ラヴクラフト全集〈2〉 H・P・ラヴクラフト/宇野利泰訳 [#改ページ] チャールズ・ウォードの奇怪な事件 The Case of Charles Dexter Ward [#改ページ]         2 先人と妖異         T    チャールズ・ウォードが、その見聞によってまとめあげたところは、とりとめもない伝説というにすぎなかったが、いちおうこれで、ジョゼフ・カーウィンの人物像が明らかにされた。彼は怪奇と謎につつまれた底知れぬ恐怖の存在であった。セーレムの町にあの有名な魔女狩り騒ぎがはじまると、この人物はいちはやくプロヴィデンスへ逃れた。当時のこの町が、非国教会派、独立教会派、秘密教会派など異端の信仰を奉じる人々の逃避港であったこともあるが、より直接的な理由としては、平素彼が孤独な生活を送り、好んで化学と錬金術の研究を行なっていたと指摘され、魔女裁判に付せられる怖《おそ》れが生じたからであった。  年齢は三十歳ほど、異常なくらい色素のうすい男だったが、オルニー・コートの崖下にあたるグレゴリー・デクスターの家の北隣に地所を買い入れることで、プロヴィデンスの自由民の資格を取得した。住居は、現在のオルニー・コート、当時の名称でいえばタウン街の西、スタンパーズ・ヒルの上に建てた。一七六一年にいたって、おなじ敷地に、より大きな邸宅を建て直して、これがいまだに存在しているのだった。ところで、ジョゼフ・カーウィンについて最初に人目につきだした奇異な現象は、彼がこの町に移り住んでから、いっこうに齢をとる気配が見られなかったことである。事業としては、マイル・エンド入江に近い波止場の使用権を買いとって、回漕業を営んでいた。一七一三年に、大橋《グレイト・ブリッジ》の再建に協力し、一七二三年には、丘の上に組合教会派の教会を建立《こんりゅう》するにあたって、発起人の一人につらなった。問題は彼の容貌で、その間つねに、三十歳か、せいぜい三十五歳を越さぬ程度の状態を維持していた。何十年かを経過するうちに、当然、この不思議な現象が世人の注意を惹かずにはいなかった。カーウィン本人はこれを説明して、元来自分は貧困家庭に人となった男であり、質素な生活に慣れているので、疲れることを知らぬ。それがいつまでも若く見える理由だと語った。しかし、禁制物資をとり扱う商人たちが絶えず出入りし、彼の家の窓から、夜通し、怪しい光が洩《も》れている事実を、質素な生活と結びつけるのは困難なことで、町の人々は、彼の若さと長寿を、とかく、ほかの理由に帰しがちだった。そして、彼が寸暇を利して、薬品を混合させ、煮沸させる作業に没頭しているのを知ると、ほとんどの者が、これをその異常な若さに関係があると考えるにいたった。噂はさらに噂を呼んで、彼が自家用船に積載してロンドンまたは西インド諸島から持ち帰り、あるいは、ニューポート、ボストン、ニューヨークなどの港から買い入れている疑わしい物資が問題にされるのだった。やがて、デラウェアのレホボスから移ってきたジェイベズ・ボウエンという老医師が、大橋《グレイト・ブリッジ》の向う岸に、一角獣と乳鉢を描いた看板をかかげて薬種店を開業すると、カーウィンはさっそく常得意となり、薬品、酸類、稀少金属の購入ないし注文をはじめた。ここでもまた、たちまちその風評がひろまった。もっとも、その一方では、カーウィンの医療についての手腕はなみなみならぬものとの臆測もあって、彼を尋ねて救いを求める病人も数多く、疾病《しっぺい》の種類も各分野にわたっていた。彼もまた、気のすすまぬ顔つきながら、いちおうは信頼に応えるように、なにやら異様な色をした医薬をあたえていたが、それが効を奏したと聞くことは少なかった。そしてついに、移住の日から五十年の歳月が経過しているのに、その顔と肉体には五年の経過を示す変化もあらわれていないのがわかると、町の人々のあいだにいっそう黒い噂がながれ、孤独を好む彼の生活様式までが、あれこれと取り沙汰される結果になった。  その時代人の私信や日記のたぐいにも、ジョゼフ・カーウィンが疑惑の目で見られ、畏怖の対象となり、最後には疫病のように忌みきらわれるにいたった事情が述べられている。カーウィンが情熱的ともいえる嗜好を抱いていたものに、墓地があった。日夜を問わず、彼の姿が墓地に見られた。そこでなにをしているかが判然としたわけではないが、食屍のための行動であろうとの評判が高かった。  ポートゥックスト街道に、彼所有の農場があって、夏期はおおむねそこで暮らすのが、カーウィンの習慣だった。そして夏期以外の季節にあっても、昼となく夜となく、折りさえあればそこに馬車を駆る彼の姿が見られた。農場における召使兼耕作人兼管理人は、むっつり押し黙ったナラガンセット族のインディアン夫婦だけで、亭主は聾唖者で、無気味な傷痕が顔にあった。女房もまた、ぞっとするほど醜悪な器量で、おそらくはニグロの血が混じっているのであろう。この建物の差掛け屋根の下に実験室があって、化学実験が行なわれた。壜《びん》、袋、箱などの容器に詰めた薬品を運搬してくる男たちが、裏手の小さな扉口から、室内を好奇の目でのぞきこんでいると、口の重い化学者《ケミスト》が――それは錬金術師の意味であった――低い棚にならんだ奇妙な形のフラスコ、坩堝《るつぼ》、蒸留器、溶解炉の中身を取り替えながら、卑金属を金または銀に変える賢者の石を発見するのもそれほど遠い先のことでないと、囁《ささや》くように予言して聞かすのだった。  この農場にもっとも近い隣人というと、おなじく農場経営者で、四分の一マイルほど離れたところに住むフェナー夫妻であったが、この一家の人々が、夜間にカーウィン農場から聞こえてくる異様な物音について語った。それは、けものの鳴き声、押し殺したような吠え声だという。第一、カーウィンの牧場に、おどろくほど多数の家畜が放たれているのが不思議だった。孤独な老主人とたった二名の召使に、肉、ミルク、毛糸を供給するのに、これほど多数の家畜を必要としないはずである。しかも、家畜の種類が週ごとに変更する。新しい集団がキングズタウンの牧畜業者から届けられるのだった。不愉快なことが、いまひとつあった。それは、カーウィン農場の敷地内に、石造の大きな納屋が孤立していて、この建物たるや、窓がわりに、人目のとどかぬほどの高い位置に、申し訳程度の穴があいているだけなのも無気味だった。  大橋《グレイト・ブリッジ》の上に立つと、オルニー・コートにあるカーウィンの邸がながめられる。プロヴィデンスの町の閑人《ひまじん》たちは、これについても噂をながした。もっとも、一七六一年に建て直された新邸でなく(この年のカーウィンは、百歳に達しているはずと考えられていた)、この町に移り住んだ当初に建てた低い切妻屋根の家が、好んで話題にとりあげられた。窓のない屋根裏部屋と板屋根の家。これは比較的謎が少なかったが、とりこわしにあたって、屋根板の一枚一枚を、カーウィンが特別の注意をもってきれいに燃してしまったのは、どのような理由がひそんでいたのであろうか。現在の邸にしても、住んでいる者といっては、二人で一人の役しかしない有色人種夫婦の召使、信じられぬほど老齢であるからか、おそろしく不明瞭な発音をするフランス人の家政婦、あとは主人であるカーウィン自身と、わずか四名の家族であるのに、燈火がともるころになると、何十人分かの大量の食糧が運びこまれる。そしてまた、時ならぬ時に、押し殺した調子で語られる怪しげな会話。それらの事実が、ポートゥックスト街道の農場が立てている悪い噂に結びつくのは当然のことだった。  プロヴィデンスの町の上流階級のあいだでも、カーウィンについての風評が論議されなかったわけではない。しかしこの新来者は、移り住むと同時に、教会と実業界に働きかけ、当然なことながら、上流人士と近付きになり、この友好と会話を楽しむのに、じゅうぶんな資格をそなえているのを証明した。彼の生家が、落ちぶれたとはいえ名門の末裔であるのは、だれ知らぬものはなく、セーレムのカーウィン家といえば、ニューイングランドでは紹介の必要のない家柄だった。しかもジョゼフ・カーウィンは、若い頃のことではあるが、外地を旅行して歩き、しばらくはイギリス本土にも住みつき、少なくとも二回は、東洋へまで足を伸ばしていた。したがって、元来無口の彼が、折りにふれて会話の仲間入りをすると、その内容は学識ゆたかなイギリス人のものであった。しかし、どんな理由があるのか、カーウィンは社交を好まなかった。訪問客を拒絶するまでのことはないのだが、いつも身のまわりに、慎みの壁をめぐらして、彼に話しかける相手は、みずからの無知を意識させられることになる。  しかし、彼の挙措動作を精細に観察するときは、そこに冷笑的な傲慢さがひそんでいるのが見てとれた。異常にして力強い存在のあいだに生活していたことで、人類の愚鈍さを知りつくしたといわぬばかりの態度がちらつくのだった。一七八三年のことであったが、機知で知られたチェクリー博士が、キングズ教会の牧師として、ボストンから赴任してきた。博士はその以前から、ジョゼフ・カーウィンの名声を伝え聞いていたので、これを訪問することを忘れなかった。しかし、わずかの時間話しあっただけで、博士はそうそうにして暇《いとま》を告げた。主人の談話のうちに、なにか邪悪な底流を感じとったからである。この善良にして明朗な気質の聖職者は、よほど怖ろしいショックを受けたとみえて、そのときの会話の内容を、人に洩《も》らそうともしなかった。いや、それどころか、その後は、カーウィンの名を口にすることもしなかった。おそらくは、ジョゼフ・カーウィンと聞いただけで、明るい機知に富んだ博士の上品さも、いっきょに吹きとぶおもいであったのだろう。それについて、チャールズ・ウォードは、ある冬の夕べ、父に話して聞かせたことがある。そしてまた、当時の日記作家たちにしても、まったく同意見であったようだ。  しかし、この間の事情をより明確に物語るのは、氏《うじ》と育ちがよく、趣味のすぐれた学識者が、傲慢なこの疎外人を忌避するにいたった插話である。一七四五年に、初老のイギリス紳士で、古典文学と科学に通じたジョン・メリットという人物が、ニューポートの港町から、当時急激に発展しつつあったプロヴィデンスに移ってきて、いまなおこの都会の最高級の住宅地区であるザ・ネックに、壮麗な邸宅をかまえた。これは優雅な様式の生活を楽しんだ人物で、この町ではじめて自家用の馬車を駆り、召使たちに制服を着用させたのが彼であった。望遠鏡と顕微鏡を自慢にし、イギリス文学とラテン古典の選択よろしきを得た蔵書を誇っていた。このジョン・メリット氏が、プロヴィデンスの町の住人で最高の蔵書家といえばジョゼフ・カーウィンだと聞くと、さっそくこれを訪問することにした。そして、カーウィンにしてはめずらしい、心からの歓迎を受けた。その書棚を見まわして、ギリシャ、ラテン、イギリスの古典はもちろんのこと、哲学、数学、科学の諸部門にわたって、パラケルスス、アグリコラ、ヴァン・ヘルモント、シルヴィウス、グラゥバー、ボイル、プールハーヴ、ベッケル、シュタールを含んで、すぐれた書籍が収集されているのを知ると、メリット氏は思わず、感嘆の叫びをあげた。氏の賞讃の言葉を喜んだカーウィンは、農場内の実験室に案内したいといいだした。これもまた希有《けう》なことで、従来のカーウィンは、可能なかぎり実験室を人目に触れさせまいと努めていたのだ。二人はただちに、メリット氏の馬車に乗りこみ、ポートゥックスト街道の農場へ向かった。  後日、メリット氏が力説していたことだが、農場内の建物には、なんら異状は認められなかったそうだ。問題としてとりあげるとしたら、そこに収集してある書籍で、魔法、錬金術、神秘学を扱った特殊な文献が、あますところなく網羅されていて、その標題を一見しただけで、戦慄をおぼえるに、じゅうぶんであったという。しかも、それを見せるときの所蔵者の顔に浮かんだ表情が、嫌悪の気持を掻き立てたことも事実だった。もちろん、正統的な書物の数もおびただしいもので、メリット氏をして、驚くというより、むしろ羨望を感じさせはしたが、異端禁制の書を、これほど収集しうるとは、想像を絶したことといえるのだった。ヘプライト神秘教徒、悪魔学研究家、魔術師として知られている者の著述で、この書棚に並んでいないものはなく、錬金術と占星術の怪奇な領域における伝承の宝庫であった。一例をあげれば、メスナード版のヘルメス・トリスメギトゥス、『|魔 法 哲 学《トウルバ・フイロゾフアルム》』、ゲーベルの『|探 究 の 書《リーバー・インヴェステイガチオニス》』そしてアルテフォウスの『知恵の鍵』、そのすべてがここにあった。さらには、ユダヤ神秘《カバラ》主義者の『|光の書《ゾハール》』、ピーター・ジャム編のアルベルトゥス・マグヌス全集、ゼッツナー版のレイモンド・ラリー著『|偉 大 な る 秘 術《アルス・マグナ・エト・ウルテイマ》』、ロジャー・ベーコンの『|化 学 宝 典《テサウルス・ケミクス》』、フラッドの『|錬金術の鍵《クラヴイス・アルキミエ》』、トリテミウスの『|賢 者 の 石《デ・ラビデ・フイロゾフイコ》』といった書物が、ぎっしり棚を埋めていた。中世のユダヤ人、アラビア人の著作も豊富だった。メリット氏は美麗な豪華本を手にして、その題名を『イスラムの琴《カノーン》』と読むと、顔色を変えた。これこそ、狂気したアラビア人の学者アブドゥル・アルハザードが著わした死者の魂を招く術についての禁制の書であったからだ。数年前、マサチュセッツ湾に沿った小漁村キングズポートに、秘密宗団が発見されたあと、招魂術を説いたこの書物にからんで、怪奇な風評がながれたことがあったのだ。  しかし、もっとも奇異に感じられたのは、この有徳の紳士が、後日ひそかに語った事実である。いたって些細なことであるのに、メリット氏はいたく動揺させられたというが、そこの大きなマホガニーのテーブルの上に、手|擦《す》れのはげしいボレルスの著書が、ひらいたままで伏せてあった。ひらいてあるのは中ほどのページで、その欄外と行間に、カーウィンの筆跡で、謎めいた書き込みが見出された。そしてまた、震える手で下線を引いた個所を見出すと、メリット氏はその一節を読んでみたい誘惑に駆られた。その気持が、下線を引いた個所の内容によるものか、それとも、熱病じみたペンの跡の震えぐあいによるものか、メリット氏自身にも理解しかねた。しかし、その活字の結合のあるものがひどく特異に感じられ、その後も長く心に残ったことから、日記にそのまま書き写しておいた。一度はそれを親友のチェクリー博士に読んで聞かせようと考えたが、温雅な牧師の心を乱すのを怖れてとりやめにした。その一節はつぎのような文句であった。   [#ここから2字下げ]  獣類の本質をなす塩を抽出し、これを保存する時は、発明の才に恵まれし者なれば、その実験室内にノアの方舟《はこぶね》を貯えおき、好むがままに、獣の死灰を材料に、もとの形を復原し得るものである。哲人もまた同様の方法にて、人類の塵の本質たる塩と遺骸を焼きし灰を用い、死せる先人たちの生前の姿を、俗間行なわれる降神術などに依ることなく、呼びいだすことが可能である。 [#ここで字下げ終わり]    しかし、ジョゼフ・カーウィンについて、最悪の噂が囁《ささや》かれたのは、タウン街の南地区にある埠頭の付近であった。船員は元来、迷信深い人種である。ブラウン、クローフォード、ティリンガストを船長にいただき、ラム酒、黒人奴隷、糖蜜などを満載した一本マスト、または二本マストの帆船、ないしは、後方に傾斜した帆柱を持つ快速船に乗り組んで、万里の波濤を越えてくる老練な水夫たちも、この男ばかりには無気味なものを感じるのか、防御の姿勢をとって身を避けるのだった。痩身長躯、海風に金髪を靡《なび》かせ、異様に若々しい顔つきで、ダブロン街にあるカーウィン倉庫に出入し、あるいは、その持ち船が休みなく発着する長い桟橋の上で、船長や貨物上乗り人たちと話しあっている彼らの船主。その姿を見かけただけで、船員たちは寒気立つおもいを感じるものらしい。いや、迷信深い水夫たちばかりでなく、陸上勤務の事務員にしろ、カーウィン商会所属の船長たちにしろ、彼を怖《おそ》れきらう点では変わりなかった。事務員といっても、彼のもとで働いている者は、西インドのマーティニーク島、セント・ユースティウス、ハヴァナ、ポート・ロイアル、等々の港からながれてきた船員くずれが多かったこともあろう。しかし、カーウィンの怖れられる現実的、具体的な理由がないわけでもなかった。それは、海上勤務者の入れ替えが頻繁すぎることで、船が入港すると、水夫たちは下船して、町へ遊びに出るものだが、カーウィンの持ち船にかぎって、水夫たちの一部がかならず、あれやこれやと陸上での仕事をいいつけられる。そして、作業が終わって、ふたたび集合するときは、きまったように何人か欠員が生じているのだった。陸上任務のほとんどが、ポートゥックスト街道の農場で行なわれるもので、この事実はもちろん、プロヴィデンス港での噂話の種になった。埠頭でこの評判を聞いただけで、カーウィンの持ち船から脱走する水夫も少なくなかった。そして最後には、海上勤務者の人員をそろえるのがカーウィンの大きな仕事となり、もっぱら補充を西インド諸島の港に仰ぐことになった。  要するにジョゼフ・カーウィンは、一七六〇年までのあいだに、プロヴィデンスの海運業界では、事実上の疎外者に成り下がった。えたいの知れぬ恐怖的人物、悪魔の協力者、判然とした証拠が掴めぬだけに、いっそう無気味な存在と見られるにいたった。そして町民たちは、一七五八年の出来事を想い起こした。その年の三月と四月に、いまでいうカナダ、当時の名称でのニュー・フランスへ向かうイギリス近衛兵の二個連隊が、このプロヴィデンスの町に宿営したのだが、その夜、異常に多数の脱走兵が生じ、不可解な経過で姿を消した。そのときも、赤い軍服のイギリス兵士たちと立ち話をするカーウィンを見たと取り沙汰されたものだが、いま、彼の持ち船の水夫たちの失踪が目立ちはじめると、町の人々はこれを脱走兵事件に結びつけて、もしもあのとき、急遽、連隊に出発命令が下されなかったら、どんな結果を招いたことかと噂するのだった。  とはいうものの、その間に、この貿易業者の事業は繁栄の一途をたどっていった。プロヴィデンスの町における硝石、肉桂、黒こしようの取引は、すべてカーウィンの独占事業に帰し、真鍮器具、インド藍、木綿、羊毛、塩、船具、鉄、紙、その他各種のイギリス製品の輸入についても、ブラウン商会を除けば、競争相手の全部を吸収合併する隆盛ぶりだった。したがって、チープサイドに象の看板をかかげたジェームズ・グリーン、大橋《グレイト・ブリッジ》のさきにある金色の鷲を看板にしたラッセル、ニュー・コーヒー・ハウスに近いフライ鍋と魚の看板のクラーク・アンド・ナイチンゲール、主だった商店のどれもが、その全商品を、彼の積荷から仕入れねばならなかった。以上は輸入物資に関してのことだが、輸出についてもおなじことがいえた。この地方の醸造業者、ナラガンセット・インディアンの酪農者と馬匹《ばひつ》飼育者、ニューポートの蝋燭《ろうそく》製造業者と協定を結ぶことで、カーウィンはいまや、アメリカ最大の輸出業者の一人であった。  町民たちからは爪はじきの形であるのに、彼の愛市精神は申し分のないものだった。市庁舎《コロニーハウス》が火災に遭《あ》って焼け落ちると、再建のためのクジを多数購入して、新築用煉瓦の寄付に力を貸した。この建物は、一七六一年に新装なって、現在も古い本通りのパレード広場の角に厳存している。それとおなじ年、十月の暴風に、大橋《グレイト・ブリッジ》が大破したが、この掛け替えにも貢献したし、市庁舎の炎上で灰儘《かいじん》に帰した公共用図書として、大部の書物を寄贈した。雨が降るとぬかるみに変わるマーケット広場と、車の轍《わだち》が深く埋まるタウン街に、丸石の舗装をし、その中央に堤道《コージー》と呼ばれる歩道をつくる土木工事が開始されると、その費用捻出のクジを、おびただしく買い入れた。  そのころ、彼は自邸の建築にとりかかった。外観は簡素なものだが、おどろくほど手のこんだ普請で、ことに扉の彫刻が見事だった。一七四三年に、コットン博士の丘教会から分離したホワイトフィールドの支持者たちが、スノー助祭を擁立して、大橋《グレイト・ブリッジ》の向う岸に、新教会創立の運動を起こすと、カーウィンはすぐさまこれに参加した。ただし、彼のこの教会への熱情は、いくらも経たぬうちにうすらいで、祭儀に出席する回数も少なくなっていったのだが、町民たちの彼を見る目が冷たくなると、ふたたび信仰を深めるにいたった。孤独の境涯に悲哀を感じているように、そしてまた、いつか近い将来、彼の事業そのものは完全に破壊されぬにしても、不振に陥る危険があるのでないかと、その暗い影を追い払おうとするかのように。         U    異様なほどに皮膚の色素がうすく、中年にも達していない顔つきでいて、実際の年齢はとうに百歳を越えているはずの男。恐怖と疑惑の雲につつまれているものの、いざ、その罪状をあばくとなると、理由があまりにも曖昧すぎる。そして、いまはカーウィン自身も、この忌《いま》わしい境涯から、なんとか脱け出そうと希《ねが》っている。このような人物の存在を意識するだけでも、感傷的であると同時にドラマチックで、唾棄《だき》すべきことといえるのだった。しかし、おそらくは彼の富と、人あたりのよい態度の力であろう、カーウィンにたいする町民たちの嫌悪感は、このところ、減退の傾向を見せはじめていた。そして、従来とかく噂の種であった、彼に雇われている船員たちの姿が消える奇怪な現象が忘れたように停止すると、彼への露骨な非難もかげをひそめることになった。一方、カーウィン自身としても、その行動に慎重な考慮をはらいだしたものか、墓地を俳徊する姿を人に見られることがなくなった。ポートゥックスト街道の農場での無気味な物音と動きも、比較的とはいえ、おなじように減少した。そのかわり、食糧の消費量と家畜の交代が異常なほど高まった。しかし、これとても、町民たちの注意をひくにはいたらなかった。いや、当時の人々だけでなく、現代にいたるまで、そこに疑惑の目を向けた者は、チャールズ・ウォードを除けば一人もいなかったのだ。この青年は、シェプリー図書館で、カーウィンの帳簿と送り状を調べているあいだに、ふと、気がついた。カーウィンが一七六六年までに、ギニアから輸入した黒人の数と、大橋《グレイト・ブリッジ》の奴隷商人ないしはナラガンセット・カントリーの農園主たちに売りわたした人数を、契約書によって比べてみると、ひらきがあまりにも大きすぎるのだった。世人に忌みきらわれただけあって、ジョゼフ・カーウィンの狡知たるや、底知れぬものがあったはずだ。必要とあれば、どんな怖《おそ》ろしい手段にも踏み切ったものと考えられる。  しかし、いうまでもないことだが、カーウィンの転向は時機を失していた。その努力にもかかわらず効果はあがらず、彼への嫌悪と不信はいぜんとして継続した。希有なほどの老齢でいながら、壮者同様の容貌をつづけている事実だけでも、世人の反感をそそるにじゅうぶんなものがあった。彼はまた、いつか資金に苦しむ時が訪れると、覚悟していたかのように思われた。精緻をきわめた彼の研究と実験とは、どんな内容であるにせよ、それを維持するだけにも莫大な収入を必要とした。遺憾なことだが、社会情勢の変化から、稼ぎ貯めた海外貿易の利益も吐き出さねばならぬ怖《おそ》れがある。そうかといって、ほかの土地に根拠を移し、新しく事業をはじめたところで、成功する保証はない。けっきょく彼のとるべき道は、プコヴィデンスの町の人々との折り合いをよくすることにあった。従来のように、彼が姿をあらわすと、たちまち一座が落ち着きを失い、ひそひそ話がはじまり、なかには用事を思いだしたと、見えすいた口実で席を立つ者もある。そうした世人の目を、友好的なものに変えなければならぬ。事務員の始末も悩みの種であった。事業不振の実状では、これだけの人数の事務担当者は必要ないが、彼らを解雇すると、カーウィンに使われていたというだけで、ほかの店では雇い入れようとしないのである。ただ、海上の労務者だけは、船長はもちろん船員たちまで一人も手放そうとしないのだった。そのために、彼一流の妊策を用いた。担保もしくは約束手形をあたえ、利益の分配を餌にし、ときには、彼らの家庭の秘密を威嚇《いかく》の材料にした。当時の日記筆者たちが、畏怖の念をもって伝えているところによると、これらの秘密を探りだすにあたって、カーウィンは魔法使そこのけの威力を奮ったそうである。事実、彼がその生涯の最後の五年間に口にした出来事には、数十年以前に死亡した人々と直接語りあわないかぎり、知ることもできぬはずのものが数多く含まれていたという。  かくてカーウィンは、プロヴィデンスの町の実業人として、ふたたび強固な足場を確保しようと躍起になりはじめた。そして、彼の狡知が思いついた手段は、由緒ある家の娘を妻に迎えることであった。財産を囮《おとり》に結婚の約束をとりつければ、花嫁の家庭のゆるぎなき地位が、町から追放される懸念を免れさせてくれるであろう。もっとも、彼が結婚を望んだ理由には、より奥深い隠微な理由があったとも考えられる。それが世俗的な問題から遠く離れた意味のものであるのは、彼の死後一半世紀をすぎてから発見された古文書からも推察だけは可能であるが、その真相にいたっては、いまだに判然としていないのだった。  いうまでもないことだが、カーウィンの場合、通常の求婚をしたのでは、相手が恐怖と憤怒の表情を示すだけで、話に乗ってこないであろうことは、彼自身がもっともよく知っていた。そこで、その両親に圧力をかけうる女性を探《さが》すことにした。しかし、そのような候補者が、容易に発見できるものでないのも明らかだった。容貌、教養、社会的地位に、彼が特殊な要求を持っていたからである。けっきょくその検索範囲は、彼が雇用している船長たちの家庭に限定された。長らく彼に忠誠を尽してきた家柄のよい男やもめ、デュティ・ティリンガストという船長がそれであった。一人娘のイライザが、跡とり娘だという点をのぞけば、カーウィンの希望するあらゆる長所を備えていた。船長ティリンガストは、完全に彼の支配下にあった。一日、パワー・レイン・ヒルにそびえ立つ丸屋根を持った邸に、船長を招き、怖ろしい会見を行なうことによって、カーウィンはその冒涜的な結合に、承諾をとりつけることに成功した。  当時十八歳のイライザ・ティリンガストは、慎ましやかな生活環境のうちに成長したしとやかな女性であった。裁判所広場の向う側にあるスティヴン・ジャックソン・スクールに通い、母親からはきびしい躾《しつけ》を受け、家事と諸芸を仕込まれた。母親は一七五七年に、天然痘を患《わずら》って死んだ。それに先立つ一七五三年に、九歳だったイライザがものした刺繍練習品を、いまもロード・アイランド歴史協会の一室に見出すことができる。母親の死後は、黒人の老婆を手助けに、彼女が家政をとりしきった。カーウィンの求婚を聞かされたとき、彼女と父親とのあいだに交わされた争論は悲痛なものがあったにちがいないが、その記録は残っていない。しかし、イライザ・ティリンガストとクローフォード内海運輸汽船の二等航海士である若いエズラ・ウィードンとの婚約が合法的に破棄されたことは確実で、一七六三年の三月七日、彼女とジョゼフ・カーウィンとの結婚式が、プロヴィデンスの町の誇る名士たち列席のもとに、浸礼派《バプティスト》教会で挙行された。当日、拳式を司会したのは、まだ年若いサムエル・ウィルソンであった。これを報道した〈ガゼット〉紙の記事はいたって簡単なもので、しかも、現存するもののほとんどが、この記事の部分を削除されている。チャールズ・ウォードは努力の末、無削除のものを一部だけ、個人収集家の書庫に発見して、無意味にちかい典雅な筆致を興味ぶかく読んだ。   [#ここから2字下げ]  去る月曜日の夜、当市の実業家ジョゼフ・カーウィン氏は、船長デュティ・ティリンガスト氏の令嬢ミス・イライザ・ティリンガストと華燭《かしょく》の典をあげた。若き新婦は優れた品性に加え、類《たぐい》まれな美貌に恵まれ、必ずやこの慶事を光輝あらしめ、この結合に永遠の至福をもたらすものと思料《しりょう》される。 [#ここで字下げ終わり]    チャールズ・ウォードは狂気の兆候を示す直前に、ジョージ街に住むメルヴィル・F・ピーターズという収集家の書庫を整理していて、ダーフィ・アーノルド書翰《しょかん》の束を見出した。これがちょうど問題の時期の前後に書かれた往復文書で、カーウィンと可憐な花嫁の釣り合わぬ結び付きが、いかに当時の人々を憤激させたかを如実に反映していた。しかし、ティリンガスト一家の社会的信用にも無視できぬものがあって、ジョゼフ・カーウィンの邸には、ふたたび訪問客の数が増してきた。そのうちには、この結婚が行なわれぬときは、カーウィンのほうとしても、そのしきい[#「しきい」に傍点]をまたがせるに躊躇したであろう人々が、相当数含まれていた。もちろん、この種の来客を招し入れるときのカーウィンの態度は、かならずしも友好的とはいいがたく、新婦ひとりが苦慮する結果となり、事実は彼女が、社交上の被害者といえるのだった。しかし、この結婚によって、これまでジョゼフ・カーウィンを遮断していた社会の壁は、彼の思惑どおり、全面的とはいえぬにしても、撤去されることになった。稚《おさ》な妻の処遇においても、異常に老齢なこの花婿は、おどろくほどの優しさといたわりを示して、新婦と世間の双方に、意外なものを感じさせた。かくて、オルニー・コートの彼の新居は、世人の心をかき乱す家のイメージを払拭し、カーウィン自身もまた、従来の生活態度とは打って変わり、正常な市民として振舞うことを意識していた様子であった。もっとも、機会を見てはポートゥックスト街道にある農場へ出かけていく習慣はそのまま維持して、長期の滞在にわたる場合も、新妻を同道することは一度もなかった。  ただ一人だけが、カーウィンに明白な敵意を示していた。イライザ・ティリンガストとの婚約を、とつぜん一方的に破棄された青年航海士がそれで、このエズラ・ウィードンは、本来の温和な性格にもかかわらず、恋人を奪い去った男への激しい憎悪をかくすところなく表明し、かならず復讐してみせると誓うのだった。  一七六五年五月七日に、カーウィン夫婦のあいだに、女児アンが誕生した。名付け親は、キングズ教会のジョン・グレイヴス牧師である。カーウィン夫妻はその結婚の直後に、組合教会派と浸礼教会派の結合の妥協の意味で、この教会に帰属したのだ。女児アン出生の記録は、その二年以前における両親の結婚記録と同様に、教会およびプロヴィデンス市の公文書のほとんどから抹殺されていた。チャールズ・ウォードは、寡婦が旧姓に復帰した事実の発見を端緒に、この夫婦が彼自身の血縁者であるのを知ったあと、非常な困難を味わいながら調査をつづけるうちに、いつかこの追究が狂熱的なものに昂《たか》まっていった。そして、奇妙なことであるが、王党員グレイヴス牧師が後継者ととりかわした往復文書のうちに、アンの出生記録を発見する幸運に恵まれた。牧師は王党員の理由で、独立戦争の勃発にさいして、その教区を追われたのであるが、退去にあたって、教会記録の写しを持ち出していたのだ。ウォードはこの資料に目をつけ、検討した。というのは、彼の四代以前の祖母アン・ティリンガスト・ポッターが、監督制教会員《エピスコパリアン》であったのを聞いたからだ。  初児の出生に歓喜したカーウィンは、平素の冷静を忘れた熱心さで、肖像画を描かせる手配を開始した。委嘱した相手は、才能に恵まれたスコットランド出身の画家で、当時、ニューポートに住んでいたコスモ・アレグザンダーであった。ついでながらこの画家は、若き日のギルバート・スチュワートの教師として、後世に名を残している。完成した肖像画は、オルニー・コートの邸の書斎の壁間を飾っていたというが、古い日記類のどれにも、これについての記述をまったく欠いている。  幸福であったはずのこの時期に、中世の学術の奇矯な探究者カーウィンは、いよいよ放心の度をくわえ、事情のゆるすかぎり、ポートゥックスト街道の農場に時間を費やすようになった。伝えられるところによれば、この期間におけるカーウィンの精神状態は、抑圧した興奮と不安のうちにあった。異常な事態、あるいは、なにか常識の埒《らち》外にある発見を予感していたかのようにである。そして、その研究分野の大半を、化学ないし錬金術の実験に当てていたものと思われる。なぜかというに、彼はその蔵書のうち、このテーマに関するもののほとんどを、町なかの邸から、ポートゥックスト街道の農場へ移していたからである。  そうはいっても、市民生活への彼の関心が減退したわけではなかった。スティーヴン・ホプキンズ、ジョゼフ・ブラウン、ベンジャミン・ウエストといった指導者たちが、町の文化面の育成に努力を怠らぬ様子を見ると、これを援助する機会を逃さなかった。そのころのプロヴィデンスは、自由主義的芸術の愛好者数において、ニューポートのはるか下風に立っていた。ダニエル・ジェンクスがはじめてこの町に書肆《しょし》を設けたのは、一七六三年のことであるが、カーウィンはこれに資金を提供し、開店後も最上の顧客となり、後援の手をゆるめなかった。また、シェイクスピア・ヘッドで水曜日ごとに発刊される戦闘的な〈ガゼット〉新聞にも、支援の手をさし伸べることを忘れなかった。政治面にあっては、ニューポートを基盤とするウォード党に対抗するホプキンズ知事の熱心な支持者であった。一七六五年に、ウォード党の提唱による北プロヴィデンス分離運動が起きた。市総会における票決によって、いっきょにこの暴挙を完遂しようとするのであったが、ジョゼフ・カーウィンはハッチャーズ・ホールで、激越な反対演説を行なった。真の雄弁ともいうべきその演説が、彼にたいする町の人々の偏見をとり除くことに、なににも増して効果があった。  しかし復讐心に燃えるエズラ・ウィードンひとりは、これらカーウィンの外面的な市民活動を冷笑し、地獄の底の暗黒内での密貿易をまぎらわす仮面にすぎぬと公言してはばからなかった。そして、日夜、カーウィンの行動に監視の目をくばり、とりわけ、港内におけるスケジュールを組織的に研究しはじめた。夜陰、カーウィン倉庫に燈火がはいるや、波止場に駆けつけ、漁師用の平底船に数時間を待機して、港外へ忍び出ていく小ボートを見ると、そのあとを追った。ウィードン青年はまた、ポートゥックスト街道の農場にもたえず目を光らせ、一度は、インディアンの召使夫婦が、彼にむけて放った何匹かの犬に、手ひどく咬みつかれたことさえあった。         V    一七六六年にいたると、ジョゼフ・カーウィンの容貌に、最後の変化が生じた。あまりにも急激な変化で、たちまち、好奇心のつよい町民たちの注意をひいた。その顔を蔽《おお》っていた不安と危惧の色を、古外套のように脱ぎ棄てて、完璧な勝利を歓《よろこ》ぶ悪意を秘めた表情に変えたのだ。なにかを発見し、認識し、創りあげたことが、その態度からうかがわれた。事実、彼は公衆を前にして、その発表に熱弁をふるいたい欲求をおさえるのに、苦労している様子であった。しかし、それを秘密にしておくことの必要が、歓びを分かちあたえる希《ねが》いよりも明らかに大きく、ついに彼の口からは、なんの説明も聞かれずに終わった。この現象が起きたのは七月のはじめで、その後、わが奇怪なる神秘学探究者は、遠い昔に死亡した過去の人物のみが告げうる情報の保有者として、町の人々を驚かしはじめた。  しかし、この変化によっても、カーウィンの熱病じみた秘密行動は停止することがなく、むしろ増大する傾向にあった。海上貿易業務にしても、徐々にその実務を、船長たちの手に移行させた。これらの海上労務者は、彼のにおわす恐怖のきずなによって、たとえば、破産者がそうであるように、力強い呪縛の下にあるのだった。奴隷輸入業務は、利益が減少の一途をたどっているとの理由で、きっぱりと放棄された。そして、実務を離れたカーウィンは、あらゆる機会を利用して、ポートゥックスト街道の農場に、その閑暇をすごすことになった。そしてまた、思わぬ場所に、彼の姿を見かけるとの噂が立ちはじめた。その場所たるや、墓地に近接しているともかぎらぬが、なんらかの意味で、死人と関連のある地点であって、心ある人々は、この老貿易業者の生活習慣の変化なるものが、どこまで真実であるかを疑わざるをえなかった。一方、復讐の鬼エズラ・ウィードン青年は、勤務上、航海に出ていることが多いので、必然的に、スパイ作業に従事する期間が短く、間歇《かんけつ》的であるのを免れなかったが、報復を希《ねが》う気持は、現実的な町の人々や農民たちには見られぬ熾烈《しれつ》なものがあり、異常なほどの熱心さで、カーウィンの秘密をあばこうとするのであった。  われらの奇怪な貿易業者の船舶が、夜ごとに隠微な行動をとっていたにしても、変転きわまりない当時の社会情勢から、格別異常なこととは考えられなかった。イギリス政府の弾圧方針の現われである砂糖条例を、植民者たちの事業の発展を阻害するものとみて、その取締りに反抗せずにおくべきかといった気運が、全国民のあいだにみなぎりだした時代であったのだ。ナラガンセット湾における密輸作業は当然の現象であって、夜間に非合法の荷揚げをするのもめずらしいことではなかった。しかしウィードンは、タウン街の波止場に近いカーウィンの倉庫から、毎夜のように忍び出る小帆船を見かけると、怠らず追跡し、やがて、彼らが細心に避けているのが、イギリス海軍の艦船だけでないのに確信を持つにいたった。  ジョゼフ・カーウィンにいちじるしい変化の見られた一七六六年以前にあっては、これらの小帆船が、港外の海上で積み移すものの大部分は鉄鎖に連結された黒人の集団で、小帆船は湾内を横切り、ポートゥックスト村の北にあたる海岸の、人目に立たぬあたりに、この積荷を陸揚げしたものだ。そこから先は、断崖を追いあげ、田園地帯からカーウィン農場へつれて行き、敷地内に離れて立つ石造の建物に収容し、厳重に鍵をおろすのだったが、この石造建物たるや、窓がわりに、見上げるばかりの高い個所に、申し訳程度の細い隙間があいているだけのものであった。  しかし、前述の変化がカーウィンの身に生じると、彼の事業の全プログラムが一変した。奴隷輸入業務は即座に停止されて、深夜の海上輸送もあとを絶った。それが明けて一七六七年の春になると、新しい方針が採用されたものか、ふたたび、沈黙の底に沈む倉庫のあたりから、暗夜の海上にすべり出る艀《はしけ》の黒い影が見られるようになった。そして、今回の艀は、湾外へ出ると、かなり遠方まですすんでいった。ナンキット岬《ポイント》の近くで船荷を受けとるもののようで、そのあたりに異様な形状の外国船の姿が見られた。カーウィンの水夫たちは、以前とおなじポートゥックスト海岸に、この船荷を陸揚げした。農場まで運んで行き、謎めいた石造建物に収容することも、以前と少しのかわりもないが、船荷のほとんどが、かつての黒人たちとちがって、大きな荷造り箱であった。箱はどれも長方形をしていて、きわめて重く、柩《ひつぎ》を連想させるものであった。  ウィードンは飽くことのない勤勉さで、たえず農場を監視し、長い時期にわたって、毎夜そこを訪れ、雪が降って、足跡が残る時期をのぞいては、一週間といえども怠ることがなかった。降雪の期間にしても、街道もしくは、氷のはりつめた河に沿って歩き、彼自身のもののほか、どのような足跡、轍《わだち》の跡が残っているかを、精細に観察した。彼自身の夜間の監視が、勤務のために妨げられるときは、たまたま酒場で知り合いとなり、意気投合したエリエイザー・スミスという名の若者に、交代して観察をつづけてくれるように依頼した。  この二人がその気になれば、ポートゥックストの農場についての奇怪な風評をひろめることもできたであろうが、それをしなかった理由は、噂が立つと、彼らの獲物に用心させ、その後の調査に支障をきたすのを気づかったからで、彼らの希《ねが》いは、最後の行動に移るまえに、決定的な証拠を掴むことにあった。そして、彼らの掴んだ事実が驚くべきものであったのは疑いないが、遺憾なことに、その詳細は伝えられていない。チャールズ・ウォード青年も、いくどとなく両親に語って、ウィードンが後日、捜査の覚書を焼却してしまったことを口惜しがっている。したがって、彼ら二名の若者が、苦心の末探り出した事実のうち、判明していることといっては、ウィードンの同志エリエイザー・スミスが、まとまりを欠いたその日記に書き残したものだけなのだ。彼以外の日記や書翰《しょかん》の執筆者にしても、けっきょくはこの両名が洩《も》らした僅少の事実を、おずおずした筆致で繰り返しているにすぎなかった。しかし、これらの簡略な記述によっても、農場と見たのがたんなる外殻であり、その内部に、想像を絶した凄まじい脅威がひそみ、その地下には、怖《おそ》るべき地獄の深淵が口をあけていたものと推察されるのだった。ウィードンとエリエイザー・スミスの両名は、探査開始の当初から、農場の地下に何本かの隧道と広大な空所が存在して、インディアンの老夫婦のほかに、予想外に多人数の男女が住みついているはずだと考えていた。  尖り屋根の母屋は、十七世紀中葉の遺物ともいうべき建築で、そびえ立つ煙突とダイヤモンド・ガラスを嵌《は》めこんだ格子窓が目立ち、実験室のある北側は、先端が大地に触れんばかりの傾斜を持つ差掛け屋根になっていた。孤立した建物であるのに、時ならぬ時に聞きなれぬ声が洩れてくるところから判断して、地下の秘密通路でどこかの地点と連結しているにちがいなかった。一七六六年以前にあっては、聞こえてくる声といっても、ただの私語と黒人のつぶやき、それに意味のわからぬ祈りと呪いの文句がくわわるだけであったが、カーウィンに例の変化が起きたあとは、複雑な様相を呈しはじめた。黙従にちかい投げやりな返事に、はげしく爆発する怒声、あらあらしく話しかける言葉に哀願のすすり泣き、強圧的な命令に反抗の叫びと、あらゆる領域にわたる応酬が、そこに演じられている棲惨な情景を想像させるのに充分だった。しかもそれがさまざまな国語であるのだが、カーウィンがいちいちこれに応答し、非難し、罵詈《ばり》を浴びせ、威嚇を行なっているところをみると、彼の通暁《つうぎょう》していない言語はないとみてまちがいなかったようだ。  ときには、地下でなく、屋内に相当数の者がいると思われるときもあった。カーウィンがいる。何人かの捕虜がいる。そしてその監視人がいる。捕虜たちの言葉には、はじめて耳にする国語が少なくなかった。ウィードンにしろ、スミスにしろ、長年の船員づとめで、異国の港を訪れることが多いのだが、その彼らにも理解しかねる外国語がしばしば混じるのである。会話はつねに問答の形式をとっていて、あるいは恐怖におののき、あるいは反抗の叫びをあげる囚人たちの口から、カーウィンがなにかの情報をひき出そうとしているのが明瞭だった。ウィードンはその覚書に、洩《も》れ聞いた言葉の断片を書きとめておいた。もっとも多く用いられたのは、イギリス、フランス、スペインの三ヵ国語で、これはいうまでもなく、ウィードンの詳しく知るところであるが、遺憾なことに、覚書そのものが現存していないのである。しかし、たまたま彼がいい残した言葉によって、この情け容赦のない質問の内容が、一部はプロヴィデンスの町に起きた過去の出来事であり、あとの大半は――ウィードンに理解できたかぎりでは――歴史上または神秘学上の事実で、それがしばしば、遠い異国のはるか昔時のこととわかるのだった。一例をあげると、ある夜、ときにいきり立ち、ときに沈鬱に押し黙る、強情で反抗的な男が、仮借ない追及にあっていた。カーウィンの知ろうとするところは、一三七〇年に、イギリス王エドワード三世の長子で黒太子の異名をとったプリンス・オブ・ウェールズが、フランスのリモージュで行なった大虐殺に関したことであった。黒太子がこの命令を下した理由が、大寺院の地下、古代ローマの遺跡である礼拝室の祭壇に、山羊の図が発見されたからであるか、それとも、オート・ヴィエンヌ州の魔女集会の主宰者が、涜神の言葉を口走ったところにあるかを、当然この囚人が――囚人と呼ぶのが適当であればだが――知らねばならぬものと前提されているかのように聞きとれた。そして、明確な答弁をひき出すのに失敗した糾問者が最後の手段に訴えたとみえて、怖ろしい悲鳴があり、呻き声と沈黙がつづき、昏倒する音が大きくひびいた。  いつの夜も、窓には厚手のカーテンが引いてあり、視覚によって、内部の状況を知るのは不可能だった。一度、未知の国語のやりとりを洩れ聞いているとき、とつぜんカーテンに影が映って、ウィードンを驚かした。一七六四年の秋、ペンシルヴァニアのジャーマンタウンからきた男が、ハッチャーズ・ホールで演じてみせた、機械仕掛けのスペクタクル・ショー、そのなかに出てくる人形のひとつを、その影が想いださせたのだ。ショーの題名は、〈エルサレム、世界の都――エルサレムの市街、ソロモン王の神殿、その王座、有名な塔と丘、さらには、ゲッセマネの園からゴルゴダの丘の十字架に向かう主キリスト苦難のさま。人形芸術の極致。一見の価値あり〉と、長々しかった。影に驚いたことから、インディアンの老夫婦に気づかれて、犬の群れをけしかけられた。屋内の声はふつっと聞こえなくなった。カーウィンがその行動範囲を全面的に地下へ移行させた理由は、その夜の出来事にあったものと、ウィードンとスミスは結論した。  地下に秘密の場所が存在することは、多くの事実から明白だった。母屋その他の建物から遠くへだたった位置の、大地以外のなにものとも考えられぬあたりから、ときどき悲鳴もしくは呻き声と思われるものが、かすかに聞こえてくるのだった。そしてまた、農場の裏手から、ポートゥックスト渓谷へ向かう険しい斜面に、石枠にかこまれたアーチ状の樫の扉が、灌木林に蔽《おお》いかくされているのが発見された。これが丘の下の洞窟の入口であることに疑いはなかった。いつ、いかなる方法で、この地下洞窟の掘鑿《くっさく》作業が行なわれたか、そこまではウィードンにも想像しかねたが、河からの経路をとりさえすれば、作業員の一隊を、人知れず建造現場へ送りこむのも困難でなかった。ジョゼフ・カーウィンは、異国生まれの海員たちを、まったく別個の用途にあてていたのだ! 一七六九年春の豪雨に、これら二名の監視者は、鋭い目を渓谷の急斜面にむけた。地下の秘密のなにかが、流出してくるのではないかと考えたからだ。はたして、雨水のうがった深い溝に、おびただしい数量の人畜の骨を発見する幸運に恵まれた。もちろん、この種の現象には、さまざまな解釈が可能である。ここは酪農場の裏手にあたり、しかも、古くはインディアン墓地であった場所だ。しかし、ウィードンとスミスは、これから独自の結論をひき出した。  一七七〇年の一月、まだウィードンとスミスのあいだに、カーウィンの罪状の摘発方法について議論がつづいているうちに、プロヴィデンスの町民たちを興奮させるフォータレザ号事件が起きた。その前年の夏、ニューポート港において、ジョン・ハンコックの持ち船リバティ号の密輸問題にからみ、税関監視船が炎上させられた。これに激昂したウォーレス将軍は、麾下《きか》の艦隊に命じて、外国船舶の監視態勢を強化するにいたった。そして、ある日の早朝、ハリー・レシュ大佐の指揮するイギリス海軍の砲艦シグネット号が、怪しい外国船をみとめ、短時間の追跡の末、これを拿捕《だほ》した。これが、スペインのバルセロナに船籍を持つフォータレザ号で、船長はマニュエル・アルダ。その航海日誌によると、エジプトのカイロからプロヴィデンス港へ向かう途中だった。ところが、密輸物資を捜索したところ、意外な事実が明らかになって、レシュ大佐を驚かした。船荷の全部が、エジプトの木乃伊《ミイラ》であったのだ。送り先は、船員ABCとしてあるだけで、しかもこの男が、ナンキット岬《ポイント》付近で、船荷を艀に移す約束なのだ。アルダ船長は、商業倫理を理由に、船員ABCなる人物の正体を明かすのを拒否した。事件の処理はニューポートの海事裁判所に回付されたが、積荷がひとつとして禁制物資の性質を持たぬことから、裁判官たちはその処置に窮した。そしてけっきょく、収税官ロビンソンの意見を容れて、フォータレザ号は釈放し、その代わり、ロード・アイランド水域内のどの港にも入港を禁ずとの命令で妥協した。しかし、その後、スペイン船籍のこの運送船が、公然とボストン港へ立ち入ることはしなかったが、ボストン港内に姿を見せているとの風評が立った。  当然のことではあるが、この異常な事件はプロヴィデンスの町でも取り沙汰されて、積荷の木乃伊《ミイラ》をジョゼフ・カーウィンに関連させて考えない者はなかった。彼の異国人めいた研究と、異様な化学薬品の輸入は、だれもが知るところであったし、好んで墓地を俳徊する習癖も、全町民の知るところだった。したがって、酔狂にちかいこの輸入物資を、カーウィン以外の人物に結びつけるのは不可能なことといってよかった。カーウィン自身も、そのような目で見られているのを意識してか、機会を掴んでは、木乃伊に詰めてある香膏の化学的価値を、なにげない調子で口にするのだった。おそらく彼はその言葉によって、事件の不自然さを解消しようと努めていたのであろう。ただし、この輸入に彼が関与しているのを認める寸前で、要領よく話を打ち切った。しかし、ウィードンとスミスは当然のことながら、そこに隠された意味があるのを確信した。そして、カーウィンとその奇怪な作業を理論づけるため、奔放な想像力を駆使して解釈を探し求めた。  この年の春も、前年のそれとおなじく、凄まじい豪雨がこの地方を襲った。二名の監視者は、カーウィン農場の裏手の渓谷を入念に見てまわり、広い地域に土砂崩れが起きている個所で、大量の白骨を発見したが、地下に秘められた洞窟を見出すところまではいかなかった。しかし、豪雨のあと、一マイルほど下流にあたるポートゥックストの村に、また新しく、噂が立ちはじめた。村の近くで、渓流が滝となって落下し、それからさきは、平坦な田野を左右にながめるおだやかな水面にかわるのだが、滝の手前に、いなかびた橋がかかり、昔ながらの漁師小屋が何軒かある。ねむったような船着き場に、小舟をつないで、網を打つのをなりわいとしている漁師たちが、豪雨の翌朝、水嵩の増した激流に、異様なものが数多く、浮きつ沈みつ、ながれてくるのを目撃した。それは一瞬のうちに、滝を落下する水流に巻きこまれて、視野から消えていったのだが、その直前に、ちらっと見せたその姿は、なんともいえず無気味なもので、目撃した漁師たちは身の毛のよだつおもいをした。異様なものの一部は、滝を落下するにあたって、悲鳴をあげた。声を出し得る状態を、遠くへだたる姿に化しているのに。ポートゥックスト河は水源が遠く、うねりくねった長い距離をながれてくるので、その流域には人の住むところが多く、したがって墓地も多く見られる。その年の春の雨の激しさからして、死体の流出を希有な現象とみるにもあたらぬが、それが叫び声をあげるとは! この噂を聞きこむと、スミスはいそいで――このときのウィードンは、海上に出ていて、プロヴィデンスを留守にしていた――農場の裏手の渓谷へ駆けつけた。大規模な土砂崩れが起きたのはたしかで、広い地域に陥没の痕が残っているが、土と灌木の混ざりあったものが壁をつくり、地下への通路を見出すことはできなかった。もちろんスミスも、掘鑿《くっさく》を試みなかったわけでないが、成功の見込みがうすいと考え――いや、正確には、成功の見込みを怖《おそ》れてというべきか――作業を中止することにした。もし、そのとき、復讐の鬼ウィードンが上陸していたとしたら、逡巡することなく、初志を貫徹したにちがいないが、なにを発見したかを想像してみるのも、また興味あることといえよう。         W    一七七〇年の秋、ウィードンはその発見を公表する時機が熟したと判断した。調べあげた数多くの事実を結合すれば、証拠とするに不足はなく、かりに、彼のカーウィンへの疑惑は、嫉妬にもとづく復讐心の現われにすぎぬと非難されても、第二の目撃者スミスが、強力に反駁してくれるはずである。最初に打ち明ける相手としては、エンタープライズ号の船長ジェイムズ・マシューソンを選んだ。旧知の仲だけに、彼の言葉の真実性を疑うわけもなく、つね日ごろ、町の人々のあいだに信頼感の厚い人物であるのだ。会談は、波止場に近いセイビン酒場の階上の一室で行なわれた。スミスも同席して、彼の話のいちいちを確認したので、その結果、船長の心をつよく動かすことができた。船長自身、町の大部分の人々とおなじに、ジョゼフ・カーウィンの黒い噂については以前から関心を抱いていて、より広範囲の事実による立証を待ち受けていたところだった。会談の終わり頃、マシューソンは深刻な表情に変わり、若い二人の相手が沈黙を厳守しているのに満足しながら、しばらくのあいだ考えこんでいた。そして、熟慮の末、つぎのように言明した。プロヴィデンス市民の有力者と学識経験者のうち、十人ほどを選んで、個別に面会してみる。この事実を告げて、彼らの見解をただし、助言があれば受け容《い》れることにする。ただし、どのような犯罪捜査にも、秘密は必要不可欠なもので、当分これを公表すべきでない。もちろん、町の警察官ないし民軍の手に負える事件でなく、とりわけ、大衆を興奮させぬよう、無知の状態におかねばならぬ。わがアメリカ自体が難局に立っているこの時代に、忌わしいセーレムの魔女裁判を再現させたくない。セーレムといえば、あの事件のあと、カーウィンがこの地へ移ってきて、まだ一世紀と経っていないのに――等々、彼の方針を述べたてるのだった。  マシューソン船長が、この秘密を打ち明けて然るべき同志にかぞえたのは、つぎの人々であった。ベンジャミン・ウエスト博士(最近生じた金星の太陽面通過を論じた小冊子を著わし、篤学の士であるとともに、犀利《さいり》な思索家であることを証明した)、カレッジの総長ジェイムズ・マニング(ウォーレンから転任してきたところで、目下、ニュー・キングズ街の校舎に仮泊し、プレスビテリアン街を瞰《み》下ろす丘に新築中の宿舎が完成するのを待機していた)、前知事のスティーヴン・ホプキンズ(ニューポート哲学協会のメンバーで、識見の高さをもって知られていた)、〈ガゼット〉紙の発行人ジョン・カーター、ブラウン家の四兄弟、ジョン、ジョセフ、ニコラス、モーゼズ(そろってこの地方財界の大物であり、そのうちジョゼフは、アマチュア科学者としても著名であった)、老医師ジェイベズ・ボウエン(情報通だけあって、カーウィンの異様な購入物については、直接的な知識を持っていた)、私掠船の船長エイブラハム・ウィップル(勇猛果断な人物で、積極的な行動の指揮者としては最適任であった)。以上の顔触れを招集して、会議を開くべきだというのが、ジェイムズ・マシューソンの意見であった。その理由は、行動を起こすに先立って、ニューポート在住の州知事ジョゼフ・ウォントンに通告すべきか否かの問題があるからで、決定の責任を、この人々全員に負ってもらうというにあった。  マシューソン船長の採った方針は、予期をはるかに超えた成功をみた。その選んだ同志のうち、ウィードンの話の怪談めいた部分に疑義をはさんだ者がいないわけでもなかったが、カーウィンなる男が、プロヴィデンスの町はもとより、この州全体の安寧を脅《おびや》かす存在であること、いかなる犠牲を払おうとも除去するのが至当であること、そしてその処置には秘密裡の連絡活動を必要とすることに、全員の意見が完全に一致した。  一七七〇年十二月末のある日、これらプロヴィデンスの町の有力者グループが、前知事スティーヴン・ホプキンズの邸に集合して、今後の行動について協議を行なった。マシューソン船長が提出したウィードンの覚書を慎重に検討したうえ、ウィードン本人とスミスを招き、個々の点についての説明を聞いた。会議のあいだ、なにか恐怖に似た感情が出席者全員の心に去来していたことは否定できぬが、それだけにまた、各自がついに断固たる決意をかためるにいたった、ともいえるのだった。その間の消息は、ウィップル船長の、冒涜的な言辞を混じえた広言からも汲みとることができた。これは非合法な処置で解決すべき問題で、知事に通告の必要などあるものかというのがその結論だった。カーウィンは明らかに、怪しい魔力を身につけている。これに町からの退去を勧告したところで、無事にすむとは思われぬ。かならずや後日、人知れず報復の挙に出るものと覚悟せねばならぬ。かりにこの邪悪の男が、素直に勧告に応じたところで、怪しい重荷をほかの土地に移動させるだけのことだ。無法律ともいうべき時代に生を受け、イギリス政府を相手の、課税問題にからんだ抗争に明け暮れし、その強力な海軍力を、数年間にわたって愚弄してきたこの人々は、必要とあれば、はるかに苛烈な行動にも逡巡するものでなかった。腕におぼえのある私掠船の船員部隊を糾合して、カーウィンをポートゥックスト農場に急襲し、その正体を暴露する決定的機会を掴まねばならぬ。もしそれで、彼がただの狂人であり、あれこれと各種多様の声を出し、架空な対話を楽しんでいただけと知れば、適当な場所に拘禁すればよい。そしてもし、より重大な事実が明らかになり、地下の恐怖が摘発されるときは、彼とその一味を私刑に処すべきである。ただし、行動にあたっては、世人の目を避け、カーウィンの新妻およびその父親にも、なにが起きたかを知らすべきでない。  ポートゥックスト農場襲撃の計画が真剣に討議されているあいだに、町では不可解な事件が発生して、近郷数マイルの地域は、この噂で持ちきりだった。月の明るい一月のある夜、深い積雪のなかに、河を越え、丘の上まで、無気味な叫びが連続してひびき、寝入りばなの人々を驚かしたのだ。ウェイボセット岬《ポイント》周辺の住民で、窓からのぞいた者は、タークス岬《ヘッド》の前面にあたる地点をかなりの大きさの白い物が、狂ったように走っていくのを見た。遠方に犬の吠え声も聞こえたが、これは、めざめた町がざわめきだすと、消えてしまった。何事が起きたかと、角燈に小銃を手にした一隊が、現場とおぼしきあたりに駆けつけたが、捜査の結果は徒労に終わった。しかし、その翌朝、大橋《グレイト・ブリッジ》の南埠頭を囲む氷の上、アボット醸造所に沿って長棧橋《ロング・ドック》が伸びている個所に、丸裸の逞しい大男の死体が発見された。この死体の身元が、年輩者たちのあいだに、果てしなくつづく憶測と私語の主題となった。長老たちにかぎったことだが、この硬直し、恐怖に目を飛び出させた男の顔が、古い記憶を呼び醒ましたのだ。逃げ腰ながら、ひそかに囁かれた噂によると、不思議としかいいようのないことであるが、恐怖にゆがんだこの顔のうちに、五十年以前に死亡した男のそれと、瓜二つの同一性が見てとれるというのであった。  エズラ・ウィードンは、死体発見の現場に立ち会った。彼もまた、前夜の犬の咆哮を聞いていたので、そのあたりとおぼしいウェイボセット街からマッディ・ドック橋へかけて、探索に出かけた。移民区域の家並が切れて、ポートゥックスト街道にかわるあたりで、奇異な足跡が入りみだれているのを見出したが、最初から予期していたことで、意外とも思わなかった。大男のものらしい裸足の痕と、かなりの人数の深靴、それに犬のそれがくわわっているが、町が近づきすぎたので、犬と飼主たちはここで追跡を断念し、ひっ返したのが推察される。やはりそうかと、ウィードンは満足げな笑いを洩らして、いちおうそのあたりの調査をすませてから、追跡の跡を出発点までたどってみた。予想どおり、それはジョゼフ・カーウィンのポートゥックスト農場であった。あいにくと、農場の建物付近はひどく踏み荒らされていたが、でなかったら、もっと多くの証拠をつかめたことであろう。それにまた、日も高いこととて、興味を持つ男と気づかれるのを怖れて、ひとまず町へひっ返すことにした。その足で、ボウエン医師を訪ね、委細を報告した。老医師は、氷上の死体の検屍をすませてきたところだが、奇怪な事実を発見して、困惑の表情を浮かべていた。大男の消化器官に、使用された形跡がまったくなく、全身の皮膚がかさかさに粗《あ》らび、その他の諸組織も完全にゆるんで、どう解釈したものか、判断のつきかねる状態であったのだ。居合わせた老人たちが、ずっと昔に死亡した鍛冶屋のダニエル・グリーンとそっくりだと囁いていたのも、印象に残った。ダニエルの曽孫アーロン・ホップンは、カーウィンの傭船の貨物上乗り人をつとめていた。ウィードンは町民たちのあいだを、それとなく質問してまわり、ダニエル・グリーンの埋葬場所をつきとめた。その夜、十名の小部隊が、ヘレンドン街道の向う側にある旧北墓地にあらわれて、古い墓のひとつをあばいた。なかが空虚だったのも、予想どおりであった。  これよりさき、騎馬の郵便配達夫と打ち合わせができて、ジョゼフ・カーウィン宛の書翰《しょかん》は、すべて検閲する手配になっていた。その結果、裸死体事件の少しまえ、セーレムのジェディダイア・オーンなる者からの手紙が入手されていた。それが、この捜査にたずさわっている人々の注意をひいた。その一節の写しが、いまも私文書記録所に保管されていて、これがたまたま、チャールズ・ウォードの目に触れたのである。その内容は、つぎのようなものであった。   [#ここから2字下げ]  貴下が貴下独自の方法で、古き物質の実体追及にいそしんでおられることに、心から喜びの言葉を述べさせていただく。貴下のあげし成果たるや、セーレム・ヴィレッジにおけるハッチンソン家のそれに、いささかも劣るところなしといい得る。事実、われわれの蒐《あつ》め得たところが一部分にすぎぬこともあって、Hが呼び起こせし物は、生気こそあるにせよ、醜悪無残な姿にすぎぬ。貴下の送付せられし品は役立たずに終わった。材料の不足か、呪文の唱法の過ちか、あるいは、貴下の筆写に書き落としがあったか。目下のところ、原因を掴み得ず、当惑するばかりである。余の化学知識は、ボレルスの域を隔たること遙かなるものにて、貴下の推賞される「死霊秘法《ネクロノミコン》」第七巻にしても、その理解に苦しむ状態なるを告白しなければならぬ。とりあえず、ご教示を乞いたきは、貴翰のうちに、招魂の対象に慎重を期すべし、とありしは何の意味なりや? そしてまた、貴下がコットン・マザー牧師の『アメリカにおけるキリスト者の偉業』を読破されたることを聞きおよぶが故に、かの醜悪な物の出現が正しき処理に基づくものなりや否やにつき、貴見を判定の資料とする考えなり。なお、当方よりの忠言もお聴き取りねがいたし。繰り返し申し述べるが、いわく、鎮魂しがたき物を呼び醒ますなかれ。この言葉の意味するところは、呼び醒まされし物はそれ自体の力にて、貴下に反抗する怖れあり。貴下の強力な秘法も、彼らの前には無力とかわらん、の謂《いい》である。呼びいだす対象は、力なき[#「なき」に傍点]物に限定すべし。力ある[#「ある」に傍点]物は答えることを望まず、かえって貴下を支配下におかんと意図すればなり。余は貴翰のうちに、ベン・ザリストナトミクがその黒檀の柩に秘めおきし物のことを読み、何者が貴下に告げしや、少なからぬ危惧をおぼえしことを申し添える。つぎに、今後余への書翰はジェディダイアと宛名し、シモンと書かぬようにおねがいする。この社会における人間の寿命はきわめて短く、余が帰国にさいして、貴下も知らるるごとく、シモンの子息ジェディダイアと名乗りし理由はそこにある。最後に、いまひとつの希望を記すと、余はこのところ、黒き偉大なる者が、英本土の北辺、古代ローマ人の構築せる城壁の地下にて、シルヴァヌス・コキディウスの口より何を学びとりしや、その詳細を知りたき思いに駆られている。先日、この件に関する手写本をご所蔵の由承った。ご貸与ねがえれば、余の喜びこれにすぎぬものがある。 [#ここで字下げ終わり]    もう一通は無署名のもので、フィラデルフィアから発送してあったが、前者に劣らず関係者を刺激した。とりわけ、つぎの個所に問題が含まれていると考えられた。   [#ここから2字下げ]  われらの必要とする材料の輸入が、貴兄の持ち船によってのみ行なわれている事実、その入港日の予測しがたきこと、すべて余の了承するところである。当方の注文はわずか一資料にすぎぬが、いちおうここに、貴兄の説くところを正しく理解しているかを確かめておきたい。貴兄いわく、完璧な成功をみるには、全材料の充足を必要とする。しかし、その確実を期するのは至難の業《わざ》といわねばならぬと。たしかに、古き柩をとり出すのは、非常な冒険、大きな賭けであり、ことに余の居住するこの都会にあっては(聖ペトロ、聖パウロ、聖マリヤの各教会およびキリスト教会の墓地)、不可能事というにちかい。そのためなるや、去る十月に余の呼び出だせし物は、あまりにも不完全すぎた。しかし、貴兄もまた、一七六六年に正しき手法を会得するまでのあいだ、いかに多数の生ける材料を費やされたかを知るにおよんで、すべての点にわたって、ご指導に従うことを決意した。いまや余は、貴兄の帆船の入港を待つことしきりで、毎日、ビッドル氏の波止場に問い合わせをつづけている。 [#ここで字下げ終わり]    第三の疑問の書翰《しょかん》は、未知の言語を用いたもので、文字もまた、未知のアルファベットが書きつらねてあった。なかに反復してあらわれている文字の組み合わせが、チャールズ・ウォードの発見したスミスの日記に、無器用な手付きで写しとってあったので、ブラウン大学の言語学教授たちに見せると、旧エチオピア王国が公用語にしていたアムハラ語のアルファベットだと断定した。しかし、言葉の意味にいたっては、まったく理解の外にあった。そして、これらの書翰は、一通としてカーウィンの手にわたらなかったが、その直後に、セーレムの町から、ジェディダイア・オーンなる男が失踪した記録が残っているのをみると、プロヴィデンスの人々が、内密裡に探査の歩をすすめていたことが推察される。フィラデルフィアの町にも、黒い噂に包まれた男女が存在したことは、ペンシルヴァニア歴史協会所蔵の古文書のうち、シッペン博士に宛てた何通かの奇怪な書翰によって看取できる。しかし、より決定的な段階に達していた活動についていえば、夜ごと、ブラウン家の倉庫内に、誓約しあった、義務に忠実な、旧私掠船の海員たちが、秘密集会をひらき、ジョゼフ・カーウィン撲滅《ぼくめつ》の方策を練っているのだった。これこそ、ウィードンの努力の主たる成果というべきもので、出撃計画は、徐々に、しかし、確実に進捗していたのである。  慎重な配慮にもかかわらず、カーウィンはその身辺に漂う不穏の気配を感じとったように思われた。このところ彼の顔は、異常なほど暗い翳《かげ》に包まれて、昼のあいだは、あいかわらずその馬車を、プロヴィデンスの町とポートゥックスト街道に駆っていたものの、町民たちの偏見と闘うための無理につくった愛想のよさを、少しずつ剥落《はくらく》させていった。ところで、彼の農場に近接した隣人というとフェナー一家であるが、この家の人々が、ある夜、異様な現象を目撃した。カーウィンの農場内に、高い個所に申し訳程度の小窓をあけた石造建物があるのだが、その屋根のどこかから、凄まじい光の箭《や》が、夜空を射し貫いたのである。フェナーは即刻、プロヴィデンスのジョン・ブラウンに連絡をとり、この事実を知らせた。ブラウン氏は、カーウィン追討選抜隊における指揮者の地位にあったので、折り返しフェナー一家に、近く行動が開始される旨を通告した。氏がこの手続きを必要と考えたのは、いかに秘密を保とうとも、最終的な襲撃行動が、隣人の目に触れずにすむとは思えなかったからである。そして氏は、この襲撃理由を説明して、つぎのように述べた。ジョゼフ・カーウィンはニューポートの税関の手先で、隠密活動に従事している。われわれプロヴィデンスの船主、商人、農場主の共同の敵として、公然もしくは秘密裡に抹殺すべき男であると。フェナー家の人々としては、隣家の怪異をたびたび目撃しているので、ブラウン氏の説明を、全面的に信じたかどうかは疑問であるが、その理由がなんであるにせよ、悪業をこの怪人物に結びつけるのは、もとより望むところであった。そこでブラウン氏はこの一家に、カーウィンの農場を監視させ、そこに起きる異常な出来事を定期的に報告する任務をゆだねることにした。         X    先夜の奇怪な光の箭《や》からしても、カーウィンが探査の手の伸びているのに気づいて、すでに警戒態勢にはいっているのは疑う余地がなかった。放置しておけば、どんな異常な力に訴えないものでもないので、町の有力者の一団としては、慎重な計画もさることながら、早急な行動に踏み切る決断をせまられた。スミス日記によれば、一七七一年四月十二日、金曜日の夜十時に、およそ百名ほどの有志が、大橋《グレイト・ブリッジ》のさき、ウェイボセット岬《ポイント》に、金獅子の看板をかかげた旗亭《きてい》サーストンの大広間に参集したとある。行動隊の指揮者ジョン・ブラウンはもちろんのこと、医療器具を入れたカバン持参のボウエン医師、いつもの大きな鬘《かつら》を(これは各州を通じて、最大のものとみられていた)、今夜にかぎって脱ぎ捨てたマニング総長、黒外套に身を包んだ前知事ホプキンズ、その実弟であるイーゼ船長(彼はこの最後の夜に、賜暇《しか》下船をして、一味にくわわった)、さては、ジョン・カーター、マシューソン船長、ウィップル船長と、同志の人々が顔をそろえた。最後にあげたウィップル船長は、突撃隊の指揮にあたることになっていた。  首脳陣の人々は、奥の別室で協議にはいった。そのあと、ウィップル船長が大広間にあらわれて、居並ぶ海員たちにあらためて誓約を求めたうえ、最後の指示を授けた。エリエイザー・スミスは首脳者たちといっしょに、奥の一室でエズラ・ウィードンの到着を待っていた。ウィードンの任務は、カーウィンの動向を監視して、その馬車がプロヴィデンスの邸から農場へ向かうのを報告するにあった。  十時三十分頃、大橋《グレイト・ブリッジ》の上に馬車の音がひびき、郊外へ向かう街道の方向へ消えていった。ウィードンの報告を待つまでもなく、最後の悪業のために出発した呪われた男の馬車であるのは明白だった。しかし、遠ざかりゆくその響きが、マッディ・ドック橋を越えたと思われると、そのあとすぐに、ウィードンが到着した。そこで攻撃隊全員が、無言のうちに旗亭《きてい》前の街路に整列した、各自が、火打銃《ひうちじゅう》、鳥撃銃、捕鯨銃、等々の火器を肩にしている。ウィードンとスミスもこれにくわわったが、町の名士たちのうちで、直接行動に参加したのは、指揮をとるウィップル船長、イーゼ・ホプキンズ船長、ジョン・カーター、マニング総長、マシューソン船長、ボウエン医師、以上の人々だった。ただし、モーゼズ・ブラウンは、旗亭での参集時間にはおくれたが、十一時までに現場に馳《は》せつけて、攻撃には間にあった。  かくて、町の名士を含む百名あまりの海員たちの長い隊列が、臆するところなく、深夜の街路に行進を開始した。マッディ・ドックをあとにして、ポートゥックスト街道につづくブロード街のゆるやかな地を登りきると、さすがに隊員たちの顔に、緊張と不安の表情が浮かんだ。スノー教会をすぎたところでは、何人かの者がふりかえって、早春の星の下にひろがるプロヴィデンスの街に、別れの一瞥を投げた。黒く、鋭くそびえ立つ尖塔と破風屋根。大橋《グレイト・ブリッジ》の北の入江からながれてくる塩を含んだ微風。水面をへだてた丘陵の上には、琴座の一等星がきらめき、その下の木々のつらなりが、未完成のカレッジ校舎の屋根で斬り裂かれている。丘のふもと、狭い道に沿ってねむる古い街。われらの町プロヴィデンス。その安寧と秩序のためには、いかなる危険をおかそうとも、この涜神行為を殲滅《せんめつ》しなければならぬのだ。  その後一時間と十五分して、攻撃隊は、あらかじめ同意をとりつけておいたフェナー一家の農場に到着した。そこで、フェナー家の人たちから、目指す攻撃相手についての最終的な報告を聞いた。カーウィンは三十分以上まえに、農場にその馬車を乗りつけているのだが、その直後に、例の異様な光線を、夜空にむかって走らせただけで、目につく窓のどれからも、燈火は洩れていなかった。最近は、毎夜、このような状態がつづいているとのことであったが、しかし、この報告を聞いているとき、強烈な光輝が、南の空へながれた。隊員たちはそれでいよいよ、超自然の怪異と向かいあう場面が近づいたのを知った。  ウィップル船長は、つぎのように命令を下した。その兵力を三部隊に分ける。第一部隊は兵員数二十名で、エリエイザー・スミスの指揮の下に海浜へ向かい、カーウィンの救援部隊が上陸する場合にそなえる。その怖《おそ》れがないと判明するときも、そのままその地点に待機して、連絡員の伝達する指令に従うこと。第二部隊も人員はおなじく二十名。イーゼ・ホプキンズ船長を隊長として、カーウィン農場の背後にある渓谷に潜入し、斧もしくは火器の力で、河に臨む断崖に設置された樫の大扉を破壊する。つぎに、第三部隊は農場内の母屋とその付属建物を攻撃目標とする。この部隊をさらに三分して、その一隊はマシューソン船長が指揮し、高い個所に小窓を持つ謎の石造建物へ向かい、別の一隊はウィップル船長に従って、母屋へ接近し、残る三分の一の兵力は、農場の周囲をとりかこみ、最後の突撃合図を待機するというにあった。  突撃合図にも順序があって、呼び子の笛が一回鳴るときは、渓谷に向かった部隊が、崖ぎしにつくられた大扉の破壊作業を開始し、そこから逃れ出る者があれば、だれであろうと捕獲する。呼び子の笛が二回鳴るのを聞けば、扉内の通路へ侵入し、そこの敵と闘うか、あるいは、突撃分遣隊の残部に合流する。石造建物を目標とする一隊も、これらそれぞれの合図によって、前者に似た行動をとる。具体的にいえば、最初の呼び子で入口を急襲し、第二のそれで、どのような通路であろうと、地下へ向かうものを降り、洞窟内に起こると予想される全面的ないし局部的な戦闘に参加する。  三回、つづけざまに鳴る呼び子の笛は、緊急招集の合図である。このときは、農場の周囲を監視する予備隊の二十名が、同数に分かれて、それぞれ母屋と石造建物から、地下の洞窟へ突進する。総指揮者のウィップル船長の、地下に洞窟が存在するとみる信念は絶対的なもので、攻撃計画を立てるにあたっても、存在しない場合を考慮に入れなかった。そしてまた、彼の用意した呼び子の笛は強力無比で、合図を聞き洩《も》らされる怖れは絶対になかった。それにしても、カーウィンの救援隊にそなえて海浜に待機する最後の予備部隊の位置は、呼び子の有効範囲をはずれていたので、特別の伝令使を必要とすることになる。  モーゼズ・ブラウンとジョン・カーターは、ホプキンズ船長とともに、河岸に向かう一隊にくわわり、マニング総長はマシューソン船長の分遣隊の一員として石造建物を目標とした。ボウエン医師は――エズラ・ウィードンもそうであったが――総指揮者ウィップル船長の身近に残り、農場の母屋を襲撃する本隊にとどまった。  侵攻は、ホプキンズ船長の伝令使が、河岸の部隊の用意がととのったことを、ウィップル総指揮者に報告すると同時に開始される。そのとき総指揮者が、呼び子を一回、高らかに吹き鳴らすと、各侵攻部隊が三個所の地点において、時をおなじくした攻撃作業に着手する。  以上の命令がいいわたされると、午前一時少しまえに、三個の部隊がフェナー家の農場を出発した。一隊は敵の援軍の上陸地点へ、一隊は渓谷の樫の大扉へ、第三部隊はさらに細分のうえ、カーウィン農場の二つの建物へ向かった。  海浜に向かった部隊を率いたエリエイザー・スミスの日記には、彼の部隊の行動を記して、途中なにごともなく、入江を臨む小丘に到着したのだが、夜明けまでの長い時間をむなしく待機させられただけとあった。その間、一度、合図の呼び子らしい音を、遠くかすかに聞いた。ひきつづいて、押し殺したような喚声と悲鳴。そして、おなじ方向に、火薬の爆発音がとどろいた。隊員の一人は、その後、遠くに銃声を聞いたといった。スミス自身は、頭上高いところで、雷鳴にも似た巨大な声がひびきわたるのを耳にしたと感じた。夜のしらじら明けの直前、憔悴しきった伝令使が、目を血走らせ、異様な臭気を漂わせてたどりついた。そしてスミスの部隊に、戦闘は終了した。解散して、各自の家へ帰るようにと告げ、つけくわえて、その夜の行動とジョゼフ・カーウィンなる男については、今後いっさい忘れること、人に語るのも無用であると注意した。しかし、伝令使自身のほうが、伝達する命令以上に異常な状態にあるのが、その挙動から見てとれた。彼はもともと、その夜の同志のあいだで、勇敢で知られた海員であったが、いまはうつけになったといおうか、なにかにとり憑かれたとみるべきか、別個の人間に変わっていた。その後、直接の戦闘に従事した隊員たちに遭《あ》ったときも、その全員におなじ現象が見られた。なにか測り知られざるもの、口にあらわしがたいもののために、忘我の状態にあるのだった。おそらく、人類の世界とは隔絶しすぎたなにかを見、聞き、感じとって、それが頭からはなれずにいるのであろう。しかし、それがなんであるかは、彼らの口から洩れることがなかった。ゴシップという、人間だれもが持つ本能にも、怖ろしい限界があるものと思われる。そして、海浜部隊に所属した人々も、伝令使その他の者の様子から、名状しがたい恐怖の虜となり、その唇を閉ざしてしまったのだ。したがって、早春の星空の下に、金獅子の看板をかかげた旗亭から出発したこの侵攻部隊の活動成果に関し、残存する記録としては、スミス日記が唯一のものとみられていたのである。  しかし、チャールズ・ウォードの努力で、この事件の解明に側光を投げかける記録が、ニュー・ロンドンから発見された。この都会にフェナー家の一族が現存しているのを聞き知ったウォードは、さっそく訪問して、当時の書翰類を披見させてもらった。若いルーク・フェナーが書き送った手紙に、その夜の模様が詳細に記述してあった。フェナー家の位置は、運命の農場を見わたす個所にあったので、彼ら一家の人々は、侵攻隊が隊伍をつくって進撃するのをながめていた。やがて、カーウィンの農場内で、飼犬の群れが怒ったような吠え声をあげた。それと同時に、侵攻をうながす最初の呼び子が夜空にひびきわたった。と、石造建物から目も眩《くら》むばかりの光の箭《や》が、繰り返し闇をつらぬいて発射された。ひきつづき、第二の呼び子の笛が鳴ったのは、総攻撃を命令する合図であった。押し包んだような銃声がとどろき、怖ろしい叫びがあがった。それをルーク・フェナーは、つぎのような文字で表現していた。ワ、ア、ア、ル、ルル――ラ、ワ、ア、ア、ル、ル。だが、それは筆ではあらわしがたい性質のものであったはずだ。手紙の筆者も、この叫び声を聞いて母親が失神したと記している。その後も、銃声と叫びとが、くりかえしつづき、徐徐に、低く、間遠に消えていったが、とつぜん、渓谷の方向にあたって、火薬の爆発音がとどろいた。一時間ほどのちのことである。犬の群れが怯えたような吠え声をあげ、大地が揺れ、マントルピースの上の燭台がよろめいた。硫黄のつよい臭気がながれてきた。ほかの者は聞き洩らしたが、ルーク・フェナーの父親は、第三の緊急合図の笛を耳にしたといいはった。そのあとしばらく、小銃の音が聞こえていた。それにともなう絶叫も、最前のようにつき刺すばかりのはげしさでないだけに、いっそう無気味に、怖ろしく感じられた。これを喩《たと》えれば、しわがれ声の、不快なほどねばっこい咳ばらい、あるいは、老人が喉を鳴らす音というところか。それが悲鳴と聞きとれたのは、実際的な聴覚上の音価よりも、その連続性と心理的な観念によるものとみるべきだった。  その直後、カーウィン農場の位置とおぼしいあたりに、火柱が立ちのぼって、絶望的な恐怖の叫びがあがった。小銃弾の炸裂音とともに、火柱は大地に崩れ落ちていった。つづいて、第二の火柱と、いっそう明瞭に聞きとれる悲鳴。狂乱のうちに吐き出された言葉のいくつかを、ルーク・フェナーが書きとめておいた。そのひとつに、つぎのようなものがあった。全能の者よ、なんじの小羊を救いたまえ!≠ヘげしい銃声のうちに、第二の火柱も崩れ落ちた。それからの長い時間を完全な沈黙が支配した。そして、四、五十分がすぎたとき、ルークの幼い弟マーサ・フェナーが、とつぜん、いいだした。〈赤い霧〉が見える! 呪われた農場から、星のきらめく夜空へ向けて、赤い霧が立ち昇っていると。それを確認できる者は、この幼児のほか、一人もいなかった。しかし、ルークは、総毛立つ恐怖のうちに、幼児の言葉を正しいものとみとめた。それとおなじ瞬間に、室内にいた三匹の猫が、背をそびやかし、毛を逆立たせるのを見たからで、偶然の一致ですますには、意味がありすぎると思えたのだ。  五分ののち、冷たい風が吹きこんできて、胸をむかつかせる悪臭が、室内いっぱいにみなぎった。海浜に待機する隊員なり、ポートゥックストの村民のうちいまだにねむらずにいる人々なりが、この臭気に気づかずにいたのは、海からの強烈な塩風が妨げてくれたからであろう。フェナー一家の者の鼻を襲ったこの臭いははじめて嗅ぐ種類のもので、墓地や納骨室のそれともちがった定形の恐怖を呼び起こした。そのすぐあとに、さらに無気味な声がつづいた。耳にした者には生涯忘られぬ声が、最後の審判の日のそれのように、天井から聞こえてきて、そのこだまの消え去るまで、窓の全部が震えていた。深みがあり、音楽的で、バス・オルガンを思わせる力強い響きであるが、そこにまた、アラビア人の手になる禁断の書にも似た邪悪な感じが漂っていた。未知の言語であるだけに、意味はだれにも理解できなかった悪魔めいたこの響きを、ルーク・フェナーがそのまま書き写しておいた。 DEESMEES ―― JESHET ―― BONEDOSEFEDUVEMA ―― ENTENMOSS. これを言語学的知識に関連させて考える者は、一九一九年にいたるまであらわれなかった。この難問に最初の鍬《くわ》を入れたのが、ほかならぬチャールズ・ウォードであるのだが、その契機となったのは、黒い魔法の呪文のうち、もっとも根源的なものがこれであるとして、ミランダが拒《しりぞ》けた事実を知ったからである。  カーウィンの農場からこの邪悪の声がひびきわたると、それに応《こた》えるかのように、甲高い悲鳴が聞こえてきた。これは明らかに人間の声で、しかも、大勢声をそろえて泣き叫んでいる。それと同時に、例の異様な悪臭に、また新しく、不快な臭気がくわわって、いっそう複雑さを増すのだった。やがて、甲高い悲鳴が、異質のものに変わった。これは、嘆き哀しむ弱々しい泣き声で、あるいは高く、あるいは低く、尾をひいてながれてくる。ときどき、言葉らしい響きになるが、なんの意味か、はっきりとは聞きとれない。そしてそれが一転して、悪魔的な、けたたましい哄笑に変わったかと思うと、最後に、多数の人間の喉の奥から絞り出されたような、恐怖と狂気の叫びがあがった。そのあとは、暗黒と沈黙とが天地を支配した。炎は見えぬが、喉に痛い煙が渦巻きながら立ち昇り、星の光を掻き消して、建物はみな焼け落ちたのか、ひとつとして見られなかった。  夜の明けがた、怖れおののいている二名の隊員が、フェナー家のドアを叩いた。その服装になんともいえぬ異様な臭気を漂わせている。使いの趣旨は、ラム酒の一瓶を頷《わ》けてくれというにあって、代金はじゅうぶんなものを支払っていった。そのさい、使者の一人が、フェナー家の者に語ったところでは、ジョゼフ・カーウィンの事件は万事終結をみたそうで、今後、この夜の出来事を、いっさい口外せぬようにというのだった。この警告は、強圧的な命令とひびいたが、それを告げる二人の様子が、あまりにも異常に見受けられたので、反発心より恐怖がさきに立った。その夜の模様をコネチカットの身内の者に報《し》らせてやったルーク・フェナーの手紙にも、読了後は焼き棄てるようにと記してあった。しかし、その注意が無視されて、手紙が保存してあったため、事件は神の慈悲である忘却の恵みに浴すことがなくて終わった。チャールズ・ウォードは長期にわたって、ポートゥックストの住民たちのあいだに、その古い言い伝えを聞き歩いた結果、ひとつだけ新しく知り得た事実があった。チャールズ・スローカムという老人が、祖父から聞いたと語ったことだが、ジョゼフ・カーウィンの死が発表された一週間後、村はずれの野原に、焼け焦げた死体が発見された。その噂がたちまちひろまって、だれもが口にするようになった理由は、焼けただれて、正体もわからぬほど変形してはいるものの、その死体が明らかに人間のものでなく、そしてまた、ポートゥックストの人々がかつて見聞きしたどのような獣類にも属していないことにあった。         Y    カーウィン農場の襲撃に参加した人々は、その後、口をかたく閉ざして、その夜の模様を語ろうとしなかった。漠然と伝えられている断片的な事実にしても、これを洩《も》らしたのは、直接的な戦闘の圏外にあった隊員たちで、第三者には不可解なことであったが、戦闘現場にのぞんだ者はみな、話が事件に触れるのを避けて、あらゆる資料を抹殺しようと努めていた。  八名の船員が戦死しているが、遺族には死体も見せずに、税関吏との衝突事件によるものと説明して納得させた。負傷者の場合も同様で、家族たちにはなにも知らさず、負傷の手当にしても、襲撃の同志ジェイベズ・ボウエン医師ひとりがこれにあたった。ただ、突撃隊員のからだにしみついた異常な臭気だけは、なんとも説明できぬままに、数週間にわたっての論議の的となった。指揮者のうちでは、ウィップル船長とモーゼズ・ブラウンがもっとも手ひどい傷を負っていたが、その妻たちの残した手紙によると、夫がかたくなに黙秘をつづけ、包帯の巻き替えに手を貸すのも拒む態度に、ほとほと当惑したとのことである。つぎに、参加者たちの心理面を見ると、みな一様に老いこんだ感じで、沈鬱な表情をあらためる気配もなかった。彼らがもともと、単純で一本気の行動家、強力な意志と正統派的信仰の持ち主であったのが仕合わせで、これがもし、内省的な性格、繊細な神経、複雑な心情の男たちであったら、おそらくは、より大きな不幸に見舞われたことであろう。精神上の動揺は、マニング学長がもっともはなはだしかった。しかし、彼はその忌《いま》わしい記憶を、神への祈りにまぎらすことで、暗い影を克服した。ちょうど時代が独立戦争前夜にあたり、やがてはこの事件の主導者たちも、イギリス政府との抗争に捲きこまれ、主役的役割を演じるにいたったのが、彼らにとっては幸運であったとみるべきであろう。たとえば、カーウィン事件の一年と少しのち、税関監視船ガスピー号の焼打ちにあたって、暴徒の先頭に立ったのは、ウィップル船長であった。彼は無謀にちかいこの行動で、不快な記憶を払拭する一歩を踏みだしたと解釈してもよいのではなかろうか。ジョゼフ・カーウィンの遺《のこ》された妻は、奇妙な意匠を持つ鉛製の柩を受けとった。あらかじめ夫が用意しておいたと考えられるもので、厳重に封印してあった。彼女もまた夫の死亡原因を、税関吏との戦闘によるものと告げられた。それ以上の説明は適当でないとの理由で、ジョゼフ・カーウィンの最後の模様は、なにひとつ語られなかった。  後年、この事件の探究者チャールズ・ウォードが、組織立った理論を組み立てるにあたって、手掛りの糸とした唯一のヒントは、ジェディダイア・オーンなる人物が、カーウィン宛に書き送って、押収を受けた書翰《しょかん》の一節だった。エズラ・ウィードンがこれを写しとって、その一節に、震える手で下線を引いておいた。ウォードはこれを、スミスの子孫の所蔵品のうちに発見した。この写しがスミス一族の手にわたっている理由は、ウィードンがその死にさいして、異常な事件の真相を無言のうちに伝えるため、かつての同志スミスに遺《のこ》したものか、あるいは、ウィードンの生前、スミスがすでに入手して、巧妙な質問と推理の力で、真相解明のヒントと知り得た個所に、彼みずから下線を引いたものか、その決定はわれわれの手に残されている。下線を引いた一節はきわめて短く、つぎのような内容であった。   [#ここから2字下げ]  繰り返し申し述べるが、いわく、鎮魂しがたき物を呼び醒ますなかれ。この言葉の意味するところは、呼び醒まされし物はそれ自体の力にて、貴下に反抗する怖れあり。貴下の強力な秘法も、彼らの前には無力とかわらん、の謂《いい》である。呼びいだす対象は、力なき[#「なき」に傍点]物に限定すべし。力ある[#「ある」に傍点]物は答えることを望まず、かえって貴下を支配下におかんと意図すればなり。 [#ここで字下げ終わり]    この一節を読み、打ちひしがれた男がその死に臨んで、それといわずに何事かを伝えようとしたのを知ったチャールズ・ウォードが、ジョゼフ・カーウィンの死を、プロヴィデンスの人々に殺害されたのでないかと疑いだしたのは、当然のことというべきであろう。  プロヴィデンスの人々の記憶から、そしてまた町の公式記録からジョゼフ・カーウィンなる人物が完全に抹殺されてしまったのは、彼を襲撃した一団の指導者たちの影響が与って力あったとみてまちがいない。もっとも、当初はこの人々も、それほど完璧を期するつもりではなかった様子で、カーウィンの寡婦、その父、および遺児だけに、事件の真相を知らせぬことを考えただけと思われる。しかし、ティリンガスト船長は頭の鋭い男で、町に洩れはじめた風評から真相を嗅ぎつけて、娘と孫娘を旧姓にもどさせ、蔵書と残存書類を焼却し、ジョセブ・カーウィンの墓石から、墓碑銘を削り落とすように命じた。おそらく、彼はウィップル船長と熟知の仲であったので、大言壮語癖のあるこの海員の口から、呪われた奇怪な人物の最期について、ほかの者が知り得た以上のことをひき出していたのであろう。  ティリンガスト船長に真相を知られると、ジョゼフ・カーウィンの記憶の抹殺工作は極度にきびしさを増し、一般町民の同意のもとに、公式記録はもちろんのこと、町の唯一の新聞〈ガゼット〉紙の綴《と》じ込みまで、カーウィンの名の出てくる部分はことごとく破棄されることになった。それはその趣旨において、破廉恥事件を起こしたオスカー・ワイルドが、十年もの期間、忘却の淵に沈んでいたのと均《ひと》しく、方法においては、ダンセイニ卿の物語の主人公、罪深きルナガー王の運命に似ていた。物語のなかの王は、神々の意志によって、この世に生きるのを禁じられただけでなく、かつて生きていた事実さえ抹殺されたのであった。  ティリンガスト夫人は――一七七二年以後、彼女はこの名を称していた――オルニー・コートの邸を売り払って、パワーズ・レインの家に、父親といっしょに住み、一八一七年に死亡した。ポートゥックスト街道の農場はだれからも忌避されて、立ち寄る者もないままに、数年のうちに腐朽し、おどろくほど急速に崩壊し、一七八〇年には、石と煉瓦の外郭だけを残して、それも一八〇〇年には、瓦礫の山と化した。渓谷にあっても、生い茂る灌木のあいだにはいって、丘の斜面にあるはずの扉を見ようとする者はなかった。要するに、ジョゼフ・カーウィンがひそかに創りあげた戦慄のイメージを、あらためて探ってみようと試みる者は、その後の長い年月、あらわれることもなかったのである。  ただ、精神力の頑健な老船長ウィップルだけが、ときどき、ひとり言を洩らしているのが、耳|敏《ざと》い聴き手に聞かれていた。「気にすることなんかあるものか。あれがあの男の当然の運命なんだ。たしかに、邪悪な秘密の持ち主だった。家を焼き払ったが、なんで悪い?」