると、西のほうを眺めたいという例の衝動がぶりかえし、ブレイクはかつてのように、なかば幻めいた遠い世界のひしめく屋並の只中に、黒ぐろとした尖り屋根を見た。しかしいまでは、ブレイクにとって、尖り屋根は新たな恐怖の調べをたたえていた。ブレイクは教会が邪悪な学問という遺産を秘め隠していることを知っており、その知識のままに、目にうつる景色が奇妙な新しい様相を呈しはじめた。春の鳥たちがもどってきていたが、ブレイクは夕暮に飛ぶ鳥たちを眺めながら、鳥たちが蓼々《りょうりょう》として不気味な尖り屋根を避けているように思った。そんなことは以前にはなかった。鳥の群は尖り屋根に近づきかけると、おびえたように旋回したり、散りぢりになったりするのだった。相当な距離があるので耳にとどくことはないものの、ブレイクは鳥たちがきっと激しいさえずりをあげているのだろうと思っていた。  ブレイクが暗号の解読に成功したことを日記に書きとめるのは、六月になってからのことだ。もとの言語は、太古から存在する邪教宗派の用いる、一般には知られないアクロ語で、ブレイクは以前おこなった調査からいくぶんかはその言語に通じていた。解読された内容について、日記は不思議なくらい記述をひかえているが、これはブレイクが解読の結果に恐れおののき、心を乱したためだろう。日記には、輝くトラペゾヘドロンを見いることで目覚めさせられる、闇をさまようものについての言及や、それが身を置いている混沌の黝《かぐろ》い深淵についての常軌を逸した臆測が認められる。闇をさまようものと呼ばれる存在は、あらゆる知識をもち、恐ろしい生贄を要求するらしい。ブレイクは闇をさまようものが召喚されたと考えていたようだが、それが地上を闊歩《かっぽ》しはすまいかという不安を日記に書きとめている。もっとも街燈が防壁になりうると書き加えているが。  輝くトラペゾヘドロンについて、ブレイクは頻繁に記しており、それを時間と空間のすべてに通じる窓と呼び、〈古《いにしえ》のもの〉が地球にもたらすまえ、暗黒の星ユゴスで造りだされたときからの歴史を明らかにしている。それによれば、輝くトラペゾヘドロンは南極大陸の海百合状生物によって秘蔵され、奇妙な箱に安置されていたが、ヴァルーシアの蛇人間によって海百合状生物の廃墟からひきあげられ、途方もない歳月の後に、レムリア大陸ではじめて人間の目にふれたという。その後、奇妙な土地やさらに奇怪な海底都市を転々として、アトランティス大陸とともに海中に没したあと、ミノアの漁師が網にひっかけてひきあげ、影濃いケムから来た浅黒い肌の商人に売りはらった。エジプト王ネフレン=カは、輝くトラペゾヘドロンのまわりに、窓一つない地下礼拝室を備える神殿を建立し、自分の名前があらゆる記録から抹消されることになる行為にいそしんだ。その後、僧侶と新しいエジプト王が邪悪な神殿を破壊し、輝くトラペゾヘドロンはその廃墟のなかで眠りつづけたが、廃墟につぎこまれた鋤《すき》によってまたしても地上にもたらされ、人類に呪いがふりかかることになった。  七月上旬に発行された新聞が奇妙にもブレイクの日記の記述を補足している。記事自体は簡潔な軽い調子のものなので、ブレイクの日記で言及されていなければ、一般の注意を惹くこともなかっただろう。その記事によれば、よそ者が恐ろしい教会に入りこんで以来、新たな恐怖がフェデラル・ヒルで高まりはじめたという。フェデラル・ヒルに住むイタリア人たちは、窓一つない黒ぐろとした尖り屋根の内部で、いままで聞いたこともないざわめきや、うちたたく音、ひっかく音がすることを囁きあい、夢をおびやかすものを退散させてくれと牧師に訴えもした。何かがたえず扉に目をむけ、とびだせるほど暗くなっているかどうかをうかがっているというのだ。新聞記事は古くから伝わる地元の迷信にふれてはいるが、さてその恐怖の原因が何であるかということについては、解明の光を投げかけるのに失敗している。現代の若い記者たちが好古家でないのはわかりきったことだ。ブレイクはこうしたことを日記に書きながら、妙な自責の念を表し、輝くトラペゾヘドロンを埋めなければならないとか、黒ぐろとした悍ましい尖り屋根に太陽の光をいれ、自分が呼びだしてしまったものを追いはらわなければならないとか、しきりに記している。しかし同時に、自分が危険なほど魅せられてしまっていることを表明し、呪われた塔を訪れ、宇宙の秘密をはらむ輝く石をいま一度覗きこみたいという、夢にまで影響をおよぼす病的な欲求を認めてもいる。  そして七月十七日付『ジャーナル』紙の朝刊に掲載された記事によって、ブレイクは慄然たる思いにさせられた。フェデラル・ヒルの不穏な雰囲気についてふれる、一連のからかい半分の記事の一つにすぎなかったが、ブレイクにとっては、どういうわけか、実に恐ろしい記事だった。夜におこった落雷のため、一時間にわたって町の送電設備が機能を失い、真の闇が訪れたのだが、その間イタリア人がおびえきって半狂乱になった。忌わしい教会近くに住む者らの言明したところによれば、尖り屋根に潜んでいた存在が、街燈の灯が消えたことに乗じて本堂におり立ち、何とも空恐ろしいねちねちした音をたてながら蠢《うごめ》いたらしい。ついには塔にまでものすごい音が響き、ガラスの割れる音がした。そいつは暗闇のなかならどこへでも行けるが、しかし光があると退散してしまう。  送電が再開されたとき、塔のなかがぞっとさせられるほどに騒ぎたった。羽板つきの汚れて黒ずんだ窓からさしこむ弱よわしい光でさえ、そいつには耐えきれないものなのだ。そいつは手遅れにならないうちに、物にぶつかり、ずるずるすべりながら、暗澹《あんたん》とした尖り屋根のなかへ入りこんだ――もっと長く光にあたっていれば、狂ったよそ者が呼びだすまえに身を置いていた深淵に送りかえされていたものを。闇が支配していた一時間、祈りをあげる群衆が、雨のなかを教会のまわりに集まっていた。手には蝋燭やランプをもち、まるめた紙や傘で雨を防いでいた――闇をさまよう悪夢から町を守る光の防壁だった。教会に一番近づいていた者たちは、扉が恐ろしいほど揺れ動いたことが一度あったと断言している。  しかしこれとても最悪の事件ではなかった。その日の夕方、ブレイクは『ブラトゥン』紙で、記者が発見したものについてふれた記事を読んだ。波瀾ぶくみの騒ぎに刺激され、ようやく報道価値があると考えたふたりの記者が、熱にうかされたようなイタリア人たちを後目《しりめ》にかけ、むなしく扉を押し開こうとした後、地下室の窓から教会の内部に入りこんだのだった。ふたりは埃に覆われた付属室と、奇妙な感じで埃がぬぐわれ、一階座席の腐ったクッションとサテンの内張りが妙にあたりに散乱している、薄気味悪い身廊とを目にした。いたるところに悪臭が漂っていて、そこかしこには焼けこげたように見えるものの残片や黄色い染みがあった。塔に通じる扉を開け、一瞬、頭上でものをひっかいている音がしたような気がして立ちつくした後、ふたりはおおざっぱに埃のぬぐい去られている螺旋階段を見いだした。  塔の内部もまた、おおざっぱに埃がぬぐわれていた。ふたりの記者は七角形の石柱、倒れているゴシック風の椅子、不気味な石膏像のことを報告しているが、不思議なことに、金属製の箱と分断された古い人骨については一言もふれていない。ブレイクの心を一番不安にさせたものは――染みや焼けこげや悪臭が暗示しているものは別として――窓ガラスが割れていることを告げる記事の最後の部分だった。塔の尖頭窓《ランサット》はガラスがことごとく割られ、そのうちの二つは、サテンの内張りとクッションの馬毛が、あわただしくぞんざいに、傾いた羽板のあいだにつめられて、光をさえぎり闇を保っていた。最近になって埃のはらわれた床の上には、サテンの断片や馬毛の束が散乱していた。それはさながら、塔の内部をカーテンのかけられていた当時の真の暗闇にもどすため、すべての窓のすきまをふさごうとする行為の途中で、邪魔が入ったかのようだった。  黄色い染みと黒こげの跡は、窓一つない尖り屋根に通じる梯子にも見いだされたが、記者のひとりが梯子を登り、水平に移動する戸を開けて、異様なほど悪臭の漂う闇に弱よわしい懐中電燈の光を投げかけたが、そこには闇以外何もなく、入口近くには元の形をとどめない雑多な断片が散らばっているだけだった。最終的判断は、もちろん、人をいっぱい食わせる狂言ということだった。誰かが迷信深い丘の住民をひっかけようと悪戯をしたのか、あるいは狂信者が善《よ》かれと思いこみ、住民の恐怖を増長させるべく骨をおったのだろう。もしかしたら、如才ない若者たちが、世間をかつぐために大ぼらを入念に整えたのかもしれない。記者の報告が事実であることを確認するため、警官が派遣されたとき、滑稽な余波があった。三人の警官がつぎつぎに口実をもうけ、うまくその任務から逃れた後、四人目の警官がしぶしぶといった感じでひきうけたのだが、ふたりの記者が報告するものに何の事実をつけ加えることもなく、あっというまにもどってきたのだ。  これ以後ブレイクの日記は、じわじわとつのりゆく恐怖と精神的な不安を示している。ブレイクは何らかのことをしない自分を責め、また停電がおこったときの結果について、奔放な臆測をしている。ブレイクが三度にわたり――雷をともなう嵐が発生しているあいだ――電力会社に逆上して電話をかけ、絶対に停電がおこらないよう予防措置をとってくれと頼みこんだことが確認されている。ときとして日記の記述は、ふたりの記者が影のつどう塔の内部に入りこんだとき、金属製の箱と、多面体の石と、妙に傷つけられた古い人骨とを見つけられなかったことに対して、不安を示している。ブレイクはそれらが運び去られたのだと考えた――誰が、あるいは何が、どこへ運び去ったのかは、推測することしかできなかった。しかし一番恐れていたのは自分自身にかかわることだった。ブレイクは自分の心と、遠くの尖り屋根に潜む恐ろしい存在――自分が軽率であったばかりに、窮極の黯黒《あんこく》空間から呼びだしてしまった夜の魔物――とのあいだに、ある種の不浄な関係が存在するように思っていた。自分の意志がたえずたぐり寄せられているように感じていたらしい。その頃ブレイクを訪ねた者たちは、ぼんやりと机について、渦を巻く町の煙の彼方、尖り屋根がそびえる遠くの丘を、西の窓からじっと眺めているブレイクの姿をよくおぼえているという。日記にはある種の恐ろしい夢のことや、不浄な関係が眠っているあいだに強まるということが、一本調子で書きつらねられている。ある夜、ふと目が覚めたかと思うと、服を着て家の外におり、無意識のうちに西にむかってカレッジ・ヒルをくだっている自分に気がついたという記述もある。ブレイクは尖り屋根に潜む存在が自分の居場所を知っているのだと、繰返し日記に書きとめている。  七月三十日からはじまる一週間は、ブレイクが一部精神に異常をきたした時期として、人の記憶に残っている。ブレイクは服を着ず、食事はすべて電話で注文した。訪問客がベッドのそばにある紐についてたずねると、ブレイクは、夢中歩行を防ぐために、ほどこうとしているあいだに目が覚めてしまうようなきつい結び方で、毎晩足首をしばっておかなければならないのだといった。  日記には、虚脱状態をもたらした恐ろしい経験のことが記されている。三十日の夜に床についた後、ブレイクは突然、ほとんど真闇《まやみ》に近い暗がりのなかで自分が手探りして進んでいることに気づいた。目に見えるものは、短く水平にのびる青味がかった光のかすかな筋だけだったが、強烈な悪臭が感じとれるとともに、頭上でひっそりと何かが動いているらしい奇妙な音を耳にすることができた。たえず何かにつまずいているブレイクだったが、つまずいて音をたてるたびに、頭上からそれに答えるかのような音――木と木をゆっくりこするときに発するきしみ[#「きしみ」に傍点]をともなったかすかな物音――が聞こえてくるのだった。  一度、まさぐる両手が頂部に何もない石柱にふれたあと、ブレイクはいつしか、壁に造りつけになっている梯子の段を握りしめ、火傷を負いかねない熱い突風の吹きだしてくる、さらに悪臭の強烈な領域を目指し、おぼつかない足で登りつづけた。眼前には、万華鏡で見るような非現実的な幻影がさまざまにうかび、間隔を置いて幻影のすべてが溶けこんでは、旋回する太陽と底知れない黯黒《あんこく》の存在する、広大かつ測り知れない暗澹たる深淵の姿があらわれた。ブレイクは窮極の混沌についての太古の伝説を思いだした。窮極の混沌の中心では、心をもたぬ無定形の騒がしい踊り子の群にとり巻かれ、名状しがたい前肢《まえあし》があやつる魔笛のかぼそくも単調な音色によってなだめられ、万物の王である盲目にして白痴の神アザトホースが、大の字になって寝そべっているという。  と、そのとき、外部世界からの鋭い物音によって、意識の混濁が破られ、ブレイクはいいようもない恐怖の只中に身を置いていることを知った。聞こえたのが何の音だったのかはわからない――おそらく住民がさまざまな守護聖人や、生まれ故郷のイタリアの村の聖人に呼びかけてうちあげる、フェデラル・ヒルで夏じゅう聞こえる花火のうち、時機を逸してうちあげられたものなのだろう。何にせよ、ブレイクは悲鳴をあげ、半狂乱になって梯子をおりると、自分をつつみこんだほとんど闇に近い部屋の、足をさまたげる障害物の多い床を、つまずきながらも盲滅法走った。  すぐに自分がどこにいるのかがわかると、無謀にも狭い螺旋階段を駆けおり、体をうったり、すりむいたりした。不気味な拱門が睨《ね》めつける影の領域へとのびる、蜘蛛の巣のはびこる広大な身廊を悪夢のなかでのように走り抜けた。がらくたの散らばる地下室を目が見えないままよろめきながら進み、大気と街燈の光がつつむ外の世界にはいあがると、黒ぐろとした塔のそびえる陰鬱な静まりかえった町のなか、何か語りたげな破風のならぶおどろおどろしい丘を狂ったように駆けおりた。自分の部屋のドアを目指して、けわしい東の坂道を必死に登りつづけた。  朝になって意識をとりもどしたブレイクは、服を着たまま書斎の床に横たわっていることに気づいた。全身に埃と蜘蛛の巣がこびりつき、ふしぶしに痛みやうずきがあった。鏡に顔をうつしてみると、髪がひどくこげていた。異様な悪臭が上着に染みついているようだった。はりつめた神経がぷっつり切れてしまったのはそのときだった。その後、ブレイクは部屋着に着替え、疲れはてたようにぐったりしてしまい、西の窓からじっと見つめたり、雷鳴に震えあがったり、日記に突拍子もないことを書いたりする以外、ほとんど何もしなくなった。  八月八日の真夜中近くに、ものすごい嵐が猛威をふるった。町のいたるところに繰返し稲妻が走り、驚くべき球電が二回も発生したことが報告されている。雨は滝のように沛然《はいぜん》とふりしきり、ひっきりなしの雷鳴が何千人もの市民の眠りをうばった。ブレイクは配電設備を懸念するあまり、完全に逆上してしまい、午前一時頃に電力会社へ電話をかけようとしたが、その頃にはもう、安全を考えて送電が一時的に停止されていた。日記には何もかもが記録されている――しばしば判読できなくなる、大きく、力強い文字は、狂乱と絶望が高まっていく次第と、闇のなかで記されつづけたことを告げている。  ブレイクは窓から外を見るために、家のなかを暗くしておかなければならなかったが、どうやらほとんどずっと机について、雨に濡れて輝く下町の屋根が何マイルもつづく彼方、フェデラル・ヒルであることを示す遠くの光の群を、心配げにじっと見つめていたらしい。ときおりは闇のなかでおぼつかなくも日記に書きこんだのだろう、「光を消してはならない」とか「あいつはわたしがどこにいるのか知っている」とか「わたしが破壊しなければならないのだ」とか「あいつが呼んでいるが、今度は害をうけることはないだろう」とか、断片的な文章が二ページにわたって認められる。  やがて町中の電燈が消えた。電力会社の記録によれば、午前二時十二分のことだが、ブレイクの日記には時間は記されていない。単に「光が消えた――神よ、救いたまえ」と記されているだけである。フェデラル・ヒルには、ブレイクと同様に心配そうに見まもっている者たちがいた。雨にずぶ濡れになりながらも、傘で覆った蝋燭、懐中電燈、十字架、南イタリアでよく見かける得体の知れないさまざまな護符を手にして、忌わしい教会近くの小路や広場を練り歩く行列があった。稲妻が走るたびに十字を切って喜んでいたが、嵐がますます激しくなり、稲妻の走ることが稀になって、ついにはとだえてしまうと、右手で恐怖を示す謎めいた仕草をした。吹きまさる風が蝋燭の大半を消し、おびやかすような闇がいよいよ濃くなった。誰かにたたきおこされた聖霊教会のメルルッツオ神父が、何かしら役にたちそうな祈りを唱えるため、陰鬱な広場に駆けつけた。黒ぐろとした塔のなかで騒がしい妙な音がしていることについては、もはや何の疑いもなかった。  二時三十五分におこったことに関しては、教養ある知的な若い神父の証言があるほか、群衆の様子を見るため現場に急行した、きわめて信頼のおける中央署の巡査ウィリアム・J・モノハンも証言をおこなっているし、教会が建つ高台のまわり――ことに教会正面の東側が見える場所――に集まっていた七十八名におよぶ住民の大半も証言をしている。もちろん、自然界の理法を逸脱していることが立証されるようなものは、何一つなかった。ああいう出来事をひきおこすかもしれない原因は数多くある。雑多なものを収める、巨大で、古めかしく、評判の悪い、長くうちすてられていた教会に生じた、不可解な化学作用について、確信をもってはっきりいいきれる者はいない。有毒性の蒸気、自然に発生した燃焼、長期間にわたる腐敗から生じたガスの圧力――こういった類《たぐい》のおよそ考えられる現象のどれか一つが、原因なのかもしれない。しかしもちろん、故意の大芝居という要素も完全に除外しきれるものではない。実をいえば、出来事自体は実に単純なもので、それがつづいたのは三分間にしかすぎなかった。メルルッツオ神父は几帳面な人物で、何度も腕時計に目をむけたのだった。  黒ぐろとした塔の内部から鈍く聞こえていた音が、はっきりと高まったのがはじまりだった。教会からは妙な悪臭がかすかに漂ってきていたのだが、それが強烈になり、不快なまでになった。つづいて木の裂ける音がして、東に面した教会のいかめしい正面玄関のまえに、大きな重いものが落下した。蝋燭の炎が燃えず、教会の姿は見えなかったが、その物体が地面に激突する直前、教会を見まもる人びとは、それが塔の東の窓にあった、煤にまみれる羽板であることを知った。  その直後、耐えられない悪臭が見えない高みから湧きだして、震えながら見まもる人びとの息をつまらせ、胸をむかつかせた。広場にいる群衆は恐ろしさのあまりひれふさんばかりのありさまだった。同時に、翼がはためいたかのように大気が震え、いままでに吹いたどの突風よりも強烈な突然の東風が、群衆の帽子を飛ばし、傘をもぎとった。蝋燭の光のない闇のなかでは、はっきり見えるものなど何もなかったが、上空を見あげていた何人かの者は、墨を流したような空に、空よりもなお黒い、広がりゆく大きなにじみを一瞬目にしたように思った――形をもたない煙の塊のようなものが、流星のような速度で東へ飛びたったらしい。  それだけのことだ。群衆は、恐怖とおびえと不安のために呆然《ぼうぜん》としていて、何をすべきなのか、いや何かをすべきなのかどうかさえ、考えることができなかった。何がおこったのかがわからないので、見張りをゆるめるわけにもいかなかった。一瞬の後、鳴《なり》をひそめていた稲妻が、耳を聾《ろう》せんばかりのすさまじい大音響をともなって、雨をほとばしらせる空を切り裂いたとき、群衆はいっせいに祈りの声をあげた。三十分後、雨がやみ、つづく十五分のうちに街燈がまた灯を点《とも》したので、疲れはて、ずぶ濡れになった群衆は、ほっとして家路についた。  翌朝の新聞は全般的な嵐の報告に紙面を割《さ》き、こうしたことを大きくとりあげることはなかった。フェデラル・ヒルでの出来事につづいて発生した、大きな稲妻と耳をつんざく轟音は、異様な悪臭が同様に感じられた東方遠くでは、さらにすさまじいものだったらしい。その現象が一番顕著だったのはカレッジ・ヒルの上空で、眠っていた住民の全員が轟音に目を覚まされ、当惑のあまり、いったい何がおこったのかとあれこれ考えつづけた。そのまえから目を覚ましていた人びとのうち、ごく少数の者だけが、丘の頂近くに特異な光の輝きを見たり、木々の葉をはぎとり、庭の植物を根こそぎ吹きとばしかねない、不可解な空気の急上昇に気づいたりした。突然発生した一閃《いっせん》の雷電が、どこか近くに落下したにちがいないという点では、住民の意見は一致したものの、あとで調べても落雷の痕跡はどこにも見つけられなかった。タウ・オメガ友愛会館にいたひとりの青年は、閃光がひらめく直前、空に奇怪かつ悍ましい煙の塊を見たように思ったが、この報告を確証する裏づけはない。しかしごくわずかな者たちは、落雷に先立って耐えられない悪臭が押し寄せてきたことと、東から猛烈な突風が吹き寄せてきたことについて、全員意見を同じくしている。一方、落雷のあと、一瞬焼けこげるような臭がしたことについては、さまざまな住民が証言している。  こういったことについては、もしやロバート・ブレイクの死に関係があるのではないかと考えられ、きわめて慎重に議論された。二階裏手の窓からブレイクの書斎が覗ける、サイ・デルタ会館にいた学生たちは、九日の朝、西向きの窓にぼんやりした青白い顔を認め、表情がどことなくおかしいと思った。夕方にも同じ姿勢のままでいる同じ顔を見たとき、学生たちは不安になって、ブレイクの住居に灯が点るのを待った。その後、学生たちは闇につつまれる住居の呼鈴をならし、最後には警官を呼んでドアを破った。  ブレイクの体は窓に面する机についたまま硬直しており、ブレイクの書斎に入りこんだ者たちは、ふくれあがり、どんよりした目と、ひきつった顔にまざまざと残る激しい恐怖の痕を目にしたとたん、狼狽し、胸をむかつかせて顔をそむけた。その後まもなく、検視官に随行してきた医者が死体を調べ、窓ガラスが一枚も割れていないにもかかわらず、死因が感電によるショックか、放電による神経の緊張であると報告した。すさまじい形相は完全に無視して、異常に想像力が強く、情緒が不安定な者が経験するような、底知れないショックのありそうもない結果だとはみなさなかった。医者はブレイクのそうした特性を、住居で見つけられた書物や絵画や原稿、そして机にあった日記に書きなぐられていることから推理したのだ。ブレイクは最後まで熱にうかされたように書きつづけており、先のおれた鉛筆が、痙攣して筋肉のひきつった右手に握りしめられていた。  送電がとめられてからの書きこみは、ひどく支離滅裂であるうえ、部分的にしか読めない。判読できる書きこみから、特定の調査家たちは即物的な公式見解とは大きく異なる結論をいくつかひきだしているが、そうした推測は穏健な人びとに信用される見こみがほとんどないものだった。さらにこういう想像力豊かな理論家たちの主張は、迷信深いデクスター医師の行為によって大きな痛手をうけることになった。デクスター医師は奇妙な箱と角ばった石――発見場所である窓一つない黒ぐろとした尖り屋根のなかでぼんやり輝いていた物体――を、ナラガンセット湾の一番深い海底に投げこんでしまったのだ。驚くべき痕跡を見いだして深めていった、太古の邪教についての知識により、ブレイクの度をこした想像力と精神面の不安定さが悪化したというのが、日記の最後に認められる逆上したなぐり書きに対する、最も有力な解釈である。そのなぐり書き――というよりも判読できるもののすべて――を、以下に示しておこう。   [#ここから2字下げ]  電燈はまだつかない――かれこれ五分はたったはずなのに。稲妻だけが頼りだ。ヤディスよ、稲妻を放ちつづけたまえ! ……稲妻を通して、何らかの感応力が働いているようだ……雨、雷、風が猛り狂っている……あいつがわたしの心を捕えている……  記憶が混乱している。まえに知らなかったものが見える。他の世界が、他の銀河が……暗い……稲妻が闇のように、闇が光のように……  完全な闇のなかに見えるのは本当の丘と教会であるはずがない。閃光のために網膜に映じる残像にちがいない。天よ、稲妻がやむなら、イタリア人に蝋燭をもたせ、家の外へ出させたまえ!  何を恐れているのだろう。影のつどう太古のケムで人間の姿をとりさえした、ナイアルラトホテップの化身ではないのか。記憶が甦る。わたしはおぼえている。ユゴスのこと、さらに遠いシャガイのこと、そして窮極の虚空の黯黒惑星を……  翼によって虚空をよぎる長い飛行……光のある宇宙をわたることはできない……輝くトラペゾヘドロンのうちに捕えられた思考によって再現され……燦然と輝く恐ろしい深淵を超えて放たれる……  わたしの名前はブレイクだ――ウィスコンシン州ミルウォーキーのイースト・ナップ街六二〇に家をもつロバート・ハリスン・ブレイクだ……わたしはこの惑星にいるのだ……  アザトホースよ、どうかあわれみを! 稲妻はもう走らない――恐ろしいことだ――視力ではありえない異様な感覚によって何もかもが見える――光は闇だ、闇は光だ。……丘の上にいる人びと……監視……蝋燭と護符……牧師たち……  距離感がなくなった――遠くが近く、近くが遠い。光がない――ガラスがない――あの尖り屋根が見える――あの塔が――窓が――聞こえる――ロデリック・アッシャーだ――わたしは狂ったか狂いかけている――塔のなかであいつが動きだし歩きまわっている――わたしがあいつであいつがわたしだ――外へ出たい……外へ出て諸力を一つにしなければならない……あいつはわたしがどこにいるのか知っている……  わたしはロバート・ブレイクだ。だが闇のなかに塔が見える。恐ろしい臭がする……感覚がとぎすまされている……あの塔の窓の板張りが割れて崩れていく……いあ……んがい……いぐぐ……  あいつが見える――ここへやって来る――地獄の風――巨大なにじみ――黒い翼――ヨグ=ソトホース! 救いたまえ――三つにわかれた燃えあがる眼…… [#ここで字下げ終わり]