ラヴクラフト全集〈2〉 H・P・ラヴクラフト/宇野利泰訳 [#改ページ] チャールズ・ウォードの奇怪な事件 The Case of Charles Dexter Ward [#改ページ]         3 探査と招魂         T    すでに述べきたったように、おのれがジョゼフ・カーウィンの末裔であると、チャールズ・ウォードが知ったのは、一九一八年のことであった。それによって、怪奇な謎にみちた古き時代の伝説が、鮮烈な印象を彼にあたえ、その全精神を支配するにいたったのも不思議でない。その血を承《う》け継いだカーウィンについての曖昧《あいまい》模糊《もこ》たる噂のすべてが、彼にとっての決定的な関心事となった。かくて、想像力に恵まれたこの若い系譜学者が、ジョゼフ・カーウィンに関するあらゆる資料を、系統だった方法で、いとも貪欲に収集しはじめたのも、当然のことといえよう。  カーウィン事件の究明にあたって、当初、チャールズ・ウォードには、秘密裡に行動する意向など露ほどもなかった。だからこそ、その狂気を診断したライマン博士にしても、精神錯乱の初期の兆候を、一九一八年の末以前にさかのぼらせるに躊躇を感じた。事実、ウォードはこの事件について、身内の者と自由に話しあい――母親はしかし、カーウィンを先祖に持つことを知られたがらなかった――各都市の博物館や図書館を訪れ、館員たちに質問してまわり、当時の記録を保存していると思われる家族にその詳細を問い合わせるにあたっても、調査の趣旨を隠すことなく、これらの家族たちとのあいだに、古い日記や書翰の信憑《しんぴょう》性について、興味と懐疑を分かちあった。ポートゥックスト街道にある農場跡にも、幾度となく足を運んだが、そのつど、一半世紀以前の昔に、このような土地に伝説どおりの事件が起きたものか、ジョゼフ・カーウィンなる怪人物が実在したものかと、激しい疑惑を表明するのであった。  調査の結果、チャールズ・ウォードは、スミス日記その他の古文書を入手した。そのなかに、ジェディダイア・オーンからカーウィンに宛てた書翰を発見すると、セーレムの町を訪れ、問題の人物のプロヴィデンス移住に先立つ生活と、事件への関連性を探究しようと考えた。この計画を実行に移したのは、一九一九年の復活祭休暇のあいだで、崩れかかった破風と切妻屋根の清教徒の家屋がいまなお軒をつらねている魅力に富んだこの古い都会には、以前にも何度か滞在したことがあったので、エセックス学術協会があたたかく迎えてくれて、かなりの数量のカーウィン資料を発掘することができた。  チャールズ・ウォードが知りえたところを概括して記すと、ジョゼフ・カーウィンは、一六六二年か六三年の二月の十八日に、セーレムの町から七マイルほど離れた現在のディンバーズ、当時はセーレム・ヴィレッジと呼ばれていた小村に出生した。十五歳のとき、船員となって海外に出て、九年のあいだ消息を絶っていたが、生まれついての英人同様の言語、習慣、服装を身にっけて帰国し、その後はセーレムの町に住みついた。家族の者とも往《ゆ》き来することなく、ヨーロッパから持ち帰った異様な書物を耽読し、イギリス、フランス、オランダからの便船が届ける見慣れぬ化学薬品を処理することで、大部分の時間を費やしていた。ときに郊外地帯へ出かけていくのが、その地方の穿鑿《せんさく》好きの人々の目をひいて、夜間、はるかな丘陵の上に、なんとも知れぬ火が燃えることに、この行動が結びつけられた。  ジョゼフ・カーウィンの友人といっては、セーレム・ヴィレッジに住むエドワード・ハッチンソンという男とセーレムの町のシモン・オーンの二人にすぎなかった。親しく交際し、相互に訪問しあい、公有の草刈り場でなにやら密談しているところが、しばしば人目に触れた。ハッチンソンの住居は、田園地帯が森林に変わるあたりにあって、夜間に異様な音響をひびかせることから、感受性のつよい村人たちの顰蹙《ひんしゅく》を買っていた。そしてまた、異国人の訪問が多いこと、窓を洩れる燈火の色がたえず変わること、遠い昔に死亡した人々の消息に詳しすぎること、等々の事実に、ややともすれば暗い噂を立てられた。このハッチンソンは、セーレムの魔女事件が起きる直前、とつぜん村を去って、二度と姿を見られることがなかった。おなじころ、ジョゼフ・カーウィンも町を離れたが、彼の場合は、プロヴィデンスに移り住んだことがすぐに知られた。シモン・オーンは一七二〇年まで、セーレムの町に暮らしていた。ところで、いくら歳月が過ぎても、容貌に変化が生ぜず、齢をとる様子が見られぬことで、町民たちのあいだに、忌わしい噂が立ちはじめた。それが理由か、いつのまにか姿を晦《くら》ました。そして三十年の後、彼の精確な分身、そっくりおなじ格好の息子が町にあらわれて、父の財産の相続権を主張した。シモン・オーンの筆跡にまちがいない遺言書その他の文書を提示したので、相続権の主張は簡単に容認された。オーン二世であるこのジェディダイアは、その後ひきつづき、一七七一年にいたるまで、セーレムに居住していたのであるが、この年、カーウィンの事件にからんで、彼との関係を告げる文書が、プロヴィデンスの有力者から、セーレムのトマス・バーナード司祭その他の人々宛に届いた。これを察知したものか、ジェディダイア・オーンもまた、人知れずいずこかへ姿をかくすことになったのである。  これらの奇怪な事実についての記録が、エセックス学術協会、裁判所、売買契約登記所の保管書類から発見された。そこには、地券、不動産権利書、売買契約書といった無害平凡な性質のものから、より刺激的な内容を含む秘密にみちた断片まで、いちおう保存されていて、なかに、彼らが歴史に有名なセーレムの魔女裁判事件に関連していた事実を物語る文書が四、五点存在しているのだった。たとえば、ヘプジバー・ローソンという女性が、一六九二年七月十日の聴訟法廷で、ホーソン判事に証言した供述書があって、総数四十人の悪魔に仕える男女が、いつもハッチンソン家の裏手にあたる森で集会を開いていた≠ニある。また、同年八月八日の巡回裁判の法廷で、アミティ・ハウなる娘が、ゲドニー判事につぎのような証言を行なった。 あの夜、G・B(ジョージ・バローズのこと)さんが、悪魔の印《しるし》を捺《お》しました。捺された人たちの名、ブリジェット・S、ジョナサン・A、シモン・O、デリヴァランス・W、ジョゼフ・C、スーザン・P、メヒタブル・C、デボラ・Bといった人たちですわ≠ニ。それにまた、異端の書を網羅したハッチンソンの蔵書目録が現存しているし、彼の失踪後に発見されたもののうちには、明らかにその筆跡と思われる未完成の草稿もあって、これには、未知の記号による文字が書きつらねてあった。チャールズ・ウォードはその写真コピーの作成を係員に依頼し、手もとに届けられるや、憑《つ》かれたような情熱で、解読作業にとりかかった。八月九月は夢中で過ごしたようだが、その後の彼の言動から、十月または十一月までに、解読の鍵を見出したと信ずべき理由があった。しかし、ウォード自身はひとことも語ろうとしなかったので、成功したか否かは断定のかぎりでない。  一方、確実にいうことのできる興味ある事実は、オーン資料のうちにあった。ウォードはこれを検討し、カーウィンに宛てた書翰の筆跡と照合した結果、シモン・オーンとその息子ジェディダイア・オーンが同一人物であることを確認した。シモン・オーンはカーウィンへの書翰に記しているように、セーレムの町に居住することに危険を感じ、三十年のあいだ、外国に身をかくし、時代の移り変わりを確認してから、後継者として帰国して、かつての所有地の権利を主張したにちがいなかった。この人物も、往復文書を焼棄する用意を怠らなかったはずだが、それでもなお一七七一年に、彼を追及する行動を起こした町民たちは、疑惑を呼ぶに足る何通かの書翰と文書類との発見に成功した。これにもまた、オーンおよび他の者の手になる謎めいた記号と図式が見出された。そしていま、ウォードはこれを注意ぶかく筆写し、写真コピーにとって研究した末、とくべつ謎めいた書翰が、ジョゼフ・カーウィンの筆跡であることを、登記所に保管してあるカーウィン文書から明らかにするにいたった。  このカーウィン書翰《しょかん》には、月日だけで年が書いてない。しかし、オーンが書き送って、没収処分にあった書翰に答えるものでないのは明白で、そしてウォードは、これが書かれた年代を、その内容からして、一七五〇年以後のあまりおそくない頃と判定した。秘密と戦慄のうちに生きた彼らが、どのような文章を書いたかの見本として、その全文を書き写しておくのも無益ではあるまい。宛名は「シモン」として、その上に線を引いて消してあった(線を引いたのが、カーウィンなのかオーンであるかは、ウォードにはわからなかった)。   [#ここから2字下げ]  兄弟よ――  わが名誉ある旧来の友よ。まずもって、われらの奉仕する永遠の力に、正しき敬意と熱烈な願いを捧げておく。この書翰は、現在はからずも逢着《ほうちゃく》した危機にさいし、小生の選びし道を賢兄に伝えおく趣旨のものである。あらかじめ結論を述べると、小生には賢兄と行動を共にする所存はなく、その理由の一半は小生の年齢にして、いまひとつの理由は、目下のプロヴィデンスの情勢は、非世俗的なわれらをことごとく狩り出だし、裁判に付する段階にまでは立ちいたっておらぬことにある。小生のおかれた立場は、持ち船と所蔵物資に拘束され、賢兄のように、簡単に身を匿《かく》すことが不可能と了承ねがいたし。さらに、ポートゥックスト農場の地下にひそむ多数の物に、小生が別個の人間として帰国するまでの期間を待ちつづける余地のなきことは、賢兄もまた知るところであろう。  しかし、小生としても、かつて賢兄に告げしごとく、この苛酷な運命に備えのないわけでなく、失踪後の帰国の手段を長期にわたって考究してある。昨夜も、ヨグ・ソトト[#「ヨグ・ソトト」太字]を出現さす呪文に思いつき、これを唱えることにより、イブン・シャカバックがその著に書き伝えし顔を初めて見た。そして、その顔のいわく、鍵は『断罪の書』の第三讃歌にあり。第五天宮にある太陽と、三分の一対座の土星によって、火の五星形を描き、第九唱句を三回誦せよ。聖十字架祭と万聖節の夕べごとに、この唱句を繰り返し誦するときは、他界に転生することを得んと。  かくて古き物の種より[#「かくて古き物の種より」に傍点]、過去を顧みる物が[#「過去を顧みる物が」に傍点]、それ自体は何を見るかを知らぬままに[#「それ自体は何を見るかを知らぬままに」に傍点]、生まれ出ずることとなる[#「生まれ出ずることとなる」に傍点]。  しかし、これもまた、その後継者を欠き、塩と塩を創る秘法の用意なきときは、なんの役にも立たぬままに終わるであろう。小生にしても、従来、必要な階梯《かいてい》を踏む努力を怠り、多くを見出すことなく、むなしく日を過ごした事実を告白せねばならぬ。この目的に近づく過程はいちじるしき困難をともない、げんに小生自身、西インド諸島にて船員を獲得しながらも、材料の不足に苦しむ現状にある。もちろん、近隣の人々の猜疑を誘いはしたが、この点は憂慮の必要なく、彼らの目を追い払うことも不可能事ではない。ただ、心すべきは紳士階級に属するやからで、一般大衆より扱いにくき理由は、その報告に推測が多く、しかも彼ら自身、これに確信を抱いている点にある。たとえば、かの牧師とメリット氏なる人物が、なにかとあらぬ風評をながし、小生はこれを怖れている。とはいえ、現在までのところ、危険とみるまでの段階ではない。化学物質の入手は比較的容易で、プロヴィデンスの街には、ドクター・ボウエンとサム・ケアリューなる良き薬種商が二軒ある。小生は哲人ボレルスのいうところに従い、アブドル・アルハズレッドの著作第七巻に援助を求めている。小生の習得したところは、何事によらず、賢兄に報告することを約束する。賢兄もまた、この書翰に記載せし呪文の活用を怠らぬように希望する。かの物を見んと[#「見んと」に傍点]ねがうときは、同便の書物の内容を参照せられたし。聖十字架祭と万聖節の夕べには、かならず唱句を誦されよ。そして、唱誦の絶えることなきときは、数年のうちに、過去を顧みる物出現して、塩と塩の材料を使用し、かの物[#「かの物」に傍点]の代わりとならん。ヨブ記十四章十四節参照のこと。  セーレムへのご帰還の一日も早からんことを祈り、再会の時をいまよりお待ちする。さいわい、小生には良馬あるが故に、馬車を購入しておく考えなり。プロヴィデンスの街は悪路なれど、すでに一台、メリット氏所有のものが疾駆している。なお、今回の離郷を機会に、小生宅に立ち寄られることを希望する。ボストンより、デダム、レンサム、アトルバロー経由の駅馬車道路をとられることをお勧《すす》めする。これらの町には、それぞれ良き酒亭があり、ご宿泊はレンサムのボルコム旅館を推賞する。そこのベッドは、ハッチ旅館のものより優秀なり。ただし、食事は料理人の腕前からして、後者にて摂られるのが賢明と考える。パトゥケット滝にて、プロヴィデンスへの道をとると、セイルズ酒亭の前をすぎ、タウン街を出はずれたところ、エペネタス・オルニー酒亭の向う側に、小生の家を見る。オルニー・コート北側一番地。ボストンからは、約四十四マイルの距離にある。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから5字下げ] 五月一日 プロヴィデンスにて [#ここで字下げ終わり] [#地から3字上げ]永遠に変わることなき賢兄の忠実な友 [#地から3字上げ]アルモンシン・メトラトンの使徒 [#地から2字上げ]ジョゼフ・C [#ここから4字下げ] セーレム・ウィリアム小路  シモン・オーンどの [#ここで字下げ終わり]    読者は奇異に感じられるかもしれぬが、ウォードはこの書翰によって、プロヴィデンスにおけるカーウィン家の正確な位置をはじめて知った。その時までに彼が入手した記録には、具体的なことが記されていなかったのだ。この発見は、二重の意味で彼の心を衝《う》った。ひとつには、それが示すものは、一七六一年に旧宅の敷地内に建て直した家で、いまなおオルニー・コートに、荒廃した形ではあるが厳存している。そしてウォード自身、スタンパーズ・ヒルを越えての好古家的散策のあいだに、何度となく見かけているのだった。事実その家は、高台にある彼の邸から、わずか数丁、丘を下った地点にあって、現在では、黒人夫婦が住みついている。しかもこの夫婦は彼の邸に出入りして、洗濯、掃除、暖炉の修理などに従事しているのである。セーレムのような遠隔の地で、かくもとつぜん、平素見慣れた近所の陋屋《ろうおく》のうちに、彼の一家の過去の歴史がひそんでいるのを知って、ウォードはつよい印象を受けた。プロヴィデンスへ至急立ちもどって、その家を探究してみようと決意したのは当然のことといえよう。  書翰のもっとも謎にみちた部分は、なにかの象徴の誇張した表現と推察されるだけで、率直なところ、彼の理解力を上まわっていた。  そしてウォードは、はげしい好奇の心にふるえながら、その一節を書きとった。聖書の章句に、どのような関連があるのだろうか。ヨブ記十四章十四節といえば、彼も熟知の個所である、人もし死なばまた生きんや。われはわが征戦《いくさ》の諸日のあいだ、望みおりて、わが変更《かわり》のきたるを待たん         U    ウォード青年は歓喜にふるえながら、プロヴィデンスにもどり、つぎの土曜日を待ちかねて、オルニー・コートの家を見に出かけた。長い年月のあいだに、荒廃にちかい状態に変わっているが、元来、邸宅と呼ぶほど宏壮な規模を持つものでなく、この地方に多く見かける植民地時代様式の、慎ましやかな二階建の木造住宅だった。装飾をいっさい省いた尖り屋根、その中央につき出ている大きな煙突、彫刻を施した扉板、放射線状の扇窓、三角形の破風、整然としたドーリア風壁柱。崩れかけてはいるものの、昔時のおもかげをうかがうことができ、魔女事件にからんだ人物の住居というにふさわしい外観であった。  現在の居住者アサ老人とその逞《たくま》しい妻ハンナは、もともと顔見知りの仲であったので、こころよくウォードを迎えたうえ、丁重な態度で、屋内を案内してくれた。マントルピースの上の、渦巻き模様に壺をあしらった飾り棚は影を消し、象嵌《ぞうがん》細工の食器戸棚も失くなっていた。華麗だった腰羽目と浮き出し刳形《くりかた》にも手斧と丸|鑿《のみ》の跡が目立ち、いたるところに安物の壁紙が貼りつけてある。見渡しただけで、ウォードは期待を裏切られ、失望を味わったが、たとえジョゼフ・カーウィンのような呪われた男にしろ、彼自身の先祖が生活していた部屋かと思うと、興奮を押えきることができなかった。真鍮製の古いノッカーから、組み合わせ頭文字が入念に消しとってあるのを見て、ウォードは戦慄《せんりつ》に似た感じを抱いた。  その後の彼は、放課後の時間の大部分を、ハッチンソン文書の解読と、この地方におけるカーウィン資料の収集に費やした。前者はいつまでも成果があがらなかったが、後者は予想以上に獲得するところが多かった。ほかの土地にも足を伸ばした。ニューロンドンとニューヨークへは、数回旅行して、古い書翰類を閲覧させてもらったが、これがまた少なからず役立った。ポートゥックスト農場襲撃の詳細を知ったのは、フェナーの手紙によるものだし、ナイティンゲール・タルボットの手紙から、カーウィンの書斎の鏡板に、その肖像が描かれていた事実を知ったのもこの時だった。後者がとくに彼の興味をひいた。ジョゼフ・カーウィンの容貌はどんなであったろうか。彼はもう一度、オルニー・コートの家を訪ねてみたい気持をそそられた。剥《は》げかけたペンキの層、かび臭い壁紙の下に、邪悪な男の姿がひそんでいるのではなかろうか。  八月のはじめ、この調査を実行した。ウォードは周到な目で、どの部屋がかつての書斎かと、壁面をあらためて見てまわった。そして、一時間とたたぬうちに、その努力が酬いられた。階下のいちばん広い部屋で、暖炉の上のかなりの部分に、いちだんと濃く、ペンキが塗ってあるのを発見したのだ。薄刃のナイフで、剥げかけたペンキの層を削ってみて、その下が大きな油絵であるのをたしかめ得た。躍《おど》りあがらんばかりのうれしさだったが、学徒としての抑制心が、軽率な処置による破損の危険を怖れた。ウォードはとりあえず、専門家の援助を求めた。依頼した専門家とは、大学校舎のあるカレッジ・ヒルのふもとに工房を持つ、長い経験を積んだ美術家ウォルター・ドワイト氏で、その三日後、ウォードはこの美術家をともなって、ふたたび、オルニー・コートの家を訪れた。古い絵画の復元に卓抜な技術をそなえたドワイト氏は、適切な方法と化学薬品による処理で、ただちに作業を開始した。居住者の黒人夫婦は、ときならぬこれらの訪問者に、当然ながらいたく立腹したが、彼らの炉辺を騒がすことに妥当な賠償金を支払うと約束されて、渋々ながら了承したのである。  日一日と、復元作業は進行して、長いあいだ、ペンキの層の下にかくされていた線と影とが、しだいに日の目を見ていく様子を、チャールズ・ウォードは興味を持ってながめていた。ドワイト氏の作業は、飾り棚のうしろの羽目板の底辺からはじまったが、肖像画の全長は四分の三ヤードにおよぶものなので、顔の部分はしばらくのあいだ、あらわれてこなかった。やがてそこに出現したのは、痩身ながら均斉のとれた姿態の人物が、ダーク・ブルーの上着に縁どりをした胴衣、黒サテンの半ズボンと白の絹ストッキングをはき、彫刻を施した椅子に腰を下ろしている図であった。背後に描かれた窓からは、波止場とその先に浮かぶ帆船が見えている。やがて、頭の部分があらわれてきた。アルバマール鬘《かつら》をつけた細面《ほそおもて》の顔は、柔和でむしろ平凡ともいえる。そしてそれが、ウォードにも美術家にも、どこか見慣れたものに感じられた。しかし、復元者と依頼者が、真に驚愕して、喘ぎ声さえあげたのは、最後に油で洗い、繊細な削り落としの技術で、一半世紀のあいだ、完全に埋もれていた男の青ざめた顔を、あらゆるディテールにいたるまで、復元させたときであった。遺伝形質の演じるドラマチックないたずらをそこに見出して、ウォード青年は畏怖のおもいで、身慄いを感じた。いま直面したこの家の過去の居住者、四代以前の先祖の顔が、現代に生きるチャールズ・デクスター・ウォードのそれと、まったくおなじといってよいのだった。  ウォードは両親を案内して、彼が発見した不思議を見せた。父親のウォード氏は、即座にこの絵を買いとるといいだした。固定した壁板を解体するのに少なからぬ費用がかかるが、意に介せぬというのである。先祖返りの顕著な現われ、ジョゼフ・カーウィンの容貌が、一半世紀の後、息子チャールズの顔に、精確に再現しているのを見せつけられた驚きによるものだった。しかも、ウォード夫人にいわせると、彼女の記憶にある身内のうち、いま目の前にある男に似かよった顔の持ち主は、一人もいなかったとのことである。そして、この相似を喜ばぬ彼女は、肖像画を買いとるのはともかく、邸へ持ち帰るより、この場で焼却すべきだと主張するのだった。そこにはなにか不健全なものがひそんでいる。絵そのものがというのでなく、息子のチャールズに似ていること自体が、無気味に思えてならないのだ。しかし、現実的な事業家であるウォード氏は――氏はポートゥックスト渓谷の河に沿った地点に、棉花紡績の工場を所有していた――婦女子の疑心など念頭におく人物でなかった。肖像画と愛息の酷似に、むしろ大きな興味を抱いて、発見者のチャールズには、これを贈り物として受けとる権利があるとの意見だった。いうまでもないことだが、チャールズは父の好意を心から感謝した。かくて、その数日後、ウォード氏は家屋の所有者を訪問して、肖像画を描いた壁板をマントルピースごと買いとりたいと申し出た。そして、いきなり適切な価格を提示して、ネズミに似た顔の小男が、値段釣りあげの饒舌に移るのを簡単に制して、買収契約を妥結させた。  あとは、壁板をとりはずして、ウォード邸の三階にあるチャールズの書斎に運び、電熱器による擬似暖炉の上に、当初の姿のまま嵌《は》めこむだけであった。チャールズはこの作業の監督を命じられて、八月二十八日に、クルッカー室内装飾店の熟練した職人二名をつれて、オルニー・コートの家へ向かった。暖炉、マントルピース、その上の肖像画を支えている飾り棚と、細心の注意をもって解体し、装飾店のトラックが運び出していった。あとに残ったのは、むき出しにされた煙突の穴で、煉瓦を積みあげ、屋根に抜けている。ウォード青年は、積みあげた煉瓦の穴のちょうど肖像画の真うしろにあたる個所が、一フィート角に窪んでいるのを発見した。こんな場所に、こんな窪みが! なにを意味し、なにを秘めているか、好奇心に駆られた青年は、近づいてのぞきこんだ。煤と埃の堆《うずたか》い層の下に、黄いろく変色した紙片の束とかなり厚手のノートブックが見られた。いっしょに、ぼろぼろに朽ちはてた繊維の断片が残っているのは、この全部を結ぶ役目をつとめていた紐の残骸であろうか。ウォードはおびただしい埃を吹きはらって、まず最初、ノートブックをとりあげ、表紙に書きつけた乱雑な文字を読んだ。筆跡はまぎれもなく、エセックス学術協会所蔵の古文書のうちに、何度となく見かけたもので、『以前はセーレム、現在はプロヴィデンスの住民ジョゼフ・カーウィンの日誌および覚書』としてあった。  ウォードは興奮のあまり、そばから好奇の目をむけている職人二名に、これを示した。したがって、この事実についての職人たちの証言は、絶対的な信頼のおけるものである。ウィレット老医師もまた、この青年の行動に常軌を逸したところが見られだした当初は、いまだ狂気の段階に到達していなかったとの理論を組み立てるにあたって、彼ら二名の職人の報告に基礎をおいた。  紙片の束も、その全部がカーウィンの筆になるもので、なかにひとつ、その表題のゆえに、とくべつ忌わしく思われるものがあった。その表題は、『後から来る者のためにいかにして時空を超越し得るか』、いまひとつは、数多い暗号文字を含んでいて、それはウォードが解読に苦しんでいるハッチンソン文書のものと同一だった。第三のそれは、どうやら、これら暗号文解読の鍵と推察されて、探究者を歓ばせた。第四と第五のものは、それぞれ、『エドワード・ハッチンソン』と『ジェディダイア・オーン』、『あるいは、その後継者その他の相続権者』に宛ててある。そして最後の第六文書には、つぎのように記してあった。『ジョゼフ・カーウィンの生涯と一六七八年から八七年にいたる期間の海外旅行。どこへ旅立ち、どこに滞在し、だれと会い、なにを学んだか』         V    いまやこの物語は、チャールズ・ウォードの身の上の決定的段階に到達した。アカデミックな精神病理学者たちは、ウィレット医師の意見に反対して、この時点を狂気発生の端緒だと主張した。いずれが正しいかは別個の問題としてウォード青年がこの発見文書の数ページを読むことによって、ある事実を知り、大きく心を動かされたことは疑いなかった。職人たちには表題を示しただけで、本文そのものは一字も読ませようとせず、彼自身もその内容のまえには、好古学的、系譜学的な重要性も忘れたかに見受けられた。帰宅して、その発見の事実を両親に報告したが、なにか憑《つ》かれたような異常な顔つきで、ことの重要性を口走るばかりで、内容はもちろん、表題さえも教えようとしなかった。わずかに語ったところは、それがジョゼフ・カーウィンの自筆であること、ほとんどが暗号文字で、その真の意味を掴むに長時間の研究を必要とするとのことであった。職人たちに表題を示したのは、彼らの露骨な好奇心に負けたからで、しいて黙秘をつづければ、かえって噂の種となると判断したのだった。  その夜チャールズ・ウォードは、新しく発見した古文書に読みふけって、朝が訪れても、やめようとしなかった。心配した母親が様子を見にきても、食事を部屋に運んでくれというだけだった。午後になって、職人たちがカーウィンの肖像画とマントルピースの取付け作業をはじめたとき、わずかの時間、姿を見せはしたが、その夜が更けても、熱病的な研究がつづいた。睡眠は、服を着たまま、思いだしたように、ときどきとった。朝、母親が部屋へはいってみると、ハッチンソン文書の写真コピーと照合している最中だったが、母の質問に答えて、カーウィン文書を解読する鍵は、このなかには見当らぬようだとだけいった。  しかし、その日の午後には、ひとまず研究から離れて、書斎における肖像画の取付け作業をながめにきた。ちょうど作業が完了に近づいたところで、北側の壁面を、煙突が通っている格好に少し張り出し、その下に擬似暖炉とマントルピースを据え、巧妙に薪木に似せた電熱器を設置した。暖炉の側面には、部屋の色調とおなじ飾り板を貼った。肖像画を支える正面の鏡板は、鋸で切りとり、その背後に食器棚を嵌《は》めこめるように、蝶番《ちょうつがい》でとめた。    作業が終わって、職人たちが立ち去ると、ウォードはすぐさま、研究文書をこの書斎に運び入れた。適当な位置に腰をおろし、目を半ば暗号文書に、半ば暖炉の上にむけると、ジョゼフ・カーウィンの肖像画が、年古りて過去の思い出を写し出す鏡のように、チャールズを見返していた。後日両親は、この時期における愛息の挙動を回想して、興味ある事実を語った。それは、チャールズの秘密めいた班究方法のことで、召使たちの前だと、どのような資料も隠そうとしなかった。彼らの教養では、錯綜したカーウィンの筆の跡をたどって、その古風な文字を読みとる力がないと承知していたからだ。両親に対する場合はより慎重だった。暗号文字をつらねた部分、謎めいたシンボルと未知の表意文字の連続した個所(たとえば『後から来る者のために』がそれであった)は別として、ありあわせの紙片で、すばやく文面を蔽《おお》い、彼らが部屋を出ていくまで、とりのけようとしなかった。夜、睡眠にさいしては、かならず古いキャビネットに入れて、鍵をかけた。彼自身、部屋を出る必要が生じたときも、おなじ処置をとった。生活習慣は、長時間の散歩その他戸外における娯楽を廃止した以外は、旧来のものにもどり、規則的に時間を使った。学校がはじまると、いまや最上級生となったものの、授業がひどく煩わしいものに感じられて、勉学に頭を用いる気持はなくなったとさえ口走った。自分には、より重要な特殊研究がある。これによって、世界が誇るどの大学よりも、いっそう該博な知識を習得でき、古典文化への開眼の道があたえられると明言するのだった。  いうまでもないことだが、このような特殊の世界への沈潜をゆるされるのは、多かれ少なかれ、勤勉でいて孤独癖のつよい、いわば世間から変人と目されている人物にかぎる。チャールズ・ウォードが長い月日、そのような境地を楽しむことができたのも、生まれついての隠遁者的学究の素質を持つと見られていたからだ。それゆえに、彼が終日、自室に閉じこもって、なにやら知らぬ研究に没頭していても、両親はかくべつ意外なこととも考えなかった。ただ、その発見にかかわる宝物の断片すら示そうとせず、解読に熱中している資料の性質について、説明ひとつしないのを遺憾に思うとだけいった。その非難にチャールズは、目下のところ、関連性のある発表を行なう段階に達していない。いましばらく黙秘をつづけさせてもらうと答えた。しかし、数週間が過ぎ去っても、いぜんとして発表がないので、青年と家族の者たちのあいだに、ある種の気まずさが生じた。ことに母親の場合は、ジョゼフ・カーウィンなる人物をタブーにしているだけに、この研究そのものに、全面的な不満を表明した。  十月にはいると、ウォードはふたたび、各地の図書館を遍歴しはじめた。そしてそれは、過去の日におけるような好古家興味を満足させるためでなく、その渉猟する書物は、もっぱら、魔法、魔術、神秘学、悪魔学の分野にかぎられた。プロヴィデンス市内の古書籍を漁《あさ》りつくすと、ボストン行の列車に乗って、コプレイ・スクエアにある大図書館、ハーヴァード大学のワイドナー図書館、ブルックリンのユダヤ資料研究所等の宝庫を探ることにした。そこまで足を伸ばせば、聖書の時代を扱った稀覯《きこう》書を利用できるのだった。彼はまた、書斎内の棚を全面的に拡張して、おびただしく買い入れた書籍を並べ、奇怪な科学実験のための装置を設備した。一方、クリスマスの休暇のあいだは、プロヴィデンス市の郊外を周回し、さらには、セーレムの町にエセックス学術協会を訪れたりした。  一九二〇年一月の中旬、ウォードの顔に、勝利の表情が浮かんだ。その内容については、ひとことも語ろうとしなかったが、ハッチンソン文書の研究を打ち切って、化学実験と古記録調査を並行して開始した。前者のために、久しく捨ておかれた屋根裏部屋を実験室に改装し、その地方の薬局、実験器具店から(後日、証言を求められてこれらの商人は、その売却した奇怪な品々のリストを提出している)、異様な物質と無意味に近い器具のたぐいを大量に購入した。後者については、なにが調査の目的であるかを、州会議事堂、市庁舎、各所の図書館等の吏員が一致してみとめたところによると、ウォードの熱情的な追及は、過去の時代の人々が賢明にも抹殺したジョゼフ・カーウィンの墓石の所在地にあったのだ。  ウォードの家族は、しだいに不安のおもいを深めていった。チャールズの熱心さは明らかに異常だった。もともとこの青年には、好んで非実用的な対象を問題にし、二次的な事物に興味を抱く気紛れな性向があったが、それにしても、墓地の探索ごとき仕事で忘我の状態におちいるとは、正気の沙汰とも思えなかった。いまは学業もなおざりにして、学期末の試験だけはどうやら無事にすませたが、かつて見せた好学精神を完全に喪失したといってよいのだった。その現在の関心は、まったく別個のところ、忘れられた錬金術関係の書物、新しい実験室、下町の墓地の埋葬記録にあった。そのようなウォード青年に、書斎の北側の壁のマントルピース上の飾り棚から、見れば見るほど酷似の目立つジョゼフ・カーウィンの肖像画が、柔和な瞳を向けているのだった。  三月も末になると、ウォードは古い埋葬記録の精読にくわえて、市内の各墓地の実地踏査にとりかかった。市庁舎の吏員たちは、ようやく彼が、ジョゼフ・カーウィンの墓地についての重大な鍵をつきとめたものと憶測した。その理由は、彼の踏査の対象がナフタライ・フィールドという男の墓に移ったからであった。そして、この憶測は誤っていなかった。ウォードは古い埋葬記録をことごとく読破して、ついに、カーウィンの死骸の埋葬場所は完全に記録から抹殺されているのを知ったのだが、その代わり、間接的な記載を発見した。ナフタライ・フィールドの墓の南十フィート、西五フィートの地点に、異様な鉛の柩が埋められているというのである。この断片的な記録では、ナフタライ・フィールドの墓の位置そのものも特定されていないので、捜査はいぜんとして困難であったが、しかし、この人物の場合は、意識的に抹殺する必要があったとは考えられない。その記録の消失は偶然の結果で、直接現場にあたれば発見できぬものでもない。かくてふたたび、ウォードの墓地踏査が開始されたのだが、セント・ジョン(当時の名ではキング)教会の墓地とスワン・ポイント共同墓地の中央にある組合教会派の埋葬地だけは除外された。別個の記録によって、ナフタライ・フィールド(没年一七二九年)は浸礼教会派であることを知ったからだ。         W    五月に近い頃であったが、ウィレット老医師はウォード氏の要請で、チャールズ青年と面談した。会見に先立って、カーウィンなる人物に関する事実を――機嫌のよいときのチャールズが洩らす言葉のはしばしから、家族の者たちが拾い集めておいたものにすぎないが――予備知識として聞かされていたにかかわらず、この試みは徒労に終わり、なんの結論もひき出すことができなかった。しかし、チャールズの精神状態が健全そのものであり、真に重要な問題に取り組んでいるのは疑いのないところと知るのだった。彼は元来、その青白い顔に、それと感情をあらわすことのないタイプ、困却さえ容易には示そうとせぬ秘密主義的性向の持ち主なのだ。それが、最近のおのれの行動について、追及目的までは明かさぬにしても、ある程度具体的に説明したい気持でいる。そして、彼の語ったところによると、カーウィンと呼ぶ先祖の一人が書き残したものには、修道士ベイコンの発見にも比肩し得る、いや、おそらくはそれを凌駕《りょうが》する重要な秘密、揺藍期の科学知識が、暗号文字によって記されているとのことであった。もちろん、いまは廃絶した中世の学術体系と関連させて考える必要があり、このまま近代科学の洗礼を受けた今日の社会に発表したのでは、せっかくの感動も色褪めるだけであろう。人類の思想史に有意義な地位を獲ちとらすためには、まずもって、それが発展した時代との相関関係をきわめねばならぬ。いまのウォードは、この仕事に一身を捧げている。できるだけすみやかに、捨て去られた古代科学を習得したい。それこそ、カーウィン資料を正確に解釈するに不可欠なことである。目下、最大の関心事はここにあって、人類とその思想界にこの真意義を知らせるのが、彼に授けられた使命であり、もし、この使命が達成されたあかつきは、アインシュタイン博士の功績をはるかに超えて、事物の現代的観念に大変革をもたらすことになろう。以上が、ウィレット医師に語ったウォード青年の主張であった。  そしてウォードは、墓地を探索している事実とその目的を率直にみとめたが、どの程度進捗しているかとなると、口を緘《とざ》して触れようとしなかった。ただ、つぎのようにその意図を説明した。ジョゼフ・カーウィンの墓石には、本人の希《ねが》いによって、ある種の記号が彫りつけてあるはずである。カーウィンの名の抹消をはかった人々も、この記号までは、おそらくその重要性を知らずに、削り落とすのを忘れていたと思う。しかもこれが、彼の怪奇な思考体系を最終的に解きほぐす本質的な鍵であるのだ。ウォードの信念によれば、カーウィンはその開発した神秘的世界を後世に伝えようと希《ねが》って、極度に不可解な方法で、各所に資料を分散し、配置しておいたにちがいないのである。  ウィレット医師が問題の古文書を見たいと望むと、ウォード青年は気のすすまぬ表情を露骨にあらわして、ハッチンソン文書とオーンの書いた呪文と図式の写真コピーを示すことで、その場をつくろおうとした。しかし、老医師の飽くなき懇請に負けて、しぶしぶながら、カーウィンの旧邸から発掘した古文書をとり出した――『日誌および覚書』、暗号文字(その表題もまた暗号だった)、呪文にみちた伝言の書『後から来る者のために』――そして、内部もちらっと見せはしたが、医師の目には、無意味にちかい晦渋な文字の羅列だった。  ウォードはまた、日誌をひらいてみせたが、周到に、問題のないページを選んだので、ウィレット医師としては、ジョゼフ・カーウィンの筆跡を知ったにすぎなかった。しかし、瞬間的な一瞥のうちにも、錯綜して判読しがたい筆致から、十八世紀まで生きたにせよ、元来は十七世紀の人間である男の文体を感じとり、老医師はただちに、文書の真正であることを容認した。ただし、彼が目にした部分は、比較的末梢的な個所で、断片的に記憶に残っただけで終わった。   [#ここから2字下げ]  一七五四年十月十六日水曜日  本日、余の帆船ワッヘファル号、ロンドンより帰還し、プロヴィデンスに入港せり。途中、西インド諸島にて、二十名の男たちを収容す。すなわち、マルティネコよりスペイン人を、スリナムよりオランダ人を乗船さすことに成功したるなり。ただし、オランダ人はわれらの意図を誤解せしか、逃亡をくわだてる気配を示す由。されど、余には彼らを説得する自信あり。積荷の明細は以下のごとし。『月桂樹と書物』屋のナイト・デクスター氏には、ラクダ織物百二十枚、同上薄手物百枚、青色粗ラシャ地二十枚、シャロン織百枚、キャラマンコ・ラシャ地五十枚、木棉地と粗木棉地とを各三百枚。『象《エレファント》』屋のグリーン氏には、厚手ビロード地二十枚と火のし十丁。ペリゴ氏にはオウムひと番《つが》い。ナイティンゲール氏には大判紙五十|連《リーム》。昨夜、サバオト[#「サバオト」太字]を三回唱えしが、何物も出現せず。トランシルヴァニアへの連絡は難事なれど、H氏より多くの教示を乞わねばならぬ。すでに数百年のあいだ、氏が効果的に活用しきたれる秘法を余に伝達できぬとは、如何なる理由なるか。この五週間、シモンからの便りが途絶えおるも、近く書翰の到来を期待するものなり。 [#ここで字下げ終わり]    そこまで読みすすんで、ウィレット医師がページを繰ろうとすると、ウォードはすばやくさえぎって、老医師の手からノートブックをひきもぎった。しかし、そのあいだにも、新しくひらいたページから、老医師は何行かの文字を読みとっていた。そして、奇妙なことだが、その一節が頭にこびりついて、いつまでも離れなかった。つぎのような内容であった。五度の聖十字架祭と四度の万聖節の夕べに、『断罪の書』によって誦えられる唱句に、そのもの[#「そのもの」に傍点]の他界にあって育つのを希《ねが》う、とある。それは後から来る者をして、その生涯を通じ、過去の事物を想起さすものなり。余はこれに、塩もしくは塩を作るものを用意することとならん  ウィレット医師は、その先まで目を通す余裕がなかった。しかしこの一節を読みとっただけで、マントルピースの上の飾り棚から、柔和な顔で見下ろしているジョゼフ・カーウィンの肖像画が、不安におののいたような印象を受けた。そしてその後――もちろん彼の医学的知識が、非常識な幻想と教えはしたが――肖像画の目が、室内を歩きまわるチャールズ・ウォードの動きを追いつづけているかに思われてならなかった。医師は、その部屋を辞去するにあたって、あらためて肖像画を熱視し、あまりにもチャールズに酷似しているのに驚き、青白い顔のあらゆる細部を、右の目の上のなめらかな眉のうちに見えるかすかな傷痕まで、記憶のうちに叩きこもうと努めた。たしかにコスモ・アレグザンダーは、名匠ヘンリー・レイバーン卿を産んだスコットランドの名をけがさず、輝かしい弟子ギルバート・スチュワートの教師と呼ぶにふさわしい画家であると、ウィレット医師はいまさらながら感じとった。  チャールズの精神状態に危険はなく、その研究への没我ぶりも、目的の重要性によるものだとのウィレット医師の診断を聞かされると、ウォード夫妻は愁眉をひらいた、それにひきつづく六月に、青年がカレッジへの進学を積極的に拒否したときも、本来ならば叱りつけるところだが、寛大に許容する意向を示した。チャールズ自身も、学業以上に重要な研究を追及したい気持を表明して、アメリカ国外の資料を調査するために、来年はヨーロッパへ行かせてほしいと、希望のほどをほのめかした。父のウォード氏は、進学の中止は黙認したが、外国行の希望は、十八歳という年少の身では、無謀にちかいと考えて一蹴《いっしゅう》し、聞きいれようともしなかった。そこで、中位の成績でモーゼズ・ブラウン・スクールを卒業したチャールズは、その後の三年間を自宅にとどまって、神秘学の徹底的な研究と墓地の探索にあてた。もちろん、世間からは常軌を逸した変わり者と見られ、ウォード家の友人たちの目から完全に脱落したところに毎日を送った。仕事への熱中度はいよいよ増大して、プロヴィデンスを遠くはなれた都市にも、古記録調査の旅行をつづけ、一度は南部まで足を伸ばして、沼沢地に住む白黒混血の老人の話を聞いた。ある新聞に、この老人についての奇怪な記事が載ったからだ。アディロンダック山脈内の小村を再度訪れたこともあった。やはり新聞紙上に、この小村が古い異様な祭儀を伝えている記事を読んだからである。ただ、その希望する旧大陸への旅行だけは、ついに両親が許してくれなかった。  一九二三年四月に、チャールズ・ウォードは成年に達した。その少し前に、母方の祖父から、ちょっとした遺産を贈られたこともあって、これまで彼を阻んでいたヨーロッパ旅行を断行しようと決心した。その目的については、研究に必要な各所を遍歴するというほか、具体的な計画を語ろうとせず、ただ、両親にはたえず手紙を書き送り、行動を忠実かつ詳細に報告すると約束した。決意の固さを見てとると、両親も説得を諦め、可能なかぎりの援助をあたえる方針に転じた。その年の六月、チャールズ青年は父と母から別れの祝福を受け、イギリスのリヴァプール港にむけて出帆することになった。両親は愛息の旅立ちをボストン港まで送って、チャールズタウンのホワイト・スター波止場から、船の見えなくなるまで、手を振った。航海はつつがなく、目的港に到着し、やがて手紙が届いて、ロンドンのグレイト・ラッセル街に落ち着いた旨を知らせてきた。それにはまた、当分のあいだ、知人との交友をいっさい避け、借り受けた部屋と大英博物館のあいだの往復に終始し、博物館所蔵の関係文書を調べつくす考えだとしてあった。しかし、ロンドンにおける日常生活については、かくべつ報告に値することがないとの理由で、ほとんど触れるところがなく、借り受けた数室のうち、一部屋を実験室にあてたと書いてあるのを見ても、チャールズの頭の全領域と時間の全部とが、調査と実験に占められているのが推察された。好古家の心をそそるドームと尖塔の古都ロンドン。入り組んだ街路と小路。その迷路が突如ひらけて、眺望をほしいままにできるときの驚きと歓び。その散策の愉《たの》しさも忘れて、研究の新鮮な興味に浸っている愛息の姿を想像して、両親はこれを、むしろよき兆候と受けとるのだった。  一九二四年六月、簡単な文面の手紙が、これからパリへむけて出発すると知らせてきた。パリには以前にも、一度か二度、飛行機で訪れて、|国 民 図 書 館《ビブリオテーク・ナシオナール》所蔵の資料を調査したことがあって、未見の都市ではないとしてあった。その後三ヵ月のあいだに、届いた便りは葉書一枚だけで、それには、現在の住所はサン・ジャック街、目下、無名の個人収集家の書庫で、未刊の草稿の特別調査にあたっていると記してあった。この都会でも、知人と顔をあわせるのは意識して避けていた様子で、アメリカに帰国した観光客があると、両親はさっそく、愛息の消息を問いあわせるのだったが、姿を見かけたこともないとの返事だった。それからしばらくは完全に音信が途絶えた。そして、十月にはいって、ウォード家はプラハからの絵葉書を受けとった。それによってチャールズが、ある高齢の人物と面会する目的で、この古都を訪れたことを知った。老人は中世の知識をそなえた最後の生存者とのことで、新市内における住所が記載してあり、翌年の一月までは移動する予定がないとしてあった。一月になると、何枚かの葉書がウィーンから届いた。文通者の一人――おそらくは神秘学研究の同好者であろうが――から招待されて、さらに東方へ向かうことになったが、途中、この都会へ立ち寄ったとの文面であった。  つぎの便りはトランシルヴァニアのクラウゼンブルクからのもので、いよいよ最後の目的地に向かうとの報告なのだ。彼が訪問しようとしている相手はフェレンツィ男爵と呼ばれる貴族で、その領地はラクスの町の東方にそびえる山岳地帯のなかにある。チャールズへの連絡は、トランシルヴァニアのラクス、フェレンッィ男爵気付でよいと書き添えてあった。その一週間後、ラクスの町から葉書が届いて、男爵が差しむけた馬車で、山間の山村に向かうことになったと知らせてきた。これが最後の通信で、その後は両親からの度重なる連絡にも、返事ひとつよこさなくなった。五月の訪れとともに、息子の身を案じたウォード老夫妻は、夏期の休暇にヨーロッパ旅行を計画するから、ロンドン、パリ、ローマ、いずれかの都市で会うことにしたいと知らせてやった。しかし、その返事は両親を失望させるものだった。研究の進行段階が、現在の場所を離れることを許さず、しかもフェレンツィ男爵とその居城は、訪問者を迎えるに適当でないというのである。彼は具体的に説明して、城は暗い森林に蔽《おお》われた山岳の突端、千尋の谷を臨む断崖の上にあり、地方民も怖れて近づこうとしない。まして一般都会人は、遠望しただけで戦慄を禁じ得ないであろう。そのうえ、男爵の人柄たるや、保守的なニューイングランドの礼儀正しい紳士たちに好感をあたえるていのものでなく、その風貌も挙動も奇矯そのもの、しかも稀れに見る高齢が、かならずや訪問者の心を掻き乱し、平静を失わせるにちがいない。むしろ、いましばらく彼を放任して、プロヴィデンスへの帰還を待つのが賢明であろう。帰国もそれほど遠い先のことでないから――というのが、返事の趣旨であった。  しかし、チャールズ・ウォードの帰国はのびにのびて、一九二五年の五月になった。前もって、何通かの手紙で連絡してきたあと、年若き遍歴者は汽船ホメリック号で、ニューヨーク港に帰還し、そこからプロヴィデンスまでの長い距離を、乗合バスで横断した。緑の山脈がうねってつづくところ、香り高い花の咲く果樹園、春のコネチカット州に点在する、白亜の尖塔がそびえ立つ町々。バスのとまるたびごとに、チャールズは車を降りて、からだを休め、酒を飲んだ。それが、四年のあいだ難れていた古きニューイングランドの、最初に味わう味であった。バスがポートゥックスト街道をつっ切って、晩春の午後の金色にかがやくロード・アイランドにはいると、チャールズの胸は新しい生命の鼓動に高鳴り、さらに貯水池とエルムウッド・アヴェニューに沿って、プロヴィデンスの街並が近づくのを見て、長期間禁断の古伝説の世界に沈潜していたにかかわらず、彼の心は明るく躍るのだった。ブロードウェイ、ボセット、エンパイアの三つの道路が合流する丘上の広場では、前方と脚下に、燃えあがる落日のもとにひろがる古き街の甍《いらか》、そのあいだにきらめく円屋根と尖塔を眺めた。バスが終着場めざして丘を下ると、巨大なドームはいよいよ巨大に、河向うにつらなる昔ながらの丘陵は、その柔らかな緑をいっそう柔らかに見せてくる。丘陵の中腹に点在する人家の屋根と、そびえ立つ第一浸礼派教会の植民地時代風の尖塔が、幻想的な夕陽の光を受けて、新鮮な春の緑の断崖を背に、ピンク色に映えるさまを目にしたとき、チャールズはめまいに襲われるおもいを感じさせられた。  古き都会プロヴィデンス! 彼が人となったのは、この伝統の街であり、長い歴史に秘められた不思議な力であった。古い街筋に漂う神秘と秘密の色が、どのような予言者も定め得ぬ境地へ彼をひき入れた。事実この都会には、時と場合に応じ、あるいは驚嘆させ、あるいは戦慄させる魔力が漂っている。それが彼を中欧への旅に駆り立て、真摯な研究の数年を必要とさせたのだ。  チャールズ・ウォードはバスをタクシーに乗りかえた。郵便局広場を抜けると、河面のきらめきが目に映《うつ》る。古い公設市場の建物、ナラガンセット湾の突端、ウォターマン街からプロスペクト街へ降りるカーブの多い急坂。その北方には、巨大なドームとイオニヤ式柱廊が残照に映えるクリスチャン・サイエンス教会。広場を八つすぎて、幼児当時からの記憶に焼きついている古く美しい住宅地区に達する。彼の若い脚が、日夜踏みつづけてきた煉瓦敷きの歩道。そして最後に、右側に年古りた白塗りの小農家、左側に煉瓦造りの堂々たる建物が見えてくる。アダム様式のポーチと格間《こうま》造りの玄関をそなえたこの邸で、彼は生まれ、そして育ったのだ。すでに黄昏《たそがれ》時、チャールズ・デクスター・ウォードは帰宅したのだった。         X    ライマン博士ほどアカデミックでない精神病理学者の一派は、チャールズ・ウォードの真の狂気の発生時期を、そのヨーロッパ旅行中のものと診《み》た。出発時に正気であったことは認めるが、帰朝時の行動が、すでに不幸な変化の生じているのを暗示しているとの意見なのだ。しかし、ウィレット医師はこの診断にも反対意見を表明した。彼の主張によれば、その時期はさらにあとであり、チャールズが帰国当時に見せた異常な動作は、海外で過ごした長い年月のあいだに、おのずと身についた異国の慣習風俗が人目をひいたにすぎない。しかも研究の対象が中世の祭儀とあっては、式僧の役割を演じたがるのも無理からぬことで、これを精神錯乱の兆候とみるのは、正しい解釈とはいえぬ。いちじるしく老成しただけに、思考がかたくなになったかもしれぬが、心理反応は概して正常であり、ウィレット医師との数回にわたる談話においても、精神の平衡を示していることに疑いなかった。狂人であるなれば、たとえ初期の段階にしろ、長期にわたって継続的に、常人を装いつづける能力はないはずである。以上がウィレット医師の見解であった。もしかりに、この時期におけるチャールズ・ウォードが狂気の段階に達していたとの観念をひき出すとすれば、ウォード邸の屋根裏部屋に設けられた実験室から、四六時中聞こえていた異様な声こそ、もっとも有力な材料であったであろう。チャールズはこの実験室にほとんどの時間をすごしていて、聞こえてくるのは詠誦の繰り返し、無気味なリズムでとどろきわたる朗読だった。それがチャールズ自身の声であるのに疑いはなかったが、式文を読みあげる抑揚に、聴く者の血を凍らせずにおかぬものがあった。家族の者から愛されているニッグという黒猫が、その声を聞くと、かならず毛を逆立て背中をそびやかすのが、みなの目にとまった。  それにまた、折りに触れて、実験室からながれてくるにおいが、声に劣らず異様だった。鼻をつく刺激性の臭気のときもあり、浮動的で捕捉しがたい芳香を漂わし、幻想的なイメージを誘い出すこともあり、とにかくそれは、嗅ぐ人々をして、ひろびろとした展望の瞬間的な蜃気楼、たとえていえば、奇妙な形の丘とか、スフィンクスや|鷲頭馬体の怪物《ヒッポグリフ》のはてしないつらなりを見る思いをさせた。  チャールズはもはや、かつて愛好した散歩にまったく興味を失った。その代わり、終日、実験室のなかに閉じこもり、外国から持ち帰った異様な書物を読みふけり、同様に異様な化学実験に没頭した。そして家族の者には、ヨーロッパで入手した資料が、仕事の成功率を増大してくれたからだと説明し、数年のうちに、全人類を驚かすに足る偉大な発見をしてみせると約束した。その容貌は、書斎の壁のカーウィンの肖像画にいよいよ似てきた。ウィレット医師も訪問のつど、肖像画の前に足をとめて、同一人ともいえる相似に、思わず驚嘆の声を洩らした。事実、悪魔の使徒となった過去の人物と、現在ここに生きている若者との相違は、肖像画の右の目の上にかすかに描かれている小さな傷痕だけであった。ウィレット医師の訪問は、ウォード氏夫妻の懇請によるものだった。チャールズは一度も反発的な態度を見せたことがなかったが、それでいて医師は、青年の心理の底にあるものを理解できずに、焦燥ばかり味わわされた。しかも、医師は訪問のたびごとに不思議なものを目にした。棚またはテーブルの上に載った蝋製の小像の、なんともいえずグロテスクなデザインがそのひとつ。いまひとつは、いつもかならず床の中央部に、白墨か木炭《チャコール》で、描いては消してある円、三角、五線星の図が見られたことだ。それにくわえて、夜ごとに実験室から、奇怪な抑揚をもって大声に唱える呪文が聞こえてくる。召使たちの口から、チャールズ・ウォード発狂の噂が洩れはじめたのも当然のことといえよう。  一九二七年一月のある夜、奇怪な出来事が生じた。その夜十二時ちかく、例によってチャールズが呪文を唱えはじめて、その不快なリズムが階下まで伝わると、急に、ナラガンセット湾の水面から、峻烈な寒気をともなった突風が吹きよせてきた。かすかながら、大地までが震動したので、近隣の人々も驚いて目をさました。同時に、猫は恐怖のいろを示し、犬が一マイル四方に聞こえる吠え声を立てた。この季節の強風はめずらしい現象でなく、その夜がこの年の序曲であったのだろうが、それにしても信じられぬほどの烈しさで、ウォード邸だけを襲ったのが異常だった。家族の者は、被害の跡をたしかめようと、いそいで階上へ駆けあがった。すると、屋根裏へのぼる階段の上に、緊張した様子で立っているチャールズの姿を見た。血の気の失せた蒼白の顔に、勝利の誇りと悲痛なまでの真摯さが結合して、見るからにぞっとする表情をたたえていた。両親が近づくと、邸は現実的な被害を受けたわけでなく、騒ぎたてることはありません。そのうちに、嵐もしずまるはずですと、きっぱりした口調で告げるのだった。窓の外を眺めると、なるほど、チャールズの言葉に嘘はなかった。いまは遠い地平線に稲妻が細く走るだけで、海からの烈風に枝をたわめていた木々も、もとの姿勢をとりもどし、音を沈めた雷鳴が死に絶えていくところだった。そして、夜空に星がきらめきだすと、チャールズ・ウォードの顔に捺《お》された勝利の刻印が、いとも異様な形に昇華していくのだった。  この出来事から二、三ヵ月たつと、ウォードは以前ほど実験室に閉じこもらなくなった。天候に興味を示して、春の雪融けのはじまる日はいつかと、くどいほど質問した。そして、三月の末のある夜、真夜中すぎに外出して、明け方ちかくまでもどらなかった。母親はそれを気にして、眠ることもできずにいたので、ドライブウェイの入口に、エンジンの響きが近づくのを耳にした。起きあがって、窓ぎわに立つと、黒い人影が四つ、トラックに積んできた長方形の重たげな箱を、横手のドアから屋内へ運び入れている。ひきつづき、あらあらしい息づかいと足音が階段をのぼり、最後に屋根裏部屋のあたりで、にぶい音を立てて、物が下ろされるのを聞いた。そのあと、足音がまた降りてきて、四人の男が戸外へあらわれ、トラックに乗って立ち去った。  その日、チャールズはふたたび、屋根裏に閉じこもる習慣にもどった。実験室の窓に、黒いカーテンを下ろし、召使が食事を運んでいっても、ドアをあけようとしなかった。金属物質らしいものを処理している物音がつづいていたが、正午ごろ、なにかを急激に捩《よじ》った様子で、鋭い叫びとともに物の倒れる響きが聞こえた。ウォード夫人が駆けつけて、ドアをはげしく叩きつづけると、最後にようやく彼女の息子のかすかな声が、べつに異状はありません。ご心配なさらないで、と答えた。そしてつづいて、いやな臭いがながれ出るかもしれませんが、まったく無害で、実験の都合上、防ぐわけにはいかないのです。それにまた、いまは大事な段階で、だれにも邪魔されたくないので、ドアをあけずにおきます。もうまもなく、食事に出ていきますから、ぼくのことはかまわずにおいてください、ともいった。  午後いっぱい、鍵をおろしたドアのうしろでなにやら異様な音がつづいていたが、それがやむと、約束どおりドアがひらいて、極度に憔悴したチャールズが顔をあらわした。だが、食事もそうそうにすませ、実験室にひっ返すにあたって、今後はどんな用件があっても、屋根裏へ近よらんでくれと、家族の者にいいわたした。これが彼の新しい秘密主義のはじまりで、謎にみちた屋根裏の作業部屋と、それに隣接した物置への出入りを厳禁した。物置はきれいに片付けて、最少限度の家具を入れ、寝室にあてた。書斎の書物も、必要なものは全部、屋根裏に移した。その後、ポートゥックストの村に小別荘を買ってもらうまで、この神聖不可侵の個人的領域での生活がつづくのだった。  これもやはり、その日の夕刻、食事に降りてきたときのことであるが、チャールズは家族の者のだれよりも早く、夕刊新聞をとりあげると、つい過《あやま》った格好で、その一部に損傷をあたえた。後日、ウィレット医師は、それがいつのことかを邸内の人々にたしかめて、新聞協会事務所そなえつけの綴し込みから、その部分を探し出した。それは、つぎのような記事であった。   [#ここから3字下げ] 深夜の墓荒らし[#「深夜の墓荒らし」太字] [#ここで字下げ終わり] [#ここから6字下げ] 北墓地を騒がす[#「北墓地を騒がす」太字] [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ]  本日未明、北共同墓地の夜番ロパート・ハートが、旧墓地内にトラックを乗りつけた数名の男を発見して、犯行以前に追い払う殊勲を立てた。  発見時刻は四時。夜番小屋の外にエンジンの音を聞いたハートが、三、四十ヤード先の中央路に駐まっている大型トラックへ駆けつけると、夜の砂利道にひびく足音でそれと知った男たちは、狼狽して大型の箱をトラックに積みこみ、いちはやく墓地外の道路へ逃亡した。調査の結果、どの墓にも異状がないので、犯人たちの目的は箱の隠匿にあったものと推定された。  発見に先立つかなりの時間、作業が行なわれていた様子で、アモリ・フィールドの敷地内の道から相当おくの地点に埋葬用と同規模の穴が掘ってあった。しかし、内部は空《から》で、場所も埋葬簿には未記載のところだった。  現場検証にあたった第二警察署のライリー巡査部長は、以下の見解を発表した。犯人は密造酒業者のグループで、密造酒の隠匿場所に、狡猾にも無気味な墓地を選んだものと思われると。夜番のハートは警察官の尋問に答えて、トラックはロシャンボー街方面へ逃亡したと思うが、確言はできないと述べている。 [#ここで字下げ終わり]    つぎの数日間、チャールズ・ウォードは家族の者にも姿を見せなかった。寝室を屋根裏に移したことから、完全な孤独生活を送り、食事をドアの外まで運ばせても、召使が立ち去るまでは、ドアをあけようとしなかった。あいかわらず、眠りを誘う単調な呪文と、不快な抑揚の詠唱が断続的につづき、ガラス器が触れあい、化学薬品が沸騰し、水が迸《ほとばし》り、ガスの炎が音を立てた。ときどきは、ドアの隙間から、以前のものとはぜんぜん別種の、なんともいえずいやらしい臭いが洩れた。いたって稀れなことだが、この年若い隠者が、束の間、姿をあらわすときは、その顔に浮かぶ緊張のいろに、人目を驚かすものがあった。一度だけ、なにかの書籍が必要だと、アセニアム図書館へ出かけたことがあった。そしてまた、わざわざメッセンジャー・ボーイを雇って、ボストン市の古書店から、不可解きわまる内容の書物をとり寄せもした。要するに、あらゆる状況からみて、彼の行動の全部が不吉な予感を漂わせ、家族の者もウィレット医師も、これをどう判断したものかと、思い悩むばかりだった。         Y    四月十五日に、事態が異様な展開を示した。といって、ウォードの行動に変化が生じたわけでなく、激越さがいちだんとくわわったのだ。ウィレット医師は、この新情勢を重視した。  その日がちょうど聖金曜日にあたっていたので、召使たちはそこに意味があると噂したが、家族の者は、たまたま日時が符合しただけと、問題にするのをことさら避けた。その日の出来事は、つぎのような経過をたどった。午後おそく、ウォード青年はいつものように呪文を唱えだしたが、驚くほどの高声で、同時になにかの金属物質の燃えあがる音がして、刺激性の臭気が邸全体に充満した。ウォード夫人は階段を駆けのぼったが、もちろん、部屋のドアに鍵がかかっている。不安のうちに外の廊下にたたずんでいると、大声に唱える呪文がいやでも耳にとびこんできて、おのずと唱句が記憶に残った。  後刻、ウィレット医師にいわれて書きとめておいたものを専門学者に見せると、十九世紀フランスが産んだ神秘家エリファス・レヴィ、みずから称して、禁断の扉の隙間から虚無の世界の怖ろしき眺望をのぞき見たという謎の人物の著書に、これといちじるしく類似した文句を見出せると教えてくれた。   [#ここから3字下げ] ヘブルの神、 わが主エホヴァの名にかけ、 万軍《サバオト》の主の名に、 メトラトンの名にかけ、 魔神の言葉、 大竜の神秘にかけ、 われは呼ぶ、 森の精と地の霊よ、 悪魔コエリよ、 アルモンシン、ギボル、ヨシュアよ、 エヴァム、ザリアトナトミクよ、 来《きた》れ、来れ、来れ! [#ここで字下げ終わり]    この状態が、いささかの変化も中断もなく、二時間のあいだ継続すると、その一郭の家々の飼犬が、いっせいに、怯《おび》えたような吠え声をあげはじめた。それが聞こえた範囲は、翌日の朝刊紙に、異様な遠吠えとした記事の載った地域で推定できる。  しかし、ウォード家の人々は、そのすぐあとにつづいた鼻をつく悪臭に、犬の咆哮も耳にはいらなかった。地獄の底から湧きあがって、なにものにも浸透せずにおかぬ毒々しい瘴気《しょうき》。過去、現在、未来を通じて、かくも凄まじい悪臭は、人間の経験の埒《らち》外にあるのではなかろうか。そのさなかに、いなずまに似た閃光が走った。日の明るいこの時間でなければ、だれもの目がつぶれたであろうほど強烈なものであった。そしてその直後、だれとも知らぬ声が、いとも高らかにとどろいた。少なくとも、隣接二軒の家人は、飼犬の咆哮にもかかわらず、明瞭に聞きとったはずだ。重々しく、深味のある声[#「声」に傍点]。チャールズの声とは、明らかに異質のものだった。ウォード夫人は絶望的な気持で、実験室の外に立ちすくむばかりであったが、その声の意味するところを聞きとると、慄然とした。  邪悪にみちたジョゼフ・カーウィン伝説の再現、チャールズがまだ、その調査の結果を隠すことなく語っていた当時、その場に居合わせたように描写してみせた怪人物の最期の夜、呪われたポートゥックスト農場の上空にとどろきわたったのが、フェナー書翰の記載によれば、いまは忘れられた古代語によるこの一句だった――DIES MIES JESCHET BOENE DOESEFDOEVEME ENITEMAUS.  この高らかな声のあと、日没には一時間のまがあるはずなのに、天地が急に暗くなった。そして、最初の悪臭とは別種のものだが、同様に得体の知れぬ性質の、吐き気をさそう臭気が吹きつけてきた。またもチャールズが呪文を唱えだした。母親が明瞭に聞きとったところでは、イ、ナシュ、ヨグ・ソトト、ヘ、ルゲブ、フィ、トロオグド――そして最後が、ヤー! と終わる繰り返しだった。それが狂気じみた力で、しだいに調子をあげ、ついには耳をつんざく叫びに高まると聞きとった瞬間、すべての記憶を掻き消すごとく、長々と尾をひくすすり泣きと変わった。泣き声はまた、叫びとなって爆発し、やがてはそれに、間歇《かんけつ》的な発作のように、ヒステリックにとどろく悪魔の哄笑が入り混じる。ウォード夫人は慄えおののきながらも、盲目的な母性愛の虜となって、すべてを蔽《おお》いかくしている扉板を叩《たた》きはじめた。だが無我夢中で叩きつづけるその音も、室内の息子の耳には届かぬのか、返事の声さえもどってこなかった。けっきょく彼女は、力なく叩く手をとめた。新しく、第二の叫びが聞こえてきたからだ。これはまちがいなく、愛する息子の声であった。しかし、それに並行して、またも悪魔の哄笑が、なんともいえぬ残酷さでひびくのを聞くと、彼女はついに失神した。なにが理由で失神したのか、後日、彼女自身にも正確には思いだせなかった。  慈悲ぶかい神はときに応じて、記憶の削除を恵んでくれるものなのだ。  ウォード氏は六時十五分すぎに、事務所から帰宅した。妻の姿が見えぬので、召使たちに問いただすと、怯えている彼らの口から、奥様はたぶん、屋根裏においでのはずとの返事がもどってきた。いつも以上に音が激しすぎますのでとの説明を聞いて、ウォード氏はすぐさま、階段を駆けあがった。  はたして、実験室の外の廊下の床に、ウォード夫人がからだを横たえていた。失神していると見るや、近くの壁のくばみの棚からガラスの水壜をとり出して、冷水を妻の顔に浴びせた。  反応がすぐにあったので、ウォード氏もほっとした。しかしまた、彼女のみひらいた目のうちに、恐怖と当惑の色を見てとると、悪感が背筋を走るのをおぼえた。失神によって、かろうじて彼女が逃れ出た恐怖の境地に、自分までがひき入れられるのか。実験室の内部は、一見、平静を保っていた。おだやかな調子の会話がつづいているが、押し殺した低声なので、内容までは聞きとれぬ。しかし、その囁きが、魂の底の底まで震憾させずにおかぬていのものであるのは疑いなかった。  もちろん、チャールズが呪文をつぶやくのはいつものことで、めずらしくもないのであるが、この囁き声は、明らかに異質のものだった。ちょっと聞いただけでは、問いと答えの差異を示す抑揚をつけ、一人二役を演じているとも受けとれる。  しかし一方の声がチャールズむき出しであるのに、相手のそれは重厚でいて空虚、底知れぬ深みをひびかせている。古代祭儀の模倣には、天才的な技倆を示すチャールズではあるが、これほどまでの演技力をそなえているとは、考えられもしなかった。ここにはなにか、神をないがしろにする凶悪な異常性がひそんでいる。  折りよく、意識を回復した夫人が、ふたたび叫び声をあげたので、防禦本能を呼び醒《さ》ましたからよかったものの、それがなかったことには、気絶などという失態は、年少時以来、演じたことがないとのセオドア・ハウランド・ウォード氏の古き誇りも――もっとも、実際のところはこの古き誇りひとつを力に、ここ一年以上、耐えぬいてきたともいえるのだが――いまやこの場で、無残にも崩れ去ったにちがいなかったのだ。しかし、そこは気丈な氏のこととて、すばやく妻のからだを抱きあげ、氏の心をさわがした声に気付かぬうちにと、いそいで階段を降りはじめた。だが、その配慮もむなしく、声のつづきが氏自身の耳にはいって、その恐怖から階段の途中でよろめき、あやうく腕の重荷をとり落とすところだった。  夫人の悲鳴が、室内の二人の耳にも届いたのか、鍵をおろしたドアの向うから、はじめて、意味の聞きとれる言葉が洩れた。チャールズ自身の興奮を抑えた声で、彼もまた、いい知れぬ不安に襲われた響きがこもっていた。父親が聞きとったその言葉は、つぎのようなものだった。「しっ! だれか聞いている――筆談がいい」  ウォード夫妻は食事のあいだ、長い時間を費やして相談した。その結果、父のウォード氏は、その夜のうちにチャールズと腹を打ち割って話しあってみると、かたい決意を表明した。目的がいかに重要であろうと、あのような行動を許しておけるものでない。最近のそれは、正常の限界をはるかに越えて、目にあまるものがある。捨てておけば、家庭の平和が乱され、召使たちの規律も失われる。遺憾なことだが、チャールズは完全に理性を失ったとみえる。あれこそ、狂気を暴露するものでなくてなんであろうか。即刻、制止しなければならぬ。でないときは、ウォード夫人は患《わずら》いつくであろうし、召使たちの口を封じることも不可能になろう。  食事をすますと、ウォード氏は椅子をはなれて、チャールズの実験室へと、ふたたび階段をのぼっていった。しかし、三階の踊り場で、足をとめた。現在では使用していないはずの書斎に、物音を聞いたからである。ドアに歩みよると、書籍と草稿のたぐいが散乱しているあいだに、各種各様の書物を、両の腕いっぱいに抱えこんだチャールズが立っていた。緊張にゆがんだその顔は、憔悴の極にあった。ウォード氏が声をかけると、ぎくっとした様子で、抱えていた書物の全部をとり落とした。しかし、命令されるままに椅子にかけ、父親の長い訓戒にも、おとなしく聞き入って、口返答ひとつしなかった。訓戒が終わると、ウォード氏の叱責を素直に受け入れ、彼の声、囁き、祈り、化学薬品の臭気、どれもみな、不快なおもいをさせるばかりで、言い訳の言葉も知らぬと謝罪した。今後はこのようなことのないように努め、研究を書物の上だけにかぎると約束し、その代わり、当分のあいだは、従来どおり、密室内の生活をつづけさせてほしい。そしてもし、祭儀のために大声を出す必要が生じるときは、どこか閑静な場所に、一室をあてがってくれぬものかと願い出た。さらにはまた、母を恐怖におとしいれ、失神までさせたことに、深い悔悟の気持をあらわし、あのとき聞かれた対話は、宗教的雰囲気を醸成するために、古代祭儀が創出した精巧な象徴の一部だと釈明した。難解な化学術語を混じえての答弁に、ウォード氏は理解に苦しむところもあったが、別れるときの印象は、謎めいた緊張ぶりはともかくとして、その精神が正常で、平衡を保っている点は否定の余地がなかった。  会見はけっきょく不得要領のままに終わって、チャールズは腕いっぱいの書物を抱えて、書斎を出ていった。いまやウォード氏は、チャールズにからむ出来事のすべてが不可解になった。不可解といえば、会見に先立つ一時間まえ、地下室に、老猫ニッグの死骸が発見されたのも謎だった。なにを見たのか、目をみひらき、恐怖に口をゆがめ、全身を強直させて死んでいた。  混乱した気持におちいりながら、人間の持つ探偵本能に駆りたてられ、ウォード夫妻は好奇の目を、少なからず空所の生じた書棚へむけた。チャールズが屋根裏へ運んだ書物がなんであるかを知りたかったのだ。青年の蔵書は、簡明な分類法で、きちんと整理してあったので、なんの書物がひき抜いてあるか、書名はともかく、その種類は即座にわかるのだった。ところが、驚いたことに、欠けているのに、神秘学その他古代中世に関したものは一冊もなく、新たにひき出してあるのは、現世代の問題を扱った書物ばかりで、それが、歴史、自然科学、地誌学、文学年鑑、哲学書、最近の新聞雑誌類と、広範な分野にわたっているのだった。  チャールズ・ウォードの読書傾向にこのような突然変異が起きるとは、想像もされぬことであった。父のウォード氏は、いよいよひろがる疑惑の渦のなかに、部屋の内部を見まわした。なにか様子がおかしい。六感がそれを教えてくれる。毒のある爪が胸につき刺さるように、精神的に、また肉体的に、異常が感じとれた。氏はこの書斎に足を踏み入れた当初から、なにかが欠けているのに気づいていたのであった。  見まわして、はじめてその原因をつきとめ得た。北側の壁のマントルピースの上、彫刻をほどこした飾り棚の背後に、オルニー・コートの家から移したカーウィンの肖像画が据えてあるのだが、これを災厄が襲っていた。長い歳月と室内温度の不整とが、徐々に破壊の手を伸ばしつつあったのだが、ついにその作業を完成した。いつのことかわからぬが、最後に部屋の掃除をすませたあと、最悪の事態が生じたものらしい。絵具がはがれ、ちぢれ、巻きあがっていたのは、以前からのことであったが、いまやそれが、底意地わるい沈黙のうちに、とつぜん、細かく崩れて、落ち散っていた。かくてジョゼフ・カーウィンの肖像画は、異様なほど似かよった青年への壁上からの監視を永遠に諦め、灰青色のこまかな埃と変わって、床の上をうすく蔽《おお》っているのだった。