ラヴクラフト全集〈2〉
H・P・ラヴクラフト/宇野利泰訳
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チャールズ・ウォードの奇怪な事件 The Case of Charles Dexter Ward
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5 悪夢と消散
T
それにひきつづき、奇々怪々な経験を味わって、マリナス・ビクネル・ウィレットの心は、生涯消えることのない痕跡を残すにいたった。事実、すでに若くないその容貌に、さらに十年の皺がつけくわわったのは、だれの目にも明らかなことだった。その事件はつぎのような経過を辿った。病院を出たウィレット医師とウォード氏は、すぐさま協議に移って、その結果、数個の点において意見の一致をみた。これを精神病医たちに洩らせば、嘲笑を浴びせられるのがわかっていたが、医師と父親の両者とも、セーレムの魔女事件を遡《さかのぼ》るはるか古代の招魂の秘儀、死者の魂を呼び起こす呪術が、いまなお行なわれているのを認めざるを得なかった。もちろん、いわゆる自然法則に反すること、これ以上のものはない。しかし、少なくとも生きている二人の男が――まだほかに、彼らの身近の青年がいるわけだが、これについては考えたくなかった――一六九〇年当時、あるいはその以前に活躍していた魂を完全に把握し、駆使していることは、否定できぬ事実であった。彼ら二人の怪人物が――そしてまた、チャールズ・ウォード青年が――企図している狙いは、前章に写しておいた彼らの通信文と、この事件のうえに射している過去と現在の光のうちから、明瞭に見てとることができるのだった。古い墳墓をあばいて、前時代の人々の――そのなかには、偉大な栄光にかがやいていた者も含まれているであろう――死灰をとり出し、これに生命を吹きこみ、かつて活躍した魂と知能をこの時代に復活させようと望んでいる。死体を漁《あさ》る悪鬼どもは、相互に連絡をとりあって、資材に用いる骨と灰とを、小学児童が書物を交換する冷静な計算で融通しあっている。このような方法によって、秩序ある世界が生んだすぐれた力と知能を、数世紀の塵のうちから選び出し、一人もしくは一グループの上に結集する。復活した頭脳は、ひとつ肉体に宿るか、あるいは、肉体を継次的に移し代えて永遠に存続するか、いずれにせよ、この涜神の秘法が彼らの手によって完成されているのである。たとえば、中世のイタリア人ジョヴァンニ・アルフォンソ・ボレッリが、いかに古き遺物からも、物質を形成する塩をとり出すことができ、これによって、はるか昔に死んだものを起きあがらすことが可能であると書いているが、そこにはやはり真理があるとみてよいと思う。招魂の呪文があり、鎮魂の呪文がある。この秘法が完成して、いまや、若き弟子にも教えうる段階に達した模様なのだ。ただし、どの魂を呼び起こすかには、慎重を期さねばならぬものと思われる。なんとなれば、古い墓標のしるすところは、かならずしも、そこに埋められた人物の正確な氏名を伝えているとはかぎらぬからである。
ウィレット医師とウォード氏は、結論から結論へたどるあいだ、絶えず戦慄を感じていた。幽鬼にしろ過去の声にしろ、これを墓地からと同様、俗人のあずかり知らぬ場所から呼び寄せることが可能である。ジョゼフ・カーウィンは疑いなく、多くの禁断の事物を招き寄せていた。そして、わがチャールズ・ウォードにあっては? ――この青年の場合をいかに解釈すべきか? 時空を超越した力が、ジョゼフ・カーウィンの時代から到来して、彼の心を忘れられた過去の事物へ向けさせたのは疑うべくもない。彼をうながし、それを招き寄せる方法の発見に努力させた。そして、彼がそれを見出し、駆使するにいたったことも明白である。プラハの怪人物を訪れ、トランシルヴァニアの山岳地帯に古城を尋ね、長期の滞在をしているのが証拠のひとつ。隠匿をはかった新聞記事の件と、その母親が、夜間、耳にした挙動も見過ごすには重大すぎる意味があると考えられる。その結果、チャールズはなにかを呼び出す術を学びとり、そのなにかが、招きに応じて出現したにちがいない。聖金曜日の出来事。そのときひびきわたった力づよい大声。鍵をおろした実験室の内部に、声音のちがう問答が聞こえていた事実。それらのすべてが、この推定を裏付けている。そこに突如、妖鬼じみた低音でしゃべるアレン博士が登場した。彼ははたして人間であろうか? ウォード氏にしても、電話でその無気味な声を聞いただけで、漠然とながら恐怖感に襲われたものであった。
鍵をおろした実験室のなかの声は、チャールズ・ウォードの呪文に応えて、地獄の底から匍《は》い出てきた幽鬼のものとしか考えられぬ。そのとき、洩れ聞こえた言葉に、「この三ヵ月のあいだ、血で染めておかねばならぬ」というのがあった。それがちょうど、吸血鬼の騒ぎの起こる直前ではなかったか。エズラ・ウィードンの墓地の発掘、ポートゥックストの深夜の絶叫――それはみな、過去の復讐の鬼が、涜神の座をふたたび占めようとしている証拠でないのか。別荘と顎ひげの男、そして風評、そして恐怖。チャールズの最後の狂気は、父親にも医師にも説明が困難だった。しかし、両者ともに、ジョゼフ・カーウィンの魂がいままた地上に出現して、かつての邪悪な所業の継続をはかっていると確信するにいたった。悪鬼に憑《つ》かれた男の古伝説も、あながち虚妄ではなかったようだ。そして、アレン博士がこれに関連しているのは疑いない事実である。青年の生命を脅かしているこの人物について、可能なかぎり多くの情報をつかまねばならぬ。この方面の作業は、私立探偵たちを督促して行なうとして、一方、ポートゥックスト別荘の地下に巨大な穴ぐらの存在することは、論議の余地のないところである。ウィレット医師とウォード氏は、精神病理学者たちの懐疑的態度を意識しながらも、この探険に踏みきり、二人手をあわして徹底的な捜査を行なおうと、協議一決した。そして翌日、必要な道具その他を詰めたカバンを携帯のうえ、ポートゥックスト別荘で落ちあうことを打ち合わせた。
四月六日の朝は、よく晴れていた。二人の探険家は、正十時に、別荘の玄関で落ちあった。鍵はウォード氏の手にあったので、屋内へは簡単に入りこめた。アレン博士の部屋のとり散らされた様子から、私立探偵たちが熱心な調査を行なったのがわかった。報告はまだ受けとっていないが、有力な手がかりを発見していればよいがとねがった。それはそれとして、彼ら二人の主たる作業は、地下の秘密の場所をつきとめるにあったので、ためらうことなく地下室へ降りていった。ここはすでに、若い別荘所有者の立ち会いのもとに、一度はのぞいたところであるが、いまあらためて見まわしてみても、いぜんとして当惑をおぼえるばかりだった。床にしろ、壁面にしろ、石でがっしり固めてあって、口をひらく個所があるとは見られなかった。
ウィレット医師は考えた。この別荘の建築者が、地下室をつくるにあたって、そのまた下に、二世紀以前の巨大な地下獄屋がひそんでいるのを知らなかったことは明瞭である。したがって、そこへの通路の入口は、ごく最近、ウォード青年とその仲間の手で完成されたにちがいない。そこでウィレット医師は、作業にとりかかるチャールズの位置に自分をおいてみた。しかし、この方法では、霊感らしいものが得られぬと知ると、消去法を用いることにきめた。床と壁の全面積を細分し、そのひとつひとつにあたり、疑問の余地のない部分を除去していった。そして最後に残ったのが、洗い槽を前にした小さな台石であった。これは先回訪れたときも目についたが、チャールズがいてはどうしようもなかったものだ。いま、ウォード氏と二人がかりで、渾身の力をそそぐと、その上部が、隅のひとつを軸にして、ぐるりと水平に回転した。下に、まんまるな穴があき、鉄の蓋がしてあった。それと見るや、ウォード氏は身をのり出して、鉄の蓋をひっぱった。蓋はかるがるとあがった。が、そのとたんに、氏の顔におかしな表情が浮かんだのが、ウィレット医師の目にとまった。ウォード氏はめまいがするのか、からだを前後に揺すっている。暗い穴が吹きあげる濁った空気のせいだな、と医師は察した。
つぎの瞬間、ウォード氏は失神した。医師はそのからだを支えて、床に横たえさせた。冷水を浴びせ、意識を回復させようと焦ったが、氏の反応は遅々としたものだった。不快な臭気を含む地下からの風にあてられただけとわかっていたが、医師は万一の危険をおもんぱかって、街道までタクシーを拾いに出た。そして、ウォード氏が弱々しい声で抗議するのもかまわず、邸に送りかえす手配をすすめた。そのあとウィレットは、鼻孔に消毒ガーゼを詰め、懐中電燈をとり出すと、単身、新たに見出した地下への通路を調査することに肚をきめた。腐敗した空気の悪臭も、いまはいくらかうすらいで、懐中電燈の光線が照らし出す十フィートほどの地獄の入口は円筒状のコンクリート壁で、鉄の梯子が据え付けてある。そのさきは石の階段がつづいているのだが、これは元来、現在の建物よりもやや南にあたる地点で、地上に通じていたと推定されるのだった。
U
ウィレットは実際のところ、ジョゼフ・カーウィンの古伝説が記憶のうちにあるので、悪臭の吹きあげてくる地下の洞窟へ降りていくのに、逡巡しないではいられなかった。ルーク・フェナーの書翰が報告しているあの恐怖の夜の事実が、頭にこびりついて離れずにいたからだ。しかし、この探険は、彼の使命ともいうべきものである。ウォード青年の生命をとりとめるためには、なんとしてでも奇怪な秘密を解きあかす文書を手に入れねばならぬ。そこで、書類を搬出するための大型カバンを手に、あえてこの冒険に踏みきった。
かくてウィレット医師は、その高齢にふさわしい慎重な足どりで、鉄の梯子を降りはじめた。梯子が尽きると、石をうがった階段にかわる。ぬるぬるして、ともすれば足をすべらせる。懐中電燈の光で照らし出してみるまでもなく、古い時代につくられた通路で、左右の壁には水滴がしたたり、数世紀の苔におおわれているにちがいなかった。その石段が、いつ果てるとも知れずつづいているが、螺旋状でなく、まっすぐ下降して、直角に折れ曲がるところが三個所あった。きわめて狭い幅で、二人の男がかろうじてすれちがえる程度のものである。三十段までは数えておいたが、そのあたりから、遠くかすかに、異様な物音が伝わってくるのを耳にして、その後は歩数をかぞえるのをやめざるをえなかった。
神の救いを知らぬ地獄の音。暗く沈んだ自然の憤りが、低い調子でひびいてくる。聞く者をして、奈落の底へひき入れずにおかぬ嘆きの声。これを希望を失った怒号、精神を喪《うしな》った悲哀、等等と呼ぶときは、そのもっとも本質的な醜悪さ、魂を病ましめる倍音を聞き落とすことになろう。ウォード青年を病院へ移すために訪れた日、青年が顔を出すのに手間どった理由は、この声に聞きいっていたからではなかろうか。とにもかくにも、ウィレット医師がその長い生涯で耳にした物音のうち、これがもっともショッキングなものであったことはいうまでもない。そしてその声が、石段を降りるあいだ、どことも知れぬあたりから、絶えることなくひびいてくるのだった。
医師はようやく石段の下に達した。懐中電燈の光を周囲に投げてみると、そこはかなり広いホール状の場所で、天井が高く、弓形をしたそれの中心部まで、十四フィートはゆうにあろう。床には大きな板石が敷きつめてあって、壁面は手のこんだ仕上げをほどこした石造である。そこから幅十フィートから十二フィートほどの通路が伸び、さきは完全な闇に沈んでいるので、どこまでつづいているのか、見当もつかなかった。通路の壁に、数知れぬ拱路が暗い口をあけ、そのいくつかには、植民地時代様式の六枚板の扉が嵌めこんであるが、ほとんどのものは、ただ暗黒の入口だった。
悪臭と正体の知れぬ声に誘発された恐怖に打ち勝って、ウィレット老医師はこれらの拱路を、ひとつずつ、探険しはじめた。どの入口をくぐっても、そのさきは、石造の天井を持った部屋になっている。どれもみな中ぐらいの広さで、邪悪な用途にあてられていたのが明らかだった。それぞれに、暖炉が据えつけてあり、煙突の上部がどこへ通じ、どのような構造で煙を処理しているかは、工学上の興味ある問題だった。備えつけてある器具(器具らしい品というべきか)にしても、かつて見たこともない形状のものばかりで、それが百五十年にわたる埃の堆積と蜘蛛の巣のあいだから、ぼうっと浮き出ているところは、なんともいえず奇怪な眺めであった。しかもそれが、口碑《こうひ》に伝わる襲撃によって、破壊されたままに残されている。大部分の部屋が、新しく足を踏み入れた形跡がなく、ジョゼフ・カーウィンが実験に従事した時代の状態が、そのまま廃物化した姿とみるのが至当だった。そして最後に、ようやく、近代風の調度を備えた小室に行きあたった。これだけは、最近まで使用されていたとみてまちがいなかった。石油ストーブ、書棚、テーブル、椅子、キャビネット、デスク、どれもみなわれわれの時代の品であり、デスクの上には、新旧さまざまな書類が積んであった。燭台と石油ランプが数個所に据えてある。そして、マッチ箱が一個。これはまるで、ウィレットの使用を待ち受けているようであった。医師はさっそく、マッチをすった。
ゆたかな輝きがみなぎり、部屋の内部が明るく浮かびあがると、チャールズ・ウォードの書斎と実験室そっくりのものになった。事実、調度品のほとんどが、プロスペクト街のウォード氏邸から運んできてあり、ウィレットの見馴れた品も少なくなく、いっきに親密感が湧きあがることとなり、さしも不快な号泣の声も、医師の念頭から半ば消え去ったかたちだったが、事実は例の不快な号泣が、石段を降りているときよりも、はるかに明瞭に聞きとれていたのだ。
この部屋をつきとめて、ウィレット医師は、当初の計画どおりの仕事にとりかかった。その目的は、重要性のありそうな文書を探し出し、カバンに詰めて運び出すことにあった。とくに、オルニー・コートのカーウィンの旧居で、壁絵のうしろからチャールズが発見した邪悪な記録を確保しておきたかった。しかし、捜査を開始するや、この目的を達するのには、途方もない時間と努力を必要とすることを認識させられた。なぜかというに、デスクの上に積みあげてある文書の束のひとつひとつが、怪奇な文字をつらねた異様に古体な文章の連続であり、これを解読し、整理するには、数ヵ月はおろか、数年を費やす仕事量とわかったからである。ただ、そのひとつに、プラハおよびラクスからの書翰を大きな束にしたものがあって、筆跡からして、オーンとハッチンソンが書いたものと見てとれた。そこで、その全部をカバンにおさめ、持ち帰ることで満足した。
しかし、ようやく最後に、やはりウォード邸で見かけたことのあるマホガニー製のキャビネットを発見した。鍵を下ろしてあるのは、重要書類をおさめてあるにちがいない。こじあけてみると、はたしてそこに、ウィレット医師の希望するカーウィン自筆の古文書を見出すことができた。数年以前、チャールズがいやいやながら瞥見させてくれたので、医師の記憶にはっきり残っていたものである。青年がこれを、発見当時のまま、周到な配慮のもとに一括して保管しておいたことは明白で、壁の解体作業に従事した職人二名の記憶にただしておいた標題に誤りなく、オーンとハッチンソンに宛てたものと解読の鍵を含む暗号を記した紙片を除けば、全部の文書が現存していた。喜んだウィレット医師は、これをそっくりカバンに移しかえ、さらに休むことなく捜査をすすめた。ウォード青年の現状が大きな賭けの下におかれていることから、つぎの調査の対象を、もっぱら近時の問題に関する書類に限定した。しかし、これがまた、予想外におびただしい数量で、探求は同様に難渋したが、そのうちに医師は、意外な現象に気がついた。それは、チャールズ本来の筆跡によるものが異常なほど少ないことで、ことに、最近二ヵ月以内に書かれたものは、皆無といってよいほどであった。これに反して、記号と数式、古い時代の覚書、哲学上の論説の類は、文字どおり一大王国といえるほどの分量が存在している。しかも奇怪なことに、その全部がジョゼフ・カーウィンの古文書とまったくおなじ難解な書体でしたためてあるのに、日付が疑いなく現代のものになっている点であった。思うにこれは、チャールズ自身がなにかの意図から、故意に百五十年以前に生きていた呪術師の筆跡を入念に模倣したものであろうが、驚くほどの完璧さで書きあげてあるのだった。そのかわり、アレンの筆跡と思われるものは一通も現われてこなかった。もしかりに、アレン博士なる人物が指導者の立場で出現したとの推測に誤りがなければ、博士はみずからペンを執《と》ることなく、もっぱらウォード青年に強《し》いて、筆記者の役目をつとめさせたものと思われる。
これらの新しい記録文書をあらためるうちに、ひとつの謎の記号(より精確にいえば、一対の記号)が反復して出現するので、ウィレット医師は調査の半ばを終えるまでに、その全文を覚えこんでしまった。並列して書かれた二行の文字で、左行の上に『巨竜の頭』と呼ばれる古代の記号を、右行の上には、これに対応する『巨竜の尾』を書きつけてあった。この両者は、それぞれ、占星術における『昇勢の宮』と『降勢の宮』を示すものである。読者のために、その全文を精確に写しとっておく。
〈挿絵:左『巨竜の頭』と右『巨竜の尾』〉
医師は、これを見るうちに、最後の一行と、どうやら何者かの名前らしきヨグ・ソトトなる言葉を除けば、右行の文字は左行のそれを、音節ごとに転置してあるにすぎぬのを知った。しかも、この異様なる名辞は、綴り字に多少の異同はあるものの、奇怪なこの事件に関連した古文書に頻繁に現われていたはずである。医師は声に出して読んでみて、その奇妙な音調が頭脳の底のどこかに、不快な記憶となって潜在しているのを感じとった。そのときはなんであるかを知りかねたが、後刻、思いあたることがあった。これは疑いなく、前年の聖金曜日に起きた忌わしい出来事にからんで、耳にしたものであったのだ。
この部屋の捜査でもやはりおなじで、目につく書類に繰り返しあらわれるので、ウィレットはその意味を理解せぬままに、いつかこの記号を口ずさんでいた。そしてけっきょく、彼の理解しうる範囲で、現状に利用可能な文書をいちおう確保したように考えた。もちろん、懐疑心のつよい精神病医たちを、これだけの資料で納得させるのは困難であろうが、それには日をあらためて、彼らの全員をひきつれ、もう一度、組織的な調査を行なえばよろしい。きょうのところは、隠された実験室の所在をつきとめる仕事が残っている。かく考えた老医師は、石油ランプのともったその部屋にカバンをおいて、ふたたび暗黒の通路にひき返していった。そこの高い天井では、休みなくつづく悲痛な号泣の声が、鈍い、不快なこだまをひびかせている。
またも老医師は、奥にならぶ拱路をひとつひとつ確かめていったが、なかの小室はどれもみな、崩れかかった木箱と無気味な色を漂わせた鉛の柩で満たされていた。一半世紀以前の襲撃隊も、これらの物を目のまえにして、驚きおののいたにちがいなかった。その内容物が、当時、いずこともなく姿を消した黒人奴隷と水夫たち、そしてまた、新旧両世界のいたる土地であばかれていた墳墓の主であることは推測するまでもなく、そのおびただしい数量からして、ジョゼフ・カーウィンの行動範囲が想像以上に大規模であったのを知るのだった。しかし、ウィレットはこれについては考えぬことにきめて、さらに通路の奥へと足を伸ばした。一度、右手の壁がひらけて、大きな石の階段が現われた。彼の降りてきた石段が、傾斜屋根を持つ農場母屋からのものであるとしたら、この第二の石段は、高い個所に細長い割れ目めいた窓をそなえた付属の石造建物へ通じていたものと考えられる。
さらに奥にすすむと、突然、前方の壁が崩れ落ちている個所に到達して、同時に、悪臭と号泣がいちだんとはげしくなった。そこは非常に広いホールになっていて、懐中電燈をかかげても光線が奥まで届かぬ規模であり、ところどころに頑丈な石柱が立ち、高い天井を支えている。
中心部と思われるあたりに、イギリスのウィルトシャーにある石器時代の遺物といわれる|巨石柱の集落《ストーンヘンジ》に似て、柱が二重環列を描いて建っているのを発見した。その中央に、三段のステップをそなえ、奇怪な彫刻をほどこした祭壇がしつらえてある。老医師は歩みよって、懐中電燈の光で、彫刻をあらためてみた。しかし、それをひと目見るや、あまりにも醜悪なものの姿が写し出されているのに、思わず慄然とした。それでいて、なおも目を近づけ、精細に観察せずにはいられぬものがあった。壇の上部は黒いしみにおおわれて、表面の色が変わり、ところどころで細い糸となり、側面にしたたり落ちた痕を見せている。
つづいて彼は、このホールの向う端と思われる個所まで足を運んだ。そこでは、壁が巨大な半円を形づくり、その壁面に、無数といえるほどの漆黒の穴が口をあけていた。どれもみな、鉄の格子が嵌《は》めてあり、懐中電燈の光を浴びせると、なかが奥行きの浅い小室になっていた。背後の壁から石が突き出て、そこに鉄鎖が垂れ下がっているのは、囚人の手首足首をつなぐためであったのだろう。しかし、いまはどの部屋も完全な空《から》だった。それでいて、なかから異様な臭気と無気味な呻《うめ》き声がながれてくるような気がする。事実、ここでのそれは、以前よりさらに烈しく、しかもときどきは、足を踏み鳴らすような物音さえ聞きとれるのだった。
V
石柱に天井を支えられたこの広大なホールでは、これまで辿ってきたどの場所よりも、鼻をつく悪臭と無気味な号泣がいっそう鋭く感じられて、ウィレット老医師の注意力を完全にひきつけた。それが床下、はるか下方のあたりから伝わってくるのは明白だった。秘密にみちた暗黒の世界が、さらにこの底深く存在しているのか。ウィレット医師は懐中電燈の光を、石だたみの床にあててみた。石だたみといっても、床石を不規則にならべただけで、石と石との間隔はさまざまだった。そのあいだに、いとも無秩序にいくつかの平板石が顔を出していて、そのどれにも、小さな穴が数多くうがたれている。梯子がひとつ、投げ出してあった。それと見た老医師が歩みよると、例の不快な臭気が、とりわけて大量にこの梯子にまつわりついていて、あらゆる物体に沁みこまんばかりの勢いだった。そこで始めて気づいたのだが、物音と臭気の双方とも、出所は平板石にうがたれた穴にあったのだ。さてはこの自然石が揚げ蓋の役目をつとめ、その下の底深くに恐怖の領域がひろがっていたのか、老医師は石のひとつのそばにひざまずいて、両手で動かそうと試みた。極度に困難な作業であったが、推測どおり、わずかながらも移動しはじめた。そして同時に、その下から、いちだんと高い調子で、悲痛の呻《うめ》き声が聞こえてきた。恐怖をおぼえながらも、ウィレットは手を休めず、巨大な平板石を移動させる作業をつづけた。そしてついに、名状すべからざる悪臭の立ち昇ってくるなかに、平板石をとりのぞくことに成功した。だが、口をあけた暗黒の空間、真四角な竪坑内に、懐中電燈の光線をそそぎこんだ刹那《せつな》、老医師は強烈なめまいに襲われた。
ウィレット医師の所期の目的が、この地下の深淵にひそむ窮極的な秘密の根源をつきとめることにあったとしたら、その希望は完遂不能のものと定まっていた。悪臭と悲しげな呻き声が最高潮に達していたものの、目のまえにあるのは、上部を煉瓦でたたんだ直径一ヤード半ほどの垂直の坑で、梯子その他、降りてゆくための道具をまったく欠いていた。懐中電燈の光をあてると、泣き声が凄《すさ》まじい叫びに変わった。それと同時に、よじ登れるわけもない垂直な壁を匍《は》いあがろうとし、足をすべらして転落する響きが聞こえだした。医師は身慄いした。想像するだけで慄えおののかずにいられぬことだが、地下の深淵、竪坑の底に、なにか生き物がうごめいている。しかし、彼は勇気を奮いおこして、坑の入口に身体を伸ばし、腕いっぱい懐中電燈をつき出して、うごめいているものの正体を見きわめようとした。最初はなにも見えなかった。ぬらぬらした苔におおわれた煉瓦の壁が、暗黒と不潔、毒気のみなぎる奈落までつづくかと見るばかりだったが、目が馴れるにつれて、彼が身を横たえている石床の下、二十フィートないし二十五フィートにおよぶ竪坑の底に、多数の黒いものが、狂暴に、ぶざまに、荒れくるい、跳びはねているのを見た。彼の手のなかで、懐中電燈がはげしく揺れた。二度と見たくないもの! この坑の底の暗闇のなかに、たしかに生き物が幽閉されている。医師たちがウォード青年をつれ去ってから、すでにひと月を経過しているが、その間、食べるものもあてがわれず、飢えるがままに棄ておかれている。しかもこれは、監禁されているものの一部にすぎない。見まわすまでもなく、高い個所に円天井を持つこの地下の大ホールには、その床いっぱいに、穴をうがった平板石が散在している。それを蓋にして、その下の竪坑の底に、異様な生き物が多数うごめいている。そうだとしたら、その全数は測り知れぬものがある。その正体がなんであるにしても、主人に棄て去られてから数週間を、横になることもできぬ狭隘な場所にうずくまり、泣き声をあげ、食糧を待ち、ときに、弱々しく跳びはねていたものと思われる。
マリナス・ビクネル・ウィレットは、二度と目をやることに心が痛んだ。外科医であり、解剖室のヴェテランをもって任じているのだが、いまはその力を失って、かつての彼とは別個の人物に変わっていた。醜悪な生き物をちらっと見ただけのことが、こうまで激しく心を動揺させるとは、常識的には考えられぬところである。おそらく、ある種の実体の外貌には、象徴というか暗示というか、感受性のつよい思索家の観念に強烈な作用をおよぼし、通常人の目に映る事物の背後にひそむ暗黒世界との関連性、名辞をもって表現しがたい真実の姿を示唆する力がそなわっているのであろう。この場におけるウィレットも、二度目に醜悪なものに目をやった瞬間、ウエイト博士の病院に収容されている男とまったく同様の状態になっていた。いまは完全な狂人である。筋肉の力も、神経の協力も失われて、麻痺同然の手から、懐中電燈がすべり落ちた。つづいて彼は悲鳴をあげた。叫び、叫び、叫びつづけた。恐怖の叫び。知人がそれを聞いたところで、彼の声とは気のつくよしもない叫び。立ちあがる力もなく、絶望的なおもいで、じめじめした敷石の上を匍《は》い、ころがり、彼の狂気の叫びに応えて、号泣と悲鳴がいちだんと大きく聞こえてくる地獄の穴から、少しもはやく遠ざかろうと、焦りに焦った。床石の面の粗さに手の皮膚をすりむき、立ち並ぶ石柱にいくどとなく頭をぶつけて額を傷つけたが、彼はなお、必死で匍《は》いつづけた。
しかし、そのような状況のうちにも、医師はようやく分別心をとりもどして、長く尾を引く号泣から耳をふさぐことができた。号泣そのものも、いまはすすり泣き程度の声に鎮まった。といっても、生涯忘れ去ることのできぬ記憶に押しひしがれ、全身汗みどろ、光を確保する手段を絶たれ、闇と恐怖の地下洞窟のうちに、医師は気力のすべてを失うにいたった。脚下では、醜悪怪奇な生き物が、無数といってよいほどうごめいている。しかも、竪坑をふさぐ石の蓋のひとつは、彼自身の手でとりのけてある。あのぬるぬるした壁面をよじ登ってこられるものでないのを知りながら、なおかつ彼は、どこかにかくされた足場があるのではないかと、怖れおののかずにはいられなかった。
醜悪異様な物の正体は、医師にももちろん不明であった。しかし、このホール内の祭壇に彫りつけてある怪奇な姿と、どこか似かよったところがあって、しかもそれが生きている。自然がいかに気まぐれであるにしても、これほど醜悪な形状の物を創造するとは考えられぬ。明らかにこれは未完成、創り損ねた物とみるべきである。その欠陥たるや言語に絶したもので、プロポーションの異常なこと、何人《なんぴと》の筆をもっても描き出しうるものでなかった。ウィレット医師は、つぎのように考えることで満足した。この怪奇な姿は、ウォードが不完全な塩を素材に呼び出した結果であり、それを彼が、もっぱら奴隷としての用途、ないしは祭儀のための目的にそなえて、保存しておいたにちがいないと。それにもし、なんの意味もないとしたら、あのような怪奇な姿が呪われた祭壇の石に彫りつけてあるとは考えられぬ。しかもそれが、石に刻まれたもののうち、最悪の姿でなかった。より醜悪な彫刻があり、それとおなじ醜悪な物が、ほかの竪坑の底で号泣をつづけているのではなかろうか。事実、医師がとりのぞいた石の蓋は、数十と存在するうちのひとつにすぎなかった。そのときの医師の心に浮かんだ観念は、ずっと以前に目にしたことのあるカーウィン資料の一節だった。忌わしき悪魔の使徒に宛てて、ジェディダイアことシモン・オーンが書き送り、没収にあった書翰のうちに、つぎのような文句があった。
[#ここから2字下げ]
『事実、われわれの蒐《あつ》め得たところが一部分にすぎぬこともあって、Hが呼び起こせし物は、生気こそあるにせよ、醜悪無残な姿にすぎぬ』
[#ここで字下げ終わり]
このイメージと入れ替えるというより、むしろ恐怖心をいっそう駆り立てるように、ウィレット老医師の心に、またひとつの回想が浮かんだ。いまに残る一半世紀以前の風評。カーウィン農場襲撃事件があって一週間後、村はずれの野原に発見された異様な焼死体のことである。医師がチャールズ・ウォードの口から聞いたところによると、ポートゥックスト村のスローカム老人が、祖父から聞いた話だといって、この焼死体についてつぎのように語ったという――焼けただれて、正体もわからなくなってはいたが、明らかに人間の死体でなく、そしてまた、ポートゥックストの村人たちがかつて見聞したどのような獣類にも属していなかった、と。
医師が、あちこちによろめき、あるいは、瘴気《しょうき》みなぎる石の床にうずくまるあいだ、その頭脳の内部には、オーン書翰の一節と老農夫の言葉が唸りつづけていた。なんとかこれを追いはらわんものと、神への祈りを繰り返すうちに、どうやらそれも、T・S・エリオット氏の〈荒地〉を思わせる連想のごった煮に吸収され、つい数時間まえ、ウォードの地下書斎内に発見した文書に繰り返しあらわれていた並列二行の呪文に心を移すことができた。その呪文を唱して、イ、アイ、ング、ンガー/ヨグ・ソトトの行から最後の所のズローにいたるまでに、ようやく平静をとりもどした。それからは、よろめきながらも立ちあがることができ、恐怖のあまり懐中電燈を失ったことを悔み、うそ寒い空気がねばりつく漆黒の闇のなかに、少しでも光らしいものが見られぬかと、必死のおもいで周囲を見まわすのだった。見出せぬことは承知していた。それでいて、探し求めずにはいられなかった。医師は眸をこらして、書斎に残してきた燭台の火が、わずかなりとも反映してくれぬものかと、あらゆる方向に視線を投げつづけた。うれしいことに、しばらくするうちに、遠くかすかに、ほんのりあかるみが射しているような感じを受けた。なにはともあれ、少しでも近づいてみることだと、彼は即座に四つん這いの格好で、その方向へすすみだした。悪臭と悲嘆のさなかで、数知れぬ巨大な石柱と衝突せぬよう、思わぬ個所に口をあけているかも知れぬ恐怖の坑に転落せぬよう、極度の注意をはらって、前方を手で探りつつ移動をつづけた。
一度、指に触れたものがある。感触で悪魔の祭壇への階段と知って、そうけ立つおもいで進路を転じた。しかし、すぐそのあと、彼自身が石の蓋を動かした竪坑の口が待ちかまえていて、平板石に行きあたった。いうまでもなく、彼の警戒心は最高度に高まった。だが、用心の甲斐あって、恐怖の深淵に転げ落ちることもなく、そこから手を伸ばして、彼を坑へひきずりこむ異形の者が現われてくるわけでもなかった。坑の底の物はどうなったのか、いまは泣き声を立てず、うごめく気配も聞きとれなかった。さきほど懐中電燈をとり落としはしたが、あのような品を噛み砕くほど、彼らの歯は強靱なのであろうか。噛み砕いたにしても、食糧の代用になるわけでもなかろうに。
その後も、いくどとなく新しい平板石に指が触れ、そのつど、ウィレットは慄然とした。そして、その上を匍ってすぎるとき、下からの呻き声が大きくなることもあったが、ほとんどの場合、なんの変化も生じることがなかった。彼の動きが無音にちかい状態であったからである。匍匐《ほふく》しての行進のあいだに、目標である前方の輝きが、目に見えて小さくなっていった。残してきた蝋燭とランプの火が、ひとつずつ燃えつきているのであろう。いずれは全部が燃えつきるはずだ。そのときは、マッチも持たぬ彼は、完全な闇のなかに目標を失い、地下の迷宮内を永遠にさまよいつづけねばならぬ。それを考えると、匍行をやめ、立ちあがって走りだしたい気持に駆られるのだった。いまならば、走りだすこともできる。口をあけている竪坑のそばは通りすぎたからである。医師は知っていた。あの火が消えれば、彼が地下の探険からもどらぬのに驚いたウォード氏が捜索隊を派遣してくれたにしても、救出される望みは絶たれたも同然である、しかし、やがては彼も、ひろびろした大ホールから、最初たどってきた狭い通路内へはいりこむことができた。ここまできて、目指す輝きが、右手の扉から洩れているものであるのが見てとれた。あとはわずかの時間でその扉に達し、老医師はふたたび、ウォード青年の秘密の書斎のうちに立つことになった。安堵感に、われ知らず身体が震《ふる》え、無事に現世につれもどしてくれたランプの最後の輝きを、いつまでも見守っているのだった。
W
部屋へはいるや、医師はなによりさきに、燃えつきようとしている何個かのランプに油を注ぎ足した。最初にこの部屋の調査をしたとき、補給用の灯油罐に目をつけておいたのだ。室内はたちまち明るくなった。つぎに医師は、第二の探険にそなえて、角灯の所在を捜しにかかった。暗黒のうちに閉じこめられた恐怖の経験で、疲労が倍加し、困憊《こんぱい》の域に達していたが、彼はあくまでも、所期の目的を完遂せずにはおかぬ決心だった。いま一度、徹底的な捜査を繰り返し、この奇怪な事件の真相を知るために、一枚の床石もなおざりにすることなく、チャールズ・ウォードの狂気の背後にひそむ秘密を摘発してみせる覚悟であった。角灯がみつからぬので、その代用に、小型のランプを選んだ。そのほか、蝋燭とマッチをポケットに詰め、燈油の一ガロン罐を携帯することにした。悪魔の祭壇と邪悪の竪坑にみちた恐怖の大ホールのさきにかくされた実験室を捜し出すのが、第二の探険の目的であるが、これに成功したさい、その部屋の照明器具に石油の補給を行なうための用意であった。再度、あの大ホールを横断するには、超人的な勇気を必要とする。しかし、これが断行せねばならぬ仕事であるのを、彼は知っていた。さいわい、怖ろしき悪魔の祭壇と石の蓋をとり除いた竪坑とは、大ホールを区切る向う側の壁の近くにあり、つぎの捜査の対象である謎の拱路に行きつくまでは、なんら問題がなくてすむ。
かくてウィレット医師は、あえてふたたび、悪臭みなぎり悲痛な泣き声の聞こえる巨大なホールへひっ返した。悪魔の祭壇と恐怖の竪坑から目を避けるため、わざとランプの芯を小さくした。問題の拱路にはいりこんでみると、例によって扉が左右につらなっているが、どの扉を開いても、なかはおなじような小部屋で、あるものは調度もなにもないまったくの空室だが、あるものは貯蔵室に使用されていた形跡がある。後者のいくつかには、いまなお異様な物資が積みあげてあって、なかに、梱包の箱が腐って崩れ、おびただしい衣服の山を見ることができた。それが誤りなく、一半世紀以前の時代風俗なのを知って、ウィレット医師は身慄いした。現代風俗の服装品を集積してある部屋もあった。ここのそれは、着用する者の体躯に合わせてか、サイズ別に分類した山が並んでいる。しかし、医師の嫌悪感をもっともさそったのは、所々に据えてある大樽で、どんな液体をたたえているのか知らぬが、表面をおおう被膜が、いいようもなく不快だった。そしてまた、これにも負けずいやらしいのは、気味のわるい形をした鉛の鉢である。中身はなくなっているが、最後の滓がこびりついて、異臭のただよう洞窟内のどこよりも、胸をむかつかせる臭気を放っている。この拱路の途中から、似たような通路がわかれていて、ここにもやはり、多くの扉がつづいていた。
とりあえず、この通路を調査することにして、扉を三つあけてみたが、なかは中位の広さを持つ部屋で、重要性があると思われる品は見当たらなかった。最後に、格段に大きな長方形の部屋をみつけた。手ごろな大きさのタンク、テーブル、暖炉、その他、現代風の調度と、器具をそろえ、壁いっぱいにつづく棚のうえに、壺と瓶とが並べてある。これこそ、長いあいだ尋ねあぐんでいたチャールズ・ウォードの実験室であり、しかもウォードのまえには、ジョゼフ・カーウィンがおなじ用途に使用していたものに相違なかった。
この部屋には、ランプが三個おいてあった。どれも、油がいっぱいに満たしてあり、すぐにでも使用できる状態なのだ。ウィレット医師はそれをともして、室内を見わたし、什器類に鋭い興味の目を向けた。棚のうえに、定量分析用の試薬の壜が多数おいてあるのを見て、ウォード青年の関心が、もっぱら有機化学の一部門にあるのを知った。しかし、これだけの品では、その研究の対象を具体的に確かめるまでにはいたらなかった。それにまた、底気味わるい解剖台が備えつけてあるので、医師の判断はますます混乱した。要するに、科学上の装置と備品からでは、実際的な捜査目的は達成されなかったといえるのである。
散在した書物のあいだから、ぼろぼろになった古い紙片を発見した。これがボレルス文書の写しで、興味あることに、百五十年以前、善良なるメリット氏がカーウィン農場を訪問したさい、ひどく動揺させられたのとまったく同じ個所に、下線が引いてあるのだった。そのときメリット氏が見たカーウィンの自筆になる写しは、歴史に残る襲撃の夜に、カーウィンの秘密書斎内で、焼失したにちがいないのだが。
この実験室には、入口の扉のほか、扉が三つあって、それぞれ奥に通路がひらけているのが、ちらっと見ただけでも明らかだった。医師はそれを順次に踏査した。そのうちの二つは小さな貯蔵室に通じていて、ここでまず目をひいたのは、おびただしく収容してある柩だった。医師が注意ぶかくあらためると、破損の程度からして、各時代を網羅しているものであるのがわかった。蓋の上に死者の氏名をしるした金属板を打ちつけてあるが、読みとれる文字もあるし、解読不可能のものもある。読みとれるものの二、三を、医師ははげしく揺すってみた。そしてまた、この部屋にも、服装品が多数貯えてあった。それに、厳重な釘づけにした真新しい箱がいくつか。しかし、医師はいまのところ、そこに足をとめて、内容をあらためるまでの気持にはなれなかった。それ以上に注意をひく器具が数多くあって、それを彼は、ジョゼフ・カーウィンの実験装置の一部と推定した。おそらくは襲撃隊によるものであろうが、破壊の程度がいちじるしかった。しかし、それでもなお、その残存部分を見ただけで、ジョージ王朝時代の化学実験に使用された品であるのが見てとれた。
第三の拱路の行きつくさきは、想像以上に広大な部屋で、壁全体に何段かの棚が設けてあった。中央においたテーブルに、ランプが二個載せてあるので、ウィレット医師はこれに火をともして、その光のうちに、部屋をとり巻く棚に目をやった。上の段の一部だけがなにもおかないであるが、そのほかの場所には、異様な形をした小さな鉛の壺がずらり並んでいた。これにも二種類あって、ひとつの種類は長円筒形で、把手をそなえず、古代ギリシャ人がレキトスと呼んで埋葬儀式に用いた香膏壺、いまひとつは把手つきの葡萄酒入れ、やはりギリシャでファレロンと呼ばれていた壺である。どれもみな、金属製の栓をして、表面に薄く、奇怪な物の姿が浮き出ている。医師も即座に見てとったことだが、二種類の壺は非常に厳密に区別してあった。一方の壁の棚には、レキトス壺ばかりを並べ、〈クストデス〉とラテン語をしるした大きな板がかけてある。向かいあった壁の棚がファレロン酒壺の列で、その上の板には、〈マテリア〉とおなじくラテン語が読みとれる。最上段の空《から》と思われるものを除けば、どの壺にもボール紙の番号札がつけてあって、これはおそらく、目録の記載に対応するのであろう。その目録もいずれは探し出してみせると、ウィレット老医師は心に誓った。最初は、みごとに並んだ壺の列の全体に気をとられ、医師は見わたして盛観だと考えたが、任意に一個ずつ、双方の棚からぬきとって、内容を調べてみると、どちらの壺にも、同種の物質のいたって少量がはいっていた。それは埃のように微細な粉末で、目方は非常に軽く、濃淡はさまざまだが、いずれも鈍い灰色である。色調だけが唯一の差別点で、これすら明確に排列する方法がなく、レキトス壺の内容をファレロン壺のそれと見分けることは不可能だった。並べてはじめて、灰青色と淡紅色の識別が可能な程度だが、しかし、ファレロン壺の内容物がレキトス壺のうちに、正確に対応する相手を持っていることはじゅうぶんに予想された。粉末全体についての共通した特徴は、粘着性をまったく欠いていることで、ウィレット医師が試みに、そのひとつを傾けると、掌の上にさらさらとながれ出た。それをまたもとの壺にもどしたが、掌にはなにも残らなかった。
この二種の壺にしるされた文字の意味が老医師を当惑させた。なにかの化学薬品であることは疑いないのだが、最前見かけた本来の実験室の棚におかれたガラス壜の内容と、厳密に区別してあるのが明瞭で、その理由はどこにあるのか? 〈クストデス〉と〈マテリア〉。このラテン語は、それぞれ、〈護衛〉と〈資材〉を意味するものだ。なんのことかと怪しむうちに、医師の頭にひらめくものがあった。護衛なる文字を、この怪奇な事件に関連して目にした記憶がある。忘れもしない、エドワード・ハッチンソンという男から、アレン博士へ宛てた手紙の一節に、つぎのような文句を読んだ。「多くの護衛者をその本来の形状にて常備し、費用倒れの愚をおかす必要のなきこと、そして危急のさいは、いかほどなりとも創り出し得たりしこと、貴兄ら二人の知らるるとおりである、うんぬん」あの一節のいうところが、この部屋の壺の中身を指しているのであろうか? ハッチンソンの手紙を読んだときは、深くも考えずにすごした文句だが、思いもよらぬ重大な意味があったのだ。そこまで考えて、またひとつ、思いあたることがあった。ウォード青年の研究の初期、彼がまだ秘密主義におちいらず、調査の結果を語って聞かせた当時、エリエイザー・スミスの日記について述べたことがある。そこには、スミスがウィードンと共同して、カーウィン農場の探査にあたった経過が記してあって、その怖ろしい記録のうちに、ジョゼフ・カーウィンなる悪魔の使徒が、本拠を完全に地下に移す以前に、農場母屋の窓の外で洩れ聞いた会話に言及している。そのうち、スミスとウィードンが耳にしたと主張しているカーウィンの言葉の一部は、捕虜による護衛[#「捕虜による護衛」に傍点]と解するのが正しかったようだ。その護衛者なるものは、ハッチンソンまたはその化身の筆になる手紙によれば、本来の形状で常備されていなかったとある。してみれば、現時のアレン博士も、それを本来の姿でなく保存しているものと考えられる。そして、本来の姿でないとすれば、どのような形状であろうか? 〈塩〉だ! 〈塩〉をおいて、なにが考えられよう。彼ら悪魔の使徒の仲間が、全力をそそいで人間の死体ないし骸骨を還元しようと努めている〈塩〉!
古代ギリシャの香膏壺《レキトス》の中身がそれなのだ。邪教の祭儀の奇怪な結実。このような粉末に変えて、永遠の服従下におき、その主人である悪魔の使徒に危急がせまれば、地獄の呪文によって元来の姿に復帰させ、主人の防護にあたらせるのであろう。ウィレット医師は、この忌わしい粉末を、両の掌にながしたことを思いかえし、身慄いすると同時に、怖ろしい棚の上から、彼ら無数の哨兵たちが見守っているのを知って、この洞窟内から逃げだしたい衝動に駆られるのだった。つぎにまた、反対側の壁に並んでいる酒壺《ファレロン》――〈資材〉について考えた。これもやはり、いわゆる〈塩〉であるが、護衛兵の塩でないとしたら、なんの塩であろうか? おそらくここには、各時代の偉大なる思索家の遺骸が、少なくともその半数は集められているのでなかろうか。全世界にわたって、その墳墓をあばき、安らかに眠っていると信じられている遺骸を奪い、これを塩にかえ、その知能を汲みつくし、彼ら狂人どもの邪悪な目的に利用しているのでないか。かく考えてはじめて、あわれなチャールズ・ウォードがその最後の手紙に記したところが理解できる。「あらゆる文明、すべての自然法則、そしておそらくは、太陽系と宇宙全体の運命」にかかわるもの――そしてマリナス・ビクネル・ウィレットは、その粉末を両の掌でもてあそんでいたのだ!
そのあと医師は、部屋のいちばん奥の個所に、小さな扉があるのに気づいた。気持を落ち着けて、歩みよってみると、その上に簡単な記号が彫りつけてある。簡単な記号とはいえ、それを見るや、医師は理由不明の精神的不安に襲われた。かの病める青年が、これとおなじ記号を紙に描いて、その邪悪な意味のいくつかを告げたことがある。それは眠りの底の暗黒の深淵を示す記号。黄昏《たそがれ》の光のうちに聳え立つ黒い巨塔の拱路の上に、夢想者たちがながめやるもの――友人ランドルフ・カーターがその威力について語ったことを想い出して、ウィレットの不快感はいよいよ高まった。しかし、それも一瞬のことで、悪臭のみなぎる空気のうちに、別種の毒々しい臭気を嗅ぐと、この不快な記号も医師の念頭から消え去った。新しい臭気は獣類のものというより、化学薬品のそれに近く、明らかに扉の向うの部屋からながれてくる。医師たちの一団が、チャールズ・ウォードをつれ出しにきた日、青年の衣服にこれとおなじ臭気が沁みついていたのを覚えていた。あのとき、青年はこの部屋の内部で、招魂作業に従事していたのであろうか。いずれにせよ、青年は同行の求めに素直に応じて、あえて抗拒しなかっただけ、百五十年以前のジョゼフ・カーウィンよりも賢明であったといえよう。そしてウィレット医師は、大胆にも、この地下の領域に秘められたあらゆる怪奇を摘発しようと決意して、小型ランプを手に扉をひらいた。たちまちそこから、名状しがたい恐怖の大波がうねり出てくる感じであったが、医師はその気持に負けることなく、あくまでも目的を貫徹する考えだった。ここに、彼を傷つける力のある生物が存在する惧《おそ》れはない。そして彼も、あわれな患者を包みこんだ無気味な雲をつき破るだけが希望で、いつまでもここにとどまる考えはなかった。
扉のなかの部屋は広からず狭からずの大きさだったが、テーブルが一個、椅子が一脚、異様な装置が二組、そのほかにはなにもなかった。装置には締め具と歯車がそなえてあり、ウィレットの目にも中世の拷問道具であるのがすぐにわかった。扉の一方の側には、凶悪な責め具と知れる鞭の一揃い。その上の棚に、高脚付きの浅いコップ、鉛製で形はギリシャの酒杯《キリケス》に似たものが数多く、空《から》のまま並べてある。中央に据えたテーブルには、アルガン灯と呼ばれる強力な丸芯ランプ、メモ用紙、鉛筆、栓をした香膏壺《レキトス》が二個。最後にあげた二個の壺は、隣の部屋の棚から下ろしてきて仮りにそこにおいたのか、あるいはいそいだあまりか、無造作なおき方がしてある。ウィレット医師はアルガン灯に火をともして、注意ぶかくメモ用紙をのぞきこんだ。医師団の来訪を受けたとき、ウォード青年が書きかけていたものらしく、断片的な文字がしるしてあった。いたってまとまりのない文字の連続で、しかもそれが解読にくるしむカーウィンの筆跡を真似た書体で、事件の解決に光明を投げかけてくれるとも思えなかった。
――Bは死せず。壁のうちに逃れ、地下の場所を見出せり。
――Vのいう〈万軍《サバオト》〉を見、その方法を学べり。
――ヨグ・ソトトを三たび起こし、その翌日、出現を見たり。
――Fはこれらの物を外界より呼び起こす手段を忘れ去らんことを希《ねが》えり。
強力なアルガン灯の光が輝きわたると、ウィレット医師はあらためて室内を見渡した。扉に向きあった壁に沿って、二種類の拷問器具が据えてあるあいだに、壁に打ちつけた木釘から、形が崩れ、不快な黄白色に変じている長衣が垂れ下がっている。それ以上に、彼の注目をひいたのは、左右の壁であった。なめらかに仕上げられた石の面に、神秘的な記号が稚拙な手ぎわで彫りつけてある。じめじめした石の床にも、同様なものを刻みつけ、そして消し去った痕が見られる。壁面の中央のものが五線星形であるのを、ウィレットはすぐに見てとった。それと壁の四隅との間隔が三フィートほどあるが、そこには円が刻まれている。そのひとつのそば、色の褪めた長衣が無造作にひっかけてある責め鞭の上の棚に、ギリシャ風の酒杯《キリケス》がおいてある。記号を離れた個所には、隣室から運んできたと思われる酒壺《ファレロン》が一個見られた。栓をはずして、118と記した番号札が付けてある。のぞいてみると、なかは空《から》だった。しかし、酒杯をあらためて、ウィレットは戦慄をおぼえた。底の浅いそれに、暗緑色をした結晶性の粉末がごく少量、見受けられた。地下の洞窟だけあって、完全な無風状態がつづいているので、乾ききった微粒もうごくことなく沈んでいる。おそらく、そばのファレロン壺から移したものであろう。ウィレット医師は、これらの品と、これまでに知り得た事実とを、少しずつ関連させて考えては、しだいにその怖ろしい意味を悟り、めまいをおぼえる気持におちいっていった。責め具である鞭、中世の拷問機械、〈資材〉と記した壺から移した〈塩〉と称する粉末、〈護衛〉者の棚から運んできた二つの香膏壺《レキトス》、壁にかけた長衣、石面に刻んだ呪文、メモ用紙に書きつけた文字、古い書翰と伝説の示唆、その他、目撃した幾多の事実、チャールズ・ウォードの両親知人たちを脅やかした疑惑と推定――それらすべてが、床においた高脚の鉛の酒杯に盛られた暗緑色の粉末をながめるウィレット医師をして、恐怖の大波に溺れさせた。
しかし、ウィレットは必死の努力で気をとりなおし、壁に彫りつけてある呪われた文字を検討しはじめた。長い年代の苔に蔽われているが、ジョゼフ・カーウィンの手で刻まれたものであるのが明瞭であった。その文言にしても、カーウィン資料を多く読み、呪術の歴史に関心を持つ者には、正確な意味は理解できぬにしても、どこか親近感を覚えるものがあった。ウィレット老医師は即座に、これが一年前の聖金曜日に、ウォード夫人が息子の実験室の扉外で洩れ聞いた呪文、そして学界の権威者たちによって、正常の世界の外を支配する邪神に語りかけるものと教えられた内容であるのを知った。もちろんその綴り字は、ウォード夫人が記憶に基づいて書きつけたもの、ないしは学者たちがエリファス・レヴィの禁断の書から示してくれたものと正確には一致していなかったが、それは時代のもたらす筆写法の変遷にほかならず、同一性質のものであるのは疑うべくもなかった。そして、サバオト、メトラトン、アルモンシン、ザリアトナトミクなど異様な語彙の連続が、見る者をして、部屋の隅々から妖気の立ち昇るおもいを感じさせるのだった。
これは、部屋へはいって左手にある壁の上にあった。右手の壁にも、同様の文字が一面に刻みつけてある。そしてそのなかに、さきほど地下の書斎内で見た文書にたびたび現われていた並列的な呪文と同一の文句を読みとることができた。チャールズ・ウォード自身の手になる、『巨竜の頭』と『巨竜の尾』を頂いた呪文である。綴り字が現代のそれと相違しているのは、カーウィン時代の筆写法によるものか、ないしは彼ら悪魔の使徒たちが、その後の研鑽《けんさん》の結果、より強力な異体の呪文を生み出したかのいずれかであろう。いずれにせよ、ウィレット医師は壁面の文字と、頭のなかに覚えこんでいるそれとを一致させようと努めたが、至難なことであるのを見出すだけで終わった。たとえば、記憶のうちにあるものは、イ、アイ、ング、ンガー、ヨグ・ソトトではじまっているのが、壁の文字は、アイ、クンゲンガ、ヨゲ・ソトタと刻んであって、二番目の言葉の分節法に大きな差異が見られる。
記憶が根強く生々しかっただけに、その差異が医師の心を動揺させた。そしてわれ知らず、呪文の第一唱句を声に出して誦していた。その声が、古代からの涜神の部屋に、いとも無気味に反響し、読経に似て長く尾をひくものういような音調が、過去のそして未知の魔力にふさわしいものにひびくと、遠く、悪臭と暗黒の竪坑内のすすり泣きもいちだんと高まって、非人間的な冷ややかさで、律動的な起伏の波を伝えてくるのだった。
[#ここから2字下げ]
イ、アイ、ング、ンガー
ヨグ・ソトト
ヘ、エエ――ル、ゲブ
フ、アイ トロドオグ
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
ウアアアー!
[#ここで字下げ終わり]
それにしても、呪文を唱えはじめると同時に、死んだように澱んでいた空気がさわぎだして、この冷たい風が吹きつけてきたのはどういうわけか。ランプの焔がもの悲しげに揺れ、うす暗がりが影を濃くし、壁の文字も視野から消えた。いや、そればかりでなく、急に、室内に煙が立ちこめ、刺激性の臭気がみなぎり、遠く離れた竪坑からの悪臭を呑みこんだ。以前にも嗅いだことのあるものだが、はるかに強烈であり、はるかに毒々しかった。医師は壁面から目をはなし、この変化の原因を求めて室内を見まわした。煙と臭気の出所は、床においた酒杯だった。それに盛った結晶性の粉末から、濃緑色の蒸気がおびただしく、厚い雲となって立ち昇っている。この粉末は、隣室の棚の、〈資材〉と記した壺から移し入れたものと思われるが、それがいま、一対の呪文の前半――巨竜の頭、昇勢の宮の部分を唱えることで、かかる奇跡を顕出するのか。そして、その結果は? おお、神よ! このようなことが、はたして現実に……
ウィレット医師はめまいを感じてきた。ジョゼフ・カーウィンとチャールズ・ウォードにからむ怪奇な事件について、見、聞き、そして読んだ数々の記憶の断片が、無秩序に関連もなく、頭のなかを駆けめぐった。そのひとつに、つぎの言葉があった。「繰り返し申し述べるが、鎮魂しがたき物を呼び醒ますなかれ……つねに呪文を唱え得るように用意し、招魂の対象に疑念のある時は、即座にこれを中止し……そこに埋葬されたる物と、三度にわたる対話を……」われらの神よ! 立ち昇るこの煙のうしろに、どのような形の物が現われるであろうか?
X
マリナス・ビクネル・ウィレットは、ごく昵懇《じっこん》の間柄の人々をのぞいて、この特異な経験について、いっさい語って聞かせようとしなかった。語って聞かせたところで、好意的な友人グループならばともかく、信じてもらえるとは考えられなかったからだ。それでもいつか噂がながれて、伝え聞いた世人の嘲笑を買う結果になった。さすがのウィレット医師も齢には勝てぬものとみえる、ついに思考能力が減退したのかと、蔭口を囁かれる始末で、なかには直接老医師をつかまえて、なるべく長期の休養をおとりなさい、そして、今後しばらくは、精神異常者の治療にあたるのをお避けになることですと、真剣に忠告する者も現われた。しかし、ウォード氏としては、この老練な外科医の語るところに嘘はなく、いかに荒唐無稽《こうとうむけい》に思われようと、そこに恐怖の真実があると信じぬわけにいかなかった。氏自身、ポートゥックスト別荘の地下蔵に、有毒の瘴気を噴き出す穴を目撃している。いや、目撃しただけでなく、その毒気にあてられ、昏倒し、医師の手で邸に送り帰された。それが午前の十一時で、夕刻には氏のほうから、電話で医師の消息を問い合わせたが、ついに連絡がとれずに終わった。翌日もおなじ努力を繰り返したあげく、午後にはついに堪りかねて、小別荘へ車を走らせた。そして、階上のベッドのひとつに、傷こそ負っていないが、失神して倒れている老医師を発見した。猛烈ないびきに驚いて、車内からブランディをとりよせて、その喉にながしこむと、徐々に目をみひらき、そこにウォード氏の顔を見出すや、身慄いして、異様な叫びをあげた。「あっ! その顎ひげ……その目……き、きみは何者だ?」きれいに剃刀《かみそり》をあて、きちんとした身なりの青い目の紳士、その若いころから、熟知の仲であるウォード氏に向かって、このような言葉を投げかけるとは、老医師の頭もいまは狂ったのか?
午後の陽差しの明るい小別荘のたたずまいは、前日の午前と少しの変わるところもなかった。ウィレット医師の衣服も、格別乱れているというほどでなく、ところどころがしみに汚れ、膝のあたりに破れが目立つのと、その身体全体に、わずかながら刺激性の臭いがまつわりついているのが、ウォード氏をして、病院へ移動させた日の息子の様子を思い起こさせた。懐中電燈は失くなっていたが、カバンはそこに見出せた。ただ、持参したときのままで、中身はなにもない空《から》であった。
老医師は説明にはいるまえに、非常な努力でベッドから起きあがり、よろめく足で、ウォード氏を地下の穴蔵へ案内した。大樽のそばの台座は厳然としていた。医師は、前日、そこにおいたままの道具入れの袋から鑿《のみ》をとり出して、頑丈な平石板をこじあけにかかった。しかし、板の下に現われるのは、なめらかなコンクリート地ばかりで、前日の朝、ウォード氏を昏倒させた毒気のみなぎる地下洞窟の入口は痕跡もなかった。したがって、有毒性の竪坑、恐怖の地下世界、秘密の書斎、カーウィンの古文書、悪臭と号泣、実験室、壁に刻まれた呪文……なにひとつ、見出すことができなかった。ウィレット医師は蒼白の顔で、年下の友人の腕をつかみ、「昨日、あなたはここで、地下の入口を目撃しましたな……そして、毒気を嗅いで……」と、低い声でつぶやいた。ウォード氏も、恐怖と疑惑にその場をうごくこともできず、肯定のうなずきを繰り返すだけだった。そのあと医師は、なかば吐息、なかば喘ぎの声を洩らし、「では、わたしの経験した事実を聞いてもらいましょう」といった。
それから二人は、階上へひっ返し、明るい部屋を見出すと、一時間にわたって、ウィレット医師の恐怖の経験談が語られた。しかし、ギリシャ風の酒杯から濃緑色の毒気が立ち昇って、怪しい物の姿が出現した個所まで話がすすむと、老医師は記憶を甦らすことに疲れて、口をつぐんだ。いくら努めてみても、話はいよいよとりとめなく、話し手も聞き手も、頭が混乱するばかりだった。一度ウォード氏が、「人足を使って、この地下を発掘してみますか?」と示唆してみたが、医師は答えず無言をつづけた。巨大な深淵によって隔絶された未知の世界。その領域の怪奇な力に浸蝕された彼には、なんと応じてよいかわからぬ提案であったからだ。しかし、ウォード氏は質問を繰り返した。
「それが事実だとしたら、入口はどうなったのか? あなたが脱出したあと、なにかの手段で、穴を塞いだものがあるのでしょうか?」この質問にも、ウィレット老医師は無言を守った。
しかし、以上でこの事件が終結したわけではなかった。話が終わって、その部屋を立ち去るにあたって、ウィレット医師は、ポケットのハンカチをとり出そうとした。するとそこに、蝋燭とマッチがはいっていた。これはたしかに、消失した地下の洞窟内で、ポケットに詰めた記憶がある。しかし、それにつづいて、入れた覚えのない紙片に、指の先が触れた。無造作に折りたたんであり、印刷も商標もそこらでざらに見る安物だが、想い出すまでもなく、地下の秘密書斎にあったメモ用紙からひきちぎったものにちがいなかった。鉛筆で文字がしるしてあるが、その鉛筆もメモ用紙のそばにおいてあったものだ。用紙、鉛筆、ともにわれわれの世界の品であり、これを謎の異界と関連させるのは、かすかにまつわりついている毒々しい臭気だけである。しかし、本文そのものが、みまごうかたもなく、妖奇の世界をうかがわせていた。文字自体が、健全なわれらの時代のそれと異なり、中世の暗黒が生んだ不自然きわまる筆づかいで、われわれ現代人がいかに努めたところで、解読できるものでない。それでいて、どこか見覚えのある形の連続である。この短い文章が、奇怪な謎に昏迷している二人に、確固たる目的をあたえてくれた。
老医師とウォード氏は、われにかえった面持ちで、駐めおいた車に乗りこみ、とりあえずどこか静かなレストランへ、それから丘の上のジョン・ヘイ図書館へ向かえと、運転手に命じた。
図書館には、古文書学に関する参考書が豊富に所蔵されていた。両者はその研究に没頭した結果、日が落ちて閲覧室の巨大なシャンデリアが輝きだすころ、ようやく所期の目的を達成することができた。予想どおり、ポケットから発見された紙片の文字は、いかに奇怪な外見を呈していようと、勝手気ままに書きつけたものでなく、中世の暗黒時代の一時期にひろく用いられた、ミナスキュール草書体であるのが判明したのだ。それは八世紀から九世紀へかけてのこと、キリスト教の仮面の下に、古代信仰と祭儀がひそかな復活を開始し、アーサー王の故都ケアリーオンにあるローマ人の廃墟の上と、崩壊に瀕したハドリアヌス帝の堡塁塔のかたわらから|古代イギリス《ブリテン》の青白い月が、異様な宗教行事を瞰《み》下ろしていた当時のものである。これを現代の文字に書き直すと、未開時代のラテン語となる―― Corwinus necandus est. Cadaver aq(ua)forti dissolvendum, nec aliq(ui)d retinendum. Tace ut potes. 大略それは、カーウィンを殺すべし。死骸はかならず逞《たくま》しき水(酸)にて溶解し、その一片も止《とど》むべからず。能《あた》うるかぎり沈黙を守れ、と読むことができる。
ウィレットとウォード氏は、無言のまま当惑の顔を見かわした。またしても、未知の世界と顔をあわせることになったが、それでいて、当然なすべき反応を示す気持が生じなかった。ことにウィレット医師には、恐怖の印象を受ける力すら、疲労のあまり涸渇しているといえるのだった。両者とも、ただ呆然と時間を空費するばかりで、閉館の時刻がきて、追い立てられることになった。二人はそれから、プロスペクト街のウォード邸にもどり、深更まで成果のあがらぬ話合いをつづけた。医師はその夜をウォード邸にすごして、自宅へは帰らなかった。翌日は日曜日であったが、医師はなおウォード邸にとどまっていた。そこに電話がかかってきた。ウォード氏が、アレン博士の所在場所をつきとめるようにと依頼した私立探偵社からであった。
ウォード氏はドレッシング・ガウンのまま、落ち着かぬ様子で室内を歩きまわっていたところで、さっそく受話器をとりあげた。そして私立探偵たちから、捜査報告書がととのったと聞かされると、つぎの日早朝、持参するようにと命じた。ウィレット医師は、事件の捜査が進捗《しんちょく》して今後の行動方針がまとまりだしたことを祝福した。中世の奇怪な書体による通信が、何者の手によって認《したた》められたかはともかくとして、殲滅せねばならぬ〈カーウィン〉なる男が、顎ひげと黒眼鏡の怪人物にほかならぬことは明白と思われた。チャールズもこの人物をいたく恐れて、射殺してその死体を酸で溶解するのが喫緊事《きっきんじ》だと、最後の手紙で訴えている。そしてアレンは、中欧に在住する呪術師たちからカーウィンの名で手紙を受けとり、彼自身過去の降神術者の化身をもって任じている。それが、いままた新しく筆者不明の通信が現われ、〈カーウィン〉を殺すべし、その遣骸を酸にて融かせと命じている。これは明らかに偶然の符合でなく、ましてや、作為によるいたずらとは考えられぬ。しかもアレンは、ハッチンソンなる男の勧めで、ウォード青年の殺害を計画していたではないか。いうまでもないことだが、地下の洞窟内で受けとった通信は、顎ひげの怪人の目に触れるわけもない。しかし、この通信の文言からしても、すでにアレンが、チャールズ青年の処置を考えていることは明白だった。青年の心に疑念が生じたとみるや、即座にこれを抹殺し去るのが、彼らの計画の一部であったからであろう。そして疑いもなく、アレンは青年の挙動に警戒の目をそそいでいる。目下のところ、彼らが実行行為に着手していないにせよ、一刻を争ってかの怪人物を、チャールズ・ウォードに危害を加えることのできぬ場所に拘禁する必要があろう。
その午後、この奇怪な事件の解決のため、唯一の情報源である青年の口から、なんらかの曙光を見出そうとして、父親と医師とは、湾内の小島上の病院にチャールズ・ウォードを訪問した。ウィレット医師が簡潔ながら厳粛な口調で、昨日の経験を青年に語った。そして、彼の話に青年がどのような反応を示すか、もし顔色を変えるようなことがあれば、彼らの推察にあやまりはなく、事件の真相を掴めるものと、相手の様子を見守った。話の効果をあげるべく、可能なかぎり激しい言葉をもちいて、地下の洞窟内に、石の蓋をした竪坑を発見したところまで経験談をすすめたが、青年にたじろぐ気配はなく、表情は微動もしなかった。ウィレットはいったん、口をつぐんだ。そして、ふたたび声をはりあげ、坑の底のものがいかに烈しい飢えに苦しんでいるかを語り、青年の残虐な非人間性を責めたてた。しかし、医師はかえって慄然とさせられた。非難の返事に、せせら笑いがもどってきたからだ。いまはチャールズも、地下に洞窟など存在しないとの言い遁れは無益と感じたのか、医師の追及に立ち向かうに、辛辣な冷笑をもってすることに肚をきめた様子で、しわがれた声で、さも愉快げに笑いのけるのだった。それから、急に声を低めて語りだした。喉の詰まったようなその声が、言葉の含む怖ろしさを倍加した。「むろんやつらは、食べさせれば食べる。しかし、そんな必要があるものか! この問題は、あなたの理解をはるかに超えておる! ひと月、食糧をあたえずにおいたと責めておられるが、ひと月とは、話が小さすぎる。よろしいか、あなたの非難は、百五十年以前の愚か者、あわれなホイップルに向けられるべきだ! ひとりよがりの騒ぎを起こして、農場内の全員を殺しつくしたものと信じておった。ところが、あにはからんや、あの男の半聾《はんろう》の耳には、異界の物音を聞きとる力がなかった。竪坑のなかには何があろうと、見ることも聞きとることもできなかった。あの呪われた物は、百五十年の昔、カーウィンが殺された日からこのかた、ずっとああして泣きわめいておるんだ!
しかし、それ以上のことは、青年の口からひき出すことができなかった。ウィレット医師は恐怖におののくとともに、この残虐さに青年が無関係であってほしいとの最後の頼みも絶たれ、いまは気のすすまぬうちに、聞き手の頑強な平静さを打ち破ることを希《ねが》って、話のさきをすすめるのだった。その間に青年を観察して、ここ数ヵ月のあいだにその顔に生じた変化をまざまざと見てとった。いい知れぬ恐怖をたたえたこの表情を、青年はどこから得たものか。物語が進行して、最後の場面、呪文と濃緑色の粉末の部屋の件におよぶと、チャールズははじめて動揺の色を見せた。顔一面に謎めいた表情を示して、ウィレットの言葉に注意をむけたが、メモ用紙の文字を読んだ個所にいたると、少しためらってから、あれは遠い昔のもの、自分が書いたわけでなく、呪術の歴史を深く研究した者のほかには、ぜんぜん意味のない文字だといいきった。
「しかし」と青年はつけくわえた。「あの呪文を知っておられたのが、あなたの幸運だった。それによって、聖杯のなかから呼び出された物のおかげで、この世にもどることができたのだ。でなければ、生きていまここで、その話を語ることもなかったはずだ。あの粉末は一一八号で、その番号を隣室の目録と照合すれば、だれの物であるかがわかるのだが、それを知ったら、さすがのあなたも慄えおののかずにいられなかったと思う。あれはあの日、こちらの手で呼び出すばかりの段階にしておいたところ、あいにくとあなたがたの来訪に妨げられて、そのままになっていたのだ」
それからウィレットが、呪文を口ずさむと暗緑色の煙が立ち昇ったことを語りだすと、チャールズ・ウォードの顔に、嘘いつわりでない恐怖の色が浮かんだ。「なに? やつが出現した? いや、わかる。だからこそ、あなたは生きて帰ってこられた!」チャールズのしわがれた声が堰を切ったようにほとばしったが、すぐにまた、無気味な余韻を残して、底知れぬ深い淵へと沈んでいった。ウィレット医師は頭にひらめくものがあって、この状況の真の意味を掴んだと信じた。そして、慎重な考慮のもとに、記憶をたどりながら答えた。「たしかに、ナンバーは一一八。しかし、忘れてはならぬのは、いまは状況のすべてが――少なくとも十のうち九までは――変更してしまっていることだ。きみとしても、もう一度、確かめてみぬうちは、自信をもって行動できぬはずだ!」そしていきなり、中世のミナスキュール文字をしたためた紙片をとり出して、患者の目のまえで振って見せた。その動作が、これほどの効果をあげるとは予想もしていなかった。チャールズ・ウォードは、その場に昏倒してしまったのだ。
もちろん、この会話のすべては、秘密のうちに行なわれた。そうでないことには、父親と主治医が意識的に青年の頭を混乱させ、病状を増進させたとして、精神医たちの非難を招くことになる。したがって、患者が失神したのを見ても、医員たちの手を借りるわけにもいかず、ウィレット医師とウォード氏は、青年の身体を抱きあげ、寝台へ運んだ。意識をとりもどすまで、患者はたえずうわごとを口走っていた。一刻も早く、この事実をオーンとハッチンソンに知らせる必要があるというのである。そこで、意識が完全にもどるのを待って、医師は患者にいって聞かせた。あの二人は、きみが考えているような人間でない。野獣にちかい凶悪な男たちで、すくなくともその一人は、仇敵《きゅうてき》と呼んでしかるべき相手である。げんにその男は、アレン博士をそそのかして、きみの暗殺を企てていると。しかし、その摘発は、目に見えるほどの効果もあげなかった。青年は顔色も蒼白、追われる者の表情で、まったく平静を欠き、その後は会話にくわわろうともしなかった。
そこで、父親とウィレット医師は辞去することにした。病室を出るにあたって、顎ひげの男のアレンにくれぐれも気をつけるようにと注意をあたえたが、青年はただ、自分の身体は病院の職員たちが護《まも》っていてくれて、安全性に少しも欠けるところはない。たとえあの男が危害をくわえに現われても、怖れることはないはずだと答えるだけであった。しかもその言葉を、気味のわるい含み笑いとともにいってのけるので、聞き手二人は不快なおもいを味わわされた。しかし、チャールズが中欧の怪人物二名に宛てて、連絡の手紙を書く点については、いささかも心配する必要がなかった。病院内の患者が外部へ発送する郵便物は、すべて職員の検閲を経る規則になっているので、少しでも常軌を逸している内容であれば、没収されずにすむものでなかったのだ。
だが、国外へ脱走した悪魔の使徒とみられる両名、オーンとハッチンソンに関しては、奇怪な後日譚がある。この恐怖の時期のさなかに、漠然とした不安にうながされて、ウィレットは国際新聞協会に、プラハの街と東トランシルヴァニアに起きた犯罪事件の通告を依頼した。そして、その後六ヵ月の期間内に、多種多様の事件についての報告を受けとり、これを自国語に翻訳させた結果、重要な意味があると思われるものを二件見出した。そのひとつは、ある夜、プラハの旧市内に火災が生じ、家屋一棟を全焼させ、ひとり住いの老人が、いまだに行方不明のままでいるという。そしてこの老人はいつとも知れぬ遠い昔から居住していて、ヨゼフ・ナデーと名乗っていたとある。いまひとつの事件は、ラクスの東方にあるトランシルヴァニアの山岳地帯に、大規模な爆発事故が起きて、怪奇な噂の絶えぬフェレンツィ城が、居住者もろとも、跡かたもなく崩壊した事件。この城主もまた、常識では考えられぬほどの長寿を保ち、その長い生涯に犯したかずかずの悪業につき、村人たちのあいだに風評が高まったことから、近くブカレストの法廷に喚問される手配になっていた由で、事故死はむしろ、彼への恵みであったと取り沙汰されている。
この通告を受けとって、ウィレット医師は確信を持つにいたった。いまは忘れられた古代の書体をよくする者の手が、より強力な武器をふるえぬいわれはない。カーウィンの処置を医師の手にゆだねたうえで、オーンとハッチンソン両名の始末は、通信文の筆者みずからがとることにしたのであろうと考えたのだ。しかし、彼ら邪悪な男二人の運命については、ウィレット医師はつとめて考えぬことにした。
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つぎの日、ウィレット老医師は、私立探偵たちの報告に立ち会いたい希望で、早朝からウォード氏の邸へ向かった。アレン――いまはカーウィンと呼ぶべきであろう――を拘禁するか、あるいはその生命を絶つ仕事は、どのような犠牲を払おうと、なしとげねばならぬ責務である。世人もかならず、繰り返し生まれかわって現われる悪の化身を根絶することを、正当な戦略であると認めてくれるはずだ。老医師は私立探偵の到着を待つあいだに、この信念をウォード氏の耳にいれた。このとき、二人は階下の客間にいた。それというのも、階上には胸のむかつく妖気が漂う感じで、書斎の使用を避けたい気持がつよかったからだ。古くから勤めている召使たちも、この妖気を、消失したカーウィンの肖像画が残した呪いのためと考えていた。
九時に、三人の私立探偵が到着して、すぐさま、調査の結果を報告した。遺憾なことに、混血の黒人ブラーヴァ・トニー・ゴメスの所在はつきとめられず、アレン博士の現在の居所についても、まったく未知のままだった。しかし、この寡黙な怪人物にからむ事実と、村人たちの受けた印象との聞き込みには、申し分のない成果をあげることができたというのだった。アレンはポートゥックスト村の人々に、どことなく不自然な存在との印象をあたえ、その赤茶けた濃密な顎ひげは、染めあげたものか、あるいは付けひげであると信じられていた。そしてその印象に誤りのなかったことが、彼らが小別荘を退去したあと、博士の部屋から付けひげと黒眼鏡が発見された事実で確認された。その声に、一度でも聞くと忘れられぬ無気味な響きがこもっていた点は、電話で瞬間的な会話をかわしただけのウォード氏にも確認できたし、その視線の毒々しさは、角縁の黒眼鏡もかくしおおせるものでなかった。筆跡については、ある商店の主人が、注文を受けるにあたって、彼の書きつける文字を目にしていたので、異様にひねくれ、なんとも解読しがたいものであったと語っていた。そしてこの商店主が、彼の部屋に残っていた鉛筆書きの内容不明の覚書を見て、彼の筆跡に相違ないと証言した。
前年の夏の吸血鬼騒ぎに結びつけて、村人たちの大部分は、真の吸血鬼はウォードでなく、アレンのほうだと信じていた。トラックの積荷の強奪事件のあと、小別荘を訪れた警察官たちの見解も聞きこんであった。そのときの警官の目に、アレン博士が無気味な存在と映ったわけでなく、むしろ彼を、影の多い異様な家の主人としての立場にある男と見ていた。その姿を明瞭に見てとるには室内の照明があまりにも暗すぎたのだが、しかし、こんど遭えば見まちがえぬだけの自信があった。顎ひげが目につく特徴であるし、黒眼鏡をかけた右の目の上に、かすかな疵《きず》の跡があることも認めていた。アレンの部屋を捜査した結果は、これといった物を捜し出せたわけでなく、付けひげと黒眼鏡、それに何枚かの鉛筆書きの覚書を見出したにすぎなかったが、ウィレットはその覚書を一瞥しただけで、カーウィン古文書の筆跡、そしてまた、消失した恐怖の地下洞窟内におびただしく積みあげてあった原稿の文字が、ウォード青年のそれとまったく同一であるのを見てとった。
ウィレット医師とウォード氏は、しだいに集まってくるこれらの資料から、複雑にして微妙、底深いところにひそむ恐怖の理由を把握して、思わず身体を慄わせた。漠然としてはいるものの、身の毛のよだつ推測が、同時に二人の頭に浮かんだのだ。付けひげと黒眼鏡、読みづらいカーウィンの筆跡――古い肖像画と、そこに描かれた小さな疵――そして、病院に収容した青年の顔にもまったくおなじそのような疵痕が生じている――電話で聞いた無気味な声――ウォード氏は病室内の愛息が思わず洩らした忌わしい声音に、電話のそれと同一のものを聞きとった。チャールズとアレンがいっしょにいるところを見た者があるか? たしかに、警察の連中が一度見ている。しかし、その後だれが見ている? チャールズがつのりくる恐怖心を急に忘れて、小別荘にひとり住居をはじめたのは、アレンが姿を消したあとでなかったか? カーウィン―アレン―ウォード――年齢がちがい、姿かたちのちがう二人の男を融合させたのは、悪魔のなせる業《わざ》か? 肖像画とチャールズのおどろくべき相似――絵画は壁面から青年を見守り、視線で追いまわしていたのでなかったか? そしてまた、アレンとチャールズの両者ともに、ジョゼフ・カーウィンの筆跡を真似ていた理由はなにか? 彼らが行なった怖ろしい作業――一夜にして医師を年寄らせた恐怖の地下洞窟、毒気のみなぎる竪坑の底に飢えて泣きさけぶ異形の物たち、奇跡を現出させた呪文、ウィレットに発見されたミナスキュール文字の通信、古文書、書翰、墓地荒らし、〈塩〉、等々――これらの事実は、なにを語っているのか? 最後にウォード氏が、もっとも効果的な方法を思いついた。このような手段をとるには、意志を強固にする必要があったが、あえて実行に踏みきった。不幸な息子の写真をとり寄せて、それにインクで、黒眼鏡と黒く尖った顎ひげを入念に描きくわえたのだ。できあがったものを探偵たちに手渡して、至急、ポートゥックスト村にひっ返し、アレン博士と交渉のあった商店主たちに見せるようにと命じた。
二時間のあいだ、ウォード氏は医師といっしょに、探偵たちのもどりを待った。邸内には、重苦しい空気が漂って、部屋の隅々から恐怖と瘴気がゆっくりと立ち昇ってくる感じだった。おそらくは階上の書斎の空虚な壁面がにやにや笑いをつづけていることであろう。やがて、私立探偵たちがもどってきて、ご推察どおり、インクの筆をくわえた写真を村人たちに見せたところ、アレン博士にそっくりだとの返事であると報告した。ウォード氏の顔はまっ青になった。ウィレット医師はいそいでハンカチをとり出し、額の汗を拭った。アレン―ウォード――カーウィン――この三者が連結できるとなると、怖ろしい結論が生じてくる。青年が中有の世界から招き寄せたのはなんであったか? その物が彼になにをしたのか? この事件の真相は? アレンと称する人物の正体は? 彼はチャールズの心に疑念がきざしたとみて、その殺害をはかった。生命をねらわれたチャールズも、その最後の手紙の追伸で、この人物を殺し、酸を用いて、死体を完全に消激させねばならぬといった。いままた、だれが書いたとも知れぬミナスキュール文字の通信が、〈カーウィン〉を殺し、その死体を同様の方法で溶解せよ、と告げている。抹殺すべき相手の名が、アレンからカーウィンに変わった理由はなんであるのか? 最後の段階にいたって、なにかが起きたにちがいなかった。ウィレット医師のもとに、狂気めいたチャールズの手紙が届いた日、この青年は落ち着かぬ様子で、午前いっぱいの時間をすごし、その後、変化が生じた。人目を避けてこっそり邸をぬけ出したのに、帰宅のときはこれ見よがしに、警戒の任にあたる私立探偵たちのまえを通りすぎている。しかし、書斎にはいるや、恐怖の悲鳴をあげた。そこに、なにを発見したのか――あるいは、なにかが彼を発見したのか? チャールズが外出するところは、だれも見ていなかった。そうだとすれば、堂々と帰宅したチャールズは、彼の姿を借りた影でないのか? そしてその怖ろしい物が、慄えおののく者のうえに、一歩も書斎を離れなかった者の身に……? 執事もまた、異様な物音を聞いたというではないか?
ウィレット医師は、ベルを鳴らして執事を呼び、低い声で質問した。はい、それはもう、ひどい騒ぎでした、と執事は答えた。たいへんな物音で――叫び、喘ぎ、喉を絞められるような声、それにまた、叩きあい、足を踏み鳴らし……あまりの騒ぎに、駆けつけてみますと、チャールズさまがドアから出ておいでになりましたが、ひとこともおっしゃらず、人が変わったようなご様子でした。執事は語りながら身を震わせて、あけ放した二階の窓から吹きおろす重くるしい空気に、鼻をくすんくすんいわせていた。明らかに恐怖が邸を押し包んでいて、その重圧を感じとれぬのは、事情を知らぬ私立探偵三人だけと思われた。いや、彼らとしても、依頼を受けたこの調査の背後に、なにやら怪奇な事実がひそんでいることを漠然ながらも察しとって、とかく動作がためらいがちになるらしい。ウィレット医師は、深く、そしてすばやく、考慮をめぐらしていたが、その内容は、怪奇と恐怖にみちたものにちがいなかった。悪夢に似た出来事を、つぎつぎと追いながら、ときにまた、ぎょっとするような新事実に思いあたるのであろうか、呻き声をあげつづけるのだった。
やがて、ウォード氏が身振りで、会議は終了したと知らせ、彼と医師をのぞく全員が部屋を立ち去った。時刻は正午であったが、亡霊の出没するこの邸宅を、夜の闇が包みかくした感じであった。ウィレット老医師は邸の主人と真剣に話しあって、今後の調査は全面的にまかせてほしいと力説した。調査の進行につれて、不快な事実がいろいろと現われてくるにちがいない。これに耐えられるのは、身内の者でなく、友人のみだというのが、医師の主張の根拠であった。ウォード氏がこの提案に納得すると、もともと同家の主治医として、邸内の様子に明るいウィレットは、階上の書斎が使用されずに放置されているのを知ることから、しばらくそこに閉じこもりたい、召使たちの出入りを禁じてくれと要求した。一半世紀以前の暖炉を移し据えた部屋、そのマントルピースの上には、壁間に描かれたジョゼフ・カーウィンの顔が狡猾な視線を投げかけていた当時よりも、さらに濃密な妖気が集結していることであろう。
これにはウォード氏も驚いたが、奇矯なのは老医師の申し出ばかりでなく、ひきつづいて現われる病的現象の連続に、氏としても黙ってうなずく以外に方法がなかった。その後の三十分を、老医師はオルニー・コートから移した板壁に囲まれた部屋に、鍵をかけて閉じこもった。父親が外の廊下で耳を澄ましていると、その間ずっと、床を歩きまわる音、なにやら捜している音がつづいていたが、最後に、戸棚の扉をこじあけるような軋《きし》みを聞いた。と同時に、声を殺した叫びがあがり、こじあけたものを、あわてて閉める音がひびいた。そのあと、ほとんど間をおかずにドアの鍵が鳴って、ウィレット老医師の顔がのぞいた。憔悴して、幽霊さながらの顔だった。そして、部屋の南側の壁にある本物の暖炉に薪木をくべてほしいと要求した。薪木に似せた電熱器では、じゅうぶんな暖がとれぬというのだった。なにが起きたか知りたくても、質問する勇気もないままに、ウォード氏は召使を呼んで、薪木を運びいれるように命じた。いいつけられた男は、ふとい松の薪木の何本かを炉棚の上に載せるあいだも、書斎内の病毒に汚れた空気に、身慄いをつづけていた。そのあいだにウィレットは、屋根裏の実験室から、七月の移動にとり残された品のいくつかを運び降ろしてきた。それらの品は、蔽いをかけたバスケットに入れてあったが、ウォード氏はのぞいてみようともしなかった。
その後、ウィレット老医師は、もう一度、書斎内に閉じこもった。煙突が吐き出す煙の雲が窓の外をながれていくので、医師が暖炉の薪木を燃やしはじめたのがわかった。かなりのあいだ、新聞紙ががさがさ音を立てていたが、ふたたび、なにかを軋ませ、こじあけた様子で、それとともに、物のぶつかる大きな響きがして、外で立ち聞きしているウォード氏たちをぞっとさせた。そのあと、ウィレットの押し殺した叫びが二回と、鞭で風を切るような無気味な音が一回。とたんに、風が吹き下ろす煙突の煙の雲が、いちだんと濃く、いちだんと刺激性をつよめ、だれもが、この息づまる有毒性の臭気を風が吹き払ってくれるのを希《ねが》った。ウォード氏は頭がくらくらしてきたし、召使たちは一団になって、渦巻いて立ちのぼる黒煙を見守っていた。永劫《えいごう》とも思われる時間がすぎて、ようやく毒煙の色も薄らいだかに見えると、鍵をかけたドアの向うに、物をこするような、ひきずるような、その他さまざまな、音ともいえぬ音がつづいたあと、戸棚の扉をあらあらしく閉める音がして、ウィレットが姿を現わした。げっそりやつれた蒼白の顔に、悲痛な表情を浮かべ、屋根裏の実験室から持ってきた、布をかぶせたバスケットを提《さ》げている。老医師は部屋を出るに先だって、窓をひらいておいた。そこから、外の新鮮な空気がながれこんで、室内に立ちこめた消毒薬に似た異様な臭いとまざりあった。古いマントルピースの飾り棚には、いまなお狂気が漂っていたが、〈悪〉の気配は完全に拭いとられたように思われ、白塗りに模様がえした壁板にいたっては、ふたたび品位と平穏をとりもどし、一度ジョゼフ・カーウィンの肖像画を飾ったことなど、まったく忘れ去った印象をあたえていた。夜が近づいてきた。しかし、いまはその影にさえ、不安の色のひそんでいることはなく、感じとれるものといっては、もの静かな憂鬱だけであった。その部屋のなかに起きたことについて、老医師は口を緘《かん》して語ろうとしないで、ひとこと、ウォード氏にこういった。「なにを質問されても、いまのところ、答えるわけにはいかないので、さようご承知ください。ただ、これだけはいえます。この部屋には、ある種の魔法がかかっていました。わたしはそれを、徹底的に洗い浄《きよ》めました。それであなたの邸の人たちも、今後は安らかに眠ることができましょう」
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ウィレット医師の〈浄め〉の作業が、神経を絞めあげる拷問にも似た試練であった点は、恐怖におののきながら、地下の洞窟内をさまよい歩いた経験とまったくおなじであった。その事実は、老医師がその日の夕刻、家へもどりつくやいなや、精根ともに尽きはてた様子で、ベッドに転げこんだことでも明瞭であった。それからの三日間を、老医師は自室を一歩も出ることなく、もっぱら休養にあてていた。ただ、後日、召使たちがひそひそ語りあっていたところによると、水曜日の真夜中ごろ、ウィレット医師の部屋に人のうごきまわる気配がして、その直後、玄関の扉がそっと開き、そっと閉じたのを聞いたという。召使たちの想像力に限界のあったことが彼に幸いした。そうでなければ、翌木曜日の〈イヴニング・ブレティン〉紙に載った記事が、前夜の物音に結びついて取り沙汰されることになったであろう。
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墓地荒らし再び活躍を開始す[#「墓地荒らし再び活躍を開始す」太字]
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北公共墓地のウィードン墳墓が荒らされてから、すでに十ヵ月を経過し、その間、不敬な犯人も鳴りをしずめていたが、再び蠢動《しゅんどう》を開始した模様である。本朝未明、同墓地内を徘徊する怪漢の姿が、夜番ロバート・ハートによって発見された。時刻は午前二時。夜番小屋の北方にあたって、角燈ないし懐中電燈の光がきらめくのを見たハートが、とるものもとりあえず駆けつけると、近くの電柱燈の光に横顔を浮きあがらせて、塗装用の鏝《こて》を手にした男が立っていた。しかし、怪漢は夜番の足音を聞きとるや、いちはやく逃走に移り、追いすがるハートを尻目に、墓地の正門から夜陰の街筋へと姿を消した。
昨年、二回にわたって生じた墓地発掘事件と同様、今回の犯行も、発見が早かったことから未遂に終わった。犯行現場はウォード家所有地内の未使用部分で、発見時が作業開始当初であったゆえに、地面を掘り下げにかかった程度、その範囲も僅少であり、墓には全然触れてなかった。
夜番ハートの目撃した怪漢の人相は、顎ひげを生やした小柄な男で、過去三回の発掘事件と同一犯人と推定される。しかし、現場の調査にあたった第二警察署の署員は別個の見解を持つ模様で、今次の犯行には、前回第二の事件に見られた凶暴性を欠く点を力説した。後者にあっては、古い柩《ひつぎ》を奪いとり、墓碑を乱暴に破壊してあった。
第一の事件は、昨年三月の出来事で、墓地を発掘し、なにかを埋蔵する計画であったが、失敗に終わった。警察当局はこれを、酒類密醸業者が醸造品の隠匿場所に利用しようとしたものと解釈した。当時の担当官ライリー巡査部長は、今次の未遂事件もこれと同性質のものであろうと、記者に語った。これら反復して墓地を荒らすギャングの一団を一網打尽にせんものと、警察当局は万全の手配をこうじている。
[#ここで字下げ終わり]
ウィレット老医師は疲労から回復するためと、つぎの行動のエネルギー蓄積のために、木曜日をまるいちにち、完全体養にあてていたが、その日の夕刻、一通の手紙をしたためた。翌朝の配達でこれを受けとったウォード氏は、さっそく一読して、深く慎重な考慮に沈んだ。月曜日に、私立探偵たちから聞かされた報告の悲しみと、ウィレット医師の奇怪な〈浄め〉作業に立会ったショックで、心の平静を喪失した氏は、その日以来、事務所に顔を見せることも怠っていた。しかし、老医師のこの手紙には、気持を鎮静させるなにかがあった。たとえ、さらに深刻な絶望感をにおわせているにせよ、事件の新展開を読みとることができたのだ。
[#ここから2字下げ]
親愛なるセオドア・ウォードどのへ――
小生が明日決行する行動につき、あらかじめ貴君の了解を得ておくのが至当と考え、本状をしたためました。まずもって結論を申しあげますと、この怖ろしき事件の解決には、小生の意図するところを敢行することがあくまでも必要であります(いまはいかなる鍬をもってするも、かの奇怪なる地下洞窟を掘り出すことは不可能と思われます)。ただ遺憾なことに、目下のところ、この行動が決定的であるゆえんを説明する自由がなく、そしてまたその理由を明白に申しあげぬかぎり、貴君の心の安まる時はないのではないかと危惧する次第であります。
しかし、貴君は年少の頃より、小生とは熟知の仲のこととて、たとえ小生が、ある種の事柄は未知のまま触れずにおかれるが最善の処置と示唆しても、かならずしも小生にたいし不信の念を抱かれぬものと考えます。敢えていわせて頂きますと、ご令息チャールズ君の事件については、今後いっさい考慮なさらぬのが上分別であり、もちろんチャールズ君の母君には、何事も知らすべきでありません。
明日、小生は貴君に電話連絡をとります。その時点に、チャールズ君は失踪しておられるはずです。これが、心に留めておくべきことのすべてであります。チャールズ君は狂いました。そして、病院を脱走することになります。ウォード夫人には、チャールズ名義のタイプに打った便りの発送を中止し、徐々に、それとなく、この狂気の事件の真相をお知らせになるべきでありましょう。貴君もまた、アトランティック・シティに転地して、夫人とともに静養なさることが必要でありましょう。このようなショックから立ち直るには、それが最上の方法と考えられます。小生もやはり、ここしばらく南部へ旅行することで、精神を落ち着け、元気を回復させる計画を立てております。
明日の電話では、いっさい質問なさらぬように希望します。万が一、小生の意図に誤りがあったときは、包み隠すことなくお知らせする考えでおりますが、そのような惧《おそ》れは、まずないものと確信しています。ご憂慮の必要はありません。チャールズ君は――現在のご令息は、いたって安全な境遇に安んじておられます。貴君が考えておられるより、はるかに安全な場所です。つぎに、アレンなる人物については、いささかの不安を抱く必要もありません。彼がどのような男であり、どのような物であろうとも、ジョゼフ・カーウィンと同様に、過去の世界の存在にすぎません。いずれ小生がお邸のベルを鳴らし、そのような人物が存在するものでない理由を説明することになりましょう。それによって、ミナスキュール文字によって書かれた通信が、貴君および貴君のご家族を悩ますことも消滅するはずです。
しかし、小生のとる処置によって、貴君自身が憂鬱状態に陥らぬよう、鋼鉄の精神を維持せられんことを祈ります。その点、ウォード夫人についても同様で、その心構えを用意なさるよう、貴君の勧告が必要と考えます。率直にいって、チャールズ君の病院からの逃亡は、貴君のもとに復帰することを意味しません。彼は特殊の疾患に蝕《むしば》まれました。彼の精神と肉体に生じた不可思議な変化で、貴君もそれとお気付きのはずです。そして、ふたたびチャールズ君を見ることを希《ねが》うべきでありません。このさい、貴君にとっての唯一の慰めは――ご子息が悪霊でなく、狂人でさえなかったことです。好学の志に燃え、知識欲が旺盛であり、神秘と過去の事物を愛好したのが原因で、この怖ろしい破局に見舞われました。人間の知ってはならぬ物を知ったばかりに、その物自体に躓《つまず》きました。永年の研究の結果、何人も到達し得なかった過去の世界に分け入ったことで、その過去から出現したある物が、彼をこのように深淵の底にひき入れたのであります。
最後に、もっとも肝要なお願いを申しあげますと、小生の言葉を額面どおり受けとっていただきたいのです。チャールズ君の運命については、もはや不確実なことはなく、決定的であると申しあげておきます。ご希望とあればいまから一年後に、彼がこの世のものでない事情を詳しくお話する所存でおります。そのとき、北墓地にあるウォード家の地所内、先考の墓の西方、正確に十フィートの地点に、同一方向に向け、新しく墓石を据えられることをお勧めします。それこそ、ご令息チャールズ君の永遠の憩いの場所とお考えください。そこに眠る物が、邪悪の化身、悪魔の取換え子の遺骸でないかとの心配はご無用です。その墓の灰は、貴君が分けあたえた骨と肉――真実のチャールズ・デクスター・ウォードの亡きがら、嬰児の時から、貴君が見守っておられた純なる魂――生誕当時のまま、臀にオリーブ状の青斑を持ち、胸部の黒い悪魔の徒のしるしと額の疵痕は跡かたもなく消えている肉体であります。真実のチャールズ・ウォードは、一度として悪業を犯したことがなく、ただ、熾烈《しれつ》な〈探究心〉の代償に、その若い生命を支払う結果になったとお考えください。
以上が、申しあげておくことの全部です。明日、チャールズ君は姿を消します。そして貴君は、いまから一年後に、墓石を立てることになりましょう。明日、小生からの電話連絡のさいは、いっさいの質問をご遠慮ねがいます。繰り返し申し述べますが、この事件によって、貴家の光輝ある名誉は、いささかも傷つけられることがありません。
筆を擱《お》くにあたって、心からの同情を捧げ、剛毅、沈着、諦念の諸徳を堅持せられんことを期待します。
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一九二六年 四月十二日 ロード・アイランド、プロヴィデンス、バーンズ街十番地
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[#地から7字上げ]貴君の忠実なる友
[#地から2字上げ]マリナス・B・ウィレット
かくて、一九二八年四月十三日、金曜日の朝、マリナス・ビクネル・ウィレットは、コナニカット島のウエイト病院に、チャールズ・デクスター・ウォードを訪れた。青年は面会を拒絶するまでのことはしなかったが、明らかに不機嫌な表情を示して、ウィレットの望む会話が開始されるのをきらっている様子だった。老医師が地下の洞窟を発見し、そこで奇怪な経験をしたことが、彼を新しく不快にしたにちがいなかった。そこで二人は、ややぎこちなく、形式的な挨拶をかわしたあと、会話の本題にはいるのをためらっていた。そのあいだに、また新しく、緊迫感が病室内を圧してきた。ウォード青年が、仮面のように冷徹な老医師の顔を見るうちに、その奥にひそむ断固たる意志を読みとったからだ。すでに先日の訪問時から、老医師の態度に変化が生じている。先代以来の主治医として、ウォード一家の者の身を思いわずらう老紳士が、いまは峻厳苛烈な復讐者に転じている。
ウォードは顔面蒼白だった。老医師がさきに口を切った。「また新しく発見したことがあるので、きみに勧告にきた。きみには清算の必要があるとね」
「地下探険の蒸《む》し返しをなさったか? そしてまた新しく、飢えたペットの群れを見出したというのですな」
皮肉をこめた返事だった。青年が最後の瞬間まで、虚勢を示しつづける考えなのは明白だった。
「いや、ちがう」ウィレットはゆっくりといった。「こんどは、地下へもぐりこむ手間もいらなかった。人を雇って、アレン博士の身柄を洗わせた。そして探偵たちが、ポートゥックストの別荘内に、付けひげと黒眼鏡を捜し出した」
「よくやりましたな」動揺してきた病室の主は、機知に富んだ言葉で侮蔑を表現しようと焦って、「たぶんその品、あなたが着けたらお似合いでしょうよ」
「いや、わたしより、きみにいちばん似合う品だ」平静でいて、的を射抜いた返事だった。「実際、そうであった[#「そうであった」に傍点]はずだが」
ウィレットがこの言葉を投げつけると、同時に太陽の面を黒雲がよぎってすぎたように思われた。しかし、床に映る影には、なんの変化も見られなかった――ウォードは思いきっていった。
「そ、そんなことで、清算の必要があるのですか? 人間だれしも、ときには顔を変えてみたくもなるものだ」
「またしても、きみはわたしの言葉をとりちがえた」ウィレットの口調に、いよいよ重々しさがくわわった。「だれが顔かたちを変えようと、それをとやかくいう考えはない。ただし、その男にこの世に生存する権利があるかぎりはだ[#「その男にこの世に生存する権利があるかぎりはだ」に傍点]。そしてまた[#「そしてまた」に傍点]、その男が[#「その男が」に傍点]、この世の外から呼び寄せてくれた恩人に[#「この世の外から呼び寄せてくれた恩人に」に傍点]、仇をもって報いるような真似をしなければだ[#「仇をもって報いるような真似をしなければだ」に傍点]」
いまはウォードも、はげしい叫びを口走った。「で、あなたはなにを知った? このぼくを、どうなさる気か?」
老医師は返事に先だって、効果的な言葉を探すかのように、少し間をおいてから、
「わたしは先日」と、抑揚のある声で答えた。「肖像画のあった部屋、古いマントルピースのうしろ、隠し戸棚のうちに、ある物体を見出した。その場で焼却し、その灰を、いずれはチャールズ・デクスター・ウォードの墓石が据えられるはずの地下に埋めておいた」
狂人はあっと声を呑んで、かけていた椅子からとびあがった。
「ばかばかしい! しかし、そのこと、だれかに話したか? ――いや、話したところで、信じるやつがいるものか! ふた月のあいだ、ぼくといっしょに生きていた男だ! で、あんた、いったい、なにを狙っている?」
ウィレットは小柄な男だが、裁く者の威厳を鮮かに示し、手振りで患者の苛立ちを押えていった。
「だれにも話してはおらぬ。これは時空を狂わせた恐怖、常識では理解できぬ事件だ。警察官、司法官、精神病医、そのだれもの思考能力を超えておる。ただ、感謝すべきは、神がわたしの心に、イマジネーションの火花を閃《ひらめ》かしてくだされたことだ。その力があればこそ、わたしはこの事件の真相を究明するにあたって、迷うことがなくてすんだ。
「いいか、ジョゼフ・カーウィン! わたしだけは、欺《あざむ》くことができんぞ! 呪われた魔力が、いまなおこの現代に生きておるのを、このわたしは見抜いたのだ! きみのかけた呪いは、きみに生き写しの子孫に結びつき、彼を過去の世界に誘いこみ、彼をして、きみを忌わしい墓から呼び出させた。彼はきみを実験室に隠匿《いんとく》し、新しい時代の知識を習得させた。その結果、吸血鬼として、夜間、徘徊する力を獲得したきみは、顎ひげと黒眼鏡で彼との相似をかくし、この世にふたたび姿を現わした。しかし、墓地をあばき、遣骨を漁《あさ》るきみの怪しからぬ所業を知ると、善良なる彼はこれを防止しようとした。するときみは、彼の恩を忘れ、残虐な計画を立て、これを実行に移した。
「きみは顎ひげと眼鏡をはずして、邸を見張る私立探偵たちを欺いた。探偵たちは、もどってきたのを彼と思い、出ていったのを彼と信じた。そのときすでに、彼はきみの手で絞め殺され、書斎の壁に隠匿されていた。しかし、二つの精神は、それぞれ異なる働きをする。そこに思いあたらぬとは、きみも迂闊な男といわねばならぬ。わかるか、カーウィン。目に映るだけが、同一性のすべてでない。なぜ、声、話しぶり、筆跡を考慮しなかった? きみはその工作をまったく忘れていた。
「ミナスキュール文字の筆者については、きみはわたし以上に知っていようが、だれがあれを書いたにせよ、無益に書かれたものでないのを警告しておく。神を冒涜する異常な存在は、かならず粉砕される運命にある。あの通信文の筆者が、いずれオーンとハッチンソンを処理してくれるだろう。わたしはそれを信じている。あのけものどもの一人が、きみに書いてよこしたことがあるではないか。『鎮魂しあたわざる物を呼び醒ますなかれ』と。その言葉が、彼ら自身のもとに帰っていく。きみは、かつて一度、滅ぼされた。いままた、おそらくはおなじ方法で、きみ自身の魔力が、きみをふたたび滅ぼすことになろう。天理は人力によって左右されるものでない。そこに一定の限界がある。きみが織り出した脅威が、きみの存在を掻き消すために立ちあがるのだ」
ここで医師の言葉は中断された。目の前の男が、凄まじい叫びをあげたからだ。追いつめられたものの最後の叫び。武器もなく、少しでも腕力を奮えば、二十人にちかい医員が駆けつけて、老医師の救助にあたるにきまっている。そこでジョゼフ・カーウィンは、古くからの仲間に協力を求めた。人差し指で印《いん》を結ぶカバラの招魂法を行ない、見せかけのしわがれ声を捨て、彼本来のふとく低い声をはりあげ、邪教の呪文の最初の一節を唱えだした。
「ヘブルの神、わが主エホヴァの名にかけ、万軍《サバオト》の主の名に、メトラトンの名にかけ……」
だが、ウィレットはさらにすばやかった。外の庭で、犬が吠えだし、突如として、入江のあたりから冷風が吹き起こったときは、すでにウィレットが荘重な声音で、韻律正しく、呪文を唱えはじめていた。目には目を、魔力には魔力を――地下の洞窟内で学び得た教訓を、もっとも効果的に示すべきときだ! マリナス・ビクネル・ウィレットの明晰な声が、一対の呪文の第二の部分を論していた。その第一の部分は、ミナスキュール文字の筆者を呼び出した。いま唱えているのは、『巨竜の尾』、『降勢の宮』のしるしを頂く第二の部分である。
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オグトロド アイ、フ
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ゲブル――エエヘ
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ヨグ・ソトト
ンガーング アイイ
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ズロー
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ウィレットの口から、その最初の一節がひびきわたると、すでに開始されていた患者の呪文がぴたっと停止した。声も出せず、怪物はただ、両腕を苦しげにふりまわすばかりだったが、いつかその腕もねじまがっていった。そして、ヨグ・ソトトの名が呼びあげられると同時に、怪物の身体に、身の毛もよだつ変化が生じた。それは単純に〈解体〉と呼ぶより、〈変形〉もしくは〈萎縮〉と名付けるのが至当な現象であった。ウィレットは、呪文を唱え終わらぬうちに、失神するのを怖れて、両眼を閉じた。
しかし、彼は失神しなかった。呪文を唱え終わった瞬間、数世紀にわたって神をけがし、禁断の秘密を享受した男の姿は消えて、ふたたびこの世を悩ます惧《おそ》れがなくなった。時空を超えた狂気は鎮静し、チャールズ・デクスター・ウォードの事件は終結した。ウィレット医師は、恐怖の病室からよろめき出るに先だって、目をみひらき、呪文を記憶に残したのが、無益な努力でなかったと知った。彼が予告したとおり、そこに酸の必要はなかった。一年前に消滅した呪われた肖像画とおなじに、いまジョゼフ・カーウィンは、床を蔽う灰青色の塵と変わっていた。